王道と邪道 (ふぁるねる)
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第一章 怒涛の三日間
交わる道


 

「いやぁ、まあ、これはこれで……」

 

 ーー本気でマズイことになった。

 

 どうせなら馬車や人の行き交う街道になんか出てしまった方が、何とかなっていたかもしれない。

 一文無しではあるが、 もう少し金銭感覚の近しい環境に身を置きたいというのは少年の純然たるささやかな願いだ。

 正確に言うのならば、少年は一文無しというわけではない。

 ポケットにある財布の中には英世さんが複数人シェアハウスしている程度だが、これが少年の全財力で間違いない。一高校生が持っている分には妥当な金額だろう。

 しかし、そんな現実的なお財布事情を鑑みても、少年が一文無しであるという事実は覆らない。

 なぜなら、この場所……この地域……最悪の場合この世界、と言った方が良いのかもしれない。ひとまず、()()では少年の持つ日本円はただの紙切れと金属の塊になりかねない。貨幣価値が全く違う可能性があるのだ。手の中の十円玉ーー希少な『ギザ十』など、誰に見せても頭にハテナマークが浮かぶことだろう。

 

 呆然と立ち尽くす少年は、もう一度確認するように周囲を見渡した。

 

 まず最初に目に入るのは、異様な雰囲気を醸し出す巨大な扉だ。見上げるほどに大きな扉は、取っ手だけでも少年の背丈はあろうかという程に大きいのだ。その上、扉全体に華美な装飾が多くなされているのだから、圧倒される。現代日本で平均的な暮らしをしているなら、これほどの宝飾を見ることは無いだろう。

 

 そして頭を更に天頂へと向けると、突き抜けるように高い天井が見える。落ちてきたら間違いなく下敷きにされて死ぬとしか思えないシャンデリア。しかもどうやらその灯りはガスランプや電球ではないらしい。何かしらの鉱石のようなものが光っているのが遠目に分かる。

 

 180度変わって真下、少年の踏みしめる地面は見慣れたアスファルト舗装された道路や、自室の万年床と化した敷布団ではなく、処女の血をぶちまけたのではないかと思えるような、真っ赤な絨毯が敷かれている。レッドカーペットである。そして少年が立っているのはそれが交差する場所。レッドカーペットの交差点である。

 

 通路の壁面には、ピカソやダリもかくやという一般人では理解できないレベルの芸術品が並べてある。さらに皿や壺などの骨董品らしき物も飾ってある。

 

 少年はその場から重い足を動かし、ピカピカに磨かれた大きな鏡の前に立って、自分の身なりを見直した。

 何度見ても特徴が無いな、と自分でも思う。

 安物のグレーのジャージを着ている、普通の顔に普通の肉体だ。若干鍛えている意識はあるので、だらしないということはないが、それでも普通の域を出ない。

 唯一特徴的な三白眼の鋭い眼も今や覇気が無くなり、ただの悪い目つきだ。

 

 この、明らかに高貴な身分の者が住んでいるであろう場所と、平凡代表のような自分のミスマッチ感をありありと感じる。

 

 そして急速に口の中が乾いていくことを実感する。

 

 このレベルの家……個人で持つクラスの邸宅ではない。恐らく城か、それに準ずる建造物。そしてこの過度な装飾から、ここが日本ではないことはほぼ明らかだ。少年の中二病時代の記憶検索エンジンをフル回転させても、こんな内装の建造物は見たことがない。

 

「日本はありえない……。装飾の豪華さからしてヨーロッパ圏か……? 最悪の場合は……」

 

 少年は自分の置かれた現状の把握が一番だと考え、目の前にそびえる巨大な扉を開けることに決めた。

 

 この先には何があるかわからない。

 これが少年の見ている夢で、扉を開けることによってまた別の見たこともない場所へと繋がっているかもしれない。

 はたまた現状を説明してくれる何かがあるかもしれない。

 どちらにしろ、変化はあるはずだ。

 

「よっこらせ、と」

 

 取っ手に手をかけて扉を押し開くと、見た目のような重さは感じずに、少年の意思通りに扉は素直に開いてくれた。

 

 そして少年が扉を開いた後に、最初に目にしたのは……

 

「……何者だ?」

 

 円卓に座る、美しい深緑の髪をした男装の麗人であった。

 

「…………」

 

 時が止まる。

 

 その代わり、彼女と少年の間に沈黙が流れる。

 

 少年はその麗人を前に言葉を失った。

 見たことのないほどに美しい女性。気品さを損なわない軍服のような男装。そして気高さを物語る顔つき。

 少年の意識はその女性に釘付けになってしまっていた。

 

 ゆえに。

 

「侵入者だ! 捕らえろ!」

 

 扉のすぐ横に立っていた甲冑を着込む男がそう叫ぶまで、自分がどんな部屋に足を踏み込んでしまったのかを理解しなかった。できなかったのだ。

 

 甲冑を着た騎士風の男達。

 円卓に座る男性達の服装。

 部屋の内部の構造や装飾。

 同じ人間とは思えないような美しさを持つ、男装の麗人。

 

 ここまで見てしまえば、少年は自身の置かれた状況が想像した最悪のパターンであることを理解した。

 

「異世界召喚ってやつか……」

 

 騎士風の男達に後ろ手に縛られながら呟いたことは、そんな言葉だった。



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詰み

 

「あー、それで、これから俺はどうなるんすかね?」

 

 少年は鉄格子越しにこちらを見下ろす騎士に、自分の進退を聞いた。この身の処断はどう下されるのだろうか。この場所がまたしても少年の最悪の想像を再現していたのだとしたら、それはもう絶望でしかないのだ。

 

 少年……菜月昴はありきたりな男子高校生と言っても差支えがないと自負している。

 少々……いや、まあまあ……というよりなかなかの登校不良であることも自負しているが、それはそれである。そのことさえ抜いてしまえば、そう、普通の男子高校生なのである。本来であれば大学受験を控えた高校三年生。受験勉強のために部屋に閉じこもってなければいけないような身分でありながら、現在スバルが閉じ込められているのは冷たく暗い、地下の牢獄であった。

 

 先刻、何やら偉そうな人たちが集まる、偉そうな会議の真っ最中に堂々と侵入してしまったスバルは、さすがに持ち前の空気の読めなさを発揮することもなく、顔を青くしたまま大人しくお縄についた。

 そしてあの部屋からこの罪人用の牢獄まで連行されていく間、この世界が元の世界とは全く別の異世界であることは、疑念から確信に変わった。

 

 会議をしていた部屋にいた連中は、そのほとんどが見たことのないローブを羽織った人間であったが、甲冑を着る目の前のいかにもな騎士や、入り口で軽く顔を合わせた牢獄を取り締まる看守長を見てしまえばわかる。

 看守長は……犬だった。

 いや、『犬』と一言で言ってしまうのは適切でない。

 人に限りなく近く、『犬』の要素を取り入れた人物だった。

 シルエットはほぼ人だし、服もちゃんと人用のものを着ていた。しかし頭部からは犬の耳がちょこんと乗っかっているのが見え隠れしていた。制服のお尻の部分には尻尾用の穴が空いているようで、可愛らしい小さな尻尾がぴょんと出ていた。唯一悲しい点があるとするならば、顔がブルドッグ混じりの人間なことか。ブルドッグはブルドッグの可愛さがある。愛嬌と言った方が近い。しかしそれに人間らしい鼻筋や目つきが少しでも入った瞬間に、なんだか不細工な顔つきになってしまったようだ。看守長という職業も相まってか、常に険しい表情をしているようにも見える。

 モフリストを自称するスバルではあったが、彼をモフモフしようとは思わなかった。

 しかし重要なのはモフれるか、モフれないかではない。スバルとしてはそこも重要ではあるが、優先度としてはそれ以上に前に持ってくるものがある。

 

 ずはり、看守長はスバル風に言うのならば『獣人』であるということだ。

 

『人』という括りで考えて良いとは思うが、犬としての性質がよく出ているのがわかる。

 元の世界にも『犬のような顔をした人』ならいるだろうが、こんなにも犬の血が入っているのだろうと分かる者はいないはずだ。

 恐らくそういった人種が存在するのだ。

 

 スバルはその看守長を前に約三十秒もの間、唖然としながら立ち尽くしてしまい、看守長を不快にさせてしまった。

 そのため、ここが異世界であることは間違いなしであると判断できたものの、牢獄内ではあまり囚人としての印象は良くないらしい。

 

 目の前の騎士も、俺の質問には答えずにムスッと見下しているだけだ。

 

「おーい、騎士さーん。てか、なんで騎士さんがここにいんの? 見張りって看守さんがやるもんだろ?」

「……」

「えー! シカトかよー! 無視は辛いぞ! 俺レベルになっちゃうと無視されてもしゃべり続けちゃうけどね!」

 

 空気の読めなさならナンバーワンと誇れるだけの、いっそドブに捨ててしまえばいいくらいの矜持なら持ち合わせている。

 しかしスバルは、わざわざそんなものを引っ張り出さなければならないほど、状況が切羽詰まっていると理解していた。

 

「騎士サマって気楽なもんなんだなー。ただ突っ立ってるだけだなんて。国民の血税を貰っておいて、やってることは誰にでもできることだもんなー」

 

 騎士をバカにしたような言葉を白々しく並べていく。端から見たらただの安っぽい挑発行為だというのは容易に分かる。ただこういうものは、相手の地雷を踏んでしまえばどれだけわざとらしくとも機能してしまうものだったりする。

 

「あっ、ごっめーん! こーんなぼろっちい屋敷に勤めてる騎士サマの給料なんて、そんなに気にすることないかー!」

「……黙れ」

 

 スバルを見下していた騎士は、ついにその重たい口を開いた。その口からは怒気が目に見えて溢れてくるようで、スバルは自分がけしかけたことながら、冷や汗を一つかく。

 しかし同時に、かかった、と内心ほくそ笑んだ。

 

 スバルの目的、それはこの騎士の口を開かせること。

 現状、手が縛られ、立つことはできるが閉じ込められている身である分歩き回ることもできない以上、自由に動くことができるのは口と頭だけだ。

 ひとまず情報が欲しいと考えたスバルは、目の前の見張りの騎士の口を開かせることにした。

 

「口を慎め! ここはルグニカ王国王都、その中枢だぞ!」

 

 最初の一言を吐かせてしまえば、後は勝手に出てくる。この世界について無知同然のスバルにとって、これほどの情報源は無い。

 スバルはにやり、と僅かに口を歪める。

 

「本来であれば、貴様のような下賎な者が足を踏み入れることは許されんのだ! 私は王城に常駐することを許された王国騎士団の……」

「そこまでだ」

 

 火に油を注いだかのように、勝手にヒートアップしていく騎士様の言葉を一言一句聞き逃すまいとすましていた耳に、凛と牢獄内を反響する声が響いた。

 そのたった一言で饒舌になっていた騎士は我に返り、開いていた口を慌てて閉ざした。

 スバルはチッと小さく舌打ちを打つ。

 ちょうどベラベラと色んなことを漏らし始めようとしていたところで、邪魔が入った。

 

 スバルは眼を凝らして介入者を目視しようとするも、小さな蝋燭一本しか無い灯りの中では、新たに現れた声の主は見当たらない。しかし、その声の質には聞き覚えがあった。

 先ほどの部屋。

 その部屋で最初に聞いた声。

 女性の声ながらも芯がしっかりと真っ直ぐ入っていることが感じられ、歪んでばかりいるスバルはあの後からその声をひどく羨ましく思ったものだった。

 コツコツ、と靴の音を響かせながらこちらに歩いてくる者の薄く伸びた影が牢屋内に映る。揺れる長髪の影に、来訪者の推測を確信に変える。

 

「王国騎士団の者がそうペラペラと自国のことを話すものじゃないだろう」

 

 澄んだ声と同時に、蝋燭に照らされた麗人はその姿を見せる。

 目を瞠るほどの美しさを軍服のような男装が包み込む様は一見ミスマッチのように思えるが、スバルが建造物と自分を見て感じたそれとは全く異質なものだ。

 彼女は女性らしい格好をすれば、それこそ深窓の令嬢のような印象を持つ雰囲気が出るはずだ。

 着こなし方が違うのだ。

 生じる違和感を際立てるのではなく、普通とは違う装束が引き出してくれる彼女の美しい一面が強調されている。

 

「っクル」

 

 騎士が彼女のことを視認するなり、最敬礼の構えをとった。そして何かを口にしようとした瞬間、それを遮って、

 

「ほら、口を閉じろ。それも自国のことだ」

 

 突風が吹いたかのように、騎士の言葉に突き刺さる。

 

「……はっ」

「もう良いぞ。下がっていてくれ。私はこの男に話がある」

 

 彼女がそう言うと同時に、騎士の足が優しく風に押されたように自然と後退するように動く。

 騎士が完全に消えたことを確認してから、彼女はスバルのことを見下ろした。

 

「はっ、なんだ。人生最後の会話が美少女になるなんてな。冥土の土産ってやつ?」

「……自らの置かれている状況は理解できているようだな」

 

 彼女がスバルを見下ろす目はあくまで冷ややかだ。そこに温情だとか、そんな生温いものはない。

 

「一応聞いとくけど、俺を釈放しに来たとか、期待しても?」

「ない。貴様の処遇はすでに決定している」

「ですよねー」

 

 淡すぎる期待はすっぱりと切り捨てられる。もとより望みの薄い期待だ。落胆することもない。

 スバルは自分の置かれている状況を、冷静に分析することができていた。それゆえにこの先の展開も粗方読める。

 

 まずスバルは気付けばこの異世界に飛ばされていた。この時点が問題にすべき最大の点には間違いないのだが、状況は変わってしまった。

 

 スバルの見張りをしていた騎士が口を滑らせた結果、この豪華絢爛な建造物は聞いたこともない王国の王都、その中枢であるはずの王城であることを理解した。

 

 ただでさえ一般人でも入ることはできない王城内に、突如現れたのは珍しい黒髪に珍奇な格好をした男。

 そしてその男は、王国内でも権威あると思われる者たちが集う会議室にふらっと介入してしまう。

 

 王城内の侵入。この時点でスバルの身はこの国の法を犯している可能性が高い。その上、わざわざ罪を犯した身を、その場で裁ける者たちの前に晒したのだ。

 ここが異世界だと言うのならば、社会的に保護されているはずの学生という身分を主張したところで意味はないし、この身に価値は無いと即決できるほどの一般人だ。どうせこの後、打ち首あたりが妥当なところだろう。あの場で騎士に切り捨てられなかったことが唯一の救いだ。貴族風の彼らに返り血が飛ぶのを嫌がったか、王城を血で汚すと後々の始末が面倒になったとか、そんなところだと思う。

 

「それでも俺は諦めが悪いことで地元じゃ有名でね。君がこの場にわざわざ現れたことの意味を知りたい……とか思っちゃったり?」

「ふむ。頭の回転は悪くないな」

 

 断頭台へのカウントダウンを待つスバルの元へ、こんな高貴な人間が時間を割いてまで会いに来る必要があるだろうか。何か意味があるのではないだろうか。彼女の来訪はスバルにとって一つの光明であった。

 

「当家は今、人と物を集めている。貴様は大胆にも親竜王国ルグニカの王城に侵入した挙句、賢人会の会合へと介入するだけの豪胆さを見せた。私が罪人を匿うという、家名を汚すことも辞さないほどの価値を貴様が見せることができれば、賢人会との交渉も検討している」

「なーるほどね」

 

 スバルは目の前の麗人の言葉の間違いを指摘するほど阿呆ではない。

 まず第一に、スバルはこの王城に侵入したのではなく、気づいたら召喚されていたこと。

 第二に、スバルはあの部屋が『賢人会』という大層立派な集まりの会合の場であったことなど知らず、ノックも忘れ扉を開けてしまっただけで、大きな覚悟があって開けたわけではないのだということ。

 しかしスバルの行動が相手の勘違いで高評価されたのなら、これを活かさない手立てはない。

 

「確認だ。君には既に決定された俺の処断を覆すだけの発言力があるのか? 悪いんだけど、俺とそう年が変わるようには見えない」

「当然の疑問だな。もちろん私の一言で全ての決定が覆るわけではないが、賢人会に一考させるだけの力は持っていると自負している。……王都に住まう民草であれば、私の名も知られているものと思っていたが。まだまだだな、私も」

「なに、有名な人なの? 俺田舎もんだから分かんねえんだよ」

 

 少しだけ肩を下げて落胆する彼女に、スバルはあまり意味のないフォローを入れてみる。

 目の前に立つ人物が有名人だとしても、それを知る術はスバルには無いし、なんならこの世界については何も知らないまである。例えばここが王城だとするのなら、この城に住む人間は誰なのかだとか。

 

「カルステン公爵家当主、クルシュ・カルステンと言えば通じるだろうか」

 

 スッと、少しだけ背筋を伸ばして名乗り上げた彼女からは、何か言葉にできないような圧倒を感じた。背丈はスバルとそう変わらない。それなのに、スバルには彼女が自分よりも大きな存在に思えてしまう。

 

「……すまん。公爵ってのが偉いのはわかるんだけど」

 

 とは言え、家名と名前を言われてもいまいちピンとこない。公爵……というのは貴族の位か。王族に次ぐほどの高位だとは思うのだが、現代日本に暮らしていたスバルにとって貴族制度などそれこそ創作の中での話なので、ほぼ無知である。

 

「……貴様、生まれは何処だ。王国生まれだとしても、かなりの辺境出身だろう」

「テンプレ的な答えだと、たぶん、東のちっさい国からだな!」

 

 待ってましたとばかりに顔を輝かせて答える。異世界転移したならやりたかったことの一つだ。異世界のお約束として、極東の島国にはカタナとかタタミとか、日本風の物が独自の発展を遂げていることがある。この世界にも、そんな展開がきっとあるはずだ。

 

「……ここルグニカは大陸の東の端の国だが」

「まじかよ! ここがキョクトウ!? 全然ジャパニーズ感無いよ!?」

「ここよりさらに東となると、大瀑布の向こうから来たということになる。あの滝の向こうに土地があるのならばだがな」

 

 ファンタジーのテンプレ中のテンプレを外されてスバルは項垂れる。騎士、王城、獣人、貴族、男装美少女とこれだけ垂涎もののファンタジー要素を揃えておいて、日本風極東の国が無いとは神も残酷なことをしたものだ。

 

「えーっと、じゃあその大瀑布の向こう側ってことでいいや」

「大瀑布の向こうからやってきた、と嘯く輩はたまに居る」

「ほっ、本当か!?」

 

 夢のジパングは実在するのか!

 

「しかし、そのすべては妄言者だ。言葉を交わす時間が無駄。取り合う必要は無い輩だ」

「ーーっ。お」

 

 クルシュはスバルが大瀑布の向こうから来たと言った瞬間に、わずかに瞳に残していた好奇心の色を失わせ、嘆息をついた。

 

「……何かあるとは思っていたが、あの豪胆さもただ気が触れていただけか」

 

 スバルに背を向けたクルシュは、そのままツカツカと暗い牢獄の中を歩き始める。

 

「おい! 待てよ!」

 

 スバルは離れゆく光明を掴まんと手を伸ばすが、それは堅牢な鉄格子に阻まれる。無情にもこちらを一瞥もせず、クルシュは救いの手を求めるスバルに一言呟いた。

 

「貴様は罪人だ。公爵家当主、そして此度の王選、その王候補に働いた不敬。公的に王城侵入の罪に被せる気はないが、十分にその身の罪を洗い流せ」

「おい! 待ちやがれっ! 勝手に期待して、勝手に失望してんじゃねえよ! 俺の名前も聞かねぇで、お前の物差しで計ってんじゃねえよ!!」

「貴様の名など、覚えておく必要は無いだろう」

 

 最後の一言を漏らして、クルシュは完全にその場から姿を消した。

 入れ替わるようにこちらに歩いてくるのは、今度こそ騎士ではなく看守だ。

 スバルは見えていたはずの糸を手繰り寄せることができず、切り落としてしまった。クルシュは、異世界転移をして早速詰んでいたスバルに千載一遇の救いのチャンスを与えたが、スバルはそれをつかむことはできなかった。おそらくこれが最後の機会だった。

 あの場で、クルシュに対し己の価値を叩きつけ、匿ってもらうことができたのなら、スバルの運命も大きく変わっていたかもしれない。

 しかし現実は、クルシュのお眼鏡にはかなわず、断頭台へゆっくりと向かうことに当初の予定から変わりは無い。

 突然の変化に次ぐ変化。

 それについていけなかったことを、スバルの事情を知るものであれば咎めることはできない。だがその中で機転を利かせなければならなかったのは事実だ。

 

「ああ、もうダメだ……。終わった。死んだ。どうしようもない。クソだ。世の中クソばっかだ」

 

 結果、スバルは延々と石の牢屋に頭をぶつけるだけの機械となっていた。

 悔恨に次ぐ悔恨。己の無力をここまで呪ったことは他に無い。

 時間が経つにつれ、スバルは結局のところこういうような流れを汲むのだと理解した。

 クルシュの望むものを理解し、自分を売り込もうとしたところで、スバルには他人に自慢できることはこれといってない。手先が器用であることや、木刀をちょっとばかし振れることを自慢したところで、小学生のそれとなんら変わりない。芸のない犬……それも曰く付きなのだから、スバルがどんなアピールをしたところでクルシュが拾い上げることはない。

 つまるところ、異世界召喚された時点で、スバルの異世界生活は詰んでいたのだ。

 

「くそっ、くそっ」

 

 牢屋の隅の石壁をただほじくるようになったスバルは、悪態を吐く元気だけが残っていた。自分を省みる前に他人のせいにすることに定評のあるスバルは、異世界召喚されてから最も長く言葉を交わしたクルシュに対し、恨みつらみの数々を述べていた。

 

「あいつ……ちょっと偉いからってなんだよ。人を小馬鹿にしたような言い方しやがって。少し顔が綺麗だからって調子乗りすぎなんだよ。

 それになんだ? 俺が妄言者だってか? そりゃあ一端の男子高校生ですし? 妄想のいくつかはするだろ。あいつも俺の妄想の中で何やかんやしてやろうか」

 

 スバルは時折顔を赤らめながら、そうやってクルシュに対する恨み節をブツブツと呟いていくのだが、その一つ一つに覇気はない。

 ナツキ・スバルはクルシュ・カルステンを恨めしく思っている。

 このことに間違いはないのだが、もう一つ、ナツキ・スバルを悩ましていた一つの思いがその心にはあった。

 

 クルシュ・カルステン。

 彼女とナツキ・スバルは全く違った人種であった。

 彼女は生まれながらにして高貴な血の下に生まれ、天賦の才に恵まれていた。そして決してその才能に溺れるようなことはなく、自らの信じる道を努力しながら進んできた。実直かつ誠実な人柄で人民を従えるカリスマを持つ彼女の歩む道は、まさに正道、王道だ。

 一方のスバルはというと、一般家庭に特に才能もなく生まれてきた。しかしその点に関しては不満はなく、それどころか菜月家の子供として生まれてきたことは、クルシュに負けないほどに誇りに思っている。

 しかしスバルは大いに失敗した。

 その失敗は実は、つま先をひっかけて転んだ程度のものだ。

 もしクルシュ・カルステンが同じような失敗をしたとしても、すぐさま立ち直り、目の前に続く道を歩き始めるだろう。

 しかしナツキ・スバルはその道に背を向けた。

 その場でうずくまり、団子のように丸くなって動こうとはしなかった。

 その道は乗り越えることが困難な障害がいくつもあるはずだ。しかしスバルはその障害の中の一つ、それも小さな小さなものに躓いただけで進むことをやめた。

 堕落に浸り、惰眠を貪り、それを自覚しようとも何かをなそうとはしなかった。それがナツキ・スバルの17年のすべてである。

 

 己の信ずる道を確固たる自信で歩き続けるクルシュ・カルステン。そのことを仔細に理解することはできないが、スバルには彼女の才能と努力と裏打ちされた自信に感じ取った。

 そして、自らの人生と比較してしまったのだ。

 クルシュと自分に対する悔恨、羞恥、羨望、嫉妬などありとあらゆる黒い感情が渦巻くのをスバルは感じた。

 

 そうしてナツキ・スバルは斬首の時を待ち続けた。

 

 

 



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初めての

 

 かくしてナツキ・スバルの処刑の日は訪れる。

 

 運命の日は、王城内をにわかに賑わせた侵入者騒ぎ、その二日後のことである。

 現行犯での逮捕かつ、罪人が罪を認めている以上、ややこしい手間と手続きを取る必要はなかった。この半年、慌ただしく動き続けている王城の真っ只中で起きた事件だ。そう無駄な時間はかけられない。

 

 尋問官は、ナツキ・スバルと名乗る珍妙な格好をした黒髪の少年の素性をついぞ明かすことはできなかった。この二日間、彼は尋問に「ニホン」だの「コウコウセイ」だのと意味不明な言葉を羅列し、尋問官を大いに困らせたものだ。

 彼によってもたらせた問題は、他にもある。

 彼の知能指数や身体能力、魔法の素養などを調べていると驚くべきことが発覚した。

 言葉を話すことはできるが、文字が全く読めない。そのくせ、いくらかの金をもたせてみれば「なんだこりゃ」と言っていたのに数度のやり取りで聖金貨、金貨、銀貨、銅貨の凡その価値を当ててみせた。西の『カララギ』出身であれば、金勘定から教え込まれることもあるだろうが、それにしても知識が偏りすぎている。一体どんな教育環境に置かれていたのだろうかと、一時話題になったくらいだ。

 身体能力は一般人と遜色ない。筋肉の付き方が仕事によるものではないことを鑑みるに、訓練によって付けたものと考えられるが、王国騎士団や傭兵団などの戦闘を主にする者たちと並べれば三回り程度は見劣りしてしまう。

 魔法の素養もほぼ無く、適性属性が珍しい陰であること以外は特徴がない。

 言ってしまえば、特別な環境にいたはずなのにこれといった取り柄のない極々普通の一般人であった。

 

 しかし侵入された側としては、それが問題になった。

 

 ただの一般人に王城への侵入を許した王国騎士団は警備の杜撰さを浮き彫りにされ、その非を問われた。ルグニカ王国騎士団団長マーコスはこの件に際し、騎士団の怠慢を認めざるをえなかった。騎士団内の王城警備の厳重指導を行い、自らにも重い責を科した。

 

 一方、そんなここ二日で起こった城内の混乱ぶりを聞かされたところで、当人であるナツキ・スバルにその全ての引き金を引いた意識はない。

 そもそもスバルは城内に侵入したわけでもないし、賢人会とやらの会議を盗み見たり、要人の暗殺を目論んでいたわけでもない。コンビニ帰りに意識が朦朧とした直後、気づいたら王城内に召喚されていたのだ。どうしようもない。

 

「俺は無罪だ!」

 

 ナツキ・スバルはクルシュ・カルステンとの面会を終えた後、生気の抜けたような状態が長らく続いたが、漸く正気が戻ったようで、最初の罪を認めていた態度を翻し、典型的な犯罪者のように手錠に嵌められた両手を持ち上げて、ひたすらに無罪を主張し続けた。

 

「おめぇ、最初は認めてたじゃねえか」

「俺はただのニホンのコウコウセイだぞ!? コンビニ帰りにこんなところに飛ばされて、意味わかんねえのはこっちだ! 早く出してくれ!!」

「コンビニって何だ?」

「コンビニってのはコンビニエンスストアの略語でな、主に二十四時間営業してる雑貨屋だ。飲みモンや食いモン、生活用品に催事のチケットまで買うことができるんだよ。非行少年の聖地だ……ってそんなことはどうでもいいんだよ! 出せ!」

 

 看守はスバルの叫びを適当にいなし、処刑の時を待ち続けた。暗く冷たい牢獄はいつも静かだ。たまにはこういう騒がしい奴が入ってきても悪くはない。ただあまり騒がしすぎても、他の罪人を刺激してしまう。そろそろ消えて欲しいとも思っていた。

 

「ナツキ・スバル。出ろ」

 

 お迎えの時だ。

 見張りとは別の看守がスバルの牢屋の鍵を開ける。

 スバルはその間も無罪を主張し続けたが、看守はスバルの主張に聞く耳を持たない。

 乱暴に掴まれた腕を振りほどいて逃げてやる! っと思ったがスバルなどの腕力では看守の拘束を振りほどくことは容易ではなく、大人しく付いていくことしかできない。

 

「クキキ……。カルステン家に見放されたガキか。良い気味だぜ。だがあんな小娘の飼い犬になるくらいなら、おりゃあ死を選ぶね」

 

 牢獄の中を半ば引っ張られるように歩いていると、通路右手の牢屋からくぐもった声が聞こえてくる。

 ちょうどスバルの入っていた牢屋の斜め前の牢屋だった。

 

「……おっさん誰だ」

「おりゃぁ……」

「黙れ!」

 

 スバルはその男に名前を問うが、男が答える前に看守がそれを断ち切る。男はそれで黙ってしまうが、スバルにとって男の名など知ったところでどうということはない。どうせ聞いたところで知らないだろうし、この後すぐに死ぬことになるのだ。関係はあるまい。

 

 だがすぐに死ぬと言ってはいるが、スバルにこの先の運命をただ受け入れるつもりは毛頭ない。嫌なことから背中を向けて逃げることに関しては一家言あるつもりだ。

 

「看守さん」

「……」

「また無視かよ。ここの人、コミュ障しかいねえな……」

「……」

 

 スバルがどんな問いかけをしようとも、目の前を歩き続ける看守は沈黙を保ち続ける。その態度に文句が湧かないわけではないが、スバルは確信を持ってこう告げる。

 

「あんた、()()()()()()()()()だろ」

「……」

「沈黙は肯定と取るのは昨今のお決まりなんだよなぁ」

 

 考えてみれば当たり前の話だ。

 看守が斬首刑の迎えに来るのは別段おかしくないが、それが()()というのはあまりにおかしい。

 王城侵入という死刑が即決されるような重い罪を犯した者。たとえ検査によってその能力が凡庸であったとしても、警戒するに越したことはない。だのにその護送役が雑兵一人とは考えがたい。

 まるでこの違和感に気付いてくれと言われているかのようだ。

 

「……」

「なんとか言えよ。まさか助けに来てくれたとかじゃねえだろ? 同郷とは思えねえ。地球の奴が来るんなら、俺の親父がいの一番にすっ飛んでくるはずだ。それに見ず知らずの奴が助けてくれるような身でもないはずだ」

 

 スバルが最も尊敬し憧れる人物、父・菜月賢一はスバルがこのような状況に陥っていることを知ったら、即座に駆けつけてくれるはずだ。彼はそういう人物だった。

 

「……いん……じを」

「はぁ? こっち見てはっきり話せよ。人と話す時は目見て話せって親から習わなかった?」

 

 かく言うスバルは長い引きこもり生活のおかげで、まともに人と話せなかったりする。ここまで何とか口が回るのは、この異常な状況についていこうと必死だからである。

 だんまりをやめて、ようやく喋るのかと思いきやボソボソとしか声を発さない態度にイライラして、スバルが先を歩く看守の背中を蹴り飛ばしてやろうと思った瞬間ーーー至近距離で雷が落ちたような、空気を割る轟音が鳴り響いた。

 

「な、なんだ!?」

 

 牢獄の壁の向こう側で、それも遠いところで何か大きな衝撃が発生した。わかったのはそれだけだ。

 

 轟音に続くのはさらなる轟音。

 連続して放たれる音は牢獄の内外を仕切る石壁を越えて、スバルの身を叩くような錯覚に陥るほど大きな音だ。

 

 ボロボロと石壁と天井から破片が落ちてくる。スバルは頭を庇いながら、こんな状況でも未だに前を向き続ける看守の背中に向かって叫ぶ。

 

「どうなってんだよこれ! お前がなんかしたのか!? こんな所いたら瓦礫に埋もれて死ぬぞ!」

 

 造られてから何年が経つのかわからないような牢獄だ。今すぐに崩れてもおかしくはないだろう。こうしている間にも轟音は続く。

 

「てか……どんどん音でかくなってねえか!? つーか、近くなってる!?」

 

 音は大きくなっていくように聞こえるが、実際はその発生源が近くなっているようだ。衝撃によって最早牢獄全体が大きく揺れているように感じる。立っていることさえ困難になり、スバルは地面に四つん這いになった。

 

「お前は俺を守れ! 看守の格好してるんだから、そうじゃなくても振りくらいしてくれよ!」

 

 他力本願がモットーのスバルは素性の知れない奴でも力のありそうな奴には助力を求める。もとより自分の力なぞ信じてはいないのだ。

 目の前の看守()()()は立ったままだが、懐に手を入れなにやらゴソゴソとやり始めた。

 スバルはズシンズシンと一定のリズムで揺れ続ける床にへばりつきながら、その様子を見ていた。

 果たして看守が懐から取り出した物は、真っ黒な装丁が施された一冊の本であった。

 題名も著者名も無い。なぜ、今この状況でそんなものを取り出したのか、スバルには皆目見当がつかなかった。

 

「ああ!? ただの本じゃねえか! なんだよ! 防災マニュアルか何かか!?」

 

 そんなスバルの怒鳴り声は轟音にかき消される。看守もどきはそのまま本の表紙を一回、最愛の人を扱うように愛おしそうに撫でてから表紙を開く。

 全く理解できない文字の羅列が続くページをパラパラとめくり、中ほどのあるページで手が止まる。そのページは左側だけ文字があるが右側には無い。ページ中程で内容は止まっているのだ。そのページに指を這わせながら、看守もどきはゆっくりと振り返る。見えてくるその顔には表情が無い。怒りも焦りも、この場で持ち合わせるべき感情をどこかで落としてきたようだった。

 

「福音の……提示を」

「……は?」

 

 看守もどきはスバルに手を差し伸べる。

 それは立ち上がれないスバルに手を貸す、という意味では無いだろう。

 もっと何か、こう、求めるものをよこせと言っている。

 

「福音の提示を」

 

 その言葉だけを組み込まれたプログラムのように、抑揚のない声で目の前のそいつは繰り返す。

 

「福音の提示を」

「……知らねえよ」

 

 スバルは勿論そんなものは持っていないし、なんなら身ぐるみ剥がされた今、持っているものといえば意味のわからない状況と意味のわからない目の前の人間に対する怒りだ。

『福音』なんて呼ばれる物を持っていた覚えはないし、それが何を指すものなのかもわからない。

 

「福音の提示を」

「うるっせえよ! そんなことよりもっとすることがあんだろうが! まずはこの手錠を外せよ!」

 

 両手が拘束されていては、思うようにも動けない。

 そうこうしている間に衝撃は、ここに近づくように移動しているのが分かる。今にもスバルたちのいる場所に到達してもおかしくない。

 この状況は目の前の男にとっても誤算のはずだ。計画したのであれば、もう少し迅速に事を運ぶはずである。ならば敵か味方かもわからないが、協力する余地はあるはずだ。

 

「お前だって死にたくーー」

「ウルドーナ!」

「なっーー」

 

 壁の向こう。

 一枚を挟んでその先から何かが聞こえた。

 その瞬間、スバルのいる空間を大きな津波が襲った。いや違う。地表が大きく波打っているのだ。バリバリと剥がされた地表が捲れ、ひっくり返る。空中に投げ出され天地の境がなくなり、スバルは闇雲に体を動かしてみるが地面に着いていない人間の体の力など微々たるものだ。スバルはどうしようもなく、轟音を立てて襲い来る瓦礫の山の波を見ているしかできない。

 その意識と意識の間、開かれた視界に幾つかの影が見えた。それは複数の人影に立ち向かう一つの人影だ。その一つの人影が振り返り、突然開かれた穴を見定めた。そして再度、瞳と瞳がぶつかる。遠くにある琥珀色の瞳の中に、自分の映った姿が見える。スバルはその瞳に映る自分の姿が、大量の瓦礫の波に飲まれるのをただ見ていることしかできなかった。

 

「おい、待て。こりゃ死っーー」

 

 ガツン、とまずは大きな瓦礫がスバルの横腹を殴った。何かの石像だったのだろうか。やけに丸かったせいで身を切られることはなかったが、体の内側に響くような大きなダメージを与えられる。そんな痛みに苦悩する暇もなく、矢継ぎ早に全身に大小様々な瓦礫がぶつかってくる。

 

 皮がプチプチと容易く破ける。

 弾力を持った筋肉は瑞々しく弾ける。

 あらゆる骨は粉々に砕かれ、狭いところで閉じ込められていた血飛沫は歓喜しているようだ。

 

 五秒後には、最早スバルの身体は人間の形をとっていなかった。右腕は千切れ、左腕は潰れている。腹には大きな拳大の穴が空いているし、腰から下の感覚は消え失せて足の場所はどこなのかわからない。飛び散った血の量だけが目に見えてわかるスバルの生きていた証左だ。

 しかしそんな状態になりながらも、スバルの意識は奇跡的に数秒の間、活動することを許していた。

 

 スバルはその数秒で、理不尽さ、不条理さ、様々なことに対する悪態を吐くよりも前に、最後に目のあった琥珀の瞳を持った人影……クルシュ・カルステンはどうなったのだろうと気にかけていた。

 クルシュはスバルとは違う。

 重ねた年数はほとんど変わらないはずだが、その人生にかけてきた重さは違う。

 スバルには想像もできない努力を続け、修羅場をくぐり抜けてきたであろう彼女の価値は、おそらくスバルのそれと比較することすらおこがましいはずだ。

 そんな彼女もこの場所で死ぬのだろうか。

 死ぬのだろうな、と思う。

 牢獄はすでに元の姿が想像できないほどに崩壊しているし、これほどの規模の騒動だ。武装もしていない女性が一人、生き残れるとは思わない。

 この世界……いや、元の世界だったとしても大した価値のないスバルと同じように死んだとしたのなら、彼女が積み上げてきた人生の意味はどこにあったのだろうかと思う。

 ならばせめて彼女だけでも生きていてほしい、と死に際に思ってしまう。

 ハッと、自嘲する。

 ほんの少し、かすった程度の交わりだ。

 クルシュの道に、スバルという少しばかり色の珍しい小石が落ちていただけのこと。

 その石ころが道の安全を願うなど、身の程を知れという話だ。

 

 

 そして薄らいでいく頭の中ではっきりと死を意識する。

 初めての感覚だ。

 全身の神経が痛覚の限界を超えて、なにも感じることができない。フワフワとした浮遊感は、このまま天国に上るのではないかと錯覚させられそうだ。

 そしてゆっくりと、ゆっくりと、ナツキ・スバルはその意識を手放した。

 

 

 次の瞬間、ナツキ・スバルは死亡した。

 

 

 

 

 

 

 

「……何者だ?」

「ーーっは、あーー?」

 

 凛と響き渡る声が耳に入り込み、どこかに飛んでいた意識に手を伸ばし手繰り寄せる。

 スバルの視界には男装に身を纏った美しい女性が映っていた。見たことのある艶やかな深緑の髪に、見たことのある琥珀の双眸。鼻筋の通った顔つきは何度見ても美しい。

 

「侵入者だ! 捕らえろ!」

 

 その声に再び飛びかけていた意識を引っ掴み、引き寄せる。

 横から走ってくる騎士のような甲冑を着込んだ男に襲い掛かられるまでの間、スバルは呆然と立ちつくしていた。

 

「え? え? ーーどゆこと?」

 

 ボフン、と無駄にフカフカしたカーペットに身体を叩きつけられ、後手に拘束されながら、スバルは誰へ向けたのでもない問いを吐き出すので精一杯であった。



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二度目の対面

 

「あー、それで、これから俺はどうなるんすかね?」

 

 ナツキ・スバルの問いに、無愛想な看守は相変わらずその仏頂面を崩すことなく黙りこんでいた。

 騎士に取り押さえられたスバルが連れてこられたのは、冷たく暗い牢獄。入り口を含む前面は鉄格子に阻まれ、三方は固く分厚い石壁に囲まれている。

 

「どうなってやがる……」

 

 スバルがこの牢屋に放り込まれたのは、これで()()()である。

 騎士の男達に袋叩きにあって拘束されたのも二度目だし、情けなく王城の中を手錠に繋がれたまま歩いたのも二度目だ。牢獄の看守長が犬の獣人だったことなど、驚くこともない。これも二度目だったからだ。

 

 冷たい石床に胡座をかきながらスバルは考えていた。

 この場所に来るまでの出来事、そのすべてにスバルは経験があった。それも昔のことではない。体感ではおそらくたった二日程度前のこと。デジャブ、という現象が稀に起こることは知っている。しかしそれは一時のもので、こんなに何度も連続して起こるものではないだろう。

 まさか一連の流れが夢で、今起こっていることが現実でその夢を忠実になぞっている……いわば正夢なんてことはあるだろうか。

 

「いや、ありえない……」

 

 スバルは二日前から、つい先ほど意識がはっきりとするまでの間のことを思い出していた。

 その中でも最も衝撃的かつ印象的だった記憶だ。

 突如牢獄を襲った瓦礫の大波。

 地面を抉り取り、そのまま質量で押しつぶそうとしてくるそれは、スバルのことを巻き込みながら牢獄の中を蹂躙した。

 もちろんスバルに抵抗する術はない。

 状況を確認する時間など与えられなかった。理解する暇どころか、理解するための情報がなかった。

 大災害は前触れもなくやってくる。

 孤立した島国かつ地震大国である日本の出身であるスバルにとってそれは理解できていたことのはずだが、そんなことは実際に体感しないとわからない。

 自然が牙を向けてしまえば、容易に人間など滅ぼせるのだ。

 

 瓦礫の雪崩に巻き込まれたスバルは、全身がボロボロと表現するには優しすぎる状態になっていた。

 ボロボロと身体からパーツが外れていたという意味ならば、的を射ているとは言えるがそれすら合っているか危うい。それらを拾い上げてつなぎ直したところで、たとえ彼を溺愛する父・賢一でさえそれが我が子であるとは気づかないはずだ。

 身体の一部が消失する、という感覚は初めてだった。むしろ、身体の一部が奇跡的にも残ったと表現する方が正しいくらいだったと思う。

 兎にも角にも、あれほどの体験を忘れることの方が難しい。

 父の武勇伝ならいくらでも聞いたことがあるが、さすがに全身が離れ離れになる話を聞いたことはないし、地元の中学の不良でも精々タバコを咥えたとかそんなもんだ。

 

 全身が瓦礫によって打ち砕かれ、まさに死に迎えられようといった時、スバルの身に大きな消失感が襲った。

 ゾクリ、と半分以上が削り取られていたはずの背中に悪寒が走ったのだ。

 自分が消えてしまうという単純な、それでいて圧倒的な感覚は、スバルの脳裏に、そして魂に恐怖という名前で刻まれた。

 あの瞬間、死に迎え入れられる瞬間、あの感覚は忘れられない。できるなら二度と感じたくはない死の感覚。

 死とは怖いものである、という原始的な感情が噴水の如く噴き出した。

 思い出すと今でも全身が震えてしまう。身体が無事だとしても、魂に刻み込まれた恐怖は拭うことはできない。

 そしてそれを、ただの夢の出来事だと断ずることはスバルには不可能だった。

 

「俺はあの時、確かに死んだはずだよな?」

 

 あれだけのことがあって、誰かに助けてもらえたとは考えづらい。

 この世界に、魔法に類するものがあるかはわからないが、身体がぐちゃぐちゃになって、肉塊の内側と外側が全く判別できないほどの状態から、これほどまでに元通りに戻せるとしたならそれはあまりに万能すぎる。現実的に回復したとは考えない方が良いだろう。

 

 スバルの身体の状態、死んだと確信した後に意識がはっきりと戻った時、その時の周りの反応、その後に起こった出来事。

 

 あらゆることを加味した結果、スバルは状況を静観することに決めた。

 

 もし今、スバルが二日前に体感したと思われる事象をなぞっているというのなら、まだ猶予はあるはずだ。

 あの時、スバルの処刑の日に騒動は起こった。テロのようなものだろう。馬鹿なことをするものだと思う。

 だがそれはつまり、二日後まではスバルの身の安全がほぼ確保されているという意味だ。

 だからスバルは、この今日を含めた三日間を使って状況を見定めることに決めた。まずは一日目二日目は大人しく過ごす。周囲がどのように動くのかを観察する。そして三日目に行動を起こすのだ。

 

 そこまで決めたところで、牢獄の奥からコツコツと靴の裏が地面を叩く音が聞こえてきた。

 その音は徐々に大きさを増し、鉄格子に背を向けるスバルの後ろで止まった。

 誰なのかは見当がついている。

 これがもしスバルの知っている流れをなぞるものなら、スバルの元を訪問する者など一人しかいないからだ。

 

「もう良いぞ。下がっていてくれ。私はこの男に話がある」

「はっ」

 

 狭い牢獄の中を幾重に反響してもなお、凛とした声はその美しさを失われない。

 その声にスバルのことを見張り続けていた騎士は鎧をガチャガチャ言わせながら、奥の方へと消えていった。

 これでスバルを見下ろす来訪者。それに背を向けて胡座をかくスバルという構図が出来上がった。

 そう言えば騎士とのやりとりを忘れていたな、とスバルは思い出していた。

 スバルの記憶が正しければ、スバルの安すぎる挑発に簡単に乗っかった見張りの騎士がこの場所についてポロポロと零してしまう、というやりとりがあったはずだ。しかしすぐさまそれを阻むかのように、真後ろの人間が介入する。そうして彼女の登場となったのだ。

 まあ気にすることもない。大体の流れは踏襲しているし、彼女が騎士にかけた言葉も全く同じだった。

 

「ーーーーー」

 

 背後に立つ彼女は一向に喋り出す気配がない。黙ってスバルを見下ろしているだけだ。

 人が二人いる時の、沈黙が流れる時間ほど長く感じものはない。一秒は一分に感じるし、一分は一時間にも感じてしまう。長い引きこもり期間を経ることで対人スキルが大幅に削れてしまっているスバルにとって、沈黙とは苦痛と同意であった。

 くそ、なんで話し始めないんだ、とスバルは心の中で悪態をつき始めるくらいになってようやく気付く。

 そういえばここでの彼女との会話は、スバルの方から切り出していたのだと。

 

「はっ、なんだ。人生最後の会話が美少女になるなんてな。みゃい、め、冥土の土産ってやつ?」

 

 か、噛んでしまったーーーーー!

 くそ! なんたる失態!

 顔を見合わせていないのが幸いだ! なんたって顔から火が出そうなほどに真っ赤っかだからな!

 ここにきてコミュ力の無さが露呈してしまった!

 

 口からぽんぽん出てくる言葉ならそう噛むことはないが、頭の中でこの時はなんて言っていたかを思い出して整理してから発すると、どうしても意識してしまう。意識してしまえば噛んでしまう。スバルのコミュニケーション力はその程度だった。

 

「………………自らの置かれている状況は理解できているようだな」

「なんか沈黙長くなかった!?」

 

 あまりに長い沈黙は、スバルが噛んだ件をそのまま流すという意味のようだ。

 しかしスバルにとっては好都合である。

 ファーストコンタクトでの失態が、この後の流れを変えてしまう恐れがある。スバルはなるべく、前に体験したと思われる出来事を踏襲したいと思っている。

 

「一応聞いとくけど、俺を釈放しに来たとか、期待しても?」

「ない。貴様の処遇はすでに決定している」

「ですよねー」

 

 同じだ。

 スバルが記憶している会話と一字一句重なる。

 もはやこれを単なる偶然と片付けてしまうことは難しくなりつつある。

 ここまでの出来事、その重なりを無視することはできないし、このまま静観を貫いたとして違いが生まれるとは考え難い。

 その上でスバルはある決心をすることにした。

 

 それは()()を生じさせること。

 

 二日後、この牢獄は何者かの襲撃を受ける。

 単独犯ではなく、グループでの犯行だ。目的は定かではない。戦力の大きさもわからない。もしかしたら、ここ以外の場所も襲撃されていて、ここが主戦場ではなかった可能性もある。

 ただ、この牢獄が襲われることだけをスバルは理解していた。

 そして手錠や足枷によって身動きが取れない以上、この場にとどまるしかないスバルは必ず戦闘に巻き込まれる。自衛手段を含む戦闘力が皆無のスバルは、ほぼ確実に死ぬだろう。

 だから、()()を変える。

 それによって事態がどのように変化するのか。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。

 

 まずは一つ目の変化だ。

 スバルは今まで背中を向けていた相手に、今度は身体の正面を向ける。これでスバルとクルシュは対面する形になる。

 ……目にするのはこれで五度目か。

 そのほとんどが一瞬の出来事だったが、何度見てもこの麗人の美しさは変わらない。そして何より、スバルには彼女が眩しすぎる。彼女が輝いて見えれば見えるほど、スバルは自分の鬱屈とした影が強くなる気がするのだ。

 

「あー、君はなんで俺の元に来た? 君はおそらく……カルステン公爵家当主のクルシュ・カルステンだろ?」

「……ほう」

 

 クルシュは品定めするようにスバルのことをジロジロと眺める。

 一つ目の変化はこれだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という変化。

 元の世界から異世界に召喚されて、まだ一時間といったところか。体感としては三日か二日以上は経っているが、限られた時間の中でスバルがクルシュのことを知る時間はないはずだ。

 

「いかにも。私がカルステン公爵家当代当主、クルシュ・カルステンだ。貴様の名は?」

「……!」

 

 クルシュはスバルが自身のことを知っていても不思議がったりはしなかった。自分の名がある程度、市井に知り渡っていることを理解しているらしい。本当にみんなが知っているのかは怪しいところだ。

 しかし問題にすべき点はそこではない。

 体感で三日前、クルシュと交わした会話の内容が思い出される。

 

『「おい! 待ちやがれっ! 勝手に期待して、勝手に失望してんじゃねえよ! 俺の名前も聞かねえで、お前の物差しで計ってんじゃねえよ!!」

「貴様の名など、覚えておく必要は無いだろう」』

 

 思い出しても胃の奥が苦くなるような記憶だ。

 縋りつくスバルから離れていくクルシュは、ゴミを見るかのような目で吐き捨てるようにそう告げた。

 それは完全な拒絶だ。スバルとの交流の全てを拒んでいた。

 だから、名乗ることすら許されなかったスバルにとってクルシュからそのような申し出を受けることは、大きな衝撃となってスバルにぶつかってきた。

 

「……俺の名前はナツキ・スバル。右も左もどころか、上も下も、俺の行く先もここがどこなのかも全くわかってねえ。金もねえし帰る家すら……。ちょっと待て、俺って結構やばくね!?」

「身元不明で無一文。無知で無謀とはある意味恐れ入るものがあるな」

 

 現状を省みてスバルは己の窮地っぷりに驚く。能天気に捕まってはいるが、釈放されたところで頼るようなアテはない。

 そんなスバルをクルシュは哀れなものを見るような目で皮肉った。

 二つ目の変化だ。

 意図したわけではないが、スバルの名前をクルシュに伝えることができた。

 

「ナツキ・スバルか。貴様は罪人だが、私ならば貴様に救済の道を与えることはできる」

 

 その話ならば、大まかな話としては把握している。カルステン家は何か大きな事を起こそうとしていて、それには人手と物が足りない。スバルが一芸を持っていて、それをクルシュが欲したならば家名が汚名に変わることも辞さないという。というのもスバルの推測では、その汚名を挽回できるほどの何かを起こそうとしているのではないかと考える。

 クルシュはカルステン公爵家の当主にして……そう、王選の王候補だとも言っていた。その言葉の意味を知るには、この国の背景を詳しく知る必要があると思うが、クルシュは国の大きな利益になりうる何かを成そうとしている、ということまでスバルの思考は行き着いていた。

 

「カルステン家は今、人と物を集めてんだろ?」

「……む?」

「そんで俺に何ができるか、それを確認しに来たってわけだ」

「……」

 

 クルシュはスバルの言葉に対して、沈黙を選択する。

 二度目になるが、沈黙とは肯定である。

 クルシュが図星を突かれて黙っているのか、それともそれ以外の理由があってそうしているのかはわからない。

 そうしていると、スバルの前髪を小さく風が撫でた。

 こんな閉鎖されているような場所にも風が吹くのかと、不思議に思っているうちにクルシュがその口を開いた。

 

「どうやら嘘は吐いていないな。確信を持って言っているらしい」

「……うん?」

「して貴様、()()()()()()()()?」

「……」

 

 どこの陣営の者だ? だと?

 言っている意味がわからない。

 スバルは無宗教者だし、両親だってそうだ。人類が対立する場合、最も大きな枠組みで分けられるのが宗教だが、スバルは無所属ということになるだろう。

 

 さて、いよいよクルシュの言っていることはわからない。

 異世界で何かしらの派閥を作れる、または派閥に入れてもらえるような身分であればスバルはこんな場所でこんな無様な姿を晒してないはずだ。

 

「陣営……って何だ?」

「……嘘を吐いていない、か。何も知らぬ一般人のはずが当家についてそこまで知っているのでは、敵対陣営のスパイだと勘繰られても仕方ないだろう。許せよ、ナツキ・スバル」

「うん、これっぽっちも意味がわからん」

 

 一連の流れはスバルの理解の範疇を超えた者であることだけが、唯一スバルに理解が及ぶものだったりする。

 

「『風見の加護』という加護がこの身には備わっている。易く言うならば、嘘を見破れる。これを知らずに話すのも、心持ちが良くないのでな」

「……加護って何だ?」

「……驚いたな。貴様、無知を通り越して最早赤子のようではないか。時間が惜しい。察してくれ」

「了解」

 

『加護』という言葉自体はわかるが、この世界ではまた特別な意味を持つようだ。

 スバルは今まで溜め込んだファンタジー要素をひたすらに網羅、取捨選択していくことで近いものを選び取る。

 おそらく……生まれついた能力、神からの祝福とでも言おうか。才能の中でも目に見えて分かる才能のことだ。異能に近いもの、と判断する。

 つまりクルシュは、生まれついた時から嘘を見破れるようになっていたのか。

 

「オーケー。分かった。一言いいか?」

「構わん」

「それは反則だろ!」

「十分に承知している。だからこうして打ち明けているのだ」

 

 ふざけるな! と言いたいくらいだ。

 嘘を見破れる? ありえない! と叫びたい。それはもう、スバルの常識内の人間の域をはみ出している。

 どうやらこの世界の人間の力は、元の世界の人間基準で考えてはいけないようだ。一個人としての力が違いすぎる。

 クルシュが特別な人間であること。それはスバルにも何となくであるが、掴めていた。しかし実際にこうして目に見える形での才能を突きつけられると、ああやっぱり違うのだと実感させられる。彼女は生まれた時から世界に愛されているのだ。

 

「待てよ? 嘘を見破れるなら、俺の潔白も証明できるんじゃないか?」

「……ほう。どうやら本当に貴様は自分が潔白であると信じているようだな」

「分かるかっ? 『風見の加護』、流石だぜ!」

 

 クルシュはあっさりとスバルの言葉は真であると頷いてみせた。

 スバルは今知ったばかりの『風見の加護』に対して親指を立てる。グッジョブだ。

 こうしてスバルの無実が証明された。今にもこの牢獄から脱出できるはずだ。

 

「期待させてしまったのならすまない。貴様が潔白だろうと、有罪であることは変わらない」

「ははははは! 加護サイコー! いえー……い?」

「貴様が自分のことを無実だと思い込むのは勝手だが、実際に王城に侵入したという罪が流れることはない。そういうことだ」

「そういうことかー!!」

 

 なるほど、クルシュの言っていることは簡単だ。

 スバルが無実だと確信しているのは当然だ。罪の意識があって王城に現れたわけではないのだから。しかしスバルは王城に現れてしまった。犯罪は起きている。

 結局のところクルシュからしたらスバルは、「無罪だ!」と叫び続けているようにしか見えないのだから看守の見方とあまり変わらない。

 

「本題に移ろう。貴様は()()()()()()()()()?」

「どこまで、なんて言われてもな……。クルシュが……あ、名前で呼んでいい?」

「かまわん」

 

 横文字の名前は慣れない。家名に「卿」とな「様」とか付けられるような身分であるはずだが、スバルはこういう呼び方の方が慣れている。おそらくアニメの見すぎ、ラノベの読みすぎである。

 

「クルシュがカルステン公爵家の当主で、しかも王選? とやらの王候補なこと……。そんで何かでっかいことをやらかそうとしてて、それが国にとって利益になること……てとこか?」

「概ね間違いない……。それだけか?」

「……うん」

 

 クルシュに問われてスバルは記憶の隅までクルシュとの会話を思い出すが、クルシュに関してわかっているのはこの程度だ。

 

「一般人の知る範疇を僅かに超えている。他陣営の斥候だと考えるのが常識。しかしそれには明らかに人選ミスだ」

「人選ミスっておい」

 

 クルシュに敵対する人物の差し金でないことは、スバル自身がよく理解しているが、それでも人選ミスと言われることに少しばかりがっかりする。

 まあ無様に捕まったり、敵であるはずのクルシュの目の前に姿を現したり、不自然なほどに無知であるはずなのに、カルステン家の事情にほんの少しばかりの理解がある辺り、怪しさ満点だ。疑ってくれと言われているようなものである。

 

「貴様、何ができる?」

「できないことの方が多いけど、あえて言うのなら裁縫だな!」

 

 これでも手先の器用さには自信がある。

 人一人の規格がおかしいことになっている異世界で、スバルの手の器用さがどのように活躍するかはわからないが、家庭科の授業で「あら、菜月くん上手ね」と言われる程度だ。何の役にも立たねえな。

 

「……期待した私が悪いのか?」

「残念ながら、クルシュの望むような物は俺は持ち合わせてないよ。天衣無縫の無一文だって言ったろ。才能の方も無一文だから」

 

 残念人間すぎる。

 むしろスバルのどこに期待したのかと聞きたいくらいだ。

 

「ただ、一つだけ聞いておいてほしい」

「何だ」

「二日後、この牢獄は誰かに襲撃を受けるはずだ。クルシュにはそれを止めてもらいたい」

「……何を根拠にそんな可能性のないことを、寸分の嘘も交えることなく断言できる? ルグニカ王国の王都のど真ん中に攻め入る者なんていないだろうに。そんな狂ったこと、同じように狂った魔女教くらいにしかできまい。大罪司教の『怠惰』か『強欲』、その辺りが出てくるのならば話は別だがな」

「……その魔女教がどうとかはわからんが、頼む」

 

 スバルは自分が生き残ればそれでいいと思っている。

 スバルはクルシュならば、ある程度の人を動かせる力があると信じている。

 こうして注意喚起しておけば、何かが変わる可能性が出てくる。

 そしてそれに乗じて、スバルの扱いにも変化が起きてほしいと思っている。

 

 理想としては万全の状態でクルシュが襲撃者を迎え討ち、これを殲滅。その功績が王国に認められて称えられるが、その場でこの襲撃の報はスバルによってもたらされたことを告げる。そうしてスバルは釈放される、という流れだ。

 あくまで理想なのだからこの通りにいくとは思っていないが、せめてクルシュには襲撃を食い止めてもらいたいと思っていた。

 

「時間だ、ナツキ・スバル。良い獄中生活を過ごせ」

「だったらもう少し部屋の明るさとか改善した方が良いと思うぜ。あと飯がマズイ」

「それは貴様が捕まったことが悪いだろう」

「言えてるな」

 

 捕まらなかったら夜を過ごす場所もなかったし、飯も買えなかったことを考えるとこの場所も悪くはないのかもしれない。

 飯に関しては、日本食で舌が肥えまくっているというのもある。味付けが大雑把すぎて、カップ麺やスナック菓子を食べていたスバルでさえ辟易してしまうほどだ。

 

 クルシュはスバルのことを一瞥した後、長い髪に揺らしながら背中を向けて去って行った。

 スバルはそんなクルシュを眺めながら、何とか最低ラインはクリアしたのだと実感していた。

 

 ナツキ・スバル処刑、何者かによる牢獄襲撃まで、残り二日。

 運命のカウントダウンは止まることを知らない。

 



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その男、無知につき

 スバルは暇を持て余していた。

 四畳ほどの狭い牢屋の中では、暇を潰すようなことがあまりない。

 石壁をげしげしと蹴ったり、硬いベッドでゴロゴロと寝転がるだけだ。ご飯もまずいし、一日の楽しみがあまりない。せいぜい看守と駄弁る程度が遅々とした時間の進みを紛らわすものだった。

 

「お前、気楽なもんだな」

 

 約二十四時間が経っただろうか。

 暇が極まりすぎて石壁を使って倒立の練習をしていたスバルに、看守の男は声をかけた。

 

「明日にはお前、処刑されるんだろ? ここの看守歴も長いが、処刑前日に倒立してる奴なんて見たことねえ」

「んなこと言われてもやる事がねえからな」

 

 スバルの取れる行動はあまりに少ない。

 手錠や足枷は外してもらえた。クルシュの温情だという。そのおかげで多少の自由は利くが、牢屋の鍵はがっしりかけられてあるから拘束されていてもあまり変わらない。

 自由に動くものと言ったら口と頭だけである。

 

「なぁおっさん」

「おっさん言うな」

 

 看守のおっさんとは、それなりに仲良くなった。

 日の光の届かないこの監獄は、ただいるだけでも気が狂ってしまいそうになる。囚人は多いが、そのほとんどが静かに閉じ込められているだけだ。どうやらこの国の治安はあまり良いとは言えないらしい。何か時期や景気が悪いのかもしれないが、コソ泥や恐喝なんかの軽犯罪者が後を絶たないらしく、牢屋はそんなケチくさい不良じみた輩でいっぱいだ。

 そんな中で丸一日仕事をしている看守のおっさんは、犯罪者の中でも比較的まともなスバルのことを気に入ってくれたらしい。犯罪者の中でもって自分で言うの、なかなかにロックだと思う。

 おっさんには妻がいて、娘はもうすぐ10歳になるらしい。看守にあるまじきデレデレと緩んだ顔で話していたもんだが、心底どうでもよかった。だが、そこまで口を滑らせるくらいには気を許せているのだ。

 

「聞きたいことあるんだけど、魔女教って何?」

 

 魔女教というワードは、クルシュの口から初めて聞いた。宗教の一種だとは思うが、見当がつかない。

 そもそもの話、スバルはこの世界についての知識が乏しいにもほどがある。

 世界地図の形すらわからないし、文字も読めない。通貨も触ってはみたものの、正確に扱えるとは思えない。

 およそ生きるための術を有していなかった。

 今は情報が欲しい。初見の言葉はできるだけ知っておきたい。もし現在、()()()()()()()()()()()()()()()が起こっているのだとしたら、知識の貯蓄は最優先すべき事項の一つだ。

 そのためのおっさんの懐柔でもある。おっさんに懐かれてから思いついたことだが気にしない。策士スバルである。

 

「魔女教も知らねえとは、お前どこから来たんだよ?」

「大瀑布の向こうから……って言ったら笑うか?」

 

 クルシュに戯言だと一蹴されたことを言ってみる。大瀑布がどんな所で、その先がどうなっているかを見たことはないが通常であれば行き来できる場所ではないのだろう。

 

「笑いはするが馬鹿には出来ねえな。宮廷筆頭魔術師兼辺境伯のメイザース様は、魔法で空を飛べるらしい。飛べば大瀑布を越えることもできるんじゃねえか?」

「魔法! 魔法があるのか! まああるよな! 異世界だもん!!」

「いきなりどうしたよ……。大瀑布から来たなら魔女の封印の祠も知ってるだろうに」

「魔女の、封印の祠……?」

「なんだよ、まったく何も知らねえのか?」

 

 魔法、魔女、封印の祠。

 久しぶりにファンタジー的な単語が出てきたことに、スバルは投獄中の身であることを忘れて興奮する。

 

「今の時代で魔女っつったら、『嫉妬の魔女』のことだ」

「嫉妬の魔女って怖えな。魔女に嫉妬されるとか恐ろしいにもほどがあるぞ」

 

 萌え的な魔女なら良いんだけど、と心の中でつぶやく。意中の男の子の彼女に嫉妬して、彼女の飲み物に調合した毒薬とかを入れるお姉さん系の魔女だ。やっぱり怖いな。

 

「嫉妬の魔女は四百年前、世界の半分を飲み込んだ最低最悪の魔女だ。そんでそれを初代剣聖レイドと神龍ボルカニカ、賢者シャウラが討伐しようとしたが、封印するだけで精一杯だった。今は大瀑布の近くの封魔石の祠に四百年間ずっと封印されてるんだと」

 

 剣聖。神龍。賢者。

 また新しいワードが増えてきた。それもこれまで以上にファンタジー色の強いものだ。心が躍るな。

 そして、話が大きく飛躍したように思える。

 まず『嫉妬の魔女』とやら。

 世界の半分を飲み込んだと言うが、その所業はあまりに信じ難い。地球規模で考えても、世界の半分を占めた国に心当たりはない。スバルの記憶の範疇で史上最も大きい国は、モンゴル帝国やロシアなどだろうか。しかしそれでも、世界の半分には遠く及ばない。個人で世界の半分を飲み込んだ嫉妬の魔女、恐ろしいとしか言えないだろう。そしてスバルの認識している、この世界の個人レベルの力量の水準もさらに引き上げられた。

『神龍ボルカニカ』とは、単純に考えれば龍のことだろう。……いや、まさかなとスバルは心の中で否定する。いくらファンタジー色の強い世界だと言っても、さすがに龍が出てくるとは思え……ないよね?

 そして『剣聖』。

 字面から考えるにたぶん、剣がめっちゃ強い人。だいたい合ってると思う。

 

「そんで、その嫉妬の魔女を信仰してるのが魔女教ってことか?」

「そうだ。そして奴らには目的がある」

「……それは?」

「嫉妬の魔女の復活らしい。まったく、頭がイカれてるぜ」

「魔女の復活って……まじか!」

 

 四百年前からずっと封印されているというのも眉唾だが、そんな恐ろしい存在の復活を目指してるとは何ともおかしな連中である。たとえ魔女が復活したとして、自分たちが襲われるとは思わないのだろうか。

 

「魔女教徒はまじでイカれてるぜ。頭のネジが飛んでるなんてもんじゃねえ。まるで何かに操られてるみたいになっちまう」

「宗教ってよりも、集団催眠みたいだな……。見方によっちゃ宗教も似たようなもんだけど」

 

 あまりこの辺りの問題は突かない方がいいのかもしれない。宗教の話がタブーの国は多い。日本が特殊というだけだ。

 

「あいつらに限って言えば、催眠てのは正解かもしれねえ。というのも、ある日突然、魔女教徒になる見込みのある奴に『福音』っつー真っ黒な本が届くらしい。それには魔女の意思があるらしくてな、自分の未来の道筋が書いてある。そんでそれが届いたら最後、敬虔な魔女教徒の出来上がりってな具合よ」

「おい、ちょっと待て、『福音』だって?」

 

 新しい知識ばかりが蓄積されていく中で、一つだけ聞いたことのあるキーワードが飛び出してきてスバルは仰天する。

 スバルが死んだと推測しているほんの少し前、()()()()()()()()()がスバルに対して、「福音の提示を」と何度も呼びかけていたことを思い出す。『福音』という言葉は、そこで初めて聞いた。

 そして『福音』とは、真っ黒な本だという。あの看守もどきが懐から出した本は、真っ黒だった。つまりあの本こそが『福音』で、あの看守もどきが『福音』を所持していたということは、あの男の正体は『魔女教徒』だったということになる。

 そして開いたページには半分だけしか記述がなく、半分は真っ白だった。

 未来の記述がされているというのならば、彼の『福音』はおかしい。未来が記されていなかった。

 

「まさか、未来が無くなった?」

 

 彼の未来が白紙と化した……と考えるならつじつまが合う。

 なぜならスバルはあの瓦礫の雪崩に巻き込まれて、身体が粉々になったはずだ。それならばすぐ近くにいたあの男も、同じような末路を辿ったに違いない。

 あの時点で彼の未来は詰んでおり、『福音』によってそれは示されていた。そして新たな未来を探すために、スバルに対して『福音』を要求したということだろうか。

 

「いや、でもおかしい。何で俺が『福音』を持っていると思ったんだ? 俺は魔女教徒じゃないぞ」

 

 持っている物を持っているだろうと指摘される分には納得できる。だが持っていない物を持っているだろうと言われたところで、意味がわからないし、その物のことを全く知らなかったのだから、意味不明を通り越して相手の神経を疑う。

 魔女教徒にとって、スバルは魔女教徒だろうという確信に近い何かがあるのだろうか。

 クルシュや嫉妬の魔女、魔女教徒の話を聞いた後なので一般人代表を表明したいスバルは、自分に変なステータスが付くことを嫌っていた。

 

 しかし問題にすべきは、あの時この場所に魔女教徒がいたことだ。ここがどこかは正確にはわからない。だがルグニカ王国というどこかの国、その首都的存在である王都という場所らしいことはわかっている。王城からそれなりの距離を徒歩で移動したが、地図で見れば少しのはず。つまりここはルグニカ王国の中枢でなのだ。

 そんな場所に、明らかに頭のおかしい奴、それも複数人潜んでいる可能性があるとはぞっとしない。

 

「魔女教の襲撃……。なんでだ? どうしてそんなことをする……?」

 

 王城を落として王国を魔女教のものにするためか、それとも玉砕覚悟で成し遂げなければならないことがあるのか。

 

「くそ、情報が足りなすぎる……」

 

 スバルはあまりにも事を知らなすぎると実感する。

 王国の常駐戦力。

 魔女教の襲撃規模。

 互いの全容がわからないスバルには、どのような対策を取るべきなのかがわからない。

 

「魔女教の襲撃だって? おいおい、何言ってんだよ、ここに魔女教が来るってか?」

「……っ! そうだ! 詳しくは言えねえが、ここを魔女教徒が襲うんだ!」

「ははっ、何言ってんだよお前。王城にゃ王国近衛騎士団が常駐してるし、当代『剣聖』だって今は王都にいるんだぜ? そんなところを襲うだなんて、相当イカれてるぜ」

「当代『剣聖』?」

「初代『剣聖』の末裔さ。一度だけ見たことがあるが、ありゃ人間というよりバケモンの類だな」

 

 初代がいるのだから、今代の剣聖がいるのも道理だ。

 そして『剣聖』とやらは、力量の個人差が大きいこの世界でもトップクラスにいるらしい。

 嫉妬の魔女を封印した内の一人の末裔らしいので、なるほどそれは納得できる。そんな奴がいるのなら安心できるが、スバルは魔女教が奇襲を仕掛けてきて、それに『剣聖』が間に合わないことを確信に近いレベルで推測している。

 

「おう坊主。おしゃべりはここまでだ。じゃあな」

「……ん。あ、ああ。ありがとな、おっさん」

「おっさん言うな」

 

 看守のおっさんは見張りの交代の時間らしく、新しくやってきた看守と少しだけ言葉を交わして去って行った。

 新しくやってきたおっさんは気難しい感じで、こいつの心を開かせるのはなかなか骨が折れそうだと嘆息する。

 それにもう時間はあまりない。

 明日にはスバルの処刑の日がやってくる。それと同時に、魔女教の連中が奇襲を仕掛けてくるはずだ。

 王城内でそれを知っているのは、おそらくスバルのみ。

 クルシュに忠告はしたがそれは証拠も何もなく、結局はクルシュの加護とクルシュの判断に任せるところが大きい。

 ならばスバルも、自分で考えて何か手を打ちたいところである。

 

 何か、何か使える手はないだろうか。

 この牢屋から手の届く範囲でできることはないだろうか。

 目を瞑って、あらゆる記憶を沼の底からさらう。

 王城。侵入。投獄。牢屋。騎士。クルシュ。加護。看守。連行。看守の偽物。福音。瓦礫。雪崩。そして、死。

 

「クキキ……」

 

 ぐるぐると多くのキーワードが頭の中で踊っていると、小さく奇妙な笑い声が聞こえてきた。

 

「クキキ……」

 

 卑しい笑い方だ、とスバルは思った。いや、笑い方や笑い声じゃない。この笑い声を出している人物が卑しいと直感できる。

 声の聞こえる方に目を向ける。

 スバルの入れられている牢屋から、通路を挟んで斜め前の牢屋から笑い声は聞こえたきた。

 

『クキキ……。カルステン家に見放されたガキか。良い気味だぜ。だがあんな小娘の飼い犬になるくらいなら、おりゃあ死を選ぶね』

 

 その姿を見た途端、記憶がフラッシュバックされる。

 あれは看守の格好をした魔女教徒に連れ去られる直前のことだ。

 牢屋から処刑場まで連行されるはずのスバルを、嘲笑うように見てきた気持ち悪い笑い方をしたおっさんだ。

 しっかしおっさんばっかだな。

 

 おっさんのセリフ。下卑た笑い方。

 ……なるほど、と口を歪ませながら小さく呟く。

 

 スバルは新たな看守が見回りに出て牢屋から離れた瞬間を見計らって、斜め前のおっさんに声をかけた。

 

「なあ、おっさん。俺と手を組まないか?」

 

 頭の中で幾つかのピースをつなぎ合わせる。

 そうしてようやく、一つの案が完成した

 幼稚かつ稚拙な案だが切羽詰まったスバルにはそれが、それしかないと思わせるような名案に感じられた。

 

「おっさん、クルシュに恨みがあんだろ?」

「クキキ……よくわかったな」

「おっさんに機会をやるよ。チャンスってやつだ。俺と一緒にレッツ脱獄と行こうぜ」

「……良いだろう」

 

 おっさんはおそらく、スバルの誘いを待っていた。

 おっさんがクルシュに恨みを持っていることは、先の発言からそれとなくではあるが推測はできる。

 そしてスバルは、クルシュに認められず捨てられたという形を一応は取られている。スバルがクルシュに恨みを持っていてもおかしくはないはずだ。

 互いの共通の敵を想定することで、協力するというやり口だ。おっさんもこれを狙っていたはず。

 王城への侵入を果たした、ということになっているスバルに、それなりの技量を持っていると誤解を持ってもらえるとさらに楽だ。

 

 おっさんを利用して、脱獄する。

 王城から逃げ出して、なんとか生き延びる。

 それが最優先だ。

 出来るならば『剣聖』とやらを呼びつけて、どうにかして襲撃を食い止めてもらう。

 

「作戦「D」、開始だ!」

 

 高らかに作戦開始の合図を上げよう。

 作戦会議すら始まっていないあたりに、スバルの先走り感が出てしまっていたりする。

 




脱獄のDだぜ。


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脱獄作戦

 カルロスはただの少年である。家名はない。

 

 ここ、ルグニカ王国は大陸でも最大級に大きな国だ。

 半年前に王族が次々に死んでしまった歴史的大事件が起こるまでは、広大な沃野と善政を敷く優秀な王族、隣国との積極的な貿易、高い士気と練度を誇る王国近衛騎士団、言わずと知れた『剣聖』や、魔法属性のそれぞれの頂点に与えられる称号を『赤』『黄』『緑』の三つを持つメイザース辺境伯など、逸材も揃っている。

 半年前までは安泰を保っていたルグニカ王国だが、それでも黒い歴史はある。

 

 約五十年から四十年前に勃発した亜人戦争。

 亜人と人族との間で起こった小さな諍いが火種となって広がっていき、王国全土を巻き込み、八年にも及ぶ戦争へと発展した。

 先代『剣聖』テレシア・ヴァン・アストレアや、『剣鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアなどの『伝説』が生まれたのもこの戦争である。

 その先代『剣聖』の圧倒的な活躍により、亜人側が戦争の無意味さを認め、降伏。人族側もこれを受け入れて戦争は終結したが、その戦争の残した爪痕は大きなものとなった。

 そもそもの話、世界を滅ぼそうとした『嫉妬の魔女』サテラはハーフエルフだったという。その時点で人族の亜人に対する認識は、多少なりとも悪いものにはなっていたはずだ。

 その後大きく国力を落とした王国だったが、約四十年でここまで持ち直すことができたのは、偏に王族の手腕によるものが大きい。

 戦争終結時の国王ジオニス・ルグニカは軍務には向かなかったが、その後の復興には尽力した。

 

 このような歴史上最大規模の内紛が起こった後も、ルグニカ王国はその歴史を積み続けてきた。

 

 そして半年前、ルグニカ王族は一人残らず、疫病によって()()する。

 

 突然のことだったという。

 まず初めに第一王子であったザビーネル・ルグニカに症状が認められ、その後当時の国王ランドハル・ルグニカも発病。ランドハルが最初に病没した。

 立て続けに王族にのみ発病し、すべての王族が病に苦しみ死んでいった。

『青』の称号を持ったフェリス・アーガイルの力を以てしても、病気の進行を止めることすら叶わなかった。

 

 歴史の転換点だ。

 半年前のカルロスはそう確信した。

 王国は今、大きな変化の最中にある。

 竜歴石の預言が公開され、王国は新たな王候補を五人擁立するために動き出した。

 これに便乗すべく、カルロスは故郷を飛び出したのだ。

 

「おら、王都さ行くっぺ! 今なら商売でがっぽがっぽ稼げるでさぁ!」

 

 止める家族と友人を振り切るように言い放って、コツコツと貯めたこづかいを握りしめて故郷を出たのだ。

 カルロスの推測は正しかった。

 王族が全員死んだことに対して王国の全てがその対処に追われた分、監視の目が減った裏での商売で盛んになったことは事実だ。

 現在では王都でも有数の商人、ラッセル・フェローはこの動乱に乗じて名を上げたようだった。

 

 カルロスの読みは鋭かった。

 昔から故郷での生活でも、カルロスの根拠の無い読みが当たることは多かった。

 それは川の釣り場の選定や、山での山菜採集の時に光るものだったが、カルロスのいた集落では《剣聖》と並びたてられ、無敵と評される程だったのだ。

 

 だがそれは所詮、小さな村でのこと。

 自分の能力を過信し、ろくな準備もせず王都へやってきたカルロスは都合三日で全財産を失くした。

 念のためにと服に縫い付けて残しておいた銀貨五枚は、裏路地の不良三人組に袋叩きにされた挙句強奪された。

 

 ぼろ雑巾のようになりながら路地裏を這いずり回っていたカルロスは世界の理不尽さを痛感し、なぜ自分だけこんな目に合わなければならないのだ、と嘆き、そして気付いた。

 自分が理不尽そのものになってしまえばいいのだ、と。

 故郷に帰ることもできなくなり、後がなくなったカルロスにとってそれは、世界を掌握したような全能感すら感じる名案だった。

 

「おらは悪かねえ!」

 

 その三日後、一人の不良が路地裏で近衛騎士団に捕まったらしいのは、また別の話だと思いたい。

 

 

 ーーーーーーーーー

 

 

「おんめぇ、なん言いやがったとぉ!? このやろう!」

 

 一人の囚人が、監獄中に聞こえるような大声を上げた。

 何事だ、と周りの牢屋の囚人達は鉄格子に張り付いて声の聞こえてきた牢屋を見ようとする。

 

「へっへっへ。何度でも言ってやんよ」

 

 どうやら何か問題が起きたらしい。

 ここ最近の牢獄ではあまりなかった事だ。

 王都の混乱に乗じて、セコイ手を使って小さな犯罪に手を染めていたような半端者ばかりだ。投獄されてしまえば大人しいものであった。

 

「てめえみてえな田舎もんがよく王都に出てきたよなぁ? なに、夢見ちゃった系?」

 

 煽るように暴言を吐く男は、つい昨日投獄されたばかりの少年だ。

 黒い髪に黒い目。それ以外にあまり記憶に残るような特徴はなく、唯一挙げるとすれば鋭い目くらいだが、街中で見てもその髪色以外は二秒で忘れるくらい平凡なものだ。

 だが彼の顔を見ることができる周辺の牢屋の囚人たちは、彼の顔を忘れることはそうそうなさそうだった。

 これほど人に嫌がられるような「ウザい」顔をする奴を見たことが無い。とにかく嫌われることに特化した表情に、囚人たちは自分たちの標準装備している凶悪な顔を棚に上げて辟易した。

 

「おめええええ! おら、怒ったどー!」

 

 対してそんな黒髪の少年に激昂するのは、彼と同じくらいの歳の少年だ。

 その強い訛りから、少年が王国の辺境から王都に出てきたことがわかる。どうやら一発当てようとしたが失敗したらしいことまで容易に想像できてしまうのは、似たような境遇の者が何人か牢屋の中にいるからだろうか。

 

 黒髪の少年ナツキ・スバルと、田舎少年カルロスは向かい合った牢屋に投獄されており、互いに顔の見える位置で口論を続けていた。

 

「もっとやれ!」

「いいぞ!」

「クソ野郎どもめ!」

 

 周囲の囚人たちは、その口論の火花に油を注ぐように野次を飛ばしている。

 

「おまえのかーちゃん、出ーべそ!」

 

 それに呼応するかのようにスバルも暴言を重ねていくが、そろそろストックがなくなりつつあった。教育環境が良すぎて悪口があまり思いつかなかったのだ。

 しかし、

 

「おめえ、死にてえのか」

 

 肉親への暴言が彼の怒りに火をつけたのか、ついにカルロスの目の色が変わった。今までは怒りの中に理性が混じっていたが、もはやそれは怒り一色だ。漏れる吐息からは怒気が溢れ、スバルはやりすぎたのかもしれない、と脇の下で大量の冷や汗をかく。

 しかしこれも作戦の内だ。成功させなければならない。

 

「……っ!」

 

 ブワッ、とカルロスの髪が何処からともなく吹いてきた風になびかれて浮く。

 カルロスの周りに渦巻く得体の知れない力にスバルは圧倒されるが、これから起こるであろう予測にスバルはニヤリと唇を歪ませた。

 

 カルロスの周りを渦巻いていた何かが、スバルに向ける指の先に集まり、徐々にその勢いを増していく。

 

「フーラ!」

 

 明らかに敵意、攻撃する意思を持った言葉と共に、カルロスの指先から何かがスバルに向けて放たれた。

 

 スバルはそれを冷静に見ながら作戦の進行を確認するように、先ほどのおっさんとの会話を思い出していた。

 

 

 ーーーー

 

 

「今、俺の牢屋の隣で寝てる囚人がいるだろ?」

 

 スバルの斜め前に閉じ込められているおっさんの囚人はそう言った。でっぷりと太ったおっさんだが、声は精悍なのがなんか嫌だ。

 

「ん? ああ、俺の正面の奴な。俺と年変わんねえくらいか。こいつがどした?」

 

 スバルは正面の牢屋の中を覗き見る。

 照明が少ない分、細部まで見ることはできないが、ベッドに横たわって寝息を立てている少年を確かめることができた。この歳で犯罪者なんて、ろくな人生を生きてこなかったのだろう。かわいそうに。

 

「まずはこいつを挑発して、怒らせろ」

「えー、やだよ。母さんと父さんから悪口は言っちゃダメって言われてるからなぁ」

 

 おっさんの指示に少しだけ反論してみる。実際にスバルの両親は、良心を体現したような二人であった。そのおかげでスバルもまっすぐに育っ……てはいないか。

 

「脱獄のためだ。お前の両親も、お前が悪口を言うよりお前が死ぬことの方が悲しいと思うはずだぞ」

 

 おっさんの言葉に両親のことを思い浮かべる。

 二人はスバルのことを心配してるだろうか。十中八九……いや確実にしているだろう。両親の愛情を確かに受けてきたスバルには痛いほどわかる。

 

「……わかった。んで、どうするんだ?」

 

 両親のことは意識の隅に追いやる。

 今は二人のことを考えても仕方ない。父・賢一がいくら超人だとしても、失踪した息子を追って異世界にまで来るとは思えない。自分の手でどうにかする必要があるのだ。しかしそれでも、両親は意識の外には追い出さない。

 

「こいつはカルロスって名前で、ルグニカの辺境のある森の奥にある集落の出身だ。森の奴らは風魔法に適性のある奴が多くてな。まあそれはどうでもいいんだが、まずはこいつに魔法を使わせろ」

「魔法を使わせる? それって俺、危なくない? 風魔法ってあれだろ? やべえ風が飛んでくる感じじゃないの?」

「大丈夫だ。魔法を感知した瞬間に監獄内部に仕込まれた土魔法が発動して、奴の牢屋を壁が包み込むからな」

 

 おっさんは次々にこの監獄に関する情報を開示していく。

 こんな、天然の洞窟を利用しました感満載の監獄に魔法が施してあるとは思わなかった。

 というか、おっさんは何者なんだ。

 あまりに色々と知りすぎている気がする。

 その辺りは突っ込むべきだろうか、とスバルは思案する。

 

「ふむふむ、なるほど。それでどうするんだ? 人一人閉じ込めたところでどうにもならないぞ」

 

 スバルはここで問題に突っ込む必要はないと判断した。ここで必要なのは脱獄すること。そして魔女教の襲撃を防ぐことである。おっさんの素性などは関係ないのだ。

 そしておっさんの作戦だが、未だその全容は見えてこない。

 今は見回りの看守が居ないし、目の前の囚人も寝ているから話ができているが、早く済ませなくてはバレてしまう。

 

「まあ待て。この先が重要だ。牢獄の土魔法が使われた瞬間に、()()()()()()使()()()()()()()

「鍵を、魔法で……。誤認させる……いや、認識させないってことか?」

「理解が早くて助かるぜ。ちなみに鍵は全牢屋共通だから、一つで事足りる」

 

 おっさんが魔法を使えることができること自体、驚くべきことだがなるほど、漸く作戦の内容が理解できた。

 スバルが目の前の少年を挑発し、魔法を使わせる。

 魔法の発動を防災システムのようなものが感知し、土魔法で少年の牢屋を塞ぐ。

 その土魔法に合わせるように、紛れ込ませるように、おっさんが土魔法で鍵を作って解鍵するという作戦か。

 スバルは感嘆の息を吐く。

 なかなかに見事な作戦だと言わざるを得ない。

 スバルの考えた作戦Dなど、運と無茶が奇跡的に噛み合わなければ成功しないものだった。

 

 

 しかし、普段のスバルであれば気づいたはずだ。

 斜め前の牢屋に脱獄を考えているおっさんがいる可能性。

 目の前の牢屋に魔法を使える少年がいる可能性。

 おっさんが牢獄のシステムを知っている可能性。

 おっさんが土魔法を使える可能性。

 おっさんが長々と話してる間に少年が起きない、あるいは見張りが来ない可能性。

 

 これら全てが重なる可能性があまりにも低い確率であることに、普段のスバルであれば気付けたはずなのだ。

 

 だが、スバルは気付けない。

 なぜならば、自分の精神が異常な状態にあることにすら気付けていないのだから。

 

 死の実感から一日が経ったスバルは、自分が正常な精神に戻ったと勘違いしてしまっていた。

 だがそんなことはありえない。

 身体がぐちゃぐちゃに潰されるような壮絶な死を経験した者の精神が、たったの一日で回復するなどあり得ない話だ。その証拠に、牢屋の中で倒立をするなどという奇行、それも次の日には死ぬと分かっている人間がするはずがない。

 

 自分に都合の良いように運ばれる状況に疑問を持たずに信じてしまうスバルは、おっさんの計画に二つ返事で乗ってしまう。

 それが普段のスバルならどう考えても良い結果へと運ぶはずのない作戦だと分かっても、死の衝撃から立ち直れていないスバルには、正常な判断が下せない。

 

 

 ーーーーーーー

 

 

「うわっ、なんだっぺこれ!」

 

 カルロスが魔法を発動した瞬間、まず最初にカルロスの風魔法が地面から突き出た石壁に阻まれた。そしてすぐにカルロスの牢屋がグニャグニャと変化を開始した。

 数秒もしないうちにカルロスは石壁に四方を固められて、身動きが取れないような狭い空間に閉じ込められてしまっていた。中からは情けなく助けを乞う声が聞こえてくるが、スバルは聞く耳を持たない。

 

 それよりもスバルは、すぐにおっさんの方に目を向ける。今、監獄の土魔法は確実に発動したが、それと同時におっさんは土魔法を使えたのか。そして鍵を作ることに成功したのか。それが何よりも重要だった。

 

「……!」

 

 おっさんがさりげなくこちらに見せた右手には、小さな石でできた鍵が握られているのがスバルには見えた。

 

「受け取れ」

 

 小さな声でおっさんが言ったと同時に、おっさんはその鍵をスバルの牢屋まで投げた。コロンコロンと小さな音ともに転がり入ってきた鍵を拾い上げ、スバルはおっさんの方を見る。なぜ自分が使う前にスバルに寄越したのか、それがわからなかったのだ。

 

「何が起きた!」

 

 廊下の奥から声が聞こえてきた。

 おそらく騒動を聞きつけた、見張りの看守だろう。バタバタと急いでいるのがわかる。

 スバルはその看守が来る前に、自らの牢屋の鍵穴に鍵を突っ込んだ。引っかかることなく奥まで差し込むことができたことに安心し、すぐに引き抜く。ここで鍵を開けたところで、状況確認に来たであろう看守にすぐにばれてしまう。

 

 そうしている間に、看守はスバルたちの牢屋の前まで到着した。

 

「看守さん、こいつが魔法を使ったんですよ」

 

 おっさんが隣の牢屋を指差して、まるで友達のように教えた。

 おっさんがそのように仕向けた張本人だが、実際にカルロスが魔法を使ったことは事実だ。

 壁に囲まれているカルロスの喚く声からも、状況の把握には時間がかかるということはなさそうだ。

 

「看守長に報告する! 誰も動くなよ!!」

 

 詳しい話をおっさんから聞くと看守は来た道を戻っていった。

 パタパタとした足音がドンドン遠くなっていくのを聞きながら、おっさんと目配せする。

 おっさんが神妙な顔で頷いたのを見て、スバルはもう一度鍵穴におっさん謹製の鍵を突っ込み、そして回す。

 カチカチカチと幾つかの音がしてから、最後にガチャン!と大きな音がした。

 どうやら無事に解錠が出来たらしい。

 

 スバルはするりと牢屋から抜け出すと、おっさんの牢屋の前まで行き、鍵を差し出す。

 

「サンキューおっさん! これで何とかなりそうだな。ほら、鍵返すぜ。一緒に脱獄しよう!!」

「……ふっ」

「……あ?」

 

 おっさんが小さく吹き出した。

 スバルにはそれが今の状況にあまりに合わないものだと理解し、疑問を口にする。

 そしておっさんが次の言葉を言うまでの間に張り巡らされた思考は、一つの結末に到達した。

 しかし、それはあまりに遅すぎた到達だった。本来ならばおっさんの作戦を聞いた時点で辿り着くべき終着点だ。もはやスバルになす術はない。

 

「看守さん! 囚人が逃げてます! 捕まえてください!」

 

 おっさんが監獄中に反響するような大きな声で叫んだ。

 それと同時に、廊下のどちらからも看守の足音が聞こえてくる。

 

 おっさんの発した言葉に意味が、何かにせき止められたように少しずつしか理解できない。

 何故だ。このおっさんはスバルと共に脱獄するのではなかったか。どうして看守を呼んでいる。一体、何をしている。何が起こっている。

 少しずつおっさんの言葉がスバルの頭の中に滑り込んできた。

 スバルはそこでようやく発するべき言葉を見つけることができた。

 

「嵌めやがったな!」

「悪いな坊主。俺はこうやって自分の懲役年数を減らしてんだよ」

「くそっ……。まさかっ!」

 

 隣にあるカルロスの牢屋を覗く。

 すると、カルロスを覆っていたはずの石壁は表面からボロボロと崩れていき、すぐにカルロスの姿が露わになった。カルロスは先ほどの怒りが嘘だったかのように、ヘラヘラと笑いながらスバルのことを見ていた。

 

「監獄に土魔法が仕込まれてる? バカだなぁ、お前。()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ふざけんじゃねえ!」

 

 この監獄に土魔法による防災システムなどありはせず、あれはおっさんによる魔法で、鍵を作った土魔法もおっさんの魔法だった。全ておっさんとカルロスの演技だったのだ。

 スバルは鉄格子をつかんでおっさんに掴みかかろうとするが、おっさんは飄々としている。

 

「お前が脱獄を試みたという事実が出来て、それを俺が捕まえて拘束する。たとえ看守たちがその計画を知っていたとしても、脱獄犯を捕まえたという手柄は俺のもんだ。懲役年数は減らされる。お前、死刑囚なんだってなぁ。こりゃだいぶ減るぜ」

 

 協力を願い出てからたったの三十分ほどで裏切られたスバルの怒りは、もはやとどまることを知らない。

 目の前のおっさんこそが諸悪の根源ではないかとさえ思えてくる。

 スバルが異世界召喚されて、厳しい状況に置かれたことも、魔女教がこの監獄を襲撃してくることも、全てはこの男が悪いのだと、スバルの頭の中はそれだけでいっぱいになった。

 

「お前! 何をしている!」

「お、きたきた。『ドーナ』っと」

 

 おっさんがそう軽く言った瞬間、先ほどのカルロスを包んだような石壁がせり出した。

 それが今度はスバルを包もうとしてくる。

 スバルはすぐにその場から離れようとするが、迫り来る石壁が逃げ場を遮る。

 

「くそやろおおおおお!!!」

 

 喉から出るのはありったけの怨念の叫びだ。

 スバルの全てが奴を許すなと叫んでいる。

 

 しかしどれもが自業自得なのだ。

 脱獄することだけを決めて、そのほとんどは男に任せたスバルの弱さが招いた結果だ。

 他人任せに生きてきた人生のツケがここで回ってきた。

 

 石壁に完全に閉じ込められる瞬間に見えたおっさんの顔は、愉悦に浸った表情をしていた。

 

 ああ、もう、本当にどいつもこいつも……。

 

「クソ野郎ばっかだ」

 

 最後の悪態は石壁の中で反響して消えていった。

 

 




※フェリスがフェリックスでないことは誤植ではありません。


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魔女教襲来

 建物が倒壊する際に発生する音というものは、日常ではまず聞くことのないものだ。現代日本に暮らしていたスバルにとってそれは縁遠いものであり、大きな台風や地震に遭遇しない限り聞くことはなかった。

 それを比喩する言葉を探すのならば、大怪獣の咆哮だろうか。テレビあるいは劇場のスクリーンを通して鼓膜を叩くそれは作り物であるがゆえに恐怖心が煽られることは少なかったが、実際に聞いてしまうと、それがどれだけ怖いものか、ということを強制的に実感させられる。

 

 そんな大怪獣の咆哮がスバルの鼓膜にぶち破る勢いで届いたと共に、スバルの意識は無理矢理に叩き起こされる。視界が弾けるような、目くらましにあったような感覚だ。

 

 どうやらスバルは気絶していたらしい。

 暗闇の中を漂っていた意識は、破裂するような轟音で無理やり覚醒させられた。

 

「……!?」

 

 何が起きたのだ、と横になっていた身体を起こす。

 すぐに目に入ったのは小さな部屋だ。

 スバルが寝かされているのは、スバルの足が飛び出てしまうような小さなベッド。

 周りを見ると、スバルの閉じ込められていた牢屋よりも幾分か明るい印象を受ける。照明の数も多いし、調度品も新しいものがある。

 

「そういえば、俺は……」

 

 なぜかこんな場所にいるのか、それを思い出すために最新の記憶を掘り返す。

 

 そうだ、スバルは裏切られたのだ。

 おっさんに脱獄を持ちかけ、おっさんの作戦に乗った結果、おっさんに嵌められた。

 おそらく周りの看守や目の前の牢屋の少年カルロスもグルだったのだろう。

 おっさん以外の奴らにどんなメリットがあるのかわからないが、囚人たちは連携してスバルを脱獄犯に仕立て上げることに成功し、スバルはまんまと捕まってしまったのだ。

 あの時石壁に囲まれるところまでは覚えてるのだが、それ以降の記憶が無い。そこから途切れてしまっているのだ。

 ああ、思い出すだけでも腹立たしい。

 あのおっさんは俺と同じように脱獄しようと考えている風を装っていたし、訛りのきつい少年カルロスの様子も演技だったわけだ。

 沸々と怒りが沸き起こってくる。

 どうしてスバルばかり、こうも不幸な目にあうのだろうか。異郷の地に飛ばされ、ここ数年で最も他者との関わり、特に優しさを求めた数日間であったが、現実はこれでもかというほどにスバルに厳しい。理不尽への怒りも勝手に沸騰してしまう。

 

「うおっ!?」

 

 スバルは自分の体を見下ろして、ぎょっと目を剥いた。

 着ていたはずの囚人服が消えており、まさかの下着姿である。

 やけに寒いなとは思っていたが、半裸状態だったらしい。これでは露出趣味があると疑われてしまう。

 懐かしのジャージはどこに、と思って部屋の中をさらに見渡すが、地球からの持ち込み物は何一つ見つからなかった。

 

 その代わり、怪しげなローブのようなものだけが部屋の壁にぶら下がっているのを見つけた。

 黒を基調にしたもので、とんがったフードが特徴的だ。袖のあたりに少しだけ赤のラインが入っているのがかっちょいい。

 よく見てみるとフード、ズボン、コート、肩掛けと分離していた。

 

「ちょっと怪しいけど、下着姿の露出男よりはマシか……」

 

 スバルは渋々と言った感じで、その服に袖を通す。視界が悪くなるのでフードは被らなかった。

 全て着終わると、不思議なことにサイズ感がぴったりであることに気づく。

 誰かがスバル用に用意してくれたのだろうか。ありがたい。

 

「さて、ここはどこかな、っと」

 

 あの後、石壁に閉じ込められてからの記憶がない。

 果たして今はどこにいて、どのくらい眠っていたのかがわからない。

 現状確認が最優先だ。

 

 唯一ある扉へと足を運び、ドアノブに手をかけた瞬間、ドゴォン! と轟音が鳴り響いた。

 この音には聞き覚えがある。

 先ほどスバルを無理矢理起こした音だ。

 そして、瓦礫の雪崩に巻き込まれる前に聞こえてきた音だ。

 

 このままでは、まずい。

 

 そう確信したスバルはすぐに部屋を飛び出す。

 そして、開かれた扉の先に待っていたものを見て、スバルは驚愕で目を見開いた。

 

「なん、だ。これ……」

 

 喉からようやく絞り出た言葉は震えている。

 スバルのいたはずの監獄が目の前にあった。

 いや、監獄だったものが目の前にあった。それはすでに半壊し、いくつもの瓦礫の山と化していた。

 そしてその中では何人もの囚人たちが助けを乞い、次の瞬間には瓦礫に潰されて死んでいく姿が見える。

 

 

 人が、死んでいる。

 

 

 異世界への召喚。

 見慣れない騎士の甲冑。

 RPG風の監獄。

 どれも現代の日本では見ること、体験するはずのないものだった。

 

 だが、人は死ぬものだ。

 日本でも、この世界でもそれは変わらない。

 

『異世界に召喚された』という現実は容易に受け入れた。いくらでも妄想を積んできたスバルだ。認識から受容までにそう時間はかからなかった。

 だというのに『人は死ぬもの』という、どこに行こうとも絶対不変のルールが目の前に現れた時、スバルはそれを受け入れることができなかった。

 

 頭蓋が割れてドロドロと頭の中身が流れ出ている者もいれば、腹の真ん中に大きな穴が穿たれて向こうの景色が丸見えの者もいる。四肢を無造作に捥ぎ取られ、達磨となった身体で這いずってでも懸命に逃げようとする者もいれば、身体が砕け散りもはや救いの余地もない者もいる。

 

 地獄だ。

 まさに地獄だった。

 

 外気に晒された生肉と大量の血液の臭い。

 胃、腸、頭蓋、あらゆるものの中身がごちゃ混ぜになった臭いは、吐き気を催すための役割を持って発生したかのようにさえ思えてくる。

 見目麗しい美女も、醜怪な不男も死んでしまえば同じようなものだった。

 

 人の死体、というものを初めて見たスバルは、その光景を予期していなかったこともあり、胃からせり上がってくる酸っぱいものを吐き出すことを我慢できなかった。

 立つことを諦めた膝が地に着き、すぐに両手で支えて四つん這いになる。

 

「オッ、ゲェッ……」

 

 本来ならば食物を胃に届ける食道を、一度送ったはずの物が逆流してくることは、大変な不快感を伴うことになる。

 幸いと言っていいかわからないが、監獄では大したものを食べていなかったおかげで胃液と水の混ざったものがバシャバシャと滝のように流れるだけだ。

 

「………ェ、ゴホッ」

 

 出せるものを出せるだけ出せども、嘔吐感はとどまる所を知らない。やがて

 胃液すら出なくなってしまったが、スバルは嘔吐感を強引に飲み込む。

 

 いつまでも情けなく吐き続けているわけにはいかないのだ。

 

「何が、起きてる……?」

 

 一体、この光景はどういうことなのだろうか。

 スバルの意識が無いうちに何が起きたのか。

 何かが起きたとして、誰が起こしたのか。

 王都の中枢でこれだけの惨事をどのように引き起こしたのか。

 

 スバルは数ある死体から目を背けながら、次々と沸き立つ疑問を数えていった。

 

「いや、でも……」

 

 目の前の惨状に受けた衝撃がそう簡単に減ることはないが、死体には目をそらしながら被害の規模をよく見てみる。

 監獄は全壊を免れ、半壊程度の損壊だ。全てが崩れているわけではない。死体も横目で数えても、とても多いとは言えないくらいの数だ。

 この監獄を落とす為の襲撃だとすると、規模が小さいと感じてしまう。

 と、なると、

 

「襲撃者は少数で監獄を落とすことが目的じゃない……?」

 

 あるいはここ以外にも襲撃の可能性はあるが、他の場所の様子が窺えない以上、スバルにできる推測はここまでだ。

 

「監獄を襲撃する目的なら、囚人の解放が妥当な所か? 魔女教……ダメだ。知らないことが多すぎる」

 

 この襲撃が魔女教によるものであるという推測は、ほぼ確定と考えても良いだろう。

 魔女教徒が捕まっていて、その解放のために襲撃しに来たという可能性も考えられる。

 だが、その魔女教に関する知識があまりに少ない。

 魔女教はそれなりの規模があるものだと、スバルは考えている。

 看守のおっさんが教えてくれたことが真実ならば、この世界で最も恐ろしいものを信仰している集団だ。小さい規模だとは思えない。

 そんな集団が、たった一人の教徒のためだけに国のど真ん中で騒動を起こすだろうか。

 もしその捕まっている教徒が末端レベルなら、ありえないと考えるのが普通だ。

 

「だとすると、幹部レベルか……?」

 

 魔女教の幹部クラスの重要人物をルグニカ王国が監獄で保護しており、その人物の奪取のために魔女教が動いた、とは考えられないだろうか。

 魔女教の構成がどういうものか、幹部クラスの者がいたとしてどれだけの力のある者なのか、ほとんど何もわからない。

 

「無い、だろうな」

 

 思考を回すも、ほんの数回転でその考えを却下する。

 

「魔女教の幹部クラスが、コソ泥とかと同じ監獄に閉じ込められてるとは思えない……よな?」

 

 魔女教はとにかくやばい。という認識は看守のおっさんから受けている。だが、その危険性については言葉で教えてもらっただけだ。おっさんとスバルの間に認識の違いはあるだろう。そういう場合は、想定の一段階上、もしくは下を考えるべきである。この場合は魔女教はスバルが考えるよりも危険度が高く、考えていることもわからず、とにかくヤバイ集団、とする。

 そんな頭のおかしい奴らの代表格が、例えばあの田舎っぺ少年のカルロスと同じような牢屋に閉じ込められているとは考えにくい。

 よって魔女教の襲撃の目的から『魔女教徒の奪還』は自然と消えた。

 

「もっと何か、違う目的があるはずだ」

 

 今度は注意深く観察しよう、と見渡したところで、半壊した監獄の向こう側、少し遠くの場所から大きな土煙が立つ様子が見えた。

 スバルはひとまず、その土煙の方へと向かうことに決める。

 

 

 

 ーーーー

 

 

 飛び散った大小様々な破片の間を縫って歩くこと数分。なるべく死体の近くを通らないようにしていると、変に遠回りになってしまった。

 今も何度か土埃の立つ場所は、もう目と鼻の先だ。

 

 近付くにつれ、何か土砂が流れるような音と、鋭く高い音が重なって聞こえるようになってきていた。それが何を意味するのかはわからないが、スバルの身を脅かすものでないことを願うばかりである。

 

 目を凝らすと土埃の中には、二人の人物の影が見える。いかんせん視界が極端に悪いため、それがスバルの知る人物であるかはわからない。

 

「……ァ!」

 

 片方の人影が両手を前に突き出して何かを叫ぶと、その人物の目の前の地面がグネグネと蠢きだす。見覚えがある。あれは、土魔法と呼ばれる類の魔法が発動する際の前兆だ。その魔法で騙された身としてはあまり関わりたくない魔法だったりする。

 魔法はすぐに発動し、広範囲の地面がベリベリと剥がされていき、もう片方の人影に向けて動き出す。その勢いはどんどんと増していき、周りの瓦礫や地表を巻き込んで人影に到達しようかという頃には、五メートルほどの土砂の波となっていた。

 

「ハァ……ァァアッ!」

 

 もう一つの人影が土砂に飲まれてしまう直前、身じろぎひとつせずに立っていた人影は気迫の込もった叫び声を上げた。

 それと同時に右手に握っている何かを真横に一閃、斬り払う。

 スバルにはその人影が何をしたのかわからない。

 そんなことをしたとしても土砂の流れる勢いが止まったり、威力が減衰したりすることはなく……。

 

「なっ!?」

 

 次の瞬間、スバルは自らの目を疑った。

 流れ寄せていた土砂が、先ほどの一閃の軌道をなぞるように霧散したのだ。

 

 台風や地震による土砂崩れをテレビでなら見たことのあるスバルは、人間に向いた自然の牙はどうしようもないことを知っている。

 一度巻き込まれてしまえば、その進路にある家は全壊して押し流され、車などは土に揉まれて使い物にならなくなる。およそ人間が一人で立ち向かってどうにかなるものではないのだ。

 

 だが片方の人影が生み出したと思われる、圧倒的なエネルギーを持つ土砂の流れを、もう片方の人影は何かを一薙ぎしただけで打ち消したのだ。神にも似た力だとスバルは驚愕する。

 

 土埃はさらに濃く立ち込める。

 二つの人影を見失ってしまうとスバルは焦るが、それは杞憂に変わる。

 先ほど土砂を吹き飛ばした方の人影がもう三度、手に持っているものを軽く薙いだ。すぐにスバルの頬を鋭い風が撫でるのを感じ、それと同時に土埃が吹き飛ばされて視界が格段に良くなった。視界が確保できたことによって、スバルは人影の姿をようやく認めることができた。

 

「クルシュ!」

 

 その深緑の髪と琥珀の目は、見間違うことはない。

 つい先日話したばかりの女性が、この前と同じような男装の軍服に身を包んでいた。手に握っているのは輝く剣である。その剣で土砂を切り開き、土埃を吹き飛ばしたようだ。刀身は通常の剣ほどしかないが、どのようにして大量の土砂の波をたったの一撃で崩したのかはわからない。

 

「……ナツキ・スバル。生きていたか。……その格好はどうした?」

「あ、ああ。なんか起きたら半裸だったから、その辺にあったの借りてる」

 

 クルシュは横目でちらとスバルを見る。

 短く言葉を交わすが、クルシュは目の前に立つ人物に注意を払い続ける。それにしてもこの格好は少し変なのだろうか。ローブの裾を少しだけ引っ張ってみる。クルシュはこの服を見て、少しだけぎょっとしていた。

 

 しかしそんなことは、後回しにすべき些事だ。

 土埃が晴れたことにより、クルシュと対峙していた者の姿も明らかになる。

 しかし見ただけでわかるのは、スバルよりもひとまわり大きい背丈などの体格くらいだということ、男だということだけだった。

 

「あれ、あいつ、俺と同じ服着てねえ?」

 

 少しだけ妙なことに気がつく。

 彼は、スバルと同じようなデザインの服を着て、律儀にフードまですっぽりと被っているのだ。そのおかげで彼が一体誰なのかはわからない。

 

「貴様と奴の着ている服は魔女教徒の着る服だ。……それにしても貴様の言う通りになったな」

 

 男の顔は見えない。

 スバルが着ている怪しげなローブと同じ物を着ていて、フードをすっぽりと被っているせいでその素顔が見えない。

 そうか、あれが魔女教徒の制服なのか……。

 

「え! あ じゃあ俺魔女教徒の格好してるってこと!? 不味くない!?」

「うむ。魔女教徒の攻めてきている現状、その服を着ていて斬られたのでは文句は言えまい。近衛騎士団も直に到着するはずだ」

「やばい、脱ぐ!」

 

 スバルはすぐにもぞもぞとし始めるが、替えの服がないことに気づく。

 もう一度半裸状態になることと、犯罪者に間違われること。どちらが良いということはないが、どちらかを選ばなければならない。ちなみにどちらも選びたくないのがスバルの要望だ。

 

「貴様、魔女教徒だったか」

「クルシュ・カルステン……。あなたはここで死ぬ定めです。『福音』にはそう記述されている」

 

 そんなことをしている間に、クルシュは向かい合う男に言葉を投げる。男はそれに返すが、フードのせいで声がくぐもっていて声色で判別はできない。どうやらクルシュは知っている人物らしい。

 

 そして飛び出した『福音』というワード。

 男は懐から真っ黒な本を取り出すと、パラパラとめくり始めた。あれが……魔女教徒が持つという『福音』か。スバルのことを連れ出そうとした看守もどきが持っていたものと同じような本に見える。

 

「自分の未来は自分で決める。魔女に踊らされる人形になど負けるものか」

「さて、どうでしょうな」

 

 クルシュが剣を構えると同時に、男も先ほどのように両手を前に突き出した。

 

「ウルドーナ!」

 

 男が叫ぶと同時に、今度は背後の瓦礫の山たちがうねりながら持ち上がる。

 それらはまるで意思を持ったかのようにゆっくりと動き始め、寄り集まると大きな波となってクルシュへと向かっていく。その高さは先ほどの倍、ゆうに十メートルを超え、ただの人が飲み込まれたらひとたまりもないことなど、明らかだった。

 そしてスバルは確信する。これがかつての自分の死因なのだと。

 

「って、やばいやばいやばいやばい!!」

 

 このままでは巻き込まれて死んでしまう、という結果は火を見るより明らかだ。

 

 スバルは大急ぎで戦場になりそうなエリアから尻尾を巻いて逃げる。

 

 十分に距離を取ったところで後方を振り返ると、またしても土砂の波がクルシュに襲いかかる。それをクルシュは今度は二度の斬撃を浴びせる。

 一度目の斬撃で土砂の勢いはほぼ半減し、二度目で完全に相殺することに成功する。

 クルシュの斬撃にどのような細工がされているのかはわからないが、剣一本で自然災害レベルの魔法と互角に渡り合えるのは凄いことなのだろう。

 

「すっげえな」

 

 スバルは素直に感嘆するのみだ。

 ほえーっと口を開きながら、今まで想像してきたタイマンでの勝負の規模の違いにただただ驚く。地球でのタイマンなんて相撲や柔道、ボクシングなどの規模が最大だろう。超常の力を操るクルシュとあの男とは規模が違いすぎる。

 

 そして、そんな風にもともとの惚けた面をさらに間抜けにさせていたスバルは、自らの身に迫る危機に気づかない。

 

「本命はこっちなんです」

 

 耳元で誰かが囁いた。

 一番の驚愕と共に、いつの間にか背後に誰かが立っていることに気づく。

 そいつは今、クルシュと戦っているはずの男だ。フードをすっぽりと被っているが、先ほどの男で間違いない。

 

 声を出そうとするが、出ない。

 喉の途中で何かにつっかえたように、声が口から出てこようとしない。

 なぜだ、どうしてだ。

 どうしてこの男はスバルを狙った。

 

 クルシュは敵影が消えたことに驚き、周囲をキョロキョロと見渡しているが、未だにこちらの様子には気づかない。

 

「……!」

 

 スバルが身動きすら取れないことを良いことに、男はスバルの横腹をガツンと一発殴った。

 それだけで体中から力が抜け、ぐったりとしてしまう。

 そのままスバルはその男に、軽々と小脇に抱えられてしまう。

 

 するとそれからの男の動きは素早かった。

 

「ドーナ! ドーナ! ドーナ!」

 

 クルシュの立っている方向とは正反対へと走り始めるが、クルシュはついに男の動きに気づく。

 小脇に抱えられたスバルに驚くが、その剣を大きく払う。

 クルシュの剣技は、『百人一太刀』と呼ばれる超長距離の斬撃だ。それは彼我の射程を無視する。『風見の加護』を持つクルシュだからこそできる絶技だ。

 クルシュの不可視の斬撃はすぐに男の元へと到達しうるが、それは男が事前に張っていた石の壁によって阻まれる。

 クルシュは一度の斬撃で五枚以上の壁を切り壊すことができたが、男の魔法は次々に壁を作っていく。壁は視界を遮る役目も持ち、どんどんと魔女教徒の男とクルシュの距離は開くばかりだ。

 

「クルシュ様!」

 

 焦燥を顔に表した時に、クルシュの元に一人の男がたどり着いた。

 クルシュは、出がけに行き先を伝えておいて良かったとニヤリと笑う。

 

 白髪とシワの刻まれた顔は、その重ねた年を物語っている。

 最早隠居していてもおかしくないような年齢の老人だが、彼はクルシュの従者である。

 彼の名は、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。

 かつて『剣鬼』として恐れられた人物である。

 剣の腕、戦闘経験、こと戦闘に関しては何においてもクルシュの上をいく者だ。クルシュは短い猶予の中ですぐさま判断を下した。

 

「ヴィルヘルム! 前の魔女教徒を追え! 殺しても構わん!」

「御意!」

 

 ヴィルヘルムは主の命令を遂行するため、腰の剣を抜きながら疾走を開始する。

 時折邪魔をしてくる石の壁を砕きながら、一直線に魔女教徒へと迫る。

 

 相手は、かつて『剣聖』をどんな加護も宿さぬ体に努力を重ねて、その修練の結果斬り伏せた男だ。

 一介の魔女教徒ごときが逃げおおせることなど不可能だった。

 

 ものの数秒で肉薄された魔女教徒は苦し紛れに「ドーナ」と叫ぼうとするが、その口の端から耳にかけてまでをフード越しに剣で切り裂かれてしまう。

 切り開かれたフードの奥に光る瞳には、『剣鬼』に対する憎悪の炎が見て取れた。

 しかしそれもほんの一瞬の出来事だ。

 憎悪に光る瞳も次の瞬間には、その光はすでに消え失せている。

『剣鬼』の躊躇ない一撃によって、宙に浮かんだ彼の頭部はコロコロと地面に転がった。

 

 

 

 スバルのその一連の流れをただ見ていることしかできない。

 眼球だけをゴロゴロと動かして、見れるものをすべて見ようとする。

 突然現れた初老の剣士が、ほとんど視認できないようなスピードで魔女教徒に追いつくと、フードの上からその口を切り裂いた。

 

 その際、大きく切り開かれたフードの隙間から、男の素顔が露わになった。

 

「ブル……ドッグ……」

 

 男の顔の特徴は、無意識の内にスバルの口からぽつりと出た言葉が端的に表していた。

 シワシワに伸びてだるんと下がった頬に、やたらと低い鼻。人間ベースではあるが、その顔はブルドッグの血が混ざっているのがわかる。

 

 

「あっ……」

 

 

 繋がる。

 

 スバルを連れ去ろうとした魔女教徒と、以前会ったことのある人物が、繋がる。

 

 

「あっ……」

 

 

 二度目の発声は、魔女教徒の男の首が刎ねられたことに対する驚愕にも満たない感情の発露だ。

 それはあまりに一瞬で、これまで見てきた死の中でもあまりに呆気ないものであった。

 

「……」

 

 そして三度目の言葉を発しようとした瞬間には、スバルの体はもはやそれが許されるような状況になかった。

 

 スバルの胴体と頭部は先ほどの魔女教徒の男のように離され、宙に舞う視界はぐるぐると回り続けていた。

 あ、胴体が倒れた。

 

 ああ、そうか、と残った視界と脳みそが、地面に倒れるスバルの胴体が着ている服を見て納得する。

 

 

 次の瞬間、ナツキ・スバルは死亡した。




クルシュ「あの魔女教徒(一人)殺せ!」
ヴィル爺「御意!(あの二人やな)」

クルシュ様痛恨の指示ミス。



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最大の局面

 戻る。戻る。戻る。

 

 二日間。

 

 全てが巻き戻る。

 

 満月へと至る月は、ほんの少し欠けた状態に戻る。

 食卓に並ぶ豚は命を吹き返し、屠殺されることもしらずにブヒブヒと鳴く。

 

 世界の全てが二日の時を巻き戻る。

 

 倒壊した建物は一切の損壊なく聳え立ち、その中で死んだ者たちは人としての身体を取り戻す。

 世界の巻き戻しは、魂や記憶も同様。

 

 しかし、たった一つ。

 たった一つだけ、巻き戻しから逸脱する存在があった。

 

 少年の魂、精神、記憶。

 

 一切の欠損もなく、死んだ状態(欠損した)そのまま、彼の中身は巻き戻る。

 

 その力こそ、死して時間を巻き戻すーーーー死に戻りの力。

 

 

 ーーー

 

 

 スバルにとってその目覚めの感覚は、二度目の経験だった。

 どんな目覚めよりも早く、鋭い。

 眠っていた頭に冷や水を掛けられたように、睡眠から覚醒へスイッチを入れ替えたように、あるべき微睡みの間を一切感じさせない。

 寝起きが良いことを自負しているスバルだが、これほどの目覚めは心地良いを通り越して、もはや気味が悪い。

 

「っ!」

 

 スバルはとっさに首を両手で押さえる。

 ほんの数秒前に感じた感覚は消えない。

 今のスバルの首は、何の異常もなく繋がってくれている。

 しかしつい先ほどまでこの首は、確かに離れていたのだ。

 見える傷は無い。

 その代わり、スバルの内側には首と胴体が離れた衝撃が残っている。

 あの時、スバルの頭が胴体から離れた時、スバルは確かに死んだはずだ。

 

 ナツキ・スバルは死んだ。

 そう、そのはずだ。

 確認は何度も続く。

 なにせほとんどの人間は、死を何度も経験することなど無い。

 スバルにとっても、それは未知の感覚だ。それゆえに何度も、何度も何度も反芻する必要があった。

 

 しかし、時間は止まってくれない。

 

「……なに」

「クルシュ様!」

 

 覚醒の感覚は二度目、死の実感も二度目。

 だがこの清廉な声を聞くのは、三度目だった。

 ゆえにスバルは、先手を打つために声を上げる。

 死の衝撃なんて後だ。

 覚醒の余韻など後だ。

 考えるべきもの、感じるべきものはある。

 だが、全てを後に回せ。

 今ある窮地を脱するために、頭を回せ。

 

 何かを発しようとしたクルシュを遮ったスバルの言葉は、広い部屋の中に響いた。

 中断されたクルシュは眉をひそめて、スバルを見る。

 

「何者だ、貴様!」

 

 一瞬、停滞と静寂が訪れた後に続いて空気が破裂する。

 円卓に座る老人たちが目を合わせ、クルシュは何かを考え込むかのように顎に手を当てる。

 扉の横にいた騎士風の甲冑を着込んだ男が叫んだ。

 

 部屋中の視線を独り占めする中、スバルは視界の中にたった一人だけを入れる。

 いや、視界にはおそらく全員が入っているが、焦点を合わせるのはクルシュだけだ。

 それは、高性能の単焦点レンズを用いた一眼レフカメラで撮った写真のような景色だ。

 他の物は些事。スバルの全てはクルシュに注がれる。

 

「クルシュ様、至急のご報告が!」

「……っ」

 

 スバルは膝をつき、続ける。

 騎士の男が迫ってくるが、そんなものは御構い無しだ。スバルにはクルシュしか見えていない。

 騎士はスバルの鬼気迫る表情に少し戸惑う。

 

「クルシュ様、彼は……」

「王城内部にて、魔女教徒の動きが確認されました!」

「なっ、ま、魔女教徒だと!?」

 

 円卓に座る老人、その中でも矢鱈と伸ばした髭が特徴的な男がクルシュに声をかけるが、スバルはまたしてもそれを遮るように声を上げた。

 狼狽えるような騎士の声が聞こえた。

 それもそうだろう。

 魔女教徒が王城に侵入しているなどということ、騎士、衛士のような立場の者なら由々しき事態だ。

 スバルの言葉で部屋の中は、ザワザワと動揺が波立つ。

 

「待ってくだされ。聞きたいことは山とありますが、まずあなたは何者ですかな?」

 

 先ほどの髭の老人が静かに手を上げる。

 それだけで、コソコソと話していた人々は徐々に落ち着いていく。

 小学校の挙手とは違う。彼にはそうさせるだけの威厳があるようだ。

 

「私はナツキ・スバルと申します」

 

 スバルは敬語の使い方がわからない。ろくに部活にも入っておらず、目上の人と接することが無かったのだ。しかし重要なのはそこではないため、気にしない。

 最も、老人の方を向かずにクルシュのみを見つめ続けているので、彼に対する無礼な態度はこれ以上ないというほど示してしまっている。

 

「私はマイクロトフと言います。ナツキさん、あなたの立場を知りたいところですな」

「まず、賢人会の皆様の会合を中断させてしまったことをお詫びいたします。そして私の立場ですが、見て頂ければお分かりになるかと」

 

 スバルは依然、クルシュのことを見つめ続ける。穴があくほど、なんてものではない。世界にクルシュしかいないのではないかと錯覚してしまうくらいだ。

 

 欺くためだ。

 全てを。賢人会を、マイクロトフを、スバル自身を。

 そうして信じるのだ。

 たった一人を。

 クルシュのみを。

 

「なるほど……。私から見ると、御身はクルシュ様の従者のように見えますね」

 

 マイクロトフは表情を変えずにスバルを見る。その言葉は、その場にいるクルシュを除いた全員の代弁だろう。

 

「…………」

 

 マイクロトフの言葉に、スバルは沈黙を選び取る。

 その代わりに、一つ、動作を入れる。

 慎重に、かつ不自然ではないように。

 小さく、しかしそれと分かるように、あごを引いた。

 

「ふむ。クルシュ様?」

 

 依然クルシュのみを見つめ続けたままのスバルを、マイクロトフはジッと見つめるもすぐにクルシュに話題を振る。

 話の中心と言ってもいいクルシュは、ここまで沈黙を貫いていた。

 真っ向から向かってくるスバルの視線に合わせるように、クルシュもその琥珀色の瞳をスバルに向けていた。

 二人の視線が交錯して、すでに一分は経過している。

 クルシュはその間に何を掴み取っているか、スバルにはわからない。

 

「…………失礼した」

「クルシュ様?」

 

 クルシュが円卓に向き直り、謝罪を一言。

 それがどんな意を持つのか、賢人会の一人が問うた。

 そして決定的な言葉を発する。

 

「彼、ナツキ・スバルは私の従者だ。火急の用ができた。失礼する」

 

 クルシュ・カルステンは席を立った。

 

 

 ーーーー

 

 

 

「それで貴様、どんなつもりだ。貴様のような従者、持ったつもりはないのだが」

 

 場所を移して、王城の一室。

 来賓用にあてがわれた部屋に、スバルは連れてこられた。

 煌びやかな装飾に、瑞々しく美味しそうな果実まで置いてある。

 牢獄スタートとは比較にもならない好待遇である。

 

 クルシュの後ろについて王城の廊下を歩く最中、スバルは状況を整理した。

 

 

 

 まず、スバルは『死に戻り』をしている。

 これは二度の死の経験を経て、疑う余地がなくなった。

 

 異世界転移をしている以上、何か特殊能力や異能を持っていたりすると良いなあとは思っていたが、まさかまさかのタイムリープだ。

 スバル自身としては、身体強化や大魔法、強奪スキルとかの所謂チート系の能力が欲しかったのだが、わがままは言ってられない。

 

 そしてこの『死に戻り』が、あまりに使い勝手の悪い力であることも理解していた。

 

 まず、発動条件が「死ぬこと」である。

 スバルは二度、死を経験した。

 一度目は流れる瓦礫に身体をズタズタにされて死亡。

 二度目は胴体と頭を切り離されて死亡。

 

 それぞれ違った死に方だったが、あの痛み、あの消失感、あの恐怖は未だに消えてなくならない。

 今だって、歩く足がブルブルと震えて力が入らない。

 足と腕と胴体と頭が、何の変哲もなく繋がっていることを不思議に思ってしまっているくらいだ。

 どうやらこの『死に戻り』、心や記憶は全く戻ってくれないらしい。

 どうせならスバルの中身まで死に戻ってくれていれば、こんなにも苦しく思うことはないというのに。

 まるで心と体の調子が合ってくれない。

 

 次に、死に戻りの地点、セーブポイントが任意ではないという点だ。

 

 二度の死に戻り。その戻った地点は、スバルが賢人会の会合の部屋に、うっかり入ってしまったところだ。

 これがあまりに悪い。

 

『死に戻り』は一種のタイムリープだ。

 それは過去を塗り替えて、未来を変えることができるような、トリガーが死ぬことに目を瞑れば、スバルも憧れた能力の一つであることは確かだ。

 

 しかしスバルが戻された地点は、すでに王城侵入という罪を起こしてそれがバレてしまったところ。すでに罪を被っている状態だったのだ。

 あのまま何も行動を起こさなければ投獄されてしまうことは、二度目の回で証明済みだ。

 つまり、『死に戻り』していると理解し、何か有効な手段を取るまでスバルは何度も投獄されていたのだろう。あんな薄暗い場所で硬いパンをかじる生活を何日も続けることになったら、気が狂ってしまう。

 

 そんな風に、やらかした直後に戻されたのではどうしようもない。

 過去を帳消しにするはずの力は、その過去を消せる時点まで戻ってくれない。

 もし死に戻りのセーブポイントが任意だったのならば、スバルは日本にいた頃に設定するというのに、致命的な欠陥だ。

 

「まじでありえねえ……」

 

 先ほどの場。

 スバルは『死に戻り』していて、初めから詰んでいるという事実。

 それのみを理解するにとどめた。

 それ以上を理解していては、出遅れる。

 

 王城侵入の罪。

 投獄。

 そして魔女教の襲来。

 

 二日後の魔女教の襲撃を知っている人物は、スバルただ一人。

 そしてそのスバルが投獄されて身動きが取れない、という事態は最悪の展開だ。

 

 だからスバルは自身を、王城侵入の不審者ではなく、()()()()()()()()()()()()()()に変えた。

 王城に入ったという事実は変わらない。

 ならば、それを罪にしなければ良い。

 それがスバルの出した、クルシュの従者という答えだ。

 

 クルシュの人となりを知っていて、求めるものを分かっていて、その力を信じていたからこそ、クルシュを選んだ。

 

 その場を欺くため。

 窮地さえ切り抜けてしまえば、スバルの勝ちだ。

 あの場での敵は、個人ではなく法や立場、場の空気だった。

 それらを欺くことが、死に戻り直後のスバルの最初の壁だったのだ。

 

 

 そしてその欺き方だが、あまりに強引だったと言わざるを得ない。

 もう一度あの場に戻って、さあやれと言われてもできるとは思わない。

 死に戻り直後の危うい精神状態だったからできたのかもしれない、と思う。冷静に考えてみると危ない橋を渡ったものだ。

 

 まず初めに、クルシュの名を呼んだ。

 クルシュに一言目を言わせてはいけなかったのと、取り押さえに来る騎士をその場に抑え、クルシュの興味を引くためだ。

 クルシュは部屋に入ったスバルに、「……何者だ?」と誰よりも早く問いを投げかける。

 その時点でスバルとクルシュの間に、何の関係もない事が露見してしまう。

 それだけは回避しなければならなかったのだ。

 

 そしてクルシュに対して、報告があると述べる。

 ここからはただ、クルシュの従者のような振る舞いを続けるのみ。

 

 マイクロトフがクルシュに、スバルのことを問おうとした時は焦ったものだ。

 クルシュがその問いに正直に答えた時点で、スバルの身に何の価値もない事がバレてしまう。

 そこでスバルは、魔女教についての話題を出した。

 論点をすり替えたのだ。

 

 ワンクッション置いたことで、マイクロトフはスバル自身に問いを投げた。

 聞かれたことには正直に答える。嘘をついて、良いことはあまり無い。

 

 そしてスバルは、自身の立場をマイクロトフに明言しなかった。

 マイクロトフの主観に任せたのだ。

 一貫してクルシュのことだけを見つめていたことも、それを助けるためのもの。

 はたから見ればスバルはクルシュの従者としか、()()()()

 そう、従者としか見えないというのが重要だった。

 

 今回の騒ぎ、スバルが最も恐れたものは、強そうな騎士でも偉そうな賢人会でもなく、クルシュの持つ『風見の加護』だった。

 嘘を見抜くというクルシュの加護は、身分を偽って場を凌ごうとするスバルにとって障害となり得た。

 ゆえに、スバルは嘘を一切ついていない。

 見え透いた嘘は、クルシュに見抜かれてしまうからだ。

 

『御身はクルシュ様の従者のように見えますね』

 

 マイクロトフはこう言った。

 この言葉こそ、スバルが求めていたものだ。

 クルシュの従者のように見える。

 そうだろう。

 まるでそのように振る舞ったのだから、そうだろう。

 

 スバルも、スバルがクルシュの従者の()()()()()()()()に同意だ。

 

 もし、「御身はクルシュ様の従者ですか?」と尋ねられていたらどうしようもなかった。

 それを肯定する言葉は、嘘になってしまう。

 しかし、そのように見えたことに同意することはなんら嘘ではない。

 

 念のため、頷くまではいかなくともあごを引く程度にとどめたり、心の中で「クルシュ様! クルシュ様!」と連呼していたが、それが役に立ったかはよくわからない。

 だが、場を欺き、クルシュの加護までも欺くことはできたようだった。

 

 そして最終局面。

 

 クルシュは、それでもスバルのことを疑っただろう。

 それもそうだ。

 スバルとクルシュは初対面。

 こんな従者、いた覚えどころか見たことすらないはずだ。

 

 しかし、スバルはクルシュが意図を汲み取ってくれると信じていた。

 

 思い出すのは、二度の死の間際。

 

 クルシュは常に、死にゆくスバルの近くにいた。

 破壊を続ける魔女教徒と共に、一人で戦っていた。

 なぜ、一人で戦っていたのか?

 どうして騎士団はいなかったのか?

 なにゆえ、スバルを斬ったあの老剣士は遅れて参戦したのか?

 

 違う。

 クルシュは、魔女教徒が騒ぎを起こした牢獄にちょうどいたのだ。

 騎士団が遅いとか、老剣士が遅いとかではない。

 クルシュが早かっただけだったのだ。

 

 ではなぜ、クルシュはあの場にいたのか。

 まさか投獄されたわけではあるまい。

 貴族の服は着ていたし、剣も持っていた。

 となってくると、クルシュは牢獄に用があったと推測できる。

 

 

 …………スバルに再度会いにきていたと考えるのは、傲慢だろうか。

 

 

 そうだったらいいな、という願望が入っていることは間違いない。

 ただ単に他の用事があったのかもしれないし、仕事で来ていたのかもしれない。

 だが、クルシュがスバルの言葉を気にかけ、処刑間近のスバルの話を聞こうとしていたとしたら、どうだろう。

 

 クルシュはまだ、スバルに可能性を見ていたのだろう。

 何か大きなことをする、その助けになるかもしれないと思ったのだろう。

 だから、あの時、あの監獄の近くにクルシュはいたのだろう。

 

 だからスバルは、会合の場で自分の能力を見せた。

 クルシュの加護を欺きながら、場を凌ぐことができるという能力を。

 俺はこれだけ出来るぞ、というアピールを込めた目を向けた。

 

 クルシュならば必ず、そんな路傍の石を拾うと信じて。

 

 そうしてスバルは、二回の死で得たクルシュの人柄を信じて、この窮地を乗り越えたのだ。

 

 

 時は戻って、王城の一室。

 

「さっき言った通りだ。王城に魔女教が侵入してる。撃退のためにクルシュの手を借りたい」

 

「貴様、いったい……。いや置いておこう。なぜ魔女教の動向が探れる。貴様が魔女教徒ならば、道理は通るが……」

 

「お、それいいな。俺、魔女教徒。その案で行こう!」

 

 スバルは指をパチンと鳴らした。

 

「作戦SMOだ!」




作戦S(スバル)M(魔女教徒)O(オペレーション)
作戦とオペレーションが被ってるのはご愛嬌。


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死地へ

 コツコツ。コツコツ。

 

 一定のリズムに従って二つの足音が、石壁に響く。

 一つは清廉かつ剛実な足音。削っただけの石段を歩いているはず。それなのにまるで水面を歩くかのような音の中にもう一つ、コンクリートで固められた道を踏みしめるかのような音が聞こえるようだ。

 もう一つの足音の主、ナツキ・スバルはクルシュ・カルステンの足音一つまでもが自分のものとは異質であることを理解した。スバルは、同じだけの長さを生きていながらのその差に、何もしてこなかった自分を嫌厭していた。

 クルシュの身のこなしはもはや達人の域にあるが、それはこれまでの人生のほとんどを武術に注ぎ込んできたことを示している。上級貴族の嫡女であることを考えれば、やれることは何でもあっただろう。年頃の女子であれば花を嗜んだり、恋をしたりと忙しいはずだ。だが、クルシュにはそんな時間は少しもなかった。ひたすらに剣を振った。才能も時間も十分にあったのだろう。しかし、たとえ才能や時間があったとしても、何か一つのことを続けることは思いの外難しい。スバルには不可能と諦めたことだ。そんなクルシュが、スバルには眩しく見えてしまう。

 

 ダメだな、とため息をつく。

 

 今降りている石段は、スバルが二度も訪れた場所へと続いている。今回は手錠をされていないことが違う点か。向かう場所は王城からは離れた牢獄である。過去二回、同じ道を歩いているはずだが、どちらもぼーっとしていたせいで道を覚えていなかった。クルシュに聞いてみると、王城近くの牢獄はここしかないとのことだ。

 

「今度こそ、抜け出してやる」

 

 不条理の中続く死のループ。

 スバルはこの死のループに、終止符を打つつもりで来た。

 クルシュに借りた黒いローブの中には、黒い装丁を施した本を隠している。

 中身はただの本だが、カバーだけ取り外して新しいものを付け替えた。カバーはスバルのお手製だ。少しの時間さえあれば、この程度の手芸だったら造作もない。

 

 幾度も続くだろう死のループ。

 これを乗り越えるためには、当然スバルの生存が条件となってくるだろう。

 自身の生存、であればスバルは難なくクリアできるはずだ。

 賢人会の会合への介入、投獄という流れはすでに断ち切った。魔女教が牢獄を襲う以上、投獄されなければ死ぬ心配はない。

 ならばこのままクルシュに匿われるなり、城下町で現代知識無双するなり、いくらでも道はある。

 

「でも、」

 

 逃げようとは考えた。

 このまま何も見なかったことにして、クルシュの庇護下で安定した生活を送ることが最善手であることはわかっていた。

 

「あんなもん見せられちまったら、どうにかしてえって思うことは」

 

 ――おかしくないはずだ。

 

 人が死んでいた。

 五十人にも満たない人数だ。

 地球では、一日に十万人以上が死んでいると聞いたことがある。それに比べれば、五十人なんて微々たる数字だ。

 それだけの人数が死ぬと聞いただけなら、スバルはもちろん逃げ去っていただろう。五十人の人間が死ぬ場所に、スバルがいたとして出来ることは無い。

 

 だが、スバルは見てしまった。

 数えられるような数だが、損壊したいくつもの死体。

 頭が欠けている者もいれば、四肢が潰されている者もいた。あまりに凄惨な光景だったとしか言えない。

 

『死』を経験したスバルだからこそ言える。

 死とは、極限まで増幅させた痛みと消失感、そして恐怖を刻み込む。

 あの場で死んだ全員が、スバルと同じだけのものを感じていたのなら、それだけでスバルが逃げ去らない理由になる。

 逃げ出したいスバルをこの場所に留めるほどのものが、死にはあったのだ。

 

「馬鹿なことやってるってのは承知の上だ。でも、勝算があるなら馬鹿やったって許されるもんだろ……」

 

 繰り返される死のループ。

 二度の死の原因は、元を辿れば全て魔女教だ。

 全ての責任と二度も殺されたスバルの私怨は、奴らに叩き返さねばならない。

 

 魔女教とは、嫉妬の魔女の復活を目論む狂信者の集まりだと聞いている。

 神出鬼没でその動向を正確に把握することは至難であり、魔女教の企みを事前に防げたことはほぼ皆無。

 だが、何度も『繰り返している』スバルにとって、それは不利にはならない。

 いつ、どこに魔女教が現れるかは、すでに二度の襲撃を経て知っている。

 気掛かりなのは犯行人数だが、これは問題にはならない。

 

「あの野郎、まさか魔女教徒だったなんて……」

 

 思い出すのは、前回の死だ。

 同じ牢獄のおっさんと田舎野郎のカルロスに嵌められ、脱獄犯に仕立て上げられたスバルは気を失ってしまった。

 目が覚めた頃にはすでに魔女教の襲撃は起こっており、クルシュと魔女教徒が剣と魔法をぶつけ合っていた。それをなす術なく見守っていたスバルだったが、件の魔女教徒はスバルを担いで逃走を開始した。突然のことに身体が動かなかったスバルはされるがままに攫われそうになったが、クルシュのもとに一人の老人が駆けつけた。

 老人が剣を抜き、一歩を踏み抜いたと思った時には、すでにこちらとの距離を詰め目前へと迫っていた。

 初太刀は、魔女教徒の口の端から耳までを顔を覆い隠していたローブごと切り取った。即座に返した刃で魔女教徒の首は宙に浮き、続く刃で今度はスバルの首が飛んだ。

 自分の首が飛ぶ直前、スバルは魔女教徒の隠された素顔を見た。

 シワシワに伸びてだるんと下がった頬に、やたらと低い鼻。頭にはちょこんと乗っかった二つの耳に、尻からは可愛らしい尻尾が覗いていた。ブルドッグと人間を合わせたような顔つきだ。

 

 見間違いようもない。

 なにせ、初めて会った時あれほどの衝撃を覚えたのだから、間違えようがない。

 

 ブルドッグの顔をした人間に、スバルは一度会っていた。

 

「ここの看守長だ。あいつが、魔女教徒だったんだ」

 

 この監獄を取り締まるブルドッグの獣人こそが、今回の監獄襲撃騒ぎの魔女教、その主犯だったのだ。

 

 正直な話、看守長が獣人だったことも初見時では驚いたがそれ以上の驚愕だ。

 王都のそれなりの地位に関わる人物が、魔女教の手に染まっていたとなれば由々しき事態であると言わざるを得ない。

 スバルを王城に侵入させてしまった以上の責任を、何処かの誰かが追及されてしまいそうだ。

 

「だが、誰が首謀者かわかっちまえばこっちのもんだ。先手さえ取れれば、難しいことじゃない」

 

 首謀者さえ押さえてしまえば、王都に潜む残りの魔女教徒達も芋づる式で発覚するだろう。

 そして、

 

「本当なのだろうな? 監獄の看守長が魔女教徒だ、などと……。嘘は言っていないようだが、真であるかはこの目で確かめさせてもらうぞ。虚偽であったならば、貴様の身柄は拘束させてもらう」

「はいよっ。とぉ、ちゃんと約束の方は守ってくれんだろ?」

「当たり前だ。貴様の報告が真であったならば、当家へ食客として迎え入れよう」

「心配ご無用! そんかし三食お風呂付きで頼むぜ?」

「ふっ。随分と強欲だな。最高のもてなしを約束しよう」

 

 クルシュとの交渉は予想以上にトントン拍子で進んだ。

 これもクルシュの持つ『風見の加護』が有用に働いたためだろう。スバルの報告に一切の虚偽はない。

 看守長は魔女教徒で、王都には数人の魔女教徒が潜んでいる。

 これらは死を繰り返したことによって得た情報で、どんなことがあっても覆らない事実である。

 

 スバル謹製の魔女教徒の福音っぽい本が、唯一の切り札だ。

 魔女教徒は恐らくみんな、あのローブを着ているのだろうがそんなものは短時間で用意できない。

 だが、魔女教徒ならば持っているという福音。これさえあれば、少しの間スバルを魔女教徒だと勘違いさせることは不可能ではないはず。

 その間に看守長が魔女教徒だという証拠を引きずり出し、成敗してしまえばいい。

 これが作戦SMOの詳細だ。

 

 全てが終わった後は、クルシュの豪邸で豪遊だ。

 俺の異世界生活はここからだ、とここに宣言しよう。

 



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作戦実行

「これはこれはクルシュ様。お久しぶりでございます」

 

 恭しく頭を下げる目の前の人物を見る。

 垂れ下がる耳があんまり可愛くて触りそうになるが、手を引っ込める。鎮まれ、俺のモフリストソウル。

 

 この男こそが、この監獄の看守長。

 そして魔女教襲撃、スバル殺害の首謀者だ。

 安易に手を出しては危険かもしれない。

 

 ここは監獄にある看守長室。

 監獄の入り口は既にくぐった。

 扉を開ければ、犯罪を起こした罪人達の収容所だ。

 親の仇のような相手……。いや自分の仇か。とにかくこの男は、人の命をまるで紙屑のように扱う非人道的倫理観を持った奴であることがわかっている。

 無意識でギュッと強く握っていた拳を抑え、怒りを押し込める。

 

「ああ。壮健であったか?」

 

 クルシュは、古い友人に会うかのように気さくに話しかけた。

 いや、古くから知っている仲なのだろう。さきほど奴も「久しぶり」と言っていた。

 クルシュは嘘を見破ることが得意だと言っていたが、平静を装うことも得意らしい。

 普通ならば、古い友人が怪しい宗教の狂信者だと知らされて普通に接せるものではないはずだ。

 

「それはもう、おかげさまで。して、なぜこのような場所に?」

「面会がしたい。以前私が捕らえた中流貴族の当主の弟だ」

 

 クルシュは義侠心溢れるその性格と、『風見の加護』というまさに性格を体現したような能力で、王国貴族の黒い部分を暴いてきたのだという。

 今回はスバルと看守長を二人にするため、このように自然な形を取って席を外してもらう。

 

「どれどれ……あぁ、この方ですね。ご案内しましょう。おい!」

 

 看守長はペラペラと手元の分厚い資料をめくる。どうやら囚人のリストのようだ。

 目当ての囚人を見つけると、懐から小さな鏡のようなものを取り出して呼びかけた。電話みたいなものだろうか。

 

「クルシュ様を51番独房にご案内しろ」

「手続きはいらないのか?」

「クルシュ様であれば不要でございます。ささ、こちらへ。……そちらの方は?」

 

 看守長はクルシュを手招きすると、ようやくスバルの方へと意識を向けた。スバルはここまで無言を貫いてきた。下手に口を動かせば、要らないことまで言ってしまいそうだからだ。

 

「私の従者だ。ここに置いておく」

「はぁ」

 

 クルシュはそれだけ言うと、扉をぱたんと閉じて退室していった。おそらく外に案内役の看守が来ているのだろう。クルシュには、ある程度の時間が経ったら戻ってきてもらうことになっている。

 

「それでは、ゆっくりしていてください」

 

 看守長はクルシュを見送るなりスバルにそう言って、執務机へと向かった。片付けなければならない事務作業があるのだろう。

 

 スバルは一つ深呼吸を入れて、ジャージのポケットの中に忍ばせていた携帯電話を操作する。

 長いこと使っていた相棒だ。ガラケーなのでボタンがあることが幸いした。これならば画面を見ることなく目当ての機能まで操作できる。

 最後にピッとボタンを押したことで、スバルの前準備は終了だ。

 もちろん、これは録音だ。

 いくら看守長の正体を暴いたと言ってもクルシュに伝わらなければ意味がない。そのために、携帯電話の録音機能を利用する。

 投獄された過去二回のループでは身ぐるみを剥がされていたため、携帯電話も取り上げられていたが今回はそうはならなかった。

 

「行ったか……」

「それでは私は業務の方に戻りますので」

「待てよ」

 

 あまりに似合わないメガネを掛けようとした看守長の手を止める。老眼なのだろうか。

 

 さて、始めよう。

 ここからはスバルと看守長の舌戦だ。

 スバルは魔女教徒のふりをして、看守長自身の口から魔女教徒である証拠を押さえる。

 主導権は常に握る。しかしそれは悟らせない。言葉の一つ一つに気を配れ。ここが分水嶺だ。

 

「何でしょう?」

「犬っつっても仲間とか嗅ぎ分けられるわけじゃねえのな」

 

 手応えは薄い。

 こちらとしては、魔女教徒のフリをしてはいるがあまりなりきるのも良くはない。本物の魔女教徒同士で使う符丁などがあっては、すぐにボロが出る。あくまでさりげなく、切り札(福音)を出すのはまだ先だ。

 

「仲間……?」

「そう。仲間だ」

「人違い……いえ、犬違いでは? 私には何のことやら、さっぱり分かりませんね」

 

 くそ、と心の中で悪態を吐く。

 そう簡単には尻尾は見せないようだ。いや尻尾は見えてるんだけど。

 見た目以上に慎重な奴なのかもしれない。

 まだだ。まだ堪えるべき場面だ。

 

「それにしても、クルシュ様ってすげえよな」

「む……。そう、ですな。あの若さで家督を継いだのです。その才覚は幼い頃から飛び抜けておりました。だが」

「……?」

「いえ、何も……」

 

 難しい顔をする看守長から読み取れるのは怒り、か? 何か、いや誰かに憤りを感じている表情だ。

 頬を歪ませて笑う。これはもしかしたら、魔女教攻略の糸口になるやもしれない。手繰るとしよう。

 

「ああ? 何か言いたいんだったら言っとけよ。俺なら大丈夫だぜ? クルシュに雇われたのはつい先日。忠誠を誓ってるってのとは違うから、告げ口なんかしねえよ」

 

 クルシュに雇われてすらいないが、こんなものはどうでもいい。看守長から証言さえ引っ張り出してしまえばスバルの勝利なのだから。

 

「……ヴィルヘルム・トリアス。今は、アストレアでしたか」

「……」

 

 看守長は手をかけていた書類を横に退け、机の上に拳を置いた。

 

「奴を、剣鬼をクルシュ様が雇ったと噂で聞きました」

 

 徐々に強く握りしめられる拳。

 

「亜人戦争のことなら知っているでしょう?」

 

「私は、かの時代の敗北者です」

 

 遠い過去を思い出し、苦しむような表情を浮かべる看守長は額に一筋の汗を流した。

 

「もちろん王国に楯突くような真似はしませんし、逆にこうして仕事を任されていることに感謝しています」

 

「だが、あの男のことを許す気にはなれません! 戦争だからと納得はしていますが、あの男だけは!」

 

「私の兄と弟を殺したあの鬼だけは、許せないのですよ!!」

 

 そう、言い終えた看守長は乱れた呼吸を整えるように肩を上下させ、胸に手を当てる。

 スバルは凄まじい形相で机を見つめながら話し続ける看守長に気圧され、完全に萎縮してしまっていた。

 

「すみません。取り乱してしまいました」

「え、えーと」

 

 頭が混乱している。

 話は大幅に脱線したように思える。

 ヴィルヘルム・トリアス。アストレア。亜人戦争。どれもスバルの理解の及ばない言葉である。ここはスバルの生きてきた日本とは違う、異世界だ。知らない言葉が多くあることは当然だ。しかし二度の死を経て、死の原因やその背景にあるものについてはそれなりの知識を身に付けたつもりだった。それなのに、ここに来て新たな未知の言葉を浴びせられた。

 これはあまり喜べる事態ではない。最悪の場合、死の運命を回避するためのピースが揃わないという可能性すらありうる。

 

「ごめん、あんたの怒りは俺にどうこうできるもんじゃない」

「当然です。お忘れください」

「だがお互いやるべきことはわかってる、よな?」

 

 話を戻そう。

 スバルはこの男から、魔女教徒であることを自白させなければならない。

 こいつが何を思っていて、誰を憎んでいようが勝手だが、スバルが為すことは変わらない。

 スバルは魔女教徒で、仲間だということをそれとなく伝えなければならない。

 

「あんまり()()が適当だったもんで、よくわかんなかったけどな」

「記述……? わたしとあなたの間で文書のやり取りなどありましたか?」

 

 むぅ。

 ここまで匂わせておいて、これほどしらばっくれるとは予想外だ。福音の「記述」にまで触れたというのに、未だに尻尾は見せない。

 切り札を切るのは、そろそろか?

 

「……これを見せれば分かるか?」

 

 スバルは羽織っていたローブの裏から、黒い装丁の本を取り出す。

 スバルが見た魔女教徒の『福音』を、記憶だけを頼りに再現した偽の福音だ。こいつさえあれば、看守長も認めざるを得ないだろう。スバルは魔女教徒であり、仲間であることを。

 

「っ……」

 

 一瞬、看守長の顔が硬直し顔色が青ざめる。

 すぐに視線を真下に落とし、何かを考えるかのように顎に右手を置く。左手は机の下だ。ぶつぶつと何か言葉を発しているようだ。

 

「なるほど」

 

 少しの間を置いて、看守長は顔を上げてにこやかに笑った。

 

「それはもしや『福音』ですか……?」

「……っあ、ああ。そうだぜ? これが俺の『福音』だ」

 

 それを聞くなり看守長は硬くなっていた表情を柔らかくして、口元を緩めた。どうやら魔女教徒と認められたようだ。

 

「そうならばそうと、早く言って欲しかったですね」

「クルシュに聞かれたらことだからな。少し間を取らせてもらった」

「なるほど、なるほど」

 

 うんうんと頷く看守長からは、疑うような表情は見られない。うまいこと信用されたようだ。しかし福音というものは、それだけ信用に足るものなのだろうか。

 何はともあれ、計画の第一段階は満たされた。あとはこいつが魔女教徒である証拠を掴み、然るべきところに突き出すのみである。

 

「なれば、あなたも魔女の寵愛を受けし者。まさかクルシュ様の従者に、とは」

「大変だったぜ? あいつに嘘は通じねえからなぁ」

「……それで?」

 

「それも何も、お前にも記述が出てるはずだろ? 俺も今までは福音に従ってクルシュの従者を続けてたけど、ついに新しい記述が来た」

 

 監獄に魔女教徒達が襲撃をかけたのは、福音に記述があったからだとスバルは推測している。

 一回目のループでは、スバルを連れ去ろうとした魔女教徒が福音を開いていた。あれは記述を確かめるための行為だ。つまりそれ以前に福音に記述があり、その行動の結果が監獄の襲撃だったわけだ。

 

 つまり現在の段階で新たな記述がきている可能性は、かなり高い。すでに決行の日の二日前だ。奴の福音にも記述があることだろう。

 もちろん、スバルの持っている偽の福音には記述など無い。あるのはちっとも読めないこの世界の文字だけだ。というか喋れる割には文字は読めないのだな、と不便に思ってしまう。クルシュに保護されたら勉強してみよう。

 ともあれ、記述の無いスバルには記述の内容までは踏み込めないにしろ、記述があったことは確信を持って伝えられる。

 

「…………記述があったことは認めます」

 

 よし、と小さくガッツポーズを取りたくなるが、ぐっと抑える。

 これは僅かながらも看守長が魔女教徒であることを示す、重要な証言だ。

 

「が、私の福音にあなたの名はありません。これは一体、どういうことでしょう?」

「っ、別に関係ないだろ? 重要なのは記述に従うことだ。俺がいても問題は無い。人手が多いことに越したことはないしな」

 

 奴の福音に協力者・スバルの名が無いことは当たり前だ。

 本来は、投獄されて何もできない無力な少年であったはずなのだから。

 答えには詰まってしまったが、論点をずらしてしまえば問題はない。結局スバルの名がないことの答えは出ないが、これまでのやり取りで魔女教徒の奴らが福音を重要視していることは明らかである。ならばこの記述の内容に焦点をずらす。

 

「……わかりました。あなたも魔女に愛される者。共に愛に報いましょう。では、あなたの福音には何と?」

「え?」

 

 右フックを避けたと思ったら、次はアッパーが飛んできたような衝撃だ。これは想像していなかった。

 

「あなたの福音には何と記述されていたのです?」

 

 まくし立てるように続ける看守長に、目を泳がせるスバル。

 

「えーと、そうだ。お前が俺を認めても、俺はまだお前の福音を見てない。記述にはお前が魔女教徒でお前に協力しろって書いてあるけど、この目で見るまでは信用ならん」

 

 咄嗟に浮かんだのはやはり問題点をすり替えることだ。

 

「重要なことは福音の記述に従うことなのでしょう? 私が魔女教徒としてあなたの協力者になると福音に書いてあるのならば、私が福音を持っているかどうか、あなたが気にする道理は無いと思いますが?」

 

「ぐっ……」

 

 痛いところを突かれた。

 確かに福音が重要だと言ったのはスバル自身だ。それをそっくり返されてしまえば、口を噤む以外のことはできない。

 くそ、こいつが魔女教徒であることの証言がなかなか掴めない。小さな武器は幾つか手に入れたが、なにより決定打に欠ける。

 

「わ、っかったよ。俺はあんたのことは気にしない。さっさと指示を出してくれ」

「やることはわかっているのでは?」

「まあ、な。監獄の倒壊だろ? 手伝えることなら何でもやるぜ?」

 

 まあ仕方がない。

 こいつがいくらしらばっくれようと、その時になれば証拠はいくらでも出てくるはずだ。今は粛々と時機を窺って、その時になったらとっちめてやる。今はまだ我慢の時期だ。

 

 

「ということですが。クルシュ様?」

 

 

「…………………あ?」

 

 看守長が発したその名前には、スバルは凍りつく。

 なんで。どうして。ちょっと待て。

 

『…………ああ、まんまと嵌められた、というわけか』

 

 少しだけノイズの混じった音で聞こえてくる声は、少しだけ聞き慣れてきた声だ。芯の通ったその力強い声に救われたこともあったし、打ちのめされたこともある。

 次に聞くときは、祝勝の時だとばかり……。

 

「どういたしましょう?」

 

 看守長は、机の下から小さな鏡を取り出した。それは確か、さきほど案内係に声をかけるために使っていた鏡だ。鏡に映るのは看守長のブルドッグ顔ではなく、緑髪の麗人クルシュ。

 

「……………………おい」

『内乱未遂罪か?』

 

 鏡越しに聞こえてくるクルシュの声はすでにスバルに向けられたものではなく、軽蔑すら混ざっていない。

 

「魔女教徒であるなら、それだけで罪深いものです」

「ちょっと待てよ…………」

 

 ふつふつと怒りが湧き上がってくる。

 何なんだ、この展開は。想定していたものと違う。クルシュと話していたものと違う。どうしてこうなった? 何が起こっている?

 

『そうだな、卿に任せるとしよう』

「わかりました」

『残念だ、ナツキ・スバル。まさか貴様が本物の魔女教徒だとは』

「どういうことだよ…………!」

 

 なぜ、なぜそんなことを言う!?

 スバルが魔女教徒だと?

 クルシュは頭がおかしくなったのか?

 

『突然現れた正体不明の男の言葉を信じるほど、お人好しに育った覚えはない』

「でもっ! 加護で!」

 

 スバルの言葉はクルシュの持つ『風見の加護』で真実だと知れたはずだ。

 看守長は魔女教徒だという事実は、紛れもない真実。これは絶対に揺るがない! 揺らいではいけない!

 

『魔女教徒は心まで操られているようだと聞いたことがある。嘘のようなことも、本当だと信じてしまうのだろう。そもそも『風見の加護』は嘘を見破るだけで、真実を見分けるものではない。私は加護で見たものを鵜呑みにするのではなく、加護で見たものをどう扱うかに重きを置く。そうやって今まで生きてきたのだ』

「まさに傑物。王たる器に相応しいですな。私も応援しておりますよ」

 

 うんうん、と頷く看守長はハンカチで自分の額を拭っている。見れば冷や汗をかいているようだ。

 

『しかし、卿も中々の演技だったぞ』

「いやぁ、やってみるもんですね。冷や汗でバレないかヒヤヒヤしてました」

 

「何でだよ!」

 

 称え合う彼らにスバルは座っていた椅子を蹴飛ばして、偽の福音を床に叩きつける。丹精込めて作ったカバーが外れた。

 

「俺は魔女教徒じゃねえ! 俺はただの人で、魔女教徒はこいつだ!」

 

 看守長を指差し、スバルの無罪を主張する。これは真実だ。絶対なのだ。

 

『ではなぜ、監獄の倒壊など言い出した? 看守長を丸め込んで囚人の解放でも起こす気だったか?』

「だからっ! ちがっ!」

 

 監獄の倒壊は、死に戻りから得た魔女教の狙いという事実。だが、それを証明する証拠は何一つとして無い。スバルの弁護は悉くが撃ち落とされる。

 

『そもそも彼は動かない。この四十年間、黙々と仕事に忠実に働いてきた男だ。大金でも靡かないだろう。彼が魔女教徒だったならば別だが貴様が怪しいと感じてすぐ、こうして私の元にいる案内係との対話鏡に即座につなげ、即興で演技を始めた。魔女教徒のはずがない』

 

「先ほど使った対話鏡を懐に持っておいて良かったです」

「対話、鏡……」

『対になっている魔法器(ミーティア)だ。片方の持ち主の映像と声を届けることができる』

「そんな、いつっ!?」

 

 携帯電話のような魔法の機械に驚く暇など無い。

 いつからスバルと看守長のやり取りは、クルシュに漏れていたのだ。

 

「あなたが福音を取り出した後です。ふむ。カモフラージュのつもりですか。偽の福音を、とは」

「……あの時っ」

 

 下を向いてブツブツと何かを言っていた時、顎に当てていた右手とは逆の左手で、対話鏡を操作していたのか。

 

「でもお前は! 魔女教徒のような発言を!」

 

 そうだ。こいつはスバルの言葉に賛同するように話を続けた。魔女教徒だという何よりの証拠になるはず!

 

「全部演技ですよ。さっきから言ってるじゃないですか。私は魔女教徒ではありません。福音なんて物も持っていません。あなたの福音を見た途端、足がブルブル震えるくらいでしたからね」

「なっ!?」

『そういうことだ。ちなみに、対話鏡越しだとしても私の加護は働く。彼は潔白だ。ナツキ・スバル。貴様はこの暗い牢屋で過ごせ』

「なんでだよ! おかしいだろ!? 魔女教徒のこいつじゃなくて、無罪の俺が捕まるんだよ!? ふざけんじゃねえ! ふざけんじゃねえぞ!!」

 

 喉が千切れるまで叫ぶ。

 これはあまりにおかしい。

 スバルの二度に渡る死はなんだったのか。

 目の前のこいつは十中八九魔女教徒で間違いはないし、スバルは誓っても魔女教徒ではない。

 ありえない。

 ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。

 

「ありえないぃぃぃぃィィィイ!!」

 

『喧しいな。眠らせて牢屋に放り込んでおけ』

 

「はい。……すみませんね、私本当に魔女教徒ではないので」

 

 そう言った看守長はスバルの首に手刀を下ろす。

 視認できないスピードの手刀は一撃でスバルの意識を刈り取り、そのままスバルは暗闇に落ちていった。

 

 おかしい、あんまりだ、どうなっている、と叫びながら真っ暗闇へと落ちていく。

 



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監獄生活

 数時間が経った。

 

 何度目かの牢獄は、今までで最も暗く感じる。

 石壁は触ると氷かと思うほど冷たく、そのまま体が凍えてしまうようだ。

 

 硬すぎる寝台に横になって目を閉じてみても、睡魔は一向にやってこない。目つきの悪さに隈も合わさって、鏡を見れば極悪人に見えるはずだ。こんな牢獄に放り込まれるには、ぴったりの人相に違いない。

 

 カツカツと監獄内を歩く看守の足音が聞こえる度に、スバルは身を小さくする。手足を縮こめて、背中を丸める。看守長の言っていた拷問が、今日か明日か。

 願わくは、今日でないことを期待したい。

 

「良かったですね。あなたの拷問は二日後です」

 

 スバルが背を向ける柵から、看守長が声をかける。

 

「王選が始まる関係で。王都の民衆も少し敏感になっているようでふ。少しばかり入所の手続き等が立て込んでましてね」

「…………ふん」

 

 看守長の言葉に、胸中でガッツポーズを掲げる。

 理由など知ったことではないが、拷問が二日後に延びるのなら僥倖としか言いようがない。

 なにせ二日後には、看守長による監獄襲撃が起きる。

 ……そのはずだ。

 

 看守長が魔女教徒ではなく、クルシュと共にスバルのことを嵌めたという事実はあまりに受け入れがたいが、監獄襲撃は過去二回実行されている。今回も起きると考える。

 どちらにせよ、二日後までにこの牢獄から脱出せねばならないという条件は変わらないのだ。

 

「…………それでは。脱獄などは考えない方が良いですよ」

 

 無言を貫く。

 口を開くくらいなら、頭を回せ。

 与えられた材料と状況から、脱獄の糸口を見出す。

 不可能では無いはずだ。

 

 絶対に、脱獄するための道は残されているはずなのだ。

 

 

 ーーー

 

 

 スバルは頭を抱えていた。

 あれから一日が過ぎ去ったが、スバルの目の前には依然、堅牢な鉄柵が外界への道を阻んでいた。

 

 この間、脱獄の作戦を頭をこねくり回していくつも思い浮かべたが、どれも実現不可能なものだった。

 

 マシなものでも、突然魔法の才能に目覚めるだとか、そんな一縷の希望もない神頼みの作戦だ。

 

「どうするどうするどうする……」

 

 ぶつぶつと呟きながら、硬くなっている黒パンをぬるいスープに浸して柔らかくして口に放り込む。

 ここの食事も慣れてきた。

 味に違いがないのが欠点だが、味があるだけマシというものだ。囚人としての振る舞いが板についてきたと思うと、なかなか複雑な気分ではある。

 

「おい、どうした兄ちゃん」

「せっかく声掛けてくれるおっさんだってのに、お前は罠だって知ってんだよ! ちくしょう!」

 

 頭を抱えてあーだこーだ言うスバルに、ニヤニヤとした笑みを浮かべて声を掛けてきたのは、向かいに収容されているおっさんだ。

 

 実はこのおっさん、前回のループでのスバルの死を招いた元凶だと言える。

 脱獄を考えるスバルに良い作戦があると持ちかけたおっさんだったが、それはスバルを脱獄犯に仕立て上げる作戦だったことが判明し、気絶させられている間に監獄の襲撃は起こっていた。

 このおっさんの策に乗らなければ、スバルは襲撃を阻止できたかもしれない。

 故に、このおっさんの言うことに耳を貸す必要は無いのだ。

 ……というより、ここの看守とおっさんは癒着していたのだろうか。由々しき事態だ。上手いことこの危機を切り抜けられたら、摘発してやろう。散々冤罪で投獄した仕返しだ。

 

「おー、怖い怖い」

 

 スバルをただの頭のおかしい犯罪者と思ったのか、おっさんはそれだけ言ってすぐにスバルに興味を示さなくなったようだ。邪魔者が減って、かえって嬉しい。

 

「だー、わっかんねえ」

 

 スープをがばっと飲み干す。

 器の奥の方に引っかかっているふやけた野菜をかき出し、残さず食べきる。このあたりは、両親にしっかり躾けられた証拠であり、日本人の美点だと思う。

 

「んなこたぁどうでも良いんだ」

 

 どうせ残り十数時間の命だ。

 明朝にはスバルの命は無いものとするなら、今さら行儀の良さなど気にしている場合では無い。

 

「あーーーーーーーーーーーー」

 

 頭を空っぽにするべく、声を出し続けてみる。

 暫くすると看守や他の囚人に「うるさいぞ!」と石を投げつけられた。そりゃそうだ。スバルが同じ立場でも石を投げる。

 

 

 ーーーー

 

 気がつけば翌朝だ。

 頭を空っぽにしたら、本当に空っぽになってしまっていたようだ。

 ゴツゴツした簡易ベッドで目覚めたスバルは、昨晩から何も状況が変わっていないことに気が付く。

 

「おい、起きてるのか」

 

 看守による点呼が行われるが、それも実にいい加減なものだ。

 まともに仕事をしているのかと思ってしまうが、警備はザルではない。

 どうやら深夜に脱獄を図った囚人がいたらしく、奥の拷問室に連れてかれていったようだ。

 遠くから微かに聞こえる悲鳴が耳の奥に残る。

 

「なんだかなぁ」

 

 もう、どうでもいいんじゃないかと思い始めた。

 

 どうやったって、この絶望的な状況から抜け出せる気がしない。

 投獄されているという事実は変わらないが、クルシュにも見放されているし、プラスの要素が既にない。

 頑張っても死ぬのがオチだ。

 だとしたら、このまま死を待つ方が賢明な気がする。

 

「いや、死ぬのは嫌なんだけど」

 

 死ぬのは痛いし、怖い。

 

 それに、次、また死に戻りできるとは限らない。

 もしまた死んだら、あの場に戻れる保証はない。

 

「でもそれが良いことなのかもしれない」

 

 幾度となく死のループを繰り返すのなら、いっそそのまま死に戻りせずに死にたい。

 そっちの方が救いがあるってものだ。

 スバルはすでに、死よりも永遠に続く死に戻りのループに恐怖を感じるようになっていた。

 

「拷問は嫌だし、自殺も嫌だ」

 

 まだ痛いことを知覚できる内は、自決に踏み切れない。

 ならばさっさと魔女教徒に攫われそうになって、土石流に巻き込まれて死にたい。

 

「あれも大概だけどな」

 

 石の塊が顔面やら身体に絶え間なく叩きつけられる衝撃は、筆舌に尽くしがたい。

 意外とあっさりと死ねることは利点だろう。

 

 待とう。

 魔女教徒がこの監獄に攻め入るまで、時が過ぎるのを待つ。

 脱獄などできやしない。

 淡い期待を抱くくらいならば、死を選ぶ。

 ナツキ・スバルはすでにその領域に踏み込んでいた。

 

 

 ーーー

 

 

「こんにちは」

 

 その声に目を覚ます。

 起き上がってみると、柵の向こうに看守長が立っていた。

 手を後ろで組み、にんまりと笑っている。

 

 どうやらスバルは二度寝をしていたらしい。

 腹の具合から、すでに昼は過ぎ去り、夕方に入ろうとしている頃合いか。

 

「拷問のお時間です。お待たせしましたね」

 

 牢屋の鍵を取り出すと、ガチャリと錠を開ける。

 何度も開けようと試みた鉄柵が簡単に開けられ、なんとも言えない気持ちになるが、これから待ち受けるのは想像もつかない拷問だ。

 魔女教徒だとされているスバルは、どのような拷問にかけられるのだろうか。

 恐怖で身が震えてくるが、直に本物の魔女教徒が攻め入るはずだ。拷問にかけられる前に中断されることを願うばかりである。

 

「…………」

 

 無言で牢を潜り抜ける。

 何かを喋る気力も無いし、こいつと喋る気にもならない。

 

「ついてきてください」

 

 看守長の後ろにつき、手錠で繋がれたまま監獄を歩く。

 左右にある独房から好奇の目で見られるが、あまり気にならない。

 

「…………?」

 

 足元ばかり見つめて歩いていたからか、そのことに気づくのが遅れた。

 何かおかしい。

 そうだ。

 拷問室は監獄の最奥にあるはず。

 だというのに看守長はなぜ、()()()()()()()()()()()()()

 

「お、おい」

「…………」

 

 看守長は無言を貫く。

 先ほどまでのスバルのように口を閉ざし、全ての言葉に取り合わない。

 

 これからスバルは拷問されるはずだ。

 拷問室以外で拷問を行うということだろうか。

 

 なぜだ。

 わからない。

 まず、スバル自身に王都に関する基礎的な知識がなさすぎる。

 だから、監獄最奥にある拷問室以外に拷問を行う場所があるのか、魔女教徒用の拷問があるのかなど、細かいことは当然のようにわからない。

 

 

 やがて、監獄の入り口に近づく。

 見えてくるのは重厚な門と事務所、そして看守長室だ。クルシュと看守長に嵌められてからまる二日ぶりの看守長室だ。

 

 看守長は看守長室の前まで来ると、腰にぶら下げた鍵で扉を開ける。

 

「入ってください」

「……は?」

 

 手招きをされる。

 意味がわからない。

 こいつは何を言っている?

 

「早く」

「…………」

 

 そもそもこちらは手錠をされて、手綱を引かれている身。

 口答えなどする余裕もなく、看守長室に引き入れられる。

 

 一体、この場で何をされるというのか。

 奴は拷問だと言った。

 ならばもっとそれに適した部屋で行うべきだろう。

 

 この看守長室には事務机と硬そうなソファがあるだけで、他には何も無い。

 

「お待たせしました」

「……何がだよ。お前は何がしたいんだ。拷問じゃないのか? もしかして釈放してくれるのか?」

「落ち着いてください。同志よ」

「は? 同志?」

 

「ええ。魔女の寵愛を受けし、魔女教徒。ともに愛に報いましょうぞ」

 

 看守長は何食わぬ顔でそう言うのだった。



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桃色の影

 

「ええ。魔女の寵愛を受けし、魔女教徒。ともに愛に報いましょうぞ」

 

 

 そう言った看守長の顔面に、スバルは渾身の右ストレートを叩き込んでやろうとした。

 すぐにガシャンという金属音で、両手が固定されていることに気がつく。

 

「どういうっ! ことだ……!」

 

 ギリギリと歯を軋ませながら、歯の間から声を出す。

 

「どうもこうもありませんよ。あなたは魔女教徒で、私も魔女教徒。それだけの話です」

 

「ふざけんな! おまえっ、あの時は違うって! クルシュの加護も違うって言ってただろ!」

 

 二日前、看守長=魔女教徒の確信を得たスバルはその正体を暴くため、クルシュと共にこの監獄へやってきた。

 スバルの策にハマったはずの看守長だったが、その身は清廉潔白そのもの。魔女教徒ではないという言葉に嘘はないと、クルシュの加護も告げていた。

 

「そうですよ。私は魔女教徒ではありませんでした」

「……どういうこと、だ……!」

 

 奴は魔女教徒では無かったという。

 ならば、なぜ今、魔女教徒などと告白するのだ。

 

「ま、さか……?」

「思い描いている通りですよ」

 

 スバルの頭の中に、一つの考えが浮かび上がる。

 二日前は魔女教徒ではなく、今は魔女教徒。

 ある看守の言葉が頭を過ぎった。

 

『ある日突然、魔女教徒になる見込みのある奴に『福音』っつー真っ黒な本が届くらしい。それには魔女の意思があるらしくてな、自分の未来の道筋が書いてある。そんでそれが届いたら最後、敬虔な魔女教徒の出来上がりってな具合よ』

 

 一度目の死を迎えた後、投獄されたスバルは異世界の知識を得るために看守と話していた。

 その中で得た情報のひとつに、魔女教徒の増やし方の話があった。

『福音』さえ届いてしまえば魔女教徒の完成だという恐ろしい話。ややこしい手続きは一切いらない、操り人形の悪魔的な作り方。

 

「『福音』が届いたのか……!」

「今朝のことでした。恐ろしかったですが、触っただけで全能感が身体中に走りましたよ。そして、私が本当にやるべきことを理解しました」

「クソッ……」

 

 今日の朝に魔女教徒になってしまうならば、二日前に摘発したとしても意味はない。時期を誤ったとしか言いようがないが、こればかりは分からなかった。

 

「そんで、この監獄の倒壊が目的ってわけか……」

「……? 違いますよ。私の目的は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。同じ魔女教徒ですし、優しい指令ですね」

「…………は? ちょっと待て。お前の目的はこの監獄をぶっ壊すことだろ? この場所に幹部的な奴が収容されてるとかじゃないのか?」

「いいえ。私の『福音』には、あなたを連れて行くことしか記されていません。さあ、行きましょう」

 

 ……おかしい。

 過去二回、この監獄の倒壊は必ず行われてきた。ならば『監獄の倒壊』という事象は、魔女教にとって必須タスクであるはずだ。だというのに、こいつの『福音』にはそれが記されていないという。

 何が起こっている?

 何かが、過去二回と違うのだろうか。

 ……わからない。ここ二日、ぼーっと過ごしてきたツケが回ってきた。死の記憶が強烈すぎて、それ以外の記憶が曖昧だ。

 いったい何が違うというのか。

 

「さぁ、行きますよ」

「っ! 俺は行かないぞ。お前は魔女教徒なんだろ。だったら今から助けを呼べばいいだけだ。」

「残念です。この部屋は完全防音ですし、抵抗するようでしたら、気絶させて連れて行くだけですので」

 

 胸いっぱいに息を吸い込もうとした瞬間、二日ぶりの手刀が首筋に当てられた。

 

 

 ーーーー

 

 

 何度気絶して、何度目覚めれば良いのか。

 ユサユサと揺られる感覚に目を覚ます。

 視界に入ったのは流れる街並み。

 地平線にチラリと見える夕陽。

 それなりのスピードで、スバルは揺られながら動いていた。

 視点の高さから、誰かの肩に担がれているのがわかる。

 

「…………!」

 

 状況を思い出し、身をクネクネと曲げる。

 すると、両手が後ろで縛られていることに気がつく。

 

「放せ、この!」

 

 精一杯に暴れ回るが、亜人の凄まじい膂力に動きが封じられ、肩から落ちることさえ叶わない。

 魔女教徒と化した看守長は、スバルを担いだまま王都の街を人気のない裏路地を縫って走っていた。

 

「起きましたか。もうすぐで王都から出ます。大人しくしていてください」

 

 夕陽に向かって狭い路地を走り続ける。

 じきに夜の帳が降り始めるだろう。

 そうなったらスバルに逃亡の術はない。

 もはや、このまま連れ去られることしかないのか。

 

 全てを諦め、されるがままに身を任せたとき、

 

「待ちなさい」

 

 頭上から、夕闇に紛れて声が降ってくる。

 首だけを上に向けて、無理やり頭上を仰ぐ。

 

「……なん、だ?」

 

 何かが、家屋の屋根から落ちてくる。

 夕陽の影に同化した黒を纏う何かだ。

 いや、よく見ると人の形を模していることがわかる。と言うより、人だろう。

 

 もう一つ、特徴的な色が見える。

 桃色だ。

 重力に逆らう桃色の頭髪が、わずかに差す夕日を反射しながら激しく揺れる。

 

 自由落下を続けるその人物は、あと数秒もしないうちに地面と激突するというのに、速度を緩める気配がない。

 いや、人間に落下の衝撃をゼロにする術はない。

 このままでは落下してくる人物は、血飛沫を上げる物言わぬ人形と化してしまう。

 

「ちょっ、まっ、何してんだ! 死ぬぞ!」

 

 スバルは誘拐されようとしている自らの状況を忘れ、三秒後には接地するだろう人物に叫ぶ。

 

「……ラ」

 

 小さく呟く声が、遠くで聞こえる街の喧騒に紛れて聞こえる。

 

 すると、落下してくる人影の着地点に、()()が起こった。

 

 その現象をスバルは言葉にすることができない。

 なにせ、見たこともない事が起こったのだ。いや、()()は見えるものではなかった。

 ならば言葉に出来なかったのは道理だ。

 

 ただ、落下してくる人物が優雅に、音も立てずに怪我一つ無くスバルと看守長の前に着地したことで、その()()が人智を超越したものであることがわかる。

 

「……どなたですかな?」

 

 看守長は魔女教徒の顔を捨て、ルグニカ王国民としての笑顔を貼り付ける。

 恐らくこの場で騒ぎを起こした場合、すぐに表の通りから衛兵なんかが来ることを危惧したのだろう。

 穏便に済まそうとしていることがわかる。

 

 ならばスバルは、その邪魔を精一杯するだけだ。

 

「助けてくれ! こいつぁ魔女教徒だ! どこの誰だか知らねえが、衛兵を呼んできてくれ!」

「くそっ、このっ……! 黙りなさい! 司教候補だかなんだか知りませんが、眠っていてもらいましょう!」

 

 夕日を背にこちらに歩み寄る人影は、細く小さい。

 体操選手も吃驚な着地を見せた者だが、華奢な体格ではこの看守長に敵うとは思えない。

 争いは避けて迅速に通報してもらえれば、何とかこの場は脱せるかもしれない。

 想定できる最悪の展開は、謎の乱入者が余計なことを言ってスバルの巻き添えを食らうことだ。

 

「聞こえなかったかしら? 待ちなさいと言ったのよ。そこらの犬でもできることを、あなたはできないのね。悲しいわ」

 

「ダメだこいつ! 煽り性能が高い!」

 

 想定した最悪を瞬時に現実に変えてしまった人物に絶望する。

 看守長もといこの魔女教徒が、ブルドッグの亜人であることを加味した上での皮肉だろう。

 

「おいおいおいおい。あんまり言い過ぎると人種差別とかで炎上するぞ!」

「何度言えば良いのかしら。黙れと言ったのよ。

 ーー駄犬以下のゴミね、あなたは」

「おれ、いつそんなこと言われた!?」

 

 あまりに辛辣な少女の言葉にたじろぐ。

 少女。そう、少女だ。

 

 逃走を図る魔女教徒と抱えられるスバルの前に姿を現したのは、桃色の髪が目を引く小柄な少女だった。

 

 いや、特異なのはその格好か。

 少女が身に纏うのは、黒を基調にしたメイド服。

 胸元の開いたエプロンドレスに、頭の上にちょこんと乗ったホワイトプリム。上空から落ちてくる時に、やや短めのスカートは何故か重力に左右されず、鉄壁のディフェンス力を保っていた。

 それに、何故か杖を持っていた。

 およそメイドという想像の体現が目の前にあった。

 

「獣のような目でラムを見ないで。いやらしい」

「見てねえよ! ちょっと可愛いなとは思ったけどね!」

 

 愛らしい見た目に反して、内面は刺々しいようだ。あまり刺激しすぎると危険かもしれない。

 

 好転とまではいかないが、状況の変化はありがたい。

 このままではスバルはなす術なく魔女教徒に連れて行かれるところだったが、どんな理由であれ第三者が介入することで結果が変わることは間違いない。

 

 ただし、少しばかり問題があった。

 

「あなた、殺気が漏れすぎですよ。警戒されて当然。これ以上近づけば、交戦の意思ありと見なして攻撃します」

 

 そう、そうなのだ。

 今、魔女教徒が言った通り、目の前のメイド服をまとった少女からは恐ろしい雰囲気が漏れ出していた。

 殺気が云々はスバルにはわからないことだが、尋常ではない迫力を少女からは感じ取ることができる。

 それは、今にも、スバルたちを殺してしまいそうなほどだった。

 

「……ええ。ええ、そうね。ラムは今、殺気が抑えられていないわ」

 

 少女はまるで、自身に言い聞かせるかのように呟く。

 

「いいの。あなた達は殺すから。でもその前に一つ聞きたいことがあるわ」

 

「ちょっと待て! 聞き捨てならねえ言葉が聞こえたぞ! 殺すってなんだよ!?」

 

 少女は殺意の宿る目でスバルたちを睨みつける。まるでスバルたちが親の仇のように。

 知らない人間に出会い頭に殺されるなど、たまったものではない。

 

 

 

「うるさい。黙れ」

 

 

 

 少女が杖を構える。

 その二言で、少女の登場とスバルとのやりとりによって弛緩していた空気が引き締められる。

 絶対的上位者であることの証明。

 在るだけで平伏させるだけの迫力が少女にあった。

 

 スバルを抱える魔女教徒は、スバルを放した。

 それは全力を以て少女に対抗しようという姿の表れ。

 解放され地面に足をつけたスバルは、逃走の択を得た。

 しかし地面と足が接着剤でくっついたかのように動かない。

 一歩でも動けば、スバルの身体は無事では済まないだろう。

 それは隣に立っている魔女教徒による妨害ではなく、五メートルは離れている小柄な少女から発せられる敵意がそう言っているのだ。

 

「これからは、ラムの質問にだけ答えなさい」

 

 ぽたり。

 石床に汗が落ちる音さえはっきり聞こえるほどの静寂。

 ドクドクと心臓の鼓動が早まる。

 耳鳴りがひどい。

 

「まず、あなたは魔女教徒かしら?」

 

 ゴクリ。

 隣に立つ魔女教徒が唾を飲む。

 

「…………」

 

 小さく首を縦に振る。

 その質問が何を示すかわからないが、嘘をつくリスクを考えたのだろう。

 スバル以上にこの魔女教徒は、この場の絶対的強者の危険性を理解している。

 

「ーーーーーーっ」

 

 少女は長い息を吐くと、今度はスバルに持っている杖を向ける。

 

「…………」

「あなたは?」

 

 銃口を突きつけられているような圧迫感に、喉の奥が震える。

 頭の中がグルグルと回り、思考がまとまらない。

 何をすれば正解だ?

 どうすれば逃れられる?

 こいつは何が目的だ?

 何もわからない。

 

「ドーナァ!」

「フーラ」

 

 ピチャリ。

 スバルの右頰に温かいものが付着する。

 動かない頭をそのままに、眼球のみをゆっくりと右に動かす。

 視界の端に濃い赤色の海が出来ている。

 

「なんっ」

 

 赤の海から地面が隆起し、土の柱が突き出していた。

 その上に乗っていたのは、明後日の方向を睨みつけるブルドッグの顔。

 

 ばしゃり。

 まるでスバルの認識に合わせるかのように、切り離された頭と胴体が海に落ちる。

 

 跳ねた液体がスバルの服を赤く染める。

 

 少女に跳ねた液体はどういう原理か、少女を避けて四方八方へ散っていた。

 

「……………ッぅえっ」

 

 魔女教徒の死という突然の現実を受け入れ、スバルの視界は真っ赤に染まる。

 胃の奥から上ってくるムカムカするものを飲み込めず、何度目かの嘔吐。

 鼻が吐瀉物で詰まり空気を求めて吸い込むと、血の匂いと吐瀉物の匂いが混ざりさらなる吐き気を催す。

 涙と鼻水と胃液が同時に出てくるというのに、スバルは未だに足が動かせず、顔面と服がグチャグチャになっていた。

 

「馬鹿な人」

「なんっ、でっ……」

「攻撃してきたからよ。あなたもこうなりたくなかったら、従順に質問にだけ答えなさい」

 

 いつのまにか魔女教徒に向けていた杖を今度こそスバルに向ける。

 意に沿わぬことをすれば、少女はすぐにスバルのことを処刑するだろう。

 依然まとまらぬ思考でも、それだけは分かった。

 

「レムという女の子は知っているかしら?」

「…………」

 

 ーーーーレム。

 

 聞いたこともない名前だ。

 必死に記憶を探る。

 この世界に来てからのこと。

 たった数日しか経過していない。

 精査するのは簡単だ。

 何度も何度も頭の中で繰り返す。

 

 どれだけ繰り返そうとも、スバルの頭の中にそんな名前は存在しなかった。

 

 いや、そんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。

 

 スバルは『レム』などという名前に聞き覚えはない。

 それは変えようのない事実だが、これを少女に伝える意味があるのかどうかが問題だ。

 もしその名前を知っているとハッタリをかましたならば、いったいどうなるのだろう。

 

 少女は間違いなく『答え』を欲している。

 

 これが「イエス」か「ノー」で答えられる質問で良かったと考えるべきか。

 どちらかが正解ならば、五分の確率でスバルの身が保証される可能性がある。

 そして、「知っているか?」という質問。

 この場合、少女がその名の人物を探していると考えるのが最適だ。

 知らなければ使い物にならない。

 つまり、排除される可能性が高い。

 

 ならば『正解』はーーー

 

「し、知っているぞ」

「ーーーそう」

 

 少女の双眸に宿る殺意が増すのを感じた。

 ーーー間違えた。

 そう気付いた瞬間に、次の言葉が口をついて出ていた。

 

「と言ったら、どうなるのかなぁ、なんつって、ははは」

「地下牢に閉じ込めて身動きを取れなくした後に、レムの居場所を吐くまで拷問の限りを尽くすわ。そんな乾いた笑い声すら出ないほどに、ね」

「ひっ」

 

 怒りを鎮めるかのように早口でそう告げる少女の言葉に、思わず息が引っ込む。

 

 答えは違っていた。

 答えは『ノー』だ。

 知らないと首を横に振れば、スバルはこの狂気に満ちた鬼のような少女に見逃されるはずだ。

 今からでも遅くない。

 

「す、すまん。聞き間違いだったかも。ほんとは知らない気がするなー、なんつって」

 

 大量の冷や汗をかきながら、目線を泳がせながら人差し指を立てる。

 繕うことは出来ているだろうか。

 

「そう。では、あなたは用済み。ラムはエミリア様の捜索に戻るわ」

 

 そう告げて背中を向けようとした少女にホッとして、気を張って開き続けていた目を瞑る。

 

「死になさい。魔女教徒」

「ーーは?」

 

 気が付けば、腹が裂かれていた。

 ブシュッと、振り切った炭酸を開けた時のような勢いで噴水のように血液が飛び散る。

 

「くさい。くさい。くさいくさいくさいくさい。あなた、そんなに魔女の匂いを漂わせてよく平然とした顔をしていられるわね。ラムは気が狂ってしまいそう」

 

 頭がくらりとしてきた。

 ボーッと靄がかかったかのように、意識が遠く離れていく。

 

 ただ、出血を抑えようとして蹲るスバルを少女が頭上から蔑んだ目で見下ろしていた。

 

「レムを取り戻すまで。いえ、取り戻したとしても、あなたたち魔女教徒を許しはしないわ」

 

 充満した血の匂いが鼻腔に入りこむ不快感を感じながら、血の海に倒れ伏しそのまま気を失う。

 この血の量だ。やがてスバルは、出血多量か何かで死に至るだろう。

 

 ーーーこれで三度目か。

 

 この数日で二度も死を経験した。

 土石流に襲われたり、首を落とされたりしてきたわけだが、こんな風にゆったりと死を経験することは無かった。

 

 死ぬということを受け止めたら、もはや特別な感慨などは湧かない。

 なんだ、こんなもんだったのか。

 血の海って風呂に入ってるみたいであったけえな。

 そんなことしか思い浮かばない。

 頭に血が回らなくて考えられないからか。

 

 そのうち何も考えられなくなって、死んで、また繰り返すのだ。

 

 扉を開けて、クルシュと出会って、そしてどうなる?

 

 もう三度も失敗した。

 これから四度目が始まる。

 トライアンドエラーによって、スバルはそれぞれ違う択を取ってきた。

 だが、次の四度目でも死のループから突破できるとは限らないのではないか?

 四度目で失敗したら、次の五度目なら突破できるのか?

 

 ーーーー何度繰り返しても、同じなのではないか?

 

 

 ああ、そんなのは嫌だ。

 

 

 そんなのはあまりに、残酷じゃないか。

 



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咎人は輪廻を彷徨いて

 再び目が覚めた時、またもやあの女が視界に入った。

 

 もういいよ。何もかも。

 

 あんたのこともーー。

 

 クルシュ・カルステン。

 

 そんな言葉を口にした。

 

 

 ーーーー

 

 

 見たことのない天井だ。

 

「目が覚めたか」

 

 頭上から声が降ってくる。

 開き切らない目で右側を見ると、見たことのある人物がいた。

 長い深緑の髪が目に入る。

 クルシュ・カルステン。

 もはや、どんな感慨も湧いてこない。

 

 どうやら、寝かされていたらしい。

 矢鱈とフカフカしたベッドに沈み込む感覚がある。

 

 今に至る経緯がわからず、最後の記憶を探る。

 鮮明に思い出せるのは、桃色の髪をしたメイドの少女に腹を切られるところまで。

 

 掛けられている布団の中で、パックリと裂かれているはずの腹をさする。

 裂け目がないことに違和感を覚えながら、血の付いていない手のひらを眺める。

 

 あの後、夜闇が覆う王都の裏路地に腹から血を大量に吐き出しながら横たわるスバルを、死ぬ前に保護して万全の状態まで回復させた人物が面識のあるクルシュだったのだろうか。

 

 否だろう。

 その可能性を思い描いている間に、あり得ないという結論は出ていた。

 

 闇に包まれつつある王都の裏路地は街灯もなく、視界が悪い。それに、気を失う前にすでに大量の血を流していたスバルの命は、残り数分もなかったはずだ。瀕死の状態から、すぐに動き出せるほどの状態まで回復できる手段があるとも思えない。

 そして、そんな手段があったとして、スバルのことを魔女教徒だと断定したクルシュが、スバルにそんな治療を施すとは到底思えなかった。

 

 ーーーー死に戻りを、したのだ。

 

 死ぬことで、過去の地点まで自身を戻す力。

 スバルの精神だけを過去に飛ばしているのか。世界そのものを巻き戻しているのか。原理は不明だが、人の力を超越したその現象が起きたのだろう。

 

「ーーーー」

 

 気が付けば、目から涙が溢れていた。

 喉からは嗚咽が漏れ、手足の震えが始まった。

 一度溢れ出た感情は止まることを知らないかのように、流れ続けた。

 

「……どうした?」

 

 困惑した表情のクルシュが声を投げかける。

 心ここに在らずといった様子でボーッとしていた少年が突然、まるで童子のように泣き出したのだから、困惑して当然だ。

 

 クルシュは王国や領内の問題に、快刀乱麻を断つという言葉通りに解決してきた。その手腕があるからこその、この歳での公爵だ。

 そんな辣腕で知られるクルシュの狼狽える姿を政敵の貴族たちが見れば、珍しいものを見たと喜ぶかもしれない。

 

 

 

 そんなクルシュの様子など構わずに、スバルは声を出さずに泣き続ける。

 

 期待をしていた。

 自堕落な生活が唐突に終わりを告げた。

 夢にまで見た異世界だ。

 意気揚々と冒険に繰り出す自らの姿を幻視した。

 この場所が、この世界こそが、本当の自分の人生の始まりなのだと思っていた。

 今まで生きてきた十七年という人生は、この世界に来るための準備期間だったのだと受け入れた。

 これからの輝かしい未来が容易に想像できた。

 

 何の苦労もなく魔法を使えて、適当な金策で金を稼いで、生きているだけで美女に囲まれる。

 そのうち、偉業を成し遂げて貴族になったり、魔王なんかを倒してしまったりして伝説的な存在となり、老後は田舎に移住して悠々自適に隠居生活。

 

 そんな未来を思い描いていた。

 

 

 だが、現実はどうだ?

 望んでいた異世界に飛ばされたというのに魔法は使えず、右も左も分からないのに冤罪で牢屋に入れられて、頭のおかしい狂信者でもないのに殺される。

 

 極め付けは、死で終わることのできない救いなき輪廻。

 死ぬことで過去に戻って、どれだけ頑張ったとしてもやはり死ぬという運命は避けようがない。延々と続く死のループ。

 死に戻りという事象は、やり直しの機会を与えるものではなく、終わることのない絶望をスバルに与えた。

 

 二日後に死ぬという運命は回避のしようがなく、形を変えて必ずやってくる。

 

 何もしなければ土石流に流され、脱獄しようとすれば爺さんに首を刎ねられる。捕まる前に何とかもがいても、街中でメイドに殺される。

 恐らく、他にどんな策を講じようとも、スバルは運命に殺される。

 

 ならば、もう、()()のではないか。

 

 死んで戻って、また死ぬだけ。

 

 山の川を下る水が海に流れ、雲になり雨となってまた山に降り注ぐように。

 

 スバルは、永遠の牢獄(死のループ)に囚われた囚人だ。

 脱獄など叶わない。

 王都の牢獄と比べるまでもないほど、残酷な刑罰だ。

 

 

 ーーこれは、人生を無為に送ってきたツケなのだろうか。

 十七年という長い時間の中、何も為し得なかった報いが今になって目の前に現れたのだろうか。

 そもそも、十七年もの時間を無為に過ごしてきた男が、何かを為そうだなんておこがましい話だ。

 この世界は、スバルのための世界ではない。スバルの都合の良いように作られた世界は、所詮スバルの妄想の中にしか存在しない。

 この世界には、スバルのように十七年生きてきた者もいて、スバル以上に努力してきた者が多くいる。

 クルシュ・カルステンがその良い例だ。

 それほど歳の離れていない彼女は、上流貴族にして次期国王の候補者らしい。実に羨ましい限りだが、その裏には積み重ねてきた相応の過去があったはずだ。

 スバルには英雄になるような大層な過去はないし、努力や研鑽を積み重ねてもこなかった。

 何もしてこなかったという過去が、今の悲惨な状況を招いているのだ。

 

 しかし、おそらくそれは違う。

 スバル以上に堕落した人間は、他にもいるはずだ。たまたまスバルがこのような仕打ちを受けているだけなのだ。

 

 だが、それだけのことをしてきた。いや()()()()()()()という自覚がある以上、この報いが正当なものだと感じてしまっている。

 

 後悔など無意味だ。

 懺悔など許されない。

 生きることが苦として存在するこの無限のループにおいて、それらは意味をなさない。むしろ罰の一つとしてスバルの心に返ってくる。

 

 ならば、何もせずに受け続けよう。

 心を無にして報いよう。

 いつか助かるなどという希望は捨てて、諦めと共に死のループを甘んじて受け入れよう。

 

 それは辛いことだと思う。

 でもどうせ死ぬのなら、初めから諦めていた方が失望がない分、辛くない。

 何度も死を繰り返せば、何千回か何万回かは分からないがそのうち痛みにも慣れるだろう。

 

 

 それが、三度の死を遂げたナツキ・スバルの辿り着いた結論だった。

 

 

 ーーーー

 

 

「いったいどうしたというのだ……」

 

 少年は唐突に泣き止んだ。

 瞳から涙が零れなくなると、今度は感情が無くなったように天井を見つめるばかりだ。その目から、光は無くなっていた。

 

 クルシュと賢人会の会合に堂々と割入った侵入者。

 会合の内容が内容だけに、盗聴されていたならばまずいことになっていたが、当人がこの様子ではどうしようもない。

 

 とりあえずのところは、治療のスペシャリストであるフェリスの到着を待つしか他に手はない。

 クルシュの言葉は届かないようで、たとえ体の内外問わず傷があったとしても、門外漢のクルシュでは手の施しようがない。

 

「こういうことは、フェリスに任せきりだったからな……」

 

 目の前に救うべき人間がいるにも関わらず、救う手段を知らず、フェリスという親友にすべて任せていたことに気がつく。

 クルシュの心の奥に生き続ける殿下は、人々の心さえも救っていたと思う。

 クルシュは幾度となく、殿下の言葉に鼓吹された。フェリスは人生を救われたと言っても良いほどだ。

 

 言葉には、力がある。

 どんな攻撃魔法よりも強く人を傷つける言葉もあれば、どんな治癒魔法よりも優しく人を癒す言葉もある。

 クルシュは弁は立つが、いくらか堅いところがある。貴族社会で生き残るために身につけた話術は、人を癒すものではなかった。これからは、人心を癒す話術を身につけていくことも必要だろう。

 

「……ん」

 

 王へと続く道は長く、まだまだ学ぶべきことは多いと考えていると、部屋の扉をコンコンとノックする音が響いた。

 

「入れ」

「失礼します」

 

 開けられた扉を見れば、スラッとした手足を男性用の簡素な衣服に身を包んだ人物が立っていた。肩にかからないほどの頭髪から飛び出る猫のような耳が特徴的だ。目鼻立ちは、クルシュが見ても綺麗だと思うほどに整っている。

 

「またそんな服装を……。それに急ぐ必要はないと伝えただろう?」

「今日は非番でしたので。それに、クルシュ様の命令は至上です」

 

 じんわりと湿っているシャツと荒い息遣いに気づいて指摘するも、あまり意味がなかった。

 前髪が額に汗で張り付いて乱れている。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。

 

 フェリス・アーガイル。

 

 フェリスを保護して以降、細々とカルステン領に住んでいるアーガイル家の()()だ。

 

 男装とすらりと伸びた手足、言葉使いで初見の相手には男性だと勘違いされるが、彼女はれっきとした女性だ。

 しかし勘違いされるといっても、フェリス自身が男性としての振る舞いをしている以上、勘違いした者に悪気はない。

 

 クルシュはフェリス本人の事情と意向を尊重しているため、()()の思う()()()を受け入れている。

 そもそも、クルシュも男装に身を包む事が多い。親友だという自負もある。全てとは言わないまでも、互いに分かり合っているつもりだ。

 

「対話鏡で話した通りだ。この者の悪い箇所を調べて欲しい」

「はい」

 

 言うが早いか、すでにフェリスは少年の額に手を当てていた。

 世界で最も優しい手は、どれだけ重い傷や病だろうと必ず癒してきた。身に宿るありとあらゆる呪詛であれ解いてみせる。

 例外は半年前、王族が揃って冒された不治の病くらいだ。未だ原因のはっきりしないかつての厄災に対し、当時解決に最も期待されたのがフェリスだった。王国最高の治癒魔法の使い手。『青』の称号を持つ者として当然の重荷だった。

 だが『青』の腕を以てしても、病の進行を気休め程度に抑えることしかできなかった。

 そのことを未だ引きずっていることを、クルシュは知っていた。

 

「外傷は一切ありません。健康体そのものです。目は見えてるようですけど、精神に異常をきたしてるみたいで、無理やり治すよりも安静にしている方が良いですね」

 

 寝台を挟んでクルシュの向こう側に立つフェリスは、横たわる少年の額から手を離した。フェリスの手元で光っていた水のマナが燐光を放ちながら消える。

 

「……」

「クルシュ様、この男は……」

 

 クルシュの一番の従者、そして親友であることを自負しているフェリスにも、今回のクルシュの行動には首を傾げた。

 

 

 

 街に出て、今日の分の「予約」と「急患」を消化していたフェリスは、不意に懐で光る対話鏡に気が付いた。

 対になっている対話鏡を持つ人物は、フェリスの仕える主のクルシュだ。

 文字通り、何よりも優先する主からの緊急連絡。フェリスは急病患者のみを治療後、命ぜられるがままに王城近くの貴族街、カルステン公爵領にある本邸よりも少し小さな、カルステン別邸の客間へと足を運んだ。

 

 寝台に横たわり天井を見つめる少年と、それを少しだけ困惑した表情で見つめるクルシュの構図からは、クルシュの真意は読み取れなかったが、与えられた使命を忘れるようではクルシュの一の従者は名乗れない。

 フェリスはすぐに少年の容体を調べ、命の危険はないと悟った。

 

 

 ……見たことのない少年だ。

 

 フェリスとクルシュの関係は長い。

 十年にも及ぼうかという間柄であり、それだけの時間、フェリスはクルシュと一緒にいた。

 その時間の中に、このような珍しい黒髪に素材のよくわからない衣服を纏う少年の姿は無い。顔が平凡すぎて忘れたという可能性も捨てがたいが、それならば天然混じりのクルシュの方が忘れている可能性は高い。

 治療ついでにマナを探ってみたが、魔法の素養がほぼ皆無であることは確認済みである。ペタペタと触診した身体も鍛えてはいたが、普段から剣を振っているクルシュの方が鍛えられている。

 

 記憶に残るような存在でもなければ、クルシュの目に留まる価値もない。

 一体、どこから拾ってきたのだろうか。

 

「突然王城内に現れ、賢人会を含む王都の主要人物の集まる会議室にノックもせずに侵入した男だ」

 

 フェリスの疑問をすくい取ったかの様にクルシュは答える。

 

「……そ、それって、大犯罪じゃ!? もしかして、犯罪者を匿ったんですか!」

 

「フェリスに見せる名目で預からせてもらった」

 

「うっ……。でも、そういうことは先に言ってください!」

 

「私が頼めば、フェリスは治してくれるだろう?」

 

「……否定出来ないのが悔しいです!」

 

 生来より生えている猫耳がプルプルと震える。

 この主人はどこまでも実直で、決めたことを曲げたりはしない。分かっていたつもりでも、予想できないことをしでかすことが多い。従者として気が休まらないのは、フェリスの小さな悩みでもあった。

 

「で、でも、なんでそんな大胆な男が、さっきまで子どもみたいにぶるぶる震えていたんですか?」

 

「会議室に入るや否や倒れたんだ。ついさっきまでは呆けた顔をしていたというのに、瞬きの間に顔色が変わってな。そしてこの通りだ」

 

「へぇ。でもどうせ、助けを乞われたりしたんでしょう?」

 

「いや、彼の目は既に死んでいた。しかし、倒れながら小さく私の名前を呼んでいたのが、風に乗って聞こえたよ」

 

「ホント、厄介な加護ですよ」

 

「まったくだ」

 

 二人してため息をつく。

 あくまで立場を弁えた範囲内での話だが、クルシュはあまりに人が良すぎる。助けを求める声があれば手を差し伸べる。

 それはフェリスのことも例外ではなく、だからこそフェリスはクルシュの行き過ぎた善意を咎めることはできない。それどころか、フェリスは主人のそのような点を好んでいた。

 なぜならその善意に、フェリスは人生を救われたのだから。

 

「まったく。クルシュ様は……」

 

 フェリスは急いで来たために乱れた男性服を正しながら、クルシュのことを複雑な目で見つめていた。

 



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抗えぬ絶望

 クルシュにとってその少年は、路傍の石にしか過ぎない。

 特別大きいわけでもなく、手に取るほどの物珍しさもない。

 

 ただ、クルシュの目の前にポツンと置かれたその小さな石を見たとき、気がつけば拾っていたのだ。

 案の定、特別なものは何もなかった。それは分かっていたから、落胆することはない。

 しかし、この少年には何かを起こすという確信にも似た何かを感じた。『風見の加護』によるものかは分からない。感覚的な部分で、何かを得たのは確かなのだろう。でなければ手を差し伸べることも、こうして夜が明けてからわざわざ訪問することもない。

 

「見ろ。この部屋は王都を一望できるのだ」

 

 カーテンを開けると、大量の朝日が差し込んだ。

 観測所によると今日も快晴が続くという。

 あまり部屋に篭りきりだと、気分も沈んでしまうだろうから窓を開け放つ。

 

「どうだ。心地良いだろう?」

 

 爽やかな朝の風が舞い込む。

 シーツの端がパタパタと揺れた。

 朝風は少年の前髪も揺らすが、瞳の中の色が揺れることはない。

 

 窓の外にはルグニカ王国王都の街並みが広がっている。

 

 ルグニカ城にほど近く、高い土地に建っているこのカルステン別邸からは、周辺に上級貴族の邸宅、少し下がったところに下級貴族の邸宅が見えている。堅牢な門と高い塀で囲まれたこちら側を皆は、上層区と呼んでいる。

 塀の外には、家屋が豆粒ほどの大きさにしか見えないが、王都の民が住まう平民街や商業区が広がり、そのさらに外周部には貧民街が広がっているはずだ。これらを纏めて下層区と呼んでいる。

 上層区と下層区は明確に区分けがされており、定期的に送られる物資の荷竜車が唯一のパイプだ。

 

 朝日が昇って約一時間ほどか。

 王都の街並みも少しずつ騒がしくなってきた。

 これが昼頃になると大きな喧騒になり、それをこの場所から眺めるのがクルシュは存外好きだった。

 

 王族が続々とお隠れになる前後で、下層区の様子に大きな変化はなかった。陛下が亡くなった時もその死を悼む声はあっても、混乱に陥ることはなかった。

 一方、上層区の様相はなかなかに困難を極めた。

 もはや思い出すだけで、疲労を感じてしまうほどだ。

 

 賢人会が中心となって混乱を鎮めようとしている中、クルシュはいっそ傲慢とも取れる責任感を抱えていた。自身が関わる以上、改善できなければその全ての責任は自身の不手際にあると自責していたのだ。フェリスからは休めと何度諭されたかわからない。だが親友であり尊敬するフーリエ殿下も病床に臥している以上、手を抜くことはクルシュの矜持が許さなかった。

 

 ただ、この混乱に乗じて奸計を企てる貴族がいたのが特に厄介だった。

 事後処理に忙殺される賢人会を出し抜き、王都の裏で特別指定保護種の希少な薬草を密売していた、中流貴族当主の弟を捕まえたのがクルシュだ。

 

 黒い噂の絶えない輩だったが、現行犯で捕まえてしまえば噂は現実に変わる。

 

 貴族社会の癌を排除できたことは単純に喜ばしいことだが、中には上手いこと尻尾をつかませず、成り上がった商人なんかも居るらしい。

 長閑に見える王都の街並みにも、裏の顔があるというわけだ。

 

 

 ベッドに横たわる少年は首だけ動かして、開け放たれた窓から見える街並みを見下ろす。

 

 一瞬だけ瞳の奥で何かが光ったように見えたが、すぐに興味を失った目が映すのは黒色の王都だ。

 

「ここは見晴らしが良い。市場も見えるし、王都の外まで見渡せる」

 

 気晴らしにはちょうど良いはずだ。

 少年の心の闇を取り払うこと、その一助になってくれればとは思う。

 

 

(……あと二日か)

 

 心中でつぶやく。

 昨夜、王城からの使者がカルステン別邸に送られてきた。

 送り元は賢人会。

 内容は見るまでもなく明らかだった。

 

 クルシュの保護したこの少年の身柄についてだ。

 賢人会はこの少年を、『王城に不法侵入した身元不明の危険人物』という扱いをするらしい。

 判断としては妥当だろう。

 

 しかし、犯罪者として法的に裁かれることは決まったが、その前に公爵家当主かつ次期国王候補者に保護、もとい確保されてしまった。

 

 王国に有益な人物であるという判断はできない。むしろ損害を与える人物となり得る可能性の方が高い。ならば早々に処理してしまった方が良いのだが、賢人会にも手が出しづらい権力者(カルステン)の手に渡ってしまった。

 もちろん犯罪者隠匿の罪状で摘発することはできるが、カルステン公爵家を敵に回すリスクは計り知れない。

 しかし、カルステン家には『青』がいるという事実、罪人を悪用しないだろうという信頼があった。

 

 故に、賢人会は三日の猶予を設けた。

 

 少年の身元が王国貴族の身内の可能性がある。または、帝国や聖王国など他の大国の密使の可能性も微小ながらある。もし少年が王国に送り込まれた刺客だとしても、何らかの原因によって自失している現状、脅威にはなりえない。

 あらゆる可能性を模索した結果、賢人会は『この三日で少年の身元が確認されれば良し。不明のままならば処罰する。三日の間、身柄はカルステン公爵家に引き渡す』とした。

 

 昨夜その旨が書かれた文書を受け取ったのだから、受け渡しはおそらく二日後の日没以降。

 それまでに少年が心を開くことは、率直に言って難しいだろう。

 

 だが、少年が自身を取り戻さなかったとしても、クルシュからしてみれば損失はない。

 クルシュの感じた『何か』が気のせいだった可能性も存分にあるし、実は少年が()()()()()()()で、カルステン家に招き入れられることまで計算通りだった可能性も捨てがたい。

 

 考え出せばキリがないが、少年が処刑されることになっても、クルシュは構わないと思っていた。むしろその段階までいって庇っていたら、罪に問われかねない。

 あくまで、フェリスに診せるという現状維持が最善であると認識しているだけだった。

 

「朝食は後で持ってこよう。この部屋の中だけになってしまうが、自由に過ごしてくれ」

 

 寒い時期が過ぎたとはいえ、王都の朝晩はまだ冷える。

 窓を閉めて、いまだ無言を貫く少年の横を通り過ぎ、クルシュは部屋を退出した。

 

 ここならば、冷たい牢獄より幾分かマシな生活を送れるだろう。

 今は、自然に少年の心が回復するのを待つのみだ。

 

「馬鹿馬鹿しいな」

 

 口の端に笑みを浮かべながら呟く。

 少年が再び口を開くとき、クルシュにどんな変化をもたらすのか、少しばかり期待していた。

 そのことが少しばかりおかしく、また、懐かしく感じてしまっていたのだ。

 

 なぜなら、日常の変化はいつだって、予想外の出会いから始まるものだから。

 

「フーリエ殿下……」

 

 今は亡き殿下との出会いを想起しながら、クルシュは執務室へと続く廊下を歩き出した。

 

 

 ーーーーー

 

 

 クルシュの豪邸での暮らしぶりは悪くなかった。

 

 温かい食事が勝手に出てくる。

 日がな布団にくるまっていても怒られない。

 

 自由の身だ。

 実家以上の自由を得られたと言っても過言ではない。

 それも三日で失われると思うと惜しいものがあるが、どうせ数え切れないほど、もしくはループに上限があるのならばそれまで、幾度となく経験することになる。

 そう思えば悪いことではない。

 

 食事は三食。

 クルシュ自身が運んできた。

 忙しい身だろうに何故なのだろうか。

 スバルがもぐもぐと黙って食べている間にもクルシュは部屋に居続け、色んな話をしてきた。

 

 今日の天気がどうだとか、今はリンガ(地球でのリンゴによく似ていた)が美味いから持ってきただとか、フェリスだとかヴィルヘルムだとか言う名前も時折出てきた。

 

 素性に関して聞かれることは一切無かった。

 何故なのだろうか。

 出生不明の大犯罪者など置いておくだけでも問題だろう。

 そんな疑問は浮かぶものの、シャボン玉のようにすぐに消えた。

 そんなことはどうでも良い。

 どうせ明日には死ぬのだ。

 死に戻りをしてから二日後。

 それがスバルに残された時間。

 

 どうせスバルは死ぬ。

 ならばその運命を受け入れよう。

 スバルの下した決断はそんな諦観だった。

 

 一度目も二度目も、死んだのは恐らくスバルのみであろう。

 土石流に流れた時、あの時はクルシュと看守長が交戦していたと推測できるが、二度目の死の際にあの老剣士に看守長は一刀両断されていた。死ぬことはなかっただろう。

 二度目も同じである。

 三度目に関しては看守長とスバルのみが死んだ。

 

 つまり、この死のループにおいて死ぬべきなのはスバルのみ。または近くにいた看守長のみであり、クルシュなど他の人物が巻き込まれることはない。それならば安心して死ぬことができると言うものだ。

 

 もしもスバルの死に、何の関係もない人物まで巻き込んでしまうことがあるのならば、スバルの決心は揺らいでしまっていたかもしれない。記憶のないまま幾度となく殺される様を目にするのは、スバルには耐えられない。誰の記憶にも残らないその人物の死さえも背負って、スバルは次のループを繰り返さなければならないのだから。

 

「今日は本当に天気が良いな」

 

 そう言いつつ、夕食を運んできたクルシュがカーテンを開ける。

 全面ガラス張りになっている部屋の南側からは、王都の全貌が見て取れる。

 西日が差し込み、眩しさを感じて目を細める。

 

「王都はかつての活気を取り戻し、都市機構としての働きを取り戻しつつあるが、それでも日陰の部分にはまだ陽が当たっていないな」

 

 クルシュは窓枠に手を添え、憂うように王都の外縁部を見る。

 そこは陽が落ちようとしている王都の中でもより一層濃い陰に覆われ、鬱屈としていた。

 

「あそこはいわゆるスラムだ。犯罪者や盗品、病原菌などの温床となっている。今すぐに是正すべしと言う者もいるが、手を出すのも難しい」

 

 スラム。

 現代日本に暮らしている以上、あまり聞かない言葉だ。

 あいりん地区だとか、名前だけは聞いたことがあるが身近な言葉ではない。

 

「王国の福祉制度は未だ途上。それに全ての民を平等になど、貴族制度がある以上叶わぬ夢だ。受け皿として、そういった場所が無ければ生きていけぬ者もいる。スラムの密輸ルートなどを利用している上級貴族もいるようだ」

 

 カルステン家はどうなのだろうか。

 公爵家というだけはあって、そういうことともズブズブなのだろうか。

 クルシュの性格上あり得ないとは思うが、そういった裏の仕事は参謀役のような有能キャラが内密に取り仕切っていそうだ。

 

 しかし、スラム街か……。

 一度でも良いので少しぐらいは見てみたいかもしれない。

 これもファンタジー要素の一つとして色濃く浮かび上がるものだろう。

 この身が自由に歩き回れることはないだろうが、方角と大体の場所は覚えておこう。

 

 クルシュの話は本当にどうでも良いが、為にならないわけではない。

 聞いていて飽きるということはないし、邪魔する理由もないので適当に聞き流している。

 

「おお、そうだ。今日はこの二人を改めて紹介しようと思っていたのだ」

 

 いつも通り淡々と話が終わるのだと思っていたが、おもむろにクルシュは踵を返し、扉に向かってすたすたと歩き出す。

 扉を開けると二人の人物が部屋に入ってきた。

 

 一人はフェリス

 診療という名目で何度か顔を見ているので名前も覚えた。

 やたらと線の細い男で、こいつは女だと言われても信じてしまうほどだ。良い匂いがする。治療系の魔法が使えるらしく、その腕をクルシュは信頼しているようだった。

 

 もう一人は……。

 その顔を見た瞬間、咄嗟に首元を押さえてしまった。熱い感覚が蘇ってくる。

 今でも鮮明に思い出せる。

 身体は老いていたとしても、その剣筋を忘れることはない。

 二度目のループにおいて、看守長とスバルの首を容易く刎ねた老剣士だ。

 

「むっ。何か気に障ることがありましたかな?」

 

 あからさまに怯えた様子を示すスバルに、老剣士は困ったような表情を見せる。

 それもそのはずだ。

 死に戻りによって、老剣士がスバルを殺した事実は消え失せ、老剣士にその記憶は無い。

 彼からしてみれば初対面の人物にこれほど恐れられる道理はないはずだ。

 

「…………」

 

 胸に手を当て、気持ちを落ち着ける。

 あまり思い出したくはないが、老剣士の顔を見るとあの死の瞬間が思い浮かぶ。

 あの状況。クルシュの声。

 考え得るに、彼はクルシュの従者なのだろう。

 

「怖がらせてしまいましたら申し訳ありません。私はヴィルヘルム・トリアス。クルシュ様に仕える、しがない用心棒でございます」

 

 ヴィルヘルムと名乗った男は洗練された動きで一礼する。

 その所作一つ一つに熟練のものを感じる。

 しかし、はて、この名はどこかで聞いた覚えがあるぞと首をかしげる。

 

「この二人は私が特に信頼を置く者たちだ。私の不在時、何かあったら相談すると良い」

 

「……ふん」

「……」

 

 不満気に鼻を鳴らすフェリスと、小さく顎を引いたヴィルヘルム。

 

 あからさまに不本意な態度を取るフェリスは分かりやすい。どう見てもスバルのことなど認めておらず、さっさと出て行って欲しいといった様子が見て取れる。

 一方、態度には出さないがヴィルヘルムもスバルのことを快く思っていないのだろう。

 いようがいまいがどちらでも良い、といった様子か。

 

「行こうか」

 

 クルシュが先頭に立ち、部屋を出て行く。

 フェリスとヴィルヘルムは一瞥もせずクルシュの後について行った。

 

 

 扉がパタンと小さな音を立てて閉じられた後に残るのは、何もない静寂だ。

 

 本日の予定は白紙。

 明日の日没後に死の予定が待っているだけで、他には何もない。

 日本で暮らしていた時のように、惰眠を貪るとしよう。

 今日の日記を自堕落の文字で塗り潰し、スバルは今一度柔らかな布団を頭まで被った。

 

 

 

 

 最後の日がやってきた。

 

 食っては寝ての生活を二日間繰り返しただけで、少し肥え太った感じがある。

 まあそれはいい。どうせ死に戻りをすれば、スバルの肉体も元に戻る。死に戻りの利点一つだ。暴飲暴食の限りを尽くしても構わない。

 

 今日も特にやることはない。

 夕方までグダグダしていれば、日が完全に落ちた頃には死の家庭訪問が待っている。

 

 時間的には夕飯を食べている時間と同じになるか。

 文字通り、最後の晩餐だ。

 

 そういえば、死ぬ日の昼空を見るのは初めてかと思い、窓の外に目を向ける。

 燦々と降り注ぐ陽の雨は、そんなスバルの気も知らずに相も変わらず王都を照らしている。

 

 王都は塀によって上層区と下層区がドーナツ状に分けられていると、クルシュが説明していた。

 遠くを見ると豆粒ほどの市民たちが忙しなく動き回っている。

 彼らの中にも、今日死んでしまう者はいるのだろうか。

 いたとしても、それを自身で知っている人はスバル以外に居ないだろう。

 

 未だ、死には慣れない。

 

 目を瞑れば今にも三度の死を思い出すことができる。

 

 土石流に巻き込まれて死ぬのは、できれば御免被りたい。

 あれは単純に痛い。絶えず迫りくる瓦礫に身体中を叩きつけられる上に、息ができなかった。激しい苦痛の後に死ぬパターンはダメだ。

 

 首をスッパリ斬られるのは悪くなかった。

 ヴィルヘルムの剣の腕が良かったのか、首と胴体の切断という致命傷から死に至るまでの時間が短かった。あまり苦痛を伴うものでは無かった。ただ、死に戻った時に首のあたりに気持ちの悪い違和感が生じるくらいか。

 

 謎のメイドの少女に腹を切られるのは、あまり好ましくなかった。

 見たことのないくらいの血が溢れ出るし、腹の裂け目から臓物が飛び出たりしそうだ。多分、あのときは飛び出ていた。

 眠りに落ちるような感覚を伴って死に至るパターンだったが、端から見たら醜悪な姿であったはず。避けたい死に方だ。

 

 やはり首を刎ねられて、一瞬のうちに死ぬ死に方が最も苦痛が少ない。剣の腕も必要であるなら、ヴィルヘルムにお願いしたいところである。

 

「ーーーー」

 

 あほらしい、と声にならないため息を吐く。

 どこに自分の死に方、それも他殺の希望を出す奴がいるんだ。おかしくて笑ってしまう。どうせこれから先、途方も無い回数の死を迎えることになるのだ。すぐに、死に方なんてどうでも良くなる。その果てにループの終わりがあるとしても、その頃には死に対する心構えも整っているだろう。

 

 受け入れろ。可能な限り。早く。

 

 死とは怖いものではなく、辛いものではなく、苦しいものでは無い。

 死と隣り合わせ、ではダメだ。

 死と寄り添え。

 死と同化しろ。

 ナツキ・スバルとは死そのものである。

 その覚悟はすでにできている。

 ならばあとは、実感だけだ。

 繰り返し体験することで、体に刻み込め。死という概念が当然のようにスバルの体を包む。スバルはその中で揺蕩うのみだ。抵抗することなく、身を任せる。それが最も効率的で冴えたやり方だ。

 

 そんなことを思いながら、死刑執行台の階段を一つ一つ上る気分で1日をだらだらを過ごすことを決めた。

 

 

 ーーーーーーーー

 

 

 日没を迎えたのは、思ったよりすぐだった。

 

 落ちかけた夕陽が王都をオレンジに染め上げていた。

 コンコン、というノックの音が聞こえ、僅かに間をおいて扉が開く。

 お盆を手に持ったクルシュだ。

 

「今日は趣向を変えてみようか」

 

 お盆の上には一本のボトル。そして肉やチーズといったつまみが盛り付けられていた。

 部屋の棚からワイングラスを取り出すと、窓際の小さなテーブルにつき、トクトクトクと真っ赤なワインを注ぎ始めた。

 用意が出来ると、トントンと机の端を叩いてこちらを見る。

 

 今日はただの食事ではなかったようだ。

 酒の相手をしろということだろう。

 あまり乗り気ではないのだが、どちらにせよ数時間後には死ぬのだ。付き合ってやるのも悪くない。

 

「……」

 

 小さくうなずいて、ベッドから這い出る。

 気怠さを感じながらクルシュの正面に座った。ここからだと王都の様子がよく見える。

 

「乾杯」

 

 スバルが手に持ってないにも関わらず、クルシュはグラスを合わせてチンと鳴らす。

 クルシュは優雅な動作でグラスを口元に運ぶが、スバルは手を付けずにぼーっとそれを眺めるだけだ。

 

「水を舐めるだけでも良い。ほら」

 

 その様子を見たクルシュが別のグラスに水差しから水を入れる。

 酒など飲んだことがない上、未成年だ。大人しく水をいただこう。

 

 互いに口を開くことはなく、黙々とクルシュは酒とつまみを消化していっている。

 

 いつもならグダグダとよく分からない話を続けるはずなのに、今日はどうしたというのだろうか。

 

「私は、弱い」

 

 三杯目だろうか、グラスの中身が空になったところでクルシュがぽつりと呟いた。

 外はすでにほぼ陽が落ちていて、暗闇が訪れようとしていた。

 

「…………どこがだよ」

 

 久しぶりに言葉を発した気がする。

 誰とも喋らず、このまま死んでしまおうと思っていた。誰かと話して、未練が残ってしまったら嫌だったから。死にたくないという理由を作ってしまうのが嫌だだから。

 しかし、クルシュの言葉はそんなスバルの意思を覆すほどの怒りを感じさせるものだった。

 

「あんたは強いだろ。ふざけんじゃねえよ」

「ふざけてなどいない。今なお、貴様を前にして怖気付いているのだからな」

「ああ……?」

 

 こいつは何を言っている?

 権力も武力もあって、一国を左右できるだけの力を持つかもしれないほどの人物がなぜスバルなどを恐れる。

 

「私は……っ!?」

 

 語気の弱くなっていたクルシュが、おもむろに顔を上げる。

 先ほどまで柔らかな表情が険しいものになり、さっと窓の外を見た。

 

「……どうした?」

 

 纏う雰囲気が危険なものになったことを感じ取り、スバルも何か緊急事態が起きたのだと認識する。

 

「これは……なんてマナだ……」

 

 そう、クルシュがポツリとつぶやいた瞬間。

 

 

 

 

 王都の端、目も届かないような暗い場所に、巨大な獣が立っていた。

 

 

 

 

「なっ!? あれは!?」

 

 驚愕で目を見開くクルシュ。

 それもそうだ。

 そいつは突然現れた。

 何もないはずの空間にワープしてきたかのように出現した。

 姿は闇に飲まれて見えない。

 しかしそれが超巨大であることはわかる。

 

 そして、その周囲。

 晴天だった昼間が嘘だったかのような吹雪が吹き荒れていた。

 大量の雪と台風のような暴風。

 獣を中心にして吹き荒れるそれは、次々に王都の端を壊し始めていた。

 

「なん、なんだ、あれは……」

 

 クルシュは身動きすら取れないでいた。

 もしあれが、王都に対して敵意を持って破壊行動を開始すれば?

 こちらに向かってくるとしたら?

 下層との間にある塀などなんの意味も持たないだろう。

 一瞬にしてこの都は滅ぼされるだろう。

 

 

『契約に従い、僕はこの世界を破壊する』

 

 

 そんな声が、ふと聞こえた。

 それが聞こえた時には、すでに遅かった。

 

 獣のいる場所から王都の街並みが急速に凍り始め、氷が屋根を包んで行く。

 氷の彫像と化した街を見ながら、無駄な抵抗だと思いながらも後退りしようとして尻餅をつく。

 迫る氷の波は徐々にスピードを増していき、すでに手前の下層区全てを覆った。

 

 こちらにくるまで後数秒もない。

 まさか、四度目の死は、これなのだろうか。

 王都全てを覆う、死の氷。

 誰も逃れることはできない大量虐殺。

 絶対零度の死だ。

 

 ふと、横を見ると、茫然と立ち尽くしたクルシュの顔があった。

 

「なんで……」

 

 その顔は絶望に歪み、歯を食いしばって、目からはポタポタと涙を流していた。

 

「まだ何もしてない! まだ何にもしてないのに!!」

 

 迫り来る氷が命を破壊するものだと理解し、死を悟ったのだろう。

 その叫びには、クルシュの全てが詰め込まれているように感じた。

 

 もう一度獣の方に目を向けると、小さな赤い何かが家屋の上を飛び跳ねて獣に向かって行ったが、こちらを覆おうとする氷を止めることはできない。

 

 緑髪の美しい氷像を目の前に、スバルは四度目の死を迎えた。



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本音

 

 ギィ。

 

 バタン。

 

 背後で、扉の閉まる音が聞こえる。

 

「……何者だ?」

 

 ただ、その声のする方を向いて、その人物の姿を認めた次の瞬間、スバルの視界には次第に迫る真っ赤な絨毯だけが映っていた。

 

「…………」

 

 パクパクと、少しだけ口が動いた気がした。だが、何かを言おうとしたわけでも、何かが口から出たわけでもなかった。

 スバルは、近づく床に対して予想される衝撃も危機感も覚えず、そのまま倒れる。

 

 床に思いきり鼻っ柱を叩きつける直前、スバルの目の前が真っ暗になり何度目かの気絶の終末を迎えた。

 

 

 

 ーーーーー

 

 朝から膨大な量の事務作業を終え、この部屋にようやく戻ってきた頃には太陽は高く昇っていた。

 広く開け放たれたカーテンから差し込む陽光を浴びながら、クルシュは目の前でベッドに横たわる少年を見下ろす。

 

 クルシュにとってその男は、路傍の石に過ぎない。

 自らの歩む王道に、不躾に踏み込んできた不恰好な小石だ。

 

 もちろん、大瀑布に投じられたような一石に過ぎないかもしれない。波に揉まれ、飛泉に落ちる、ただの玉砂利に過ぎないのかもしれない。

 だが投じられた一石が、大瀑布の波さえも飲み込むほどの波紋を広げることがあるかもしれない。

 そんな小さな期待を、クルシュはこの少年に抱いていた。

 

「…………ぁ」

 

 向かいに座るフェリスの口から漏れたわずかな声に顔を上げると、眉間にしわを寄せるように、寝ていた少年の表情に変化が生じた。

 眩しさに目をぎゅっと瞑るようにすると、すぐにパチリと両目が開く。

 浮遊する目線は定まらず、部屋の天井を彷徨っている。

 

 徐々に意識がはっきりしてきたのか、首を動かす余裕は出てきた様だ。

 右に、左に動かす内に傍らに立つフェリスとクルシュの姿を認めると、少し驚いた風に少年は目を見開いた。

 

「…………そうか、またか……」

 

 落胆、だろう。

 少年が呟いた言葉は見るまでもなく、沈んでいた。

 

「…………クルシュさん。すまん。迷惑かけた。一人にしてくれ」

 

「しかし」

 

 少年は事態を全て理解した様子のまま、クルシュに弱々しい声で嘆願する。

 クルシュとしては、今にも精神が壊れてしまうのではないかと思うほど弱っている少年を、そのまま放っておくことはできない。

 

「いや、平気だ。頼む」

 

 それでもなお懇願する少年の表情を汲み取ったのか、フェリスが服の裾を軽く引っ張る。

 ここは一人にしてあげましょう、と目線だけで伝えるフェリスにクルシュは頷く。

 

「何かあれば言ってくれ」

「ーーーああ」

 

 行こう、とフェリスに声をかけドアノブに手をかける。

 チラリと少年を横目で見るが、俯いて大人しそうにしている。

 ひび割れ、萎れてはいるが、崩壊はしていないだろう。

 一人の時間が欲しいというのなら、くれてやるのに問題はないが、身元のはっきりしない男だ。使用人に廊下から見張らせよう。

 

 ガチャリとドアを開け、クルシュとフェリスは廊下に出る。

 カルステン本邸よりは小さな邸宅だが、そこらの下級貴族の本邸よりもずっと広いこの屋敷は、廊下もそれなりに長い。

 例えば、ここからクルシュの執務室まで、階段含め三分はかかる計算だ。同じ家の中だというのに煩わしいことこの上ない。

 陰魔法には、扉と扉を繋げる魔法があると聞いたことがある。使える者がいたならば、囲いたいものだ。

 そんなとりとめの無い思考を巡らせながら、第一歩を踏み出す。

 

「………?」

 

 かしゃん、と小さな音が聞こえた。

 

 続けざまに、より大きな音が出てきたばかりの部屋の中で響く。

 振り向き、すぐにフェリスと顔を見合わせたところで、

 

「あああああああ!!!!!」

 

 広大なカルステン別邸全体に響き渡るのではないかというほどの、雄叫びが上がった。

 

「どうした!」

 

 クルシュは二秒前に閉めたばかりの扉を開く。

 

 床には花瓶の破片が散らばっていた。

 ベッドに座っている少年は頭を抱えている。

 

「なんでだ! どうしてこうなる!?」

「おい! どうした!?」

 

 突然発狂したかのように叫ぶ少年に駆け寄る。

 すると、近付くなとばかりに少年が腕を振り上げてきた。クルシュからすれば赤子も同然のような力だが、凄まじい拒絶の意が込められており踏み止まってしまう。

 

「おれが何かしたか? おれは何をすればいい? おれは何を間違えた?」

 

 先程までの静かな様子とは打って変わって、ぶつぶつと呟きながら自らの両腕を見下ろし、少年は苦悶の表情を浮かべる。

 まるで今この場で、精神だけが削られていくように見えた。

 

「どこに行ってもどうせこうなる! 何回やり直しても同じだ! どうせ死ぬ! いったいおれにどうしろってんだよ!!」

 

 再び叫びだす。

 少年の目に映るのは、いくつもの感情だ。

 その中でも一番強いのは怒りの色。

 激しい憤怒が瞳の中で燃え上がっていた。

 

「もう嫌なんだよ!!」

 

 最高級品の枕を壁に思い切り投げつける。

 凹んだ形はそのままに床に落ちた。

 

「何もしてねえのに牢にぶち込まれるのも! 信用しようとした相手に裏切られんのも! 策を練っても信用されねえのも! どれもこれもクソみてえなことばっかだ!!」

 

 少年にどんな過去があったのか、クルシュとフェリスには計り知れない。

 だが、苦い記憶を思い出すかのように頭をかきむしりながら叫ぶ少年を見ていると、それがどれだけの惨劇だったのか、その一端を知ることができた。

 

「土石流に流されたことがあるか? 剣で首をはねられたことは? 通りすがりの女に腹を裂かれたことは? 怪物に凍らされたことは?」

 

 まるでそれらを経験してきたかのような言い方。いや迫力に、クルシュ達は気圧される。

 しかしそんな目に遭っていたならば、少年は五体満足で目の前にいるはずがない。突然、気が触れたのだろうか。

 

「所詮妄想は妄想だ。みんなが考えてるようなもんは何にもなかった。持て余すような量の魔力も、溢れるような魔法のセンスも、唯一無二のチートスキルも、何にもねえ!」

 

 俯く少年は、両腕で自身の身を包んだ。

 まるで、掴むことを約束されていた才能を取りこぼしたように、持ち得るはずの無い理想を離さないかのように。

 その様子は、クルシュの瞳にひどく醜く映る。

 

「楽しいことなんざ、なにっ一つもねえよ!」

 

 少年は唾液を撒き散らしながら喚く。

 いつか夢想した世界はどこにも無く、非情な現実に打ちのめされたスバルにとって、この世界そのものが裏切りだった。

 

「お前に分かるか!?」

 

 クルシュと少年の目がぶつかる。

 クルシュを見ているようでその実、何も見えていない少年の瞳は未だ怒りを湛えていた。

 

「クソみてえな毎日を坦々と繰り返してっ! やっと転機がきたと思えば! 今度は延々と続く下り坂だ!」

 

 朝起きると、布団の中で蹲る。

 何を為すでもなく、ひたすらに生産性の無い毎日を繰り返す。

 宿題をやらずに夏休み最終日の夜に頭を抱えてる気分が、ずっと続く。

 何もしなくなると、何か特異なことが起きるようにと願うようになる。

 今の状況じゃおれは何もできないけど、状況が変わればおれはやれる。上手くできる。やろうと思えば何でもやれる。根拠の無い自信だけが肥大していった。

 そういった自身に見せる虚勢だけが唯一縋れるものだったが、それも時間が経つと、スバルを覆う暗雲の一つになるだけだった。

 

 スバルを覆う暗雲は、決して雷雲や分厚い雨雲では無かった。

 雨は降らないがどこか不安定で、得体の知れない何かを隠しているように気味の悪い雲だ。

 今にも崩れてしまいそうなそんな空模様は、大きなキッカケさえあればすぐに晴天に変わると思っていた。

 

 違った。

 

 異世界転移というキッカケは、スバルの空模様を悪化させる一方だった。

 それもそうだ。

 何もしてこなかった人間に、そう都合良く好機など巡ってくるものか。

 

「ここはドン底だ。どこまで行っても暗闇だ。わかるか? 逃げ道が無いんだよ。どこに逃げても終わるんだよ」

 

 絶望の袋小路だ。

 ようやく見つけた諦めという逃げ道も、王都の全ての民が死ぬ最悪の結末を迎えただけだった。

 ここには何もない。

 どれだけ足掻こうが、どうせ死ぬ。

 全部諦めても、みんな死ぬ。

 

 スバル以外の誰かが巻き込まれて死ぬようなら、どうにかしてその結末を回避しようとしたかもしれない。

 しかし、全員だ。

 王都という都市全てを一瞬で破壊する脅威だ。

 なす術がない。

 

 もしもスバルが土石流に巻き込まれたり、ヴィルヘルムに首を刎ねられたり、桃髪のメイドに腹を裂かれた後に世界が続いていたとしても、あの獣は王都を氷漬けにしていたのだろう。

 クルシュでさえも我を忘れてしまうほどの破壊の権化。

 あれは、世界でさえも壊してしまうものなのではないだろうか。

 

「どうせみんな、死ぬ運命なんだよ」

 

 あの脅威の前には、何人も抗えない。

 等しく皆、死を受け入れるしかない。

 クルシュといえど、ヴィルヘルムといえど、圧倒的なスケールの違いにはその剣の腕など役に立つまい。

 

 この異世界召喚は、今まで何もしてこなかったスバルに対する罰なのだ。

 三日後に滅亡する世界に飛ばされ、死に戻りという一度では終わらない死の刑罰。

 自身の死だけでは物足りないとばかりに、目の前で大量の人間も道連れにされる。

 スバルだけならまだしも、これまでの人生で積み上げてきたものがあるだろうクルシュやヴィルヘルムといった人物まで巻き込まれてしまうのは、あまりに残酷だ。

 

 何よりスバルを苦しめるのは、クルシュ達は自身の死を知らないことだ。

 それを覚えているのは、死に戻りをしているスバルのみ。

 誰も覚えていないのならば、それを背負うのは必然的にスバルになってしまう。

 王都に住む何万人という死まで背負うのは、あまりに重すぎた。

 

 暴れ、叫び、跳ね除け、呼吸が乱れる。

 

 もううんざりだ。

 嫌なんだ。

 死を受け入れることなど、無理だ。

 強がってもダメだった。

 今まで何もしてこなかった自分が、すんなり受け入れることなどできなかった。

 もう嫌だ。

 

 

「死にたく、ねえよ……!」

 

 

 漏れた言葉。

 取り繕うとした本音は、あっさりと出てきた。

 そうだ、死にたくない。

 四度目の死は、スバルの本音を引き出した。

 

「事情は全くわからないが」

 

 一通り暴れ回ってぐったりとした様子のスバルを見下ろし、クルシュが口を開いた。

 スバルは頭を持ち上げ、こちらを力強い瞳で見るクルシュと目を合わせる。

 

「困っているのならば、私が貴様を救ってやろう」

 

 素性も分からない。

 特別な能力も持ち得ない。

 何もない少年に、そうすることが至極当然かのように、クルシュは手を伸ばした。

 



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蜘蛛の糸

 パシン、と乾いた小さな音が部屋の中に響く。

 気付いた時には、伸ばされたクルシュの手を払っていた。

 

「なっ!」

 

 後ろに立っていたフェリスが怒気を露わにし、身を乗り出そうとしたところをクルシュに止められる。

 

 クルシュは払われた手をじっと見つめ、何かを問うようにこちらを見た。

 

 死にたくない。

 

 それは本音だ。

 だが、クルシュの力を借りたところで何ができる。

 あの巨獣を止められる者など、同じような怪物でなければ無理な話だ。

 無理だと分かっている幻の希望に縋り付き、馬鹿の一つ覚えのようにまた絶望を見るくらいなら、この手を取ることなどしない。

 

「お前じゃ無理だ……。あの獣はどうしようもない」

 

 氷漬けになる直前のクルシュの慌て具合を見てきたからわかる。クルシュにはあの巨獣をどうにかするだけの力は無い。ヴィルヘルムやフェリスも同様だろう。

 

「ふむ、なるほどな……」

 

 クルシュは腕を組み、瞼を閉じる。

 クルシュが何を考えてるかは全くわからないが、フェリスの鋭い眼光は何を物語っているのかはよくわかる。

 大方、助けてもらった上にこうして手まで差し伸べられているくせに偉そうに断りやがって、とかそんな感じだろう。

 奴はクルシュの忠実な従者であり、前回のループでは露骨にクルシュを無視するスバルに対し、不満を隠そうともしていなかった。今も同じだろう。

 

「一つ聞きたいことがある。貴様の言う獣とは、三大魔獣のことか?」

 

「三、大魔獣……?」

 

「ふむ。三大魔獣を知らないのか……。可能性はあるな。どうだ、フェリス?」

 

「もし魔獣の頂点にある三大魔獣より格下の魔獣でしたら、三大魔獣の一角である【大兎】を撃退したクルシュ様ならば容易く討伐できるでしょう。【白鯨】のことを言っているならば、早急に兵と武器を集めれば七日で最低限の戦準備は整います」

 

「白鯨の可能性はかなり薄い。ヴィルヘルムが地道に収集した情報によれば、もう少し先だ」

「そうですね」

 

 三大魔獣。大兎。白鯨。

 未知の言葉だ。

 この世界にはまだまだわからない事ばかりだ。

 しかし、魔獣か。

 確かにあの巨獣はそういったものに類するのだろう。

 名前としては大兎というものが近いのだろうか。しかしクルシュはアレを初めて見るかのような反応をしていた。

 三大魔獣とやらではないのだろう。

 

「三大魔獣とは、嫉妬の魔女が生み出したとされる災禍の魔物どものこと。通るだけで人一人も残さないような連中だ」

 

 クルシュはそう言って三大魔獣の話を続けた。三大魔獣とやらははるか昔、400年ほど前から存在しており、神出鬼没な上に討伐はほぼ不可能とされているらしい。

 しかし先程、クルシュは大兎を追い払ったとフェリスが言っていた。案外なんとかなるものなのだろうか。

 

「その内の白鯨は、討伐に向かった先代剣聖を返り討ちにし、亡き者にした」

 

「……は?」

 

 剣聖とは、すごい奴だと聞いた。

 初代の剣聖は、竜や賢者と協力して嫉妬の魔女を封印することに成功したと聞いた。

 その系譜の人物が勝てないほどの相手、だと言うのか。

 

「なおさらあんな奴に、勝てるわけがねえよ……」

 

 白鯨がどれだけのものかわからないが、あの氷の巨獣より強い存在は想像できない。

 

 王都全域を一瞬で凍てつかせ、全ての命を奪ったあの怪物はまさに厄災と呼ぶに相応しい。

 おそらく、クルシュの言う三大魔獣とはまた別の、まだ発見されてすらいない魔獣かそれに類するものなのだろう。

 

 この世界の最上位に位置する魔獣と同等以上の未発見の化け物。

 

「剣聖ですら無理なら、誰が……」

 

 剣聖がどれだけすごいのか、この目でそれを見たことはないが多くの人の口ぶりから、恐らくは人類で最強を誇るほどの人物であることは推測できる。

 

 たとえこの場に剣聖とやらが居たとしても、スバルはそれに縋ることはしないだろう。

 それほどにかの巨獣は圧倒的だったのだ。

 

「例えば、剣聖に勝った人物がいるとするならば、どうする?」

 

「……は?」

 

 クルシュが頭上から言葉を振り落とした。

 

「ふむ。次の問いだ。その人物がこの屋敷にいるとしたら、どうする?」

 

「…………」

 

 ありえない。

 スバルはそう断じた。

 

 剣聖より強い人物。確かにいる可能性は少なくない。いくら最強と謳われようが、この世に絶対は絶対にない。負けることもあるだろう。

 しかし、剣聖に勝つほどの人物がこのタイミングで、この屋敷の中にいる可能性などごく小さなものだ。

 

 さらに()()()()()()()という言葉は、かなりの意味を持つ。

 王都でも相当の地位を築いているカルステン公爵家の邸宅に、訪問または滞在を許可されているという事実。

 それはカルステン家当主であるクルシュと親密、あるいはクルシュに従う者である可能性が高く……。

 

 ここまで考え、スバルはありえないと断じたのだ。

 

 

 スバルはここまで、四回、死んだ。

 四回だ。

 人生百年時代なんて言われてるこのご時世に、たったの一七年で四回死んでいるのだ。

 

 その苦しみはただの痛みだけではない。

 何もわからないまま殺される痛み。

 ループしていることに気付き、身近な者と結託したというのに裏切られ、再度殺される痛み。

 上手くいったと思えば誰にも信じられずに殺される痛み。

 何もしないでいようと思えば、全てを無に帰す痛み。

 心への痛みは、肉体へのそれと比べても余りある。

 

 今なら目の前にうってつけの策があるぞ、などと言われて飛びつくほど阿呆ではない。

 それを信じられる限界はとうの昔に超えている。

 もしそれが本当だとしても、だったらなぜ、最初からスバルに都合の良いように物事が進まなかったのか。

 異世界召喚されてすぐに裕福な家に拾われ、剣や魔法の素養に目覚め、美少女と冒険に繰り出すようなそんな展開があって良かったじゃないか。

 

 そうでなくても、突然投獄されたり、魔女教徒に拉致されたりする前に救済措置があっても良かったじゃないか。

 

 なぜ。今。

 この何もしていないループで。

 ただ気絶して、癇癪を起こしただけのこの回で、一度裏切られた相手に手を差し伸べられ、最大の絶望に対し戦力を用意できると言われるのか。

 

 そんなうまい話があるわけがない。ないのだ。

 

 この差し伸べられた手は蜘蛛の糸だ。

 今この手を取れば、次のスバルも、次の次のスバルも、この手を取るだろう。

 そうして他人に救われることを是とし、小さな希望に縋り、やがて地獄に落ちていくのだ。

 

「おれはお前を、信じることはできない。お前がおれを信じてくれなかったからだ」

 

「私と貴様は初対面のはずだが……」

 

 クルシュは困ったように眉を寄せる。

 

「最初に信じなかったのはお前の方だ、クルシュ・カルステン。だからおれもお前を信じない。けど……」

 

 スバルが話しているのはクルシュが覚えているはずもない記憶。魔女教徒となる看守長と共にスバルのことを騙したことは、クルシュを信じない理由に十分足りる。

 

「お前……フェリスのその忠誠心は信じる」

 

 クルシュの傍らに控える長身の男を見る。

 クルシュに対するスバルの数々の無礼な言動に、もはや耐えられないというように肩を震わせていたフェリスは突然声をかけられてピコンと猫耳を動かした。

 

「……なんだよ。クルシュ様のことは信じられないけど、ボクのことは信じられるって言うのか?」

「違う。おれが信じるのはお前のその異常なまでの忠誠心だ」

 

 前回のループ、そして今回。

 フェリスはよくクルシュと共にいた。

 フェリスのクルシュに対する忠誠心は凄まじく、身も心も捧げているように見えた。

 クルシュのために動き、クルシュのために働く。ただの主従を超えた忠誠心がフェリスからは感じられ、それは信じるに値するものだった。

 

「勘違いするなよ。おれはフェリスが信じてるお前を信じることにする。それだけが絶対不変で信用できるからだ」

 

「十分だ。フェリス、ありがとう」

 

「納得はいきませんが、クルシュ様のためになるのでしたら」

 

 そう言って一歩下がるフェリス。

 その姿にスバルはとりあえずは安心する。

 

「仕方ねえ。信じられねえことに剣聖に勝った奴がいたとする。また信じられねえことにそいつがこの屋敷内にいたとする。またまた信じられねえことにそいつがクルシュの意のままに動いてくれるとする」

 

「貴様、本当に信じているのか……?」

 

「信じてるぜ?」

 

 ハッ、と嘲笑う。

 このくらい煽りにも入らない。信じるって言ったのだから信じてるに決まっているだろう。

 

「だとしてもあのバケモンに勝てるとは、おれは微塵も思わないね。あれは人間が太刀打ちできるレベルじゃねえ。全員死んで終わりさ、ハハッ」

 

 クルシュの戯言を信じたところで、スバルの中の天秤は氷の巨獣に傾いたままだ。

 どれだけの剣の名手がいようが、どれだけの兵を集めようがあれに勝てるイメージは一切湧いてこない。

 クルシュ自慢の剣士が一人いたところで、先ほど言っていた白鯨をはじめとした三大魔獣ですら討伐することはできないだろう。

 

「白鯨を討つ算段が、我々にはある」

「ぽえ」

 

 変な声が出た。

 今、こいつは、なんと言った?

 

「三大魔獣が一角、白鯨を殺すことが、我々にはできると言ったんだ」

 

 間抜けな顔にもう一度言ってくれと書いてあったのか、クルシュはそう言った。

 

「剣聖を超えた剣士。かつての戦争で多くの戦果を挙げた末に剣聖を打ち負かし、嫁に迎え入れた剣の鬼、『剣鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。王国最高の治療魔法の使い手、『青』フェリス・アーガイル。この二人を筆頭に多くの戦力を私は蓄えている」

 

 クルシュは誇らしげにそう語る。

 

「それを率いるのが、たった一人で大兎を退けた『戦乙女』クルシュ・カルステン様です」

 

 フェリスが付け足すように締めくくる。

 

「我々は全戦力を持って白鯨を討つ。討てる。その確信がある。過去、どんな討伐隊も壊滅に追いやった災厄の魔獣を討伐する」

 

 自信ではなく、確信。

 必ず遂行すると豪語する豪胆さ。

 

 なんの準備も無しに、ただ怯え、逃げることさえ諦めたスバルには持ち得ないものだ。

 ゆえに、スバルにとってそれは蛮勇にしか映らない。

 

「いや、無理だ。あんたらがどれだけ強かろうが、あれには負ける。どうせみんな死ぬんだ」

 

 最強に近い()()の剣士や()()()()で最高の魔法の使い手など、怪物の前では無意味だ。

 そんなもので太刀打ちできると思われているのだから、白鯨とやらも大したことはないのだろう。

 

「どうせ死ぬんだったら、無駄に抵抗するより何もしない方が賢いだろ?」

 

 結局はこの考えにたどり着く。

 蜘蛛の糸に縋れば、さらにひどい地獄を見ることになる。

 登った分、底に叩きつけられる衝撃は大きくなる。

 ならばずっと底にいよう。

 目立たぬように、小さな声で「生きたい」と呟きながら、死に続けよう。

 

「せめて生きている間くらいは踠いてみせろ。死んだ後のことは、死んだ後に考えれば良い」

 

 何気なく言ったのだろう。

 クルシュがその言葉を発した瞬間に、スバルの癇癪が再び弾けた。

 

「おまえっ……おまえに、お前なんかに何がわかるんだよ!」

 

 死んだこともないくせに。

 生きている間は踠いてみせろだ?

 

「踠いたさ! 土石流から逃げようと踠いた! でも逃げ切れなかった! 気に入ってもらおうと足掻いた! でも信用されなかった! 諦めようとさえした! でも許されなかった!」

 

 死んだ後のことは死んだ後に考えろだと?

 

「さんざん考えて、このざまだよ!」

 

 何度も考えた。

 死んで、どうすれば死なないのか考えて、実行した。

 それがこのざまだ。

 この世界に落とされたことを憎んだ。

 どうせだったら目の前のこいつのような境遇を得たかった。

 

「お前は生まれた時から貴族で! 容姿にも恵まれて! 王の候補でもあるんだろ!? さぞかし楽しい人生だろうなぁ!?」

 

 人は生まれながらに平等ではない。

 クルシュは望むものを持ち、これまで成功の道のりを進んできたに違いない。楽しくて仕方がないはずだ。

 

「君、調子に乗りすぎじゃないかな?」

 

 後ろに控えていたフェリスが怒気をあらわにしてずいと前に進んできた。

 猫耳が怒りでピクピクと不規則に動く。怒髪天を衝くというよりは、怒猫耳天を衝くという勢いだ。

 しかしそれをクルシュは目配せだけで止めた。

 

「……友が死んだ。尊敬していた方であり、かけがえのない友人だった」

 

 静かに、しかし何かを孕んだような声でクルシュがポツリと呟いた。

 スバルは枕の一つでも投げつけてやろうとしたが、その何かに睨まれたように感じて動けなくなった。

 

「素晴らしい方だったよ。誇りを失わず、国の未来を見定めていた。だが、死んだ」

 

 死。

 もはや遠いものではない。

 スバルにとってはいつでもそれは背後にあり、振り返ったときには王城の廊下へと時間が巻き戻っているかもしれない。

 

「狙ったかのように王族だけが亡くなってから半年、私の世界は目まぐるしく急変した」

 

「王候補に選ばれたことに、驚きはさほど無かった。殿下と共に見た夢をこの手で叶えることができる、という嬉しさはあったがな」

 

 クルシュは懐から何かを取り出した。

 懐かしむようにそれを握りしめ、目を瞑り、一呼吸置いてから続けた。

 

「公爵家と言っても、数ある諸侯の一つに過ぎん。王族に並ぶ歴史はあれど、カルステン家を陥れようとする公爵家は少なくなかった。私が女で、若い内に家督を継いだことを良く思わない連中や甘く見た連中がほとんどだな」

 

「しかしそれでも、私には殿下の夢見た未来を叶えるという使命があった。諦めるわけにはいかなかった。何度も挫けたさ。もし一人だったら辞めていたかもしれない。でも、フェリスがいてくれた。カルステン家に仕えるみながいてくれた。支持してくれた領民や王国民がいてくれた。だから立ち上がれた」

 

「笑われて俯くこともあろう。躓いて起き上がれないことだってあろう。だが、顔を上げろ。再び立ち上がれ。望む未来とはいつ何時も、先にしかないのだから」

 

「私は誓ったんだ。あの方が望んでいた未来を作る。それを成すためならば、私は何度斃れようとも構わない。友が、従者が、みなが助けてくれる」

 

「自分では立てないこともある。私など、事あるごとにフェリスに支えてもらっている」

 

「今、前を向くことが難しいならば、私が貴様に手を伸ばそう。もう一度立ち上がる勇気を、信念を、私が貴様に与えよう」

 

「私を信じる必要はない。フェリスを信じてくれるならば、それでいい」

 

「最高の治癒術師に、最高の剣士。どうだろうか。貴様一人よりも、かなり選択肢が増えたと思うのだが」

 

「……なんだそれ。自慢か?」

 

「自慢だ」

 

 クルシュは臆面もなくそう言い切る。

 

「自慢の友に、自慢の従者。誇らしくて仕方ない。頼もしくて仕方がない。そうは思わないか?」

 

「それに、嘘発見器のクルシュさんも加われば百人力ってか?」

 

「なんと。知っていたか」

 

「あんたから直接聞いたんだ」

 

「……おかしいな。加護が正常に働かないようだ」

 

「嘘じゃないぜ?」

 

「ふふ。信じるとしよう」

 

 クルシュがわずかに見せた過去は、スバルの心を多少なりとも揺さぶった、ような気がした。

 あくまでその程度だ。

 他人の、それも信用していない相手に自分語りをされたところで大きく揺らぐほどスバルの絶望は軽くない。

 しかし、人に頼ってみるという小さな選択肢が生まれた。

 強く生きてきたと思っていたクルシュも、多くの人に支えられ、頼って生きてきた。

 そう思うと、スバルのように生きることさえ難しい人間でも他人に縋ってもいいのだろうかと考えてしまった。

 

 それに、クルシュの見据える未来とはどんなものなのか、それが今は少しだけ気になってしまっていた。

 

「いいぜ。あんたらの力、おれに貸してくれ。少しだけ足掻いてみるよ」

 

 差し出されたクルシュの手を取る。

 久しぶりに他人の体温を感じた。

 指先から伝わる熱は優しさを帯びていた。

 

 スバルは蜘蛛の糸を掴んだ。

 分かっている。

 この糸が切れてしまうことは覚悟している。

 それでも、もう一度だけ。

 他人に頼って足掻いてみることを決心した。



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一つ目の障壁

 情けない泣き顔を晒したスバルだったが、情けない状況は未だ脱しない。クルシュの力を借りたとしても状況は芳しくないのだ。

 

 クルシュは、三大魔獣の一体である白鯨を討伐しうる戦力を保持していると豪語した。

 

 先の亜人戦争で幾多の戦果を上げ、剣聖に打ち勝った『剣鬼』、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。

 国内最高の治癒魔法の使い手『青』、フェリス・アーガイル。

 その他にも歴戦の戦士や魔法使いを加えた私兵団を抱えており、国内の鉄製武器や魔法器(ミーティアというらしい)を集めることによって、小国程度なら片手間に落とせるほどの戦力が揃っている。

 

 なるほど、それならばどんな化け物が相手だろうと戦える。普通はそう思うはずだ。

 

 かの化け物を間近で見たスバルの所感は違う。

 

(たったこれだけか)

 

 クルシュに兵力の説明をされて抱いた感想はそれだった。

 

 たしかにこれだけの兵力があれば、小国ならば攻め落とせるだろう。三大魔獣程度なら戦えるだろう。しかし、あの巨獣を倒すには及ばない。

 

 あの化け物は唐突に現れたかと思うと、瞬時に王都を覆い尽くすほどの氷を作り出した。

 何処かから攻め入られるのであれば対策もできようものだが、時空移動や瞬間移動の類を使用しているのであれば迎撃は難しい。

 懐に入られた上での討伐となると、王都への被害は甚大だ。王候補であるクルシュならば街中での戦闘は控えたいと思うはず。被害を気にして慎重な立ち回りが要求されるのであれば、さらに勝算を低く見積もる必要がある。

 氷に対する対策も必要だ。

 あの巨獣が現れたのは王都の端、位置としてはスラムである貧民街の辺りだったと記憶している。

 その位置から氷を作り出して、この王都のほぼ中心部にたどり着くまでが約10秒ほど。貧民街までが3キロほどだとすると、秒速300メートル。時速1080キロにも及ぶ。

 

 あまりに、速い。

 

 ジャンボジェットと同等かそれ以上のその攻撃速度は、現代よりも科学の発達していないこの世界では敵うものなど無いと思われる。

 たとえ王都の外で迎撃できたとしても、その範囲と速度で押し潰され、世界そのものを覆ってしまうだろう。

 いくらポケットの中をひっくり返しても、およそ攻略法は見当たらない。

 

「クルシュさんはさぁ、勝てない敵にはどうする?」

 

 頼ると決めたのだ。

 一つの脳で無理なら二つの脳で考えてしまえば良い。

 あまり期待はせずにクルシュに聞いてみた。

 

「勝てない敵……? ふっ。笑わせるな。最初から勝敗の決まった勝負などありえない。勝てるように全てを尽くし、負けたのならば勝つまで鍛錬を積むことだ」

 

「あー、はいはい。そうですね……ハァ」

 

 あまりに模範的、あまりに優等生的、あまりに馬鹿正直すぎて溜息を呑み込むことさえ控えなかった。

 

「どこまでも王道で素晴らしいことですよっと……」

 

 公爵家に生まれ、従者に恵まれ、王候補に選ばれるようなクルシュは今までもそんな『王道』を歩んできたのだろう。「このはし、わたるべからず」と言われても堂々と真ん中を歩くような人生を送ってきたに違いない。

 その真反対にスバルは、まさに端を歩くような人生を歩んできたのだ。そんな『王道』を聞かされてしまうと辟易してしまう。

 

「王道が無理なら、邪道……しかないか」

 

 クルシュとスバルが真反対の人間だとすると、スバルが取れる行動は王道とは程遠い邪道的手段しかあるまい。

 強大な敵に対して真正面から迎え撃つのではなく、コソコソと後ろから闇討ちを仕掛けるような、クルシュが聞いたならば即座に反対されるような作戦。

 手駒を揃え、外敵を定め、目的を遂行する。そのためにどのような汚い手を使おうと、躊躇はしない。それがスバルなりの『邪道』である。

 

「一つ一つ、解決していくとするか。クルシュさん、ヴィルヘルムさんを呼んでくれるか? 話がしたい」

 

 王都壊滅の防止その一。

 その要因を排除するため、スバルはこの首を落とした張本人を呼び付けることにした。

 

 

 ──────────────────

 

 

「お呼びでしょうか?」

 

 厳容という言葉の意味をスバルは初めて理解した。

 権威の衣を着て威張るような者を見てきたことは、スバルの生きてきた世界で何度もあった。

 しかし、スバルの目の前に座る偉丈夫はその姿のみで、スバルを竦みあがらせるだけの威圧感を与えてくる。

 

「あー、はい。話したいことがありまして……」

 

 ただでさえ、スバルは首を斬り落とされている相手なのだ。その威圧感に加えて、恐怖もマシマシである。虚ろとしていた前回でさえ、震え上がるような恐怖を覚えている。

 

「ふむ……」

 

 言葉通りの刺すような視線。

 敵意を見せようものならば、スバルを一瞬で八つ裂きにできることは百も承知である。ゆえに、こちらには何もないことを示すために両手を上げる。

 

「面倒な駆け引きをするつもりはないんだ。簡単に言うと、時間がないんです。あなたの過去と、今のことを知りたいってだけなんですよ」

 

「過去と、今、ですか。この歳になってしまっては過去は積み重ねていくばかりですが、現在は見ての通りの衰えていくだけの老体。残っているものなど何もありはしません」

 

 嘘をつけ、とスバルは心の中で悪態をつく。

 なるほど、頭髪や皺には歳相応の翳りが見られるが、その鋭い瞳の奥には煌々と燃え続ける意志の炎が見える。

 

 未練。あるいは、執念か。

 

 炎に焚べるその想いはいっそ狂気とも取れるほどに、激しく燃えている。

 

「白鯨ってのは」

 

 動作としては、ピクリと眉が動いた程度のものだった。

 いやしかし、瞳の奥の炎が鞴で空気を送り込まれたように大きく燃え上がった。

『白鯨』

 まるでその言葉がスイッチのように、だ。

 

 やはりか、とほくそ笑む。

 ヴィルヘルムが白鯨に関する情報を集めていることは、クルシュの口から聞いた。

 剣聖に勝るというヴィルヘルムが、先代剣聖を葬った白鯨の情報を集めているという事実は、そこに何かしらの事情があると推測するのが当然だ。

 

「白鯨ってのは、ヴィルヘルムさんと関係があるのか?」

 

 ヴィルヘルムは少し間が空いてからフゥ、と小さく息を吐く。

 

「白鯨に敗れた先代『剣聖』テレシア・ヴァン・アストレアは、私の妻です」

「……そう、なのか」

 

『剣聖』という言葉で勝手に男性を想像していたが、なるほど、女性だったのか。

 

「『剣聖』の家系は代々、『剣聖の加護』を受け継ぎ、剣を扱う天賦の才を与えられます。望まなくとも、一方的に」

「望まなくとも……?」

「妻は剣を握るよりも、花を愛でることを好む女でした……」

 

 半刻ほどだろうか。ヴィルヘルムは話し続けた。

 三日という明確なタイムリミットのあるスバルにとって一時間のロスは無視し難いものであるが、それ以上にヴィルヘルムの話は人を夢中にさせるものであった。

 

 淡々と話し続けるヴィルヘルムだったが、その言葉の節々からは時に柔らかに、時に激しく、一人の女を想う愛情が感じ取れた。

 亜人戦争のこと。剣聖のこと。剣鬼のこと。アストレアのこと。そして、白鯨のこと。

 大まかな概要ではあったが、この老人の波瀾万丈な人生は今もなお、『愛』という一つの感情で燃え続けている。

 

「……なるほど」

 

 ヴィルヘルムの口から語られた過去は、息を呑むほどであった。

 

 スバルは小学生の頃、社会科見学で80歳近い老人から戦争の話を聞いたことを思い出した。しかしそれは、激しく燃え盛る戦場を駆け回るものでも、生涯愛すると誓った人を失うものでもなかった。玉音放送を聞いただの、疎開がどうだっただの、小さいスバルのさらにちっぽけな脳みそでは想像しにくいものだった。

 

 数えきれぬほどの亜人を切り捨て、返り血を浴び、戦場を駆け抜け、一人の女を愛したというまるで物語のような事実を当人の口から聞くことは、まるで一つの小説を読み終えたような充足感があったのだ。

 

「白鯨を討ち取るためにこの十五年、全てを費やしてきました。出現位置の特定や霧の特性。クルシュ様にご協力頂き、こうして戦力を整えることもできました。スバル殿の此度の進言、白鯨と同等と称される相手ならば、この鈍った剣を研ぐための前哨戦に不足はないでしょう」

 

「やる気は充分ってことか」

 

 老体に宿る、静かに燃え上がる剣気の正体を掴んだ。

 その上で、重要なのはこちらだと推測する。

 

(亜人戦争、か)

 

 スバル自身が戦争を経験したことはない。

 だがスバルがいた地球では過去に、大きな戦争があった。世界大戦とまで称されるその戦争に、スバルの住んでいた日本も参戦していた。多くの死者を出し、世界情勢が大きく変わったことを歴史の教師が淡々と述べていたのを上の空で聞いていた。

 過去に戦争があっても、戦争をした相手国と今になっても険悪ということはない。街を歩いていても外国人をよく見かけたし、インバウンド需要も高まっていて、何かとグローバル化が進んでいた。

 

 ゆえに、この世界でも『亜人戦争』が起きても、街中にはトカゲ人間がいたり、ブルドッグの看守長もいたりする。

 

(そう。亜人が普通に暮らしてるんだ)

 

 亜人戦争。『剣鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアの功績。

 

『私の兄と弟を殺したあの鬼だけは、許せないのですよ!!』

 

 看守長の言葉がリフレインする。

 

 あっさりと繋がる点と点。

 まっすぐに引かれる線。

 

 因果と結果はすぐに結びついた。

 

 あの看守長は、亜人戦争で殺戮の限りを尽くした剣鬼を憎んでいた。

 戦争が終わって、亜人側が負けた。表面上は和解し、看守長にもこうして国に欠かせない職が与えられ、不満なく何十年も従事してきた。しかしその内には、剣鬼に対する激情のみを募らせ続けていたのだろう。

 結果、その憎しみが魔女教の福音をキッカケに、看守長を魔女教徒へと変貌させた。

 

「ヴィルヘルムさんに、会ってほしい人がいます」

 

 果たしてその選択が正しいのか、誤っているのか、それすらもスバルにはわからない。

 

 しかし一抹の不安が、スバルの中にはあるのだ。

 それは、この死のループの障壁は一つではないということ。

 

 最大の障壁はあの氷の巨獣であることは間違いないが、死因は他にもいくつかある。

 監獄の崩落に巻き込まれたり、ヴィルヘルムに斬られたり、桃色の髪のメイド少女に通り魔的に殺されたこともある。

 それらの死因は、元を辿ればあの看守長が魔女教徒に変容してしまうことにあるとスバルは考えた。

 

 看守長は元々、善良なルグニカ王国民であったはずだ。そうでなければ何十年もの間、この王都のど真ん中で献身的に働くことなどできはしない。

 

 魔女教徒の素養はあったのだと思う。

 

 そういう奴が、そういう経験を経て、なるべき存在になるべくしてなることは、英雄だって魔王だって平民だって同じことである。

 

 つまり看守長が魔女教徒になることは時間の問題であり、たまたまスバルが異世界召喚されたこのタイミングだったのだ。

 

(ならタイミングをずらす。いや、そもそもタイミングなんてもんを無くしちまえばいい)

 

 一方的に押し付けられた『死に戻り』などという忌々しい能力は、まさにこのような事態のために用意されているのだと言えるほど適している。

 未来においてどこで何が起きるのかを知り、『死』をもって時を巻き戻し、帳尻を合わせる。

 ようやく『死に戻り』の正しい使い方をはっきりと理解した。

 

(にしても、チュートリアルにしてはハードモードすぎる節があると思うんだが)

 

 すでに四度の死を迎えている。

 これ以上の死を受け入れるつもりは毛頭無い。

 

 さらにスバルの胸中には、もう一つの不安が芽吹いていた。

 それは、()()()()()()()()()()()()という懸念だ。

 三大魔獣の存在。クルシュが白鯨と事を構えようとしていること。魔女教のこと。

 身の危険を案ずるなと言われたら、即座に首を横に振るラインナップである。

 おそらくこの死のループは、延々と続いて行く。

 一つの死を越えたとて、また次の死がスバルを歓待する。

 同じ時間をループする以上に、その事実の方がよりスバルに言い得ぬ恐怖を植え付けた。

 

「とか言っても、先に進まなきゃ八方塞がりなことには変わりない」

 

 いつまでも続くであろう死のループに嘆息しながら、クルシュの許可を得てからヴィルヘルムを連れて王都地下の牢獄へと向かう。

 

 何度も下った薄暗い階段だが、この老人と共にというのは初めてだ。

 

 この選択が吉と出るか凶と出るかは、誰にもわからない。

 ただ、魔女教徒になるキッカケであろう看守長の積年の思いを解消するには、当事者同士をぶつけてみる他にスバルには思いつかない。

 

 結果の如何によっては次のループも視野に入れつつ、スバルとヴィルヘルムは牢獄へとたどり着いた。



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鬼と獣、相見え

「おやおや、珍しい客人ですね。()()剣鬼殿がこんな場所にどういったご用でしょうか」

 

「…………なるほど。スバル殿、あなたも相当良い性格をしておられる」

 

 額にブワッと大量の冷や汗が浮かぶ。

 柔らかな言葉ではあるが、言葉を発した両者の感情が大きく乱れていることを感じ取れないほど鈍感ではないつもりだ。

 それを意図して引き起こしたのは他でもないスバル自身ではあるが、今すぐこの場を逃げ出したい衝動に駆られるほどだった。

 

(いや、分かっていたことだ……)

 

 ヴィルヘルムに憎しみを持つ亜人の看守長とその本人。この程度のことは、想定内のことだった。むしろ出会い頭にこの場が戦場になることすらも想定していたのだ。

 

 看守長には魔女教徒になる()()がある。スバルがこの世界で目覚めてから二日後、看守長は福音を受け取り、魔女教徒になってしまう。では、福音を受け取る前に、()()()()()()()()()()()()魔女教徒になることは無いのではないかとスバルは考えた。

 

 垣間見た看守長の心の闇。

 兄弟を殺したという剣の鬼。

 その鬼に対する激しい憎悪。

 

 それこそが看守長の内に存在する、魔女教徒の素質なのだろう。

 

 だからこそ、この場にヴィルヘルムを連れてきた。

 二人が出会うことで、何かが変わることを期待して──────―。

 

「おそらく貴方は私のことをご存知ないでしょう。ルグニカ王国王都地下牢看守長、ヤコブ・アッテルベリと申します。クルシュ様には以前から良くしていただいております。以後、お見知り置きを」

 

 丁寧に、至極丁寧に、恭しく、まるで王族の御前であるかのように看守長もといヤコブはこうべを垂れた。そこにどんな感情が渦巻いているのか、ピンと立ってわずかに震えている犬耳しか見えないスバルには想像することしかできない。

 

「ご存知のようですが、ヴィルヘルム・トリアスと申します」

 

 反対に簡潔に名乗るヴィルヘルム。

 流石に緊張を感じているのか、言葉尻が固いように思える。

 

「姓は……失礼。聞き及んでいたものと違うようでしたので」

 

 若干、棘を含んだ言い方。わざわざ口に出す必要のないこと。剣鬼の身に起こったことは、王都に住まう者のほとんどが知っているはずだ。

 

「私にその姓を名乗る資格はございません。いえ、それよりアッテルベリとは……。もしや……」

 

 ヴィルヘルムは何かを思い出すように目を瞑った。遥か遠い記憶に手を伸ばすように、思考を巡らせる。

 

「おや、心当たりがございますか」

 

「私が……以前に……。そのような領主がいたような記憶が……あります」

 

 思い出せるか出せないか、そのくらいの曖昧な記憶なのだろう。

 二人の接点はおそらく亜人戦争。40年以上前の話だと聞く。家名だけ聞いて思い出せるほど容易な年月ではないはずだ。特に、さして気に留めていない者にとっては。

 

「間違いないですよ。あなたが数え切れないほど作った死体の山と、その数と同じ数の武勲を受けた亜人戦争。その一山は私の家の私兵団と兄弟の死体で作られたものでした」

 

 淡々と、今までとなんら変わらぬ調子で告げたものだったため、スバルは一瞬聞き逃しそうになった。やはり看守長の心中には、ヴィルヘルムへの怨念が積もりに積もっている。それは日常から感じており、忘れず、磨いて、肥大させてきたものなのだろう。だからこそ、挨拶のようにすらすらと出てきているのだ。

 

「それは……そうでしたか」

 

「ええ、こうしている間にもあなたを殺したくて殺したくて……しかし王国の法に縛られていてそれができない私自身を一番殺したくて仕方がないのです」

 

 沈痛な面持ちのヴィルヘルムと仇を前にして平然としている看守長。

 対照的な二人だったが、再び目を開いたヴィルヘルムも気を取り直したように表情を変えた。

 

「立ち会いならば受けましょう。あなたにはその権利がある。私には受ける義務がある。しかし殺される義務はありません。私にも為さねばならないことがある。あなたが私を殺したいように、わたしも殺したくて仕方がない輩がいるのです」

 

「そうですか。では、死ね。ドーナ」

 

「ヴィルヘルムさん!」

 

 突如せり上がる土柱。

 その予想外の初撃は、あの伝説の剣鬼の右肩を力強く打ちつけ、顔をかすめた。

 

 カランカランと地下の洞窟に高く響く剣の音。

 ヴィルヘルムが思わず落としてしまったものだ。

 

「くっ……」

 

「ああ、ああ。卑怯だとはおっしゃらないでください。あなたの殺したい相手は知っていますとも。白鯨でしょう? ここ何年も嗅ぎ回っているとか。どうやってあの理不尽な魔獣を倒すのでしょう。もしや神出鬼没のあの白鯨の出現場所を特定して、出現と同時に討つつもりなのでしょうか」

 

 服の上からでもわかるほどの出血。だらんとだらしなく下がった右腕。骨折していることは一目瞭然だった。これでは剣もまともに握れない。

 

「まじかよ……!」

 

「憎き相手が出現する瞬間に、用意周到に準備した攻撃で一気呵成に畳み掛け、墜とす。あなたがしようとしていることと同じです。私にとっては、あなたが白鯨なのですよ」

 

 誤算だった。

 看守長にとって、ヴィルヘルムとの戦闘は何度も頭の中でシミュレートしたものだったのだ。

 だから、突然ヴィルヘルムが現れても平然としていられた。攻撃の算段も付いていた。効果的な初撃を放ち、見事に命中させた。

 

 以前のループで看守長を一太刀で斬って捨てたヴィルヘルムならば、手こずることはないだろうとタカをくくっていたスバルの責任だ。

 

(どうする? どうすればいい?)

 

 剣が握れないとなると、おそらくヴィルヘルムの戦力は半減する。

 その状態でこの看守長に勝てるのかどうか。スバルにできることは何かないか。無い頭を回せ。せっかくクルシュが与えてくれたチャンスなのだ。この程度で諦めるようでは、元より立ち上がってなどいない。何か、何か──────────―。

 

「剣鬼、ヴィルヘルム」

 

 片膝をついていたヴィルヘルムが呟いた。

 

「参る」

 

 血に染まった瞳が赤く光った。



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剣の鬼

「剣鬼、ヴィルヘルム」

 

 片膝をついていたヴィルヘルムが呟いた。

 

「参る」

 

 血に染まった瞳が赤く光った。

 

 ──────────────―

 

 

 魔法は使えません。

 私には剣しかない。

 この身この人生全てを剣、そして妻に捧げてきました。

 

 過去の話をする上で、ヴィルヘルムは自身についてそう述べた。魔法の素質は無く、剣術しか扱えなかったと。その剣術すらでさえも、数え切れぬ死体の山と数多の戦場を越えてようやく、剣聖と並び称される域まで到達したのだと。

 

 魔法など素養も無く、鍛えることもなかった。

 

 では、魔法でなければ()()は一体何だというのだ。

 

 炎を生み出したわけでもないのに肌はチリチリと熱さに灼け、風を吹かせたわけでもなく閉ざされた地下だというのに服が強くなびいた。

 

 まるで本物の炎がヴィルヘルムの身を包んでいるように、ゆらゆらと揺れて見える。

 打ち付けるような風はその熱気を運び、スバルは思わず後退りしてしまった。

 

「スバル殿、下がっていてください」

 

 折れてしまっているのだろう。

 ぶらんぶらんと揺れる右腕など気にも留めず、こちらに目配せする。

 そんなこと、言われるまでもない。

 これほどの殺気、剣気にアテられてその場に留まっていられるほどの胆力はスバルには無い。

 今すぐ逃げ出さなかっただけでも褒めてほしいものだ。

 そも、この激しく震える両の脚がその機能を正しく全うすることができるのであれば、という前提があっての話だが。

 

「ま、任せます」

 

 すでに乾いてしまった喉に飲み込む唾はない。

 幻覚の熱気が額に本物の汗を滴らせる。

 じんわりと背中にも汗が浮かび、シャツが背中にひっつく感覚がいやに気持ち悪い。

 

 ヴィルヘルムは折れた右腕は無いものと考えたのか、左腕で剣を構える。

 構えなどなにもわからないスバルだが、背後から見ているにも関わらずどこから攻め入れば良いのかと思うほどに隙が無い。

 

「いくら剣鬼と言えども片腕ならば、太刀打ちもできましょう。どうかご容赦を。不意を突いてようやく、土俵に立つことを許されるのです。それほどまでにあなたは、亜人(私たち)にとって脅威の象徴なのですよ」

 

「…………」

 

 約40年前、亜人による死体の山を文字通り数え切れないほど築いた剣の鬼。

 

 人間にとっては、英雄譚なのだ。

 只人でありながら、剣聖と並び称されるほどの栄誉は、誰もが目を輝かせた。

 

 しかし、亜人からしてみればまさに、鬼。

 蹂躙し、虐殺し、破壊し尽くす殲滅兵器。

 悪夢だったに違いない。

 

 今でこそ、亜人は問題無くルグニカ王都で生活することができているが、一部には彼のように深い禍根を残している者も少なくないはずだ。

 

「戦争は終われど、私の憎しみは終わりません。しかしこの身の内に渦巻く激情は、押し留めておくつもりでした。ルグニカ王国は亜人の私共を排斥するのではなく、共生の道を選んだ。今なお差別の名残はあるものの、不自由や不満はありません」

 

 そこに偽りはないのだろう。

 事実、すでに何十年も彼はこの王国に尽くしている。

 憎き仇がいると知っていながらその憎しみを押し留めて、勤勉に働いてきた。

 だがそれがむしろ、積年の恨みとなって肥大化していた可能性もある。

 

「…………」

 

 仇を前にして饒舌な看守長とは対照的に、ヴィルヘルムは終始無言だ。

 目の前に突如として現れた、己に向けられる憎しみに彼はどのような感情を抱いているのだろうか。

 皺が深く刻まれたその顔からは、心の内は読み取れなかった。

 

「覚悟!」

 

 依然として憎しみに満ちている看守長は、両手を前に突き出す。

 ヴィルヘルムとの距離は保ったままだ。

 この状況と今までのループにおける攻防から察するに、近接戦闘は得意とせず、距離を取って魔法が主体の遠距離戦を仕掛けるつもりなのだろう。

 

「ドーナァ!」

 

 ヴィルヘルムの足元の地面が隆起する。

 動き出しこそ遅かったものの、そのまま勢いを増しながら、盛り上った地面は高度を上げようとする。

 

「ヴィルヘルムさんっ!」

 

 繋がってはいるものの片腕が使い物にならなくなったヴィルヘルムは、その痛みからか微動だにしなかった。

 このままでは天井に圧し潰されてしまう。

 その結末を予想したスバルは思わず声を上げた。

 その声と同時に、ヴィルヘルムは両眼を大きく見開いた。

 

「むんっ!」

 

 掛け声とともに、鈍い音が監獄中にこだまする。

 一瞬のうちに、視界が極端に悪くなる。

 土埃だ。

 目を細め、ケホケホと咳き込み、視界を確保するために手で空を仰ぐ。

 

「ゴホッ、ヴィル、ヘルムさん……」

 

 土埃の向こうに老爺のシルエットがだんだんと見えてくる。

 

「スバル殿。どうやらもっと下がっていただく必要があるようです」

 

 次第に視界が確保されてきた。

 ヴィルヘルムを見ると、変わらずに腕はだらんと下がっているが、その他の外傷は全く見当たらない。

 あの魔法攻撃をどのように凌いだというのか。

 

「まさかただの足踏みでかき消されるとは……」

 

 こちらも同じ位置に立ち続けていた看守長が呟く。

 

「踏みしめただけで……?」

 

 看守長の言葉を信じるのであれば、ヴィルヘルムは地形を変化させるほどの魔法を、気合を入れた踏み込みだけで相殺したことになる。

 遠距離攻撃というメリットを持つ魔法攻撃に対して、そのメリットを無かったもののように物理攻撃のみで封殺するパワー型ゴリラというキャラクターは、バトル系ファンタジーではありがちだ。

 

「つっても、現役過ぎた達人系じいさんがやることじゃねえだろ……。渋○剛気より渋いよ……」

 

 思わずフィクションを引き合いに出してしまうが、比べ合ったとしても多くの達人たちも、この鬼の前では尻尾を巻いて逃げ出してしまうのではないだろうか。

 

 文字通りの人外バトルに巻き込まれでもしたらたまったもんじゃねえ、とそそくさとさらに距離をとる。

 

「なるほど。石に囲まれた地下の監獄であれば、あなたのドーナ()系魔法もあらゆる応用が効くというわけか」

 

「まさかズルいなどとは言いますまいな?」

 

「否。死んだ時の言い訳を聞かずに済むのだ。もっと有利な状況でも構わない。いや、死んでからでは言い訳を宣う口も持たないですな」

 

「小癪な……!」

 

 あからさまに煽るヴィルヘルムと挑発に乗る看守長。

 これまでのヴィルヘルムを見ていると、このような見え透いた挑発はしないように思えるが、何か意図を持ってやっているのだろうか。

 

「エルドーナ!!」

 

 看守長が掌をこちらに向け、叫ぶ。

 先程よりも大きな規模の地面の隆起が起こる。

 しかし、今度はヴィルヘルムの目の前ではなく、両サイドの地面からだ。

 

 ぐねーんと曲線を描き、またしてもヴィルヘルムを潰そうと狙いを定める。

 

 先ほどは足元のみの攻撃だったから足のみで対処できたが、今度は胴体の位置に二方向からの攻撃だ。それに、速い。魔法の格のようなものが上がったのか、発生速度が比にならないレベルで上がっている。

 片腕が使い物にならないヴィルヘルムはどう対処するつもりなのだろうか。

 

「ほっ」

 

 と、思っていたらまたしても土埃が大きく舞い上がった。

 

「なっ……」

 

 視界が開ける前に、驚きを含んだ看守長の声が聞こえてきた。

 何が起きたのかと目を細める。

 するとそこには、アーチ状に繋がった地面の上に悠々と立つ老爺の姿があったのだ。

 

「児戯ですな」

 

 地面に落とすように呟く。

 言葉にするまでもない、圧倒的な実力の差。

 鬼退治に犬のみで挑んだとて望むべくもないのだ。

 

「……知っている。ええ、知っていますとも。あなたは絶望の権化です。私では足元にすら及ばないことなど、わかりきっていました。腕一本を落とした程度で渡り合えるなど、思い上がりも甚だしい」

 

「では、諦めますか」

 

「いえ。傷一つ付けることすら叶わずとも、この命尽き果てるまであなたを憎しみ(攻撃し)続けます」

 

 ヴィルヘルムの身を包む異常なオーラは、その勢いを落とすことなく依然として燃え続けているが、看守長の身の内から湧き出る憎しみという感情の凄まじさも、周囲の空気を歪めて揺らめいているように錯覚してしまうほどに昂っているのがわかる。

 

「遖」

 

 ヴィルヘルムは口元をニヤリと歪め、これまで見たことのないような怪しい笑みを湛えた。

 

「第二ラウンド、か」

 

 看守長は命を賭してヴィルヘルムを襲い、それを迎え撃つため、かつての鬼に戻らんとするヴィルヘルム。

 どちらが上なのか。

 先刻までのヴィルヘルムの優位は揺るがないのか。スバルには到底予想できなかった。

 

 ──────

 

 一段大きく舞い上がった土埃に包まれて、スバルは尻餅をついていた。

 

 見誤っていた。

 

 看守長は先般見せたエルドーナよりも強力な魔法を何度も何度も連発した。

 この世界に魔力やMPという概念があるのであれば、常人であれば既にからっけつだろうという状態からさらに、それまで撃っていた三倍の数の魔法を繰り出してきた。

 RPGの魔法系の中ボスとして、中盤から終盤にかけに配置しても良いほどのスペックだったと思う。

 

 看守長とヴィルヘルムをぶつけ、何かしらの反応が起これば良いと考えていたが、ヴィルヘルムが殺されてしまうのではないかと思ったほどだ。

 

 しかし、それを()()()()()()のだ。

 

 土埃が落ち着けば、多少の変形はあるものの、そこには変わらぬ監獄のままだった。

 

 鬼は仁王立ちし、無表情のまま看守長を見据えていた。

 

 予想以上の魔法の連撃。

 しかしヴィルヘルムはそれを悉く、丁寧に、余すことなく潰していたのだ。

 

 頭上から降る岩を殴り砕き、背後から迫る石柱を蹴り上げ、正面から襲い掛かる礫を全て叩き落とす。

 

 周囲へのダメージを最小限に抑えて、全ての攻撃をいなしたのは、無防備だったスバルへの配慮なのだろうか。それとも────。

 

「実力差の誇示……ですか」

 

 どちらも、だ。

 今になって思うと、初撃を受けたのもわざとだったのだろう。

 いくら虚をついた攻撃だったとしても、これだけの攻防を見せられてしまうとあの攻撃をヴィルヘルムが避けられなかったとは思えない。

 

「……これ以上は死にますよ」

「鬼の目はごまかせませんか……」

「ええ」

 

 看守長は数多の魔法を撃ち続けたが、未だに息が上がっているわけでもない。これ以上撃ち込み続けても意味はないと思うが、それが死に直結するとは思えない。

 

「私はあなたの兄弟を殺した」

「ええ。私の兄も、まだ成人しない弟も」

「ではなぜ、あなたは死んでいないのか」

 

 兄や弟が殺されていながら、看守長はなぜ殺されていないのか。そこまで考えてようやく合点がいく。彼は戦闘に駆り出されていなかったのだ。

 理由は色々と考えられる。参謀役だったり、回復役だったり、後方支援の役割を与えられている場合だ。

 

「でも奴はあれだけの魔法を……」

「ええ。彼は極めて攻撃的な魔法を行使できます。そして近接攻撃は一向に仕掛けてきません」

 

 剣や槍を用いた近接戦闘は不向きなのは分かっていたが、魔法に関する説明がつかない。魔法の才があるのならば、最前線ではないとはいえ危険な戦場に駆り出され、ヴィルヘルムと対峙していたはずだ。

 

「マナの量が極端に少ない。というより、ほぼ無いに等しいということ」

「マナ?」

「魔法を行使する際に消費する精神力のようなものです」

 

 マナ=MPという図式が頭の中で組み立てられる。

 

「……流石ですね」

「……オドを消費していれば、いやでも分かります」

「オド?」

 

 続けて聞き慣れない異世界用語が出現した。そのオドとやらを使えば、マナが無くとも魔法が打てるのだろうか。

 

「オドとは、その者の生まれ持った生命力のようなものです。絶対量が決まっていて、増やしたり回復したりすることはできません」

「それって、つまり……?」

 

 それだけ説明されてしまえばバカでもわかる。

 これまでに撃った魔法の数を指折り数えながら、背筋に汗が伝うのを感じる。

 

「あとほんの数発打つだけで、彼は絶命するでしょう」

「元より承知の上です」

 

 文字通り命を削っていた看守長からは、その命尽き果てようとも必ずや鬼を討ち取るという覚悟が伝わってくる。

 命を落としても良いと思うほどの憎悪、それを子どもの悪戯のようにいなしてしまうという現実(地獄)

 日本にいた頃、人同士の身体的な差はそこまで大きくなかった。身近な体力測定では僅かな差を点数化し、スポーツでは細かなルールを設けて勝敗を分けた。速さにしろ、力にしろ、そういったほんの少しの差を争うものだったのだ。

 

 狂気にも似た感情を持っていても、遥か高みから見下ろす存在から見れば棒立ちしているのと変わらない。

 残酷なまでの戦闘力の差がこの戦場にはあった。

 竹槍を構えて戦闘機に突撃するようなものだ。

 

「……もう良いでしょう」

「まだまだ……! ドーナ!」

 

 死力を尽くして、看守長は魔法を行使する。

 心なしか発生速度が遅くなった気がするのは、看守長の陥っている状況を知ってしまったからか。いや、確実に遅くなってきている。生命力そのものであるオドには限りがあるという、可能な限り燃費を気にして使い続ける必要があるのだろう。

 

 しかし、そんなものはお構いなしにヴィルヘルムは魔法を砕く。

 

「そうまでして死にたいのであれば、せめて私の手で下して差し上げましょう」

「あなたを殺すまで死ぬつもりなど毛頭ありませんよ」

 

 ヴィルヘルムはそう言うと、鞘に収まったままの剣に手をかけた。

 これまで一度も抜かなかった剣がついに姿を表すのだ。思わずゴクリと唾を飲む。

 

 キイィンと甲高い音を立てて鞘を滑り、美しい刀身が姿を見せる。

 

 スバルは思わず首筋を撫でてしまっていることに気がつく、サーっと血の気がひいてしまう。

 

「ようやく剣鬼の登場ですか」

「無駄口がお好きですね。もう落ちてますよ」

 

 チン、と剣を鞘に収める音と、ボトッと何かが地面に落ちる音が重なって聞こえた。

 

「う、ううう、う……!?」

「ッ、ゲェ」

 

 続いて、ビシャビシャと液体が地面に落ちる音が続く。

 看守長の腕から溢れる大量の血液と、スバルの口腔から漏れ出す吐瀉物だ。

 

 意識と意識の合間。

 目にも止まらぬ速さでヴィルヘルムは看守長の両腕を切り通したのだ。

 抜刀、接近、切断、納刀の一連の動作を瞬きの間に済ませ、斬ったことを悟らせないその技量。剣に全てを捧げたことに偽り無し。

 

 そして、一度嗅いだ死の香りが鼻腔をつき、スバルはまたしても嘔吐を繰り返していた。嫌な匂いなだけではない。死屍累々の光景がフラッシュバックし、脳をガツンと殴られたような酷い目眩によって混乱していた。

 

「魔法の起点にしていた腕を落とされては、どうしようもないでしょう」

「こ、この、鬼、がっ……」

「どうとでも」

 

 嘔吐が落ち着き、口許を拭って血に染まる戦場を見やる。

 命を奪わなかったのはヴィルヘルムなりの優しさなのか。いやしかし、このまま放置していれば、そのうち出血多量で死に至ってしまう。それとも苦しんで殺すことがヴィルヘルムの望みなのだろうか。そこまで残酷な男だとは思えないのだが……。

 

「フェリス。いるのだろう」

「……なぁんだ。気付いていたんですね」

 

 ヴィルヘルムがそう呟くと、物陰から高い男の声が聞こえてくる。

 聞き覚えのある声だ。

 

 やがて暗い物陰から姿を現したのは、猫耳の美青年だった。クルシュお抱えの治癒術師フェリスだ。

 

「クルシュ様は良いのか?」

「そのクルシュ様からの指示ですよ。その代わりに護衛を十人付けてきました」

 

 フェリスがこの場にいるのはクルシュの指示だと言う。どういった意図があるにせよ、この場に凄腕の治癒術師がいることは願ってもない。

 

「治していただけますかな」

「はいはーい。腕、見せてください」

 

 フェリスは迷うことなく血溜まりから看守長の腕を拾い上げ、傷口と見比べる。

 

「あーらら、こりゃすごい」

「まずいのか?」

「は? ボク、すごいって言ったんだけど。いつまずいって言ったの? 君、頭のついでに耳も悪いのかな? 治療しようか?」

「……お前、本当に俺のこと嫌いだよな」

「当たり前じゃん」

 

 ぷいっとそっぽを向いてしまう。

 それだけ見れば可愛いだけだが、態度からしてフェリスは明らかにスバルを嫌悪している。

 

「それで、すごいってのは?」

「切り口だよ。完璧。すぐ治療すれば繋がるようにできてる。始めるから君は腕持ってて」

「あ、ああ」

 

 一刻を争うのだろう。有無を言わせずに指示に従えと言外に伝えてくる。

 

「敵の、施しなど……」

 

 スバルが近づこうとすると、看守長はモゾモゾと動こうとした。

 確かに、腕を切り落とされたというのにその直後にまた敵に治療されてしまったのでは、せっかく賭けた命に格好がつかない。計り知れないほどの屈辱だろう。

 

「動くな」

 

 フェリスはそれだけ言うと、看守長の頭に手をかざした。フェリスの両手が青色の光を発し、看守長の頭部を包む。

 

「お、おい。なにして」

「体内のマナ操作。うるさいから気絶させて治療させる」

「そんなこともできんのかよ……。馬鹿げてんな……」

 

 まもなく、看守長はカクンと首を曲げまるで寝ているかのように目を閉じた。

 ヴィルヘルムの純粋な肉体のみの戦闘に圧倒され、フェリスの魔法の柔軟な扱い方とその容赦の無さに引いてしまう。

 

「はい。腕ついた。出血量がちょっと多いけど、このタイプの亜人なら回復も早いし、心配いらないかな」

 

 ほんの数秒、フェリスが手をかざすだけで切断されていた腕は元通りだ。すぐに残りの腕も治療し、看守長をその場で横に寝させる。

 

「すげえな……。そ、そうだ。ヴィルヘルムさんもっ!」

「爺さんも怪我を……? 見せてください」

「無用です」

 

 すぐ駆け寄ろうとするフェリスをヴィルヘルムは左手で押し止めた。

 

「けじめです」

「うるさい。怪我してる人は全員助ける。そいつが望まなくとも、それがボクの仕事だ」

「……」

 

 有無を言わさず、フェリスはヴィルヘルムの右腕を掴み上げ、すぐに治癒魔法をかける。

 変な方向に折れ曲がっていた右腕は継ぎ直され、すぐに出血も止まった。

 

「……ありがとうございます」

「いーえ」

 

 一度は断ったものの、治してもらったことは事実であるからだろうか、気まずそうに感謝するヴィルヘルムと全く意に介していないフェリスは対照的だ。

 

「さて、と……君」

「……あ、おれ?」

 

 フェリスがこちらに声をかけていたが、全く気がつかなかった。

 決死の覚悟で魔法を駆使する看守長、それを簡単にいなすヴィルヘルム、場を収めてしまったフェリス。全員がスバルの想像の範疇を超えており、まるでその場にいないかのような感覚を覚えてしまっていた。

 

「他に誰がいるんだ」

「……そうだな」

「なぜ、こんなことを仕掛けた? クルシュ様が君に自由行動を許しているのは知っている。けど、彼が爺さんと接触しないように注意していたんだ。そこを君が……! んうぅぅぅぁぁああ、もういい! ボクはもう一切面倒見ないぞ!」

 

 フェリスは最初は理性的に詰めてきていたが、喋り続けるにつれてだんだんと口調を荒げていく。

 最後には栗色の髪をわしゃわしゃと掴みながら、そっぽを向いてしまった。

 

「でも必要なことかもしれないんだ。こいつは魔女教徒になるかもしれなくて」

「魔女教徒だって? なんで君にそんなことがわかるんだ? まさか」

「いやいやいやいやいやいやいや! 違う違う! もう二度とあんな連中に間違われてたまるかってんだ!」

 

 あんな頭のおかしい奴らと一緒にしないでほしい。それだけではなく、間違えられると殺されかねない。

 

「と、とにかくだな、魔女教徒うんぬんは置いとけ。あのおっさんはヴィルヘルムさんをずーっと憎んでたんだよ。戦後ずっとだ。そんな状態で勤務し続ければストレスも溜まるだろ? 地下での勤務ってのも、精神衛生上よろしくない。たまにはガス抜きさせてやらないとダメだ。職場環境の改善ってやつだよ。王ってのは言っちまえば国っつー会社の経営者だ。職場の風土を良い方に変えていくのも経営者の仕事、ひいてはその部下、つまりは中間管理職の俺の仕事ってわけでだな」

「よ、よくもそんなにすらすらと薄っぺらいことを……」

 

 なんじゃいっ! 文句あるんかいっ! と言いたくなるのを飲み込む。

 確かに思ってもいないことだが、魔女教と関係があると疑われる方が辛い。嘘でもなんでも、話を逸らせることができればそれで良い。

 

「とにかくだ、こいつのこと起こしてくれねえか?」

「それは構わないけど、大丈夫なのか?」

「万が一ならヴィルヘルムさんが対応してくれるっ!」

 

 元気にサムズアップ。

 治療はフェリスに。戦闘はヴィルヘルムに。

 今のスバルに死角は無いに等しい。

 

「君はどこまでも人任せなことを、なぜそんなにも清々しく言えるんだ……」

「よせやい。褒めるなって」

 

 フェリスはやれやれと肩を竦めて、看守長に再度青い光を当てる。

 今度は体内のマナとやらを乱すのではなく、元に戻しているのだろう。

 じわじわと顔色が良くなっていくのがわかる。

 

「…………?」

 

 何か違和感を感じて、目を凝らす。

 フェリスの両手が発する青い光とは別に、何かが発光しながら揺らめいているのが見える。

 

「……なんだ? おい、フェリス。見えるか?」

「は? 何がだ」

「そこ。お前の光以外に、なんか出てる」

「…………何も見えないが」

 

 そんなやりとりをしている間にも、光は徐々に明度と彩度を増していく。

 それが紫色の光を放っているのだと気づく頃には、光が看守長の体から発光していることが分かった。

 

「だ、大丈夫なのか……?」

「……全く何を言っているのやら……」

 

 フェリスはもう聞き飽きたとばかりに、呆れた表情をしている。

 

 すると、看守長の胸の辺りが一際強く光り、紫色の球体がゆっくりと体内から出てきた。

 

「なんじゃこりゃっ!」

「さっきからなんなんだ君」

「スバル殿。何が見えていますか?」

 

 これまで静観していたヴィルヘルムがスバルに声をかけてきた。

 

「なんか、紫色に光ってる塊がこの辺に浮かんでて……」

 

 ぽわぽわと浮かぶ光球を手で指し示す。

 ヴィルヘルムはそれをじっと見つめるも、どこか焦点がズレているように思える。

 

「どれだけ凝らしても見えませんな……。フェリス?」

「見えない……です」

「本当か? 俺だけ見えてるとかいうドッキリじゃない?」

 

 キョロキョロと辺りを見回して、あるはずもない隠しカメラを探してみる。

 

「俺だけ見えてる……」

 

 得体の知れないものだが、これまで剣技や魔法によって自分がどれだけ凡庸であるかを突きつけられ続けていた故に、少しだけ嬉しくもある。

 

「スバル殿……?」

 

 そんな浮わついた気持ちが出たせいか、気が付けば右手をフラフラとさせながら光球に近づけていた。

 ヴィルヘルムが怪訝な顔でスバルの方を見るが、彼に光球は見えていないため、止めるべきかどうか悩んでいるようだ。

 

 やがてスバルの指先が光球に触れると、パッと少しだけ点滅した。

 

「……ん? お、おいおいおい、おい」

 

 点滅が収まると、今度は接している部分から光がどんどんとスバルの指に吸い込まれ始めた。

 予想外の事態に完全に我に返り、腕を引っ込めようとするも、接着剤でくっついたように離れない。

 

「なん、じゃこりゃあ!」

 

 思いっきり離そうと力を込めてもびくともしない。そのくせ、痛くはない。物理的にくっついているのではなく、魔法的な力が作用しているような気がする。

 そうこうしているうちに、光球はスバルの指へ吸い込まれていくにつれ小さくなっていき、やがて完全にスバルの中へと消えていった。

 

「……えらいこっちゃ」

 

 不思議と不快感や異物感はない。

 先ほどの光球が今、身体のどこにあるかもわからない。

 フェリスとヴィルヘルムは未だ訝しげな顔をしている。

 そんな顔を見てしまうと、さっきまで見えていた光球が実はスバルの錯覚だったのではないかとさえ思えてくる。

 

「スバル殿……異変が?」

「今、指先から光が入っていったんですけど……何も」

「ちょっとこっちを向いてくれ」

 

 フェリスに言われるがまま座り直すと、額に手をかざされた。

 幾度となく見た青い光が、今度はスバルを優しく包む。

 

「…………マナの流れに異常は見当たらない」

「臓器はどうだ?」

「どこも悪くない。健康体そのものだ」

 

 どうやら検査をしてくれたようだ。

 ドキドキして聞いていたが異常が無いのであればそれで良いとも思うのだが……。

 

「どうすべきか……」

「…………あっ」

 

 ヴィルヘルムが難しい顔をして思案していると、スバルの目の端で横たわっていた看守長がぴくりと動いた。

 意識が戻ったのだろうか。

 

 二人に目配せしてモゾモゾと動き始めた看守長を見守っていると、やがて朝の目覚めのようにゆっくりと目を開いた。

 

「…………私、は」

 

 ぽつりと呟く。

 どうしたものかとフェリスと目を合わせる。

 

「……気分はどうだ」

 

 ヴィルヘルムが声をかけた。

 

「……最悪ですよ。復讐は及ばず、あまつさえ手心を加えられた。これほどの屈辱はないです」

 

「それなのに、なにか、清々しい心地がしている自分が最悪です」

 

「そうか……」

 

 看守長からは今までのような狂気は感じられないように思える。

 不倶戴天であるヴィルヘルムに対し、力も感情も全てを出し尽くすことができたからだろうか。

 ヴィルヘルムと看守長をぶつけるという実験的な試みは、どうやら良い方向に転んだようだ。

 

 このまま看守長が魔女教徒として動かないのであれば、牢獄の崩壊及びスバルの誘拐という問題は無視することができる。

 

 残る問題はもう一つ。

 氷の巨獣だ。

 日が完全に落ちてからまもなく、王都の端に突如として現れるヤツの対処法は未だに判明していない。

 

 実のところ、今回は『捨てループ』となることを覚悟している。

 

 看守長にはダメ元でヴィルヘルムをあてがった。たまたま上手くいったが、上手くいく確証は無かった。死の結末が回避できないのであれば、他の方法を思いつく限り試していくのみ。そういった覚悟で臨んでいたのだ。

 

 問題の氷の巨獣についても同じだ。思いつく限りの試みを繰り返す。

 まずは奴についての情報を得ることが肝要だ。そのために二、三ループ使っても良い。

 

「ヴィルヘルムさん」

「……まだ、やることがあるようですな」

「はい。言っちまえばこれは前哨戦で、これからが本番なんです」

「ふむ。良いでしょう」

 

 戦力の確保は依然として必要だ。何かあった時のためにヴィルヘルムは連れて行きたい。

 

「フェリスはこのおっさんを介抱したら、ここで起こったことと俺たちが貧民街に行くことをクルシュに伝えてくれ」

「貧民街に……? なんでまた……」

「でっけえ猫みてえな怪物退治だな」

「君が言っていた、三大魔獣に匹敵するという奴か?」

「……爺さんさえいればなんとかなると思うが、状況次第ではクルシュ様も連れていく。これを持っていけ」

 

 フェリスは懐から小さな板のような物を取り出し、差し出した。

 ひっくり返すと鏡のなっていて、スバルの間抜けな顔が映っている。

 

「対話鏡だ。離れた相手と話ができる」

「うわ……。嫌な記憶が思い出されるぜ……」

 

看守長を嵌めようと愚作を弄した際に、作戦失敗の原因の一つとなったミーティアだ。あの時はタイミングが悪かったとしか言いようがなかった。

 

「高価なミーティアだから大事にしてくれ。ボクの持つ物と繋がるようになっている。非常時には魔力を込めて呼び出してくれ」

「魔力の込め方ってのが分からないけど分かったぜ! ヴィルヘルムさん! 行こうぜ!」

 

 地下のため外の様子が分からず正確な時間は分からないが、そろそろ日没が近いはずだ。

 まだ死の夜までは一日の猶予があるはずだが、制限時間は刻一刻と迫っていることに変わりはなく、少しでも情報を掴むため、早急に貧民街に向かう必要がある。

 

 フェリスとはその場で別れ、ヴィルヘルムを連れてスバルは夕陽の差す王都を駆け出した。

 



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濃密な死の女

「待ちなさい」

 

 頭上から少女の声が降ってくる。

 

「待てと言われて待つ奴がいるかよ!」

 

 その登場を予期していたスバルは駆ける足を止めずに、そのまま人気の無い路地を走り抜こうとした。

 

「聞こえなかったのかしら。それとも薄汚いボロ雑巾には言葉が理解できない?」

 

 さらにそれを予期していたのか、声の主はスバルの進路を塞ぐようにトンと軽やかに降り立つ。

 

「聞こえてるし、理解もできてるよちくしょう、やっぱりな……」

 

 少女の可憐な外見は、見る人が見れば天使と喩えてもなんら不思議はない。

 だが、少女が発している殺気に触れてしまえば、途端にその印象はひっくり返るだろう。

 

「俺って殺したくなるほどそんなに臭えのかよ……」

「ふん。よく分かっているのね。どこの誰だか知らないけれど、そのままお手洗いに流してやりたいくらいよ。汚物と同等ね」

「それはさすがに酷くねえ?」

「喋らないで。その酷い臭いがラムに移るわ。ああ、何を食べたらそんな体臭になるのかしら。あなたの食生活を考えただけで鳥肌が立つ」

「日本食はむしろ体臭良くなりそうだけどな!」

「さっぱり何を言っているのかわからないわ。臭い人間は言葉もまともに話せないのね」

 

 あまりにも酷い言い草に、怒りが沸々とわいてくるがグッと拳を握って堪える。

 この展開は予想していた。

 以前のループにおいて、看守長に連れ去られて王都から抜けるため、日没に路地を走っている時にもこの少女は進路を阻んだ。

 それだけでなく、看守長とスバル共々その首を落として絶命させたのだ。

 

 同行者こそ違うが、今回も場所と時間はほぼ同じはず。この少女が行く手を阻むことは容易に想像しうる事態であった。

 ヴィルヘルムを同行させたことには、一つに少女との接敵が理由だ。看守長でさえ瞬殺された彼女に対抗できる者は、この百戦錬磨の剣鬼以外に思いつかない。

 どこまでも他力本願で悪い気もするがそれしか方法はない。

 それゆけ、剣鬼マン! 

 

「あなたは……」

「どったの剣鬼マン……?」

 

 気分はポ○モントレーナーのつもりで送り出したが、剣鬼マンは剣を抜く様子も無く前に出る。

 

「剣鬼マン?」

 

 ピンク髪の少女が眉根を寄せて呟く。

 

「剣鬼……。なるほど。アストレアの……。カルステン公爵家の」

「ええ。あなたはもしや……エミリア様の?」

「あら、剣鬼に知られているだなんて光栄ね。そうよ」

 

 二人の中で話が進められていく。

 険悪な雰囲気はそのままだが、すぐに戦闘に入る様子ではない。

 

「てか、え、なに。二人とも知り合いなの? 置いてけぼりなんだけど。三人組で話してるのに他の二人でしかわかんない話されて、気まずい時のあの感じがすごいんだけど」

「スバル殿」

 

 なんとか話についていこうとするスバルをヴィルヘルムは手で制す。

 はっと気づいて足を止める。

 目の前の少女の殺気は、未だ緩んでいなかった。

 

「私はラム。王選候補者であるエミリア様の従者よ」

「改めて。ヴィルヘルム・トリアスと申します。同じく王選候補者であるクルシュ・カルステン公爵に仕えております」

 

 言葉遣いは丁寧ではあるが、ヴィルヘルムは警戒を解かない。ラムと名乗る少女が動きを見せれば即座に応戦できることをチラつかせて、牽制していた。

 

「同じく……って?」

「ええ。彼女の主人(あるじ)は、クルシュ様と同じく王選の候補者です」

「えええ……。そんな奴が普通に人殺していいのかよ……」

 

 かつて切り落とされた首をさする。

 国の要人であるはずの者の従者ならば、下手な真似は想像できないはずだ。それなのにスバルは身に覚えのない殺意を向けられている。それとも、そんなことも気にならないほど、スバルのことが憎いのだろうか。

 

「ラム殿」

「……なんでしょう」

「スバル殿はカルステン家の客人です。ここは私に免じて見逃していただきますよう」

「…………」

「エミリア様の今後を思うのであれば、」

「ああ、もう、わかっています。私怨を優先するほど阿呆ではないわ」

 

 ラムはそう言うと、ようやく杖と共に殺意を懐にしまった。

 張りつめていた緊張が解けることで、深いため息を吐く。

 

「スバル殿、行きましょう」

「ええ……」

 

 ヴィルヘルムも警戒を解くと、スバルを手招いた。

 もう安心して良いということだろうか。

 

「待ちなさい」

 

 ラムの脇を通ろうとした時、二度目のその言葉が投げかけられる。

 

「なん、だよ」

「そんなに警戒しないで。……ヴィルヘルム様に頼みがあるわ」

「頼み?」

「…………敵陣営に言うことではないのだけれど」

「なんだよ、早く言えよ」

「主、エミリア様の行方が不明です。見かけたらご一報を」

「なんと」

「では」

 

 ラムはそれだけ言い残し、シュンと音を立ててその場から消え去った。

 隣に立つヴィルヘルムは口元に手を当て、何かを考えているようだ。

 

「エミリア様が……なるほど。魔女教が動き出したこのタイミングで……気になりますな」

「なあヴィルヘルムさん。エミリアって奴は、クルシュさんと同じ王選候補者なんですよね?」

「ええ。私も数度、お見かけした程度ですが」

「そんな奴が行方不明ってかなりやばい……ってのは俺でもなんとなくわかるんですけど」

「はい。一大事です。見かけたらラム殿にお知らせしましょう」

 

 ラムには殺された経験がある手前、あまり積極的に手を貸したくはない。クルシュにとって、ライバルであるはずのエミリアという人物を助ける道理があるのかとも思う。

 

「なんでそこまで……」

「もちろん、クルシュ様にとってエミリア様は政敵です。自ずと脱落するのであれば、それも定めとクルシュ様は仰るでしょう」

「なら、助ける義理なんてないですよね? こっちはこっちで急用なんだ」

 

 他人の心配なぞしていられない。

 そも、あの氷の巨獣が現れてしまっては、そのエミリアとやらの生死ももはや関係がなくってしまう。

 

「誰でも彼でも助けるわけではございません。道中見かければ、助力する程度です。ですが、スバル殿はクルシュ様のお人柄をまだ理解されていないようですね」

「あいつが清廉潔白なのはわかるけど……」

 

 スバルにとっては眩しいほどに、王道を往く傑物であることは分かっている。

 だが、救うべきものと救えないものの取捨選択をしなければならないこともあるはずだ。

 

「『国王になってしまえば、王選候補者から亜人まで等しく護るべきルグニカ王国民である』」

 

 ヴィルヘルムはその言葉を恭しく口にした。

 

「クルシュ様のお言葉です。もちろん、エミリア様がご自身の力不足で王選から脱落されるのであれば、それはエミリア様の定めです。ですが、エミリア様に限らず王国民が理不尽に直面し、困っているのならば手を差し出す。それがクルシュ・カルステン公爵です」

「……だから、俺のことも……?」

 

 助けたというのか。

 なんという方正さ。なんという廉直さ。なんという篤実さだろうか。

 彼女のあり方は、眩いほどに正しい。

 

「クルシュ様は王道の歩み方を心得ています。道を踏み外すことはありませんよ」

「……わかりました。エミリアとかいう奴を見かけたら手を貸します」

「はい」

 

 正しさという言葉が目に見える形で存在するのならば、それはクルシュの姿をしているのだろう。

 彼女に身も心も捧げるフェリスと付き従うヴィルヘルムの二人も、正しさを体現している。

 スバルはこれまで、堕落した日々を無為に送ってきた。彼女や彼女の周囲の人柄に触れるたび、スバルの暗澹たる内面が浮き彫りにされてしまうかのようだ。

 

「とにかく先を急ぎます」

「はい」

 

 おおよその方角の見当は付くが、正確な目的地の場所は判らない。ヴィルヘルムの案内でひとまずは貧民街を目指すが、明確にここだという場所があるわけではない。

 あの氷の巨獣による王都侵攻を止めるという目的は揺るがないが、そのためになにをすればいいのか、どこに向かえばいいのかはいまだ不明瞭だ。あの巨獣がどこかから突如出現しているのか、それとも事件や事故をきっかけに出現しているかも解らない。誰かが作為的に出現させている可能性もある。まずはそういった不確定要素を明らかにしていく必要があった。

 

 このループは捨てループであることをすでに覚悟している。どのような結末()を迎えるかは解らない。だが、今回のループに関しては文字通り死ぬ気で情報を収集する。

 まるでゲームのようだと自嘲する。残機の許す限りトライアンドエラーを繰り返し、一見してクリア不可能に見える難敵やステージの攻略方法を見出す。まさしくゲームだ。

 しかし画面上で繰り返される死と現実で繰り返される死では、決定的に違うものがある。死という実感を伴って繰り返されるこれは、心が折れてしまうほどの苦痛と絶望を与えてくる。それに耐えるには、生半可な覚悟では足りない。死にループになることを覚悟しているものの、それは、達成すべき目標のために半ば約束された結末を受け入れる以外に道が無いだけだったとも言える。それを覚悟と断じて呑み込まなければ、死の衝撃にスバルはきっと抗えない。

 ゲームのキャラクターも同じような気持ちなのだろうか。到底クリア不可能に見えるステージを前に絶望しつつも、見えない誰かに指図され、幾度ともなく死に続けているのだろうか。しかも自分が死んでも、それを仕向ける本人は何の感慨も抱かない。もしかしたら、スバルも同じなのかもしれない。別次元の顔も名前も知らない誰かが、異世界というステージで魔女教徒や氷の巨獣といったボスを撃破するためにスバルを操作しているのかもしれない。

 そう考えていると、途端に腹立たしさを感じる。

 けして特定の誰かがスバルを操作していることを認めるわけではないが、それは「運命」という言葉に置き換えることができるだろう。理不尽かつ不可避に降りかかるそれが必然であるのならば、スバルは中指を立てて言ってやりたい。

『運命様上等だ。返り討ちにしてやる』と。

 

「スバル殿。ここからが貧民街です」

「ありがとうございます」

 

 しばらく走り続けると、その場所にたどり着いた。

 目の前には川が流れ、橋が架かっている。

 まず気が付くのは、鼻につく腐乱臭だ。川を覗きこんですぐに後悔すると同時に、現代日本の上下水道機能の高水準さを認識した。少なくとも首都の市街を流れる河川に、人糞や畜糞に群がる稚魚の群れはそうそう見ないだろう。

 あまり意識しないようにしていたが、ファンタジー世界に最初は心躍っていたものの、その生活ぶりはいわゆる『中世ヨーロッパ』レベルでありスバルのように元中二病患者であれば、それが決して良い暮らしぶりと言えるものではないことを知っているはずだ。

『中世ヨーロッパ」と聞くと華やかで美しい街並みや生活を想像してしまうが、実際のところは頭上からウンコが降ってくるという事実を知ってしまえば、そんな理想は消え去ってしまうだろう。

 

「俺の生活ってかなり恵まれてたんだな……」

「スバル殿の出生が気になるところですが、事は急ぐのでしょう?」

 

 この程度は些事であると示すヴィルヘルム。彼は戦争の最前線を生き抜いてきたゆえに、これ以下の環境に身を置いたこともあるのだろう。

 

「ああ。実を言うと、でっかいバケモンが出てくることはまず間違いないんだけど、手がかりはほとんど無いんだ。だから、ヴィルヘルムさんが変に思ったことはすぐに教えてほしい」

「わかりました」

 

 死ぬと割り切ったループだ。隠し事をしたところで意味は無い。ヴィルヘルムには素直に伝えて、協力してもらった方が良いだろう。

 

 荒廃した街並みを歩く。

『異常』を探すべきなのだろうが、ぼろぼろの家屋に舗装されていない道、微かに感じる人の気配と向けられる無数の警戒による視線。『正常』を探す方が難しいのではないだろうか。

 

「なんか、めちゃくちゃ見られますね」

「服装でしょうな。私もそうですが、スバル殿の衣服もなかなか珍しいです」

 

 道の真ん中に立ち止まる。

 突き刺さるようないくつもの視線は、十分間歩き回っても慣れるものではなかった。

 ヴィルヘルムに指摘されて、スバルは自分の身を包むジャージをつまむ。裁縫なんかはある程度できるが、衣服については明るくない。しかし、日本の格安の服屋で購入したジャージでも素材や縫製は、この世界における最上級の衣服と比べても遜色ないことが解った。それだけ、文化レベルに差があるということだろう。

 

「この世界を知るたびに、俺の怪しさが増すばかりだな……」

 

 こうして疑問を持たずに同行しているヴィルヘルムが特殊なのだろう。

 

「てか、何も起きませんね……」

「まだまだこれからでしょう」

「そうですね。果報は寝て待て。まあ寝てたら死ぬんですけどね」

 

 待っているのは果報でもないし、そもそも日本のことわざは意味が通じない。

 仕切り直して、さあ探索再開だと意気揚々と歩き始めたその時、

 

「道を開けてもらえるかしら」

「────ッ!!!!」

 

 背後から投げられた声に、勢いよく振り返る。

 その姿を確認する前に、そこに立つ者が『異常』であることはスバルの全身が即座に感じていた。

 

「あらあら。そんなに怯えないで。悲しくなるわ」

 

 嘘を吐くな! と叫びたいのに、声が喉より先に出ない。

 女の発する雰囲気を生身で浴びるスバルには、悲痛などという感情をこの女が知っているとは思えなかった。

 恐怖。畏怖。嫌悪。絶望。悔恨。およそ生まれながらに備えられた防衛本能のための感情が、スバルの心を埋めつくした。

 簡単に死を覚悟したと宣ったスバルをあざ笑うかのように、スバルの全てが死ぬことを拒否していた。

 

「スバル殿。落ち着いてください」

 

 その声が聞こえるまで、ヴィルヘルムが隣に立っていたことすら忘れていた。

 ヴィルヘルムはスバルを陰に隠し、前に出る。

 

「あまり威圧しないでいただきたい」

「そんなつもりはないのだけれど。これから大事な取引があるから、気が立っていたのかもしれないわ」

「そうですか。では」

 

 口早にそう言って、ヴィルヘルムは先へ行けと手で促した。

 ツカツカとヒールの音を立てて歩く女に怯え、スバルは縮こまることしかできない。

 大量の冷や汗がシャツの背中にじんわりと滲む。

 

 女は振り返ることなく、その場を去っていった。ヴィルヘルムはその後姿が見えなくなるまで動かない。

 

「大丈夫ですか。スバル殿」

「──ッハ」

 

 息を止めていたことにようやく気が付く。

 死を何度も経験したからこそ解る、濃密な死の気配。女が纏うねっとりとしたその気配は、スバルの鼻腔から体内を侵し、心臓をぎゅっと握るようだった。

 

「スバル殿。申し訳ございません。後を追います」

「あ、そ、そうですよね」

 

 ついに現れた『異常』。その行方を追わない以外に選択肢は無い。

 やはり今まで碌に生きてこなかったスバル程度の死の覚悟など、取るに足らないものだった。

 しかし、そんな悔恨を挟む暇は与えられない。

 今はあの女を追跡することが優先事項だった。

 

 スタスタと歩き始めたヴィルヘルムを追いかけるため、スバルはガクガクと震える両の足に鞭を打った。

 



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鬼二人

 

「いや、ちょっと、待ってください」

 

 今にも女を追おうとするヴィルヘルムの背中に、スバルが投げかけた言葉は拒絶だった。

 

 怪しい女の尾行、それ自体に異論は無い。むしろヴィルヘルムではなく、本来はスバルが提案すべきことだ。

 神出鬼没の氷の巨獣を止めるため、今は手がかりが一つでも欲しい。

 貧民街をあれだけの殺気を振り舞いて歩く女は違和感の塊だ。巨獣の出現と関係している可能性は捨て切れないだろう。

 

「あ、あの……」

 

 理屈では分かっている。

 理性では理解している。

 

「どうしましたか」

「……」

 

 足を止めてこちらを振り返るヴィルヘルムに、続く言葉が出てこない。

 

「怖気付きましたか」

 

 握りしめた拳から滴り落ちる汗が、それを肯定する。

 この人は言い難いことをストレートに伝えてくる。伝えてくれる。

 

「…………」

「スバル殿、恐れは正しい感情です」

「……そう、ですかね」

 

 生唾を飲み込み、なんとか絞り出す。

 この場で正しいことは、今もどこかに向かって遠ざかっていく女の背中を追うことであり、恐怖に足を竦ませて立ち尽くすことではないはずだ。

 

「ええ。正しい判断と正しい感情は決して相反しません」

「……違いが分からねえ、です」

「分からずとも」

 

 ヴィルヘルムは剣柄を撫でる。

 

「あなたは今、あの女を追うべきだという判断と、逃げるべきだという感情に板挟みになっているのでしょう。それはどちらも正しいのです」

「いや、怖いことを押し殺してでも追いかける。これが正しいことでしょ?」

「それは正しい選択、です」

 

 違いが分からない。

 そう言うのならば、スバルは感情に押し潰されて正しい選択ができていないのだ。正しいことなど一つもない。

 

「ヴィルヘルムさんはやっぱり凄いですね。そんなにすぐ、正しい選択ってのがわかって、それを選べて、俺がどんな状態になってるのかもわかって……。俺には、無理です」

 

 歴戦の剣士には、スバルごときでは到底及びもしない経験、それに裏打ちされた考え、そして生き方がある。

 何も積み上げてこなかったこの頭と肉体では、何か出るかと叩いてみても虚しい音が反響するばかりだ。

 クルシュやヴィルヘルムといった人物と対峙する度、スバルは自身の空虚さを実感する。

 

「慣れです」

 

 ヴィルヘルムは短くそう言った。

 

「慣れって、そんな簡単に……」

「慣れです。スバル殿」

 

 前言撤回だ。

 慣れだと断言するヴィルヘルムの目を見れば、それが決して簡単ではないことはすぐにわかった。

 

「毎朝、市場に行くように戦場に赴き、リンガを品定めするように剣を手に取り、食事をするように人を殺して、帰宅して団欒するかのように戦果(死体の山)を報告する」

 

 それは、剣鬼が過ごしたかつての《日常》だった。

 地球でも、この世界でも、戦争を最前線で体験した彼らには、それが日常だったのだ。

 

「死地、修羅場、なんでもいいのです。一つの感情が、判断が、選択が己の命を掠め取ろうとしてくる窮地をすり抜ける。それを何百、何千と繰り返すのみ」

 

 異常が日常になれば、慣れる。

 平和とは、二つの戦争の間に介在する騙し合いの時期だ、とは誰が言ったのだったか。

 この剣鬼にとってはむしろ、戦争が日常で平和が異常である。そんな域まで達してしまっているのではないかと思わされてしまう。

 

「スバル殿、あなたがなぜクルシュ様の王選に介入しようとするかを私は知りません。ただ、あなたにどのような都合があろうと、クルシュ様の道は修羅の道であることに変わりはありません。剣を取らずとも、戦であることに変わりはないのですから」

 

 剣が無くともクルシュにとっては政争も戦争である。その結果如何で、生き永らえる人も死ぬ人もいるのだろう。

 

「クルシュ様に仕えるのであれば、あなたはこれから幾つもの死地に踏み込む。もちろん、道半ばで死ぬこともあるでしょう。しかし生き抜くことができたのならば、その中で慣れるのです」

 

 スバルがこの場にいる理由は、成り行きと言う他無い。

 ヴィルヘルムのように成し遂げなければならない悲願があるわけでもなく、フェリスのようにクルシュに対して身も心も捧げるような絶対的な忠誠心があるわけでもない。

 

「スバル殿、一つだけ伝えておきましょう」

 

 ヴィルヘルムの視線からは、スバルの体を透かしているかのように心に訴えようとしていることがわかる。

 

「恐れることを恐れるな。悩むことに悩むな」

 

 恐れること。悩むこと。

 それ自体が怖いことで、苦しいことだ。

 恐怖。苦悩。そう思っていた。

 実際、そうだ。そのはずだ。

 強大な存在の前に立てば、いつだって足が竦んだ。

 クルシュやヴィルヘルムと相対すれば、卑しい心を自分で掻きむしった。

 

 しかし、ヴィルヘルムはそれで良いという。

 

「怖くても、いいんですか?」

「恐怖とは本能です。麻痺してしまうと、引き際を見誤る」

「ヴィルヘルムさんには恐怖なんてなさそうですけど」

 

 剣鬼は、それでも数多の戦場を生き抜いてここに立っている。

 

「恐怖の対象が死ではないからです」

「どういうことですか?」

「恐怖とは誰しもが生まれ持った根源的な感情です。その根底は死への恐怖。生命が脅かされることへの警鐘です。スバル殿が抱いている恐怖はこれでしょう」

 

 まさしく。

 あの女に付いていけば待つのは死だということが、その雰囲気から感じ取れる。

 何もしなくとも死が待ち受けている身だが、先延ばしにできるのであればそうしたい。

 

「先程の女性は見覚えがあります。おそらく『腸狩り』のエルザ。腕利きの殺し屋として指名手配されているはずです。奴の殺気にあてられて恐怖を感じないのであれば、それこそ異常というもの」

「そんな奴だったのか……。で、でもヴィルヘルムさんは大丈夫だった、んだよな? それってヴィルヘルムさんの方が強いからじゃないんですか?」

「『腸狩り』の実力は未知数です。無論、交戦するのであれば負ける気で挑むつもりは毛頭ございません。ただし負けて死ぬこともあるでしょう。それが、戦いです」

「それよりも怖いことがあるって言うんですか?」

 

 死を四度も経験しているスバルだからこそ、死の恐怖は誰よりも身に染みている。

 

「私にとっての恐怖とは、この手で妻の仇を取ることが叶わないことです」

 

 ドッ、と汗が噴き出るのを感じた。

 穏やかな物腰、物言いだったヴィルヘルムから一瞬だけ、あの『腸狩り』とやらが醸し出す死の空気すら温く感じるほどの凄まじい殺気が溢れたのだ。

 

 気がつけばヴィルヘルムが視界から消えていた。

 

 違う。

 スバルが尻餅をついて、視点が下がったのだ。

 そのことに気がつかないほど、ヴィルヘルムの殺気は段違いであった。

 

「死んでしまえば仇を取ることもできません。そういった意味では死ぬことが怖いとも、言えます」

 

 そう言ってヴィルヘルムが差し出す手を掴み、立ち上がる。

 

「正直、ヴィルヘルムさんの方がさっきの女より怖いっすわ……」

「はっはっはっ。怖い相手にそう言えるスバル殿もなかなか肝が据わっていますよ。……ところでスバル殿」

「はい、なんですか?」

「『腸狩り』を見失いました」

「…………」

 

 夕方の貧民街をひゅーるると寒い風が吹いた。

 

 

 

 

「はぁ、やっとか……」

 

 貧民街の連中に片っ端から聞き込みし、女が向かった先をどうにか追って辿り着いたのは大きな盗品蔵だった。

 

 日はとうに落ち、満月が貧民街を照らす唯一の灯りとなっていた。

 

「くそ、貧民街の奴らめ。デタラメ言いやがって」

 

 女を見たと言う奴が親切に教えてくれたと思ったら、行った先が臓器売買人のアジトだったり、単純に教える代わりに金品を要求されたり、散々な目にあった。

 

「それが彼らの生きる道なのですから、仕方ないでしょう」

「仕方ないっつったって、こっちは急ぎなんですよ」

 

 あの氷の巨獣が貧民街に現れ、王都を凍り尽くすまでは一日の猶予がある。前回の死では異世界転移から二日後の夜、ちょうど今頃の時間のはずだ。

 怪しい女の尾行が徒労に終わったとしても、まだ一日探索の猶予がある。

 そうは言っても他に手がかりは無いので、解決の可能性が薄いことに変わりはないのだが。

 

「やっぱり今回は捨て回かもな……」

 

 そもそもあの女が巨獣出現に関わっているのかすら不明だ。

 全く見当違いの可能性も十分にある。

 

「何か言いましたかな、スバル殿?」

「いっ、いや、なんでも」

「それでは開けます」

「ええっ!? まだ心の準備がっ! って、はや!」

 

 月夜に照らされ物々しい雰囲気を醸し出す盗品蔵の扉を、まるで寝室の扉を開けるかのごとく軽々しく開くヴィルヘルムに肝を冷やす。

 まったく、この老人は先ほど言っていたことは嘘で、恐怖なんてものは母親の腹にでも置いてきてしまったのではないかと思ってしまう。

 

 盗品蔵の扉は驚くほど簡単に開いた。

 それもそのはずで、閂がその役目を全く果たしておらず、床に転がっていたからだ。

 

 ゴクリ。

 

 唾を飲む音が聞こえるほどの静寂。

 

「スバル殿、中に入ります」

 

 空き家ということはあるまい。

 盗品蔵という場所、閂が壊れていること、なにより扉を開けた瞬間に鼻腔を伝う、もはや慣れてしまった()()()()()

 

「はい」

 

 ヴィルヘルムに続いて侵入する。

 スバルなりに左右に注意しながら、ゆっくりと歩みを進める。

 盗品蔵は闇に包まれている。

 月明かりもろくに入らず、まさに一寸先は闇である。

 

 パシャ。

 

 足元で水を弾く音が聞こえ、確かに液体を踏んだ感覚があった。

 目線を足元に向け、それが何かと認識するよりも前に、それにわずかに反射する影をスバルは見逃さなかった。

 

「上っ! ヴィルヘルムさん!」

 

 もし名前を先に呼んでいたら、おそらくスバルの体は無事で済まなかったのだろう。

 ヴィルヘルムは鬼神の速さで身を翻し、直落する刃を納刀したままの鞘で受け止めた。

 

「残念。獲ったと思ったのだけれど」

 

 刃の主は三度床を蹴り、ヴィルヘルムとの距離を取った。

 顔を見るまでもない。

 その声と雰囲気ですぐに分かった。

 

「『腸狩りのエルザ』……!」

「あら、知っていてくれてるの? 嬉しいわ。じゃあ私も知りたいの。あなたの腸の色」

「生憎ですが殺人鬼に見せる内臓は持ち合わせておりません……!」

 

 この物騒なやり取りの間、スバルはただただ尻餅をついていただけだった。しかしその尻が濡れていることに気がつくと、すぐに立ち上がり、手の匂いを嗅ぐ。

 

「うぉう! やっぱこれ血か! うわっ!」

 

 この部屋には血が多すぎる。

 全てこの女が殺したと見て間違いなさうだ。

 

「お前、一体何人殺したんだよ……」

「あなたは今まで食べたリンガの数を覚えているのかしら」

「ナチュラルボーンDIOかよ。……ちくしょう」

 

 後悔を口にする。

 スバルが二の足を踏んでいるうちに幾つもの命が奪われてしまった。

 いくら捨て回だと割り切っていようとも、何の罪もない人が死んで良い気はしない。

 

「悔やんでも仕方ねえ……。ヴィルヘルムさん! 俺も戦います!」

「何を馬鹿なことを!? スバル殿は下がっていてください!」

「大丈夫だ! 俺は死なない! 少なくとも、今日は!」

 

 ファイティングポーズをとる。武器はない。

 おそらく、やれることはないだろう。

『腸狩り』の実力は知らないが、『剣鬼』がこれほど警戒する相手だ。スバルごときが役に立つはずはない。

 

 だが、スバルには死なないという自信があった。

 これまでの四度の死を経て分かったことがある。

 スバルが死ぬことは既定路線だったが、それはあくまでスバルが二度の夜を超えた後の夜だということだ。

 ループ開始が夕暮れ時のため、時間にして2日間と2、3時間程度だろう。約50時間。これがスバルに与えられた時間である。この時間にスバルはきっちり殺される。手を変え管を変え、死神は確実にスバルの首に手を掛ける。

 

 では、逆に。

 

 そのタイムリミットまでであれば、どれだけ無茶をしたとしてもスバルは死なないのではないか。

 

 あくまで仮説だ。

 しかし、それを前提に立ち回れるだけの根拠がある。

 なぜならこの検証に失敗は無い。

 

 もし死ななければ、次回以降の探索の幅が広がる。ある程度の無茶は効くだろう。

 もし死んでしまったとしても、流石に無茶をすれば死ぬことが分かるという情報が得られる。死に戻りの特性を存分に活かした検証だ。

 

「いいや! スバル殿! あなたは下がっているべきだ!」

「だから大丈夫だって! 俺はやるぞ!」

 

 恐怖心が無いわけではない。嘘だ。恐怖心しかない。

 それでもこの通信空手で鍛えた技を披露しない理由にはならない。

 

「シュッシュッ」

 

 ボクサーが意味もなく発しているように見えるこの声に、実は合理的な理由があることをスバルは知っている。

 

「さあ来い! エルザ!」

「…………ねえ、ご老人。この子、本当に良いの?」

「ッ! スバル殿! やめてください!」

 

 ヴィルヘルムの忠言はもっともだが、恐怖を飲み込んで腹は括った。恐怖を感じることは悪くないと教えてくれたのは彼だ。だからこそ、スバルはこうして立ち向かうことができる。

 

「さっきの少女達の勇気は素晴らしかったわ。腸の色も綺麗。……巨人のモノは酒でボロボロだったけれど。それに比べて、あなたのそれは蛮勇……。加護も無ければ精霊もいない。魔力も乏しい。腕に覚えがあるのかと思えば、隙だらけね」

 

「少女…………!? まさか!」

 

 ヴィルヘルムは血溜まりをバシャバシャと音を立てて走り、その中心に横たわる死体へ駆け寄った。

 

「銀の髪……。間違いない……スバル殿!」

「なんですか?!」

 

 エルザと対峙した時よりも緊張を孕んだヴィルヘルムの声に、異様さを感じ取れないほどスバルは鈍感ではない。

 

「エミリア様です! 行方不明だとは聞いてましたが、なぜこんなところに!」

「エミリアって……、クルシュと同じ王選候補の……!」

「あら、バレてしまったわね」

 

 エミリアという名前はつい先ほど聞いたばかりだ。

 ラムと名乗る少女がヴィルヘルムに捜索協力を願い出た、王選のもう一人の候補者。

 

「お前! 王選候補者を狙っているのか!?」

「本当のところは違うのだけれど、結果的にはそうなってしまったわね」

「それなら、なおさら放っておけねえな」

 

 同じ立場のエミリアが殺されたのであれば、エルザの毒牙はクルシュに届き得る。

 それだけは絶対に避けるべきである。

 そもそも、まだ氷の巨獣攻略の糸口すら掴んでいない状況である。その糸口を見つけるためにも、この殺人鬼を止めることは必要不可欠なはずだ。

 それに王選候補者が一人殺されている状況からしても、平穏を取り戻すためにエルザの撃破は必須なのだろう。

 

 これまでのループでは、王都の中心から出たことがなかった。

 おそらく、毎回この殺人は起きていたのだ。

 知らなかっただけ。知られることなく、殺され続ける少女達。あまりにも残酷だ。

 

「ヴィルヘルムさん! こいつは必ずここで討ちます!」

 

 目的は分からない。

 ただ王選候補者を狙っている可能性があり、それを成し得る実力があり、そして実際に遂げている。

 ヴィルヘルムを初太刀の内に斬り伏せようとした手腕も含め、その兇刃はクルシュにも届き得るだろう。

 

「来い!」

「やめてくださいスバル殿!」

 

 ヴィルヘルムの叫びは届かない。

 

「引け! ナツキスバル!」

 

 引かない。

 ここで立ち向かうことは、死に戻りの法則を知るためにも重要なことなのだ。

 

 しかし、続くヴィルヘルムの言葉はスバルの決心を足元から崩すものだった。

 

「あなたは昨日、丸一日以上倒れていたんですよ!」

 

「……は?」

 

 ヴィルヘルムが発したその言葉と共に、腹部に強い衝撃を食らう。

 

「ヒュッ」

 

 突然ジェットコースターに乗せられたような衝撃ともに、とんでもない速度で吹き飛ばされ、肺から空気が押し出される。

 

「グゥア!」

 

 わずかな意識の間隙の後、盗品蔵の壁に打ち付けられ、ようやくエルザの一撃を貰ってしまったのだと認識する。

 全身がバラバラになっているのではないかと思うほどの痛みだ。

 土石流に身体中を穴だらけにされた痛みを思い出す。

 

「……ヴィ、ル……さん」

 

「スバル殿! くっ、不覚! あなたはまだ万全ではなかった!! 一日中気絶していた人間が戦ってはいけなかったのです!」

 

 喉からはヒューという空気が漏れる音しか出ない。

 見るまでもなく、命を奪う一撃を喰らったことがわかる。

 ボロボロの身体に反して、頭はすんなりとヴィルヘルムの言葉を受け入れ、咀嚼していた。

 

 

 どうやらスバルは、このループにおいてもっとも重大なミスと思い違いをしていたらしい。

 

()()()()()()()()

 

 初日の夕暮れに気絶してそのまま二つの夜を越し、次に起きたのは二日後の昼間頃。クルシュに泣きつき、立ち上がる決意を得て行動を開始したときには、既に二日が経過していたということだろう。

 

 つまるところ、今日、スバルは死ぬ運命にある、ということだ。

 

 あまりにも衝撃的な事実を突き付けられ、呆然のまま立ち上がろうとした時、ドュリュンという形容し難い感覚が腹部から漏れた。

 

「…………ハ、ア…………アァ、アァァァァア……プッ……ガァ……!」

 

 それが切り裂かれた腹からこぼれ落ちていた臓器だと認識した瞬間、身体が軽くなったような錯覚と凄まじい痛みが追い打ちのように襲ってきた。

 

 未だに呼吸を忘れたかのように息をろくに吐くことができない口からは、言葉にならない力の弱い声が漏れるばかりだ。

 

 いや、胸部の痛みも襲ってきた。おそらく肺をやられているのだろう。

 

「スバル殿! くそっ! 私がついていながら……! 申し訳ございません!!」

 

「ゔ、る……さ…………ひゅ…………っ──ー」

 

 考えていることが言葉にならない。

 いや、そもそも考えていることすら明確に頭に浮かばない。

 

 痛い、熱い、寒い、気持ち悪い、心地良い、まずい、硬い、いや柔らかい、温い、うるさい

 

 色々な感覚がぐるぐると巡りながら脳みそを圧迫して、意識を強制的にシャットダウンさせようとしているかのようだ。

 

 

 目も満足に開かなくなってきた。

 

 

 

 確信がある。

 

 

 

 これは死の前兆だ。

 

 

 

 目を閉じれば次の瞬間にはあの王城の中に戻り、また一からこのループをやり直すのだ。

 

 

 

 それは、嫌だ。

 

 

 

 諦めたくない。

 

 

 

 ここまで頑張ったではないか。

 

 

 

 知恵を巡らせ、勇気を振り絞り、ここまで辿り着いたではないか。

 

 

 

 

 死ぬ結末が悪いとは言わない。

 

 

 

 

 それでも、なにか、報われる一つを。

 

 

 

 

「……あき…………ら、な……」

「勿論です。『腸狩り』を倒し、フェリスを連れてきて、必ず貴方を助けます」

 

 ボヤける視界の中で、僅かに伸ばした手を掴んだのは皺ばかりの掌だった。

 

 何度も、道を示してくれた。

 

 怖いことは悪いことではないと教えてくれた。

 

 深い愛情を語ってくれた。

 

 尊敬のような、畏怖のような、そんな感情が自然と湧く男だ。

 

 血に塗れた口角をにっと上げ、サムズアップ……は指先に既に感覚が無く、できているか分からない。

 

 それでも、彼ならばなんとかしてくれる。

 そんな安心感があった。

 

 

 

 

 いつの間にか、意識が僅かに飛んでいたようだ。

 おそらく、数分。

 

 薄い意識の奥で、カンカン、と鉄同士が打ち合う甲高い音が聞こえていた。

 

 むしろ聞こえなくなって意識が戻ったのか。

 

 相変わらず開かない目だったが、幸いにも聴覚は生きておりバシャバシャと壮絶だったことを物語る足音鳴らしながら、こちらに向かってくる人間がいた。

 

「スバル殿」

 

 ああ、良かった……。

 勝ったんだ。

 

 最初からヴィルヘルムに任せれば良かったのだ。剣鬼と謳われるその圧倒的な実力は、看守長との戦いで証明されていたではないか。

 死に戻りの実証実験などする必要は無かった。

 

 スバルはもう間も無く死ぬだろう。

 それでも、

 

「あらあら、うーん。やっぱりあまり綺麗とは言えないものね」

 

 息も上がっていない女の声に、開かないはずの双眸がカッと見開く。

 

 視界に入るのはぼたぼたと垂れる生血。

 

 その直上には、老爺の生首。

 わずかに震える唇は、最後の言葉をすでに吐いた後であることを告げていた。

 

「やはり剣鬼ともなると、お腹を裂くのも大変ね。先に首を落とす必要があったわ」

 

 そう宣うのはもちろんエルザだ。

 

「さあ、次は貴方の腸を見せてちょうだい」

 

 幕切れはあっという間だ。

 死に劇的なものなど無い。

 エルザはククリナイフを一閃。

 すでに痛みは感じない。

 

 ────────────死。



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食客と従者と騎士①

 

 この会議場で目覚めるのは何度目か。

 何度目だろうとも、頭の中は混乱の渦に飲まれ、咄嗟に行動を起こすことは容易ではない。

 

 フッと、倒れそうになる身体をしっかりと両足で柔らかい絨毯を踏み締めて支え、意識の消失を食い止める。

 しかし、スバルにできる精一杯の抵抗はそれだけだった。

 弾けるような脳のスパークに眩んでしまい、たたらを踏んでしまう。

 

 数秒目を瞑ってから顔を上げると、驚いた顔の老人たちが円卓を囲っていた。

 

「ははっ、鬼畜ゲーには変わりねえか」

 

 視界の端にスバルを捉えようとする警備兵の姿が映り、白旗を振るよりも早くスバルはお縄についた。

 

 ────────────────

 

 やるべきことは理解した。

 

 目下、大きな障壁はヤコブとエルザ、つまり看守長と殺人鬼の二人である。

 

 そこに絡んでくるのが三日間のタイムリミットと、エミリアという王選候補の少女やその付き人ラム、ヴィルヘルムやフェリスも忘れてはいけない人物だ。

 

 しかし最重要人物は、クルシュで間違いないだろう。

 

 全てのループで関わりを持ち、時には突き放され、時には手を貸してもらい、その関わり方によってこの三日間は変化した。

 

 理想はクルシュの庇護下に入ることである。

 

 貴族、そして王選候補者であるクルシュの後ろ楯さえあれば、ある程度自由な行動が取れる。

 

 逆を返せば、クルシュの手を借りられずに牢屋に閉じ込められた場合はかなりまずい。

 

 王城に侵入しているという罪が確定した状態からのスタートは、なにもしなければ牢屋に直行ルートが本筋である。

 そして、牢屋に連行された場合の詰み感は尋常じゃない。

 

 新しい情報を得られたり、一段階進んだりという進歩がほぼ無かった。

 三日後の死をただ待つ。そんなループへと入ってしまう。

 

「はあ……。キツすぎるって」

「……なんだ、また独り言か」

「うっせえよ、おっさん」

 

 看守との会話で現実に引き戻される。

 そう、今回は牢屋ルートに直行してしまったのだった。

 仕方ない部分もある。

 

 前提として、王城侵入という大犯罪者スタートは難易度が高すぎる。

 そこからの挽回は死に戻り直後にある程度のアクションを起こし、クルシュの興味を引く必要がある。

 その後、クルシュの信用を得て手を貸してもらうことが最も物事が進展する展開であることは今までのループから明白だ。

 

 死に戻り直後は、全てのパターンで死のショックが尾を引いている。

 潰し殺され、刺し殺され、嬲り殺される。

 死の衝動は重ねる毎に和らぐどころか、重みを増しているかのようにスバルを襲う。

 その脳が眩むほどの瞬きの直後にループが開始し、正しい言動を求められる。何度繰り返しても難しいだろう。

 その上で懸念すべきことも多くある。

 

「ループの上限が分からねえ。重ねることによって、デメリットやペナルティの可能性もあるよな。それになにより、死にたくねえ」

 

 ぶつくさと続けるスバルに愛想を尽かしたのか、看守は無視を決め込んだ。

 

 難易度はナイトメアだが、ループを繰り返す毎に情報量を増していく。

 

 やるべきことを再度整理する。

 

 ヤコブとエルザ、看守長と殺人鬼の二人の排除。

 氷の巨獣に関しては、時刻からしてエルザとのエンカウント以降またはほぼ同時に発生するため、エルザの脅威を排除してから考えることにする。

 

 ヤコブ対策にはヴィルヘルムを当てることで事足りるだろう。

 土石流を巻き起こす魔法を目の当たりにした時や、魔女教徒になる時差にまんまと騙された時(おそらくヤコブにその自覚はないのだろうが)はどうなることかと思ったが、攻略法がわかればなんという事はない。

 

 今にして思えば、看守長(ヤコブ)はスバルのことを()()()()()()()()()()。これは実際に外に連れ出していたことから確定だろう。実際に「目的は大罪司教様の元へ送り届けること」とも言っていた。大罪司教とやらは不明事項だが……。

 しかし獄中で死んだパターンは全て、()()()()()だった。

 つまるところ、なにかしらの方法でクルシュが魔女教の襲撃を間一髪で察知し、その防衛に当たったのだろう。

 

「そうか……。戦闘が無くて連れ去られた時は、俺がクルシュにヤコブは魔女教徒だって密告して、失敗した時だった。あそこで見限られたから、多分クルシュは俺のことを気にしてなかったんだ。だから襲撃に気が付かなかった……」

 

 逆に言えば、それ以外のパターンではクルシュはスバルを気にかけ、襲撃の日にたまたま監獄まで来ていたのだろう。

 もちろんスバルではなく、その他の罪人との面会や公務での来訪などの可能性もある。

 しかし、推測の域を出ないが、クルシュがあの時点でもスバルのことを気に留めていたのだとしたら、それだけでスバルの心は救われるような気持ちになった。

 

「クルシュとの接触はこの後すぐだ。失敗はできねえな」

 

 クルシュはこの直後と魔女教襲撃時の二度、この監獄を訪問する。

 しかし一度戦闘が始まってしまうと、スバルは死ぬ運命にあると言っていいだろう。

 ならば実質的なチャンスは一度だけ。

 今までのループで集めた情報を整理し、それを駆使してクルシュの援助を得る。

 投獄されてしまった以上、それが次善の策となるだろう。

 

 この国の置かれている状況。

 王選というシステムとその候補者。

 クルシュの望むこと。

 

 パズルの様に全てを組み合わせ、未来の展望を作り上げる。

 

「いや、まじでありえねえ難易度だな」

 

 改めて考えれば考えるほど、一周目や二周目で生き延びることは無理だったと回顧する。

 

 しばらくあーでもないこーでもないとこねくり回している間に、暗い監獄の中に高い足音が響いてきた。

 

 その足音だけで、その者がどれだけの傑物であるかがすぐに分かるのは、彼女が高貴で高い矜持を持っていることを知っているからだろうか。

 

 やがて足音がスバルの牢の前で止まる。

 

 下げていた頭を上げ、こちらを見下ろす麗人と目を合わせる。

 

 何度見ても、美しい人だと素直にそう思う。

 美しく、それと同等以上に強く、正しい。

 やはり直視するにはあまりに眩しい存在だ。

 だが、スバルはその視線を動かさない。

 

「ナツキ・スバル、合っているか?」

「そうだ」

 

 簡潔にそう答える。

 尋問はある程度正直に答えたから、名前や年齢は知っているのだろう。もちろん地球生まれや死に戻りについては口にしていないが。

 

「貴様はあと数日の命だ」

「そうだろうな」

 

 三日後の死という結末は、手を変え管を変えスバルの命を握ってきた。

 単純に死刑にされたことはまだないが、魔女教の襲撃が無かろうと、氷の巨獣の発生が無かろうと、そのことに違いはないのだろう。

 

「死への怖れは無いのか?」

「あんまり無いな」

 

 嘘ではない。

 死ぬことはめちゃくちゃ怖い。

 この世のものとは思えないほどの苦痛があるし、世界からの消失感は何度感じようとも計り知れない。

 

 だがクルシュの問いに対する怖れは、「明確に無い」と言えた。

 

 だからこそ、嘘ではない。

 

 クルシュにとってのそれ()をスバルは知っていた。

 

 氷の巨獣が郊外の貧民街の辺りで突如発生し、この王都を一瞬で氷で覆い尽くした夜。

 

 あの時、スバルはクルシュと共におり、死の間際のクルシュを見た。

 

 今まで巨獣の存在やその対処法にばかり目がいっていたが、あの時のクルシュの様子はおかしかった。

 想像するに、死ぬことそれ自体ではなく、死ぬことで野望を成し遂げられないことに無念を感じていたのだろう。

 

 つまりクルシュにとっての死への恐怖と、死に戻りがあるスバルにとっての死への恐怖は、全く異質なものであると言える。

 

 だからこそスバルは、この嘘を本心で言うことができた。

 

「……死をも恐れぬ豪胆さに似合わぬ清潔な服装や体つき。奇怪だな」

「ああいや、一つだけあるぜ、無念が」

 

 スバルが目をつけたのは、クルシュの()()()()

 初めて知った時はチートだと思ったが、逆に利用しやすいものでもあると考えていた。

 

 クルシュの眉がピクリと動く。

 

「何だ。言ってみろ」

「親友の仇を取りたいんだよ。白鯨。あいつだけは俺が殺すんだ」

 

 もちろん完全な嘘である。

 クルシュはほんの一瞬、気取られない程度の困惑の表情を見せるが、すぐに冷静な顔を取り戻した。

 仕掛けた本人としてそれを見逃すほど甘くはない。

 クルシュの持つ『風見の加護』。

 政治という権謀術数が張り巡らされた戦場では、これ以上ない武器だろう。

 だからこそ頼ってしまう。()()()()()()()()

 

「貴様……。謀っているのか、それとも……」

「…………」

 

 これ以上のことは喋らない。

 脈略のない白鯨への言及。

 あからさまな嘘。

 どうあがいても読み取ってしまう加護。

 クルシュはそれを無視できない。

 

 クルシュからしてみれば、スバルは『風見の加護』の存在とクルシュ陣営が白鯨討伐の用意をしていることを知っている、ということが伝わったはずだ。

 

 否。それ以上である。

 

 その情報を直接伝えないというこの伝え方は、ある種の挑発だ。

 

(そうだ。勘繰れ……。必要以上に考えろっ……!)

 

 クルシュの頭の中まで見通していると錯覚させる。いやクルシュがここに来る、ということまで見抜いたと思わせる。

 

「まるで貴様も加護持ちかのような……。未来を見通す……」

 

 未来予知の加護。

 スバルは都合の良い解釈だとほくそ笑む。

 未来を先んじて視る、という意味ではやっていることはその通りだ。

 その代償が、死そのものであることは考えものではあるが……。

 

「どう解釈してもらってもいい。ただあんたは俺を無視できないはずだ」

 

 嘘か真かは言ってはいけない。

 それは風見の加護に判別される。

 

 しかし、スバルの中にも気づきがあった。

 

 この【死に戻り】という忌々しい能力は、加護によるものの可能性だ。

 世界からの祝福、と言うほどありがたいものではないが、この世界では実力者ほど保持しているものなのだろう。

 そう考えれば悪いものでもない気がしてくる。

 

 クルシュは美しい顔に若干の不安を滲ませながら、キュッと結んだ唇に手を当てて見るからに悩んでいた。

 

「……いいだろう。貴様の企みに乗ってやる」

 

 長考の末、クルシュはそう言った。

 

 

 ────────────ー

 

 

 いくら位の高い貴族で、かつ王選候補者だとしても、大罪人の身柄を預かるという大問題の手続きは困難を極めた。

 いや、極めるはずだった。

 

「うひょ〜、すげえご馳走だぜ!」

 

 監獄での対面からものの一時間、スバルはすでにカルステン邸で食卓を囲んでいた。

 

「クルシュ様、僕は反対です」

「フェリス。主人が決めたことです。従者ならそれを信じるまで」

「従者じゃない! 僕はクルシュ様の騎士だ!」

 

 クルシュが何かしたのだろう。

 スバルはあっという間に解放され、すぐにカルステン家へと食客として迎え入れられた。

 フェリスとヴィルヘルムともう何度目かの初対面を済ませ、こうしてご馳走にありつけているのだ。

 

 なにやら怒っているフェリスのことはお構いなしにリンガパイにがっついていると、ガン! とテーブルを叩く大きな音がした。

 顔を上げると、対面に座るフェリスが怒りの表情でスバルを睨みつけていた。

 

「だいたい君はなんなんだ。名前と年齢以外の素性が全く不明だなんて危険にも程がある!」

「名前分かってんなら名前で呼んでくれよな」

「……っ! ふざけるのも大概にしろっ!」

 

 そういえばフェリスにはずっと敵対意識を持たれていた。クルシュに近寄る者に対する警戒心だろうか。それにしては行き過ぎな気もする。毎回のことだからあまり気にしていないが。

 

「フェリス、スバル殿はもう我々と同等の立場です。何者であろうと関係無い。もし逆賊とならば、その時は斬り捨てるまで」

 

 ヴィルヘルムは鋭い眼光でフェリスとスバルを射抜く。

 以前のループではヴィルヘルムと濃い繋がりが出来た。死に戻りによって築き上げた信頼や信用が全て無かったことにされたことは寂しいものがあるが、彼に対するスバルの尊敬の念は絶えることはない。彼の言葉は重みが違う。自然と背筋が伸びてしまう。

 

「それはそうとスバル殿。クルシュ様の従者となるのであれば、食事の作法から学ぶ必要がありますな」

「うっ……。はい、すみません」

「なんでヴィル爺さんの言うことには従うんだよ……」

「そりゃお前、ヴィルヘルムさんの言うことは絶対だろ」

「初対面だろ君ら……」

 

 ヴィルヘルムはスバル史上かっこいい男ランキングで一位と良い勝負をしていると言っても過言ではない。

 それに看守長ヤコブの撃退には、彼が必須なのだ。

 

「フェリス。ヴィルヘルム。それにナツキ・スバル。仲良くしろとは言わないが、他所ではこんな言い争いはやめてくれ。この私に恥をかかせるなよ」

「……分かりました」

「はい」

「もちのろんだぜ!」

 

 主人の要望に異口同音に反応する。

 明らかに不満げな表情で時折こちらを睨むフェリス、可もなく不可もなくといった顔で食事を進めるヴィルヘルム、これまでのループで最高と言っても過言ではない御馳走に満足げに舌鼓を打つスバルという三者三様の食卓は、その後も微妙な空気感で進んでいった。

 

 しばらくして食後のお茶が汲まれた頃、クルシュがおもむろに立ち上がった。

 

「早速だが、このナツキ・スバルをこうして当家に迎えたのには理由がある」

 

 主人の声に全員が手を止め、視線を向ける。

 

「まず一つに、我々が準備している白鯨討伐について知っていた」

「なっ!」

「…………真ですかな」

 

 フェリスはともかく、ヴィルヘルムも驚きを隠そうともせず露わにする。

 それほど白鯨討伐という作戦は極秘のものだったのだろう。

 それだけにそれを知っているスバルという存在に、二人はあからさまに警戒心を向けてきた。

 

「もちろん、この計画は秘密裏に進めてきたものだ。部外者で計画の全てを知る者はラッセル・フェローのみ。ヴィルヘルムのように白鯨に恨みを持つ協力者たちも、その全容は知らない。その時が来たら集結すべし、とそう告げているだけだ」

「ラッセルって誰だ?」

「これは今後本格化する王選を有利に進めるべく行う作戦だ。他陣営に悟られ妨害に合う可能性はなるべく排除したかった。特に候補者の1人であるカララギのアナスタシア・ホーシンが懸念人物だろう」

「僕たちが白鯨討伐の末に得られるだろう票は、アナスタシア様も狙っている、ということですね?」

「そうだ。だからこそ我々が考える最悪の可能性は、このナツキ・スバルがホーシン一派の間者だった場合だ。もちろん、たとえその他の陣営だったとしても、かなりのリスクがつきまとうだろう」

「アナ……って誰だ?」

「…………クルシュ様、流石に突っ込んでも良いですか?」

「ああ、良いぞ」

「ラッセル・フェローもアナスタシア・ホーシンも知らない人間が、王選に関与しているわけないじゃないですか」

「……私も『加護』で確認した。彼は王選に関する情報のほとんどを知らないどころか、興味もないようだ」

 

 クルシュとフェリスのやりとりを聞くに、どうやらラッセルとアナスタシアという人物は、知っていて当然らしい。

 何度死のうとも、まだまだ知らないことが多い。

 しかし、この場合は知らないということが活きたようだった。

 

「間者の可能性はかなり低いと見た。つまり王選には無関係だが、我々の白鯨討伐には鋭く察知し、接触してきた人物と言える。そして私はそれが未来予知の類の加護によるものと判断した」

「み、未来予知? そんなものが?」

「本人が意識しない加護。あるいは単に未来を知るのではなく、それに近しい結果をもたらす能力だと推測する。どうだ、ナツキ・スバル?」

「当たらずとも遠からずって感じだな」

「……」

 

 加護、という特別な力はそう頻繁に発現するものではないらしい。

 通常生まれついてのもので、保持者はその存在をはっきりと自分の内に感じることができるという。

 ヴィルヘルムもフェリスも特別な力を持っているが、それは加護によるものではなく自身の性質を努力によって伸ばしていったが故の能力だ。

 スバルの『死に戻り』は死んでから発覚した代物で、発現していた実感は一切無い。地球にいた頃は死ぬことがなかったため、その頃からこの身に宿っていたかはわからないが、現実的に考えれば魔法やら加護やらが存在するこの世界に来てから発現したものと考える方が自然だろう。

 いわゆる「異世界転移特典」というやつだろうか。それにしてはそれを授けてくれる女神とか、天使的な超絶美少女が出てきても良かったんじゃないかと思ったりする。

 

「つ、つまりこの男は単純にクルシュ様の力になる為に、大罪を冒してまで接触してきた……」

「……ただの善意で動いた、ということになりますな」

「それだけではない。おそらくこの男は我々が白鯨討伐に失敗する絵を見ているに違いない。なにせ、計画していることを知っていようが成功していれば助太刀に入る必要はないはずだ」

 

 スバルにとっては、三日後に死ぬ運命を回避する為だけに利用しているだけに過ぎない。

 しかし、どうやらあらぬ方向に議論が進んでいるようだが、スバルにとっては好都合だ。

 

「なんにせよ真の狙いがあったり、実は他陣営に誑かされていて正気を失っていたりする可能性は十分にある。ゆめ、警戒を怠るな」

「本人を前にして言うかよ」

「本人の前だからこそだ」

 

「変な動きをしてみろ、即刻処分だ」とそう言わんばかりの威圧である。

 スバルとしても変なことはするつもりはない。

 しかし布石を打っておく必要はあるだろう。

 

「俺の口からも色々説明したいことはある」

 

 そう告げると三人ともこちらに向き直ってくれた。

 

「まず最初に俺の名前はナツキ・スバル。一文無しで家もない。魔法も剣術も何も使えない。裁縫なんかが得意だ」

「役立たずじゃないか」

「でもさっきクルシュが言ったようにあんた達が白鯨討伐を計画していることは知っているし、それに失敗することは知っている」

 

 フェリスの茶々入れは軽快にスルー。人の話は最後までちゃんと聞きなさいな。

 

「でもそれは白鯨に負けるからじゃない。白鯨並みか、それ以上の怪物がこれから二日後にこの王都に現れるからなんだよ」

「えっ!?」

「なに?」

「……ほう」

 

 三者三様、驚愕の反応。

 無理もないだろう。

 

「俺は奴を倒せるのは、白鯨討伐の準備をしているあんたらしかいないと思ったからこうして頼ったんだ」

「……フェリス。騎士団はこのことは?」

「すみません。詳しいことは僕には……。少なくともユリウスとラインハルトはそんなことは……」

「そうだな。すまなかった。ヴィルヘルムは?」

「寝耳に水ですな」

「ふむ……。ナツキ・スバル、詳しく聞かせろ」

 

 スバルはそれから、氷の巨獣のことを話せる範囲で話した。

 日時は三日後の日没後であること。場所は貧民街であること。王都を一瞬にして氷漬けにしてしまう能力。現状、止める方法は突き止められていないこと。

 それから、看守長がヴィルヘルムに恨みを持っていることについても話し、近日中に向かう方がいいことも伝えた。

 

「ク、クルシュ様……どうしますか?」

「俄には信じがたい話だが、どうやら信じる他ないようだ」

 

 風見の加護を通せば、スバルが言っていることは全て虚言ではないとすぐに分かったはずだ。

 

「ヴィルヘルム、早急に地下監獄へ。看守長と接触し、わだかまりを解消してこい」

「はっ」

 

 簡潔に命令し、ヴィルヘルムはさっさと部屋を後にしてしまった。

 スバルは自分が付いていかなくても大丈夫かな、とも思ったがすぐにクルシュからこちらにも命令が下された。

 

「ナツキ・スバル。貴様には二日後に現れるという氷の巨獣について、情報収集をしてもらう。ただ、一人で当家の敷地内を出ることは許さん。もちろん監視を付けさせてもらう」

 

 そうだろう。

 元々は死刑囚である。その程度の縛りは無ければ拍子抜けというものだ。

 しかしヴィルヘルムがいなくなった以上、その役割を割り振られるのは一人しかいないだろう。

 

「フェリス、頼むぞ」

「…………はい」

 

 不本意であることが充分に読み取れる態度で了承するフェリス。

 

「私は王選関係者や中央から情報を集めつつ、戦力配備を行う。もちろん公務も立て込んでいるから、大きく動くことはできない。二人の働き次第で未来はどうなるか決まる。そして此度の危機を回避した暁には、我々の陣営は王選において一歩有利にもなるだろう」

 

 その通りだろう。

 氷の巨獣を跳ね除け、王都を危機から救ったとあらば王選支持者も大きく増えるに違いない。

 スバルの話の真贋に関わらず、どちらにせよクルシュにとってはメリットが大きく、挑む理由は十分にある。

 

「しかしそれ以上に、私がこの国の王になる以上、この国の国民を守ることは私の義務であり使命である。二人の力を貸してくれ」

「僕の使命はクルシュ様の望みを叶えること。必ずや氷の巨獣討伐の糸口を見つけて参ります」

 

 そうだ。

 クルシュ・カルステンとは、こういう人間だ。

 損得勘定はもちろん大切だが、それ以上に王道を大切にする。

 王へと続く道は、まさしく王道でしかありえない。そう信じているのだろう。

 

「行くぞ、ナツキ・スバル」

「あ、ああ」

 

 無愛想なフェリスが立ち上がり、早速出発だとばかりにマントを翻して退室する。

 すぐにスバルも追いかける。

 

 あまり予想していなかったが、これからはフェリスとの行動が多くなりそうだ。

 今まではクルシュやヴィルヘルムとのやりとりが多く、フェリスとの関係は希薄だった。

 それはフェリスのスバルへの第一印象が最悪であり、スバルから避けていたことも理由の一つである。

 

 これからしばらく行動を共にする以上、互いのことをある程度知っている必要がある。

 

(ここはいっちょ、世間話でも……)

 

 長い廊下をスタスタと歩くフェリスの背中に、スバルは声を投げかける。

 

「なあ、フェリスはなんで男装してるんだ?」

 

 ダン!!!!!!!! 

 

 一瞬のうちにスバルは胸ぐらを掴まれ、廊下の壁に押し付けられていた。

 グッと喉が詰まり、息ができない。

 それを仕掛けた相手がフェリスであると分かったのは、見たこともないほどの怒りの表情を湛えた彼女の顔が目と鼻の先にあったからだった。

 

「口を慎めよ、ゴミ」

 

 ベラベラと要らぬことを話してしまう方向でコミュニケーション音痴な自覚のあるスバルは、どうやらその気質を発揮して、第一声を間違えたらしい。

 

 即席バディは最悪なスタートを切ったのだった。



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