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(0) 春は畑を耕す季節だった。わたしは大地に鍬を入れている。
(0) 鍬を振り上げて、振り下ろす。ただそれだけの作業の繰り返しが、この肉体にはたまらなく楽しいらしい。飽くこともなく延々と畑を耕し続けている。
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(0) ふと、農作業に剣術の動作を入れてはどうだろうか。と思いついた。
(0) 耕す筋肉と戦うための筋肉は異なっている。されども、相手に対して切り込むことをイメージして農作業を行えば、多少なりとも戦う術と心構えが身につくのではないか。
(0) そんな思いつきが浮かんだ瞬間、肉体からこれまでになく強い拒否反応が返ってきた。
(0)(いやだ……!!)と明確な拒絶の意思。魂からの欲求や提案に対し、肉体がここまで激しい拒絶を示すのは珍しい。と言うか、初めてであった。
(0) 肉体の昂ぶった感情を宥めつつ、心中を読み取ってみれば、大地が応えてくれるようになって、ようやくに耕作が面白くなってきたところらしい。農民の血だな、魂の呆れたような感慨に、肉体は満更でもなさそうに微笑んだ。
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(0) 普通、十歳程度の年齢で農作業は手伝わない。鍬を振るうに子供の体躯と膂力では使い物にならぬので、他の仕事に廻されるのが尋常であった。
(1) だが、どうしたものか。この肉体は耕作を大変に好んでおり、おさな子の頃より見様見真似で父母と並んで鍬を動かしていた。剣術の腕は遅々として上達する様子を見せぬのに、鍬を持つ手ばかりは年齢の割に堂に入っているのが全く端倪すべからざるべき肉体の不思議とでも言う他ない。
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(0) 畑は深く耕すほどに作物の根が伸びやすく実入りも増えるが、土を細かく砕きすぎれば雨は地面に染み込んで土が固くなる。理屈は知らねど、土と向き合う者は、植物の喜ぶ丁度いい塩梅が理解できるようになるものか。
(0) 昨年、一昨年と、手間暇掛けて特によく耕した畑の一部分は、例年に比して心なしかよく育っているように思えた。
(0) そう、畑の一部分である。肉体は親が任せてくれた分だけ全て耕したがったが、いつもの作業と比べるのだ、と魂が一部に留めさせた。
(0) どうして比べるのだ?と不満げに肉体が唸りを上げる。
(0) 畑の出来を比べれば、耕し方を工夫できよう。と魂は告げた。
(1) それに農作業に全ての時間を取られても堪らん、とも魂は密かに考えていた。
(0) 言うてる事がわからん。わたしは耕すのだ。肉体は、憤懣で爆発寸前であった。できるなら、怠け者の魂を肉体から放り出したいとさえ思っているようだった。
(1) 愚か者の肉体め。此奴は収穫を得るために耕してるのではない。兎に角、野良仕事が好きなのだと理解して魂は匙を投げた。
(0) ええい。分からぬやつ。では好きにするがいいさ。と魂が喚くと、肉体はえたりと愉悦に体を震わせた。
(0) 好きにする。今は畑の時間だ。
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(0) 日常生活の工夫やら知恵に関しては素直に従うくせ事、畑に関する限り、心底を納得させなければ肉体はけっして動こうとしない。一見、愚鈍にも思える程だ。肉体の態度は、昔話の頑固な農民そのものであった。しかし、両方わたしなのだ。
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(0) どうにも乖離が激しいようだ。
(0) 日没後の藁の寝床。魂はこれまでに抱いた不審と疑念を直截に肉体へとぶつけてみた。ある意味、これも一人芝居でもあろうか。
(0) 家族が好きなようだ。それ自体は大変結構だが、どうやら肉体の方は前世のわたしの記憶を引き継がなかったのかな。と、皮肉っぽい魂の物言い。
(0) いや、わたしはわたしだぞ。と肉体は目を閉じながら異議を唱えた。
(0) 家族が好きでなにが悪いのか?今生の父も母もわたしを口汚く罵ったりしないし、気を失うほどぶちのめしたりもしない。冬の夜に放り出したり、裸に剥いて嘲笑もしない。
(0) 苦い記憶を思い出した魂は沈黙している。
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(0) 寒いと親子で抱きしめて眠るのだ。
(0) 2つの人生で初めて親に撫でられたが、あれはいいものだ。
(0) 肉体は淡々と述べてから、言葉を続けた。
(0) お前さんが穿ち過ぎなのだよ。我が事ながら、人間不信は大変なものだな。
(0) 同情するような口調よりも、その上から目線の物言いに耐えきれず、今度は魂が憤懣やる方ないと激した口調で反論した。
(0) 他人事のように言うのだな。わたしは親を大変に嫌ってたではないか。
(0) わたしが嫌っていたのは、前世でわたしを生んだ二人の男女に過ぎぬと知った。わたしは親を嫌っていたのではなく、子供のわたしを苦しめた大人の二人組みを嫌い、憎んでいたのだ。
(0) ……そうかも知れないな。しばしの沈黙の後、魂は不承不承と肉体の意見を認めた。
(0) 喧嘩するものでもない。むしろ融合は進んでいるよ。
(0) 肉体の日本語での思考に、魂は沈黙で応えた。肉体は気にする様子なく思考を続けた。
(0) 前まではこれ程流暢に思考も出来なかった。依然として制約はあるが。
(0) いずれ前世の苦しみも、完全に癒える日が来るに違いないさ。
(0) その夜、肉体は、楽観的に魂にそう告げた。
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(0) 北の山脈からの雪解け水を含んだ流水は、身を切るほどに冷たかった。村とは丈の低い草原を挟んだ西の小川で、わたしは膝の半ばまで水に浸かりながら、棒きれを正眼に構えて岸辺の狼達と対峙していた。
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(0) 暗い木立の影から染み出したように姿を現した獣たちを前にして、この世界にも狼はいるんだな、とわたしは変な感慨を抱いていた。呑気な思考とは裏腹に、足の太腿の辺りが痺れてきた。
(0) 対岸にも狼はいるし、深い場所は足を取られて渡れない。ただし、狼は浅い場所を知らない。
(0) 今いるのは、川の真中で中洲のように浅い処で、周りは深い流れに囲まれている。
(0) いまだ子供たちが命を繋いでいるのは、狼がわたしの棒きれに怯んだからではなく、一重に地の利を得ていたからに過ぎない。
(0) わたしの後ろに幼い子供たちが固まっている。共に水汲みの仕事を割り振られた子供たちだ。
(0) この世界のわたしが実は巨人族に生まれていたり、小人族だったりしなければ、狼達の体長はざっと目測で4ft(フィート)といったところだろうか。大きい。明らかにコヨーテやシベリアンハスキーよりも力感に満ちている。冬を越えたばかりで、きっと空腹なのだろう。きらきらと底光りする輝く灰眼で私たちをじっと見つめている。獲物を諦める気配は毛頭なさそうだな、おい。
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(0) それにしても、水源だけあって小川は村からさほど離れていない。今まで狼が出た話なんて滅多に聞かないんだが。ああ、でも春先は腹を空かせているから注意しろとは聞かされていたな。どう注意しろと言うんだ!畜生!(怒
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(0) 背後で子供たちがすすり泣いているのが聞こえて憂鬱になる。実のところ、大人が都合よく助けてくれる可能性とて無いわけではない。とは言え、水汲みついでに子供たちが河原で遊んでくるのはよく在ることだ。子供が集まっての集団行動で早朝の水汲みを行って、以降は昼か夕方までは他の水汲みとの時間はあまり重ならない。誰か、気まぐれな助けを期待しようにも少量であれば、村中心の井戸で事足りてしまう。ちょっと子供の姿が見えないからと言って、大人がすぐに探しに来るのはあまり期待できなかった。
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(0) 誤解しないで欲しい。村人たちは当然に子供を愛している。大半の村人は、我が子を失えば悔やみ、悼み、悲しんでようやく振り切る。多産多死の生活だからといって、愛はけして薄くない。
(0) それでも、子供はよく死ぬ。病気で死ぬ。事故で死ぬ。栄養不足で死ぬ。食べ物にあたって死ぬ。寒さで死ぬ。怪我の治療で死ぬ。森や草原で迷って死ぬ。毒を食べて死ぬ。
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(0) 私達が死ねば、両親は当然にきっと悲しむ。暫くは思い出して涙するだろう。だけど、やがては残った弟と妹の為に切り替える。切り替えて明日を生きていくのだ。でなければならない。
(0) 何故、襲ってこないのか?水の深い場所では、万が一にも不覚を取る可能性があると察知したのか。
(0) しかし、冷たい水に晒されているわたしは時間と共に活力を失ってきている。川中に入り込んで四半刻は経っている。子供を弱らせるには充分で、村の大人が不審に思って探しに来るにはあまりにも短い時間。
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(0) 後ろの少女の唇が紫色になってきている。わたしの下半身にも痺れが這い上がってきていた。
(0) 決断を迫られている。
(0) ……判断を誤ったのだろうか。初手、散って逃げるべきだったか?誰かが犠牲になるとしても、半数は逃げられた。子供のうちではわたしは比較的に年長で喰いでも在る。目をつけられて、この脚では、もう万が一にも逃げられないのでは?
(0) 好機があったとしたら遭遇した最初に真っ先に……
(0) 冷たい風が吹いて、体を震わせた。
(0) ハッと気づいて、祈るような気持ちで天を見上げる。無情にも、曇り。
(0) 子供は皆、川中の浅い場所に固まって震えていた。曇天、雲の動きは東へと早く、分厚くなってきている。雨が降るかも知れない。
(0) 空気の湿りを感じたのか、狼達が焦れてきている気配を見せた。一気に飛びかかってきても不思議はない。
(0) かぶりを振って堂々巡りをする思考を打ち切り、囁きかけた。
(0) 叫んで助けを呼んでみよう。
(0) 先刻から叫んでいるよ。
(0) そう呻いた子は、今にも涙が零れ落ちそうだった。
(0) もう一度……今度は全員で一斉に叫んでみよう。大丈夫、きっと大人が助けに来るから。
(0) 泣きそうな後ろの子を力づけるように、わたしは優しい口調で話しかけ続けた。