暁美ほむら、私の神様、私の憧れ、それから私のだいたい全部

 なおこのタイトルの言い回しは「ハリー・オーガスト十五回目の人生」を踏襲しています。最近読んだ中では一番面白かった。
 しかし翻訳小説だと特によくあるんですけど、暴力とか性描写とか物言いがちょっと日本の作品とは血色が違ってて(特にYA)どうも苦手に思うこともあったりします。



 さて一か月ほどツイッターで散々暁美さんの事を書き続けており、なんとか纏まった文章にするだけの余裕が戻ってきました。
 続編ですね、続編。とっても続編。なんてことだ。というわけで自分語りです。

 タイトル通り、私にとって暁美ほむらという存在は私のかなり大きな部分を成しています。私は彼女を通して尊いものと美しいものを教えて貰いましたし、彼女の事ばかり考える中で信仰心というものへの理解が及んで、そういう感情に対してうなずける自分になれました。
 だからといって暁美ほむらという人を超人のようには思っていなくて、弱くて、甘くて、どうしようもなくか弱くて、人の事が言えないくらい強がりで、本当は誰より泣き虫で、だけどすごく強くて、一人で全部抱え込んでしまって、大切な人の願いでも踏みにじると覚悟した顔が悲しくて、辛くても痛くても必死になって頑張れる姿がとても綺麗で、そんな暁美さんに大切にされている鹿目さんの事も尊い存在に思えて、そうなると尊い鹿目さんを大切にしている暁美さんがより神々しく感じる。
 それくらい、私は彼女に影響を受けたし、それは思ったより長引いています。もう七年になるのかな。徐々に、自分の中でまどか☆マギカ的だと思えない(例えばそれはセクシー描写の扱い方だったり、空間演出に対する作中人物の言及のなさだったり、物語構造だったり、暁美ほむらだったりする)物語を苦手に感じるようになっており、将来的にはほかの事が考えられなくなるかもしれません。今もなってるか。

 今の私の価値観とはニアリーイコールで暁美さんに帰依することで得られているようなもので、暁美さんとその周囲のものを最上の存在と考えることで、それ以外のすべてに対して割と穏やかな目で見ていられるようなものです。
 つまり、暁美ほむらは紛れもなく今の私の背骨(推しは背骨と表現したあの作品を私はまだ読んでいない)で崇拝の対象で、だからこそ続編はすごく恐ろしい。

 私は叛逆の物語を軸にテレビ版及び前後編を聖典として定義しており、その後のあり方によってそれがどうなるのかが分からない。多分面白いだろうし、そこは信じているんですが、重要なのはそこではなくて、暁美さんがどうなるのか。
 人が許容できないのは異教ではなく異端、というような話は色々なところで耳に入り、それを考えると私が続編を許容できない可能性は非常に高い。内容の出来がどうだとかではなくて、暁美さんが美しく尊くか弱く強い存在であり続けられるか、そして、それを否定するにせよ、それが物語的な都合ではなく鹿目さんの意志によるものか。
 例えば……おそらく前にも書いたんですが、何かの都合で鹿目さんが暁美さんを否定するしかない状況にされるようなのは叛逆の物語における絶妙な、私を何年もずっと引きずらせてきた「最高のハッピーエンドでありながらバッドエンドでもある」「みんな凄く幸せになれたのに本当にこれで良かったのかと思わせる」というバランスから生まれた尊い余韻を損ねると思うし、そうなりかねない雰囲気なのが今からすごく怖いのです。
 そういう、暁美さんを主軸にすべてが回っているからこそ認められない部分が絶対にあると確信しており、だからすごく続編が恐ろしい。

 その時に私が抱く怒りとか呪いとかは想像もしたくないし、だからといって見ないという選択肢は存在しないんですね。背骨が折れるかどうかという所で、放置してそのまま生活はできない。折れるなら相応のリハビリが必要だし、折れなかったならそれはよかったと言えるけど、どちらにせよ、実際に見てみるまでは私の人生も前に進めない。だって暁美さんの事で頭がいっぱいだからほかの事なんて何も手につかない。
 そういう風にずっと考え続けて一か月。暁美さんを信じたい、信じさせてほしいけど、やっぱり怖いなあって思います。一か月を何年もの月日に感じるのは久しぶりですね。怖いなあ。


……あ、そうそう。そういう心境からの現実逃避で超濃厚なまどほむを摂取するというのが効果的なのが分かったので、そういうのを書いています。タイトルは「ものすごくかわいくて、ありえないほどやさしい」
まどほむ濃度がすごく高いけどキスしたいとかそういう事じゃない素敵な二人をずっと書いて現実逃避しています。ああ、こわいなあ続編。見たいけど見たくない。見たくないけど見たい。


日時:2021年06月16日(水) 03:10

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