もしも、カルナさんが家族に恵まれていたら (半月)
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プロローグ

幼少期のカルナさんに、誰が父親がスーリヤであることを教えたのだろうか? という妄想から始まりました。


“――あるところに、それはそれは美しい乙女がいた。 

乙女は気難しい聖仙の世話を一年勤め上げ、その褒美として任意の神を呼び出し、その子供を得ることが叶うという真言(マントラ)を授かった。 

 

 ――ある日のことだ。 

 未熟な乙女は好奇心からその真言(マントラ)を唱えてしまい、太陽の神・スーリヤを呼び出してしまう。 

 未婚の娘が子を孕むという醜聞を恐れた乙女は、太陽神へと、生まれてくる子供が神の子であるという証を求めた。 

 

 そうして、瑞兆の子供は誕生した。 

 

 乙女の願い通りに、太陽神の黄金の鎧と耳飾りを、生まれながらにその身に帯びて。 

 真言(マントラ)によって降臨した太陽神は、その誠実さで、乙女の切なる願いに応えたのである。 

 

 ――ところが。 

 これほどの恩寵と慈愛を示されながらも、乙女は神を裏切った。 

 類稀なる奇跡の体現者である筈の赤子は、乙女の手で川へと捨てられてしまったのである。”

 

 *

 *

 *

 

「――……この捨てられた子供。それがお前だ、財宝を帯びた者(ヴァスシェーナー)

 

 東の空が真っ赤に染まり、暁の女神が天空をかける頃。

 朝焼けの光で紅の色に染まった大河の岸辺、葦の群れが生い茂る中に、向かい合って胡座をかく人影の数は二つ。

 

 一人は年端のいかぬ、幼い少年。

 黄金の輝きを帯びた白髪、まるで幽鬼のように白い肌。

 長い前髪から覗く、冷徹なまでに透き通った蒼氷色の瞳。

 衆目の目を集めずにはいられない、未成熟な肢体を覆う黄金の鎧とその胸元の赤石。

 

 太陽の威光と神々しさを帯びたそれらは、その少年の異質さを浮き彫りにする。

 

「お前が生まれながらに宿していた太陽の鎧と耳飾り、それこそがお前がスーリヤ(太陽神)の子であるという確かな証拠」

 

 もう一人は、少年よりも年嵩の青年。

 日差しの色を濃く表す黄金の髪色に、陽光を浴びて赤銅色に輝く蜂蜜色の肌。

 豊かな金の髪によく映える、夏の青空のように鮮やかな紺碧色の両眼。 

 少年の耳飾りとよく似た意匠に、赤石の細工が施された四肢の金環が、華やかな青年の美貌を際立たせている。

 

 その美貌に似合わぬ薄汚れた衣装から覗く手足が、古ぼけた弦楽器(シタール)を抱え込んでいる。

 細い指先に爪弾かれる弦の音に合わせて、謳うように青年は言葉を紡ぎ続けた。

 

「薄々感づいていたかもしれんが、お前の父親はスーリヤ。神々の威光を体現する太陽の神だ。――お前が普通の子供とは違うのは、それはお前が神の子であるからだ」

 

 暁の女神を追って姿を現した朝日を一瞥し、少年を寿ぐように青年は謳う。

 彼の言葉が奏でるのは、少年の出自への祝福であり、同時に人としては異端である幼児(おさなご)への憐憫であった。

 

 ……事実、青年は間違いなくこの幼児を哀れんでいた。

 

 母親の身勝手さ故に、本来なら生誕と同時に享受できた筈のあらゆる祝福と愛情を失った。

 善良な養い親に拾われながらも、人の身を超えた能力を持つが為に、人間に埋没して一生を送ることもままらない。生まれと育ちからして不幸であり、そしてその将来も、世の(しがらみ)に束縛されて生きなければならない悲惨さと切り離せない――その事実に気づいているのか、いないのか。

 

「…………スーリヤ」

 

 怜悧な煌めきを宿した蒼氷色の双眸は微塵も揺らがず、その薄い唇は見事に震えることなく。

 教えてもらったばかりの真の父の名を噛みしめるように、何度か口中で呟いたのち、黄金の鎧に守られた少年は、自らを見下ろしている青年を見つめ返した。

 

「――……それが、オレの父の名なのか」

「嗚呼。そして、お前が望むなら、お前を捨てた母親とその一族の名を教えてやろうか?」

 

 凄絶な色香を宿した紺碧の双眸が、誘うように、惑わすように少年を一瞥する。

 

 ――もともと、幼さには似合わぬ聡明な子供であった。

 そのために、青年の言葉の奥底に沈んでいる憐憫と同情、鬱憤を晴らすことを暗に許している優しさとも言える感情、己の置かれてしまった理不尽な境遇を、ただの一度で理解した。

 

「……()()()()()()()()()()()()()

 

 ――そうして、理解したからこそ、そう呟いた。

 

「オレが生をうけたのは父と母あってこそ。母がどのような人物であれ、オレが母をおとしめることはない」

 

 まさしく、万感の想いの込められた、真摯に過ぎる一言だった。

 

 ――()、と青年が息を止める。

 見開かれた紺碧の瞳が、自らに宣言するように淡々と呟く少年の姿を凝視した。

 

「もし……オレがうらみ、おとしめるものがあるとすれば、それはオレ自身だけだ」

 

 少年は朝の日差しを一身に浴びながら、胸元の輝石へと手をやり、小さな声で囁く。

 

 この世の栄華を謳歌する王侯でさえ、少年の全身が発する意志持つ生命の尊厳を穢せまい。

 天の城を彩る輝かしい宝石でさえ、少年の麗姿に匹敵するような生命の美しい輝きを放てまい。

 

 ……本当に幼い少年だった。

 喋り方は大人のそれと比較すれば覚束ないし、あまり他者と話し慣れていないのか、舌の動きも滑らかとは言い難い。

 

 ――それなのに、その子供は生涯の指針となる誓いを……静かに宣言したのである。

 

「父の名がはんめいしたのであれば、なおのことだ。いだいなる父の名をけがさず、生きる。……それだけのことだ」

 

 それだけのことが、どんなに難しいことなのか。それがわからぬ程、子供は愚かではなかった。

 だが、子供は()()()()()()()()()()()――そして、それを生涯に渡って貫くのみと決意した。

 

 黄金に輝く太陽の輝きが、少年を祝福するかのように包み込む。

 朝の涼やかな風に葦の穂先が揺れ、巻き上げられた花粉が陽光を浴びて鱗粉のように煌めく。

 

「…………」

 

 ――至上の名画にも勝る、幻想的な情景。

 それをただ一人で目撃した青年は、今この場にいるのが自分だけであることを、心底勿体ないと感じずにはいられなかった。

 

「……あー、嘘や見栄で言っているわけじゃなさそうだな。全く、心が広いにも限度ってもんがあるだろうに……」

 

 ――お前の寛容さと忍耐強さを天上の神々にも見ならってもらいたいものだ、と。

 困ったように青年が溜息をつけば、背の半ばまで伸びた黄金の髪が、彼の動きに合わせてさらりと揺れた。

 

「――まぁ、いいか。お前がどのように生きるにせよ、それを守ってやることが俺の使命だ」

 

 抱え込んでいた弦楽器(シタール)を背負い、野生の獣を思わせるしなやかさで青年が立ち上がる。

 紺碧の双眸を昇りつつある太陽へと向け、未だに座り込んだままの少年へと片手を差し伸べた。

 

「――本当に手のかかる末の弟だ。親父殿が心配になって俺のことを遣わしたのも頷ける」

「かんしゃはしている――だが、そのような気配りはふようだ」

 

 差し伸べられた手を断り、少年もまた立ち上がる。

 素っ気なく返された少年の応えに対して、青年は引きつった笑みを浮かべた。

 

「いいか、太陽の末の子供。お前の率直さと謙遜は確かに美点ではあるが、それ以上に長所が過ぎて短所でもあることを、自覚なさい」

「……ぜんしょ、する」

 

 表情一つ変えることなく淡々と言い放った少年の背を軽く叩き、青年は大げさに肩をすくめる。

 

「本当にわかっているのやら……。色々な意味でお前の将来が不安で堪らんよ、俺は」

「……めいわくだな」

「そこは、アディラタ養父が心配するから早く戻ってやらんと迷惑をかけてしまう、と言うことでいいのか? ――ほれ」

 

 再度差し伸べられた手に、少年はぱちくりと目を瞬かせる。

 そうすると端正な容貌に、年相応の幼さが浮かび上がった。

 

「人の子はこうやって手をつないで帰路につくようだ。俺たちも真似してみよう」

「……そう、なのか」

「そうだとも。――それに、俺はお前の兄に当たるのだし、()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ためらいがちに伸ばされた掌が、少年のやせ細った手を優しく包む。

 そうすれば、じんわりとした心地の良い熱を感じ、どちらともなく満ち足りた息を吐いた。

 

「……初めてやってみたが、なかなか悪くないな」

「ああ」

 

 陽光の系譜を継ぐ二人ほどではないが、盲目の王であるクル王・ドリタラーシュトラの御者を務める養父の朝もまた早い。それこそ、実直な養父が働きに出る前に小屋に戻らねば、心優しい養母は心配するだろうし、新しく生まれた赤子もまた母親の感情の揺れを感じ取って大きな声で泣き出してしまうかもしれない。

 

 ――それはちょっとよろしくないな、というのが二人に共通する見解だった。

 

「急いで帰ってあげないと、な」

「……あぁ。少し、いそぐひつようがあるだろう」

 

 朝の日差しを背に浴びながら、二人は養父母の待つ小屋へと揃って歩みを進める。

 

 後になって振り返ってみれば、紛れもなく特別なひと時だった。

 だが、今の二人にとっては、取り留めの日常にいずれ埋没していく単なる出来事に過ぎない。

 

 ――けれども。

 少年はこの時、「父の威光を汚さず、報いてくれた人々に恥じる事なく生きる」という自身の生き方を見出した。

 

 青年は少年の意向を尊重し、その一生を影日向から見守り続けていく事を、己の責務と定めた。

 

 この鮮烈な朝焼けの下で行われた短いやり取りによって、大叙事詩『マハーバーラタ』に登場する施しの英雄・カルナの生涯とその生き様は決定付けられてしまったのだ。

 

 ……だが、どちらもその事を未だ知らない。

 それは、彼らが太陽の神威をその身に宿しながらも、生命の営みの中で人に寄り添って生きる事を無意識のうちに選び取ったがためである。

 

 ――まだ、誰も何も知らない。気付ける術もない。

 

 二人の気づかぬところで、物語はこうして幕を開ける。

 自らの選択の果てに待ち受けるものが一体なんなのか、誰も知る術はなく、また知る必要もなかった。

 

 ――あくまでも、それは幼き時分の一時に過ぎなかったのだから。




 執筆にあたりまして、Fate wikiや原典である『マハーバーラタ』を読みましたが、なにぶんGrand Order以外の型月ゲーム未プレイであること・原典自体が長大な物語でありますために至らぬ点も多々見つかると思います。
 目標は完結ですので、それまでお付き合い頂けますと幸いです。

<登場人物紹介>

・ヴァスシェーナー
 養父母・アディラタとラーダーによって名付けられたカルナさんの幼少期の名前。
 名前の由来は鎧と耳飾り=財宝を生まれながらにその身に帯びていたことから。
 次の話以降からは「カルナ」で通していこうと思います。

<追記>
・カルナさんの話し方について。
 幼少期を書くにあたって、神の子だけあって聡く習得も早いので、きっと小さい頃から同じような喋り方だったんだろうと思って、敢えて公式を語り口を真似してみました。
 ただし子供らしさを強調するために、敢えてセリフにはひらがなを多用しております。
(紛らわしくてすみません)


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第1章 日輪の落胤
太陽神の子供たち


予告なしに修正を加えることがあります。ご了承ください。


 太陽の化身たる光輝の神・スーリヤとは、ヴァスシェーナー改め、カルナの父である。

 彼は人の娘に真言(マントラ)で呼び出された結果生まれた末の息子が、母親に川に捨てられたことに憐れみを覚え、己の眷属を一人地上へと送り出した――それが俺こと、アディティナンダであった。

 

 大雑把な情報――それも、「地上に行って末の息子を保護してこい」――しか与えられず、地上に送り出された俺はとにかく混乱した。

 

 これは何も俺に限ったことではないと思う。

 そもそも、それまで神の眷属として(ほしいまま)にしていた力の大半を封じられ、不慣れな(からだ)に押し込まれた上に、初見殺しに過ぎる人間の暮らしの只中に放り込まれたのだ。

 

 ぶっちゃけ、地上で最初に行ったことはスーリヤへの心中での罵詈雑言であった。

 

 一頻り不平不満をぶちまけて気が済んだ俺は、その末の息子の居場所を探すことに専念した。

 とは言え、この捜索自体、父神であるスーリヤの思いつきで放り出されたようなものだったので、生まれてきた子供がどんな容姿をしているのか、誰に拾われたのかさえ不明なままである。

 

 つーか、肝心の太陽神が覚えていたのが母親に当たる娘の容姿だけである。

 「黒い髪に黒い肌、人間としては飛びっきりの美少女。多分、王女」とだけ言われても、該当者が何人いると思うんだよ、あのクソ親父。真面目に探させる気があんのか。

 

 神とは基本的に薄情な癖に、愛情の振り幅が激しすぎるために問題しか生み出さない。

 嫌われても愛されても不利益を被ることが多いって、本当に百害あって一利なしだ……わりかし本気でそう思う。

 

 幸いなことに母親である王女がスーリヤに対して生まれてくる我が子に黄金の鎧を求め、スーリヤが快諾したことによって、顔と名前を知らずとも、末の息子が生まれながらに黄金の鎧を身にまとっているという事実は、探索の上で重要な手掛かりとなった。

 

 後は、王女が息子を流したとされる川に検討をつけて、その周辺一帯に、特異な成り立ちの子供がいないかどうかを探るだけでよかった。

 

 そうして見つけ出したのが、象の都(ハースティナプラ)の外れに住まう御者の養子。

 ――財宝を帯びし者(ヴァスシェーナー)と呼ばれていた子供であった訳だ。

 

 末弟を見出した俺がまず行ったのは、その子供が一定の年齢になるのを待つことだった。

 これは、いくら神の子とはいえ物の道理が分かるようになるまでには人の血が入っている以上、それなりの年数を必要とすると考えた上での判断だった。

 

 そこで、俺は旅の楽師としてその様子を見守りながら、ゆっくりと末の息子の成長を待つことにしたのである。

 

 ――が、この末弟、神と貴種たる王女の血を色濃く引くせいか、尋常な子供ではなかった。

 

 神である太陽神のお眼鏡に叶うほど美しかった母の血の影響もあってか、ゾッとする程の見目麗しい少年であるのにも関わらず、何があっても表情ひとつ変わらない。

 その上、どう好意的に見ようとも、酷薄としか称されない態度が、人の営みの中で、一層、その異質さを浮き彫りにしていた。

 

 強制的に堕とされたとはいえ、ある程度の年月を人々の間で過ごし、また情報収集の一環として楽師としての職業を選んでいた俺である。そんな俺の方が人間の心の機微に詳しくなっていて、末の息子を遠巻きにする人々の心情に理解を示せるのではないか、と思い当たった時には背筋に戦慄が走った。

 

 加えて、母親の不純な動機が災いしてか、見目麗しい容貌であるにも関わらず、真贋を見極めることのできない人間の目には、末弟の姿が黒く染まって見えると聞いた時には軽く絶望した。

 

 ――普通、半神って言ったらそれだけで人々の間で拝まれ、愛され、敬われて然るべきである。

 それが、一般的な半神とは真逆の扱われ方をされ、人々に遠巻きにされているのである。

 

 正直なところ、末弟の将来を憂えずにはいられなかった。

 

 幸いなのは、末弟の養父母が、世間一般的に善良な人間と称される人物たちであったことだ。

 だが、拾い上げた幼子から発せられる神威に、素知らぬ顔で接することができるほど鈍感な人間ではなかった為、彼らもまた、その成長に合わせて距離を置かずにはいられなかった。

 

 当初の計画では、特に接触することなく末弟が人界での一生を終わらせるのを待つ予定だった。

 

 ――が、こうした事情から目的を切り変える他なかった。

 自分が神の子であるという自覚を持たないまま人として生きようとするには、末の弟の力は強すぎる上に、その精神は只人のものとはかけ離れ過ぎていたからだ。

 

 ――そこで覚悟を決めて、末弟改めカルナの前に姿を現したのが、一年前の話である。

 

 カルナの方も、自分の周囲を、俺という得体の知れない存在がウロウロしていたことに感づいていたらしいが――細心の注意を払っていたというのにこの塩梅である。本当に将来が恐ろしい――それでも放っておいたのは、特に害意を感じることがなかったためだったとか。

 

 この“特に害意を感じることがなかった”というのが曲者で、カルナは気がつけば相対した相手のあらゆる欺瞞や虚飾を看破して、その本質を把握するというトンデモ能力の持ち主に育っていた。

 

 偉大なる神々でさえ、麗句の響きに騙されてしまうことが多々あるというのに、年端のいかぬ半神の少年が、一般的には悪行とみなされる事柄――つまり、嘘や見栄、虚飾――を次々と看破していってしまうのである。

 

 ――察しがいいと称するには鋭すぎる観察眼であった。

 しかも、相手の内面を看破しすぎた結果、言葉足らずになり、他人の触れられたくない部分を、槍で刺す勢いで貫くことに配慮しない性格に育ってしまった。

 

 ――しかし、問題はこれだけに留まらなかった。

 

 次に俺を驚愕の淵に叩き込んだのは、父親の名を教えて以降のカルナの行状であった。

 沐浴の際に、バラモンから施しを求められて何も布施として渡せなかったことを恥じたために『沐浴の時にバラモンに何かを乞われたら、惜しみなく与える』という誓い――()()()()()()()

 

 問題は、滅私の精神で他者の要望に応じるようになっていったことだ。

 人の欲望なんて千態万様な上に、日常の些細なものから無理難題の類にまで至る。

 気がついた時には、それら全てを、カルナは一つ返事で承諾するようになっていた。

 

 カルナの、あまりにも自分の身を顧みない振る舞いに気づいた瞬間、文字通り血の気が引いた。

 もともと頼みごとを断らない性格だったが、それが自分自身を切り売りするような言動に至った挙句、いい意味でも悪い意味でも極端化したのである。

 

 いつか、その身に余る他者の欲望を押し付けられ、潰されかねないと、気が気ではなかった。

 

 今よりも幼かったカルナが「父に恥じない生き方をする」と決意して以来、それを損ねよう・犯そうとするモノから守ろう、と心に決めた途端にこれである。

 こんなことなら、父親の名前――それも、俺に難題を押しつけた元凶である――なんて教えなければよかったのか、と幾晩も考えずにはいられなかった。

 

 無論、カルナにはカルナなりの心情と考えのあってのことだということは判っていた。

 

 ――けど、それとこれとは別である。

 

 人のそれとはかけ離れていても、天に属する俺にも感情というモノはある。

 それを悪い意味で揺さぶってくるカルナの所業に一度頭にきて、「お前なんかは財宝を帯びし者(ヴァスシェーナー)ではなく、自分の身を切り取る(カルナ)とでも名乗ってろ!!」と初めて叱りつけた。

 

 叱られた当の本人はと言えば、その時こそ精一杯殊勝な顔つきをしていたが、どんなに脅し(すか)しても頑として屈することはく、結果的に俺の方が折れざるをえなかった。――ちなみに、その出来事以降、周囲に「カルナ」という名が浸透し、行状を改める気の無い本人もそのように名乗るようになったというのは完全に余談である。

 

 あれもそれも全部スーリヤのせいである。あの野郎、父とはいえ、いつか絶対ぶん殴ってやる。

 

「……まぁ、何はともあれ。健やかに育ってくれたことだけは幸いなのかなぁ」

 

 走馬灯の連想させる勢いで俺の脳裏を横切っていった思い出の数々を思い起こしながら、俺は少し離れたところで棒を振っていたカルナへと焦点を合わせる。

 

 強大な神の力を十全に使いこなすためには武術を学ぶことが適切であると判断し、武術の心得とでもいうものを教え出したのだが、いかんせん非戦闘員である俺では限度というものが存在した。

 三界に匹敵する、比類なき勇士の素質をもって生まれたカルナとは反比例して、戦車を引く太陽神の眷属でありながら俺の体質は戦いに不向きである。

 

 ――ぶっちゃけ、戦闘技能の優劣については月とすっぽん、天と地ほどの差がある。

 従って、俺がこのままカルナに戦い方を指導するというのは論外であった。

 まあ、カルナであれば天性の才能でもって自力で境地に至ってしまう感も無きにしも非ずだが、できることならば優れた師を与えてあげたい。

 

 どこかに高名な武術の師匠となるべき人物がいないだろうか……。

 これが数年前だったら「斧持つラーマ」の異名で知られたパラシュラーマとかがいたのだが、いかんせん既に隠遁済みである。

 

 そんなことを考えている間に昼間の鍛錬の時間が終わってしまう。

 そのまま、カルナが日課としている沐浴に向かったことを確認してから、その場を離れた。

 

 いくら優れた師をカルナに充てがおうと思っても師となる相手の情報がない。

 しかも、一般的には武術の技とは上位のカーストの者だけしか習得が許されていないのも困る。

 全くもって、人の世というのは不必要な(しがらみ)が多くてうんざりしてしまう。

 

 俺とカルナの共通認識では、人間とは全てが等しい価値を持つ存在である。

 だが、これは俺たちの間だからこそ通用する見解であって、万人受けするものではないのだ。

 

 ――はてさて、身分にこだわらず戦いの術を教えてくれる者はどこにいるのだろうか?




<登場人物紹介>

・アディティナンダ
 …この物語の語り手であり影と個性の薄い主人公。
 容姿は、Fateのカルナさんとよく似た面差し、背の中程まで伸びた金髪に紺碧色の瞳の、やや華奢な体格の美男子。肌の色が健康的な蜂蜜色なので、カルナさんよりは血色がいい感じ。
 自称・カルナの兄で、人間の皮を被っているだけの高位の神霊。インドラと同格である太陽神の眷属なだけに、神性は高いが、封印しているのでかなり弱体化している。

(因みに、ヴァスシェーナーからカルナへの改名の経緯は原典とは違います。
 Fate wiki だと昔からカルナで名称が固定されているっぽいので、そう名乗るようになってもおかしくないような逸話を勝手に拵えました。)


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象の都

 ――象の都・ハースティナプラ。

 圧倒的な力で周辺諸国を平らげた先王・パーンドゥによって礎が築かれ、現王・ドリタラーシュトラによって繁栄を謳歌している麗しの都。

 辺境にまでその名を轟かせ、その名を知らぬものはいないとまで吟遊詩人達が歌い上げる、人の世界で最も栄華に満ちたクル王国の首都である。

 

 富める者に貧しい者、若い者に年老いた者、男に女。

 肌色も髪色も異なる人々が蜘蛛の巣のように張り巡らせた通りを行き交う、活気に満ちた街。

 都の中心にある、広く立派に誂えられた大通りを北上すれば、パーンドゥが獲得した戦利品と交易による富で儲けた財で造り上げられた壮麗な王宮を確認することができる。

 

 人と情報、そして宝の集まる街――それがハースティナプラである。

 

「……! アディティナンダ、アディティナンダではないか!」

 

 優れた武術の師になり得る人物の情報を求めて王都の表通りを歩いていた俺に声をかけてきたのが、カルナと同じ年頃の褐色の肌の少年だった。

 

 カルナの養父母を始めに、カーストの下位の人々と触れ合うことの多い俺としてみれば、小綺麗な身なりの少年に該当する人物の名が思い出せない。そんな訳で少々不躾だとは思いながらも、足を止めてまじまじと少年の姿を見やった。

 

「アディティナンダ、久しぶり! またこうして、お前に再会できて僕は嬉しいよ!」

 

 真っ白な歯を見せて快活に笑う少年の姿に――厳密に言えば少年のさらりとした赤い髪の奥から覗く、キラキラとした宝玉の黄金の輝きが脳裏の記憶が刺激する。

 前回会った時はお世辞にも綺麗とは言えない服をまとっていたのと、現在身に付けている見事な綾目の衣類との違いのせいで、あまりにも印象が異なったがために、少年の名前を思い出すのに時間がかかってしまった。

 

「まさか……アシュヴァッターマン様ですか?」

「その通り! 見てくれ、父上がクル王の一族の武術指南に任命されたおかげで、こんなに綺麗な服を着れるようになったんだよ」

 

 誇らしげに胸を張るその姿は幼い容姿と相まって非常に微笑ましい。

 カルナが成長の過程でどこかに落っことした、愛嬌とか可愛げというものの重要性を思い出してしまったくらいには。

 

 アシュヴァッターマンは武道に長けたバラモンとして高名なドローナの最愛の息子である。

 また、生まれながらに貴石をその額に宿していた、という点において太陽神の鎧を帯びて生まれた弟のカルナに共通する部分があった。

 

 彼と彼の父親は、俺のお客さんの一人であった。

 正確に言えば、カルナと本格的に暮らし始める前の旅の道中で出会い、彼の父親共々に歌を所望された間柄である。

 

 ドローナは旧友である国王を訪ねる旅の最中であったとのことだったが、その国王とはクルの王だったのだろうか? それにしては、あの時から大分期間が開いているのだが――と内心で小首を傾げつつ、身をかがめて、少年と目線を合わせる。

 

「父上――と言えばドローナ様ですか。武道に長けた方とは言え、まさか王族の方々の指南役になられるとは……おめでとうございます」

 

 バラモンである父親に溺愛されながらも驕ることのない少年を敬遠する要素など全くなかった。

 なので、心からの祝福を込めて微笑みかければ、少年は幸せそうに破顔する。

 

「ありがとう、アディティナンダ! お前がそう言祝いでくれて、とても嬉しい。誉れ高い父を持てて、僕は幸せ者だ」

「ふふふ。それはよろしゅうございました」

 

 そもそも、ドローナが旅立った大きな理由は、最愛の息子に満足に食事させられない自分の身の上を恥じたのが原因だった。

 

 ――それがこうして大出世を果たしたのだ。

 他者からの施しを生計の基本とするバラモン階級の人間としては異端のことでも、父親としては立派である。……人のことを放り出してそのままな、どこかの太陽神に見習って欲しいくらいだ。

 

「アディティナンダ、前に僕に話してくれたこと覚えてる? アディティナンダの弟のこと」

「……カルナのことですか? はい、勿論覚えていますとも」

 

 それにしても、屈託のない喋り方と笑顔の可愛らしい少年である。

 普段から接しているカルナの表情筋が死滅している分、快活なアシュヴァッターマン少年の微笑みには心癒されるものがある。

 

 カルナに悪気がひとかけらもないことは百も承知だが、あの率直な物言いは心の柔い所を随分と容赦なく抉ってくる――とはいえ理解してしまえば、あの性格さえ愛すべき要素となるのだが。

 

「父上はパーンダヴァとカウラヴァの殿下方の武術指南を任されたのだが、特別に王のお許しを得て、望む者全てにその門戸を開くことになったんだよ! 僕、そのことを知ってアディティナンダに教えてあげたいなぁ、ってずっと思っていたんだ!」

 

 少年の小さな両の掌が俺の手をぎゅっと包み込む。子供の率直な好意を表すように、結ばれた両の手がブンブンと上下に大きく揺れた。

 

 ――そうそう、あの時は夜咄の一環としてお互いの家族のことを話し合ったんだっけ。

 ドローナは息子の素晴らしさと義理の兄弟ことを熱弁し、息子のアシュヴァッターマンは父親をいかに自分が尊敬しているのか、ということを滔々と語っていた。

 

 かく言う俺はといえば、息子を作った挙句どこぞに放逐した父親の話と不遇な環境にも負けず日々逞しく生きている弟の話をしたことを覚えている。

 

 家族愛に満ち溢れたドローナ親子の姿にちょっと心が揺れ動かされ、瑣末な話ではあるがと前置きをおいた上で、カルナが武術を身につけたがっている、ということを弦楽器(シタール)の旋律とともに伝えたのだっけ。

 

「そう思っていた途端にアディティナンダに会えたんだ、神様のお導きだね! ――ああでも、アディティナンダ。僕の話……教えるの、遅すぎたりしないよね?」

「いいえ、いいえ! そんなことありませんとも! 教えていただき、ありがとうございます」

 

 まさかカルナの武術の師について思い悩んだその日のうちに、このような朗報が耳に届くとは思わなかった。このような幸運に恵まれるだなんて、幸先良さそうで何よりである。

 

 しかも、ドローナといえばパラシュラーマ隠遁前の有名な弟子の一人だ。

 パラシュラーマがその生涯において獲得した全ての戦いの術を習得したことでも知られている。

 

 ――まさに武術の師匠としてはうってつけの人物じゃあないか!

 

「本当にありがとうございます。弟……カルナは俺に似ず、武術の才能に恵まれた子。きっと、ドローナ様の誇りとなる弟子となりましょう。アシュヴァッターマン様のお心配りに感謝します」

「えへへ。そう言われると本当に嬉しいよ。……アディティナンダは僕らが貧乏でもバカにしなかった人だもの」

 

 それまで快活な微笑みを浮かべていた少年が、わずかにその面を翳らせる。

 ヴェーダに通じ、天上の神々に次ぐ存在として人々の尊敬と崇拝の対象であるバラモンだが、人々に托鉢を求めて糊口をしのぐ生き方故に、時に蔑みの目で見られることもある。

 

 ……まあ、他を踏みつけての上位に属している癖に、我儘な悩みだなと思わなくもないが。

 

「だから、こうしてまた会えて、すごく嬉しかった!」

「……私もです。また、ご両親とアシュヴァッターマン様のために一曲謳わせてください」

「うん! 父上にお願いしておくよ! また会おうね、アディティナンダ!!」

 

 お使いの途中だという少年バラモンは、そう言って立ち去っていった。

 バラモン階級の子供って、身分が身分なだけにとんでもない性格の子が多いのだが、アシュヴァッターマンは数少ない例外のようだ。

 

 ――正直、今回の件だけでも彼に対する好感は鰻登りである。

 

「さぁて、どっかで歌って日銭を稼ぐとしましょうか。それこそ、可愛い弟に何か美味しいもの食べさせてあげたいし、ね」

 

 大出世を果たしたドローナほどではないけど、俺も家族を養えるだけの金銭を稼いだ方がいいのかもしれない。




<登場人物>

・アシュヴァッターマン
 …クル王家の王子たち(パーンダヴァ五王子とカウラヴァ百王子)の武術指南を任された武闘派バラモン・ドローナの息子。
 生まれながらに額にあらゆる厄災を退ける宝石を宿し、長じて後は全ての武器に精通すると謳われた武人となった。
 幼い頃は父親共々貧しい暮らしをしており、『マハーバーラタ』に挿入された幼少期のミルクの思い出は非常に切ない。
 因みに、アシュヴァッターマンというのは「馬の鳴き声」という意味で、名付けの由来については、生まれ落ちた時に馬のように嘶いたが故の命名である。


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母親と兄弟

 この章は登場人物紹介を兼ねていますので、必然的にオリキャラばかりになってしまって辛い。
 早く、アルジュナやカルナさんのことを書きたい……。公式にインド系英霊を増やして欲しいと思うけど、下手にクリシュナとか出したら、インド兄弟の心痛は半端なものでは済まされないんじゃとも思う。


 神々に祝福された国王を讃える歌詞を滔々と謳いあげれば、万雷の喝采が宴の間に鳴り響く。

 身分を問わずに観衆たちが興奮冷めやらぬ表情を浮かべていることを目に留めながら、礼の代わりに微笑みを浮かべて謝意を表した。

 

 ――俺は今、ドリタラーシュトラ王とその妃のための小さな宴に、楽師として出演していた。

 

 クル王国の王が盲目の身であること、その妻である王妃も夫に倣って目を布で隠していることは、この国に住まう者ならば誰でも知っている有名な話である。

 

 国王夫妻は目の不自由な身であるためか、腕の良い楽師を殊の外好んでいた。

 そのため、一念発起して本格的に楽師として活躍しだした結果、都でさすらいの楽師として頭角を現した俺の話を聞きつけた国王からお呼びの声がかかったという訳だった。

 

 しかも、初舞台ながら主役が国王夫妻という豪華な聴衆である。

 当然のことながら、彼らが俺の技量に感服しているのはその表情を見れば一目瞭然であった。

 

「なんと美しい声なのでしょう……! その歌声を聴くだけで、この世のありとあらゆる美しい物・輝かしい物を思い起こしました。何よりも、その歌声によって、全身がまるで浄化されてしまったかのよう。――ああ、困りましたわ。妾の拙い言葉では、この感動をどう言い表していいのか……」

 

 美しい宝玉で身を着飾った王妃が身を震わせる。

 その隣に座っている国王もまた恍惚の表情を浮かべ、感嘆の溜息をついた。

 

「我が妻・ガンダーリーの申す通りじゃ。生まれながらに盲目の身であるこのワシも、妃の語る様に、暗闇のはずの瞼の奥にありとあらゆるものの輝きを見た。この世の美しいものを須らく、其の方の歌声によって識ることができた上に、其の方の歌声を聞くまで我が身に巣食っていた、厭わしいものが、綺麗さっぱり剥ぎ落とされた気分じゃ」

 

 まぁ、俺はどんなに心中で罵倒していてもスーリヤの眷属である。

 不浄なものの浄化や、地上のあらゆる命の活力を活性化させる程度の能力など、この歌声に合わせて聴衆の元に届けることくらいはお茶の子さいさいなのだ。

 

「ふむ。――類稀なる声音の楽師よ、其の方の名を何と申す?」

「もったいなきお言葉。……私は皆からアディティナンダと呼ばれております」

 

 畏まって頭を垂れる俺に、絹を撫ぜるように淑やかな声音が投げかけられる。

 

「――太陽の息子(アディティナンダ)、なんて素敵な響きなの! その陽光を紡いだような黄金の髪色に似合う、美しい名前だわ」

 

 顔を伏せたまま、初めて聞く声の元へと視線をさりげなく向ける。

 すると、滑らかな褐色の肌に豊かな黒檀の髪、魅力的な肢体を惜しげもなく晒した、絶世の美女がそこに佇んでいた。

 

「……まぁ、クンティー。貴女もいらしていたの? ちっとも気づかなくてよ」

「とても素晴らしい楽師でしたもの。王妃様がわたくしのような端女に気づかなくてもご無理はありませんわ」

 

 金銀の装飾品で飾った片手で口元を隠しつつ、美女は淑やかに微笑む。

 女の盛りはとうに過ぎている年齢である筈だが、その肢体に容姿の衰えは微塵も感じられない。

 

 艶かしい、肉付きの良い四肢。上品な美しさの中に、成熟した女の色気を感じさせる婉容。

 いかにも高貴な生まれと推測できる女性が、豪奢な飾りの付いた長い着衣の裾が地面につかぬ様に、そっと繊細な指先で摘み上げ、楚々とした雰囲気で歩み寄ってくる。

 

 ああ、これが巷で話題のパーンダヴァの王子たちを生んだというクンティー姫か。

 なるほど確かに、神々の目にも叶う美しさである。

 

 ――……確かに、これで()()()()()()であるとは俄かには信じがたい。

 

「ご無礼をお許しくださいな。どうしても両陛下にお伝えしたいことがありまして、無理を言って侍従たちに通してもらいましたの。そうしたら、何とも言えぬ妙なる調べが耳に届いて……気づけば用件も忘れてしまって、聞き惚れてしまいましたわ」

「――この身に余る光栄です……クンティー様」

 

 思ったことを率直に告げる点では、天真爛漫という言葉がふさわしい女性である。

 彼女の形のいい唇から溢れる言葉には、きっと一片たりとて悪意など含まれていないに違いないと、そう感じさせる姫君であった。

 

 ……クンティーは先王・パーンドゥの第一夫人であった姫である。

 その美しさもさることながら、彼女の名が広く王国中に知れ渡っているのは、聖仙の呪いで子をなすことの叶わなかった夫の為に、真言(マントラ)の力で呼び出した神々との間に子を為した女性であるという点であろう。

 

 ――法と正義の神・ダルマとの間に第一王子(ユディシュティラ)

 ――荒ぶる風神・ヴァーユとの間には第二王子(ビーマセーナ)

 ――そして、神々の王・インドラとの間に第三王子(アルジュナ)を。

 

 そういう意味では神々の寵愛を一身に受けた、この世で最も恵まれた女性の一人である。

 その経歴故に、災いの子を産み落としたと噂される王妃以上に彼女を讃える国民は多い。

 

 神の子を産み落としたという名誉、日々届けられる賞賛の声。

 生まれながらに備わっている非の打ち所のない容姿、王女という出生ゆえに満たされた環境。

 

 ……彼女が自分が捨てた最初の子供のことを思い出すことは、この数年間の間に果たして何度あったのだろうか。

 

 軽く首を振って、泡沫のような疑問を脳裏から追い出す。

 こんなことを思い起こしたところで、何かが変わるわけでもない。

 それに、彼女がカルナのことを探そうともしていないのは、とっくにわかっていたことだった。

 だから、どれだけ思考を張り巡らせたところで、意味のないことだ――と感傷を斬って捨てる。

 

「――……国王陛下。申し訳ありませんが、少し休ませていただくことは叶いますか? 高貴なお方の面前で歌う名誉に、思っていた以上に心身が疲弊してしまっていたようで……」

「……よかろう。誰か、このものを適当な部屋へと案内してやるといい」

 

 下手すれば無礼だと受け止められない申し出だったが、王の方も俺の言葉がクンティーに配慮したものであることを察したようだった。

 

 王の許可を得た玉座に近づいたクンティーが、嬉々とした表情を浮かべつつ国王夫妻に何かを囁いているのを視界の端に収め、俺はそのまま部屋を退室する。

 

 ――特に誰かとすれ違うこともなく、侍従に連れられて豪奢な小部屋へ足を踏み入れる。

 一礼と共に「ごゆっくりどうぞ」と告げた侍従が退室したのを見届けて、窓際へと近づく。

 大きな窓の向こうに、綺麗に整えられた庭園とその中心を流れる川のせせらぎを見渡せた。

 

 他にすることもなかったので、商売道具の弦楽器(シタール)を抱えたまま、窓の縁に腰を下ろす。

 適当に弦を爪弾いていれば、陽気につられたのか、褐色の肌に綺麗な着物をまとった子供達が次々に飛び出してきては、川の中に飛び込んでいった。

 

 ――きゃらきゃら、と笑い合う子供達。

 水を掛け合ったり、水中に潜れる時間を競い合って遊んでいる光景は素直に微笑ましい。

 どの子供達も身につけていた装飾品や顔立ちが似通っているため、ドリタラーシュトラ王の愛息子・カウラヴァの百王子たちで間違いないだろう。

 

 なんともなしにその光景を見守っていれば、誰かが小枝を踏みつけた小さな音がした。

 

 音の大きさからして、子供であるのは間違いない。とすれば、王子達の兄妹だろうか?

 話によれば聖仙の加護を受けたガンダーリー王妃は、百人の息子と一人の娘を産んだ様だから、そのうちの一人かもしれない。

 

 そんなことを思っていたら不意に木木の木立が大きく揺れ、褐色の王子たちよりも、年上に見受けられる大柄の少年が姿を現した――途端、楽しそうに戯れていた子供達の様子が一変する。

 

「ビーマ、ビーマだ! 逃げろ、みんな!!」

 

 それまでの笑い声が一転して、鬼気迫った金切り声に変わる。

 それまで思い思いに遊んでいた子供達が、血の気の引いた表情になって慌てて川から上がろうとする光景に、これは尋常ではないと思わず身を乗り出した。

 

 彼らにビーマ、と呼ばれたのは体格のいい色白の少年だった。

 将来は勇壮たる美丈夫に育つだろうと予期させる広い肩幅に、太い両の腕、彫りの深い顔立ち。

 カルナのそれが幽鬼のような肌色と忌避されるのに対し、少年の肌色は上等の牛の乳を思わせるしっとりとした色合いである。深い緑の衣を纏っているのは、彼の父親が風神だからだろう……となれば、あれが第二王子か。

 

「……何をするつもりだ?」

 

 豪奢な刺繍の施された上衣を脱ぎ捨てると、少年は愉快そうに口の端を釣り上げる。

 そこだけを見ると王宮の外の子供達となんら変わらない、どこか悪戯坊主を思わせる小気味の良ささえある。

 

 ――だが、幾ら何でも、カウラヴァの王子達の様子は尋常ではない。

 

 眼下の王子たちの何人かなんて、悲鳴をあげ、涙を流しながら逃げ出そうとしていた。

 彼らの長兄が次期国王の座を巡ってパーンダヴァの王子達と複雑な関係にあるのは有名な話だが、それでも彼らは親族で――家族の関係にあるはずだ。

 

 本当に、いったいどうしたのだろう?

 

 じっと見つめていれば、ビーマが逃げ遅れた王子の一人に掴みかかった。

 自身よりも体格のいい少年に飛びつかれたせいで、王子は悲鳴とともに体勢を崩して、そのまま水の中に沈んでいく。

 

 その光景を見た他の王子たちが、慌ててビーマにしがみついて引き離そうとするが、半神の少年の腕の一振りで吹っ飛び、次々と庭園の木に打ち付けられていった。

 

「――やめろ、やめろ、ビーマ!」

「誰か、大兄様を呼んでこい! 早く!!」

 

 声をかけられた王子達が数人、泣きながら王宮の方へと走りだす。

 それ以外に残った王子達がなんとかして捕まっている一人を助け出そうとして、一斉にビーマのところに走り寄る。

 必死の形相を浮かべて自分の方へと突進してくる王子達の姿に、ビーマは一際楽しそうに笑い声をあげると、押さえつけていた手を離して、水の中に潜っていった。

 

「しっかりしろ、大丈夫か!」

「今、他の奴らが大兄様を呼んできてくれる。それまでがんばれ!!」

 

 ようやく水上に浮かび上がってきた兄弟の腕を掴んで、なんとかして岸辺へと運ぼうとする子供達の一人が、不意に水の中に沈む。

 

 水中に潜むビーマに足を引っ張られたのだと察するのに、さほど時間はかからなかった。

 

「――――あはは! もう、息が切れたのかよ! なっさけないなぁ、お前達。それでも、このビーマ様の従兄弟かよ!!」

 

 少し離れた水面に浮かび上がってきたビーマが、闊達な笑い声をあげる。

 

 彼の目には先ほど水の底に沈められた王子が涙と鼻水を流しながら、苦しそうに咳き込んでいる光景が見えないのだろうか。自分を睨む様に見つめている従兄弟達が、恐怖と嫌悪の色を顔面に過ぎらせているのに、気づけないのだろうか。

 

 幾ら何でも見過ごせない。

 まるで姿形は似通っていなかったとしても、カルナと同じくらいの年頃の子供達が、地獄の悪鬼に苛まれるような絶望した表情を浮かべているのを目にし続けるのは、なぜだか不愉快だった。

 

 そうして俺が窓枠から身を乗り出そうと、身構えた瞬間――

 

「――何をしている、ビーマ!!」

「おっ、ドゥリーヨダナ。今日は遅かったじゃないか? また、勉強をしてたのか?」

 

 突如として響いた、鞭のようにしなる声がビーマを叱責する。

 先ほど立ち去った王子達に連れられてやってきたのか、宝石で飾った長い黒髪を綺麗に編んだ少年が、汗と土埃を物ともせずに飛び込んできた。




<登場人物>

・ドリタラーシュトラ王&ガンダーリー王妃
 …クル王国の国王夫妻。母親の過失で生来盲目の身であったドリタラーシュトラは、一度は譲った王位に弟であるパーンドゥの隠居後、着任する。ガンダーリーは目の見えない夫を自身がないがしろにしないように両目に布を巻くことでその視界を封印し、貞淑な妻として讃えられた。
 ガンダーリーは若い頃、聖仙相手に「100人の子供が授かる」という祝福を受け、その予言通りカウラヴァ百王子の母親となった。英雄ばかりに目が行きがちな『マハーバーラタ』だが、登場する女性達も意外と実績が凄まじかったりする。

・クンティー
 …先王パーンドゥの妻。やはり聖仙に授かった真言のおかげで自分と第二夫人を含む二人の女性との間に神々との間の五人(カルナを含めて六人)の子供をもうける。品行・性質・美貌の点において名高い美姫で、おそらく過失といえば赤子のカルナを出産幾ばくもしないうちに川に投棄した点だけかもしれない。とはいえ、カルナ誕生以後の夫であるパーンドゥと満ち足りた夫婦生活を送り、カルナが武術大会でその姿を表舞台に晒すまで思い起こすことがなかったという点では薄情な性質の女性であった可能性は非常に高い。『マハーバーラタ』の悲劇の引き金を引いた人物のうちの一人。


(*主人公・アディティナンダは基本的に個性のない人なのですが、徐々にそれも成長していきます。カルナを始めとする人々との交流を通じて、だんだんと内心の言葉が変化していくのを楽しんでもらえたら嬉しいです)


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呪われた王子

カウラヴァ百王子の長男たる彼の名前ですが、当作品ではFate wikiの記載に従っております。


 それまで遊んでいた王子達よりもやや年上、それもビーマと同じくらい年齢の外見。

 秀でた広い額に、宝石で飾られ、丁寧に編みこまれた黒髪。

 ビーマほどではないが鍛えられていることの判る均整のとれた体躯。

 目鼻立ちのすっきりとした顔立ちに、憤怒の色を帯びて煌めく、黒水晶のような双眸。

 

 ――間違いない。

 彼が、ドリタラーシュトラ王の最愛の愛息子である、ドゥリーヨダナ王子だ。

 

「わたしは、お前に、何をしている、と聞いたんだ。この横着者の狼腹(ヴリコーダラ)

 

 そこかしこで泣いている弟達の姿をちらりと視界に収め、王子は拳を握り締める。

 大勢の兄弟を辱められた怒りからか、絞り出すように出されたその声は、収まりのつかない感情に震えていた。

 

「……いや、お前みたいに筋肉と脳みそが直結している鳥頭に、わざわざ尋ねてやるまでもない。どうせ、お前のことだから、なにもわかっていないのだろうし」

「誰が、鳥頭だよ! 第一、悪いことなんてなーんにもしてないぜ。だって、ビーマ様はこいつらと遊んでいただけなんだから、さ!!」

 

 にやり、と笑うとビーマが片腕で水を切る。

 飛沫とともに巻き上げられた川の水が、刃のような鋭さをまとい、ドゥリーヨダナの登場に安堵の表情を浮かべていた弟王子達を打ち付けた。

 

「いい加減にしろ! 前にも言ったことだろう、わたしの弟達はお前なんかと遊ばない!! だいたい、これも何度言ったらわかる! そんなことも理解できないお前なんて、鳥頭で十分だ!」

 

 悲鳴をあげる弟達をかばうようにビーマの前に立ち、憤然と言い放つドゥリーヨダナ。

 

「――いいか、よく聞け! わたしの、弟達は、お前の遊びに付き合わない!!」

 

 その姿に、ビーマがつまらなそうな表情を浮かべ、唇をとがらせる。

 

 ……まさかとは思うが、あの子供。

 先ほどの虐めにしか思えない光景も、本人からしてみれば、従兄弟である百王子達と遊んでやっているに過ぎなかったのか?

 

 目の前の光景にクギ付けになっていたせいで、窓から身を乗り出していたままだった。

 なので、覗き見がバレないように、急いで室内の方へと体を引っ込める。

 それでも、外を注意を注いだままにして、万が一、機嫌を損ねた第二王子が暴走しだした時に対処できるよう、身構えておく。

 

 ――そうだ! と、とんでもなく良いことを思いついたような、弾んだ声が聞こえて来る。

 この声は、第二王子か。

 

「じゃあ、ドゥリーヨダナと遊ぶ! お前はそいつらと違ってすぐに泣き出したりしないし、弱くないし! それに、それに、ドローナ師匠に褒められるくらいには、このビーマ様と同じくらいには棍棒が上手だからな!」

「ドゥフシャーサナ、早く下の子達を医師の元に連れて行ってやれ。――……わたしは勉学で忙しい。お前みたいな狼藉者相手に付き合ってやる貴重な時間はないんだ」

 

 台詞の前半はすぐ側でぐったりとした弟を抱きしめている黒肌の少年に、後半の方は笑顔のビーマの方を睨んでの拒絶の言葉だった。

 

 それにしても、温度差がすごいな。

 比較対象が近くにいるせいか、鈍感なビーマもドゥリーヨダナが本心から拒絶の言葉を告げていると察したようだ。

 

 ……まぁ、これで気づかないようだったら、それはとんでもなく鈍感な大馬鹿でしかない。

 

「……なんだよ、その態度。そんな弱っちい奴ら、放っておけばいいのに。ドゥリーヨダナはいつもそうだ」

「うるさい。そんなに遊びたいんだったらアルジュナやお前の双子達と遊んでろ。わたしはわたしの弟達を甚振るお前のことが心底嫌いだ。――いっその事、竜巻にでもさらわれてそのまま海原にでも沈んでしまえ、と常に思っている」

 

 けんもほろろ、とはこういうことなのか。

 ドゥリーヨダナは余程ビーマが憎いのか、刃のような言葉には、嫌悪感しか感じ取れない。

 

 手酷く拒絶された色白のビーマの顔が憤怒の感情で真っ赤に染まる。

 握り締められた拳に血管が浮かび上がり、今にも怒りのままにドゥリーヨダナに殴りかかりそうな雰囲気だった。

 

 ……さすがに、これ以上放っておくのはまずい。

 

 短い時間の観察の結果ではあるが、あの風神の子供は己の価値観が、人の子であるカウラヴァの百王子達とすれ違っているのに気づいていない。

 同じ神の子であれば抵抗できても、未だ未成熟な人間の子供達ではそれが叶わないことなのだという、無慈悲な現実に気づいていない。

 

 だから、自分が酷いことを彼らに強いているのだと気づけないのだ。

 そして、そのせいで従兄弟たちに恐れられ、嫌われているのだということが理解できない。

 

 ――それは、下手したらカルナが辿りかねなかった道だった。

 

 そう考えれば、子供の小さな世界から排斥されかけている半神の王子の姿に、憐れみを覚えずにはいられなかった。

 

「さて、と。調整中、調整中。……あ、あー、ああ〜〜」

 

 喉を軽く拳で叩いて、音程を調整する。

 軽く息を吐いて、――先ほど聞いたばかりな、絹のように淑やかな女の声を再現する。

 

……ねぇ、ビーマ。私の愛しい息子。いったいどこにいるのかしら? 早くおいでなさいな

 

 うむ、なかなかなものである。

 俺の楽師としての才能の一端である。よほどのことがない限り、気づかれることはないだろう。

 

 母親の声だと錯覚したビーマが、弾かれたように頭を振り上げる。

 そうして、その場でわずかに逡巡するように王子の方を見やると、憤然と宣言した。

 

「――っ、母上! おい、ドゥリーヨダナ! お前、あとで覚えておけよ!」

「ふん。お前のような鳥頭のことだ。一晩寝たら忘れるに決まっている。それをどうして、このわたしが覚えておく必要がある」

「〜〜いつもいつも、偉そうなことばっか言いやがって! お前なんか、ユディシュティラ兄上には敵わないくせに!!」

 

 ビーマの捨て言葉に対して、ドゥリーヨダナといえば無表情なまま眉根一つ動かさなかった。

 しかし、だらりと降ろされた拳に一瞬とはいえ、わずかに力が込められたのを俺の目は見逃さなかった。

 

「……大丈夫か、お前達。怪我はしていないか?」

 

 ビーマが砂埃とともに立ち去ったのを確認すると、くるりとドゥリーヨダナが振り返った。

 

「ごめんなさい、大兄様。ぼくたちが弱いばかりに、いつも大兄様に迷惑をかけてしまって……」

「全く。いつも言っているだろう、ビーマが暇を持て余している時に外で遊ぶなと」

 

 申し訳なそうに眉根を下げる弟達の頬を軽くさすってやりつつ、ドゥリーヨダナが溜息を吐く。

 さすがは百人兄妹の長男だ。弟の構い方が実に堂に入っている。

 俺が挑戦しているカルナの兄役の比較対象とすることさえおこがましく感じてしまう。なるほど、あれが真の長兄というやつか。

 

「……あいつ。あいつは、ユディシティラのボケに、いい子ちゃんのアルジュナと違って、自分の力のことをちっともわかっていない大莫迦者だからな。 何時も言っているだろう? 付き合うだけ時間の無駄だと。おまけに、あいつ自身、何度言っても程度の理解しない知的能力の低さを誇っているのだから、真面目に付き合ってやるだけ莫迦をみるぞ」

 

 しかし、この王子、王族とは思えないほど口が悪いな。

 するすると次から次にビーマへの悪態が品のいい唇から流れ出てくる。なんだか、聞いてて逆に楽しくなってきた。

 

「ただし、わたしをすぐに呼び出したのは賢明だった。大人達は頼りにならないからな」

「お勉強の最中だったのに、ごめんなさい。……お師様に怒られたりしないかしら?」

「……平気だ。わたしは父上の息子だからな、誰も何も言えないさ。それよりお前達はさっさと部屋に戻れ。またあの鳥頭が戻ってこないとも限らないからな」

 

 そういってドゥリーヨダナは弟達を庭園から送り出す。

 全員が立ち去ったのを確認すると、王子は独り言にしてはやや大げさな口調でその澄んだ声を中庭へ響かせた。

 

「……それにしても、不思議だなぁ。クンティー叔母上はわたしが来る前には父上と母上の部屋にいらしていたはずなのに、どうしてこんな離れたところにビーマの阿呆がいるのを分かったんだろうなぁ?」

 

 ――この王子、先程のクンティーの声が誰かの声真似であることに気づいてやがった。

 

 なるほど、強かな子供である。

 尊ぶべき半神の子供であるビーマ王子への遠慮のない振る舞いといい、なかなか面白い性格の持ち主のようだ。

 

「――ま、誰であったとしても助かった。……あんな、からっぽ頭に負ける気はしないけど、負ける気なんてこれっぽっちもないけど! 弟達の前で無様な姿を見せる訳にもいかないしな! それに、本当に頭のいいやつは戦わずに勝利を収めるものだって、ビーシュマの禿頭も言っていたし!」

 

 そう言って、黒水晶の目の王子も立ち去っていった。

 その後ろ姿を見送りつつ、俺もまた見るもののなくなった窓辺から離れる。

 

 ふみふむ。なんか色々とあったけど、今回のことはそれなりに俺にとっても収穫だったな。

 カルナの実母と母方の肉親について知れた上に、国王にも気に入られた。

 それに、ドゥリーヨダナ王子のおかげで真の長兄という存在の一端を知ることができた。

 

 家族とはいえ、意外と殺伐としている間柄の関係があるのを知ってしまったが――きっとあれは従兄弟という繋がりであったからに違いない。

 事実、直系の親族に当たる百王子達は仲が良かったし。

 

 ……それにしても、兄というものは弟の前では見栄を張るものなのか。これは意外な情報だな。

 あと、兄弟同士の間で身体に接触することは結構いいらしい。

 長兄にかまってもらえる弟達、なんだか嬉しそうだったし――今度からカルナ相手にもっとしてあげよう、っと。




<登場人物紹介>

・ビーマ
 …クンティーと風神ヴァーユとの間の息子、超人的な怪力と食欲の持ち主。
 叙事詩には色白に逞しい体付きの美丈夫として記載されているために、今回のような容姿設定になった。
 直情径行な性質で、明記されることはないがやっていることは暴漢あるいは自覚のない苛めっ子である。
 幼少期にドゥリーヨダナに何度か殺されかけているが、天性の肉体でその災難を逃れている。
 けど、その行状を知ればドゥリーヨダナが殺意を覚えても仕方がないとも言えることを無邪気に行ってもいる。子供は残酷というよい一例、詳しくは原典をどうぞ。
 そういう意味では、母親のクンティーとは別の意味で『マハーバーラタ』の悲劇の引き金を引いた人物に含まれる。

・ドゥリーヨダナ(あるいは、ドゥルヨーダナ)
 …王国最大級の内紛を引き起こすことになる『マハーバーラタ』における悪役。
 彼の生誕と共に国中に不吉な徴が現われたことで赤子のうちに殺されかけるが、子供を惜しんだ国王の決断によって救われる。そういう意味ではカルナとは違い、親には恵まれていたのかもしれない。
 一説によれば、彼はユガ(カリ・ユガの不吉さの擬人名)の一部であったともされる。
 ただし百人も兄妹がいる中で骨肉の争いを繰り広げることなく、基本的に彼の弟たちも最終決戦まで彼と共に戦い抜いたことから、いいお兄ちゃんであったことは間違いない。
 また、御者の息子として卑しまれたカルナを終生庇護し続けたことから、その友情も本物であったのだろう。
 容姿の設定と性格に関してはオリジナルである。


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神々の子供たち

 原典の『マハーバーラタ』にラーマ王子の冒険譚のことが語られていましたので、『ラーマーヤナ』の方が古いという設定にしております。

(*誤字報告、ありがとうございました*)


 ドローナの武術教室は、息子であるアシュヴァッターマンが俺に教えてくれた通りに、身分を問わず、力を求める者に対して開かれた。

 

 スーリヤに倣って戦車を乗りこなすのはともかく、俺は直接戦う術を持たない神霊だ。

 当然のことながら、武人としてのあらゆる技法・武器に精通などしていない。

 

 そのため、ドローナの武術教室の存在は正直助かった。

 非戦闘員である俺が指導したままでは、そう遠くない内に限界がくることは火を見るよりも明らかだったからである。

 

 教室に通いだしたカルナは、海綿の様に師匠であるドローナの教えを習得し、門下生でも一、二を争う才能の持ち主ではないかと噂されるようになった。

 無論、階級による差別や憚りがあって大きな声で話せない内容なので、密やかに、だが。

 

 ただ、カルナがそう褒められるのを聞けるのは何故だかひどく胸が弾む。

 それに加えて、戦士として技量を研ぎ澄ましていく過程で、カルナが無表情のうちにも喜色を露わにしているのを見守るのも、不思議と俺の胸にも喜びの感情が湧き上がる要因となった。

 

 自分のことながら、よくわからない内面の動きには首をかしげるばかりである。

 悪い気分ではないが、カルナと暮らすようになってからの俺は、前の自分とはちょっとずつ変わってきている。

 

 ……これは一体何を意味しているのだろう? 

 

 まぁ、それはさておき。

 人の世界で生きるカルナと暮らすに当たって、俺が真っ先に思いついたのが人間の"家族ごっこ"だった。

 

 ――ことの始まりは至って単純。

 俺は、突然の異邦人に驚くカルナの養父母に対して「兄」と名乗ることで彼らの信頼を獲得し、名実ともにカルナの近くにいてもおかしくない立ち位置を確保する必要があったからだ。

 

 そのために最適な関係が「人間の家族」であり、"家族ごっこ"を行うことは、人ではない俺が人間社会に溶け込むための手っ取り早い方法だったのである。

 

「カルナ、カルナ。今日は一体何をドローナから教えてもらったんだ?」

「弓矢のたんれんだ。……いかにふあんていな足場で的をいぬくか、というものだった」

 

 そして、鍛錬終わりのこの会話もまた、その遊戯の一環である。

 要するに、カルナの側でその成長を見守ると決めた時、俺はそれまでの物理的な距離を一気に縮める方針へと切り替えたのである。まぁ……そこに至るまでに色々と頭を抱えるような出来事が色々あったのだが、今ではすっかり俺も共同体の一員として受け入れられているので、その辺は割愛しておこう。

 

 こうして、武術教室に通うようになってから、口数の少ないカルナもやや饒舌になってきたのは、素直に喜ばしい。ドローナの武術教室に通い出した最初の頃の、それこそお互いに何を報告すればいいのかわからなかった頃と比較しても、明らかな進歩である。

 

「弓矢かぁ……。他に、何か別の武器とかは教えてもらったか?」

「いや、特にない」

「…………そ、そっか」

 

 ……とはいえ、普通の家族と比較すれば、依然としてぎこちないものであるのは仕方がない。

 なにせ、俺たちの根源は、実母でさえ耐え切れず育児を放棄した灼熱の神格を宿した太陽神だ。

 必然、その神性持ちの俺は人の(からだ)を得るまで他者と触れ合ったことがないし、カルナはその出自と異常性ゆえに、生身の暖かさというものとは縁薄い生活を送ってきた。

 

 そんな訳で、今はお互い、どう相手と接するべきかについて探っている期間なのだ。

 

 ――繰り返すが、これでも、昔よりは遥かにマシになったのだ。

 

 

 毎朝、カルナを王宮での武術教室まで送り、夕方の稽古帰りのカルナを出迎えて、その日の出来事をお互いに報告しあう。

 

 カルナはドローナから習った武の技や鍛錬の方法について語り、俺は街中ですれ違った人々の様子や招かれた宴会での出来事を面白可笑しく伝える。

 

 こういうことを繰り返していったお陰なのだろうか。

 俺たちの間にあった奇妙な緊張感は徐々に薄れていって、今では相手の温もりを求めてくっついても居心地の悪さを感じることは少なくなってきた。

 それに、身体的な接触を繰り返すのは家族としては自然だと、時たま王宮で見かけるカウラヴァの百王子達が証明してくれたし。

 

 ――やっぱり、より家族らしいことをするには人の子達の観察に限るね。

 

 今日も今日とて、王宮を見渡せる小高い丘に茂る大樹の下に腰掛け、肩を寄せ合って座る。

 この日はドローナが王宮の殿下たちにつきっきりで指導する予定ということで、いつもより少しばかり早い時間に武術指導が切り上げられたのだった。

 

 俺たちの場合、お互いが口下手なのは自覚しているせいか、無理に会話を続けようとするよりも、じっと黙って同じ時間を過ごすことの方が苦痛ではなかった。

 

 そのため、特にすることもない俺たちは、何ともなしに眼下の景色を見ていた。

 もし、高台から王族を観察しているのを兵士の誰かに気付かれたら、不敬と言われて斬首されかねないが、曲がりなりにも俺たちは神の子である。

 

 これまで一度として兵士たちに気取られたことはないし、きっとこれからもそうだろう。

 ――そんなことを考えながら、とりとめもなく観察を続ける。

 

 そうこうしているうちに、俺は教師としてのドローナの立ち振る舞いに対して抱いていた懸念が、看過できるものではないと結論付けずにはいられなかった。

 

 ――というのも、第三王子・アルジュナに対してのドローナの接し方は、やはり尋常ではなかったからだ。

 

 なんせ、明らかに贔屓というか、関心の注がれ方が違う。

 

 遠目に見える黒い肌に、純白の衣をまとっている、すらりとした体躯の少年。

 先ほどからつきっきりでドローナが指導している少年が、アルジュナ王子であるのは、観察の結果からして、もはや見間違えようがない。

 

 例えるのであれば、アルジュナ王子への関心のドローナの度合いが50という具合なら、他の王子達に対する指導熱の分量が20で、実子のアシュヴァッターマンへのものは30だ。

 才能の差、と言って仕舞えばそれだけだが、修行の難易度もそれを克服した時の褒め具合も、明らかに一人だけ特別扱いなのが見て取れた。

 

 どちらかといえば鈍感な俺でもよくないと思う――これは紛れもなく依怙贔屓だ。

 

 他の王子達もそれがわかっているのか、ドローナよりも、同じ武術指導官であるクリパやバララーマの方へ指示を仰ぐことが多い。

 

「優れた弟子に対する、師匠の過剰な期待と言ってしまえばその通りなのだけども……。いささか常軌を逸しているというか、なんというか」

 

 鍛錬の疲れでか、こくりこくりと舟を漕ぎ出したカルナの形のいい頭を抱え込んで、そっと膝の上に乗せてやる。印象的な両眼が閉じられてさえいれば、カルナにだって、年齢に似つかわしい稚さがあるものだ――うん、可愛い。

 

 ――そんなことを頭の隅で考えながら、立てた方の足に肘を乗せて頬杖をつく。

 

「噂では、アルジュナ王子よりも優れた弓術を誇る外弟子に対して、その親指を差し出せと迫った様だし。この調子じゃ、安心してカルナを通い続けさせることは難しくなるかもなぁ……」

 

 本音を言えばこのドローナの噂が真実でないことを望むが、そうもいくまい。

 カルナほどではないが、俺もまた、審判神たる性質を持つスーリヤ所以で、物事の真偽を見通す程度の能力は有している。その直感が例の噂話を聞き入れて以来、それが事実であるのだと太鼓判を押したのだ……その時点で、最早疑いようがない。

 

 俺の膝の上でくうくう寝息を立てている太陽の子供は、無類の勇者へと成長するだろう。

 

「けどなぁ、そうするとドローナが怖いんだよなぁ……」

 

 今は愛弟子であるアルジュナ王子と溺愛する息子・アシュヴァッターマンにばかりに目がいっているせいで、カルナの天性の才能を見誤っている様だが、もしもあの狭量な師匠が気づいてしまったらどうなるんだろう。

 

 ……深く考えるまでもなく、その結果は明らかだ。

 肉親の目から見ても、カルナの奉仕精神は限度を遥かに凌駕している。

 そんなカルナが、師匠であるドローナに何かを差し出せと言われた場合、断るということを思いつくだろうか――()()()()()()()

 

 カルナの金色を帯びた毛先を、指先で軽くいじりながら熟考を続ける。

 

 なんだかんだで指通りの良い髪質だ。

 俺のは癖が入っているせいで雨の日とか爆発するんだが、カルナの髪はいつもすべすべである。

 全くもって、羨ましい限りの髪質である。

 

 ……そういや、カルナの見目や気配ばかりを気にして、恐れる者たちは、こういう些細なことを知ろうともしないのかぁ。

 

 思考がおかしな方向へと飛んだので、軌道修正する。

 ――ともかく、カルナのことだ。

 

 もしも、件の外弟子の様にドローナに親指を求められたとしたら、二つ返事で了承するだろう。

 バラモンの頼みを断らないと定めた、日課の沐浴の時間であればなおさらだ。

 

 ……というか、その光景がありありと脳裏に浮かぶ。

 最悪、親指だけで済めばいい。でも、もしカルナが身につけている黄金の鎧を求められてしまったらどうしよう。

 

 そんなわけなので、神造兵器の一種であるこの鎧がカルナに与える恩寵が失われてしまった事態を想像するだけで、お腹が痛くなる。

 ……なんで、うちのカルナはこんなにも難儀な性格に育ったんだろう……いや、いい子なんだけどね、はい。確かに自慢の弟であるのは間違いないんだけど……嗚呼、なぜか頭も痛くなってきた。

 

「本当にどうしよう。――カルナに実力を隠すように言いつけるか? けど、こいつ正直だし……無理だろうなぁ」

 

 そんな器用な性格の持ち主だったら、俺の心労はここまで積み重ねられていない。

 思えば俺も、大分人間らしい情緒の持ち主になったもんだ。

 

 ――だが、そもそもスーリヤめ。

 いくらなんでも最初の情報が少なすぎるんだよ。しかも、俺を地上に突き堕として以降、ちっとも接触してこないし。

 

 せめてカルナがどういう素質を持つ子供なのか、最初に教えてくれれば良いものを。

 万物に平等であるべき、という日輪の性質上、我が子とはいえ贔屓がし辛いのは仕方のないことかもしれないけどさ。

 

 ――前もって教えてくれたなら、こっちだって色々と先んじて手を打っておけたものを。

 

「最も、ドローナにしてみれば、戦士階級(クシャトリヤ)ですらないカルナなんて、眼中に置かないか。それに、あの話が本当なら、アルジュナ王子にひときわ関心を注ぐのも頷ける」

 

 俺の直感が九分九厘の確率で真実だと判断している、ドローナに関する巷間の噂話を思い出す。

 何でも、一念発起したドローナは幼馴染の国王の元へと――俺が彼ら一家と旅の道中で出会ったのはこの時だ――最初は仕官に行ったらしい。

 

 だが、当の国王にけんもほろろに断られ、子供の頃の友情は無きものとして扱われた。

 ドローナは地位と権力に酔った国王の言葉に激怒し、ハースティナプラでクルの王族たちに召し抱えられた際、過去の侮辱に対する報復に協力してくれるように求め、それを第三王子が快諾した事で武術指南の地位に就いたのだとか。

 

 だとすれば、かつて己の頼みを断った国王への報復を快諾してくれたというアルジュナ王子への思い入れも半端ではないだろう。

 

 ――それにしても、神々を父親に持つ半神の数が同じ時代に多すぎるよ。

 クル王国の先王・パーンダヴァの五人の遺児が、インドラを始めとする有名どころの神々の子供であることは周知の事実だが、……それにしても英雄の卵となり得る神童たちがこうも揃っているということ自体、尋常ではないな。

 

 日没が近づいてきているせいか、だんだんと木漏れ日の合間から差し込む日差しが弱くなる。

 カルナが体を小さく丸めるのを見て、普段は日よけに使っている外套を体の上にかけてやった。

 

「――? 待て……、何かがおかしくないか」

 

 徒然に思い浮かんだ内容に引っかかりを覚える。

 

 そうだ、この時点で何かがおかしい。

 ――というか、不自然に舞台が整い過ぎている感覚が半端じゃない。

 

 太陽神・スーリヤは天界での勢力争いに敗れたとはいえ、神々の王である雷神・インドラに並ぶ神威の持ち主だ。

 

 太陽神と雷神の子供たちが、同じ時代の同じ国に、ほぼ同年代で揃って生を受けた。

 ――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 おまけに、神々が人間の間に子供を儲ける場合、大概が差し引きならぬ事情や思惑が絡んでいることが殆どであることも、嫌な予感に拍車をかける。

 

 過剰なまでのスーリヤからの情報規制にも何かの思惑が絡んでいるのかもしれない。

 

 ――眼下で、ドローナが着飾った王族の子供達相手に指導している姿を、なんとはなしに見つめながら思い浮かんだ内容に、背筋が凍った。

 

 …………仮に、そう遠くない将来に、クル王国相手に他国が攻めてきたとしよう。

 

 カルナがこのままドローナの元で武人として大成した場合、カルナはこの国の武人として、その性分を尽くそうとするのは間違いない。だが、この国には正当な王子として認められた神の子供達がすでに五人もいる。

 

 五王子の父であるインドラやヴァーユは、単体でも強力無比な力を持つ荒ぶる神だ。

 その性質と力を受け継いだ子供たちとて同様だろう。実際、かつて垣間見たビーマなんて碌な師がいないせいで自分の強大な力を持て余しているようにも見えた。そんな連中に太陽神の子たるカルナが加われば、相手方の敗北は必須である。

 

 だが、そんな一方的すぎる戦いを神々が、ひいては天の理が許すだろうか?

 

 ……神の子たる英雄には、同じだけの力量を持つ敵の存在が必要だ。

 例えるのであれば、『ラーマーヤナ』における羅刹王・ラーヴァナのように強大な敵が。

 

 そもそも、この王国ほど神々の奇跡とも言える半神の存在が噂される場所が、他にあったか?

 

 ――五人の神の王子に匹敵する奇跡、あるいは悪逆の体現者。

 可能性の一つとしては凶兆の子供と噂されているドゥリーヨダナ王子だが、彼は特殊な生まれをしていても人間である。どんなに優れた素質の持ち主であっても、流石に五対一では及ぶまい。

 ――かといって外部に目を向けたところで、これまで楽師として集めてきた巷間の情報には、五王子たちの敵に成り得る強大な力を持つ存在が該当しない。

 

「まさかとは思うが、カルナがこの国に生まれたのは……」

 

 むき出しの腕に脂汗が伝う。五王子が神々の寵児であることは万民に広く知られている。

 そんな愛息子達を、父神たちが負ける戦争に駆り立てたりするだろうか? なにせ、偏愛は神々の生来の性質だ。当然、絶大な加護と恩恵を与え、どんな手段を用いたとしても彼らを勝たせることに奮起するだろう――だとすれば、カルナは。

 

 ――そこまで思考が至った、その瞬間。

 唐突に視界が真っ暗になったかと思うと、馥郁たる睡蓮の香りが鼻腔をくすぐった。

 

「だめだよ、そこまでにしておかないと」

「――――っ!?」

 

 小鳥の囀りを思わせる軽やかな音が耳に届く。

 それが、柔らかな響きであるにもかかわらず、どこか酷薄さを感じさせる声音であることを理解して――背筋が凍った。




<登場人物紹介>

・ドローナ
 …カルナ・アルジュナを始めに、『マハーバーラタ』に登場する主要な英雄・王子たちの武術の師匠。パラシュラーマ隠居の際に、教えを請い、彼の卓越した武術を習得する。
 ちなみに、アルジュナよりも優れた弓矢の使い手であった外弟子に対して、二度と弓を持てないように親指を求めた話は原典にも記載されている。師匠の依怙贔屓は良くない。
 とある王への屈辱を晴らすのに協力するとアルジュナが即決したこともあって、アルジュナは彼の愛弟子となる。
 弟子であるアルジュナへの傾倒ぶりは、溺愛されている実子が父の愛情の喪失を怯えるレベルだったという。


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兄と弟、それから家族の話

『マハーバーラタ』を読んでいて吃驚したのは、意外と肉親や友人同士で身体的な接触を図ることで親愛の情を示す描写が多いことでした。
そのため、この「もしカル(略称)」でもその設定を取り入れています。


 ――気がつけば、膝の上で眠っていたカルナの姿が消え失せている。

 ……誰かの幻術(マーヤー)で作られた世界に陥ったのだと、否応なしに今の現状を理解した。

 

(キミ)は本当にかしこいねぇ。先代の国王たちを始めに、(かな)しい人の子たちが素晴らしい半神の王子たちを獲得したことを喜んでいる最中、そんな些細な可能性に気づいてしまうとは」

 

 真っ暗になった視界に、くすくすと子供の笑い声が響く。

 無垢で無邪気でありながら、合理的な残酷さを宿した囁き声。俺としては極めて異例なことだが、恐怖のあまり鳥肌が立っていた。

 

(キミ)の思い当たった可能性の通りだよ。そう遠くない日()()は起こる――()()()()()()()()()()()()()()

「……運命、だって?」

「そうとも」

 

 猫が鼠をいたぶるような、幼い子供が無造作に小虫の足を引き千切ってしまうような。

 

 例えて言うのであれば、それは悪意がないゆえの残虐さ。

 圧倒的な力の差ゆえに逆らうことなど敵わない俺を、哀れむように、あるいは愛でるように。

 薄布越しに触れられているような錯覚を与える何者かの視線が、俺の全身を這い巡っている。

 

 ――……すごく、気味が悪いし、正直なところ、気持ちも悪い。

 

「……例え神々の王であったとしても、変えられない絶対的な天命」

 

 みずみずしい睡蓮の香りが、その芳香をいや増していく。

 充満する花の匂いで次第に頭がクラクラとしていくのを、じっと堪える。

 

「――――()()に逆らうことなど、愚か者のすることさ」

「お前、お前の正体は、まさか……!」

 

 圧倒的な気配に自分の存在が蹂躙されるのを全身で感じながらも、震える唇を動かす。

 恐怖もあるが、それ以上にその何者かに対する怒りと嫌悪感がそれに勝った。

 

 真っ暗な闇の向こうで、それが婉然とした微笑みを浮かべるのが微かな空気の動きで分かり、その誰かの冷たい指先が震えている俺の顎先を伝う。

 見えない相手の指先に触れられた箇所から、カルナとの間で感じる優しい温もりとはかけ離れた、骨の髄から凍ってしまいそうな冷気が全身に浸透していく。

 

「ふふふ。……今回のことは見逃してあげる。でも、(キミ)(キミ)である以上、(ボク)に逆らうことなんて出来やしない。賢い(キミ)のことだ。そのことは、十分に理解できるでしょう……?」

 

 ――ふぅっ、と耳元に艶かしい吐息が吹きかけられる。

 それを最後に、全身を威圧していた圧迫感は闇の気配と共に薄れ、それまでカルナと一緒に座り込んでいた大樹の下に戻っていた。

 

 

「〜〜っ、……くそったれっ!! あんな化け物さえ、地上を闊歩してるっていうのかよ!」

 

 考えうる限り最悪の状態である。

 

 弱体化しているとはいえ、この俺が気圧される神格持ちなんて、片手の指で数えられる。

 該当する相手の名前を思い起こすだけでも億劫だが、そいつらはどれもが絶大な力を持っていて、その中のどれであろうと戦闘向きの神霊ではない俺の勝率は絶望的である。

 

 そして、そんな格上の存在が地上に堕ちている俺の元に接触を図ってきたこと自体、これから先に何かが必ず起こることを示唆している。

 

 ここまでくると、一体この時代はどうなってるんだと文句さえ言いたくなる。

 地上に堕とされて以降、スーリヤが俺に何も教えてくれなかったのには、もしかしたらその辺の事情も関係しているのかもしれない。

 

 とにかく、乱れる呼吸を必死に整える。

 

 何せ、カルナが目覚めるまでにはいつもの俺に戻っていなければならない。

 

 兄というものは、頼れる長男として弟妹の前では見栄を張る必要性もあるのだ。だって、俺が真の長兄として密かに尊敬しているカウラヴァの王子様もそう言っていたし。

 

 だとしたら、どうあっても(カルナ)に、こんな情けない様を見せるわけにはいかないではないか。

 

「……んぅ。……どうした? なにか、あったのか……?」

「……カルナ、まだ、寝ててもいいんだぞ」

 

 身じろぎしたせいか、眠りこけていたカルナが薄く目を開けていた。

 普段は強い意志の力を感じさせる蒼氷色の双眸は寝起きだからか、どことなくぼんやりとしていて、幼さが強調される。

 

 俺の膝の上に頭を乗せながら、眠そうに目をこすっているのはどこにでもいる子供だった。

 

 ――……ああ、そうだ。

 こいつはこんなに小さくて、その上、俺にとって他に替えなんてきかない大事な(そんざい)なのだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――カルナが神の子であるとか、戦士としての力量は俺の方が下であるとか、いずれは大いなる運命の渦に巻き込まれる英雄であるとか。そんなくだらないことは、俺がこいつを()()()()()()()()()()()と思う気持ちとは何の関係もなかったんだ。

 

 こんな当たり前のことを、今更になって……ようやく俺は理解した。

 

 カルナが他者から一目置かれるようになったのを聞いて、胸が弾んだのはどうしてだったのか。

 武術の教室に通えると聞いて喜んだカルナを見て、心中に暖かな感情が満ちたのは何故か。

 カルナの運命を予期させる不吉な未来に対して、恐れと共に怒りを覚えたのは何故だったか。

 

 ――今まで気づかなかった/気づけなかった、それらの疑問が、ここにきてようやく氷解した。

 

 この子の尊厳が侵されることなく、その誉れ高い生き方を貫き続けて欲しい、と想う気持ち。

 艱難辛苦に塗れようとも、その一生が実り多きもので満たされて欲しい、という願う気持ち。

 

 その生き方を慈しみ、愛おしみ、見守り、将来が幸いであることを祈らずにはいられない。

 それは、この子(カルナ)この子(カルナ)であるからこそ、地上にいる俺が抱くようになった感情。

 

 ――この気持ちは、父であるスーリヤに言いつけられたから生じたものではない。

 家族として見守り、不器用に共に過ごす内に、羽毛の様に柔らかく積み重なっていた物だった。

 

 言葉にできない何かが、ゆっくりと時間をかけながら形を為していった結果――虚ろだった俺の胸の内で育まれた愛情(オモイ)の結晶だった。

 

 奔流のように胸の内を吹き抜けていった様々な感情に――胸の奥底、神核(しんぞう)に当たる部分がぎゅうっと締め付けられる。

 

 ……嗚呼。何て苦しく、何て切ないのだろう。

 

 これは明らかに、一方的に与えるだけの神の愛では到底得られようのない貴いものだ。

 

 ――親が子に、子が親に、妻が夫に、夫が妻に、姉が妹に、弟が兄に。

 例えば、家族と名付けられた枠組みの中で、互いが互いを思い、慈しみ、支え、尊重しあっていくことで、それぞれの心の中に宿る感情。

 

 "家族ごっこ"なんかじゃない。

 "家族"としての、"兄"としての自分のあり方を、やっと俺は理解できた。

 

「何でも、ない。なんでもない、カルナ。ただちょっと、胸にくるものがあっただけだ」

 

 人の子は、大切だと思う相手へこのような感情を胸に抱きながら、日々を過ごすというのか。

 

 だとすれば、人間という心持つ生き物は、なんて羨ましくてなんと素晴らしいのだろう!

 何の理由も衒いもなく、ただ大事に思っている相手を、特別な理由などなしに、愛することができるということは。

 

「――っ!?」

 

 俺のことを案じるように起き上がったカルナを腕の中に閉じ込めて、突然の慣れない仕草に固まる小さな体を力一杯抱きしめる。

 

 カルナと同じくらいの人間の子供たちが母親に、時に父親に抱かれているのを見たことはあっても、実際にカルナに対して行うのはこれが初めてだった。

 

 手と手、肩と肩だけでは伝わらない量の温もりとなんとも言えない心地よさに、陶酔する。

 こんなにも気持ちよく、温かな行為であったならば、もっと早くに試してみればよかったとちょっと思う。

 

「……とつぜん、どうしたのだ……。やはり、何かあったのか?」

「なぁ、カルナ。人間って凄い生き物だな」

「……答えに、なっていないのだが」

 

 ふへへ、と顔をだらしなく緩めながら、カルナからの問いかけとは全く無縁のことを口にする。

 

 ――あの暗闇の主のことを伝える気など、到底なかった。

 

 だって、カルナの将来はカルナのもので、そのための選択肢は、俺なんかじゃなくて、張本人たるカルナ自身に委ねられてしかるべきだ。

 大いなる神々の謀りごとなど下手に知ったばかりに、顔も見せない誰かによって、カルナの将来を決定づけられるなんて冗談じゃない。

 

 あの朝焼けの下で、カルナは既に人としての運命を選び取った。

 その選択は、いつかはわからずとも、カルナという個体に終焉が訪れることを意味している。

 

 ――だとすれば、なおのこと。

 カルナがどんな生き方をするにしても、それはカルナにとって悔いのないものであってほしい。

 それを傲慢な神々の思惑によって翻弄された挙句に、ただただ嵐の中の小舟のように流されるだけの生き方なんて、不幸でしかない。

 

 もっとも、聡明な子供であるカルナのことだ。

 俺が何かを誤魔化そうとしていることはすでに承知しているのだろう。

 

 ――だから、常のごとくの明瞭さと簡潔な台詞でもって、俺の薄っぺらな誤魔化しの言葉を叩き斬るのだとばかり思っていた。

 

「――だが、お前が語りたくないというのであれば、オレもあえて問うまい」

「……へ?」

「時がくれば、つたえてくれるのだろう?」

 

 抱きかかえた腕の中から、澄み切った蒼氷色の眼が、じっと俺を見つめている。

 

 ……一年前の俺だったら、きっと気づかなかっただろう。

 

 感情の色の薄いその両の眼の奥底に、確かに信頼という気持ちが沈んでいることに。

 無表情に見えるその白皙が、うっすらとだが困ったような微笑みを浮かべながら、俺の言動を容認する優しさを示していることを。

 

「うん、うん。そうだな、そうするとも」

「そうか……ならばそうするといい」

 

 ――ぽふん、と音を立ててカルナの白い頭が胸を打つ。

 じわじわと伝わるぬくもりが、先ほどの邂逅のせいで冷え切った体を温めてくれた。

 

 やっぱり俺たちは口下手だ。

 無口なカルナは勿論のこと、お客さん相手にはベラベラ回る俺の舌も、何故だかカルナ相手には言いたいことがありすぎてうまく伝えられない。

 

 だから、口では伝えることのできない思いを、さっき気づいたばかりの優しい感情を側にいる相手に届けるように、言葉の代わりに俺たちは身を寄せ合った。

 

 ――嗚呼、……暖かい、なぁ。

 

 そういう意味ではスーリヤは不幸だなぁと心底思う。

 なまじ相手を焼き尽くしてしまうだけの熱量をもって生まれたが故に、こうやって得られる優しいぬくもりを感じることができないなんて。

 

「なぜかは分からないが、やけにうれしそうだな」

「……うん。そうだな、俺はとても嬉しいのかもしれない」

 

 語らなくても、伝えられる。そんなことがあるだなんて、思ってもみなかった。

 

 でもまぁ、言わなくちゃわからないことだって、あるにはあるのだ。

 なんだか好い気分になった俺は、とある金持ちから“千の宝玉に匹敵する麗しさ”と称された蕩けるような満面の笑みを浮かべ、兼ねてから心の奥底に秘めていた欲求を口にしてみた。

 

「……なぁ、カルナ」

「どうした? めったに見ない、だらしない顔をして」

 

 しかし、この顔をだらしない顔と称するか。相変わらず、俺の弟は手厳しい。

 

「好い加減、俺のことを“お兄ちゃん”とか“兄上”って呼んでいいんだぜ?」

 

 ドウリーヨダナ王子を始めとする世の長兄たちがそう呼ばれているのを聞いて以来、俺もいつかはカルナにそう呼んでもらいたいと密かな野望を抱いていたのである。

 

 ――ところが。

 

「……すまない、その誘いについてはえんりょしておく」

 

 つれない末の弟と言えば、この俺の一世一代のお願いに、そう返すのであった。

 

 ……それでも、俺にとっては、その時カルナが笑ってくれていただけで十分だった。

 

 普段は無表情な顔に浮かぶ蕾が咲き綻ぶ様な柔らかな微笑みに、俺は改めて覚悟を決める。

 

 ――いかに残酷な運命と強敵が待ち受けていたとしても。

 ――例え……それが、誰を敵に回すことになったとしても。

 

 この子の生涯がこの子にとって悔いのないものとなるように、この命をかけてでも、絶対に守りきってやるのだと。

 改めて俺は、自分自身に対して――……そう誓ったのだ。




・ちゃんとした家族になった話。
 お互いにコミュ障なので、家族になるまで結構時間がかかりました。こいつらは下手に言葉にしないほうが通じ合ってる設定です。(そのせいで、カルナの一言足りない癖は治らない。ジナコさーん、こっちこっち!)

 前にどこかで述べたように、主人公であるアディティナンダが影と個性が薄いのはまあ、色々と理由がありまして(それについては終盤あたりで説明できたらいいなぁ……と伏線を張っておく)加えて、半分人間のカルナとも違い、どちらかというと神よりの価値観と倫理観の持ち主です。(スーリヤへの反発からまともな神に比べたら人間よりではありますが)
 また、弟であるカルナと違い、万人平等な価値観と黄金の精神が備わっているわけでもない。
 それがカルナを通じて、人々との交流を経て、ここにきてようやくマトモな感情を手に入れたという設定があったりなかったり。そのため、これから徐々に個性が生まれていく予定です。

・カルナさんの話し方について・1
 幼少期を書くにあたって、神の子だけあって聡く習得も早いので、きっと小さい頃から同じような喋り方だったんだろうと思って、敢えて公式を語り口を真似してみました。
 また、子供らしさを強調するためと、カルナが恐らくヴァイシャ階級でも下位(あるいはシェードラ階級の出身の可能性も高いのでは?)であったために、満足に学問を修めることの適う環境にいたとは考えにくいため、敢えてセリフにはひらがなを多用しております。(紛らわしくてすみませんでした)
 なんというか、公式そのままの口調に漢字を多用したらあまりにも子供らしくなくって、違和感が半端じゃなかったので、このような形に。(とはいえ、聡明さ故に習わずとも小学生低学年レベルの漢字であれば使える感じにしました)
 ーー多分、この後アディティナンダに教わって、猛勉強すると思う。

あー、やっと終わった!
これで登場人物紹介も兼ねた第1章はおしまいです。
次の章から(内面的に)成長したアディティナンダと(外見的に)成長したカルナの話、本来の目的であった『マハーバーラタ』を辿る物語を始めることができます。
今のところ、第2章では、クル族の武芸大会から始まって、ドゥルパダ征伐、婿選からサイコロ賭博まで書くことを予定しております。


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幕間の物語・1
<上>


 ――新章に入るといったな、あれは嘘だ。


 ――おかしな男がいる、という話を初めて耳にしたのは、一体いつのことだったろう。

 

 

 師であるドローナは当時としては異例なことに、全ての階級の戦士としての才能を持つ者相手にその門戸を開いている武闘者であった。

 

 恐らく、その気前の良さの裏側には、己の恨みを晴らすために優れた弟子を求めてという思惑があったのだろうが、そうは言っても、それを実行してのけたという点においては評価すべきことではある。

 

 必然、ドローナの指導を求めてその門戸をたたく若武者の卵たちは大勢いた。

 

 ――彼らはそれぞれに野心を抱いて入門を希望していた。兵士としてよい給金を得ることを目的としていた者、才覚を磨き戦士として大成することで窮屈な身分制度からの脱却を目指す者、はたまた純粋に当代一と名高いドローナに師事することを誉れと感じてやってきた者。入門した彼らの理由と目的は様々だったが、その誰もがまだ見ぬ栄光を求めて、ギラギラとした炎をその目に宿していた。

 

 ここまで階級・種族・年齢が雑多になった教室は、この国の歴史においても滅多にないことだったのは間違いない。ただ、身分を問わずというのがこの修練の場の謳い文句であったがためか、ごく一部の例外を除けば、ドローナの弟子達は互いの身分を探らないことを暗黙の了解としていた。

 

 ――ところが、様々な階級の者たちが入り混じる中、一人また一人と弟子たちは櫛の歯が欠けるように脱落していった。当初は大勢の若者たちの活気と野心による熱気で溢れていた鍛錬場も、日数の経過とともにやってくる面々の顔ぶれは徐々に固定化されていく。

 

 ――それもまた仕方のないことだった。

 弟子同士の間で次第に形成されていった、才能と序列に基づく差別。

 半神の子供達の鍛錬とそう遠くない距離感で修行に励まなければならないという環境。

 公平に見えたドローナの、裏切りとも言える一握りの弟子にのみ注がれる熱意。

 

 そうして磨耗していく有象無象の弟子たちの精神に止めを刺すのが、夜空にひときわ煌めく白銀の月のようなアルジュナという存在だった。

 どんなにあがいたところで彼の立つ頂に届くことなど敵わず、せめてと星として輝いたところで夜空で最も高貴な輝きに及ぶはずがない。

 

 ある者は己の才覚のなさに諦観し、ある者は過酷な修行に根をあげ、またある者は身分制度によって定められた世界における己の将来性の限界に絶望した。

 

 結果的に、そんな理不尽な環境に耐えられる者、他に行き場のない者、ドローナから弟子として辛うじて認められることがかなった者。そういった者だけが、人気の少なくなった教室に挫けることなく通い続けた。

 

 ――そんな風に、門下生達が次々と脱落していく中、一際異彩を放つ弟子がいた。

 誰も彼について詳しいことを知らず、ただカルナという名だけが弟子たちの間で知られていた。

 

 黒く濁った闇に覆われている全身と、時折その合間から覗く幽鬼のように白い肌と謎の金の光。

 白皙の面は常に酷薄な表情をたたえ、長い前髪の奥の蒼氷色の双眼には年齢に不相応な鋭利さ。

 薄い唇から紡がれる言葉は万年雪の冷徹さをまとい、相手の感情を逆撫でするような振る舞いも厭わないが故に、師であるドローナを含めてカルナは他者から敬遠されていた。

 

 なまじカルナが優れた才能の持ち主であったことも、遠巻きにされる理由の一つとなった。

 誰も素性の知らないカルナの才覚は、生来の戦士階級である者達を遥かに凌駕していた。

 そのせいか、身分に囚われない広い視野を持つ者達の間柄では、ひょっとしたら最強だと謳われているアルジュナ王子やビーマ王子に匹敵するのではないか、という話がまことしやかに囁かれるくらいだった。

 

 これで、カルナの属する身分が上位の物であれば問題はなかったのだ。

 けれども高貴な身分に属する者達が誰もカルナのことを知らなかったために、目端の利く者達はカルナの所属する階級が低いものであるということに薄々察しをつけていた。

 

 どんなに才能に満ち溢れていたとしても、この世界では階級を逸脱するとみなされる行為は許しがたい大罪であった。そのため、カルナに自分たちが及ばないと思い知らされた者達は、そうやってカルナの出自を邪推し、あげつらうことで、なんとかして自分たちの溜飲を下げていた。

 

 偏見という分厚い雷雲によって隠されて仕舞えば、日輪の光輝とて地上に届くことはない。

 

 ――カウラヴァ百王子の長兄である、ドゥリーヨダナ。

 将来を見越してビーマやアルジュナを凌ぐ勇士のことを探し求めていた彼は、噂のカルナについて、彼にしては珍しくただ純粋に勿体ないな……と、感じていた。

 

 武術を身に付ける前の素人目に見てもカルナの才覚は際立っていたし、実際ドローナやバララーマに指導を受け、武人として成長して目が肥えていくにつれて、自分の目は間違いではないと確信するに至った。

 

 半神であり、王族でもあるパーンダヴァの子供達は他の弟子たちのことにあまり関心がないようだったから、カルナの存在が彼らの耳に届かないことは、ドゥリーヨダナにとってもありがたいことだった。

 

 あまり自分が表立って動くとカルナの存在が衆目を集めてしまい、パーンダヴァ贔屓のドローナの手でカルナが破門される恐れがあること。あと、なんだかんだで小心者のドゥリーヨダナが、地上の栄光に見放されたような泥濘の闇に包まれているカルナに対して、言葉にならぬ恐れを抱いていたこと。

 

 ――難点としてあげるのであれば、上記の二つが大きな問題だった。

 そのためドゥリーヨダナはこの異端の男に関心を持ちつつも、下手に接触することが叶わなかったのである。

 

 

 ――とはいえ、カルナに関心を抱き続けていたドゥリーヨダナは、ある日その光景を目撃することになる。

 

 それに大した理由なんてなかった。

 たまたまカルナが王宮の窓から覗くことのできる場所で訓練していたこと、勉学の息抜きをしにきたドゥリーヨダナが涼を求めて窓側に近寄ったことで目に入ってきた情景に過ぎなかった。

 

「カルナー、カルナー、カールーナー!」

「大声を出さずとも十分に聞こえている。……今日は終日晴れていたはずだが、その全身はどうした?」

 

 今日も今日とて鍛錬場の隅っこで黙々と訓練に励んでいたカルナの元に、興奮した面持ちの青年が金色の輝きと共に飛び込んできた。

 

 ――異様といえば異様だった。

 なにせ、カルナよりも年かさに見えるその青年の全身は、土砂降りにあったかのように水浸しだったのだから。普段無表情を貫くカルナも流石に驚いたのか、切れ長の蒼氷色の双眸が常よりも見開かれている。

 

「へっへっへ。ちょっと、都の外の豪商のお屋敷に歌い手として招かれたのは良かったんだけど、その帰り道に乗っていた馬車が大蛇(ナーガ)に湖の底に引きずり込まれちゃって」

 

 間違っても笑えない内容を歌うように語りながら、全身ずぶ濡れの青年は朗らかに笑う。

 青年が駆け寄ってきたと思しき道中に大量の水の染み込んだ跡があちこちに確認できることから、まんざら冗談の類でもなさそうだった。

 

「いやぁ、本当に参ったね! 御者の方はガクガク震えて頼りにならないし、一緒についてきてくれた兵士は気絶しちゃうし!」

「……彼らも災難なことだな。同伴者が頼りにならない楽師であっては、生きた心地がしなかったことだろう」

 

 カルナが静ならば、青年は動だった。

 表情一つ変わらないカルナに対し、くるくると独楽回しのように青年は感情を入れ替える。

 カルナの冷淡な反応に対しても気を損ねることなく、水晶を打ち鳴らすように澄んだ笑い声を響かせた。

 

「まったくだね! でも大丈夫だったよ。命乞いも兼ねて全身全霊を込めて唄ってあげたら、彼らもすっごく満足してくれてね。おまけに、見事な技のお礼にということで、こんなものをもらったんだ!」

 

 濡れているせいで全身にべったりとくっついている着衣の内から、青年が両手で抱えられる大きさの壺を取り出す。中にあるものが零れ落ちないように、口はしっかりと密閉されていた。

 

「なんか、もともとは高貴な人物が変成してなった蛇の一族だったらしくってさ。せっかくだから歌の代金と迷惑料も兼ねてもらってきた」

「……生命の危機にも報酬を忘れないその抜け目のなさは流石だな。その強かさはオレには到底真似できまい」

 

 カルナが相手を賞賛しているのか、それとも貶しているのかは毎度のことながら判断が問われるところだった。

 なんせドゥリーヨダナが見ている限りではあるが、カルナは相手が誰であってもこの態度を貫くため、大抵の場合、話し相手が怒って席を中座し、望洋とした表情のカルナが取り残されるのが常だったからである。

 

「いいんだよ、カルナは俺の真似なんかしなくって。お前がしない分は俺がするって決めたんだし」

「そうなのか」

「そうだとも。そんなことより、見てごらん。これが、かの有名な神々の為の天上の雫。これこそ、神々だけに許された至上の美酒こと――甘露(アムリタ)さ!」

「なるほど、それは確かに至高の名酒とも言えるだろう。しかし、オレとお前には無用なものでしかない」

 

 神々に不死(ア・ムリタ)を授けたという神宝中の神宝を自慢げに差し出す青年にも驚いたが、それ以上にどのような王侯貴族であれ垂涎ものの品を出されたのにもかかわらず、欲のない態度のカルナにもドゥリーヨダナは驚いた。

 

「まあ、俺の場合はこの金環、お前に至ってはその鎧と耳飾りがあるからなぁ。――さて、どうしようか」

 

 下手に誰かに渡すと、困ったことになるし……と言いつつ、青年は甘露の詰まった壺を指先でクルクルと回す。

 

 ドゥリーヨダナは他人事ながらも、その壺を手に入れる為に、どれだけの人間が金銀財宝を積み上げるのかわかってんのか、と内心でついつい突っ込まずにはいられなかった。

 

 それにしても、鎧と耳飾りとは一体どういうことなんだろう、とドゥリーヨダナは考え込む。

 全身が濁った闇に覆われているカルナの体にそのような物を身につけている形跡など、これまで確認できた覚えがない。

 

「でもさぁ、これって甘露だよ? カルナは、もったいないとは思わないの?」

 

 くるくると高速回転していた壺を一旦止めて、青年がいたずらっぽく微笑む。

 

 それにしても、どこかで見たことのある顔である。

 些細な既視感が気になって、ドゥリーヨダナは脳内に記録している人物一覧表に一致する人物を探し出す。

 

「……全財産を投げ打ってでもそれを手にしたいと思う者であればそうだろう。どれほど富を得ても飢えている者も同様に。……だが、オレの心身はすでに満たされている。これ以上の報酬を求めるというのは、いささか強欲が過ぎるというものだろう」

 

 ふぅ、と軽くため息をついて詮無きことのように言い捨てるカルナ。

 そのカルナを困ったように見つめている青年の姿に、ようやく該当する人物の名が思い当たって、ドゥリーヨダナは目を見開いた。

 

 陽光を紡いだような、と噂されるこの国では珍しい黄金の頭髪。

 簡素ながらも上質な衣から伸びる獣の四肢を思わせるしなやかな手足。

 艶やかな気配を纏う蜂蜜色の肌色に、それによく映える赤石を誂えた太陽を模した金環。

 数年前から彼の父であるドリタリーシュトラが寵愛している楽師・アディティナンダであるということに、ここにきてようやくドゥリーヨダナは思い当たった。

 

 そうして、思い当たったからこそ――驚愕した。

 下手したら、こっそり暗殺しようとして毒蛇の住まう湖に突き落としたビーマが外傷一つなく帰ってきた時並みに驚いたかもしれない。

 

 何せ、ドゥリーヨダナが知っているアディティナンダという楽師は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ではなかったからだ。




原典『マハーバーラタ』を読む限り、ドゥリーヨダナはカルナのことを競技会の前から知っていたようですが、パーンダヴァの王子たちはカルナという武芸者の存在に気づいていなかったみたいなので、その理由をちょっと考えてみました。

この幕間の物語は時間軸的には、一章終盤以降と二章の間になります。


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<中>

 感想ありがとうございます。執筆の上での励みになります。
 ちょっと忙しいので、返信はすべての幕間の物語を投稿してからにしますね。


 生まれた時から神々に忌避されているドゥリーヨダナは、長じるとともにそういう存在を察知する嗅覚とでもいうべき感覚が発達していった。

 

 なんせ彼らはどんなに外見を取り繕ったところで、『そうあれかし』とでも言うべき絶対的な真理によって拘束されている。それは半分だけとはいえ従兄弟のパーンダヴァの五兄弟もそうだし、そこの三男の親友などと名乗るいけ好かない男など、その最たる者であった。

 

 ――特に、あの三男のお友達とやらは酷い。

 なんであの聡明なアルジュナが、気づかないふりを続けているのかがわからないぐらいに酷い。

 

 わからない――が、あの男が慈愛に満ちた蓮華の様な微笑みの奥で、ドゥリーヨダナを含んだ矮小な人間たちを時折無機質な目で観察しているのに気づいてしまった途端、もう側に近づくことさえ駄目になってしまった。

 

 そのせいであの男を崇拝している者たちにますます目の敵にされる様になったが、ドゥリーヨダナの拒絶具合に周囲の方が根負けしてくれたおかげで無理に近づかずともよくなったので、却ってせいせいした。

 

 ――アディティナンダも、最初はそうだった。

 父王のお気に入りの楽師がいる、ということで弟たちと共に参加したあの宴の席。

 圧倒的なまでの表現力とその玲瓏たる声音が織りなす歌声の世界に惹き込まれ、気づけば弟たちと一緒になって拍手していた。滅多にないことだが、インドラ神に仕えるという天界の楽曲集団・ガンダルヴァの歌声もかくや、という美声に、耳の肥えたドゥリーヨダナすらも酔いしれた。

 

 それが、うっとりとした夢見心地な気分から、不意に冷水を頭からかけられた気分に陥った。

 

 ――()()()()()()

 

 どこまでも透徹で、どこまでも純粋で、どこまでも無機質な。

 ドゥリーヨダナがこの世で一番嫌いな目で、当代随一と謳われている父王お気に入りの楽師は聴衆を見つめ返していた。

 

 興奮冷めやらぬ心地で好き勝手に喋っている観客(ニンゲン)たちを、自分一人だけ切り離された空間から、俯瞰的に箱庭の中の人形を眺める様な目つきで、ドゥリーヨダナたちを観察していた。

 

 王家に連なり、従兄弟たちの影響で人ならざるものと触れ合う機会が多い上、彼らを嫌っているドゥリーヨダナだからこそ気付けたのかもしれない。

 

 あれは観測者を気取る神々の目だった。

 あの忌々しい睡蓮のような親戚の男と同じ目つきで、彼も自分たちを見つめていた。

 どんなに人間の皮を被り上手に擬態していても、あの目をしていた時点でもう無理だった。

 人の心がわからない生き物相手に、ドゥリーヨダナという人の言い分が通じるわけがない。

 

 そんなわけで、アディティナンダがドゥリーヨダナにとって苦手な存在という枠に入れられたのが、一年以上前の話であった。

 

 ――それ以来というもの、ドゥリーヨダナにとってアディティナンダはもう二度と近づきたくないモノになったが、アディティナンダにとってのドゥリーヨダナは違ったらしい。

 

 王宮にアディティナンダが招かれるたびに、時たまドゥリーヨダナはどこからか視線を感じるようになった。

 

 それは大抵、彼が兄として弟王子たちの面倒を見ている時や、忌々しいビーマと弟たちを守るために対峙している時が多かった。特に後者の場合だと、血の気の多いビーマが暴力という手段に走る前に、どこからか叔母の声やビーマを探す従者の呼びかけが必ずと言っていいほど聞こえてくるようになった。

 

 ……最初は気味が悪かった。

 何せ、神に属する者と凶兆の子供であるドゥリーヨダナとの相性は最悪である。ひょっとしたら、神々の気まぐれという大義名分のもと、大切な弟たちの目の前で見せしめとして惨殺されるかもしれないと考えたりした。

 

 ――けれども。

 さりげなく、しかし確実に視線の主の手によって窮地を脱するようになってきて、ふと思い当たることがあった。

 

 ……初めて、本来ならばいないはずの叔母の声が憎いビーマを呼び出して窮地を脱したあの日、助けてくれたのもこいつだったのかもしれないと。

 

 にわかには信じがたいことであったが、ドゥリーヨダナは自分の発想を否定することができなかった。そこで、ドゥリーヨダナもまた視線の主を観察し返すことにしたのである。

 

 すると、それまで無機質だと思い込んでいた視線にも、きちんと人間であるドゥリーヨダナが理解できる感情のような含まれていることが判明した。

 

 特にドゥリーヨダナが長兄としてその務めを果たしている時ほど、その傾向は顕著だった。

 強大な神秘に近しい存在ほど、ドゥリーヨダナの存在を不吉なものとして扱う。ところが、この視線の持ち主はそのような偏見とは無縁だった。

 

 ――例えるのであれば、親が子を見るような、兄が弟を見守るような。

 無機質だと思い込んでいた眼差しが、人の優しさを帯びていたことが分かって以降は、前ほど気にならなくなった。

 

 ドゥリーヨダナにとって、神は不変の存在だ。そして、アディティナンダがそのくくりに収められる以上は、彼の本質だって変わらないものである筈だった。

 だから、あのおかしな視線の持ち主はアディティナンダである可能性が高いが、それ以外のドゥリーヨダナという王子に好意的な変人からの眼差しであるという可能性も捨て切れなかった。

 

 だけど、もし。

 ――ドゥリーヨダナを見守ってくれた視線の主がアディティナンダであったとしたら。

 

 だとすれば、何が彼を変えたのだろうと、そう思うようになった。

 一年以上前のアディティナンダが、神の括りに当てはめられるモノだったのは間違いない。

 

 ならば、あの日から今日に至るまでに()()があったのだ。

 神々によって作られた精巧な人形のようなアディティナンダを、人間の情を解する生き物にまで堕とした何かが。




<裏話>

アディティナンダ
「ドゥリーヨダナ王子こそ、真の長兄。よーしカルナの良き兄になって認められるためにも、頑張って観察するぞー!」

ドゥリーヨダナ
「え? なんか神々の視線感じるんだけど、超怖い。けど、こんなことで兄としての役目を放棄してなるものか。こうなりゃヤケだヤケ。せめていい兄貴として死んでやる」

アディティナンダ
「ふぁー。あの王子様すごいなぁ、みんな不吉不吉とか言ってるけど、普通にいいお兄ちゃんじゃない。尊敬するわ〜」

ドゥリーヨダナ
「なんか最近、どこからともなく手助けの手が差し伸べられることになった。多分、あいつだと思うけど、神が嫌っているわたし相手にそんなことしてくれる訳ないもんな。きっと気のせいさ!」


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<下>

 これにて、ドゥリーヨダナ王子視点の幕間の物語は終了です。
 ちょっと最近忙しくなったので、これまでのような連日投稿は難しくなると思います。



 ――そして、その答えがドゥリーヨダナの目の前にある。

 自分よりも頭二つ分ほど小さな少年を、大事で大事で堪らないと言わんばかりに、情愛に満ちた眼差しで見つめているその姿。

 

 まるで親が子の幸せを望むような、姉が弟の成長を寿ぐような、妹が兄を敬愛するような。

 それは、下手したら相手を圧死させかねない、世界の超越者による押し売りの愛とは違う。

 

 ――そう、違うのだ。 

 

 そういう存在を厭うが故に、彼らに詳しくなったドゥリーヨダナだからこそわかる。

 アディティナンダがカルナへ差し出しているのは、ドゥリーヨダナが父や母、弟達から受け取っているものと同じ種類の愛情(オモイ)だった。

 

「そもそも、お前とてオレを満たすために甘露を求めたわけでもあるまい。お前が甘露を入手したのはお前自身の下らない欲求を満たすためでしかない……違うか?」

「あー、可愛くない! 嗚呼、もう! 昔の可愛かったカルナはどこにいってしまったの!」

「……この際だから、はっきりと言ってやったほうが諦めの悪いお前のためになるだろう。どれほど懇願されたとて、オレがその望みを叶えることは永劫ないと、いい加減理解したほうがいい」

「ひどい! 放任主義な上にロクデナシのスーリヤのことは父親として認めているくせに、どうして俺のことは兄として呼んでくれないの!」

 

 カウラヴァ百王子の長兄として日々努力し、身近に弟に迷惑をかけることに関しては天下一品な面倒な年上の従兄弟の存在を知るが故に、ドゥリーヨダナは悟った。

 

 ――あ、これ。弟に構い過ぎて、却って邪険に扱われている兄貴と同じだわ、と。

 

 思い込みによって視野狭窄に陥っていたのは自分の方だったらしい。

 ドゥリーヨダナが下手に神々という存在に偏見を抱いて、あの最初の宴の時以来、まともに顔を合わせていなかったから、気づけなかっただけだった。

 

 ……アディティナンダは、確かに変化していた。

 だからこそ今のドゥリーヨダナの目の前にあるのは、どこにいてもおかしくない普通の兄弟の、普通のやりとりだった。

 

 内心でやや苦笑しながら、ドゥリーヨダナは弟であると判明した、カルナの方へと視線を送る。

 

 それまではどこか得体の知れない謎の人物という印象が強すぎて、きちんと視界に収めてみたことはなかったが、兄であるというアディティナンダとのやりとりを見ているうちに、それまで感じていた苦手意識が払拭され、初めて先入観のない目でカルナを見ることができた。

 

 ――そして、目を疑った。

 

 始めに目に飛び込んできたのは、目にも眩い黄金の輝き。

 

 肉体と一体化し、そのまま鎧と為した、あらゆる不浄と穢れを焼き尽くす灼熱の光輝。

 涼やかな目元を彩るのは、万物を等しく照らす太陽を象った黄金の耳飾り。

 燦々たる輝きを放つ太陽の鎧の胸元に埋め込まれた、炎を閉じ込めたような赤の宝玉。

 

 ――――太陽の化身だ、とドゥリーヨダナは思った。

 

 それまでのドゥリーヨダナの目は、一体何を映していたのだろう。

 アディティナンダの件といい、気づくことのできなかった己の不明を、ドゥリーヨダナは恥じ入るだけだった。

 

「……オレが生を受けたのは父と母あってこそ。父がどのような人物であったにせよ、その名を穢すような振る舞いをするべきではない。ましてや、オレは父の温情により、ただでさえ人よりも多くのものを戴いて生まれてきた。そのことに感謝をこそ覚え、恨むような真似などできるはずがないだろう」

「……なんでだろう、この敗北感。俺の方がずっとカルナと一緒にいるのに、一度も会ったことのないはずの実父に負けるなんて……」

 

 大げさに落ち込む兄からは見えない位置で、カルナが口の端に薄い笑みを浮かべる。

 弟は弟でやや邪険に扱いながらも、きちんと兄のことを慕っているようなので、同じ兄として他人事ではないドゥリーヨダナもちょっと安心した。

 

「……あーあ、それにしてももったいないなぁ」

「――?」

「お前が未だにお前の価値を分かってくれる相手と出会えていないことだよ」

 

 その言葉に、カルナは咲きかけの蕾が綻ぶような、そんな柔らかな微笑みを浮かべる。

 

「その言葉は買いかぶりというものだ……人の価値というものは、オレを含めて皆が平等だ。……ゆえに、オレとて他者に理解を求めてもらえるような特別性も理由もない、ただの凡夫にすぎん」

 

 ――それは紛れもなく本心で言っている言葉なのだと、ドゥリーヨダナは理解した。

 

 今日まで呪われた子供として育ち、尊い半神の従兄弟達と比較され続けて生きて来たドゥリーヨダナは、必然的に他者の心の内を察する能力にも長けていた。

 だからこそ、彼は弟王子たちが本心でドゥリーヨダナを慕っているのだと識っているし、己の立場を求めて近寄ってくる相手に望む物を報酬として与えることで、見識ある者達に疎まれながらも、確固たる地位を王宮で築き上げることができた。

 

 とはいえドゥリーヨダナは他者からの善意を糧にしてでしか、生きられなかった人間である。

 生まれた時に赤子のドゥリーヨダナを殺すようにと進言した大臣の言を退けた、父であるドリタリーシュトラからの親としての無償の愛なんて、その最たるものだ。

 

 いくら国王の息子として尊大に振る舞い、半神であるユディシティラと同格の王位継承者であると周囲に誇示し続けようとも、己がそういう哀れな存在であることを、彼は幼少の頃から自覚していた。

 

 ――だからこそ、彼はそんな風にしか生きられない自分自身に絶望していた。

 きっとこのままドゥリーヨダナは父の、母の、叔父の、臣下達の、そして弟達から寄せられる、本来ならば受け取るべきではない、人々から差し出される美しい愛情(オモイ)を貪るだけ貪って食い荒らした挙句、予言の通りに王国を破滅に導くのだろうと。

 

 犯した覚えのない罪に苛まれながら、人々の愛に縋るようにして自分は生き続けるのだと。

 ――終生、自分という存在は呪われた王子としてでしか、生きられないのだと。

 

 そう思って、否、()()()()()()()()()()()()

 ――……けれども、あの太陽の輝きを宿した男の言葉を信じるのであれば。

 

「……あぁ、ダメだ。あいつはわたしのような悪党には勿体無さすぎる男だ」

 

 どれほど時間が経過していたのだろうか。

 気づけば、黄金の輝きをまとった美しい兄弟の姿はもうどこにもなかった。

 胸にこみ上げてくる感情に、そっと蓋をしてドゥリーヨダナは小さく呟く。

 今まで抱き続けていた、ビーマ達に対抗するためにカルナを自陣に引き込もうという野心はすっかり薄れていた。

 

 あんな、人間の精神の輝かしい部分をひとところに集めたような眩しい存在に、ドゥリーヨダナがよく使う甘言や虚飾に満ちた言葉など、何の意味もなさない。

 王宮の一室を埋め尽くしてしまうような財宝の山も、宝玉がぎっしりと詰められた宝箱も、カルナ相手には何の価値も持たないに違いない。

 

 ――だが、それでよかった。

 そういう人間がこの神々に支配された箱庭で息をして、何気無い日々を――彼らの言葉を借りるなら平凡に――過ごしているということが知れたこと自体、ドゥリーヨダナにとって一つの救いになった。

 

 カルナのように特別な存在であっても「誰もが特別ではない」と切り捨てたあの言葉は、突き詰めてみれば、ドゥリーヨダナのように呪われた王子のことも、ただの人間としてカルナが認識してくれるという可能性を秘めた言葉となった。

 

 カルナは、自分の言葉がどれほど他者に影響を与えたかなんて、きっと知らないだろう。 

 ドゥリーヨダナも別にそのことを公言する気もない。ただきっと、この一方的な出会いによって特別ではないドゥリーヨダナが勝手に救われ、それこそ勝手に恩を感じただけの話だ。

 

 少し離れたところで自分を探して家臣達が走り回っている音を聞きながら、ドゥリーヨダナは王子としての仮面を被りなおす。

 

 この部屋を出たら、いつも通りのドゥリーヨダナだ。

 尊大で大胆で、あらゆる悪名も悪行も気にも留めない悪辣王子・ドゥリーヨダナ。

 父である王の寵愛をいいことに、神々の御子である五王子に対立する悪徳の化身。

 

 それが皆の知っているドゥリーヨダナだ。

 それを演じることに今更躊躇いなどしない。

 ……それでも、もし願いが叶うのであれば。

 一度でもいいからあの兄弟と正面で向かい合って話し合ってみたいものだと夢想する。

 

 その時こそ、ドゥリーヨダナは破滅の王子(ドゥリーヨダナ)ではない自分を、あの蒼氷色の双眸に見つけることができるに違いない。

 

 

 ――その些細な願いが叶うのは、これより数年後。

 王家の武術指南であるドローナによって提言され、ドリタリーシュトラ王の許しの元で開催された、クル王家による武術競技会。

 そこで、ドゥリーヨダナは再び地上の太陽と出会うことになるが、それはまだ先の話。

 

 ――――誰も知らない、誰も知ることのないはずの、遠い未来の話である。




<設定>

・なぜドゥリーヨダナはカルナの本当の姿に気づけたのか?
 簡単に言ってしまえば、アディティナンダとのやりとりを通して偏見が薄れたために、カルナの真実を見る目が開かれたから。そのおかげで、太陽神の鎧をまとった本来のカルナの姿を見ることが叶いました。

・ドゥリーヨダナについての考察
 公式Fateのカルナさんのスキル「貧者の見識」は基本的に、相手の言われたくないことや知られたくない姿を見抜いてしまうが故に、カルナが敵味方問わずに誤解されるきっかけとなってしまう…とありました。
 ならば、周囲から一方的なイメージを押し続けられてしまう人間に対しては、それって却って救いになるのではないかと考えた結果、その条件に当てはまる人物って誰がいるのだろうと思いーーそしてそれは、生前の上司ことドゥリーヨダナ王子だったのではないか、というのが私の見解です。

(正直、『マハーバーラタ』はドゥリーヨダナに設定盛りすぎだと思う。カリ・ユガの擬人化ってなんやねん。)


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第2章 悪徳の化身
あれから数年


それでは、第2章に入ります。


 ――カルナを、弟を守ろう。

 

 彼の生き方と尊厳を害そうとする心無い輩から、その有り様が脅かされることのないように。

 例え、そのせいで我が身を使い潰すことになり、魂の一欠片に至るまで燃え尽きようとも。

 

 ――この子を守り抜くことができれば、それだけで本望だ。

 

 例え、偉大なる神々が相手であったとしても、この誓いを破るまい。

 父なる太陽神の意に背くことになろうとも、己よりも遥かに格上の相手に逆らうことになるとしても――あの睡蓮の香を身に纏った、暗闇の主が相手であったとしても。

 

 ……さぁ、来るならかかってこい。

 お前は俺に力の差を思い知らせようと警告してきたんだろうが、それに怯むような俺ではない。

 むしろ、カルナを守るために、お前を迎え撃つ気満々で、再度の邂逅を心待ちにしている。

 俺はとうに覚悟を決めた――どっからでもいいから、かかってきやがれ。

 

 

 ――――と、身構えつつも幾星霜。

 あれ以降、特にあの睡蓮の主との接触などなく、俺とカルナの周囲で変わったこともないままに、あっという間に時間が経過してしまった。

 

 カルナの将来のために、偉大なる神々の思惑への反逆の意を抱いたのにも関わらずこれである。

 正直、気が抜けてしまったというかなんというか。

 なんで俺はあそこまで深刻になってたんだろうと後々思い当たって、ちょっと恥ずかしくなっちゃう程度には気を張り詰めて日々を過ごしていたというのにこの無反応具合。

 

 正直な話、一周回って、なんで何もしてこないんだよー! と夕焼け空に叫んだりもした。

 そして、それをちょっと離れたところで見ていたカルナに、家に帰った時に無言で引かれたのも、今ではしょっぱい思い出である。――あの子、ちょっと俺に対して辛辣じゃなかろうか。

 

 ……まぁ、実際のところ、全く何にもなかったというのは嘘だ。

 カルナの武人としての成長に従ってできることが増えたせいで、なんだかんだと厄介ごとに巻き込まれる回数も増えたし、国家間の戦争もちょこっと起きたりもした。

 

 何より、俺とは違い半分だけしか神の血を持たないカルナは、この数年ですっごく背が伸びた。

 放浪中に初めて垣間見た時は俺の膝丈ほどの大きさだったのが、武術を本格的に習い出して、滋養のある食べ物をちょくちょく与えた結果――あら、びっくり。

 

 一緒に暮らし始めた時は俺の腰ほどまでの背丈の子供だったのが、あっという間に大きくなって、挙句には俺の背を追い越してしまったのである。

 

 ――そう、()()()()()()()()()()()()()()()()()。この弟は。

 

 人の子の兄弟が、自分よりも年下だと思っていた相手に背丈を越されて悔しがっているのはなんでだろう? とそれまで不思議に思っていたのだが、実際にカルナにしてやられて、はっきりとわかった。

 

 これって、めちゃくちゃ悔しいことだった。

 どれだけ悔しいかというと、市場の安売りの最後の一個を横から掻っ攫われた時並みに悔しい。

 

 あんなに小さくて、俺の腕の中にすっぽり収まってしまう程度の大きさだったカルナ。

 それが少し気を抜いた途端に、俺よりも背が高く、堂々とした体躯の青年にまで育ってしまったのである。

 

 ――――時の流れとは非常に無情である。

 

 同年代の体格のいい輩と比べれば、カルナはどちらかとはいえば、痩身の部類に入る方だ。

 それでも武術の鍛錬で身を鍛え、父であるスーリヤと同じ黄金の鎧を身につけているお陰で、非戦闘員である俺との差は歴然であった。

 

 ――つまり、身長だけでなく、体格差においても俺はカルナに越されてしまったのである。

 

 無論、俺とて何もしなかったわけではない。

 密かに身長が伸びると噂されている獣の乳を飲んだり、背が伸びるという謎のヨーガを試してみたりはしたのだけれど、ある日、カルナの養父であるアディラタさんに、生暖かい目で「貴方は貴いお方であるがゆえに、人のような効力は望めないでしょう(意訳・君は神の眷属だから、どんなに頑張っても無理です。お諦めなさい)」と諭されてしまった。

 正直な話、成長のこない体というものが、こんなにも虚しいものだったとは思いもしなかった。不老不死の思わぬ落とし穴である。

 

 そのせいか、最近では俺よりもカルナの方が兄として見られるようになってしまった。

 もともと顔の造形などは根源が同じ太陽神ということで似通っていた俺たちである。

 家族としてみられるのは俺としても嬉しい。嬉しいのだが……なんか虚しい。

 

 何でも、勘違いした方々曰く、カルナの方が冷静で落ち着きがあるように見えるそうだ。

 人間とは、本当に見た目に騙される生き物である。確かにカルナは冷静沈着に見えるだろうけど、それってただ単に物事に対しての表情筋の反応が鈍く、心が海よりも広すぎるせいで滅多なことに動じないだけである。

 

 ……うぅ、悔しい。

 これでますます、カルナに「兄」と呼んでもらおうという俺の野望が遠ざかっていく。カルナに直接聞いたことがあるが、簡明を心がけるカルナにしては一向に理由を教えてくれない。

 

 これにはきっと、人の子特有の心情の機微というものが関係しているに違いない。

 となれば、答えは一つ。わからないことはわかる相手に尋ねるべきである。

 そう思った俺は、即刻誰かにこのことを相談してみることにした。




少年カルナさんから、青年カルナさんへ。(肉体的に成長)
青年アディティナンダから、青年アディティナンダへ。(精神的に少し成長)


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宴の支度

「――そういう訳なのですがどうしてなのでしょう? アシュヴァッターマン様」

「うぅん。難しい質問だよ、それは。なんせ、僕には兄弟がいないし……」

 

 そう言ってアシュヴァッターマンは困ったように首を傾げる。

 そうすると、彼の頭の動きに合わせて豊かな前髪の位置が少しずれて、額の埋め込まれた輝石が松明の輝きを受けてキラキラと輝くのが見えた。

 

 ――カルナが成長した分、この元・少年バラモンも年を重ねた。

 初めて会った頃は満足に食事を摂れない生活を送っていたせいでやせ細っていたこの少年も、父親のドローナの出世と合わせて環境が変化したお陰で、今では立派な体躯の若武者である。

 偶に堪忍袋の尾が切れて周囲の人間がドン引きするほど爆発することもあるけれど、基本的には穏やかで人柄もよく、武術に長けた人格者の青年である。

 

 アシュヴァッターマンとは、カルナがドローナの武術教室に入門し、俺が国王お気に入りの楽士として王宮に出入りするようになって以降、兄弟共々の付き合いのある数少ない相手である。

 カルナの率直な物言いに時たま額に青筋を浮かべながらも、なんだかんだで最後まで話に付き合ってくれるという点においても希少な存在であった。

 

「一般的な兄弟事情からしてみれば……そうだね、恥ずかしいんじゃないかな? 弟というものは、兄の前では何故だか反発してしまうもの……と、どこかで聞いたことがあるよ」

「そうなのですか? それは初耳です」

 

 額にトントンと指を押し当てながらの一言に、目から鱗が落ちた気分だ。

 

 へーえ。

 兄と姉という生き物は、家庭内において弟妹に対しては生涯覆ることのない絶対的な命令権を持つものだと思っていたんだけど、どうやらそうでもないらしい。

 人間の家族という枠組みには今でも色々な発見があって、知る度に俺もまた真の長兄として成長していってる感じがして気分がいい。

 

 心の記録帳にアシュヴァッターマンに教えてもらったことを記しながら、こくりと頷く。

 よしよし、覚えた。ま、まぁ、カルナが恥ずかしいというのであれば致し方あるまい。

 そう、あれはあくまで恥ずかしがっているのであって、嫌がっているわけはないのだ……多分、きっと。

 

 ――……だよね、だよ、な?

 

 ウンウンと唸り声をあげて口をへの字にすれば、思わずと言った感じの笑い声が上がる。

 なんだろうと思ってみれば、アシュヴァッターマンが口元を手で押さえながら俺を見ていた。

 

「アディティナンダも、随分と変わったね。昔よりも、ずっと表情が豊かになったよ」

「そうですか? カルナに比べたら、ずっと表情が変わる方だと思っていましたけど」

 

 思いがけないことを微笑みとともに言われて、思わず頬っぺたをゆるゆると両の手で動かす。

 これ、一度カルナにしてみたことがあったけど、吃驚するくらい動かなかったんだよなぁ……。

 

「それは比較対象が悪いよ。そうじゃなくて、それまではなんていうのかな……? そうだ、なんだか決められた表情の仮面でもつけているみたいだった」

「か、仮面ですか?」

「そう。それで、舞台で役者が場面に合わせて演技をするように、ここではそういう顔をするべき、と決めた瞬間に仮面を付け替えているような……そんな違和感があったよ」

 

 そりゃあ、驚いた。

 自分では人々の間につつがなく紛れ込んでいたと自負していただけに、今のアシュヴァッターマンの発言には吃驚した。

 

「そういう意味でも、旅の途中に一度だけ出会った吟遊詩人のことが忘れられなかったのかも」

 

 そう言ってニコニコと笑っているが、いやはや食えない男に成長したものである。まさか、あんなに小さい時から、薄々とではあるが俺の違和感に気づいていたとは……はたまた吃驚である。人間って、ちょくちょくすごいなぁ……。

 

「それはそうと……。アディティナンダ、僕はお前に教えてあげたいことが――」

「――儂の倅よ、このようなところにおったのか」

 

 王宮の一角で柱の陰に当たる場所でこそこそと内緒話をしていた俺たちのところに、深みのある老人の声が投げかけられる。二人揃って声の聞こえた方向へと振り向けば、見知った顔がこちらへと足音も立てずに近寄ってきていた。

 

「――――父上」

「ドローナ様、ご機嫌麗しゅう」

 

 やってきたのは、生まれてくる階級を間違ったんじゃないのか、と巷で噂されている武闘派バラモンこと、ドローナであった。

 

 とはいっても、この矍鑠とした老人の目には俺のような流れの吟遊詩人の姿など碌に映ってはいないだろう。実際、彼の両の目は俺の側で困ったように佇んでいる息子・アシュヴァッターマンしか捉えていない。

 

 一応、バラモンに対する礼儀として拝んではみたが、あくまで礼儀である。

 親子の会話の邪魔をしないように、一歩下がって様子を見守る姿勢に入る。

 

 ぶっちゃけ、この人のことはあんまり好きではないんだよなぁ……。

 弟子であるはずのカルナに対して良くない態度ばかりとるし、下手すれば師という立場を笠に着てカルナを追い詰めそうな褒められない前歴もあるし。

 

「喜べ、倅よ。先ほど、国王陛下よりお許しをいただいたぞ」

「……ゑ? 本気です――いえ、失礼いたしました。なんでもありません、父上」

 

 なんだろう、今の声?

 俺の楽士として鍛えられた聴覚が一瞬、変な音を聞き取ったような気がしたが……アシュヴァッターマン、か? 今の素っ頓狂な声の主って。一体、どうしたんだ?

 

「さようでございますか……それはそれは、その、喜ばしい? ことですね」

 

 ……やっぱり気のせいではない。

 喜色満面と言わんばかりのドローナに対して、こちらに背を向けているせいで表情を伺うことはできないが、何故だかアシュヴァッターマンの声は困惑しているように聞こえる。

 

 ――その一方で、ドローナはますます満足そうに笑みを深めた。

 

「おお、倅よ。そなたもそのように思ってくれるのか! うむ、うむ。ますます生半可なものでは済ますわけにはいかなくなったな」

「……そうですね。万事つつがなく行けば、諸国に父上の名声も鳴り響くことでしょう。不肖アシュヴァッターマン、此度の取り組みに対して全身全霊を尽くして父上をお支えします」

 

 しかし、このドローナ、俺がいうのもなんだが……案外鈍いな。

 まぁ、だからこそ、未だにアルジュナのこと贔屓しているのを、弟子たち全員に気付かれていないと思い込めるのかもしれない。

 

 あと、なぁ……。

 どう考えても、親父が息子の異変に気付いているようには見受けられないんだよなぁ……?

 おかしいなぁ、家族って親しい間柄を指す人間関係って意味ではなかったのだろうか? 内心で首を傾げる。

 

 その後もドローナがアシュヴァッターマンに対してなにやら話しかけていたようだったが、話の途中にビーシュマ老がドローナをお呼びだと侍従の人に声をかけられて、上機嫌なまま立ち去っていった。

 

 それにしても、あの老人、俺が側にいたことに徹頭徹尾気づかなかったな……。

 一度は旅路を共にした間柄ではあるというのに……ここまで無視されるとかえって清々しささえ感じてくる。

 

 ――というより、内輪だけの話だったらなんでここで話しかけてきたんだろう?

 お屋敷に戻ってから、息子と膝を突き合わせてじっくりと話し合えばいいのに。

 

 どことなく疲れた気配を感じさせるアシュヴァッターマン。

 丸くなった彼の背を労い込めて叩いてやると、弱々しい微笑が返ってきた。

 なんていうか、さっきのやりとりでどっと疲れ果ててるなぁ。まぁ、そりゃそうだよなぁ。

 結局、ドローナの奴、自分の言いたいことだけまくし立ててたし、黙って付き合う方も大変だったろうな……。

 

 ふぅ、と力のない溜息をついたアシュヴァッターマンが肩を落とす。

 そうして、雨だれが滴るように――ポツリ、と言の葉を零した。

 

「――父上も、性根は悪い方ではないのだ……むしろ善人の部類に入るのだろう。ただ……」

「アシュヴァッターマン様?」

「正直、息子の僕の目から見ても……善意でやったことが全て上滑りになった挙句に、最悪に近い結果を導きかねないお人なんだ……此度のことについてもどうなることやら……不安でしかない」

 

 これ、褒めていないよね? どっちかっていうと、貶してることに入るんだよな?

 アシュヴァッターマンが何を言いたいのかがわからなくて、首を傾げるしかない。

 ようやく見ることのかなったアシュヴァッターマンの横顔には、困惑や不安・憂いといった負の感情が渦巻いていた。

 

 ――本当にどうしたのだろう? 

 

「アシュヴァッターマン様、アディティナンダ殿! このようなところにおられましたか! お探ししましたぞ!!」

 

 それについて俺が問いかけるよりも先に、纏う衣を大きくはだけかねない勢いで走ってきた侍従の人たちが、俺たちを認めて慌てて駆け寄ってくる。

 事情のわからない俺は近づいてくる彼らを見つめ返すだけだったが、アシュヴァッターマンは違ったらしい。

 

 ――はっ! と何かに感づいたような表情を浮かべると、姿勢を正す。

 そして、そのまま侍従の方へと歩き出した――なぜか、片手に俺の手首を掴んだ状態で。

 

「あの、アシュヴァッターマン様?」

「いや、もう、ここまできたらどうしようもないからね。こうなったら、僕のするべき仕事は一つだ。父上の名誉のためにも、必ずアレを成功に終わらせてやる……!」

 

 もともと、俺とアシュヴァッターマンの二人を探しに来ていたらしい侍従たちは今の俺の状態に特に言うべきことはないらしい。むしろ、二人揃って探し人がやってきてくれることに安心したのか、口々に「ささ、お早く」といって急かしてくる。

 

「いいかい、アディティナンダ? 多分、聡明なお前のことだから、きっと何かを言わずにはいられないとは思うんだけど……。でも、ここは出来れば堪えて欲しい――約束してくれるよね?」

「あの、私は一介の歌い手ですよ? 何をおっしゃるのですか?」

「君が本当に一介の歌い手に過ぎないのであれば、僕だって何も言わないさ……。だけど、そうじゃないだろう? だからこそのお願いだ。下手に何も言わないでおくれよ」

 

 やや血走った目で俺を見やるアシュヴァッターマンに鬼気迫るものを感じる。

 一体どうしちゃったんだろう。ただ、ここまで懇願されて断るのもなんだか気の毒だったので、とりあえず素直に首肯しておいた。

 

****

 

 よくわからないまま、侍従たちに連れてこられたのは、国王の私的な謁見用の小部屋だった。

 

 小部屋、というだけあって、大勢の家臣たちを集めて日夜何かをするような場所ではない。

 どっちかっていうと、国王夫妻が個人的な客や親しい人を招くための場所である。

 数年前から、お気に入りの楽師として王宮で出入りしている俺に、国王がこっそりと歌を所望する時などにこの部屋は使われている。

 

「――……失礼、国王陛下。先ほど、なんとおっしゃいましたか?」

「おうおう、アディティナンダ。我が王国の麗しの楽士よ。其の方ともあろうものが、このように誉れ高き催しを聞き落してしまうとは……。よいよい、格別にもう一度だけ聴くことを許そう」

 

 なぜだか異常にご機嫌な国王の元に連れてこられて告げられた一言に、手慰み程度に奏でていた弦楽器(シタール)を取り落としそうになるのを必死に堪える。

 まさかとは思うが、先ほどアシュヴァッターマンにドローナが話していたことって……。

 

「かねてから、王宮の武術指南であるドローナより話を持ちかけられてはいたのじゃが、この度クル王家主催で武術競技会を開くことになってのぅ……。競技会という名目とはいえ、これも天上の神々に捧げるための立派な儀式の一つ。そこで、王国随一と名高い歌い手である其の方にもこの素晴らしい催しに是非とも参加して欲しいのじゃ」

 

 えぇと、簡単にまとめてしまえばこういうことかね?

 今度、王家主催の武術大会を開くことになったから、賑やかし役として楽士のアディティナンダも参加してね? ということか。王家の人たちって言い回しが面倒臭いんだよなぁ……もっとカルナみたいに簡潔に話せばいいのに。

 

 ――――しかし、この国王陛下……()()()

 いや、本気だろう。彼にとっては自慢の息子と甥っ子達の勇姿が見られる、一生に一度とない晴れ舞台としての認識しかないから、こんなことを誇らしげに言えるのだろう。

 

「……なるほど、拝命いたしました。国王陛下直々の御下命とあっては、名誉なこと。無論、私としても断る理由などありませぬ」

 

 取り敢えず、アシュヴァッターマンとの約束もあるし、俺もまだまだどこにでもいる一般市民の真似事をしなくてはいけないので、頭を垂れておく。

 

「ところで、陛下。差し支えなければ、どなたがこの催しに参加なされるのか――お伺いしても?」

「ふむ。この競技会は基本、どのような身分の者に対しても開かれている物となる。それ故に途中参加も許される。当然、ドローナの弟子たちからも希望者を募って参加することになるじゃろう」

 

 国王夫妻が話し相手としての俺の声の響きを気に入ってくれるおかげで、こうして間に余計な人間を挟まずに会話ができるから、その点においては本当に助かるな。

 

「……それは、壮大な競技会になりそうですね」

「無論のことじゃ。なにせ、我が王家からは、愛しきドゥリーヨダナを始めとする百王子たち、それと、誉れ高き甥子であるクンティーの息子、パーンダヴァの五王子たちが参加することになるからのう」

 

 こ、この国王陛下、本気で言ってんのか……!?

 今の王国が水面下でどんな勢力争いをしているのか、知らないわけじゃないだろうに。

 

 ――驚愕のあまり、顎が外れるかと思った。

 慌てて、無礼だと指摘されないように必死に顔を俯ける。

 

 現国王の実子・ドゥリーヨダナ王子派と神の血を受け継ぐパーンダヴァの長子・ユディシュティラとの間で、次期国王の座を巡っての穏やかならぬ闘争が行われていることは、王都に住まう人間ならば誰でも知っている話である。

 

 勢力分布で言えば、生まれた時から凶兆の子として囁かれているドゥリーヨダナ王子の勢力が押されている形だ。それでも、現国王の最愛の息子という立場と戦士ならざる温厚なユディシュティラの性格、彼自身の際立った才覚故に、双方の天秤の秤は危うい均衡を保っている。

 

 ――そんなところに、誰の目にも()()()()()()()()()()()()()()()()()“競技会”という火種をぶち込む気か……!?

 

 しかも、王家主催ということは国を挙げての取り組みだ。

 当然、周辺諸国からも人が集まるだろうし、ドローナの弟子たちの中には、各国の名だたる戦士たちの系譜に連なる者たちも大勢いる。それだけの規模の儀式でもあるのならば、戦士階級(クシャトリヤ)だけじゃない、祭祀を司るバラモンたちも捧げ物を求めて、はるばる王都まで足を運ぶだろう。

 

 先ほど、アシュヴァッターマンにドローナが喋り倒していたのも、この件についてだろう。

 だとすれば、アシュヴァッターマンがあまりいい顔をしていなかったのもよく分かる。

 

 あのバラモン、数年前に積年の相手だったパーンチャーラ国王をアルジュナを始めとする弟子たちを使ってコテンパンに伸してからは、我が世の春と言わんばかりの人生の謳歌ぶりだったし、ここらで調子に乗りたいのも分かる。

 

 競技会なんて、言い方を変えてしまえば、戦士たちの品評会だ。

 そりゃぁ、手塩にかけた弟子がいるとなればそれを衆目に見せびらかしてやりたいことだろう。

 

 声に出すことなく、胸中で歯噛みする。

 

 自慢したい気持ちも分かるけどさぁ……!

 もう少し自分の門下生の間で渦巻いている、のっぴきならない雰囲気にも気づいてくれよ……!

 溺愛されているアシュヴァッターマンでさえ、アルジュナ王子への父親の傾倒ぶりには、時々不安で堪らないという表情を浮かべてんだぞ。

 

 基本、王族の訓練とそれ以外とで優先順位が異なるとは言え……。

 仮にも師匠という立場に立っているのだから、それ以外の弟子――まぁ、気にしていないカルナを除いてだが――の心情も慮ってやれよ……!!

 

 ……もう、本当におかしい。

 俺はあくまで神の眷属であって、人の子とは一線を画す存在であるはずなのに、どうしてここまで人間の複雑な関係に関して思い悩んでばかりなんだろう?

 

 ……。

 …………ふぅ。

 

 ――()()……()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()――どうせ、王家の内情なんて俺とカルナには関係などないのだ。

 戦争が始まったとしても、所詮戦士階級(クシャトリヤ)と兵士たちだけの話だ。

 極端な話、カルナに害を及ぼさないのであれば、俺としても……()()()()()()()()()()()()()

 

 ――この時点で、自分の人間的な思考に()()()()()()()

 

 この闘争によって起こるであろう、王族間の闘争・王国内での内紛・国民達へと降り注ぐであろう厄災全てを己らには無関係なものであるとして、切り離して考える方向へと思考を変換させる。

 

 ……。

 …………。

 そう考えれば、今の危うい均衡を突き崩して、次代の国王を決定するためにも、この競技会はいい取り組みなのかもしれない。

 

 双方の王子たちは戦士階級(クシャトリヤ)に相応しい戦士としての才覚を持つと噂されている。

 それに、百王子たちの長兄であるドゥリーヨダナなんて、半神の王子であるビーマに匹敵する棍棒使いであると囁かれているほどだ。

 

 ――何より、優れた一人の戦士は、十万の兵士が組する軍団に勝るという。

 

 だとすれば、飛び抜けた才能の持ち主であるというアルジュナがその才を競技会で発揮すれば、国内外の敵は、彼を恐れて対抗しようという気をなくすだろう。

 

 ――ならもう、それでいい。

 第一に、俺とカルナが王族の権力闘争なんぞに関わってやる理由なんぞないし。

 

 ――……建前にすぎないかもしれないが、競技会は全階級の者たちに開かれるという。

 カルナは元々ドローナの弟子だし、参加すること自体に否と言われることはないだろう。

 とはいえ、あの欲の薄いカルナが誰かと優劣を競い合うことを目的に競技会に参加するとも考えにくい。よしんば、参加者の誰かに刺激を受けて挑戦したとしても、それがカルナ自身の選択の結果であるのならば、構うまい。

 

 そのように、頭を切り替える。

 そもそも、俺はあくまでもカルナの一生を見守るために地上にいるのであって、王国の繁栄に貢献する必要などない。国王のお気に入りの楽師に召し抱えられてこそいるが、それだって、カルナを飢える事なく養うための手段の一つに過ぎないのだから。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 地上に堕とされて数年、神々の価値観と人間の価値観との間に大きな溝があることに気づいた。

 それゆえに、俺はカルナ自身の意思を第一に尊重するべきだと考えるに至ったのである。

 

  とはいえ……正直、俺自身もどこかで自制しておかないと。

 そうでないと、カルナの頼みでも、()()()()()()()()()()()()()()()、なんでもしてやりたくなってしまう。

 

 大分、人の子の感覚に近づいた俺でさえこうなのだ。

 もし、この地上のどこかに神々に過剰なまでに偏愛された存在がいたとしたら、それって……ひょっとしたらとても不幸なことかもしれない。

 

 ――王宮からの帰り道。

 国王の厚意で貸し出された馬車の後ろに座した状態で、ただ黙って空を見上げる。

 明滅するような輝きを放つ星々を周囲に侍らせ、半分の白銀色の月が煌々と輝いていた。




<相違点>
・「数年前に積年の相手だったパーンチャーラ国王を〜」
 本来ならば、ドゥルパダ征伐は競技会の後なんですけど、そうするとドラウパティーと五王子たちとの年齢差がすごいことになってしまいますので、あえて入れ替えさせていただきました。

(作中の主人公の見解は、とあるFate作品における型月世界の真理より借用しました。どこかわかりますか?)


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武術競技会

頂いた感想は毎度楽しく読ませてもらっています。
また、評価の方も、ありがとうございます。

さて、ようやくの競技会編に突入です。全てはここから始まった。


「……競技会?」

「そうだよ。なんでもあと一月もしないうちに開催されるんだって」

「そうか……」

 

 木陰に座って都からの土産の果物をもしゃもしゃと二人揃ってかじりつつ、俺はカルナに昨日聞いたばかりの新鮮な情報を公開した。

 

 ……それにしてもカルナの前髪がまた伸びてきてるな。

 せっかく顔立ちは両親に似て綺麗なんだから、もっと着飾ればいいのに。

 何度そう言っても、本人はスーリヤからの贈り物があるから十分、と固辞してばかりだ。

 

 ――嗚呼、本当にもったいない。

 

 右手がうずいてきたのを察知してか、カルナが心持ち俺から距離をとった。

 失敬だな、初めてカルナの髪を切った時に比べて、俺の技量も格段に上がってるっていうのに。

 

「……根拠など何一つないというのに、その自信の程合いは流石だな」

「だって、カルナが試させてくれないからだよ。最近では村の子供達にお願いされて、よく髪切ってるよ?」

「……道理で一時期とはいえ珍妙な髪型が村で流行っていた訳だ……。いや、オレが流行りに疎いだけで、ひょっとしたら巷間ではあの髪型が人気なだけかもしれない……のだろうか?」

 

 そう言って真剣に考え込む姿を見せるカルナに、小さく微笑む。

 

 初めて見た時、一緒に暮らし始めた時。

 あんなにも小さかったのに、あっという間にこの子は成長してしまったなぁ、と思う。

 

 少年から、青年と呼ばれる年齢にまで、カルナは瞬く間に育ってしまった。

 元々は発見早々にスーリヤのいる天界に連れて帰るつもりだったから、こうしてこんなに側近くでその成長を見守ることになるとは思ってもいなかったなぁ。

 

 それが、こんなことになるなんて、きっと地上にやってきたばかりの俺では想像もつくまい。

 

 黄金の鎧のお陰で、カルナは不死身に近い体質の持ち主だ。

 ――とはいえ、カルナの半分は人の子で、そうである限り、いつか必ず終わりもやってくる。

 

 「人として生きる」というカルナの選択を尊重する以上、俺はこの成長しない体のまま、カルナの最後を看取ることになるのかもしれない。

 

 ――そう思うと、なんだか胸の奥がもやっとしてくる。……なんだろう、この感覚は。

 

 カルナが人である以上、死は避けられないものであって、俺がどうこうできる問題ではない。

 どうせ死ぬとしたらその生涯に後悔のないままに死んで欲しいと思っているし告げてもいるのに……なんなのだろう?

 

「アディティナンダ、どうした? また何か、どうしようもないことについて悩んでいるのか?」

「考えても意味がない、という点ではそうなのかもしれないね」

 

 金を帯びた毛先の奥から覗く、蒼氷色の双眸が俺の姿を映している。

 そこに映っている俺は、確かになんとも評しようのない、おかしな表情を浮かべていた。

 変なの。なんだか、物凄くみっともない顔をしている――本当になぜだろう?

 

「内容が内容だ。……あまり思い悩むな、としか言いようがない」

 

 困ったように囁いて、カルナの指先がそっと俺の目元をなぞる。

 口下手な弟の不器用な慰めになんだかポカポカとしたものが胸に溜まって――そう、嬉しい。

 

「…………途端に顔がにやけたな」

「いいじゃないか。――それで? カルナはどうするの? まあ、王族達のお披露目会、という形式の方が強いだろうけど、お前はドローナの門下だし、出場する資格自体はあると思うよ」

「どうだろうな。戦いたい相手がいる訳でもない、誰かと腕を競いたいと思う訳でもない。それを関心がないと言って仕舞えば、それまでだ――……だが」

 

 ――ふ、とカルナがそれまで固く結ばれていた口元を緩める。

 

「出るのだろう?」

「うん。俺は歌い手としてだけどね」

「ならば、オレも行くことにしよう――せっかくの身内の晴れ舞台だ。むしろ、足を運ばぬ方が礼を欠いている」

「!? カルナが来てくれるの!」

 

 競技会自体に参加意欲はなくとも、観客の一人として参加してくれるなら、それで十分。

 もしカルナが心変わりして競技に参加したくなったとしても、建前上は「飛び入り参加も許可」だから、下手に非難されることもないだろう。最初はあんまり乗り気じゃなかったけど、カルナが来てくれるっていうなら、恥ずかしいところは見せられないよな。

 

 村の人に請われたカルナが近くの森で暴れまわっている怪物退治に向かう背中を見送りながら、俺は決意を固めた。

 

 最近、兄の威厳というものがめっきり薄れてきた予感もあるし……。

 ここらで、カルナに心の底から尊敬されてもおかしくないような兄として、立派に働いている姿を見せなければ……!

 

 ――これが、約一月前の話であった。

 

 

 競技会の〆を任された俺が、王宮の侍女達の手で、祭に相応しい身なりを整えている最中。

 看過できない異変を感じて、それまで微動だにしなかった頭を動かし、外を睨みつけた。

 

「――……一体、なにがどうなってるんだ?」

 

 それまでパーンダヴァ五王子の三男・アルジュナの武勇を讃える声一色だった観客の歓声。

 それが唐突に途切れ、窓の外から見える競技会場が剣呑な空気に包まれていった。

 

 ――かと思うと、それが一転して大瀑布を思わせる大喝采へと変わる。

 

 先程までの穏やかならぬ空気を吹き飛ばす勢いで、喝采と感嘆の声、拍手の音が大地を揺らす。

 さらには、空がなんだか不穏な雲に覆われたかと思うと、その分厚い雲の面紗(ベール)を突き抜けるように、どこなく神々しい太陽の輝きが地上を照りつける。

 

 ――これは、ますます尋常ではない。

 

 なんだか嫌な予感がしたので、侍女の方々には適当な理由を言いつけて下がってもらう。

 全員が退室したのを見送り、控えの部屋の窓から一気に飛び降りた。

 

 普段は発揮することのない人間の域を超えた身体能力を駆使して、王宮の屋根や塀を飛び越えて、一直線に会場の中心を目指す。

 

 先ず目に入ってきたのは一際華美に誂えられた壇上。

 この日のために特別に作られた、競技会用の玉座を中心に出場しない王族の者たちが座し、その周囲には衛兵や大臣、王の相談役やバラモンなど、王国の中でも高貴な身分の者が集まっている。

 

 次に、一段どころか数段も高い、王族向けの観戦席から離れた場所。

 観客席がぐるりと渦を巻く、すり鉢型の競技会会場の中心に、今日の主役である出場者たちが集う広場がある。

 

 出場する武芸者たちが技を競い合わせやすいようにと、広々とした空間が取られたその場所に、カルナともう一人――褐色の肌に紫と白の衣をまとった青年が佇んでいた。

 

「アシュヴァッターマン様! 一体、今何が起こっているのですか?」

「アディティナンダ!」

 

 見知った顔を見つけて、よじ登っていた王宮の屋根から飛び降りる。

 幸い、会場の関心がカルナたちに向けられていたことと、参加者ではなかったアシュヴァッターマンが一人で高台の観客席にいたせいで、周囲に人がおらず衆目を浴びずに済んだ。

 

「その、先ほどカルナが、飛び入りで競技会に参加したんだ」

「あの、カルナが!? 一体どんな心境の変化が!」

「そうだよ、あのカルナがだよ? そして、それだけじゃない。……そうして皆の見ている前で、先程までアルジュナ王子が披露して見せた武術の極致に達した神技の数々を、そっくりそのままやってのけたんだ」

 

 ――特に誰も羨まず、誰かを妬むことのないカルナのことだ。

 俺に対する付き合いで観戦をしにくるとは言っていたが、まさか参加者として飛び込むとは。

 しかも、アルジュナ王子に張り合うようにしてその腕を人々の前で見せつけるという挑発的な行為をするなんて、いったい何がカルナの琴線を刺激したのだろう?

 

 アシュヴァッターマンも、普段のカルナの態度を知っているゆえに、らしからぬカルナの振る舞いにどうやら困惑を隠せないようだ。

 

 俺たちが固唾を飲んで見守る中、広場の中央の片割れ――アルジュナ王子が口を開く。

 

「――何者です。招かれざる闖入者の分際で、無礼な」

「……この広場はすべての人間に対して開かれているはずだ。――であれば、お前も腕に覚えのある者として、余計な口など挟まずに、その弓で語るといい」

 

 あ〜、なんか遠慮なく深窓の王子様相手に挑発しているし。

 いや、本人はあれが挑発になるとは思っていないんだよね、心底思ったことだけを口にしているんだから――あれで。

 

 ――けど、王子様は別の意味で捉えたらしい。秀麗な顔立ちが、たちどころに険しくなる。

 

 久方ぶりに、カルナの所業にお腹が痛くなってきた。

 嗚呼、もう。素知らぬ顔で日光を燦々と地上に浴びせかけているスーリヤを殴り倒したい。

 

『――何者だろう、あの若武者は?』

『太陽の光を閉じ込めたような、黄金の鎧に耳飾り。尋常の存在ではないだろう』

『黄金の鎧? 何を言っているんだ? あの男の体は闇色で包まれているではないか?』

『そうか? それにしても、先ほどの技の数々……尋常ではないぞ』

『空前絶後の武芸の技を習得したお方など、第三王子しかおられないと思っていたが……』

『ああ、世界は広いな。まさか、そっくり同じ技をやってみせるとは』

『最初に登場した時は、いったい何事かと思ったのだが……』

 

 観客席の者たちがカルナの姿から目を離さないまま、興奮冷めやらぬ様子で囁きあっている。 

 なるほど、出場者の〆を任されたアルジュナ王子の出演が終わったのと同時にカルナが飛び込んできて、人々の前に己の技を見せつけ――見事、参戦権を勝ち取ったわけか。

 

 壇上で様子をうかがっている王族の者たちも、それぞれ違う表情を浮かべている。

 パーンダヴァ側は困惑・怒りといった負の感情、カウラヴァの王子たちは興奮や歓喜・期待といった正の感情。

 

 なんというか、人間の表情の見本市みたいだな――あ、クンティーが倒れた。

 

 周囲の者たちが突然失神した姫を起こそうと慌てて走り回り、駆け寄ってきた武官らしき男がクンティーの顔に容赦なく冷水をぶっかけたのを見届け、広場の中心で相対している二人の姿を視界に捉え直す。

 

 カルナは涼しい顔をしているが、普段は凪いだ湖水のような蒼氷色の双眸は炎のように燃え盛り、ギラギラと輝いている。金色を帯びた毛先の一本一本に闘志が宿り、カルナの内面の激情に応じるがごとく、灼熱の紅い炎がその周囲で渦を巻く。

 

 ――嗚呼、滅多にないことだ。

 

 自身に宿る強大な神の力を完璧に支配下に置いたはずのカルナが、こうまで自身の感情を曝け出し、その抑えきれない力の一端を炎という形で現出させているのをみたのは。

 

 うーん。

 本来なら辞めさせるべきだろうが、こうまで張り切っているカルナの姿は久しぶりだ。

 止めるのも野暮でしかないね……これは。――よし、したいようにさせてやろう。

 

 相手の第三王子も、常の柔和な微笑みをすっかりどこかに削ぎ落としてしまったようである。

 身の程を弁えぬ闖入者相手に、礼節を重んじる品行方正な王子の雰囲気は欠片も感じられない。

 

 むしろ、眉間にしわを刻んだ険しい表情で、カルナの姿を睨みつけている。

 彼の覇気に煽られるように純白の長衣の裾が蛇のようにうねっては、空には黒雲が立ち込めては、紫の色を帯びた雷が周囲を奔り巡る。

 

 二人の比類なき戦士が対峙し、それに呼応するように互いの気迫が高まっていく。

 それがいよいよ最高潮に達しようとした瞬間――――




(*全然関係ないけど、Grand Orderの女主人公ことぐだ子ちゃんって、すごいかわいいよね。
あれが、公式の女体化士郎と知ったときは、どうしてStay Nightの主人公は男なんだろうと思わずにはいられなかった。
 ……Grand Order にアディティナンダが出るとしたらクラス適性はキャスターとライダーかな*)


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侮辱、そして激怒

公式のカルナさんは、今の所は怒りをあらわにすることがないのですが、怒ったらきっとすっごく怖いんでしょうね。


「――双方待たれよ!! これは神々にお捧げする神聖な御前試合である。それゆえ、国王陛下の許可なき決闘は許されない! お控えなされ!!」

 

 盛り上がっていた空気が、一気に霧散する。

 それまで敵意を隠そうともしなかったアルジュナ王子の気配が凪ぎ、落ち着きを取り戻す。

 まるで、自分らしからぬ感情的な振る舞いを恥じて、慌てて取り繕ったようにも見えた。

 

 ……ちぇ、なんだあのおっさん。折角いいところだったのに邪魔するなんて。

 固唾をのんで見守っていた観客の大部分も俺と同じ感想を抱いたようだが、国王の名が関係してか、突然の横槍に対して大きな罵声をあびせかけることはなかった。

 

 カルナもやや拍子抜けしたのか、武器を掴んでいた手から少しばかり力が抜ける。

 

「決闘のしきたりとして、互いの氏素性を明らかにせねばならぬ。これなるアルジュナはクンティー王妃の三男であり、クル族の王子だ。――そこな勇者よ。目にもまばゆい黄金の鎧をまとった者よ。そなたの素性を明かすが良い。何故ならば、王族とは、己よりも下位の者とは決して決闘は行なわぬものだ」

 

 ――しまった!!

 

 嗚呼くそ、こんな方法を取られるとは……!

 せっかく会場内の空気も盛り上がって、カルナが滅多にない表情を浮かべてまで、あの王子様と戦いたがっているというのに……こんな下らないやり方で邪魔されるなんて……!

 

 普段から俺もカルナも身分など気にせず過ごしてきたのが仇になった……!

 ましてやカルナなんて、半神の子供という敬われるべき立場にあるというのに自分自身を含めて全員を等しく考えているせいで、こんな返しをされるだなんて考えてもいなかったことだろう。

 

 ――カルナは、嘘をつけない。

 この場に限って、身分を偽る、という手もありだろう。だがそれは、今のカルナ自身の根本を作り上げた人々――それも身分の低い養父母たちを否定する――ということ。

 

 だからこそ、カルナがそのような真似をするはずがない。

 実父である太陽神・スーリヤに対するのとはまた別の感情で、拾い上げてくれたアディラタに恩を感じている故に、それを貶めるような振る舞いなど思いつかないだろう。

 

 案の定、萎れた花のようにうつむくカルナ。

 会場の者達も、名乗りに応じられないカルナの姿を見て、またざわめき出す。

 ここで対戦相手の王子が「そんなの構わない」とか言ってくれれば、話は別だけど……良くも悪くも優等生な彼にそれは期待できないだろう。

 

 その光景を視界に収め――どうする? と自分自身に問いかける。

 

 ここで俺自身の神格を解放するか?

 人間としての皮を脱ぎ捨てて、人外の本性を露わにして、カルナを血族として紹介すれば、少なくともカルナは挑戦の不名誉から救われる。それに、太陽神ゆかりの者だと知れば、それ以上あの王子様との一騎打ちを邪魔する者もいないだろう。

 

 ええい、迷っている暇はない。

 せっかく、あの受動的すぎるカルナが行動を起こしたんだ。

 意を決して、手首に嵌っている赤石を誂えた黄金の腕輪に手をかけ、勢いよく取り外そうとした途端――突如として、朗々とした声が会場に響き渡った。

 

 ――全く、次から次に! 今度は誰だよ!!

 

「経典によれば、上位三カーストは王族たる資格を持つというではないか! であれば、そこの勇士がアルジュナへ挑むことは何ら問題ない!」

 

 会場中の視線が、磁石に引き寄せられた砂鉄のように声の主の方へと集まる。

 それを当人も自覚しているのだろう。聴衆へと向かって、茶目っ気たっぷりに微笑んでみせた。

 

「……とはいえ、そちらのアルジュナが、王族の資格を持たぬ相手であれば戦わぬというのであれば――たった今! この場でこの勇士を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 堂々とした佇まいに、悪戯っぽくきらめく黒水晶の双眸。

 背はカルナよりも高く、背筋をシャンと伸ばした、堂々とした佇まい。

 よく鍛えられていることのわかる、余分な肉の付いていない均整のとれた体つき。

 指先に至るまでに活力に満ちた黒い肌の上に、目にも綾な見事な衣装を身に纏った伊達姿。

 

 ――誰かと思えば王族、それも次期国王候補の一人・ドゥリーヨダナ王子だ。

 

 王子の粋な計らいに、パーンダヴァ側が苦虫を噛み潰したような表情を次々と浮かべたが、二人の優れた戦士たちの戦いを待ち望んでいた会場の観客たちからは絶賛の大嵐だ。

 ドゥリーヨダナといえば、軽やかな動きで玉座のある壇上から飛び降りると、そのままカルナの方へと悠々と歩み寄った。

 

 大歓声のせいで何を言っているのかはわからないが、カルナに対してドゥリーヨダナが何事かを話しかけ、それにカルナが驚いたような表情を浮かべる。

 そんなカルナの姿にドゥリーヨダナは楽しそうに笑うと、家臣たちとバラモンを急かす。

 そのまま、カルナの手を引いて、さっきまで己の座していた黄金造りの椅子に座らせると、王子はその傍らへと一歩下がった。

 

 すると、あれよあれよと思う間もなく、従者たちが鮮やかな色の花や聖水、黄金などでカルナの体を清め、バラモンたちが真言と共に祝福を与えていく。

 

 一見すると泰然自若としているように見えるけど、あの仏頂面は大混乱に陥っている顔だわ。

 ああ見えて、カルナ、意外と押しに弱いからなぁ……。

 

 おそらく前代未聞の速さで、王子の命を受けた者たちが、アンガ国国王となったカルナのための王位就任の儀式をすませると、改めて二人は固い抱擁を交わし合った。

 

 正直、どうしてドゥリーヨダナ王子が規則を何重にまで破ってまで、()()()()カルナに救いの手を差し伸べてくれたのかはわからないが、やや強引とはいえ、これでカルナは王族に対する挑戦権を獲得したわけだ。

 

 なら、それはそれで良しだな。

 今度こそ、カルナは誰にも邪魔されることなく、思う存分その武術の腕を振るえることだろう。

 

 嗚呼、兄としてもほっと一安心。

 ようやく思う存分気兼ねなく決闘を見届けることができる――と、安堵するのはまだ早かった。

 カルナの国王就任を祝い、夢の対戦を待ち望む群衆の中から、一人の老人が杖をつきながら、壇上から降りてきたカルナの方へと歩み寄っていくのを発見する。

 

「おや、あの老人は……?」

 

 隣でアシュヴァッターマンが何事かをつぶやいているのを捨て置き、観客席へと飛び込む。

 途中、間をすり抜けた観客たちの間で突然の乱入者に悲鳴が上がるのを耳に入れながらも、あえて無視する。

 

 会場中が成り行きを見守る中、ドゥリーヨダナから与えられた王冠をかぶったカルナが、綺麗な布が汚れるのも気にせず、養い親であるアディラタへ、頭を垂れる。

 粗末な身なりの老人へ敬意を示すカルナの姿に、会場は再度ざわめき始め、壇上に残ったドゥリーヨダナも驚いたように目を見張った。

 

――なんだ、お前は御者の息子だったのか! それでは、決闘でアルジュナに殺される資格など持ちようがないではないか! ましてや、御者の息子風情が神聖なる広場を汚し、国王の座を与えられるなど片腹痛い!! さっさとその身に帯びている弓矢を外し、槍の代わりに馬を追い立てる鞭でも持ったらどうだ?」

 

 呵呵大笑しつつ、痛烈な皮肉を口にしながら現れたのは、ドゥリーヨダナ同様に無数の宝玉で着飾り、文目の見事な緑色の衣をまとう、筋骨隆々の大男。

 パーンダヴァ五王子の次男に当たる風神の息子・ビーマまでもが、ドゥリーヨダナに張り合うようにして一歩前に出てきた。

 

「大方その薄汚れた老人も、子であるお前が身の程知らずにも国王に就任されたのを受けて、浅ましくもそのおこぼれに与ろうとして名乗り出たのであろうよ」

 

 ――ったく、先ほどまでの青ざめた顔色が嘘のようだな。

 

 まるで、羅刹の首でもとったように、いい気になりやがって。

 カルナの所属する身分が判明した途端にこれかよ。

 どうしてカルナのことを悪くいう人は、カルナ自身の性格の難のことではなくて、カルナの所属する身分のことばっかりあげつらうんだろう。

 

 昔からあまり好きではなかったけど、この瞬間にこの王子様のことが俺は大嫌いになった。

 

 アディラタもビーマの情け容赦のない痛罵を受けて、真っ青になっている。

 もともと、そんなに大それたことのできる人間ではないのだ。

 

 川に捨てられた子供を普通に哀れに思い、成長するに従って段々と人間離れしていく人ならざる子供に普通に畏れを抱き、それが緩和された今でも距離を置かずにはいられない。

 

 つまるところ、彼は普通に善良な人間なのだ。

 今日ばかりは養い子の栄達に浮かれて、らしくない振る舞いをしてしまった普通の人間だった。

 

 それでも。

 ――ただ御者であるという理由だけで、ここまで衆目の前で罵倒される謂れなどないだろうに。

 

「さっさと神聖な舞台から消え失せろ。――ハッ、御者の息子風情が。薄汚い父親共々恥を知れ」

 

 それまでじっと黙っていたカルナだったが、養父を面罵する台詞を耳にして、静かに口を開く。

 

「オレ自身をあざ笑うのであれば、甘んじて受け止めもしよう。――確かに、お前の目から見れば、オレは身分もわきまえず、武勇の誉れ高き王子に決闘を挑んだ愚か者でしかないだろうからな。――……だが!」

 

 それまでは静かに吹き抜けるだけだった風が、餓えた獣のように唸りを上げ、会場内の砂塵を巻き込んで渦を為す。ちろりちろり、と燃えさかる炎が広場の上を蛇のように走り回り、パチパチと音を立てれば、いくつもの火花が空気中へに咲き乱れる。

 

 ――強い意志と燃えさかる怒りを宿した蒼氷色の灼眼が、カッ、と音を立てて見開かれた。

 

「オレ自身ではなく、捨て子であったオレを拾い上げ、今日まで育て上げてくれた我が父を、オレへの当て付けとして大衆の前で愚弄し、侮辱したこと……。――それだけは……断じて聞き逃すことなどできん!!」

 

 カルナが手にした槍を大きく振り下ろせば、穂先に宿った真紅の炎が、その激情に呼応するように一層その勢いを激しいものとする。

 

 先ほどのアルジュナと対峙していた時の武人としての高揚していた様子とは違う――ビーマの養い親に対する蔑みの言葉に、カルナは恐らく生まれて初めて激怒していた。

 

「武器を取れ、風神の息子! お前が劣ると見做した御者の子供の一撃、その身で受けてみるといい……!」

 

 赤金を帯びた陽射しと昼の陽気で満たされていた会場が、カルナ一人の気迫に飲み込まれる。

 自然神の子供たる彼の感情の動きに合わせて燃え上がる真紅の炎と、それによって熱せされた灼熱の温風が、会場内を縦横無尽に暴れまわる。

 

 会場のあちこちで悲鳴があがり、せせら笑っていたビーマの表情がこわばり、アルジュナがそっと手にした弓矢を抱え直した。アディラタに至っては、養い子の激昂した姿に腰を抜かしている。

 

 衛兵たちは高貴な者たちを守ろうとそれぞれ武具を構えるが、その穂先は小刻みに震えてまともにその役目を果たすことなどできそうにない。

 

 ……あ、またクンティーが失神した。




<登場人物紹介>
・アディラタ
…言わずと知れたカルナさんの養い親。『マハーバーラタ』によれば、カルナを川で拾って以降、妻との間に子宝に恵まれるようになったという。ドリタリーシュトラ王の御者、と記載されてはいるが、たびたびカルナが御者の息子であると罵倒されるので、アディラタは国王の信頼の厚い者が任命される戦車の御者ではない、と考えられる。

(*ここの武術大会での振る舞いについては、原典と公式wikiとで違います。こういう場合は、この物語では公式wikiの記載に従うこととなります*)


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宴の始末

悪人とかなんとか言われているけど、なんだかんだであの場でカルナを救ったドゥリーヨダナはかなり格好いいんじゃないかと思う、今日のこの頃。
ちなみに、ドゥリーヨダナの台詞は原典より三割り増し皮肉気にしております。


 ――さて、と。

 カルナの豹変を目にして、一旦は止めていた足を再び動かす。

 

 広場にいるカルナを中心に、蛇のように蜷局(とぐろ)を巻きながら燃えさかる灼熱の炎。

 肌を突き刺すような怒気と殺気、それを浴びて悲鳴と共に失神する観衆、泣き出す子供たち。

 

 ――嗚呼、これは良くない。

 

 ここで思う存分戦わせてやってもいいんだけど、流石に観衆を巻き込むことはやめさせないと。

 今は頭に血が上っているせいで、元凶のビーマの姿しか見えていないようだが、後で正気に戻ったカルナが自分の作り出した惨状を目の当たりにして自身を責める姿は見たくない。

 

 ――だからまぁ、ここはお兄ちゃんの出番だな。

 

 観客席で戦々恐々と様子を伺っていた体格のいい男性の肩を踏み台にして一気に飛び上がり、そのまま大気を蹴って、広場までの距離を一息に詰める。

 

 そして、広場の中心で臨戦状態に入っているカルナの背後へ――素早く飛び降りた!

 

「はぁ〜〜い、そこまで!! お前が本気出して戦っちゃうと、ここら一帯焦土になっちゃうからね! この辺りでやめておきなさい!」

 

 場の空気をぶち壊すような、剽軽な声を出したのはわざと。

 掌をカルナの眼前へと回して、ビーマを睨みつけていた苛烈な両眼を、即興の暗闇の中へ隠す。

 突然の闖入者に背中を取られたことにカルナの体が一瞬強張るが、相手が俺であることに気づいて肩の力を抜いた。

 

「まぁ、お前がそれでも構わないっていうなら、止めはしないけど?」

 

 未だにカルナの炎が燃え盛っているのを視界の端で捉えながら、嗾ける様にその耳元で囁く。

 

「――それで? カルナ、お前は一体どうしたい? この失礼な王子様をその槍で刺し殺す? それともここでやめておく?」

 

 敢えて、カルナを煽るように言葉を紡ぐ。

 第三王子への殺害予告を口にした途端、アルジュナ王子と二人で身構えるように手にした武器を構え直すのを流し見、未だに視界を隠したままのカルナへと問いを投げかける。

 

 あの始まりの日に、母親への復讐を誘いかけたあの時のように。

 自らの欲求を押し通すのか、それとも自制する道を選ぶのか――選択権はカルナにある。

 

「――どうする? どちらにせよ、お前が望むのであれば、俺はお前を止めないよ?」

「煽るような物言いはよせ。確かに、ここでこの王子と戦うことになれば、周りの被害は免れん。……それはオレの本意ではない、この場は槍を納めることにしよう」

 

 ――そうだね、それでこそお前だ。

 どんな時であっても、力無き者たちに対する配慮を忘れることがない。

 群衆のことを引き合いに出せば、頭に血の上ったカルナが正気に戻るのはわかっていた。

 

 ……わかっててあんな風に煽ったのだから、俺も大概性格が悪いな。

 

 自分よりも背の高いカルナの視界を塞ぐために、足りない背丈を補う目的で空に浮かんでいたが、それももういいだろう。人々に気付かれる前に地上に足をつけて、一般人に偽装しておく。

 

「――ははは! 今のはお前の負けだな、ビーマよ」

 

 すでに荒ぶっていた大気は元の平穏を取り戻し、燃え盛っていた灼熱の炎も霧散した。

 尚も人知を超えた力の発露に慄きを隠せず、沈黙するしかなかった会場の空気だったが、その緊迫した雰囲気を朗々とした笑声が打ち破った。

 

「そもそも、だ。お前は王族でもないものが王子に戦いを挑むなど恥を知れ、といってこの勇士のことを侮辱したが、戦うことこそが戦士階級(クシャトリヤ)たるものの宿命ではないか。挑戦を受けたのにもかかわらず、それを身分だなんだとつまらぬ言い訳をしよって……弟の決闘にしゃしゃり出たことも含めて、貴様の方こそ戦士階級(クシャトリヤ)として恥を知るといい」

 

 ――会場の関心が、この異端の王子に集まる。

 俺とカルナを含めた人々の視線を心地よさげに浴びながらも、なおも王子はそのよく響く声を会場内に響かせる。

 

「――英雄も河も源は同じだ。どちらもその源流はわからない。身分を説くというのであれば、戦士階級(クシャトリヤ)に生まれてバラモンへと至った聖仙はいくらでもいる。生まれを詰るというのであれば、こうしてこの場にいる名のある武者の方々がどのような謂れで生誕したのか、己自身のことも含めて振り返ってみればどうだ? それくらいなら、お前の羽毛よりも軽い脳味噌でもできるのではないか?」

 

 そう言うと、王子はやや皮肉げにビーマへと微笑んで見せた。

 

「ましてや、太陽の光輝に包まれたこの素晴らしい戦士を拾い上げ、このような武人となるまで育て上げた老人を貶すことなど! ――それこそ、王族としてどころか、人としても恥ずべき振る舞いではないか!!」

 

 涼やかな黒水晶の瞳が、カルナの姿を収めてキラキラと輝く。

 ――嗚呼、これはこれで綺麗だな、と場違いにもそう思った。

 

 それにしても、するすると毒を吐く癖は、昔からあまり変わっていないようだ。

 なまじドゥリーヨダナの声音が、透き通った清流のような流麗さを宿すだけに、口を挟むのが難しいし、皮肉を言われてもすぐさまは気付きにくい。

 

 自分の声の魔力を知ってかしらずか、それに加えて、とドゥリーヨダナが滔々と言葉を紡ぐ。

 

「――習得した武芸の一端を先のアルジュナとの対戦で垣間見せ、身に宿す神秘の力を皆の前で発現し、自分ではなく己の父親の名誉を守るために槍をとる! ――まことに見事な戦士ではないか! むしろ、お前の方こそ、この男の高潔さと孝心を少しは見習うといい」

 

 そうすれば少しはマシになるだろうよ、と小さく呟いた声は広場内の俺たちにだけしか聞こえなかったようだ。

 やや芝居がかった仕草で、ぐるりと体を回したドゥリーヨダナは、会場内にいる者たちへと――身分の貴賎を問わずに声をかける。

 

「――よく聞け、皆の衆! この場に集った全ての階級の者たちよ!! わたし、ドリタリーシュトラ国王の息子であるドゥリーヨダナは、ここに宣言しよう! この黄金の鎧に身を包んだ男こそ、アンガ国王の地位とわたしの友情をほしいままにする値打ちのある男だと! ――わたしの言葉に不満のある者は、止めはせん。今すぐ! この勇者の前に立ち塞がり、見事その槍をへし折ってみるといい!!」

 

 ドゥリーヨダナの、まるで火を吐くような演説は聴衆たちを歓喜と興奮の渦へと叩き込んだ。

 

 それまでカルナの気迫に押されて震えていた者たちも、すっかりとその恐怖を忘却の彼方へと捨て去って、歓呼で持って応じている。

 それに機嫌がよさそうに片手を上げて鷹揚に頷いているドゥリーヨダナは、巡るめく展開に呆然としていたカルナに向かって、いたずらっぽく片目をつぶった。

 

 一方の俺といえば、すっかり置いてけぼりにされたカルナと二人、ドゥリーヨダナ王子の見事な手腕に、ただ感嘆の息を吐くだけだった。

 

「いやはや凄いものだな、あの王子様。あっという間に、群衆をお前の味方につけてしまったよ。あれが生まれながらに人の上に立つものの素質なのかね?」

「……なかなかの手際の良さと扇動の技術だな。オレやお前ではああもいくまい」

「そうだね。……それよりも、お前はあれでよかった? 生まれて初めてあんなにも怒ったんじゃない?」

「――かまわない。一時の怒りに我を忘れて暴虐の限りを尽くし、無関係な者を巻き込む方が、二人の父の名を穢す所業になるだろう……礼を言う」

 

 傍目には分かりにくいままだが、ビーマに対しては怒っている状態のままのようだ。

 いつもの三割り増し険しくなった眼光で、ビーマの方を睨んでいる。

 

 カルナの代わりに、失神することも叶わず腰が抜けたままのアディラタに近寄って立たせてやることにした。

 

「――アディラタさん、大丈夫?」

「アディティナンダ様……申し訳ありません。多分、儂は分かっていてあんなことをしてしまいました……。誠にカルナのことを思うのであれば、あのような振る舞い、するはずがないというのに……」

 

 緊張の糸が切れたのか、ボロボロと涙をこぼし出す老人に苦笑して、その涙を拭ってやる。

 そういや、この服って王宮からの借り物だったっけ……まぁ、いいや。

 

「うん、そうだろうね。外見(見た目)がどんなに変わったとしても、カルナはカルナだ。貴方のことを、自分の知らない老人だって言い放ったって、別に仕方がない場面だったのに、あの子はそんなことしなかったね」

「はい。……儂は、儂は自分自身が恥ずかしい。カルナを拾ってから、家内に子宝を授かり、アディティナンダ様がいらしたのをいいことに――カルナに対して父らしいことなど、何一つ満足にしてやれなかったというのに……。それでも、こんな儂相手にも、あの子は、あの子は……!」

 

 そう言って、こらえきれない様子で滂沱の涙をこぼす養い親の姿に、少し離れたところで様子を伺っていたカルナが、ギョッとした表情を浮かべながら、駆け寄ってくる。

 

「ど、どうしたのだ? やはり、オレがあなたのことなど何も考えずに怒りに身を任せたせいだろうか……? すまない、あなたのためといいつつ、どうやらオレは配慮に欠けた振る舞いをしてしまったようだ」

 

 オロオロするカルナに、ますます涙を流すアディラタ。

 生来不器用な性質であるせいか、どう慰めればいいのかわからないままに、カルナは困惑の表情を浮かべて俺の方を見やる。

 

 でも、俺としてもなんでアディラタが泣き出したのか、よく分からない。

 人の子は、自分の身と心が傷つけられた時に涙を流す者ではなかったのだろうか?

 

「――逆だ、カルナ。アディラタは、嬉しいのさ。お前はアンガ国の王に任命されたのに、アディラタを父として蔑ろになどしなかった――お前にとっては当然の振る舞いも、それと同じことをできる人間なんて、実際のところ数えるほどしかない。それをその老人は理解しているからこそ、余計に心に響いたのさ」

 

 涼やかな声が、俺たちへと投げかけられる。

 先ほどまで民衆に挨拶をしていたドゥリーヨダナが、静かな面持ちで俺たちを見つめていた。

 

「ドゥリーヨダナ王子……」

「――ドゥリーヨダナ」

「お、王子殿下……!」

 

 アディラタが慌てて、王族への礼を取ろうとする。

 それを片手で制しながら、ドゥリーヨダナはこちらへと歩み寄ってきた。

 

「済まんな。折角、アンガの王にまで任命しておいてなんだが、競技会は日暮には終わらせると定められている。お前をアルジュナのやつと戦わせてやりたかったが、どうやら時間切れらしい」

 

 斬りつけるような目で自身を睨みつけているビーマの視線も物ともせず、困ったように肩を竦める王子様の言葉に空を見上げる。

 王子の視線の先には、さっきまで我が物顔で中天に輝いていた太陽の姿はすでになく、西側の空は柔らかな朱金の色に染まりつつあった。

 

「夜は、神々と魔物たちの時間だ。であれば、下手に競技会を長引かせてしまうのはまずい」

 

 ということは、俺が歌を披露する時間もなかったから……今回の報酬は棚上げか。

 まぁ、しょうがない。それにしても色々と惜しかったなぁ……。

 あんなに間に邪魔が入りさえしなければ、カルナの滅多にない我儘も叶えてやれただろうに。時間的にはそう長くなかったのに、次から次に色々と起こりすぎて、なんだか大変な一日だった。

 

「カルナ、我が屋敷に来い。今日はお前のために宴を催そう」

「承知した。だが、少し待っていてほしい。オレも父と話したいことがある」

 

 軽く首肯したカルナがアディラタの方へと向かったのを見送って、改めてドゥリーヨダナが俺の方へと振り返った。

 

「――さて、類まれなる音曲の才持つ楽師殿よ。よろしければ、今宵一晩わたしとこの隣の勇士のために謳ってはいただけないかな? ――無論、報酬もたっぷり弾むが」

「――私に否やがありましょうか? 何より、我が弟を挑戦への不名誉から救っていただけましたこと、王子殿下に心より御礼申し上げます」

 

 カルナが少し離れたところでアディラタと話しているのを横目で見ながら、なるたけ失礼のないように、ドゥリーヨダナ王子からのお誘いに頷いた。

 

 どうやら、アディラタは群衆に合わせて先に帰宅するらしい。

 あの老人も、今回のことで色々と思うことがあったのだろう。無理に引き止めるのもなんだか違う気がするので、ドゥリーヨダナが馬車を出してやるという厚意をありがたく受け取っておいた。

 

「――さて、長居をすると面倒だ。二人とも、わたしの屋敷について来い!」

 

 テキパキと家臣の者たちへの指示を出しきったドゥリーヨダナは、そう言って破顔した。




(*Grand Orderの五章のPVをみたら皆同じ意見を抱くと思う「ここら一帯大惨事」。インド英霊マジ怖い*)

(*ビーマ好きの人はごめんね! でもほぼ同じこと、あいつ原典でもカルナ相手に言ってるから、こんな風に反論されても仕方ないよね?*)

(*ちなみにビーマは雑魚じゃないよ! アルジュナに次いで、兄弟の中では強いんだよ! ーー一応!*)


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俺とワタシ

 ドゥリーヨダナ王子に請われるままに、何曲か歌を披露し場の空気を盛り上げた後、俺はお屋敷専属の楽団員へと席を譲り、宴の席からそっと抜け出した。

 

 よく話し、よく笑い、よく食べるドゥリーヨダナ王子と、どちらかといえば無口で少食の気のあるカルナは正反対だからこそ、馬があったらしい。

 カルナの率直過ぎる物言いにもドゥリーヨダナは気を悪くすることなく、むしろ楽しそうに腹を抱えて笑っていた。

 

 そして、それは王子だけではなかった。

 お屋敷の中の人たちも、これまで俺が招待されて見てきたお金持ちの屋敷とは違い、王子相手に気軽に軽口をたたいたり、カルナに対しても気安い態度で接しているのである。

 階級制度にがんじがらめのこの国においては非常に珍しい光景であった。

 

 この国としては異端な光景ではあるなと思ったが、それでも不思議と心地がよかった。

 ドゥリーヨダナの人徳と屋敷全体の雰囲気のおかげだろう。

 人は好きだが人付き合いが苦手なカルナも、かなりくつろいでいるようだった。

 

 ドゥリーヨダナのカルナへの好意は本物だということが分かったし、カルナもドゥリーヨダナに対して好感を抱いているようなので、この場の空気に俺の介入する必要なんてないと判断し、席を外した次第であった。

 

 ――宴会場の外にある桟敷の欄干に腰掛け、星々が輝く様を肴にして、会場から拝借してきた酒瓶を傾ける。

 

 ……嗚呼、いいお酒だ。

 さすがは王子様のお屋敷、王宮で出されるものにも引けを取らないな。

 

「――こんなところにいたのか、楽師殿」

「ドゥリーヨダナ王子? カルナは?」

 

 ひっそりと会場のはずれで手勺と洒落込んでいる俺の元に、今日の宴の主役の一人であるドゥリーヨダナが果物で作られた菓子を載せた高坏を手に歩み寄ってくる。

 

 無言で菓子を差し出す王子の厚意に軽く礼を告げてから、一つ摘んだ。

 

「――あそこだ、あそこ。うちの屋敷にも結構綺麗どころを揃えていてな。カルナの地位と容姿にきゃーきゃー言ってるやつも大勢いたから、誘惑して来いといって嗾けてきた」

「わぁ。胸とお尻の大きいムチムチの美人さんばかりだね。――あ、カルナがどうしたらいいのかわからなくて困ってる」

 

 悪巧みをしています、と言わんばかりの王子の言葉に、視線だけを宴会場へと向ける。

 すると、はちきれそうな肉体を服の役目を果たしていないような薄布で覆っただけの、色っぽいお姉様たちに言い寄られて困った顔をしているカルナの姿が見えた。

 

 ――うん。美女に迫られるのは男子の本懐と聞くし、これは放っておこう。

 

 明らかにカルナと目があった気がしたが、気のせいに違いない。

 それにカルナだってお年頃なのだ、であれば口を挟むのは野暮というもの。

 目を離した瞬間、カルナがお姉様の波に引きずられるように会場から連れ出されていったような気もしたが、気の所為、気の所為。

 その際に、恨みがましい目で見られていたような気もしたが、見間違いにちがいない、うん!

 

「――なんだったら、楽師殿の寝室にも一人送ろうか? とびっきりの美人を紹介するが」

「うーん、俺は節度あるお付き合いを推奨している身だからね。そういうのは遠慮しておく」

 

 こちらに秋波を送るお姉様に軽く微笑みを返して、ドゥリーヨダナが冗談めかした様子で誘いをかけてくるが、丁重にお断りしておく。

 ――……決して数年前にあんな感じの色っぽい天女(アプサラス)を振った結果、逆恨みで呪いをかけられたからではない。ないったら、ないのである。

 

「――おや。自称・保護者として、そういう遊びは止めたりしないのか?」

「それはカルナが決める事。――カルナが女の人とお付き合いしたいと思うならすればいいし、火遊びに夢中になるのも、伴侶として相手を求めるのも、それはそれで構わない。何より、そういうのは、俺じゃなくてあの子が決めるべきことだと思うから、口は出さないようにしている」

 

 ――空になった杯に、おかわりを注ぐ。

 それにしても、遠くの国から渡ってきたというこの透き通った杯は綺麗だな。

 緑色の釉薬の塗られた箇所を松明の光に照らしてみると、一層美しさが際立つ。

 

「それに本当にカルナが嫌だったら、自力でなんとかするよ。あの子は押しに弱くて言葉足らずだけど、きちんと自分の意思を持っている子だもの」

 

 そう言い切ると、ドゥリーヨダナはまるで虚を突かれたかのようだった。

 しばらく沈黙していたドゥリーヨダナだったが、やがて意を決したように俺の目をまっすぐに見つめなす。

 

「――――楽師殿、わたしが巷でなんと呼ばれているのか知っているか?」

「災厄の王子、凶兆の子供。誕生とともに破滅を決定づけられた悪徳の化身にして、賢明なる国王夫妻の最大の汚点。国王陛下のご寵愛をいいことに、愚かにも半神の王子を差し置いて、己こそ次期国王にふさわしいと豪語する身の程知らず――何なら、もっと言おうか?」

「……わたしが尋ねておいていうのもなんだが、もう少し配慮というのを利かせたらどうだ」

 

 むすりとした王子に、思わず微笑みが溢れる。

 カルナとは別の意味でこの王子様の小さい時の姿も知っているが、彼は俺の知っている誰よりも人間的な情感に満ちた人間だった。

 

「――……はぁ。いいのか? そこまで楽師殿も知っているのだろう? それでいて、今回の件に何も言わないのか?」

「それって何のことかな? ――カルナを自分の陣営に引き込んだこと? それとも、今後カルナをパーンダヴァの対抗馬として用いようということへの前もっての謝罪?」

「――……そうだ。わたしは、あの男をあいつらに対する抑止力として使うだろう」

 

 ……へぇ、俺の前でそう言い切れるんだ。

 

 これで誤魔化そうとしたら廃人にしてやるつもりだったが、その度胸に免じてやめておこう。

 カルナに親切にしてくれた相手を害するのは、俺としてもあまり気分が良くない。

 そういう意味では、王子が変に潔い人間でよかった。

 

「わたしには、わたしの陣営には……悔しいことに、あいつらと雌雄を決する際には確実な味方と言い切れて、あいつらの馬鹿馬鹿しいまでに強力な力と対抗できるだけの存在がいない。無論、わたしのことだから、悪辣な策略を持って、そういう奴らを味方に引き込むことはできるだろう。――だが、そういう相手は心底信頼できる人間でなくては意味がない」

 

 力強く輝く黒水晶の瞳が俺を射抜くように見つめてくる。

 

 ――そう、それはわかりきったことだった。

 

 ドゥリーヨダナには半神の王子たちによって構成されるパーンダヴァ陣営とは違い、その強大な力に拮抗することが叶うだけの戦士の存在に欠けている。

 ドゥリーヨダナ自身は神の子であるビーマと互角の戦いを繰り広げることのできる優れた棍棒使いだが、それでも神々の子たるパーンダヴァの王子たち全員を――特に、最高の戦士として称えられるアルジュナを――凌駕するのは叶わない。

 

「正直に言おう。……わたしはあの男の存在を、昔から知っていた。師であるドローナや同じ門下であるパーンダヴァは、今日に至るまでカルナの才覚に気づきもしなかったようだが、わたしは昔からあいつらに対抗するための戦力を欲していたから、カルナのことも聞き及んでいた。何度か鍛錬している光景も見たこともある。――知っていて、それでもわたしはカルナを見逃していた」

 

 ドゥリーヨダナは気まぐれかつ大胆な性格として表向きは振舞っているようだが、それはあくまでも複雑な彼の一面に過ぎない。

 

 厚顔のようでいて小心、無頓着に見えて細心、奸悪を気取りつつ誠実。

 それらの相反する要素は、まぎれもなくドゥリーヨダナという人間を構成する真実であった。

 

 ――何より、この場に一人で会いに来ていること自体が、彼の真摯さの証明なのかもしれない。

 

「わたしは、あれがどういう人間なのか知っている。あれが凄まじく高潔で、純粋で、尊厳に満ちた存在であると知っている! ――その反面、わたしという人間が、どれだけ邪悪で卑怯で唾棄すべき最悪な存在で、あれの好意に値しない人間であると知っていて、それでもわたしは……」

 

 苦しそうに、今にも泣き出しそうに表情を歪めながら、それでも王子は宣言する。

 

「それでも、わたしはわたしの野望と欲望を叶えるために、カルナの義理堅さとその誠実さを利用するだろう。わたしがあの男をアンガ国王にしたのは、純然たる好意だけではない。あの男はわたしに対して、大会での不名誉から自分を救ってくれたことや養父を侮蔑から守ってくれたことに礼を告げたが、他の誰が知らなくても、わたしだけは知っている……わたしが、わたしは……!」

 

 正直、泣くのかな? と思った。

 けれども、ドゥリーヨダナは涙を一つもこぼすことなく、歯をくいしばりながらも言葉を紡ぐ。

 

「あれほどの戦士が、身分という柵のせいでその力を振るうことが許されないなど、心底勿体ないと惜しんださ! わたしが密かに尊敬しているカルナという勇者が、その言動において誤解を招くせいで、誰もその内面を慮ることのない事実に憤りを感じていたことも本当だ!!」

 

 ――それは、まるで懺悔のようだった。

 彼の言葉を聞き入れて許しを請うべき相手はここにはいないというのに。

 

「なのに! わたしは、あれの優しさと厚意に付け込んだ……! わたしは、あの男の有り様の一端を、僅かなりとはいえ知っていた。――受けた恩に対して、決して裏切るような真似の出来る男ではないと知っていて、ああしたのだ!! 我ながら自分の計算高さには吐き気がする……! だが、もうダメだ、わたしはもうあいつを手放すことはできん! ――パーンダヴァ最優の戦士であるアルジュナに対抗するためにも、わたし自身の願いを叶えるためにも、あいつの力が必要だ……!!」

 

 時折言葉を途切らせながらも、最後まで言い切ったドゥリーヨダナ。

 

 彼がどのような半生を過ごしてきたのかは俺には想像もつかないが、生まれながらに破滅の烙印を背負っての人生が、決して生半可なものではなかったのは確かだろう。

 

 ――――ましてや、彼の身近にはあの半神の王子たちがいた。

 

 彼らは先王の息子で、しかも神々の祝福を受けた神童たちである。

 それは生半可な重圧ではなく、そのせいで悔しい思いもしたことだろう。

 幼少時のビーマとのやりとりを見る限り、彼らの方に悪意がなくとも、傷つけられたことが多かったことも予想がつく。

 

「わたしのあいつに対する好意は本物だ。友人となりたいと思ったことも、あのような男にこそ、心から信頼の置ける相手になってほしいと望んだのもそうだ……!」

 

 王子が歯を食いしばり、一言一句を噛みしめる様にして言葉を紡ぐ。

 

「――こればかりは、誰に憚ることのない、わたし自身の本心なんだ……」

 

 幼い頃に根付いた恐怖は後に引くという。

 戦い方を覚え、成長して力をつけた今日でも、きっとドゥリーヨダナは、ビーマを、ひいては神々の子ら(パーンダヴァ)を恐れているし、仮初にも信用することができないのかもしれない。

 彼の悪名の一部はそうした反抗心と反発心、それから幼少期からの恐怖心の表れなのだろう……あくまで想像の一端にすぎないけどね。

 

 ……少し、同情しかける。

 その途端、それまでの殊勝な雰囲気が途端に霧散して、ふてぶてしいドゥリーヨダナになった。

 

「――ふんっ! 言いたいことを言うだけ言って、すっきりした! ああ、すっきりしたとも! ――さて! どうするのだ、楽師殿? カルナにわたしと付き合うのはよせと諭すか? それとも、パーンダヴァの王子どもと対立するのは愚の骨頂と、諦めるように命じるか? ――今ならまだ何をしても間に合うだろう、さぁどうする!?」

 

 競技会で衆目の前でビーマ相手に喧嘩を売ったことといい、なかなか食えない男である。

 この王子、俺相手に言うだけ言って本当にすっきりしたんだなぁ……大した面の厚さだ。

 

「――だが! わたしもあいつの武人としての力量に惚れた! ああいう若木のようにまっすぐで、信頼の置ける相手にこそ、側にいてほしい! だから、いくら楽師殿がカルナを引き離そうとしてもすぐさま解放はしない! 例えるなら密林の蛭のように食いついて、ギリギリまで引き止めてやる!!」

 

 あまり褒められない内容を開き直って宣告されて、どうしようかと首をかしげる。

 武術競技会での王子然とした姿とはまた違う、王子の新たな一面になんと反応すればいいのか。

 

 ――いいや、無視しておこう。下手に突くと面倒臭そうだし。

 

 ……()()

 

 多分、本人も自覚しているように、カルナとこの王子をここで引き離したほうがいいのだろう。

 じゃないと、これまでは無視できた王家のゴタゴタにカルナが巻き込まれるのは間違いない。

 

 それに、あの睡蓮の主人のことも気掛かりだ。

 天界との接続を断たれた俺は推測するしかできないが、この先、この王国内で何かが起こることが確実な以上、余計な火種からカルナをできるだけ引き離しておきたい。

 

 ――乾いた土器に冷たい水がゆっくりと染み込んでいくように。

 

 普段の俺が表に出すことのない、冷徹な思考(ワタシ)が脳裏を乗っ取っていく。

 無数の演算から弾き出されたありとあらゆる未来予想図、それらは瞬く間に浮かびあがっては泡沫のように消えていく。

 そんな風に何千通りも繰り返し繰り返し様々な可能性の未来を考慮した結果――(ワタシ)はカルナからこの王子との関わりを絶つべきだと結論付けた。

 

 どの未来においても、この王子はカルナを悩ませる困惑の種となる。

 カルナからの好意を土壌に、根を張り、幹を太らせ、やがては毒々しい極彩色の華を咲かせることになる――ならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 カルナに悪評が降りかからないためには、どのような手段を取るのが最も合理的なのか計算しながら、(ワタシ)の言葉を待っている王子を眺める。

 この王子に対して悪感情は抱いている訳ではなく、正直好ましいとも思っている。だが、それ以上に、(ワタシ)たちにとって、カルナの方が大事であっただけのこと。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そんな風に割り切ってしまうと、すっきりとした気分で欄干から飛び降り、そのまま王子の方へと一歩近づいた。

 

 ――嗚呼、そうだ。

 できるだけ、()()()()()()()()()()()()()()

 誤解されやすいカルナに親切だった珍しい人間だ――何より、無駄に苦しめて殺すような振る舞いは(ワタシ)の趣味ではない。

 

 気がついたら、全身が滝行をした後のように冷めきっているのに、腹の底だけが灼熱の溶岩を孕んだかのように熱いのはどうしてなのだろう?

 

 ……ぐつぐつ、ぐつぐつと。

 腹の奥底の轟々と燃え盛る灼熱が不穏な唸りを上げている。

 身体を強張らせているものの気丈に睨み返す王子の目の前で、足を止めて、その顔を正面から見つめ返した。

 

 ――透き通った黒水晶の双眸が(ワタシ)をじっと睨み返していた。

 目を逸らし、その場から逃げたくなるほどの重圧を与えているというのに、決して黒水晶の双眸は視線を逸らすことは無い。その度胸と根性に感服はいたしますが――ワタシがこの道を選ぶことになったのは、誰にとっても仕方のないこと。

 

 ――そう、仕方のない……()()()()()

 

「待った。――何かがおかしい」

 

 この王子をこの場で抹消すべきか?

 ――肯定。

 

 カルナはこの王子と関わるべきではない?

 ――肯定。

 

 それでは、カルナはこの王子がこの場で消えることを望んでいるのだろうか?

 ――異論有。

 

 カルナはそのようなことを、そもそも(ワタシ)に――いいや、俺に求めたりなどしていない。

 

 ――結論。

 カルナの意向はこの決断に関与などしていない。これは、全て独善(ワタシ)による独断(裁き)である。

 

「なら、それだけは駄目だ……!」

 

 ぐるぐる、ぐるぐると世界が回る。

 頭上で輝く星や月、屋敷を照らす松明の篝火が尾を引きながら旋回する。

 高速で回転し続ける外界の景色が――巡り巡って、ややあってから元の正常な状態を取り戻す。

 抱えた溶岩が急激に熱を失い、硬直していた四肢が息を吹き返したかのように優しい熱を灯す。

 

 ――嗚呼、そうだ。そうだった。

 ドゥリーヨダナから距離をとって、肩を落として――――大きく息を吐く。

 

 嗚呼、危ない――また、間違いかけるところだった。

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……なぁ、カルナ。お前は一体どうしたい? 俺は、お前の意思に選択を委ねるよ。お前の思った通りにするといい――俺が動くのは、それからであるべきだ」




<裏話>
ドゥリーヨダナ「一応覚悟して全部告白してきたけど、やっぱ神の眷属怖いわ」

(*ドゥリーヨダナは決して善人ではありません。かといって、完全な悪人というわけでもないです。強いて言うなら、この物語で一番真っ当な人間でしょう*)

(*ドゥリーヨダナはカルナほどではありませんが、ある程度は開明的な人物として描いております。また、幼少期から散々陰口を叩かれまくっているので、表面上は強がっていても内心では自分自身のことを卑下しているキャラクターとして「もしカル」では扱います*)


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最初の分岐点

これにて、競技大会編はおしまいです。
これが最初の分岐点、ということになりますね。


 夜の闇の中から、猫のようにしなやかな動きでカルナがその姿を現した。

 肉体と一体化している黄金の鎧が輝き、宵闇の仄暗さに包まれていた空間に光と彩りを与える。

 

 その姿を認めて――ようやく腹の中に巣食っていた灼熱が完全にいずこかへと消え失せ、全身がじんわりと温まっていく。

 

「…………随分と、熱烈な言葉だったな」

「……そうだね。――この王子様はお前の価値を非常に高く見積もってくれている。これまで出会ってきた誰よりも、お前に敬意を持って接してくれている。諸々の打算込みとはいえ、その心と言動に嘘はないだろう」

 

 気配も足音もなく歩み寄ってきたカルナに気づかなかったドゥリーヨダナは驚いたように肩を揺らしたが、特に弁解の声を上げることもなく、静観の姿勢をとった。

 

 ドゥリーヨダナの変な潔さに内心で感嘆しつつ、カルナの涼やかな蒼氷色の双眸をじっと見つめながら、重い口を開く。

 

「――それを踏まえて、()()()()()()()()()()

 

 カルナ自身を身分の色眼鏡や好ましくない評判に惑わされずに、その本質を見ている王子には感謝している。どんな目論見があったにせよ、競技大会の、あの瞬間に、カルナのために助けの声を上げてくれたことにも。

 

 ――――それでも、俺はこう言わなければならない。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。――俺はこの世界で一番お前のことが大事だ。だからこそ、危険な目にあって欲しくない。ひどい目になどあって欲しくない。お前があの第三王子に負けるとも思えないけど、兄として、余計な火種をわざわざ抱え込むような振る舞いをして欲しいとも思わない。いいかい……よく聞きなさい――そうした俺の配慮は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――天上では星々が煌めき、地上では赤々と燃え上がる松明の炎が周囲を照らす。

 

 夜間にこれだけ松明を消費することが叶うのは、一部の特権階級だけ。

 そして、カルナも今晩、その恩恵に預かった身だ。今日の出来事はカルナのこれまでの経験とかけ離れた出来事ばかりだっただろう。

 

 手触りのいい豪奢な服。山海の珍味を集めた豪勢な食事。

 目を見張らんばかりの美女たちによる華やかな歓待。

 邸のあちこちを彩る絢爛豪華な宝玉と尽きせぬ黄金の輝き。

 

 普通の人間であれば、ドゥリーヨダナとその家臣たちによる至れり尽くせりの歓待に舞い上がった挙句、碌に考えることなくその誘いに対して、夢心地のまま彼の誘いに首肯したに違いない。

 

 ――けれども、今晩最もカルナの心を震わせたのは、そんなものではなかったのだろう。

 

「そうだな……。――オレは確かに一介の武人として、あの王子と戦いたいと思っている。また、会場で不名誉な挑戦者という立場からオレを救い、我が父が王族たちに愚弄されるのを庇ってもらったことに、心から恩を感じている」

 

 今日一日だけで目紛しい回転具合だった。それを思い起こすように、カルナが瞼を伏せる。

 

「――だが、それにも増して……。取るに足らぬオレ自身に、こうまで価値を見出してくれたこの男の期待に応えたいと――思う。オレのようなつまらぬ男に、最大限の敬意と友情を持って接するという奇矯な王子の本音に、オレ自身も同じ気持ちで応じてみたいと――そう、思っている」

 

 カルナの静かな声が、宵闇に響き渡る。

 宴の喧騒も人々の歓声もどこか別の世界での出来事の様に遠く、俺たちのいるこの場だけが別の世界に迷い込んでしまった様な静けさに満ちていた。

 

「……今日一日で様々な恩恵をこの男から与えられたが、競技会での言葉ほど、オレの心を震わせた物はなかった」

 

 感慨にふけるように控えめに伏せられていた双眸がしっかりと俺の目を捉え、口元を綻ばせた。

 夜の帳の下でも美しく輝く蒼氷色の双眸には、硬い面持ちの俺自身が水面のように映っている。

 

「――アディティナンダの言う通り、その先にあらゆる艱難辛苦が待ち受けているのだろう。だが、それはドゥリーヨダナとて同じことではないだろうか? であれば、オレは、この男の心からの厚意に応えてみたいと思う。――……武にしか取り柄のないオレがやれることなど、せいぜいこの男の槍となり剣となって、それらを薙ぎ払って進むことだけかもしれんが」

 

 普段から受動的で他者への献身を常とするカルナだが、一度こうと決めてしまえば酷く頑なだ。

 未だ幼かった頃のカルナに、自身の身を削るように他者へ施すような真似はよせ、と叱りつけた時だって、頑として自分がこうと決めた生き方を変えるようなことはしなかった。

 

 ――……俺に言われるまでもなく、カルナは最初からわかっていた。

 ドゥリーヨダナの手を取るということが、今後どのような未来を己自身にもたらすのか。

 

 人々の誉れ高く、武勇と知恵に恵まれた五人の神の子供たち。

 

 ドゥリーヨダナの願いに応じるということは、そんな彼らと対峙する道を選択するということ。

 ――そして、彼らを庇護する父神たちと彼らに好意的な天界の神々をも。

 

 ――それは決して生半可な道ではない。

 そう分かった上で、カルナがそのように判断するというのであれば…………。

 

 ……。

 〜〜〜〜っ!

 あ〜〜〜〜〜〜! もう!!

 そこまでわかっているくせに、うちの弟ときたら!!

 

「〜〜どっからどう考えても、不穏な未来しか思い浮かばん! でも、カルナがそうするって決めたのなら、オレはそれを尊重してやるよ!! 嗚呼、もうっ!」

 

 そうは決めたけど、でも納得いかんことがあるわ!

 目をパチパチと瞬かせている性悪な王子へと振り返って、憤然と食ってかかった。

 

「――喜べ、この悪辣王子!! 俺の自慢の弟が、お前の味方についてくれるそうだ! 地面に頭をこすりつけて、泣きながら感謝の歌を捧げたっていいぞ! むしろ地面に頭を押し付けてやろうか、この野郎!! バカ! うちのカルナを非行の道に引きずり込みやがって!! 畜生!! でも、カルナのことを褒めてくれてありがとう!! この大馬鹿!!」

「……褒めているのか? それとも貶しているのか? どちらにせよ、どれか一つに絞ったらどうだ? ――それと、ドゥリーヨダナはオレの友だ。その友人の頭を無理に叩きつけようというのであれば、流石にオレとて止めねばならん」

 

 憤っている俺を冷静にさせようとしたのか、カルナが口を挟む。

 けど、この場においてはそれは逆効果である。そもそも! 誰のせいでこんなに怒っていると思っとるんじゃい!

 

「だまらっしゃい、この不良弟! こんな悪いお友達なんか作っちゃって! お兄ちゃん、お前の将来を思って心配で憂鬱な気分になっているんだから! 〜〜嗚呼、もう、もう! 王族の権力争いなんてものにうちの純粋なカルナを巻き込みやがって……! この悪徳王子!!」

 

 もう〜〜!!

 これだから、うちの子は! 地団駄を踏むとはこんな気分の時に行うことなのだと学んだ。

 

「これで粗雑な扱いなどしたら、末代まで祟るからな! 手始めに、生え際が後退するようなものから、死んだほうがマシだと思うくらいには極悪な呪いをかけてやるからな! カルナもカルナだ! 戦うと決めたなら、何が何でも絶対に勝つつもりでかかれ! あれだけ勧告されておいて、そのせいで死んだりしてみろ、俺は絶対許さないから!!」

 

 もう自分が何を言いたいのかわからなくなってきた。

 嬉しいのか、悲しいのか、喜ばしいのか、嘆かわしいのか。

 楽しいのか、哀しいのか、舞い上がっているのか、落ち込んでいるのか。

 

 地上に堕とされて以降、カルナとの関わりの中で様々な感情が俺の中に芽吹いていったが、それらすべてが一気に混ざり合ったような、なんとも例えようのない奇妙な気分だ。

 ただ無性に地団駄踏んで、叫びたい。近所迷惑であろうとも、とにかく叫びたい! というか、このむしゃくしゃする気持ちを叫ばせろ!!

 

「当然だ。戦うからには容赦などしない。余計なお世話というものだ」

「阿呆! それでも心配なの! そして、どうやら、家族というものはそういうものらしいの! わかるか、このあんぽんたん!! おたんこなす! 表情筋死滅弟!!」

「信じていても、その身を案じずにはいられない。わたしにも身に覚えのあるものだな、うん」

「そうなのか?」

「そうだとも、我が友よ。――ご案じ召されるな、兄上殿。一騎当千の勇者に対して、また、信頼できる友に対しても、わたしはけっして粗略な扱いなどせん。わたしとわたしの両親の名誉に誓って、王侯貴族にも勝る生活と古今無双の勇士としての誉れを約束しようとも!」

 

 カルナの肩を組んでにやにや笑っているドゥリーヨダナの顔を殴ってやりたい。

 できれば、こう、黄金作りの弦楽器で思いっきり。

 

 ――嗚呼、こんにゃろ。

 

 カルナに受け入れられたのをいいことに、この王子、早速調子に乗りやがって。

 手始めに、箪笥の角で足の小指を必ずぶつける呪いでもかけてやろうか。

 

「それはやめておけ。あれは歴戦の勇者であろうとも耐えられない痛みをもたらす」

「そこまで俺の心情を理解できているなら、俺の忠告も素直に受け入れてほしかったなぁ!」

 

 心持ち眉間の皺を深めたカルナが、首を振りながら忠言してくるので仕方なく諦める。

 

 ――ぶはっ、とドゥリーヨダナが笑い声をあげた。

 

 この王子様とは直接言葉を交わすのはこれが初めてだが、こうしてカルナを交えて会話をすると、王宮での彼はかなり気を張った状態であると分かる。

 

 あと、ビーマと違い、カルナと話している時は素直になるようで、悪態を一つも口にしてない。

 なんとなくその片鱗は感じていたが、正直なところ、そんなこと知らないままで良かった。

 

「……ところで、ドゥリーヨダナ。一つ問題があるのだが」

「どうした、カルナ。お前ほどの男の抱える問題とは、一体どのようなものだ?」

「――我が身の不徳をさらすようで恥ずべきことだが、オレはお前の言う"友人"という間柄がどのようなものなのか理解できない。生まれてこの方、そのような相手がいなかったものでな」

「なんだ、お前、友人いなかったの、か…………。――言われてみれば、このわたしにも友人というものがいた試しがなかったな……。大勢の弟と家臣と味方をしてくれる者たちと敵はそれなりにいるのだが……」

 

 真剣な表情で告げてくるカルナに、真顔になったドゥリーヨダナが返す。

 ちょっ、お前ら、特に王子、碌に友人もいないくせに友情とか言ってたの。

 

「……まあ、この世には出自も身分も価値観も違う人間がごまんといる。ならば、我々が我々に相応しい友人の形を作り上げることに反対する者などおるまいよ」

「なるほど、至極名言だ。心に留めておこう」

 

 うんうん、と解り合っているのが小憎たらしい。

 カルナに初めて友人ができたのは嬉しいが、それでもこんな不良じゃなくて良かったのに……!

 

 張り詰めていた全身が、ふと脱力する。

 大きなため息を一つだけ零して沈静化した俺を興味深そうにドゥリーヨダナが観察していた。

 

「――嗚呼、でも、仕方がないなぁ……」

「おや。てっきり、もっと駄々をこねられると思ったのだが。諦めが早いではないか、兄上殿」

「なんとでも言え。あ、やっぱり下手なこと言ったら一月の間、厠で腹痛に苦しむ呪いをかけてやるから! そんなわけで、発言は慎重にしておけ。――それはともかく」

 

 ――――多分、これもまたカルナにとって生まれて初めての経験だったのだろう。

 だとすれば、ひときわ鮮烈に印象づけられたのも致し方ないことだ。

 

「あのね、王子様。一ついいことを教えてあげよう。――カルナはね、これまで道理に叶うと判断した他者の為にその身を尽くしてきた。自らの身を切り取るもの(ヴァイカルタナ)とは、我ながらよく名付けたものだよ。だけどね……」

 

 ふぅ、と一息吐く。

 これからのことを思うとなんだか、胃痛とともに頭が疼くような痛みを発しているような気がするが――気のせいだろう、うん。

 

「なんでも出来て、誰に負けることもなくて、これまで敵わないこともなかったカルナ。それを、やや不純な動機があったとはいえ、好意でもって助けてくれた他人って――ドゥリーヨダナ、貴方が初めてなんだよ」

 

 ……きっと、ドゥリーヨダナはカルナを初めて救ってくれた人間だった。

 肉親というつながりのある俺とは違って、彼は全くの赤の他人である。

 その彼が、今日の競技会場において――窮地に陥ったカルナへと手を差し伸べてくれた。

 

 それはきっと、カルナにとっても、衝撃的な体験であったことだろう。

 

「カルナは、他の誰よりも誠実に、誰よりも真摯に貴方の友として接し、家臣として従うことになる。――だから、貴方もカルナのことを傷つける真似だけは、しないでね」

 

 その途端、ドゥリーヨダナがその黒水晶のような瞳を潤ませる。

 そうして一言――――わたしは得難い友を得た、と感慨深くつぶやいたのであった。




<補足>
・ヴァイカルタナ
 …意味としては「見事に切り離したもの」
 太陽神(ヴィカルタナ)の息子であるカルナ(切り離す)に、尊称を付け足したもの。どちらかというと、こっちが本名(あるいはフルネーム)で、カルナとはこれを短くした通称のようなもの。
 一口に太陽神といっても、スーリヤの他にも色々な名前があってややこしい。(別の神格かと思ったら、実は同じ神だったみたいな表記があって、さらにややこしいので、ここではインド神話の太陽神の名称を全てスーリヤの別名ということで扱うことにしました)


(*パンパカパーン! カルナはドゥリーヨダナの友となることを選んだ! アディティナンダの精神は大ダメージを食らった! 効果は抜群だ!*)


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家族として

『マハーバーラタ』には、さらっとしか書かれていない、ジャラーサンダ国王討伐編です。
(*この話の一部を分割したものに、加筆して次の話を投稿させていただきました*)




 ――とうとう、この日が来てしまった。

 そわそわと浮き足立つ全身を意思の力で押さえ込み、ざわざわと心中に込み上げてくる形容しがたい感情を、なんとか消化して見せようと唇を噛み締める。

 

 ――嗚呼、このどうにも例えようのない感覚は一体なんなのだろう?

 まるで、自分の薄皮の下を無数の小虫が這いまわっているようであり、誰かの爪先が胸元の一番柔らかい場所を掻き毟っているよう、とでも称すべき、この感覚は。

 

 どうにもこうにも落ち着かない。どうしても、おとなしく座ったままではいられない。

 ――ので、少しでもこのざわめく心中を鎮めるために、特に目的のないまま立ち上がって狭い室内をぐるぐると歩き回る。

 

「――こんなに朝早くから、一体何をしている?」

「カルナ!」

 

 手持ち無沙汰に室内を徘徊していた俺へと、淡々とした声音が投げかけられる。

 カルナの登場とともに持ち主の存在を知らしめるように、黄金の鎧がお互いに触れ合って涼やかな音色を奏でた。

 

「――……目覚めの時には、早すぎるのではないか?」

「それを言うなら、カルナもじゃないか。暁の女神もようやく姿を現わしたところだよ?」

 

 日輪が登るその前触れとして、朱金と薄紅の色に東の空が染まる。

 夜の眠りの帳の元の全ての生き物たちに目覚めを促すのは暁の女神・ウシャスの仕事だ。

 薔薇色の神馬にまたがり、薄紅と金色の花嫁衣装を身に纏った美しい乙女がそっと地上に微笑みかける。太陽神であるスーリヤとも馴染み深い女神が空を駆けていく姿を見送れば、隣で佇んでいたカルナがそっと息を吐く音が聞こえる。

 

「今、暁の女神が空を渡って行ったよ。そろそろ日が昇るね」

「そうだな……新しい一日の始まりだ」

 

 夜の名残を色濃く残す藍色と薄紅が密やかに混ざり合うことで、朝と夜の境界が赤みを帯びた美しい紫色へと変じていく光景はいつ見てもいいものだ。

 

 ちらりと横目を向ければ、白皙の美貌が東の空から差し込んできた赤金色の光を浴びる。

 そっと黙礼するように印象的な双眸を伏せたカルナが、小さく口の中で太陽を讃える一節を口ずさんだ。

 

「――いよいよだね、カルナ。準備の方は大丈夫?」

「アディティナンダは気構えすぎだ。そのような些事に余計な気を回す時間があるのなら、別のことを憂うべきではないのか」

「わかってないなぁ。――あのね、他ならぬお前のことだからこんなにも心配しているし、地に足つかぬ心地に陥っているんじゃないか」

 

 ……嗚呼、なるほど。そうだったのか。――指先で唇を抑えながら、胸中でひとりごちる。

 自分の口から自然と零れ出た言葉に、他ならぬ俺自分が最も納得した。

 だから、こんなに朝早くから目が覚めた挙句に、そわそわした気持ちに襲われたのか。

 

 ――――そう、ドゥリーヨダナの屋敷にて盛大な歓待を受けたあの夜から、はや数日。

 

 カルナのアンガ国国王就任の手続きや宮中の仕来りといった細々とした雑事を済ませたドゥリーヨダナが、正式な家臣の一人としてカルナに宮中に参列するよう申しつけた日、それが今日だ。

 

「――カルナもひょっとしたら緊張している?」

「――……そうだな、しているのかもしれない」

 

 いつも通りの仏頂面ながらも、やや硬い面持ちのカルナの額に手を伸ばして、幼い時していたように撫で付ける。ついでにさらさらとした指通りの良い髪質の触感を楽しんでいると、蒼氷色の双眸がじっと俺のことを見つめ返す。

 

「なぁ、カルナ。お前がこうして仕えるべき主人を見つけて、その武勇を振るう場所を見つけられたのは、俺にとっても喜ばしいことなんだよ」

 

 ……相手があの不穏な将来しか見えない悪辣王子でなければ、もっと安心できたのだけども。

 でも、カルナがドゥリーヨダナに対して恩義を感じ、彼に忠誠を誓うことをカルナ自身の意思で決断したのであれば、カルナの選択を重視する俺としてはそれ以上何もいいようがない。

 

「ただ、お前が想像している以上に、宮中という場所は魑魅魍魎の住処だ。――良い意味でも、悪い意味でも、お前の存在は目立つから、きっと大勢の人間から色々なことを言われることだろう」

 

 心配ではあるけれど、ドゥリーヨダナの直臣として召し抱えられたカルナの職場にまで俺はついてはいけない。

 

 ……いや、本当に心配だけどね! 生まれしか取り柄のない心ない人間にカルナが嫌がらせを受けたらどうしようとか、事実無根な讒言や中傷の嵐に苛まれることになったらどうしようとか、考えずにはいられない。

 

 ――最も、そんなものに屈するカルナの姿を思い浮かべられないことも、悩みの種だが。

 ……むしろ、率直過ぎる物言いのせいで、無用な軋轢を周囲に生じさせかねないんじゃ?

 というか、直接的な助けになれない以上、今後の俺はそちらを懸念した方が良いのかも。

 

 ――嗚呼。そう考えると、少しお腹が痛くなってきたような……気がする。

 我が子の就職って喜ばしいことだと思うのだが――なんにせよ、全くもって前途多難な道のりになりそうだ。

 

「もしも、生まれのことで詰られたりしたら、思ったことをそのまま言い返してやりなさい」

 

 まあ、お高い殿上人相手にそんなことすれば「無礼な!」と目を吊り上げられそうだが。

 けど、やられっぱなしも却って良くないからなぁ……。そんなことをすれば、カルナを採用したドゥリーヨダナの評判を一時的には貶めるかもしれないけど、正直な話、知ったことか。

 

 そも、カルナのもはや口撃ですらある舌鋒をそんじょそこらの人間が耐えられるはずもなし。

 自衛のためと割り切って、口さがない人々が口をつぐむまで、ドゥリーヨダナ王子には我慢してもらおう。

 

「――お前の、その真実を見抜く目を曇らせることなど、育ち以外に欠点を見つけられない相手に出来るものか」

「……了解した。心に留めておこう」

 

 とはいえ身分のことでしかカルナの欠点を見つけられない時点でそいつはダメだな。

 そんな奴の蔑みごときにカルナが心を揺らすことはないだろうが、それでもカルナが好き勝手言われたままなのも腹が立つので、そうやって嗾けておく。

 

 なんとなく、俺が言葉にしていない微妙な意味合いを理解したのであろう。

 朝日を浴びるカルナの白皙が、ほんの僅かに苦笑の色を宿した。

 

「ドゥリーヨダナに仕えるとお前は決めた。俺はお前自身の意思を尊重する――けどね」

 

 透き通った蒼氷色の双眸をじっと見つめ返しながら、一言一言に言葉だけではうまく説明のできない感情を込めるように、ゆっくりと声に出す。

 

「――もし。もし、お前が、ドゥリーヨダナ王子についていけないと感じたり、宮中で働くことに嫌気がさしたら」

 

 初めて出会った時の、小さな男の子にすぎなかったカルナ。

 見目麗しく、虚飾を見抜く慧眼を有しながらも、人の営みの中に溶け込めなかった異端の半神。

 あの子供が、曲がりなりにも人間世界の中に居場所を得ることができたのは、素直に喜ばしい。

 

 ――それでも、この子の家族として、俺は……こう伝えずにはいられないのだ。

 

「それなのに、面倒な感情や義理人情に縛られているせいで、自分の意思でその囲いから抜け出せない、と。そんな風に思うときが来たら――その時は、俺にそう言ってくれればいい」

 

 幼い頃のカルナに物事の道理を言い聞かせた時のように。

 まろみを失ったその両頬を掌で包み込んで、じっと蒼氷色の両眼を見つめる。

 

 昔は俺の方がしゃがみこむようにして小さなカルナと視線を合わせていたものだけど、その位置関係もすっかり逆転してしまった。月日が経つのは、本当に早いものだと実感する。

 

「俺は人の子たちのややこしい(しがらみ)や決まりなど、まっったく気に留める必要がないからね! お前が人の情や義理にがんじがらめにされていたとしても、それがお前を苦しめるものであったとしたら、俺が配慮する必要なんてない」

 

 天から地上に堕とされ、空っぽだった俺に心をくれたのはこの子だった。

 "アディティナンダ"という今の俺の人格は、カルナとの出会いによって生まれたものだ。こうして俺自身が意思を持つ存在に成り果てたからこそ、それまでの自分がいかに空虚な存在であったのかを理解せざるを得ない。

 

 ――きっと、この子に会うまでの俺は何物にもなりきれない、ただ呼吸をするだけの生きている人形とでも称される存在だった。

 

「つまり、何が言いたいかっていうとだな。お前が全てを投げ出したくなった日が来たら、その時はお兄ちゃんが颯爽と助けに行ってやるから、退路の心配だけはしなくていいよってこと!」

 

 もしそんな時が来たら、それこそ、盗んだ戦車で行き先のわからぬままに走り出してやろう。

 なんだったら世界中を駆け巡ることのできるスーリヤの七頭作りの黄金の戦車でも、もらっちゃってもいいね。

 

 ――……多分、そんな日は永遠にこないだろうけど。 

 

「……そうか。それは心強いな」

「そうだとも! 俺はお前とは違って戦士ではないからね。危ないと思ったら、カルナを担いでさっさと逃げるよ?」

「アディティナンダの筋力的に、鎧を身につけたオレを運ぶのは無理だと思うが……」

「あんまり楽師を莫迦にしないほうがいいよ? 一晩中歌い続ける宴もあるからね。持久力についてはそこらの兵士にだって引けを取らないさ!」

 

 困ったように微笑むカルナに、軽口で応じれば、早速言葉遊びに乗ってくれるのが嬉しい。

 嗚呼、本当に大きくなっちゃったなぁ……。小さい頃はカルナが訓練や化け物退治に疲れて眠ってしまったら、背負って帰るのは他でもない俺の役目だったというのに。

 今では自分の背の後ろで庇うことさえ出来やしないのが、どうしてだかとても悲しい。

 

「――……本当に、オレは恵まれている。父からは祝福として鎧と耳飾りを授かり、善良な養父母に拾われ、この齢になるまで育ててもらうことができた……それに」

 

 そっと、黄金の籠手に覆われた指先がカルナの頬に載せた俺の片手を包み込む。

 日輪の威光を体現した黄金の鎧が、窓から差し込む太陽の輝きを帯びて燦々たる煌めきを放つ。

 

「それに……こうして、至らぬオレに心を砕いてくれる肉親の存在が側にいてくれる。――これ以上望みようがないほど、オレは満たされているな」

「……莫迦だなぁ、カルナは。もっと、色々と望んでくれたって、俺はいいのに」

 

 本当に嬉しそうに鋭利な眼差しを緩めているカルナの微笑を目にして、胸にこみ上げてくるものがある。

 眦とどうしてだがわからないけど眼球が熱い、この現象は一体どういうことなんだろう?

 

「オレは、オレに報いてくれた人々に相応しい己でありたい。――アディラタやラーダー、我が父・スーリヤ、それに何より、アディティナンダに恥じることのない生き方を貫きたい――ともすれば、己の分を弁えぬ傲慢な願いかもしれないが……」

「嗚呼、もう!」

「……唐突にどうした、そんなに頭を撫でられるようなことをオレは口にしたのか?」

 

 俺よりもほんの少し高い位置にある形のいい頭を、ちょっとだけ背伸びをしてわしゃわしゃと撫で回す。そんな風に言わなくても、常に心掛けなくても、お前は十分俺の誇りだっていうのに。

 

「あのね、カルナ。もしもカルナが世界中を敵に回したとしても、もしも父であるスーリヤの意に沿わぬことをして不興を買ったとしても――俺はカルナの味方だからね。だから……そう、何か……何かお前だけでは手に負えないことがあったら、俺を頼っておくれ」

 

 五兄弟の父である神々のことを俺も笑えない。

 もしカルナが望むのなら、俺だってなんだってしてあげたくなる。

 こういう時、偏愛は神々の生来の気質だと心底思い、自分は真っ当な人の子のようにはなれないのだと実感してしまう。

 

 いけない、いけない。

 人の子であることを選んだカルナに対する過剰な思い入れは、この子を不幸な未来に導かねない。

 

「――アディティナンダは、オレに過保護だな」

 

 ふ、と柔らかな微笑みを浮かべて、カルナが頬を寄せていた俺の手をそっと下に降ろす。

 人肌の温もりから距離をとったせいで、黎明の冷たさがそっと俺の肌を撫ぜた。

 

「お前がお前自身に厳しすぎるから、俺がお前を甘やかしたって誰にも文句など言われないさ」

 

 思わず苦笑が溢れる。一度だけ、拳をきつく握りしめて、そっと力を抜いた。

 感傷的な思考に浸りかけた自分自身を切り替える。そうしてから、カルナの前で身を翻して、厨房の籠の中に入れてあった果実を一つ手に取った。

 

「少し早いけど、朝ごはんにしよう! ――ただでさえお前はひょろひょろしているんだから、しっかりと滋養のあるものを摂らないと」

「そうだな。アディラタたちももうそろそろ目覚める時刻だろう。――手伝おう」

 

 カルナの方へと籠から取り出した果実を数個放ると、危なげない動作で見事に掴み取る。

 戸棚の中に直している小刀を手にしてするすると皮を剥いていく手際の良さは、そこらの婢女にも引けを取らないだろう。

 

「……先ほどの話の続きだが……」

「――うん?」

「普段も頼りにしている。……感謝する、アディティナンダ」

 

 やや白皙の肌を紅く染めての一言に、思わず破顔する。

 そんなこと、改めてお前に言われるまでもない――何たって。

 

「――当然! 何たって、俺はカルナのお兄ちゃんだからね!」

 

 兄というものは弟から頼ってもらってなんぼだもの!

 

 そう言って胸を張れば、カルナが苦笑する。

 うんうん、いい傾向だ。目覚めた当初の、俺は兎も角、カルナですら気づけてなかった余計な緊張がすっかり何処かに行ってしまったようで、何よりです。

 

「ついでにカルナ。俺のこと、おに――」

「すまない……それについては御免被る」

 

 全部言い切る前に切って捨てられた。

 でも、久方ぶりに兄としての威厳とやらを発揮できたし、今日はこれでいいことにしよう。

 

 寝室から、がさごそと音が立つ。

 アディラタ夫妻とその子供達が目覚めたことに気づいて、カルナと二人、朝食の支度を急いだのであった。




更新はこれまでに比べると、ちょっとゆっくりかもしれません。
気を長くしてお付き合い頂けますと、嬉しいです。


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弟からの頼み

アディティナンダはカルナさんの絶対的な味方というポジションの人物として設計されたので、ブラコンMAXになるのは仕方のないこと。もうちょっとしたら、落ち着くと思います。


 ――朝方にはあのように言ったものの。

 

「――でも、カルナがオレに何かを頼んだりしてくることなんて、きっとないんだろうなぁ……」

 

 商売道具である弦楽器(シタール)を抱えなおして、そっと一息つく。

 今朝方、出仕する前のカルナに話した内容に嘘や偽りは欠片も含まれていない。あれは俺自身の決意の表明でもあり、あの暗闇に潜んだ睡蓮の主人との邂逅以来、ずっと心の奥底で抱いていた本心だった。

 

 告げずとも、言わずとも、よかったことだろう。

 

 それを敢えて伝えたいと思ったのは、俺の身勝手なわがままにすぎない。自分自身のことを蔑ろにしがちなあの子だからこそ、伝えずにはいられなかったのだと思う。

 

 内心でそんな反省をしつつ、それでも体の方は心を裏切って、普段と変わらない日常を送る。

 

 カルナが王宮へと向かう姿を見送った後、俺もまた王都へと向かった。

 今日は特に国王に歌を所望されたわけでもないし、市内の適当な広場で歌でも謳ってお金を稼ごうかと思っての行動であった。

 

 ――とはいえ、今はお昼時。

 道行く人たちは、これからまた仕事に戻る時間であるし、こんな時間に楽を奏でたところで意味はない。そんな訳で、王都・ハースティナプラの無数にある市場にて、今日のお昼ご飯となる軽食を買い求めた後、適当な段差を見つけ、比較的な綺麗な場所に腰を下ろす。

 

「俺が()になるために、カルナの存在は必要不可欠だったけど、カルナにとっての俺の存在はそうでもないんだろうなぁ……」

 

 やっぱり、それってなんだか寂しいなぁ。

 

 だって、俺はカルナの役に立ちたい。

 

 もし、あの子に頼ってもらえたら、俺はとても嬉しいのに。まだカルナが小さい頃はちょくちょく頼まれごとをしてきたから、その時分のことを思い出してしんみりとした気分になる。

 

 ――でも、まてよ?

 よくよく考えれば、その時にカルナからは何を頼まれてたっけ?

 

 こうやって思い出せない程度には些細な内容だったような気もする……というよりも、どっちかというと俺の方から率先してカルナの手伝いをしていたような……。

 

 ひょっとして、俺ってこれまでに何かをカルナから頼まれたことがない……?

 

 むむむ、と唇をきつく結んで唸っていれば、ざわざわと周囲が騒がしくなったことに気づいた。

 ……あれ、一体何の騒ぎだろう?

 

「――こんなところにいたのか、探したぞ」

「へ? カルナ? それに……」

「やぁ、数日ぶりだな、兄上殿」

「げっ、ドゥリーヨダナ!」

 

 周囲の人並みが綺麗に二つに分かれ、ぽっかり空いた真ん中から見知った二人組が歩いてくる。

 片方は言わずもがなカルナで、もう片方は今日付けで正式にカルナの主君になったカルナの悪友こと、ドゥリーヨダナ王子であった。

 

「確かに、男としては目を見張るほどの美形だが……少し、無理があるのではないか?」

「その点においては問題ないと断言できる」

「そうか? まあ、確かに兄上殿の奏でる歌声は天上の調べそのものだが――とはいってもだな……」

 

 じろじろと座り込んでいる俺の全身を品定めをするように眺めているドゥリーヨダナに、カルナが常のごとく無表情を浮かべたまま太鼓判を押す。

 

 ――なんだろう、この二人組は。

 カルナだけなら構わないが、ドゥリーヨダナと一緒にいるせいでか嫌な予感が胸を離れない。

 

「その、一体どうしたんだ? わざわざ王子様が市街にまで降りてくるなんて……」

「――――アディティナンダ」

「うん? どうした、カルナ?」

 

 とりあえず、このまま座ったままだとどうしようもない。

 膝の上に載せていた荷物を脇に置いて、立ち上がる。そうすると、段差の上に俺が立ち上がっている状態なので、ちょうどカルナの目線と俺の目線が同じ位置に並んだ。

 

「――率直に言わせてもらうぞ」

「嗚呼、うん」

 

 少し離れた場所でにやにやしながらドゥリーヨダナがこっちを眺めている。

 あの余裕綽々な態度がなんだか腹が立つなぁ、とか思っていたら――がしり、と両手をカルナによって掴まれた。

 

 ――――い、一体どうした!?

 目を白黒していたら、カルナが真剣な表情で俺を見つめていた。そうして一言、こう述べた。

 

「――――頼みがあるのだが」

 

 ――カルナが、あのカルナが、俺に頼みがあると確かにそう言った。

 ぽかんと空いた口から声を出そうにも、何にも出てこない。

 はくはくと酸欠気味の魚のように口を開け閉めする様子は、はたから見ればさぞかし滑稽であるに違いない。

 

「……アディティナンダ?」

「え、いや、その、待って」

 

 カルナが、あの、なんでもできるカルナが!?

 これまで一度たりとて俺にお願いをしてきたことのなかった、あのカルナが……!!

 ――まずい、一度でいいからカルナの方から俺のこと頼ってきてくれないかな〜、でも無理だろうなぁ〜と思っていただけに、とんでもない衝撃だった。

 

「えっと、つまり、頼みがあるの? 俺に、カルナが?」

「――その通りだが」

 

 深々と首肯するカルナに、じわじわとしたものが胸にこみ上げてくる。

 〜〜うぅ、うわぁぁ! どうしよう、今だったらインドラ相手でも勝てる気がする! あの、カルナが! 俺に頼みだって!! 信じられますか、奥さん!

 

「い、いいよ、いいよ!! なんだって言って! 王国が欲しいの? それだったら、任せといて! 適当な国王をちょっくら誘惑してくるから! それとも、神々にしか持たない武器? それだってお安い御用だよ、いまからちょっと天界に昇ってくるから少し待ってて! 嗚呼、もしかして誰かに育ちのことで意地悪でもされた? うん、ほんの少しの辛抱だよ! 二度とそんな口きけないように首と胴体をお別れさせてあげるから! それとも、それとも」

「落ち着け。国土も神造兵器の類も、他人の首も無用だ。――その身一つで構わない」

 

 興奮のあまり、まくし立てる俺から一歩離れたカルナが淡々とした表情で首を左右に振る。

 地味に最愛の弟から距離を取られたのが悲しくなって悄然とした心地に陥れば、視界の端でドゥリーヨダナが腹を抱えて悶絶しているのが見えた。

 

「――は、はっは、ははは! 最高だ、カルナ! こうも無造作に神々のご寵愛に対して首を横に振るなんて、やはりお前は面白い!」

「……そうだろうか? どちらもオレには不要だと思ったから、口にしたに過ぎないのだが」

「それができる人間、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! 普通、神がそのように口にしたら、どんなにありがた迷惑でも謹んで受け取らなければならない、()()()()()()()()()!」

 

 ひーひー言っているドゥリーヨダナを恨みがましく見つめていれば、ようやく笑いのツボから解放されたのか、目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭っている。

 輝く黒水晶の瞳が、俺を視界に収めて茶目っ気たっぷりに微笑む。

 

「……俺としては、それを俺の前で言える王子もなかなかの豪傑だと思わなくもないけど」

「そう褒めてくれるな。さしものわたしにも恥じらいというものはある」

 

 全く褒めていないんだけどなぁ。なんでか照れ臭そうに笑っているドゥリーヨダナに、怒りを通り越してむしろ呆れが湧いてくる。

 ジト目で睨んでいれば、カルナがその視線からドゥリーヨダナを庇うように一歩前にでた。

 

「……ドゥリーヨダナ」

「わかっている。兄上殿も無事に見つけられたことだし、場所を移そう。ここで話をするには、少々衆目を集め過ぎてしまう」

 

 路地のあちこちから市民が顔を覗かせて、いったい何事かと様子を見つめているのを悠揚な態度で許したドゥリーヨダナであったが、さすがにこの場で話を始める気はないようだ。

 

 ――だとしたら、何か国政に関わる話なのかもしれない。

 

 続きは宮殿内のドゥリーヨダナの執務室で、とのこと。

 そういう訳だったので、そのまま大人しく二人の後についていった。




<裏話>

カルナ+ドゥリーヨダナ=シリアル(ボケとツッコミ)
ドゥリーヨダナ+アディティナンダ=シリアス

ドゥリーヨダナにツッコミに回させるカルナさんはすごい。(小並感)

(*そういえば、EXTELLA発売から二日経過しましたね。コンシューマー持ってないんでプレイはかないませんが、今作ではカルナさんはどのような物語を紡ぐのでしょうか*)


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マガダ国王の話

FATEシリーズのアニメ化が続々決まって嬉しいのですが、どうして主人公はザビ子やぐだ子ちゃんじゃないんだろう……と思わずにはいられない今日のこの頃。
男主人公より、女主人公の方が花があっていいんじゃないかと思うんですけどね。


 ――所変わって、ここはドゥリーヨダナの宮殿内の執務室である。

 人払いして室内に三人きりになったことを確認するや否や、早速ドゥリーヨダナが口火を切る。

 

「――――早速だが、兄上殿。ジャラーサンダという名の国王のことを知っているか?」

「……四方を天然の要害で囲まれた山間の都・ラージャグリハを治める剛勇の王のこと?」

 

 ――マガダ国を治めるジャラーサンダは、数奇な生まれの国王である。

 長らく子宝に恵まれなかった先代国王はとある聖仙の加護により、寵愛する二人の妃が同時に子を宿すという奇跡を贈られた。ところが、月満ちて妃達の腹から生まれ落ちたのは、人の赤子ではなく手足・目・口・耳をはじめとする肉体の部位をそれぞれ半分ずつしか持たない肉塊であった。

 

 妃達は自分達が産み落とした肉塊に恐れ慄き、家臣の老婆に命じて王宮の外に捨てさせる。

 母親たちにより塵のように捨てられた赤子を拾ったのは、とある羅刹(ラークシャサ)の女であった。

 羅刹女が偶然二つに裂かれた肉塊を一つに合わせると、運命のいたずらによって怪物は完全な一人の赤ん坊として生まれ変わり、継嗣として王宮へと迎え入れられた。

 

 長じてのち、この赤ん坊は、周辺諸国にその剛名を響かせる国王へと成長した。

 ――それが、マガダ国国王のジャラーサンダ……という訳である。

 

 こうやって思い起こしてみると、現人神たる聖仙(リシ)も結構中途半端な祝福を与えるなぁ……。

 普通に奥さん一人ずつに子供を授けてやればいいのに……と思うのだが。

 

 いや、下手に同じくらいの寵愛を受けている妃たちにそれぞれ子供を与えたら、争いの元になると思って、そういう形で祝福を授けたのかもしれないけど……う〜ん。

 

 その辺、大雑把というかなんというか適当すぎる。

 まあ、極端な祝福と極悪な呪詛こそ聖仙の十八番だと言ってしまえばその通りなのだが……。

 

「――その通り。さすがは流離い(さすらい)楽師殿、世情にはお詳しいな」

「それで? そのマガダの王がどうかしたの? クル王国との間に戦争が起こるって噂はまだ聞いてはいないけど……」

「そうだな。まだ、戦争が起こる段階にまでは至っていない――()()()()、だが」

 

 随分と含みのある言葉だ。いったい何を言いたいのだろう?

 カルナの方へと視線を送ってみたが、執務室の窓際に涼しい顔で佇んでいるままだ。

 というよりも、すでに話を聞いているせいか、特に関心を払っているわけでもないようだ。

 

 どっちかっていうと、茫洋とした目をしている。

 あれは、そう――晩御飯の献立でも考え込んでいそうな顔だ。

 こら……もうちょっとくらいは真剣な顔をしなさい。

 

「ジャラーサンダ王は、良き王だ。彼の都は国王の庇護下で繁栄を謳歌し、民は過酷な重税によって苦しめられているわけでもない。むしろ、その庇護下にある自国民にとっては、全く文句の付け所のない名君だろうよ」

「――ふぅん? それって、つまるところ外つ国に対してはそうでもないということだよね?」

「その通り。この国王は今の所、戦闘において負けなしだ。一騎打ちで数々の王族を虜囚にしている点において、ジャラーサンダの武芸に関する噂には嘘はないのだろうな」

 

 ――……悪癖があるとすれば、それだ。

 ドゥリーヨダナは静かな面持ちのまま、先ほど持ち出した地図の上に書かれているマガダ王国の名前を視線でそっとなぞる。

 

「この王はな、戦によって虜にした王達を自身の膝下にある洞穴に幽閉している。なんでも、百人揃った暁には、破壊神シヴァへの生贄として捧げるんだそうだ……全くもっていい趣味をしているだろう?」

 

 吐き捨てるようにそう呟くと、ドゥリーヨダナの静かな眼差しが一転して、睨みつけるようにして地図上の敵国を睨む。

 神々への供物を捧げることは、この世の富を独占している王侯貴族の大事な責務の一つだが、それでも生きた人間を生贄に捧げるなんてことは悪趣味としかいいようがないのは確かである。

 

 ――長々と導入が入ったが、ここからが本番だろう。

 地図から視線を持ち上げ俺へと視線を向けたドゥリーヨダナの様子に、どこかを彷徨っていたカルナの意識も現世に戻ってきたようだった。

 

「俺の手飼いの間諜の一人が、なんとも耳寄りな話を伝えてくれてな。――なんでも、次のジャラーサンダの標的はこの国であるそうだ」

 

 なんせ捕まえる王族の数には困らないからな、とドゥリーヨダナがけらけら笑う。

 確かに、この国の王族を捕まえることに成功すれば――現国王の息子だけで百人、先王の子供は五人――シヴァ神への生贄なんてあっと言う間に集まるだろう。

 

「ここまでがマガダ王国側の事情だ。これから兄上殿の大事なカルナの話が関係してくる」

「――カルナの?」

「そうだ。本日付で正式にわたしの正式な家臣として紹介したのは良かったのだがな……」

 

 遠い目になるドゥリーヨダナに、意外とこの王子様も目に見えないところで苦労しているんだなぁ、としみじみとした感想を抱いた。

 傍目には随分と好き勝手しているようだが、それでもままならないことも多いのだろう。

 

「あの競技大会でのあれほどの武芸の技を見せられてなお、文句を口にする者が多くてな……。やれ、育ちがどうだの、あれはまぐれであったの、卑しい生まれの者は信用がおけないだの……。全くもって気位だけの高い奴等は面倒臭い。もっと建設的なことによく回る舌を使えないのか」

「さすがは宮廷人――まるで流れる水のようだったぞ」

 

 感心するように頷いているカルナの姿に、思わず目頭を抑える。

 弟よ、そこは感心するような場所じゃないからな。

 

「まあ、突き詰めてみれば、新参者が大きい顔をするのが腹立たしいのだろう。――そこでだ」

 

 ふふん、と悪戯小僧の笑みをドゥリーヨダナが浮かべる。

 

「カルナにこのジャラーサンダ王討伐を命じた。兄上殿には、その助力をお願いしたい」

「そういう次第だ――頼んだぞ、アディティナンダ」

「任せろ! ……でも、兵士を何人連れて行くの? 戦争にするんでしょう?」

「いや、兵士は一人も連れて行かせない。――――出るのは、カルナ一人だけだ」

 

 ――……つまり、なんだ。

 俺の弟は下手すれば単身で敵地に乗り込んだ挙句に、ジャラーサンダ国王配下の並み居る武将・猛将を一人で蹴散らし、陣中で守られている武名の誉れ高き王の首を取ってこなければいけないという訳か。

 

 ――やっぱりこの王子、あの夜のうちに生ける屍にしてやるべきだったかもしれない。

 いや待て、今でもまだ間に合うかも……? ぎろり、とドゥリーヨダナを睨みつければ、微かに幅広の肩が揺れる。

 

「……ちなみにカルナは衆目の前で受諾してのけたぞ? それを今更になって達成できないと口にすれば、カルナ自身の名誉の問題になるな」

 

 俺の不穏な心中を察したように、ドゥリーヨダナが飄然とした様子で言葉を紡ぐ。

 あらかじめ釘を刺された俺は、心中で舌打ちするに留めた。

 ――それにしてもこの王子、直接的に会話したのはほんの数回であるのにもかかわらず、俺の扱いを心得ているな。

 

「話の通りだ、アディティナンダ。その上で協力を頼みたい」

「……それがお前の望みとあれば、喜んで。――それで? お前はどうしたい?」

 

 ――軽く首を振って、気分をさっさと切り替える。

 やや(しこ)りこそ残っているが、カルナ自身で了承した以上、俺が口を挟むべき事柄ではない。

 だったら、俺がすべきことは過去の責任追求ではなく、未来のためにカルナの進む先が開けたものであるよう道を整えてやることである。

 

「……できれば、一騎打ちに持ち込みたい」

「それなら、相手が戦支度を整える前にケリをつけないと。……前に教えたあれについては?」

「――恙無く。……であれば間違いなく先手を打てる。その上で、国王を引きずり出したい」

「なるほど……。となれば、男のままよりもむしろ……」

「そうだな。――加えて、国王は壮年の域に達する年頃だ」

「そうか……。ならば、なおのこと……」

「……ああ。構わないのか?」

 

 ぽんぽんと進む会話に、ついていけなくなったドゥリーヨダナが目を白黒している。

 余計な言葉を切り捨てる癖のあるカルナに合わせて、俺までもが要所要所を省いて話を進めているのだから、ろくな付き合いのない他人が内容を理解しようとするのは困難極まることだろう。

 

「う〜〜ん、それしか方法がないのか? ……個人的には、非常に複雑な気分なのだが」

「ある程度、衆目の目に晒す必要があるとオレは考えている。それにはあれがうってつけだ――だが、押し付けはすまい」

「……ま、まぁ、他ならぬお前の頼みとあれば仕方ない! うん、任された!!」

 

 じっと真剣な表情を浮かべたまま見つめ返してくるカルナの姿に、俺も腹をくくる。

 何せ、カルナの名誉と今後の進退がかかっているのだ。正直なところ、できれば取りたくない最終手段(やり方)であったが、カルナが最速の道を選択して俺に協力を求めた以上、それがどのような内容であっても俺が断る理由はないのだから。

 

 それに、こうしてカルナに頼ってもらったの、ひょっとしたら初めてだし……うん、頑張ろう!

 我ながら単純な思考回路である。でもまあ、俺はそれでいいか。

 

「……じゃあ、カルナ」

「そうだな――ドゥリーヨダナ」

「おお、ようやくわたしの出番か。待ちかねたぞ」

 

 話に入り込めず、部屋の隅でいじけていたドゥリーヨダナが、カルナの声に嬉々として応じる。

 何をしていたかと思えば、部屋の隅に置かれていた賭博用の遊具の骰子を振って遊んでいたらしい。……何やってんだ、王子。

 

「用意してもらいたいものがある」

「ほほう、それはなんだ」

「――女性用の服を一式。それも出来れば最上の素材で織られた豪奢で華美なものを頼む」

「……済まない、我が友。できれば、その用意した服で何をするのか、簡潔な説明を頼みたい」

 

 ――ふむ、とカルナが少しの間、考え込む仕草を見せる。

 何を想像しているのかは不明だが、ドゥリーヨダナの顔色はややよろしくない。一体どうしたのだろうか?

 

「端的に、か……。オレは言葉を紡ぐのはあまり得意ではないが――そうだな、着る」

「ま、まぁ、服だものな。確かに、着るものだ。だが、先ほどから気になっているのは、その服を誰が着るのか、ということなのだが……」

「? ――オレではないぞ」

「そ、そうか……であれば、アディティナンダ殿か? 確かにお前の兄上殿は、息を呑むような華やかな顔立ちに華奢な体躯の持ち主だが、どう見積もっても男にしか見えないのだが」

「――ドゥリーヨダナ。アディティナンダが男に見えないというのであれば、医者にかかることをお勧めするが……?」

 

 ドゥリーヨダナが何やらカルナ相手にまくし立てているせいで全く頼りにならないので、代わりに俺が廊下に出て適当な女官に声をかける。

 王子の命令であると断って用事を言い付けると、一瞬不思議そうな顔をされたものの、快く命令を受け入れてくれた。――うんうん、躾が行き届いているようで何よりである。

 

「――それじゃあ、カルナ。今、女官さんに頼んだから、服が届いたら教えてね」

「承知した」

 

 ぺこり、と頷いたカルナに軽く手を振って謝意を伝える。

 そうして薄布で区切られた隣の部屋へと移ると、纏っている服の上着を脱いで、肌の上に下着だけを身につけた軽装姿になった。

 

「あの時はどうなることかと思ったが、巡り巡ってこの呪いをこんな感じに使用することになるなんて……災い転じて福となる……といったところかなぁ」

 

 部屋の片隅には黄金作りの大壺が飾られている。かなり立派なものなので、周辺諸国か有力な臣下の誰かからのドゥリーヨダナへの贈り物だろう。

 よくよく磨き上げられているせいで、カルナの鎧に似た色合いの壺の表面は鏡のような滑らかさを保っている。そこに映し出されている自分自身の影を見つめながら、ひとりごちた。

 

「――――さて、と」

 

 俺の四肢に嵌められている太陽を模した細工が施された金環の一つに手をかける。

 

 今回は、そうだな……左手首につけているものでいいだろう。

 金環をくるくると回しながら、手首から手の甲、指先を通って、俺の腕から取り外す。

 それを適当な台の上に置いて、金の壺の表面を――正確には、そこに写っている俺自身の姿を凝視し、そして目を閉じる。

 

 大きく息を吸って、吐いて――()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――っん!」

 

 強大な神の力を人の器に押し込めるための神具から解放され、抑圧していた力の一端が朱金の炎という形で世界に顕現する。ぶわり、と室内に無造作に広がる魔力の波が熱を帯びた。

 ――同時に、それまで俺自身を固定していた世界の元素が一旦綻び、ほんの少しばかり崩れたその部分から、ちょっとした不純物を孕みつつも<俺>という存在が再構成されていくのを全身で感じる。

 

 ……よし、成功だ。

 

「ふふん、さすがは俺だな。元がいいからか、文句無しの出来栄えだ」

「――アディティナンダ。頼まれたものを持ってきたぞ」

 

 部屋の境に垂らされた薄布を片手でかき分けたカルナが、その隙間から顔を出す。その手には先ほど、女官へとお願いしたものが無造作に抱えられていた。

 

「どーよ、カルナ! 彼の高名なジャラーサンダ国王とて思わずふるいつきたくなるほどの美少女ぶりでしょう?」

 

 ――くるり、と振り返って胸を張る。

 そうすると腰の長さまで伸びた金の髪がふぁさり、と音を立てながら翼のように広がった。

 

「ああ……どこからどう見ても女人に見えるな。これで本性が男だとは誰も思うまい」

「そうでしょう、そうでしょう! 貴方もそう思うでしょう?」

 

 ――ねぇ、ドゥリーヨダナ王子?

 そう言って誘うように微笑んで見せれば、カルナの後ろから顔を出したドゥリーヨダナは驚愕に目を見張り、かぽりと音を立てて口を開いた。




インドの呪いと祝福の内容に、突っ込んだら負けだと感じずにはいられない。

例・子宝を望んだら、二つに裂かれた赤子が生まれた。
例・美女を振ったら、不能にされた。
例・気付かずにそこに置いてあった飲み物を飲んだら、男なのに妊娠した。
例・夫が欲しいと祈ったら、来世で祈った回数分の夫ができると予告され、その通りになった。

――――訳がわからないよ。

(*でも、だからこそ、性転換できるアディティナンダは大したことないよね?*)


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天女の呪い

インドの民族衣装、それも女性ものって綺麗ですよね。

読者の皆さまへ。
感想並びに誤字報告、ありがとうございます。執筆の励みになります。



 ――発端は、カルナと本格的に暮らし始めた頃にまで遡る。

 あれはそう、カルナの人としての一生を見守るために、人々の営みの中に埋没しだしたのとほぼ同じ頃だった。

 

 カルナの兄である俺ことアディティナンダは、とある天女(アプサラス)に求婚されたことがあった。

 ちなみに天女というのは、インドラを始めとする天上の神々に仕える水の精霊を指す。彼女たちはそれぞれ美形揃いの神々の侍女や接待役を任されているだけあって美しい容姿をしており、俺に求婚してきた天女もその例に漏れなかった。

 

 ……とはいえ、俺はカルナを見守るという名目で、地上に突き堕とされていた身。

 父・スーリヤからの命令に加え、俺自身がカルナを見守ることを決心したばかりの時期であったために、自分の使命をおろそかにすることはできないと断りを入れた。

 

 ――ところが。

 どうにもそれが自分の容姿に自信を持っていた彼女の逆鱗に触れたらしい。

 

 こんな美しい自分に恥をかかせるなんて! の一言と共に、俺は二度と他の女を誘惑などできないようにというよく分からない理屈で、性転換の呪いをかけられてしまったのだった。

 

 *

 *

 *

 

 全体的に少し縮んだ身長、全身の角が取れたことで、柔らかな曲線を帯びた蜂蜜色の肢体。

 男の姿の時よりも一回以上に細くなった手足はまろ身を帯び、指先はさらに繊細に。

 きゅっ、と締まった腰回りから伸びる、絶妙な輪郭を描く魅惑的な太もも。

 つついた指先がそのまま沈んでいきそうな柔らかさが魅力的な、胸元に実る二つの果実。

 

 確かにそれまでやや華奢とはいえ男の姿であった人物が、少し目を離した隙に絶世の美少女に変わっていたら、さすがのドゥリーヨダナも驚いたことだろう。

 

「――んな、ななな、なっ……!?」

 

 震える指で俺を指すドゥリーヨダナに、にんまりと唇が笑みを形作る。

 わざとゆっくりとした動きで、衣擦れの音を立てながら近づけば、天敵に遭遇した小動物のようにびくりとその体が震え上がった。

 

「――ふふふ。どう、吃驚した?」

 

 口からこぼれ落ちる言の葉も、男のアディティナンダの姿の時よりも高く、そして甘い。

 自分で例えるのもなんだが、硝子で出来た透明な鈴が揺れるような、耳に心地よい響きである。

 

「ア、アディティナンダ、なのか?」

 

 ドゥリーヨダナはカルナよりも背が高い。

 そこで、下から覗き込むようにその顔を見上げて嗤ってやれば、はたまたその体がびくりと震えたので、なんだか愉快である。

 

「その通り! どうよ、悪辣王子? ――美女で目が肥えている貴方のお眼鏡には敵いまして?」

「…………あ、ああ」

 

 最高級の金糸を連想させる指通りの良い髪が、幾つもの渦を描きながら地面へと流れ落ちる。

 女性らしさを強調するために、腰の長さまで流れる豪奢な金の髪を一房すくい上げて、女神のように淑やかに微笑んで見せる。うん、やろうと思えばこの程度の女性らしい仕草も朝飯前である!

 

 呆然としていたドゥリーヨダナが、ハッと声をあげて正気に戻る。

 

「――待て待て待て。騙されるな、わたし! 楽師アディティナンダは紛れもない男であった筈だ。しかし、今、わたしの前にいるのは兄上殿――否、この場合は姉上殿、か?」

「話せば長くなるのだけどね。昔、天女(アプサラス)に岡惚れされたことがあって……」

 

 冷静さを取り戻した王子の側から離れ、部屋の片隅に置かれていた黄金の壺に写っている自分の姿をしげしげと眺めれば、鏡像として映し出された文句無しの美少女が俺を見つめ返していた。

 

 ――す、と伸ばされた鼻梁に、薄紅色を刷いたようなふっくらとした口唇。

 瑞瑞しい蕾から、今にも咲きかけの花弁を思わせる薔薇色の頬。

 毛先に向かうほど華やかな紅色を帯び、朱金の輝きを放つ波打つ黄金の髪。

 繊細な飴細工のような金色の睫毛に囲まれた、最上級の宝石のような紺碧の双眸。

 

 ――然し乍ら。

 はぁ、とすべすべとした大きな壺の地肌に片手を乗せて、大きな大きなため息を吐く。

 

「――これで中身が俺なのが残念すぎる」

 

 ……そう、もしも欠点があるとしたらそこしかない。

 俺が憂鬱な心地のまま視線を上げれば、そこに写っている絶世の美少女もまた憂いを帯びた面持ちでそっと吐息を零していた。本当に、見た目だけは文句のつけようのない極上品である。

 

 残念なことに――――見かけだけ、はな!

 

「……確かに。外見が完璧であることを思えば、つくづく中身が惜しいな。これで中身も女性かつ、まともな人間の女であれば、わたしの妃の一人として迎えたものを」

 

 薄々感づいていたことだが、ドゥリーヨダナは神々の眷属が嫌いらしい。

 普通の男であれば、だらしなくやに下がった挙句、頼んでもいないことをべらべらと語り出すほどの美少女相手に、すぐさま正気を取り戻した様は好感が持てる。

 

「――薄衣姿の美少女に対してその反応はないんじゃない?」

「冗談は存在だけにしておけ。いくら外面が美しくても、内面もそれに応じたものでなければ食指は動かん。こう見えてもわたしは美食家なんだ、悪食の趣味など断じてない」

「……その気持ち、よく分かる。……振られた腹いせに呪いをかけるような相手は、いくら美女でもごめん被るよ」

 

 ほんと、激怒した美女は何をしでかすのかわからなくて怖い。あと、理不尽すぎて訳分からん!

 

 ――さしもの俺も、呪いをかけられた時はひどく絶望した。

 不自由な人間社会において、カルナを守るために男の姿を選んだというのに、女体化の呪いをかけられる始末。まだ俺に慣れていない状態のカルナでさえ、おずおずと慰めてくれたほどの落ち込み具合であった。

 

 幸い、太陽神の眷属の中でも俺の格は高位に属していたのと元々の人形(ヒトガタ)としての特性、それから神具として授かった四つの金環の加護のお陰で、呪いを自分の意思で操作することが可能だったので、この時ばかりは、スーリヤに対して、心からの感謝の念を捧げたものであった。

 

 問題があるとしたら、この姿になると男の姿の時よりもさらに身長が縮んでしまって、年長者としての威厳がますます薄れてしまう点だろう。

 

 ――まあ、それはさておき。

 いつまでも下着姿のままでいるわけにもいかないので、カルナが渡してくれた衣装に身を包んで、きちんと衣服を着込めているのか確認のためにその場でくるりと回る。

 

 用意してもらったのは真紅に金、黒の差し色の施された豪奢なレヘンガ。

 贅沢にも砕いた宝石を装飾として縫い付けた裾が、俺の動きに合わせてふわりと広がる光景は蕾が花開く瞬間を思わせて大変気に入った。俺も一端の神霊として美しいものが好きなのである――女の体になるのは不本意だが、女性の衣は美しいに越したことはない。

 

「そう言えば、名前はどうするのだ?」

「――名前?」

「ああ。なにせ、アディティナンダというのは男の名前だろう? ――その姿でその様に名乗ったところで、本名とは思ってもらえんぞ」

 

 先ほど気がついた、と言わんばかりのドゥリーヨダナの言葉に、少し考え込む。

 確かに、この王子様の言う通り、男性名であるアディティナンダでは色々と都合が悪いだろう。

 

「――ふむ。そうだ、カルナ! よかったら、お前が名前をつけてくれないかい?」

「そう、だな……。では、ロティカというのはどうだろうか?」

 

 唐突な俺からの提案に対して、暫し考え込んだ仕草を見せたものの、簡潔さを美徳とするカルナらしく、すぐに名前案を出してくれる。――なるほど、ロティカか……悪くないね。

 

「なら、これから俺がこの姿になったら、ロティカと名乗ることにする。ありがとな、カルナ」

「……大したことではない。――それよりも、ドゥリーヨダナ」

 

 怜悧な蒼氷色の双眸の先、難しい顔のドゥリーヨダナが腕組みをしながら、思索に耽っている。

 ややあって思考がまとまったのか、輝く黒水晶の双眸が俺とカルナを捉えた。

 

「――それで? どうするのだ、お前たち。確かに、アディティナンダの姿には驚いたが……その女姿で、マガダ国王に対して閨で暗殺でも仕掛けるのか? であれば、父上に余計な疑いがかけられるような不慮の死だけは勘弁してもらいたいのだが……」

 

 普段おおっぴらに態度に示さないだけで、結構ドゥリーヨダナも父王を慕っているよね。

 やっぱり家族というものはお互いに関する感情を明け透けにしないものなのだろうか? だから、お兄ちゃん扱いしてくれないのかなぁ……とカルナの横顔を見やる。

 

「伝え聞くに、ジャラーサンダ王はスナータカ行者相手であれば、いついかなる時にも会見するという誓約を立てている。――この際だ、いっそのこと、それを逆手にとってカルナをバラモンにでも扮させるか?」

 

 ドゥリーヨダナの慎重かつ狡猾な意見に、鋭い目つきになったカルナが口を開いた。

 

「……今回の命令の主旨は、オレが衆目の面前で国王を降すことに意味がある――違うか?」

「違わない。わたしはお前に武勲をたててもらいたい。それも、お前が今後わたしの側に控えていても誰も文句をつけられないような、誰もが一目置かざるを得ないような――そんな手柄を、だ」

「わかってるよ。俺のこの姿はあくまでもカルナへの手助け――補助でしかない。そこから上手く勝利を収めることができるかは、この子の技量次第なのは結局変わらない」

 

 カルナとドゥリーヨダナの手を引いて、部屋から出る。

 廊下を大股で闊歩する謎の三人組の姿を視界に収めた宮廷人たちが、驚いたように目を見開いているのを尻目にしつつ、ずんずんと前へ突き進む。

 

「――険しい山脈に囲まれたマガダ国にたどり着くには、どんなに速い戦車を用いても数日かかる。ましてや、そこから山間にある首都・ラージャグリハに登るのだって結構な苦行だ。――だけど、カルナに限ってそれは大した難関にはなり得ない」

 

 幾つもの入り組んだ廊下を抜け、ようやく目的である植物園が併設された中庭へと辿り着く。

 植樹されているがっしりとした幹の樹木は深い緑色の葉を無数に茂らせ、園のあちこちに咲き誇る鮮やかな花々が濃厚な甘い香りを漂わせている。

 

 結んでいた手を解いて、カルナへと向き直る。

 凛としたその双眸に視線を合わせ、最後の確認として声をかける。

 

「――……この間、教えたことを覚えているね?」

「繰り返されるまでもない」

 

 不敵な笑みを浮かべるカルナの姿に、よろしいと頷いて手を伸ばす。

 女の姿になった俺を片手で軽々と持ち上げたカルナの形のいい頭をくしゃりと撫で、鎧に覆われた肩を叩いて合図を出す。

 

 一歩、二歩、三歩! ――そして最後の四歩目で、カルナが力強く大地を蹴った!




<登場人物紹介>
・ロティカ(アディティナンダ)【NEW!!】
 カルナの兄・アディティナンダが、とある天女の呪いを受けて女体化した姿の名称。
 アディティナンダの姿をベースにしているものの、腰まである波打つ赤みを帯びた金髪に、紺碧の瞳の(外見だけは)絶世の美少女。
 当人にとっては不本意なことに、身長はアディティナンダ時よりもさらに5センチほど縮む。
 男の名前であるアディティナンダのままでは不都合が多かろうということで、弟であるカルナさんから「ロティカ」と名付けてもらった。

 ――ちなみにロティカというのも、サンスクリット語でとある物を意味する言葉である。

追記:師匠のもとでの修行期間を務め上げ、沐浴の儀式を行った、一家を持つ前の若いバラモンの学生をスナータカ行者と呼ぶ。バラモンの中でも特に高い地位を与えられている特異な請願でも知られ、大概の場所で歓待されるため、後々のパーンドゥによるジャラーサンダ王征伐の際に、ビーマ・アルジュナ・クリシュナが王の懐に潜り込むために、変装した。


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魅惑の美声

突然のTSにどんな反応がくるのか結構ビクビクしていまいしたが、意外と普通だったので少し拍子抜けしました(笑)。
ちなみにロティカになると、誘惑系のスキル「魅惑の美声」「フェロモン」といったものが使えるようになります。


 ――轟ッ! と風が大きな唸り声を上げ、途方もない解放感が全身の細胞を駆け巡る。

 人間を大地へと押し付ける重力の軛をすり抜け、無重力の世界へと身を投じたことを知らしめるのは、眼前へと広がるこの世で最も美しい青色の空。

 

 突き抜けんばかりの青色と輝かんばかりの純白の雲。

 普段は地上から見上げるしかない二色を間近に、興奮のあまり喉の奥から笑声が湧き上がる。

 

「上出来、上出来! ほーら、これでこの空もお前の領域になった! さすがは俺の弟!!」

 

 燃え盛る灼熱の魔力によって構成された炎の翼。

 カルナの黄金の鎧の背中に付属している深紅の飾りがカルナの膨大な魔力を受け、炎の翼として実体を得たことで、超高速での空中飛行が可能となる。

 

 半神特有の膨大な魔力を自在に操ることで戦闘技能の補助としたり、こうして空を舞うことで移動手段として使える。地上に住まう人の子である限り、あのドローナ師匠であれども、天を駆ける術を弟子たちに教えることは叶うまいよ!

 

 風神・ヴァーユの子供である第二王子ならば、その本能で空を舞うことが出来るかもしれない。

 ――が、それ以外の兄弟たちでは教わらずに空中闊歩することは難しかろう。

 

「――ああ、実に見事な光景だな」

 

 カルナも感銘を受けた様子で、眼下に広がる色鮮やかな象の都(ハースティナプラ)の街並みを見下ろしている。

 それから、眼前に広がる青空、天空で燦々と輝く日輪を見上げて、眩しそうに瞳を眇めた。

 

「では、飛ばすぞ。……しっかりと捕まっていろ」

「わかってる。目的のマガダ国はあちらの方面だ。くれぐれも方角を間違えるなよ?」

 

 ――ぐっ、とカルナの全身に力がこもり、炎の翼が帯びる魔力の濃度がいや増す。

 途端、瞬き一つの合間に見慣れた王国の街並みが通り過ぎ、よく肥えた平野、そして険しい峰が特徴的な山脈へと景色が移り変わる。

 

 炎の翼によって生み出される熱が吹き抜ける冷たい風と程よい感じに混じり合ったことで、空高くを高速で移動していてもちっとも寒くない。

 

 ――うむ、前に教えたことを実践できているようで、大変結構!

 

 そういや……空、といえば、だが。

 このまままっすぐ天空を突き抜けていけば、神々の住まう天の都へと辿り着けるんだよなぁ。

 ……太陽神スーリヤの住まう彼の天空の都に向かえば、この子も地上の余計な偏見やから解放されて、光輝なる半神の子供としてのあるべき姿を取り戻せるのだけども。

 

 ――そう思うが、すぐさまそんなことはあり得ないと首を振る。

 カルナがドゥリーヨダナを主君として定めた以上、滅多なことが起こらない限り、それを覆すことはないだろう。

 

「――アディティナンダ?」

「ごめん、今のはなんでもない。……忘れていいよ」

 

 どうも、女の姿になっていると、感傷的になってしまっていけない。

 

 女と言えば……、カルナの母親――クンティーのことを思い出す。

 もしもの話でしかないが――あの武術大会の日に、ドゥリーヨダナではなく、彼女がカルナに助け舟を差し出していたら、どうなったのだろう。

 

 もし、それが叶っていたら……カルナは本来だったら与えられるはずだった、母親からの祝福と愛情、太陽神の寵児としての立場、そして優れた戦士への賞賛をその手に収めていたのだろうか?

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 俺とて、末弟探しの道中に行った調査で、その母親が誰なのか突き止められたのだ。

 

 ましてや、カルナの身につけている鎧はこの世に二つと無い至宝中の至宝である。

 共にいた期間が短くとも、生まれ落ちた赤子の印象的な鎧を忘れることは難しいだろうに。

 ――彼女が、カルナを見て自分の産んだ子供であると、あの時気付かなかった筈がないのに。

 

 どうして、彼女はカルナに声をかけてくれなかったんだろう。

 あのまま、何の邪魔も入らずに第三王子との決闘が行われたら、二人の実母であるクンティーはどうするつもりだったんだろう。

 

 ――いつもだったら心踊る風の音も、俺の心の憂いを晴らしてはくれない。

 じっと黙りこくった俺にカルナが気遣わしげに視線を向けている。

 

 だが、暗澹たる気分に陥ったせいで、ごまかしのための軽口も口から出てこなかった。

 

 険しい山々をいくつも通り過ぎ、ようやく目的地近辺へとたどり着く。

 ――ぽつり、とカルナが口を開いた。

 

「……見えてきたな」

「――そうだね。地上を走れば数日の距離も、険しい山の難関も、空を飛べるお前にとってはなんの障害にもならなかったろう?」

 

 四方を天然の要害に囲まれた王都の丁度真ん中。

 巨大かつ荘厳な建築様式の建物、あれがジャラーサンダ国王の住む宮殿であるのは間違いない。

 

 軽く肩を叩いて合図を出し、指先で宮殿前の大広場を指し示す。

 木の葉が大地へと舞い落ちるような静けさで、炎の翼を操るカルナがそっと地上へと降り立つ。

 

 突然、空から降りてきた二人組に、人々が騒然とする。

 それはそうだろう。黄金の鎧をまとった物々しい雰囲気の若武者とその腕に抱えられた、よく似通った面持ちの少女だなんて、怪しさ抜群過ぎる。

 

 視界の端では、揃いの防具を身につけた兵士の集団がそれぞれ囁き合い、手に刀や槍を始めとする武器を持ち、俺たちの様子を伺っている。高い城壁の上の方でも雑兵用の鎧が触れ合うことで発生する耳障りな金属の音が聞こえるため、きっと城壁の上でも大騒ぎになっていることだろう。

 

「――――カルナ」

「……ああ、わかっている。この場は任せたぞ」

 

 顕現させた炎の魔力を凝らせて創った弓矢と槍を手にしたカルナが周囲に目を光らせてくれる。

 隙のない構えを見せるカルナの姿に、遠くから射抜こうとしていた兵士たちがその闘気に気圧されて、後ずさった音が聞こえた。

 

「――さぁて。これより奏でるのは、まさしく天上の調べ、音曲の極み。人の身では到底至れぬ絶佳の音色。一生に一度聴けるだけでも、貴方がたは幸運だ」

 

 俺自身から発せられる視覚化した魔力の迸りによって、結わずに垂らしている金の髪が左右に広がり、朱金色に輝く炎となって周囲を彩る。

 人ならざる異形であると認識した人々のうち、ある者は腰を抜かし、ある者は恍惚の表情を浮かべ、ある者は紡がれる天啓を逃すまいと必死に耳を攲てる。

 

 ――注目は十分に集めた。

 

 この場にいる誰もが突然の闖入者が何をしでかすのか戦々恐々と様子を伺っている。

 誰もが俺たちから視線を逸らすことが出来ないし、逸らそうとも思わない。

 

 始まりは恐怖や不安――それではその原始的な感情を、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 美しい蒼天を抱きかかえるようにして、大げさな仕草で両腕を広げる。

 

 ――さあ、来い。偉大なる武王・ジャラーサンダ。

 貴様が王であり、戦士であるというのであれば、決して無視することのできない祈りだぞ?

 

 カルナが背後で見守る中、大きく息を吸って、そして――

 

――勝利をもたらす祭式、それによりインドラが勝利を得たるその献供により、われらをして、祈祷主よ、主権のために勝利を得しめよ――

 

 これより奏でるは神の言語で綴られた、偉大なる戦士の勝利を祈る神々への讃歌(リグ・ヴェーダ)

 そして、その背後に隠された、もう一つの意味を持つ音を持たぬ誘い。

 

 人の子では理解できない、神秘の歌声に、人々の表情は随喜と法悦の念に染め上げられていく。

 

――神・サヴィトリは汝をして、月神・ソーマは勝利を得しめたり、汝をして一切万物に勝利を得しめたり、汝が勝利者たらんがために――

 

 ――その瞬間、文字どおり()()()()()()()()()()

 

 

――競争者なく、競争者を滅し、王国に君臨し、克服者として、われこれら万物を、また人民を支配し得んがために――、っと! ……ふぅ」

 

 神霊でなくば理解できない言語で綴られた歌詞の最後の一節を唱え、そうして口を噤む。

 久方ぶりに神の力を行使したことによる万能感に全身が満たされ、充足感に息を吐く。

 

 これが普通の宴なら、ここら辺で終幕とするところだが――あくまで、これは前座。

 

 手にしていた武器を取り落とし蕩けきった表情を浮かべている兵士たちや、感激のあまり泣き出している民衆の姿を視界に収める。派手な演習で兵士たちの戦闘意欲や民衆たちの心理意識を操作したのは、ついでのようなものでしかない。

 

 王宮の奥深くで大勢の兵士たちによって守られている、この国の王を誘い出すために。

 海の魔性たちがその美しい歌声で船乗りたちを誘惑するように、王が自分の意思で歌声の主を確認しに来るように、その心を軽く操作する――俺が奏でたのは、そんな調べだ。

 

 すぐ近くで歌声に耳を傾けていたカルナは、静謐な表情を浮かべたまま。

 けれども、その涼やかな視線を、まっすぐに、固く閉ざされている王宮の門へと向けていた。

 

 ――――そうして、扉が開く。




<裏話>
取り残されたドゥリーヨダナ
「う、うわー! カルナが、カルナが空飛んでる! ずるい!」

たまたま目撃したアルジュナ
「飛んだ、だと……!」



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戦士の本分

FGOでサンタイベントにダビデ王をパーティメンバーに加えようと思っていたら、なぜか消えており、愕然としました。皆さん、間違って溶かさないように、気をつけましょう!


「お見事だ、美しい女楽師殿! それまでの無礼な振る舞いも、王を前にしての不遜な態度も、先ほどの歌声に値するものとして見逃してやろうではないか! 貴様の歌声には天上の楽団であるガンダルヴァのいかなる面々とて叶うまい! 誇ると良い、まさに至高の美声であったぞ!」

 

 重厚な響きとともに王宮の門が開かれる。

 固く閉ざされていた内側から登場したのは、華麗に着飾った巌のような大男だった。

 

 ――大岩を削り取ったような荒々しい容貌、それに見合った大きく逞しい全身。

 炯炯と光る野生の虎を連想させる琥珀色の両眼に、猛獣の毛並みの如く逆立つ黒褐色の髪。

 絢爛たる冠の下には何処かの戦いで負ったものなのか、眉間から顎先まで走る一直線の傷跡。

 鍛えられた褐色の肉体を覆っているのは簡素に見えつつも見事な造形の鎧で、その腰には宝玉が誂えられた見事な長剣を帯びている。

 

 大男の後ろには幾人もの家臣たちがうやうやしく控え、大男を目にしたマガダの臣民たちが一斉に恭順の姿勢を見せたことから、彼がジャラーサンダ国王であるということは一目瞭然であった。

 

「――して? この国の王である余をその歌声で王宮の内から誘い出したのだ。当然、なんらかの企みをもってのことだろう? 下手なおためごかしは不要だぞ、謎の女楽師」

「無論ですわ、雄々しきマガダ国の国王陛下」

 

 慣れない女言葉で対応して、ふんわりと微笑んでみせる。

 

 結局のところ、本気の一端でしかない先ほどの歌声の力では一部の効果しか発揮しない。

 特に何処の神の加護下にある人間には、ただの美声にしか過ぎなかったことだろう。兵士が戦意を喪失し、民草が突然の侵入者に対する敵意を霧散せしめた今、ただ二人――俺の声による術の対象外であったジャラーサンダ王とカルナのみが武器を握る力を持ったままだ。

 

 ――――なので、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……用があるのは、オレの方だ。――偉大なるマガダ国の王よ」

 

 ずい、とカルナが一歩前に出る。

 それまで静かに成り行きを見守っていた時の静けさが一変して、燃え盛る炎のような闘気が全身に漲っている。

 

 カルナが一歩前に出たのと合わせて、俺は一歩後ろに下がる。

 カルナの頼みに応じて、王宮で厳重に守られているその玉体を引きずり出した。――俺の役目はここまでだった。

 

 ――――最早、カルナに任せるのみである。それでは、お手並み拝見、といこうか。

 

「――貴様……。その黄金の鎧、只者ではないな。良い、名を名乗ることを許そうではないか」

 

 飢えた虎さながらに獰猛に唸るジャラーサンダの詰問に、カルナは涼やかな蒼氷色の双眸を見開いて、相手の一挙一動を冷静かつ冷徹に観測する。

 

 ――強者は、強者を知るという。

 その完成された武芸者の身のこなしに、国王はそれまでの鷹揚とした態度をかなぐり捨てて、警戒するように柄の上に左手を乗せる。

 

「――……名はカルナ。我が主人であるドゥリーヨダナ王子の名を受け、マガダ国王ジャラーサンダに一騎打ちを申し込みに来た」

 

 相変わらず簡素かつ率直な物言いである。長々と演説が始まるのかと身構えていた国王が肩透かしをくらったのか、虎を思わせる両眼をぱちくりと瞬かせた。

 

 ニィ、と獰猛な笑みを浮かべた国王に、何だか嫌な気配を感じて眉間を寄せた。

 

「――……ドゥリーヨダナ、ドゥリーヨダナ……か! 聞き覚えがあるぞ、あのドリタラーシュトラ国王の長子だな。なるほど、悪辣王子というのは存外揶揄でもないようだな。余の動きを察知した挙句に、抜け目なく抱えたばかりの武芸者を送り込んできたか」

 

 片目を眇めて、獲物を品定めするような目つきでジャラーサンダがカルナを見やる。

 ――嗚呼、あの目はあんまりよろしくない。武術大会で第二王子が見せたような、嫌な目つきをしている。

 

 カルナの身分を聞き、それまでの警戒心を捨てて、完全に舐めた表情を浮かべている。

 

「――だが、カルナ、カルナか……! 思い出したぞ、数日前にクルの王都で開催された武芸大会に身の程知らずにも第三王子に決闘を申し込んだ男だな? 貴様の噂はこんな山間の鄙びた都にまで届いておるぞ。――身の程と分を弁えぬ不遜かつ無礼な御者の息子である、とな!」

 

 呵呵大笑する国王に、カルナの雰囲気が剣呑なものになる。

 それに気づかぬほど愚鈍な王ではなかろうに、なおも挑発するように朗々とした声を響かせる。

 

 嗚呼、やだなぁ。

 カルナが尋常ならざる武芸者だって気づいていた癖に、どうしてそうやって余計な一言をこの王も付け加えずにはいられないんだろう。

 

「……あの小童め、誰を送ってくるかと思えば、ドローナでもビーシュマでもなく、たかが御者の息子だと? ――余を愚弄するのも大概にせい。王都侵攻の暁には、あやつを真っ先に血祭りにあげてくれようぞ」

 

 ――なに、王子が一人減ったところで、あの国は王族の数には困るまい。

 きっとシヴァ神も満足のいく生贄が十分に集まることだろう、と嘯く王の姿に、カルナの表情が自然と険しくなる。

 

 思う存分、この場にいないドゥリーヨダナを嘲笑って、野良犬でも追い払うような仕草でマガダ王はカルナへと手を左右に振って見せた。

 

「――疾く失せよ、カルナとやら。クシャトリヤでもない貴様と戦ったところで、余の名誉にもならん。さっさとそこの女楽師を置いて、この国より立ち去れ――そして王子にこう伝えることだ。マガダ国の王が近い内に貴様の首をもらいに参上する、とな!」

 

 そう言って好色そうな視線を俺に向けてくる国王に、こいつもクル王国の頭の固い奴らと同類かと思って、内心で溜息をつく。

 

 つくづくドゥリーヨダナ王子が異端児であり、柔軟な思考の持ち主であると実感する。

 ――これであの不吉な運勢とパーンダヴァとの関係性さえ関係しなければ、カルナの上司としても主君としても理想的な人物なんだなぁ、あの悪辣王子。

 

「この国では珍しい金の髪に、空色の眼の美しい女だ。声は無論のこと――どれ、体つきも悪くない。貴様の無礼の詫びとクル王国からの貢ぎ物として、余の後宮に寵姫の一人として加えてやろうではないか」

「――――ぅわぁ」

 

 おっといけない。口を開くまいと思っていたが、正直な感想が口から出てしまった。

 絶世の美少女の外見に騙されすぎだよ。確かに、これまでの経験からこの姿が男の獣欲をくすぐることもあると知っていたけど、相変わらず全然ときめかない。

 

 レヘンガの一部である薄衣で口元を覆う。

 相手からは恥らっているように見えただろうが、そうでもしないと仮にも国王に対して罵詈雑言を言いそうになってしまうので、必死に堪える。

 

「……随分とよく回る舌だな。マガダ国の王は武に優れた勇士と伝え聞いていたが、どうやら剣で語るよりも弁舌を交わす方が得意という訳か。――残念だな」

「――――なんだと?」

 

 ――ザッ、と砂を踏みつける音と共に、カルナが俺を国王の視界から隠すように一歩前に出る。

 こちらからは完全に、カルナの鎧に覆われた背中しか見えなくなった。

 

「オレは生来不器用な性質でな。百の言葉を紡ぐよりも、我が槍の一振り、我が弓の一矢で語る方が気が楽なのだが……どうやらお前はそうではないようだ。ならば仕方あるまい。我が主・ドゥリーヨダナには悪いが、お前が身分を盾にオレと戦うことを拒む以上、その言葉を押しのけてまで我が意を貫く訳にもいくまい」

 

 おお、カルナ本人はいたって悪気が一欠片も無いのだが、あまりにも率直過ぎる言葉に国王が煽られる、煽られる。剛勇を誇りにしている国王にとって、カルナの告げた感想はその誇りに泥を塗られたようにしか感じないだろう。

 

 ――だって、口ばっかりで、お前の武芸の腕ってひょっとしたら大したことないんじゃない? と言われているようなものだものね。案の定、ジャラーサンダ王の発する気配が凍りつく。

 

「……そこな女楽師よりも、貴様の方がよほど太々しい限りだな。身の程知らずもここまで行くと、いっそ小気味好い。――よかろう、我が口舌よりも我が武勇の方が数百倍優れていることを証明してみせようではないか」

 

 冠の紐を解き、側に控えた家臣の一人に無造作に投げ渡しつつもジャラーサンダの表情は、思いがけない屈辱のために朱色を帯びている。そのまま、国王が腰に佩いた剣を鞘から抜き、周囲で様子を伺っていた国民たちに場を開けるようにして手を振って命じれば、王命を受けた民たちが慌ててその場から離れた。

 

 俺はと言えば、カルナとジャラーサンダを中心に円を描くような形で人々が遠ざかったのを確認し、兵士たちに指示を出す。そうして、誰かが途中から参加できないようにと、彼らが手にしている抜き身の剣や槍を地面に突き刺させて、簡易な柵を二人の周囲に設けさせた。

 

 ――――これで、簡易的な決闘場の内側にいるのは審判の俺に、これから戦う二人だけだ。

 

 真っ先に口火を切ったのは、国王だった。

 

「――我が名はジャラーサンダ。下賤の者よ、貴様の分不相応な決闘を受けてやる代わりに、余が勝利を収めた暁には、そこな女楽師の身柄と貴様の主であるドゥリーヨダナの首、そして……」

 

 静かに佇む俺、次いでカルナの全身を見遣って、国王がにやりと笑う。

 そうすると、眉間からあご先まで伸びる傷跡が歪んで、ひどく凄絶な面持ちとなる。

 

「貴様の全身を包む、その見事な黄金作りの鎧の所有権を、余に譲ってもらうぞ。名もなき御者の息子風情には過ぎた代物だ。そのような宝は余の手にあってこそ真価を発揮するものだからな」

「……それが決闘を受けてもらう条件ということであれば、構わない。――我が父の名に誓って、オレが敗北した暁にはその三点を謹んで献上しよう」

 

 涼しげな表情を崩さないカルナに、こっちの方が心配になってくる。

 大丈夫かな、負けはしないとは思うけど、相手はジャラーサンダだしな。……うう、この時ばかりは武才のない我が身が恨めしいことこの上ない。どうして、スーリヤは俺に戦闘機能をつけてくれなかったのだろう。

 

「――だが忘れるな、ジャラーサンダ王。オレにとって最も価値のあるその三点を対価とした以上、お前にもそれ相応のものを敗北の代償として支払ってもらうぞ」

 

 ――全身をひしひしと浸すような、密やかな殺気がカルナを中心に渦を巻く。

 相手が人の子であるからか、第二王子相手に激高した時のように魔力を暴走させることはなかったが、その闘気を感じ入って空気が不穏な気配を孕んで唸り声を上げる。

 

「いいことを教えてやろう、御者の息子。堂々と勝負を挑み、闘いに勝ったものは、相手を己の意のままに扱っても良いというのがクシャトリヤの慣習だ。――せいぜい、下賤の身で余に挑んだことを後悔するといい」

 

 挑発的に微笑み、ジャラーサンダもまた相手を威圧するように全身から闘気を放つ。

 すぐさま相手の動きに対応できるように腰を低くしている姿勢は、まるで野生の虎が獲物へと襲いかからんとしているようだ。

 

「――それでは、これより双方の合意により決闘を始めるものとする。本来ならば、バラモン達によって場を清め、儀式を行うべきであるが……今回に限り、戦士達への祝福は先ほどの讃歌で十分代わりが務まるでしょう」

 

 何せ、人の器に収められたとはいえ、神霊によるものだし、誰も文句などつけられないだろう。

 実際、様子を伺っている兵士や家臣、民衆達からもとくに異論の声は上がらない。

 

「異議はないようですね――よろしい、では!」

 

 念のため、どこぞの神々から横槍が入れられないことも確認した後、都全体に響き渡るように大きく声を張り上げる。

 

「――ラージギル五山の守護者、マガダの国王にしてラージャグリハの支配者・ジャラーサンダ」

「……応とも」

「――麗しき象の都の統治者・ドリタラーシュトラの息子、クルの王子であるドゥリーヨダナの家臣、カルナ」

「――……国王に同じく」

「勝敗については、どちらかが降参を認めるまで。あるいは先に立てなくなった方を敗者とみなします。また、いかなる助太刀も横合いも破壊神たるシヴァ神の御名の下に、認められません」

 

 ここで一旦言葉を切り、反応を伺うが問題はないようだ。ぺろり、と唇を舐める。

 

「――双方異論はないようですね、それはよろしい」

 

 炯炯と虎の目が、蒼氷色の双眸が互いを睨む。二人の戦士によって発せられる、尋常ならざる殺気と鬼気の応酬に、山間を駆ける涼やかな大気でさえ、まるで慄いたように軋んだ声を上げているようだ。

 

 ――……世界に一瞬の空白が生まれる。

 

――――いざ尋常に、勝負!




「お知らせ」
(*「ジャラーサンダ討伐編」ですが、決闘の決着やその後の姿を描いた物語は今週末に投稿します。第2章の締めくくりとして<幕間の物語>を執筆したいと思っております*)
(*<幕間の物語>ですが、ビーマ王子視点かアルジュナ視点で一つ書き上げようと考えております。
そこで、アンケートを取らせていただきます。
アンケートの選択肢ですが、
 1、ビーマ王子視点 時系列は武術大会終了直後 2、アルジュナ視点 時系列は前話の裏話、
という具合になります。読みたいという番号あるいはその旨を記載した上で、コメントの欄に記入していただけますと幸いです*)
(*なお、アンケートの集計については第2章の最終話が投稿された日に取らせていただきます*)
 
 


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決闘の行く末

とりあえず、決闘の決着までは書き上げました。
あと一話と「幕間の物語」で第二章は終わりです。ギリギリ、週末に書き上げました、…よ?


「――……どうした、まだやるのか」

「ば、莫迦な……! この余がたったの数合打ち合っただけで、このざまだと!」

 

 王の手から吹き飛ばされた宝剣が、物悲しい金属音を鳴り響かせながら落下する。

 少し離れた地面の上で転がるそれに、愕然と目を見開いたのは、持ち主であるジャラーサンダ。

 

 正直な話、信じられないのは俺の方である。――嗚呼、いや、俺どころではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 先ほど決闘の開幕を告げてから、然程時間が経過したわけではない。それなのに、拮抗するかと思われた両者の天秤は――あっという間にカルナの方へと傾いた。

 

 ――……そう、国王が口にした通り。

 たったの数合、カルナが適当に抜き取った周囲に刺さっていた兵士用の剣と国王が腰に帯びていた宝剣とが、打ち合っただけだった。

 鎧に身を包んでいるとはいえ、痩身の部類に入るカルナと、巌を削り取ったような大男の国王との凌ぎ合いである。体格だけを考慮すれば、間違いなく不利なのはカルナの方である――なのに。

 

 力くらべに競り負けたのは、優勢に見えた筈の国王の方であった。

 細身のカルナに押し負けていることを察した王の顔から侮蔑の感情が失せ、驚愕の色が広がる様は見ていて痛快であったが、マガダの臣民側からしてみれば悪夢でしかなかったことだろう。

 現に、信じられないと言わんばかりに観衆達は口々に囁きあい、国王の気まぐれを仕方のないことと言わんばかりの表情で見守っていた家臣達は揃って間抜け面を晒している。

 

「――……なるほど。余もこのところの連勝に知らず知らずのうちに驕っておったらしい。身分を理由に相手の強さを見誤るなど、戦士として二流もいいところであったな」

 

 この勝負の勝敗は相手を戦えない状態にまで追い詰めるか、降参させなければ決着がつかない。先手を取られたことで、国王もそれまでの態度を改めることを決めたらしい。

 放り投げられた宝剣には目もくれず、カルナと同様、決闘場の周囲に柵の代わりに突き刺さっている適当な剣を、勢いよく引き抜いた。

 

 それまでとは比べようにならない程の殺気と闘気、熱気が周囲に充満する。

 ――ようやく本気になったか、と胸中で呟く。まあ、先ほどのあれは幾ら何でもあっけなさすぎだったし、ここらで噂に名高い武芸の腕前を披露してくれるというのであれば、カルナの相手としても不足はないだろう。 

 

「……手を抜くことなど考えるなよ、マガダの王。我が主の意を踏まえて一度は見逃したが、二度目はない。次こそ、お前の全身全霊で持ってかかってこい――さもなくば、宝剣を取り落とすだけではすまないと知れ」

 

 冷ややかな眼差しで国王を見つめるカルナの言に、疑問が晴れる。

 カルナの技量ならばマガダ王の油断しきった一撃など、それこそ赤子をあしらうように相手できた筈だったのに、どうしてそうしなかったのだろうと思ったが――……嗚呼、そういうことか。

 

 出発前のドゥリーヨダナは、カルナになんと告げたかを思い出す。

 

『わたしはお前に武勲をたててもらいたい。それも、お前が今後わたしの側に控えていても誰も文句をつけられないような、()()()()()()()()()()()()()()()()――そんな手柄を、だ』

 

 誰もがカルナに一目置かざるを得ないような、そんな手柄。

 それは世に名高いマガダ王が持てる全ての力をもってかかってきてもらえなければ、難しいだろう。無敗の戦士として知られるマガダ王の本気と打ち合ってこそカルナの価値が上がり、その誉は輝きをいや増すというものだ。

 

 ――尤も、カルナが口にした通り二度目はないだろう。

 これで相手の実力も見抜けずに逆上するような相手であれば、それこそ眉一つ動かさずに、カルナは粛々と国王の首を切り落とすことで、己が実力を世に知らしめることだろう。

 

「ああそうとも、二度目はない。――機会を与えたことを悔いるなよ、黄金の若武者!!」

 

 とか考えているうちに、猛獣の様に吠え猛りながら王がカルナに向かって突進する。只人であればその内に込められた気迫に震え上がり、恐怖にかられるであろう雄叫びにも、カルナは動じた様子を見せることはない。

 

「それでこそ世に名高いマガダの武王。ドゥリーヨダナのためにも――オレはお前を打ち倒そう」

 

 ジャラーサンダ渾身の横殴りの一撃を手にした剣で受け流し、カルナは返す刃で相手の急所を狙う。剣が打ち交わされる間隙に火花と金属音が生まれ、戦士たちが激しく動く度に砂塵が巻き上がり、玉の様な汗が飛び散る。 

 

「――――汗?」

 

 ……そうだ、何か違和感がある。だが、それがなんなのかが釈然としない。

 全身から湯気を出さんばかりの勢いでカルナに何度も打ちかかるマガダ王と剛力からなる尋常ならざる一撃を極限まで無駄を削ぎ落とした動作で受け流すカルナの姿を凝視し、その違和感の正体に気づく。

 

 ()()()()

 確かに玉の様な汗が飛び散っている――けれど、それは()()()()()()()()()()

 カルナの動きをよく観察して判明した事実に、知らず背筋に冷たい汗が伝った。

 

 涼やかな――いっそ静謐とも称されるべきその横顔には、一切の感情が浮かんでいない。決闘が始まる前の燃え立つ様な闘気が嘘であったかの様に、粛然とした雰囲気のままである。

 しかも、怪力・剛勇で知られた益荒男相手であるにも関わらず、その幽鬼のように白い肌は()()()()()()()()()()()

 

 ――ひょっとしたら、俺はカルナという武芸者の力量を()()()()()()()()()()()()()

 

 俺が見守る先では、国王が剛力と共に振り下ろした剣が勢いのままに地面を砕き、その余波だけで無数の小石が周囲に飛び散り、砂塵が巻き上がる。

 それを軽く跳躍したことで躱したカルナへと、足の指先が大地に陥没するほど力強く踏み込んだ国王が合間を入れずに襲いかかる。

 

 息もつかせぬ怒涛の攻撃の連続に、周囲の兵士や家臣たちが歓声を上げる。

 彼らは自分たちの主人の勝利を疑ってもいないだろう。

 

 確かに一見したところ攻撃を躱すか、受け流すことしかしていないカルナの動きは、彼らの目には攻勢に回ることができないために守勢に回っているようにしか見えていないことだろう。

 ――正確には、当たらないのではなく当てられないのだ……と気づいている者はどれ程いるのだろうか?

 

「――いつまでも避けてばかりか、小僧!」

 

 まともに打ち合う気がない、と思ったのか、剣を振るいながらマガダ王が怒声を上げる。

 軽やかな足運びで、激しい剣戟をいなすカルナの動きに、猛虎を思わせるその目つきがますます剣呑なものとなる。

 

「この余を相手にそれだけの動きができること、それだけは褒めてやろう。――だが、それもここらで終いだ」

「…………」

 

 一度カルナから距離をとると、国王は手にした剣を捨てて、代わりに周囲に突き刺さっている長大な槍を引き抜いた。槍は剣よりも間合いが広い――当然、剣を手にしたままのカルナが一層不利になると考えての武器交換だろう。

 おまけに、カルナの手にしている剣には罅が入り、刃こぼれをしている状態になっていた。

 あの剛力と打ち合い続けていたのだ、実用性を重視した兵士用の剣とはいえ限界が近づいているのも仕方ない。武器本来の性能と状態、どちらをとってもカルナの方が不利だ。

 

 けれども、カルナはそれを取り替えようという動きを見せない。

 そして俺自身も――()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――はあああっ!!」

「……っ、ふ」

 

 ――短く、息を吐く音がする。

 その微かな呼吸音をかき消すように、剛腕から繰り出される槍の穂先が銀色の閃光と共に、カルナの痩身を貫かんと吠え猛る。

 並みの鎧であれば切っ先が触れた瞬間に役割を消失し、その最奥にある心臓まで容赦無く抉られていたであろう――けれど、カルナの鎧は文字通り格が違う。

 

 凛、とした声がよく響いた。

 

「――決着を急くあまり、判断を見誤ったな。他ならぬお前自身が、欲するだけの価値があると認めた鎧であろうに」

 

 カルナが低く凛然とした声音で呟いた内容は、きっと誰もの耳に入ったことだろう。

 ――国王は判断を間違えた。己の力を誇る王は鎧に守られた心臓ではなく、その隙間を狙うべきだった。カルナの身にまとう鎧を貫けると己の力を過信しての、歴戦の戦士ならざる失態だった。

 

 鎧の胸元と激突した瞬間、無骨ながらも頑丈さを売りとする槍の穂先が、鎧とかちあって粉々に砕け、持ち手の部分が大きくしなってバキバキと裂けていく。

 破砕音が完全に消える前に、銀色の金属片と大鋸屑が周囲に飛び散る中をカルナが押し通る。

 武器を失い、信じられないと言わんばかりに茫然自失の表情を浮かべた国王の眼前で、勢いよくカルナが手にした剣を振り下ろした。

 

「――――っ、せい!」

 

 白銀の輝きが一筋の光の軌跡を描く。裂帛の気合いの込められた斬撃が、唐竹割りの勢いで国王の体の上を走ったかと思えば、再度の破砕音と共にカルナの手にしていた剣も粉々に砕け散った。

 

 ――あまりにも速く、あまりにも正確無比に過ぎる、その一撃。

 当の本人でさえ、いったい何が起こったのかをとっさに理解することが叶わなかったことだろう。人の括りに押し込められたとはいえ、人外の域に達した身体能力の持ち主である俺だからこそ、何が起こったのかを理解できた。

 

 ――それほどの早業、それほどまでの技量の差だった。

 いっそ冷酷なまでに無慈悲な一撃、非人間的なまでに冷徹な技の切れ。

 何よりも俺の目を惹きつけたのは、カルナのその涼やかな双眸に宿る冷厳とした光。

 

 それを目撃して鳥肌が立つと共に、背筋に戦慄が走る。

 もしかしたら、俺が思っていた以上にカルナは……――

 

 絹を裂くような悲鳴にどよめき声があがり、飛んでいた思考が引き戻される。

 おそらく国王が自分の状態を理解するよりも、決闘を見守っていた観衆の方が何が起こっているのかを先に理解したに違いない。

 

『きゃあああ!』

『へ、陛下ぁ!? い、いったい何が起こったのだ!?』

『う、うわあああ!!』

 

 国王の顔面を走る眉間から顎先までの裂傷の跡を一筋の赤い線がなぞる。

 いや、あれはなぞっているのではない。なぞっているのではなく浮かび上がってきているのだ。

 

 例えるのであれば、無花果の実に鋭利な刃物で切れ筋を入れたようだった。

 ぱっくりと裂けた皮の内側から、人目を惹かずにはいられない赤の果肉が現れて――そうして。

 

 ――――その一瞬後に、真っ赤な血飛沫が噴き上がった。

 

「う、あが……!」

「…………やはりな」

 

 自分の陥った状態に気づいた国王が絶叫をあげる時間もなかった。

 それこそ、あっという間だった。あっという間に国王の巌を削り出したような巨体が、脳天から股間まで真っ二つに切り裂かれていた。

 

『う、うえぇぇ』

『いやああぁぁ!』

『き、貴様、よくも……!!』

 

 悲鳴が上がる、怒声が轟き、泣き声が響く。

 偉大なる王のその無惨な有様に、その場は大混乱に陥った。兵士が具足をかき鳴らし、女たちは意識を失い、年老いたものは神への慈悲を求める言葉を紡ぐ。

 

 カァァァアアン……ッッッ!!

 

「――――騒ぐな」

 

 まるで蜂の巣をつついたような光景に、ヒマラヤの万年雪のような冷たい声が制止をかける。

 無感情で非人間的なその声に、混乱の渦中にいたはずの人々がぴたりと動きを止める。

 圧倒的な強者に対する恐怖がその場を支配していた。

 

「……お前の生誕の逸話を伝え聞いた時から予想していたことだが、()()()()()()()()

 

 歩むカルナの具足が透き通った音色を奏でる。

 常ならば耳に心地よく聞こえるであろうそれは、この場においては不思議とどこか寒々しい。

 

「お前は誕生した時、肉体を半分ずつ持った赤子として生まれたという。

 ならば、お前がよほど疲弊していない限り、その程度の傷では死ぬことはないだろう」

 

 ――ロティカ、と呼ばれて、倒れ伏した王を見つめるカルナの側へと駆け寄る。

 嗚呼、まさか、そんなことが……! そんなことがありえるなんて……!!

 その場に膝をつき、レヘンガが赤く染まるのも気に留めず、じっとそれを凝視する。途端に、むっとする鉄錆の臭気が辺りに充満し、すんと鼻を鳴らす。

 

「これは、なんというか……えぐいな」

 

 はくはくと半分になった唇が動くのを見下ろして、思わず感想が漏れる。

 この光景には歴戦の戦士であっても言葉を失うことだろう。眼下にあるのは真っ二つに裂けた大男の人体、そこまでなら戦場にでも転がっている悲惨な情景に過ぎない。

 

「……なのに、動いている……!」

 

 その言葉に、ギロリと二つの目玉が動く。普通だったら即死ものの裂傷だ。綺麗に裂かれた半身からは今も赤い血が滴り落ち、断面には鮮やかな赤色が覗いているというのに。

 

 それなのに――この国王は()()()()()

 

「――ロティカ」

「――っ! わ、かってる!」

 

 カルナに促され、長く伸びた髪を一筋引き抜いて俺の魔力を込める。

 くたりと力を失っていた髪の毛が魔力を通したことで針金のように芯を持ち、そのまま、ひとりでに傷口を縫い合わせていく。

 

 即興ではあるが傷口を縫合したのを確認して、髪の毛を媒介に、治癒のための魔力を込める。

 傷口を朱金色の輝きが覆った後、裂かれた皮膚がみるみるうちに癒着し、最後には金の鱗粉を残して消失するまで見届け、ほっと息をついた。

 

「……はぁ、心臓に悪い」

「感謝する。ただ切断面を合わせるだけで不安だったからな、お前の治癒の力があって助かった」

 

 荒事とは基本的に無縁の生活を長らく送っていたから、さすがにぎょっとした。

 表情一つ動かさないカルナとは違い、俺の方が気づけば額に薄く汗が浮かんでいた。

 それを手の甲で拭っていれば、大きく咳き込む音を立てながら復活したマガダ国王が起き上がろうとしていた。

 

「……信じられん」

 

 自らの両手を呆然と見つめながら、国王がうめき声をあげる。

 まあ、普通に考えて真っ二つに裂かれた筈なのに生きていること自体が信じがたい神秘だよね。

 かくいう治療した俺も、別の意味で信じられないよ。

 

「――さて。どうする、マガダの王? まだ続けるというのであれば、オレは相手を務めるが」

「…………いや」

 

 王が大きく首を左右に振る。地に腰を下ろしたままの王が大きな溜息を吐き、まいったと言わんばかりに両手を挙げた。

 

「……腹立たしい限りだが、今の一撃で悟らざるを得なかった。誠に噴飯ものではあるが、余は貴様に勝てないという事実を突きつけられたわ」

 

 苦々しい表情を浮かべた国王が、自身を見下ろしているカルナを睨みつける。

 うーん、視線だけで人が殺せる目つきというのはこういう状態のものを指すのか、なるほど勉強になる。

 

「民の巻き込まれぬ場所に移って、思う存分己が力を発揮したところで、結果は同じだろうよ。余の腹心たちを率いてドゥリーヨダナ相手に戦を仕掛けたところで、貴様一人に戦況がひっくり返される光景しか思い浮かばん」

 

 先ほどまで大量の血を流していた重症だったとは思えないほど滑らかな動きで立ち上がる。

 戦々恐々と様子を伺っていた家臣たちに国王が軽く肩を竦めると、あちこちから安堵の溜息と歓声が湧き上がり、その光景を黙して見守っていたカルナがぽつりと呟く。

 

「……慕われてるのだな」

「ふん、当然だ。自国の民にすら慕われず、王が務まるものか」

 

 ――いっけね、服の裾に血がしみ込んじゃってる。

 そういやこの服って借り物だったよね……こんなに汚してしまって後で怒られたりしないかな。

 軽く服を叩きながら、俺もまた立ち上がる。マガダ国王はすっかり戦意を喪失してしまったようだけど、ここは審判として確認しておかないと。

 

「――陛下。それではこの決闘の勝敗は……」

「負けだ、負けだ。余の敗北だ! ――さあ、カルナ、勝者は貴様だ。煮るなり焼くなり好きにするとよかろう」

 

 敗者であると己を称しながら、太々しく腕組みをして仁王立ちする王は流石だった。

 これまでに決闘で負けた王族たちを次々と虜にして、破壊神の生贄にしてやると豪語するだけのことはある。てっきり、武術自慢なだけあって自分の敗北を認めきれずに散々喚いたりするかと思ったが、存外肝の据わった態度だ。

 

「――カルナ、お前はどうしたいの?」

 

 最も手っ取り早い手段はここで首を刎ねてしまうことだろう。

 

 殺せ、とは命じられていないが、殺すなとも言われていない。

 王を討伐した証拠として、その首をドゥリーヨダナに捧げる。

 

 難敵の死にドゥリーヨダナもにっこり、いちゃもんつけてくるうるさ方はびっくり、パーンダヴァ勢はどっきり――うん、文句無しの大団円だ。

 

 ――けど。

 

「カルナ、もう一度聞くよ? ()()()()()()()()()()?」

 

 影を背負った白皙が、こちらを伺い見る。薄い唇が一度開いて、そして閉ざされた。

 それの意味するところを正確に読み取って、胸中で小さく溜息をつく。

 ……嗚呼もう。本当に不器用な弟だなぁ、全く。

 

 常ならば無礼だと弾劾されるだろうが、そこはそれ勝ったのは俺たちだし。

 まっすぐマガダ国王の目を見つめ、周囲にも聞こえるように声を張り上げた。

 

「――ドゥリーヨダナ王子の首級とカルナの鎧、そして我が身。それら三点が陛下の要望の品でありましたな」

「……寸分たがわず肯定しよう、女楽師殿。見事に貴様の連れにしてやられたわ」

「――……陛下は決闘を始める前にこう仰いました。"堂々と勝負を挑み、闘いに勝ったものは、相手を己の意のままに扱っても良いというのがクシャトリヤの慣習だ"と。――それでは戦士の慣習に倣い、我々も敗北者であらせられます陛下に三つ、要求を突きつけさせていただきますが前言の撤回はございませぬな?」

「くどいぞ。余はクシャトリヤにしてこの国の王だ。口にした誓いを破るような真似などせぬわ」

 

 それを聞いて、それはそれは美しく微笑んでみせる。絶世の美少女の極上の微笑を目にした兵士や民衆たちの一部が頬を赤く染めたのを確認し、しめしめと内心でニンマリした笑みを浮かべる。

 

「では一つ、今後ドゥリーヨダナ王子の敵にならぬことを、貴方の先祖と最も信奉する神、そして正義と法の神・ダルマにお誓いいただけますか?」

「……よかろう、ドゥリーヨダナ王子がクル王国に居る以上は敵対せぬことを誓う」

 

 ダルマ神に誓った以上、それは絶対だ。屁理屈つけて破っていいような内容ではならない。

 

 ――文字通り、言葉の重みが違うのだから。

 

 この誓約で重要なのは"ドゥリーヨダナの敵"にならないことなんだよなぁ。

 ある意味、言葉遊びにすぎないのだが、無条件で直接味方になれといわれないだけ、誇りたかそうなマガダ王の腹の虫も収まることだろう。

 

「二つ目、陛下が虜囚として遇している各国の王族たちの身柄全てを我らに譲っていただきたい」

「……っ! 仕方あるまい。余も敗者であることを理由にあの者たちを虜にしたのだからな」

 

 苦虫を百匹くらい噛んで擂り潰して飲んだような表情をしながら、しぶしぶと首肯した王にこれでもかと言わんばかりに素敵な笑顔で微笑みかけた。

 どういう理屈で生きている人間を神への生贄にしてやることを思いついたのかは知らんが、きっと王なりの道理があってのことだろう。人間を生贄にするというのは天上の神々ではなく、それらと敵対する羅刹や阿修羅側の理屈っぽいけど、マガダ王の信じる神はシヴァ神なんだよな。やっぱりそこらへんの事情はよくわからん。

 

「三つ目は解放した王族たちの世話にかかる全ての負担です。彼らの体を休ませるための空間、滋養のある食事、国へ返すための手段諸々を要求します。――それから、ドゥリーヨダナ王子とドリタラーシュトラ王宛に一筆したためていただきたい」

 

 とりあえず、ドゥリーヨダナの目的は自国に攻めてこようとするジャラーサンダの企みを阻止せよと言うものだったし、これで果たせたようなものだろう。ただ首級を得る以上の利益をもたらせば、文句を言う口だって噤まずにはいられないだろう。

 

 拍子抜けした表情のジャラーサンダ王を急かし、家臣たちに命じて筆記具を持って来させる。

 ついでに兵士たちに指示して決闘場の周囲に突き刺さっている刀剣類を引っこ抜かせ、洞穴の中で幽閉されている王族たちを解放するように命令する。

 それから観衆と化していた市民にも市場にある滋養のある食べ物や清潔な布、よく沸かした湯などを用意して、王宮の客人用の棟へと運ぶように言いつけた。

 

 ちなみに費用は全てマガダ王持ちである、いやあ、実に気分がいいね!

 

「カルナ、それを持って象の都(ハースティナプラ)に戻りなさい。その時は必ず大勢のいる前で、その書状を読ませること――いいね?」

「……承知した。委細その通りにしよう」

 

 マガダ王の直筆で玉璽が押されていること、それから肝心の内容を確認してカルナに渡す。 

 それから、髪の毛を一本引っこ抜いて硬化させ、それをくるくると回して、っと!

 

 ――ピチチ、と軽やかに囀る金色の針金の小鳥を、カルナに手渡す。

 

「絶対に何かを聞かれるから、取り合えず王子にその子を渡しといて。口下手なお前の代わりを務めてくれるから」

「そうか……何から何まですまない。――何よりオレの我欲に受け入れてくれて、感謝する」

「滅多にないお前の願いだもの。それを叶えてあげるのが俺の役目ってやつだよ。気にしないで」

 

 少し小狡いやり方だけど、カルナがジャラーサンダ王の命を惜しんだことを配慮して、なるだけ最上の手段でそれを果たしてやっただけ。

 

 言外にそのことを告げると、ふわりとカルナが微笑んだ。

 ……兄としては、お前がそうやって偶に笑ってくれるだけで十分なんだよなぁ。

 

「――さて。俺は俺の仕事をしようか」

 

 ――カルナが来た時同様に虚空へと舞い上がり、まっすぐに象の都(ハースティナプラ)への進路をとるのを見送り、解放された王族たちの運ばれた客人用の棟へと足を進める。

 彼らは長い間の幽閉生活のせいで衰弱しきっているだろうし、ジャラーサンダ王相手に色々と根回ししないといけないしで、やることがいっぱいだ。

 

 けど、ここで打てるだけの手を打っておかないといけない。

 この決闘で力量が明白となった。不都合な現実を直視した。残酷な事実を把握してしまった。

 表情はにこやかなままに、後ろ手に隠した拳だけを固く握りしめる。

 

 俺の弟は、カルナは――――俺が想定していた以上に、()()()()()()()()()()()()()




<登場人物紹介>
・ジャラーサンダ
 …『マハーバーラタ』に登場する剛力無双の国王。ユディシュティラのラージャスーヤにおける最大の難敵であると見なされ、原典においてはビーマと十数日に渡る激闘を繰り広げた結果、体を三度引き裂かれて死亡する。しかし、それ以前にカルナとも決闘したことがあるらしく、ビーマに数回引き裂かれても負けを認めなかったこの王は(原典に結構さらっと書かれているため、詳細は不明だが)カルナと戦った時には一度引き裂かれた瞬間、自らの力量がカルナに遥かに及ばないことを悟って降伏したという。カルナの武勇の凄まじさを物語る有名なエピソードの一つ。

(*あのビーマ相手に互角に戦えた王がカルナ相手だと一度で敗北を受け入れた、とあるため、カルナのキャラクター性・冷酷かつ無慈悲な武人としての一面を強調し、力量の差を感じずにはいられないような決闘内容にしました……戦闘描写苦手なので結構疲れた*)
(*いかにもインド!な内容にしたかったのですが、決闘の場所が街中であることやジャラーサンダ王が生まれこそ奇妙ではありますが、一応はただの人間であるので、あえて白兵戦だけに留めました*)
(*征伐編の締めくくりにもう一話だけ書いて、それから「幕間の物語」を執筆したいと思います。まだアンケートは続いておりますので、活動報告へコメントしてくださいますと幸いです*)


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後始末と根回し

これで、第2章もおしまいです。
気づいたら結構な文字数になってしまいましたが、分けて投稿するのもアレなので、まとめてアップしました。
第2章に関する感想や誤字報告、ありがとうございました。
感想はとても励みになりますし、報告はとても助かります。


 カルナが勝利を収めてから、約一週間近くの日数が経過した。

 その間、俺は非常に忙しない日々を送った。

 

 まずは、ジャラーサンダ王の宮殿にある客人用の宿泊施設を一棟まるまる借り上げ、そこに洞穴から解放されたばかりの王族の虜囚たちを収容した。

 王の家臣たちやラージャグリハの市民たちを総動員して衰弱しきった彼らの世話に当たらせ、俺自身も日に数度彼らの生命力を喚起させる歌声を奏でることで一日も早く彼らを正常な状態に戻すべく奮起した。

 

 そうして、話せるまで元気になった彼らの口から自分たちがどこの出身であるのか、囚われてからどれほどの日数が経過しているのかを確認し、彼らの生国へと王族たちの無事と近いうちの帰還を知らせる書状を認めさせ、それを俺の小鳥たちを使役して各地へと派遣するなどと非常に忙しい日々を送ったのである。

 

 その間、大活躍したのがカルナであった。

 陸路ならどんなに急いでも数日はかかる距離も、炎の翼を持つカルナならばひとっ飛びの距離である。俺の小鳥たちでも数時間はかかる距離も、カルナならものの数分で済ませられる。

 そんなこんなで事態を把握したいクル王国や虜囚の王たちの国々から至急の返事が求められた時、文句ひとつ言わずに頼みに答えてくれるカルナの存在は非常に重宝した。

 下手すれば伝書鳩扱いであるのにも関わらず、本人も嫌な顔ひとつ見せずに従ってくれるため、とても助かった。

 

 こうしてカルナがあっちこっち文字通り飛び回ってくれたため、各地への通達は滞りなくすませることができた。

 加えてカルナに一任したことで、大事な書状が入れ替えられたり、盗まれたりする恐れもなかったことが幸いした。

 

 それらの業務と並行し、俺はラージャグリハの職人たちに命じ、いくつもの馬車を制作させた。

 なんとなく俺が神の眷属であることを察していた職人たちも快く応じてくれて、出来上がった時には王様名義の謝礼に加えて、俺も各地の金持ちから貢がれた宝玉の幾つかを報酬として差し出したくらいの見事な出来栄えだった。

 その造形は戦車のようだが、戦に用いるような装備は全て外されており、まとめて数人が乗れるようになっている上に、実に見栄えのいいものであったとだけ伝えておく。

 

 長期間の移動にも耐えられるだけの健康な体を取り戻した王たちを同じ方角の面々に小分けし、カルナに頼んでそれぞれの生まれ故郷へと送り届けた。

 

 道中を山賊を始めとする輩に襲われないように、という配慮もあったが、それまで戦車を操ったことのないカルナに戦車もどきを運転させてあげようという兄心もあった。

 

 ――基本的に戦士階級の者だけに許されている戦車である。

 初めて扱う戦車にカルナが白皙を紅潮させ、興奮した目つきで操縦を楽しんでいたのは、見ていて嬉しかった。ついでに、カルナの腕前が父親であるスーリヤ譲りであるということも判明したが、それ以上にカルナが隠れ速度狂であることも判明した。

 

 なるだけ安全運転を心がけなさい、と言いつけたのだが、乗客である王族たちまでカルナの戦車操縦の見事さに感嘆し、ものすごい速さで走る戦車にはしゃぎだしたせいで、その忠告はどっかに飛んで行ってしまった。

 

 腕利きの戦士の条件の一つに戦車の速度と腕前が問われることは知っていたが、カルナの暴走戦車にもそれが当てはまったらしい。

 カルナの操縦する戦車もどきに乗せられて旅立つ彼らの表情は非常に輝き、普通よりも少し速い速度で走るだけの俺の戦車もどきは不評だったとだけ言っておく。多分きっと薄暗い牢獄から解放されたことで、彼らの気分が結構な興奮状態に陥っていたせいに違いない。

 

 こうして諸々の後始末を済ませ、最後の王族を国に送り届けた俺たちはラージャグリハの都を後にしてクル王国へと帰還したのであった。

 

 ――そして今、ドゥリーヨダナの執務室に兄弟仲良く並んだ状態で、労いの言葉も早々に、床の上に膝を畳んで座らされている。

 

 

 様々な宝石や金銀細工が山のように積み重ねられた王子の執務室。

 女官たちの手によってすべすべに磨き上げられた床に仁王立ちするドゥリーヨダナ。

 その顔面には笑顔が浮かんでいるが、どこかぎこちないし、普段は綺麗にまとめられている髪型も所々解れているように見える。

 

「――さて、二人とも。どうして自分たちがそのような状態に置かれているのか理解できるな?」

 

 その言葉に、同じく不思議そうな顔をしたカルナと視線を合わせる。

 

 ――カルナ、俺たち何か怒られることをしたっけ?

 ――……いや、特に彼の気を損ねるような真似をしでかした覚えはない。

 ――うーん。俺の方も特に思い当たる節はないなぁ。

 ――とはいえ、言葉の足りぬオレのことだ。気付かぬうちにしでかした可能性は大いにある。

 

 目と目で会話して、揃って首をかしげた俺たちの姿に、ドゥリーヨダナのこめかみが引きつる。

 なまじ、顔面には笑顔を浮かべているだけ、その差異がひどい。

 あ、こめかみだけじゃない、口の端の方もピキピキと引きつっていた。

 

「ほーう、ほほう。つまり、これっぽっちも思い当たらないと」

「そうだね」

「そうだな」

「ええい、このおとぼけ兄弟が! ――アシュヴァッターマン、この天然二人でもわかるように懇切丁寧に説明してやれ!」

「承りました」

 

 とうとう地団駄踏み出した王子の命を受け、その背後に控えていたアシュヴァッターマンが、楚々と歩み寄ってくる。

 そんな彼でさえ、従僕がごとく静謐な表情を浮かべてはいるものの、よくよく観察してみれば、ほっぺたがふるふると震えていた。

 

「ここ数日の間、ハースティナプラに各国からの使者が連日のように訪れ、ドゥリーヨダナ王子とドリタラーシュトラ陛下への目通りを願っているのですが、その際に、彼らは揃ってこのように口にしております」

 

 ――ぷくく、と奇妙な音がアシュヴァッターマンの方から聞こえる。

 への字に口元を歪めているドゥリーヨダナは頑として聞こえない振りを貫いている。

 

「薄暗い洞穴へと囚われた哀れな彼らを日の当たる場所へと連れ出してくれた恩人が、この国にいると聞いて赴いたと。剛勇無双を誇るマガダ王との決闘に勝利した勇者の名はカルナ、そしてその恩人たるカルナを遣わしてくださった方こそ、ドリタラーシュトラ王の長男であるカウラヴァの王子・ドゥリーヨダナ殿下であると」

「――いい話じゃないか、ねぇ」

「おおむねその通りだな。的確に事実をまとめた報告ではないのか」

 

 ふるふるとドゥリーヨダナが震えだす。

 とうとう堪えきれないと言わんばかりに、アシュヴァッターマンが必死に口元を抑えて忍び笑いをかみ殺す。

 

「〜〜よくない、ちっともよくない! 確かに、わたしはそこのカルナをマガダ王国へと遣わしたさ。でもそれは、カルナに武勲をたてさせ、宮中の面倒臭い連中の口を黙らせるためにしただけだ! そのついでに、ジャラーサンダ王がカルナにコテンパンにされて調子に乗るのをやめてくれないかなぁー、ジャラーサンダが破れたら虜の王たちに恩を売りつけてやれるかなぁー、という目論見があったことは否定しない!」

 

 うわぁああ、と悲鳴をあげながらドゥリーヨダナが髪の毛を掻き毟る。

 せっかく女官の誰かが綺麗にまとめてくれたであろう髪型がますますぼさぼさになっていく。

 

「――なのに! なんか気づいたら、虜の王たちの境遇を憐れんで腹心の勇者を送り込んだ、慈悲深い王子って扱いを受けているし! 各国の使者たちから耳が痒くなるほど讃えられているし、あちこちから感謝の印として捧げ物が連日のように運び込まれてくるし! 母上と父上には褒められるし、ビーシュマのハゲには感心されるし! どれだけ否定しても謙遜として受け止められる上に、ユディシュティラのアホには見直したよと言われるしで――正直、もう限界だ!!」

 

 外見にはどこにも異常がないように見受けられるが、ひょっとしたら頭の大事な部分を強打してしまったのかもしれない。

 遂にはごろんごろんと床を転がりながら器用に叫びだした王子の狂態に、さすがに心配になってカルナに問いかける。

 

「――ね、ねぇ、カルナ。この王子様、いったいどうしちゃったの?」

「そうだな……悪人を装いながらも、根が小心な男だからな。自分の在り方だと思い込まされている有り様にそぐわぬ言葉をかけられているせいで、羞恥と罪悪感に駆られているのだろう」

 

 淡々としたカルナの言葉に、ついにアシュヴァッターマンが崩壊し、爆笑する。

 その笑い声を背景に、部屋中を転がっていたドゥリーヨダナが勢いよく起き上がった。

 

「〜〜ああ、そうだとも! 侮蔑され、けなされ、非難されていることには慣れてはいても、褒められたりすることには慣れてないのだ! それなのに、あちこちから毎日のように感謝の言葉が届けられるし、いったい何の苦行かつ拷問だ、これは!」

「つまり、簡潔にまとめてしまえば、王子は照れていらっしゃるのです」

 

 ニコニコ微笑みつつのアシュヴァッターマンの一言に、奇声をあげてドゥリーヨダナが顔を覆う。

 私は善人じゃない、悪人なんだと…とぶつぶつとつぶやいていた王子だったが、ちなみに今の王子は恥ずかしがっておいでですよ、とアシュヴァッターマンによって止めを刺されて撃沈した。

 

「加えて、ドゥリーヨダナ王子は救出した王族たちに謝礼を求めなかったとのこと。その配下のカルナという黄金の鎧をまとった若武者も、あくまで主君の命に従ったまでのことであると固辞して立ち去っていったという無欲ぶり。虜となった王たちの帰りを待ち望んでいた各国の者たちは揃って感激の涙を流し、せめてもの礼にとドゥリーヨダナ王子へと捧げ物をもってやってきた……というのが、一連の出来事の総まとめといったところでしょうか」

 

 王子の執務室に収まりきれず、廊下にまで並べ置かれている宝物の山を見渡したアシュヴァッターマンが感嘆の溜息とともに締めくくる。

 それにとどめを刺されたドゥリーヨダナはうつむいたまま、ぴくりとも動かない。

 ただ、顔面を覆ったままの手のひらの隙間からくぐもった声が聞こえてきた。

 どうやら、今回の騒動で受けた心の擦過傷が痛むようである。

 

「――カルナ、お前に尋ねたいことがあるのだが」

「――――オレに答えられることであれば、その問いに答えよう」

「お前が……謝礼を求めなかったという話は本当か?」

「本当だ。そも、お前から受けた命令はマガダ王が王国に攻め入ってこないようにするためのものであり、オレの武勲や名誉などは二の次だ。彼らの解放は成り行きによって成立したことにすぎない――よって、そんな彼らから報酬を受け取ることは道理に合わぬと判断したまでのこと」

「そうか……、納得した。否、納得させられた……お前はそういう男だからな」

 

 きっぱりと言い切ったカルナの言葉に、ドゥリーヨダナの肩が心持ち落ちたような気がする。

 そろりと頭部が動いて、指の隙間から覗く黒水晶の瞳の片方が俺の方を見やる。

 

「兄上殿……ではなかった、今の状態はロティカ殿か。よろしければ、彼の国であなたが何をしたのか、具体的に教えていただけないだろうか?」

「嘘は一つも付いていないよ?」

 

 ――俺のしたことといえば、寝台の上の王族たちの質問に丁寧に答えてやっただけである。

 

 カルナがドゥリーヨダナ王子の命令を受けて派遣されてきたこと、ドゥリーヨダナ王子はマガダ王の他国の王族への暴虐に不愉快な気分でいたこと、今回の件にはクル王国側の事情が多分に関わっているから苦難の底にいた貴方たちが気にやむ必要などないこと。

 

 ――それでも気が済まないというのであれば、ドゥリーヨダナ王子が困った時に一度だけでもいいので力を貸してあげてほしい、と告げただけである。

 まあ、茜色の夕焼け空を背景に優しく微笑む絶世の美少女の姿は、さぞかし彼らの琴線を刺激したであろう、とだけ追記しておく。

 

「なるほど……理解した。全てロティカ殿の差し金か……」

 

 ――だが、と黒水晶の目が無言で物語る。

 それだけではないだろう? と告げるドゥリーヨダナに、内心で小さな溜息を零す。

 ちらりとカルナへと視線を向ければ、心得たようにドゥリーヨダナがゆっくりと瞳を閉じた。

 

 厳密に言えば、俺はドゥリーヨダナと――ひいてはカルナのための味方作りの工作を行った。

 警戒されにくいロティカという名の架空の女の容姿を用いて、長らく幽閉されて心を弱らせた王族たちを癒しながら、その心にカルナたちへの恩義を根付かせたのだ。

 

 ……今回の出来事により、得られたものはいくつもある。

 マガダ王を降したことでカルナの実力は証明され、宮中の登用反対派たちの口を揃って噤ませるだけの功績を打ち立てたこと。これで当分の間のカルナの宮廷での立ち位置は安定するだろう。

 次に、ジャラーサンダを生かしたことで彼を慕う者たちの恨みを買うことを回避し、さらにはドゥリーヨダナとは敵対しないという誓約を課すことに成功したこと。これは後々になってから、大きな意味を持つことになるだろう。

 

 さらに虜囚となっていた哀れな王族たちを解放し、故国へと帰還させたこと――これが一番大きい。クシャトリヤは受けた恨みを忘れないが、それ以上に受けた恩義について非常に義理堅い。

 そんな彼らを薄暗い洞穴の牢屋から助け出し、惜しみなく神の力を解放してまで、弱り切った体が元の健全な状態になるまで手厚い世話を焼いたのだ。

 その厚遇に対して彼らが感謝し、自分たちを薄暗い洞窟から解放してくれたカルナやドゥリーヨダナに好感を持つのは必定だった。

 

 国内には信頼の置ける味方の少ないドゥリーヨダナだが、今回の件で恩義によって結びついた味方が各国に点在する運びとなった。

 また連日の訪問客の口からカルナの武勇伝やドゥリーヨダナへの感謝の言葉が綴られたことで、悪辣王子と名高い彼に対する新たな認識が象の都に住まう人々の心に強く印象付けられたのは、ドゥリーヨダナの錯乱ぶりからも明らかだ。

 

 命じた張本人たるドゥリーヨダナにそうした思惑がなかったとしても、今回カルナが動いたのは主君たるドゥリーヨダナの言葉あってのこと。

 その結果として、王族たちが救われたのは紛れもない事実である。

 例え、どんなに他者がドゥリーヨダナを偽善者として罵ったとしても、牢屋の中に囚われた王族たちを救い出したのはカルナであり、ドゥリーヨダナであると解放された王族たちは強く認識し続けることだろう。

 

 俺が仕掛けたのは、ちょっとした言葉遊びのようなもの。

 ……あまり褒められた行為ではないが、それで誰かを不幸にしたわけでも、傷つけたりしたわけでもないので、天界のスーリヤとてお目こぼししてくれるだろうよ。

 

 なんせ、ドゥリーヨダナに従うと決めたということは、カルナはパーンダヴァの王子たちと敵対する道も覚悟して選んだということ。

 カルナが決めたことなら俺はそれを支えるだけだと決めている――だからこそ、その主人であるドゥリーヨダナの味方は多い方がいいと判断した。

 

 ――なにより、想定していた以上にカルナが強くなっていたことは、もう隠しようがない。

 隠しようがないなら開き直るしかない――戦う前から、敵わないと諦めてくれるのが一番だが。

 

「……はぁ。起こってしまったことは仕方ない、当初の予定以上の収穫が得られたのだ。それでよしとするか」

 

 じっと黙ったままの俺を一瞥し、ドゥリーヨダナがゆっくりと立ち上がる。

 ようやく正気に戻ったようなので、彼の形のいい頭の中では色々と今後に対する策謀が巡っていることだろう。

 

「――ただ、一つだけ気にかかってしようのないことがあるのだが」

「何でしょう、ドゥリーヨダナ殿下?」

 

 にっこりと微笑みかけてくるドゥリーヨダナに、俺もにっこりと微笑む。

 そういやこの方誰だろう? と今更ながらに不思議そうな顔をしているアシュヴァッターマンはこの際置いておこう。

 

「ここ最近、都に流れているわたしに関する噂話の内容について、必要以上に美化されている気がするのだが、ひょっとしたらこれも誰かの差し金だろうか?」

「いやだなぁ、殿下。少しでも殿下の悪評を晴らして差し上げようとした、誰かの心ばかりの気遣いですよ」

 

 ひねくれ者であるドゥリーヨダナの性質上、絶対そっちの方が受ける衝撃が強いだろうと邪推しての可愛い悪戯(イヤガラセ)である。

 結果的に杞憂で済んだとはいえ、カルナに対する無茶振りをしでかしたこと、別に許してやったわけじゃないし。

 

「そうか、そうか。ところで二人とも、もうそろそろ立ち上がってもいいぞ」

 

 ニッコリと鷹揚に微笑んだドゥリーヨダナが片手をひらひらさせて、座り込んだままの俺たちに立ち上がることを許す。

 しかし奇妙な座り方だな。膝を折り曲げ、お尻を太ももの上に乗るように座らせるなんて、初めてした座り方だよ。

 

「もう気が済んだのか? ならば……む?」

「そうですか、それでは遠慮な……あれ?」

 

 鎧を鳴らしながらすんなりと立ち上がったカルナであったが、俺の足の方は意に反してちっとも動かない。中途半端に座り込んだままの俺を見下ろし、カルナが不思議そうに首をかしげた。

 

「――っち。やっぱりカルナには効かなかったか」

 

 奇妙な表現だが、上品に舌打ちしたとしか例えようのないドゥリーヨダナが、心底悔しそうな表情を浮かべ――邪悪な笑みを零す。

 それはともかく一体、何が俺の体に起こっているんだ。足が、足が痺れて……う、動けない。

 なんというか、足がまるで護謨(ゴム)にでもなってしまったようにぶよぶよしている。何これ、初めての感覚に胸がぞわぞわする。

 

「しかし、本命はかかったようだな――どうだ! ビーシュマ直伝の正座攻撃の威力は大したものだろう!!」

「は、はうぁ! やめて、つつかないで! ひえええ!」

「……ドゥリーヨダナ、とても生き生きしているな」

「そうですね、とても楽しそうですね。……しかし、あの女性どこかで見たような?」

 

 結局、ドゥリーヨダナに仕返しできたと思ったら、仕返し返されました。くそう、してやられたわ……あの王子め。俺じゃなくてワタシだったら手打ちものだぞ、全く。

 

 

 ドゥリーヨダナがカルナやアシュヴァッターマンと連れ立って、父王に拝謁してくると宣言して執務室から出て行ってしまったために、俺一人だけこの部屋に取り残されていた。

 

「そういえば、この辺に置いたままにしていたんだよな。俺の腕輪、っと」

 

 ――嗚呼、それにしてもひどい目にあった。

 単に膝を畳むだけの座り方に、あんな罠が仕掛けられていたとは、夢にも思わなかったよ。

 

 そんなことを考えながら、ごそごそとロティカの姿のままドゥリーヨダナの執務室を漁る。

 

「にしても、一気に物が増えすぎて見つけにくいなぁ」

 

 父であるスーリヤから下賜された黄金の腕輪だが、外した後は特に回収することもなくドゥリーヨダナの部屋に置いたままにしておいたんだよね。

 一応、カルナがドゥリーヨダナの側から離れている間に災難に巻き込まれないように、と思っての判断だったけど、さてどこにあるんだろう?

 

 あれを普通の人間がつけるには一周回って体に害があるけど、側に置いておくだけなら守護の力が高まる神宝だからね。

 間違って誰かが腕に嵌めないように――といっても、王子の執務室にあるものだし勝手に盗られたりしないと思うけ、ど……?

 

「――……おかしい」

 

 一通り探し回って判明した事実に、じっとりと冷たい汗を掻く。

 集中すれば魔力の痕跡を読み解ける。なので、宮殿のどこかにあることだけは確実だった。

 ――それは確かなのに、あるべきはずの場所であるドゥリーヨダナの執務室にはない。

 

「――つまり、俺の腕輪が……何者かに盗まれた?」

 

 そうとしか結論付けられなかった。

 ――だとすれば、いったい誰の手によって……?




(*第3章はとうとうアルジュナ本活躍の話になります。構成としては「不吉な家編」「ドラウパティー姫の婿選編」あと「運命の賭博遊戯編」といったところでしょうか。ついでに、インドラと某腹黒がアップし出します*)

(*アンケートですが、とりあえず本日いっぱいまで実施しております。「幕間の物語」ですが、
1、ビーマ視点 2、アルジュナ視点 のどちらかに活動報告のコメント欄に投票頂けますと幸いです*)


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幕間の物語・2
<上>


兼ねてから予告していましたアルジュナ視点の「幕間の物語」です。
今回は原典の描写に対する筆者の見解が大幅に影響している話になりますが、こういう解釈もありなのかと思って呼んでもらえたら嬉しいです。

評価とか感想とか送ってもらえると、すごく励みになります。あと、誤字報告感謝しています。
それではどうぞ。


 ――炎の翼持つ()()を目にした瞬間、自身を構成する歯車が噛み合った音がした。

 

 

 自分が、ひいては自分たちが、他の「人間」と呼ばれる人々と違うということを自覚したのは、いつの頃からだったのだろう?

 

 少なくとも、地上の父と二人の母と暮らしていた森の中での生活でそのようなことを思い悩むことなどなかった。

 だからそう――本格的に自分自身の異質性について彼が考え込むようになったのは、このハースティナプラに居を移してからであることは間違いない。

 

 ――父が亡くなり、その責任を取るような形で後追いした二人目の母・マードリーの死後。

 実母であるクンティーに手を引かれるようにして、この都に初めて足を踏み入れた後。

 実弟の死を嘆き悲しみつつも、その忘れ形見たちの存在に喜んだ国王・ドリタラーシュトラが、自身の子供達であるドゥリーヨダナを初めとする百王子たちを紹介してくれた日のことを、彼ははっきりと覚えている。

 

 ――お前たちもまた、クルの一族の者なのだから、仲良くしなさい。

 

 そう告げた国王の言葉によく分からないままに頷いて、父王の言葉に従兄弟たちが小鳥が連れ立って囀るように「よろしく」と笑ったことを覚えている。

 

 ――生まれて初めて見る、家族以外の人間たち。

 幼い頃から老成していた長兄が何を思っていたのかは分からないが、初めて自分と同い年の子供・ドゥリーヨダナに出会った兄のビーマがひどく興奮していたのは確かだった。

 あいつと友達になるんだ、とキラキラした目でそう言っていた兄の横顔を、憧憬と共に見上げた記憶をどうしても忘れられない。

 

 森の中の生活は確かに悪くなかった。

 神々の息吹が色濃い木々の合間を兄弟で駆け回って遊ぶ日々、怪物のような大魚が悠々と泳ぐ湖で釣りに興じた時間、時折森に訪れる客人の話にワクワクしながら耳を傾ける夜のひと時。

 

 毎日が新しい発見で、飽きることなどなかった。

 

 ――両親を初めとする大人たちは確かに彼らに優しかったし、愛してくれてはいたけども、共に山野をかける遊びに付き合ってくれることはなかった。

 父母から渡された書物から得た情報では大勢の人間が森の外で暮らしているというのに、同じ年頃の子供が自分たちだけだったことだけが、数少ない不満だった。

 

 ……話を戻そう。

 父と二人目の母の死は、確かに幼い彼にも大きな衝撃を与えた出来事だった。

 とはいえ、幼い子供のことだ。

 それまでの静かな森の暮らしから一転して、華やかな都で先王の忘れ形見として忙しい日々を過ごすようになると、胸を突き刺すばかりだった悲しみも時と共に次第に薄れていった。

 

 ――それに、出会ったばかりの百王子たちとの間柄だって悪くなかった。

 新たに現れた王国の継承者に内心きっと穏やかではなかっただろうが、従兄弟たちのまとめ役であるドゥリーヨダナは、父母を亡くしたばかりの自分たちにひどく同情的だった。

 

 もともと家族思いで面倒見のいいドゥリーヨダナのことだ。

 都に来たばかりで不慣れな上に傷心な従兄弟たちに、自分が先達として色々と教えてやったりしてやらなければ、と奇妙な責任感を感じていたのかもしれない。

 

 とりわけ、実の母とも死別してしまった双子の弟たちは、一番早く従兄弟たちに懐いた。

 いなくなってしまった母親を恋しがって泣いている彼らの元に、大勢いる従兄弟たちは交代で寝台に潜り込んでは、自分たちの知っている物語を読み聞かせたりするなどして、彼らの悲しみを紛らわす手伝いをしていたらしい。

 長兄であるユディシュティラは、兄弟の中で最も神の血が濃かったためにそうした人の心の機微に疎かったから、目に見えないところでうつむきがちな双子の内面に、いの一番に気づいたのは弟妹を数多く持つドゥリーヨダナの方だったのだろう。

 

 泣いている餓鬼には人肌の温もりが一番だ、と嘯いていたドゥリーヨダナに、双子の兄として素直に感謝の言葉を口にすれば、照れ臭そうに笑っていたのを思い出す。

 

 ――ああ、それは間違いなく森での暮らしの日々に劣らないほど輝いていた時間だったのだ。

 

 先王の子供である自分たちにも分け隔てなく愛情を注いでくれる国王夫妻。

 厳しい顔つきを綻ばせながら自分たちを孫のようだと可愛がってくれる曽祖父。

 父母を亡くしたばかりの自分たちに親切に接してくれる同い年の大勢の従兄弟たち。

 

 家族を失った悲しみや戸惑いも次第に薄れ、王都で始まる自分たちの新しい生活は、何もかもが順調なように思えた。

 

 ――そんな矢先の事だった。

 

 兄のビーマが弟たちに怪我をさせたといって、怒り狂ったドゥリーヨダナが、ユディシュティラの部屋へと駆け込んで来たのは。

 

 それまで自分たちに同情的で優しかったドゥリーヨダナの初めて見る険しい表情に、柄にもなく気後れしてしまった――あの時の自分にとっては、それほどの衝撃だった。

 

 同い年ということも関係していたのか、次兄のビーマは彼の兄弟の中では一番ドゥリーヨダナを意識していた。

 

 書物の中でしか読んだことのない“友人”という関係に、最も憧れていたのもビーマだった。

 実際、ドゥリーヨダナの方もビーマに対してその時までは少なからず好感を抱いていたと思う。

 悪戯小僧の素質を持つ二人が頭を寄せ合って悪巧みをしていた情景を見たのも、決して一度や二度のことではない。

 

 ――――自分たちの歯車は、それまでは確かに彼らのものと噛み合っていたのだ。

 

 自分の弟たちが木から落とされて何人も怪我をした。酷い者は骨折した子もいる。

 水遊びの最中に水底にまで引きずり込まれて、そのまま息が止まりかけた子もいる。

 戯れの取っ組み合いだったのに、全身が血で染まるまでの重傷を負った子がいる。

 

 その日から、ドゥリーヨダナが時に蒼白な表情で、時に憤激のあまり真っ赤に染まった顔で、度々彼らの元へと訪れるようになった。

 一体何が起こったのか、不安になってビーマに直接訪ねたことも数度のことではない。

 それに対して、兄はむしろ戸惑った様子で彼にこのように告げるばかりだった。

 

 自分は、酷いことなど何もしていない。

 

 お前たちにも同じようなことをこれまでにしてきたが、それでも命に関わるような怪我したりすることなど一度もなかったではないか。

 

 なぜ、ああもドゥリーヨダナがあいつらに過保護になるのかが理解できない。

 ――なに、ドゥリーヨダナは大げさなだけだ。

 

 そういって快活に笑う次兄の話に首肯して、不思議そうに首を傾げる長兄に、どうしようもなく胸がざわついたのを思い出す。

 それでも、次兄が告げた内容に彼もまた違和感を感じなかったのもあって、その時は尊敬する兄たちの言葉だからと大人しく引き下がった。

 

 ――歯車の噛み違いが起こり始めたのは、その頃からだ。

 

 無知であるからといって全てが許されるわけではない。

 知らなかった、気づかなかった、というのは確かに罪である。

 ビーマが悪意を持っていなかったことも、その行為に拍車をかけた。

 ――そしてなにより、彼らが尊き神々の寵児たちであったことが、決定的なトドメとなった。

 

 それまで同じ半神同士でしか遊んだことのなかったことが、災いした。

 

 確かに神秘の気配の濃い時代に生まれただけあって、ドゥリーヨダナとその弟たちも尋常な人間ではなかった。

 ……それでも、優れた師匠の元で満足に身を鍛えていない幼子の柔らかな体躯に、次兄の怪力は過ぎたるものであったのだ。

 

 ――兄が軽く腕を振るだけで子供の軽い体は簡単に宙を舞った。

 ――兄が少し力を込めるだけで肉が裂け、あっけなく骨が砕けた。

 

 自分たちならば宙に飛ばされても、身を翻して身軽に地面に降り立つことができただろう。

 自分たちならば、腕を握りしめられても抵抗することが叶っただろう。

 そして、たとえ、怪我を負ったところで痣程度で済んだ事柄だったろう。

 

 今までのビーマはその力で誰かを傷つけたことがなかった。

 同じ半神同士で遊ぶ分には問題のなかったことだったからこそ、話を聞く限りでは、長兄も自分もわからなかった。そのせいで、半神の子供の、何気無い身動きや無造作な振る舞いだけで、他者を怪我させてしまう可能性について、気づくことができなかった。

 

 加えて、周囲の大人たちの対応が自分たちが自覚するのを妨げた感もある。

 尊ぶべき神々の子供である自分たちには微塵の瑕疵も許されなかったから、真実が判明した後も、従兄弟たちの怪我は彼らの自己責任という形でまとめられてしまった。

 ドゥリーヨダナがどんなに懸命に訴えても、それは優秀なパーンダヴァの子供たちへの、妬みからくる陰口だと受け止められるようになった。

 

 弟たちを傷つけられ、誰にも助けてもらえなかったドゥリーヨダナの怒りも、尤もだった。

 次兄はすぐに自分の力が従兄弟たちを傷つけるものであると早く自覚すべきだったし、長兄はもっと彼らの様子を気にかけるべきで、自分に至っては考えることをやめるべきではなかった。

 

 ――ただ彼らが自らの無知を自覚した時には、何もかもがもう遅過ぎたし、取り返しもつかなくなってしまっていた。

 

 従兄弟たちは次第に彼らと距離を取るようになり、大人の目を盗んでこっそりとお互いの寝室を行き来する真夜中の冒険も無くなった。

 

 最初に距離を置かれ始めたことに気づいたのは、最も交流のあった双子たちだった。

 同い年の子供同士で無邪気に遊ぶことで取り戻しつつあった笑顔がだんだんと塞ぎ顔へと変わり、遊びの誘いをかけても断られるようになったことを悲しい顔で告げるようになった。

 

 敵意を向けられるようになったのは長兄だった。

 同じ王位継承者候補ということもあって、ドゥリーヨダナとユディシュティラには、異なる派閥の者達がつくようになった。

 そうして、本人たちよりも、むしろ周囲の方がどちらがより次期国王にふさわしい候補者であるかということを、喧伝しては、対立するようになっていった。

 

 一番諦めきれなかったのはビーマだった。

 友達になりたいと誰よりも強く願っていたのが兄だったし、事実ドゥリーヨダナとの相性だって最初は悪くなかったのが大きかった。

 神の子である彼に明け透けにものを言い、自分と棍棒の腕で競い合うことのできるドゥリーヨダナの存在を、誰よりも喜んでいた。

 

 ――けれども、ドゥリーヨダナはそんなビーマの無邪気さこそ許せないものだったらしい。

 ビーマが仲直りしたいと思って行動すればするほど彼らの溝は深まっていき、しまいにはドゥリーヨダナが真剣にビーマの殺害を考え出すまで関係性は悪化してしまった。

 

 ――自分といえば、ただそれをじっと見ているだけだった。

 

 ドゥリーヨダナをはじめとする従兄弟たちとの交流が疎遠になっても、最も優れた者として生まれ落ちた彼の側には、いつだって彼を愛してくれる人々が取り囲んでいたから、孤独を感じることもなかった。

 

 自分たちの――特に兄が――悪意がなかったとはいえ、彼らにしでかしてしまった仕打ちを兄弟の中でも最も真剣に考え、その全容を把握してしまった。

 だからこそ、これ以上お互いに関わりを続けることは双方に不幸しか生まないと結論づけたことも、関係していると思う。

 

 ――結果として、こうして彼らの歯車は、完全に噛み違えてしまったということになる。




(*原典の中にビーマの台詞として「俺たちは幼いころはインドラの子供達のように仲が良かった」と嘆く場面があり、同じくビーマが「あいつとは子どもの頃無邪気に遊んだことがあったのに」と従兄弟たちの死を悲しむ描写があります。なので、彼らの仲は最初はそんなに悪くなかったのだろうと考察しました。*)
(*「もしカル」でのドゥリーヨダナとビーマの関係は友人になり損ねた幼馴染です。幼少ビーマの暴虐も自分自身の力について把握していなければそれが相手を傷つける行為であると自覚せずに、従兄弟たちを怪我させたりしてもしょうがないよなぁと思い、またビーマに悪意がなかったにせよ弟たちを傷つけられてドゥリーヨダナが怒りを覚え、それが殺意にまでエスカレートしてもしょうがないなぁと*)
(*この話を踏まえて、第一章の「母親と兄弟」「呪われた王子」を読んでもらえたら、改めて彼らの関係性を読み解けるんじゃないかなぁ、と思います*)

(*ちなみに、パーンダヴァ三兄弟についてですが、長男・迷わない人、次男・考えない人、三男・思い悩む人、といったところです*)


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<下>

というわけで、アルジュナ視点の「幕間の物語」はこれにて閉幕。
「もしカル」を読んで『マハーバーラタ』に関心が湧いた方は是非読んで見てください。クル一族の話だけではなく、インド神話や説話、よくわからない教訓とか色々挿入されているので、とても面白いですよ。

(そして、fateキャラでのインド系二次創作増えないだろうか……。『ラーマーヤナ』のラーマ主人公でラマシタ夫婦ものとかさぁ……あったら、絶対読むのに)



 ――燃え盛る炎の翼で大空を自由に舞っていた男の姿が、脳裏から離れない。

 

 

 最初は見間違いかと思ったが、あの日以来王宮のあちこちで空から舞い降りるあの男の姿を見かけるようになったため、どうやらそうではないらしいと認めざるを得なくなってしまった。

 

 ――あれは奇妙な男だった。

 御者の息子であるにもかかわらず、王族であるアルジュナに決闘を申し込む大胆不敵さを見せたかと思うと、自分自身ではなく養い親を侮辱されたことで王族に楯突いたり、かと思えばドゥリーヨダナの無茶な命令にも大人しく従っては、寡黙に佇んでいる。

 その姿を見かけるたびに、どれが本当の姿なのかわからなくなってしまうのが常だった。

 

 その神秘の源流が自分たちと同じ神々なのか、それとも羅刹や阿修羅といった異形のものか――詳しいところはわからない。

 ただあの男が自分たちと同じ、人ならざる者の血を色濃く受け継いでいるのは確かだった。

 けれども、そのことを取り立てて吹聴することなく、黙々とドゥリーヨダナの命令に従って実直に働いている姿を見ると、本当に同じ存在なのかと疑わしくさえ思ってしまう。

 

 神々の祝福を受けずに生まれてきたドゥリーヨダナの命令に文句一つなく従い、身分の低い御者夫婦の子供であるということを臆面も無く口にする。

 人外として崇められることもなしに、人の世に紛れて人と同じ様に振舞っているくせに、誰かを傷つけかねない自らの絶大な力を恐れることなく完璧に操ってのける、あの男――カルナの生き様は彼にとって、あまりにも異質すぎて理解の範囲外だった。

 

 ――わからないから、距離を取るしかなかった。

 とはいえ、仮にも彼に対して勝負を挑んできたほどの実力者である。

 あまり意識しすぎるのも、無視するのも危険である。

 そこで、カルナがいくつもの波乱を引き起こしながらも王宮に受け入れられて以降、一定の距離を保ちつつも、カルナの姿を目撃した時は注意深く観察することだけはやめなかった。

 

 ――そんな、ある日のことである。

 無双の武王として知られるジャラーサンダ王の征伐から帰還したカルナが、従兄弟のドゥリーヨダナと共に中庭にいたのを目撃した。

 

「――ふ、はははは!! まさか、こんな素晴らしい経験をこの身で味わう日が来ようとは! 未だに信じられないな!」

「……そうか、お前が満足できたようで何よりだ」

 

 心底楽しそうな笑声をあげながら、興奮のあまり頰を紅潮させるドゥリーヨダナ。

 そんな彼を小脇に抱え、燃え盛る炎の翼を生やしたカルナが天空から舞い降りてくる。

 いっそ酷薄なまでに冷徹なその横顔からカルナが何を思っているのかは定かではないが、どうやら主君であるドゥリーヨダナの兼ねてからの要望に応じた帰りであるらしいと、彼はなんともなしに推測した。

 

「――それで? お前のいう、代わり映えのない執務の気晴らしにはなったか?」

「もちろんだとも! 感謝するぞ、我が友! お前のおかげで子どもの頃からの夢だった空を飛んでみる、というわたしの野望が叶ったのだからな!」

 

 地面に足をつけたドゥリーヨダナが心底嬉しそうな表情で笑う。

 ああ、珍しいと思う。あの年上の従兄弟が嘲笑でも、憫笑でもない、心からの笑顔を浮かべたのを見たのは久しぶりだった。

 

「実に楽しい経験だった! それではな、カルナ! わたしはこれからプローチャナと大事な話があるのでな、この場で失礼する!」

 

 ――そういえば、まだ森に住んでいた頃、一つ上の兄もまた空を駆けて遊んでいた。

 風神を父親にもつ兄は地上をその足で踏み歩くよりも早くに、空を駆ける方法を知っていた。

 自由気ままな旋風のように空を奔り回る兄が、文字通り地に足をつけるようになったのは、いつの頃からだったのか全く思い出せない。

 

 ……空を駆ける術だけではない――従兄弟たちとの関係性に罅が入ったあの日以降、色々なことを忘却してしまった様な気がする。

 

 ――愛すべき人々の数と人の世の(しがらみ)が彼らの周囲に増えるのと反比例するように、彼らは()()を失っていったのだと実感する。

 

「あの王子様、随分とご機嫌だったね」

「――――そうだな。あれほど喜ばれるとは想像もしていないかった」

 

 がさり、と音を立てながら、ドゥリーヨダナが立ち去っていく姿を見送っていたカルナの側に生えている樹木の幹が揺れる。

 

 突然声をかけられたというのに、カルナがそれに驚いた様子を見せることはない。

 むしろ、気兼ねなく応えを返す姿に、相手は一体誰なのだろうと好奇心が湧く。

 

 青々とした若葉が生い茂る幹の間から姿をのぞかせたのは、少女のようだった。

 チラリと見えた衣装の型と服の裾の刺繍文様からして、王宮で働く侍女の知り合いというのが妥当なところだろう。

 

 長い髪と若葉の陰に隠れているせいで、眼下を見下ろすことになっている彼の立ち位置からはどのような顔立ちの娘であるのかが判別しがたい。

 ただ、耳に心地よい甘やかな美声にカルナへと伸ばされる指先の繊細さ、衣装の裾から伸びる曲線美の見事さからして、相当な美少女であるのだろうと推測する。

 

「まあ、気持ちもわからないでもないか。空を飛ぶのって、確かに気持ちのいいことだからね」

「そうだな。重力から解放され、己の魔力で構成した翼で風を切るのは確かに心地よい」

 

 初めて耳にするカルナの和らいだ声音に、内心で衝撃を隠せない。

 てっきりあの男は外見同様にどのような相手であれ、金属の刃物のような冷淡さを変えることはないのだと思っていた。

 

 ――彼らの関係性については定かではないが、かなり親しい間柄であるようだ。

 

「それで? どうだい、大分過ごしやすくなった?」

「……そうだな。出仕し始めた頃よりも面と向かって罵倒される回数は確かに減少した。その分、遠巻きにされるようになったが。――とはいえ、ドゥリーヨダナがなんだかんだとオレを連れ回してくれるおかげで、すり寄ってくる輩も増えてきた」

 

 黄金の輝きを帯びたカルナの頭を、ほっそりとした指先が慰めるように撫でる。

 それを当然のように甘受しながら、不思議そうに首をかしげたカルナが娘へと問いかけた。

 

「それにしても、オレのような面白みのない男に近づいてくる者達に対して、どのように接すればいいのだろうか? ――ロティカ、何か考えはあるか?」

「うーん、それは彼らの目的次第だからねぇ……。お前経由でドゥリーヨダナから何らかの利益を得ようとしている者達であれば、普段通りに対応してやりなさい。先に彼らの方が耐えられなくなるだろうし。――ただ、何でもかんでも施すのだけはやめておきなさい」

 

 こくり、と幼子のような素直さでカルナが首肯する。

 

「そうだな。アンガの王に任命されて以降、無闇矢鱈と金品をねだられる機会が増えた。そういう者達は国の財源はドゥリーヨダナの弟たちに握られていると告げれば、おとなしく帰ってくれるので助かる」

 

 しみじみとした口調で語られるカルナの話に、娘が鈴の音を鳴らすような笑声をあげる。

 それにしても、乱雑な口調な娘である。

 彼の周囲にいた女たちは母であるクンティーを初めに深窓の令嬢や姫君ばかりだったから、甘やかな女の声で語られる語調の荒さには違和感を感じずにいられない。

 

 ただ、何故かはわからないが、そのような荒い口調が、この声の主にはこの上なくあっているようにも思えるから不思議だ。

 このところ、不思議に思うこと……わからないことばかりが増えていく気がする。

 

「――……それより、ロティカ。探し物は見つかったのか?」

「それが全然! 気配は確かにこの王城の中にあるというのに、肝心の場所がわからない。そもそも、本当にこの城の中にあるのかどうかさえ、怪しく思えてきた」

 

 そろそろこの場から離れた方がいいだろう、と決断する。

 眼下の彼らがあまりにもくつろいだ姿をさらけ出しているので、部外者である彼としては居心地の悪さしか感じない。

 

 彼が今いるのは中庭を見下ろす位置に建てられている回廊だった。

 この中庭自体があまり人の来ない場所にあるので、気分転換をしたいときによく使用していたが、最近はドゥリーヨダナ一派の出入りが増えてきたこともあり、新しい場所を探すべきなのかも知れない……と独り言ちる。

 

 気づけば握りしめていた回廊の欄干から手を離し、視線を中庭から廊下の先へと向ける。

 ――ふと、濃密な睡蓮の香りが鼻先をくすぐる。

 そのおかげで、廊下の暗がりから抜け出るようにして、よく知った顔がこちらへと歩いてきていることに気づいた。

 

「――――クリシュナ、貴方も来ていたのですか」

「久しぶりだね、愛しい友よ。ここ最近、随分と色々あったようだけど、元気にしていたかい?」

 

 蓮華のような微笑みを浮かべながらゆったりと歩み寄って来た親友の言葉に素直に頷けば、微笑ましいと言わんばかりにますますその笑みが深くなる。

 自分と同じ褐色の肌の上に鮮やかな黄色の衣を纏い、王者のように悠然としている友の姿を見て、カルナの登場以来ざわついていた心が落ち着いていくのがわかる。

 

 アルジュナをはじめとするパーンダヴァを常に正しい道へと導いてくれた知恵者・クリシュナを友と呼べることは、つまらぬことにも思い悩みやすい己にとって、つくづく僥倖であると感じずにはいられない。

 

「それにしても、何を見ていたんだい? ――……ははあ」

 

 先ほどまでアルジュナが佇んでいた場所で歩みを止め、やや身を乗り出すようにしてクリシュナはひょいと眼下の光景を見下ろす。

 

 しばしの沈黙のうち、得心がいったように感嘆とも取れる声を出す。

 

「どうしたのですか、クリシュナ? 何か、貴方の興味を引くものでも?」

「……っふ、くくく。いやいや、君が気にかけるほどではないよ。――それにしても、随分と愛らしい姿になってしまったものだ」

 

 親友の整った口唇が三日月の様な弧を描く。

 クリシュナに従って、彼もまた地上の様子を見下ろしたが、その言葉に該当するような相手が見当たらず、内心で首を傾いだ。

 

「……興味は尽きないけれど。アルジュナ、今日は君に授ける物があって来たんだ。――手を出してくれないかい?」

「贈り物、ですか。貴方がくれるものはどれも私にとって役立つものばかりです。ありがたく受け取ることにしましょう」

 

 ふふふ、と微笑む親友の言葉に素直に従って両手を差し出せば、ますます喜色を増したクリシュナは懐から見慣れない刺繍の施された小さな包みを取り出す。

 手のひらにズシリとした重みを感じる。――大きさに反してある程度の重さを持っていることから、おそらく貴金属で作られた装飾品の類だろうか?

 

「――さあ、開けてごらん。近い将来、必ず君の助けになるものだから、その時が来るまで肌身離さず身につけてもらえると僕としては嬉しい」

「……これは、腕環ですか? なんと見事な……」

 

 王族の一人として美しい工芸品や美術品を見慣れた彼の目から見ても、友からの贈り物として授けられたそれの造形は実に見事だった。

 白い三日月を二つ接ぎ合わせて出来た様な、それ自体が儚い輝きを放っている銀細工の腕環だ。

 透き通った紺碧の輝石を中心とする、満月を模した文様が彫られている。

 

 思わず感嘆の声を上げてしまったアルジュナを嬉しそうに見つめ、クリシュナはそっと囁く。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「わかりました。貴方の言葉の通りにしましょう。それにしても、一体どこの名匠の作品なのでしょうか? こんなにも美しい銀細工を始めて見ました」

 

 ――つい、好奇心にかられて問いかけた彼の言葉にも、クリシュナはただ慈愛に満ちた蓮華の微笑みを浮かべるだけだった。

 

 

 ……親友の言葉の真意を知るのは、それよりも先のこと。

 彼を構成する無数の歯車の一つが、カチリと音を立てて再び回り出した瞬間だった。




<裏話>
カルナ「ところで、ロティカ。いや、アディティナンダ。どうして木の上に座っているのだ?」
ロティカ「女の姿になってさらに背が縮んでしまったからだよ、畜生!」

(*「幕間の物語」内に、次章のヒントが入っているので、よかったら探して見てください。それでは、また書きためたら一気に投稿しますので、12月に期待してくださると嬉しいです*)
(*次回、アルジュナ強化。カルナさんが鎧なければ互角に張り合えるくらいにしとかんと、戦っても面白くないよね!*)

(*実は頭の中ではアディティナンダの末路とかエンディングの内容とか全部決まっているので、あとは書き出すだけなんですよね〜。誰か脳内の文章を一気に文字化してくれる秘密道具でも作ってくれないかなぁ……*)


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番外編:兄と弟と世話焼きの友人による一幕

ウォシュレットさまによるリクエスト

『実際はお飾りの様だったのかもしれませんが、一応成るからには作法やら装いやらひたすらドゥリーヨダナに振り回されるアンガ王成り立てのカルナさんとかちょっと見てみたいです「アティディナンダは見た!」みたいな。兎に角ドゥリーヨダナとカルナの友情とそれを少し後ろの木の影から見つめるアティディナンダ(解説)のようなお話を出来ればお願いします!』

 リクエスト内容からはやっぱりちょっとずれているけど、番外編書き上げました!
 時間軸的にいうのであれば武術大会の少し後、不吉の屋敷の後にアディティナンダとドゥリヨーダナが和解する前。(時系列とか無茶苦茶です……正直なところ)
 そのせいで、ちょっと二人の内面がギスギスしていますが、全体的にほんわかした話ではないでしょうか。(この時間軸的にはロティカだったんじゃないか、とかそういうことには目を瞑ってね)

 それでは、上記の事情にOK! と豪語できる読者様は本文へどうぞ!!



 ――ドゥリーヨダナ様、ドゥリーヨダナ様。

 ――まさか、本気であらせられますか? あのような何処の馬の骨とも知らぬ輩を神聖な宮中に迎え入れるなど。

 ――まさか、正気であらせられますか? あのような下賤な身分の男を貴き者たちの集う宮廷に招き入れるなど。

 ――仰ってください、あれは一時の気の迷いであったのだと。

 ――申してください、あれはただの戯れでありましたのだと。

 

 目元が闇で隠された、顔もない者たちが口々に言い募る。

 お前のためになることを申しているのだと、したり顔で悪意(ぜんい)を謳う。

 男も女も、老いも若きも、身分の高い者も卑しい者も、分け隔てなく同じことを繰り返す。

 

 ――確かに、武には優れましょう。ですが、それだけでしかありませぬ。

 ――確かに、力には勝りましょう。ですが、それだけでしかありませぬ。

 

 ――なに、お気にめさるな。あの男は己を取り立てて下さった貴方様には従うことでしょう。

 ――そう、話は簡単でございます。どこか適当な職を与えて、役に立つ武器として飼ってやればよろしい。

 ――ですが、お忘れなさるな。決して、あの男を重用し、寵愛するような真似だけは絶対に致しなさるな。

 

 厭らしい微笑みを浮かべながら、気取って道理を説く者たちに――うんざりする。

 おい、見てみろよ――と誰に語ることもなしに胸中で呟く。これが、下々の者に雲上人と崇められる者たちの姿だぞ、と。

 彼らが見下している城下の人々とどこか違うというのだろう――狡賢く、悪辣で、文字通り人を人とも思わない高慢さ。

 なまじ、その醜い内面を気取った礼儀作法や美しい宝玉や化粧で着飾っている分、尚更タチが悪いものだと密かに毒づいた。

 

「――……貴様らのいうことは分かった。確かに、貴様らの目からすれば、あれは不調法極まりない田舎武者であろうなぁ」

 

 ずっと黙りこくって居た彼がようやっと返事をしてやれば、口々にさざめいていた者達が水を打ったように静まる。

 期待に満ちた眼差しでこちらを見やる彼らに対して、意識して甘やかな微笑みを浮かべてやれば、媚びるように微笑みを返す者すらいる。

 有象無象にしか思えない彼ら全員に応じるように、彼は――否、ドゥリーヨダナは甘い毒を孕んだ流麗なる声音で応えを返したのであった。

 

「――では、こうしようじゃないか。次の――において、――には――…………」

 

 

「――と、謂う訳だ。カルナ、お前には今日から特訓してもらう」

「承知した。それがお前の求めであるならば、何なりと応じよう」

 

 唐突なドゥリーヨダナの宣言にも、ついこの間、召抱えたばかりの訳あり武闘者はその怜悧な容貌を崩すことなく、さらりと承諾した。

 その気前の良さに戸惑ったのはドゥリーヨダナの方で、憤慨したのはいつの間にか部屋に忍び込んで居た自称・兄のお抱え楽師の方だった。

 

「こら、カルナ! お前はまた何でもかんでも安請け合いして! せめて、相手の話を聞いてから諾と答えるべきでしょう!!」

 

 男にしては細い腰に手を当て、己よりも高い位置にある弟の顔を仰ぎ見るように主張する。

 晴れ渡った夏の空の双眸にしっかと睨みつけられ、咎められるように言い含まれようと、非難の矛先になったカルナの方は微動だにしなかった。

 むしろ、その薄い唇を開いて、理路整然と心配性の兄へと反駁し返す始末であった。

 

「ドゥリーヨダナはオレの主君であり、オレの友である。そんな男がわざわざ改まってオレに依頼してきたのだ。それに応じない道理がどこにある?」

「う、うぐぐ……」

「つ、つ、つらい……最近できた親友の全幅の信頼が辛い……」

 

 竹を割ったような返答に、反論できずに口籠るアディティナンダ。

 この世の摂理を説くように、至極当然といった物言いで語られた内容に、膝をついたのはドゥリーヨダナの方だった。

 基本的に呪われた子扱いで、信用されることはあっても信頼されることの少ない彼にとって、一切の悪意の込められて居ない真摯な言葉は一周回って毒であった。 

 

「……? どうした、ドゥリーヨダナ。腹でも下したのか?」

「なん、でも、ない!」

 

 きょとん、と涼やかな蒼氷色の双眸を軽く見開いたカルナが、当然の様に手を差し伸べてくる。

 その厚意に甘んじて答えつつも、ぶっきらぼうに対応すれば、真逆の方向から咎めるような視線が突き刺さった――無論、その相手はいうまでもないだろう。

 弟思いなのはいいことだが、いささか対応が面倒だな、とドゥリーヨダナは胸中で独り言ちる。

 己が神々に厭われる“呪いの子”である以上、致しかたないことではあるが……とひっそりと嘆息し、中断して居た話を再開する。

 

「この前の武芸大会でお前をアンガ国王に任命しただろう? あの場は勢いで乗り切ったが、どこにでも口さがないものは多くてな」

「だろうな」

「そうなんだね……やっぱり」

 

 やれやれ、と大仰に肩をすくめて見せれば、アディティナンダの紺碧の瞳が陰る。

 全く気にして居ない様子の弟とは実に対照的な反応に、ドゥリーヨダナは内心でやりづらいことだと舌打ちする。

 これまで垣間見てきた天の神々と重なるようで重ならない目の前の神霊の人臭さは、超常の存在を厭う彼の心中をざわめかせることが実に多かった。

 

 胸の中で感じた違和感を封殺して、仰々しい仕草でドゥリーヨダナは天を仰ぐ。

 

「どいつもこいつも、物を見る目のない奴らばかりだ! たかが国一つで、お前のような男を麾下に迎え入れられることがどれほど幸運だということを!!」

「はいはい、ご高説ありがとう。うちの弟のことをここまで評価してくれる人間はお前が初めてだよ――畜生、ありがとうな!!」

 

 わっ、と泣き真似をしだしたアディティナンダに、カルナが意図せずして酸っぱいものを口に押し込まれたような表情を浮かべている。

 鏡を見るまでもなく、おそらく己も同じような表情を浮かべているのだろうな――と脳裏の片隅で思い、首を振ってその思考を霧散させる。

 

 ――ああ、本当にこの神霊は人間臭い。

 

「――例え、お前が神の子であろうと魔物の子であろうと、わたしの配下になったのであれば、話は別だ。わたしはお前を生まれや育ちよりも、お前自身の性質や能力で持って判断したい。――だが、その理屈を理解できるだけの柔軟さを持つ者がこの国にはなんと少ないことか!!」

 

 天を仰いで大仰に嘆息するドゥリーヨダナの芝居めいた仕草にも、当の本人であるはずのカルナは微かに片眉を上げて「そうか」と返すきりだ。実に淡白極まる反応である。

 むしろ、側で傍聴している方のアディティナンダの方が得心がいったように何度も首肯している――どっちが神なのやら、と再度ドゥリーヨダナは溜息をついた。

 

「――それで、ドゥリーヨダナ。長々と不満を謳うことがお前の本意ではあるまい。段階を踏むにせよ、冗長な会話は煩わしいだけだぞ」

「そういうお前は本当に豪速球を投じてくるなぁ! では、結論から言おう!!」

 

 びしり! と擬音が施されそうなほど、鋭利に、鮮烈に。

 武具の取り扱いの際に邪魔にならないよう、短く切りそろえられた指先をひたりとカルナの顔へと突き出して、ドゥリーヨダナは高らかに宣った。

 

「――勅命だ、我が友(カルナ)! 二週間後に行われる収穫祭(マカラ・サンクラーンティ)にて、華麗かつ勇壮な、このドゥリーヨダナ直々に召し抱えたアンガ国王(クシャトリヤ)としてのお前の姿を、見る目のない者たちに見せつけてやるのだ!!」

 

 ――パチン! と高らかに指を鳴らせば、その音を合図に、室外に控えていた忠実なる女官たちが一糸乱れぬ整列をなす。

 彼女たちが恭しく掲げるその両手には小箱に入った宝玉、輝石。光沢を帯びた綾織物に、磨き上げられた武具防具。

 金糸銀糸を惜しげも無く使用し、砕いた宝石を縫い付けた絢爛たる装束に、達人の鬼気迫る執念すら感じられる華麗にすぎる装飾品。

 最高級の大粒の宝石ばかりを飾りに使った黄金飾りの冠に、密林の奥でのみ採取される高価な香木、この国ではお目にかかれない稀少な獣の毛皮に思わず目が惹きつけられる極彩色の鳥の尾羽。

 

 本来ならば王族の身を飾る至宝として、国家の権威を示す財宝として、宝物庫の奥底に眠っている方が相応しい品々の数々に、カルナの頰がひくりと引き攣る。

 ジリジリと密林に潜む肉食の獣もかくやと言う、隙のない動きの女官たちに囲まれながらも、その動きを制するようにドゥリヨーダナへと訴えた。

 

「――待て、ドゥリーヨダナ。オレは武にしか取り柄の無い不調者だ。そのようなものを持ち出したところで宝の持ち腐れにしかならん」

「ふふふ、謙遜するな、我が友よ。このドゥリーヨダナ、生まれも育ちもパーンダヴァとは違って都会ゆえ、己が審美眼には絶対の自信を持っている」

 

 黒檀のような黒い肌を尊ぶこの国において、ともすれば幽鬼を思わせるカルナの肌色は異色だ。

 けれども、白い肌と色鮮やかな蒼氷色の双眸の織りなす玲瓏たる美貌の麗しさは異端であるが故に人目を惹く――とドゥリヨーダナは踏んでいた。

 己の容姿が異端である事を自覚していたカルナにとって、この言葉はよほど寝耳に水だったのだろうか。驚いたようにカルナが切れ長の目を見開き、微かに硬直した隙に、ドゥリヨーダナは傍観者とかしていた自称・兄の神霊の方をちらりと見やる。

 

 ――すると、そこには。

 

 夏の晴れ渡った青空を連想される紺碧の双眸を大きく見開いたアディティナンダが、キラキラとした眼差しでカルナを見つめていた。

 ぽかんと間抜けに開かれた唇からは、この国の王から天上の調べと称えられたその美声で「カルナの晴れ姿……」と言う兄馬鹿極まりない感想が呟かれていた。

 

「…………」

「…………」

 

 ――こいつ本当にちょろいな、とドゥリヨーダナが内心でそう思ったのかどうかは内緒にしておく話だが、最大の関門はこれで乗り越えた訳だ。

 あとは無表情の中に困惑をにじませながら、抵抗を試みようとしているこの飾り気のない男に「諾」と言わせるだけのこと――そして、ドゥリヨーダナはそういった交渉ごとでこれまでに遅れをとったことがほとんどない。

 ましてや、口の達者な宮廷人ですらない、この口下手な武芸者のささやかな反論など、ドゥリヨーダナにとっては赤子の手をひねるよりも容易いことであった。

 

「――さて、カルナ? よもやと思うが、わたしの命令に反するような、不忠極まりない行為はせぬよなぁ?」

 

 ニッコリと余所行き用の微笑みを浮かべて仁王立したドゥリヨーダナの言葉を合図に、カルナを取り囲んでいた女官たちは獲物に飛び掛かったのであった。

 

 

「――はい、そこ! 猫背にならない、唇をへの字にしない! 背筋はピンと伸ばして、唇には微笑みを載せて! にこやかに、ひたすらにこやかに!!」

「注文の多いことだ」

「そこ、口答えしない! それから、それは微笑みと言わない!!」

「……こうだろうか?」

 

 薄い硝子版を二つ繋げた不思議な細工物を両目を覆うように装着したドゥリヨーダナがピシ、ピシ! と乗馬鞭を打ち鳴らす。

 出会い頭に奇妙な格好だなぁ、と思われつつも「誰かに何かを教える時の格好は教職姿(これ)だろう!」と自信満々に言うドゥリヨーダナは相も変わらず押しが強い王子であった。

 

 市井の女のように、頭上に器用に水瓶を載せたカルナは、先ほどから訓練用に設けられた室内を行ったり来たりしている。

 それを物陰から見守りつつも、日暮れから行われている特訓に疲弊しているだろう二人のために用意した軽食の盆を手に、アディティナンダはいつ出て行くべきかと思案した。

 

 ――実に、奇妙な光景だった。

 ――実に、不思議な情景であった。

 

 アディティナンダがカルナと地上で暮らし始めてから、決して短くはない時間が経過した。

 そしてその期間の間だけ、アディティナンダがカルナに付き合って人間社会に身を置いていたことになるのだが、これまでの日々において、こんな風に弟と対等に口を聞く存在が他にいたのだろうか……と考えずにはいられない。

 

 その素性のせいか、カルナという存在は良くも悪くも人間社会から逸脱していた。

 母親からの受け継いだ業に、虚飾を見抜く眼力、神の力を恣に行使する精神力、その身に蓄えた尋常ならざる神秘の力――そして何より、卓越しすぎた武術の才。

 人よりも神に近しく、さりとて純粋な神と称するには人間を愛しすぎている狭間の存在――それはある意味、カルナという存在がどっちつかずのままであるという事実を示している。

 

 そうして、カルナ自身、己の特異性を理解していたが故に、人々の営みを尊びつつも己という異物が深入りすることは避けていたように思える。

 そんな彼がある意味で特別扱いしたのがパーンダヴァの第三王子であり、主君と仰いでいる神々の忌み子たるドゥリーヨダナだ。

 

 彼を主君と定めることによって、カルナはそれまで付かず離れずの立ち位置を放棄して、人間社会における己の居場所を獲得した。

 養父であるアディラタの住まう集落に身をおきながらも、世俗を離れた聖者のような暮らしを是としていたこれまでのカルナでは想像もつかない変化だ。

 

 欄干の上に片足を立てて座り込み、行儀悪くもう片方の足に肘を乗せて頬杖をつく。

 人間ではないアディティナンダの目から見ても、人間であるはずのカルナは実に人間味がないように思えた――だからこそ、眼前で繰り広げられている情景はアディティナンダにとっても実に新鮮な光景であった。

 

「右、左、右! はいそこ、もっとゆっくりと振り返る! 水を零すような仕草は二流、悠然と泰然と、それでいて一部の隙もなく! 今のお前では、あのビーマにも劣るぞ! もっと優雅に、華麗に、それでいて細心を尽くすのだ!!」

「――む、こうか」

「違う! もっと上品に動け! そう、そうだ! やるではないか、流石だな!!」

 

 数日にも及ぶ特訓の成果は厳しい教師の目も満足させられたらしい。

 どうだ、と言わんばかりの表情を浮かべるカルナに対して、ドゥリーヨダナはなんのてらいもない賞賛の声を上げる。

 

「――ふふん! 流石はわたし! どうやら一流の教師としての才能にも恵まれたらしいな!」

「確かに。ここ数日の教え方の上達ぶりにはオレの方とて目を見張るものがあった」

「そして、流石だな、カルナ! 元々の素地はあったのだろうが、これならば誰も文句などつけられまい! 実に見事な立ち振る舞いであった!!」

「ああ。それもこれもドゥリヨーダナが辛抱強く教示してくれたお陰だ――――感謝する」

「と、と、ッとと、当然だ!」

 

 それまで流れる水のような声で滔々と自信を褒め称えていたというのに、途端に吃り出す。

 

 ――嗚呼、とアディティナンダは深々と息をつく。

 

 アディティナンダは人ではない。

 人の世の摂理よりも神の理によって動く生き物だ。人間ならば自然と持ちうるはずの情緒や人の繊細な心の機微を持っているわけでもない――それなのに。

 

収穫祭(マカラ・サンクラーンティ)は太陽神に捧げる祭りの中でも一際盛大なものだ! お前の晴れ姿、地の父だけではなく天の父にも見せてやるといいさ」

「……知っていてオレを祭の重役に任命してくれたのか?」

「ぐ、ぐ、偶然だ! 断じて、余計な気を回した訳ではないぞ! 敬愛する父の前では流石のお前とて気を張り詰めるであろうという深謀遠慮によるものだ!!」

「――そうか、偶然だとしても感謝する。我が父の手前、ますます無様な姿を見せるわけにも行かなくなった」

 

 ……御者の子であるとか、呪われた王子である、とか。

 そういった人の世に根付いた人々の偏見や誤解、面倒な政治事情や思惑などを綺麗さっぱり取り払って、なんの色眼鏡もなしにこの光景を見れば――

 

 それこそ、どこにでもいるような、どこででも見られるような。

 ――口下手ながらも誠実な青年と口は悪いながらも世話焼きな青年による、友人同士の、他愛もないやり取りにしか見えないのだろう。

 

 それは何故だか、人ならざる身のアディティナンダにとっても――まことに尊ぶべき、愛おしむべき日常の情景のように思えたのであった。

 だから、ここ数日のドゥリヨーダナによるカルナへの乱雑きわまりない振る舞いにはいってやりたい文句が十にも百にもあったのだけれども、その全てを胸の奥にしまい込んで、アディティナンダはじゃれ合う二人に声をかけたのであった。

 

「休憩にしよう、カルナ……と、ドゥリヨーダナ! 厨のお姉様方からの差し入れだよ!」

 

 呪われた子であるドゥリヨーダナを厭う気持ちもあるにはある。それは否定できない。

 

 ――だけれども、それ以上に。

 カルナの友であるのだと公言するこの奇矯な王子に対する感謝の念もまた、この人ならざる人でなしの心に芽吹き始めたのであった。

 

 

 ――この話の顛末となる収穫祭(マカラ・サンクラーンティ)における彼らの姿を語る必要もないだろう。

 ただ、太陽神の誉れ高き息子の初お披露目となるこの祭祀の翌年、クル王国は例年の倍以上の収穫を誇る豊作に恵まれたとだけ補足しておこう。




【後書】

この小ネタはこれで完結なので、他の小ネタとは別に本編の間に番外編的な感じで常駐させようと思っております。
それでは、ウォシュレットさま、だいぶ遅くなりましたが、リクエストしてくださり、ありがとうございました!! 
……そのうち、本編もアップさせます……(鬱だなぁ)

評価とか、感想とか、いつもありがとうございます! 執筆活動における励みです!!

=追記=

この番外編における各キャラクターの心情

・アディティナンダ
…強いて言うなら神寄りの精神性。疎まれがちの弟に初めて友人ができたのは嬉しいが、なんで巷で評判の呪いの子だったのか、と思わなくもない精神年齢××歳。でもなんだかんだで弟が嬉しそうだし、基本的にボロクソ言われる弟をこれ以上なく評価してもらえるのはめちゃくちゃ嬉しかったりする悪意に気づかぬ人でなし。

・ドゥリヨーダナ
…生まれて初めての友人に内心ドギマギしているが、そのモンペの自称兄が顔には出さずとも時たま疎ましい。基本的に天にツバ吐く罰当たりなのだが、まじかで見る友人の兄の人間めいた振る舞いに戸惑いを覚えずにはいられないツンデレ。

・カルナ
…特に何も考えていない。強いて言うなら、初めての友人との気兼ねない会話が楽しい。


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第三章 雷神の寵児
太陽の金環


――というわけで、第三章の始まりです。
<導入編>で3話ほど入れて、それから「不吉の家」編に移ります。

12月に入る前に第三章の一話投稿。――びっくりした?


 宮廷内でのカルナの立ち位置を確固たるものとしたジャラーサンダ王討伐から、二週間後。

 その立役者の一人であるはずの俺はといえば、ハースティナプラの王宮内・ドゥリーヨダナの執務室にて、遅々として進まぬ進捗具合に、絶望のあまりだらけきっていた。

 

「あー、もう、見つからないよぅ。本当にどこ行っちゃったの、俺の腕環……」

「お疲れだな」

「さすがにこうも見つからないままだと誰かの陰謀としか思えないよぅ……」

 

 冷たい地下水に浸した布で磨き上げられたばかりの大理石の床の上に転がり、項垂れた状態でブツブツと呟く。こんなにも一生懸命になって探し回ったというのにも関わらず、どこにいっちゃったのだろう、本当。

 

「でも、気配はこの王宮から一歩も動いていないんだよなぁ……となると、置き忘れかなぁ……」

 

 カルナが扇でそよそよと風を送ってくれるのをありがたく甘受しながら、ウンウン唸る。

 

 あー、ひんやりとした大理石の床が冷たくて気持ちいい。

 ここのところ、考えすぎて茹る一歩手前までの脳みそが心地よい温度に冷やされていく。

 この間、ドゥリーヨダナが床の上を高速で回転していたのは、床の冷たさで顔の火照りを引かせるためだったのかもしれないとちょっと思う。

 

 ――それにしても、本当に一体どうなっちゃったんだろう、俺の腕環。

 あれ、スーリヤから下賜されたものだし、下手に只人が装着してしまうと災いを引き起こしかねない物騒な代物でもあるから、なんとかして回収しておかないとまずいんだよね。

 

「……しかし、これで喪失に気づいてから下手すれば三週間目か」

 

 ふむ、と考え込むように唇に親指を添えたドゥリーヨダナ。

 それまで目を通していた木簡を執務机の隅の方へと動かし、こちらに向き直る。

 キラリと黒水晶のように輝く黒い双眸が、床の上で寝そべっている俺とそこへ風を送っているカルナの方へと向けられたので、それに応じて状態を起こした。

 

「済まないな、姉上殿。前もって気にかけておくよう告げておいてくれれば、わたしの方も責任持って管理できたのだが」

 

 申し訳なさそうに眉根を下げているドゥリーヨダナ。

 それが本意なのかは置いて置くとして、彼に対し、気にするなという意味を込めて掌を揺らす。

 

「あー、完全に俺のせいだから気にしないで。下手に知らせて、好奇心にかられたドゥリーヨダナが嵌めたりする危険があるから、って判断して、告げなかった俺が悪い」

「――そう、それだ」

 

 びしり、と音を立てそうな勢いで、執務作業に勤しんでいたドゥリーヨダナが俺を指差す。

 音に聞く棍棒の名手らしく、邪魔にならないように短く爪先を切り揃えた戦士の指だ。

 少しばかり、カルナのものと似ている。

 

「その、どうにも害を与える云々というのがよくわからん。姉上殿、あの腕環はどのようなものなのか詳細をお聞かせ願いたい」

「うーん、簡単に口で説明するのであれば、そうだなぁ……」

 

 チラリ、と右腕に嵌ったままの腕環の片割れを見る。

 鈍い黄金の煌めきを内側から放ち、太陽を模した意匠の施された金環は、本来であれば四対で一つの神宝である。持ち主への厄災を退けたり、装備したものを常に最上の状態に保つ、と言った役割の他にも、いろいろな性能を持っているが、その中でも特に――

 

「ドゥリーヨダナ、懐の小刀をだしてこっちに来て」

「――? よくわからんが、出したぞ」

 

 ドゥリーヨダナがきちんと話をする姿勢になったので、俺の方も床の上に起き上がる。

 

 ……さて。百聞は一見にしかずというし、その目で確かめてもらった方が良かろうて。

 右手首に嵌められていた金環を取り外して、小脇に置き、そのまま右掌をドゥリーヨダナの方へと差し出す。外した途端、これまでになく体が軽くなったのを違和感として感じるようになった自分自身に、随分と人の器に馴染んだものだと失笑する。

 

「嗚呼、そのまましっかり構えといてね。――んで、勢いよく突き刺してごらん」

「ちょっと、待った! わたしに一体何をさせる気が!?」

 

 怪訝な表情を浮かべていたドゥリーヨダナが一変して焦った顔になる。

 その姿を床の上に座り込んだ状態のまま、ぼうっとその様子を見上げつつも、特に表情を変えることのないままに急かす。

 

「いーから。今の俺、実は結構余裕ないから刺すなら一息にやって欲しいんだけど」

「……カルナ。お前の姉上殿は一体どうしたのだ?」

「お前の戸惑う気持ちもよくわかるが、こればかりは実際に見て見なければわかるまい。ドゥリーヨダナ、ロティカの言う通りにして見てくれ。そうすれば、全て理解できる」

「――わかった。お前がそこまでいうのであれば、従おう。……後で文句をつけてくれるなよ?」

 

 頼みの綱のカルナに促されて、ようやく決心がついたのかドゥリーヨダナが軽く息を飲む。

 

 ――しかし、カルナとドゥリーヨダナも随分と打ち解けたものだなぁ。

 ドゥリーヨダナが神の眷属の類をあまり好んでいないのは従兄弟たちとのやりとりを通して知っていたけど、なんとなく気づいているくせにカルナに対してはそういう振る舞いを見せないかなら少しばかり不思議に思う。

 

 ビーマ王子相手の毒の吐き具合を見るからに、かなり神々相手の遺恨は深そうなのに、どうして同じ半神である筈のカルナ相手ならば問題ないんだろう。今度、時間があったら直接、ドゥリーヨダナに聞いてみよう。

 

 そんなことをつらつらと考え込んでいたら、差し伸べたままの右手の上へと、勢いよくドゥリーヨダナが小刀を振り下ろす。

 

 言い出しっぺの俺は当然だが、カルナの方もその光景に対してなんの反応もしない。

 むしろ、すぐさま対応できるように、ドゥリーヨダナの側に控えている。

 

 ――――どろ、り。

 

 擬音を与えるとすれば、それが適当なところだろうか。

 俺が見守る中、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 黒金の金属が真っ赤に染まり、その輪郭が崩れ、柄の部分の黄金の鍍金にまで熱が浸透する。

 伝道した尋常ならざる熱が持ち主の手を焼く前に、カルナがすぐさまドゥリーヨダナの手首を強く握りしめることで、緩んだ掌からそれを手放させた。

 

「こ、これは……!」

 

 蒼白な表情になったドゥリーヨダナが口をはくはくと開閉させる。

 溶けた金属が床に滴り落ち、大理石の床をじゅうじゅうと音を立てて溶かしていく。

 大理石の床が焦げる嫌な匂いと、白い煙をゆらゆらと棚引く光景を見下ろし、ため息をついた。

 ……あーあ、これの光景を見ると、自分が人外の存在なんだと自覚せずにはいられないや。

 

「詳しくは言わないけど、俺の本性は光と熱、それから炎に関わるものだからね。こうやって、いくつかの枷をつけておかないと、触れた相手を文字通り溶かしかねない危険がある」

 

 一見すれば人の子のように見えるこの外見もあくまで仮初めのものにすぎないのだ。

 それを理解しているからこそ、たかが薄皮一枚にすぎないロティカという架空の女相手に人間の男たちが興奮する光景を目撃する度に違和感を禁じ得ないのだが。

 

(ヒト)の器を持って生まれて来たカルナならばともかく、俺はこうやって神格(本性)を封じておかないと、安心して人に混じって暮らせないってわけ」

 

 まあ、昔に比べると人の器に慣れて来たから、自分の意思で金環を外す限りにおいては暴走の恐れなんてないも同然なのだけど。

 でも、やっぱり手元にあるのとないのじゃだいぶ違うんだよねぇ。なんというか、安心感が。

 

 ――ここで少しばかり、俺とカルナの父親に当たるスーリヤの話を思い起こす。

 スーリヤは太陽を神格化した自然神であり、神としての格は神々の王である雷神インドラにも引けをとることのない高位の神霊である。

 

 伝え聞くその本性は、まさに太陽そのもの。

 実母に当たる無限の大女神・アディティでさえ、熱と光を司り、灼熱の神格を宿す彼を抱えきれずに放り出したという逸話が残っている。

 

 息子とはいえ、触れることができないために、ここで女神・アディティは育児放棄に走る。

 そうした理由で捨て子となったスーリヤを拾ったのが夜の女神・ラートリーであったというわけだ。まさに、捨てる神あれば拾う神あり、だ。

 

 ――親の因果は巡るというけれども、こんなところまでカルナは受け継がなくてよかったのに、とつくづく思う。

 

 余談だが、成人したスーリヤはその後、妻を娶ることになる。

 だが、その妻でさえスーリヤの発する熱に耐えきれず、己の影を身代わりに、逃亡してしまうというオチまでついている。

 

 本当に女運がないというのか、なんというか……我らの父神ながら不憫としか言いようのない。

 ちなみに破局しかけたスーリヤとその妻だが、身代わりに気づき、逃亡した妻を追いかけたスーリヤは、己の一部をお舅さんに頼んで砕いてもらったことで触れられても平気な身となった……というふうに締めくくられる。

 

 ……そういや、カルナが神々に忌避されているドゥリーヨダナの配下になったというのに、相変わらず、スーリヤからはなんの連絡もこないなぁ。

 

 放任主義、ここに極まれり! と手を叩くべきなのか?

 ――それとも、なんらかの事情があって伝達できない状況下になるのか……? うーん、どちらにせよ、考えるだに不穏だ。スーリヤが全くカルナに関心を持っていないのであれば、そもそも、末端とはいえ眷属である俺を地上に送ったりなどするはずもないし……どちらがスーリヤの真意なのだろう。

 

「……どうしたのだ? 唐突に頭を抱えるなどして」

「いやいや、なんでもないよ。ちょっと色々思い起こしたせいで、鬱な気分になっただけ」

 

 ――それ、触ってごらん。

 気を取り直して、取り外したままの金の腕輪を指差す。

 恐る恐る指先で触れたドゥリーヨダナが驚いたように目を見開いた。

 

「……冷たいな。――まるで、ヒマラヤの万年雪のようだ」

「太陽を模した腕輪なのに、凍えそうなまでに冷たいってなんだか変な感じだよね。――とまあ、問題はそれなのよ」

 

 ドゥリーヨダナの手から腕輪を取り上げ、元の位置に嵌め直す。

 ああしっくりくるなぁ、もう一つの腕輪も早いところ見つけないと。

 

「本来の持ち主である俺や半神であるカルナがつける分にはまったく問題ない。俺だったら、本来の封印機能が作動するし、カルナにつけたら……そうだな、無病息災に幸運値上昇、直感が鋭くなるなどといった加護が付与されると思う。――実際に身につけなくても、側に置いておくだけなら厄除けのお守りにもなるよ」

「ならば、人間がつけたらどうなるのだ?」

 

 心配はそこなのだ、実際のところ。

 証明が無事に済んだので、再度ゴロゴロと転がりながら、少しばかり思索に耽る。

 

 誰の手に渡っているのかは不明だが、いずれにせよ、俺の側から引き離された状態のまま放っておくのは――俺にとっても、盗っ人にとっても危険すぎる。

 

「――まず、凍傷でも引き起こすんじゃないかなぁ、普通の人の子が装着した場合。あと、すぐにではないけど下手すれば全ての効能が反転する」

「反転だと? つまり厄災を招き、不幸を引き起こす呪いの腕輪になると? ――姉上殿……そんな物騒なものをわたしの部屋に放って置いたのか……」

 

 げんなりとした顔のドゥリーヨダナにペロリと舌を出す。

 いやあ、面目ない。善意がから回ってしまったことは素直に認めておこう。本当にごめんね。

 あーでも、ここまで見つからないままだとどうしよう、やる気でないなぁ。

 

 そのうちなんらかの厄災が起こると思うし、そうなってから回収しに行こうかなぁ……。

 ぶっちゃけ、そっちの方が見つけるの楽だし。それがいいかもしれない。

 

「これだ……、神々のこういうところがわたしの性に合わないのだ……。善意で行ってくれたものだとはわかるが、それがいつの間にかひっくり返って試練となる……! わたしとは違い、悪意がないところがひどく癪に触るのだ」

 

 ブツブツと頭を抱えながら何事かを呟いているドゥリーヨダナに、カルナがそっと首を振った。

 

「ロティカは――いや、アディティナンダは確かに後先考えずにその場の思いつきで行動しては、思いついたように面倒ごとを引き起こす達人だが、決して無責任な人間……? 人間ではないから――人外ではない、というべきか」

「カルナ……お前って子は……!」

 

 カルナが、あの普段から妙に俺に辛口のカルナが……俺のこと庇ってくれた!

 あまりの喜びにでろでろとした笑みを浮かべて花を飛ばしていると、鎧の澄んだ音を鳴り響かせながら、カルナが寝転んでいる俺の側に膝をつく。

 

 いつ見ても美しい、透き通った蒼氷色の双眸がじっと俺を見やる――――そうして、一言。

 

「……だから当然、自分の過失は自分でとるに決まっている。――そうだな?」

「――あっ、ハイ」

 

 気がついたら自然と背筋伸ばしてカルナの前に正座していた。

 お兄ちゃん、反省しました。これから誠心誠意努力して災害が起こる前に腕輪の片割れを探しに行きます!




この章から策略家・ドゥリーヨダナさんになります。決して褒められる行いではありませんので、お覚悟を。
では今度こそ、12月にお会いしましょう!


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腕輪をめぐる冒険

腕輪捜索の進展のなさに、結構荒れているアディティナンダの内面をお楽しみください。
「ロード・オブ・ザ・ブレスレット」始まるよ〜!


 ――――とは宣言したものの。

 

「思い当たる節は全部探したんだよなぁ。それでも見つからないとなると、誰かが身につけていることや盗まれている可能性についても、真剣に考慮すべきなのかなぁ」

 

 紛失に気付いてから最初に探したのは、王宮の宝物庫であった。

 マガダ王の牢獄から救い出した王族たちから奉納された財宝で埋め尽くされていたドゥリーヨダナの執務室だったので、それらを宝物庫に移動させる際に、誤って紛れ込んでしまったのではないかと考えたからだ。

 

 流石は今世において、最も隆盛を極めたクルの宝物庫、とでもいうべき空間。

 近隣諸国から略奪及び献上された金銀財宝をはじめに、歴代の王が代々受け継いできた国宝の数々や聖仙によって授けられた宝具、神の気配が漂う秘宝中の秘宝が収集されていた。

 そして、そんな場所ならば、俺の金環の一つや二つ、紛れ込んでいてもおかしくはあるまい――と思い至り、早速、ドゥリーヨダナに宝物庫に足を踏み入れる許可を願い出た。

 

 自力で潜り込むこともできなくはないが、高名な聖仙(リシ)が宝物庫に掛けた盗人避けの(まじな)いを破るのはなかなか億劫だったし、下手に騒動を起こしてはカルナに迷惑がかかるかもしれない。それだけは避けたかった。

 

 そこで、カルナの上司にあたるドゥリーヨダナに事情を説明し、王宮の金庫番たるドゥリーヨダナの許可のもと、宝物庫に足を踏み入れることがかなった。

 とはいえ、俺のような何処の馬の骨とも知らぬ人間を宝物庫に入れるための大義名分として、アシュヴァッターマンの献上品目録の作成とかいう仕事を手伝うように言われたのは計算外だった。

 流石の俺とて、足を踏み入れた先に広がる莫大な量の金銀財宝の数々を目にした際には、この仕事を押し付けたドゥリーヨダナ相手に、少しばかり殺意が湧いたが、その調査のおかげで宝物庫には探しものがないという事実も判明した。

 

 次に考えた候補は、兵士たちの誰かが手にしているのではないかということだった。

 まず凍傷が引き起こされるかもとドゥリーヨダナ相手に冗談では口にしたものの、短期間であれば人の子であっても装着する分にはなんの心配もない。

 身につけている期間が長ければ長いほど、後から来る厄災の振り幅が酷くなるだけで、短い間ならば、嵌めた人間の身体能力の向上や病魔を退けるといった正しい効能を発揮しているはずだ。

 

 そこで、急に実力の上がった兵士がいないか聞き込みしてみたものの――結果は零であった。

 最もこの聞き込みのおかげで、特に下位カーストに属する兵士達のカルナへの心情とかが聞けたので、まあ収穫はあったと思っている。なんでも、実力さえあればカルナのようにドゥリーヨダナ王子に取り立ててもらえるかも、とのことで、カルナは実力はあるもののいまいち燻っている者達の希望の星になっているそうだ。

 

 それとは反対に家業だから兵士になったのはいいが、どうにも自分には向いていないということで悩んでいる人も多かったのでドゥリーヨダナに紹介してみたところ、事務方としての才能を発揮したらしく、人手の足りなかったドゥリーヨダナに褒められた。後は兵士としていうより、戦士の才能に優れた者達もいたので、ついでとばかりにカルナにも紹介しておいた。

 

 本筋とは違うものの、彼らからもすごく感謝された。

 肝心の腕輪は見つからなかったけど、喜んでもらえたので、俺としては何よりの収穫である。

 

 あらかた調査を済ませた後、発想を変えて、兵士たちではなく王宮の侍女を始めとする女性陣が所有しているのではないか、ということに思い当たった。

 

 ――というより腕輪である以上、装飾品としての機能を忘れていた俺の方が間抜けだった。

 

 確かに、あれは神宝なだけあって、見目は極めて美しい。

 であれば、その美しさに魔が差した人の子がいたとしても不思議ではない……ということに、ようやっと気づいた俺であった。

 

 それに、兵士が伝令の関係でドゥリーヨダナの執務室に出入りするより、侍女や女官が王子の執務室に出入りする方がずっと日常的な光景である。実際、執務室の主人であるドゥリーヨダナ自身、ポンと置き忘れられたような形で放置されていた俺の腕輪について、ジャラーサンダ王征伐以降の慌しさに忙殺されて、忘却の彼方に置いていた感もあるので、その隙に女官の誰かが持ち去ったとしてもおかしくはない。

 

 そこで、どうすればそうした女の園に潜り込めるのだろうかとカルナに相談したところ、今のお前の性別を思い出せと真剣な表情で諭された。

 

 あまりにも違和感がなくて忘れていたが、今の俺は流離いの楽師・アディティナンダではなく、謎の美少女・ロティカであった。道理で、捜索途中に声をかけた兵士達が親切だったわけである。

 

 マガダ王国で王族達の世話をしていた時とは違い、特に何かを気にすることなく、普段の口調で喋っていたから、女の体であるという意識が薄れていた。これはいかん。

 

 思い起こせばすぐさま行動に移すべし! と、いうことでカルナと相談したその足で、ドゥリーヨダナになんとかして侍女か女官として雇ってはもらえないだろうかと談判に行けば、ならわたしの母上の世話でも焼いていろと告げられ、その日のうちに改めて王妃の世話係に任命された。

 

 というか、いつ気がつくかと思われていたらしいが、俺が王宮内を動き回るにあたってアシュヴァッターマン経由でドゥリーヨダナから渡された衣服は侍女の正装だったらしい――興味がなかったので、全く気がつかなかった。

 

 王妃のお世話に任命されたとはいえ、彼女はこの国で一番偉い身分の女性である。

 当然、俺のような新参者が出しゃばる機会などあるはずがない。内々にドゥリーヨダナが手を回してくれたおかげで、王妃の侍女とは名ばかりの俺のお役目は基本的にクンティーや王女のような高位の女性へのおつかいが主だった。

 

 ドゥリーヨダナってそういうところは結構気が利いているよなぁ。

 流石は、武力には欠けていたとはいえ、王宮の金庫番という立場を利用して、文字通り神の子であるユディシュティラ相手に引けを取らない政治基盤を築いただけのことはある。

 

 ――悔しいが、そういう目端の利くところは流石としか言いようがない。

 

 お使いと言うだけあって、本当に王宮のあちらこちらへと回された。

 王妃の部屋から国王の私室、王妃の実弟の部屋、先王の妻の館、百王子たちの妻の部屋……などなど。個人的にはドゥリーヨダナがすでに妻帯者で、奥さんがいたことにびっくりした。

 

 奥さんがいるならきっとそっくりな感じの毒女かな? とか邪推していたら、直接会ったドゥリーヨダナの正妻は、美しいと言うよりも可愛らしいと表現すべき可憐な容姿の女の子だった。

 奥さん、すごく可愛いね――と特に他意もなくドゥリーヨダナに告げると、瞳孔がかっぴらいた目で手を出したら社会的に殺す、と脅された。社会的に殺すって、どう言うことなんだろうとカルナに尋ねてみると、カルナも首を傾げただけだった。まあ、いいか。

 

 俺の紛失した腕輪がこの王宮内のどこかにあることは、間違いない。

 そして、腕輪の気配が依然として、この王宮内から動いていないことからも確かだ。

 しかし、王宮の宝物庫、兵士たちの溜まり場、王宮で働く女性陣の集い……とあちらこちらを隅々まで捜索してみたものの――影も形も見当たらない。

 

 俺が不在の間にドゥリーヨダナの執務室に出入りしたことのある侍女たちに腕輪の形状を告げて、それとなく心当たりがないかどうかを探っては見たものの、思い当たる節はないと皆して首を横に振るだけである。

 

 また、誰かが持ち出した可能性も考慮して、許可無き者がドゥリーヨダナの執務室に出入りした可能性がないかどうか探って見たが、ドゥリーヨダナは意外とそういうのを気をつけているらしく、該当する不審者などいないと告げられてしまった。

 

 なんかもう、誰もみていない隙に、腕輪に足が生えて自分からどっかに行ってしまったと言われても、今なら信じてしまいそうになる。

 

 万策つきたとは、まさしく今の俺の途方にくれた状態を指すのではなかろうか。

 気配はあるから、どっかの不届きものが私服を肥やす目的で遠くに売りつけたりはしていない……と思いたい。

 

 思いたい……とは言っても、こうも見つからないままだと軽く鬱になってくるというものだ。

 

 ここがなー、人の大勢いる王宮じゃなくて森とかだったら、火事でも起こすんだけどなぁー。

 そうしたら猛火で焼き払われた跡地を探せば一発で出てくると思うんだけどなぁ。

 仮にも太陽神直々に授けられた神宝だし、光と熱の化身である俺の本性を封じてくれるものだからなぁー……っと、いかんいかん。

 

 ――あまりにも儘ならぬ進展具合に、思考がどんどん物騒な方向へと傾いていく。

 

 嗚呼、いけない。こんなんじゃカルナにも迷惑かけてしまうなぁ……。

 憂鬱な気分のまま、結わずに垂らしているままの黒髪を軽く指先に巻きつける。

 

 ――そう、金の髪ではなく()()である。

 ドゥリーヨダナ曰く、俺の金髪はこの国ではひどく目立つらしい。

 誰かに面倒をかけない腕輪探しを目的とする以上、隠密行動を言いつけられた身としては、少しでも人目をひく可能性を低くするために、染め粉で髪を黒へと変えざるをえなかった。

 

 実際、ドゥリーヨダナの言う通りだった。

 髪の毛を染めると、昔ほど男に声をかけられる回数も減ったので助かった。

 

 しかし、外見が美少女とはいえ、皆、面白いほどこのロティカの姿に引っかかるものだ。

 マガダ王の一件といい、俺が思っていた以上に、この姿は男の欲をそそるのか。なんてこった。

 

 ――野郎ども、相手の内面を見る目をもっと鍛えようぜ!

 

「……他に何処かあるのかなぁ? ちっとも思いつかん」

 

 しかし、手放してからざっと三週間弱か。

 誰が所有しているにせよ、そろそろ災いでも病魔でも引き起こしてもいいところなんだけど、そんな傾向もないし……うん? ()()()()()()()()……?

 

「いや……、ちょっと待てよ?」

 

 ――となれば、バラモンたちの部屋とかはどうだろうか?

 もしくは、王宮内に建てられた神殿とかもあり得そうだ。

 王宮にそれなりにいる祭祀を司るバラモンであれば祟りの対象外であろうし、宮廷内に設えられた簡易的な礼拝所だったら、腕輪が奉納品として収められていても問題ではない。

 

 そして、収蔵されているだけなら、腕輪が厄災を起きなかったとしてもおかしくはない!

 

 なぜだか、今日の俺は特に冴えているような気がする。

 

 ――よし! 早速、礼拝所を巡ってみよう!

 

 頼まれていた王妃からのお使いもきちんと済ませたし、この時間帯は俺の休憩時間である。

 礼拝所に潜り込んだところで神々に祈りを捧げたくなって、とでも口にすれば、篤信の表れとして咎められることはないだろう。

 

 ここんところ落ち込んでいた気分が、久しぶりに上昇する。

 自然と足取りも軽やかになり、あっちこっち渡り歩いたおかげで勝手知ったる王宮の回廊をいくつも通り過ぎて、奥まったところに設けられている礼拝所へとたどり着く。

 

 白檀をはじめとする香木の匂いに、神々に捧げるソーマ酒が並々と注がれた壺。

 蜂蜜の甘い香りを漂わせる米料理など様々な供物が並ぶ中を、スイスイと通り抜ける。

 礼拝所のあちこちには聖火が置かれ、この王宮で神秘の気配が色濃く宿す空間をぼんやりと照らしていた。

 

「――! 気配が強くなった……?」

 

 馴染みのある気配が一層強くなり、この場に俺の腕輪の片割れがあることを直感する。

 よかった、これでカルナに良い返事ができそうだ。さっさと腕輪を見つけて、ロティカの姿をやめて、アディティナンダの姿に戻りたい。

 

 どんどんと進めていた足をピタリと止める。

 他に誰もいないと思っていたが、どうやら先客がいるらしい。

 彼方から木霊するように聖典を独唱するバラモンたちの声が聞こえてくる中、薄暗い礼拝所の祭壇前に誰かが跪拝しているのが見える。

 

 ――見た感じ、どうやらかなり高位の身分の者らしい。

 汚れひとつない純白の衣に、金糸や銀糸をふんだんに用いた華やかな刺繍文様。

 後ろ姿しか見えないが、大臣か、下手したらドゥリーヨダナの兄弟の誰かかもしれない――少なくとも、一介の侍女もどきが迂闊に声をかけていい立場の人間ではないのだけは確かだ。

 

 まあ、どうでもいいから、早く立ち去ってはくれないだろうか。

 俺的には、さっさと腕輪を探し始めたいのだけれども……困ったものだ。

 

 ――そんなことを考えつつ、侍女らしく頭を低くして相手が立ち去るまで様子を伺う。

 

 微かな衣擦れの音と鼻をくすぐる芳香が漂う。

 先客がどうやら祈り終えたのだと悟って、相手が通り過ぎるのをそのままの体勢で待つ。

 先客――それも若い男のようだ――が、俺の脇を通り過ぎようとしたその瞬間、視界に黄金に輝くものが飛び込んできた。

 

「――――!?」

「――っな!」

 

 思わず、手を伸ばす。その指先で相手の手首を掴み、そこに嵌められている腕輪を凝視する。

 

 ――……間違いない、俺の腕輪だった。

 鈍く輝く黄金に、太陽を模した細工、炎を閉じ込めたような真っ赤な輝石。

 

「…………見つ、けた」

 

 ずっと感じていた気配が一段と強くなる。

 ようやく見つけ出すことができた安堵感で全身が満たされていく。

 

「――……申し訳ありませんが、その手を離してはいただけないでしょうか?」

 

 一息ついていた俺へとやや強張った声がかけられる。

 瞬間、腕輪に釘付けだった視界に褐色が映り込み、誰かの腕を掴んでいたのを思い出した。 

 しかし、一体誰だろう? 俺の腕輪を勝手に持っていた不届き者は――そう思いながら、掴んでいる腕の先を辿っていけば、闇夜を切り取ったような漆黒の瞳とかち合った。

 

 すっと通った鼻梁に、くっきりとした切れ長の瞳、薄い唇。

 艶のある黒の蓬髪に、鞣した皮のように滑らかな褐色の肌。

 柳眉を潜め、やや吊り目がちの黒い目に困惑を宿している表情でさえ、絵になる佇まい。

 神々が好むところとする理想的な美しさの持ち主だが、それは顔面に限った話ではない。

 ほっそりとした体つきに見えても、肩幅は広く、よく鍛えられた均整のとれた体躯である、と一目で判別できる。

 

 なんというか、弟のカルナに引けを取らない美形だ……というのが第一印象だった。

 

 ――しかし、この青年……どこかで見たことのあるような気がするが、どこでだったっけ?




サンタイベントですが、雪景色じゃないですか。
水着サーヴァントや軽装サーヴァント連れて行くと、なんだか見ているこっちが寒くなります。
――イシュタル凛ちゃん、めっちゃ寒々しいわ。


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白金の腕輪

読者の皆さまがた、最近の字数についてどう思われますか? 一話一話の分量って、多くないですか?
今回ので、五千字未満なのですが……いかがでしょう?


 たっぷり数秒は見つめ合っていたが、どうにも思い当たる人物がいない。

 なーんか、どっかで見たような気はするんだよなぁ。うん、どっかで、確かに。

 ドゥリーヨダナの兄弟でないのは確かだが、百人も弟妹がいるんだ。顔を合わせたことのないそのうちの誰かだろうか、いやしかし……あまり、ドゥリーヨダナに似ていないような……うーん。

 

「先程から、黙られたままなのですが……私の話を聞いていましたか? 手を離して戴きたい」

 

 こちらを見下ろす相手の眉間の皺がますます深くなる。

 手を離せと言われても、俺の方とて、腕輪が不幸を招き寄せる前に回収しなければならないし。

 このまま、この青年の不意をついて強奪してしまうのが一番無難な方法かな……、どうしたものかな……とか考えながら、視線を再度下へと向ける。

 

「――あれ?」

 

 ――先ほどまでは黄金に輝いていた腕輪の見た目が、変わっていた。

 

 より具体的にいうのであれば、纏う色は黄金から儚い輝きの白銀に。

 太陽ではなく満月の細工に、そして嵌め込まれた輝石は真紅から紺碧へ。

 なのに、宿している気配は私の腕輪とそっくりなのである。正直な話、意味がわからない。

 

 わからないので――――叫んだ。

 

「――なんで!?」

「なんで、とはこちらの台詞なのですが……。いい加減になさい。いくらこの私が寛容とはいえ、さすがに限度というものがありますよ」

 

 青年が何かをつぶやいているようだが、全く耳に入らない。

 これは俺の腕輪……だと思う。断言できないのは、持ち主である俺がこんな近くにまでいるのに、全く腕輪の方が反応しないことやその文様などが全くの正反対の代物になっていることが理由としてあげられる。

 

 ――なんかよくわからないが、誰かに外見を弄られたのだろうか?

 でも、そんなことができる相手がこの人界にいるのだろうか……いや、一人だけいた。

 

 ――あれだ、あの睡蓮の主人だ。

 かつて邂逅したあの暗闇の主か、それに匹敵する神格の持ち主であれば可能かもしれない。

 

 ……いや、待て待て。

 確かにあの睡蓮の主人は怪しいが、俺の把握していない限りで、彼以外の神格持ちが降臨していたらその限りではない。

 

 ……確かに、現時点ではあの人物はかなり怪しいが、そうだと思い込むには危険すぎる。

 

 でも、これが俺の腕輪だったとすれば、どうしてわざわざこのような真似を?

 こうなってくると、その何者かが、俺の腕輪に目をつけた目的がさっぱりわからない。

 

 確かにこれは貴重な神宝だが、他のもので引き換えられない特別な効能なんてものはない。

 ――強いて言えば、俺専用の封印具という点においては特別だが、それだけでしかないのだ。

 

 ……とまで思い至って、ハッとする。

 今の俺の立ち振る舞いって、誰かに目撃でもされたら罰せられるのでは? それはマズイ。

 

 ――なんとかして、青年の気をそらさなくては。

 

「すみません!!」

「な、何なのですか、先ほどから!?」

「戸惑うのもごもっとも! ――ところで! この腕輪! 一体どうやって! 手にされたのか、お尋ねしても!?」

 

 なんか、この青年にはカルナと同じ匂いを感じる。

 より具体的にいえば、押しに弱そうである……と判断して、いっそのこと、無礼千万ではあるが、怒涛の勢いでこの窮地を乗り切ることにした。

 

 罷り間違っても、勝手に高貴な身分の青年に許可なく触れた罪で不敬罪扱いの上、処刑されないようにするためではない。戦略的かつ高尚な事情あってのことである……と釈明しておこう。

 

「友人からの贈り物です! 理解したのであれば、早くその手を離しなさい!! いい加減、無礼ですよ!」

「あっ、はい。どうぞどうぞ」

 

 耐えきれなくなった青年が振り払うよりも先に、腕輪を握りしめていた手を離す。

 勢いよく彼が腕を振り上げたのに合わせて、俺が掴んでいた力を抜いたせいで、青年がその場で軽く踏鞴を踏んだ。

 

「では、失礼しました!」

「ま、待ちなさい!!」

 

 青年が体勢を立て直す前に、一方的に謝罪して、戸惑う彼の真横を脱兎の勢いで駆け抜ける。

 

「――殿下!? 如何なさいました!?」

「これ、そこな娘! 何処へ行く!?」

 

 騒ぎに気付いたバラモン達が祈祷を取りやめて、近づいてくる声は華麗に無視させてもう。

 尚も追いすがろうとする誰何の声すら振り切り、駆け抜けていた回廊から勢いよく跳躍する。

 

 戦士でもないただの娘であれば、全身打撲及び骨折の重傷を負うだろうが、そこはそれ。

 ――曲がりになりにも、ただの人の子よりも優れた身体能力を持つ俺のことである。

 

 傷ひとつなく地面に無事に着地して、そのまま宮殿の中へと逃げ込んだ。

 これで、あの高貴な身分らしい青年に無礼を働いた咎で牢屋に放り込まれることも、不敬罪という名目で罰を与えられることもないだろう。

 

 ――あ。そういえばあの青年が誰だったのか、結局わからずじまいだった。

 どっかで見たような気がするのは確かだが……。とはいえ、なんというかどこでなのかは思い出せないので、どこかで会ったにせよ相当受けた印象が薄かったのだろう。

 

 でも、カルナと渡り合えるだけの美形だったし、服も結構豪華なものだった。

 あと、確か、礼拝所内のバラモン達から王子とか呼ばれていたような気がするし、それなりの地位にいる人間なのは間違いない。

 

 だとすれば、宮廷内部に精通しているドゥリーヨダナが知っている人物なら誰かわかるはずだ。

 こうも彼の手を借り続けるのもどうかと思うが、全ての事情を知っているドゥリーヨダナに聞くのが一番確実だろう。

 

 ――カルナはなぁ、人の美醜というか外見をあまり気にしないからなぁ。

 俺がいえた義理ではないが……ちょっと頼りにならんのよね。こういう、人を探す時は。

 

 

 ――というわけで、その夜のうちに聞いてみた。

 

「褐色の肌に黒髪で、カルナと張れるくらいの美青年だと? ふん、そのような人間がこのわたしを置いて他に誰がいるというのか」

「あ、そういう冗談は別にいいので。思い当たる相手を教えて」

 

 腕輪の手がかりが見つかったのは良かったが、確実に俺のものであると言い切るだけの証拠がなくてこっちはあまり余裕がないのだ。正直な話、悪辣王子の笑えない冗談に付き合っている時間すら惜しい。

 

「腹立たしいが、弟莫迦な姉上殿がカルナと渡り合えるだけの美形と言い切るほどの相手か……」

 

 ドゥリーヨダナの方も、俺が焦燥に駆られていること気づいたらしい。

 それ以上、無駄話で茶化すこともなく、真剣な表情のまま、わずかに考え込む仕草を見せた。

 

「あの腹黒は今は国に帰っているだろうし、となると……」

「思い当たる人物がいたの?」

 

 苦り切ったドゥリーヨダナの表情からして、彼にとって、あまり好ましくない人物のようだ。

 とはいえ、俺としては、彼の好悪の感情など知ったことではない。さっさとあの青年の正体を教えてもらいたいので、ぐい、と身を乗り出せば、見せつけるように深々とした溜息をつかれた。

 

「――……と、いうより姉上殿が思いつかないのが不思議でしょうがないのだが。どうして異国の王の事情には詳しい癖に、自国の王宮には疎いのだ……アルジュナだ」

 

 苦虫を十匹程噛みしめたような表情と声で絞り出された言葉に、ぽかんと口を開く。

 

(アルジュナ)? ――彼、真っ黒だったよ?」

 

 へ? と素っ頓狂な声をあげて、疑問に思ったことを率直に告げる。

 そうすれば、ドゥリーヨダナの表情が険しくなった。があ、とドゥリーヨダナが吠える。

 

「肌の色の話ではない! 名前がアルジュナなのだ! 先王パーンドゥの妻・クンティーの栄えある末息子! 神々の王・インドラの寵児にして最優の誉れ高いパーンダヴァ!! 武術競技会でカルナが一騎打ちを挑んだ王子だ! 忘れていたとは言わせんぞ!!」

「あ、あああーー!!」

 

 お、思い出した! どうりで見覚えがあるわけだ!

 確かに王宮に出入りしている時や、カルナをドローナの武術教室時代から送り迎えしていた時期から名前だけは知っていたけど、遠目で様子を伺うばかりできちんと顔を確認したことがなかったせいで、全然わからなかった!

 

 競技会の時も高台から二人の様子は見守っていたけど、基本的にカルナのことしか見ていなかったし、あの時はビーマやドゥリーヨダナ、アディラタの飛び入りとか色々ありすぎて……。

 

 正直、対戦相手の王子をじっくり見つめるわけにもいかず、また王宮を回っている時にパーンダヴァと接触する暇なんかなくて、改めて確認する機会にも恵まれなかったものだから、ちっとも気がつかなかった!!

 

 俺の反応について、頭痛がすると言わんばかりの表情で、ドゥリーヨダナが米神を抑える。

 

「……嘘を、ついているわけでもないようだな。全く、気づかない方がどうかしているぞ」

「そうかなぁ?」

「そうだとも! 何せ、あのアルジュナだぞ? 生まれた時に人が思いつく限りのありとあらゆる栄光と祝福を授けられたインドラの息子だぞ? 流石のわたしも設定盛りすぎじゃないかと内心で突っ込まずにはいられない程の量の誉れを一身に背負った、あのアルジュナなのだぞ?」

 

 信じられないと言わんばかりにじっとりと睨んでくるドゥリーヨダナに、苦笑いで返す。

 それにしても、あれが噂に聞くパーンダヴァの三男坊だったのか。

 しかし参ったなぁ……。彼を寵愛する神々の加護も厚そうだし、特に考えずに暗示や幻術をかけでもしたら、こっちが返り討ちに遭うかもしれない。

 

 どうやったら、穏便に彼の手から腕輪を取り戻すことができるのか……というか、そもそも、あれが俺のものかどうかを確かめることができるかなぁ……。

 

 悶々と考え込んでいると、ドゥリーヨダナが疲れたように目頭を揉みほぐしていた。

 それで? とやや眠そうな声が、確認方法を求めて考え込む俺へとかけられる。

 

「そのアルジュナがどうしたのだ?」

「実はね――――」

 

 とりあえず、今日会ったことを全部ドゥリーヨダナに話した。

 黄金の腕輪を見つけたと思ったこと、それなのによく確認したら白銀色の月の腕輪だったこと。

 アルジュナ王子曰く「友人にもらった」ということ、気配は俺のもののはずなのに、形状や意匠が違うから真偽判定できないこと。

 

「なるほど、友人か……となると、あの腹黒あたりが妥当なところだな」

「ドゥリーヨダナ? 心当たりがあるの?」

「ある……が、できれば口にしたくもない。……()()()()()殿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――――ドゥリーヨダナ?」

 

 苛立ったように親指の爪先を噛むドゥリーヨダナの姿に、なぜだか嫌な予感がする。

 カルナ共々敵に回るって、どういうことなのだろう? あのカルナがドゥリーヨダナを裏切るとでも思っているのだろうか?

 

 密かに綺麗だなと思っている黒水晶の双眸に、酷薄な輝きが宿る。

 初めて見せられたドゥリーヨダナのもう一つの顔に、どうしてだか胸がざわついた。

 

「話を戻そう。どうやったら、その腕輪が姉上殿のものかどうか判別することができるのだ?」

「……腕輪を外してもらった状態で、俺が触れたらわかるはず。本当に俺のものだったら、元の姿に戻るだろうから」

 

 おそらく、一時的に所有者権限がアルジュナ王子に委託されている状態なので、本来の所持者である俺が直接触りさえすれば元に戻るだろう――と説明する。

 

「なるほどな……。しかし、はら……友人から贈られた腕輪を外す状態となると、その機会も限られそうだな。少なくとも日中に機会を伺うのは難しいだろう……夜間が無難といったところか」

 

 ドゥリーヨダナの頭の中では一体どのような思考が繰り返されているのだろうか。

 先ほどの酷薄な輝きが嘘のように普段の表情を取り繕っている彼の姿に、心理的な距離を感じてしまった自分に内心で小さな衝撃を覚える。

 

 カルナとドゥリーヨダナは友人関係だけども、俺とドゥリーヨダナはそうじゃない。

 なのに、どうして俺は彼の振る舞いにこうも寂しさを覚えたのだろう? カルナのように弟でもない――そんな彼だというのに、どうして?

 

 それに気づいているのかいないのか、ドゥリーヨダナが一段と声を潜めて、俺へと囁きかける。

 

「――これはまだ内密の話なのだが……パーンダヴァの連中は近々とある街に赴く。あの五人兄弟に、母親であるクンティー妃を有した大所帯だ。どいつもこいつも王宮で蝶よ花よと育てられてきた連中だ。当然、人手を必要とするだろう――そこに潜り込め」

「……つまり、侍女として彼らの世話係としろと?」

「端的に言ってしまえばその通りだな」

 

 でも、流石にバレるのではないか?

 そう思って見つめ返せば、視線の先で、ドゥリーヨダナが皮肉げに唇を歪める。

 

「――身分の高い者達というのはな、基本的に己より下位の存在を認めないものだ。同じ人間として扱わない、と言い切ってしまえる程度にはな。だから平気で自分の身代わりとして切り捨てることもできる。女ならなおさらだ。……わたしの父上の出生の話など、その最たるものではないか」

 

 ドゥリーヨダナの憎々しげな表情に、今更ながら彼の過去が気になる。

 カルナの身分を問うことなく取り立てた一件や半分冗談で行った下級兵士達の紹介を受け入れたことから、彼はひょっとしたら王宮に住まうもの達よりもその周囲の者達――つまり下位階級の者達の方を信用している、のか?

 

 うーん、やはり人の心はよくわからない。

 特にドゥリーヨダナなど、複雑きわまる人間の代表的なところもあるし……ややこしいったらありゃしない。

 

「であるから侍女という身分ならば、彼らにとって姉上殿は家具のようにしか映らないだろう。重要なのは自分たちは心地よく過ごすことができるかどうか、だからな。人としてみない以上は、奴らとて特に一介の侍女に気にかける様子も見せないだろうよ。そこをついて腕輪を奪取するといい。回収次第、すぐに奴らから離れてアディティナンダの姿で帰還しろ」

「――ドゥリーヨダナは、違うのか?」

 

 チラリ、と黒水晶の双眸が俺を見やる。

 そのどこか疲れたような輝きに、ドゥリーヨダナという人間が、ひどく虚勢を張った生き方をしているのだと思わずにはいられなかった。

 

「……王子であるわたしがこのようなことを口にするのは奇妙極まりない話かもしれんが、わたしは黄金と宝石で着飾る連中よりも、汗と血で己を飾る者達の方が信じられる。――彼らの言葉に偽りはなく、彼らの言動に面倒な裏を考える必要もないからな」

 

 答えになっていない答えだったが、それ以上彼と言葉を交わすことはなぜだか憚られた。

 

 もう夜は遅い、と王子は告げる。

 仮にも女の姿をしているのだ。カルナが心配する前に、奴の元へ帰ってやれ――というのが、その夜最後にかけられたドゥリーヨダナの言葉だった。




(*この小説はアディティナンダの一人称で進むため、彼が目にした人物をよく観察している時のみ・あるいは記憶に残る時のみ、相手の外見情報が描写されます。読み返してもらればわかりますが、これまでアルジュナは一度としてアディティナンダの興味の範囲内に含まれておりません。服装や彼の姿を遠目に見たり、動作を確認したことはあっても、実際にちゃんと顔を合わせたのは今回は初でした。アルジュナ側もそうです*)

(*あと、思っていた以上にアルジュナが親友からもらった腕輪の形状の差異に関して、前回のアディティナンダの勘違いに突っ込まれなかったので驚きました*)


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外遊

導入編は三話とか言いつつ、結局四話になりました。次回からは怒涛の展開になる!と予告しておきます。

感想とか評価、何より誤字報告に感謝しております。すごく励みになりますし、皆様の感想を読んでいると楽しいです。
いつも、ありがとうございます。



 “――これはまだ内密の話なのだが……パーンダヴァの連中は近々とある街に赴く。

 あの五人兄弟に、母親であるクンティー妃を有した大所帯だ。

 どいつもこいつも王宮で蝶よ花よと育てられてきた連中だ。

 当然、人手を必要とするだろう――そこに潜り込め”

 

 

 ――そう、ドゥリーヨダナが口にして数日。

 ドゥリーヨダナの宣言通り、パーンダヴァの五兄弟とその母親であるクンティー妃が、クル王国の外れにある風光明媚な都・ヴァーラナーヴァタへと向かうことが王宮中の人間に通告された。

 そんな訳なので、真夜中の打ち合わせ通りに随行の侍女の一人に選ばれた俺は、宮殿の外の庭で、他の者達と一緒になって、積み荷などの最終点検を行なっていた。

 

「――う〜ん、どうやら気のせいではないようだ」

 

 朝方から散々動き回っていたせいで、ほつれてきた横髪をいじりながら、軽く肩を竦める。

 困ったことに、準備されていた荷物一覧表に記されていた筈の小箱が一つ、見当たらない。

 気づいたその足で、まっすぐクンティー妃の部屋に向かったが、件の小箱とはどうやら行き違いになってしまったと教えられて、肩を落とす。

 

 つい先ほど別の侍女の手で外へと運び出されたと聞いて、来た道を元に戻ることにする。

 道中に考えることは、無論、俺の腕輪だと思わしきアルジュナ王子の銀の腕輪のことである。

 

 ここ数日間、侍女たちに混ざって働きながらアルジュナ王子の身辺をそれとなく観察していたのだが、あの王子が腕輪を外しているところを一度たりとて見かけなかった。

 アルジュナ王子の纏う衣服やそれ以外の装飾品は毎日のように変わるのだが、あの腕輪だけは頑としてつけ続けているのだ。

 

 ――なんなんだろう、決して外さないようにと誰かに言い含まれでもしたのかね?

 

 そこまで固執しているとすれば、穏便に譲ってもらうという選択肢は他になさそうだし……。

 こっそり盗み出そうにも、その隙がない。こりゃあ、強奪か窃盗しか手段がなさそうだ。

 

 でもなぁ、カルナ並みの武術の天才相手に俺如きが強奪なんてできるわけないし。

 そうなると、何か騒動のどさくさに紛れて盗み出す以外に方法がなさそうなんだよなぁ。

 俺の腕輪だと思う反面、そうでもない可能性も決してないわけではないし……。そのためにも、一度は外された状態の腕輪を手にする他ないんだよねぇ。いやはや、どうするべきか……。

 

「――ねぇ、君。ひょっとして、パーンダヴァの侍女じゃないかな?」

「――……!」

 

 そんなふうに考え込んでいた俺の元へと、声がかけられる。

 するり、と耳朶に滑り込み、知らず知らずのうちに相手の意識を自らの元へと惹きつける――そんな魅力的な響きを宿した声音に、びくりと飛び上がった。

 

「君と同じ服の侍女が先ほど荷物を運んでいた時に、この小箱を落としていってしまったようなのだけど……。どうだろう? 心当たりがないかい?」

 

 ――おっと、いけない。考え事のしすぎで上の空になっていたようだ。

 仮にも神霊の端くれたる俺が他者に不意をつかれるなんて……思っていた以上に平和ボケしているのかもしれない。これはいかん。

 

 内心で自分自身に叱咤して、慌てて表情を取り繕う。

 淑やかな侍女のふりをしつつ、声の聞こえてきた方を見やると、柱の陰に誰かが佇んでいた。

 

「……申し訳有りません。念のために確認させていただけますか?」

「もちろんだとも」

 

 柱の陰にいるせいで、声をかけてきた相手の表情はよく見えないが、その手の中に探していた小箱らしきものがあるのに気づき、一言断りを入れてから走りよった。

 渡された小箱の外見を観察して、確かにそれが探していたものと同じ小箱であったことを中身を見て確認を済ませ、ホッと一息をつく。

 

 ――嗚呼、よかった。

 この小箱の中身はクンティー妃のお気に入りの装身具や宝石を集めた物らしく、くれぐれも忘れないようにと念押しされていた物だったから、見つかって余計に安心した。

 

「――確かに、先王妃様のものです。どなたかは存じあげませんが、ありがとうございました」

 

 小箱を手にしている状態なので、手を合わせられないが、代わりに軽く黙礼をする。

 そうして、それまで相手の顔を見ないままだったとことに気づき、そっと目線を持ち上げた。

 

「――それならよかった。なに、君のような美人とこうして声を交わすことができて、こちらこそ役得というものだよ」

 

 ちょうど逆光を背に立っているせいで、柱の陰に隠れた相手の顔を伺うことができない。

 ただ、声の主が年若い青年であること、思わず聞いた相手が耳を赤くせずにはいられない、艶めいた美声の持ち主ということはわかった。なんとなくだが、この青年、さぞかし異性にモテるのだろうな――というか、自分が普通の女性にとってさぞかし魅力的な外見の持ち主であることに鼻を掛けるような輩の気配がして、知らず識らずのうちに目が半眼になる。

 

「それでは、私はここで。失礼させ――」

 

 こういう、自分の外見に自信のある男は厄介だ。ロティカ状態であるならばなおのこと。

 さっさと小箱を持って退散しようと思い、礼を述べつつもう一度軽く首を下げる。

 

 その時に、下げた視界の先で目の前の青年が、腰帯に横笛を挟んでいるのが見えた。

 なので、王宮に雇われている楽人の一人なのだろうか? と首を傾げた――その、瞬間。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――そっと、俺の耳朶に、人間の生暖かい吐息がかかる。

 

 一息遅れて、目の前の男に距離を詰められたのだと察する。

 と同時に、妙に艶を感じさせるその動作に、本能的な忌避感が湧いてしまったのも仕方あるまい。反射的に相手を殴りたくなるが、今の俺はただの侍女……! と必死に我慢する。

 

 さてはこいつ、善人の皮を被った軟派男の類か。

 ――――と思って睨みつけるよりも先に、肩にずっしりとした手のひらの重みが乗せられる。

 

「――……()のことを、どうか宜しく頼むよ?」

「…………は?」

 

 あまりにも不可解な言葉に、今の自分の立場も忘れて相手の顔を確かめようと視線を持ち上げたが、俺の視界に飛び込んできたのは男の後ろ姿だけだ。

 その背中を暫く睨みつけて見たが、一向に振り返る気配すらなかった。そのことに、軽く溜息をついて、俺もまた仕事場へと戻ることにした。

 

 ――ただ、どうにもそこらの軟派男とも思えず、後ろ髪を引かれる思いだった。

 

 ……それにしても、誰だったんだろう? あの胡散臭い色男は。

 

 ――あと、()って一体誰?

 

 

 ――それから、さらに数日が経過して。

 宮廷中が、この度のパーンダヴァの五人兄弟とその母親が、今度向かうことになるヴァーラナーヴァタに関する噂話で持ちきりだった。

 なんでも、ヴァーラナーヴァタの都では近いうちにシヴァ神を讃える大祭があり、パーンダヴァの者達はその祭りに出席するために向かうらしい――というのが()()()()行啓の理由だった。

 

 侍女仕事の休憩時間、俺はといえば、人気のない中庭の木陰にカルナと並んで座りながら、今回の件に関する弟の率直な意見を求めていた。

 

「……対外的には外遊という理由になっているが、実際のところは違うのだろうな」

「――カルナはその辺について、どう考えているの?」

 

 正式にドゥリーヨダナの腹心、そして将軍として引き立てられて以降、忙しい日々を送るカルナとこうやって他愛もない時間を過ごすのは久しぶりだった。

 

 カルナが忙しくなる前は、俺の方が腕輪の件であちこち出歩いていたから、なおさらのこと。

 おまけに数日前の、思い起こすたびになんか無性に嫌悪感を抱かざるを得なかった、胡散臭い色男との邂逅の一件もある。

 

 ――正直なところ、俺が遠出する前に、弟の空気に癒されたい気分だったのである。

 

「あくまで私見に過ぎないが……。パーンダヴァの者達がこの時期にヴァーラナーヴァタへ向かうということは、この王都から追放されるに等しい処遇を受けたことになる」

「――なかなか穏やかではない話だね」

「全くだ」

 

 ――なぜなら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 パーンダヴァ陣営の者達とって、あの競技大会の最大の目的は自陣営の優位を衆目の目に明らかにすることだったと推測できる。けれどもそこに、誰にとっても予想外のことが起きた――そう、俺の隣でもぐもぐと果実をかじっているカルナの飛び込み参加である。

 

 おまけに、アルジュナ王子に匹敵する武術の腕を見せつけた無礼極まる挑戦者は、最大の対抗馬であったドゥリーヨダナ陣営に引き抜かれてしまう始末。

 

 ユディシュティラ王子を次期国王に擁する人々は大層焦ったはずだ。

 ――なんせ、それまで財と知に優れながらも、武に欠けていたカウラヴァの陣営が、カルナという決して看過できぬ戦力を自陣に引き込むことに成功してしまったのだから。

 

 とは言え、その状況をひっくり返す方法はまだ存在した。

 というのも、パーンダヴァ陣営だけではなくカウラヴァの者達もまた、彼らの既得権益を揺るがしかねないカルナが、ドゥリーヨダナに従って王宮を闊歩することに難色を示していたからだ。

 

 これは俺の予想でしかないが、両陣営共に、なんらかの方法を使ってカルナを宮廷外へと追い出そうとしたことは想像に難くない。彼らにとって誤算だったのはドゥリーヨダナが彼らの想像以上にカルナに対して好意的だった上に、それに対してもさっさと手を打ってしまったことだった。

 

 ――それが、この間のマガダ王・ジャラーサンダ征伐の一件である。

 これまでに幾人ものクシャトリヤ出身の勇者たちがあの武王と戦い、破れ、虜囚の身となった。

 ところが、人の身でマガダ王に敵う者なし、とまで呼ばれていた無双の武王を討伐してこい、と命じられたカルナは()()()()()()一人で打ち負かしてしまった。

 

 それに難癖つけようにも、カルナとマガダ王の決闘の一件は虜囚の王たちを中心に、この広いバーラタの大地に瞬く間に広がり、身の程知らずの武芸者が打ち立てた功績に誰もが口を噤まざるを得なくなった……というわけだ。

 

 その結果、これまでパーンダヴァ陣営に対して、一歩引かざるを得なかったドゥリーヨダナ陣営が継承権争いに本格的に参戦することが可能になってしまったというわけだ。

 

「――なぁ、カルナ。もしもの話だけど、お前があの王子様と誰に邪魔されることなく二人きりで戦った場合、その勝敗ってどうなると思う?」

「……そうだな。オレのような者がこのような物言いをすること自体、おこがましいことだとは思うが……。今のアルジュナ王子相手に負けることはないだろう」

 

 一瞬だけ、カルナの涼しげな双眸に炎が宿る。

 なんの気負いもなく告げられたその言葉に、俺としても成る程と頷かざるを得ない。

 まあ自動回復効果持ちの上に、外からの攻撃に対して無敵状態の鎧がある限り、あの王子様がカルナに瀕死の重傷を負わせることは至難の技だろう。

 

「――武術の腕前自体は、オレとあの王子に大した差はない。だが、お前に教わった魔力操作に匹敵する術をアルジュナ王子が有さない限り、全身全霊の闘いなど望めない」

 

 すい、と頭上に広がる青空を見上げながら、少しばかりカルナはその表情を翳らせる。

 そうやって、心底口惜しそうに、生まれて初めて見出した好敵手に対する心情を吐露した。

 

「――それを少し、物足りなく思うのも確かだ」

「お前は……あの王子様と戦いたいの?」

 

 そのように尋ねると、カルナは恥じらうように顔を伏せる。

 長い前髪の影に隠れた蒼氷色の双眸が、一際その色を濃いものとした。

 

「――何故ここまであの男に拘るのか、正直なところ、今でもわからない。……だが、オレは最高の状態のあの王子と戦ってみたいと、そう思っている」

 

 俺としては相手が弱いうちに叩き潰しちゃってもいいんじゃないかなぁ、と思わなくもないが、カルナのような武芸者にはまた別の理屈があるのだろう。まだ村で静かな暮らしを過ごしていた時も、村人やカルナの腕前を聞きつけた人々から魔性退治を頼まれると、相手が強敵であればあるほど嬉々とした表情で戦いを挑んでいたからなぁ……。

 

 ――――あれ? 静かな暮らしってなんだっけ?

 

 まあ、アルジュナ王子のことはこの際、傍に置いておこう。

 カルナの願いを叶えたくも、俺のような何処の馬の骨ともわからぬ奴が王子の教育係に手を上げたところで、門前払いをされるのがオチだしな。

 

 問題は今度行われるであろうパーンダヴァの行啓についてだ。

 ジャラーサンダ王を降したカルナに対して、パーンダヴァ兄弟の中でも最優の武芸者として知られるアルジュナ王子でさえ確実な勝利を狙えない以上、水面下の継承者争いを制したのはドゥリーヨダナ一派ということになる。

 

 とはいえ、いくら息子が可愛いとはいえ、国王も亡き弟の忘れ形見で、国民からの人気の高い彼らを害するようなことを本心から望むことはないだろう。

 なにせ、ドリタラーシュトラ国王は、時々こっちが唖然とするほど楽観的なものの見方をするという欠点こそあるものの、基本的には善良な人物である。

 

 それに、王宮の金庫番たるドゥリーヨダナであったとしても、その無尽蔵の金銭で心を動かすことの出来ない人々が王宮内に一定数いるのは確かだ。

 代表的なのが、クル族の長老として名高いビーシュマ老や国王の末弟に当たるヴィドゥラ。彼らは宮廷内にも、現国王に対しても強い影響力を有する上に、元々、呪いの子として悪名高いドゥリーヨダナにクル王国の王位を継承させることを渋っている面々だ。

 

 ――となれば、対立するパーンダヴァを一旦は王都の外に出して、その間に堅実な足場固め及び王位をさっさと譲ってもらうことこそが得策だとドゥリーヨダナならば考えるはず。

 

「――成る程、それで追放だとお前も考えたわけか……」

「そうだな。……ただ、少しばかり思うところがない訳でもない」

 

 じっ、とカルナの双眸が俺を凝視する。

 何かを伝えようとするその真剣な表情に、弁当箱を包もうとしていた手を休ませて、俺もまたカルナを見つめ返した。

 

「――……ヴァーラナーヴァタの都には、お前も随行すると聞いた」

「そうだね。あの腕輪の件がある以上、放っては置けないし」

「……俺がこのようなことを口にするのはドゥリーヨダナへの不忠になるのかもしれないが、敢えて警告しておく」

 

 隣に座るカルナは俺から目をそらすことなく、はっきりと断言する。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()。今回のヴァーラナーヴァタ行き、お前といえど警戒して置いた方がいい」

 

 悪辣極まりないドゥリーヨダナの行為に関しても、それもまた良しとして受け入れるカルナにしては珍しい言葉だった。

 滅多に見ない剣呑な表情を浮かべるカルナの、黄金の籠手に包まれた手をそっと覆う。金属で出来ている防具に包まれているというのに、触れた手は温かった。

 

「……わかった。お前の言った通りにしておく。決して油断しない、気をつけるよ」

 

 空いているもう一つの手で、そっとカルナの頭を抱き寄せる。

 抵抗一つなく収まったカルナの背中を労いを込めて優しく叩けば、懐かしい思い出が蘇る。

 

 ――それにしても、小さい頃のカルナと比べて随分と大きくなったものだ。

 女の体って、男の時よりも小さくて脆くて繊細すぎてなんだか色々と不便だけど、こうやって柔らかい体で相手を抱きしめることができるのはとてもいいなぁ、と思う。

 

「――ドゥリーヨダナは、お前に対してすぐにカタをつけることができると言ったが……あの言葉は決して正しくないだろう。あの王子の性格からして、友人からもらったというほどのものを、簡単に手放すようなところに放置するとは考えにくい。ましてや、直接的な戦闘においてお前は役に立たないからな」

「……なんだろう、至極当然のことなんだけども、その言い方は腹が立つ」

 

 仮に王子の部屋に侵入して腕輪を盗み出そうとしても、気配で気付かれると言いたいのか。

 くっつけていた身を離して、カルナの秀でた額を指で弾いたが、なんら痛痒を感じていないようなので、軽くため息をついた。

 

「――そんなに容易くは行かないってこと? 俺の腕輪よりも、むしろなぁ……」

 

 それよりも俺がいない間のお前のことの方が心配で仕方ないよ、と率直に告げれば、心外であると言わんばかりにカルナは憮然とした表情を浮かべる。

 

 こういうところがなぁ、俺としては心配なんだよなぁ。

 俺がちょっと目を離した隙に、その人の良さに付け込まれて身ぐるみ一式剥がされそうなところとかさ――うぅ、久しぶりになんか胃が痛くなってきた……。

 

「うーん、そう考えると心配になってきた。――はい、カルナにこれを渡しておくよ」

「……だが、これは……お前にとっても大事なものだろう?」

 

 俺に残されたもう片方の腕輪を外して、カルナへと差し出す。

 半神であるカルナであれば、災いを招くことなく腕輪の恩恵を浴びることができる。

 

 僅かでも、俺の見ていない所で不運に見舞われる可能性を下げたい、と思っての行動だった。

 

「大事なものだからこそ、お前に持たせるんじゃないか。特に、俺が側にいない時に招かれる厄災を退けるためにさ」

「だが……」

 

 なおも躊躇うカルナの手のひらに強引に腕輪を押し付ける。

 まあ、単なる装飾品などではなく、封印具を兼ねていることを知っているからこその躊躇いの仕草であることは、俺とて百も承知である。

 

 大丈夫だよ、とカルナに対して少しでも不安を薄めるために、笑った。

 あと二、三日もしないうちに、侍女として行動している俺は、パーンダヴァ御一行に従って、この都を旅立たねばならない――だけれども。

 

「大丈夫、大丈夫。それほど長く預けるわけじゃないから、安心してくれ――すぐ、帰るよ」

 

 そう口にして、心優しい弟を安心させるべく、微笑む。

 ――何せ、この言葉が嘘になるなんて、その時の俺はこれっぽっちも想像していなかったのだ。




(*ヴァーラナーヴァタ行きは原典にも書かれている一大イベントです。王位継承権を争っているパーンダヴァが、この時期に王都の外へと出されることに対して長兄・ユディシュティラが親しい人々へ嘆くような言葉をつぶやいている描写がることから、おそらくこれは外遊という名の一時的な追放のようなものだったのではないか、と筆者は思いました*)

(*武術の腕前、才能自体はカルナ・アルジュナはさほど力量が引き離されているわけではありません。総合的に見て、武器や防具の性能・魔術に関する腕前の差からカルナの方が上回っているのは確かですが。
 というか、インドラ神のヴァジュラでさえ破壊できないスーリヤの鎧ってなんなの……? 最終的に立っている方が勝ち、みたいな戦場において、反則級のアイテムやないけ……こりゃあ、何としてでも取り上げないといかんよね。これの攻略法を身につけない限り、正攻法でアルジュナ勝てないわ〜と。
 とりあえず、第三章はアルジュナのそれ以外のポテンシャル上げの話になります*)

(*次回、アディティナンダ最大の苦難発生。彼は無事に王都へと帰還し、最愛の弟に再開することが叶うのか……!? といった感じです。導入編が長かったから、サクサク進めてしまおう*)


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拝啓、弟へ。

ちょっと内容に行き詰まったので、いつもと雰囲気変えて見ました。



 ――拝啓、我が愛しの弟へ

 

 私が辺境の都・ヴァーラナーヴァタへ到着してから、はや一月が経過しました。

 お前が、お前の底意地の悪い上司にこき使われていたりしないか、身分を傘に着る同僚たちに嫌味を言われていないでしょうか。この一月余り、そうした事柄ばかりが気になります。

 それから、お前には昔から不精なところがありますが、一度や二度くらいという理由で、食事を抜いたりしていませんよね? お前のことを信頼していないわけではないのですが、ちゃんと滋養のあるものをきちんと食しているかどうか、正直とても心配です。お前が元気に毎日を過ごしていてくれれば、私としてもいうことはないのですが。

 

 王子様たちですが、この都に住まう名士たちやバラモンを中心に挨拶廻りを続けております。最初は、いつになったら終わるのやら、と思っていましたが、もうそろそろ、一通りの挨拶廻りが終わりそうなので、侍女として正直ホッとしております。

 

 さすがは神の子どもたちというのでしょうか。彼らはこの街でも、とても歓迎されております。

 都人だからこその珍しさというのも関係しているとは思いますが、とりわけ若く美しい王子たちに対する女の子たちの秋波がすごいです。全く関係のない私でさえ、彼女たちの寄せる意味深な眼差しには、辟易とする程度だといえば、この気苦労が鈍感なお前にも伝わるでしょうか。

 

 正直なところ、引っ越してきたばかりで人の出入りが多すぎます。おまけに、いまだに王子様たちの住居が仮住まいであることから、屋敷内がせわしなく、残念ながら、なかなか当初の目的を果たせそうにないです。

 

 なので、近況報告とお前の字の練習も兼ねて、暫くの間、手紙を送ることとします。

 なお、お前の上司様相手には、別に状況を知らせておりますので、安心して下さい。

 

 返信をくれると、私としてもとても嬉しいです。

 

 敬具

 

****

 

 ――拝啓、我が筆不精な弟へ

 

 先だっては、お返事有難う…と言いたいのですが、何ですか、あの手紙の素っ気なさは。返事をくれたのは嬉しいのですが、たったの数行はない、とお前に注意しておきます。

 

 それと、いくら書き慣れていないとはいえ、もう少し文字は丁寧に書くべきです。知識や教養はお前にとって武器にこそなれ、役に立たぬということはありません。この手紙への返信は短くともいいので、王宮の口うるさい者達が見ても文句がつけられない程度には美しく書きなさい。

 

 王子様たちは、都の名士の一人であるプローチャナという男に提供された大きな館へと居を移しました。武芸を得意とする王子たちの趣味に合わせたのか、立派な武器庫が併設されている四つの大きな館から構成されている、大層立派なお屋敷です。

 

 建物の名称は「吉祥」といい、王子たちがヴァーラナーヴァタの都に外遊に来ると聞いた時から建設されたものとのこと。王族というのは、どこであってもこのように歓迎されるものなのでしょうか? それとも、これは彼らが尊き神の子だからこその歓迎なのでしょうか?

 

 私のような侍女たちは元の屋敷に住んだまま、日中の時間帯や宴会などで忙しい夜の時間に、その吉祥屋敷で働いております。ちなみに、パーンダヴァの王子様たちは、今は狩猟に精を出しております。外遊の目的であるシヴァ神の大祭はもう少し先ですので、それに対する供物集めと気晴らしを兼ねているのでしょう。

 

 ところで、この「吉祥」という屋敷なのですが、どうにも気にかかるところが多々あります。

 例えば、そうですね……屋敷中に漂う奇妙な匂い、とか。そのことについて、お前の方からあの性格の捻じ曲がった上司様に少し尋ねてもらってもいいでしょうか?

 

 あまり、自分の身を切り売りするような真似はしないように。

 

 敬具

 

****

 

 ――拝啓、我が面倒臭がりな弟へ

 

 返信、だいぶ遅かったですね。いいえ、私は特に気にしておりません。お前があの上司様に連れられて東西奔走していたのは、風の噂で伝え聞いておりますから。宮仕えの一人として、順調に武功を挙げているようで何よりです。ただ、出る杭は打たれると言いますし、その辺は気をつけておきなさいとだけ、お前を心配する肉親として伝えておきます。

 

 ――話を変えましょう。

 

 前回の手紙を受け取ってから、わざわざあの上司様に確認を取ってくれたようでありがとう。

 ――しかし、私の気のせいということですか……そうですか、それにしては少しばかり気になりますが……。いえ、なんでもありません。ただ、お前が付け加えてくれた一文が少しばかり気がかりです。あの上司様がお前に対して、嘘をついてはいないのは確かでしょう。

 

 しかしながら、弟よ。嘘をつかなくても、人というものは言いたくないことを隠しておける方法を持っているのです。お前の慧眼を疑うわけではないけれど、何もかもをそれでよし、とばかりに素直に受け止めてしまうその実直さが少しばかり心配です。それが将来、お前の禍根とならなければいいのですが。

 

 プローチャナという男について前回少しばかり語りましたが、この男はパーンダヴァの吉祥屋敷の管理人のような真似をしております。吉祥屋敷の周囲は高い壁に囲まれており、都の人々は「大事な王子様を高い塀で守っているのだ」と彼の忠誠を褒め称えておりますが、私にはどうにもそのようには見受けられません。まるで、中にいるものを決して外へ出さないように、それこそ逃げ出したりしないようにしている檻のようにも思えます。これは私の考えすぎでしょうか?

 

 このプローチャナという男を端的に表すのであれば、小狡い役人といったところでしょうか。目をいつもキョロキョロさせて、ひどく落ち着きのない男です。王子様たちには大層恭しく接しているのですが、ふとした瞬間に、厭な笑い顔を浮かべています。このようなことをお前にいうのは褒められたことではありませんが、私は、あまりこの男を好ましく思えません。

 

 屋敷の奇妙な匂いもようやく落ち着いてきました。王子様たちも屋敷に漂う匂いについては気になっていたのか、引っ越してきた当初は建築の専門家を招待したり、昼夜を問わずに建物の中を探検するようにせわしなく動き回っておりましたが、最近はそのような姿も見られなくなりました。

 

 ――これでようやく、私の方も、当初の目的を果たせそうです。

 

 戦うのはいいのですが、あまり無茶はしないように。

 

 敬具

 

****

 

 ――拝啓、遠い都にいる我が弟へ

 

 最初の手紙を送ってから、もう数ヶ月が経過してしまいました。これだけお前の側から離れていたのは、共に暮らし始めてから初めての経験です。私がお前のそばにいないのは、やっぱり、とても違和感があります。

 

 ヴァーラナーヴァタの都ではつつがなくシヴァ神の大祭が開催されました。

 正直、お前の上司様が何かをするとすれば、人々は祭りに浮かれたこの時期だと思っていたのですが、何もなかったので少しばかり拍子抜けです。ひょっとすると、お前の言った通り、私ばかりが気負いすぎていたのかもしれません。

 

 祭りが終わり、あれほど人々で賑わっていた都の雰囲気が落ち着いてきました。それを物悲しく思ったのでしょうか、クンティー王妃主催で大勢のバラモンを招いて盛大に布施を行うようです。

 

 そんな訳なので、侍女たちも休む暇もなく総動員されて、宴会を盛り上げるために働かなければなりません。そこで、立場を利用して、お酒をいつもより多めに注文しておきました。――うまくいけば、屋敷中の者達が寝静まった頃にでも、()()を取り戻すことが叶うでしょう。

 

 そう遠くないうちに戻れそうです。

 

 敬具

 

【手紙の裏面】

 

 ……。

 …………。

 ――…………やはり、この屋敷は少しおかしいです。

 

 

 ヴァイカルタナ、どうにも厭な予感が胸を離れません。お前も、決して俺の渡した腕輪を外したりしないように。もし俺の身に何かが起こったとしても、その腕輪さえあれば、我らの父のご加護が厄災からお前を必ず守ります。

 

 ――どうか、誰かの身勝手な道理を受け入れないで。

 悪意を抱く者は、ひょっとしたらお前の、俺たちの近くにいるのですから。




<裏話>
???「――……ああ、確かにその通りだ。何も虚言を吐くことだけが相手を騙す術ではない」
「ましてや一流の詐欺師ほど、嘘をつかぬというではないか」
「――恨んでくれるなよ、姉上殿。――わたしとしても、千載一遇の好機を逃すわけにはいかぬのだ」

(*更新、いつものようにスムーズにいかないとは思いますが、気を長くしてお付き合いいただければ嬉しいです*)


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『不吉の家』

 ――さて、どうやってあの王子を殺すべきなのでしょうか?

 

 轟々と炎が燃えさかり、火の粉で赤く染まっていく建物を背景に佇みながら、目の前で狂乱して無様極まりない姿を見せている小男を一瞥して――ワタシは、小さくため息をつきました。

 

 それにしても、全くもって耳障りな小男です。

 確かに、精神を滅茶苦茶のぐちゃぐちゃに引っ掻き回されてしまったとはいえ、狂い方にもそれなりの品位というものがあるでしょうに。

 

 本人が命だけはと懇願し、ワタシとしても無益な殺生は好むところではなかったので、脳の中身と精神を、軽く引っ掻き回した程度で済ませるという温情をかけたというのに、この体たらく。

 身体中の色々な穴から、とても汚い水を出しつつ、言葉になっていない叫び声をあげる小男の醜態は、五月蝿い上に見苦しいことこの上ない光景です。

 

 これならいっそのこと、ワタシの魔声の囁き一つで、その命を死神(マヤ)に引き渡してやった方が、このような醜態を晒さなくて済んだ分、本人にとっても幸せだったかもしれません。

 

 とはいえ、全ては済んだこと――ここで泣き喚いている小男の死に様など取るに足らぬこと。

 

 未だに泣き叫んでいる小男を捨て置くことにして、屋敷の奥の方へと足を進めます。

 我が身に慣れ親しんだ真紅と橙、そして朱金に輝く炎があちらこちらで大輪の花のように燃え盛る様を見つめていれば、先ほどまでの不快な気分が浄化されていきます。

 

 ――それにしても……あのクル族の王子も大したものですね。

 

 灼熱の炎と煤と煙が室内に充満する中を、草原を歩くような軽やかさで進みながら、先ほどのプローチャナとかいう個体が泣き喚きながら暴露した内容を思い起こします。

 

 そもそもの発端たる、パーンダヴァの一行のヴァーラナーヴァタへの都行き。

 ――それ自体が、目障りな五王子たちを、まとめて葬るための策略だったとは。

 

 宿敵を討ち滅ぼすための機会を、父王が息子可愛さに王位を与える日を待つのではなく、己の手でその機会を生み出し、政敵の抹殺のために努力を惜しまないその姿勢。

 難敵を打倒するにあたって、無い知恵をふり絞らねばならぬ人間特有の必死さが滲んでていて、非常にドゥリーヨダナという人間の矮小具合に好感が持てます。

 

 ヴァーラナーヴァタへのパーンダヴァを始めとする都人たちの好奇心をくすぐり、王宮中の老若男女を巻き込んで、善良なる父王やその周囲の賢臣をさりげなく誘導して、死地となる辺境の都へと五兄弟を誘導するなんて――……全くもって、狡い考えでこそありますが、そこはそれ。

 

 直接戦うわけにもいかない宿敵を貶めるために、あの王子が一生懸命働いたかと思うと、一周回ってその悪辣さと必死さに、胸がときめくような愛しささえ感じてしまいます。

 

 うふふ、と唇から硝子の鈴が触れ合うような、澄んだ笑声が思わずこぼれ落ちてしまいました。

 

 ひそやかな侵略の行われている深夜の屋敷には、想像していた以上に、高い音がよく響きます。

 ……そういえば、この姿は女を模しているのでした。いけない、いけない。

 

 ――これでは、標的に気づかれてしまうかもしれません。

 

 国中からかき集められた着火性の高い材木に、たっぷりと脂肪を含んだ乳製品をふんだんに用いて、丁寧に、丹念に拵えられたこの『吉祥屋敷』。尊き半神の王子たちに捧げたこの屋敷の真実の姿は、ありとあらゆる燃えやすい代物を用いて建てられた『不吉の屋敷』だったとは!

 

 ――道理で、普通の屋敷では嗅ぎ慣れない匂いが、新築当初にすると思いました。

 

 間違っても標的である王子たちが外へと逃げたりなどできないよう周囲を高い塀で取り囲んで彼らの動きを制限し、その行動範囲を燃えやすい材質で建てた『吉祥屋敷』の中へ封じ込める。

 それから時期を見計らって、『吉祥屋敷』に火をつけ、半神の王子たちを焼き殺す――というのが、ワタシを襲った小男が王子から命じられた任務でした。

 

 些か詰めの甘さを感じずにはいられませんが、なかなか独創性のある策略ではないですか。

 

 そんな風にワタシが感心している合間にも、ワタシの周囲では燃え盛る炎がまるで食事をしているように屋敷を覆っていきます。脂肪分の多い上等の蝋や糖蜜、乳製品などを贅沢に使用しているので、柔らかい材質が多く、熱で溶けやすいせいか、炎の侵食が非常に静かです。

 

 なので――もしかしたら、同じ屋敷内にいる彼らも気づいていないのではないでしょうか?

 

 肌に心地よい熱風がそよ風のようにワタシの服の裾をふぅわりと捲り上げるのを心地よくさえ感じながら、一歩一歩、目的地に近づいていきます。なんだか、獲物を狙う蛇にでもなってしまったかのようで、滅多にない経験に、少しばかり、楽しくさえなってきました。

 

 ――さて。話が五王子暗殺だけで済めば、それはそれで良かったのですが。

 

 あの王子は何を思ったのか、あの小男に対して、大変奇妙な命令も付け加えてしまいました。

 

 “黒い髪に紺碧の瞳、足首に黄金の飾りをつけたパーンダヴァの侍女”

 ”彼女のことも、叶うことならば五王子たちと運命を共にさせるように”

 

 ただし、小男がか弱い女を殺すことが無理だと思うのであれば、己の名誉を汚せないと感じるのであれば、実行しなくても構わない……と断りまでつけて、わざわざ命じたそうです。

 

 とはいえ、めでたく侍女を暗殺せしめた暁には、国を一つ進呈しよう、という大判振る舞いであったとのこと。流石に命令に至るまでの詳細な理由こそワタシにはわかりませんが、結局のところ、たかが女一人と小男は欲を出しました。

 

 かくして小男は、腕輪を取り戻すために屋敷に忍び込んでいたもう一人のワタシ(アディティナンダ)を襲撃し、見事にワタシの手で返り討ちにあい、命乞いの一環として全てを白状いたしました―そこまでが、これまでの経緯という訳です。

 

 ……全く、欲に駆られた人間というのは本当に度し難いものです。

 ワタシたちが地上に与えた法理に基づけば、このような小娘の形をしたか弱い生き物を殺そうと考えるなど、決して賞賛されるべき行いではないというのに。それを己の欲望に目がくらんだ挙句に、絶対者からの命令という建前のもとで自身の行為を正当化しようとするだなんて――なんと醜悪極まりない生き物なのでしょう。

 

 ましてや、一介の次女に扮していたワタシはドゥリーヨダナの政敵である五王子たちと違い、わざわざ殺すだけの理由などありません。とても不可解なことですが、あの王子は()()()()()()()という曖昧な命令を下したにすぎませんから。

 

 ――フゥ、と。再度、ため息をつきました。

 

 まあ、あの小男ばかりを責めるのは辞めにしましょう。

 そもそも政敵をだまし討ちにしようという、ドゥリーヨダナの今回の一件に関わる行為自体が、決して褒められたものではないのですから。

 

 そのようなことをつらつらと考えていれば、肉の焦げる生生しい匂いが漂ってきます。

 もしかしたら、あの小男が錯乱した挙句に燃え盛る炎の渦へと身を投げたのかもしれません。

 標的である五王子たちの死を確認する前に、仕掛けた側である本人が焼身自殺を遂げるというのはなかなか皮肉が効いた結末です。

 

 すでに決着のついた話ではありますが、正気を失ったとは言え、生きながら肉を焼かれるという壮絶な苦痛を味わう前に、一息でその命を奪ってあげた方が慈悲であったのかもしれませんね。

 

 そんなことを思いながら、足元に転がっている元の形状が不明なまでに炭化した物体に触れることのないように、そっと足先を持ち上げて飛び越えます。

 

 なんだか、深い森の中で冒険している時のことを思い出しました。

 目的地まであと少しですし、ここまで標的に近づけたのであれば、慎重に行動する必要もないでしょう。焦ることなく悠々と足を進めることにします。

 

 ――それにしても、あの王子に対してどのような報復をなすべきでしょうか?

 

 ……ワタシに無礼を働いた小男はどうやら自ら命を絶ったようですし、その企みの大本となるあの王子の方も、あれと同じような目に遭わせてやるのが妥当というものでしょう。

 たかが人間の分際で、神霊であるワタシを殺そうと企んだのですから、それ相応の報復をなさなければこちらの沽券にも関わります。

 

 ――とはいえ、未遂に終わったことを考慮してやって、生きた屍として一生を地上で過ごせる程度に済ませてやるのが穏便な手段かもしれません。この方法であれば、あの小男へと下した沙汰と釣り合いも取れますし……ふむ、実に悩ましい問題ですね。

 

 今や、室内を彩っていた鮮やかな熱帯の花の代わりに、真紅の花弁が生き生きと咲き誇る館。

 ――その最奥の間に設けられた、大きく立派な扉を見上げます。

 

 灰と煙によって煤けたそれへと、そっと指先を這わせ、ゆっくりと重たい扉を押し開けます。

 すると、絢爛たる装飾が施された豪奢な寝室へ続く、華美な装飾の施された居間が現れました。

 

 ――ここは、屋敷の主人のための用意された部屋の一つ。

 この時間帯ならば、ワタシの目的たる人物もここにいるはずです。

 そうするべくもう一人のワタシ(アディティナンダ)がこの日の宴のために、しこたまお酒を用意したのですから。

 

 それに、もう真夜中です。

 日中、宴の主役として客人らをもてなした標的もまた疲れ切って寝ていることでしょう。

 そのような所以で、寝室へと繋がる室内は、真っ暗な闇に包まれているものと思っていました。

 

 ――ところが、ところが。

 

 真っ暗な中に仄かな輝きを放つ、ともし火が一つ灯されておりました。

 そうして、その薄ぼんやりとした橙のともし火にひっそりと照らされる室内の暗闇に溶け込むように、ワタシに背を向けて佇む青年の姿がありました。

 

 嗚呼……どこかでみたことのある顔です――さて、どこでしたっけ?

 霞がかかったような脳に蓄積された人の世界の情報を元に、この人間の姿を参照します。

 

 ――そうでした。これは()()()()()()()でした。

 

「――――貴女は……」

 

 インドラの息子がこちらを振り向いて、少しの間だけ呆然とした表情を浮かべました。

 こんな夜更けであるというのに、夜着の代わりに戦士としての服をまとい、その身には弓矢を始めとする寸鉄を帯びているではありませんか!

 

 ――その様子からして、どうやら眠りについていたわけでもなさそうです。

 

 扉を開け放ったワタシの後ろで轟々と燃え盛る炎の乱舞を目にしたせいでしょうか?

 暗闇に浮かび上がっている涼しげな面持ちに一瞬だけ焦りの色が浮かびました。

 

 ――とはいえ、ワタシのやるべきことは決まっております。

 

 インドラの子供が何かを告げる前にさっさと距離を詰めて、その意表をつきました。

 彼が身を竦めた隙に、その腕に嵌められた白銀の腕輪へと指先を添えて、神威を放ちました。

 途端、所有者であるワタシが触れたことで、一瞬だけ腕輪が白銀の輝きを失い、陽光を煮詰め溶かしたような見事な黄金の輝きを顕にしてから――そうして白銀色へと戻りました。

 

 ――これで間違いありません、これはワタシの腕輪です。

 

 ……うむ、と満足げに頷いてみせます。

 何故、インドラの息子がこれを所有していたのかは知りませんが、下手にこのインドラの愛息子に報いを受けさせると、あの過保護な父親が五月蝿いでしょう。それだけは避けたいものです。

 

 まあ、ワタシは他の■■たちと比べて、良心的かつ寛容な■■であると自負しておりますので、今回に限り、この子供の犯した不敬に目を瞑ることに決めました。

 

 ただ、問題があります。

 どうやら想定していた以上に、腕輪の機能が十全に働いており、この子供を守護しております。

 なので、力づくで取り上げることは難しいでしょう。

 

 ……ならば、仕方がありません。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と結論づけます。

 

「――何故、侍女がこのような場所に? すでに退出したのではないのですか? いえ、それよりも、ここが危険な状態だと、わかっているのですか?」

 

 インドラの息子が何事かを問いかけているようですが、些細なことです。

 

「聞こえているのでしょう? 何故、私の問いかけに答えないのですか?」

 

 腕輪の嵌められた左腕を見下ろし、ゆっくりと全てを溶かす熱を込めた手刀を掲げます。

 せめて、この子が痛みを感じる前に腕を切り落として、ワタシの腕輪を返してもらいましょう。

 

 腕輪さえ取り戻すことができたら、もうこんな場所にいる必要もありません。

 これでようやく、カルナの元へと帰ることができます――……()()()

 

 ……カルナ?

 カルナ、カルナ……――そう、()()()!!

 

 何故でしょう? 視界が明滅します。――違う、それだけではなく、頭がぐらぐらする。

 まるで、直接脳みそを誰かの手で高速で揺り動かされているような、そんな感覚に襲わる。

 ぐしゃぐしゃ、ぐちゃぐちゃと、二つの自我が撹拌されている。

 

 ワタシは、いや、俺は、そうだプローチャナとかいう吉祥屋敷の管理人に襲われて――カルナの、そしてドゥリーヨダナが俺のことを、否、ワタシを殺そうとしていた事実を知って、嗚呼。

 

 ならば――裏切りには厳罰でもって返さなければ……と。いや、待て、待て、待て!?

 そもそも、俺とドゥリーヨダナの関係は、そうした相互の信頼の上で構成されたものだったか?

 

 ――何を今更なことを。

 金環の封印が揺らいでいたとはいえ、それだけワタシの心身に到るまでの衝撃がもたらされたからこそ、これが裏切りであると判別したのです。

 

 何もおかしなことではないではありませんか。古来より人が神を裏切った場合には、口にするのもおぞましいほどの天罰を下さねば、示しがつきません――待て、待て、待て、何かがおかしい。

 

 ぐらぐらと揺れる、ゆらゆらと回る……ドロドロと、自我が溶けていく。

 

 ――()()()()()()()()()()()

 

 カルナの兄として、人の中で生きる、あの子の一生を見守ることを決意したのは、()()()()

 

 掲げたままの右手の指先をゆっくりと握り締める。

 拳の形に固めた手のひらに、爪がギリギリと食い込んでいるのを痛みという形で体感し、曖昧になっていた俺という自我の輪郭をはっきりさせる。

 

 ――そうだ、ワタシは、いや、俺は太陽の息子(アディティナンダ)

 人が好きなくせに不器用で、無愛想で、口下手なカルナの、あの子の――兄だ。

 

 あの子の尊厳を侵すものから、あの子を踏みにじろうとする害を与えるものから。

 不器用なあの子を守ろうと、そして本当の家族としてその一生を慈しみ続けることを決意したのは――■■■■ではない、アディティナンダ(カルナの兄)なのだ。

 

 ――だから……そう、だからこそ。

 

「お前は深奥(そこ)で――――引っ込んでいやがれっ!!」

 

 掲げた右手を固く握り締めて拳を作り、胸の奥から湧き上がる怒りを込める。

 そうして、叫び声とともに、思いっきり自分の顳顬を殴り飛ばした。

 

 非力な女の身とはいえ、この身は人ならざるもの。

 当然の事ではあるが、尋常の女の範疇を軽く飛び越えた膂力を思いっきり脳天にぶつけたせいで、視界がチカチカしている。なるほど、俗にお星様が見えるというのはこういうことなのかと感心していれば、ゆっくりと意識が薄れていく。

 

 とりあえず、面倒臭い問題は全部後回しにしよう。

 俺のことを殺そうとしたらしいドゥリーヨダナのことで悩むのは目覚めてからでいいや。

 

 衝撃に耐えきれずに徐々に暗くなっていく視界に、こちらに手を伸ばした状態で、驚いたように目を見張っているアルジュナ王子の姿が映った。

 

 いやぁ、あのお上品な育ちの王子様には全くもって訳がわからなかったことだろう。

 蚊帳の外に置いた状態のまま、混乱させてしまって誠に申し訳ない。

 

 白金の腕輪のことは気にかかるけど、この際、どうでもいいや。

 それよりも、お前も早く逃げないとこの厄災に巻き込まれてしまうよ?

 

 太陽の眷属たる俺ならばともかく、お前にこの熱量と煙はきついだろう。

 

 ――だから、早く逃げてくれな、い、と……死ん、じゃ……。

 

 ……一瞬だけ、脳裏に出会ったばかりの頃のカルナの幼い姿が過ぎる。

 嗚呼、久しぶりにあの子に会いたいなぁ。元気にしていてくれると、嬉しいんだけど。

 

 その思いを最後に、視界が完全なる漆黒に包まれていく。

 そうして、ようやく取り戻した俺の意識もまた深潭たる闇の中へと沈んでいったのであった。




(*第三章で一番苦労する人はアルジュナ王子だな、うん!*)

(*一時期掲載していました「小ネタ・第五特異点をインドでやってみた」を読んだことのある方はおわかりのように、本性が出るとアディティナンダはエセ敬語キャラになります。
 わりかしドゥリーヨダナに対して殺意増し増し。悪辣王子の明日はどこだ!? そして、彼の真意は一体……? みたいな感じですが、本章の最後に語れたらなぁと思います*)


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特別ではない貴方

お久しぶりです。
年末年始が忙しく、非常にドタバタしておりました。
ようやく時間を見つけ、書き出そうとしたら、それまでの反動で熱が出て、その挙句にはインフルエンザ。

……大変でした。…………大変、でした。

以前ほどではありませんが、ある程度のペースで投稿を続けることができればと思います。




 ――嗚呼、なんて厭わしい。

 

 ――見よ、この世の全ての光輝より見放されたような、泥濘に包まれたあの姿を。

 ――見よ、この世の全ての栄光より見放されたような、汚辱に覆われたあの姿を。

 ――どのような(カルマ)を犯せば、あのようなおぞましい姿になるのだろうか。

 

 眉間を顰め、吐き捨てるようにそう言い放ったのは、どこの誰が最初だったのだろう。

 

 それは、どこの誰ともしれぬ誰かの口から繰り返され続けた言葉であった。

 

 始めに口にしたのは、少年だったかもしれないし、少女だったのかもしれない。

 美しく着飾った婦人だったのかもしれないし、逞しい体躯を誇る青年だったのかもしれない。

 肌の上に皺を刻んだ老女であったかもしれぬし、髭を蓄えた禿頭の老爺であったかもしれない。

 

 尊ぶべき、敬われるべき、愛されるべき、日輪の落とし子。

 この世で何よりも愛おしく思う子供が、触れ合う人々から侮蔑の言葉を投げかけられるたびに、どれだけ遣る瀬無い気持ちになったことだろう。

 何度、彼らの口から告げられる偏見に満ちた言葉に、違うと声を荒げ、身を以て子供の盾となり、人々へと制止の言葉を投げかけたことだろう。

 

 そのような暴言や蔑みに、負けるような、折れるような子ではないと知っていた。

 

 ――嗚呼、それでも。

 ワタシは、それがどうしようもなく、悲しかった。

 そして、俺も、そのことがどうしようもなく――――哀しかったのだ。

 

 どうして、人々はこの子の母親によって与えられた(カルマ)ばかりに目をやって、この子の属する階級ばかりに囚われて――この子自身の良さに気づいてはくれないのだろうか。

 

 ――どうか、どうか。

 たった、一人だけでもいい構わないから。

 子供のありのままの心身を、その目に捉えて、受け入れてくれる者はいないのだろうか。

 

 ずっと願っていた。ずっと祈っていた。

 だからこそ、あの日のあの言葉によって救われたのは、あの子だけではなかったのだ――……

 

 

 ――どうして、ドゥリーヨダナは俺のことを殺そうとしたのだろうか?

 

 考える、考える。

 ただひたすらに悶々と、そのことだけを考える。

 

 ドゥリーヨダナは、一体何を考えて、あのようなことを配下に命じたのだろうか。

 それだけが、どうしてもわからない。

 

 政敵であり強敵である、パーンダヴァの兄弟たちを暗殺する、その理由はわかる。

 ……でも、どうして俺まで一緒くたにして殺そうとしたのか? 

 

 カルナがドゥリーヨダナの味方であり、ドゥリーヨダナがカルナを裏切らない限り。

 カルナの意思に反して、あの悪辣王子を害する気は一切ない――のが俺の行動指針だった。

 

 そんな訳なので、ドゥリーヨダナに疑われ、不審に思われたりする振る舞いをする必要がない。

 その必要がなく、はたまた身に覚えもないだけに、あの難解な性格のドゥリーヨダナがいかなる思考を経て、そのような決断を下すに至ったのか、さっぱりわからない。

 

 ドゥリーヨダナの方だって、カルナという自陣の最大戦力を手放したくなかった筈だ。

 それなのに、どうして、カルナの不信を買うような暗殺計画を実行せしめたんだか。

 

 わからない、さっぱりわからない。

 そもそもこの暗殺計画は一体いつを起点として考えられたものなのだろうか? それすら思いつかないのが現状だ。

 

 ただでさえ、人の子の重層的な内面を考察することは苦手なのに、相手はあの複雑怪奇としか言いようのない多面性、思考性の持ち主であるドゥリーヨダナだ。彼の内面なんて、本音と建前が密接かつ複雑に錯綜して入り混じりすぎていて、正直、お手上げである。

 

 ――……というか。

 この俺がカルナ以外の他人、それも人間に対してこうも思い悩むこと自体が、異常である。

 

 別に、俺とドゥリーヨダナは別に仲良しこよしというわけではない。

 弟のカルナと違って友達でも、忠誠を誓った家臣というわけでもない。

 ぶっちゃけて言えば、俺の行動基準がカルナである以上、それ以外の人間の存在なんて塵芥に等しい筈なのだ――それなのに。

 

 どうして俺は、ドゥリーヨダナという()()に対して、こんなにも真剣に思い悩んでいるのか。

 

 わからない、さっぱりわからない。

 このどうにも納得しがたいモヤモヤとした感情を、なんと表現したらいいのだろう。

 何より、たかが人間一人に殺されかけただけで、なんであんなにも衝撃を受けたのだろう?

 

 ……だって、俺たちは別に友人なんかじゃなかった。同じ志を持つ仲間ですらなかった。

 単純に言ってしまえば、カルナという存在を通して、曖昧に繋がっていただけの間柄だった。

 

 当然、お互いに信用していたわけでもないし、信頼されていたわけでもない。

 これまで結果的にドゥリーヨダナのためになるような行為を行ったことはあっても、それだって突き詰めればカルナのためになることだからやったことだった。

 

 ましてや俺は神霊で、ドゥリーヨダナは人間だった。

 その俺が、どうしてあんな小心者かつ悪辣な人間のために、ここまで考えているのだろうか?

 

 俺にとって特別なのは、弟であるカルナだけで、それ以外の人間はぶっちゃけどうでもいい。

 実際、全ての基準がカルナを発端としているせいで、カルナに対して益を齎す人間には好感を持つが、そうではない人間は捨て置く、というのが俺の人間世界での基本的な姿勢だった。

 

 ――その判断基準には、俺自身の好悪や主義思想というものはぶっちゃけ関係なかった。

 弟に対して好意的か否か、という観測の結果によって他者への接し方は算出されていた。

 

 だからこそ、例え相手が善人でも悪人でも、人間である以上は、身分の高低に関係なく等価値で、同時に俺にとっては等しく無価値な存在でしかなかったのだ。

 

 確かに、地上の生命の庇護者である太陽神・スーリヤの眷属である以上、一定の意義を人類に対して見出し、加護を与えてはいたが――つまるところは、それだけでしかなかった。基本的に人間の価値というものは人間全体に対して等しく振り分けられているものであって、人間と区別された群体の中から、特定の個人へと俺が深い関心を向けることはなかった。

 

 ――薄情というよりも、無情。

 結局のところ、それがカルナの兄という皮を被った、人間のまがい物である“アディティナンダ”という存在の真実であったと言っていい。

 

 俺は確かにカルナとの数年間のやり取りを通して、人の愛の素晴らしさと美しさに気づき、それを一端とはいえ獲得したと自負してはいたが、そうした本物の感情が向けられる先、与えられる先は極めて限られていた。

 

 必然、俺の心が動くのはカルナが関係している時だけなのだから、カルナが関係していない場合、俺個人に対する他者からの働きかけというものがあったとしても、そのこと自体がアディティナンダという存在に影響を与えることは、まずなかったのだ。

 

 だからこそ、異性を誘惑する存在である天女が求婚してきた時も、あっさりと断れた。

 だからこそ、競技大会が開催される話を聞いた時に、王国の将来をすっぱり見放した。

 

 俺にとって大切な存在はカルナだけで、それ以外はカルナに害さえ与えなければどうなってもいいものだったからだ。それゆえ、そのカルナさえ関係しないのであれば、俺は俺自身がどう思われ、どう扱われたところで、内面的な部分に何ら痛痒を感じないし、感じ得なかったのである。

 

 ……。

 …………しかし、こうやって考えると、俺って結構なクズだな。

 最愛の弟が関与しないだけで、こんなにも無機質に成り果てるなんて、本当にロクデモナイ。

 数年かけて理解した、人間という生き物の持つ特性に敬意を示しつつも、結局のところはそれだけでしかない――そう、それだけでしかなかった……筈なのだ。

 

 ――それが、一体どういうことだろう。

 何故、俺はドゥリーヨダナの殺意に対して、あそこまで動揺したのだろう?

 

 だって、俺たちは別に友人でも仲間でも主従関係でもなかった。

 カルナ抜きでの確固たる交流関係が築かれていたわけでもなかった。

 それなのに、どうして俺はプローチャナの口から出たドゥリーヨダナからの暗殺指令を耳にした瞬間、裏切られたと感じてしまったのだろう。

 

 裏切りは両者の間になんらかの絆がある場合に対して使われるべき言葉だ。

 これまでの俺たちの間には何にもなかったというのに――だというのに、どうして俺はあそこまで大きな衝撃を受けたんだろう?

 

 そんなのおかしいじゃないか。

 俺にとって、大事なのは、大切なのは、カルナだけだったのに。

 俺自身にさえ意味を見出せない俺にとって、価値のある存在はカルナだけで、それ以外に心が動かされることはなかったのに。

 

 わからない、わからない。

 俺は、ドゥリーヨダナのことをどう思っているのだろう? 

 俺は、ドゥリーヨダナと、どうなりたかったのだろう?

 

 話さなくちゃならない、尋ねなくてはいけない。

 語らなければならない、正さなくてはならない。

 ただ本性(ワタシ)の振舞うがままに従って、冷徹に切り捨ててしまうには、いい意味でも悪い意味でも、ドゥリーヨダナという存在は、俺の中で大きくなりすぎてしまっていた。

 

 ――――そのためには、もう一度、あの王子と会わなければ。

 天罰を下す(ワタシ)としてではなく、カルナの兄である(アディティナンダ)として。

 例え、その正体が人間になりきれない人間もどきであったとしても、今度こそ――きちんと、ドゥリーヨダナという個人と向き合うべきなのだ。




ワタシ/俺アディティナンダに共通しているのは、家族として弟であるカルナを愛している、というところだけ。
それ以外だと、全くもって性格や価値観、人間に対する振る舞いも違います。ただ、俺アディティナンダはワタシをベースにしていますが、カルナや他の人々との交流の結果、どんどんと変化していくことは可能であり、そういう意味では今はまだ変化の途中と言っていい感じです。

カルナによって、人の愛の形を理解し、ドゥリーヨダナによって人を知る……と言ったところかなぁ?


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沐浴

とりあえず、小休止回。
今回の一件ではっきりしたが、腕輪のないアディティナンダは間違いなく、幸運値が低い。
それと作者のガチャ運も低い。FGOのガチャの排出量、もうちょっと向上してくれないかなぁ……。


 ドゥリーヨダナの思惑は依然として不明なままではあるけれど、俺が何をしたいのか、何をするべきなのか、ということははっきりした。カルナをドゥリーヨダナの元から引き離す/離さない云々も、この暗殺指令問題に関する諸々が解決してからでいいだろう。

 

 取り敢えず、ドゥリーヨダナに直接会って、力づくで口を割らせてでも、あの悪辣王子の本音を明らかにしてやろうじゃないか。

 

 為すべきこと、やるべきことが明瞭となったので、満足する。

 こんなにもカルナ以外の存在について考え込み、自分自身という存在について思い悩んだのは、ひょっとしたら初めてなのかもしれない。うーむ、ドゥリーヨダナの分際で生意気だな、全く。

 

 ――ただ、気分だけは不思議と晴れ晴れとしていた。

 あの晩にプローチャナとかいう小男から今回の一件を耳にした時は、あまりにも精神が動揺したせいで、アディティナンダとして被っていた皮がずれて、中身(ワタシ)が出てくるような醜態を見せてしまったが、考えがまとまった今はなんとも清々しい。

 

 ――そう。

 まるで、神秘の気配の濃ゆい森の中で朝焼けを迎えた時のように、なんとも言えない清々し、さ、だ……、あれ、()()()? どう言うことだ?

 

 その瞬間――ぱちり、と目を開ける。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、朝露に濡れた瑞々しい緑。

 ついで、耳に入ってきたのは、小鳥たちの囀りと獣たちの吠える声。

 ひくひくと動かした鼻腔をくすぐったのは、清らかな真水の流れる水辺の匂い。

 

 視覚・聴覚・嗅覚。

 その全てが、この場所をあの不吉の家の建てられていた――辺境の都ではない、と判断する。

 

 ――――じゃあ、ここどこだよっ!?

 

 草原の上に寝転がっていた体を勢いよく起こす。

 恥ずかしい話だが、それまで自分が地面の上に寝かされていた状態であることにも、全く気づかなかった。そんな訳だったので、大きく目を見開いた先、勢いよく起き上がった先に飛び込んで来た光景に、呆然と口を開く。

 

「……川?」

 

 目の前に広がっている透き通った清流に目を奪われ、呆然と呟く。

 

 俺の意識が最後にあったのは、まず間違いなく、燃え盛る不吉の屋敷の中だ。

 太陽神の眷属であり、本性が光と熱を司っている以上、人間の器に押し込められていても、火災によって俺が死ぬことと確信していたからこそ、あのような場面でも安心して意識を失うことができたのだが……そんな俺が、何故このような場所にいる。

 

「にしても――……臭いな、今の俺……」

 

 嗚呼、それにしても、身体中から火災現場特有の煙や物の焦げた匂いがする。

 ちらりと視界に入った両手も灰や煤、噴煙の名残などで汚れているし、確実に、髪に服をはじめに、全身のいたるところが汚れているのは間違いない。

 

 そう気づいてしまった以上、このまま薄汚れた身なりのままでいるのは、とても耐え難い。

 

 ――――体を清めたい、綺麗にしたい。

 そうと気づくと、途端に衛生的な欲求を満たしたくなった。

 幸いと言っていいのか、目の前にはうってつけの川がある。

 水が綺麗な点は言うまでもないが、全身を清めるに足るだけの深さと水流の速さも申し分ない。

 

「――よしっ!」

 

 そうと決まれば、早速、沐浴と洒落込もうではないか!

 カルナほどではないが、俺とて沐浴は大好きだ。数少ない趣味の一つだと言ってもいい。

 全身の汚れが落とせるのもそうだが、なんせ気分がスッキリするし、冷たい水は肌に心地よい。

 

 そのまま立ち上がり、軽やかな足取りで川辺へと近づく。

 その道中で服を脱ぐ暇も面倒臭く、顕現させた朱金の炎を肌の上を這わせ、身にまとった侍女装束を、灰の一片も残さずに綺麗さっぱり焼き払う。どうせもう侍女として戻ることはないし、服の裾は焦げたり解れたり汚れたりしているので、上衣・下衣、それに肌着の類まで全て焼き尽くして、文字通り、一糸纏わぬ姿になる。

 

 沐浴を終えたら魔力で服を編めばいいし、今はこの解放感を味わうことに集中しよう!

 

 あー、全くもって、気が楽である。鼻歌が溢れると言うものだ。

 それに髪についている煤と灰、あと髪粉を落としたい。変装のためとは理解していても、毎晩のように他の侍女仲間の目をかいくぐって染め直したりするのって、すごく大変だったんだよなぁ。

 

「ふん、ふん、ふふん」

 

 ちゃぽん、と足先を心地よい冷たさの水へと浸す。

 そうして、ゆっくりと爪先から太もも、太ももから腹部……という具合に薄汚れた全身を水の中へと沈めていく。そうやって、胸元のあたりまで水に浸かってから、大きく息を吐いた。

 

 あー、気持ちいい。

 

 流れる水が体の汚れを落とし、髪についた様々な不純物を取り除いてくれる。

 なんともまぁ、心地のよいことだ。やっぱ、風呂……じゃなかった沐浴っていいわぁ……。

 うっとりとした心地になりながら、黒く染めた髪を水につければ、触れた先から染め粉が水に溶けて、そのまま流れていく。

 

 人々の喧騒の聞こえてこない、静かな、静かすぎる森の中である。

 聞こえてくる音は鳥の囀り、木々の合間をかける風の奏でる草木の音色。

 さらさらと流れる川の流れに、時折聞こえる獣の息遣いや魚たちの立てる水音。

 久方ぶりに人間たちから離れたところにいるおかげで、下手に人間らしく取り繕わなくていいので、なんというか、気が楽である。

 

 暫し、人目を気にしなくて良い心地よさに身を委ねるが、このままではいけないと首を振る。

 

 ……こうやって、ゆっくり沐浴を楽しんでもいいけど、俺はドゥリーヨダナに会って、事の真相を追及しに行かなくちゃいけないしなぁ……。――よし!

 

 じゃぼん、と勢い付けて、水の中へと潜る。

 川底に背を向けて、潜った先で目を見開く。そうすると、ぼやけた視界が目の前に広がる。

 

 朝日を浴びてキラキラと輝く水面に、腰まである長い髪に付着していた髪粉や灰、煤と言った不純物が浮かびがり、溶け混んでいったかと思えば、それらはそのまま下流へと流されていく。

 

 水草のように水中を漂う自分の髪が、元の赤金を帯びた金色に戻ったことが確認できたので、勢いよく水底から急上昇する。ぐんぐんと体が水面へと近づき、そのまま勢い付けて飛び出したことで、大きな水しぶきが上がった。

 

「――ぶっはっ!! あ〜〜、さっぱりした!」

 

 水を吸って重くなった髪の毛を片手で掻き揚げ、大きく息を吸う。

 顔面を伝う水滴を空いた手で軽く払って、目元を濡らす水滴を拭う。

 

 いやぁ、水の中で目を開けるのって、なんだかとっても勇気がいるよね? こういう綺麗な川であったとしても、きちんと水中の光景が確認できるわけでは無いし、俺自身、沐浴は好きだけど、太陽神の眷属で光と熱が本性だから、こういう水の中に身を沈めるのって新鮮な反面、少し怖くもあるんだ、よ、ね…………。

 

 ……。

 ……、…………。

 ――…………う、わぁ。

 

 光を吸い込んでしまいそうな、漆黒の双眸とかち合い、なんとも言えない空気が充満する。

 

「――その、こちらから、声をかけようかと……思ったのですが……」

「あ、うん……。その、ごめんね……、水浴びのことしか、頭になかった……」

 

 必死にこちらから目をそらしつつ、不躾にならない程度に自分の無罪を主張している青年の姿に、なんだかとても居た堪れなくなって、こちらとしても強く出られない。

 

 目を覚まして早々、目前に飛び込んできたのが絶好の沐浴場所であったのと、全身の汚れを落としたいという欲求にかまけたせいで、周囲の状況をきちんと確認していなかった俺自身のせいでもあるし……なんというか、色々と申し訳ない……。

 

「その……、私は後ろを向いておりますので、服を着てもらってもお構いないでしょうか……?」

「あ、はい……。なんか、その、色々とごめんね……」

「謝罪は結構ですので……先に服を……」

 

 そう言って、くるりと後ろを向いた青年の言葉に甘えつつ、ゆっくりと水から上がる。

 

 しかし、この青年、運がいいのか悪いのか。これで相手が正真正銘の女神だったら、勝手に裸を覗き見た罰ということで何をされても文句を言えない立場だよなぁ……。

 例え、本人の方に責があっても、覗いた本人が悪いというのが女神の理屈であることは古今東西の常識だし……。俺じゃなくて、相手が性に奔放な天女とかだったら、覗きにかこつけて性的な意味でこの子、喰われていたのかしれない。

 

 軽く現実逃避をしつつも、全身に朱金の炎を這わせ、濡れた髪にたっぷりと含まれた水分と肌に浮かぶ水滴を一気に乾燥させる。そうして、乾いた肌の上に魔力で編んだ服を纏えば、どこにでもいそうな村人その一の完成である。

 

 ちなみに、今の肉体の性別は女だが、こんな深い森の中で女性用の衣装とか纏えば、あっという間に地面から生えている木の根っこやらに引っかかって大変なことになるのは間違いないので、ここは敢えて男性用の服を選ぶ。

 

 ――依然として後ろを向いたままの青年の背中を見やる。

 あの屋敷の中であった時のままの姿、黒い衣服に、弓矢と箙を帯び、腰には刀剣を佩いているが、あの時とは違い、衣装はところどころに灰や煤がこびりつき、噴煙の匂いを纏い、上等の靴も千切れた葉っぱや泥、夜露の類で汚れていた。

 

「…………うん?」

 

 ひょっとしなくても、この子……。

 あの屋敷の中で俺が気を失った後に、そのまま捨ておくのではなく、拾い上げてくれたのか? そのまま、あの燃え盛る屋敷を脱出して、森の中を気絶した俺を抱えたまま走り抜けたのだとしたら、俺たちの格好にも納得できる……というか、十中八九それでしかないだろう。

 

 水浴びに気を取られていたとは言え、俺がこの子の気配に気づかなかったのも、夜の間ずっと走り抜けていたせいで、ひどく疲れ切っていたのも関係しているのではないだろうか。

 目覚めた時の俺が気づいた汚れの類が火災現場特有のものだけで、森の中でつくような汚れが見当たらなかったことから、この子が気絶した俺を抱えていた、あるいは背負っていたことは間違いない。

 

 下衣の裾に乾燥した泥がこびりついていたり、背中の真ん中以外の布地が幹の色に汚れているところを踏まえるに、森の中を必死に走ったものの、彼自身、無理がたたって、この川の側で動けなくなったというのが妥当なところか。

 

 であれば、疲れ切っていたこの子の気配を、俺が察し得なかったとしても致し方ない。

 それに、今まで気づけなかったのは、この子に悪意も殺気もなかったってことも関係しているだろうしなぁ……。

 

「あのね、もういいよ。服着たし、こっち向いてくれると助かる」

「……は、はい。では、失礼します」

 

 本性の方があの燃えさかる屋敷で彼相手に何をしようとしていたかは想像がつく。

 そんな訳で、まずは俺の方には敵意がないということを態度で示すために、寸鉄を帯びず、無抵抗の状態であるということを強調することにした。

 

「この通り、何も君を害する物は持っていない。お……私が君を害する気がないことは理解してもらえた?」

 

 直接地面の上に腰を下ろし、両手を上下に持ち上げた俺を見て、青年が切れ長の瞳を見開く。ざっ、と漆黒の双眸が不審な行動がないかどうかを見通すように全身を確認した後、立ち上がっていた青年も少し離れたところに腰を下ろす。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――……えっ?」

「……何処の神の眷属か、あるいはさぞかし名のある天女の一柱であるとお見受けします。先程は大変失礼いたしました。どうか、ご容赦、ご寛恕のほどをお願い申しあげます」

 

 ま、ず、い! そーいやすっかり忘れていたけど、俺ってば、神霊の一種だった!

 思い起こせば、初めて王宮内で顔を合わせた時、この子、王宮の礼拝所にいたし、かなり信仰の深い人間じゃね!? だったら、俺に対する応対の方法も丁寧になるよ、そりゃそうだ!!

 

 というか、神を神とも思わない、むしろ憎んでいる系のドゥリーヨダナとか、普段から俺への扱いがぞんざいなカルナと長らく一緒に居すぎたせいで、まともな神霊がどのように扱われるべきなのかをすっかり忘れていた!

 

 ――それにしても、この子すごく対応が丁寧だなぁ……。

 動作のどこにも取り繕っている感じがしないし、本心から誠実にこちらを敬っている感が半端じゃない。そりゃあ、インドラもこのような息子がいれば、さぞかしご満悦だろうよ。

 

「――……頭を上げなさい、インドラの息子」

 

 こうなれば、精一杯、神霊らしく威厳ある態度と口調を見せつけるしかない。

 

「私が人として人の中で暮らしている以上、天界での私のあり方を地上にまで持ち込むことはありません。ましてや、貴方は私の恩人であり……いや、こんな喋り方は性に合わんな、やっぱり――……コホン!」

 

 旅の楽師として、お偉いさんたちの前で相手の気を損ねないようにお上品に喋って来たりはしていたけど、俺自身が敬われるべき対象として遇されると、途端に居心地の悪くなるという事実が今回発覚した。やっぱ、慣れないことはするべきじゃないね。

 

「えーと、つまり、地上には地上のしがらみや理屈があることは、私も重々承知しております」

 

 それに、この子ってば、第三王子でしょう?

 普段、この子の叔父にあたる国王に仕えて、この子の従兄弟であるドゥリーヨダナと忌憚のないやり取りを繰り返し続けてきたせいか、ものすごく神霊っぽい所作に違和感がある。

 

「とは言え、私は基本的にあんまりそうやって敬われたりしないので、正直な話、そんな風に神様っぽく扱われると、こちらとしてもなんというか居心地が悪くて……」

 

 ――嗚呼、そうなのだ。

 こちらを神様として敬おうとしている彼には申し訳ないが、ひどく居心地が悪い。

 地上でカルナの兄として、ただの楽師として過ごして来たせいか、人間らしく扱われないこの状況に違和感すらある。

 

 カルナの養父母はなんとなく俺が人外であることを察してはいるものの、カルナの養い親として俺が礼節を持って対応しているために、大げさなまでに俺のことを敬ったりとかしないし、村の人たちだってそうだった。アシュヴァッターマンは気がついていないふりをしてくれているし、その父親のドローナは俺のことなんて基本的に眼中にないし……つまり、慣れない。

 

 ――本当は、こっちの方が正しいのにね。

 

「だからその、よっぽどのことがない限り、君にも、君の家族にも天罰下したりとか、呪ったりとかしないから……」

 

 ううん、なんと伝えればいいのだろう?

 こうやって、真正面から俺のことを神霊として対応してくれる人間はずいぶん久しぶりなもので、自然と口調もしどろもどろになってしまう。

 

「できれば普通に、その、人間みたいな対応をしてくれると、こちらとしても助かるのだけども――その、駄目だろうか?」

「しかし、それは……いえ、そこまで仰るというのであれば……」

 

 躊躇いがちに、目の前の蓬髪がゆっくりと持ち上げられる。

 やや困惑を宿した漆黒の双眸と目があったので、敵意がないことを示すように微笑んでみせると、鏡のように映し出された眼球の中の俺も、それらしく微笑んでいるのが見えた。

 

「その、正直、どうしてこんなところにいるのかとかあんまりよく分かっていないんだ。そして、それは君もそうだと思う……。俺の正体とか、事情とか、色々と理解出来ていないんじゃないかな? ――違うかい?」

「……はい、その通りです。では、お言葉に甘えて、お尋ねしたいことが、あるのですが……」

 

 しかし、この子、本当に敬虔というか篤信深いというか……神霊に対する礼節というべきものをきっちりと押さえているなぁ。そりゃあ、父神にあたるインドラも溺愛するし、それ以外の神々だって、この美しく敬虔深い若者を寵愛しても、むしろ当然というか……。

 

「あの、貴女は噂に聞く、変態なのでしょうか……?」

「――よーし、歯ぁ、食いしばれ。そのお綺麗な顔に渾身の一撃を食らわせてやんよ」

 

 前言撤回である。

 灰どころか、塵も残さずに人間一人焼き尽くすのに、どれだけの火力が必要だったけ?




<裏話>

???「――いいかい、我が友。もし、君のことを執拗に追いかけ回したり、同じ言語を話したりしているのに、理解することのできない人間とかがいたら、そいつはまず間違いなく変態の類だから、よく覚えておくといい」
アルジュナ「よくわかりました、我が友よ。――幸い、これまでそのような相手には出会ったことがないのですが……」
???「いやいや、世界は広いからねぇ。君の想像の及ばぬことなど、それこそ星の数ほど存在するのさ。気をつけたまえよ?」

元凶はこいつ。

(*不吉の家編はこれで最後かな? 次回から、ようやく「ドラウパティー姫の婿選び編」です。3、4話ぐらいでまとめたいなぁ……。ちなみに、これより共同戦線入ります。アルジュナの強化とドゥリーヨダナの真意、アディティナンダの自覚とか色々入る話になりそうです*)
(*第3章までなんだよなぁ、こんなギャグっぽい展開書いたり、アディティナンダの内面を深めたりとか。ちなみに第四章が前日譚、第五章はクルクシェートラということで、内容はお察しください……*)
(*それから、ご感想、いつもありがとうございます。やっぱり、読んでくれる人がいて、その感想を言語として伝えてもらえると、作者冥利に尽きますね。誤字報告にも、感謝しております*)


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理想的な人の子

我が家のカルデアのアルジュナさんにバレンタインの贈り物をしたら、カルナを射殺した矢を返礼として受け取りました。
こういう時、どういう顔をすればいいのかわからないよ……。しっかし、バレンタインイベント面白いっすね。


 ――だって、仕方がないじゃないですか。

 

 初対面の時には、無礼にも人の腕をいきなり鷲掴みにする上に、仮にも王子に対してあるまじき態度が総揃いだったんですよ。連射された矢のように人のことを質問ぜめにした挙句には、知りたいことを尋ねるだけ尋ね、そしてそのまま、脱兎の勢いで逃亡する始末。

 

 続いての対面は、尋常ならざる勢いで燃え盛る炎の中。

 

 轟々と燃える炎を背景に登場し、無言のまま、鬼気迫る気配を醸し出し、腕輪だけを注視。

 こちらが何を問いかけても答えなかったくせに、突然、ものすごい勢いで自分自身の頭を殴りつけると言う暴挙を見せつけて気絶する。どう考えても、王都からなんらかの事情があって、追いかけて来たようにしか思えないけれど、追いかけられるだけの理由に私の方は心当たりがない。

 

 とはいえ、火災現場である屋敷の中に捨て置けば、行き着く先は焼死体。

 その身元と目的こそ不明瞭ではあるけれども、クシャトリヤの守らねばならぬ、か弱い女であるのは一目瞭然。先に脱出した兄たちを追いかけようにも、意識を失った女を無視して、そのまま炎に巻かれるのを捨て置くこともできない。

 

 なので、共に連れて行くことを決意したものの、人間一人を抱えた状態で逃避行。

 煙と熱の渦巻く地下の秘密の通路を通って、街を脱出し、そのまま見通しのきかない山中を野獣や魔物の心配をしながらの決死行。おまけに、連日の狩猟や、昼間から宴会の主人として客の接待をしたり、プローチャナの夜討を警戒してよく眠っていなかったことが災いして、先に脱出した兄や弟たちとも合流することなど叶わない。

 

 その上、どんどん体力が削られていくので、仕方がなく、川辺で休息をとることに。

 

 ようやく取れた休みにホッと一息。

 文字通り、肩の荷を下ろして体を休めていれば、それまでの間、ずっと気絶していた女が、突然、起き上がったのを目撃。

 

 背後で休んでいる私に気づく気配を見せずに、何をするのだろう? とぼんやりとした頭で考え込んでいたら、羞恥心を欠片も見せず、一気に衣服を全て焼き捨て、沐浴を始める体たらく。

 

 もう、貴女何なのです……変態さんですか……? というのが、青年の言い分だった。

 

 ――ぐうの音も出ない。

 

 俺視点だと、スーリヤから賜った腕輪が行方知れずになったところから始まるのだけど。

 何日もアチコチ探し歩いて、ようやくの思いで見つけたら、いつの間にか持ち主がこの青年になっていたせいで、仕方なく、できる限り穏便に済ませるために外遊先の都まで追いかけて、侍女仕事に勤しみつつも、その隙を狙っていたのだけど。

 

 肝心の決行日に、ドゥリーヨダナの家臣に殺されかかったりとか、中身が入れ替わっちゃたりとか。それで、目覚めると目の前に絶好の沐浴場所があったせいで、後ろで疲れ切っていた青年に気がついていなかったりだとか!

 

 こっちにもそれなりの事情があるのだが、それに巻き込まれただけのこの子からしてみれば、確かに変態というか、変人というか、痴女と罵られても仕方のないことをしている。

 

 そして、客観的に一連の出来事を思い起こしたせいで、俺は地べたに這いつくばっていた。

 

「なんか、その……こっちにも事情があったとはいえ、色々と、ごめん……」

「いえ、その……どうやら言葉が過ぎたようです。友から聞いた、馴染みのない言葉の特徴に合致していたとは言い、無礼なことを申したようですね……お許しください」

 

 好青年だ、ものすごい好青年だ……!

 

 困った様子で眉根を下げ、胸元に軽く手を押し当て謝罪する青年には一切瑕疵がない。

 

 第三王子といえば、クル国が誇る半神の王子であり、その名声や人となり、武勇が誉れ高きことは、パーンダヴァの五王子の中でも一線を画している。そんな優等生から面と向かって「変態ですか?」と真顔で尋ねられてみろ、羞恥のあまり死にたくなる、というかこのまま穴を掘って埋まってしまいたい。

 

「……ええと、そうだな、相互理解を深める必要性があると思うのだけれども……。そのためにも、俺の話を聞いてもらえるかい?」

 

 むくりと起き上がり、真剣な表情を浮かべてみせる。

 目の前に座している青年を見やると、青年もまた真摯な表情を浮かべて見つめ返してくる。

 うん、少なくとも、こんな不審人物に対して真剣に取り合ってくれるという点において、この子への好感はうなぎ登りだわ……。

 

 ――これが、数多の神霊を虜にする第三王子の魅力というやつなのだろうか。

 

「君を追いかけ回すような真似をしてしまい、本当にすまない」

 

 この王子様が自主的にドゥリーヨダナの執務室から俺の腕輪を盗んだ犯人でない以上、きっと数奇なる巡り合わせの末に一時的な所有者になっていることはほぼ間違いない。であれば、俺のやるべきことはこのような事態に巻き込んで、こちらの都合に振り回す形で彼に迷惑をかけてしまったことへの謝罪が第一だろう――とまずはお詫びの意を示す。

 

「こちらにも色々と事情があるのだけれども、端的に言えば、俺は俺の持ち物である、その腕輪を取り戻そうとしていたんだ」

「――腕輪……、そういえば、王宮でもあの屋敷でも、貴女はこればかり見ていましたね」

 

 そっと、青年が自身の手首に嵌められている白金の腕輪を戸惑ったように指の腹でなぞる。

 

 美しい青い輝石に、満ちた月を模した白金細工。

 接ぎ目すらない見事な造作は、その腕輪の持つ価値の高さを言外に物語っている。

 

「どうしてそんな銀細工になっているのかはわからない。だけども、その腕輪は本来、俺が我が父より下賜された、四つで一つの神宝。俺の持ち物の中でもっとも価値のある代物で、俺が人として地上で暮らすためには欠かせないものなんだ」

 

 説明の言葉と共に、俺の両足に嵌められている、黄金造りの継ぎ目のない太陽を模した金環へとそっと視線を向ける。そうすれば、月のない夜を切り取ったような漆黒の双眸もまた俺の手足に嵌められている金環へと移った。

 

「――だから、君には悪いけど、それを返してもらいたい」

 

 そう訴えれば、青年はやや考え込むように瞼を閉ざした。暫しの沈黙の後、ゆっくり唇が動く。

 

「――――貴女の言い分もわかりました。しかし、これは私が我が友より贈られたもの。貴女の言を疑うわけではありませんが、贈られたものである以上、何の確認もせずにお渡しすることはできません」

 

 おやおや……意外だな。

 俺のことを神霊として敬っている様子だったので、抵抗無く「はい。そうですか」と直ちに渡してくれるものだと思ったのだが。

 

 だが、彼の言い分も最もなことである。

 封印のことを考えれば、少々不安だが、論より証拠である。右足に手を這わせ、足首を飾っている金環を一つ取り外した。

 

 そのまま金環を乗せたままの右掌を青年の目前へと差し出し、静かな声で彼を促す。

 

「――正義の神・マヤに誓って、勝手に取り上げたりなどしない。君の銀環を見せて」

「ええ、どうぞ」

 

 神々でさえ破ることのできない神聖な誓いを立てたお陰だろう。

 これまで片時も離さずに、身につけていた銀の腕輪を青年が取り外す。優美な見た目とは裏腹に、意外とがっしりとしていた手首に嵌められていた腕輪が、ひと回り以上小さな俺の左の掌へと載せられる。

 

 ――すると。

 

「――……そんな!」

「嗚呼、やっぱり」

 

 俺の肌に触れた途端――どろり、と銀の腕輪が溶解する。

 きらきらと目に眩ゆい黄金の粒子を纏わせ、腕輪の形へと再構成される。

 

 色は、月光を溶かしたような白金から、陽光を紡いだような黄金へ。

 意匠は、銀色の満月を模したものから、金色の太陽を模したものへ。

 嵌められた輝石の輝きは、透き通った紺碧から燃え盛る炎のような真紅へ。

 

 朝日の輝きを帯びて煌めく黄金の腕輪は、俺が差し出したもう片方の掌の上に乗せているものと対であることを証明するように、そっくり其の儘、同じ形状、同じ細工飾り、同じ重さであった。

 

「……認めざるを得ませんね。確かに、これは貴女の腕輪、貴女の持ち物。――証立てがなされた以上、これ以上の反論の余地を見出せません」

 

 ――淡々と、青年が呟く。

 言うまでもなく、語るまでもなく、これらの腕輪は同一のものだ。

 

 どうして……というよりも、どうやってその細工の形状や見目が変化していたのかは不明だが、これで長い長い腕輪をめぐる冒険は一応の決着を迎えた訳だ。

 

 う〜ん、これからどうしよう?

 

 腕輪を取り戻せたのはいいけれど、俺ってば、ドゥリーヨダナに殺されかけたんだよねぇ。

 ドゥリーヨダナがカルナと言う戦力を手放すとも思えないしなぁ。

 

 基本的に俺の扱いがぞんざいなカルナも流石に肉親が上司に殺されかけたと聞いたら、それなりの反応は示してくれると思うから……、多分、俺に殺意を持っていたことをドゥリーヨダナが馬鹿正直にカルナに明らかにしているはずはないだろうし……。

 

 尚のこと、ドゥリーヨダナとの間に決着を迎えないままに、のんきに王都に戻るのは不安でしかないなぁ……。

 

 空いていた足首と右手首にそれぞれ金環を嵌め入れ、そんなことを考える。

 つらつらとこれからの予定について考えていたせいで、目の前に座り込んでいた青年が、ふるふると小刻みに震えていることに、ややあって気がついた。

 

「――ん? どうしたの?」

「――申し訳有りませんっ! 知らぬことであったとはいえ、仮にも神宝の一つを着服していたなんて……! その上、由来も知らずに己のものであると豪語していたとは……! 我が身の不徳をただただ恥じ入るばかりでございます!!」

「ふわ……っ!?」

 

 目の前で五体投地の姿勢を取られて、悲鳴しか上がらなかった。

 突然のことに恐れおののく俺の前で、青年は地面に顔を伏せ、必死に、としか例えようのない切実かつ悲痛な声を上げる。

 

「――お許しください、天上のお方。全ての責、過ちは全て己の致すところでございます。ですので、どうか我が兄弟、我が母、我が係累たちにはどうか、そのお怒りを向けませぬよう……! 切に、切にお願いいたします……!!」

「え!? ちょ、ちょっと、落ち着いて!」

 

 い、いや、青年がこうまで必死になる理由もわからんでもない。

 現人神である聖仙を始めに、神々に連なる精霊や天女、神霊たちが、傍目には理不尽な理由で罰を与えたり、呪ったり、災いと紙一重の恩寵を与えたりしていたことは、よく知られている話だ。

 そして、そうした祝福や天罰の類が神霊の期限を損ねた本人だけではなく、その縁者にまで与えられることだって、決して少なくはないのである。

 

 つまり、この青年は、自分の犯した罪のせいで、自分の親戚たちに災いを与えかねないことを危惧して、こうして神霊の類であると判断した俺相手に釈明しているということか。

 

 ――全ての責任は自分にあり、他の人々を巻き込まないでほしいと。

 

 まあ、仮にも太陽神の神宝を知らぬことではあったとはいえ、公然と着用していた訳だ。

 その真実が明らかになった以上、知らぬ存ぜぬを通すよりも素直に謝って、神罰天罰の類を己一人の身で引き受けようとするのは、別に間違いじゃない。

 

 ――でもそれって、落ち込むなぁ……。俺、そういうことする神霊のように見えるのか……。

 

「……あのさ、君の言い分もわかるのだけども」

「――っ! 申し訳有りませぬ!」

 

 びくり、と青年の体が震える。

 こうしてみると、よく鍛えられた理想的な戦士の体つきをしているのがよくわかる。

 身近な戦士といえば、カルナとドゥリーヨダナだが、ひょっとしたら、この子はカルナよりも体格がいいし、背も高いのかもしれない。

 

 そんな姿を見ていると、物分かりの悪い神だと誤解されたことへの怒りも萎んでいく。

 

 そんな他と比べようにもならない戦士が、身分制度の頂点に立つような王族の子息が、ただ神霊の眷属である、という理由だけで、人間社会において底辺に属する俺のような軟弱な風来坊に傅いているのは、ひどく……滑稽というか、やるせなささえ感じる。

 

 ただ神の眷属である、という理由だけで、敬われるのであれば、どうしてカルナはあんなにも他の人たちに侮蔑され、嫌悪され、遠巻きにされ続けてきたのだろう。

 

 カルナという個人が、どうしようもない乱暴者で、狼藉を好み、弱き者を蹂躙することに喜びを見出すような卑劣漢であったのならば、そんな風に敬遠されてきたとしてもどうしようもない、と納得できた。

 

 ――だけど、カルナはそうではないのに。

 

 あの子がどれだけ素晴らしい戦士で、その性根が清廉潔白であったとしても、ただ御者の養い子であるという理由で、どうしてあそこまで嘲弄の対象にされなければならないのだろう。

 捨て子を哀れんだアディラタとラーダー夫妻の慈悲深さと性根の正しさはどうして賞賛されることなく、カルナを非難する材料として扱われなければならないのだろうか。

 

 ただ神の眷属である、という一点において、こうやって敬われている人間もどき。

 育ちの親が御者だったという一点において、貶され続けているカルナの現状。

 

 それは、一見すると相反しているように見せかけて、本質的には同じなのかも知れない。

 

 とはいえ、こればかりは天地の始まりよりこの地に伝わる風習に根付いたものだ。

 俺のような、純正の神にも人間にもなりきれないような半端者が語るようなことではないのかもしれない……――けど、納得がいかないものはいかないんだよなぁ……。

 

 はぁ、と溜息ひとつ零して、思考を切り替える。

 カルナのことは俺の永遠の課題ではあるけれど、今は彼の問題を解決すべきだ。

 

「あのね、顔を上げてくれないかな? それと、その五体投地の姿勢も止めて欲しい」

「――……ですが!」

「黙 っ て 話 を 聞 か ん か」

 

 少女のものとは思えないほどにドスの効いた声音に、青年がびっくりしたように肩を竦める。

 

 青年はわずかに逡巡したようだったが、やがて、そろそろとその身を起こした。

 そのまま、青年の漆黒の双眸と視線が、俺のものと歯車のように、かっちりと噛み合う。

 

「俺は、俺なりに、この腕輪を取り戻そうとして、情報を集めたりしていた。その時に、君に渡されていたこの腕輪が君の友人から君への贈り物だったからこそ、肌身離さずに大切にしていたんだってことも知ってる」

 

 侍女として働いていた間、俺だってそれなりに情報収集をしていた。

 その結果、明らかになったのは、青年が友人から送られたという腕輪をひどく大切に取り扱っていたということだ。友人がどのような方法で入手したのかは不明だが、俺は青年自身の過ちによって、この神宝を手に入れたわけではないということを予め知っていたことになる。

 

「そんな君を責める気は毛頭ない。そんな君のご家族も、不当に罰する意思もない。だが、君はちらりとも思わなかったのか?」

 

 ――であれば、ひょっとすると。これは、あまり胸のすく予想ではないのだけれども。

 

「――その友人が誰かは知らないけど、これが尋常な腕輪ではないということを気づかずに、君に渡したとも考えにくい」

 

 これは仮にも神霊の持ち物、太陽神から与えられた希少なる神宝。そんな大切なものが神の眷属の手から失われたことで、そこから引き起こされるかもしれない災いや二次災害があったかもしれない可能性を、決して忘れてはいけないことなのだ――と言外に示唆する。

 

「ならば、その友人が、何らかの意図を持って……こういう言い方は俺の好みではないが……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 見た目や意匠が、高度な幻術によって、全くの別物へと変換されていたこと。

 嵌めていたのが神々の王の血を引く半神の王子であったからこそ、不当な所持者への災いが引き起こされなかったとは言え、そのせいでここまで発覚が遅れたこと。仮に腕輪を取り返す際に動いたのが人間的な思考の持ち主である俺ではなく、真性の神霊であったワタシが対応した場合、不当に所持していた王子へと報復が与えられたであろう可能性の高さ。

 

 その辺を考慮するに、この腕輪の送り主は、この青年に対して害意を持つ相手だったのでは?

 

 だとしたら、すごく手の込んだ嫌がらせにしか思えないが…………。

 ――もしかして、ドゥリーヨダナ? いや、その可能性は低いか……う〜ん。

 

「それはあり得ません」

 

 ――――凛、とした声が俺の思考を遮った。

 切れ長の、漆黒の双眸が、射抜くように俺を見据えている。

 

「これは我が友、■■■■■より贈られたもの。確かに本来の持ち主は貴女であったようですが、彼が不当に私を害する目的で、この腕輪を贈ったなどということはあり得ません。――何より、あの聡明なる友が意味もなく、そのようなことをするはずがない」

 

 ……ん? 変だな、友人の名前のところが聞き取れなかったような気がしたが……気のせいか?

 とはいえ、それ以上に気にかかることがあった。

 

「――その結果、死に追いやられたとしても?」

 

 ……そう、それが引っかかるのだ。

 今の俺の心理状況、それに基づく行動規範はまともな神霊のものではない。逆説的な物言いだが――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 けれども、気位の高い神々ならば、己の大事にしている神宝が盗まれ、自らの預かり知れぬところで人の子の所有物になっている状態を看過するとは考えにくい。

 贈り物という形で受け取って、一時的な腕輪の持ち主になっていたこの青年に非がないことは明白だが、そうした理屈で納得しない、怒りが収まらないのが、()というものだ。

 

 それに対して、目の前の青年は否定するように左右に首をふった。

 

「当然ですとも。その時に彼の行動の真意が不明でも、それは我が友の深謀遠慮に理解の及ばなかった、至らぬ私の責任です」

 

 微塵も疑っておりません――とでもいうべき、真摯な双眸に揺らがぬ姿勢。

 

「――何より、世界の統治者である天上の神々によって死がもたらされたと言うのであれば、そうされることには必ず意義があり、その行為には必ず意味があるのだと教わっています」

「――……っ!」

 

 ――何だ、それ。

 

 こちらへ向けられた曇りのない眼差しに、心底、絶句せざるを得なかった。

 

 ――……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 この時代、人と神が密接に関係して生きているこの世界では、人は神々を恐れ敬い、その言葉を絶対の託宣として、ひれ伏し謹んで受け入れるもの。それを良しとしないドゥリーヨダナや、(神霊)による再三の忠告にも耳を貸さず、己の正しいと思うこと、自らの信念を貫いて生きているカルナの方が、人間として異端なのだ。

 

 そう、この青年の方が理想的・模範的な人としての在り方をしている……。

 それは、わかるのだが……何と言うか、それって――――

 

「つまらない、なぁ」

「!?」

 

 愕然とした表情を浮かべてこちらを凝視する青年に、自分の思っていたことが意図せずして自らの唇よりこぼれ落ちていたことが判明した。

 

「今、何と……?」

「――別に、何でもない。聞き間違いだよ、気にしないで」

 

 嗚呼、そうだ。

 なんかとても物足りないし、何より、()()()()()

 

 だって、そうじゃないか。

 

 ただ神々の思惑に従って、唯々諾々と生きるのではなく、己の道は己で決める、邁進してやる! と豪語して、大胆不敵に振舞っているドゥリーヨダナ。

 そのあり方は見ていて面白いし、その不遜なまでの存在感にはどうしても引き込まれてしまう。

 

 何度忠告しても、何度警告しても、それでも頑として己の生き方を歪めようとしない、折ろうとしないカルナの凄絶な在り方、その清廉なまでの克己心。

 

 彼らの目の前に立ちふさがるあらゆる障害を、己の力量を頼りに、乗り越えて行く気概。

 それは、俺の言葉に従っていたら、到底生み出されるものではなかったのだ――と心底思う。

 

 そう考えれば、なおのこと、あの二人の特異性と魅力に気がついてしまう。

 

 ……嗚呼、そうだ。

 目の前にどのような難敵・困難が立ちはだかっていたとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――――だからこそ、ワタシ(■■■■)は彼らの在り方と価値を承認し、それを守護し、庇護することを、自らの責務として課したのではなかったか。

 

 一瞬、そんなことが脳裏によぎる。

 でも、その未知の可能性を秘めた人間の具体例で出てくるのがカルナは兎も角として、ドゥリーヨダナだからなぁ……。

 

 俺って、結構趣味が悪いのかも知れない。

 その点、この子って優等生すぎて、正直面白みを感じないなぁ……本人にはかなり失礼だけど。

 まあ、俺以外の神霊が頼まれずとも庇護してくれそうだし、どーでもいいか。

 

 実際のところ、俺が悪食なだけで、真性の神々はこの青年のような性根の者こそ、理想的な人の子として寵愛を注ぐんだろうなぁ……。うーん、憎まれるのも大変だけど、愛されすぎるのも大変そうだなぁ……この子も気の毒に……。

 

「あの、何でしょうか、その眼差しは……」

「いや、別に?」

 

 おっといけない。

 自分のことを棚に上げて、青年を憐れんでいたのが表情に浮かび上がってしまったようだ。

 

 俺だって、やや人寄りになったとはいえ、神の端くれ。

 根本的に人間とズレがあるのを自覚しておかねば……人間であるカルナの兄(アディティナンダ)としても。




まだアルジュナの優等生の時代で、英雄になる前だから、あまり自分の価値観に疑念を抱いていない。
とはいえ、この時代的に正しいのはアルジュナの方で、間違っているのはドゥリーヨダナ。

――以下、ちょっとした考察。
一見すると、あまり共通点のなさそうなカルナとその上司さんですが、神々の忠告に耳を貸さず、いうことを聞かなかったという共通点があるんですよね。
ドゥリーヨダナは言うまでもないですが、カルナもパーンダヴァとの関係が悪化するにつれて、父親であるスーリヤが度々助言を送ったりしています。
それでも、ドゥリーヨダナに恩があるので……と言って、結局聞き入れず、そう言う意味ではこの二人は神々の意向に沿わず、自分の行く道を自分で定めたと言う経歴は一致していたりするのです。

だからこそ、この二人は神々(特に、某合理性の化身とか)の大いなる謀によって排斥されてしまったのかも……と考えると面白いですね。


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感謝の言葉

「もしカル」での設定。

スーリヤさん家は過保護だが、肝心の息子の意思が堅牢なので、あまり過保護に見えない。
インドラさん家は過保護かつ過干渉で、息子がひどく従順かつ優秀なので、スパイラル。

原典とFate wikiを読んでの、作者の印象をそのまま設定に生かしました。


 腕輪をめぐる騒動や青年の価値観、俺自身の在り方についての再確認。

 それらを一通り済ませた俺は、ゆっくりと深呼吸を終えてから、背筋を正し、目の前の青年をひたと見つめ直した。

 

「それはそれとして、第三王子。俺は改めて君に礼を述べたい」

「――……? 礼、ですか?」

 

 キョトン、とした表情を浮かべて、こちらを見つめ返してくる青年に首肯で応じる。

 

「君は、あんなにも怪しい俺のことを、燃え盛る屋敷に捨て置くことなく、安全な場所まで連れ出してくれた。君のものになっていた俺の腕輪をちゃんと俺の元へと返してくれた」

 

 感情の読めない、黒々とした漆黒の瞳が、小さく揺れる。

 切れ長の涼しげな目元に、今は遠くにいる弟の面影を思い出して少々寂しい気分に陥ったが、それはそれと割り切って言葉を続ける。

 

「――俺は、君のその真心からの善行に、心からの賞賛と謝意を贈りたい」

 

 依然として座した状態でだが、胸の前で両手を合わせて、深々と首を垂れて感謝の意を示す。

 

「――助けてくれて、ありがとう。君のお陰で、俺は五体満足の状態でここにいられる」

 

 人に助けてもらったら、親切にされたら、きちんとお礼の言える人になりなさい。

 ――それが、カルナを拾い上げた養母・ラーダーの説いた教えだった。

 

 そして、カルナと共に過ごした時間に何度も聞いたその教えは、兄である俺の中にもしっかりと根付いていた。いまの俺の振る舞いに対して、人間が神々の被造物である以上、その奉仕を受けることは当然なのだから、感謝など伝えずとも良い……と他の神霊であれば嘲るかもしれない。

 

 ――けど、そんなの知ったことではない。

 俺にとって一番大事なのはカルナにとって誇れる兄であること、あの子が誇ることのできる家族であることなのだから、そんなカルナを育ててくれた親切な養母の教えを無碍にすることなど、しようとも思わなかった。

 

 それに、ラーダーの教えだけではない。仮にも俺は太陽神(スーリヤ)の眷属である。

 蒼天にて光り輝き、あまねく万物を照らし出す日輪は炎神アグニの目に例えられる。そのため、太陽神であるスーリヤは天上から人々の行いを監視し、悪行を成した人間に裁きを下す、厳格な審判神としての側面を有しているのだ。

 

 ――善行にはそれに相応しき恩寵を、悪行にはそれに相応しい懲罰を。

 

 この世界において、罪人を裁くのは人の領分ではない。

 特に、復讐と断罪は、人ではなく神の領域の事柄であり、それらは神霊の一存で許され、齎される代物。文字通り、天から神々は人間たちを観ている存在なのだ。

 

「その感謝の表れとして――君の勇敢な振る舞いに、俺は何らかの形で報いたい」

 

 俺の本性が熱と光である以上、あの火災で修復不可能なまでの破損を負ったとは考えにくい。

 だけれども、そのような状態にまで追い詰められ、半ば封印状態が解除されていた俺という枷(アディティナンダ)が破砕した場合、二次災害が引き起こされる可能性があった。ゾッとする話だが、全ての封印が弾け飛んだ衝撃で、小国に匹敵する規模の大地が焦土と化す可能性もあったのだ。

 

 ――であれば、なおのこと。

 その危機を善意によって未然に防いで、腕輪まで返してくれた、この純白の名を冠した青年相手には感謝しかない。一つ問題があるとしたら、俺が自由にすることのできる財産が少ないことだけなので、その辺はきちんと青年に伝えておこうと正直に告げておく。

 

「ただ、人間のふりをしている俺が君へと渡せる物・与えられる物は然程ないのだけれども。――どうしたら、君の善き心根に俺の謝意を示せるのだろうか?」

 

 ……あと、口には出さないけど、もう一つ理由がある。

 正直、カルナと敵対するパーンダヴァの王子様相手にいつまでも貸しを作ったままというのは、寝覚めが悪い。

 

 なにせ、だいぶ昔の話のように感じられるのだけれども、うちの弟、国威のかかった神前試合の場で、この王子様相手に衆目の前で喧嘩を売ってるんだよなぁ……。どうしよう……昔、蛇族(ナーガ)から与えられた不死の霊薬(アムリタ)とかが妥当かなぁ……?

 

「私は……別に、貴女からの報酬が欲しくて、お命をお助けした訳では……」

 

 俺が表面的には涼しい表情を浮かべつつ悶々としていれば、青年の漆黒の瞳が左右に蠢き、俺のものよりも数倍大きい掌が握りしめられる。それこそ、しどろもどろと喩えざるを得ないような、躊躇うような雰囲気の第三王子に、内心で小首を傾げたが、気づかないふりをしておく。

 

「――うん。君がそう言うのであれば、そうなのだろうね」

 

 俺が思うに――人が人を助ける、と言う行為は、ひどく尊く美しいものだ。

 ドゥリーヨダナが、あの瞬間にカルナに手を差し伸べてくれた時を、思い起こす。 

 

 人間は神々へと救いを求めるが、滅多に神々がその叫びに答えることはない。 

 そして、神々が人の悪逆と増長を律し、天地の監視者としての性質を持つ存在である以上、人を救うのは――いつだって人間しかいないのだ。

 

 だからこそ、この青年の振る舞いに、俺は、心からの賞賛を贈りたいと思ったのだ。

 

「でも、それだとこっちの気が済まない。それに、俺自身、人の子に助けてもらったのは今回が初めてなので、人の真似をしてお礼をしてみたい……と、いうのもある」

 

 驚いたように、俯き加減だった青年の顔が、勢いよく持ち上げられる。

 

 彼が何を躊躇っているかは皆目検討がつかない。けど、きちんと受けた恩は返さないと。

 ……そういえば、神々が助けてもらった場合って、どうするのが普通だったっけ? 確か……大概の場合、何か恩寵を与えてた気がする、うん! うろ覚えなので、多分だけど。

 

 ――とは言え、こうやって直接口でお礼をいうことは滅多にしないだろうなぁ……。

 

 そんなことをつらつらと考えていれば、ポツリと。それこそ、木の葉を伝う雫が一滴、水面に触れるような――そんな静かな声が耳朶へと滑り込む。

 

「……我が師から難行を為せ、と言われて、奥義や武具を授けられたことは……ありました。王族の務めとして助けを請うた相手に慈悲を垂れ、理想の王子としての有り様を賞賛されたことも」

 

 ――――今は昔。

 クル王家の戦術・武術指南であるドローナは、己の持ちうる全ての武芸の技を習得させる対価として、彼を侮辱したパーンチャーラ国王を打倒することを、教え子たる王子たちに要求した。

 それを快諾したのが、今、俺の目の前に座る第三王子であり、ドローナの期待に応える形で、この麗麗たる青年は師の持ちうる全てを習得した。

 

 そして、青年は見事に師の期待に答えた――――今では誰もが知る有名な話である。

 

「――ですが、何の打算も無く、感謝の言葉を戴いたのは……私も――これが、初めてです」

「――なら、丁度いいんじゃないかな? お互いに初めて同士で」

 

 こちらを不思議そうに見つめ返す青年の表情はひどく稚い。

 そういえば、この子、俺やカルナよりもガタイが良くて背が高いから忘れていたけど、カルナよりも遥かに年下だった。あと、温室育ちなのが関係しているせいか、同じ年下であっても、スレているドゥリーヨダナにはない純真さがまだ残っている様な気がする。

 

 そう思うと、ますますカルナのことが恋しくなるのと同時に、それ以上に心配になってくる。

 

 ……大丈夫かなぁ、あの子。ちゃんと、ご飯食べているかなぁ……?

 頼みを断らない性格を悪用されて無理難題をふっかけられたり、持ち物を要求されたり、嫌味を言われたりしていないだろうか……。怪我や病気の心配はあの鎧のお陰でないとはいえ、変な呪いとか、面倒ごとに巻き込まれてはいないだろうか……? 巻き込まれてそうだ……。

 

 出立する前に、ドゥリーヨダナが一応は面倒見てくれるとは言っていたけど、どこまで信頼できるのだろう……。なにせ、その口で白々しくも俺の暗殺計画を立てるような悪辣王子だし……。

 

 ――正直、心配事は尽きない。

 だが、カルナと一切の憂いのない状態で再会するためにも、面倒ごとは片付けておかなければ。

 

「――……それでは、一つ、願いを口にしてもよろしいでしょうか?」

 

 真剣な面持ちで考え込んでいた青年が、ようやっと頭を上げる。

 それに鷹揚に頷けば、青年は小さく息を吸い込み、引き締められていた薄い唇を開いた。

 

 ――さて、なんだろう?

 この子は何を俺に望むのだろう?

 カルナに直接の危害を加える様な願いでさえなければ、大抵のことは叶えてやろうじゃないか、と鷹揚な気持ちで身構える。

 

「――……私の願い。()()――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 一拍おいてからの青年の申し出に、暫くの間、絶句していた。

 そのせいか、目の前で座していた青年が、実に申し訳なさそうな表情で伺いを立ててくる。

 

「差し出がましい願いだったのでしょうか? 尊き御身に、このような申し出をするなど……」

「嗚呼、いや……」

 

 ――どちらかといえば、即物的な物。

 例えば、子宝や尽きぬ黄金の恵み、金銀宝玉の類を要求されるかな? と思っていたのもあって、彼の申し出に不意をつかれただけだ。

 

「そんなことはない」

 

 それにしても、この子、本当に礼儀正しいな。

 ドゥリーヨダナなんて猫を被っていたのは競技会の時だけで、その後ときたら、臆することなく本性を曝け出してきたというのに。

 

「そんなことないよ。寧ろ、()()()()。――俺のような、物を持たぬ者が差し出せるのは形ある物よりも形のない物だろう」

 

 そう、それは即ち――()()である。

 カルナの見立てでは、現時点の王子は、自身が有する莫大なまでの魔力を、自在に操れるだけの技量を身につけていない。

 

 苦行次第では天上の神に匹敵するバラモンとはいえ、この子の師であるドローナは人である。

 であれば、類い稀な潜在能力を持って生まれた半神が有している神の力の扱い方を理解させるよりも、自身がパラシュラーマより受け継いだ、戦闘の技能を教え込む方に注力していたとしても仕方がない。

 

 また、自らが神の力を十全に使い熟しているとは言い難い事実を誰よりも理解しているからこそ、この青年は直接神霊相手に教えを乞う機会を見逃せなかったのだろう――その辺は流石としか言いようがない。

 

「――……まあ、いいだろう。ただ、君も俺もそれぞれに目的がある。だから、期限と上限を定めておくべきだな」

「――それでは、期限は私が兄弟たちに再会するまで、でお願いします」

「では、上限はどうする? 基礎的な魔力の扱い方、は絶対として……どこまでできる様になっておきたい?」

 

 カルナの兄であるアディティナンダとして本音を言えば、敵に塩を送る様な真似はしたくない。

 けど、神の眷属である以上、一度口にした約束を違えることしては出来ないからなぁ。

 そういう意味では、この王子がもっと即物的な物を要求してくれた方が、気が楽だったわ。

 

 とはいえ、どうして半神の王子がここまで魔力を扱えないままでいたのだろう?

 確かに、未熟な半神であっても、ただの人間には負けないだろうけど……。うーん。だからこそ、本人も周囲も何も言わなかったし、思いつかなかったのか? それとも、無意識のうちに本人が神の力を行使することに忌避感を抱いていた、とか? 可能性として高いのは、これかなぁ。

 

 そんなことをつらつらと考えていたら、すみません、と躊躇いを帯びた丁寧な声がかけられる。

 

「そこまで、私に決めさせて戴けるのですか?」

「君は可笑しなことを言うなぁ……。――というか、なんで俺が決める必要があるんだ?」

「――いえ。……いつも、師や兄たち……時に、父によって定められていたので……、つい」

 

 なんかよく分からんが、言葉の端々から察するに、かなり不自由な生活環境にあるらしい。

 あまり想像ができんが、何でもかんでも他の人に決められたり、年長者たちの意思に従っているのだとすれば、この子はかなり束縛された毎日を送っているんじゃなかろうか?

 

 ――――まあ、俺には関係のない話だが。

 そう割り切って、尚も戸惑う青年相手へ無言で顎をしゃくって続きを促す。

 

「――では、その、あの……」

「……? なんで、そこで躊躇う?」

「できれば……その、空を」

「――空を?」

 

 何故だか、ソワソワとしだした青年が、やや目尻を赤く染めた。

 それまで揺らぐことのなかった漆黒の双眸をあちこちに走らせ、羞恥を感じているのか、青年は片手で顔を隠す様に覆う。

 

 ――遠くで、清々しい朝を祝福するかの様に、象の群が高らかに嘶いた。

 その余韻が完全に聞こえなくなる前に、青年が首を絞められた鶏が死の間際に出す様な、そんなか細い声を、その喉の奥から絞り出した。

 

「空を…………飛べる様になりたいのです」

 

 褐色の肌でも、羞恥で真っ赤に染まるんだ……ということを、俺はこの時、初めて知った。

 あと、ちょっと思ったのは、年下ってやっぱり可愛いのかもしれない。

 

「うん。いい目標じゃないか」

 

 真っ赤に染まっている青年に小首をかしげつつも、その提案が妥当なものであると判断した。

 

「そもそも自力で飛べる様になるって、かなり難度の高い技だし……目標としては妥当なところだよね。神の血を引く君であれば、自由に空を駆けたところで他の神霊たちも咎めないだろうし」

 

 なんでここまで青年が恥じらっているのかは分からないが、明確な目標があるのはいいことだ。

 

 であれば、俺のすべきことはなるだけ早くこの子に魔力操作の方法を教え込んで恩を返すこと。

 それから、カルナと合流して、その後、ドゥリーヨダナに真意を問いただしに行くことか。

 あと、そのついでに、この子に腕輪を渡した友人とやらにはそれなりの報いを受けてもらうことにしよう――まぁ、これは最後でいいや。

 

 色々思うところはあるけれど、青年に関する感想だけを腕を組みつつ淡々と告げる。

 すると、黄金比の比率で整えられている麗麗な容貌(かお)が、こちらを凝視しているのに気づいた。

 

「――どうしたの? なんか、変なことでも言った?」

「いえ……、貴女は私のやることを正そうとはしないのですね」

「正す? なんのために?」

 

 青年の間違いを正すようなこと言われたっけ? ちょっとばかし考え込んでいたのも事実だから、聞き逃してしまったのかもしれない――と不安になったので、先を促した。

 

「そう、ですね……。折角の恩寵なのに、空を飛びたいなどと幼子の様なことを願うのはよしなさい、とか……神々の王・インドラの誉れ高き息子としてその様な言動は間違っている、とか……そういうことでしょうか……?」

 

 青年自身、逡巡する様に、訥々と言葉を紡ぐ。

 暫くの間、青年は虚空を見つめていたが、俺が何の反応も返さなかったこともあってか、ややあってから気分を切り替える様に首を左右に振った。

 

「――いえ、詮無きことを申しました。お忘れください」

「あっそ」

 

 ほっとけと言われたので放っておくよと態度で示せば、はたまた青年が切れ長の目を見開く。

 

 なんだかやること為すこと全てがこの青年の価値観と相違している様な気がして、気疲れする。

 やだなぁ、王族の価値観とこれまでに身を置いてきた下級階層の人間の価値観ってここまで違うのかなぁ……? ――でも、同じ階級に属しているドゥリーヨダナとはそんなことなかったから、間違いなく、ドゥリーヨダナの方が特殊なんだろうな。

 

 ドゥリーヨダナの憎らしくも愛嬌のある笑顔が脳裏を過ぎる。

 それを脳内でボコボコにして、スッキリさせると、気分を切り替えるために軽く咳払いをする。

 

「それじゃあ、話をまとめるね? 俺は君に魔力操作のやり方を教える。具体的には空が自力で飛べる様になるまで」

 

 空を飛ぶって口で言うのは簡単だけど、結構複雑な魔力操作を必要とするんだよね……。

 この王子様の習得にどれくらい時間がかかるかなぁ? 彼の期限に間に合えばいいのだけど。

 

「その期限は、君が兄弟たちと再会するまで――これでいいよね?」

 

 ――チラリ、と青年の表情を伺うが、変化はない。

 彼の涼しげな態度に、先ほどまでの羞恥や困惑といった感情を読み取ることはできなかった。

 

「その……両方の条件が果たせられるのがお互いの最上だけど、君が先に兄弟に再会した時はその限りではない。――ということでも、構わないかい?」

「はい。宜しくお願い致します」

 

 真剣な表情を浮かべて深々と頷いた青年であったが、ふと思いついた様に声を発した。

 

「――申し遅れました。私はクル王国の先王・パーンドゥとその妻・クンティーの息子。第三王子・アルジュナと申します。アルジュナ、とお呼びください、天上のお方」

 

 ――それで、貴女のことをなんとお呼びすればいいのでしょう? 

 

 涼やかな声で己の身分を明かした青年は、困った様に眉根を寄せる。

 その態度に、なんと答えればいいのかわからなくて、始めて言葉に詰まった。

 

 よく使うアディティナンダ、は男性名だから、この姿では即時却下だ。

 それに、下手にあの“国王お気に入りの歌い手・アディティナンダ”と目の前の俺が、同一人物であると青年に知られるのは困る。

 

 かと言って、カルナによって名付けてもらったロティカと名乗るのも気が引ける。

 マガダ王討伐を手助けした“ロティカ”と目の前の俺が同じ存在だと知られて、カルナとの繋がりが明るみに出たら、さすがにこの王子も困るだろう。

 

 何せ、ロティカとカルナの名前は、彼とその兄弟たちの政敵に当たるドゥリーヨダナの臣下として、一時期、王都を騒がせたこともある名前だしなぁ……。かといって、あんまり本性とかけ離れた名前は使えないし……。

 

 ……ううーん。

 カルナが王宮政治と関わる様になってから、自分自身の立ち位置にも気を配る必要が出たのは、少々面倒臭い。

 

 ――とは言え、この王子様との関わり合いも、これっきりの付き合いになるだろうし。

 

「――好きに呼ぶといいよ。どうせ、君が兄弟に巡り合うまでの短い付き合いでしかないし」

 

 少々、ぶっきらぼうな口調になってしまったかと反省したが、パーンダヴァの王子と下手に馴れ合うわけにはいかないし、これでいいやと内心で頭を振る。

 

 そんなことより、未だに火災現場の爪痕を色濃く残すこの青年を沐浴させてやろう。

 そもそも、煤と煙の匂いや痕迹を綺麗に落としておかないと、これから先の旅で下手な村にも顔を出しにくいだろうしね。




(*アルジュナくん、生まれて初めての自由。周りに家族もお師匠もいないので、誰も彼に何も注意しない*)


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彼と彼女?の珍道中・上

書いているうちに楽しくなってしまったせいで、だんだん長くなってきてしまったので、分割します。
ちょっとダイジェスト形式で書きましたので、サクサク話が進みました。

先の話へのたくさんのご感想、ありがとうございました。
どこの書き手も同じだとは思うのですが、やっぱり自分の書いた話への感想を送ってもらえると、とてもやる気が出ますね。
評価と誤字報告も、ありがとうございました。


 

「――さてさて。何はともあれ、必要なのは路銀だな。魔力で服を編める俺とは違い、君の綺麗な文目の服のままでは、正体が一発でバレかねない。そうだな……この先に村があるから、そこで服を新しく買い求めよう」

「服ですか? 私の持っていた中で、最も地味な物を選んだのですが……。それなのに、これでも人目を惹いてしまうのでしょうか?」

「そりゃあ、そうだよ。――覚えておくといい、お坊ちゃん。金持ちの地味と貧乏人の地味の言葉の意義ほど、そぐわないものはないというのがこの世の真理だ」

 

 即席の使い魔の小鳥たちの目を通して、自らの現在位置を把握し、この森を抜けた先に村があるのを発見。早速、森の中で見つけた珍しい果物や青年が仕留めた動物の毛皮を、青年用の一般庶民が着る様な衣服と交換した。

 

「品物の交換に出すのであれば、屋敷を出る時に持ってきた宝玉などがありますが……?」

「あー、それはダメだ。そんな高価なものにその服はまず釣り合わないし、そうしたものを持ってきた余所者は人の噂になりやすい。俺はともかくとして、君の生存が下手な誰かに知れ渡ってみろ、すごく面倒なことになるぞ?」

 

 着心地の悪い庶民層の服に腕を通した青年が、ごわごわとした生地を興味深そうに触りながら口にした言葉に、とんでもないと言わんばかりの心地で首を振る。

 

 実際、彼の着衣は無地の白衣の様に見え、余計な装飾がないために一見、簡素に見える。

 けれど、王侯貴族とそれ以外の身分の者たちではまず服の素材や織り方、装飾の類からして異なっているため、よくよく見れば服の裾には金の差し色が施され、無地に見える布地を光に翳せばうっすらとした紋様が浮かび上がっている。

 

 つまり、少し目端の利く者であればそれがひどく上質なものであることは一目瞭然であった。

 

「それにしても、君って立っているだけで目立つね」

「あの、無性に貴女だけにはそれを言われたくないのですが……」

 

 鄙びた村に現れた――垢抜けて、見目麗しい青年。

 そんな彼へと、村娘たちが熱の篭った視線を投げかけている。

 年頃の娘だけではなく、いささか薹が立った年齢のご婦人やはたまた白髪混じりの老婆までもが、青年の洗練された佇まいに感嘆の溜息をつき、うっとりとした表情を浮かべている。ひそひそと楽しげに、あるいは思惑ありげに囁きあっている彼女たちの口から、田舎の鄙びた村には相応しくない上品な仕草の青年がやってきたことは、たちまち村中に広まることだろう。

 

 ――つまり、目立つことは避けられないということだ。

 

「よし! こうなったら、とことん目立ってしまおう! 君は何か楽器が弾けたりする!?」

「と、唐突ですね!? はい、大抵の楽器の使い方は嗜みとして習得しております!」

 

 なら、一番手に入りやすい笛にしよう。それなら、自分で作るのも、購入するのも簡単だし!

 

 とにかく先立つ物は、金銭もしくは物々交換に出すことのできる品物だ。

 幸い、この子はカルナと違って音曲の嗜みがある様だし、これは使わないと損だね!!

 

「……歌い手だとロティカやアディティナンダと関係付けて考える人が出てきそうだし。だったら、ここは舞踊家として活動して日銭を稼ごう! よっしゃ、青年ついてこい!」

「初対面の時から薄々感じていましたが、貴女、本当に強引ですね!?」

 

****

 

「いや〜。顔が良くて、楽器の嗜みのある相方がいると本当に儲かるね。こんな小さな村でここまで稼げるなんて!」

「――……いえ、貴女の踊りの腕も確かなものでした。演奏も忘れて、危うく見惚れてしまうところでしたよ」

 

 拍手の余韻がようやく聞こえなくなった頃。目に見える賛美の証として差し出された報酬の額を確かめれば、満面の笑みを浮かべずにはいられない。

 

 思わずホクホク顔で振り向ければ、それまで雄壮たる音色を響かせていた笛をその指先で撫ぜながら、興奮冷めやらぬ熱っぽい表情を浮かべていた青年の横顔が視界に映り込む。

 

()()()が芸事がさっぱりだったから、こうやって他の人と組んで合奏したり、舞踊を披露したりしたのは初めてだけど、なかなか楽しかった! なあ、青年! 当分の生活費はこうやって稼ぐのはどうかな!?」

「あ……、そう、ですね。それで、いいのではないでしょうか……。私も、兄弟たちで合奏したりしたことはありましたが……ここまで好き勝手に、自由に一人で吹かせていただいたのは初めて……です。それに、ここまで聴衆が明け透けに私の演奏を喜んでいただいたのも……初めての経験でしたが……。――……存外、悪くないものですね」

 

 夢見心地の状態の青年が思わず零した言葉に、これまでの彼の生活が若干気になったが、まあいいやと黙殺する。

 

「――それにしても、お見事でした。かつて、叔父の寵愛する国一番と名高い楽師の演奏を歌声を聞いたことがありましたが……、貴女の舞にも、その時の彼の歌に感じたものと同じような感銘を受けました」

「そ、そうか! 耳の肥えている王子様にそんな風に褒められるなんて、俺の舞も中々だね! ウン、自信ツイタヨ!」

「そういえば、彼の楽師もこの国では珍しい黄金の髪をしておりました。貴女のものは、それよりも赤みの強い色彩をしておりますが――ひょっとして」

「気ノ所為ダヨ!! それより、これ! 君の取り分!!」

 

 下手に話を続けて、やぶ蛇になってしまわないように、今回の報酬の三分の二を入れた皮袋を青年の手に押し付ける。急な話題転換に目を白黒させつつも、しっかりと青年が当分の路銀を受け取ったのを確認すると、自分の分の報酬の入った袋の紐をきっちりと締め、懐へとしまう。

 

「――! 私にまで、今回の報酬をお渡しいただけるのですか!?」

「なんでそこまで驚くのさ! こっちが吃驚するよ!!」

 

 中身を確認した青年が素っ頓狂な声をあげたせいで、俺の全身が驚愕のあまり飛び上がった。

 

「だって、今回の儲けは俺と君の両方の力があってのことでしょ? それに、俺と違って君は半神とはいえ血肉を持つ人の身なのだから、食事をしたり、服を買ったり、寝床に入る必要があるじゃないか! ――というか! 寧ろ、君の方がお金を必要とするじゃないか!!」

 

 ぽかんとした表情で皮袋を握りしめる青年に、いささか不安を感じながらも、すぐに使える金銭の必要性を訴えるべく、滔々と言葉を紡ぐ。

 

「そういう訳で、それは君のお金だからね! 必要なものは自分で選んで買って、欲しいものがあったらお財布と相談して購入するかどうか勝手に決めなさい! ――いいね!?」

「あ、しかし、その……勝手に、というのは……」

「欲しいものの相場とか! 値切りの仕方とか! あるいは庶民の買い物のやり方とか! わからないことは教える! 全部教えるから、あとは君の好きにしなさい!! と言うか、して!」

 

 もう、この子、面倒臭い! なんで、いちいち躊躇う上に、伺いをたてるのだ!

 王族ってこんなに窮屈なの? 人間歴が浅い俺にはよくわからん!!

 

****

 

「――という訳で、きちんと食事して、夜露を凌げる場所で一晩眠って、英気を取り戻しました! 早速ですが、これより修行に移りたいと思います!!」

「あの、それは構わないのですが……いえ、むしろ待ち望んでいたのですが……何故、このような場所に?」

 

 赤褐色の地肌に散らばる鮮烈な緑色の斑模様が一望できる、そんな場所で。

 切り立った、とも、峻厳な、とも称えられるような断崖絶壁の天辺で宣言すれば、嫌な予感に口唇を引きつらせている青年が躊躇いがちに質問を投げつけてくる。

 

「だって、君の最終目標は空が飛べるようになることでしょう? だったら、最初に、自分の目指すべき場所を実体験してもらうのが一番かと」

「普通、死にますよ!? こんな場所から安全装置も無しに地上に向かって飛び降りたら!!」

 

 褐色の地肌から血の気が失せた青年が、もはや耐えきれぬとばかりに絶叫する。

 それに対し、俺は首を傾げるばかりだ。

 

「――なんで? そりゃあ、わりかし丈夫な作りの人の子でも、ここから飛び降りたら死ぬのは確実だけど……。君は、半分だけとはいえ、神の子でしょ? だったら、この程度で死んだりなんかしないから」

「本当ですよね? 本当なのですよね? その言葉、本当に信じられるのですよね!?」

 

 難敵を打ち倒せというクシャトリヤの試練でもないというのに、何故こんなにも確実性の薄い命令に従わなければならないのだ、と言わんばかりの苦悩と不安を露わにする青年。

 その悩める姿に、安心しろと伝えるために、飛びっきりの笑顔を浮かべてみせる。

 

「大丈夫だよ! 似たような場所から飛び降りた半神の子供のことを知っているけど、その子はピンピンしていたから、きっと君も大丈夫!!」

 

 ――俺だって、この程度ならかすり傷ぐらいで済んだし!

 

「で、では……決心して……」

 

 なんだか日を追うごとに、青年の言動から丁寧さとか慇懃さとか崇敬の念が失われつつあるような気がするのだが、きっと気のせいに違いない。

 

 ――ゴクリ、と生唾を飲み込んだ青年。

 そんな彼を勇気付けるためにも、かつてのカルナに課した修行の内容を思い起こす。

 

 ……そういえば、あの時は結局どうなったのだっけ?

 

「――このような高所で怯むなど、アルジュナにはあってはならないことだ……! いまいち、この方の適当な性格は信頼がおけないのだが、それでも一度は師事すると決めた相手……! このアルジュナが、その言葉を信じなくてどうする――よし!」

「あれ? でもなんか忘れているような気がする……? なんだっけ?」

「――それでは、行きます!!」

「待った!! そういえば、あの子は身に帯びたよろ――って、もう遅い!!」

 

 そういや、カルナはあの鎧のおかげでかすり傷一つ負わずに無事だった。

 遅まきながらそのことを思い出して制止の言葉をかけたものの、時すでに遅く――青年は半神であったとしても無事では済まないだろうほどに険しい崖から身を躍らせた後だった。

 

「――〜〜っ!!」

「あー、あー、マズーーい! よーし、掴まえた!! 大丈夫? どこか欠損していない!?」

「あのですね! そこまで心配して下さるのであれば、もう少し計画性を持って、修行の内容を定めてはもらえないのでしょうか!?」

 

 泣きそうな顔になっている青年の手を空中で掴み取り、自分の首に彼の腕を回させる。

 依然として空に浮いたままの状態ながらも、なんとか安定した位置を確保した青年が耳元で叫ぶのを、その背を叩いて宥めてやれば、鼻を啜る音が聞こえたような気がした。

 

「ごめん、ごめん。でも、腕の二つや三つが失くなる前にちゃんと掴まえたでしょ?」

「人間に腕は二つしかありません……! もうやだ、この方……」

 

 まあ、羅刹でも神々でもない限り、人間の腕は二本しかないよなー。

 それにしても、カルナは俺の感覚派理論についてきてくれたけど、この青年の真面目っぷりから、もう少し理論づけたり、本人の脳みそで考えさせてから実践に移した方が性に合っているのかもしれない。

 

「うん、悪かった。君の性格からして基礎をしっかり納めてから実践に移した方が、習得しやすいのかもしれない」

「そうですよ……。どんな戦士だって、弓の持ち方を習う前に狩猟に参加したりしませんから……」

「ええと、泣かないでよ?」

「誰も泣いてはいませんよ!! 貴女、ここ最近、私のことをそこらの幼児と変わらぬ年草の子供か何かと勘違いしておりませんか!?」

 

 確かに、青年は泣いてはいなかった。

 それどころか、顔を真っ赤にしながら、こちらへ滔々と語り出そうとしてきた塩梅だった。

 

「よろしいですか! このアルジュナ、生まれ落ちた瞬間に我が父より祝福を授かり、この世に比類なき勇者として成長するように定めづけられているのです!! そのアルジュナがこのようなことで驚きこそすれ、泣くような真似をする訳が――って、むが!」

「ええい、耳元で叫ぶな! それより、もうちょっと今の状況を堪能しなさい!! ――ほら!」

 

 あまりにも鬱陶しいので、首にしがみ付かせたままの青年の頭を抱きかかえ、息を止める。そうやって、ちょっと冷静になった青年の視線を眼下に広がる光景へと向けさせる。――そうすれば、その途端。

 

 ――ほぅ、と。

 抑えきれない、堪えきれなかった感嘆の溜息が、青年の口より零れ落ちた。

 

「――……ああ、なんと見事なのでしょうか」

 

 果てなど知らぬと言わんばかりにどこまでも続く大空と色彩鮮やかな沃土。

 天空で輝く日輪、その恩恵を受けて、生き生きと脈動する地上のあらゆる生命。

 地上にいる限り、決して目にすることの出来ぬ、至高の景色が眼前に広がっていた。

 

「初めて知りました……。大地には終わりがあるのに、空はどこまでも続くのですね……」

 

 それまでの、漆黒の双眸ではない。

 ――景色を堪能している青年の瞳には、光を受けて煌めく黒曜石の輝きが宿っていた。

 

「取り敢えず、この景色が自力で見られるようになるまで修行頑張ろうね!」

「そうですね……。できるだけ早く習得するように致しましょう……自分の身の安全の為にも」

 

 やっぱり、だんだんこの子の態度から尊敬の要素が薄くなっているのではなかろうか。

 あと、遠慮とか、そういうのも――そーいや、カルナが今の態度になる前もこんな感じだったなぁ……。




<裏話>

カルナ・アディティナンダ=フィーリング派、あやふやな説明で相互理解が可能。
アルジュナ=ガチガチの理論派。感覚で説明されると混乱する。

(*個人的に、アルジュナの目の輝きに注目してくれると楽しいです。あと、地の文での呼称とか*)


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彼と彼女?の珍道中・中

カルナさんよりアルジュナの方が喋ってくれるから、話が進む進む。
やっぱり、思っていた以上に話が長くなってしまいました。

ちなみに、当初の予定では、原典通りパーンダヴァご兄弟とそのお母さん+アディティナンダの大所帯になる予定だったのですが、書き分けないといけない人数が多すぎるので、アルジュナと二人旅になりました。


「ここからそう遠くない森に住まう、ヒディンバという人食い羅刹が旅の一行に討伐されたそうです――私の兄弟たちかもしれません」

「あー、あのシャーラ樹に住まう八本の牙を持つ羅刹か。へー、あいつ殺されちゃったんだ」

 

 交易を営む人々の集う市場で情報収集をしていた青年が、丁重に話し相手に礼を伝えながら、食べ物を物色していた俺の元へと駆け寄ってくる。

 こっちはできるだけ美味しそうな果実を探しているのに、何故かしきりに装飾品を見せたがる屋台の親父の誘いを受け流しながら生返事をすれば、青年がもどかしそうに話を進める。

 

「それだけではありません。ヒディンバだけではなく、ここから離れたエーカチャクラという都で人々を苦しめていたバカという羅刹が旅のバラモンに殴殺されたとか」

「その話なら、自分も聞いたよ。なんでも、そのバラモンと羅刹が戦ったのは木々の生い茂る林の中だったってぇ言うのに、草木一本残らぬ更地になっちまったとか。――ところで、天女のような別嬪さん、この簪はどうだね? 今ならお安くしておくよ?」

「あー、それよりもこっちの塩肉の詰め合わせとか、干した果物がもっと欲しいんだけど」

 

 適当に相槌を返しつつ、なおも装飾品を勧めてくる商売人のおじさんと会話を続けていたら、業を煮やした青年が俺の肩をその手で掴み、無理やり自分の方へと向けさせた。

 

「話を聞いてください! ヒディンバの住まう森からエーカチャクラの都はちょうど街道沿いにあるのです。それゆえ、これは同一人物によってなされたことだと思います」

「――それで?」

「私は、これが、我が兄であるビーマセーナによるものだと、ほぼ確信しています」

「だから?」

 

 問い返してやれば、青年が虚をつかれたような表情を浮かべる。

 それにできるだけ丁重になるように、青年に合わせて声をひそめながら囁き返す。

 

「期限は兄弟に再会するまで、と決めたのは君自身だろう? だったら、俺たちも君の兄弟たちの足跡を追う形で旅を続ければいいじゃないか」

「――――私が旅の行き先を決めてもよろしいので?」

「と言うか、君の進む方向を君が決めないで、なんで俺が決めてやらねばならんのだ!」

 

 思わず半眼になって睨みつければ、青年が口をパクパクと開閉させる。

 うーん。何だか、酸欠になった魚みたいだなと眺めていれば、ようやっと平静を取り戻した青年が大きく息を吐いた。

 

「貴女の都合を考慮せず、私が決めてもよろしいのですか?」

「その気になれば俺は空を飛んでいける。もともと、これだって君への恩返しなんだ。何より、嫌だったり困ったらこっちから言うぞ。でなきゃ、なんのために口があるんだ」

 

 ――でしたら、と青年がか細い声を出す。

 あまりにも頼りないその姿に、初めてのお使いで迷子になった子供を連想した。

 

 光のない、漆黒の闇夜を思わせる瞳がじっと俺のことを見つめ返している。

 そうして、一言、一言、噛みしめるように、ゆっくりと唇を動かした。

 

「私は……――兄弟たちと再会しなければならない。ですので、ここからエーカチャクラの都まで、付き合っていただけますか?」

「うん、いんじゃないか? ところで、おじさん。簪買わないけど、香辛料は欲しいから、おまけしてくれないかな?」

「――毎度あり!」

 

****

 

「――いい加減、貴女のお名前を教えてはいただけないのでしょうか……? いつまでも師に当たるお方を貴女としか呼べないのは、その……落ち着かないというか……」

「別にいいんじゃないかな、呼び名なんて。貴女であろうと、それと呼ぼうと、あれと言っても。そもそも、師匠って柄でもないし。――そんなことより、意識して魔力は出せるようになった?」

 

 紫電の光球が青年の掌の上で脈動するように雷撃の音色を奏でる。

 それに合格点をつけながら、最近盛り返されるようになってきた話題を適当に受け流しながら、集った魔力を武器のようにして扱う術を教え込んだ。

 

「こうして、自分の魔力を凝らせることで即席の武器を生み出すこともできる。これには、自分自身の魔力が基盤となっているから、滅多な武器では破砕されたりしない。――けど、宝具とか神造兵器の類と打ち合うには、内に籠る神秘の格が弱いから、その辺は注意しておくといい」

 

 見本として、己の魔力を基とした、切っ先に炎を宿した短剣を生み出してみせる。 

 そして、その短剣を元の金の鱗粉を帯びた朱金の炎へと分解してみれば、青年は自らの放つ紫電を放出ではなく、凝縮という方向へ持って行こうと真剣な表情を浮かべた。

 

「ただ魔力を垂れ流しにするよりも、ここぞという瞬間に凝縮した魔力を爆散したりすることで、とんでもない瞬発力や膂力、推進力を生み出すことができる。そうだな……これを上手く使えば、力では及ばない魔物や魔獣相手にも互角以上にやり合えるようになるし、戦術も大幅に広がるんじゃないか?」

 

 青年の掌の上で、紫電が伸縮を繰り返し、その度に小さな火花が周囲へと飛び散る。

 細く長く、青年の意のままに、形のない紫電が確固たる存在感を持った実体を手に入れた。

 

 銀と紫の装飾のなされたそれに指先で触れれてみれば、静電気がピリリと伝わってくる。

 

「なるほど、矢とは考えついたね! 魔力で構成された矢だったら君の魔力が尽きるまでほぼ無尽蔵に生み出せるし、補給を気にすることもない――試しに射ってみようか!」

「それでは、そうですね……あそこに大鹿がいるようです。当分の備蓄にもなりますし、あれだけの肉付きの良さであれば物々交換にも出せることでしょう」

 

 弓矢の名手には必要な条件とされる、遥か彼方を見通す目で以って、青年がなだらかな丘の上の方へと視線を向ける。俺の目には緑の丘陵地帯の点にしか映らないそれも、弓の名手たる彼の目にはきちんとした情景となって映し出されていることだろう。

 

「――当てられる?」

「当然です。アルジュナですから」

 

 ふふん、と子供のように青年が胸を張る。

 キラキラと輝く黒曜石の瞳がすっと眇められ、背筋がピンと伸ばされる。

 そして、師から賜ったという弓に先ほどの矢を番え、キリキリと弦を引きしぼった。

 

 一瞬の静寂が場を支配し――鋭い風切り音と共に紫色の閃光がまっすぐに獲物へと飛来した。

 

 チュドーーーンッッッ!!

 

 そして、俺たちが見守っている中、眼前にあった小高い丘が、獲物ごと爆散した。

 

「…………こういう時、どういう顔をすればいいのでしょうか?」

「笑えばいいんじゃないかなぁ……多分」

 

 この後、二人で必死に掃除した。

 

****

 

「――よし! 大分、魔力も扱えるようになってきたし、ここらで再挑戦と行こうか! という訳で青年、ちょっとそこの山から飛び降りておいで」

「どうして貴女は高所から飛び落ちることに、ここまで拘泥るのですか!? 普通に地上から飛び立てばいいのでは!?」

「え〜? だって、そっちの方が手っ取り早くない? 後、なんというか、命の危機に瀕することで隠された力も目覚めそうだし」

 

 真夜中に到着した街の周囲をぐるりと囲む、峻厳たる山々。

 その内の一つを指差して指示すれば、すぐさま眦を釣り上げた青年が反発する。

 

 ――とはいえ、青年の言い分も尤もである。

 確かに、未経験者にあの高さに挑戦しろと言うのは鬼畜の所業だったかもしれない。もっとちょうど良さそうなものはないかな? と思って周囲を見渡せば、巨大な建造物が目に引いた。

 

「――じゃあ、あそこの寺院の一番高い塔からはどうだろうか? 上手くいけば見世物としてお金を稼げるかもしれないよ?」

「神聖な寺院を指差して何を仰っているのですか!? 仮にも貴女のご同輩の社でしょう! それからそういう商法には絶対協力しませんからね!」

 

 お硬いなぁと呟けば、切れ長の目がさらにキリリと釣り上がる。

 貴女が適当すぎるのです! と怒られるので、君が真面目すぎるのではないかなぁ、と嘯けば、青年の怒気がますます色濃くなった。

 

「ちぇ、仕方ない。でも、そろそろ君を屋内で休ませてあげたいから……別の手段でお金稼ぐか」

「――別に、私の体調であればお気になさらずとも……」

「まあ、頑健な神々の肉体ならば、然程は肉体的には疲労しないだろうけど、それと心は別の問題でしょう? 気疲れって言葉もあるくらいだし、魔物や雨を気にしないでいい宿屋に入れるなら、入っておいた方がいいよ」

 

 でも、ちょっとばかし寄り道したせいで、到着の時間が遅くなりすぎたんだよなぁ。

 なので、お休み中の善良な人々に迷惑をかけない手段でお金を稼ぐとなると……嗚呼、そうだ!

 

「思いついた! 賭場に行くぞ、青年! それで、今夜の宿代を稼ごう!!」

「賭け事ですって!? 貴女、女性でありながら、その様な悪所に足を運ぶというのですか!? そもそも、女性が賭場に行くことは法によって禁止されていますよ!!」

 

 そういや、そうだった。

 人の世界において、女性は基本的に親や夫の持ち物として扱われ、財産を持たないことから賭け事に参加する事は出来ないし、そもそも賭博場への入場も、許されていなかったんだっけ。

 いっけね! ついつい、アディティナンダの時に荒稼ぎしていた時の癖で手っ取り早く路銀を稼ごうとしたから、常識的に怒られてしまった。

 

「そもそも、賭け事だなんて己の身を滅ぼすだけです! どんなに思慮深く聖典に通じる人であっても、賭け事のせいで大変な目に遭うのを私は知ってます! 類い稀なき賢人であっても堕落させる恐ろしい遊戯、それが賭博です! だから、他に手段がなかったとしても、賭場だけは絶対ダメです!! ――そ、そんな引いた目で見ないでください! あと、私は貴女が賭博場に入るのに、絶対に協力なんてしませんからね!」

 

 いつになく激しい拒否反応を見せる青年。

 その姿に、俺だけでなく、暗くなった小道を共に歩いていた街の人々までもが、ドン引きした視線を憤る青年へと向けざるをえない。

 

 ――本当にどうしたんだろう、この子。

 なんというか、そこそこの付き合いだが、これまでの過剰な反応は初めて見た。

 この間の、自分の魔力放出だけで村々を荒らしていた怪物を退治してこい、という課題にさえ、内心はどうであれ、楚々として仕草で承諾していたというのに。

 

「一応の付き合いで聞くけど……賭博で嫌な目にあったことでもあるの?」

 

 庶民の間では人気のある遊びだが、王宮ではどうなのだろう。

 というか、あまり品のない遊びとして上流階級には敬遠されている賭博に、蝶よ花よと囲われている筈の王子様が、どうしてここまで過敏な反応をするのだろうか。

 

「私の……一番上の兄が……大の賭け事好きで……」

「あー、なんとなく察した……」

「従兄弟が、偶に長兄のことを賭け事に誘って……兄も最初は断るのですが……」

「な、なんか、辛そうな思い出だね。無理に話さなくてもいいんだよ?」

 

 どんよりとした青年が、憂いを帯びた面差しで訥々と語る内容に、オチが理解できた。 

 ――後、ここで彼の言っている従兄弟とは、十中八九、ドゥリーヨダナのことだろう。何やってんだろう、あの悪辣王子様は。

 

「この様なこと、本人の前では到底言えませんが……下手の横好きとは兄の賭け事好きを指すのでしょう」

「そ、そうなんだ……」

「ええ……。普段は、決して運の悪い方ではないのに……何故か、いつも賭け事では負けるのです……いい加減、向いていないことに気づけばよろしいのに……」

「それ、お兄さんに対して一度言ってみたらいいんじゃないか?」

 

 そう言えば、青年は諦めきった表情で微笑む。

 その諦観混じりの微笑みは傍目から見ればひどく美しかったため、ここに若い娘たちがいれば黄色い声の一つや二つをあげたことだろう。

 

 ――――ただ、俺の口から言わせてもらうのであれば。

 最も人生の喜びにあふれた青春の盛りの子が、浮かべていい類の表情だとは到底思えなかった。

 

「――それは、そのようなことは……できません。弟は兄に従うものですから」

 

 この世の真理を述べる様に青年は告げたが、うちの弟がしょっちゅう俺の言うことに逆らっていることを踏まえるに、それは決して真理などではないと思う。

 

****

 

「――最近、気がついたのですが」

「なんだい、青年?」

 

 ふと思いついたと言わんばかりの雰囲気で、何もない宙空にぷかぷかと揺蕩う青年が、真下で見守っている俺へと声をかけてきた。

 

 ここしばらくの話だが、魔力で構築された雷を利用して空を高速移動することよりも、雷霆を司るインドラの支配下にある水蒸気や風を操作して空を舞う方が、自分に合っていることにこの王子様は気づいたらしい。その姿に、波打ち際に漂っている海月の様だな……と感想を抱きつつ、この前立ち寄った先で手に入れた弦楽器を軽く爪弾きながら調律を続ける。

 

「――それですよ。貴女、ご自分の名前を教えないばかりか、私の名前さえ、一度たりとて呼んだことありませんよね?」

 

 ふわり、と木の葉の様に舞い降りた青年が、ほぼ断定口調で問いかけてくる。

 どこか拗ねている様にも見える青年の姿に、また変なことを言うなぁ……と首をかしげた。

 

「いや、本名で呼んでどうするのさ? 君の生存がバレる可能性がある以上、そうやすやすと口にしていい名前ではないと思うのだけれども」

「それは勿論ですが……貴女、他に人が居なくてもそうではありませんか。思い起こせば、貴女は私のことを“青年”や“君”としか呼んでいない」

 

 だって、そこまで君に関心を抱く必要性がないのだもの。

 ――と正直に告げたが最後、なかなか繊細そうな青年の心をぶつ切りにしてしまいかねない。なので、ぐっと言葉を飲み込んで自重することにした。

 

 しかし、名前か……。今まで曖昧にしてきたけど、それもそろそろ限界と言ったところだな。

 できれば、彼との接触は最小限に済ませておきたいから、縁に繋がりかねない接触はできるだけ最小限に収めておきたかったのだけど……どうするべきか……そうだ!

 

「――じゃあ、君が考えたらいいじゃん」

「――え」

 

 適当な名前が思いつかないし、ぶっちゃけどうでもいい。

 そもそも、ロティカもアディティナンダも、カルナのために考え、名乗るようになった名前だから、この王子様相手に使うのは少しばかり憚りがあるんだよなぁ。

 

「――私が? 貴女の呼び名を決めるのですか?」

 

 この様な些細な疑問にも取り組みだしたのは、出会った時より心に余裕が生まれてきたからか。

 ――まあ、人間の常識的にも、お互いのことをいつまでも名前を呼ばないと言う行為は失礼にあたるかもだし、その辺、きっちりと踏まえている性格の子だからと言うのもあるだろう。

 

「だって、俺は別になんと呼ばれようがどーでもいいし。気にしてるのは君だけじゃないか」

 

 でも、カルナとこの子が敵対する可能性が今後もかなり高い以上、下手に馴れ合いすぎるとお互い大変になるだろうし……今みたいな付かず離れずの距離感が一番だと思うんだけどなぁ。

 そもそも、この子が兄弟と再会するか、もしくは魔力を完璧に操れる様になったら、とっとと別れるだけの関係でしかないのだから、わざわざ自分の素性を話す必要性もないし。

 

「それより、もうそろそろ、エーカチャクラの都だ。休憩はこの辺にして、都で聞き込みをしないと」

 

 都を守護する代わりに生贄を求めたという羅刹・バカ。

 それを打倒してのけた偉大な人物の存在を聞き知っているというバラモンの屋敷を訪ねるべく、俺は青年を先に進むように促した。




<(さらっと出てきた)登場人物紹介>

・羅刹 ヒディンバ
…不吉の屋敷から脱出したパーンダヴァたちが疲れ果てて眠っていた森を拠点としていた羅刹たちのボス。
 同じ羅刹の妹に久しぶりのご馳走だから、料理してもってこいと命じたら、肝心の妹が唯一目覚めていたビーマに一目惚れ。殺したがらない妹に激怒して、妹共々一家を鏖殺しようとしたが、怪力無双のビーマに返り討ちにされた。ちなみに、その妹こそガトートカチャ(カルナを殺すべくインドラによって創造されたデザインベビー)の母親であった。

・羅刹 バカ
…ややこしい名前だが、決して馬鹿ではない。エーカチャクラの都とその一帯を支配していた食人鬼で、周辺を守護する代わりに生贄を要求していた。パーンダヴァ一行が世話になっていた屋敷の家長がその時期の生贄で、一家への恩返しということで、クンティーの命令を承諾したビーマによって殴り殺された。

・一番上の兄
…語るまでもなく、あのお方。多分、そのうちきちんと登場する……はず。

(*次回で、珍道中は最後になります。カルナよりもアルジュナの方がよく話すので、本当にさくさく書けました*)


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彼と彼女?の珍道中・下

休暇はもう終わり、そろそろ現実に戻るお時間です――と、不吉な予言を開幕早々に宣告しておく。

感想やコメント、いつもありがとうございました。
誤字報告や小説評価、とても助かっていますし、嬉しいです。


「――やはり、この街に居たのは兄弟たちのようです」

「うんうん、それで?」

「街の人にそれとなく噂のバラモンの風貌について尋ねてみましたら、特徴が一致しました」

「そっか――で? 彼らの行き先とかは判明した?」

 

 羅刹と謎の人物が戦ったという更地が未だに残されている、エーカチャクラの都。都の片隅に居を構えるバラモン一家の屋敷に、美しい夫人を連れた四人兄弟が滞在して居たという。

 聞き込みを終えた青年の反応を見る限り、その謎の一家とやらが彼の家族――すなわち、パーンダヴァ一行であることは、ほぼ間違いないようだった。

 

「なんでも、パーンチャーラ……いえ、今は南パーンチャーラ王国へと向かったそうです」

 

 確か、パーンチャーラって……。

 昔、この王子様が師匠であるドローナの命令で攻め落とした王国ではないか。

 かつては広大な領土を有し、各所に名を馳せていた王国であったが、目の前の青年をはじめとするパーンダヴァの兄弟たちによって国王が打倒されたことで王国は南北に両断され、北はドローナが支配する土地となっている。

 

 何故、そんな因縁浅からぬところに彼の兄弟たちが向かったのかは分からないが、そうと決まれば次の目的地はそこしかないな。

 

「それにしても、どうしよっか」

「何がですか?」

「――だって、君に教えることはもうないじゃないか」

 

 ――であれば、この辺が潮時なのかもしれない。

 未だにカルナや俺のように自由自在という訳でもないが、それなりに空を舞うことができる様になってきた青年にそう切り出して見ることにする。

 

「いえ……。まだ、私の満足のいく水準にまで至っておりません。ですので、是非とも魔力操作の伝授を続けていただきたいのです」

 

 申し訳なさそうに謝ってくる青年に、どうかなぁ? と首をかしげる。

 とはいえ、青年の言う通り、彼の魔力の扱い方には、まだまだ荒削りな部分があるのは確かなので、それもそうかと納得する。

 

「おーい! 聞いたか、お前ら!! カラウヴァのドゥリーヨダナ王子が、まーた婿選び式(スヴァヤンヴァラ)に参加したそうだぞ!」

 

 ドゥリーヨダナ、と言う名前に、思わず反応してしまい、背後を振り返る。

 振り向いた先では、いかにもお喋りが好きそうな陽気な顔立ちをした若い男が、同じような年頃の職人仲間らしき相手に、興奮した様子で話しかけていた。

 

「あの王子様かぁ! 全く、お盛んなこって! この間も、どこぞの姫君の婿選び式(スヴァヤンヴァラ)に参加していなかったか?」

「いやいや、ご自身の嫁や第二夫人とするために参加している訳ではないそうだぞ? あそこはご兄弟が百人もいるからなぁ。その弟たちのために嫁さんを探し求めているそうだ」

 

 ひゅう、と下品な仕草で口笛を吹いた若い男を嗜めるように、やや年配の温和そうな容貌の男が訳知り顔で解説する。その近くで、適当な露天の商品を熱心に眺めているふりをしながら、その場に腰を落とし、彼らの世間話に耳を澄ませた。

 

「――けど、どこの婿選びでも、姫さんを獲得するためには、それぞれの父王たちが定めた難題を乗り越えなきゃいかねぇんだろ? 確かに、あの王子様は音に聞く棍棒の名手だが、それでも他の並み居る候補者を押しのけてまで、嫁さんを獲得できるもんなのかね?」

「そりゃあ、お前。そこはクル王国のカルナ将軍の出番だろうよ?」

 

 ――久しく聞いたその名前に、ピクリと肩が反応する。

 思わず男たちを問い詰めたくなるのを我慢して、必死に話の続きを待つ。

 

「その武芸は天下一品、その挙動は泰然自若の比類なき勇者! どのような難題であろうと、武器を用いての試練だったら、カルナ将軍の手によってやすやすと乗り越えられちまう! 御者(スータ)の息子っているのがまあ欠点だが、最近じゃあカルナ将軍ほど活躍している奴はいねぇや!!」

「違いない! この間も、主君である王子様の命令で国一つ陥落させたらしいからなぁ!」

 

 そう言って朗らかに笑う人々の声に、どうやら弟が元気にやっているようだと安心する。

 相変わらず、あの子がドゥリーヨダナにこき使われているのは確かなようだ。それにしても、兄弟たちのお嫁さんを獲得するために、自分の代理にカルナを試練に挑戦させているのかぁ……。

 

 懐かしさと慕わしさ、それから恋しさが胸中に渦を巻く。

 早く会いたいなぁ、俺の弟に。こんなにも離れていたのは、初めてなだけに、なおのこと。

 

「最近、カウラヴァの方々の話はよく聞くが、ほれ」

「ん? なんだ?」

「あの、半神の王子さまがたはどうなったんだ? パーンダヴァのご兄弟さ」

 

 何かを作っている手元の動きを止めることなく、職人の男たちは話を続ける。

 俺の傍らで慎ましく佇んでいる青年の肩がピクリと揺れたところから、彼自身、一家を取り巻く状況がどうなっているのか気になっているようだ。

 

「ああ、あの話なぁ……。なんでも、外遊中に火災に遭ってしまって落命なさったそうだぞ。こりゃあ、クルの次期国王はドゥリーヨダナ王子に決まりだなぁ」

「本当に気の毒になぁ。焼け跡から人数分の遺体も見つかったらしいし、母親のクンティー王妃共々、天にその命を召されたってことか」

「幸い、王子さまがたのお命を狙っていた不届き者も死体で見つかったらしいし、天罰が当たったんだろうよ」

 

 怖い怖い、と囁いている男たち。

 とはいえ、遠い都での王族たちの不幸な事故など、彼らの暇を潰すには打って付けの出来事なのだろう。一頻り感想を述べあってから、彼らの話題は別のものへと移っていく。

 

「でも、あそこの第三王子……ええと、アルジュナ王子様だったか? あのお方が亡くなったって言うんだったら、とうとうカルナ将軍に敵う相手はいなくなっちまったってことか?」

「うーん、そいつはどうだろうか。ほれ、なんかすごく各所で崇められておられる王族がいただろ? 竜を退治したとか、魔物と通じて悪政を敷いていた王を倒したとか……」

「ああ、■■■■■様か! あの方であれば確かになぁ……」

 

 ……ん? 可笑しいな。

 雑音が急に耳に飛び込んできたせいで、彼らが誰の話をしていたのか、よく聞き取れなかった。

 

「いやはや……それにしても、勿体ねぇなぁ。あの王子様方であれば、カルナ将軍との間での名勝負が見られただろうに」

「そういや、婿選び式(スヴァヤンヴァラ)と言えばだな……。近々、パーンチャーラのお姫様が婿選び式(スヴァヤンヴァラ)を開催するらしいぞ? 噂じゃあ、ラクシュミー女神の様にお麗しいって話だ」

「か〜〜! そんな美女なら一目でいいからお目にかかりたいもんだ! それにしても、パーンチャーラ国王にいつの間にそんな別嬪のお姫様が生まれたんでぇ?」

 

 暫くの間、耳をすませていたが、職人たちの話は次々と変わっていき、終いには晩飯の献立を予想しだしたので、もう十分な情報を仕入れることができないと諦めた。

 

 ふぅ、と。軽く肩に入っていた力を抜いて、お尻を叩きながら立ち上がった。

 商品を冷やかすだけの客に露天商が迷惑そうな表情を浮かべていたが、気づかないふりをする。

 

 ――そこへ、静かな声がかけられた。 

 

「……聞きたい話は聞けましたか?」

「嗚呼、ごめん。他人事じゃないだけに、つい聞き入って、しまって、い――」

 

 止めていた足、職人たちの方を向いていた視線を戻し、青年の方へと振り向く。

 見上げた先にあった凍えた眼差しに、背筋に冷たい戦慄が疾った。

 

「――どうやら、ドゥリーヨダナの目は誤魔化せているようですね。それは重畳」

 

 うっそりと微笑む彼に不吉なものを感じ、思わず後退りしたくなる足を必死に抑える。

 ――ぐ、と。力を入れて奥歯を噛みしめることで、感じた動揺を表に出すまいと堪えた。

 

「……それにしても、婿選び式(スヴァヤンヴァラ)ですか。もしかしたら、私の兄弟たちは、それに参加するためにパーンチャーラへと向かったのかもしれませんね」

 

 ――昏昏とした、光のない瞳。

 陰影を色濃くした端正な容貌に浮かんでいる、その感情の正体は一体なんなのだろう。

 

 初めて見る顔だ、初めて見た感情だ。

 カルナが浮かべたことのない、そんな類の情感だ。青年が見せた感情についての情報を脳が処理しきれなくて、大いに戸惑った。

 

「そう言えば、カルナ、でしたか。――最近、よく名前を聞くようになりましたね」

「そ、そうだな」

「あの男は一体何者なのでしょうか? 空を飛ぶ姿を見た時から思っていたのですが、あの男が仮に神々の血を引くものであると言うのであれば……何故、あの男はドゥリーヨダナに従っているのでしょう?」

 

 なんと返事をすればいいのかわからなくて、無言になる。

 しかし、問いかけの形こそとってはいたものの、特に返答は求められていなかったらしい。

 

 その代わり――貴女は、と。茫洋とした瞳の青年が静かに新たな問いを投げかける。

 

 黒々とした、深い闇を宿した切れ長の双眸に、俺の姿が鏡像として写り込んでいた。

 

「――貴女は何かをご存知ですか? あの男について」

 

 さも、突然思いつきました、と言わんばかりに、青年は俺へと問いかけてくる。

 じっとりと濡れた闇色の双眸が、俺の一挙手一投足を逃すまいとこちらを凝視していた。

 

「あの男が神の血を引くと言うのであれば、一体どのような理由で忌み子たるドゥリーヨダナに従うのか、私にはそのことが不思議で仕方ありません」

「――()()、やけに拘泥るな。そんなに、カルナのことが気になるのか?」

 

 さあ、どうしてでしょう? と歌うように青年が言葉を紡ぐ。

 薄い口唇が幽かに吊り上がり、光を呑む込むような漆黒の双眸が僅かに眇められた。

 

「ただ、初めて見た時から感じたのです。――あの男と私は、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 どうしてなのでしょうねぇ、と青年が虚空を見つめながら嘯く。

 

 今度は逆に、俺の方が不穏な気配を醸し出す青年の一挙一動を見過ごすまいと、目つきが自然と剣呑なものに変わってしまう。その様子に気づいていないわけではないだろうに、依然として、青年は鬱蒼とした微笑を浮かべているその表情を崩すことはない。

 

「――こんな醜い感情、()()()()()には相応しくないと言うのに」

「可笑しなことを言う――まるで、その“アルジュナ”が、お前自身ではないみたいじゃないか?」

 

 自身に対する侮辱だと言って、怒りだすのだろうか。

 そう思って口にした嫌味に対し、青年は一転して弱弱しい表情を浮かべ、ただ一言こう呟いた。

 

「……ひょっとしたら、そうなのかもしれませんね」

 

 それを聞いて、ちょっと思った。

 ひょっとしなくても、この子、すごく面倒くさい人間なのかもしれない。

 

****

 

 エーカチャクラの都での一件以降、どこかギクシャクとした雰囲気だった――のだが。

 

「――決めました。私は貴女のことを、タパティーと呼ぶことにします」

 

 ちょっと、川辺に水を汲みに行って来ますね。

 そう言って場を離れた青年が、ようやっと戻って来たかと思えば、唐突にそう宣言した。

 

 あまりにも突然すぎるその言葉に、こちらとしても目を瞬かせることしかできない。

 

「えーと、あの名称の話、まだ続いていたんだ」

「ええ。勝手にせよ、とのことでしたので。勝手にさせて戴きました。それで? どの様な呼び名を用いても、貴女はお構いないのでしょう? ねぇ、()()()()()?」

「いや、その名前はちょっと……」

 

 いつぞやとは裏腹に、輝かんばかりの微笑みを浮かべて、語りかけてくる青年。

 確かに好きなように呼べばいいとは言ったけれど、それって同時に遠回しに俺のこと詮索するなや、といった意味も含んでいたのだが――そうきたか。

 

「何故です? 貴女に似合う名前だと自負しておりますが」

「ううーん、その、だな……」

 

 ――にしても、タパティー、か。

 わりかし、俺に縁のない名前ではないだけに、ちょっとビビる。この青年、ひょっとしたら俺の背景というか、俺がスーリヤの眷属であることを察しているのではなかろうか。

 

「――それよりも、青年」

「なんでしょうか、タパティー」

 

 その名前には思うことがあったので、なんとか話をあやふやにしてやろうと青年に声をかける。

 

 ――そして、然程時間をかけるまでもなく、話の種は見つかった。

 よくよく見れば、青年は焼け落ちる不吉な屋敷から持ち出していた長弓を手にしていない。

 それに、きちんと整えられていたはずの蓬髪が少し乱れ、どことなく煤の匂いや物が焦げた様な匂いが服から漂っている。水汲みついでに何かがあったのは間違いない。

 

「君の持っていた、弓は? あと、君がいない間に、轟音が鳴り響いたけど、それって君と関係していたりする?」

「ああ、そのことですか。先ほど、ガンガー河の畔りで水を汲もうとしていたら、この森を住まうというガンダルヴァに難癖をつけられまして」

 

 ほっそりとした指先を青年がその唇にのせて、悪戯っぽく微笑む。

 きらきらとした黒曜石の輝きと青年の全身から発せられる楽しげな雰囲気は、この旅を始めてから初めて見るので、少しばかり面食らう。

 

「自分の森で、音を立てるのも、勝手に水を汲むのもダメだと、文句を言うのです。その暴論に対して、少しばかり私が理を説けば、怒って矢を射かけてくるので、そのまま戦闘になりまして」

 

 ここは、ガンジスの畔りの聖地・ソーマシュラバーヤナなので、いちゃもんをつけてきたガンダルヴァといえばアンガーラパルナを指すのではなかろうか。そして、アンガーラパルナと言えば、細かいことにネチネチ難癖つけてくる、自惚れ屋の粘着野郎だった筈。

 

「向こうから先に手を出して来たのです。――なので、私も弓矢をとって応戦いたしました」

「で、どうだった? 苦戦したりした?」

「いえ、然程」

 

 あっさりと言い切る青年。嫌味がなさすぎて逆に嫌味に感じる類の人間だなぁ、この子。

 とはいえ、ガンダルヴァ相手に苦戦しなかったとさらりと口にするあたり、青年の力量のほどがうかがえる。

 

「戦士であると豪語したからには、その首を落とされるのも敗者の役目。そのまま、首でも切り落とし、修行の成果として、貴女の元へ持ち帰ろうと思ったのですが……」

 

 ――いや、いらないから。

 俺ってば、戦士ではないので、虜にした相手の首とか欲しくないから……!

 

 やや無念そうに語る青年に、内心で激しく突っ込む。

 とはいえ、目に見える形で戦利品を持ち帰ってこなかった限り、平和的に騒動は解決したのだろうと彼の話の続きを待つ。

 

「一緒にいたガンダルヴァの妻が、命だけはと懇願するので許しました。すると、男が命を助けてくれた礼として術を伝授すると言い――かといって無償で受け取るのもどうかと思ったので――私の弓と引き換えて来ました」

 

 とりあえず、敵の首級とか持ち帰ってこなくて、本当に良かった。

 青年が差し出してくる水の入った皮袋を礼と共に受け取り、そんなどうでもいいことを思う。

 

「その時にですね、面白い話を聞いたのです」

 

 愉快です、と言わんばかりに軽快な口調の青年に、それほど楽しい話を聞いたのかと胸中でひとりごちる。黙って話の続きを促す俺に対してどう思ったのか、にこりと青年が唇を緩めて見せた。

 

「彼は、私のことを“タパティーの子孫(ターパティヤ)”と呼んだのです。そうして、クル王族についての、面白い話を教えてくれました。――そのご様子なら、この話をご存知の様ですね?」

 

 口に含んだ水を吐き出しそうになったのを必死に堪える。

 青年の問いかけに、できるだけ平然とした様子で応じるべく、口元を軽く拭った。

 

「……あ、嗚呼。わりかし、俺にも他人事ではないからな」

「――やはり、貴女の輝く朱金の髪色は、彼の太陽神に由来するものだったのですね?」

「…………!!」

 

 伸ばされた指先が、俺の髪の毛を一房分、そっと掬い上げる。

 甘やかな仕草に反して、俺を覗き込む青年の瞳は正解を求める子供の様に好奇心で煌いていた。

 

 ……やべーわ、これなんかやべーわ。

 何がやばいって、こんな小さな手がかりをきっかけに、ここまで俺の正体を推測してくる青年の直観力と考察力がやばい。これは不味い、なんと言うか非常に不味い……気がする。だらだらと冷や汗を流しつつ、できるだけ平静を装ったが、青年には俺の動揺が手に取るように分かっているのではなかろうか。

 

 とりあえず、下手に否定することもできないので、青年の問いかけに頭を上下に振って首肯してやれば、青年が浮かべる笑みをますます色濃いものとした。

 

「――では、太陽神の娘(タパティー)とお呼びしても、お構いありませんよね?」

 

 人は、何かを隠されるとどうしてもそれを暴かずにはいられない性質を持つ。

 実際、青年の黒々とした眼には、正解に一歩近づいた喜びにも似た感情が渦巻いていた。

 

 これ以上ごまかすことは無理だと諦めて、小さく頷けば、青年が破顔する。

 

「それでは私は、ターパティヤとでも名乗ることにしましょうか。これについては、あながち、偽名というわけではありませんから」

 

 ――その言葉を聞いて、決断した。

 パーンチャーラの都に着いたら、直ちに別れよう。

 魔力操作のやり方はもう教え込んだし、免許皆伝ということで青年も文句はないはずだ。

 

「それでは、タパティー。今日の修行も宜しくお願い致しますね?」

 

 謳う様に言葉を紡ぐ青年の雰囲気は、初めて取り組んだ難題を解決した幼子の様に朗らかだった。




<用語説明+考察>

婿選び式(スヴァヤンヴァラ)
 …簡単に言ってしまえば、お姫様たちが大勢の候補者の中から気に入った婿を自分で選び出す、ちょっと変則的なお見合いみたいなもの。婿候補として名乗りをあげるためには、様々な条件をクリアする必要があり、そのためにちょっとした試練が用意されたりするのはお約束。

(*なんでカルナがドゥリーヨダナと連れ立って、婿選びに参加したのかなぁ?と自分なりに考えて、思いついた理由の一つが弟たちの嫁さん探し。伴侶の血族との結びつきもかなり古代インドは強かった様なので、勢力を広げる手段としては打って付け。おまけにドゥリーヨダナの兄弟は九十九人。
 原典の方にドゥリーヨダナが姫君を戦車で攫い、カルナがその後を追走して追手をぶちのめした……みたいな描写があったので、カルナがドゥリーヨダナと一緒に度々婿選びに参加していたのは確か。だったら、カルナがドゥリーヨダナの代理として登場していたとしたら、次回にあるドラウパティー姫の婿選びにも納得がいくなぁ、と*)
(*なんせ、階級差のある男女の結婚が厳しく取り閉められていたし。であれば、御者の息子として卑しまれていたカルナがドラウパティー姫を娶ろうとしていたよりは、はるかに現実的だと思い、「もしカル」ではこの様な設定に。まあ、素人の勝手な想像でしかありませんが*)
(*まあ、アルジュナの嫁になろうとしていたドラウパティー側からしてみれば、政敵と結婚するのは御免被りたいんで、あの様な拒絶反応をしたのかもしれない*)

・タパティー/ターパティヤ
 彼女はクル王族と縁が深く、血族としての繋がりはないが、カウラヴァ/パーンダヴァ双方が彼女の系譜を受け継いでいる。アディティナンダ(ロティカ)がぎょっとしたのは、そのせい。(ネタバレになりかねないので、詳しくは各自で)

(*気になる、親しくなりたい相手のことを知りたいと思うのは、どの様な感情に基づいていたとしても、人が人に抱く気持ちとしては真っ当なもの。なまじ秘密主義を貫いたがために、逆に好奇心に火をつけてしまったアディティナンダの失策*)
(*次回、少しだけアルジュナ本人に語らせるけど、この段階では、彼からの感情にはまだ名前はない*)



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旅の終わり、別れの言葉

愛という言葉の定義や意味は複雑で難しすぎて、人それぞれで違うとは思うけど――たとえどれだけ歪んでしまったとしても、その根本が相手を思いやる気持ち・その幸せを望む気持ちであることは、間違いではないと思うのです。

――ちょっと、覚悟してね?(タグのシリアスは飾りではなかった)


 ――パーンチャーラ王国改め、今は南パーンチャーラの王都に着いた。

 

 到着早々、釈然としない表情の青年をせっつく。

 そうして、もともと彼が用意していた旅装束の中にあったお忍び用の服の中から選んだ一着――彼を象徴するような純白の衣装――に着替えさせた。

 

 裾や袖の装飾こそ地味だが、見る目のある者からすれば上等な物だと一目でわかる衣を纏っただけで、彼の雰囲気がガラリと変わる。生まれ持った気品や王族として身についた所作、優美なまでの立ち姿勢――青年を形作るそうした諸々の要素全てが、青年の存在を際立ったものとして引き立ててくれる。

 

 実際、彼が王都の門扉をくぐった途端、目端の利いた都人たちでさえ、ざわめきだす。

 ここ暫く、人混みの中に埋没する生活を送っていたせいで、目立つことから遠ざかっていた青年もそれに気づいたのだろう。何処と無く居心地悪そうに眉根を顰めた。

 

「――どうして、この服を着せるのですか? 今まではその様なことなどなかったというのに」

「そりゃあ、あれだ。目立つからだ、そっちの方が」

 

 キョトンとした表情の青年の背中に素早く隠れ、青年とは反対側を向いて俯く。

 パタパタと走り寄ってくる二人分の軽快な足跡。一目散に駆け寄ってくる音の響きの感じから、()()はこちらをまっすぐに目指してきている様だった。

 

「――――兄様!」

 

 背中合わせにしていた青年の背筋が、びくりと揺れた気配。

 反対側を向いた状態で足元をじっと凝視しているので、俺の視界には、大通りを移動する人々の足が動いている光景しか映らない。

 

 人々のざわめき声、道を進む動物たちの嗎、籠に入れられた鳥の唄。

 王都を構成する無数のそれらが雑多な音の重なりとなって俺の鼓膜を震わせる。

 

「ようやっと、見つけたよ! 皆、心配していたんだよ!」

「そうだよ! アルジュナ兄様に限って、って思ってはいたけど、それでも不安だったんだよ!」

 

 よく似た性質の、軽やかな二人分の声音に聞き耳をたてる。

 仲の良い小鳥が連れ立ってさえずる様に、息の切れ間もなく、台詞のズレもなく――お互いの無事と久方ぶりの再会を喜ぶ言葉を紡いでいる。

 

「何か事情があって、合流できないと思ってはいたから、できるだけ正体がバレない様に、でもなんとかして気づいてもらえる様に、あちこちで足跡を残してきたから……」

「それに、これだけ人の集まる祭典が開かれるみたいだったから、パーンチャーラ王国に行けば、きっと兄上も気づいて来てくれると思ったから……」

 

 ――うふふ、と。

 草原を走り抜ける風のように爽やかで、水面を撫でる風のように軽やかな声が唱和する。

 

「でもでも! 見つけられてよかった! 僕たち、ずっと心配していたんだ!」

「そうそう! この街に着いてから、毎日こうやって城門を見張っていたんだ!」

 

 ねー、と。揃って顔でも見合わせているのだろうか。

 肉親に会えたせいか、喜色満面といった感情が伝わる様な、そんな暖かな空気が伝わってくる。

 

「あれ? どうしたの、アルジュナ兄様?」

「あら? ご気分でもお悪いの? だとしたら、ごめんなさい、兄様」

「――いや、そうではない。二人とも、心配をかけて済まなかった。ところで、母上や兄上たちはお元気か?」

 

 返事のない兄王子を気にかけて、来訪者二人が心配そうな声を出す。

 それに対して、青年が差し当たりのない返事をすれば、ホッとした様な吐息が溢れた。

 

「うん! 元気も元気! 僕たち、バラモンの格好であちこちの村々を回っていたんだけどね」

「ビーマ兄様ったら、僕たちが集めてきた施食の半分を食べちゃうくらいに元気だね」

「それって、いつものことだよね?」

「それって、いつものことだよね!」

「――そうか。お前たちも、元気そうでよかった」

 

 スッ、と青年の方が微かな衣擦れの音と共に動く。

 大方、身を屈めて、弟二人に対して再会の挨拶として抱擁でもしているのだろう。

 

 ――であれば、そろそろ俺もこの場を立ち、去、る、と、しよ――

 

「――ん? んん!?」

 

 そそくさと身支度をして、その場を離れようと足を動かしたが、どうしてだか前に進めない。

 なんというか、がっしりとしたものに服の裾を掴まれている様な……、標本の蝶々にでもなって針で胴体を貫かれている様な、そんな、感じ……! う、うぅ〜〜ん!!

 

「ねぇ、知ってる? これから、パーンチャーラのお姫様の婿選びが行われるんだって!」

「これ、知ってる? そこには、あのドゥリーヨダナがカルナと一緒に参加するんだって!」

「あいつら、僕たちのことを謀殺しようとした癖に、本当に図太いよね〜」

「謀殺といえば、ドゥリーヨダナに殺されかかるのはいつもビーマ兄様だけだったから、今回の件はさすがに吃驚したよね〜」

 

 俺が困惑している一方、きゃっきゃ、と鈴を転がすような笑声を上げる二人。

 その天真爛漫な態度に、青年が苦笑したのか、背中越しの気配が和らいだ。

 

「――こら、お前たち。どこで誰が聞いているのかも分からないのだ。そうした話はこの様な大通りですべきではない。口を慎みなさい」

「はーい、兄様!」

「はーい、兄様!」

 

 きっと、弟たちの兄らしく、慈愛に満ちた微笑みでも浮かべているのだろう。

 

 尤も、反対側に背中を向けて立っている俺には全く見えないのだが……。

 ――それにしても、何が服に引っかかっている? 一向に、うんともすんとも言わない。

 

 こっちが必死に頑張っているのに、背後に佇む青年は、兄弟たちと穏やかな雰囲気で話を続けている。俺が往来の真ん中で、道ゆく人たちに奇異の目を向けられながらも、なんとかしてこの場を離れようとしているというのに、全くもって呑気なことである。

 

「それでね、兄様。僕たち、ちょっと、考えたんだよ?」

「そうそう、兄様。僕たち、婿選び式(スヴァヤンヴァラ)に参加しようよ!」

「――それは、ユディシュティラ兄上のお言葉か?」

 

 まあね〜、と二人の声が合わさっているせいで、合唱の様にも聴こえる。

 自分よりも年少の弟たちが子供じゃないんだぞ! と言わんばかりに胸を張って報告している光景が目に浮かびそうな、そんな誇らしげな声だ。

 

 青年の纏う雰囲気も、年少の彼らに合わせてか、ひどく優しげである。

 さぞかし、年少の弟たちにとっても、この青年は尊敬に値する素晴らしい兄であり、良き模範たる人物なのだろう――欠点を探す方が難しいな、ここまできたら。

 

「もうこの辺で、ドゥリーヨダナに自分たちが生きていることを知らせてやってもいいんじゃないかって!」

「もうこの辺で、放浪生活をやめて、王国の皆に自分たちの生存を伝えても、いい頃合いじゃないかって!」

 

 ――それにしても、俺の服に何が刺さっているんだ?

 首だけ振り向いても、髪の毛を隠すための薄衣や日よけのための上着が邪魔で、何が突き刺さっているのか、よく見えない。

 

「姫君を娶るためには、国王の定めた難題を突破しなければいけないって」

「なんでも、とっても難しい試練らしいって! ああ、でも――――」

 

 楽しげな、誇らしげな。例えるのなら、そう――邪気のない声、だった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 ――ぴくり、と青年の背中が固まった。

 

 本当に一瞬だけ、否、刹那にも満たぬ時間であったかもしれない。

 けれども、青年が弟の無邪気な言葉に、過敏とも言える反応を示したのは確かだった。

 

「……ああ、そうだな。ところで、二人とも」

「どうしたの、兄様? 何か、とても大事な用事?」

「僕たち急がないと、式が始まっちゃうよ? 何の用事?」

 

 もう破れてもいいや、と思いながら、服の裾を力を込めて引っ張る。

 というか、俺の魔力で編まれている服だから、滅多なことでは破けないし、ほつれたりするはずもないのに……どうしてにっちもさっちもいかないのだろう。こいつは参った。

 

 全く、なんで、こんなことになっているんだ?

 

 もういっそ、引っかかっている箇所だけでも消すか? ――あ、だめだ。

 試しに確認を兼ねて布を引っ張ってみれば、どうやら何かは肌着の類まで貫通しているらしく、無理に裂けば、人通りの多い往来で痴女再びになってしまう。

 

 無論、俺に露出癖はないので、そのような醜態だけは避けたい。

 諦めて肩を落とせば、淡々とした響きの青年の声が耳に届いた。

 

「この街に来るまでに、世話になった方がいる。そのお方に、礼を述べておきたい」

「お礼? あ、それってひょっとして……」

「感謝? あ、それってもしかして……」

 

 思惑ありげな声音が、揃って聞こえる。それに、青年が嗜める様に軽く吐息を零した。

 

「――お辞めなさい、二人とも。その方は、その様な相手ではない」

「ふぅん、ふぅーん? まぁ、アルジュナ兄様がそう仰るのであれば?」

「はぁい、はぁーい! なら、僕たちは空気を読んでおかなければ!」

 

 来た時と同じ様な、軽やかな足取りが青年の側から離れていく。

 ここまで来たら、青年が兄弟たちと話している間に、さりげなく場を離れることは無理である。

 

 もういいやと思って、背後を向いている俺の首筋あたりに視線を投げかける青年と視線を合わせるべく、足元に気をつけながら背後を振り返った。

 

「――何も言わずに立ち去る気だったのですね、タパティー」

「どっかの誰かさんが引き止めなければ、とっくに立ち去れていたのだけどもね」

 

 ちらり、と足元へと視線を這わす。

 銀と紫色、そして青白い稲光を放つ、細い矢が両足の間に当たる布に深々と突き刺さっており、それが俺の行動を制限していた原因であることは明らかであった。

 

「……酷い、方です。決して短くない日数の旅であったというのに、私に別れの言葉も告げずに行ってしまうつもりだったのですか?」

「まあ、もともとこの国で別れるつもりだったし。だったら、君が兄弟たちに気を取られた機会を逃すのは勿体無いと思って」

 

 そう告げれば、青年の漆黒の双眸が、左右に揺れる。

 なんだか、すごく傷ついた様な表情を浮かべた青年に、なけなしの良心が痛む。

 

 基本、カルナ以外はどうでも良かったのが俺だった。

 それが、最近になってようやっと他の人間(ドゥリーヨダナ)のことが気になりだした程度でしかない。

 そんな俺の未熟な心では、青年が俺へと向けてくれていた名前をつけがたい感情の数々にどう答えればいいのかわからず、途方に暮れるしかない。

 

 これまでの様に、どうでもいいや――と言って、切り捨てるには、この青年は()()()すぎた。

 

「……とはいえ、本当に偶然の積み重ねでしかなかったけど、君とこうやって旅までしたのは、楽しかったぞ。これきり会うこともないだろうが、まあ、なんだ――達者でな」

 

 足元に突き刺さっていた矢を引き抜き、掌でくるりと回して、放り投げる。

 

 元の紫色の凝った魔力が、小さな火花をあげて消失した。

 できるだけ青年のそれと視線を合わさない様に、誤魔化すための仕草を完遂させると、話は終わったとばかりに、その場から立ち去ろうとした――

 

「お待ちください――話はまだ、終わっていません」

 

 ――が、それよりも早くに回り込んで来た青年によって、その動作は止められてしまう。

 

「貴女は、本当に身勝手な方だ。私の話は碌に聞かないし、特に考えもせずに思いつきを試しては私を振り回すし、他人(わたし)の気持ちなど考えずに自分で判断しては、奔放に行動する」

 

 淡々とした口調で、俺の欠点をあげつらう青年の言葉は、わりかしぐさっと来た。

 思い当たることが節々にありすぎていたのと、時たまカルナからも苦言という形で知らされる内容だったためだ。

 

「――ああ、でも何故なのでしょう」

 

 自分自身に問いかける様な青年の言葉を不思議に思い、頭を持ち上げる。

 見上げた視線の先では、二つの黒曜石がきらきらと輝きを放っていた。

 

 透き通る様に柔らかく、儚い――そんな微笑みを彼は浮かべていた。

 

「――こんなにも身勝手で、こんなにも自儘で、こんなに口調も仕草も乱雑で。これまで私が教わって来た理想的な人間像とは――こんなにも、かけ離れているというのに」

 

 息を飲みたくなるほど、美しい瞳であった。

 慈愛と信頼と悲しみと喜び、そしてそれ以外にも、俺の知らない多種多様な感情が、その揺れる黒曜の瞳に宿っていた。

 

「――どうして、貴女の側ではあんなにも息をすることが楽だったのでしょう?」

 

 ……あんなに気が楽な時間を過ごせたのは、生まれて初めての経験でした。

 そんな悲しいことを、青年は微笑みさえ浮かべながら、俺の目をまっすぐに見つめて伝える。

 

 貴女は自分勝手で、傲慢で、やりたい放題な上に、計画性など欠片もなかった。

 道中、この私を特別に扱うこともなく、かと言って軽んじていたわけでもない。

 そこらにいる普通の人々と同じ様に扱いつつも――決して私の個我を貶めたりはしなかった。

 

 滔々と語る青年を前に、俺ときたら絶句するしかなかった。

 

 ――嗚呼、それはどういうことなのだろう。

 

 この青年は、母親に捨てられたカルナとは違う筈だ。

 父に愛され、母に愛され、兄弟に愛され、そして友や師を始めとする周囲の人々に愛しまれ、甘やかされ、慈しまれ、期待されて育てられて来た筈の人間なのに。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「私が兄弟と再会するまで、魔力操作を伝授し終えるまで、と言うのが別れの刻限でしたが」

 

 ――わからない、どうしてもわからない。

 

 親の愛とは、母の愛とは、父の愛とは。

 こんなにも素晴らしい気質の青年に、無意識のうちに、そこまで絶望的な物言いをさせてしまう様な代物でしかないのだろうか?

 

 兄弟からの愛とは、師や友人からの愛とは。

 そんなに素晴らしい性格の青年であってさえ、あの愛情と期待のあまりの重さに、息苦しさを感じてしまう様な代物なのだろうか?

 

「――生まれて初めて、我儘を言わせていただいても宜しいでしょうか」

 

 人の愛とは、家族からの愛とは、素晴らしいものではなかったのだろうか。

 俺が憧れ、俺が欲し、(神の愛)が降伏してしまう様な、そんな素晴らしい感情だと、人の愛とはその様なものだと――ずっとずっと思って来たのに。

 

「貴女の都合も考慮せず、貴女の思いも理解せず。――これが、天に属する貴女に対しての侮辱の言葉になりかねないことも、重々承知しております」

 

 一方通行に、片側から投げかける様に与えられる神の寵愛ではなく。

 相互に分け与え、想いを通わせ、ゆっくりと慈しみ合う様な、そんな人の愛をあの子に与えたかったからこそ、人の様でありたかったのに。

 

「師でも、友でも、伴侶でも、兄弟でも――どの様な形であってもいい」

 

 ――――嗚呼、なのに。

 その愛に包まれて育って来た筈の青年が、どうして、数週間にも満たない様な短い期間を一緒に過ごしただけの人間もどきの側が過ごしやすかった――などと言ってしまうのか。

 

「――――どうか、これから先も私の側に居てはくださいませんか?」

 

 言葉を紡ぐことのできない俺の前へと、青年の掌が――そっと差し出される。

 

 きっと、端から見ればそれはそれは美しい光景であったことだろう。

 俺とは違い、正真正銘、若い年頃の娘であれば、若く器量の良い異性に囁かれただけで、顔を羞恥で赤く染めつつも、口元を綻ばせながら、その差し出された手を取ったことだろう。

 

「…………」

 

 あるいは、常日頃は凛々しく栄光に包まれた青年が自分だけに見せる、弱弱しい姿にときめきを覚えるとともに、母性愛を刺激され、なんとかしてその慰めになろうと、ほっそりとした指先を重ねたりもしたのかもしれない。

 

「――勿論。貴女には大事にしている人がいることなど、承知の上です。その方から離れて、私の側にと望むのですから、私もそれ相応の対価をお支払いするつもりですとも」

 

 何も答えない俺に対してどう思ったのか、幼子を言い含める様に青年が優しい言葉を紡ぐ。

 

 ――優しい、甘やかな響きを宿した声だった。

 それでいて、高位の人間特有の傲慢さと鷹揚さが過分に含まれている、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「最優の弟子をお望みであれば、その様に振舞いましょう。最良の友人をお望みであれば、その様に振舞いましょう。最愛の良人(おっと)をお望みであれば、その様に振舞いましょう。最高の義弟をお望みであれば、その様に振舞いましょう」

 

 謳う様に、奏でる様に。

 囁く様に、蕩かす様に――黄金比の美貌に微笑みを浮かべて、青年は熱っぽく呟く。

 

「どの様な関係でも、貴女が望むのであれば、このアルジュナ、完璧に立ち回って見せますとも」

 

 黒曜石の瞳が眇められ、褐色の指先がそっと俺の頰を撫ぜる。

 血の気の引いた頰に寄せられた指先はそのまま顎先を伝って、首の中央でその動きを止める。

 

「私には教養があり、音曲の嗜みがあり、身分があり、財産があります。戦士としても、他者に遅れを取ることはありません。弟子であれ、友人であれ、伴侶であれ、兄弟であれ――貴女の誉れとなる存在、貴女の期待に応え続ける存在であり続けることを、保証いたしましょう」

 

 黒々とした、深淵に繋がっている様に暗い瞳が俺を見据えている。

 そこに宿るのは――嫉妬なのか、切望なのか、羨望なのか、憎悪なのか。

 

 よくわからない――よくわからない。

 だが、それでも、こんな紛い物の人間に過ぎない俺にも、()()()()()()()()()

 

「――なぁ、()()()()()()()。お前は少しばかり、勘違いをしている」

「勘違い、ですと? 言って御覧なさい、()()()()()。貴女は、このアルジュナが何を勘違いしていると言うのです?」

 

 支配者階層特有の傲岸ささえ感じられる眼差しで、青年が先を促す。

 首を絞める気なのかどうかは知らないが、青年のほっそりとした指先は変わらず、俺の首に触れたままだった。

 

 それがひどく気になったが――これだけは、この青年に告げなければならないと思った。

 

「俺の大事な子は、あの子は確かに、不器用で、無口で、人の言うことを聞かずに自分で決めた道を突き進んだ挙句に、悪い友達は作っちゃう奴だ。言葉足らずな上に人を怒らせることに関しては天才的な癖で、肝心のことを上手く伝えられずに誤解させることになって、後でこっそり落ち込むことなんて、しょっちゅうある」

 

 脳裏に、この褐色の王子様とは全く正反対の、俺の弟の姿がスルスルと浮かび上がっていく。

 

 父より賜った黄金の鎧に、胸元で輝く朱色の宝玉。

 ざんばらの白髪に、幽鬼の様に真っ白な肌に、鋭すぎる目つき。

 基本的に無表情なせいで、微笑み一つ滅多に浮かべることのない、そんな弟の姿を。

 

「寛容が過ぎて、自分の身を削る羽目に陥っても、それで良しとか言って勝手に納得するし、どんなに辞めなさいと聞いても聞かないし、人の心配なんて気にも留めない。どれだけ俺が歌や踊りを教え込んでも何一つ習得しなかったのに、俺が教えられない武芸や武術の類はどんどん吸収する薄情な奴だし、お世辞にも物言いは優しくない」

 

 無愛想で無口で、内心で思っていることをうまく伝えられた試しのない、そんな弟。

 どれだけ周囲に敬遠され、恐れられ、罵倒されても、文句一つ口にしない、馬鹿な子。

 

 その癖、日常のちょっとした些細なこと、人と人との小さな絆を後生大事にして、それだけで満足してしまう、幸せだと微笑むことのできる――愚かなまでに優しい子。

 

「決して褒められる子ではないけれど、君と比べたら欠点ばかりだけど――でも、それでも」

 

 ――俺の、そしてワタシが見守ってきた、誰よりも大切な日輪の落とし子。

 

 今、お前は一体どうしているのだろう。

 こうして遠くに離れていても、その日々が健やかであれ、穏やかであれ、そして何よりも幸福であれ――と願わない日は一日たりとてなかった。

 

「そうした短所も長所も何もかも全部全部ひっくるめて――それでも、あの子が愛おしい」

 

 首に触れている指の先にある、青年の手首を力を込めて握りしめる。

 それまで見上げるだけだった両眼に力を込め、視線だけで相手を貫かんとする気迫を込める。

 

「あの子が優れた戦士であるから、あの子のことを愛するのではない。あの子が器量に優れているから、あの子のことを慈しむのではない。あの子が財を持つからでも、立場があるからでも、才に優れているからでもない。……きっかけは、そうだ。確かに俺の弟という特別な立場であるからこそ、気に掛けた」

 

 ――嗚呼、だけれども。

 それは単なるきっかけであって、俺があの子の幸福を願う様になった理由ではないのだ。

 

「――最初は義務だった。嗚呼、そうだとも。だけど、あの子の性格、あの子の精神、あの子の生き様を知り、そうして一緒に時を積み重ねたからこそ、今の俺があり――あの子を大切(特別)に思うこの想い(ココロ)がある」

 

 胸元に、俗に心の臓があると伝えられているところで、ぎゅっと片方の手を握りしめる。

 

 ――そうだ、その通りだ。

 単なるスーリヤの命令を遂行するだけの人形だった俺に、心を、感情を与えてくれたのは、あの子だったのだ。

 

「俺が人の愛を語るには力不足だけれど――でも、これだけは言える」

 

 特別ではあったけど、大切ではなかった。

 地上に堕とされた時のカルナに対する心境が、よくもまあここまで変貌したものだ。

 

 これを進化と呼ぶのか、退化と呼ぶのか――そんなことはどうでもいい。大事なのは、俺が変化したということだ。

 

「他者に誇れる様な弟だから、他者に自慢のできる弟だから、俺の期待に応えてくれる弟だから、とか――そんなことはあの子を愛する理由じゃない」

 

 漆黒の双眸を見据えて、きっぱりと言い切る。

 人間もどきでしかないアディティナンダが、数年かけてようやく見つけ出したこれは、真性の神々からしてみれば、ひょっとしたら間違いなのかもしれない。

 

 だけど、名前も存在も偽りでしかない俺が持っている、()()()()()()()()()()()()()()

 

「例え、不器用でも、音曲の嗜みがなくても、物言いが優しくなくても、それでいいんだ。俺の前で見栄を張っていても、恥ずかしいからって理由で尊称で呼んでくれなくてもいい。いいところ、悪いところ、全部まとめて、有りの儘のあの子のことが、俺は大好きなんだから」

 

 一歩下がって、青年から距離をとった。

 そうやって、首元を添わされた青年の手首をずらして、握りしめていた手を振り解く。

 

 いつのまにか地面を見つめて、前髪で目元を隠している青年の表情は定かではない。

 ただ、まるで泣いているかの様な、震える声が耳朶を打つ。

 

「――貴女は、酷いだけではなく、とても残酷なお方だ」

「……うん、知ってる」

「人を愛するのに、他者を大切に思うのに、特別な理由などいらないと――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……少なくとも、俺の愛はそうだよ。俺のへの愛は、こういう形だよ」

 

 ――もう一歩、後ろに下がる。

 道ゆく人々も、俺たちの穏やかならぬ気配を察したのか、往来の真ん中であるというのに、周囲に人の流れはない。

 

「愛されるために自分を律する必要も、皆の期待に応え続ける必要すらも、貴女には必要がないと――そう仰るのですか」

「……少なくとも、俺の愛はそうだよ。だから――俺には、理想の弟(アルジュナ王子)は必要ないんだ」

 

 ――貴女が、と小さな声で青年が呟く。

 青年の肩が一度だけ大きく震えて、ゆっくりと伏せられていた頭が持ち上げられる。

 

「――貴女が、掟によって殺生が禁じられている女性であってよかった。……そうでなければ、私は貴女を縊り殺していたことでしょう」

 

 今にも、切れ長の眦からは涙が零れ落ちてしまいだけども、青年は微笑んでいた。

 堪えきれない激情を抑えるために微笑もうとして失敗した様な、そんな歪んだ笑みを浮かべつつ、青年は独り言の様に呟いた。




道中ずっと続いていた温度差の結末がコレ――としか。

少なくとも、カルナさんが生きている間は真っ当な恋愛は男女問わずに無理だな。
可能性があるとしたら、カルナさんが死んで、一人きりになってからだな――この人でなしがそーいう感情を理解するのは。

アディティナンダは愛の綺麗なところしか知らないから、こんな残酷なことを平気で言える。

アルジュナさんの好意の示し方についですが、理想の体現者であることを求められてきたからこそ、それに応えることでしか愛を示す方法はないと思い込んでいたのではないのかなぁ、と想像しつつ、あんなセリフを書きました。

(*感想で恋愛フラグを求められていたので、小ネタという形で最終決戦後のドロドロぐちゃぐちゃルートを想像してはみたのですが、皆さん、ちょっと気になったりしますか? 需要があったら、書くと思います*)


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不可視の矢

前話へのご感想の数々、ありがとうございました。
こんなに一度に感想をもらえたのは初めて、画面の向こうで欣喜雀躍してました。

しっかし、驚きました。
自分的には前回のアルジュナとの会話に特に恋愛要素を入れたつもりはなかったのです。(だからこそ、台詞もあんな内容になりました。どんな関係性でも構いません、みたいな内容に)なので、そこへの反響にびっくり。
あと、意外と泥ぐちゃルート希望が多くて、またまたびっくり。

――さて、皆様お待ちかねの、ドゥリーヨダナとカルナのターン!!




 青年の言葉を最後に、俺たちの長い様で短かった旅は幕を下ろした。

 真っ直ぐの道をそれぞれ正反対の方向へと進んだ青年も俺も、決して背後を振り返らなかった。

 

 なんとも後ろ味の悪い、胸にしっくりこない――嫌な幕引きであったと独り言ちる。

 

 カルナと一緒に暮らし出すよりも前に、どこかで暮らしているだろうあの子の所在を求める最中、旅をしていたことはあったし、それ以外にも楽師という職業柄、カルナを養父母に預けて出稼ぎと情報収拾も兼ねて遠方へと赴くことだって度々あったのだ。

 

 一人で街道を歩いたり、あるいは、他の人々の旅にご一緒させてもらったり。

 そういう訳なので、誰かと出会い、そして別れること自体は慣れっこだったのだ。

 

 そう――慣れっこだった、筈なのだ。

 それなのに、今回の旅ほど後味の悪い別れ方をしたのが初めてだったせいか、どうしても胸がむしゃくしゃしてしまう。

 

「――〜〜よしっ!!」

 

 パン! と音を立てて、自分の頰を張る。

 いつまでもウジウジしてはいられない。いい加減、気分を切り替えよう! どれほど悩んだところで、あの王子様とは、もうこの姿で会うことはないだろう! である以上、彼が“アディティナンダ=ロティカ/タパティー”の図式に気づくことも、今後接触することもなかろうて!

 

 ちっとも根本的な解決にはなってないだろうけど、もうこれでいいや!

 これにて一件落着!! ――はい、これで終わり! もう考えない!! 

 

「――――さて」

 

 気分転換ついでに、思考も一緒に切り替える。

 というか、あの王子様のことで悩むよりも、俺にはやらなければないけないことがある。

 

 ――そう、ドゥリーヨダナのことだ。

 

 なんやかんやで道中に色々ありすぎて、脳裏の片隅に追いやっていたが、ドゥリーヨダナが家来に命じて、俺のことを殺そうとしていたのは厳然たる事実である。

 

 どうしてこんなことになったのか? どうしてこんなことをしたのか? 

 ドゥリーヨダナに再会したら、その辺をみっちり問い質す必要がある。そして、返答の内容次第では、それなりの報復をドゥリーヨダナには受けてもらわなくてはならない。

 

 ――報復と奇跡は、神々の領域であり、神のみぞなせる業である。

 神が舐められたままではいけないのだ。俺が曲がりなりにも神霊の端くれである限りは、その辺はきっちりと〆ておかねばいかんだろう――その結果、ドゥリーヨダナがどうなるかわからんが。

 

 ……。

 …………。

 ………………でも、なぁ。

 

 気に食わないけど――ドゥリーヨダナってば、カルナの友達なんだよね……?

 だったら――カルナは、俺がドゥリーヨダナを傷つけようとしたら、嫌がる……かなぁ?

 それに、もし――俺がドゥリーヨダナのこと勢い余って殺しちゃったり、廃人にしてしまったら……きっと悲しむんじゃないかなぁ……? うぅ〜ん、悩ましいなぁ……どうしようか?

 

 ――いや、待てよ?

 俺のことをよくわからない理由で殺そうとしたドゥリーヨダナが一番悪いじゃん! なのに、なんでこんなに悩まされなくてはいけないんだ? こんなにも俺を悩ませるだなんて――人間の癖に生意気である。

 

 悶々と考え込みながらも歩み続ければ、王宮近辺に設置された婿選び式(スヴァヤンヴァラ)の会場へと到着した。

 

 周辺諸国に美姫として名を轟かせる姫君の婿選びということで、会場のあちこちに設置された黄金と宝玉づくりの特別席には諸王や戦士たちの姿があり、布施を求めてやってきたバラモンたちが聖典を唱える声や、ひっきりなしにやってくる観客たちの興奮した声が場を彩る。

 

 鮮やかな極彩色の花弁に彩られた壇上へと目を凝らせば、ちらほらと見知った顔――マガダの国王やその虜となっていた王たち――を見つけて、その盛況ぶりに内心で驚嘆する。

 

 ……それにしても、パーンチャーラの姫か。

 正直、俺が旅していた時にパーンチャーラ国王ドルパタに王妃との間に子があったという話を一切聞かなかったのだが、これはどういうことなのだろう?

 

 婿選びが開催されたということは、その姫君もお年頃ということを示しているのだが……。

 人一人が成長するのにはそこそこ時間がかかるというのに、生まれてから今日に至るまでに、あまり噂にならなかったのはおかしな話だ。特に、パーンチャーラ王国については、ドローナとの因縁のこともあって、噂話の類にまで気を配っていたと言うのに。

 

 ましてや、渦中の王女は誰もが口をそろえる程の美姫だぞ?

 そんな姫君の話が噂という形で流れ出したのがここ最近だなんて……なーんか、きな臭いなぁ。

 

 ――こりゃあ、聖仙が一枚噛んでいそうだ。

 

 実際、聖仙が関係すると、とんでもない経緯で生まれてくる子が多いからなぁ……。

 自称・真人間のドゥリーヨダナとその兄弟達でさえ、生まれた時の逸話はとんでもないし、この間のマガダの国王もそうだった。

 

 とか、つらつら考えていれば、会場の前方が騒がしい。

 つられてそちらを見やれば――舞台へと熱心に視線を向けていた観客達の中から声が上がる。

 

「おお! 見ろ! 姫さまが出てこられるぞ!!」

「とうとうお姫様のお出ましかぁ! 待ちくたびれたぜ!」

 

 おお、とうとう出てきたのか。件の姫様が――とか、考えつつ、人混みの中をくぐり抜ける。

 会場の奥まったところ、何重にも薄衣が張られた天幕の前面に設置された聖なる火が煌々と燃え盛る中、一層バラモンたちが高らかに聖句を唱え出した。

 

 会場を賑やかしていた楽師たちの歌声が途切れ、踊り子たちが舞台の裾に引っ込んでいく。

 会場の警備を行う兵士たちが一斉に手にした槍を高らかに掲げ、彼らの鎧と武具がかち合うことで、澄んだ音色を辺りへと響かせた。

 

 王宮に使える侍女たちが天幕の奥から一人一人と出てきては、恭しく首を下げる。

 いつの間にやら、舞台の中央には立派な甲冑を纏った青年が佇んでいる。この場所からだと遠目すぎて、細かい養殖の特徴はよくわからないが、彼がパーンチャーラの王子なのだろう。

 

「――まぁ! 何と、お美しいお方なのでしょう!」

「女神さまだ! ラクシュミー女神の生まれ変わりに違いない!!」

 

 幾重にも張られた薄衣の向こうに、光り輝く金銀の飾りを帯びた優美な影が見える。

 侍女達の手で恭しく持ち上げられた薄衣の合間を練る様に、艶やかな衣装に身を包んだ背の高い女性が、しゃなりしゃなりと淑やかに歩を進めれば、あちこちから感嘆の声が上がる。

 

「こんなにも綺麗なお方を見たことがない!」

「俄然、楽しみになってきたなぁ! どなたがこんなに美しい方を娶られるのやら!!」

 

 神々に捧げる供物を乗せた黄金の盆を天高く掲げている彼女が舞台にその姿を現せば、彼女を中心として、咲き始めの青蓮の瑞々しい香りが会場に広がっていく。高貴な王女の登場に、天幕の近い位置に陣取っていた観衆たちが歓喜の叫びを上げ、ざわめきが後方の俺のところにまで届く。

 

 ――この位置からは王女の輪郭しか分からない。

 だが、それでも王女が女性としては最上級の褒め言葉しか見当たらないほどに素晴らしい体つきをしていること、黄金や宝玉に全身を彩られた美しい服装をしてるのは確かなようだった。これは正直なところ、勘でしかないが、絶世や傾国の二つ名が相応しい美女であることは間違いないな!

 

 周囲の観客たちがこの位置から王女の容貌を視認できているかどうかは不明だが、王女と思しき人物の発する優美な気配に感嘆の溜息を吐いている中、俺はといえばその美しさに当然となることもなく胸中でひとりごちる。

 

 ――でも、あーいう天女みたいな女性って、怖いんだよなぁ……。

 

 かつて、俺に女体化の呪いをかけた天女の姿を脳裏に思い起こし、両腕をさする。

 いやはや、記憶の底に封印したはずのおっそろしい出来事を思い出してしまった――大輪の花のように美しかった女の顔が歪み、悪鬼羅刹にも紛うような忿怒の表情を浮かべ、おどろおどろしい声で呪いをかけて、き、た――いや、忘れよう――落ち着け、落ち着け、俺。

 

 そんな俺の心中を置き去りに、舞台の上では新たな人物が登場していた。

 粛々と佇む王女の隣へと寄り添い、その身をパンチャーラ国王の座す玉座の隣の椅子へと導くと、固唾をのんで見守る観衆達の方へとくるりと振り向く。

 

「――婿選び式(スヴァヤンヴァラ)にお集まりの王侯貴族の方々、よくお聞きなさい! ここに我が父・ドルパタが用意した弓と矢がある。――そして、よくご覧なさい。ここにその的がある!」

 

 若木のようなしなやかな声が静まり返った会場中に響き渡る。

 王子の瑞々しい声に導かれ、群衆たちは王子が指差した先にある、天に浮かぶ黄金の的を目撃して先程とは別の意味で息を飲んだ。

 

 ――あれ、絶対にどこかの神からもたらされたものだな……。

 標的として示されたのは、鈍い青色に輝く球体であった。けれども、良く見ると、その球体は無数の真円を描いた輪が重なり合い、離れあいながら、構成されているものであると判明する。

 

 ――そして、その輪と輪の隙間から、光り輝く黄金の球体の姿を確認できる。

 

 つまり、真の標的は矢が数本通るかどうかも危ういような連環の隙間から覗く、黄金の球体の方なのだろう。交差する輪が作り出すほんのわずかな隙間から黄金の球体を射抜くだけでも難しいだろうに、その上、その標的はどうやって固定したのか、宙に浮かんでいると来た。

 

「家柄と容色と力を備え、この行い難い行為を行なった人……ここにいる私の妹の黒い肌の女(クリシュナー)は、今日その人の妻になるだろう――!」

 

 ワァッ、と群衆たちが歓声をあげ、諸王たちが熱り立つ。

 それにしても、王子が手にしている弓もなかなかの逸物ではないか。的の難易度ゆえに見落としがちになってしまいそうだが、弓もまたなかなか長大で、糸を張るだけでもかなりの力を必要とするのは疑いようがない。

 

 宣言を終えた王子が傍の王女へと何事をかを告げ、王女が優雅な仕草で観衆に対してお辞儀をする。王女の一挙手一投足に合わせて、咲き始めの青蓮の香りがふわりと会場を漂った。

 

 それにしても、黒い肌、蓮の香り、黒い肌の女(クリシュナー)か……。

 なんだろう、この嫌な予感。例えるのであれば、奈落へと続く第一歩を意図せずして踏み出してしまったかのような、そんな不穏な感覚に小首をかしげる。

 

 パーンチャーラの王子王女が壇上へと設えられた玉座に国王と並んで座れば、控えていた従者たちが集まった諸王に対して呼びかけを始める。最上の女を手に入れることのできるという名誉と困難な試練に打ち勝ったという誉れを求めて、婿選び式(スヴァヤンヴァラ)に参加した王たちが我も我もとばかりに名乗りを上げていった。

 

 

 

 ――そして、数時間後。

 会場内は死屍累々といった塩梅であった。絶世の美姫を求めてやって来たはずの王たちは、与えられた試練の難易度の高さに一人、また一人と破れ、悲嘆に暮れていた。

 

「これは……今回の婿選び式(スヴァヤンヴァラ)は中止だろうな」

「姫さまには悪いが、こうも力自慢の戦士たちが相次いで失敗するとだなぁ……」

 

 ヒソヒソと囁く民衆の声、戸惑いの声をあげる従者たちの不穏な気配。

 そして、それに動じることもなく、会場へと視線を投げかけている国王一家。

 

 ――というか、まず弓に弦を張るといった作業自体に、王たちは躓いていた。

 あまりにも巨大な弓はその分、元に戻ろうとする力が非常に強い。なんの材木を使用しているのかは不明だが、かなり頑丈そうな材質であるらしく、まず非常にしなりが悪かった。

 

 おまけに強弓の反動によって、王たちは耳管や腕輪といった装飾品を粉々に砕かれ、二重の意味で顔を真っ赤に染める始末である。正直な話、集った王たちが与えられた課題の困難さに意気消沈して、名乗りをあげるのを躊躇う羽目に陥ったのも、仕方のないこと――と思わざるを得ない。

 

「でも、なんというか、婿探しの割には国王一家が落ち着きすぎているというか……」

 

 穿ち過ぎかもしれないが、なんというか国王一家があまりにも平然としているのが気になる。

 そもそも、挑戦して敗れ去った王たちはもともと眼中にないというか、本命は別にいるというか……何にせよ、変だなと思う。

 

「――おお!? 見ろ、次の挑戦者が出て来たぞ!」

「なんと! そして、どこのどいつだ? その挑戦者は!?」

 

 ――太陽が東の空から昇ってくる時に放たれる黄金の光が、日没とともに翳りつつあった会場の雰囲気を一掃するように照らし出した。

 

「――……嗚呼」

 

 夜明けを告げる破魔の輝きにして、天上の神々の威光を体現する灼熱の光輝。

 誰もが心奪われる輝きを目にして、我知らず、口から言葉にならない声が零れ落ちる。

 

 懐かしさと慕わしさで眦が熱いのは何故だろうか。

 何かがこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえて、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 

「カルナ将軍だ! カウラヴァの王子ドゥリーヨダナの家臣!」

「おお、彼の方が次の挑戦者か! こりゃあ、どうなるかわからんぞ!!」

 

 民衆の間をくぐり抜け、人間よりも速く、足早に歩を進める。

 できるだけ近くで、できるだけ間近で、あの子の姿をこの目に焼き付けたい。

 

 なんとか顔の見える位置までたどり着いて、ようやく息をつく。

 ……よかった。俺が離れている間もきちんと食事をとり、休息を適度にとっているようだ。

 少しばかり表情が固いのが気になるが、緊張のためだろう。その他に目に見えて異常らしきものは確認できないため、兄として一安心である。

 

 目立つ髪の毛を隠すために付けている頭巾をぎゅっと握りしめる。

 元気そうでよかった。ドゥリーヨダナがきちんと面倒を見てくれていたようなので、健康面での問題はなさそうだった。……嗚呼、本当によかった。

 

 俺や観衆が見守る中、カルナは従者から挑戦者たちを打倒していった強弓を無造作に受け取る。

 そうして、ざっと弓の上から下に至るまで鋭い視線を投げかけると、一つ頷いた。

 

「……弓の弦を」

「――はっ、こちらでございます!!」

 

 ぐい、と差し出された黄金の籠手に覆われた手のひらに、従者が強弓専用の弦を差し出す。

 うわぁ、近くで見たからわかったけど、あの弦自体もただの植物の糸などではなさそうだ……あれ、かなり高位の聖仙の呪いがかかっている。

 

 ――悲鳴のような、驚嘆の叫びが会場のあちこちから上がった。

 

 それも然もありなん。

 ぐい、と鎧を纏った腕が隆起すれば、それまでどのような剛力自慢にも容易く靡かなかった強弓が、自ら首を垂れる稲穂のようにしなったかと思うと、カルナの額に汗ひとつ伝う間も無く弦が張られたのだ。

 

 それまで平然とした様子で情景を眺めていたパーンチャーラ国王がガタリと音を立てて玉座から起き上がり、王子もまた信じられないと言わんばかりに口と目をあんぐりと見開いている。

 

「……用意されている矢を」

「はっ!? ははっ!!」

 

 自分の役目も忘れて目を見張っている従者へとカルナが冷淡に促せば、慌てて用意されていた五本の矢がその手のひらへと載せられる。

 

 やすやすと強弓に弦を張り終えたカルナは、黙々と次の作業に移る。

 ――すなわち、頭上でくるくると回り続ける円環に守られている黄金の球体を射抜くために、矢を番えたのだ。

 

 会場中が静寂に包まれる。

 誰もがカルナという勇士の前代未聞の行いの次の挙動に着目し、その矢が放たれる瞬間を今や今やと待ち望んでいる。……ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音が嘘のように会場に響く。

 

 ――会場の誰もが、カルナが見事に黄金の的から狙いを外すことなど微塵も疑っていない。

 全員が全員、次の瞬間に起こされる、この黄金の武人の妙技を期待して、息を止めた。

 

 ――――と、そこへ。

 

「――嫌です! (わたくし)は御者の妻になどなりたくありません!!」

 

 その緊張した空気を袈裟斬りにした挙句、粉々に粉砕する、甲高い悲鳴が会場内に木霊した。

 

「――なっ!?」

「姫さま!?」

 

 ――まさしく、それは絶叫であった。

 最高の職人の手で作られた楽器の音色を思わせるような、麗しいとしか例えようのない女の声で、全身からの嫌悪を誤魔化すこともせずに、拒絶の叫びを上げていた。

 

 会場中の視線が、声の主の元へと向かう。

 皆の視線が集まった先には、美しいとしか評しようのない女が震えて、立っていた。

 

 渦を巻きながら落ちる長く艶やかな黒髪に、黒檀のように滑らかな黒い肌。

 蓮の花びらを思わせるような形の両目、すらりと伸びた鼻筋。

 口付けたら甘そうなふっくらとした唇に、むっちりとした蠱惑的な肢体。

 全身を飾る装飾品にも負けぬ輝きを、女自身が放っているような、そんな最上級の美しさを持つ女性が、そこにいた。

 

 ――嗚呼、けれども。

 黄金づくりの玉座より立ち上がり、シミひとつない額にはじっとりとした汗を掻いている。

 長い服の裾から覗く手足は小刻みに震え、何よりも目を惹く花のような顔には、こらえきれない嫌悪感で満ちている。

 

 確かに、負の感情を浮かべてさえ、美しいと感じさせる女だった。

 けれども、そんな顔さえしなければ、文句なしに美しいと認めることのできる女でもあった。

 

「…………」

 

 ……こいつもか、というのが俺の正直な感想だった。

 高貴な生まれの王女からしてみれば、溜まったものではなかったのだろう。

 卑しい御者の育ちの男などが、武勇の腕を買われて敵国の王子に引き立てられただけの理由で、自分の肌に触れる権利を有するなどということは、悪夢でしかなかったに違いない。

 

 ――だからこその拒絶、だからこその嫌悪だったのだろう。

 

 ……あー、それにしても。()()()()()()()()()()、とも思う。

 周りを見渡せば、白けた表情の者たちの顔が目に飛び込んでくる。

 そのうちの何人かは見知った顔、かつてマガダ王の牢獄に捕らえられカルナに救い出された王族たちで、驚いたことにカルナに一蹴されたマガダの国王でさえも、同様の表情を浮かべていた。

 

「――何かを勘違いしているようだが……オレは我が主君であるドゥリーヨダナの代理であって、オレ個人としてパーンチャーラの姫に興味は一切ない」

 

 困惑したようなカルナの言葉に、群衆の一部が同意したように頷く。

 ……ついでに、あまりにも魅力的な容姿の姫君に対して冷徹に対応したカルナの態度に信じられない様子で目を剥く人々もいたのだが、それも姫の美しさを知れば仕方のないことだ。

 

 確かに、カルナが主君であるドゥリーヨダナに従って、彼の弟たちのために婿選び式を荒らしまわっていたことは各地で噂になっていた程度には有名な話であった。

 

「嫌です! 嫌なものは嫌です! 何故、其方の様な下賤の者が(わたくし)婿選び式(スヴァヤンヴァラ)に出席などしているの! 誰です、このような男をこの場に招いたのは!?」

 

 それを聞いて尚、瑞々しい花飾りや黄金の冠に飾られた豪奢な黒髪が乱れんばかりの勢いで首を左右に振る姫君に、周囲が落ち着くように促す。――それもそうだろう、()()()()()()()()()()

 

「――おやおや、これは異な事を仰る姫君だ。このカルナは歴とした戦士階級(クシャトリヤ)であり、アンガ王だ。そして、先の戦において、長らく我が国を脅かしていた敵国を打ち負かした、一騎当千の勇者でもある。それを愚弄するような真似は一国の姫として教育がなっていないと受け取らざるを得ないが、お父上であらせられるドルパタ様はいかがお思いか?」

 

 燃えるような夕日を逆光に、一人の男が姿を表す。

 こ、この流水の如く耳に心地よい響きでありながら、さりげなく猛毒を潜ませた喋り声は――!

 

「こ、これは、ドゥリーヨダナ王子! その、娘が大変失礼な真似を致しました、申し訳ない!」

「――いやいや、周辺諸国にその名を鳴り響かせる姫君のことだ。下手すれば我が国の面子を汚すような真似をするような、そんな愚かしい真似をするような馬鹿ではあるまい。従ってだな、わたしの空耳であると思うのだが――その辺りについて、どう思う、ドリシュタデュムラ王子?」

「え、その……、それは……」

 

 え、えげつねー! 自分の正当性を押し出しつつ、それでいて相手を下げることも忘れることなく、相手自身に非を認めさせようとするその戦法、相変わらずであるとしか言いようがない。

 

 ――しかも、当事者である姫君本人ではなく、将来国を背負う責務を担う王子相手に尋ねているところが厭らしいことこの上ない。政治に携われない姫君ならば感情のままに答えられても、政治を知る王子からしてみれば、大国であるクル相手に、下手に言い返せないのが分かっていてやっているだけに悪辣である。

 

 それにしても、逆光のせいでどんな様子なのか、どんな顔をしているのかが明らかではないが、目立つことも大好きなあの男がこうも遠慮するように舞台端から嫌味を言っている事実に、少しばかり首をかしげる。

 

「――とはいえ、こうも我が友のことを侮蔑するような言葉を抜かした姫君など、こちらからも願い下げだ。カルナをクシャトリヤに定めたのはわたしであり、アンガの王としたのも、このドゥリーヨダナである。姫君の本意ではなかったようだが、カルナを愚弄するような言葉を口にした時点で、わたしを――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 おかしい、先ほど詭弁で王子を言いくるめて、なかったことにしたのではなかったのか。

 さらりと木の葉が舞うような軽やかさで前言撤回したドゥリーヨダナに、パーンチャーラの王子が衝撃を受けた顔を浮かべた――のを視界の端に捉えながら、内心で突っ込む。

 

「言い過ぎだ、ドゥリーヨダナ。この姫は、この姫なりの信条に基づいてあのような発言をしたのだろう。その責任を果たせぬような者を、これ以上追い詰めるのもどうかと愚考するが」

「――馬鹿者、それではわたしの気が済まんではないか! 第一、わたしの言葉を忘れたか? お前どころか、お前を取り立てた、わたしのことまで貶すような言葉を吐いたのだぞ? よく覚えておけ! お前の敵はお前だけではなく、わたしの敵も同様なのだ!!」

 

 ――ふ、とカルナが苦笑した雰囲気が伝わった。

 

「相変わらず、道理に叶っているようで、叶わないことをいう男だ。――だが、その友として憤ってくれるお前の信頼に、オレもこの弓で以って答えるとしよう」

 

 カルナの碧眼が刃の鋭さを宿し、その痩身が炎のように苛烈な気迫によって包まれる。

 触れれば切れてしまいそうな、そんな鋭気に観衆が息を飲み、誰もが目を惹きつけられる。

 

 ――――ビイイィィィィン!!

 

 鳴弦の響きが会場内を木霊する。実際には矢は番えられていなかった。

 けれども、強く固い弓の弦から放たれた不可視の矢が、そのまま風を切って、空に浮かぶ標的を突き刺す――そんな光景を、場内の皆が幻視したのであった。




<登場人物紹介>

・パーンチャーラ国王
…名前はドルパダ。ドローナの幼馴染だったが、即位後、彼を頼ってきたドローナをこっぴどく侮辱したことで、後に報復され、王国の半分をドローナに奪われた王様。
 その後、ドローナへの復讐を願って、聖仙に『ドローナを討ち亡ぼすような子供』を求め、下記の二名が炎の中から誕生した。ここで面白いのは、それでいて、ドローナの命令を受けて実際に王国を相手したアルジュナを娘の婿にと求めていたという二律背反具合である。

・ドリシュタデュムラ王子
…後述のドラウパティーのお兄さん。
 妹同様、父親のドローナへの復讐心をきっかけに炎の中から鎧をまとった姿で誕生した。ある程度成長した状態で生まれ落ちたたため、人間的には幼いだろうと作者が考えたために、ドゥリーヨダナにチクチクいじめられる羽目に陥った。

・クリシュナー(ドラウパティー)
…決して、あの鬼畜ではないのでご用心。ラクシュミー女神の生まれ変わりと言われるほどの絶世の美女。
 ドラウパティーは結婚後に与えられた名前なため、あえてクリシュナーを使用。生まれた瞬間、「クシャトリヤを滅亡させる」と予言され、実際にその通りになった。
 多分きっと、お尻も胸もむちむちの美人だろうと作者が思い、作中随一の巨乳キャラになった。(あとやっぱり、ふくよかな体の美女の方がインドでは人気があった)兄同様の生まれ方をしており、そういう意味では精神的にロリな巨乳。
 『マハーバーラタ』には色々なタイプの女性が登場するが、作者は彼女が一番怖い。気になる方は是非、原典を読んでみてください。

(*カルナの挑戦の有無に関しては書籍によって異なっていましたが、あえて挑戦した内容で書きました。あと、いくらなんでもその場合だとクリシュナーの発言は外交問題になりかねないんじゃないかなぁ? と思い、ドゥリーヨダナが嫌味言っています*)
(*さーて、断章配信されるのは何時かなぁ? 取り敢えず、スーツぐだ子かっこかわいくて、すごく幸せです*)


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家族との再会

「小ネタ・ドロドロぐちゃぐちゃルート<家族愛編>」を読んでもらってから、この話を読むと何とも言えない心地になります。(作者の自分も、ウワァ、ウワァと思いつつ、書いていました)
あんまり泥グチャじゃないよなぁとか思いながら、小ネタを書き上げたのですが、一見したところそう見えないだけで、かなりやばい代物でしたわ、あれ。

おっかしいなぁ、ただの家族愛だったはずなのに、どうしてこうも何とも言えない心地になってしまうのか……。


  ――ほお! とドゥリーヨダナの感嘆する声が、静まり返った会場によく響いた。

 実際に天空に浮かぶ的へと矢が突き刺さることこそなかったが、まず間違いなく、カルナの放った不可視の矢は標的を貫いたことだろう。

 

 ――そう思わせるだけの絶技の片鱗、そう思わせるだけの気迫の余韻、であった。

 

 その身分ゆえに試練への挑戦こそ断られたものの、ドゥリーヨダナ麾下の武将たるカルナが、この場に集った由緒正しい生まれの戦士たちを上回る実力の持ち主である、という証明は行われた。

 

 カルナを身分ゆえに嘲弄してきた者たちとて、その実力の凄まじさに舌を巻いたことだろう。

 眼の玉を剥き出しにして驚いている人々に溜飲が下がるのは、まあ、この際仕方のないことだ。

 

 ――ふふん! うちの弟は凄かろう! もっと、驚いてもいいのよ?

 

「――さて、果たすべき務めは成し終えた。……この弓は返しておく」

「は、はぁ……」

 

 弦が張られたままの長弓を、呆然としていた従者に返却したカルナが、一先ずの儀礼としてパーンチャーラ国王一家へと一礼して、物陰のドゥリーヨダナを促す。

 この場からは聞こえなかったが、パーンチャーラの王族たちにだけ聞こえるようにドゥリーヨダナが低い声で何事かを囁き、カルナを連れて天幕の向こう側に消えて行く光景を遠目に確認した。

 

 ――――挑戦者たちの最初の躓きとなっていた強弓。

 それがカルナの手で弦が張られたことで、意気消沈していた王族たちが活気を取り戻したのか、我も我もと言わんばかりの態度で、未挑戦の者たちが次々と名乗りを上げている。その光景を尻目に、俺はといえば、再び観客たちの合間をくぐり抜け、舞台の裏方――つまり、カルナとドゥリーヨダナが引っ込んだ方へと足早に向かっていた。

 

 婿選び式(スヴァヤンヴァラ)の会場が再び賑わってきたせいか、従者や侍女たちはその支度や手伝いのために表舞台の方へと回っているらしく、警備の兵士以外の姿はない。

 

 ――それをいいことにズイズイと奥へと進み、目的の人物の元へと足を動かした。

 

 

「――〜〜、カルナ……ッ!!」

「!! ――アディティナンダ!!」

 

 いくつも立ち並んでいる天幕の内の一つ。おそらくクル王国からの参加者であるドゥリーヨダナ一行のために用意された、豪華な天幕の前で佇んでいる懐かしい弟の姿に、胸の奥が熱くなる。

 走り寄ってくる俺の姿を認めたカルナが、その切れ長の碧眼を見開き、そっとその両腕を広げてくれたので――勢いよく、その胸に飛び込んだ。

 

「う、うわぁぁ〜〜! カ、カルナだ、本物のカルナだぁ!!」

 

 どこか冷え切っていた心の一部がじんわりと暖かくなっていく。

 言葉にならない呻き声を合間合間に挟むせいで、再会を喜ぶ言葉が途切れ途切れのものとなる。その代わり、言葉では伝えられない再会の喜びを動作だけで伝えられるようにと――ギュ、とその背中に回した腕に込める力をいや増した。

 

「あ、会いたかった! すごくすごく、お前に会いたかったよ!」

「――そうだな、オレも会いたかった。死んではいないと確信していたが、それでもこうしてお前の無事な姿を確認できてよかった」

 

 太陽の光をそのまま閉じ込めたカルナの胸甲は、日向のぬくもりに満ちている。

 淡々とした、響きだけを聞けば冷徹な声の裏に、確かに再会の喜びが込められていることに気づいて、ぐ……っと目の奥が熱くなった。

 

 宥めるように俺の背中をポンポンと叩いてくれているカルナに、それって本来ならば年長者である俺の役目じゃないかなぁ? と思いつつも、まぁいいかと今ばかりは大事な家族のぬくもりに堪能することにした。

 

「――旅の途中で、大きな戦に出陣したと聞いたよ? スーリヤの鎧の恩恵があるとはいえ、お前の肉体までは不死身ではないんだ。怪我とか、しなかったか? 味方の陣営に嫌味言われたりとか、お前の育ての親を愚弄されたりとか、そういう目にはあってない?」

 

 自分よりも上にあるカルナの碧眼を覗き込む。

 そうやって、次から次へと矢継ぎ早に問いかける俺をあやすように、今度は頭を撫でられた。

 

 ――むむ! これは間違いなく年長者だけに許されるべき技である。

 いかん、このままでは兄としての威厳が……! あ、今は姉だった。なら、いいかな?

 

「相変わらずの心配性だな。問題ない、お前に報告しなければならないほどの苦境に陥ったりなどはしなかった」

「本当か? 途中で高位の聖仙とか怒らせたり、やっかみで呪われたりとかしてない?」

「安心しろ。そうした事柄からはこの腕輪が守ってくれた」

 

 そっと身を離したカルナが、左腕に嵌めていた金環を目の前に差し出す。

 日が暮れつつある夕焼け空の下でも、眩い黄金の光とそこに込められている絶大な守りの力を確認して、ホッと肩の力が抜ける。

 

「よかった、本当に良かった……! ずっと心配だった、不安だった。――お前が俺の目の届かない場所でひどい目にあっていないだろうか、とか、お前を厄介に思っている誰かに理不尽な呪いを掛けられたりしないか、とか、一日たりとて考えない日はなかったんだよ……!」

 

 怪我も呪いも、やっかみも大して被害をこの子にもたらすことはなかったようだ。

 それを実際に確認できたことで、強張っていた肩の荷が下りる。

 別れる前、念のために、俺の封印具合を埒外として、この子に太陽神の腕輪を渡しておいて――本当に良かった。

 

 俺が側に居ない間に、降りかかる理不尽な災厄からこの子を守れない分、預けて居た腕輪の加護がこの子をきちんと庇護していたようで、心の底から安心した。

 

「アディティナンダ……いや、この姿の時はロティカ、か」

 

 一息ついている俺へと、今度はカルナの方が問いかけてくる。

 呼び慣れない呼称に少々躓きながらも、カルナによって命名されたもう一つの名前の響きは優しい。

 

「お前の方はどうだった? ――失われていた腕輪は取り戻せたのか?」

「嗚呼、うん。その辺はバッチリだよ?」

 

 ――ほら、と。

 手首に嵌めた金環をカルナの目前へと差し出せば、ふっとカルナの険が表情から抜け落ちる。

 そうか、と安堵したようにカルナが呟くので、もう心配ないよということを伝えるためにニッコリと微笑んだ。

 

「――では、これを返しておく。オレには不要な物だ」

「そうだな。この腕輪がお前の助けになれて、本当に良かった」

 

 カルナが片腕に嵌めていた腕輪を抜き取って、俺の方へと差し出してくる。

 万年雪の冷たさを宿す金環を受け取って、胸元で握りしめる。そうすれば、本当に久方ぶりに全てが揃ったことを喜ぶように、金環に象眼された真紅の宝玉がチカチカと瞬いた。

 

「それで、ロティカ。――お前はどうするつもりだ?」

「嗚呼、どうするって、この姿のこと? そりゃあ、いい加減元の姿に戻るつもりだけど……。そうだ、その天幕借りてもいい?」

 

 ――なんか大事なことを忘れてしまっているような気がするが、さて何だったのだろう。

 カルナの問いかけに含まれている微妙な、それこそ戸惑いのような感情に、内心疑問に思いつつも、そのように応えを返せば、カルナが困ったように眉根を下げた。

 

「そのことなんだが、ロティカ……――」

 

 カルナが何事かを伝えようとしたのとほぼ同じ瞬間に、表舞台の方から大歓声が聞こえてくる。

 人々の興奮と渦を巻く熱狂、驚愕などの感情が、こんな裏方にまで届く。周囲でパーンチャーラの人々が慌ただしく動き回っているのを感じ取り、これはやばいと焦る。

 

「まずい、こんなところに無関係な人間がいると思われたら、つまみ出される! ごめん、カルナ! 勝手に入るよ!!」

「待て、アディティナンダ!」

「ふぇ!? もしかして、誰か居たりする?」

「――……いや。いい加減、あの男も腹を割って話す頃合いだ。気にするな。それよりも、誰かに気づかれる前に、早く中へ入れ」

「――? わかった」

 

 せっぱ詰まった様子のカルナの態度に一度は足を止めたものの、何かを悟ったような声音のカルナに促され、急いで天幕内部へと足を踏み入れる。

 飛び込んだ先の天幕の中では、従者の誰かが、暗くなりつつある時刻に配慮したのか、内部のあちこちに小さな明かりが灯されている。そのお陰で薄ぼんやりとしている天幕内に、自分以外の誰かの気配があることに気がついた。

 

「――おいおい、新しい侍女か? この天幕にこれ以上の明かりを持ち込む必要はないと、何度言わせる気だ?」

 

 どこか毒を帯びた、流れる水のような通りの良い声に、思わず素っ頓狂な声が出た。

 

「――! ド、ドゥリーヨダナ!?」

「こ、この、硝子で出来た鈴を転がすような、耳にだけは心地よい魔声はよもや……!」

 

 天幕内の明かりが届かない奥まったところで佇んでいるらしき人影が、ギョッとしたような声をあげる。聞き覚えのある、否、聞き覚えしかない声の正体に、ぐいぐいと歩を声のする方へと進めれば、やや分厚めの薄衣の向こうに見える人影が慌てふためいてる。

 

「――お前、神霊にあれだけのことをしておいて、よもや報復がないと思い込んでいた訳ではなかろうな!」

 

 実際には、カルナとの再会が嬉しすぎて、頭からドゥリーヨダナのことはすっぽりと抜け落ちていたのだけども、神の威厳とかあの時の怒りとかが込み上げてきて、自然と表情が険しくなる。

 

「ま、待て! せめてもの慈悲だ! 頼むから、その薄衣はそのままにしておいてくれ!」

「問答無用! この俺の人間性がわずかでも残っている限りは、命乞いまでは聞いてやるから、大人しくしろ、この悪辣王子!!」

 

 腕輪が四つ揃っているお陰で、ワタシが出てくる気配は感じられない。

 俺ではなくてワタシだと、ドゥリーヨダナの真意を確かめる前もなく火達磨されかねないので、少しばかりその事実に安心する。

 

 ――ぐい、と薄衣に手をやり、そのまま勢いよく引きちぎる。

 カルナに比べれば非力としか称しようのない俺の筋力だが、それでも人間以上の性能を誇っている。どこぞの神の加護でもかかっていれば話は別だが、見目こそ優美であるが只の織物にすぎなかった薄衣は悲痛な音と共に引き裂かれた。

 

「……………どうしたの、それ?」

 

 かなりの間抜け面を晒している自覚はある。

 あるのだが、それ以外にどんな顔をすればいいのか、ちっとも思いつかない。

 

 先ほどまで抱いていた、燃えるような怒りの感情もドゥリーヨダナに対する様々な思惑も、何もかもが彼方へと吹っ飛ばされてしまい、ただ尋ねることしかできない。

 

「ああ……これだから、誰にも見られたくなかったというのに……」

 

 ――悄然とした面持ちで、片手で顔面を覆うドゥリーヨダナ。

 それに相対する俺の方も何と言っていいのか分からなくて、途方に暮れる。

 ――嗚呼、もう! こういう時に真性の神霊であれば、相手の事情など御構い無しに問答無用で沙汰を下すのであろうけど、中途半端に人間性を獲得してしまった以上、この現状を見ないふりをして報復をなすのは非常に心地が悪い。

 

 けれども、このまま黙りこくっていたところで、どうにもならない。

 ので――必死に考えて、その言葉を口から絞り出した。

 

「――なぁ、ドゥリーヨダナ。その姿は、一体――?」




(*敢えて、ここで切る! 今回はこれで4000字です。
 何だか、最近字数が多くなっていっているので、ちょっと皆様にお尋ねしたい。
 前回、前々回が7000〜8000字くらいだったのですが、長すぎて読み難かったりしましたか?*)


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真相究明・上

いくつか前の話でいただいた感想の時点では、なんとなくドゥリーヨダナの今後を予想されている方もいらしたのですが、一つ前の話を投稿した時点での皆様の感想を拝見する限り、大事な可能性を忘れていたようなので、ちょっと苦笑しました。

――さてさて、いったい何人の予想が当たったのでしょう?

(*評価、ご感想、そして誤字報告、ありがとうございました*)


 目の前でしかめっ面を浮かべているドゥリーヨダナを何かに例えるとすれば、村の悪餓鬼たちがカルナ相手に仕掛けた悪戯の数々を看破された挙句、自分たちの母親に叱られている時の、罰の悪そうな顔とでも言えばいいのだろうか。

 

 ふてくされているような、いじけているような、それでいてそんな自分を認めたくないような。

 そんな中途半端な表情を浮かべたドゥリーヨダナが、唇をへの字に曲げる。

 

「これか? この姿のことか? いいだろう、教えてやろうじゃないか」

 

 むすり、とした表情のまま、ドゥリーヨダナがようやく口を開く。

 その太々しいまでに偉そうな態度、確かに俺の知っているドゥリーヨダナである。ただし、その外見は随分とすごいことになって居た。

 

「なんというか……象にでも轢かれたのか? 随分と、その、すごい姿なのだが……」

「……離宮の崩落に巻き込まれた」

「はあっ!?」

「――ということに、表向きの理由はなっている」

 

 自称・カルナに匹敵する容姿と豪語しているドゥリーヨダナの顔の半分は無粋な包帯にぐるぐる巻きに覆われており、残る左顔面は傷一つないままに秀麗なせいで、白と褐色の対比が痛々しい。

 その上、かろうじて見えている左目の周囲にも、やや薄まっているとはいえ青紫色の痣の跡があり、その輪郭の見事な様は語るまでもない。彼の全身を包んでいる衣服とて、豪勢な刺繍と飾り帯で目立たないように工夫されてはいるが、右腕はどうやら服の内側で吊るされているようだし、無事な方の左腕には火傷の痕が所々発見でき、そのせいか装飾品の類は一つも着用していない。

 

 ――現状を、端的に言ってしまうのであれば。

 ドゥリーヨダナは久しく会わない間に、包帯でぐるぐる巻きの怪我人になって居た。 

 

 道理で、この目立ちたがり屋の男が式典で大衆の前に姿を現さず、声だけに留めてたわけだ。

 

「その……俺、まだ何もしていないよ? 祟りとか呪いとか、無差別厄災……とか」

「――知ってる。というか、姉上殿のせいではないのは百も承知だ」

 

 よもや、自分でも気づかないうちにドゥリーヨダナに対する怨念めいた何かが発動した挙句、ドゥリーヨダナをこんなにも悲惨な有様に陥れてしまったのだろうか? と真剣に考えてはみたのだが、どうにも思い当たる節がない。

 なので、念のため自分の無実を証明すべくドゥリーヨダナに弁明してみたのだが、当の本人が苦々しい表情で俺の拙い言い訳を一刀両断してくれたのであった。

 

「?? ――じゃあ、なんでそんな目にあってるの? 離宮崩落に巻き込まれたのが表向きの理由なら、本当の理由って何?」

 

 頭から足先まで、ドゥリーヨダナの姿を見遣って、首を傾げる。

 俺の無意識の呪いではないとすれば、一体、何によってドゥリーヨダナはこのような怪我を負ったのか? ――あれ?

 

「――というか、どうしてカルナがお前の側にいて、そ、んな、目に……? んん? あれ、おかしくない?」

「……ようやく気付いたか――ああもう、全く。溜息しか出てこんぞ」

 

 どかり、と床に座り込んだドゥリーヨダナが、俯きつつ頭を抱える。

 丁寧に編み込まれた髪の毛を乱雑に梳りながら、ちらりと包帯の巻かれていない側の左目がこちらを見上げた。

 

「――……その、()()()だ」

「ハァッ!?」

 

 大きな溜息と共に告げられた一言に、驚愕の叫びをあげてしまった。

 正直に言わせていただくのであれば、今この瞬間ほど自分の耳の良さを信じられなくなった時はない――それだけの衝撃であった。

 

「な、なんで!? なんでカルナがドゥリーヨダナを襲うの!? こ、ここまでボコボコにされるなんて、お前、一体どんな悪いことをしたんだ!?」

「ええい! 驚くのもいいが、そうも乱雑に揺らすな! こちとら怪我人だぞ! もっと丁寧かつ丁重に扱え!!」

 

 わっしゃわっしゃ、と宝玉飾りのついた襟元を掴んで揺すれば、痛そうに顔をしかめたドゥリーヨダナから制止される。慌てて掴んでいた手を離せば、今度は安堵によるため息が零れ落ちた。

 

「なんで、って……。言わずともわかるだろうよ。――姉上殿、わたしに何をされたのか、もう忘れてしまったのか?」

「あ〜……そういや、俺、お前に殺されかけたんだっけ……」

 

 カルナと再会出来た嬉しさとドゥリーヨダナの顔面を目撃した際の衝撃の深さゆえに、すっかり脳裏から抜け落ちていた。正直に本心を呟けば、ドゥリーヨダナが頭を抱える。

 

「ああくそ……。――こ、これだからこの弟莫迦は嫌なのだ……。本当に神霊であるというのであれば……。とっとと、わたしの事情も状態も都合も何も考慮せず、仕留めにかかってきてくれるのであれば……、わたしとしても諦めがつくというのに……ここまで神らしくないとなると……」

「え……、じゃあ、カルナがお前をこんな状態にしたの?」

 

 いじけた様子のドゥリーヨダナの側に膝をついて、見えている方の左目を覗き込む。

 こうやってよく見れば、綺麗に整えられている黒髪の長さが最後に会った時と比べて短くなっているのが判明した。

 

 ――嗚呼、それにしても。

 相変わらず、星屑を孕んだように輝く、綺麗な黒水晶の目をしている――場違いにも、綺麗だなと思った。

 

「そうだとも。――簡潔にいうとだな、バレたのだ」

「バレた?」

「――そうとも。わたしが吉祥屋敷の管理人だったプローチャナに、パーンダヴァ一行の暗殺と同時に姉上殿も殺すように……と命じたことが」

「うわぁ……」

 

 改めて口に出されると、この男の外道っぷりが浮き彫りになり、殺されかけた当人としては若干引いた声を出さずにはいられない。

 非難する目で睨んでくる俺の視線に気まずさを感じたのか、黒水晶の片眼が逸らされるが、それを許さず、無理矢理に両頬を挟んで、こちらに意識を固定させてやった。

 

「――うぅ……、近い、近い!」

「だまらっしゃい! このまま首を捻じ切られたくなかったら、さっさと続きを話す!!」

「ヴァーラナーヴァタでの一件が王都にまで届いた時、カルナは遠征の最中で不在だった。それでわたしもつい気が抜けてな……」

「――気が抜けて?」

「おまけに、その時点では姉上殿に関する情報は都にまで届いていなかった。都、いや国中がパーンダヴァの一行が火災にあったという噂だけで持ちきりでな」

「――それで?」

「この時点で、わたしは遠征中のカルナがパーンダヴァの一件のことは聞き知っていても、姉上殿の件に関しては無知であると思い込んでしまったわけだ」

 

 ――気まずい、と言わんばかりのドゥリーヨダナに、こっちは正直呆れの色が隠せない。

 まあ、確かに一介の侍女と王家に連なる誉れ高き半神の一家では、噂になるのも、その死が惜しまれるのも後者の方だ。王都に、いつ頃俺の死亡が誤報という形で通告されたかは不明だが、それだってあの不吉の屋敷での騒動が収まってからのことであろう。

 

「――で、だ。それから暫くして、カルナが戦勝の報告に来た時のことだ。報酬に何が欲しいか、と尋ねてみたら、あの無欲な男が“この場では口にできない”と申すではないか」

「ふむふむ」

「珍しいことを言うものだ……と思いながら、人払いした離宮にカルナを招いた――するとだ」

 

 ――ドゥリーヨダナ、友であるお前がかつてオレに授けた薫陶を覚えているか?

 ――何のことだ、カルナ? 生憎、心当たりが多すぎて、ちっとも思い当たらんのだが。

 ――……そうか。とはいえ、実践すればお前とて思い出すだろう……。家臣の誼だ――せめて、受け身を取ることを勧めておくぞ。

 ――……カルナ? 待て、ま――グッハァ!!

 

「確かに! 確かに、わたしはカルナに教えたさ! 兄弟を傷つけられたら、百倍返してやれ、と! ――だがそれはビーマセーナみたいな鳥頭相手に肉体的に理解させるための薫陶であって、わたしのような頭脳活動中心の理想の上司相手にやるものではない!!」

 

 だんだん! と無事な方の左の拳で床を叩きつけるドゥリーヨダナ。

 そーいえば、この子のことも小さい時から見知ってはいたけども、第二王子に弟の百王子たちが虐められると、大体えげつない手段で報復していたよなぁ……この子。大概、天性の肉体の前に失敗していたけど。

 

「カルナの奴め……。ヴァーラナーヴァタの一件が噂となって広まって直ちに、事件現場に赴いたらしい。――それで、見つけたのだと」

「見つけた? でも、あの建物は全て燃えやすい素材で出来ていたから、残るものなんて……」

「――いいや、燃えないものは確かにあった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あの小悪党め……、あれほど証拠になるようなものは燃やしておけと言ったのにも関わらず、物証を残しおって……」

 

 ぐちぐちと文句を死人へと向けているドゥリーヨダナ。

 ついつい白けた視線を送れば、誤魔化すように咳払いされた。――こいつ……、本当に殺し損ねた相手の前で赤裸々に暴露するな。もう、潔いのか悪いのか、どれが本当のドゥリーヨダナなのか分からなくなって、正直なところ、混乱してきた。

 

「で、ここが誤算だった。わたしは、カルナが文字が読めないのだと、勘違いをしていたのだ」

「――まぁ、奴隷階級(シュードラ)に近しい平民階級(ヴァイシャ)の御者の息子が読み書き出来るとは考えないだろうな」

 

 ――この国どころか、この世界の人民の識字率は恐ろしい程に低い。

 バラモンやクシャトリヤであるならばまだしも、裕福な平民階級(ヴァイシャ)出身でない限り、ほとんどの人間は文字を読むことができない。理由としては学問所自体の数が少ないのと、それが推奨されていないこと。そして何よりも、決して安くない金品を請求されるためだ。

 

 けれども、カルナに関しては教養をつけておいて損はないだろうと、俺が幼い頃から読み書きを教え込んでいたので、数少ない例外に当たる。

 ――ついでに言っておくなら、カルナだけではなく、同じ村の子供達にも文字を教え込んだので、あの村で俺は非常に尊敬される立場にある。このご時世、知は力なり、なのだ。

 

「プローチャナの奴め、無事に暗殺に成功した暁に約束を反故にされないように、命令書を厳重に隠し持っていたらしい。――ご丁寧にも自分の寝室の床下に金属の箱に入れてまで」

「まあ、確かに。小狡そうな男ではあったな」

「全く……このドゥリーヨダナがそんな吝嗇家のような真似など、する筈もないと言うのに……見損なわれたものだな、このわたしも」

「あー、そうだな」

 

 どうして、俺じゃなくて、こいつが怒っているだろう。非常に納得がいかない。

 ぶちぶち文句を言ってスッキリしたのか、ようやく話が先に進む。

 

「――で、だ。カルナは火災の一件を聞いた時、まずは姉上殿の仕業ではないかと考えたらしい」

「まぁ、確かに。炎と熱は俺に縁深いものだからなぁ……。可能性は一番高かっただろうなぁ」

「それで、遠征からの帰りに空を飛んでヴァーラナーヴァタの屋敷の跡地で手がかりを探していた。その途中で、王都からやってきた侍女の一人が行方不明になっていると言う話を聞く。――それが自分の肉親であると察するのは、さぞかし早かっただろうな」

 

 ――そうして、物証を見つけたという訳だ。

 そう言って、やれやれと言わんばかりにドゥリーヨダナが肩を竦める。自分の悪事の証拠を突きつけられて、なおかつ自分の目と鼻の先にその被害者たる俺がいるというのに、なんという太々しさだ……ここまでくると呆れを通り越して、感心するしかない。

 

「後は簡単だ、それこそ御伽噺のようにさくさく進んだと言ってもいい。カルナは焼け跡から命令書を見つけ、それを読み終えて、このドゥリーヨダナがよりにもよって肉親相手に暗殺指令を出したことに気づく。それでも愚直で忠義に厚いあの男は、大勢の前でこのわたしを弾劾するのでも、肉親を殺されたことに対する復讐に駆られるのでもなく、拳一発分でケリをつけたという訳だ!」

 

 ほーら、全てを話してやったぞ! と嘯く。

 どこかふてくされたドゥリーヨダナにイラっとしたので、その首をキュッと締める。

 絞殺される寸前の鶏のような悲鳴を上げたドゥリーヨダナの声を聞きつけたのか、それまで文字通り蚊帳の外だったカルナが天幕の中へと入ってきた。

 

「――アディティナンダ、気持ちは分かるが落ち着いてくれ」

「安心しろ、カルナ。――俺は今までになく落ち着いているぞ」

「……そうか。だが、ドゥリーヨダナの顔が土気色に見えるのは、気のせいではなさそうだ」

「――ぶっはぁ! よくぞ言ってくれた、カルナ。それでこそ、わたしの友だ」

 

 道化のように笑っているドゥリーヨダナ。

 その目をまっすぐ射抜けば、軽薄な笑いはさっと失せて、能面のような顔つきになる。

 

 直感的に、悟った――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 カルナもそれに気づいて一つ溜息をつくと、ドゥリーヨダナを宥めるように続きを促した。

 

「――ドゥリーヨダナ。お前は肝心なことを話していない。お前がお前自身を守るために露悪家を気取っていることは知っているが、語るべきことを語らずにいて自身の首を絞めるのは、愚者のすることだぞ。――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――はぁ。そうだな、姉上殿。一つ、聞きたいことがある」

 

 ずれた包帯を所在なさげにいじり、めくれた襟首を整えたドゥリーヨダナが観念したのか、不意に真剣な表情を浮かべる。カルナは天幕の柱の陰にひっそりと佇み、薄暗い天幕の中でも炯炯と輝く碧眼でそっと俺たちの様子を伺っている。

 

 ……静かだった。

 ――この時ばかりは、天幕の外で盛大な式典が行われていることが嘘のように、静かであった。

 

 すぅ、と――大きく息を吸ったドゥリーヨダナが、口を開く。

 

「――……姉上殿にお尋ねしよう。屋敷に火が放たれたのは、貴方がプローチャナに殺されかける前だったのか? それとも――()()()()()()()()()()()?」




まだ女の姿のままなのですが、他に人がいないのでカルナはアディティナンダと呼び掛けています。
あー、もう、当初の予定であったとはいえ、この部分はきつい。これからドゥリーヨダナの内面についても書かなければいけないので、シリアスが続くとなると気が重い。

……自分、本当はカルナとアディティナンダ兄弟のほのぼのが書きたいんだ……!


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真相究明・下

「……一時期、俺の意識も飛んでいたから、はっきりとしたことは言えないが……」

 

 ――嗚呼、覚えている。

 途中で本性の方が露わになっていたせいで、やや記憶が曖昧でこそあるが、あの男に殺されかけた時、屋敷が燃え盛る炎によって赤く染め上げられていた光景を覚えている。

 

 光と熱の化身である俺にとって、燃え盛る炎は決して自分を傷つけるものではない。

 だからこそ、久方ぶりに表に出てきた本性の方もあれほど呑気に屋敷の中を闊歩していたのだし、寸前で主導権を取り戻した俺とて、炎に包まれた屋敷という非常識な場所で意識を失うことに対しての恐れもなかった。

 

「うん……。プローチャナという男に殺されかけたのは、()()()()()()()()()()()()()

 

 記憶をたどり、口元に指先を押し当てながらの言葉に、カルナとドゥリーヨダナがむしろ納得がいったように頷きあう。その光景に首を傾げていると、カルナが一拍おいて語り出した。

 

「アディティナンダ。――もし、お前がお前自身を殺すとしたら、一体どうやる?」

「……少なくとも、火だけは使わない。俺の本性は光と熱。魔力の具現となって現れるのは炎だ。――人間の皮を被った状態の俺を殺すなら、少なくとも水を使うことをお勧めするね」

「……カルナもカルナだが、それにさらっと答える姉も姉だな……いや、この場合、兄か? ……信頼の証なのか、それともこの程度では崩れない関係性というやつなのか……まあ、いいか」

 

 ――その通りだ、と涼やかな声でカルナが応じる。

 弟の言葉に傾聴している俺の姿に、ドゥリーヨダナが呆れたように首を振る仕草を見せたが、それ以上突っ込んでこないので、カルナに先を促した。

 

「ドゥリーヨダナは王都を発つ前のお前によって、お前の本性が開示されている、お前の見目がいかにか弱い手弱女のようであったとしても、その本性は人ならざる者だ。――であれば、自ずとお前を暗殺しようとする場合、その手段は限られる」

「カルナが拳一発で済ませたのにも、その辺の事情が関係していてな。本気でわたしが姉上殿の殺害を意図した場合、そのために取った手段が焼死であるのは奇妙だと」

 

 ――まあ、その拳一発だけでも、わたしは壁に轟音と共にのめり込み、その過程で折れた離宮の柱が一番重要なものであったせいで、見事に崩落に巻き込まれ大怪我を負ったのだが。

 

 自嘲するドゥリーヨダナにカルナが自業自得だ、と返す。つれないカルナに、ドゥリーヨダナがひょっとしてお前、まだ怒っているのか? と訊ね返せば、カルナは器用に片眉を上げて見せた。

 

「――ドゥリーヨダナは己が小心者であることを自覚しているため、暗殺という手段を用いる際には、決して失敗しないような策を講じるのが常だ。――ところが、お前の謀殺することだけに焦点を絞った場合、この事件には色々と不可解な点が多かった」

「――そうか。……だから、あんな中途半端な命令を出していたのか……」

 

 ――合点がいって、一人頷く。

 ワタシに脳みそをぐちゃぐちゃにされたプローチャナはこう言っていた。パーンダヴァとは違い、黒髪に青い目の侍女に関しては、()()()()()()()()()()()()()()と命令が出ていた……と。

 

 ――まあ、それでも、ドゥリーヨダナが俺のことを殺そうとした事実は変わらないのだが。

 

「その件についてだが――その件についてだが殺そうとしたわたしがいうのもどうかと思うが、こんなにも悪意のある偶然が重なった事例は初めてだ」

「本当にお前が言うな……と言ってやりたい気分なんだけどなぁ……。まあ、良いか――言ってみろ、ドゥリーヨダナ。――お前の言い分を聞いてやる」

 

 ――はあ、とドゥリーヨダナが大きく息を吸う。

 何かを誤魔化そうとする軽薄な気配は薄れ、黒水晶に抜き身の刃を思わせる光が灯る。

 

「……とある事情で、わたしは姉上を信用できなくなった。その理由については割愛するが、()()殿()()()()()()()、と言う確証が持てなかったがために、わたしはわたしの利益のため、早急にカルナの周辺から姉上殿を排する必要があると考えたのだ」

「…………」

「けれども、その一方で姉上殿を害することに対して、躊躇いも感じていた。プローチャナへの命令書が曖昧な内容で締めくくられていたのはそのせいだ」

 

 ――だからな、賭けをしたのだ。

 ドゥリーヨダナが語るのをただ黙って聞いていたのだが、不意に出てきた単語に虚を突かれる。

 

「――賭け?」

「そう。わたしの疑念もわたしの懸念も、全てひっくるめて、文字通り運を姉上殿()に任せたのだ」

 

 どこか遠い、虚ろな目をするドゥリーヨダナ。

 それを淡々とした表情で見守っていたカルナが、そっとその視線を天幕の外へと向ける。

 天幕の内側の奇妙な穏やかさと反比例するように、外はますます騒がしくなっていた。

 

「――プローチャナの奴が、姉上殿を殺しても良い、殺さなくても良い。討ち漏らしてしまったせいで、姉上殿がわたしのことを殺しにきても構わない、あるいは肉親を殺されたことで怒り狂ったカルナに仇と罵られ殺されても、文句は言うまい――全てを成り行きのままに任せてしまおう、と言うのが、決断しきれなかったわたしの出した結論だった」

「……一周回って腹が立ってくるほどの適当さだな、本当に」

「――ははは。そう言ってくれるな。こんな大博打、このわたしとて当分の間はしたくないぞ」

 

 いつになく力なく笑う、ドゥリーヨダナ。

 悲しそうな眼差しでその横顔を見つめていたカルナだったが、治らない外の喧騒に、表情を険しいものとする。

 

「随分と、外が騒がしい……。――どうやら、会場で暴動が起こっているようだ」

「そうか。話の邪魔をされるのも癪だしな。――では、カルナ」

「……承知した。――アディティナンダ」

「わかってる。話を全部聞いて、それから結論を出すよ」

 

 こちらを一瞥した弟に、わかっていることを伝えるために軽く頷く。

 それを確認して、立てかけてあった弓矢を手にしたカルナが、天幕の外へと出て行った。恐らく、外の騒動を収束しに行ったのだろう。

 

「――なぁ、姉上殿。」

「なんだい、ドゥリーヨダナ」

「少し脇道に逸れることを聞くが、パーンダヴァの連中は生きているのだろう?」

「……そうだよ」

「そうか。――であれば、点と点が繋がったな、文字通り」

 

 天幕内の明かりが小さく揺らめけば、ドゥリーヨダナの影法師も左右にゆらゆら揺れる。

 まるで、ドゥリーヨダナ自身の穏やかならざる内面を示しているかのように不安定な有様は見ていて不安が掻き立てられた。

 

 ――ポツリ、とドゥリーヨダナが口を動かす。

 

「……屋敷に火をつけたのは、プローチャナではない。――()()()()()()()

「!?」

「……だから、プローチャナの奴は焦ったのだ。パーンダヴァ一行を火災に見せかけて暗殺することはもはや不可能だと――そう考えたからこそ、せめてもう一つの報酬だけは逃すまいと姉上殿を襲撃した」

 

 砕かれた欠片が一つ一つ組み合わさっていくように。

 不可解であった事件の全容が、ドゥリーヨダナの推測によって少しづつ明らかになっていく。

 

「――知っているか、姉上殿? ハースティナプラの都では、パーンダヴァ一行は死んだと信じられていた。わたしも奴らが死んだのではないか、と信じていた。……それは、何故だと思う?」

「それは……遺体が見つかったから、だ。ここにくる途中に耳にした、焼け跡から一家のものと思われる焼死体が、見つかった、って……待て、だとすれば、それは……」

 

 あの王子様と一緒に訪れた街の一つで、噂好きの職人たちが話していた内容を思い出す。

 ――そうだ、確か、彼らはこんなことを話していたではないか。

 

“――本当に気の毒になぁ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、母親のクンティー王妃共々、天にその命を召されたってことか――”

 

 息を飲む――あまりにも、出来過ぎていた。

 パーンダヴァ一行は、かなり特異な家族構成をしている。

 実母のクンティー先王妃とその実子の三人の息子、養い子である義理の息子二人。

 

 一人の夫人と夫の間に子供が多すぎる場合、それは時に軽蔑の対象となることもあった。

 それゆえ、多すぎる子供を持つ母親とその一家は敬遠される。母親一人で、五人もの息子を持つことは、下手すれば娼婦扱いされても可笑しくない。だから、滅多にあり得ることではない。

 

 ――それなのに、あの日。

 あの火災があった日は、パーンダヴァ主催の大きな宴が屋敷で開催され、各地から様々な人々が、それに参加するために邸を訪れていたではないか。

 

 侍女として働いていた宴の記憶を思い出す。

 ――その宴には、遠くから訪れた()()()()()()()()()()()が、偶々、参加していたことを。

 

「――すごい、偶然だと思わないか? 偶々、開いた宴の席に、偶々、パーンダヴァの家族と同じ構成の一家が屋敷にやってくる。それも滅多にない、母親に、五人の息子の大一家だ!」

 

 ぞっと背筋を震わせた俺の異変に気づいているのか、いないのか。

 二人だけの天幕の中で、ドゥリーヨダナは誰に聞かせることもなしに声を張り上げる。

 

「その上、宴に出された酒のせいで屋敷の中で眠りこけた結果、偶々、彼らは揃って遺体となって発見され――偶々、パーンダヴァ一行と発見者たちに勘違いされるだなんて――」

 

 ドゥリーヨダナが目元を覆って、張り裂けんばかりに哄笑する。

 愉快で愉快で堪らない――――そう言わんばかりに、ドゥリーヨダナが嗤う。

 

「あまりにも出来過ぎている――あまりにも、よく出来た話ではないか?」

 

 ――理解できるか? と、ドゥリーヨダナが嘲笑の笑みを浮かべる。

 顔は笑っていると言うのに、その黒水晶のような左目にはギラギラとした炎が燃え盛っていた。

 

「あの屋敷を燃えやすい材料で建てるように命じたのはわたしで、管理人のプローチャナに火をつけて奴らを殺すように命じたのもわたし。姉上殿を殺すようにプローチャナに命じたのもわたし――全ての因果はわたしの策から始まっていると言うのに、だ!!」

 

 ドン! とドゥリーヨダナが柱を拳で殴りつける。

 憤懣やるかたないと言わんばかりのドゥリーヨダナに、なんと声をかけていいのかわからず、伸ばした手は虚しく空を掻く。呻くような、天を呪うようなドゥリーヨダナの独白は、尚も続いた。

 

「わたしの企みを感知した奴らならば、屋敷に火を放って逃走する機会など、いくらでもあったさ! それなのに、何故、あの日に奴らはそれを決行した? ――決まっている、自分たちの身代わりとなってくれる人々が、()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 燃え盛る屋敷を背景に、血走った表情で俺を殺そうとしたプローチャナ。

 燃えやすい素材とはいえ、あまりにも早く火の海と化していた大豪邸。

 姿を見せないパーンダヴァの一家、遠くから漂ってきた肉の焼ける匂い。

 弓矢に剣を帯びた完全な武装姿で、一人屋敷の奥で佇んでいたアルジュナ王子。

 気を失った人間一人を抱え込んで、地下の秘密の通路から脱出したと言う王子の台詞。

 

 あの日に経験し、目撃した全ての情報が、ドゥリーヨダナの推察を肯定する。

 けれども、そうであるならば、それはあまりにも――――

 

「――何もかもが、パーンダヴァの人々に、都合が良すぎる……」

「その通りだとも、姉上殿!! その上で神霊(あなた)に問いたい。――人間というものはの神々(お前等)の無聊を慰めるための箱庭の人形、あるいは神々(お前等)の記した台本通りに進む舞台の端役でしかないのか?」

 

 思わず口をついた言葉に、ドゥリーヨダナが狂気の笑みを浮かべる。

 顔の半分が包帯に包まれているせいで左右非対称な容貌が浮かべるその表情は、ひどく悪意に満ちていて、さながら悪鬼のように歪んでいた。




<考察という名の感想>

 この不吉の家の話は原典にもある重要な出来事の一つなのですけども、自分はこの話を読んで非常に気味悪いと感じたのは、ドゥリーヨダナが口にしているように、あまりにもパーンダヴァに都合よく世界が動きすぎているところ(ちょうど家族分の身代わりがやってくる)とそれを疑いようもなく利用したパーンダヴァの思考回路なんですよ。
 一家を謀殺しようとしたプローチャナが火事に巻き込まれるのは正直自業自得なのですが、全く無関係の他人をこうも簡単に時間稼ぎのための生贄として用いることのできる当時の風習というか考えこそ、自分が原典を読んでいて一番なんとも言えない気持ちになったエピソードでした。(まあ、読んだのが日本語訳だけなので、ひょっとしたらその一家は神々が姿を化けた云々とかそういうオチがあったのかもしれませんが……)

 とは言え、そうした一部の特権階級だけが特別だという社会において、万人が等しく価値を有するというFateカルナさんの考え方とその考えを持つ男を臣下にできたFateドゥリーヨダナって、本人の言動もさることながら、当時としては、かなり革新的な価値観の人間だったのではないでしょうか。


(*ドゥリーヨダナって、本当に複雑なキャラクターなんですよねぇ。
 こうして、『マハーバーラタ』とFateの二次創作に手を出して分かったのですが、この人、本当に捕らえどころがないと言うか、なんと言うか……。公衆の面前でカルナを身分の低さゆえに罵倒したビーマ相手に飛び上がって怒り出すような熱血ぶりを見せたかと思うと、こうやって5兄弟を暗殺するために大掛かりな罠を仕掛けるような卑劣さを垣間見せる。やってることって正直褒められることばかりではないのですけども、現代日本人的な感覚からしてみれば、ドゥリーヨダナの主張の方が納得できると言うかなんと言うか……*)
(*と言う訳で、次回は人間ドゥリーヨダナと人間もどきのアディティナンダの話です。呪われた子として差別されて来た彼だからこそ、気づいていること・世界の仕組みに疑いを持つことって、かなりあると思うのですよ*)


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物語の出演者たち

サブタイトル:ドゥリーヨダナ王子、大爆発。

『マハーバーラタ』には色々な人がいるけれども、彼程、運命に翻弄された人間はいなかったのではなかろうか、と。


 普段は陽気で豪快で、自信に満ちているドゥリーヨダナ。

 流れる水のように滑らかな声音で歌うように毒を吐き、半神相手であっても臆することなく皮肉を言い放つ度胸の持ち主で、神霊相手にも不遜な態度を崩さない――悪辣王子。

 

 ――それが、ドゥリーヨダナが俺に見せる表向きの顔だった。

 

 ……嗚呼、嗚呼!

 あまりにも彼が朗らかで、馴れ馴れしく、それでいて常に太々しい態度で俺に接するものだから、()()()()()()()()()()()()()

 

「――ああ、そうだとも! わたしは、昔からお前らに聞いてやりたいことがあった!!」

 

 ドゥリーヨダナが生まれた時、あらゆる不吉の予兆が王国中に表れた。

 それを目にした知恵ある者たちは皆、彼を赤子のまま殺すようにと王に進言したという。

 しかし、初めての我が子を惜しんだ国王の一言で、ドゥリーヨダナは王子として育てられる。

 周囲の人間は、神に愛されぬ彼を呪われた王子として賤しみ、そのような子供を産み落とした王妃を非難し、国王を子供惜しさに王国に災厄の種を蒔いた愚王として影で嘲弄するようになった。

 

 ――そんな周囲の態度に拍車を掛けたのが、先王の遺児として王国にやってきたパーンダヴァの五兄弟の存在であったのは間違いない。

 

 聖仙の呪いにかけられた先王・パーンダヴァのために、妻であるクンティー妃が真言によって召喚した神々と交わることでこの世に生まれ落ちた、光り輝く栄光を約束された神々の寵児たち!

 

 敬愛すべき、畏怖すべき、絶対者の落とし胤たる彼らが、王国の正統なる継承者として王国にやって来て以来、ドゥリーヨダナは、どのような気持ちで日々を送っていたのだろうか。

 それ以上に、人知を超えた力を幼少時から垣間見せる従兄弟たちの、神の血族であるが故の無邪気な残酷さに翻弄されていたことは想像に難くなかった――現に、この俺もそうした光景を彼らの日常の一環として目撃していたのだから。

 

 ――そんな彼は、一体どのような気持ちで俺と語っていたのだろうか?

 普通に考えれば、すぐに思いつくことだったのではなかろうか――彼が、俺を含めて神々のことを()()()()()()()()()()

 

「なあ、知っているか、姉上殿! わたしが生まれた時、国中に不吉な予兆が現れ、ジャッカルたちは怨嗟の唸りを上げて、その誕生を祝ったそうだ! 従兄弟たちの時は花の雨が降り、天上から妙なる調べが鳴り響いたというのになぁ!!」

 

 嘲弄というには引き攣った響き、悲痛というのは歪みきった表情。

 何よりも色濃い感情として発露しているのは――あまりにも高濃度の憤怒と憎悪。

 

「物心つく前から、うんざりするほど聞かされたさ! “お前が王国を滅ぼす” “お前が王国を終焉へと導く” “お前が全ての兄弟に破滅を齎らす” お前が、お前が、お前が――!! どいつもこいつもそればかりで、二言目には父上や母上に対する失笑と愚弄の言葉!! いい加減、聞き慣れ過ぎて飽きるほどに!!」

 

 巫山戯るな、とドゥリーヨダナが吐き捨てる。

 

 笑おうと失敗したような、そんな捻れた口の端、引きつった頰。

 いつになく乱雑な仕草で乱される髪型、どす黒い感情で塗りつぶされた闇夜のような隻眼。

 

「どいつもこいつも、自分の頭では何も考えていやしない! 大いなる運命の流れ? 定まった未来? 少しは可笑しいと自分の頭で考えやがれ、老害ども!! ()()()()()()()()()()()()()()()()辿()()()()()()()()()!! そもそも、神の子供が五人もクルに生まれる時点で、何かが可笑しいと気づけや、阿呆が!!」

 

 外から聞こえる轟音や荒れ狂う風の音に負けないほどのドゥリーヨダナの怒声。

 憤懣やるかたない、という言葉では表されないほどの激憤、激情、激怒。

 普段の彼の声が流れる水のような滑らかさを宿すのであれば、今の彼の叫びは――荒れ狂う暴流のようだった。

 

「――どいつもこいつも表面ばかりの神々の恩寵とやらに気を取られて、何のための奇跡であるのかを考えることもせずに、奴らを褒め称えるばかり! 貞淑なクンティー妃への神々の慈悲? 偉大なるパーンドゥへの神々の贈り物? ――そんな訳がなかろう!! そもそも、それと対になる形でオレという忌み児が生まれていることからして、雲上人の思惑とやらが透けて見えるようじゃないか!!」

 

 収まるべき鞘を失った魔剣のような猛々しい輝きを帯びたドゥリーヨダナの左目が険を増す。

 初めて向けられた人の悪意、激しすぎる感情の本流に身を硬くするしかない俺を、斬りつけるようにドゥリーヨダナが言葉の刃を放つ。

 

「――先ほど、オレは“よく出来た御伽噺”のようだと言ったな? まさしく、この現状こそが御伽噺のようじゃないか! いいや、それとも結末が決定づけられた英雄譚か? ――この配置、この配役で物語を創るとしたら、勝利と栄光に満ち、秩序の担い手たるパーンダヴァに、悪徳と悪逆、破滅の体現者であるドゥリーヨダナとの、国中を巻き込んでの大戦と言ったところか!! ――ははは!! だとすれば、とんだ笑い草だ!! 破滅の子である俺だけではなく、あいつらも国を滅ぼす一助を担うわけなのだからなぁ!!」

 

 狂ったように嘲弄するドゥリーヨダナであったが、傷を負ったままの状態であったためにどこかを痛めたのか、苦しそうに咳き込んだ。

 

「……出来過ぎた話だ、出来過ぎた環境だ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()! なのに、どうして誰もそのことに気がつかない!? どうして、不思議に思わない!? 少し考えれば、誰もが気づくことだろうが!!」

 

 悲鳴のような声だった。恐怖に慄く悲痛な叫びだった。

 自分自身を守るように、ドゥリーヨダナが動く片腕で自身の身を抱きしめる。彼の恐怖を示すように、褐色の肌には鳥肌が立っている。

 

 ――何時から、彼自身を取り巻く、完成され過ぎた環境の歪さに気づいていたのだろうか?

 

「――このことに気づいた時は気が狂いそうだった。――まるで寝物語に聞く英雄譚、書物で語られる伝説や御伽噺、オレたちの環境はあまりにもそれらに似ている――似過ぎている!! であれば、今ここに居るオレは何だ? わたしがこれまでに積み重ねてきたことは? わたしが、オレが王になるためにやってきたことは!?」

 

 狂人のような叫び声だった。死地に追いやられた獣の雄叫びのようだった。

 事実、常日頃から飄々とふてぶてしくあるこの王子の中に、これほど鬱屈した感情が封じ込まれていたなんて、誰が予想できたのだろう?

 

「何より、父上がわたしを子供の頃に殺さなかったのは、父親としての愛情などではなく、いずれ来るべき英雄の物語を完遂させるための要素としてだったのか!? ――だとすればいっそ、気が狂ってしまった方がマシではないか!!」

 

 ガリガリ、と短い爪が褐色の肌を削っているのに気づいて、ようやく体が動いた。

 短い悲鳴を口内で噛み殺して、荒れ狂う内心の影響で自傷に走っているドゥリーヨダナの手を止めるべく、その手を掴もうとすれば――それよりも先に、伸ばされた腕が俺の襟首を掴み寄せた。

 

 今までに見たことのない険しい表情、呪詛を吐くような声、震える指先。

 冷静であろうとして、それでも内包する感情を抑えきれない、そんなドゥリーヨダナ――これこそが、彼が今まで隠し続けてきた本心なのだと、いやでも理解できた。

 

「――なぁ、教えてくれ、姉上殿! いと尊し天上の佳人、誉れ高き天上の御方、万物の創造主たる梵天の系譜を受け継ぐ者よ!! ――我々は、人間は、オレたちはいったい何なのだ!? 今、ここにあるわたしの意思は本物なのか? それとも、お前らの無聊を慰めるための舞台の役者として演技をしているだけなのか!?」

「ド、ドゥリーヨダナ……待って、待ってくれ」

「わたしが家族に向ける愛も、心も、全て意味がないのか? 父上がオレに告げてくれていた言葉も、愛情も、全てが物語を円滑に進めるために造られた感情でしかないのか!? ――だとすれば、わたしはいったい何を信じればいい? それとも、信じるべきことなど、信じられることなど、神々の被造物たるこの世界には、欠片も存在していないというのか?」

 

 襟首を握りしめるドゥリーヨダナの指先に付着していた赤い血が、俺の衣服に移る。

 じわじわと滲んでいく真っ赤な血に、だんだんと苦しくなる呼吸に、ぎらぎらと睨んでくるドゥリーヨダナの眼光の鋭さに、なんと答えればいいのかと混乱してしまう。

 

 ――どうすればいいのだろう、どう答えてやればいいのだろう。

 

「どうなのだ、姉上殿! この地上にいる神の化身、人ならざる神秘の体現者よ! 世界の管理者、傲慢な神の一柱として、あなたは、お前は! この忌み児の問いに、何と応えるのだ!?」

 

 天に住まう太陽神との接続を切られた俺では、ドゥリーヨダナの怒りに、憤りに、何と答えていいのか、どうやったら答えられるのかが分からない。凝縮されたドゥリーヨダナの怒りの一端、疑問の切れ端、燃え盛るような激情に、どう対処してやればいいのだろう――そして、何よりも。

 

 ――心の中で血の涙を流す青年を、どうやったら泣き止ませることができるのだろう?

 

「ドゥリーヨダナ、ドゥリーヨダナ。――お願いだ、少しだけ力を緩めておくれ。……人の身を象っているこの器のままでは、息ができないと……お前の言葉に満足に応えることさえ出来ない」

 

 ――想いが伝われ、と心から願ったのは初めてだ。

 ――泣かないで、と誰かのために祈ったのは初めてだ。

 

 何もかも……何もかもが初めてだ。

 

 人に悪意を向けられたのも、負の感情を一身に浴びせられたのも。

 こうやって、神々への目に見える形での疑問を、煮えたぎるような怒りを直接ぶつけられたのも、何もかもが初めてだった。

 

「なか、泣かないで、ドゥリーヨダナ。ごめんなさい、俺は、俺は神としては欠陥品だし、人としても未熟者で……お前の嘆きを取るに足らぬものとして一蹴するには……不完全で、お前の怒りに同調するには……力不足だ」

 

 襟首を絞められているせいで、途切れ途切れにしか言葉が出てこない。

 人の身を模して造った器の中心、胸元にあたる箇所がじくじくと痛み出すのはどうしてか。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ドゥリーヨダナ。――でも、お願いだ、どうか、泣かないで。お前が泣くのは何というか――ここ、ここがどうしてだか、苦しくなる」

 

 ぎりぎり、と締め上げられる襟首に置かれた手をそっと左手で包み込み、もう片方の手で自身の心臓のあるあたり、胸元の上で拳を握りしめる。

 

 胸が張り裂けるような悲しみ、という言葉の意味を、俺はようやく理解できるようになった。

 

 ――嗚呼、そうだ。ここが痛い、ここが苦しい。

 誰かの見えざる手で絞りあげられるように、胸の奥が――とても痛くて苦しいのだ。




<考察、という名の感想>

 正直、こんな針のむしろのような環境なら、性格がすごい歪んで身分を笠にきて周囲を虐げるようなろくでなしになったとしてもおかしくはないと想像してしまうくらい、ストレスフルな生活を送っていたのではなかろうか……と。
 原典を読む限り、ドゥリーヨダナさん、絶対に頭のいい人だったと思うのですよ。(時々、ポカもするけど)

 であれば、自分の置かれている環境とか、周囲からの偏見の眼差しについて考えずにはいられなかったのではなかろうか、と。そうして、自身を有する社会制度に疑問を感じていたからこそ、あの競技大会の時に王子に引けを取らない実力の持ち主であるカルナを侮辱した人々へ、おかしいのではないか、と一石を投じられたのではなかろうか、と。

 私たちは原典を読者として(ある意味)神の視点から見ることができますが、その当時を生きていた人にとってはあまりにも出来すぎている世界に気持ち悪ささえ感じていたとしても可笑しくないよなぁ……と、思いました。

 ましてや、生まれた時から勝手に破滅の子扱いされて、陰口叩かれまくって、従兄弟の半神には弟たちを虐められたら、そりゃあ神々への怒りと不信感MAXになっても可笑しくないよねぇ、と。

 タグの独自解釈、とはこのことさ!

(*パーンダヴァの長兄は迷わない人、次男は考えない人、三男は迷える人。そして、ドゥリーヨダナは考える人、です*)


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唯一の本当

毎度のことながら、誤字報告や小説への評価、および評価コメント・ご感想をありがとうございます。
本来のプロットでは、第三章にて賭け事騒動までやるつもりでしたが、キリがいいのでこの<婿選び式編>で締めくくろうと思います。




 ――ドゥリーヨダナ、ドゥリーヨダナ。

 破滅を予言された子、王国を滅ぼすために神々に配された因子、悪であれと望まれた人の子よ。

 

 彼の心が、天上の見えざる手によって記された脚本の筋書き通りに悪徳と邪悪に満ち、人を人とも思わぬ畜生のような悍ましさを宿すような、嫌悪されるべき人柄であったのなら。

 

 父の愛を、母の愛を、兄弟たちから向けられる良き感情を貪るだけ貪って、無為に無価値に消費することのできる、浅ましい人間性を宿していたのであれば。

 

 王国の継承者として、父王が父祖から受け継いだ領土を守ることに何の意味も見出せない、怠惰極まりない邪悪な性格の持ち主だったとしたら。

 

 身分を傘に下の者たちを酷使し、愚弄し、人を人とも思わない残忍性と酷薄な人間性を宿していたのであれば――そんな悪性に満ちた人間であったのならば、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――現実はそうでないから、ドゥリーヨダナはこうも苦しんでいる。

 逆説的に言ってしまうのであれば、彼はそうした悪性とは相反する善性を有しているが故に、こうも苦しみ続けているのだ。

 

 それが理解できて、それが理解できたと自覚した瞬間。

 ――今、この瞬間ばかりは、天界と繋がっていない自分自身の状態に心の底から感謝した。

 

 ――よかった、と心底思う。

 カルナに対する優しい想いと同じくらい、俺は俺として、ドゥリーヨダナの抱く悲しみを、怒りを、ほんの僅かであったとしても、理解することができる。

 

 太陽神(スーリヤ)の人形でしかなかった自分という存在に、なけなしの人間性が宿ったのだと、彼らと同じ心を持っているのだと、ほんの少しだけ自分の在りようを誇ることができる。

 

「――お、俺も、同じことを思った……ことが、ある。昔、カルナがまだ俺よりも小さかった頃、どうしてこんなにも同じ世代に、大勢の神の子が生まれて――いるのだろう、と考えて、気味が悪くなった」

 

 ――カルナとドゥリーヨダナ。

 母に捨てられた日輪の落とし子、忌み児として偏見の目で見られる王子。

 あの競技大会での出会いを通し、二人は主従関係を結び、友としての絆によって繋がれた。

 

「その上、カル、カルナは……あの子は強すぎる。俺が思っていたのよりも、遥かに……戦士としても、神の子としても……なら、きっと……」

 

 ……この二人であれば、神の子たるパーンダヴァ五兄弟であったとしても、生半可な力では打ち倒せぬ強大な敵として、さぞかし打ち倒されるのに相応しい敵役になれることだろう。

 

「この世界を疑問に思っているのは、俺も同じこと……だけ、れ、ども」

 

 ――嗚呼、だけども。そうであるのかもしれないけども。

 それより先に、尋ねなければいけないこと、問い糺しておかねばならないことがある。

 

「お、お前は父王の愛情が偽物なのかもしれないと、そう、尋ねたな? ――そ、れに、俺は質問で返すぞ……?」

 

 ――あの日の光景を思い出す。

 身分を問われ、萎れた花の様に口を噤むしかなかったカルナへとドゥリーヨダナが颯爽と助け舟を出してくれた時のことを――あの輝かしい瞬間を思い出す。

 

「あの時、人々の侮蔑の目からカルナを助けてくれたのは、カルナと友達になりた、い、と俺に告げた、お前の言葉は、お前がカルナに対して持っている……友人としての気持ちは、その感情は、全部、全部偽物なの、か――? お前の意思で、お前の心で、お前の言葉で決めて、形にしてくれた関係性や決意では……なかったの……か?」

 

 ――苦しい、苦しい、苦しくて堪らない。

 

 昔にも、同じ気持ちになったことがあった。

 あの時の痛みは、カルナを想うことによる幸福な感情から生じる、俺自身の理解していない正の感情によって生み出されたものだった。けれども、今の俺が感じている胸の痛みは、あの時とは違う感情によって生み出されている。

 

「…………」

 

 ――黒々としていたドゥリーヨダナの瞳が揺らぐ。

 

 嗚呼、それにしても惜しいことだ。

 今の彼の瞳には、俺が好いた、美しいと認めた、彼自身の意思の輝き、水晶のような煌めきが見当たらない――見つけられない。

 

 こんなにも近しい位置で彼の顔を、彼の目を見れたのは初めてなのに。

 カルナの碧眼とはまた違う、あの心を奪うような黒水晶の輝きを確認できないのは、なんて勿体無いのだろう。

 

「お、お前が、お前自身の言葉が他者によって決定づけられているものなのだと、そう思うのであれば、それは……それで結構だ。――だったら俺は……兄として、あの子を守る。お前の側になんか置いてやれない、どんなにカルナが嫌がっても、断ったとしても、絶対にお前からあの子を引き離す――だって、そんな友達甲斐のない自称・親友なんて、カルナを傷つけるだけだもの……!」

 

 神々は人の心を乗っ取り、操ることはできても、それはあくまでも一時的なものだ。

 恒久的に、意志持つ存在を、心ある生き物を、意のままに支配することは叶わない。

 それでも、そうした一時的な行為だけでも人間一人破滅させるのは容易いし、何か不都合なことがあればそうやった手段で対処できる。何より、篤信深い人々に対しては、天界からの囁きや降臨という形でのお告げ、霊夢や聖仙の助言によって人間を動かすだけで問題ない。

 

 だから、偽物なんかじゃないのだ。

 ドゥリーヨダナの父王が彼の命を惜しんだ心も、ドゥリーヨダナがカルナへと贈った言葉も、偽物なんかであるはずがない。

 

 ――――いいや、()()()()()()()()()()()()()――!!

 

「――……姉上、殿……。あなたは……」

「ごめんなさい、ドゥリーヨダナ。……君の人生を狂わせた奴らの一柱として、俺は君に何と答えてやるのが正解だったのだろう? 俺ではなく、ワタシだったら、きっと、もっと別の答え、があったと、心底思うよ」

 

 ――泣かないで、悲しまないで……と願う。

 笑っていて欲しい、笑顔でいて欲しい……とカルナ以外の相手に初めてそんな思いを抱いた。

 

 そっと、大気にさらされている頰を指の腹でなぞる――彼の心の傷が、ほんの少しでも癒えますように、と切に願わずにはいられなかった。

 

 ……普段は陽気で豪快で、自信に満ちているドゥリーヨダナ。

 流れる水のように滑らかな声音で歌うように毒を吐き、神の子相手であっても臆することなく皮肉を言い放つ度胸の持ち主で、神霊相手にも不遜な態度を崩さない――そんな悪辣王子。

 

 憎んでいる存在()の前で、そのような態度を取り続けることは、彼にとってどれほどの苦痛だったのだろうか。――ましてや、半分は人の血を引くカルナとは違い、俺は真性の神霊なのだ。

 

 偏見や蔑視に囚われず、ドゥリーヨダナを個人として見ているあの子とは違い、俺は最初からドゥリーヨダナを、予言や巷の噂に基づいた不吉な王子扱いをしていた。

 

 ――ドゥリーヨダナからしてみれば、まさしく噴飯ものの所業であったことだろう。

 

「……ここに、カルナがいなくて良かった……と心底思うぞ。――オレは、わたしは、カルナにだけは、こんな自分の姿を見せたくなかった。――自分を捨てた母を恨むことなく、自分の出自を愚弄する連中に歪められることなく、愛すべき家族と父の威信のために、誉ある生き方を貫こうとしているあいつのように……――」

 

 ――徐々に、襟首を締め上げる手の力が緩んだ。

 訥々と喉の奥から絞り出すような声を出す、苦しそうな顔のドゥリーヨダナ。

 

「――わたしは、あいつのような生き方は出来ない。そんな生き方はしたいと思えない。ああ、それでも――」

 

 ……そっと、その手に触れる。

 楽師として、ましてや今は女の体である俺なんかよりずっと硬くてずっと逞しい手をしている。

 いつぞやの第三王子にも、否、カルナにだって匹敵する、努力と修練を重ねた、人間の掌だ。

 

「ああ、そうだ……。それでも……わたしは、あいつに相応しい友人でありたいと――」

 

 ただの戦士ではない証明として、長い指は節くれ立ち、節々に胼胝がついている。

 神の子に負けぬ戦士として自らを鍛え上げ、神の子にも劣らぬ王国の継承者としての彼の自負を示すような、そんな手をしている。

 

 ……見つめる先で、泣きそうな顔のドゥリーヨダナが、透き通った儚い笑みを浮かべる。

 

「――あの夜に、あいつがわたしの誘いに頷いてくれた時から、ずっと、ずっと思っている」

 

 ――努力を重ねて来た手だ、職務を果たして来た手だ。

 ワタシと俺が愛おしむべき、庇護すべき、育むべき、人間の手をしている。

 自分の現状に腐ることなく、諦めることなく、捻じ曲がることなく、役目を果たして来た、尊ぶべき人の子の手をしている。

 

「……この気持ちが嘘だなんて、そんなことを思いたくない! 武術競技会の時に口にした言葉だって、全てわたしの本心だ! ――ああ、そうだ。妬みも怒りも、恨みも憎しみも、喜びも楽しみも、友情も家族への愛も、世に悪だと称される感情も、善とされている感情も、王になりたいという、わたしの野心も野望も、全て、全て――()()()()()()()()()!!」

 

 ドゥリーヨダナの態度に、常の太々しさが戻って来た。

 好戦的な笑みを浮かべる彼の瞳が、キラキラとした黒水晶の輝きを取り戻す。

 

 嗚呼、良かった――と心底思った。本当に、安心した。

 襟首をつかんでいた指先が優しく解かれる。途端、楽になった呼吸活動にここぞとばかりに酸素を吸い込んでいたら、ドゥリーヨダナが自分を見つめていたのに気づいてた。

 

 黒水晶の輝きが少し陰り、やや思わしげに隻眼が俺の目を見つめ返した。

 

「――姉上殿、いや、アディティナンダ」

 

 そっと囁くように、ドゥリーヨダナが謝罪の言葉を紡ぐ。

 

「――あなたを殺そうとして、本当に申し訳なかった。あなたは、世界の管理者()ではなく、カルナの兄……家族としての立場を貫くのだと、これではっきりした。――であれば、わたしのしたことは、カルナの信頼を裏切り、あなたのカルナへの愛情を踏み躙る、そんな最低な行いだった」

 

 ――だらり、とドゥリーヨダナの腕が床へと滑り落ちる。

 乱れ、ほつれた黒髪が垂れ、彼の顔の陰影を色濃いものとする。ゆらゆらと揺れていた影法師も、彼自身の内面の揺らぎが収まったことでひとつの影へと収束していた。

 

「――あなたが神なのか、それともカルナの兄なのか。カルナの兄であるにせよ、それすらも神々の思惑に基づいてカルナという戦士を強力な手駒として用いるために行動を共にしているのか、それが分からなかった――」

 

 あなたの感性がどちらに属するものであるのか、どうしても判断することができなかった。

 そう、ドゥリーヨダナは独り言ちる。淡々とした声、凪いだ声だった。

 

「わたしの識る、神というものは、絶望的なまでに変わらないものだった。彼らにとって正しいことを為すために、どのような手段も詭弁を用いたとしても、可笑しくはない存在として――わたしは認識している。だから、あなたもそうだと思っていた」

「そうだな……。お前のそれは間違っていないよ。――神々とは、本来ならば、そういうものだ」

 

 ――俺は、と小さく呟く。

 ドゥリーヨダナの言葉に対して、俺も俺自身のことをはっきりと告げるべきだと、それが彼への礼儀であり本心を赤裸々にした彼への真摯な対応だと、思った。

 

「――俺は、()()()()()()()()()()()。どのような神であれ、何らかの役割や権能を抱いて誕生するものなのに、俺は自分が何のために存在する神霊であるのか、この地上に来るまでに何を司っていたのか、それすら知らない……()()()()()()()()

「――何だと? そのような神霊があり得るのか?」

「――()()()()()()()()()()()。俺が地上で目覚めた時にわかっていたことは三つ。俺は太陽神であるスーリヤの眷属であるということ。俺はスーリヤからの命令で、末の息子であるカルナを探して庇護しなければならないこと。――そして、あの子を……いや、これはどうでもいいか」

 

 ――それ以外は、本当にさっぱりだった。

 地上で過ごすための知識も教養も十分にあるのに、自分自身がわからない。

 わかるのは使命だけ。それこそ、自分が何をしなければいけないか、という機能的な内容だけ。

 

 自分と太陽神との関係性――縁者であることは明らかだが、その詳細が分からない。

 自分とカルナとの関係性――庇護すべき対象だが、そもそもその存在に詳しくない。

 自分が果たすべき責務――それも、今となっては果たすべき事柄とは思えない。

 

 それ以外に覚えていたのは、かつての自分が強大な力を恣に行使できたこと、本来ならば地上にいるべきではない存在であること、何よりも神と呼ばれる人外であること、といった根源的な事柄だけだった。

 

「――それこそ、白紙に三つだけやるべき条文が記されているような、スカスカ具合でな。だからこそ、アディティナンダと名乗ってカルナの兄として振舞えてもいるし、不完全であるとはいえ、人間性の真似事ができるし――」

「――不変であるべき、という神々の柵からも解放されている……という状態なのか」

 

 ドゥリーヨダナが言葉を続けてくれたので、そうだと頷く。

 その結果、人間を理解したいと願った俺と神性の体現者であるワタシに、綺麗に分割されちゃったのだけども、これは黙っておこう。正直に言って、ややこしいだけだし。

 完成された完璧な存在である神霊として存在するには、俺の抱えた欠落は大きすぎた。

 そのせいで、“アディティナンダ”と言う余分な自我が誕生してしまったのは、大元である太陽神にとっても予想外だったろう。

 

「――俺にとって、世界で一番大切なのはカルナだ。あの子を守るためなら、なんだってするよ。そのせいで、いつの日か神々の怒りに触れて消滅したり、俺という個我を失ってしまう日が来るのかもしれない――だけど、それでも俺はカルナを守りたい」

 

 ――――あの日、自分自身に誓った誓約を思い出す。

 あの誓いは何年も経過した今でも失せることなく、この胸に根付いている。

 

「だからこそ、あの子の家族として、生涯その味方でありたいと、その意思を尊重したいと思う。俺の全ては何もかもが創られたものでしかないけれど……」

 

 本当にどうしようもない、と苦笑する。

 そうして、目の前でやや呆然としている様子のドゥリーヨダナにそっと呼びかける。

 

「……それだけは、俺の有する唯一無二の真実(ほんとう)だと思ってくれていい」

「…………カルナの家族であるアディティナンダに、重ねて謝罪を。わたしは自分が卑怯で狡賢い人間だと自覚しているし、そうした手段を取るのに躊躇いのない人種だが、それでも、友と呼んだ相手の家族に対して、このような不実な手段を取るべきではなかった――本当に、済まなかった」

 

 ――王族の為す最高礼をとったドゥリーヨダナに、首を振る。

 きっと、今回の一件で悪いのは、責任を有しているのはドゥリーヨダナだけではない。そうなった要因の一つとして、俺がドゥリーヨダナという個人をきちんと認めていなかったこと、彼を理解しようとしていなかったのも原因だった。

 

「――俺の方こそ、ごめんなさい。出会った時から、あの競技会の時から、俺は君を無自覚に傷つけ続けてきた。カルナのことだけしか考えていなくて、神霊として振舞って、君の心を軽んじた。いくら君の擬態が完璧だったとはいえ、それでも俺は君の厚意に甘んじるべきではなかった」

 

 ドゥリーヨダナが難解で、複雑で、ややこしい性格の持ち主であることに気づいていたのに、それに対して見て見ぬ振りをした。表向きの性格とは相反する繊細な感性の持ち主であることに感づいていたくせに、深くそれを意識することをしなかった。 

 そうなれば、神という存在に疑心を抱いているドゥリーヨダナが、何かをきっかけに俺のことを信じられなくなったとしても仕方のないことだった――そもそも、作り上げるべきだった関係性に基づいた信頼自体が俺たちの間にはなかったのだから。

 

 ――そう告げれば、それまでとは違う、どこか和んだ空気が天幕に充満する。

 これから俺とドゥリーヨダナが、腹を割って話し合わなければならないこと、片付けなければいけない問題はそれこそ山積みだ――だけども。

 

 お互いに肩の荷を下ろしたような気分、肩の荷が下りたような、すっきりとした心境になれたのだと、不思議とドゥリーヨダナと共感できた。

 

「――それで、俺たちはこれからどうする? 今までみたいにカルナを通してでしか繋がれないのも居心地悪いし……、なんという関係性が無難なのかなぁ?」

「……そうだな、それについてはこれから考えることにしよう。……時を重ねることで明らかになっていく関係性もあることだし、わたしたちの場合はそうしていったほうが良さそうだ」

 

 何せ……、とドゥリーヨダナがげっそりとした表情を浮かべる。

 それに相対している俺自身も、彼同様に遠い目をしていることは確認するまでもないだろう。

 

「いかなる関係性を構築するにせよ、まずは外の騒ぎを収めなければならんからなぁ……」

 

 頭痛がすると言わんばかりに額を押さえ、肩を下げたドゥリーヨダナに、頷いて返した。

 一難去ってまた一難とはこのことだろう。

 

 ――どうやら、俺の長い旅はもう少しだけ続くようだった。




――ちなみに、こんなにいい話をしていたのに、天幕の外では怪獣大戦争が起こっていたのであった。

カルナ「……呼んだか?」
アルジュナ「呼びました?」

(*とりあえず、「もしカル」では神々であったとしても恒久的に人の心や感情を操るのは無理です。思考停止に陥らない限り、人間の心は自由です(白目)ということにしております*)
(*うわー、うわー。これから、どんどん救いのない話になっていくのだと思うと、うぅ……心が痛い。こうなったら、泥グチャルート<解答編>を書いて、心の準備をしておくべきか……。おかしい、自分はスーリヤ一家が幸せに暮らしている情景を描きたかったのに……ドウシテコウナッタ*)


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太陽の輝き

ちょっと、アルジュナ視点の「幕間の物語」の設定を受け継いでおります。
多分、次で第三章は最後になると思います。あー、長かった。


 お互いに本音でぶつかり合うことに夢中になりすぎていて、外界の様子がちっとも耳に入ってこなかったが、こうやって冷静になると、現在進行形で天幕の外側に惨状がもたらされていることを察知せずにはいられなかった。

 

 耳を澄まさずとも聞こえて来る、破砕音をはじめとする無数の轟音。

 荒れ狂う暴風雨の奏でる暴虐の音色に、業火となって燃え盛る炎熱の轟。

 空を走る稲妻の怒涛の怒声に、灼熱に焼かれる大気の叫声。

 

 ――どう控えめに見積もっても、外で大災害がもたらされているとしか思えなかった。

 

「…………カルナだな」

「…………カルナだね」

 

 無数の矢によって切り裂かれる風の金切り声、劔が打ち合う金属音。

 何か重量のあるものが激突するような轟音、巨木の倒れる重低音。

 建物が崩落する際に生じる地響きに、大地の抉れるような破砕音。

 

 愛嬌のある引き攣った笑顔を浮かべたドゥリーヨダナが、片手を上げて提案する。

 

「あー、その。このまま、騒ぎが収まるまで天幕に引きこもっている……というのはどうだろうか? ほら、わたし、あなたの弟のせいで重症人だし」

「すごく魅力的かつ責任を感じさせるお誘いをお断りすることになって、心苦しいのだけども……ほら、部下の不始末は上司の役目だし……な、頑張れ?」

 

 嫌だー、出たくない〜、と虚ろな目と声で呟くドゥリーヨダナの頰に、そっと左手をやる。

 驚いて目を見張ったドゥリーヨダナに小さく微笑んで、頰を撫ぜた左手を首の付け根へと回す。

 

「な、なななななな………!?」

 

 素っ頓狂な声をあげたドゥリーヨダナに構うことなく、そっと目を閉じて意識を集中した。

 触れた指先を中心に、金の鱗粉を纏った朱金の炎が、薄い薄衣のようにドゥリーヨダナの全身を覆い、包み、そして――()()

 

「――これでも神霊だからな。普段はカルナが怪我しないせいで機会が少ないだけで、俺とてこれくらいのことはできるんだぞ?」

 

 左目の周囲、右顔面、右手、脇腹、左腕……、と!

 カルナの拳一撃と離宮の崩落に巻き込まれただけあって、決して軽症とは癒えない負傷具合ではあったけど、この程度であればまったく問題ない。

 

「――そら、喜べ! これで怪我は治したぞ」

「本当だ……。まったく問題がない……。――それにしても、驚いたな」

「何に?」

 

 服の内側で吊るしていた右腕を動かし、顔面の半分を覆っていた包帯を取り外しながら、ドゥリーヨダナが意外そうな声を上げる。それに小首を傾げれば、ようやく揃った二つの黒水晶がキラキラと悪戯っぽく輝きながら、俺を見やる。

 

「――それは、あれだ。あなたがカルナ以外の人間に、こんなことをすること自体が、だ」

 

 ……ふむ、と小さく頷いた。

 確かにこれが初めてなのかもしれない。弟に頼まれたわけでもないというのに、俺が自発的に動く形で、誰かの傷を癒すような真似をしたのは。

 

 ――素直に面白いな、と思う。

 

 カルナ以外の人間相手によってもたらされる経験も、ドゥリーヨダナのもたらしたそれも。

 性格も境遇も立場も違う二人がもたらすモノは、何もかもが初めて尽くしで――――とても新鮮ですらある。

 

「――そうだな。カルナに会って以来、本当に俺は変わった……と、思う。それこそ、地上に堕とされたばかりの頃の俺では考えられないくらいに。」

 

 ……それは、間違いない。

 あの頃の、灰色の機械人形の様だった俺と今ここでドゥリーヨダナと言葉を交わす俺。

 義務に過ぎなかった末弟の保護をその領分を越えて護ろうという意思を抱いた瞬間からか、それともまた別の何かがきっかけだったのか――それは、わからないけれど。

 

「――だとすれば、面白いな。神霊ゆえの完璧さを喪ったことでこんな風に変われるなんて……不完全であるが故に変化が生まれるのだとしたら……それって、かなり歓迎すべきことなのかも」

 

 ふふ、とはにかめば、手早く身なりを整えたドゥリーヨダナが謝意を込めて俺の肩を軽く叩く。

 それから、柱の一つに立てかけていた棍棒を持ち上げ、そのまま出口へと向かう。

 その堂々とした背中に遅れてなるものか、と俺もその背中を小走りに追いかけた。

 

「それにしても、カルナ一人だけにしては音が大きいというか……。先ほどから雷鳴が聞こえてくるし……インドラでも降臨して、会場で暴れまわっているのか?」

 

 王子の負傷を隠すために天幕内にくまなく張り巡らせていた垂布。

 それらを面倒くさそうに手で払いのけながら、ドゥリーヨダナが思わず、と言った様子で呟く。

 

「インドラ? ――……あ!」

 

 それを耳にして、まあまあ大事なことを思い出して、意図せずして声が上がる。

 ――その途端、胡散臭そうな眼差しでこちらを睨め付けたドゥリーヨダナに、さっと視線をそらして下手な口笛を奏でれば、がしりと肩を掴まれた。

 

「その様子だと、何かを知っているな? ――さあ、吐け。サクサク吐け。でないと、上司権限でカルナを僻地まで遠征に出させるぞ?」

「そ、そんな横暴な! 圧政反対、理不尽上司!」

「やかましい。半神だろうがなんだろうが、わたしの部下になった以上は、相手の正体が何であれ、絶対にこき使うと密かに誓っている――で?」

「――えぇ……と、怒らないで聞いてね?」

 

 かくかくしかじかでパーンダヴァの第三王子との間に起こったことを、できるだけ簡潔にドゥリーヨダナに説明したら、頭痛がすると言わんばかりに頭を抱えられた。

 

「――敵に塩を送るにも程があるぞ……!」

「だ、だってぇ!! 俺だって、あの王子様がそんなことを教えてもらいたいと言ってくるだなんて、想像していなかったんだよ! てっきり、宝玉とか武器とか、そう言った品物を要求されると思って……! でも、ごめんなさぁい!!」

 

 もう、こればっかりは仕方がないし、どうしようもない。

 そもそもの話、神霊が一度口にしたことを違えることは最大の禁忌なのだ。

 これは、神霊の格を問わずに存在する縛り、あるいは制約のようなもので、彼のインドラや三大神でさえ、その例外ではないと言っていい。

 

「――まぁ、いい。元はと言えば、わたしの失策により始まったようなものだからな。……とは言え、カルナだけではなく、アルジュナもか……」

 

 深々とため息をついたドゥリーヨダナがやや呆れたように肩を竦めると、何に引っかかったのか、やや訝しげに眉根を寄せる。しばし熟考したものの何も考えつかなかったのか、まあいいかと言わんばかりに軽くかぶりを振った。

 

 

「――……帰りたい」

 

 天幕を出て早々、ドゥリーヨダナの口から出たのはこの一言だった。

 その気持ち、本当によくわかる。というか、理解できる。

 

 いや、俺もドゥリーヨダナも覚悟はしていた。天幕の内側から聞こえてきた、まるで戦場のような不穏な響きの数々に、絶対に外には惨状が広がっていると確信さえしていた――とはいえ。

 

「ここまで、ここまで、だったとは…………」

「いやー、ははは。きっと、誰も止める人がいなかったんだろうね」

 

 豪奢な刺繍の施された飾り布、今が盛りと咲き誇る大輪の花々。

 子々孫々に伝わってきたのであろう緻密な細工の施された飾り家具。

 着飾った紳士淑女、猛々しい武具に身を包んだ兵士。

 装飾品が目に眩い王侯貴族に、目にも彩な衣装をまとった魅惑的な肢体の踊り子たち。

 バラモンたちの聖句を暗唱する厳かな響きや観衆たちの熱狂、楽師たちの奏でる優美な音色の楽曲によって彩られていた式場は――ひどく様変わりしていた。

 

「まるで、嵐が通過した後のようだな……」

「それか、火災現場の跡地、なのかもね……」

 

 婿選びという特別な晴れの日のために設えられた会場の設備は崩壊し、櫓や観客席、王族用の観覧席などの一部を除けば、往時の賑わいぶりを思い出すことさえ厳しそうな惨憺具合。

 

 崩落した組み木細工の肌を舐める真紅の炎に、稲妻の直撃を食らったのか焼け焦げている大木の残骸、見えない巨人の手によって薙ぎ倒されたような天幕の数々。

 

 何かが激突したせいでところどころ罅が入ったような王宮の外壁に、真上から打ち砕かれた祭壇、大小様々な上に深さがそれぞれ異なる陥没した大地。

 

 婿選びの会場は煤や灰、土埃や泥に塵芥によって飾り付けられ、廃墟のような塩梅であった。

 

「下手すれば、この惨状がわが国でも起こり得ていたということか……」

 

 俺、というよりも腕輪の守護の範囲内にあったがために無事であった先ほどの天幕だけが、何事もなかったかのように佇んでいるのを、死んだ魚で確認したドゥリーヨダナが、力なく呟く。

 

 それに内心で同意して、地上を見ていた視線を上――上空へと持ち上げた。

 

 太陽が地平の彼方へと沈みきってしまった上に、重々しい暗雲で覆われている。

 新月の夜の様に、光源が限られた中でも目立っているのは、二つの閃光が放つ煌めきであった。

 

 一つは、天空をものすごい速さで移動する真紅と黄金の輝き。

 もう一つは、大気を自在に操り稲光を放っている純白と紫電。

 

 どちらも互いには負けぬとばかりに輝きを放ち、互いに互いを喰らい合うかのようにぶつかり合い、軋めき合い、弾き合いながら、縦横無尽に空を駆け巡っている。

 時折、天からは落雷や灼熱の光球が降り注いでいるが、あまりにも高所で戦っているせいか、地上に落ちる前に確固たる形を失い、被害を出す前に霧散してくれるのが数少ない救いであった。

 

「ダメだ。あの位置じゃ、こっちからの声も届かない。仮に、あの位置まで飛んだとしても、戦闘に夢中になりすぎて気づいてもらえないよ」

「あーこれだから、戦うことしか関心のない生粋のクシャトリヤは苦手なのだ……。いや、あやつらはあの鳥頭よりは聞く耳持っているだけマシなのだが……。――とはいえ、そのせいで、わたしが王国を回すのにどれだけ苦労していると……予算が無尽蔵に湧くわけないだろうが……!」

 

 ブツブツと呟いているドゥリーヨダナ。

 相当日頃の鬱屈が溜まっていたようで、生気の欠片もない、虚ろな目をしている。

 そういや、ドゥリーヨダナってば、王宮の金庫番だったよなぁ。戦争にはお金かかるっていうし、そうした細々とした責務も彼の仕事だとしたら、かなり大変そうだ――いや、大変なんだな。

 

「――――なぁっ!? 貴様、ドゥリーヨダナ! 今までどこに引っ込んでいやがった!」

 

 戦いに夢中になりすぎて、お互いの姿しか見ていない――見えていない、と想定される二人の戦士を止めるためにはどうすればいいのか、ドゥリーヨダナと一緒に唸っていたら、瓦礫の山を掻き分けながら誰かがやってきた。

 

 暗いせいで、よく見えない。

 無事に立てられたままであった天幕横の松明の灯りの届く範囲にその人影が踏み込んできたおかげで、それが誰なのか判明した。

 

「――っち! ……ビーマセーナか。……ふん。自分の弟の落とした稲妻にでも直撃していれば、さぞかし愉快だったものを」

 

 本当に、こいつは上品に舌打ちをするなぁ……。

 

 おかしな物言いだが、品のある響きと仕草で舌を鳴らしたドゥリーヨダナ。

 しかし、その数秒後には興味も失せたと言わんばかりに、天空の二人へと視線を移す。

 当然のことながら、嫌味を言われた上に毒を吐かれた側も黙ってはいない。

 

「毎度のことながら、随分な挨拶だなぁ、おい! 第一、ヴァーラナヴァータでの屋敷の一件、貴様が全くの無関係だとは言わせんぞ!」

「――何を言う。そもそも、あの屋敷に火をつけて脱出したのは貴様ら自身ではないか。何故、貴様ら自身の行動の帰結に対してまで、このわたしが責任を負わなければならんのだ」

「うぐぐ……! ああいえば、こう言うところは、ちっとも変わらんな!」

 

 う〜〜〜〜ん。

 そもそも、燃えやすい材質で屋敷を作って暗殺計画を実施するようにと命令したのはドゥリーヨダナなんだけど、実際に放火したのはパーンダヴァ側であるだけに、ドゥリーヨダナの言い分の方が正しそうに思えるから不思議である。

 

「――それより、あの男をなんとかしろ! 貴様の飼い犬だろうが!!」

「飼い犬……? 生憎、幼い頃に可愛がっていた子犬が貴様のせいで圧殺されて以来、犬を飼うのは控えるようにしていてな。心当たりなど微塵もないのだが」

「いちいち嫌味ったらしい従兄弟だなぁ、全く!! ――カルナだ、カルナ! 貴様が武術競技会以来、雇い上げているあの身の程知らずだ! この惨状はあいつのせいだぞ!」

 

 この第二王子、全然変わらないなぁ……。

 これだけカルナが実力を見せつけても、アルジュナ王子に匹敵する腕前であると証明しても、彼の中ではうちの弟は相も変わらず身分の低い御者の養い子でしかないのだなぁ……。

 

 いつか絶対に、この暴言に対する報いをくれてやらぁ……!

 内心で静かに荒ぶっている俺を尻目に、米神を抑えたドゥリーヨダナが小さな溜息をつく。

 

 そうして、手にしていた棍棒でポンポンと自身の肩を叩き、黒水晶の双眸でジト目で睨みつけながら、次々と言葉の矢を第二王子目掛けて発射した。

 

「――であれば、その半分は貴様の弟のせいだろうが」

「うぐ」

「大方、わたしが引っ込んだ後に、アルジュナの奴が婿選びに参加したんだろうよ。そして、貴様のその仮装を見る限り、本来の階級を隠してバラモンとして参加したのは必須」

「ぐぐ」

「――あの優等生のことだ。さぞかし涼しい顔で試練を合格し、絶世の美姫を嫁として獲得したのはいいものの、他の王族達の顰蹙を買って大騒動」

「……んぐぐ」

「その騒ぎを聞きつけたカルナがアルジュナと対峙して、それからこんな大騒動に……と言うのが、一連の騒動のあらすじと言ったところか。おい、わたしのこの名推理に相違点でもあれば言ってみやがれ」

「…………」

 

 返す言葉もない第二王子相手に、ドゥリーヨダナが嫌味ったらしいとしか評しようのない、毒の籠った笑顔を浮かべて、なおも口撃を続ける。

 

「それだから、貴様らは人心に疎いと言うのだ。お前らのやることなすことは決して間違っていないが、だからと言って、それで誰もが納得すると思うなよ? そもそも、今回の一件も下手に身分を隠そうとするからそうなったのだ。最初から王族として参加していれば、騒動だって起こらなかっただろうに。――なぁ、親愛なるビーマセーナ?」

 

 い、嫌味ったらしい……! なんとも、嫌味ったらしい!

 全くもって正論なのだが、そもそも彼らが身を隠すきっかけとなった事件自体にドゥリーヨダナによる暗殺未遂が関わっているせいなのを、軽やかに棚上げして忘却の彼方に捨て去っているのがまた卑怯というか、なんというか……。

 

――(ビーマセーナ)を苛めるのはその辺にしておき給え、ドゥリーヨダナ

 

 ドゥリーヨダナの嫌味混じりの屁理屈に口を噤まざるを得なかった第二王子。

 苦虫を噛み潰した表情で沈黙せざるを得なかった彼を擁護するように、清水のように透き通った声が不意に辺り一帯に響き渡る。夕暮れに鳴り響く晩鐘のように、彼方まで木霊する玲瓏たる美声を耳にして、ドゥリーヨダナは隠すことなく顔を顰めた。

 

「――貴様か、ユディシュティラ。どこから話している?」

――パーンチャーラの王宮さ。(わたし)だけではない、会場から避難して来た民草たちや王たちも一緒だと伝えておこう

「……そうか。では、認めることは癪でしかないが、そいつらは無事なのだな」

勿論だとも。パーンダヴァの長兄として、正義を司るダルマの子として、(わたし)は正しいことしか口にしないから、信じるといい

 

 よほど、パーンダヴァの長兄が気にくわないのだろうか。

 話している相手が正面におらず、どこか遠いところから声を届けているのを逆手にとって、嫌悪感丸出しの表情を浮かべているドゥリーヨダナに、他人事ながらハラハラする。

 

「――それにしても、あの優等生がここまで戦闘意欲をむき出しにしているなんてなぁ……。ははは……! とうとう反抗期か?」

 

 ニヤニヤと揶揄してくるドゥリーヨダナに惑わされることなく、彼方より木霊する玲瓏たる響きは嘆息した。

 

……(わたし)の言葉も聞こえないほど、君の部下との戦いに夢中になっているとは。……あれはいけない、あれではいけない。あの子は“アルジュナ”だというのに。最優の戦士として人々の模範たるべく産み落とされたものであるというのに、あのように戦いに執心するなど……――あゝ、全くもって嘆かわしい

 

 ――うーん、そういうものなのかなぁ……?

 俺としては普段から控えめなカルナが戦闘意欲を剥き出しにしてまで戦いたいと、俺の声も聞こえないほどに熱中するものを見つけたのだとしたら、それは喜ばしいことだと思ってしまうし、よほどの事情がない限りはその心の赴くままに行動させてやりたいと思うんだけどなぁ……。

 

 わりかし、今の俺はカルナの家族としても兄としても成長したと思うのだけど、やはり真の長兄への道のりは遠そうだ……人間って本当に複雑だなぁ。

 

 悶々とそういうことを考えていたから、ドゥリーヨダナとパーンダヴァの長兄との間で話が進展していることに気づかなかった。気づけば、この場にいる面子だけでこの騒動を終息させる方向で決着がついてしまっていた。

 

――という訳で、ドゥリーヨダナ。あとは君がどうにかし給え

「はあっ!? このわたしにあの怪獣大戦争に横槍を入れろというのか、貴様は! ビーマにさせろ、ビーマに! こいつだったら雷に焼かれようが、炎に包まれようが、死なんだろうが!!」

……君はカルナの友達なのだろう? 無論、こちらとてビーマセーナに手伝わせるとも。けれども、君の部下のことまで面倒を見てやる気はないよ

 

 ――第一、(わたし)はこれ以上被害が拡大しないように王宮と街を守るのに忙しい、と冷ややかな口調で教えられ、ドゥリーヨダナが不満そうに口をへの字に曲げる。

 

 ……嗚呼、なるほど。

 道理で会場周辺は二人の戦いの余波でしっちゃかめっちゃかなのに、会場の外に見える町並みは綺麗なままなのか、と納得した。よくよく目を凝らせば、会場一帯をすっぽりと覆うように繊細な銀色の輝きが天と地に跨って存在している。守護の力の籠ったそれこそ、パーンダヴァの長兄の関与しているもので間違いない。

 

――では、二人のことは任せたよ。――ビーマセーナ、構わないだろう?

 

 その一言を皮切りに、不思議な余韻を宿した玲瓏たる声音からの呼びかけは途絶える。

 はぁ〜〜、とこれ見よがしに大きな溜息をついた第二王子が、心底不服ですと言わんばかりの顔つきのままドゥリーヨダナへとにじり寄る。

 

「……やい、ドゥリーヨダナ。兄上たってのご命令だから、今回限りは貴様に協力してやる。いいか? 今回限りだからな。せいぜい、地に頭をつけて感謝しろよ?」

「――ふん。素直に“自分の力だけでは弟を止められないから力をお貸しください、ドゥリーヨダナ様”とでも言えば良いものを。これだから神々の血を引くものは礼儀に欠けるのだ」

 

 目と目で火花を散らし合うドゥリーヨダナと第二王子。このままカルナと第三王子に倣って地上戦でもおっぱじめるのではなかろうか、とヒヤヒヤしたが、二人は同時に鼻を鳴らすと揃って反対方向へと顔を背けた。

 

「――それで? どうする気だ、ドゥリーヨダナ」

「こちらから声は届けられない、下手に介入もできない――か。まあ、何もあいつらの土俵に立ってやることはない。こっちは奴らを冷静にさせればいいだけだ」

「とは言え、普段物静かなアルジュナがああも猛っているのを見るとだなぁ……水をかけた程度では正気に戻るとも思えんのだが」

「…………なぁ、ビーマ。昔、二人で師匠(バララーマ)に不意打ちを入れるべく磨いた技を覚えているか?」

「あー、流石の師匠でも遠距離攻撃には気付くまい、と思って考えた、()()か……」

「そう、()()だ。幸い、お前の怪力であれば届かない距離でもあるまい。わたしの棍棒を貸してやるから、お前は何も考えずに振り抜け」

 

 ――ぽい、とドゥリーヨダナが手にしていた棍棒を放り渡せば、こちらを振り返ることのないまま、第二王子がそれを危なげない様子で受け取る。

 

 ――この二人、ひょっとしたら……いや、やめておこう。

 そっと首を振って、それ以上深入りすることを意識して留めておく。誰だって第三者に立ち入って欲しくない問題がある――誰にだって、だ。

 

「……壊しても知らないぞ」

「安心しろ。そんなヤワなつくりはしていない。――そうだな、そこの瓦礫とかどうだ。あの大きさをぶつけられたら、流石の奴らも正気に戻るだろう」

「そうかぁ? それよりもその柱はどうだ? 当たったら痛そうだ」

 

 軽口を叩き合いながら、互いに背中を向けあいながら、周辺を物色する二人の後ろ姿を見ていると、どうしてだか悪ガキ二人が瓦礫の山で仲良く巫山戯あっているように見える。

 

 気が置けないもの同士の他愛ないやり取りに、どうしてだか物悲しい気分になる。

 ひょっとしたら、ありえたかもしれない光景、多分――これはそういうものを知った時、見てしまった時に感じる、感傷の類なのだろう。

 

「――ドゥリーヨダナ」

「ああ、姉上殿。ちょっと地上から奴らへ固そうなものを投じてやろうと考えているのだが、何か良さそうなものでも見つけたか?」

 

 見知らぬ女に怪訝そうな表情を浮かべる第二王子を横目に、ドゥリーヨダナへと手を差し出す。

 カルナから返却してもらって以降の怒涛の出来事の連続のせいで、すっかり身につけ忘れていた黄金の腕輪を、ドゥリーヨダナの手のひらへと載せてやれば、ドゥリーヨダナが瞳を瞬かせる。

 

「――これは?」

「地上から天の二人が正気に戻るほどの衝撃を与えるのでしょう? それだったら、これが一番だ。この腕輪を二人の近くまで放るといいよ」

「おいおい……。そんな小さなものでは、アルジュナたちに気づいてもらうことすら難しいんじゃないか? 別のを探そうぜ」

「……いや、姉上殿の言葉を信じよう。これを、近くに放るだけで構わないのか?」

「嗚呼、そうだ。欲を言えば、二人のちょうど間になるように投げて欲しい。まあ、難しいのであれば、無理しなくても……」

 

 ――いいや、とドゥリーヨダナが不敵に笑う。

 棍棒を手にした第二王子も、傲岸不遜な態度で口角を吊り上げる。

 

「なあに、バララーマ師匠の頭にぶつけるよりも、ずっともっと簡単だ」

「癪だが、貴様に同感だ。やい、ドゥリーヨダナ! 狙う先は貴様に任せる、しっかりやれよ?」

「誰にものを言っている。第一、お前が師匠の頭に鞠を当てられたのだって、わたしの完璧な計算があってのことだろうが」

 

 腕輪を手のひらの上で軽く放り、そして、しっかりと受け止めるドゥリーヨダナ。

 がっしりとした太い棍棒を両手で握りしめ、体をくの字に曲げる不思議な姿勢の第二王子。

 

 ――飛び散る火花に、迸る雷光。

 天上では変わらずに、真紅の光と紫電の光がぶつかり合っては弾き返され、くっついたり離れたりを繰り返している。

 

 それを一瞥したドゥリーヨダナが軽く頷き、距離をとって向かい合う第二王子へと合図する。

 俺が見守っている先で、ドゥリーヨダナがその眼光を俄かに鋭いものへと変えたかと思うと、次の瞬間には、腕輪を手にしていた手を大きく振りかぶり、その勢いのまま、第二王子の方へと放り投げた――――!!

 

「――っ、セェェエイッ!!」

 

 裂帛の気合いとともに第二王子が手にしていた棍棒を大きく振り回しただけ――のように思えたが、その矢先に澄んだ音色が会場いっぱいに聞こえ渡った。

 

 ――カァッーーーーーンッッッ!!

 

 ――嗚呼、と納得する。

 ドゥリーヨダナの全力で放り投げられた腕輪が、第二王子の手にしていた棍棒と凄まじい勢いでぶつかったことで、みるみるうちに黄金の輝きが天上へと引っ張られるようにして昇っていく。

 

 ――そうして、まるで狙ったかのように、真紅と紫電の光の間にまで浮かび上がった。

 

「――――今だ! 任せたぞ、姉上殿!!」

「嗚呼、任せろ! さあて、カルナ! いい加減、目を覚ませーーーーいっ!!」

 

 両手足に一つずつ。

 光り輝く赤石を象嵌した黄金の腕輪の材質だが、実はカルナの鎧と同じもので出来ている。

 カルナの生みの母親であるクンティーは未婚の娘が子を産むという醜聞を恐れ、父親である太陽神に対して、生まれ落ちてくる子が彼と同じ光り輝く黄金の鎧を持つようにと強請った。

 

 太陽神たるスーリヤはその願いを快諾し、己が身に纏うのと同じもの――()()()()()()()()()()()()()()()()――光そのものを鎧として、生まれてくる子に分け与えた。

 

 ――つまり、一見したところ、単なる腕輪でしかない()()も。

 その実態は、太陽の輝きを腕輪という手のひら程度の装飾品へと縮小されただけの、日輪の光輝そのものだと言って良い訳であって、つまり――――

 

「ぐあああ! 目がぁ、目がぁ――!?」

「おいいいぃい!! こういうことになると前もって言っておかんかぁ! これだから神霊ってやつはぁ……っ!!」

 

 ――暗雲立ち込めていた真っ暗な空に、突如として降臨した灼熱の太陽の輝き。

 それまでの淀んだ空気や陰鬱な雰囲気を圧倒的な輝きで焼き払い、万物を傲岸と照らし出す、世界で最も激しく力強い光に――()()()()()()()()()()()、という訳だ。

 

「――あ、止まった」

 

 そうして、当然のことながら。

 その輝きを至近距離で直視する羽目になった天を飛び交っていた二人も、唐突すぎる太陽の輝きに目を焼かれ、その動きを止めていた。

 

 中空で静止していた二人であったが、ややあってカルナであろう真紅の光が天を横切る。

 きっと、支えを失って地上に落下しつつあった俺の腕輪を拾い上げてくれたのだろうと直感して、踵を返した。

 

「……ん。どうやら正気に戻ったみたいだし、俺はひとまず退散することにしよう」

「は? おい、ちょっと待て!?」

「――という訳で、ドゥリーヨダナ、あとよろしく!!」

「あ、こら待て! 一体どこに行く!?」

「カルナには後で俺の腕輪返しとくように伝えておいて! それじゃあ、ドゥリーヨダナ! 後片付けは任せた! ――んじゃ!!」

 

 後のことは、あの子たちに任せておいて問題ないだろう。

 ドゥリーヨダナも、カルナも俺がいつまでも守ってやらなければならない子供じゃない。

 

 きっと、この後のことだって上手くやってくれるはずだ。うん!

 それに個人的にこの場にとどまって、あの王子様と顔をあわせるのも気まずいし……この辺でズラかるとしようっと!

 

 

 ――……。

 ――――……。

 ――――それに、俺が片付けないといけない問題は、むしろ()()()にある。

 

 荒地となった会場を走り抜けながら、前を睨む。

 煤や灰、物の焦げる匂いや土埃が漂う中、俺の鼻は確かに濃厚な蓮華の香りを捉えていた。




<裏話>

in地上
アディティナンダ「じゃあ、後は任せた!」
ドゥリーヨダナ「逃げやがった、あいつ!!」
ビーマ「そういえば、何者だろう、あの女……?」

above地上
カルナ「……相変わらずだな」
アルジュナ「!? その腕輪は……」

(*みんな、度重なる鬱展開への予兆に鬱になりそうになる作者を応援してくれ!(悟空感) もうやだー、どれもこれも悲劇へのカウントダウンにしか思えない……*)


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婿選びの顛末

一話で締めるはずだったのですが、長すぎたので二話に分割しました。
書きたい話を書いたら、こんなにも長くなった……最近、どんどん分量が増えていくので困る。


 純白の入道雲、抜けるように青い空、燦々と陽光を降り注ぐ日輪。

 軽やかに街中を通り抜ける心地よい風、爛漫と咲き誇る美しい花々。

 色彩鮮やかな活気に満ちた街並みに、あちらこちらより聞こえる人々の声。

 

 ――ハースティナプラにある、ドゥリーヨダナ王子の屋敷。

 複数の棟から構成される建物の最奥、王子用の私室のある建物の屋根の上に腰を下ろし、街のあちこち、屋敷のここそこから聞こえてくる人々の喧騒にそっと耳を澄ます。

 

 そうやって暇を潰していれば、にわかに建物の内部が騒がしくなる。

 先程、土ぼこりで汚れた伝令の兵士が屋敷に到着していたから、きっと屋敷の主人の帰還の知らせが使用人や妻たちへともたらされたのだろうと、一人微笑む。

 

 目を凝らせば、煌びやかな甲冑に身を包んだ兵士達の軍団が、王宮からこちらへと賑やかに行進している。遠くの国からの帰りであることを強調するように、この国では滅多に見られない珍しい花や果実、お菓子の類を手にした兵士達が小走りに軍団を走り回り、物珍しげに眺めている子供達にそれらを差し出すものだから、時折、子供たちの無邪気な歓声が上がった。

 

 以前に、それを指摘したことがあった。

 その時、民草へのご機嫌取りの一環にすぎない、とだけ口にして、ドゥリーヨダナがぶすくれた表情でそっぽを向いていたのを思い出す。

 

 そういえば、あの子は昔から素直じゃなかったなぁ、と少しだけ声に出して笑ってしまう。

 零れ出た笑い声が聞こえたのか、眼下を走り回る小間使いの一人が不思議そうに辺りを見回すが、俺の姿を見つけられなかったために、気のせいだと結論づけて、再び忙しそうに走り出した。

 

 ――嗚呼、それにしても。

 ところどころ汚れてはいても、活気のあるいい都だと思う。人間の良いところ、悪いところ、清濁併せ呑んで溶かし込んでいるような、人間らしさに溢れた生きている街だなぁ、と思う。

 

 ……不思議だ、と考える。

 これまでにも何度かこの都の街並みを闊歩し、人々の喧騒の間をすり抜け、人と交わって暮らしてきたというのに、今まで以上のこの街が輝いて見えるのは、一体どうしてだろう?

 

 どうしてなのか、よくはわからない。

 それでも、わからないままでも、この都を素敵だと思える今の自分は昔に比べると遥かにいいのではなかろうか? と自分に問いかける。

 

 ――遠くで人々の歓声が上がる。

 片手で日陰を作り、目を眇めるようにして、遠くを望む。待ち望んでいた黄金の煌めきとその前で傲岸と胸を張って進み行く二つの馬影を目にして、思わず垂らしていた二つの足が揺れる。

 

 ――それにしても、派手なことの好きな男だなぁ、と浮かべていた笑みが色濃くなる。

 物珍しい獄彩色の小鳥や異なる色彩に変化する魔術的な炎が物々しい軍団の行進を飾り立てているせいで、厳つい兵士も何故だか親しみやすく感じてしまうのは、俺の気のせいじゃないはずだ。戦の帰りではなく、王子の外遊の帰りであるからこその、洒落の効いた遊びの一環だろうか。

 

 一般階級の人々の住まう居住区や商業地帯を通り抜けた軍勢が、ドゥリーヨダナの屋敷の前で静止すれば、建物の内部から門が開いて、笑顔の使用人達が主人の帰還を口々に喜ぶ旨を報告する。

 

 ここで軍勢は二つに割れ、一つはカルナに率いられる形で屋敷の内部へ、もう一方は王子へと礼を尽くした後に、それぞれの兵団の宿舎へと帰っていく。

 

 馬上から降りたカルナが、こちらを見上げるのに気づく。

 この位置からなら、カルナがどんな表情を浮かべているのかもわかる。

 数日ぶりに目撃した弟へと、そっと片手をあげて見せれば――ふ、とその口元が綻んだ。

 

 そして、こちらへと応えるように上げた手首に、黄金の腕輪が嵌められていることに気づく。

 よかった、あの時の俺の直感は外れていなかったのだと満足し、心の底から安堵した。

 

 早速、会いに行きたいけど、カルナもドゥリーヨダナ麾下の将軍としてのお仕事中である。

 とはいえ、パーンチャーラの時とは少しばかり事情が違うので、今は会いたい気持ちを我慢して、カルナたちの仕事が終わるのを待とう。

 

 それにしても、平和だ。平和にすぎると思う。

 人々の活気で賑わう街、王子の帰還を喜ぶ住民たち、穏やかな天気。

 平和そのものな上に、日常的であり、尊ぶべき時間であるとは、思う――だが、しかし。

 

 太陽が浮かんでいるのとは反対の位置に浮き上がっている月白を見つめ、そっと息をつく。

 ()()()()()()がある以上、この素晴らしい一日が今後起こり得る大嵐への前触れ、いわゆる嵐の前の静けさのようにしか感じられず、そんな自分が嫌になってしまう。

 

 ――如何あっても分かり合えそうにない、平行線を辿らざるを得ない。

 そんな相手との邂逅、意見を交わし合うという行為が、あんなにも面倒で、お互いに理解に苦しむことであるとは、知りたくなかったなぁ……、と嘆息する。

 

 ただ、どうしようもなく意識せずにはいられなかった――異端であるのは自分の方で、道理に外れたことを肯定するということが、どれだけ勇気を必要とする行為であるのか、といったことを。

 

 ――――嗚呼でも、それ以上に。

 

「……あの二人には、知って欲しくないなぁ……」

 

 空を見上げて、小さく呟く。

 見上げた先にて素知らぬ顔で光り輝いている日輪を、恨めしく思わずにはいられなかった。

 

 *

 *

 *

 

「――そこにいるのか、アディティナンダ」

「ありゃ、気づかれてしまった。やあ、カルナ。数日ぶりだね、あの後どうなったの?」

 

 人払いをしたドゥリーヨダナが今後の打ち合わせと称してカルナだけを連れて執務室に入ったのを見届けてから、窓や壁伝いに移動して、窓から侵入しようとした――その一歩手前で、部屋側から伸びてきた黄金の籠手に後ろ首を掴まれる。親猫に運ばれる子猫さながらに、カルナの腕一本で支えらている状態のまま、実に数日ぶりとなる弟へと挨拶すれば、片眉が器用に持ち上げられる。

 

「あの後……お前が逃亡した後、か。そうだな……第三王子とともに、説教された」

「あー、やっぱり?」

「――正座、だったか? オレは痛痒を感じ得ないのだが、それを強いられた。その後に、責任持ってその場を片付けるようにとパーンチャーラ側から要求されたのだが……」

 

 淡々と、あの後に起こったことを説明してくれるカルナ。ちなみに、襟首は掴まれたままだ。

 纏っている鎧を外せば、貧弱そうなもやしっ子であるカルナだが、その外見に反して、意外と力がある。以前、戯れに腕相撲を仕掛けた際には、あまりの膂力にぐるりとその場で一回転したことすらあった。我が身の非力さが恨めしい。

 

「そこはドゥリーヨダナが色々となんとかしてな」

「ふむふむ」

「黙って口を噤んでいろと命じられていたため、無言を貫いていたのだが……そうこうしているうちにお咎めなしということになっていた」

 

 そのまま、襟首を掴まれた状態で室内へと移動させられ、そっと床へと降ろされる。

 普段の扱いはぞんざいとしか言いようのない弟なのだが、ここぞって時には家族として扱ってくれるから、個人的にはそういう優しさがとても嬉しい。

 

「あれだけ会場を廃墟にしておいて? 一体、どんな話術を使ったのやら」

「――さて。何れにせよ、流石としか言いようがなかった」

 

 首をかしげる俺へと、何処と無く誇らしげに見えるカルナ。

 口にしている内容を表面だけを捉えれば謗っている様に聞こえるのだが、これがカルナなりの褒め言葉なのだから、つくづく誤解を招きやすい弟だ。

 

「あのように相手の弱みを突き、知られたくない事情に感づいていることを匂わせるようなあの話口。……王子を辞めてもその舌先一つで暮らしていけることだろう。口下手なオレでは到底真似できそうにない悪辣さだった」

 

 何となく想像がついたような気がする……。

 きっとあの会場でビーマ王子に対して言った内容に色々と嫌味を加えた挙句に、遠慮も躊躇もせずに口撃したのだろう。その光景が目の前に浮かぶ様だ。

 

「……それにしても、ドゥリーヨダナはどうしちゃったの? 随分と荒れてるけど……」

「よくぞ、聞いてくれた!! あなたには途中で戦線離脱して後始末を人に押し付けた責任とか、色々と、そう! ――色々と言ってやりたいことがあるのだが! それ以上に腹が立つことがあったから、この際それはその辺に放っておくとしよう!」

 

 親の仇を殴りつけるような勢いで、未処理と分別されている書簡の束に印を押し続けていたドゥリーヨダナが、血走った目でこちらを見やる。かつてなく荒ぶっている彼の姿に、後ろに控えていたカルナを一瞥すれば、やんわりと肩を竦められた。

 

「……あなたは、パーンチャーラでの婿選びの顛末をご存知か?」

「嗚呼、あのお姫様の結婚相手のこと? そりゃあ、第三王子が試練に打ち勝ったのだから、当然のことながら、第三王子の妻になったんじゃないのか?」

「……そう思うよな、普通はそう考えるよな!?」

 

 ドゥリーヨダナが印を遠くへと投げ捨てるのを予測していたのか、カルナが無表情なままさっと移動して、床に落とされるしかなかったそれをそっと掴んだ。さすがだ、と内心で弟を褒める。

 

「ええと……、その様子じゃ違ったの? だったら……、そういや第一王子もまだ結婚していなかったみたいだし、ここは年齢順に第一王子と結婚したの?」

 

 第三王子が結婚相手でなかったなら、その辺が妥当なところだろう。

 その場合、弟王子の度量の深さを褒めるべきか、思わぬところで美女のお嫁さんを獲得した兄王子の幸運を羨めばいいのか。そこんところ、少しばかり悩ましい。

 

「あんな絶世の美姫を長兄のお嫁さんに差し出すなんて――えーと、傑物だね、第三王子も」

 

 兄には逆らえませんから……と黄昏ていたあの王子様の横顔を思い出しながら無難な感想を告げれば、ドゥリーヨダナが奇声を上げたので、突然の出来事に床から飛び上がってしまった。

 

「ひえ!? い、一体、どうしたの!? 助けて、カルナ! なんかお前の上司、変だよ! 可笑しなものでも口にしたの!? 拾い食いは駄目だとあれほど言ったのに!!」

「落ち着け、アディティナンダ。俺もドゥリーヨダナも拾い食いはしていない。それから、ドゥリーヨダナ。そのような絞殺される寸前の鶏のような声を上げるべきではない。――見ろ、基本的にお前に辛辣なアディティナンダでさえ、一体何があったのかとお前を怪しんでいるぞ?」

「辛辣なのは姉上殿だけではなく、カルナ、お前もなのだが……まあいい」

 

 よほど心労が溜まっているのだろうか。

 ぐりぐりとこめかみを親指で揉みほぐしながら、ドゥリーヨダナがこちらを見やる――そうして、一言だけ言い放った。

 

「――……()()()

「――――は? 今、なんて?」

「だから、全員だ。パーンチャーラの姫君、周辺諸国にその美貌を轟かせた絶世の美姫は……」

 

 勿体振るように、ドゥリーヨダナが息を吸い込む。そうして、死んだ魚のような目でこちらを見返しながら、真顔でその衝撃的な一言をもう一度宣告した。

 

「パーンチャーラのクリシュナー姫はだな、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「…………」

「…………」

「――ドゥリーヨダナのついたタチの悪い冗談ではないぞ?」

 

 ボソ、とカルナが補足してくれた内容を耳にして、心の底から湧き上がってくる感情を込めて、こう言わずにはいられなかった。

 

「……う、嘘だぁ! そ、そんな社会的な慣習と教えに背くようなこと、あり得てたまるか!」

「非常に同感だ。ひっ、じょーうに、同感だとも、姉上殿!!」

 

 だんだん! と駄々をこねる子供のようにドゥリーヨダナが執務机を叩く。

 かなりの力が込められているというのにびくともしない机の頑丈さは、このためになったのかとどうでもいいことが脳裏をよぎった。

 

「一人の女に複数の夫とか、ありえないだろう!! 何なの、あいつら、本当に何なの!? 普段、(ダルマ)とか、聖典(ヴェーダ)がどうだとか語っているくせに、どうやったらそんな非常識的なことできるのだ!? 兄弟で一人の女を共有とか、どの辺に道理があるのか、流石のわたしも思い当たらなかったぞ!! なんなの、もう! わけがわからなんですけど!!」

 

 ないわー。ドゥリーヨダナが言う通り、これはないわー。

 ……いや、確かに故事や聖仙の逸話で兄弟で同じ妻を持ったと言う話は聞いたことはあるが、全員が生存している状態でこれはないわー。下手したら、パーンチャーラの誉れ高き美姫であっても、否、そうした女性であるからこそ、やっかみとして王女は今後、娼婦として罵られかねんぞ。

 

 天才は発想が飛び抜けているとは言うが、もうこの展開にはついていけない。

 普段、あまり考えたことがなかったのが、ひょっとしたら、俺ってば馬鹿なのかもしれない。この展開は予想していなかっただけに、俺もまだまだ常識に囚われているのかもしれなかった。

 

「その結果、クリシュナー姫は、パーンダヴァ五兄弟の妻(ドラウパティー)となった訳だ。いやぁ、五人の従兄弟がまとめて結婚するなんて、めでたいなぁ………んなわけあるかーい!!」

「そっか、そっか……」

 

 同じく死んだ目になる俺に、ドゥリーヨダナが同志よ、と言わんばかりに力強く頷いた。

 ――ちなみに、カルナといえば、ドゥリーヨダナが印を押した書簡を手早く片付けると、それをひとまとめにして外で様子を伺っていた侍女の一人に押し付けていた。

 

「あー、あー、あー!! おかしいだろう、この世の中! 何でわたしのやることなすことは批判されると言うのに、奴らのやった非常識な行為は非難されないんだ!? 生まれか、やはり生まれの問題なのか!?」

「どうどう、落ち着け、ドゥリーヨダナ。暴れ馬じゃないんだから」

 

 その言い分ももっともだなぁ、と思う。

 一人の女を兄弟五人の妻にすると言う非常識がまかり通るくらいなら、カルナの育ちなど気にせずに、王宮への仕官を受け入れるぐらいの度量を見せればいいのに、と思わなくもない。

 

「あー、全く! あー、……〜〜腹立つ!!」

 

 猛牛のように鼻を鳴らしたドゥリーヨダナが、部屋に飾られていた間食用の果実を一つ掴むと、勢いよくそれを握りつぶした。

 

 ――カルナが懐から綺麗な手巾を取り出すと、ドゥリーヨダナへとそっと差し出した。

 うむうむ、万が一の時に備えて手ぬぐいの類は常備しておきなさい、と小さい頃に教えて以来の慣習をこの年まで守っているようで何よりである。

 

「あの優等生めが! 今回の一件でやんちゃなところを見せたものだから、少しばかり見直したのだが、気のせいだったな! ――ったく、自分の獲得した嫁だと言うのに、気前よく兄弟で分かち合うとは何事だ! おかげで半日かけて思いついた離間の策が使えなくなったではないか!!」

「……? 離間の策って、どう言うこと?」

 

 よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、ドゥリーヨダナが華麗に振り返る。

 そうして――びし、と人差し指を俺の方へと突き出した。

 

「よくぞ聞いてくれた! ここでの離間の策というのはだな、あの姫君を介することによって、あの仲良しパーンダヴァ兄弟を分裂させると言う、なんとも素敵な響きの計画のことだ」

「あ〜、なんとなく理解できたぞ」

 

 ――美しい、と言うことはそれだけで一つの力を持つ。

 蠱惑的な肢体と見る者を惹きつける美貌の天女が、その身一つで苦行に打ち込む聖仙を誘惑し、堕落させてしまうように。仲良し羅刹兄弟であったスンダとウパスンダが、至高の女として生み出されたティロッタマーの所有権を巡って兄弟同士で争った結果、互いに滅び去ったように。

 

 ――とりわけ、美しい女の持つ力は絶大である。

 

 その上、婿選びの会場で目撃したあの王女は、臣民たちが讃えていたように天界一の美貌を誇る吉祥天、すなわちヴィシュヌの妻であるラクシュミーに例えられるほどの容貌の持ち主であったのだ。故事を紐解くまでもなく、美貌の妻を妬んだ兄弟間で血肉の争いが起きるのは珍しい出来事ではなかった。

 

「わたしの計画では、こうなるはずだった。――ユディシュティラが、あの女をアルジュナの妻にと勧めたのは間違いない。何せ、婿選びであの姫君を獲得したのは、あの優等生だったからな。――そうすれば、アルジュナは三男坊であるのにも関わらず、兄よりも先に嫁を獲得する。この時点で諍いの種、諍いのきっかけは十分だ」

 

 ぐるぐると執務室を歩き回りながら、ドゥリーヨダナが滔々と自称・素晴らしい策略について説明してくれる。

 

 ――カルナはと言うと、先ほどドゥリーヨダナが手を拭った手ぬぐいを別の侍女に洗濯するように頼み込み、飾ってあった果実の皮を剥き出していた。

 

「……しかも、その嫁は傾国の美女。どんなに仲の良い兄弟であったとしても、お互いに痼りが生まれるのは必須。何せ、弟の嫁だぞ? 仲良し兄弟のあやつらだ、結婚しても同じ屋敷に住む! そうこうしているうちに、弟に対する嫉妬や羨望の念は高まっていき――そして、クリシュナー姫の所有権を巡って互いに殺しあう! わたしの脳内計画の中では、そうなるはずだった!!」

 

 まあ、古来から美女の取り合いで仲良し兄弟が崩壊するというのはよく聞く話だからなぁ……。

 それを期待していたドゥリーヨダナの気持ちも、まあ、わからんでもない。

 

 わからんでもない……とはいえ――かなりセコい策謀だと思うが……。

 ジト目で見つめている俺に気づいていないのか、ドゥリーヨダナが唇をへの字に曲げる。

 

「それが、あのアルジュナめ! 妻を差し出した上に、共有するだと!? 気前がいいにもほどがある! ええい、わたしが思いついた策が全て台無しじゃないか! ああ、全く!!」

「……なんて理不尽な憤りなんだ」

「……正当性が微塵も感じられぬ上に、悪意しか読み取れぬ言い分だな」

 

 ショリショリと小刀で器用に果実を切り分けたカルナが一つ差し出してきたので、口に含んだ。

 

 ――うん、さすがは王太子の屋敷である。

 さりげなく置かれている果物一つだけでも満足に美味しいだなんて、金のかけ方が違う……と、思い出した。

 

「……そういえば、ドゥリーヨダナ」

「ようやくアルジュナに反抗期かと予想していたのに……どうした?」

「――王太子に正式に立太子されたのだってね、おめでとう」

 

 ニヤリ、と非常にあくどい笑みを浮かべるドゥリーヨダナに、カルナが苦笑する。

 それもそうだろう。今回のヴァーラナーヴァータ行きにかこつけて、パーンダヴァ一行を王都の外へと追い出し、未遂には終わったとはいえ国中の人間に一家の死を信じ込ませた。そうして対抗馬がいなくなったこの機会を、ドゥリーヨダナは悪辣王子の異名に相応しいまでの抜け目なさでもって、下世話な言い方をするのであれば、見事にモノにしたのだ。

 

「ああ、そうだとも! 父上はわたしを次期国王であるとお定めになられた。あのユディシュティラが死んだと思っていたからこそのご判断であったにせよ、一度出された王命であるし、なんだかんだ言いつつ父上はわたしにお甘い。これで次代のクル王はこのドゥリーヨダナに決まった!!」

「……すぐ調子に乗るのはお前の悪い癖だぞ、ドゥリーヨダナ。――そも、パーンダヴァ一家に傾倒している王宮の長老たちがこのままでよしとする筈がない」

「――いいだろ、今くらい調子に乗ったって!」

 

 あ、ちゃんと自覚していたんだ。

 それにしても、パーンヴァの一家が生きているとなると……そうだな、一度は正式に決定した実子の即位を差し置いて、継子の彼らが王位争奪戦を再開させることは流石に体裁が悪いし……。

 あの温和な国王陛下のことだから、広大なクル王国の領土を分割する形で先王の子供たちに分け与えるというのが妥当な線なのかもしれないなぁ。

 

 ――――それにしても。

 打って変わって機嫌が良さそうになドゥリーヨダナへと、俺はかねてより聞きたかったことを尋ねてみることにした。




<(さりげない)登場人物紹介>

・スンダ/ウパスンダ兄弟、ティロッタマー
 『マハーバーラタ』に挿入されている逸話の一つ。女媧を物語る話に登場した仲良し兄弟で、二人で苦行に励んだ結果、ブラフマーより互い以外に自分たちを殺せない、と言う祝福を授かる。
 好き勝手暴れまわってこの世の春を謳歌していたが、至高の女として生み出されたティロッタマーに魅了された結果、兄弟同士で殺し合い、死亡した。
 ……ちなみに、このティロッタマーを見たいがために、インドラには千の目が、シヴァには四つの顔が生まれたとか。


(*かなりインパクトのあるドラウパティーの結婚ですが、わりかしとんでもないことの起こる古代インドであっても、これはないわーと関係者が絶句した出来事であったそうです。ですが、そこは神々に愛されたパーンダヴァ一行。なんか前世の宿縁とか因縁とか決まりごととか引っ張り出してきて、それを合法化してしまったと言う*)
(*五人同時の結婚についてですが、そうなった理由の一つがドラウパティーが美しすぎた女性であったことが問題だったのでしょう。実際、年齢順に結婚を行うべきだと辞退したアルジュナの申し出に対し、ユディシュティラは兄弟間の結束が崩れることを恐れて、あんなとんでもないことを宣言した……と読み取れる描写がありました*)
(*そう言う事情があるのはわかるけど、でもやっぱりないわー……*)


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彼の王道

これにて、第三章は完結!
次は間章になります、時間軸的にはこれと前の話よりも少し前です。


「――――なぁ、ドゥリーヨダナ。前々から聞いてみたいと思うことがあったのだけども」

「ん? どうしたのだ、姉上殿。他ならぬあなたからの問いかけだ。答えられる範囲では、という条件がつくが何なりと答えよう」

 

 それって、何なりと答えようと胸張って保証できるような言い分なのだろうか。

 まあ、それはともかくとして。

 

「――……お前は、どうして王になりたいんだ?」

 

 ドゥリーヨダナの動きが止まる。カルナもまた、静謐な眼差しでドゥリーヨダナを見つめる。

 

 ……そう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ユディシュティラは天の意志によって聖王たる資質を有して生み出された子供であり、人々を神々や聖典の教義に導くという役目を天上の神々や聖仙たちに期待されている存在だ。

 基本的に、神という存在はその格を問わずに“かくあれかし”という呪縛あるいは制約に囚われている以上、その血を色濃く受け継いでいるであろう、あの第一王子もまたその軛からは逃れられない。

 

 つまり、第一王子は王になるべくして生まれた故、()()()()()()()()()()()()()、とも言える。

 

 でも、ドゥリーヨダナはその限りではない。

 それに、いつぞやの天幕の一件の時に彼が言っていたように、彼がいずれ来たる英雄譚のための供物として位置付けられているのではないか? という恐れがある以上、下手に半神である従兄弟に対抗する必要ために王位継承争いに参加をしないほうが、ずっと無難だった筈だ。

 

 ――それなのに、ドゥリーヨダナはそうはしなかった。

 長い年月、誰もが認めざるを得ないユディシュティラ第一王子と王の資質を競い合いながら、王宮の金庫番を任せられるだけの信用と信奉者を集め、一つの派閥を形成し、ついには謀略の結果とはいえ政敵が留守の間に次期国王の座を確約されるにまで至った。

 

 彼の、その王位にかける熱情は一体どこから生み出されているのだろうか?

 何が、彼のこれまでの積み重ねにおける原動力となっていたのだろうか?

 

 今までになく悶々としている俺の心情を理解できたのか、ドゥリーヨダナは悪戯っぽく微笑む。

 

「なんだ、まだ気づいていなかったのか? まだまだだな、あなたも」

 

 ――キラキラと輝く黒水晶の双眸。

 変化に富む人の子であるからこそ生み出される、不確定な未来に対する野心の象徴が輝く。

 猫のように弧を描いた口元がニンマリと吊り上って、そうしてその一言を言い放つ。

 

「――では、教えてやろう。――そう、()()()()()()!」

「……はっ!?」

 

 高らかに言い放たれたその言葉の含有する、圧倒的なまでの傲岸さと不敵さ、そして屈託のなさに、呆気にとられる。 

 

 復讐、復讐……って、こんなに楽しそうに口にするものだったっけ?

 

 復讐という言葉の宿すおどろおどろしさや負の想念とは裏腹に、どこまでも軽やかな上に爽快ささえ宿した声音。あまりの落差に理解ができないというか、理解が及ばずに脳みそが空回りする。

 

「わたしの生まれのことはすでに聞き及んでいるな?」

「嗚呼、うん」

「どこにでも口さがない輩はいるもんでな。物心つく前から、わたしはわたしが王国を滅ぼすのだと人々から貶され続けてきた。それでも、父上の息子として、これ以上、父上や母上たちが莫迦共に愚弄されぬよう努力はしてきた――そこにだ」

 

 ――ドゥリーヨダナが一息つく。

 さらりと語ってはいるが、今よりも幼く傷つきやすかったであろう子供の時分だ。彼の苦労は、並大抵のものではなかった筈だ。

 

「ある日突然、先王の息子たちという名目で、半神の子供たちが五人もやってきた。――まあ、最初はそんなに仲も悪くなかったのだが、王宮という場所には色々しがらみがあるし、ビーマの件もあって私たちの仲は次第に疎遠になった」

 

 ……()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 あの婿選びの会場で第二王子とドゥリーヨダナの協力によって生み出された、黄金の美しい曲線を思い出してしまった。あの見事な黄金の軌跡は、ある意味ではそうした彼らの幼少時代の名残とでも言うべきものであったのだろう。

 

「まあ、自然と派閥が生まれるよな」

 

 その時の情景を思い起こしているのか、どこか遠い目になったドゥリーヨダナ。

 茫洋とした黒水晶の双眸に写っている景色は、俺たちが踏み込むことを許されないものだ。

 

「――その上、なんとも腹が立つことにユディシュティラの阿呆は阿呆だったが、莫迦ではなかった。客観的に見ても、あの時のわたしとユディシュティラとだったら、あいつの方が何十倍も優れていた王子だった」

 

 政敵の美質を認められるわたしはすごいな、と自画自賛しているドゥリーヨダナにおもんばかってか、カルナがパチパチとなんとも気の抜けた拍手をしている。

 

 ……でも、表情がいつも以上に無感情である――ちょっとは愛想笑いでもすればいいのに。

 

「――で、悔しさのあまり、日夜寝台を涙で汚していたわたしは、唐突に閃いたのだ」

「何を?」

「誰もが素晴らしいと讃えるユディシュティラ。そんな男を差し置いて、わたしが王になったところで、誰もがこう思うだろう」

 

 芝居がかった仕草で両手を広げたドゥリーヨダナが、舞台役者の様に言葉を紡ぐ。

 つくづく、そうした大仰な仕草が嫌味なまでに似合う男だな、こいつは。

 

「――ドリタラーシュトラ王は我が子可愛さのあまりに、あのような呪いの子に玉座を与えられた。残念ながら、この国の終わりもそう遠くはあるまい、と」

 

 確かに……神々を崇拝する有識者ほど、そう思ったとしても可笑しくはないな。

 そう頷いて見せれば、しかめっ面をしたドゥリーヨダナがそうだな、と大きく頷いた。

 

「だったら――否、だからこそ。()()()()()()()()()()()、とわたしは幼心に決意した」

「随分と結論が飛んだような……?」

 

 首をかしげる俺へと、ドゥリーヨダナがニヤリと口角を持ち上げる悪戯坊主の笑みを浮かべた。

 

「わたしという忌み児が治める国こそを、この世で最も栄えた王国にしてみせる。領土を拡大し、交易をさらに発達させ、人々の行き来の利便性を向上させる。そうすることで、わたしが滅びの子であると思っていた奴らの期待を、全力で裏切ってやる」

 

 流水の如く滑らかな、耳に心地よい声に熱が篭る。

 俺を、カルナを通して、遥か彼方を見つめているドゥリーヨダナの双眸が星の様に瞬く。

 

「――そのためには王にならねばならない、いや、なってやる! ――そうして、先代、先先代、いや王国の始祖の時よりも、クルを栄光に満ちた王国にしてやるのだ、と心に誓った」

 

 決意を感じさせる、力強い言葉だった。

 ある種の執念と情動を感じさせる、忘れがたい言葉であった。

 

「わたしが王国を滅ぼすのだと決めつけている奴らの前に、わたしの統治する国の素晴らしさ、豊かさを見せつけてやるのだ。そうして、父上や母上が予言に逆らってわたしを生かしたことは、決して間違いでも、盲目な愛情故の過ちなどではなかったのだと――()()()()()()。それこそがわたしが王を目指す原動力にして、わたしの復讐の第一歩なのだ」

 

 ああそうだとも、と力強く言い切ったドゥリーヨダナ、がカルナを睨むようにして見つめる。

 綺麗な目だった、可能性に満ち溢れた力強い人の子の目をしていた。

 

 ――そして、それを受け止める澄んだ碧眼にも同様の輝きが宿っていた。

 

「宮廷に理解者がいないのであれば、それも結構! だったら、味方集めの一環として、わたしは有益だと思った人材はどんどん登用してやろうじゃないか! ――当然ながら、その第一号であるカルナ、お前の力を飾りにしておくつもりはないぞ」

「……俺の槍も弓も、既に主人であるお前に捧げている。何より、友の頼みに否やと答える道理がどこにある」

 

 二人が不敵に笑って手を握りしめる。多分、これが男の友情とか、そういう類の絆なのだろう。

 ただ、その光景は俺の視界には写ってはいても、目には入っていなかった。

 

 ――嗚呼、と思った。

 熱と光で出来て、人間の皮を被っているだけの、まがい物に過ぎない身体(うつわ)が、初めて感じる奇妙な熱と不思議な情動のせいで、火照っている。

 

 ――なんだろう、なんなのだろう、この形容しがたい、喩えがたいこの感情、この情動は。 

 

 ふるり、と肩が震える。

 ぞくり、と偽物の臓物の奥から震えが駆け上がってくるようだ。

 

 ……嗚呼、どうしてしまおう。

 言っていること、やろうとしていることは、ある意味では暴君の理屈でしかないというのに――どうしようもなく、どうしようもなく、その言葉に、その決意に、()()()()()()()

 

 なんとまぁ、大胆不敵な言葉なのだろう。

 地上の人間たちへ、至高の王(ユディシュティラ)を遣わした天に対する、なんて挑発的な挑戦なのだろう。

 自身に貼り付けられた偏見も自身に向けられた侮蔑も、それら全てを呑み込み、高すぎる壁である対抗馬を前にしても、己が次代の国王として優れていると嘯く豪胆さと大胆さ、そして悪辣さ。

 自身の置かれている現状に負けたくないと足掻き、踠き、奮闘し、理想の聖王として産み落とされた神の子にも匹敵するだけの勢力を築き上げたその執念。

 

 ――不遜である、傲慢である、不敵である。

 許されるべきではない悪辣ぶりであり、看過すべきではない主張である。

 神々の大いなる思惑、天の意志に反する、将来的には大逆へと繋がりかねない言の葉である。

 

 嗚呼でも……、と熱っぽい息を吐く。

 ぐるぐると視界が回る、ふつふつと腹の奥底から熱が湧き上がってくる。

 

 ――そうだ、()()()()()()()()()()()()()()

 これを、変化に富む人の子によってのみ生み出される、途方もない生きる力を、逃れられない運命を克服さえしてしまうような、人間の持つ輝きを見たかった。

 

 だって、ワタシにも、諦め掛けていた願いがあった。

 本来の世界の管理者・維持者としての神々の道からは外れることになったとしても、■■■のためにも、ワタシにはどうしても変えてやりたい決まりごとがあった。

 

 ――カルナとドゥリーヨダナ。

 彼らに、我が力を貸し与えたい、その望みを聞き遂げてやりたい。

 その救いの声に優しく応じてやりたい、その求めを快く聞き遂げてやりたい。

 もしも、彼らに願い請われるのであれば、どのような事柄であったとしても反応せずにはいられないのだろう――そんな確信さえあった。

 

 ……だけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ワタシが力を貸し与え、艱難辛苦の道筋を平らげることは、きっと求められていない。

 彼らは神による導きを必要としていない。それが分かった、それが理解できた――であれば。

 

「……アディティナンダ?」

「――嗚呼、カルナ……。ワタシ、いや、俺はどうしよう……、どう告げればいいのだろう」

「姉上殿? 一体、どうなされた。頰が少し赤いぞ?」

 

 頰を抑える、唇を噛みしめる。

 ――伝えたい言葉がある、形にしたい感情がある、示したい態度がある。

 あらゆる欲求が全て俺の腹のなかで巡り、廻り、入り混じって、一体化してしまったが故に、なんとも言えない心地になる。

 

「……どうしよう、カルナ。本当に、どうしたら良いんだろう。

 俺、お前以外の存在によって、こんな気持ちになるなんて、思ってもいなかった」

「――少し、枷が外れかけているが……大丈夫か? 普段は抑えている神威が溢れでているぞ」

 

 こちらの身を案じるようにカルナがそっと頰に手を寄せる。

 その手首に嵌められたままだった黄金の腕輪がキラリと輝き、四肢に嵌められている三つの金環と呼応することで我が身を縛る封印具としての機能を一層高める。

 

 大きく目を開いて、正面に佇むドゥリーヨダナの瞳をしっかりと見据える。

 神々に忌避された呪われた王子にして、王国の滅びの予兆。

 神々が寵愛するパーンダヴァと釣り合うように生み出された悪徳の化身――嗚呼、だけれども。

 

 この世界には、あんなに大勢の神々がいるのだ。

 ――だったら、ただの一柱くらい、この忌み嫌われる王子を祝福し、その行く末を見届けたいと願うような、そんな奇矯な神霊がいたっていいだろう。

 

「――……ドゥリーヨダナ、ドゥリーヨダナ」

 

 そっと囁く、そっと宣告する。そして、密やかに誓いを立てた。

 万感の思いを込めて――――ワタシは、俺は、そして俺たちは、この呪われた王子へとその願いを口にする。

 

 神霊としての役割上、きっとこれは許されないことであろう。

 それについての自覚はしている、ただ、それでも――……

 

「――ワタシは、俺は、お前の治める王国を見てみたい。神の力によるものではなく、人によって創り上げられる、人の国を、見てみたい――――!」

 

 ――導くような真似はするまい。

 ――正すような真似もするまい。

 けれども、彼らの進むべき道が暗雲や濃霧によって隠されることのないよう、その行く先を照らし出す、その程度の手助けであれば、きっと許されることだろう。

 

 カルナが目を見開いて、蕾が綻ぶような優しい微笑みを浮かべる。

 ドゥリーヨダナが一瞬呆気にとられて、そうして豪快に破顔して見せる。

 

「――任せろ! あなたの期待に、必ず、このわたしは応えてみようではないか!!」




<独自設定>

自分が国を滅ぼすと予告されているのであれば、その逆のことをして、今までバカにしてきた奴らを見返してやろうと決意したドゥリーヨダナ××歳。
ついでにそれをすれば自分が虐げられる原因を作った神々への、これ以上ない意趣返しになるよな! と閃いた。

ちなみに、ユディシュティラはアルトリアやレオ系の王様、ドゥリーヨダナはギルガメッシュやイスカンダル系の王様、として意識して区別しております。

<裏話>

ドゥリーヨダナ「それにしても、だいぶマシになったとはいえ、姉上殿の愛って重いよな?」
カルナ「……そうだな」
アディティナンダ「!?」

神様の愛はゼロか百のどっちかだけだぜ!(オリオンを見ながら……)
カルナ以外に大事な人がいないので、正直、書いていて愛が重かった第三章当初に比べると、アディティナンダのブラコンは大分緩和されたと実感します。

<予告>

皆様のお待ちかねの例のあの人は次の章で登場するよ! それまでは例のあの人でよろしく!!


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断章
月下の邂逅<上>


この物語で重要なのは、面倒くさいことに例のあの人側も主人公側もどちらも等しく人間を愛しているということ。
ただし、その愛によってどのようなアクションを取るのか、ということが大きく異なっているのです。



 ――静かな、夜であった。

 悠々と流れゆく母なる大河、煌々と輝く野生の獣の瞳、しんしんと降り積もる月白の光。

 澄んだ夜空には星々が銀沙の様に撒かれ、透き通った夜の空気には濃厚な蓮の香が入り混じる。

 

 ……あまりにも静かな、そんな夜であった。

 

 虫たちは番を求めて恋の歌を奏でることはなく、獣たちは遠吠え一つ響かせることはない。

 近くの里も不自然なほどに寝静まり返っており、人々の生活音すら届かない、そんな夜である。

 

 雲ひとつない天空に煌々と輝いているのは純白の満月。

 常になく光り輝いているせいか、周囲にある他の星々の光輝をも圧倒している。

 

 美しい月夜だ。そう――些か、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 天上の月の輝きのせいか、その光の届かぬ地上の数箇所は常よりも闇が色濃くなっている。

 例えばそれは、水面の真下であり、洞窟の奥底であり、木立の足元であった。

 

 そして、そうした闇の凝った場所の一つ。

 滔々と流れゆく母なる大河の側に、一際目を惹く、巨大な大樹が生えていた。

 

 さざめく月光をふんだんに浴びた、その大樹の根元。

 ――一段と、闇が色濃ゆくなっている木陰に、年若い青年の姿があった。

 

 彼は、大樹の庇護の元、静かに座禅を組み、ひっそりと闇に溶け込むように瞑想に耽っていた。

 

 その両眼は固く閉ざされ、その唇は柔らかな弧を描き、神秘的な微笑みを浮かべている。

 鍛え上げられた身体に金色の腰布(ドゥティ)だけを纏い、胸元に貴石が象眼された首飾りを飾る。

 宛ら、腕のいい職人が黒い大理石を掘り上げ、大樹の木陰に、信仰の対象として祀られている人型の神像のような、全体的に人の気配の薄い青年であった。

 

 ――よくできた彫像のような青年の胸元が、大きく動く。

 そうして、それまで固く閉ざされていたその両眼がゆっくりと見開かれた。

 

 すると、みるみるうちにそれまでの作り物めいた風貌が一転して、若く生気にあふれた闊達な雰囲気が青年を包み込む。それでいて、泰然とした王者の覇気がその身から漲っており、彼が尋常ならざる存在であることは一目瞭然であった。

 

 ゆったりとした動きで、青年がその場から立ち上がる。

 彼が一歩足を踏み出すごとに大地へと彼の力が浸透し、地脈を潤し、また彼の力となってその身のうちに吸い込まれていくような、そんな錯覚さえ感じさせる歩みであった。

 

「――初めて逢った時から、随分とまあ、年月が経過したものだ」

 

 低く、どこか艶かしささえ感じる、ゆったりとした独特の抑揚。

 耳にした者の理解を助け、意識の覚醒を導くような、そんな人知を超えた力が宿っている。

 

 この声で愛を囁かれれば乙女は恋に落ち、この声が理を説けば罪人とて導きを知るだろう。 

 その声だが、どこか超然とした雰囲気とは裏腹に、ひどく弾んでいるように聞こえる。

 

「あの頃は(ボク)もまだ子供でね。尊ぶべき御身には、些か失礼な真似をしたとは思っているが、そこはそう……幼子のやることであるから、と大目に見て欲しい」

 

 例えるのであれば、長い間待ち焦がれていた相手に、やっと再会できるような。

 例えるのであれば、長い間探し求めていた相手に、やっと巡り会えたような。

 簡潔に言ってしまうのであれば、人間離れした雰囲気の彼にはあまり似つかわしくないような、そんな感情の込められた声だった。

 

 ――青年の、歩みが止まる。

 ちょうど、大河の畔りに位置する場所であった。

 青年の目の前に広がる雄大な景色を遮るものは何もなく、大自然の雄大さを物語るような見渡す限りの絶景が広がっていた。

 

 天上には穢れを知らぬ純白の満月。

 夜空を彩る満天の星々に、眠りの帳に包まれた静かな森、そして果てし無く続く水の流れ。

 月と星の光が降り注ぎ、大河の流れがその光を受けて輝く、密やかな夜の一時――そこに。

 

 ――夜の闇も、月の輝きも、星々の瞬光をも、薙ぎ払うようにして。

 炯炯と、煌々と、燦々と、そして何よりも傲然と燃え盛る、()()()()()()()()()()

 

 天上より飛来した灼熱は、収縮し、凝縮し、そうして――()()()()()()()

 純白の炎で編まれた緩やかな衣を纏い、首元や腰には炎を閉じ込めた赤石と黄金を差し色とし、左手を除いだ細い手足には緻密な紋を描く黄金飾りが嵌められている。

 足先・指先、そしてふわりと広がる長い髪先から、朱金の炎を蝶の鱗粉のように散らしながら、人型となった光は川の流れの上に佇んだ。

 

 華奢な男にも、長身の女にも見える、中性的な風貌の持ち主であった。

 

 ――それも、然もありなん。

 本来、光や熱といった現象に人間のような雌雄の区別はないのだから、そうあって然るべき容貌であるとも言えた。

 

「……嗚呼でも、とても嬉しいよ。興奮しているとさえ、言ってもいい。――あのような紛い物の人格でも、器でもなく、(キミ)本人が来てくれるだなんて」

 

 ――そして何より、それはひどく()()()()()

 青年の容姿も人間として魅力的な外見であれど、それはあくまでも人としての括りである。

 

 けれども、それは違った。

 それが示しているのは、誰もが一目で理解せざるを得ない人外の美しさであり――人を超えた領分の聖性と神性を宿した美貌を誇っていた。あるいは、人の手の及ばぬ大自然の擁する麗しさ、人の目の届かぬ大宇宙が有する壮麗さであって、言葉の通り、人を超えた美貌であると称すべきか。

 

「――改めて、宜しく。脆き人の子の世界において、(ボク)と同じく神々と接続している者。(ボク)の名前はクリシュナ。あるいは、人々には魅力的な者(モニシュ)魅惑する者(モハン)聖典を守る者(ゴーヴィンダ)とも呼ばれている」

 

 常であれば、泰然とした威厳に満ちた態度を貫き、人々の尊崇を集めている青年であったが、流石の彼も興奮を隠せない様子であった。

 

 ――事実、彼は猛っていた。興奮していた。

 

 そして、それも仕方のないことであった。

 生まれながらに神々の代弁者、人々を正しき方向へと導く先導者としての役目を背負っている彼にとって、それは初めて出会えた、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「バララーマにヴィドゥラ、彼らは人としてその責務を全うすることが求められている存在だ。――でも、(キミ)は違う。(キミ)だけがこの地上にいる本当の意味での現人神、この宇宙に存在する太陽の分御霊、(ボク)と同じ、地上に二つと無い使命を帯びた存在。そして、その光と熱で構成された姿こそ、(キミ)の本性というわけだ。――うん。あの人間を模しただけの姿よりも、その数千倍は美しい」

 

 精神の特異性・特殊性はともかくとして、青年の肉体を構成しているのは血と肉――つまり、傷つけられれば血を流し、肉を割かれれば致命傷を負うことになる。

 簡潔に言い換えるのであれば、人の器に神の精神、その二つが折り合ってこの青年という存在を確立しているのだ。

 

 けれども、青年の前に佇むそれはその器もその中身(こころ)も紛れもない天に属する物質で構成されているが故に、青年とは一線を画していた。

 

――世辞など無用です。アナタとて、そのような詰まらぬ言葉を告げるために、ワタシを招いた訳ではないでしょう

 

 男にも女にも、大人にも子供にも聞こえる涼やかな声音が凛然と響く。

 身より光を放っている炎と熱の化身であるというのに、雪の降り積もった霊峰を想起させるその声音に、青年の顔がいよいよ華やぐ。――事実、青年はかつてない歓喜に襲われていたのだ。

 

「いや、済まないね。つい、嬉しさのあまり口が滑ってしまった。そう、神とは超越者とはそうであるべきだ。それなのに、(キミ)表層意識(アディティナンダ)ときたら、弟と定義した存在だけに囚われて、世界そのものに目を向けようとしていない。神々の血を引く者が生まれてきた理由を察することはできても、彼らに課された使命については慮ることを思慮の埒外としている――全くもって、嘆かわしい」

そうですね、その点においては同意します。我らの末子のことばかりにかまけた挙句、アレは己の本来の役割をも放棄しようとしている。――実に、実に嘆かわしいことです

 

 ――そのせいで、と人外は淡々と言葉を紡ぐ。

 無機質かつ冷淡な響きを宿しているその声を耳にしただけで、心臓の弱い者であれば呼吸を止めることに繋がりかねない――人にやつしたこの神霊が、普段どれだけの制約の下にあるのかを思い起こさせるような強大な力の、その一雫だけで、その様であった。

 

……そのせいで、貴方の掛けた詰まらぬ術に捕らわれる羽目になったのです。全く、あのような無様を見せた人格がワタシから生み出された者であるとは……非常に屈辱的ですらあります

「まあ、掛けた幻術もせいぜい(ボク)とアルジュナに対する認識阻害の術式程度だからね。当然、害意もない――とはいえ、弟のカルナにばかり守護の力を注ぎすぎたせいで自分自身への守護を忘れてしまったことは、確かに大失態だとも言える」

 

 ――軽やかな青年の声と冷ややかな人外の声が宵闇に唱和する。

 人知を超えた人ならざる青年と対話しているというのに、青年の体には何の気負いもない。

 その呟き一つ、囁き一つで人の精神を狂わせるだけの力を持った言霊を、むしろ全身で心地よく味わいながら、青年は機嫌よく話を続ける。

 

――クル王国の忌み児(ドゥリーヨダナ)がアレを疑うきっかけを作ったのも、貴方でしょう?

「嗚呼、流石は天にありて人を監視する者の系譜を受け継ぐだけのことはある! ――その通り! ドゥリーヨダナは(ボク)のことを非常に嫌悪し、恐れている。その(ボク)(キミ)と如何にも親密そうに身を寄せって話し合っている光景を目にしたら、彼は一体……()()()()()()()()()()?」

 

 自身の企みを看破されたというのに、青年の微笑みが崩れることはない。

 むしろ、それすらも次の愉しみに繋がるとでも言わんばかりの揺るぎない姿勢に、対峙している人外の方が嘆息して見せた。

 

――表層意識(アディティナンダ)が辺境の都へと旅立つ当日のことですね。行方知れずの王妃の貴石箱。それを所持していた、笛を腰に帯びていた青年――()()()()()()()()

(ボク)とパーンダヴァの一家は非常に親密な間柄だ。その(ボク)が友への出立の言葉をかけに行くついでに、王妃の荷物を運ぶのを手伝ったところで、誰も不思議には思うまい。――であれば、後は、ドゥリーヨダナが見ている前で、(キミ)に声をかければいい」

そして、あの忌み児(ドゥリーヨダナ)は貴方の思惑通りに動いたという訳ですか。……それも致し方ないとも言えますね。貴方は偉大なる大神より遣わされた天の代弁者。人でありながら天に属する貴方は、天の定めた未来へと人々を導くという使命を負っている。天に属する者たちに対して圧倒的な優位性を持っている。であれば、過剰に警戒する方が自然です

 

 ゆらり、と人型を構成する朱金の炎が風と戯れるように揺れ惑う。

 月の光を反射していた川の流れに炎の照り返しが映り込み、何ともいえぬ幻想的な光景を作り出していた。

 

「そうだね。そして、その光景を目撃したドゥリーヨダナは当然、こう考えた筈だ。――今はまだ、カルナが自分の意思で己に従ってくれているからいい。だけれども、カルナの兄だと名乗る天の一柱が突然本意を翻したらどうなるのだろう? もしかしたら、カルナはその言葉に従い、自らの元を離れるかも知れない。そんな危険は当然のことながら冒せない」

……余程、貴方はあの忌み児(ドゥリーヨダナ)に恐れられているようだ。可能性の段階にすぎぬ想像だけで、神を敵に回すという危険極まりない行為に手を染めるまで、あの忌み児(ドゥリーヨダナ)が思い詰めるとは

「……彼は大胆に見せかけていても、その内実は小心者だからね。常に、幾重にも謀略や保険を必要としている。最近はカルナという過剰戦力を手にいれて、少しばかり心に余裕が生まれたのか、前ほど非難されるような手段を取らなくはなったけど」

 

 ――くるり、と人外がそのほっそりとした手首を回す。

 細い手首を飾り立てる幾重にも交差する黄金の籠手と散りばめられた赤石の細工を目にして、青年は少しばかり申し訳なさそうに声を潜めた。

 

「とはいえ、(キミ)の手から離れた黄金飾りを勝手に着服していたことは、実に申し訳なく思っている。それが(ボク)の元へと齎されたのは全くの偶然であったのだけれども、此れ幸いと少しばかり弄ってしまったのは(ボク)の仕業だ」

……社交辞令の一環として、お尋ねしておきましょう。――――これを貴方の元へと運んだのは、誰の侍女だったのですか?

「――パーンダヴァ一家に仕える新入りの侍女さ。彼女はやや誘惑に弱い性格でね、主人の遣いで政敵の屋敷に行った際に、生まれて初めて見た神宝の美しさに魅了されて、誰もいないのを良いことに懐に収めてしまったのだと」

 

 やれやれ、と誘惑に負けて神の宝をくすねた名も無き侍女を哀れむように青年が眼差しを伏せる。そうして、大河の流れの上に浮遊する人外の次の言葉を待ち焦がれるように、意味ありげな視線を寄越した。

 

――……その女が死んだのは、何時です?

「そこまでお見通しか! 嗚呼、やはり(キミ)表層意識(アディティナンダ)とは違う。中途半端に人間性などを獲得し、情によって堕落したがために神としての視点を失った表層意識(アディティナンダ)とは、文字通り観点が違うね!」

 

 ――嗚呼、と青年が感嘆の溜息を吐く。

 そうだ、神という存在はそうでなくてはならない。情に流されず、情に惑わされず、誰よりも冷酷に何よりも冷徹に物事を見定め、見透かし、そして裁決を下す。そういうものであるべきだ。

 

 ――だというのに、この地上でようやく出会えたと思った同族は、どうしようもなく変質していた。時折見かけるその姿に、年々失望と共に奇妙な共感とも言える感情を抱いたことを思い出す。

 

「マガダ王討伐の数日後、とでも答えておこう。腕輪を盗み出して以降、日に日に彼女は体調を悪くしてね。(ボク)の噂を聞き知っていたのだろう、懺悔の言葉とともにこの腕輪を渡してくれたよ?」

……歪な形で人の感性に身を鎮めようとするから、些細な可能性にも気づかずにいるのです。表層意識(アディティナンダ)は生きている人間ではなく、死んだ人間の方を先に探すべきでした――我が事ながら、実に度し難く、理解に苦しみます

 

 燃え盛る豊かな朱金の髪に映える、真紅の瞳がそっと伏せられる。

 普段、意識の主導権を握っている表層意識(アディティナンダ)が構築している人としての器の見目も決して悪いものではないが、それでも深層意識として潜んでいるその肉体の意識が顕現して構築した今の姿の方が、余程人の目を惹きつける造作をしていた。

 

 ――血のように紅く、炎のように鮮烈な印象を与えずにはいられない双眸。

 人ではない存在の証である神の瞳が闇夜に煌々と輝き、じっと青年を見据える。 

 

――……アレもまた、哀れな存在です。どんなに必死になって人間を真似ても、どんなに必死になって感性を獲得しようとも、どれほど焦がれたとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()

「……そうだね。生まれながらに完成された存在として生まれ落ちた以上、最早どうすることも叶わないというのに……。その気持ちには共感できるけど、そのために自分の果たすべき使命を忘れ、ただ日々を漫然と過ごしているというのは、正直、戴けないな」

 

 星の瞬く夜と同じ色を宿した双眸が、真紅の瞳をじっと見つめ返す。

 只人であれば直視しただけで心臓の鼓動が止まり、視界を焼かれかねないその灼熱の眼を恐れることなく捉えるその眼差しに、彼は恍惚の微笑みを浮かべる。

 

……その腕輪を雷神の息子に預けていたのは、彼の姿をワタシに見せるためですか?

「まあ、一つにはアルジュナへのお守りも兼ねていたね。突然の都落ちなんて、ドゥリーヨダナが仕組んだとしか思えない。であれば、当然ながらその行く先には様々な試練が待ち構えているに決まっている。その助けになるように、と手渡した」

 

 それまで超然としていた青年の雰囲気が、友人のことを語る時のみ、情を帯びた声音になる。

 己の策を次々と暴かれたものの、青年はそれに心を揺らすことはない。寧ろ、自身と同じ視点で物事を語ることのできる存在と見えた奇跡の邂逅を愉しむように、朗々と言葉を紡ぐ。

 

「――だけど、本当の出会いは(キミ)と彼を出逢わせることにあった!

 だって、(キミ)も見ただろう? ――あのアルジュナを!

 武勇に優れ、礼節に富み、驕ることをせず、神々を尊崇する気持ちも決して忘れない!

 優れた器量に、溢れ出んばかりの才能。何一つ欠けたところのない完璧な子!

 彼こそが(ボク)らの理想とする人間の形、神々の寵愛を受けるに相応しい存在だ!!」

 

 その存在を誇るように、とっておきの宝物の素晴らしさを見せつけるように。

 彼は高らかに、朗らかに、歌い上げる。全てにおいて人の範疇を大いに逸脱した青年であったが、その名を読み上げる声には、溢れんばかりの愛情や友情と言った、人が素晴らしいと賞賛する類の感情が強く込められていた。

 

「実際に目にして、会話を交わして、(キミ)だってそう思っただろう?」

 

 ――……けれども、と彼は密やかに嘆息する。

 人というよりも神々の領域に近い彼の寵愛をも一身に受けている青年のことを思って、深い悲しみと嘆きの込められた、憐憫の感情を露わにする。

 

「――そんな彼でさえ、恐れ、惑うことがある。そして、善なることをなす為に、確かなる導きを必要としている。そうした愛し子たちの迷いに答え、正しい道を指し示すことこそ(ボク)らの使命だ」

 

 ――莞爾、と彼は微笑んだ。

 それこそ、世の中の憂いも苦しみも、最早彼自身を苛むことはないのだと言わんばかりに。

 身の内より炎と熱を発する天上の化身へ、これ以上ない親愛の情を示すように。

 

 彼は魅惑的に微笑んで見せた。

 それは数多の美女を虜にし、無数の乙女たちの心を奪い続けてきた魅力的な微笑みだった。

 

「――でも、良かった。その姿の(キミ)であれば、(ボク)の話に理解を示してくれる。――()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。何故ならば、(キミ)(ボク)も人の世にありながら、神々の大いなる謀を実行するために降臨し、降誕したものだからだ」

 

 ――そして、青年はその手を人外へと向けて差し出した

 しっかりとした力強い手であった。指は長く、手は大きい。手の関節の節々には修練の証として胼胝ができ、幾つかの武器によってついた擦り傷が目立っている。

 

「育ちにこそ瑕疵を抱えているものの、(キミ)の眷属であるカルナはアルジュナに引けを取らない素晴らしい戦士だ。あの表層意識(アディティナンダ)の言葉ではなく、(キミ)からの託宣という形であれば、流石の彼とてドゥリーヨダナに見切りをつけてくれるだろう。――そうして、共に思い悩む人々を正しい方向へと導こうじゃないか。より正しき道、より清らかな徳を積むことのできる正義の道へと、この地上に住まう人々全員を、この苦海より救い上げることこそ(ボク)らのやるべきことだ」

 

 ――だって人は弱い、と青年は歌うように言葉を奏でる。

 それを人外は静かに聞いている。その様子は彼の奏でる耳に心地よい言葉に囚われているようにも、あるいはその反対にただの美しい言葉として聞き流しているようにも見受けられた。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()。地上の栄光と名誉を手にしたところで、それは一時的なもの。その崩れやすい心が癒され、救われることは決してない。……(ボク)たちが守ってやらなければ、(ボク)たちが導いてあげなければ、すぐに死に絶え、そして魂は輝きを失ってしまう――それは、()()()()()()()()()()()()()()

 

 神の被造物である人間特有の脆さや儚さを嘆き悲しむように、青年は深い悲しみと慈しみを込めて断言する。彼は深く深く人という群体を愛し、その中でも、己の親友として位置付けている或る青年のことを、半神らしからぬその弱さと脆さも含めて――ひどく慈しんでいた。

 

 ――そうであるが故に、彼は心に誓ったのだ。

 人は弱く、儚く、そして脆い存在であり――彼が庇護するべき対象であるのだと。

 

 その愛は本物であった。その想いも真実であった。

 彼は彼として人を愛し、人を守り、人を導くことを人生の指針として掲げていた。

 ――そして、その為であれば、どのような手段を選択することも厭わないという、揺るぐことのない確固たる決意を有していた。

 

「――(キミ)も天界の一柱であるというのであれば、天の御意志がどちらにあるのかは既に理解しているだろう? (ボク)(キミ)は似た者同士、であればこの手を取ってくれるだろう? ――そして、善良なる人々の為にも、世界をより正しい方向へと導く為に、協力しようじゃないか」




<登場人物紹介>

・クリシュナ
…話数が50になったようやく登場した御大。インドで一番人気のあるお方。
 もしFGOで実装でもしたら、アルジュナさんの胃痛がハンパないことになりかねないので切実にお断りしておきたいお方である。
 とある使命を帯びて生まれてきたパーンダヴァの五兄弟を助ける為に、三大神の中でも最高位に位置するヴィシュヌ神が引っこ抜いた黒い髪の毛が変じた(らしい)天意の代行者。(ちなみに白髪が兄のバララーマになったとか)
 武芸に関してはカルナさんに及ばない(本人談)とのことだが、だったらそれ以外の方法で勝てばいいじゃないか、と思いつき、それを実行した作中随一の策謀家。

<今日のダイジェスト>
クリシュナ「僕とタッグを組んで、アルジュナFC(本人未公認)に入ろうよ!」

(*こいつはこいつで人間のことを愛しているし、その行く末をより素晴らしいものへとする為に日夜努力している。そのためのユディシュティラ、そのためのパーンダヴァ。属性でいうなら、紛れもなく秩序・善*)
(*厄介なことにアルジュナへと向ける感情はアディティナンダがカルナさんに向けるのと同じくらいに強い*)


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月下の邂逅<下>

シリアス、シリアル、再びシリアス……かな?
時間軸的には婿選式のあと、ドゥリーヨダナたちの王都期間前です。
あー、難産だった!

いつもご感想・評価コメントありがとうございます。読者の皆様方の感想は、とても励みになります。


 ――青年から差し出された手のひらを一瞥し、人外は密やかに印象的な真紅の双眼を伏せる。

 

 青年の口にした物事はことごとくが道理にかなっていた。

 人外は紛れもなく天に属する一柱であり、未だ黎明にあるこの世界を管理し、恙無く運営することこそが、神霊の役目であると理解していた。

 

 ――けれど、はたしてそうなのだろうか?

 

 ……確かに、神々比べれば、人は弱くて、脆くて、儚い。

 その肉体がいくら頑健であるとはいえ、魔獣の一裂きには耐えられないし、その精神がいかに頑強であったとしても、魔性の囁き一つで崩壊することを人外は識っていた。

 

 ――だけれども、本当にそれだけなのだろうか?

 思考する、志向する、試行して、私考し続ける。

 そうして、ほんのひと時の間に百にも千にも及ぶ無数の演算を行う。

 

 ――その結果、思い浮かんだ疑問を、舌の上で転がした。

 

――本当に、そうなのでしょうか? アナタの主張には同意しかねる部分があります

 

 凛然たる声音が、夜の闇に響く。

 けれども、先ほどまでの霊山の雪のような冷たさが、ほんの少しだけではあるが、薄れていたことに青年は気づいたのだろうか。

 

「……何だって?」

 

 星の瞬きを閉じ込めたような夜色の瞳が呆然とする。

 当然だと思い込んでいた己の言葉へと、最も賛同すべき至高の存在に疑念の言葉を掛けられた、あるいは否定されたのだという事実を青年の脳が理解することを拒む。

 

ええ、確かにアナタの言葉にはワタシも肯定します。人間は脆弱で、儚い。――()()()()

 

 ……そっと、人外がその言葉を紡ぎ出す。

 先ほどまでの囁き一つで人間の意志を刈り取るような超然とした力の代わりに、冬の終わりを告げる春の日差しを思わせる優しさがその声には篭っている。

 

――けれども、ワタシは、ワタシたち(ワタシと俺)は知っています。アナタの言う人間には、その欠点を補って余りあるほどの強さと美しさ――

 

 そっと、人外がその両腕を広げ、降り注ぐ月の光を甘受する。

 身の内側から放たれている、他者を焼き尽くしかねない光は和らぎ、天と地に等しく降り注がれる日輪の暖かな日差しを思わせる輝きへと、ゆっくりと変貌していく。

 

――そして何より、この地上で最も未知の可能性が秘められているということを。それを識って、どうして、彼らがただ弱いだけの存在であると思えるのでしょう?

 

 ――ゆったりとした抑揚の、祝福の意に溢れた言の葉。

 太陽神の眷属によって寿がれた言霊が世界へとゆっくりと浸透し、万物の庇護者の言祝ぎを喜ぶように、木々が、花々が、獣が、鳥たちが歓喜の感情に身を震わせる。

 

不変であることを定められているワタシたちとは違う。彼らは常に流動的で可変的な存在であるからこそ、先へと進むこと、変化していくことが許されている――そのような存在を、どうして儚くか弱いだけの存在だと決めつけられるのでしょう?

 

 ……ほぅ、と咲き始めの蕾が綻ぶような、そんな優しく柔らかな微笑み。

 

 ――さながらそれは慈母のようであり、慈父のようでもあった。

 どのようなひねくれ者でも、思わず膝をついてすがりつきたくなるような慈愛に満ち、どのようなろくでなしでも、その微笑みを目にすれば己の所業を悔い改めてしまいかねない、そんな切ないまでの優しさを宿していた。

 

――天の代弁者。アナタの言葉通り、人は確かに導きを必要とするでしょう。ワタシたちが守ってやらねば、すぐに死に絶えてしまうでしょう。――ですが、いつまでもそのままでいるとは思えません

 

 人の世に存在する、たった一人の孤独な人外はそれでも傲然と胸を張る。

 美しい面を上げ、月と星の輝きを燦々と浴び、この世の全てを抱きしめるようにそっとその両手を広げ、滔々と――この世界とそこに住まう人々を祝福する。

 

鳥であれ、獣であれ、子はいずれ育つものです。確かに、ワタシたちが母鳥のように雛である人類を守り慈しむこと、正しい方向を指し示すこと自体は間違いではありません――けれど

 

 呆然とした表情を浮かべている青年へと諭すように、人外は言葉を奏でる。

 姿だけは人に似せた人型の炎はそれまで煌々と燃え盛っていた真紅の瞳で空を睨む。

 霊山を思わせる凜とした響きには、天にまで届きそうな、強い決意と意思が込められていた。

 

雛鳥がいつの日か空を飛べるようになるよう、飛び方を伝授し、飢えることがないように餌の取り方を教授する――ワタシたちがすべきことは、それだけで充分なのではないのでしょうか。……何故なら、彼らはワタシたちが思っている以上に強く美しく、可能性に溢れている

 

 ゆっくりとだが、人外が身の内より放つ光が弱まっていく。

 そっと長い髪の毛から、足先から、手先から溢れ出ていた朱金の鱗粉が薄れていく。

 人の手の届かぬ大自然を連想させる人外の美しさが、緩やかに一つの方向へと収まっていく。

 

――それ故に、人間が永遠に神々の管理と助けを必要とするような、そんな脆弱な生き物であるとは――ワタシには思えず……――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ニヤリ、と数秒前までは人外だったはずの、人間もどきが嗤う。

 

 ――そう、()()()()()

 

 先ほどまでの人知を超えた超越者の片鱗など虚空の彼方へと吹き飛ばしてしまったような、そんな俗悪極まりない笑顔で、わなわなと震えている青年へと微笑みかけた。

 

「――よう。ようやく会えたな、色男?」

 

 玻璃の鈴を打ち鳴らすような、耳に心地よい乙女の声音。

 それまでの聖なる美しさが消えた、ある種の悪意さえ宿しているが、不思議と似合っている。

 

「数年がかりで面倒臭い術なんぞ仕掛けやがって。とはいえ、弟には指一本触れられなかったようだし、癪に触るが俺にとってもいい勉強にはなったからこれ以上は追求しないでおいてやるよ」

 

 光と熱の集合体から、人の皮を被った人間もどきへ。

 風に揺れる赤金の輝きを帯びた豪奢な金の髪。豊かな金色に映える印象的な紺碧の瞳。

 思わず吸い付きたくなる健康的な蜂蜜色の四肢に、指先が沈み込みそうな胸元の二つの果実。

 職人が丹精込めて仕上げた人形のように、体の全ての部位が完璧に配置された黄金比の美貌。

 

 ――それは、美しい女だった。

 否、女というよりも熟す前の果実、大輪の花を咲かせる一歩手前の蕾を連想させる少女。

 その故、いずれは傾国の女に成長するであろう、麗しの乙女と例えた方が正しいだろう。

 

 ――ただし、口を開かず、その顔に浮かべている意地の悪い表情を消せば、の話だが。

 

「俺とお前の一押しの王子様を会わせて、カルナから鞍替えさせようと企んでいたようだが、残念だったな!! ――俺たち(俺とワタシ)はドゥリーヨダナお墨付きの弟莫迦でな! どんなに器量好しで才能に優れ、礼節正しい美青年も、弟以上の存在にはなり得なくてな!!」

 

 硝子で作られた鈴のように甘やかな声であるというのに、怨嗟で満ちた罵声を耳にしてしまったかのように、不愉快極まりないと言わんばかりに青年が顔を顰める。

 先程までの人外に対して向けていた興奮した様子は既に消え失せ、彼に取っては非常に不本意でしかないこの遭遇を、心の底から呪うように、これ見よがしに大きな溜息をつく。

 

(キミ)って、ほんっっっっっっとうに趣味が悪いね! 大体なんで、カルナなのさ! (ボク)のアルジュナの方が全てにおいて、ずっとずっとずーーーーっと、良いのに! 地位も身分も名声も財産も全部持っていて、本人の性格も器量も才能だって誰に引けをとることのない! 礼儀正しい上に己の才能に奢ることのない謙虚な性格をしているし、当然ながら父であるインドラを始めに神々にだって愛されている!! それなのに、あの!」

 

 ――あの! と強調するように青年は一際声を荒げる。

 本当に納得いかないというか、理解に苦しむ、と言わんばかりの苦悶の表情を浮かべながら。

 

「あの、礼儀知らずで無口で無愛想な上に、口を開けば九分九厘の確率で話し相手を激怒させるような、あのカルナなんかを、よーく溺愛できるよねぇ!? 家族としてとは言え、あれが可愛いとか、目ぇ腐っているんじゃない!?」

「――はあ!? 確かに俺の弟は貴様が言うような欠点もあるが、それだけじゃないぞ! 自分のことでは怒らないのに、家族を悪く言われて怒るところとか! 道端で困っている人を見つけたら力になろうと声をかけるところとか、一見冷酷そうに見えてその内実は誰よりも優しくて頼りになるところとか! 身分とか地位とかに拘らずに、人間を内面で見てあげるところとか! ほら見ろ、短所を補って余りあるほどの長所に溢れているじゃないか!」

 

 ――第一、と少女が嘲笑する。

 もう、百年の恋も一時に冷め、美少女がそんな顔をしないで、と外野の方が泣きながら懇願しそうな、そんな悪い顔であった――ただし、ひどく魅力的な印象を与える笑顔でもあったのだが。

 

「貴様のオススメの王子とやらだが、あいつ絶対に慇懃無礼だと他人に思われる性格だぞ? 謙虚に見せかけているだけで、ちょっと旅しただけの俺にも分かるくらいには面倒な性格みたいだし、ぜっ〜〜ったいに高嶺の花でいる方が他者の夢を壊さずに済ませられるような、根っこの方はそーんな底意地の悪い性格に違いない! まあ、お前のような性悪と友人関係を続けられている点だけは評価してやってもいいけど?」

「あのね、うちのアルジュナに対する根拠のない誹謗中傷の類はやめてくれない!? (ボク)の親友そんな人間じゃないから! (ボク)のカルナへの評価は他者の発言と(ボク)自身の観測結果から客観的にはじき出されたものだけど、(キミ)のそれは主観的な上に八割以上が(ボク)に対する嫌がらせでしょ!? そんなんで(ボク)のアルジュナを汚さないでくれる!?」

「汚すとは失敬な! そっちこそ、うちのカルナに対する嫌がらせ辞めてくれない!? 確かに欠点の目立つ子だけど、貴様みたいな腹黒鬼畜策謀家と三拍子揃ったロクデナシに貶されなきゃいけないような難儀な性格じゃないし!」

「よっっっ……く、言うよ! 神霊の癖にドゥリーヨダナなんかと連んでいる時点でまず正気を疑うんですけど!」

 

 少し前までの緊迫感と人外の醸し出す超然とした雰囲気は、一体どこへ行ってしまったのかと頭を抱えたくなるような醜態であった。

 

 幸いなのは、彼らの会話の中に登場している二人の人物がこの場に同席していなかったと言う一点だけであろう。もしもこの場に彼らがいたら、さぞかし顔を赤面させて顔を覆ったか、死んだ魚の眼をしていたかのどちらかであったはずだろう。

 

「――はん! ドゥリーヨダナ、か! そもそも、あいつが()()()()()()と願ったのは貴様ら自身だろうが、それの何がいけないんだ?」

 

 ――少女の嘯きに対して、青年の顔が険しくなる。

 先程のじゃれ合いの中では見られなかった、青年の醸し出す非人間性が大きく強調される。

 

「――――(キミ)、それを本気で言っているのかい?」

「……わりかし本気だね。そもそも、あいつがああなった方が貴様らにとっては都合が良かったんじゃないか?」

 

 眼を眇め、酷薄な面持ちになった青年。

 眼を細め、慇懃な顔つきになった少女。

 ――互いに互いの主張するところを理解している故に、言葉遊びのような会話が続けられる。

 

「――大地の女神か?」

「そうだよ。(ボク)らは増えすぎた。神々の管理するこの世界にはいささか過剰なほどに」

「やれやれ。文明を発達させすぎても駄目、数を増やしすぎても駄目……でなければ釣り合いが取れない以上は、まあ仕方がないとは言えるが……そのためのパーンダヴァ、か?」

「そして、そのための(ボク)だ。彼らの為すべきことは、全てのことが終わった後により良き世界を再構築すること――そのための法神の子だ」

 

 ……ふうん、と少女がしかめっ面を浮かべる。

 人間離れした雰囲気を醸し出す青年とは真逆に、彼女のその仕草の一々は非常に人間臭かった。

 

 ――ある意味では、それは一種異様な光景ですらあった。

 人として生まれ落ちたはずの青年が非人間性を醸し出し、人外として降臨したはずの少女が感情的に言葉を紡ぐ。

 

「……なるほどね。道理でインドラの子が三番目なのか。聖典と法が定めるところへと人々を導く理性の王、神々が人間へと贈った理想の聖王・ユディシュティラか――そして、そのためのドゥリーヨダナ、か」

「……(キミ)は鈍感なだけで、頭の回転自体はそこまで悪くはないみたいだね。全くもって腹立たしいことに。……(ボク)としては(キミ)なんかよりも、もう一人の(キミ)と話し合いたかったんだけどねぇ」

「――そのワタシからの伝言だ。なんでアナタを喜ばせなきゃいけないんですか、だとよ。ざまあないなぁ、色男」

 

 憎々しげに快活に微笑む少女を睨みつける青年の怨嗟の篭った声もなんのその。

 そよ風のように聞き流してしまった少女へと青年は恨めしげに視線を送ったが、望む相手が出てこないことを悟ると、大きく溜息を吐いた。

 

「――そこまでわかっておいて、何故あのドゥリーヨダナに味方する? 確かに、彼には(ボク)が予想していた以上に王の資質はある」

 

 非常に癪だが、と言った様子でこそあったが、青年はここにはいない忌子を褒める。

 それに反して、その言葉を耳にした少女は我がことのように誇らしげに胸を張って見せた。

 

「――とはいえ、それでも生まれながらに王となるべくしてあったユディシュティラには適うまい。――その点においては、外野の(ボク)たち以上に本人の方が良く理解しているだろう。違うかい、()()()()()?」

「……まあ、そりゃあそうだろうな。俺としてもあそこまで完璧な王が用意されておきながら、どうしてドゥリーヨダナが王になりたがっているのか、と言う点は非常に気になる――けどなぁ、()()()()? 誰の為の王なのか、なんの為の玉座なのか、あいつがなりたい王とはどんな王なのか――それは後でも問いただせるから、そういうのを知るのは後ででいい」

 

 その前に、お前に問いかけるとしよう、と人間の皮を被った人外が厳かな口調で問いかける。

 晴れ渡った紺碧の瞳に、一瞬だけ真紅の輝きを宿し、纏う空気が人のそれと微かに異なった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。――――違うか?」

 

 挑発的な口調に、青年の目が大きく見開かれ、そして――忿怒の色に染め上げられた。

 

(キミ)(キミ)はどこまで堕落したと言うのか……! 正気か!? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!! ――先ほどまでの人間に対する意見といい、今の言葉といい、(キミ)の思想は今の世界の秩序を崩壊させかねないぞ……!!」 

「――逆に聞くが、それのどこがいけないんだ? 星が求めているのは過剰人口の対処だけであって、その後の世をどちらが治めることになるのかまでは言及されてはいないだろうが」

 

 少女が依然として川の流れの上に浮いた状態でなければ、激昂のあまり青年は彼女へと掴みかかっていたことだろう。

 それを理解していながら、その心情を察していながら、それでもなお、少女はただ淡々とした口調を改めることはない。

 

(キミ)もさっき理解した筈だ!! そのためのパーンダヴァだと! そのための理想の王だ! 秩序を守り、人の理性を体現する聖王! そのためのユディシュティラであり、彼によって人が治められることで、より良き世界へと繋がる!! ――それを承認しておいて、何故そのような戯れを口にすることができる!?」

「……お綺麗な建前は言いっこなしだぜ、天の代弁者。貴様らがユディシュティラを王にしたいのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 信じられない、と言わんばかりの青年へと、少女はひときわ魅力的に微笑んでみせる。

 初心な者であれば性差を問わずに、そのまま恋の泥沼に落としてしまいそうな魔力を有した、人の目を惹きつけてやまない俗っぽい微笑みであった。

 

「ドゥリーヨダナを王にするつもりかい?」

「――まさか。俺は何もしないよ。俺は何かをするつもりもない。――ただ、見ている」

「見ているだけかい? それだけの力を持っていながら?」

「――少なくとも、求められない限りはな。なんせ過度な干渉は子供を潰しかねんからな」

 

 ……にこり、と青年が微笑む。

 ……にやり、と少女が微笑む。

 表面的にはこの上なく友好的な雰囲気であるというのに、どうしてだかその背後で牙を剥く龍と爪を研ぐ虎がにらみ合っていそうな、そんな剣呑さがあった。

 

運命(ボク)に選ばれた王はユディシュティラだよ?」

「――まだ確定したわけじゃない」

神々(ボク)に選ばれた王もユディシュティラだよ?」

「――ほざけ、神もどきが」

「そっくりそのまま返すよ、人間もどき」

 

 ……にこり、と青年が微笑する。

 ……にこり、と少女が微笑する。

 

 互いに微笑みあっているというのに、どうしようもない断絶があった。

 交わした言葉の数こそ少ないものの、お互いに悟らずにはいられなかった。

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 同じ存在(人類)を愛しておりながらも、その愛をどのような形で示すのか、という点において両者は決定的に食い違っていた。

 

「こうなると、もう話すだけ時間の無駄だね。嗚呼、ヤダヤダ。今の器の見た目だけなら兎も角、(キミ)の中身は最悪すぎる」

「それはこっちの台詞だよ、色ボケ野郎。お互いの中身の腐り具合なら、団栗の背比べもいいところだろうが」

 

 いっそ唐突なほどのあっけらかんとした態度で、青年が踵を返す。

 青年の足元に曼荼羅模様が浮かび上がり、徐々にその存在感が希薄となっていく。

 これ以上の対話に価値を見出せなくなったために元の場所へと戻るのだろう、と少女は推測した。

 

「本当に残念だ。(キミ)にもアルジュナの味方になって欲しかったのに」

「……天界の神々をあれだけ自陣に引き込んでおいて、何をほざく。強欲は身を滅ぼすぞ?」

「悪食にも限度というものがあるんじゃないかな、太陽神の眷属たちはさ。大体、ドゥリーヨダナなんかのどこに(キミ)たち兄弟を惹きつける魅力があるのか、本当に正気を疑うよ」

「お生憎様。言われた通りのことを完璧にこなす優等生よりも、俺は自分の脳みそで考えて自分自身の力で進もうとしている人間の方が素晴らしいものに見えるんでね。何より――そっちの方が、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――別れ際に青年が少女を一瞥する。

 星空のような瞳が眼光鋭く少女の華奢を斬り付けるも、少女は動揺一つ見せず、泰然としていた。

 

 曼荼羅が光を放ち、青年の姿が良い闇の彼方へと消え失せる。

 青年の長身が全て光の粒子となって消失したのを見届けて、少女は大きく息を吐いた。

 

 こてり、と華奢な体が糸が切れた人形のように脱力する。

 辛うじてその体は大河の流れの上に浮いているものの、それもどこか覚束ない。

 

「――あ〜、疲れた。それにしても、いつかの俺自身を見ているようだったわ……。ちょっと反省した……。神々の道理(正論)を四六時中言われておきながら、それでも我を貫けたカルナは我が弟ながら傑物だわ……――ハァ」

 

 完全に喧嘩売ったなぁ、と語る口調は弱々しいものの、それでも少女の顔はどこか吹っ切れたように清々しい。自身に気合をこめるように両の頬を叩いた彼女は、やがて星々の輝く夜空を見上げて、誰に語るまでもなく静かに独り言ちた。

 

「確かに、人間は弱くて脆くて儚い――貴様の言う通りだ」

 

 それだけの間、彼女は地上で生きる人々の姿を見つめていた。

 青年の口にした通りだ、と彼女も知っている。だけれども、その限りか? という点で彼女の意見は天の代弁者たる彼とも、その彼を遣わした神々とも異なっていた……否、異なってしまった。

 

「だけど、それだけじゃないことを俺は知っている。それに、カルナやドゥリーヨダナを見ていると、永久に俺たちが守り続けてやらなければならないような、そんな未熟な存在だとは到底思えない。そもそも、雛鳥は巣立っていくものだ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 夜空に一際輝く白金の月とその輝きに負けることなく正しき方角を指し示している北極星。

 空に輝く月と星を見つめながら、少女は小さく囁いた。

 

「――どうせ、いつまでも独り立ちできるまで成長した若鳥を羽の下に隠しておくことはできないんだ。それなら、俺たちがするべきことは、若鳥が空を舞うだけの力を手にした時に、その巣立ちを祝福してやることじゃないかと思うんだけどなぁ……――」




(*神格の高さ的にはワタシ(アディティナンダ)>クリシュナ=俺(アディティナンダ)という感じ。ワタシは真性の天体規模の神霊であるのに対し、クリシュナはヴィシュヌの化身とはいえ生身の人間なので神格的には≦俺アディティナンダという感じ*)
(*ただし、俺アディティナンダでは戦闘弱者なので、まともに戦ったらクリシュナに負けるのは必至。うーん、残念!*)

(*補助輪を外した自転車の後ろをずっと支え続けて走るタイプがクリシュナで、途中で手を離すのがアディティナンダ*)
(*等しく人間を愛していながらも、両者の違いのようなものを読み取っていただけましたでしょうか? なんか分かりにくかったらその旨をお知らせ下さい。書き直しますので。*)


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FGOネタ 第五特異点 in インド
FGOネタ 第五特異点 in インド ①


古参の方々はご存知の、第五特異点ネタが完結(ネタバレなし)したので、これを機に一気にアップすることになりました。
構成としては、粗筋+前日譚(この話)→ドゥリーヨダナ残留ルート/ドゥリーヨダナ離脱ルート→完結編、となります。
ちょっと本編が思うように進まないので、気晴らしも兼ねています。ご了承ください。

なお、最新話でありました「月下問答」ですが、ちょっと内容が気にくわないので、改稿中です。
お騒がせして、申し訳ないです。



人理定礎値 A+

第5の聖杯:"落日の残照" BC.3138 終焉神話戦線 クルクシェートラ

 

滅びを受け入れた英雄とそれを認められなかった者が奏でる、斜陽の英雄譚。

 

――それは遥かなる神代の物語。

雷神の息子によって撃ち落とされたはずの日輪が、漆黒の火輪として昇日する。

不死性を宿した黄金の鎧、神をも討ち滅ぼす最強の槍。

決して相容れぬはずの二つの神具を揮う、堕ちたる日輪の化身が暴威を振るう。

聖王は絶佳の魔声によって精神を狂わされ、秩序の維持者は神殺しの槍によって消滅。

あまねく生命を祝福するはずの慈愛の陽光は、全ての生命を呪詛する灼熱の火焔と化した……。

 

****

 

北米神話大戦をインドで置き換えてみたFGOネタ。正直、難易度はEX。

 

 

謀殺されたカルナの死を目撃した直後のアディティナンダ(ロティカ)の手に聖杯が渡ったことで、起こされた未曾有の大叙事詩改変譚。

アルジュナの矢によって射殺されたカルナがオルタ化して復活し、パーンダヴァ・カウラヴァ双方の軍団に大損害をもたらす形でクルクシェートラの戦いが終結。

かろうじて惨劇の舞台と化した戦場から脱出した聖王ユディシュティラと悪徳王ドゥリーヨダナは軍勢を率い、それぞれの本拠地であるインドラプラスタとハースティナプラへと逃走する。

 

しかし、帰途の途中でユディシュティラはアディティナンダ(ロティカ)によって精神を狂わされて廃人と化し、パーンダヴァ五兄弟の双子とクリシュナは、追撃にやってきたカルナ・オルタに惨殺される。

ビーマ・アルジュナ兄弟の活躍によって彼らは都にまで辿り着くものの、絶佳の魔声によって錯乱した都人たちに迎えられ、体を休める暇もないままに再度の逃走を余儀なくされてしまう。

 

一方のドゥリーヨダナはハースティナプラに帰還することに成功するものの、アディティナンダ(ロティカ)の策略で先回りしていたカルナによって捕縛され、文字通り傀儡の王となることを課せられる。

 

こうして地上の戦いに終止符を打ったアディティナンダ(ロティカ)は次々とサーヴァントを召喚。

 

離別の呪いによって引き裂かれた、ラーマ王子とシータ姫。

運命に翻弄され悲劇の最後を迎えた、シグルドとブリュンヒルデ。

許されぬことと知りながらも愛に身を焦がした、トリスタンとイゾルデ。

 

お互いを人質に取られた彼らに地上の残存勢力の掃討を任し、その間に、かつてヴィシュヌの化身によって予言されていた通りに、カルナは単騎で三界征圧を成し遂げてしまう。

 

あまねく神霊や神秘の怪物たちがことごとく駆逐され、狂奔するインド(バーラタ)の大地。

そこにカルデアのマスターがレイシフトしてきたことにより、ようやく狂った神話の終端が綴られていく……――

 

****

 

早すぎる神話の時代の終焉により、神々の加護を失った未熟なままの人類が歴史の荒波に放り出される、という大いなる矛盾が生じた故に、人理崩壊の危機を迎えるという特異点。

 

人を翻弄する横暴な神々への反逆という形で始まっているため、人々の生活は一見したところ平和そのもの。

しかしながら、水面下では聖王ユディシュティラは廃人と化し、その片割れの王であるドゥリーヨダナは幽閉生活を余儀なくされているという点でも、仮初めの平穏でしかない。

また、幾つかの都の人々はアディティナンダ(ロティカ)によって精神操作され、正気を失っている。

 

とりあえず、カルデア一行が幽閉されているドゥリーヨダナを救い出さねば物語は始まらない。

ここでドゥリーヨダナは生前のネロのように生きている状態だが、ほとんどサーヴァント化している状態。クラスはアサシンだろうか、逸話的に。

 

その後に逃走を続けているアルジュナ・ビーマと合流して、アディティナンダ(ロティカ)配下のサーヴァント達を撃破し、クルクシェートラに陣取るカルナ・オルタとアディティナンダ(ロティカ)の兄弟と対決というのが大まかな流れ。

 

アルジュナ・ビーマ・ドゥリーヨダナというかつての敵同士がカルナ・オルタを討ち滅ぼすために共闘し、そこにサーヴァント化して召喚されたクリシュナ(多分、ライダー)が味方に加わるという、原典ではありえなかった異色のパーティがここに結成される。

 

武力チートを通り越してバグになったカルナ、封印していた神としての能力を振るうことに躊躇いのなくなったアディティナンダ(ロティカ)。

はっきりいって無理ゲー感ハンパなさすぎ。こんなカルナに勝てるのだろうか? と自分でも思った。

しかも、その前にはそれぞれ悲劇の英雄達が障壁として立ち塞がり、彼らを撃破するたびに目の前で愁嘆場が繰り広げられるという非常に良心を咎める流れになっている。

 

なお、ドゥリーヨダナ残留ルートの場合はアディティナンダ表記、ドゥリーヨダナ離脱ルートを辿った場合はロティカ表記となる。

 

****

 

北米神話大戦をインドで置き換えてみたFGOネタ。

カルナ・オルタを思いついたがいいが、殺し方がわからないため難易度はEX。

本編のネタバレになりかねないけど、なぜロティカが狂気に陥ってしまったのか、という前日譚。

 

 

 ――何が起こったのか、彼には分からなかった。

 正確に言えば、何が起こったのかということについて、彼は理解したくなかった。

 

 何百、いや数千にも及ぶ矢が戦場を飛び交い、戦士たちの絶叫と剣戟の音が響き渡っていたのを覚えている。

 迸る汗、流れる血潮、放出される真紅と紫紺の輝き。

 交差するたびにそれらが戦車の間を飛び交い、弾かれ、そうして雪の結晶のように儚く砕け散る。

 

 黄金の鎧と引き換えに神々の王に渡された神槍を手にした『   』の闘気が尋常なく猛り狂っていたのを覚えている。

 漲る鬼気、放出される魔力、頬をかすめる殺意の塊。

 高速で移動していた戦車が激突するたびに、破砕し、そうして瞬く間に轟音と共に離れていく。

 

 ――嗚呼、覚えている。思い出せる。

 なのに、一体あれはどういうことだったのだろう? 何が起こったのだろう?

 

 そうだ、思い出した。むしろ、どうして忘れていたのだろう。

 凄まじい速さで移動していた筈の戦車の車輪が、不意に足元の泥濘に引っかかったのだ。

 文字通り、足をすくわれたといってもいい。

 

 ――嗚呼、そうだった。それで、戦車は急停止してしまったのだ。

 御者席に座っていた彼は、その時に受けた衝撃の凄まじさと勢いの強さを思い出した。

 あまりの衝撃に、意識に空白ができていた。

 

 けれど、それも一瞬のことだった筈だ。

 それで、それで、一体何が起こったのだ。

 

 嫌な予感がする、不吉な予兆が胸を離れない。

 そうだ、あの後に『  』が、そう『  』が矢を構えて、そうして――……

 

 ――――そうして、彼は()()を視てしまった。

 見てしまったが故に、それまで意識してみようとしていなかった情景を、()()()()()()()()

 

「――――……〜〜っ!!」

 

 一瞬のうちに、彼の周囲を取り巻いていた状況が脳裏から消え去った。

 ここが戦場であること、ここが危険極まりない場所であること、それら全てが飛んでいった。

 

 一瞬のうちに、彼の内面から湧き出てきたあらゆる感情が混ざり合った。

 遠くで誰かが叫んでいるような気がした。――いや、叫んでいたのは彼だった。

 

 地上のあらゆる命を祝福し、時に意志持つものを惑わし、神々を讃える歌を奏でていた喉から、言葉にならない喚声が上がっていた。

 それだけの衝撃だった。それだけの悲哀だった。それほどの――憎悪だった。

 

 ――理解した、理解してしまった。

 少し離れたところで静止している戦車の意味、汗だくで大きく肩で息をする白衣の青年、満足げに嗤う睡蓮を連想させる男。

 視界に映ったそれらが意味するものを、無情にも彼は全て理解してしまった。

 

 熱い何かが頬を伝いながら滴り落ちる、叫び掠れた喉の奥から血が込み上げてくる。

 苦しい、苦しい、苦しい……! 胸を掻き毟りたくなる激情に苛まれ、全身が灼熱の炎に焼かれるような錯覚。

 まともに動かない手足を動かして、必死にそれに向かって這うようにして進む。

 

 枯木を吹き抜けていく凍えた風のような、嗄れた呼吸音が耳につく。

 それまで無音だった世界に、音が戻ってきたのだと、頭のどこかで冷静に分析できた。

 

「――っは、ははははっ!! 見事、実に見事だよ! おめでとう、『  』。おめでとう、我が友! これで、*ーン*ヴァの人々が安心して眠りにつくことが叶うだろう!

 これで、カウ*ヴァの者達は眠れぬ夜を過ごすことになるだろう!」

 

 爽やかな、涼やかな、よく印象に残る声が脳裏に木霊する。

 蛞蝓のように鈍重な動きに思えたが、それでも歩みを止めなかった甲斐はあった。

 目的の()()へとたどり着き、震える指先を()()へと伸ばす。

 

「それもこれも全ては*のお陰だよ。*が『   』を殺したから!」

 

 ――嗚呼、嗚呼、そうであって欲しくなかった。

 幻であってほしいと願ったそれは、確かな実体を持っていた。

 夢であってほしいと願ったそれは、無残にも打ち砕かれた。

 

 ――――最愛の『   』の首を前にして、彼はもはや現実から目を逸らすことができなかった。

 どうしてだろう、と考える。どうして、『   』はこのような死を迎えることになったのだろう。

 

 おかしな話だが、彼は『   』の死を忌避しているわけではなかった。

 『   』が宿敵として見据えていた『   』に殺されることだって、戦場にその身を置いている限りは仕方のないことだと思っていた。

 『   』の宿敵も決して知らぬ相手ではなかったし、水と油のように正反対の二人が強敵を打倒するために、己の腕を磨いていたことを知っていた。

 仮に『   』が力及ばず宿敵に敗れ去ることになったとしても、『   』がそう決めた道であるのなら、決して恨むまいと誓っていた。

 

 ――嗚呼、それなのに。

 どうして『   』を打倒した最後の一手が、宿敵が身につけた奥義ではなく、反則でしかない禁じ手だったのだ。

 『   』の身分を愚弄し続けてきたパー*ヴ*の連中が、どうして最後の最後に、彼らがそれほど誇ってきた<  >の作法に従わなかったのだ。

 

 ……恨むまい、と思っていた。

 どのような結果でも、受け入れようと思っていた。

 思っていたけれども、腹の底から込み上げてくる毒々しいまでの感情を堪えきれない。

 

 ――ナゼ、なぜ、何故、どうして?

 その時、視界の端で黄金の輝きが目についた。

 彼の父親が『   』に授けた黄金の鎧の煌めきかと思って、手を伸ばす。

 せめて、戦場で散った『   』を戦士として送ってやらねばと思ったのかもしれない。

 

 輝きに手を伸ばす、指先がそれに触れた――その、瞬間!

 

 目を焼き尽くさんばかりの黄金の輝きが奔る。

 莫大な魔力が指先から全身へと浸透し、膨大な情報が指先から脳髄へとなだれ込む。

 

 そうして彼は全てを知った――識ってしまった。

 知らなくてもいいことも、識るべきではなかったことも、全部。

 

 ――正義を語る男が卑怯な手で『   』を助けてくれた王を打倒し、その頭蓋を踏みにじる未来を見た。

 ――恥を忘れた女が地に倒れ伏した『   』の死骸に縋り付き、母親のように嘆いている情景を見た。

 ――恨みに燃える姫君が己の慰めとして『   』の友の男が所有する、大事な輝石を欲する光景を見た。

 

 近い将来に起こる悲劇、遠くない時代に紡がれる惨劇、遥かなる未来で語られる厄災。

 大事に思っていた物、大事にしていた者、それら全てが土足で汚されていくことを知ってしまった。

 

 勝者が敗者を踏みにじり、敗北した者に全ての責任と害悪が押し付けられる。

 偽善と偽悪が入り混じり、真実と虚実が混ざり合い、語られていくのは都合のいい物語。

 

 嗚呼、それは歴史の常なのかもしれない。人の戦の習いなのかもしれない――だが。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 始まりは『  』の女神だった。増えすぎる人間に、彼女が悲痛な声をあげたのがきっかけだった。

 そうして、神々の間で増えすぎた人間の数を減らすことが決定された、その対象に選ばれたのが<  >だった。

 <  >が戦えば、一気に人間を間引くことができる。次の関心となったのは戦の勝者だった。

 

 まるで幼子が遊戯盤の上の駒を弄るように、速やかに物事が決定づけられていった。

 ――――そして、それが運命だと訳知り顔で語られた。

 

 その運命を覆そうと人がその命の輝きを見せるたびに、目に見える形で、目に見えない形でも様々な妨害が天に座する方々より齎された。

 

 ……嗚呼、そうか。

 彼はそっと嘆息する。彼は間違っていた、彼は気づくのが遅すぎた。

 

 人がどれほどその命を削って努力したところで、それを台無しにする存在が世界には傲然と存在する。

 思うがままにならぬことを、思うがままに操って、己こそが絶対であると嘯く輩がいるのだと思い知る。

 

 彼は知っていた。

 彼の宿敵が『   』をその手で討ち滅ぼす為に、血の滲むような努力を積み重ねていたことを。

 

 彼は知っていた。

 『   』の主人である国王が誰にも負けぬ様に、王国を栄えさせるための努力を重ねていたことを。

 

 彼は知っていた。

 『   』が人々の差別と偏見に苛まれ乍らも、宿敵との決着をつけることを渇望していたことを。

 

 ――それが、全て台無しにされてしまった。

 

 指先で掴み取った黄金の盃に、そっと口付ける。

 我が身と魂を失った肉体を触媒に、彼は『   』をこの世に呼び戻し、その存在を固定させる。

 

 ――この身の全てに宿った莫大な魔力を対価として支払おう。

 

 その身には決して貫かれることの無き、不滅の鎧を。

 ――何者であっても『   』を打ち滅せぬように。

 その手には神々の王さえ扱えない、神殺しの槍を。

 ――『   』が何者であろうと打ち滅ぼせるように。

 

 この身に宿る全ての憎悪と悲哀で『   』の意識を押し潰して、『   』のために最も合理的な方法をとる。

 

 最強の盾と最強の矛をその手に、こうして漆黒の火輪は地上に再臨する。

 

 ――そうして、その戦場にいた全ての者達が地上に太陽が落ちてくる光景を目撃したのだった。



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FGOネタ 第五特異点 in インド ② 残留ルート

この小ネタには、二つのルートがあり、前半はほぼ一緒ですが、後半が全く別のルートを辿ります(ただし、結末は一緒です)


****

北米神話大戦をインドで置き換えてみたFGOネタ①。

正直、カルナ・オルタの倒し方が分からないという点で難易度はEX。

真面目に小説として書くのはきついので、台詞メインのダイジェスト版でやってみた。

 

1、

カルデアのマスターが神話の時代のインドにレイシフトするも、人々の平和な暮らしを目の当たりにし、異常が見当たらない異常という事態に。

ロマニの発言でクルクシェートラの戦いが行われているというのに、街中の人々がそれについて口にしないということに気づき、急いでクルクシェートラの平野へと足を進めるカルデア一行。

すると、それまでの平穏な光景を覆すような惨憺たる有様を目撃する。

その道中に通りかかった兵士崩れの襲撃に遭い、この時に「太陽が地上に降ってきた」という情報を入手し、カウラヴァ・パーンダヴァの双方の王たちが撤退したことを聞く。

 

2、

これが今回の特異点におけるカギであると直感したカルデア一行は、カウラヴァの都・ハースティナプラか、パーンダヴァの都・インドラプラスタのどちらかを選んで情報収集及びその協力を求める必要があると考える。

ここで選択肢はどちらかしか選べず、インドラプラスタを選ぶと強制バッドエンド(都に着いた途端、豹変したユディシュティラと錯乱した都人たちに殺害されるルートが解禁)。

 

ハースティナプラを選べば、ドゥリーヨダナに面会するために王宮へと忍び込み、そこで軟禁状態にあるドゥリーヨダナを発見、彼を解放する代わりに協力を得ることに成功する。

 

「――やぁ、見ない顔だな。わたしをこの窮屈な檻から解放してくれるというのであれば大歓迎なのだが」

「カルデア? ああ、()()()の言っていたあの星見の塔の連中か」

「まあ、なんでもよかろう。――ほれ、とっとと脱出するぞ!」

 

3、

解放されたドゥリーヨダナと共に王都脱出を図るカルデア一行。

その前にアディティナンダに召喚されたサーヴァント(サーヴァント・アーチャーで召喚されたシータ姫)が立ち塞がるも、アシュヴァッターマンの援護により無事に逃げ切ることに成功。

ひとまず安全な場所に落ち着いて、ドゥリーヨダナの口から一体何が起こったのかについて聞き出す流れに。

 

「詳しくはわたしもよくは知らん。ただ、我が友・カルナとアルジュナが戦い、その勝負にカルナが敗北したのは明らかだ。その瞬間、その瞬間だ。一条の黄金の光がわたしの目を焼いたかと思うと、太陽が地上に激突し、気がつけば大軍勢が瞬く間に消失してしまっていたのだ」

「とりあえず、あの場に居続けることだけはまずいと感じ、すぐさま生き残りをまとめて都に帰還したのだが……」

 

――そこで口を閉ざすドゥリーヨダナ。

話の続きを促すも、近くで誰かが戦闘している音を聞きつけ、一行は様子を確かめに出向くことになる。

 

「――静かに! 息を潜めていろ、この様子はただ事ではない」

「先輩、この匂いはひょっとして……!」

 

恐る恐る様子を伺えば、濃厚な血の匂いが鼻につく。

どうやら二人組同士が戦闘を行なっているらしい、しかも戦っている片方は血だらけであった。

 

「あれはビーマとアルジュナ!? 生きて居たのか……! いや、それよりも奴らと戦っているのは一体……!?」

 

ブリュンヒルデとシグルド VS ビーマとアルジュナ

彼らの助太刀を提案するも、肝心のドゥリーヨダナが逡巡する。ここでドゥリーヨダナの説得イベントが発生。

この時代の特異点はカルナの死によって発生していることを指摘し、その直前までカルナと戦っていたアルジュナの話を聞く必要があると宣言、それでも渋るドゥリーヨダナにビーマに恩を売れますよとそそのかせば、率先してドゥリーヨダナが助けに行く。

 

「はははは! いいざまだな、この狼腹(ヴリコーダラ)! 普段の五割り増しで美男ではないか!」

「――ッゲ! ドゥリーヨダナ! 何をしに来た!?」

「無論、お前とその弟の無様な姿を嗤いに来てやったのよ! ついでに命を助けてやるから、地にひれ伏して感謝するといい!」

 

カルデアのマスターの指示のもと、ブリュンヒルデらと激突。その撃退に成功する。

 

4、

改めて自己紹介をしあうカルデア一行。

ビーマがドゥリーヨダナと一緒にいることで信用ならないと騒ぐが、比較的冷静だったアルジュナがそれを制する。

 

「そういえば、三男坊。お前たちだけなのか? ユディシュティラの阿保とあの腹黒い親友殿はどうした?」

「……ユディシュティラ兄上はインドラプラスタの都におります。クリシュナは……――」

 

ここで初めてパーンダヴァ側の状況がどうなっていたのかを聞くことができる。

アルジュナ曰く、クリシュナと双子の弟たちは逃走の最中に追撃に会い死亡、ユディシュティラは無事だが正気を失ってしまった。

 

「――待て。一体何がどうなっている!? わたしの兵士たちが束になってかかっても殺せなかったあの双子と死んでも死なないようなあの化け物が殺されただと?」

「おかしいです、先輩。確かに叙事詩においてクリシュナさんの死は記載されておりますが、それはクルクシェートラの戦いよりもずっと先のこと。この時点で彼らが亡くなっているのは異常事態です!」

「おや。変ですね、てっきり我々はこの異常な事態を引き起こしたのは貴方だと思っていたのですが……心当たりがないのですか?」

 

ビーマのドゥリーヨダナに対する過剰な敵意、アルジュナの警戒を解かない姿勢にようやく合点が行くカルデア一行。

そこに第三者としてビーマとドゥリーヨダナの師匠であるバララーマが登場する。

 

5、

お約束のように戦闘になるカルデア一行。バララーマも本気ではなかったので、すぐさま武器を下ろす。

そこでバララーマの口から、バーラタの大地に存在するあらゆる魔性や精霊、神霊の類が何者かの手によって抹殺されている途中であることが判明する。

 

『一体、何がどうなっているんだ? この時代はまだ神々と人が共に暮らしている時代だ。今よりもずっと神秘の濃い世界だと言ってもいい。それなのに、精霊はおろか……神々の眷属までもが抹殺されているだって!?』

「ドクターの言う通りです。幾ら何でもおかしすぎます!」

 

悲鳴をあげるロマニとマシュ。

表情を曇らせるアルジュナに目敏く気付いたドゥリーヨダナが、クルクシェートラで一体何が起こったのかを詰問する。

 

「……私は、私は確かにあの男を殺しました。この手で、この弓で、私の放った矢によって、確かに。それは間違いありません」

「あの男の兄である彼の悲痛な叫びが、未だに耳から離れません。そう、確かにあの男は――カルナは死んだはずなのです……!」

「しかし……次の瞬間には一条の黄金の光が私とクリシュナの視界を焼きつくしました。これは、あの場にいた全員が目にした光景でしょう」

「――けれども、私は見ました。死んだ筈のあの男が生き返っていたのを……!」

 

目の前で殺した筈の男が復活していたこと、その男の手によって地上に太陽が激突し、気づけば辺り一面が大惨事になっていたことを口にするアルジュナ。

茫然自失状態に陥っていたアルジュナだったが、いち早く正気に戻ったクリシュナの先導で兄たちと共に生き残りの軍勢をまとめて、急いでその場から撤兵したことを話す。

 

6、

アルジュナの話の途中で、何かから逃げるようにして突撃してきた魔獣の群れが一行の話の邪魔をする。

話を中断して全員で協力して魔獣を倒すも、そこにサーヴァント・ラーマ(セイバー)が登場する。

 

「ふむ。余は逃走していた魔獣どもを駆逐せんと追ってきたのだが、これはこれは……」

 

魔性殺しの特性を持つラーマが身構える一行を眺め、そこにドゥリーヨダナが混ざっていることに気づき、顔を蒼白にする。

妻であるシータ王女がドゥリーヨダナを見張る役目であったのに、何故ドゥリーヨダナがここにいるのか、シータをどうしたのだと激昂するラーマとの戦闘が開始。

 

一度は迎撃に成功するものの、途中で行方を眩ませたドゥリーヨダナを追ってきたシータ王女と合流。

ラマシタ夫婦と二回戦が勃発し、ラーマ王子が生前を共に戦った大猿の軍団を召喚したことで、逃げ場を失ってしまう。

万事休すと思われたその瞬間、いい感じにドリフトを効かせて走ってきた戦車が大猿の軍勢を蹴散らし、一行を掬い上げる。

 

7、

カルデア一行を救ったのは、死んだ筈のクリシュナだった。

再会を喜ぶビーマ・バララーマ。

嬉しい半面クリシュナが生きていることを不思議に思うアルジュナ、そんでもって吐き気がするような表情を浮かべるドゥリーヨダナ。

 

「皆様の反応を伺う限り、あなたがクリシュナさんであることは間違いありません。ですが、クリシュナさんは死んだと伺いました」

「――そうだね。確かにこの時代に生きているべきクリシュナは死んでいる。今ここにいるのはサーヴァントとして召喚されたクリシュナなんだ」

 

猛スピードで走る戦車に乗り、逃走を続けるカルデア一行。

道中で錯乱した魔獣の群れや狂った精霊たちとのバトルを繰り広げながらも、御者であるクリシュナから話を聞き出し、お互いの情報をまとめることによってこの特異点で何が起こっているのかを整理する。

 

「何がどうなっているのか、当事者である彼らよりも未来からの客人であるカルデアのマスターの方が把握している筈だ」

「……死んだ筈の英雄カルナが復活し、クルクシェートラの戦いをその手で終結させた」

『そして、逃走した二人の王を片方は錯乱、片方は軟禁という形で無力化し、ラーマを始めとする配下たちを使って、この世界の神秘を欠片も残さず抹殺しようとしてる……わからない、今回の聖杯の持ち主は一体何をしたいんだ!?』

 

そこにバララーマがさらに絶望的な情報を公開する。

世界の異常を感じて、急遽戻ってきた彼が神々の指示を伺うために天界に上ると、インドラの壮麗な宮殿は焼けただれていたこと。

慌ててヴィシュヌを始めとする三大神の座すべき神域に向かうも、そこには何の影も形も見当たらなかったこと。

 

「莫迦な! 一体誰が、神々をもそのような目に遭わすことが可能だというのですか!?」

「……アルジュナ。聡明な(キミ)であればすでに気付いているだろう?」

 

ここでようやくカルナ・オルタの情報が公開される。

インドラ神によって奪われた筈の黄金の鎧と神をも滅ぼす神殺しの槍を装備したカルナ以外に、そのような真似をしでかすことのできる猛者はいない、と口にしたクリシュナに一行が絶望モードに陥る。

 

『さ、最悪だ……! 単体での三界制覇が可能なインド神話最強の英雄が相手だって……! そんなのどうやって倒せばいいんだ!?』

「――幸い、と言っていいのか、聖杯の持ち主はカルナではない。我々が倒すべき相手は、その兄であるアディティナンダだ」

 

その途端、急ブレーキがかかり、戦車が急停止する。

彼らの前にはカルナ・オルタ及び、今回の特異点の元凶であるアディティナンダが立ち塞がっていた。

 

8、

突如現れたアディティナンダの姿に、警戒を隠せないカルデア一行。

そんな彼らに対して、敵対している筈のアディティナンダはあくまで友好的に声をかけてくる。

 

「――やあ、そこにいる異邦人の方々は、遥かな未来よりやってきたカルデアのマスターさんだよね?」

「よかった。カルナに頼んでわざわざ連れてきてもらった甲斐があったよ。貴方に会いにきたんだ」

 

ニコニコと微笑みを浮かべ、嬉しさを隠せない様子のアディティナンダに、困惑を隠せないカルデアのマスター。

 

「話というのは他でもない。君たちに人理崩壊を防ぐために、この特異点の完成を手伝って欲しいんだ」

「人理崩壊を防ぐため……? 何を言っているのですか!? 貴方の行動は矛盾しております!」

 

マシュの指摘に素直に肯定するアディティナンダ。

これまでの特異点の元凶となったものたちとは違い、魔術王の暴虐に絶望してそれを手伝っている訳でも、この時代だけを生き延びさせることに必死になっている訳でもないその姿にますます困惑するカルデア一行。

 

「そうだね。確かに、人理の崩壊した未来からやってきた貴方にはそう見えるかもしれない。だけど、長い目で見た場合だと話は違う」

 

アディティナンダ曰く、この特異点を完成させることで、また新しく人類の歴史を紡ぎ直すことが目的である。

この特異点を正史とすれば、人理の崩壊する2017年までの歴史を再び続けることが確定されるとのこと。

 

「未来からやってきた貴方たちには一度は人理が崩壊したという記憶を残しておく、そうすればこの世界が再び2017年を迎えた時、今回の事例よりももっと早くに、人理崩壊という未曾有の危機に対応できる筈だよ」

 

いくら聖杯でも、そんな奇跡が叶うはずがない! と叫ぶドクターに、アディティナンダは慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。

 

唐突に冬木で行われていた聖杯戦争の話をするアディティナンダ。

勝者に齎される聖杯の器は召喚されたサーヴァントの魂を満たすことで完成されるが、アディティナンダはそれと同じことを自分の所持している完成した聖杯で行なったと嘯く。

 

「カルナに頼んで、天界で下界の様子を野次馬よろしく観戦していた神々の御霊を使ったんだ。英霊よりも格の高い神霊の魂で聖杯の外殻をコーティングして強度を高め、その中身をこの世界に存在する全ての神秘で満たしたら、それこそまさに全能の願望機としてふさわしいと思わない?」

 

9、

――人間を翻弄する神々を滅ぼし、その魂を使って全能の聖杯を完成させ、その聖杯を礎に再び人類史を紡ぎ直す。

これまでの特異点とは違い、人を慈しむが故の行為であると告げるアディティナンダに衝撃を隠せないカルデア一行。

そこに、ドゥリーヨダナが待ったをかける。

 

「なるほど、そういうことだったのか。――ところで、アディティナンダ」

「なんだい、ドゥリーヨダナ」

「そこのカルナは一体どうした。我が友は確かに無口だが、ただ突っ立ているだけの案山子ではなかったはずだ」

 

確かに一度も口を開かず、ただ黙っているだけのカルナ・オルタ。

その質問に対して、アディティナンダはさっと表情を曇らせる。

 

「当然、言えるわけはないよ。カルナはアルジュナに殺されることを受け入れた。それなのに、(キミ)は弟の命惜しさに反魂を試み、そうしてかつての彼とは似つかぬ傀儡を弟と呼んで愛おしんでいるだなんて」

 

淡々とクリシュナがカルナ・オルタの現状を口にする。それにそれまでの余裕をかなぐり捨てて、反発するアディティナンダ。

 

「――違う! この子はカルナだ、俺の弟だ!」

「じゃあ、なんで(キミ)の弟は兄である(キミ)にただ唯々諾々と従っているんだい? おかしいじゃないか、あのカルナが主人であるドゥリーヨダナになんの反応も示さず、神々に対して叛逆した兄になんの苦言も制止も行わないだなんて」

「……それについては、わたしも気になっていた。――アディティナンダ、頼む。答えてくれ」

 

ドゥリーヨダナの懇願に、アディティナンダは渋々口を割る。

曰く、このカルナは確かにカルナだが、一時的にトランス状態に陥らせることでその意思を封印しているということ。

この特異点が新たな正史として確定した場合、その封印を外してカルナを正気に戻すつもりであること。

 

「お前、何を言っているんだ! それこそ、お前とわたしが疎んでいた神々のやり口そのものではないのか!」

「――だけど、これ以外に方法はないんだ! カルデアのマスター、今回は見逃してあげるから俺の言ったことをよく考えて! それからドゥリーヨダナ、貴方だけはこの場で回収させてもらう!!」

 

ここでカルナ・オルタとの戦闘発生。アディティナンダに操られた周囲の魔獣も共に襲ってくる。

クリシュナの機転でその場から脱出する目処が立つも、殿に名乗りを上げたバララーマを犠牲にしなければ、一同はカルナ・オルタとの戦闘から離脱することが叶わなかった。

 

10、

判明した衝撃の真実に、意気消沈するカルデア一行。

そんな彼らに自分たちは逃げ切ったのではなく、見逃された状態であると指摘するクリシュナ。

 

「しかし、いよいよ解せんな……? わたしの知るアディティナンダは何よりもカルナの意思を尊重していた兄だった。それがなぜ、弟の意思を強制的に奪うような真似をする? カルナが敗北を受けて入れて死んだというのであればなおさらだ」

「あの……ドゥリーヨダナ王。貴方はひょっとしたら、カルナさんがどうやって死んだのかをご存じないのですか?」

「ああ。わたしはそこのアルジュナとカルナが戦っている様子を見ていたが、あらかじめに被害に巻き込まれないように離れたところにいたからな。詳しい内容は知らん。ビーマ、お前もそうだろう?」

「ああそうだ。――アルジュナ、一体どうしたんだ?」

 

ここで、アルジュナが戦車の車輪が外れたことで身動きの取れなくなったカルナをその矢で射抜いた事実が判明。

クシャトリヤの作法で戦車から降りた相手に対し、そのような手段で敵を殺すことはご法度とされていたのに、それを実行したアルジュナ及び唆したクリシュナにドゥリーヨダナが大激怒。

 

「お前ら……! 普段、カルナのことを身分やなんだで散々バカにしていたくせに、肝心のクシャトリヤであるお前らがそれを遵守しないとはどういうことだ! インドラ神との鎧の一件といい、今回の件といい、あの温厚なアディティナンダとて流石に怒り狂うだろうよ!!」

 

ここでパーティ内で仲間割れが勃発。カルデアのマスターは再度選択を迫られることになる。

 

→ドゥリーヨダナに味方しますか?

→アルジュナ及びクリシュナたちに味方しますか?(最後の戦いにドゥリーヨダナが参加しないルートに)

 

パーンダヴァに味方した場合、ドゥリーヨダナがパーティを離脱するイベントが発生。

その結果、カルナ・オルタ戦の難易度が超ハードモードになる。――とはいえ、これ以降の出来事はほぼ同じ。

 

11、 (ドゥリーヨダナ残留ルート)

双方に言い分があり、双方に同情すべき余地と責任があることを再確認して、パーティは再結成。

正しい歴史の勝者であり神々の眷属であるパーンダヴァ側はそれでいいとして、何故ドゥリーヨダナもアディティナンダたちと敵対する道を選ぶのかを尋ねる。

 

「別に大した問題じゃない。カルナにアディティナンダ……あいつらはわたしの家臣だ。それが魔術王とかいう、よくわからないやつの手先になっているのだぞ? わたしのものであるあいつらを見知らぬ他人に好き勝手させるものか」

「それに、あの状態のアディティナンダをあのままにはしておけん。見かけは普通に見えても、さっきの様子では……」

「しかし、何故アディティナンダはわたしの身柄にああも執着するのだろうか。――おい、そこのいっぺん死んだ腹黒! お前、その理由を知っているか?」

 

そんな彼らの前に、トリスタン(アーチャー)とイゾルデ(キャスター)の二人組が現れる。

パーンダヴァの連中――特にクリシュナの命をもらいにきたと告げる彼らとの戦闘に突入する。

バトルに敗れ、金の粒子となって消滅してく彼らだったが、完全に消える直前に、アディティナンダたちがクルクシェートラの平野で大儀式を行おうとしていることを教えてくれる。

 

「どちらの言い分が正しいことなのか、私たちには分からない。――ただ、彼らはあなたたちを待っている気がするのです」

 

12、

有力な情報を手掛かりに、クルクシェートラを目指すカルデア一行。

その前にブリュンヒルデ・シグルド組、ラーマ・シータ夫婦が立ちはだかり、お約束のように戦闘が開始される。

 

彼らを撃破すると、普通の聖杯戦争では相見えることのできない最愛の相手との再会への感謝としてアディティナンダに従っていたこと、彼の取ろうとしている手段もまた人理を救うための最適な方法であるという事実を告げ、それでもなお、アディティナンダは止めるべきであると宣言して、もう一人の秩序の維持者(ラーマ王子)は消滅する。

 

召喚されたサーヴァントを全員倒し、アディティナンダの元へとたどり着いた一行。

通常の聖杯よりも莫大な魔力を蓄えた<大聖杯>を手にしたアディティナンダが、静かにカルデアのマスターに問いかける。

 

「偉大なるヴィシュヌの化身も申した通り、この<大聖杯>を用いれば、ここから人類の歴史を改めて紡ぎ直すことが可能です。――それでもなお、貴方は(ワタシ)と敵対する道を選ぶのですか?」

「――ラーマさんが消滅する前に言っていました。貴方のしようとしていることは間違っていない、それでも私たちは貴方を止めるべきである、と。これは一体どういう意味なのでしょう?」

 

先の出会いの時に告げた通りに、神霊の魂を溜め込んだこの<大聖杯>であるならば、歴史の再編が可能となる。

しかし、一度は崩壊した人理を再出発させるためのその代償として、術者であるアディティナンダの魂は良くても消滅という道を選ぶことになると。

 

「また、人の子が当初の歴史よりも早くに神を失うことで、発生する問題もあると思います」

「――それでも、ドゥリーヨダナ。神の手助けを必要とせず、人の力だけで歩むことを自らに課した貴方とこのカルナがいれば、たいていの問題はつつがなく解決することが可能なはずです」

「たとえ、貴方という指導者が没したとしても、その後を歩くだけの力を持つ人の子はきっと現れてくれるはずです。(ワタシ)は、いえ、ワタシはあなた方を信じていますから」

 

ある種の狂信、盲信具合に、一見したところまともに見えたアディティナンダが確かに狂気に陥っていたことを再確認する一行。

人の精神性がまだまだ未熟な段階で神々というくびきから解放された場合、人類が己を律して生き続けることが可能であるとは思えないと指摘するクリシュナ。

それでもただ人間を翻弄し続ける傲慢な神の支配下にあり続けることよりも、遥かにマシだと言い捨てるアディティナンダ。

 

「その為には、あなた方が邪魔です。とても、とても邪魔です。このバーラタの大地にしぶとくしがみつく神々の残滓。せめてもの慈悲として、あなた方を心から人形(ヒト)として愛していた神々の手によって、消滅させて差し上げます」

 

<大聖杯>によって、ヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーの三大神を依代に魔神柱が同時に出現。

こんなことがあり得るはずがない、と叫ぶクリシュナに、婉然と微笑むアディティナンダ。

神々は人の信仰あっての存在であり、人亡くして神の存在などあり得ない、と。

 

「――ですから、忘れさせてしまいました。今、この大地に住まう人々の脳裏には神という概念はありません。人から忘れ去られた神が行き着く先は……お分かりですね?」

 

三代神と雖も、存在が忘却されてしまえば弱体化は免れない。

VS三体の魔神柱との戦闘が開始――これに辛勝すれば、最大の敵であるアディティナンダ+カルナ・オルタ戦が開始する。

 

13、

ここでドゥリーヨダナをパーティインした場合の利点が生きてくる。

ドゥリーヨダナがパーティに加わっていれば、カルナ・オルタに対する特別コマンド「主人兼親友の怒声」を使用することで、トランス状態に陥っているカルナの意識を揺さぶることが可能になる。

ただしその場合、アディティナンダの方も呪いのスキル「絶佳の魔声」で打ち消そうとするため、タイミングを見計らう必要あり。

 

「神々から与えられるだけの玉座なんて、不要だ! わたしはわたしの欲しいものを自分と頼りになる家臣との力で獲得してきた! この先に何が待ち受けようと、これからだってそうしてやる! お前のしようとしていることなど、余計なお世話だ、アディティナンダ!!」

「お願いです、ドゥリーヨダナ。ワタシの話を聞いてください。ワタシはこの聖杯とつながることで本来の歴史を読み解きました」

 

カルナ・オルタが槍を引く形で、一戦目は終了。

あのままカルナが死ねば、そう遠くない未来にカウラヴァはパーンダヴァによって敗北し、軍団は散り散りになってしまうこと。

それから起こるドゥリーヨダナの非業の死、腹心であるアシュヴァッターマンを始めとするカウラヴァの家臣たちはそれぞれの誇りを踏みにじられる形で死を迎える羽目になること。

 

「もっと早くにアディティナンダという人間の人格を捨てるべきでした。そうすれば、もっと他の道が……」

「五月蝿い! いいか、わたしは物心ついて以来、神という存在が大っ嫌いだ! あいつらは訳知り顔で、完全なる善意でわたしたち人間に己の都合ばかり押し付けてくる! そこにわたしたちの都合など御構い無しだ! ――だがな!」

「お前は違った! お前とカルナだけは違った! お前が人の心を持ち、時に自制を失いかけつつも、人のようにありたいと思って行動してきたからこそ、わたしは大嫌いな神々の中で、唯一お前を共に未来を歩むものとして認めたんだ! それを悔いることなど、他の誰が肯定しても、このドゥリーヨダナが許さん!!」

「ありのままの人の姿を尊び、慈しみ続けたお前たちだからこそ、わたしはわたしの友として認めたのだ! それなのにどうだ、今のお前の体たらくは! 独善的で押し付けがましいその態度、わたしの嫌いな神そのものではないか!」

 

すごく滅茶苦茶なドゥリーョダナ理論に押され、たじろぐアディティナンダ。

そこを突いて攻撃するも、カルナ・オルタによって防がれる。二戦目、ここで一旦終了する。

 

そして、とうとうラストバトル。

それまでカルナ・オルタだけが相手だったのに、アディティナンダがキャスターとして参戦。

最強の矛と盾を手にしたカルナをサポートし、回避や攻撃力アップ、回復効果などといった支援や、強化解除や宝具威力ダウンなどの妨害をしてくる。

 

いいところまで追い詰めるものの、とうとう大聖杯の術式が稼働する。

ついに特異点が完成してしまうのか……と思いきや、カルナ・オルタがアディティナンダを槍で突き刺す形で大儀式が中断される。

 

――――そして……。



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FGOネタ 第五特異点 in インド ② 離脱ルート

北米神話大戦をインドで置き換えてみたFGOネタ②。

正直、カルナ・オルタの殺し方が分からないという点で難易度はEX。

真面目に小説として書くのはきついので、台詞メインのダイジェスト版でやってみた。

 

1、

カルデアのマスターが神話の時代のインドにレイシフトするも、人々の平和な暮らしを目の当たりにし、異常が見当たらない異常という事態に。

ロマニの発言でクルクシェートラの戦いが行われているというのに、街中の人々がそれについて口にしないということに気づき、急いでクルクシェートラの平野へと足を進めるカルデア一行。

すると、それまでの平穏な光景を覆すような惨憺たる有様を目撃する。

その道中に通りかかった兵士崩れの襲撃に遭い、この時に「太陽が地上に降ってきた」という情報を入手し、カウラヴァ・パーンダヴァの双方の王たちが撤退したことを聞く。

 

2、

これが今回の特異点におけるカギであると直感したカルデア一行は、カウラヴァの都・ハースティナプラか、パーンダヴァの都・インドラプラスタのどちらかを選んで情報収集及びその協力を求める必要があると考える。

ここで選択肢はどちらかしか選べず、インドラプラスタを選ぶと強制バッドエンド(都に着いた途端、豹変したユディシュティラと錯乱した都人たちに殺害されるルートが解禁)。

 

ハースティナプラを選べば、ドゥリーヨダナに面会するために王宮へと忍び込み、そこで軟禁状態にあるドゥリーヨダナを発見、彼を解放する代わりに協力を得ることに成功する。

 

「――やぁ、見ない顔だな。わたしをこの窮屈な檻から解放してくれるというのであれば大歓迎なのだが」

「カルデア? ああ、()()()の言っていたあの星見の塔の連中か」

「まあ、なんでもよかろう。――ほれ、とっとと脱出するぞ!」

 

3、

解放されたドゥリーヨダナと共に王都脱出を図るカルデア一行。

その前にロティカに召喚されたサーヴァント(サーヴァント・アーチャーで召喚されたシータ姫)が立ち塞がるも、アシュヴァッターマンの援護により無事に逃げ切ることに成功。

ひとまず安全な場所に落ち着いて、ドゥリーヨダナの口から一体何が起こったのかについて聞き出す流れに。

 

「詳しくはわたしもよくは知らん。ただ、我が友・カルナとアルジュナが戦い、その勝負にカルナが敗北したのは明らかだ。その瞬間、その瞬間だ。一条の黄金の光がわたしの目を焼いたかと思うと、太陽が地上に激突し、気がつけば大軍勢が瞬く間に消失してしまっていたのだ」

「とりあえず、あの場に居続けることだけはまずいと感じ、すぐさま生き残りをまとめて都に帰還したのだが……」

 

――そこで口を閉ざすドゥリーヨダナ。

話の続きを促すも、近くで誰かが戦闘している音を聞きつけ、一行は様子を確かめに出向くことになる。

 

「――静かに! 息を潜めていろ、この様子はただ事ではない」

「先輩、この匂いはひょっとして……!」

 

恐る恐る様子を伺えば、濃厚な血の匂いが鼻につく。

どうやら二人組同士が戦闘を行なっているらしい、しかも戦っている片方は血だらけであった。

 

「あれはビーマとアルジュナ!? 生きて居たのか……! いや、それよりも奴らと戦っているのは一体……!?」

 

ブリュンヒルデとシグルド VS ビーマとアルジュナ

彼らの助太刀を提案するも、肝心のドゥリーヨダナが逡巡する。ここでドゥリーヨダナの説得イベントが発生。

この時代の特異点はカルナの死によって発生していることを指摘し、その直前までカルナと戦っていたアルジュナの話を聞く必要があると宣言、それでも渋るドゥリーヨダナにビーマに恩を売れますよとそそのかせば、率先してドゥリーヨダナが助けに行く。

 

「はははは! いいざまだな、この狼腹(ヴリコーダラ)! 普段の五割り増しで美男ではないか!」

「――ッゲ! ドゥリーヨダナ! 何をしに来た!?」

「無論、お前とその弟の無様な姿を嗤いに来てやったのよ! ついでに命を助けてやるから、地にひれ伏して感謝するといい!」

 

カルデアのマスターの指示のもと、ブリュンヒルデらと激突。その撃退に成功する。

 

4、

改めて自己紹介をしあうカルデア一行。

ビーマがドゥリーヨダナと一緒にいることで信用ならないと騒ぐが、比較的冷静だったアルジュナがそれを制する。

 

「そういえば、三男坊。お前たちだけなのか? ユディシュティラの阿保とあの腹黒い親友殿はどうした?」

「……ユディシュティラ兄上はインドラプラスタの都におります。クリシュナは……――」

 

ここで初めてパーンダヴァ側の状況がどうなっていたのかを聞くことができる。

アルジュナ曰く、クリシュナと双子の弟たちは逃走の最中に追撃に会い死亡、ユディシュティラは無事だが正気を失ってしまった。

 

「――待て。一体何がどうなっている!? わたしの兵士たちが束になってかかっても殺せなかったあの双子と死んでも死なないようなあの化け物が殺されただと?」

「おかしいです、先輩。確かに叙事詩においてクリシュナさんの死は記載されておりますが、それはクルクシェートラの戦いよりもずっと先のこと。この時点で彼らが亡くなっているのは異常事態です!」

「おや。変ですね、てっきり我々はこの異常な事態を引き起こしたのは貴方だと思っていたのですが……心当たりがないのですか?」

 

ビーマのドゥリーヨダナに対する過剰な敵意、アルジュナの警戒を解かない姿勢にようやく合点が行くカルデア一行。

そこに第三者としてビーマとドゥリーヨダナの師匠であるバララーマが登場する。

 

5、

お約束のように戦闘になるカルデア一行。バララーマも本気ではなかったので、すぐさま武器を下ろす。

そこでバララーマの口から、バーラタの大地に存在するあらゆる魔性や精霊、神霊の類が何者かの手によって抹殺されている途中であることが判明する。

 

『一体、何がどうなっているんだ? この時代はまだ神々と人が共に暮らしている時代だ。今よりもずっと神秘の濃い世界だと言ってもいい。それなのに、精霊はおろか……神々の眷属までもが抹殺されているだって!?』

「ドクターの言う通りです。幾ら何でもおかしすぎます!」

 

悲鳴をあげるロマニとマシュ。

表情を曇らせるアルジュナに目敏く気付いたドゥリーヨダナが、クルクシェートラで一体何が起こったのかを詰問する。

 

「……私は、私は確かにあの男を殺しました。この手で、この弓で、私の放った矢によって、確かに。それは間違いありません」

「あの男の姉である彼女の悲痛な叫びが、未だに耳から離れません。そう、確かにあの男は――カルナは死んだはずなのです……!」

「しかし……次の瞬間には一条の黄金の光が私とクリシュナの視界を焼きつくしました。これは、あの場にいた全員が目にした光景でしょう」

「――けれども、私は見ました。死んだ筈のあの男が生き返っていたのを……!」

 

目の前で殺した筈の男が復活していたこと、その男の手によって地上に太陽が激突し、気づけば辺り一面が大惨事になっていたことを口にするアルジュナ。

茫然自失状態に陥っていたアルジュナだったが、いち早く正気に戻ったクリシュナの先導で兄たちと共に生き残りの軍勢をまとめて、急いでその場から撤兵したことを話す。

 

6、

アルジュナの話の途中で、何かから逃げるようにして突撃してきた魔獣の群れが一行の話の邪魔をする。

話を中断して全員で協力して魔獣を倒すも、そこにサーヴァント・ラーマ(セイバー)が登場する。

 

「ふむ。余は逃走していた魔獣どもを駆逐せんと追ってきたのだが、これはこれは……」

 

魔性殺しの特性を持つラーマが身構える一行を眺め、そこにドゥリーヨダナが混ざっていることに気づき、顔を蒼白にする。

妻であるシータ王女がドゥリーヨダナを見張る役目であったのに、何故ドゥリーヨダナがここにいるのか、シータをどうしたのだと激昂するラーマとの戦闘が開始。

 

一度は迎撃に成功するものの、途中で行方を眩ませたドゥリーヨダナを追ってきたシータ王女と合流。

ラマシタ夫婦と二回戦が勃発し、ラーマ王子が生前を共に戦った大猿の軍団を召喚したことで、逃げ場を失ってしまう。

万事休すと思われたその瞬間、いい感じにドリフトを効かせて走ってきた戦車が大猿の軍勢を蹴散らし、一行を掬い上げる。

 

7、

カルデア一行を救ったのは、死んだ筈のクリシュナだった。

再会を喜ぶビーマ・バララーマ。

嬉しい半面クリシュナが生きていることを不思議に思うアルジュナ、そんでもって吐き気がするような表情を浮かべるドゥリーヨダナ。

 

「皆様の反応を伺う限り、あなたがクリシュナさんであることは間違いありません。ですが、クリシュナさんは死んだと伺いました」

「――そうだね。確かにこの時代に生きているべきクリシュナは死んでいる。今ここにいるのはサーヴァントとして召喚されたクリシュナなんだ」

 

猛スピードで走る戦車に乗り、逃走を続けるカルデア一行。

道中で錯乱した魔獣の群れや狂った精霊たちとのバトルを繰り広げながらも、御者であるクリシュナから話を聞き出し、お互いの情報をまとめることによってこの特異点で何が起こっているのかを整理する。

 

「何がどうなっているのか、当事者である彼らよりも未来からの客人であるカルデアのマスターの方が把握している筈だ」

「……死んだ筈の英雄カルナが復活し、クルクシェートラの戦いをその手で終結させた」

『そして、逃走した二人の王を片方は錯乱、片方は軟禁という形で無力化し、ラーマを始めとする配下たちを使って、この世界の神秘を欠片も残さず抹殺しようとしてる……わからない、今回の聖杯の持ち主は一体何をしたいんだ!?』

 

そこにバララーマがさらに絶望的な情報を公開する。

世界の異常を感じて、急遽戻ってきた彼が神々の指示を伺うために天界に上ると、インドラの壮麗な宮殿は焼けただれていたこと。

慌ててヴィシュヌを始めとする三大神の座すべき神域に向かうも、そこには何の影も形も見当たらなかったこと。

 

「莫迦な! 一体誰が、神々をもそのような目に遭わすことが可能だというのですか!?」

「……アルジュナ。聡明な(キミ)であればすでに気付いているだろう?」

 

ここでようやくカルナ・オルタの情報が公開される。

インドラ神によって奪われた筈の黄金の鎧と神をも滅ぼす神殺しの槍を装備したカルナ以外に、そのような真似をしでかすことのできる猛者はいない、と口にしたクリシュナに一行が絶望モードに陥る。

 

『さ、最悪だ……! 単体での三界制覇が可能なインド神話最強の英雄が相手だって……! そんなのどうやって倒せばいいんだ!?』

「――幸い、と言っていいのか、聖杯の持ち主はカルナではない。我々が倒すべき相手は、その姉であるロティカだ」

 

その途端、急ブレーキがかかり、戦車が急停止する。

彼らの前にはカルナ・オルタ及び、今回の特異点の元凶であるロティカが立ち塞がっていた。

 

8、

突如現れたロティカの姿に、警戒を隠せないカルデア一行。

そんな彼らに対して、敵対している筈のロティカはあくまで友好的に声をかけてくる。

 

「――やあ、そこにいる異邦人の方々は、遥かな未来よりやってきたカルデアのマスターさんだよね?」

「よかった。カルナに頼んでわざわざ連れてきてもらった甲斐があったよ。貴方に会いにきたんだ」

 

ニコニコと微笑みを浮かべ、嬉しさを隠せない様子のロティカに、困惑を隠せないカルデアのマスター。

 

「話というのは他でもない。君たちに人理崩壊を防ぐために、この特異点の完成を手伝って欲しいんだ」

「人理崩壊を防ぐため……? 何を言っているのですか!? 貴方の行動は矛盾しております!」

 

マシュの指摘に素直に肯定するロティカ。

これまでの特異点の元凶となったものたちとは違い、魔術王の暴虐に絶望してそれを手伝っている訳でも、この時代だけを生き延びさせることに必死になっている訳でもないその姿に、ますます困惑するカルデア一行。

 

「そうだね。確かに、人理の崩壊した未来からやってきた貴方にはそう見えるかもしれない。だけど、長い目で見た場合だと話は違う」

 

ロティカ曰く、この特異点を完成させることで、また新しく人類の歴史を紡ぎ直すことが目的である。

この特異点を正史とすれば、人理の崩壊する2017年までの歴史を再び続けることが確定されるとのこと。そのことによって改変される事柄、再編される出来事があるとはいえ、それでも人理は続くということ。

 

「未来からやってきた貴方たちには一度は人理が崩壊したという記憶を残しておく。そうすればこの世界が再び2017年を迎えた時、今回の事例よりももっと早くに、人理崩壊という未曾有の危機に対応できる筈だよ」

 

いくら聖杯でも、そんな奇跡が叶うはずがない! と叫ぶドクターに、ロティカは慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。

 

唐突に冬木で行われていた聖杯戦争の話をするロティカ。

勝者に齎される聖杯の器は召喚されたサーヴァントの魂を満たすことで完成されるが、ロティカはそれと同じことを自分の所持している完成した聖杯で行なったと嘯く。

 

「カルナに頼んで、天界で下界の様子を野次馬よろしく観戦していた神々の御霊を使ったんだ。英霊よりも格の高い神霊の魂で聖杯の外殻をコーティングして強度を高め、その中身をこの世界に存在する全ての神秘で満たしたら、それこそまさに全能の願望機としてふさわしいと思わない?」

 

9、

――人間を翻弄する神々を滅ぼし、その魂を使って全能の聖杯を完成させ、その聖杯を礎に再び人類史を紡ぎ直す。

これまでの特異点とは違い、人を慈しむが故の行為であると告げるロティカに衝撃を隠せないカルデア一行。

そこに、ドゥリーヨダナが待ったをかける。

 

「なるほど、そういうことだったのか。――ところで、ロティカ」

「なんだい、ドゥリーヨダナ」

「そこのカルナは一体どうした。我が友は確かに無口だが、ただ突っ立ているだけの案山子ではなかったはずだ」

 

確かに一度も口を開かず、ただ黙っているだけのカルナ・オルタ。

その質問に対して、ロティカはさっと表情を曇らせる。

 

「当然、言えるわけはないよ。カルナはアルジュナに殺されることを受け入れた。それなのに、(キミ)は弟の命惜しさに反魂を試み、そうしてかつての彼とは似つかぬ傀儡を弟と呼んで愛おしんでいるだなんて」

 

淡々とクリシュナがカルナ・オルタの現状を口にする。それにそれまでの余裕をかなぐり捨てて、反発するロティカ。

 

「――違う! この子はカルナだ、俺の弟だ!」

「じゃあ、なんでキミの弟は姉である(キミ)にただ唯々諾々と従っているんだい? おかしいじゃないか、あのカルナが主人であるドゥリーヨダナになんの反応も示さず、神々に対して叛逆した姉になんの苦言も制止も行わないだなんて」

「……それについては、わたしも気になっていた。――ロティカ、頼む。答えてくれ」

 

ドゥリーヨダナの懇願に、ロティカは渋々口を割る。

曰く、このカルナは確かにカルナだが、一時的にトランス状態に陥らせることでその意思を封印しているということ。

この特異点が新たな正史として確定した場合、その封印を外してカルナを正気に戻すつもりであること。

 

「お前、何を言っているんだ! それこそ、お前とわたしが疎んでいた神々のやり口そのものではないのか!」

「――だけど、これ以外に方法はないんだ! カルデアのマスター、今回は見逃してあげるから俺の言ったことをよく考えて! それからドゥリーヨダナ、貴方だけはこの場で回収させてもらう!!」

 

ここでカルナ・オルタとの戦闘発生。ロティカに操られた周囲の魔獣も共に襲ってくる。

クリシュナの機転でその場から脱出する目処が立つも、殿に名乗りを上げたバララーマを犠牲にしなければ、一同はカルナ・オルタとの戦闘から離脱することが叶わなかった。

 

10、

判明した衝撃の真実に、意気消沈するカルデア一行。

そんな彼らに自分たちは逃げ切ったのではなく、見逃された状態であると指摘するクリシュナ。

 

「しかし、いよいよ解せんな……? わたしの知るロティカは何よりもカルナの意思を尊重していた姉だった。それがなぜ、弟の意思を強制的に奪うような真似をする? カルナが敗北を受けて入れて死んだというのであればなおさらだ」

「あの……ドゥリーヨダナ王。貴方はひょっとしたら、カルナさんがどうやって死んだのかをご存じないのですか?」

「……ああ。わたしはそこのアルジュナとカルナが戦っている様子を見ていたが、あらかじめに被害に巻き込まれないように離れたところにいたからな。詳しい内容は知らん。ビーマ、お前もそうだろう?」

「ああそうだ。――アルジュナ、一体どうしたんだ?」

 

ここで、アルジュナが戦車の車輪が外れたことで身動きの取れなくなったカルナをその矢で射抜いた事実が判明。

クシャトリヤの作法で戦車から降りた相手に対し、そのような手段で敵を殺すことはご法度とされていたのに、それを実行したアルジュナ及び唆したクリシュナにドゥリーヨダナが大激怒。

 

「お前ら……! 普段、カルナのことを身分やなんだで散々バカにしていたくせに、肝心のクシャトリヤであるお前らがそれを遵守しないとはどういうことだ! インドラ神との鎧の一件といい、今回の件といい、あの温厚なロティカとて流石に怒り狂うだろうよ!!」

 

ここでパーティ内で仲間割れが勃発。カルデアのマスターは再度選択を迫られることになる。

 

→ドゥリーヨダナに味方しますか?

→アルジュナ及びクリシュナたちに味方しますか?(最後の戦いにドゥリーヨダナが参加しないルートに)

 

パーンダヴァに味方した場合、ドゥリーヨダナがパーティを離脱するイベントが発生。

その結果、カルナ・オルタ戦の難易度が超ハードモードになる。――とはいえ、これ以降の出来事はほぼ同じ。

 

 

11、(ドゥリーヨダナ離脱ルート)

パーンダヴァ兄弟とクリシュナに味方したことで、ドゥリーヨダナが敗北。

人類史炎上という未曾有の災厄と特異点の生成という非常事態に、頭ではパーンダヴァと協力して対処せねばならぬと理解してはいても、親友の戦士としての誇りを踏みにじるような死に様とそれによって発狂したロティカの心情も理解できるだけに、敵対はしないが味方しない、という選択を決断するドゥリーヨダナ。

 

「――いいのかい? 皆で協力しなければ、この危機を乗り切れないよ?」

「黙っていろ、この腹黒鬼畜野郎。人間というものは、頭で理解しても心が納得できないことってものがあるんだよ」

 

一人パーティから離脱していくドゥリーヨダナにクリシュナが声をかけるが、けんもほろろに断られる。

 

「貴様らの言い分もロティカの言い分も理解できる――理解できるからこそ、少し頭を冷やしたい」

 

そう告げて、宵闇の彼方へと消えていくドゥリーヨダナ。

ここで、パーティメンバーから正式にドゥリーヨダナが離脱し、カルデア一行はパーンダヴァの兄弟二人とクリシュナとともに行動することになる。

 

パーティの冷やかし役で付き合いの良かったドゥリーヨダナがいなくなったことで、自然とパーティの空気が重くなる。

その上、アルジュナはドゥリーヨダナによって責められて以降、一言も喋らなくなってしまう。

 

「正直、ドゥリーヨダナが離脱してしまったことは痛いな。ロティカは何故だかドゥリーヨダナに固執していたようだし、彼がいた方が色々と物事がスムーズに進んだだろうに」

「それにしても、相変わらずドゥリーヨダナの思考回路には理解しがたい。彼はいつものことながら感情的かつ感傷的に過ぎる」

「この一件に関して、絶対的な正義はこちらにあるというのに、何故、彼はああも頑ななのだろう?」

 

冷徹な眼差しで対・ロティカ戦におけるドゥリーヨダナの利用価値を計算しているクリシュナ。

それに対し、それまで発言を抑えていたマシュが反論する。

 

「――違います、それは違うと思います。クリシュナさん」

「私のようなデミ・サーヴァントが口にするのはおこがましいことであると自覚しております」

「貴方の言葉は正しいです。()()()()()()()()()()()()()()()。ですけど、人には――」

「たとえ無駄に見えても、一見すると意味のないことであったとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「先輩があの日、あの瞬間に、私の手を握ってくれた――――あの時のように」

 

――死に瀕した彼女の伸ばした手を、マスターが握りしめてくれた。その行為の尊さを誰が否定することができるのだろう。

 

そう述べたマシュに対して、心底理解できないと言わんばかりの表情を浮かべるクリシュナ。

人の情愛を理解することができても、その一切を切り捨ててしまえる非道さ故に、神の化身足り得る非人間性。

無機質めいた眼差しで見つめ返してくるクリシュナが、そっと嘆息する。

 

「――昔、その子と同じことを(ボク)に対して告げた奴がいたよ」

「さりげない毎日に、密やかではあるけれども確かに存在している、そんな人間の美しさ――それに価値があると理解出来る癖に意味を見出せないお前は哀れだと、すごく勝ち誇った表情で宣言してきたのを記憶している」

(ボク)は、(ボク)が生前行ってきたことに後悔はない。アルジュナの親友として、パーンダヴァの導き手として、より良き世界を創り上げるためにやってきたことだ。――そこに後悔など、あろうはずがない」

「嗚呼、それでも――正しすぎることもまた、罪であるというのであれば……」

 

そんな彼らの前に、トリスタン(アーチャー)とイゾルデ(キャスター)の二人組が現れる。

パーンダヴァの連中――特にクリシュナの命をもらいにきたと告げる彼らとの戦闘に突入する。

バトルに敗れ、金の粒子となって消滅してく彼らだったが、完全に消える直前に、ロティカたちがクルクシェートラの平野で大儀式を行おうとしていることを教えてくれる。

 

「どちらの言い分が正しいことなのか、私たちには分からない。――ただ、彼らはあなたたちを待っている気がするのです」

 

12、

有力な情報を手掛かりに、クルクシェートラを目指すカルデア一行。

その前にブリュンヒルデ・シグルド組、ラーマ・シータ夫婦が立ちはだかり、お約束のように戦闘が開始される。

 

彼らを撃破すると、普通の聖杯戦争では相見えることのできない最愛の相手との再会への感謝としてロティカに従っていたこと、彼の取ろうとしている手段もまた人理を救うための最適な方法であるという事実を告げ、それでもなお、ロティカは止めるべきであると宣言して、ラーマ王子(もう一人の秩序の維持者)は消滅する。

 

召喚されたサーヴァントを全員倒し、ロティカの元へとたどり着いた一行。

通常の聖杯よりも莫大な魔力を蓄えた<大聖杯>を手にしたロティカが、静かにカルデアのマスターに問いかける。

 

「偉大なるヴィシュヌの化身も申した通り、この<大聖杯>を用いれば、ここから人類の歴史を改めて紡ぎ直すことが可能です。――それでもなお、貴方は(ワタシ)と敵対する道を選ぶのですか?」

「――ラーマさんが消滅する前に言っていました。貴方のしようとしていることは間違っていない、それでも私たちは貴方を止めるべきである、と。これは一体どういう意味なのでしょう?」

 

先の出会いの時に告げた通りに、神霊の魂を溜め込んだこの<大聖杯>であるならば、歴史の再編が可能となる。

しかし、一度は崩壊した人理を再出発させるためのその代償として、術者であるロティカの魂は良くても消滅という道を選ぶことになると。

 

「――また、人の子が当初の歴史よりも早くに神を失うことで、発生する問題もあると思います。――それでも、ドゥリーヨダナがいればきっと大丈夫です」

「神の手助けを必要とせず、人の力だけで歩むことを自らに課したドゥリーヨダナとカルナがいれば、たいていの問題はつつがなく解決することが可能なはずです」

「それに、彼という指導者が没したとしても、その後を歩くだけの力を持つ人の子はきっと現れてくれるはずです。(ワタシ)は、いえ、ワタシはあなた方を信じていますから」

 

ある種の狂信・盲信具合に、一見したところまともに見えたロティカが確かに狂気に陥っていたことを再確認する一行。

人の精神性がまだまだ未熟な段階で神々というくびきから解放された場合、人類が己を律して生き続けることが可能であるとは思えないと指摘するクリシュナ。

それでもただ人間を翻弄し続ける傲慢な神の支配下にあり続けるよりも、遥かにマシだと言い捨てるロティカ。

その二人の問答に、それまで無言を貫いていたアルジュナがとうとう口を開く。

 

「――お待ちください、タパティー。いえ、ロティカ」

「貴女が結果として人理焼却に加担することになったのは、私がカルナを殺したことが切っ掛けなのでしょう?」

「貴女の怒りも嘆きも当然のことです。ならばこそ、その怒りはその下手人である私に向けるべきです」

「烏滸がましい願いを口にしていると、自覚しております。ですが、どうかそのお怒りをお鎮め願いたい!」

「この身を千々に砕かれても、灼熱の炎で永遠の責め苦を与えられたとしても構わない」

「――――ですから、どうかこのような大罪に、その手を染めないで下さい……!!」

 

悲痛な叫び声をあげたアルジュナの言葉に、心底不思議そうにロティカは首をかしげる。

そうして、いっそ甘やかなほど優しい声でアルジュナに対して言葉を紡ぐ。

 

「――あのね、()()()()()()()。ワタシは別に、君のことを恨んでなんかいないよ?」

「だって、君はカルナが認めた好敵手だ。そして、ワタシたちの読み違いでない限り、君だってカルナのことを看過できない相手だと()()()()()()()()()()()()?」

「だから、そんなカルナが戦場において君に殺されたとしても、それはそれで構わなかった」

「――だって、戦場で君の手で討たれたとしても、それはカルナの行動に対する帰結の一つでしかないのだもの」

 

呆然とするアルジュナを見やるロティカの瞳に、怒りの炎が宿る。

真紅に染まったロティカの眼差しは目の前のアルジュナを通り越して、その後ろにいるクリシュナを睨んでいた。

 

「――むしろ、ワタシが許せなかったのは、君の周囲に対してだ」

「だって、俺もカルナも知っていた。君がカルナを倒すために、どんなに努力を積み重ねてきたのかを。確かに、それは周りから授かり続けてきたからこそ得られた力なのかもしれない」

「だけれども、君はその力を十分に使いこなすために、決して容易くはない修練を積み重ねてきた筈だ」

「それなのに、君の父親も君の親友も、君のその努力を全て無駄にするような真似をした――ワタシは、()は……君という存在が辿ってきた全ての道筋を否定するような、そんな奴らの行為の方が……寧ろ許せないのです」

 

それまで動かなかったカルナ・オルタが槍を構え、戦闘体制に入ったのと同時にロティカが手にした<大聖杯>を軽く撫でる。

美しくも怪しい輝きを放つ<大聖杯>が不自然に震えだし、大地もまたそれに呼応するように唸るような地響きを立てる。

 

「――でも、大丈夫。今度こそ、君とカルナの戦いには神々の横槍など入れさせない」

「新しく組み上げられる世界で、お互いの気がすむまで戦ってください。その結果、カルナが死んだとしても、それがこの子の選択の結果であればワタシが口出しできる領分ではありません」

「――――だから、カルナを卑怯な手段で殺したのだと、自分を責める必要などないのですよ。()()()()()()()()()()()()()()()

「とはいえ、新しい世界にはクリシュナにビーマセーナ、あなた方が邪魔です。とても、とても邪魔です。このバーラタの大地にしぶとくしがみつく神々の残滓。せめてもの慈悲として、あなた方が心より尊んでいた神々の手によって、消滅させて差し上げます」

 

<大聖杯>によって、ヴィシュヌ・シヴァ・ブラフマーの三大神を依代に魔神柱が同時に出現。

こんなことがあり得るはずがない、と叫ぶクリシュナに、婉然と微笑むロティカ。

神々は人の信仰あっての存在であり、人亡くして神の存在などあり得ない、と。

 

「――ですから、忘れさせてしまいました。今、この大地に住まう人々の脳裏には神という概念はありません。人から忘れ去られた神が行き着く先は……お分かりですね?」

 

三代神と雖も、存在が忘却されてしまえば弱体化は免れない。

VS三体の魔神柱との戦闘が開始――これに辛勝すれば、最大の敵であるロティカ+カルナ・オルタ戦が開始する。

 

13、

ここでドゥリーヨダナをパーティ・インした場合の利点が生きてくる。

だが、このルートではドゥリーヨダナがいないため、カルナ・オルタを弱体化させるための特殊コマンドが発生せず、かなり厳しい戦いになる。

 

――とはいえ、カルナ・オルタが槍を引く形で、一戦目は終了。

魔術王によってもたらされた聖杯と繋がることで、この先に起こる正史とされた未来を読み取ったロティカ。そこから起こり得る残酷な未来と勝者となりながらも神々の意のままに生き続けなければならないパーンダヴァの将来を憂える。

 

「もっと早くにロティカ、いえ、アディティナンダという人間の人格を捨てるべきでした。そうすれば、もっと他の道があったのだとひどく後悔しています」

「……ねぇ、第三王子。貴方だってそうです。このまま、唯々諾々と言われ、求められるがままに行動した結果、貴方の未来に何が起こるのかも、ワタシは全て知ってしまいました」

「うんざりです、飽き飽きです、そして何より辟易します。ワタシはずっと耐えてきました。神々の王や秩序の維持者が何をやろうと、貴方のためだという大義名分を盾に、ワタシの弟に何をしでかしたとしても」

「――ですが、あれはない。あれだけはない。貴方のカルナに対する殺意も憎悪もワタシは肯定します。射るべきではない矢を放った貴方の心情にも心苦しくはありますが、理解を示す努力はできます。……ですが」

 

武器を構えたままのカルデア一行にそれでも敵意を向けることなく、淡々とロティカは独白を続ける。

 

「貴方を英雄だと、最高の戦士だと称えておきながら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんな彼らの振る舞いこそ、ワタシは最も許しがたい行いとして、憎まずにはいられないのです」

 

その言葉を最後に、ロティカは口を閉ざす。

揺れる瞳のアルジュナが何事かを口にしようとするも、うまく言葉にできないままに二戦目がここで一旦終了する。

 

「……貴女には言わなければならないこと、謝らなければいけないことが色々とありますね」

「ですが、それでも私は貴女を止めなければならない――いいえ、私は()()()()()()()貴女による恩恵を拒絶します」

「私は、確かにあの男との間に納得のいく決着をつけたい――ですが、それは貴女によってもたらされたものであってはならない」

「……皮肉なものです。きっと、クルクシェートラにおいて……」

「――――敵対していた貴女とあの男の方が、私を施しの英雄を打倒し得る存在であると認めてくれていた、なんて」

 

そして、とうとうラストバトル。

それまでカルナ・オルタだけが相手だったのに、ロティカがキャスターとして参戦。

最強の矛と盾を手にしたカルナをサポートし、回避や攻撃力アップ、回復効果などといった支援や、強化解除や宝具威力ダウンなどの妨害をしてくる。

アディティナンダ状態ではしてこなかった妨害、高確率の魅了などを毎ターン飛ばしてくる。

厄介なことに性別に関係なしに効果が通るという鬼畜仕様。(ただし、クリシュナ相手には通用しない)

 

ここでドゥリーヨダナがパーティインしている場合のみ、一定のターン数を生き延びるか、相手を倒してしまえばバトルの強制終了。

していない場合は、二人をHP0にまで追い詰めなければならない。ただし、この戦いにおいてのみ、アルジュナのアーチャー特性が解除されているため、カルナへの攻撃が通りやすい。

宝具のパーシュパタも原典仕様になっているため、無敵貫通効果を有するようになっている(やったね、これで互角に戦えるよ!)

NPをMAX状態(300%)にして宝具チェインを使用してパーシュパタの即死を狙った場合は半分の確率で効果が通る……ということにしておこう。

 

覚醒アルジュナによって、いいところまで追い詰めるものの、とうとう大聖杯の術式が稼働する。

ついに特異点が完成してしまうのか……と思いきや、カルナ・オルタがロティカを槍で突き刺す形で大儀式が中断される。

 

――――そして……。




次回、第五特異点ネタの最終回です。

(*全く関係ないけど、『マハーバーラタ』関連で新しいネタを思いついてしまった。

 ぶっちゃけ、ドラウパティー転生物ってどうだろうか?
 前世でインド神話をかじった現代人が一度死んで、生まれ変わったらドラウパティーとして炎の中より誕生。
 このままだとお天道様に顔向けできない重婚ルートまっしぐらで鬱々としていたら、婿選式当日になっちゃって、誰も引けない弓に挑戦するカルナさんを見て、ここでこいつと結婚したら重婚ルート辿らずに済むんじゃね? と閃く。
 見事試練を成し遂げたカルナさんを夫(あるいは同盟者)とし、上司のドゥリーヨダナ相手に自分を売り込み、インド女性の地位向上を目標に神代初の女性の人権活動家として弁舌だけを武器に、古代社会に変革をもたらしていく……とか。

 あるいは、クリシュナ転生ものってどうだろう? 親友のアルジュナを心の支えとしながらも、ヴィシュヌ神の化身であるがゆえに、選択の岐路において必ず天の代弁者として自分の思ってもいないことを実行させられる自分自身に闇落ちしかけながらも、なんとかして親友だけでも運命の奴隷という頸城から解放しようと足掻く。それでも、結局は天の操り人形にしか過ぎない自分に絶望し、最後に猟師に射殺される間際にアルジュナに詫びながら死んでいく……とか。

 前者はギャグ、後者はどシリアス。というか、ドラウパティーが神々の台本から離反すると、絶対にクルクシェートラの戦いは起こらないんだよなぁ……。まさしく、「この戦い勝ったぞ」状態なんだが*)


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FGOネタ 第五特異点 in インド ③

お待たせしました! 第五特異点ネタの結末になります。
なお、本編との関わりから、ネタバレ要素は含まない内容となっておりますので、ちょっと首をかしげる結末になっているかも知れません。

それでもよろしければ、どうぞ!


北米神話大戦をインドで置き換えてみたFGOネタ結末。

正直、カルナ・オルタの殺し方が分からないので、こんな感じに。

真面目に小説として書くのはきついので、台詞メインのダイジェスト版でやってみた。

 

****

 

【最終話(離脱ルートであれば、最終戦決着後にドゥリーヨダナがパーティ・イン)】

 

 

「カルナ、貴様……!!」

 

 それまで従順だったカルナ・オルタの突然の離反に、動揺を隠せないカルデア一行。

 神殺しの槍によって神核を貫かれたことにより、その場に崩れ落ちるアディティナンダ/ロティカ。

 カルデアのマスターたちが駆け寄ろうとするが、二人を中心に炎の渦が発生したことにより、その行く手は阻まれる。

 

「そんな……! やり方こそ間違っているものでしたが、それでもアディティナンダ/ロティカさんは弟であるカルナさんたちのことを思っていたのに、どうして!? それも、どうして背後から刺すような真似を……!」

「――嗚呼、そういうことか。カルナ、(キミ)は一体いつから正気だったんだい?」

 

 悲痛な声を上げるマシュに、言葉を失うアルジュナ。

 一人、クリシュナだけが納得がいった様子で、囁くように問いかける。

 

「その問いに答えることは難しい。意識自体であれば、聖杯によって召喚された時点で既に有していた。だが、アディティナンダの強固な意志により自我を抑圧され続けていたのは確かだ」

「それ故、自分の体を自分の思う通りに動かせるようになった、という時期で問われたと看做すのであれば、つい先ほど、と答えるしかない」

 

 倒れ伏したアディティナンダ/ロティカを横抱きにし、自分の胸元に凭れかからせるカルナ・オルタの姿に、憎しみゆえの蛮行とも思えず、混乱する一行。

 

 何かを口にしようとしたパーティの面々の口を遮るように、ドゥリーヨダナが片手を上げて、静寂を促す。

 

「――――カル、ナ?」

「……ああ、そうだ」

 

 しめやかな夜の闇にか細く、頼り無い声が上がる。

 とっさに口を開きかけたアルジュナの口をドゥリーヨダナが塞ぎ、そっと耳を澄ませるように指示する。

 

「ああ、カルナ、カルナ……だぁ。よかったぁ、なら、あれは夢だったんだね」

「――夢、か。どんな夢を見ていたんだ、アディティナンダ?」

「ひどい、夢だよ。本当にひどい夢なんだ……。お前がね、戦争で死んでしまうの。それもね、すごく、すご、く、厭な方法で、アルジュナ王子に殺されてしまうんだよ」

 

 幼子のように訥々と語るアディティナンダ/ロティカの体を抱きこむようにして、カルナ・オルタは傾聴の姿勢をとる。

 太陽の温もりを宿した黄金の鎧の胸甲に頰を預け、時折咳き込みながら、アディティナンダ/ロティカは言葉を続ける。

 

「――そうか。……お前は、あの男のことを恨んだのか?」

「どっちかっていうと、悲しかった、なぁ。……だって、あの子、せっかくカルナを倒したというのに、すごくキツそうだったもの」

「俺はね、カルナ。お前のことが一番好きで大切だよ? でも、ドゥリーヨダナのことも好きだし、あの王子様のことだって、嫌いじゃない」

「人間は、好意を抱いた相手の幸せを祈るのでしょう? ドゥリーヨダナは兎も角、敵なのにあの王子様のことを心配するなんて、変かなぁ? でも、思わず心配してしてしまうくらい、辛そうな顔をしていて、なんだか心が痛かった」

 

 心、のところで、アディティナンダ/ロティカが血を流している胸元に手をやり、カルナ・オルタがそっと掌を重ねる。

 重なった掌がみるみるうちに血の色に染まるが、それでも二人の掌は離れることはない。

 

「――でも、それも悪い夢だね。だって、お前はここにいるもの」

「明日が総力戦になるのでしょう? お前に死んで欲しくはないけれど、お前が戦士である以上、お前の死は免れないもの――ならば、お前はお前の求める戦場を心のままに駆け抜けるといい」

「嗚呼、カルナ。……どうしよう、もっと色々話しておきたいと思うのに、どうしてだが、とても眠い」

「不思議だなぁ……すごく長い間、悪い夢を見ていたのに……まだ眠いんだ」

「……構わない。少し、眠るといい。お前は……随分と心と体を酷使し続けた」

 

 アディティナンダ/ロティカの手にしていた<大聖杯>の輪郭が崩れ、糸が解れていくように、黄金の輝きが世界へと広がっていく。

 幻想的で美しい光景を前に、アルジュナがその場に崩れ落ち、必死に嗚咽を堪える。

 

「――ねぇ、カルナ」

「どうした」

「なんだか、すごく寒いんだ。このまま、こうしてもらっていてもいいかい……?」

「――ああ、構わない。大した手間ではないからな」

「へへへ……。こうやってくっついていると、お前が小さかった頃を思い出すなぁ……。寒い夜はこうして暖を取っていたっけ」

「カルナ、お前も本当に大きくなったんだねぇ……ふふふ、人の子の成長は本当に早いものだ……」

 

 マシュが息を飲み、ビーマはそっと目を逸らす。

 アルジュナが大きく息を飲み、歯を食いしばれば、クリシュナは固く目を閉ざす。

 ドゥリーヨダナは瞼を伏せ、軽く首を振った後、漆黒の夜空を一度だけ見上げた。

 

 空に太陽はなく、大聖杯から漏れ出した黄金の鱗粉が、星々の代わりに煌めいている。

 

「――なぁ、アディティナンダ」

「ん? どうしたの、カルナ? そんな悲しい顔をして、何か酷いことでも言われたりしたの……?」

 

 いいや、とカルナ・オルタ――否、カルナが首を振る。

 白皙の美貌に影が差し、耐えきれぬとばかりに固く唇を噛み締めた弟に、アディティナンダ/ロティカはそっと微笑んだ。

 

「……いいや。寧ろ、酷いことをしたのはオレの方だ。お前が悪夢に苛まれている間、オレはお前に何もしてやれなかった」

「――それだけではない。結果的にお前を救うことに繋がるとはいえ……――オレはお前に許されないことをしてしまった」

 

 そっと、真紅に染まった爪先がカルナの頰を滑り、そのまま後頭部を押さえる。

 ――こつん、とお互いの額と額が重なり合い、慈愛に満ちた声が歌うように言葉を奏でる。

 

「大丈夫、大丈夫だよ。俺は、知っているもの――お前が本当に、優しくていい子なんだってこと」

「だから、そんなお前が俺を傷つけるような真似をしたとしても、そこには必ず理由があるんだって、俺は識っている」

「お前は俺に酷いことなんかしていないよ。お願いだよ、どうか泣きそうな顔をしないで」

「どうしてそう言い切れるんだって? そりゃあ決まっているじゃないか! だって――」

 

 咲きかけの蕾がその瞬間に開花したような、莞爾とした笑顔だった。

 愛しくて、大切で、大事で堪らない――あらゆる幸福に結びつく感情が、その微笑みには詰まっていた。

 

「――だって、俺はお前の兄だもの! お前のことをこの世界では誰よりも知っているとも! 嗚呼そうだ、お前のことを嫌ったりなんかするもんか!」

「だから、なんの心配もいらないよ。俺のことで、お前が心を痛める必要なんて、ないんだよ」

「嗚呼、それにしても――どうしてかなぁ……すごく、すごく眠いんだ……」

 

 ことり、と糸の切れた人形のように体の動きを止めて、ゆっくりと瞼を落としたアディティナンダ/ロティカの体を固く抱きしめると――カルナの碧眼が、立ち尽くしたままのドゥリーヨダナを捉える。

 

「――ドゥリーヨダナ。お前に話さなければならないことがある」

「この世界は、狂気に堕ちたアディティナンダ/ロティカの手によって創り出された特異点。当然、正史と呼ばれる世界から既に逸脱してしまっている」

「この特異点を構成する要となっているのは、オレとアディティナンダ、そして――」

 

 逡巡するカルナの躊躇いを遮るように、ドゥリーヨダナは軽くため息をつく。

 そうして、悟りきった表情で、ゆったりとした仕草で炎の渦へと闊歩する。

 ドゥリーヨダナが歩を進める度に、逆巻く炎が自分からドゥリーヨダナを傷つけるまいと脇に逸れ、あっという間に身を寄せ合う家族の前へと辿り着いた。

 

「――分かっている。この特異点とやらを構成するのは、お前ら二人と――他ならぬこのわたしという訳だな」

「つまり、カルデアの者たちの語る正史において、ドゥリーヨダナであるわたしは、この時点で既に死んでいなくてはならない人物である――ということか」

「――本当に、莫迦な奴だ。蘇生させた弟一人を連れて、どこにでも放逐してしまえばいいものを……わたしまで抱え込もうとするから、こうして泥沼化してしまうのだ」

 

 横柄に言い放ちつつも、カルナたちの側から離れようとしないドゥリーヨダナに、ビーマが何事かを口にしかけるも、口を閉ざす。

 納得がいかない様子のマシュが、必死に声を出し、ドゥリーヨダナへと叫ぶ。

 

「待って、待ってください! それでは、それでは、皆さんは――――!!」

「おや? わたしの命を惜しんでくれるのか? だが辞めてくれ。流石のわたしもマシュのような美人に涙目で詰め寄られてしまうと、些か決意が鈍るのでな」

 

 わけのわからない表情をしているマスターへと、カルデアでサポートを務めていたドクターが、硬い声で説明してくれる。

 

『……大叙事詩であるマハーバーラタでは、クルクシェートラの戦いは十八日間続き、そして総大将であるドゥリーヨダナ王が殺されたことによって、決着がついたと伝えられている。――……そして、この世界においては……』

『アディティナンダ/ロティカの狂乱によって、早期に決着がついてしまったとはいえ――この世界では、既に……』

「――十八日なんて、とっくの昔に過ぎているということさ」

 

 静かな声で、囁くようにクリシュナがトドメとなる言葉を紡ぎ、マシュが悲鳴を堪える。

 ドゥリーヨダナを引きとめようとしていたビーマの腕から力が抜かれ、だらりと地面へと落とされる。

 

「この腹黒鬼畜野郎め。このわたしとドクターが気を使って、繊細な少女の心が傷つかぬようにと配慮したのに、それを台無しにしよって。少しは人間の情緒というものへ敬意を示したらどうだ」

「知ってるさ。それでも、(キミ)が言いにくいだろうと思ったからこそ、代弁してやっただけだよ」

 

 互いに減らず口を叩き合っていた二人が、溜息を零す。

 素知らぬ顔のドゥリーヨダナへと、カルナが憂慮を込めた視線を送れば、ドゥリーヨダナは軽く肩を竦めた。

 

「――そんな顔をするな、我が友」

「どうせ結末が定められているというのであれば、わたしはわたしのやりたいようにやる。このわたしが止めても聞かない頑固者であるのは、他ならぬお前がよく知っているだろう?」

「というわけで、ざまあみやがれ、ビーマセーナ! この世界でのわたしは、貴様に殺されてなんかやらないからな!」

 

 そう言って不敵に哄笑するドゥリーヨダナの姿を目に焼き付けたカルナが、アルジュナへと視線を送る。

 幽鬼のように立ち上がったアルジュナの漆黒の眼差しがカルナのそれと交差し、瞬きと共に深々と頷かれる。

 

「――アルジュナ、頼めるか」

「……元はと言えば、私と貴様によって始められた狂乱劇だ。……ならば、閉幕の合図くらいは私のこの手で」

 

 カルデアのマスターたちに下がるように指示をし、アルジュナは息を吸う。

 アディティナンダ/ロティカの体をドゥリーヨダナに預け、カルナは瞼を閉ざす。

 

「――神性領域拡大。空間固定。神罰執行期限設定――全承認」

「――神々の王の慈悲を知れ。絶滅とは是、この一刺。インドラよ、刮目しろ」

 

 母を同じくしながらも、決して交わることのなかった異父兄弟の声が荒野に唱和する。

 己の槍を天へと掲げたカルナ、己の掌へと光を集わすアルジュナ。

 迷いを断ち切るようにアルジュナが固く両眼を閉ざし、己の結末を受け入れたカルナの口元は優しく綻ぶ。

 

「――――シヴァの怒りを以て、汝らの命をここで絶つ。『破壊神の手翳(パーシュパタ)』!!」

「――焼き尽くせ、『日輪よ、死に随え(ヴァサヴィ・シャクティ)』!!」

 

 白金と黄金の閃光が一行の視界を焼き尽くし、重なり合う三つの影が、明滅する光の奔流の渦へと飲み込まれていく。

 

 数多の神霊の命を食い、肥大化した全能の<大聖杯>。

 新しい歴史を紡ぎかけるほどの魔力は二人の大英雄の宝具によって浄化され、万能の願望機としての姿を取り戻す。

 

 そうして――最後に残されたのは、光り輝く黄金の盃であった。

 

「聖杯、回収……任務、完了です」

 

 人理定礎値 A+

 第5の聖杯:"落日の残照" BC.3138 終焉神話戦線 クルクシェートラ

 《 定 礎 復 元 (Order Complete)

 

 




<IFネタの簡単な説明>

・アディティナンダ
…最愛の弟の死の直後に聖杯を手に入れたことで、この先に起こりうる未来を全て知ってしまったが故に頭がパーンした。最悪弟の死に様だけはどのような形でも受け入れるつもりだったが、尋常な死に方ではなかったこと、その直後にドゥリーヨダナやアシュヴァッターマンをはじめとする親しかった人々がどのような目にあうのかを強制的に脳裏に流し込まれたため、狂気に堕ちた。一見まともに見えるだけにタチの悪い狂人状態。ちなみに、人類史再編はできなくもないが、魔術王の思惑があれなので、成功した確率は半々。(ネタバレなので一応伏せます)

・カルナ
…英霊の座に昇る直前に反魂で呼び戻されたために、ほぼ全盛期の力を持っている規格外のサーヴァント状態。意識自体は最初からあったが、どちらかというと夢を見ているような感じだった。けれども、アディティナンダの目指している人類史再編が叶った場合、新世界の歯車としてその魂が抑止の守護者並みに使い古されてしまうがために、反逆を決意。
カルデアのマスター指揮するパーティの面々に押され、アディティナンダの意識がそれた不意をついて、背後から刺すという形でその狂気に終止符を打った。

・ドゥリーヨダナ
特異点クルクシェートラを構成する重大な歯車の一つ。本来ならばとっくに死んでいるはずの王であるが故に、生きて呼吸するだけで特異点を維持してしまう。鋭い人だったので、自分でその事実に気づいてしまった。(第7章における賢王ギルガメッシュ状態だと思ってください)
おそらく伝説通りにビーマに殺されるのが一番良かったのだが、本人の意地で家族のような友人らと心中の方を選んだ。彼とは逆に、ユディシュティラが廃人化しても生かされた状態だったのは、特異点完成以後にしか殺せなかったから。

・最後の宝具開帳について
…ガチの神霊であるアディティナンダ(神殺しの槍使用)と黄金の鎧をまとった状態のカルナ(パーシュパタ必須)を、再生不可能な状態にまで落とし込んで殺すためには必要だったため。

****

多分、アディティナンダにとっては一番幸せな死に方。(本編はこうならないけどね!)


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第四章 蓮華の姫君
あれから十年


なんか断章が思っていた以上にうまく描き上げられないので、本編の方をサクサク進めちゃいます。
断章を上下を満足がいくレベルで書き上げられたら、また再投稿したいと思います。(今あるやつは水曜日にでも下げます)

<但し書き>

原典の時間軸に基本乗っ取って物語を進めております。
ただ、本当に原典の記述通りにすると、クルクシェートラの戦いを迎えるまでにとんでもない年月が経過することになってしまいますので、その辺はいくらか調整していたりしますし、あるいは神世の人間の寿命が今の人間よりも神秘の時代故に老化が遅かったと言うことにしてください。


 ――……そうして、あれから十年近い年月が経過した。

 

 あの後、実子と継子たちとの間で諍いが起こることを恐れた国王の手によって、広大な領土は二つに分割される。

 ドゥリーヨダナは父王の治めるハースティナプラの都を継承し、パーンダヴァの長子・ユディシュティラはカーンダヴァの森に囲まれた肥沃な土地を領土として譲り受けたのである。

 

 四人の忠実な弟たちと一人の美しい妻を持つユディシュティラの王としての手腕は凄まじいものであった。

 彼らは辺境として扱われてきた地方を開墾し、与えられた地に、神々の王が住まう天の都に讃えられたインドラプラスタという新興都市を一代で築き上げたのである。

 決して短い道のりではなかったが、五兄弟たちは互いに支え合い、王の命令によく従った。

 とりわけ、三男であるアルジュナ王子は『最も優れた戦士』として宿命づけられたその才覚を存分に発揮し、ユディシュティラに従わぬ周辺諸国を次々と平らげていった。

 その道のりの半ばでのことであったが、五人で一人の妻を共有する際の約定に反する行為を行なったということで、アルジュナ王子は数年間の放浪の旅に出ることになる。

 兄王の治める土地から離れ、各地を彷徨いながらも、誰からも愛される美質を有する王子は出会ったバラモンや王族たちから祝福を授かり、その道中に異国の王女や親友の妹と恋に落ちたことでも知られている。

 

 ――取り決めに従って数年間の放浪生活を送った後、王子は国王の元へと帰参する。

 

 その帰りを歓迎した聖王ユディシュティラの元、再び、王子は弓矢を取り、王国の守護者としてその人を任されることになる。

 また、帰還して早々に、親友と妹の結婚祝いに訪れた義兄と共に炎神アグニの招聘に答えて、インドラプラスタを囲む広大なカーンダヴァの森とそこに住まう一切の生類を焼き焦がし、飢えた神の胃袋を満たしたことでその勇名はますますの栄光と誉れに輝いた。

 カーンダヴァの森に住まう一族のうち、天界の建築士として名高かった阿修羅の命乞いに応じたことはパーンダヴァの一家にさらなる栄光をもたらした。

 何故ならば、阿修羅マヤは命の対価として、ユディシュティラ王へと天界の建築物にも匹敵する壮麗な大集会場を贈呈したためである。

 

 その後、ユディシュティラはパーンダヴァの導き手たるクリシュナの進言に従い、長年の障壁であったマガダ王・ジャラーサンダの討伐に着手した。

 バラモンに身をやつしたビーマ・アルジュナ・クリシュナの三名は誰に咎められることもなく王宮の奥深くまで招かれ、国王と対面することに成功する。ビーマセーナと数日にも渡る決闘の末、ジャラーサンダ王は体を三度引き裂かれ死亡し、王位は彼の息子へと受け継がれる。

 

 こうして万難を排したユディシュティラは父祖伝来の願いであった皇帝即位式(ラージャスーヤ)を敢行する。

 聖王ユディシュティラを王の中の王と認め、戦士の頂点とするこの大祭には諸王が招かれ、ドゥリーヨダナもまたその一人として腹心たちを引き連れて祝賀の手伝いに参列したのであった。

 

 

「――――もう無理……。心折れた……つらい」

 

 帰国して早々にそう一言だけ呟き、幻獣種の毛皮で作られた、ふかふかの敷き布の上に倒れこんだドゥリーヨダナ。

 その力無い姿を流し見て、俺は部屋の入り口で静かに佇立しているカルナへと視線を移した。

 

「えーと、どうしちゃったの、ドゥリーヨダナ?」

「……宿敵の壮麗すぎる大集会場や見事な造作の宮殿、諸侯より運び込まれた貢ぎ物の数々を目撃して、それまで抱いていた根拠なき自負心と虚栄心が根こそぎ薙ぎ倒されたようだ」

 

 カルナの常になく辛辣な態度に、死体のように寝転がっているドゥリーヨダナが引き付けを起こす。プルプルと震えだすその情けない姿に、カルナがそっと溜息を吐いた。

 

「だって……、あれは狡いではないか……。人の都は人の手で作ってなんぼじゃないか……それなのに、阿修羅に建てさせるとか……ずる、いや、羨ましい……」

「なるほど、重症のようだね」

「――ああなってしまうのも仕方あるまい、とだけ言っておこう」

 

 残念ながら、ドゥリーヨダナには身内に敵が多いからな、とカルナが無念そうに呟く。

 ……そうだね、と小さく頷き返して、カルナにお帰りと告げれば、そっとその唇が綻ぶ。

 

「――……ああ、只今。

 ところで、ドゥリーヨダナ、嫉妬のあまり愚にもつかぬ行為に及ぶことだけはやめておくといい。――身を滅ぼすぞ?」

「まあ、パーンダヴァとの間に戦争を起こしたって、天上の方々を喜ばせるだけだからね。何があったのか知らないけど、ここは堪えるべき時だと思うよ?」

「ウゥ……。これが天に愛されたものとそうではないものの違いというやつなのか……。それにしても、にっくきビーマセーナめぇ……、近いうちに目にもの見せてやる………」

 

 ブツブツと怨念を紡ぎ続けている俯せのドゥリーヨダナの頭をよしよしと撫でてやれば、くぐもった声が返される。

 

「……兄上殿のお心遣いは嬉しいが、男に頭を撫でられても嬉しくない……」

「――なら、ロティカに変わろうか? 見た目だけなら美少女だよ?」

「中身がそうじゃないから、御免被る…………」

 

 人間社会を生きていく上で、後ろ盾のない若い娘ほど生き難いものはない。

 ここ十年近くロティカの姿を取ることもなく、アディティナンダとして人々の営みを観察した結果、俺はそのように再認識せざるを得なかった。

 

「でも、ドゥリーヨダナは言っていたじゃないか。少しでも民草が生きやすい国にするって。今はそのための準備期間なんでしょう? 俺はちゃんと知ってるよ?

 お前がなんだかんだで頑張っている結果、カルナに嫌味言う人達の数は少しづつ減ってきたし、父親を無くした子供達が飢えることなく健やかに日々を送れるし、街の中で失業難に苦しむ人の数も減ってきた。――うまく言えないけど、すごく大事なことだと思うよ?」

「そうだな。バラモンやクシャトリヤの老爺どもは別として、一般の兵士たちから俺の言葉遣い以外に文句の声が上がることもなくなってきた」

「あ、やっぱり、話し方に関してはそう言われているんだ……」

「――ああ、どうも俺は一言多いらしい。あと、表情をもっと豊かにしろと副官から嘆願された。滅多にないことだ、善処しようと思う」

 

 カルナと一緒に倒れ伏したドゥリーヨダナの隣に陣取って、色々と慰めの言葉をかけるが、どうにもドゥリーヨダナが復活する気配はない。

 参ったなぁ……、こうなりゃ奥さんの一人でも呼びつけて慰労してもらえるように頼み込むかぁ……と思っていたら、外から侍女の声が届いた。

 

「――殿下、それに閣下。叔父君に当たられますシャクニ様がご機嫌伺いに参られました。殿下とのご面会を希望しているとのことですが……」

「そうか。――では、我らはここで失礼する」

「そうだね。えーと、それじゃあ、ドゥリーヨダナ。俺たちはここで」

 

 そう言うと、依然として突っ伏したままではあったものの、ドゥリーヨダナの片手が上がり、ひらひらと別れの挨拶を寄越してきた。



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不死の弊害

普通に考えたら、黄金の鎧持ちのカルナさんが死ぬ可能性なんて考えないよなぁ、と言う話。
そんでもってよく考えたら、不老不死にメリットなんかあんまりないよなぁ、と。


「それにしても、もう十年近い日々が経過したんだねぇ……」

 

 天には星々が輝き、地には篝火が燃え盛る。

 王宮のドゥリーヨダナの執務室を辞したあと、カルナと連れ立って壮麗な廊下を歩いていたら、そんなことがするりと口から溢れ出た。

 

 ――そうだな、とカルナが足を止めて、こちらを見下ろす。

 その姿を見つめ返せば、ゆるりとカルナを包む雰囲気が俄かに和らぐ。

 

 ざんばらの白髪に幽鬼のように白い肌、対峙した者の心の奥底まで見通すような蒼氷色の双眸。 

 痩身を包む黄金の鎧に、胸元を飾る炎を閉じ込めたような赤石。

 

 ――そして、人間の一生のうち、最も精力に溢れた時期のまま、()()()()()()()()()()()

 

「……カルナの成長、止まったちゃったね。いつからだったのか、覚えている?」

「……数年前のことであったかもしれないし、それよりももっと後のことだったのかもしれない。

 ――まさか、この鎧にこのような副作用があったとはな」

 

 淡々と残酷な内容を意に止めることもなく告げるカルナに、慚愧の念が胸中に湧き上がる。

 

 ……嗚呼。

 人を愛し、人の側に寄り添うことを選んだこの子に、そのような道を辿らせたくはなかったのに、と思う。

 

「――そうだね。まさか、その鎧が所有者の肉体を全盛期のままに留めておく作用があっただなんて、気づかなかった。同じ鎧を持つスーリヤは元々神だから、人間のように肉体が衰えることもないせいで、すっかりその可能性を失念していた」

「――然程、嘆くことあるまい。齢を重ねることはできずとも、この姿のままで維持されるのであれば、戦士として力量が落ちる恐れを抱かずに済む」

「………でも、ドゥリーヨダナが死んだ後は?」

 

 ――す、とカルナの目が逸らされる。

 

 人と神の最大の違いは、まさしく()()だ。

 定命であることを定めづけられた人である以上、カルナの理解者であり友であるドゥリーヨダナはいずれ死ぬ。

 あれはひどく稀有な人間だ――それこそ、あのような資質を持つ人間を、見いだすことが困難だと言い切れるくらいには。

 

「ドゥリーヨダナは神々を憎んでいるし、嫌悪している。例え、俺が隠し持っている不死の霊薬を差し出したところで、絶対に口にしないだろう。――つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いくら彼が特異な生まれであり、通常の人間よりも寿命が長く老化の遅い貴種の生まれであったとしても、その終わりがやってくることは必然である。

 そして、いくらカルナが忍耐強く、困難に打ち勝つ高潔な性格であったとしても、親しい者たちに先立たれることが確約された将来に耐え切れるのだろうか。

 

「――俺は、俺はまだいいよ。どうしたって、俺は人外だもの。そうあれかしと定められて生まれてきたから、まだ見送り続けることができる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――だけど、お前は違うだろう?」

 

 ――――幼い頃のカルナの姿を思い出す。

 あの日の誓い、あの日の決意はまだこの胸にあり、あの絵画のように美しかった光景をも、くっきりと思い起こすことができる――けれども。

 

「……カルナ、お前は人として生きることを自身で決めた人の子だ。

 そして、()()()()()()()()()()()()()――その肉体を打ち捨てて、神々の世界に迎え入れられれば別だけど。

 ――そうでない限り、どんなに頑強な魂と高潔な精神でも、気づかないうちに蝕まれ、次第に腐っていってしまう」

 

 今までは、カルナがこのまま普通の人間と同じように年を取り、そうして死んでいくのだと思っていた。

 だからこそ、弟が人として育つことを容認し、人の中で暮らしたいと言う願いを首肯できた。

 ――それはカルナの肉体が人として着実に齢を重ねていたからこその肯定と楽観であった。

 

 ……けれども、これ以降のカルナは歳をとることがないのだ。

 

「――俺は、お前の肉体の死ならばまだ耐えられる。

 だけど――お前の()が死ぬところだけは、見たくない」

 

 このまま、太陽神の鎧を身につけている限り、カルナに死は訪れない。

 

 不死者の戦士は戦力としては非常に魅力的だが、人として生きる限り、カルナは誰とも寄り添えない。

 愛する者と心を交わし、思いを重ねたところで、置いて逝かれることが決定づけられている以上、ある意味ではそれは死にも勝る苦痛にしかならない。

 

「――神々の血を引く者でさえ、時として、愛するものの喪失には耐えきれないんだ。

 ましてやそれが人間であれば、言うまでもない」

 

 ――何よりも、愛した存在と同じ時を重ねることができない、と言う事実は残酷すぎる。

 

 考えるだに、ぞっとする話だ。

 夫はどれだけの年月を重ねても、若く美しい青春そのものの姿をしているのに、その妻は齢を重ねるごとに肉体は衰え、美しかった容色には老いが宿っていく。

 

 たとえ、カルナの心が変わらなかったとしても、伴侶の方でそれに耐え切れるとは思えない。

 伴侶との間で子を作ったところで、その子供もいずれは時の流れの中に消えてしまう。

 

 人間の中に混じったところで、カルナは永久にひとりぼっちだ。

 

 ――カルナが自身の伴侶を求めることを止めるように、俺とドゥリーヨダナに訴えたのは、その可能性に気づいてしまったからだろう。

 

 最初、俺はカルナが何故そのように懇願してくるのか分からなかった。

 神霊であるが故の時の流れに対する鈍感な側面が、それを察することを妨げていたとも言えるし、そもそも考えつかなかった。

 

 カルナの嫁さん探しに悪乗りしていたドゥリーヨダナが次に気がついた。

 あのお調子者にしては責任を感じたらしく、数日の間は殊勝な顔をしていた。

 そして、自分がどうあったしても置いて逝く可能性が高いと言うことに気がついたのか悩ましげな表情を浮かべていたが、それもほんの数日のことで、すぐに元通りになった。

 

「それに、お前は生まれながらの戦士だ。お前はドゥリーヨダナとは違い、自分の望みを強く持つことは少ないけど、その戦士としての拘りだけはそう簡単に譲れないだろう?

 であれば――戦場以外の死を迎えることは本意ではなかろう。けれども、お前を殺すことのできるだけの器量を持つ者なんてそういないし、その鎧がある限りは、尋常な果たし合いにおいてお前の望むような最後を迎えられる可能性は皆無と言っていい」

 

 ――そして、俺がその可能性に気づいたのは、カルナの養い親のことがきっかけだった。

 

 カルナが大出世を果たしたことで、老齢のアディラタとラーダーを屋敷に迎え入れ、彼らがそれまでの村の暮らしとは違う、悠々自適な老後を過ごせたことは間違いない。

 ただ、彼らは広大な敷地の屋敷に住むことになった後も、村で暮らしていたような慎ましやかな暮らしぶりを好み、カルナもまたそれをよしとして受け入れ――――そうしていく内に身体が弱り、死神(マヤ)によって永遠の眠りに誘われた。

 

 肉体的に変わらないと言うことがこのような弊害をもたらす可能性を、俺はちっとも理解していなかった。

 不完全な俺ではなく、完成されたワタシの方であれば、また別の言葉も出てきたのであろうが、あの善良な御者夫妻の死は、俺にとってひどく衝撃的だったのだ。

 

「だから、カルナ。お前も今のうちに覚悟を決めておきなさい。――太陽神の恩寵がある限り、お前に死は訪れない。そのせいで、お前はドゥリーヨダナに置いて逝かれる側になると言うことを」

 

 ――それに、アディラタとラーダーの間に、実子となる子供たちが残されていたこともカルナが割り切る原因となった。

 神々に最愛の妻を差し出すことになっても一家の長が子供を求めるのは、そうしなければ先祖の霊を供養する役目を担う者が途絶えてしまうためだ。

 

 ――その点、アディラタの系譜は実の子供たちが遺されたことで、そうした責務をカルナが追う必要も無くなったのだと判断したらしい。

 

 ましてや、実父に当たるスーリヤは天に輝く太陽神。

 ――少なくとも、世界の終わりでも来ない限り、その霊魂を祭り上げる必要はない。

 

「――アディティナンダ」

「何、カルナ? 言っておくけど、俺は間違ったことは口にしていないぞ。言いづらいことではあるけれど、でもお前は知っておかなければならないと思ったから、言ったんだ。非難の言葉だなんて、受け付けないからな」

「……そのような泣きそうな顔をされて言われずとも、理解している」

 

 変なことを言う弟だなぁ、と唇を曲げる。

 だって、俺はどうあがいたって人外だ。人にはなれない()()()()、人間の真似をできても根本的なところで感情もまた歪なのが俺なのだ。

 

 ――――そんな俺が。

 

「……馬鹿な子だなぁ。俺が涙を流せる訳がないじゃないか。それが許されているのはカルナ、お前の方だと言うのに」

「…………自覚がないと言うのも考えものだな。いや、そう気を急くこともない」

 

 ――カルナがそっと視線を持ち上げて、険しい表情で外を睨みつける。

 涼やかでいながら苛烈な炎を宿す碧眼のその先に浮かんでいるのは、導きの星である北極星とそして純白に光り輝く――月。

 

「ドゥリーヨダナの国づくりはまだ始まったばかりだ。その完成した姿もまだ目にしていないと言うのに、すでに終わりのことを考えるなど、早計に過ぎるぞ」

「――……そう、だな。確かに、焦っていたのかもしれない」

 

 こわばっていた肩から力を抜いて、そっと目を覆う。

 

 ――あれから十年。十年も経ったのだ。

 その間、小さな小競り合いこそあったものの王国を揺るがすような事件も起きず、王国は平穏そのものであった。

 

 ドゥリーヨダナが神々に付け入られないように、内政に力を注いでいたことも関係しているのかもしれない。

 

 ――考えすぎ、考えすぎなのかもしれない。

 ただ一人でカルナを守らなければならなかったあの時とは違う。

 

 幼かったカルナはすでに成人し、天上の神々とてかなわぬ力量を持つ戦士へと成長した。

 ドゥリーヨダナもまた、俺のもたらした情報を元に政務をこなし、天界の方々がつけ入れるような隙を与えることなく、父王の補佐として王国を営んできた。

 

 この平穏が続けばいい、と思う。

 天と地を揺るがすような大戦など起こってほしくない、と切望する。

 そして、その願いはこの十年の間叶えられ続けていた――だから、きっとこれから先もそのようにできるのだろうと思い込んでいた。

 

 けれども、この時の俺は少しばかり失念していたのかもしれない。

 ――星の大勢を決定づけるのが神々の御業であると言うのであれば、人の世を回すのは人の意志であることの意義をきちんと理解していなかった。

 

 ……必ずしも、世界を回すのは勇気ある者たちの賞賛されるべき行動だけではない。

 積もりに積もった悪意もまた、世界の行く末を決定づけるだけの、重大な第一歩となり得るのだということを。




<考察という名の感想>

太陽神の鎧がある限り、カルナは不死であるということは原典においても確定しております。
で、そんな宝具がある限り、先に死ぬのは紛れもなくドゥリーヨダナの方。置いていくことよりも置いて逝かれることを意識せねばいけない立場だったのはカルナさんの方だよなぁーと思いながらこの話を書き上げました。(まさか、インドラが我が子可愛さのあまりあんな暴挙をするとは誰も予想がつくまい)

――で、型月世界を見る限り、人間から不死者になった奴らはもれなく魂が腐ってしまっているし、永遠の長さに耐えられない。一見、耐えられているように見せても、その実、どこかおかしくなっている人ばかりだし。
この「もしカル」では可変的な人間の魂はそもそも永遠に耐えきれず、神々はそれに耐えられるように設計されているため、としております。(良くも悪くも神は不変であるため、人間と違って不死による弊害がない/アルテミス参照)

ぶっちゃけ、嫁さんと子供の葬式の喪主を務め続けなきゃいかんというのはきついとしか言いようがない。
という訳で「もしカル」ではカルナさんの嫁さんはなし。期待させてごめんね! (原典のカルナさんの嫁がドラウパティー並みにインパクトがあったら出してた……)


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他愛のない報復

多分なぁ、この段階では誰もここまで大ごとになるとは思わなかったんだろうなー。


「――――賭博大会を開くぞ!!」

 

 あれから数日後。

 国王夫妻お気に入りの楽師として王宮に出入りしているところを捕まえられたと思えば、開口一番にドゥリーヨダナはそう言い放った。

 

 数日前の暗澹たる気鬱の気配はすっかり消え失せ、いつもの根拠もなく自信満々なドゥリーヨダナである。

 ドゥリーヨダナの常にないウキウキとした雰囲気に首を傾げていたら、秘書官的な役目を任されているアシュヴァッターマンがそっと耳打ちしてくれた。

 

「……なんでも、叔父上であられるシャクニ様のご提案で、諸国の王族たちを集めた賭博をするとのことです」

「――ちなみに、パーンダヴァの人々も?」

「――――当然だ!」

 

 俺の囁き声を聞きつけたドゥリーヨダナが華麗にその場で一回転して、胡散臭さ極まりない笑顔を浮かべる。

 ちなみに、よくよく見ると目が笑っていなかった。

 

「ふふふ……! ユディシュティラめぇ……、首を洗って待っていろよ……! このドゥリーヨダナ、受けた屈辱は必ず返す男……!

 いや、具体的にはお前というよりもあの鳥頭の方が憎いのだが、弟の不始末はそう、兄の不始末! ――ということで、奴に責任を取らせよう!!」

 

 そ、そうだったのか……! さすがは百人以上の弟妹の頂点に立つ男。

 その言葉にはちょっと筋が通っていなさそうだけど、真の長兄たるこいつが言うのであれば真実なのだろう……!

 

 心の記録帳にそっと今の言葉を筆記している俺の後ろで、心配極まりないと言わんばかりの表情をアシュヴァッターマンが浮かべていたが、こと兄弟間の問題に関してのドゥリーヨダナの言葉は見習うべきだとそっと黙殺する。

 

「――でも、賭博だぞ? 聖王とまで讃えられるような男が、そんな俗っぽい遊びに関心を示すのか? 誘ったところで、クシャトリヤの禁に触れるから、という理由で断られそうなのだが」

「……そっか。アディティナンダは知らないんだっけ、ユディシュティラ様の賭博癖」

 

 キョトンとした表情を一瞬浮かべ、アシュヴァッターマンが納得したように一人頷く。

 仕事と私事をきっちり分ける彼にしては珍しく、普段使いの話し方になった後、主君であるドゥリーヨダナが咎めないのをいいことに、そっと情報を流してくれた。

 

「これは王宮でも昔から殿下方の側仕えをしているものしか知らないんだけど……ユディシュティラ様は大の賭け事好きだ」

「へ、へぇ……。それはまた、随分と奇矯な趣味だね」

 

 十年近く前に拝見した限りの、パーンダヴァの長兄の姿を思い浮かべようとするが、すぐにその像は消え去ってしまう。

 

 ――いかん、あまりにも関心がなさすぎて、すっかり忘却の彼方へと追いやってしまっていた。

 

 けど、戦士というよりもバラモン――祭祀階級の人間か学者のような風貌の人間だったのは覚えている。

 俗世のことなどに関心はありません、と言わんばかりの半神の王子の趣味が賭博、ねぇ……。なんか、どっかで聞いたことのある話だな――どこでだったっけ?

 

「ふふふふ……! しかも、それだけではない!! あのユディシュティラは大の賭け事好きなのだが――ズバリ!! 鴨ネギなのだ!! ふふ、今から奴の悔しがる顔が目に浮かぶわ!」

 

 はーはっはっは、と哄笑するドゥリーヨダナの後ろ姿をアシュヴァッターマンと二人で見つめながら、揃って嘆息する。

 アシュヴァッターマンが困ったように前髪を撫でつければ、その額に生まれながらに宿している貴石が陽光を浴びて煌めく。それに自然と目を見やれば、照れたように前髪が撫で付けられた。

 

「そうだ! ここまで来たら、徹底的に嫌がらせを仕込んでやる! アシュヴァッターマン、文を持て! 今すぐ、わたしが並べ立てる奴らに招待状を送ってやれ!!」

「はい、ただいま」

 

 困ったように苦笑していたアシュヴァッターマンの顔が、滔々と列挙された面々の名前を聞いて、次第に困惑へと変化する。

 

「その、殿下……。先ほどお伝えになられた方々は、その……」

 

 言い淀むアシュヴァッターマンに助け舟を出すつもりで、ドゥリーヨダナに声をかける。

 その俺の声にもやや困惑の感情が隠れていることには、ドゥリーヨダナとて気づいていることだろう。

 

「皆、過去にパーンダヴァの一家に領土を削られたり、貢物を強いられたことのある奴らばかりじゃないか。

 それに、あのドラウパティー姫の婿選びに参加していた面々の名前もちらほらある。

 嫌がらせにしては度がすぎるのではないか?」

「皆まで言わすな、兄上殿。それが分かっているから呼ぶのだ」

「つまり、殿下は反パーンダヴァの人々の前で賭博を開くというのですか?

 それは少しばかり、外聞が悪いのでは? 殿下の評判に傷がつきます」

 

 主君を慮っての言葉に、ドゥリーヨダナが鼻を鳴らす。

 

「――ふん! わたしの評判であれば生まれながらに傷だらけだ! ……だが、お前のいうことにも一理ある。

 ……よし、賭博大会には禿と髭とドローナにも参加してもらおう。それに王宮の良心であられる父上にも娯楽の一環ということで列席いただければ、諸侯も文句を言うまいよ」

 

 えーと、今のはドゥリーヨダナが宮廷のお偉方――つまり、反ドゥリーヨダナで心情的にはパーンダヴァ側にある人々につけた渾名、だったな。

 

 ――確か、ビーシュマ老に王弟ヴィドゥラ、か。

 

 なんでも昔から滅びの子扱いされてきたらしく、名前を呼ぶのも虫唾が走るとかで、身内だけの時はいつもそう呼んでいる――でも、渾名のつけ方がやっぱりお坊ちゃんなんだよなぁ……。

 カルナが幼少期を過ごした村での渾名なんて「無表情冷徹男」とか「表情死滅筋」だったのに……。案外、カルナの渾名は的を射ていて怒るに怒れなかったんだよなぁ……。それに比べれば身体的な特徴だけなんて、お上品だわ……。

 

 でも、ドゥリーヨダナにも躊躇なく諫言をしてくる彼らが参加してくれていると言うのであれば、嫌がらせの賭博大会であっても、ドゥリーヨダナと諸侯が暴走する前に止めてくれるだろう。

 ドゥリーヨダナとて、仮にも一国の王をすかんぴんにして夜空の下に放り出すことはしないだろうし――深く考えすぎだな。

 

 ふむ、と一人頷いて、そのように結論づける。

 隣のアシュヴァッターマンも、同様に考えたのだろう。そっと目配せすれば、心得たように頷き返してくれた。

 

「会場の建築にはすでに取り掛かったし、諸侯への招待状は今日中に書き上げるだろう……! ふふ、待っていろよ、ユディシュティラ! 貴様の財を全てこのドゥリーヨダナが掌中に収めてやろうではないか……!! はーはっははっは!!」

「大丈夫なの、あれ?」

「――ああは言っていますけど、なんだかんだで破滅までには追い込まないんですよね、殿下」

 

 悪ぶっている癖に、根が善良なんだから。

 そう苦笑するアシュヴァッターマンに合わせて、俺もまた微笑みを浮かべたのであった。

 

 まあ、ドゥリーヨダナの軽い気晴らしになればいい。

 ドゥリーヨダナの悪ふざけが過ぎたら、周囲の人の誰かがきっと止めてくれるだろし、そこまで気を配る必要はないか。

 

 

 ――――そう、思っていたのに。

 

「アディティナンダ!! 頼む、今すぐ僕と一緒に来てくれ!!」

 

 血相を変えて走って来たアシュヴァッターマンに、賭博場へと連れていかれるまでは、そう思っていたのだ。




――そう、他愛のない嫌がらせ、だったのに。


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致命的な一言

ここら辺の流れはほぼ原典通りです。


「おい、一体何があったんだ!?」

「ついてきてください!」

 

 ――……星の綺麗な夜だった。

 夫である国王が息子主催の賭博場に足を運んでしまったため、手持ち無沙汰になった王妃の無聊を癒すための小さな宴。

 その場にいた俺を、いつになく荒々しい態度で連れ出したのはアシュヴァッターマンであった。

 

「もう、本当にどうしてこうなったのか……! とにかく、急いで下さい。事情は道中説明しますから……!!」

「あ、嗚呼。わかった」

 

 王妃への無礼を詫びる言葉もそこそこに、アシュヴァッターマンは足早に俺を急かす。

 焦っているとしか思えない彼の態度に急かされ、隣を進む俺の足もまた速度を増した。

 

「今宵が殿下主催の賭博大会であったのはご存じでしょう?」

「そりゃあ、まあ」

 

 宮中の良識ある人々が眉間の皺を深めながらも、息子に甘い国王の一声によって敢行された、ドゥリーヨダナによるパーンダヴァの兄弟への仕返しも兼ねた賭博大会。

 この日のために、各地から博打好きで知られる王族たちや当代随一の賭け事師としても有名なドゥリーヨダナの叔父であるシャクニが、王城の一角に新設された大会場に続々と入場していった夕方の光景を思い起こす。

 

「――途中まで、宴も兼ねた賭博大会はつつがなく進んでおりました。ですが……」

 

 冷や汗を流し、血の気の引いた顔で小走りに進むアシュヴァッターマンの尋常ではない姿に、王宮を行き交う人々が驚いた顔で道を開けてくれる。

 常であれば、そうした人々の気遣いに謝意の言葉を述べるアシュヴァッターマンなのだが、今回ばかりはそんな余裕もないのか、いよいよ焦燥の色を濃ゆくしていく。

 

 ――途中までは上手くいっていたのです、と彼は言った。

 

 程よくお酒が回った頃合いを見計らって、主催者である殿下の号令で骰子賭博が始まりました。 

 王たちが己の財産を掛け合って遊戯を楽しみ合う中、殿下はユディシュティラ陛下に対して賭け事勝負を挑まれました。

 ここまでは兼ねてからの殿下の予想通りでした……、と人気のなくなった廊下を走りながら、アシュヴァッターマンが言葉を濁らせる。

 

 彼の話をまとめるのであれば、このようになる。

 

 ドゥリーヨダナに勝負を挑まれたユディシュティラは、クシャトリヤとして立てた「勝負を挑まれたら決して逃げない」誓いを理由に、周囲の反対を振り切って賭博勝負を行う羽目になった。

 

 ――流石は悪知恵の働くドゥリーヨダナと言うべきか。

 ユディシュティラが承知すると、ドゥリーヨダナは凄腕の賭博師として知られている叔父のシャクニを代理に立て、己は観客として引っ込んだ。

 

 ドゥリーヨダナが相手だと思っていたユディシュティラは、自分が嵌められたことに気づきはしたものの、一度勝負を受けるといった手前引くことができず、両者はそれぞれ王国の誇る宝物――黄金飾りの美しい踊り子や万里を駆ける神馬、大粒の宝石が象眼された宝飾品、神秘を宿した武具――を出し合ったのだと言う。

 

 とはいえ、ドゥリーヨダナの叔父であるシャクニはいかさま名人としても有名である。

 たちまちのうちに鴨ネギこと、ユディシュティラの差し出した品々は巻き上げられてしまった。

 

 忍び笑いする王族たちの手前、敗戦続きのユディシュティラは、それまでの負けを取り戻そうとしてますます躍起になったと言う。

 

 賭け金として巻き上げられた品々を取り戻すために、ユディシュティラは自身の有する広大な領土――すなわち彼が国王として支配する土地にある鉱山や街、果てには土地そのものまでを抵当に差し出し、そして――――

 

「……負けたのか……」

「は、はい……。もうその頃には呆れていたシャクニ様もいかさましてなかったとは思うのですが……はい、連敗でした……」

 

 思わず半眼になる俺に対し、流した汗を手巾で拭いながらアシュヴァッターマンが返事する。

 王宮の離れに建てられたせいで王妃の部屋から距離はあったものの、大分会場にまで近づいた。

 とはいえ、客人がいる手前、主催者の下僕であるアシュヴァッターマンと揃って長距離を走ってきましたと連想されるような身なりで乱入するわけにもいかず、お互いに身なりを整える。

 

「普段は運の良い方なんです……! それなのに、どうしてなのか、賭博ではそれが発揮されないと言うか……ああ、どうしてこうなったんだ……!!」

「あー、なんかすごい昔に誰かが同じ内容を嘆いていたような気がしたけど、誰だったかなぁ……?」

 

 すごく既視感のある言葉に脳のどこかが刺激されるが、あまり思い出せない。

 乱れた足元の裾や履物の汚れを落として襟元を正した後、お互いの服装を確認し、大丈夫だと頷きあった。

 

「それで? 国王陛下が素寒貧になった程度のことで俺まで呼び出したのか?」

「――いいえ、それだけでは済まなかったんです」

 

 苦渋に満ちた表情を浮かべるアシュヴァッターマンには同情しかない。

 しかし、この良識人がここまで血相を変えてやってくるだなんて、一体どんな惨劇があったのやら。

 

 ――――アシュヴァッターマンの話は続く。

 

 遂には自身の王冠まで賭け金として差し出したユディシュティラ。

 最初は笑っていたドゥリーヨダナであったが、その時点で従兄弟の尋常ではない様子に顔を強張らせていたと言う。

 

 賭け事大会に反パーンダヴァ派の王族たちを招待していたことも仇となった。

 酒の入った彼らは負け続けるユディシュティラ王を囃し立て、野次を飛ばした。

 引くに引けなくなった挙句に王国中の宝物と領土までをも失ったユディシュティラ。そんな彼はこれまでの敗北を覆すための一発逆転の手段として、ある物を賭け金として差し出した。それこそが――――

 

「お、弟ぉ!?」 

「そ、そうなんだよ、アディティナンダ……! 最初はナクラ様、次に双子であるサハディーヴァ様、それからアルジュナ様に、ビーマセーナ様まで、賭け金として巻き上げられちゃったんだ……!」

 

 思わず足を止めて叫んでしまった俺に、アシュヴァッターマンが無念極まりないと言わんばかりに歯を食いしばる。

 ……いやいや、待て待て待て! 放心状態に陥りそうな自分を叱咤して、必死に反論を紡ぐ。

 

「お、可笑しいだろう!? 賭け事に対して他者の人格を掛けることは法で禁止されている筈だ! そ、それに、あのご老人たちはどうした? 常にドゥリーヨダナと張り合っている親パーンダヴァの一派がその場にいながら、どうしてそこまで可笑しなことになってるんだ!?」

「今夜の出来事で確信した……! 賭け事は人をダメにする、それが神の子であってもだ!! 僕は一生賭け事なんかに手を出さないぞ……! ――じゃなくて!」

 

 同じような放心状態に陥っていたアシュヴァッターマンが説明してくれたのは、さらに絶望的な展開であった。

 

 ――クル王族の長老であるドローナや王弟ヴィドラは、当然のことながら乱心したユディシュティラを救うべく言葉を尽くした。

 しかしながら、彼らの言葉は却って周囲の顰蹙を買い、他ならぬユディシュティラ自身が賭けを続けるように促したのだと言う。

 いや、確かにユディシュティラ王の弟たちは、肉親であると同時に彼の国王の家臣であり、家臣=王の持ち物として扱われることも多いんだけどさぁ……!

 

「――完っ全に、賭け事中毒じゃないか……!」

 

 似たような奴らは王都にゴロゴロいるわ、主に賭博場に。

 そう言う奴らに限って一発逆転を狙うあまりにとんでもないことをしでかして、そして敗北して一文無しになっちゃうんだよなぁ……。

 

「ドローナ様たちもドゥリーヨダナ殿下を諌めるのではなく、ユディシュティラ様を殴ってでもお止めすべきだったんだよ……! そうすれば殿下がなあなあで言いくるめて下さったのに……!」

「あー、そー言うの、あいつ得意だもんなぁ」

 

 歯ぎしりするアシュヴァッターマンに心から同意する。

 だんだん会場に近づいてきたのか、人々が騒いでいる声が聞こえてくる。音だけではなく宴特有の人々の汗と酒の臭気、踊り子たちの残り香もここにまで漂ってきている。

 

「ビーマ様がユディシュティラ様を止めようとしてアルジュナ様に制止された頃ぐらいに、僕は殿下に頼まれて君を呼びにきたんだ。

 多分、あの調子ならユディシュティラ様は自分自身をも抵当に入れかねない。伝言だよ。 “アディティナンダの仕業とは分からぬように、とにかく無茶苦茶に場を引っ掻き回してくれ” だって」

 

 国王のお気に入りである楽師・アディティナンダの仕業とは分からぬように、か。

 随分とまあ、とんでもない難題をあっさりと頼み込んできたものだ。

 

 ――けど、ドゥリーヨダナに頼まれることなんて滅多にないからなぁ……。

 長らく腕に嵌めたままの黄金の腕輪を目にして、そっと息をつく。

 それにしても場を引っ掻き回すったって、どうすりゃあいいんだ? 適当な王族の命を狙ってやってきた暗殺者の振りでもすればいいのか?

 

 悩む俺の脳内で、悪い顔をしたドゥリーヨダナが親指を立てながら「問題ない、あなたが常日頃発揮している非常識ぶりを見せつけてやればいいのだ!」と言って高速で通り過ぎた。

 

 ――よし、ドゥリーヨダナの命を狙いに来た暗殺者の振りをしよう、そうしよう。

 

「――しっ!! ちょっと待って、アディティナンダ! なんだか、すごいことになっているみたいだ……!」 

 

 酒の入った男たちの耳障りな声に紛れて、甲高い声が響いている。

 

 甲高い、()()()……?

 女性の立ち入りが禁じられ、宴の席の踊り子たちも退場した今、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 奇妙に思ってアシュヴァッターマンと顔を合わせ、ぴったりと寄り添うようにして会場の隙間から中の様子を伺う。

 

「――おやめなさい、(わたくし)を誰だと心得ているの!? 尊き半神の王たるユディシュティラ、そして誉れ高きビーマセーナ、アルジュナ、ナクラとサハーディヴァの妻ですよ!

 ――ああ、ドローナ様、ヴィドゥラ様! どうして正義の人と名高い皆様はこの非道をお見逃しになるの!?」

 

 この、最高級の楽器を思わせる艶やかな響きの声は……!

 アシュヴァッターマンを押しのけるようにして、会場内を覗き込む。すり鉢場になった会場の底、賭博の中心に当たる場所に、引きずられるようにして連れて行かれる一人の﨟たけた夫人の姿がある。

 

「あの声、あの顔、間違いない……! ドラウパティー王妃だ! それにあの格好! ――ああ、なんてことだ……!」

「おいおい、まさか、あの王様……」

 

 震える声でアシュヴァッターマンが最悪の事態を想起して、頭をかかえる。

 俺の方も正直、意識を失ってしまいそうだ。確かに、妻は夫の財産として、言い方は悪いが、所有物扱いされるとはいえ、あの賭け事狂いの王様は、まさか………!

 

「――まずい、まずいぞ、アディティナンダ。

 今は抑えられているとはいえ、パーンダヴァの次男であるビーマ様は人一倍情のお強いお方だ。

 そんな彼が最愛の妻がこんな衆人環視の場所に連れてこられて、何もしないわけがない……!

 下手すれば、この場が頭に血が上ったビーマ様の手で血の海に染まるぞ……!」

 

 ヒソヒソと囁いてくるアシュヴァッターマンの言葉に、頷く。

 確かに、ドゥリーヨダナ曰く、頭の足りない筋肉だけが取り柄の第二王子だが、彼は肉親への情が強く、兄弟の中でも美しい妻へと注ぐ愛情が細やかなことでも有名だった。

 

 ――ましてや、ドラウパティーは王家の姫である。

 

 高貴な身分の女性とは基本的に屋敷の奥に隠されているものであり、姫であった彼女は公務を除けば婿選の時以外に男性に()()()()という立場になることは滅多にない。

 王妃として国民の前に立つことはあっても、酒のせいで獣性を強くした見も知らぬ男たち――それも王の妻である彼女に獣欲を抱いた眼差しを向けてくる――に見られたことなんて、これまでに一度だってなかったはずだ。

 

「済まぬ、ドラウパティー。我々もこの非道を止めたいのは山々なのじゃが……」

「他ならぬユディシュティラ自身の手によってお主の身が賭け金として提示され、褒賞として受け取られてしまった以上、こちらとしてもなす術がない……」

「ああ、そんな……!」

 

 王妃が絶句しているのが空気の振動で伝わってくる。

 嗚呼もう、それにしても役に立たん長老たちだなぁ……! なまじ法と正義の代理人を司っているだけに、いや、それに反していないからこそ、合法的にドラウパティーが賞品として差し出されただけに、何もできない訳かい! 

 

 もうここまできたら、一周回って自分が知らない間に抵当に出されていた奥さんが、哀れでしかない。

 

 ――あ、ドゥリーヨダナが項垂れている。

 玉座の上に座っているドゥリーヨダナは鉄面皮を浮かべているが、あれは内心の動揺を隠すための表情である。特に練りに練った計画が上手くいかなかった時ほど、ああいう顔をしている。

 

 ――あ、ついでにカルナも困っている。

 玉座の隣で武人らしく眼下の悲劇を端倪しているが、その内心はさぞかし大荒れであろう。

 

 それにしても、パーンダヴァの兄弟たちはどうしているのやら。

 喧々囂々と人々がざわめき合う会場をぐるりと見渡して、それらしき人々を発見する。

 

 反対側向いているから顔は確認できないが、シャクニと向かい合って座り込んでいるのがユディシュティラ王か。褐色の肌に灰色の象牙を思わせる光沢のある長い髪、間違い無いだろう。

 その両隣に座り込んで、必死に声をかけ続けているそっくりの姿形の二人、朝日と夕日の色の頭髪に蜂蜜色の肌、顔はよくわからんが、あれらがパーンダヴァの末の双子、と言ったところか。

 今にも長兄に殴りかかろうとしている色白の大男が次男のビーマで、であれば、それを制止している褐色肌の人物が三男坊。

 ……見事にパーンダヴァの五兄弟の揃い踏みだ。

 

 それにしても、あいつら……嫁さんのピンチだと言うのに……。

 思わずジト目になって内紛の危機を迎えている兄弟たちから目を逸らして、ようやく目に届く範囲まで近づいてきたパーンダヴァの王妃――ドラウパティー姫へと目を移して、そして絶句した。

 

 ――おい、おい、おい……! ()()()()()()()

 

 口だけははくはくと動いているが、肝心の言葉が出てこない。

 俺よりも目が良くて視界の広いアシュヴァッターマンが、嘆きの声をあげたのも宜なるかな。

 

 ――姫君は、()()()()()

 

 いや、正確には肉付きのよい肢体には半透明の薄衣を身につけてはいる。

 だが、それは寝所における夫人の夜着の一種に過ぎず、夜着一枚だけ姿であると言うことは、常識的には裸であるのとほぼ一緒である。

 

 しかも、高貴な身分の夫人であれば尚のこと、この状況は不味い。

 寝所で夜着を見せ合う仲だなんて、閨を共にする夫婦だけなのが常識である。

 ――それなのに、そんな格好の姫君がこんな酔漢ばかりの場所に連れてこられるだなんて……ああ、とんでもなく不味い!!

 

 しかも、しかも、だ! 夜の宴とはいえ、そこまで夜が更けているわけでも無い。

 それなのに、夫によく従う貞節な夫人として高名なドラウパティー姫が、そんな格好をして()()()()()()()()()()が意味するのは……嗚呼、もうなんてことだ!!

 

「――かなりやばいぞ、アシュヴァッターマン! あの姫、ひょっとしたら寝所で眠っていたんじゃなくて、篭っていたんじゃ無いか……!?」

「そ、そんな! 夫でさえその期間中は遠ざけられると言うのに、そんな状態の姫君が連れてこられたのか!? ああ、早くユディシュティラ様、正気に戻って!!」

 

 そうこうしている間にも会場での問答が続く。

 姫君が必死に長老たちに訴えかけ、酔漢たちは厭らしくせせら嗤い、ドゥリーヨダナは仮面のような無表情でその光景を見下ろしている。

 一見すると冷静そのものだが、その指先が神経質に玉座の肘置きを叩いていることから、なんとかしてこの事態を収束させるための一手を探し求めているのだろう。

 

「ユディシュティラ様と会場にいたご兄弟たちは正直自業自得だけど、あの姫君までをも巻き込むのは本当に申し訳ない。

 こうなったら姫君が解放される手段は一つだけだ、ユディシュティラ様がご自身と奥方、どちらを先に賭け金として提示したのか、その順番にかかっている……!」

「嗚呼、そうか! だからドゥリーヨダナは姫を連れてくることに反対しなかったのか!

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……!!」

 

 ドラウパティー姫もその可能性に気づいていたのだろう。

 必死に夫であるユディシュティラに答えてくれるように嘆願しているが、はてさて……。

 

「な、なんか、不味いぞ……! 僕、少し殿下のところに行ってくる!」

 

 何度妻から尋ね掛けられても一度も応じようとしない王の姿に、厭な汗をかいたアシュヴァッターマンが会場へと飛び込んでいく。

 そのまま群衆をかき分けるようにして進んでいく彼の後ろ姿を見つめながら、俺も冷や汗を拭って平静になろうと努めたが、一向にその努力は報われなかった。

 

「お答えくださいまし、ユディシュティラ様! 貴方様はこの私と貴方様ご自身をどちらを先に賭けに出したのですか……!! 私ですか!?」

「…………」

「そ、それとも、王である貴方様でしょうか!?」

「…………」

「――どうやら、王はご正気を失われておられるようですね」

 

 おいいいいいい!! しっかりしろよ、長男!?

 

 何度問いかけても生返事も返してくれない夫の姿にドラウパティーが糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。

 玉座の上のドゥリーヨダナが死んだ魚の眼で天を仰いだ。あ、アシュヴァッターマンが必死にドゥリーヨダナを慰めている。

 

 せ、せめて、会場で一部始終を見守っていた観客の誰か、パーンダヴァの誰かが弁護すればいいものを、一体何をしているんだ……! だめだ、どいつもこいつもあてにならん。

 

 ハラハラしながら様子を伺っていたら、玉座の隣のカルナが決心したように唇を噛むのが見えた。

 あ、不味い、ひょっとしてあいつ、あの口数の少なさで弁護するつもりか……!

 

 ――す、とカルナが息を吸い込み、凛とした声音が会場内に響き渡った。

 

「……これ以上の発言は無意味だ。

 先に奴隷になったのだから、そのような権利を有するはずがない。――従って、その言い分には従うべきだ」

 

 カルナの発言を耳にして、長老方が忿怒と嘆きの表情を浮かべ、パーンダヴァの兄弟たちがいきり立ち、観客たちは一部を除いてやんややんやの大喝采である。ドゥリーヨダナが頭痛がすると言わんばかりに顳顬を抑えた。

 

 奇しくも、俺とドゥリーヨダナは同じことを思ったはずだ。

 

 ――――嗚呼、これは確実に誤解されてしまった、のだと。




さあ、皆さんご一緒に!

アディティナンダ「ジナコさーん! お願い早く来てー!」(カルナ語検定準一級)
ドゥリーヨダナ「ジナコーー! 頼むから来てくれー!」(同上)

ジナコさんと出会う前なので、致命的に言葉の足りないカルナさん。
皆んなもカルナ語検定に挑戦してみよう!

<感想という名の考察>

現代人の常識からしてみれば「奥さんまで賭けるなよ、ユディシュティラ!」なのですが、ある意味ではドラウパティーはパーンダヴァ兄弟の持つ最大の宝なんですよね(女性に権利がなかった時代なので)
奥さんを賭けるまでに王国中の富・強大な力を持つ弟たちを賭け金として、全て失ったユディシュティラ。王国と弟たちに匹敵するだけの価値を有するもの、すなわち失ったものを取り戻す一発逆転の手法こそが奥さんを賭ける、ということだったとは分かるのですけど……それにしてもねぇ、と思わずにはいられない。
ぶっちゃけ、この賭博で云々は止められなかったユディシュティラ、止めなかったアルジュナ・ビーマら兄弟全員の自業自得っちゃ自業自得。


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助け舟

さて、答え合わせといきましょう。

【カルナさんの敗因】
…会場内にいた全員がどちらが先に賭け金にされたのか目撃しているので、別にいうまでもあるまいと言葉を端折ったこと。


 ――嗚呼、弟よ。君を泣く。

 お前のその心配りは素晴らしいものなのだけど、もの、なんだけど……!

 

 つい周囲も理解していると勘違いして言葉を端折るのはお前の悪い癖だ、と言うことを忘れていた……!

 なまじ、俺もドゥリーヨダナもカルナ語を理解できるだけに、その癖を改めさせるのをかまけていたのは間違いだった……!

 

 発言したカルナの方は常のごとく無表情だが、内心で大混乱に陥っているのが手に取るようにわかった。

 

 そりゃあそうだ。

 まさか、自分の伝えんとした内容と真逆の意味で会場が荒れるとは思っていなかったからだろう……。

 であれば、その困惑も宜なるかな。

 

 よろよろとその場を離れて、怒声と罵声、それから悲鳴の聞こえてくる会場から離れる。

 立派な柱の陰に飾りとしてあった豪奢な壺を抱きしめて、心の安静を図る。

 

「そ、そこは、ユディシュティラ王が先に奴隷になったのだから、王族であるドラウパティーを賭け金として差し出すような権利を有するはずがない。――従って、彼女の言い分には従うべきだ、とまで言い切るべきだった……!」

 

 賭けてもいいが、先ほどの言葉の真意を理解できたのは俺とドゥリーヨダナ、それからアシュヴァッターマンぐらいだろう。

 他の人間には絶対真逆の意味、すなわちドラウパティー姫は夫の手で奴隷になったのだから、そこから逃れることはできない。周囲の言い分に従うべきである、と解釈したことだろう。

 

 つまり、カルナの善意が空回りして、あのお姫様の主張にトドメを刺したわけになる。

 過去にカルナを身分の低い男だと罵倒した王妃には痛烈な皮肉として受け止められただろうし、踏んだり蹴ったりである。

 これでカルナが嫌がらせの一環としてそう発言したのであれば兎も角、そうじゃないだけに――胃が痛い。

 

 ドゥリーヨダナと和解して以来、痛むことのなかったお腹が痛い。

 おかしいなぁ、この俺が封印具たる金環を身につけておきながら、なぜこのような目に遭っているのだろうか。

 

「嗚呼もう、仕方ない……! 弟の不始末は兄の不始末だし、このままカルナのせいであのお姫様がひどい目にあわされるのは目覚めが悪い、ここは文字通り人肌脱ぐか……!」

 

 取り敢えず、誰にも“アディティナンダ”だと分からなければいいんだよな。

 そんなことを思いながら、会場から聞こえてくる騒めき声を背景に、そっと腕に嵌めた金環を引き抜く。

 どこに置いておくべきなのかを迷い、抱えたままの壺の中に腕輪を投げ入れれば、澄んだ音色がした。

 

 ――着用中の男性用の衣服を焼き捨て、どろりと溶けて器の形を変え、魔力で服を編む。

 王宮で働く侍女の制服とよく似た衣装を纏い、目立つ金色の髪を布で覆い、そうして金環の入った壺を片手に抱え込んだ――主に、精神の安定のために。

 

 ――作戦はこうだ。

 ドラウパティー姫が寝室に消えたのを心配して会場まで探しに来た(侍女)、宴の喧騒に紛れて適当なことをまくし立てながら、王妃を会場から連れ出して、寝室へと戻し、朝まで待つ。

 参加者たちの男たちの酒が抜けた翌朝ならば、酒精のせいで気が大きくなっている彼らも正気に戻るだろうし、あのドゥリーヨダナがいいように決着をつけてくれるだろう――とにかく、俺はこの場を切り抜けさえすればいいのだ。

 

 なんとかなるさ、多分、多分きっと!

 会場に立ち込める酒精と男たちの汗の匂いに鼻を顰めながらも、できるだけ目立たぬように会場の中心を目指す。

 

 柱と垂れ幕で会場は囲まれ、すり鉢状の会場の段差には王族たちが思い思いに座す。

 中央の広間には、宴の主役であるユディシュティラ王とその兄弟たちに相手を務めていたシャクニ王、それに引きずられて来たドラウパティー姫の姿がある。

 シャクニ王の背後に備え付けられた壇上の玉座には主催者のドゥリーヨダナが座っており、その隣には狼狽しているカルナ、それから長老方が国王と並んで座っている。

 

 全員が全員、参加者たちにお酒を注ぐ召使いに至るまで、すり鉢状の広間で広げられている悲劇に目を奪われているために、こっそり潜り込んだ俺に気づくものはいない。

 

 ――あ、ドゥリーヨダナが俺に気づいたのか、ホッとした顔をした。

 

「そう言うわけだ! これで王妃様、いや、元王妃! 貴様もドゥリーヨダナ王子の奴隷だ! 嘆くなら、貴様を抵当に出した情けない夫たちを恨め! そら、奴隷にそのような服など不要だ、温順しくしていろ!!」

「いやぁ、やめて! ああ、助けてください、天の神々よ! 助けてちょうだい、ゴーヴィンダ!!」

 

 酔っ払った男が一人、赤ら顔でドラウパティー姫の夜着を脱がそうと、その服を引っ張っている。それに抵抗しているドラウパティー姫だが、なにぶん男と女だ、力の差は歴然である。

 

「ああ、どうしての夫たちは誰も助けてくれないの!? 聖典(ヴェーダ)に通じたユディシュティラも、怪力自慢のビーマもどうしてこの蛮行を止めてくださらないの!? 助けて、アルジュナ!」

 

 頼りの綱の夫たちもすでに奴隷の身に落とされてしまい、この場においての発言権もその乱行を止めるための権利を有していない。

 ビーマ王子なんて眼光だけで他人を殺せそうな顔つきをしているくせに、目には見えない法や道理にがんじがらめにされていて唸り声を上げることしかできない。

 

 長老たちはせめてと言わんばかりに目を背けているし、酔っ払った客人たちは舌舐めずりしながら艶かしい王妃の裸体を愉しんでいる。

 冷たい顔のドゥリーヨダナが止めようとしたカルナを制止し、アシュヴァッターマンが天を仰いだ。

 

 ――嗚呼、やれやれ。

 人と獣の最大の違いは理性や法、秩序や道義という目に見えないものに従って、どれほど自分を律し、抑えられるか否かと言う点にある。

 とはいえ、こうもご婦人を寄ってたかって辱めを与えるような真似が公然と罷り取ってしまった以上、その法についてもご婦人の権利という点において正すべき必要があるというべきだな。

 

 手にした壺をおおきく振りかぶって、狙いを定める――せーの!!

 

「……オオーット、手ガ滑ッタ!!」

 

 自分でもびっくりする位には白々しい声が出たが、その辺はしょうがない。

 酔っ払いの醜態ほど見苦しいものはないし、あんまりこの現状も見ていて楽しいものではないから致し方ないのだ。

 

 カコーーン! と、いい音を立てて、王妃の服を剥こうとしていた男の後頭部に壺が激突した。

 そのまま綺麗な弧を描いて戻って来た壺を片手で受け止め、そうして、できるだけにこやかな微笑みを浮かべて、涙目の王妃の元へと楚々とした仕草で歩み寄った。

 

「嗚呼、このようなところにおられたのですね、王妃様! 御寝所にお姿が見えなかったので、心配いたしました。――さあ、お部屋へとお戻りを」

 

 突然の乱入者に人々があっけにとられている合間に、王妃の手をとり、忠実な侍女のふりをして部屋に戻るように促す。

 夜着という名の肌着一枚しか纏っていない王妃の姿に内心で顔を顰めながらも、それを表情には出さない。あくまでもこの場の俺は侍女である。

 

 ――さて、これであとはこのお姫様を部屋に返してやるだけだ、と思いきや。

 

「ま、待って。貴女は誰? わ、私は貴女のような侍女など知らないわ……!」

「……嫌ですね、妃殿下に使える侍女の一人ではありませんか?」

「そ、そんな筈ないわ! だって、私は自分に仕えている侍女の顔を全員覚えているのですもの……! 貴女が私の侍女な筈がない!!」

 

 多分、生まれて初めてだろう急転直下の事態に動揺し、誰も彼もに疑心暗鬼状態になっている王妃にはこの手段は逆効果だったようだ。

 まあ、彼女を一番に守らねばいけないはずの夫たちが頼りにならず、正義の人たちである老人方も何も助けてくれなかった、ということも、彼女の精神が不安定になったのに拍車を掛けたのだろう。

 

 ――涙と屈辱で潤っている目を大きく開き、嫌悪と不信の表情を浮かべた王妃自身の手によって、掴んでいた俺の手は振り払われてしまった。

 

「――っち!」

 

 どこかで上品な舌打ちが聞こえたが、十中八九ドゥリーヨダナだろう。

 新たな女の闖入者へと四方八方から遠慮なく投げかけてくる野郎どもの獣欲によって血走った視線に、この深窓の姫が、よくもまあ耐えられたものだと内心感心しながらも、どうやってこの場をくぐり抜けようかと思案する。

 

 正直、この王妃様に関してだけは同情の余地がある。

 この会場にいなかったこと、夫全員の妻であるとされながらも長兄であるユディシュティラの独断だけで彼女が賭け金として出されてしまったこと、カルナの悪意なき言葉によってさらなる窮地に追い込まれてしまったこと。

 

 特に最後の一点だけでも、俺が彼女をこの状況から助けてやらねばならない理由となる。

 ぶっちゃけ、この王妃様に思うことがないわけではないが、夫の財産として、所有物として扱われるがゆえに、その意思を蔑ろにされ続ける人間の女というものに対しての憐憫の情もある。

 

 ――さて、どうしたものか。

 

 王妃を一瞥すれば、気丈に振舞ってはいるが、よく見れば全身が小刻みに震えていた。

 その姿に溜息を吐けば、びくりと王妃の体が大きく震えたので、両手を広げて魔力を編み込み――優しい仕草を心がけつつ、一枚の布をその肩へと羽織らせる。

 

 そして、そっと王妃にだけ聞こえるように囁いた。

 

「あー、取り敢えず、羽織っておけ。俺の魔力で編んだものだが、何もないよりましだろう」

「あ、貴女……! まあ、なんて乱暴な喋り方!」

 

 羞恥で顔を染めた王妃がモゴモゴと口の中で礼をつぶやき、魔力で編み出された布を羽織って体を隠す。まあ、その場しのぎに過ぎないが、それでもマシだろう。

 

「それからそこのアシュヴィンの双子。ちょうど二人いるんだ、前と後ろに立って、壁になってやれ」

「あ、え、えっと――わかった!」

「あ、は、はいっ――わかった!」

 

 そっと肩を押したドラウパティーを男どもの視線から隠すように指示してやれば、それまで長兄にかかりきりになっていた双子が慌てて駆け寄ってくる。

 

「――あの人は……」

「知り合いか、アルジュナ? そーいや、あの侍女どこかで……」

 

 どっかで聞いた覚えのある声が驚愕したようだが、こちとらそれどころじゃない。

 依然として座り込んだまま、こちら――パーンダヴァの五兄弟とドラウパティー、そして俺の方を悠然と見つめているドゥリーヨダナの叔父、シャクニ王が口を開く。

 

「見た所、さして年端のいかぬ少女のように見えるけど……ドラウパティーの侍女でないのであれば、君は一体どこの誰なのかな? それに一体何の目的でこのような場所に足を踏み入れたのか、是非ともお尋ねしたいところだね」

 

 まあ、普通はそう尋ねてくるよなぁ……。

 壇上で後は任せたと言わんばかりに肩の力を抜いたドゥリーヨダナとその隣で焦りの表情を浮かべているカルナへと軽く頷いてみせた。

 

 ――安心しろ。

 お前に頼まれた通り、しっちゃかめっちゃかに引っかき回せてやるから、後片付けは任せたぞ。




<裏話>

ドゥリーヨダナ「いつの間にか片付け名人になっている件について」

(*ちなみにアシュヴィンの双子は非常に太陽神スーリヤと縁が深かったりする*)
(*ちなみに次回は断章の続き『月下の邂逅<下>』を投稿しますので、悪しからず*)


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女、あるいは王妃の権利

そもそもなぁ、女性に権利があったらこんな事態にはならんかったんじゃないかと思わなくもない。
けど、神代の時代にそれを求めるのは酷というものだ。


 ――にこやかに微笑んでいるが、目が笑っていない。

 例えるのであれば、一噛みで敵を絶命させる毒蛇のような油断ならない男だ、という印象を受けた。

 

「お……私、ですか。

 私は、そうですわね……通りすがりの……通りすがりといったところでしょうか!」

「あ、ああ。な、なるほど――む?」

「――結局通りすがりであることしか分からんではないか……」

 

 上手い言い訳が思いつかなかったので、とりあえず勢いで押し切った。

 人間、相手を混乱させてしまえば、後は押しの強さと笑顔でなんとなかる! というのがドゥリーヨダナの教えだったのでちょっと真似してみたが、なかなか効果的である。

 

 心なしか目の前のシャクニ王が困惑しているようだ。

 そんでもって、その背後にいるドゥリーヨダナがボソッとツッコミをしていたが、聞かなかった振りをする。

 

「見た目に関しては気にしないでくださいまし。

 これでも成人は迎えておりますゆえ――そして、目的、目的についてですけど……」

 

 しっかし、女言葉って面倒臭いなぁ……。正直に言えば、あまりにも慣れていないせいで、舌噛みそうだ。

 

 突然の闖入者に混乱している会場内へとさりげなく視線を巡らせれば――玉座の隣のカルナと目があった。

 不安に曇った蒼氷色の双眸と目があったので、安心するように微笑みかける。

 

「私の弟を助けに来た――といったところでしょうか。嗚呼、それだけでしかありません」

「ほう……それはご立派だ。――ところで、ご存知かな? 侍女殿」

「あら、何を、でございますか?」

 

 シャクニ王の口の端が吊り上がる。

 ――さながら、獲物を見定めた蛇のようだ、と思わずにはいられない。

 

 骰子賭博のために座っていた姿勢をゆっくりと崩して、シャクニ王が立ち上がる。

 その長身に気圧されていると思われないように、そっと身構えた。

 

「――賭博場には今回のドラウパティーのような事情がない限り、原則として女人の入場は禁止されている。

 従って、どこの誰かは知らぬが、お主はこの場への立ち入りはそもそも認められていないのだ。おい――誰ぞ、この女を摘み出せ!」

 

 台詞の前半は物腰柔らかに、後半は命じることに慣れた王族として。

 王族の命令を受けた男の召使い、それも筋骨隆々なのが二人。

 そんな彼らが肩をいからせながら俺の方へと手を伸ばしてきた――のを、魔力を帯びた片手で振り払った。

 

「――けど、()()()()()()()()()()()()?」

 

 にやり、と出来るだけ不遜に微笑んで、俺の周囲に朱金の炎を生み出して威嚇する。

 空気を焦がしながら燃え盛る炎に王妃が悲鳴をあげ、双子がハッと顔を見合わせる。

 

 頭髪を隠していた布を勢いよく剥ぎ取り、大きく頭を振る。

 ばさり、と音を立てて、豊かな金の髪が窮屈な布から解放され、羽のように広がった。

 会場内の篝火が俺の魔力の影響によって一層激しく燃え盛り、炎の照り返しによって、只人とは一線を画す朱金の頭髪は、さぞ威圧的な輝きを周囲の目に焼き付けたはずだ。

 

 自分たちが手を出そうとした謎の女が、人外の存在であることに気づいた召使いの男たちが、慌ててその場から退いた。

 

 ――よし、ここからは人外の空気をこれでもかと前面に押し出していこう。

 でないと適当な理由でなあなあにされてしまいそうだし、それではドゥリーヨダナの頼みが果たせない。

 

 芝居掛かった仕草で指を鳴らせば――轟ッ!! と炎が渦を巻く。

 

 酔っ払っていた男たちも人知を超えた力に驚いたのか、すっかり酔いが引いた顔で目を見開く。

 ぐるぐると渦を巻く炎が室内を縦横無尽に暴れまわり、空気を焼き尽くし、熱風を人々の顔へと吹き付ける――よし、これで場の空気は俺へと靡いたな。

 

 ――と、思いきや。

 

「確かに! 貴女のおっしゃる通りだ。法によって禁止されているのは、人間の女に対してのみ。――とはいえ、天にも地にも境なく、女は子供のうちは父の、嫁いでは夫のものであると定められている!!

 そんな貴女が一体、この賭博場において、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「――賭場?」

 

 む、と眉根を顰めれば、愉快そうにシャクニ王が笑う。

 こいつ、ここまで人外の気配を明らかにしておいたのに、全く動じることがないとは――流石はドゥリーヨダナの叔父ということか。

 

「――左様。ここは賭博場だ。集う者たちが己の財を元手に一攫千金の夢を掴むための場所だ。

 ……まあ、中にはそこにいる元国王のように全財産を失ってしまうような愚か者もいるのだが――財を持たぬ輩は摘み出されるのが賭場の掟である。つまりは財産を持たぬ以上は――とっとと元の場所へお戻りなさいということだ、お嬢さん?」

「……ははぁ、なるほど。お前の言い分は理解したぞ、クルの王族。けど、生憎だな。俺の父は地上におらず、俺の伴侶などどこにもいない。そんでもって、俺より年嵩の男兄弟も存在などしていないのだ。

 ――つまり、俺の身柄は俺のもので、俺は賭け事に出せるだけの財を持っている、ということだ――であれば、賭けに参加する資格はあるだろう?」

 

 この王様もなかなか愉快な人間だ。いいね、なかなか面白い。

 ――まさか、神霊を賭け事勝負――それも、自分の得意とする領分に引きずり込むとは。

 

 皮肉っぽい喋り方といい、話の流れを自分の方へともっていく才覚と言い、ドゥリーヨダナによく似ている。

 もっとも――じゃなきゃ、半神の王を相手に勝負など仕掛けられないか。

 

「元手があればいいのだろう? ――()()()()()()()?」

「ほほぅ、これはなかなか奇矯なお嬢さんだ。――ですが、自分がその誘いに乗ってやる義理などありますまい?」

「――おや、それでいいのか?」

 

 できるだけ不遜に、できるだけ蠱惑的に、ゆったりと微笑んでみせる。

 先ほどから固唾を飲んで様子を伺っている観衆の誰かがゴクリと唾を飲み込む音がする。

 

 普段よりもずっとゆっくりとした動きで腕を開き、首を傾げてみせる――確か、娼婦のお姉さんがいっていた男心にゾクリとくる仕草ってこういうのだったような、気がする。

 

()()()()()()()()()()()()()?」

「……何をです?」

「自分の豪運と一流の賭事師として磨いたその技量を、だ。半神の王を相手に、それも、法を司る神の子を打ち負かすようなお前の持つ技倆が――果たして、本物の神霊()を相手に通じるかどうかっていうことを、だ……!」

 

 相対しているシャクニ王の目がぎらりと光る――()()()()()()()! 

 内心で快哉をあげながらも、できるだけ表情は不遜で不敵な顔を浮かべた侭である。

 

「ドゥリーヨダナ、この方の勝負に応じてもいいかね?」

「……ご自由に、叔父上。かなり舐めた口を聞いておりますが、相手は女です。――あまり、手荒な真似はしませぬよう」

 

 目だけは抜き身の刃のように輝かせたシャクニ王が、じっとこちらを凝視しながら甥っ子へと尋ねかける。

 済ました声のドゥリーヨダナの返事を受け取ったことで、勝負は成立した。

 

 なんか、話の流れで賭博勝負に持ち込んじゃったが、うーん、本筋から離れていないからこれで良しということにしておこう。

 ……今更やーめた! と言い切れる雰囲気でもないし。

 

 ――さて。

 俺たちはこれでいいとして、もう一人だけ、その欲するところを確認しておかねばならぬ人物がいた。

 

「――それで? お前の方もそれでいいのか、ドラウパティー?」

「――え?」

 

 双子の間に守られながら事態の展開を伺っていた王妃が、キョトンとした顔をする。

 何もわかっていない顔に内心で舌打ちして、前に立っていた双子の片割れ――あまりにもよく似ているのでどっちがどっちかはわからない――を押しのけて、その眼前に立った。

 

「え? じゃないだろう。俺は今からそこの王とお前の身柄を賭けて勝負するが、()()()()()()()()()()()()? ということを尋ねているんだ」

「え、え? だって、そのようなこと、(わたくし)には……」

 

 美しい顔を困惑で染め上げながら狼狽している王妃に、あることに気づいて、できるだけ優しい声を出した。

 

「――あのな。正直にいうと俺は別にお前の味方じゃない。

 俺がお前を助けるような真似をしているのだって、突き詰めれば俺の大事な子たちの為だ。俺は俺の目的のために動いている。

 ――けど、お前だって当事者なんだから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――――貴女は、(わたくし)の味方ではないの? (わたくし)を哀れに思ったからこそ、先ほどの蛮行を止めてくれたわけでもないの?」

「嗚呼、そうだ。酷い言い方をするが、俺はお前がどうなろうとどうでもいい。お前の境遇を哀れにこそ思うが、お前個人に対する好感も好意も恩義も義理もない。

 ただ、俺は俺の都合でお前を助けてやるような真似をしているだけだ――いいのか? これからお前の身柄を賭けて勝負をしようとしているのは、そんな人でなしなんだ」

 

 人でなしと自負している身だが、随分と情のないことを口にしている自覚はある。けれども、この王妃だって当事者の一人である。

 ただ場の流れに流されるままに貶められたり、救われたりするのは、却って不実であろう。

 そもそも、妻に夫の暴論を退けられるだけの権利が認められていたのであれば、このように、この王妃が衆目の面前で辱められることはなかったことだけは確かだ。

 

「……なら、どうしてそんなことを仰るの? (わたくし)にそのような話など聞かせる必要など、益々なさそうに思えますわ」

「――お前にも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。俺にしてみれば、人間は等しく人間でしかない。そこに身分の違いも、男も女もあるものか」

 

 ――だから、と口調を強める。

 ただ神々の定めた台本通りに従うのではなく、ただ俺の忠言通りに生きるのではなく、己で道を定めて生きるドゥリーヨダナやカルナの持つ人の意思という輝きに心奪われた俺だからこそ。

 ただ漫然と流されたままにこの王妃を救ってやるような真似だけは絶対にするまい。

 

「――だから、お前にも敢えて尋ねるぞ。そんな相手であったと知った上で、()()()()()()()()()()()?」

 

 ――王妃が息を飲み、軽く瞼を閉ざす。

 困惑で染まっていた面が引き締まり、己の身を守るように胸元を抑えていた手の震えが治った。 

 

「この際、貴女が誰であっても構わない――どうか、私を助けて」




<裏話>

アディティナンダ「よっしゃ、言質はとったぞ!」

<感想という名の考察>
…インド女性の権利について。
 正直、カルナさん側からしてみれば、身分の低さを理由に婿選への参加を拒絶したドラウパティーってあんまり好きになれないキャラクターなんですけど、当時の価値観や教えからしてみれば、彼女の主張するところって至極真っ当なんですよね。(というか、それだけ実力主義でカルナを重用したドゥリーヨダナの異常性の方が際立っています)
 ぶっちゃけ、夫を決めてしまってからは基本的に夫に絶対服従なのが、神代のインドの女性観という感じなのでしょうか。夫が五人とか、賽子賭博の時か、彼女の意思というか人格は完璧に無視されているんですよね(原典を読んだ限りの作者の印象です)ある意味、彼女が「嫌だ」と口にできたのはそのカルナとの婿選の一件だけ。
 実際、ドラウパティーは五人の夫がいることに対して嫌味を言われたり、揶揄されたりしているんで、それが賽子賭博をきっかけに、自分を助けてくれなかった夫たちに対して(特にユディシュティラ)怒りが爆発してしまっても致し方ないというか……それで、夫に復讐するわけにもいかないから、カウラヴァにその怒りが向いても致し方ないというか……(詳しくは原典の森の巻を参照ください)

 とは言え、この時に大ピンチに陥ったドラウパティーを助けようという素振りを見せたのって次男のビーマだけなんですよね。他の兄弟たちが規則や教えに背くことになるためにドラウパティーに助け舟を出せなかった時に、長男のユディシュティラを止めるべく動いたのは彼だけでした(身内には優しいビーマの性格がよく出ているエピソードです)けれども、同じ会場にいた三男のアルジュナに長兄の定めたことに弟は背いてはならないと制止され、泣く泣くその拳を納めて、目の前の惨状を歯を食いしばりながら見ている羽目になったとか。
その屈辱を忘れていなかったからこそ、クルクシェートラでのあの横紙破りのような戦い方を是としたのかもしれませんね。


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賭け金

(*もしかしたら、人によっては不快に感じる表現があるかもしれません。
 現代とは価値観の違う、インドの神代であるからの発言であるということで、ご理解を示していただけますと幸いです*)


「――よし! 言質はとったぞ!

 というわけだ。賭け事で奪われたものは、賭けで取り戻すとするか!!」

 

 望む返事が返ってきたので、その場に王妃を捨て置いて、シャクニの方へと向きなおる。

 そうして、会場中の人々の視線を集めながら、円状の広間の中央に備え付けられている骰子遊びの道具が置かれている場所へと衣を翻しながら座り込んだ。

 

「なかなか威勢の良いお嬢さんだ。――ところで、貴女自身は何をお賭けになるのかな?」

 

 顔面には微笑みを浮かべているが、俺の前へと座り直したシャクニの目は笑っていない。

 いうなれば、油断のならない人間の目をしている……こっちが隙を見せれば直様食らい付こうという気概を感じて、愉しくなる。

 

「――そうだな。俺の持ち物の中で価値あるもの、といえば――()()()

 

 あまりにも抱き心地がいいので小脇に抱えたままの壺の中から、入れっぱなしにしていた黄金の腕輪を取り出す。

 炎を閉じ込めたような赤の輝石が象眼された、見事な細工の金環に目を奪われた人々の感嘆の声が会場内に充満し、シャクニの目がキラリと光った。

 

「なるほど。確かにそれは見事なものだ。一目で人の手で作られたものではないと判別できる。――しかしながら、()()()()()()()()()、というしかありますまい」

「……足りない? どういうことだ?」

 

 至極残念そうにため息をつきながら首を振るシャクニの言葉に、眉をひそめる。

 これが人の手によるものではないことなど、この腕輪自体が醸し出す尋常ならざる神秘の力の痕跡によって、当然この男は気づいているはずだ。

 

 それなのに、この腕輪にドラウパティー一人分の価値がないとはどういうことなのだろう?

 

「貴女はそこな元王妃を助けると仰られた。……しかし、奴隷の身に落とされた彼女を救うには、彼女の夫である者たちをも助けださねばなりますまい!! 何せ、奴隷の妻もまた奴隷ということになってしまいますからな!」

「……そーいうことかよ」

 

 大仰な仕草で芝居掛かった台詞を口にするシャクニに、一本取られた! と内心で臍を噬む。

 いや、ぶっちゃけ、この姫君しか助けるつもりはなかったんだが、彼女の身の保障のためにはドラウパティー姫の五人の夫まで奴隷の身分から解放してやらねばならぬということか。

 

 ――それにしても、五人の夫ってやっぱり非常識だよなぁ……。

 でも、よく考えれば、なんで一人の夫に複数の妻は許されるのに、一人の妻に複数の夫は非常識扱いされるのだろう? 考えてみれば不思議だ。

 

 思わずジト目になる俺に対して、周囲の野次馬どもが好き勝手言いながら囃し立ててくる。

 なんかひどく猥雑なことまで言われているらしいが、そういう言葉は右から左に流れていくのでどーでもいい。

 

 ――――カァァンッッ!

 

 カルナがいつの間にか手にしていた槍の石突きで力一杯床を叩いた音が会場に木霊し、その威圧的な音色に気圧された酔漢たちが揃って口を閉ざした。

 

 ちらりと視線を向ければ、憮然とした表情のカルナが唇を噛み締めていた。

 軽く肩を竦めて、気にしていないことを示せば、少しだけその身にまとっている気配が和らいだ。……そうだよ、お前はそれでいいんだ。

 

 再び静かになった会場で、軽く咳払いをして、場の流れを引き戻す。

 

「――なら、この金環四つでどうだ? 俺の両の手足に一つずつ。

 効能としては、そうだな……人間であれば、持ち主に永遠の若さを与え、最上の状態を維持する。神々の子らとその妻の代金としては十分すぎるだろう?」

 

 元手として見せた腕輪の他に、現在着用している腕輪と足輪をそっと見せつける。

 この勝負、もし負けでもしたらとんでもないことになるなぁ……とか思いつつも、それ以外に差し出せるものがない。

 

 なので、なんとかして勝負自体を始めないとどうにもならないのから、こっちとしても必死だ。

 

 ――それにしても。

 なーんで、俺がパーンダヴァの奴らのために必死になっているのやら。

 

 思わず白けてしまいそうな内心の声から耳を閉ざして、今はこの場にいないあの腹黒策士(クリシュナ)へと罵声を飛ばした。

 

「――いいえ、それでも足りませぬな」

「はあっ!?」

 

 そんなことにかまけていたせいで、次のシャクニの言葉には素で呆気にとられた。

 当の本人といえば、残念極まりないと言わんばかりの態度で首をゆるく振り、訳知り顔で滔々と彼の理屈を語る。

 

「なるほど、神の力を宿した神宝を四つ。それは結構!

 しかし、自分が此度の賭けで我が甥の手に収めたのは、類い稀な力を宿した神々の息子が五人! そして、その美しい妻を合わせて全部で六人! 四つ程度の宝では、到底その価値が釣り合いませぬなぁ」

「…………」

 

 ドゥリーヨダナって、思っていた程、嫌味なやつではなかった。

 この叔父さんの方がずっと厭らしいというか、なんというか……こういうあくどいところも人間の一面なのか、と正直感心すらした。

 

 しかし、参ったなぁ……。神の子と天下一の美女に釣り合うほどの宝、かぁ……。

 うーむ、うーむ。――あ、そうだ!

 

「――なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()。俺とて人外の端くれだ。当然、お前としても、それで十分だよな?」

「!!」

「……まて、それは」

「よしなさい、ドゥリーヨダナ。お前はこのシャクニにこの勝負を任せたのだ、であれば黙って見届けるが良い」

 

 ドゥリーヨダナが思わず、といった感じに玉座から立ち上がろうとするが、それを険しい語気でシャクニが押し留める。

 年長者として敬わなければならぬ叔父に制されて、ドゥリーヨダナが渋々といった表情で俺を見つめてくる。

 

「――ですが、それでも五つ。あと一つ、足りませぬ」

「…………」

 

 ……俺、こー見えても正真正銘な神霊なのだけど、半神の王子様とは価値が釣り合わないのだろうか。

 少しばかりそこが不満だが、俺が神らしく見えないというのはドゥリーヨダナからも言われていることだし、威厳のない自分自身のせいであると口をへの字に曲げる。

 

「――では、オレではどうだ?」

 

 涼やかな、どのような喧騒の中にいても必ず聞き取れると豪語できる、世界で一番聞き慣れた声がそっと俺の耳元で()()()()

 金属の鎧が触れ合って、澄んだ音色を立てる――肩に置かれた、強張った手の重みを感じる。

 

「――……カルナ」

 

 ――いつの間にか、俺の背中に寄り添うようにしてカルナが膝をついていた。

 

「元々このような事態になったのは俺の責だ。ユディシュティラ王も己の弟を賭けに出したのだ。――であれば、同じことを俺がされても構うまい」

 

 炯炯と光る蒼氷色が、シャクニ王を貫く。

 それまで薄ら笑いを浮かべていた王が武人の眼差しに睥睨され、僅かに気圧されたようだった。

 

 周囲には先ほどのカルナの声は聞こえなかったようだ。ざわざわと俺たちの関係性を訝しむ囁きが耳に入ってくるが、それらの内容はせんなきこととして、俺の脳裏に刻まれる前にそっと消え失せる。

 

「失礼ながら、将軍とそのお嬢さんとの関係は?」

「……答える必要があるのか」

 

 素っ気無いカルナの返事に、シャクニ王の顔が引きつる。

 こんなにも適当な扱いをされたのは彼の人生において初めてのことだろう。甥の懐刀であるからこそ皮肉を口にしないだけで、内心ではさぞかしカルナへの罵倒の嵐であると推測した。

 相対しているカルナの顔は涼しげだが、少しばかり焦っているようにも見える。

 

 ――しかし、弟……弟か。

 ちょっと気になることがあって、少しばかり考え込む。弟、妹、家族、父・母、それに娘に息子……。

 

 ――――()()

 

「パーンダヴァの子供達を助けるために貴方がその身を差し出すと? ご冗談もお辞めなさい、カルナ将軍。……そもそも、その賭けは成立しないのです」

「何故だ? オレは確かに武しか取り柄のない男だが、それなりの戦闘能力はあると自負している。その点においては、そこの第三王子にも引けを取るまい」

 

 人々のぶしつけな視線から守るように俺の背中側に膝をつき、片側の肩を掴んでいるカルナの手に力が篭る。

 

「ええ、それでも賭けは成立しないのです。何故なら、貴方はドゥリーヨダナの家臣。

 すでにドゥリーヨダナのものであるというのに、どうしてそのような賭け金が成立するのでしょう?」

 

 ――しまった、とカルナが小さく呟いたのが聞こえた。

 

 確かに、シャクニ王はドゥリーヨダナの代理であって、この賭け自体は俺とドゥリーヨダナの勝負なのだ。

 ドゥリーヨダナの持っていないものにこそ価値があるのであって、悪辣王子の懐刀として名を馳せているカルナでは、この賭けは成り立たない。

 

「まぁ、そうなるよなぁ。――とはいえ、余計な気を回す必要はないぞ、弟よ。

 お前は確かに俺の弟で、俺はお前をこき使う権利を持ってこそいるが、それだって、いざという時にお前を守るという名目のもとで行使できる、長子権限というやつだ。何より、大事なお前を賭け事に出したりなどするわけないじゃないか」

「だが、……しかしそれでは」

 

 クシャクシャと肩の上にある形のいい頭を撫で付け、そっとその額を押して退かせる。

 こそこそ声で話している俺たちに周囲が不審そうな目を向けているが知ったこっちゃない。

 

 それでも、なおもカルナが責任を感じているようだったので、ちょっと冗談を飛ばしてみた。

 

「――第一なぁ、お前の髪の一筋、血の一滴、肉の一欠片に至るまで、お前はお前自身のものなんだ。お前の意思と心がその肉体に宿っている限り、お前の身はお前だけのものなんだ。お前は俺の弟だけど、俺の所有物じゃない。

 何より、どこの世界に、大事な弟を借金のカタに売り飛ばすような兄……じゃなかった姉がいるかよ?」

 

 ――敢えて声高に言い切った途端、会場の片隅で奇声が響いた。

 

「…………グフッ!」

「わー、ユディシュティラ兄上が泡吹いて倒れた!!」

「わー、ユディシュティラ兄上が痙攣してる!」

「……ごめん、今のは聞かなかったことにしてやって」

 

 これは酷い、とシャクニ王が哀れみを浮かべ、双子の医神(アシュヴィン)の子である双子が叫ぶ。

 妃と双子とで、必死に倒れ伏した長兄の介抱にかかりっきりになっているのを皆が白けた目で一瞥したが、何かを口にするものはいなかった。

 

 あの慕われっぷりからすれば、多分、普段はいい兄貴なのだろう。

 ――ただ、どうしようもなく破滅的な悪癖があるだけで。

 

「それにしても、もう一つ、か……。うーん、そうだなぁ……」

 

 別に俺が助けないといけないと思うのはあの王妃様だけであって、その他の兄弟がどうなろうがどーでもいいのだが。

 けれども、その王妃様を助けるためにはその夫たちも助けなければいけないという板挟み状態である。

 

 あ、そーだ。いいこと思いついた!

 

「――なあ、別に五人も夫がいるなら、一人くらいいなくなってもよくね?」

「そ、それは困る!」

 

 とんでもない名案だと思ったが、クルの長老のどっちかが狼狽しきった声を上げる。

 そのまま、聖典に基づいてどっちがどうとか、何がどうだとか好き勝手言っているのを右から左に流しながら、大きく溜息を吐いた。

 

 ドゥリーヨダナへと視線を向ければ、高速で首が左右に振られた。

 これ以上ない意思表示に、名案を思いついた時の高揚感が薄れていく。

 

 あー、確かに。

 兄弟の一人が奴隷のままだったら、兄弟思いの彼らは、その奪還のために死に物狂いで力を尽くすだろう。

 俺だって、カルナが同じ立場に置かれたら、そうする自信がある。

 

 財産を失った彼らとはいえ、その力は並大抵のものではない――何より、賭博をふっかけたのがドゥリーヨダナである以上、それを責め立てる意義も込めて、親パーンダヴァの連中もドゥリーヨダナから離反するかもしれない。

 

 ドゥリーヨダナだって別に従兄弟を奴隷に貶めたくて貶めたわけでもなく、むしろ勝手に自滅されたようなものだから、そんな扱いに困る奴らなんていらんよなぁ……。

 

「あー、わかった。なら、こうしよう。六つ目の賭け金には、()()()()()()()()()()()()()

「まあ、手元にないものを賭けるのは別に規則に反しているわけでもありませぬゆえ、よしと致しましょう。――何をお賭けになるのかな、お嬢さん?」

「――……()()だ」

 

 子供? とシャクニが首を傾げ、背後のカルナがひゅっと息を飲む。

 少し離れていた距離が一気に詰められ、載せられたカルナの手がギリギリと俺の肩が軋む勢いで掴んだ。

 

「正確には、これから俺が産むであろう子供だ。――この賭けに負けたら、俺はこの世で最高の資質を持つ天性の戦士を――それこそ、ここのカルナにも、最優の戦士として名高いアルジュナ王子にも引けを取らぬ、そんな子供を産んでやろうじゃないか。

 ――そうら、これで六つ目。――どうだ、これで賭け金は揃ったぞ?」

「――アディ、……ロティカ!」

「これは大きく出ましたな!!

 ここのカルナ将軍にもアルジュナ王子にも引けを取らぬ戦士ですと?」

 

 品定めするような視線で俺を見つめているシャクニに、できるだけ魅力的に微笑んでみせる。

 

 それにしても、肩に置かれているカルナの握力が痛い、地味に痛い。

 ――――いや、滅茶苦茶痛いんだが。

 

「――俺は混ざりっ気なしの正真正銘の人外だからな。その俺が母体になるんだ、生まれてくる子供の資質に文句はないだろう?」

「よろしいでしょう。そもそも、女性にそこまで言われて勝負を断るのも、男が廃るというもの――お受けいたしましょう」

 

 ……残念ながら、ただの皮の器にしか過ぎぬ俺の体に生殖機能はついてないんだが、その辺は黙っておこう。

 女の体であるという不利益を生かして、この勝負を成立させるには、もうこれしか手段がない……というか、思いつかない。

 

「――ただし、勝負の詳細は俺に決めさせてもらおうか。とはいえ、さっきまで難癖つけまくってくれたんだ、それくらいの譲歩は当然してくれるよな?」

「いいでしょう。さて、その内容とは?」

 

 お互いの座っている席の真ん中に置かれていた賭け事用のすり鉢を手に取り、軽く揺らす。

 カラカラ、と中に入っている骰子が転がって、乾いた音を立てる。

 

「出した目を当てるだけの、簡単な遊戯さ。

 ただし、参加者は互いに目隠しをした状態で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 先に……そうだな、六回当てた方が勝ち、ということにしようぜ?」

 

 コロコロと回っている骰子がピタリ、と止まった。

 出した目は――六と六の最大数。通常のサイコロ勝負であれば最高値の数であった。




(*賭け事で勝負しよう、というのはだいぶ前から決めていたプロットでした。そして、そのためには六人ぶんの対価を用意せよ、と言われたアディティナンダが金環の数が足りないから自分自身の人格を差し出す、というのも*)
(*この辺は完全に二次創作だからこそできるフィクション。とは言え、恐ろしいことに原典の流れと一緒*)
(*原典の流れに沿う場合、このエピソードで重要なのは「神」と「女」によって救われるパーンダヴァ兄弟、となること。この場合の女とはドラウパティーで、彼女の悲痛な助けを求める叫びを聞き遂げた神々の手によって王妃が救われる、というのが原典の流れなのです――そして、そのためのロティカであり、そこから×××の発言へとつながります*)


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骰子勝負

某・賭博漫画並みの展開を希望していた方々、申し訳ない。さらっと始まって、さらっと終わります。


「まず、遊び方を決めよう。――この勝負はイカサマしても問題ない。……ただし、ばれなければ、という条件が頭についておくことになるが」

「ほほう。つまり、イカサマをして勝率を上げるも、せずに己の運に頼るのも自由ということですかな?」

「そうだな。ただし、ばれたらその時点で罰則を受けてもらう。――なので、俺としてはイカサマなんかしないことをお勧めするぞ?」

 

 ――アシュヴァッターマン、と名前を呼べば、神妙な顔つきの青年がそろりと前へ出てくる。

 

「いいか? これからお前とカルナが審判役だ。

 お前は俺、カルナはシャクニ王、それぞれ、俺たちがイカサマをしていないかどうかを見張るのが仕事だ。

 ――そんでもって、もしも、俺たちのどちらかがイカサマしていることに気づいたら――()()()()()()()()()()――いいか? ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 え、と目を見開いたアシュヴァッターマンと黙って頷いたカルナ。

 顔を強張らせたシャクニ王に対して、挑発的に微笑んでみせる。

 

 ――何を驚いているのだろう? この程度であれば可愛いものじゃないか。

 

「仮にも人外との間に勝負を挑むんだぞ? ――そこに偽りを持ち込むのであれば、その首を落とされる覚悟をするのも当然だろうが」

「やれやれ……。見た目の可憐さとは裏腹に、獰猛極まりないお嬢さんだ。少しでも気を抜けば首を食いちぎられそうだな。……ですが――よろしいでしょう!」

 

 ……こいつ、生粋の賭事師だな。

 怯むどころか、嬉々として勝負に乗り込んでくる辺り、その性根のほどが知れる。

 

「できるだけ公正になるように、目隠し用の布は互いの持ち物から交換と致しましょう」

「賛成だ。――そら、アシュヴァッターマン」

 

 カルナとアシュヴァッターマンが手渡された布を用いて、俺とシャクニ、それぞれの目を覆う。

 ――うん、完璧に何も見えないな。

 

「……使う骰子は二つ。先行が一度振り、後攻が相手の賽の目の合計を口にする。当たったら得点がつくが、当たらなかったら失点となる。判定するのは互いの審判。三度続けて外したらその時点で決着ということで――勝者は先に六回当てた方、単純だろ?」

「……よろしいでしょう。では、お嬢さん、あなたから先に賽を転がすといい」

「では、お言葉に甘えて――遊戯を始めようじゃないか!」

 

 ――この勝負、()()()()

 手渡された賽子をコロコロと手の内で転がしながら、胸中でほくそ笑んだ。

 

 

 ――コロコロ、カラン!

 

「……ふむ。では、六と四で……十、否、十一!」

「――正解だ。これで四点目、だな」

 

 ――カラカラ、コロン!

 

「……そう、だな……。――よし、二だ」

「これ、で……五点目、です。すごい……どうして見もしないでわかるんだ?」

 

 会場内の全員が固唾を飲んで見守る中、賽子を転がしている乾いた音だけが会場内に木霊する。 

 

 聞こえる音は人々の衣擦れの音やひそやかなささやき声。

 酒の入った盃がかち合う音、あるいは器の中で酒が揺れる音。

 神経質にカルナが指先で鎧を叩く音やアシュヴァッターマンの興奮を隠せない呼吸音。

 

 ――カラン、カラコロ。

 

「……七、で。どうかね?」

「……ああ、間違いないな」

 

 ざわ、と会場がひっそりとした興奮の渦に包まれる。そりゃあ、そうだろう。

 これで遊戯の参加者二人の得点が並んだわけだ――次第に、興奮が高まっていくのを肌で感じる。

 

「さて、君の番だよ」

 

 ――そして、この勝負に俺が勝てば、その時点で決着だ。

 勝負の行方を見守っている皆の緊張が、一層、高まっていくのを感じる。

 

「嗚呼、わかっている――転がせ」

 

 ――カラン、カラン、コロロ……。

 

「…………そうだな……。十二、いや違う――これは、そう、六だ!」

 

 ヒュ、とアシュヴァッターマンが息を飲む――そして、その一拍後。

 

「せ、正解です!! 勝者はこちらの女人、つまり、シャクニ様の負けです!!」

 

 ――ワァッ! と会場が興奮で湧き上がる。

 ドラウパティーが歓喜の涙を流し、双子達が飛び上がって抱きしめ合う。

 正気を取り戻したらしいユディシュティラ王が大きな安堵の溜息を零し、重荷が下りたとばかりにその肩が下がる。

 

 ……その光景を見つめて、そっと肩を竦める。

 

 玉座の方から視線を感じて、その根本へと視線を流せば、輝く黒水晶と目があった。

 後は任せたぞ、という意思を込めてじっとその目を見つめれば、任せとけ! と言わんばかりに親指が立った。

 

 ――あー、それにしても、緊張したわぁ……。

 随分と肩が凝ったんで、グリグリと首を回してほぐした後、そっと息を吐く。

 

 ……いやあ、それにしても強敵だったわ。

 普通に戦ってたら、俺が負けてもおかしくなかったなぁ……幸運補正信じなくてよかった。

 流石は、イカサマ時々自分の技量だけで法神の子を降しただけはある。

 

 ()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 対戦席に座したまま、悔しそうに眉を寄せているシャクニ王を一瞥して、ホッとする。

 景品として床に置いたままだった黄金の腕輪を拾い上げ、精神安定剤になっていた壺の中に腕輪を落として、そのまま抱きかかえた。

 

「――……アディティナンダ」

「――ん、カルナか。どうした? なんだか物言いたげ、だな」

「その、ありがとう……助かった」

 

 心底申し訳なさそうに苦渋の表情を浮かべている不器用な弟に、そっと肩をすくめる。

 周囲が好き勝手叫んだり、飛び上がったり、踊ったりしているせいで、余程近くに寄らないと互いの声は聞こえない。

 

 誰も自分たちになど、注目していないから、兄として不器用な弟に微笑みかけてやれた。

 

「――……俺はお前のお兄ちゃんだもの。困っている弟を助けるなんて、当然だろ?」

「――っ! ああ、そうだった、な」

 

 透き通った蒼氷色を見開いて、一度だけカルナは泣きそうな顔をした。

 

 ――けれども、その表情も一瞬だけのこと。

 すぐさま鋭い目つきに戻ると、常のごとく酷薄なまでに無表情な顔つきへと変わる。

 

「――気付かれる前に立ち去ると良い。……今なら、誰も気にしない」

「嗚呼、そうするよ」

 

 人混みを縫って、人々の喧騒に混ざって、足音と息を潜めて――そっとその場を立ち去った。

 

 ――そう、手出しをするのはここまでのこと。

 

 二人のどちらかから助けを求められた時のみ、手を貸すというのが俺の決めた方針だった。

 何でもかんでも助けてやらなければならないほど、弱々しい子供達ではない――いや、もう子供と称されるような年頃ですらないか。

 

 二人の小さい頃の姿を知っているだけに、どうしても時折は幼子のように扱ってしまう。

 

 真っ白なざんばら髪に、子供らしくない鋭すぎる目つきのひょろりとしたもやしっ子。

 長い黒髪を丁寧にまとめて、唇を噛み締め、拳を握りしめていた褐色の肌の少年。

 

 懐かしいなぁ、と彼らの幼い頃の姿を脳裏に思い描き、随分と様変わりしたものだと微笑む。

 彼らが自分で選んだ道の先が現在に繋がっているのだとしたら、これから先もそうなるのだろうと思う――否、そうであるべきだと思っている。

 

 きっとそのうち、二人が俺の手を必要としなくなる時もくるのだろうけど、年長者として、二人の幼い頃を知る身としては、やっぱり頼って欲しいなぁとも思ってしまう。

 

 ――あーあ!

 

 子供が成長するのは本当に早いもんだ。

 あんなに手のかかる子たちだったのに、今じゃあ何でもかんでも自分たちだけの力で解決できるようになっちゃって、保護者としては嬉しいやら悲しいやら――なんとも微妙な気分だわ。

 

 くるくると手遊びとして、運んだままの壺を弄くり回す。

 

 あー、悲しい! いや、嬉しいんだけど、やっぱりちょっとだけ悲しいなぁ。

 

 それにしても、この壺、ついつい触り心地がいいから持ってきちゃったけど、どうしよっか。

 すべすべした壺の表面を指先で撫で、そうして――はたと足を止める。

 

 いや、真剣にどうしようっか。

 わざわざ戻しに行くのもなんか変だし、さっきまで引っ掻き回すだけ引っ掻き回しておいてのこのこ壺を戻しに行くのも奇妙だし……うーん、でも、今の俺ってばロティカなんだよね?

 

 ……だったら、アディティナンダに戻れば問題なくない?

 そう思いつつ振り返れば――なんか硬くて暖かいものに激突し、その衝撃で尻餅ついた。

 

「――ふぁっ!? い、一体なんなの!?」

「あ、その、済みません……お怪我はありませんか?」

 

 焦ったような声に気にしないでほしいと伝えるために、軽く手を振る。

 しかし、こんな光景をあの会場にいた誰かに見られでもしたら、人外の威厳とか貫禄とか、そーいったものが台無しになってしまいそうな残念極まりない姿だな……とか思いながら、潰れた鼻先を抑えていると、そっと手を差し伸べられる。

 

 できれば、通りがかりの見知らぬ誰かでありますように――そう願いながら顔を見上げると、妙に既視感のある顔が間近に寄せられていて、本当に吃驚した。




――いかさま使って勝ちました、ヒントは審判と目と主人公の職業です。

普段ならばしない行動をしている人が、一人だけいます。また、これがアディティナンダ主観の物語であるので、意図的に省かれている情報があったりする。

アディティナンダ「バレなきゃイカサマじゃないんだよ!」
シャクニ「ぐぬぬ……」
カルナ「胸張って神が宣言していいことじゃないのだが……」




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懐かしい再会

「――血、の類は流れていないようですね……良かった」

 

 そう言って柔和に微笑む青年――というよりも、若い男と称するべきか。

 

 音楽的な抑揚と男性的な色香を孕んでいる、やや掠れた低音。

 しっとりとした色合いの切れ長の瞳に、名人が一筆引いたような柳眉。

 す、と通った鼻筋に、鞣した革のように滑らかな褐色の肌。

 顔の部位の全てが収められるべきところに収められた、端正としか称しようのない秀麗な容貌。

 

 印象的な黒々とした漆黒の瞳には、まるで鏡のようにポカンとした表情の俺の顔が映り込んでいる。

 

 ――こんなにも至近距離で顔を合わせておきながらこんなことを思うのもなんだが、どっかで見覚えのある美男子だな、と言うのが俺の抱いた感想だった。

 

 ……そう、()()()()()()()()()()()

 でも、どこでだったっけ? 何より、俺の周囲にこんなカルナにも匹敵する容姿の知り合いなんかいたっけ……?

 

 うん?

 そういえば、昔も誰かに対して同じような感想を抱いたような、そんな気が……あれれ?

 

 ――がし、と勢いよく青年、否、男性の顔を掴んで、自分の方へと引き寄せる。

 

「――んなっ!?」

 

 なにやら焦ったような声を出したようだが、構うもんか。

 どうせ、この姿も偽りの容姿にすぎないし、ロティカなんていう女はどこにも存在しないのだ、無礼を働いたと咎められても逃げてしまえば問題ない!

 

 あたふたと慌てている男性の顔面をじっくりと観察し、同時に脳裏に記録されている人物一覧表の中から該当する人物を探し当てる。

 

 そうして、数秒間見つめあった後、ようやく該当する人物の名前が脳裏に浮かび上がった。

 

「……お前、もしかして……第三王子、か?」

 

 記憶の奥底に潜り込んでいた、カルナとの因縁浅からぬ青年の姿が、目の前の若い男性のものとぴったりと一致する。

 

 でも、どうしてこんなに気がつくのに時間がかかったのだろうと考え込む。

 その瞬間――そうか、と唐突に閃いた。

 

 成長の止まっている俺や止まってしまったカルナとは違い、この子は、まだ自分の身を時の流れの中に置いていたのか……という答えがゆっくりと俺の奥底から浮き上がってきた。

 

「――ええ。お久しぶりです、と言っておきましょう。貴女の方もお元気そうで、何よりです……タパティー」

「そういや、君もパーンダヴァの子だった、な。……だったら、あの場にいても当然か……。それにしても、全然気付かなかった――君、歳をとったんだね」

 

 ――ゆっくりと掴んでいた手を離して、嘆息する。

 

 昔、少しばかり一緒に旅していた頃とは比べようにならないほど背が伸び、肩幅は広くなり、すらりとした肉付きの、完成された戦士の体つきになっている。

 声もあの時と違って、完全な声変わりを迎えたのか、より成熟した大人の色香を漂わせている。

 面影こそあるが、少しばかり幼さを残した王子と言ったあの時よりも、より戦士らしい精悍さが前面に押し出されている彼の姿は正直見慣れない。

 

「――貴女は全くと言っていいほど、私に気づきませんでしたね」

「まあ、それどころじゃなかったし。――あと、俺の記憶の中の君と今の君がさっきまで合致しなかった」

 

 やや恨みがましい声音に対して、抱いた感想を正直に告げれば、ポカンとした顔になる。

 そうすると、途端に幼い印象を受け、かつての青年の姿がより鮮明に思い起こされた。

 

「……貴女は全くお変わりないようだ。

 私も他の者たちに比べると随分とゆっくり成長したのですが、貴女はさらに変化がない」

 

 神の血を引くがゆえの、老化の遅さでしょうか……と憂いを帯びた表情を浮かべた彼に、そうだろうと思って小さく頷く。

 

 ――それにしても、こいつ前よりも背が高くなりやがって……恨めしいことこの上ない。

 その長く伸びた脚に膝カックンを仕掛けられたら、さぞかし気分がよかろうなぁ……と思っていたら、頭上で小さく吹き出された音がした。

 

「大体、十年ぶりになりますね。それにしても、不思議な気分です……こうして、姿形の変わらぬ貴女と話していると、私もまた、あの頃の旅をしていた時の感覚を思い出します」

 

 懐かしそうに目を細める青年――もう青年と呼ばれるような年頃でもないだろうが、敢えて青年と呼ぶことにする――に、相槌を打つ。

 

 お坊っちゃん育ちの王子様には、確かにあの旅の記憶は鮮烈だっただろうなぁ……。

 後にも先にも踊り子と奏楽者として王子様を鼻でこき使ったり、値切り交渉を一任したり、崖から飛び降りるように指示した無礼者なんて、そうそういないだろうし。

 

「――俺もまぁ、変な感じだ。正直、もう二度と君に会うこともなかろうと思っていたし」

「…………」

 

 ――す、と青年の漆黒の瞳が俺を睥睨する。

 

 あんまり言われて喜ぶ言葉ではなかったようで、これは言葉選びに失敗した――と反省した。

 はぁー、俺もカルナのこと言えないなぁ……、人間の心って難しいわ……。

 

「あー、えー、それにしても、今回は災難だったな」

「……ええ。まさか、実の兄の手で借金のカタとして売り飛ばされるような経験をするとは思いもよりませんでした。――これで、兄上が金輪際、博打に手を出さないようになっていただければ何よりなのですが……」

 

 ふ、と哀愁を帯びた眼差しで遠くを見つめる王子様に、こいつもこいつなりに苦労してそうだなぁ……と同情する。地位や身分、環境には恵まれているけど、カルナとは別の意味で人間関係に苦労していそうな、そんな感じがするのだが……いや、まさかぁ……?

 

 そーいや、こいつはあの王妃とは違って、あの会場にいながら、長兄の横暴には抵抗しなかったんだよな?

 まあ、国王で、しかも長兄の言葉には絶対に従うことこそ美徳である以上、理解できなくもない考えなのだが、又聞きした限りのユディシュティラ王の行状は乱心そのものであったというのに、それを止めなかったってどうしてだったんだろう……?

 

「なぁ、お前は……」

 

 ふと見上げた先に、光のない漆黒の瞳が揺れることなく俺の姿を凝視していた。

 

 ――黒々とした瞳には様々な感情が渦巻いている。

 

 その形容しがたい気迫に気押されてしまったがために、俺の言葉は口の中に消えて言った。

 

「――貴女は」

 

 そう、青年の唇がことさらゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「――()()()……()()()()()()()()()()()()()()()()()

「…………いつ、気づいた?」

 

 ぐるぐると渦を描く瞳に吸い込まれてしまいそうで、なんだか怖い。

 というか、目がそんな感じなのに、顔だけは完璧な微笑みを浮かべている時点で、その違和感に背筋がゾッとするのが否めない。

 

 複雑かつ多様的な人間の心のあり方は俺が心惹かれるものの一つだけど、こういう俺の理解できない多種多様な感情が入り混じっているのは判別がしにくいせいで、苦手なままだ。

 

「――思い起こせば、手がかりとなる物事は、あの旅の合間にもありました。

 私のことさえ名前で呼ばなかった貴女が唯一名前を呼んだ相手、婿選の会場で飛んできた腕輪、それを躊躇いもなく手にしたあの男の挙動――……ああ、ですが。

 そのことに確信を抱けたのが、あの旅が終わって十年も経った今夜で、本当に良かったと思います」

 

 ――ひ、ひぇえええ……!

 なんかわかんないけど、怒っているのか? 怒っているのか、この子!?

 やだ、基本的に誰かに怒られたことないから、こういう時にどういう対処をすればいいのかわかんなくて困る……!

 

「あー、その、怒っているようだし……君も、もう俺のような輩とは話したくないよね! それじゃあ、二度と会うことはないけど、達者でな!! ――うぐぅっ!!」

「――貴女、人が話を続けたいというのに、本当に無礼ですね!!」

 

 一歩下がって、そのまま踵を返して、勢いよく走り出そうとした瞬間に――その襟首を剛力で掴まれて、首が締まった。

 

 正直に言おう――物凄く苦しいっす。

 

「――ああもう、色々と言ってやりたいことがあったというのに……! 本当に他人の都合のことを考えないお方だ! ええ、そういうところは全くもって変わっていませんね、貴女は!」

 

 頰を軽く紅潮させ、キリキリと眉と目を釣り上げている青年を、傍から見れば間抜け極まりない表情で見上げる。

 

「……どうしたのですか? そんな珍妙な顔をして」

「素直に変な顔と言ったらどうだ? ――いや、そんな感じの話し方をしてもらうと、確かに俺と一緒に旅した君だなぁ、と思っただけ」

 

 ふへへ、と声に出せば、襟首を締め上げていた力が緩む。

 背後で大きくため息をついた音、そして、ストンとわずかに浮き上がっていた体が地面へと落とされる。

 

「その……、敢えて “タパティー” と呼ばせて戴きますが――その」

「――ん? どうした、青年」

 

 もう青年と呼ばれるような年頃でもないのだろうから、そのように呼びかけたら珍妙な顔をされた。

 端から見ればさぞかし可笑しな組み合わせだろう――年端のいかない小娘が、大人と呼ばれる部類の外見の男性相手にそのような呼びかけをしているだなんて。

 

「ドラウパティーを、そして、次いでかもしれませんが……私たちを助けてくださって、ありがとうございます――貴女のお陰で救われました」

「……言ったろ。俺は俺の弟のために行動しただけであって、それ以上でもそれ以下でもない。別に君にお礼を言われるようなことなど、何一つやってない」

 

 ――くす、と青年が目元を緩ませて、苦笑する。

 あまりにも和やかなその仕草に首を傾げれば、微笑ましいと言わんばかりの表情を浮かべた青年が何かを懐かしむように目を細める。

 

「――いえ、あの時とは立場が逆になりましたね、と思ったのです。

 あの時は貴女の方が私に礼を述べられたけれど、今度は私が貴女に礼を告げている――あの時の私が気絶した貴女を燃え盛る屋敷から連れ出したのは戦士としての責務故のことでした。

 それなのに、貴女は私に対して懇切丁寧に感謝の言葉を返してくれた……あの時のことを、不思議と思い出してしまっただけですよ」

「…………そういうことも、あったな……」

 

 ――不思議な感じだ。

 もうあれから十年も経過したのか……という思いが脳裏をよぎり、しみじみとした感慨と呼ばれる感情が胸の奥底へと深沈していく。

 

「なんというか、変な感じだ」

「何がです?」

「――俺たちは何も変わっていないように思えるのに、君は随分と変わったなぁ、と思って」

 

 少しだけ、青年が泣きそうな顔をした。

 しかしながら、それも一瞬だけのこと――刷毛で色が塗り替えられるように、その顔に温和な微笑みが浮かぶ。

 

「それはそうでしょう――もう十年ですよ? 私は結婚し、妻たちとの間に子もいるのです。貴女と旅をしていた頃の私とは違っていて当然です」

「そーいや、そうだったな。――嗚呼、結婚おめでとう! それと子供も生まれていたのなら、ますますおめでとう!」

 

 子宝こそ、他のどんな金銀財宝にも勝る、未来からの贈り物である。

 心の底からの祝福を込めて寿げば、青年は温和な微笑みを浮かべて、うっすらと目を細めた。

 

 漆黒の瞳に沈み込んでいるその感情の名前はなんというのだろう――懐古に、郷愁か?

 

「――ところで、こんなところで油を売っていていいのか? 他の兄弟たちは?」

「ちゃんと、家族には断って出てきましたよ。何より、ユディシュティラ兄上も正気を取り戻しましたから、もう問題などないでしょうし……あのまま大恩ある貴女を相手に、礼の一つも述べないままでいるのはどうかと思い、すぐさま後を追いかけてきたんです」

 

 それなのに、貴女はちっとも私に気づいて下さらないから……と恨みがましく呟かれ、居心地の悪さにできるだけさりげなく視線を逸らした。

 

 ここ十年の間で気づいたことなんだけど、カルナやドゥリーヨダナのことを深く考え込んでいると声をかけられても気づかないという悪癖が俺にはあるらしい。

 そうやって内省していたら、目の前の青年の纏っている気配が変化する。

 

「……少し、お尋ねしたいことがあります」

 

 ――ぽつり、と雨粒が滴るような、そんな声が青年の口から紡がれた。



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“悪”の定義

「月下問答・上」を改稿しました。前半はほぼ同じですが、後半はだいぶ変わっています。


「――貴女とあの男が、太陽神の系譜を受け継いでいることは私にもわかりました。

 ――ですが、解せないことがあります」

 

 渡り廊下の柱に備え付けられた篝火が煌々と燃え盛り、庭園の木々が夜風に吹かれ惑う。

 そんな中で、艶を帯びた青年の低い声はよく響いた。

 

「貴女は、万物の庇護者であり、審判神でもあらせられる太陽神の眷属なのでしょう?

 それなのに、どうして貴女もあの男も、ドゥリーヨダナの味方するのです? 私には、それが理解できません」

 

 理解に苦しむ、と言わんばかりの青年の言葉に、俺の顔も自然と引き締まった。

 それまでのように、どこか気安い態度のまま受け答えしていいような問題ではない、と察したがゆえだ。

 

「幼い頃は、私にもどうしてドゥリーヨダナが災厄の子供として扱われているのか、よく分かりませんでした。

 ――ですが、今の私にならばドゥリーヨダナの行なっていること、その振る舞いが正しいことではない、と確証をもって答えることができます」

 

 涼やかな目元に険が寄り、青年の秀麗な容貌が険しくなる。

 まー、そりゃあそうだろうなぁ……。こっちはドゥリーヨダナの思惑が軽い嫌がらせでしかなかったと知っていたけど、巻き込まれた側の彼からしてみれば、今夜の出来事は溜まったもんじゃなかっただろう。

 

「今宵の賭け事での一件は勿論のこと、普段の行状――敬うべき神々を敬わず、畏怖すべきバラモンを軽視し、年長者たちの徳ある言葉に従わないことですら、法によって不道徳であると定められている行いではありませんか」

 

 ――それに、と苦渋の滲んだ表情を浮かべながら、青年はなおも言葉を紡ぐ。

 固く握り締められた掌、きつく噛み締められた唇、遠くを睨みつけているようなその眼差し。

 

「――バラモンは神々を讃え、クシャトリヤは己の武によって人々を統治し、ヴァイシャは生産業に従事する。シュードラは己以上の階級の者たちに従うことこそ美徳とされています。

 これこそが、天地の始まりより神々によって定められてきた世の秩序ともいえる世界の仕組みです――それゆえに」

 

 混乱しているのだろうか、それともただ単に惑っているだけなのだろうか?

 分からないが、それでも青年が自分の胸のうちに溜まっていた鬱屈とした感情を、この場において吐き出そうとしているのだ、ということだけは直感できた。

 

「それ故に、それぞれの階級に生まれた者たちには身分に従った責務があります。私もまた幼い頃から戦士として、王族として為すべき勤めを果たせと教えられてきました――兄弟間の約定を破った咎で十年近い追放を甘んじて受けたのも、その約定以上に、私の戦士として王族としての生き方を遵守したがゆえのことです――そして、そうすることこそ正しい道だと思ったがためです」

 

 そういえば、この王子様は彼に助けを求めるバラモンの訴えを叶えるために、兄弟五人で一人の妻を共有するという取り決めに反することになったのだっけ。

 後に、彼がどうしてそのように振る舞ったのかを知ったユディシュティラ王が弟の行状を許しても、約定に反したのは自分であるからと固辞して、粛々と取り決め通りに放浪の旅に出たんだよなぁ……。

 

「――ですが、ドゥリーヨダナは違います。彼は……あの男を重用していることからも明らかなように、神々によって定められた法や教え、階級制度を軽視している。

 そうした彼の言動は世の安寧を乱しかねないというのに……――どうして、世の安寧を護るべき貴女は、ドゥリーヨダナの行いを是としているのですか?」

 

 ――理解に苦しみます、と青年が軋んだ声を上げる。

 青年の言葉は、その疑問は、至極当然のものであった。

 ドゥリーヨダナはいい奴ではあるが、決して清廉潔白で理性的な人間ではない――世の道理に照らし合わせた場合、名君というよりも暴君と言われる要素の方が随分と多い。

 

「貴女もあの男も、ドゥリーヨダナの放埒な振る舞いを嗜めようとはしていない。

 あの男の場合は競技会の時の恩義がある故だと推測できます。――けれども、貴女は?」

 

 ――青年の漆黒の瞳に疑問が渦巻く。

 神々によって定められた摂理に従って生きてきた彼だからこそ、それに反している俺に対して抱く感情――これは、疑念とあと……怒り、か?

 

「あの場では言葉を濁しておりましたが、貴女は正真正銘の神霊でしょう? そうだというのに――何故、あのドゥリーヨダナに与する弟を嗜めることも、ドゥリーヨダナを誅殺することもなく、ただその側にいるのです?」

 

 この世界の規律を作った側の一柱である癖に、その規律を遵守しようという素振りを見せないドゥリーヨダナに対して何の反応を起こさない――そりゃあ、この真面目そうな青年が疑問に思うのも最もである。

 

「うぅん、そのことについてなのだが……深い意図も意味もない、本当に単純な話だよ。

 君にとっても何の益もないかもしれない、それでも聞くかい?」

「――……聞きましょう。問いかけたのは私ですし、他ならぬ貴女の言葉ですから」

 

 自分よりも遥かに目線が上にある青年の顔を見上げ続けるのも疲れてきたので、渡り廊下の欄干へと腰掛ける。

 そうすると、欄干の高さと座高が合わさって、ちょっとだけ背が高くなったような錯覚を覚える。その上、黒々とした漆黒の瞳が俺の視線と噛み合って、実にいい塩梅である。

 

「――ドゥリーヨダナが良識ある方々の目から見れば眉根を顰めかねない問題児であることなんて、十年前の段階で理解しているよ? ――実際、君と出会った直前の俺なんて、一度あいつの手下に殺されかけた時だったし」

 

 けろっとした顔でそう告げると、青年の顔がやや青ざめる。

 何というか、やや演技派の気配のあるドゥリーヨダナやそもそも無表情が常のカルナとは違い、よくわかりやすい子だなぁ、と思う。

 

 ――というよりも、この子の方が変に擦れておらず、彼らよりも純粋で良識的なだけか。

 

「――確かにドゥリーヨダナは神々を敬うことへ忌避感を抱いているし、バラモンたちの話を鬱陶しがって真面目に耳を傾けたり、長老たちと同じ空間にいることすら嫌がっているような問題児なんだが……。

 まあ、それはあいつの生まれ育った境遇を考えれば、その程度の歪みで済んでいること自体が奇跡のようなもんだと俺は思っている」

 

 けれども、そうしたドゥリーヨダナの振る舞い自体が、今の世において、常に天を相手に喧嘩売っているような無礼極まりない態度であることなんて、百も承知の上である。

 神々の意に背かぬよう、己を律して生きることが求められている以上、まず間違いなく、それを良しとしないドゥリーヨダナとそれを諌めないカルナや俺は “悪” なのだ。

 

「……なぁ、第三王子。君は、気づいていたか?」

「――何について、でしょうか?」

「ドゥリーヨダナの悪意が、決して社会的な意味での弱者に向けられていないということを」

 

 ドゥリーヨダナは基本的に、世間から非難されるような悪辣極まりない策を実行することに躊躇いがない。そのため、政敵であるパーンダヴァ派や王宮の長老方、バラモンたちからの評判は非常に悪い。

 

 今晩の賭博の宴なんて、ドゥリーヨダナの悪辣さを物語る、その最たる例だろう。

 実際、ドゥリーヨダナは己の受けた屈辱を晴らすために、従兄弟であるユディシュティラ王の賭博癖を利用して、パーンダヴァの財産全てを巻き上げてしまったのだから。

 

 ――だが、彼の憎しみ、あるいは悪意とでも称すべき負の感情。

 それらが、決して己よりも弱い立場の者たちへと向けられたことがない、ということに、この王子様は気づいていたのだろうか。

 

「この十年近く、ドゥリーヨダナの側にいて確信したんだけど……あいつの憎しみは、あいつの生を呪われたものへと貶めたもの――例えば、天上の神々、半神の王子、カースト最上位のバラモンへと向けられてはいるけど、ただそれだけなんだ」

「――!?」

 

 ――は、と青年が漆黒の双眸を大きく見開く。

 この純粋で生真面目な性質の青年にも思い当たる節もあったのだろう。

 実際、ドゥリーヨダナも十年前の不吉の屋敷の一件までは、直接的な恨みを抱いている第二王子以外のパーンダヴァの兄弟たちに手を出すことはなかったそうだ。

 

 まあ、その第二王子自体が尊ぶべき風神の血を引く神の子供である、という点において、ドゥリーヨダナの振る舞いは神をも恐れぬ蛮行、として位置づけられてしまうのだが。

 それにしても、パーンドゥの子供達がただ“神の子”であるという一点だけでここまで優遇されているというのに、何故うちの弟は“御者の養い子”であるという理由だけで、ああも貶められなければならないのだろうか。

 

「だからと言って、ドゥリーヨダナが君たち兄弟にしでかしたことを擁護できるわけでもないんだが……」

 

 小さく唸りながら、頭を掻く。

 十年前の不吉の屋敷での騒動も、あそこまで綿密に計画を練っておきながらも、この程度でパーンダヴァの連中は死ぬことはないのだろう、とほぼ確信していたらしいし……。

 ぶっちゃけ、あれだってドゥリーヨダナが父王から立太子してもらうために、政敵を王都より一時的に追放することの方が主な目的だったそうだしなぁ。

 

「……例えば、そうだな。自分の私欲を満たすために重税を課したり、人妻に横恋慕した挙句にその夫を殺したり、血を見たいからという理由で罪のない民を拷問にかけたり、あるいは抵抗できない弱いものを甚振ったり……。

 そういうことをドゥリーヨダナはしないし、これからもしないだろうと、俺は思ってるし、ほぼ確信すらしている」

 

 まあ、もししたとしたら、それこそ、あのカルナも黙ってはいないだろう。

 今宵のドラウパティー王妃への狼藉に対して、基本的に裏方に徹している俺が茶々を入れたのだって、突き詰めてしまえばそういう理由があったためだ。

 

 ――それはさておき、基本的に弱者へは無害なドゥリーヨダナに欠点があるとすれば。

 それは、本人が神々を憎んでおり、そうした感情を瀆神めいた態度で表している――その点に尽きるのだと思う。

 

「俺たちが十数年近くもあいつの側に居られるのは、思わず目を背けかねないような悪行を、あいつが口ではなんだかんだ言いつつも、実行しないから……っていうのがあるのかもしれない。

 そのせいでもあって、君には悪いけど、俺はあいつを君が思うように単純に悪だと断定できないんだ」

 

 腰掛けていた欄干の上で器用に両足を折り曲げて、丁度いい塩梅に両膝を抱え込む。

 胎の中の胎児の様な姿勢になった俺に、青年がやや慌てた顔をしたが、真下に落ちたりしないとわかって、安心した様に肩を落とした。

 

「俺にとって、悪、とは――そうだな……自分以外の相手、社会的・肉体的に力のない者を圧倒的な権威や暴力を頼りに、精神的・肉体的に傷つけ、その尊厳を穢し、犯し、損なうこと――かな。

 だから、少なくとも、俺にとってドゥリーヨダナは “悪” じゃない。だって、あいつはそんなことをしないから。――寧ろ、カルナのこともあって、色々と感謝している」

 

 ――廊下の欄干の上から庭を見下ろし、視線を持ち上げ、夜空に輝く一等星を見上げる。

 月の輝きに打ち負かされることなく光を放っている導きの星が、己の所在を示すかのように瞬いている。

 

「――要は、解釈の違いというやつなのだろうなぁ……。正直な話――俺はな、ドゥリーヨダナの生い立ちから、あいつが神々を敬うそぶりを示さなくても致し方ない、と思ってる」

 

 というか、当人に罪のない赤子の状態からあのような環境に置かれたのであれば、その元凶である神々なんて憎まれてしかるべきだろう、とすら思う。

 でも、生粋の神々や現人神として扱われているバラモンたちはそうは思わないんだろうなぁ……むしろ、呪われた子であるからこそ、自分たちを崇めよ! とか考えてそうだし――ううん、その一柱として否定できないのがきつい。

 

「ドゥリーヨダナがどうしてそこまで天に属する者を憎んでいるのか、その理由も知っているし、それに納得している。――だからこそ、俺は彼の憎悪は正当な物だと思う」

 

 脳裏に、星々が煌めく夜空のような眼差しを持つ、一人の男の姿が過ぎる。

 多分、あの弁の立つ男であれば、この悩める青年の言葉なんて、たちどころに霧散させてしまうのだろうし、ドゥリーヨダナの憎悪に関して理路整然と正論をふっかけて叩き潰してくるに違いないが。

 

「わかるけどわからない、という顔をしているね」

「…………はい」

 

 ――素直に頷いた青年に、苦笑する。

 実に腹立たしいが、あの神もどきや彼の父神がこの青年をあそこまで寵愛する理由がなんとなく理解できる。良くも悪くも、この青年は純粋なのだろう――全くもって、純粋な行為の代行者(アルジュナ)、とはよく名づけられたものだ。

 

「――私にとって、神々は畏れ、崇め、敬うもの。

 そして、神々によって定められた法や制度、秩序は守られて然るべきもの――それを損ない、揺るがすような振る舞いをするドゥリーヨダナの主張は、到底受け入れられるものではありません。ドゥリーヨダナを擁護する貴女とカルナの言葉もそうです」

 

 自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ青年に、胸中で苦笑する。

 本当に、いい子だ。自分の言葉の方が、世間の道理やこれまでの教育に基づいて正しいということをわかっているのに、俺の言葉を真剣に吟味し、ドゥリーヨダナの心境を思いやって、心を揺らしている。

 

「個人の信条よりも、優先されるべきものがあると――私は教わってきました。その言葉を胸に、これまでの私は、半神の子供として、クルの王子として、為すべきことを為し、果たすべきことを果たし続けてまいりました。

 それが私です、それが――“アルジュナ”なのです」

「――ふうん?」

 

 人々の哀願や依頼、嘆き・助けに応じて、救いの手を差し伸べる慈悲深き王子。

 神々の難題にその全霊で立ち向かい、無数の悪鬼羅刹を討ち果たす知勇兼備の勇者。

 それが、人々の愛するパーンダヴァの第三王子――()()()()()であると言っていい。

 

 ――神に愛され、師に愛され、民に、国に、妻に、兄弟に、家族に愛される。

 本人の性格も、非常に篤信深く、王に忠実で、誠実かつ謙虚で、非の打ち所がない。

 

 簡潔に言い表すのであれば、あらゆる美徳を備えた、世に比類なき無双の英雄である、といったところか。

 

 昔、ドゥリーヨダナが「設定盛りすぎだろ」と毒づいていたが、こうやって羅列してみると完璧すぎるのが却って嫌味……というあの捻くれ者の意見には同意せざるを得ない。

 

「まあ、大義には全てが優先されるべき……という君の意見は理解できるよ? 曲がりなりにも、この俺も神霊の一柱。君の信じる法や道徳を与えた側の存在ですからね。でもなぁ……」

 

 うーん、なんと言えばいいのだろう。

 法や道徳は確かに人の世に必要なものだ。これがなかったら、そしてそれを当然護るべきだとする人の世の風潮がなかったら、人の欲望が解放されてしまった世界はあっという間に世紀末まっしぐらだ。

 

「――でも、俺は随分と長い間、人の間で過ごしてきて思い当たったことがある。時には、正しすぎることもまた、人の心を傷つけ、その尊厳を犯しかねない毒薬になるってことを。

 ――そしてなにより、頭では理解できても、心が理解できないことも世の中にはあるんだってことも理解できるようになった」

 

 心、と繰り返す青年に小さく頷く。

 

 それにしても、ひどい皮肉だなぁ……。単なる太陽神(スーリヤ)の操り人形に過ぎなかったこの俺が心を語るだなんて、あまりにも滑稽だ。

 とは言え、世の安寧のために存在しているはずの法や階級制度によって人々の心が蹂躙され、目には見えないところで軋んだ歪みの音色を奏でているのも確か。

 

 そのせいで、赤子の時分から貶され続けてきたドゥリーヨダナ、その実力を正しく認められないカルナ、捨て子を拾い上げて育て上げた御者夫婦の慈悲深さとて、神々の意向や身分制度、という壁の前では正当に評価されることはない。

 

 それに、今晩の賭博大会でのドラウパティー王妃の一件もそうだ。

 本来ならば、法の庇護にあるはずだった女性である彼女が、何故大勢の酔漢たちの前で晒し者にされたのか。

 その原因の一端はドゥリーヨダナの悪意が関係しているけど、でも、それ以上に――

 

「そもそも、カルナの一件もそうだけど――嗚呼、そうか」

 

 ストン、とその発想は自分の胸の中に収まった。

 




<考察という名の感想>

ドゥリーヨダナは非常に複雑な性格をしていて、原典随一の悪役ではあるのですが、カルナさんの一件での弁護といい、パーンダヴァ一家以外への対応といい、根っこの方はこいつ善人なんじゃないか……と思わずにはいられないキャラクターです。正直、この人が嫌味な性格と執念深さを発揮するのって、パーンダヴァ一家(特にビーマ)相手の時だけなんですよね。

王宮の長老がたがドゥリーヨダナを擁護する父王相手に「こんな不吉な王子は生まれた時に殺すべきだって、言ったろ!(意訳)」と非難した時も基本はスルーなのですが、パーンダヴァが相手の時だけはどうも歯止めがきかないらしく、原典随一の悪役と言われるだけのことをやってしまう人です。

とはいえ、悪役っていうくらいだから、なんか国民相手にひどいことでもやってんのかね? と思って原典を読み進めても、特にそういう表記もなく、彼に非難されるべき点は出生のことを除けばそれこそカースト制度を軽んじているところくらいなんです。(後は言わずもがな、パーンダヴァへの嫌がらせ、ちなみに殺意100%)

パーンダヴァからしてみれば、自分たちのことを殺そうとしてくる時点で「悪」なのは間違いなんですけどね。


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導き出された答え

あと、一話か二話でこの章を終わらせたいと思います。

(*誤字報告、ご感想の数々、本当に励みになります。皆様のコメントもまた創作活動を続ける上での原動力となっております*)


「――――改良、あるいは改善の余地があるんじゃね?」

「え?」

 

 きょとんとする青年に、それだよ! と弾んだ声が出る。

 ドゥリーヨダナへ植えつけられた人々の偏見に基づく非難の声、身分の壁を超えて大抜擢されたカルナへの妬みや嫌悪、やっかみといった負の感情。

 それらを一掃することへは繋がらないけど、でも、将来的には、だいぶマシな状態にまで持ち込むことはできるんじゃないか?

 

「だって、人の心は変化する。人の価値観は変動する。

 人の願いや祈りの形が千差万別ならば、救済の方法だって一元化できるはずがない! なんで、こんな簡単なことに気づかなかったんだろう!!」

 

 座り込んでいた姿勢を崩して、そのまま欄干の上に立ち上がる。

 胸につっかえていた重石から解放された爽快感に、自然と俺の動きも軽やかなものになる。 湧き上がってくる高揚感に合わせて、足を動かせば、傍目には欄干の上で踊っているようにも見えることだろう。

 

 世の絶対者として君臨する神々による御業は、この際脇に置いておくとして。

 人の世に蔓延る不平等や法や道義に基づく悪意であれば、そもそもの仕組み自体を改善すればいいんじゃないか?

 

「法や正義は生きている人間たちを守り、そして救うためにあるんだろ?

 それなのに、現行の法が矛盾を生み出しているのだというのなら――その気づいた歪みを、(君たち)の手によって、よりマシな方向へと変えていけばいいじゃないか!!」

「か、神々の定めた法が不完全だというのですか! それは、あまりにも暴論に過ぎます!?」

 

 目を白黒させる青年に、本当にそうか? と微笑みかける。

 欄干の上に立っているので、自分よりも遥かに高身長の青年を見下ろせるため、非常に気分がいい。 

 

「いいや、ちっとも暴論なんかじゃない! 何故って、俺たちは変わらないけど、君たちはそうじゃないからだ!

 だったら、君たちのための法だって、人間の社会やそこから生じる不都合に合わせて、より矛盾の少ないものへと変わる方がいいに決まっている!」

「そ、それは……」

「考えてもご覧よ! 法が法として機能していたら、君の奥さんだって夫の横暴に抵抗できたし、俺が手出しするまでもなく、彼女の尊厳だって守られたんじゃないか?

 だって、あの奥さんのことを、誰も正攻法で助けられなかったのは、あの賭け事自体が、妻を夫の所有物として扱うことを許している現行の法に準拠して行われた、法律上では正当な行為だったからだろう?」

 

 ――くるくると欄干の上で回る。

 嗚呼、いい気分だ、いい心地だ。長年、積もり重なってきた難題にようやく答えられた数学者の様な、絶妙かつ爽快な心境だとも!

 

「カルナのことだってそうだ! 能力のある者を育ちに限らず、その実力次第で取り立てることを合法化してしまえばいいんだ!

 社会維持の機能としてカーストは非常に有効だけど、だからと言って、生まれ落ちた身分を理由に他者の誇りや能力を貶す理由に掲げるべきではない!」

 

 ――そして、それはカルナだけに限った話ではない。

 

 表立って語られることはなくても、ドゥリーヨダナの周囲には従来の環境では十分に力を発揮することができなかった人材が一定数集まった。

 これはつまり、うちの弟以外にもカーストによる身分制度の壁にぶつかって、鬱屈した思いを抱えていた人間がいることの証明となる。

 この十年の間に、ドゥリーヨダナが内外に集めた、彼の協力者たちの姿を脳裏に思い起こして、ウンウンと頷く。

 

「嗚呼、嗚呼!! つまり、そういうことか! ()()()()()()()()()()()!! 現行の法は、カーストは、()()()()()()()()()()()()()()()()()! あれらもまた、変わるだけの余地が残されている、()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 混乱している青年の目の前にストンと腰を下ろす。

 不安定な足場から俺が落ちない様にと差し出された片手を握りしめて、この興奮を分かち合ってくれる様にと、この熱が伝わる様にと祈り、心からの親愛を込めて破顔する。

 

「この十年、ドゥリーヨダナが何をしようとしているのか分からなかったけど、少しだけその糸口が掴めた! 世界は変われるし、変えられる!

 今の秩序を維持しようとする君の言葉も正しいけど、ドゥリーヨダナがこれからやろうとしていることだって、きっと間違っていない!! 全ては解釈次第、見方次第なんだよ!」

「解釈、次第……ですか?」

「そうとも!」

 

 ドゥリーヨダナが父王の摂政という名目で続けていた、この十年の軌跡とそれによる変化を脳裏に思い起こす。

 

 カルナに嫌味を言う人が減ってきたこと――身分制度よりも当人の実力を評価する人間が増えたということ。

 父親を亡くした子供たちが飢えることなく暮らせること――それは同時に、寡婦たちが困窮することなく暮らしていけるということ。

 都の中で、失業難に苦しむ人々の数が減ってきたこと――それは、国家経営が順調であり、需要と供給が釣り合っているということ。

 

 一見したところ、些細に思えるドゥリーヨダナの施策が全て、今後の彼のなそうとしてる事業への布石として当てはまっていく。

 

「完成された存在であるがゆえに、神々は不変である。これは誰もが知る自明の理だ。――だけど、それってつまり、神々(俺たち)はこれ以上は先に進めないってことを示しているんじゃないか?

 でも、君は違う、君たちは違う! 君の中には人の血が流れている! ――その出生故に世界に縛られているところがあるにせよ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ましてや、純正の人間であるドゥリーヨダナなんて、その最たるものじゃないか!!」

 

 興奮のあまり、頰が紅潮し、握りしめる掌に力がこもる。

 嗚呼、なんで今の今まで気がつかなかったんだろう! 一度気がついてしまえば、こんなにも単純なことだったなんて!

 

「過去の失敗を次に活かすこと!! より良き未来を求めて奮起すること! それこそ、変化を体現する人間の特権だよ!

 移り変わりゆく人の世において、今ある法も秩序も、社会制度とて完璧ではない! 道徳だって、きっとまだ完全ではない! ――だからこそ!」

 

 呆然としている青年へとこれ以上ない親しみを込めて微笑みかける。

 

 嗚呼、これだから面白い! これだから人間は素晴らしい!

 カルナだけではない、ドゥリーヨダナやこの王子様との交流には、俺が思い当たらなかった新しい可能性を見出す驚きに満ちている!

 

「――だからこそ、君たちは、君は迷ったり悩んだり、考えたりすることをやめるべきではないんだ!!

 だって、それこそが当たり前だと思い込まされていた現実の難題を打破する、重大な手がかり、大きな一歩として、未来へと繋がっていくのだから!」

 

 星空を瞳に宿したあの男は、浮世に思い悩む人類を哀れみ、その苦悩から解放することを己の使命として語っていた――だが、俺はそうは思わないし、そうは思えなくなってしまった。

 

 人が悩むことは人にしかない特権だ。

 なぜなら――野の獣が思い悩むだろうか? 野の花が思い煩うだろうか? 否、彼らは自らの正当性を見つめなおしたり、社会機構について不平や不満を抱くことはないだろう。

 

 ――……それ故に。

 

 そうして、思い悩んだ結果、何かを選択することもないだろうし、より自分たちの現状をましなものにしようと行動することもないだろう。

 そうした行動は、人が人であるからこそ発生するものだ。そして、その行動の帰結こそが、未来という形で人の世を後世にまで繋げていくものなのだ。

 

「それは……それでは、貴女は……」

 

 ――――青年がポツリ、と口を開く。

 どことなく震え、どことなく覚束ないその口調。

 そこに、今の彼が抱いているすべての感情が込められているのだと理解し、口を閉ざして、そっとその先を促す。

 

「それでは貴女は、人の失敗を、間違いを、正しくない行いを認めると言うのですか?

 その行いが未来へと続くものであるからこそ、人が人であるが故の未熟さを、貴女の好ましいものであると尊ぶのですか?」

 

 ――まるで、泣いているみたいだった。

 青年の秀麗な容姿を構成する顔の筋肉は確かに笑顔を形作っている筈なのに、艶々とした漆黒の瞳は水滴を帯びた黒曜石のように潤い、見るものの胸を打つような悲痛さを帯びていた。

 

「貴女のその祝福は、その言祝ぎは、私には到底受け入れがたい。パーンダヴァの誉れたる “アルジュナ” は、人々の模範となるべくとして産み落とされた、最優の戦士です。

 その言動に迷いがあっては、その思考に躊躇いがあったままでは、人々の望むような理想の英雄を体現することなど到底かなわない。

 ましてや、私は神々の王たるインドラの息子――そんなアルジュナが、只人のように思い悩むことは、我が父の御威光を損ないかねません」

 

 そう言って柔和に微笑む青年が、そっと俺の両手の檻の中から自分の手を抜き出そうとする――のを、がしり、と勢いよく握りしめた。

 

「どうしてそんな勿体無いこと言うの!」

「は!? も、勿体無い!?」

「そうだよ、君の言っていることって、すっごくすっごく勿体無い! ――だって、そうじゃないか!」

 

 あわわ、と擬音がつけられそうなほど狼狽する青年に勢いよく詰め寄って、思っていることすべてをまくしたてる勢いで口を回す。

 

「君にはその形のいい頭があって、自分の意見を告げることのできる口があって、思い悩むことを許された心がある!!

 そうでありながら、物事に対して悩んだり、迷ったりすることが許されないと、よりにもよってこの俺の前で愚痴るとは、なんて許しがたい! 傲慢だ!!」

「そ、そんなことを仰りますが、横暴です! 第一、貴女に心がないなんて、到底思えませんよ……!」

 

 ――心、と青年が困ったように口にするので、唇を曲げる。

 

 この青年はちっとも分かっていない。

 君が当然のように押し殺したその目に見えない心とやらを俺が構築し、獲得に至るまでに、いったいどれほどの月日を必要としたのだと思っていやがるんだ――畜生、これだから人間は羨ましい。

 

「……本来、スーリヤの人形でしかないこの俺が、心なんて人間的なもの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――それ、は……」

「……今のこの俺だって、本物じゃない。君が触れているこの肉の器だって、仮初の代物だ。

 この意識だって、意識の奥底で眠っている本性が一度目覚めれば塵でも捨てるように投じられてしまうような、そんな脆弱なものでしかない――それなのに、君はそんな贅沢なことを言うのか」

 

 申し訳ありません……と青年の喉から絞り出されるような、そんな謝罪。

 それにそっと首を振ると、大きく溜息をついて、握りしめたままの青年の手に力を込めた。

 

「――とはいえ、さっきの俺の意見だって、正しい答えなのかどうかなんて、わからないよ。

 ドゥリーヨダナがこれからやろうとしていることの手がかりなのかもしれないけど、そうではないかもしれない。

 ――結局のところ、俺の推測でしかないし、神霊()の答えだから絶対善(正しい)、と言うわけでもないんだ」

「タパティー、貴女という方は……」

 

 困ったような青年に気にしていないよ、と微笑みかけて、ずっと握りしめていた手を離して、そっと青年から距離をとった。。

 

 あーあ、それにしても、このことも随分と奇妙奇天烈極まりない間柄だ。

 カルナのような弟でも、ドゥリーヨダナのような共犯者めいた関係すら構築していない、十数年前にちょっとだけ旅しただけの、蜘蛛の糸のように細い関係性だったっていうのに。

 

「だからこそ……この先、君だけじゃなくて、人間がどう生きるのかは、当事者である君たち自身が定めるものであるべきなんだ。それは、君だってそうだよ。

 ――君が従来の法や伝統に基づいて、その正しさを体現するために行動するのであれば、それはそれでいい。それだって、決して間違いなんかじゃない。

 ――人々の規範となって生きるのも、それが君が心から望むものであるというなら、それでいい。君のその振る舞いによって人々の心は救われるだろうから」

 

 だけど、と一息ついて続ける。

 

「だけど、それとこれは別だ。だからこそ、君は悩んだり、迷ったり、自分の頭と心で考えたりすることを止めるべきではない、と俺は思うよ」

 

 誰もが羨まざるを得ないだけの地位や名声、富や栄光に満たされながらも、どうしてだか、ちっとも楽しそうではない王子様。

 本当に、人の世とは儘ならないものだ――と、空を仰いで、深呼吸する。

 

「悩みなさい、惑いなさい、踠き続けなさい。――そして何より、考え続けなさい。

 頭を空っぽにして、ただ周りの声にだけ応じて、機械のように、人形のように、他者に望まれるがままに振る舞うことだけはしてはいけないよ? ――だって、()()()()()()()()()()()

 

 がんじがらめに縛られて、がんじがらめに囚われて、まるで水槽の中の魚みたいだ。

 いや、魚というよりも、誤って鳥籠の中に閉じ込められてしまった猛禽類、といったところかもしれない。

 

 ――あるいは、愛情という名目の水を与えられ続けたせいで、根腐れしかけている若木かな?

 

「俺は、肉体の死よりも、心の死の方がずっともっと恐ろしいと思う。かつて、心のない自動人形だったからこそ、なおさらそう思う。

 ――まあ、気分は楽だよ? 何も自分の頭で考える必要がないっているのは」

 

 ただただ使命を与えられ、機械のように、見も知れぬ末の息子を探し求めて地上を放浪していた、灰色の日々を思い出す。

 あれは、俺が人間ではなかったから特に苦痛を感じることではなかったのだと思うが、今となっては同じことをしろと命じられたら耐え難い苦痛であると思わずにはいられない。

 

「だけど、あんな状態には、心を持っている人間がなるべきではない。

 何故なら、心を殺してしまうと、ちょっとずつ君を構成する大事なものが削れて、砕かれていって……終いには他者の求めに応じながら、惰性で生きているだけの肉人形に成り果ててしまいかねないから。――それだけは、だめだ」

 

 この子に比べると、自分で何かを決めるだけの心の強さと決意を有しているカルナの方が、ひどく軽やかに日々を過ごしているように思えてくるから不思議だ。

 社会制度や階級の壁、人々の偏見に苛まれているのはカルナの方だというのに、どうしてかな?

 

「だって、君はせっかく人の子として生きているのだから、その特権を存分に使い果たすべきだ。

 悩んであがいて、踠き苦しんでも、それでも前に進もうとする。否、そうすることによって未来へと進むことができる。

 ――それこそ、この地上において、人間だけが持つ可能性だと俺は信じる。それなのに、君ときたら、自分からその権利を手放そうとしているんだ。それを勿体ないと言わずして、なんという」

 

 伝わりますように、と祈るように、願うように、考えつく限りの優しい言葉を綴る。

 ただ他者に支持されるがままに、自分の心や嫌だという思う気持ちを押し殺しながら生きるのは、そこに彼の心が伴わない限り、苦痛にしかなり得ないと思うから。

 

「人々に望まれるままに、偉業を達成することだけが目的の自動人形となった君の姿は、確かに人々に受け入れられる理想の英雄足り得るのかもしれない。

 ――だけど、それは他の人が思い描く “アルジュナ王子” であって、今、俺の前にいて、会話してくれている()ではない」

 

 それまで人形のように柔和な微笑みを刻んでいた青年の秀麗な容貌がクシャりと歪む。

 は、とこらえきれないとばかりに引きつった吐息が空気に混ざり、湧き上がってくる激情を抑え込むかのように、白い手袋で覆われた手のひらが彼の口元を覆い隠す。

 

「だからこそ、君は思い悩むことを間違っていると思って、恐れたりする必要はないよ。

 ――だって、それこそが、君は非人間(カミサマ)などではなく、未知の可能性に溢れた人間であるという証なのだから」

「――……っ、あ、ああ……!」

 

 ――ふるり、と握り締めていた手が大きく震え、感極まった嗚咽のような声が青年の喉からこぼれ落ちた。




<平行線同士の主張>

クリシュナ「人間の迷いや悩みは苦痛及び苦悩の元。であれば、彼らは一刻も早くその苦しみから救われるべき」
アディティナンダ「人間の迷いや悩みは、人を人たらしめる重要な要素。彼らがその苦しみに苛まれるからこそ、より良き人の世の未来は創りだされていく――であれば、それは祝福だ」



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不穏な未来予測

お待たせしました! ちょっと投稿前に何度かトラブりましたけど、この路線で行こうと思います。

(*原典である『マハーバーラタ』でも、賭け事騒動は大きな転換点になり、その後のクルクシェートラを引き起こす原因となりましたが、なぜここまで大きな問題に発展したのだろうか?という理由を独自解釈としてこの話で語っております*)


 

 ――さて、カルナのところにでも戻るか。

 

 青年が肩を大きく震わせ、喉から引きつった声を漏らしている情景。

 それを凝視し続けるのもどうかと思ってしまったので、今後の行動をその様に結論づけた。

 

「――っ、あ、ああ……」

 

 意識的に青年の姿から目を逸らして、顳顬を指で掻きながら、気を紛らわせる。

 

 ……いやあ、わりかし、さっきの発見が衝撃過ぎてしまったので、青年の都合のことなんざ御構い無しに、好き勝手語らせてもらったけど、これで良かったんかね?

 

 現行の社会制度や法が、人間社会の維持やその尊厳の保護のために健全に機能していないだなんて、天の方々が耳にでもしたらどうなることやら。

 

 語り終えた後でそんなことを思ったが、特に反応がない。

 だとすれば、他の気になる光景でも見ていたのかもしれない……そうだなぁ。例えば、賭博騒動の顛末、とかか?

 

 ――賭博騒動の顛末、か。

 そーいや、あの時はドゥリーヨダナがなんとかしてくれるだろうと思ったから、特に顛末を見届けずにあの場を立ち去ったけど、それで良かったのかなぁ……?

 

 ――ふむ、と顎先に指先を押し当てる。

 よく考えたら、俺という神霊が引っ掻き回したお陰で賭博問題がどうなるのか、という点を全く考慮していなかったが――はて、どうなるのだろう?

 

「…………っく、っは、は……ぁ!」

 

 青年が引きつった笑い声を上げているが、それを黙殺して、思考を進める。

 まず、今回の賭け事騒動で巻き上げられた賞品・景品の類は、ドゥリーヨダナからユディシュティラへと返されることになるだろう。

 

 俺自身としては、特にパーンダヴァ一家へ味方したつもりはない。

 ――だが、神であるというその一点だけで、対外的には神々の寵愛深い一家を危機から救うために天より現れた神々の一柱……という扱いを受けることだろう。

 であれば、親パーンダヴァの一派もドゥリーヨダナの悪行への神々の懲戒であると主張して、ユディシュティラより獲得した王国の宝物を返す様に迫ることは、まず間違いない。

 

 ――面倒だなぁ……。

 俺はあくまでカルナの兄兼ドゥリーヨダナの味方であって、パーンダヴァの連中がどうなろうと個人的にはなんの関心もないのだが……。

 

 とはいえ、その本心を、篤信深い方々が実直に受け止めるとは思えない。

 

 ――だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんだから。

 

 ……まあ、こればかりはもうどうしようもない程度には自明の理扱いされているからなぁ……。

 変わり種は俺やカルナの方だし……致し方あるまいよ。

 

 それは兎も角、最も考えられるの可能性は、賭け事自体がなかったこととして扱われてしまうこと。

 双方に禍根を残しつつも、どちらにも非がある状態なのだから、痛み分けということにするのが一番だろう――そう、結論づけて……。

 

 ――()()()

 

 ――ふ、と思い当たった事実に、冷や汗がぶわり、と吹き出す。

 考えてみれば、そもそも、神の子であるパーンダヴァ側の失態が、人々に受け入れられるのか?

 

 ……昔、ドゥリーヨダナが、ちょっとした世間話の拍子に語ったことがある。

 幼い頃、自身の力を理解していなかった従兄弟のビーマに彼の兄弟たちが甚振られた際に、周りの大人たちは誰一人としてそれを重要なことだと受け止めてくれなかったのだと。

 

 どれだけ兄弟たちの体に青痣がつけられようと、どれほど兄弟たちが傷を負おうと。

 

 ――誰一人として、子供のビーマを制止する者がいなかったのだと、皮肉げに話していた。

 

 何故なら、敬うべき神の子には、()()()()()()()()()()()

 そもそも、神とは放埒なモノ・人には及ばぬ力を自由自在に扱うモノ、その怒りを買ったりしないように敬わなくてはいけない存在。

 ――例え、その血を半分だけしか受け継いでいないとしても、その常識は当たり前のように適用されてしまう。

 

 ――だとすれば。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――ゾッとした。

 それがありえない、と言い切れない自分自身の本性(神霊という存在)に正直、吐き気すら覚える。

 

 ましてや、ドラウパティー王妃に対するカウラヴァ側の暴虐の件がある。

 尊ぶべき王族の姫であり、世に名高い王妃の誇りを踏みにじったあの出来事は、許されざる悪逆として、人々に受け止められることだろう。

 

 それが、ドゥリーヨダナの意図したところではなかった――などという言い訳は黙殺される。

 

 ――ドゥリーヨダナが賭け事大会を開いたこと。

 ――ユディシュティラ王が賭け事に熱中するあまり、財産を失ってしまったこと。

 ――ドラウパティーへの理不尽を止める者が誰一人として現れなかったこと。

 

 何より、ドゥリーヨダナの腹心であるカルナが、パーンダヴァに対して、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……恐ろしいほど、恐ろしいまでに。

 これまでの出来事が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を覚える。

 

「……嗚呼、どうしよう」

 

 主観的な意見(アディティナンダ)ではなく、客観的な観点から、今回の出来事を捉え直す。

 そうして、導き出された答えに――思わず、口元を押さえた。

 

 ――不味い、不味い、不味い!!

 

 怖気がする、吐き気がする、冷や汗が吹き出る。

 かつて、ドゥリーヨダナが俺に向かって、あまりにも物事がうまく進みすぎていることへの忌避感・嫌悪感と共にその気持ち悪さを語ってくれたが、その感覚を――ようやく体感できた。

 

 このままでは、確実に――()()()()()()()()()()()

 

 それは、予想や想像などではなく――確信であった。

 

 パーンダヴァの兄弟たちが長兄の乱心によって奴隷の身分に落とされたのは、それを止めなかったこともあって、彼らの自業自得として扱われるだろう……けれども。

 尊ばれる身分のご婦人を、戦士に庇護されるべきか弱き女性を――酔漢どもの前に引きずり出して、大勢の男たちの目の前で嬲り者として扱ったという事実は、確実にドゥリーヨダナの正当性を薄弱なものとし、パーンダヴァの大義名分となり得る。

 

 彼女の夫たちは、自分たちが彼女の名誉が汚された時に助けに入らなかったという屈辱を濯がなければならない――そして、その目的は、その名誉を汚した者たちを屈服させ、討ち亡ぼすことによって果たされるのだ。

 

 何故なら、彼らは誉れ高き王族の戦士(クシャトリヤ)

 絶大なる力を誇示する神の血を引き、安寧秩序を人の世に敷くために、天より齎された神々の化身(パーンダヴァ)であるからだ。

 

 その雪辱を果たさないということは、このまま泣き寝入りすることは、彼ら自身への侮りを招くことになる――嗚呼、なんということ!

 

 ――ましてや、ユディシュティラ王は、王の中の王。

 本当に最近、皇位即位式(ラージャスーヤ)を大体的に喧伝し、世に聖王ユディシュティラあり、とまで讃えられたばかりの、法神(ダルマ)の血を引く者。

 

 事情を知る俺からしてみれば、本人の自業自得であるから自省で済ませろよ! なのだが、皇位即位式まで執り行った王が、自らの執政と栄光に泥を塗るような大失態をそのままにしておくことは、めぐりめぐって、周辺諸国からの侮りを受ける大きな理由となる。

 王は讃えられ、恐れられるべき存在であって、決して侮られてはいけない存在なのだ――だとすれば、なおのこと。

 

 ――今回の一件が原因で、ドゥリーヨダナは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 目の前が文字通り、真っ暗になりそうだった――そんな矢先。

 

「…………タパティー、貴女は」

「――あ」

 

 ……そっと、気遣うように声をかけられる。

 その途端、自分が王宮の渡り廊下に立っていること、目の前には純白の衣装をまとった青年が佇んでいる、という現状を、認識した。

 

 純白の名を冠する――パーンダヴァ一派の最大戦力である、()()()()()()()が目の前にいる事実を、()()()()()()()

 

 ――その瞬間、あることを思いついた。

 

 この青年が、なんらかの理由で戦士としては致命的な体になったら、あるいは、兄弟から離反したら……。

 

 ――……それって、確実にドゥリーヨダナとカルナが有利になるのではないか?

 

「――――っ!」

 

 それは、とんでもない誘惑だった。

 目の前にいる青年を凝視する――しなやかな筋肉に覆われた肉体、無駄の削ぎ落とされた洗練された佇まい――……そして何より、青年の放っている柔らかな空気を察知する。

 先ほどまで気にも留めなかった、青年の姿を再認識して、気づいてしまった。

 

 彼が、俺の前で、無防備に立ちすくしている――のだと。

 

 思考が巡る、試算が重なる、未来を計測する。

 無数にある選択肢によって齎される結果を考察し、考慮していく――そうして、正答を紡ぎ上げていく。

 

 この青年が、俺に対してなんらかの感情を抱いているのは、まず間違いない。

 でなければ、たった十数年前に短い時間を過ごしただけの相手に、お礼を語るなどという名目で、わざわざ話しかけには来ないだろう。

 

 なんせ、彼は、誰からも愛され、誰からも求められている立場にいる青年だ。

 優しくされること、愛されること、求められること、乞われることには慣れている――そして、それが当然だという傲慢ささえ感じられる、そんな彼が。

 

 神々から、寵愛の証として、施されることなど、助けられることなど、至極当然として受け止められる立場にいる――その彼が。

 

 敵対しているカルナの肉親と知っておきながら、あの場から直ぐに立ち去っていった神霊(タパティー)を追いかけて――感謝の言葉を述べるという名目で、呼び止めるような真似までしでかした。

 

 この俺と青年を比較した場合、力も、経験も、技ですら及びつかない――けれども。

 

 ……けれども、人を殺す時にそんなものは必要ない。

 

 ――だって、人間なんて、殺そうと思っていなくても殺せてしまうような――()()()()()()()()()

 

 ――その気になれば、俺の囁き一つで、青年の精神を崩壊させてしまえるのだ。

 

 あるいは、そっとその胸元に寄り添う振りをして、全身を火達磨にしてやってもいい。

 何たって、俺の扱う炎は、神でさえ耐えきれぬとばかりに遠巻きに見つめるしかなかった、天上の劫火なのだ。

 カルナの黄金の鎧に匹敵する、堅牢な守りの術を持たぬ、半神風情が防げるようなものではない。

 

 ……この青年の精神を殺すのか、肉体を殺すのか。

 

 どちらの手段も、俺ならば。

 今の俺の姿(タパティー)ならば、彼に警戒されていない、“タパティー”という名の架空の女(アディティナンダ)であれば、成し遂げられる。

 

 この青年のことは、別に嫌いでも、憎んでいる訳でもない。

 カルナが尊ぶ人間の一人、ドゥリーヨダナと同じ好意を抱くべき人類の、その一員でしかない。

 等しく等価値で、等しく無意味な人間という群体の中の個体――たまたま、インドラの息子という役割が与えられているだけの人間の一人。

 

 ――であれば、別に。

 俺の守りたいもの(カルナとドゥリーヨダナ)を守るためになら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 憂いを孕んだ表情を浮かべ、気遣わしげにこちらを見つめている青年へと、そっと手を伸ばす。

 一瞬だけ、青年は驚いたような顔をしたが、取り立てて咎めることなく、ゆるく瞼を伏せつつ、伸ばされてくる俺の手を唯々諾々と受け入れた。

 

 ――この子は、一体何を考えているのだろう?

 

 鞣した革のように滑らかな手触りの褐色の肌に手のひらを押し当てながら、そんなことを思う。

 

 ――そんなに、俺のことを信じ切ってしまって、いいのかなぁ?

 今、君のほっぺたに手を当てているのは、人間の女の皮を被っているだけの人でなしなんだぞ?

 

 か弱い体に、華奢な外見をしているだけで、その気になれば、人間の首なんて一撃でねじ切れるだけの身体能力を持っている。

 君の形のいい耳朶に囁きかけるだけで、君の強靭とは言い難い精神を、思うがままに操れるだけの残酷さと無情な精神性をもっている。

 俺の中にある天秤を少し傾けるだけで、君の全身を一瞬のうちに灰に変えてしまうだけの神威を、このひ弱な身のうちに隠し持っていたりもするんだよ?

 

 俺なんかよりも、戦士としての技量に優れ、カルナにも匹敵する戦闘能力を誇っているのに。

 その気になれば、俺よりも先に、俺を殺してしまえるだけの力を持っているくせに。

 

 ――どうしてこの子は、(ワタシ)に対して、こんなにも無抵抗なままなのでしょう?

 

「――雷神(インドラ)の息子にして天の代弁者(アヴァターラ)の寵児。……アナタに、尋ねたいことがあります」

 

 だからこそ、ワタシは彼の言葉を尋ねてみたいと、彼の真意を聞き遂げたいと気まぐれを起こしました。

 

 ……できるだけ優しく、できるだけ傷つけないように。

 繊細な青年を気づつけることがないようにと、万全の注意を払いながら、(ワタシ)は彼に問いかけてみます。

 

「――……アナタは、私の大事な×××を、×してしまうのでしょうか?」




――要は、面子の問題なのよね。

(*話を書いていて思ったのは、やっぱり主人公であるアディティナンダは、人間のふりはできても人間のようには成りきれないなぁ、ということでした。
 結局のところ、アディティナンダは人にも成れず純正の神にも戻りきれない中途半端な存在です。人間の持つ愛情の尊さは理解できても、それをうまく身の内で消化して人間性の一端として発露させることはできない。
 どれだけ誰かがアディティナンダのことを想ったとしても、そもそもの基盤がずれているままなので、その想いに対して正しい形で返すことがかなわないため、心のうちで不思議に思うしかない存在です*)
(*逆に彼の対となる存在である例のあの人は、神でもあり同時に人であるという、一見すると矛盾でしかない性質を、うまく使い分けられるます。その場の状況に合わせて、自分の心や立ち位置を置き換えることができるので、神としての側面が求められる時には神の側面を、人としての彼が求められた場合には人としての彼を見せることができるのです*)


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穢された名誉

さて、読者の皆様に質問です。
この話の最後にカルナさんがとある台詞を呟きますが、それに対する答えをぜひ当ててみてください。

(*四月から忙しくなったので、かつてのように連続して投稿することは難しいのですが、気を長くして更新を待ってもらえると嬉しいです――それでは*)


 ――走る、走る。

 瞬く間に通り過ぎていく廊下の景色、等間隔に並べられた松明の篝火。

 驚いたように目をみはる王宮の住人たちを尻目に、まるで旋風にでもなってしまったかのような速度で、俺は美麗な王宮を駆け抜ける。

 

 いくつもの廊下を走り抜け、無数にある柱の隙間を通り抜け、何度も閉ざされた窓や扉を潜り抜けて、ようやく目的の場所へと辿り着く。

 

 誰かに見られようが、構うものか。

 そう開き直って、普段は抑制している神の力の一端を解放したお陰で、瞬きの間に目的地へと到着できた。

 

 固く閉ざされたままの扉を前に、深呼吸する。

 落ち着け、と自分で自分のはやる心を自制して、やけに重々しく感じてしまう扉を、ゆっくりと押し開けた。

 

 その瞬間、内側に封じ込められていた悲鳴が室外へと響き渡った。

 

「お考え直しください、殿下! どうか、どうか、それだけはおやめになられませ!!」

 

 悲痛極まりない声で、苦悶の表情を浮かべた状態のアシュヴァッターマンが、冷酷な顔をしたドゥリーヨダナへと、すがりつくように言葉を捲し立てている。

 

 普段から自分を律し、温和であれと心がけているアシュヴァッターマン。

 そんな彼が滅多にない激しさを持ってドゥリーヨダナの意に反することを述べている時点で、只事ではなかった。

 

「――……カルナ」

「……アディティナンダ、か。随分と、戻ってくるのに時間がかかったな」

「――……ごめん。なんか、色々あって」

 

 部屋の片隅で、事態を静観していたカルナに声をかければ――少しばかり、遅参した俺のことを咎めるような物言いで返事がなされた。

 無表情ながらも、カルナのそれも常のものよりも険しい面持ちである。具体的に何について話し合いをなされていたのかは不明だが、俺の予想していることとあまり相違はなさそうだ……と心の中で呟く。

 

「結局、あの後、何が起こったの?」

「……そうだな……、お前はあの場にいなかったから、知らないのだったな」

 

 するり、とやけに荒れている室内の置物や家具の隙間を通り抜け、カルナの元へと足を運ぶ。

 ざっと俺の頭から足元までを流し見て、異常がないことを確認し終えたカルナが、淡々とした声で説明してくれた。

 

 ――曰く。

 ドラウパティーは神々のご慈悲により不名誉から救われたのだ、と王宮の長老たちは主張した。

 天の公正なる方々はこの賭博場でのドゥリーヨダナの悪行を見過ごさず、その罠に嵌められたパーンダヴァとその妻を憐れみ、そのための救いの手を差し伸べたのだと。

 

 彼らの主張と救われた当事者であるドラウパティーの涙ながらの懇願に対し、善良なドリタラーシュトラ王は彼の愛息子であるドゥリーヨダナの今回の不始末――すなわち、賭け事自体をなかったことにしようと宣言した。

 

 ユディシュティラ王の巻き上げられた財産は、全ての持ち主である王とその兄弟たちの手元へと戻された。

 当事者であるユディシュティラは我が身の不徳を恥じ入りつつも、親愛なる叔父が彼の財産を息子に命じて返却させたことへ感謝の意を示した。

 

 ――けれども、それに納得できないものたちもいた。

 例えば、それはドゥリーヨダナの大勢いる兄弟たちの一人であり、ずっと一部始終を眺めていた観客たちの中の誰かであり、ユディシュティラ王の言葉に弟であるという理由だけで従わなければならなかった第二王子であった。

 

 ……誰かが言った。

 よかった。ユディシュティラ王は己の王国と財産を手元に戻された、これで王国も安泰だ。

 

 誰かが反論した。

 けれども、妻をまで賭け金として差し出したのは、彼の王の自業自得ではないのか?

 我らの国にも身持ちの悪い者達はいるが、そんな彼らでさえ、己の妻を賭け金として差し出したりはしない。

 ユディシュティラ王は法を守るべき立場にありながら、非法(アダルマ)を犯したのだ。そんな彼を王の中の王として認めてもいいのだろうか。

 

 誰かが諭した。

 だが、神々は王妃を助けるために手を差し伸べたではないか。彼が王の中の王として相応しいお方のままだからこその、神々のご慈悲だろう。

 

 ――それはどうだろうか? と誰かが呟いた。

 結局のところ、ユディシュティラ王は自分で自分の身の破滅を招いたも同然だ。

 

 何より、最も大事な宝である兄弟や妻を、賭け金として差し出すのは如何なものか?

 そして、あの金の髪の女は果たして――本当に神々のうちの誰か、だったのだろうか?

 

 ざわめく会場に、徐々に立ち込める不穏な空気。

 それに終止符を打つように、急いで長老たちが閉幕の合図を宣言させる。

 

 ……そんな最中、誰かがぽつりとその言葉を口にした。

 

 ――結局のところ、ユディシュティラ王とその兄弟たちは、()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 その瞬間、本当に一瞬だけだが、密やかな忍び笑いが会場内に充満した。

 パーンダヴァの子供達は己の不徳を恥じ入り、双子達は顔を羞恥に染め上げた。

 そして、それを聞いた次男坊は、気分を著しく害したそうだが、それも致し方ないことだ。

 

 敵を打ち滅ぼし、民草やバラモンを始めとする、か弱きものたちを守るべき立場にある戦士階級(クシャトリヤ)

 その頂点に立つ、半神の兄弟たちが、よりにもよって――庇護するべき存在である妻・ドラウパティーに救われたのか、と蔑まれたのだ。 

 

 戦士たちは己の技量とその誇りを汚すものに対して、容赦しない。

 些細な侮りは、そのまま王国の威信を揺るがす、蟻の一穴となりうる可能性を秘めている。

 

 ――人々に讃えられる素晴らしい行いだけが、人の世を動かすことはない。

 星の趨勢を決定づけるのが神々の総意であるとするならば、人の世の歯車を回すのは人間たちの総意なのだ――決して、英雄と称えられる人間の勇敢な言動だけが人の世を動かす訳でない。

 

 人々の悪意もまた、世の歯車を動かす、大きな一助となり得ることもある――そして。

 

 ――その宣告は、開戦の合図となる鏑矢のように、朗々と謳い上げられた。

 

 

「……“大戦において、ドゥリーヨダナの腿の肉を砕かなければ、狼腹は祖霊達とは世界を共にすることはできない”だって!? おまけに、あの会場内の者全てに対しての鏖殺宣言まで? ――あの第二王子が、そこまで言い切ったのか!?」

 

 震える声でその宣言を繰り返した俺へと、カルナが静かに首肯する。

 

 ――もう、本当に冗談であってほしいと、心底思った。

 なんたることだ、と呻き声を上げて、頭を抱えてしまいたかった。誓いとして言い放たれた言葉の意味と重みを知るからこそ、その不穏な言葉の意味するところを理解して、気を失ってしまいたくなる。

 

「どうして、こんなことに……」

「そうだな。彼の王子の宣告によって火に油が注がれたのは間違いない。であれば、懸念通りの事態が引き起こされるのは必至。いかに嘆き果てたところで、一度、宣言された言葉は変わりようがない――ましてや」

 

 ――ここで、カルナが一区切り入れる。

 

 己の言葉足らずが原因で引き起こされたとも言えるこの事態に、カルナもまた後悔しているのだろう。

 ――白髪の合間から覗いている蒼氷色の瞳には、己の不始末を悔いる光が宿っている。

 

「――少人数の者たちの面前であれば口止めしてしまえばそれで済むが、あのように大衆の前で一国の王の血族ともあろうものが高らかに宣言してしまった以上、あの言葉は最早取り消すことなど不可能だ」

「……嗚呼、そうだろうな」

 

 妻の名誉を穢され、王の威光を貶めるような辱めを受けた当事者の口によって、その言葉が告げられてしまった以上、もうどうしようもない。

 頭で理解していても、それでも、胸の内に立ち込めてくるモヤモヤとした感情を完璧に抑え込むことなど、不可能だった。

 

「嗚呼、クッソ……! どうして、こうなるんだ……。こうならないように、この十年、ずっと気をつけてきたというのに……今日の時よりも酷い出来事だって、なんども乗り切れたっていうのに……どうして……!」

「アディティナンダ、落ち着け。――中身が溢れでているぞ?」

 

 ――乱れに乱れきった激情を抑え込むべく、唇を噛み締める。

 けれども、思っていた以上に俺の体は感情に素直であったせいか、背中を流れる髪の一部がゆらりと炎と化してしまっていた。

 

 ふー、と息を吐いて、精神安定を図る。

 腕輪が四つ揃っていたとしても、それが十全に機能する以前に、俺の心が荒んでしまっていたら意味がない。

 

 荒ぶる内心を察知してか、カルナが慰めるように、落ち着かせるように背中を叩いてくれたのも助かった。

 ――これで、本性の方が出てきてしまっては、とんでもない事態になるし。

 

「……ありがとう、カルナ」

「お前が、気に病むことではないだろう」

 

 そっけない物言いに、これだから、と苦笑する。

 俺たちが自分の言っている言葉の意味を理解してくれるからこそ、自然と言葉足らずになってしまっているということを、そのうち本人に指摘しておかなければ、と思う。

 

 ――だけど、今はそれどころではない。

 

「……ドゥリーヨダナ。お前は、どうするつもりなんだ?」

「――アディティナンダ! 君、一体、どこに行っていたの!? いや、そんなことはどうでもいい!」

 

 血相を変えたアシュヴァッターマンが、勢いよく振り返る。

 アシュヴァッターマンは感情が高ぶると視野狭窄に陥る癖があるのか、となんとなく思った。

 普段、平常心を保とうと自制しているのは、そうした性格を自覚しているせいかもしれない。

 

 ――そんな、どうでもいいことを思った。

 

「今は黙って、アシュヴァッターマン。――(ワタシ)は、ドゥリーヨダナに尋ねている」

 

 ヒュ、と息を飲む音がした。

 思えば、アシュヴァッターマンの前で、神としての本性の一端を垣間見せたのは、初めてなのかもしれないなぁ――と、頭の片隅でそんなことを思う。

 

 ……ゆらり、と室内に照らしている炎が奇妙に光り、輝く。

 沈黙していたドゥリーヨダナだったが、無言で自分を見つめている三対の色彩の異なる眼差しに促されるように、重い口を開いた。

 

「――戦だ、もう、それしかあるまい」

「殿下! それだけはなりませぬ!」

 

 どうでも良さげに言い放たれた言葉に対して、アシュヴァッターマンが悲鳴を上げる。

 臣下としての諫言を理解していながらも、八方塞がりの自分の状況を冷静に把握しているドゥリーヨダナからしてみれば、最早どうでもいいことなのだろう――と俺の方も冷徹に分析する。

 

「考えても見ろ。あの脳筋の鳥頭が世に並み居る王族達の前で、己の正当性と報復の正しさを訴えるために宣言したあの言葉がある以上、如何にユディシュティラがそれを避けようと尽力したところで、今日の二の舞だ」

 

 長椅子に横たわり、ドゥリーヨダナは至極真っ当な意見を口にする。

 

 本当に、何もかもがどうでもよくなった、と言わんばかりの顔をしている。

 ――それこそ、諦観とも、無心とも、どちらにも取れる顔だ。

 

「ユディシュティラは阿呆だが、決して莫迦ではない。――あいつは、戦士というより司祭にでもなった方が世のため、わたしのためになった男だが、本人がどれだけ戦を厭ったとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――であれば、そう遠くない将来――それこそ、一年以内に、戦を仕掛けてくるのは間違い無いだろう」

 

 とはいえ、とぶっきらぼうな口調で話しは続く。

 本当に、どうでも良さそうな顔をしているドゥリーヨダナに、カルナの白皙が翳る。

 

 ――常であればキラキラと輝いている黒水晶の眼差しも、淀んでしまっている。

 嗚呼、勿体ない……と小さく嘆きの声を胸中に漏らしてしまった。

 

「例え戦さになったところで、負けはしないさ。なにせ、我が軍にはお前達がいる。寄せ集めの有象無象に殺されるほど、わたしもやわではないし、長老達も父上の禄を食む身だ――パーンダヴァの連中が食ってかかろうが、特に問題ないだろう」

 

 でも、と俺は小さく囁いた。

 ドゥリーヨダナの言っていることは正論だ。決して、その分析は間違っていないし、その考えだって理論的であると言ってもいい――だけど。

 

「……それって、ただ負けないだけで――確実に勝てる戦だと言い切る根拠でもないよね?」

 

 我が意を得たり、とカルナが首肯するのが、視界の片隅に見えた。

 そう、それは決して負けない戦さであって、勝つ戦さではない――そして何より、ドゥリーヨダナとユディシュティラとの間には、決して埋められない溝がある。

 

「何が言いたいのだ、兄上殿」

「それは――」

「……簡単なことだ、ドゥリーヨダナ。――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 何を、と気色ばむドゥリーヨダナに、固唾を飲んで様子を見守っているアシュヴァッターマン。

 残酷な事実を告げようとした俺――の言葉を継いだのは、それまで押し黙っていたカルナであった。

 

「――何故なら、お前とあの男では、対等でないからだ」

 

 凄まじい勢いで、濃密な怒気が室内に充満する。

 ――……ゆらり、とドゥリーヨダナが長椅子から小刀を手にした状態で立ち上がった。




<感想という名の考察>

 女の嘆願によって男が救われる、というのは、非常に外聞の悪い出来事であったのは間違いないです。

 というのも、『マハーバーラタ』には大勢の戦士の妻たる女性達が出てきますが、上述の振る舞いをするパターンは大体、夫が自分よりも強大な存在に命を奪われた時――つまり、命乞いの場面によくある出来事であったためです。

 例として、
 ある王女は自分の夫が若くして命を落とした際に、死神に懇願してその命を返してもらいました。
 作中にもさらっと出てきている強大なガンダルヴァの王は、その妻の助命嘆願によって命拾いしました。

 つまり、よっぽどのことがない限り、強い戦士の男が女に救われるような目には陥らないのです。
 ――そう考えると、長兄の悪癖によって無一文になったパーンダヴァ兄弟は、社会的に一度殺され、ドラウパティーの嘆願によってその命が救われた事実は、半神として絶大な力を誇る彼らにとって非常に屈辱的なことだったのではないでしょうか。

 実際、植村訳『マハーバーラタ』には、次男のビーマが「パーンダヴァの兄弟は女によって救われた」と人々から揶揄された際に、非常に気分を害した――と記されています。(詳しくは、原典をどうぞ)

 しかも、長兄ユディシュティラはその直前に皇位即位式を催しております。全戦士階級の同意を得てただ一人の王を「王の中の王」として承認する、この特別すぎる儀式の直後です。

 つまり、何が言いたいかっていうと。
 従兄弟が皇帝を名乗った直後に、その治世に泥を塗るような真似をするなんて――ドゥリーヨダナさん、マジパネェ。

(*一見すると、原典の不穏な流れからかけ離れているような「もしカル」ですが、細かい差異を除けば原典の流れのままなのです*)
(*どちらも、ドラウパティーの嘆きを神<原典であればダルマ/ここではアディティナンダ>が聞き遂げ、奇跡によってドラウパティーは窮地より脱し、パーンダヴァは財産と失った戦士としての地位を取り戻す、という点において――ね? 変わっていないでしょう*)


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戦力分析

ようやく我がカルデアにカルナさんをお迎えできました! 万歳、万歳!
(でも、カルナさん在籍時のアルジュナの台詞と顔が怖くてしょうがないです。これはやばいわ……)


「――大きく出たな、カルナ。主君であるわたしに対して、そのような戯れを口にするとは」

 

 酷薄な顔になったドゥリーヨダナが、不穏に煌めく黒水晶の瞳を睥睨する。

 彼の身の内より発せられる怒気が、カルナを含む俺たち全員を圧死させんとばかりに、室内に充満し、ビリビリとした殺気が肌を刺す。

 

 ――パーンダヴァの長兄と次兄を除けば、という但し書きは必要ではあるものの、基本的にドゥリーヨダナは寛大な性質だ。

 人を怒らせやすいカルナの喋り口にも気を悪くすることはないし、率直すぎて心を抉ってくるカルナの端的な語調にも、なんだかんだで付き合える程度には度量が深い。

 

 ……その、ドゥリーヨダナが。

 恐らく、カルナと道を共にするようになって初めて、その怒りを垣間見せた。

 

 余程、腹心であるカルナの口からユディシュティラ王には及ぶまいと断言されたのが、腹立たしかったのだろう。

 普段の様に、笑顔という仮面で取り繕うこともせず、剥き出しの怒りを露わにしていた。

 

 ……手にした小刀をそっと鞘から抜き出し、抜き身の刀身をカルナの首筋に添える。

 そうして、ぞっとする程、綺麗な微笑みを浮かべて、()()()()()()()()

 

「――口を慎め、カルナ。流石のわたしにも、限度というものがある」

 

 キィン、と金属同士が触れ合って、涼しげな音色を響かせた。

 他者を威圧する酷薄な表情を浮かべたドゥリーヨダナとは対照的に、カルナの顔はどこまでも平静を保っている。

 

「あまりにもわたしの気を損なうようであれば、如何に貴様とて、その首で戯れの対価を支払ってもらうことになるぞ――さて、カルナ」

 

 にこり、と背景に花が散りそうな、そんな華麗な微笑みをドゥリーヨダナが浮かべる。

 甘やかな毒を孕んだドゥリーヨダナの声が、静まり返った室内によく響いた。

 

「言い直すのであれば、今の内だと、主君の誼で伝えておこう。――それで? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「……殺気を収めろ、ドゥリーヨダナ。お前らしくない」

 

 淡々とした口調のまま、カルナは平然と言葉を綴る。

 その喉笛に添えられた小刀が皮膚に食い込むのも物ともせず、眉根一つ動かすことのないまま、カルナは主君へと言葉を重ねる。

 

 ドゥリーヨダナがカルナを殺せる筈がない、と頭では理解していても、それでも大事な弟の身が脅かされている光景というのは、心臓に悪いものだ。

 まあ、俺には神核はあっても、心臓なんていう有機物的なものはこの身に存在しないんだけどなぁ……。

 

 俺とアシュヴァッターマンがハラハラしているのを横目に、華麗な微笑みを浮かべたままのドゥリーヨダナと酷薄な表情を形作ったままのカルナの会話は続く。

 

「何、大したことではない。――というよりも、お前が意識的にその事実を見ないふりをしている方が、オレとしては信じがたいのだが」

「簡明簡潔を心がけている貴様にしては、勿体振った物言いをするものだ。――……いいだろう。そこまで言い切るのであれば、言ってみろ」

 

 横柄に顎をしゃくったドゥリーヨダナが、カルナの首に添えていた小刀を外す。

 一筋だけ、真紅の血がカルナの幽鬼のように青ざめた肌の上を伝うが、すぐに太陽神(スーリヤ)の鎧の加護により消え失せた。

 

「――ドゥリーヨダナ。今のお前とユディシュティラ王には決定的に埋められない溝がある」

 

 くるくると手のひらの上で小刀を弄ぶドゥリーヨダナの黒水晶の双眸が不穏な色を宿す。

 他ならぬカルナであるからこそ、ここまで無礼な物言いが許されているのだろう――依然として収まらぬドゥリーヨダナの殺気を肌で感じながら、固唾を飲んでカルナの次の言葉を待つ。

 

「――……それは」

 

 ――カルナの考えていることが、俺と同じであれば、それは……きっと。

 ドゥリーヨダナにとっては、致命的な一撃になるのは間違いない。

 

 ――スゥ、とカルナが息を飲んだ音がやけに大きく響いた――そうして。

 

「――そも、ドゥリーヨダナ。()()()()()()()()()()()()()()()()()。そのような状態で互角の戦いなど、どうやってするのだ?」

「――……ぐはっ!」

 

 ――カラーーン!!

 

 透き通った金属音が大理石の床と合わさって、澄んだ音色を響かせた。

 カルナが据え切った目で言い切った言葉を聞くや否や、小刀を取り落としたドゥリーヨダナが吐血する。

 

 顔色を元に戻したアシュヴァッターマンが、やや芝居掛かった仕草で、殿下ー! と叫んだ。

 

「冷静になって考えてもみろ。ユディシュティラは王であるからこそ、広大な領土と列強を征服してのけた勇猛な兵士たちを従えることができる。……だが、お前はどうだ、ドゥリーヨダナ」

 

 胸元を抑えつつ、苦悶の表情を浮かべたドゥリーヨダナ。

 カルナの舌鋒の一つ一つに急所を抉られているのか、ビクビクと体を痙攣させている。

 

「お前は父王の摂政として、王国を切り盛りしている。この国は確かにお前の裁量によって動かされている――だが、結局のところ、それだけでしかない」

 

 言葉の一つ一つが、とんでもない破壊力を秘めている。

 床の上に崩れ落ちたドゥリーヨダナの側で、アシュヴァッターマンが顔を覆って、お労しい……と呟いた。

 

「お前がお前自身の権限だけで動かせるものといえば、このオレやそこのアシュヴァッターマン、そして、お前を慕う兄弟たちや兵士たちだけだ。如何に兵士を集わせようと、それは結局のところ、()()()()()()()()()()。周辺諸国の王族たちに挙兵を促したところで、王ですらない王子の言葉に従って、神々の子であるパーンダヴァ相手の戦にどれほどの者が真摯に受け止めて参戦してくれるだろうか」

「も、もうやめてくれ……」

 

 息も絶え絶えのドゥリーヨダナだったが、カルナの口は止まることを知らなかった。

 

 ――いやはや、驚きである。

 うちの弟って無口な方だと思っていたのだが、なんだかんで、こんなにも長い話を続けられたんだ……。

 

「……それは国外だけはなく、国内においても同様のことが言える。

 お前が先ほど名前を連ねたクルの長老たちだが、彼らはドゥリーヨダナによって養われているわけではない。彼らは、国の王であるお前の父親に養われている。――従って、彼らには、王国の摂政に過ぎないお前の言葉など、従う義務を有さないと言えるだろう――それでもまだ、互角のたたか――むぐ!」

「はい、はーい、ここまで! いい子だから、その辺にしておこうね、カルナ!」

 

 ドゥリーヨダナがついに動かなくなってしまったので、カルナの背後に回って口を押さえる。

 もごもごと手のひらの下で動く気配がするが、取り立てて反抗されることはなかった。

 

「――っく、痛いところを容赦なく指摘しおって……! 貴様ではなければ、打ち首にしてやったところだぞ、我が友……」

 

 床の上に倒れ伏していたドゥリーヨダナが、ゆっくりと立ち上がる。

 とはいえ、一切の欺瞞と虚飾を纏わないカルナの鋭すぎる指摘によって、思いの外、精神的な打撃を食らってしまったのは確かなようだった。

 

 両親譲りの黒い肌の上には冷や汗が伝っているし、浮かべている微笑みもひどく引き攣っている上に、なんだか足元もおぼつかない。

 生まれたての小鹿とか、子馬とかがちょうどあんな感じだったな……と、村に住んでいる間に目撃した、四つ足の獣の出産の光景を連想してしまった。

 

「だが、まぁ……、頭は冷えた」

 

 ふぅ、と大きな溜息を一息つくと、ドゥリーヨダナがコキリ、と首を鳴らす。

 

 それは、先ほどまでの投げやりな態度ではない。

 常日頃の彼らしい、どこか不敵ささえ感じられる佇まいにであるのを確かめて――そっと一息つく。

 

 ……嗚呼、そちらの方がずっとお前らしいよ――ドゥリーヨダナ。

 相手が神々の寵児(パーンダヴァ)であろうと、天の代弁者(アヴァターラ)であろうと、はたまた本物の神であったとしても、お前はお前のままでいてほしい――いや、そのままでいるといいよ、この地上に住まう一人の人の子として。

 

 ――ほっと胸を押さえて、小さく微笑む。

 ちらりとアシュヴァッターマンを見やれば、同じような顔をしていた――視線と視線が交わって、互いに苦笑する。

 

「全くもって腹立たしいことだがな……確かに貴様の指摘した通りだ。ビーシュマにヴィドゥラ、ドローナを養っているのは私ではなく、父上だ。癪に触るが、王子に過ぎないわたしの言葉になど、彼らが従う義理はないだろう――それこそ、わたしが父上の跡を継いで王にでもならない限り。そして、ドラウパティーの一件もある」

 

 ガシガシと髪を掻き毟りながら、ドゥリーヨダナは現在の彼の戦力を再分析する。

 確かに、カルナやアシュヴァッターマンはドゥリーヨダナ個人に忠誠を誓っている比類なき勇者たちだ――だが。

 

 神々の子供達五人が率いる大軍勢に、ドゥリーヨダナの非道を誅するという名目で長老たちがそこに加わった場合、そもそもの地力が圧倒的に不利すぎる。

 人々に尊敬される戦士であるビーシュマや様々な戦士たちの師匠であるドローナ、王弟として尊崇を集めているヴィドゥラがパーンダヴァの軍に付き従っている、という事実自体が、ドゥリーヨダナ挙兵への正当性を一層薄弱なものとしてしまうのは間違いない。

 

 そんな、明らかに敗色濃厚の戦に付き合ってくれるような物好きなんて、それこそカルナのような変わり者ぐらいだろう。

 

 だが、ドゥリーヨダナとて、何も好き好んで負ける戦などをしたがるわけがない。

 戦う以上、その戦を勝利へと導くことこそ、指揮官の役目である。

 

「――戦を、起こさせるわけにはいかんな」

「殿下、それでは……!」

「面倒をかけたな、アシュヴァッターマン。しかし――――」

 

 険しい表情を浮かべるドゥリーヨダナ。

 それもそうだろう、と胸中で同意を示す。一瞬だけ、安堵の表情を浮かべたアシュヴァッターマンも、苦痛の表情を浮かべる。

 

「父上に調停を頼むにせよ、何にせよ、今宵の一件がきっかけである以上は、それも難しいだろう」

「……だろうな」

 

 カルナが囁くような声で同意を示す。

 眉間の間の皺をぎゅっと寄せ、凛然と輝く蒼氷色の双眸を不穏に翳らせている。

 

「何せ、オレたちはパーンダヴァの戦士としての誇りに泥を塗り、その妻の名誉を汚した不届き者。仮にも戦士を名乗り、王の中の王を称している以上、直ちに拭い去りたい汚名だろう」

「端的な現状分析をどうも有難う、我が友」

 

 冷淡極まりないカルナの指摘に、うんざりとした表情を浮かべたドゥリーヨダナ。

 それにしても、実に対照的な二人である。カルナの顔が一貫して変わらないのに対し、それと対峙しているドゥリーヨダナの顔はコロコロと変わるから、見ていて楽しい。

 

「――少し、状況を整理いたしましょうか」

「ああ、頼む」

 

 微苦笑を口の端に刷いたアシュヴァッターマンが、控えめに提案する。

 それに鷹揚に頷いたドゥリーヨダナの許可を受け、武闘派バラモンの子息は耳に心地よい、韻を踏んだ声を室内に響かせた。

 

「一つ、殿下はパーンダヴァとの戦を望まれていない」

「そうだな。いずれ、相対する時があるにせよ、それは今であってはならない」

「二つ、パーンダヴァの殿下方――特に次男のビーマ様はドゥリーヨダナ様との間の戦を望んでいらっしゃる」

「ああ、だろうよ。己と己の家族、そして妻の汚名を濯がぬ限り、奴らは一生恥辱に苦しまなければならないからな」

「三つ、現状の戦力のままでは、パーンダヴァとの戦いに勝つことは極めて困難である」

「如何にカルナといえど、望まぬ死を拒絶する祝福持ちのビーシュマ、梵天の奥義(ブラフマーストラ)を習得したドローナに、奥義取得済みの優等生(アルジュナ)が率いる軍勢相手に寡兵で戦うのは難しかろう」

 

 そーいや、ドローナ師匠……未だに、カルナ相手には、梵天の奥義を教えてくれていないんだ。

 噂では、一国を滅ぼすとも、地上に夥しい惨禍を齎らすとも伝えられている、あの奥義を。

 

 ……ドローナがアルジュナ贔屓である以上、多分、これから先も習得は難しかろう。

 

 ――でも、あの技がないと、やばいよなぁ……。

 如何に黄金の鎧があったとしても、対人ならぬ対国奥義であるあの技を放たれて、カルナ以外の全員が死亡してしまったら意味がないし……。

 

 ――これは、なんとかせねばいかんな。

 

「……参った、このままでは戦は必須だな」

「強いて言うのであれば、我々よりもパーンダヴァの方が開戦を望んでいる、と言うのが難点だ」

 

 ――っち、と上品に舌打ちするドゥリーヨダナ。

 ぐるぐると密林の猛獣のように室内を徘徊する主君の姿に、カルナが小さく嘆息する。

 

「どうする、どうする? ――考えろ、ドゥリーヨダナ。このままでは、戦力不足でわたしに勝ち目はない。しかも、ドラウパティーの件がある以上、敵軍にはあの女の兄弟や父王までもが、妹と娘の懇願に応える形で参戦するだろう。

 しかも、忌々しいことに、あの化け物(クリシュナ)はドラウパティーの従兄弟だ――間諜によれば、自国に攻めてきた敵国相手に苦戦していると聞くが、それもそう長くはない」

 

 ブツブツと呟きながら、思考を進めるドゥリーヨダナの邪魔にならないように。

 三人揃って息を殺し、ドゥリーヨダナが集中しやすい環境を作る。

 

「仕掛けるなら、今しかない。あの化け物(クリシュナ)の手が届かず、パーンダヴァの連中が国に戻っていない今だけだ。どうする? 父上に和解を頼むか? ――いや、それだけでは弱い。下手すれば、長老どもが義憤に駆られて、わたしを放逐する様に請願するやもしれぬ――暗殺するか? いや、そんなことであの鳥頭を殺せるものなら、とっくの昔に殺している――では、暗殺とまではいかずとも、戦士として戦えぬ体にでもしてやるか?」

 

 物騒だなぁ……、そんでもって、悪辣極まりない。

 こりゃあ、正義感溢れる長老たちやあのアルジュナ王子がドゥリーヨダナを危険視するのもやむを得ないなぁ……。

 

「戦士として不具な体にしてやるにせよ、そのための手法はどうする……? 相手はあのパーンダヴァだぞ? 不意打ちやだまし討ちしかないよなぁ……。だが、どうやって?」

 

 ここ十年近く、パーンダヴァの連中が離れていたからこそ鳴りを潜めていたドゥリーヨダナの謀略癖に、目が半眼になっていく。

 

 こいつ、本当に悪辣だよなぁ……。

 

 ――そんな最中、楽師として鍛えられていた俺の耳が、とある足音を捉えた。

 石造りの室内にいても聞こえる様な、大きな足音だ。歩幅は大きく、重く、そして、慌ただしい――かなり、焦っているのか、それとも急いでいるのか。

 

 何にせよ、この部屋を目指して一直線に走り寄ってきている。

 気配を隠そうと言う雰囲気は全くないから、恐らく――ドゥリーヨダナの縁者、か。

 

 ――そっと、室内の隅に隠れる。

 それとほぼ同時に、扉が勢いよく押し開かれ、一人のドゥリーヨダナとよく似た面差しの青年が飛び込んできた。

 

「ドゥリーヨダナ兄上! 何故、叔父上が賭け事で手に入れた、パーンダヴァの財産を返してやったのですか!?」

「――それだっ!!」

 

 憤然と怒鳴り込んできた青年――ドゥリーヨダナのすぐ下の弟であるドゥフシャーサナ。

 彼の言葉に対して、我が意を得たり、と言わんばかりの顔で、ドゥリーヨダナが手を叩いた。

 

 あー、もしや、ドゥリーヨダナが思いついちゃった策って、ひょっとして……。

 何となく、嫌な予感にかられた俺であったが、この場は空気を読んで沈黙を続けることにしたのであった。

 

 

 ――斯くして、その翌日。

 王国の財宝を積み、至高の武器を身につけたパーンダヴァの子供達は、自らの王国への帰路を辿っていた最中に、ドリタラーシュトラ王の命令を受けて、ハースティナプラへと呼び戻される。

 

 そうして、太陽が中天に差し掛かっていたのと同じ時間。

 ユディシュティラ王は再び、骰子をその手に取った――今度は、()()()()()()()()()()()()




<感想という名の考察>

 まあ、この時点で本来であればドゥリーヨダナさんは、この時点で王にはなっていた様なのですが「もしカル」ではまだ王子様のまんまでした。

 とはいえ、原典においても、この時点ではまだドゥリーヨダナさんは完全に王国の実権を掌握していたわけではないと思います。恐らく、この時点ではまだまだドリタラーシュトラ王の権力の方が強かったのは間違いないかと。
 そんなわけで、ドゥリーヨダナ側にもこの時点に戦さを起こすわけにはいかなかった事情があったのだろうと思い、この様な理屈付けを行いました――いかがでしょう?

(*そんなわけで、二回目の賭博です。時系列は原典に合わせて、二度目の賭博を行いました*)
(*この賭博がパーンダヴァの連中の12年間の追放へと繋がるわけですが、その際も、ユディシュティラ王は自らの立てた誓いを破るわけにはいかないとこの勝負に臨んだそうですよ*)
(*……その、この時代、自らの立てた誓約を破ることはしてはならない禁忌だったそうなので、あんまユディシュティラ王を責めないでいてやってください……弁護のしようがないほど、大ポカであるのは間違いなんですけど……はい*)

 ――次回で第4章も終わると思います。それが終わったら、気晴らしにリクエスト作品でも書きたいものです……もう、ここからクルクシェートラまで一直線なので。


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王国追放

もうちょっとで第4章も終わりですね……。本当に、もうちょっとで……!

(*ようやく、伏線を回収できました。まだまだ、伏線はあるんだけどねー、それこそ主人公の正体とか!*)


 

 ――お互いの未来を賭けようじゃないか、と悪辣さを世に響かせる王子は嗤った。

 ――誓約は果たさなければならないね、と清廉さを世に轟かせる聖王は苦笑した。

 

 わたしも貴様も、王国を巻き込んでの大戦を、()()行うべきではない、と思っている。

 だが、このままでは、貴様の家臣もわたしの家来も収まるまい、と王子は甘やかな声で、不吉な未来を物語る。

 

 ……是、と聖王は首肯する。

 (わたし)も君も、国中を巻き込んでの大戦は行いたくない、と心から願っている。

 だが、このままでは、(わたし)の弟も君の弟の気持ちも収まるまい、と聖王は玲瓏たる美声を悲しみに震わせ物語る。

 

 ――であれば、一つ賭けをしよう。

 悪鬼羅刹の類が善人を悪の道へと導く時の様に、毒を孕んだ声で、王子は怪しく囁いた。

 

 賭け事、の言葉に身を固くする面々に向かって、王子は端然と微笑む。

 

 ――なぁに。そう、心配する様なことではない。

 貴様の大好きな神々に、我々の運命を委ねてみようと言うだけのこと――神々が貴様らを支持するのであれば、当然のことながら、賽の目もそれに応じたものとなるだろうよ。

 

 ……賭け事の内容は、こうだ。

 

 どちらが負けるにせよ、賭けに負けた者は十二年の間、森に住まわなければならない。

 そして、十三年目の年には、その正体を一年間の間、隠し通さなければならない。この十三年目に発見された場合、森に住む年月は更に十二年間、延長しなければならない。

 

 ただし、十三年目の年が無事に過ぎ去った場合。

 その場合は、相手の失った王国を返却しなければならない――さぁ、我が親愛なる従兄弟殿。

 

 ――賭け事を、しようじゃないか?

 世に悪名を轟かせる悪辣王子はその異名の通りに、嗜虐的な嘲笑を浮かべたのであった。

 

 

「――……やっぱり、パーンダヴァが負けたか」

「その様だな。俄かには信じがたいが……」

 

 王都・ハースティナプラの王城の城壁の上。

 黄金の鎧を身に纏い、粛然と城下を睥睨するカルナの隣で囁けば、淡々とした声の応えが返ってくる。

 

 壮麗な王宮と城下の境界に聳える、王族用の城門。

 本日三度目となる開門を迎えた城門は、嘆き悲しみ、憤激する者たちと悪意に満ちた嘲笑を浮かべる者たち――二種類の相反する感情を発する人々によって占められていた。

 

 大衆の眼差しが、向けられている先。

 質素な衣服をまとった、六人の男女の姿を認めて――嗚呼、と嘆息する。

 

 ――――()()()()()()()()()()()()()()

 

「……気味が悪くなる程、ドゥリーヨダナに都合よく物事が進んだね」

「――そうだな。些か、上手く行き過ぎて、訝しまずにはいられない程度には」

 

 打てば響く返事に、黙って頷く。

 そう、カルナの言う通りだ。あまりにも、ドゥリーヨダナの思惑通りに進み過ぎてしまった。

 

 これで、相手がパーンダヴァでさえなければ、違和感を覚えずに済んだものを。

 

「神々の寵愛深いパーンダヴァがここまで追い詰められる――その理由はなんだと思う?」

 

 彼らの全身を彩っていた黄金も宝玉も全て失い、煤と灰で全身を飾り立てた彼らは、紛れもなく追放者そのものだ。

 一度はこの世の栄華全てを手中に収めた王とその眷属たちとは思えぬほどの凋落ぶりである。

 

「心当たりが多すぎる――だが」

 

 栄光に満ちた彼らの姿を知っているだけに、その姿は哀れとしか評しようがない――ただし。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 カルナも俺と同じ様な心境らしい。

 眉間の皺を深め、険しい顔つきで眼下の愁嘆場を睨みつけている。

 

「……ドゥリーヨダナ曰く、ユディシュティラ王は、何かに迷った時に必ず神々の啓示を受け、その通りに行動する――のだと言う」

 

 蒼氷色の双眸が、長い灰銀の髪を結わずに垂らし、瞳を固く閉ざしている男へと向けられる。

 それに合わせて、俺もまた――聖王とまで称えられたユディシュティラに、視線を合わせた。

 

 都落ちの場面だと言うのに、その表情は静謐そのものである――他の兄弟たち、忿怒で顔を赤く染めている次男坊や憂いの表情を浮かべているアルジュナ王子とも、羞恥に身を震わせている双子たちとも違って、己の運命を粛々と受け止めている――様に、見える。

 

 ――諦め、とは違う。

 あれは寛恕とでも称されるべき感情を抱いた時に、人の子が浮かべる類の表情である。

 

 聖王ユディシュティラは気高く公平で、誰よりも誠実かつ篤実な人物であるとか。

 自身の法と戦士の掟に忠実であることを讃えられた男であるからこそ、ドゥリーヨダナから持ちかけられた賭博に対して退くことが出来なかった……その可能性は大いにある――だが。

 

「……アディティナンダ」

「ん? ――どうした、カルナ」

「神々が、ユディシュティラ王の振る舞いを誅さなかったのは――何故だ?」

 

 抜き身の刀身を連想させる、鋭い輝きの宿った双眸。

 それをじっと見つめ返して、そうして、できるだけ感情的な思考を排して、その疑問に答える。

 

「考えられる理由は幾つかある――けど」

 

 一拍置いて、唇を動かす。

 カルナのものと交わっていた視線を外して、眼下の繰り広げられている愛憎劇を観察する。

 

 ……本当に、人間というものは複雑極まりない生き物だ。

 嘆く者、嗤う者、泣く者、喜ぶ者、同じ人間という群体の中に定義づけられておきながらも、その反応は千差万別であり、美しさと醜さがここまで密接している個体は他にはいない。

 

「今回の一件で、確実にドゥリーヨダナとパーンダヴァの間にあった奇妙な均衡が崩れた」

 

 ――まるで、光と陰の様だ。

 一見すると相反する感情を抱えて、人間とは営みを続けているのかもしれない。そんな考えが、ふと脳裏をよぎっていった。

 

 親しい人々に別れを告げ、敵対者には報復を予告し、そうして神々の子らは立ち去っていく。

 長兄であるユディシュティラ王を先頭に、年齢順に並んだ兄弟たちは、彼らの妻を守る様に列をなして静粛に歩みを進める。

 

 母親であるクンティーがその場に堪えきれぬと言わんばかりに、その場に崩れ落ち、叔父にあたるヴィドゥラがその背を支える。

 王妃であったドラウパティーが彼女の肢体を包む粗布で涙を拭い、彼女の侍女たちが嘆き聲を天にまで響かせた。

 

「――十二年後に、確実に戦が起こる。それも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして、それは――と一息入れる。

 じっとりと手のひらが汗で濡れ、気分を落ち着かせようと深呼吸を一度だけ行った。

 

「――それこそが、神々の最も望むことだろう。何せ、人間たちは増えすぎた」

「……大地の女神、か」

 

 ユディシュティラ王もドゥリーヨダナも、為政者として優秀すぎたのだ。

 優秀な為政者の庇護のもと、文明が栄え、街々が発展し、人々の総数が増えていく。その結果、生半可な魔獣や災害では、大幅に人口を削ることが不可能になった。

 

「大地の女神は、過剰な人口によって悲鳴をあげている。このままでは、人々の住まう大地が崩壊する。

 その声が天界のインドラの元に届いたからこそ、神々の子らは人の世へと送られたのだ――そう考えれば、何もかも、辻褄が合う」

 

 そして、そのための敵対者に選ばれたのがドゥリーヨダナだった―その言葉は、そっと胸に秘めておく。

 これは、ドゥリーヨダナはカルナには知られたくないことだと思っているから、何も言わないでおこう。

 

 薄暗い天幕の中。

 ドゥリーヨダナが、その胸のうちに秘め続けてきた感情を暴露して以来、俺もまたずっと考え、情報を集め続けてきた。

 

 天の太陽神との接続が切られてしまった以上、手がかりとなるのは、あの月夜に、あの男と交わした会話の内容だけ。

 そんな状態で、入念な調査を重ねた結果、浮き彫りとなったのが、このどうにもならない事実だった。

 

「……だからこそ、ドゥリーヨダナはこの十年、奴らと敵対することを避けていた」

「そうだよ。だけど、もう時計の針は進んでしまった。もう――戦は避けることができない。であれば、ドゥリーヨダナが為すべきことは、未来に備え、力を蓄えることだけだ」

 

 振り返ることなく立ち去っていく神々の子らの一人。

 黒の蓬髪に褐色の肌、やや薄暗い白の衣に身を包んだ青年の姿を認めて、カルナの表情がやや歪む。

 

 ――物言いたげな顔つきの弟の頭を、宥める様に撫でる。

 

 ざんばらな髪型に反して指通りの良い髪質にそっと目を細めると、不満そうな色がその瞳に宿るが、特に文句がその薄い唇から溢れることはなかった。

 

「……カルナ。俺は――いや、俺たち(俺とワタシ)は、天界へと向かうつもりだ」

「……アディティナンダ?」

 

 蒼氷色の双眸が軽く見開かれる。

 心配する様にこちらを見つめ返してくるその眼差しに、安心してほしいと伝えるために微笑む。

 

「聡明なお前のことだ。……わかっているだろう? この戦いは、人と人との戦いであるべきだ、だからこそ――――」

 

 そっと、その頰を撫でて、理解してほしいと乞い願う。

 

 いや、頭では理解していてはいるのだろう。この子は、とても聡明な子供だった。

 

 ……ただ、頭では納得できても、心では納得できないことは、あるのだろうが。

 

「――だからこそ、俺が行く。戦場においてまで、神々に下手な介入などさせるものか」

 

 五兄弟の父親である神々を、ドゥリーヨダナとカルナの戦場に、介在などさせない。

 

 雷霆を操るインドラ、暴風を纏うヴァーユが我が子可愛さゆえに戦場に出てきでもしたら、と考えるだけでゾッとする。

 黄金の鎧を纏うカルナであれば敗北はないだろうが、それでも、神々の強大な神威の片鱗だけでも、人間は死んでしまうということを俺は知っている。

 

「――神々が、それを聞き入れるだろうか」

「だからこそ、俺たちが行くんだ。神々――特に、インドラはワタシに対して借りがある」

 

 ポツリと零された呟きに、断言で持って返す。

 それに、やや俯き加減であったカルナが虚をつかれた様子で顔を持ち上げた。

 

「アディティナンダ?」

「――なぁ、カルナ。お前、どうして俺の元に天女が来たのだと思う?」

 

 アプサラスは、水の精霊であり、インドラを始めとする神々に仕える侍女でもある。

 ――だが、それは彼女たちの有する性質の、ほんの一側面でしかない。

 

「天女とは、古来から男を惑わす存在だ。彼女たちは美しく、淫らで、艶かしい。

 生まれながらに、異性を誘惑し、惑乱させ、堕落させることに長けている。

 それゆえに、古来から、天女に心を奪われたがために、苦行を断念し、その志半ばで道を踏み外した者も多い」

 

 女という存在の、その極みにある者。

 それが天女という魔性であり、神々によって創られた、生ける偶像たちである。

 その眼差し一つ、その微笑み一つで、数多の英雄が彼女たちによって破滅へと導かれていった。

 

「――そして、彼女らは専ら、神々の王たるインドラの命令で動く」

 

 苦い顔になったカルナが眉間の間の皺を深める。

 聡いカルナのことだ。俺の端的な言葉だけで、何を言わんとしているのか理解したのだろう。

 

「……だからか」

「だからだろうねぇ。あんな垢抜けた美人さんが鄙びた村に足を踏み入れたのは」

 

 あはは、と笑い声をあげれば、カルナが睨んでくる。

 いやはや、今となってはいい思い出だけど、あの時は村中が大混乱に陥り、大変な騒動になったんだったけ。

 

 老いも若きも男として産まれた者たちはあの天女にぞっこんになったせいで、女たちは嫉妬と羨望に苛まれるし、敬虔な信徒たちは卒倒してしまうし――うん、一時は村としての機能が停止にまで追い込まれたもんな。

 

 最終的に、俺が彼女のことをこっぴどく振った形で決着がつきはしたんだけど。

 その代償として、女体化の呪いをかけられはしちゃったんだけど――まあ、それはそれだ。

 

「まあ、インドラとしては俺とお前を早々に引き離しておきたかったんだろうね。

 お前が天賦の才をもって生まれた戦士ということはあの時点でも薄々判明していたことだし……。実際、今のお前であれば、適切な武器さえ持てば、神霊だって殺せるだろうよ」

「それは過大評価が過ぎるというものだ。ましてや、どこで誰が聞いているとも分からぬというのに、その様なことをそうやすやすと口にするべきではない」

 

 苦虫を嚙みつぶしたような顔でカルナが苦言を呈する。

 それに、わかっているとよと頷いて、そっとその形のいい頭を撫でた。

 

 ――暫く、この子ともお別れだなぁ……。

 

「神々の都合と人の世の趨勢はもはや合致してしまった。こうなっては、約束の十二年後に戦は必ず起こるだろう。そして、それはかつてないほどの規模であることは間違いない――もはや、避けようにも避けられない」

 

 だから、と小さく息を吸う。

 なるべくカルナが不安に思わない様に、不審を抱かない様に、できるだけ普段の俺らしさを思い出しながら、カルナの兄(アディティナンダ)らしく振る舞うことにする。

 

「その結末が如何なる物であるにしろ、それは人と人の間で定められた出来事であるべきだ。神々によって好き勝手に弄り回されていい物ではない――と俺は思う。傲慢で無慈悲な神霊の一柱であるからこそ、余計にそう思う――だから、カルナ」

 

 一歩、二歩、後ろに下がって、城壁の上へと腰掛ける。

 そうすると、俺の足りないだけの高さが付け足されたおかげで、見上げるばかりだった蒼氷色の双眸とひたり、と視線が交わる。

 

「――俺は行くよ」

 

 美しい、湖水の様に透き通った蒼氷色の双眸が、ゆらりと揺れた。




(*なんか、ひょっとしたら、アディティナンダ(偽名)の正体に気づいている人がいるかもですね。アディティナンダにせよ、ロティカにせよ、タパティーにせよ、設定上、主人公の正体にかなり関わる名前なので……*)
(*ひょっとして……! と思われた方が感想欄には書かないでくださいね。メッセージとか、人目につかないところであったら大丈夫ですけど*)
(*多分、正解だったら、答えを返さないと思いますが……*)


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愛し子達へ

四月から忙しくなって、書く時間も気力もなく、本当にきつかったです。
願わくば、かつてのようにとまでは行かずとも、きちんと更新して、年内には完結させたいです。


「――だが、アディティナンダ」

 

 どことなく、カルナの口調がいつもよりも早口だった様に聞こえたのは、気のせいだったのかもしれない。

 涼しげな目元が険を帯び、普段よりも三割り増しぐらいには、悪人顔になっている。

 

 やれやれ、お前は基本的に無口無表情で表情筋を使わないから、誤解されやすいよ、と何度も教えただろうに、全くもって改善されていない。

 

 ――嗚呼……、本当に不器用な子だ。

 

「インドラが、神々の王ともあろう神霊が、今のお前(アディティナンダ)の言を聞き入れるとは思えない。

 ……それに、相手は武力だけではなく、謀略をも得意とする神だ。――そんな相手が、引け目があるとはいえ、果たしてお前の言う通りになど、してくれるだろうか」

 

 気づけば、黄金の籠手を嵌めた両手が、がっしりと俺の手を握り締めていた。

 その仕草に、幼子が人混みの中で親の服の裾を握りしめる光景を連想してしまったのもいたしかたあるまい。

 

 視線を合わせれば、人目を惹く白皙には微かに焦燥感が浮かんでおり、どことなく口調も切羽詰まっている……ように感じる。

 

 まあ、俺の気のせいだろうけど……そうであったら――素直に嬉しいな、と思う。

 

 大事な相手から心配してもらえているということは、こんなにも嬉しいことだったのか。

 

 そんな呑気な状況でもないというのに、新しく学んだ感情の習得に、くすぐったい気持ちになる。

 カルナのことを俺が必要以上に心配することはあっても、その逆は滅多にないから、と言うか、神霊である俺が消滅の危機に瀕する機会はそうそうないため、心配されることもないから――とても新鮮な気分だ。

 

 ……だけど、それもその一瞬だけのこと。

 カルナの兄(アディティナンダ)の感情にかまけて、態勢を見失ってしまっては、元も子もない。

 

 ――だから、そっと首を振って、手を離すように促した。

 切れ長の蒼氷色の瞳が、軽く見開かれる……そうして、薄い唇が噛み締められた。

 

 ……うん。

 聞き入れてくれて――――ありがとう。

 

「――なぁ、カルナ。俺がいなくなっても、ご飯はしっかり食べて、よく寝て、病気になるなよ?

 それから、ドゥリーヨダナが暴走しかけたら、この間みたいに、言いにくいこともきっちり言って、あいつが迷走しないようにするんだ。――きっと、それができるのは、友達であるお前だけだろうし」

 

 そっと、その頭を一撫でして、城壁の上へと立ち上がる。

 太陽を背にして佇んでいるから、きっとカルナの方からは俺の表情なんて、逆光になっているせいで見分けることができないだろう――だが、それでいい。

 

 ……だって、こんな情けない顔なんて、見せられないじゃないか。

 

「それから、お前はなんだかんだで言葉を端折る癖があるから気をつけるように。物言いを優しくするとか、もうちょっと笑うとか、人々が親しみを感じられるような態度をとったらいいよ。

 今までは俺がそれとなく周囲に配慮していたけど――当分は、お前の面倒を見てやれなくなるし。――嗚呼……兄としては、お前のそういうところが心配かなぁ」

 

 できるだけ、心配をかけないようにと、なんでもないことのように微笑して見せる。

 

 ――うまく、笑えたかなぁ? 声も震えてはいないだろうか?

 地上に降りて来たばかりの時のように、ぎこちない微笑みになってはいないだろうか?

 

 まあ、不格好でも微笑んだことが伝わればそれでいいか。

 美しい、透き通った蒼氷色の瞳が、じっと俺のことを見据えている。

 

「……アディティナンダ」

「――ん、カルナ。……そう言う訳だから、暫くの間とはいえ、お別れだ」

 

 万感の思いが込められている一言とは、こう言うものなのだろう。

 ただ一言、名前を呼ばれただけなのに――後ろ髪を引かれそうになるのを、必死に堪えて、カルナに背中を向ける。

 

 ――……嗚呼。

 我儘を言うのであれば、ずっと一緒に居たかったなぁ。

 

 ……どうせなら。

 どうせなら、カルナが普通に歳をとって、お嫁さんもらって、子供作って。

 そうして、なんだかんだで、ドゥリーヨダナと一緒に莫迦なことをやりながらも、戦ったり、笑ったりしながら日々を過ごして欲しかった。

 

 そうしてから、人としての一生を全うしたカルナが、最後の日を迎えるまでの日々を……――この目で見届けたかったなぁ。

 

 様々な要因ゆえに、現実には叶わぬ願いと知りながらも、そんな幸福(ユメ)を願い続けずにはいられなかった。

 

 スゥ、と深く息を吸い込む。

 そうして、すとん――と、思考/意識を切り替えた。

 

 乾いた土器に冷水が染み込むように、途端にそれまで雑多な感情や余計な煩悶に苛まれていた脳裏が澄み渡っていく。

 

 蒼天を見上げれば、遮るもののない日輪が燦々と煌めいている――それを確認して、瞳を閉ざす。

 

 そのまま、城壁の外へと――()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 さながら――くるり、と木の葉が裏返るように。

 人間カルナの兄である()から、太陽神の眷属たる()()()へと思考と存在が入れ替わる。

 

 爪先に、髪の一筋に、呼気の余韻に至るまで。

 途方も無い力が染み渡っていき、とてつもない多幸感と全能感に全身が侵されていく。

 

 普段は人の世で埋没するためにと己に科した、無数の枷が一つ一つ音を立てて外れ、重たい衣を一枚一枚脱ぎ捨てていくような感覚に、矮小な人の身を被っていた本性が歓喜の声を上げる。

 

 瞬き一つの間に、表層意識から深層意識へと。

 人もどきから正真正銘の神の化身へと切り替わって、ほぅ……と充足感に満ちた溜息一つ。

 

 ――耳を澄まします。

 肌を――人間の肌に該当する箇所でしかありませんが――肌を突き刺す風の荒々しさを鬱陶しく思い、封じ込めていた力の一端を行使しました。

 

 ……その途端。

 

 ――ふわり、と地球の重力に逆らって、光と熱で構成された躰が浮かび上がります。

 

 我が身より放たれる光の余波を浴びた大気が、悲痛な叫びを上げます。

 

 どよめく民衆の声に、漂う土埃の匂い。

 目を見開けば、恐れ慄いた様子で平伏する人間たち。

 見知った姿も眼下にありましたが――それらを何の感慨を感じることもなく睥睨して、おや? と小首を傾げます。

 

 平伏し、視線を合わせないようにと必死に震えている有象無象の中に、ただ一人。

 震える体を必死に抑え込み、今にも伏せたくなる眼差しを必死に持ち上げ、脂汗を流しながら、歯を食いしばりながらも、こちらを見つめ――……

 

 ――……いいえ。()()()()()()()()()()()()()

 

 ……これは驚きました。

 人外の気配を隠すことなく露わにして、神霊としての力を放出しているワタシに対して、灼かれることを恐れることなく、見据えてくる人間がいるだなんて。

 

 その不遜さが、何故だか心地よく思えたので、もっと近づいてみることにしました。

 

 脳裏に飛び込んできた、きらり、と揺れる黒水晶の輝きに、目を見張ります。

 見るものを惹きつける、強い意志と野心を帯びた力強い眼差しに、心を奪われます。

 

 ……()()

 ワタシは、俺は、この輝きを色濃く放つ人間のことを、とてもよく知っている。

 

 寧ろ、どうして、今の今までその存在を忘れてしまっていたのでしょうか。

 

 人間という群体の中で、一際煌めく個体。

 群、ではなく、掛け替えのない一人として、ワタシたちが初めて認識した、最初の人。

 

「――……()()()()()()()

 

 強い言霊を帯びた神霊の囁きに、ドゥリーヨダナの体が大きく揺れました。

 そのまま、圧倒的な力に呑み込まれてしまうかと思いましたが、額から汗を噴き出しながら、ガクガクと両足を震わせながらも、決して目をそらす事の無い姿に、ワタシは/俺は――――。

 

「……ええ、そうです。アナタはそれでいい」

 

 口から溢れ落ちた言葉は、我ながら陶然とした響きを有しておりました。

 

 人間の最も美しい部分と醜い部分を重ねて持ち合わせながらも、それでも必死に前を向いて進もうと踠き続けてきた彼の姿を知るからこそ、神を神と崇めぬ不遜さを、ワタシは良しとしました。

 

 ……かつて、とある大神の化身(アヴァターラ)は、憂いと共に宣言しました。

 

 この世に救いはなく、人は皆、苦しみからは逃れられない――であるからこそ、自らの手によって、人々は救われてしかるべきであると。

 

 結局のところ、いかなる人にも神による導きが必要であり、神による支えが不可欠であると。

 

 ――それは、確かにその通りでしょう。ワタシにも、否定はできません。

 

 ……ですが。

 それを永遠に続ける必要など無いのだと――(アディティナンダ)だけではなく、ワタシも思うようになったのは、一体いつからだったのでしょうか。

 

 烱々と輝く黒水晶の双眸と視線を合わせ、するりと距離を詰めます。

 反射として動こうとする身に掌を這わせ、覆いかぶさるようにして、黒髪を掻き分け、その額に口付けました。

 

「――っ!!」

「――……この地上に生ける愛し子の一人として、アナタに日輪の祝福を」

 

 ……儚き定めの人の子を、己の炎で燃やし尽くさぬように――叶う限り、優しく。

 

 ――きっと、彼にとっては、余計なお世話でしかないのかもしれませんが。

 あらゆる魔性と不浄を焼き尽くす日輪の化身による、最高の祝福をアナタに贈りましょう。

 

 アナタもまた、ワタシたちが守護すべき、愛おしむべき、類稀な可能性を持つ命であるのだと。

 そのことを、この行動によって、アナタを軽んじる人々に伝え、何よりもアナタ自身に示しましょう。

 

 また、未知の可能性に満ちた人の王子が、何者にもその心の有り様を損なわれることなく、未来に進めるように。

 

 神々の命を受けた人ならざる者、地上に蔓延る魑魅魍魎の類。

 それらに、頑健でありながら脆い精神が侵されることがないように――我ながら、いささか過剰に過ぎるほどの加護を与えておきました。

 

「――ありがとう、ドゥリーヨダナ。俺とワタシ(ワタシたち)の大事なカルナを大切にしてくれて。

 俺の口からは何度も伝えていたでしょうけれども、ワタシからもその言葉を贈りたかった」

 

 余人には聞こえぬように、そっとその耳に囁いておきます。

 

 ……これで、大丈夫。

 少なくとも、彼の命が続く限り、その儚くとも猛々しい精神の輝きが、何者かに侵されることはないでしょう。

 

 驚いたように額を抑え、パクパクと口を開閉する王子にそっと微笑みかけ、天を仰ぎ見ます。

 

 為すべきことは、為し終えました。これ以上の介入は、無粋でしかないでしょう。

 

 ――これから先は、人の物語であり、人の戦いである。

 これは人の営みの一環であり、人の可能性を謳いあげるものである。

 

 であれば、神々の力など、彼らに不要であり、邪魔でしかない。

 長い間、この地上で人々の暮らしを垣間見、そして地上に生きる者達の力強さを知ったからこそ、そのように胸を張って宣言することができる。

 

 ……人間というものの力を、信じることができる。

 

 ドゥリーヨダナの肩に乗せていた両手をそっと離し、ふわりと中空に浮かび上がりました。

 蒼天を見上げれば、我らの現し身たる純白の太陽――そして、黄金に輝く我が愛子の姿が視界に映ります。

 

「――……()()()()()()()

 

 この位置からでは、きっとあの子の耳には届かないでしょうが、それでも。

 

 ずっと呼んであげたかった、呼びたかった――愛しい子供の名前を、ようやく呼べました。

 ワタシがワタシであったが故に、無慈悲に残酷に傷つけてしまった、あの日以来。

 

 ずっと呼べなかった――呼ぶことのできなかった、あの子の名前を。

 

 蒼氷色の双眸を、あの子の容貌を、しっかりとこの胸に焼き付けて――名残惜しいのですが、この辺で。

 

「――どうか、健やかで」

 

 万感の思いを込めたその言葉を最後に、灼熱の炎を翼として、大気を焼き尽くし、一つの光球へと我が身を変じます。

 

 ――向かう先は、あらゆる神々と聖なる者達の住まう世界。

 一切の不浄を許さない、神々の栄光に満ちた壮麗な天空都市・アマラーヴァティー。

 神々の王にして、紫電の雷光を司るインドラ――彼の治める王国である。

 

 

 蒼い、蒼い空を目指し、純白の雲間を突き抜け、幾千もの光の帯を通り抜け。

 富貴の象徴である紫紺と穢れなき純白で彩られた天空の都へとたどり着く。

 そうして、その中でも一際巨大で壮麗な建物を目指し――――

 

 目にも綾な衣装を纏う蠱惑的な肢体の天女達。絢爛たる鎧兜に身を包んだ戦士達。

 それらに傅かれながら、ワタシは一人、王宮の奥を目指します。

 

 ……そうして。

 

「――神々の王(インドラ)よ。アナタに話があります」

 

 目にも眩い黄金と内側から光を放つ宝玉。

 この世のありとあらゆる美しいものを組み合わせて構築された、絢爛たる玉座。

 そこに座す、()()()()()()()()()()()()()()、立派な体躯の男神に対して、ワタシはできる限り、ゆったりとした口調で話しかけました。

 

 ――全ては、あの子達を守るために。

 




長かった……! これにて、第4章は完結!
次章からは、クルクシェートラ前日譚になると思います。そして視点もアディティナンダに戻ると思います(多分!)
リクエスト作品も書きたいのですが、この更新速度からして、完結を第一の目標にして、リクエスト作品はその合間に書き連ねることになりそうです。

できれば、本格的な夏が来る前に、ひとつくらいは書きあげたいのですが……うまくいくかなぁ。

(*「もしカル」におけるドゥリーヨダナさんは完全な人間です。カーリー女神の化身やカリ・ユガの断片とかいうのは、後世において『マハーバーラタ』における悪役としてのドゥリーヨダナの悪辣さをアピールするために付け加えられた脚色であると作者が想定しております。なので、「もしカル」での彼は生まれが特異なだけのただの人間です*)
(*とはいえ、後世の人々のイメージに影響される英霊状態になった場合は、後の世に付け加えられた上述の特性を付与された状態でサーヴァント化される、と思っております*)

ドゥリーヨダナ「というか、そんな便利な力があったら、とっくにパーンダヴァ相手に使っとるわ」
カルナ「だろうな」


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断章
天界の談合<上>


《連載再開に当たってのお詫び》

一切の予告なしに掲載していた『クルクシェートラ前日譚』を削除することになり、読者の皆様には申し訳なく思います。ただ、この物語を完結させるにあたり、どうしても『前日譚』執筆時には諸々の都合でスキップしていた部分を付け足す必要があり、なおかつその方法が加筆修正という手段では済みそうになかったことから、このような手段を取らせていただきました。

『前日譚』ですが、本編の大まかなストーリーに変更はありません。
ただ、一部の省かれていた場面や情報、登場人物等を書き足した状態で、再度UPいたします。

連載再開を告知してから、実際に再開に至るまでに随分と月日が経過したことと合わせて、重ね重ねお詫び申し上げます。


――そこは天国、極楽浄土。

 星の管理者たる神々の暮らす、天空の楽園。人の見果てぬ夢の先、完璧なる世界。

 

 ――そこは楽園、西方浄土。

 選ばれた者にしか立ち入れぬ、善美の楽土。偉大なる雷神が統べる、永遠の王国。

 

 一切の不浄を許さない、神々の栄光に満ちた壮麗な天空都市・アマラーヴァティー。

 音に聞くその都には、天と地の間に住まう神々(シッダ)神々の賛美者(チャーラナ)たちが大勢集まり、あらゆる季節の花々、聖なる樹々で埋まっていた。

 

 ここに入れる者は、厳しい苦行を完遂し、火供儀を怠らず、戦場で敵に背を見せたことのない勇者のみ。選ばれたもの以外が足を踏み入れることはおろか、目にすることすら許されぬ秘園。

 

 鳴り響く妙なる天上の楽の音。漂う馥郁たる花の香。あらゆる神秘に護られた天の都。

 勇猛果敢な武者、星の輝きを灯す賢者、魔性の美貌を誇る天女に彩られた神々の都へと、灼熱の光球が降臨する。

 

 賓の来訪を告げる法螺貝・太鼓の音色が一斉に響き渡る。

 同時に、天上より飛来した灼熱は、収縮し、凝縮し、そうして――人の形を取った。

 

 純白の炎で編まれた緩やかな衣を纏い、首元や腰には炎を閉じ込めた赤石と黄金の差し色。

 華奢な男にも、長身の女にも見える細い手足には、緻密な紋を描く黄金飾りが嵌められている。

 足先・指先、ふわりと広がる長い髪先から、蝶の鱗粉のように朱金の炎を散らしている。

 

 ――同時刻、インドラの宮殿・ヴァイジャヤンタ。

 

 神々の王にして、紫電の雷霆を操る主神・インドラ。

 全備の極致たる隆隆たる肉体を惜しげも無く晒し、汚れ一つない純白の衣に身を包む男神。その頭上には煌く宝玉で彩られた冠を、四肢には豪奢な黄金の武具を、その傍らへ紫電を纏った巨大な金剛杵(ヴァジュラ)を中空に侍らせ――彼は玉座に頬杖をつき、愉快そうに口角を持ち上げる。

 

「――これはこれは、珍しいことだ」

 

 紫がかった漆黒の双眸が、神威を示す紅の輝きを帯びる。

 万里先すら見通す神眼にて、天空都市・アマラーヴァティーの中心たるインドラの城の前に、珍しい客人の姿を見通し――と悠然と微笑みながら、思念一つで彼方の客人を此方へと招聘する。

 

「――神々の王・インドラ。アナタに話があります」

 

 ふわり、と羽毛を連想させる軽やかさで、人型の炎が玉座の間に降り立つ。

 敷き詰められた水晶と純白の真珠が炎の零す朱金の鱗粉を反射して、煌々と瞬きの輝きを放ち、玉座の間そのものが放つ眩さが一段と色濃くなる。

 

「そう急くな。我らには有り余るほどの時間が許されているというのに」

 

 ゆらり、と玉座に坐す男神が片手を揺らせば、ぐにゃりと空間が揺らぐ。

 あらゆる季節の花々、聖なる樹々で彩られた天上の楽園、ナンダナの園。神域の匠の技で創り上げられた絢爛たる玉座の間から、湖岸に佇む瀟洒な四阿へ場所が移る。

 

 月の光を編んだ銀の座椅子を二つ、水晶の蓮が咲き誇る凪いだ水面の上へと浮かぶ。

 そこに鷹揚な仕草で腰掛けた男神がその眼差しだけで周囲で様子を伺っていた天女たちへと下がる様に促せば、それを見届けた炎もまた、向かい合う形でその真正面へと腰掛けた。

 

「我らには時間が有り余れども、人の子はそうはいきますまい」

「――よもや、貴様の口からその様な言葉が出ようとは。それ程、末の息子が愛しいか?」

「…………」

「それとも、貴様が気にしているのはあの忌み子の方か?」

 

 くつくつと含みを帯びた笑声をあげる男神へと向けられる炎の眼差しが僅かに険を増す。

 それに気づいているのか、いないのか。向けられる視線の険しさをどこ吹く風と流しながら、その左手を足元の湖面へと翳す。さすれば、無風状態であるにも関わらず、鏡面の様であった湖水へと漣が走った。

 

 ――すると、見よ。

 漣が静かに消えた水面には、空から眺めた地上の光景が像を結ぶ。

 青々とした山脈、悠々と流れる母なる大河。黒々とした肥沃の大地、裾野に広がる緑の絨毯。

 ぐるぐると地上の様子を眺め回していた天の眼が焦点を定めた先こそ、象の都の位置するところである。

 

「ドゥリーヨダナとて人の子。であれば、ワタシが彼を愛することに何の障りがありましょうか」

「物は言いようとは、よくぞ言ったものだ。地上での人形遊びが余程気に入ったか」

 

 華奢な青年にも、未成熟な乙女にも見える中性的な容貌は微塵も揺るがない。

 はらりはらりとその身から蝶の鱗粉のように零れ落ちる炎が、足元の湖水へと触れる都度、小さな波紋を生み出しては虹色に輝く宝玉と化し、水底へと沈んでゆく。

 

太陽の息子(アディティナンダ)とは、実に皮肉のこもった名前よな。はてさて、それでは俺は貴様を何と呼ぶべきなのだろうな」

「……何とでも。サヴィトリ、アーディティヤ、ヴィヴァスヴァット。いずれの名でも構いません、どれもが等しくワタシを意味し、どれもが等しくワタシを意味しないのだから」

 

 ――それよりも、と燃える灼眼が男神を見遣る。

 しかして、いかなる虚偽をも見抜く神眼の放つ熱を心地好さそうに味わい、神々の王は緩やかに口角を持ち上げる。

 

「アナタはワタシに借りがある。ワタシはその借りをアナタに返していただきたいのです」

「ほぅ、借り……とな。それは一体何のことやら」

「――ウルヴァシー」

 

 それまで悠然とした態度を崩さなかった男神の表情がピクリと動く。

 それに対し、向かい合う形で座したままの人型の炎は、淡々と雪の降り積もった霊峰を想起させる冷ややかな声音で次々と舌鋒を放つ。

 

「彼女がワタシ……もう一人のワタシ(アディティナンダ)へ何をしたのか」

「…………」

「彼女が誰の命令を受けて、人間に埋没していたワタシの元へやってきたのか」

「…………」

「それを知らぬアナタではありませんし、それを忘れたと言えるアナタでもありませんよね」

 

 ゆったりと黄金の輝きで縁取られた真紅の瞳が眇められる。

 豊かな朱金の頭髪は篝火のように燃え盛っているというのに、神威を宿す眼差しはヒマラヤの万年雪よりも冷ややかに凍てついている。

 

「虚言はワタシに通じません。アグニの目の性質はワタシにも引き継がれておりますから」

「――さて。それで貴様は何とする。俺を糺す理由としては、些か弱くはないか?」

 

 最早、言葉で誤魔化すことができないと悟ってか、ふてぶてしい態度で男神は炎を挑発する。

 地上の風景を映し出す水鏡の上に浮かぶ白銀の座椅子。その上に腰掛け、ゆっくりとした動きで足を組み直した男神は傲岸に顎をしゃくって続きを促す。

 

「やはり、大地の女神は地上の負荷には耐えられないのでしょうか?」

「――状況は依然変わらぬ。貴様がどれほど動こうと、人間の絶対数の減少は避けられぬ」

 

 ……ぽぉ、と人型の炎の掌の上に、白銀に輝く灯火が生み出される。

 白銀に輝く灯火を指先で弄びながら、炎はどこか遠くを見つめる茫洋とした眼差しのまま沈黙している。対する男神は唐突に話題を変えた炎の動向を探る様な目つきであり、その警戒心を示す様に、その傍らに紫電を纏う金剛杵(ヴァジュラ)を召喚する。

 

「……別に、変えようがないのならばそれはそれで良いのです」

「ほう……? 随分と無慈悲なことだ。人間に入れ込んでいる様に見えたのは俺の気のせいか?」

「無慈悲……これは無慈悲なことなのでしょうか?」

 

 こてん、と炎が心底不思議そうに首を傾げる。

 揶揄する言葉を投げかけ、その動揺を誘おうと思ったものの、望んだ反応が得られなかった男神の方が却って捉えどころのなさに舌打ちする羽目になった。この世界の主神ともあろう者の品のない仕草に、炎の方が眉間に皺を寄せる。

 

「主神ともあろう者がはしたないですよ、インドラ」

「そう言う貴様はすっかり所帯染みたな。――まあ、いい」

 

 ぎろり、と紫がかった漆黒の双眸が炎を睨む。

 胆力のない人間相手ならば一瞥だけで、その心臓の鼓動を凍り付かせんばかりの眼光に射抜かれながらも、人型の炎はそれを柳に風と受け流す。姿形こそ変わっても、そう言うところが相も変わらず癪に触るとこれ見よがしに溜息をついた男神のことを気にする気配もなく、どこまでも気儘に炎は口を開く。

 

「アナタも天の代弁者も同じことを言いますね。ワタシは元来、こちらよりの性質だったはず」

「――ふん。それでは、貴様は我らの企みについて邪魔する気は一切ないと言うのだな」

「反対するも何も、反対したところで無意味でしょう。大地は増えすぎた人間による負荷に耐えかねている。このまま放っておいたところで待つのが全ての破滅であれば――ワタシはよりマシな方を選びます」

 

 天より見下ろす地上で生きるのは人の子だけではない。

 人をはじめに、獣や鳥、魚や植物、虫といった神々の目にすら留まらぬ微小な生き物が暮らしており、万物の守護者である以上、その全ての生命を支える基盤となる大地の崩落を招くことだけは絶対に起こってはならないことだとその身に刻み込まれている。

 

天の法則(リタ)を覆す気など、アディティナンダは兎も角、ワタシには微塵もありません」

「――では、天の代弁者経由で伝えられた“太陽神に叛意あり”と言うのは誤りか。貴様の返答次第では、俺は金剛杵(ヴァジュラ)の雷を貴様に向けるつもりだが」

「――いえ、誤りではないです」

 

 さらりと否定した人型の炎を威嚇する様に、中空に浮かぶ巨大な金剛杵(ヴァジュラ)が放電を開始する。

 偉大な聖仙の骨から削られ、神々の王・インドラの手で悪竜の頭蓋を砕いた神造兵器。

 起動の余波だけで鏡面と化していた水面に荒れる波を描かせ、絢爛と咲き誇る花弁を無慈悲に暴風が引き裂く。離れたところで様子を伺っていた天女たちが絹を裂くような悲鳴をあげ、雲海の上にある蒼い天蓋が見る見るうちに暗雲に覆われていく。

 

「落ち着きなさい、インドラ。ワタシは太陽神とは異なり、一切の武力を持ちません」

 

 雪の降り積もった霊峰を想起させる冷ややかな声が、雷雲によって凌辱される天の園に静かに響き渡る。破壊神の鏃(パーシュパタ)梵天の奥義(ブラフマーストラ)守護神の円盤(スダルシャナ・チャクラム)に継ぐ神々の王の武威にその身を晒されようとも、氷の彫像の様に微動だにしない。

 

「アナタは戦士の王でしょう? ――無抵抗の者を殺すことは戦士の誓いに悖る行いでは?」

「相手が反逆者であるならば話は別だ。将来の禍根を残すわけにもいかぬ」

「そうですか……では、致し方ありません。()()()()()()()()()()()()()()()()

「脅す……? 貴様が、俺をか?」

 

 ――――遥かなる大昔、天界の王を決める争いがあった。

 太陽神・スーリヤと雷霆神・インドラは神馬の曳く戦車を操り、各々が誇る武具・防具を身に纏い、天の覇者足らんと熾烈な戦いを繰り広げたのだ。軍配こそインドラへと上がったものの、この逸話はかつて太陽神がインドラに匹敵する神威を有していたことを物語る。何より、太陽神は三大神の一角である秩序の守り手・ヴィシュヌとも切っても切り離せぬ縁がある――如何にインドラといえど、その言を無視する事は憚られた。

 

 ――しかし、それは相手が太陽神その人であればこそ。

 確かに、目の前の人型の炎の神霊としての格は高い――格の高さだけなら、肉の器に閉じ込められた当代の天の代弁者(アヴァターラ)よりも、なお。その反面、神々の王たるインドラと渡り合った太陽神に匹敵する戦闘能力は与えられていない――何故なら。

 

「……巫山戯たことを抜かすものだ。貴様は地上に堕とされる際の条件として、徹底的に戦闘的な権能の類は剥奪されているだろう」

「――はい、それが決まりでしたから」

 

 淡々とした口調のまま、人型の炎は同意を示す。

 末の息子が若すぎる母親の手で河へと投棄されたのを知った太陽神は己の出生の逸話も相まって、その子のことを憐れんだ。捨てられた我が子を保護することを請い願った太陽神の懇願は神々に受け入れられたが、その代償として地上へ堕ちる神霊には様々な枷が科せられた――先の条件もその一つ。

 

「そんな貴様がどうやって俺を脅すというのか? まともに弓すら引けぬ身で?」

 

 ギラギラと獣の様に輝くインドラの双眸が紅に染まっていく。

 形の良い唇は溢れる声音は身の程知らずの蛮勇を嘲る様に歪んでいる反面、妙な動きを一つでも行えば傍らに控えさせている金剛杵(ヴァジュラ)をすぐさま投擲できる様に油断なく構えられている。その光景を顔色ひとつ動かすことなく見詰めていた炎が心底不思議そうに首を傾げて見せれば、その動きに合わせて掌に灯された白銀の炎もゆらりと揺らめいた。

 

「――その割には過剰な警戒ぶりですね。ウルヴァシーの一件もそうですが、何がアナタをそこまで駆り立てるのです?」

「…………」

 

 燃え盛る灼眼の熱さとは相反する絶対零度の眼差しがインドラを射竦める。

 裁判神としての側面を持ち、祭祀を司る炎神・アグニの目とも謳われる太陽神由縁の灼眼は、相手の纏う虚飾を暴力的なまでの潔癖さで剥奪する。

 

 雷霆神・インドラは智勇に優れた戦士だが、清廉潔白な戦いを繰り広げてきたかと問われるとそうではない。純粋な力だけでは到底及ばぬ悪鬼・羅刹や悪竜を打ち滅ぼした狡知こそ、彼を神々の王たらしめる重要な要素なのだ。

 

 ――――それ故に、彼は警戒せずにはいられない。戦士としての力を与えられなかった目の前の炎――太陽神・スーリヤによって生み出された人形風情が、臆することなく神々の王たるインドラの元へと直談判にやってきた『目的』について。




時間軸的には、第4章の最後でアディティナンダが天へと上がって直後の話です。


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天界の談合<中>

簡単に言えば、インド版トロイヤ戦争――それがクルクシェートラの戦い。
つつがなく遂行するために用意された神々の駒、それがパーンダヴァ五兄弟とドゥリーヨダナ感が半端ない。



 ――ぽぅ、と。

 人型の炎が掌の上に宿す白銀の炎が生き物の様に伸縮する。

 細く、長く、太く、短く――伸びて縮んで、広がり丸まり、煌々と輝きをいや増していく。

 

「アナタがそのご自慢の武器でワタシを一息に殺さないのは正しい」

 

 ちらり、と燃え盛る灼眼が紫電を四方八方にまき散らす金剛杵を見やる。

 湖面に咲き誇る水晶の蓮華が金剛杵の巻き起こす旋風に嬲られ、はらはらと宝石と見紛う華奢な花弁を散らしていく。徳の高い王者、誉れ高き聖仙、輝ける神々たちによって光輝に満ちた天上の都には似つかわしくない暗雲が庭園全体を覆い隠したせいで、神々の王の怒りを畏れた天女や楽師たちは安全な場所へと避難しているところだろう。

 

 ――――ここには、人型の炎と男神の二人しかない。

 けれども、神々の王たるインドラの不興を買った愚か者の末路を面白がる様に、そこかしこから形を持たぬ無遠慮な眼差しが注がれている。

 

 それは創造神(ブラフマー)か、秩序神(ヴィシュヌ)か、はたまた破壊神(シヴァ)か。

 いや、三大神のみならず、愛欲の神、優美の女神、障害の神、富貴の神をはじめとするあらゆるバーラタの神霊たちがさりげなく、それでいて興味深そうにこちらを覗き見ている。

 

 なるほどそれは好都合――と炎はひっそりと微笑みを浮かべる。

 雷霆神の代名詞とも言える武器を突きつけられながらのその態度。真紅に染まった男神の眼光が矢となって放たれ、人型の炎を文字通り射抜く。

 

「――――っ!」

「……貴様のところの末の息子の鎧と同等の防御力は持たぬ様だな」

 

 紫の矢羽をつけた黒檀の矢が人型の炎の右肩を貫通し、凭れていた白銀の座椅子の上へと刺し留める。展翅版の蝶の如く磔にされ、射抜かれた瞬間こそ痛みに眉根を顰めたものの、されるがままの炎はそれでいてどこか挑発的な眼差しで攻撃者を見上げる。

 

「――はい。材料こそ同じですが、カルナの鎧と違ってワタシのこれは物理的な攻撃に対する防御手段は一切有しませんから」

「………減らず口を」

 

 その瞬間、第二射、第三射が次々と放たれ、その都度、人型の炎の華奢な手足が跳ねる。

 右肩、左脇腹、右太腿。紫電を帯びた黒檀の矢に貫かれた部位から、血潮の代わりに黄金の焔がはらはらと溢れ、その細い手足を辿って水面へと吸い込まれていった。

 

「――――それで? 貴様はその状態で尚も俺を脅すと嘯くか?」

 

 文字通り手も足も出ない炎を、黒雲と暴風を従えた男神が威圧する。

 神秘はより強い神秘に打ち消される。地上の人間たちが使う様な武具であれば、表層意識(アディティナンダ)の肉体に傷一つつける事無く融解するが、インドラの眼光より放たれる殺意の矢であれば深層意識たる炎の肉体を破壊させることは容易い。頼みの金環も期待される様な力を有さぬ以上、このまま嬲り殺しにされるのが関の山だ。

 

「――――けれども、アナタはワタシを殺せない」

「…………」

「我が身は焔、我が身は光、我が身は熱にして――太陽神の現し身。全てを内包した無限の大女神ですら持て余した高熱を直接浴びて、アナタが無事で済むとは思えませんが」

 

 ――――神話は謳う。

 かつて、母なる無限の大女神・アディティナの手で太陽神・スーリヤは捨てられた。

 原初の大母神でさえ我が子の放つ天上の劫火に耐えきれず、その妻ですら夫の元から逃げ出した。最も親しき暁の女神・ウシャスでさえ、毎朝、太陽神に抱きしめられる度にその身を焼かれ、恋人たちの逢瀬は一瞬で終わる。

 

 四つの枷によって封じ込めた、太陽の熱をこの場で解放しても良いのか?

 そう言外に脅す人型の炎に対し、やれるものならやってみろと無言で返すのがインドラだ。如何に太陽神の力を宿すとはいえ、その力は片鱗にすぎない。それなりの打撃こそあるものの、決定打になり得ない。

 

 ――であれば、それよりも先に。

 不出来な人形がこれ以上増長する前に万年氷の中にでも封じ込めて、粉微塵にしてくれよう。

 なす術を失い、圧倒的な暴力に翻弄されるばかりの無力な神霊へと慈悲深くすら感じさせる口調で静かに男神は語りかける。

 

「……大人しく地上で末の息子を庇護しておれば、我らとて気づかぬふりをしておいてやったというのに。全く……とんだ不良品に成り下がりおって――あの忌み子の気にでも当てられたのか?」

「――そうかもしれません。ワタシも、もう一人のワタシもかつての様には戻れない」

 

 ――ふふふ、と。

 三本の矢に惨たらしく射抜かれながらも、虚空を見つめ、人の形をした炎は微笑む。

 幸せそうに、嬉しそうに――咲き初めの蕾を連想させる、切なくなるまでの優しい笑顔で。

 

「ですが――――ワタシも、それが不思議と不快ではないのですよ」

 

 轟――ッ! と座椅子に磔にされていた人型の炎を中心に、荒々しい熱風が渦を巻く。

 万物を融解せしめる劫火が見る見るうちに水晶の蓮が咲き誇る湖を干上がらせ、天界でも有数の花園を彩っていた草木が声にならない悲鳴と共に灰一つ残さず燃え盛る炎の中へと消えていく。

 

 溶ける、融ける。瞬き一つ保たずに、万物が融解していく。

 串刺しにしていた黒檀の矢が、動きを封じていた白銀の座椅子が、清らかな湖水が、透き通る水晶の花弁が、人の形をしていた炎の操る焔によって平らげられていく光景は――禍々しくも神々しい。一見すれば、地獄と見紛う無情な光景でありながら、あらゆる不純物が漂白された清浄なる世界の到来を予期させる。

 

「――――させるか!」

 

 咄嗟に距離を取ったインドラは、咆哮一つで世界中に漂う水気をナンダナの園へと収束させる。

 地上では一切の予兆なしにあらゆる河川の水が干上がり、一滴残らず海水が逆巻く。種を植えたばかりの沃土が乾き、住処を失った水棲動物たちが悲痛な叫びを上げる。水源に宿る神霊や魔性たちも突然の暴挙に非難の声を上げるが、それどころではない。

 

 一つの神話体系(せかい)を満たし、その営みを支える全ての水の元素たち。

 それら全てが神々の王の号令に従い、太陽の熱に対する無形の盾となり、無形の鉾と化す。

 

「――はい、ここまでは予想通りです」

 

 あらゆるものを併呑せんと猛り狂っていた白銀の焔がピタリと動きを止める。

 蝶の鱗粉のように火の粉を散らしながら、一つだけ赤石が象嵌された金環を装着した人型だった炎はするすると右腕に当たる部位を動かして、足元――かつては清らかな真水を湛える湖面があった場所を指差す。

 

 ――そこには、先ほどまでは無かった巨大な『孔』が穿たれていた。

 

 力づくで引き千切られた純白の雲の残滓が漂い、晴れ渡った青で染め上げられた大空。

 そして、その下に広がる――樹々の深緑、深雪の白銀、深紅の赤土に彩られたバーラタの大地。

 この距離からはその地上に住まう人の子や鳥獣、魔性の者たちの姿は見えないが、突然の天変地異に戸惑い、神々の坐す天空の都へと畏れ慄いた視線を送っていることだろう。

 

 仕草ひとつで人型の炎の言わんとする所を察し、神々の王は忿怒に染まる。

 

「――貴様、最初からこれが狙いか!!」

「当然です。非力なワタシでは、アナタはいざ知らず、三大神にも敵いませんから」

 

 ――すぃ、と重力を感じさせない滑らか動きで、人型だった炎は孔の中へと降りて行く。

 そうして、ちょうど天と地の狭間にゆらゆらと漂うと、纏う白銀の劫火の勢いをいや増した。

 

「そも――ワタシの目的は神の抹殺などではありません」

 

 ――大地の女神を重荷から解放するためには、地上の生命の数を削減しなければならない。

 そのためのクル族の大戦争(クル・クシェートラ)。そのために用意された五人の御子と一人の忌み子。

 バーラタの大地の最大の勢力を誇るクル王国と周辺諸国、全ての戦士階級(クシャトリヤ)を巻き込んだ空前絶後の大戦こそ、神々が此度の人口過剰問題を解決するために用意した策であった。

 

 ――けれども、ただ命の数を減らすというのならば、どのような手段でも構わないでしょう?

 

 最初から、人型だった炎の狙いは神々への攻撃ではなかった。

 宇宙の中心に坐し、何万光年も離れた先から万物の営みを支える日輪の光輝。四つの金環からなる封印によって厳重に肉体(うつわ)の内へと封じられた熱量を直接地上へと激突させる。神々さえ耐えきれない灼熱の劫火でもって、地上の一切合切を燃やし尽くしてみせよう――と太陽神の人形は嘯く。

 

 真意が読み取れぬ炎の言葉に、切っ先を向けていた無形の鉾が戸惑うように震える。被害を減らすために、水の元素を地上へと還らせるか? いや、その瞬間、攻撃対象を変えた日輪の輝きが天空の都を焼き尽くす可能性もある。それよりも先に、この不届き者を金剛杵で貫くか? いや、それよりも早く、枷を失った莫大な熱量が地上に降り注ぐことになるだろう。

 

「――それでは改めて、インドラ。アナタを脅させていただきます」

 

 請われなければ動けない創造神、化身を地上へ送り込んだままの秩序神では対処できない。

 そして、破壊神はその性に従って人形による地上の破壊を肯定するだろう。下手すれば、そのまま現在の世界を薪として、新たなる宇宙の開闢を開始される恐れすらある――それだけは避けなければならない。

 

 そうしたインドラの葛藤を素知らぬ顔で受け流し、人型であった炎は涼やかに声を響かせる。

 地上に生きる生きとし生けるもの全てへと慈愛に満ちた微笑みを向けるその一方で、躊躇い一つ含まぬ清らかな声音のまま、これから万象を焼き尽くしてみせようと無慈悲な宣告を告げるのだ。

 

「このまま地上に太陽を激突させたくなくば、ワタシの要望を一つ呑んでいただきたい」




《後書という名の考察》

 昔から不思議だったのは、どうしてインドラの子たるアルジュナは三男なのか? そして、法神ダルマの子供が長男なのはなんでかなぁ? でした。そして、随分と悶々としていたのですが、人の心が神々から離れつつある今(マハーバーラタの物語はドゥヴァーパラ・ユガの終わり、カリ・ユガの直前)、改めて神のもとに立ち帰らせることを目的とした地上の梃入れのためだと考えると、悪の元凶たるドゥリーヨダナ一派がいなくなってからがユディシュティラの本分を発揮すべき時なのですよね。

 そう考えますと、本編時間軸(まだ大戦争の始まりこそ予期されつつも、始まってすらいない状態)で神々はその手駒たるパーンダヴァの子供達を失うわけにはいかない。なので、ワタシ・アディティナンダの要求を飲まざるを得ない……という状況に陥っても不思議はないだろう、と。

そして、ワタシ・アディティナンダが地上に派遣された目的については最悪カルナの魂さえ残っていれば達成できるので、俺・アディティナンダのようにその肉体の有無についてはさほど拘っておりません。そんな訳で、この脅迫は成り立つわけです。


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天界の談合<下>

大地への負担を減らすだけなら大洪水でも起こせばいいのに、どうして神々はこんなまだるっこしいやり方を選んだのだろうと不思議でしたが、要するにこういうことだったのかなぁ、と。

(随分と久方ぶりの更新でしたが、感想やお気に入り登録、評価などなどありがとうございました。
更新はゆっくり目になると思いますが、完結目指して頑張りたいと思います)


「…………」

「…………」

「……貴様が末の息子たちを、自らの手で傷つけるような振る舞いをするとは到底思えんな」

 

 無言のまま、ゆらゆらと水中の海月のように揺蕩う人型の炎。

 いつでもその首を穿てるように金剛杵を構えたインドラが慎重に言葉を紡ぐ。人が地上の蟻を目にした時、群体としてそれらを捉えることができても、個としての区別がつけられぬように、神もまた一部の例外を除けば、人間という存在を個体としてその目に移すことはない。

 

 だからこそ、その無慈悲な宣告はインドラを大いに戸惑わせた。

 この出来損ないの太陽神の人形が随分と特定の二人に思い入れがあるのは間違いない。それゆえに、禁を犯すことを承知の上で、わざわざ地上から天界にまで昇ってきたのだろうから。

 

「確かに――もう一人のワタシ(アディティナンダ)であれば、出来ないでしょうね」

 

 冷酷に、冷徹に。

 慈悲深き微笑みを浮かべたその口で、無慈悲なる神の理を人に押し付ける。かりそめとはいえ人間性を習得した表層意識では絶対に口にしない――神の都合で人間の運命を捻じ曲げる――そんな言葉を軽やかに告げる。

 

 そう遠くない将来に勃発する、神々の意図した大戦争で死ぬことも。

 今、この場で唐突にもたらされる地上への大災害の余波で死ぬのも――『死』という点で見れば同じではないかと宣う。

 

「――例え、太陽が地上に墜ちたとしても、あの鎧があれば問題ないでしょう」

 

 神々の光輝を体現する黄金の鎧。

 金剛杵の一撃すら防ぎ、所有者に莫大な恩寵を与える太陽神の鎧。地上の半神風情に与えるには過ぎたる力。だが、確かに、同じく太陽神の一部から造られたあの鎧であれば、日輪の一撃にも耐えうることだろう。

 

「仮に、カルナが命を落としたとしても大した問題ではありません――その時は、あの子の『魂』を回収して本来の使命を果たすまでのこと」

 

 だから、選んでください――と人型の炎は謳うように言葉を紡ぐ。

 地上に生きる一切合切の生命体、カルナもドゥリーヨダナも、パーンダヴァの子供達も――その全てを灰燼と化すことで大地の負担を減らすことを許容するのか。それとも、ワタシの要求を呑んで、今、この瞬間における彼らの延命を計るのか――どちらでも構いません。

 

 その要求に神々の王は押し黙るしかない。

 今、こんな横紙破りの荒技によって彼らを失うわけにはいかない――たっぷりの沈黙の後、深々とした溜息と同時に苦虫を噛み潰したような表情で受諾するしかない。

 

「…………貴様の要求を呑もう」

「はい。――それでは、アナタの言を持って、天界の総意とさせていただきますね?」

 

 ……これにて、世界の命運は定まった。

 大地の女神の悲痛なる訴えから始まりし、大いなる神々の陰謀。

 

 そのために地上という盤面に用意されたのが、駒としての五人の半神の王子たち(パーンダヴァ)に、その対を成す呪われし忌子(ドゥリーヨダナ)であった。しかし、今日、この時より世界の趨勢は天界の神々の手を離れ、地上に住まう人間たちの手へと委ねられることとなった。

 

「大した内容ではありません。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――それがワタシの要求です」

 

 ――――どの道、戦は避けられない。

 大いなる神々の示唆、天の代行者の暗躍、忌まわしき王子の欲望、蓮華の王妃への侮辱。

 あらゆる要素が複雑に絡み合い、縺れ合い、解きほぐすことは叶わない――であれば、せめて。

 

 ――せめて、彼らの選ぶ道だけは、彼ら自身のものであるように。

 無慈悲な神々が差し伸べた指先で、かよわき人々がこれ以上、神々の恩寵と言う名の気まぐれによって、翻弄されることのないよう、誓約という名の枷を科させていただこうじゃないか。

 

 どのような無理難題が飛び出してくるのかと身構えていたインドラが片眉を釣り上げる。

 

「……それだけか?」

「はい、それだけです」

 

 しかし、それだけのことがどれほど重要で、危うい均衡の上に成り立っていることか。

 天から人という群れを見るだけの神では気づかない――否、気づけない。地上にて神を気取る天の代弁者(アヴァターラ)は気づいていても気にしない。されど――地上に赴き、人間(じんかん)にて、個としての人間を見続けてきた者だからこそ、見えるものがあった。

 

 ――何故、神々は自らの手で地上の人間の数を減らそうとしなかったのか。

 かつてのように、地上に大洪水を巻き起こし、一度に人間を減らす手もあっただろう。秩序神が送り込んだ代行者にさせたように特定の階級の人間たちを絶滅の危機に追いやることとて無理ではなかったはずだ――それなのに、人の女との間に子供を作らせるような、回りくどい手段を取らざるを得なかったのか?

 

 答えは簡単。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――そのことを無意識に悟っているからこそ、神々は盤上遊戯を気取って大戦争を画策した。そうして、まっさらになった地上に神々にとって都合の良い支配を敷くための代理人としてパーンダヴァの子供達を送り込んだ。

 

 そしてそれ故に。

 彼の半身の子供達は神々にとって、今はまだ失ってはならぬ、必要不可欠な存在だった。

 

 ……ゆっくりと、そして密やかに。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――ひょっとすれば、地上の全ては人間の手に委ねられ、神々と人間とが永遠の決別を果たすことすらありえるかもしれない。であれば、神々による盤上遊戯に貶められていたクル族の大戦争の趨勢を人の手に返したことは後々、大きな意味を持つことになるだろう。

 

「――ただ、それに気づいたのはまだワタシだけでいい」

「……何か口にしたか?」

「いいえ、何も。お気になさらず――さて」

 

 小さく呟いて、人型の炎は全身に鎧のようにまとっていた白銀の焔を掻き消す。

 それを視認したインドラもまた、己が指先一つで操っていた全ての水の元素をあるべき場所へと還した。それにしても、心底、苛だたしそうな表情を浮かべている。

 

 たかが操り人形に過ぎない相手にしてやられたことが相当腹立たしいのだろう。

 それも致し方のないことだ。これだけのことを太陽神ならざる身が仕出かせば、勿論ただで済むわけがない。神々の王からの報復すらも覚悟の上での、下手すれば我が身を消されることすら織り込み済みで、天界の譲歩を引き出したのだから――だから、そう。

 

「貴様の要求は呑もう。だが、それはそれとして――――」

 

 インドラの眼光が真紅に染まり、ゆっくりと掲げた右手の上で紫電の槍が火花を散らす。

 いっそ優美にすら感じさせる動きで手首がしなれば、目に止まらぬ早さで放たれた槍がまっすぐに、中空へと無防備に浮かんだままの人型の炎の胸元へと吸い込まれていく。

 

 ――――ドン……ッ!!

 

「天界の総意に逆らい、忌み子に組した貴様にはそれなりの罰を下さねばならぬ」

「――っ、ああ、う、ぐあぁ………! 嗚呼、嗚呼嗚呼嗚呼――〜〜っ、っ!!」

 

 それまで重力の縛りに逆らい、虚空を漂っていた炎の胸元へ紫電を散らす神槍が突き刺さる。

 バチバチと凶悪に輝く紫の雷電が炎の華奢な全身を駆け巡り、苦痛の叫びを上げさせる。

 

 雪の降り積もった霊峰を想起させる玲瓏たる声音が奏でる絶叫をむしろ心地よさそうに浴びながら、神々の王は冷徹にその双眸を細める。

 

「うぅぁ、あああっ、あああ〜〜〜!! 

「太陽神の人形。此度の叛逆に対する罰として貴様の特権の一つを剥奪する。二度と、此度のような振る舞いが成せぬよう――我が許しなくば、天に昇ることは二度と罷りならんと知れ」

 

 絶対の宣告が告げられると共に、紫の雷光を纏った神槍が黄金の光となって大気に霧散する。

 

「――……ぁ」

 

 ――くらり、と。

 全身を奇妙に弛緩させた炎がそのまま、浮力を失ったことで急激に地上めがけて落下していく。

 懲罰を終えたことで関心を失ったインドラが片手間にナンダナの園を穿った孔を修復したことで、最早、天に住まう全ての視線から見放されたその先で、さながら――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――より太陽神に近しい眷属としてのワタシから、人間カルナの兄(アディティナンダ)へと。

 

 そうして、落ちていく。

 落ちて、堕ちて、眩い黄金の軌跡を蒼天に描きつつ、()()()()()()()()()()()()()()()()()




本作において、神々の目から見た人間=蟻。半神(五王子やビーシュマ、アシュヴァッターマン)=鳥。
ドゥリーヨダナ=ゴキブリ、といった感じで認識されております。

そんなわけだから、某ヴィシュヌの化身から「悪趣味!」と罵られても仕方ないよね。


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Character material①

断章をUPできて、そこそこ小出しにしてきた情報をまとめる必要があるかなと思いまして。
物語の語り部たるアディティナンダ【俺/ワタシ】に関する設定をまとめました。
以前UPしていた文に加筆修正を行ったものです。


■アディティナンダ(ロティカ/タパティー)

 

 …カルナの父方の血族(本人自称)。

 カルナの兄にあたり、本来ならば天上界にいるべき存在であると本人は己を定義している。

 

 カルナが川に流されて暫くもしない内に、境遇を哀れんだ太陽神であるスーリヤの手で地上へと送り込まれ、影でその成長を見守っていた*1

 

 かなり高位の神格を所持しているが、様々な事情で地上に堕ちた際に、人間の器に無理に押し込まれたため*2、様々な能力及びスキルがランクダウン。カルナさんの能力が戦闘力に全振りされているのであれば、この人はガッチガチの非戦闘民。身体能力は高くとも、戦う術を身に付けていない。基本、正面切っては戦えないし、英雄クラスの実力者相手なら人間相手にも負ける。が、太陽神の影響で戦車の運転だけは上手。

 

 カルナさんを探すための放浪中に天女(アプサラス)に惚れられたものの一蹴した事で*3、「(異性を)誰も誘惑できないように」という理由で呪いを受けてしまった。*4

 

 諸事情より末の息子たるカルナさんのために用意された存在であるため、行動の第一義は弟。

 自らへ向けられる悪意や攻撃は基本的にどうでもいいし、その瞬間こそ怒ってもすぐ忘れる。

 弟へと向けられる暴言にも腹立たしさこそあっても、まあ半分くらいはカルナの自業自得なところもあるので報復には走らない。ただ、その意思を誰よりも尊重しているので、それを無理くり捻じ曲げるような真似だけはやめてほしい。最近*5、そこにドゥリーヨダナが加わった。

 

 因みにアディティナンダというのはサンスクリット語で『太陽の息子』、ロティカは『太陽』。タパティーは神話に語られるスーリヤの娘である女神の名前*6を借用したものである。なお、そのいずれも()()()()()()

 

 本性は形持たぬ神。質量を得るほどの光と熱の集合体であるため、意思持つ宝具であるウルクの泥人形よろしく性別を持たぬ存在……の表層意識が、語り部たる俺:アディティナンダ。そのため、雌雄どちらの性別を模したところで生殖機能はない。異性に対する魅了特攻を誇る天女の誘惑を一蹴できたのも、本人が肉欲とは無縁の存在であったことが大きい。そんな彼がカルナの兄を名乗るのは、男の方が古代の人間社会において都合がいいから、その一点に尽きる。

 

 天敵はヴィシュヌの化身たるクリシュナ。共に人間を愛し、地上を愛し、その中でも特に唯一無二の存在としてカルナ(アルジュナ)を大切にしているが、致命的なところで考え方に差異がある。いわゆる同族嫌悪*7

 神格という点なら、純粋な神霊である分、アディティナンダの方が上。しかし、正面から戦えば秒殺されるレベルで力の差がある。かといって、下手にトドメを刺すと、小規模でも国の二つか三つが焦土と化すだけの被害が予期されるので、暗黙のうちに不戦協定を結んでいる。

 

 ――両手両足につけた金環は、四つで一つの神宝。

 形持たぬ神であるアディティナンダを、人の形に押し込める枷としての役割を担っている。

 同じ材料で造られたカルナの鎧の対になるような性能をもち、あちらが物理攻撃への防御特化であれば、こちらは非物理攻撃(呪いや災難)に対する鉄壁の防御を誇る。怪我を自然治癒する機能も付いているが、あくまでも副次的な機能に過ぎない。

 

 ただし、鎧同様に一定レベル以上の呪詛の場合、金環の力では遮断できない。

 とはいえ、アディティナンダ自体が人形(=呪詛の形代)としての性能を持っているため、自分以外の誰か(=主にカルナ)にかけられた呪いを自身に転写し、金環の力でそれを封じ込めることが可能。ただし、これはアディティナンダの性能と金環の力で封じ込めているだけなので、封じた呪いが消失するわけではないので要注意。

 

 封印具として用いるには、四つ全てが必要となるが、単一でも効力を発揮。神の血を引く者、あるいはそれに準ずるだけの神秘(=魔物など)が持てば、全ステータスの向上、幸運値アップ、呪詛の遮断、自動治癒効果を。そうでは無い者(=ただの人間)が所有した場合、最初は幸運を運んでくれる呪いのホープダイヤ的な事故物件と化し、最終的には、死に至らしめる。とはいえ、抜け道はあり、身に付けるのではなく側に置く程度であれば、魔除けや災難よけになったりする点では鎧よりも汎用が効くアイテムである。

 

これまでに発覚したスキル

 

・蠱惑の魔声

 …『魅惑の美声』の上位互換。同性・異性、人外問わずに効く。意志が強ければ遮断は可能。

 というより、人間の持つ意志を本人が尊重しているため、無意識にセーブを掛けている感じ。

 

・神変万化

 …男から女に、女から男に。神から人に、人から神に。定まらぬ形故に何者にもなれる。

 これの応用で、体の一部を他の形(例:髪で造った使い魔としての小鳥)にすることも可能。

 

・魔力放出(炎)

 …非戦闘民故に戦闘よりも日常生活に使用する。火種がない時に超便利とは本人談。

 因みに、アルジュナの最初の修行は、魔力放出(雷)で薪に火をつけることだった。

 

・炎神の眼(疑)

 …目に見える形での偽り、幻術や幻惑、変装を見破る。審判神としてのスーリヤ所以の能力。

 ただし、カルナさんとは違い、言葉による偽りや虚実の類は見破れない。

 

・神の形代

 …自分以外(主にカルナ)にかけられたあらゆる呪い(デバフ)を自分に封じ込める能力。

 金環で遮断できないレベルの呪いに対して用いられる最終手段。

 

■ワタシ:アディティナンダ

 …物語の語り部たる俺:アディティナンダの奥底で揺蕩う深層意識。俺:アディティナンダが、ワタシの動向を把握できないのは、ワタシ:アディティナンダの方が上位人格であるため。例えるのであれば、アディティナンダはお菓子の包装紙。神としての本性=ワタシ:アディティナンダは包み紙の中のお菓子である。

 

 ――本来、捨て子たるカルナを拾いに最初に地上に降臨したのは、こっちの人格*8。ただ、人々を翻弄する者、荒ぶる天災としての自然神の性質上、幼少カルナと接触することには成功したものの、色々あって幼少カルナのことを傷つけてしまう。

 

 神霊としては吃驚する程に良心的な為、その反省と後悔から、己の有する神としての資質の大部分を封じ込めてもう一つの人格を生み出した。それこそが俺:アディティナンダである。ワタシが神としての性質をほぼ封じ込め、自らを意識の奥底に閉じ込めたため、多少人外的な要素を残しつつも、俺:アディティナンダという矛盾した神霊(クリシュナ曰く事故物件)が誕生してしまった。

 

 因みに、俺:アディティナンダが全ての金環を失えば、全ての楔から解放されたワタシが完全な神霊として覚醒する=覚醒の余波で一国に値する領土が消し飛ぶ=俺:アディティナンダはついでに消滅する、という太陽の熱に耐えられるだけの防御力を誇る鎧を纏ったカルナくらいしか生き残れない惨状が生まれる。もちろん、任意で引き起こすことも可能。

 

 俺:アディティナンダがカルナやドゥリーヨダナとの交流を通じて人間的な情緒を育んだ事はワタシ:アディティナンダにも影響しているが、それでも、本来『■・■■■■』と呼ばれる存在の持つ神としての性質を一手に担っているため、思考はより人外的。カルナやドゥリーヨダナへの情を語ったその口で二人の死を招くことを平然と提案し、魂さえ残っていれば問題ないと断言するところはまさに神々の屁理屈。それでも本人が語っているように、よほどのことがない限りは彼らの意思を尊重する分、他のインド神霊に比べるとまだマシ。

 

 神々の大いなる陰謀への邪魔立てはその必要性を理解している故に邪魔はしないが、その勝者は何もパーンダヴァ側でなくても良いと考えている時点で十分に異端。それ故に『出来損ないの人形』と罵倒されても致し方のない暴挙をしでかしている。とはいえ、彼あるいは彼女の目的は神々のそれとはまた別にあるため、それもまた致し方のないことである。

 

 俺:アディティナンダ以上に一歩どころか百万歩ほど離れた位置から人間社会を傍観しているが、それでもカルナやドゥリーヨダナを特別視している。二人が望めばどんな願いだって叶えてやるつもりだが、肝心のカルナが無欲にすぎ、その主君であるドゥリーヨダナは神を嫌っているので、そう意味で頼られることは(ワタシ:アディティナンダにとっては心持ち残念なことに)ない。そして、この度断章に於いて、他の神々共々、自らにも誓約という名の枷を課しており、そういう意味での助力は今後一切発生しないことが決定した。

 

 

これまでに発覚したスキル

 

・絶佳の魔声

 …『魅惑の美声』の上位互換である『蠱惑の魔声』のセーブが外された状態。

 その気にならずとも、囁き一つで脆弱な人間の精神を崩壊させることのできる神の言霊。

 後述する『炎神の眼』と組み合わせれば、半神の精神も崩壊させられる(第五特異点ネタでユディシュティラに使用)。

 

・魔力放出(太陽)

…四肢の金環の封印を解除することで我が身を依代に太陽をその場に降臨させる(自爆)技。

 原初の女神ですら耐えれない高熱故に、巻き込まれた物・場所、神問わずに一切が焼却する。

 正直、攻撃対象よりも、巻き込まれる周囲の被害が甚大なことになるので、インドラ/クリシュナも下手に手出しできないという点で、傍迷惑な特攻である。

 

・炎神の眼(真)

…目に見える形での偽り、幻術や幻惑、変装を見破り、対象の犯した罪を見抜く。審判神としてのスーリヤ所以の能力。

視認した者が過去に犯した罪を暴くことができるので、上述の魔声スキルを併用すれば半神相手でも精神崩壊を引き起こす。

 

・日輪の祝福

…万物の庇護者としての太陽神の性質を体現するスキル。本編ではドゥリーヨダナに使用。

状況に応じてご利益の内容は使い分けることが可能だが、一度に一つしか祝福を与えられない。その儚くも強靭なその精神が誰にも歪められることのないように、という祝福を授けたが、その分、以降のドゥリーヨダナは誰にも自らの責任を押し付けることはできなくなった。

*1
と、本人は認識しているが、実際のところは少々異なる。カルナと暮らすようになるまでの彼の記憶はところどころ改竄されている

*2
神々により様々な制約が設けられている

*3
とはいえ、インドラの命令で送り込まれた天女であったため、彼女が真実、惚れていたかは不明

*4
因みに、この呪いの意図するところはアディティナンダの弱体化であったと本人は推測しており、インドラもそれを否定しない

*5
といっても第三章以降だが

*6
因みに、クル王国の御先祖様

*7
表現方法が異なるだけで根底は同じなので、断章①でアディティナンダが口にした通り「お互いの中身の腐り具合なら、団栗の背比べもいいところ」。

*8
現在未掲載のIFルートのシムランがワタシよりな性格なのはそのためだったりする




いやあ、設定考えるのって楽しいね!(本編進めなきゃ……!)


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