THE IDOLM@STER  二つの星 (IMBEL)
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プロローグ 2周目の始まり

俺の人生は…まあ、詳しく書くまでもないくらい、普通だった。

そこそこの高校を出た後、そこそこの大学に入学。

この時点で何か特別なことができるわけでもないし、周りでも特別なことなんて起こらなかった。その為、ありきたりな人生を過ごすんだと思っていたし、自分もそれを望んでいた。

…だけど。普通じゃない一生は。俺が思っているよりあっさりと、そして突然やってきたのだった。

 

 

 

 

 

 

その日の俺は上機嫌だった…ということは覚えている。この就職難民のご時世で、ようやく内定を貰えたのだから。

普段なら絶対に歌わないであろう鼻歌を歌いながら、自分は外出していた。

大学の政経学部を卒業して、自分はいわゆる就職浪人というやつになった。不景気のご時世、大学を卒業するまで仕事を見つけることは出来なかったのだ。

まあ、どうせ仕事なんてすぐ見つかると高を括って探し始めた。…そんな風に考えていたのだが、どうやら甘かったようだ。

どこでも良いからと、のんびりと就職先を探してみても、雇ってくれる企業は無かった。

…大学で遊び呆けていたツケが回ってきたのだ。資格なし、コネも無しの人間には世間の波は厳しすぎた。

仕方なくアルバイトを探して、就職が決まるまでそれを転々とすることにする。その傍らで資格習得の勉強とハローワークに通う日々を1年近く続けていった。

そして今日、ついに自分はフリーターから社会人へとランクアップした。何十社と受けた会社の中に、自分を雇ってくれる所が遂に見つかったのだ。

これで今まで散々心配をかけた両親にも胸を張って語れる。

さて、早速両親に連絡を…とケータイを開いたが、運悪く自分のケータイがバッテリー切れだったことを思い出す。うーん、充電して待つか?…いや、それまで待つ時間が惜しい。

そうやって悩んだ結果、自分は公衆電話から実家にかけるという選択を選び、いま現在にいたる。

街道を小走り気味で歩きながら、駅前までの道のりを進む。今じゃ公衆電話なんて駅前と病院くらいしかないからなぁ、少し不便だ。

…と考えてた瞬間、「ブー!!」という凄まじい音が辺りに響いた。うるせぇな、ふと目線が後ろへと移動して…自分は目を見開いた。

目の前には大型トラックが猛スピードで接近していたのだ。あっという間に近づいてくる。

「あっ」

背筋が冷たくなった時には、もう遅かった。

何がおこったかもよくわからないまま、自分は意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

(なん……だ…?)

そこで初めて、自分が目を瞑っていることに気付いた。ゆっくりと瞼を開く。そこにあったのは、蛍光灯の光。そこではじめて、自分がベッドの上に寝かされていることを認識する。未だに意識が朦朧とする中、周囲の状況を把握するために首を左右に動かして周囲を見渡す。

(病院…?じゃあ、助かったのか俺)

つん、鼻を刺激するアルコールの匂いが徐々に意識を覚醒させていく。しかしよく無事だったな、俺。トラックに撥ねられて生きてるなんて。

とりあえず自分はどうなったんだろう?せっかく内定を貰ったのに、事故のせいで取り消しになったらいやだな。

とりあえず身を起こそうとして…ふと違和感を感じた。

手足に上手く力が入らないのだ。何度も身を起こそうとして、そのたびに何度も失敗する。

(…?麻酔でも効いているのかな)

違和感はそれだけではなかった。どこか世界が狭く、そしていつもより視点も低い気がする。…何故だ?

そうだ、とりあえず誰かを呼ばなきゃ、今自分がどうなっているのか、しっかりと説明して貰わなくては。

「ああああむ!(すいません!)」

…異変に気付いたのは、言葉を発してからだった。

「ああああーむ!?(喋れない!?)」

舌足らず、とでもいうのだろうか。上手く発音が出来ない。いったいどうなってるんだ、全身麻酔でもかけられているのか?

と、コツコツと誰かが近づいてくる音が聞こえる。よかった、誰かが入って来る。

入ってきたのは看護婦だった。

「はい、お体拭きましょうね~」 

子供をあやすように優しい言葉をかけられると、慣れた手つきで服を脱がされる。

(…おいおい。俺はこれでも二十過ぎているのに…子供をあやすみたいにしなくても)

背中をお湯で絞ったタオルで拭われる。体を起こしてもらったことで自分の手足や周りの風景がようやく視界に入る。

(腕が細い、いや、小さい?)

はっきりとは見えない。が、明らかに腕が普段のサイズの10分の1くらいの細さしかない。…どうなっているんだ?

…自分は目を外し、反対側の窓側に目を向けた。そして、窓ガラスに映った自分の姿に絶句する。

「綺麗にしましょうね~」

…そこには自分の姿ではなく、生後数か月ほどの赤ん坊が映っていた。

「!!!???」

そして畳みかけるように、衝撃が襲う。看護婦がウェットティッシュが股間を拭った直後、違和感は頂点に達した。

その感触が告げるものは…男なら股間に必ずあるべきモノ。アレが―ナイ。

呆然としている間に新しいオムツを履かされて横になっていた。

「それじゃ、ゆっくりお休みなさいね。朱里ちゃん」

それだけを言うと、看護婦は部屋から出て行った。そして1人になると、思考がグルグルと空回りを始める。

(誰か…教えてくれ。俺はどうなっているんだ!?)

そして男が少女…『星井朱里』に生まれ変わってしまったと気づくのは、それからもう少し後の話である。




とりあえずはプロローグ。
次回からは原作キャラも登場します。


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第1話 三女の苦悩

この小説では、まだ美希はアイドルではありません。あしからず。


3月某日、時刻は午前9時。この時間に設定した携帯のアラームで目を覚ました。

布団から手を出して、携帯のアラームを止める。

(…眠い)

あふぅとあくびを一つし、布団からのそのそと出る。おぼつかない足取りで階段を下り、洗面所へと歩く。

そして洗面所のドアを開け、目の前にある鏡を見て、「ああ、やっぱりな」と落胆する。

その鏡に映っていたのは茶髪のセミロングに中学生にしては大きいバスト、そして少女の顔が映し出されていた。

星井朱里13歳。前世はしがない一般男性、そして今年の春から中学2年生になる星井家の三女である。

 

 

 

 

 

 

「はあ…」

「どうしたの、朱里?ため息なんてついちゃって」

「…ん、いや何でもないよ、菜緒姉さん」

あれから洗顔と歯磨きを済ませた朱里は、不思議そうに顔を覗いてくる長女、星井菜緒に相槌を打ちながらテレビのワイドショーを見ていた。

『続いては芸能の話題に移りたいと思います』

ニュース関連の話題が終わり、別のコーナーが始まる。

朱里は一旦テレビから目線を外し、壁に掛けてある時計を見ると、時刻は11時を少しまわっていた。

うわ、結構のんびりしていたのか。そろそろ準備をしなければまずい。

慌てて立ち上がり、そのまま部屋へと戻ろうとするが、菜緒は「ちょっと待って」と朱里を呼び止める。

「何?菜緒姉さん」

「今日はお昼いる?いるんなら私が適当に作るけど」

「…いや、今日は出かけるから外で食べてくる。お昼はいらないよ」

それだけを言い、自分の部屋へと戻る。これ以上家にいたら菜緒に絡まれて面倒なことになりかねない。

(さっさと着替えてさっさと出よう)

クローゼットから適当な服とジーンズを引っ張り出し、さっさと着替える。ポケットに財布と携帯が入っているのを確認した後、部屋を出ようとドアを開ける。が、廊下で思わぬ人物と遭遇することになる。

「あ、朱里。おはようなの。どこか行くの?」

自分の1つ上の姉、美希が廊下に立っていた。…タイミングが悪かった。よりによって外出する直前で美希と鉢合わせになるなんて。

「お、おはよう、姉さん」

「もう!姉さんって言っちゃだめなの!!」

美希は金髪の髪を揺らしながら、プクッと頬を膨らませて怒る。

「ごめん、美希…姉さん」

たどたどしくだが、朱里は言い方を直す。美希は少し納得がいかない様子であったが、とりあえず名前を呼んでくれたことで少し機嫌をよくする。

と、美希は朱里を上から下へジロジロと眺めてから言った。

「ねぇ、朱里。それ、朱里が考えたファッションかもしれないけど、あんまり似合ってないの」

「…似合わないかぁ?」

一応、前世で自分が着ていた服装をチョイスしたつもりなのだが、自分には似合っていないらしい。性別の壁ってここまで厚いのか。普段、あまりオシャレをしない朱里にはよく分からない。

「時間があるなら、今から美希がコーディネイトしてあげるの!お化粧だってしちゃうし、なんなら美希の服も貸して…」

「いや、いいよ。今日は誰とも会う訳でもないし、好きな服装で外出したい気分なんだ」

朱里は曖昧に笑うと、美希の脇をすり抜け、階段を降りる。途中、美希は寂しそうな顔をしていたが、自分は見ないふりをする。

「それじゃ、行ってくるね。美希姉さん」

「…行ってらっしゃいなの」

なんせ今日は…1周目の自分の命日なのだから。

 

 

 

 

 

 

「うー、寒い」

外にでた朱里は特に目的もなくブラブラと歩いていた。いつも行く本屋で適当に立ち読みした後、近場のファミレスで遅めの昼食を食べる。そして今はどこかゆっくり休める場所を探して歩いていた。

3月とはいえ、まだ少し寒い。もうちょっと厚着でも良かったかもしれない。どこかひなたぼっこができる場所でゆっくり休みたい。

それから数分後…良い場所が見つかった。近所で一番大きな公園だった。青い芝生の広場があり、春休みの為か、多くの親子連れがくつろいでいて、賑わいを見せている。

朱里はその公園の適当なベンチに腰掛けながら、ふと思う。

(もう13年…か。早いよなぁ)

13年。自分がこの姿になってから、もう13年も経ってしまった。

既に女特有の月一で来る「アレ」も体験しており、嫌でも自分が女になったという現実を突きつけられる。「アレ」の初めて起こった時はショックで泣いてしまったほどだ。ああ、自分は本当に女になってしまったんだな、と。

「…やっぱり辛いよ、誰にも言えないってのはさ」

思わず、自分の独り言が漏れる。死ぬ直前でのあっち(1周目)での年齢は23。こっちでの年齢である13を加算すれば、精神年齢は36歳。もう立派なおっさんの年齢だ。

その年齢のせいで、どこか周りとの壁を感じてしまう。持ち越した前世の記憶の所為で精神年齢が合わず、学校で孤立しかけたことも少なくはない。今は不審がられない程度には話を合わせることくらいはできるが、周りとのズレを感じることはそう珍しいことではなかった。

家族とだってそうだ。1周目の家族を知っている故に、どうしても「お世話になっている」という感覚が抜けない。いくら血が繋がっているとはいえ、自分には1周目の家族のほうが「本当の家族」という感覚がどうしても強い。だから1つしか年が違わない美希にも「姉さん」なんて堅苦しい言葉を使ってしまう。

周りのみんなは「もっと頼ったっていいじゃない」とよく言うが、こんな事を話せば頭がおかしくなったと思われてしまうのが目に見えている。そもそも話すとしたってどうやって説明する?

「話せる訳ないもんなぁ、こんなこと」

だからこそ自分は未だに1周目の世界への未練を断ち切ることができない。毎年、1周目の自分の命日にこうやって一人きりになって自問自答を繰り返す。

あっち側は自分が死んでからどうなったんだろう?両親は?友達は?一目でいいから見てみたい、会ってみたい。…たとえそれがどれだけ願っても叶わない夢幻だとしても。

朱里は指を伸ばし、自分の髪を摘みながら、そっと呟いた。

「出来ることなら何も知らないままで生まれ変わりたかった」

 

 

 

 

 

 

「ただいま」

外は既に日が暮れており、朱里が家に着いたのは夜7時。少し遅めの帰宅になっていた。

朱里の声が聞こえたのか、バタバタと母が玄関へとやってくる。

「お帰りなさい、朱里」

「うん…お、母さん、ただいま」

どこかぎこちなく朱里は母と言葉を交わす。…まただ、またお世話になってるって感じがする。

「そうそう、朱里に何か手紙が来ていたわよ」

「手紙?」

テーブルの上に置いておいたからね、それだけを言うと母はキッチンへと戻っていく。

自分宛の手紙なんて…いったい誰からだ?早速、テーブルに置いてある封筒を見る。

「芸能プロダクション…765プロダクション?」

全く身に覚えがない手紙に思わず警戒してしまう。新手の詐欺か何かか?とりあえず封を開け、中の手紙を読み始める。

「星井朱里様へ。アイドルマスターオーディション書類審査通過のお知らせ…?指定の日時、事務所での面接を行いたいと…」

手紙を読み進めていくうちにワナワナと震えてくるのが分かった。つまり手紙を要約するとこうなる。自分はこの765プロという芸能事務所にアイドル候補生として書類を送ったらしい。…自分の全く知らないうちに。それが何故か合格し、こうして書類選考通過の知らせが届いた。

(自分が…アイドル!?)

ステージの上で精神年齢36歳の自分が大勢の観客の前で歌って踊る…考えたくない光景が頭に浮かぶ。

(こんなの応募した記憶ないぞ?誰が送ったんだ?)

このオーディションの書類選考を通過したということは誰かが勝手に送ったと考えられる。詳しいことは分からないが就活と同じ要領で考えると、書類選考を通るには必ず履歴書が必要になってくる。

履歴書には印鑑や個人情報、志望動機などを詳しく書かなければならないため、友人が勝手に送ったという線は消える。自分の個人情報まで詳しく知っている友人は残念ながらいないからだ。

そうなると犯人は必然的に身内に絞られることになるが、真面目な菜緒姉さんはこんなことはしない。両親も言わずもがなだ。自分が受けたいと言えば受けさせてくれるかもしれないが、無断でこんなことをする事はない。

(と、なると…)

結論。こんなことしでかす奴は星井家であいつしかいない。

「美希ぃ!!」

バン!と勢いよくドアを開け、美希の部屋へと入る。いつもなら必ず姉さんというのに、今回ばかりはそれを忘れていた。

「んん~?あふぅ…何だ、朱里だったの。お帰りなさいなの」

相変わらず気の抜けそうな声で話す美希に脱力しかけるも、今はそれどころじゃない。

「なんだよこれ!」

ダン!と机に例の手紙を叩きつける。美希は数秒それを見た後「あはっ」と笑う。

「あ、合格したの。おめでとうなのー!」

「なのー、じゃねえよ!やっぱり姉さんか!!勝手にこんなのに応募しやがって…!!」

今度ばかりは流石にぶん殴りたいという衝動を抑えられない。ここまでめちゃくちゃをやる姉だったとは。

「大丈夫大丈夫。美希も一緒に応募して受かったから。一緒に面接行けるよ?」

ほら、と美希も朱里と同じ書類選考通過の知らせを笑顔で見せる。

「~!そういう問題じゃないんだよ!!」

ああ、そうだ。美希はこういうところがあるんだった。下手に両親に甘やかされて育った為、世間知らずでマイペース。そのため周囲にとんでもないトラブルをたびたび引き起こす。自分がその被害に合うことも多いんだった…。

「…どうすんだよ、これ」

さて、本当にこれからどうしよう。書類選考通過の知らせを見ながら、朱里は泣き出しそうになる。

ぶっちゃけ、朱里はアイドルにそこまで興味を持っていない。アイドルそのものに憧れを抱いている訳でもないし、お気に入りの誰かを追っかけている訳でもない。朱里にとってのアイドルとは、どこか遠くの、自分には関係のない世界の住人。それくらいしか認識がなかった。

だから事務所に連絡を入れて今回の件について断ってもいいのだ。事情さえしっかり説明すれば、あっちだって分かってくれるとは思うし。

でもそれで生じるデメリットも多い。自分が辞退したことによって美希のモチベーションが下がるかもしれないし、事務所側も勝手な行動をした美希に対してマイナスのイメージを抱いてしまう可能性もありえなくはない。

(…とりあえずは受けるしかないか。このまま断ったら美希に及ぶデメリットの方が多いし)

それに落ちたら美希だってこの件については諦めてくれるはずだ。勝手に応募した件について怒るのはその後でもいい。

「…分かったよ、とりあえずは面接には行く」

「!!やったーなの!!」

「あくまで一緒に行くだけだからな。それに受かるって決まった訳じゃないだろ」

そう、自分が行くのはバイトの面接じゃない、アイドルのオーディションなのだ。恐らく受ける人数だって多いし、倍率だってかなり高いはず。

要するに前世で幾度となくやった就活と同じだ。いくら書類選考を通過したって面接で落とされる奴の方がほとんど。そもそも自分より美人な美希が一緒に受けるのだから、絶対に事務所側は美希を選ぶに決まっている。

「美希的には、たぶん二人一緒に合格すると思うな!!」

「いーや、私は絶対落ちるね。私を欲しがる芸能事務所なんてこの世にあるもんか」

…もっとも。この時の自分自身は思ってもみなかったことなんだけれども。

これが自分の…波乱に満ちた日々の始まりとは、この時はこれっぽっちも思っていなかったのだ。




普通の人間がいきなり別人に転生してしまったらこうなってしまうのでは?という感じで書いてみました。
次回は面接、ここから徐々に765プロとの絡みも増えていきます。


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第2話 2つの世界

このエピソードは前回説明しなかった部分の補完回へとなります。


星井美希が自分の妹、星井朱里が周りとどこか違うと感じたのは、いつのことだろう。

…最初に違和感を感じたのは、小学校に上がってからすぐのころだと思う。

入学してからすぐ、朱里はクラスの人気者になった。なんせ、勉強しなくたってテストはいつも100点。礼儀もしっかりしてるし、保護者からの人気も凄いらしい。

「朱里のお姉ちゃんで美希は鼻が高いの!」

「…うん」

でも朱里はいつも悲しそうに笑うだけだった。まるで齢をとった老人みたいに笑う。

「朱里―、一緒に学校に行こうなの」

「大丈夫だよ。子供じゃないから一人で学校に行けるって。そろそろ姉さんも妹離れしないとダメだよ」

「…」

何が大丈夫なんだろう?いつもそんな悲しい顔して。本当に大丈夫なら絶対にそんな顔はしない。

(美希は朱里のお姉ちゃんなんだから、もっと頼って欲しいの、甘えて欲しいの…)

しかし美希の願いとは裏腹に、時間が経つにつれ、どんどん朱里と接する機会が減っていく。

「ねーねー、お姉ちゃん。朱里と仲良くするためにはどうすればいいのかな?」

春休み。中学生に入ってからますます朱里との距離が遠ざかった気がして、美希は菜緒に相談することにした。

「そりゃあ、何か一緒のことをやる…とか?」

「…美希それ知ってるの!吊り橋効果って奴なの!!」

「いや、全然意味が違う…いや、あってるのかな?」

思い立ったら即行動。美希は自分の部屋で作戦を練っていた。

(どうせなら、うんと難しいことの方がいいよね)

あの朱里と協力するためには、生半可なことじゃダメだ。朱里が絶対にしなさそうなことで自分に頼ってくれそうなこと…。

(アイドル…とかはどうかな?)

そうだ、アイドルだ。美希はついこの前、とある芸能事務所の募集広告を貰っている。元々、こういうことに興味を持っているので、近いうちにオーディションを受けに行こうと思っていたのだ。そこに朱里と一緒に受けるというのはどうだろうか。

それに朱里はオシャレを全くしない。これを機にメイクやらオシャレに興味を持ってくれれば、一緒に関わる時間も増えるかもしれない。

「…でもこんなこと朱里に言ったら絶対怒っちゃうの。…そうだ、こっそり応募してやればいいの」

…勿論、怒られちゃうかもしれないけど、仲良くなるきっかけにでもなれば別にかまわないか。

(それに朱里はいつも自分を「かわいくない」って言うけど、そんなことないの。美希がきちんとメイクを教えてやれば、すっごくキラキラできるの!)

早速、準備開始だ。まずは美希と朱里、二人分の履歴書を作らなくては。

 

 

 

 

 

 

が、予想に反して、朱里が美希に頼ってくることはなかった。というか、現在進行形で美希は朱里にしごかれている。

「そうじゃない!面接官に座っていいと言われるまで座るな!それに声が小さい!!」

「は、はいなの!」

「声が小さいのが一番印象を悪くするんだ。それと立っている時も指先も丸めないでしっかり伸ばして。だらしない奴だって思われるぞ」

まず、朱里は美希に最低限の礼儀作法を確認することから始めたのだが…やって正解だった。なんせ、美希は礼儀のれの字も知らなかったのだから。多少のことは大目に見るつもりだったけど、いくらなんでもこれは酷すぎる。

もう面接まで一週間を切っている。そのため、付け焼刃でもいいから一気に叩き込む必要があった。

「で、でも少しくらいは大丈夫じゃないの?ここまで細かくは見ないと思うし…」

「いや、あっちは一足一手から情報を引き出すから、直せる所はとことん直していったほうがいいんだ。そしてこれは絶対に直せるポイントだ」

朱里は前世の就活で骨の髄まで染み込んだ動きを美希へと叩き込む。

「…まったくどっちが姉なんだか」

その光景を見ていた菜緒が呆れたようにポツリと呟き、まったくだと朱里は思う。

「…それでさ、朱里はどこでそんなこと習ったの?随分と本格的だけど…」

「…一度生徒会に立候補させられてね。その時に一通り教えてもらったんだ」

朱里は姉の疑問にでっち上げの嘘をつく。幸いなことに菜緒はその話題に興味は持たなかったのか、それ以上追及はしてこなかった。

(嘘つくの、慣れたよなぁ…。慣れちゃ不味いんだろうけどさ)

この嘘をつく癖も、2周目での生活で知らぬ間に磨き上げられてしまったものだ。…あまり嬉しくないが。

少なくとも…自分は落ちても構わないが、美希だけは合格させたかった。

自分は『星井朱里』じゃない。血は繋がっているけど、心は全くの別物だ。

でも…たとえ、本当の姉妹じゃないとしても。姉の夢くらいは叶えてあげたい。自分にできることはそれくらいだから。

「それじゃあ、最初からもう一度やるよ」

「うわーん!朱里は鬼なの!!」

「鬼で結構」

 

 

 

 

 

 

「ここが765プロ…か」

それからあっという間に時が過ぎて、遂に面接前日。朱里は明日に備えて面接会場である765プロの下見へと来ていた。

まず、見た目からの第一印象は「ボロい」ということだった。窓ガラスにガムテープで“765”と貼ってあり、建物の年期も凄い。貸しビルの一角を事務所として使っているらしく、事務所もあまり広くはなさそうだ。

(まだ出来て間もない事務所なのかな?)

…段々明日の面接が心配になってきた。本当にここを受けて大丈夫なのかな?

「…いかんいかん。明日の面接に変なこと考えちゃダメだ」

とりあえずは帰ろう。道順はしっかりと覚えたし、明日は早い。今日はゆっくりと休まなければ。

帰る途中、歩道橋の上で立ち止まり、辺りの風景を見渡す。

「…変わんないな、本当に」

街は煌びやかな光を放っている。下の道路は車も走っており、電光掲示板にはニュース映像が流れている。

「…本当に、1周目と変わんない世界だ、ここは」

始めにここが違う世界だと気づいたのは、保育園に入って少し経った頃だった。

両親が共働きしているため、朱里は幼稚園に入るまで保育所に預けられていた。

その時、ふと小さな違和感を感じた。テレビでやっている番組が違う、番組名は同じでもスポンサーやメーカーの名前が違う。売っている商品は同じでも、細かな違いが見え隠れしていた。

…そして、ある日。父の書斎にあるパソコンをこっそり起動させ、この時代背景を調べてみることにした。ついでに自分の生まれた街や通っていた学校などもあるのかどうかも。

そして2つのことを知ってしまった。1つはここは自分がいた世界とはどこか違う世界、並行世界だということを。もう1つは自分の生まれた街や通っていた学校はこの世界には存在しなかったことだ。

まず、この世界の近年の有名人を調べてみたが、自分の知っている人物の名前は誰一人として一致しなかった。代わりに自分の知らない人物がぞろぞろと出てきた。大体の歴史の流れは1周目とは変わっていなかったが、それでもあちらこちらで細かな違いが確認できた。

例えば、この世界での日本を代表する超有名スターは日高舞という自分が見たことも聞いたこともない女性アイドルだったりなど。

そして2つ目は…これだけは本当に信じたくはなかった。迷惑にはなるかもしれないが、自分は周りのありとあらゆる知り合いに電話を掛けた。だれでもいい、それこそ藁にもすがる思いで。

…結果は全て音信不通。固定電話も携帯も全滅だった。

途端に怖くなった朱里は自分の実家や祖父母など、身内宛に手紙を書き、こっそり送った。それぞれの住所を一文字一句間違えずにしっかりと書いて。

…数日後、手紙は戻ってきた。全て宛先不明というハンコを押された手紙だけが。

それを見た瞬間、膝から崩れ落ちた事を朱里は一生忘れないだろう。…この世界に、自分の行き場はどこにもないことを突きつけられたのだから。

「…」

朱里は首を振って、考えることをやめた。それは自分にとってあまり思い出したくない記憶だったからだ。

「…明日のオーディションはどうなるのかな」

一応はやれることはやったけど…やはり不安だ。オーディションなんて何をやるか分からないから余計に怖くなる。

「ま、明日になんなきゃ分からないか」

そう呟くと、朱里は止めていた足を動かし始める。

そう、全ては明日だ。




次回のオーディションの部分は、矛盾があったり、こんなのありえねぇよ、っていうのがあるかもしれません。


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第3話 面接

当日というものは自分が思っていたよりも早く来てしまうものだ。

「…!」

早朝6時。オーディションの緊張感からか、予定していたよりも1時間も早く起きてしまった。

(…いつまでたっても慣れないよなぁ、この変な緊張感は)

前世で就活していた時のような変な感覚だ。絶対に受からないって分かっているのに、無駄に感じてしまうあの緊張感。

「起きるか、何にもやる事もないし」

面接開始時刻は10時。3時間以上も時間も余裕があるが、まあ、バタバタするよりはいいか。

「朱里、おはようなの!」

「…今日は随分と早いな」

リビングに降りて…思わず絶句してしまった。あの居眠りチャンピオンの美希が自分より早く起きていたのだから。

「…今日のオーディションは絶対碌なことにならない気がする」

「あー!またそんなこと言ってー!!」

ぶー!と頬を膨らませる美希はとりあえず無視し、椅子に座る。

…それからはまあ、いつも通りの朝だった。朝食を食べて、歯を磨いて、顔を洗って。

変化があったのは、顔を洗い終えて、リビングへ戻った時だった。

「…?どうしたんだよ、そんなにニコニコして」

ニコニコしながらリビングにいる美希を不審に思ったのか、朱里は思わず半歩下がる。

が、美希は張り切った顔で朱里に近づいて来て、ギュッと手を握る。

「朱里にね、メイクをしてあげるの!」

「…え?」

「ほらほら!遠慮することなんてないの♪」

グイッと手を引っ張られて、無理矢理美希の部屋に連れて行かれる。

「い、いいよ。化粧なんて…」

「ダーメ!オーディションに行くんだから、しっかりとオシャレしないと!!」

そう言うと、美希はクローゼットから大きめのケースを持ってくる。蓋を開けると、中にはメイク道具がぎっしりと詰まっていた。

「…随分と一杯持ってるな」

「ふふん、驚いた?お年玉とおこづかいで少しずつ買い揃えていったの」

美希の勉強机に座らされた朱里は、ケースを見ながら呟く。

「じゃあ、目を閉じててね。まずはふき取り化粧水で肌をきれいにして…保湿化粧水と美容液で肌を整えて、と」

「ふ、ふき取り?保湿?」

「化粧水にも色々種類があるの。ふき取り化粧水は顔にある皮脂をとるやつで、保湿化粧水は肌の下地を整えるの」

…全然知らない。化粧水って下地を付けるだけだと思っていたのに、色んな種類があるのか。

「うーん、ファンデーションはリキッドを使って、ピンク系を2種類混ぜて…」

ファンデーションってあれだよな、肌に塗る奴でいいんだっけ?それに混ぜて使ったりもするのか。

「それで、パウダーをON。ハイライトは、このラメ入りのが似合うかな。アイホールは…うーん、ベースはこっちを使って、これは上から重ねて…」

朱里が理解できない単語をズラズラと呟きながら、美希は作業を進めていく。時折、顔にメイク道具が当たっているが、朱里は目を閉じているのでどれくらい進んでいるのか分からない。

「…今、どうなっているの?目つぶっているから何か怖い」

「あはっ、すっごくキラキラしてるよ!!でもまだ目を開けちゃダメだからね」

どうやらまだメイクは終わらないらしい。

「唇にはオレンジとピンクのグロスを重ね塗りして…うん、出来たの!目を開けてもいいよ!!」

はい、美希は朱里が見やすいように鏡の角度を変えてくれる。

「これ…私?」

「ね?全然見栄えが違うでしょ?お化粧って凄いんだから」

えっへんと胸を張る美希。その鏡にはまるで別人かと思うくらいに輝いている朱里の姿が映し出されていた。

「じゃ、美希もお化粧するから、ちょっと待っていてね」

「うん、先に着替えて待ってるから」

自室に戻ると、朱里はパジャマを脱いで、制服に着替え始める。

(女は化ける生き物っていうけど本当なんだな)

鏡に映っていた自分の姿に思わず怖くなる。普段から見慣れているはずの顔なのに、全然印象が違って見えていた。女って化粧するだけでこんなにも変わるものなのか。

「化粧って凄いんだな…、姉さんがあれだけの道具を揃えるのもわかる気がする」

美希があんなにメイクがうまいなんて知らなかった。

(姉さんの一面を知れた…のかな)

美希の思惑通り、ちょっとだけではあるが…2人の距離は少し近づいたのだった。

 

 

 

 

 

 

「ぶー、せっかくコーディネイトしようと思ってあれこれ考えていたのに。制服姿なんて…」

「面接受けるのに私服で行く奴がどこにいるんだよ」

今、朱里たちは徒歩で765プロへと向かっている。…が、美希はまだまだ朱里を弄りたかったらしい。

(美希が進めてくるのはどれも派手な服ばかりだし、いくらなんでも面接には向かないんだよな)

「それに時間だってまだ早いし…まだ20分も余裕があるの」

「…こういうのは余裕を持って行くもんなんだよ」

そうこうしているうちに765プロへとたどり着いた。美希は初めて見る事務所に文句を言う。

「うわ…窓ガラスにガムテープで“765”って貼ってあるの、だっさいの」

「…そういうこと言うな」

美希の頭をポンと叩き、事務所に続く階段を上る。

「さて、事務所に入っちゃったらもう美希姉さんとは口が利けない。だから最後のチェックをする」

「うん!」

階段の踊り場で美希と向き合い、面接の最終チェックを行う。

「部屋に入ったら?」

「失礼します」

「言われるまでは?」

「座っちゃダメ」

「喋るときは?」

「はきはきと」

「退出するときは?」

「失礼しました」

「…完璧。それだけ出来れば、OKだ」

朱里は事務所前の扉に立ち、ふう…と息を吐くと、扉を2回叩く。

「はーい。どちら様ですか~?」

「本日、オーディションを受けにきた、星井朱里です」

「同じく、星井美希です!」

さあ…行くか。

 

 

 

 

 

 

「…誰も来ないね」

「シッ!」

事務所内に通された2人は緑髪の女性に「ここで待っていて」と言われた。

とりあえず、ソファに座りながらかれこれ20分ほど2人は待っているわけだが…その間、自分たち以外の人間は誰一人と来なかった。

(予想とは違ったな。もっといっぱい人来ると思ったのに。…もしかしたら面接の時間帯ずらしてんのか?)

「では、これから面接を始めたいと思います。まずは星井朱里さん、社長室まで来てください」

「はい」

スッと立ち上がる。立ち上がる時、隣で美希が「頑張って」とウインクをする。

朱里は下した腕でVサインを作って美希への返事をし、社長室前まで歩く。そしてドアを軽く4回ノックする。

「どうぞ」

「失礼します」

社長室へと入った朱里の先には、2人の女性が座っていた。一人はさっきの緑髪の女性、もう一人は髪をパイナップルのように纏め、眼鏡をかけている女性だ。

「本日、あなたの面接官を務めさせていただきます、音無小鳥と申します」

「同じく、面接官の秋月律子です」

「…本日、面接を受けさせていただく、星井朱里と申します。よろしくお願いします」

 

 

 

 

 

 

「で、朱里は手ごたえどうだったの?」

「…無いな」

「美希も同じなの」

オーディションが終わった2人は近くにあるハンバーガーショップで昼食を食べながら、反省会…という流れになっているのだが、どうも2人とも手ごたえが感じられなかったらしい。

「美希はてっきり踊ったり、歌ったりすると思っていたんだけど、全くやらなかったの」

「…それは後からいくらでも教えられるってことなのか?あくまでも最初は見た目や態度を確認するだけ…とか?」

「…それじゃあ2人は合格で決まりなの!!美希たちすっごいキラキラしてたし、ちゃんと朱里の言う通りにしてたもん!!」

美希は店内であるにも大声で騒ぐ。

「そういう事じゃないだろ。事務所側にも選ぶ基準があって、それに合ってなきゃ落ちると思うし…。こればっかりは結果が返ってこないと分かんないよ」

(うーん、結局のところどうなんだろう?せめて姉さんだけでも受かっていればいいんだけど)

 

 

 

 

 

 

「うーん」

「…やっぱり悩みますよね、今回のオーディション」

朱里たちが帰った後の765プロでは早速、オーディションの合否判定が行われていた。

参加者僅か2人、しかもその2人は姉妹同士という今回のオーディション。これが2時間以上話し合っても合格者が決まらないでいるのだ。

「これは…今までで一番難しいかもしれませんね」

「ええ、2人ともかなりレベルが高かったですし」

「というよりあの2人本当に中学生なんですか?スタイルもいいし、態度もきちんとしてるし」

そう、僅か2人にも関わらず、このオーディションはあらゆる意味でレベルが高かったと言えよう。

姉の美希はビジュアルが突出して高く、下手をしたら765プロ内のアイドルたちを上回るかもしれない素質がある。対する妹の朱里は美希ほどの派手さはないものの、儚げで、思わず惹かれてしまうような美しさを持っている。

恐らく、あの2人はどこの事務所に行ってもやっていける。それだけの逸材であった。

「…で、律子さんは結局、どっちを選ぶんですか?私は朱里ちゃんを推したいんですけど…」

「うーん。今、事務所には即戦力になってくれる子が欲しいんですよね。だから私は読者モデルの経験があるお姉さんの美希に軍配が上がるんですけど…」

「けど?」

小鳥は律子に聞き返す。

「社長の言う…一種の感覚とでも言うんでしょうか。ティン!ときたっていう感覚が妹さんからはしたんですよ」

「ティンときた…ですか」

「ええ。ただ、プロデューサーの立場としては決め手が勘という理由で採用したくなくて…」

「難しいですよね」

はあ~、とため息をつく小鳥と律子。と、ここでガチャ!とドアが開いた音がして、2人は入口を見る。

「おお、二人とも!今帰ったよ!!」

「「しゃ、社長!?」」

そこには、765プロの代表取締役社長、高木順二朗の姿があった。すでに還暦を過ぎているはずなのだが、まだまだ元気で少年染みた明るさがあり、悪戯好きの子供がそのまま成長したような人物であった。

「社長、今までどこへ行っていたんですか!?本当なら社長にだって今日のオーディションに参加して欲しかったのに連絡もつかないし!!」

小鳥は社長をジト目で睨む。

「…ま、まあ、私は彼女たちを無駄に緊張させないためにだね。それにね…律子君、音無君。私も遊びで外出した訳では…。おっ、律子君、彼女たちの資料を見せてくれたまえ」

「「話を誤魔化さないでください!!」」

2人の息の合った怒鳴り声を無視し、社長は資料を読み進めていく。

「ふむ…。確かにこれは悩むねぇ」

「ええ、そしてこのオーディションの合格者はたった1人だけなんですよね」

「でもこれはどちらかを選べなんて酷すぎますよ…!」

小鳥は「うあー!」と頭を抱えて唸る。

「…ふむ、では…こういうのはどうかね?」

社長は少し考えると、ニコリとまるで悪戯を企む子供のように笑った。

 

 

 

 

 

 

「朱里、朱里!」

数日後の朝。ドタドタと廊下を走り回る美希の足音で朱里は目を覚ました。

「なんだよ、朝早くから…」

眠い目をこすりながらドアから顔を出す。美希は朱里の顔を見ると、嬉しそうに駆け寄って来た。

「合格通知が届いたの!!これで美希たちアイドルデビューなの!!」

へえ。姉さん受かったんだ、それはよかった…。

(ん…?何か今、聞き逃しちゃまずい単語が入っていたような…)

「美希…たち?」

「だーかーらー!美希と朱里、2人一緒に合格したの!これで一緒にアイドルできるの!!」

「…なんだってぇぇぇ!!??」

星井朱里。前世はただの一般男性で、今は13歳の少女。

そして、この瞬間、朱里は765プロのアイドル候補生となったのであった。…本人の意思はともかくとして。




メイクやオーディションの描写はかなーり適当です。
次回あたりからようやく765プロメンバーとの絡みが増えてきます。


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第4話 候補生と仲間たち

一応、この話の時期はアニマス1話のプロデューサーが入社して、まだ数日後という設定です。そのため、まだ伊織たちは竜宮小町には入っていません。
それとお気に入りが異様に伸びていることにびっくりしました。ついこの間まで2ケタだったのに…。



4月。既に新学期も数日後まで迫り、始まりを感じさせるこの季節。どんなことでも笑い飛ばせる、そんな気分に自然にさせてくれる、そんな気がする。

そして今日、ついに朱里と美希は765プロのアイドル候補生としてデビューすることになった。

だが…。

「…」

「どうしたの朱里?すっごい似合っているのに」

鏡に映っている自分の姿を見ながら、朱里は顔を引き攣らせている。

(流石にこれは…笑えない)

鏡には美希が普段、愛用しているスカートを履いた朱里の姿があった。

「私服までスカートってのは…ちょっとなぁ。ジーンズじゃダメか?」

「絶対ダメ!まったく、朱里はすぐズボン履きたがるんだから」

(勘弁してくれよ…)

正直、学校の制服は「しょうがない」と割り切れるのだが、私服までスカートなんて堪らないほど恥ずかしい。しかもロングじゃなくてミニスカートだし。どんな罰ゲームだ?

「まったく」と美希がぶつぶつ言いながら、はい、と何かを手渡す。

「これ読んで勉強しなきゃダメなの!!アイドルやるんだからスカートくらいで照れてちゃダメ!」

美希から渡されたのは美希が愛読している女性向けのファッション雑誌だった。中を見ると、ご丁寧に下線やマーカーも引いてある。

「…分かったよ」

渋々、美希から雑誌を受け取り、自分のバックに入れた。

「それじゃあ、朱里!早く行こうなの!ハリーハリー!!」

「…ちくしょう」

そして、すぐ、朱里たちは765プロへと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

765プロ内では現在、全てのアイドルと社員が集まり、大いに賑わっていた。

「ねーねー、兄ちゃん。遊ぼうよ→!!」

「…あー、真美。仕事がまだあるんだ、あっち行ってくれ」

「暇だよー!兄ちゃん!!」

765プロはまだまだ駆け出しの芸能事務所。そのためか、仕事が恐ろしいほどなかった。

それは先日、新しいプロデューサーが入っても状況は変わらず。ほとんどのアイドルは仕事より事務所でのお留守番の時間の方が長いという異例の事態となっている。

「あー、諸君!!全員そろっているかね?」

そんな中、全員の前に社長が姿を現した。

「大丈夫です、全員そろっていますよ」

小鳥が全員いることをしっかりと確認する。

「あずささん、今日は珍しく遅刻してませんね」

「ええ、今日は朝5時に家を出ましたから~」

「5時!?」

社長はがやがやと騒ぐアイドルたちを手拍子で黙らせる。

「さて、君たちは知らないだろうが…本日をもって、新たなるアイドル候補生が2人、この765プロの一員となる!!」

一瞬の沈黙の後、アイドル全員がドッと騒ぐ。

「「「「新人!?」」」」

「うむ、今回の2人はなんと姉妹!しかも音無君と律子君が選考に非常に悩んだほどの逸材だ!!」

「えー!?姉妹!?真美たちとキャラ被ってるじゃーん!!」

「ほんとほんとー!!」

「いやいや、2人は1つ齢が離れていてだね…双子というわけではないのだよ」

「どんな子なんだろう、真ちゃん?」

「うーん、きっとフリフリで可愛い子だよきっと!」

「ねーねー、伊織ちゃん!律子さんが悩むなんて凄い人なんだよね!!」

「ふん、きっと見かけだけよ。このスーパープリティな伊織ちゃんに敵うアイドルなんている訳ないでしょ?」

「はいはい、みんな静かに!!」

律子が思い思いに喋るアイドルたちを黙らせる。

「では、私は彼女たちを呼んでくるから、ちょっと待ってくれたまえ」

そういうと、社長は扉の向こう側へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

「ハードル上げるなよ社長…」

扉越しで聞こえてくる社長の発言に戦々恐々な朱里。周りも勝手に盛り上がっており、非常に出て行きにくい空気が生まれている。

「逸材だって朱里!美希たち期待されているってこと!?」

「…絶対勘違いしてるって。姉さんだけならともかく…」

ピョンピョンと跳ねる美希とは対象に頭を抱える朱里。

「待たせたねぇ、2人とも!」

「あ、はい…」

「みんなの準備は万端だよ!さあ、バッチリ決めてくれよ!」

「え、えっと……」

朱里が戸惑っていると、美希がギュッと朱里の手を握り締める。

「はーい、分かりましたなの!朱里、はやく!」

「ちょ、まっ――」

「さぁ、みんな!この子たちが新しい候補生だ!」

結局、美希に引きずられる形で事務所に入り、765プロのメンバーとの初対面となった。滅茶苦茶格好悪い。

(うわぁ…みんなめちゃくちゃこっち見てる…)

当然といえば当然だが、全員が一斉にこっちを見ている。しかもかなり奇抜な入り方をしてしまった。目立つのも当然か。

「それでは美希君、自己紹介を」

「はーい!美希は星井美希なの。14歳の中学3年生!よろしくなの!」

「中学3年!?」「胸が大きい…」「金髪だぞ…外人かなんかなのか?」「くっ」

美希は周りの声を聞きながら、「えへへ」と笑い、その場でくるりと一回転する。

「さあ、朱里君も」

「…えっと、星井朱里です。齢は美希姉さんの一つ下の13で、中学2年生です。よろしくお願いします」

「うわーキレイです!!」「…こっちも胸、大きいわね」「まあ、なんと可憐な…」「くっ!」

(褒められてるんだけど…なんか複雑だ)

綺麗…。みんなには決して悪気はないんだろうけど、何か複雑だ。とりあえず、頭をぺこりと下げた。

「~!!」

と、その時、一人の少女がバッと飛び出し、自分たちのほうに近づいてくる。

前髪を上げて大きく額を見せる長髪の少女だった。その手には可愛らしいウサギが握られている。

(ウサギの…ぬいぐるみ?)

外見だけ見れば実に女の子らしい、可愛らしい様子の少女だが、どこか不機嫌な顔をしている。

ピタッと朱里たちの目の前に止まると、ビシッと2人を指差す。

「…私は、アンタたちなんかに負けないから!!」

「!?」

いきなり朱里たちを、指差し、宣戦布告する少女。

朱里は突然の出来事に茫然とし、美希はぷっと噴き出した。

「あはは、でこちゃん、面白いの!!」

「~!でこちゃん!?あんたねぇ、先輩に対して…!!」

「こら伊織!初対面でそんなこと言わないの!それに765プロでは先輩風は吹かさない約束のはずよ!?」

律子がじろりと睨みつけると、伊織は「分かったわよ」と言い、渋々戻っていった。

「えっと、朱里さん。とりあえず、あなたは今日、伊織たちと一緒にダンスレッスンに参加してもらいます。美希さんは春香たちとボーカルレッスンへ」

「はい」

「はーい、分かったの、律子…さん!」

たどたどしい敬語を使いながら美希は返答した。

「…こんな様子で本当に大丈夫なんですかね、社長」

「なあに、大丈夫さ。はっはっは!」

プロデューサーの呟きは社長以外、誰にも聞こえることはなかった…。

 

 

 

 

 

 

…ダンスなんて簡単だ。そう思っていた数時間前までの自分に説教を入れたくなった。

「はい、そこまで!」

レッスンスタジオの一室で、律子の声が響き渡る。その瞬間、メンバー全員の動きが止まった。

現在、朱里たちはレッスンスタジオで基礎的なダンスレッスンを受けている。

メンバーは朱里、先ほど朱里たちに絡んできた少女「水瀬伊織」と事務所最年少の双子姉妹「双海亜美」と「双海真美」、ツインテールが似合う元気いっぱいの少女「高槻やよい」の5人。講師にはトレーナーではなく律子が担当してくれた。

朱里はダンス経験は学校の授業でやった創作ダンスくらいしかない。だからその延長戦かな?と舐めて挑んでいた。

だが、やり始めて分かった。これはとんでもなく難しいと。

まず、朱里は頭の中ではどう動けばいいか分かっている。だが、体がそれについてこないのだ。動きはぎこちなく、ステップはバラバラ。足が思うように動かない。

周りに合わせようとすると、今度は腕や顔が下がっているとの説教が飛ぶ。それらを一度に守ろうとすると、一気に体力が持っていかれる。

(これに歌まで歌うんだろ?どんだけみんな体力あるんだよ…)

「だ、大丈夫ですか?」

「…なんとか」

やよいが心配そうに声をかけるので、とりあえず手を上げてアピールするが…全く説得力が感じられない。

いや、この朱里の姿を見れば誰だってそう思うだろう。それほど今の朱里の様子は酷かった。

手足はガクガク、顔は真っ赤、体中から汗が滴り落ちている。

終盤、朱里は脱水症状でも起こしたのかと思えるくらいに疲労困憊になっており、危うく律子からストップがかかりそうになるほど動きがやばかった。

伊織は呆れた表情を浮かべ、朱里を見る。

「…律子、こいつ本当に逸材なの?ステップはバラバラ、顔は下向いているし。とんだ期待外れの新人ね」

「!ちょ、ちょっと伊織!まだ入って初日の子にそこまで…」

慌てて律子は伊織の発言を止めるが、伊織の小言は止まらなかった。

「…!」

悔しいが、伊織の発言は正しい。基礎の時点でこのありさまなのだ。こんな有様では候補生とはいえ、アイドルを名乗る資格すらないだろう。怒鳴り返す気力もない朱里はグッと歯を食いしばることしかできなかった。

「…ま、律子のレッスンを最後までやりきったのは、褒めてあげるけど。根性まで無いんじゃどうしようもないもんね」

「ぬふふー、いおりんツンデレだ!」

「ツンデレツンデレ→!」

「うるっさい!いおりん言うな!!」

亜美、真美にからかわれると、伊織は顔を赤くする。…どうやらあだ名で呼ばれるのは慣れていないらしい。

「はいはい!喋るのは後にして!!時間が押しているから、しっかり柔軟とマッサージをみんなで行う!!それで今日のレッスンは終わり!!」

そう言われると、伊織はすぐさまやよいと組を作り、さっさと朱里の反対側へと行ってしまった。

(あの野郎…)

…仕方ないので、朱里は双海姉妹に混ぜてもらうことにした。

「双海さん…あいつさ、私に恨みでもあるのか?」

朱里は目線の先にある、伊織を睨む。

「…いおりんね、たぶん悔しいんだと思うよ」

「…悔しい?」

「うん」

マッサージをしてもらいながら、朱里は真美の会話に食いつく。

「同じくらいの年でそれだけスタイルがいい子なんていないから」

「…私が?」

「うん、凄いよ。ボン、キュ、ボーンって感じ」

「…そうかぁ?」

スタイル…か。確かにそうかもしれない。何か体育とかやっている時も男子の目線は自分の胸や足にある気がする。ブラジャーもサイズが同年代の子よりも大きいのを使っているし、ヒップも大きいかもしれない。

(自分はスタイルなんていらないんだけどなぁ。胸揺れるし、邪魔なだけだし。あの青髪の人くらいの胸のサイズくらいで十分なんだけどな…)

そういえば、さっきの自己紹介の時も、あの人の目線はずっと胸にあったし。…胸なんかいらないのに。

すると、今度は隣にいた亜美が会話に入って来た。

「それにね、亜美は思うに、いおりんは嬉しいんだと思うな」

「…嬉しい?さっきは悔しいっていってたのに?」

「律ちゃんってさ、結構厳しいんだよ。めったに褒めないし。だからいおりんはあかりっちのことを『律ちゃんが選んだ逸材』って期待してるんじゃないかな?」

…なるほど。だからレッスンの様子を見て失望した、と。あの醜態では怒鳴りたくなる訳だ。

ともすれば、さっきの発言も本気で言った訳ではなかったのか?あの言葉は朱里を奮い立たせるための演技、朱里に気合を入れるためだけのただの行為ということなのだろうか。その証拠に最後には褒め言葉を残しているし。

(…ちくしょう、何か、格好悪いな)

精神年齢ではこっちが上のはずなのに。なんか…もの凄くかっこ悪い。

「…?そういえば…あかりっちって何?」

「あだ名だよあだ名!!それに双海さんなんて呼ばなくていいよ!ちゃんと名前で呼んで!!」

「それに苗字だとどっちを呼んでいるのか分かんなくなるしね→!」

そう言うと、2人はグイッと朱里の体を持つ。

「はい、柔軟いくよ→、亜美、そっち持って!!」

「了解、真美!!」

「ちょ、ちょっと待っ…!!うわ、痛い痛い痛い痛い!!!」

「うわぁ、体固いね、あかりっち」

「もっと体柔らかくないとダンスは踊れないよ?もっと柔らかくしなきゃ」

グイグイと朱里の体を押す2人。たまらず、スタジオの外に聞こえるほどの大声で叫ぶ。

「痛ってえええええ!!!」

「うるっさいわよ、あんた!!」

…そんなこんなで朱里の初レッスンはこうして終わったのだった。

 

 

 

 

 

 

(あー、こりゃ絶対、明日筋肉痛だ)

体の節々が痛みながら朱里は事務所へと報告に戻った。美希はまだレッスンから帰っていないらしく、事務所にはいない。

(…姉さんはまだいないのか)

「す、すみませーん!」

「?」

美希を迎えに行こうと、事務所を出ようとした所、朱里はやよいに呼び止められた。

「…えっと、高槻さん?で大丈夫だよね」

「はわっ、えっと…やよい、でいいですよ!齢、同じくらいですし」

「…じゃあ、お言葉に甘えて…やよい。どうしたんだ?」

口調を砕けたものへと直すと、やよいはぱあっと明るい顔になった。

「はい!あの…明日から一緒に頑張りましょうね!!」

そう言うとやよいは、がばっと両手を後ろに跳ね上げながらお辞儀をする。

「…!うん、そうだな」

そのかわいらしい仕草にどこか笑みを浮かべてしまう朱里。

「えへへ…じゃあ、手を上げて貰ってもいいですか?」

「手?」

「ハイ、ターッチ!」

スッと手を上げると、やよいは勢いよく自分の手へとタッチする。

「イェイ!」

ハイタッチが終わると、やよいは「お疲れ様でしたー!」と言って、朱里が見えなくなるまで見送ってくれた。

(…もうちょっとだけ…頑張ってみるかな)

レッスンで受けた傷が少しだけ癒されたのを感じ、朱里は歩き始めた。

こうして、朱里のアイドル候補生としての初日は終わりを迎えたのだった。




とりあえずは中学生組との交流です。伊織と仲良くなるのはもう少し先かな?
朱里のスタイルは…千早が嫉妬するくらいだと思ってください。


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第5話 葛藤と個性と

今回はアニマス2話となっております。


「ふう…」

ようやく迎えた放課後の自由な時間を噛みしめるように、朱里は椅子に寄りかかる。アイドル候補生を始めてから二週間が経ち、ようやく事務所にいる全員の名前を空で言えるようになった。

(体痛ってぇ…)

レッスンでは普段使わない部分を動かしたりするので、あちこち筋肉痛が酷い。よもや女になってから筋肉痛を体験するとは。

「あ、あの!」

「ん?」

振り返ると、自分が話したこともないような男子が一人、朱里の席の近くに立っていた。

(…ああ、そういえばそんな季節か)

「あ、朱里さん!き、今日さ、駅前で新しいケーキ屋がオープンするんだ」

「…それで?」

朱里は冷めた目で男子を見る。この時点で何を言われるのか、だいだいの予想はついている。

「な、なんならお姉さんの美希さんも一緒に…」

「ごめん。今日は姉さんと用事があるんだ」

それだけ言うと、さっさと朱里は教室を出た。男子は何をするのか聞きたそうな顔をしてたが、朱里は取りつく島を与えなかった。

(ったく、自分をダシに姉さんを誘うのはやめてくれよな)

所謂、デートや合コンなど、年頃の女の子が参加するイベントには朱里は参加しない。

体は女でも朱里の精神は男だ。何が楽しくて野郎同士でケーキなんか食べなきゃならないのだ。それに今の自分はアイドル候補生。男と一緒にケーキを食べに行って、変な関係になったらどうする。そんなことを週刊誌にでも乗っけられたら?そんなことになったら765プロは破滅だ。

「それに姉さん狙いだったら最初から本人に言ってくれよ…」

そして朱里が学校生活を送る上で避けられない問題、それが『美希の妹』という所だ。

美希本人に自分の思いを伝えられない男子たち、いわゆる『ヘタレ』は美希の妹である朱里に、先ほどのように恋のキューピットを頼む奴らが非常に多い。勿論、そんな下心が丸見えな奴らの誘いを朱里は断るのだが…毎年4月の中旬、多くの生徒が学校に慣れた頃になると一気にそのヘタレの人数が増える。玉砕覚悟や新学期を迎えたノリで学校一の美人、美希に告白しようとする生徒が出てくるからだ。…勿論、それに比例して、自分にキューピット役を頼む奴らも増えてくる。

…一応説明しておくが、これまで美希に告白して、成功した男子は朱里が知る限りではゼロである。

「姉さんもしっかりと断ってくれればいいんだけどな」

ぶつぶつ文句を言いながら、朱里は美希の教室がある3階の一室に立ち止まる。

「姉さん、まだ?」

あまり上級生と絡みたくない朱里は、教室には入らないでひょいと扉から顔を出して、美希を呼ぶ。詳しい状況は分からないが、どうやら美希は同級生と話しているらしい。

「おっ、愛する妹さんが来たよ」

「ヒューヒュー!!」

「そ、そんなこと朱里の前で言わないで欲しいの!!」

同級生たちに茶化されながらも、美希は照れながらこっちにやって来る。

「お、おまたせなの」

「…おう。じゃ、行こうか」

下駄箱まで2人は他愛もない会話をしながら、歩いてゆく。

いつもと変わらない光景。

そう、それは自分の下駄箱から1枚の便箋が落ちるのに気がつくまでは変わらなかった。

「…ん?」

朱里は何か落ちたのに気づき、それを拾い上げた瞬間、ビシリ!と固まった。

「…嘘だろ、おい」

それは自分には一生無縁だと思っていた物、ラブレターと呼ばれる物だった…。

 

 

 

 

 

 

「最悪だ…」

「?どーしたの朱里?」

「…いや、なんでもない」

765プロに向かう途中、ため息をつきながら、手に持っている便箋を見る。

(絶対ラブレターって奴だよな、これ…。しかもご丁寧に名前とクラス、出席番号まで書いてる)

そもそも朱里は恋愛ごとに関しては全くの無知なのだ。男だった1周目の時でさえ、まともに異性と関わったことすらないのに、半分オカマみたいな存在の今の自分に恋愛事情なんて分かるわけがない。

あまりにも異性との誘いを断るものだから、一部では「星井朱里は百合なんじゃないか」とかいう根も葉もない噂が広まっているらしい。…男と一緒にあれこれするよりは百合と勘違いされたほうがまだマシかなと最近は思ってはいるが。

(…たぶん、自分は一生結婚できそうにないな)

自分がドレスを着て、夫となる男性とのキス…。考えただけで吐き気がする。

とりあえず、ラブレターの件については自分で解決しよう。悪戯好きの亜美真美にばれたりしたら、絶対に面倒なことになる。

事務所に続く階段を上りきろうとしたその時。事務所の中から「やったー!!」という声が聞こえてきた。

「…?何かあったのかな?」

「…さあ?」

 

 

 

 

 

 

「「宣材写真?」」

「そう、今週末、765プロ全員の宣材を取り直すことになった。それでついでに美希と朱里のも撮ろうって話になってね」

全く事情が呑み込めない朱里たちは、プロデューサーからことの説明を受けていた。

詳しく聞くと、今765プロはオーディションに連戦連敗中なのだそうだ。今月に入ってからまだ誰一人オーディションに受かってなく、プロデューサーがその原因を調べた所、アイドルの書類上の顔となる宣材写真に不備があったらしい。

「…?でも、みんなすっごくかわいいハズなのに、そんな写真だけで落ちちゃうものなのかな?」

美希はいまいちピンときてないらしく、頭に?を浮かべている。

「あ~、面接の練習でも言ったけどさ…第一印象ってすっげえ大事なんだよ、姉さん」

そう言うと、朱里は自分のカバンからルーズリーフとボールペンを取り出し、適当な絵を描きながら、説明を始めた。

「例えば、姉さんの好きなイチゴババロアが二つあったとする。一つは見た目は完璧、もう一つはグチャグチャな見栄え。…さて、姉さんはどっちを食べたい?ちなみに使った材料や味は二つとも同じだと思って」

「そりゃあ、見た目が完璧な方を食べたいの!」

「…じゃあ、それと同じ要領で宣材写真も考えてみて」

「…あっ!!」

美希はようやく気付いたのか、声を上げる。

「そう、味がおいしくても、見た目が悪ければみんな自然に避けてしまうんだ。宣材写真だって一緒。いくら中身が良くても、見た目が悪ければそれだけで印象は悪くなってしまうんだよ。仮にオーディションに受かったとしてもその確率はグンと下がってしまう…こんな説明であってますよね、プロデューサー?」

「え?…ああ、大体あってる…うん」

言いたいことを全部朱里に言われてしまったプロデューサーは少し落ち込みながらも、話を再開する。

「…で、宣材写真はその子の性格や個性が一目で分かるものじゃなきゃダメなんだ。だから2人には週末までには自分をしっかりと見て、自分の武器となる個性を見つけて欲しい。ま、分からないことがあったら俺がしっかりと相談に乗るから」

そう言うとプロデューサーは仕事へと戻っていった。

「自分の個性…?じゃあ美希、キラキラするってことでいいのかな?」

「姉さんはそれでいいんじゃないかな?」

「なーんだ!それじゃあ簡単なことなの!」

鼻歌を歌いながら美希はどこかに行ってしまった。朱里も美希を追いかけようとして、ふと、事務所の真ん中で立ち止まってしまった。

「私の…『自分』の個性って何なんだろう…?」

自分には美希のような可憐さはないし、菜緒姉さんのような落ち着きを持った人間じゃない。そもそも自分は性別すら違う男だった人間だ。女性アイドルの世界でどのような個性を出せばいいんだ?

朱里は今、自分が長年目を背けていた問題へとぶち当たっていた。『自分とは何なのか?』と…。

 

 

 

 

 

 

「…で、なんで私まで参加しているんだ?」

「一応よ、一応。あんたの意見は大した役には立たないかもしれないけど、今は猫の手も借りたい状況だから」

頭の中から『個性』のことが離れなかった朱里は、頭の中で思考をフル回転させていたが、悩みに悩んでも糸口は見つからず、根気が続かなくなっていた。

それで気分転換も兼ねて、やよいたちの許を訪ねてみたのだが、何故か『個性について』作戦会議に朱里も参加する羽目になってしまったのだ。

「…つまりは、こんな雑誌に載っているようなアイドルを真似たって駄目なのよ!!トップアイドルになるにはみんなには無い強烈な個性が必要なのよ!!」

「「「おおー!!」」」

バンと女性向け雑誌を叩きながら、伊織は大声で演説を続ける。

「…お前ら十分すぎるほど個性あると思うけどなぁ」

そう、あらゆる面でここにいる奴らはキャラが濃い。

まず、伊織は超有名企業の令嬢、亜美真美は見た目がそっくりな双子姉妹、やよいは元気いっぱいでほんわかポカポカするような雰囲気。

正直、下手に弄るよりもそのままで勝負したほうが絶対にいい結果がでると思うのだが…。

「でもあかりっちはスタイル抜群じゃん。亜美たちはもっとセクシ→な感じで目立ちたいの!!」

「そうそう!!」

「…はあ、セクシーねえ」

半ば呆れつつも朱里は会話に参加している。最もセクシーさからかけ離れているこの面子でそれを求めるのはもの凄く場違いな気がしてならない。

「あかりっちやミキミキはスタイル抜群じゃん、何食べればそんなになるの?」

「…米かな?ウチはパンより米派だから毎日食っているけど…」

「そ、それなら私の家も毎日ご飯食べてますよ!!」

やよいが涙目になりながら訴える。…じゃあ、自分や姉たちのスタイルがいいのはもう体質としか言いようがない。

「よ→し、明日から3食全部お米にしよう、真美!」

「うん、ママに頼んでみよう!!」

「いや、数日とかじゃ絶対効果が表れないから無理だろ…」

…だんだん話の趣旨がずれ始めている気がするのは気のせいだろうか?

「ふん、何よ…」

と、ここで伊織が口を開いた。

「何よ何よ!口を開けば私たちの意見を否定することばっかり!」

「…!別にそうは言ってないだろ。ただお前らはセクシーなんてまだ似合わないんだよ。今しか出せないような魅力が…」

「ほら、今否定したじゃない!」

「…!話が通じないのか!?このデコ野郎!!」

売り言葉に買い言葉。どんどんヒートアップしていく発言に亜美真美ややよいは黙っているしかない。

「~!あんたはいいわよね、律子からも期待されていて背も高くてスタイルもあって!あんたの方が私たちよりずっと個性を持っているじゃない!!」

「!!」

伊織の言葉が、無意識の内に朱里を傷つける。今一番、言われたくない一言を伊織は口走ってしまった。

「あっ…」

押し黙ってしまった朱里に伊織が戸惑う。言いすぎた、誰もがそう思った時にはもう何もかもが遅かった。

「じゃあ…個性ってなんだよ。私らしさってなんだよ!?」

伊織の発言に完全にキレてしまった朱里は思わず立ち上がり、伊織の胸倉を思いっきり掴んだ。

「ちょ、ちょっとあかりっち!?流石にやりすぎだって!!」

「律ちゃん、律ちゃん!!」

亜美の必死の静止も無視して、朱里は事務所全体に聞こえるほどの大声で叫んだ。

「個性?自分らしさ?…そんなの私が一番知りたいんだよ!私の…自分のこと、何にも知らないくせに!!分かったようなこと口にするんじゃねえよ!!!」

そう怒鳴ると、朱里は伊織を突き飛ばした。ふと、辺りを見渡すと事務所全体が水を打ったようにシーンとしていた。

「あんたたち…何が起こったのよ!?」

「…別に。何にも起こってませんよ」

真美に引きずられる形でやって来て、事情が全く分からない律子に、それだけを吐き捨てる。そして、朱里はカバンを持って事務所の出口に向かう。

「ちょ、ちょっと!待ちなさい!!」

「…謝りませんよ、私は」

それだけを言うと、朱里は事務所を出て行った。事務所に残った者は、茫然と朱里の後ろ姿を見ることしかできなかった。




この頃の伊織はどこかトゲトゲしている感じがするんですよね。何度もオーディションに落ちて、プロデューサーにも八つ当たりしまくってるし。
それで自分より期待されている朱里が入ってしまい、今まで溜め込んでた不満が一気に爆発してしまった…そんな感じです。
対する朱里も下駄箱に入っていたラブレターから「男と女のギャップ」「自分とは何か?」という疑問が湧き出てきてしまい、運悪く伊織がそれを突いてしまい、爆発…と。要は二人ともタイミングが悪かったんですよ。出会いも最悪だったし。
でも伊織はきちんと謝れる子なんですので、きちんと仲直りはさせますよ。


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第6話 コンプレックス

今回は今まで出番がなかったあの2人がメインです。


朱里はゆっくりとした足取りで事務所前に立ち止まる。…その顔はあまり機嫌が良さそうではなかった。

(…行きたくねえ)

朱里は、階段を一歩一歩踏みしめるように階段を踏み、事務所へと進む。ここまで事務所に行きたくないと思うのは初めてかもしれない。

あの日の面接以上の緊張感で、朱里はドアを開けた。

「…お、おはようございまーす」

朱里は蚊の鳴くように細い声で事務所へと入る。足跡を殺して進む姿はまるで空き巣のようだった。

(…誰もいない、のか?)

事務所は静まり返っており、人の気配がしない。でも、鍵は開いてた。ということは絶対誰かはいるはずなのだが…。

「あれっ、朱里?」

「うわっ!?あっ、真さん…おはよう、ございます」

いきなり給湯室から現れた影に、思わず大声が出てしまう。

菊池真。中性的な容姿で、男と間違えられてもおかしくないだろう雰囲気を出している少女。ショートカットの髪と男っぽい口調も、そのイケメンさに拍車をかけており、スポーツ全般なんでもござれの運動神経の持ち主。…正直、そこらへんにいる男よりも男っぽい。

「あ、朱里ちゃん。おはよう…」

「あ、おはようございます。雪歩さん」

と、給湯室からもう一人、湯呑みを持った少女がやって来た。

萩原雪歩。栗色のショートで、まるで小動物のような弱々しい雰囲気がする娘。大の男性恐怖症で、プロデューサーとも上手く絡めないらしい。何事にも弱気で泣いてばかり。

また、穴掘りが非常にうまく、コンクリートに穴をあけたこともあるらしい。

「…今日、伊織来てます?」

「…いや、来てないね。レッスンがあったはずだから、多分スタジオに直接向かったんじゃないかな?」

「…そうですか」

来ていない。そう分かると、張りつめた緊張感が切れ、朱里はドッと疲れが溢れてくる感覚がした。色々考えてきた言葉が全部無駄になってしまった。

「わ、私も真ちゃんから話は聞いたけど…その…」

「…大人げなかったんですよ、私が」

雪歩のどこか気を遣った発言に、苦々しい顔で呟く朱里。

あの日から三日経ち、朱里と伊織が起こした喧嘩は事務所にいる全員に知れ渡ることとなった。当然、律子からの説教もあり、色々と申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

(大人げなかったんだ…図星突かれたからといって、手まで出すなんて)

そう、確かに事の引き金を引いてしまったのは伊織だが、その引き金に反応して、直接手を出してしまったのは紛れもなく朱里自身だった。

もし、あそこで手を出していなかったら、事はもっと穏やかにすんだかもしれないのに。自分がそれをかき乱してしまった、事態をややこしくしてしまった。

しかも自分は伊織の倍以上の年を取っている人間だ、もっと穏便に解決する方法だっていくらでもあったはずなのに。

…そんな自己嫌悪な気持ちでここ数日を過ごしていた。

「まあ、僕も伊織とよく喧嘩するしね、なんとなく分かるよ」

真はソファに座り、雪歩が入れてくれたお茶を啜る。朱里も真につられる形で座った。

「…今日は来ますかね?」

「たぶん、来ないよ。ここ最近、事務所に来るの避けているみたいだし」

「…ですよね」

朱里もあの日から毎日、事務所には顔を出してはいるが、伊織の姿は一度も見ていない。

自分に会うのをわざと避けているのだろう、一度、レッスンスタジオにも足を運んではみたが、既に伊織は荷物をまとめ、帰っていた後だった。

「…で、朱里は今日はオフ?」

「はい。…あの、2人に聞きたいことがあるんですけど」

そう、自分にはもう一つ要件があった。それは家族には言えない、ある程度自分を知っている人でなければ言えないものであった。

「…何?」

「…あの、私って、どんな感じで周りに見られてますか?」

 

 

 

 

 

 

都内のとある喫茶店。ここの一角で、律子はため息をついていた。

「はあ…」

律子は今、外回りの営業に出ていた。結果は上々…のはずだったのだが、今の律子は心ここに非ずといった感じで、全く別なことを考えている。それは勿論、あの日に起こった喧嘩のことだ。

「私は…あの子を贔屓な目で見てしまっていたのかも」

朱里は確かに素人の中では頭一つ抜けている存在だった。自分が組み立てたレッスンにも弱音を吐かずについてこれるし、礼儀や作法もしっかりしている。どこか朱里を無意識に贔屓し、それが原因で今回のトラブルのきっかけになってしまった。

「…ダメね、私は。朱里にも怒鳴っちゃったりして」

伊織の性格は重々分かっていたはずなのに、それを止められなかった。もっとあの時、早く止められていれば…。

それからというものの、伊織は朱里と会おうとはしない。何とか会わせようとしても、伊織は「あっちが悪い」の一点張り。

事務所にも来ていないし、このままだと…。

(もしかしたら…伊織、事務所辞めたりとか…)

頭に浮かんだ最悪の結果を、律子は慌てて消す。

そして、律子はポケットから一つの鍵を取り出した。

それは事務所の自分の机の鍵であり、鍵がかかっている引き出しには、自分の企画しているある一つの書類が入っている。

(竜宮小町…)

『竜宮小町』。今、律子が企画している一つのアイドルグループの事だ。既にメンバーも確定している。そして、そのメンバーの中の一人には伊織も入っている。

「私があの子を信じないでどうするのよ」

そう、自分は伊織の才能を信じ、メンバーに加えたのだ。負けず嫌いの彼女は簡単に諦め、投げ出す人物じゃないはずだ。

(週末には全員に嫌でも会うから、その時になんとか朱里に会わせなきゃ…)

…そう決意する律子であった。

 

 

 

 

 

 

場所は再び事務所へと移る。

「…?」

朱里の言葉の意味が分からないのか、首を傾げる真と雪歩。

「あっ!いや、その…。週末にある宣材写真のことでちょっと…」

その説明に2人は「ああ」と納得した顔をする。

「その…プロデューサーは自分の個性を見つけろって言ったんですけど、私の個性がいまいち分からなくて…」

「で、でも、朱里ちゃんには美希ちゃんがいるじゃないですか。ひんそーでちんちくりんな私なんかに聞くよりも…」

「あ…その、身内だと色眼鏡とかがあって、正しい評価が出ないんですよ。私をある程度知っている人じゃないとこの質問は出来ませんから」

(それに姉さんには迷惑はかけたくないしね…)

雪歩に言った理由は勿論あるが、それは建前。本当は美希に迷惑をかけたくなかったのだ。伊織との喧嘩でただでさえ心配をかけているのに、これ以上迷惑をかけられない。

「うーん、そんなものなのかな…?」

真は半分納得し、半分困惑しているような顔をしている。

「…その、遠慮しなくてもいいですから。ズッパリ言ってください」

「「…」」

2人は互いに顔を合わせ、どこか遠慮しがちに口を開いた。

「「…大人っぽい」」

「…!」

2人の答えは見事に同じだった。朱里は「やっぱり」という顔を浮かべている。

「…なんていうのか、朱里は仕草とかがすごい落ち着いているんだよ。大学生みたいっていうのか…何というのか」

「わ、私もそう思います…。この前だって律子さんとコーヒー飲んでいましたし、プロデューサーが持ってきていた新聞だって見ていましたよね?どう見ても中学生には見えなくて…」

(…そりゃ、そうだよ。だって30代いってるんだぜ、この見た目で)

心の中でツッコミながら、朱里は2人の話を聞く。

それから二人はこの2週間で構成された朱里のイメージを語っていった。その結果、2人だけではなく、765プロのみんなからも「大人っぽい」と思われているらしかった。

「…やっぱりそうですよね」

まさか周りにまでそんなイメージを抱かれてるとは思っていなかった朱里はガクッと肩を落とした。

「そ、その…ごめんなさい…私が余計なこと言ったせいで…」

「あ…、大丈夫ですよ。覚悟はしていたんで…」

手を上げて、雪歩の悲鳴にも似た声を止める。

「ただ、何となく分かってはいるんですよ。自分が大人っぽいって所は。ただ…それを受け入れられるかというのは、また別で…」

そう言うと、朱里は悩んだように髪の毛を弄る。

「…僕も何となく分かるよ」

と、ここで真が口を挟んできた。

「僕はね、その…父さんに男の子らしく育てられてね。空手を習ったりとか、女の子らしい服装も『軟弱』って言われたりして…」

「…」

真の身の上話に、朱里は思わず黙ってしまう。

「その…お父さんを恨んだりとかしますか?」

「…たまにね。みんなが女の子らしいことをしているのに、僕だけできないってことも多いし」

真は「ただね」と付け加える。

「でも、それも含めて、今の自分があると思っているんだ。実際に空手を通して得た経験だってたくさんあるし。…たまに戸惑うこともあるけれど…僕は僕だからね」

真は立ち上がり、空手のポーズを色々取り始めた。…真の中では男らしさも「自分」として、受け入れられているらしい。

「わ、私も!!」

真の話を座ったまま聞いていた雪歩が、勢いよく立ち上がった。

「わ、私もダメな自分を変えたいと思って…だからアイドルになりたいって…。たまに自分がすっごく嫌いになるときもありますけど…」

雪歩は「あうう」と顔を真っ赤にしながらソファに座った。

「…」

意外だった。朱里は雪歩をグジグジ悩んでいるだけの子だと思っていたのに、ダメな自分を認めて、それを変えたいと思っている。

真と雪歩。2人は性格も違うし悩みも違うけれども…自分をしっかりと向き合っている。たとえ嫌でも、苦しくても彼女たちは逃げてはいない。

(だったら…自分は…!)

「…ありがとうございます。いい参考になりました」

朱里は2人に頭を下げ、キッチリと礼を言うと、帰り支度をする。

「も、もう帰るの?」

「ええ。家でやらなきゃならないことが出来たんで。その…頑張りましょうね、週末の宣材写真」

「「うん!」」

2人の息の合った声に微笑むと、朱里は事務所を出て行った。…心なしか、少し足が軽くなった気がした。

 

 

 

 

 

家に帰った朱里は、自分の部屋に入り、鏡をジッと見ていた。…こんなにじっくりと自分の姿を見たのは随分久しぶりな気がする。

(…多分わかっていたんだ、最初から。でもどこかみっともなくて、どうしようも無くて、認めたくなくて…)

頭の中では、雪歩と真が浮かんでいた。

「強いんだな…あの二人は」

真は自分のコンプレックスを受け入れている。そんな部分も自分自身だからと。

雪歩も自分が情けなく、臆病な点を認めている。認めているからこそ、それを変えたいと誰よりも願っている。

(あの2人は…自分をしっかりと向き合っている。たとえ嫌でも、苦しくても。じゃあ、自分は?自分は…それにちゃんと向き合っていたか?)

まだ自分は真のようにしっかりと受け入れられた訳じゃない、雪歩のように自分を変える覚悟も足りていない。

自分とあの2人とは悩みの重さも違うし、経緯も違う。女になったという経緯を完全に受け入れられたわけじゃない。

でも…アイドルをやる時だけでも、これだけは受け入れなきゃならない、認めなきゃならない。自分は女なんだっていう事実を、そして自分のことも。

そして自分には周りには無い『個性』がある。これは自分自身にしかないもの、誰にもない、自分にしかない武器。

(美希姉さんは…そう、キラキラしている、まるで太陽みたいに。でも…自分は違う。太陽のように輝くんじゃなくて、月のように淡く…儚く…)

朱里しか持っていないもの。それは他のアイドルよりも2倍ほど長く生きていること。すなわち『人生経験』の差である。その落ち着いた雰囲気と中学2年生というギャップは、765プロの誰にもない、星井朱里にしかない魅力的な武器であった。

律子がオーディションで見抜いた個性を、朱里は試行錯誤の末にようやく自分自身で見つけたのだった。

そして朱里はクローゼットの中にある、あまり触れたくないもので溢れている段ボールを一つ、引っ張り出した。

(これを引っ張り出す日が来るとはな…)

その中に入っていたものは、美希や菜緒から貰っていたおさがりの服であった。きちんと上下揃っており、量もかなりのものがある。

女の恰好をするのが嫌であったため、朱里はこれらをまとめ、半ばクローゼットに封印していたのだった。

「…よし。じゃあ、始めるか」

そう意気込むと、朱里は段ボールから服を一つ一つ取り出し、組み合わせを試していく。

今まで見向きもしなかったコーディネイトを自らやる。…まだ戸惑い、ゆっくりではあるが、朱里は自分と向き合うということを行っているのであった。




この2人もコンプレックス持ちなんですよね。雪歩はともかく、真の場合はけっこう洒落になってませんしね…。
次回はようやく宣材写真を撮ります。ようやく伊織とも仲直りかな?


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第7話 個性と和解

この間ランキングを見たら自分の小説がランクインしていて、びっくりしました。そのおかげなのか、お気に入り数が600を超しました、ありがとうございます。
あと、今回は少し長いです。


今日は宣材撮影の当日。朱里たちは一度、事務所に集合してから撮影スタジオへと移動した。

本当なら一度集合した時に伊織と接触したかったのだが、あいにく事務所へと姿を現すことはなかった。…どうやらまた現場に直接移動したらしい。

「…いよいよか」

「大丈夫!朱里なら絶対キラキラ出来るの!!」

スタジオの廊下を歩きながら、撮影の段取りなどを美希から聞く。こういう時に身内に経験者がいると助かる。

(…結局、宣材用のコーディネイトを決めるだけで当日を迎えてしまったからなぁ。多分、今からじゃ聞く時間なんてないだろうし…)

だが、それだけコーディネイトに時間を費やした甲斐があり、かなり服装には自信があった。

「それにね、朱里がやっとオシャレに目覚めて美希、とってもうれしいの!!」

「それ朝から何回も聞いたよ…」

朱里は美希の態度にゲンナリしながら、自分の恰好を確認する。

(…姉さんの反応から見れば、似合ってはいるんだよな、多分)

朱里は自分の長所を生かすため、大人っぽさを前面に出した服装をチョイスした。上下ともに黒色を基調にした服装は朱里の儚げな雰囲気とマッチしているらしく、この恰好を美希に見せたら「キラキラしているの!」とか言い出して、朝から大騒ぎしていたし。ちなみに大人っぽさを前面に押し出す為、美希が進めてくるミニスカートではなく、ロングスカートを履いている。

(しっかし、歩きにくいなこれ…。長靴を履いている気分だ)

朱里は自分の足元をチラリと見る。朱里は今、履き慣れたスニーカーではなく、美希から借りたブーツを履いていた。

朱里は靴類に関しては学校指定の革靴とスニーカーの2種類しか持っていない。しかもスニーカーに至ってはほぼ男物しか持っていないという状況だ。

そんなものだから、今朝、いつものスニーカーを履いて、鏡を見た所…女の恰好で足だけは男物という非常にアンバランスな姿となってしまった。このままだと靴類のせいで台無しになってしまう。

そんな朱里の姿を見かねた美希は、自分が履いているブーツを一つ貸してくれたのだが…これがなかなか曲者で歩くのでさえも一苦労だ。今履いているブーツは膝下までの物なので、足全体がギチギチに拘束されているような感覚がする。

と、その時。朱里はある人物がこちらに向かってくるのに気がついた。

大きく額を見せる長髪に、ウサギのぬいぐるみ。…間違いない、伊織だ。思わず、朱里は声を上げた。

「あ…!」

「…!」

伊織は朱里の姿に気がつくと、バッと踵を返して逃げていった。朱里は慌てて追いかけようとするが、ブーツのせいで上手く走れず、伊織を見失ってしまった。

「…でこちゃん、いいかげんに謝ればいいのに」

「…」

目の前で逃げて行った伊織の姿を見ながら、茫然としている朱里。その手を、美希はぎゅっと握った。

「…大丈夫なの!みんなで撮影するんだし、その時に謝ればいいの!!」

…結局、朱里は伊織に謝ることができないまま、宣材撮影本番を迎えることになってしまった。

 

 

 

 

 

 

(ふん…何よ。いっちょまえに大人の恰好しちゃって!!)

伊織は廊下をツカツカと歩きながら、不機嫌そうな顔を浮かべる。

伊織は素直になれない子だった。それは伊織の育った環境がそうさせてしまったからだ。

伊織の実家は水瀬産業という、日本最大級の多国籍企業を経営している。そんな実家は日本屈指の金持ちグループであり、そんな伊織自身もそれ相応の育ち方をしていった。…ただ、自分の上にいる2人の兄。この2人の存在が伊織の素直になれない人格を作り出してしまった。

伊織の兄たちは『一族の最高傑作』と言われるぐらいの切れ者であり、長男は若くしてコンサルタント会社の社長、次男は現在、アメリカへ留学中だ。留学が終わったら、父の経営する会社の社長への道が既に約束されているらしい。

水瀬家ではドラマや漫画で良くある兄弟間での差別があった訳じゃなかった。父や兄は優しいし、食事だってちゃんと出る。服だって買ってくれるし、何一つ不自由なことはない。

ただ、父や周りの気遣いが伊織にとってはたまらなく不愉快だったのだ。

「伊織は遅咲きなだけさ」

「伊織お嬢様だってお兄様たちと同じく…」

周りは自分を見ていない。自分の後ろの兄しか見ていない。…何をやっても、優秀な兄の妹として処理されてしまう。誰も認めてくれない。

その優秀な兄たちに対する尊敬と劣等感の板挟みが、伊織のコンプレックスとなり、素直になれない性格が出来上がってしまったのだ。

そんな鬱憤をため込む日々を過ごしていた伊織は半年ほど前、一大決心をする。

(…お兄様と比較されてしまうのだったら、私は自分自身の力で栄光を掴んでやるわ!)

…幸いにも、伊織の父は高木社長とも旧知の仲であり、コネもあった。そのコネを使って伊織は765プロに入った。

765プロでのアイドル活動は楽しかった。誰もが自分を『水瀬伊織』という少女として見てくれる。後ろにいる兄たちと自分を比較しない。

しかし、今年の春。新たに2人の新人が入って来た。星井美希と星井朱里。自分と齢がほぼ同じなのにもかかわらず、自分よりも優れているスタイル。自分よりも優れているかもしれないセンス。周りからの期待。

特に自分より年下の朱里に対しては敵対心が異様に働いた。

…そして、その敵対心のせいで、あの事件が起こってしまった。

勿論、朱里は伊織たちのことを思って、色々と意見を言ってくれているということは分かっていた。ただ…自分の兄と同じく、心のどこかでは自分を見下しているんじゃないか…そういう風に捉えてしまったのだ。

「あんたの方が私たちよりずっと個性を持っているじゃない!!」

…その時の朱里の顔は何か言われたくないことを言われたような顔をしていた。まるで自分が兄と比べられる時にするような顔を。

(わ、私は悪くないもん!アイツが不甲斐ないからダメなのよ!!さっきだって追いかけてこないし!!)

そう、自分は悪くない。そう無理矢理でも思わないと罪悪感で潰れてしまいそうだった。

伊織は控え室のドアを開け、中にいる亜美真美、やよいの姿を見る。

「いおりん、おかえりー!!」

「おかえりなさい、伊織ちゃん!」

「いおりん、結局、宣材どうするの?」

今、伊織たちは宣材にどのような格好でいくか?という議論をしていた。結局、答えは見つからないまま、一旦解散という流れでそれぞれ自由行動を取っていた。

(…って言われてもね。どうすれば…)

その時、伊織に名案が浮かんだ。

…そうだ、朱里に対抗してやろう。朱里に自分たちの刺激の強い姿…大人の色気を見せて、屈服させてやるのだ。そして、自分が先輩としての器の大きさを見せ、今までのことをチャラにする。宣材も上手くいくし、朱里との仲も回復させる…完璧だ。

「分かったわ!私たちに足りなかった物…それは、大人の色気よ!!」

ビシッと机の上に広がっている雑誌のページを指差しながら、そう宣言した。

(私は…間違ってなんかいないんだから!!)

伊織自身、本当はどうすればいいか分かっていた。こんな回りくどい方法を使わなくても、朱里に直接会って「ごめん」と一言謝れば済む話なのに。

ただ…素直じゃないが故に、その方法を使うことがどうしてもできなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

「…」

朱里はスタジオ脇にある小さな待合スペースで出番を待っていた。朱里は現在、パイプ椅子に座りながら撮影中の美希の姿を見ていたが、心ここに有らずといった様子であった。

原因はやはり伊織の一件だった。あそこまで拒否られるとは…。

(手を出してしまったから怯えられているんじゃないだろうか…。バカなことやったもんだ…)

はあ、とため息をつく朱里。と、ここで朱里の前に頭にリボンを付けた少女がこちらにやって来た。

「あーかーりちゃん!おはよう!」

「あ…春香さん、おはようございます」

ぺこりと自分に話しかけた少女に挨拶をする。

天海春香。肩まで伸ばした栗色の髪で、この時勢には珍しいリボンを頭の両端で結んでいる少女だ。趣味はお菓子作りで、結構本格的な物まで作れるそうだ。

朱里が上手く765プロに馴染めたのも彼女が大きく貢献しており、周りと上手く馴染めるようにと、お菓子を持って色んなメンバーとの話し合いの場を作ってくれたりした。

なんていうのか…女の子らしい女の子。それが朱里が思う春香のイメージだった。

「次、ですよね。春香さんの出番」

「うん。そして私の次が朱里ちゃんだね。初めての撮影の気分は?」

「まあ…初めてですし。多少は緊張しますよ」

「えへへ、私もなんだ!」

「…へえ」

意外そうな声を漏らす。春香は確か、事務所のメンバーの中でもかなり早い時期から765プロに所属していたらしいから、こういう現場の雰囲気とかも慣れているとばかり思っていたのだが…。

「私なんていつも緊張しちゃって…。美希は凄いよね、ほら、堂々としてる」

春香の視線の先には、堂々とした態度で撮影を行っている美希の姿があった。たまにカメラマンにあれこれ意見を出し、その度にカメラマンが賞賛の声を上げている。

「うわぁ…あんなこと言えるなんて…」

「…姉さんは読者モデルの経験ありますからね。目線や表情、細かい仕草とか…カメラマンが望む物がたぶん見えているんですよ」

…やっぱり美希は凄い。自分の半分ほどしか生きていないのに、自分が出来ないようなことを楽々とこなしていく。

(…本当は自分が年上なんだけどな。伊織に逃げられただけでショックを受けちゃうなんて…情けない)

はあ、とまたため息が漏れた。

「…!」

春香は「よーし」と気合を入れながら、どこか元気のない朱里の正面に立つ。

「じゃあ、先輩として、私がしっかりと見本を見せてあげる!!」

「…へ?」

「朱里ちゃん、美希の凄さに自信なくしちゃったんでしょ?だったら私がしっかりとお手本を見せてあげる!読者モデルじゃなくても輝けるんだから!!」

いや…そういうことじゃないんだけど。何か勘違いをして、ヒートアップしている春香の雰囲気に押され、声をかけられない。

「天海さーん、そろそろスタンバイお願いします」

「!はーい!!」

カメラマンが呼び出す声に反応し、春香は現場に向かおうとするが…。

「…と、わわ!!」

ドンガラガッシャーン!…数歩目で春香は自分で自分の足を引っかけて、思いっきり転んでしまった。

(よく転ぶよなぁ…春香さん)

春香の特徴として、よく転ぶ所が挙げられる。しかも何もない所でよく転ぶのだ。転んだ姿もどこか様になるので、朱里は時々「あの人、本当はワザとやってるんじゃないか?」と思う。

「天海さーん、まだですかー?」

「はーい!が、頑張って来るね!」

「…頑張ってください」

カメラマンが呼び出す声に慌てて立ち上がり、自分に向かってガッツポーズをとる春香を、手を振りながら見送る朱里。

…何だかさっきのカッコいいセリフの説得力がなくなってしまう気がするのは朱里だけだろうか?

「…あ、また転んだ」

春香が思いっきり転んだ所をカメラマンに撮られている光景を見て、くすりと笑う。

「朱里さん、スタンバイお願いします!」

「…!」

来た。朱里はパイプ椅子から立ち上がり、小走りで現場に進む。

…さあ、本番だ。

 

 

 

 

 

 

「…よろしくお願いします」

朱里は意外にもそんなに緊張はしていなかった。運がいいことに、先ほどの春香の撮影で少し笑ったことから少し緊張感がほぐれたのかもしれない。

「はい、よろしくお願いします」

カメラマンがニコリと笑う。朱里もつられて笑う。少し、余裕が出来たのでスタジオを見渡すと、遠くの方で伊織や亜美真美、やよいの姿が確認できた。

「…!?」

…が、よく見ると、どこか彼女たちは変だった。背丈に全く合わないぶかぶかの服を着て、プロデューサーと一緒に座っている。…なんか話しているみたいだが、よく聞こえない。

(あいつら…何やってんだ?)

「…?どうしたんですか?」

「す、すいません。何でもないです」

カメラマンの心配そうな声に、慌てて反応する。いけないいけない…まずは集中だ。

(撮る時のポーズは…派手さを控えめに。笑みも同じように控えめで…。姉さんのように派手さはないけど…落ち着いた雰囲気でやれば…)

ブツブツと心の中で自分がすべきことを呟く。…そして、ニコリと笑った瞬間、ピピッというシャッターを切る音が聞こえた。瞬間、思わず目を瞑りたくなるような眩しいフラッシュも遅れて来た。

「その表情、凄くいいよ!そのままで!!」

…どうやらカメラマンが望む姿が出来たらしい。カメラマンのテンションが上がっていく。

「じゃあ、今度は少し右を向いて!」

「…こう、ですか?」

「そうそう!!」

パシャパシャ!シャッター音が心地いい。…悪い気分じゃないかもな。そう思いながら、撮影は続いていった。

 

 

 

 

 

 

「うわー、朱里ちゃん凄いです!!」

「あかりっちキレー!!」

「ほんとほんと→!!」

「…ふん」

伊織たちはスタジオ脇に座って、朱里の撮影を見ていた。

結局、伊織たちが行った「大人の色気作戦」は失敗に終わってしまった。ぶかぶかのドレスと厚化粧をした伊織たちの姿はあまりにも似合わず、律子からは「遊んでいる」と勘違いされ、こってりと絞られてしまったのだ。

そして、プロデューサーと一緒に個性について考えることになったのだが…伊織だけは終始、不機嫌な顔をしていた。

作戦が失敗したことに対しての苛立ちもあったが、何よりも自分たちより大人の雰囲気がする朱里への敗北感が不機嫌な原因だった。

「ほ、ほら!あいつが似合うんだから、私たちだって大人の色気が似合うはずじゃない!?」

朱里の撮影が終わると、伊織はすぐさまプロデューサーに抗議する。プロデューサーは「そういうことじゃない」と言いたげな顔をしている。

「…そういうことじゃないのかも」

ぽつりとやよいが呟いた。その言葉に反応して亜美真美と伊織はやよいの顔を見る。

「あ、その…。今の朱里ちゃんを見た時、なんだかとっても朱里ちゃんらしいな~って思って。私たちもそうしたほうがいいのかなーって…」

「…!」

やよいの助け舟ともいえる発言にプロデューサーはようやく突破口を見つけた。

「…そうだな。皆、自分に合うやり方のほうが合っているんだよ。偶々、朱里は大人っぽい雰囲気が似合っているだけであって、それが必ずしも伊織たちに当てはまる訳じゃないんじゃないか?」

「「「「…」」」」

4人はお互いの姿をジッと見る。確かに冷静になってみると確かにこれはない。

そして、亜美真美の2人が真っ先に行動へと移った。

「じゃあ…亜美はこんなポーズが似合うかな?」

「真美はこうだね!」

「えー、違うっしょー。こっちのポーズの方が…」

「あっ、それいいね!」

亜美と真美は対抗するようにお互いの良いポイントをあげていき、色々なポーズをとっていく。双子が故にお互いの長所を知り尽くしている2人だからこそできる芸当だった。

「兄ちゃん、真美たち先に準備してきてもいい?」

「亜美たちのスペシャルポーズ楽しみにしててね!」

亜美と真美はプロデューサーにそう言うと、この場から離れて行った。…どうやら、着替えに行ったらしい。

「わ、私もちょっと行ってきます!」

やよいも2人につられる形で、スタジオ脇にある更衣室へと向かっていった。

「…」

一人残った伊織は真や雪歩など…次々とメンバーが写真撮影をしていく様子をジッと見ていた。

みんながみんな、自分の長所を分かっているような魅せ方をしていた。特に雪歩なんかは派手さがなくても、自分をしっかりと魅せていた。

「…そう、そういうことなのね」

そこで伊織はようやく気付いた。派手さだけが個性じゃない。派手さなんかよりも、自分らしさを見せることこそが『個性』なのだと。

(…結局、あいつの言っていたことは全部正しかったって訳か)

今しか出せないような魅力。伊織は数日前に朱里に言われた言葉を思い出す。

(…私、大人っぽいだけが個性だと思っていたけど、そうじゃないのね。大人の色気は私にはないけど…私だってあいつにないものをいっぱい持っているじゃない)

そう、だったら自分の武器である『幼さ』を使って勝負してやろう。何も朱里と同じ土俵で戦う必要なんて最初からなかったのだ。

「それじゃあ、ちょっと着替えてくるわ」

プロデューサーにそれだけを言うと、スタジオを出る。そして廊下を歩こうとした瞬間、足が止まった。

「あ…」

自分の反対側…ちょうどスタジオに入る一本道の出口の位置に、朱里が立っていたのだ。朱里の反応から、どうやらあっちも想定外の出来事だったらしい。

伊織は思わず逃げ出したくなるが、グッと堪え、朱里へと近づいていく。

「ちょっと…来て!」

そして伊織は強引に朱里を引っ張ると、そのまま連れて行った。

 

 

 

 

 

 

朱里は伊織に引きずられる形で、先ほどから少し離れた地点に連れて行かれた。辺りにはだれもおらず、2人っきりの空間となっている。

「…その、あの…」

伊織はもじもじしている。恐らくは伊織は自分に謝ろうとしているのだろう。…このまま伊織が謝るのを待ちたい衝動に駆られるが、グッと踏みとどまる。

少なくともこのトラブルの引き金を引いたのは自分だ。自分がやったことの幕引きは、自分でするしかない。これは自分が絶対に最初に言わなきゃダメだ、伊織に言わせちゃいけない。

「ご…」

「ごめん!」

朱里は伊織の言葉を遮って、頭を下げた。

「その…私が手を出しちゃって。大人げなかったというか…事態をややこしくしたというか」

「あ…と、とりあえず頭を上げなさいよ!」

伊織は茫然としつつも呆れたような声を上げる。年下に頭を下げられるなんて伊織のプライドが許さなかった。周りにでも見られたら面倒なことになりかねない。

「私も…あんな反応されたことなかった。その、本気で怒られたことなんてなかったから。どうしたらいいか分からなくて…だから…その…ごめんなさい」

伊織はそれだけを言うと「あー、もう!」と叫ぶ。

「ほ、ほら!もういいでしょ!?これで今回の件はおしまい!!」

強引に話を打ち切り、伊織は駆けだす。そして途中で立ち止まり…ポツリと呟いた。

「…色々とありがとね、朱里」

…今の伊織の発言にどこか違和感を感じた朱里。そして気がついた瞬間、あっと叫びそうになる。

「…名前!初めて呼んでくれた!!」

「あー!もう!うるさいうるさい!!」

伊織はそう叫ぶと、再び駆けだした。

…雨降って地固まるとはまさしくこのことなのであろう。

一度切れかけた仲の2人であったが、この一件のおかげで互いに個性を見つけられ、以前よりも深い仲を築くことができた。

「…ありがとな、伊織!」

朱里は伊織の後ろ姿を見ながらニコリと笑った。…その顔は陰りなど全くないほどの輝いた笑顔だった。




やよいのところは描写してませんが、アニメの通りに解決したということで。
…次回からはまだ絡んでないキャラとの絡みを増やしていこうと思います。そろそろあずささんやお姫ちんと絡ませたい。


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第8話 黄金週間の過ごし方 その1沖縄娘と王子様

アニマスでは2話から3話の間、かなりの期間が開いていたので、それらの埋めるエピソードがしばらく続きます。


金曜日。この曜日は大抵の人は嬉しく感じるだろう。何故なら次の日が土曜日…休日が控えているからだ。…ましてや明日から大型連休であるゴールデンウィークが控えていれば、その喜びも普段以上に大きいだろう。

朱里のクラスもホームルームを行われていたが、ざわざわと私語が交わされ、既に収拾がつかなくなっている状態だ。浮き足立っているのも無理はない。このゴールデンウィークが過ぎれば、長期休みは夏休みまでお預けなのだから。

「はい、では皆さん、さようなら」

「「「さようならー」」」

そしてホームルームが終わった瞬間、どっと歓声が上がった。まるで潮が引くかの如く、大勢の生徒が教室を出て行く。朱里もその一人だ。

美希を迎えに行こうとして、ふと立ち止まる。

(…あ、そうか。今日、3年は進路相談があるんだっけ。…先に事務所に行かなくちゃな)

そう、忘れているかもしれないが美希は中学3年生。この時期になると志望校や将来の進路など、自分の将来を真剣に考えなくてはならなくない。特に美希の場合は高校に上がってもアイドル活動を続けていくのならば、志望校なんかも他の生徒以上にちゃんと考えなきゃいけないだろうし。

(もう5月か…早いよなぁ…)

あと数日で5月であり、アイドル候補生を初めてもうすぐ1カ月が経とうとしていた。ダンスもボーカルもそこそここなせるようになってきた朱里はようやく一つの曲の楽譜を渡された。その曲名は『READY!!』。歌詞は夢に向かって明るく進んでいくという内容だった。音源CDも一緒に貰っており、暇さえあればずっと聞いている。

(…ただ、姉さんはもう3曲も楽譜を貰っているんだよなぁ)

ただ悔しいのは…同時期に始めた美希が自分より上の領域にいるということだった。

美希は既に『READY!!』の他に2つの曲の楽譜と音源を貰っている。確か曲名は『The world is all one !!』と『THE IDOLM@STER』だっけ?どっちもいい曲だったのは覚えている。

自分よりも多くの楽譜を貰えるということはそれだけ美希の実力の高さが評価されているということだ。

「凄いよなぁ、姉さんは」

そうやって周りの子たちに自分の姉を褒められていたりすると、嬉しい反面、どこか悔しく感じてしまう。…今までだったらそんなことを感じることなんてあり得なかったのに。

(…早く、姉さんに追いつかないとな)

朱里は、戸惑うことも多いけれども今の生活が気に入っていた。その始まったきっかけはかなり不純かもしれないけれども。

今までの自分は…まあ、ひどいもんだった。文科系の部活には一応入っているが、ほぼ幽霊部員と化しているし、かといって何かに夢中になっている訳でもない。何も起こらず、何も変わらない日々。まるで死んだような生活を送っていた時とは違い、この1カ月はまるで魔法にかかったと思えるような程、密度が高い日々だった。

初めてあだ名で呼んでくれる友が出来た。呼び捨てで話す友も出来た。歌ったり踊ったりと、自分が経験したことのない分野で、徐々に上手くなっていく感覚がたまらないほど楽しい。

(…今まで努力なんて言葉とかけ離れた日々を送っていたからなぁ)

所謂「強くてニューゲーム」という状態で2周目を過ごしていた朱里は、何をやるにも努力なんてしなかった。何故ならしなくても大抵上手くいってしまうからだ。

ただ、アイドル活動でやるレッスンはそれらの要素が全く通じない。そのことであれこれ考えたり、事務所でみんなと話したりするのが楽しい。努力する楽しさ、2周目の人生で初めて感じる充実感だった。

(…明日からゴールデンウィークか。何をするかな)

そう、明日からはゴールデンウィーク。年に数回しかない大型連休だ。今まではただ睡眠時間が増えるだけの長い休日期間だったが、今回は違う。やりたいことを抱えて迎える初めてのゴールデンウィークなのだ。

とりあえず候補生の自分には時間が有り余っているし…だったらレッスン以外で空いた時間で自主練でもするかな。なんなら誰かを誘って、一緒にやってもいいかもしれない。

(きっかけは適当かもしれないけど…少なくとも今の生活は適当にはやってはいない。姉さんに感謝しなくちゃな…!)

気合を一つ入れ、朱里は事務所まで走り出した。

 

 

 

 

 

 

765プロに着いた朱里は、早速一人の人物を屋上まで誘った。内容は勿論、ゴールデンウィーク中の自主練の件だ。とりあえず一人でやるよりも、誰かと一緒ならばモチベーションも上がるだろうし。

「僕と…!?」

「はい。ゴールデンウィーク中、私と一緒に自主練しませんか?一緒にやればお互いのモチベーションも上がると思いますし」

…そう、今回、白羽の矢が立ったのは真だった。絡みやすい性格、実力や面倒見の良さなどを考慮すると真が一番適任だったのだ。

(この事務所はあれなんだよな。実力高い奴ほど絡みづらいのがなぁ…やっかいだ)

そういう意味では真はかなり稀な存在というのか、なんというのか。

(それに言い方は悪いけど…他人の技術を盗むことも大切なことだからな)

そう、モチベーションの件も理由の一つだが、それはあくまでも建前。今回の本命は、実力のある子から技術を盗むことだった。…こんなこと本人の前では口が裂けても言えないけれども。

真は「うーん」と少し考えた後、朱里に返答する。

「…うん。別にいいよ。僕もゴールデンウィーク中は仕事入っていないし。誰かと思いっきり体を動かしたかったんだ」

…よし、食いついた。小さな勝利感を感じる。

「…でもね、一緒にやるとなったら僕は本気でいくよ?中途半端な気持ちでいるのなら…」

「…!」

真が真剣な顔で朱里に話すが…すぐにニコッと笑う。

「…なーんてね、冗談だよ。朱里はいつもレッスンに真剣で取り組んでいるのは知っているし、中途半端な気持ちじゃないもんね。でも、そこまでやるなんて…僕たちも見習わなくちゃなあ」

「あ…はは」

真の言葉に適当に相槌を打つ。さっきの雰囲気は演技だとしてもかなり怖かった。まるで自分の下心を見透かされた気がして、ひやひやした。

「集合場所は…そうだね、近所にある神社でいいかな?時間は朝の7時で」

「…はい、よろしくお願いします!」

細かい段取りなんかを話し終えた2人はそのまま解散となった。

ただ…2人は気づいていなかった。屋上には真と朱里の他に、もう一人の少女がいたことに。そして彼女は、2人からは見えない死角からこっそりとその話を聞いていたことを。

「…ふーん。なんだか面白いことになっているな、ハム蔵!」

「ジュイ!!」

 

 

 

 

 

 

連休初日の早朝7時。朱里はジャージ姿で集合場所の神社に待機していた。

「…で、なんで響さんがここにいるんですか?」

天気は快晴、何も文句がないほどの運動日和だ。…この場に朱里と真以外の人物が一人いることを除けば。

「ご、ごめん。どうしても響が来たいって…」

「屋上で2人の話を聞いてついて来たんだ!それに自分を誘わないなんてどうかしてるぞ!!」

豪快に笑う少女の姿に、朱里は臍を噛む思いだった。…しくじった、あの話聞かれていたのか。

「…随分と自信あるんですね。どうかしてるって…」

「まあな。なんたって自分、完璧だからな!!」

「ああ、そうですか…」

少女は朱里に向かってピースをしながらニヤッと笑う。朱里は「あはは」と乾いた笑みを浮かべていた。

(この人苦手なんだよなぁ…)

我那覇響。出身は沖縄で、小麦色の肌と浅葱色の瞳、長い黒髪を一本に纏めたポニーテールが特徴の少女だ。

765プロに所属するアイドルの一人であり、ダンスの実力も事務所の中でもトップクラスであるのだが…朱里は響がなんとなく苦手だった。

決して人が悪いという訳ではないのだ。ちゃんと会話もするし、面倒見だっていい。ただ…問題は彼女の性格なのだ。

「自分は完璧」という言葉の通り、彼女の実力は高いのだが…その自信家で楽天的な性格が朱里は苦手だった。

どこか傲慢…といえば言い過ぎかもしれないが、自信たっぷりな態度がたまに癪に障ってしまう。

「じゃあ、早速始めようか!まずはウォーミングアップでランニング10キロ!」

「よーし真!自分、今日は負けないからな!」

「分かっているよ、響!!」

「…10キロ?」

真の発言に朱里は絶句しかけた。…10キロってもはやウォーミングアップの域を超えている。桁が1つくらい間違っている気がするのは自分の気のせいだろうか?

(…今日ちゃんと生きて帰れんのかなぁ?)

早速、自主練が始まろうとしていたが…朱里は開始数秒で既に後悔気味な気分だった。

 

 

 

 

 

 

「響ー。そろそろクールダウンにしない?」

「うーん、そうだな。日も結構傾いているし…今日はここまでにするか」

時刻は夕刻。途中、何度か休憩を挟んだりはしたが、約8時間弱は体を動かしたのではないだろうか。…ここまで体を動かしたのは、恐らく人生初ではないだろうか。

(…死ぬ!マジで死ぬぞ、これ!!)

朱里はゼーゼー言いながら地面に突っ伏していた。もう心臓が破裂しそうなほど痛い。靴擦れなども酷いが、膝が痛くてたまらない。

朱里はレッスン初日の光景を思い出すが、今回のそれは、前回のと比較にならないほど疲労困憊だった。あのときはまだ会話する気力が残っていたが、今回はそれすらないのだ。うっかり気を抜くと、胃にある物を全部戻してしまいそうだった。

(質と量を上げるだけでこんなにきつくなるのか…)

レッスン内容は基本的に普段やっているメニューとほとんど変わらなかった。…ただし、その質と量が半端なかったのだ。運動神経が高い2人のハードルは高く、普段やるメニューが別物に感じられるほど、きつかった。

「…でも朱里、よく最後までついてこれたな?」

「まあ…美希と違って根性はあるからね。最後なんて体力っていうかほとんど気力でついて来たのかな?」

「いや…その要素が結構大事だと思うぞ。美希はなー、ダンスは上手いんだけどハングリーな所が…」

2人は息こそ上がっているがまだ話す余裕があり、色々と話している。その光景を見て、朱里は「本当にあの2人、同じ性別なのか?」と思う。

「…スタミナのお化けだ」

近くの木に寄りかかり、体力に少し余裕が出来た朱里はポツリと呟いた。

「あはは、そこまで言われると照れちゃうぞ自分!!」

「…!もしかして聞こえちゃいました?」

「バッチリな!でもお化けは少し言い過ぎだと思うぞ!!自分、これでも人間なんだから!!」

「す、すいません…」

プンスカと怒る響に謝りながら、朱里は自分の頭の『765プロメモ』に記録した。

(我那覇響…運動神経だけでなく耳が良い、と)

と、ここで朱里は疑問に思ったことを響に聞いてみることにする。

「…響さんはなんでそんなに体力あるんですか?」

真はまだ分かる。空手をやっているって言っていたし、10キロ近く走ることなんて日常茶飯事だろう。全身を使うスポーツだから、技術云々より体力が無ければ話にならないだろうし。

でも響がなぜあんなに体力があるのかという疑問が尽きない。ダンスやボーカルなんかはまだ才能という言葉で片付けられるが、体力だけは才能云々じゃどうやっても無理だ。

「うーん、自分はよく海で泳いでいたからな!今でもたまにプールに行って泳いだりするし!!」

…なるほど、水泳をやっているのか。確かに水泳なら空手と同じく全身を激しく使うし、体力増強にはもってこいのスポーツだ。しかも響の出身は沖縄。温暖な気候のあの地域では、年中泳ぎ放題だろう。

(なるほどね…実力に見合うだけの物を積み重ねているって訳か。だからあんなに…)

…響が何故あんなに堂々としているのか、なんとなくわかった気がする。

勿論、響自身、大きな才能があるのかもしれない。けれどそれ以上に彼女は努力を積み重ねているのだ。だからこそ、自信を持ち、堂々としている。

響がよく言う「自分は完璧」というアレも積み重ねた分の現れなのかもしれない。つまり響はそれ相応の努力を重ねている。周りにその姿を見せていないだけで、自分でも完璧と胸を張って言えるほどに。

(なんか…凄い印象が変わったな。響さんは才能だけで威張っているって感じだったのに…努力家だったのか)

「響、明日はどうするの?体動かすんだったら僕も付き合うけど?」

「…いや、明日はボーカルレッスンをやるぞ。自分、少し不安な所だしな」

「あーそうか。響は訛りとかがあるもんね。…そうだね、僕も付き合うよ」

すると2人はくるりとこっちを向いてきた。…どうやら『自分たちと一緒に来るか?』という意味なのだろう。

さて、どうするか?…そんなもの、答えは一つしかないじゃないか。

「…勿論!明日もよろしくお願いします!!」

…どうやら今年のゴールデンウィークは自主練とレッスンだけで終わりそうだ。…でも、それも悪くはないかもしれない。そう思う朱里だった。




響は公式でたびたび不憫な扱いを受けていますが、メディア展開的には非常に恵まれているんですよね。
さらに言えば「常に自分に自信を持つ」、「勝ちにこだわる」などスポーツマンには必要不可欠な要素をしっかり持っていますし、そういう点で私は響が大好きなんですよね。
さて、ゴールデンウィーク編はしばらく続きます。


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第9話 黄金週間の過ごし方 その2天然王女とお姫様

風邪をひいてしまいました。熱は出ていませんが、喉が痛いです。
後、UAが二万を超えました。


ゴールデンウィーク2日目の朝。朱里は前日の疲れから、泥のようにベッドで眠っており、そのせいか、普段なら1回で止めるはずの携帯のアラームをもう3回も聞き逃していた。

(…音、鳴ってる?)

ようやくアラームの音が耳に入り、朱里の思考はゆるやかに覚醒していく。

(…目覚まし、止めなきゃ)

アラームを設定している携帯を止めようと腕を伸ばした瞬間…ビキビキと激しい痛みが全身を貫いた。

「~っ!?痛ってええええ!!!」

朱里は星井家全体に聞こえる程の大声で叫んだ。こんな豪快な目覚めの一言を出したことは1周目を含めても恐らくないだろう。…そしてその痛みの正体が、昨日の自主練が原因で出来た筋肉痛だということに気付いたのはそれから数秒後だった。

(…そりゃそうか、昨日吐きそうになるまで動いたもんなぁ。でもここまで痛むものなのかよ!!)

一応昨夜、全身を入念にマッサージをしてから眠りについたのだが、それでも筋肉痛は止めるまでの効果はなかったらしい。というか、マッサージの意味は本当にあったんだろうか?

朱里は携帯を操作してアラームを止める。携帯のボタンを押すだけという小さな動きだけでも小さな痛みが体を駆け抜ける。

「…っ!!」

ベッドから体を起こし、立ち上がるだけで、体が悲鳴を上げる。この様子じゃ恐らくは歩くだけでも一苦労しそうだ。

(…こんな状態でちゃんとボーカルレッスンなんてできんのか?)

そんな不安を抱きながら、朱里は起床することにした。

 

 

 

 

 

 

(体、痛ってえ…)

時刻は午前9時。集合場所は昨日と変わらず神社となっていた。朱里は筋肉痛で痛む体を引きずりながら、神社を訪れた。

「おーい!」

声のする方へ視線を向けると、響は神社の段差に座りながら、元気に手を振っていた。

朱里も手を振って、挨拶する。

真の姿が見えないので、どうやら響が一番乗りらしい。

「はいさーい!元気か、朱里?」

「お、おはようございます…」

「うーん、あんまり元気ないみたいだな?自分みたいにしっかりしなきゃだめだぞ?な、ハム蔵!」

「ジュイ!!」

響は自分の肩にちょこんと乗っているハムスター…ペットのハム蔵にそう語りかけると、ハム蔵とのじゃれ合いを始めた。

「こら待て―!!」

「ジュイジュイー!!」

…その行動に朱里は絶句しかけてしまった。昨日、あれだけ激しく動きまわっていたはずなのに、響からは疲れを微塵も感じられない。ハム蔵との対応から見ても演技しているとは思えない。

改めて、響のスタミナの量の凄さを知ると、驚いてしまう。

(鍛えりゃ平気になるのか?…そりゃそうか、響さん、努力してるもんな)

ハム蔵とのじゃれ合いを終えた響に、朱里はとりあえず今日の予定を聞くことにした。

「…で、今日はどこで自主練やるんですか?スタジオ借りるとか…?」

「まさか。自分、そんなお金持ってないぞ」

「ですよね…」

響はケロリと答える。あまりにも早い返答に思わず朱里もそう返してしまった。

朱里も一応、いつもより財布には多めに金は入れてあるが、せいぜい三千円程度。この金額で借りれるスタジオなんてあるのだろうか?

(まさかこの神社で歌うとか…?そりゃないか、近所迷惑になっちゃうしな)

「それにスタジオなんて借りなくたって歌える場所があるからな!」

…?朱里は思考を巡らすが、そんな都合のいい場所、自分の近所にはたして存在しただろうか。こういうことに疎いのも、今まで自分が日常をどれだけ無気力に過ごして来たか思い知らされるような気がする。

「それに今日は助っ人も呼んでいるからな」

「…助っ人?」

「うん、歌が上手い2人を呼んだんだ。今日はその2人が先生になって教えてくれるんだぞ」

歌が上手い2人。そう言われても朱里はピンとこない。765プロに入って1カ月の朱里の周りには、自分より歌が上手い人のほうがほとんどだし、その誰かを特定することが出来ない。

「今、真が迎えに行っているはずだから、上手くいけばもうすぐ着くはずだぞ」

「…上手くいけば?」

どこか気になる言葉を発した響に、眉をひそめる朱里。…どういう意味だ?

と、ここで、聞き覚えのある声が耳に入って来た。

「あずささん!どうして僕とはぐれて他の道に行っちゃうんですか!?」

「ご、ごめんなさいね~」

「貴音も!僕に黙ってコンビニに寄らないで!」

「それは…誠に申し訳ございません…もぐ」

「肉まんを食べながらじゃ説得力がないよ!」

朱里の視線の先には青味がかかった黒髪と鮮やかな銀髪。そしてどこかのんびりとするこの声色…間違えるはずがない、あの2人だ。

「あらあら~、朱里ちゃんじゃない!おはよう!!」

「ふふ、星井朱里、今日は宜しくお願いします」

朱里は思わず、顔を引きつらせるのをやっとのことで堪える。

「お、おはようございます…あずささん、貴音さん」

(よ、よりによってこの2人!?確かに歌は上手いけど…)

青味のかかった黒髪の少女の名は三浦あずさ。腰まで届くのではと思うくらいのロングヘアと見る者を虜にするほどの抜群のスタイルを持っており、765プロのアイドルでは最年長且つ唯一成人している女性である。

そして銀髪の少女の名は四条貴音。どこか穏やかながらも威圧感のある物腰とあずさに匹敵するほどのスタイル、どこか時代がかった古風な物言いをする少女であった。

どちらも朱里が(響とは違う意味で)苦手とする人物だった…。

 

 

 

 

 

 

(カラオケね…なるほど)

全員集合した朱里たちが訪れたのは、近所にある大型のカラオケ店だった。なるほど、確かにここなら大騒ぎしても誰にも迷惑をかけないし、ボーカルレッスンには最適な場所だ。

ゴールデンウィーク中なので平日でも人が多く、部屋を借りれるかどうか心配だったが、無事に完了できた。

受付を済ませた5人は、自分たちが使う部屋へと移動した。

「おー!自分、久しぶりに来たぞ!!」

「僕も…最後に来たの、いつだろう?」

「朱里ちゃん、今日はいっぱい楽しみましょうね」

「今日は是非、あなたと親睦を深めたいと思います」

「あ…ははは…どうも…」

朱里はこの2人が苦手だった。…響とは違い、自信家でもないのにも関わらずだ。

では何がやっかいかというと…この2人はいわゆる天然であり、かなり掴みにくい性格をしているのだ。我が道をゆくとでもいうだろうか、かなり独特の性格と行動をするため、朱里はどこか苦手なのだ。

あずさは短大を卒業した身でありながらアイドルをやっているというかなり珍しい人物だ。…過去の自分と同じく、就職できなかったんだろうか?こっち側も現在、不景気で就職難らしいからな。

そもそもアイドルになった志望動機が『自分の運命の人を見つける』という珍しいのかぶっ飛んでいるのか良く分からない動機で、たくさんの人に自分を見てもらえばどこかにいる自分の『運命の人』が見つかると思っているらしいが…アイドルってそういう恋愛ごとはNGなはずじゃないのか?

貴音に至っては、アイドルの志望動機やその目的なども一切分からず、事務所一謎の多い人物となっている。何か聞かれては困ることを言われると「トップシークレットですから」と言って話をはぐらかしてしまう。自分にも他人にばれたらまずい秘密を抱えているから、なんとなく触れられたくない事だというのは分かるのだが…。

意思疎通があずさ以上に難しく、一時期は「あの人、電波じゃないのか?」と思うほどだった。

「それでは早速れっすんを始めましょうか」

そう言うと、貴音はレッスンで使う楽譜をどこからか取りだした。

朱里もそれに習って、楽譜を取りだした。

 

 

 

 

 

 

…しかし2時間後、事態は大きく変わっていった。

「じゃあ、歌いま~す!」

「「「イエ―イ!!」」」

…どうしてこうなったんだろう?自分たちはレッスンに来ていたはずなのに、いつの間にかカラオケ大会が開催されていた。…わけが分からない。

「~♪」

あずさはウキウキしながら『う・ふ・ふ・ふ』を歌い始めた。あずさは主に落ち着いた曲を歌うだが、こういうポップな曲も味があっていい。

(あずささん、よく歌うな…)

最初の1時間はいつもやる基礎レッスンをやったのだが…何故かレッスンはそこで終了。2次会のようなノリでカラオケ大会が開催されたのだった。

(そりゃこうなるんじゃないかなとは思ったよ。でもいくらなんでも早すぎじゃないか?)

どっちかといえばカラオケよりレッスン目当てで来たのに、それをあまりやらないことに朱里は少し不満があったが、同時に得られるものもあった。

朱里はあずさや貴音の歌う時の姿勢や声色、息継ぎのタイミングなどの技術を一足一手を注意深く観察し、それらを見られないようにこっそりとメモを取っていった。特に歌が上手いあずさは周りと比べて、かなりのペースで歌っている為、非常に参考になった。

(こればかりはレッスンでは分かんないからなぁ。他人の姿勢なんかあんまり見れないし)

約1時間、あずさたちの観察を続けた結果、歌う時のコツはかなり掴めた気がする。もしこれが来月に控えてある期末テストの範囲ならば、かなりの高得点が期待できるはずだ。

『観察眼』。これも2周目の生活の中で自然と磨き上げられた技術だ。美希のように自然には出来なくとも、それを見て、時間はかかるが再現することは十分に可能だった。…勿論、これはあくまでも仕草だけの話であり、歌い方までは再現できるかどうかは分からないけど。

「星井朱里」

「…!?」

朱里は貴音に呼ばれると、慌ててメモを自分の後ろへと隠す。

「は、はい?」

「あなたは…何故歌わないのですか?」

…まあ、そう思うのも無理はない、朱里はこの数時間、周りの動きを見るだけであり、一回も歌っていないのだから。

「あ、いや…。歌いたいのは山々なんですけど…何を歌ったらいいのか…」

朱里はそれをある意味もっともらしい言い訳で返した。というのも、朱里が最後にカラオケに来たのなんて何年も前の話だし、その理由もあながち間違いではない。それに曲のラインアップも少ないし。

「…歌うということは決して恥ずかしいことではありませんよ?」

貴音はそう言うとニッコリと笑い、盛り上がっている響と真の方へと向かっていった。

…どうやら貴音は、朱里は恥ずかしがっているため、曲を歌わないのだと思っているらしい。

「響、次は私が歌ってもよろしいでしょうか?」

「お、貴音!別にいいぞー。で、何歌うんだ?」

「ふむ…では『キューティーハニー』でも歌いましょうか」

「貴音がアニソン!?何か意外…」

真が意外そうな声を出す。…勿論、朱里も結構驚いていた。

今まで比較的古めかしい曲を歌うことが多かった貴音にしてはやけにハイカラな曲だ。しかも貴音と年代がかなりずれている気がするのは気のせいか?…いや、確かつい最近リメイクされたからもしかしたらそれ経由で知っているのかも。

「それに星井朱里も私の次に歌いたい、と」

「!ちょ…!?」

「おー!朱里が遂に歌うのか!!」

「何を歌うの?」

響と真が期待を込めた目でこちらを見てくる。貴音はふふっと小さく笑っていた。現在、歌っているあずさもそれを聞いてこっちを見ていた。

(嘘だろ…?)

…ダメだ、逃げ道がない。もう完全に自分が歌うという空気が出来上がってしまっている。

「~!!」

覚悟を決め、テーブルにあるタッチパネルの端末を取ると、朱里は操作を始める。

(…これならよく聞いているから歌詞は分かる。流石に歌い方はまでは保障できないけど…)

そして選んだ曲を送信すると、困ったように自分の髪の毛を弄る。

(ROCKY CHACKの『リトルグッバイ』。チョイスとしては無難…かな)

そして、いつの間にか貴音の曲が終わり、貴音からマイクを手渡された。周りを見てみると、みんながみんな期待している目をしていた。

(そんなに期待されても困るんだけどなぁ…)

朱里はスッと立ち上がり…マイクを構えた。

 

 

 

 

 

 

『リトルグッバイ』のイントロが流れ始める。この曲はイントロが30秒弱と結構長い為、思考を巡らす時間は十分にある。

(背筋を曲げずに姿勢はまっすぐ、声は腹から、高音を発声する時には顎を上げない、マイクは口から離す…)

レッスンで得た知識とあずさたちを観察して得た知識を総動員させる。…歌う時にはたしてこれらをしっかりと生かせるかどうかは分からないけども。

約1時間、あずさたちの観察を続けた結果、歌う時のコツはかなり掴めた気がする。もしこれが来月に控えている期末テストの範囲ならば、かなりの高得点が期待できるはずだ。

「~♪」

この曲のテーマは「繰り返す」。CDでは幾重にも重ねたコーラスが輪唱のように追いかけてくるので、その部分は朱里がかなり気に入っている。間奏部分では弦楽器演奏のストリングスが程よい疾走感で駆け抜けていくので最高に気持ちいい。

(歌詞も…自分とどこか似ているんだよな)

「繰り返す」がテーマのこの曲は、そのテーマに重なる部分の歌詞も切なく、まるで2周目の人生を過ごしている自分の境遇と同じように感じてしまう。そのため、歌詞に自分の思いをぶつけられていた。…そして、6分弱の曲があっという間に終わった。

「…ふう」

曲が終わり、マイクを下すと…自分以外の全員が茫然としていた。

「…あ、その…駄目でしたか?」

思わず、何か失態を犯してしまったのではと心配になる。…が、1拍置いて、ドッと歓声が上がった。

「全っ然駄目じゃないよ!今のもう一回聞きたいくらい!!」

「…美しい曲でした。そしてそれを透き通るほどの声で歌うあなたもまた…!」

「あ、朱里!!なんか他に曲はないのか?自分、もっと聞きたいぞ!!」

…そう言われても困る。あまりラインナップがないのに。それにいくらなんでもほめ過ぎじゃないか?

「じゃあ、朱里ちゃんと私でデュオを組むわ~」

あずさはガバッと朱里に抱きつき、ギュッと体を密着させる。

(む、胸!あずささん、胸が当っています!!)

朱里は声にならない悲鳴を上げながら、あずさから離れようとするが…逃げられない。

「ず、ずるいぞあずさ!!」

「こういうのは早い物勝ちよ。え~と、曲は…」

…そんなこんなをしながら、時間が過ぎて行った。

 

 

 

 

 

 

「あー、疲れた…」

「ごめんなさいね、朱里ちゃん」

あれから結局、時間ギリギリまで歌い、心身ともにくたびれた朱里はあずさと帰路につくことにした。

「…いえ、中々楽しかったですから、いい経験になりました」

「それはよかったわ。それと…コツはちゃんと掴めたかしら?」

「ええ、まあ…」

「よかった」

今回の件で分かったことは、レッスンにも一長一短があるということだった。

朱里はレッスンで『発声練習』は行ってはいたが『歌う』という経験がなかった。あずさと貴音はあえてカラオケで多くの曲を歌わせるということで『歌うことの経験』を行わせたのではないか…と朱里は考えている。

その結果、息継ぎや姿勢など、普段やるレッスンでは見えずらいポイントまで意識することが出来た。

デュオを組ませたのも、息継ぎのタイミングなどを相手と合わせやすくする為だったのかもしれない。…それが意図的なのか偶然なのかは分からないけど。

あずさと貴音…この2人が起爆剤となった今回のレッスン。朱里は勿論、真や響も得られるものは非常に大きいレッスンになったではないだろうか。

「…あら?」

と、ここでのんびりするような声を出して、あずさは足を止める。

「…どうしたんですか?」

思わず、朱里は声に出した。あずさはどこか困った顔をしていた。

「…ここ、どこなのかしら?」

「何言ってるんですか…ってあれ?」

朱里はふと辺りを見渡すと、自分たちが全く知らない住宅街に迷い込んでいるのに気がついた。あずさの話に夢中で、今の今までそのことに気付けなかったのだ。

そう、朱里はあずさの最大の弱点を知らなかったのだ。それは彼女が超ド級の方向オンチであるということを。そしてそれを知らないが故に、あずさに道案内をさせてしまったという失態も気づけなかった。

「ここ…どこ?」

「あ、あらあら~」

「あらあら~じゃないですよ!!マジでどこなんですかここ!?」

…数時間後、なんとか元来た道に戻れたが、その時は思わず泣いてしまいそうだった。

騒がしくも楽しかったゴールデンウィーク2日目はこうして終わりを迎えるのだった。




あずささんはまだ少女ですよね?成人しても少女って呼ぶのでしょうかね?
後、今回の朱里が歌った曲は完全に自分の趣味です。
この曲がEDであるゼーガペインは、自分をこの道に引きずり込んだアニメだから本当に印象深いです。
では、また次回。


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第10話 黄金週間の過ごし方 その3勉強する訳

今回はあくまでも繋ぎのエピソードなので、内容は薄いです。


ゴールデンウィーク3日目は、生憎の雨模様で、外では陰鬱な雨が音を立てて降り注いでいた。

だが、室内で行うダンスレッスンにはそんな雨の影響など全く関係なく、いつも通りの光景が繰り広げられていた。

ちなみに今日のメンバーは朱里、雪歩、やよいとダンスが比較的苦手な3人。そして講師は女性トレーナーであった。

「1,2,3,4!はい、そこでターン!そしてステップ!!」

トレーナーの手拍子に合わせて、周りと同じ動きで踊る朱里。この1カ月のレッスンで、ようやくダンスも様になってきた。…まあ、周りに付いていけるようになっただけで、実力的にはまだまだなのだが。

そして、トレーナーが「ストップ」の掛け声と共に、パンパンと手を2回鳴らす。

「…うん、上出来ね。特に朱里ちゃん、1か月前とは見違えるほどに上手くなったわね!でも、もう少し表情に締まりがないとダメよ?アイドルは常に笑顔でなきゃ」

「は、はい」

腰に手を当て、息も絶え絶えしながら答える。…ようやく踊れるようになったのに、今度は表情か、また新しい問題が浮上した。

「じゃあ、今日のレッスンはここまでにしましょう。しっかりと柔軟して」

トレーナーの言葉に一気に緊張感が解れる。

「あ、雪歩さんとやよいは先に2人でやっていていいですよ。私は後で」

2人にそう言うと、朱里は一人でもできる柔軟メニューを行うことにする。こういう細かい所も先輩優先だ。

腰に手を当て、息も絶え絶えに答える。…ようやく踊れるようになったのに、今度は表情か、また新しい問題が浮上した。

「…痛てぇ。…まだ体固いなあ」

一応、風呂上りに柔軟運動は毎日しっかりやっているのだが…効果が現れているとは思えない。というのも、あまり体が柔らかくなったという感じがしないのだ。

(まあ、こればかりは長い目で見るしかないか。大切なのは続けることだし)

グイグイと体のあちこちを伸ばし、柔軟はとりあえず終了。後は2人が終わるのを待って、どちらかに柔軟を手伝ってもらおう。

それまで、飲み物でも飲もうかな。朱里は自分のカバンの中にあるスポーツドリンクを取り出すために、立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

「朱里ちゃん、先に行くね」

「お疲れ様でした」

「おう、お疲れー」

朱里は2人に手を振って見送る。そして、2人が退出した後、カバンから大学ノートとペンを取り出し、トレーナーの元へ歩いていく。トレーナーも『いつものことか』という顔をしていた。…ただし、その表情は嫌な顔一つない、穏やかな物であったが。

「…で、今日はどこが分からないの?」

「ここの部分なんですよ」

朱里は休憩中、ノートに書いた簡単な絵を指差し、トレーナーに説明を始める。

「この4拍目の後、ターンをしますよね。この前の足の位置なんですけど…」

「…ああ、ここ?そうね、ターンしようとするあまり、ステップが雑になりがちだから、ここは足をしっかりと揃えて…」

朱里は分からないことがあったら周りに徹底的に聞くことにしている。疑問は出たら徹底的に潰し、次のレッスンに持ち越さないようにしている。

(…まるで高校時代みたいだな。良く分からない問題が出たら職員室まで質問しに行っていたっけ)

最近の子は引っ込み思案で、分からない問題も質問せずに放置するというのが多いらしいが、朱里はもったいないなと思う。

少なくとも、質問したからといって殺される訳じゃないのに。聞くだけならタダだし、それらの内容は少なからず自分にプラスとなってくれる。

それにそうやって教師との繋がりを深くして、コネを作っておくのも、決して悪い話じゃない。事実、トレーナーへの質問も毎回行ったおかげか、トレーナー側も多少の融通を聞いてくれるようになり、偶に居残りレッスンもしてくれるようになったし。

(大学時代はそれらを全部サボって遊びに費やしてたからなぁ。…今思うともったいないことしたもんだ)

1周目の大学時代、専攻している教科の教授が、とある企業の社員たちと仲が深いということがあった。自分の友人たちは教授経由でその社員たちと知り合いになり、深いコネを作っていた。…その間自分はサークルで麻雀などを打ち込んでいたが。

その結果、友人たちは(勿論成績もよかったが)コネを作っていたおかげか、その企業への内定を貰っていた。そしてコネを作らず、遊び呆けていた自分は就職浪人と化してしまった。

「…ま、こんな感じね。ちなみにこれ、結構使う技術よ」

「はい、ありがとうございました」

パタンとノートを閉じる。忘れないうちに後でしっかり清書しなきゃな。

「あと、聞いただけじゃダメよ!しっかり…」

「しっかりと練習…ですよね」

ニコッと朱里は笑う。…つられて、トレーナーも笑った。

「そうよ。それじゃ、お疲れ様」

「はい、お疲れ様でした」

 

 

 

 

 

 

「ただいまー」

びしょ濡れの傘を入口付近に立てかけ、挨拶と共に朱里は事務所へと入る。

「…あれ?」

辺りを見渡しても、雪歩とやよいの姿はなく、代わりにプロデューサーと小鳥が机に向かっているのが確認できた。

スタジオ出る時には、雨は結構強くなっていたし、あれから結構時間も経っている。本降りになる前にあの2人は帰ったのかもしれない。…結構、家遠いみたいだし。

…とりあえずあの2人にコーヒーでも淹れておくかな、丁度自分も一杯飲みたかったし。

スタスタと給湯室へ向かい、戸棚からマグカップ3つとインスタントコーヒーの瓶を取り出す。スプーン1杯分の中身をマグカップに入れ、電気ポットの湯を注ぐ。辺りにコーヒーの香しい匂いが漂う。

(小鳥さんは砂糖3つとクリープ1杯。プロデューサーはクリープだけ1杯。そして自分は何もなしのブラック…と)

戸棚から角砂糖の入れ物とクリープ瓶を取り、慣れた手つきでコーヒーを2人の好みの味に変えてゆく。

朱里はコーヒーが好きだった。1周目の時はそうでもなかったが、2周目が始まってからは良く飲むようになった。…何故なら今の自分は酒が飲めないからだ。

(口元が寂しくなるんだよな。禁煙者の大半が口元が寂しくなるって理由で喫煙者に戻る理由が分かる気がする)

1周目ではタバコはやっていなかったが、飲酒なら大学入学当初からやっていた。サークルの先輩の実家が酒好きで、実家からくすねてきた酒で酒宴をよくやっていたからだ。そのおかげか結構、酒には強くなっていた。

ところが2周目の自分はまだ未成年、酒が飲めない身分だ。…そうなってくると、酒が飲めないというのがだんだんストレスになってくる。両親は家でほとんど酒を飲まないし、飲むとしても仕事の付き合いでしか飲まない。そのため家には酒のストックが無く、隠れて飲むという行動ができない。

…その穴埋めとしてはまっていったのがコーヒーだった。最初は苦い汁としか思えなかったがはまるとこれが中々いける。小学校低学年のあたりから砂糖とミルクが多めのコーヒーを飲み始め、中学に入ってからはブラックも飲めるようになっていた。…今では飲まない日の方が少ない気がする。

お盆にマグカップを乗せ、2人の机に運ぶ。

「はい、どーぞ」

コトッとプロデューサーの机にマグカップを置く。

「おっ、ありがとう」

プロデューサーは資料から顔を上げ、礼を言った。

「いえいえ。お仕事、お疲れ様です」

プロデューサー。美希と朱里が765プロに入る数日前に入社した新人プロデューサーであり、黒の短髪で眼鏡をかけている青年だ。見た目、性格共に誠実そうで、なんだか女子校の先生みたいな雰囲気がする人物だ。…ちなみに本名は知らない。みんなプロデューサーと呼んでいるので、そう通すのがこの業界のルールらしい。

プロデューサーとしてはまだ新人らしく、今はまだ律子のバックアップが主な仕事であり、現在も色々勉強中なのだそうだ。

「小鳥さんもどーぞ」

「あ、朱里ちゃん。ありがとう…!」

同じように机から顔を上げた小鳥はもうグロッキー寸前のような表情をしていた。

(…また仕事ため込んだのかこの人)

音無小鳥。765プロダクションの事務員の女性であり、朱里の面接官をしてくれた一人だ。緑色を基調とした事務員の制服を着て、仕事もできるのだが…所謂オタク趣味があり、ついついそっちを優先させてしまうらしい。事務員としての腕は確かなのだから、もう少し趣味にかける情熱を仕事に回せばいいと思うのだが。

「…そういえば、もう朱里が765プロに入って1カ月か。早いなあ」

「そうですね。なんだかあっという間ですね」

そういうと朱里は空いている椅子に座り、コーヒーを口に含む。…ふと目線を移動すると、朱里はあることに気付いた。

「あれ?律子さんいるんですか?」

そう、律子のデスクに、彼女の通勤カバンが置かれていることに気付いたのだ。…しまった、居るんなら律子の分のコーヒーも淹れておけばよかった。

「あー、いるにはいるんだけど…」

「…?何かあったんですか?」

プロデューサーの口が重い。…何かあったのか?

「律子がな、…その、社長室で亜美と真美に説教中なんだ」

「…あいつら何やらかしたんですか?また悪戯ですか?」

「それが違うらしいのよ」

ここで小鳥が会話に加わる。

「学校でやった中間テスト対策の模擬試験で2人とも全教科赤点だったらしくて。それを偶々律子さんが見つけちゃったらしいのよ」

「まあ、多少は勉強が不得意でも目を瞑るけど…いくらなんでも全教科赤点はちょっとな…」

2人はうーんと悩む。…まあ、確かに気持ちは分からなくもないけど。

(…赤点って。いくらなんでも酷いぞ。あいつら中1だろ?中1の範囲なんて、まだ小学生の知識に毛が生えた程度なのに)

「コラー!!」

「「勉強なんて→出来なくてもいいもーん!!」」

その掛け声と共に、息の合ったタイミングで亜美真美が社長室から出て来た。遅れて律子も出て来る。

「あんたらねえ…いい加減にしないと…」

「別に学校の勉強なんて使わないって!よくテレビで言うじゃん、学歴社会の時代は終わったって!」

「そーそー!今じゃおバカアイドルとかいるっしょ?亜美たち困ったらそれになるって!!」

2人が普段、絶対に言わないであろう言葉を巧みに使って、律子に対抗する。

律子はそんな発言にぶち切れ寸前だ。

「あーあ…」

小鳥はその光景を見て、怯えるような声を出す。一方朱里はそれらの光景をボーと見ていた。

(…まるで昔の自分みたいだ)

勉強なんて…ね。大学時代の自分が口癖のように話していた言葉だ。もし、あの頃の自分に話せるのなら、「大馬鹿野郎」と怒鳴りたかった。それくらい、あの2人の発言は愚かだった。

「大体、アイドルしか興味がない私たちに勉強なんて時間の無駄だよ→!」

「そうだそうだー!!」

…その言葉を聞いた瞬間、思わず朱里は口を開いた。それも事務所全体に聞こえるような低い声で。

「―それは違う」

…まるで亜美真美だけじゃなく、過去の自分に言い聞かせるように。

 

 

 

 

 

 

「…あ、朱里?」

プロデューサーの声で、ハッと我に返る。

…やっちゃった。朱里は内心、そう思っていた。思わず口を開いてしまったせいで、事務所の空気が変に重い。

本当は説教なんてしたくないんだけど…仕方ない。もうこうなったら引くに引けないし、言いたいことをもう全部言ってやろう。

「勉強は必要だよ。生きてく上では絶対にね」

ムッと亜美の顔が険しくなった。

「じゃあ、あかりっちは今やっている国語とか歴史とかの教科が亜美たちに必要だと思うの?」

「…さあ?それは分かんないよ。2人がそういうことに関係する仕事に就くのなら必要になるだろうけどな」

「じゃあ、亜美たちには関係ないね!亜美たちトップアイドルになった後、タレントになるし」

えへんと胸を張る亜美。…その年でそこまでの人生設計を考えられるのもある意味凄い。

「…それが出来るのなら、な」

返す刀の如く、亜美の発言を切り返す。

「アイドル引退したってタレントになれる人なんてごく僅かだぞ?ほとんどの人が引退して、はい、さようなら。そもそも私たち自身、アイドルとして成功するって保証はどこにもないし。活動失敗して、そのまま引退ってケースもあるよ?」

「う…」

…ある意味禁句を口走ってしまった。トップアイドルを目指している子達に売れないなんて。

「そういう時、今まで何も勉強してませんでしたってなったらどうする?…何も積み上げてないそんな奴を雇ってくれる所なんてあるか?生活できるか?」

「あ…あうう…」

まるで父親に説教されるが如く、亜美の動きが止まった。が、続いて真美が口を開く。

「あ…バ、バイト!真美、フリーターになるよ!」

「バイトは給料安いぞ?保険だって出ないし、怪我や病気になったらそのお金全額負担だぞ?月々の生活だけでいっぱいいっぱい、貯金なんて雀の涙。さらに齢取ったら雇ってくれなくなる」

「う…うう…」

続いて真美が口を紡ぐ。…朱里の言葉はまるで実体験を語るような異様な説得力を持っていた。…というかほぼ自分の実体験なのだが。

「将来、何が起こるか、何をやるのかまだ分からないんだからさ、今の内に何でも勉強しておいた方がいいと思うよ。自分の可能性を広げるためにもさ」

そう、一寸先は闇なんて言葉の通り、人生、何が起こるか分からないのだ。そもそもここに外見は女で中身は男という人物がいるという事実こそが、人生の不条理を物語っている気がする。…神様は残酷だ。

「それに…学校の勉強で一番大切なことは勉強のやり方を学ぶことだと思うし」

「「…やり方を学ぶ?」」

「うん。何かを調べたり勉強したり、発表したりとか…学校でやったことが将来役に立つし。そういう時にやった苦労が、要領や忍耐、自信へと繋がっていくんだよ」

そもそもレッスンするのも、技術を上げる他に、自信をつけるためでもある。何日も何日も地道な反復練習。それが自信へと繋がっていくのだ。

「プロデューサーだって大人だけど、今はプロデューサー業を勉強してるだろ?いくつになっても勉強はしなくちゃならないし、できるんだよ。…その勉強を嫌がって逃げることも出来るけど、逃げた分の時間は永遠に帰ってこない」

事務所のみんなが一斉にプロデューサーを見た。プロデューサーは何だか恥ずかしそうな顔をしている。

「…まあ、別に勉強を好きになれって言ってるわけじゃないよ。私だって嫌いだし。でも最低でも学校のテストで赤点だけは回避しとけよ。内申書に書かれるぞ?」

朱里は言葉を切った。…亜美真美だけじゃなく、事務所にいる全員が呆気にとられている。

「…もしかして、引いてる?」

「「うん」」

亜美真美の息の合った声に、自分が我知らずと熱くなってしまったことに気付く。亜美真美の行動に、過去の自分と照らし合わせてしまったため、まるで過去の自分に向かって説教するかのようにヒートアップしてしまったのだ。

「あ、朱里。あなた本当に中学2年生?」

「…よく言われますよ」

「というか2人とそんなに齢変わらない…わよね。朱里ちゃん」

「そうですね。1歳違いですね」

律子と小鳥の質問にも機械的に答える。…この場にいるのが凄く嫌だ。さっさとコーヒーを飲んで早く帰ろう。

「…それではお疲れ様でした」

中身を飲み干したマグカップを机の上に置き、荷物を持つと脱兎の如く、朱里は駆けだした。

とりあえず早く帰ろう。この空気に留まるという行為に自分自身、耐えられる気がしない。

途中、誰かにすれ違い、条件反射で挨拶をする。

「あ、お疲れ様でし…」

しかし突然、グンッと腕を引っ張られる感覚がし、急ブレーキをかけられる。たまらず朱里は立ち止まった。

「…!何すん…」

思わず文句を言いそうになるが…自分を止めた人物の姿を見ると、動きが止まった。

「朱里さん。…少し、いいかしら?」

視線の先には一人の少女がいた。彼女の右手には、自分の片腕がしっかりと掴まれている。

(…嘘だろ)

あずさと同じ青味のかかった長い黒髪と、華奢な体が特徴的な少女。

…その少女の名前は如月千早。恐らく、この事務所一の厄介な人物であった…




初めて朱里が大人っぽい行動を描写しました。…こんなこと言う中2なんて絶対いないよ。自分が中防のころは毎日くだらないことばかりやって笑っていましたし。
ちなみに劇中で喋った朱里の説教は作者が自分の親にマジで言われた内容を参考にしています。…家の親、あらためて考えてみると怖いな。


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第11話 黄金週間の過ごし方 その4歌姫の接触

あまりにも否が多かった11話のリメイク版です。一応、これで大丈夫かな…?


朱里は事務所から歩いて数分の場所にある、喫茶店「モンデンキント」の扉を開いた。朱里がここに来た理由は事務所で話すよりは落ち着いていられると思ったからだった。

扉についた鈴がカランカランと音を立てる。

「いらっしゃ…おや、朱里さんではありませんか」

「久しぶりです、ジョセフさん」

髭を生やした老人が入って来たお客に顔を向けると、嬉しそうな顔をする。朱里もこの人に会うのは久しぶりだ。

ジョセフ真月。コーヒーショップ「モンデンキント」の店長で、50代とは思えないほどの引き締まった体と凛々しい顔をしている男だ。

彼が経営する「モンデンキント」は木造平屋の、席も数個しかない小さな喫茶店だ。

ただ、朱里はこの雰囲気が好きだった。落ち着いた雰囲気の店がなんとも良い空気を生み出し、出されるコーヒーも安いうえに上手いと評判で、都内の隠れた名スポットとなっている。

朱里もこの店の常連客で、何度か通っている内にすっかり名前を憶えられてしまった。

「…今日はお友達もご一緒ですか?」

ジョセフは朱里の後ろにいる千早の姿を見つけ、驚いたような声を上げる。朱里が初めて他人をこの店に連れてきたのだ、驚くのは無理もない。

「…まあ、そうですね。奥の席に行ってもいいですか?」

「ええ、どこでもいいですよ。どうせこんな天気じゃお客さんも来ませんしね」

一応、ジョセフの許可を貰う。傘を脇にある傘立てに突っ込み、一番奥の席まで歩を進める。

「こうしてちゃんと話すのは初めてですね、千早さん」

「…そうね」

「…」

…会話が途切れてしまった。あまりにも会話が弾まない。

(…どういう人か分かんないんだよな、この人)

朱里は千早がどういう人間なのか…ということがよく分からない。なぜなら千早は他人と積極的に絡まない人間だからだ。故に彼女がどういう人間なのか…それを観察しても、その情報があまりにも少なすぎるため分からないという結論に至った。

そもそもそんな人間がどうして自分と話し合いの場を設けたのか…それが不思議でならないのだ。

(…とりあえずは仲を深めておきたいんだよな。この人、歌に関してはあずささんや貴音さんよりも上だから)

とりあえず分かる情報は、いつも事務所の端っこで他人と混じらずにイヤホンで音楽を聞いていることと、レッスンの時の態度は真面目…というのか、一人だけ取り組む姿勢が違う気がすることだけだ。何というのか…彼女は『夢』や『目標』などではなく『責任』や『使命感』によって突き動かされている、そんな感じがするのだ。

歌の実力は恐らくは事務所一。だがその性格の厄介さも事務所一。自分が前に言った「実力が高い奴ほど絡みづらい性格」をそのまま体現したような人物なのだ。

「…なんか頼みますか?」

「ええ」

千早の同意を確認し、朱里はテーブルにあるベルを鳴らした。

結局、ウエイトレスが頼んだ注文を持ってくるまで、この硬直状態は続くことになる。

 

 

 

 

 

 

如月千早という人物を一言で表すならば、「孤高」という言葉が一番似合うであろう。

恐らく事務所のメンバーの中では誰よりも実力が高く、それを高めるためには何を犠牲にしようとためらわない。千早にとって失って困るのは歌のみ。それ以外の物は失ったって自分には何の影響もない。

非常に生真面目な性格で、何事にも厳しい性格の少女であった。

…だが、その性格が故に、どこか融通が利かない少女でもあった。学校で所属している合唱部でもその性格が故に他の部員と対立してしまっており、その対立が原因で部活動に参加しておらず、実質的に退部扱いになっていた。

そんな性格な彼女は事務所でも浮いた存在であり、誰もが彼女を腫れもののように接していた。

だが1月前。新たなアイドル候補生が2人、この765プロに所属することになった。姉は金髪、妹が茶髪の姉妹だった。

結局、ウエイトレスが頼んだ注文を持ってくるまで、この膠着状態は続くことになる。

初対面、千早の感想はそうだった。あんなチャラチャラした姉妹、どうせあの合唱部と同じような不真面目な人たちに違いない。…自分よりも年下なのにスタイルがいいし。

千早の予想通り、その一人、星井美希はまさにそんな人物だった。実力はあるが性格はルーズでおおざっぱ。事務所でもソファを占拠して寝てばかり。妹の前では張り切っている姿を見せるが、そんな姿勢ではとてもプロの世界ではやっていけないだろう。私たちは部活をやっている訳ではないのに。

(所詮は才能の上で胡坐をかく子…か。合唱部で何人も見てきたようなタイプね)

…ところが、もう一人の少女、星井朱里は違った。

美希と同等かそれ以上の才能を持ちながらも、決して驕らず、常に向上を心がけて行動している少女。彼女の実力は、1カ月前までずぶの素人とは思えないほどの伸びっぷりだった。…このままいけばいずれ自分をも超える存在になるかもしれない。

千早は自分と同じような姿勢で取り組む朱里に、どこか親近感を覚えていた。それは孤独であるが故の寂しさもあったのかもしれない。

(…彼女なら私のことを分かってくれるかもしれない)

そして今日、偶々朱里が事務所を出て行こうとする瞬間に遭遇した。自分の横を通り過ぎようとする姿が視界に入る。

…気がつくと、千早は反射的に朱里の手を掴んでいた。

「朱里さん。…少し、いいかしら?」

…ただ、まずかったのは、彼女の癖で高圧的且つ下手くそな喋り方をしてしまい、朱里にあらぬ誤解をかけてしまったことだった。

 

 

 

 

 

 

「…へえ、クラシックが好きなんですか」

「ええ。ロックなんかも好きなんだけれど、やっぱりクラシックが一番音楽らしいって気がするから」

「あー、なんとなく分かりますよ。クラシックって歌詞が入っていませんけど、良い曲って分かりますもんね。うちの姉さんもよく聞いてますし」

「…朱里さんのお姉さん?美希のこと?」

「…ああ、違います。美希姉さんの上にもう一人姉がいるんですよ。今、大学生なんですけど、集中したいときに聞くらしくて」

数分後、朱里は何とか千早とのコミュニケーションを成立させることに成功した。どこかぎこちなさは感じるものの、会話のキャッチボールは何とか出来ている。

(質問を音楽方面から攻めて行ったのは正解だったな。こんなに上手くいくとは…)

千早と話していていくうちに、なんとなく彼女がどういう人間なのかが分かった。

…この人はアイドルを始める前の自分とどこか似ているのだ。他者に関わって欲しくないが故にガードを固くする。だが、その固いガードを潜り抜けて、ペースを掴みさえすればもうこっちの物。

その為には千早を釣り上げる餌…彼女が惹かれるような話題が必要だった。朱里はいつも彼女が聞いている音楽関連の話題が無難だと読んだ。恐らく千早は歌に対する興味が大きいため、それらの話題でまずは掴み、それをきっかけでどんどん話題を広げていけばいい。

そして朱里は注文したコーヒーが来た瞬間、千早にこの質問をぶつけた。

「…千早さんはさ、どんな音楽が好きなの?」

…作戦は大成功だった。音楽という大好物の餌に食いついた千早は、今までの苦労が嘘みたいに簡単に会話をするようになった。

…ただ、彼女の家族の話題になると、千早は触れられたくないような言い方ではぐらかすので、それらが上がるような会話はしなかったが。

(…決して話が通じない人じゃないんだな。単に口下手なだけなのか?)

意外にも朱里からの千早に対する評価は悪くなかった。必要最低限だけどちゃんとコミュニケーションはとれている。どこか怖そうな見た目と態度だけで勝手に自分が変なイメージを抱いていただけかもしれない。

と、ここで千早がある質問をしてきた。

「朱里さんは…どうして歌を歌うの?」

…随分と変な質問が来たものだ。思わず、眉を潜める。

「…?そんなの面白いからに決まっているじゃないですか」

朱里はさも当然であるように千早に言い放った。歌だけじゃない、ダンスや周りとの交流、それら全てが面白い。これほど心揺さぶられるものなど、死んだように生きていた以前には見つけたことがなかった。

そして朱里も質問を返す。

「千早さんは面白いから歌っているんじゃないんですか?」

「…私には、歌しかないから」

千早はどこか寂しげ…というか、彼女が時折見せる使命感が混じっているような声で呟いた。

「ふうん…」

朱里はそう言うと、コーヒーを啜った。

(…歌に人生を捧げる覚悟があるってことか?でも歌しかないって…いくらなんでも言い過ぎの気が…)

それに、まだ千早は未成年だ。未来への可能性とかがまだまだ十分にある齢。新しい何かを始めるのには十分すぎるほどの時間があるだろうに。それに彼女の魅力は決して歌だけじゃない。

一つの事にそれほど熱中できる性格、自分を高みまで追い込むストイックさ。これらはあらゆる物事に生かせる強力な武器になるのに。

(…まずいな。なんか変な空気になった)

ここで朱里は話題を切り替えることにした。

「…千早さんはどうしてアイドルになったんですか?」

「私は…一人でも大勢の人に聞いてもらいたいから」

「?どういうことですか?」

回答の意味が良く分からなかった。

「私は元々、歌手志望でアイドルを始めたのよ。アイドルであれば多くの人に見てもらえるから…」

…へえ、アイドルじゃなくて歌手志望でね。変わった志望動機だな。…というか、あずささんの動機と比べたら、かなりマシなんだろうけど。

(…ってことは、色々な仕事の話も聞けるかも。今までレッスンばかりで周りに聞く余裕なんてなかったし)

千早も確か、春香と同時期に入った子で、仕事も事務所内の子と比べると結構多いはず。その証拠に、マジックボードには春香と千早の名前が入っていることが多い。仕事もそれなりの場数を踏んでいるはずだ。

「じゃあ…次は千早さんが普段している仕事の話を聞かせてくれませんか?」

「…?どうしてそんなこと聞くの?」

「気になるからですよ。千早さんがどんな仕事をしているのか」

そう言うと、朱里はニッコリ笑った。

外は雨の激しさが増していたが、2人の周りはどこか暖かい雰囲気が生まれていた。

 

 

 

 

 

 

(駆け出しのアイドルはまあ…そんな仕事内容なのか)

朱里は千早が現在している仕事を詳しく聞いた。まあ、その内容は…小さなライブの前座など、小さな仕事ではあったが。

「他にはないんですか?歌以外の仕事で」

「…ごめんなさい。私、これくらいしかやったことがなくて」

「…あ、そうなんですか。こっちこそすいません」

…?でも、それじゃ、マジックボードの内容とつじつまが合わない。それなりの場数を踏んでいるということは、それなりの種類の仕事をこなしているんじゃないのか?…歌うだけがアイドルじゃない、グラビアとか色々な仕事はないのだろうか?

その疑問をぶつけると、千早の返答は早かった。

「…私、歌以外の仕事は興味ないから」

…千早はあっさりそう言った。確かに千早の性格を考えれば、そういう仕事は苦手かもしれないけれども。

(…実力はあるんだけど、どこか頑固なんだよなぁ。歌だけじゃどうやっても売れないのに。特にウチの場合…)

顔を売るというのがアイドルの大きな仕事の一つだ。多くのアイドルがテレビやラジオに出る理由の一つは知名度を広めるということだし、他のアイドルも自分を知ってもらう為に仕事をしている。その地道な行動がそうやってファンを増やしていくのだ。

特に765プロは駆け出しの事務所。大手の事務所とは違い、資金面でのゴリ押しが不可能ともなると、まずは多くの人に知ってもらうことが何より重要になってくる。…それを千早は自らの手で狭めてしまっているのだ。確かに彼女の性格上、歌以外の仕事は苦手かもしれないが、それでも全くやらないというのはあまりにももったいない話だ。…何故なら彼女は自分を多くの人に知ってもらうという可能性の芽を自ら潰しているのだから。

(彼女が犠牲にしているのは2つある。一つは多くの人に知ってもらうという『可能性』。そしてもう一つは…)

「あの…少し話して、いいですか?」

「…ええ」

一応、千早の確認を取る。

「これ、大学に通っている姉さんの話なんですけど…。大学って結構、色んな講義を自分が好きなように受けることが出来るんですよ。例えば文系なのに進級に関係ない電気系の講義も取れるし、理系なのに必要ない哲学の講義とかね」

「…?」

千早は「何言っているんだ?」というような視線を朱里に向けた。仕事の話をしていたのに、急に大学の講義の話をするのだ、無理もないだろう。

しかし朱里はそんな千早の視線を無視し、話を進める。

「でも不思議なことに、全く関係ないように思える講義の内容が、違う講義に活かされている事って多いらしいんですよね。そういう違う所で得た知識が更なる知識の探求とか色々なことに役に立っていくらしくて…」

…一応、姉の名義で話してはいるが、これは朱里自身、1周目の大学生活で体験している事だった。世の中、違う立場から得た知識や体験が他の所で活かされたりするということが意外にも多いのだ。

例えば自分が受けていた『中国語』で得た、中国の経済環境の知識が『経済学』のレポート制作に役に立ったりしたし、同年受けた『哲学』で習った歴史背景から見た思想などは『日本史』を全く違う視点から見ることも出来た。

…その知識は残念ながら就活に活かされることはなかったが、違う視点から物事を見ることの重要さは十分に分かっていた。

(それに昨日、久々にそれを体験したからな…)

先日のカラオケでのボイスレッスン。『レッスン』だけでは得られないコツや技術を自分は得ていた。これも違う視点から見た知識と言えるであろう。

『普段とは違う体験や知識』。これもまた、あらゆる物事に繋がる大切なものだった。

「だから、その、何て言うんでしょうか。歌の仕事じゃ得られない『何か』が他の仕事にもあると思うんですよ。歌う時に必要な表現の仕方や幅とか…歌の仕事とは違う経験も意外に役に立ったりするんじゃないかなって」

朱里の話は続いていく。

「千早さんも歌以外の仕事は、興味ないからと言って何でも避けてしまうのは勿体ないんじゃないかな…って思うんですよ。それに、千早さんは歌しかないって言いましたけど、そんなことないですよ?クールな所も私は凄く魅力的だと思いますし」

千早はどこか困惑しているような顔をしていた。…いきなりこんなこと言われるなんて思っていなかったかもしれない。

「…まあ、まだ仕事もやっていない後輩の戯言なんで、忘れてもかまいません。…でも、歌以外で得た知識や経験とかって、きっと無駄にはならないんじゃないですかね?」

そう言うと朱里は言葉を切り、壁にかかってある時計を見た。…時刻は6時ちょっと過ぎ、そろそろここを出ないと不味いか。

朱里はテーブルの端にある領収書を取り、レジへと向かう。

「後輩の話に付き合ってくれたお礼です。コーヒー代くらい奢りますよ」

レジの呼び鈴を鳴らし、千早の分の金額も払う。そして立てかけておいた傘を持ち、ドアを開けた。…外はさっきよりも雨の激しさが増していた。

「それでは、今日はお疲れ様でした。色々話を聞けて、楽しかったです」

振り返ってそう言うと、朱里は店を出た。

 

 

 

 

 

 

(高槻さんと同じ学年…なのよね?朱里さんは…)

朱里が帰った後、千早は困惑していた。何故なら朱里との会話は、年下どころか年上と会話している雰囲気がしたからだ。確かに同年代の子と比べると、大人っぽい所があるが…何だか違う気がする。大学の話もまるで実体験を話している感じがしたし。

(…私にも姉がいたら、あんな感じになったのかしら)

コトっと何かが机に置かれる音がして、千早は顔を上げ、辺りを見回す。

…すると、自分の横には店長のジョセフが立っていた。その手にはケーキの乗った皿があった。

「あの…私、頼んではいないんですが…」

するとジョセフは悪戯する子のような顔をした。…何だか社長と同じような雰囲気がする人だ。

「ふふっ、サービスですよ。朱里さんのお友達ですから、これくらいはしなくては。勿論、お金は頂きませんからご安心を」

「…はあ」

まるでドラマみたいだ。千早はぼんやりと思った。…店側のサービスならば、一応貰っておこう。お金を払わないで食べるなんて、何か変な気分だけれども。

千早はフォークを持ち、ケーキを切り、口に運んだ。

(あ…おいしい)

ケーキは千早の好みにあった味だった。思わず、頬が緩む。

「ご馳走様でした」

あっという間にケーキを食べ終わった千早は、ジョセフに挨拶をし、そのまま店を出た。雨は強くなっており、傘を差しても足元が濡れる。が、千早のそんなこと気にしなかった。

…何故なら、千早の心にはある一言が棘のように刺さっていたからだ。

『歌う時に必要な表現の仕方や幅とか…歌の仕事とは違う経験も意外に役に立ったりするんじゃないかな』

…千早がその言葉の意味に気付くのは、それから少し後の話である。




急いで投稿しようと焦るばかり、めちゃくちゃな内容に仕上げてしまったことをお詫び申し上げます。
これからは投稿をゆっくり目になるかもしれません、ご了承くださいませ。


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第12話 黄金週間の過ごし方 その5大人の会談

今回はこの人たちがメインです。…誰得なんだろう、この組み合わせ。


ゴールデンウィーク4日目は昨日通り過ぎた低気圧の影響からか、どんよりとした曇り空だった。

朱里は朝7時に起き、キッチンへと向かう。とりあえず寝起きの頭をすっきりさせたかったので、インスタントではないちゃんとしたコーヒーを飲むことにした。ちなみに両親は夫婦水入らずの日帰り旅行に出かけているので、今日は家にはいない。

手挽きミルを使って、久しぶりにちゃんと豆を挽くと、それだけで芳しい香りが漂う。その芳しい匂いを感じることで朱里の意識が徐々に覚醒してゆく。…うん、いい感じだ。ここまでの感覚はやはりインスタントじゃ味わえない。やっぱりコーヒーは豆挽きに限る。

マグカップの上に挽いた豆を入れたドリッパーを乗せ、上から少しずつ熱湯を注ぐ。

完成したコーヒーを一口飲みながら、ニュースでも見ようかと思い、テレビをつける。

『えー、ゴールデンウィークも残すところ後二日になり、各地で帰宅ラッシュが起こり、高速道路では渋滞が…』

どのチャンネルを回しても同じような内容ばかりで、どうも面白みに欠ける。それだけ世の中は平和ってことなのかな。

(…新聞でも見るか。目につくニュースもないし)

朱里はそれ以上のテレビに対する興味を失い、ソファに座って新聞を見ることにした。…が、活字を目で追いつつも、意識は新聞とは別の事に傾きつつあった。

(…ゴールデンウィークも明日で終わりか、早かったよなぁ)

なんというのか…今年のゴールデンウィークはあっという間に終わってしまった気がする。

この連休期間、ほぼレッスンと自主トレしかしていないが、とても充実した日々だった。

今まで何となく避けていた人たちとも絡めたし、その人たちの意外に知らない一面も見れた。これ以上望むものはないんじゃないだろうか。

ちょうど政治経済の欄を読み終わり、スポーツ欄に目を移動させようとした時、誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。

(…たぶん、美希姉さんじゃないな)

美希は今日の予定は完全オフだ。そうなると昼間まで寝ているだろうし。…そしてなにより足音の間隔が違う。

「…あいかわらず早いねぇ、あんたは」

新聞からちょっとだけ目線を上げると、朱里の予想通りだった。視線の先には私服姿の菜緒が呆れたような顔で立っていた。

「おはよう、菜緒姉さん。…どっか行くの?」

私服姿と背負っているバックが気になり、朱里は尋ねると、その途端、菜緒は「嫌なことを言うな」といった様子の表情をする。

「…今日、大学で就活面接があんのよ。ったく、ゴールデンウィーク中にまで組み立てなくてもいいじゃない」

忌々しく吐き捨てると、菜緒は朱里の隣に座った。…ああ、なるほどね、もうそんな時期か。

星井菜緒は現在、大学3年生。大学3年といえば、ゼミに入ったりする時期だが、同時に来年に控えている就職活動に向けての準備が始まる時期でもある。

朱里も1周目で同じ経験をしているから、なんとなく菜緒の気持ちは分かる。この時期になると急に『就活』や『内定』など、聞きたくもないワードが増えてくる。今までのほほんとしていた奴らは、そのワードにより、のほほん気分に冷水をかけられる羽目になる。その結果、菜緒のようにナーバスになったりする奴も少なくはないのだ。

「あはは、ご愁傷様」

「まったくよ。こちとら休みなのに、わざわざ休みの日まで就活のこと考えなくちゃならないなんて」

はあ…とため息をつく姉に同情し、朱里は笑った。この苦しみは実際やった者にしか分からない。…今回ばかりは本気で同情できる。

(自分もそうだったしなぁ。…今から数年後にはもう一回味わうかもしれないんだよな)

なんとも変な気分だ。一度終わったはずの事をもう一回やるなんて。またクスリと笑ってしまった。

そんな笑う朱里の姿を菜緒はまじまじと見て、こう言った。

「…やっぱ、あんた変わったわ」

「え?」

菜緒の突然の言葉に反応してしまった朱里。菜緒は朱里の顔をビシッと指差す。

「顔。アイドル始めてから、表情が柔らかくなってんのよ。気づかない?」

思わず、朱里は自分の顔を手で撫でる。

「…そうかな?」

「そうよ。結構わかりやすいんだから、あんた。今までは仮面被ったみたいな顔していた分、余計にね。…たぶん、私だけじゃなくて、みんなも気づいていると思うわよ」

…ぐうの音もでない。朱里は苦虫を噛んだような顔と共に黙ってしまった。

今までは女になったという、行き場のないストレスを抱え、世界一不幸な人間のような気分で生活していた。ただ、家族にだけは余計な心配をかけたくはなかったので、元気でやっているように振る舞っていたが、家族たちには筒抜けだったのか。…仮面被ったみたいな顔、ね。なんか嫌な響きだ。

「まあ…あんたがどんなことやっているのか、何を目指しているのか分からないけど…私は最後まで応援するよ。頑張んな」

菜緒はそれだけを言うと、「行ってくるね」と家を出て行った。

「…」

一人残された朱里は、新聞を畳み、すっかりぬるくなったコーヒーを啜った。

(応援されるって…嬉しいな、なんか)

うっすらと口角を上げた。…少し照れくさくなってしまったのは秘密だ。

 

 

 

 

 

 

「おはようございます」

まだレッスンまで1時間弱の余裕があったが、あのまま家に居ても暇なので、事務所に顔を出すことにした。

「…あれ?」

事務所に入った朱里は静かな空気の事務所に違和感を感じてしまう。

(…?誰もいないのかな?)

パチンパチンと何かを叩く軽い音から誰かはいるのだと思うのだが…。

「おお、朱里君か。おはよう」

「…ああ、社長。おはようございます」

社長に挨拶をした朱里は、そのすぐ隣に見慣れない男がいるのに気付いた。テーブルの上には二人でさっきまでやっていたらしい、将棋盤と駒が置かれていた。

(誰だこの人?…お客さんかな?)

その男の見た目は50代くらいで、すらっとした体系と白髪、髭を生やしており、眼鏡とニット帽を被っている。が、その見た目にも関わらず、背筋はぴんとしており、その堂々とした様子からもっと若く見える気がする。

そんな朱里の様子に気づいた社長は、男の紹介を始めた。

「ああ、朱里君は彼に会うのは初めてだったかな?私の友人の吉澤くんだ」

「吉澤だ。よろしく」

吉澤と呼ばれた男は笑って手を差し伸べてきたので、握手をする。

「星井朱里です。よろしくお願いします、吉澤さん」

握った手はごつごつしており、いかにも男っぽかった。…何だか、親戚の叔父さんに似た雰囲気がするな。

「…君が噂の朱里君か」

「…噂?」

吉澤に品定めされるような目で見られたので、思わず警戒してしまう。そんな様子の朱里に吉澤は「そんなに警戒するな」というような顔をする。

「星井美希と星井朱里。君たち2人の噂は高木から聞かされていてね。律子君と音無君が悩むほどの逸材ってね」

…そんな期待、あまりしてほしくはないんだけどな。姉だけならともかく、まだまだ学ぶことが多い朱里はあまり周りから期待されるのがどうも苦手だった。

「いえいえ。そんなことありませんよ。毎日が勉強で、ついていくだけで精一杯ですから」

吉澤のお世辞に朱里はやんわりと対応する。

「はは、謙虚なことはいいが、あまり度が過ぎると嫌味に聞こえてしまうぞ?」

「あはは…」

一応、ついていくので精一杯なのは本当なんだけれどな。そう笑うと、朱里はテーブルの上にある将棋盤に目を移した。駒の減り具合と配列から、かなりの接戦を繰り広げていた。

「へえ…いい勝負してますね」

「…ほう、朱里君は将棋のルールが分かるのかい?」

「大体は分かりますよ。打ったことはあまりないですけど」

そしてその後、社長と吉澤の対局を見ながら、三人で色々な話をした。事務所の雰囲気はどうだとか、みんなとは上手くいっているのか。…何だか三者面談をやっている気分だった。

意外にも朱里は社長と吉澤と本音で話し合っていた。いつもなら話を誤魔化したり、嘘をついたりしてしまうのだが、今回に限り、それはなかった。

(…同性と話せるってこんなに楽なものなんだな)

異性と話すとなると、色々気を遣わなくちゃならないので少し苦手だが、同性なら話は別だ。それに久しぶりに年上と話したのが嬉しかったのかもしれない。

(…考えてみれば、小鳥さんより年上なんだよな、自分)

自分は女子中学生の皮を被った三十路の男だから、年齢が二十代後半の小鳥よりも年上という恐ろしいことになっている。そのことが原因で同年代の子と話がかみ合わないなんて事例も結構あるし、話を合わせるのにも気を遣うし。…小鳥がこのことを知ったらどんな顔するんだろう?

「…朱里君、そろそろレッスンの時間じゃないのかい?」

「…!」

壁に掛けてある時計を見て、朱里はギョッとした。時間が押している。そろそろ事務所を出ないと確実にレッスンに間に合わなくなってしまう。…結構話し込んでいたんだな、自分。

「じゃあ、とりあえず失礼します。色々と話せて良かったです」

「はは、こんな爺の話を聞いてくれてありがたいねぇ」

「そんなことありませんよ。…ありがとうございました」

笑顔でそれだけを言い、朱里は慌てて事務所の階段を駆け下りていった。

 

 

 

 

 

 

「…いい子じゃないか、高木。アイドル時代の律子君を思い出すよ」

「はは、私もそう思うよ。あの生真面目さは候補生時代の律子君そっくりだ」

2人っきりの事務所で、吉澤と社長は少年のように笑った。…きっと律子本人が聞いたら、怒りそうだな。「私は生真面目なんかじゃありません!」って。

(…最初は心配だったけれども、あの様子じゃ事務所にも馴染めているようじゃないか)

朱里は時折、年相応の対応をしないことがある。同年代の子と比べて、あまりにも出来過ぎている性格の為、当初はビックリしてしまったほどだ。あまりにも大人すぎる、それが社長、高木順二朗が星井朱里に抱いた第一印象だった。

その為、どこか心配だった。彼女はまだ子供だ。誰にでも『他人行儀』で『大人』な接しかたをする朱里は周りからの重圧でいつか潰れてしまうんじゃないか…そう思ってしまったのだ。

人間とは脆い生き物だ。荷物を背負い過ぎるとその重さに耐えられずに潰れてしまう。その為、社長は『絆』を大切にする。一人じゃ背負いきれない荷物も、2人なら、3人ならどうだ?…大勢の人間が助け合い、支え合う。きっとそうすることで、互いの絆は深まり、高みも目指せるのではないか…それが高木順二朗の持論だった。

…そのおかげどうかは分からないが、この一月で朱里はどこか丸くなった気がする。先ほどの話の時も作り顔じゃない、本当の笑顔を自分たちに見せてくれた。

(彼女たちの才覚が花開く時が楽しみだ…)

美希と朱里がデビューし、その時に大勢の前で輝く日を社長は心待ちにしている。

ここで吉澤が一つの質問をぶつけてきた。…どこか小さな声で。

「なあ、高木。お前はあの事について後悔してしないのか?お前なら今のやり方にこだわらなくても十分に…」

「…何を今更言うんだ。私は後悔などしていないさ」

その回答に吉澤は何とも言えない顔をした。…社長の過去を知っている分、余計につらい。そしてそのことを知っているのは、自分たちを含めたごく僅かの人だけだ。

社長は背広の胸ポケットに仕舞ってある一枚の写真を取りだし、しみじみと眺めた。そこには若き頃の社長と吉澤、そしてかつて同僚だった男の3人の姿が映っていた。

「…私は自分のやり方を信じるさ。たとえどれだけ時間がかかってもね。彼女たちはそれをきっとやってくれる」

「…そうだったな。変なことを聞いてすまなかった」

「何、構わんよ」

吉澤は帽子を深くかぶり直すとタバコに火をつけた。タバコを吸わない社長を気遣い、横を向いて煙を吐く。

社長はその写真に写っている男を眺めた。それはかつて共に仕事をし、共に笑いあい、すれ違いから道を分かち合った男であった。

(…黒井、私は確かに失敗した。だが、私はそれでも信じたいんだ。『孤高』などではなく『信頼』こそがトップアイドルに必要な物なのだと。…お前は笑うかもしれないがね)

社長の心の声は誰にも聞こえることはなかった。…それを誰かに言うつもりもなかったが。




高木社長と黒井社長の因縁の詳細は公式で明らかになっていないんですよね。どうやら高木社長が過去に犯した何らかの悲劇が原因らしいのですが…。
アイマスSPでそれらしい伏線こそありますが、自分が知る限りでは、その伏線が明らかになるシーンがない気がしますし。
そこはファンのご想像にお任せしますということなのかな?謎のままにしておいた方が返って、魅力につながるのかもしれませんしね。…でもその謎が知りたいというジレンマもある。難しいですね。


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第13話 黄金週間の過ごし方 その6最後の休日

朱里の身長体重などの詳しい身体データは詳しく設定したほうがいいんでしょうかね?


連休最後の日は、雲一つない快晴であった。もう桜のシーズンも終わりが近く、道端には桜の花びらが散らばっていた。

本当なら季節の変わり目を目に焼き付けながら、ゆっくりと歩きたいのだが、残念ながら今の自分たちにはそんな余裕はなかった。

(…最悪だぁぁ!!)

朱里と美希は全速力で街中を走っていた。…朝っぱらから全速力で走るなんていつ以来だろう。

「あふぅ…とっても眠いの」

「寝るな、姉さん!遅刻するぞ!!」

眠い目をしながら大きいあくびをする美希を一喝する。

が、朱里もそれにつられそうになり、慌ててあくびをかみ殺す。よりによってゴールデンウィーク最終日の今日に寝坊してしまうなんて。

この連休中に行ったレッスンと自主練で知らないうちに疲労が溜まっていたらしく、今朝は自分が無意識の内に目覚ましを止めてしまったらしい。美希も同じように、連休中の長い睡眠時間の感覚が元に戻らなかったらしく、二度寝をしてしまったらしい。

そのため菜緒が2人を起こしてくれなければ危うく二度寝してしまうところだった。

…朦朧とする意識の中で、「そういえば今日は午前午後とレッスンが入っていたなぁ」ということをぼんやりと思い出した瞬間、朱里の眠気が吹っ飛んだ。

時間が切迫している状態で慌ただしく準備をし、2人そろって家を飛び出した時には、既にギリギリの時刻になっていた。

そして今にいたる。連休最終日とあってか人通りは多く、思ったように進めない。二人は人々の合間を縫って、レッスンスタジオまで走っていく。

本当なら事務所に寄ってからスタジオに行きたかったのだが、それをしてしまえば本当に間に合わなくなってしまう。…事務所にいるであろうアイツに渡したいものがあるんだけどな。

スタジオのすぐ近くにある郵便ポストの横を過ぎ、習慣で腕時計に目をやる。

(…ヤバい!!)

その途端、背中に嫌な汗が出る感覚がした。既にレッスン開始まで2分を切っている。私服からジャージに着替える時間を考えると、もう一秒の余裕もない。

レッスンスタジオの窓を見ると、見知った何人かの姿が見えた。

亜美真美はこちらに気付いたのか、2人そろって「時間がない」といわんばかりに腕時計を指差す仕草をする。春香は、「急いで」とグルグルと腕を回す。雪歩は手を組んで祈っている姿が見える。

(言われなくても急ぐよ!!)

2人は正面玄関に入り、一気に階段を駆け上がって、スタジオ内に飛び込んだ。

「…セーフ?」

朱里は息を切らしながら、スタジオ内にいるメンバーに尋ねた。

「アウトよ、2人とも。30秒オーバー」

そんな僅かな希望は冷たい一言で無残に砕け散った。

…目の前には、ジャージ姿で腕を組み、仁王立ちで立っている律子の姿があった。心なしか、彼女のこめかみには青筋が浮かんでいる気がする。

「…り、律子」

まるで死刑執行直前の絶望しきった囚人のような顔で美希は呟いた。…顔にはだしていないが朱里もそんな気分だった。

「さんをつけなさい、美希。しっかし、美希だけならともかく、朱里も揃って遅刻なんてね…」

「…ごめんなさいなの」

「ごめんなさい」

…ごめん一つで済む問題じゃないんだけどな。頭を下げながら朱里は自分の迂闊さを呪いたくなった。事故や怪我で遅れるならともかく、寝坊で遅刻なんて一番やっちゃいけないミスなのに…。

「…と、いうわけで連休最後の今日は今まで以上にビシビシしごくからね!特に!遅刻してきた2人は覚悟しておきなさいよ」

律子は鋭い視線を朱里と美希に向けた。…まるで獲物を見つけた狩人のような視線に思わず身震いがする。

ゴールデンウィーク最終日のレッスンは、こうしてスタートした。…ちなみにこの練習で美希と朱里が徹底的にしごかれたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

「「あかりっちのバカ!!」」

「…本当にすまん」

朱里はファミレスの椅子に座りながらしょぼくれていた。まさか一回りも年下の中学生に説教される日が来るとは。

午前のダンスレッスンが終わった後、朱里と亜美真美は近くのファミレスで昼食を取ることにした。ハードなレッスンで食欲は無いに等しかったが、午後からはボイトレが控えている為、何か腹に入れておかないと体力が持たない。

朱里は憂鬱な気分で注文したパスタを頬張った。…半分くらいしか喉を通らないかもしれないけど、とりあえず食べなければ。

ちなみに美希は春香と雪歩と一緒にコンビニで昼食を買いに行った為、ここにはいない。先にあっちに行って食べるそうだ。

「律ちゃんを怒らせるとマズイって分かっているはずじゃん!おかげで巻き添えになっちゃったし…」

「おかげで今日の律ちゃん、超機嫌悪かったし!それもこれもみーんなあかりっちとミキミキのせいだからね!」

「…本当にごめん」

律子はレッスン指導の時、指の角度やしぐさなどかなり細かいところまで指導をいれる。その軍隊並みの厳しさから、彼女を「鬼軍曹」と呼び、恐れるメンバーは決して少なくない。

朱里もレッスン初日にその片鱗を見ていたから覚悟はしていたものの、今日のレッスンはレッスン初日の内容がお遊びに見えるほどきつかった。…自分たちが遅刻してしまった影響が響いているんだろうな。

「ごめんですんだらニューヨーク・ポリス・デパートメントはいらないんだよ!!」

「…ここ、日本だろ?」

真美の理不尽なツッコミに呆れつつも、弱弱しくしか返せない。

(今回は全部自分たちが悪いからな。反論する余地がない…)

今回ばかりは10対0で完全に自分が悪い。朱里はすっかり縮こまって、2人の愚痴を聞くしかなかった。その姿は、数日前、2人に説教した時の凛々しい態度が微塵も感じられない。

「普段なら絶対にしないんだけどよ…本当にごめん」

…なんとも情けない言い訳だ。一回りも年下の中学生にこんなことを言う日がくるなんて。自分で言ってて何だが、恥ずかしくなる。

「言い訳はいいよ→!我々はあかりっちに損害賠償をよ→きゅうする!!」

「あー、どこかに真美たちにデザートを奢ってくれる優しい優しい女の子はいないかなー?」

2人は春香が困ったときに良くする仕草の一つである、こめかみにひとさし指を差し、両目を右上に向けて「のヮの」といった顔をする。

(…その眼はあれか?デザートを奢れと言っているんだな? )

…数分後、朱里は折れた。というか折れざるを得なかった。何故なら2人は「奢るまではここから動かないぞ」といった態度でいたからだ。…このままの硬直状態では埒が明かない。

「…分かったよ。デザートくらいなら一つ奢ってやる。それで機嫌を直してくれ」

「「やった→!!」」

朱里の言葉を聞いた二人は呼び鈴をならし、ウェイトレスに注文する。

(…あいつら、一番高いデザート頼みやがったな)

数分後、ウェイトレスが運んできた大きなパフェを見ながら、恨めしそうに二人を見る。自分が頼んだ品とパフェ2つ分の値段は、痛い出費だった。財布に入っている所持金の半分が吹っ飛んでしまうという現実を、苦々しく受け止める。この出費は自分への罰だ、そう考えよう。

「あーおいしい!やっぱりレッスン後に食べるパフェは最高だね!」

「うんうん!タダより高いものは無いって言うしね!!」

「「ぬっふふふ~!」」

2人の見事にシンクロした笑い声を聞きながら、朱里はもの凄く腹が立ったが、何とか堪えた。…あの笑いには、この間の説教の仕返しの意味も含まれているんだろうな。そう感じながら、パフェを美味しそうに食べている2人を眺めた。

「「…あげないよ!」」

「いらないよ」

再びシンクロした双子の声にツッコミを入れた。…まるで保護者になった気分だった。実際、それくらいの年齢差があるのだけれども。

 

 

 

 

 

 

今日のボーカルレッスンは、いつものように全体練習は控えめに、個別指導が重点に行われていた。

「春香ちゃん?今の部分、声が張り上がっているから気を付けて」

「…う、分かりました」

ボイストレーナーは優しくも厳しさが含まれた声で、春香を指導する。

(…優しそうだけど怖いんだよな、この人)

765プロの歌唱関係を担当するボイストレーナーは幼稚園の先生のような穏やかな雰囲気を持っていたが、その大らかな外見からは考えられないほどの厳しい指導をすることで有名だった。その厳しさは『鬼軍曹』と呼ばれている律子に匹敵するんじゃないかと思うくらいだ。

(自分も随分しごかれたもんな…)

目の前でしごかれている春香の姿を見ながら、ぼんやりとそう思った。朱里がトレーナーを苦手とするところは、優しい口調の中に厳しさが混じっていることだった。中途半端に混じっている優しい声色で厳しく指摘されると、普通に怒られるよりも心に突き刺さる。いっそ怒鳴ってくれたほうが気が楽になるのではないか、と最近思う。

「じゃあ次は朱里さん。前に来て」

お、春香の練習が終わったのか。

朱里は小走りで前まで移動する。

「それじゃあ、この前のおさらいから始めましょうか」

「はい」

(背筋を曲げずに姿勢はまっすぐ…と)

2日目の自主練で得た知識を思い出しながら、姿勢をしっかりとしたものにする。…うん、準備完了だ。

「じゃあまずは…この音を出して」

ポーンとピアノを鳴らす。この音は少し高めだから…こうだな。

「あ~」

「じゃあ、この音は?」

「あ~」

「じゃあこれは?」

「あ~」

朱里は、自分の出した声に聞き耳を立てる。…心なしか、連休前より上手く出せている気がするのは自分の気のせいだろうか?

(…やっぱり自主練で声出すコツを掴んだのが大きいな)

練習の成果がしっかりと出ていると嬉しい。特にボイトレは苦手な分野だったから、喜びもなお大きい。

(…考えれば、ひと月前は楽譜すら読めない状況から始まったんだよな)

楽器なんてリコーダーくらいしか触れたことがなかった朱里は、ちゃんとした音楽の楽譜になんて触った経験もなかった。その為、音階や簡単な記号すら読めないという素人以前の状況からのスタートだった。…あの時のトレーナーの反応がもの凄く酷かったのを忘れられない。悪目立ちという意味で、派手な挨拶をかましてしまったしな。

そのため、朱里が使っている楽譜には細かいメモやマーカーで引いた線がかなり入っている。…ここまで楽譜に書き込んで、汚くしているのは、事務所の中でも自分だけだろうな。

「…うん、基礎の部分はしっかりと出来ているわね。この前とは見違えているほど上手くなっているわよ?」

トレーナーは嬉しそうに言った。…どうやらその反応から、かなりいい線までいっているらしい。

「…まあ、コツを少し掴みましたからね。バッチリですよ」

上手くいった高揚感からか、朱里は少し調子に乗った発言をしてしまった。…その発言をトレーナーは聞き逃さなかった。

「…あら、そこまで言うのなら、難しいレベルに行っても大丈夫よね?」

…余計なこと言わなきゃよかった。朱里は数秒前の自分の発言に後悔した。

 

 

 

 

 

 

「…で、2人の様子はどうでしたか?」

律子は事務所での業務を終えた後、その足でボイストレーナーを訪ねた。…その理由は歌唱力での美希と朱里の実力を聞きたかったのだ。

「ええ。美希ちゃんも朱里ちゃんも伸び方が凄いですね。ひと月前まで素人なのが嘘みたいです」

朱里は素人が故に余計な先入観がない。その為、かなりのペースで技術を得ているのだ。更に本人の真面目に取り組む姿勢がそれに拍車をかけている。

美希も妹の朱里がいるおかげか、真面目な姿勢でレッスンに取り組んでいる。

「ダンスの方はどうなんですか?今日は律子さんが指導していたんですよね」

「…私のメニューについてこられるだけで驚きですよ。最後の方なんて、とても候補生にやらせるレベルじゃありませんでしたしね」

午前のレッスンのラスト30分。遅刻してきた2人にお灸を加えるという意味でメニューの質を高めたのだが、朱里は最後まで食らいついてきた。美希も倒れそうな様子だったが、姉の意地があったのかもしれない、倒れずに何とかついて来た。

その光景を見た律子は顔にこそ出さなかったが、内心では驚きの感情でいっぱいだった。…まさか食らいついてくるとは思わなかったのだ。

(…とんでもないのが入ってきちゃったわね、本当に)

…もう彼女たちは候補生のレベルにいる必要もないかもしれない。そろそろ上のレベルに行ってもいい時期に入っている。

「…2人の初オーディションの日も近いかもしれませんよ」

律子は嬉しそうに笑った。

(…二人とも合格させた社長の英断は間違いじゃなかったのかもしれないわね)

そう思いながら、律子は窓の外を見た。5月、新たな若葉が芽生える時期…か。…まるで美希と朱里みたいだ。

(さあて、私もあの子たちを見習って頑張んないとね)

律子は体を伸ばし、気合を入れる。

…こうしてゴールデンウィーク最終日は終わりを迎え、新たな始まりを迎えようとしていた。




本当なら伊織の誕生日関連のエピソードをこの回に入れたかったのですが、どうしても筆が進まなく、泣く泣くカットせざるをえませんでした。…伊織ファンの皆様、大変申し訳ない!
さて、長かったゴールデンウィーク編が終わり、次回からはいよいよオーディションに向けた物語が始まります。…アニマスのエピソードに戻れるのはいつになるんだろう?


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第14話 女の痛みと膝枕

連休明けの学校は、みんながみんな連休中の話題に花を咲かせており、いつも以上に騒がしかった。朱里のクラスも例外ではなく、連休気分が冷めていない一部の男子たちは紙礫を投げ合っており、収拾がつかないほどの大騒ぎと化している。

だが朱里は周りの騒ぎに関心を払わずに、まるで石像のように身じろぎもしないで、自分の席に突っ伏していた。

(…痛い)

朱里は鈍い痛みを発している腹部をゆっくりと擦る。そんなことをしても痛みは消えないが、擦らずにはいられなかった。

(…久々にきついのが来ちゃったなぁ)

そう、朱里は現在、女性特有の悩みである、「生理痛」に悩まされていた。朝起きた時から腹部に鈍い痛みが延々と続いており、自分が女であることを突きつけられる気がする現象だ。

「…朱里さん、大丈夫?」

と、前方から声が聞こえた。突っ伏していた顔を上げると、如何にも心配そうな様子の少女が立っていた。

「…あ、おはよう。名瀬さん」

名瀬と呼んだ少女に向けて、軽く手を上げて挨拶をする。

宗方名瀬。メタルフレームの眼鏡とポニーテールの髪型が特徴の少女だ。特に親しいという訳ではなかったが、席が隣ということもあってか、何かと話す機会が多い少女であった。…身内である美希を除けば、学校内で一番親しい生徒は彼女ではないだろうか?

「…顔、真っ青よ? 何か悪い物でも食べたの?」

「…そうじゃないんだよ」

朱里は薄ら笑いを浮かべながら、名瀬に見えるように子宮部分を擦った。…その行動でピンときたのか、彼女の声量が潜めるように変わる。結構デリケートな問題だからか、名瀬なりに気を遣ってくれたのかもしれない。

「…もしかしてあの日?」

朱里はこくりと頷いた。途端に同情するような声色に変わる。

「うわぁ…きついのが来ちゃったの?」

「ここまで酷いのは初めてだよ。今まで軽いのばかりだったから、余計に辛い」

朱里はげんなりした顔をする。…男の記憶があるのに女の体験をするのは地獄以外の何でもないと、今回の生理痛で再認識せざるを得ない。

普通の女性の場合、薬を飲んでも生理痛が治まらなくて辛いという人が多いと聞くが、朱里の場合は比較的軽めの場合が多かった。薬を飲まなくても平気だったし、かなり軽い腹痛のみで終わってしまうケースがほとんどであった。

…が、今回の場合は例外だったらしく、今まで体験したことのない痛みが朱里を襲っていた。その痛みはまるで強めのボディブローを延々と喰らってるような感覚で、1周目では体験したことのない類の痛みだった。

「…保健室行く?」

「いや…いい。頑張って耐えてみる」

ちょうどその時、教員が教室に入って来たので、朱里は会話を区切って教科書とノートを出した。名瀬は心配そうな顔で「無理しないでね」とだけ言って、隣の席に座った。

 

 

 

 

 

 

最近の朱里は変わった気がする。宗方名瀬は隣の席にいるクラスメイトを見るたびにそう思うことが多くなった。

口では上手くは説明できないのだが、どこか身に纏っている雰囲気が少しだけ柔らかくなったような、今までの彼女とはどこか違うような気がするのだ。

最初にその変化に気付いたのは、新学期が始まってから2週間辺りが経った頃だった。

部活も休みな為、早めに帰宅するために1階に降りた名瀬は、朱里と美希が一緒になって歩いている光景を見た。離れていたので会話の内容までは聞き取れなかったものの、まるで仲が良い姉妹のような光景に名瀬は違和感を感じざるを得ない。

(あれ? 朱里さんってお姉さんと仲が悪かったんじゃ…?)

…何故なら、美希と朱里、この2人の仲があまり良くないことは校内でも有名だったからだ。どっちかというと、妹の朱里の方が姉の美希を一方的に嫌っていると言ったほうが正しいかもしれない。

そのためか、「容姿が可憐で学校のマドンナである美希に妹の朱里は嫉妬しているのでは」など無責任な噂も流れる始末だ。…その噂の中には「星井姉妹のどちらかは血が繋がっておらず、本当の姉妹じゃないんじゃないか」など冗談でも言ってはいけないような物もあった。

…しかし、それらを裏付けるようなことがあるのもまた事実だった。

まず、朱里は美希の妹とは思えないほどの正反対な性格をしている。まるでこの世に生まれたことをずっと後悔しているとでも言いたそうな顔つきをしており、たまに笑うようなことがあっても哀しそうに笑うだけ。その姿はくたびれた老人のようで、初めて会ったときは見た目よりも10歳は老けて見えた。…確かに本当に血が繋がっているのかと疑う人が出てくるのも無理はないのかもしれない。

更に去年までの朱里は、どこか美希との接触を避けるような行動が目立っていた。美希に捕まらないように授業終了のチャイムが鳴ったら、逃げるように教室を出ていたし、朱里があてもなく学校を彷徨する姿を名瀬は何回も見ていた。

…どうしてお姉さんを避けるような行動をとるのか、聞きたい衝動に駆られることもあったが、何だか聞いちゃいけないような気がして、触れるのはやめておいた。

そんな朱里がどうしてお姉さんと一緒にいるんだろう? 名瀬がそう思ってしまうのも無理はなかった。

(…春休み中に、お姉さんへの蟠りが消えたの、かな?)

そして一度そんなことを気になり始めたら、不思議と朱里を意識するようになってしまう。

今行われている授業の最中でも、名瀬は授業の内容そっちのけで朱里を観察していた。

(…こうして見るといつもと変わらないように見えるけど)

朱里は授業の内容を真面目に聞き、黒板に書かれた内容だけでなく、さらりと言ったようなこともノートにしっかりと書いていた。

(…あ、笑った)

教師が言った下らないギャグに口を緩めて笑う朱里の姿が見えた。…やっぱり以前の朱里とはどこか違う。以前なら、冗談の一つにすら反応しなかったのに。笑うとしても、哀しい表情しかしなかった朱里が少しだけど、楽しそうに笑っている。

(…何かがあったんだよね? そうじゃなきゃあんな顔するわけが…)

朱里の顔を眺めながら、ぼんやりとそう思う名瀬だった。…彼女が朱里の変わった原因を知るのはまだ先になりそうだ。

 

 

 

 

 

 

「痛ぅっ…」

朱里は学校が終わった後、事務所へとやって来たが、生理痛が治まることはなかった。好物のコーヒーを飲んでも痛みが引くことはなく、鈍い痛みに苦しげな顔になってしまう。…今日はレッスンが入っていなくてよかった。こんな状態じゃまともに受けることも難しいかもしれない。

「…朱里ちゃん? どこか調子悪いの?」

朱里の隣に座って、ファッション雑誌を読んでいたあずさが心配そうな顔でこちらを見てくる。朱里は顔を少し歪めながら答えた。

「いえ、病気じゃないんですけど、体調は最悪で…」

「…」

あずさは数秒間思考を巡らせてから、朱里が苦しんでいる原因に気付いたのか、ピンときたという顔になる。

「…大丈夫? つらいんだったらお薬あげるわよ?」

…流石はアイドル最年長。こういう対応一つでも大人の優しさが見える。

「いえ…多分、ゆっくりしていたら大丈夫だと思いますから」

「…そう?」

「ええ、心配かけてすいません」

だが、朱里の予想をあざ笑うが如く、生理痛が引く傾向は全く見えなかった。むしろ段々と激しさを増している気がする。ソファに身を預けて、気分転換に雑誌を読んでいても、鈍い痛みのせいで集中力が欠け、内容が一文字も頭に入ってこない。

(…これは流石にヤバいかもしれない)

目を押さえながら朱里は思った。生理でここまで酷くなったのは初めてだ。…これが後、数日続くのか。とてもじゃないけど耐えられそうにない。

「朱里ちゃん」

「…はい?」

突然、凛とした声を発したあずさに思わず反応してしまう。

「無理しなくてもいいのよ?」

「…無理なんてしていませんよ」

「…嘘つかなくても大丈夫よ?」

あずさはさっきよりも強めに言い、少し腰を屈めて覗き込んで来た。その威圧感がある行動に朱里は後退った。まるで悪戯した生徒を叱る教師みたいにあずさは詰め寄ってくる。

「何でも抱え込んじゃうのは朱里ちゃんの悪い癖よ。もっと誰かに頼ってもいいんじゃない?」

するとあずさは赤子に触れるようにそっと朱里の右手を掴む。

「朱里ちゃん、ここの所ずっと頑張っていたものね。だからきっとお休みしなさいって言っているのよ」

そう言うと、あずさは朱里の体をぎゅっと優しく抱きしめた。

「それに…体も周りの人にもっと頼りなさいって言っているのかもね?」

朱里はどうやって逃れようかと思考を巡らしたが、結局その方法が思い浮かばなかった。むげに振り払うのもためらわれて、そのままの体勢でいることにする。

(…誰かに甘えるなんて随分久しぶりのような気がするかも)

あずさにぬいぐるみのように抱きしめられているうちに、不思議な気分になっていることに気付く。錯覚かもしれないが、鎧のように固く凝っていた痛みが少しだけほぐれていくような気がするのだ。まるでひび割れた大地に恵の雨が降り注ぐかのように。…恥ずかしい話だが、いつまでもこうしていたい気分だった。

「…あずささん」

「なあに?」

「…もう少しだけ、こうしていていいですか?」

「ええ、いいわよ」

「…すいません」

それだけを言い、そっと目を瞑った。目を瞑ると、すぐに暗闇が押し寄せてきて、朱里は眠ってしまった。

 

 

 

 

 

 

「うっうー! おはようございまーす!!」

今日のレッスンが終わったやよいは、疲れを感じさせないほどの元気な声で事務所へと入っていった。こういうパワフルで可愛らしい所も彼女の魅力であろう。

「あっ、やよいちゃん」

やよいが入って来るのを見たあずさは「静かにして」というように、ジェスチャーをする。

「?」

いまいち状況が読み込めないやよいは頭に?マークを浮かべて、首を傾げる。が、あずさの膝元を見た時、それを理解する。

「あっ…」

あずさの膝元には、ちょこんと頭を膝に乗せ、俗にいう膝枕の体勢で寝息を立てて眠っている朱里の姿があった。

「…お昼寝してたんですか、朱里ちゃん」

お昼寝、という言い方もまたやよいらしい。

「ええ。だからあまり騒がないでね?」

「はい、分かりました!」

「…声、大きいわよ?」

「す、すいません…」

あずさのツッコミに、「あうう」と恥ずかしげな反応をするやよい。…どうしてこの子は一つ一つの動作がこんなにも愛おしいのだろうか。あずさは自然と笑みが漏れる。

やよいは足音を忍ばして歩き、向かいのソファへと座り、そっと朱里の顔を覗き込んだ。その寝顔は普段の凛々しさや大人っぽさはどこにも見えず、年相応の女の子の顔をしていた。

「うわー、朱里ちゃんが眠っている姿なんて私、初めて見ました」

「…美希ちゃんは良く眠るんだけどね。朱里ちゃんの寝顔は初めてかもしれないわね」

あずさはふふっと笑い、朱里の頭をそっと撫でる。朱里は気持ちよさそうに寝息を立てた。…まるで小動物のようだ。普段見せないような反応にあずさは面白がってしまう。

(…どっちがお姉さん?と思うこともあるけど…やっぱり朱里ちゃんも女の子なのよね)

時々、本当の姉妹に見えない時もあるけれども、あの2人は似ていないようで似ているのだ。やっぱりそこは血の繋がった姉妹なのだろう。…例えば、こんなにも可愛い寝顔とかは姉妹そっくりだ。

(…2人揃って寝ている姿もいつか見てみたいわね)

この調子では朱里が起きるのはまだまだ時間がかかるのだろう。でも、朱里のめったに見れない顔を見続けるのも悪くないかもしれない。そう思うあずさだった。




作者は男性なので、「女の子の日」の詳しい痛みは分かりません。その為「ありえねーよ」ということがあるかもしれませんが、ご了承ください。
また今回の話に出てきた少女、宗方名瀬(むなかたなぜ)はアイドルマスターXENOGLOSSIA、通称「ゼノグラ」に登場したキャラです。ゼノグラでは成人していたキャラでしたが、この小説内では朱里のクラスメイトという設定になっています。
…今後もゼノグラのキャラがチョイ役で出ることがあるかもしれません。


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第15話 舞台は始まる

お気に入り数1400突破! みなさん、ありがとうございます。


裏方の仕事とは地味だが重要な役割を持っている。決して日には当たらない仕事だが、表舞台に立つ人間を支えるには欠かせないものである。そういう意味ではアイドルのプロデューサーという職業ほど、裏方という言葉が似合うものはないと思われる。

それぞれの個性にあった仕事を選ぶことやスケジュールの調整だけでなく、体調管理など、アイドルたちが常に万全の状態でいられるようにすることも大切な仕事だからだ。

「小鳥さん、この資料のチェックお願いします」

「あー、そこに置いておいてください。もうすぐ今やっている仕事、終わりますので」

765プロもその例に漏れず、裏方の仕事は重要だった。特に765プロの場合、所属アイドルの多さと裏方に回れる人間の少なさもあってか、他の事務所以上にこの仕事は重要だ。

「プロデューサーさん。さっきの資料、どこに置きましたか?」

「机の脇に置いてありますよ。青いファイルの奴」

「…あ、これですね」

机の脇に置いてあるファイルを小鳥はひょいと取る。

「…最近、少し忙しくなりましたよね」

プロデューサーは呟いた。ようやく職場にも慣れてきた時期にやらなければならない仕事が増えるのだから、彼も大変らしい。だが、そんなことを考慮してくれるほど、世の中は甘くない。

「ふふっ、それだけ皆が頑張っているってことですよ」

「…そうですね」

プロデューサーはそう言うと、ペンを動かすのをやめて、壁に掛けられているホワイトボードを見た。

各アイドルたちのスケジュールが書き込まれているホワイトボードは、少しずつだが黒いマーカーによる書き込みが増えていた。今までは1週間に一度、レッスン以外の予定が書いてあればいい方だったが、徐々にそれも増えてきている。それに比例して、裏方の事務処理の仕事も増えていた。アイドルたちの仕事が増えるのは嬉しいことだし、これくらいで根を上げてはいけないのだけれど。

「やっぱり宣材効果があるんですかね?」

「ええ。先行投資した甲斐がありましたよ」

小鳥は笑った。宣材の撮り直しのせいで、社長室の金庫の中身が多少寒いことになっているが、そのおかげでオーディションや仕事が増えるようになったのだから、結果オーライというべきかもしれない。

「さあてと。そろそろ昼食食べに行きません?」

「え、もうそんな時間なんですか?」

昼食という単語に反応して、プロデューサーは慌てて腕時計に視線を落とす。時刻はもうとっくに正午を過ぎていた。

「…まだ結構残っているんだけどな、仕事」

時の流れの速さにプロデューサーは落ち込んでしまう。彼はもうこんな時間なのか、といった様子の表情をしていた。

「…私も手伝いますから。頑張りましょう?」

小鳥は優しく微笑み、事務作業へと戻った。プロデューサーも働く小鳥の姿を見て、慌てて止めていたペンを動かす。

…どうやら彼を一人前と呼ぶにはまだまだ先の話みたいだ。小鳥はどこか頼り気のないプロデューサーの姿を見ながら、そう思った。

 

 

 

 

 

 

ゴールデンウィークが終わってから、朱里と美希のレッスンの難易度は一段階上がった。よりステージを意識したレベルへと変わり、指導するトレーナーの厳しさもまた一段階上がった。

「朱里ちゃん?今のジャンプの所、高く飛び過ぎ。もう少し低く飛ばないと次の動作が遅れるわよ」

「…う、分かりました」

「あと、表情! 時々、苦しそうな表情をしているわ。お客さんにそんな顔見せるつもり? 常に笑顔を意識して」

「…気を付けます」

生理で痛む腹部を擦りながら朱里は答える。数日前、事務所で寝てしまった後、あずさから生理痛を上手く和らげる方法をいくつか教えて貰い、それを実行したものの、相変わらず生理痛の鈍い痛みは続いていた。一応、レッスンが行えるまで体調は回復したものの、どうも不調だった。

「じゃあ、同じ所を美希ちゃん、やってくれる?」

「分かったなの!!」

朱里のレッスンを見学していた美希と交代して、朱里はへろへろと床へと座る。乱れる呼吸を押さえながら、朱里は自己分析を始めた。

(…ビジュアル面がどうも、な。ダンスとボーカルは自信があるんだけど)

トレーナー曰く、アイドルに求められる要素は主に3つあるらしい。

その3つとは『ボーカル(歌唱力)』『ダンス(踊動力)』『ビジュアル(ルックス)』である。

ボーカルは正確に歌う技術や声量などの上手さ、ダンスはリズム感や的確にポーズを決められる上手さが求められる。

この2つは朱里自身、自信があった。連休中の自主練で得意とするメンバーから技術は盗み、それを上手く活かせているからだ。特にボーカル面は自分自身、結構いい線を行っているのではと思っている。自主練2日目のメンバーの反応から、悪くはないらしいし、ボイトレの時もこの前とは見違えているほど上手くなっていると言われていたし。

だが3つ目の要素であるビジュアル。この分野は朱里が苦手とする所だった。いや、苦手というか自信がないと言えばいいのかもしれない。そして、美希のポテンシャルが遺憾無く発揮され、自分との才能の違いを感じさせてしまうのもこのビジュアルだった。

ビジュアルとは容貌・スタイルの美しさや自分をより良く見せるための表現力・演技力・演出力などが求められる技術だ。ある意味、アイドルとして活動するには一番重要な要素といってもいいかもしれない部分である。

朱里は演技力や表現力だけなら自信はあった。これは普段の生活の中で女性として演技をせざるを得ない状況が多く、周りに溶け込む演技を繰り返していくうちに自然と上達してしまった為である。

だが、これを踊りながら、歌いながら行えとなると話が変わってくる。複数の事を同時に行う場合、どうしてもどれかがおろそかになってしまうからだ。…こればかりは練習を繰り返して、自然に出来るようにしていくしかない。

(…やっぱり凄いよな、姉さん。あの才能が羨ましい)

朱里はそう思い、可憐に踊る美希の姿を視線に捉える。

美希は朱里が先ほど注意された表情の部分をしっかりと行い、それを自分なりにアレンジしながら踊っていた。その光景に朱里はため息をつかざるを得ない。

(…姉さんの場合、あれが素で出来るから凄いんだよな。もうチートレベルだ)

美希の場合、相手を引き付ける表情や仕草、細かな手や指の動きなどアイドルに求められるビジュアル技術の数々が無意識で出来てしまうのだ。しかも無意識で行うそれでちゃんと結果を残せてしまうのだから恐ろしい。現にトレーナーは美希の踊る姿に文句ひとつ言わない。きちんと出来ている証拠だ。

そんな美希の姿を見せられるたびに自信がなくなってしまう。「本当にアイドルとして通用するのか」と途端に不安が押し寄せてくる。「自主練までしたのに自分は姉に追いつけていないのでは」とも感じてしまう。

…まあ、これは天性のプロモーションとセンスを持っている美希と比較した場合である。そもそもアイドル候補生としてデビュー出来た時点でそれなりの容姿はある為、朱里のビジュアルは壊滅的に酷いという訳ではない。

また朱里のビジュアル技術は既に候補生レベルを超えており、アイドルとしてやっていけるほどに習得はしているのだが、その事に朱里自身が気づく事はなかった。身内に凄まじいほどの実力者がいるが故の弊害だった。

(…当面はビジュアルの底上げ、だな。姉さんの技術も参考にしなきゃな)

そう思いつつ、姉の細かな仕草の観察を続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

「おはようございまーす」

「あふぅ…おはよう、なの」

レッスンが終わり、朱里と美希は疲れる体を引きずって事務所へと帰って来た。美希は疲労困憊といった顔で、大きなあくびを一つした。…あれだけ可憐なダンスが出来るのに、スイッチが切れた途端にこれか。朱里は眠そうな顔をしている姉の姿からレッスン時の姿と今の姿のギャップを感じ、少しだけ笑みがこぼれる。

「…あら、2人ともお帰りなさい」

帰って来た2人に気付いたのか、律子が机から顔を上げて、挨拶をしてくる。事務所内には既に誰も居らず、一人で残業でもしていたのかもしれない。

「お疲れ様です、律子さん」

「お疲れ~、律子」

朱里はいつも通り挨拶を交わすが、美希は手をひらひら振りながら適当に挨拶を交わす。…相変わらずというのか、どうも我が姉は目上の人に対する態度がいまいちだ。ひと月前に教えた礼儀作法は美希の頭からすっかり消えてしまっているらしい。…また叩き込まなければならないのだろうか?

「…さんをつけなさい、美希。あと手の動きもいらないわ」

律子はこめかみを揉んだ。どうやら自分と同じことを律子も考えていたらしい。

「…そうだ、ちょうどいい所に来たわ。2人とも、ちょっと来て」

ちょいちょいと手招きをして律子は2人を呼び出す。心なしか、どこか顔がにやけている気がするのは気のせいだろうか?

「…どうしたんですか、律子さん?」

怪訝そうな表情で朱里は答えた。何故律子は笑っているのだろう?

そんな疑問を抱いていた朱里だが、次の律子の発言で、その理由が分かった。

「…決まったのよ、あなたたち2人のデビューオーディションが!」

「「…! 本当ですか(なの)!?」」

その発言に驚いたのか、朱里と美希は同時に大声を出した。

「ええ、本当よ。その証拠にちゃんと主催者側からの書類もあるわ」

はい、と律子は通勤カバンから2つの書類を取り出し、印籠のようにかざして2人に見えるようにしてくれた。

(…本物、だよな?)

細かいことは読み取れなかったが、堅苦しい文章と押された判子から偽物とは思えない書類だった。…ということは本物なのか、これ。

「まずは美希!」

「はいなの!」

ビシッと律子に指を刺された美希は、元気に手を上げる。もうすっかり眠気は吹っ飛んでしまったらしい。

「美希は1週間後、新人アイドル向けのオーディション『ルーキーズ』に出てもらうわ」

1週間後って…またえらい急な話だな。

「まあ、今の美希の実力なら、合格ラインはとっくに超えているわ。この1週間でオーディション用の対策を十分にすれば、よほどのことが無い限り落ちはしないわね」

「本当なの!?」

「私が嘘ついてどうするのよ…。あなたはいつも通りにしていれば大丈夫よ」

律子は優しく言った。…まあ、美希姉さんなら1週間もあれば大丈夫だろう。あの『鬼軍曹』がここまで断言しているのだから、かなりいい線は行くはずだ。

「で、次に朱里。あなたは2週間後に控えているオーディション『シンデレラガールズ』に出てもらうことになるわ。これも『ルーキーズ』と同じく、新人アイドル対象のオーディションだから、そんなに肩を張らなくても大丈夫よ。今のあなたなら十分通じる実力を持っているから、自信を持って」

「…はあ」

そんなこと言われても、いまいち信用できない。本当に今の実力でオーディションに通じるのだろうか?

「…まあ、朱里の場合、期間は美希の倍近くあるしね。ゆっくり対策をしていきましょう」

律子は「詳しい話は明日にします」と言って会話を切り上げた。更に「体調管理は今以上にしっかりしておくように」と釘を刺された。…多分、自分に向けて言ったんだろうな、律子さん。

 

 

 

 

 

 

「えへへ、律子があんなに褒めてくれるとは思わなかったの!」

「…あんまり油断していると足元をすくわれるぞ? 姉さんはもうちょっと気を引き締めた方が…」

「もう!朱里は細かいこと気にしすぎ! 美希的には、もっとのんびりしていた方がいいと思うな?」

「それが出来るのは姉さんだけだよ…」

帰り道、美希はオーディションに出れる興奮が冷めないのか、あれこれ朱里に話していた。朱里は逆に緊張気味で、美希の能天気な発言に呆れていた。…こういう時、マイペースな美希の性格が羨ましい。自分の場合、どうしてもあれこれ余計なことを考えてしまうからだ。

「それに、朱里は美希の妹だから絶対に合格できるの! だからもっと胸を張っていいと思うな」

「…何だそりゃ」

美希のよく分からない理論に朱里は笑いながら、歩を進めた。朱里のデビューオーディション『シンデレラガールズ』まで残り、2週間。




きれいな小鳥さんも好きだけど、腐っている小鳥さんも私は好きです。
…つまりは私は小鳥さんが大好きなんですね。


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第16話 月下の贈り物

朱里と美希がオーディションに出場することが決まり、レッスンもオーディション対策用の物へと変わっていった。

オーディション本番で使用する曲のそれの振り付けなど覚えることは山ほどあり、今まで以上に忙しい日々を過ごしていた。流石の朱里も肉体的にも精神的にも疲労を感じ始めていた。そして、その疲労と共に襲い掛かってくるプレッシャーもまた、朱里を悩ませていた。

オーディションは何がどうあってもやり直しがきかない一発勝負だ。「これだけやったのに、当日上手くいかなくて、失敗したらどうしよう」というプレッシャーが、朱里の心と体を無駄に重くしていく。律子は「肩の力を抜け」と言ったが、何しろ初めてのオーディションなのだ、緊張するなという方が無理な話だ。

この間もその無駄な疲労のせいで、学校の授業で一時間丸々、睡眠に費やしてしまい、隣の席の名瀬に怪訝な顔をされてしまった。…眠っていた理由は適当に誤魔化したが、名瀬はどうも納得してなさそうだったが、余計な心配をかけたくなかったのでそれで通すことにした。

更に朱里以上に酷いのは美希だ。オーディションまでたった一週間しかないので、1分1秒も時間を無駄に出来ない。いくら才能があるからといっても、オーディションまで1週間という急行スケジュールは流石にこたえるらしい。レッスンが終わったら疲労困憊であることも珍しくなく、帰路につくときも夢遊病状態で8割方寝ながら歩いていることもあった。危なっかしい事この上ないので、朱里は帰る時は絶対に一緒にいたし、美希から目を離さないようにしていた。

「朱里、調子の方はどうなの?」

ある日、美希と朱里はそんなことを話しながら帰路についていた。ここ最近はレッスンが一緒のことがなかったし、家でもあまり会話がなかったから、久々の互いの現状確認ということなのだろう。

「…ぼちぼち、かな? 今は細かい所を直しているけれど。…姉さんの方はどうなの?」

「美希はね、早く踊りたいって感じかな! 早くキラキラしたいの!!」

ある日、そんなことを話しながら美希と朱里は帰路についていた。

(姉さんのほうの仕上がりは順調…なのか)

美希はもう準備万端と言わんばかりに体調も精神も最高潮の状態で、しっかりと自分をコントロールできていた。晴れ晴れとした顔と自信満々な態度からそれが物語っている。

その事実が余計に朱里を焦らせてしまう。美希は自分より準備期間が短いのにも関わらず、最高潮の状態でいるのに、自分はまだまだの状態。

(…こんなんで、本当に受かるのか?)

朱里はリラックスしている美希とは対象に言い知れぬ不安に駆られていた。このままでいいのか、と。

…そんな朱里の様子に残念ながら気づく人は誰もいなかった。恐らく、朱里本人でさえも。

 

 

 

 

 

 

そんなこんなであっという間に数日が過ぎ『シンデレラガールズ』本番まで残り10日を切った。美希も『ルーキーズ』本番を2日後に控え、最後の調整に入っていった。

「もう10日を切ってしまった」か「まだ10日近くもある」と捉えるかは人それぞれだろうが、朱里の場合は前者を捉えていた。

(しっかりと出来ているはずなのに、何で…)

朱里がオーディションで使用する曲『READY!!』の大まかな部分は出来ていた。ダンスの方も最後まで踊りきれるし、歌の方も歌詞を完璧に覚えて、しっかりと歌えている。…が、朱里の現在の状況は芳しくない。

何故なら、直すべき細かい問題点が多く、それを見つけては修正を繰り返している状態だからだ。しかも、その問題点のほとんどが苦手なビジュアル関係であり、それが余計に焦りを募らせる。

「顔が曇っているわ! もっと笑顔を自然に!」

トレーナーの声が部屋中に響く。

(…分かっているよ、何回も言わなくても)

トレーナーの指摘に、思わず心の中で愚痴る。もう何回目か数えるのも忘れてしまったほどの同じ指摘だ。その指摘が朱里の余裕と思考を鈍らせていく。

「あっ…!」

しまった、と思った時にはもう遅かった。朱里は自分で自分の足を引っかけてしまい、派手に転んでしまった。ビジュアル部分を意識するあまり、ダンスステップが疎かになってしまったのだ。

(…くそ)

朱里は悔しげに顔を歪ませる。笑顔でいようとすればするほど他の部分が疎かになってしまう。どうしても上手く踊れる美希の姿が脳裏にちらついてしまう。

「…朱里ちゃん、今日はここまでにしましょう」

「…大丈夫です。まだいけますよ」

朱里は少しムッとした。まだ自分は動けるのに、どうして切り上げるんだろう。不思議で仕方なかった。

「もう2時間もレッスンしているのよ? これ以上の練習は認めません」

「…けど」

トレーナーは朱里に反論の余地も与えなかった。

「けどじゃありません。これは命令です。まだ本番まで1週間ちょっとあるんだから、焦りは禁物です。ここで無理して、体調を崩したら元も子もないわ。直す所はゆっくり直していきましょう」

…結局、朱里は折れた。あれから少し粘ってみたが、トレーナーの態度が目に見えて冷たくなったので、退散せざるを得なかったのだ。

 

 

 

 

 

 

さて、あれから朱里は大人しくトレーナーの言うことを聞いただろうか?…答えは否だ。

朱里はレッスンが終わって、事務所に報告しに行った後、近くの公園でこっそり自主練をすることにした。無茶をするなというトレーナーの命令を無視してしまったことに多少の罪悪感があったが、それでも練習することを止めることが出来なかった。もっと悪い状況に陥ってしまいそうで、怖かった。

朱里は不安で不安で仕方なかった。1周目で散々行った就活とはまた違った怖さと緊張感がそこにはあった。

朱里は勉強などの分野はまだ自信があった。何故なら自分が1周目で培った経験があるからだ。所謂「強くてニューゲーム」という状態である為、中学に至るまでほとんど勉強しなくてもテストで高得点はキープできていたし、仮に勉強するにしたって周りの子たちよりも遥かに少ない量だった。その他にも、箸の持ち方や自転車の乗り方など周りが苦労するであろう出来事も一切の苦労もなくできた。大した努力をしなくても、「なんとなく」で今まで過ごせていた。それは周りの子たちよりも長く生きていることによる「経験」と「一度出来ているから」という自信が働いていた結果である。

…でも、今回のオーディションは違う。勉強とも就活とも違う、自分が今まで全く経験のしたことのない分野に初めて飛び込むのだ。最初は「楽しい」と思えたそれも、先日、ふと感じた美希との実力の差がこの数日間の間に「本当に大丈夫なのか?」という疑惑へと変わっていった。

そして一度そんなことを思ってしまったら、芋蔓式に、次々と不安が押し寄せてくる。本当に1カ月くらいのレッスンで周りに通用する実力があるのか、本番で失敗するのではないか、そもそも男であった自分にアイドルなんて務まるのか…。

(…それがたまらなく怖いんだよ)

そんな不安を振り払うように朱里はがむしゃらに練習に打ち込んだ。身に降りかかるプレッシャーを克服する方法を、朱里はそれ以外に知らなかった。

 

 

 

 

 

 

それからどれくらい動いていたのだろうか。ふと気がつくと辺りがとっぷりと日が暮れていることに気がついた。空には小さな星々と綺麗な月が姿を現しており、すっかり遅い時間になったのだということを教えてくれる。

(…暗いな。今、何時くらいだ?)

朱里はジャージの裾で額の汗を拭い、バックに閉まってある携帯で時刻を確認しようと、のろのろと歩き出したその時だった。

「星井朱里?」

不意にかけられた声に、朱里は思わずびくっとした。喉元まで出かけた声を何とか呑み込み、朱里はゆっくりと顔を上げて、声が聞こえた方向へと顔を動かす。

数メートル離れた公園の入り口で、貴音の姿があった。

「あ…貴音さん。お疲れ様です」

朱里は頭を下げて、挨拶を交わした。…いったい彼女は何時の間にそこにいたんだろう?全然気づかなかった。

「…申し訳ありません。覗くつもりはなかったのですが」

そう言うと貴音は申し訳なさそうな顔をした。…どうやら貴音は朱里の自主練を覗いてしまったことを気にしているらしい。

「…大丈夫ですよ」

朱里は短くそう答え、近くのベンチに腰掛けた。貴音も朱里が座る姿を見て、隣に腰掛ける。

「…今までずっと鍛錬をしていたのですか?」

鍛錬という単語を日常生活で初めて聞いた気がするな、とぼんやり思いながら、朱里は「ええ」と答えた。貴音と話していると、なんだかこっちまで堅苦しい喋り方になってしまいそうだ。

「…ちょっと不安な所があったので」

…本当はちょっとどころの不安じゃないんだけどな。心の中でそう呟いた。

「ふふ、あなたは本当に練習熱心ですね。でも無茶だけはしないでくださいね。おーでぃしょんまでまだ時間があるのですから」

そう言うと貴音は笑った。…オーディションって言い方が片言だったな、横文字苦手なのかこの人?

「…私が言いたいことはそれだけです」

…貴音はそれだけを言うと、黙ってしまった。2人の間に静寂が生まれ、それが辺りを支配していくような雰囲気が生まれる。

(…この人は本当に何をしにここに来たんだ?)

朱里は不思議でならなかった。貴音は朱里に何かするということはなく、隣に座って、頭上に浮かんでいる月をジッと見つめるということだけを行っていた。

…ただ、朱里はあまり自分に突っかかってこない貴音の態度がとてもありがたく感じた。今の自分の状態で「頑張れ」だの「緊張するな」など、あれこれ言われると余計にストレスを感じ、プレッシャーが生まれてしまうからだ。何も言わずに自分の隣に座って、そばにいてくれている。貴音の一歩引いた行動がとてもありがたく、暖かく感じられた。

(…この人になら、言ってもいいかもしれない)

朱里は自分の心が落ち着きを取り戻していくのをしっかりと感じていた。それと同時にこの胸の奥にしこりのように渦巻いている重苦しい思いを誰かに聞いてほしいという感情に捉われる。

以前の自分なら、こんな行動を取る事なんてありえなかった。「自分は周りと違うから」と捻くれた思いを胸に抱え、鬱憤をため込んでいた。周りの人間は勿論、姉である美希にすら弱みを見せたことがなかった。だって「魂は男で外見は女」なんて人間、この世界で恐らくは自分一人だけだから。女であるはずの姉さんに絶対に理解何てされるはずがないから。

…でも、この間の生理痛の時、自分はあずさの言葉を受け入れ、弱さを見せた。

『…もう少しだけ、こうしていていいですか?』

無意識の内に自分はあずさを頼った。あずさに抱きしめられた時、とても心が暖かくなるのを感じた。その時、はっきりと感じたはずだ。たまには誰かに頼るのも悪くはないのかもって。

「…私、オーディション用の対策が上手くいっていないんですよ」

朱里はわざとなんでもないことのように打ち明けた。…そのような言い方をしたのは、面と向かって言うのは恥ずかしかったからだ。

貴音は少し黙り「そうですか」とだけ言った。

「姉さんは短い期間であれだけ上手く仕上げているのに、私は全然ダメで。トレーナーにも休めって言われて。でも練習していないとますます怖くなってしまって…」

まるで決壊したダムのように、朱里は色々と貴音に打ち明けた。自分は本当にオーディションに出てもいいのか、美希よりも劣っているのではないか…色々な弱みや心配事がそこにはあった。

「星井朱里」

そして、それらを打ち明け始めてから、何時ぐらい経っただろうか。貴音がすっと手を上げて朱里の言葉を遮り、こう言った。

「…恐れないでください」

貴音の口調は、安心させるような穏やかなものだった。

「あなたはこの事務所の誰よりも熱心に鍛錬を積み重ね、努力しています。現にあなたは誰に言われる訳でもなく、自主的に鍛錬を行っているではありませんか。それはあなたが芯に力強い自分を持っている証拠です」

貴音の言葉は続く。

「私ですら、あなたのようにその芯を信じ、努力できる人間ではありません」

「…」

「星井朱里、あなたは間違いなく強いです。あなた自身が思っているよりもずっと」

貴音はそう言うと、ぎゅっと朱里の手を握り締めた。

「それと…あなたは少し周りを気にしすぎなのかもしれませんね」

「え?」

「先ほどのダンス…動きが少し、あなたらしくありませんでした。焦りが感じられるような雰囲気でしたよ?」

「…分かるんですか?」

「ええ。動きが固く、少し迷いが見えましたから」

…この人、エスパーかなんかじゃないだろうか。朱里は反応に困ってしまう。固いとかならともかく、迷いが見えるとか、そんな漫画みたいな表現を使われても困る。

(…確かにその通りだけど)

貴音の言ったことは図星だった。レッスンの時だけじゃない、自主練の時も迷いを感じていた。

ミスをするたびに頭の中に美希が現れては邪魔をしていた。こんな動きや表現、美希ならすぐに出来るのに、どうしてできないんだろう。…その焦りが朱里の動きを固くし、朱里から余裕を削りとり、新たな迷いを生み出していた。…朱里は自分で気がつかない内に泥沼に入り込んでいたのだ。

「あなたはあなたです。確かにあなたの姉、星井美希の実力は凄まじいものがありますが、あなたも、星井美希にはないものをたくさん持っているではありませんか」

貴音は「からおけの時のあなたの歌、真に感動いたしました」と言い、言葉を続ける。…やっぱり横文字苦手なんだなこの人。

「あなたは決して美希に劣ってなどいませんよ。あなたが持つ、透き通るほどの歌声は美希のびじゅあるに勝るとも劣らない、魅力的な武器です」

「…」

朱里は貴音の述べた言葉に黙ってしまった。…やっぱりこの人は凄い。しみじみと感じた。

(…自分は自分、か)

その言葉を聞き、どこか心が軽くなった気がした。その理由は、ここ最近、美希の凄さを目の当たりにして、余裕がなかったからかもしれない。

当たり前のことだけど、当たり前だからこそ忘れていたことなのかもしれない。

自分と美希は違う。自分は自分だ。何も必要以上に美希を意識する必要なんてなかったのだ。覚えが美希よりも悪いのも、変に繊細な所も全部ひっくるめて「自分」なんだから。

(…それに自分にだって、姉さんに負けないものがあるじゃないか)

朱里は胸の奥に突っかかっていた何かがようやく取れる感覚がした。…やっぱり話してよかった。しみじみとそう感じる。

「…じゃあ、そろそろ時間なんで、失礼します」

脇に置いておった鞄を持ち、朱里はベンチから立ち上がった。…問題が解決した今、ここにいる必要はない。それに、そろそろ家に帰んなきゃ、皆心配するだろうしな。

朱里はベンチから立ち上がった後、ゆっくりと貴音を見る。

「…また相談に乗ってもらってもいいですか?」

「…私でよければ何時でも構いませんよ」

朱里の発言に、貴音は優しく笑っていた。それを見た朱里も同じように笑う。夜空に浮かぶ月もまた、そんな2人を見守るように優しく、笑うように輝いていた。

…朱里のデビューオーディション『シンデレラガールズ』まで残り、9日。




貴音の口調がめちゃくちゃ難しいです。…この小説を書くのにあたって、かなり悩むのが「貴音独特の喋り方」なんですよね。…まさしく面妖な!状態です。
ちなみに今回の主な舞台となった公園は、アニマス18話で律子が一人で「七彩ボタン」のダンス練習をしていた公園と同じ公園です。…どうでもいい情報ですね。


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第17話 準備と過去と

今回はこの人メインです。


あの夜の貴音との会話から1週間経ち、いよいよ『シンデレラガールズ』本番まで残り2日となった。

いつも通りの授業が終わった後、朱里と美希は一緒に歩いていた。朱里はレッスンスタジオに行かなければならないので、途中で別れなければならないが、2人はその間、色々と話をしていた。

「…で、朱里。調子の方はどうなの?」

「うん、だいぶいい感じ。オーディションもこの調子でいけば大丈夫だと思う」

話題は当然のことながら朱里のオーディションについてだ。美希も気を遣ってか、朱里のプレッシャーになるようなことは言わなかった。

(…姉さんに遅れないようにしなきゃ、な)

先日行われたデビューオーディション『ルーキーズ』で美希は見事に合格を成し遂げた。

『ルーキーズ』の参加者人数23人の内、合格枠はたった1つ。その23人の頂点に、美希は見事に抜擢されたのだ。朱里は残念ながら会場入りすることは出来なかった為、詳しいことは分からなかったが、プロデューサーや律子に聞いた話によると「圧倒的だった」らしい。周りの子が雰囲気に飲まれてミスを繰り返す中、美希は冷静に踊り、歌を披露したのだとか。特にビジュアル面では他者を寄せ付けないほどの凄さを発揮したらしい。

(…まあ、姉さんだからな)

朱里はその結果を聞いてどこか安心した。美希は初めてのオーディションに受かる事が出来たのだ。姉の朗報に朱里は素直に喜んだ。

…だが、オーディションに受かったということは、美希がアイドル候補生からアイドルへとランクアップしたことを意味していた。つまりは美希に先を越されてしまったのだ。

(…あれこれ必要以上に考えるのはやめよう)

朱里は首を振って、頭に浮かんだ嫌な考えを打ち消した。

自分は2日後に控えているオーディションにだけ意識を向けていればいい。余計なことを考えて、感覚を鈍らせてはダメだ。

「じゃあ、私、行ってくるね」

スタジオに続く道へと進みながら、朱里は美希に答えた。

「頑張ってね、朱里」

美希はひらひらと手を振って、それを見送ってくれた。

「…言われなくても、頑張るよ」

朱里のその言葉に、2人は一瞬の間の後、微笑みを交わした。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ最後にもう一回だけ踊ってみましょう」

「はい」

朱里はトレーナーの指示に従い、本番を意識した姿勢へと体を直す。

(焦らずに肩の力を抜いて…)

スタジオ内に流れ出した『READY!!』を聞きながら、朱里は振り付けを始めた。右手を動かしながら、前へゆっくりとステップを踏み出していく。

本番を2日後に控え、朱里は自分の調子がいいコンディションに仕上がっているのをはっきりと感じていた。

ダンスの動きもミスすることが限りなく少なくなったし、歌の方も問題はない。欠点だったビジュアルの方も時間こそかかったが、何とか期間内に仕上げることが出来た。まあ、美希と比べるといくらか見劣りはするが、それでも前のようにトレーナーにあれこれ言われることはなくなった。

それは貴音のアドバイスが朱里の行き詰っていた状況を見事に打破してくれたからだ。

『周りを見過ぎること』

朱里の優れた観察眼が逆に仇となって、他人を必要以上に意識してしまったのだ。周りとの違いが焦りを生み、朱里の動きを鈍らせていた。特に中身が男の朱里は異性の違いなどを普通以上に捉えがちなのも、余計に拍車をかけていた。

…その為、朱里は必要以上に美希や周りを意識するのをやめることにした。そのかわりに、その観察眼を自分の荒探しに使うことにしたのだ。勿論、自分で自分の荒を探すのはあまりいい気分ではなかったが、これは非常に効果的だった。

自分を見つめ、長所は何か、駄目な部分はどれか。そして短所を直すのにはどうすればいいのか。それらを見つめ、トレーナーと相談し、一つ一つゆっくりと改善していく。

それらを可能にするのに必要なのは冷静さと適度な脱力だった。その2つを取り戻した朱里は、焦りで目が曇っていたあの時とは違い、問題だった部分を一つ一つ潰すことが可能になっていたのだ。

「…はい、じゃあ今日のレッスンはここまで」

トレーナーの手拍子で朱里の意識が現実へと引き戻される。

「…もう終わりですか?」

朱里はいつもの半分以下の練習時間に戸惑いを隠せない。てっきりもっとやるとばかり思っていたのだが。

「ええ。本練習じゃないから、もう終わりよ。当日に疲れを残しちゃまずいしね」

「…なんだか不安ですね」

朱里は心配そうに呟いた。と、いうのもオーディション前日となる明日はレッスンの予定が組み込まれていないのだ。

正直な所、もっと体を動かしたいという願望があるのだが、トレーナーは朱里の言いたそうなことが分かったのか、朱里が言う前にはっきりとこう言った。

「本番前日に全力のレッスンを行わせるトレーナーなんていません」

「…その、明日も体を動かしたい気分なんですけど…」

「体を休ませるのも立派なレッスンの内よ」

ピシャリと言われてしまい、朱里はぐうの音も出なかった。

(…まあ、やるべきことは全てやったからな。休んでいて損はないか)

ぼんやりとそんなことを考えながら、朱里は自分でも驚くほどすんなりとトレーナーの指示に従うことに決めた。

この2週間で自分はやるべきことは全部やった。本番まで残り2日、この残された僅かな時間の中で自分が出来ることは、調子を見ながら体と心をほぐして、集中力と闘志を高めていくことくらいしかないだろう。

今更新しい動きを覚える必要もないし、ここで下手に余計なことをしてしまうと、せっかくいい感じで整った調子が崩れてしまう可能性もあるからだ。ここまできて、そんなヘマを犯したくはない。

「じゃあ最後に柔軟をやりましょうか」

「はい」

朱里は床へと座り、柔軟を始めた。…そう、やることは全てやったのだ。後は本番を待つだけだ。

 

 

 

 

 

 

「お疲れ様でした」

「はい、お疲れ」

トレーナーは朱里がスタジオを出て行く姿を確認した後、ふうっと息を吐いた。

(…とりあえずは直すべきポイントは全部直したわ。後の問題点は会場の空気に飲まれないかだけど…)

まあ、自分に出来ることは全部やった。後は朱里を信じるしかないだろう。

(…何だか昔の自分を見ているみたいだわ)

トレーナーはぼんやりと朱里のことを思いながら、ふと、自分の過去の記憶が蘇ってきた。

トレーナーは朱里くらいの齢に、伝説的アイドル『日高舞』に憧れてアイドルの門を叩いた。

女の子なら誰しも、スポットライトを浴びながらステージに立ち、歌を歌うアイドルに魅了されるものだ。日高舞という人物はまさしく、その女の子たちの憧れを絵に描いたようなアイドルであった。

13歳でデビューし、ファーストCDから5連続ミリオンを飛ばし、数々のヒット曲を世に残した。その他のアイドルを寄せ付けぬほどの圧倒的な実力で当時の芸能界を蹂躙し尽くすも、何を思ったのかそのままあっさりと引退。

アイドル史はおろか日本史に残るほどの超有名スターの座を不動の物とし、あっさりと引退した彼女の生き様に憧れ、トレーナーのように芸能界の門を叩いた女の子も少なくはなかった。

才能はあった方だと思う。同期の子と比べてもデビューは早かったし、持ち歌こそ少なかったが、ステージで歌ったことも1度や2度ではない。

…でも、上に行けば行くほど、厳しい現実を突きつけられた。高みを目指せば目指そうとするほど、天賦の才を持つ者とそうでない者の差がはっきりとしてくる。努力や根性では覆しきれない物の存在を感じざるを得なくなってしまう。

トレーナーは誰よりも努力し、誰よりも己を磨いた。…そんな彼女だからこそ分かってしまった。自分の実力を把握できる経験と練習を誰よりも積み重ねているからこそ、嫌でも理解してしまったのだ。

自分は日高舞のようにはなれない。アイドルとして大成することも彼女のいるような境地にたどり着くことはできないのだと。

…結局、トレーナーはアイドルを引退した。アイドルとして大成出来ない、そう理解してしまった途端、努力することは無意味なのだという暗い感情が支配するようになってしまったのだ。トレーナーは自分への失望を胸に抱きながら、芸能界から遠ざかった。

(…でも結局、私は諦めきれなかった)

その代わりにトレーナーはアイドルではない、何かそれに関わる仕事に就くことはできないか…そういう思いに捉われることになる。…彼女は自分の成し遂げられなかった夢を誰かに託してみたいと思うようになったのだ。もしかしたらそれは「トップアイドルを育てた名トレーナー」という肩書きが欲しいという不純な動機もあったかもしれないが。

(…私はダンスがもの凄く得意だから、ダンストレーナーの道に進むのも悪くはないかも)

幸いにも、頭の良さは人並み以上であることは学生生活を送っている内に判明していた。その為、自分の進路を多くの有能トレーナーを生み出した名門大学に決め、かなりの猛勉強をした。

…勿論、その道に進むのは酷く険しく、苦しかった。

大学には無事に入学できたが、周りには自分以上に賢い人なんてごろごろいたし、挫折しかけたことは何回もあった。自分が目指すのはきちんと食べていけるかも分からない職業だ、自分の選んだ道は本当に正しかったのか、それに悩むこともあった。

…しかし、彼女は夢を成し遂げた。今では多くの生徒を抱え、日々レッスンの毎日だ。この職業についてもうじき5年経とうとしているが、ようやくトレーナーとしても一人前と言えるくらいにはなっているのではないだろうか。

…そして今年の4月、トレーナーは本物の才能を持つ2人の少女に出会った。

星井美希と星井朱里。この2人の姉妹の実力は凄まじいものがあった。呑み込みの速度が異常なほど早く、僅か一月でオーディション出場を認められるほどの実力を身に着けた。これははっきり言って驚異的なことだった。

(…普通はどんなに早くても二月ちょっとはかかるはずなんだけどね)

事実、765プロのアイドルたちの初オーディション出場までの平均期間は2か月半とちょっと。最短記録保持者である千早ですら2か月という記録だ。あの2人はそれを大幅に塗り替えてしまっているのだ。…本人たちはこのことを全く知らないが。

(2人とも面白いくらいに覚えてくれるのよね…)

美希はどこかルーズな性格をしており、あまり余計な行動をするのを嫌がる子だった。一度「何度もやるのが面倒だから」という理由で、こちらのダンスの動きを見ただけで完全に覚えるという反則同然のような技術も見せてくれた。…流石にこのことに関しては開いた口が塞がらなかったが。

またルーズな性格が故に、レッスンに対するモチベーションが落ちやすくなりがちなのだが、妹である朱里がいるということでこの現象が起こることはなかった。…姉として、どこか妹にカッコいい所を見せてやりたいという可愛らしい理由があるらしいが、トレーナー側としてもありがたいことだった。

そして朱里も美希と同様かそれ以上の才能を持っていた。

呑み込みの早さは美希に少し劣るものの、常に向上を心がけて行動することでその短所をカバーしていた。本人は美希と比べてどこかいまいちだと思っているらしいけれども、素人が僅かな期間でここまでの実力を身に着けられる朱里は間違いなく才能がある。

それに最近は朱里があれこれ自分に質問しに来るのが楽しみだった。自分が言った細かい所までしっかりとノートに書き込んでくれる彼女とあれこれ話すのが面白い。

教える側としても、ここまで真剣に取り組んで実力を身に着けてくれることが楽しくて仕方ないのだ。自分が彼女の才能の開花に一役買って出られたことに、トレーナーは喜びを感じていた。

「…頑張ってね、朱里ちゃん」

トレーナーは誰にも聞こえることのないような小さな声でそう呟いた。

朱里のデビューオーディション『シンデレラガールズ』まで残り2日。




…なんで名前も分からないトレーナーさんをメインにしてしまったんだろう?
ただ、彼女の齢を考えると、きっとこういうことがあったんじゃないかな?という妄想バリバリの設定で筆を進めていました。…事実、日高舞が引退した後って相当な跡が残ったと思うんですよね。アイドルのハードルが多分相当上がってしまったのではないでしょうか?
さて、次回らへんでオーディションに行けたらいいな…。


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第18話 星が輝く時

2週間弱かかってこの内容…。お待ちになった方たちに申し訳ない気持ちでいっぱいです。


残された2日間はあっという間に過ぎ去り、遂に朱里はデビューオーディション『シンデレラガールズ』の本番当日を迎えた。

「よーし。着いたぞ」

オーディション会場の傍にある駐車場に車を止め、プロデューサーは助手席に座っている朱里に言った。朱里は「分かりました」と短く答え、着けていたシートベルトを外して、足元にあるバッグを手に取る。

…ちなみに美希の時とは違い、この場に律子の姿はない。今日は他の子の仕事の同伴で、どうしてもこっちに来ることが出来ないらしい。

その為、今日のオーディションは朱里とプロデューサーの二人だけで挑むことになる。…また、プロデューサーも先輩である律子がいない為か、変に緊張しているらしく、表情も硬くぎこちなかった。

(…プロデューサーと一緒なのはありがたいんだけど、そこまで緊張しなくてもさ)

朱里は苦笑しながら車から降り、体をほぐす様に大きく伸びをした。…なんていうのか、彼はそういう未熟な面も含めて、どこか親しみやすい気がする。

新人であるプロデューサーは律子と比べるといささか頼りない面も多いが、今日はプロデューサーと一緒で朱里は安心できていた。

何故なら魂に於いて同性である彼がこの場にいてくれることで、律子とは違った安心感があったからだ。同性である彼がいることで、少しだけだがいつもよりプロデューサーが頼りになる気がする。プロデューサーには悪いが、緊張している顔が変顔のおかげで、いくらか緊張がほぐれているし。後で写真でも取っておくかな、亜美真美あたりは爆笑してくれるかもしれない。

…まあ、ついてくるのが誰であろうと今日のオーディションを頑張るのは自分なんだけれども。少なくとも同性であるプロデューサーが一緒ということが、朱里の精神的なコンディションを更に高めてくれていた。

(うん、いい感じだ)

爽やかな空気を肺いっぱいに吸い込んで、屈伸運動を行う。屈伸を何回か繰り返すうちに、体に気力が漲ってくる感覚がする。体は昨日のうちにゆっくり休ませておいたので、疲労は全く残っていない。心身ともにコンディションは完璧に仕上がっている。

車に乗っている時に聞いたラジオでは今日の最高気温は20度、湿度は50%弱と言っていた。風は少しあり、空は快晴。5月の天候としては文句なしの晴れ日和であり、オーディションに適した天候だった。オーディションは室内で行うので、天候などあまり関係ないのだが、それでも空が晴れているという事実は朱里を少しだけ嬉しくさせた。

「それじゃあ会場入りするけど…忘れ物はない?」

車の鍵を閉めたプロデューサーは朱里に尋ねた。

「大丈夫ですよ。ジャージとシューズに着替え。全部揃っていますから」

朱里はプロデューサーに自分のバッグを掲げてみせる。昨夜何度も確認したし、今朝も家を出る前にチェックしてきたから忘れ物はなかった。

その言葉にプロデューサーは安心したのか、軽く笑ってくれた。

「…よし、じゃあ行こうか」

「ええ」

プロデューサーの微笑みと共に差し出された言葉に朱里は頷き、会場に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 

会場に入り、早速、朱里とプロデューサーは受付を済ませた。受付終了時間まで1時間以上余裕があったが、こういうものは常に余裕を持って行動するものだ。

「…はい、こちらがあなたのエントリーナンバーとなります。本日のオーディション、頑張ってくださいね」

係員の言葉と共に渡された朱里のエントリーナンバーは24番だった。…つまりは最低でも自分を含めた24人がこのオーディションに参加するという訳か。しかもあくまでもこの人数は現在の人数、もっと増える可能性だってある。

(…姉さんのオーディションの参加人数を超えちゃったな)

美希が先日参加した『ルーキーズ』の最終参加人数は23人であり、しかも自分の番号で丁度『ルーキーズ』の参加人数を超えてしまうというのは何とも奇妙な偶然だ。これが吉と出るか凶と出るか。

(…にしても、色んな子がいるな)

朱里は顔を上げて、ゆっくりと辺りを見渡す。この辺りを少し見渡すだけでも色々な少女らの様子を観察することができた。

背が異様に小さい子や女子とは思えないほど背が大きな子、自信がないのかおどおどしている子や逆に自信満々でふんぞり返っている子など、個性豊かなアイドルの卵たちがそこにはいた。…中には個性が強すぎて本当にアイドルを目指しているのか? と疑問に思うような子も何人かいたけれども。いくらアイドルだからって、あそこまでアクが強いのは良いことなのだろうか?

(…でも、アイドルを目指す真剣な思いに、違いは何もないんだろうな)

朱里は周りの子の顔つきをぼんやりと見ながらそう思った。

彼女たちがどんな立場であれ、どんな境遇であれ、この場にいる以上、一人一人に何らかの信念や目標があってアイドルを目指している。今日のオーディションの前では全員が同じスタートラインに立つしかない。

成功も失敗も自分の体一つで生み出さなければならない。…だからこそアイドルというものは楽しくて、苦しいのかもしれないけれども。

「朱里」

ふと声をかけられて振り返ると、プロデューサーが自分の後ろに立っていた。心なしか、さっきよりも顔が固くなっている気がするのは気のせいだろうか? 顔色も少し青ざめている気がする。

「初めての会場の感想はどうだ?」

「…そうですね。正直、少し怖い所はありますよ。会場も予想していたよりも結構大きいですし、参加する子も多いですし」

「まあ、正式なオーディションだからね。規模が大きくなるのは仕方ないよ」

…へえ、そういうものなのか。オーディションについては詳しくは知らなかったので、こういう情報は非常にタメになる。

つまりは今後もこれくらいの規模のオーディションを受けることは普通になる可能性が高い訳か。参加人数も20人30人が普通になるのか。朱里は頭の中のメモ帳に早速記録しておいた。

「…」

オーディションのことを説明し終えると、途端にプロデューサーは黙ってしまった。顔色もさっきと比べて、目に見えるほど酷くなっている。

…どうしてこの人はこう、要らぬ責任感や苦労を抱え込みがちなのだろうか。朱里は顔色が優れないプロデューサーを見ながら思う。

今日、頑張るのは自分の仕事。もし失敗したとしてもそれは自分の責任であり、決してプロデューサーの責任じゃないのに。彼はたとえ嘘でも、もっとどっしりと構えて貰っていたい。

「…大丈夫ですよ」

朱里は何でもないように、プロデューサーに向かって言葉を発した。…オーディション前にこれだけは言っておきたかったのだ。あなたは変に気を抱え込まなくてもいいということを伝えたかった。

「私はプロデューサーがいてくれて、安心していますから。…あなたがいてくれるから、こんなに落ち着いていられるんです」

朱里はそう言うと、軽く笑って、手を差し出した。

「だから、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」

プロデューサーは差し出した手を数秒見つめ、戸惑いながら差し伸べられた手を握った。

「…だからプロデューサーは待っていてください。私は絶対に勝ってきますから」

朱里は力強く言った。それはまるでプロデューサーだけでなく、自分に言い聞かせるような程の力強いものだった。

 

 

 

 

 

 

あれから1時間後に受付は終了し、オーディション参加者たちは本番が行われるステージまで案内された。

さっき受付の人が教えてくれた情報によると『シンデレラガールズ』の最終的な参加人数は36人。遂に『ルーキーズ』の参加人数より10人以上多くなってしまった。しかも人数が増えているにも関わらず、合格枠は『ルーキーズ』と変わらないたった1枠のみ。

(…姉さんのオーディションよりハードルが上がっちゃったよ)

ため息をつきながら、朱里はステージ脇で自分が呼ばれる瞬間を待っていた。このまま出番を待ち続けるのは恐ろしく嫌だったが、その反面、自分の番が近づいて来るのもたまらなく嫌というジレンマを味わっていた。

(…大丈夫だ、落ち着け)

朱里は心の中から湧き出ようとする恐怖心を押さえつけるように、ジャージのズボンをギュッと握った。

既に20番までの出番は終わり、今は21番の子の審査が行われている。このペースじゃ、もう呼ばれるまでそう時間もかからないだろう。待ったとしてもせいぜい十分弱くらいだろうか?

…時間がないんだ、だから我慢しろ。どんな出来事でも終わってしまえばあっという間だ。1周目で散々やった就活の時だってそうだったじゃないか。準備は恐ろしくかかるくせに、本番は驚くほどあっさりと終わってしまう。就活だってそうだったんだ、オーディションだってそうなってしまうに決まっている。

(…落ち着け、大丈夫だ)

気持ちを落ち着かせるために心の中でそう呟き、口から息を吐き出した。そしてプロデューサーと握った手をジッと見つめる。

あと数時間後にはオーディションの結果が出て、全てが終わっているはずだ。絶対に上手くいく。そのはずだ。その為にこの2週間、あれだけの練習と修正を繰り返してきたんだから。

だから本番の間だけでいい。自分が歌って踊る、たった3分ちょっとの間だけ、気力を最高潮に保って完璧にやり抜かなければならない。さもなければ受かる物も受からなくなってしまう。

朱里は気持ちを落ち着かせるために、右手を握ったり閉じたりという動きを繰り返した。

…そうだ、ここにいるのは自分だけじゃない、プロデューサーもいてくれている。一人ぼっちじゃないんだ。何を心配する必要がある?

それに、プロデューサーには勝つと断言したんだ、やれるだけのことはやってやる。

「それではエントリーナンバー24番、星井朱里さん」

…来た。自分の番号と名前が呼ばれたのを朱里はしっかりと聞きとり、手首の動作を止めた。

「はい」

質問に答える時は物おじせずはっきりと。面接の基本だ。

「では、これから審査を始めます。ステージの上にお上がり下さい」

「はい」

…いつの間にか腕の痺れは止まっていた。それを同時に心もすっかり落ち着いている。まるで研ぎ澄まされた刃みたいに、一点の曇りも感じられない。

それをしっかりと心の中で感じた後、朱里はゆっくりとステージに向かって歩いていく。そしてステージの中央でぴたりと止まり、体を前に向けた。

「エントリーナンバー24番、星井朱里です。よろしくお願いします」

ステージから数メートル離れた所にいる審査員3人にぺこりと頭を下げた。

「…はい、よろしくお願いします。では改めてあなたの名前と歌う曲を教えて?」

朱里は顔を上げて、3人の審査員を見た。今、自分の顔は他の人たちにはどう見えているのだろう? 少し気になったけど、ここじゃあ確認する手段がない。

「エントリーナンバー24番、星井朱里。歌う曲は…『READY!!』」

…さあ、舞台の始まりだ。流れるイントロに合わせて、朱里は動き出した。

 

 

 

 

 

 

空気が変わった。

朱里が踊る姿を見た瞬間、プロデューサーはそう思った。いや、彼だけじゃない、この場にいる誰もが、そう感じただろう。審査員の反応も目に見えて変わったのが分かりやすい証拠だ。

(…今まで見たことがなかったけど…これが朱里の実力か)

1週間前の美希の時と同じだ。始まった瞬間に周りを引き付けるほどの物を披露してくれる。性格は違っていても、そこは姉妹揃って同じという訳なのか。

ダンスも緊張感を感じないほどに踊れているし、ビジュアルの方も問題ない。美希のようにアドリブで本来ないポーズを入れたりすることはなかったが、それでも自分を良く見せるための技術を見せることは出来ている。歌い、踊り、美しく輝いている姿はまさしく『アイドル』といっても過言でもなかった。

そして何よりも秀でているのは、朱里の最大の武器である歌声だ。

どこか大人びて、陰がある歌声。想いを歌で人に伝える力。そして大人びているにも関わらず僅か13歳という年齢のギャップ。そこから生み出される世界は765プロ、そしてこのオーディションに参加している誰にもない素晴らしい物だった。

(同じ曲でも、ここまで…)

そしてもう一つ、プロデューサーが驚いているのは、朱里と美希は同じ曲でオーディションに挑んでいるにも関わらず、全く違う世界を作り出している事だった。

遡る事1週間前、美希のデビューオーディション『ルーキーズ』で美希は朱里と同じく『READY!!』を使用した。

何故この曲を使用したのかは分からない。ただ、美希はこの曲を使って、会場中の誰よりも輝いていた。美希の言葉を借りるのならば『キラキラ』していた。アップテンポでキャッチーなメロディーである『READY!!』は美希の雰囲気にバッチリ合っており、彼女はこれで『ルーキーズ』の合格枠を勝ち取った。

…だが、朱里の『READY!!』は美希と同じ曲にも関わらず、違いがあった。

『明るさ』が前面に押し出されていた美希の『READY!!』とは対照的に、どこか『陰り』が感じられるのが朱里の『READY!!』だった。

…勿論、ただ暗い訳じゃない。朱里の『READY!!』は陰がある中にもどこか柔らかさがあり、包まれるような落ち着きが感じられる。この手のアップテンポの曲は明るく歌ってしまうものだが、朱里はその長所を殺さず、どこか陰がありながらも柔らかい優しさが混ざっているというなんとも不思議な雰囲気を作り出していた。

美希の『READY!!』と朱里の『READY!!』。同じ歌でもここまで違うものか。

(…勝った)

プロデューサーはそう思った。

この『ルーキーズ』と『シンデレラガールズ』。この2つはアイドルの登竜門として行われているオーディションだ。そのためか、アイドルたちにオーディションというものを慣れさせるために、受かればいいといった程度の気楽さで出させる事務所も多い。

そのせいか、今回の『シンデレラガールズ』もお世辞にも上手いと言える子があまり多くはなかった。歌詞を間違えるわ、ダンスで転ぶなどのミスを連発する子も多く、審査員もしらけ始めていたのがプロデューサーでも容易に分かった。

(…朱里の言ったことは本当だったんだな)

それが朱里の実力はどうだ。例えるのならアリの群れの中に、一人だけ肉食系の動物が混じったようなものだった。比べるまでもない周りとの圧倒的過ぎる実力差。それが今回、会場中に星井朱里が見せつけてくれたものだった。必ず勝つという彼女のあの言葉は嘘でもハッタリでもなかったのだ。

プロデューサーはステージで踊る朱里の姿を曲が終わるまでずっと眺めていた。まるで彼女の始まりを目に焼き付けるようにずっと見ていた。




アニマスPは序盤はかなり頼りないんですよね。そんな彼がアイドルたちとぶつかり合いながら進んでいき、成長していく。そんな序盤の頼りげのない彼の様子が再現するのが難しかったりするんですよね。アニマスPは失敗はするけど、決して無能ではないからなぁ…。
さて、次回はオーディションの結果発表ですが…まあ、結果は分かっちゃいますよねぇ?


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第19話 その名は朱里

前回の感想を見て、興味半分で『星が輝く時』でググってしまい、新たなトラウマが一つ増えてしまった作者です。
…ちなみに前回のタイトルとトラウマの一致は全くの偶然です。…ザンボットぉ、そこまでやるかい普通?


…自分は今、周りにどう見えているのだろう? ステージの上で歌いながら踊る朱里は自分の様子が詳しく分からなかった。

多分、調子はすこぶるいいと思う。サビの部分が終わり、間奏部分をリズムよく踊りながら朱里はぼんやりと思った。

今まで歌も踊りも練習の通りにしっかりと出来ている。歌詞を忘れたり、ステップを失敗するなどのミスも起こしてはいないはずだ。現に今の自分は最高に乗っている。ダンスもリズムに乗って、踊れている。歌も同じだ、しっかりと出来ている。…ただ、ビジュアルだけが分からない。自分が今、どう見えているのか分からないからそこだけが不安だ。

(…大丈夫さ。自分は歌えている、そのままでいいんだ)

朱里はそう逡巡し、笑みがこぼれた。

朱里の現在の唯一の持ち歌である『READY!!』。

この曲は『準備』や『始まり』をテーマにしている。アイドルとしてデビューしようとする自分にとって、これほど望ましい物はないだろう。

…そしてもう一つ、朱里自身がこの曲から感じたこと。それは『2周目の人生の始まり』『星井朱里の始まり』ということだった。

この世界の戸籍に記載されている名前「星井朱里」は、自分の本当の名前とは似ても似つかないものだ。この世界では当たり前だが、1周目の自分の名前を誰かから呼ばれることはなかった。誰もが女の子『星井朱里』として呼び、『星井朱里』として接する。…それが当たり前のことなのだが、朱里にとってそれは、とても寂しくてつらいことだった。

望んでもいないのに2周目を始められたこと、本当のことを家族にも打ち明けられない孤独、そしてなによりも性別が変わってしまったという絶望感。…それら全てが朱里を苦しめていた。周りの人たちに勉強や作法など褒められても、ちっとも嬉しくもなかった。そうじゃない、と叫びたかった。

…だって、自分はただ周りの子よりも長く時間をかけているだけなんだ。特別なことなんてやってない。それよりも望んでもいないのに無理矢理2周目の人生を始めさせられた気持ちがあんたらに分かるのか?

(…でも、ここからなんだ)

でも、ここからだ。この1月半。短すぎる時間だが、その密度は今まで過ごしてきたどの月日よりも濃密で楽しかった。

(…そう、姿が変わっても、自分が過ごした経験や記憶がなくなった訳じゃない。自分は自分。星井朱里なんだ)

…だからここから始めよう。『自分』から『私』を始めよう。その始まりを歌おう。

アイドルになって、新しい自分を始めること。それをこの『シンデレラガールズ』から始めよう…。

 

 

 

 

 

 

そして、朱里のアピールは終わった。

息切れを起こしながら、朱里は天井を仰ぎ見る。喘ぐようにして空気をむさぼり、気持ちを落ち着かせようとした。

(…とりあえずは終わったんだよな?)

辺りに曲が流れていないので、終わったのだろう。それにより、朱里の思考が緩やかに戻っていく。それまで抱えていた緊張が解けていくのを感じながら、朱里は息をゆっくりと吐いた。…うん、大丈夫だ。もう終わったんだ。もう何も怖くはない。

グルリと辺りを見渡すと、晴れやかな内心とは打って変わり、会場内は水を打ったようにしんと静まり返っていた。…どうかしたのか?

やがてその中の数人が、唖然とした表情のまま、ヒソヒソと囁く。

「…ねえ、あの子誰?」

「765プロって言っていたけど…どこの事務所よ? 聞いたことないわよ?」

…周りの皆さんの反応が思っていた以上に変な空気だ。耳をすませば、ステージ脇に控えている子までヒソヒソしているみたいだ。

(…どうしたらいいんだろう?)

もはや朱里の行動の一挙手一投足に注目するほど、衆目が集まってしまっている。おかげで朱里は迂闊に動けないくらいに追い詰められている状況だ。この状況に審査員も反応してくれない。…本当にどうしたらいいのだろうか?

「…ほ、星井朱里さん。あなたの出番は終わりました。早くステージから降りてください」

「…あ、はい。ありがとうございました」

朱里は審査員に向けてぺこりと頭を下げた。色々あったが、退出する際は挨拶を忘れてはならない。これも常識だ。

「は、早くしなさい」

審査員に急かされるように言われ、朱里はステージを降りた。そしてそのまま朱里は居た堪れない空気から逃げるように早歩きでその場から離れた。

 

 

 

 

 

 

「…」

あの後、すぐに朱里は更衣室へと逃げ込み、ジャージから私服へと着替えた。短時間しか着ていないのにも関わらず、ジャージは汗でびしょびしょだった為、このままの状態でいるのが気持ち悪くて仕方なかったのだ。…緊張したから、変な汗でもかいてしまったのか?

そして更衣室のロッカーに放り込んでいたバッグを抱え、朱里は受付を行ったロビーにあるベンチに腰かけて、物思いに耽っていた。

(…何か変な気分だな)

朱里は凝った首筋をグルリと回して、辺りを見渡した。…まるで、タイムスリップしたような感覚だ。受付をしてからまだ2時間ちょっとしか経っていないはずなのに、あれから丸一日以上の長い時間が経過したような妙な感覚を味わっていた。もの凄く長い時間が経過したような気がするのに、この場は相変わらず、同じ時間が続いていた。

朱里はチラリと廊下の方へと意識を向けた。…あの廊下の向こうには数分前、自分がいた会場がある。誰かの歌う声が聞こえるので、きっとまだオーディションはやっているはずだ。

自分が終わった時点での残り人数は後12人。それが終わると合格発表が行われる。…誰かが一人だけ受かり、それ以外の全員が落ちるのだ。

「…」

朱里はごくりと唾を飲み込んだ。

完璧は期したつもりだった。出せるものは全部出しきったと思うし、それを審査員に伝えることは出来たと思う。だが本当に、何も手抜かりはなかっただろうか。本当にプロの目から見て、自分の実力は合格ラインに達しているのだろうか…?

あれこれ考えても結果は変わらないのだが、やはり終わってしまうと別の不安が出てきてしまう。

「…ここにいたのか」

聞き覚えのある声に顔を上げると、目の前にはプロデューサーが立っていた。そこでようやく朱里はプロデューサーを置いて勝手に移動してしまったことを思い出した。

「…すみません。勝手に出ちゃって」

「いや…俺もどうしたらいいか分からなかったからしょうがないよ。あのままあそこに居たって嫌だもんな」

そう言うと、プロデューサーは「とりあえずはお疲れ様」という言葉と共に隣に座った。朱里も「お疲れ様です」と言って、ベンチの上で姿勢を変えた。

「…その、私の歌、どうでしたか?」

聞くのが怖い質問だったが、あえて朱里はプロデューサーに尋ねてみた。

「…うん、その…すごく良かったよ」

プロデューサーは微笑みながら、頷いてくれた。プロデューサーのその反応から、自分のパフォーマンスは結構良かったみたいだな。

何だか照れてきたのか、朱里は「ありがとうございます」と言って、微笑む。誰かに自分の実力が認めて貰えたのが、たまらなく嬉しかったのだ。

それから二人の間には会話はなく、ただ時間だけが流れていった。朱里もオーディションの結果が気になったし、プロデューサーもプロデューサーで何か思うことがあるらしい。

会話が再開されたのは、それから数分経った頃だった。

「何か飲み物でも買ってくるよ。何がいい?」

プロデューサーは何でもないように朱里に質問した。朱里はプロデューサーに奢らせるみたいなのが嫌だったので、返答に迷ったが、プロデューサーの気持ちに甘えて答えておいた。

「…そうですね。じゃあ、コーヒーで」

「分かった」

数分後、プロデューサーは缶コーヒーを買ってきてくれた。味は普段から好んで飲むブラックではなく、飲みなれない微糖であったが、疲れを感じている今はこの味の方がありがたい。偶然か故意かは分からないが、プロデューサーの選択に感謝したくなった。

プルタブを起こして、缶の封を切り、中身を一口で煽った。コーヒーが食道を流れ落ちていく感触を味わいながら、ゴクゴクと飲み続ける。

…そして飲み終わると、自然に吐息が漏れた。頭の芯が疲労しきって、色々な物事がごっちゃになって渦巻いている気分だからか、この少し甘い微糖の味が体に染みる。

(…後もう少しで結果が分かるのか)

空になった缶を弄りながら、朱里はそう思った。コーヒーを飲んだのにも関わらず気分が落ち着かない。むしろ逆に気持ちが高ぶっている気がする。

…どうしてなんだろう?

 

 

 

 

 

 

場所は変わって765プロ。いつもならソファで寝息を立てているか、皆とあれこれ話しているかのどちらかの行動をする美希だが、この日は違った。

まるで迷子になった子供のようにあっちこっちをウロウロし、しきりに携帯を見つめている。表情も明るくなったり暗くなったりとコロコロ変わり、落ち着きが感じられない。

「…落ち着きなさい、美希」

とうとう美希の行動に耐えきれなくなったのか、ソファに座っていた千早はイヤホンを耳から外し、苛立ち混じりの声で発言をする。

「…ごめんなさいなの、千早さん」

一応美希は謝るが、3分も経たない内に、またあちこちをウロウロし始める。

「美希! 落ち着いて!!」

今度は明らかに怒気を含んだ声色で美希に注意する。

「まあまあ千早ちゃん」

千早の怒号に、慌てて千早の傍にいた春香が手で制した。

「美希が心配なのは私だって分かるよ。美希にとって朱里ちゃんは仲間である以前に家族なんだから。それに初めてのオーディションなんだもん、気になっちゃうのは仕方ないよ」

「それは…」

「千早ちゃんだって朱里ちゃんの結果、気にならない?」

春香は笑みを浮かべながら、千早の隣に座った。そして上目遣いで千早をジッと見つめる。

「…気に、なるけど」

「ね? だからあんまり怒らないであげようよ」

春香はそう言うと立ち上がり、美希の傍に駆け寄った。

「でも、そこまで心配なの? 朱里ちゃんなら全然余裕で合格できると思うんだけど」

「それでも心配なの! 朱里は美希の…たった一人の妹なんだもん」

美希は春香の問いにそう答え、携帯を開いたり閉じたりを繰り返す。どうやら朱里からの連絡がないか気になるらしい。

「本当は美希も行きたかったのにな…。プロデューサーも律子もケチなの。一緒に付いて行っちゃダメなんて…」

「ふーん、誰がケチだって?」

「そんなのプロデューサーと律子に決まっているの!」

…あれ? ここで美希はようやく違和感に気付いた。さっきまでいなかったはずの声の存在と、目の前にいる春香が「もうやめておけ」と、必死に身振り手振りで忠告をよこしているのを。そしてこの恐ろしい声を自分はつい最近、聞いた気がするのを。

「…」

ギギギ…と首を動かして美希は後ろを見た。

「悪かったわね…ケチで」

そこには氷のように無表情で立っている鬼軍曹、秋月律子の姿があった。その声も底冷えがするほど冷たく、恐ろしい。

「あ…」

「私がいない間に随分好き勝手言ってくれたじゃない?」

「な、何で律子がここに…?」

「偶々仕事が早く終わったから帰ってみれば…大声で私の悪口を言ってくれて…」

ぶつぶつと呟く律子にヤバいと感じたのか、美希は目で助けを呼ぶが、誰も助けてはくれない。…流石に怒った律子を敵に回すほど、765プロの面子は愚かな行動を取るほど頭は悪くはないらしい。

「こんの…バカ美希ー!!!」

「ご、ごめんなさいなのー!!」

この日、765プロに大きな雷と怒鳴り声が落ちた。その声は事務所どころか、ビル全体に聞こえるほどの大声だったという…。

 

 

 

 

 

 

さて、姉が大変な目にあっている事など知ることもない朱里は、プロデューサーと共にオーディションの結果発表を聞きに、ステージに戻っていた。

「大丈夫さ、朱里は合格している」

待ち時間中、プロデューサーは自信満々にそう言ってくれたが、やっぱり怖い物は怖い。

…だからさっさと結果を言ってくれ、審査員。変に待たせるな。心の中で朱里は文句を垂れた。

…そして、ようやくその時が来た。マイクを持った審査員の一人が、ステージに上ったのだ。その手には審査の結果が書かれているであろうメモがあり、それをうやうやしく開く。

その動きで、いよいよ結果発表の時が来たのだと、集まったものたちは悟った。彼女たちの表情は期待と不安を宿したものであった。

「…では、本日行われた『シンデレラガールズ』の合格者を発表します」

…来た。朱里は両手で拳を作って、審査員から言われるであろう番号と名前を聞き逃さないように聞き耳を立てた。

「本日、参加人数36人の中、栄えある合格者は…」

…もったいぶらずにさっさと言ってくれ、焦らされるのは嫌いなんだ。

「エントリーナンバー24番、星井朱里さん! おめでとうございます」

空耳だと思った。自分は聞き間違えたのではと一瞬、思った。

だが、隣にいたプロデューサーの声を上げて両手を空にあげている光景を見て、これが間違いではないのだと認識する。

「合格した朱里さんはこの場に残ってください。それ以外の人は帰ってかまいません」

結果発表はあっさりと終わり、審査員はステージを降りていった。

(…受かった、んだ)

そして、プロデューサーが朱里の手を握り、微笑む。

「朱里! おめでとう!!」

「…勝ったんですよね、私」

「ああ! これで朱里もアイドルデビューだ!!」

「…はい!!」

そして朱里はその瞬間、これまでに味わったことがない気分の真っただ中にいることをはっきりと感じた。

目もくらむような安堵、努力が報われた達成感。そして輝かしい勝利の感覚。それら全てが混ざり合った感情の大波に全身を揺さぶられている気分だった。

星井朱里。前世はただの一般男性で、今は13歳の少女で765プロのアイドル候補生。

そしてこの日、朱里はアイドルとしての一歩を踏み出したのだった。…紛れもない自分の意志で。




はい、というわけで朱里は勝っちゃいました。
当初の予定では美希だけが受かり、朱里は落ちてしまうという予定だったのですが、さすがに可哀想だったので変更になりました。…やっぱり最初は圧勝しないとね。
…ただ、ずっと勝ちっぱなしというわけではありません。本編中に必ず一つは負けイベントは入れる予定です。時期は何時かは分からないけれども、相手は…恐らくは奴らかな?


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第20話 動き出すこと

更新が不定期になりがちで申し訳ありません。頭の中ではおおまかなシナリオは出来ているのに、文字に表わすことが難しい…。
更新ペースが速い人の腕前がうらやましいです。


朱里のデビューオーディションである『シンデレラガールズ』を劇的な勝利で収めてから5日が過ぎ、5月も終わりに差し掛かった頃。

『シンデレラガールズ』が終わり、朱里はようやく長く続いた緊張感から解放された気分であったが、まだもう一つ重要な課題が残されていた。それはある意味、オーディションよりも重要な課題であり、本文ともいえる物…中間試験が残っていたのだ。

(…ま、元々手を抜く気はないんだけどさ)

少なくとも、朱里はこの中間試験は手を抜くということは全く考えてはいなかった。

ここで少しでも成績を落としてしまえば、せっかく勝利で収めた『シンデレラガールズ』に画竜点睛を欠いてしまうといった思いに捉われていたからだ。普段から上位の成績を収めている朱里は多少成績が下がっても痛くはないのだが、下がってしまったことの理由に「アイドルのオーディションで忙しかったから」という言い訳をしたくはなかった。『シンデレラガールズ』で劇的な勝利を収めたからこそ、締めに控えている中間試験もしっかりと終わらせる義務がある、と感じたのだ。

それにここで成績を落としてしまったら、ゴールデンウィーク中に双子に説教したセリフが途端に胡散臭くなってしまう。オーディションの締めるという意味でも自分の発言に責任を持たせるという意味でも気は抜けなかった。

試験の前半は曇天や雨が続いて、ただでさえ鬱陶しい気分を増幅させてくれたが、打ち上げとなる最終日は全ての厄介ごとからの解放を祝うかの如く晴天だった。

「…うわぁ、ここ間違っている」

隣の席の名瀬は最後の科目の答えを教科書でチェックしながら、しきりに悲鳴を上げていた。…とは言っても、名瀬の成績は基本的に平均点以上がほとんどであり、名瀬本人も少し悲観主義的な所があるので、どこまで信用できるが分からない。今は悲観的な態度をとっているけれども、いざ帰ってきたら成績はそれなりにいいという光景を朱里は何度も見てきた。

(…多分、出来は良いと思うんだけど)

そんな名瀬を眺めながら、朱里は自分のテストの出来を思い出していた。

少なくとも、どれかが絶望的に悪いという訳ではなかった。普段から授業は真面目に聞き取っている為、少ない勉強時間の中でも復習も効率的に進められたし、出題範囲の要点は掴んでいる。

少なくとも、まだ義務教育が終わっていない中学校の試験はコツさえ掴んでしまえばちゃんと良い点が取れてしまうように出来ているものなのだ。これも2周目の人生を経験しているが故に知っている情報だった。

「朱里さんは今回もバッチリなんでしょう?」

と、ここで名瀬が恨めしそうな顔でこっちを見てきた。…多分、朱里の余裕そうな表情に反応してしまったのだろう。

「…まあ、まあまあかな?」

「嘘ばっかり。試験中、ずっとにやけていたのに?」

「…それは思い出し笑いだよ」

「本当?」

名瀬はジト目でこっちを睨んできた。

「…本当のことだよ。ここ最近、嬉しいことがあったからね」

一応、本当のことだ。

『シンデレラガールズ』から一週間、朱里はどこか自分でも感じたことのないくらい精神が昂っているのを自覚していた。

勿論、油断してはいけないのは分かってはいる。自分は候補生からアイドルへ上がっただけ。まだスタートラインに立ったばかり、頑張らなきゃいけないのはここからだ。

それでも、ようやく事務所のメンバーと同じ位置に来たということ、美希よりも難易度が上がったオーディションに勝利したという事実は朱里に確かな自信をもたらしていた。少なくともこれくらいは喜んでいても罰は当たらないだろう。

「ふうん…じゃあ嬉しいことって何?」

「え? ああ…」

朱里は『アイドルになったんだ』と名瀬に言いそうになったが、慌てて口を閉ざした。一瞬、ここで話してもいいのか? という思いに駆られたからだ。

この一週間、自分がアイドルになったということは事務所のみんなと身内以外には誰にも話してはいない。まあ、自分には話す話さない以前に、話せる友達があまりにも少ないんだけれども…。交友関係の狭さに何だか無性に悲しくなってくる。

朱里はチラリと名瀬を見た。名瀬は急に黙ってしまった朱里に怪訝そうな表情をしている。

(…話しても…いいのか? いや、名瀬さんには言っても良いと思うんだけれども…)

朱里は何ともない風に装いながら、頭をフル回転させる。…これは少々、困ったことになってしまった。

別に彼女には話しても構わないとも思うのだ。

(…でもなぁ)

ただ、それによる問題も多かった。今の朱里はアイドルとしてデビューしたとはいえ、ほぼ無名の状態。人気なんてあるわけないしファンだっている訳じゃなかった。そんな状態で『アイドルやってます』なんて言っても、本当にアイドルをやっているのかという冷やかしが飛んでくる恐れもあった。…自分は元々、姉と違って可愛くはないし、去年までの校内での行動もあるし。怪しまれるのは致し方ないものな。

それに名瀬がいくら信用できる人間だからと言っても、どこから話が漏れるかは分からない。変に話が広まって周りの変な注目は浴びたくはないし、自分には百合疑惑という噂が広まったという前科があるからこそ、そういう噂ごとの厄介さは身に染みて分かってはいる。

(…駄目だ、やっぱり今は言うべきじゃない。もう少し時間が経った後で話そう)

そう結論付けた朱里は、次にこの状況をどう切り抜けるか考えようとした時だった。

「朱里! いっしょに帰ろ!」

朱里の心の声に応えるかのように、教室の出入り口から大きな声が上がった。多くの生徒がその声につられて、視線や顔を向ける。名瀬もその一人だった。

「…あ、姉さん」

朱里は思わず声が出た。教室の出入り口には中学校ではやけに目立つ金髪の髪の少女…我が姉である美希が立っていたからだ。絶好のタイミングで来てくれたことに朱里は美希に感謝したい気持ちだった。

「もう…朱里、遅いの! 美希、待ちくたびれちゃったの!!」

「あはは、ごめんごめん。ちょっと話し込んじゃってさ」

軽く笑いながら、朱里は不機嫌そうに腰に手を当てている美希をなだめた。…よし、抜け出すならこのタイミングしかない。

「あーごめん、このことはまた何時か話すよ」

朱里は名瀬に申し訳なさそうな顔をして、適当に話を濁した。そして荷物を抱えて、彼女の脇を小走りで抜ける。

「じゃあね、名瀬さん」

「う、うん」

去り際にこちらを見た名瀬は明らかに怪訝そうな顔をしており、ちょっとだけ罪悪感を感じたが何とかこの場は逃げ出すことが出来た。

「じゃ、行こうか姉さん」

そして朱里はそのまま教室を出て、美希の隣へと歩み寄った。

 

 

 

 

 

 

朱里が去った後も、しばらくはクラス内の生徒によるざわめきは止まらなかった。ほとんどが男子たちは学校のマドンナである美希を近くで見れたことによる驚きや歓声だったが、ごく一部はそうではなかった。

「なんで妹のあいつが美希さんと…?」

「あの2人仲悪かったんじゃないのか?」

どうやら名瀬が思っている疑問を周りも感じているらしかった。…やっぱり朱里さんの変わりようは自分の見間違いじゃなかったのか。名瀬はどこかほっとしていた。

「…なーんか凄い人だね、あのお姉さん」

「あ…空羽」

「よっ」

名瀬の後ろにはクラスメイト兼同じ部活の仲間である親友、鈴木空羽が立っていた。どうやら空羽も周りの子と同じく、突然現れた美希に興味を惹かれた一人らしい。

「相変わらず凄いスタイルだよねぇ、あのお姉さんは。真面目にダイエットするのがバカらしくなっちゃうよ」

空羽は頭の中で自分の体と美希の体を比べているのか、悔しそうな顔を浮かべていた。…まあ、確かにそう思うのも無理はないと思う。この学校のマドンナである美希は中学生として認識してもらえないほど、年齢に合わない外見をしている。同性である自分たちと比べても体のラインが凄いことになっているし、何か特別なことでもしているのだろうか? 今度、朱里さんに聞いてみようかな? 彼女もお姉さんと同じでスタイルが良いし…。

「…にしても、あいつ、変わったよねぇ」

空羽のあいつと呼んだ人物が朱里を指していることに、名瀬はすぐに気付いた。

「やっぱり空羽もそう思う?」

空羽は近くの机に腰をもたせかけて、名瀬と話を続ける。…やっぱり気になる人は気になっているんだ。

「…空羽、何か知らない?」

名瀬は聞くだけ無駄だとは思いつつも、空羽に質問してみることにした。当てにはならないが、それでも聞いておいて損はないだろう。

「そんなの私に分かる訳が…いや、ちょっと待って」

空羽は顎の手を乗せて、何かを思い出しそうにうーんと唸る。そして数秒後、何かを思い出したように大きな声を上げた。

「…男、かな? そうよ男よ男!」

「…男ぉ!?」

名瀬はまさかといった様子で声を上げた。

「いや、どっかの噂で聞いた覚えがあったのよ。新学期が始まった辺りであいつが男子からラブレターを貰ったって噂」

「ええ? じゃあ彼氏いるの、朱里さん?」

全くの初耳の情報で驚く名瀬。まさかの朱里さんが彼氏持ち?

「さあ? でもさ、変わる動機としては十分すぎると思わない? ほら、少女マンガでもよくあるパターンじゃん。今まで何の興味がなかった子がさ、異性を意識するようになって、段々可愛くなっていくって奴」

空羽は朱里本人がいないことを良い事に、好き勝手あれこれ言っていたが、名瀬は聞く耳を持たずにいた。

(…本当に変わった理由は彼氏が出来たから…なのかなぁ?)

確かに理由としてはありえるかもしれないけども…どうも違う気がする。だって、一時期は百合疑惑が出るほど男に素っ気なかった朱里に彼氏? …それがどうも信じられないのだ。

それに仮に彼氏が出来たからといって、それとお姉さんとの蟠りが消えた理由に結びつかない。…きっと何か別の理由があるのだろう。

(やっぱり別の何かがあるんだよね。きっと私にも言えないような何かが)

さっきの朱里の反応を見る限り、きっとそれは自分には言いにくい何かなのだろう。何だか明らかに口ごもっていたし。

(…結局、変わった理由は分からないってことか)

目立った成果は上げられず、結局、新たな疑問だけが増えてしまった名瀬であった。

 

 

 

 

 

 

「おはようございます」

「おはようなの!」

事務所に着いた朱里と美希は、いつものようにドアを開けて中へと入ったのだが、入って数秒で何か違和感に気付いた。

事務所の仲は変に静まり返っているのだ。普段は会話で賑わうはずの事務所は気持ち悪いほど静まり返っており、あの双子ですら借りてきた猫のように大人しくなっていた。

「…どうしたんだよ、これ?」

朱里はちょうど近くにいた亜美に小声で聞いてみた。朱里は最初、双子の新手の悪戯を始めたのだと予想していたのだが、どうやら違うみたいだった。

「…律ちゃんが、ほら」

ちょいちょいと亜美が指差した方向には、律子が受話器を片手に誰かと電話をしている光景があった。彼女の敬語まじりの言葉づかいから、仕事関係の電話なのだと予想できる。

(ああ…電話ね)

そういえば朱里と美希が事務所に所属する前に、電話の最中にあまりにもみんなが騒ぎ過ぎて律子に怒られたというエピソードがあったらしい。それがトラウマになっているのか、電話の最中はみんなで大人しくなっているんだとか。

…なんていうのか、765プロらしいエピソードだなと思った。この事務所は普通はありがちな先輩後輩などという上下関係や堅苦しさは存在しない。生まれた年の数年の違いを気にするものは誰もいない、お互いに言いたいことを言いあっている。だからこそ、大いに騒いで怒られるのかもしれないけども…まあ、変に気を遣っていない証拠なのかもしれない。

(…ここで良かった)

最初は不安だったけれども、ここにいることで大いに変われた。多くの人と関わって、少しは成長できた気がする。…まあ、ここで満足はしない。とりあえずはもっと上まで目指そう、姉さんを追い越せるくらいにまでは。

「…はい、えっ? 確かに星井朱里は、当プロダクションに所属しているアイドルですが…」

律子の声に、途端に全員の視線が朱里へと集まった。…いったい、何だ? 不意打ち気味で呼ばれた朱里は何だか急に不安になった。

「…えっ、美希も一緒にですか?」

律子が電話越しで答えていく内に、朱里と美希、2人の頬が緩んでいく。…つまりはそういうことなんだろう。

「…はい。ではまた折り返し連絡します」

律子は受話器を置くと、椅子だけを動かしてこっちの方を見た。

「…来たわよ、あなたたちの初仕事。しかも2人揃って」

律子は嬉しそうな声で2人にそう言った。




現在の美希と朱里の世間の評価はゲームで例えるとEランク辺りだと考えてください。…というか、アニマスの世界はゲームのようにランクとかはっきりしているんでしょうかね?
さて、今回新たに出てきたキャラ、鈴木空羽(すずきそれわ)。彼女もまた「ゼノグラ」に登場したキャラです。名瀬と同じく彼女もゼノグラでは成人していたキャラでしたが、この小説内では朱里のクラスメイトという設定になっています。同年代と設定な為、口調もゼノグラよりも砕けたものになっています。
ここまで来ちゃったら海好きのあいつもだそうかなぁ…なぜ、ならば、それは!! でもあいつキャラ濃いんだよなぁ…。


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第21話 初めての仕事

前話から何日開けた? という感じですが…投稿いたします。気が付いたら年明けちゃったよ…。


765プロに充てられた楽屋の中では、本番前の緊迫した空気が微塵も感じられないほどの明るさがあった。

「ねぇねぇ、律子、律子! 美希、この衣装似合ってる?」

「はいはい、似合っているわよ。それ何回目の質問?」

「えへへ」

律子にそう言われた美希は嬉しそうに笑う。そんな美希を見ながら律子も優しい笑みを浮かべていた。いつもなら敬語を使わない美希に対して説教が飛ぶはずなのに、今日はそれが一度もない。…もしかしたら律子も律子で何か思う所があるかもしれない。

そんな律子の反応に美希は嬉しそうにその場でくるりとターンを決めた。その度に、彼女が身に纏っている衣装『バイタルサンフラワー』のスカート部分と美希の髪がふわりと舞い上がり、彼女の可憐さと美しさを引き立たせる。更に『バイタルサンフラワー』の鮮やかな黄色がまた、美希の金色の髪と非常にマッチしており、思わず見とれてしまうほどの魅力を放っていた。流石は『ルーキーズ』で他者を寄せ付けないほどのビジュアルを披露しただけはある。そんじょそこらの候補生とは比べ物にならないレベルの美しさだ。

その姿はいつでも準備万端といっても過言ではなく、歌いたくて待ちきれないといった雰囲気が滲み出ていた。

姉さんは随分と楽しそうだ。

朱里はそんな微笑ましい光景を少し離れた所で椅子に座りながら眺めていた。そして目線を美希から自分へと下げ、現在の自分の姿を見てみることにする。

現在の朱里は(装飾など細部の違いはあるが)美希と同じ『バイタルサンフラワー』を着ており、支障が出ない程度の軽い化粧も施してある。

まず思うのは、こんな明るい衣装は自分に似合ってはいるのだろうか? ということだ。朱里の私服は主に黒や藍色など少し暗めのものをチョイスしている為、黄色が主体の『バイタルサンフラワー』はどうも似合っていないような気がしてならない。しかもこの衣装はどうもスカート部分が短いような気がする。動き回って下着まで見えるなんてことはないだろうな…。スカート部分とちょこんとつまみながら心配する。

まあ、今回歌うのはオーディションと同じ『READY!!』だし、あまり激しい踊りをする曲でもないから大丈夫だとは思うのだが。

(姉さんと一緒…か)

朱里は頭を振って、憂鬱な気分を振り払った。

こういう考えをし始めると碌なことにならないのは『シンデレラガールズ』の練習時に経験済みだ。人間はこういった不安や恐れを意識した途端に脆くなっていく。精密機械が一つでも異物が混じることで壊れてしまうみたいにあっけなく崩れていってしまう。

(…大丈夫だ、大丈夫。『シンデレラガールズ』の時と同じでいいんだ)

朱里はそう言い聞かせながら、ゆっくりと呼吸して、両方の掌を握り締める。

すると自分の心の中がめちゃくちゃに昂っていることに気付いた。それは武者震いから来るものなのか、怖さを感じたくないがために無理やりにでも自分を奮い立たせているのかは分からない。

(…初めての仕事がライブの前座とはね。しかも姉妹揃って)

朱里と美希に与えられた初めての仕事は、イベントライブの前座という初めてやる仕事にしてはやや大きな内容だった。

何故、そんな仕事が自分たちに入ったのか説明する為には数日前まで話をさかのぼらせる必要がある。

そもそもこのイベントライブには前座で出るアイドルは既に決まっていたのだが、本番数日前に突如そのアイドルが急病にかかってしまい、イベントを休まざるを得なくなってしまったのだそうだ。

これには主催者側も慌て、急きょ代打として出てくれるアイドルを探してみたものの、あまりにも急な話過ぎて、出てくれるアイドルが現れてくれなかったらしい。仮にスケジュールが空いていても、代打を任せるには実力が足りていないという子がほとんどだったみたいだ。

主催者側も困っていた所、ちょうど白羽の矢が立ったのは姉妹揃ってオーディションを突破した朱里たちであった。自分たちの今の実力は主催者側の代打を任せられるほどにはあるのだろうか。

勿論、こちら側としてはありがたい話だ。断る理由なんてないし、二つ返事で承諾して今に至るというわけだ。

2人が出ると決まってからはかなりの急ピッチで段取りや話は進んでいった。この数日間は律子やプロデューサーだけでなく、小鳥や社長も協力して仕事をしていたのは朱里の記憶にも新しい。

ちなみに今日の仕事の同伴者は律子だけだ。朱里はプロデューサーにも一緒に来てほしかったのだが、『シンデレラガールズ』の時の律子と同じで、他の仕事が入り込んでしまって来れないそうだ。少し残念だったが、来れないのなら仕方ない。

律子曰く、こういう前座の仕事は「いい仕事」なのだそうだ。このイベントの規模もそこそこ大きいし、本命に控えているアイドルもそれなりに名前も売れて人気がある。こういう前座の仕事とは本命のアイドルが有名であればあるほどこちら側の名前が売れるらしい。仕事ついでに宣伝しているようなものなのだろうか。

朱里は視線だけを壁に掛けてある時計に動かした。時計を見るとまだ時間には余裕がある。

不意に新鮮な空気が吸いたくなった。自分の周りが酷く暑く、息苦しく感じたのだ。この楽屋は空調がきちんと利いていないのだろうか。それともそう思うのは自分だけなのだろうか?

朱里はそっと椅子から立ち上がり、そのまま美希と律子に「ちょっと、外の空気を吸ってきます」とだけ言って、楽屋を出た。

 

 

 

 

 

 

狭い楽屋の中から広い廊下へと出ると、思わず伸びをしたくなったが、誰が見ているか分からないので自重することにする。廊下のど真ん中でステージ衣装を纏った女が盛大な伸びをする光景なんて、見た人に良い印象は与えないだろう。空気だけを吸って、気分を紛らわすことにした。

「…」

新鮮な空気を吸い終わった朱里はそのまま楽屋へと戻ろうとしたが、あの息苦しく感じる空間にはなんとなく戻りづらかった。

まだ時間に余裕があるので気分転換も兼ねて廊下を適当にうろつくことにした。迷子になっては元も子もないので一応近くをグルグル回るだけの範囲に留めておいたが。

その途中、何人かのスタッフと横切ったのでしっかりと挨拶をしておいた。

こういうところでもしっかりと挨拶をするだけでも印象というものが違ってくる。就活でもこういうのはさんざんやったからなぁ。1周目の記憶をしみじみと思い出す。

そして誰に言う訳でもなく、朱里はポツリと呟いた。

「…働くって大変だ」

この数日間のプロデューサーや律子の姿を見て。2人だけでは手が足りず、社長や小鳥も手伝っている姿を見て。この会場でせわしなく動くスタッフたちの姿を見て。

自分たちの初めての仕事に関わる人たちの姿を見て、率直に思ったことだ。

朱里は一度も『星井家には金がない』と感じたことが無かった。朱里も朱里で、両親に金銭的なことでは必要以上に気を遣っていたりはしたが、それでも貧乏だとは思ったことは無い。

そんな中で育った経験か、いつしか『働く』ということに鈍くなっていたのかもしれない。就活やそれに対する技術を身に着けても、実際に職に就いて働いたことがなかったから朱里には働くという心構えが足りなかったのかもしれない。

だから今日、この現場で自分は気付かされた。

今日から星井朱里はアイドルとして働く。遊びや部活とかそういった概念じゃない、職業として働いてギャラをもらうのだ。

…勿論、ギャラの為だけにアイドルをやる訳じゃないが、どこかアイドルになったという浮かれ気分に冷水をかけられたのは間違いなかった。そしてアイドルを続けていく以上、適当な気持ちで仕事に打ち込むわけにはいかないということもこの数日間でまた認識させられた。

少なくとも、今日の為に動いてくれた人たちの為にも、絶対に無様な真似だけは出来ないと朱里は一人決心した。

 

 

 

 

 

 

結構、人が多い。

本番まで30分を切り、そっとステージ脇から観客席の様子を見た朱里の感想がそれだった。前座のライブなんて一人二人がせいぜいなのだと思ったが、ざっと見ただけでも十人弱の観客がそこにはいた。

「っ…」

体全体がちりちりとした痒みに襲われている気がした。体毛の一本一本が逆立っているに違いない。心臓もうるさいほど鼓動を打っている。

目の前にいる観客たちは、本番前まで頭の中で思い描いていた、ダミー人形のような無色透明な存在ではなかった。

当たり前だが、あの観客たちは生きていた。呼吸をするたびに胸と胸郭が上下するし、彼らの動きや細かな仕草までもが、生々しく感じられる。

ふと、朱里は怖くなってきた。

本当に『シンデレラガールズ』の時みたいに上手く歌えるのだろうか。オーディションの時とは状況が違う。受け入れてくれるのか。失望させたりはしないだろうか。

まるで白い布に黒い染みが落ちたようにじわじわと疑念や恐怖が広がって、心の中を侵食していくような感覚に陥っていく。

(落ち着け、落ち着け)

落ち着こうとして拳を握ろうとするが、震えて上手く握れない。たったそれだけのことでも朱里の心は酷く乱れる。

しっかりしろ。律子さんやプロデューサーだけじゃない、小鳥さんも社長も今日まで頑張ってくれたんだ。失敗するわけにはいかないんだ。この土壇場で腰が砕けてしまったら、洒落にならないんだ。だってこれは初めての仕事なんだから。笑われる訳にはいかないんだ。だって、だって…。

「朱里?」

いきなり声をかけられたので、動揺してしまう。

「大丈夫?」

声の主は美希だった。眉間にしわを寄せて、こちらを見ている。

「…うん」

朱里は蚊が鳴くようなか細い声でそう答えるのが精一杯だった。

美希はそのまま黙ったままこっちを見ていた。すると美希の視線が自分の震える両手に向いていることに気がついた。反射的に両手を後ろに隠した。

「朱里」

美希はそう呟くと、そっと近づいて来た。

「な、何?」

美希は上手く呂律が回らない朱里を優しい顔で見つめていたと思ったら、いきなり首に手を回して抱きついてきた。

「…大丈夫だよ」

美希の突然の行動に朱里は混乱していた。女同士で、しかも姉妹で、ドラマで恋人がやるような抱きつき方をされれば誰だって混乱するに決まっている。

「美希はね、どんなことがあっても朱里の味方だから、大丈夫だよ」

まるで朱里の心の中の全てを見透かしているかのような言葉だった。…いや、もしかしたら見透かしてはいないのかも。朱里の不安さを直感で感じて、直観に従うがままにそれを口に出しているのかもしれない。

「だって、美希は朱里のお姉ちゃんなんだから」

そう言って美希は朱里の顔を見てニッコリ笑った。

「あ…」

朱里が思わず発した声は、掠れていて、美希にすら聞こえなかったかもしれない。でも、その発した声と共に、心の中に暖かい何かが生まれたのが分かった。

美希は朱里の首から腕を離して、二人はしばらく見つめ合い、無言になる。

「…その、ありがとう。姉さん」

言いたいことは色々あったけど、頑張って口から絞り出せたのはその言葉だけだった。でも美希にはその言葉だけでも嬉しかったのか、がばっと朱里の胸に飛び込んだ。

両手の震えはいつの間にか治まっていた。

「…あの~、そろそろいいかしら?」

背後から様子を窺うような律子の声が聞こえ、朱里は急激に我に返った。周りを見れば、近くにいた何人かのスタッフもみんなギョッとした顔でこっちを見ていた。律子もその一人だった。

そういえばここはステージ脇だったということを思い出し、もう叫びたいほど朱里は恥ずかしくなったのである。




今回は繋ぎのエピソードで、朱里の決意の回です。
…初めての仕事に対する怯えや不安を前面に押し出してみました。朱里の変なところに対する不器用さも出してみました。
歌は次回で持越しです。…早く更新がしたい。


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第22話 デビューと固き誓い

待たせたな!(1年半もの大遅刻の末にですが…。久々に書いたので、前書いていたのよりも違和感があるかもしれません…)
エタっていたこの作品にたびたび感想を書いてくれた皆様、誠に感謝しております。いつの間にかお気に入りも3000人ちょっといるし…。
そのお詫びとあってか、滅多にない1万字越えです。大盤振る舞いじゃあ! どうぞ!!


「ねえ朱里、美希、何か変なことしちゃったかな?」

「……自分の胸に聞いてみてくれよ、姉さん」

あれからなんとか事態は収束し、舞台裏は本番前の張りつめた様子へと戻ったのだが、スタッフからの変な視線は続いたままだ。何人かのスタッフの顔は妙に赤いし、律子さんも自分たち2人のことを妖怪か何かを見るような視線へと変わっている。

「………?」

「ばっ…!?」

しかも、胸に聞いてみろという言葉を真に受けた美希は自分のおっぱいをペタペタと触っているし、それに唖然としてしまった朱里はますます頭を抱えるという悪循環に陥っていた。ステージ衣装のまま自分のおっぱいを触るという衝撃の光景は破壊力抜群すぎた。

「ねえねえ。今の胸に…って、どーいうことなの? おっぱいに話しかけろってこと?」

「…あー。今のは何でもないから、聞かなかったことにして。というか聞かなかったことにしてくださいお願いします」

「あっ、また敬語使っているの! 美希の前では使わないでって、いつも言っているのに!」

本当にうちの姉は揚げ足を取るのが…と頭の片隅で思いつつ、すっかりスタッフの注目の的になってしまった朱里はアハハ…と困ったような何でもないような笑いを振りまきながら、とりあえず美希が胸を触る行為を阻止することに成功した。

…そろそろ本当に頭痛薬が欲しくなってきた。律子さんが持っていたっけ? 後で聞いてみることにしよう。

(…うん、まあ、スタッフの皆さんが考えている事はなんとなく分かるんだけどさ。そんな目でじろじろ見ないでください。自分と姉さんとの関係は、漫画やゲームなんかで書かれているようなアブノーマルな関係じゃないし、ただ単に姉妹といった全年齢対象の健全な関係なんですから。小鳥さんが飛んで喜びそうなシチュエーションとか一切ないですので、決して餌を与えるようなことだけは…)

流石の美希も周りが変な感じになっているのに気づき始めたのか、さっきから何度も朱里に「ねぇねぇ」と理由を聞いているが、もう朱里は説明するのも面倒くさくなってしまっている。

…トラブルの元凶が事態を一番理解していないっていうのは許されることなのだろうか。こんなことは今に始まったことではないのだが、よりによって初仕事前のステージ脇で起こさなくたって…。

「もー! 朱里ってば美希の話を聞いてるの!?」

「ひゃ、ひゃい!?」

むぎゅっと頬を摘まれると、ぷくーと頬を膨らませた美希の顔を間近に迫っていた。あと数センチ迫れば、キスが可能になるほどの間合いまで2人は近づく。

…ちっくしょう、さっきまでの緊張感はなんだったんだ。あんなに緊張していたのが馬鹿馬鹿しくなっているじゃないか。あともう少しで本番が始まるっていうのに…。

(そもそも姉さんも姉さんなんだよなぁ…)

緊張は確かにしていたけれども、何もいきなり大胆に抱き着いてこなくたっていいのに。やり方はいくらでもあったじゃないか。

日本人は滅多にハグをしない人種なのに、急に…しかも人前でそんなことされたら誰だって驚くのは当たり前だ。それに律子さんにも変な誤解されちゃったじゃないか。あの人は賢いんだけれど、変な所で純粋な乙女の所もあるんだから、そういうことは控えるべきなのに。

「…と、とりあえずさ。あんな変な事は今後、やめてよ…」

「えー! ミキ的には全然変なことじゃないんだけどなぁ」

ジト目で見る朱里に対し、美希は ?マークを浮かべながら、真っ直ぐな瞳でこっちを見ている。

…超マイペースだ。姉の行動の相変わらずさに、朱里は極限まで絞りきってカスカスになった雑巾のような、無気力な気分になってしまった。

かなわない、この人には。色んな意味でそう思う。いつもむちゃくちゃで突拍子もない行動を繰り返す我が姉には勝てる気がしない。

ゲンナリするような顔でため息を朱里は吐いた。

「あれ? また元気がなくなっちゃった?」

「誰のせいなんだろうな」

「元気がないならもう一回する?」

「しなくていいよ」

「じゃあ、ほっぺにチューは?」

近くにいたスタッフが驚き、ゲホゲホッ!? とむせる声が聞こえ、律子さんがズッコケる光景が目に入った。朱里もむせこそしなかったものの、突拍子もない発言に唖然としていた。

「………余計に駄目だ。それは姉さんがお嫁さんになる日まで大事にとっといてくれ」

「大丈夫! 美希的にはほっぺのチューはノーカンなの!!」

「姉さんはよくても、私がよくない。家族同士でなんてアウトだろ…」

いくら元男の身であっても家族で、しかも自分の姉と頬にキスされるだなんて論理的にアウトすぎる。しかも場所が場所だし、今後の活動上変な噂が広まったらそれこそ面倒なことになりかねない。

何をぬかすんだこの姉は…と、何度目かわからないため息をつき、朱里は美希の顔を改めて見つめる。相変わらず悩みなんて抱えていないような顔と透き通るほどの綺麗な黄緑色の瞳が目に入った。

(まあ、確かに…助かった訳だけどさ…)

朱里自身も美希の行動には驚いたし恥ずかしかったけれども、どこか感謝はしていた。

手も握れないほどの重度の緊張は、朱里単体では絶対に解決しなかったであろうし、この場で最も付き合いが長い姉である美希の助けなしではどうすることもできなかった。

あの抱き着きがなければ、美希の鼓動を間近で感じなければ、あの言葉が無ければ朱里の心は大きな重荷を抱えたままであっただろうし、本来のパフォーマンスを出せるかどうかも怪しかった。普段から朱里は、自分の弱みやプレッシャーなどを他人に明かさないですべて自分で処理してしまおうとする悪い癖がある。あずさとの生理の一件から、最近は小さな事なら他人を頼ろうとする傾向は見えてきたものの、大事になってしまえば簡単には頼らないという考えが根付いている。

(…それに、あの抱き着きも自分や周りが気にしているような深い意味があった訳じゃないと思うし…でも、キスは勘弁してくれよ)

美希の普段の行動を観察していると分かるのだが、美希の行動原理は単純明快だ。美希には「やる」か「やらない」の2択しかないのだ。こうした方がいいと分かったら美希はすぐさまやるし、そういうことを察するのも美希は非常に早い。

野生の勘…とでもいうのかもしれない。普段は鈍い癖に、変なところだけは素早く正確に答えを見つけ出せる。その素早さがレッスンでの異常なほどの呑み込みの早さに影響を及ぼしているのかもしれない。

あの時、朱里は反射的に震える両手を隠したのも、手の震えを美希に悟られたくなかったからだ。

けれど美希にはその手を隠した動作だけで何かを理解するには十分だったらしい。

だから美希が行った、抱き着くという行為もただ『緊張している朱里を励ましたい』という、ただそれだけのことでやったんじゃないだろうか。アブノーマル的な感情はそこには宿ってなどおらず、ほっぺのチューも恐らくはその延長線の考えだと思うのだが…流石に恋愛感情での行動ではないだろうと信じたい。

「…姉さん、もうほっぺは引っ張らなくていいよ」

朱里は少しだけ照れ臭そうに笑うと、頬を摘んでいる美希の指をゆっくりと解き、その黄緑色の瞳を覗き込んだ。美希の瞳には朱里の顔が映し出され、一瞬、二人の間に火花が散ったような感覚がする。

「…その…ありがとう……姉…美希。おかげで、その…助かったよ…」

「! どういたしまして、なの!!」

すると待っていましたとばかりに、また美希がガバッと抱き着いてきた。しかもさっきよりも強く、恋人同士で抱き合うみたいに激しくだ。

衣装、シワが出来ていないかな? という心配など余所に美希はギューと朱里を抱きしめる。

「ったく、言ったそばから…!」

「いいのいいの!!」

えへへと笑いながら、ピョンピョンと飛び跳ねる美希。どうやら頭を掠めているであろう思いの一部を伝えようとして、言葉にならないらしく、行動で示しているらしい。また、久しぶりの『姉さん』付きでない呼び方が、美希を更に喜ばせてしまったらしい。

結局、美希のハグは本番直前まで続き、その頃には朱里の抱えていた緊張感や恐怖はすっかりと氷解しきっていた。

ちなみに後ろで律子が止めたらいいのか続けさせた方がいいのかよく分からない顔でずっとこちらを見ていたことは、朱里たちは知る由も無かった。…やけに顔が赤かったことも朱里たちは知らなかった。

 

 

 

 

 

 

「…では星井さん、スタンバイお願いしまーす!」

「はーいなの!」

「いい、美希? 歌う前には数分間だけショートトークのコーナーがあるから、持ち時間を過ぎないようにしてね。特にあんたは時間にルーズな所があるから…」

「美希はそういう所は大丈夫だから心配しないでほしいな、あはっ!」

「全然安心できないのよねぇ、あんたの場合は…さっきだってねぇ…」

あと1分もしない内に舞台は始まる。最初は美希、次は朱里の順番であった。

律子はこれから舞台に上がろうとする美希につきっきりで、朱里は端っこの方で待機となっていたが、寂しさは微塵も感じてはいなかった。

(…腕の震え、収まった…)

最後の準備に取り掛かっている美希を遠目で見ながら、朱里は自分の手を見つめ、何度か握りしめては開くを繰り返してみると、馬鹿みたいに震えていた腕はもういつものように戻っていた。

まるでオーディション当日の朝、あの時の感覚に近かった。神経が研ぎ澄まされ、闘志が燃え上がるようなあの感覚が朱里の中にわき出てくる。

(どんなときも味方だから大丈夫…か)

美希が抱きしめてくれた時に言ってくれた言葉を何度も噛みしめる。

あれだけ練習を重ね、オーディションにも合格できた朱里であったが、あの時朱里は自分自身をも信じることができなかった。

近くに居る美希や律子に助けを求めたくても、重要な事には積極的に助けを求めようとしない朱里の癖が悪い方向へと転がり始めたのだ。自分の中から溢れ出てくる恐怖を、自分自身の欠点を誰よりも知っている朱里は自分自身でその恐怖を処理することが出来ないでいたのだ。

そこから朱里の心境はどんどん悪い方向に転がっていく一方だったが、そんな朱里に、美希は真っ先に『味方だから』と言って励ましてくれた。朱里を信じてくれていた。姉として、アイドルとして、そして一人の人間として。

それがどんなに嬉しかったことか。自分ですら自分を信じられなかったのに、美希は躊躇することもなく、自分の味方でいることを伝えてくれた。

(自分を…信じてくれる人が、確かにいる…姉さんは、自分を…いや、私を信じてくれている…)

一人ぼっちではないという安心感は、朱里の五臓六腑に染みわたるほどのありがたさがあった。そういえば、姉さん…美希に頼ったことなんていつぶりだろう?

脇にある機材に背中を預けながら、朱里はふふっと笑った。

『さあ、本日のスタートを飾るのは、デビュー間もない新人アイドル! その名の通りに、星の如く現れたニューフェイス! 星井美希ちゃんだ!!』

「!」

ステージからはマイクのハウリング音が数秒した後に、イベント進行のMCの声がステージ脇まで聞こえてきた。遂にステージが、美希の初めての仕事が始まろうとしていた。

「さあ、美希! 出番よ!!」

「なの!!」

その言葉に導かれるように美希はステージへと上がろうとする。そんな美希に朱里は少し大きな声で呼び止めた。

「姉さん!」

「?」

「あ…その…私も、姉さんの味方だから…だから…」

朱里はなんとか言葉を纏めようとするが、上手くいかずにしどろもどろになってしまう。ステージはもう始まるというのに、ストレートな言葉が出てこない。あせりと悔しさで歯噛みしてしまう。

…美希にお礼を言いたいだけなのに。自分の姉がやってくれたように、自分も美希にエールを送りたいだけなのに、どうして言葉が出てこないんだ。

「…早く!」

中々ステージに上がろうとしない美希を怪訝に思ったのか、スタッフが急かす様に囁く。その言葉に導かれるように、美希は名残惜しそうに朱里から目を話すと、脇からステージ中央へと飛び出していった。

「頑張って! 姉さん!!」

…言えたのはそれだけだった。誰だって言えるような、ありきたりなセリフでしか返せなかった。

しかし、美希はすっと右手でピースサインを決め、一瞬だけこっちを見て笑うと、そのまま前へと向き返りステージへと走っていった。

『今まで何をしていたんだいー!?』

「ご、ごめんなさいなのー! 美希、初めてであがっちゃててー!!」

駆け足でMCの所で走っていく美希の後ろ姿を、朱里はずっと見ていた。

…あれで本当に良かったのだろうか? あれで姉さんは何の心配も無くステージに立てているのだろうか? 美希に対して、しっかりとお返しは出来たのだろうか?

「朱里?」

「…律子さん…?」

肩を叩かれて、ようやく律子が後ろにいることに気付いた。律子は心配そうな顔をして、朱里を見ている。今日はどこか様子が違う朱里を心配しているのだろうか。

「次は朱里の番だから、メイクと衣装のチェックをするんだけど…大丈夫?」

大丈夫、というのはまた緊張してしまうのではないかということなのだろう。いつもはしっかりしている朱里があんな様子だったから心配しているのかもしれない。

「…はい、大丈夫です」

美希が出ているステージの方も気になったが、あとちょっとで朱里の番が来てしまう。少しだけ後ろめたい気持ちを残し、最終チェックを行っていく。

幸いにも抱き着いたりした時にメイク崩れや衣装破れは無かったらしく、1分もしない内に朱里は解放された。そして、先ほどと同じように朱里は美希の姿をステージ脇から見ていた。

「…やっぱり、気になるの?」

「そりゃあ、気になりますよ。姉さんの初仕事ですし」

律子はふうんとだけ言うと、意外そうな顔をする。

「それにしても、朱里があんなことするなんてね。私、あなたにああいうイメージがなかったから。少し、驚いちゃった」

「…別に、あんなこと…」

付き合いが浅い律子は、ここ数カ月の間で朱里のことを「あまり自己主張するような子ではない」というイメージを作りつつあった。偶にあるとしても、基本的にはおとなしく、同年代のアイドルたち…亜美真美ややよいと比べてあまりにも大人びすぎている様子が多い。他の子はともかく、美希と絡む時は受け身のような姿勢がほとんどであり、だからこそ美希を呼び止め、激励の言葉をかけたことが意外だったのかもしれない。

「それに、あんな言葉、誰だって言えますよ…」

「内容は関係ないわ。美希にとっては、朱里が言ってくれたことの方が重要なのよ。美希に与えた影響は大きいと思うわよ?」

と言うのと同時に、観客の方から笑い声が聞こえてきた。どうやらMCからのフリに美希が上手い事答えられたらしい。美希の顔はステージに上がるよりも輝いて見える。

「ね?」

「確かに…」

なんだろう、美希のギアが一段階高く、強くなった気がする。重い荷物を下ろしたような…そんな感じだ。

「それでね、朱里ってば変にガードが固くって…どう思う?」

『う~ん、流石にチューは行き過ぎな気もするって僕も思うかな?』

「えー!? そこははいって言ってほしかったの!」

…ギアが上がりすぎて、余計な事を言いまくっている気もするが。幸いにも、ウケてはいるからいいものの、あんなことズバズバよく言えるもんだ。今日初めて仕事やるアイドルとは思えない姿勢だ。

「あれ、いいんですか?」

「…後で言っておくわ。流石に未成年アイドルとしてあの発言はマズイわ…」

律子基準ではアウトらしかった。そりゃそうか…。

『…さあ、トークはこのくらいにして! 美希ちゃんの歌声を披露してもらおうかな!』

「分かったなの!」

―――空気が変わった。朱里は美希の変化を一目見ただけで感じた。

姿形はいつもの美希だが、その雰囲気は全くの別物だ。研ぎ澄まされたような刃物が鞘から抜き出されたイメージが脳裏をよぎる。

「…!」

それを感じたのは朱里だけではないらしい。律子の様子も変わったのを朱里は見逃さなかった。

『美希ちゃんが歌う曲は女の子の強さとアイドルの姿をストレートに歌い上げたこの曲! THE iDOLM@STER(アイドルマスター)!!』

MCの曲紹介が終わると同時に、イントロが流れ始める。テンポは『READY!!』よりも少しだけ遅めだが、勢いが感じられる前奏と共に美希が動き始める。

「それじゃ、行くのー!」

イントロが終わる瞬間、美希は普段はやらない掛け声を合図に歌い始めた。

THE iDOLM@STERはその名の通りに、『アイドル』としての姿を歌った一曲だ。強く、したたかで、輝いている存在…そんなアイドルとしての姿や女の強さをストレートに表現した単語や言葉が多い。READY!!とは違った切り口でアイドルとして歩き始めた少女を表している、そんな曲だ。

確か、ライブの出だしでの一曲としての役割も担当している曲だった気がする。

「…凄っげえ…!」

朱里は男時代の口調に戻りながら、美希に見とれていた。

最近は『シンデレラガールズ』用のレッスンで、美希とは別々になることがほとんどだった為、美希がどれだけ成長していたか分かっていなく、あの頃よりも成長している姿に驚いていたのだ。

(なんて…綺麗なんだ…! )

―――想像以上だった。美希が『ルーキーズ』をダントツで勝ち抜いたという話は嘘なんかじゃなかった。

動くたびにふわりと金髪が舞い、それにシンクロするように『バイタルサンフラワー』のスカートが舞い上がる。

金色の髪と黄色の衣装、それらが動くたびに燦々と空を照らしている日の光がスポットライトのように美希を輝かせる。

手の動きやステップ、ステージを活かした動き…美希最大の長所であるビジュアルが完璧に活かされている。それは天候までもが美希に味方しているような錯覚を覚えてしまう。照らされている美希の姿の輝きが、目に眩しい。

例えるのならば…妖精。まるで気まぐれで花畑に降り立った妖精が、花の上で踊っているかのような綺麗な光景だった。

客席にいる観客もまた、今日初めてステージに立った新人とは思えないような様子で見入っていた。中には指を指している者さえいる。

「…姉さんが、あそこまでやるなんて…」

「私もよ。これまで以上に動きが綺麗になっているわ…」

追いついたかと思ったのに、美希は遥か先へと進んでいた…。

それを思い知らされるのはつらい。つらいけれど、見つめ、求めずにはいられない。そんな不思議な気分だった。

「…凄いですね、美希って」

「ええ…」

朱里は虚しそうな声で呟くが、対照的にその瞳は燃えるように輝いていた。

(…姉さんには姉さんの、自分には自分の良さがある…そう、貴音さんは言っていた…)

前の自分だったら、目の前で踊る美希の姿を見て、自分を支える自信が粉々に砕け散っていただろう。だが、貴音はあの日、朱里にこう言ってくれた。

あなたは違っていてもいいのだと、星井美希などではない、自分は星井朱里のままでいいのだと。

(…試してみたい、どれだけ通じるのか。どこまでいけるのか…ビジュアルでは姉さんに劣っているけれど、ボーカルの面だったら…!)

元男としての、負けず嫌いな部分が湧き出てきたのかもしれない。気がつけば震える拳を固く握っていた。だが、その震えは決して怖さから来るものではない。今の実力でどこまでやれるのか、自分はこの世界で通用するのだろうかという武者震いから来るものだった。

(…だって、あんなステージ見せられたら…こうなるに決まっている…!)

美希の姿ときたらどうだ。美希の黄緑色の目は、喜びに満ちていた。踊ることに、歌うという行為に無邪気に喜び、輝いていた。

(自分も…いや私も、美希みたいに輝きたい…!)

朱里は歌詞のフレーズにある、まさに『伝説』が始まろうとしているのかもしれない姉の初舞台を焼き付けるように見つめていた。

この時の朱里は間違いなく『アイドル』に憧れる少女そのものであり、姉のようになりたいと覚悟を決めた『人間』の姿があった。

 

 

 

 

 

 

「ありがとうございましたなのー!」

THE iDOLM@STERを踊りきり、その疲れを全く感じさせない笑顔を見せて退場していく美希に、観客は拍手で見送った。それは即ち、美希がアイドルとして受け入れられたということを表していた。『アイドル』星井美希はここに誕生したのだ。

(うわ、手ぇ振ってる…)

脇に引っ込んだ美希はすっかりスイッチがオフになったらしく、いつもの様子に戻っていた。腕が吹き飛ぶんじゃないかという勢いでブンブン振っている。

(…分かっているよ、姉さんは凄かったもんな)

大声で返答するわけにもいかないので朱里も手を振ると、美希はたまらないような顔をしていた。

…これ、観客が見たらどう思うんだろう? シスコン系アイドル…う~ん、ヤバい香りがするなぁ。苦情とかこなければいいんだけど…。

「朱里」

「はい?」

手を止めると、律子がこれまでにない程の真剣な表情が目の前にあった。こんな表情を見るのは、あの『軍曹』レッスン時や亜美真美を叱るときくらいしかお目にかかったことがなかった。

「もう時間がないわ。だから、一つだけ言うわね……私も、あなたを信じているわ」

「えっ?」

意外な一言だった。てっきりあれこれ細かい指示を言われるものだと思ったのだが、どうやら違うらしい。

「……何だか朱里は、美希だけが信じていると思っているみたいだけど、そんな訳じゃないってことよ。私だって信じているし、この場にはいない765プロの誰もが朱里を信じているってことを忘れないでね」

…朱里はストンと腑に落ちた感覚がした。

そりゃそうだよな、味方は姉さんだけじゃないんだよな。この場に皆がいなかったから、すっかり忘れてしまっていたよ…。

『さあ、お次のアイドルもニューフェイスにして、なんと先ほど出た美希ちゃんの妹ちゃん! 輝く星は、暗闇を照らす灯りとなるのか!? その名は星井朱里ちゃんだー!!』

…来た。律子の言葉を頭に叩き込むと、ステージ用に履いてある靴をトントンと軽く数度床で叩き、前を向く。

「…じゃあ、行ってきます…律子さん」

自分の名前を上手い具合に韻を踏んでくれたMCの言葉に引かれるように、朱里はステージへと向かう。そして、MCの側に駆け寄ると、ノリの良いフリが回ってくる。

『では改めて、自己紹介をお願い!!』

「はい。765プロ出身の新人、星井朱里と申します。その……信じられないかもしれませんが、先ほど歌っていた美希の…妹です」

やはり、というのか、観客は信じられないといった目線を向けてきた。まぁ、そうかもしれない。美希とはまるっきり正反対のタイプが出てきたんだから、そうも感じるだろう。髪だって美希と違って、染めていない地毛の茶髪だもの。

『初めまして朱里ちゃん! こうして見ると、美希ちゃんと似ているね~』

「そ、そうですかね…?」

『うん! 目許の部分が凄い似ている!! やっぱり、僕には姉妹って感じが分かるよ~!』

「あ、ありがとうございます…?」

意外にこのMCの観察眼は鋭いみたいだ。

しかし、目許が似ている、か…自分もあまり気にしたことがないから良く分からない。確かに瞳の色は同じなんだけど、そんなに似ているのかな…?

『それで、お姉さんとは何歳違いなんだい?』

「えっと…1つ違いですね。美希…姉さんは15歳で、私が14歳です」

『14!? …年齢、サバ読んでない? 大学生くらいに見えるよ!?』

「アハハ…よく言われますね…」

MCや観客の反応を見て、年齢のことは何歳差かだけを語ればよかったかも…と思った。元男とは言え、やっぱり年齢のことで盛り上げられることはいい気はしない。

『やっぱり、お姉さんと同じ舞台に立つと、緊張するかい?』

…その手の話題が出てきたか。まぁ、姉妹揃っての仕事だから、嫌でも目立っちゃうし、その手の質問が来ることは当然か。

朱里は一つ息を吸うと、MCに何て事の無いように返した。

「やっぱり緊張はしますけど…私は私です。ありのままに歌うだけです。それに…」

『?』

「姉さんは全力を出して歌いました。ならば、こっちも全力を出して歌う…それだけです。今の私がどこまで出来るかは分かりませんが、全力を出し切るつもりです…!」

静かな覚悟が感じられる声色で喋ったが、もう少し受けがいい喋り方をするべきだったかな? と軽く後悔した。アイドルとしては堅苦しい返答だったし、何だか千早さんみたいだ。

MCも想定していた答えと違ったのか、ポカンと口を開けていたが、数秒経ってから慌てたように持ち直した。

『そ、それでは、朱里ちゃんに歌っていただく曲は、ニューフェイスにぴったりの始まりの曲!READYー!!』

MCが横に引っ込んだのと同時にイントロが流れ始め、朱里のスイッチがオンになる。

(………)

すっと目を細めて、おなじみとなったステップを踏み始め、歌い始める。

衣装と同じ黄色の靴がステージを叩きながら、朱里の初ステージが幕を開けた。

(歌詞に乗せる思いは、『アイドル』としての自分…『READY』と『LADY』…女として、アイドルとしての始まり…!)

歌声をマイクが拾い、それがスピーカーを通して辺りへと伝わる感覚を朱里はピリピリと感じていた。僅かな音までもが空気を伝わっていくことがどこか楽しくて、朱里はリズムを刻み続けていく。

(…やっぱり、気持ちいい。目に見えない重りが少しずつ剥がれていくようなこの感覚…!)

心地よかった。身体を透き通る風も、照らす太陽も、踏みしめている床も。この瞬間だけはステージ上の何もかもが朱里の物だ。こうして歌い、踊っている限り、朱里だけが感じることの出来る世界だ。

心臓も熱かった。指の先まで血が流れ、産毛の一本一本の感覚までもがはっきりと分かる。

だけどまだだ。まだ、重く感じる。もっと強く、軽く、熱く、輝くように…。

(美希とは違うビジュアルではなく…ボーカルに重点を…!)

歌詞のワンフレーズごとに、朱里は歌を歌い、踊り踊って、自分の想いを乗せていく。

始まりはこれからだ、人としてもアイドルとしても。だから見ていてください、自分の姿を。私としての姿を。律子さん、765プロの皆、スタッフさん、観客の皆さん…聞いて下さい、私の覚悟を。

(そして美希…妹の私は、あなたと同じようにステージの上でキラキラ出来ているんだろうか?)

ステージ脇を見てみたいと心が少し揺らぎかけたが、この感覚を途切れさせたくなかったので、朱里は踊りきる事だけを頭に命じる。

その頃、観客席では「おいおい、妹さんも凄いじゃないか…」とか「お姉さんとはまるっきり違う歌声だ」と驚きの声を上げていたのだが、勿論そんなことは朱里の知る由もない。

朱里の耳に聞こえているのは『READY!!』の伴奏のみであり、それに導かれるように歌い続けている。

ちらりとだけ見えるのは、観客が自分を見ている事だ。顔は…驚いているのか、笑っているのかも判別できない。少なくとも、人様に見せられるものには仕上がっているらしい。

(…どこまで行けるのかは分からない…売れるかも分からない…でも、歩んでみようじゃないか…! アイドルとして…星井朱里として…!!)

『星井朱里』として始まることを『シンデレラガールズ』で決意し、今日の初仕事で朱里はそれを踏まえたうえで『アイドル』としての決意を固めた。

何処へ行き、何をするかはまだ分からない。事務所の皆が掲げるような立派な動機もまだない。お金を稼ぐという実感もまだない。だが、自分を変えてくれたこのアイドルという仕事に向き合い、精一杯やってやろうという誓いを立てたのだ。

「…ありがとう、ございました」

…そして曲が終わり息も絶え絶えになりながら、パラパラと拍手を背に受けてステージを後にする朱里は一つ決意をすることとなる。

「凄く…! すっごく、綺麗だったの! 朱里!!」

「あはは…ありがとう、姉さん」

笑顔で抱き着いてくる姉…美希を追って、追いついてみせると。

追いつくまでどれだけかかるかは分からないが、行けるところまで行き、いつかは姉を必ず超えてみせると。

心の中で誓った固き誓いと共に、朱里と美希の初仕事は幕を下ろすのだった。




朱里は今でこそ女の子だけど、男時代のこともあってかどこか負けず嫌いな部分も見え隠れしている…って感じです。
次回は、美希視点での物語とその後を描きたいと思います。

ではお楽しみに!!


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第23話 星の熱意は広がって

またまた大遅刻の末の投稿ですが…続きです。
最近忙しい中色々なアイマスSSを読んでいく内に熱意が戻ってきて、気がつけばキーボードを叩きまくっていました。
まぁ…過度な期待はしないでください…かなり久々に書くもんですから。


「朱里…すっごいの…」

ステージ上で歌って踊る妹の姿を見て、美希は一人呟いた。先ほどまで感じていた疲労感は妹の晴れ舞台を見た瞬間にどこかへ吹っ飛んでしまっていた。それ程までに美希はステージで踊る妹の姿に魅入られていた。

―――美しい。今の朱里を一言で表すならばこれに尽きるだろう。

まるで羽化したての蝶みたいに今の朱里は輝いていた。一生懸命に踊る姿が、笑う表情が、身体から流れる汗が、その一つ一つが朱里を輝かせている。自分の妹という色眼鏡を外しても、今の朱里は美しく輝いて見える。

―――そして何よりも。

(朱里…何だかとっても楽しそう…!!)

朱里の楽しそうに歌うその声色に、美希は驚いた。アイドルとしての始まりだけでなく、一人の人間の新たなる門出を歌うかのように歌う朱里の姿に、美希は凄みを感じてしまう。

美希の励ましのおかげなのかは分からないが雑念などが一切感じられないほどの笑顔で、透き通った声で、朱里はステージの上を踊り、歌っている。

(とっても、綺麗な声…)

自分の妹はこんな声で歌うことが出来るのか―――そんな驚きも美希の中にはあった。

少し前まではレッスンごとにハァハァヒィヒィと息を上げる弱弱しい印象が強かったのだが、そんなイメージは消し飛んでしまっていた。何があったのかは分からない。けれども、美希の知らない間に朱里の中で何かが変わるようなことが起きたことだけは確かだった。

朱里が今歌っている『READY!!』は一切アレンジなど入っていないのに、伴奏や歌詞も全く同じはずなのに、美希自身や他の皆が歌う『READY!!』とは全く違って聞こえてくる。

歌う人、声色、歌詞に載せる感情。これらが違うだけで曲は違った一面を覗かせる。美希もそのことはなんとなく知っていたはずなのに、改めてそんな事実を突きつけられたような気分だった。

…思えば、朱里が歌う姿を見るのは久しぶりだった。

ゴールデンウィークが終わった後はオーディション対策用のレッスンでずっと離れ離れだったし、ここ最近も中間試験だの今日の前座に向けてのあれこれ…で、朱里と一緒に過ごす時間が極端に少なかった。あの日オーディションに付き添ったプロデューサーからは「とにかく凄かった」というざっくりした説明は受けていたものの、それがどれだけ凄いのかまでは分からないままだった。

「本当に…凄いの…!」

美希は凄い凄いと繰り返しながら笑った。本当に凄い出来事に遭遇した時、人間は言葉足らずになり、表現できなくなるということをどこかで聞いたことがあったが、まさにその通りだ。

朱里は変わろうとしている。自分の知らない所で成長している。

…姉としてそのことに少し寂しさを感じてしまうが、それよりも嬉しさの方が勝っていた。

だって以前の朱里だったら絶対にしないような顔で今ステージにいる。美希の『キラキラ』とは違うが、朱里は自分らしさを前面に押し出して輝いている。以前から朱里のことは好きだったけれど、今の朱里の方がずっと魅力的に見えた。

だって今の朱里は―――。

(朱里―――すっごくキラキラしてるのっ!!)

以前の何倍にも増して輝いて見えるのだから。

魅入られているのは美希だけではなかった。律子も、他のスタッフも、前座と侮っていた観客も朱里を見つめている。「おいおい、妹さんも凄いじゃないか…」とか「お姉さんとはまるっきり違う歌声だ」などの声も聞こえてくる。

あれは朱里なの。美希の妹の朱里なの。美希は周囲でざわめいている一人一人に言ってまわりたい衝動に駆られたが、グッと堪える。

今の朱里は、たるみなく張った細い糸を切れる寸前までに引き絞ろうとしているような、そんな様子だった。それは言い換えれば何かの弾みで張った糸が切れてしまうような危うさも秘めており、仮にそれが起こってしまえば今の朱里のパフォーマンスは台無しになってしまう。

今は集中している朱里の邪魔をしてはいけないのだと美希は直感で理解していた。今は朱里には触れてはいけない、曲が終わるまでは誰も朱里のことを遮ってはいけないと。

「…ありがとう、ございました」

そして曲が終わるまで、最後のあいさつが終わるその瞬間までずっと美希は朱里のことを見つめていた。妹の初舞台を胸に刻みつけるかのような真剣な顔つきで見守っていた。

(朱里…!)

パラパラと拍手を背に受けてステージを後にし、こっちへと近づいてくる朱里をすぐに抱きしめたい衝動をグッと美希は堪える。まだ朱里のステージは終わっていない。まだ美希は朱里を抱きしめてはいけない。

そして朱里の全身がステージ脇に引っ込んだのを確認した瞬間、まるで檻から解き放たれた獣のように美希は朱里に抱き着いた。突然の抱き着きにビクッと朱里は驚いた様子であったが、すぐに全体重を美希へと預ける形になる。

「凄く…! すっごく、綺麗だったの! 朱里!!」

「あはは…ありがとう、姉さん」

当の朱里本人はぐったりとしており、まさに全力を尽くした様子であった。だが朱里の顔はやってやったという充実感に満ちており、その瞳には何かに燃えるような熱が籠っていた。

「―――お疲れ様、朱里」

そんな妹の背中をゆっくり擦りながら、美希は優しく微笑む。そっと顔を覗き込んでみると朱里も顔を上げ、美希と同じように微笑み返す。

「―――美希こそ、お疲れ様」

…こうして、美希と朱里の初ステージは無事に終わる事となるのだった。

 

 

 

 

 

 

朱里たちのステージが終わった後も関係者たちへの挨拶回りなどで色々と仕事は続き…やっと帰れるという頃にはすっかり空は茜色に染まっていた。

朱里は帰りの車の中で助手席に座りながら、やっと一息つけるなと感じながらペットボトルの封を切る。よほど喉が渇いていたのか、そのまま一気に半分以上飲み込んでしまった。

(つ、疲れた…)

思っていた以上にイベント会場に留まっていたせいで、朱里の心身はすっかりクタクタだった。

やっぱり働くって大変だ。他の皆はこんな疲労感と戦いながら働いているのか…と働くことの大変さを感じていた。

そんな美希も朱里同様にクタクタなのか後部座席で横になりながらすっかり寝入ってしまっている。緊張など微塵も感じてなさそうだった美希も美希で疲れるところがあったのか、ちょっとやそっとじゃ起きない様子だ。

あの様子じゃ事務所着くまで絶対に起きないだろうな。毎度のことながら我が姉はすぐ寝る…と座席を陣取る美希を見ながら、視線だけを自分の手へと向けた。

(…手、まだ震えてる)

その震えはステージに出る前の恐怖から生まれる震えとは違っていた。歌っていたあの時に感じた感覚と景色を思い返そうとするたびにこの震えは始まり、気持ちが滅茶苦茶に昂り、興奮してくるのだ。

何故アイドルという存在に多くの人々が惹かれ、それを目指す人間が多いのか―――朱里はこの初仕事を通して、その真実の一端にたどり着いたような気がした。

(自分の初仕事は…上手くいった…ってことでいいんだよな…? 美希姉さんのステージは上手くいっていたはずだけど…)

―――結論から言えば、美希と朱里の初仕事は大成功を収めたと言っていいだろう。

デビューしたてのアイドルには荷が重いであろうこの仕事を見事にやり切って前座としての役目を果たしたこと、姉妹揃っての初ステージで両者共に存在感をアピールできたこと、スタッフや業界関係者に765プロの存在を知らしめたこと…ざっと上げるだけでこれだけのことを朱里と美希はやり遂げたのだった。

だが、自分のことで精一杯だった朱里にはやり遂げたことの重大さを理解できずに、ただ自分の身体が生み出す不思議な震えをじっくりと感じていた。

(もし、あの席が全て埋まっていたら…)

―――あ。

(前座じゃなかったら…)

―――り。

(会場がもっと広かったら…)

―――あか。

(いったいどんな気分なんだろう、どれほどの震えが来るんだろう…一体どんな景色なんだろう…?)

「朱里?」

「…は、はい!?」

物思いに耽っていた朱里は、運転している律子の突然の呼びかけに必要以上のリアクションをしてしまった。

「そんなに驚かなくても…あ、もしかして起こしちゃった?」

「あ、いや! 別に寝てはいませんから大丈夫です!」

「そう? 何回も呼んでいるのに答えないからてっきり寝ているかと思っちゃったんだけど…」

「あ…なんか、無視しちゃっててすみません…」

「別に謝らなくたっていいわよ」

慌てふためく自分の姿に少し恥ずかしくなってしまい、朱里はぽっと顔を赤く染める。そんな朱里を律子は面白そうに見ていた。

「それで初めての仕事、どうだった?」

「…やっぱり緊張、しました。場の空気に少し呑まれちゃったし、自分が上手くできているのかどうかも全然分からなかったですし」

「大丈夫よ、美希も朱里もしっかりできてた。私が保証するわ。他のスタッフさんも驚いていたわよ、あの子達本当にデビューしたての新人なんですかって」

律子はそう微笑むが、どうも朱里は実感が湧かない。

「そう、ですかね? なんか歌っている間にあっという間に時間が過ぎてしまった感じがしちゃって…拍手が聞こえて上手くいったのかなって思うくらいで…」

「それだけ集中できていたって証拠よ」

「そう、ですかね?」

「そうよ。朱里はもっと自信を持ってもいいわよ」

律子は嬉しそうに頷いた。

「今日のイベントの本命があの『新幹少女』だったっていうのも大きかったわ。これからウチの名前が話題になることが多くなるかもしれないし、忙しくなるわよ」

「しんかん…?」

聞き覚えのないグループ名に朱里は目を白黒する。自分のことばかりに夢中で、どのアイドルが本命として控えているのかなど気にしている余裕がなかった。

『しんかん』と聞いて一瞬、ミサイルとかに積まれている部品の方を連想したが、流石にアイドルに似つかわしくない物騒な単語だったのでこれは違うな、と察した。

「…そんなに有名で、すごい人達なんですか?」

「今話題のアイドルグループじゃない。ほら、鉄道会社とかのCMで出てくる、全員の名前が新幹線の女の子たちの…」

「ああ、あの子達ですか…」

朱里は理解したような顔をしながらそう返答したが、まるで分からなかった。新幹線がどうだの誰がどうだのと言われてもいまいちピンとこない。鉄道会社のCMに出ている位なのだから世間的な認知度もかなり高い事は予想できるが…。

(今度から他のアイドルについても勉強しておこう…)

朱里は密かに決心を固めた。もうちょっと他のアイドルのことを知っておかなければ今後の仕事にも支障が生まれるだろうからだ。まだまだ学ばなければいけないことは多そうだ。

「今話題のグループなんですから、やっぱり会場も満員だったんですかね?」

「そうみたいね。詳しく見る機会がなかったけれど…」

朱里は大勢の新幹少女のファンと思われる人々が賑わっている光景を帰りの車に乗り込む前に少しだけ目にしたので、その新幹少女というグループは大人数を前にパフォーマンスをしたのだということだけは何となく想像できた。

「まぁ、あの子達の所属事務所はウチよりも大きいし、話題の多いグループだから。今日の会場も小規模だったし、あなた達はあまり気にしなくても…」

律子は前座と真打ちの役割は違うということを言いたいのだろう。朱里と美希は立派に前座の仕事をやり切った、会場を盛り上げたんだということを話していたが朱里はそれに相槌を打ちながら、別のことを考えていた。

(一体、その人たちはステージの上でどんな景色を見ているんだろう…)

朱里は今日のステージでの出来事を思い出す。心臓の鼓動が熱くなり、指の先まで血が流れるあの感覚。自分の目が捉えたあの景色はキラキラと眩しく、まるで車窓の向こう側に見える夕日のように光り輝いて見えたような気がする。凄く美しかった。

じゃあ、世間一般にアイドルと認識されている人たちのステージからの眺めはどう見えているんだろう。自分が今日感じた世界よりも輝いて見えるのだろうか? その先には何があるのだろう? 怖いのだろうか? それとも楽しいのだろうか?

朱里は今日、上には上がいるということを知った。それは姉である美希もそうだし、世間一般に認識されているアイドルの存在もそうだ。

当たり前だけれど、世界は広い。世界の果ても見えないような広大な世界を、星井朱里というアイドルはその一歩を踏み出したばかりだ。

(上に行けるかどうかはまだ分からない…でも、出来るのならば、目指してみたい。アイドルとして成長したい…美希姉さんみたいに輝きたい…あの景色をまた見てみたい…)

朱里は自分の心の中で何かが燃えているような感覚がする。チリチリと何かが沸騰するような気分がする。

(まずは…歌える曲を増やさなくっちゃな。『READY!!』一曲だけじゃ流石にバリエーションが少ないし…)

『READY!!』は良い曲だし、朱里もお気に入りの代物なのだがこれ一本では限界がある。

やはり今の自分に必要なのは多くの引き出し―――自分の武器を増やすことだろう。技術的な上達もそうだが、多くの曲を歌えるようになり、自分の魅力を高めることも重要になってくる。

(姉さんが今日歌った『THE IDOLM@STER』もいいけど…できたら皆の持ち歌も歌いたいなぁ。…難しいかもしれないけれど…歌えれば……きっと………)

朱里は背もたれに後頭部を預けると、自分の中で何かが途切れる感覚がすると共にそのまま眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 

 

 

「…この間の宣材効果もあって、徐々にみんなの仕事も増えてきているしね。まぁ、みんなに合った仕事じゃないかもしれないけど、こういうのもいい経験に…?」

運転中の律子は先ほどから自分だけが一方的に話していることに気がついた。

ふと視線をハンドルから助手席へと動かすと、朱里は車の窓ガラスに側頭部を押し付けたまま寝息を立てていた。既に律子の声も聞こえていない様子だった。

(…姉妹揃って寝るスピードも新人離れってこと…?)

美希と同じくらいのスピードで寝入ってしまった朱里に驚いたが、初めての仕事の帰り道は誰だってこうなるものだ…ということを思い出した。

自分の時もそうだったもんなぁ…と、律子は数年前の記憶を辿る。

(私の初めての仕事はデパートの屋上での歌のステージ…確か春香の代打だったっけ…)

今でこそプロデューサーという立場だが、律子も765プロのアイドルとして活動していた時期があった。

(あの時は本当に人手不足で、仕事も回らなくて…)

元々律子はプロデューサー志望であり、765プロに関わったのも事務員のアルバイトを通してプロデューサー業の勉強のはずだったのだが…当時の765プロにいた面子は事務所までの移動時間が2時間の春香など、フットワークが軽いとは言えない子ばかりだった。

これでは急に入った仕事や何かトラブルがあった時に対応できない…事務所の皆が困り果てていた時、白羽の矢が立ったのが律子だった。事務員離れしたルックスとスタイル、そして何よりも生真面目な性格…トップアイドルを目指せる素質は十分に揃っていた。

『律子君! アイドルを始めてみる気はないかね!?』

社長のその言葉を最初聞いた時は何の冗談かと思った。アルバイトの事務員にアイドル活動をさせるなどという滅茶苦茶な事があってたまるかと断固拒否した。

当初はアイドル活動など絶対にしないと頑なだったのだが、当時の事務所の状況ではそんな我儘を言っている余裕もなく引き受けることとなり、事務員兼アイドルという異例の掛け持ちが始まったのだった。

最初こそ『今後のプロデューサー業に活かすための勉強の一環』という打算的な部分はあったが、続けていく内にアイドル活動は楽しくなってくる。最終的には元々は臨時として始めたアイドル活動をこのまま続けてもいいかも…と思うほどにだ。

しかし活動を続けていく内に状況は変わっていった。765プロに所属するアイドルが増えたことで律子はアイドル活動を続けなくてもよくなったのだ。あずさや貴音など学生でないが故に時間の余裕があるアイドルの加入も決定打となった。

律子は決断しなければならなかった。このままアイドルを続けるのか、志望していたプロデューサーの道を進むのか、それとも掛け持ちのまま活動するのか…。

無論、プロデューサーを目指す夢は捨てるつもりはない。だが、活動を通して増えたファンを見捨てるような行動を取る事にも抵抗があった。律子はギリギリまで悩んだ。悩んだ末に出した答えは―――アイドルを引退し、本格的にプロデューサーを目指すという結論だった。

寂しさはある。時々、後ろ髪に引かれるような思いが蘇ってくることもある。今日の美希と朱里のステージを見た時も、不意にアイドル時代の記憶が蘇った。少し前まで自分もあそこに立っていたことを思い出してしまった。

(もし、もしも…アイドルを続けていたら……? あの子達と一緒に歌う機会があったのかしら…?)

2人のあの新人離れしたステージを見て、元アイドルの血が騒いでしまったのかもしれない。ほんの少し何かが違ったらあり得たかもしれないそんな『もしも』を少しだけ想像し―――律子はすぐにかき消した。何故ならばそれはあり得ない話だったからだ。

「…今の私はアイドルじゃなくて…プロデューサーの秋月律子、だものね」

今の律子の仕事はステージに立つことではない。ステージに立つ他の皆を支え、フォローすることこそが仕事。

(でも……アイドル時代のことを思い出させてくれて、ありがとう。美希、朱里)

車窓に寄りかかる朱里を横目にしながら、律子はそう思った。

始まりは完全に成り行きだったが、あの活動を通して得たものは確実に律子の中で生きている。あのかけがえのない時間は何物にも変えることができない、律子にとってかけがえのない時間だった。

―――さあ、次は私の番。大成するにもしないにしろ…この子達にも自分が感じたような時間が過ごせるようにお膳立てしなければ。それこそがプロデューサーの存在意義なのだから。

(事務所に帰ったら報告と今日のライブの反省点を書いて―――明日以降のレッスンのメニューも考えなくちゃ。ああそうだ! 朱里には『シンデレラガールズ』を勝ち抜いたことでの仕事が一つ入っているし、そのことも朱里に報告しなくちゃね)

事務所に帰っても仕事は山済みだ。でも、不思議と疲れは感じなかった。

今日の仕事を通して熱意に燃えているのは美希や朱里だけじゃない。律子にもそれは伝染していた。

「………二人とも初仕事、お疲れ様」

寝ている美希と朱里にそう呟いたと同時に車のスピードが上がる。まずは早く事務所に帰らなければ。それが今一番自分がやるべき仕事だと思いながら、律子は車のハンドルを握った。




りっちゃんの過去は完全捏造です。公式でもあんまり語られていない部分なので、自分の主観がかなり混じっています。そのため「ありえねーよ!」な部分もあるかもしれませんが…。
パイナップルも良いけれどエビフライのりっちゃんも、髪を下ろしたりっちゃんも大好きです。
次回は…新キャラ登場するかも?


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第24話 藁の中の針

全開の更新間隔が約1年半ちょっと。今回が1週間…ムラがあるってレベルじゃないですが、続きをどうぞ!
後、今回ちょっと下ネタ? が入っています。ご注意くださいませ。


星井姉妹が初仕事を無事にやり遂げてから1週間弱。朱里の中でちゅうぶらりんに残されたままになっていたあれが帰って来ることとなった。

「よし、これからこの間のテストを返すぞ。出席番号順で呼ぶから取りに来るように」

そう、先日行った中間テストの結果である。今回の中間最初の教科である英語の答案返却となる為か、生徒の反応も両極端に分かれていた。

教師から答案用紙を受け取るたびにうげーとかうわーなど悲痛な声で叫んだり、何も言わずにそそくさと去っていく生徒。反対に余裕綽々な態度で答案を受け取って去っていく生徒やニタニタ笑いながら戻る生徒。

「星井」

「はい」

朱里の場合は後者であり、答案を受け取っても周りのように特に騒いだり怪しい態度をせずにそのまま席に戻る。席に座ると、机に答案を広げながら改めて結果を確認した。

(…まあ、英語は自信あったからこんなもんだろ。長文問題で一個ミスった所だけか…)

悪くない点数だと答案用紙を見ながら思う。答案用紙の右端には赤ペンで「98」の文字が燦然と輝いていた。それだけにケアレスミスで落とした一問が悔やまれるが…まあ、目標である『9割以上の点数』の目標を達成できたのだから良しとしよう。

(それに、亜美真美にも馬鹿にされずにすむしな。流石に90点以上取られたらぐうの音もでまい。あいつらの悔しがる顔が目に浮かぶな)

朱里はしてやったりな顔をして口元を緩ませる。あの双子にゴールデンウィークのパフェ事件でやられた借りをようやく返せると思うと大声で笑ってしまいそうになるが、変な注目を集めたくないのでにやけるだけにしておく。

『シンデレラガールズ』から始まり、間にテストを挟んでの初仕事…立て続けに起こった出来事にようやく一つのピリオドが打てたような気がする。その全てにおいて十分すぎるほどの結果を収め、全てが順調だったというのは自分でも少し怖くなるくらいだったが。

律子曰く、これらの結果は『きちんと努力をした見返り』らしいのだが…それ故に、この身体になる前に過ごしてきた怠惰な時間が惜しく感じる。どうにかなるなど楽観視していたあの時にもっと動いていれば、1周目ももっと違った人生になっていたのでは…。

(…違うだろ、私)

暗い考えを遮るようにぴしゃりと額を掌で叩いた。

今の自分は星井朱里だ、あの時の怠惰な自分ではない。女であり、男ではない。

他人には無い変わった過去の持ち主だけれど、今は女であり、駆け出しのアイドルだ。始めた経緯も変わっているし、周りにいるのも個性的な人たちばかりだけど、それが今の自分を形成している。

―――あの時とは少し違う世界だけど、私はここで頑張っている。結果もちゃんとついて来ている。それは間違いのない事実だ。

初仕事を終え、朱里の心境は少しだけ前向きになっていた。

自分を見てくれる人がいる、信じてくれる人がいる。それらがあるだけで、そしてそれを自分が理解していれば人間というものは前を向けるものなんだな、とも思った。

「…『to look for a needle in a haystack』。ここを直訳すると『藁の中で一本の針を探す』という意味になる。こういった長文読解は単語や文法を一つ知らないだけで難しくなるからな」

ふと教師の声に耳を傾けると、この一文を使った長文問題で自分がミスっていたことを思い出した。まずいまずいと慌てて机に放り投げてあったペンを掴み、答案用紙の端っこに正しい答えを書き込む。

「余談だが、この単語の意味は『不可能な企て』や『できそうにないことに挑戦する』という比喩にもなっている。今の君たちに言っても分からないかもしれないが、来年に控えている受験が近づくたびに嫌でも分かるようになるぞ」

嫌らしい顔で講釈垂れる英語教師の言い回しに、朱里はフフッと笑ってしまった。できそうにないことに挑戦…まさに自分が行おうとしていることに似ているなと思ってしまったからだ。

トップアイドルを目指すこともそうだが、姉の美希を超えようとするのは、まさに藁の中で針を探すに等しい難事だろう。

だがそれでもあのステージを見て、自分は挑もうと決心した。姉さんがビジュアルならば、自分は自信のあるボーカルを武器にして戦っていこう。今は通じないかもしれないけれど、いつかは通じさせてみせると。

朱里が初ステージを通して一番変わったこと―――それは超えるべき目標が出来たことだった。その目標がアイドルを始める前はなによりも苦手としていた美希だということはなんという運命の悪戯なのか。

(でも…)

だが、朱里の笑いはすぐに鎮火してしまった。英語教師の言葉で思い出したくもないことも思い出してしまったからだ。

(できそうにないこと…今日の仕事もまさに『不可能な企て』なんだよな。いくらなんで無茶すぎますよ律子さん…)

言葉にならない感情を込めながらペンを握り絞め、頭を抱える。朱里は初仕事を終えて事務所に戻った直後まで記憶を呼び起こしていた。

 

 

 

 

 

 

「ただいま戻りました!」

「お疲れ様です、律子さん! 美希ちゃんも朱里ちゃんもお疲れ様!!」

車で眠ったにもかかわらず疲れが取れない朱里と美希は律子に引っ張られる形でようやく事務所に戻ったのだが、そんな2人を迎えてくれたのは小鳥だった。いつものようにデスクで書類を纏めながら、労いの言葉をかけてくれる。

「お、お疲れ様です…」

「お疲れなの小鳥~」

だが朱里と美希の体力は限界に近く、小鳥の労いの言葉に対して短く答えるのが精一杯だった。ドッと押し寄せてくる疲れで疲労困憊な2人はふらふらとそのままソファへとダイブする。

「ず、随分とお疲れみたいね…?」

「…まあ、今日くらいは大目に見てあげて下さい。2人とも頑張っていましたから」

律子は苦笑しながら「今から社長と話してくるからゆっくり休んでなさい。風邪だけは引かないようにね?」とだけ言い残すと、そのまま社長室へと姿を消していった。

「朱里ー、毛布借りるねー?」

「うん」

ソファ脇にあった毛布を渡すと、美希はあっという間に包まってミノムシのように寝入った。ぴょこん、と毛布からはみ出ている髪の毛が尚のことミノムシを連想させる。

朱里は眠くはないもののシャワーでも浴びたい気分だった。じんわりと出てくる汗で下着の中が蒸れている気がする。汗だけでなく、全身にこびりついている疲れを一気にそぎ落としたかった。

「あれ? 2人帰っているのか?」

「あ、あかりっちとミキミキがいる!」

「お疲れ様!!」

すると朱里たちの声に気付いたのか、ぞろぞろと皆が集まってくる。ソファ周りに集結する面々に出所祝いか何かかよ、とぼんやりと思う。

「生きてるよね?」

「死んじゃやだよー」

「生きてるよ馬鹿野郎…」

寝ている美希と疲労困憊の朱里を見てしゃくりあげる真似をしてからかってくる亜美真美の頭を軽く小突こうとするが、腕を振りかぶるのもしんどいので2人にデコピンをかますだけにしておく。

「ず、随分疲れているね」

眠っている美希はともかく、普段は真面目な朱里のぐったりした様子に春香は目を白黒させていた。

「衣装で踊るのも初めてですし、何よりも場の空気が違いましたからね…ゴリゴリ体力持っていかれましたよ…」

「何となく分かる気がするわ~」

「初ステージはそうなるのがお決まりみたいなもんだからなー」

あずさと響は朱里が言いたいことが分かったのか、うんうんと頷いていた。

「でさ、やっぱりステージは大きかったの?」

「何歌ったの?」

「衣装はどのように?」

「あの新幹少女も出てたって聞いたよ?」

「ちょ、ちょっと待って下さい…一気には答えられません…」

皆があれこれ質問してくるのを朱里は慌てながらも今日起こった出来事を一つ一つ答えていく。皆の質問に朱里一人が返答をするやり取りを幾度も繰り返した時、ふと、デスクの方を見てみるとプロデューサーの姿がないことに気付いた。

「…あれ? プロデューサーは…」

「? 兄ちゃんなら今出かけているよ?」

「外回り? に行っているって小鳥さんが言っていましたー」

朱里の独り言が聞こえたのか、真美とやよいがそう言ってくれた。朱里は短く何とも無いように「そう…」とだけ答えた。

(プロデューサーはまだ帰っていない…のか…)

なんともタイミングが悪い。仕事が終わっているころには帰っていると思っていたのだが。

あの人には色々言いたいことがあったんだけど。

朱里は少し寂しそうな顔をしていると、伊織と亜美が面白いものを見つけたような顔つきで

「何? あんたあいつが気になるの?」

「んふふ~、あかりっちは兄ちゃんのことが気になるようですなぁ~」

と茶化すような声を上げる。伊織はともかく、亜美の顔つきは完全におっさんのそれであり、とても自分と同年代が出す表情とは思えなかった。

「あのなぁ、そういう事じゃなくて…」

「あ、あのね朱里ちゃん…アイドルと男の人のそういった関係は…」

「雪歩さん、それは違いますから」

何か変な想像をして顔を真っ赤にしている雪歩を朱里は断固として否定する。

全く、どうしてそっちの方向に行ってしまうのかな? と朱里は女性の難しさを改めて感じる。自分が抱いていたのは色恋とかそういう感情じゃなかったんだけど…やっぱり女だから、そういう風に見られてしまうのかな?

「プロデューサーはオーディションの時も一緒で、受かった時も一緒に喜んでくれたから…今日のこともしっかり自分で報告しておきたかったってだけだよ。『シンデレラガールズ』でもあの人がついてくれたおかげでコンディションを維持できたから、今日の初ステージのこともしっかり伝えたくて」

「…あかりっち、真面目だね」

「なんかつまんないわね」

「だから言ったろ? 恋だのそういう事じゃないって…」

この話題に関して一段落ついた辺りで、肝心なことが聞きたいとばかりに千早が身を乗り出してきた。

「それで、仕事の方はどうだったの? 上手くいったの?」

「!」

その言葉に反応するかのように毛布からはみ出ている金髪がぴくんと跳ねたが、朱里は気づかないまま「ええ、まあ…」と答えようとしたのだが…。

「よく聞いてくれたの千早さん!」

「うわぁ!?」

いきなり大声を出しながら毛布から飛び出てきた美希にこの場にいた全員が驚いた。寝たり起きたりと忙しい姉だ…と思いつつも、朱里はこれがうちの姉だからなぁ…と笑った。

「美希も朱里もとーってもキラキラできててね! 朱里もすっごく歌が上手くて…ああ、皆にも見せてあげたかったの!」

「ええっ! そんなにすごかったの!?」

「姉さん、そんなに大声で言わなくていいから…」

「それでね。本番前、朱里はとっても緊張してたんだけど美希がギュッと…」

「! それ以上は喋らなくてもいいよ!!」

「抱き―――むぐっ!?」

朱里は美希の口を慌てて手で塞いだ。ステージでの感想はしょうがないとしてもこのままの調子では舞台裏でのやり取りまで暴露されそうだったからだ。あれは流石にばれたら洒落にならないどころか、特殊な性癖の持ち主と誤解されかねない。

「と、とにかく! 私も美希も失敗らしい失敗はしませんでした! 律子さんも褒めてくれましたし!」と引きつった笑顔でそう言うと、口を塞いだままの美希を引きづって給湯室まで連れていく。もう疲れがどうだの言ってられない状況だった。

「美希、あのことは絶対に皆の前では言わないで」

「えー?」

美希の抱きつきは善意100%で行ってくれたのは十分わかるのだが、あの場で言ってはいけないことくらい何故この姉は察してくれないのだろうか。日本であのやり取りはアウト過ぎるだろうし。しかもそれが姉妹同士で行われたというのが尚更まずさに拍車をかけていた。

「いいから!」

「???」

美希は最後までよく分かっていないような顔をしていたが、朱里の鬼気迫る様子に渋々納得してくれた。

「ど、どうしたのよあんた達…」

「ああ、うん、まあ、ちょっとね」

給湯室に引っ込んだと思ったらすぐに出てきた2人を皆は怪訝そうにしていたが、触れてくれるなというオーラ全開な朱里の様子を察してくれたのか誰もそれ以上追及することはなかった。

…その後は、皆で春香が家で作ってきてくれた自家製のケーキを食べ、雪歩の『とっておき』と称している茶葉で淹れた緑茶を飲んだ。その流れで皆のデビュー時や現在の仕事内容などの話題に移っていく。

「千早さんは最近色んな仕事やるようになりましたよね!」

「…ええ高槻さん、そうね。歌の仕事がないのもあるけど、色々やってみようって…」

「伊織は最近雑誌のモデルやったって聞いたよ?」

「まあ、私が表紙じゃないっていうのは不本意だけど…隅っこでも乗るっていうのは気分がいいわよね」

「いいなぁ!僕も早くフリフリのドレスを着て、可愛いポーズをとってみたいなぁ!」

「が、頑張ってね真ちゃん…」

皆の話を聞きながらも、朱里はケーキを口に運んだ。ケーキの甘さが身体全体に染み渡るのを感じつつ、その様子を観察する。

やっぱりここは不思議な事務所だ。改めてそう思う。居心地がいいというか、呼吸がしやすいというのか。芸能事務所というのはもっと上下関係に厳しく、体育会系にガチガチな規律があるものだと勝手な偏見を持っていたが故に当初は色々とショックを受けたものだ。

765プロには生まれた年の違いや入ってきた年月など気にするものは誰もいない。お互いに言いたいことを言い合っている、それぞれの夢に向かって頑張っている。

…本当に良い人達だ。この皆で売れたいと切実に思う。自分だけでなく、この765プロ全員で大きなステージに立ちたい…。

「姉さん」

「ん?」

隣に座っている美希はケーキを食べ終え、フーフーと冷ましながらお茶をすすっていた。

美希はまだまだ上に行けるはずだ。でも自分もそれに負けてはいられない。美希にも簡単にアイドルの夢を諦めて欲しくない。だから…。

「明日から、頑張ろうね。皆に追いつけるようにさ」

「うん!」

美希はニコリと微笑んだ。朱里も同じように微笑み返し、目の前にあるカップを掴もうと手を伸ばす。

律子が社長室から出てきておもむろに口を開いたのは、そのときだった。

「朱里、ちょっと聞いてくれる? 大切な話があるの」

「?」

そんな切り出しから始まったものだから、朱里だけでなく話していた面々も何事だと注目する。自然と朱里を中心に円が築かれた。一体なにを言い出すのかと、朱里も少々心配になりながらカップから手を放す。

「早速で悪いんだけど…次の仕事の話をしたいの」

「次の…ですか?」

確かに早い話だ。今日の興奮がまだ冷め切っていないのに、もう次の仕事…。

「朱里は346プロダクションって知っている?」

「ミ、ミシロ…?」

「あ! 映画とか作っている!」

「古い事務所だということは存じております」

「有名なアイドルもいっぱい所属している事務所ですよね?」

全然わからずに小首を傾げたが、周りの様子から相当大手の事務所のようだ。朱里は一周目の世界に存在していた『ジャ』から始まる超有名事務所みたいなものなのかな、と想像を膨らませる。

「そう、ここ数年アイドル事業に力を入れている大手事務所よ。男女問わず、アイドル業界全体の活性化の為に色々な企画を手掛けていることでも有名ね」

「…えっと…?」

「朱里が受けた『シンデレラガールズ』もその一つ。あれも主催しているのは346プロなの」

「はあ…」

その346というのはウチなんかとは比べ物にならない程のデカい事務所だということは理解できるのだが、その大手事務所と次の仕事に何の関係があるのだろう?

「…もしかして、次の仕事は346プロが主催するイベントのステージで歌うってことですか?」

「惜しい。そういうことじゃないわ」

「じゃあなんの…?」

律子が首を振るのを見て、ますます分からなくなる。用心深く先を促した。

「…346プロが主催するTV番組があってね。単発物の企画で時間も短いんだけれど、新人アイドルを出すっていうコーナーがあるの」

「…………」

「大部分は346側のアイドルが出るんだけど、他事務所からの枠も少数あってね。その枠の一つが…ウチに回ってきたわ。先方さんが先日の『シンデレラガールズ』で勝ち上がった子を気に入ったらしくてね」

「「「まさか……」」」

伊織など察しの良い何名かは気付いた様子で朱里を見る。朱里も次に出てくる言葉が予想できてしまった為、息を呑む。

律子は朱里の顔を見ながら、悠然と述べた。

「朱里、あなたの次の仕事は…テレビ出演よ!」

―――その瞬間、事務所中に絶叫と混乱が渦巻いた。無論、朱里も割れんばかりのボイスで叫んだ一人だ。

 

 

 

 

 

 

「…二回目の仕事がテレビ出演なんて……」

「ま、まあ良かったじゃないか。良い経験になるし、ライブより注目が…」

「でもいきなり過ぎません? 仕事終わったその日に言わなくても」

「ま、まあ、律子も初ステージで余計なプレッシャーを与えたくなかったから喋らなかったって言ってたし」

「それは分かりますけど…」

収録日当日。ブツブツと呟きながら、制服姿の朱里はお腹を押さえながら助手席に鎮座していた。運転するプロデューサーはそんな朱里を説得しながら車のハンドルを切る。

(過去の出演者を見ると、結構有名な人たちも出ている番組らしいし…)

あの後すぐに調べてみた所、オッドアイなアイドルだのJKカリスマギャルだのテレビに疎い朱里でも顔くらいは知っている有名アイドルも出演していた。美希は昨日『もしかしたら有名な人に会えるかもね』なんてことを言ってたが、ミーハーな気分を抱く余裕はなかった。

制作局の関係上、関東圏内でしか番組は放送されないとはいえ、自分の姿が公共の電波に乗るということにプレッシャーを感じることは当たり前だろう。放送する時間はゴールデンタイムを逃しているとはいえ、深夜前の放送枠が故にそれなりに見る人も多そうだし。

星井家でも「朱里の出演記念!」と放送日に番組を録画する気満々だったし、小鳥さんなんかは事務所だけでなく、自宅でも録画する準備をしているという万全ぶりだ。

(アイドルだから、いつかはテレビに出るっていうのは覚悟していたけど…)

早すぎる、と思う。まだ765プロ内でも古参の春香など一部のアイドルくらいしかテレビ出演はしていないのだ。

一番遅く入った自分が偶々受けたオーディションが大手主催で、それに勝ち上がったおかげでこの仕事を掴み取ってしまった。

(上に進めるスピードやチャンスは平等じゃない…。何にでも言える、当たり前の話だけど…)

改めて突き付けられると凄く残酷で理不尽だ。頬に手を当てながら朱里はそう思った。

オーディションだけじゃない。就活やバイト、そこら辺の学校や会社で果てしなく繰り返されている事と同じだ。違うのはその規模だけ。大なり小なり…誰かを負かして、踏み越えなければならない状況は飽きる程転がっている。そして芸能界はそんなことは日常茶飯事に行われている。

(…だからこそ、しっかりやりきらない、とな)

私はそういう世界で生きようとしているのだ。だからこそ、任された以上、中途半端にしたくない。

ギュッと頬に置かれた指の力が強まっていく。強まるたびに頬に指の置いた跡が刻まれ、まるで化粧をしたかのように赤く染まっていく。

「…朱里、その…大丈夫か?」

「―――大丈夫です。こうなったら腹を括ります。」

プロデューサーの心配そうな声に反応し、グッと朱里の顔が覚悟を決めたような表情へと変わる。

「それに…」

「それに?」

「『シンデレラガールズ』の時と同じで、あなたがいますしね。初ステージでは危うかったですけど…皆のおかげでやり切れました。だから今度もやりますし、きっとやれます。上に行くために、次につなげるために…」

そして何よりも、美希を超える為にも――。

「だから大丈夫ですよ、プロデューサー」

朱里は唇をほころばせ、眉を困ったように寄せながら笑った。指の跡のせいで赤く染まった頬で微笑む朱里の姿は美しく……そして可愛かった。

「…あ、ああ」

「?」

プロデューサーの顔が何故か赤くなっていることを朱里は不審に思いながらも車はテレビ局の駐車場へと停まる。何だか変な空気の中、2人は車を降り、局の中へと入った。

「じゃあ、受付してくるから、しばらく待っていてくれ」

「分かりました」

プロデューサーが離れ、ほっと一息つきながら周りを行き来する人たちを眺めていると…朱里は不意に下腹部に違和感を感じた。生理とは違うが、腹の中で水が溜まっていくあの特有の感覚…。

(う、トイレに行きたい…)

―――そうだ、これは尿意だ。緊張感と熱意の中ですっかり自分がトイレに行っていないのを忘れてしまっていた。

(我慢するにも…これはちょっと無理があるな…)

溢れんばかりに増えていく尿意を朱里は抑える自信がなかった。いっそ出しちゃった方が気が楽になる。

ちらっとプロデューサーを見てみると、受付の方はまだしばらく時間はかかりそうだった。ちょっとトイレに行くくらいの余裕はありそうだ。

(…すぐ帰ってくれば、大丈夫か)

そう思いながら朱里はそっとその場を離れ、来る途中にあったトイレへと急いだ。

いくら女性に生まれ変わったとはいえ、朱里も生きている以上、生理現象には逆らえない。

特にそれを痛感するのは日々のトイレだ。もういい加減に慣れはしたのだが、男時代の経験がある分、女のトイレは手間暇がかかるよなぁと感じてしまう。

男なんてズボンのチャックを開けて、溜まっているのを出した後2、3回振って、出したものしまっちゃえば終わりなんだから。女の何を出すにも大の方に入って、下着を下げて、何をするにもトイレットペーパーを使わなきゃいけないのはどうにかならないのか。

(どうにか、女でも立っておしっこできないものかなぁ…)

そんなどうでもいいことを考えながらトイレの前まで辿りつき、駆け込むようにドアを開けるが、ここで朱里は重大なミスを犯してしまった。

一つはどうでもいいことを考えてしまった為にトイレの表記をしっかりと見なかった事。もう一つは元男であるが故に無意識の内に男子トイレの扉を開けてしまった事。

この二つのミスが導き出す結論は―――。

「うおお!? 何入って来てるんだてめぇ!?」

男子トイレに女子が介入するという、珍事であった。

「あ…」

丁度小便器に構えて出す体勢を取っていた男子と思いっきり目が合ってしまい、朱里はやってしまったと後悔しながらその場に立ち尽くしていた。




朱里は普段は真面目ですが、男時代の癖が完全には抜けておらず、時々こんな奇行を起こしてしまいます。そのことで皆は「天然」であると認識しており、同時にそういう所が美希と似ているなぁ…と思っていたりします。

次回、デレマスのキャラも出来れば出したいんだけれど…出せるかなぁ?


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第25話 カワイイと真っ直ぐさ

どれくらいの文字数がちょうどいいのか、最近悩んでいます。
5千文字は少し短い気がしますし、1万文字以上は長すぎる気がしますし。
7~8千文字くらいの丁度いい感じで毎回書きたいのですが、そういう時に限って伸びてしまうというジレンマが…。1万越えは久しぶりな気がします。
ではどうぞ。


朱里が誤って男子トイレに突入してしまう数十分前。黒塗りの高級車が一台、テレビ局の前に止まった。

後部座席のドアが開かれ、中から3人の男子が出てくる。綺麗にセットされた茶髪、短めの金髪、ロン毛の緑髪…彼らの見た目は少し奇抜だったが、その外見と身に纏う雰囲気から単なる一般人でないことが想像できた。

「じゃあ行ってくるぜ、おっさん」

「ウィ。我が961プロ初の男性ユニット『ジュピター』の初収録だ、見せつけてこい」

「分かっているって、黒ちゃん」

「しっかりやりますから」

黒ちゃんと呼ばれた年配の男性は助手席から窓を開け、激励を飛ばす。それに応えるように頷く3人。

「今更言うまでもないが…お前らには期待しているからな。ではさらばだ。セレブな私はまだ仕事が残っているのでね、ハッハッハー!」

セレブ関係ないだろ…と3人は思ったが、『セレブ』と鼻に付く高笑いはこの男の口癖みたいなものだから気にするだけ無駄だった。去っていく高級車を眺めながら、茶髪男子が口を開く。

「…うし、北斗、翔太。行くぞ」

「俺はいつでもOKさ」

「冬馬君こそ、準備は出来てるの?」

北斗と呼ばれた金髪男子はがっしりとした体形に力を入れながら笑う。翔太と呼ばれた緑髪男子は君こそいいのか? とも言いたげな顔つきで、冬馬と呼ばれた男子を見た。

「…準備万端に決まっているだろ? 俺はジュピターのリーダー、天ヶ瀬冬馬だぜ」

「そう言っているけど、車の中でずっとそわそわしていたように見えたよ? 緊張してるんじゃない?」

「馬鹿、これは武者ぶるいだよ。さっきから止まらねえのさ」

「ふーん?」

「まあまあ、冬馬がそう言っているんだから、そういうことにしておこうぜ」

3人は時間にはまだ余裕はあったが早めに入っていた方がいいだろう、と受付で入館許可を取ることにした。リーダーの冬馬が代表として手続きを行い、北斗と翔太は後ろで待たせる。

「…はい。ここと、ここ……後はここの欄が…」

「……ああ、うっかりしてました。すみません」

見落としていた欄に気付いた冬馬は慌ててボールペンで書き込む。慌ててしまったせいか、何度かボールペンを落としてしまう。

「これでいいですか」

「はい、結構です。お預かりします」

初めてのテレビ局ということもあってか、武者震いだけでなく緊張感も感じていたのかもしれない。受付は予想以上に時間がかかってしまった。

そのせいか、冬馬は全身の毛穴から粟が生じる感覚がしてくる。それと同時に、先ほどからトイレに行きたくて仕方ない。事務所を出る前にしっかり出してきたはずなのに、もう尿意を感じ始めていた。

「…あ、冬馬君。やっと終わったの? 遅いよー」

「ああ、悪かった。時間かかっちまった」

「俺なんか暇すぎて、ここでバク転でも始めちまう所だったぜ?」

北斗は陽気に笑い、翔太は待ちくたびれたと云わんばかりの顔をしていた。そのことに冬馬は特に腹を立てることもない。この手のやり取りはグループが結成した時から幾度となく繰り返されているだからだ。それと同時に、こういう所が彼らの良い所でもあった。

「…悪ぃ、先に行っててくれ。俺達の楽屋は階を上がって突き当りを右の所だってさ」

「何? またトイレ行きたいの? 頻尿?」

「うるせえ、そんなんじゃねぇ。後、アイドルが頻尿とか口走るな」

「おいおい冬馬。最近は若者の頻尿も多いらしいから変に気にすることは…」

「だから頻尿じゃねえ!」

冬馬は仏頂面で答えながら、こいつら好き放題言いやがって…と叫びたいのを堪える。

「お前らは先に楽屋に行ってろ。俺が着いたら一緒に挨拶回りするからな」

「はいはい」

「早く来てねー」

しっしと手で2人を追い払いながら、冬馬は標識を頼りにトイレまでの道のりを目指す。

(ったく、あいつらはよぉ…!)

良い奴らなのは分かってはいるのだが、3人揃うと何故か自分が弄られる側へとなってしまう。それを理不尽と思うこともあるが、まあ、それでグループの調和を上手く保てているのなら良しとしよう。あいつらの受け皿になる、それもリーダーとしての役割なのだから。

961プロ上層部の厳選な審査の元に結成されたアイドルグループ、それがジュピターだ。現在は「知る人ぞ知る」の段階だが、今日の収録を機にメディアの露出も徐々に増やしていく予定だそうだ。それをやり遂げるための長い期間のレッスンを積み重ね、十分すぎるほどの実力も身につけてはいる。

『お前らには期待している』

冬馬の胸に先ほどの言葉が蘇る。期待している―――その言葉は誇りに思うが、同時に重みにも感じる。

―――王者は孤高で、そして傲慢でなければならない。先ほど車に乗っていた黒ちゃんもとい、961プロの頂点に君臨する男である、黒井社長が常日頃から言っている台詞だった。

謙虚ならば誰にでもできる。だが、それは逃げ道を作ることになる。逃げ道があれば余裕ができ、それが失敗へと繋がる。トップアイドルはそれではいけない。アイドルとは一般人とは違う、別の存在であるべきというのが961プロの方針であり、芸能界に名を刻んでいる数々のレジェンドクラスのアイドルはそういった性格の持ち主がほとんどであった。

そして961プロはそれらを成し遂げられる全てが揃っている。大手であることを最大限に活かした売り出し方、効率的なレッスンを積むための施設や優秀な指導者、それらを維持する豊富な資金力。

期待されて当然。勝って当然の星の元に自分たちはいる。それが自分たちの義務であり、自分たちに必要な覚悟。その重みに耐え、重みを糧に進む。より先に進む為に、より輝いている自分になる為に。

(……でもさ、俺達、良いグループだよな)

御手洗翔太と伊集院北斗。結成当時からウマが合っており、ジュピターが高い完成度のアイドルグループなのは個々の実力もそうだが、彼らの性格も噛み合っているからではないかと冬馬は推察している。

翔太は時々場違いなことを言うが、決して考え無しでは言わない。仲間が緊張し過ぎたりしている時にちょっとした一言で雰囲気を変えてくれる。

北斗は全体の空気を上手い具合に察してくれる。場の空気を変えるために翔太の軽口に乗っかることも多いが、逆に空気が緩み過ぎたりした時にはさりげないフォローを入れてくれる。

(あいつらとなら行ける、どこまでだって行ける。おっさんの言う通り、トップにだって絶対に行ける)

2人は真面目で熱血漢の自分をフォローしてくれる。一人では無理かもしれないが、あいつらとだったら絶対に行ける。そんな確信があった。

―――まずはその一歩を踏み出す為に今日の収録は絶対に成功させなければならない。その為にはこの尿意を即刻解消すべきだった。

冬馬は男子トイレの扉をそっと開け、素早く中へ入った。誰もいないのを確認した後、小走り気味で小便器の前で止まる。

(トイレ我慢してそわそわしている姿なんざカッコ悪くて見られたくねえしな。さっさとだしちまうか)

そのままズボンのチャックを降ろし、構える。そしていざ出そう…とした瞬間、男子トイレの扉は再び開け放たれた。

誰かが入ってきたのか。反射的に冬馬は扉の方に目をやり―――思考が停止した。

「!?!?!?!?」

扉の前に立っていたのは……制服を着た女。しかもその見た目から自分と同年代らしき女子生徒だった。

なんでここに女がいるんだとか、標識ちゃんと見ているのかとか、そもそもこいつ本当に女なのかなど様々な疑問が一斉に冬馬の脳みそをパンクさせる。

扉の前の女子も思考がフリーズしてしまったのか、ただただ呆然とチャックを降ろした冬馬を見つめている。

「「…………………………………」」

一歩間違えば特殊なプレイになるであろうこの状況。先に切りだしたのは冬馬の方だった。数秒遅れて来たリアクションを心の底から絞り出した声で叫ぶ。

「うおお!? 何入って来てるんだてめぇ!?」

「……あ」

冬馬の絶叫と混乱した表情でようやく事の重大さを察した女子はやってしまったという顔をするが、それはこっちも同じだ。

「……ここ、その、男子…だよね?」

「見りゃ分かんだろーが! 早く出てけ!」

「す、すみませんでした! つい…」

つい、で男子トイレに入られることがあってたまるか! と怒りすら覚える冬馬に怯えたのか、慌てて出ていく女子。その後すぐに隣の扉の開閉音が聞こえたので、女子トイレに駆け込んだことが想像できた。

(……な、何とか出さずに済んだ…!)

気合と根性で体内から出そうとしていた液体を寸前で堪えることが出来た自分を褒めたくなる。一歩間違えれば自分の出す瞬間を見ず知らずの異性に見られるというトラウマものの大惨事だけは何とか避けられた。…二月ほど前も撮影スタジオでリボンを付けた女子にぶつかってしまうし、最近は何故か女子が絡むと碌なことが起きていない気がするのは気のせいだろうか。

(あああああああああ! 張っていた緊張感やら覚悟やらが……あいつのせいで全部吹っ飛んだ!!)

さっきまでの俺の決意はいったいなんだったんだ…とぶつけようのない苛立ちを込めながら、冬馬は小便器に自分の身体の中に溜まっていた全てを吐きださせるのだった。…いつ扉が開いて女子が駆け込んでも大丈夫なように、いつも出す半分くらいのスピードで慎重にだが。

―――全くの余談だが、楽屋に戻った冬馬は何か大切な物を失ったかのような雰囲気だったと後に北斗と翔太は語っている。その日の番組収録自体は上手くいったから良かったものの、しばらく冬馬もトイレでの出来事を忘れることが出来ず、誰にも入られることのない個室で用を足すようになったらしい。

 

 

 

 

 

 

入るトイレを間違える、という前代未聞のハプニングをどうにかこうにか切り抜けた朱里は出すものを出した後、さっさとロビーまで戻ることにした。

「あ、朱里! どこに行ったのかと思えば…」

「……すみません、プロデューサー」

プロデューサーは突然いなくなった朱里を随分心配している様子だったが、「トイレに行ってきました」と一言だけ伝えればプロデューサーはそれ以上何も追及したりはしてこなかった。無論、あのトイレでの一部始終は話してはいない。話さない方がお互いの為だと思うし、あの見ず知らずの男子の為でもあるだろう。

「楽屋って上の階ですよね?」

「ああ。えーと、次の角を曲がってエレベーターに乗ってだな…」

地図を睨めっこしているプロデューサーのナビゲートで朱里はテレビ局の中を歩いていく。

すれ違う人たちに挨拶も欠かさずに行いながらも、テレビ局独特の空気が肌を刺す。

(う、ライブ会場とは違った緊張感が…)

すぐ近くに芸能人がうろついているかもしれないというのが変な空気を醸し出しているような、そんな気がする。ここで番組が撮られ、お茶の間に届けられる。そんな場所に自分が立っていて、しかも番組に出演するというのが未だに信じられない。まるでここが別世界のような…そんな感じだ。

となると、さっきのトイレの男子も芸能関係者なのだろうか? 容姿もイケメンだったし、服装からしてどうにもテレビ局の関係者とは思えない。…もしそうだとしたらかなり失礼な行動を取ってしまったことになるかもしれない。とは言っても、決定的にマズイ事件に発展したわけでもないし、こちらにも一応の情状酌量の余地はあると思うのだが…。

心の中で「ごめんなさい、見ず知らずのイケメンさん」と朱里は謝罪の念を送りながら、ようやく自分に与えられた楽屋の入り口へとたどり着いた。

(…まあ、新人だし、楽屋は大部屋なのは当然か…)

どうやら今日共演するアイドルは一括りで纏められているらしい。まあ、個室貰えるほどの大物ではないのだから当然の扱いだろう。中に誰がいるまではまでは分からない為、期待半分不安半分といった所だ。

「その、私、入っても大丈夫ですよね?」

「朱里達に割り当てられた部屋なんだから、入って駄目な訳ないだろ?」

「そ、そうですよね…いや、なんか…入りづらいみたいな感じがしてしまって…」

どうかまともな子でありますように、と願いながら朱里はドアをノックする。

「はい! どちら様でしょうか!?」

燃え滾るような声が向こう側から聞こえてきた。随分と元気が良い子みたいだ。

「し、失礼しま…おはようございまーす…」

朱里は若干、遠慮気味にドアを開いて楽屋に足を踏み入れる。楽屋の中には4人先に入っていることを確認した瞬間、茶色の何かがぶわっと視界を覆った。

「おはようございます!」

「!?」

気がついた時には一人の少女が朱里の目の前で勢いよく頭を下げていた。視界を遮っていたのは長い髪をポニーテールに纏めた彼女の髪の毛だった。

「346プロのアイドル日野茜といいます!! 血液型はAB型! 好きな食べ物はお茶で好きなスポーツはラグビーの17歳です! まだ右も左も分からない新人ですが、よろしくお願いします!! あっ右と左は分かります! お箸を持つ方が右手です!! そういうことではなくてこの業界のことです!!」

「ど、どうも……765プロの新人アイドル、星井朱里です。私もまだデビューして間もないですが今日は…」

「朱里さんですか! 私と名前が似てますね! 今日はお互いに元気よく頑張りましょうね!! 元気があればなんでもできますから!! 元気爆発頑張るぞーって感じで!!」

「は、はい…そうですね…」

「はい! 一緒に今日は燃え尽きちゃいましょう! あっ、燃え尽きたらまずいですねすみません!! 燃え尽きる一歩手前まで燃えましょう!!」

バッと顔を近づいて息する間もなく話しかけてくる茜に朱里は冷や汗を流していた。話す音量もそうなのだが話す距離も近い為、耳がキンキンと唸って仕方ない。後ろのプロデューサーも耳を塞がんとばかりに顔を強張らせている。

体型自体は朱里と同程度なのに、一体どこからその大声が出てくるのかが不思議だ。大ボリュームで息継ぎなしで話していたのだから肺活量とか凄そうだし、良い声で歌えそうな子ではあるのだが。

悪い人ではないのだろうが、うるさい人…というのが茜の第一印象だった。765プロにはいないタイプの子に朱里は目を白黒させてしまっていた。

「茜さん、あまり大声で喋らないでください。楽屋は狭いんですから、ボクの耳まで痛くて仕方ありませんよ」

と、楽屋に備え付けられている鏡を向いていた女の子がこちらの方を向いてきた。茜よりも更に小柄で、小学生と見間違えてしまう程の女の子だった。

「あっ、すみませんでした!! 自己紹介はビシッと決めた方がいいと思いまして!!」

「謝る時もボリュームを下げてくれた方がボク的には嬉しいんですけどね…。と、あなたが今日、他事務所枠で共演する子ですね?」

「あっ、おはようございます。765プロの星井朱里と申します」

「765…聞いたことがあったような、ないような……?」

「あっ、まだまだ小さい事務所なので、知らなくても無理はないかと…」

小柄な少女は紫髪であった為、奇抜な第一印象を抱いていたのだが、意外にもまともそうな子で朱里は安心した。よかった、こういう子がいるだけで安心感が…。

「ふふん! 僕の名前は輿水幸子! 346プロ一番カワイイ新人アイドルとはボクのことです!」

「…………………か、かわいい、ですか?」

「勿論! 皆はボクの魅力にまだ気づいていないようですけど、今日の収録で気付くこと間違い無しです! だってボクは――――」

幸子は一拍溜めながら、視線を鋭くし―――。

「カワイイですからねっ!!」

「…………そ、そう、ですね…」

ドヤ顔をする幸子に、朱里は顔を引き攣らせながらの苦笑いで返すのが精一杯だった。自分の後ろにいるプロデューサーもとんでもない顔で固まってしまっている。

「おおっ! やっぱりそう思いますか!? いやぁ、ボクのセンスに付いていける人がいるだなんて感激です! ボク達、気が合うかもしれませんね! だってボクはカワイイですから!」

「あ、あはは…」

…前言撤回。この子も何か変だ。ルックスは確かにそこら辺のアイドル顔負けなのだが、ドヤ顔に羞恥心ゼロで『カワイイ』と連呼出来る子なんて普通じゃない。大物なのか、それともただの大馬鹿なのか…。

「ちょっと! そっちだけで盛り上がらないでくれない?」

すると、楽屋の隅っこで待機していた女の子がトコトコとこちらにやって来る。髪をお団子に纏め、可愛らしいワンピースを纏った子でいかにもアイドルらしい女の子だった。

だが朱里は気が気でなかった。さっきの幸子もそうなのだが、見た目だけで判断するには早すぎる子が多すぎる。ウチの事務所もだいぶ個性の塊のようなアイドルが多いけれども、彼女らも負けずとも劣らない。

「初めまして! あたし、棟方愛海! 346プロ所属の14歳でこの間デビューしたばかりの新人アイドルだよ!」

「…は、初めまして。765プロ所属の新人アイドル、星井朱里といいます。齢は13歳の中学2年…」

「んもー! 敬語とかそういうのは無しにしよ!? 齢も近いんだし!」

「えっ? うわわ…?」

「とりあえず、愛海って呼んでいいよ!」

ガバッと抱き着きてくる愛海に驚いてしまう朱里であったが、どこか安心感はあった。恰好も性格も3人の中では一番まともそうだったし、雰囲気も明るい。とっつきやすさでいったら断トツだ。

初対面でのスキンシップがやや過激なのと何故か手がワキワキと動いているのが気になったが、美希のアレと比べたらまだ可愛いもの。許容範囲に十分に収まる。

「……あーあ、ああなったら…」

「あれが来ますね…」

しかし、茜と幸子はこの世の終わりのような顔をし、朱里を憐れむかのような視線を送る。幸子は楽屋入口付近に立っているプロデューサーの方へ近づくと、こっそりとこう囁いた。

「…あの、朱里さんのプロデューサーさん…ですよね? すぐに楽屋を出た方がいいです」

「え? い、いきなりそんなこと言われても…」

「ボクの予感が的中したら…といいますか、ほぼ間違いなく的中します。これから先、朱里さんに悲劇が待っていますから…」

「え!?」

一体どんな物騒なことが…と心配するプロデューサーと、あなたが思っていることと多分違いますよ…とでも言いたげな呆れ顔の幸子。

「と、とにかく!外に出て下さい!!」

「今のうちに挨拶回りに行った方がいいとカワイイボクは思いますよ!!」

「え!? え!?」

そんな2人に割り込むように茜がプロデューサーを楽屋から追い出そうとラグビー顔負けの強烈な押し出しをする。突然の出来事に流されるように追い出されたプロデューサーはそのまま廊下へと放りだされてしまった。

「すぐには戻らないでくださいね!」

「中を見るのも聞くのも駄目です!!」

「ちょ、ちょっと待て……お、俺は、どうすれば…?」

最後には駄目押しとばかりに中から鍵をかけられてしまい、プロデューサーはどうすることも出来ずに途方に暮れるしかなかった。

「…でね、あたしの趣味はお山めぐりでね。もう、大小問わず色んなお山が大好きなの!」

「お山…ですか。そういう趣味もあるんですね」

「お山は奥が深いよ~? 世間は大きいお山の方が偉いなんて風潮があるけど、小さいお山にも魅力はある! 悪いお山なんてこの世に一つもないからね!」

しかし朱里は愛海との話に夢中でプロデューサーに起こっていた一部始終を知らずにいた。愛海の『お山』なる話題にすっかり花を咲かせている。

(…お山、ね。愛海さんって登山が趣味なのか。確かに登山って自然と一体になれる最高の趣味だってどこかで聞いたことがあるし、良い趣味持っているなぁ。バックパック背負ってる姿とか似合いそう…。小さな身体に大きな荷物とかいい絵になるだろうし、そっち方面の趣味持っているとバラエティとかにも強そう…)

ただ、朱里は悲しい事に愛海が言う『お山』が何を表しているのかを知らないでいた。その誤解は続いたまま、遂にその時を迎えてしまう。

「それでね! 朱里ちゃん!!」

「はい?」

「あたし、会った時から思っていたんだけど、朱里ちゃん良い『お山』持っているよね!」

「…お、お山? えっと…あれ?」

だんだん雲行きが怪しくなってきた。嫌な予感と共にぞわぞわと悪寒を感じ始める朱里。

「見るだけでもいいんだけど、やっぱり直接触りたくて…。も、もう、我慢できなくて…!」

「……………ま、まさか、愛海さんの言う『お山』って…!?」

愛海のセクハラオヤジ気味の顔とはぁはぁと荒げる呼吸、そしてワキワキと何かを揉みしだいている指の仕草で『お山』が何の比喩を表しているのかようやく理解した朱里。つまり、彼女の言う『お山』とは―――。

「ちょ、それは流石にまず……」

だが時既に遅かった。朱里が自分の胸を庇おうと動くよりも前に愛海は素早く朱里の胸元へとタッチし―――。

「あっ…」

そのままムニュムニュと触り始めたのだった。

「むむっ!? 年下なのにこの大きさ…83、いや4はあるね? しかも大きいだけでなく、形もいい…」

「あっ……やめっ…?」

他人にはともかく、自分でも滅多に触らない乳房を遠慮なく揉みし抱かれるというのはもの凄く変な気分であった。こそばゆさすら感じる。しかも愛海の触り方も絶妙に上手く、胸を潰すような乱暴なタッチは絶対にしないことに、その拍車を掛ける。

「服の上からでも分かるこの凄さ、何食べたらこんなに大きくなるのかなぁ…」

「あっ、あっ……?」

「う~ん、肌も良さそうだし…」

「あっ……それ以上は、本当に…止めて下さい………!」

これ以上愛海の好きにさせたらとんでもない世界の扉を開けてしまいそうだ。愛海を振り払うかの如く、グイッと遠くへ押しやると朱里はバッと胸元を腕でガードした。

「いきなり何するんですか!」

「いやだなぁ、今日共演するアイドルの『お山』くらい知っておかないと今後の活動にも支障が出るじゃない?」

「いつの時代のどこの国の常識ですか!?」

「あたしの常識! 流石に一線は超えないから安心して!」

全然安心できない。同性とはいえ、πタッチはアウトではないだろうか? 同意の上ならばセーフかもしれないが、いきなり揉まれるこっちの身にもなってくれないものか。しかも被害者がまだ増え続けるような発言までサラッと…よくこの子事務所に所属することが出来ているな、とすら思ってしまう。

朱里は助けを求めるように茜と幸子に視線を送るが…。

「朱里さんの言いたいことはよく分かります。カワイイボクもあったその日にやられましたしね」

「でも愛海さんは止めたって止まりません! あれはもう信念なんです! 諦めて下さい!!」

幸子にため息をつかれ、茜にそうバッサリ断言されてしまってはぐうの音もでなかった。

それと同時に、やはりこの業界はあれくらいキャラが濃くなければやっていけないのかもしれない…と、どこかずれたことを考えてしまう朱里であった。

 

 

 

 

 

「だってボクは―――カワイイですからねっ!」

「…はい! リハーサルは以上になります!出演者の皆さんは本番まで休憩お願いします!」

―――その一言でスタジオ内の空気が緩やかになった。

愛海のお山事件からしばらく経った後。スタジオに移動した朱里たち新人アイドルたちは撮影スタジオに入り、リハーサルを行っていた。

新人アイドル向けのコーナーの為、それほど時間は長くはない。話す内容も出身地や趣味、好きな事や苦手なことなど…初ステージのトークで聞かれたことを少しだけ詳しくする程度であったが、重要な所はそこではない。

最も重要視している物。それは雰囲気だった。

このコーナーの趣旨は新人アイドルの初々しい姿をカメラに収めることが目的であり、変な演技や過剰なキャラ付けはしなくていいとのこと。要は『ありのままの君たちが見たい』とのことらしい。

当然…というのか必然というのか、カワイイを連呼する幸子にはこのことを悲しい程に念押しされていたのだが、終盤辺りでスタッフ側も「ああ。この子はこういう子なんだ」と理解したのか、特に何も言うことはなくなった。……ただ単にスタッフが諦めてしまっただけかもしれないけれども。

(やっぱり…変な気分だ…)

ぷはぁ…と喉に詰まった何かを吐きだす様な盛大なため息をついて、朱里はセット脇のパイプ椅子に腰かけた。ステージに立つのとは違う疲れが襲ってくる。

当然のことだがセットの外側では色んな人たちが動いており、見ている。観客に見られるのとはまた違った緊張感がそこにはあった。

全体の動きやコーナーの進行手順、質問の聞かれる順番…その度に入る注意や駄目だし。それらを意識するのに夢中で、一気に体力を持っていかれる。

(視線はしっかりとカメラに向けて、カンペをじっと見過ぎないで、変にそわそわしないで…言ってることは正しいんだけど…)

初々しさをコンセプトにしているが、流石にテレビに出せる最低基準はクリアしておかないと色々とマズイのは十分に承知しているのだが、それでも初出演の身としては酷なものがある。

(とにかく、それを意識して本番に臨まないと…後は言葉遣いもそうだし…TV番組って色々と大変なんだなぁ…)

普段何気なくやっているTV番組の一つ一つもこうやって撮られていると思うと、自分がそれに関わっていると思うと何だかとんでもない所に来ちゃったなぁ…と感じる。

また、セット外でプロデューサーがあたふたするのが目に入ったのが記憶に新しい。まるで授業参観で我が子を見守る保護者みたいだった。…まあ、プロデューサーってそういう立場の人なんだけれども…。

「リハーサルお疲れ様、朱里ちゃん」

「あ、おはようございます、秋月さん」

栗色の髪を綺麗にセットし、緑色を基調とした衣装を着こなすのはウチと同じ他事務所枠での出演となった876プロの新人アイドル、秋月涼だった。律子と苗字が同じなのは少し驚いたが、まあ、秋月という苗字は割とポピュラーそうだから偶々だろう。律子に姉妹がいたという話も聞いたことがなかったし。

こちらも(見た目だけなら)正統派アイドルの愛海と同じで可愛らしい雰囲気がするのだが、何故か時々目が死んでいる気がする。さっきのリハーサルでも「可愛い」と言われた時の涼の顔が明らかに複雑そうな顔をしていた。どうやら、自分のやりたいことと売り出す路線のギャップがあって、色々と複雑なことになっているみたいだ。

「その、秋月さん…楽屋の出来事は、すみません…全然話せないままリハーサル入ってしまって…」

「ああ、そのことなら大丈夫。色々と大変だったしね…?」

あの楽屋には涼もいたらしいのだが、346プロの面子との絡みと愛海のお山騒動ですっかり話すタイミングを失ってしまい、2人はまともな会話を今になってようやく行っているのだった。

「何か大切な物を一つ失ったような気分です…」

「ごめんね…。楽屋の隅っこで震えることしかできなくて…助けを呼ぶこともできなくて…」

涼は心底申し訳なさそうな顔で朱里に謝るが、あれは仕方ないと思う。あんな展開誰が予想できただろうか? 涼はまだ愛海の毒牙にかかってはいないそうだが、できればこの人には一生かからないままでいてほしい。

…これ以上、この手の話題を続けていると精神衛生上よろしくないような気がしたので、朱里はチラリ、と少し離れた場所にいる愛海と茜を見つめた。2人はピンマイクを直してもらっている最中であったが、そんな中でも愛海は視線を女性スタッフの胸元へ行っており、その佇まいは流石としか云いようがなかった。実に堂々としている。

愛海だけじゃない。この場にいる346プロのアイドル全員は堂々としており、リハーサルでもほとんど注意されていない。注意されるのは朱里と涼の方がダントツに多かった。

「―――おや、どうしたんですか? 2人とも、カワイイボクのことを思っていたんですか!?」

噂した途端にこれか。すっかりお馴染みの態度でどこからともかく現れた幸子に苦笑いしかできない朱里。対照的に涼は少し落ち込んだ様子で幸子を見た。

「……凄いですよね、幸子さんって」

「?」

幸子と朱里は顔を見合わせ、共に首を傾げながら涼に注目した。何を言いたいのか、分からなかった。

「あんなに自信を持ってリハーサルが出来て、ズバズバ目立てて。私なんか、事務所の皆にも頑張ってくるなんてカッコいいこと言ったのに失敗ばかりで……初仕事がTVで張り切っていた自分が情けなくて…」

「………………………」

気持ちは、なんとなく分かる。凄い人に囲まれると人はどうしても自分を下に見てしまいがちになってしまう。でも、それは―――。

「それは駄目ですね!」

すると幸子は言葉を遮って、涼をビシッと指差した。

「涼さんは『頑張ってくる』って言っちゃったんですよね? 言っちゃったのなら、しっかりやらなきゃカッコよくないですし、カワイクないじゃないですか!」

それに、と幸子は続ける。

「どんな人と共演したってボクはボクをやりますよ! だってカワイイですから! カワイクないボクなんてあり得ませんしね!!」

それだけを言い残すと、では! と幸子はその場を離れていった。残された涼と朱里は呆然とするしかなかったが、やがて涼は幸子の言いたいことが何となく理解できたのか、ぐっとその表情が強張っていた。奇しくもその表情は彼女が目指しているイケメン系のそれに近づいていた。

(―――言っちゃった以上、やらなきゃカッコ悪い、か。やっぱあの人、大物だ。色んな意味で…)

朱里は幸子の評価を改める他なかった。響とは別のベクトルだが、彼女もやはり自分に自信を持っている。『カワイイ』自分を全力で信じ、それを見せつけようと常に貪欲だ。あのカワイイ連呼はそういった自信や覚悟の現れなのだろう。

(……自分に正直というのか、まっすぐというのか…。あの3人に共通しているのは、迷いがないところ…)

茜も幸子も愛海も―――性格やら何もかもが違うが共通していることは、彼女らは常に全力。全力であるが故に純粋。純粋であるが故に堂々とできる―――。

(…また、見習わなければならない人が増えたなぁ)

髪の毛を弄りながらそう思う。あそこまでの自信を持てるのは、アイドルとしてだけでなく、人として尊敬できる。あんな新人アイドルがいたなんて…姉さん以外にも負けられない人がまた増えた気がする。

「私も…プロデューサーにやるって言った以上、やりきらなくちゃいけませんね…」

朱里はボソッと呟いて、パイプ椅子から立ち上がった。休憩時間はもう少しで終わる。後は本番を迎えるだけ。大切なことはしっかりとやり切る事。それができれば収録も大丈夫なはず―――。

 

 

 

 

 

 

―――それで、世の中全部上手くいくのならば苦労はしない。何事も成功を収めるのには努力と失敗、挫折が不可欠なのだから。

「あかりっち…これ、凄いね」

「ふふふっ、初出演がこれって、ある意味伝説…?」

「黙っててくれ。凄い凹んでいるんだから」

「周りの子もこれが素だってのが信じられない…」

収録した番組のオンエア翌日。事務所のメンバーによる鑑賞会に朱里も強制参加させられた。家で1回見て、嫌という程自分の未熟さを思い知らされたのにまた見なければならないなど苦痛以外の何物でもない。

『ボンバー!!』

『うひゃあっ!!』

「ここ! ここ!!」

「すっごい顔になってるう!」

隣の席に座っている茜の大声と共に勢いよく振り上げた右腕に驚いて、自分が驚いた顔をした瞬間を真美に一時停止させられ、朱里は顔を赤らめた。あそこはカットされて使わないって言っていたのに。ここ、美希姉さんも菜緒姉さんも昨日家で大爆笑していたもんな。

「お、面白く撮れていますから大丈夫だと思います!!」

やよいが必死のフォローを入れるが、その心意気が余計に朱里の傷を抉る。私たちはアイドルであって芸人じゃないんだから、あれを撮られても美味しくはないんだけど…。

『それじゃあ朱里ちゃんの苦手な物ってなにかな?』

『に、苦手なものですか? び、病院…ですかね』

『えーと、それは注射が苦手とかそういう意味でってこと?』

『それ以前にあの化学薬品の匂いとかが駄目で…その、学校の保健室も苦手でして…』

「あんたね、喋っている時はいいんだけど、それ以外は目が泳ぎ過ぎよ…一緒のスタジオにいたら頭叩いているわ私」

「やめてくれ…。プロデューサーが現場で慌てふためいていた理由がようやく分かったんだから…」

伊織の本気の駄目だしにがっくりと肩を落としながら、改めて現実を直視する。我ながらこれは酷いとしか言いようがなかった。自分では出来ていたと思っていても映像というものは無慈悲にその幻想を砕いていく。見ているだけで恥ずかしくなってくる。

『愛海ちゃんはどうしてアイドルになったの?』

『はい! たくさんの女の子と仲良くなりたくてアイドルになりました!』

例えばここ。他の子が喋っている間にカメラがアップから引いて全体が撮られる場合。こういう時にもしっかり意識していないと無防備な姿を晒すこととなる。

(―――もう、放送されてしまったものは仕方ない。大切なのは次どうするかだ。まずは…)

『山梨県出身の輿水幸子です! カワイイボクと同郷で県民の皆さんは幸せですね!!』

ターゲットを意識して、自分をPRする面をまだまだ上達しなければな、と朱里は一人押し黙り、丁度幸子の紹介の所から再生を始めた録画を今一度見直すことにする。

まだまだ勉強することは多い。茜の声の大きさもそうだし、幸子の自信もそうだし、愛海の情熱も見習っていかなければならないだろう。…お山とかカワイイとかは見習わなくていいかもしれないけど。

―――こうして朱里の初めてのテレビ出演はお世辞にも成功とは言えない結果に終わった。だが、その経験を次に活かそうと、早くも朱里は動き出していたのだった。




346の人選は完全に好みが入っている所もありますが『とにかく真っ直ぐで自分のやっていることに凄く自信を持っている』という今の朱里に足りない部分を持っているような子を選びました。
特に幸子につきましてはこれからちょくちょく出てくるかもしれません。
また、今回、ちょろっとしか出せなかった涼ちゃんにつきましてはいずれどこかで絡ませてあげたいなという願望があったりなかったり…。

では、次回もお楽しみに!!


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第26話 朱里の休日、見えない壁

お気に入り4000件を突破、ありがとうございます。そして、毎度のことながらガクブルしております。
とりあえず、どうぞ…。


今日は仕事もレッスンも何もない珍しい日で、久しぶりの完全オフの日だった。3時半にホームルームを終わると、朱里はカバンを持って寄り道もせずにそのまま帰路へと着くことにした。

本当ならば事務所にも顔を出したかったのだが、プロデューサーと律子から「事務所には顔を出さなくていいからゆっくり休め」と言われていた。駄目元で行ってもそのままつまみ出されそうな雰囲気だったので、今日は大人しく休むことにしよう。

…まあ、何か用がなくても朱里はちょくちょく事務所に顔を出してはコーヒーを淹れたり軽い掃除をしたりしていたので、向こうも向こうで気を遣ってくれたのかもしれない。別に自分はやりたくてやっているだけだし、掃除くらいはやよいなんかもレッスン終わりにやっているからそれくらいはいいと思うのだが…。

(…まあ、こんな日にも出来ることはあるから、今日はそれをやろうか)

カバンから音楽プレイヤーとイヤホンを取り出す。取り付けられているイヤホンを耳に突っ込んで、再生ボタンを押す。テレビ出演の収録を終えた後、すぐ貰った新たな楽曲の音源を聞きながら朱里はゆっくりと歩を進めた。

(こういうタイプの曲もまた、いい感じに歌えれば…)

イヤホンから流れているのは『GO MY WAY!!』という曲だ。困難があってもくじけず自分の道を進むことの素晴らしさをアイドルらしく歌った曲で、明るく希望に満ちた歌詞とメロディが心地よい。確か一部のメンバーからは読みをもじったのか『ごまえ』なるあだ名まで付けられていた気がする。確かこの名前を付けたのは…貴音さんだった気がする。

(こんなに早く外をうろつくなんて…なーんか、アイドル始める前に戻ったみたい)

うろ覚えの歌詞混じりの鼻歌を歌いながら、ふとそんなことを思った。今の自分と時間をただ持て余していた頃の自分が不意にダブってしまってしまったのだ。ここ最近はずっと家に帰るのが遅かったし、こんなに日が高いうちから帰路に着くこと自体が珍しくなっている。今まで夜遅くまで残業していたのにいきなり定時で帰っていいと言われるような社会人と似ている感覚なのかもしれない。

ついこの間までは美希だけじゃなく、誰かと一緒になるのがとにかく嫌で学校を早々と飛び出した後は街を意味もなくぶらついていた。図書館やカフェやゲーセン、一人で時間を潰せる所をただ回るだけの日々。夢もなく、目的も無く、何かをするのでもなく、無気力に時間だけを消費していたあの頃。

―――あの時の自分はどこへ行こうとしていたのだろう。そして、その行く末は何だったのだろうか…それを思うと空恐ろしいものがある。あまり想像したくはない未来だ。

それが今や、アイドルの卵をやっているのだから人生とは不思議なものだ。

ステージに立ったと思えばテレビに出演。トントン拍子で上手くいったかと思えば、苦い結果に終わって悔しくて。人生とは上手くいかないものだ。だからこそ楽しめる物なのかもしれないけども。

ここの所バタバタとした日々を過ごしていたかと思えば、あっという間にいつもの生活へと戻ってしまった。事務所に顔を出してレッスンして汗水流して、報告をして家に帰って勉強して寝る。

デビューしてテレビに出たからといって、すぐに仕事が増える訳でもなかった。確か来週に小さい仕事が一つカ入っていたくらいだった。事務所にぶら下がっているスケジュール表もまだ白紙の方が多い。

プロデューサーは「すぐ仕事を増やしてやる」と意気込んでいるけども、無茶だけはしないでほしい。あの人、アイドルたちには休めって言う癖に自分は休まないんだから。だから心配してコーヒーなんかを淹れに行っているんだけど…。

律子さんはそれ以上に忙しそうだ。日々の業務の他にそれも並行して大きな仕事をやっているようで外回りなんかも増えた。律子だけでなく、小鳥さんも社長も関わっている仕事らしく、皆忙しそうだった。身体だけは壊さないでほしい、そう切実に願うばかりだ。

ほどなく家に到着した。朱里は黒い真鋳の門扉を開け、鍵穴に鍵を突っ込んで回す。

「ただいま」

そう言って中に入るが家の中はしん…と静まり返っており、誰もいない様子であった。

当然と言えば当然か。親は共働きだし、菜緒は大学。美希も今日は帰りが遅いそうだ。こんなに早く帰って、誰かいるはずがないだろう。

玄関に靴を脱ぎ捨て、そのまま二階へと上がる。部屋へと入るとカバンを放り出して靴下を脱ぎ、以前まで普通に来ていた男物の服へと着替える。これに袖を通すのも何だか久しぶりな気がする。

今では2人の姉のおさがりが朱里の私服へと変わっており、男物の服は部屋着と化している。靴はオシャレなブーツに変わり、安売り量販店で買った運動靴としか形容しようのないスニーカーは靴箱の奥深くに押しやられている。

タンスには女物の服やスカートなんかが増えた。机には最新の流行やメイクのコツなどが描かれたファッション誌が詰まれている。

―――女の子しているよなぁ、自分。私服でもスカートを履くなんてついこの間まで考えられなかった。

そう感じながら制服をハンガーにかけてぶら下げると、部屋を出て菜緒の部屋に足を忍ばせて入る。そして机に置きっぱなしのノートパソコンをこっそりと持ち出した。後で返すからね、と謝りながら部屋に戻る。

自分の机に置くと、おもむろに起動ボタンを押す。立ち上げにはしばらく時間がかかるのでその間に1階のキッチンに降り、飲み物の準備をすることにした。用意するのは勿論コーヒー。ミルクも砂糖もないブラックで決まりだ。

戸棚から自分用のマグカップを取り出し、冷蔵庫を開ける。奥に入っているコーヒー豆の保存容器を掴んでその中身を見て…しまったと臍を噛む思いに駆られた。

容器の中には豆がほとんど残っていなかったのだ。容器を振るとカラカラと音が聞こえそうな程、中身がない。コーヒー豆が少なくなっていたことなど、今の今まですっかり頭の中から抜け落ちていた。

(…帰りにどっか寄ってれば良かったな)

ちょっとだけ後悔してしまった。

近くにインスタントコーヒーを売っている店は数あれど、本格的な豆を扱っている店は遠くまで行かなければない。家からも遠いし、買いに行くのも時間がかかる。今更外に出るのも躊躇われた。インスタントでお茶を濁すというのもどうかなと思う。

―――少し考えて、まあいいやと考える。偶には別の飲み物でも飲むか、と割り切って保存容器を戻し、近くに置いてあったパック入りのオレンジジュースを手に取る。マグカップでジュースを飲むのは何だか変に思ったので、きちんと戸棚に戻して2階に上がる。少し行儀が悪いが、直飲みでもいいだろう。どうせ誰に見られるわけでもないんだし。

部屋に戻るとパソコンは立ち上がっているのを確認し、机の引き出しから事務所から借りたDVDディスクを引っ張り出した。ディスクをパソコンに入れると、少しの読み込みの後に自動的に再生が始まる。

(さあて、ゆっくり見させて貰いましょうかね…)

オレンジジュースの封を切り、グビッと煽りながら画面を眺める。

再生が始まった画面には、ジャージ姿の春香が映し出されていた。場所は恐らく、いつものレッスンスタジオ。そしてついさっきまで自分が聞いていた『GO MY WAY!!』のイントロと共に春香は踊り出す。

そう、朱里が現在見ているのは765プロで使う楽曲の振り付けを収めたDVDだった。小鳥に頼んで現在『GO MY WAY!!』を踊れる全員分の映像を貸して貰ったのだ。これならば休みながらでも確認することができる。オフを利用したちょっとした予習をすることにしたのだ。

…ちなみに朱里の部屋にはTVやDVDプレイヤーの類がない。だから自室で見る場合は誰かからパソコンなどを借りなければ見る事ができないのだ。

1階で見ることも当然できるのだが、誰かが帰ってきた時に自分の行動をあれこれ見られるのが嫌だったので、自室での鑑賞にしたのだった。要はエッチなビデオを鑑賞している姿を身内に見られたくないという心境に近い。

(…春香さんの場合はこう笑うのか。でも自分の場合は背も低い事だしこの角度より、首を少し下げてみた方がいいかも? 手の位置も指の先までしっかりとして…他の子の場合は…)

机に置いた小さめの鏡に映る自分の顔と映像を確認しながら表情を変えていく。明るい笑顔、少し憂いのある笑顔、元気いっぱいの笑顔。朱里は多種多様の様々な表情を作り上げ、それを吟味していく。

一時停止と巻き戻しを駆使して、気づいたことや疑問に思った所をガリガリとメモしていく。時には他の子の映像に切り替えてチェックを行う。身長差や体格差といった細かな部分にも気を付けながら気になった所をメモしていく。あっという間にメモ帳代わりのルーズリーフが文字で埋め尽くされていった。

振り付けや歌い方などもそうだが、何よりも確認しておきたかったことがあった。それは皆の表情だ。

こういう表情は実際に見るより映像で確認する方がやりやすい。同じ歌でもどういうタイプがあって、どういう笑い方があって、どういう仕草を入れるのか…それをチェックしていく。こういった観点でのレッスンも充分効果的だろう。

(…今度、自分も撮ってもらおうかな。表情を上手く作れれば、テレビ映りも少しは良くなるかもしれないし)

自分は体験した物事を一つ一つ積み重ねて成果を発揮するタイプで、その場で臨機応変に対応できるタイプではない。それはこの間の収録でも明らかだ。自分は失敗して、その経験から何かを得ることで成長する人間。だから、こういった合間にでも出来ることはなんでもやっておいた方が今後の為にもなるだろう。

今やっていることは無駄になるかもしれないけども…何もやらないで後で後悔するよりはずっとマシだ。

オレンジジュースのパックを持とうと手を伸ばそうとした時、ふと伊織が踊っている映像が目に入った。丁度、アドリブでウインクを入れている所が、朱里の興味を惹いた。

(―――ウインク、ね。こういう小技もあるのか)

確かに伊織みたいなタイプのアイドルではこういった小技も充分効果的だろう。伊織は小柄な身体故、ダンスで響や真が得意とするような大きな動きが出来ない。だから表現力やキレのあるダンス、こういったアドリブで他の子と差をつけようとしているらしい。

どうやら宣材写真での一件から、伊織は『自分だけの武器』を活かした立ち回り方を試しているらしかった。

「………………………」

そっと映像を一時停止し、鏡を手前に持ってくる。こういうテクニックも自分に取り入れてみた方が良いかもと思い、画面を凝視する。

(うーん、姉さんの笑いと似ているけど、少し違う感じか…。いたずらっ子みたいにして…雰囲気を出す為に口調も少し真似てみて…)

伊織の顔を注意深く見ながら、自分の表情を作っていく。口元を上げて、目元は可愛らしくかつちょっと小悪魔めいたものに変えて、そして―――。

「あはっ☆ 朱里ちゃんの笑顔、どう?」

パチンっ! という効果音が付きそうなウインクを鏡に向かって行い―――すぐに後悔した。鏡の中の自分が全然キャラじゃない表情をしていることに、もう叫びたいほど恥ずかしくなる。意外にノリノリだったことにも羞恥心の拍車をかける。

(流石にちゃん付けは無いだろうがよ私…)

誰もいない家の中で何をしているんだ。似合わないとぼんやり理解していたのに何でしちゃったんだろう…と渋い顔をしながら鏡を遠くへ追いやった。

流石にあの自分は似合う似合わないを通り越して痛かった。ネットスラングでよくみる「うわキツ」なる表現があれほど当てはまった顔もないだろう。

自分で可愛いとか言っちゃうのがこれほど恥ずかしいとは思わなかった。この間共演した幸子はこれを照れずに本番でもズッパシと言い切ったのが改めて凄いと思う。

(と、とりあえず…ウインクするにしても、伊織のをそのまんま参考にするのは駄目だな。もっとこう…大人の女性の茶目っ気のある感じでしなきゃ。あずささんなんかがやるノリで…)

そして何であんな掛け声をしちゃったのかということを思い出して、また赤面する朱里であった。

 

 

 

 

 

 

朱里がDVDを見続けて2時間弱。集中力が限界に差し掛かった朱里は一旦休もうと机の上にシャーペンを放り投げた。放り投げたシャーペンは朱里の字で埋め尽くされたルーズリーフの上に着地する。ルーズリーフは既に片手で数えられない程の量になっていた。

「…うわ、もうこんなに経っちゃったのか」

パソコンに表示される時刻を見るともう6時を過ぎていた。どうりで目が疲れて、根気が薄れていくはずだ。一旦休もうかと大きく伸びをすると、玄関からガチャリ、とシリンダーを回す音が聞こえた。

「ただいまー」

聞き覚えのある声が階段を通して聞こえてくる。

…あの人が帰ってきたんだ。朱里は眠そうな顔をシャキッと直すと、カバンから数枚の紙を掴むと階段を下りていった。

「あら、朱里。帰っていたの?」

玄関に迎えに出た朱里を母、明子は少し驚いた様子だった。てっきり降りてきたのは美希か菜緒かと思っていたのだろう。

「お帰り、お…母さん」

うっかり『お袋』と呼びそうになったのを慌てて誤魔化した。

疲れていると1周目での素の自分が出てしまいがちだ。明子の前ではお袋という呼び方はあまりいい印象を与える物ではないだろうから、なるべくは控えておきたかった。何となくだが、親の前では自分は良い子でいなきゃいけない。聞き分けの良い子供でいるべきだという義務感にも似た何かが朱里をそうさせていた。

「珍しいわね。いつも遅いのに」

「…今日、休みだったからね。久しぶりにゆっくりしていたんだ」

「あら、休みだったの?」

「昨日伝えたはずだけど…」

「あら、そうだったかしら?」

朱里の母である明子は、美希のようなおっとりとした声でそう答えた。美希のマイペースな性格はもしかしたら明子譲りの物なのかもしれない。

「お腹すいたでしょ? すぐ夕飯作るから、待っててね」

「あ、ちょっと待って。お母さんに渡すものがあるから」

はい、と朱里は握りしめていた数枚の紙を明子に向かって突き出した。

「この間の中間テストの残りの答案。これで全部返って来たよ」

「そう…後でゆっくり見させて貰うわ。夕飯の準備ができたら呼ぶから、部屋で休んでていいわよ」

「何か手伝う?」

「そんな気を遣わなくてもいいわよ。せっかくのお休みなんだから部屋でゆっくりしてなさい」

明子はハンドバックを持ったまま洗面台に行って手を洗うと、あっという間の早業で着替えを済ませ、腕まくりをしながら台所へと向かって行った。

朱里は少し申し訳なく思いながら、部屋へと戻った。借りていたパソコンを菜緒の部屋へ戻すと、そのまま部屋の中で適当に時間を潰す。

夕飯の支度は30分程ででき、明子に呼ばれて席についた時にはテーブルの上にはそれだけの短時間で用意できたとは思えない程の品数だった。

麻婆豆腐にとろろ汁、ワカメの味噌汁にほかほかのご飯…。ご飯はあらかじめタイマー予約でもしておいたのだろう。

頭を酷使したためか、すっかりお腹はペコペコだった。いただきますとだけ言うと、朱里はすぐさま目の前の料理をがっつき始める。

「おいしい?」

「…うん。おいしい」

ニコニコ顔で訪ねてくる明子に朱里は短く答えるが、中々手が伸びないでいる一品があった。

(これ、あんまり好きじゃないんだよな…)

ちょこんと小鉢に入っているとろろ汁を恨めしそうな目で睨む。山芋の独特な食感がどうしても苦手な朱里は、それを使った料理であるとろろも好きにはなれなかった。

頑張れば食べられることは食べられる。だが、出来ることなら進んで食べたくはない。だが、ニコニコ顔で見ている明子の前で残すのは気が引けた。

(――――よし)

…意を決してとろろを飲み込んだ。どろどろとした食感が口全体に広がる。朱里はいやいやながらも、とろろ汁を飲み干した。

「どう?」

「…うん、まあまあかな」

「そう。おばあちゃんから山芋がたくさん送られてきてね、明日も作ってあげるわ」

「あ、そう…」

しばらくはとろろとの格闘が続くな…と朱里は顔には出さないがこれからの日々に憂鬱した。食べたくないって言えば出してこなくなるかもしれないけど、明子に悲しい顔をさせたくなかったから朱里は言わないことにした。

それから明子は色んなことを聞いてきた。アイドルをやってて楽しいかとか、困ったことはないかとか、美希はどんな感じだとか。特に美希は家で朱里のことしか話さないから、そのことが非常に気になっているらしい。

「―――ねぇ、朱里。欲しいものはない?」

色々な質問に答えていってどれくらい経っただろうか。どういう脈絡だったのかは分からないがその言葉に、朱里ははっと注意を引きつけられた。母と朱里だけの食卓で、その声は普段以上に響いたように思えた。朱里自体、自分から積極的に話そうとしないタイプであることも拍車を掛けているのかもしれない。

朱里は茶碗を持つのを止め、明子へと視線を移した。質問の意味は分かってはいたが、わざととぼけた顔をする。

「…欲しいものって? 誕生日はまだ先…」

「ああ、そうじゃないのよ。ほら、さっき渡してくれたテスト」

そう言うと、明子は嬉しそうに先日行った朱里の中間テストの答案用紙を取り出す。

「全部90点以上なんて頑張ったじゃない」

「別に、今までだってそれくらいは…」

「アイドルやりながら勉強を疎かにしなかったことを褒めてるの。美希、読者モデルやり始めた頃、成績が下がった時期があったからお母さん少し心配で…」

明子は嬉しそうな顔をしているのを確認し、朱里は味噌汁を啜った。

(…勉強面では心配はかけたくないからね。そこは一番気を遣っている所だし…)

無論、勉強をするのは自分の将来の為でもあるのだが、親に余計な心配をかけさせないためでもあった。1周目の経験で勉強をやらない事や出来ないことで生じる問題や周囲への影響を嫌という程味わってきたため、朱里はそこの部分は徹底的に気を遣っていた。迷惑だけはかけたくなかった。

少なくとも、小学校に上がってからは学力関係の話題で心配をかけさせたことは朱里が知る限りゼロである。夏休みの宿題も7月中には全部終わらせるし、ラジオ体操をサボったこともない。学校に呼び出されたこともない典型的な模範生をずっとやってきている。

「それに朱里、アイドルの方も頑張っているみたいだから。そのご褒美って訳じゃないけど、何か欲しいものはない?」

「別に欲しいものなんて…」

「何でもいいのよ?」

「何でもって言ったって…」

「洋服とか、アクセサリーとか、シューズとか…。ほら、他のアイドルの子といるとそういう話題にならない?」

「…………………」

朱里は困ってしまった。

三女という立場にいる以上、学校で使う備品やら私服やら本やら…大半の物はおさがりで済んでしまうし、毎月のお小遣いはしっかりと貯金する為、お金にも困っていない。

レッスン時に使うトレーナーやシューズ類も学校で使うジャージや室内用の運動靴で済ませているので、こちらの心配もない。

必要以上の物はなるべくは催促したくなかった。家族の負担になりたくはなかった。ただでさえアイドルをやらしてもらっているのに、これ以上の我儘は駄目であろう。

「別に、ないよ。欲しいものなんてない」

「遠慮なんてしなくても…」

「お母さん」

このままズルズルといくと繰り返しになるので、朱里ははっきりと言うことにした。

「私は、アイドルやらしてくれるだけで、満足しているから。テストで良い点をとるのも将来の為。ご褒美が欲しくて頑張っている訳じゃないから」

「――――そう、分かったわ。何か欲しくなったら、お母さんにいつでも言って頂戴。無理矢理話を進めてごめんね」

そう言って俯いている明子を見て、朱里はやりきれないような自己嫌悪を感じた。もっと他に言い方があっただろうに、当るようなつもりはなかったのに。

朱里は無言のまま味噌汁を飲み干した。そして「ごめんなさい」とだけ言うと、そっと席を立って、階段を上がる。

朱里は強い罪悪感に襲われていた。明子なりの気遣いに応えられなかった自分が腹立たしかった。頭の中では分かっている。でも、心のどこかでそれを拒絶する自分がいるのだ。

親の時点で「他人」である自分が、未だに両親を「実の親」として見れない自分が、そんなことを頼むだなんて―――と。




美希の両親の名前につきましては公式でも正式な名称が明らかになっていないので、勝手につけさせてもらいました。

そして、ここからしばらくの間は朱里と親との絡みが増えていく予定です。
朱里はアイドル活動を通して、美希との関係や自分らしさを受け入れることに成功しましたが、親との溝は未だに埋まらないまま…これからどうなるのでしょうか?

次回もお楽しみに。


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第27話 子供でいられる時間?

年明けからの長期の出張と動機の転勤だの引き継ぎだの云々かんぬんで全く描く暇もなく、気がつけば四月…。早すぎですよ…。


「1、2、3、4…はい、そのままのリズムでしっかりステップ!」

トレーナーの声を聞き取りつつ、キュッキュ…と自分のシューズが床を踏む音も耳に入れる。シューズが生み出す音のリズムに乗りながら、朱里は足を動かしていく。

(今の今までバッチリOK。サビに入ったのと同時に、足を大きく動かして…)

大丈夫、大丈夫なはず…と自らを鼓舞しながら、朱里は大きな一歩を踏み出す。そう、今日何度もやってきたステップだ。どう動けばいいかなんて頭の中にとっくに入っている。

絶対にミスなどしないはずだと言い聞かせて―――。

『GO MY WAY!!』のサビ特有の大股に足を動かす動きをしようと、自分の足に力を込めるが、グラリとバランスを崩れてしまう。

「…あっ!?」

体重をかけ間違えた―――失敗の原因を悟るが時既に遅し。バランスの崩れた体勢では朱里の身体を支えることなど当然できず…ゴツン! という鈍い音と共が部屋全体に響いた。

「~~~~~~~~~~!!??」

数瞬遅れて、朱里は後頭部を押さえながら床の上で悶絶を始めた。後頭部から来る痛みもそうだったが、自分の頭の中では「また失敗してしまった」という屈辱さと羞恥心も入り混じっていた。

「ストップストップ! 大丈夫!?」

派手に転んだ朱里を見て、慌ててトレーナーが止めの手拍子を叩いて、朱里の元へ駆け寄る。瞬間、張りつめた空気は一気に崩れ去った。他のメンバーもあーあといった様子でその光景を見ていた。

「あ、あかりっち大丈夫…!?」

「大丈夫に…見えるか…?」

「派手に転びましたなー」

「わ、私の方が凄い失敗したことあるから大丈夫だよ朱里ちゃん!」

「フォローになってません雪歩さん」

周りのメンバーは床に頭を打って悶絶している朱里を心配している。

ズキズキと痛む頭部をさすり、たんこぶが出来てなきゃいいんだけど…と思いながらのろのろと立ち上る。痛みが続いているせいか、チカチカと目の前が白黒に点滅する錯覚すら感じていた。

「…あんたね、一つ一つのステップが大き過ぎるわよ。ゴリラが踊ってるんじゃないんだからもうちょっと小さくできないの?」

「…ゴ、ゴリラは言い過ぎじゃないかな伊織ちゃん…?」

「ふん、あんなのゴリラよゴリラ。それか力士かのどっちかよ」

「り、力士って…」

横で見ていた伊織のあんまりな指摘にうんざりする朱里。自らのダンスがゴリラか力士に例えられたのが屈辱的過ぎるがぐうの音も出ない。

ぐぬぬ…とようやく回復してきた両目を思い切り吊り上げてキッと伊織を睨み返すが、当の伊織はどこ吹く風と云わんばかりの余裕さを見せつけている。

(今日の私…本っ当に調子が悪い…!)

今日の朱里は普段しないようなイージーミスを連発してしまっている。

足を引っかける、体重をかけ間違えるなどは勿論のこと、転ぶことに定評のある春香の十八番芸『何もない所で転ぶ』もやってしまっているのだ。

…あれには本気で落ち込んだ。イントロが流れ始めた初っ端からの転倒のコンボはアイドルとして論外のミスだ。どっちかと言えば芸人がやらかす出オチ芸に近い。

トレーナーも叱る以前に吹き出してしまったのが余計に朱里の心を抉る。どうせなら思い切り叱ってくれた方がまだ諦めがついたのだが…。

「もう一回やりましょう。次は絶対に転びませんから」

「馬鹿なことを言わないの」

とりあえず意識はあることに安心したトレーナーは有無を言わさんと無言でレッスンルームの隅っこを指さした。恐らく、向こうで大人しく休んでいろという意味なのだろう。

「心配しなくても…」

「次は伊織ちゃん、前に出て。この間のパートから始めましょうか」

「分かった、分かりましたよ…」

話を聞いちゃいない。シンデレラガールズ前の居残り練習を拒否した時みたいに、このモードに入ったトレーナーは頑として意見を変えてくれない。朱里は諦めたようにズコズコと部屋の隅っこに移動し、腰掛けた。

次は絶対に転ばないでやる…そう意気込みながら、朱里は体操座りをして、伊織の踊る姿を観察し始めた。

(…頭、やっぱり痛むなぁ)

少し涙目で頭を擦りながらの意気込みが何とも情けない事この上なかったのだが…。

 

 

 

 

 

 

「…ちっくしょう」

夕闇が街を照らす中、朱里は気怠そうにリュックを背負いながら一人ぼやいた。

その表情もとても上機嫌とは言い難く、ムスッとしかめっ面だ。まるで上司に叱られ、やけくそのエネルギーで溢れかえっているサラリーマンの姿を彷彿とさせる。普段は気にも止めない街道からのブーブーパーパーだのブロロロなどの音にもイライラしてしまう程にその心は荒れ狂っている。

自販機で買った好物の缶コーヒーも朱里の心を慰めてはくれない。普段は味わいながら飲むのに、今日は無味無臭の何かに感じてしまう。2周目が始まったばかりの頃に無理矢理食べされられた離乳食を胃に流し込んでいるみたいな感覚がする。

(…こんな気分になるんなら、買わなきゃよかった。小遣い無駄にしちまった)

いっその事、ストレス解消に握りつぶしてやろうかとも思ったが、十代の少女にスチール缶をぺしゃんこにできる握力がある訳もなく、結局まだ中身の入ったそれを握りしめたまま事務所までの帰り道をとぼとぼと歩くしかなかった。

(しっかり予習してたのにな…)

横断歩道を渡ろうとしたまさにその時に赤になってしまった忌々しい信号に苛立ちながら、朱里は今日自分の身に起こった出来事を振り返る。

休日である今日は仕事が入っていない代わりに久々の午前午後ぶっ通しのレッスンが行われた。そして、朱里にとって二つ目の楽曲である『GO MY WAY!!』の初練習日でもあったのだ。

早速、先日の予習の成果を発揮できる…と意気込んでいた朱里であったのだが、結果は惨敗。思うようにはいかず、普段はしないようなミスを連発しまくってしまった。

歌のパートで思い切り噛んだり、何もない所で転んでしまう。ダンスはともかく、自信があったボーカル面でも微妙な結果しか残せなかったのはまずかった。苦手なビジュアル面など目も当てられない状態だった。

最初はからかっていた伊織も最後には「…まあ、次頑張りなさいよ」という激励の言葉を残したのが事態の深刻さを物語っているに違いない。

(あいつが素直に話すなんて、宣材写真の一件以降見てないからなぁ)

無論、こういう失敗に一々へこたれては身が持たない。一度や二度の失敗などで落ち込まず、前を向いて頑張らなければならないのは十分理解しているのだが、予習込みでこの結果かと思うととてもやりきれないものがある。

(…調子が落ちているん、だろうな)

突然、自分の周囲にあるあらゆるものが一斉に頂点から下降線をたどり始めたような気がしてならない。最初が順調だったからこそ、ブレーキがかかった時の落差は凄いものがあった。

その原因の一つ…というよりかは大部分を占めているのは、先日の母とのやり取りだ。

『ごめんなさい』

あの時の気まずさと後悔は朱里の中でしこりのように残ったまま。それが朱里の調子を鈍らせている。シンデレラガールズ前のプレッシャーに押しつぶされた時には美希が脳裏に浮かんできたが、今度は母が見え隠れするようになっている。それが朱里の中の歯車を狂わせているのだ。

あれから母とは気まずい関係が続いている。はっきりとした返答をしていない以上、そうなるのは必然かもしれないが、朱里自身あの場でどう返答すればいいのかが分からないままだった。

図々しく、何かをねだればよかったのだろうか。恥ずかしげもなく、これちょーだいと明るく振る舞えばよかったのだろうか。もっと子供らしい対応をしていれば心配をかけさせなかったのだろうか…どっちにしたって朱里は絶対にとらない行動であるのは確実だっただろう。

(図々しく、恥ずかしげもなく、わがままを言って、迷惑をかけながらのうのうと生きるだなんて―――)

とてもできない相談だった。

自分の1周目の愚かな行動でどれだけ親や周りの人に心配をかけてしまったか。どれだけ迷惑をかけてしまったか。そして自分は迷惑をかけたまま逝ってしまった。自分に迷惑をかけてきた人たちに謝る機会を永遠に失ったままに。

それがあるからこそ、絶対に迷惑をかけないような生き方を心がけているのに。心配をかけさせないようにしているのに。自分の中身はもう聞き分けの利かない子供じゃないのだから、我慢だって出来る。息苦しいと感じることは偶にあるが、それを受け入れることだって出来る。

親に対してはそう振る舞うことが一番だと思っていたのに―――。

(それは間違っているのか…?)

自分のことを受け入れて、少しだけ人に頼ることが出来たと思ったら、もう次の問題が待っていた。そして今度の課題はより大きく、難しい。

(…私は、どうすればよかったんだろう…?)

そんな自問自答を繰り返しているうちに、いつの間にか自分が事務所に続く階段を駆け上っていることに気付いた。

どうやら無意識の内に事務所までの道のりを歩いて来てしまったらしい。ついでに缶コーヒーも握りしめたままだった。

(しまった、捨てんのを忘れてた…)

手元の缶コーヒーを眺めて、朱里は舌打ちを一つかました。どこか適当なゴミ箱を見つけたらそこに放り込もう、と決めていたのだが先ほどの自問自答ですっかり意識は蚊帳の外だった。

…中身は流しに捨てて、事務所のゴミ箱に放り込めばいいか。そう考えながら朱里はドアノブを捻って事務所に入ろうとして―――ぼふん、と自分の乳房あたりに何かがぶつかった。

「…ぼふん?」

多少のこそばゆさを感じつつも視線を下ろすと、そこには茶色のツインテールがゆらゆらと揺れる光景が目に入った。そして少しの間の後にきゃあという驚きの声が事務所の廊下に響き渡り、ばっ! と何かが動く気配がした。

その可愛らしい声色でようやく朱里は自分の胸にダイブしてきた人物が誰なのかを理解できた。

「…やよい?」

「あ、朱里ちゃん!?」

目の前には驚きのあまり立ち尽くしているエプロンとバンダナ姿のやよいがいた。周りには大きめの袋が2つ散乱している。どうやら何かを運んでいる最中に運悪く2人揃って正面衝突してしまったらしい。

「ご、ごめんなさいー!」

「あ、謝んなくてもいいよ…私もボーとしていたのも悪かったし…だから、その…」

涙目のやよいが頭を下げる姿に本気で罪悪感を抱きながら、朱里は必死で慰める。もしかしたら朱里の発する機嫌悪そうな空気にビビってしまったのかもしれない。自分では分からないが、ぶつかった時の自分の顔はもの凄く怖いものだったのかもしれない。

「うう、本当にごめんなさい…」

「だから気にしなくてもいいってのに」

数分間の必死の慰めの末、ようやくやよいは泣き止んでくれ、ホッと一息つく。

…もしこれがプロデューサー相手だったら悪口の一つや二つは勿論のこと、ビンタもかましていたかもしれないが、流石の朱里もやよい相手に本気で怒れる訳もなかった。むしろ、罪悪感でこっちが潰れてしまいそうだ。

「あー、そうだやよい。外に出ようとしてたみたいだけど、何か用事があったの?」

「……あっ、そうでした! 私、ゴミ出しに行こうとしていたんです!!」

何とか空気を変えようと、かなり無理のある話題の切り替えをした朱里だったが、やよいはそれで自分が何をしようとしていたのかを思い出したらしい。

辺りに転がった大きめの袋を両手に持ち直すと、「いってきまーす」とだけ言ってまた歩き始めた。どうやらあの袋はゴミ袋だったみたいだ。

「うんしょ、うんしょ…」

だが、やよいの足取りは非常に危なっかしい。あっちによろよろ、こっちによろよろと蛇行しながら踊り場を歩いている。あのまま階段を下りるものなら、何かの弾みでそのまま転げ落ちてしまいそうだ。

「よいしょ、よいしょ」

…不覚にも小動物みたいで愛くるしいと思ってしまったのは秘密だ。

「やよい、袋を一つ…いや、二つともくれ。私が持っていくから」

缶コーヒーを適当な戸棚の上に置くと、朱里は自然とそんな言葉を発していた。あんな可愛い…もとい、危なっかしい光景を見てしまったら、そんなことをしない訳にはいかなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

「朱里ちゃんありがとう」

「いやあれくらい別に良いんだけどさ…あんまり無茶はするなよ?」

「えへへ、気を付けます!」

「本当に分かってんのかねぇ…?」

両手を後ろに跳ね上げながらの独特のお辞儀をするやよいに苦笑いする朱里。たかがゴミ出しを手伝っただけなのに、満面の笑みのやよいに朱里は変な感覚がしてくる。

―――次、ゴミ出すときはちゃんとエレベーターを使って…と言いかけたが、そういえばうちの事務所のエレベーターはずっと停まったままだったことを思い出した。事務所に所属していたことから今に至るまで動いた姿を朱里は見た事がなく、いったい何時になったら直るのかも見当も付かなかった。まぁ、ウチに直すお金があるくらいならもっと他のことに使うんだろうけど。

「…っていうかさ、今日やよい仕事あったはずだろ? 仕事終わってから今までずっと掃除していたのか?」

ふと目に入ったホワイトボード。今日の日付の欄にはしっかりとやよいのスケジュールも刻まれている。しっかり『高槻:遊園地で仕事』と黒ペンで書かれていた。

(確か仕事内容は…『遊園地のヒーローショーで怪人に拉致される役』…だったっけ?)

やよいに合うっちゃ合う仕事だけど、そういうのってショーに来ていた子供を本当にステージにあげるものじゃなかったっけ? と思うが…まぁ、仕事があるに越したことはないかとそれ以上考えるのを朱里はやめた。

まぁ実際には本気にした子供が大泣きしたり、逆に怪人に襲い掛かったりなどいった問題が多い為、遊園地側もこういった処置を取らざるを得ないという世知辛い事情があるらしいのだが……それを朱里が知るのはもっと後の話だ。

「うん。お昼ごろにお仕事終わったんだけど、少し事務所が汚かったからずっとしてたんだ」

「別にやよいがやんなくても…」

「小鳥さんも掃除してくれるんだけど、しゅ、しゅ、しゅれれ…」

「…もしかしてシュレッダーのこと?」

「そうそれ! そこの周りのちっちゃな紙くずとか…そういう細かい所とかはどうしても後回しにしちゃいがちだから…」

でも、これで綺麗になりました! と明るく笑うやよい。その眩いばかりの笑顔に神々しい光が照らしているような錯覚を覚える。

(こういうことを普通にやれるやよいは凄い…)

仕事終わりで疲れているはずなのに、誰にも言われてないのに大きいゴミ袋2つ分の掃除を自主的にやれるやよいを朱里は純粋に尊敬する。

同い年のはずなのに、こういう面では朱里はやよいに絶対に勝てない。自分より一回り、二回りも年上に見えてしまうくらいだ。

普段は妹的なポジションにいるのに、こういう時のやよいは誰よりも頼れるお姉さん的存在になる。シュレッダー周りは勿論のこと、パソコンのキーボードやマウス、ファイルの一つ一つまでもが新品のように輝いて見える。ついこの間までの汚れ具合が嘘みたいだ。

「将来、やよいは良いお嫁さんに絶対なれるよ。姑からの嫌がらせとかも絶対にないな」

「朱里ちゃんだってなれるよー。コーヒーいれるの上手いって皆褒めてたよ?」

「あれは私の趣味も兼ねているし…それ以外は悲惨だからなぁ…。私もやよい並みの腕前が欲しいよ」

朱里自身、コーヒーに関してはこの事務所一であることは自負しているが、趣味が高じて磨かれた技術だ。料理や掃除などの一般的な家事はある程度は出来るものの、元男としての大雑把な一面があるからなのか、あくまでもある程度のレベルでしかない。時間をかければ出来ない事はないかもしれないけれど、その前に自分の集中力が持つかどうか。

「練習すればできるよー、私も最初はだめだめだったし」

「そうかぁ?」

「うん。…………私も朱里ちゃんみたいになりたいな。背が大きくて頭も良くて…。コーヒーが飲めて、大人みたいで羨ましいな」

「そこぉ?」

背丈とか頭とかならばまだ分かるが、コーヒーが飲める=大人、というやよいなりの図式に思わず微笑んでしまう。

「私も早く、大人になりたいなぁ。そうしたらお仕事なんかももっと…」

そのやよいの何気ない一言が、朱里の心に深く突き刺さった。

無論、やよいは全く違う意味で言ったのだろう。

高槻家はやよいを含めて8人の大家族、その上貧乏ときている。長女はやよいで一番下は赤ん坊。高槻家の家計は毎日が火の車なのだと朱里は皆の話からそう聞いていた。

やよいの両親の仕事も不安定で収入が安定せず、一時期仕事が壊滅的に無かった時期は給食費も払えないほど生活が苦しかったらしい。

そんな家計を少しでも助けたい。そんな理由で、やよいはアイドルを始めたんだとか。

やよいがアイドルをする理由は『家族と良い暮らしがしたい』、これにつきるのだろう。そして大人になりたい、というのも仕事のことが大きく関係していると思われる。

未成年であるやよいや朱里たちには労働基準法というものがちゃんとあって、22:00以降はアイドルの仕事ができないようになっている。スケジュールには余裕があるのに、これに引っかかってしまったせいで逃した仕事も少なくないらしい。

大人になれればそういうしがらみもなくなって、もっと仕事が出来る。仕事が増えれば家族がもっと良い生活が出来る―――やよいはそう言いたかったに違いない。

確かにそういった良さも大人にはあるだろう。

(―――でもさ、大人になるって…良いもんばかりじゃないと思うぞ…?)

でも朱里はそうは思えなかった。

大人…というか、ある程度成長して中身だけすっかりそのまま引き継いでの子供の生活を余儀なくされている朱里は、同年代の子達と同じ目線で物事を見ることが出来ないことが非常に多い。765プロにいる時ですらそう感じるのだ、日常生活などは言わずもがなだ。

クリスマスプレゼントがどうだとか、サンタは実在するのかしないのかで盛り上がっている小さな子を『そんなおっさん実在しねーよ』ともの凄く冷めた目線で見てしまうし、夢だの愛だの語るお涙ちょうだいのテレビ番組を『とは言ってもね…』みたいな捻くれた見方をしてしまいがちになる。

世界が淡泊に見えがちなのだ。大人になって、現実を知るたびに感動や興奮とか―――そういう感情が薄れていってしまうのかもしれない。大人になってからの時間が流れるスピードが速くなるっていう話もあながち嘘ではないと今では思う。

まだ自分が男で黒色のランドセルを背負っていた頃。公園の砂場を深く掘っていけば地球の裏側にたどり着くのでは…と思っていた。本気でそう信じて、友達と日が暮れるまで砂場を掘り進めていった。夜空に星が見えるのではという時まで穴を掘りすすめ…最後にレンガ敷きの砂場の底にたどり着いた瞬間、心躍る夢の一つが消えた。

でも、その事実に気づくまでに抱いていた思いは不思議なものがあった。子供の時ははっきり理解でき、口でもちゃんと説明できたことは、今では何ももう分からなくなってしまった。今ではそれがとても悲しい。

やよいにもいつかそんな時は必ず来てしまうのだろう。大人になるっていうのはそういうことだ。でも、大人の目線で立っている自分からしてみれば…。

「…大人なんて、気がつけばなっているもんだよ。私はむしろ…」

「…? 朱里ちゃん、どーしたの? 大人なんてって…え?」

ぽつりと呟いたその言葉と朱里の様子に、やよいは凄く心配そうな顔をする。朱里も自分の独り言をやよいに聞かれてしまったのが原因で、もの凄く気が動転してしまっている。

「あー、つまりはだな…」

まずい、何とかして誤魔化さなくては…。

「も、もうちょっと子供でいられる時間を大切にした方がいいんじゃないかってことさ。大人になったら出来ることもあるかもだけど、子供の内にしか出来ないこともあるだろ?」

「?」

「あー、例えば…映画を大人より安く見れる…とか?」

「えっ!? 映画って私達、安く見れるんですか!?」

「…あ、そこ知らなかったんだ…?」

「はい! 私、最後に映画館に行ったのなんて幼稚園の時くらいですから!!」

…やよいのもの凄く純粋な笑みに朱里は悲しい気分になった。いつか一緒に映画とか行く機会があったら、全額奢りで連れて行ってやろう、と密かに決心する。ポップコーンもジュースも付けてあげるから…とも。

 

 

 

 

 

 

高槻やよいにとって、星井朱里という少女は―――とても大人びている同級生という認識だった。

事務所で初めて会った時も、レッスン帰りで言葉を交わした時も、事務所で何かをする時の姿勢も―――とても同い年には見えなかった。話していても、何だか年上の人と話している感じがして、背中の辺りがムズムズする変な感覚がした。もしかしたら、齢を偽っているんじゃ…とあらぬ疑いをかけてしまったこともある。

身体つきもそうだ。星井姉妹の2人は身体つきもチビな自分とは違って出るところは出てるし、引っ込むところは引っ込んでいる。伊織はそんな2人を恨めしそうな目で見ていた時期もあったが、実を言えばやよいもちょっとだけ朱里たちのことを羨ましがっていたのは秘密だ。

―――朱里とこの数か月を共に過ごして分かったことがある。

それは大人びてはいるものの、時々もの凄く子供っぽくなるところだった。

伊織との口喧嘩ではムキになると普段の冷静さはたちまち消えてしまうし、亜美真美と絡むと2人に振り回されて朱里の地が見え隠れする。

そんな姿を見ると、やっぱり朱里ちゃんも私と同じ中学2年生なんだ、と安心するのだった。

そしてもう一つは、時々遠くを見ている…とでもいうのだろうか。

どこかここではない何かを見ているみたいな時があって―――そんな朱里を見ると、やよいは何故か怖くなる。

(大丈夫、だよね。朱里ちゃん、すぐ元に戻ってくれたし…。きっとちょっと疲れてただけだよね…?)

朱里が帰った後、事務所に一人だけになってしまったやよいはそんなことを考えながら、ふと戸棚の上にちょこんと乗っかっている缶コーヒーが目に入った。掃除している時にはこんな物は置かれてはなかった。掃除の後に事務所にやって来たのは朱里だけなので、どうやら朱里が置いたまま忘れてしまったらしい。

「……………よい、しょっと」

やよいはそっと缶コーヒーを手に持った。持った時のたぷん、という感覚から中身はまだ入っているみたいだ。『微糖』と書かれており、やよいはちょっと甘めのコーヒーなのかなと察した。

「………………………朱里ちゃん、いつも美味しそうに飲んでいるけど…美味しいのかな?」

そして意を決したように、缶に口をつけて、中身をそっと飲み干し――――数秒も経たずにやよいは盛大に顔を顰めた。

(やっぱり、苦い……!)

んべぇとベロを出しながら、やよいはよくこんな苦いものを朱里は飲めるな、と思うのだった。

高槻やよい14歳。彼女がコーヒーの味を理解するのは、大人になるのはまだまだ先になりそうだ。




子供の頃は分からなくても、大人の頃になれば分かることもある。その逆も然り。

『ポケットにファンタジー』を久々に聞いて、あれが20年くらい前の歌だと知って愕然としました。

齢取っちゃったなぁ、俺…。


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第28話 男の目線と穴掘り少女

ゴールデンウィーク? 連休? なにそれ美味しいの? 的な生活を過ごしていたIMBELです。
今回はようやくアニマス本編のエピソードに戻っていきます。

ここまで戻って来るのに何年かかったんだろう本当に…。


女子と言う生き物は話すという行為が大好きだ。そこがどこであろうと話題さえあれば、トークの花を咲かせることができる。そこが女しかいない空間であれば尚のことそれは加速する。

「こーんな暑い日に体育なんて最悪よねー」

「ほんとよねー、もうすっかり汗まみれ…」

「ねぇねぇ、下着新しくしたんだけどどうかな!?」

「えー、黒はまだ早いんじゃない?」

「でも、雑誌には黒の下着は男もイチコロって書いてあったわよ?」

「それはスタイルも抜群な女が着て効果があるのよ。そんなちんちくりんじゃあねぇ…」

「キャー! 野球部の彼に告ったの!?」

「返事は!?」

ワイワイガヤガヤとガールズトークで盛り上がる一同に目もくれず、汗まみれの体操着から制服姿に着替え終える朱里。

気軽に話せる相手が学校内では片手で数えるくらいしかいない自分にとって、どうもこういうキャピキャピした空間は苦手だ。…校内に友達がいないから会話に混ざれなくて寂しいとかそんな理由で苦手なのではない、決して。

「…じゃあ名瀬さん、私、先に行くね」

「あ、うん」

クラスメイトと談笑している名瀬に一声かけてから、そっと更衣室を出る朱里。

「うわっ、暑っつ…」

その瞬間、むあっという擬音が聞こえてくるような熱気が襲いかかって来た。居心地の悪い空気は思わず声を漏らしてしまう程に不快で、顔を歪ませてしまう。

5月を終え、6月に突入した今、湿度と気温は暴力的なまでに上がり続けていた。曇り空が多くなり、ジメジメとした空気が気分を鬱屈させていく。せっかく晴れていても春先より上がった気温が熱気を呼び起こして、汗を噴き出させる。

特に今日は真夏日に近い気温を記録しており、衣替え前という中途半端なタイミングも重なって、多くの生徒が参っていた。先ほどの体育の授業も、コンクリートをのた打ち回るなめくじと化していた生徒も数多くいたほどだ。

各教室全部にエアコンなどついていないから、ほとんどの教室から廊下までがこの嫌な空気が支配している。生徒たちは少しでも過ごしやすい場所を求めて、休み時間の間、あちこちを徘徊する光景が目立っていた。

(汗で、下着の中が蒸れる……)

熱気で胸の谷間の皮膚が張り付き、汗に変わっていくのをはっきり感じながら、廊下を歩く朱里。

更衣室で念入りに身体の汗を拭いたのにもう噴き出てくるのか。体育の時間中あれだけ汗を出したのに、まだ出そうとする自らの身体が恨めしい。

(それに、何かまたでっかくなった感じもするし…)

そっと朱里は胸を擦ると、ぐにゅっとした乳房の柔らかさと共に多少の圧迫感も感じる。勿論、それはブラをしているが故の感覚なのだが…最近はいつも以上にそれを強く感じてしまう。

更衣室で着替えている時にも感じたが…ここ最近の内に自分の胸が少し大きくなっている気がするのだ。今付けているブラでは少しきつく、常に胸が圧迫されている感じがする。

―――もしそうなら頭が痛い話だ。丁度半年ほど前、ワンサイズ大きい下着を買い揃えたのに、また買い直さなければならなくなるかもしれない。女性の下着類は男性以上に金がかかるので、ホイホイと買うのはあまり気が進まない。

(成長期なのかどうかは分からないけど……胸までこれ以上大きくならなくてもいいのに…)

胸がデカいとこういう所で弊害が出てくるのが悩みだ。あまりサイズが大きくなってくるとブラだって簡単に手に入らないし、肩だってこりやすいし。だから朱里は自分の胸が大きいことを素直に喜べないでいる。

朱里個人としては正直、千早ややよい程の胸のサイズで十分なのだが…我が星井家の血筋がそれを許さないでいるらしい。ナイスバディな2人の姉の例に漏れず、身体の方は止まる所を知らないでどんどん成長中だ。

このスタイルの良さはアイドルをやる上では大きな武器となりえるかもしれないが、これが日常生活もとなると良い事ばかりではない。

体育の時間中やレッスンしている時など激しい動きをするときだけでなく、ちょっと動いただけで揺れるし、谷間が擦れると痛いし、汗もかきやすいし、汗が谷間で起こるとすぐかゆくなるし…。日常生活を送る上ではメリットよりもデメリットの方が遥かに多い。

(そして何よりも…)

丁度男子トイレの前を横切った時、ヒソヒソと聞こえた会話に朱里は顔をしかめる。

「星井って胸でけえよな~」

「最近、色気づいてっていうの?エロく見えるよな」

「前は地味だったのになぁ。さっきの体育の時も脚がすげぇエロかったし…」

「いいよなぁ~、触ってみてぇ~」

「運動着ん時もこう、汗でブラ透けて見えてさ…」

「マジ? 何色だった!?」

―――こういう男子の目線があるから、すげぇ嫌だ。お前らは私の胸と脚しか目が行かないのか。

男子トイレの扉を蹴り飛ばしたい衝動を必死で押さえながら、朱里は廊下をズンズンと歩く。本当に学校内でああいう話はやめてほしい。聞かれる本人からしてみればたまったものではない。鳥肌がぞわっと立ち始めてしまう。

朱里だって元男だ。ああいう類の話で盛り上がったことだって勿論あるし、オーディオ・ビジュアルの略でない方のAV観賞だってとっくに経験済みだ。

………まさか、ああいう男子のエロい視線を受けることになろうとは、あの頃の自分は思いもよらなかったに違いない。改めて思うが『見る立場』ではない『見られる立場』になるのがこんなに辛いものだとは。アイドルを始める前からたびたびそんな視線で見られているのはなんとなく分かってはいたのだが…。

(自分が言える立場じゃないけど…思春期の男って本当に馬鹿だ……! 体操着姿まで見られていたとは…)

アイドルで売り込む時はセクシー系でなく清純路線でいきたい、今度プロデューサーに直訴してみようかな、とぼんやり考えてみたりもする。

肌の露出が増え、下着などが透けて見える夏服になれば今以上にああいった視線に晒されるんだろうな…と、どんどん成長していく自らの身体とすぐそこまで迫っている衣替えを憂鬱に思いながら、朱里は深いため息を一つつくのだった。

 

 

 

 

 

 

(『重要な連絡事項の為、事務所に全員集合』か…)

放課後、携帯に入っていた小鳥さんからの留守電の指示に従い、真っ直ぐ事務所へと来た朱里。

重要な連絡…一体何なのだろうか? 留守電ではその詳細について何も伝えられてなかったので、非常に気になっているのだが…まぁ、すぐに分かるか、と事務所の扉に手をかけ―――。

「穴掘って埋まってますぅ~~~~~!!」

―――事務所の扉を開けた途端、雪歩の絹を裂いたかのような甲高い悲鳴が耳を劈く。

また亜美真美がこの暑さに便乗してまたくだらない悪戯を雪歩にでも仕掛けたのか…と最初は思っていたのだが、どうも様子がおかしい。亜美真美のコールはともかく、伊織と真の怒号なども混じって聞こえてくるのを怪訝に思いながら、中へと脚を進める。

「…あら、朱里さん」

「あ、千早さん。おはようございま…す?」

すっかり慣れた挨拶で近くに立っていた千早に声をかけ、目の前の珍妙な光景に目を白黒させる。

「全く! 雪歩の男嫌いのせいで全然レッスンにならなかったわよ!」

「伊織、そんな言い方はないだろ!」

目の前では土木作業員が使うようなスコップを手に涙目になっている雪歩とそれを煽る亜美真美の姿。その周りにはぷりぷり怒っている伊織とそんな伊織の態度に怒っている真がいる。少し離れた所にいるプロデューサーと春香はどうすればいいのか分からずにおろおろしている状態だ。

一体なんなんだこれは…? というのが正直な感想だろう。この状況を一目見て理解しろ、というのはいくらなんでも無理難題すぎる。

この光景を見ながらはぁ…と呆れている千早はこの一部始終を知っているらしい。早速、朱里はこの状況についての詳細を千早に求めてみた。

「…何があったんですか? 雪歩さんが床に穴でも開けたんですか?」

「ありえない話じゃないけど、違うわ。彼女、コンクリートに穴を開けた経験はあるみたいだけど」

あ、それはとっくの昔に経験済みなんだ…。

ジョークで言ったのが半ば当っていたことに驚いてしまう朱里。そのうち、1階にある『たるき亭』と行き来できる穴がウチの事務所にも出来るかもしれない。律子さんがカンカンに怒りそうだけど。

「どうやら原因は萩原さんにあるみたい」

「雪歩さんに…ですか?」

…朱里はどうもピンとこなかった。雪歩は常識さで言えばこの事務所内で上位に位置するアイドルだ。困った人がいれば率先して手を差し伸べるような優しい子で、誰かを意図して困らせるような子ではなかったはずなのだが…?

「今日のレッスンのコーチがたまたま男の人みたいだったらしくて。で、萩原さん男の人が苦手でしょう?」

「………苦手って言葉で片付けていいんですかね、あれ?」

それで朱里は合点がいった。萩原雪歩の数少ない弱点とも言える『男性恐怖症』が今回の騒動の引き金だったのだ。

ちらりと見ると、心配して近づこうとするプロデューサーにも反応してずりずりと後ろへ下がる涙目の雪歩の姿があった。

数か月共にしてきたプロデューサーですらああなのだ、初対面の男性などあれの比でない程の取り乱しぶりだったことが容易に想像できる。あの様子じゃ、普段の仕事も相当苦労しているのだろう。

「それでまともなレッスンが出来なくて皆に迷惑をかけたって、落ち込んでいるみたい」

「うわー、それは……」

「そんなに男の人って怖いものなのかしら?」

「…個人差にもよるんじゃないですかね。私だって男が怖く見える時ありますから」

「……私には、よく分からないわ」

今日、朱里も男に関してネガティブな感情を抱いたが、雪歩の男嫌いのレベルはそんなものとは比べ物にならないものだということを改めて感じてしまった。そしてそれがどれだけ根の深いものかということも。

(雪歩さんって実力はあるのに、そこら辺が足引っ張っているんだよな…)

雪歩は765プロメンバーの中では古株に位置する程長くいる子だ。そのおかげなのか、調子の良い時の彼女の実力は凄まじいものがある。

真や響などの派手さはないもののダンスでは一つ一つの動作が凄く丁寧だし、歌だって雪歩本人しか出せないような独特な声色が魅力を放っている。朱里もそんな雪歩の動きを盗もうと、観察に躍起になっていた頃もあった。

………が、それに比例するかのように調子の悪い時の落差もまた凄まじい。特に男性が絡むとその取り乱しぶりは尋常じゃない。

自慢のダンスのキレも歌声も、一度崩れてしまうと雪崩の如く、全てが急降下してしまう。そして自信のなさから、すぐ弱気になったり、泣いてしまったり……時には思いつめるあまりに変わった行動をしてしまうことだってある。

(何かきっかけがあれば化けるんだろうけど…そう簡単に変われたのなら、苦労なんてしないよな………)

雪歩の中には『自分を変えたい』という強い意志がある。ただ、『どうせ自分なんて』という暗い感情もまた同時に存在する。そして、後者の方が圧倒的に雪歩の心の中を支配している。『男性恐怖症』『引っ込み思案な性格』などもそのネガティブさに拍車を掛けている一つの要因だ。

そんな思いが足を引っ張ってしまい、雪歩は自分が持っている高いポテンシャルを十全に発揮できないでいる。

(男の目線とか、私ですら気にするんだから…気の弱い雪歩さんなんてたまったもんじゃないよなぁ)

……事情が事情故に雪歩が抱えるそんな心の問題を、朱里はただ黙っていることしか出来なかった。

あれこれ言ってしまうと、余計に彼女を追いつめてしまう。何が彼女を苦しめているのかがはっきり分からない以上、むやみやたらに踏み込むのはあまりにも危険すぎる。抱いているコンプレックスやトラウマにズカズカと踏み込まれる嫌悪感は、自分自身が良く知っている。

彼女を支えることは出来る、でもそれに立ち向かえるのは他でもない雪歩自身。でも雪歩自身に一歩を踏み出す勇気があるかと言えば…。

 

 

 

 

 

 

半時間ほどの時が流れ、騒動は一通り収まった。

雪歩の目には少し涙の跡が残っていたが進行に支障がないと判断されたのか、この事務所にいる全員がホワイトボード前へと集合した。

一足先にいたプロデューサーはホワイトボードに何かを一心不乱に書いている。隣で待機している律子も早く発表したくてたまらなそうだ。

「……一体何なんなんだろうね、朱里?」

「今から分かるんだから、落ち着いて待ってなよ姉さん」

「でも気になるの」

「そんなもん皆一緒だろ?」

ひょい、と後ろから顔を出してくる美希を窘める朱里はジッとホワイトボートの日付を確認する。今から約1週間後あたりの欄にプロデューサーが立っている為、どうやらあそこら辺に重要なイベントがあるらしい。

(何か重要な仕事があるのか? ユニットの発表? それとも新曲? 新メンバー? …駄目だ、候補が多くて分からない)

『重要な連絡事項』というワードは色々な事を想像させる為、どれかに絞る事が出来ない。

早くホワイトボードの内容を見せてくれ、と朱里は特別なパワーもないのにプロデューサー目がけて念を送る。

そしてプロデューサーがペンを置いた瞬間、律子が待っていましたと云わんばかりにホワイトボードをバン! と叩いた。

「降郷村での村興しイベントで我が765プロの参加が決まりました!! しかもウチのアイドル全員参加で歌のステージ付きよ!」

「「「「おおおおおおおおお~~~!!」」」」

イベント、歌のステージ。久々のアイドルらしい仕事に全員が歓喜の声を上げた。確かにこれは『重要な連絡事項』だ。律子も嬉しいのか、ガッツポーズを決めている。

しかも全員参加ときたもんだ。美希も朱里も事務所の皆と仕事をするのが初めてなので、驚いた顔をしている。自分達にも歌えるステージがきちんと用意されているのだろうか?

「全員参加って……よくこんな仕事、律子さん取ってこれましたね」

「ああ、違うわ。この仕事、彼が初めて取ってきた仕事なのよ」

「プロデューサーさんが?」

ポン、と律子がプロデューサーの肩に手を置く。どうやら彼もいつまでも新人のままではないらしい。こんな大きな仕事を取ってきてくれるなんて。

「ああ、頑張るからな!」

「…ええ、勿論頑張りますよプロデューサー」

「美希も頑張るのー!」

グッと拳を握るプロデューサーの期待に応えるように微笑む朱里と私も!と云わんばかりに元気に手を上げる美希。

「ちょっと、本当に大丈夫なの?」

「兄ちゃんには荷が重いんじゃないのー?」

「が、頑張るから、な…?」

が、伊織と亜美の茶化すような声に力強く上がったプロデューサーの拳が徐々に下がって、顔に脂汗が滲み出てくる。…どうやら一人で仕事は取ることは出来ても、カッコいいセリフがいまいち決まらないのは変わっていないみたいだ。

(さて、雪歩さんの様子は…)

朱里は微笑みながらも雪歩の様子を伺った。この件を機に少しは立ち直って欲しいのだが…。

「凄いね雪歩! 僕たち同じステージで歌えるかもしれない!」

「う、うん! そうだね真ちゃん!!」

どうやら、少しは立ち直れたみたいだ。驚きの感情が混ざりつつも、雪歩の顔には笑顔とイベントに対する意気込みが見えていた。

「はーい、騒ぐのはその辺にして皆注目! 今からイベントの概要と楽曲のメンバーを発表するわ!」

「はい、これ詳細のプリント。一枚ずつ回していってね」

「ありがとうございます」

小鳥さんが印刷してくれたプリントを1枚つまんで皆に回され、詳細についての説明が始まった。

「…まずは今回のイベントはライブの合間にトークやちょっとしたイベントを挟んでの進行になっているわ。でも持ち時間の関係上、ソロを全員に回すのは厳しい。だからユニットを組んでのステージになります」

「ユニットかぁ…何か久しぶりって感じがするぞ」

「少なくとも、美希と朱里たちが入って来てからは一度もやってはいないわね」

「あー、美希、朱里だけでなく真君とも一緒なの!」

「…………………この組み合わせで本当に大丈夫なんですかね? 姉さんと私、ユニット組むの初めてなのに…」

プリントに目を落とすと、各々のメンバーと楽曲が書かれたリストが描かれていた。それぞれの能力や長所を考慮した上でのメンバーが構成されている。

…そしてその一文には『ユニットメンバー:春香、真、雪歩、美希、朱里 楽曲:GO MY WAY!!』とあった。よりによって初めてのユニットステージを、最近派手にやらかしたあの楽曲で挑むことになろうとは…。

「大丈夫よ朱里。今回組むユニットは朱里と美希以外は以前組んだことのあるメンバーだし、振り付けもソロの時とほとんど変わらないこの曲を選んだから」

そうは言っても前回のあれを思い出してしまうと、この曲には良い思い出があまりない。決して悪い曲ではないのだが。

「それに今回初めての朱里と美希はこの1ステージだけにしているわ。残りのステージは春香と真、雪歩が担当しているから。心配しなくても大丈夫よ」

心配そうにプリントを見る朱里を励ます律子だったが、朱里の不安は尽きない。

「ま、この間のレッスンみたいにならなきゃOKよ。春香と一緒にダブル転倒なんてことだけはやらかさないでよ?」

「流石にそれは恥ずかしいからやりません。というかやらせません」

「そんなこと言わないで朱里ちゃん!」

褒めているのか貶しているのか分からない発言にぶっきらぼうに答える朱里と関係ない所から飛び火して憤慨する春香。

「…久々のユニットを組む関係上、今回は手堅いメンバーで行かせてもらう。けど、久しぶりだからといってステージの質を下げてもいい訳ではないわ! 本番までの期間、ビシバシ行くから皆覚悟するように!」

律子のその言葉と共に、ホワイトボード前で行われていたミーティングは終了となった。

 

 

 

 

 

 

「はい…はい。今から帰りますので。晩御飯の時間までには間に合うと思います」

そう言うと、雪歩はピッと携帯の通話ボタンを切る。門限が厳しい萩原家では遅くなりそうなときは必ず電話を入れることがルールと化していた。

事務所を出ると、既に日は暮れていた。昼間はあんなに暑かったのに、この時期の夜はまだまだ冷える。思わぬ肌寒さに思わず腕を抱いてしまう程に。

(…また、やっちゃった)

そして昼間の出来事を思い出してため息をつき、自己嫌悪に陥った。

今度こそやらないという誓いを立てたのに、何度も繰り返してきたミスをまたやってしまった。

男の人なんて怖くない、自分はもう立ち向かえるはず。

そう頭では理解しているのに、また逃げ出してしまった。迷惑をかけてしまった。また皆に甘えてしまった。

雪歩は涙目になりながら、ギュッと腕を強く抱き、身を縮こませた。プルプルと震えるその姿はまるで亀を彷彿とさせる。

(私、なんでこんなに臆病なんだろう…)

―――萩原家は子宝に恵まれない一家だった。その中でようやく生まれた一人娘の雪歩は両親の愛を一身に受けて成長した。

そのことに関して雪歩は不満がある訳ではない。両親は自分を愛しているということは何よりも理解しているからだ。

だが、その両親……正確に言えば父親の教育方針に多少の問題があった。

雪歩の父は、雪歩を大切に思うあまり極力男性との接触をさせないよう育てさせたのだ。

どこかに遊びに行くときは必ず許可を取らせたし、学校などに行くときなども送り迎えなども徹底させていた。萩原雪歩は現代ではすっかり見なくなった、所謂『箱入り娘』として育てられていた。

また、雪歩の父親は厳格で箸の上げ下ろしにもうるさい男だった。自分にも厳しいが他人にもその厳しさを求めてしまいがちで、男に関しては特に厳しい目を向けてしまった。

『最近の男は軟弱でいかん』

『最近の男はチャラチャラして、遊んでばかり』

『最近の男は女をたぶらかす者ばかり』

『私の若い頃は違った』

『最近の男は…』

『男は…』

―――幼い頃から雪歩は若かりし頃の父やその友人の武勇伝を聞いて育ったが、現代の男に対する愚痴も同時に聞かされて育った。その結果、現代の男性に対しての不信感と恐怖も無意識の内に植え付けられてしまっていたのだ。

高校生へとなった今では、世間一般にいる男性はそんな人ばかりではない事は十分わかっている。だが幼い頃に植え付けられた不信感は簡単にはぬぐえず、それが今となって雪歩を苦しめている。この男性不信が雪歩の引っ込み思案な性格をますます加速させているという悪循環にも陥っていた。

(真ちゃんも朱里ちゃんも、自分を変えようと頑張っているのに…)

思い出すのは『自分を変えたい』と強く願う2人の少女。宣材写真の際、互いに自分が抱えるコンプレックスを話した仲間だった。

真は女でありながら男のような自分を受け入れ、先に進もうと頑張っている。

朱里は自分の年齢とは釣り合わない大人な自分やコンプレックスを受け入れ、メキメキとその頭角を現している。

2人とも一歩を踏み出して、頑張っている。でも、自分だけがその一歩を踏み出せないでいる。失敗したらどうしよう、今よりももっと悪くなってしまうんじゃ…?

そう考えると、足が止まってしまい―――そんな自分を雪歩はまた嫌いになる。そしてそれをまた繰り返してしまう。

かくして、雪歩は雪歩のまま。それまでと何一つ変わらない、冴えないままの自分でいる。自分だけ、置いてけぼりにされている。

「……」

そっと雪歩は事務所で貰ったプリントをポケットから取り出した。そしてある一文を見つめる。

『ユニットメンバー:春香、真、雪歩 楽曲:ALRIGHT*』

…どうして、自分の持ち歌の名前がプリントに書かれているのだろう。しかも、持ち歌という関係上、必然的に自分がセンターに立つことになる。

『ALRIGHT*』。英単語の alright(大丈夫)をもじったこの楽曲は喜びも悲しみも力に変えることが出来、例え今日泣いてしまっても、明日笑うことが出来れば結果オーライだというメッセージが込められた曲だ。

…しかし、今の雪歩にとってこの曲は自分を皮肉っているようにしか思えなかった。

(私がセンターなんて…絶対に無理だよ…結果オーライなんてぇ……)

グスッとべそをかきながら、雪歩は逃げ出すように走り出すのだった。




朱里の身体は現在も絶賛成長中です。ちなみに胸だけでなく、お尻の方もおっきくなっています。
ちなみに美希も成長中です。成長期ですからね、仕方ないですよね。

雪歩の男性恐怖症は様々な説がありますが、この小説では「過保護に育てられたから」の他に独自解釈も加えております。
アニマス3話の雪歩の怯えぶりは尋常じゃなかったので、このくらいの理由付けは必要かな…? と思ったからです。

では次回もお楽しみに!


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第29話 理想は遠く、されど現実は厳しく

書いては消し、書いては消し…そんなことを繰り返していくに2019年!?!?
約2年経っちまったよ!?
…ということで、長らくお待たせいたしました。
今回はアニメの3話目Aパートくらいのお話です。
もうこの小説需要あんのかよって感じですが…どうぞ。


「…と、いうことはこれくらいの間隔を維持しながら、いつもステージに立っているんですね」

「うん。曲や人数の構成でそこの所は変わっちゃうけど…今回5人で歌う『GO MY WAY!!』の場合は大体このくらいかな? もっと人数が増える曲…それこそ全員で踊る曲とかはこれよりも…」

「なるほどですね」

夕闇が照らす中、屋上の床に学校からくすねた短いチョークで描かれた赤色の円をとんとんと叩く春香を見ながら、朱里はノートへとメモを刻んでいく。

「…となると、この場合は?」

「あ、大きく動く時はね、こういうふうにしてね…」

ぐおんぐおん、と屋上に設置してある室外機の音が響く中での2人の会話は続いていく。

朱里の質問に春香は床に転がっていた別の色のチョークを掴むと、一回り大きい円と小さい円を描いて、説明を続ける。

「基本は大体…合同レッスンの時と同じくらいの間隔で良いと思うよ。でもステージの大きさや欠員なんかで多少変わる時もあるから…」

「最終的には現地に行って動きを調節することもある…と?」

「うん。だからリハーサルとかでこういう部分も見ながら細かく調節するの。狭すぎても駄目だし、逆に広すぎても駄目だしね」

複数のアイドルとステージに立った経験がない朱里にとって、765の中でも古株の春香のアドバイスは勉強になることが多すぎた。

ゴールデンウィークの時の自主トレで教わったことが身になったのと同じように、経験者のアドバイスや助言は非常にタメになることばかりだ。

(狭すぎると窮屈なステージになるし、かといって間隔を開けすぎると逆にだだっ広く見えてしまう。それは人が増えれば尚のこと、か…)

そういう細かな部分も計算されながら自分たちが歌って踊るステージというものは作られていると思うと、驚きを感じざるを得ない。

そうなるとリハーサルって凄い大事なんだな、とぼやきながらガリガリっとボールペンをノートに走らせる。

「……大体、私がいつも意識しているのはこのくらいかな。こ、これくらいしか言えないけど…参考になったかな?」

「なりましたよ。春香さんの教え方、凄く分かりやすいですし。じゃあ一回、動いてみますね」

ボールペンを引っ込めて満足げにノートを閉じた朱里はトントンっと靴でリズムを取りながら、前回失敗したサビ前の大股に足を動かす動きに入る。

春香も事務所から借りてきたビデオカメラを録画モードにして、朱里を撮る構えをする。

(大股にはなるけど、ステップは広めすぎない。広めすぎると周りのメンバーの動きの邪魔にもなる…。けど、周りからも見られている意識を持って…)

頭に描くのはドシドシと力士が四股を踏むような大きな動きではなく、もっとスマートに軽やかに動くダンサーのように。タンタンっと心地よいリズムを刻みながら、よろめくことなく足はしっかりと地面を叩く。

「!」

転ぶことなくステップが上手くいって、見ていた春香はぱあっと明るい顔を浮かべる。それを横目でそれを確認した朱里は止まることなく、サビの動きへと入る。

(上手くいってるみたいだ。サビの時は腕を大きく使うから、腕がガチガチになりすぎないようにして…)

ノートに書き込んだ春香のアドバイスを脳内で反復させながら、両手の人差し指ではにかむ仕草で笑い、ぐるんと腕を広げ、指を前方へと向ける。

そして、右手の力こぶを作るように左手を添え、大股なステップを入れて、曲調に合わせて顔を決めて―――。

「…ど、どうですか?」

ここまでの一連の動きを終え、ようやく朱里は春香へと質問する。春香も録画を一旦止めて、顔を上げ―――。

「うん、ちゃんと出来てる! 動きもこの間のビデオよりも良いよ!」

「あ、やった…」

春香の笑顔に本当だったらここで「やったー!」と叫び、手を握るくらいのリアクションをしようかというところだが、現実は出来たという喜びでリアクションが上手くとれなかった。

古株の春香の目から見ても落第点よりは上の出来にはなっているらしい。

とりあえず、踊れなくてステージに立てないという最悪の状況は何とか避けられたようだ。

「ここ数日、自主練に付き合ってくれてありがとうございました。春香さん家も遠いのに遅くまで付き合ってくれて…呑み込みが悪くて、何度も何度も同じことを…。本当にありがとうございます」

「うわ、あ、頭下げなくてもいいよ!」

ペコリと頭を下げようとする朱里に慌てる春香。『765プロでは先輩後輩関係ないんだから~!』とあわあわ喋りながら朱里を止める彼女がなんだか可愛らしくて、思わず笑みを浮かべてしまう。

本人は至って真面目なのだろうが、どこか愛くるしいその姿はなんだか愛玩動物を見ているみたいだ。春香の方が先輩なはずなのに、後輩みたいな錯覚を覚えてしまう。

「それにしても意外だったなぁ。私、朱里ちゃんはこういう質問とかはお姉ちゃんの美希にしているイメージがあったから。一緒に住んでいるんだし」

「いや、むしろ姉さんにする方がほとんどないですよ。姉さんは感覚で何でも理解しちゃうタイプなんで、自分では分かっても他人には伝えられない事多いですから」

「そうなの?」

「ええ」

ちらりと、手元のノートを見る。

つい数か月前に買ったばかりなのに、もう表紙やページがボロボロだ。あらゆることを書き殴っているせいで、もうノートの残りページも僅かだ。そろそろ新しいものを買わなければならないだろう。

勿論、『GO MY WAY!!』の事もノートの数ページに渡って刻まれている。自分が失敗しやすいポイント、春香たちが気を付けていることなどがズラリと書かれている。

朱里の手痛い失敗から過ちを繰り返さないとばかりに、今日まで徹底的な対策が施された。

全員の動きをビデオで再確認し、『GO MY WAY!!』の動きも改めてレッスンなどで対策。

上手くいかない不調気味のコンディションを吹き飛ばすかの如く、駆けずり回った。

そして、今回の『GO MY WAY!!』でセンターに立つ春香のアドバイスは大きな収穫になった。今回のステージの中心に立つポジションを任されている春香に自主練のコーチ役を頼み込んで正解だった。

「一度姉さんに分からない事を聞いたことはあるんですけどね…話を進めていく内に逆に分かんなくなっちゃって…。私達は姉妹ですけど、こういう所は違いますから」

朱里は普段のレッスンや周りの体験などの通して得た経験を丁寧に積み重ねて、それを本番で発揮していくタイプのアイドルであり、感覚だけで臨機応変にやれる美希とは壊滅的に噛み合わない。

だから美希独特の説明を受けても余計混乱してしまう。美希の感覚は朱里には理解できない域に達してしまっているからだ。

その為、朱里は美希を筆頭に『独自の感覚で理解している』面子にアドバイスを求めることはまずない。レッスンのアドバイスを求めるのは1から10まできちんと説明してくれる律子やトレーナー、春香や真など自分と同じように経験を積み重ねたことを丁寧に発揮するアイドルたちだけだ。

響や貴音などと絡んだゴールデンウィークのあれは、朱里にとっても数少ない例外なのだ。

「わざわざオフにまで付き合わせてしまってすみません。春香さんもやることあるはずなのに…」

「そんなことないよ! 私も頼られて凄く嬉しかったし、朱里ちゃんには宣材写真のリベンジが出来たしね! ようやく私もアイドルらしいことを出来たって感じで!」

「リベンジ…ああ、あの転びぶりは笑っちゃいましたよ」

「あー、酷い! 朱里ちゃんだってこの間のレッスンで凄い転んだって聞いたよー?」

「…う、それは言わないでください」

痛い所を突かれた朱里は、ぐぬぬと顔をしかめる。あははと笑った春香は「一旦休憩しよっか」とチョークを置くと屋上の端に座り込んだ。そして、はいと持っていたビデオを朱里に手渡す。

「あ、ありがとうございます」

―――やっぱり春香さんはこういう所が凄いよなぁ、と早速、録画を見ながらしみじみ思う。

相手の警戒心を素通りしていつの間にか懐に入ってくる気安さ。相手に不快感を与えない絶妙な距離感を瞬時に把握する洞察力。相手を飽きさせる事のない巧みな話術…話題好きな女の子の見本みたいなスキルの数々は、口下手な自分には絶対に出来ない芸当だ。

あのとっつきにくて無口代表みたいな千早も、春香の前では自分と同じようになってしまうのだから。

『ねえ兄ちゃーん、衣装って赤いのでいいんだよねー?』

『ああ、そうそれだ。赤い箱だ、赤い箱』

『りょーかい、ここに置いとくねー』

ふと、下の階からプロデューサーと亜美の会話が聞こえてくる。そういえば上の階に上がる前、仕事用の荷物を一つにまとめておくみたいな会話があったようななかったような。

亜美も一緒になって衣装ケースを運び込んでいるみたいだ。

「春香さん、故郷村までって車で移動でしたっけ?」

「うん、プロデューサーが皆乗せて移動するんだって。皆が乗れる大きめの車を借りるみたい」

へえ、プロデューサーって中型クラス以上の免許持っているんだ…というどうでもいい情報を頭に入れる。律子は免許こそ持ってはいるが普通車限定のものだったし、やはり大人数を乗せられる車を動かせる人がいるのはありがたい。

場所的な縛りがなくなるというのは仕事を選ぶ幅も増えるだろうし、今回みたいな参加人数が多いイベントにも足を運びやすくなる。

仕事を選り好みできる身分ではない765プロにとっては良いこと尽くめだ。

今回の会場となる故郷村は山を数個跨いだ先にある、牧歌的な村で行われる。

その名前の通り相当な田舎らしく、電車は一日10にも満たないローカル線オンリーで車の移動を余儀なくされる位置にある集落らしい。

数分に1本電車が来るのが当たり前だと思っている朱里にとって、故郷村は現代に残された秘境のような何かを感じてしまう。

すっかり朱里も2周目の人生を過ごす中で都会っ子に染まってしまったようだ。

「…虫刺されとか日焼けが怖そうですね。翌日は晴天みたいですし、虫よけスプレーとか持っていった方がいいかもしれませんね」

「私服で踊る訳じゃないけど、動きやすい方がいいかも。スカートで地方の仕事行った時なんか大変でね」

「へえ」

「虫刺されで太ももとか刺されちゃったときなんか、もう…」

えへへと、話す春香の表情はどこか楽しげだ。やっぱりアイドルしている時の春香は、普段よりも輝いて見える。歌ったり踊ったり、誰かに撮られたりしている時も何かを演じたりする時も…アイドルを通しての活動全部を全力で楽しんでいる。

「楽しみですよね、全員での仕事」

朱里や美希にとっては初めての全員参加の仕事だ。ステージに上がる皆の姿を見るのも初めてだし、他のアイドルのステージ姿は生では見たことがない。普段レッスンしている皆がどんな姿でステージに上がるのか…やはり朱里も気になっていた。

「うん。全員参加の仕事なんて本当に久しぶりだから、私も楽しみ」

「…やっぱり、仕事って少なかったんですか?」

「うん、プロデューサーさんや朱里ちゃんが来るまでは本当に仕事なかった時期、あったから。場所が場所なら諦めることもあったしね」

そう言って遠くを見つめてそう語る春香を、朱里は黙って見つめるしかできなかった。

今ですらまだまだ仕事が少ないと感じるのに、これ以上に少ないとなるとどれほどだったのか。

噂程度にしか聞いていないがスケジュールが書かれているホワイトボードが真っ白だった期間がかなり多かった。デビューしたのに仕事が無くて、事務所とレッスンスタジオだけを行き来する日々も珍しくなかった、なんて話も聞いている。

「だからね、朱里ちゃん。私今回の仕事、凄い楽しみなんだ。一杯レッスンやって、せっかく上手くなったのに、歌いたいのに歌えないのって凄く辛いから。だからみんなでそれが出来るって凄く嬉しいの。たとえそれがどんなに小さなステージでも…一人でも聞いてくれる人がいるだけでも…」

「………」

春香の言葉になんとも言えない気持ちになる。もし自分が、本当にやりたいことが出来ないまま、月日だけが流れていったら…と想像してみると、恐ろしい気分だ。

ただでさえ、春香は他のメンバーよりも長く、そしてアイドルに対しての憧れがとても大きい子だ。熱意はあるのに何もできないその怖さや無念さも人一倍に感じているのだろう。

「ご、ごめんね! なんか湿っぽい話になっちゃって! 私、そんなつもりで言ったんじゃなくて…」

「大丈夫ですよ、全然気にしてませんから」

朱里はキュルルルと一通り見た録画データを巻き戻し、ビデオカメラを春香へと返すとガバッと立ち上がった。

「さっきの動き、もう一回撮ってくれますか? 今度は最初から通してやってみますので」

「え、でも…」

「忘れない内にもう一回やっておきたいんですよ。まだ付き合ってくれますよね?」

そう言うと、朱里は屈伸をして軽めの準備運動をしながら春香の返事を待つ。

朱里の圧力に押されたのか、春香はわたわたとビデオを構えて、撮る準備をしてくれた。

「朱里ちゃん、いつでもいけるよー!」

「はい! あ、そうだ春香さん!」

「?」

突然呼び止められた春香は頭に?マークを浮かべながら、こちらを見た。朱里は笑いながら、春香を見つめる。

「絶対、次の仕事、成功させましょうね!! 一緒のステージに立つんですから!!」

「…うん!」

そんな朱里につられるように、春香も笑う。そしてひとしきり笑った後で、朱里は頭の中で『GO MY WAY!!』のメロディを流しながらステップを踏み出した。

 

 

 

 

 

 

煌めく太陽、木々を吹き抜ける爽やかな風。まるでドラマの舞台となるような素敵な村。

訛りはあるものの温かい雰囲気の村の大歓迎を受け、ご馳走を振る舞われた765プロは大歓声の中、ステージを決行するのだった…。

「と、思っていたのに」

「なんで現実はこうなわけ…?」

面食らう亜美とふくれっ面の真美は目の前の光景に愕然としていた。

そりゃ売れていない私たちの知名度が低いからに決まってんだろ、そんな歓迎なんてテレビに出るスーパースターで初めて行われるものなのに…とは朱里も言えずにいた。

「ここ本当に日本なんですか…?」

隣にいる雪歩とひそひそ会話する朱里自身も想像していた事態を遥かに上回る目の前の光景に面食らっていた。

会場となる学校の校舎は今や見るのも珍しい木造建築。壁やら廊下の年季は相当なもので、コンクリートの校舎しか見たことがない朱里は、失礼だが踏んだり触ったりしただけで崩れてしまうのでは…? というあらぬ妄想まで掻き立ててしまう。

目の前には無駄に広い校庭とのそのそと動きまわる牛の姿、出迎えの人はおろか、自分たち以外の人の影すら見えない。

学校のグラウンドに犬が入ってくるという話はよく聞くが、グラウンドで牛が我が物顔で歩く話は見たこともなければ聞いたこともない。

グラウンドの端では今日行われるステージの足場が、その向こうには見渡す限りの畑と山ばかりで、コンビニどころか自販機の一つも見かけない。

道路には車どころか人も行き来する姿が見えない。まさに現代の陸の孤島だ。

周りを見てみれば亜美真美程では無いにしろ、各々が久しぶりの仕事への夢想を広げていたらしく、同じようなリアクションがチラホラ見られた。…実を言うと朱里自身もちょっと期待していたのは秘密だ。

「あんたらの想像は陳腐すぎるのよ」

伊織は手元でシャルルの耳を弄りながら呆れた顔で言った。

「私はこんなオチだと思っていたわ…」

そう言いつつも伊織の顔にも落胆の色が見えた。やはり伊織にも多少の期待はあったらしい。

「ほら美希、早く起きなよ…もう着いたんだから」

「うーん、まだ眠いの…」

荷物を胸に抱えながらウトウトする美希の肩を真がゆする。車でただ一人最初から最後まで爆睡していた美希はまだ意識は夢の中なのか、聞く耳を持たない。自分が期待と不安が入り混じりながらの移動をしていたというのに…。

「天気が良いのはいいのですが、少し暑いですね」

「日が暮れたら、少し冷え込むみたいですけど」

雲一つない晴天。拭き出てきた汗がシャツに張り付く。汗でブラ透けてなきゃいいんだけど…。

地球温暖化の影響は都会も田舎も関係ないみたいだ。ビルや建物がない分、こっちの方が余計に暑く感じてしまうのは気のせいではないかもしれない。

と、会場設営をやっていたランニングシャツ1枚でガタイのいい兄ちゃんがこちらに気付いたのか、作業を止めて、こちらへ近づいて来た。

「ようこそ故郷村へ!756(ナゴム)プロさん!」

「あ、その、名前が違いますね。765プロです…」

「今日は宜しくお願いします!」

堂々と事務所の名前を間違えられるというハプニングはあったものの、歓迎の挨拶に皆が頭を下げ、車から荷物を取り出して控え室になっている教室まで移動しようとしたその時。

「宜しくお願いしますね!」

明るくさわやかな笑顔でポン、とランニングの兄ちゃんの一人のゴワゴワした指が、雪歩の肩に触れた。

あ…、と皆が嫌な予感をするよりも早く、雪歩の顔面がみるみる蒼白と化し…。

「~~~~~~~~~~~!?!?!?!?!?!?!?!?!?」

声にならない悲鳴を上げながら、雪歩は全速力でその場から逃走してしまった。

「あーあ、やっちゃったぞ」

「先行きが不安だわ」

「…? なにか、悪い事しちゃいましたかね?」

「そ、その、女の子ですから! いきなり触られてたらビックリもしますよ!」

見慣れたメンバーはあっけらかんとしているが、逃げられた兄ちゃんは訳も分からず目を白黒させていた。悪気があってやったのではないことは百も承知だったが、声を出さずにはいられなかった。

田舎と都会の距離感は違うかもしれないが、不意打ちでいきなり見ず知らずの男性にボディタッチされるのは雪歩じゃなくても怖いだろう。男性恐怖症の雪歩にとってはとんでもないことだっただろう。

「と、とりあえず僕が追うから。僕と雪歩の荷物は先に控え室に持っていって」

「うん、分かった」

付き合いの長い真は荷物を春香に預けると雪歩が逃げていった方へダッシュで駆けていく。

(雪歩さん、大丈夫かな。せっかく調子戻していたのに…)

彼女は今日のステージで『GO MY WAY!!』の他に持ち歌をセンターで披露するのに。リハーサルでコンディション戻ればいいんだけど…。

そんな朱里が心配していた矢先、グラウンドの向こうで遊んでいたらしい男の子が玩具片手にトトト…とこちらに駆け寄って来た。雪歩の悲鳴が向こうに聞こえて、気になってきたのかもしれない。

「ねえねえ、姉ちゃんたち。もしかして、アイドルなの?」

「そうよ~、私達、アイドルなの。今日、お歌も歌うのよ~」

そう無邪気そうにやって来た子供に優しく話すあずさ。やはり最年長アイドル、こういう子供の扱いにも長けている。

…が、次に男の子が発した言葉があまりにもまずかった。

「ふーん…こいつらなんて見た事ねー!!」

「「「「「「!!!」」」」」」

大声で一刀両断をかまされた765プロの皆はビシリ! とフリーズする他なかった。

「お前ら本当にアイドルなのかよー。テレビで見たことねーぞー!」

「……っ。え、あ、あら~…お、お姉さんたち、最近デビューしたばかりだから…知らないのも無理ないかも…」

目の前の生意気な子供の態度に引きつった笑顔で皆が我慢する中、それでも優しく接するあずさ。流石は最年長、大人だ…と思いつつ、あずさの額から流れている冷や汗から動揺の色が隠せていない。プロデューサーに至ってはかけている眼鏡がずり落ちそうな程、動揺していた。

「何やってるの! 早くしないと置いてっちゃうわよ!」

と、慌てて子供たちの親御さんがやってきて、「御免なさいね」とこちらに頭を下げて子供の手を引いていく。

「知らねー知らねー!」

親御さんに手を引かれながらも、男の子は大音量で叫び続けていた。

「あ、はは……こ、子供の言う事、だから…な。はは…」

木霊のように響く「知らねー」に呆然と見送るしかない皆の気持ちを代弁するようなプロデューサーの言葉も耳には入っていかない。

雲一つない晴天の中、僅か数十メートル先で歩いている牛がグラウンドのど真ん中で糞を垂れ流している光景も、どうでもよかった。

子供の無邪気さが故の残酷さを嫌という程味わわされた気がした。そして、どれだけ自分たちが無名な存在なのかというオマケ付きで。




次の更新は…何時になるんだろう?
それは私自身にも分かんない。
せめて、せめて水着回を書くまでは頑張りたい…。


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第30話 準備、それぞれの想い

前回の感想でたくさんのメッセージと評価、ありがとうございます。

大人も眠る真夜中にガンガンキーボードを叩いて、あーでもないこーでもないと唸りながら執筆するのものも滅茶苦茶久しぶりな気がします。

ではどうぞ!


生意気な子供の容赦ない洗礼を浴びながら765プロの面々は控え室として用意された空き教室へと入れた。数分後には顔を青くしていた雪歩の手を取った真も戻ってきたのだが…。

「豪華料理は」

「無理だったね」

昼ごはんとしてテーブルに並べられていたおにぎりや煮物をジト目で見つめる双子。

育ちざかりにとっていささか物足りないメニューで文句の一つも言いたくなる気持ちも分からんでもない。特に煮物は味が薄めで亜美は「5、60年後にベッドの上で食べるような優しい味ですな」、真美は「小っちゃい頃パパとママの仕事場で似た味のご飯を食べたのが懐かしいですぞ」と食レポじみた感想を漏らしている。

「はいはい、愚痴なんかこぼしている暇ないわよ。お昼ご飯食べ終わったのなら、さっさと会場の設営に入る!」

「「はーい…」」

「しょうがないじゃない、人手が足りないんだから。あんたたちはステージ前の椅子並べるだけなんだから、簡単でしょ?」

とぼとぼと歩く双子を急かす様に律子が「リハもあるんだから、さっさと動く!」と声を張り上げる。双子たちは納得がいかない様子であったが、「人員不足」と言われればぐうの音も出ない。小言を漏らしつつもステージが設営されている校庭目指してとぼとぼと歩きだす。

「春香さん、こういう事も仕事やってればあり得るんですか?」

「う、うーん流石の私も初めてかな…? アイドル時代の律子さんならあり得るかもしれないけど…」

朱里はおにぎりを頬張りながら「意外といける」と思いながら、隣の席に座る春香に耳打ちする。春香も苦笑しながら小鉢に盛られた煮物に口を付けていた。

逃げ出した雪歩を連れ戻し、控え室に入ってリハをやってから、メイクをして本番…という気持ちで完全にいた765プロの面々は、申し訳なさそうな顔をしたランニングの兄ちゃんから「会場設営やら準備を手伝ってくれ」と言われ、全員あんぐりと口を開けてしまった。

今、故郷村は上京やらなんやで若い人が少なく初老や老人が多いという典型的な逆ピラミッド状態で、会場の設営に携える人手が足りていないらしい。ステージの鉄骨など力仕事に人員を割くので精一杯で音響やら横断幕、今日出す料理の準備やらに手が回らないみたいだ。

流石にそんな事情があるのならば…ということもあるが、そもそもステージが完成しなければ仕事にならないのでやるしかないのだが。

程よい塩加減の鮭おにぎりを食べ終えた朱里は「ごちそうさま」と手を合わせ、設営の方へと向かおうと立ち上がるが、呑気に7つ目のおにぎりに手を伸ばそうとしていた美希に目が移った。

いくら好物のおにぎりが目の前にあるからといっても、いくらなんでも食べ過ぎだ。

「姉さんもそのくらいで食べるのを止めて。双子と一緒に椅子並べるんだろ?」

「…まだ美希、食べられるんだけどなぁ」

妹の言葉に腕を引っ込めると名残惜しそうに指についたご飯粒をくわえながら、美希は口を尖らせた。

「あんまり食べすぎると動けなくなるし、太るぞ? この前の身体測定で体重が増えたなんて言ってたくせに」

「う~、朱里のイジワル…」

「はいはい。さっさと食べたら、さっさと動く。律子さんも言ってたろ…じゃ、春香さん先に行っていますね」

美希に適当に釘を刺しつつ春香に挨拶をすると、朱里は自分に割り振られた「ステージで使う横断幕を倉庫から持ってくる」という作業へと移る。

確か体育館脇の倉庫に段ボールの中に入っているとは言ってはいたが…体育館はどちらへ向かえばよかったか…。

と、勢いよく廊下に出た途端、ギシッと足元から響く音にビクリと反応してしまう。踏むたびにギッギッと鳴る廊下についおっかなびっくりになってしまった。

「床板、踏み抜いたりしないように…」

朱里の通う学校は教室や体育館の床も木の床は使われているが、あれはあくまでもフローリングの板を張った張り物の床に過ぎず、下にはコンクリートで固めた土台がきちんとあった。

それに対しこれは紛れもない本物の板だ。ミゾがあって、恐ろしいことに踏むたびにぐいぐいと撓むところもある。

うっかり力を入れてバキッと廊下を踏み抜くことがないようにそろりそろりと歩き、ようやく外へ出る。

ふう、とため息を漏らしながら顔を上げると、一面に木々が生い茂る山が目に飛び込んできた。人と物とビルに溢れかえっていた東京では見られない珍しい光景に足を止めて見入ってしまう。

(凄い…都会には無い山や森がどこまでも広がっている、来る途中に川なんかも見えたし…)

定年後はこんな所に隠居するっていうのも悪くはないかもしれない。こういうゆっくりとした場所で迎える老後っていうのも中々―――。

思わず疲れたサラリーマン的な独り言を漏らしてしまったが、ギンギラに照らす太陽にしかめっ面になり、やっぱり涼める所が多い都会の方が良いかも、と前言撤回した。

いくら景色が良くても暑さだけはどうにもならない。クーラーなんて洒落た代物が木造建築の校舎に置かれている訳もなく、教室から廊下に至るまで窓も扉も開けっ放し。その光景が余計に暑さを体感させる。

(飯はちゃんと食べたけど、こまめに水も飲まないとこりゃ倒れかねないぞ)

じっとりと額に浮かび上がる汗をTシャツの肩口で拭いながらグラウンド脇をしばらく歩く。グラウンドで双子が学校行事などで使われるパイプ椅子を持ちながらせっせと並べていく光景を横目に砂利道を踏みしめること数分、意外にもあっけなく体育館脇の倉庫は見つけることができた。

鍵は既に開いており、開けられた南京錠が扉の前にぶら下がっていた。

朱里はギギギ…と錆びついた扉とレールが擦れる嫌な音に耳をふさぎたくなるのを我慢して、引き戸を開ける。立てつけが悪いのか、持ち上げるようにしないと上手く開かなかった。

「うわっ、凄い湿気…それに埃も…」

開けた扉から漏れてくる年季の入った埃と湿気の猛攻にケホッと咳き込んでしまう。しかも中はかなり薄暗く、電燈もない。

来る前に懐中電灯を借りてきた方が良かったかも、とちょっと後悔する。日光があるとはいえ、手探りで動き回るのは少々不安がある暗さだ。

手探りで探すことしばらくして、ようやく暗がりに目が慣れてきた頃、それらしいダンボールが数個、戸棚前に重ねて置いてあるのに気がついた。一番上の段ボールには横断幕を固定するのに使用するらしいロープも飛び出していた。

(お、見つけた見つけた。多分これだな)

よし、これをステージ前に持っていけばオッケーだ。後は作業が終わっていないグループの方へと合流することにしよう。

確かグラウンド脇を歩いていた時、音響準備組になっていた響の苦戦するような声が聞こえた気がした。何やらあっちは上手くいっていないようだし、そっちの方へ行けば問題ないだろう。

料理準備組はやよいやあずさ、春香といった比較的包丁を扱うのに長けた面子だ、心配はないだろうし…。何故かあのメンバーに包丁を触ったことのないような箱入り娘の伊織が組み込まれていたが。まあ、あの家事に長けた超人のやよいが目を光らせているのだ、指を切るなんてことは起こらないとは思うが…。

よいしょと、つま先立ちをして一番上の段ボールを持ち上げようと腕を伸ばす。上手く指を使って段ボールをたぐり寄せ、そのまま持とうとするが…。

(お、重い!?)

ズシッとくる重さに思わず面食らう朱里。

段ボール程度なら問題ない…と、男の頃の感覚で考えていたが、意外に中身は重い。

今の自分の筋力でロープが入ったダンボールを持つのは少々無茶だったのか足元がおぼつかない。あっちにヨロヨロ、こっちにフラフラとしている内に、別の戸棚に背中をぶつけてしまう。

「痛っ…」

背中に感じた鈍い痛みに思わず声が漏れてしまう。が、背中をぶつけた拍子で戸棚上の絶妙なバランス加減で置かれていた荷物がグラリと崩れる音がした。

さっと顔を青くしてやばい、という直感がした。すぐさま逃げようとしたが、持っている段ボールのせいで素早く動くことが出来ない。

そして無情にも戸棚から落ちた荷物は朱里の頭上へと落ち―――。

「うぇあああああああああああ!?」

頭にぶつかった衝撃、どたばたと動き回ったせいで舞い上がった大量の埃を吸い込んだ朱里の悲鳴が倉庫中に響き渡るのだった。

 

 

 

 

 

 

「…?」

「どうかしましたか如月千早?」

音響組の千早はどこからか聞こえた悲鳴に作業の手を思わず止めた。貴音はそんな千早を面妖な顔で見つめる。

「いえ…なんでもありません四条さん。機材の件ですが、職員室の方にマニュアルがあるそうです。それがあれば何とかなりそうです」

気にはなったが、何事も無かったかのような顔で再び手を動かす。どうせ、萩原さん辺りがまた男に近づかれたりして悲鳴をあげているのだろう。見慣れた光景に一々手を止めていたら進む作業も進まなくなる。

「そうですか」

貴音は何か千早に言いたげだったが、それだけを言うとまた作業へと戻った。

音響設備には多少の知識がある千早だったが、故郷村にあった機材は古すぎて自分の管轄外の領域だった。

どう配線を繋げばいいのかも分からず、思わぬ所でブレーキがかかってしまったがこれで何とかなりそうだ。

「我那覇さん、コードの方はどう?」

「うー、こんがらがってて中々解けないぞ!」

グルグル巻きになって置かれていた音響用のコードと格闘する響だったが、中々決着がつかないみたいだ。あちこちに絡まっているコードを引き千切らんばかりに引っ張っている。

恐らく前回使用した際にいい加減な方法で保管していたのだろう、そんな光景が千早には目に見えた。千早の胸にいい加減な仕事をした者への怒りがふつふつと込み上げてくる。

「焦らないで下さい我那覇さん。コードは予備も無いんです、無理矢理引っ張って断線してしまったら元も子もありません。音響無しでの今回の屋外ステージはいくらなんでも無謀すぎます」

「う…ごめん」

そう千早に言われた響はしょんぼりとしてしまい、千早はしまったという思いに駆られる。響に悪気があった訳じゃないのに、ついイライラをぶつけてしまった。

「響、私も手伝います。千早は職員室へ行ってまにゅあるの方を持ってきてくれませんか? ここは私が代わりますので」

「…わかりました」

場の空気を読んだのか、貴音が間にフォローへと入ってくれた。ここは響と付き合いが長い貴音に任せた方がいいと千早も判断し、そっと校庭を離れる。

(やっぱり、誰かといるのって…少し疲れるわ)

職員室へと向かう廊下の途中で立ち止まると、近くの壁に背中を預けながらため息をつく。

今回の仕事は疲れることが多い。体力的にも精神的にもだ。

ステージの準備もそうだが、今回のステージもソロでなくユニットを組む以上、必然的に誰かと絡むことも増える。基本的にソロでステージに上がることが多い千早はそれを余計に負担に感じる。自分のことだけでなく相手のことも考えなければならない。一人であれば自分のことだけ考えていればいいのに。

誰かと絡むと口下手な自分は無意識の内に誰かを傷つけてしまいがちだ。そう、さっきみたいに…。

さっき自分が作り上げてしまったぴりりとした空気。あの空気は千早がまだアイドルを始める前に何度も経験した空気と同じだった。

自分の気持ちが強すぎるが故に、周りが引いてしまう。学校でかつて所属していた合唱部での衝突がまさにそれだった。熱意がありすぎるが故に周りにあたってしまう自分。なあなあな気分でやっていた他の部員にイラつく日々。

ある日、一人が嫌そうな顔でこう言った。

『如月さん、あなた自分が女王様か何かだって勘違いしていない?』

それを機に始まったギクシャクした人間関係。結局そんな関係が修復されることもないまま、千早は合唱部へと顔を出さなくなった。事実上の退部といってもいいだろう。

いや、学校だけじゃない。それよりも前、自分が一人暮らしを始める前の家でも味わっている。

暗い廊下で蹲る自分、扉の向こうのリビングでは不仲の両親。話しているその内容は―――。

「千早ちゃん?」

「―――!?」

急に声をかけられ、意識が現実へと引っ張られる。

「千早ちゃん、どうしたの?」

目の前にいた春香は怪訝そうな顔で千早の顔を覗きこんでいた。そこで千早は自分がずっと廊下の隅っこで突っ立っていたこと、目の前の窓ガラスに映った自分の顔が凄く怖い顔をしていたのにようやく気がついた。

「なんでもないわ、春香。私は…」

「休憩に行くの? だったら、これ!」

どうやら春香は千早が休憩に行こうとしていると解釈したらしい。休憩じゃない、と言うよりも早く、春香が千早の手の上に何かを乗せた。視線を落とすと屋台などで使う透明のパックにおにぎりや漬物が入っていた。

「千早ちゃん、お昼も食べずに作業に入っちゃったでしょ? はい、これ!」

余ったお米で作ったんだ~と笑顔で話す春香。どうやら千早の分として用意されていたおにぎりは美希が全部食べてしまったらしく、春香がわざわざ千早の分を作ってくれたらしい。

「春香、私お腹は…」

「ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ! 外も暑いんだし、倒れちゃうよ!?」

「ご飯ならちゃんと」

「ああいうのはご飯って言わないんです!」

ピシャリと言い放つ春香。ああいうの…というのは、所謂ブロックタイプの栄養食やゼリー飲料のことだろう。自分が持ってきて控え室の隅っこで食べていた姿を春香に見られていたらしい。

「とにかく! 休憩するのならちゃんと休んでね! 私、今から音響の方に手伝ってくるから、千早ちゃんの分も頑張ってくるから!」

私が作ったおにぎり、ちゃんと食べてねと言い残すと、春香はギシギシ鳴る廊下を駆けて校庭へと出ていった。

「………あ、職員室」

春香の勢いに押され、職員室に行くという用事をすっかり忘れていた。ちらりと視線を落とし、パックに入ったおにぎりを見ると、ぐうと腹の虫が自然に鳴り響いた。

元々小食な千早だったが、人間である以上当然だがお腹も空く。

春香にあれだけ言われた手前もあり、このまま食べないでいるのも気が引けた。何より空腹を感じた以上、夜まで何も食べないでいるのはリハーサルでのパフォーマンスにも響く、と千早は感じた。

(お腹には入れておきましょうか。捨てちゃうのももったいないし)

この際、空腹を満たせれば何でもよかった。ベリッとパックを開け、おもむろにおにぎりを掴む。

立ち食いはあまり行儀が良い行為ではなかったが、誰にも見られていないのだから問題ないか、と思い、おにぎりをかじった。

―――美味しい。

口に入れた米は程よく塩が効いており、具のおかかもしょっぱすぎず、ほんのり甘さを感じる。

噛みしめた米の甘みと塩分が程よくて、美味しくて、思わず顔が綻んでしまう。

基本自炊もしない千早にとって、市販されていない握られたおにぎりを食べるのは本当に久しぶりだった。海苔もまかれていない急ごしらえが見て取れたが、誰かの手で握られたおにぎりは心なしか、ほんのりと温かみを感じる。

「うん…美味しい…」

二口、三口とかじっていく内にあっという間に一つ平らげた千早はもう一個…と手を伸ばすが、一気に食べたせいか喉の渇きを感じていた。

(控え室には麦茶があったはず)

そういえば、控え室には運動部で使うような大型のボトルが机の上に置かれていたのを思い出す。

―――まずは戻って、椅子に座って味わいながら食べましょう。職員室には食べ終わってから行っても怒られはしないはず…。

そう思いながら、千早はギシギシと撓む廊下を歩きだした。

 

 

 

 

 

 

雪歩と真に割り当てられていた作業は屋台での準備だった。

雪歩が調理で使うボウルや皿などを並べ、力に自信がある真はランニングシャツの兄ちゃんに交じって屋台テントの骨組みなどを組み立てる設営に回っていた。

「―――よいしょっと…これで完成か。雪歩、一段落ついたから先に休憩入っていていいよ」

全部のテントの骨組みを組み終え、大きな伸びをした真は腕時計を見ながら雪歩に言った。

「え、でも…」

「おーい兄ちゃん、手が空いたんならこっちも運んで!」

「もう、兄ちゃんじゃないですよ!! …こっちももう一働きしたら行くから。雪歩、まだ一回も休憩に入っていないでしょ? 先行っていて大丈夫だよ」

ランニング兄ちゃん達から、そうからかわれた真は意味もなく笑うと、調理用に使うガスボンベを運ぶ為に設営テントを離れる。

ボンベを運ぶほどの力仕事が出来ない雪歩はポツンと取り残されてしまい、結局真の言葉に従って休憩に入るしかなかった。

―――また、やった。気を遣わせた。

じりじりと陽炎が揺らめき、雲一つない空がグラウンドを照らす中、雪歩はコンクリートに打ち付けられた蛇のようにノロノロと歩くしかできなかった。

プロデューサーと律子が気を遣ったのか、一緒に真と組んで作業に入らせてくれた。

真が間に入ってくれるおかげでランニング姿の男性に怯えることはなかったが、それは同時に雪歩に言いようのない罪悪感を与えていた。男性に交じって力仕事をしていた真の方が疲れているはずなのに、自分が先に休憩に入るだなんて。

思い出すのは故郷村についた直後の逃走劇。真が息を切らしながら逃げ出した自分を捕まえたこと。

着いて早々、皆に迷惑をかけた。

せっかく意気込み充分だったのに、また逃げ出した。アイドルをやっている限り、自分は誰かに迷惑をかけ続ける存在なんだ…とまた自己嫌悪に入ってしまっていた。

やっぱり自分はアイドルなんかやるべきじゃなかったのだ。誰かの足を引っ張ることしかできないちんちくりんな自分。もう高校生なのに、自分一人では何もできない。こんな自分は今日のステージでセンターに立つべきなんかじゃないのだ。

もう全てを投げ出して逃げ出したい―――そう思った瞬間だった。

「うぇあああああああああああ!?」

「!?!?」

ドサドサという何かが崩れる音に混じって聞こえる悲鳴。

ビクッと反応した雪歩は、悲鳴がすぐ近くから聞こえたことから、もしかしたら誰かが事故か何かに巻き込まれたのでは…と最悪の想像をしてしまう。

―――確か、こっち辺りから悲鳴が…。

そろりと歩きだし、握りつぶさんばかりの握力でポケットから携帯を取り出す。最悪の場合はすぐに救急車を呼べる準備をする。もし、男の人だったら…逃げ出さないように頑張らなければならないだろう。

確か悲鳴はこの向こうの体育館側から聞こえた気が…と曲り角を曲がった途端。

「あ、朱里ちゃん?」

雪歩は目を白黒させた。それもそのはず、体育館脇の倉庫の入り口近くで朱里が頭から布か何かを頭から被って、モゴモゴともがいていたのだから。

「えっほ、けほげっほ!」

「……朱里ちゃん朱里ちゃん!?」

一瞬、悪戯か何かしているのかと雪歩はフリーズしてしまったが、朱里はこういった悪ふざけを一切やらないタイプの人間だ。つまりは、本気で彼女は今困っている。

「大丈夫!?」と慌てて駆け寄り、頭に被された布を大急ぎで取っていく。

近づいてみてようやく分かったが、朱里の頭に被っていたのは祭りか何かで使用する法被だった。恐らく朱里は何かの拍子でこれを被るようなトラブルに見舞われてしまったのだろう。

「た、助かりました…けほっ」

「だ、大丈夫…?」

「死ぬかと思いましたよ。いきなり上から落ちてきたと思ったら頭にこれが被るんですから…」

「そ、それは」

自分の頭の上にいきなり物が被るなど、考えただけでも恐ろしい。

雪歩に救出され、埃で顔をメイクした朱里はポツリとそう漏らし、頭に被っていた法被をつまんだ。

埃のせいで顔色が悪く映り、自分に見舞われた災難に落ち込む朱里。それを見た雪歩は何だかいつも何かに落ち込んでいる自分を鏡で眺めているような、そんな場違いな感想を抱いてしまった。

自分以外の落ち込んだ人を見る機会などなく、そう思うとますます自分が情けなく思ってしまう。自分はいつもこんな顔をして他人を困らせていたんだ…と。

「…雪歩さん?」

暗い顔をしていた雪歩に朱里はすぐに感づいた。

「その、私…何か悲しませるようなことをしてしまいましたか? 確かに雪歩さんには今、迷惑をかけてしまいましたが…」

雪歩は違う、と無言で首を横に振った。

じゃあ、と朱里は「埃吸っちゃいましたか?」とか「皆が見ていない所でまた男性に触られちゃいましたか?」とあれこれ落ち込みそうな理由を聞いてくるが、どれも違うため雪歩は首を振る。

そんなやり取りを数度繰り返していく内に―――限界を迎えてしまったのか、雪歩は泣き出しそうな声で、目の前の朱里にこう言った。

「―――――私、嫌なんです。自分が嫌いなんです」

 

 

 

 

 

 

まるでダムが決壊したかのように、雪歩は朱里に自分の想いをぶつけた。

いつも自己嫌悪をしてしまう自分が嫌だ、男の人に近づかれるだけでビクビクしてしまう自分が嫌だ、誰かの後ろに隠れないとまともに設営も出来ない自分が嫌だ、強い皆と違う弱虫な自分が嫌なんだ…と。

ぽろぽろと涙が頬を伝いながら、雪歩は想いを吐露していた。泣き出してしまった最初は驚いていた朱里だったが、尋常ではない様子の雪歩に真剣な顔で聞いていた。雪歩が怯えたり、縮こまったりする光景はよく見るが彼女の思いを直接聞くのは初めてだったからだ。

「ひっく…」

「雪歩さん。その、顔、拭きましょうか」

朱里もどう言えば分からなかったが、涙で濡れる女の子をそのままには出来なかった。ジーンズのポケットからハンカチを取り出し、そっと目元を拭う。

「私が皆の足を引っ張ってばかりで。皆は私の事、臆病者とか、卑怯者とか……思っているんじゃないかって……皆が色んなことを出来るのに、私に出来ることなんて何もないんじゃないかって……そう思ったら……」

「雪歩さん…」

思いの丈を語った雪歩はそのまま無言になって俯いてしまった。

雪歩は優しい子だ。周りの事をよく見て気を回してくれる。でも、それが故に周りの空気にも敏感だ。だから、自分が失敗したことやブレーキをかけてしまうことに、必要以上に責任を感じてしまうのだろう。今までの行動から、なんとなくだが朱里には分かった。

「その…確かに雪歩さんに出来ないことは、私には出来るかもしれません。コーヒーを上手く淹れたり、男の人にも苦手意識はそれほどありませんし……私は、その…元…で、ああいや……」

「………?」

朱里は上手く自分が言いたいことを言葉に出来ず、ごにょごにょと口ごもってしまう。うっかり自分が元男でしたというとんでもないカミングアウトをやりかけてしまう程に。

ああ、ほら、雪歩にも怪訝な顔をされてしまっている。

こんな時、春香だったらきっと何か上手いことを言って立ち直ることができるだろうに。あの人はそういう懐に入れる人だから。

…でも、とたどたどしくも朱里は言葉を続けた。雪歩にこのことだけは伝えたかったから。

「逆に私に出来ないようなことが、雪歩さんは出来ます。美味しいお茶を入れたり、一歩引いた所で周りの事凄く見ていたり…。宣材写真の時も入って間もない私のこと、しっかり見てくれていたり、その…」

それが凄く、嬉しかったです。朱里は雪歩にそう言った。

同じであること、違うこと。どうしてもこの2点に人は目を留めてしまう。運動、勉学、要領の良さ、顔の優劣―――いくらでも他人と比較することはあるだろう。

だが、誰もが同じでいる必要があるのだろうか。誰もが同じになることを目指し、最終的に全ての人が等しく画一的になってしまったら、それはもの凄く気味の悪い世界の出来上がりだ。

誰かと違うのは当たり前、誰かと違っていたりしても良い。

真っ直ぐな奴、捻くれた奴、変わった奴―――それぞれがそれぞれにしか出来ないことがきっとあるはずだ。

雪歩が出来ない事を、朱里が出来るかもしれない。でも、朱里に出来ない事が、雪歩に出来ることだって絶対にあるはずだ。

例えば―――雪歩の自分のことを変えたいという強さ。そんな強さに朱里は尊敬していた。

朱里は女の自分のことをずっと認められなかった。みっともなくて、どうしようも無くて、認めたくなくて、ずっと逃げていた。見て見ぬふりをしていた。

朱里がずっと出来なかったことを、目の前で泣きじゃくっていた女の子の雪歩は出来ていた。見て見ぬふりなどせずに、それに立ち向かおうとしていた。逃げ出すことはあったが、また戻って立ち向かおうとする強さを持っている。

自分の個性は何なのかを真と雪歩に聞いたあの日、雪歩の強さを朱里は感じた。そして、その強さに自分は背中を押されて一歩を踏み出し、女である自分を少しずつ受け入れることが出来ている。

「それだけじゃありません。雪歩さんは私よりも多くの曲を歌えます。自分だけの持ち歌を持っています。『GO MY WAY!!』だって私より上手く踊れます。それって―――とても、凄い事です」

春香との自主練後も、朱里は対策を積んで、最終的にはようやく少しはマシな状態へと持ち込めた。

ただし、これはあくまでも『ユニットを組む前提でのマシな状態』ということであり、これが注目を浴びるセンターや一人しかいないソロステージでは通じないということは朱里自身もわかっていた。

大なり小なりの規模関係なく―――本番の舞台に立った経験が少なすぎる自分では、現段階では古株の春香や真、雪歩のパフォーマンスを超えることはどうしても不可能だからだ。

本番の空気、それに飲み込まれない強さや誰かに見られることへの慣れ―――入ってまだ数か月の朱里はまだ数回しか経験のないものだ。

今の朱里が喉から手が出る程欲しいものを雪歩は持っている―――それはとてもうらやましく、自分には出来ないことだった。

「ステージ中にもし男の人が飛び込んだ時は私が全力で助けます。それに私だけじゃありません。今日のステージには姉さんや春香さんに真さんもいます、一緒には歌わないけど響さんや貴音さんもあずささん、伊織にやよいに亜美真美、千早さんに律子さん、プロデューサー…皆がいます。きっと皆が全力で雪歩さんを支えます。でも、もしかしたら皆も怖がることや不慣れな事もあってミスをしてしまうかもしれません…」

大声で知らないって叫ばれたり、会場の設営とか皆、慣れない事で面食らってたりしてますしね、と冗談半分で笑った。

雪歩や他の皆だって人の子だ、そんなに変わらない。笑ったり、怒ったり、泣いたり、悩んだり、怯えたり、信じたり…そんな当たり前の感情があるだから。多分雪歩は優しい故に、怖いものが他の皆よりずっと怖く感じられる、ただそれだけのことなのだ。

朱里は無意識の内にそっと雪歩の手に自分の手を重ねた。雪歩の手は震えていて冷たかったが、それを包み込むようにして、触る。

「そんな時は…雪歩さんが私たちを助けてくれますか? 私のことを見ていてくれた時のように」

「………!」

その言葉に雪歩は反応して、朱里を見た。雪歩の目から涙はいつの間にか止まっていたが…何故か目だけでなく顔も赤くなっていた。

「………?」

朱里は視線を下に降ろし……自分の手が雪歩の手を触っていたことにようやく気がついた。

自分は何やってるんだ!? と我に返って、慌ててバッと手を離した。励ましながら手を触るなんて…一昔のメロドラマみたいな行動をとってしまった自分が恥ずかしくなる。

「ああいや、その…雪歩さんにも苦手なものがあるように、私たちにも苦手な事とか不安な事がいっぱいあるって、その、それが言いたくて! 何か、その…すみません…手まで握っちゃって!」

何言ってるんだろ私…と自分自身で呆れかえってしまった。やっぱり自分にはこういうのは似合わない、美希や春香や真だったら、きっともっと上手く出来るのだろうに。

雪歩は朱里のように慌てふためいたりはしなかったが、もじもじとしている。やっぱり同性とはいえ、手を触られるのは恥ずかしいものがあったのだろう。でも、握られた手は柔らかくて、温かくて―――。

「…ありがとう、朱里ちゃん」

慌てている朱里には聞こえなかったが、そう小さな声で言った雪歩の顔には―――少しだけれど笑顔が戻っていた。




はるちはの描写を加えてしまったら、1万文字を超えてしまいました。久々にこんなに文字を打ち込んだ気がします。それもこれもアニマス再視聴であれやこれやと妄想してしまう自分が悪いんですけどね…。

そしていつになったら、アニマス3話が終わるんだ!? まだAパートも終わっちゃいねぇのに…。書きたいことがいっぱいありすぎる…。

今回の話を書く為に5年ぶりくらいに過去の話を見返して…ちょっと恥ずかしくなったりならなかったり。結構書き方が知らない内に変わりまくっていますね、私…。

では、次回まで。ごきげんよう。


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第31話 危機は怒涛の如く押し寄せて

総合評価が遂に一万の大台へと行ってしまい、震えまくるIMBELです。

プレッシャーが半端ないですが、皆様のご声援に応えられるように頑張っていきますので、今後もよろしくお願いします。


「私服でステージって…」

「正気ですか!?」

そんな悲鳴じみた声が教室内に響き渡った。

朱里と雪歩が倉庫で顔を真っ赤にしてから程なく、控え室にあてがわれた教室に全員が緊急集合する羽目になった。

休憩という雰囲気ではなさそうで何事かと思いきや、とんでもない爆弾が放り込まれてしまった。

「まさか衣装を間違えて持ってくるなんて…」

「だって、赤いのって言ってたから…」

「衣装ケース、同じ色の奴もあるのよ。…中身、ちゃんと来る前に確認するべきだったわ」

「………本当に、すまない」

亜美は自分が置いた衣装ケースが、間違ったものだったことにショックを受けていたが、律子があんたは悪くないわとフォローを入れていた。

――――本番に使うはずの衣装を間違えて持ってきてしまう。

そんな前代未聞のミスを犯してしまったプロデューサーは自分がやってしまったミスのせいで目も当てられない顔をしており、まるで猫の礫死体を目撃したかのような雰囲気だった。

そもそも今回のステージでは故郷村の牧歌的な雰囲気などから『スノーストロベリーNEO』『パステルマリン』などのアクが強くない無難な衣装で本番に励むはずだったのだが、よりにもよって持ってきてしまったのが黒と赤を基調とし、天使の羽を背中に飾った、ロックバンドが着込むような衣装『パンキッシュゴシック』と、正反対のものだったのだ。

「こんな牧歌的な村でこんな衣装、使える訳ないわ」

と律子が断言する。

「もう何もかもが駄目ね…」

千早が全員の意見を代弁するかのような独り言を漏らす。それが余計に現実を突きつけられる気がし、どんよりとした空気が流れる。

朱里は思わず天を仰ぎたくなった。この事務所には悪霊か何かが憑りついているのではなかろうか? 初めてのステージなのに色々なことが起こりすぎだ。故郷村に来てから、まるで図ったかのように様々な問題が起こりすぎている。

だが、どんな状況であれ、それを言い訳にしてステージを中止にする訳にはいかない。

ここが田舎だろうが都会だろうが、衣装があろうがなかろうが、今日、舞台を見に来る人には関係はない。どんな時であろうと結果を自分の体一つで生み出さなければならない。それがプロであり、アイドルなのだから。

「…とりあえず、春香さんの忠告に従って、動きやすい恰好で来たのは正解でしたね」

そっと朱里はジーンズと薄着の長袖姿の自分の身体を擦る。靴も今日は動きやすさを優先し、靴箱に仕舞っていた男物のスニーカーを履いており、女の子らしさはありつつもアドバイス通りのラフな格好となっていた。このままの恰好で踊れ、と言われても問題はない。

もしここで宣材撮影の時に使ったロングブーツやスカートで来ていたら目にも当てられない惨事になっていただろう。先輩のアドバイスに素直に従ってよかった。美希にも同じような格好を無理矢理させて家を出てきたのは正解だった。本人はブーブー不服そうだったが…。

だが、そんな朱里のような恰好で来ていない面子だって当然いる。スカートを穿いたり、ヒールの高いブーツだったり…。

「…とにかく、もう私服で上がってもらうしかないわ」

「律子、正気!?」

「正気よ、だってこれ以上に良い策ある?」

もうすぐリハが始まり、日が落ちれば本番が始まる。もう数時間の猶予しかないのだ。

時間は待ってくれない、数十キロ離れた事務所にある衣装のことを考えるより、今この場で何らかの対策を考えた方が遥かに有意義だ。

「朱里に美希、真と響と千早、春香に雪歩にやよいに亜美と真美…殆どの子が動きやすい恰好で来ているから、ここはそのままでも問題ないとして。動きづらいスカートで来ちゃったあずささんと貴音は…動きをアレンジしてステージに立ってもらうしかないですね。幸いにもダンスが激しくない曲ですから、それほど問題はありません」

「音源を用意していないから、他の曲ではいけないしな…」

プロデューサーと律子はセトリ…今日のステージの一覧が書き示しているセットリストと睨めっこし、全員を交えての緊急会議が始まる。自然と律子を中心とした円が作られながら、指示や意見が飛び交い始めた。

「じゃあ私はどうするの? あずさと貴音はあんまり動かない曲だからいいかもしれないけど、私がやよいに亜美と真美と一緒よ? 結構動くし、靴は踵が高いし」

「伊織には悪いけど、リハーサル用に持ってきたジャージと靴で立ってもらうしか…」

「そんなの嫌よ! せっかくのステージなのに!」

「それが嫌だったらもう裸で出てもらうしかないわよ…」

伊織は「あんたが衣装間違えさえしなければ」とプロデューサーを睨めつけながら憤慨するも、裸で出るという最終手段に踏み切る訳がなく、納得はいかないものの折れるしかなかった。

「…あの、倉庫でのアレ、使えませんか?」

と、雪歩が「久しぶりのステージがジャージ姿なんて」とブツブツ呟く伊織を横目に、恐る恐る手を上げた。

「あれって?」

と律子が小首をかしげる。含みのある言い方をされて、他の皆も頭に?を浮かべるが、朱里だけは雪歩の言っていることが理解できた。

「―――まさか、あの法被を? でもアレ、結構サイズ大きくありませんでした?」

確かに祭りならば法被姿でも不自然ではない。それを衣装としてしまうのもそれはそれであり…と思いきや、あれは倉庫に長い間置かれていたものだし埃が酷く、最悪カビだって生えている可能性だってある。そのまま使えるかどうかは微妙だ。

「洗って、上から着込めば何とかいけるかな…?」

「でも着込んだって伊織の身長じゃ」

「…何? そんな良いものがあるの!?」

伊織は2人の会話に割って入ってくる。

「で、でも伊織ちゃんに似合うか分からないし…」

「その前に使っていいものなのかも分からない物だし…」

「何とかしなさいよ! この伊織ちゃんがジャージ姿で出てもいいって言うの!?」

冷や水を刺した2人を睨みつける伊織の姿は必死だったが、そもそもそれを決める権限は朱里達には無い。

「どうする律子?」

「とりあえず、使えるのならジャージでそのまま出るよりは遥かにマシです。サイズは実物を見てみないと何とも」

「…私、倉庫に行ってきますね!」

「じゃあ私は、法被使っていいか聞いてきます!」

「あっ、待ちなさいよ!」

律子のその言葉に弾かれたように、雪歩と朱里は教室を飛び出した。ギシギシ鳴る廊下も構わず走りだし、一瞬遅れて伊織はそれを追いかける。

「とりあえずこの件は分かるまで保留。次は…」

問題はまだまだ山積みであり、律子は息をつく間もなく次の問題へと取りかかった。

 

 

 

 

 

 

そしてリハーサルが始まった。やはり時間がかかるのは急遽動きを変えなければならない組だった。

「…はい、一旦曲を止めて! あずささん、今の動きでどうですか!?」

「は、はい…何とか大丈夫ですが、やっぱり動きづらいですね…。それに普段の動きと違うから違和感も…」

「正直言って、付け焼刃のアレンジですからね。でも、今日のステージだけで良いのでお願いします。迷惑をかけますが…」

「あ、あら~頑張りますね」

「…こういう風にして、本番の動きを調節するんだってさ。今日みたいに何があるか分からないから」

「なるほど、リハーサルって凄い大事なの」

朱里は先日春香に教えられたことをこそっと耳打ちし、美希は心底納得してように返答した。

メンバーが突如欠員してしまった、怪我で動けなくなった、会場のトラブルで機材が動かない…当日に何が起こるかは分からない。今日のように緊急事態が起こることだってあり得なくはないのだから。

「じゃあ次は春香達! ステージに上がって! まずは『GO MY WAY!!』からリハ入るわよ」

「はーい! …じゃあ、行こっか」

「うん!」

ステージを降りて、直前で変わったダンスの振り付けをもう一度復習するあずさを横目に5人がステージへと上がり、各々の位置へと立つ。

今回踊る『GO MY WAY!!』はセンターが春香、その後ろに雪歩と真、さらに後ろに朱里と美希…と云ったポジションだ。朱里は雪歩を、美希は真の背中を視界に入れながら踊るようになっている。残念ながら美希とは離れ離れになってしまったが…まあ、あっちは何の心配もないだろう。

問題は…やはり雪歩の方だ。体育館脇の倉庫で話をし、少しだけマシな心境になれたかもしれないが、それがどうパフォーマンスに響くかは未知数だ。リハーサルで調子が戻れば良いのだが。

「ステージの大きさも殆ど変わらないからそのままで…美希、前に出過ぎてる。少し後ろに立ってくれる?」

「はーい、律子」

「さんをつけなさいって言ってるでしょ! そうそう、もう少し…」

美希が律子とあれこれ話している間、朱里はこそっと雪歩に近づいた。

「雪歩さん、大丈夫ですか?」

「うん…さっきよりは大丈夫だけど…ちょっと不安、かな」

「もし雪歩さんを襲おうと男が飛び出してきたら、私が蹴りを入れてあげますから」

こうやって…と、男の股下にぶら下がっているアレを蹴り飛ばすような仕草をすると、雪歩はひぃと悲痛そうな声を出した。どうやら意味合いが分かってくれたようだ。

「男はこれにはどうやっても耐えられませんからね。本当に…」

実体験を語るように話す朱里に、雪歩はコクコクと無言で頷くしかなかった。

股下は人体で鍛えることが出来ない箇所であり、そこにぶらさがっているアレはどんな男でも急所となる最大の弱点。ここを蹴られればどんな男でもひとたまりもない。

「こら雪歩と朱里!? 聞いているの!?」

と、律子の説教が聞こえ、慌てて会話を中断させる。

「す、すいません…とりあえず、今はリハに」

「そうですね…集中しましょう」

鬼軍曹モードに入ろうとした律子に素直に謝る2人。

「じゃあ今から曲を流すからね」

そう律子が言った後、『GO MY WAY!!』のイントロが流れ始める。やはり音響があるからか、練習時とは全く違う印象を感じてしまう。やっぱり音が違うと聞き慣れた曲でも別物みたいな気がしてしまう。

指を前へと向け、足を大きく広げ…同じタイミングで5人が右手の力こぶを作るように左手を添え―――『GO MY WAY!!』が始まった。

(よし、しっかり踊れているな…!)

自主練の甲斐があったと朱里は内心喜びをかみしめていた。

サビを歌いながら朱里はチラリと雪歩の後姿を眺める。自分もそうだが、雪歩も今のところは怪しい動きは見られなかった。調子が良い時の雪歩の動きで踊っており、少しだけ安堵する。

後は右手の後に左手を広げ、それの自分の腰に当てながら首をほんのちょっと右に傾ける。後は短めのイントロの間にジャンプすれば、ラストのサビに入って―――。

「すみませーん、765プロさーん」

「「「「「!?」」」」」

頭に叩き込んだ動きを身体に伝達させ、ジャンプした瞬間、突然現れたランニング姿の兄ちゃんの声に全員が動揺した。

幸いにも他の4人はつられなかったものの、雪歩のステップが一瞬遅れたのを朱里は見逃さなかった。男性の声に動揺して、ジャンプを高く飛び過ぎたせいで、着地が遅れてしまったのだ。プロデューサーがランニングの兄ちゃんの対応に入ったおかげで曲は止まらずにリハはそのまま続行となるが…。

(雪歩さん、大丈夫なのか…?)

今まで雪歩は男が目の前にいただけで取り乱していたと聞いている。今も視界の端には2人の姿がはっきりとあった。もし、ここで崩れてしまったら、せっかく戻りかけていた雪歩の調子がまた逆戻りになる可能性もある。だとしたら本番へのモチベーションも繋がって…。

―――だが、雪歩はグッと踏ん張った。背中だけしか見えなかったが、動揺しつつもそれを堪えるような動きをしていた。

雪歩は一瞬のステップの遅れを取り戻す為に、サビ時の大股なステップを少しだけ小さくした。無理矢理であったが大きく動くステップの幅を縮めたことで次の動作に行くスピードを早めたのだ。

(遅れていた動きを無理矢理戻した…?)

ステップ幅を縮めるという力技ではあったが、何とかズレを修正し、皆の動きに追いついた。一瞬の早技であったが、朱里は見逃さなかった。

無論、これは雪歩が踊り慣れている曲だったこと、そもそも『GO MY WAY!!』自体がダンサブルな曲ではなく、動きのズレを直せるような大股な動きが多いことだから出来た代物ではあったものの、さりげなく雪歩がやった技術に朱里は驚いた。

―――調子良い時のこの人はやっぱり凄い。

最後の動きである、指を天高く向ける仕草をしながら、朱里は雪歩の持っているポテンシャルをまじまじと見せつけられたのだった。

 

 

 

 

 

 

『では、この村一番の良い男を決めるシブメンコンテストも後半戦になります。次のエントリーは…』

「はい、嬢ちゃん! ビールお願いね!」

音響から聞こえてきた声に耳を傾ける暇もなく、プラスチックのコップになみなみと注がれたビールが目の前に置かれた。

「…はい、ビールで待っていたおじさん、お待たせしました! こぼさないように気を付けてください! ラムネのボクはちょっと待っててね…あっ、焼きそばですか? おばさん、焼きそば一つ追加で!」

「はーい、ちょっと待っててー!」

隣の屋台で鉄板の上で焼きそばを作っているおばちゃんに大声でオーダーを飛ばし、すぐ接客へと戻る。

「すぐ作りますから、ちょっとだけ待っていて下さいね」

目の前の浴衣姿の女性に断りを入れて、朱里は裏のクーラーボックスから冷えたラムネビンを持ってくるために引っ込んだ。

日も暮れ、遂に本番が始まっても、舞台裏の慌ただしさは終わらない。

律子とプロデューサーが携帯でやり取りをかわしつつ指示を飛ばし、出番がまだ、もしくは終わったアイドルは照明係やら音響やら…終いには祭りのヘルプなどにも駆り出され、ホッと息つく暇がない。

出番がまだの朱里もエプロン姿で屋台の接客や対応に追われていた。この手の対応は苦ではないが、過疎地域と云えど集まればそれなりに人は多く、人波は途切れる事がない。

やはりお祭りの宿命というのか飲食物系の屋台は人が集まりやすく、特にジュース類はこの村には自動販売機がないなどの影響もあってか飛ぶように売れている。

「はい、ラムネ一つ、どうぞ。ここで開けてく?」

「ううん、あっちで開けるからいい!」

「はい気を付けてね、人多いからビンを割っちゃダメだよ!」

キンキンに冷えたビンを笑顔で受け取った子供が駆けだしながら去っていき、続いてパックされた焼きそばが出来上がった。

「はい焼きそばでお待ちのお客様、お待たせしました! 1つで400円、はい、はい…ちょうど、受け取りました!」

「…あら? もしかして……今日来てくれたアイドルの人ですか?」

貰った小銭を手提げタイプの金庫に入れ、ポリ袋に詰めた焼きそばを受け取った女性が見慣れない朱里に気付き、そう反応してくれる。無名とはいえ、こういう反応をしてくれるとこちらも嬉しくなってしまう。

「はい、今日は屋台でも少しお手伝いさせてもらっています。私の出番、もうすぐですので、よかったらステージまで足を運んでください。今も私たちの同僚がステージに立っていますので」

「あら、それじゃ席に座って見てみますね」

「はい、ありがとうございます!」

思わず笑顔で対応し、浴衣姿の女性は去っていった。

―――なるほどね、こういう効果も狙って、屋台での接客やらせているのか。単なる人不足のヘルプだけでなく、宣伝効果もあるのならばこちらもやりがいがある。

「へぇ、結構さまになってるじゃない」

と、屋台裏から伊織がひょこと顔を出して覗き込んでいた。どうやらさっきの一部始終を見ていたらしく、ニヤニヤしながら屋台の中に入って来る。

「そっちこそ、結構法被姿似合ってたじゃん。伊織に向けた声援、結構多かったみたいだし」

「それ嫌味?」

まあ、結構ウケが良かったからいいんだけどね、とぼやく今の伊織の姿―――髪を束ね、法被を上から羽織っている姿はまるでお祭りを全力で楽しんでいる子供みたいで微笑ましい。法被と帯の間に団扇を挟み込んであるのもチャームポイントだ。

心配していた法被の件だったが…運営サイドから「どうぞ好きに使ってください」と二つ返事で許可を貰えたのは良かったものの、やはり心配していた通り、サイズが大きすぎる、埃やカビが多すぎて、そもそも着るのに適さない物が殆どであった。だが、奇跡的に1着だけ小さめのサイズの物が無事であり、大急ぎで洗濯を終えた法被を伊織は何とか着ることが出来たのだった。

トイレに行く度に帯を外さなければならないのがつらそうだったが、そこはもう我慢してもらうしかない。本番前、一度トイレに行った後、伊織は「次からはちゃんとした着替えを持ってくることにするわ」と言っていたし。

「で、どうかした?また何かトラブル?」

「違うわよ、もうすぐ時間よ。美希も春香達のメイクが終わり次第向かうって。ここは私が代わるから、早くステージに向かいなさい」

伊織がブランド物の腕時計を見せてくると、もう朱里の出番まで20分を切っていた。

「うわっ、もうそんな時間か」

「結構盛り上がっちゃってね。予定してた時間より伸びそうだけど、早めに行った方がいいわ。今日は何があるか分かんないから」

「分かった」

朱里は羽織っていたエプロンを手早く外すと、伊織へ渡し、屋台のおばさんに「ありがとうございました」と頭を下げる。おばさんの「頑張るんだよ」という声援に「はい!」と答えてから、屋台を離れた。

ここに来てから散々なことが多く、一時は全員のテンションが下がりまくってはいたが…リハを得て本番を迎え、意外にも皆のやる気は戻っていた。

『どんな時でも全力でやり切るプロ根性』というのも勿論あるが、『ここまで悪いのだから、これ以上は悪くなりようがない』というある種の崖っぷち故の開き直りでいい感じで皆が吹っ切れているというのもあったのだが。

私服姿でステージに立つアイドルに怪訝そうな反応も最初は少なくはなかったが、逆にそれが良い意味で距離感を作らず、親近感をもたらしていた。特に年配者が多い故郷村では勝手が分かっていないのか「こういうのが普通みたい」といった空気で受け入れられており、結果オーライ的な感じでまとまっていたのはこちらとしても都合が良かった。

ステージ裏入口に立っていた運営スタッフは、朱里を見るや立ち入り禁止のロープを緩めてくれた。ありがとうございます、と言ってロープを跨ぎ、中へと入る。

「あっ朱里!」

中では既に美希が待っていた。

「姉さん、お待たせ。屋台は伊織に代わってもらった。春香さんたちのメイクは終わった?」

「うん、バッチリなの。今日は春香たちと一緒に踊るから、特に気合入れてやっちゃった」

えへへと笑う美希。メイク係として動いていた美希は今日、ステージに上がるメンバー全員の化粧を担当していた。「こんなにいっぱいのメイクは初めてなの」と苦言を漏らしつつも、テキパキと進めてしまうのは流石元読モ経験者だ。

「…ねえ、私のメイク、崩れていないかな? 屋台、結構煙や熱気があって心配でさ」

「うーん、1回確認してみよっか?」

美希はあの面接当日の早朝みたいに朱里を椅子に座らされては、どこからか持ってきた鏡を見ながらあれこれ見てくる。

「うーん、ファンデーション崩れもないし…大丈夫じゃない? それ程激しく動いていないんでしょ?」

「まあ、屋台を行き来してたくらいだし…心配していた程崩れていないか。化粧水でしっかり下地を作ってくれたおかげかな。この様子じゃ問題なさそう…やっぱり外の気温、下がっていたから汗をかかなかったっていうのも大きいかも」

勿論、美希がファンデーションが崩れないよう上手に塗ってくれ、崩れを防ぐ下地をきちんと作ってくれたという要因も大きいのだが、とりあえずメイクし直す手間が省けてホッとした。

それなりに化粧の知識も身についてきた朱里は美希と一緒にあれこれ言えるくらいにはなっていた。メイクの腕も美希程ではないが、普段外に出かける時に困らない程度にはなっているが、美希に言わせてみれば「まだまだ」らしい。確かにメイクにかかる手間も時間も技術も、まだまだ皆には及ばない。こういう事態に備えて、今後は自分一人でも出来るようにメイクの練習もしていかなければならないだろう。

「準備は良い?」

「オッケー。姉さんこそ、トークの内容大丈夫? この前みたいに危ない内容は話さないでね」

「大丈夫なの! いざとなったら朱里の昔話でも話すの!」

「…全然大丈夫じゃないよそれ。身内のトークはあまりこういう場所じゃウケないって律子さん言ってたじゃん…そもそも何を話す気でいるの?」

「小っちゃい頃、朱里があちこちに悪戯電話してた時の話とかするの。後は切手とかベタベタ貼りまくってたやつとか」

十年位昔の妹の奇行を本番の舞台で話そうとする姉に頭を抱えたくなる。それは本当にやめてほしい。

―――右も左もわからない2周目生活で、どうにか自分という存在をどこかに伝えたくて親の目を盗んで電話をかけまくっていたのを思い出す。知人、友人問わず1周目で関わっていた人たちほぼ全てに自分は電話をかけまくっていた。

最初は家の固定電話や子機を使って、それを没収された時は両親の目を盗んで携帯電話を使用していた。それがばれて、しかもその翌月の電話料金が凄い事になったことから、朱里は母の明子にもの凄く怒られたのだから。あの時代は携帯電話の料金も馬鹿にはならなかったみたいだし、大きな迷惑をかけてしまった。

―――あれは朱里自身、あまり思い出したくない記憶だ。怒られたこともつらい記憶も色んな意味で、だが…。

そんなことを本番のステージで話してみろ。そしたら、美希が寝ている時に身体から出た温かい液体で盛大な地図を布団に作って、朱里が隠避工作を手伝ったエピソードを話してやろうと朱里は密かにたくらんだ。

「…とにかく、せっかく皆が会場を暖めてくれたんだから、それを崩して台無しになるようなことは避けなきゃ」

トップバッターで先陣を切ったのは765プロ内で歌唱力に長けている2人…千早と貴音という手堅い布陣で歌う、アイドルソングらしからぬ一曲の『風花』のウケが良く、パラパラと拍手を貰ったのをきっかけに、徐々に流れを掴んでいっていた。

次のやよい、伊織、双海姉妹の『キラメキラリ』は一生懸命な姿でセンターに立つやよいたちの姿が孫娘のようだとおばあちゃん達に好評であった。やはり765プロ年少組のステージだとお遊戯会を見に来た祖母的な心境になってしまうのか、先発の千早と貴音の時のしっとりとした空気はどこ言ったのやら、声援を受けながらにステージとなった。

特に法被を着ていた伊織には多くの声援がかけられ、彼女らがステージを去る時には「がんばってねぇ」と手を振られながらの退場となったのだった。

朱里が見れたのはそこまでで、後は屋台の手伝いに行っていたから分からないが…ひょいと舞台脇から見てみれば、どういう脈絡でそうなったか、ステージ上で響が牛相手に華麗なロデオを決めていた。サーカスじみた動きにおおっとどよめきが客席から聞こえてくる。

…今、ステージはいい感じだ。やはり自分達も設営に関わっていたこともあり、その思いはひとしおだ。当初予定されていたものとは違ったが、皆が少しでも良いステージにしようと頑張っている。

自分達のトークの後は雪歩がセンターの『ALRIGHT*』を挟んでからの『GO MY WAY!!』が待っている。先輩たちのステージを前に自分達が会場を盛り上げて、しっかりとバトンを渡さなければ。

―――そう、思っていたのだが。

「でねー、美希、この村に来てなーんにも無くてびっくりしちゃったの!」

「本当にそうですよ。こんなに何もない所、生まれて初めてで」

笑顔でトークしつつも、朱里の内心は冷や汗がぼたぼたと流れていた。

いざ、本番となった瞬間、打ち合わせで話していた事前のトークを美希は一切喋らず、のっけからアドリブ全開で話しまくるものだから、ついていくだけでこちらとしては必死だ。

しかしそれが功を為してか、自然体で話す美希の姿が故郷村の皆にウケているのか、まるで年の離れた孫娘と世間話をしているかのようなノリでトークは進む。

「そんとおりだぁお嬢ちゃんたち! ウチの村にゃあ、なーんもねぇ! 俺の息子も出ていっちゃったしなぁ!」

「あんのは山と田んぼと病気だけってか?」

「豚に牛も犬もいるよ!」

「それだけしかねぇじゃあねぇかよ!」

「うわぁ、本当に何もないの!!」

美希が口を塞ぎながら心底驚いた顔をすると、ドッと笑いが起きる。先発組が会場を暖めてくれたことでギャラリーも盛り上がってくれており、そろそろ酒も回ってきているのか笑い上戸になっている人も多かった。

「あはは…すみませんうちの姉が…でも、私は逆に『何もない』所が良いって気がしますけどね。こう、日本に残された古き良き時代みたいな。物が多い都会から離れてみて、こういう何もない所が却って良いみたいな」

朱里も美希の振った会話から足かがりを掴みながら、いい感じでのアシストをしていく。

「そうは言ってもねぇ」

「店も少ないし、交通は不便だし、土地の跡取りもいねぇしなぁ」

「農業の継ぎ手もいねぇし」

「時代だけじゃあ飯は食ってけねぇのよ嬢ちゃん?」

「どうせなら、お嬢ちゃんみたいなべっぴんさんが来てくれりゃあなぁ。どうだい、向かいのジジイんとこの息子さんといっぺん見合いなんか?」

「お、お見合い…?」

前方の一人のおじさんがとんでもないことを口走り始めた。

そんなに酔いが回って…と思いきや、よく目を凝らして見てみればその手にあるのは炭酸飲料。楽しい時はノンアルコールでも酔えるらしい。いいことなのかもしれないが…。

「え、えーと私、まだ未成年ですから流石にそれは…」

「あー駄目なの! 朱里はまだお嫁に渡さないの!」

美希は『お見合い』という単語に過敏に反応して、ギュムと腕に抱き着いて渡さないアピールをしてくる。

朱里には自分の結婚する姿が想像できないのか、そんな光景を遠い目をしてしまう。

「姉さん、気が早い気が早い。私は法律という壁に守られているからまだ結婚は出来ない」

「気持ちの問題なの! 朱里のウェディング姿はまだ早すぎるの!」

ノリの良いおじさんが「うちの家では代々嫁さんにドレスじゃなくて白無垢を着せるんだが」という話にも美希は「白無垢も駄目!!」と怒り心頭でマイクを握り絞めたのだった。

「姉さん、私はまだ結婚なんて考えていないんだけど…」

呆れ顔でそう言っても、白熱した美希もあっはっはと笑うギャラリーも全く聞いてはくれない。最初の段取りがめちゃくちゃだ。

でも、この空気はいい感じだ。予定とは違ってしまったが、場は盛り上がっている。もうこうなったら……腹を括るしかない。

「…でも、着物は七五三の時以来、来たことないから、少しは興味あるかな? ほら、これからの季節、色々あるじゃないですか? 浴衣美人とかこういうお祭りでのロマンスとか」

「あ、朱里!?」

「今日はおしどり夫婦やカップルの人達なんかも来てくれているみたいですしね。私だってそういうのにも憧れがない訳じゃあ…」

抱き着いていた妹のまさかの反撃に面食らう美希。まさか愛する妹に男が!?と驚愕しているが、残念ながらそれは演技。まあ、色恋には全く興味がないといったら嘘になるが…。

「あっ、でも流石に結婚はまだ早いですよ! まだ私達中学生なんですから!!」

でもこれは本音だ。女であることをようやく受け入れ始めているのに、結婚なんかはハードルを何十段も上げ過ぎだ。いずれ、考えなきゃならないことだが…今はまだいいだろう。

客席から「茶髪の姉ちゃんも中々のるねぇ!」という声に笑顔で答えながら、トークコーナーは進んでいくのだった。

 

 

 

 

 

 

「美希はあれでウケちゃうのがずるいよ。あれ全部アドリブでしょ?」

「ついていく朱里ちゃんも大変そうだけど…即興で合わせられるのはやっぱり姉妹だからなのかな」

脇では春香と真が美希と朱里の2人を眺めていた。少し後ろでは雪歩が盛り上がる観客の方を見つめている。

最初こそつらつらと話す美希とそれについて行こうとする朱里だったが、時間が経つにつれて徐々にそのズレが縮まっていき、今度は逆に朱里がリードして話をしていっている。

「ああ~、また美希は勝手にアドリブで話しちゃうんだから~!」

「ま、まあ律子。ウケているんだし、な?」

「そういう問題じゃないんです! 今回は朱里も対応できたからいいですけど、本来あの子はそういったアドリブが苦手な子なんですよ!? だから美希にはあれほどアドリブで喋るなって…!」

「ま、まあ確かにそうかもしれないけれどだな…」

後ろでは頭を痛そうにしている律子となだめるプロデューサーが話しており、春香と真は顔を見合わせ、笑った。少しずつだけど、マシになっている。そんな気がしたのだ。

最初こそ、人生最悪の日だと思っていた。久しぶりの仕事なのに、私服で本番を迎えるなんて古株の2人ですら未体験の領域だったのだから。

でも、いざ始まってみると危なっかしくも本番は進んでいった。

個人のファインプレーや急場しのぎの付け焼刃、完璧とは言えない立ち回りなのに、不思議と自分達も観客も笑顔になれている。

―――その根底にはやはり、このステージを本気で成功させたいという熱意があるからだろう。

この事務所にいるアイドルは夢や目標はそれぞれ違う。真だったら『可愛くなりたい』だし、伊織なら『父や兄に自分を認めさせたい』だし。

でも『今日、全員で立つこのステージを絶対に成功させたい』という思いは全員一緒だ。

落ち込みこそしたが、始まる前に勝負を投げるようなアイドルは765プロには居ない。皆が一丸となって向かっている…そう実感できたのが、春香はとても嬉しかった。

緊張していないと云えば嘘になる。心臓がうるさい程跳ね上げてくる。けれどそれ以上に自分もあそこに立ちたい、ステージに立って、歌いたいという思いが湧き出てくる。

最大の心配点だった雪歩もリハーサルの時は上手く動けていた。途中、男性が割り込んで来るというトラブルもあったが、雪歩は動揺こそすれど取り乱すことはなかった。

これだったらきっといける…という期待が春香の中にあった。真もそう思っているようだった。

「…あ、真ちゃん。ちょっと私、トイレに行ってくるね」

「雪歩?」

「ちょっとお水飲みすぎちゃって…すぐ戻ってくるから、ね?」

雪歩は少しお腹を擦りながら、トイレに行ってくる仕草をした。

「ああ、うん…」

「もうすぐ本番始まるから、急いでね!」

たたっ…と離れていった雪歩を心配そうに見る春香と真だったが、2人は気づくことが出来なかった。

雪歩の顔色が優れていないこと、観客席最前列に―――雪歩が大の苦手とする犬が座っていたのを。




次回くらいでアニマス3話を終わらせたいです。
他のアイドルちゃんも一杯書きたいので…。

では次回もお楽しみに!


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第32話 湧きだす勇気、全ては小さな一歩から

お気に入り5000件を突破してしまい、ありがとうございますという胸が張り裂けそうな思いと共に、毎度のことながらガクブルしております。
今回は細かい所ですが、独自設定有りです。


「だから美希にはあれほどアドリブで喋るなって…!」

「ま、まあ確かにそうかもしれないけれどだな…」

プロデューサーが雪歩の様子に気付いたのは、ほとんど偶然に近かった。

ステージで美希のアドリブとそれに振り回される朱里のことを律子と話している最中だった。ふと、プロデューサーは雪歩を見てみると、小刻みに震え、目線の先の何かが気になって仕方ない姿に気付いたのだ。また男か…? 彼はそう真っ先に予想を立てたが、どうやら違う様子だった。

(…犬?)

目線を追うと、丁度ユニットのセンターが立つ辺りの位置、その真正面の最前列にちょこんと座っていた。動物に詳しくない為種類までは分からないがそこそこの大きさで、一般的に認知されているような典型的な『犬』というカテゴリーに属する生き物がそこにはいた。

真っ黒く濡れた目はステージ上の2人を見ており、時折パタパタと尻尾を振っている。鎖に繋がれてはおらず、綺麗な赤い革の首輪をしていた。見た限りでは人懐っこい様子の犬だった。

だが、雪歩はそんな犬の一挙手一投足に敏感な反応を見せていた。息が口から洩れ、呼吸をするたびに上下に揺れるだけでプルプルと怯えていた。そして、遂に耐えきれなくなったのか、急にお腹を擦りながら「トイレに行ってくる」と春香と真に伝え、外へと飛び出して行ってしまった。

(犬が怖い…のか)

確証こそなかったがプロデューサーは雪歩が怯えていた理由に合点がいったこと、雪歩に男以外にも苦手なものがあったこと、この本番直前でそれが発覚してしまう間の悪さやせっかく調子を戻していたはずのコンディションへの心配など…様々な感情が渦を巻くが同時に、犬が苦手ということに共感を覚えてしまう自分もいた。

橋の手すりの上を立って歩いたり、どれだけ高い木に登れるか…子供たちの間ではそういう一種の度胸試しが度々行われる。いつの時代も男がやる事に変わりはないのか、プロデューサーがまだ子供の時にもそういう度胸試しは行われていた。

学校近辺の通学路途中にある家で飼われている怖い犬にタッチして戻ってこい―――よくある度胸試しだった。

同級生数人で向かい、周りの皆は危なっかしくもクリアしていき、彼一人だけが残った。やるのは嫌だったが、仲間外れにされるのも嫌で仕方なく参加することにした。

恐る恐る犬の身体に触れ、後は逃げるだけ。だが足がすくんでしまい、逃げるのが遅れた。完全に逃げ遅れた。犬は目を開け、機嫌がすこぶる悪いのか大声で吠えると、そのままプロデューサーの手目がけて飛び出して―――ガブリと噛まれた。

自業自得と云えばそこまでだが、噛まれた傷が消えて何年も経つがあの怖さを忘れることは出来ない。おかげで今でも犬が苦手だ。雪歩まで怯えなくても、犬と対峙していると思わず後ずさりしてしまうくらいには。

…気付いたのはプロデューサーだけだった。犬が苦手だからこそ、雪歩の繊細な変化に自分だけが気付けたのだろう。

「…律子、俺もちょっとトイレに行ってくる」

「はぁ!?」

「い、いや昼に食べ損ねたおにぎりを食べたら、なんか腹の調子が、な。傷んでいたかもしれん」

痛くも何ともない腹を擦りながら、わざとそんな演技をする。変に畏まって出ていくより、こうした方が良いと思ったからだ。大事になってしまえば、繊細な雪歩はみんなに迷惑をかけたとまた傷ついてしまうだろう。今、場が良い感じで纏まっている以上、余計な騒ぎで崩したくないという思いもあった。

無事に連れ戻せるかどうかは自分次第だが、後はもう腹を括るしかない、と覚悟した。

律子は情けない姿のプロデューサーに呆れつつも意図を汲み取ったのか「すぐに戻って来てくださいね」と少しだけ心配そうにし、この場を離れる許可を貰った。

 

 

 

 

 

 

ステージと校舎の間の道―――辺りは暗がりでステージや屋台に吊るされた照明の灯りで何とか見えるような道の中、雪歩は巣穴に潜り込む小動物のように縮こまった。

これは昔からの雪歩の癖だ。嫌なことがあったり、それから逃れるために穴を掘ったり、膝を抱えて蹲ってしまうのは。

「雪歩、どうしたんだ? やっぱり腹が痛むのか?」

「プロデューサー…」

ジャリっと砂を踏む音に振り返ると、暗がりの中でプロデューサーが立っていた。

「ち、違うんです。観客席の…最前列に犬が居たんです。わ、私…犬がどうしても苦手で…」

雪歩の言葉からやっぱりそうだったか、と確信を得た。やはり雪歩は犬が苦手だったのだ。

「皆に迷惑かけて、朱里ちゃんと約束して、リハーサルも上手くいって……」

でも、と雪歩はか細い声を発した。

「私の犬が怖いってせいで全部が台無しになっちゃうって…またダメダメな自分に戻っちゃうって思うと…怖くなっちゃって…」

雪歩はギュッと膝を抱える力を強くした。センターポジションで今日歌う雪歩は嫌でもあの犬の前に立たなければならない。

人だったら意思疎通は可能かもしれない、追い払えるかもしれない。でも、人間以外の動物ではそれは無理だった。言葉も通じず、意思疎通ができない存在で、大声で吠えて人を噛むこともある動物。だから、雪歩は犬が苦手なのだ。響は多数の動物を飼っており、時々飼い犬を事務所に連れてくることがあるが未だに近づくことも出来ないでいる。

「カッコ悪いですよね、私って。いざ本番っていう時に臆病風に吹かれてまた逃げ出して…犬で逃げ出すなんて…」

「分かるさ。俺だって犬苦手だから。子供の頃、悪戯して噛まれたからな」

おかげで今でも犬が苦手だよ、とプロデューサーは言った。

「俺だって失敗ばかりで嫌になったよ。何回皆に迷惑かけたんだろうって…今日ここから消えたいって何回思ったか、動きたくないって、逃げたいって…」

後悔と懺悔から下を俯き、今にも泣きだしそうだった雪歩に、プロデューサーは何ともないようにそう語った。

名前を間違えられるし、子供に舐められるし、衣装を忘れて私服姿でアイドルをステージに上がらせたり…今日ここに来てからの失態はどれもこれも嫌なことばかりだ。

「でも、ここで逃げたら、多分、いや、絶対何も変わらないって思ったからさ、逃げなかった」

「…!」

「伊織には睨まれたし、千早には何もかもが駄目なんて言われて、律子にも何度ため息をつかれたか分からないけど…俺が初めて取ってきた仕事だっただからさ、やっぱり逃げたくはなかったんだよ。失敗ばかりしてカッコ悪いかもしれないけど、自分で選んだ仕事だから最後までやらなきゃな」

もしかしたらまた失敗して恥をかくかもしれない。失敗して怒られるかもしれない。けれど、プロデューサーは逃げださなかった。自分で誓った決意なんて簡単に覆せてしまうが、ここで逃げたら底なしに自分が嫌いになると分かっていたからだ。

男の意地もあるのだろうが、情けないままの自分で終わるのがプロデューサーは嫌だったのだ。

「それにさ、俺はどんな姿でも雪歩が立つステージを見たいって思っている。雪歩のステージを生で見るのなんて初めてだから。俺のせいでちゃんとした衣装もないし、恥をかくかもしれないけれどさ、それでも俺は見てみたい」

プロデューサーはスッと小指を前に差出し、指切りげんまんの構えを取った。

「大丈夫さ、約束する! 犬なんて俺が絶対に近づけさせない、吠えさせもしない! 春香達とステージに立つんだろ? 朱里とも約束したんだろ? それをやるんだったら、何だってするさ! たとえ、噛みつかれても、近づけはさせない!! 噛まれるのだって初めてじゃないしな!!」

犬に噛まれた経験があるプロデューサーのその言葉は有無を言わせない説得力があった。雪歩は自然と腕を伸ばしてしまう。

「…や、約束」

「ああ、約束だ! 雪歩はステージのことだけ考えていてくれ!」

雪歩は少し考えた後、顔を上げて同じように小指を差出し、そのままプロデューサーと指切りげんまんを交わした。

しばらく指を交わし解いた後、雪歩は決心したかのような真剣な顔をする。今すぐやらなければならない、そんな様子でプロデューサーに懇願した。

「あの、プロデューサー! 必ず戻りますから!私に少しだけ時間をくれませんか…!?」

 

 

 

 

 

 

大急ぎで控え室に戻った雪歩は、鏡の前に座り、数十分前まで美希が使っていたメイク道具を手に取った。

そして自分が着ていた白いシャツを破り、鏡を見ながらルージュで自分の頬に綺麗な星形のペインティングマークを作る。

普段なら絶対にしないような行動を取っているなぁ、と自分でも思う。こんなロックバンドじみたメイク、今までやったことすらなかった。

昔、父に聞いたことがあった。

武将は戦に出る際、負けて殺される時に死に恥をさらさないように、甲冑の中に香を焚き込めたり、髪や顔に化粧をしていたという話を。それは戦化粧、と呼ばれている行為だった。

初めて聞いた時は武将にも見栄っ張りな部分があるものだとしか思わなかったが、今の雪歩なら何となくそれが分かる気がする。

短い髪をくるりと束ね、サイドテールにする。髪には春香が普段しているような派手なリボンを一つ付ける。

きっと、彼らは自分を奮い立たせるために行っていたのではないだろうか。弱い自分を周りに悟られないように、味方に強い自分について来いと云うために。そして何よりも弱い自分に負けて押しつぶされないようにするために…。

「メイクはこれで良し…後は…!」

手早くメイクを終えた雪歩は、控え室の隅っこに置かれていた赤色の衣装ケースを勢いよく開いた。中には赤と黒色のあの衣装『パンキッシュゴシック』が顔を覗かせる。

(プロデューサーが間違えて持ってきたこの衣装…)

間違えてこの衣装を持ってきたことはただの偶然だったのかもしれないが、今の雪歩にとってはまるで運命のようだとすら感じられた。

雪歩の中では男の人も犬も苦手で、怖くて、大きな存在だ。

でも、失敗に怯え、心の中でブレーキをかけていた自分が何よりも大きく、いつも自分に立ちはだかる最大の障害物だった。

『イメージできる最高の姿や最良の場面が訪れなかったら? 何かの拍子で崩れてしまったら?』

そんな『もしも』を考えてしまう自分、それを吹き飛ばす。自分が抱える、なりたくない自分を蹴っ飛ばす。弱い自分をアイドルになりたい努力を重ねた自分を、信じてくれる自分を脅かすような存在を吹き飛ばす為に、自分を奮い立たせる為に、このような強烈な黒い衣装が今ここにあるのだと。

衣装に袖を通し、黒色のブーツを履きながら、そんな錯覚に陥りそうだった。

思い出すのは倉庫で泣いていた自分に言ってくれた言葉だった。

『そんな時は…雪歩さんが私たちを助けてくれますか? 私のことを見ていてくれた時のように』

―――いつもだったら崩れていたかもしれない。悲鳴をあげて蹲るように縮まっていただろう。

リハーサルの最中に聞こえてきた男性の声と姿に悲鳴を上げそうになったが―――朱里に言われたあの言葉を、触れられた手を思い出していた。

それに気付いた瞬間、倒れる訳にはいかないという、そんな思いが自分を踏んばらさせ、足を止めさせなかった。

皆に支えられるだけじゃない、自分も皆を支えたい、そう思ったのだ。その気持ちがあの時、無意識の内に身体を動かしていた。

…もしかしたら余計なお世話かもしれない。ひんそーでちんちくりんで一度は逃げ出し、指切りやメイク、衣装で己を鼓舞しなければ、勇気を出せずに苦手な物を振り切れない今の自分が支えられることなど、何もないかもしれない。

でも、そうだったとしても。

初めてユニットでステージに上がる朱里と美希の背中を押してあげるような、そんなアイドルでありたい。誰かを支えられるような強いアイドルになりたい。自分のことを見たいと言ってくれた人の期待に応えられるようなアイドルでありたい。

―――そんな私に、そんな萩原雪歩に、自分はなりたいのだから。

「よしっ!!」

鏡の前でぎゅっと握りこぶしを一つ入れて、立ち上がった。泣くだけ泣いた、弱音も吐いて自分を奮い立たせた。後はステージに出て、歌うだけ。

控え室を出て、黒色のブーツで軽やかに砂利道を蹴りながら、雪歩はステージ裏入口のロープを飛び越える。

「ええっ!?」

「ゆ、雪歩その恰好は!?」

僅か数分の間に変貌した自分に驚愕するプロデューサーと律子を振り切るように駆け出し、そのままの勢いで一気にステージに飛び出して中央まで着地した。

「ゆきっ…!?」

「ほ!?」

「さん!?」

「なの!?」

先にステージに上がってトークを長引かせ、雪歩が来るまでの時間を稼いでいた他の4人は派手な登場をした雪歩を見るなりギョッとしたが、雪歩はすうっと息を吸い込み…。

「お、お待たせいたしましたぁぁぁぁぁぁ!!!」

勢いよく叫んだ。音響の効果もあるが、今まで出したことのないような音量で出した声はマイクのハウリング音と共に、会場中へと響き渡る。

「「……」」

数瞬の間、呆然とする観客とアイドルで沈黙が辺りを満たすが、いち早く朱里と美希はチラリと互いの顔を見合わせ、にやりと笑った。

「…さあ、お待たせしたの! ちょっと遅刻しちゃったけど、今からステージの始まりなの!」

美希の口上に続き、朱里もマイクを握る。

そう、役者が全員揃った。お膳立ては十分やった上にぶっ飛んだ登場で、会場の目線は今や一気に雪歩へと注がれている。事情は読めないが、今は送り出すしかないと、2人は場の空気で察したのだ。

「普段は引っ込み思案で大人しく、だけどいざという時は大胆不敵!」

その言葉に反応するように、照明担当の亜美と真美が雪歩にスポットライトを当ててくれる粋な計らいをしてくれる。

「765プロが誇るダークホースアイドル、萩原雪歩をセンターに!」

朱里たちもMCの経験なんて全然ないのに、つらつらと言葉が出てくる。それは多分、この事務所に来てから2人が感じていたのをそのまま言葉にするようなものだからだ。

「髪のリボンが目印のアイドル、天海春香さんと!」

朱里が春香を見る。

「男の子みたいな女の子、菊地真君の3人で送るのはこの曲なの!」

美希が真を見て、そしてすぅ…と息を吸い、美希と朱里の声が重なった。

「「『ALRIGHT*』!!」」

 

 

 

 

 

 

無茶苦茶だけど、カッコいい。MCを終え、一度引っ込んでステージの上での雪歩を見た第一印象がまさにそれだ。プロデューサーから「少しだけ時間を稼いでくれ」とサインが飛び、春香と真だけがステージに上がってきた時は雪歩のことが心配で仕方なかったのだが、まさかあんなサプライズを用意していたとは。

穏やかな曲であるはずの『ALRIGHT*』と相反する衣装『パンキッシュゴシック』を身に着けて歌う雪歩は何とも珍妙な印象を受けるが―――雪歩の堂々とした態度は、その珍妙さを吹き飛ばしてしまう程のパワーがあった。

春香も真も、そんなエネルギッシュな雪歩に引っ張られるように、グングンとパフォーマンスを上げていっている。雪歩もそれに負けじとさらにギアを上げていっている。見たこともないようなレベルまで3人が到達しているような、そんな錯覚を覚えてしまう。

会場は予想以上の盛り上がりで、来て早々雪歩を怯えさせてしまったランニング姿のあの兄ちゃん達も嬉しそうに笑っていた。

きっと、あんなに怯えていたあの子がステージではあんなに…というギャップに驚きながらも喜んでいるのだろう。そんな光景に何だか朱里自身も嬉しくなってしまった。

美希もあはっと笑いながら、雪歩を指さしていた。

「雪歩キラキラしてるの!」

「まあ、ね。自信に満ち溢れているっていうのか、開き直っているっていうのか」

「全然違うの。雪歩、リハの時より動けているんじゃないかな?」

うん、と頷きながら思う。今の雪歩は吹っ切れている。

動きのキレは真以上にも見えるし、春香以上の元気なパフォーマンスでビジュアルの点でも抜群だった。雪歩が持つ綺麗な声色も自信に満ち溢れている今はそれがより大きな声で会場へと響いている。

『パンキッシュゴシック』の黒を基調とした派手さと普段は白色の服装の雪歩とは違ったギャップもあってか、普段以上に大人びて、そして活発に見えるのもあるのだろう。黒は女を美しく見せる、なんて至言があるくらいだのだから。

「雪歩、あんなに派手な格好することはなかったから、美希も驚いちゃったけど…でも、堂々とした今の雪歩には似合っているの!」

「衣装も似合っているけどそれだけじゃない…歌っている『ALRIGHT*』の歌詞も今の雪歩さんの姿にあっているんだよ」

―――もし今日泣いてしまっても、明日はきっと強くなれる。もし今日笑えたのなら、明日はその笑顔できっと幸せになれる。

『ALRIGHT*』は前に進めないような人を応援するかのような歌詞や言い回しが多い。

泣いたっていいのだ、その涙の分だけ立ち上がれたのなら強くなれる。

もしその中で笑えたのならば、その笑顔は自分だけでなく他の誰かだってきっと幸せに出来るのだから。

そうなれたのなら、たとえ涙を流してしまっても結果オーライ、だから今一歩を踏み出して出発しよう。

まるで誂えたかのように今日の雪歩の状況にシンクロしている。会場の空気、衣装、曲…全てが味方をしているかのような独壇場だ。だからこそ、歌詞に乗せられる気持ちも思いも普段とは比べ物にならないんじゃないだろうか。

朱里が初めてのオーディションで「自分」から「私」へと、今の自分を受け入れるという心の変化を、女としての始まりを歌えたあの時の『READY!!』のように。

―――きっと、怖いはずだ。足が震えて、動悸が激しくなってしまう。一歩を踏み出すのは怖気づいてしまう。

でも、震えながらも雪歩は勇気を持って踏み出し、黒色の衣装と共にステージへと立った。

それは他人から見れば小さな一歩だったかもしれないが、雪歩自身にとってはとても大きな一歩だったはずだ。

その一歩を踏み出せたからこそ、今、堂々とステージで踊れている雪歩の姿があるのだから。

(……やっぱり、先輩は凄いなぁ)

その雪歩にも負けない勢いの春香と真にも、朱里はうっとりと見入ってしまう。

春香は765プロには上下関係は関係ないと言ってくれたが、こういう姿を見せてくれるから、私は先輩として敬ってしまうんだよなぁと苦笑してしまう。見て知って触れ合って、そのたびに分かる底の知れなさと成長具合。たった数ヶ月で自分を大きく変え、多大な影響を与えてくれたアイドル達に驚かされるばかりだ。

そして最後は3人一緒に左手を高く上げると共に曲が終わり、歓声と同時に大きな拍手が沸き起こった。勿論、朱里や美希もその拍手に加わっている一員だ。

「すっごいのー雪歩!」

「カッコいいですよ3人ともー!!」

ピーピーという口笛まで聞こえ、拍手に包まれるステージ。だが、3人がステージから降りない様子から「もしかしてアンコール?」「おお、まだやんのか、いいぞー」という声が観客から沸き起こる。

―――そうだった。すっかり観客モードに入ってしまっていた2人は我に返った。

今のステージに見とれてしまっていたが、まだ続いている。この盛り上がりが最高潮の中、2人はあの中に加わってステージに立たなければいけない。

「朱里、いける?」

「いつでもいける! ここまでお膳立てされちゃあ、ビビる訳にもいかないって!」

姉さんこそ大丈夫? と意地悪そうに聞き返すと、美希も同じような顔で笑った。

「美希も同じ気分! 早く、あそこへ行きたくてうずうずしてるの!」

やっぱり一緒に姉妹でアイドルをやっているからか、こういう所も影響されてしまったのかなって、思ってしまう。怖気づくよりも先にワクワクが勝っちゃう所とか、負けず嫌いな所とか。

そして、これは朱里個人の感情だが、自分の姉…美希と一緒に、先輩たちが盛り上げた舞台で踊れるということに、ワクワクしていた。

この今日一番の盛り上がりを見せているこの場面での自分たちの出番―――ナイスな展開ではないか。

「えへへ…皆さんのご声援に応えまして、さっきいた美希と朱里ちゃんの2人を加えて、もう1曲だけ歌っちゃいます!」

「5人で立つ初めてのステージで、僕たちが歌う曲は…!」

春香と真の言葉に続くように、雪歩が力強く言い放つ。

「『GO MY WAY!!』!!」

その声と共に、美希と朱里は地面を蹴り、一斉にステージへとダイブした。

 

 

 

 

 

 

「~♪」

リハと同じステップを繰り出すだけで、ゴリゴリと体力が削られていくような感覚。まるで嵐の中にいるような気分だ。

歓声と照明を浴びながら踊る朱里は今の状況をそう例えた。気を抜いたら吹っ飛ばされそうな苦しさ、熱気と騒動、まるで降りしきる雨のように滴り落ちる自分の汗。

その渦の中心に今、朱里たちは立っている。風に吹かれるように、追い風に背中を押されるように、疲れているはずの自分の身体が引っ張られるように動くこの感覚。ダンサブルでない曲であるはずの『GO MY WAY!!』が、何か違う曲であるような錯覚に陥りそうになる。

(これがユニット、これが複数人で歌う本番の空気…!)

レッスンやリハーサルの時とは全然違う。やっぱり本番という空気は、アイドルが生み出すパフォーマンスも勿論だが、観客たちの熱気と共に作り出されている。誰かが屋台のくじで当てた光るペンやらをサイリウム代わりにして応援してくれる子供もいた。

前方を見ていると、色んな人がいることに気付く。自分を指さしながら笑っている人、歌に聞き入っている人、ペンライトを振る事だけに熱中している人、終いには音響に驚いてワンワン吠える犬を宥める人までいた。

お祭りなんだから楽しんだもの勝ちだな、と朱里は思う。自分たちが裏で何があったか、今このパフォーマンスにどれだけの体力と気力を注ぎ込んでいるかなど、きっとこの状況では理解してもらえないだろう。

ここに立つ苦しさと高揚感は自分たちにしか分からない。

でも、この場所にいる楽しさを分け合う事は出来る。連なる熱と歓声を一緒に感じ、味わうことは出来る。

複数人で踊り、周りの熱気に身体を当てられることにより、普段では辿りつけないような境地にまで至れるこの感覚。怖さと興奮が半分混ざり合った寒気に朱里は思わずぶるりと身体を震わせた。

―――やっぱり、アイドルって楽しい!!

前方にいる雪歩を見てみると、その後ろ姿はブレておらず、凛としている。春香も真も同じだ。

『ALRIGHT*』の時の熱気を引きずっているのもあるのだろうが、さっきと同じように『GO MY WAY!!』の歌詞にも勇気を貰っているのかもしれない。

―――どんな困難な未来があってもくじけずに自分の道を進みたい、自分が思い描く一番の自分になりたい、そして挑戦し続けることへの素晴らしさをずっと持っていて欲しい。

まるで頑張っている人の背中を押すような歌詞ばかりが『GO MY WAY!!』には多い。今の状況にこの曲はバッチリ合っていて、歌詞に込める力も自然と強くなれる。

もしかしたら、セトリを組んだ時点でこうなることを予想していたんじゃないだろうか、という気持ちにもなってしまう。そうだとしたら、律子とプロデューサーは本当に良い仕事をしてくれた。

(それに、なりたい私を目指しているのは―――雪歩さんだけ、じゃないから!)

タンタンっと心地良いリズムでステップを繰り出し、ニッコリと笑顔を見せる。苦しいはずなのに、吹き飛ばされそうな熱気の中でも笑えていた。

『GO MY WAY!!』の歌詞にも勇気を貰っているのは朱里もだった。なりたい私、目指したい私。そう、美希に追いつきたい、美希と一緒に並びたい自分…あの日の前座からそれは思っていた願い。

そう、春香達3人を介してはいるものの、美希と同じステージに今、立てているのだから。

春ごろまで自分の姉の存在はもの凄く邪魔でおせっかいな存在だったはずなのに、数か月経った今では、何よりも自分が超えたいと思っている人物となっていた。

そんな美希と一緒に本番に挑めているこの時間。それがとても楽しくて、嬉しくて…その想いが朱里のギアを一段加速させる。

目線だけを美希に向けると、美希もまた前を見ながらニッコリ笑っていた。ジャンプでふわりと揺れる金髪が照明で輝き、汗が飛沫のように飛び散っている。

また自分が知らない所で実力を上げたなと、一目見ただけで理解した。動きも声も進化している。自分と同じようにこの空気に当てられ、数段上の境地へと踏み込んでいる。美希が使う言葉を借りると、いつも以上に「キラキラ」しているのだから。

でも、まだ上があるはずだ。今日雪歩が吹っ切れたように、自分がこの熱気に当てられたように、まだまだ美希は上へと行けるはず。だってあの美希だ、何でもかんでも影響されて、すぐにそれを吸収してしまう天才の姉なのだから。

美しいと思う。その純粋さ、そのひたむきさが。それが羨ましくて、葛藤した時もあったが―――それに追いつかずにはいられない。憧れずにはいられなかった。

私だって負けられない、いつか必ず追いついて、もっと多くの時間を美希と立っていたい。1曲だけじゃない、何曲でも…もっとたくさんの時間を姉と一緒に歌っていたい。

そして、いつかは…美希と二人だけで、大きなステージに立ってみたい。二人で肩を並べられるようになりたい。憧れであり、目標である美希に誇れる女でありたい。

―――そんな私に、星井朱里はなりたいのだから。

嵐のように感じる数分間はあっという間に過ぎ去り、エンディングに向かって曲が終わりつつあった。

両手で願いを込めるように左右を見渡し、最後のトリをかざるようにセンターの春香は右手を上げてポーズを決め、他の4人も笑顔でポーズを決めた。

…そして、またしても大きな拍手が沸き起こった。「男前!」だの「天晴!」だの歓声が聞こえ、ふと校庭脇の金網に目を向けると、子供たちの集団が拍手しているのに気付いた。来た時に「知らねー!」と高らかに叫んでいた子供も一緒になって交じっている。

その光景に5人は顔を見合いながら笑って、誰からともなく両手を繋ぐと、高々と上げる。

「…ありがとうございました!」

挨拶と共にしばらく頭を下げ、それが終わると胸を張って退場していく朱里たち。声援を背に受け、汗まみれで笑う5人のその顔に、何かの始まりを告げるような鮮やかな月明かりが煌めいていた。

 

 

 

 

 

 

「はーい、反省会は後日やるから、今日はさっさと帰る事!!」

「「えー!」」

「えーじゃないわよ! さっさと帰らないと電車に乗り遅れるわよ!! 寄り道せずにさっさと帰った!!」

遠路はるばる事務所に帰ってきて、興奮が収まらないアイドルをさっさと事務所の外に放り出す律子と文句を言うアイドルたちでごった返す事務所。

そんな姿を見ながら、朱里は給湯室で慣れた手つきでコーヒーを淹れていた。同じように「朱里も早く帰りなさい」と急かされるが、「これ淹れたら帰りますから」とだけ言っておく。

「だってこれから泊まり込みで仕事するんですよね? 眠気覚ましの強烈な一杯だけでも淹れますよ」

普段は砂糖を入れて甘くするが、今夜は苦さだけを残したブラックコーヒーをマグカップに淹れると、はいと律子に渡し、最後は窓の外を見ているプロデューサーへと渡した。

「プロデューサー、はい、これ」

「ああ、ありがとう」

「どうしたんですか、ため息なんかついちゃって」

「…自分の甘さや未熟さを痛感したからな、今日は」

結果オーライで終わったとはいえ、自分のミスでいらぬトラブルも巻き起こしてしまった彼の心中は、色々思うところがあるのだろう。グッと顔が強張り、マグカップを持つ手にも力が入っていた。

「…それを飲み終わったら、顔を洗って鏡で見てみてください」

「えっ?」

「目も覚めてスッキリしますよ。今、凄い顔になっていますから」

くるくると自分のほっぺを指で円を描く朱里。

プロデューサーは気づいていないが、右のほっぺには今日の雪歩と同じようなペインティングマークが書かれている。帰りの車の中で運転を律子に代わって彼が眠った瞬間、亜美真美に落書きされたのだ。さっき話している時もグッと強張る顔と共に見えた落書きに吹き出しそうになってしまったのは秘密だ。

2人からは「落書きのことは言っちゃダメだよ!」と言われたが、自分は顔を洗う話しかしていないので、約束は破っていない。問題はないだろう。これで気付いてくれるとうれしいのだが。

「後はパソコンのデスクも見てみてください。ステキなプレゼント、用意されてますから」

それだけを言うと、お疲れ様でしたと朱里も事務所を出ていった。

―――まだ気づいていないかもしれないが、プロデューサーの専用デスクには小さな包みと一緒に一通のメッセージカードが挟んであった。トイレ休憩でパーキングエリアに止まった時に、雪歩が売店で買ったのだ。

一つはびわ漬け。柑橘類系の保存食で、その甘酸っぱさで病み付きになる人も多いお土産だそうだ。柑橘類は疲労回復にも良いそうで、泊まり込みで仕事をするプロデューサー達にはピッタリなお土産だろう。

もう一枚のメッセージカードには…何が書いてあるかは分からない。何やら車内でコソコソとペンを動かしながら書いているのは見ていたが、暗い上に疲れて意識も朦朧としていた為、全容は読めなかった。きっと色々と言葉では伝えられないことを文字にして書いていたのだろう。

ただ、書き終った手紙を畳む最中に、最後の一文だけちらりと読むことは出来た。そこにはこう書いてあった気がした。

まだ完全に克服したわけじゃないし、本当の犬は怖いけど、これからも頑張りますから、よろしくお願いしますね!―――と。




アニマス3話、終了しました。
プロデューサーの犬が苦手な描写など、完全にIMBELのねつ造が入っています。
とりあえずしばらくは、番外編やらサイドエピソードをしばらく挟みつつ、またアニメ本編へと戻る予定です。

では次回もお楽しみに!


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第33話 カワイイは戸惑い?

起きて早々『新サクラ大戦』のPVを見て、興奮が冷めないIMBELです。
やはり好きな作品の最新作は不安もありつつ、ワクワクの方が勝ってしまう不思議さ。
PV見ながら声を上げたのは久しぶりな気がします。というかサクラ大戦が好きな平成生まれの20代…職場で誰も知らず、この会話が出来ない悲しさよ…。

今回は久しぶりとなる学校メインでのお話。XENOGLOSSIAのトリオの最後の一人も遂に…?


―――最低限のメイクは自分でも出来るようにする。スタイリストが現場にいない場合もあるので、曲やパフォーマンスに沿ったメイクは適切に。衣装が無いなどの最悪のケースに備え、最低でも動ける格好での会場入りが好ましく…。

(あ、インク切れちゃった…)

昼休み、教室の自分の席でこの間行った故郷村での仕事の反省点、課題などをノートに纏めていたが、書いている途中でインクが途切れ、カスカスの文字がノートへと刻まれてしまう。

ガシガシとノートの隅っこでペンを擦ってみるが結果は同じ。諦めてインクが切れた赤ペンを机の上に放り投げた。

しばらくはまだ持つと思っていたのだが、もうインクが空になってしまったのか…。空っぽになったボールペンの芯を覗き込みながら、思う。

ここ数か月、授業以外でもレッスンや自主練でペンを使用する機会が多い為、インクの使用量がえげつないことになっている。それだけ自分は書き込むことが多いという証拠でもあるのだが。

今回の仕事は色々な意味で反省点や課題が多すぎた。結果オーライで終わったから良し、という問題ではすまないようなことばかりであり、それを忘れないためにもこうやって記録していたのだが。

(ノートも残り枚数少ないし…購買部に行って、新しいペンとノート買ってくるか)

パラパラと残り数ページになってしまったノートを捲りながら思う。

昼休みはまだ時間あるし行って帰ってくるくらいは余裕あるし、と朱里は財布を取り出そうと机の側面にかけてある通学カバンに手をかけた瞬間だった。

「ねぇ、星井さんちょっといい?」

聞き慣れない相手の声を聞き、ピクッと朱里の手は止まった。

「…?」

下に向けていた視線を上にあげ、声が聞こえた隣の席の机まで動かす。ふわりとした癖っ毛に勝気そうな目と遠慮を知らなそうな声色、所謂肉食系カテゴリーに分類されそうな女子に、朱里はあっ、となった。

「えっと…空羽さん?」

「おっ、私の名前、知っててくれたんだ! まあ、名瀬のおまけみたいな覚え方かもしれないけど」

「まあ…私達、あまり話したことはないですしね」

「そーいえばそうだった! こうやって話すの今年になって初めてかも!」

あははと机の上で嬉しそうに話すのは、いつも名瀬と親しくしているクラスメイトの鈴木空羽だった。朱里と唯一親しいといってもいい名瀬の友達だった為、辛うじて朱里も覚えている。

「ほ、ほら星井さん困ってるじゃない。ごめんね、急に話しかけちゃったりして。予習かなにかしてたよね?」

「あ、私は別に…大したことやってないし、大丈夫だよ」

机の上に広げられていたノートを慌ててしまい、申し訳なさそうにしている名瀬に何でもないように振る舞う。自分のやっていることに後ろめたさや罪悪感などはないのだが、やはりいざこれをじろじろ見られるのはあまりいい気がしなかった。

「で、何か私に用ですか? と、いうか何かやっちゃいました?」

朱里は名瀬ならともかく、空羽がどうして自分に関わって来るのかが不思議だった。この人は一体何しに近づいて来たのだろうと怪訝そうな目で空羽を見つめた。友達の友達に絡まれる程、厄介なことはない。身に覚えのない言いがかりを言われるのかと身構えてしまう。

「あ、そうそう! ちょっと星井さんに聞きたいことがね」

「…空羽、あんた本当に聞く気? 私止めたからね…?」

「いーじゃん、減るもんじゃないし!」

空羽はこそっと朱里に近づき、ごにょごにょと耳打ちしてきた。

「…ねえ、星井さんに彼氏出来たって噂、本当なの?」

「はぁ!?」

「声大きい!」

思わず大声を出した朱里の口を、空羽の手が塞ぐ。もがもがと不明瞭な音を発する朱里に、空羽は妙に神妙そうな顔で聞いた。大声にクラスの内の何人かがこちら側を振り返ってきたが、すぐに興味を失ったのか元に戻っていった。

「ほら、星井さんって最近色気づいてきた感じがするじゃない。男がきっかけで変わったんじゃないかって、ラブレター貰ったからとかそんな噂、広まっているのよ」

「最近やけに女の子らしい印象があって、お姉さんから男を紹介されたとか…あっ! 私は星井さんがそんなふしだらなことする人だなんて思っていないけど!!」

口々に話す空羽と顔を赤くしながら名瀬に、誰にも話したことないのになんでこんな変なことが広まっているんだ…と朱里は頭が痛くなってきた。モゴモゴと動き、空羽の手の隙間から口を出して朱里は唸る。

「…どっから聞いたんですか? そんな話」

「おっ? その反応を見るにやっぱり本当? こーいうのはほら…自然と広まっちゃうものよ。だって私達、華の女子中学生よ?」

確かにクラスの中で誰それと誰それが付き合っているらしい、という話はよく聞く。やはり中学生ともなればそういう話に興味が湧いたり、聞き耳を立ててしまいがちな年代だ。

それがある故に、こーやって変な噂や根も葉もない話が飛び回るのだが…。

「でさ、真偽の方はどうなのよ?」

うりうりと迫る空羽にうっとおしく思いつつも、これ以上変な噂が飛び回るのが嫌だった為、正直に応える。

「……まぁ、ラブレターは貰いましたけど」

「うわーっ、まさかの真実!? まさかクラスメイトに先をこされるなんて…」

ショックを隠し切れず、オーバーリアクションをする空羽。

「で、内容は? その結果は?」

「名瀬さん、意外に食いつき良いですね…?」

興奮気味に近づいてくる名瀬に最初のストッパー役に徹していたあの姿はどこいった…と思いつつ、別に隠すようなことじゃないので別にいいかと正直に話し始める。あれはもう終わった話なのだから。

あれは宣材写真の撮影が終わった辺りの桜のシーズンも終わりを迎える頃の4月下旬。朱里はラブレターの一件にも決着をつけるべく、ラブレターの書き主を校舎裏へと呼びだした。

ラブレターの送り主は隣のクラスの男子生徒だった。運動部に所属してはいるが、特に目立つような活躍もしていない。成績も中の中…悪い言い方をすれば特徴のない男の子と云えばいいのか。朱里も話したことのないような生徒だった。

所謂、一種の罰ゲームじみた要素もあったのだろう。

近くの木陰には部活の仲間と思われる数人の男子生徒が面白そうな顔をして隠れているのを朱里は見逃さなかった。その男子生徒も乗り気ではないのが態度からも見て取れた。まあ、あの頃はおしゃれのおの字に目覚めたばかりで、それ以前の噂や容姿が酷すぎたということもあり、罰ゲームの対象になってしまうのも無理はなかったのだろう。

女としての魅力がゼロどころかマイナスに振り切っていたあの時代を思い出し、渋い顔をしてしまう。

「…で、何て言ったの?」

「私にはやりたいことが出来てそれに集中したいため、それと並行してお付き合いするわけにはいきませんってきっぱり断りました。それにお付き合いするのなら、もっとお互い親しい仲になってからにした方が良いと思います、って言って…それでおしまいです」

「うわ、もったいない!」

「でも、相手のことも知らないのにいきなり付き合うっていうのはハードル高いってもんじゃないって思うけど…」

そりゃそうだ。どんなバグが起きればこの状況でお付き合いしましょうなんて流れになるのだろうか。そもそも男と付き合うなんて今の自分では天地がひっくり返ってもあり得ない展開だ。たとえ向こうが惚れていようがいまいがキッパリと断っていたことだろう。

「ちなみにやりたいことって?」

「…まぁ、色々ですよ。おしゃれとかメイクとか。あの一件は色々と学ぶことが多かったですし」

確かにあのラブレターが下駄箱に入っていたことがきっかけで、自分が女であることを改めて意識された出来事であるため、一概に恨むことが出来ない事件でもあるのだが。

「まあ、向こうも気乗りしていない感じでしたし。性質の悪いドッキリに引っかかったものですよ、というか私にあんな物が来ること自体、おかしいんですって」

「そう? 星井さんは元が良いんだから、もっと自信持ちなよ。最近結構、可愛いって人気あるみたいだよ?」

「うん、春頃から何か変わったって皆で噂しているし。髪だって毎日整えてくるようになったし、制服の着こなしとか態度とか…その、お姉さんみたいだって」

「美希姉さんみたい…?」

まあ…あの一件で自分を見つめ直すきっかけの一つにはなったのは事実だ。女の自分を受け入れ始めて、おしゃれや身だしなみにも気を遣い始めて…それが周りにも気づかれているってことなのか。

「あーあー、あたしももっと出会いが欲しいなあ。あたし達の青春には男っけが足りないっていうのか」

婚期を逃したようなOLの言い方をする空羽に若干引きつつも朱里はあれ? と思った。確か2人にはクラスは違うが、よくつるんでいる男子がいたような気がするのだが。ついこの間の中間テスト間近の時期にノート見せてーとかでクラスに来ていたような…。

「…というか、2人にも仲が良い男子がいるじゃないですか。ほら、隣のクラスの」

「あー、楢馬(ならば)のこと? 駄目よあいつは。年がら年中海のことばっかり。色気なんか芽生えていないもの」

楢葉…そうだ、確かフルネームは大道楢馬(だいどうならば)だったか。

今こそクラスは違うが、去年同じクラスだったせいで名前だけはどこかで覚えていた。運動部には所属していないが、日焼けしてやけに身体つきが良く、クラスでは男子とつるんでバカ騒ぎをしている典型的な男子中学生、というのが朱里の印象だった。

「私たち昔からの知り合いだから分かるんだけど…楢葉君、趣味が釣りなのよ」

名瀬がそう言うと、

「そう、幼稚園からの幼馴染。親の影響で昔っから釣りばっかりやっている根っからの釣り馬鹿男子。昔からの腐れ縁だけど、あたしらが海でスイカ割りやっている間も一人で釣竿振り回してるくらいだもの」

と、空羽が呆れたような口調でそう言った。

「釣り、ですか」

彼のやけに黒い肌と身体の良さは釣りで養われたのか、と朱里は一人納得した。揺れる船の上で重い釣竿を上げ下げしていれば、身体も鍛え上げられるか。数年経てば、この間の故郷村のランニング兄ちゃんといい勝負ができるかもしれない。

「女よりも魚追いかけるのが趣味なのよ。あたし達のお父さん同士と釣り仲間で仲も良くてね。あいつは海釣り用の竿がどーだとか次は船に乗ってどこに行くだとか、あたし達の親もあいつの釣ってきた魚がデカかったの魚拓をやっただの……そんな話につき合わされるこっちの身にもなってほしいわよ」

ゲンナリする空羽に朱里はあはは…と愛想笑いするしか出来なかった。何というのか、ご愁傷様という感想しか出てこない。

「ま、まあそれだけ一つのことに熱中できるのが楢葉君の良い所だしね。もうちょっと勉強とかにも熱意を持ってほしいっていうのが」

「というか、あんな釣り馬鹿のことはもういいわよ。それよりもさ、今年の夏のテーマ決めない? 星井さんもアイデア出して!」

近くの席に腰を掛けた空羽がこちらに椅子を近づけて、ニコニコ顔で寄ってきた。

「テーマ…自由研究?」

朱里が小首を傾げながら尋ねると、空羽は真面目だなぁ、とぼやきながら身を乗り出してきた。

「違う違う! 今年の夏休みにやるべきことよ!! 夏と言えば男! スイカと花火に男よ! 水着着て、いい男を逆ナンパするのよ!」

「私はスイカと花火だけでいいよ。部活あるし、夏休みに合宿もあるし、そんなことしている暇なんて無いし。第一、私達に男なんてねぇ」

「薄っぺらい人生ねぇ名瀬。せっかくの中二の夏なのよ!?」

「薄っぺらくても味気なくてもいいわよ。大体去年の夏休みだってさ、空羽がそんなこと言って暴走したせいで、恥かいたじゃない。ナンパなんてしたことないのに無理して…」

「うわーっ! 言わないで去年のことは!!」

「大体まだ中学生の私達がそんなことするのが間違っているのよ。身体つきだって女って感じしないし…色気がないのよ」

「「色気…」」

ジロッとこっちを見るのはやめて貰えないだろうか。特に胸元を見るのは止めてくれ。異性だけでなく同性にそんな目線をされたら、どうすればいいのか分からなくなってしまう。

「私が加わった所で結果は変わりませんよ。というか、未成年で中学生の私達がナンパすること自体、男性には引かれる案件ではないでしょうか? 最近は草食系どころか絶食系と呼ばれる男性がいる世の中ですし、そもそもグイグイ押していく女性自体の需要が現代社会でどれほどの…」

言えば言う程、空羽の顔色が悪くなっているのを見て、流石にこれ以上はやめた方がよさそうだった。慌てて会話を打ち切る。

「ま、まあナンパは無理でも、夏休みの遊びくらいなら事前に連絡を入れてくれれば一緒に行けますよ。身なりとかに時間はかかってしまいますが」

「身なりと言えば…このブランドね、サマーシーズンに向けて新しい水着出したって…」

立ち直った空羽はどこからともかくファッション雑誌を取りだすと、ほらここと机に置いて指を指す。

「あ、これ知っています。結構有名なブランドじゃないですか。着ているアイドルも最近人気の『新幹少女』のひかりさんですし」

アイドル関連の情報を最近収集している朱里は、雑誌に載っているアイドルやブランド名に過敏に反応してしまう。

「おっ、星井さん結構イケる口!? じゃあこっちのブランドも中々…」

その後はチャイムが鳴るギリギリまで2人と話をしていた。

ファッションだの流行の音楽だの最近この男性アイドルグループに興味があるだの―――思春期の女の子が好きそうな話題で花を咲かせた。会話というよりは一方的に空羽が話すのを名瀬がフォローし、それを朱里が聞き手になる…というぎこちないものではあったが。

でも、そんなどこにでもあるような学校の昼休みの光景の一端に加わり、朱里はぎこちなく笑いながらも。

「ふふっ…」

この一時が純粋に楽しい自分に気付いた。思えば、クラスメイトとそんな会話をしたのは随分久しぶりだったのだ。

 

 

 

 

 

 

「あ、袋一緒でいいです」

カウンターへ小銭を置き、購入したものが収められている袋を店員から受け取る。ありがとうございましたというマニュアル対応の声を背に受けながら朱里はレジを離れた。

女の噂と話は長いもので、昼休みが終わった後もあーだこーだと話を続けられ、ようやく放課後になって朱里は解放され、逃げるように学校から飛び出した。楽しいは楽しいのだが、あの様子だと夜になるまで会話は続きそうな空気だったので、早めに抜け出せたのは幸いだった。

飛び出した後で、話に夢中で目的の物を買い忘れていたことを思い出し、真っ直ぐ家に帰る前に文具や本を取り扱っている近所の大型書店へと寄り道することにした。

ようやくお目当ての物を買えたのだが、朱里は別のことで頭を捻っていた。

―――可愛いって人気あるみたいよ、か。

空羽の言葉を胸の内で繰り返す。

可愛い。

その言葉に朱里は腕を組みながら、うーんと唸ってしまう。普段は寄り付かない辞書コーナーに立ち寄って、適当な辞書を手に持って意味を引いて確認してみる。

『可愛い。日本語の形容詞で、いとおしさ、趣き深さなど、何らかの意味で「愛すべし」と感じられる場合に用いられ―――』

「…私って、可愛い、のか?」

一歩間違えればナルシストじみた独り言をポツリと呟く。そもそも愛すべき、いとおしい、という言葉にピンとこないので、頭を捻ってしまう。この前共演した幸子だったら、自信満々に言っているのだろうが。

綺麗、という言葉には喜べるし、納得はできる。宣材写真で前面に押し出した『大人っぽい自分』がきちんと評価されている言葉だからだ。自分の個性を褒められているので素直に受け止められる。

でも可愛いっていうのは春香ややよい、伊織といった少女さが良い意味で抜けていない女の子に対しての褒め言葉のような気がして自分には合わない言葉なんじゃないのかなぁ…という気がしてならない。中身が元男という点も含めてそう言われるのは違和感がある。

(可愛いっていうのは…ああいう子に言うべき言葉なんじゃないのかなぁ?)

ちらり、と向かい側にある新刊コーナーであれこれ本を見ている一人の女の子に朱里はロックオンする。

青色のセミロングの髪を揺らしながら新刊コーナーにあるあらゆるジャンルの本を、目を輝かせながら見ている同年代そうな女の子。背は朱里よりも少し小さく、あいくるしさがある顔があって、何よりも大好きそうな本に触れ合えるこの時を楽しんでいる様子だった。

ああいう子に使うのがそもそも正しいのであって…。

「…おっ、最新号出ている」

ロックオンしながら、グルグル書店を回っている内に、アイドル雑誌関連のコーナーへと足を踏み入れていた。思わず、春香が愛読している雑誌の最新号の表紙を見て、声を出してしまう。

この書店はこういう本でも立ち読みができる為、朱里は気に入っている。最近は週刊誌でも容赦なくビニールでパックされている所が多いので、ありがたい。後で事務所で春香にでも借りてじっくり読むとして、目次やピックアップされているアイドル達を流し読みで眺めていく。

(…やっぱりこういう雑誌に載っているアイドルも、可愛いに当てはまるのは同じ子だよなぁ…)

パラパラとページを捲ってみるがやはりピンとこない。有名所やマイナー所も見てみたが、やっぱり女の子らしい女の子に使う形容詞の気がするのだが…。

―――これ以上深く考えると、頭が痛くなってくるから、もうこの事について考えるのはやめよう。

朱里は雑誌を元の場所に戻すと、頭を擦りながら、書店を出た。勉強や仕事以外で頭使ってどうするんだ、というツッコミを己に入れながらテクテクと歩いていく。

まあ空羽さんも、元が酷すぎたせいでそんなことを言ったのだろうなと朱里は一人納得する。所謂、不良が子犬を助けたらいい人っぽく見えるというあれだ。

空羽も名瀬もきっとお世辞で言ったのであって、本心で言ったのではないはず。

これはあれだ、今後、仕事をする上でもそういったお世辞にまともにかかっていてはいけないという教訓だな。真面目に受け取るだけでなく、時には受け流して聞くことも大事ってことなのだろう。

可愛いという言葉に踊らされ過ぎだ。普段言われ慣れていない言葉に不覚にも舞い上がってしまった。学校では成績以外で褒められることが皆無だったせいで過敏に反応してしまったのだろう。

(…腹減ったな。今日の晩ご飯は何だっけ?)

無駄に頭を使ったせいでお腹が減り、脳がエネルギーを欲しているような感覚がする。手っ取り早く糖分を摂取できる炭水化物でガツンときめたいなと思いながら、朱里は帰路に就くのだった。

―――ちなみに、朱里自身は全く気づいていないが、大人しく自己主張をあまりしない朱里が授業中や休み時間内にふと笑う光景は一部のクラスメイトに好評になっている。

今まで全く笑わないでいた朱里の最近見せるそんな一面にギャップを覚える生徒は少なくない。今日の教室での一幕も最初こそ見ていないものの、3人で話している所辺りから朱里たちに注目しているクラスメイトもいたくらいだ。

ここ数カ月で身だしなみや身に纏う雰囲気が女らしくなったことと中学生離れしたそのスタイルが生み出す「大人しい星井の妹にもそのような一面がある」「普段は静かなのに時折見せる可愛らしい大胆さ」という要素は、そういう隠れファンを増やしていく要因になっているのだが―――本人がそれに気付くのはしばらくしてからだった。




朱里、クラスメイトに可愛いと言われて戸惑うの巻。こういう声にまだ慣れない初心な様子を描いてみました。
何年ぶりになるラブレターの話題の回収。作者自身もすっかり忘れていました。
今回、書店でちょろっと描写した女の子…どこの風の戦士なのか!?(すっとぼけ)

今回会話の中だけですが登場した大道楢葉も「ゼノグラ」に登場したキャラです。
名瀬や空羽と同じでゼノグラでは成人していたキャラでしたが、この小説内では朱里の同年代という設定になっています。
海がこよなく好きな男で、なんと素潜りでカジキマグロを仕留める程の腕前。
あの作品は人間やめているキャラが多めですが、彼も軽く人間やめています。

次回は…誰がメインになるのかしら? 次回もお楽しみに!


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第34話 親子と家族

UA50万突破、ありがとうございます。

今回の話は…久しぶりにあの子と一緒です、どうぞ。
後、今回も独自解釈と捏造設定が有りです。


―――もう終わっちゃった。

ゾロゾロと撤収していくエキストラ役を見ながら、朱里は僅か15分弱で終わってしまった仕事にため息をつく。

梅雨のシーズンに突入し、連日雨が降る6月下旬。今日の仕事は午後9時に放送される連続ドラマ…所謂ゴールデンタイムのエキストラ役だった。

今回の撮影は物語の転機となる第5話。主演男優が演じる主人公の過去が明らかになるという重要な話だ。今回その収録に765プロから2人選ばれることになった。

白羽の矢が立ったのは「こういうのも立派な仕事だから、勉強してきなさい」という律子からの推薦である朱里と、先輩としてこういう現場に慣れている響。今日はこの2人だけでの現場入りとなった。今日は律子とプロデューサーは他の仕事があって同行することが出来なかったのだ。

朱里と響の今回の仕事は主人公と今回の話のキーとなるゲストキャラクターの言い合いに驚いて振り向く脇役の一人…という役だ。

セリフもなく、ただ驚いたような演技をして…それでおしまい。無名の芸能事務所に所属するアイドルのやる仕事といえばそこまでなのだが、現場で仕事している時間より移動時間の方が長いのはやはり味気ないと感じてしまう。

まあ、普段テレビで見ているような有名所の俳優や生の現場の空気など、普段は入ることの出来ない収録スタジオでの仕事は確かに得る物があったのは事実なのだが…。

(空模様も悪いし…早く帰るに限るかな…)

エキストラ役という括りで宛がわれた大部屋楽屋の一室を抜け出し、窓からそっと空模様を伺う。朝から雨は降っていたのだが丁度朱里たちが現場入りした辺りから雨脚は強まっていた。今となっては豪雨レベルまでに荒れており、沛然たる雨とはこのようなことを言うのであろう。締め切っている窓からでも、その雨音は響いてくる。

念には念をと荷物には折り畳み傘も入れてきたが、この豪雨で果たしてそれが通用するだろうか。ここまで酷くなるのなら、かさばってもいいから大きめの傘を持ってくるべきだったな…と後悔する。携帯できることが利便性となっている折り畳み傘だが、豪雨の中では携帯性が故の強度の低さが仇となりそうだ。

(プロデューサー達、大丈夫かな…?)

遠くの方ではゴロゴロ、バーンと雷の音が聞こえており、この雨模様では遅かれ早かれ交通網にも影響が出るだろう。響に声をかけて、さっさとここから退散した方が…。

「あっ、ここにいたのか朱里ー!」

「響さん。今、外凄い事になってますよ?」

窓に手を当てていると、響が控え室から息を切らして出てきた。

「うん、そのことなんだけど…今速報で、電車止まっちゃったって」

「ええっ!?」

「落雷で停電が起きたことが原因らしいんだ」

ほら、これ…と、響の携帯電話を差し出され、画面を覗き見る。どこかのニュースサイトの速報で、丁度自分たちが乗ってきた路線が落雷による停電により運転を見合わせているとのことだ。他の路線も二次被害を避けるために運転を一時見合わせる他、一部の駅では入場規制などもかかっているみたいだった。

「東京って、雨で電車止まっちゃうんだなぁ。船なら分かるんだけど」

「響さん、しょっちゅう台風が来る沖縄の感覚で言わないでください…都会の交通網は結構脆いんですから…」

毎年台風直撃コース圏内での生活に慣れている響にとっては変な話だろうが、積雪や大雨で都会の交通網が止まることは珍しくない。朱里は通勤通学に電車こそ使ってはいないが、改めて分刻みで電車が来る都会の便利さと一度崩れた時の脆さを今になって感じ取っていた。

帰り、どうするかな…と考えていると、ポケットの中で携帯電話がブルブルと震えた。慌てて取り出すと画面には事務所からの電話だった。あっちも速報を見て、電話をかけてきたのだろう。電話の主は小鳥さんか社長かそのどちらかだろう。通話ボタンを押し、電話に出る。

「はい、星井です」

『あっ、朱里ちゃん!? 私よ、小鳥! 今ニュース見ているんだけど、大丈夫だった!?』

「はい。響さんも一緒で、まだ現場にいます。電車が止まって、今どうするかと話していた所なんです」

『そう、よかった…』

電話の向こうで小鳥は安心したそうに安堵していた。近くに高木社長もいるのか「良かった…」という声も聞こえてくる。

『とりあえずは事務所への報告は明日以降で大丈夫よ。他の皆も仕事やレッスンが終わり次第帰らせるわ。2人もそのまま直帰しちゃって』

「はい、分かりました響さんにもそう伝えます。小鳥さんも気を付けてくださいね」

『夜になったら復旧するそうだから、心配しないで。寄り道しないで早く帰るのよ?』

そのまま電話は切れ、朱里は携帯の通話ボタンを押すと響は横からどうだったと顔を寄せてくる。

「とりあえず小鳥さんからそのまま家に帰れ、とのことでした。事務所へは明日以降来てくれと」

「帰る? 自分は今日、歩きでここまで来れたからいいけど。朱里は大丈夫なのか?」

「電車止まっちゃいましたしね…まあ漫画喫茶やファミレスとか、時間潰せる所は多くありますから。電車直らなかったら、最悪陸路で家まで帰りますよ」

適当に時間を潰そうと思えばいくらでも潰せる。その手の時間の潰し方など朱里はぼっち時代に経験済みだ。店員には悪いが、喫茶店にてコーヒー一杯で路線復旧まで粘らせてもらう算段を朱里は考えていた。それに最終手段ではあるが、家から迎えに来てもらうという方法もある。積極的に取りたい手段ではないが…。

そんなプランを頭に浮かべていると、響はうーんと何かを考えた後、パチンと指を鳴らした。何かとても良いことを思いついたような、そんな顔だった。

「じゃあさ、朱里今から自分家に来ないか?」

「響さん家?」

「ああ、自分家少し歩くけど、この近くなんだ。喫茶店で時間潰すより全然快適だぞ?」

 

 

 

 

 

 

バラバラ…と雨粒がナイロンの布を叩く衝撃を感じる。

「朱里、大丈夫かー?」

「…次からは折り畳み傘をあまり信用しないようにします」

朱里が持ってきた折り畳み傘は強烈な雨ですっかりヘタレてしまい、頭の上から足元までびしょ濡れだ。

ズボンも靴下もずぶ濡れであり、傘を差しているのに上から雨滴が跳ねてくるわ足元からの飛沫が顔から上がってくるやら…。整えてきた髪は濡れそぼって、唇は血の気を失った薄紫色になってしまっている。ちゃんとした傘を持ってきていた響も幾分かマシだが、朱里と同じように濡れてしまっている。

「東京もこんなに雨が降るんだなぁ…あっ、あそこが自分家だぞ!」

寒さに震え、俯き加減で傘の柄を握りしめたままの朱里は響のその声に顔を上げ、指を指した建物を目を凝らしながら見つめる。現場から20分程歩いた所、都心から少し離れた閑静な場所に響が暮らすマンションがあった。

「随分、良い家に住んでいますね…」

「そうかな? まあ、家賃は少し高めだけど…」

傘を閉じ、身体から滴り落ちる雨滴で廊下を濡らしながら、朱里はあちこちをキョロキョロと見渡していた。

てっきり学生向けのワンルームマンションをイメージしていたのだが、想像していた住まいと違っていた。外から見た限りでも結構大きく、部屋のスペースも広そうであった。

玄関ホールは広いし、エレベータも複数ある。住んでいる住人も結構裕福そうな人が多そうだった。まあ、多くの動物と一緒に暮らしている響が住んでいるのはペット可のマンションだから…結構お高いのだろう。

学生故に多少の仕送りなどの補助金が出ていると考えても、一人暮らしする住まいとしては豪華な気がする。響が仕事で稼げているのか、それとも我那覇家が金銭的に余裕のある家系なのかは分からないが…。

「とにかく入ってさー」

「お、お邪魔します」

とにかく、このままでは風邪を引いてしまう。どしゃぶり姿の響は玄関の鍵を開けると、同じくずぶ濡れの朱里を招き入れる。他人の家に入るのなど本当に久しぶりの朱里は若干どもりつつもそれに従うことにした。

「玄関、びしょびしょになっちゃいますね」

「いいから気にしないで、ささっと上がっちゃって」

多くの動物の匂い…知らない匂いが漂う中、朱里は恐る恐る玄関へと足を踏み入れる。意外…と言えば失礼かもしれないが、中はきちんと掃除されている。一人暮らしの女というのはガサツだという勝手な偏見をもっていた朱里は少し面食らっていた。

「ワンっワン!」

「おっ、いぬ美ただいま!」

玄関が開いた音を聞いたのか、開けっ放しになっていたリビングから大型犬である響の飼い犬、いぬ美が飛び出して来た。バスタオルを2枚咥えており、それを無言でこちらへと差し出す。

「あはは、いぬ美ありがとな! ほら、朱里も受け取って!」

「ど、どうも…」

あっちに悪意はないとはいえ、大型犬が口にくわえたタオルを受け取るという行為はそれなりの度胸がいる。故郷村での一件以降、雪歩が犬嫌いという情報は事務所の皆に周知の事実となってはいたが、これじゃ人のことを笑えないな…と朱里は一人思う。

指先で慎重につまみながらタオルを受け取ると、ようやく身体を拭けた。

身体を拭いても拭いても水が滴り落ちてくる。梅雨のシーズン故に仕方ないとはいえ、仕事の帰りにこういうことをやられてしまうと気分がブルーになってしまう。幸いにも、ノート類などはカバンの中に入っていたおかげで、ずぶ濡れにはなっていないのだが。

すると、飛び出して来たいぬ美につられるようにゾロゾロと他の動物が玄関前へと集まってくる。

「みんなただいま! 今日は友達連れてきたぞ!」

「お、おじゃましてます…」

大型犬のいぬ美だけでなく、ハムスター、蛇、リス、オウム、兎、猫、豚、モモンガ、ワニ…計10匹が並ぶ光景に朱里は卒倒しかけた。ハムスターや猫、兎はまだ可愛いものだが、豚や蛇、終いにはワニに至ってはどうリアクションをとればいいのか分からない。思わず卒倒しかけるも、気力を振り絞り響に尋ねてみる。

「あの、響さん。豚とか蛇とかはギリギリでも…ワニとか飼っていて本当に大丈夫なんですか? 確かワニって日本で飼っちゃ駄目な動物じゃ…?」

朱里の頭の中に動物保護のための法律である、かの『ワシントン条約』を思わず思い出してしまうが、響はあっけらかんと笑う。

「分かってないなー朱里は。ワニはちゃんと役所に許可を貰えば大丈夫な動物なんだぞ!」

でも1回事務所にワニ子を連れていったら小鳥と社長にもの凄く怒られちゃってな、と笑う響であったが、それは全面的に小鳥さんと高木社長が正しいというか常識的な反応だと言わざるを得ない。

この現代且つ日本という国でワニと遭遇など、それこそ動物園かサファリパークでも行かなければ不可能。事務所に来たらいきなりワニとエンカウントなんて、気絶してもおかしくはない。

話を聞く限りはその日は外部からの人が来なかったらしいが、こんなものを余所に見られてしまったら大騒ぎになってしまうだろう。あんたの所の事務所は何を飼っているんだ!? と。

「あはは、皆でお出迎えは嬉しいんだけど、遊ぶのはもう少し待ってて!ハム蔵は暖房を付けて! へび香とシマ男はお風呂の準備! オウ助、うさ江、ねこ吉は洗濯の準備に、ワニ子とブタ太といぬ美とモモ次郎はタンスから着替えを持ってきて!」

テキパキと動物達に指示を出すと動物たちは響の言っていることを理解したのか、言われた通りの組み合わせでチームを組んで行動を始める。

…この人、本当にペットと会話できるんだ、と感心する。そして動物達も響の言っていることをきちんと理解できているのかと驚いた。例えアイドルが無理でも、響だったらこの動物達とサーカス団を開いていっても生活できるのではないだろうかとさえ思ってしまう。

「さ、朱里! 先に入ってて!」

「あ、でも私替えの服は持って…」

「後でちゃんと洗濯するからまかしといて! それまでは自分の服、貸すからさ!」

さあ早く入ったと、強引に服を脱がされてバスルームに押しやられる。湯気が立ち込める中、突っ立っているのもアレかなと思い、頭から熱いシャワーを浴び始める。

(やっぱり…この心地よさは何物にも変えられない…)

男だろうと女だろうが、寒さに震えた身体へと熱湯の雨が当たるのは気持ちが良いものだ。

数分程シャワーを浴び、曇った鏡を手で拭いて見るとさっきまで蒼白じみた顔色は、シャワーのおかげですっかり血色を取り戻し、肌の方も鳥肌が立ちまくっていたのが嘘のようにつやつやと輝いている。

―――髪、伸びてきたなぁ。

鏡を見ながらそう思う。しばらく見ない内に、あちこちが伸びてきていた。気のせいかもしれないが女であることを意識するようになってからか、髪の毛が伸びるスピードが心なしか速くなった気がする。

(…髪、伸ばしてみるとかアリかな? これを機に姉さんばりに伸ばしてみるとか…)

自分の髪の毛が美希やあずさ、貴音並みに長くなっている光景…毛先を弄りながらそんな妄想をしてみる。ロングヘアにそれ程憧れは抱いてはいないものの、765プロ内でも長髪のアイドルが多い為、『もし自分が長い髪の毛だったら…?』という想像はどうしてもしてしまう。

今でこそロン毛というものがあるが『髪を伸ばせるのは女性の特権』という先入観じみた古くさい考えが朱里の中にはあった。

自分が女なんて認めたくなかった以前では積極的に髪を伸ばそうなど考えておらず、伸びたら速攻でカットして貰っていたが、こうやって鏡を見てみれば伸びる髪の毛をすぐ切ってしまうのは何だかもったいないような気がしてしまうのだ。髪が長い方が女らしく見られるだろうし、演技とか仕事の幅が広がるのでは…? とも思ってしまう。

髪を切る前に、今度律子さんと相談してみるかな…とぼんやり考えていると、ガチャリとバスルームの扉が開け放たれた。

「!?」

「おっまたせさー、朱里!」

そこには湯気で大事な所は辛うじて見えていないが、あられもない素っ裸の響が立っていた。沖縄育ちは伊達ではないらしく、全身が健康的な小麦色の肌をしている。

「!! ひ、響さん、なんで裸!? というか一緒に入るつもりですか!?」

いきなりバスルームに入ってきたことにビックリして、思わず胸元を手で隠してしまう朱里。

「? 別に女同士なんだし、減るもんじゃないだろ?」

「い、いや心の準備ってものが…入るときはノック位してください!」

「あはは、ゴメンなー!」

いくら女の身であろうが、いきなり同僚の裸を視界に納めて動揺しないはずがない。しかも元男の朱里、勃つものが無いとはいえやはり多少の罪悪感はある。

「まーまー、裸の付き合いってことで! 背中、流してあげるからさー」

だきっと背中から抱き着かれ、むにゅりと背中に乳房が当たる感覚がする。身内以外のこの感覚に朱里の身体は固まってしまった。

「…!」

我那覇響、事務所のホームページにあった3サイズが正しければ、確か上から83/56/80だったはず。つまり、今朱里の背中には10代にしてはかなりサイズの大きめのものが当たっている訳で―――。

「ん? どーしたんだ朱里? のぼせちゃった?」

「い、いや…シャワーでのぼせはしませんし…とりあえず、離れて下さい…。響さんも濡れていたんだし、シャワー浴びないと風邪ひきますよ…?」

―――この瞬間だけ、自分が女であって良かったと心から思った。ありえない話だが、もしこれが男だったら、目も当てられない大惨事になっていたことだろう。特に下半身が…。

 

 

 

 

 

 

2人は体中に湯気を昇らせながら、リビングへと入った。シャワーのおかげで、すっかり身体の震えも治まっている。

「ドライヤー貸してくれてありがとうございます。それに服も…」

響から借りた青色のトレーナーとズボンを摘みながら、朱里は響にお礼を言う。

「あはは、別に気にしなくていいぞ。今、朱里の服は乾燥させているから待っていてくれさー。自分の部屋着だからサイズ合ってないかもだし、ちょっとカッコ悪いかもしれないけど我慢してて」

「大丈夫ですよ。服のサイズ、殆ど変わりませんし」

「やっぱり朱里って良い身体しているよなー」

2つ齢が離れているのに、殆ど服のサイズが同じだということに朱里は改めて驚き、響は関心したような声を出す。先ほどの風呂場でも、ジロジロと身体を見ていたしこのようなことはもう慣れっこなのだが…。

「何食べたらそんな身体になれるんだ? 自分、それが不思議でたまらないんだけど」

「それ皆に言われるんですよね…私にも分からないのに…」

一応、説明するとすれば…親からの遺伝なのだろうか? 朱里の両親は食べても食べても太らない体質であり、それが子供である朱里たち星井三姉妹にも受け継がれている。もしかしたら星井家の女は食った分は胸や尻に行くような特異な体質なのかもしれない。

「へー、そしたら将来はあずさや貴音を超えるかもな? まだ成長期終わっていないんだろ?」

「これ以上増えても困りますよ。ただでさえ今でも大きいのに」

「贅沢な悩みだなー。あ、温かい飲み物入れるから、適当に座ってて!」

「私も何か手伝い…」

「いいからいいから!」

強引に朱里を座布団の上に座らせると、響はキッチンへと引っ込んでしまった。

(座ってろって言ったって…)

朱里の足元には蛇がチョロチョロと床を這い、頭の上ではオウムとモモンガが空を舞い、前方ではワニと豚が一緒に昼寝をする。あちらこちらで動物が動き回る光景に朱里は心休まるどころかハラハラしていた。響がきちんとしつけているから、噛んだり引っかかれたりするなどいったことは起こらないのだろうが…。普段動物と触れ合うことが全くない朱里は戸惑いを隠せないままだった。

落ち着きはしないがとりあえず気晴らしにでも、と部屋の周りのインテリアを観察する。

(…家族とか動物との写真が多いな。後はミニコンポとか本とか…菜緒姉さんの部屋みたい。その他で多く場所を取っているのはペットの寝床とかか…)

一目見ただけだが、女の子らしいインテリアの中に多くの写真が混じっているという印象だった。

棚には写真立てが置かれ、壁にはコルクボードに張られた写真、本棚にはアルバムなど…響は家族や動物との時間をこまめに記録し、写真に収めているみたいだ。

壁のコルクボードにある写真は今よりも少し幼そうな様子の響と家族と思われる人物2人の写真ばかりがあった。1人は母親なのは間違いなさそうだが、もう一人は…お兄さんだろうか? 齢が少し離れた男性の写真もあった。

どの写真も皆が笑顔で映っており、明るく活発そうな我那覇家の様子が人目で伝わった。見ているこちらも思わず笑顔になってしまいそうだ。

少し気になったのは写真には響の父親らしき人物が映っていないことだ。ただ単に写真嫌いなのか、それとも写真に映れない事情があるのかは分からないが―――。

と、そんなことを考えていた時、テーブルの上に置いてあった朱里の携帯電話がブルブルと震えた。

また事務所からの連絡かな? と思い、手に取って―――、一瞬だがグッと顔が強張った。液晶画面には『母』と表記されていたのだ。恐らく、仕事場でニュースの速報を知り、朱里が心配で電話をかけてきたのだろう。

(響さんはまだキッチンにいる…よな?)

他人の家で自分の家族との電話をすることに戸惑いながらも…通話ボタンを押し、耳に携帯を押し当てた。

「もしもし?」

『朱里? 今ニュース見たけど大丈夫?』

向こう側からはいつもの母の声が聞こえてきた。

「うん、仕事は無事に終わったよ。今は事務所の先輩の家にいる。電車止まっちゃって、しばらく先輩の家に居ることになった」

『そう…帰ってこれそうなの?』

「分かんない。しばらくたったら復旧するみたいだけど。お…母さんこそ、大丈夫?」

『こっちは大丈夫よ。時間はかかりそうだけど家までなら帰れるわ。ご飯は外で食べてくの?』

「いや、私もご飯までには帰れると思う。電車さえ動けば、こっちのものだし。もう今日の分、作ってあるんでしょ? それに皆もいるんだし、私だけいないのは変でしょ」

『…無理して早く帰って来ることないのよ? ほら、先輩達とご飯食べて来てもいいんだから。明日は学校も休みでしょう? 先輩さんが良いと言っているのなら、泊まっていったっていいのよ?』

「…いや、帰るよ。あんまり人の家に長居する訳にもいかないし、よほどのことが無い限り晩ご飯は家で食べるっていつも言っているじゃん」

『そう…』

一瞬、数週間前の食卓での明子の顔が脳裏に浮かび、グッと携帯を握る力が強くなる。別に悪いことをしている訳でもないのに、あの悲しんでいる顔がフラッシュバックする。

「…電車、動きそうになったらメールするから。それじゃ、お母さんも気を付けてね」

電話を続けることが気まずくなって、早口気味にそう言うと、通話を切り、そして携帯をテーブルの上へと放り投げた。僅か1分にも満たない通話時間なのに関わらず、全力疾走をしたかのような脱力感を感じる。

「朱里、おまたせさー!」

と、丁度響がお盆を持って、リビングへと戻ってきた。お盆の上には熱々のお茶が入っている湯呑みが2つ、乗っている。朱里は何事も無かったかのように表情を戻した。

「朱里はコーヒーの方が良かったかな? でも、自分コーヒーなんて普段は飲まなくてこんなものしか出せないけど」

「あっいや、別に…お茶を出してくれるだけでも有り難いですから…」

テーブルに置かれた緑茶を朱里は啜る。雪歩が淹れてくれたお茶とは味が違ったが、これはこれで中々イケた。でも、何故か気分は晴れず、ずっと渋茶を啜っているような気持ちだった。

 

 

 

 

 

 

我那覇響にとって、父親という存在はよく分からない存在だった。響は父親のことを全くと言っていいほど覚えていないのだ。

それは響が生まれてからすぐに事故で死んでしまったせいであり、響の父親に対する記憶は、母と兄などの家族や父親の仕事仲間が語ってくれる言葉の中と、いつも見せてくれたアルバムの中の写真にしか存在していなかった。

父親が普通にいる家庭と母子家庭の我那覇家とではどこか違う。そんな気持ちがあったからなのか、響は幼い頃からやたらと動物を飼いたがった所があった。

学校の帰り道に捕まえた魚やザリガニ、拾ってきたカブトムシや蛇にヤモリ、祭りで捕まえた金魚や亀…何でもかんでも捕まえてはカゴや水槽に放り込んで家で飼っていた。おかげで今では動物が大好きになり、周りが驚くような生き物にもベタベタ触れる。台所によく現れる『黒くてカサカサしたG』の討伐にも臆することなく行える。

色んな動物を拾ってくる癖はアイドルを始めてからも変わらず、捨てられた犬や猫だけでなく、ペットショップで元気のない兎や蛇、挙句の果てには野良ワニまで放っておけなくて飼ってしまう始末だ。

幼い頃に父が死んでから、響はずっと母と兄の3人で暮らしてきた。響は家族のことをとても大事に思っている。

だから響は学校の同級生が自分の家族の陰口をおもしろおかしく語っている光景をみるたびに、不愉快な気分になる。

同級生から「響ちゃんってマザコンだね」と笑われたこともあるが、マザコンで当然だと響は思う。家族を大切にしない奴なんて碌なもんじゃないぞ、と感じることさえある。

それは幼い頃から母が夜遅くまで働いている光景を見て育ち、齢の離れた兄が高校を卒業した後、進学しないで働いている姿を見ていたからだろう。

苦労している身内を常に見ていたからか、響は外弁慶な子へと育っていた。

家の外では明るく調子に乗ったりして周りを賑やかしているくせに、家に帰って家族の前ではおとなしい子供を振る舞って演じている…今となっては外での自分が素だとは分かってはいる。だが、その当時としては子供というのは家族の前ではおとなしく、良い子でいなければならない、子供のままでいなければならないとそういう風に思っていた。家族の手にかかるような迷惑なことをしてはいけないのだという考えが響の中にはあった。

だから幼い頃より芽生えていた『アイドルをやりたい、東京に行きたい』という自分の想いを響は言えずにいた。自分のそんな行動が我那覇家全体に迷惑をかけてしまうのでは…? と思ったのだ。

でも、自分の中から湧き出てくる気持ちに嘘はつけず、怒られるのを覚悟でとうとう母と兄に相談した。「自分はアイドルをやりたい」と。

永遠とも思われる沈黙の後で―――2人は「心配するな」と豪快に笑って見せた。

兄は「俺はまだまだ働けるしお金のことなら大丈夫」だと言い、母は「必要だったらどこにだって頭を下げるし、あんたが心配するようなことは何もない」とぴしゃりと言ってのけたのだ。そして続けて、2人はこう言った。

―――あんたがアイドルに憧れていたのなんて、ずっと昔から知っていた、と。毎日、アイドルの真似をして、町はずれの海辺で歌を歌っていただろうと。

響は自分の秘密にしていた行動が筒抜けだったのに赤面したが、すぐに反論した。「でも、自分が出て行って迷惑にならないか?」「勝手なことをやって大丈夫か?」と。

「変に気を遣わせられる方がこっちとしては迷惑だ。やりたいことがあるんなら、それをやってくれ」

「で、でも…やっぱり、兄ぃ達にも迷惑かけちゃうだろ? お金とか…」

「だったら、お前の夢はここで駄目と言われて諦められるほどの夢なのか?」

「…それは、違う、けど」

「あんたはまだ若いんだから、今できることをやりたいように精一杯やりなさい。どんな結果になろうと、母さんと兄ぃは応援するから。ただ、勉強だけはきちんとするんだよ」

その言葉に押されるように響は上京し、765プロでアイドルとなった。

だから響は何事にも一生懸命だ。皆が見ていない間にも自分だけこっそりと練習だってする。ラジオやテレビなんかも見て、上手い人の喋り方や映り方も勉強している。素の自分を隠すことなく、毎日を全力で生きている。

家族から来る応援の手紙、写真なども響の大きな原動力となっている。応援してくれる家族が誇れるようなアイドルになりたい―――それが今の響の目標だ。

それに今は新しい家族、いぬ美達もいる。新しい家族が不自由なく暮らせるようにしっかりと稼げるアイドルにもなりたかった。動物達との全員集合の写真を母達に送ったら「あんたまた動物を拾ってきて…」と呆れた様子で電話をかけてきたのも記憶に新しい。

「親子」という関係は難しいものだと思うが、「家族」という関係はもっと複雑で物凄く面倒なものだと響は感じている。

「親子」は響と父の関係のように、自分の記憶がない存在でも「親子」という関係であることに変わりはない。たとえ死んでしまったとしても、戸籍上では父としてそこには存在している。言葉や写真の中だけの存在だとしても「親子」という関係が出来上がっている。

だが「家族」という関係は、「親子」の関係ほど単純な物じゃない。死別や離婚のような別れだって当然ある。それによって関係が変わったり、最悪の場合は崩れたり…一筋縄ではいかない。自分が気を許せて、無神経な関係でいられるような場所にほど、実は細心の神経を求めてしまう。

生活という土俵の中で時間をかけて互いに信頼を築き、時には傷つけ合いながらも相手を理解しなければならない。時にはそのぶつかり合いでその関係そのものが崩壊してしまう時だってある。でもそういうことがなければ分かり合えないこともあるのもまた事実だ。

響は動物達とよく話し、よく喧嘩する。ハム蔵やいぬ美と事務所で取っ組み合いの喧嘩をしたことさえもある。それを良しとしない人も当然いるが、響はこうでもしないと相手の本音なんか分かりっこないという自論があった。

分かる事と分かりあうことは違う、言いたいことは言わなければ分からない。そして細心の神経を使うような場所だからこそ、互いの良し悪し、腹の中など全部を知っておくべきだと思っているのだ。

「ジュイ」

「…ああハム蔵。ご飯はもうちょっと待っててさ。洗い物が終わったら直ぐに用意するから」

「ジュイ…」

「あはは、朱里にも事情があるんだろ? そんなに残念がっちゃ駄目だぞ?」

響はガチャガチャと中身が空になった湯呑みを洗剤で洗いながら、朱里のことを考えていた。リビングでの電話の内容も盗み聞きするつもりはなかったのだが、つい聞いてしまった。その内容から親と何かを話していたような様子だった。電車がどうとか、ご飯までには家に帰るとかどうとか…。

気付かないふりをしてお茶を飲みながら、他愛のないことを話すこと数時間、何とか停電が回復して電車の運航を再開してから朱里は飛び出す様に響の家を出ていった。「あまり長居する訳にもいきませんから」とだけ朱里は言うと、乾燥した服に着替えるとまだ風が吹きすさむ街中へと消えていった。

自分に対して気を遣っていたのもあるのだろうが、それ以上に響は朱里が電話時の態度がどこか引っかかっていた。無理してでも家に帰ろうとするようなあの態度に。無論、盗み聞きした会話だけで全部が分かる訳ではないのだが…。

(良い子でいればいいって訳でもない。変に気を遣った方が却って迷惑になる場合だってあるし…)

朱里の電話越しでの、不自然なまでに良い子でいようとしているような態度は―――昔の外弁慶だった自分を見ているような気がしたのだ。

朱里は周りに対して、必要以上に気を遣う所がある。事務所に入り立ての時なんかは特にそうだった。あの様子では家族に…特に親に対してはあのような態度なのだろう。

朱里は家族に対して気を遣っているのだろう。迷惑をかけないように、心配させないようにと。でも、逆の立場から見てみるとそういう変に気を遣われる方が逆に心配をかけさせる。

罵りあい、傷つけあって訣別した家庭状態というのは当たり前だが悲劇だ。だが必要以上に気を遣うせいでどこかぎこちなさを感じる家族というのも別の意味で悲しく、苦しいと思う。それが善意で行われていれば、余計に…。

「やっぱり、家族って難しいな…」

「ジュイ?」

そう呟いた響の独り言に、肩に乗っかっていたハム蔵は理解が及ばないとばかりに小首を傾げるのであった。




他人から見た朱里の、美希以外の家族への振る舞い。
765プロの中で『家族』に重きを置いてある響目線で描いてみました。
遠慮なく言い合ったり、動物と喧嘩する響にとって、必要以上に気を遣って、親に心配をかけさせないとしてしまう朱里の態度にはやはりぎこちなさを感じてしまうのでは…と思ってしまいます。

たぶん、過剰な気遣いや言葉がなくても理解しあえる関係こそが、ほんとうの家族というものなんでしょうから…。

次回は…誰がメインになるのかしら? 次回もお楽しみに!



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第35話 夏に突入、休みに突入?

4月に入り、もうすぐゴールデンウィーク。10連休という未知の世界に、今後もしかしたら仕事やなんやで更新ペースが落ちるかもしれません。
落ちる時は年単位でガッツリ止まりますが、よろしくお願いします。


大雨と停電事件から2週間程経ち、季節は7月に突入した。

温暖化により例年より早めのサマーシーズン到来、のうたい文句と共にあの憂鬱な梅雨空の日々は少なくなり、日差しも気温も一気に強くなった。テレビの天気予報では眼鏡をかけた予報官が天気図を指し示しながらも、気温の変動が激しいので風邪を引きやすいという注意と共に、この季節特有の集中豪雨にはお気をつけて―――と呼びかけをしている。

それはレッスンも変わらない。一気に暑くなった弊害で移動中やレッスン中も汗をかきやすくなってしまっている。猛烈に動くダンスレッスン時は特にそれが顕著だ。少し動いただけで汗が吹き出てくる。

数時間動いた後は運動部さながらの全身汗まみれになってしまう。普段以上に汗をかく故に疲労感もそれ以上だ。

「あっつい…」

朱里は気怠さと全身にまとわりつく汗のべとべとに参りながらひんやりとしたスタジオの隅っこに腰を下ろした。ペトリと自分の頭を壁へと寄りかからせながら、じっと目を閉じる。

すぐ向かいには伊織も同じように手で団扇を作りながら仰いでいた。少し離れた所にはあずさと貴音が膝に手を置きながら息をついている。

故郷村の仕事が終わり、各々のスキルアップを目指してレッスンの質も量も一気に上がっていった。同時に見られるポイントも厳しくなっていく。朱里にも「もっと膝を高く上げないと、高揚感が伝わらない」だの「疲れていると手と脚だけで踊っているのが見られる。爪の先までしっかり気を配らなきゃ」など、トレーナーの檄がガンガン飛んでいた。

やれる時にこそしっかりとやる、徐々に仕事が増えていっている今だからこそ、地盤をしっかり固めておく必要がある。

(あと数日で期末テストが始まって、それが終われば…すぐに夏休みだ)

頭の中のカレンダーを思い浮かべながら、朱里は一人物思いに耽る。

そう、もうすぐ夏休みだ。空羽が言っていたようにスイカと花火に男と浮かれている訳ではないが、もうすぐに迫った長期の休みに世間はカウントダウンの気分に満ちている。実は朱里もだが、夏休みまでの日数を指折り数えている一人だ。

―――夏休みになればみんな午前中から仕事を入れられるようになる。あずさと貴音以外のアイドルは全員学生なので平日は授業終了後からしか仕事ができなかったのが、時間の縛りがなくなって仕事の時間が倍以上に増える。学生の所属アイドルが大多数を占める765プロにとっては待ちに待った書き入れ時だ。

無論、その条件はどこの事務所も変わらないが…そんな時期だからこそ、いざ入ってきた仕事でしっかりと成果が残せるか…それが重要になってくるのだ。

だから時間に余裕がある今のうちにしっかりとした体力、太い心肺や筋力を身に付けることの重要性は分かるのだが…。

(…このまま眠りたい。姉さんみたいに寝転がって爆睡したい…)

ぐで~、と壁によっかかって物言わぬ石像と化した朱里は寝てばかりいる姉の心境をほんの少しだけ理解できる気がしていた。

クールダウンを怠ると身体にも負担をかけたり、翌日以降のコンディションにも影響が出る。スポーツの世界でも一流選手程、どこかしらの故障やリスクと背中合わせの日々を送っているもので、こういう柔軟運動やマッサージは怠っていけないということも理解しているのだが、息も絶え絶えの状態ではそれすらもやりたくない。動くのも億劫だ。

「はい、朱里ちゃん。今から押すから、起きてね~」

「は、はーい」

だが、息を整えたあずさに声をかけられると毒づきたい気持ちは萎んでいき、2人一組でのオーソドックスな開脚ストレッチを始めさせられる。

あずさのおっとりとした声色を前にすると、不思議と従ってしまう気がする。

生理痛の時もそうなのだが、やはり唯一の成人アイドルには包容力だけでなく、そういう有無を言わせない威圧感を持っているような気がするのだ。ニコニコ笑うあずさの笑顔の裏に、偶にそういった無言の迫力を感じる時もあるし、そういう時は大人ってやっぱり怖いな、とも思ってしまう。

「はい、背中押すわね」

「いいですよ」

グイグイと背中を押され、身体を伸ばすたびに春頃から比べて、自分の身体が柔らかくなっていると感じる。前までは全く身体が伸びずガチガチだったのだが、丁度オーディションをやる前後から少しずつ伸びてくるようになり、今では足を180度開脚しての上半身を床に突っ伏させるまでには至らないものの、それなりに柔らかくなっている。

ガチガチの身体ではダンスもままならないと毎晩風呂上りと就寝時前にやっていた成果が出ているな、と目に見える変化に少し嬉しくなる。やはり、目に見えて分かる変化というものはこちらのモチベーションも上がる要因の一つだ。

「あずささん、次、私が押しますね」

足や身体の筋肉が良い感じに伸びていくのを感じつつ、朱里はあずさと役割を交換する。

「もうちょっと押しますか?」

「も、もう少し強めで…」

「強め、ですね。では行きますよ」

少し苦しそうだがまだいけるというあずさの言葉を信じ、グイグイと力を入れて背中を押し、身体を伸ばしていく。

朱里以上に伸びる豊満な身体の柔らかさ、ジャージの裾からちらりと見える足の細さやしなやかさに思わず目を奪われる。バストサイズ91という765プロ内最大の胸の大きさにどうしても目が行きがちだが、こういった足周りの綺麗さもその魅力だと思う。

足回りの筋肉が増えることは疲れにくさやダンス時における上体の安定さにもつながるが、同時に増えることにより足が太くなるというリスクも抱えることになる。アイドルをするにおいて、太い足というのはビジュアル的に致命的な欠点となりうる問題だ。

人間の身体の構造上、特に身体の硬い部分は太くなりやすい。硬く縮こまった筋肉はストレッチで伸ばして柔らかくし、太さを抑制する必要があるのだ。

唯一の成人で、成長期を終えてある程度身体が出来上がってしまっているあずさはそれを少しでも抑えようと必死だ。柔軟運動は誰よりも長く熱心に取り組み、マッサージや歩き方にも気を遣っている。

ヒールなど高い靴も日常生活では履かないように心がけているようだ。踵が高い靴を履くことによる、足に余計な負担をかけないようにしているらしい。

―――そういった地道な努力の上に、この身体が出来ているってことか。

あずさの足回りに少し見とれつつもストレッチのサポートに専念する朱里。

自分も若いから、成長期だからといって、柔軟をサボっちゃ駄目だな…と先ほどの迂闊な考えを反省する。体重にしろ足にしろ、一度太くなってしまったのを戻すのは時間がかかる上に至難の業だ。伸びてしまった腹や足の皮は痩せた後も残ることもあり好ましくはない。

前を見ると、伊織も同じように貴音に押されながら柔軟運動を行っている姿を捉えた。ぐいっと貴音の胸が背中に当り、苦悶の表情を浮かべている。あれはストレッチの痛さだけでなく、胸囲への嫉妬も混じったような顔だった。今日のレッスンでは奇妙なことに765プロ内の胸囲の大きさのトップ2が一緒だから…と苦笑する。

(…というか、中学生じゃ伊織くらいの大きさでも大きい方だと思うんだけどな。貴音さんだけでなく、あずささんとかの大きさがおかしいだけで…)

伊織とあずさ…この2人の組み合わせを見た時、ふと唐突に変な事を思い出した。

「…あずささんって伊織と一緒にレッスンすること、多くないですか?」

身体を伸ばす伊織を見ながら、朱里はふと湧き上がった疑問を口に出していた。

自分が765に所属する以前の状況は分からないが、丁度宣材写真の一件後くらいから、自分が見る限りでこの2人がレッスン時に一緒に組まれている率が妙に高いなと、そう感じたのだ。

「あら~、そうかしら?」

「うーん、そうかも…?」

「ふむ…そう言われれば私もそう思います」

その言葉にあずさ達3人は柔軟を止めると、皆思うところがあるのか会話を始める。

「やっぱりそうですよね? 数か月くらいしか一緒に居ませんが、結構被る時が多い気がしますし。特に律子さんがレッスン見ている日なんかは絶対に被っているような…」

あの鬼軍曹が仕切る日は、ほぼほぼあずさと伊織の2人が絶対に同じレッスンに参加している。

「私が思うに、2人だけでなく亜美と真美も一緒にいる確率が高いと思います。特に亜美とは絶対に被っているような気がします」

と、貴音が続けて言う。

「…まあ、双子とは背丈は似ているとかで組む確率は高いけど…。でも、言われてみれば、真美より亜美の方が一緒かもしれないわね」

「どうしてなのかしらね?」

「偶々…にしては被りすぎな気がしますね」

うーん、と皆一同に小首を傾げた。一度や二度はあり得るだろうが、これが何度もとなると気になってしまう。

伊織とあずさと亜美。珍妙な組み合わせかもしれないが共通点は幾つかある。例えば…全員の歌唱力が高い所とか。

あずさはかなり伸びのある声をしており、特に高音時の声の伸びが素晴らしい。持ち歌である『隣に…』は高音+伸びの部分がかなり多く、特にサビのパートはあずさ以外では歌えないと言われているぐらいだ。それに云わずと知れたあの魅惑の身体の持ち主で、性格もおっとりとしていると来ている。

伊織は甘い歌声が印象的で、上品な歌声を前面に押し出してどのような曲でもきちんと歌い上げられるオールラウンダーぶりだ。そして、きちんと周りを見渡せ、遠慮の知らない性格が故にズバズバ言える度胸も備わっている。少し素直じゃないのがたまにキズだが…そういう所も魅力の一つだ。育ちの良さから動きの一つ一つに上品さも滲み出ている所も大きな強みだろう。

亜美は独特の歌声、演技力が光る要素だ。765最年少なのにやけにコブシの利いた独特の歌い方をする上に、悪戯で磨かれたモノマネと表現力でビジュアル力も高い。その極致がかの『一人765プロ』であり、なんと全員の特徴を的確に捉えたモノマネ芸を披露できる程だ。しかも律子とプロデューサー、小鳥などのアイドルでない面子も含めたモノマネだ。

(3人とも歌唱力だけじゃないし、ビジュアルも高い面子だし。組ませたら…良いユニットになるんじゃないか?)

ユニットを組んだら組んだで各々の立ち位置やら何やらで個人が持つ魅力がどう作用するのかは分からないが…面白そうな組み合わせではあるだろう。

…もしかして、事務所の方は組ませる前提でここしばらく動いているのだろうか? レッスンを多くかぶらせているのも、ユニット結成した際に違和感なく動けるようにするためなのだろうか…。

「あの、もしかしたらなんですけど」

「はーい、手を止めないで、さっさと続ける! 」

丁度口を開こうとしたタイミングで、手が止まっていた面子を急かす様にトレーナーが手を叩いた。

「色々話したいことがあるのは分かるけど、時間が押しているわ! 手をさっさと動かして柔軟をやる! テキパキ動くのも良いアイドルの条件よ!!」

その言葉に急かされるかのように、皆が慌ててクールダウンを再開する。

確か朱里たちの次には他の利用者がいたはず。さっさと終わらせて、事務所に戻って報告しなければならない。

事務所に戻って報告…普段では何ともないその行為をやるのを億劫に感じて、渋い顔をする。今の事務所の惨状を考えると、なるべく事務所には立ち寄りたくないのだ。

「事務所に戻りたくないわね…あんな灼熱地獄に…」

「私もあんな暑い所に長時間いたくないわ…」

「夕立でもくれば涼しくなるのですが…」

他3人も同じ意見なのか、同じような顔をした。

その原因は昨日、オンボロ稼働で何とか動かしていた事務所のエアコンが遂にご臨終になったことにある。ボタンを押してもうんともすんとも言わなくなり、古い型のエアコンなので修理に手間がかかり、すぐには直らないそうだ。買い換えようにも今の事務所には早急に新品の物を買う余裕もないので、暑さを我慢するしかないのが現状だ。

籠る熱気を少しでも何とかしようと、窓を全開にして換気を行ってはいるが焼け石に水の状態。デスクワークを行う面子はバケツに水を張ってそこに足を突っ込んで涼んでいるという余所には見せられないような有様だ。

暴力的なまでに気温が上がり続けている現在、冷房が使えない事務所に戻るのは苦行そのものだったが、直るまでは我慢するしかない。

外に出るのも辛いのに、事務所に戻っても暑さは続く。そのままならなさにため息をつくしかない一同であった。

 

 

 

 

 

 

街灯がつき始める時間にもなれば、涼しくなってきた。夕方辺りから少し太陽が雲に隠れていたおかげで、日差しが遮られたことにもよるだろう。自分の読みが当たって良かった、とホッとする。

全開に開け放った窓から流れてくる風に少し心地よくなりながら、すっかりぬるくなった麦茶を煽った。

レッスンが終わった後、熱気渦巻く事務所に報告した後皆早々に帰る中、朱里は一人残って期末テスト用の最後の追い込みに入っていた。中間テストが合間に入っていたおかげで出題範囲自体は多少狭いが、こういうのは油断せずにきちんとやっておいた方が良い。

こんな事務所でやることないのに…と伊織は呆れていたが、気温が下がることを予期してた朱里は暑いのを我慢してでも残った。家でやってもいいのだが早めに帰りたい気分でもなかったし、ここでは喫茶店とは違ってコーヒーも麦茶も無料で飲めるし、騒音も少ない。しかも今日は残っているアイドルも少ないという貸切状態。

それに…と、デスクワークに励んでいる小鳥に目をやる。誰かに見られていた方が急かされたようでこっちのモチベーションも上がるものだ。苦手な教科に取りかかる時ややる気がない時などに朱里はよくこの手方を使っている。

麦茶を飲み干し、やりかけだった古文の教科書に視線を戻す。『国語 2』のテストの出題範囲である、清少納言の『枕草子』を開く。

『枕草子』は感傷が交じった心情を洗練されたセンスで描いており、短い上に簡潔な文で書かれている。だからこそ、1000年も前に執筆された文献なのに多くの人に愛される文献になりえているのだろう。文学の世界に朱里は詳しいわけではないが、独特のリズムと文章に惹かれる物を感じていた。

古今東西、文学に限らず絵や曲…様々な分野で名前が未だに残っている作品というのは、こういう時代を超えても惹かれるような要素を残しているような物ばかりだ。

数字だけの整然としたロジックの世界の理系分野は元々好きだが、アイドルを始めて色んな歌詞や曲などを見たり聞いたりすることで、こういう文学特有の言い回しの言葉遊びや風格ある文学の世界にも朱里は興味が湧き始めていた。

ペラリとノートを捲り、枕草子の第一段部分にあたる「春はあけぼの」から始まる季節の記述について確認した後、市販の参考書を取り出して問題に励んだ。

しばらくの間スラスラと問題を解き、答えと照らし合わせながらきちんと解けている事を確認し、満足した。古文に関しては問題はなさそうだ。

高揚感から思わず手に持っているシャーペンをぐるりと弄ぶが、その時、事務所のドアが開け放たれる音が聞こえ、手元が狂ってそれを落としてしまった。

「おっと…」

「あら社長、お帰りなさい!」

「おおただいま小鳥君。いやはや、もうすっかり夏だねぇ…クールビズをしてても、汗が出てくる」

どうやら帰って来たのは高木社長らしい。最近社長も外回りを多くなっている気がする。

パソコンデスク側へと転がっていくペンを追いかけていると、丁度社長と視線が合った。ここ数カ月で身に付いた条件反射で、すぐ挨拶する。

「社長、おはようございます」

「おお、朱里君おはよう。こんな時間まで残って、どうしたんだい?」

「テスト勉強ですよ。期末テストまでもうすぐですから。家に帰っちゃったら誘惑も多いので、ここでやっていたんです」

そんなことを言いつつ、床に転がったままのシャーペンを拾った。

「テスト…ははっ、懐かしい響きだねぇ。長い間働いていると、学生時代が遠くに感じてしまうものだ」

「あら朱里ちゃんもお疲れ様。勉強の方は…あら、枕草子? 懐かしい~、私も学生の頃、やっていたわ。こういうのって今も昔も変わらないのね」

高木社長は懐かしそうに声を漏らし、小鳥は朱里が広げていた教科書を覗き込んでいた。

やっぱりこういうテスト範囲って世界が変わろうが今も昔も変わらないのか…と朱里は一人思った。こういう有名所の文学作品も1周目と変わらず、ちゃんとある事だし。

「まあ…この調子じゃ古文の方は問題なさそうですけどね」

「おお、凄い自信だねぇ!」

「今回も双子には負けられませんからね。前にあんなこと言っちゃっている以上、テストの点は落とせませんよ」

「ふふ、亜美ちゃん真美ちゃん呆気にとられていたものね」

「あれ以来、私の成績がちょっとでも下がる所探そうと躍起になっていますしね。勉強にちょっとでも意識を持ってくれたことは嬉しいんですけど」

ゴールデンウィークに言われたことが多少引っかかっているのか、亜美と真美はそれなりに勉強に向かうようにはなっていた。中間テストも赤点は逃れたと言っていたし、多少はマシな態度で勉強するようにはなっているのだろう。

その後は社長と小鳥の2人と近況報告やら世間話をし、適当な所で切り上げてテスト勉強へと戻ろうとした。

すると社長が「そうだ、朱里君」と呼び止められた。ちょっと、と手招きされる。

「朱里君は慰安旅行、行けるのかい? 早めに聞いておかなくては予約も間に合わなくなるからね」

「ああ…」

慰安旅行―――今の今まですっかり忘れていた。テストのことに集中しようとしていて、その他のことについてはあまり意識を持っていていなかった。

丁度学校の終業式前の最後の土日のタイミングで、社長が慰安旅行を計画していたのだ。終業式後の仕事の時間の縛りが無くなる直前での、少し早めの夏休みとして計画している。

場所は千葉県内にある近場の旅館。社長の知り合いが経営している所で、知り合い故に料金も格安で組んでくれるとのこと。旅館の目の前には海水浴場もあり、結構有名な所みたいだ。

スケジュール空いている奴は全員参加、という名目で募集はしているが、ホワイトボードに書かれているスケジュールの惨状ではほぼ全員参加は確実だろう。今の所誰一人仕事入っていないし。

朱里も美希もスケジュール的には問題なく、一応参加は出来るのだが…。

「まあ、その頃にはテストも終わっていますし、大丈夫ですけど」

「あら、あまり気乗りしていないの?」

と、小鳥が聞いてくる。

「…そういう訳じゃないんですけど。ただ、仕事ないのに休むのは何か…」

「気が引ける、と?」

「まあ、ただでさえ仕事少ないですし。あのスケジュールの様子じゃあ…」

チラリと壁に掛けられているホワイトボードを見ると、ほぼ真っ白状態。空白が目立ち過ぎてあまりに寂し過ぎるせいで、誰かが描いた落書きも交じっている始末だ。

「動ける時に動くのも大事だが、休める時に休むのも大切だよ? いざという時に動けなくなっては困るからね。励む姿は立派だが、しっかり休むのも立派な仕事だ。律子君や彼にも引率者という形ではあるが参加させ、休みを取らせるしね」

「一応休んではいるんですけど」

「美希君の話では休みの日も事務所から借りたダンスのビデオを見たり、自主練をしているそうじゃないか。そういうことをすっぱり忘れてリフレッシュすることも大切だよ?」

美希の奴、社長に余計な事を漏らしたな…と毒づく。自主練やってる日もきちんと食事と睡眠くらいは取っているのだから、しっかり休んではいるのに。

「それに私達の業界は人気が出れば出る程、気軽に休むことも出来なくなる。こういう慰安旅行も今のうちにしか出来ない事だ」

「しかも行き先は千葉の海よ? シーズンは少し早いけど、そのおかげで今なら人も少ないし」

ほらここ、とパソコンで検索をかけた小鳥はその様子を見せてくれた。

人ごみ具合からそれなりに人気の場所らしい。旅館の方も少し小さいが、悪い場所じゃなさそうだ。

旅館は魅力的だが、中学生にもなってまで海に行くってのも個人的には疑問だ。全力で海水浴するって齢でもないし、そもそも海で何をすればいいのか。

「そもそも水着も持っていない自分が行ったところで…」

うーんと唸る朱里に業を煮やしたのか、小鳥は朱里を椅子に座らせて、ウリウリと後頭部をつつく。

「いい仕事をするためには、こういう風な場所に出ていくことも必要よ? 家や事務所を往復するだけじゃ駄目! 普段やらないようなことをやって…潜在意識を、覚醒させるの!!」

「はっはっは、参加するしないに関わらず…せめて今週中には有無の連絡が欲しいね。予約が間に合わなくなるから…」

「…じゃあ、今週中には連絡を入れますので…」

「まあ、朱里君の場合はその前に、期末テストかな? 慰安旅行に」

 

 

 

 

 

 

「小鳥君、そろそろ事務所を閉めるが、大丈夫かね?」

「はい、この書類整理したらおしまいですので」

夜もとっぷり更け、終電も間近になった頃。社長と小鳥二人だけの事務所ではそんな声が響く。

「朱里君は果たして慰安旅行に参加してくれるのかな? 心配していた千早君は何とか折れてくれたが…」

「春香ちゃん、千早ちゃんをどうにか連れて行こうと凄い説得していましたからねぇ…」

「後は朱里君だけなんだが…」

乗り気ではなさそうだった朱里を心配する社長に小鳥は大丈夫そうな様子だった。

「ああいう風な言い方をすれば朱里ちゃんは恐らく参加しますよ。美希ちゃんには既に連絡を入れていますし。最悪、引きずってでも参加させるんじゃないでしょうか」

「ははっ、頼もしいねぇ。今回の慰安旅行で、皆には英気をしっかり養ってもらいたいからね」

と、社長は一息つく。アイドル達にはまだ話してはいないが、慰安旅行後にある一大プロジェクトが始まり、事務所の体制も大きく変わる。

上手くいけばだが、その後の765プロは忙しくなる。その前段階として皆にはしっかりと休んでほしいという考えが高木社長の中にはあったのだ。

「慰安旅行後には、動き出すからね。律子君が企画していたユニット―――竜宮小町が」

「まだメンバーとなる子には話はしてませんが…トレーナーさんの様子では動きを合わせる時間さえあれば、すぐにでも活動できると。上手くいけばいいのですが…」

「上手くいくさ。あの律子君が自信満々に企画したのだからね。我々もここ数か月かけずり回っていたのだから」

アイドル引退後、律子がプロデューサーの仕事と並行して進めていた一大プロジェクト。

彼女の力の入れようとその自信の裏付けとも取れる完成度に、社長はいけると確信に近い感覚でいた。

「それに…さっきの外回りで受け取ってきたからねぇ、竜宮小町の新曲を。まだ声も入っていないサンプルだが…」

「もしかして社長、聞いたんですか!?」

「ふふっ、帰りの車で一番乗りにね。いやぁ、良い曲だった! 早く声付きで聞きたい!!」

「ズルいです!」

「聞いても良いが、電車に間に合わなくなるぞ?」

意地の悪そうな声で笑う社長に、小鳥はジロリとした目線で思わず睨む。

「まぁ、曲は逃げないから、明日律子君と彼と一緒に聞こうじゃないか!」

小鳥のそんな顔に、はっはっは…と悪戯が成功した子供みたいな笑いをする社長だった。




朱里や美希はまだ成長期の途中ですから、どんどん増えます。身長もおっぱいも。
というか、美希まだ15なのにこれ以上デカくなったら、どーなっちゃうの?

次回は慰安旅行の前後のあれこれやらを描きます。ついでに朱里のプロフィールなんかも明らかに…?

次回もお楽しみに!


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第36話 ショッピング

今回試験的に文字の間隔をあけてみました。不評だったら戻します。好評だったら今後も続ける他、過去話も修正して見ようと思います。

ではどうぞ。


数日後に行われた期末テストは、朱里の心配を余所に順調に進んだ。

 

少し心配だった古典が入っている国語も問題なく解け、特にトラブルらしい何かが起こる訳でもなかった。ケアレスミスをしている可能性も捨てきれないのだがどれかが壊滅的に解けないということもなく『可もなく、不可もない』という言葉がぴったりの内容だった。

 

最終日は残された2つの教科…美術と保健体育という暗記モノのテストを消化試合的に行うだけであり、これも殆ど問題ない。実技が挟んでくる教科の為、最終的な成績の評価はどうなるかは分からないが…筆記に関しては心配することも無いだろう。

 

テスト期間中は午前中に学校が終わり、最終日の今日は何もかもから解放され、午後が丸々空くという夢のような時間が待っていた。

 

「偶にはすっぱり忘れて休むことも大切」と言っていた社長の言葉ではないが、テストが終わった日くらいはゆっくり過ごすべきかな…と思い、朱里は久しぶりに喫茶店『モンデンキント』にでも行って、ケーキセットでも注文しようと計画を立てていた。

ついでに普段は頼まないアップルパイもつけちゃおうか…と頭の中は完全にオフモードに入ってる。

ゴールデンウィークに千早と二人で行ったきりだった為、久しぶりになるな…と、頭の中はお気に入りの喫茶店のことで一杯だった。

 

穏やかな店内でゆっくりカップを傾けながら、ケーキを食べ、シナモンを多めに載っけたアップルパイを頬張り、ちょっとした贅沢を噛みしめる。

 

―――そのはずだったのに。

 

「…で、なんでテスト終わった直後に、私は姉さんに連れられているの?」

「だって、こうでもしなきゃ、朱里逃げちゃうの」

「説明になってないよ!」

「朱里、声大きいの」

「誰のせいだ…」

 

今日、何度目かとなるやり取りを繰り返しながら、電車は進む。

 

テストも全て終わり、ホームルームが終わって席を立つか立たないかの瞬間に美希が教室に飛び込み、朱里の手を引っ張りながら学校の外へと連れ出された。周りの好奇の目線に晒されながら有無を言わさず電車に乗せられ、何をするのかどこへ行くのか目的も分からずにいる。

 

何とか通学カバンだけは忘れずに持ち出せたものの、身内じゃなかったら拉致か誘拐で訴えられるぜと言いかけてしまう。が、去年あたりまで授業が終わったら学校中を逃げ回っていた事を思い出し、美希が自分を捕まえようとなるとこのような凶行に走ってしまうのも無理はない…と自分でも納得してしまうのが悔しい。

 

「あ、次で降りるの!」

 

次、と言われ電車内にある電光板を無意識に見て、『渋谷』と映し出されているのにますます眉を顰めた。

確かに美希だけなら渋谷に寄るのは分かる。普段からあちこち寄り道したりウィンドウショッピングしたりすることはよくあるし、休日は渋谷にある店で服や化粧品などを買うことも珍しくない。よく紙袋や朱里でも名前くらいは知っているお店の袋などを持ち帰って来る光景を何度か目にしている。

 

だが、朱里まで連れて行くのは何故なのだろう。テストの打ち上げ…という線も考えられなくもないが、それだったらわざわざ渋谷まで赴く事はない。近所には最近出来たカラオケボックスがあるし、ファミレスだのカフェだってある。時間を潰すならそこを使うはずだ。

 

「…そもそもさ、渋谷で何すんのさ?」

 

されるがままに改札口を抜け、迷路のような駅内を美希は迷うことなく歩いていく。手を握られ、引っ張られるように朱里は移動していた。

 

「買い物なの」

「買い物…何買うの?」

「慰安旅行で着る水着なの」

「…何で私も付き合うのさ?」

 

朱里は用心深く先を促す。荷物持ちだとか、水着を選んでくれだとかそんなことで自分を連れてきたわけではない事は分かってはいたが、最終確認の為に聞き出す。

 

「美希ね、最近また胸が大きくなって去年の水着が入らないの」

「ああそうだっけ。ブラジャー、春先に替えたもんね」

 

立ち止まった美希は楽しくてたまらない、という様子だった。その姿に朱里は自分の姉が童話に出てくる魔女の姿を彷彿とさせた。獲物が来たから頂こう、と大鍋をぐつぐつ煮込むかのような。

 

「これを機に新しいのを欲しいんだけど…ついでだから、朱里に似合うのも買っちゃおうかなって!」

「何でぇ!?」

 

渋谷駅の片隅に朱里の悲鳴と混乱が渦巻いた。気でも狂ったのか、海水浴やる訳じゃないんだから買わんぞ、第一私そんな物買うお金持ってないぞ、などなど。

 

「だって朱里、水着持っていないんでしょ? だから今から買いに行くの!」

「今から? このテストが終わった直後に?」

「だって朱里、水着持っていないでしょ。朱里が水着姿なの美希も見たことなかったし、小鳥がそんなこと朱里が話していたって昨日聞いたよ?」

 

小鳥さん、美希に余計なこと言ったな…と恨む。試験前についポロリと漏らした一言が美希の心に火をつけてしまったことにがっくりと肩を落としたい気分だった。

 

「一応、持ってはいるけれど」

「それ、小学生の時のでしょ?」

 

それはノーカン、と言いたげなジト目に「そりゃそうだよな…」と朱里も呟く。

朱里と美希が通う中学校はプールが置かれていない為、水泳授業が科目に入っていない。その為、授業で使うスクール水着の類は持っていない。

プライベートで海やプールに行く為、自前の水着を持っている美希とは違い、朱里は自分の水着を一着も持っていない。そもそも何故好き好んで素肌を見せびらかすような恰好をしなければならないのだと思うくらいだ。

泳げはするが、好き好んで水場に近づくことは基本ない。小学生の時の水泳の授業は最低限だけ出席するだけで嫌だったのに、夏の薄着の制服を着るのも憂鬱になるのに、わざわざそれ以上の露出の恰好をすることに耐えられないのだ。

 

「朱里だって慰安旅行に行くんだから、水着着るのは当然だと思うけどな」

「行くとは言ったけど、水着を着るとは言っていない。ビーチには水着姿じゃない人だっているだろ」

「朱里はアイドルなんだから、ちゃんとした格好で行かなきゃ駄目なの! 今の内から慣れておかないと、そんなんじゃ仕事の時困るよ?」

「…今、仕事のこと出すなよ」

 

仕事のことを絡められると、反論できなくなり、言葉に詰まる。

慰安旅行行きの件について数日間迷ったが、ついに朱里は昨晩、出席の旨を事務所へと伝えた。

仕事仲間との一泊二日の旅行。家族との旅行よりは気まずくないだろうが、『仕事ない奴は全員参加』という殺し文句を打ち出してきている。しかもそれに姉も参加するのに、妹が断るなどという道理も通らない。悩んだが、仕事付き合いも兼ねた旅行という体で自分を納得させての出席だった。

年頃の女の子が水場でどうやって遊んでいるのかなど皆目見当もつかない朱里は「別に水着なんて買わなくたっていいだろう」という考えでいた。せいぜい浅瀬でピチャピチャやっているくらいだと思ったので、水着なんて買わなくても一泊二日くらいのスケジュールぐらいは過ごせるだろうという体でいたのだった。

だが、美希はそんな朱里の態度が気に入らなかったのか、不機嫌そうな顔をする。

 

「ふーん…星井朱里14歳。誕生日は12月15日のいて座。3サイズは上から84/55/―――」

「ばっ…!?」

 

いきなり公共の場で身内の公式プロフィールをべらべら喋る美希に、慌てて口を手で塞いで、隅っこの方へと美希を引っ張った。近くを通った数名は何事かとこちらを見てきたが、数秒後には興味を失って離れていく。周りの注目が無くなったのをしっかり確認してから、朱里は怖い顔で詰め寄った。

 

「いきなり変なこと喋るな…というか、それどっから?」

「? 小鳥から貰ったの。衣装合わせの時に測った最新版の…水着選ぶ時の参考にって」

「あの人は…」

「そもそもこれ、765プロのホームページのプロフィールにも書いてあるよ?」

 

水戸黄門の印籠をかざすかの如く携帯電話でそれを見せてきたので、覗き込んで見てみると呆然とした。そこには765プロの公式ホームページに自らの身体プロフィールが紹介文と写真と共に載っていたのだから。

売れてはいないとはいえ、芸能事務所に所属している正式なアイドルなのでこういうものは有って当然というか有って当たり前なのだが、改めて見ると自分の3サイズも堂々と載っているのは恥ずかしさを感じてしまう。売れていくとなると、今後嫌という程露出も増えていくので慣れなければならないのだが…。

 

「そもそもお金はあんの? 私そんなに持ってないよ?」

「ママから貰っているの。朱里の分も買ってきなさいって。朱里に渡してもこういうの絶対受け取らないからって」

 

そう言ってカバンの中から美希が茶封筒を見せてくる。

根回しが早いと思うと共に、「お金がない」「身体のサイズが…」など自分がよく使う逃げる口実が殆ど潰されており、次々と目の前で防壁が崩れ落ちていく感覚だ。

そういう根回しや口実を潰す策が自分の知らない間で行われていたんだろうな、と勝手に想像する。

 

「…別にいつもみたいにおさがりでいい。私の分のお金は姉さんが良いのを買うのに使いなよ。慰安旅行にどうしても水着が必要なら、去年の姉さんの水着持っていくから」

「美希が持っているの結構デザインも古いし、朱里のサイズにも合わないよ。美希が去年着た時もキツキツだったし、買った方がいいと思うな」

 

それに、と美希は続けた。

 

「ママもパパもお姉ちゃんも、心配している」

「…っ」

 

今度は美希の顔が笑っていなかった。少し怒気の含んだような声に一瞬強張る。朱里は美希の顔から目を逸らす。

 

「末っ子だからって、いつも欲しいもの我慢しているって。朱里がおしゃれするようになったのは嬉しいけど、変に気を遣うそういう所はまだ直っていないから。美希も心配なの」

「…そう?」

「だって美希やお姉ちゃんのおさがりばかり着ているし…全然買い物行っている様子もないし」

「それは姉さんがいっぱい持っているからだろ? 服にしろ、色んなものにしろ」

「だからって何でもかんでもおさがりの物、使われるのは流石の美希も恥ずかしいの。朱里は朱里でちゃんとした服、買った方がいいよ。せっかくおしゃれしてるんだし、自分が似合うのをちゃんと買って。ママもお姉ちゃんもそう言ってる」

 

少し、心が痛んだ。美希の口伝とはいえ、母にそんな言葉を言わせてしまったことがショックだった。

 

「中間テストの時もそんな話があったってママ話してた。何でも好きな物買っていいって言っているのに、断ったって」

「あれは、その…」

「その分、ちゃんと水着ぐらいちゃんとしたのを買ってこいって言われて。だから無理矢理連れてくるようなことをやったの」

「今度の旅行一回の為に買うの?」

「こういうのはちゃんとしたのを一着持っていた方がいいの! 海に行けば皆に見られるんだから、サイズ合ってないのなんて持っていかれたら恥ずかしいの! 美希も皆も!!」

 

特に最後の方は強調しながら詰め寄られた。服装で舐められたら駄目だ、とも言いたげなトーンで言われ、朱里はもう反論する余地もなかった。

自分だけが恥をかくのは全然平気だが、全員参加の旅行で周りに恥をかかせるのは嫌だった。一応社内旅行という体で行くため、事務所にも恥をかかせるわけにもいかない。

多分、美希もそれを見通して、わざとそういう風に言っているのだろう。こうすれば朱里は動くということを美希は知っているのだから。

 

「だからね…」

 

もう降参だ、とも言いたげな渋い顔で朱里は手を上げ、美希の言葉を遮った。少々不本意ではあったが…ここまで追いつめられたら今回はこの話を呑むしかない。それに少しばかりおねだりをしておけばしばらくは何も言ってこないだろう。

 

「わかったよ。今から買い物行こう…というか、行くしかないんだろ、この状況?」

「うん、わかればいいの」

「ちなみに行かなければ?」

「行くまで説得して、もしそれが駄目なら…」

「駄目なら?」

「無理矢理引きずってでも行くの。更衣室で美希が一から全部着替えさせるから」

 

どんなプレイ? と思ったが、今の美希ならば本当にやりかねない勢いがある。

マネキンみたいに自分の服を脱がされたり、下着姿のまま更衣室で着替えさせられるのを待つという行為を考えるだけでも鳥肌が立つ。

あんな行為は赤ん坊の時だけでたくさんだ。自我がある中でおむつを替えられた時の屈辱を思い出して、軽く身震いする。

 

「私、水着のことは付け焼刃程度の知識しかないから、そこはしっかり頼むよ?」

「まっかしといてなの!」

 

 

 

 

 

 

「姉さん、帰ろうよ。もう4件目じゃん…」

「ダーメ! うーん、このタイプは朱里にはちょっと合わないかな…? じゃあこっちを着てみて」

「はーい…」

「着替えてる間に、美希違う水着持ってくるからね!」

 

良い笑顔で水着を押し付けた美希は試着室のカーテンを閉めると、パタパタと足音を鳴らしながら去っていく。渡された水着を眺めて、朱里は盛大なため息をついた。今日一日で何度このやり取りをしたのだろうか?

渋谷駅を出て、近くの水着ショップを回り始めてからどのくらい経っただろう。気に入らない水着しかないと分かるとすぐに退店を繰り返して早4件目。ここに入る頃には空は淡い茜色の陽射しに照らされての入店となっていた。

ほぼ数時間休みなしで振り回される朱里はもう帰りたい一心で試着を続けている。

美希の水着は1件目で早々と決まったのに、朱里の水着は美希が一切の妥協を許さないのか、次々と着替えさせては脱がされるを繰り返す。昔姉さんたちが集めていた着せ替え人形の気分だった。

 

そもそも朱里は買い物にはあまり時間をかけないタイプの人間だ。どうしても欲しいものを除き、最初に入った1件目であるものから決める。店を変えてまで買い物など積極的にしない。

色々と見て、目移りし、妥協しその中から選ぶ。あまり散財しないようにしている関係上、予算も必然的に限られてくる。そうなるとどこに行っても似たり寄ったりのものが多いのだからわざわざ店を変える必要がないのだ。

買い物をする時よりも、自販機の前に立ってどのコーヒーを飲むかの方がまだ悩むくらいだ。

 

精々1時間程度我慢すればいいだろうと、完全に読みが甘かったことを痛感する。まさかこのまま夜までかかるとかじゃないだろうな…。

この数時間ですっかり慣れた手つきで水着を着こなし、試着室に架けられている鏡を見た。

 

―――これはいくらなんでもないだろう?

 

手に取った時から覚悟はしていたが、改めてその姿を見るときつい事この上ない。

鏡の中の朱里は、まるで下着か何かを想像させるような派手な白のレースを装飾した黒色の水着を身に纏っていた。そっち系の女優が着るようなタイプの水着で、いくらサイズが合うからといって中学生が着ていいものではないタイプの水着だ。

こんなものを千葉県の海辺で着て、歩き回っていたら通報ものの案件だ。朱里自身もこれを着ながら海の家で焼きそばなどを食べている光景が想像つかない。だが、律子がかんかんになって自分と美希を叱る光景だけは簡単に想像できた。

 

「朱里ー? どう?」

「…美希姉さん、これは水着じゃない、下着っていうんだ。白レースとかがなまめかし過ぎるよ」

「うーん、朱里には派手なタイプも似合うと思うんだけどな」

「色はいいけど、柄とかオプションに余計なものが多すぎる。もっとシンプルなのが欲しい」

「シンプルっていったら…柄とか入っていないのになっちゃうよ?」

「そういうのでいいよ、これでビーチを歩き回る度胸が私には無いし。とりあえず私を着せ替え人形感覚であれこれ着替えさせるのはやめて」

「えへへ、だって朱里、何でも似合っちゃうから、つい。だって久しぶりに一緒の買い物でしょ? 色々選んじゃうの!」

「やっぱりそうか…どうりで後半あたり変なやつが多いと思ったら…」

 

違う水着を持って戻ってきた美希と話し、そもそも朱里は水着を買うのが初めてなのだから、最初から奇抜な路線ではなくもっとシンプルな路線でいくことに決めた。その方が自分としてもありがたかった。

ワンピースタイプの水着では少し幼く見えてしまうから、朱里が持つ大人っぽさを前面に出す為にもビキニタイプの方がいい、最近はつけても苦しくないようにノンワイヤータイプのビキニもあるなど店員の説明なども聞く。紐の部分にワイヤーが入っておらず、締め付けるような圧迫感がないみたいだ。

ブラなどにも最近採用されている技術が水着の世界にも入っているんだな、と驚いた。

 

美希もあれこれ意見を出し、その度に朱里とあーでもないこーでもないと意見を出しながらあれこれ選ぶ。選びながら迷って…そして、美希と一緒に笑った。そう言えば、最後に美希と買い物をしたのはいつの事だっただろうか?

小学生の頃に、おつかいなどで一緒に近所のスーパーに買い物に行ったきり、美希とはこうやって二人きりで買い物をしたことがないような気がする。

 

「うん、これが一番しっくりくるかな」

「少し地味かもしれないけど…そこはアクセサリーとかつければ、いくらでもアレンジ出来るかな?」

 

最終的に朱里が選んだのは黒色のホルターネックタイプのビキニだった。

幅広のホルター部分が脇からしっかり固定してくれるので、飛び跳ねたりしても水着がずり落ちるような心配もなさそうだ。ノンワイヤーなので胸がギチギチになるような感覚も少なく、快適だった。

少しばかり胸が強調されるのが気になったが、さっきの下着のよりは何倍もマシであり、そもそも水着というものはそういうものという謎の説得で朱里も無理矢理自分を納得させた。

柄なども入ってないシンプルな一品だったが、それ故にアクセサリーや髪型などでアレンジしやすいなどのメリットもあり、朱里はすっかりこれを気に入った。

 

「お会計お願いします」

 

今日一番しっくりくる感覚に満足しながら、店員を呼んで会計となる。

ぶら下がっていたタグを読み、レジに表示された「¥20000」という金額に朱里は改めて卒倒しつつ、美希が笑いながら茶封筒の中からお札を出して代金を支払うのだった。

 

「じゃあ、次は水着の上に着るラッシュガードを買いに行こっか!」

「ら、ラッシュ? 何それ?」

「上から羽織るトップスのこと! 日焼け対策とかで今流行ってるんだよ? まだお金も余っているからこれもついでに買っちゃおうよ!」

 

まだ終わらないのか…とため息をつくが、朱里もまんざらではなかった。なんやかんやで今、振り回されているこの時間が楽しかった。

 

 

 

 

 

 

「仕事がないものって声かけたら…全員来ているし」

「実際、暇なんですから仕方ないですよ」

 

プロデューサーと律子のそんな会話を小耳に挟みつつ、列車は川にかかる吊り橋を過ぎた。

都心から離れたローカル線に揺られ、目的地を目指していた。皆も座席越しでトランプをやったり、まだ日も高いのに怪談話を始めたり…各々が思い思いの時間を過ごしている。

朱里も貴音が駅弁5人前をぺろりと平らげる光景に唖然としながらも、自分の分を口に運ぶ。程よい量の白米、揚げ物に野菜に漬物…シンプルな駅弁をペットボトルの緑茶で流し込む。

 

迎えた慰安旅行当日はすっかり晴れており、買った水着が無駄にならなくて良かったと朱里は感じた。これが雨だった場合、2万円以上出してせっかく買った水着類が無駄になってしまう。雨の中、薄着になって走り回る趣味は朱里には残念ながらない。

足元に置いてある自分の旅行鞄を目にやり、食べ終えた駅弁の空き箱をその近くへと置いた。

 

(それにしても、まぁ…賑やかだなぁ…)

 

東京の列車と違って閑散としているローカル線は良くも悪くも声が響く。

賑やかなのは結構だが、貸切をしている訳じゃない。向かいに座っている老婆など、他の乗客だっているのだから、あんまり騒ぎすぎるのは迷惑になる。

度が過ぎた場合は注意すべきだろう。楽しければいいという訳でもないのだから。特に双子や響、伊織など騒ぎやすい面子には注意を…。

ぴと。

 

「うわっ!?」

 

冷たいものを頬に押し当てられ、朱里の思考はそこで打ち切られた。

 

「やよい?」

「せっかくの旅行なんだから、そんなに怖い顔しちゃダメだよ?」

「あ、ああごめん…」

 

隣に座っていたやよいの手にはキンキンに冷えた冷凍ミカンがあった。どうやらこれが頬にあてられた冷気の正体らしかった。

 

「あっ、これ向かいのおばあちゃんから皆にだって! 皮、剥く?」

「あ、ありがとう。皮はいい、自分で剥けるから…すいませんね、騒がしくて」

「いえいえ、賑やかなのはいいことですから。こういう風に皆と騒げるのも、若者の特権ですから」

「ああ、そうですか…」

 

向かいの席でちょこんと座っている老婆からの差し入れに頭を下げて礼を言ってから、頬に当てられた冷凍ミカンの皮を剥く。

凍らせたミカンは糖分を凝縮されて何とも美味だった。数年ぶりに口にしたどこか懐かしいその味にぺろりと平らげてしまう。まだ7月の半ばとはいえ、雲一つない晴天時の千葉は暑い。日差しに照らされ、クーラーがきちんと利いているはずの車内もじんわりと熱かった。

 

「窓開けるぞ、窓」

 

向かいに席に座る響が身を乗り出して、手動式のドアを開けた。

 

「うわぁ…!」

 

開けた途端、誰かが感嘆の吐息を漏らした。風が一気に車内に流れ込んできて、心地よい大気の流れを作ったのだ。風に混じって、海特有の潮と有機物が入り混じった、独特の匂いが車内を包む。

 

「っ…」

 

腐敗した有機物と塩分が混じった独特の匂いを久しぶりに嗅いだせいか、朱里は眉を顰めた。

 

「どうしたの、朱里ちゃん?」

「ん、ああ、いやなんでもない」

 

そんな顔をしたのが気になったのか、やよいが訝しげな顔でこっちを見てくるのを愛想笑いで誤魔化した。

自分の中と実際に嗅いだ匂いに海ってこんな匂いがしたっけ? と思い、自分が最後に海に行ったのは何時振りだったかを記憶の中から探る。

こっちでは幼稚園の時に行った潮干狩り以来海には行っていないから…かれこれ10年ぶりくらいに嗅ぐ匂いなのか、と一人で驚く朱里。

 

「東京じゃあまり嗅がない匂いだからな。ちょっと驚いた」

「あー、なんか分かる気がします! 魚屋さんでしかない匂いですよね!」

 

魚屋…いまいちピンとこない例えに笑いつつも、少し向こうに見えた煌めく海を見つめる。

海が見えた、と歓声を挙げる周りのアイドル達程ではないが、朱里は少しだけ見えた10年ぶりの海に何かのロマンス的なものを感じている。何だか、ドラマの導入部みたいな流れだな、と。

ビルと物に囲まれ、山と森ばかりだった故郷村でも見なかった光景―――青い海と白い砂浜、続く水平線を視界に納めながら、最後に残った冷凍ミカンを口へと放り込んだ。




今回出た『中学生が着ていいものではないタイプの水着』は某やみのまさんが着ていた水着をイメージしてください。
中学生であれを着こなすのはすげぇと思います。
今回出した朱里の詳細の身体データ、もしかしたら本編で更に深堀するかもしれません。

では次回もお楽しみに。


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