攻殻機動隊 -北端の亡霊- (変わり種)
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第1話

宇宙に散りばめられた星々は、今日もその命を燃やす輝きを何万光年離れたこの地球に届け、漆黒の夜空を彩っている。ここ、根室沖150キロの太平洋上では、新月ということもありそんな星々の輝きは際立って美しく見えたが、同時に辺りを照らすのは星明かりのみで、ほとんど暗闇に包まれていた。墨汁を垂れ流したかのような海は、白波を立てることもなく不気味に波打ち、全てを吸い込んでしまいそうに見える。

 

そんな中、一隻の船がエンジンを低く唸らせ、大海原を切り進んでいた。所々塗装が剥げ、錆びついた鋼板を剥き出しにした船体には、キリル文字で船名が書かれている。船内には何一つ明かりは灯っておらず、それどころか義務付けられている灯火すら点灯させていなかった。

 

やがて、エンジンの唸りが収まると、船は減速を始める。同時に揺れが大きくなるものの、乗り込んでいた男たちは手慣れた様子で甲板に上がると、両舷に取り付けられたクレーンを操作し始めた。もちろん、作業灯などは一切使用せず、暗闇の中で全てを行っている。

 

間もなくモーターが始動してワイヤーが引き出され、クレーンから小型の物体が海面に降ろされる。軽量なアルミニウム合金製のボディは、全体的に丸みを帯びていて、耐圧構造を意識した設計になっていた。ずんぐりとした昆虫を思わせる6本の脚と、1対のマニュピレーター。典型的な海中作業用ロボットだったが、もちろん正規のルートで入手されたものではない。

 

間もなく、両舷のクレーンが唸りを上げてゆっくりとロボットを海中に投入し始める。クラゲのように大きな泡がいくつも浮かび上がり、海面で弾けていく。途中、大波に揺られてロボットが船体にぶつかりそうになるものの、クレーンを一時停止させることで辛うじて衝突は避ける。

 

《0100、ロブスターは海に帰した。Wにシフトする。ランデブーは予定通り進行。オーバー》

 

赤外線暗視ゴーグルをつけた男が、作業の進捗を見ながら無線でそう報告した。ワイヤーが切り離され、ロボットが完全に海に沈むと、男はブリッジにサインを送る。エンジンの回転数が上がって再び船は進み出し、波を切り裂きながら陸の方へと向かっていった。

 

一方、切り離されたロボットはバラスト注水により徐々に深度を上げ、海の底へと向かっていく。ソナーが海底の地形を認識し、6本の脚を広げると、間もなく鈍い音が響いて海底に着地した。瞬く間に砂が舞い上がり視界が失われるものの、搭載された各種センサーからの情報を得て、ロボットはゆっくりと進み始める。

 

なだらかな斜面に沿って下っていくロボット。後方から遅れて着地したもう1機が後を追うように歩き出す中、ロボットは作業灯を点灯させた。深度は200メートルを越えていて、海面上に光が漏れる心配も少なくなってきたからだ。

 

暗闇が支配していた世界を容赦なく切り開くロボットに、驚いた魚がその脇を逃げるように過ぎていく。海中の視界もおおむね良好な状態に戻り、胴体に埋め込まれたカメラが周囲の状況を確認する。前方にはまだ目的のものは見えず、マリンスノーと呼ばれるプランクトンの死骸などの浮遊物が見られるくらいだった。

 

深海を進むこと30分余り。深度は300メートルを超え、潜水限界深度に近づいていた。それでも、ようやく目の前に目的の物体が見え始める。白色の作業灯が映し出す巨大な黒いシルエット。まるでクジラのようなそれは、海底にその巨体を横たえて静かな眠りについていた。全体的に流線形のその船体には至る所にフジツボがこびり付いていて、大きく拉げて崩れているところもある。奥の方には巨大なスクリューと尾ビレを思わせる舵が備えられ、見るものを圧倒させる迫力を生み出していた。

 

ロボットは周囲の海底の状態に注意を払いながら前進し、クジラのような物体の腹に当たる部分に登り始める。もう1機は後方から作業灯で照らし、バックアップ態勢をとっていた。目的の箇所まで到達したロボットは、マニュピレーターの先を変形させてノズルを伸ばし、“クジラ“の腹に押し当てる。

 

間もなく、ノズルから噴出されたウォータージェットが分厚い特殊高張力鋼板に食らいつき、徐々に切断していく。数千気圧もの超高圧に加圧されたそれには銅スラグなどの研磨剤が含まれていて、それらの研磨剤の作用によって鋼板が削り取られ、切断されるという寸法だ。

 

噴き出された微粒子と削り取られた鋼板が砂のように舞い上がり、視界が濁り始める。それでも、あらかじめ測定したデータに基づいてマニュピレーターが一定速度で動き続け、切断作業を止めることはなかった。

 

やがて、ロボットが通れるほどの四角い穴が開通すると、もう1機がすかさず作業灯で照らし、内部の状態を確認する。沈んでからそこまで長い年月は経っていないため、フジツボこそ見られるものの腐食などの被害は少なく、構造の健全性も保たれているようだ。

 

切断を行っていたロボットが中に入り込み、ゆっくりと進んでいく。元々火器弾薬庫として使用されていた区画だけに、533ミリ魚雷が所狭しに専用ラックに据え付けられていて、通路は極めて狭かった。ロボットはラックを押し分けて強引に進むと、目的の物を発見する。

 

『Обращаться с осторожностью』

 

灰色の小型コンテナには白字でそう書かれていた。取扱注意を促す表示である。ロボットはそれを固定していたワイヤーを1本ずつカッターで切断し、マニュピレーターを使って慎重に持ち上げる。同時にもう1機のロボットはちょうど真上に当たる船殻を切断し始め、搬出口を開けようとしていた。

 

海上では回収に戻った偽装作業船が船尾の大型クレーンからワイヤーを伸ばし、海底のロボットの元へ固定用フックを送り込む。搬出口の切断が終わると、ロボットはマニュピレーターに備えられた吸盤状の装置で、切断した船殻が内部に落下しないよう持ち上げた。やがて、搬出口の脇にそれを仮置きすると、降ろされてきたワイヤーフックを掴み取る。

 

コンテナにワイヤーが固定され、間もなくクレーンが巻き上げを開始する。船上では慌ただしく人影が動き、回収作業の様子を固唾を飲んで見守っていた。数分かけてようやく海面から姿を現すコンテナの姿に、暗視ゴーグル越しでありながらもその場の多くの人間が歓声を上げる。

 

「これこそが、我々の世界を取り戻す鍵だ」

 

クレーンから船上へ降ろされるコンテナを見つめながら、一人の男がそうつぶやいた。やがて、コンテナは数人の男たちの手によって格納庫に移されると、自動小銃で武装した2名が重厚な扉を閉める。船は再び進み始め、新月の夜の闇に姿を消していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

窓の外には深い蒼に染まった空が、雲海によって形作られた水平線の彼方まで広がっていた。轟音を上げて回転する2基のターボファンエンジンは後方から高温の排気を凄まじい勢いで噴き出し、百数十トンという金属の鳥が空をはばたく原動力を生み出している。超々ジュラルミンの外板を隔てた先は高度1万メートルの世界だが、人類の誇る科学のもと与圧された機内では、たくさんの乗客が思い思いの時間を過ごしていた。

 

ここはフランクフルト発新浜行きのEA214便の機内。少佐はシートに腰掛けながら、そんな窓の外の景色をぼんやりと見つめていた。カーキ色の軍服の胸にはいくつもの勲章が輝き、これまでの自分の戦果を周囲に見せつけている。しかし、それは外面だけの虚勢なのかもしれない。自分は人が思うほど強い人間なのだろうか。そんな疑問が頭の中に渦巻いていた。

 

考えてみれば、肉体を機械に置き換えてから自分は何年生きてきたのだろう。このような旅客機に搭乗するたび、心なしか不安感に襲われる。それは幼い日のあの出来事のためなのかどうかは分からないが、鬱々とした塞ぎ込んだ気持ちになってしまう。

 

もしかすると、自分は怖いのだろうか。再び、あの悲劇が訪れてしまうことが。

 

生身の人間を凌駕する高性能なボディに身を固め、チタンの脳殻に脳と脊髄を預けても、結局は人間の本能的な恐怖心というものは抜けないのだ。同時に、それは自分自身が人間であるという証でもある。だが、自分のような立場の人間にとっては、それすらも克服すべき対象だった。

 

「少佐、聞いているのか?」

 

課長の声に、深い思考から引き戻された少佐はすぐに顔を振り向かせる。

 

すぐ隣の席に座っているのは、公安9課の荒巻課長。いま自分が所属する組織のリーダーであり、もっとも信頼できる指揮官である。旧調査部出身である彼の手腕は並外れたもので、政財界とも太いパイプを持ち、この国の闇にもメスを入れることを厭わない強い正義感を持っていた。

 

「空港に着いたら、お前は先に本部に戻れ。少し寄るところができた」

 

「穏やかな話ではなさそうね」

 

少佐がそう言ったのは、荒巻課長の顔を見てのことだった。表情が硬く、引き締まったその面持ちは、珍しく彼が少し緊張していることを示している。よほど重大な事件が起こったのだろう。だが、ニュースサイトはもちろんのこと、調べられる限りの情報源を駆使してもそれらしき事件の知らせは入っていなかった。おそらく、現段階では政府内でも極めて少人数の関係者にしか知らされていない情報なのかもしれない。

 

「詳しい話はわしが本部に戻ってから行う。いまのうちに全員に召集をかけておけ」

 

「分かったわ」

 

海外出張の疲れをまったく感じさせずに、課長はそう指示を出した。ドイツで開かれた各国公安関係者が集まる会議に出席し、2泊3日のハードスケジュールをこなしたとは到底思えない。さすがは、荒巻課長といったところだろう。

 

少佐は言われた通り、9課の全員に召集を掛ける。休暇で休んでいる課員からすれば溜め息くらいは付きたくなるだろうが、このようなことは9課では日常茶飯事だった。それに、課員の多くもそれを見越して休日も自主的に本部まで来ていることも多いのだ。

 

『ベルト着用のサインが消えました。お客様は席をお立ちになり、化粧室などをお使いいただけますが、乱気流に備えて席にお座りの際にはベルト着用をお願いします。また、当機はあと30分ほどで着陸態勢に入ります。お早めにトイレなどをお済ませください』

 

電子音とともにランプが消え、何人かの乗客がベルトを外して席を立つ。新浜到着まではあと1時間近く。日本海上空を飛行しているため、たびたび揺れがあるものの、飛行は概ね安定していた。

 

航空法の改正により、機内でもほぼ無制限にネットワークに接続できる今の時代。多くの乗客もネットに繋がり、絶えず情報を摂取し続けているのだろう。QRSプラグを座席の端末につなげたまま、ぼんやりしている様子の乗客が多く見られた。自分もネットに繋がろうと思えば繋がれるのだが、情報収集といってもできることが限られている。

 

そのため、少佐も目を閉じて気を楽にしていた。休息は取れる時に取っておかなければ、ヒューマンエラーなど危険なトラブルに繋がってくる。特に、自分のような職業の人間にとってはそれが捜査上で重大な見落としに繋がったり、下手をすれば命取りにもなりかねないのだ。

 

課長もリラックスした様子で新聞に目を通したり、手帳を読んだりしている。通りかかったキャビンアテンダントにコーヒーを頼み、テーブルに置いてしばしば口をつける。近頃は航空機内でありながらも、サービス向上により並みの喫茶店以上の品質のコーヒーが飲めるようになっていた。しかも、機内で鈍くなる味覚を補うために、やや濃いめに淹れられているという。

 

そんな中、目を閉じた少佐が眠りに落ちようとしていたとき、突然突き上げるかのような揺れが襲ってきた。それでもわざわざ気に留める程でもなく、騒ぐ乗客もいないようだ。一応周りを見回したものの、乱気流か何かだろうと結論付けた少佐は、再び目を閉じようとする。

 

しかし、今度は突き落とされるかのような急降下が始まり、課長のテーブルにあったコーヒーが勢いよく吹っ飛んで倒れた。通路を歩いていた乗客も転げ落ちて椅子や壁に打ち付けられ、鋭い悲鳴が機内に響く。キャビンアテンダントの手から離れたワゴンサービス用のワゴンが暴走し、通路を凄まじい速さで進んでいく。間一髪で乗客にはぶつからず、壁に激突して事なきを得るが、これはただ事ではない。

 

少佐の解析では、この数秒間の間に機の高度は100メートル近く落ちていた。乱気流ならば説明はつくが、この挙動は乱気流のそれと明らかにかけ離れている。瞬時に少佐は目の前の客席に埋め込まれた液晶モニターの端子にQRSプラグを刺し込んだ。本来はネットをはじめ、映画や音楽、それにゲームなどを楽しむためのものだが、同時に機内の制御システムにも間接的につながっているはずだ。

 

防壁を突破し、すぐに機のコントロール状況を確認する。やはり、乱気流などではなかった。操縦桿の操作により、コックピットから意図的に引き起こされたものだったのだ。こうなると、コックピット内で何らかの緊急事態が起こっている可能性が濃厚だろう。

 

「少佐!何が起こっている!?」

 

「分からないわ!ただ、これはコックピットからの操縦によるものよ。何かまずいことになっているかもしれない。今からコックピット内に突入してみる」

 

一瞬収まったかのように思えた揺れは、再び激しくなる。振り回すかのように左右に揺れ、体が強力なGを受ける。絶叫に近い叫びを上げ、乗客はもはやパニックに陥っていた。泣き叫ぶ子どもの声が響く中、その場でうずくまる乗客や懸命に遺書を書こうとする乗客の姿もある。

 

脳裏にあの出来事が蘇る。窓から見える赤い炎と、乗客の叫び。立ち上がろうとした少佐の動きが止まる。このままあの時のように、全てが失われてしまうのだろうか。何もできないまま、自分は死んでしまうのかもしれない。

 

一瞬浮かんだそんな考えを振り払い、彼女は猛然と通路を駆け抜けた。

 

高度は急速に落ち、最初は1万メートルだったのが5千メートルまで下がっていた。このままの勢いで落下すれば、あと30秒足らずで機は海面に激突し、木端微塵に砕け散ってしまうだろう。

 

目の前にワゴンカートが迫る。一時的に上昇運動に変わった機の揺れによって、一度機首側の壁に激突したカートが戻ってきたのだ。高出力義体といえども、飲み物などを満載した100キロ以上のカートに撥ねられればただでは済まない。天井すれすれまで瞬時に飛び上がった少佐は、軽やかな身のこなしでカートを躱す。

 

そのままコックピットのドアに取り付こうとしたところで、激しいGが襲い掛かり、体が後ろへ押し戻された。転げ落ちそうになる中で、少佐は椅子の根本に掴まって必死にこらえる。揺れが収まった一瞬の隙をついて、彼女はコックピットのドアに再び取り付くと、身代わり防壁を通したQRSプラグを差し込んだ。

 

テロ対策のために防壁は分厚く、さすがの少佐でも突破に手間取ってしまう。張られている2重の攻性防壁を徐々に切り崩し、解除コードを手に入れた少佐はすぐに扉を開かせる。

 

警報音が鳴り響くコックピット内では、副操縦士と思われる一人が血まみれの状態で倒れていて、隣の席の男が目を血走らせて操縦桿を握っていた。機長らしいが、とても正気の状態とは思えず、叫び声を上げて操縦桿を前後左右に無茶苦茶に引き回している。

 

「何をしている!やめろッ!」

 

そう叫ぶものの全く聞く様子を見せない男に、少佐はすぐに飛び掛かった。人間とは思えない獣のような唸りを上げ、相手も必死に抵抗する。暴れる男の体を押しのけ、力づくで操縦桿から両腕を引きはがしたものの、あろうことか男は少佐の右腕に噛みついてきた。尋常ではない力で噛み千切ろうとする男に、少佐はやむを得ずそのまま男の頭ごと右腕を操縦席の椅子に叩きつける。

 

後頭部から派手に頭を打ち付けた男はようやく沈黙し、少佐は操縦桿を力の限りに引き上げる。機首が徐々に持ち上がるものの、早くも海面が目の前まで迫っていた。対地接近警報が耳障りな警告を発し、機は海面まで20メートル近くまで迫る。

 

「上がれぇっ!!」

 

叫びながら操縦桿を引き続ける少佐。ようやく機首が上を向き始め、下向きに押しつぶされるかのような急激なGがかかり始める。機が上昇に転じたところで、少佐は機体にかかる負担を減らすために操縦桿をやや押し戻した。そして、そのままオートパイロットを起動させる。

 

何とか危機は過ぎ去ったようだ。

 

隣には血まみれの副操縦士と、気絶している機長が倒れている。副操縦士の方は首から大量に出血しており、生存は絶望的だった。機長は一応加減はしたものの、頭蓋骨骨折の恐れもあるので調査できるのは病院に送った後になるだろう。もっとも、監視役を付けておく必要がありそうだが。

 

少佐は右腕の痛みに顔をしかめる。ベージュ色の軍服は裂け、傷は皮膚の被膜をも貫いていた。自分の特殊義体の被膜を突き破るような力など、普通の人間に出せるレベルではない。機長は何かのウイルスに冒されていたと考えるのが妥当だが、それにしても異常なレベルだった。

 

溜め息をついた少佐。足音とともに後ろから数人が駆けてくる。

 

「な、何だこれは!お前、手を上げろ!」

 

1人の男が拳銃を構えて、少佐にそう言った。私服ではあるが拳銃を持っているということは、警察が搭乗させているスカイマーシャルだろう。後ろではキャビンアテンダントたちがあまりの光景に固まっている。

 

少佐は指示に従って手を上げ、静かに歩き出した。ちょうどその時、キャビンアテンダントをかき分けて課長が姿を現す。突然現れた老人に怪訝そうにしていたスカイマーシャルだったが、身分証を見せられた途端すぐに敬礼した。

 

「銃を下ろせ、彼女はうちの課員だ。あと、すぐに航空管制に連絡して最寄りの空港に緊急着陸させろ。大至急だ」

 

機内ではなおも悲鳴や泣き声が聞こえていていた。多くの乗客が負傷し、重傷者も何人か出ている今の状況のままというのは、決して望ましいことではない。一刻も早く着陸しなければ、命にかかわる者すらいるだろう。

 

少佐は機長や副操縦士をキャビンアテンダントたちに任せると、静かに操縦桿を握った。

 

 

 




2018/10/2 誤字等一部修正


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第2話

「少佐もご苦労だったな。旅客機の操縦なんて」

 

新浜国際空港のA滑走路では、緊急出動した消防隊が旅客機を取り囲んでいた。全ての便の離着陸は中止され、滑走路は完全に封鎖されている。駆け付けたタラップ車がドアにドッキングし、救急隊員が負傷者を担架に乗せて救急車に運んでいた。比較的軽傷の乗客たちは、機からある程度離れた滑走路脇で航空会社が持ってきた毛布に包まり、腰を下ろしている。そんな光景を遠巻きに見つめながら、少佐は答える。

 

「ほとんどオートパイロットだから、それほどのことでもないわ」

 

少佐のその答えに、隣にいた義眼の大男、バトーはふっと軽く笑った。彼女たちはちょうど、滑走路に乗り入れたバトーの車に乗り込もうとしているところだった。いくら公安職員とはいえ滑走路内にそう簡単に車は入れないので、彼も相当強引な手を使ったに違いない。

 

「で、機長の経歴は洗えたのかしら?」

 

「ああ、もちろん。名前は安達泰敏、年は47歳。いくつかの航空会社を経て、東亜航空入社7年目。飛行時間は1万時間を超えるベテランパイロットだ。直近のメンタルチェックの結果は全て正常。新興宗教やその他反社会的勢力との繋がりはなし。前科もない」

 

となると、やはり機長の精神疾患等による単独犯行という線は否定できるだろう。コックピットでのあの様子を見ても、ウイルスによって操られていたと考えるのが妥当だった。問題はどこで感染したのか、あるいはさせられたのかということである。

 

「今のところ、本部でイシカワがテロ組織の犯行声明がないか洗っているのと、トグサが国内の他の航空会社幹部の口座を調べている。ボーマとパズは怨恨の線がないか、関係者に聞き込みを行っているところだ」

 

「競争相手に対する破壊工作という線はまずないと思うわ。怨恨にしても、手が込みすぎているし。とりあえず、テロ組織の方を重点的に当たらせて」

 

「分かった。少佐はこの後どうするんだ?」

 

「別命あるまで本部で待機するわ。課長の話の方も気になるし」

 

少佐はそう言うと、バトーの車に乗り込んでドアを閉める。課長は一足早く空港から外務省へ向かっているところだった。外務省が関わってくると、あまりいい気はしない。公安6課絡みで何か面倒な捜査協力の話か、それとも海外諜報部員の国内活動の件か。とにかく、ろくでもないことが起こっているのは確かだろう。

 

間もなく乗り込んできたバトーがエンジンを掛けると、車を発進させる。旅客機の周りは緊急車両のほか、救護要員など人の流れが激しいため、大きく迂回して滑走路を出た。エンジンが低い唸りを上げ、コンクリートで固められた誘導路を疾走して出口へと向かう。海をまたいだ遥か遠方には新浜とその周りの街を中心とする旧首都圏の明かりが煌々と輝いていた。

 

「ところで少佐、公安の会議はどうだったんだ?何か分かったことはあったか?」

 

車を運転しながら、バトーがそう訊いてくる。少佐はサイドウィンドウを通して街の夜景を見つめ、固めの口調で答えた。

 

「ほとんどはこっちで掴んでいる情報の通りだったわ。宗教がらみの過激派組織のテロ、南米の麻薬密輸ルート、アジア難民武装蜂起の可能性。あと、カルディス系武装勢力も議題には上がったわ」

 

「相変わらずこの世界には火種ばかりだな」

 

その通りだった。課長とともに出席した、ドイツで行われた各国公安関係者の情報交換会議。どの国の公安警察も、国内外の不穏分子に手を焼いていることは、話し合われた内容からしても明らかだった。最近も過激派組織による自爆テロがイギリスで起きたばかりの上、南米の麻薬王アナコンダの暗殺作戦もまたもや失敗に終わったという。日本でも、人類解放戦線系組織によるテロや、アジア難民武装蜂起の可能性など、解決しなければならない課題は山積みだった。

 

第3次核大戦および第4次非核大戦を経た現在の混沌とした国際情勢を考えれば、テロが起こるのはもはや必然ともいえるだろう。しかし、かといってそれを野放しにする理由にはならない。たとえ困難が伴おうとも、公安という職に就いている限りはそうした火種を可能な限り消さなければならないのである。

 

「あと、ロシアの公安当局から連絡があったのだけど、極東で不穏な動きがあるらしいわ。例のカルト宗教に関係するようだけど、詳しい情報は向こうでも掴めていないみたい」

 

「カルトか。確か、道東や択捉辺りを拠点に活動している団体だろ。特定監視団体の指定も受けている、過激派寄りの組織じゃなかったか?」

 

ウインカーを上げて交差点を右折しながら、バトーがそう訊き返した。

 

「その通りよ。だけど、活動実態はほとんどが謎。カルト宗教というよりは、秘密結社といった方が正しいかもしれないわね。人はみな祖先を同じくする兄弟なのだから、等しく平等な世界であるべきだと主張し、開宗時から世界を作り変えると宣言しているわ」

 

少佐はそう言いながら、電脳で公安ネットにログインすると、9課のデータベースからその団体の情報を表示させる。団体名は『自然の民』となっており、構成員の人数は200人近くにも上る。以前に課長から聞いた話では、正確な活動実態を把握するために道警の公安部が潜入捜査をしているらしいが、有用な情報は得られていなかった。

 

本部は北海道の東、網走市と北見市またがる山中にあり、そこで構成員100人余りが自給自足による生活を行っているという。食料は畑や近くを流れる川から採集し、牛や鶏などの家畜も育てているらしい。さらに診療所なども備えていて、一つの村といっても過言ではない。

 

しかし、危険な活動の兆候も見られていた。表向きは脱退するのは自由ということになっているが、実質的には不可能で、脱走しようものなら生きては帰れないという噂があるのだ。もちろん、それはあくまでも噂に過ぎないが、そういった組織では十分にあり得る話だった。

 

「それにしても、そんな連中がなぜロシアで?」

 

「分からないわ。単純な勧誘なら納得できるけど、向こうの公安が警告してきた以上は何かヤバいことを企んでいるかもしれないわね」

 

「全く、どいつもこいつもろくでもない連中ばかりだな」

 

バトーの車は空港のある人工島と陸地を結ぶ鉄橋を通過し、新浜方面への首都高速に入っていた。少佐は電脳内に開かせていたデータベースを閉じると、ゆっくりと体を伸ばして姿勢を楽にする。航空機内のあの一件で休みは全く取れず、疲労は溜まる一方だったのだ。

 

結局、課長が呼び出されたのは何なのかは分からない。だが、妙な胸騒ぎがしていた。今回の事件も、手のかかるヤマになるかもしれない。薄々だが、そんな予感を少佐は覚えていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9課のブリーフィングルームでは、主要なメンバー全員が顔をそろえていた。少佐とバトーが部屋に入ると、最初にトグサが口を開く。ずっとコンピュータモニターを見続けて作業に没頭していたのか、目が赤く充血しかけていた。

 

「少佐、やはり国内の他の航空会社幹部の口座に不審な動きはありませんでした。パズ達が調べていた怨恨の線も、今のところ目星のつくような人間はいないです」

 

「そう、テロ組織の方は?」

 

「犯行声明はまだ出ていない。もう少し経ってから出るのかもしれないが、国内の主要な過激派組織に目立った動きがない以上、連中が関与している可能性は薄いな」

 

少佐の問いに、イシカワがそう報告する。国内の人類解放戦線やそのほかの過激派組織に目立った動きがないということは、海外に拠点を置くテロ組織による犯行か、もしくはローンウルフ型の単独犯による犯行という線が考えられる。

 

しかし、犯人を絞り込んでいくのは時期尚早といえるだろう。この後、数日ほどかけてもう一度関係者の関与がないか洗い直し、さらに機長の容態が回復し次第、電脳を調べてウイルス感染もしくはゴーストハックの有無を確かめていくことになる。未遂とはいえフランクフルト・新浜間の国際航空路線が狙われた重大なテロ事件であることに変わりはなく、この後の捜査は所轄の警察ではなく、9課が中心となって進めていくことになるだろう。

 

ちょうど時、ブリーフィングルームのドアが開くと、オペレーターアンドロイド1体とともに課長が入ってきた。面持ちは固く、その場の誰もが事態の深刻さを理解する。軽く咳払いした彼は、机の前に来ると静かに話し始めた。

 

「外務省から通報があった。18時間前、ロシア工作員2名が入国した」

 

「工作員ですか…?」

 

真っ先に驚きの声を上げたのはトグサだった。一方、ほかのメンバーたちは彼とは対照的に、それほど驚いている様子ではない。周りの様子にトグサも少し気恥ずかしく感じたのか、小声ですいません、と謝る。

 

「諜報員が入国するのはそんなに珍しいことではないわ。問題はその目的よ。そうでしょう、課長?」

 

「ああ。6課から得た情報によると、工作員の目的は北端に隠された何かの回収らしい」

 

「その何かってのは?」

 

課長からの言葉に、バトーがそう訊いた。ほかの課員たちもその何かの正体が気になるのか、神妙な顔で課長の方を見やる。だが、彼はすぐに口を開いた。

 

「何かだ。詳しい情報は、全く得られておらん」

 

その言葉に沈黙する一同。しかし、全く情報が得られていない状態から捜査を進めるのは、今に始まった問題ではない。これまでも、9課はそんな状況下で地道に手掛かりを見つけ、真実へたどりついてきているのだ。バトーは冷静に思考を巡らせると、改めて課長に訊く。

 

「北端ってことはつまり、ベルタルベの事だろ?ということは、例のジオフロントに関係するかもしれねえってことか?」

 

択捉島をはじめとする北方4島が旧ソ連から返還された現在、ベルタルベは無数の高層ビルが立ち並ぶ巨大都市となっている。旧型の電脳都市とはいえ、極東の中でも指折りの規模を持つ街には、周辺地域から数え切れないほどの人・モノ・カネが流れ込んでいるのだ。もちろん、そのおこぼれに預かろうとする犯罪組織も多く、お世辞にも治安は良いとは言えない。

 

そして、そのベルタルベの地下にあるジオフロントには旧ソ連時代からの潜水艦基地が存在している。もちろん、ソ連軍の撤退に伴って基地は爆破され、埋め戻されたと言われているが、兵器や隠し財産などが残されているかもしれないという噂が一時期流れていたことがあった。当たり前のことであるが、個人はもとより並みの企業では掘り起こすだけの資金力も技術力もなく、噂はそのまま消えていったが。

 

バトーが訊いたのは、工作員の目的がその基地に眠っている物かもしれないと考えてのことだった。しかし、課長はすぐに答える。

 

「それが、まだ分からんのだ。その2名が小樽港から北海道に入ったところまでは足取りがつかめていたのだが、その後は消息不明。可能性的にはベルタルベの旧ソ連基地に向かったと考えるのが妥当だが、ジオフロントの管理を行う佐川電子が潜水艦の区画にまで手を付けているという情報はない」

 

「つまり、連中の目的はほかの場所にあるという事か?」

 

「そうなるだろうな」

 

課長がそう答えたところで、少佐が疑問に思ったのか、口を開いた。

 

「それで、なぜそんな連絡がうちに?工作員がすぐに回収した(ブツ)をもって日本を離れるとは考えにくいけれど。それに、旧ソ連時代からの埋蔵物だったとしたら、所有権は向こうにあるわ。祖国に持ち帰ろうが何をしようが、日本政府は口出しできない。もちろん、監視要員は必要だろうけど、長期に渡ってうちにそれを出せるだけの余裕はないわ」

 

普通に考えれば、その結論に至るのは至極当然だった。少数精鋭の9課が、公安警察の外事課のようなことをしていては、人員がいくらいても足りないのだ。特に今は航空機墜落未遂テロが起こったばかりで、とてもではないが人員を出せる余裕はない。だが、そんな中でもあえて9課に連絡が来たという事は、外事課では対応できない何かがあるというのだろう。

 

「未確認の情報だが、工作員の正体はザスローン部隊かもしれん」

 

「ザスローンだと?ロシア対外情報庁(SVR)の特殊部隊か?」

 

「そうだ。6課の情報によると、連中が武装している可能性も十分あるらしい。その上、入国した人数も、実際はさらに多い可能性が高い」

 

バトーにそう答えた課長。あまりの事態の深刻さに、さすがの少佐も驚きを隠せない。

 

「つまり、連中が日本国内で荒事を起こそうとしている可能性が高いから、9課はそれの監視、必要があれば拘束しろということね」

 

「まあ、そうだな。拘束は連中が明らかに敵対的な破壊活動を行おうとした場合に限られるが、おおむね官邸からの命令はその通りだ」

 

少佐は息を呑んだ。ザスローン部隊といえば、言わずと知れたロシアの特殊部隊であり、暗殺や破壊工作などを主な任務としている。ロシアに存在する特殊部隊群スペツナズの中でも最も機密性の高く、各国関係者の間でも詳細について知るものはほとんどいないといわれているのだ。

 

おそらくは自分と同等もしくはそれ以上の高性能義体を装備した実行部隊と、潜入と工作を目的とする義体化率の低い部隊に分かれているだろう。他国に潜入する上で、全身義体など明らかに義体化率の高い人間は入国段階で警戒対象になるからだ。

 

となると、今回公安6課が掴んだ工作員というのは実行部隊である可能性が高い。潜入部隊の方は、民間人に完全に溶け込んで既に国内で活動していると考えた方が妥当だろう。

 

だが、気になるのはなぜ、モスクワがリスクを冒してまで武装したそのような特殊部隊を送り込んだのか、という事だった。ふと、ある予感が頭をよぎる少佐。それを察したかのように、課長がこう言った。

 

「モスクワがなぜザスローンを送り込んだかだが、情報筋の話によるとモスクワも余程その物体を重要視しているらしい。躊躇なく特殊部隊を送り込んできたことも考えると、連中の焦りらしきものも感じるしな」

 

ロシア側からすると、絶対に他国の目には触れさせたくない代物なのだろう。国家機密レベルの情報が関わっているのか、それとも今掘り起こされると国際問題に発展しかねない致命的な証拠になり得るものなのか。見当こそつかないが、重要性だけは明らかだろう。

 

そしてもう一つ問題なのが、そんな部隊と万が一9課が衝突することになった場合、どういった結果が予想されるのかということだった。

 

潜入部隊の方は正体さえ暴き出せば制圧することは不可能ではない。ザスローンとはいえ、低義体化率の人間では限界があるからだ。問題は実行部隊の方である。高度な訓練を受けている上、機密技術の塊が詰め込まれた高性能義体で武装している相手では、いくら9課のメンバーでも太刀打ちするのは難しい。

 

「課長、今後の行動はどうするんだ?そんな連中が相手じゃ、単独行動は危険じゃねえか?」

 

バトーも同じことを考えていたのか、緊張した面持ちで課長にそう話す。

 

「もちろん、一人で行かすとは言っておらん。それに、そもそも連中の足取りすら掴めていない今の状況では、下手に動けば相手に感づかれる恐れもある。しばらくは、網を張って、連中がそれに引っ掛かるまで待機する」

 

「了解。だけど、その網というのはうまく機能するのかしら」

 

「警察庁の外事課が動いている。あと、6課も可能な限り情報面で支援していくそうだ」

 

「なるほど。そいつは頼もしいな」

 

バトーが皮肉交じりにそう言った。6課といえば、たびたび管轄権侵害などで9課と衝突することもあり、関係はあまりよくなかった。とはいえ、9課と同様に首相直属の部隊であり、その実力は侮れるものではない。

 

「とにかく、現時点で我々にできることは事態を静観することだけだ。それまでは、例の航空機墜落未遂事件の捜査を続けろ」

 

「了解」

 

答える少佐。ほかの課員たちも同様に答えると、それぞれ静かに歩き出してブリーフィングルームを後にする。課長は革張りの黒いチェアに腰を下ろすと、重要書類をファイルから出して整理していた。そんな中、少佐が不意に口を開く。

 

「その航空機事件の方なんだけど、今のところはテロという線で捜査を進めているわ」

 

「なるほど。だが、少佐自身はどう考えているんだ?」

 

課長は作業の手を止めることなく、少佐にそう訊き返す。見ると、メガネ越しに鋭い視線で彼女を見つめていた。少佐は少しの間、考え込んだのちに答えた。

 

「たぶん、テロであることには間違いないわ。ただ、この手口が少し引っ掛かる」

 

「パイロットのウイルス感染か」

 

普通、この手のテロを起こすのであれば、航空機さえ墜落させることができれば手段は何でも良いはずだった。手荷物や義体の中に爆発物を仕込んだり、あらかじめ機に細工しておけばいくらでもテロは起こせるのだ。もちろん、保安対策によりそうした方法は一筋縄ではいかないが、パイロットにウイルスを感染させる方法にしろ、それは変わらない。搭乗前にすべての乗員はそうした潜在的な脅威がないか、チェックを受けることになっているからだ。

 

それに何より、わざわざ手間をかけて機長を操っておきながら、ただ単に機を墜落させようとしていたところに引っかかる。もし自分が機長にウイルスかゴーストハックを仕掛けた犯人だったら、海上に墜落させるよりも人口密集地に墜落させるだろう。特に、この路線であれば新浜上空を通るので、格好の目標となるはずなのだ。

 

にもかかわらず、犯人側はあの時あの場所で機を墜落させようとした。常識的に考えれば何が目的なのか掴みづらいところがある。わざわざ電脳チェックを突破できるほどの手の込んだ仕事をしておきながら、行動部分のルーチンは全くと言っていいほど単純すぎる。言い換えればお粗末そのものなのだ。

 

「もし仮に機長の異常行動がウイルスによるものだとしたら、この航空機だけを狙ったものではないかもしれないわね」

 

「どういうことだ?」

 

「ウイルス自体は無作為にばら撒かれ、それが機長に偶然感染し発症した。そう考えれば、なぜ機長の行動が高度に制御されたものでなく、非理性的かつ短絡的なものだったのかの説明がつくわ」

 

課長はそれを聞くと、作業の手を止めて考え込む。確かにそうだとすれば、わざわざ危険を冒して機長の電脳を操り、機を日本海に墜落させようとしたのか、説明することはできるだろう。機長だけを狙った標的型攻撃ではなく、不特定多数の人間を狙ったウイルスであるならば、感染時の行動を複雑化して限定させるよりも単純化した方が都合が良いからだ。

 

だが、もし無作為にばら撒かれていたとするならば、ほかにも同様の症例のウイルス感染で被害が出ているはずだった。それに、保安検査段階の電脳チェックを突破するウイルスを作成すること自体、並みのハッカーではできることではない。これがテロ事件だとするならば、高度な技術を持つかなり厄介な相手となるだろう。

 

「まあ、それは明日にでも機長が回復したら、潜って確かめることにするわ。今日はもう遅いから、私も先に休ませてもらおうかしら」

 

そういうと、少佐は立ち上がってブリーフィングルームの出口に向かう。課長はその背中を静かに見送ると、再び書類の整理に戻った。

 

何となく落ち着かない。頭の中に靄が掛かり、見ようとするものが見えないような、そんなもどかしい気持ちがわき上がる。

 

課長は一旦書類を置くと、オペレーターにコーヒーを頼んだ。そうして、机の上に腕を組むと目を閉じ、自らの意識を深い瞑想の中に沈潜させる。突如入国したロシアの工作員と、航空機テロ未遂事件。一見すると全く関係がないこの2つの事件の間に、何かつながりがあるのではないか。薄々とだが、課長にはそんな気がしてならなかった。

 




2018/10/3 一部修正


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第3話

初冬の乾いた風が落ち葉を巻き上げながら街を吹き抜け、震える体をさらに凍えさせる。かじかんだ指を息で温めると、トグサは車に乗り込んだ。徹夜明けで無性に欠伸が出て仕方なかったが、カフェイン入りのタブレット菓子を何粒か手に取って口に放り込むと、躊躇うことなく噛み潰す。ミントの風味がこれでもかというほどに口に広がり、嫌でも目が覚めるほどの凄まじい刺激だった。

 

あまりの強さにタブレットを取り過ぎたことに少し後悔していると、マンションの玄関からようやく愛娘が姿を見せる。サイドウィンドウ越しに手を振った彼は、イグニッション・ボタンを押して車のエンジンを掛けた。

 

トグサがこうして家に戻ってきていたのは、久々に娘の送り迎えをすることになっていたからだった。何日か前に、娘から無邪気に「たまにはお父さんに送ってもらいたいなぁ…」と言われてしまったため、どうしても断り切れなかったというわけだ。しかもあいにく今回の航空機テロと重なってしまったため、こうして徹夜明けに職場を抜け出して一時的に家に戻り、送り迎えをする羽目になったのだった。

 

それでも、愛しい我が子の姿を見ると、そんな疲れもどこかへ吹き飛んでしまう。すぐに駆けてきた娘は自分で後部座席のドアを開けようとしていたが、まだ背が届かないので悪戦苦闘しているようだ。車を降りたトグサはすぐに彼女の元へと向かう。

 

「パパ、おはよう!」

 

「おはよう。昨日はすまなかったなぁ、ママとちゃんといい子にしてたかい?」

 

「うん!もっちろん!」

 

元気よくそう答える娘に、トグサにも思わず笑みがこぼれる。後部座席のドアを開けた彼は、娘をチャイルドシートに座らせるとベルトを締めようとした。

 

「自分でできるもん!」

 

少し不満げにそう言われ、トグサはやや驚いた。見れば、しっかりと自分でチャイルドシートのベルトを伸ばし、手間取りながらも金具に差し込んで締めている。もちろん念のために娘が締め終わった後で自分も確認してみたのだが、まったく問題はなかった。

 

こうして知らず知らずのうちに、子どもは成長して大きくなっていくのだろうか。と、ぼんやり考えながら、トグサは後部のドアを閉める。そのうち、大きくなったら助手席に座らせることもできるかもしれない。娘とドライブするのも、なかなか楽しみだ。

 

運転席に乗り込んだ彼は、バックミラーを見て娘の姿をもう一度確認すると、車を発進させた。朝のラッシュの時間帯なので、歩道には背広姿のサラリーマンや学生が多く見られ、道路も通勤通学のバスや自家用車で混雑している。そのため、娘を事故に巻き込んではいけないと、いつも以上に運転には注意を払っていた。

 

信号で止まると、彼はふと空を見上げてみた。灰色の雲にすっぽり覆われた寂しい新浜の空には、今にも雪がちらつきそうだ。一応、天気予報では雪は降らないらしいが、娘はそれを残念がっていた。何でも、何か月か前に観たアニメ映画が冬を舞台にしたものらしく、すっかり雪や氷がマイブームになってしまっているらしい。

 

青に変わった信号を見て、彼は再びアクセルを踏み込む。ごくわずかな、娘と過ごす私服のひと時。時間が許す限りのんびりと進みたかったが、自分の仕事もまだたくさん残っているので、そういう訳にもいかなかった。

 

何せ、突如起こった航空機テロに加えて、ロシア工作員の不穏な動きなど、対応しなければならない仕事が多すぎるのだ。特にテロ事件の方は犯行声明すら出ておらず、実行犯が単独犯なのか組織的なものなのかさえ絞り込めていない。まさに、猫の手も借りたい状況だった。

 

「ねえパパ、聞いてる?」

 

はっとしたトグサは、思わず訊き返した。どうやら娘は幼稚園の友達の話をしていたらしかったが、自分がまったく返事をしないので拗ねてしまったようだ。まだあどけない顔立ちながらも、一丁前に口を尖らせてそっぽを向いているその姿は少し可愛らしかった。

 

バトーには親馬鹿だとからかわれそうだが、自分の娘を見て可愛いと思わない親がどこにいるのだろうか。特に最近はあまり家に帰ることもできていないのもあってか、娘の一挙手一投足全てが愛おしく思えてしまう。さすがにこれは言い過ぎだが、それでも娘の可愛さは言葉にできないほどだった。

 

だが、このまま嫌われてしまっては元も子もないので、トグサはすぐに謝る。なのに、どこで覚えたのか、娘は「ぷん!」と言ったままそっぽを向き続け、耳を貸そうとしてくれなかった。

 

「ほんとにすまない…。謝るから、な。だからパパにも話してくれよ」

 

「・・・とくべつだよ!」

 

その言葉に一安心するトグサ。だが、途端に娘が興奮気味に声を上げた。

 

「お父さんお父さん!あれ、何やってるの?」

 

バックミラー越しに見ると、窓の外を見ながら娘が興奮した様子で指をさしていた。前の車に追突しないよう注意しながら、トグサも少しだけ視線を横に向ける。だが、そこで見えた光景に、彼は思わず自分の目を疑ってしまった。

 

猛スピードで道路を突き進む一台の路線バス。行き先表示には『回送』と書かれているが、客を乗せていないとはいえその走り方は異常だった。信号も無視して交差点に進入し、クラクションがけたたましく鳴り響く。数台の乗用車と接触するもバスはなおも止まらず、こちらにまっすぐ突っ込んできていた。

 

(危ない!)

 

我に返ったトグサはすぐにアクセルを踏み込んだ。前は混雑でほとんど進んでいなかったが、強引に車の隙間に入り込み、そのまま歩道に半分だけ乗り上げる。一方、バスは大きく蛇行しながら横断歩道を渡っていた数人をはね飛ばし、先ほどまで自分の車がいたところを通り過ぎた。

 

クラクションがなおも鳴り続ける。バスはほかの車と激突しながらも進み続け、歩道に乗り上げた。しかし、タイヤから白煙を上げて無理やり突き進み、花壇を片っ端から押し潰しながら逃げ惑う通行人に襲い掛かる。

 

これはどう考えても事故ではない。明らかに故意のものだ。

 

「ちょっとお父さん出るから!絶対、車から出ちゃだめだぞ!」

 

真剣な口調で娘にそう言ったトグサは、車を降りると全速力でバスを追いかけた。歩道から車道に戻ったバスは、周りの車を押しのけてUターンしようと試みる。だがそこに、1台の車が突っ込み、バスの行く手を塞いだ。それを見て、ほかの車も次々とバスに体当たりし、動きを封じ込める。

 

それでも暴走しようとするバスは、エンジンを獣のように唸らせてマフラーから煤まみれの黒いガスを噴き出し、周りの車を無理やり蹴散らそうとしていた。けたたましい悲鳴に響き渡るクラクション。ボディが擦れる凄絶な破壊音が辺りに響き渡り、バスの大型タイヤが乗用車のボンネットに乗り上げる。

 

そこへ駆けつけたトグサは、迷うことなくバスの乗車口に取り付いた。肘を使って力強く外からガンガン叩くものの、運転手は見向きすらせず、発狂しながらハンドルを握り続けている。

 

突然、ギヤがバックに入って後ろに進み始め、トグサは危うく振り落とされそうになった。しかし、とっさにサイドミラーに掴まって何とかこらえ抜く。再び前進を始めたバスは、エンジンを吹かして全力で行く手を塞ぐ乗用車に突っ込んだ。ガラスが粉々に砕け散り、車体は大きく拉げて押し潰される。このままでは、バスがまた暴走を始めてしまうだろう。

 

やむを得ないと判断したトグサはマテバを抜き出すと、乗車口のドア越しに運転手に狙いを付けた。頭を狙えば一発で仕留められるが、それでは真相が究明できない。少佐の教えを思い出した彼は、ハンドルを握る腕やアクセルを操作する脚を狙う。

 

間もなく鋭い銃声が響くと、バスの動きが一瞬だけ鈍くなった。すぐに再びエンジンが唸りを上げたものの、そこへもう一発の銃声が響き渡る。そこでようやく、暴れ狂っていたバスは沈黙した。遠くからようやく警察と消防のサイレンが聞こえ始め、車を降りたドライバーたちが周りの状況に唖然としつつも、負傷者の救護を始めていた。

 

そんな中、トグサは乗車口を叩き割って無理やりこじ開けると、車内へと足を踏み入れる。

 

運転席にいたのは制服姿の正規のバス運転手だった。トグサの放った銃弾は、左腕と左太ももに命中したらしく赤黒い血がどくどくと流れ出ている。右腕も負傷していて、どうやら左腕を貫通した銃弾がそのまま突っ込んだようだ。

 

「大丈夫か、おい!」

 

呼び掛けには答えがない。撃たれたショックで気を失っているのか、もしくは電脳をウイルスにやられているのかは分からないが、死なせるわけにはいかなかった。手早く自分のネクタイを取った彼は、一番出血の酷い太ももの傷に巻き付けると、きつく締めて圧迫する。

 

ちょうどその時には、ほかのドライバーたちも車内に乗り込もうとしていた。ひとまずトグサは彼らと協力してぐったりしている運転手の体をバスから降ろすと、歩道まで運んでゆっくりと体を地面に横たわらせる。

 

現場はいまだに混乱の中にあったが、渋滞する車の列を掻き分けてついにパトカーが到着した。続いて、救急車を始めとする救護車両も到着し、救急救命士がいち早く負傷者のもとに駆け寄って容体を確認している。

 

「こっちだ!早く来てくれ!」

 

トグサは大声でそう叫び、近くにいた警官と救急隊員を呼び寄せた。とりあえず、逃亡しないよう監視を付けたうえで、病院に搬送することが先決だろう。彼は警官に男が暴れ出す可能性があることを伝えると、後の処理を彼らにまかせて現場を少し離れた。

 

そして、野次馬や警察など多くの人間で溢れかえる歩道を抜けて、自分の車の方へと戻る。もはや娘の送り迎えどころではなくなってしまった。こうなると、妻に直接迎えにもらい、娘を預けるしかないだろう。だが、何よりも心配なのは娘の心だった。

 

まだ幼い娘に、とても怖い思いをさせてしまった。せっかく、2人で過ごしていた楽しい時間だったのに、何という事だろうか。過ぎてしまったことを悔やんでもどうにもならないが、やはりやりきれない思いは強かった。この暴走の背後には、いったい何が潜んでいるのだろうか。何としてでもそれを暴き出し、もう二度とこんな惨劇が起こらないようにしなければならない。トグサの胸に、熱い思いがこみ上げてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうなっているんだ・・・?」

 

9課のオペレーティングルームでは、荒巻課長が壁面に埋め込まれた大型ディスプレイを見つめながら、眉間に皺を寄せて考え込んでいた。周りの席に座るオペレーターは普段よりも増員され、情報収集に努めている。

 

映し出されているのは、新浜とその周辺地域を映した広域地図。それに、民放などのニュースチャンネルだ。地図の方には発生した事件・事故の類がそれぞれ赤と青の点として表示され、テレビ画面の方ではアナウンサーが緊迫した様子で何度も繰り返して事故の情報を報じ続けている。臨時ニュースと書かれた赤いテロップの下には、『新浜中央線で脱線事故 負傷者多数』の文字が大きく描かれていた。

 

「関係各所の状況はどうだ?」

 

「新浜県警より、管轄内で事件事故多数発生との連絡を受けています。また、消防にも通報が殺到していて、現場への到着に通常より時間が掛かっているとのことです」

 

「事件事故の内訳は?」

 

「現時点で交通事故22件、暴力事件7件発生。いずれも重傷者が出ています」

 

手口こそ明らかになっていないが、これは偶然の出来事ではない。明らかに人為的に引き起こされたものだろう。荒巻課長はそう予想していた。新浜市内で路線バスの暴走事件が起こったという一報が入ったのが今から12分前。そして、それから1分も経たないうちに新浜中央線脱線事故の通報や、通り魔事件発生の連絡を立て続けに受けていたのだ。

 

常識的に考えても、あまりに重大事件が続き過ぎている。それに、調べられる限りの情報を鑑みると、驚くべきことが分かってきていた。何と、発生時刻がいずれの事件・事故も一致していたのだ。午前7時43分。通勤通学のラッシュで公共交通機関が混み合う時間帯を狙った、一種のテロではないか。課長の頭には、そんな推論が浮かんできていた。

 

「遅くなったわね」

 

後ろのドアが開くと、少佐が急ぎ足で部屋の中に入ってきた。元々彼女は朝から例の航空機テロで異常行動を起こしていた機長の電脳に潜り、ウイルス感染の形跡がないか解析することになっていた。だが、この件を受けて課長が緊急で呼び寄せたのである。

 

「今のところ、新浜を中心に事件事故が29件発生しておるが、おそらくまだ増えるだろう」

 

「ウイルス感染の可能性が大ね。各事件の容疑者は確保できてる?」

 

「ああ、生きている場合に限るがな。新浜中央線の件は運転士死亡、そのほか通り魔と暴行事件では容疑者が射殺された。それ以外は所轄が押さえている」

 

それを聞いた少佐は少しのあいだ考え込んでいたが、すぐに指示を出し始める。

 

「所轄には容疑者の情報をすぐに持ってこさせて。あと、事件時の監視カメラ等の映像を可能な限り集める必要もあるわね。イシカワとボーマに当たらせましょう。サイトーとパズは現時点で押さえた容疑者を所轄から移送。タチコマ2機を護衛につけるわ」

 

瞬時に課員たちに的確な指示を出していく少佐。相変わらず頼もしい限りであったが、課長として感心している暇はない。

 

「容疑者を移送するのか?どうするつもりだ?」

 

「これがもしウイルス感染によるものだったとしたら、初動対応が重要よ。下手に電脳を弄らせるより前に、警察病院などに送って痕跡を確かめた方が確実だわ。それに、時間が経てば感染源が突き止めづらくなる。なるべく急ぐ必要があるわね」

 

「分かった。所轄には連絡しておこう」

 

そこへ、再び後ろのドアが開くと息を切らせてトグサが駆け込んできた。締めていたはずのネクタイはなくなり、シャツもすっかり汚れてよれよれになっている。普通であれば、何があったのか問いただすような酷い身なりだった。

 

「遅いぞ。バス事件の詳細は洗えた?」

 

「ええ、何とか」

 

一度深く息を吸い込んで荒い呼吸を整えた彼は、すぐに報告を始める。実は彼はここに来る途中に、同時多発的に発生した事故の一つに遭遇していたのだった。幸い、彼と同乗していた彼の娘には怪我はなく、最終的に事故自体もトグサが運転手を制圧して抑えたものの、その被害は甚大なものだった。

 

すでに2人が心肺停止、1人が意識不明の重体となっている。また、重傷者も数人出ていた。現場の国道は封鎖され、いまは証拠品などの収集が行われている。

 

「運転していたのは新浜交通社員の石井という男で、バス運転歴は11年。前科はなし。事故を起こした357号車には、回送のため乗車していました。出勤時の様子をほかの社員に聞き取りしましたが、特に変わった様子はなかったそうで、営業所の防犯カメラの映像もそれを裏付けてます」

 

「なるほど。だけど、暴走時はまるで気が狂ったような有様だったそうね」

 

「はい。こちらの呼びかけにも一切応じず、まったく理性がない状態でした。制圧した後はずっと意識がなく、昏睡状態のままです」

 

それを聞いた少佐は軽く腕を組むと再び考え込んだ。事故時の状況があまりにも自分が昨日遭遇した航空機テロの機長と似ていたからだ。通報を受けている他の事件や事故なども、今の段階では発生時の詳細な情報は分からないものの、今回のバス運転手と同様の状況となっていた可能性が高いという。現場に最初に駆け付けた所轄から上がっている報告にも、似たようなものが出ていた。

 

発生時の状況が同じだとすれば、考えられる原因は一つしかない。ウイルスによる同時多発的な電脳汚染である。

 

しかし、電脳関連技術が普及して間もない黎明期であれば納得できるが、現在では技術も発達しておりそう簡単には電脳汚染は起こり得ない。セキュリティ対策ソフトも普及し、個人用の防壁ですらハッカーが易々と突破できる代物ではないのだ。

 

ウィザード級と呼ばれるほどの天才ハッカーが組み上げたウイルスだとすれば、不可能ではないだろう。だが、現時点での感染者は30人近くに上っている上、彼らの共通点はほぼ皆無に等しかった。それだけの不特定多数の人間に対し、どのようにして感染させたのだろうか。その感染源だけが気掛かりだった。

 

「とりあえず、事態に進展があったら連絡をお願い。私は機長の解析に戻るわ。トグサ、お前は少し休め、疲れがたまっているはずだ」

 

「了解しました、少佐」

 

オペレーターたちが絶えずキーボードのタイピング音を響かせる中、そう言うと少佐は静かに部屋を後にした。一方、トグサは溜め息をつくと軽く目を押さえる。無理もなかった。あの事故のあと、すぐに迎えに来た妻に娘を預けた彼は、事故の詳しい情報を所轄の捜査官たちから聞き出すと大急ぎでここに戻ってきたのだった。

 

休む暇は、まったくといっていいほどなかった。しかし、いくら人手が足りないとはいえ、疲労がたまっていては集中力が切れるし、何よりヒューマンエラーの元となる。それこそが、事件解決への手掛かりを見落としたり、命取りにも繋がりかねないのだ。

 

それらを心得ていたトグサは、彼女に言われた通り休むことにした。捜査資料や報告書を軽くまとめた彼は、欠伸をするとゆっくりと休憩室へと歩き出す。少しばかり仮眠を取ろうか。トグサは薄手の毛布を手に取ると、静かにソファに腰を下ろした。鉛のように重い瞼が閉じるのに、あまり時間は掛からなかった。

 




2018/10/4 一部修正


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第4話

「発生から12時間以上経過し、現場では事故車両の撤去作業が行われています」

 

アナウンサーの落ち着いた声とともに、映し出されるのはヘリコプターから撮られた映像だった。すっかり日が落ちて辺りには摩天楼の鮮やかな光が輝く中、強烈な白い作業灯の光が押し潰れ拉げている車両の凄惨な姿を容赦なく浮かび上がらせている。周りには鉄道会社の作業員が集まり、クレーンで事故車両を吊り上げようとしていた。

 

この事故では運転士を含む11人が死亡し、32人が重傷を負った。原因は信号無視で、運転士が停止信号を無視した結果、時速60キロを超えるスピードで安全側線に突っ込み、脱線して車体は横転。先頭車両は大きく逸れてコンクリート壁に激突し、大きな被害が出たのだった。

 

その他に発生した事件や事故で、今日一日だけで死者37人、重軽傷者計101人を出す大惨事となっていた。表向きは各事件の間の関連性については不明と発表されているが、市民の間では早くもそれを疑う声が出ている。正体不明のウイルスによる同時多発電脳汚染。既に一部ではそんな噂も出回り、政府はパニックを警戒してデマの封じ込めに躍起になっていた。

 

「まったく、これだけ派手に事を起こしても犯人側は音沙汰なしか」

 

バトーが険しい表情を浮かべながらそう言った。その低い声には悔しさがにじみ出ている。

 

「現時点で押さえた容疑者31名の電脳を調べたところ、何らかのウイルスに感染した痕跡があったらしい。だが、問題なのは全員の電脳に深刻な損傷があり、数名を除いてほぼ電脳死に近い状態ということだ。加えて。生き残った数名についても昏睡状態が続いている。そのため、ウイルスの詳細はおろか、感染源すら特定できていない」

 

「数名以外電脳死ですか?犯人は何を考えているんだ」

 

鑑識とともに容疑者の解析に当たっていたサイトーの報告に、トグサが声を上げた。ウイルスの感染元を隠すためとはいえ、このウイルスの作成者は平気で感染者の命を奪ったのだ。無関係の人々を操って極悪非道な犯罪を引き起こした上、道具のように使い捨てにして、市民たちの命を何だと思っているのか。命を軽視するにも程がある。そのことに、トグサは憤りを覚えずにはいられなかった。

 

「となると、昨日の航空機テロ事件と今回起こった一連のテロの犯人は同一人物である可能性が高いわね」

 

「何だと…。ってことはつまり、例の機長も同じ結果だったのか、少佐」

 

バトーが思わず声を上げる。少佐が制圧した航空機テロの犯人。薄々思ってはいたものの、まさか今回のテロの犯人たちの状況と一致しているとは、正直驚きだったのだ。

 

「ええ。調べたけど、彼も電脳内に著しい損傷があったわ。まるで、虫食いにでもあったかのような酷い有様。ウイルスの痕跡は跡形もなかったわ。これは、地道に探っていくしか方法はないわね」

 

「だが今のところ、容疑者同士の共通点は見つかっていない。若者が多いこと以外は職業もバラバラで、インストールしていた基本OSやセキュリティ・ソフトも違う。ハードウェアに至っても、複数社のものを使っていてまったく同じような点は見受けられないな」

 

サイトーとともに解析に参加していたパズの報告に、バトーが低く唸った。ソフトやハードに共通点があれば、何らかの脆弱性を狙った攻撃だと予想できる。ソフトならばゼロデイ攻撃と呼ばれる発見されていない未知のセキュリティホールの悪用、ハードならばドライバやファームウェアの更新を利用した内部犯の可能性など、かなり絞り込めて来るはずだった。

 

だが、それらの共通点が一切ない以上、絞り込める条件はないに等しかった。感染源が分からなければ、感染者も特定できない。今日事件や事故を起こした人々で全てなのか、それともまだ大多数が潜伏状態のまま日常生活を送っているのか。それすらも分からない今の状況では、被害を食い止めるのは至難の業だ。

 

「唯一の共通点が電脳死か。症状の方はどう?」

 

「少佐の読み通り、感染時の行動パターンはほぼ同一だった。感染者は理性を失い、凶暴化して辺りの人間を手当たり次第に襲っている。出会った人間に対し著しい敵意を植え付ける疑似記憶に絡んだタイプのウイルスだな」

 

少佐に対しそう報告するイシカワ。彼とボーマは今日一日、本部で事件発生時の監視カメラ映像を集め、行動パターンを解析してもらっていたのだ。

 

「職業以外での繋がりは?スポーツ、趣味、なんでもいい」

 

「今のところ、そこまでの調べはついてない。所轄にも手を回して調べさせるが、詳細が手に入るのは明日の昼以降になりそうだな」

 

もしそこで何らかのつながりが見えてくれば、一気に事態は進展するだろう。だが、何も手掛かりを得られなかったときは、捜査は振り出しに戻ってしまう。

 

「とにかく、一刻も早く感染源を突き止めること。それが最も重要だ。何としてでも、これ以上の被害は出すな。いいな」

 

課長の声にも、ピリピリとした緊張感が漂っていた。今日の夕方、直々に電警を含めた関係諸機関の責任者が官邸に呼び出され、国家の威信にかけてでも必ず犯人を突き止めるように命令が出ていたからだ。課長もそれに呼び出され、今回のテロを未然に防げなかったことを叱責されたという。

 

今のところは封じ込めつつあるデマも、次に何か事件が起これば瞬く間に拡散しかねない。市民の間にいつ感染が起こるかも分からない恐怖を抱かせ、疑心暗鬼に陥らせてしまえばそれこそパニックが起こり、経済活動を中心に大きな打撃を受けるのは目に見えているからだ。既に株式市場では、先を読んだ投資家たちにより電脳技術関連の銘柄を中心に株を売却する動きが出ているという。

 

「イシカワとボーマは明日も引き続き本部で情報収集に当たれ。残ったメンバーは容疑者たちの関係先を洗うこと。リストは転送するから、各自ツーマンセルで仕事に掛かれ」

 

「了解」

 

そう答えた課員たちは、すぐに動き始めた。

 

 

 

 

 

小雪が舞う北の空には三日月が輝き、凍り付いた白い大地を薄明るく照らす。雪の積もったエゾマツの木々は、氷点下の寒さに耐え忍びながら風に枝を揺らしていた。周囲には風音のみが響き渡り、ほとんど静寂が包んでいる。

 

突如、それを打ち破るエンジンの唸り。山林を切り開いた造られた道路を疾走するのは、2台のバンとトラックだった。トラックの後輪にはタイヤチェーンが装着され、圧雪アイスバーンの路面を甲高い音を立てながら削り取っていた。やがて緩やかなカーブを曲がり、夜間発光式スノーポールの光る直線道路を進んでいくと、大きく開けた田園地帯に出る。もっとも、一面雪景色で畑と畑の境界は埋まり、白一色の大地と化していたが。

 

しばらく道なりに進んだその車列は、一列に並んだ鋼鉄製の防雪柵を通過すると間もなく減速し、右折していく。

 

季節も季節であるため、夏であればはっきりと分かるあぜ道も、雪に閉ざされた今ではほかの路外と区別がつかなかった。だが、その車列は一切惑うことなく、雪の積もった道を突き進んでいく。

 

マフラーからもうもうと白煙を噴き出し、あぜ道を進むこと5分あまり。いつの間にか田園を走っていたはずの車列は森の中に入り、さらに奥へと進んでいく。木々の合間を縫うように通る山道を手慣れた様子で運転し、急なカーブにも全く動じずにハンドルを切る。

 

ようやく見えてきた電灯の明かり。一見すると山の中にぽつりと佇む集落に近いが、一つ異なるのはその中に住宅の類が見られないことだった。道路の左右には細長い平屋建ての建物がいくつかと、シャッターが閉まったガレージのような小屋が5、6棟ほど。そして、車の向かう先には3階建ての鉄筋コンクリート造りの大きな建物が聳えていた。

 

車列は間もなく止まり、数人が車から降りてくる。同時に、建物の方からも何人かが姿を現した。

 

「ご苦労ご苦労。目当ての代物は手に入ったかね?」

 

「ああ。海の底で5年は眠かされてたビンテージものだ。クジラの腹を破るのには苦労したぜ」

 

肩まで伸びた長い髪に古臭い丸形メガネが印象的な小柄な男に、運転席から降りた男が歯を見せながら言った。彼の顔面には額から頬に掛けて、右目を掠める様に生々しい古傷が残されている。そして、その厳つい外見の通り、偽装のためボーダー柄の宅配便業者の制服を着てはいたが、懐には自動拳銃とテーザーガンを隠し持ち、さらに義体もほぼ軍用レベルの違法品で武装していた。

 

トラックから降りたほかの男たちに彼が軽く手でサインを出すと、荷台の扉が開いて中から白い箱が運び出された。泥やフジツボはまだこびり付いたままだが、繊維強化プラスチック製の専用コンテナに書かれたキリル文字はまだ辛うじて読み取ることができる。

 

「ほお。まさか本当に現物を拝むことができるとはね…。実に信じがたいことだ」

 

興奮を隠しきれない様子でコンテナに近づいた眼鏡の男は、いきなりそれに手を当ててしゃがみ込むと、舐め回すかのような視線でじっくりと見つめ始める。その様子にまったく構うことなく、男は口を開いた。

 

「これでとりあえずは第1段階は完了したな。そっちはどうだ?」

 

そう訊かれた眼鏡男。なおもコンテナをじっくりと見つめ、熱心な視線を向けながら答える。

 

「作戦はほぼ計画通り成功した。初日の飛行機だけ墜ちなかったのが、ちと悔しいがな。まあ、目標値も達成したし、奴らへの良い餌にもなっただろう」

 

ようやく一通りの確認を終えた眼鏡の男は、「よろしい」とだけ言うと周りの男たちにコンテナを再び運ばせ、建物の中へと搬入させる。常に周りにはAK-74Mで武装した要員4名が警戒にあたっている上、建物の上には狙撃手がつくなど、隙のない警備体制を築いていた。

 

「ウォッカで祝杯でも上げたいところだが、あいにくこいつの解析があるしなぁ」

 

「別にいいだろうよ。アルコール分解プラントですぐシラフに戻れるさ。付き合うぜ」

 

「そういう問題ではないのだよ。まあ、こいつを意地に掛けて使えるようにしたら、盛大にやることにするよ」

 

そう言うと眼鏡男は咳払いをし、体に付いた雪をいかにも神経質に払うと運ばれるコンテナの後を追って建物の中へと入っていく。一方、筋肉質の男はしばらくの間その場に佇み、ぼんやりと空に浮かぶ三日月を見つめていたが、粗方の搬入作業が終わると部下に車両を任せて同じく建物の中に入った。

 

出入り口の正面には顎髭を蓄えた教祖の写真と神を描いた宗教画が一枚。通りかかる者はみな、手を合わせたのちにかがみ込み、必ず頭を床につけて拝んでいる。そして、彼も例外なくかがみ込むと、頭を床について祈りを捧げた。もちろん、彼は本気で信仰しているわけではない。自らの目的を果たすため、利用しているに過ぎないのだ。

 

それは先ほどの眼鏡男にも当てはまる。自分はこの組織の首領の用心棒、あの男は科学技術担当のリーダーという役割を負っていた。その立場を利用すれば、組織の武力と資金を操るのは難しくはないのだ。

 

祈りを終えた彼は、幾何学的な模様が描かれた最初の通路を抜け、階段を下りる。しかし、通路はなおもひたすら続いていた。さながら迷路のようなつくりで、壁や扉に至るまで全てのものが画一的である。振り返って見える景色と正面に広がるそれにも全く差異はなく、ひとたび道を見失えばここに精通した人間でも迷うほどだ。

 

しかし、彼は歩みを止めることなく進んでいく。何度も通路を曲がるうちに、同じところを回っているかのような錯覚を覚えるが、それも巧妙な視覚偽装によるもので所詮は錯覚に過ぎない。やがて行き止まりに当たるものの、彼は臆することなく壁に向かって突き進んだ。

 

あろうことか、彼が壁にぶつかることはなかった。吸い込まれたというよりは、すり抜けたといった方が正しいだろう。彼の体はそのまま、壁の奥へと姿を消してしまったのだ。

 

「導師様、“ジラントの牙”は手に入れました。我らが計画は順調に進んでおります」

 

間もなくひざまずいた彼の目の前には、1人の男が座っていた。いかにも胡散臭い、怪しげな宗教指導者というよりは、わりあい真面目で僧侶に近いような雰囲気もある。しかし、一見温厚そうに見える表情とは裏腹に、何を考えているのか分からない様な不気味さも滲み出ていた。相手はしばらく落ち着いた目でじっと彼を見つめると、静かに口を開く。

 

「ご苦労だった。例のウイルスは?」

 

「最終試験は終わりました。ほぼ目標値を満たしています」

 

「そうか」

 

その報告に頷く男。ウイルスというのは、あの眼鏡男が開発した代物だ。人間の記憶に干渉し、敵意を植え付けて暴力を誘発させる。新浜で多発した数々の事件・事故、あれは全て我々がばら撒いたウイルスが原因で間違いはない。もっとも、本当の目的はあの程度のものではないが。

 

彼は表情を変えず、固く引き締まった面持ちのまま話を続ける。

 

「そろそろ公安が嗅ぎ付け始めていますが、対応措置は既に完了しております。電警についても、手は回しているので問題はありません」

 

「分かった。これからもよろしく頼むぞ」

 

「有り難きお言葉。謹んでお受けいたします」

 

深々と一礼した彼は、静かに部屋を後にする。同時にドアが閉じられ、隠し通路は塞がれて今度は本当の壁になった。立ち止まった彼は、思わずにやりとほくそ笑む。

 

計画は順調だった。ここまで来るのにどれほど長い道のりだったか。しかし、規則正しく時を刻む時計の秒針よろしく、作戦は一切の遅滞なく進んでいる。全ては復讐のために。あの日起きた出来事と、その後のあまりに理不尽で惨い仕打ち。それを思うと、今でも怒りで握りしめた拳が震えるほどだった。

 

(この国の指導者に、同じ苦しみを味合わせてやる)

 

心に滲む深い憎しみと憎悪。しかし、彼はその感情に飲み込まれ、我を失わない冷静さも持ち合わせていた。一歩ずつ着実に、この国には終わりが近づいている。その事を深く噛み締めた彼は大きな満足感を覚えていたが、同時に緊張も感じていた。

 

あの男、導師にも話した通り、新浜であれだけ派手に事を起こせば公安が動き出すのは必至だろう。おそらくは明日中には感染源を嗅ぎ付け、ウイルスの出所を突き止めようとするはずだ。だが、自分たちにしろ何の目的もなくリスクを冒すような行動は起こさない。ましてや、最初からテロ目的であのような事件などを起こしているわけではないのだ。

 

これは戦争だった。どんな形であれ、敵の交戦能力を削ぐことは重要目標の一つである。それが日本の誇る特別捜査機関や特殊部隊であれば、なおさらだった。ここで敵戦力を一気に無力化すれば、我々が勝利する日もそう遠くない。

 

「明日で大勢が決するか…。こっちが上手か向こうが上手か、見ものだな」

 

そうつぶやいた彼は再び歩き出し、暗い通路の奥へと消えていった。

 




2018/10/4 一部修正

今回から用語その他について軽めの解説をつけることにしました。
大したことは書いてないんで、すっ飛ばして構いません。
また、ここが分からないというのがありましたら、コメント等頂けると解説載せるかもしれません(もちろん、ネタバレしない範囲で)





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第5話

「この度は、ご協力ありがとうございました」

 

古びたアパートを出たトグサは、外階段を下りると急いで車のもとへと駆けていった。運転席ではバトーがやや待ちくたびれたような様子で、背もたれに寄りかかっている。周りには低層アパートや住宅が広がり、遠くに見える新浜中心部の摩天楼は太陽の光を受けて銀の柱の如く輝いていた。

 

「旦那、やはりここもビンゴでした」

 

「案の定といったところか。そんなところだろうとは、薄々察してたんだ」

 

ドアを開けて乗り込んできたトグサは、真っ先にそう報告する。彼が訪れていたのは、まさに昨日、彼自身が巻き込まれたバス暴走事件の容疑者の自宅だった。同居していた家族は年老いた母ひとりで、もう5年は2人だけの暮らしを続けているらしい。そのため、耳の遠い老婆相手の聞き取りに、トグサも相当悪戦苦闘させられたようだったが。

 

彼らが聞き取りに回っているのは、他でもなかった。昨日、新浜市内で多発した数々の暴力事件や交通事故。同時多発的に発生したことや、事件の状況がおとといの航空機テロのものと類似していることから、少佐は初期段階から原因がウイルスだと踏み、9課総出でその感染源を調べていたのだ。

 

その結果、少しずつではあるが興味深いことが分かってきていた。事件や事故を起こした34名は職業などにあまり関連性は見られないものの、男性、それも若者が多い傾向があったのだ。また、昨日までの捜査ではスポーツや趣味などでも繋がりは全く見られなかったが、ここに来て一つだけ共通点が見えてきたのだった。

 

身柄を確保された31人中、現在確認できている少なくとも16人が仮想現実、つまりはバーチャルリアリティ中でプレイするゲームに熱中していたというのだ。電脳技術が発達した現在では、ネット空間にダイブすることでバーチャルといってもほぼ現実と区別できないほどリアルなゲームも開発されている。一部では引きこもりを助長しているという声もあるが、市場規模はアダルトソフトも含めると3兆円をゆうに超える規模で、今も成長著しい産業であった。

 

捜査の結果、その16人が当時よく遊んでいたゲームのタイトルが一致していたのである。そのことから、このゲームが感染源になっていた可能性が濃厚だった。手口としては、ゲームサーバーに不正アクセスしてデータを書き換え、ウイルス入りのファイルをプレイヤーに送っていたというのが考えられる。過去にも同様の手口でウイルス感染被害が出る事件が複数起こっていたからだ。今はまだ調べのついていない残る15人についても、おそらく同じ結果が出る可能性が高いだろう。

 

「職業はともかく、OSやハードウェアにも共通点がない。そうなってくると、繋がってきそうなのはある特定のアクセスポイントを使っていたか、共通のアプリケーションを入れていたかに絞られてくる。アクセスポイントの方は31人の居住地や勤務先を見てもまずあり得ねえだろうから、アプリの線を辿れば見えてくると思っていたぜ」

 

「なるほど。それで、旦那は犯人はどんな奴だと?」

 

「これだけじゃ分からねえが、一つ言えるのがそれなりに腕には自信のある奴だろうな。防壁の張られたゲームの情報を書き換え、不特定多数の人間に感染させる。そんなことなんざ、並みのハッカーにできる仕事じゃねえ」

 

「そうか…」

 

それを聞いたトグサは考えを巡らせる。それほどのハッカーがいったい何のために、一般市民をウイルスに感染させて事件を起こさせるという凶行に及んだのか。その動機がどうしても、理解できなかったのだ。

 

もちろん、犯人が今の日本社会に不満があったり、過激な原理主義に傾倒していたのだとすれば分からないことではない。だが、そこまで技術があるハッカーならば、より効果的な攻撃目標がいくらでもあるはずなのだ。なのに、そこであえて市民を狙ったということは、その行為自体に犯人たちの主義主張に通じる何らかの意味があるとしか思えなかった。

 

「一応、少佐にも連絡つけて指示を仰いどけ。連中がいつ次の攻撃に及ぶかわからない以上、こっちも可能性のあるものはすぐ潰さねえとまずいからな」

 

バトーがエンジンを掛け、アクセルを軽く踏んで吹かしながらそう言った。確かにその通りだった。昨日の容疑者が感染者全員であるとは限らない上、感染源も野放しにされている今の状況ではいつ被害が出てもおかしくない。それに、再びこのような惨事が起これば市民の間にいたずらに恐怖だけが広がるのは目に見えているのだ。

 

すぐに少佐に電通を繋げたトグサ。彼女も掛けてくることを予想していたのか、こちらが口を開くより先に訊いてくる。

 

《例のバス運転手の事ね?》

 

《ええ、少佐。こちらも当たりでしたよ。彼も例のゲームに熱中している一人でした》

 

《思った通りね。これで、こっちで掴んでいるのも入れて18人か…》

 

人数が増えているということは、自分が聞き取りを行っている間にも容疑者の中で当てはまる者が出たのだろう。少佐はそのまま考え込むように少しの間だけ沈黙していたが、やがて強い口調で指示を出した。

 

《よし、お前たちは今すぐそのゲームの運営会社に向かい、データが書き換えられた痕跡がないか調べろ。課長には私から言っておく》

 

案の定、少佐はそう言ってくれた。いまの状況を考えれば妥当な判断だが、自分が本庁勤めだった時には考えられないことだった。何をするにも、まずは上と掛け合って許可を取り付けなくてはならない。もちろん、確固たる裏付けがなければ門前払いされてしまうのだ。

 

しかし、カウンターテロ部隊たる9課では違う。テロを未然に防ぐことを最優先目標に、あらゆる特務権限が与えられているのだ。本庁勤めだったころに感じていた歯がゆい思いはしなくて済むが、その分責任も大きかった。自分たちが、テロを防ぐための最後の砦なのだから。

 

《了解しました。すぐに向かいます》

 

しかし、そう言って電通を切ろうとしたときだった。重く真面目な声を上げ、少佐が呼び止めてきた。

 

《トグサ。一つ言っておくが、無理はするな。サーバー内にトラップが仕掛けられている可能性もある。書き換えられたデータを見つけても、該当箇所に潜るのは私が来るまで待て。それに…》

 

《何ですか?少佐》

 

《なんとなく、嫌な予感がするのよ。これも、ゴーストの囁きというのかしらね》

 

その言葉を聞いたトグサは、思わず息を呑んだ。彼女の直感とも言うべきゴーストの囁きには、自分も何度も助けられている。その彼女はここまで言うということは、何か複雑で不安な要素があるのかもしれない。

 

《分かりました、少佐》

 

彼はそう答えると、電通を切った。会話を同じく聞いていたバトーは間もなく車を発進させ、電脳内でゲーム運営会社へのルートを検索する。調べてみるとオフィスは新浜中心部に位置しているらしく、ここからは幹線道路を使って車で30分ほどだった。

 

雄叫びを上げるかのようなエンジンの唸り。バトーはスピードを上げ、右へ左へ次々とハンドルを切って一般車を追い越し、目的地へ向かう。その間にトグサは目的のゲーム運営会社について、集められる限りの情報をネットから収集していく。

 

(社名ガイア・アーツ。米帝テキサス州に本社を置くコンピュータゲーム開発会社。逸早く電脳関連技術をゲームに応用し、戦後の混乱期を生き残った数少ないメーカーの一つ。現在も人気タイトルを多数所有し、売り上げは30億ドル超か)

 

厄介な相手だった。普通の外国企業の相手でさえ、外交問題にも繋がりかねないことから慎重にならざるを得ないのに、よりにもよって米帝の企業が相手になるとは。しかも、ガイア・アーツは米帝陸軍やCIAと通じているともいわれている。ゲームで培ったシミュレーション技術を訓練に使用したり、疑似体験や疑似記憶に関する研究をDARPAことアメリカ高等研究計画局の支援を受けて進めているらしいのだ。また、海外における工作活動のため、秘密裏にプレイヤーの情報収集を行っているとの噂もあった。

 

事が大きくなれば、政府に米帝から圧力が来るのは確実だろう。そうなれば9課といえども、自由に活動できる保証はない。そのため、ここはできる限り早いうちに穏便に進めるしかなさそうだった。

 

《トグサくん、ゲームについてもあらかた調べ終わりました!》

 

突然、頭の中に響いてきたのはタチコマの声だった。彼らには自分が運営会社自体を調べている間、同時並行で問題のゲームの詳細について調べてもらっていたのだ。

 

《タイトルはフロント・ライン3。典型的なFPSですね。国内での登録プレイヤー数は10万人近く。何でも、多脚戦車から対戦車ヘリ、戦闘機など多種多様な乗り物が操縦できるのが売りみたいですよ》

 

《で、押さえた容疑者たちはゲーム内ではどういう繋がりだったんだ?》

 

《調べたら、ほとんどの容疑者が同じクランに入ってました》

 

《クランってのはなんだ?グループみたいなものか?》

 

《まあ、だいたいそういうものです。いわばチームみたいなものですね。容疑者たちはよく、仲間うちで集まって一緒にプレイしていたみたいです》

 

ようやく共通点が見えてきた。同じゲームをプレイする仲間同士。年齢も職業も違う一見すると何らかかわりもないような人々が、ネットの世界では深い繋がりを持っていたのだ。ここまで線がつながってくれば、感染源はほぼゲーム内と考えて確実そうだ。それに、ウイルスを撒いた容疑者も絞り込まれる。

 

最も怪しいのは同じクラン内のメンバーたちだった。データを回してもらってみたところ人数は100人を超えていたが、調べられない数ではない。さらにその中でウイルスを開発できそうな技術がある者や、過去の前科から絞り込んでいけばもっと数は減らせるだろう。あとはローラー作戦で地道に潰していけば勝機はある。

 

《システムはどういう仕組みだ?》

 

《分散型ですね。最大128人が同時プレイ可能なサーバーを複数用意し、プレイヤー側が好きなサーバーにアクセスする仕組みです。サーバー自体もプレイヤー側のレンタル運営が可能で、アイテムや経験値などのデータだけをガイア・アーツ側のサーバーで管理しているみたいです》

 

ということは、プレイヤーが主に接続するのはそれら個々のサーバーという事になってくる。感染の広がりから考えても、明らかにガイア側のサーバーではなくゲームサーバーが汚染されたと考えた方が妥当だろう。

 

《ほかには何か掴めたか?》

 

《いえ、だいたいこんなところです。まあ、強いて言うなら、防壁がやたら固かったことですかね~。こんなに意地悪なシステムは初めてですよ!まったく》

 

不機嫌に愚痴をこぼすタチコマ。おそらくは一般公開されていない内部機密にもアクセスしようとして、ことごとく弾かれてしまったのだろう。何せ米帝の企業だから、どんな秘密を抱えているかも定かではない。

 

そうして話しているうちに、車は目的のオフィスに到着しようとしていた。ガイア・アーツが入っているのは、新浜の中でもかなりの存在感を放つ地上350メートルの超高層ビル、メトロポリタン・サンシャインだった。その地下の広大な駐車場に車を停めた2人は、エレベーターに乗って一気にオフィスのある43階に上がる。

 

ドアが開くと目に入ってきたのは、『GA』と書かれた大きなロゴ。受付に座っているのはいずれも女性型アンドロイドだったが、髪の艶や顔立ちを見ただけで一目で高級品だと分かるものだった。来客に気づいたアンドロイドは、愛想のある笑みを浮かべると丁寧に頭を下げる。動作一つ一つとっても、気高さを保ち気品に満ち溢れていた。

 

「連絡を入れた公安の者だ」

 

「かしこまりました。ただいま担当者が参りますので、今しばらくお待ちください」

 

無骨にそう言ったバトーにもアンドロイドは嫌味な顔ひとつせず、先ほどと変わらない美し過ぎる笑顔を浮かべてそう言った。こういうわけだから、アンドロイドで性欲を満たす男も出てくるのだろう。そう、トグサは内心で薄々と納得する。

 

「お待たせして申し訳ありません。私が総務部の佐藤です」

 

姿を現したのは30代半ばの痩せ型の男だった。身長が高くバトーにも近いが、肉付きは少なくひょろっと伸びていて、脚もかなり長い。白人とのハーフなのか瞳の色は透き通るように青く、髪色も明るいブラウンだった。

 

彼は白いシャツに紺色のスーツのジャケットを羽織っていたが、ネクタイは締めていなかった。通りかかる他の社員を見てもどこかカジュアルな雰囲気を感じる服装で、おそらくは日本企業ほど、服装に関する規定は厳しくないのだろう。

 

そのまま奥へと案内された2人は、突き当りにある応接室へ入る。部屋の調度品は整っていたものの、新品かクリーニング後のような、独特の匂いが微かに感じられる。この部屋自体、あまり使われていないのかもしれない。それでも、掃除は行き届いていて埃一つなく、下がっているブラインドの隙間からは新浜市街が一望できる。

 

「それで、本日はどのようなご用件でしょうか。事件捜査というお話は伺ってはおりますが…」

 

革張りのソファに座った彼らに、接待用のアンドロイドがお茶を出す中、佐藤が言った。それに対して、トグサが軽く咳払いした後、静かに話し始める。

 

「ええ。単刀直入で申し訳ないのですが、昨日、新浜市内で事件事故が多発したのはご存知ですよね。我々公安ではウイルスによる電脳汚染という線で、捜査を進めていました。その結果、いずれの容疑者も御社のゲームをプレイしていたという事が判明しましたので、こちらにお伺いさせていただいたというわけです」

 

「なるほど。つまり、わが社のゲームがそのウイルスの感染元だと、疑っていらっしゃるということですね?」

 

表情を変えないままそう返す佐藤。しかし、語気には明らかに人を蔑むような態度が感じられる。トグサは一切動じず、再び口を開いた。

 

「はい。つきましては、御社のログインサーバーに保管されていますプレイヤーの接続履歴、およびゲームサーバーにおけるウイルスチェックにご協力お願いいたします。また、公安当局として、安全が確認されるまでの間のサービス停止を要請します」

 

真剣な面持ちでそう話すトグサ。佐藤は無言のまま腕を組むと、皮肉交じりの笑みを見せて答える。

 

「申し訳ありませんが、ご希望に沿うことはできません。令状などの法的根拠がない上、あなた方には証拠もない。接続履歴に関しましては正当な手続きを経て、日本の公安当局からの正式な要請であることが確認できましたら、開示することは可能です。ですがそれ以外に関しては、偶然容疑者たちがわが社のゲームをプレイしていただけに過ぎない可能性もある以上、こちらとして特に対応する予定はございません」

 

そう返されると、もはや言い返す言葉はなかった。さすがは米帝の企業といったところだろう。拘束力のないものには一切応じず、自分たちの権益は何としてでも死守する。おそらく、令状など法的拘束力のある命令が出ても、何かしらにいちゃもんをつけて捜査を回避しようとするかもしれない。それだけ連中は、日本の警察組織を信用していないのだ。

 

悔しさこみ上げてくるが、同時に彼の言っていることが正しいのもまた事実だった。確かに、今の段階では状況証拠に過ぎず、単なる偶然という線も否定できないからだ。

 

「それに、ウイルス感染を疑っているようですが、我が社のゲームサーバーには常に自己診断プログラムを走らせているので、プログラムの改変があった時点で即座に把握できます。たとえ、プレイヤー側のサーバー管理者だろうと、下手にゲームプログラムを改変しようとしたらすぐにアカウントを凍結しますし」

 

自信に満ちた佐藤の言葉に、ここに来てトグサが反論する。

 

「その自己診断プログラム自体が掌握されている可能性は?以前にも、四葉銀行の基幹システムが同様のウイルス感染被害にあった事例が報告されていますが」

 

「我が社のセキュリティに問題はありません。それに、四葉銀行の件は管理体制に問題があったということも聞いています。何でも、規定違反が頻発していた上、防壁プログラムの更新も直ちに行っていなかったことですし。情報セキュリティに対する認識の甘いのは、この国の方ですよ。まあ、とにかく、あなた方に心配される筋合いはない、とだけ言っておきましょうか」

 

憤りと無力感が広がり、無意識に机の陰で拳を握っていた。あまりにも自分たちを見下す態度に、トグサははらわたが煮えくり返るような思いだったのだ。そんな彼の様子に気づいたバトーは、ぽんとその肩を手で叩くと、相手に一礼しながら言った。

 

「…用は済んだ、行くぞ」

 

促されるままに席を立つトグサ。どうして旦那はこうも素直に割り切ってしまえるのか。自分なんて、相手に殴りかかりたいとさえ思っているほどなのに。

 

そんな疑問が浮かんでくる中、バトーに引っ張られるような形で部屋を出ると、後はそのままエレベーターまで直行した。籠が到着するまでの時間が嫌に長く感じる。ようやく乗り込んで扉が閉まった途端、ため込んでいたものが一気に噴き出してきた。

 

「旦那は何であのまま引き下がれるんだ?このまま手をこまねいていたら、また第2、第3の被害が出るのに…。それでいいのかよ?」

 

強い口調でそう訊くトグサ。バトーを見つめるその眼は、真剣そのものだった。

 

「まだお前も新人だな。動かねえもんはテコでも動かねえんだ。どうしても動かないときは、待つなり諦めなりすることも時には必要だぜ」

 

バトーは興奮するトグサをややからかいながらも、なだめる様にそう答えた。それを聞いてもなおトグサは納得できないのか、「そうはいっても…」と小言で漏らしている。

 

そんな様子を見ながら、バトーは気づかれない程度に軽く笑った。

 

(諦めるといっても、あくまで正規の手段での話だけだがな)

 




2018/10/4 一部修正


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第6話

漆黒の空間に浮かび上がるインターフェイスの数々。赤橙色に輝くそれらを数え切れないほどの青白い光が網目のように結び合わせ、人間の脳では到底処理できないような凄まじい量の情報が超高速でやり取りされている。全てが符号化され、記号情報として表現されたこの世界は、つい数十年前までは関わることはできても人間には知覚できない、まさに未知の世界だった。

 

白い光が集まり、やがて形を変えたそれから腕や脚が伸びていく。周りに展開された防壁アレイはしきりに点滅し、この世界に潜み、そして襲い掛かる容赦ない攻撃から彼女を守っていた。光が収まると、赤みがかったブラウンの髪を持つ女性アバターが姿を現す。少佐に似た面影を持つそれは、クロマと呼ばれ、彼女が電脳空間内で工作活動をするときによく使う仮の体だった。

 

「タチコマ」

 

彼女がそうつぶやくと、同時に周りに光が集まる。瞬く間に流れ込むデータの流れが輪郭を形作り、ロードが完了すると、見慣れた姿の青い思考戦車が現れた。

 

「お待たせしました、少佐!」

 

3体のタチコマが、彼女の前後を固めるようにフォーメーションを組む。展開された攻性防壁や防壁迷路アレイがタチコマの周りに表示され、各種設定値が瞬時にロードされていく。最後にあらかじめダウンロードしたシステム構成情報をもとにウイルスアレイを展開すると、準備は整った。

 

「よし、行くぞ」

 

一瞬にして目標座標に転移した彼ら。今回の標的は、米帝のゲーム会社ガイア・アーツのプレイヤー情報を一括管理するデータベースサーバーと、ゲーム処理を行うゲームサーバーだった。まずはデータベースをこじ開けて事件を起こした容疑者が過去に遊んでいたゲームサーバーを特定し、一気にサーバー内をスキャンして感染源を突き止める作戦だ。

 

何故、彼女がここまで迅速に動けたか。実のところ、彼女は最初から相手が捜査に協力しない可能性があると、薄々予想していたからだった。そのため、トグサに連絡を入れるのと同時に、少佐は電脳空間内での工作の準備をし、課長とも掛け合っていたのである。おかげでそれなりに下調べもつき、データベースサーバーの突破にあまり時間は掛からないだろうと予想されていた。

 

「アレイ8基で高度戦闘態勢セットアップ。デコイには処理負荷最大の迷路を3重設定」

 

「敵の防壁のゲートアレイ確認!」

 

「ウイルス注入開始」

 

サーバーに取り付いたタチコマ2体が、ゲートアレイにウイルスを流し込んで文字化けさせていく。凄まじい速さで1次防壁の一部が切り崩されると、その隙間から少佐たちは中へと突入する。

 

目的のデータは第2層にあった。タチコマが2次防壁のゲートアレイに取り付いて、再びウイルスを注入していく。同時にもう1体が偽装・攪乱用ウイルスをばら撒き、第1層内を制圧するとともに、トラップを仕掛ける。

 

「ウイルスアレイ搭載の全追尾地雷アクティブ!」

 

「攻性防壁全種作動!機能衝突ありません」

 

ここまでは順調だった。防壁自体も、機密情報にアクセスするわけではないのでそれほど分厚くはなく、上場企業程度のレベルで侵入には特に問題はない。しかし、一つ注意しなければならないのが痕跡を残さないということだった。何せデータベースサーバーは米帝の本社に置かれているため、下手をすればFBIが動き、米帝政府から追及を受けてしまう。そうなれば確実に政治問題に発展する恐れがあった。

 

「2次防壁突破率67パーセント。突破まではあと5秒です」

 

目の前のゲートは既に判読不能なほどに文字化けし、記号情報をまき散らして崩れていく。ゲートがこじ開けられると、真っ先に少佐が突入してウイルスをばら撒き、侵入検知プログラムを無力化して第2層内を沈黙させた。続いてタチコマが複数のデコイを展開し、自分たちの存在位置を欺瞞する。

 

「準備完了しました、少佐」

 

「容疑者の登録情報からユーザー名を割り出し、すぐに照合を掛けろ。過去3か月分から優先的に解析し、サービス開始時まで順に接続履歴を遡っていけ。いいな」

 

そう指示を出す少佐。ここまで高度なウイルスを作り上げた犯人の技量を考えると、感染時期は1、2週間前程度では済まないだろう。良くて3か月から半年、悪くて1年近く。潜伏期間を開ければ開けるほど、蓄積されたログが消去されて痕跡が見つけづらくなるからだ。

 

「全員のユーザー名を特定。照合に入ります」

 

「管理室アラート発報。侵入がバレたみたいです!」

 

タチコマの報告に思わず舌打ちする彼女。

 

思ったよりも早かった。ユーザー情報にアクセスするときも、アドレスを偽装して単一ではなく複数アクセスだと見せかけたのに、この段階で察知されてしまうとは。少佐はすぐに攻性防壁を展開しようとするが、インターフェイスに表示されたデータを見て、その手を止めた。

 

「これは別の相手か。こんな時にかち合うとは、運が良いのか悪いのか…」

 

どうやら侵入に気づかれたのは自分たちではなく、ほぼ同時に侵入していた別の勢力だったようだ。しかも、彼らは本丸の機密データが保管されているサーバーに攻撃を仕掛けているようで、管理室の人間の注意も完全にそちら側に向かったらしかった。こちらとしては願ってもないことだったが、あまり派手にやられると回線や中継器を切られてしまうので、同時に迷惑な話でもある。

 

攻性防壁で保護された機密を躊躇いもなく狙うところを見ると、それなりに資金力のある国際的なハッカー組織だろう。盗み取った情報をほかの国家に売って、莫大な富を狙っているのかもしれない。また、可能性は低いものの中国軍が一枚噛んでいることも考えられる。だが、今日の目的はハッカーの検挙ではなく、ウイルス事件の捜査にあるのだ。

 

「タチコマ、どうだ」

 

「照合78パーセントまで完了、あと少しです」

 

進捗表示を見ながら、タチコマがそう報告した。あと何秒かで照合作業は終わる。このままいけば、米帝側には何も気づかれずに終えられそうだが、油断はできない。少佐はばら撒いていたデコイやウイルスの状態を確認する。幸いなことに、これらにも特に問題はないようだ。

 

「少佐、照合完了しました!」

 

タチコマがそう言った時だった。一筋の光が、作業を終えたばかりのタチコマに突っ込んだ。鋭い悲鳴が上がるが、あらかじめ張り巡らせた防壁が辛うじて攻撃を防ぎ、タチコマ自身は無傷で済む。

 

「タチコマ、大丈夫か!?」

 

「ひええ…、なんとか大丈夫です!」

 

震え気味にタチコマが答えた。最後の最後で侵入に気づかれてしまったようだが、既に目的の情報は得られている。少佐は階層内にばら撒いていたウイルスを即座に起動させ、相手をかく乱させると、その隙を突いて一気にサーバーから脱出した。攻撃を受けてから1秒も経っていない、あまりの早業だった。

 

相手は何者かが侵入していたことは気づいただろうが、どこからの攻撃か特定することはできないだろう。あらかじめ放っておいたウイルスがログを書き換えて接続履歴を消し、復元したとしても偽のアドレス情報を仕込んである。ウイルス自身も作業を終えると跡形もなく自己消滅するタイプなので、証拠は何も残らない。

 

これでひとまず、第一段階は終了した。あと片づけなければならないのは、ウイルスの感染元となっている恐れのあるゲームサーバーだ。

 

「照合した結果はどうだ?」

 

「特定できました。日本国内のサーバーです」

 

タチコマから受け取ったデータを見ると、確かに容疑者の内の16人が同じ日に遊んでいるサーバーがあった。時期はおよそ7か月前。しかも、プレイヤーのリストを見ると、まだこのゲームをプレイしていたのか調べのついていない他の容疑者の名前もある。さすがにこの偶然は考えられない以上、このサーバーで感染した線が濃厚だった。

 

再びネット内を移動して目的のサーバーの近くに転移した彼女たち。調べてみると、いまも数人のプレイヤーが遊んでいるらしく、まずは彼らを追い出すことが必要だった。無関係の一般人を危険なウイルス駆除のリスクに巻き込みたくはなかったのだ。

 

「よし、行くぞ」

 

早速、タチコマを防壁ゲートアレイに取り付かせた彼女。元々、このゲームをプレイするログインユーザーであれば誰でも簡単に入れる領域なので、侵入にはそこまで手間は掛からなかった。次のゲートアレイは管理者認証のものだが、所詮はゲーム用なので防壁も薄く、容易に突破できる。

 

権限を掌握した彼女はとりあえず全てのプレイヤーとの接続を切断し、同時に進行中のプロセスも停止させる。ゲームを楽しんでいたプレイヤーからすれば非難轟々だろうが、これもやむを得ない措置だった。処理の重いゲーム進行処理も止まったためか、一気にサーバー内の動作も軽くなる。

 

後はプレイヤー側にウイルスをダウンロードさせる、怪しいソースコードを見つければそこからウイルスの正体も掴めるはず。少佐はプラグインやシステムツール周りからスキャン作業を始め、同時にゲームプログラムの方もタチコマにデコンパイルさせてソースコードを解析させる。

 

作業にはゲームサーバー自体の処理能力を使っていたが、あまりにも時間が掛かりすぎるため、最終的には9課のコンピュータの一部も並列化して使用した。そのおかげもあって、システムツール周りの方はようやくスキャンが終了したが、特に異常は見られない。となると、問題があるのはゲームプログラムの方になってくる。

 

「少佐!怪しいファイルを見つけました」

 

その時、タチコマが声を上げた。スキャン中、プレイヤーにある種のファイルをダウンロードさせる怪しいコードを見つけたタチコマが、そのリンクをたどった結果見つけたものだった。

 

「コードはゲーム内のある特定の条件下で、特定の場所に行くと発動するトリガー式になっていました。調べたら、レアアイテムの入手方法として一部のネット掲示板で話題になっている方法ですね。このサーバーだけでも、感染者はまだまだいそうです」

 

「分析は後にするわよ。とりあえず今は、このウイルスを持ち帰るのが先だわ。防壁を展開してウイルスを無力化したのち、9課の隔離サーバーにダウンロードして」

 

「了解しました」

 

少佐はそう命令を出した。隔離サーバーにダウンロードしておけば、中で何があっても感染被害を抑止できる。一応、周囲を防壁で固めるためにその心配は無用なのかもしれないが、用心するに越したことはないのだ。

 

「少佐、変です…」

 

そんな時だった。タチコマが珍しく深刻な口調でそう報告してきた。何があったのかと、彼女はすぐに訊き返す。

 

「急にダウンロードが進まなくなりました。50パーセントを過ぎたあたりからです」

 

何となく嫌な予感を覚えた。動悸が徐々に激しくなってくる。自分のこれまでの経験が、本能的に危険だと告げてきていた。

 

「ダウンロード中止、ウイルス周囲に防壁を再展開。」

 

「駄目です、中止できません!コマンドが…、うきゃァッ!」

 

稲妻のような閃光が走り、解析していたタチコマが派手に吹き飛んだ。飛ばされた彼は完全に引っくり返ったままフリーズし、ピクリとも動かない。防壁プログラムが消し飛び、タチコマ自身も何らかのダメージを受けたのだろう。ほかのタチコマたちの声に、前に目を戻すと、防壁で固めたはずのゲームプログラムを表すインターフェイスが急激に大きくなっていた。

 

「少佐ッ、逃げてください!」

 

懸命に叫ぶタチコマの声。しかし、脱出しようとした時、突如として黒い塊が球状のインターフェイスを突き破って迫ってきた。おぞましいほどに真っ黒のそれは、ポリゴンではなく無数の小さな記号情報が集まって構成されている。モザイク柄のようにも見えるがその一つ一つが細かくうごめいていて、どちらかというと小さな線虫のようだ。

 

虫酸が走るとはまさにこのことだった。黒い塊は一気に広がり、ここでようやくそれが巨大な“手”だということに気づく。あのタチコマの防壁を一撃で突き破った相手だ。まともに攻撃を受けてしまえば、ひとたまりもないだろう。しかし、すぐに脱出しようと試みるものの、全く反応がなかった。あまりの出来事に、さすがの少佐も絶句する。

 

何と既に接続はロックされ、自分たちはこの空間内に囚われたも同然だったのだ。こうなってしまうと、もはや打つ手はない。

 

掴みかかるように開かれた巨大な手は、まっすぐ少佐に襲い掛かる。彼女を守ろうと、懸命に目の前に立ち塞がったタチコマ2体も、一瞬で蹴散らされた。腕は、なおも反撃しようとするタチコマたちには目もくれず、一気に少佐に掴みかかる。寸前のところで攻性防壁を展開したものの、無駄な足掻きだった。自分の身長をゆうに超える程の巨大な手の前に、少佐は成すすべなく握り潰され、意識を失ってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めた彼女は、9課のブリーフィングルームの中にいた。すぐに辺りを見回すものの、誰一人として人影はない。その場は奇妙な静寂に包まれていたのだった。

 

警戒しながら歩き出す彼女。普段着ながらもレッグホルスターにはセブロM5が差さっているままだった。安全装置を解除し、いつでも撃てる状態でセブロを構えながら彼女は進んでいく。まだ意識は完全にはっきりとはしていなかった。まるで思考に靄が掛かったようだ。考えても、うまく頭が働かない。

 

なぜ自分はここにいるのか。

 

そう考えたとき、不意に後ろから物音が聞こえた。即座に振り返った彼女はセブロを向ける。見ると、壁面の大型モニターがひとりでに起動していた。映し出されているのはいまこの瞬間の自分の姿。アングルから考えて、天井の監視カメラから撮られているものだろう。

 

彼女は天井の右隅に埋め込まれたドーム型カメラに目を向ける。モニターにはカメラ目線になった彼女が映し出されていた。

 

やがて、再びモニターに視線を戻した彼女。しかしその時、彼女は思わず目を疑った。あろうことか、モニターに映る自分の体から崩れるように皮が剥がれ落ち、肉体が剥き出しになっていくではないか。まもなく肉体を形作っていた人工筋肉までもがずるりと抜け落ち、骨格だけが残された。

 

思わず自分の体を見るものの、もちろん何ら異常はない。モニターに映っているのはリアルタイムで合成された映像なのだろう。モニターの中の自分は両腕で頭を抱え、悶え苦しむようにその場に倒れると、砂のように跡形もなく崩れていく。

 

「くだらない合成ね。チンケだわ」

 

そのまま彼女はブリーフィングルームを後にしようと出口へ目を向ける。あの映像が意味するものは何なのだろう。まさか、自分があのようになるとでも言いたいのだろうか。

 

そう考えていたとき、通路の奥から足音が聞こえた。足を止める少佐。音はそのまま大きくなり、闇の中からうっすらと人影が見えてくる。がっしりとした体格に特徴的な義眼レンズ__

 

「バトー…」

 

戦闘服姿の彼は、サイボーグが携行可能なよう改造したM134ミニガンを抱え、固まったかのような無表情で押し黙っている。だが、その銃口は静かに少佐に向けられていた。

 

次の瞬間、ミニガンが火を噴いた。瞬時に横っ飛びした彼女の真横を、凄まじい弾幕が過ぎる。銃声というより連続的で轟音に近く、シャワーのように撃ち出される7.62mm弾が圧倒的な破壊力で部屋の中の物を粉々に破壊していく。モニターが砕け散り、観葉植物が吹き飛び、テーブルが一瞬にして蜂の巣になって崩れる。

 

掃射が一度止むと同時に、彼の足音がこちらに近づいてきた。身体機能を極限まで高め、セブロを構える彼女。相手がバトーだろうと、容赦することはない。仲間といえども加減すれば、自分が殺されるのは目に見えているからだ。

 

壁の影からミニガンの銃口が顔を覗かせる。セブロの引き金を絞り始めた少佐だが、突如後ろに気配を感じた。

 

そこには、天井の換気ダクトからぶら下がるようにして逆さまになったトグサが、愛用のマテバで狙いを付けていたのだ。次の瞬間に放たれた9mmパラベラム弾が、少佐の右肩に容赦なく喰らい付く。応射しようと振り向くものの、ほぼ同じタイミングで一気にバトーが部屋に踏み込んできた。

 

大きく飛び上がって別の出入り口に駆け込もうとするも、途中でさらに何発か命中弾を受けてよろめく。出入り口のドアを力強く蹴破った彼女はそのまま通路に転がり込むものの、そこで待ち構えていたのはパズとボーマだった。

 

「どけぇっ!」

 

叫びながらセブロを連射し、2人を寄せ付けないよう弾幕を張る。そのまま強行突破しようとする彼女だったが、至近距離でボーマから黒い金属弾が投げ込まれた。それが音響閃光弾だと気づいたときには時すでに遅く、とっさに左腕で目を塞いだものの、炸裂した閃光弾の凄まじい光と爆音で一時的だが視聴覚機能がマヒする。

 

同時に目の前に何者かの気配を感じた少佐は飛び退くが、空気を切り裂いたナイフの一撃が彼女の腕をかすめる。視覚を失った彼女はほぼ気配だけで相手を察知し戦うものの、いくら一流の義体使いとはいえ、限界があった。

 

一気に肉薄した相手に懐に飛び込まれた彼女は、腹部に強烈な衝撃を受けて吹き飛ばされた。そのまま壁に叩きつけられた時にようやく視界を取り戻したものの、既に目の前にはパズが迫っていた。

 

何かが潰れて拉げる生々しい音が響き渡る。体を守るよう突き出した左腕にパズのナイフが深々と刺さり、突き抜けていた。すぐに右足を蹴り上げて反撃するが、相手は既に離脱していて彼女のキックは虚しく風を切るだけだった。

 

(まともにやってたら敵わない…)

 

彼女は電脳から館内の防災システムを操作して目の前のスプリンクラーを起動させる。突如噴き出す大水量に一瞬怯んだ隙を見逃さず、彼女は再び走り出した。早くも追手の足音が聞こえるものの、応戦してはいられない。彼女は再び電脳からコマンドを送り、防火シャッターを封鎖しようとする。

 

だが、防災システムに取り付くと同時に、仕掛けられていたウイルスが彼女に襲い掛かった。イシカワの仕業だった。とっさの判断で何とか電脳を焼かれずには済んだが、体が重く動きが鈍くなる。まるで体中におもりがついているかのようだ。

 

それでも何とか駆け続ける彼女。だが、止めを刺すかのように通路の向こうからサイトーが姿を現す。体をかがめて身をよじり、横の通路に飛び込もうとするものの、彼の対物ライフルが吠えるのが早かった。

 

左腕が根元から吹き飛び、さらに2発目が右脚のふくらはぎを抉り取る。もはや体はボロボロだった。バランスを崩した彼女はその場に倒れ込むが、正面から姿を現したのは1体のタチコマ。絶望が広がり、どうしようもないほどの無力感が体を支配する。

 

体を起こそうと懸命に足掻くも、タチコマの腕に押さえつけられた。そのまま床に叩きつけられると、彼は容赦なくチェーンガンから火を噴かせて両足の関節を粉砕する。そうして抵抗できなくなった彼女は成されるがままに腕を掴まれ、体を無理やり持ち上げられた。

 

顔を上げると、そこに待っていたのは課長だった。周りにはほかの9課のメンバーたちの姿もある。彼の右手には拳銃が握られ、仮面でも被っているかのように固まった表情のまま、彼女を睨みつけていた。やがて、静かに課長の指が引き金を絞っていく。

 

「ご苦労だったな、草薙少佐」

 

しかし、彼の銃が火を噴くことはなかった。

 

それだけではない。彼女の周りのすべてのものが動きを止めたのである。聞こえていたはずの空調のかすかな動作音、人間の呼吸など、ありとあらゆる環境音がミュートされ、完全なる静寂が辺りを支配する。

 

そんな中、何事もなかったかのように少佐は床に着地した。彼女を押さえ込んでいたはずのタチコマのマニュピレーターはすり抜けていた。被弾してボロボロになっていたはずの体も無傷に戻り、腕に刺さっていたナイフもなくなっている。

 

少佐の周りには、いつの間にか彼女が展開していた無数の防壁アレイが連なっていたのだ。

 

「さすがはゲームね、よくできた偽装空間だったわ。だけど、こんな悪趣味なものを見せるなんて、あなたの感性はどうかしているわね。さあ、分かったらさっさと出てきなさい」

 

すると、周りの風景が彼女を中心に渦を巻くかのように一気に暗転し、闇に包まれる。次の瞬間には、コンクリート打ちっぱなしの無機質な部屋に彼女は転移していた。音を立ててちらつく蛍光灯の下には、古びた木製の机が一つ。また、拘束具付きの金属製の椅子やら、ドリルやペンチやら、原始的な拷問器具も置いてあった。

 

「米帝のAIも騙せる出来だったんだがな~。まあ、相手が相手だし、仕方ないかァ」

 

現れたのはジェイムスン型のサイボーグだった。しかし、市販されているモデルと比べて一回り小さく、塗装も黒一色になっている。現実に存在するとしたら、改造したものだろう。

 

「あなたの名前は何?そして、ウイルスを仕掛けた目的は?」

 

「名前は、そうだなァ、幽霊ということにしておこう。目的は後でだ。それより、今の偽装空間の感想はどうだい、なかなか面白かっただろう?」

 

不気味な相手に臆することなく訊いた彼女。しかし、相手は軽くおどけたような様子を見せながら、逆に彼女に質問してきた。

 

「さっきも言った通りよ。悪趣味で不愉快。癪に障るものがあるわ」

 

「そうかそうかァ。そいつはきっちりと中身を理解してもらえたようで何よりだよ」

 

「あなた、似たような経験をしたことがあるのね…」

 

そう言った彼女。わざわざ防壁迷路の中に取り込み、あれだけ手の込んだ偽装空間を見せておきながら、何も目的がないはずはないのだ。確実に相手は、あれに近い経験を過去に持っている。これまで共に任務に励み、固い信頼で結ばれていた仲間たちに裏切られ、殺されかけた過去が。

 

現実に起こったとするならば、いまの日本では到底考えられない事件だろう。推測に過ぎないものの、そんな出来事が起こり得るとするならば第3次核大戦中か第4次非核大戦中しか考えられない。あの戦争では秘密裏に様々な対外工作活動が展開され、現在でも公にできないような作戦も実行されている。もちろん、今ではそのすべてが歴史の闇の中に葬られているが、その中のひとつだと考えれば説明はつくのだ。

 

伝えんとしたことに見事気づいてもらえて嬉しいのか、相手は興奮したような様子で返す。まるで子どものような反応で、先ほどまでの様子との違いに少佐はどこか違和感を覚えた。

 

「そうだよ。だからこそ、私はいま、幽霊となってこの国に復讐しようとしている。愚かなことだが、怨念がどうしても抑えきれなかったんだよ。分かってくれ」

 

ジェイムスン型はそう言いながら、部屋の奥の方へと進んでいく。まさか、このまま逃げるつもりなのだろうか。少佐はすぐに防壁を展開しようと、手元に無数のコンソールを呼び出す。しかしその時覚えたある感覚に、少佐は驚いた。相手もそれを分かっていたのか、口を開く。

 

「そんなに身構えなくてもいいよ。分かっているかと思うが、私はいわゆる疑似人格だ。実験がてら、“私たち”の考えを一つにまとめてみただけに過ぎない」

 

そう、相手からはゴーストが一切感じられなかったのだ。しかも、一人の人間のものではなく、複数人の人格をまとめているという。様子が不自然だったのはこのためだろうが、複数の人間の人格をまとめてシミュレートさせるなど、研究者レベルの高等技術がなければ成し得ない。相手には相当な技術力があるとみて、間違いはないだろう。

 

「そうね。だけど、疑似人格だろうとも、あなたたちに迫る手掛かりになるわ。悪いけど、この疑似人格は押収させてもらう」

 

「そうか。しかし、それはできないことだなァ…。そういえば、目的を話していなかったと思うが、何だと思う?」

 

振り向いたジェイムスン型が放った言葉に、少佐ははっとした。もしかすると、相手は最初からこれを狙って、周到な作戦を立てていたのかもしれない。気づいた少佐がすぐに攻性防壁で疑似人格を焼き切ろうとするが、その前に強烈な光が視界を塞いだ。

 

「君たち公安を攪乱するためだ。我々の計画には君たちが最も邪魔だからね。消えてもらうよ、草薙素子」

 

目の前いっぱいに広がる光に、もはや目を閉じても光が目に突き刺さる。光に包まれた体は焼けつくような熱を感じ、溶けていくかのような感覚に襲われる。思わず絶叫する彼女。しかし、体が焼け尽されようとしていたまさにその時、ぷつりと映像が途切れ、無感覚になった。同時に意識も遠くなり、真っ暗な闇の中に消えていったのだった。

 




2018/10/7 一部修正


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第7話

「少佐、大丈夫かっ!少佐!」

 

目が覚めると、彼女は9課のダイブ装置の上で横たわっていた。あれから何時間が経ったのだろう。目の前にはイシカワと赤服の鑑識たちが何人も集まっていて、モニターを見ながら手元のキーボードを操作していた。どうやら、彼らが寸前のところで助けてくれたらしい。しかし、まだ体を焼き尽くされたあの感覚の影響が残っているのか、全身に痺れが残りうまく動かせない。

 

「ウイルスはどうなった?サーバーは?」

 

それでも、言語系には特に問題はないようで、発語機能にも差支えはなかった。少佐はまっさきに、イシカワにそう訊いた。

 

「例のサーバーはシステムを完全に掌握され、踏み台にされた。少佐が起きる4時間前のことだ。それで、接続していたガイア・アーツの本社サーバーを通じて、他のゲームサーバーにも一気に汚染が拡大。米帝の訓練システム、それに機密関連のデータを保管していたサーバーも攻撃され、大量の情報が漏れたらしい。うちも接続していた隔離サーバーがお釈迦になった」

 

「ガイア側の対応は?」

 

「問題のゲームに限らず、提供している全てのサービスを無期限に停止した。ログインサーバーまで汚染された上、ウイルスがOS自体に浸透していてシステムを再構築しないと再開できないそうだ。米帝軍の訓練システムも同様だ」

 

事態はかなりまずいことになっていた。ゲームサービスならともかく、米帝軍のバーチャル訓練システム自体も攻撃を受けたとなれば、下手をすれば戦争行為ともとられかねない。特に、もしも自分たちが首謀者だと誤認された場合、9課解散どころの話では済まされないだろう。その時は日米同盟すらも危うくなりかねないのだ。

 

とりあえずそれを防ぐためにも、現状で向こうがどこまで攻撃者について突き止められているのか。それがもっとも気掛かりだった。

 

「それで、ここからが厄介な話なんだが、米帝側は攻撃元を中国だと断定した」

 

「何?感染元のサーバーは日本よね。それがどうして?」

 

イシカワからの報告に、さすがの少佐も驚きを隠せなかった。事の成り行きがあまりにも予想外であったのだ。

 

「同じ時間帯に受けていた攻撃が、中国側によるものだと分かったからだ。ログを見れば今回のウイルス感染の攻撃元は日本のサーバーなのは明らかだが、米帝はそのサーバーも中国側にハッキングされていたと踏んでいる。それに、何故だかは分からんが、盗まれたデータの最終送信先が中国国内になっていたのが一番大きい」

 

最悪の事態だった。いまの米中は衝突状態にないとはいえ、至るところに火種を抱えている関係でもある。そこに今回のハッキング事件と来れば、どのような結果になるのは目に見えていた。それこそ、第4次非核大戦に次ぐ第5次大戦が勃発する可能性も否定はできない。

 

「米帝側は既に駐米中国大使呼び出して厳重抗議。また、来週予定されていた外相会談も急きょ中止が決まった。もちろん中国側は関与を完全に否定しているが、同時間帯のハッキングに何かしら関わっていたのは事実らしく、かなり苦しい立場にあるようだ」

 

この結果を考えると、ウイルスを開発した犯人たちは、この事態になることを狙って攻撃していたことになる。一般市民を狙ったテロを起こすことは、最初から主目的ではなかったのだ。まだ全貌はつかめないものの、あのジェイムスン型が言ったことも考えると、今後の作戦の支障になる自分たち公安を潰すとともに、米帝と中国の緊張を高めさせる二面作戦を敢行していたのだろう。

 

だが、なぜ米中を対立させたいのか。その理由が明らかでない。あの偽装空間の中で見せられた出来事を考えると、彼らのやろうとしていることはこの国への復讐のはずだった。それなのに、国外問題にも手を出しているということは、それもまた目的に関係しているからに他ならないはずだ。

 

「少佐、ダイブしている中で何を見たんだ?」

 

「それも含めて、ブリーフィングで話すわ。すぐに全員を集めて」

 

「分かった…」

 

体の痺れもようやく収まり、少佐はゆっくりと起き上がる。まだ頭がぼんやりと冴えない。感覚値のオーバーフローに相当当てられてしまったらしい。感覚神経が焼き切れる前にリミットを掛けたものの、それでもこのザマだった。無防備な状態であれを受けてしまえば、確実にショック死していたかもしれない。

 

そういえば、タチコマはどうなったのだろうか。相手側の攻撃もかなりの威力だった。タチコマに限ってAIを焼かれたという事はないだろうが、もしかするとかなり深刻なダメージを受け、活動できない状態になっているかもしれない。

 

《あ、少佐!ご無事でしたか~!》

 

電脳内に響くタチコマの声。そんな心配も全くの杞憂だったようだ。視界の中をエージェント・タチコマが元気そうに動き回っている様子に、少佐もひとまず安心する。

 

《あの敵の攻撃もなかなかでしたよね。あーあ、あのまま意味消失したらどうなっていたんだろうな~》

 

《なに呑気なこと言ってるの。それより、この後はブリーフィングだ。電通をしっかり繋いでおいて聞き逃すな》

 

《了解しました~》

 

軽くタチコマを叱った彼女は、ダイブルームを出た。まるで蜘蛛の糸のように複雑に絡まり合う複数の出来事。キナ臭い事にもなりつつあるが、何としてでも大事になる前に犯罪の芽は自分たちで潰し、被害を未然に防がなくてはならない。自分たちには少しの余裕もないのだった。

 

 

 

 

 

「で、偽装空間の中で少佐は俺らに襲われ、殺されかけたと…」

 

「そうね。現実ではないと分かってたけど、気分のいいものではなかったわ」

 

9課のブリーフィングルームの中では、メンバー全員が集まって今後の方針についての会議を開いていた。その場にはもちろん課長も同席しており、さらにタチコマも電通を通じて保有する9体全てに会議の内容が転送されるようになっている。同じ9課で働く以上、情報は全員が共有していなければ意味がないのだ。

 

「ま、そんなに気にすることはないぜ。少佐に喧嘩売ったらどうなるかなんて、分かり切ってるからな」

 

バトーの放ったその言葉につられて、他のメンバーたちも軽く笑みを浮かべる。しかし、当の本人は厳しい面持ちのまま。不穏な雰囲気を感じたのか、皆はすぐに笑いをかみ殺し平静を装った。バトーに至っては少佐の視線を感じて青ざめている有様である。そんな中、軽く咳払いをしつつ課長が口を開く。

 

「それで、少佐がそこで会った疑似人格、彼についての情報は得られたのか?」

 

「現段階では何も。サーバーの中身は完全に意味消失していて、それらしき疑似人格のデータは発見できませんでした。まあ、うちで取っていたログの一部が残っているので、復元できないか確かめてみますよ」

 

イシカワがそう報告する。彼女がダイブする前、起こった出来事を正確に記録するため、身代わり防壁と同時に記録用のコンピュータも経由させていたのが功を奏した形となった。もっとも、攻撃を受けたときに身代わり防壁ともどもそのコンピュータも焼き切られてしまったため、記録媒体を取り出して解析することにはなるが。

 

「それにしても、復讐ねぇ…。よほど恨みがあるんだろうが、今更何ができるんだか…」

 

「そうかしら。少なくとも、私は考えなしに彼が行動を起こしたとは思えないわ。むしろ、機が熟すのを待っていたと考えるべきね」

 

「なぜそんなことが言えるんだ?」

 

「連中、最初からこうなることを狙っていたのよ。米中の対立、捜査のかく乱。もしかすると、他にもこのウイルス感染で狙っていたことがあるかもしれないわ」

 

何気なく言ったバトーに、少佐は反論する。米中対立については単なる偶然と見る目もあるが、それではなぜ連中が中国国内を最終送信先に選んだのかの説明がつかない。それに、あの時間帯に図ったかのように起こった中国側によるハッキング。もしかすると、それすらも事前に情報を掴んだ上での犯行だったと考えられるのだ。

 

そして、それほど周到に計画された作戦を完遂するということは、相手にもかなり頭の切れる者がいるのだろう。また、あの偽装空間で疑似人格が語っていた出来事。それも踏まえると、犯人像は自然と絞り込めてくる。

 

「課長、おそらく相手は…」

 

「元諜報員か。確かに、その可能性は高いな」

 

彼も薄々、予想はできていたのだろう。相手が様々な特殊訓練を受けた諜報員だとすれば、これだけのことを起こしても不思議ではない。しかし、戦中に工作活動に従事していた者は、その多くがいまも関係する軍の機関に所属しているはずだった。

 

現在の法律上、機密流出の恐れがあることから、軍などを離れた後は機密に関する記憶の一切は国に返納すると規定されているのだ。だが、記憶の一部を欠けた状態で自分が自分でいられる保証はなく、その上、海外への渡航制限など行動にも大きな制約がつく。そのため、わざわざ中途で退職する者はそう多くなかった。

 

もちろん、現役の諜報員が犯行に及んでいる可能性はないわけではない。だが、それよりは既に一線から退いたOBによる犯行という線が濃厚だった。それも、正規に退職したのではなく、任務中に失踪するなど非正規の方法で退職した者に限られる。先の通り、正規の退職では職務に関する記憶は返納されるため、犯行の動機自体が消滅してしまうからだ。

 

「分かった。その線では、わしの方でも関係先に当たってみよう」

 

「了解。情報は限られると思うけど、私の方でも軍のデータベースを洗って該当しそうな人間がいないか調べてみるわ。イシカワは例のログの解析をそのまま続けろ」

 

指示を出す少佐。そこへ、バトーが声を上げた。

 

「ウイルスの方はどうするんだ?軽く調べた結果ですら、あのサーバーだけでも感染の疑いのあるものは100人は超えるんだぜ?」

 

確かに、それも手をこまねいてはいられない問題だった。バトーの言った通り、ウイルス感染者は今回発症して危険行為を起こした容疑者以外にも、多数存在している可能性が濃厚なのだ。そうなると、いつまた発症による被害が出るか分からない。そのため、その発症因子の特定と無力化するためのワクチンの作成も、被害抑止の観点で極めて重要と言えるだろう。

 

「そうね。それについてはパズとボーマで発症因子の特定、およびワクチンの組み上げにあたれ。ほかのメンバーは私とともに、軍のデータベース等を照合して、首謀者の突き止めだ」

 

口々に「了解」と答えたメンバーたちは、各々の持ち場に戻っていく。そんな中、課長が小さく声を掛けて少佐を呼び止めた。そしてもう一人、サイトーも呼び止める。

 

「すまんな、少し残ってくれ」

 

「私とサイトーだけ、ということは、何か極秘の任務かしら」

 

察しの良い彼女に、課長は軽く頷いた。しかも、やや深刻な面持ちをしているあたり、よほど重要性の高い危険な任務なのだろう。

 

「つい2時間前、道警の公安から連絡があった。『自然の民』は覚えているな?」

 

「ええ。網走と北見にまたがる山中に本部を構える宗教法人。まあ、俗にいうカルト宗教ね。不穏な兆候があると、確かこの前の会議でロシアの公安から連絡を受けたわ」

 

「そのことなんだが、昨日潜入していた道警公安部の捜査官が定期連絡のために村外で他の捜査官と接触した際、電脳からウイルスの反応が出たそうだ」

 

「つまり、潜入がバレていたと?」

 

少佐は真剣な顔でそう訊いた。道警による潜入捜査ではこれまでに有用な情報は得られていない。だが、潜入捜査官がウイルスに感染していたとなれば話は違った。犯罪につながる重要な証拠が隠されている可能性が高いうえ、ウイルス感染自体がそもそも違法行為となる。道警としてはガサ入れを掛ける法的根拠ができるはずだが、うちに話が来るあたり何かあったに違いない。

 

「道警はすぐに抜き打ちの立ち入り検査を掛けたそうだが、何も出なかったらしい。問題はその後だが、捜査官が感染していたウイルスを検査機関で調べたところ、例のゲームサーバーでばら撒かれていたものと一致する特徴があったそうだ」

 

それを聞いた少佐は驚きを隠せなかった。意外なところで、今回の事件のつながりが見えてきたからだ。

 

「だが、あくまでも似ているというだけで、詳しいことは分からない。ゲームサーバーで撒かれていたウイルスのサンプルがない以上、ソースコードを比較することは困難だからな。だが、発症したときの挙動は、例のそれと同じだったそうだ。あいにく、ウイルス自体はその数時間後に自己消滅して解析不能になったが…」

 

「なるほど。それで、道警から要請が?」

 

「そうだ。捜査官にまんまとウイルスを仕掛けられた上、抜き打ち検査で何も出なかったときた。理由を付けて再検査しても、おそらく出る結果は同じだろうし、これ以上向こうも捜査官を危険に晒したくはないのだろう」

 

つまり、自分たちでは手に負えなくなったということだ。まあ、無理もない事ではある。この国が法治国家である以上、正当な理由や証拠がなければ踏み込むことすらできないのだから。しかし、明らかに怪しい臭いがする以上、道警としては多少の面子は捨ててでも事件解決を優先したということらしい。その辺は評価できるところだった。

 

「で、どう捜査するつもりかしら。まさか…」

 

「そうだ。サイトーを潜入させる。サポート役にタチコマを1体つけてな。道警公安部からの情報では構成員の割合として、20代の青年のほかに、30~40代の退役軍人も多いそうだ。おそらくは戦争終結による軍縮で、居場所を失った兵士たちを積極的に受け入れているのだろう」

 

なるほど、と少佐は軽く納得する。確かに今の日本は退役軍人の受け皿があまりに少ないのは事実だった。それに、戦場という常に緊張を強いられる場所で過ごしてきた彼らにとって、いきなり日常生活に適応することなど容易ではない。自殺などに走る者も多い中、そうした新興宗教に救いを求める者が出てくるのは当然ともいえるだろう。

 

「それで、サイトーを潜入させ、組織を探らせるというわけね」

 

「ああ。トグサでは退役軍人には見えんし、バトーでは逆に警戒心を持たれる可能性もある。そのため、ここはサイトーが適任だと判断した」

 

「どうかしら。サイトー」

 

振り向いた少佐に、軽く俯いていた彼は顔を上げて答える。

 

「ああ、自分としては問題ない」

 

少佐の目を見つめながら、強くそう言った彼。少佐としては、一抹の不安があるのはぬぐえなかった。既に道警公安部の捜査官がウイルスに感染させられた現状を考えると、サイトーが餌食にならないとも限らないのだ。

 

「何らかの手掛かりをつかんだら、すぐに引き上げろ。深追いはするな。その時点ですぐに我々で強制捜査に乗り出す」

 

「分かった」

 

そう。手掛かりさえ見つかれば、あとは徹底的に調べ上げて証拠を押さえ、連中を押さえることも不可能ではないのだ。あくまで目的はそれにあるということを、彼女はサイトーに念入りに伝える。道東となると、救出に駆け付けるにもジェット機で2時間は掛かる。いくら9課といえども、リスクは冒せなかった。

 

「出発は明日だ。その頃には身分証一式の準備もできているだろう。くれぐれも、連中に悟られるな」

 

椅子に座っていた課長は力強くそう言った。やがて、少佐とサイトーも潜入の詳細を詰めるため、2人で部屋を後にする。しかし、扉が閉まった時、課長は思わずため息を漏らした。彼自身も、今回の潜入捜査はあまり気乗りするものではなかったのだ。

 

それでも、もし手掛かりが得られれば例のウイルスをばら撒いた犯人たちに一気に迫ることができる。有力な情報が得られていない今の状況では、それに託すしかなかった。

 

(頼んだぞ、サイトー)

 

静かに、課長は一人そうつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海岸に打ち寄せる荒波が岩に砕け白い飛沫を上げる中、時折びゅうびゅうと音を立てて北風が吹きすさむ。同時に、夜の闇に紛れたあられの粒が地面に激しく打ち付けるが、それらに全く動じることなく数人の男たちは各々の作業についた。

 

ここは網走港からやや離れた、能取岬の根本にあたる海岸線。近くには航空自衛軍網走分屯基地があるものの、人の気配は全くなかった。唯一、近くを走る道道76号線を通る車のヘッドライトがしばしば煌めくが、ちょうど崖の陰になっているために彼らの姿は道路からは一切見えない。

 

「急げ、準備を整えた者から乗り込むんだ」

 

指示を出すのは、トラックでの輸送も担当していた古傷の男。波打ち際につけられているのは黒いゴムボートで、沖合には灯火を消した一隻の漁船が浮かんでいた。彼らは慣れた手つきで荷物を次々とボートに積み込み、乗り込んでいく。

 

荷物はいずれも長い箱型で、黒い革のケースに入っていた。一般人からすれば、楽器か何かのようにも見えるかもしれない。しかし、実際にはAK-74Mライフルとその弾倉いくつかが入っているのは言うまでもなかった。そのほかの箱にも、C4爆薬数キロとその信管。そして、拳銃や手榴弾の類が小分けして入れられている。

 

「よし、出るぞ!」

 

暴風の中、叫ぶような声で男は言った。エンジンが唸り上げ、ボートは一気に沖へと突き進む。荒れ狂うオホーツクの波がしばしばボートを大きく揺らし、突き上げるものの、彼らはロープにしっかりと掴まって振り落とされないよう踏ん張っている。手袋こそはめてはいるが、義体化していなければ手がかじかんで到底耐え切れないだろう。

 

波飛沫が何度も彼らの体に被り、加えて降り続けるあられが容赦なく打ち付けてくる。エンジンは甲高く喚き散らし、懸命に波に抗って船を推し進める。舵を取る男も、波に流されないようコースを取るのがやっとだった。それでも、永遠とも思えるような長い時間も終わり、ボートはようやく船の元へと到着した。

 

「乗り込め、ぐずぐずするな!」

 

凄まじい揺れの中でも、構わず彼はそう怒鳴る。船から投げられたロープを掴み、徐々に引き寄せた彼らは、間もなく降ろされた縄梯子をボート内に引き入れた。1人また1人と、梯子を登って船に乗り移る男たち。最後に2人ほどがボートに残り、既に移ったメンバーの協力のもと積まれていた荷物を載せ替える。

 

波にもまれながらの作業だったが、作業を終えるのには5分も掛かってはいなかった。そして、一切休むことなく、彼らは積み込んだ荷物を船の奥へと運んでいく。一方の古傷の彼は操舵手に船を進めるよう告げると同時に、懐からリモコンを取り出してトリガーを引いた。

 

響き渡る破裂音。先ほどまで乗っていたゴムボートが吹き飛んだ音だった。各部に少量ずつ仕込んだ火薬でチューブが裂け、急速に縮んでいくボート。あっという間にエンジンの自重で海に引きずり込まれ、真っ黒な波の中へと消えていく。

 

《こちらフィッシャーマン。マスは全て釣った。これよりTへ向かう》

 

操舵手は電通を通じてそう報告すると、電脳を自閉モードにして一切の通信を切った。ほかのメンバーたちも同様に通信を切る。ゆっくりと進み始めた船は、方向を変えて根室方向へと舵を切った。レーダーを見ても、近くにはあまり船はいなかった。網走港から何隻か、出港する漁船が確認できるが、それ以外に反応はない。もちろん、海保の巡視艇も見られない。

 

船出としては上々だろう。天候は酷いものの、監視の目を潜り抜けるにはちょうど良い。対岸に見える国後島の光すら見えない吹雪の中では、誰もこの船を見つけることなどできはしないのだ。

 

「いいか、よく聞け」

 

扉を開けて船内に入った彼は、先に中にいたほかのメンバーたちに向けて言った。

 

「これから我々は太平洋に抜け、東京を目指す。今のところ、全ては作戦通りに進行中だ。ただ、油断はするな。行動を起こした以上、いつ監視の目がついているかは分からない。下手な真似だけはするな。いいな」

 

引き締まった面持ちでそれを聞いたメンバーたちは、深く頷いた。そうして、休む間もなく次の作業に取り掛かる。着込んでいたウエットスーツを脱ぎ、作業着の上からさらにジャンパーを羽織ると、漁師がよく身に着けるようなビニールでできた胸付きズボンをはいて厚手のゴム手袋をはめる。

 

間もなく外に出た彼らは暗闇の中、淡々とカゴや網を出したりして偽装作業を始めていた。もちろん、物陰には先ほどの箱から出した銃器を実弾を装填した状態で隠しておく。咄嗟の時には取り回しの難しいライフルは役に立たないので、自動拳銃やサブマシンガンが中心だった。当然、それらの隠し場所はメンバー全員が完全に把握している。

 

そうして、ものの10分と経たないうちに準備は整った。元々この船自体が盗んだ漁船であるので、あらかたのカムフラージュは既にできていたのだ。作戦の遂行に当たって一時的に片づけていたものだけを戻したに過ぎない。船首には『第18朝日丸』と書かれ、甲板の上には所狭しに並ぶカゴや漁網、それに浮き球などの類。乗組員の恰好を見ても、誰も彼らがテロリストであるとは思わないだろう。

 

準備が整うと、船は灯火を付けてさらに沖へと進み、太平洋へと進路を取る。計画の第2段階はこうして静かに幕を開けたのである。

 

しかし、その様子を捉える双眼鏡に、彼らは気づくことはなかった。能取岬の灯台の根本に停めた一台のSUV。一部始終を監視していた2人組の男たちは、吹雪の海に彼らの船が消えたことを確認すると、あるところに電通を入れる。軍用規格で高度暗号化されたその通信は、驚くことに自衛軍はおろか、日本のどの公安機関のものではなかった。

 




2018/10/13 一部修正

今回、中国などが出てきましたが、一応第4次非核大戦後に各国とも国交は正常化している設定です。原作等では明示されてはいませんが、第4次非核大戦終結等から何らかの条約が結ばれているものと推測しています。疑問・意見等がありました遠慮なくコメントしてください。宜しくお願いします!


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第8話

サイトーが丘珠空港に到着したのは、日がすっかり昇り切ってからのことだった。タラップを降りると、あたり一面に広がるのは白銀の世界。雪と氷に閉ざされた厳しい北海道の寒さに、厚手のコートを羽織っていた彼ですら思わず身震いする。

 

「うわぁ!これは凄い!経験値がどんどん上がっていく~」

 

一方、後部ハッチから降りたタチコマはその景色に完全に興奮しきっていた。考えてみれば、タチコマが積もっている雪を見たのは初めてかもしれない。新浜でも雪が降らないことはないが、年に1回か2回で、それも積もることはまずないのだ。それも踏まえると、タチコマがこうして興奮するのは無理もないだろう。

 

乗員から荷物を次々に受け取った彼は、両腕に力を込めてそれを持ち上げる。中には衣類のほか、万が一のためにサバイバルナイフも忍ばせていた。さらにもう一つ、潜入先で有線することも考慮してベルト型の携帯式身代わり防壁も入っている。これは赤服がかねてから開発していたもので、外見上は完全に普通のベルトにしか見えない潜入にはもってこいの代物だった。しかし、9課制式採用のセブロだけは身元が明らかになる恐れがあるため、携行してはいない。

 

「タチコマ、いつまではしゃいでるんだ!早くしないと置いていくぞ」

 

庭を駆けまわる犬のように走り回っていたタチコマにそう怒鳴ったサイトーは、足早に建物の中へと入る。周りには自動小銃を提げた自衛軍兵士が数人。丘珠空港には陸上自衛軍の北部方面航空隊が駐屯しており、今回彼が丘珠に来たのも新浜基地からの輸送機に便乗させてもらったからだった。

 

何せ、次のテロがいつ起こるかわからない今の状況では、9課のティルト機を迂闊に出すことはできないのだ。苦肉の策ではあるが、仕方ないことではある。それに、課長のパイプもあって便乗に当たってはそれほど混乱もなく、スムーズに進行できた。

 

二重になっている建物の玄関を抜けると、さすがに中は暖かかった。義体化率の高い人間だったら、温度差により義体内部で結露が起こるとトラブルのもとになるので、気を使いそうではある。もっとも、9課のメンバーが使っている義体は特殊仕様なので、過酷環境での動作も保証されており心配はいらないが。

 

「おお、サイトー。久しぶりだな」

 

突然聞こえた低い声。見ると、無精髭を生やした体格の良い男が立っていた。その顔に見覚えのあったサイトーは、思わず声を上げる。

 

「イシザキ?お前、こんなところで何をやっているんだ?」

 

そう、彼は過去の紛争のさなか、サイトーがメキシコ暫定政権義勇軍『赤いビアンコ』に身を置いていたときに出会った一人だった。組織の中では日本人はほとんどいなかったため、彼のことは今でも記憶の中に深く留まっている。

 

「兵士だよ。やっぱり、自分の性分に合うのはこれだけさ」

 

彼は胸に縫い付けられたエンブレムを見せながらこう言った。彼は確か、『赤いビアンコ』の中で武装ヘリのパイロットをしていたはずだった。傭兵などという非正規活動をしていた彼がなぜ陸自にいるのかはわからない。だが、自分が公安にいるのと同じく複雑な経歴を辿ってきているのは確かだろう。

 

「北海道には何の用だ?」

 

「ちょっとな…」

 

そう訊かれたサイトーは、言葉数少なくそう返した。語気に込められた意思を読み取ったイシザキも、それ以上詮索するようなことはしなかった。さすがに何度も死線を潜り抜けている者同士、互いの意思くらいは容易に察することができるのだろう。

 

サイトーは担当士官にも軽く挨拶を済ませたのち、そのまま建物を抜けて外に出る。蒲鉾型倉庫群や食堂などを抜け、基地正門に着いた彼。その頃にはタチコマは光学迷彩で身を隠し、50メートルほど離れたところから彼を見守っていた。既に潜入作戦は始まっているのだ。誰が見ているかもわからない状況の中では、身分を明らかにしてしまう可能性のあるものは絶対に晒せられなかった。

 

正門を出た彼は、とりあえず駅を目指すことにした。情報漏れを警戒して今回の潜入については道警にも詳しくは知らせておらず、基地までの迎えも来ていない。捜査官がウイルス感染させられたという事実も鑑みると、道警内に内通者がいる可能性も否定できないため、やむを得なかった。

 

堆い雪山によって車道と隔てられた歩道をゆっくりと歩き始めるサイトー。戦前は北海道唯一の政令指定都市だった札幌だが、大戦の勃発によるミサイル攻撃で都心は壊滅。それでも東京とは違い、街が水没することはなかったので復興も進み、道央圏の中心都市として今では都心部にはベルタルベほどではないものの巨大な摩天楼ができている。

 

だが、一歩街から外れると復興から取り残されたスラム街が広がっており、新浜難民居住区並みに酷い有様になっていた。地下には崩落したままの地下鉄が残され、ホームレスたちの住処になっているという。新浜や東京との違いはアジア系難民の割合が低いということだが、治安は悪く、夜は迂闊に出歩くことはできない。

 

サイトーは遠くに聳えるそんな札幌の摩天楼をじっと見つめながら歩き続けていた。歩道にも積もった雪はくるぶしの辺りまであり、短靴がひんやりと冷たくなってくる。車道では黄色い回転灯を光らせながら轟音を立ててロータリー除雪車が進んでいた。アイボールが複数埋め込まれているところを見ると、AIによる自動運転だろう。

 

そのうち、徒歩では埒が明かないので仕方なくタクシーを拾った彼は、シートに腰掛けると深々と背もたれに体を預けた。いかにもだるく、気力のないように後部座席に座る得体の知れない眼帯の男に、運転手は素っ気なく目的地を聞く。古びたコートにボロボロの短靴。サイトーがしていたのは、一目でろくでもない素性の男だと分かる格好だった。

 

そこはさすがに9課の課員といったところだろう。現地の人間に成りすまし、溶け込む。諜報活動では必須のスキルだった。今のサイトーの姿は、もはや落ちぶれた退役軍人そのものである。

 

「札幌駅まで頼む」

 

ぼそっとそう言うと、タクシーは進み始めた。あくまで“今”のサイトーは落ちぶれ者なので、普段のように周囲に目を光らせることもせず、目を瞑って腕を組みながら過ごした。そうして車に揺られながらぼんやりすること数分あまり。いつの間にか、車は中心部に入っていた。左右には窓からは見上げられないような高層ビルが聳え、街には仕事に向かうサラリーマンで溢れている。

 

「お客さん、着きましたよ」

 

早くもドアが開いた。財布を乱雑に開き、1000円札2枚を掴み取った彼は、そのまま運転手に渡す。お釣りを小銭入れに放り込むと、荷物を持った彼はタクシーを降りる。

 

新浜駅に比べると、やはり明らかに人の流れは少なかった。しかし、通路も狭めなのでちょうどいいのかもしれない。当てもなくふらふらと歩きながら、彼は電通を使ってタチコマと連絡を取る。もちろん通信内容は暗号化しているので、傍受されても解読される可能性は薄い。

 

《駅に着いた、そっちはどうだ?》

 

《ボクもOKです。屋上から見えてますよ~》

 

タチコマの現在地は、ちょうど大手デパートと重なっていた。ワイヤーで飛び上がり、光学迷彩を使って屋上から観察しているのだろう。それであれば、よほどのことがなければ誰かに気づかれる心配はない。

 

《これから適当に街を歩きながら、例の場所に向かう。この後は無用な連絡はなしだ。いいな》

 

《了解です。お気をつけて!》

 

そう言って電通を切った彼。これから彼が向かおうとしているのはほかでもなかった。これから彼が潜入する宗教団体『自然の民』。その勧誘活動が頻繁に行われているとされる地区に向かうのである。ちょうど復興が進んだエリアと手つかずの廃墟との境目に当たるその地区では、仕事を探す失業者で溢れているらしく、そんな彼らの心の隙を付いた勧誘が行われているようだった。

 

やや深く息を吸った彼は、少し間をあけてから静かに吐き出す。いよいよ自分の仕事が始まる。落ち着いてさえいれば、何も問題はない。そう自分に言い聞かせた彼は、そのまま人混みの中へと姿を消していったのだった。

 

 

 

 

 

「すまんな、突然呼び出して」

 

課長は軽く頭を下げてそう言った。目の前に立っているのは、陸自情報部部長の久保田である。彼とは殿田大佐から教えを受けていた頃からの長い仲で、度々こうして事あるたびに情報交換を行い、互いに有益な情報を共有し合っている。もっとも、久保田の方は課長と会っていることを公には隠しておきたいようだが。

 

「いや、構わんよ。私も会う機会を見計らっていたところだ」

 

答えた久保田は、案内されるまま席に座る。彼らが訪れていたのは新浜駅近くのビルにあるイタリアンレストランだった。昼時を過ぎているためか食事をしている人間は少なく、店内はどこか閑散としている。

 

間もなく店員が運んできたメニューを受け取ると、先に久保田が眺め始める。課長はグラスに入った水に口を付けると、ゆっくりとテーブルに戻した。

 

「で、今日は何について聞きたい」

 

先に口を開いたのは久保田の方だった。軽い咳払いののち、単刀直入に課長は話し始める。

 

「戦時中の工作員のことだ。大戦時、中国か旧ソ連で活動していた工作員たちの現況について知りたい。任務中に失踪し、死亡扱いになった者についても」

 

「工作員絡みか…。穏やかな話ではなさそうだな」

 

それを聞いた久保田は低く唸った。陸自情報部の部長である彼にとっても、諜報部員の情報はそうそう簡単に口外できるものではない。しかし、荒巻課長もそれは重々承知しているはずだった。だとすれば、よほどの重大事件に絡む問題なのだろう。

 

そんな中、久保田の考えるところを察したのか、課長はこう付け加えた。

 

「この間の新浜のウイルステロ。あのウイルスをばら撒いた実行犯の中に、元諜報部員がいる可能性が高いのだ。それも、上層部に恨みを持っている人間でな」

 

「そういうことか。なら、話は早い。うちと警務隊、それに情報保全隊の方でもそうした諜報部員の洗い出しはこれまでも行ってきたところだったんだ。その中で、特に反逆行為を起こしかねない危険因子をまとめたリストがある」

 

久保田は周囲にしばしば目をやりながら、そう話した。もしかするとそのリストの中に、例のウイルスをばら撒いた人間が含まれているのかもしれない。現在の居場所はもちろん突き止められないにしろ、相手についての情報を得ることは極めて有用な事である。荒巻課長はそう考えていた。

 

「それについては後で送ろう。それより、こっちでも一つ、訊きたいことがあるんだが」

 

彼がそう話し掛けたところで店員がやって来たので、とりあえず2人は注文に移った。久保田はスパゲティをオーダーするが、課長はコーヒーとケーキだけに留めておく。最近、あまり物が胃袋に入りきらないのだ。やがて確認を終えて店員が去ったのを確認した久保田は、再び口を開く。

 

「訊きたいのは、昨日のGAへのサイバー攻撃のことだ」

 

「それか。米帝が中国側の仕業だと断定し、非難の応酬になっている元凶のことだろう?」

 

「ああ、そうだ。確かめたいのは、実際、あれが中国側の攻撃なのかどうかだ。それによって、我々も打つ手が変わるからな」

 

「結論から言えば、中国側の攻撃ではない。確かに同時間帯に中国系のハッカー組織が攻撃を仕掛けていたログが残っていたが、防壁を抜かれたあのウイルス攻撃自体を引き起こしたのは、わしらで追っているテロ組織の仕業だ」

 

課長の答えに、久保田は「そうか…」と言葉少なげに頷いた。そのまま、しばらく何かを考え込んでいるように、俯いてじっと机の一点を見つめている。

 

「求めていたのはこの情報でいいんだな」

 

「…ああ。参考になった。例を言うよ」

 

まだどこかぎこちない様子を見せる久保田に、引っ掛かりを覚えた課長は唐突にこう聞いた。

 

「その様子を見ると、何か軍内部でまずい動きでもあるのか」

 

久保田は言葉ではなく、苦笑いで答えた。どうやら本当のことらしい。

 

「お前の前では隠し事もできんか…。まあ、いいだろう。これは数週間くらい前に上がってきていた情報なのだが、軍内部で現政権の親中国姿勢に不満を持つ一派が、活動を活発化させているという報告があった。未確認だが、一部は外部のテロ組織と繋がっているという情報もある」

 

「なるほど。それで、うちで追っている組織との関連を疑っているわけだな」

 

そう話す荒巻課長。中国と言えば、先の第3次核大戦で沖縄を核攻撃し、完全に水没させてしまった事件が思い起こされる。中国の公式発表では現場が先走ったもので、組織的な戦闘行為ではないと弁明されていた。その上、部隊の全員処刑もあり、少なくとも表向きでは沖縄問題は解決をみたことになっている。

 

しかし、それはあくまでも外交上での話だった。戦争による怒りと憎しみがそう簡単に消えることはなく、今も国民の一部には根強い中国への不信感がある。それは中国がアジア側に立って参戦した第4次非核大戦を経ても残り続け、事あるたびに中国大使館前ではデモも行われているのだ。それを考えると、現政権の中国寄りの姿勢に反発する一派が存在することも納得できる。

 

「今のところは表立った行動を起こしてはいないが、既に一部の自衛官が監視対象になっている。おそらく、公安の“マル自”も動いているだろう」

 

事態は意外に深刻だった。マル自が動いているとなると、悠長に構えていることはできないかもしれない。警察庁公安部の組織であるマル自は、右翼的な思想を持つ自衛官をマークし、必要があれば身柄を確保することができる。自衛軍によるクーデターの阻止を目的とする彼らが動き出したということは、警戒が必要な段階に来ている可能性がある。

 

そんな自衛軍内部の不穏分子と、今回のテロの首謀者たちに繋がりがあるかもしれないというのは、正直驚きであった。もちろん、まだそれは推測の域を出ないものであるが、あり得ない話ではないのだ。

 

そうなると、単純な私怨の線で考えていた今回のテロ首謀者たちの動機その他についても、見直さなければならないのは必至だろう。思想が絡んでくると、個人的な恨みによる犯行と違って組織が大規模になる。数人から十数人といった規模でなく、数十人程度またはそれ以上の規模だとも考えねばならなかった。

 

久保田はようやく来たスパゲティを急ぎ目に食べ始めていた。仕事を抜け出してきた関係上、あまり時間がないのだろう。しかし、課長はコーヒーには口を付けられても、ケーキを食べる気にはなれなかった。

 

「ああ。あと、一つ言い忘れていたことがあったんだが…」

 

「なんだ?」

 

スパゲッティをフォークに軽く巻きながら、思い出したように久保田が言った。

 

「お前が前に言ってた例のロシア工作員の事なんだか、そのうちの2名が北海道を出てリニアで本州に入った。行き先は関東だ」

 

「何だと!?なぜ先にそれを言わん!」

 

「すまん、外事経由でてっきりお前の方でも掴んでいるかと思ったんだ。あと、これも未確認だが、連中はお前が追っている例のテロ組織の動きとも関係しているらしいとの情報もある」

 

それを聞いた課長は飛び上がるような思いだった。完全に寝耳に水だったのだ。

 

しかも、例のテロ組織が関係しているとなると、すぐに手を打たなければならない。課長は久保田に礼を告げると、2人分の支払いを済ませて足早にレストランを出た。予想よりも早く、テロ組織が次の動きを見せた。おそらく先の攻撃で混乱した合間を狙った行動なのだろうが、ここでみすみす思い通りにさせるわけにはいかなかった。

 

電通を使ってメンバーに緊急招集を掛けた課長は、タクシーに乗り込むと、すぐに本部に向かわせた。少しの時間も無駄にはできないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

課長がブリーフィングルームに入ると、既に主要なメンバーたちの多くが集まっていた。少佐にイシカワ、バトー、トグサ、それにパズとボーマである。しかし、サイトーは既に潜入捜査のため北海道に赴いているため、彼の姿はなかった。その代わりに、見慣れない2人の男が隅の方に立っていた。あまり見向きもしない少佐とは対照的に、バトーはその義眼でじっと彼らを睨みつけている。

 

「課長、全員集まっているわ。それで、彼らなんだけど…」

 

少佐がそう言い掛けたところで、男たちは2、3歩ほど前に歩き出したのち自ら口を開く。

 

「外事課のヨシダです」

 

「エビナです」

 

ヨシダと名乗った方は背が高く、全体的に骨張っていた。頬もこけ落ち、まるで骸骨を彷彿とさせる顔である。一方、もう一人の方は比較的小柄だが肉付きが良く、鋭い細目が印象的だった。2人とも黒っぽいスーツに厚手のトレンチコートを羽織っている。

 

外事の方から連絡がないと思っていたら、直接ここに訪れていたらしい。事態は急を要するのだからもっと連絡を早くよこしてほしいと思ったものの、あえて口に出すことはせず彼はそのまま頷くと静かに腰を下ろす。わざわざ来たからには、何か重要な報告事項があるのだろうか。

 

「ご存知とは思いますが、2名のロシア工作員が東北リニアより関東に入りました。そのまま東京方面を目指しているものと思われます」

 

ヨシダがそう報告するのを、課長は黙って聞いていた。ここまでの情報は、久保田からも聞いている。問題は彼らの目的だ。

 

「ここからが問題なのですが、彼らはどうも茨城県で開催予定の国際兵器見本市に向かう可能性が高いのです」

 

「兵器見本市?筑波研究学園都市で開かれるあれか…」

 

そう答えるバトー。課長も兵器見本市の情報は職務上、概要については把握している。4年前から始まったその見本市では主に銃器とAI兵器について、国内外の軍需企業数百社が参加するそれなりの規模を持つイベントだった。年々規模が拡大し、最近では装甲車や航空機も扱っているという。

 

それに向かったとはどういうことだろうか。単純に兵器の性能だけを調べたいのであれば、軍関係者を派遣するだけで事足りるはずだ。何らかの機密情報を狙っているとも考えられるが、そのような展示会に出展する兵器に機密情報を載せたままにする国などない。出すにしろ、ありふれた技術を利用する兵器に限られてくるはずだった。とすれば、工作員たちの目的はほかにあるとしか考えられない。

 

「そういえば最初、工作員たちは東京に向かっていると言っていなかったかしら?なのに、なぜ茨城に?」

 

そんな中、疑問に思った少佐がそう訊いた。確かに最初、彼らは連中が東京を目指すと言っていたのに、最終目的地は茨城だというのだ。北海道から南下して来るのであれば、東京まで行く意味はない。

 

「ええ、その通りです。東京に行ってから、茨木に向かうようです。それらも含めて、彼らの目的についても調べはついています。これですよ」

 

ヨシダがそう言うと、もう1人がファイルから数枚の写真を取り出した。そこには一隻の漁船が映りこんでいる。余程の遠距離から撮られたものなのかややぼやけていて、船名などは読み取ることができない。だが、見たところごく一般的な漁船で、怪しいところは見受けられない。

 

「彼らの動きを考えると、これを追っていると考えるのが妥当でしょう。写真では読み取れませんが、この船は『第18朝日丸』。登録先は神奈川県です。登記上の持ち主とは連絡がつかず、漁協に問い合わせても該当する船は存在しないそうです。加えて、その船が最初に目撃されたのは登録地からかけ離れた北海道ですから、何かあると考えて間違いはないでしょう」

 

課長の表情が一気に固くなった。少佐も真剣な面持ちで、写真をじっと見つめている。久保田から聞いていたことも踏まえると、この船がウイルスをばら撒いた例のテロ組織と関係している可能性が高い。それがこちらに来たということは、次なるテロの計画があるからに他ならない。

 

彼らの様子を見たヨシダは、一つ咳払いをするとさらにもう1枚の写真を取り出す。

 

「これが現場から送られた最新の写真です。今日の正午ごろ、旧江戸川区近くに停泊しているのを確認しました。内部の熱探知では人影は確認されず、既に船を下りたようです」

 

「なるほど。だけどそう考えると、2人以外にも既に工作員は潜んでいるかもしれないということになるわね」

 

勘の鋭い少佐の言葉に、ヨシダは頷いた。監視対象となっている工作員2人がまだ移動中ということは、船の尾行にはさらに人員がついているはずだった。本当に彼らがロシア工作員であるならば、尾行対象を野放しにすることなど考えられないからだ。

 

「未確認ですが、おそらくは。ソースは開示できませんが、あと2人は潜伏していると考えられています」

 

「兵器見本市を狙うというのも、そこから得た情報ね」

 

「ええ。情報によれば、既に1人は筑波研究学園都市内に入っているものと思われます。移動中の2人についても、尾行対象の動きによっては東京に向かわずそのまま筑波に向かう可能性も十分にあり得ます」

 

事態の推移は概ね把握した。つまり、工作員たちの側でも追っているそのテロ組織が兵器見本市を狙っているという情報を既に掴んでいるのだ。現時点で網を張って待ち構えているということも踏まえると、その信憑性も高いのだろう。

 

ロシア側がなぜテロ組織を追っているのかは分からないものの、いくら厄介な彼らが追っているからとはいえ我々が手を出さない理由はない。これ以上のテロ行為を防ぎ、早期の事件解決に結びつけるためにも、選択肢はなかった。

 

「情報提供に感謝する。ご苦労だった」

 

課長はそう言って軽く頭を下げる。2人はそのまま鞄を持つと、一礼ののち部屋を出ていった。ようやくその場に9課のメンバーだけが残され、ずっと緊張していたのかトグサが溜め息をついて表情を緩ませる。

 

「課長、いまのどう思う?」

 

「目的はともかく、見本市を狙うというのは大方正しい見方だろう。ただ、一つ気になったのがロシア側の動きだな」

 

「そうね。工作員にしては、動きが筒抜けになり過ぎだわ。おそらくは…」

 

「この問題は日本側に処理させたいということか。確かに、そう考えるのが妥当だろうな」

 

少佐の問いに、課長がこう答えた。普通に考えればあまりに出来過ぎているのだ。ここまで自分の行動を監視されて気づかない工作員など、小国ならともかくロシアともなればまずあり得ない。故意に外事の尾行を撒かず、目的に関する情報を漏らしたと考えた方が自然だった。

 

そして、そこまでして日本側にこれらの情報を漏らすことの目的は、一つしかない。テロ組織への対処だ。向こう側が偽装漁船を使うほど周到に準備を進めているとなれば、かなりの大ごとを起こそうとしているに違いはなかった。ロシア側もそれはなるべく防ぎたいところなのだろう。

 

もちろん、純粋にそれだけが理由であるはずはない。テロ組織の相手を日本側に任せている間、ロシア側が何らかの目的に沿って行動を起こす可能性が十分に大きかった。国内でみすみす彼らの好き勝手にさせるわけにはいかない以上、それについても注意しておかなければならない。

 

「それにしても、なぜロシアの工作員たちはわざわざ一介のテロ組織をそこまで監視するんですかね?ここは日本ですよ。わざわざリスクを冒してまで工作員を潜入させておいて、変だと思いませんか?」

不意にトグサがそう言った。確かにその通りではある。テロリストの監視任務なら公安が行うべきことである上、ここはロシア国外だ。彼らの国益につながるとは到底考えられない。しかし、課長は気づいていた。最初に工作員入国の知らせを受けた時に6課から得た彼らの目的に関する情報。それを踏まえると、ある推論が導き出せるのだ。少佐も既に気づいているのか、こう返す。

 

「そうね。だけど、最初に6課から得ていた情報。それを踏まえたら、分かるんじゃないかしら」

 

「6課からですか?確か、北端に隠された何かの回収って言ってましたよね。まさか…」

 

答えたトグサも、自分の言葉にすぐに気づいた。

 

「そう。おそらく、ロシア側が回収しようとしていたものを、テロ組織側が先に押さえていたのよ。しかも、奪い返そうとせずに尾行しているところを見ると、目的の物の所在を掴めていないかもしれないわね」

 

憂慮すべき事態になっているのは明らかだった。ロシア側が回収に来るほどの物なら、よほど危険な代物か、流出しては命取りになる情報のどちらかだ。それをテロ組織が手に入れたとなれば、利用しないはずはない。これまでの動きを踏まえると、可能性的には機密情報というよりも、NBC兵器などの大量破壊兵器と考えるのが自然だった。

 

「連中が行動を始める前に、手を打つ必要があるということか、これは今度のヤマも荒事になりそうだな」

 

そうつぶやくバトー。その場のメンバー全員が沈黙し、重い空気が辺り漂う。

 

そんな中、それを打ち破るように課長が声を上げた。

 

「よし。今すぐお前たちはタチコマを連れて筑波に飛べ。あくまで主目的はテロ行為の阻止だ。だが、ロシア側に悟られないよう、連中の動きにも注意を払うこと。いいな」

 

「了解」

 

答えたメンバーたちは、急いで部屋を出ると出動準備に取り掛かる。ロシアが動いている以上、向こうも何か手を打ってくるかもしれない。だが、全面衝突は避けるにしろ、ロシア側の思い通りにさせるわけにもいかなかった。それに加えて、目的の一切も分かっていない例のテロ組織の構成員を押さえる絶好のチャンスともいえる。ここで何としてでも構成員を捕らえ、情報を聞き出さなければ、この駆け引きに勝つことはできない。

 

その意味では、まさにここが正念場だった。

 




2018/10/14 一部修正

さて、今回の第8話では札幌が登場しました。もちろん、アニメ版や原作には札幌に関する具体的な設定はないので、あくまで私が考えた独自の設定という事でご理解をお願いいたします。
このような設定に至った理由として、原作中で言及される根室奪還作戦があげられます。道東とはいえ、一都市が某国(かの国しかないが)に占領されるということは、道内他地域においても空爆等、何らかの攻撃は受けていると推測されるためです。まあ、さすがに都心壊滅なんていう無差別攻撃は現代戦ではあまりなさそうですが、沖縄が消えたり東京が水没したりしている世界なので、ありそうかな~…、と。(とあるサイト様の考察では、房総半島や津軽半島が消えたり、かなり大規模に地形が変わっているところもある)
まあ、繰り返しになりますが独自の設定という事で受け流してくださいm(_ _)m
今後とも宜しくお願いします。


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第9話

凍てつく寒さの中、積み上げた段ボールの中で眠っていたサイトーは目を覚ました。ここは札幌の都心からやや離れた市街地の一角、先の大戦で荒廃したエリアの中であった。崩れかけたコンクリートの隙間からこぼれる微かな光が、周囲を薄明るく照らしている。周りには古びたコートを着たホームレスたちが、廃材を集めて各々でつくり上げた“住処”で眠っている。

 

彼がいるのは、戦前に通っていた地下鉄のトンネルの中だった。空爆で深刻な被害を受けて放棄され、今では彼らのような()()()()()()の路上生活者たちの住処となっている。地下空間ということもありトンネル内部は外気より暖かく、また風雪もしのげるのでここなしでは彼らは暮らしていけないだろう。

 

サイトーは必要最小限の物だけを詰めたバックパックを背負うと、トンネルの奥へ向かって歩き出す。やがて廃墟と化した地下鉄駅に行き着くと、ホームによじ登ったのち階段を上がり、地上へと出た。

 

《サイトーさん、おはようございます。いやぁ、昨日は寒かったですね。バッテリーの消耗が激しくて、途中で倒れるかと思いましたもん。サイトーさんは大丈夫ですか?》

 

タチコマから電通が入る。今の時刻は午前6時半。昨日のタチコマと別れてから、あらかじめこの時間に連絡をよこすように言ってあったのだ。

 

《ああ、大丈夫だ。それより、周囲に変わった動きはないな》

 

《はい!特に目立った動きはないです》

 

《分かった。そうしたら、昨日と同じ流れで行く。以上だ》

 

サイトーは素っ気なくそう返すと電通を切った。昨日、札幌に着いた彼は荷物を隠したのち、さっそくこの廃墟を回ってそれらしい勧誘がないか調べていたのだ。日が落ちる頃まで、仕事を探したり、都心から出たゴミを漁ったりして怪しまれないよう注意しつつ探ってみたものの、さすがに1日目では見つからなかった。

 

一方、タチコマの方も終始姿を隠しながら、通りで勧誘活動をしている怪しい人間がいないか、監視に当たっていた。そちらも特に該当者はなく、あまりの寒さにタチコマは文句ばかり言っていたようだったが。

 

結局、何の成果も得られなかった昨日は、そのままサイトーはホームレスが寝泊まりするトンネルで段ボールを積み上げて一夜を過ごし、タチコマは外で電線から電気を拝借しながら夜を明かしたのだった。

 

今日ももちろん街を歩いてそれらしい人物がいないか確かめるものの、それだけでは仕方ないので、パチンコ店などの店内でも探ってみることにしていた。道警からそういった店でも勧誘が頻繁に行われているという情報を、出発前に掴んでいたからだ。

 

(そろそろ引き当てられるといいんだがな…)

 

そうつぶやいた彼は、一人街を歩き始める。表通りの方では数台のワゴン車が駐められ、降りた男たちがテントを簡易なテントを組み立てていた。同時進行で調理器具なども車から積み下ろされる。慈善団体による炊き出しだろう。早くも周りには炊き出しを目当てに、行く当てもない路上生活者が集まっていた。

 

空腹を満たすにはちょうど良さそうだ。それに、ここら辺の人間に溶け込むためのカムフラージュにもなる。そう考えたサイトーは周りの者たちと同じように、ふらふらとそこに歩み寄ると、街灯の脇に腰を下ろす。さすがに冬の北海道の朝は凍えつきそうなほどで、厳しい訓練を受けてきたサイトーも丸くなって体を温めようとする。天気は雲一つないほどの快晴だが、雪の舞っていた昨日よりも明らかに寒い。いわゆる放射冷却現象というやつだろう。

 

すると、気づいた慈善団体の人間が近づいてきた。40代半ばで人の良さそうな、もの柔らかい表情の男だ。彼は寒さに縮こまっているサイトーの顔を見るや、さりげなく毛布を差し出した。押し黙ったままそれを受け取ったサイトーは、軽く会釈したのち頭からそれを被る。

 

「あんた、軍人さんかい」

 

そこで男が訊いてきた。左眼の眼帯に短く刈り上げた頭。彼の鋭い視線も相まって、軍人には見えても到底カタギには見えなかったのだろう。サイトーは相手の顔をじっと見返すと、落ち着いた声で答える。

 

「“元”、軍人だ。いまじゃ、このザマだ」

 

「そうか…。そういう人間はこの辺には多いんだ。国のために戦い、命をかけたのに、帰ってきたら殺人鬼呼ばわり。おまけに金も行く当てもない。私自身もかつてそうだったが、まったく、この国ときたら」

 

渡してきたときとは違う険しい表情を浮かべながら、男はサイトーにそう言った。そうして、懐から一枚の名刺ほどの大きさのカードを取り出すと、静かに彼に渡す。

 

「炊き出しの曜日とメニューだ。だいたいが雑炊だが、月に一度は豚汁も出す。あと、生活保護や仕事の斡旋もやってる。ここだ。一度来てみてくれ」

 

カードには献立表のほか、その事務所の場所を示す地図が載っている。ここからそれほど遠くないところにあるようだ。また、それ以外にも彼の言っていた生活保護や就職の斡旋、それに低額宿泊所の案内も書かれていた。

 

「ああ。機会があれば、行ってみる」

 

サイトーはそう答えると、カードをポケットにしまい込んだ。男は軽く頷くと、準備へと戻っていく。

 

もしかすると、カードをくれたあの男は本当の慈善活動家であることも否定できない。しかし十中八九、何らかの宗教団体か生活困窮者向けビジネスで荒稼ぎしているろくでもない業者の人間だろう。サイトーはそう予想していた。近頃のニュースでも取り上げられているが、そうした業者は斡旋費や宿泊所の経費などと称して、生活困窮者に受給させた保護金のほとんどを巻き上げるという。警察も摘発に動いているが、根絶には至らないのが現状だった。

 

しかし同時に、気になる点もあった。これはサイトーだからこそ気づけたのかもしれないが、毛布を渡しに近づいてくる前から、あの男の視線はずっとサイトーだけに向けられていたのである。まるで、狙いをつけていたかのようなあの鋭い視線。あれが意味するものは何なのか。

 

その事務所に行くのは、それを突き止めてからの方が良さそうだ。そう考えたサイトーは、毛布を背中に掛けると立ち上がり、間もなくできつつあった順番待ちの列に加わる。ぐつぐつとガスコンロで煮立てられる鍋からは湯気が上がり、どこまでも透き通るような晴天の空へと昇っていく。

 

やがて出来上がった雑炊を、給仕係がせっせとプラスチック製の小さなお椀に入れ、並んでいる人々に配っていく。サイトーもそれを受け取ると、脇に置いてあったスプーンも取って食べ始めた。味はほぼないに等しく、また米も原型を留めておらずほぼ液体のようになっている。質の悪い低級米か混合米を使っているのか、しばしば黒っぽい粒や固いものも混ざっていた。

 

それでも、この気が狂いそうな寒さの中では温かいというだけで、何もかもが美味しく感じてしまう。並んでいた路上生活者の中には食べ終えた後、再び並び直して2杯目や3杯目を食べるものもいた。サイトーも2杯食べると、お椀を回収カゴの中に重ねておいた。

 

「あんた、あの連中からカードをもらったのか?」

 

食べ終えたサイトーが歩き始めたとき、不意に後ろから声を掛けられた。振り返ると立っていたのは、50~60代と思われる路上生活者の男。灰色の髪はぼさぼさで、髭も生やし放題だった。

 

「そうだが、それが?」

 

「悪いことは言わん。やめておけ」

 

答えたサイトーに、枯れたようなガラガラの声で男はそう忠告してきた。

 

「何でだ?何かヤバイことでもあるのか」

 

「連中、宗教だ。ああやって若い者に声を掛けては、事務所に連れ込んで勧誘してるんだと。まあ、カネと飯が当たるのは本当だから、そのまま入信してく奴も多いけどよぉ。お前さんも気を付けな」

 

男はそう言うと片足を引き摺るようにしながら歩き去っていった。様子を見る限り、ここに長いこと暮らしている者なのだろう。そんな男が話した言葉ならば、かなり信憑性は高い。

 

そういえば、宗教というのは探している例の団体にも当てはまることだった。もっとも今の段階では何とも言えないものの、あの連中が目的の組織に通じているという可能性も十分にある。今日一日、他に怪しい動きがないあの団体について軽く触れ回ったら、行ってみるのもいいかもしれない。サイトーはそう考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ターボプロップエンジンの唸りが響く機内。しばしば小刻みな揺れが起こる中、少佐は早くも軍服姿に着替え終えていた。バトーもネクタイにジャケットと、普段とはかけ離れた身なりをしている。彼らが向かっている国際兵器見本市で出入り可能なのは軍関係者のみであるため、会場内に溶け込んで密かに警備に当たる彼らもそのような身分を偽る必要があったのだ。

 

一方、他の隊員たちは突入用スーツを着込むなど、重装備で臨んでいた。連れてきた4体のタチコマにも7.62mm小銃弾と50mmグレネードなど、フル装備の態勢を取らせている。現場に潜んでいるとされるロシア工作員と、何らかのテロを目論んでいる可能性のある例のテロリスト。警戒しなければならない相手が特に多い今回の作戦では、万全の態勢で臨むに越したことはなかったのだ。

 

「現場に到着したら、私とバトーは会場内で警戒に当たる。他のメンバーはタチコマに搭乗の上、何かあったらすぐに突入できるようにしておけ」

 

「了解」

 

改めて作戦を確認する少佐。今回の作戦では、そもそもテロリスト側がどういった行動を起こすのか、情報があまりにも少なかった。そのため、会場内に警備を集中させるわけにもいかず、少佐とバトーの2名で屋内、残ったメンバーとタチコマで屋外の警備を行うという形となったのだった。事件が起こった際は各自が現場に急行し、応戦することになっている。

 

もちろん、それだけではカバーしきれない範囲もあるため、県警公安部にも要請を出し、捜査官を要所に配置している。また主催者側にも警備員を増員させ、厳重な警備体制を敷いていた。工作員の方も、外事が要員を付けているという。

 

これで一応は、銃による襲撃や爆弾テロなど、ごく一般的なテロ対策の態勢は整った。しかし、この世界に絶対はない。どれほど徹底しようとも完璧に守ることは困難であり、どこかに綻びがある可能性は否定できない。それは少佐自身が、過去の経験として痛いほどに理解していることだった。

 

「少佐、例のログの解析が終わった」

 

そんな中、ダイブ装置のシートに座っていたイシカワがそう言った。彼は機内でも例のゲームサーバー内で少佐が出会った疑似人格に関するログの解析を続けていたのだ。

 

「そう、何か分かったかしら?」

 

「データの損傷が著しいもんで、誰の物か特定することはできなかった。だが、人数と性別は掴めた。3人で、いずれも男だ」

 

「なるほど…」

 

軽く頷いた少佐は、そのまま考え込む。自分たちの主張を代弁させていた疑似人格に組み込まれるということは、その3人というのは組織の中でも中心的な人物に他ならないだろう。そのうちの1人は確実にこれほどの偽装空間と疑似人格を組み上げるだけのスキルを有している。しかし、それ以外の2人については、絞り込めるものが少ないのは事実だった。

 

だが、本部では今ごろ課長が軍情報部から手に入れた諜報員とそのOBの要注意人物リストの解析を始めている。今回のウイルステロの手口と、あの偽装空間の中で話していた連中の主張も踏まえた犯罪者プロファイリングの結果との照合が行われ、特に疑わしい人物がリストアップされるはずだ。

 

「あと、ウイルスのトリガーの方なんだが、どうも感染者に起因する条件は関係なく、外部から起動されるタイプだったようだ」

 

「つまり、攻撃者が任意のタイミングでウイルスを起動したということね」

 

「ああ。もう一つ問題なのが、例のサーバーで感染した可能性のある人間は242人いることだ。そのうち、今回の事件で発症した人間は30人あまり。大多数の人間は潜伏している状態のままかもしれない」

 

続いて報告するイシカワ。それも懸案事項の一つであった。発症因子が犯人側の命令によるものだとすれば、その発症タイミングを予測することは極めて難しい。もちろん犯人さえ押さえられれば一気に無力化できるが、それを突き止められていない今の状況ではそれは不可能だった。

 

やはり、プロファイルとの照合結果を待つしかない。それがなければ、手の打ちようがないのだ。そんな中、ちょうど本部から電通が入る。

 

「軍情報部から受信したリスト記載の41名との照合が終わりました」

 

「すぐに詳細結果を転送して」

 

「了解しました」

 

間もなくオペレーターから照合結果の詳細を記したファイルが転送されてきた。まるで図っていたかのような絶妙なタイミングである。少佐は簡易なウイルスチェックののちファイルを開き、すぐに中身に目を通す。

 

「そういうことね…」

 

そこには特にマッチングした2名についてのレポートが載っていた。

 

「1人目は宇津見晴仁。1990年陸上自衛軍入隊。旧特殊作戦群など渡ったのち1998年より情報部にて特殊工作活動に従事。射撃、格闘戦ともに優秀な成績を収める。2人目は風間拓真。陸上自衛軍情報部所属、部内ではシギント、および電子諜報活動に従事。電脳戦スキルは飛び抜けて高く、民間のエンジニアから引き抜かれた過去を持つ」

 

ファイルには入隊時の顔写真も載せられていた。宇津見の方はいかにも肉体派という感じで、長方形のゴツゴツとした無骨な顔が映っている。対照的なのは風間で、肩まで伸びた黒髪に時代遅れの丸眼鏡を掛けていた。眼鏡越しに見える眼には独特のたるみがあり、瞼が酷く垂れ下がっていて目つきが悪い。

 

あくまでも顔写真は参考程度に捉えた方が良さそうだった。この写真が撮られたのは1990年代前半。当時は義体技術も未発達で顔を変えることなど整形手術でもしなければ不可能だったが、今では顔はおろか下手をすれば体まで変えることができる世界だ。むしろ、顔を変えていない方がおかしいだろう。

 

「相手は筋金入りのプロじゃねえか。こいつは苦労しそうだな」

 

「文句は聞かないわ。各自、この2人を見つけたら最優先で捕らえろ。顔は変わっていても、動きでそれと分かるはずよ」

 

少佐はそう言った。これほどのプロが相手なら、こちらとしても加減する必要はない。むしろ、下手に気を抜いたら最後、命取りになるかもしれないのだ。それに彼女の推測だと、いくら相手が相手でも単独で来るとは考えられない。練度に多少の差はあれ、それなりに訓練された連中を引き連れてくるに違いないのだ。

 

しかし、気掛かりなことも一つある。イシカワの報告だと疑似記憶に組み込まれていたのは3人の人格だと言っていた。しかし、リストと突き合わせて出てきたのは2人のみ。残る1人は何者なのか、それがもっとも気掛かりなのだ。

 

《間もなく会場に到着します》

 

コックピットにいるオペレーターから電通が入った。それを考えるのは後にしよう。今は、目の前の任務に集中しなければならない。少佐は軽く目を閉じると大きく息を吸い込み、心を落ち着かせる。

 

間もなく開かれたドアからは、上方に向けられたプロペラからの暴風が吹きこんできていた。ホバリングするティルト機は、ゆっくりと高度を下げて会場からやや離れた駐車場に着陸しようとしている。エンジンの回転数が徐々に落ち、甲高い駆動音が徐々に低い唸りへと変わっていく。やがて車輪が地面を捉え、巨大な金属の鳥はついに地上へと降り立った。

 

《私とバトーは以降別行動で会場に潜入。他のメンバーも作戦通り、タチコマと配置に着け》

 

《了解》

 

一足先に降りた少佐は、指示を下すと前方に目をやる。駐車場を分け隔てる木々の先に見える白いドーム。あの中で、見本市が行われるという。ティルト機の方では後部ハッチが開き、中からタチコマが光学迷彩を起動させて次々と飛び降り、そのまま辺りの景色に溶け込んでいく。

 

今度こそ、テロという凶行を食い止めなくてはならない。相手がたとえ元諜報員というプロフェッショナルだとしても、関係はない。犯罪の芽を事前に摘み取り、阻止する。これこそが、公安9課の仕事であり自分自身の職務なのだ。

 

彼女は自分にそう言い聞かせると、静かに会場の方に向かって歩き出した。

 

駐車場を抜け、県道に入る彼女。つくば市の中でも外れにあるためか、見回すと周囲には田園地帯が広がっていた。前世紀中ごろ、東京への一極集中を問題視した当時の政府により整備されたこの研究学園都市には、国立の研究機関を中心に数多くの組織が移転し、現在の播磨研究学園都市を凌ぐ発展を遂げていたという。

 

しかし、前世紀終わりの核攻撃で東京が壊滅してからは、関東圏全体が低迷の一途をたどってしまった。研究機関のほとんどは播磨など関西に移転し、また東京からの避難民などで混乱の時代を迎えたのだ。だが、戦争も終結した現在になると、状況は少しずつだが改善されつつある。

 

歩き続ける少佐。やがて、会場の大型ホールが目に入ってくる。近くには団体で訪れた関係者の大型バスが所狭しと並び、賑わいを見せていた。それでも、一般のイベントとはまた違った雰囲気もある。重い空気とでも言うのだろうか、とにかく妙な緊張感が辺りを包んでいたのだ。

 

それはもちろん、これが軍関係者のみを対象にしたイベントだということもあるだろう。しかし、さりげなく周囲に目をやればすぐに分かる。会場ゲートには金属探知機と警備員が配置され、さらにその近くを固めるのはSMGを提げた武装要員4名。加えて、見晴らしの良い建物の屋外デッキなどにも動こうとしない私服の男が何人かいる。上空には警備用のドローンが旋回しており、おそらくは搭載された高解像度カメラで周囲の人物の顔認証を行っていると思われる。

 

また、姿は見えないが自分と同じく来場者を装って警備する者も何人かいるだろう。これだけ厳重な警備体制を敷いていれば、普通の人間なら何も心配はいらないようにも思えてしまう。

 

しかし彼女は違った。屋外にも展示された商品を見たり、資料を取ったりしていかにも関係者を装いながらも、さりげなく周囲に目をやり、挙動不審な人物がいないか探し続ける。途中でメーカーの担当者に話し掛けられても、注意を怠ることはなかった。それはもちろん、バトーも同じであろう。

 

時間が経つにつれ、徐々に来場者の数が多くなってきていた。それもそのはず、この見本市は今日がその初日であり、オープニングセレモニーも開催されることから最も多くの来場が予想されていたのだ。課長はそれも踏まえて、少佐たちを即座に送り込んだのだった。

 

そんな中、少佐は考え込む。元々、テロというのは自分たちの主義主張を行動で表すものだ。その性格上、もっとも効果を発揮できるのはより大勢の人間がいる場所になる。その点についてはアマチュアだろうとプロだろうと、変わることはないのだ。連中がテロを起こすとしたら、今日のオープニングイベントの最中。それがもっとも濃厚だろう。

 

オープニングセレモニーまではあと20分ほど。来場者が続々とゲートから建物内へと入っていく。その様子を見ながら、少佐はバトーに電通を繋げた。

 

《バトー、聞こえてる?》

 

《ああ。聞こえるぜ》

 

《私は先に建物内に入るわ。あなたも適当なタイミングで内部の監視に移って》

 

《分かった》

 

バトーの返事が脳内に響く。その声に微かなノイズが混ざっているのに、少佐は気づいていた。周囲を飛んでいるドローンによるノイズなのか、それとも会場内の人々によって輻輳が発生しているのか。それは分からないものの、どうも嫌な予感がする。

 

改めて周囲を確認した彼女は、ゲートへと向かった。警戒に当たる武装警備員に身分証を見せると、携行していたセブロM5をホルスターから抜き出し、予備弾倉とともにトレイの上に置く。ボディスキャナーを使って義体内に怪しい仕掛けがないか調べ終わると、彼女はセブロを受け取って建物内へと足を踏み入れた。

 




2018/10/17 一部修正

どうも、変わり種です。
不定期な投稿となってしまい申し訳ありません。
次回の投稿日時についても確定できないですが、できる限り更新ペースを維持したいと考えております。2月を過ぎれば以前のペース程度にはなると思いますので、何卒ご了承ください。今後ともよろしくお願いします。


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第10話

「こちらは新型の近距離防空システムになります。レーダーで捕捉した敵機並びにミサイルをこの発振器より照射される出力100kWの高エネルギーレーザーにて迎撃、即座に破壊可能です」

 

会場内では早くもセレモニーの開始を待たずに、宣伝を始めるブースが出始めていた。通り掛かった少佐の目の前では、この見本市の目玉ともいえる米帝軍需企業が開発した新型防空システムが展示されている。車体は典型的な多脚式で、細長い4本の脚の先には鋭いカギ爪が付いている。山中など不整地での対空陣地構築にはもってこいだろう。

 

会場奥を見れば大型スクリーンにロゴが投影され、スタッフが慌ただしくスタンドマイクなどのセッティングを行っていた。その脇では背広姿のいかにもお偉方風の人間たちが、挨拶を繰り返しながらお決まりの社交辞令を交わしている。

 

《バトー、配置にはついた?》

 

《ああ、バッチリだ。年寄りどもの顔が良く見えるぜ》

 

彼にはよりステージに近いところで警戒に当たらせていた。何かが起こったとき、最も駆け付けやすくするためだ。一方の自分は、セレモニー会場の後方から全体を眺めていた。怪しい動きをする者を見つけ次第、関係者を装いつつ近づき、バトーと連携して身柄を押さえるのだ。

 

「大変お待たせいたしました。これよりオープニングセレモニーを行います。ご来場の皆様には大変恐縮ではございますが、セレモニー会場にお集まりくださいますようお願い申し上げます」

 

落ち着いた男の声のアナウンスが流れる。すると、雑談に興じたり展示ブースを視察していた関係者たちが一斉にセレモニーが行われるステージの方へと歩き出した。軍関係者が多いためか、彼女の前を通り過ぎる男たちは例外なく軍服姿で、屈強な体つきをしている。

 

その中から少佐は懸命に挙動不審な人物がいないか目を光らせていた。それだけではない、会場内の監視カメラと警備用のドローンからも映像を受信し、自らの電脳内で展開して監視を続ける。写っている人間の数は100をゆうに超えるが、AIを使えば挙動が怪しいかどうかの判別はすぐにできる。少佐にとってはそのような作業など朝飯前のことだった。

 

今のところ、特に怪しい人影は見受けられない。そうしている間に、来場者たちが集まり終わってセレモニーが始まる。長々しい挨拶をしているのは主催者の代表である、武田春義という男だった。ほとんど禿げ上がった頭はスポットライトの眩い光に照らされている。彼は外務省の幹部OBで、見本市の開催を主導した一人だった。

 

表向きでは戦災により壊滅した関東圏の振興のためだが、経済効果にあやかれるのは彼と結びついている企業くらいだろう。彼は退職後、典型的な天下りで外交政策研究所といったシンクタンクの顧問を務めたのち、国際通商振興協会の参与に就いたものの、良くも悪くもその並外れた手腕で数々の開発事業やイベントを誘致してきたという。もっとも、その裏では数々の企業との癒着も取り沙汰されているが。

 

少佐はそんな男の挨拶を黙って聞き流していた。幼い頃のこの辺りの思い出話をしたかと思えば、東京の悲劇について語り出すなど、よくもまあこれほどの長い挨拶を考えるものだ。そのうち来場者の大半も飽き始めたところで、ようやく挨拶が終わり、武田は自分の席に戻った。

 

その時、少佐の目にあるものが映る。

 

大勢の来場者たちに紛れ、スーツ姿でセレモニー会場に立っている一人の男。どこか見覚えがあるその男は、演壇に目を向けて引き続き行われる役員の挨拶を聞いていた。いや、そうではない。聞いているのを装っているだけで、その注意は全く別の者に向けられているようだ。そこで、ようやく少佐はその男のことを思い出す。

 

(外事の連中か)

 

彼は9課に来ていた外事のエビナという男だった。勘付かれない程度にさりげなくその近くを見回すと、もう1人の骸骨っぽい顔のヨシダも見える。彼らが来ているということは、その近くにロシア側の工作員もいるのだろう。

 

《バトー、気づいた?》

 

《ああ、ちょうど今な。役者が揃ってきやがった…》

 

バトーは面倒臭そうに溜め息をつきながらそう答えた。しかし、予想とは裏腹に何かが起こるという気配は何もない。セレモニーも順調に進行し、やがて司会者が再びマイクの前に立つと、閉会を宣言する。

 

「それではオープニングセレモニーを終わります。皆さま、どうぞ最後までお楽しみ下さい」

 

結局、何も起こらないのだろうか。だとすれば、犯行のタイミングはいつなのか。今日の午後には新型無人機のデモ飛行が行われ、明日以降も防空システムの実演や車両の展示走行が行われる。狙われる可能性も十分にあるが、それでもセレモニーよりは参加者は少なく、効果的な目標であるとはいえない。だとすれば、いつだ。

 

来場者は再び互いに雑談に興じつつ、ステージから離れて展示ブースの方へと向かっていく。時折笑い声が聞こえる中、少佐は何度も周囲を見回す。異状はない。本当に何も起こらないのか。

 

その時だった。

 

《少佐っ!》

 

バトーが叫んだ。同時に聞こえる破裂音。ステージ後方から煙が上がり、白い軌跡を残しながら放物線を描く光が、演台を飛び越えて来場者が集まっていたステージの目の前に突っ込む。その数は5つ。瞬時に身をかがめるものの爆発は起こらず、弾は床をバウンドすると灰色がかった濃い煙を猛烈な勢いで噴き出した。

 

スモークグレネードだ。

 

驚いた来場者たちが一気に後ろのブースの方へと殺到する。催涙ガスも含まれているのか、逃げる来場者はみな酷く咳込んでいる。煙は瞬く間に広がり、ステージ前はほとんど見えなくなった。迫りくる白い壁に追い立てられるがまま、出入り口へと殺到する来場者たち。だが、逃げ惑う彼らが向かう先には4人の警備員が立っていた。

 

ゲート付近で警備に当たっていたはずの重装備の警備要員だ。なぜ彼らが持ち場を離れてここにいるのか。それは分からないが、彼らは躊躇うことなくSMGの銃口を来場者たちに向ける。目の前のあまりの出来事に、逃げ惑っていた来場者たちは凍り付いた。

 

間もなく、SMGのトリガーに指が掛けられる。

 

それを見た少佐は、考えるよりも先に体が動いていた。

 

抜き出したセブロM5を連射し、警備員の1人に浴びせる。貫通力の高い高速徹甲弾は警備員の義体化された脚の骨格を粉々に砕き、足元から崩れるように倒れさせた。それを見た来場者たちは悲鳴を上げ、左右へ散り散りになって逃げ出す。

 

警備員側は障害の排除を優先したのか、来場者に向けていた銃口を少佐に向け直した。彼女はその場の机を押し倒すと、後ろへと身を隠す。間もなく乾いた連続音が轟き、無数の9mm弾が襲い掛かった。金属製のテーブルだったが発射速度の速いサブマシンガンの攻撃に大きくへこみ、早くも弾が貫通し始める。

 

このままでは自分まで蜂の巣にされてしまう。少佐は一気に体を起こすと、大きく踏み切って跳躍した。その高さ、10メートルあまり。驚異的なその動きに射手は追いきれず、弾幕に隙ができる。

 

それを見逃さなかった少佐は、空中からバースト射撃でもう1人の警備員の脚を折り砕くと、瞬時に肉薄して別の1人を蹴り飛ばし、ブースのパーテーションに激突させる。最後に残された1人が少佐に銃口を突きつけたが、その頃にはバトーも到着していた。背後から電脳錠を刺された警備員は、体を硬直させたまま床に倒れる。

 

《こいつら、いったいどうしちまったんだ?》

 

《ウイルスかもしれないわね。今から潜るから、周りの警戒宜しく》

 

《おい!》

 

戸惑うバトーにそう言った少佐は、言い返す暇も与えず身代わり防壁を通して警備員の電脳にアクセスする。

 

見えてきたのは激しく損傷した記憶野。それだけではない、言語、視覚、運動など、あらゆる領域が障害を受けていた。この様子は以前、異常行動を起こした機長の電脳を解析したときと似ている。まるで貪り食われたかのような損傷。これは、明らかにウイルスに起因するものだろう。

 

さらに深部へと潜る少佐。機圧が徐々に高まり、全身が締め付けられるような痛みに襲われる。ウイルス感染による影響もあるだろう。痛みをこらえながら進むと、ゴーストラインが見えてきた。周りを取り巻く記憶がどんどん弾けて萎んでいく。どうやら、ウイルスはいまこの瞬間も脳を貪り食っているようだ。

 

まずはそれを止めなければ。少佐は防壁アレイを展開する。食い尽くされた記憶がもはや意味のない断片化した情報と化し、辺りに漂う。例えは悪いかもしれないが、水中を漂う肉片のようだった。

 

(そこか!)

 

少佐は急速に形を変える記憶の塊を見つけるや、周囲の記憶ごと防壁で包囲した。記憶は徐々に食い尽くされ、萎んでいく。そして、間もなく完全に消失しようとしていたとき、内部から表面を食い破って黒い塊が出てきた。

 

赤い目を2つ持ち、線虫のようにうごめきながら記憶に食らいついていく謎の物体。これこそがウイルスの実体なのか。少佐は冷静に相手の動きを観察する。信じられないが、動きは生物のそれとまるで違わない。好物でも食べるかのように記憶を貪り食う真っ黒い怪物。間違いない、これがウイルスの本体だ。

 

少佐は防壁を強め、一気にウイルスを押し固める。最初は暴れ狂っていた黒い線虫も、少佐の力には及ばず、やがて丸まって黒い塊となった。これで動き出すことはないだろう。あとはこれを本部で解析すれば、ワクチンに近いものがつくれるはずだ。

 

意識を徐々に浮上させた少佐は、警備員の電脳から落ちる。

 

「少佐、どうだった?」

 

「ウイルスを押さえたわ。あとはこれを解析すれば、いけるわね」

 

真っ先にそう訊いてきたバトーに、少佐はそう答えた。周りでは来場者たちが駆け付けてきた他の警備員に先導され、建物の外へと避難している。

 

だが、少佐には一つ引っ掛かるものがあった。どこから、この4人がウイルスに感染したのかということだ。今日が初日だということも考えると、それ以前にこの4人に接触してウイルスを仕掛けるのは難しいだろう。すなわち、4人が行動をともにしている間に狙われたとしか思えなかった。

 

そしてそれは、この見本市の期間中に他ならない。

ふと、会場入りしたときのことが頭に浮かんだ。あの時、バトーとの交信に入っていた微妙なノイズ。それが分割送信されたウイルスだとしたら、全てが説明できる。

 

《本部!県警に連絡して会場を封鎖。タチコマ、会場から逃げる怪しい者がいないか監視しろ。課長には後から連絡するわ》

 

《了解》

 

瞬時に指示を出す少佐。そこへ、バトーが訊いてくる。

 

「現場封鎖して意味あるのか?最初から場外から送信してきているかもしれないぜ」

 

「それは考えにくいわ。警備員の交信に使っていたのは会場だけのローカルネットよ。その内に外部と通信するような端末を設置したら、余程の馬鹿でもなければ見落としたりはしないわ。少なくとも私達がここに来てから、そんな異状はなかったし」

 

「つまり、犯人の野郎はこの近くにいるってことか」

 

「そうね…」

 

少佐はそう答えた。同時に、あることに気づく。もし、本当に犯人側が会場内のローカルネットを経由してウイルスを撒いていたとしたら…。

 

まずい!

 

思わず振り向いた少佐。大半の来場者が逃げ終えた会場内は静まり返っていたが、控え室の方から背広の一団が出てきた。おそらく、先ほどの騒ぎの中で退避していたのだろう。その中には、先ほど挨拶に立っていた武田氏の姿もある。周りには数人の警備員が張り付き、屋外へ通じる非常口までエスコートしていた。天井近くには耳障りなプロペラ駆動音とともにドローンが飛び、会場内を監視下に収めている。

 

その時、突如として爆音が轟いた。

 

無人のはずの展示車両が突然起動し、エンジンが唸りを上げる。赤松製作所製の装甲機動車だった。ギヤが勝手に操作され、マフラーから白煙を噴き出した機動車は車輪止めを弾き飛ばすと、一直線に武田氏に向かって進み始めた。

 

銃声が響く。警備員たちが懸命に応戦するものの、拳銃弾程度ではエンジンブロックを撃ち抜くには至らない。武田氏の傍にいたボディガードと思しき背広の2人が強引に彼を引きずって物陰に隠れさせる中、運悪く逃げ遅れた警備員数名が機動車にはね飛ばされる。

 

機動車はなおを止まらず、エンジンを唸らせてバックすると、隠れている武田氏に向かって突っ込んでいく。凄絶な衝撃音が轟いて、彼らが身を隠していた展示ブースは無惨にも轢き倒された。パーテーションが折り重なるように倒れ、照明がショートして火花を散らせる。

 

すぐに少佐たちが救援に駆け付けようとするものの、行く手を塞いだのはこともあろうか警備用のドローンだった。モーターから甲高い駆動音を響かせると、ドローンは一気に高度を落として襲い掛かる。搭載されているのは暴徒鎮圧用のテーザーガンだが、電圧は100万ボルト近くと油断できない。メーカーが展示も兼ねて警備に当たらせているだけあって、スペックも自信のあるものなのだろう。

 

放たれた電撃針を横っ飛びして躱した少佐は、セブロから火を噴かせる。急速離脱するドローンだが、少佐の敵ではない。プロペラの一つがモーターごともぎ取られ、続けて放たれたもう1発が胴体を粉々に粉砕する。

 

バトーも負けていない。FNハイパワーを連射してドローンを片っ端から撃ち落とし、早くも警備ドローンは全滅した。目の前ではまだ武田氏側が装甲機動車から逃げ惑っていたが、徐々に追い詰められている。早く向かわなければ、轢き殺されてしまうのは時間の問題だった。

 

「先に行くわ!バトー、援護を!」

 

大きく飛び上がった少佐。そのまま装甲機動車のボンネットの上に着地すると、構わずセブロを車体に向けて連射する。暴れ牛の如く機動車が動き回る中、同一箇所にあり得ないほどの正確さで撃ち込まれる高速徹甲弾の嵐に、さすがの装甲も耐え切れず数発で大穴が穿たれた。

 

彼女は手早くピンを抜きその中に手榴弾を放り込むと、ボンネットを蹴って車から飛び降りる。間もなく炸裂した爆薬で車体からは火柱が上がり、同時に獣のようなエンジンの唸りが一瞬にして断ち切られる。

 

安心もつかの間、再び響き渡るエンジンの唸り。

 

あろうことか着地した彼女のすぐ背後でもう一台の装甲車が動き出し、爆音とともに一気に彼女に突っ込もうとしていたのだ。思わず声を上げるバトーだが、到底この距離では間に合いそうもない。

 

しかし次の瞬間、装甲車が突如として吹き飛び、真っ赤な炎に包まれる。振り返った少佐。そこには、グレネード砲からは微かに白煙を上らせるタチコマの姿があった。

 

「少佐、援護にきました~!」

 

「遅い!武田氏の保護、最優先だ!」

 

「りょうかい!」

 

タチコマが元気よくそう答えた。会場内からは続々と不気味な起動音が響き続ける。少佐とバトーは武田氏側に合流すると、ひとまず非常口を目指した。とにかくこの場を離れることが何より重要だったのだ。

 

一方、タチコマはチェーンガンから火を噴かせて襲い掛かってくる兵器の迎撃に当たっていた。幸い、展示用ということで実弾は装填されておらず、襲ってくる車両群もほぼ軽車両が中心だった。また1つ、向かってきていた4輪バギーをスクラップにしたタチコマは、少佐を追って出口へと向かう。

 

非常口では警備員が先にドアを開け、外の安全を確かめようとしていた。そこへ背広姿のボディガードが拳銃を抜き出し、警備員に代わって開いたドアの微かな隙間から外の様子を窺う。バトーとともに後方を固めていた少佐は、彼が抜き出したその銃を見るや、目を疑った。

 

(セブロM5?一介のボディガードがなぜ?)

 

特徴的なフィンガーレストとスライドの刻印。間違いはなかった。しかし、セブロM5は政府機関にしか出回らない官用モデルのはずだ。それをこの男が持っているという事は、彼も政府機関のいずれかに属しているということになる。

 

「行けるぞ、来い!」

 

安全を確かめた警備員たちの声がドア越しに聞こえた。それを受けてボディガードの先導のもと、武田氏が外へ出ようとする。考えるのは後にするほかない。今は目の前のこと以外に気を配っている余裕はないのだ。襲い掛かってきた警備アンドロイドを撃ち倒した少佐は、弾倉を替えつつ彼らの後に続いていく。

 

「危ない!伏せろッ!」

 

だがその時、鋭い悲鳴が耳に飛び込んできた。

 

とっさに武田氏の腕を掴み、引きずり倒す彼女。

 

同時に周囲に雷でも落ちたかのような凄絶な衝撃音が響き渡った。何と、突如として非常口のドアが壁ごと吹き飛んだのである。ドアはそのまま反対側の壁面に激突して大破し、もうもうと粉塵が舞い上がる。倒された武田氏はかすり傷で済んだものの、巻き込まれた警備員とボディガードは吹き飛んだドアの直撃を受け、瓦礫の下敷きになっていた。

 

起き上がった少佐の目に飛び込んできたのは、凄まじい威圧感のもと仁王立ちし、行く手を塞いでいるアームスーツの姿だった。屋外展示されていた、ドイツ製の軍用強化外骨格だろう。輪郭は一部が直線的で、流線型である海自の303式に比べると無骨な印象がぬぐえないが、カタログスペックは現用のアームスーツの中でもトップクラスだった。

 

「ふざけんな!アームスーツかよ…。少佐!」

 

「分かってる!とにかく中に戻るわよ!」

 

壁に沿って移動を始める少佐。警備要員が全滅した以上、武田氏を守れるのは自分たちしかいなかった。武田氏を背負い込んだバトーはタチコマの支援を受けつつ、少佐の後に続いていく。バトーの背中に必死にしがみ付く彼は、もはや顔も上げることすらできず、完全に震えて縮こまっている。先ほどまでの自信に満ち溢れた態度からは予想もつかない、あまりに滑稽な姿だった。

 

先頭に出たタチコマが、グレネード砲を発射する。向かってきていたイスラエル製の兵站輸送用多脚車両が派手に吹き飛び、続いて掃射されるチェーンガンが立ち塞がる警備用アンドロイドを粉砕した。

 

「どんなもんだい!」

 

得意げにそう叫んだタチコマ。

 

しかし次の瞬間、突如として彼の体が眩い閃光に飲み込まれた。響き渡る一瞬の悲鳴。

 

少佐ですら、何が起こったのか分からなかった。弾き飛んだタチコマは2、3回ほど床を横転すると、壁面に激突してようやく止まる。右側の脚2本が蒸発したかのように消し飛び、胴体のFRP装甲はドロドロに溶けていた。体の右半分が黒く焼け焦げ、煙がもうもうと立ち上る。

 

「タチコマッ!」

 

バトーが叫ぶ。彼の装甲を瞬間的に溶かすほどの熱量など、通常の弾薬による攻撃ではあり得なかった。だとすれば、相手は…。

 

振り向いた少佐。そこには4本の支持脚のもと自立する、対空戦車の姿があった。この見本市の目玉商品とされ、レーザーを用いて攻撃する最新式の近距離防空システムだ。

 

《外のタチコマ3体をよこして!大至急よ!》

 

「少佐、タチコマが!」

 

「動けるようなら死んだフリさせといて!逃げるわよ!」

 

戦車は主砲の照準を無惨な姿になったタチコマから少佐たちに絞り込む。搭載の高出力化学レーザー発振器の出力は100kWをゆうに超える。タチコマですらあの有様になったこと考えると、直撃を受けたら全身義体の自分の体も黒焦げになるどころか、蒸発しかねなかった。

 

間もなく発射されたレーザーは展示ブースのパーテーションを貫き、壁面に命中して眩い光を放つ。合板の壁は一瞬で蒸発し、大穴が穿たれた。反対側に逃れようとする少佐たちだが、行く手を塞ぐように先ほどのアームスーツが建物内に突入してくる。2人は完全に挟まれてされてしまった。

 

もはや、万事休すだった。

 




2018/10/18 一部修正

どうも、変わり種です。
今回登場したレーザー兵器ですが、コンセプトとしては艦船用のCIWSを陸上配備型にしたものに近いです(いわゆるCounter-RAM)。そのため射程距離も10キロ~15キロ程度という設定。ただ、そもそもの目的が近接防空なので、突っ込んでくる迫撃砲弾やロケット弾を迎撃するには十分でしょう。現実でいうところの、イスラエルのアイアンドームに相当する兵器です。発射には膨大な電力が必要ですが、本作に登場した物は発振器の材料開発で変換効率を高め、車載ガスタービン発電で賄えるレベルまで落としたという感じで・・・。


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第11話

徐々に距離を詰めてくるアームスーツと対空戦車。レーザー砲の砲口はピタリと少佐に狙いを付けたままだった。銃弾ですら躱すのは困難なのに、光速のレーザーを躱すことなどできるはずもない。何もしなければ、このまま丸焼きになるのがオチだろう。

 

しかし、絶望的な状況の中でも、彼女の電脳内では既に次の一手を打っていた。そして、バトーにも即座に電通を通じて策を伝える。もはや議論している余裕もない。バトーは彼女から伝えられた通りに、義体の心肺機能を極限まで高めておく。

 

《行くぞ》

 

合図と同時に頭上のスプリンクラーが起動し、霧状になった大量の水が凄まじい勢いで噴射された。対空戦車が迫っていたごくわずかな間に、彼女は施設の警備システムを掌握してコマンドを送っていたのである。

 

武田氏を抱えたバトーは脚で床を力の限りに蹴り飛ばして大きく跳躍し、アームスーツを飛び越えた。たちまちスーツのズボンが裂け、ジャケットも千切れるが、そんなことに構っている暇はない。即座に殴りかかろうとする相手に、バトーは叫び声を上げながらFNハイパワーを連射しつつ、身をよじって空中姿勢を変える。

 

「ぐっ…!」

 

間もなく放たれた強烈なフックが空気を切り裂き、バトーに襲い掛かった。辛うじて直撃は避けるものの、躱し切れずにハイパワーを握っていた右腕の肩に打ち込まれ、内部骨格が潰れる鈍く生々しい衝撃音が響く。

 

一方の少佐も噴射と同時に横っ飛びしたものの、放たれたレーザーが左足の足首を消し飛ばした。スプリンクラーでまき散らされた水滴に乱反射して少しは威力が抑えられると思ったのだが、この至近距離ではあまり効果がなかったようだ。床を転がった少佐はそのまま煙を燻ぶらせているハンヴィーの陰に隠れる。先ほどタチコマが破壊したものだが、エンジンがやられているだけでボディの装甲は健在だった。

 

セブロの弾倉を入れ替えた少佐。バトーはアームスーツの追撃を躱しつつ、控室へと通じる通路へと飛び込む。天井の高さが低いため、大柄のアームスーツは頭がつかえて入れないようだった。その間に彼は縮こまっている武田を奥へと避難させ、牽制とばかりに持ち替えたFNハイパワーをアームスーツに次々と撃ち込んでいく。

 

そんな中、少佐は相手の意表をついてハンヴィーの影から一気に飛び上がった。じわじわと近づいていた戦車にとっては突然の出来事で、主砲の照準が間に合わない。躊躇わずに戦車に肉薄した彼女は、そのまま砲塔の上に飛び乗って搭乗用のステップにしがみつく。

 

戦車が細い4本脚で少佐を振り落とそうと力の限りに暴れる中、彼女は冷静に搭乗用ハッチを見つけるとセブロを連射する。主力戦車級ではないが、やはり軍用車両相手では高速徹甲弾といえども装甲を撃ち抜くことはできなかった。そこで彼女は狙いを変え、なんと自らレーザー砲の砲身に取り付いたのだった。

 

たちまち反応物質が装填され、高エネルギーレーザーが発射されようという瞬間に、彼女は正面の集束用レンズにありったけの銃弾を撃ち込む。防弾処理されているとはいえ効果がないわけではなく、レンズには蜘蛛の巣状に細かなひび割れが無数に入った。

 

そこに発射されたレーザー。乱反射と熱膨張でレンズが粉々に砕け散り、同時にあらぬ方向に放たれたレーザー光がその場のあらゆるものを焼き尽くす。セブロを握っていた少佐の腕にも直撃して手首から先がもぎ取られたが、相手自身にも乱反射したレーザー光が命中してハッチが焼き切られた。

 

彼女は迷うことなく切断されたハッチを蹴り飛ばすと、首元から伸ばしたQRSプラグを接続ポートに差し込む。メーカー所有の試験機体のため、手がかかるとはいえ軍用防壁ではなく、3秒足らずで戦車のAIには侵入できた。すぐに少佐は機能停止させるとともに、逆探を掛けてウイルスを送った人間の割り出しに掛かる。

 

中継器を越え、電脳空間を瞬時に遡っていく彼女。相手の電脳を見つけるのと同時に、張られていた敵の攻性防壁が襲い掛かってくる。勝負は一瞬だった。即座にプラグを引き抜いて攻撃を避け、戦車のポートからは火花が散る。静かにコードを戻した少佐の口元は、心なしか緩んでいた。

 

何と彼女は離脱する寸前のほんのわずかな瞬間に、相手の電脳にウイルスを叩き込んでいたのだ。直撃を受けていれば今ごろ相手は動けなくなっているはずだ。

 

「手慣れた攻性防壁の走らせ方だったな。まだこの近くにいるのか…」

 

そうつぶやいた少佐は、動かなくなった戦車から飛び降りた。左足をやられているので、両脚で着地することはできず、転がるようにして何とか受け身を取る。バトーに襲い掛かっていたアームスーツもようやく動きを止め、力なく両手を下げてひざまずいている。彼女が攻撃者に叩き込んだウイルスが効いたのだろう。

 

「少佐、お待たせしました!」

 

その声とともに、もう1体のタチコマがホールの非常口から派手に姿を現した。ポッドの中から姿を現したのはトグサである。

 

「すいません。屋外展示の兵器が突然暴走しだして、止めるのに手こずってしまって…」

 

「反省は後よ。それより今は攻撃者の身柄を押さえるわ。タチコマを貸して」

 

少佐はそのままタチコマに乗り込むと、すぐに外に出る。持ち場につかせていたパズとボーマたちは、まだ暴走車両の相手をしているようだ。ウイルスが効き始めるはずなのでもうすぐ止まるだろうが、彼らの援護は期待できない。

 

《少佐、結構ケガをしているようですけど大丈夫ですか?》

 

《あなたが心配することはないわ。そんなことより、早く目標座標に急いで》

 

《ラジャー!》

 

心配してきたタチコマにそう返した少佐。確かに左足と右腕を失うなど、今回はかなり義体を損傷してしまった。本部に着いたらメンテが先になるだろうが、自分の体よりまずは相手を押さえることが先決だ。

 

屋根を飛び越え、アスファルトの上に着地するタチコマ。逆探を掛けた結果ではこの先の駐車場内に攻撃者が潜んでいるらしかった。車からウイルスを送り込み、そのまま逃亡するつもりだったのだろう。しかし、それならなぜ今ごろになっても逃げずにここに長居しているのか。それがひとつの疑問だった。

 

警戒した少佐は念のため光学迷彩を起動させ、大きく回り込んで駐車場に入らせる。バスやワゴン車、それに設営のためのトラックなど、様々な車が駐められている中で、ようやく彼女は目的の車両を見つける。つくばナンバーの黒いセダン。おそらくは盗難車だろう。

 

しかし、驚くことにそこには先客がいた。タチコマの熱探知で見ると、ちょうどその車の陰に1人。その隣にはうつ伏せで倒れているもう1人の姿もある。何が起こっているのか全く分からないが、まずい状況なのは確かだろう。

 

《パズ、ボーマ。すぐにこっちに来れるか?》

 

彼女が電通でそう送ったときだった。

 

凄まじい衝撃が襲い掛かり、同時に目の前の景色が目まぐるしく変わる。どうやらタチコマのポッドから弾き出されたようだ。アスファルトの地面を転げ、体中が擦れて痛みが走る。顔を上げると、そこには力なく倒れているタチコマと、2メートルをゆうに超える大男が立っていた。

 

金髪の頭は短く刈り込まれ、顔には銀色の戦闘用ゴーグルを被っている。コートの隙間から垣間見える長い両腕は明らかに改造されたもので、金属部分が剥き出しになっていた。片方はタチコマに頭から叩き込まれ、しばしば火花が散っている。サイボーグとはいえ一撃でタチコマを行動不能にするなど、相手はただ者ではない。しかも、こちらは光学迷彩で姿を隠していたのだ。

 

すぐにセブロを抜き出し、トリガーを引き絞った少佐。相手はその長い腕で高速徹甲弾をもろともせずに弾きながら突っ込んでくる。あり得ないほど長いリーチで打ち出されたフックが少佐の頭上を切り裂き、間髪開けずにもう一撃が彼女に襲い掛かった。辛うじて後ろにのけ反り、それを躱すものの、相手は攻撃の手を休めることはない。

 

手負いの分、明らかに少佐が不利であった。相手の攻撃を躱しつつ、駐められていたバンの側面を蹴り上げて1回転しながら空中に舞い上がった彼女。相手が見上げたところで容赦なくセブロから火を噴かせるものの、直前で相手も腕を出して防ぎ、全く効かなかった。そのまま隣のワゴン車の上に飛び乗るものの、すぐに振り下ろされた相手の腕に少佐は既のところで転がり、相手とは反対側に回り込む。

 

次の瞬間、事故でも起きたかのような凄まじい衝撃音とともにワゴン車が圧し潰れ、クラクションが鳴り響いた。ボディはまるでアルミ缶のようにぺしゃんこに潰れ、粉々に砕け散ったガラスの破片が周囲に散乱する。

 

だが、相手はなおも反対側に落ちた少佐を狙うべく、もう一撃を叩き込む。アスファルトが砕け散り、粉塵が舞い上がる凄まじい威力だった。

 

しかし、少佐の姿はそこにはなかった。

 

同時に車を飛び越え、反対側に移ろうとした相手の足に何かが引っ掛かる。そのまま強烈な力で引きずり込まれた相手は、バランスを崩して後ろ向きに倒れかかった。だが、すぐに腕を出して体を支え、同時にもう片方の足で回し蹴りを叩き込む。

 

再び轟く凄絶な衝撃音。だが、どうも様子が違った。

 

見ると、少佐がその足を両腕で掴み、押さえ込んでいたのだ。義体のスペックを最大限に生かしても、あの一撃を押さえることは不可能に近い。それでも彼女はやってのけた。それは、タイミングと義体の特性、それに力の掛け方など、全ての条件を完璧に満たす筋金入りの義体使いである彼女にしかできない業だった。

 

そして、相手が怯んだ一瞬の隙も見逃さず、彼女は脚を蹴り上げて相手の顔面に痛烈な一撃をお見舞いすると、力づくで脚を引き抜こうとする相手の勢いを逆に利用してそのまま押し倒した。最後に首筋に電脳錠を刺し込もうと、少佐は一気に相手に肉薄する。

 

その時だった。

 

「そこまでだ」

 

声と同時に、彼女の後頭部に冷たいものが押し当てられる。セブロに手を掛けるが間もなく電脳錠が打ち込まれ、全身の力が抜けた少佐は人形のようにその場に倒れ込んだ。

 

「悪いな。君たちを傷つける意図はなかったんだ。ただ、この件は我々が肩を付けないといけない問題でね」

 

その言葉に、少佐はすぐに相手の正体を見抜く。

 

(ロシア諜報員か)

 

先ほど襲い掛かってきた桁違いのパワーを持つあの義体。軍用ヘビーサイボーグをも抜き去る出力のあれが諜報部隊所属の人間ならば説明はつく。全く気配もなく自分の背後を取り、電脳錠を刺し込んだこの男も、相当手強い相手であるのは間違いない。

 

「何せ君たちの国の者が、面倒な物を掘り出してしまったんでね。もちろん、回収は我が国で行う。貴国にはできれば静観してほしいものだな」

 

それはまた難しいことを。少佐は内心、笑いをこらえていた。他国の諜報機関に国内を荒らされるのを黙ってみている国などいるのだろうか。確かに、この国ならば“高度に政治的な取引”とやらでそれがなされる可能性も否定できない。しかし、その場合でもどこかしらのセクションが監視には付くのだ。

 

相手もそれは分かっているのか、薄笑いを浮かべながらこう言った。

 

「まあ、これは冗談だ。そんなことが無理なのは分かっているからな。で、忘れないうちに用件だけ言っておくが、ここにいるテロリストは少し預からせてもらう。用が済めば返すよ。別にいらなければ、こちらで“処分”してやってもいいがね」

 

随分と勝手な事ばかり言ってくる男だ。少佐はそう思っていた。おそらくは必要なデータを抜き取って、先にテロリストたちのアジトに乗り込むつもりなのだろう。まったくをもって気にくわない連中だった。

 

「おっと、もう君らの仲間が来たようだ。優秀だな。最後に言うが、今度のことにあまり手は出さないでくれよ。警告はしたからな…」

 

そう言い残す男。次の瞬間には相手の気配は消えていた。先ほど自分が押さえ掛けたあの男も、いつの間にか消え去っている。その場には彼女とタチコマだけが残された。

 

心の底から溜め息をつきたい気分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、まんまと容疑者を奪われたわけだな」

 

9課のブリーフィングルームでは、サイトーを除く全員が集まっていた。いつにもまして機嫌が悪い課長の視線の先には、義体メンテの終えたばかりの少佐が険しい表情を浮かべて立っている。何とも言えない重々しい雰囲気の中、沈黙を続ける少佐の代わりにイシカワが報告を始める。

 

「直前まで張っていた外事の話では諜報員の数は1人だったので、もう1人が隠れていたんでしょう。もっとも、途中で撒かれていたので、あまり当てにはなりませんが。現場の監視カメラには隅にではありますが、テロリストと思しき男の姿が映っています。現在、顔認識に掛けて解析中」

 

「にしても、明らかな内政干渉じゃねえか。勝手に容疑者を拘束して連れ去るとはな。連中はいったい何を考えているんだ」

 

怒りのあまりそう怒鳴るバトー。彼が憤るのも無理はなかった。ここは日本なのだ。警察権や司法権の管轄は言うまでもなく我々のもので、ロシアが手を出すことは何一つできない。たとえ旧領土の択捉に関することでも、返還された現在はロシア側に何ら干渉できる権利はないのだ。

 

しかも、身柄すら押さえられていないのだから、政府に抗議したところでそのような事実などはないと一蹴されるのがオチだった。しかし、今のところは表面化していないとはいえ、今回のことは下手をすれば国際問題にも発展しかねない出来事だった。それを堂々とやってくるとは、ロシア側も相当焦っているのではないか。課長は薄々そう考えていた。

 

「警備員に感染したウイルス、あれについては何か掴めたのか?」

 

「思った通り、分割送信型の遅効性ウイルスだったわ。しかも、ウイルスの行動ルーチンは新浜で撒かれていたものと同じもの。疑似記憶をかませて自分以外の他者すべてが敵だという強迫観念に囚わらせ、攻撃を誘発させる。それに外部からの干渉、要は制圧されたことがトリガーになって一気に電脳内機能野の一切を破壊し、ウイルスともども被害者の人格も消し去る自爆型ね」

 

少佐の報告に、課長は考え込む。これまでは新浜市内など無差別攻撃に使われていたこのウイルスが、なぜ突然警備員のみという標的型攻撃に切り替わったのか。それが最も気がかりだったのだ。そんな中、少佐も自身が気になっていたことをいくつか話し始める。

 

「それでここからが問題なんだけど、ウイルスのルーチンの中には自己複製だけでなく、高度な進化促進プログラムも含まれていたのよ。加えて、そのデータをネットのどこかに転送する機能も含まれていたわ」

 

「つまり、タチコマが経験値を溜めるようにウイルスも感染により学習し、しかもそれを全体で共有することでより早く進化できるようスピードを引き上げているという事か」

 

「そういうことになるわね」

 

課長は驚きのあまり黙り込んでしまった。これでは自然界のウイルスよりも余程タチが悪いだろう。感染時のデータを蓄積させ、病原性すなわち感染させる能力を上げていくのだ。こうすれば多種多様な防壁やセキュリティ・ソフトが出回っている現代社会でも、ウイルス自らがその突破方法を学習し、より多くの人間に感染するようになってしまう。そして、再びそれで得た経験値で自己進化し、病原性を高めていくのだ。

 

考えてみれば、第一段階でウイルスはゲームサーバーを通じて配布されていた。その段階ではまだレアアイテムの入手を謳い、ファイルを入手させるという、プレイヤー側の行動に依存した感染経路だったのだ。言い換えれば、プレイヤーが不審に感じてアイテムを入手しなければ、感染しなかったのである。

 

しかし、今回は攻撃者自らがローカルネット内に直接ウイルスをばら撒いた。ウイルス自体も標的を識別して自律的に行動し、防壁を抜けてセキュリティ・ソフトに検知されることなく目標の電脳に感染できたのだ。進化のスピードを考えると、圧倒的なものがある。

 

それに、もう一つ問題があった。

 

「もしかすると、ワクチンも効かないかもしれないわね…」

 

少佐がぼそっとそうつぶやいた。進化をするということは、それだけ内部の論理構造も書き換わるという事である。せっかくワクチンを構築しても、その時のウイルス構造が変化していた場合、全く効かない恐れすらあるのだ。

 

このまま手を打てなかったらどうなるか。

 

ウイルスは歯止めなく拡散し続け、日本はおろか世界中にばら撒かれるかもしれない。もしくは感染力が相当引き上げられているので、標的型攻撃として政府要人に感染させ、操るという可能性も出てくる。今のところ行動ルーチンは単純なものだが、電脳ウイルスという性質上、特定の目的に沿って行動させる高度なものに書き換えることも不可能ではないのだ。

 

「いずれにせよ、ソースコードの解析はまだ途中よ。もしかすると何らかの突破口があるかもしれないけど、今の段階では何とも言えないわ。せめて、もう少しサンプルがあればいいんだけど…」

 

そう、行えることは限られていた。今できるのは、ウイルスの構造解析と現場に残された遺留品を洗うこと。それらに限られてくる。現場に潜んでいたテロリストの身柄をこちらで押さえられていれば、どれだけ捜査が進んだことか。そう思うと、課長にはどうしようもないほどの悔しさがこみ上げてくる。

 

「そういえば、狙われていた武田氏についてたボディガード。彼らの素性は掴めた?まあ、顔認証に掛けても該当なしで通常捜査上身元不明、でも銃器携帯で外務省OBについてたということは、十中八九6課でしょうけど」

 

「その通りだ。6課に照会を掛けたところ、あの場にいたボディガード2名とも6課の警備要員だと認めた」

 

少佐の問いに、課長が答える。

 

「で、6課が何のために“元”外務省幹部の護衛を?」

 

「武田氏だが、彼は外交部の元アジア局長だったそうだ。その関係で、テロリストが彼の命を狙っていると6課にタレコミがあったらしい」

 

「なるほど。沖縄が消し飛んだのも、彼の在任期間中だったしね。狙われる理由は十分といったところね」

 

沖縄が消失した当時こそ突然の出来事に政府も議会も大きく混乱し、国民の怒りの矛先は中国へ向いたものの、数十年という時を経た現在では当時の政府の対応を疑問視する声も少なからずはあった。特に核攻撃の可能性を外務省は薄々知っていたのではないかという疑惑が広がり、一時期はそれに関する書籍も複数出版されている。もっとも、陰謀論に過ぎないものであるが。

 

「この間の航空機テロ未遂、あの便にも武田氏は搭乗予定だったそうだ。幸運にも、交通機関の遅れで次の便に移ったようだが」

 

「武田ってやつは、随分と運が良い男だな…」

 

鼻で笑いながらそう言ったバトー。ここまで来ると線はつながる。自分たちが追っているテロリスト。彼らが武田氏を狙っているという事は明白だろう。あくまでも、この状況から考えてのことであるが。

 

「武田氏の警護は6課で続け、我々でテロ捜査を続けるという事で一応6課長と話は付けた。だが…」

 

「確かに引っかかるところがあるわね。相手がほんとに元諜報部員だったら、こんなヘマはしないと思うわ。わざわざ式典中にここまで大掛かりな襲撃を組むより、搭乗車に爆弾を仕掛けたり就寝中に自宅を襲う方がよっぽど効率的だもの」

 

そう、必ずしも今回追っているテロリストたちの行動すべてが武田氏の殺害に繋がっているわけではないのだ。単純に武田氏だけを狙うなら新浜中にウイルスをばら撒く必要もないし、今回の襲撃もほかの方法ならいくらでもあった。

 

にもかかわらずこのような行動を起こしたという事は、犯人側の主目的もほかにあるとしか考えられない。何らかの思惑があるにせよ、武田氏の殺害はあくまでも副目標に過ぎないというのが、少佐の考えだった。

 

そんな中、突然オペレーターから電通が入る。

 

《現場で遺留品捜査に当たっていた所轄からの報告です。近くの飛行場にデモ飛行に備え駐機されていたステルス無人攻撃機、MQ-180B 1機が所在不明だということです。なお、当該機にはエグゾセⅡ空対艦ミサイル2発が搭載されている模様。そのほか、会場にて展示されていた小型思考戦車1体の所在が分からなくなっているという情報もあります》

 

《なぜ今ごろそんな連絡が?》

 

《会場でのテロと同時刻に格納庫で火災が発生し倒壊したため、確認が遅れたとのことです。なお現場には現在も多数の瓦礫が散乱しているため、当該機が火災に巻き込まれた可能性も含め所轄で捜査中ですが、確認には相当の時間が掛かります》

 

となると、一つの推論が浮かび上がる。武田氏を狙った国際兵器見本市でのテロ、あれは陽動だったのだ。それに、同時刻に起こった格納庫の火災も、発覚を遅らせるために隠蔽工作だとすれば説明がつく。テロリストたちの主目的は、もしかすると最初から無人機の奪取にあったのかもしれない。

 

《当時の空自の動きは?》

 

《千歳基地よりスクランブル発進が1件。樺太より接近したロシア軍のTu-95に対するものです》

 

案の定、空自は無人機をレーダーサイトで捉えていなかった。ステルス機とはいえ、軍の正規の作戦行動でない今回のデモンストレーションでは衝突事故等を回避する都合上、意図的に機外兵装を取り付けてステルス性を損なわせなければならないからだ。そんな機が無許可で発進すれば、当然空自のレーダーにも映り、必要な措置を取るだろう。

 

しかし、それがないということは、無人機はその飛行場からは飛び立たなかったということになる。機外兵装を取り外すということも不可能ではないが、この短時間には厳しいだろう。それに、当該機らしき目撃情報もないことも踏まえると、考えられる移動手段は陸路だ。

 

《県警の対応状況は?》

 

《現場一帯に緊急配備を発令。現在、主要道全てに検問を設置しています》

 

《県警に連絡。直ちに広域緊急配備に拡大し、近隣の県警に県境を張らせろ。あと、周囲50キロ圏でIRシステムに引っかかったコンテナ積載の大型車両を無条件で止めて積み荷の確認だ》

 

《了解しました》

 

そんな中、疑問に思ったトグサが声を上げる。

 

「まさか、陸路を疑っているんですか。あり得るんですかね。積み荷は飛行機ですよ?」

 

「あら、飛行機とはいえ対象は空母艦載機よ。翼は折りたためるから、大型コンテナならギリギリで積載可能だわ。重量もトレーラーなら余裕で運べる重さよ」

 

モニターを見つつ対応策を練る課長に代わり、少佐がそう答えた。盗まれた可能性のあるMQ-180Bは米帝海軍が制式採用している機体で、ステルス性の高い全翼機の形状が特徴的だ。主に対水上作戦に従事し、対艦ミサイルの携行可能数は2発と侮れない性能を持つ。

 

かなりキナ臭い事態になってきた。対艦ミサイルを装備する無人攻撃機を使って、相手はいったい何を企んでいるのか。気掛かりなのはそれだけではない。ここに来て躊躇うことなく行動に出てきたロシア工作員たち。彼らの動きもまた、この一連の事件に通じているのかもしれない。

 

深々と考え込んだ課長は、やがてゆっくりと顔を上げると指示を下した。

 




2018/10/21 一部加筆修正


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第12話

車窓から見える景色は辺り一面の銀世界。木々に厚く積もった新雪は凍り付き、風に揺れてはパラパラと塊となって地面に落ちていく。遠くに見える山々の山頂は真っ白なシルクのようにどこまでもなめらかで、朝日を照り返して光り輝いている。

 

サイトーはそんな峠道を疾走するバスの中にいた。定員20人ほどの古びたマイクロバスで、座席にはサイトーと同じような身なりをした男たち10人あまりが座っている。皆、行き場に迷った退役軍人や元傭兵たちで、巧みな勧誘を受けて乗車したものが多かった。彼自身も、勧誘を受けて乗車したうちの一人であったが。

 

このバスが向かっているのは、網走の近くにある共同宿泊所である。表向きは生活に困窮する人々を低額で宿泊させ、職業訓練や生活支援を行っていくと謳っているが、実際のところは何一つ分からなかった。行き先こそ伝えられているものの出発前の説明は極めて曖昧なもので、具体的な情報はほとんど告げられてはいなかったのだ。

 

なぜ、サイトーがここにいるのか。

 

それは昨日の昼まで遡る。

 

あの日の朝、例の宗教団体に繋がっている可能性のある勧誘を受けたサイトー。彼はすぐに周りのホームレスたちやこの辺りの事情に詳しい情報屋に接触し、できる限りの情報を集めたのである。そして、それらから出てきた結果は思った通りのものだった。

 

話によるとあの慈善団体は2年ほど前からあのような炊き出しをしては、集まってきたホームレスたちに低額宿泊所の案内を渡していたのである。しかも、勧誘を受けた人間には共通点があった。今の彼が装っているような、退役軍人や元傭兵。連中はそのような人間にしか勧誘せず、他の人間にはあまり興味を示さなかったというのだ。

 

加えて、興味深い情報もいくつか出てきた。知り合いが勧誘を受けてその宿泊所に行ったという男に話を聞いたところ、最初は普段通りしばしば電通やメールでやり取りしていたが、ある時を境に急に音信不通になったという。しかも、その前には気になることも言っていたらしいのだ。

 

『まずいところに来た。死ぬかもしれない』

 

それを最後に、彼とは連絡がつかなくなってしまったそうだ。

 

もう一つ、聞いた話ではその宿泊所というのは札幌ではなく、道東のどこかにあるという。それはまさに道警が監視していた例の宗教団体の拠点とも一致する。可能性を考えると、勧誘を受けたこの宿泊所こそが、例の宗教団体の施設という線が濃厚だった。おそらく、そうして集めてきた人間たちに食事や住処の提供を餌にして、入信を強要させているのかもしれない。

 

しかし、分からない部分もある。なぜ、退役軍人ばかりを勧誘するのかという点だ。道警の話でもそれは出ていたものの、それは結果論として軍人の入信者が多いという情報だった。だが、今回得られた情報は明らかに連中が元軍人ばかりを意図的に勧誘しているというものだ。その差は到底無視できない。結果的に多くなったのか、意図的に集めていたのかでは、全く状況は違ってくるからだ。

 

いずれにせよ、それは潜入して明らかにしなければならない。リスクの高い作戦ではあるが、9課のバックアップもある。踏み込めるだけの証拠さえ手に入れば、あとは道警の協力のもと強制捜査を行って、真実を白日のもとに晒せば良いのだ。

 

そうしてサイトーはその日のうちに案内のカードに書かれていた事務所を訪ね、トントン拍子に話が進んだ結果、このバスに乗ることになったのだった。幸運なことに、週に一度のバスの出発日に重なったのも一つの要因だった。

 

バスは三国峠を越え、田園地帯を走り続けていた。といっても、今は雪と氷に閉ざされた白い大地が広がるのみ。ひとたび風が吹けば舞い上がった雪が地吹雪として周囲を覆い、視界がホワイトアウトしかけてしまう。雪と氷の砂漠と例えた方が、正しいのかもしれない。

 

乗っている他の男たちはここに来て不安を感じ始めているようだ。行く当てこそ何もないから勧誘に乗ったものの、考えてみればこれほどおいしい話はどこか怪しかった。食事や住処も出る上に、職業訓練や仕事の斡旋までしてもらえる。そんなことが果たしてあり得るのだろうか。それに、連中は施設を抜けて自立するときのことを何一つ話していなかった。

 

もしかすると、一生奴隷のような生活を送ることになるかもしれない。もしくは即座に解体されて臓器を売られるのではないか。そんな不安が、彼らの心の中に渦巻いていたのだ。

 

そんな中、サイトーはぼんやりと外を眺めながら、タチコマに電通を入れる。

 

《ちゃんとついてきてるか?》

 

《雪と氷で光学迷彩が効かないので、距離を開けて追ってます。それにしても冬は滑りますねぇ…。さっき危うく路外に落ちそうになりましたよ》

 

通信状態が悪いのか、時折ノイズが混ざっていた。距離にして5キロほど離れたところを走っているのだろう。タチコマのタイヤでは直径も小さく、雪に脚を取られやすいのは目に見えていた。元々、これほどの長距離移動を考慮していないのだからやむを得ないのだろうが、一抹の不安が残る。とはいえ、出発前には赤服に専用仕様のスタッドレスタイヤに取り替えてもらっているので、全く準備がないわけではないのだ。

 

《定期的に位置情報を発信するから、それを辿って来い。間違っても事故るなよ》

 

《もう、サイトーさんてば。少しはボクを信用してくださいよ!》

 

タチコマはやや不服気味にそう答えた。サイトーは姿勢を伸ばすと、顔に帽子を乗せて目を閉じる。外は何も見えず、中の男たちもこれといって何かを話す素振りもないからだ。それに一応、警戒のため意識は保っているものの、休息も時には必要だった。特に、これから何が待ち受けているのか分からない自分にとっては。

 

エンジンの唸りと時折聞こえる風の音。

 

何分が過ぎただろうか。目を開けて帽子を取ると、バスはちょうど道を右折し、林道へと入ったところだった。雪の積もった白い田園が広がっていたはずの景色はいつの間にかエゾマツやトドマツが生い茂る森の中へと移り変わり、バスは急な山道をゆっくりと上っていく。

 

先ほどまでの道路と違ってあまり除雪されていないのか、車体の揺れは尋常ではなかった。右へ左へと大きく揺さぶられ、手摺りに掴まっていなければそこら中に体を打ち付けてしまいそうなほどだ。

 

それでも、数分余りで山道を抜け、バスはようやく目的地に到着した。停車と同時に枯れたような音でブザーが鳴り、ドアが開くと冷気が車内に吹き込んでくる。暖房の暖かさにまどろんでいた男たちの目は一瞬で覚め、寒さで体が縮こまる。

 

他の男たちが荷物をまとめる中、サイトーは曇った窓を指でこすると外を見回した。居住区と思しき長い平屋建ての建物が右に3棟。左にはガレージと思しきシャッターの降りた蒲鉾屋根の建物が2棟と、三角屋根の小屋が1棟。いずれも所々に剥がれそうなトタンが見える、粗末なつくりだった。奥には道がさらに続いているが、わだちは見当たらない。少なくとも今朝雪が降ってから車は通っていないようだ。

 

粗方の配置を確認したところで、サイトーも男たちの後に続いてバスを降りる。積もった雪に足がずぼっと埋まった。寒さに凍えてポケットに手を突っ込んでいると、居住区の方から男が出てくる。背が低く顔は真ん丸で、雪だるまみたいな男だった。彼は頬と鼻先を真っ赤にしながら、案内を始める。

 

「ようこそ。私は君らの支援担当の下田だ。まずは寒いだろうから、中に入ろう」

 

連れられるがまま、サイトーを含めバスに乗っていた男たちは長屋の中へと入っていく。風除室付きの二重玄関を抜け、すぐ目の前にある集会室に案内された彼らは、ひとまず荷物を置いて用意されてきた椅子に腰を掛けた。

 

「まずは長距離の移動ご苦労と言いたい。はるばるこんな辺境までよく来てくれた。感謝する」

 

下田といった男は、被っていたフードを脱ぎながら皆にそう言った。

 

「次は簡単に施設の案内といこう。今いるこちら側の3棟が居住棟だ。そのうち、君らには中央のB棟に寝泊まりしてもらう。で、さっき見えていたシャッターの降りた小屋がガレージ。夏場の作業で使うトラクターが入っている。その隣の三角屋根の小屋が作業棟だ。冬の間はここで職業訓練を行ってもらう。以上だ」

 

男たちは表情一つ変えずに沈黙を貫いている。今まで散々な仕打ちに合ってきたのだから、何一つ信じていないのは無理もなかった。まだまだ深い疑いの目を、この下田という雪だるま男に向けていたのだ。

 

「まあ、すぐに慣れるさ。居住区は全て4人部屋、この表の通りに入居してくれ。飯は朝昼晩の3食で、それぞれ6時、12時、18時。食堂はここだ。他の入居者もいるから、くれぐれも仲良くしてな。職業訓練の内容は夕飯後にまた説明するから、飯が終わっても残るように」

 

はきはきとした口調で説明を終えた下田は、部屋割りの書かれた紙をバインダーファイルごと残すと去っていった。その場に残された男たちは若干の間を開けた後、それぞれ部屋割りを確認していく。

 

サイトーの部屋はB棟の12号室。手前から4番目の右側の部屋だった。一緒に載っていた建物の構造図にも目を通したが、至ってシンプルなもので、中央に廊下が1つに左右に部屋が8室ずつ計16室あるつくりだった。単純計算で64人もの人間がこの建物で暮らしていることになる。建物の大きさを考えると、明らかに釣り合っているとは言い難い。

 

それでも、ここに来るような人間はもともと住むところがないような人間ばかりだった。住むべき場所があること自体、彼らにとっては大きな違いだったのだ。誰一人文句を言わず、黙々と部屋の中へ入っていく。サイトーも押し黙ったまま細く暗い廊下を進み、自分の部屋へと入る。

 

(ま、予想通りだな)

 

部屋の左右に2段ベッドが1台ずつ。それだけで部屋の大部分の面積が占有され、共有スペースはベッド間の僅か1メートルほどの空間だった。雰囲気的には客船の2等船室にも近いが、ここはそれよりも遥かに狭い。窓には屋根からの落雪避けのためか、木の板が外から3枚ほどはめ込まれ、ただでも光の差し込まない部屋は余計に暗くなっていた。日中でも明かりを付けなければ手元すら満足に見えないだろう。

 

「よろしく頼む」

 

既にベッドに陣取っていた2人にぶっきらぼうに挨拶したサイトーは、残っていた右上のベッドに登る。天井までの高さは60センチかそれよりも少ないくらいで、中腰どころか四つん這いにならなければ移動できない。ずっとここで暮らしていたら腰が曲がりそうだった。

 

とりあえず荷物を枕とは反対側に置いた彼。見ると、枕元には作業着のような上下真っ白の服が置いてある。これを着ろという事だろうか。隣には筆文字で入団のしおりと書かれたものが一冊。軽く中身に目を通してみると、施設紹介や職業訓練の内容など必要なことが事細かに記されていた。

 

しかし、それ以外にも書かれていたのが一つ。旧約聖書の一節とその解釈だった。内容としてはアダムとイヴの創造から楽園追放までが独自解釈を含みながら膨大に書き記され、また近年の遺伝子研究の結果も織り交ぜながら、人類総兄弟説を説いているものだった。

 

天地創造の終わりにヤハヴェにより創造されたアダムとイヴ。彼らは命の樹と知恵の樹の生い茂る楽園で暮らしていたが、ある時イヴが蛇に唆された結果、掟を破って知恵の実に手を付けてしまう。そして、イヴの誘いに応じたアダムも知恵の実を食べた結果、互いに裸であることに気づき、腰をイチジクの葉で覆ったのだ。そして、原罪を犯した彼らは主なる神によって彼らは楽園を追放され、地に降り立ったのである。

 

また、遺伝子研究の見地からもミトコンドリアDNA解析で辿った結果として一つの共通祖先に行き着くことから、科学もがこれを裏付けているとこの筆者は主張していた。皆、人類はみな一つの祖先から生まれた兄弟なのだ。最後に筆者はそう唱え、等しく平等な愛を追求していたのである。

 

サイトーは軽く読み漁ると、静かに冊子を閉じた。

 

突っ込みどころなら山ほどある。確かに何十年か前にミトコンドリアDNAの塩基配列の解析によって、人類の共通祖先が一人の女性に行き着くことを示す研究結果は出ていた。しかし、それはあくまでも現生人類のミトコンドリアの塩基配列を辿った結果として行き着いた女性であって、それがすなわち人類すべての単一祖先であるとは示していないのだ。

 

分かりやすく言い換えるならば、今の人類に遺伝子を残した祖先の“一人”。こう解釈した方が正しいのだろう。俗にミトコンドリア・イヴと呼ばれてはいるが、彼女一人から人類が派生していったわけではなく、彼女と同世代の女性たちもみな祖先であるといえる。ただ、彼女のミトコンドリアDNAが運良く絶えることがなかった。それだけなのだ。

 

彼はベッドに体を横たえると、体を大きく伸ばす。どこかカビ臭い天井に、シミのついたシーツ。住環境としてはお世辞にも良いとは言えないが、難民街での暮らしに比べるとまだマジな方だ。

 

ひとまず冊子を枕元に置くと、彼はおもむろに用意されていた衣服に着替え始めた。隣のベッドの男も、何やらブツブツと独り言をつぶやきながら着替え始めている。紐付きの白いズボンに長袖のTシャツ。思ったよりも薄手なので、暖房の効かないこの部屋の中では肌寒かった。

 

着替えを終えたサイトーが荷物を片づけていると、突然ドアが乱暴に開く。

 

入ってきたのは無精髭を生やしたいかにも強面の男。ここに集まる男たち自体、元軍人が多くそれなりに顔つきは険しく恐ろしいものであるのだが、この男はそんな彼らとも比べ物にならなかった。

 

彼は入ってさっそく、自分のベッドが一つしか残されていないことに腹を立てたのか、あからさまに大きく舌打ちをする。もちろん最後に来た本人が悪いのだが、左下のベッドの男が初っ端からのその態度に頭に来たのか、じっと男を見返すと同時に立ち上がった。一気に張り詰める空気。サイトーは横になり無関心を装いつつも、冷静に状況を観察する。

 

「何だよ、お前」

 

睨み合っていた両者だったが、先にベッドにいた方の男が先に手を出した。相手の胸倉に掴みかかろうと、一気に相手に飛びかかったのだ。しかし、無精髭の男は掴みかかってきた相手の腕を片手だけで軽々捻じ伏せると、ぎょっと目を見開く相手の腹部に強烈な一撃を叩き込む。

 

一瞬の出来事だった。

 

相手は膝を折って崩れ落ち、咳き込みながら苦悶の表情を浮かべている。一方の男は掴んだままの片腕を強引に引くと、止めとばかりに相手の顔面に膝蹴りを食らわせようとする。が、既のところで思いとどまったらしい。そのまま相手を突き飛ばすと、無言のまま残った最後のベッドに荷物を置いて横になった。

 

「ひ、ひぃ…」

 

一部始終を見ていたもう一人の男はあまりの出来事にすっかり怯え、口を半開きにしたまま気の抜けた声を漏らす。サイトーはというと、壁の方に体を向けながらも注意は男に向け続けていた。この男、多少の戦闘経験はあるらしい。プロほどではないが、動きの無駄が少ない。どこかで実戦格闘術を学んでいたか、戦地である程度従軍経験があるのか。

 

その時、廊下から鐘の音が聞こえきた。夕食を告げるものらしい。

 

サイトーは静かに起き上がると、さりげなく視線をその男へと向ける。着替えないままベッドを降りた彼は、ほかの2人が縮こまっているなか足早に部屋を出ていった。その後ろ姿を見送ったサイトーは、ベッドの上で少しばかり考え込む。

 

あの無精髭の男には注意した方が良さそうだった。ここで問題を起こされては、色々と面倒なことになりかねない。サイトーはそう考えていた。だが同時にそれは、この施設の対応を知る非常に良い手段にもなり得る。彼への対応こそが、この施設の真意を知る手掛かりになるのだ。

 

他の2人も部屋を出たところで、サイトーもそれに続いて部屋を出た。潜入はまだ始まったばかり。まずはここでの生活に逸早く慣れ、溶け込むこと。探りの入れるのはその後になるだろうが、リスクは冒せない。常に緊張を強いられる極限の生活が、これから幕を開けるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いまだに網に反応はなし。しばらくは潜りそうね」

 

9課のオペレーティングルームでは、少佐がじっとモニターを見つめながら一人そうつぶやいた。無人機が消えてから12時間余り。周辺には所轄の検問が網目の如く敷かれ、さすがの相手でも回避するのは不可能だった。にもかかわらず引っ掛からないということは、相手はまだ現場からそう遠くないところに潜伏しているのかもしれない。もっとも、既に現場から遥か彼方に去っているという可能性もあるが。

 

セオリーに忠実といえば忠実だった。強盗にしろ殺人にしろ、移動ほどリスクの高いものはない。逃げるならば犯行後すぐか、ほとぼりが冷めてからかのどちらかに限られる。今回の犯人は後者を選択したらしいが、武装状態の無人機を盗んで早々無事に抜けられるわけはない。このまま潜伏し続けても捜索範囲が絞られている以上、発見は時間の問題だった。

 

だとすれば、道は一つしかない。無人機を解体して運ぶのである。分解してパーツごとに分ければ超大型トレーラーなど目立つ車両ではなく、ありふれた車でも輸送は可能だ。ただ、航空機に相当精通した技術者がいなければ、解体することはできても組み立てることはできないが。

 

しかし、テロリスト側にそのような人材がいないとは限らない以上、あらゆる可能性に備えるのは常に必要だった。

 

「所轄に伝えて。対象車両を大型トレーラーから普通自動車までに拡大。積み荷の確認と運転手の身元確認を徹底させて」

 

「了解しました」

 

オペレーターが瞬時に手配情報を書き換え、検問中の全警官へ更新情報が送られる。現場の負担は圧倒的に増すだろうが、こちらもみすみすテロリストを逃がすわけにはいかない。ここで押さえなければ、もう後はないのだ。

 

その時、後ろのドアが開く。

 

「状況はどうだ少佐?」

 

「見ての通りよ。目立った動きはなし」

 

退屈しのぎにやってきたバトーは欠伸をしながら、腕を組んで壁に寄りかかっていた。課長が見ればすぐにお小言を言われるだろうが、今はそんな心配は無用だった。

 

なぜなら課長はいま、外務省に探りを入れているからだ。

 

テロリストが狙っている武田氏。確かに彼は元アジア局長で在任中に沖縄消失事件も起こるなど、命を狙われてもおかしくは存在だった。だが外務省絡みとはいえ、なぜ6課がこちらに何も告げずに動いていたのか。それが妙に引っかかるのだ。

 

まるで、彼が狙われていることを隠したいかのような動きだった。見本市の件でもあらかじめ9課では警備要員全員の身元をチェックしていたものの、武田氏だけはボディガードの存在を事前に知らせてはいなかったのだ。

 

もしかすると外務省もしくは6課にとって、彼が狙われているのが明らかになっては不都合なことがあるのかもしれない。探られたくない“何か”があるからこそ、外務省側は身内だけで武田氏の護衛をさせていたのではないか。課長は薄々そう直感していたのだ。

 

もっとも、それを暴き出すのは容易ではないだろう。6課にも優秀な人材は多数いる。それに彼らの本業は諜報活動であり、そうした工作にも手慣れているはずだった。そんな彼らがそうそう尻尾を出すとは思えない。

 

「全く、じっとしてるってのはどうも俺の性には合わねえな。モグラみたいに潜ってないで、さっさと出て来いってんだ」

 

「叩けるモグラがいればいいんだけど」

 

少佐がぼそっとそう返す。ぎょっとしたバトーはすぐに彼女を振り向いた。

 

「何?まさか、もう抜けられてるかもしれねえってことか?」

 

「分からないわ。だけど、相手も相手よ。無人機なんて盗み出して、これだけの包囲網を抜けられると思う?私なら盗み出したら何が何でも真っ先に逃亡するし、もしそれができないのならこのゲームから降りてると思うわ」

 

「もしかすると、ここにきて犯人がボケたとか?」

 

「冗談はよして。確かにリストから上がってきた元諜報員たちの実年齢は60近いけど、それならこんな事態になる前からボロが出てるわ」

 

振り返りもせずにモニターを見つめながら答える少佐。今になって少佐自身も、やや不安を感じ始めていた。もしかすると、犯人たちは既に包囲網から抜け出しているのではないか。自分たちがこうしている間も逃げ延び、どこかでにやりとほくそ笑んでいるのではないか。そんな気がしてならないのだ。

 

何より盗難判明が遅れたということが大きな痛手だった。その間の移動距離も見越して十分余裕をもった包囲網を設定してはいるが、犯人側がそれを上回らないとも限らない。念のため包囲網外側のIRシステムも9課で監視対象に指定しており、今のところ目立った反応は出ていなかったが、安心はできない。

 

このまま事態に進展がなければ、この場は所轄に任せて自分たちは早いところ見切りをつけた方がいいのかもしれない。いつまでも当てのないものを待ち続けるわけにもいかないのだ。義体メンテのために自分とバトーこそ本部に引き上げてはいるが、パズとボーマはそのまま茨城に残ってタチコマとともに待機状態にある。彼らをそのままにしておくのは、捜査の観点からも得策ではなかった。

 

考えあぐねる少佐。その時だった。

 

《つくば市郊外にて604発生。犯人はなおも逃亡中》

 

「ほら、心配するこたぁなかっただろ?」

 

「全員出動、犯人を押さえるわよ」

 

少佐はバトーには答えず、指示を出す。ここでモグラが顔を出したのは予想していなかったわけではないが、正直意外だった。本当にこれは叩くべきモグラなのだろうか。ふと、そんな疑問がわき上がる。自分にはどうも、相手の思惑に嵌っている気がしてならなかったのだ

 

だが、モグラが出てきて叩かないわけにもいかない。そのまま放っておけば、確実に逃げ延びていずれ自分たちを脅かすことになる。それを避けるには、ここで止めるほかないのだ。

 

大きく息を吸い込んだ彼女は、静かに歩き出した。

 




2018/10/22 一部修正


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第13話

「失礼」

 

静かにドアを開けた荒巻課長を、奥の椅子に座った初老の男が迎え入れた。ほとんど白髪の灰色の髪を後ろに撫で付け、紺のストライプ柄の白シャツにブラウンのネクタイをピタッと締めたその姿からは、年齢に負けない活気というものが感じられる。

 

「で、今回はどのような件で?」

 

「前アジア局長を務めていた武田氏について、いくつかお話を伺いたいことがありましてな」

 

「ああ、武田さんの。ええ構わないよ」

 

彼は現外交部アジア局長の浅沼という男だった。彼は狙われている武田氏が現役だった当時、中国担当の課長を務めていたという。また、武田氏に近い外務省幹部OBの話では浅沼局長は武田氏の退官後も親しい関係にあるらしく、何らかの情報を知っている可能性があったのだ。

 

「武田氏が退職されたのは、確か6年前ですかな。その後も、彼とは細々ながら付き合いがあるとか」

 

「まあ、会合で同席したり、ゴルフコンペをしたり、年に4,5回ほどは会っているかな。最近も、確か3か月前かな。福岡の料亭で一杯やったが…」

 

「その時、武田氏に変わった様子は?」

 

「特になかったと思うが。彼に、何かあったのかね」

 

そう訊かれた荒巻課長は、軽く咳払いをして間を開けると静かに答えた。

 

「実は脅迫がありましてな。彼の命を狙っている者がいるらしく、こちらで犯人を探っているところなんですよ。耳にされていませんか?」

 

もちろん、実際に脅迫があったかどうかは定かではない。だが、課長はあえてそう言った。というのも、外務省管轄の6課が動いているという事は、外務省側で武田氏が狙われているという情報を独自に掴んでいると考えるのが自然だからだ。もしそのような情報があれば、現役局長である彼にも何らかの説明があり、護衛がつくはずだった。

 

「全く初耳だよ、そんなことがあったとはね」

 

「そうですか。あなたの方にも何か連絡がいっていると思っていたんですがね」

 

そう返す荒巻課長。だが、浅沼局長が嘘をついている可能性は少ないだろう。ここに来る途中、さりげなく周りにも目を向けてみたが、6課と思われる人員は確認できなかったからだ。前任者が狙われている中で、自分にだけ護衛を付けないことは考えにくい以上、浅沼局長が本当に知らない可能性は濃厚だった。

 

となると、6課は身内にすら極秘で事態を進めているということになる。ますます謎は深まるばかりだが、これが分かっただけでもある程度の収穫ではある。

 

「彼を狙うような団体に心当たりは?」

 

そんな中、続いて課長はそう質問する。分かりきってはいるが、一応これについても確かめておきたかったのだ。相手は首をやや傾けて考え込んだのち、口を開く。

 

「たぶん荒巻さんもご存知とは思うが、やるとすればおそらく抗中派の過激セクトか、沖縄会あたりだろう」

 

「沖縄会ですか。確か、いまも係争中の事案がいくつかありましたな」

 

「まあ、彼らも中国側の賠償能力には期待してはいないでしょう。あくまで、感情的なものでは」

 

「なるほど…」

 

沖縄出身者で構成されている沖縄会は、国や各省庁相手に賠償問題や被爆責任などでいまも複数の訴訟を起こしていた。表向きは穏健派ではあるが、過去には省庁職員や警官相手の暴行事件を起こすなど急進的で過激な一面もあるという。そのため、いまも公安が監視対象にしている曰くつきの団体であった。

 

「まあ、そんなところですかな。思い当たるのは…」

 

「そうですか。この度はお忙しい中、わざわざすいません」

 

「いえいえ、こちらこそ。また何かありましたら、どうぞお気軽に」

 

課長は軽く見送られながら部屋を後にする。そうして、そのままエレベーターホールに向かいながら、彼は思考を巡らせていた。

 

仮に沖縄会や抗中派が武田氏を狙っているのだとしたら、現局長の浅沼氏に危害が及ぶ可能性も否定できない。いくら情報を隠しておきたいとはいえ、そのような状況ならば6課も護衛を付けないわけにはいかないだろう。

 

だが、実際は違った。浅沼氏はそもそも武田氏が狙われていることすら知らず、自らの安全には全く気を向けていなかったのだ。それを考えると、6課も犯人が沖縄会や抗中派でないことは掴んでいるのだろう。その上で護衛をつけず浅沼氏にも何も伝えていないということは、相手が武田氏だけを狙っていると踏んでいるからに他ならない。そこまでの確証がなければ、6課とてこれほどまでに思い切ったことはしないのだ。

 

もしかすると、6課は既に相手の正体と動機を掴んでいるのかもしれない。

 

課長は到着したエレベーターに乗り込むと、ボタンを押す。加速度とともに滑らかに搬器が下降し、一気に駐車場のある地下フロアへと進んでいく。

 

それらの事を確かめるためには、やはり武田氏本人に話を聞かないことには始まらないだろう。だが、何度かけても彼の電話にはつながらなかった。外務省の退職者データベースから抜いた番号なので、間違っているはずはない。意図的に出ないのか、あるいは出られないのか。そのどちらかしか考えられなかった。

 

「やはり、直接会うしかないか」

 

課長はそうつぶやくと、エレベーターを降りて車の元へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

収穫を終えた田畑は干上がり、残された枯れ稲の茎が空っ風になびいていた。どこからか飛んできた数羽のサギが、そんな田んぼの真ん中で羽を休め、しばしば鳴き声を上げている。今となっては一部の田舎でしか見られないのどかな田園の風景だったが、それを打ち破るのは騒々しく鳴り響くサイレンの音。休んでいたサギたちも、一気に立ち上がると瞬く間に飛び去っていってしまう。

 

田畑の合間を走る県道を疾走する数台のパトカーの先に、目的の車両の姿はあった。力強いエンジンの唸りとともに、マフラーから黒煙を上げて走り続ける大型トレーラー。その荷台には赤茶色のコンテナが積まれている。

 

追跡するパトカーの1台には生々しい弾痕が残されていた。フロントガラスには蜘蛛の巣状の割れ目がいくつも入り、パトランプは粉々になっている。事の発端はつい5分ほど前、このトレーラーが県警の検問を無視して強行突破したことだった。

 

最初は素直に停止し、ドライバーも質問に応じていたのだが、荷台を確認したいと告げると態度を豹変。協力を頑なに拒み、車から降りるよう説得したところ突如隠し持っていたサブマシンガンを発砲したのだ。そのまま車を発進させ、路肩に停めてあったパトカー1台を路外に突き落としたのである。所轄も即座に追跡を開始したものの、犯人側はなおもパトカーに向かって発砲を続けるため、現場の警官たちも迂闊に手を出せないでいたのだった。

 

だが、相手は無人機を強奪したテロリストである。現場の警官たちも強い正義感のもと決死の覚悟でトレーラーの追跡に当たっていたのだ。いまここで逃げられては、大勢の市民たちに危険が及んでしまう。それだけは何としてでも避けなければならない。ここは自分たちが粘るしかないのだ。

 

《PSから各車へ。3km先にSATを展開した。それまで目標を誘導せよ》

 

警察無線を通じて指示が届く。ボディアーマーなどの重装備に身を固め、サブマシンガンなどで武装した彼らが出ているとなれば一安心だった。突入や制圧など日夜特殊訓練に励み、数々の実戦を積み重ねている精鋭たちの前では、いくらテロリストでも捻じ伏せられるはずだ。

 

追跡の警官の1人はそう考えていた。発砲を受けないようある程度の間合いを取りつつも、徐々に封鎖線に追い立てていくパトカーの一団。作戦は順調かと思われた。

 

だが、封鎖線まで1キロ弱のところで異変が起きる。トレーラーが突如として進路を変え、大きく右側にはみ出たのだ。その先には細い脇道。舗装もろくにされていないような砂利道だが、ギリギリでトレーラーが通れる幅だった。

 

《クソ、行かせるなっ!》

 

無線に響く警官の怒声。ここでみすみす逃げられてしまっては、作戦も水泡に帰してしまう。焦った1台のパトカーが急加速してトレーラーの横につけ進路を妨害するも、体当たりを食らって路外に弾き出される。そのまま田んぼに突っ込んだパトカーは、激しく横転して大破してしまう。

 

一方のトレーラーも反動で押し返され脇道に入ることはできなかったが、喜ぶのも束の間だった。荷台の後ろの扉が開かれたかと思うと、そこに現れたのは1体の小型思考戦車。脚を折り畳んで辛うじて荷台に収まっているが、その背中には狙いを付ける多銃身の砲塔が見える。警官たちがそれが何かを理解する間もなく、化け物は火を噴いた。

 

無数に撃ち出される50口径弾の弾幕が右から左へとふれる間に、追跡中だったパトカー4台は見るも無残な姿に変わっていた。硝煙を纏った無数の薬莢が轟々と吐き出され道路上に散らばる中、銃撃を受けたパトカーは激しくスピンして互いに衝突し、炎上した。

 

しかしその時、既にトレーラーは封鎖線へと差し掛かっていた。パトランプを光らせる2台の大型装甲車は道路を塞ぐように停められ、その影にはサブマシンガンを構える完全装備のSAT隊員が並んでいる。加えて、手前には無数のスパイクが並ぶ感圧式の対軽車両用地雷が張り巡らされ、万全の態勢がとられていた。

 

そこへ一切減速せずに突っ込む大型トレーラー。隊員たちはSMGの照準を運転席に合わせ、相手を引き付ける。だが、突如荷台の天井がめくれ上がったかと思うと、そこから突き出されたのはガトリング砲の銃身だった。あろうことか強引にも思考戦車は足を伸ばして天井を突き破り、砲塔を旋回させて正面に狙いを付けていたのだ。

 

「総員退避っ!」

 

隊長の怒声が響き渡る。凄烈な勢いで回転し始めるガトリング砲は再び火を噴いて、停められていた装甲車を粉砕する。タイヤが吹き飛び、側面はまさにボコボコに破壊されて防弾ガラスは跡形もない。隊員の放つSMGの乾いた銃声もガトリング砲の爆音に掻き消され、何も聞こえなかった。

 

トレーラーはそのまま封鎖線に突っ込むと、強引に装甲車を弾き退けて強行突破する。前輪が車両地雷でパンクし火花を散らせるも、構っている様子はなかった。エンジンを唸らせて走り去っていくトレーラーの姿を、悔しさに瞳を潤ませてSAT隊長が見つめる。押し倒された装甲車は2台とも煙を燻ぶらせ、負傷した何名かの隊員がうずくまっている。完全に警察側の敗北だった。こうなってしまえば、軍でもなければあの車両は止められないだろう。

 

そんな中、彼らの脇を一瞬、何かが掠めていった。

 

何事かと振り返るも、その姿は周囲の景色に完全に溶け込み、肉眼ではほとんど見えなかった。だが、かすかに見えたその輪郭は、他でもない。蜘蛛を思わせる4脚を持つ、小型の思考戦車のものだった。

 

「隊長、今のはまさか連中の…」

 

まったく状況を掴めず焦燥しながら叫んだ隊員の言葉に、彼は過ぎ去った方向を見つめながら冷静に答える。

 

「いやあれは上の部隊だろう。公安9課だったか…、そいつらの戦車だろうな」

 

隊長はそう言うと、これにはかなわないとばかりに深い溜め息をついた。

 

 

 

 

 

光学迷彩を起動させた2機のタチコマは、時速100キロ近い猛スピードで一気にトレーラーに肉薄していた。

 

《トレーラーに載っているのはドイツ製の小型思考戦車です。全備重量3.5t。見本市会場から行方不明になったものと同型ですね》

 

《武装はGE社製12.7mmガトリング砲GAU-19と7.62mmチェーンガンか。弾薬は積んでいないはずじゃなかったのか?》

 

《デモ用にガトリング砲の弾薬だけ搭載記録があります。曳光弾入りの実弾です》

 

搭乗していたボーマにタチコマはそう返す。該当の戦車は見本市の屋外会場で展示されていたものだが、午後の射撃デモンストレーションに備えて既に実弾を装填してあったらしい。明らかな規定違反につけこんで、テロリスト側が奪っていったのだろう。

 

《目標まであと300メートルです!あのぉ、そろそろモーターが持たないんですけど…》

 

《泣き言を言うな。あと少しの辛抱だ》

 

やや不満を漏らすタチコマに構うことなく、ボーマは加速し続ける。後ろに続くパズも同じだった。少佐からは可能ならパズと2人だけでもトレーラーを止めろと指示を受けていて、相手の出方を探っておく必要があったのだ。連中が何をするかわからない以上、こちらとしても先手を打ちたいということなのだろう。

 

どの道、少佐やバトーたちの到着にはまだ30分以上は掛かる。悠長に構えて事態をいたずらに悪化させるよりも、今ここで蹴りをつけた方が良いのは明らかだった。ボーマもそれはよく分かっていたので、目標に追いつき次第、作戦に移る予定である。もちろん、犯人側の武装を見極めてからの話になるが。

 

《目標に追いつきました!どうします?グレネードぶっ放しちゃってもいいですか?》

 

《いいわけないだろう。まずは気づかれないよう回り込んで、連中の顔を確認する》

 

そう言うと、ボーマが乗るタチコマが先行してトレーラーに並ぶと、速度を上げてすぐに先へと回り込んでいく。一方のパズは、斜め後方で万が一のときに備えてチェーンガンの照準をタイヤに合わせていた。今のところ、相手が気づいている様子はない。思考戦車も主砲を前に向けていて、後方は手薄の状態だった。

 

《搭乗者を確認。公安データベースと照合中》

 

高速走行しながら向きを変え、ボーマのタチコマが運転席を覗き込む。アイボールで運転席と助手席の男を確認したタチコマは、間もなく照合をかけて該当する人物がいないか調べ始める。指名手配はもちろん、少しでも前科があるような人間であれば、すぐにヒットするはずだった。

 

《うーん、データベースにはヒットなしでした》

 

《本部にデータを回して照会してもらおう。一旦、後ろに下がるぞ》

 

《了解~》

 

タチコマは機敏な動きで向きを変えると、減速して再びトレーラーの後ろにつける。

 

相手は交差点でも減速せず、なおもセンターラインを跨ぐようにしながら豪快に内陸へと突き進んでいた。しばらくは田園地帯が続くものの、この先をやや進んだ先には町がある。それを考えると、決着をつけるのであればあまり先延ばしにはできない。

 

(やるしかないか)

 

ボーマはパズにも意見を求めたが、結論は同じだった。ここで片づけるしかない。顔の照合はまだ終わっていないが、少しでも市街地に入ってしまえば予期せぬ事態に繋がりかねないのだ。特に相手には戦車がいる。建物に被害が及ぶならまだしも、死傷者が出ることだけは絶対に避けなければならない。

 

だが、同時に一つ制約がある。相手を生かしておかなければならないという点だ。身元の確認も取れていない以上、不用意に相手を死なせてしなってはせっかくの手掛かりも失われてしまう。死体は何も語らないのだ。生きたまま、可能であれば軽傷程度で相手を拘束すること。それがこの作戦では求められていたのだった。

 

《行くぞ、タチコマ》

 

《ラジャー》

 

掛け声とともに2体のタチコマはそれぞれトレーラーの斜め後方につけると、チェーンガンの照準を後輪へと向ける。次の瞬間、一切のブレなく的確に放たれる7.62mm弾がトレーラーのタイヤを弾き飛ばした。

 

突然の出来事に制御を失ったトレーラーは左右に大きくよろけてバランスを崩すも、何とか車体を立て直そうと必死に足掻いている。ホイールだけとなった後輪からは激しく火花が散り、残ったタイヤも摩擦で道路に黒い跡を残しながら甲高い悲鳴を上げる。荷台の戦車は突然の襲撃に砲塔を旋回させ後方に向けるが、タチコマの姿はなかった。

 

そこへ今度は真横からの銃撃。生き残っていた荷台側の前輪が次々と吹き飛び、ついにトレーラーは大きく傾きそのまま横倒しになると、火花を上げて道路を横滑りする。荷台の戦車も先ほど自らが破壊した天井から投げ出され、道路上を派手に横転して電柱に激突する。

 

《墓穴掘りましたね~、この戦車》

 

タチコマはようやく静止したトレーラーに近づきながらそう言った。完全に横倒しになったトレーラーからは灰色の煙がもうもうと立ち上り、焼き付いたオイルの強烈な異臭が漂う。エンジンも沈黙し、もはや動き出す気配はなかったものの、ひび割れたフロントガラスを蹴破って血まみれのドライバーが這い出てきた。この期に及んでまだ逃げるつもりらしい。

 

電柱をへし折って干上がった田んぼに突っ込んでいる思考戦車にも目もくれず、ドライバーの男は一目散に走り出す。だが、突然見えない何かに突き飛ばされて転倒した彼は、一気に両腕を掴み上げられて取り押さえられた。無我夢中で暴れるも、すぐに後ろから電脳錠を刺し込まれて硬直する。

 

「思ったよりもちょろいもんだな…」

 

思わず首をかしげるボーマ。目の前では光学迷彩を解いたタチコマが動かない男をそのまま地面に降ろし、後ろ手に組み上げる。パズの方もトレーラーの助手席から完全に伸びてしまっているもう1人の男を見つけると、電脳錠で拘束したのち強引に中から引き摺り出した。

 

その頃にはもう1機のタチコマが横転した思考戦車を無力化し終えていた。だが、腹を晒した不格好な状態で田んぼに半分埋まっている戦車の醜態に、タチコマは深々と溜め息をつく。敵の肩を持つつもりではないが、同じ戦車として軽い憐れみを感じていたのだった。

 

《現場は制圧。搭乗者2名を確保。思考戦車も無力化。トレーラーの荷台からは無人機らしき物体は発見されず》

 

《了解。現場は所轄に引き継げ。回収にヘリを回す》

 

電通を使い、ボーマは拉げたトレーラーの荷台を見つめつつそう報告した。案の定、今回の一件は全てテロリスト側の陽動だったらしい。もっとも、盗み出した小型思考戦車まで使ったところをみるとまだ他に目的があったのかもしれないが、所詮は捨て駒に過ぎないのだろう。拘束した2人を見ても目立った装備もせず、上下ともグレーの作業服という点からすると、ウイルスか何かで操られた見本市のエンジニアという線が濃厚だった。

 

肝心の無人機は結局見つからず、捜査はまた振り出しに戻ってしまうのだろうか。

 

そんなことを考えていた矢先、山の向こうからヘリ独特の連続音が響き渡る。見上げると、そこには見慣れた9課のティルト機がホバリングに移り、ゆっくりと高度を下げていた。

 

とにかく、一度本部に戻って今後の作戦を練るほかない。これ以上ここに残っていても、もう何も出てくることはないのだ。少佐はそう判断したに違いない。だとすれば、時間を無駄にすることはできなかった。

 

ボーマはすぐにタチコマに指示を出し、拘束した男たちを連行させる。やがて着陸したヘリに駆け足で乗り込んだ彼らは、遠方から駆け付ける無数の警察車両の一団を眼下に捉えつつ、静かに現場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「つまり、無人機本体は最初から盗難されていなかったってわけか」

 

「そういうことになるわね。格納庫を全焼させて証拠を隠滅させた上で、最小の兵力で最大の陽動効果を狙う。大した作戦だわ」

 

巡航中のティルト機の機内で、少佐はバトーにそう言葉を漏らした。つい先ほど、鑑識による詳細な検証の結果、例の無人機盗難事件で火災により全壊した格納庫の瓦礫から盗まれたはずの無人機の主翼ほかいくつかのパーツの残骸が発見されたのである。すなわち、テロリストたちは無人機など盗んでおらず、所轄の警察は完全に踊らされていたのだった。

 

もっとも、それは少佐も始めから薄々と予想はしていたことだった。無人機という大物を無事に盗み出すためには、盗難が判明する頃には他県に既に飛び、さらに警察の配備が整う前に目的の隠し場所まで運び終えていなければならない。包囲網が構築されてから呑気に移動しているのでは論外なのだ。それを考えると、リスクの大きい無人機自体に手を付けなかったということは至極当然のことではある。

 

「じゃあ、連中はいったい何を盗んだんでしょうかね。まさか、何も盗っていないってことは…」

 

「あるわけねぇだろ。相手を舐め過ぎだ」

 

ふと疑問に思ったことを口にしたトグサだったが、すぐにバトーに怒鳴られて黙り込む。そう、わざわざ格納庫に放火して手の込んだ陽動作戦を実行しながら、彼らが何も盗んでいないはずなどなかった。

 

これはまだ現場の鑑識の結果を待つほかないが、順当に考えると当該機に搭載されていた対艦ミサイルという線が濃厚だろう。ミサイル単体であれば重量的に宅配便程度の中型トラックで十分運搬可能であるし、1発ずつであればバンに載せることも不可能ではない。積み込みも無人機自体を運ぶことに比べれば手もかからず、撤収作業も短時間で進行可能だ。

 

しかも、そのミサイルも中々の厄介物だった。前世紀のフォークランド紛争で活躍したエグゾセという名を冠してはいるが、実質的には全くの別物であるエグゾセⅡは射程130キロを超え、弾頭重量も100キロと駆逐艦を沈めるには十分な威力を持つ。

 

その気があれば対地攻撃にも転用可能で、福岡の首相官邸を狙うのであれば熊本県はもちろん関門海峡を挟んだ山口県からでも十分射程距離内だ。もっとも、エグゾセⅡはレーザー誘導には対応していないためピンポイントでの攻撃は不可能だが、GPS誘導を使えば官邸ほどの大型目標なら余裕で吹き飛ばすことができる。

 

問題は発射プラットフォームだろうか。元が空対艦ミサイルなので、発射母体は当然航空機に限定される。無人機が失われたいま、テロリストたちに運用する能力はないはずだった。にもかかわらず無人機を手放しているということは、代替の手段が既に確保できていると考えた方が良さそうだ。

 

「ボーマ、例の無人機のミサイルを地上発射型にすることはできる?」

 

「できないことはない。自分は爆発物専門だからあまり詳しくはないが、安全装置に改良を加えれば行けるはずだ。あとは目標諸元入力用の制御用信号線の接続も必要だがな。弾道の方は元々対地モードもあるくらいだから、高空巡航にすれば途中で墜落ということはない。ただ、それだけの改造ともなると軍のエンジニアでも1か月は掛かるが」

 

「なるほど…」

 

考えうる中では、トラック等で輸送され人気のない山間部等から発射されてしまうというのが最悪のシナリオだった。それに、テロリストたちが必ずしも首相官邸を狙ってくるとは限らない。多くの市民の集まるソフトターゲットが標的にされれば、多くの死傷者が出ることは必至だった。どこから飛んでくるかも分からないミサイルの恐怖。それだけでも、市民生活に与える影響はあまりにも大きい。

 

「やっぱり少佐も連中の狙いはミサイルと踏んでいるのか?」

 

「順当に考えればね。リスクはあるけど、無人機自体を盗むことに比べれば実現性は高いわ」

 

少佐はイシカワにそう答えた。今回の一件で、相手に切り札が一つ渡ってしまったのはほぼ

確実と言えるだろう。いや、正確には連中の手にそれが渡っているかもしれないという可能性が出た時点で、彼らはまんまと武器を一つ手にしているのだ。強いて言えば、ミサイルの存在そのものが連中のカードになっているというわけだ。

 

「クソ、今回も連中にしてやられたってわけか」

 

「まあ、どのみち連中が小型戦車を盗んだ時点で所轄の警察には対処不可能だから、私たちが釘付けになったのはやむを得ないと考えるしかないわね。もっとも、全てが連中の思い通りになったかと言われるとそうでもないけど」

 

「というと…?」

 

焦りを隠せないトグサだったが、そんな彼をなだめるかのような冷静沈着な声で少佐が返す。思いもよらない言葉に、トグサは首をかしげて訊き返した。

 

「パズとボーマが陽動部隊を押さえてくれたおかげで、ウイルスのサンプルが増えたのよ。うまくいけばウイルスの論理変動パターンの解析と進化予測からワクチンの雛型がつくれそうだわ」

 

「ほう、それは朗報だな。うまく行けば、連中の戦力を無効化できるかもしれねえんだろ?」

 

「そうね」

 

見本市の一件を除き、一向に姿を見せないテロリストたち。だが、戦力のほとんどをウイルス感染で確保していた分だけ、こちらに解析させる隙を与えていることになるのだ。向こうが切れ者ならそれも考慮してそろそろここで別の手に出てくることも考えられるが、相手が悪かった。

 

ウィザード級とも呼ばれる高度なスキルを持つ少佐の手に掛かれば、この程度の僅かなサンプル数でも、構造解析して規則性を見出し、ワクチンを構成するには十分なのだ。いくら過去に例を見ない自己進化型の高度なウイルスでも、解析する余地があればそれだけ論理構造を見破られる危険は大きい。少佐がこれまで培ってきた経験からも、それは裏付けられたものだった。

 

ワクチンさえできれば、後はこっちのものである。発症者が電脳死する前に無力化できる上、感染そのものも未然に防ぐことができる。そうなれば連中の思った通りに事は運べなくなり、計画を破綻させることは容易になる。

 

「本部に着いたら、パズとボーマはイシカワから情報収集を引き継げ。ないとは思うけど、連中が犯行声明を上げる可能性もゼロではないわ。バトーとトグサは課長室へ。課長が直々にお呼びよ」

 

「何かやらかしたのか?お2人さん」

 

ダイブ装置に向かっていたイシカワが軽い調子でからかった。まったく心当たりのない2人は納得できない様子で眉間に皺を寄せながら、少佐の方を振り向く。

 

「何でも、6課絡みで何か掴んだことがあるみたいね。それについてじゃないかしら」

 

「6課かよ。なかなか面倒なヤマだな。しかもコイツと?」

 

「不満かしら?課長に私からそう伝えておくわ」

 

「よせよ。戒告や減給なんて御免だ」

 

バトーはそう言うと、軽く息を吐いてシートに腰掛ける。確かに6課が相手というのは気乗りしないものがあるだろう。何かと対立することの多い9課と6課。しかしここでバトーに声が掛かったという事は、課長も本腰を上げて何かを探ろうとしているのかもしれない。

 

6課がこの一連の事件にどう関わっているのか、はっきりさせる時が来たのかもしれなかった。

 




2018/10/25 一部修正


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第14話

「ほら、さっさと起きろ!朝だ」

 

しわがれた声で怒鳴りながら、小太りの男が廊下中を駆け回る。同時に大音量で天井のスピーカーからヴァイオリンの旋律が響き渡った。聞いている限りではクラシック音楽のようだが、サイトーにはこれが何の曲なのか分からない。同じような旋律を繰り返したかと思えば、妙なところで転調する。まるで素人が作曲したのではないかと思ってしまうような曲だった。

 

「何だよ、五月蝿えなぁ…」

 

呻きながらベッドから起き上がる男たちは、口々に悪態をつきつつも着替えを始めた。外はまだ暗く、東の空が淡い紺色に染まってきた程度である。時刻にすればまだ6時も回っていないだろう。

 

サイトーはさっと着替えを終え、ベッドを降りた。相変わらず粗末なつくりの居室は断熱も最悪なようで、窓には結露した水が凍りついている。室温は下手をすれば氷点下に近かった。それでも、そんな生活にはもう慣れっこなのか、ルームメイトはぐっすりと熟睡していたようだったが。もちろんサイトーもまったく眠れなかったわけではないが、寝心地は言うまでもなく、疲労感だけが溜まる一方だった。早く慣れておく必要があるだろう。

 

初日からいきなり問題行動を起こした強面の男は、無言で身支度を整えると一足先に出ていった。恐る恐るその様子を見ていたほかの2人も、点呼に遅れないように慌てて部屋を飛び出していく。サイトーもそれに続いた。

 

一日の生活リズムというのは、ほぼ固定されているようだった。毎朝5時45分起床、6時より点呼。その後、朝食ののち7時から12時まで労働訓練し、昼食を挟んでさらに13時から17時まで午後の労働を行う。内容としてはネジなどの機械部品の加工の他、しばしばコンピュータ実習と称して事務処理の練習もあった。もっとも、今の時代なら小学校で習う程度のレベルだが。

 

あと必ず行われるのが、“祈りの時間”というものだろう。朝の点呼、昼の点呼、夕方の終業時の1日3回、必ず全員を集めて10分間の祈りを捧げるのだ。詳しいことは実際にやってみなければ分からないものの、タイムスケジュールを見る限りでは特に怪しげなものは見当たらない。

 

廊下を抜けたサイトーは他の男たちとともに外に出る。というのも、一度に全員が入り切るホールといった類の建物がないからだ。真冬の北海道の早朝は寒さを通り過ぎてもはや痛みを覚える程で、出てきた男たちはみな小刻みに震えて縮こまっている。

 

既に宿舎の前には数十人ほどが集まっており、寸分違わずに整列している。既にここで生活している人間たちだろう。到着した昨日は接触する機会がそもそもなかったため、どんな印象か確かめることはできなかったが、いま見る限りでは特におかしな様子は見られない。

 

「点呼!」

 

決められた白装束に身を包み、初日に出迎えをしていた雪だるま男が声を張り上げる。元軍人が多いのもあって、それに答える声もわりあいビシッとした威勢の良いものだった。やがてサイトーの順番が来ると、周りと同様に大きくはっきりと番号を答える。こんなことをするのは何年ぶりの事だろうか。思わず懐かしさすら覚えてしまう。

 

だがもちろん、悠長に感傷に浸っている暇はない。点呼が終わるとすぐに始まるのが祈りの時間だった。数人の付添人を伴って姿を現したのは、一見すると温厚そうな男。肉付きの良いふっくらとした顔には銀縁眼鏡を掛け、髪は短く切り揃えられている。細い独特の目つきだが、そのせいか表情が読み取りづらく何を考えているのか分からない不気味さもあった。

 

「では皆さん、目を閉じましょう」

 

付添人の指示のもと、祈りが始まる。一斉に座り込み、脚を組んで目を閉じる男たち。入ったばかりのサイトーを入れた数人も見よう見真似で祈り始める。といっても、キリスト教のように何か祈りの詞があるわけではない。1人1人が目を閉じて耳を澄まし、心を開いて己の内で祈りを捧げるのだ。

 

闇が支配する世界の中、かすかな風の音と自分の息遣いだけが耳に入る。奇妙な静寂はしばらく続き、自分がどこにいるのか分からないような感覚にもとらわれる。それでもサイトーは警戒だけは怠ることはなかった。常に意識を集中させ、周りに注意を払う。

 

やがて5分ほどで祈りは終わり、“導師”と呼ばれた男は神に感謝を告げると一日の平穏を願う。思っていたような怪しい雰囲気もなく、“祈りの時間”は無事に終わった。この後は朝食を取ったのち、4時間の労働訓練。自由に動けるのは終業後の夕方以降になると思われる。

 

まあ、入って2、3日の内は目立つ動きは避けた方が良いだろう。現状では特に怪しいところはないとはいえ、万が一のことがないとは言えないのだ。まずはこの生活リズムを体に叩き込み、慣れておかなければならない。建物の構造も単純とはいえ、ある程度確認した方が後々役に立つ。

 

一団は解散し、各々の宿舎へと戻っていく。東の空はようやく赤く染まり始め、眩い朝焼けの光が凍り付いた夜空を徐々に溶かしていくように感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノックののち部屋に入ると、マホガニーのデスクに向かった荒巻課長が捜査資料に目を通しているところだった。

 

「まあ、かけてくれ」

 

言われるがまま、トグサとバトーは正面のソファに腰を掛ける。課長は一段落つけると資料を置き、さっそく本題に入る。

 

「例の武田氏の件だが、中々厄介なことが分かってきてな。結論から言うと、6課はやはり正規の流れでなく秘密裏に武田氏の警護を担当していたらしい。当然、外交部にもそういう話は回ってきておらんそうだ。現役のアジア局長ですら、何も知らなかったようだからな」

 

「身内にまで黙っているってことは、余程の隠しておきたい事情があるってことですか。これは、本人に一度聴取した方が良いんじゃないですかね」

 

そう話したトグサだったが、課長は答えないままだった。その様子にすぐに彼が言わんとしていることを理解したバトーは、ぼそっと呟く。

 

「そこで、問題があったわけだな」

 

無言のまま頷いた荒巻課長は、神妙な面持ちのまま手元の端末を操作すると壁面の中型モニターにいくつかの画像を表示する。

 

「今から44分前の武田邸の様子だ。カメラ虫を使って遠距離から撮影したものだ」

 

画像には西洋風の立派な門構えの豪邸が映し出されている。3階建てで車庫は2つあり、規則正しく敷かれたベルギーレンガが品の良いアクセントになっていた。屋敷を取り囲むように生える西洋芝はほのかに薄茶色の部分もあるものの、この時期でもまだ青々とした緑を保っている。こまめな手入れの賜物だろう。

 

屋敷の窓に目をやるとレースのカーテンが閉められていて、中の様子を窺うことはできなかった。だが、早くもバトーは2階の窓に映る人影に気づく。シルエットからすると男、それもあの高さだと180cmはあるだろう。

 

画像がその窓を中心に拡大される。最初は荒いドット画像だったが、間もなく再読み込みによりドットが細かく分割され、解像度の高い滑らかな画像に変換される。相変わらずシルエットなのは変わらないが、窓際に近づき外を一瞥しているあたり、明らかに屋外に注意を向けているのが見て取れる。

 

「当該時刻、宅配業者が屋敷を訪ねている。受け取ったのは普段から屋敷で働いている家政婦だそうだ。だが、彼女以外にあの屋敷で働いている人間はおらん。住んでいる人間も、武田氏本人だけだ」

 

「つまり、あの長身の男は普通ならいるはずのねえ3人目ってことか」

 

「それだけではない」

 

画像が切り替わる。アングルから察するに、電柱の上から撮られたものだろう。映っているのは武田邸の正門からその100m先の信号のない十字路にかけての道路だった。余程の高級住宅地なのか、歩道にはベージュ色のブロックが敷かれ、花壇まで整えられている。丁寧に切り揃えられた生垣が両側に広がり、緑の壁を形作る中、わずかに十字路から顔を出して駐められているのはシルバーのバンだった。サイドウィンドウにはいずれもスモークフィルムが張られ、車内の様子を窺うことはできない。

 

「6課か。いかにも、って感じの警備だな」

 

「ですが課長、6課が武田邸を警備しているのは当然ですよね。現に襲撃事件も起こっているわけですから、警備を強化しているのは当然かと」

 

疑問に思ったトグサが口を開く。これまで秘密裏とはいえ武田氏を警護していた6課が彼の自宅近辺を固めていることは、何ら不自然なことではないからだ。

 

「その通りだ。だが、外からの脅威だけでなく、内も見張っているとしたらどうだ」

 

「どういうことです?」

 

課長の放った言葉の意味をトグサは最初、理解できなかった。そんな彼に代わって、バトーはすぐに課長が言わんとしていることを察し、訊き返す。

 

「つまり軟禁ってことか、課長」

 

「そうだ。実際、例の襲撃事件後に彼が自宅に戻ってから一度も外出した痕跡がない。買い物や来客なども全て家政婦が対応しているそうだ」

 

「本人の安全確保のための措置という可能性は?」

 

「ないわけではない。もっとも、外部との通信回線を盗聴しながら警備する必要性があればだがな。固定電話、電脳用無線通信の両回線で、6課が傍受、盗聴している痕跡が見つかっている。十中八九、武田氏は軟禁状態に置かれているとみて、間違いはないだろう」

 

「なるほど。警護対象を軟禁しちまうとは、穏やかではなさそうだな」

 

ふっと軽く笑みを漏らしながら、バトーが返す。トグサもやっと事態が飲み込めたのか、神妙な面持ちで課長を見つめていた。

 

「そこでだ。お前たち2人には、何らかの形で武田氏に接触し、事情を確かめてもらいたい。場合によっては、9課で武田氏を保護することも視野に入れている。ただし、できる限りいまの段階では荒事は起こすな。分かったな」

 

「了解」

 

2人は引き締まった声でそう答えた。久々に面白そうな仕事が回ってきたとバトーが感じる一方で、トグサは6課絡みの大仕事に緊張が抑えられない。心臓が軽く脈打ち、冷汗が腋を伝って何とも不快だった。

 

そのまま課長室を出ると、トグサは思わずため息を漏らしてしまう。

 

「なんだ、まさか不安なのか?6課のやり合うのが」

 

「別に、そんなんじゃないさ」

 

「ま、いざとなったら骨ぐらいは俺が拾ってやるからな」

 

バトーのきつい冗談にむっとするトグサ。確かに不安がないと言ったら嘘になってしまうだろう。何せ相手は同じ日本の政府機関であり、プロである。自分が一つドジを踏んだだけでも、それが9課の命取りになってしまう可能性もなくはないのだ。

 

そんな任務になぜ課長は自分を任命したのだろう。トグサの頭に一つの疑問が浮かんできた。最も考えられるのは適性ではないだろうか。今回の任務では張り込みが主になる。そこで自分の刑事時代の経験を活かせるかもしれない。それに義体化率の高いバトーのようなメンバーだけでは、表に出ただけで警戒されてしまう恐れもある。

 

そんなことを薄々考えていると、唐突にバトーが口を開く。

 

「それにしても、お前もだいぶ成長したもんだ」

 

「ん、どういうことだ?」

 

「入ったばかりの頃は()()()()だったのが、だいぶ一人前らしく仕事できるようになったじゃねえか。今度の仕事にあたったのも、それだけ課長の信頼を得ているってことだろ」

 

はっとしたトグサ。バトーの口からそんなことが聞けるとは思ってもいなかったのだ。いままで自分は皆の足ばかりを引っ張っていると思い込んでいたが、必ずしもそうではないという。そういう言葉が聞けるだけで、素直に嬉しかった。

 

「ま、まだまだだけどな。だいたい、マテバ持ってる奴なんか当てにはできねえし」

 

「マテバのことはいいだろ、別に…」

 

2人はそのまま軽い言葉を交わしながら、エレベーターの中へ乗り込んでいった。トグサの緊張は、いつの間にかすっかり消え去っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

街路樹に止まっていたスズメの群れが車のエンジン音にさっと一斉に飛び立った。隅々まで整備された道路には大きな花壇が、歩道と車道を分け隔てるようにつくられていた。もっとも、真冬のこの時期では枯草しか残っておらず、土も乾き切って固く締まっている。トグサはぼんやりとそんな過ぎゆく景色を眺めていたが、看板を見てふと我に返る。

 

『桜が丘2丁目』

 

ここは武田氏が邸宅を構える高級住宅街の一角。車を運転するバトーは私服姿で、過度に辺りを見回すことはせず何気ない様子で気楽にハンドルを握っていた。一方のトグサは軽く息を吸い込むと、背もたれからやや体を引き起こしてサイドウィンドウから横の通りを一瞥した。

 

停められている車両はない。

 

武田邸まであと2ブロック。相手が6課となると、事前のブリーフィングで知らされていた警戒車両以外にも、要員を配置している可能性もある。周辺の警備状況をまとめるに越したことはなかった。もっとも、初っ端から相手に感づかれる訳にもいかないので、できることは最小限度に限られる。

 

車は時速20キロ程度のゆっくりとしたスピードで路地を進んでいた。間もなく、目の前に写真で見た門が見えてくる。

 

「屋敷の前に車はなし。門は閉鎖中、車は2台ともガレージか…」

 

今まさに通り過ぎたのが、武田邸であった。車はそのまま横通りに入ることはせずに、直進して住宅街の奥へと進んでいく。近くの十字路にはシルバーのバンが路駐されていた。報告通りスモークフィルムがバックウィンドウとサイドウィンドウの両方に張られ、中の様子を窺うことはできない。

 

ちょうど、通りかかったジョギング中の中年男性が怪訝な様子でじろじろとバンを見つめていた。もちろん、特に何かするというわけでもなく、男性は首をかしげながら通り過ぎていくだけだ。

 

しかし、近所の人間があの様子で不審に感じているあたり、何日もずっとあそこに停め置かれているということか容易に想像できる。そのうち、警察に通報されかねないことから、明日にはバンの位置は変わると考えて良さそうだ。

 

「にしても、6課はなぜ武田氏を軟禁するんだ?ついこの間までは行事に出席したり、日常生活をこなしていたのに」

 

「ま、考えられるのは単純に勝手に外に出られると“都合”が悪くなった、とかだろうな」

 

トグサの疑問に、バトーが答える。まだトグサはあまり納得していない様子だ。

 

「都合ね…。それだけで元身内とはいえ一個人を軟禁するなんてリスクがあり過ぎると思うんだがな」

 

「それだけの価値があるってことなんだろ、武田って爺さんの持つ情報には。ほら、降りるぞ」

 

バトーはそう言うとエンジンを止め、シートベルトを外す。車はいつの間にか武田邸から離れた3階建てのアパートの前に停められていた。高級住宅の立ち並ぶ区画から少し離れたとはいえ、まだ周りは普通の街並みよりは立派な住宅が立ち並んでいる。元来た方向を振り返ると、武田邸は住宅地となっている小高い丘のかなり上の方に見えた。直線距離にして500メートルはあるだろう。

 

荷物を持って内階段を上がると、3階の一番奥の部屋に2人は入った。1LDKという事もあってリビングは広く、10帖近くある。フローリングも新しく、キッチンには最新型の電磁調理器が備えられ、普通に住む分にはなかなか贅沢な環境だった。

 

「なんか税金の無駄遣いだ、って言われそうな部屋だな…」

 

「仕方ねえだろ、周りに適当な建物ねえんだから。それともお前だけ1人で24時間外で見張ってるか?」

 

「遠慮しとくよ」

 

2人はそんな話をしながらも、機材を出してカーテンを閉め、着々と準備を整える。通信傍受用の高感度アンテナや高指向性マイクなど、少し大掛かりな装備もあった。それでも、1時間もしないうちにアパートの一室は監視部屋に様変わりし、窓際の三脚に備えられた望遠鏡は武田邸をしっかりと捉えていた。

 

おおむね態勢は整った。とりあえず今日一日はこれらの装備を駆使して敵状把握に努めるかほかないだろう。まず確かめなければならないのは武田氏の状態。まさかということはないと思われるが、一応確認する必要はあった。それが分かればあとは抜け道を見つけ、何としてでも本人に接触しなければならない。

 

もっとも、6課が軟禁しているいまの状況では接触できる手段は大幅に限られることになるが。直接出向くのは論外として、セボットを使うにしろ敷地内には妨害電波が発信されている可能性が高く、屋敷に近づいた時点で制御できなくなるのがオチだろう。

 

「調べたら武田氏、紙の新聞契約しているんだな」

 

そんな中、トグサが口を開く。手元にはあらかじめ本部で調べておいた武田氏の個人データが表示されている。その中には、電気・ガス・水道といったライフラインの契約情報のほか、テレビや新聞といったメディアのものも記載されていた。

 

「これくらいの世代にはよくあることじゃねえか。若い奴に脳ミソ弄られるが嫌で電脳直結してない爺さんがいるくらいだからな」

 

「まあ、たしかに」

 

電子化が進んだ現代では、紙で新聞を取る人間はかなり珍しい存在となっていた。そもそもネットの普及でニュースなどは電脳から簡単に確認でき、さらに文字情報だけでなく動画といった視覚情報も得ることができる。もはや新聞はネットニュースと統合し、ほぼ消滅しかけているメディアの代表例だった。それでも完全には廃れないのは、このようにネットが普及する以前から親しんでいる人々の存在が大きい。

 

「で、新聞がどうかしたのか?まさか新聞屋を装うとか思いついたんじゃねえだろうな?」

 

「違うって。新聞を使うのは同じだけど、俺が思いついたのはその…、中身を使うというか…」

 

トグサは言い淀みながらも、話を続ける。

 

「新聞の中に6課には気づかれないように何かメッセージを埋め込めれば良んじゃないか?さすがに連中も、新聞の中を注意深く読み漁ることはしないだろうし」

 

「まあ、たしかに気づかれることはねえだろうな。だが、情報の流れは一方向だ。たとえ武田氏がメッセージに気づいたとしても、応答する方法がねえ。それに、そこで武田氏が先走って下手な真似をしたら元も子もなくなるぞ」

 

バトーの指摘に、トグサは返すことができなかった。武田氏がメッセージを受け取ったとしても、肝心の返信をこちらが受け取れなければ意味がない。新聞を使うこと自体には問題はないものの、復路をどのようにして確立するか。そこが問題であった。

 

いかにして抜け道を見つけるか。これまで様々な状況下で作戦を行ってきたバトーにとっても、今回のようなシチュエーションはほとんど初めてに近かった。監視側に気づかれないように軟禁下の人間とコミュニケーションを取る方法。しかも、確立した手段は数日または複数回に渡る使用にも堪えうるものでなければならない。そうでなければ詳細な情報は得られない上、万が一9課で武田氏を保護するとなった場合にも作戦の支障となってしまうのだ。

 

ひとまず今日は監視に集中し、情報を集められるだけ集めるしかない。本格的な対応を考えるのは、明日以降になるだろう。だが、いたずらに事態を長引かせるわけにもいかなかった。工作員や例のテロリストの動きなど、不安要因は無数にあるのだ。

 

2人はそれぞれ思考を巡らせつつ、持ち場につくと監視任務を始めた。

 




2018/11/1 一部加筆修正


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第15話

瞼の奥に感じる柔らかな薄明かりに、トグサは目を覚ました。案の定、真っ先に襲ってくるのは腰と背中の鈍い痛み。アパートを借りられたのは良かったものの、つい先日まで空室だった部屋には当然ながら家具などの類はなく、やむを得ず寝袋で仮眠を取った結果がこの有様だった。流石にフローリングの上で寝るというのは、生身の体には中々堪えるものがあったようだ。

 

昨日から武田邸の監視を続けているバトーとトグサ。交代で仮眠を取りながら夜間も監視に当たったものの、得られた情報は少なかった。

 

基本的に屋敷には人の出入りはほとんどなく、昨日も玄関のドアが開いたのは家政婦が郵便受けに入った新聞を取りに来た時の一度きりだった。その上、持ち込んだ電波傍受用の高感度アンテナを使っても、屋敷の通信を傍受することはできなかった。不自然な電磁ノイズが頻繁に観測されることを考えると、屋内からの通信を遮断するために6課が局所的な電波妨害を行っているのはほぼ確実だった。

 

「起きるの遅えぞ、もう家政婦がゴミ出し始めてるだろうが」

 

カーテンの先から突き出した高倍率望遠鏡を覗きながら、バトーが文句を言った。片手にはサイボーグ用のサンドイッチが握られ、大きく口を開けてはムシャムシャと頬張っている。よくあんな物を食えるなあ、とトグサはそれを見ながら常々思っていた。まあ、サイボーグでも人間であることには変わりはない以上、栄養は取らなければならない。それに、サイボーグにとって食事は栄養を取得する手段(ツール)である他に、自らが人間たる証でもあるのだから、やめることは出来ないのだろう。

 

代わって望遠鏡を覗いてみると、紺色のエプロンをつけた昨日の同じ家政婦がせっせと大きなゴミ袋を両手に抱え、歩道を歩いている姿が目に入る。袋をやや引き摺りながら運んでいくあの様子から考えると、彼女はほぼ生身と考えて良さそうだ。やがて、ゴミを出し終えた彼女は、ゆっくりと元来た道を戻っていく。

 

少々金を出せば掃除・洗濯・炊事といった大半の家事をこなせるアンドロイドが手に入る世の中で、わざわざ人を雇っているのは珍しい話だった。やはり、武田氏は少し古いタイプの人間なのかもしれない。

 

「見た限りでは彼女まで尾行する要員はなしか。でもまあ、監視はされているだろうな」

 

そう呟くトグサ。マイクロテクノロジーが発達した今の御時世、どこにセボットが紛れていてもおかしくはない。それに、セボットに限らずマイクロチップをポケット等に忍ばせておくだけでも、位置情報や音声を取得することは容易だった。彼女が怪しい人間と接触したら、すぐにそれは6課にも筒抜けになってしまうだろう。

 

正門を抜けた彼女は、やがて玄関のドアを開けると家の中に入る。隙間から一瞬だけ家の中の様子が見えたものの、当然ながら特段の異状は見受けられない。

 

「武田氏の姿は見えたか?」

 

「いや、何も。窓の方も相変わらずレースのカーテンが張られていて、中の様子は全く分からない。旦那の方は?」

 

「熱探知だと3階に2人。1階にさっき入っていった家政婦の1人だ。普通に考えれば3階の2人のうちのどっちかが武田って爺さんで、もう1人が6課ってとこか。まあ、もっといるだろうがな」

 

バトーがカメラの熱赤外映像を見ながらそう答える。基本的に、こういった任務ではツーマンセルすなわち2人一組以上での行動がセオリーだ。今回のように対象者の軟禁も兼ねるような任務ならば、フォーマンセルでも何ら不思議ではない。

 

だとすると、残る人員は建物内かその周辺にいる可能性が濃厚だろう。バトーの見立てでは建物内に少なくともあと1人、昨日見つけたバンにも1人か2人はいるはずだった。先ほどの熱探知では反応は1人分しか出ていないが、熱赤外映像で探れるのはあくまで窓や薄い壁の後ろのみ。建物の奥や、反対側にいる人間は見つけることはできないのだ。

 

「はあ。ここまでくると武田氏も哀れに感じるな。襲撃されて殺されかけた上に軟禁とは」

 

「ふ、どうせ現役時代にろくでもないことでもしたんだろ。でなきゃ、こんな目には合わないさ」

 

トグサの言葉に、バトーが薄笑いを浮かべながらそう言った。

 

「でも、今までは軟禁なんて受けずに普通に暮らしていたのに、何で今さら6課に目を付けられたんだ?」

 

「それは分からん。考えられるのは脅迫でも受けて怖気付いたってとこだろうな。見本市では実際に殺されかけてる訳だし。それで今さら懺悔づいて、隠してた何らかの情報を明らかにしようとして、結果6課に目を付けられたんだろ」

 

「なるほど」

 

バトーの推測に納得するトグサ。確かに彼の予想が正しければ、今までの出来事の辻褄は合うだろう。武田氏も70を過ぎた歳で、普通に考えれば老い先は長くないと言わざるを得ない。そんな中で、死期を悟って考えを改めるというのは、あり得る話だからだ。もっとも、その”何らかの情報”というのが、どのようなものなのかを明らかにしなければならないが。

 

「話は変わるが、武田氏と連絡を取る手段は何か浮かんだか?」

 

「いや、ダメだ。固定回線、電脳通信ともに見張られている上に、屋敷に電波妨害が掛かっている可能性も考えると、盗聴器も使えない…。正直、突破口はあるのか?」

 

やや苛立ちの混じった声で、トグサはそう答える。それこそが、一番の懸案事項となっていることだった。いかにして、軟禁下に置かれている武田氏と接触するか。こうしてただただ監視を続けているだけでは、事態はいつまで経っても進展することはないのだ。

 

「確かにそうだな。回線が張られているんじゃ、迂闊に手は出せねえし。どこかに抜け穴でもあれば楽なんだがな」

 

冗談交じりでそう漏らしたバトーの言葉に、彼は苦笑いを浮かべる。言うまでもなく、そんなに都合よく抜け穴が存在するはずはなかった。何せ、相手は公安6課だ。普段から工作活動に長けている彼らともなると、文字通り抜け目のない監視体制を築いていると思われる。

 

だが、抜け穴という言葉を聞いた彼の頭に、一つあることが思い浮かんだ。

 

トンネル攻撃である。武田邸内のネットに接続されたデバイスのどれか一つさえ押さえられれば、それを起点に外部とトンネルを結ぶことが可能となる。暗号化された通信であれば、通信内容を傍受されたとしてもその内容が筒抜けになることはないのだ。

 

ただ、一つ問題なのがどのようにしてトンネルを掘り進めるかということだった。固定回線も6課が監視していることも踏まえると、正面から攻撃を仕掛けると確実に探知されることになる。外から強引にこじ開けるような方法では、密かにトンネルを掘ることは不可能に近いのだ。

 

ならば、どうすればよいだろう。深々と考え込むトグサ。真っ先に思い浮かぶのが、外側からではなく内側からトンネルを掘るという方法だった。外部からのアクセスに比べれば、内部からの通信なら傍受にさえ気をつければ弾かれる心配は少ない。

 

もっとも、屋敷内に協力者もいない今の状況でどうやって内部の端末を操作し、トンネルを掘るかが問題だが。気づかれないよう内部のデバイスにアクセスすることが出来ない以上、トンネル作戦も机上の空論に過ぎなかった。

 

やはり、トンネルを掘るなんてことは素人考えだったかもしれない。しかし、諦めかけた彼の頭に浮かんできたのは、見慣れた青い思考戦車の姿だった。

 

「旦那。タチコマを使えば、屋敷の敷地内に忍び込ませて内部のデバイスにアクセスできるんじゃないか。屋根に張り付かせれば、屋内の無線ネットにはアクセスできるだろうし」

 

トグサの言葉に、少しの間考え込むバトー。やがて、彼が考えていることを薄々察したのか、軽く頷くと落ち着いた口調で話し始める。

 

「タチコマか?まあ、確かにあいつは光学迷彩で姿を隠せるから、屋敷の屋根に張り付いても気づかれる心配はねえだろうな。けどよ、問題なのが電波妨害だ。屋根に張り付いても屋内のネットに無事にアクセスできる保証はないぜ。有線のネットにしろ、都合良くケーブルにありつけるか分からない以上無理だ」

 

バトーの反論はもっともだった。姿を隠して敷地内に忍び込んでも、そこから宅内のネットにアクセスする方法がどうしても思い浮かばない。ここに来て、八方塞がりに近い状態だった。厳しい面持ちのまま、押し黙ってしまう2人。

 

そんな中、不意にタチコマの声が電通を通じて彼らの脳内に響く。

 

《聞いてましたよバトーさん!それならボクに任せてください》

 

《任せるって、お前、何かいい考えでも思いついたのか?》

 

《えっへん!アンテナですよ。テレビアンテナのケーブルを通じて屋敷内のテレビにウイルスを流し込めば、大半の機能は掌握できるので、そこからトンネルが掘れるかもしれません》

 

流石はタチコマだった。確かに、近年のテレビはネットに負けないよう高付加価値化を狙い、高画質の放送を受信し膨大な量のデータを処理できる。端末としての処理能力としては申し分ないだろう。その上、受信機器のファームウェアアップデートは放送電波を介して行われるため、ケーブルからアップデートファイルに偽装したウイルスを送り込めば、彼の言うようにテレビを踏み台にトンネルを掘ることができる可能性は高い。

 

まだ素直に喜ぶわけにもいかないものの、ようやく希望の光が見えてきた。流石のバトーも思わず表情が綻ぶ。

 

《お前にしちゃ、なかなかの発想じゃねえか。見直したぜ》

 

《えへへ、バトーさんにそんなこと言われたら、何だか照れちゃうなぁ…》

 

バトーに褒められてすっかり照れるタチコマ。問題は課長の許可を得られるかどうかだろうか。タチコマを使えば光学迷彩で姿を隠せるとはいえ、どのみちハイリスクであることには変わりはないのだ。6課が相手だということも考えると、作戦に当たっては相当用心しなければならないだろう。

 

でも、これで突破口は見つかった。後は屋敷に本当に武田氏がいるのか確認し、6課の警備態勢を徹底的に調べ上げるだけだ。それさえできれば、タチコマによる潜入作戦はいよいよ現実味を帯びてくる。

 

ちょうどその時、屋敷で動きがあった。

 

どこからともなく正門の前に現れたのは、ジャケットを羽織った2人組の男。彼らはそのまま門を抜けると、何食わぬ顔で玄関へと入っていく。屋敷からやや離れた十字路の手前に停められているグレーのセダンを見ると、それに乗って来たのだということは容易に想像がついた。

 

「屋内の人間の動きは?」

 

「1階の東側から1人出てきた。やっぱり奥の方にいたんだな。で、そのまま今入ってきたうちの1人と代わったぜ。3階の方も同じだ」

 

やがて、再び玄関が開くと同じような身なりをした2人組が出てきた。正門を抜けると、一人は呑気に欠伸をしながら、坂道になっている道路を降りていく。その先には先に入っていった2人が乗ってきたと思われるグレーのセダン。彼らはそれに乗り込むと、間もなく発進させて住宅街を去っていく。しばらくの間、トグサはセダンの行方を望遠鏡で追っていたが、やがて幹線道路に出たところで追跡を打ち切った。

 

「交代要員ってとこか。だいぶ暇してるようだな」

 

欠伸をしていたところを彼も見ていたのか、バトーは再び薄ら笑いを浮かべながらそう言った。考えてみれば、一日中こうして屋敷の中に籠もって監視任務に当たる訳だから、いくら6課の課員といえども退屈で仕方のないのかもしれない。まして、見本市以降は今日に至るまで襲撃を受けていないのも踏まえると尚更だろう。

 

だが、これで6課の警備状況も把握できた。屋敷の中にいるのは、おそらく2名で間違いはない。後はキーマンとなる武田氏らしき姿があるかどうかだ。

 

「武田氏と思われる人影は?」

 

「3階の西側の部屋で、交代中も座ったままの人影が見えた。体格も一致している。順当に考えれば、そいつで違いはねえな」

 

これで準備は整った。もっとも、あくまで熱赤外映像のシルエットだけで顔を確認したわけではないので断言はできないものの、それ以外の人間の動きから消去法的に絞り込むと間違いはない。

 

トグサは大きく息を吸い込むと、課長に電通をつなげた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

口々に文句を言う男たちが玄関を抜け、食堂に入ってくる。最初のうちは機嫌が悪かった彼らも、暖房の効いた温かい室内とほのかに漂うカレーの美味しそうな匂いに思わず表情が緩んだ。やがて、カウンターを通して配膳係から各々が食事を受け取り、テーブルにつくと食べ始める。その中には、サイトーの姿もあった。

 

これで潜入は3日目になっていた。最初のうちはすぐに何らかの怪しい兆候が見られるのではないかと警戒していたのだが、思いのほかそういったものは見られなかった。何事もなくネジの加工といった職業訓練を行い、1日また1日と時間が過ぎていく。朝礼の時間に流れるおかしな音楽と、祈りの時間というのが少々気になるところではあるものの、特段の異状は見受けられない。

 

自分が来た時から既にここに住んでいる入居者たちにも怪しまれない範囲内で話を聞いてはみたのだが、特に気になるような噂も立ってはいなかった。あらかじめ聞いていた話とは違い、意外とまともな宗教団体なのかもしれない。もっとも、そうと決めるにはまだ早過ぎるが。

 

「隣いいですか?」

 

声のした方に顔を向けると、痩せ型の細長い体格の男が立っていた。同じ部屋の佐藤という男だ。極度の小心者で、初日から自分の部屋で起こった喧嘩騒ぎに怯え切っていたのは彼だったはずだ。

 

「ああ、構わないぜ」

 

サイトーはやや食器をずらしてテーブルを開ける。彼は軽く頭を下げると、自分の食器を置いてカレーを食べ始めた。暫くの間、何も話すことなく黙々と食事を続ける2人。だが、半分ほどカレーがなくなったところで気まずくなったのか、おもむろに佐藤が口を開く。

 

「おたくは、どちらから?」

 

「札幌からだ。その前は東京。職を探して転々としている」

 

「はあ、大変ですねえ。私も札幌に来る前は東京にいました。どこもめっきり仕事が減っちゃいましたからね」

 

溜め息混じりにそう言った佐藤。戦後の復興も一段落し、以前は老若男女問わず誰でも身分の確認なしに雇うほどに深刻な人手不足だったのが、ここ最近は落ち着いてきたとメディアが伝えていた。彼もそのあおりを受けて職を失い、勧誘を受けてこの辺境の地まではるばる来ざるを得なかったのだろう。

 

サイトーの答えに、話せそうだと思ったのか、佐藤はカレーを口に運びながら再び喋りだす。もっとも、まだ緊張が抜けきれないのか、その目線はしばしば泳いでいたが。

 

「その顔、あなたも自衛軍に?」

 

「ああ、そうだが。それが?」

 

「…いえ。私も戦時中は普通科にいたので。ただ、帰還してからちょっと調子が悪くなっちゃって、このザマですよ。女房には逃げられるし、年金はろくに出ないし。あ、すみません…。」

 

つい愚痴ばかりを話してしまったことに、彼は深々と頭を下げた。サイトーは「構わない」と全く意に介していない様子で手を横に振る。正直なところ、彼も元軍人だったのはサイトーにとっても少々驚きだった。

 

ただ、ここにいる他の人間たちを見ても、体格と風貌からして明らかにその道の職業に就いていたと思しき者も多々いた。彼のように一見しても分からないような人間も一定数いることも考えると、札幌で聞いた退役軍人ばかりを集めているという話はあながち嘘ではなかったらしい。

 

しかしそれだけではこの組織を”クロ”だと決めつけるには不十分だ。意図的に退役軍人ばかりを集めているにしろ、軍人救済を目的とする運営方針なのだと説明されれば何も反論はできない。道警の潜入捜査官に仕掛けられていたようなウイルスに繋がる、決定的な証拠がなければ、9課といっても踏み込むわけにはいかないのだ。

 

サイトーが思考に耽っていたその時、食堂に突如として怒号が響き渡った。振り返ると、初日に喧嘩騒ぎを起こした同じ部屋の強面男__石原が、隣の席に座っていたと思しき大柄の男と睨み合っている。

 

「このハゲ、やんのかコラァッ!」

 

男の怒声が響く。周りからは「行け、やっちまえ!」と焚きつけるような声も聞こえてきていた。サイトーは立ち上がると、たちまち集まってきた野次馬たちの隙間からその様子を遠巻きに見つめる。一方、同じく食事を取っていた佐藤はテーブルにうずくまり、震えてしまっていた。

 

最初に手を出したのは大柄の男の方だった。遠心力を活かした力強い右フックが、石原という男に目掛けて打ち込まれる。だが、誰もが間違いなくフックが直撃したと思った瞬間、彼は素早く身を引いて既の所で攻撃を避けた。ブンという風を切る音が、サイトーの耳にも聞こえる。

 

あまりに一瞬の出来事に、大柄の男は何が起こったのか理解できなかったようだ。放たれたフックが虚しく風を切った後、僅かに流れる沈黙の間。しかし、すぐに躱されたことに気づいた男は、野獣のような叫び声を上げて再び石原に殴り掛かる。しかも、今度は間合いを詰めて至近距離から顔面にフックを食らわせようとしていた。

 

今度ばかりは躱すのは無理ではないか。その場の誰もが思う中、石原はあろうことかそれをやってのけた。瞬時に身をかがめて最初の一撃を芸術的な動きで避けると、2発目を繰り出す相手の腕をすり抜けてその顎に強烈なアッパーを叩き込む。その一連の動作には全くと言っていいほど無駄がなく、洗練されていた。

 

「ぐおッッ!?」

 

男は殴られた衝撃で頭を上に向けたまま、よろめいて後ろに倒れ掛かる。だが、ギリギリの所で踏ん張ったらしく、転倒することはなかった。ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、口から血を吐き捨てた男。間もなく、懐から銀光りするバタフライナイフを取り出す。

 

一瞬でその場の空気が張り詰めた。集まった野次馬の何人かは、一歩また一歩と後ずさりをする。それでも、ナイフを向けられた石原が怯むことはなかった。

 

順手に握ったナイフを振り回して襲い掛かってくる男に、彼は大きく横っ飛びをしてテーブルを乗り越えると、そのままそれを持ち上げて勢いよく相手側にひっくり返す。上に乗っていた幾つかのカレーが宙を舞い、辺りにぶち撒けられた。僅かに相手が怯んだ隙を見逃さなかった彼は、間髪開けずにその場の椅子を掴むと相手に殴り掛かり、握っていたナイフを弾き飛ばした。

 

激痛に顔を顰めながらも懸命にナイフを拾い直そうとする男だったが、彼がそれを見逃すはずもない。テーブルを乗り越えるや否や相手の体に強烈な回し蹴りを叩き込み、吹き飛ばされた男は隣のテーブルに激突する。もはや起き上がることも出来ず、男は押し倒されたテーブルの傍で倒れたまま、弱々しい呻き声を上げる。

 

だが、近づいていった彼は容赦せず再び男の体に鋭い蹴りを叩き込んだ。最初はくぐもった悲鳴を上げていた男だったが、何度も執拗に蹴り飛ばされるうちにいつの間にかぐったりし、黙り込んでしまう。

 

「お、おい、そこまでにしとけよ…な?」

 

あまりの様子に見かねた周りの何人かが声を掛けるも、彼は全く聞く耳を持たない。無抵抗の男の体に、次々と打ち込まれる蹴り。その場には絶えず鈍く生々しい音が響き、野次馬の中には目を背ける者もいた。一通り相手を痛めつけた所で、石原は止めとばかりに相手の顔面を踏み付けようと右足を大きく上げる。

 

「そこまでにしなさい」

 

突如、背後から聞こえる声。振り返ったサイトーの先にいたのは、大きめの丸型眼鏡を掛けた小柄の男だった。歳は50~60といったところだろうか。肩まで伸びた長い髪が印象的で、研究者を思わせるような独特の風貌だった。これまで潜入してきた中では、見た覚えのない人間だ。

 

邪魔をされた石原は腹を立てたのか、無言のままこの男を鋭く睨みつける。殺意を帯びた、突き刺すような視線だった。だが、それにもこの眼鏡男は全く動じない。余程、肝っ玉が据わっているのだろう。間もなく、彼の後ろから現れたのは黒装束の一団。まるで忍者よろしく黒いマスクで顔を隠し、素顔を見ることはできないものの、その立ち振舞いからサイトーは即座に彼らがただ者ではないことを見抜いた。

 

「チッ…」

 

あからさまに舌打ちをする石原。彼も同様にサイトーと同じことを察したのだろう。渋々両手を上げて、抵抗する意思のないことを伝える。

 

「君には、ちょっと”指導”が必要だね」

 

眼鏡男はそう言うと、黒装束の一団に命じて石原を取り押さえさせ、食堂の外へと連行する。すぐに後を追おうとするサイトーだったが、黒装束の2人が室内に留まり出入り口を塞いだため、迂闊に行動することはできなかった。諦めた彼は、仕方なくその場に留まる。

 

「石原さん、どうなるんでしょうか...。」

 

「さあな。まったく分からん」

 

ブルブルと震えながら訊いてくる佐藤に、サイトーは素っ気なくそう返す。

 

彼にとっても、それはもっとも気掛かりなことだった。

 




変わり種です。
まずは1年ぶりの更新となりましたことをお詫びしたいと思います。
これだけの長い期間、お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
今後についても、投稿ペースの保証はできかねるものの、一度書いた作品ですので何とか最後まで書き上げていきたいと思っています。皆様にはご迷惑ばかりお掛けして申し訳ないですが、最後までお付き合い頂けると幸いです。どうぞ、宜しくお願いします。


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第16話

静寂が支配する闇夜をかき乱す赤い閃光。喧しいばかりの赤色灯の点滅が照らすのは、いまなお煙を燻ぶらせている1台のバンだった。大部分は黒く焼け焦げていて、元の車体色が残っているのはリアバンパーの一部くらいである。天井に至っては中央に大穴が開き、全体が変形して車の内側に落ち窪んでいる。余程の高温に晒されたのだろう。

 

駆け付けた消防隊員たちの素早い放水で火は30分も経たないうちに消されたのだが、焼け方はかなり酷いものだった。ガソリンタンクに引火したのか、それとも自ら火を放ったのか。この短時間でここまで酷く燃え上がるというのは、普通の車両火災ではあまり考えにくい。

 

仙台市郊外の市道で車が燃えているという通報があったのは、1時間ほど前の出来事だった。時刻は午後11時を回っており、現場は田畑ばかりでとても夜中に人が行くようなところではない。火災に気づいたのは近く、といっても1キロほど離れた場所に住む現場周辺の畑の所有者で、突如響いた爆音に驚いて外に出てみると畑の方で火柱が上がっていたという。

 

消防士の一人が火災の鎮火を確認し、焼け焦げた車両を覗き込む。仮に人が乗っていたとしても、この燃え方では身元を確認するのは困難な有様になっているだろう。生身の人間なら既に炭化してしまっているかもしれない。あるいは義体化していたとしても、メーカーを特定できるような細かい特徴は失われ、骨格だけになっているかもしれなかった。

 

懐中電灯で照らすと案の定、運転席と助手席に人型の黒い塊が見えた。運転席の方は焼け落ちてフレームだけが残されているシートの上で、ちょうど上半身だけうずくまっているような体勢だった。やはり、損傷が激しく体全体が真っ黒に炭化していて、もはや性別すら判断できない。

 

一方の助手席の方はドア側に体を向けたまま倒れ掛かっていて、もしかすると車外に逃れようと足掻いたのかもしれなかった。だが、何が起こったのか考えたところで推測の域を出るものではないし、自分が辛くなるだけだ。

 

消防士はそう考えると、静かに息を吐く。

 

「2名発見。搬送するぞ」

 

淡々とした口調で指示を出すと、周りの隊員たちが集まる。一応、医者が死亡診断をしていない以上、完全に遺体として扱うわけにもいかなかった。特に義体化技術の発達した現代では。だが、この惨状で人間が生きていられるはずもないのは、誰が見ても明らかだった。

 

消防士たちは歪んだドアを大型工具で外し、運転席側の1人を持ち上げようとする。だが、驚くことに屈強な彼らですら、その人間の背中を浮かせることすらできなかった。

 

「こいつ、なんて重いんだ…」

 

首を傾げつつも、他の隊員たちと数人がかりで無理やり1人を車内から運び出そうとする。しかし、肩から手を回して持ち上げたところで、重さのあまり体を覆っていた衣服がずるりと剥げてしまった。

 

見えてきたのは鈍い光沢を放つフレームと、黒くくすんでいる人工筋肉。この火災でもほぼ原型を留めているなど、普通の義体では考えられない。驚いた消防士の1人が手を離すと、たちまち支えを失った義体は自重で車の床を突き破ってしまった。バランスを崩した何人かが転倒し、怒声が上がる。そんな中、近くで作業を手伝っていた警官が声を上げた

 

「もう一人も全身義体だぞ」

 

何と、助手席側の人間も同様の全身義体だったのである。しかも、その両腕は異様に長く、先には爪のような刃が埋め込まれていた。紛れもなく、これは戦闘用のヘビー級サイボーグだった。

 

現場が一気に騒がしくなる。2体ものサイボーグが不自然な焼死体の形で発見されるのだから、刑事でなくとも事件性を感じずにはいられないだろう。しかも、うち1体はヘビー級と来ている。その場の誰もが、これはただごとではないと直感していた。

 

すぐに所轄から県警の公安部に連絡がなされた。それとほぼ同時に、公安ネットを通じて9課にもその情報がもたらされたのは言うまでもない。この2人の身元が潜入中のロシア工作員だと特定されるのには、さほど時間は掛からなかった。

 

 

 

 

 

「本当に、まさかといったところだな…」

 

「ええ。何があったのか分からないけど、こんな形で2人が見つかるとはね」

 

イシカワにそう返した少佐の先には、焼け焦げた2体の義体が横たわっていた。手術台のような細いベッドの上に載せられたそれらの周りでは2、3人の赤服が機器類を操作しながら慌ただしく動いている。少し離れているここでも酷い焦げ臭さはまったく衰えず、鼻を突くような刺激臭もしていた。

 

身元不明の焼死体発見の知らせを受けた後、特徴などからすぐにそれがロシア工作員だと判断した少佐は、課長に掛け合って即座にそれらの義体を新浜に運ばせたのだった。現場からは非難轟々かと思いきや、あまりに気味が悪すぎるためにむしろ歓迎されたようだった。さすがに素性の知れないヘビー級サイボーグ2体を手掛かりに捜査を始めたところで、自分たちでは到底手に負えない様な代物に出くわすのがオチだと思われたのだろう。どこも、好き好んで面倒事に関わる人間などいないのだ。

 

「まだ途中ですが、運転席側の人間の頭部には50口径弾が撃ち込まれてました。チタンの脳殻の右側面を貫通してます。弾は着弾と同時に砕け散ったのか、突き抜けた脳殻の破片と一緒に頭蓋内をぐちゃぐちゃにしていて電脳の解析は難しいでしょう」

 

「そう…」

 

赤服の報告に、少佐は気のない声で答える。

 

黒焦げになっているためもはや顔の判別もつかないものの、間違いはなかった。彼らはつくば市の武器見本市の会場で、ウイルスをばら撒いた実行犯を横取りしてきた連中に他ならない。特に、一人の体に埋め込まれた特徴的な長い腕とその先に光る鋭い爪を見れば、彼ら以外には考えられないだろう。

 

あの時、この2人は実行犯の身柄を拘束し、そのままどこかに連れ去っていった。おそらくは敵のアジトの場所でも吐かせて、既に日本に潜伏している他の仲間たちとともに襲撃するつもりだったのだろう。だが、この2人が変わり果てた姿になったことも考えると、それも頓挫したと考えるのが自然だった。

 

それにしても、彼らは実行犯を横取りしていったあの時、用が済んだら身柄を返すとも言っていたのだ。にも関わらず、しばらく動きがないと思っていた途端この有様だった。正直なところ、これは少佐ですら予想だにしていないことで、驚きを禁じ得ない。

 

「現場にいたのは、この2人だけ?」

 

「ああ。車の中にあった死体はこの2人のものだけだ。念のため所轄には周辺に他に死体がないか捜索させているが、何も出てきていない」

 

少佐の問いに、イシカワは淡々と答える。

 

彼ら以外に死体がないということは、連中が押さえていたはずの実行犯はどこかに逃亡したのだろうか。工作員たちのセーフハウスに監禁されたままになっている可能性もあるが、こうして彼らが襲われたということも考えると、そこも無事である保証はない。自ら逃げ出したか、犯行グループの手によって既に救出されたと考えるのが妥当だった。

 

いずれにせよ、あの工作員たちを始末してしまうということは、相手はこちらの想像以上に手強い存在であることは明らかだろう。自分を襲ったあの工作員たちがこんな形であっけなく殺されるとはにわかに信じられないものの、現実は現実として受け止めるほかない。

 

「狙撃地点は特定できそうかしら?」

 

「いや、車がこの有様で車体からは弾痕が発見できなかったそうだ。側頭部を撃ち抜かれたことを考えると北西側の雑木林が怪しいが、撃たれたときの姿勢が分からん以上、はっきりとしたことは言えない。一応、所轄には林を捜索させているが、まだ何も出てきていない状況だ」

 

「そう。みすみすしてやられたってわけね」

 

イシカワの報告に、少佐は軽い溜め息を漏らす。仮に読み通り雑木林から狙撃していたとしても、工作員を始末するような人間が薬莢など手掛かりになるものを現場に残すのは考えにくい。それに車の方も、これだけ焼けてしまっていては弾痕を見つけるのはほぼ困難だろう。ボディに命中していれば可能性はあったが、ガラスの場合は火災で粉々になってしまっている。これ以上の痕跡を見つけるのは、諦めざるを得なかった。

 

少佐は鑑識の速報資料を視界に表示させると、もう一度目を通し始める。焼け焦げて歪んだバンの車体に、黒焦げになった2人の姿。何か手掛かりはないかと彼女が現場写真を見直していた時、1件のアップデートが入った。現場の鑑定にあたっていた所轄の科捜研からの報告だった。

 

『車両床面および周囲の路面の一部から微量のガソリン由来の成分を検出』

 

それを見た少佐は考え込む。床面だけではなく路面からもガソリンの成分が出たということは、何者かがガソリンを撒いて火を放ったと考えるのが自然だろう。状況から考えると、狙撃後に死体を確認し、証拠隠滅のために放火したというところだろうか。しかし、せっかく遠距離から人目につくことなく狙撃したのに、わざわざ現場に近づいて放火してしまえば、それだけ近隣住民に目撃されるリスクが高くなる。

 

そのリスクを犯してまで、隠滅したい証拠があったのだろうか。

 

分からないことは他にもある。いかにして外事警察をも撒けるほど尾行に神経を尖らせているロシア工作員たちの居場所を完全に把握して、ここまでの待ち伏せ攻撃を仕掛けたのかということだ。これほどのことは、一介のテロ組織にできることではない。

 

だとすると、鍵になってくるのはやはり現場から消えている見本市襲撃事件の実行犯だろうか。彼がもし、テロリストたちが追跡者を狙うために放った餌だとすれば、こうなるに至った辻褄も合う。工作員たちはまんまと罠に嵌められ、餌食になってしまったというわけだ。

 

まずは、その実行犯の身柄を押さえるのが先決だろう。既に逃亡している可能性は濃厚だが、もしその足取りが掴めればテロリストたちの行動を追う手掛かりにもなり得る。

 

「イシカワ、お前はIRシステムから工作員たちの動きを遡って、例の見本市襲撃事件の実行犯の足取りを調べろ。狙撃時に車に乗っていたか、それともその前のどこかで別れていたか。後者の場合は辿れるだけ辿って」

 

「わかった。少佐はどうするんだ?」

 

「少し引っ掛かることがある。私は少し探りを入れてみるわ」

 

そう答えた少佐は、足早に部屋を出る。

 

妙な胸騒ぎを覚えていた。普通に考えて、工作員たちもこれだけあっさり殺られるほどヤワではない。もしかすると自分たちの知らないところで、テロリスト達とは違う大きな影が動いているのではないか。そして、いつの間にか自分たちもその渦の中に巻き込まれているのではないか。

 

彼女のゴーストは、静かにそう囁いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《タチコマ、敷地周辺の様子はどうだ?》

 

《今日も、特に怪しい車両の出入りは認められませんでした。夜間に気づかれないよう周囲も回ってみたんですけど、異状なしです》

 

時刻は午前1時を回っている。サイトーが今いるのは、彼が普段寝泊まりしている宿舎の屋根裏だった。同じ部屋の人間が寝静まったのを見計らって、彼は気づかれないよう密かに抜け出し、共有トイレの個室から上がり込んでいたのである。そうして、屋根裏の配線に細工をし、有線経由で毎日この時間にタチコマと連絡を取り合っていたのだった。

 

ボロボロの建物の外観を裏切らず、屋根裏の中もそこら中に小動物の糞尿とミイラ化した鼠の死体が転がり、鼻をつくような異臭がする酷い有様だった。壁の一部には小さな穴が空き、時折風に乗って外から雪が吹き込んでくる。気温はほぼ外気と変わらないのではないかと思われた。

 

それでも、幾多の戦場を渡り歩いてきた彼にとっては我慢できる範囲内だった。配線が劣化して危うく感電しそうになったのには一瞬ヒヤリとしたが、それ以外には特に問題なく、外部の回線にアクセスできた。

 

どうも、入ってから分かったことではあるが、施設では俗世との繋がりを立つことを目的として電脳からの一切のネット接続を禁止しているらしい。彼も一度、ネットにアクセスしようと試みたものの、圏外となっているために繋がることはできなかった。普通なら電波妨害という線が濃厚だが、それらしき電波は検知されていないあたり、周囲を山に囲まれていることによる地形面の影響が考えられる。

 

幸い、宿舎の中には有線回線があり、それを利用することで何とか自分も外部と連絡を取ることができた。実習活動の中にはパソコン関連のものもあったので、そのために回線を繋いでいるのかもしれない。サイトーはそう考えていた。

 

《サイトーさんの方はどうですが?》

 

《こっちも、今日一日特に怪しいものは見つけられなかった》

 

そう報告するサイトー。潜入する前はすぐに何かしらの手掛かりが得られるかと思っていたのに、蓋を開けてみれば全く見つからない。思いの外、手強い組織だった。

 

ただ、今日の晩に起こった喧嘩騒ぎ。あの一件への対応から、この組織の裏の一面が垣間見えるかもしれない。拘束された石原がどこに連れて行かれ、どうなったのか。それさえ確認できれば、手掛かりが得られる可能性はあるのだ。

 

《タチコマ、この男をちょっと調べておいてくれ》

 

そう言ってサイトーはある男の写真をタチコマに送る。写っていたのは、途中であの場に現れ、彼を連行していった丸眼鏡の男。ただならぬ雰囲気を滲ませていたその男の正体も、気になるところだったのだ。少なくとも、その後に現れた黒装束の一団を従わせているところを見ると、この男も幹部かそれに近いポストであることには間違いない。

 

《了解しました。本部に送信して、明日の報告のときまでに調べておきますね。ちなみに、この人は誰なんですか?》

 

《この団体の幹部とみられる男だ。もっとも、まだ断言できんがな。こっちでちょっと入居者間で喧嘩騒ぎがあったんだが、その時に出てきた奴だ》

 

《なるほどです。また喧嘩騒ぎってことは、同じ部屋の石原って男ですね?》

 

《…ああ、そうだな》

 

タチコマの勘の鋭さに、サイトーは少しばかり驚かされた。流石はAIといったところか。確かにタチコマには初日の喧嘩騒ぎも報告してあったが、伝えていたのは騒ぎがあったという事実だけだった。にも関わらず、自分より圧倒的に得られている情報は少ない中、的確な推論を導き出してくる。これこそがAIの強みなのだろうか。

 

《そいつはどうなりました?バラされちゃいましたか?》

 

《冗談はよせタチコマ。奴はどこかに連行されていったきりだ。どうなったかはまだ分からん》

 

やや強い口調でタチコマに返すイシカワ。可能性は低いものの、タチコマの冗談が真実になっている恐れもあった。それを考えると、あまり笑えるものではない。もし彼が消されてしまったら、それはそれでこの組織の異常な一面は掴めるかもしれないが、肝心のテロリストやウイルスに結びつく手掛かりが得られないのだ。

 

サイトーが溜め息をつこうとした時、不意に彼の耳が風音に紛れた微かなエンジン音を捉えた。同時に、タチコマからも報告がある。

 

《車が2台、敷地に入ってきました。SUVとバンで、どちらもボディはグレーです》

 

《了解。こっちも見えた》

 

サイトーは壁に空いた小さな穴から、外を覗きながらそう答える。木々の枝の隙間から煌めくヘッドライトの明かりは、徐々に大きくなっていた。やがて姿を現したのは、タチコマの報告通りSUVとバンの2台。宿舎前の道路を通ったそれらの車両は、そのままガレージの方へ向かっていったものの、予想に反してそれを通り越していく。

 

(ガレージに駐めないのか…。どこに向かうつもりだ?)

 

懸命に穴から覗き込むサイトー。だが、穴の切れ目の関係でどうしても追うことが出来ず、車両を見失ってしまった。

 

《チッ、見失った。タチコマ、お前はどうだ?》

 

《すみません。ボクも張り込んでいた位置と遠すぎて見失っちゃいました。ただ、車両はサイトーさんのいる宿舎と作業棟やガレージの間を通って、まっすぐ進んでいきましたね》

 

タチコマの報告に、記憶を辿ってみる。確かその方向には、雪にこそ()()()は残っていなかったものの、木々が分かれて道が続いていたはずだった。だとすれば、2台の車両はその道に進んでいったということだろうか。

 

衛星写真を確認する限りでは、その先に建物の類は建っておらず、行き止まりになっているはずだった。それなのに車が入っていったということは、その先に何かが隠されているという可能性がある。

 

《タチコマ、お前は明日、あの道の先を調べてみてくれ。間違っても勘付かれないようにな》

 

《了解です》

 

タチコマに指示を出しておくサイトー。日中は作業で、夜間も宿舎が施錠されていることや雪の地面に足跡が残ることも考えると、迂闊に自分が行動するわけにもいかない。ここは、タチコマに任せるほかなかった。

 

《時間だ、そろそろ切るぞ。明日もこの時間に頼む》

 

《らじゃー!》

 

元気の良い無邪気な返事をタチコマが返したところで、彼は電通を切った。

 

この時間に入ってきた2台の車両。これまでこのような出来事もない中、日中にしばしば入ってくる人員・物資輸送用の車とも似ても似つかないあれらの車両は、いったい何の目的があって道の奥に進んでいったのか。やや嫌な予感を覚えるものの、タチコマが探るのを待つしかないだろう。

 

彼は接続したQRSプラグを抜くと、音もなく屋根裏を這って出入りしているトイレの上に戻る。そして、天井に空いた覗き穴から誰もいないことを念入りに確認した後、パネルを外してすっと個室の中へ飛び降りた。

 

あとは何食わぬ顔で用を足したふりをしてトイレを出て、自分の部屋に戻るだけだ。薄汚れた蛍光灯の灯る廊下をゆっくり歩いていく彼。しかしその途中で、廊下の先から進んでくる人影が目に入った。

 

(石原…。)

 

あの顔は彼で間違いはない。けれども、どこか様子がおかしかった。心ここに在らずといった感じで、どこか遠くを見つめながら歩いていたのだ。しかも、その足は酷くふらついてしまっている。顔にいくつか痣が残っているあたり、暴行されたと考えるのが自然だが、それにしてもここまでの状態になってしまうとは考えにくかった。

 

「おい、大丈夫か?」

 

警戒しつつ声を掛けてみるものの、彼は答えるどころか全く見向きもしなかった。そして、ふらつきながら自室のドアに手を掛けると入っていく。その様子を注意深く観察し続けるサイトー。やがて、彼はそのままの足取りで自分のベッドに横になると、布団をかぶって寝息を立てる。

 

何か薬剤でも注射されたのだろうか。あるいは、暴行を受けて意識が朦朧としてしまっているのか。はっきりとはしないものの、石原が連行された先で何かをされたのは明白だった。

 

とりあえず、明日一日は悟られない範囲で彼の様子を観察するのが賢明かもしれない。有線して記憶を覗くという手もあるが、石原ほどの男ともなるとただでできるとも思えない。もし、また喧嘩騒ぎに発展するようなことになれば、自分にも警戒の目が向けられるようなことになりかねないのだ。ならば、無用なリスクは回避するに越したことはない。

 

サイトーはそう結論を出すと、自分のベッドに戻る。

 

明日もまた、早朝からの作業が待っていた。鍛え抜かれた彼の体でも、ここまで不規則な生活が続いていると少しずつ体力が消耗していくのは目に見えている。何も考えずに目を瞑った彼の意識は、間もなく眠りの中に沈潜していった。

 

 

 

その様子を、じっと見つめる視線の存在に、サイトーは気づいてはいなかった。

 



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第17話

小筆で描いたような細い雲が棚引く冬の寒空に、ぽつんと輝く白い半月。時折、空っ風が吹きすさみ、電線を揺らしてびゅうびゅうと音を立てる。すっかり夜も更けた住宅街の家々からは明かりが消え、蒼白い街路灯だけが煌々と灯っていた。

 

そんな中をうごめく透明な影。道路を走っていたそれは、忍者の如く音も立てずに跳躍すると、近くの電柱の上に絶妙なバランスのもと着地する。

 

《タチコマ、状況はどうだ?》

 

《外から確認できる限り見張りの姿は見えません。周辺道も問題なしです》

 

起動した光学迷彩で周囲に溶け込んでいるタチコマは、バトーにそう報告した。

 

ここは前アジア局長の武田氏が居を構える新浜市郊外の高級住宅街__桜ヶ丘地区。6課が軟禁状態に置く本人と接触すべく、昨日、今日と昼夜を問わずバトーとトグサが屋敷を観察した結果考え出したのは、テレビアンテナを利用するという奇策だった。タチコマを利用して屋敷の屋根に張り付かせ、アンテナからの信号に受信機器のファームアップデートに偽装したウイルスを混ぜることで、屋敷と外部を繋ぐ通信回線にトンネルを開通させようと考えていたのである。

 

多少なりともリスクのある作戦ではあるものの、課長の許可は案外すぐに出た。回線の盗聴や電波妨害が存在する厳しい状況の中で、他に有効な手立てがない以上やむを得ないと、課長も判断したのだろう。だが、これだけの作戦にゴーサインを出すということは、裏を返せば課長も腹をくくったということに違いはない。それだけ、2人を信頼しているのだ。

 

《よし、そのまま屋根伝いに屋敷に接近。見張りには注意しろよ》

 

《りょうかい!》

 

タチコマは元気よくそう答えると、再び跳躍して近くの民家の屋根に飛び移る。普段より注意を払い、脚の関節を最大限に駆使して衝撃を吸収したため、住民にもせいぜいカラスか何かが飛び乗った程度の音にしか聞こえないだろう。

 

その様子を、借り上げたアパートの一室から望遠鏡を通してじっと見つめるバトーとトグサ。この距離で、しかも夜間ともなると、望遠鏡で光学迷彩を使うタチコマの姿を捉えるのは至難の技だった。今のところは電通を介して位置情報を共有しているので、見失っても後を追うことはできるものの、もう少し屋敷に近づいたらそれに頼ることはできなくなる。6課が周辺の電波を妨害している可能性が高いからだ。

 

ゆっくりと屋根を移動し、慎重に家々を飛び移っていくタチコマ。屋敷まではあと3ブロックといったところで、また一つ道路を飛び越えた彼は、アイボールを使って再度屋敷を隈なく観察する。

 

熱探知には特に監視要員とみられる反応はみられない。目的のアンテナは3階建ての屋敷の北東側、ちょうど切妻屋根の頂点部分に据え付けられていた。根本にはブースターと思しきいくつかのケーブルが繋がった機器も見え、あれに割り込めば屋内の機器にウイルスを流し込めると思われた。

 

同時に、前もってダウンロードしていた見取り図とも比較し、最適な侵入経路を割り出す。タチコマにとってはこの程度のタスクは、コンマ1秒も掛からずにできることだった。

 

《ここから無線を切りますね。見失わないでくださいよ、バトーさん!》

 

《ああ、勿論だ。そんなヘマしねえよ》

 

これですべての準備は整った。バトーにそう伝えたタチコマは、合図代わりに一度だけ手を振ると、一切の電脳通信を切断する。ここから先は、たとえ何が起ころうともタチコマだけで対処しなければならない。迂闊にバトーと電通を繋げれば、それだけで6課に察知される恐れがあるのだ。

 

間もなく、一人進み始めるタチコマ。導き出した経路に従い、屋根を飛び越えて塀の上を歩き、徐々に屋敷への距離を詰める。途中、飲み会帰りの客を乗せたタクシーが走ってきたものの、タチコマは動きを止めてやり過ごした。出発してから5分あまりで、彼は難なく屋敷の隣の家の屋根にたどり着く。

 

(ここからが問題なんだよねー)

 

タチコマは声には出さずにそう呟いた。屋敷の周囲には生け垣と芝生が広がり、建物まではどの方位から近づいても10メートル近い距離がある。生け垣を飛び越えて地面に降りられれば何も問題はないが、タチコマほどの重量ともなると芝生では確実に跡が残り、気づかれる可能性は濃厚だった。それを踏まえると、やはり一気に屋根に飛び移る以外に手はない。

 

覚悟を決める彼。狭い屋根上でモーターを唸らせ、短距離の間に一気に助走をつけると、人工筋肉を最大限まで駆動させて脚部に溜め込んだ力を解き放つ。空高く跳躍したタチコマだったが、それでもまだ距離は十分ではなかった。徐々に失速し、高度が落ちる。このままでは届かないのは、誰が見ても明らかだった。

 

(このっ!)

 

しかし、タチコマも何の考えもなしに飛んだわけではない。2門の射出口から勢いよく液体ワイヤーを発射し、屋敷を越えた先の電柱に撃ち込んだのだ。瞬時にそれを巻き取った彼は、まるで吸い寄せられるように一気に水平方向に加速し、屋敷の屋根に肉薄する。

 

間もなく脚を大きく広げると、脚の関節全てをクッションにして音もなく着地した。あと数センチ足りなければ、後ろ脚が届かずにバランスを崩していただろう。けれども、何とかタチコマは武田邸の屋根に降り立つことに成功したのだった。

 

(よし、それじゃ仕事を始めるとしますか!)

 

喜ぶのもそこそこに、タチコマはすぐに作業に取り掛かる。脚部の先を平らな歩行形態に変え慎重に屋根の上を移動すると、目的のアンテナに取り付いた。

 

ここまで行けば、あとはあらかじめ組み上げた手順通りに事を進めるのみだ。ブースターからケーブルを引き抜き、その間に割り込むタチコマ。本来なら規格が合わないが、作戦に備えて赤服に左腕のプラグを改造してもらっているので、問題なく接続することができた。そして、事前に組み上げていたファームアップデートに偽造したウイルスを放送電波信号に混ぜて流し込む。

 

基本、この手の機器はファームウェアに悪意のあるコードが含まれていることを想定していないため、弾かれる心配はないはずだった。それに、あらかじめ電器店の購入履歴から機種も割り出してあるので、互換性も問題ない。唯一、データの流れが一方通行である都合上、流し込んだウイルスが無事に機器に潜り込み、活動し始めたかを確認できないのが不安要因だが、そこは信じるほかなかった。

 

(もうそろそろかな…)

 

数分が経ち、データの注入も9割近くが完了する。あと数十秒もすれば注入作業は完了し、あとはウイルスが密かに起動してトンネルを掘削するのを待つだけだ。最大の山場をほとんど乗り切ったことに、タチコマはすっかり安堵してアイボールの1つを動かすと、バトー達のいる方を見つめる。そして、余裕たっぷりに軽く腕を振った。

 

だがその時、予想だにしないことが起こる。

 

あろうことか突如、タチコマのいるすぐ下の一室に明かりが灯ったのだった。

 

 

 

 

 

「くそ、あいつ何やってるんだ!」

 

焦りに満ちたトグサの怒声が響く。真っ暗なアパートの一室から作戦の様子を固唾を飲んで見守っていた2人だったが、突然の出来事にさすがの彼らも驚きを隠せなかった。何の前触れもなく急に灯った明かり。しかもそれはタチコマのすぐ真下の部屋のもので、順当に考えればタチコマが気づかれてしまったと考えざるを得ない。

 

時間的にはあと数十秒足らずでウイルスの注入は完了する頃だが、潜入に気づかれてしまえば元も子もなかった。すぐにでも、タチコマを退却させなければならない。

 

しかし、何を考えているのかタチコマはまだアンテナに取り付いたままだった。窓から漏れる光を見れば、タチコマも明かりに気づかないはずはない。なのになぜ、残り続けているのだろう。もしかして、ギリギリの最後まで粘ろうと考えているのか。だとしたら、すぐに止めさせなければ。

 

極度の焦燥の中そう考えるトグサだったが、電通を繋げることができない以上、ここで指を咥えて見ていることしかできなかった。だが、一方のバトーは冷静に望遠鏡を覗くと、明かりの灯った部屋の様子を探っている。もしかすると、タチコマが気づかれたわけではないのではないか。彼はそう考えていたのだった。

 

そしてそれは、見事に的中することとなる。

 

「やっぱりだな。トグサ、覗いてみろ」

 

部屋を確認したバトーはそう言うと、トグサに望遠鏡を代わらせる。落ち着かない様子で覗いた彼は、思わず「あ…」と小さく驚きの声を漏らした。

 

何と、その部屋にいたのは6課の人間ではなく、武田氏本人だったのだ。一度、見本市の会場で顔を見てはいるので、間違いはない。すなわち、明かりはタチコマとは無関係に、彼がつけたものだったのである。

 

武田氏はパジャマ姿で寝付けないというような様子で、何度か部屋の中を行ったり来たりしていた。そうしてしばらくそれを繰り返すと、おもむろに立ち止まって窓からぼんやりと外を覗く。その顔は、どこかやつれているようにも見えた。

 

「何か顔色悪そうじゃないか?」

 

「ずっと家に閉じ込められてちゃ、まともな人間なら少しずつ気が狂ってもおかしくねえ頃だろうな。それに、一度は殺されかけてるんだ。怯えていても当然ってとこだろ」

 

望遠鏡を覗きながら口にしたトグサの言葉に、バトーはそう返す。間もなく、武田氏は大きく溜め息をついたのち、カーテンを閉めて明かりを消した。

 

ちょうどその時にはウイルスの注入も終わったらしく、タチコマの方に目をやると、アンテナから離れてまさに隣の家の屋根に飛び移ろうしているところだった。念の為、もう一度屋敷の様子を観察してみるが、明かりの消えた後は特に動きはみられない。どうやら、6課には気づかれずに作戦を遂行できたようだ。

 

やがて、通信が可能なエリアまで後退したタチコマから電通が入る。

 

《バトーさん、ウイルスの注入は無事に完了しました!途中で明かりがついたのにはちょっとビックリしましたけど、それ以外にセンサには反応なく、人の動きもなかったので強行しちゃいました》

 

《ああ、見てたぜ。お前の読み通り、明かりが灯ったのはお前とは無関係だ。的確な状況判断、やるじゃねえか》

 

《えへへ》

 

照れ笑いで返すタチコマ。バトーはそのまま彼に、自分たちのいるアパートとは逆方向に退避するよう命令を出す。可能性は薄いものの、万が一6課がタチコマに気づいて監視していた場合、一気に自分たちの居場所まで突き止められる恐れがあるからだ。相手が6課となると、念には念を入れたほうが良い。

 

命令に従い、タチコマが方向を変えて街の奥へと消えていく。その様子を最後まで見届けたバトーは、続いて屋敷の回線の監視に取り掛かった。

 

タチコマの注入したウイルスが正常に起動していれば、もう間もなくトンネルが開通する頃だった。しかし、未だに屋敷からの通信はない。さすがにアンテナ信号にまで6課は監視の目を光らせてはいないと踏んでいたものの、徐々に不安になってくる。

 

それでも、5分ほどが経ったところで、ようやく屋敷内のデバイスから自動通信が入った。

 

「よし、来たな」

 

安堵するバトー。通信には、制圧したデバイスのほか屋敷内のローカルネットに接続するデバイスやユーザー名全ても含まれていた。これを見る限り、ウイルスは一通りのデバイスを制圧し、ルーターやゲートウェイも制御下に置いているようだった。その中には、屋敷内の各所に設置された監視カメラもある。

 

それに気づいた彼は、早速それらの映像を転送させる。武田氏の姿は、先ほど外から見えたのと同じ部屋にあった。まだ寝付けていないのか、明かりは消えているものの、ベッドではなく机に向かってぼんやりと佇んでいる。一方の6課の課員はというと、1人は1階のリビングに、もう1人は先ほど武田氏の姿が見えた3階の部屋の隣にいるようだった。昼間の配置と特に変わりはない。

 

「旦那、トンネルの方の暗号強度も問題なさそうだ。6課の枝がついてる様子もない」

 

「なら、行けるな」

 

別のエージェント・タチコマの助けも借りて、同時並行で開通したトンネルを解析していたトグサから報告が入る。あとは、武田氏本人と電通を繋げるだけだ。幸いにも、ウイルスから送られてきたユーザー名の一覧の中には、武田氏のものも含まれていた。すなわち、ローカルネット経由でアクセスすれば、容易に武田氏に接触を図ることができると考えられる。

 

しかも運の良いことに、監視カメラの映像を見る限りでは武田氏はまだ起きていた。常時トンネルを開ける訳にもいかない以上、彼とは接触できるうちに接触するに越したことはない。つまり、今がまさに絶好のタイミングだったのだ。

 

「今から繋げる。お前は記録とサポートだ」

 

「了解」

 

バトーはトグサに指示を出すと、彼が準備を整えたのを見計らって電通を繋げる。

 

最初に聞こえてきたのは、見本市の会場で見た武田氏とは思えない弱々しい声だった。

 

 

 

《だ…、誰だ?》

 

《あんたが元局長の武田だな。俺は公安9課のバトーだ》

 

《9課…?9課が私に何の用だ…。どうやって、私に電通を繋いだ?》

 

余程困惑しているのか、恐れ慄いたような声でそう訊いてくる武田氏。無理もない。こんな時間にいきなり電通が掛かってきたら、誰も警戒せずにはいられないだろう。しかも、軟禁下に置かれている彼には電通自体、掛かってはこなかったはずだ。それが急に、しかも9課と名乗る男から掛かってきたら、驚くのは仕方のないことだった。

 

《詳しい話は後だ。俺たちはいくつか聞きたいことがあって、あんたに接触している。まずは今の状況を聞かせてくれないか?》

 

《…ああ、分かった》

 

相手の言葉を制すように、落ち着いた口調ではっきりと続けるバトー。こういう時は、まずは相手に冷静になってもらうことが必要だった。そうでなければ、無関係の事を次から次へと喋られてとても会話にならないからだ。

 

《まず、1つ目だ。あんたは今、6課に軟禁されている。そうだな?》

 

《そ、そのとおりだ。もしかして、助けに来てくれたのか…?》

 

バトーの言葉に、武田氏は縋るような声でそう訊いてきた。外から様子を見る限りでも薄々分かってはいたが、これで6課が武田氏を軟禁していたことは疑いようのない事実となった。問題は、その理由といったところか。バトーは少しだけ間を開けて息を吸い込むと、声色一つ変えずに答える。

 

《それは、あんたの協力次第だ。なんで6課に軟禁されるハメになったのか。それを聞きたい》

 

《6課に…?それは…、その…。あれのせいだよ、あれの》

 

《あれ?アレってなんだ。はっきり言ってくれなきゃ、わからないぜ》

 

ここに来て急に言葉を濁す武田氏に、バトーは迫る。

 

《さっきも言ったが、助けるか助けないかはあんたの協力次第だ。俺たちはいま、あるテロ事件を追っている。その延長線上にあんたが浮上したから、こうやって接触を図っているんだ。役に立つ情報が出せないんなら、残念だがこちらも協力はできない》

 

ほぼ脅しに近いようなバトーの言葉に、横からやり取りを聞いていたトグサは「おい!」と声を上げて止めに掛かる。だが、武田氏への効果は絶大だったようで、「待ってくれ!」と必死に呼び止めてきた。

 

《どうだ?話す気になったか?》

 

《あ…、ああ……。詳しくは長くなるが、戦時中の沖縄絡みの一件だ。去年あたりから、頻繁に私のもとに脅迫状が来るようになったんだ。その件を世間に明らかにしなければ、命はないと…。最初のうちは相手にしなかったんだが、次第に本当に命を狙われるようになった》

 

《そのうちの一つが、この間の見本市襲撃事件ってわけだな?》

 

《ああ…、そうだ。あれは、本当に堪えた…。それで、まあ、現局長の浅沼君に、その一件の公開について相談してみたんだよ...。そしたら…》

 

《急に黒服の男たちが来て、この屋敷に軟禁されたって訳か》

 

事の顛末は思ったよりも単純だった。彼は襲撃を受けるのに耐えかねて、要求に屈することを選んだのだった。だが、外務省がそれを黙っているはずはない。浅沼局長か、6課か。どちらが主導的な役割かはまだ分からないものの、その情報が明らかにならないよう武田氏を軟禁したのだろう。消すことまではしなかったのは、しばらく落ち着かせれば考えを変えてくれると思ったためかもしれない。

 

何はともあれ、これで軟禁の件については明らかになった。だが、果たしてその脅迫状を送りつけてきた人物とは何者なのか。自分たちが追っている、例のウイルステロ事件の犯人と同一なのだろうか。同時に浮かんでくる疑問に、バトーは本人を刺激しないよう静かに訊く。

 

《その脅迫状を送りつけてきた人間に、心当たりは?》

 

《手紙には差出人もなかった。メールも、6課がデータを持っていったが、送信者が分かったのか定かでない。でも、たぶん、あれは…。あれは、奴の仕業だ…》

 

電通越しでも、次第に彼の息が荒くなっていくのが聞こえる。よほど、怯えているのだろうか。

 

《奴って、誰のことだ?》

 

《や…、奴は奴だ!た、助けてくれ…。あいつは死んだはずなんだ!奴は幽霊か化け物なのか!?お願いだ、なんとかしてくれ!何でも教えるから…》

 

急に興奮して、必死の剣幕で訴えかけてくる武田氏。バトーは「落ち着け!」と声を掛けるものの、しばらく彼の呼吸は荒いままで、ヒューヒューという過呼吸に近い息の音が聞こえる。

 

死んだはずというのは、どういうことなのだろう。一度、死亡確認がなされたということなのだろうか。謎は深まるばかりだった。だが、すっかり感情が昂ぶってしまった武田氏は、恐怖に慄いて「助けくれ…、助けてくれ……」とブツブツと小声で呟くだけで、こちらが話しかけても何も聞こえていないようだった。

 

こうなると一度落ち着くのを待って、改めて連絡を取るほかない。それでも、この短時間の間にここまでの情報が得られただけで大きな収穫だった。ただここで監視を続けていただけでは、これらの情報は絶対に得られなかっただろう。

 

場合によっては、課長と掛け合って彼の救出を考えてみてもいいかもしれない。バトーはそう考えていた。今は興奮してあまり聞き出せなかったが、おそらく彼は脅迫状を送りつけてきた人間の正体も知っていると思われた。だとすれば、例のウイルステロの犯人に繋がる有力な手掛かりが得られる可能性が高い。

 

《分かった。今日はもうこれで十分だ。近い内に必ず、あんたを救出する。それまで、6課には悟られないよう行動してくれ、いいな》

 

そのバトーの言葉には、ずっと独り言を呟いていた彼も反応する。

 

《た、助けてくれるのか…?たのむ、早く助けてくれ…。亡霊なんかに、殺されたくない!》

 

必死の叫びだった。バトーは「ああ、勿論だ」と力強く答えると、電通を切る。

 

外務省が彼を軟禁してまで隠す沖縄絡みの出来事と、それを公表するよう迫る脅迫犯。そして、襲撃事件とウイルステロを起こした首謀者。氷が溶けるように徐々に明らかになる真実が、欠けたピースを少しずつ埋めていく。

 

そのことに興奮を覚えるバトーだったが、未だに重要な部分が抜け落ちていた。それらがどう関係し、結びついているのかということだ。もし武田氏がその間を埋めるピースを握っているのだとしたら、何としてでも手に入れなければならない。そして、この血生臭いテロの連鎖に終止符を打つのだ。

 

バトーはそう強く自分に言い聞かせた。

 




変わり種です。少し前ですが、2020年の攻殻新作公開発表来ましたね!昨年の新作制作発表から全く音沙汰なく少し心配でしたが、進展していて本当に良かったです。監督も神山監督でタイトルも「攻殻機動隊 SAC_2045」とSACシリーズの続編らしき雰囲気が。これは2020年を楽しみに待つしかないところです。ネトフリ配信なので観るには登録するしかなさそうですが。
2018年も残すところあと1日ですね。皆様、良いお年を。
最後に申し訳ないですが、論文に忙殺されているため次回の更新は2月頃になる見込みです。何卒ご了承をください。


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