るろうに剣心~袖摺りあうも他生の縁~ (千月華音)
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洛外歎異

剣心と巴が結婚して間もない頃の話です。


 

 

「もし――…」

 木戸の入口から奥間の方へ声をかけてみたが、応ずる者はいない。人の気配はするのだが……。

「どなたかおられぬか」

 再度声をかけてみたが、応えはなかった。ふう、と小さくため息をつくと、剣心は諦めてその場から立ち去った。すると、

「…やれ、行ってくれたか」

 と言って、奥間で顔を覗かせた家の主がほっと息をついた。

「悪い奴には見えんが、刀を差している者など、ろくなもんじゃない。おい、おまえ、あいつが来ても家から出るんじゃないぞ」

「ええ、おまえさん…」

 気の弱い返事をした若妻は、遠く立ち去る剣心の後ろ姿を見ながら、少しだけ罪悪感の残る顔つきで見送った。

 つい先日、村外れの小さな茅葺き家に越してきたという、若い男女の夫婦連れ。

 小さな村落なだけにその噂が広まるのは早かったが、余所者には警戒しか寄せない彼ら村人は、極力付き合いを避けていた。

 剣心は持て余しぎみに細いあぜ道を歩く。この村に口入れ屋はないだろうか、と人に尋ね歩いているのだが、あちらこちらで避けられてしまい、もう二日も経つというのに、村人と誰も言葉を交わしていない。

 そんなに怪しい者に見えるのだろうか……、と自分の身なりを省みた。

 だが、いくら見直してみても、まるで腫れ物でも触るように避けられてしまう理由が、皆目見当もつかなかった。

(とにかく仕事を探さねば……)

 口入れ屋があれば世話をしてもらおうと思ったが、ないとなると、自分で職を見つけるほかあるまい。だが、自分にできる仕事などあるだろうか。人斬り以外で……?

 深くため息をついたそのとき、背後から駆け足が聞こえてきた。

「…ん?」

 振り返ってみると、小さな男の子が自分めがけて走ってくる。まるで憎い仇でも見るかのような目つきだった。

「なんだ?」

「やぁーーっ!!」

 手に持つ木刀を大きく振りかざして、剣心めがけて襲いかかってきた。何がなんだかわからずに、とりあえず避けると、再び殺気を帯びてかかってくる。

 きりがなく、その子供の木刀を片手で振り落とした。

「…くそっ!」

「いきなり危ないじゃないか。どうしたんだ、訳を言ってくれ」

「うるさいっ! 侍なんてみんな死ねばいいんだっ!!」

 屈んで子供を見下ろす剣心のふいをついて、腰に差していた脇差を鞘から引き抜かれた。

(しまった…!)

「死ねっ!!」

 ためらわず突き刺してくるのを見て、剣心は避けることをせず、そのまま右腕で脇差を受けた。

 ――ズッ……

 鈍い音が肉を突き破る。とっさに腕をかざして胸を突き刺されることだけは避けたが、深く骨のあたりまで刃が貫いた。激痛を顔に出さず、真剣な顔で子供に向き直る。

「そのまま抜くな」

「あ……」

「訳を言ってくれ。なぜ俺を襲った。恨みがあるなら聞いてやろう」

「う…うわあああっ」

 腕から流れる血を見て耐えきれず悲鳴をあげ、突き刺さったままの脇差を引き抜こうと力を込めた。

 だが、いくら力を込めても刀は抜けなかった。

「な、なんで…」

「傷に力を込めてるからな。お前には抜けないよ」

「どうしていつまでも刺したままでいるんだよっ! 痛くないのかよ!」

「痛いさ。だが、訳を話してくれるまでは、いつまでもこのままでいるつもりだ」

「…………」

 観念したように、子供は刀から手を離した。へなへなと力が抜けたように座り込む子供を見て、安心したかのように、剣心は脇差を引き抜いた。

 傷口は深かったが、致命傷には至っていない。下袖を口で裂いて、細長く結ぶと、溢れる血をとりあえず止血した。

「悪いが手伝ってくれないかな。片手じゃうまく結べない」

 真っ青になっている子供に優しく笑いかけて、口で持った裂けた布を右腕にあてがった。それを見て、すまないような顔をした子供が布を幾重にも巻いた。

「ちゃんと手当てしたほうが…」

「それよりも、まず話してくれないかな。侍がどうとか言ってたけど、死ねとはまた、穏やかじゃないな」

 剣心は道際から少し離れた大きな銀杏の木の下に腰を下ろすと、その側に来るように子供を促した。

「名前は?」

「…|暢≪とおる≫」

「暢か。俺は…ええと…検心、だ。知ってると思うが、つい先日、この先の農家に越してきて…」

「誰も近寄ろうとしないんだろ。よそ者にはうるさいんだ、みんな。この間の洛中の火災で浮浪者があふれてこっちまで来るからな。あんたのことだって、みんなが、町から火災で逃れてきたならず者だって警戒してるよ」

「はは…そうか…」

(やっぱり……)

 なんとなくそんな気はしていたが、当たらずとも遠からずなので、否定することはできなかった。

「それで、なんで俺を襲った? まあ、襲われても仕方ないかもしれないけど…」

「あんたが刀を差してるから」

「刀?」

 普段は意識することもないが、ただなんとなく慣性で身につけている大小を、剣心は不思議そうに眺めた。

「この刀がどうした?」

「俺の兄貴は、通りがかった侍と肩がすれ違っただけで、その侍に因縁をつけられて殺されたんだ」

「…………」

 小用で京へ出た兄と一緒に、五條大橋を通りがかったとき、その二人組の侍と擦れ違い、ほんの少しだけぶつかった肩先に、相手が言いがかりをつけてきた。どんなに謝っても、酔っていたらしく耳を貸そうとせずに、問答無用で斬り捨てたという。

「俺の兄貴を斬ったあげく、『いい試し斬りができた』って笑いながら去っていった……。刀を差している奴なんて、みんな同じだ。あんな奴ら、死ねばいいっ!!」

「そうだな」

「…? あんたのこと言ってるんだぞ!」

「ああ、わかるよ。刀を差してる奴にろくな奴がいないことも、良く知ってる。身に染みてよくわかってるよ」

「だったら…!」

「それでどうしたいんだ、暢? 復讐するのか? そしてお前に殺された者の近しい人が、またお前と同じように復讐するかもしれない。恨みは恨みを呼ぶだけだ。そんなことをしてもお前の兄は浮かばれない」

「お前に何がわかる! 兄貴が…兄貴が殺される理由なんて、これっぽっちもなかったんだっ!」

「その通りだ。だが、お前が人を殺す理由も、どこにもないんだ。お前が兄のために無念を晴らそうとするのは、自分の悲しみをすりかえているに過ぎない。そんなことをしても辛いだけだろう?」

「つ、辛いもんかっ」

「ならなぜ、さっき手を離した?」

「う…」

 図星をさされて、暢は言葉をつまらせた。

 今でも剣心の右腕から、止血しきれない血が真っ赤に布を染めている。早く治療をせねば致命傷にもなりかねない。こんなふうにゆっくり話してる場合ではないはずなのに。

 自分が傷つけたその深い傷を、暢は目を伏せて見つめていた。

「本当に殺したいのなら、この刀をお前にやろう。これは人を殺すための道具だ。それをよく承知のうえで欲しいというのなら、もう何も言わないよ」

「なっ…」

「俺の命でよければくれてやる。さあ――…」

 腰の大小を取り外すと、左手で二つを差し出した。おそるおそるそれを手に取ろうとした暢だったが、ふいに目にとまった右腕の傷を見て、伸ばしかけた手を止めた。

「……悪かった、ごめん」

「暢」

「あんたの言うとおりだよ。馬鹿なことした。もう少しで取り返しのつかないこと、するところだった」

 ごめん、と再び謝ると、暢は剣心の刀を地面に置いた。

「でも、あんただって悪いよ。そんなもの差して、村の中歩くなよな。みんな怖がるだろ」

「ああ……そっか。悪かった」

 今ごろやっとかもしれないが、この平和な田園の中でこんな刀は必要ないのだと、ようやく剣心は気づいた。

 そうか、見かけをまず変えないとな――と自らの装いを見下ろす。黒の上下の袴着だが、攘夷志士のいでたちのままだった。

 身体を動かしたのが傷に響いたのか、剣心は顔をしかめて右腕を抑えた。

「つ…」

「だ、大丈夫なのか、おい」

「ああ。これぐらいの傷なら、簡単に縫うことができるよ。巴にも手伝ってもらわないといけないけどな」

「縫う? あんた医者なのか?」

「いや…。そういうわけじゃないけど、そうだな、急場の傷はいつも自分で手当てしていたから。薬草とかも調合してたんだ」

「ふーん…。巴って……あの、えらく綺麗な女の人?」

「ああ…まあ…」

「奥さんなんだ?」

「ああ」

「いったいどーやって口説いたんだ?」

 ボカッ! と思いっきり暢の頭を殴った。

「子供が余計なこと考えるんじゃないっ」

「…ってーな。あんただって似たようなもんじゃないか…」

 ブツブツ、と不満そうに呟く暢を見ながら、剣心はふと不安になった。

(やっぱり祝言は早すぎたかな……)

 師匠に知られたら殺されるかもしれない。その場の勢いで、いわばなりゆき上、求婚したようなものだが、はたから見ても夫婦というのは少し無理がある……のかもしれない。

(まあ、いいか…)

 なるようになるだろう。

「じゃあな、また」

 といって立ち上がった剣心の袖を、暢は軽く引っ張った。

「暢?」

「ごめん、腕…」

「ああ、大丈夫だよ。怪我が治ったら、一緒に遊ぼうな」

 にこっと笑う暢の頭を剣心は軽く撫でた。さっきまでの暗い表情はかけらも見えない。まだほんの十かそこらの子供だが、立ち直りは早かった。

「さて…」

 立ち去る暢の後ろ姿を見送って、剣心はやっとこの地に少しだけ根を下ろすことができたような気がして、やわらかく微笑みを浮かべた。

 そしてさしあたって当初の問題だけが残った。

「仕事どうしよう……」

 はあ、と怪我をした右腕をため息まじりで見つめる。

 新妻の待つ家路へと辿りながら、新生活の期待とは裏腹に、日々の糧だけが次第に不安を募らせていった。

 

 

 

 

 

―― 了 ――

 



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雁ゆかば…

巴が京に行く前の、江戸にいた頃のお話です。


 

 

 客間の方へ茶を運んでいた巴は、障子越しに自分の名前をふと耳にした。

「――そろ巴を……」

 一瞬足が止まり、耳をそばだてる。父の低く落ち着いた声と客の相手と話している内容が気になった。

「巴を嫁がせる相手を見つけてやらんとな」

「この辺りでも結構評判ですよ。器量良しで、弟の面倒をよくみる、とても気立てのいい娘さんだと。縁談なんて引く手数多じゃないですか」

「そういうわけにもいかないさ。あの娘は弟をさしおいて自分だけ嫁ぐ気にはならんだろう。婿入りを考えたいところだが、我が家に入るような物好きはおるまいし……。だが、いつまでもこのままでいれば、あの娘も可哀相だしな」

 巴は持っていた盆を片手に、その場に立ち尽くした。声をかけて部屋に入ることができなくなってしまった。父のやるせなさそうな声が耳に残る。

 いつか必ずこの話がでると思っていた。もう十と六になる。一昔前でいえば、とうに嫁いでいてもおかしくはない年頃。母は十四で父のもとへ嫁したという。

 だが――。

(|縁≪えにし≫……)

 まだ幼い小さな弟。我儘で気の強いところが、誰に似たのか、手に負えないところもあるけれど、それでも母が死とひきかえに遺してくれた大切な忘れ形見。日を追うごとに愛しさが募った。

 私が嫁げばあの子はきっと、ひどく寂しがるに違いない。気は強いけれど、芯はとても心根が弱い。父はもてあましてしまうだろう。あの子を残して行く気にはなれない。

 だけどやっぱり、このままでいても、父の負担になるばかりかもしれない。世情が不安になりつつある今、禄高は日増しに目減りしていく。このままでは一家三人、暮らしていけるかどうか……。

(やっぱり、私が嫁ぐよりほかないのかも……)

「痛っ…」

 ふいに、包丁の先で指先を切ってしまった。夕餉の支度をしていた最中だったが、考えごとをしていて手元が狂ってしまった。

「そうね…」

 考えてみてもはじまらない。私が少しでも苦労を重ねた父の役に立てるのであれば、どこへでも嫁ごう。縁はきっと大丈夫だろう。今は納得してくれなくても、時間をおけばきっとわかってくれる。

 巴は鍋の火を消すと、足りなくなった醤油の買出しをしに裏口から家を出た。

 秋の日長、というけれど、遠く西の空に沈む夕日がいつまでも沈みかねているかのように一際明るく輝いていた。

 なんとなく見とれて歩いていたそのとき、

「危ない、逃げろーっ!!」

 背後から悲鳴のような声があちこちから聞こえてきて、ふと振り返ると、一瞬目の前に大きな黒い塊が目の前に迫って、何が起きたのかわからなかった。

「暴れ馬だーっ!!」

 その声でようやくそれが馬なのだとわかる。巴は目を大きく見開いて、声にならない悲鳴をあげた。

 逃げられない……!

 観念して目を瞑ると、ドウッ、と何かが倒れる音がして、巴はおそるおそる目を開ける。

 へたりこんで座っている巴の目の前に、若武家らしい男が刀を抜いて立ちはだかっていた。

「大丈夫かい?」

 その男は手を差し伸べて巴の背を支えた。落とした財布を拾うと、埃を払って丁寧に渡す。

 巴は男の背後で泡を吹いて倒れている大きな黒馬を、息を呑んで見つめていた。

「あ、ありがとう…ございます…」

 それだけ言うと、急にほっとしたかのように、巴は男の手を強く握りしめた。途端に照れたように顔を赤くして、握りしめられた手を引っ込める。

「久しぶりだね」

「…え?」

 男は柔らかな微笑みを浮かべて、巴を優しく見つめた。一瞬なんのことかわからなかったが、よくよく見ると、確かに見覚えのある顔だった。

「覚えてない?」

「あ…!」

 思い出して、巴は口を押さえた。それは小さい頃、隣の家同士でよく一緒に遊んだ清里家の次男だった。

「昨日、国許から帰ったんだ。挨拶しようと思ったんだけど、いろいろとごたごたが続いて…」

 清里はそう言って、照れるようにまた顔を赤くした。これはこの人の癖で、本当は嬉しい時の癖なのだ。昔から変わっていない仕草に、巴はほんの少しほっとした。

 だけど――。

「あの…暴れ馬を、あなたが…?」

 これだけはちょっと信じがたい。たしか父と同じで武芸にはからきしだったはず。一瞬で倒せたなんて、たった三年の間になにがあったのだろう。

「いや、無我夢中だったから……」

 無我夢中で峰打ち? それも一撃?

「君を助けるのに必死だっただけだよ」

 そう言ってまた顔を赤くすると、慣れない業物を不器用に鞘に納めた。本当にただ夢中だっただけらしい。二本差しの左腰が妙に重くのしかかっているように見える。普段は抜くこともないのだろう。

 でも――。

「本当はとても強いのね」

「そ、そんなこと」

「ありがとう、助けてくれて。命の恩人です」

「よしてくれ。そんな大層なものじゃ」

「きっと、もっと鍛えればとても強くなるわ。あなたは本当は剣才の持ち主なのよ」

「いいんだよ。僕は強くならなくても。今のままで十分なんだ。過ぎる力は身を滅ぼすだけだから」

 こんなところも、昔とちっとも変わっていなかった。謙虚で、ある意味不器用な人で、でも誠実なところがあって。

 巴はそのまま清里と連れ立って家路まで歩いた。

「いいのかい、買い物の途中だったんだろう?」

「あなたが帰ってきたのなら、もてなしの用意をしなくてはいけないから、急いで帰らないとね」

 もてなしなんていいのに、と言いながらも満更でもないらしく、嬉しそうに照れている。暖かい昔の空気が戻ったような、そんな時間に包まれた。

 そんな空気を破るかのように――。

「あ、あの…これを…」

 と言って、家の裏口が近づいた頃、清里は懐から小さな包みを取り出した。

「え?」

「君に…」

 カサ、と包み紙をひらいたその中に、赤い飾りのついた簪が入っていた。

「私に?」

 こくん、と真っ赤になって俯く。きっと国許の小間物屋で買ったお土産なのだろう。そう思って、巴は小さくお礼を言うと、受け取ろうとして手を差し伸べた。

「結婚…しよう」

 ふいに、いきなり突然に、申し込まれた。

 巴は目を丸くして、なにを言われたのかわからない表情で、差し伸べかけた手を止めた。

「…………」

「突然かもしれないけど、ずっと前から……好きだった」

 清里の声は微かに震えていた。

「どうしても君に会いたくて帰ってきた。遠く離れていたら、君が誰か知らない奴のところへ嫁ぐような気がして、いてもたってもいられなかった。僕は…ずっと君を…」

「私…」

 巴は言葉を呑み込んだ。諦めとも戸惑いともつかないものが胸の中を去来する。この気持ちをどう言いあらわせばいいのだろう。なぜ素直に喜べないのか、自分にもよくわからなかった。

 清里は簪を巴に手渡した。その赤い飾りをしばし見つめてから、巴は返事もろくにせずに、

「簪、どうもありがとう…」

 そう言うと後ろ姿を見せて、そのまま裏木戸から走り去った。

 清里はじっと見えなくなるまでその姿を見つめていた。巴は走りながら彼の視線を感じとり、はやる胸の鼓動を押さえながら、裏庭の桃の木の幹に手をかけた。

 左手にある簪を見つめる。これはあの人なりの求婚の印だったのだ。受け取ったということは、彼の申し出に応じたという意味になるのだろうか。

 ふと雁の群れの鳴き声を聞いた。巴は空を振り仰いだ。もうすぐ秋が終わる。季節は知らない間にめまぐるしく移り変わっていたのだ。そして変わらない時というのもありえない。

「私…」

 あの人の申し出が嬉しかったはずなのに、何故か素直に喜べなかった。きっといつもの無表情のまま、感情のわからない顔をしていたに違いない。それをどう思ったんだろう。なぜこんな私を好きだと、あの人は告げたのか……。

 たとえ聞いてみても、あの人はきっと照れたように顔を赤くして、そんな君が好きだから――、と優しく微笑むに違いない。

 そう、そういう、優しい人なのだ。

(きっと――…)

 幸せになれる。あの人なら幸せにしてくれる。そんな気がする。

 いつも誰かの幸せを考えて生きてきた。たとえ自分がそのために犠牲になろうとも、大切な人が、愛しい人が、幸せになれるのならば……と、いつもそれだけを考えて生きてきた。

 だけど自分のために幸せになれる道を探してみてもいいのかもしれない。そんな幸せを与えてくれるあの人が側にいるかぎり、それに身を委ねてみても……いいのかもしれない。

(あの人が側にいるかぎり――……)

 巴は沈みゆく夕陽を眺めながら、いつか訪れる平和な穏やかな日常を静かに夢想していた。

 身を委ねることへの限りない幸せを、ただひたすら夢見ていた。

 やがてそのことが悲劇へと辿ることなど、思いもよらずに――。

 

 

 

 

 

―― 了 ――

 



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忘れ形見

剣心がるろうにだった頃のお話です。


 

 

 ――もう、十年も昔のことでございます。

 たった一言、ただ、お礼が言いたくて。

 何かをしてあげたくて。

 とても嬉しかったのです。あのとき差し伸べられた手が、いつまでも忘れられなかった。

 

 

 

 

 

「――拙者になにか?」

 先程から自分の後ろを、木陰に隠れながら遠慮がちについてくる女性がいた。

 あまりにもあからさまなその尾行に、つい気づかないよう振る舞ってしまったが、それがいつまでたっても離れようとしないので、とうとう小さくため息をついた。

「話でもあるのでござるか」

「…………」

「黙っていてはわからぬよ」

 見れば十四、五くらいの少女だった。手甲に旅草履で、自分と同じ旅中の格好をしていた。東海道にさしかかる街道で、ふとすれ違い、以後背後からつきまとわれている。

(まいったな…)

 このまま一緒にいるわけにもいくまい。どこへ流れるかさっぱり見当もつかない、いわば放浪の身。こんなあてもない旅に道中連れ立っていくことなどできない。

「せめて、訳でも話してはくれぬか」

「…………」

「なぜ拙者につきまとう」

「…………」

「何か言えない事情でもあるのでござるか」

 いつまでたっても返答がない。ただ躊躇いがちに首をかしげて、こちらを黙って見ている。なぜなにも答えないのだろう。

 いぶかしんで少女の近くまで歩いた。びく、と身を竦める。だが遠慮なくその手を掴んだ。

「どうしたでござる。なぜ何も……?」

 そしてその時、初めて気づいた。ほんの少しだけ開いた唇。必死で何かを訴えかけている瞳。

 答えないのではなく、答えられないのだ。

「まさか、口が…きけぬのか」

 こくん、と少女は頷いた。掴んだ手を静かに離す。すると今度は逆に両手で包みこまれた。

「そう…でござるか。済まない。だが、なぜ拙者の後を?」

 困ったように瞳をあげた。言葉はないけれど、言えない事情があるのだろう。だが敵意はどこにも感じられなかった。

 普通の十四、五才の少女の、屈託のない笑顔が何よりもそれを物語っている。

「わかったでござるよ。だがな……。拙者の旅に、見知らぬ少女をともに連れていくことはできない」

「…………」

「今はこうして普通に旅をしてるが、刀を差しているから、廃刀令違反で捕まることも(たまに)ある。道中危険な目にあうこともある。それにそなたとて、家族や心配する者がいるでござろう。さ、いい子だから、この手を離して……」

 首を振って、一度掴んだ手をぎゅっと握りしめ、離そうとしなかった。今離してしまえばきっともう二度と会えなくなってしまう。そんな必死の想いが伝わってきそうな強さだった。

「困ったでござるな…」

 本当に困ってしまった。こんなところで天邪鬼に捕まってしまった。振り切って逃げることは簡単だけど、この少女を落胆させてしまうには忍びない。

 そのうち、じろじろと通行人の目が肌に突き刺さってきた。

 そういえばここは天下の往来だった。

(仕方ない)

 いつまでも離そうとしない少女の手を、とりあえず片方だけ離してついてくるよう促した。

 嬉しそうに自分のあとを歩いてくる。ひとまず近くの宿場町まで歩いて、そこの警察に話して、この娘の捜索が出されているかどうか聞いてみよう。今夜一晩くらいなら旅籠にでも預けられるだろう。

 こんなに嬉しそうに自分のあとをついてくるこの娘を騙すようで罪悪感は残るが……。

 だが一緒には連れていけないのだし、それは仕方のないことだ。第一、この少女の身を案じて家族だっているのには違いないだろう。

 いつのまにか横に並んで腕を絡めてくる。驚いて振り向いたが、子供のように邪気のない笑顔につられて、なんとなくそのまま並んで歩いてしまってした。

(悪い気はしない…かも)

 いかんいかん、と心の中で叱咤する。

 明治もそろそろ十年にさしかかろうとしていた頃だった。

 

 

 

 

 

「そこをなんとかできぬでござるか」

「駄目だ、駄目だ。警察は迷い子の面倒などみきれん」

 とりあえず警察に着いてみたはいいが、少女の捜索などはどこからも出されていないことがわかっただけだった。第一、名前もわからないし口もきけないとなると、事情聴取することもできない。

 筆談だったらできるだろう、と思い紙と筆を渡してみたが、紙はその場で千切ってしまうし、筆は口のなかに入れようとする。信じられないが、どうやら何をするためのものかもわからないらしく、読み書きすらできない有様だった。

「痴呆のような小娘など、病院にでも送りこめばいいだろう」

「痴呆などではないでござる。口はきけぬが、頭はしっかりしているでござるよ」

「口がきけないだけでも立派に病院に送りこめる。それに本人も帰る家などないようにみえるが」

「そんなことは」

 振り返って、心細そうな顔をしている少女にもう一度根気よく尋ねた。

「頷くか、首を振るかでいいから答えてくれ。おぬしには帰る家はあるのでござるか」

 袖を引っ張られた。どうやら目の前にいる自分がその「帰る家」だと言いたいらしい。これでは話にもならない。

「警察は忙しいんだ。お前が責任もって面倒みてやるんだな」

「面倒とはずいぶんな言い草でござる。せめて身元を調べてやるぐらいの仕事くらいはできるでござろう。何のための警察だ」

「貴様、そこに差してある刀だけでも十分牢屋に叩きこめるのだぞ」

 ぐ、と言葉につまった。一応鞘から抜いて逆刃刀だと見せてはみたが、それでも刀であることにかわりはない。これ以上なにも言えず、煮え湯をのまされる思いで警察署を出た。

「済まぬでござるな。おぬしの力になれなくて」

 気にしないで、とでも言いたげに手を握りかえした。せめて身元だけでも確かめてやりたいと思ったが、それもできなくなってしまった。

「それにしても、……いいのか、拙者といても?」

 今度はとびきりの笑顔で頷いた。本当に一緒にいるのが嬉しいらしい。先程警察の中で少しも笑わなかったが、まるで重い荷物を降ろしたかのようにほっとした笑顔を見せる。

(不思議な娘だ……)

 こんなどこの誰ともわからない、言ってみれば乞食同然の自分なんかと一緒にいるのが嬉しいなんて。

 久しく忘れかけていた淡い気持ちがこみあげてくる。

「そういえば……まだ名前も言ってなかったでござるな」

 夕暮れに近い川辺りでは、子供達が泥鯰を掬って遊んでいるのが見えた。

「緋村剣心、でござるよ」

「…………」

「そうか、名前がないと不便でござるな。じゃ…」

 綺麗な夕焼け。子供達を心配した母親達が、川辺りに向けて声をかけている。もうすぐ夕食の時間なのだろう。

「茜……というのはどうかな。はは。少し安直でござるな」

 いろんな色彩が混じるなか、真っ赤な茜色の夕陽がひときわ輝いているように見えた。

 

 

 

 

 

 長屋の井戸端で、小さな娘を囲んで話に華をひらいている主婦達を、遠くから微笑んで見つめた。

「ただいま」

「おや、旦那様のお帰りだよ、茜ちゃん」

 がやがやと囲んでいた輪はやがて剣心の方へと集まってきた。夫婦ではないといくら言っても、この小さな世間で生きている女性達はなかなか信じようとはしない。

「だから旦那様などではない、と何度も言ってるでござろう」

「まぁた、隠さなくたっていいんだよ。一つ部屋で寝起きしてる間柄じゃないか。ねぇ、茜ちゃん」

 茜はすっかり近所の主婦達のいい玩具になったようだ。器量良しでかいがいしく剣心の世話をして、おまけに無口なわりにいつも微笑んでいるから、愛想振りが功を奏したのか。

「だからそれは二つも部屋をとれるほど余裕がなかっただけで……ん?」

 茜は剣心の袖を引き、まるで帰りを待っていたかのように部屋の方へと引き連れていった。

 相変わらず仲の宜しいこと、と後ろのほうでくすくす笑っている女性達の声が気にはなったが、何か見せたいものでもあるのかとつられて歩く。

 部屋の中には小さなお膳の上に、作りたての暖かい夕餉が待っていた。

 目を見開いてそれを見た。どう見てもただの夕餉だが、隣で袖を引っ張っている茜は、目で『一生懸命作った』と言っている。

「……ありがとう。頂くでござるよ」

 内心胸を刺される思いがしたが、微笑んで腰をかける。口に運んだ野菜の煮しめは、最初に食べた泥のような料理などとは雲泥の差で、日々腕をあげているのがよくわかった。

 どう? と問いかけてくる瞳に、美味い、と瞳で返す。心の底から喜ぶ彼女を見て、剣心はますます言い出せなくなってしまった。

(今日にでもここを出ようかと思ったが……)

 実はここ数日、橋建設や線路架設などの工事で日銭を稼ぎ、ここの長屋の貸し賃をためていた。さきほど大家にそれを渡し、数年はここに住めるよう頼んできてある。――茜のために。

 結局身元はわからずじまいだった。捜索願いもなにも出されていない。行方不明者の心当たりにもそれらしき娘はいなかった。最初に会った時の身なりではわりといい家の出の娘かと思ったが、その筋を確かめてもあてが外れたことになる。

 なんとかしてやりたい気持ちはあったが、こうわからずじまいではどうしようもない。成り行きでこの長屋に住み始めたが、いつまでもこのままの状態でいられるはずもない。

 だから一人で旅立つつもりでいた。話せば引き止められるか、ついてきてしまうか、どちらかだろう。黙って出て行くのも悪い気がしていたし、何よりこの純粋な娘を騙したくはなかった。

(いっそ一緒になって……)

 はっ、と考えを思いなおす。そんな資格などとうにないはずだろう。一緒にいれば必ず不幸に巻き込まれてしまう。望むと望まぬとに関わらず。――それは確かな経験が物語っていた。

「あ、あのな、茜」

 話があるんだ、と切り出した。やっぱり言うべきだろう。ここは心を鬼にして、と決意を固めた。

 が、振り返ったその時。

「おや…?」

 茜がいつの間にかいない。さっきまで台所の方にいたのに。見ると扉が開いている。迂闊にも自分が知らない間に、どこか出かけてしまったのだろう。

「どこへ…」

 外へ出て井戸端で洗濯物をしている主婦に聞くと、財布をかかえて町の方へ行ったという。

「買い物か何かでしょ。そのうち戻ってきますよ」

「そうでござるか」

 なんだか気が抜けてしまった。そういえば味噌が足りないとかで困っていたような気がする。こんなことなら買ってきてやればよかったな、と再び部屋に戻った。

 ――半刻。

 まだ戻ってこなかった。

「おかしい」

 こんなに時間がかかるはずがない。心配になってきて外へ飛び出し、町の方へと走った。何事もなければそれでいいが……。

(何かあったら拙者の責任だ)

 

 

 

 

 

「おやおや、どうしたの。泣いたりして可愛いねぇ」

「おじさんたちが慰めてあげようか」

 その頃、枡に入れてもらった味噌を片手に、二人の男が茜をとりまいて絡んでいた。

 帰り道がわからなくなり誰かに道をきこうとしたのだが、口がきけないので誰も相手にしてくれない。心細くて瞳を潤ませている彼女に、柄の悪そうな、ついでに頭も悪そうな男達が声をかけてきた。

「そーか、そーか、どっかへ連れてって欲しいんだろ」

「おい、俺が先に目ぇつけた娘だからな。俺の獲物だ」

「何だと、てめぇ、横どりする気か」

 わけがわからずただ戸惑っている茜の腕を引っ張って、今にも連れ込み宿に押し入っていきそうな勢いだった。なんとなく危ない気はしているのだが、状況がいまいちのみこめず、足取りも覚束なかった。

「ほら、来いってんだよ」

「その手を離すでござるよ」

 息を半分きらしながらやっと追いついた剣心は、茜が見知らぬ男達に拉致されようとしているのを見て、一気に頭に血がのぼった。

「なんだぁ、貴様」

「その娘の保護者でござるよ」

 と言って茜の背中を押し、危ないから下がっていろと目配せする。

「遅いからどこで道草をくってるかと思えば……。この辺は物騒だからあまり来るんじゃないと言ったでござろう」

「てめえ!」

 といって殴りかかってくる相手の拳をひょいとかわし、かわりに肘鉄をくらわせた。むきになったもう一人の男が小刀で斬りかかってくる。二度、三度かわすと、飛び上がって足で思い切り蹴り上げ、背中にまわって骨が鳴るほど左腕をへし折った。悲鳴をあげて二人の男達は逃げ出す。

「大丈夫でござるか」

 ぼー、と見ていた茜だったが、やがて感心したように手をぱちぱちと打った。

 どうやら今のを見て尊敬してしまったらしい。

「…………」

 なんだか心配したのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。根が明るいというか、なんというか……。

 だがまあ、本当に良い娘なのだろう。純粋で素直で。

「帰ろう」

 手を引いて長屋に戻る。まるで保護者そのものだ。我ながら人の良さに呆れてしまうが、それでもやっぱり悪い気はしなかった。

(もう少し一緒にいてもいいかな)

 何となく居着いてしまった幸せが、名残惜しげに去来した。

 

 

 

 

 

(誰だ……?)

 浅い眠りのなかで、扉口に誰か人の気配を感じる。だが身体が金縛りにあったように動かない。

 すぐ近くに茜が寝ているはずなのだが、目が霞んで、まるで狭い長屋部屋の中にたった一人でいるような錯覚に陥った。

「あ…か…」

 声を出そうと努力してもうまく話せない。果たして声が出ているかどうかも怪しい。それでも気配は感じる。身の危険が迫っている、と奮い起こして枕元にある逆刃刀に手を伸ばした。

(くそっ…! あと少し…!)

 その時、バタン――と勢いよく扉が開く音がした。といっても朦朧とした頭に響いた幻聴かもしれない。

 だが気配は依然そこにあった。

「誰…だ…!」

 やっと刀を手に取ると、まだ動かない体を半分だけ起こして、そこを見据える。

 すると意外にもそれは人間ではなく、何かの獣のようだった。

「犬…か?」

 犬にしては大きい。ゆうに三倍はある。それに骨と皮だけのやたらとごつごつした痩せた体だった。

 しかし――見覚えはあった。以前に一度、この動物を見たことがある。

「あの時の……狼なのか?」

 それは流浪人として旅に出た初めの頃だった。太秦の山間で怪我をして動けない狼を見つけた。

 日本で生き残ってる狼は珍しい。ほとんどの狼は狩人に狩りつくされてしまい、残存する種は僅かになりつつある。それもあったが、罠にかかって動けずこのまま死を待つだけの獣を、ただ黙って見過ごすには忍びなかった。

 警戒して、近づけば噛み殺す勢いの手負いの獣を、手当てをして逃がしてやった。その際腕を数箇所噛まれて肉が少し裂けてしまったが。

 それでも最後に自分の方を振り返りながら去っていく狼の姿が、まだ目に焼きついていた。

「おまえ、生きていたのか……。よかったな。だがここは町中だ。見つかれば命はない。早く山に戻ったほうがいい」

 刀をそっと枕元に置き、気遣うように狼を見た。扉口で佇む狼は何も語ることなく、じっとこちらを見ている。やがて煙のようにその姿が消えると、途端に安心したように剣心は布団の中に落ちるように眠りに溶け込んでしまった。

 

 

 

 

 

 翌朝。

 目覚めた時は茜が台所で朝餉の支度をしていた。いつもと変わらない包丁の音。

 昨夜の夢の話を、まるで不思議な出来事だったかのように、食べながら茜に語る。

「まるで何か言いたげな様子でござった。お礼でもしたかったのか、あるいは拙者を食べるつもりだったのか」

 ははは、と笑いながら話す。茜はただ黙ってその夢の話を聞いていた。

「いずれにしても夢にまで出てくるとは、きっとその狼の魂が拙者を忘れなかったのかもしれないな。だとしたら嬉しいのでござるが」

 茜は微笑んでいる。その屈託のない笑顔はいつもと同じだったけれど、一瞬どきりとするものを感じた。

(え……)

 いままで感じたことのない気持ちだった。妹のように愛しんでいるつもりだったが、なにかもっと違う感情がわきあがってくる。

(ち、違う。こんな……)

 振り切るように立ち上がると、夕方には戻ると言い残し長屋を後にした。

「どうかしている……」

 はあ、と息をもらす。

 それを近所の目に見咎められ、途端に恥ずかしくなり、慌てるように歩いた。

 

 

 

 

 

「おや、緋村さん」

 声をかけられ思わず背が引き攣った。小間物屋の前で少ない身銭を勘定している最中なだけに、知ってる人間とはできるなら会いたくはなかった。

「こんなところでお会いするとは、奇遇ですね」

「お、大家殿」

 まさにこんなところで、よりにもよって長屋の大家に見つかってしまった。

「おや、それは……簪ですか」

 ぎくぎくぎく、と剣心の背がだんだん小さくなっていく。ははあ、と大家は心中を察した。この朴念仁のような男がねえ、となんだかからかいたくなってしまった。

「茜さんにでしたら、こちらの藤色のが似合うんじゃないかと思いますが」

「いや、これは、その……」

「お金が足りないようでしたら私がお出ししますよ」

「そ、それには及びませんっ」

 と言って大家の手からひったくるように藤色の簪を奪い、店の主人に「これを」と言って代金を支払った。

 それを見た大家はつい吹き出してしまった。

「いや緋村さんも、なんだかんだいって、結局居着いてしまってますね」

 図星をさされてしまい、ますます返す言葉がなかった。

「私としてはこのままお二人に住んで頂きたいですけどね。緋村さんが先払いして下さったお陰でこちらも随分助かっているんですよ」

「いや何度も申しましたが、拙者はいずれ出ていくつもりです。茜にはまだ話していないが、あの娘も聞き分けてくれるでしょう」

「寂しがるんじゃないですか、茜さん」

「…………」

 それを思うとなかなか言い出せずにいるのだ。このまま一緒に暮らしたいという気持ちはあるけど、それは駄目だという気持ちも同じくらいある。

 結局大家の言うとおり、なんだかんだで居着いてしまっていた。

「いい娘ですしねぇ。明るいし別嬪だし、口はきけないけどその分気立てはいいし」

「そう…でござるな」

「あんないい娘を悲しませるようなことは、緋村さんらしくないですよ」

 そういって笑いながら立ち去る大家を見て、剣心の口もとから笑みがこぼれた。

(そう…だな、いまさら)

 悲しませる必要もない、か。

 そう思うと気が晴れた。あれこれ考えた結果がこれとは少し情けない気もするが、そう決めるのがとても自然かもしれない。

「喜んでくれると……いいでござるが……」

 手にもった簪を眺めながら、長屋までのあと数里を軽い足取りで向かっていた。

 

 

 

 

 

 柳町から少し坂を下った場所にあるその長屋の前で、茜は剣心の帰りを一人で待っていた。

 夕方までには帰る、と言ってくれた。だけど待ちきれず、つい部屋から出て表の入口でその姿が見えるのを待ち望んでいた。

「おや、茜ちゃん。旦那様を待ってるのかい」

 茜は嬉しそうに頷いた。相変わらず仲いいねぇ、と目を細めて笑う女性に、顔が赤く染まるのを感じた。

 通りすがりに米俵をかついだ大八車が通る。茜の後ろの坂の入口付近に止められたが、気にとめずに通りの先を見つめる。その時彼女は気づくべきだった。

 長屋の入口の前で、自分の帰りを待っている茜を見つけた剣心は、手を振って声をかけた。

「――茜」

 今行くから、と数間先で立っている彼女に向かって走った。もうすぐで会える。

 そのとき、突如茜の後ろに止まっていた大八車ががらがらと動き出した。

「茜……っ!」

 それを遠くから眺めた剣心は、ちょうど茜の背後の大八車が勢いよく動くのを見て顔を青ざめた。

 茜は気づくのが遅かった。後ろを振り向いたその時にはもう――。

「茜ぇーーーっ!!」

 走って走って、これ以上はないくらい早く走って、それでも。

 駆けつけるのが遅かった。もう少しの距離だったのに、間に合わず、車の下敷きになってしまった。

「そんな……」

 血まみれの着物。茫然自失の状態でその場に立ち尽くした。ほんの僅かな出来事だった。とめることもできなかった。

「あ…か…ね…」

 座りこんで茜の着物を拾いあげた。すると、信じられないものを見た。

 茜のはずの死体が、ボロボロの、骨と皮だけの、――いつか見た狼の。

 狼だった。茜だったはずの肉体はどこにもなかった。

「え…」

 どうして――、と拾いあげた着物を握りしめた。肩が震える。頭の中で何かがはじけ飛んだ。

「この娘は……」

 その時、ふわり、と首筋を吹き抜けた風が。

 柔らかく、優しく、剣心を包み込んだ。

 

 

 

 ――私はただ、

 あなたに、一言だけ、お礼をしたかったのです。

 優しく差し伸べられた手に、

 語りかけてくれたいたわりに、

 ただただ、嬉しくて……。

 

 

 

 

 

「――これはそのとき、渡しそこねた簪でござるよ」

「そう…」

 少しだけ血のついた痕の残る、藤色の花簪。

 誰の? と何気なく聞いたことから始まった昔語りは、不思議な余韻を胸に残した。

「ごめんなさいね。これ、大切なものだったんでしょう」

「いや……。拙者も久々に思い出すことができて、嬉しかったでござるよ」

 気がつけばもう日が暮れかけていた。赤べこからそろそろ弥彦が戻ってくる。

「さて、そろそろ夕食の時間でござるな」

 立ち上がって支度をしようとする剣心の手を、薫は押しとどめた。

「たまには――」

 励ますような明るい声でにっこりと微笑む。

「私にも作らせて。これでも最近上手になってきたのよ。佐之助からは相変わらず馬鹿にされるけど」

「では……味あわせてもらおうかな」

 嬉しそうに台所へ駆けていく薫の後ろ姿を見送りながら、いつか見た、優しい少女の面影を重ねあわす。

 遠い日々の残照が、暖かい思い出が、――愛おしく胸によぎった。

 

 

 

 

 

―― 了 ――

 



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