行別ここすき者数
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(0) ちょっと待ってくれよ……。
(0) 俺が好きだったあの平穏の日々はどこに行った……。
(0) かわいくて兄想いのやさしい妹。
(0) 代わり映えのしない、少々退屈だけれど安全だった毎日。
(0) 意識していなかったけど、俺が好きだったのはそんな「当たり前」だった。
(0) 失って初めて気づく「当たり前」の素晴らしさ。
(0) こんな風になってから学習したって、なんの役にも立ちはしないよ……。
(0) そういえば、昔もこんなことがあったっけ。
(0) 中学生の頃、大好きなロックバンドがあった。
(0) そのバンドはネットで有名になった音楽プロデューサーとメンバーで構成されたグループで、他の誰にも創れない彼ら独自の音楽を貫いた最高のバンドだった。
(0) 特に作詞作曲を務めていたボーカルは、その世界観の根幹だった。
(0) 一度耳にしたら病みつきになるメロディ。
(0) 時に直球で時に技巧がふんだんに盛り込まれた絶妙な歌詞。
(0) 俺は彼の楽曲が好きで、家に帰ると常に聴いているくらいだった。
(0) それだけ、大好きなバンドだった。
(0) しかし――俺は、彼らのライブに一度も行ったことがなかった。
(0) 中学生がロックバンドのライブに行くというのは、思ったよりも大変なことだ。
(0) 特に、俺みたいに地方の中学生にとっては障害になることが多すぎる。
(0) 電車代の問題もある。一人きりで都会に行く不安もある。
(0) それに、時間だって夜遅ければ参加不可能になるし、クレジットカードがないとチケットが取れない。更に、当日の都合も家族や学校、部活の関係で変更されやすい。
(0) それらのネガティブな要素を考えてみた結果¬¬――俺は、結論を出した。
(0) それは、高校生になったらライブに行こう、という決意。
(0) 中学生だと難しいけど、高校生になれば行動範囲が格段に広がる。
(0) 高校生になったらチケットを取って、ライブ会場に足を運んで、物販でグッズを買って、生で彼らの演奏を聴いて、見て、感じて――
(0) でも、それは叶わなかった。
(0) 中学三年生のある日、父親のパソコンで検索エンジンを開いてみたらそのニュースが一番初めに表示された。
(0) ――ボーカルが、亡くなった。
(0) 作詞作曲、ボーカルを務めていたバンドのリーダーが、急性心不全で永眠したのだ。
(0) その記事を見た俺は、画面を見つめたまま動けなかった。
(0) 信じられない。信じたくない。
(0) ずっと大好きだった人。ずっと当たり前に聴いていた声。
(0) それが、当たり前じゃなくなってしまう。
(0) 呆然としたまま、俺はSNSのタイムラインを開いて事実を確認する。
(0) すると、溢れるように表示されたのはたくさんの追悼のメッセージ。
(0)『ライブに行っておけばよかった』『死ぬ前に歌声を聴きたかった』
(0) ――じゃあ、行けよ。
(0) なんで行けるのに行かなかったんだよ。
(0) 今日以前ならいつだって行けたのに――なんで、行かなかったんだよ……。
(0) 沢山の哀悼の投稿を見ながら、俺は呟く。
(0) こみ上げてくる怒りと悔しさを、口から少しずつ漏らしていく。
(0) しかし、それらの言葉は画面の向こうの相手に発しているようであって、そうじゃない。
(0) 吐き出した言葉の全部が、自分に刃を向けて容赦無く刺してきた。
(0) それらの言葉は――自分に対する、戒めの言葉だった。
(0)「お兄様、どうされたんですか? 顔色がすぐれないようですが」
(0) そして、今。
(0) 状況は違うけれど、似たような後悔を繰り返している。
(0) 生きているけれど、変わり果ててしまった刺身。
(0) 変わり果てる前の素直で可愛かった刺身は、死んでしまったようなものだ。
(0) 当たり前のような日々は、消え去ってしまったのだ。
(0) だから――もう、あの刺身に伝えたかったことは伝えられない。
(0) 俺がこの気持ちを伝えたい相手は過去の刺身であって、目の前にいる刺身とは別人なのだから。