辻さんの人には言えない事情 (忍者小僧)
しおりを挟む

1 こうして予算は削られる

ガルパンに出てくる、メガネの役人のおじさんが気になりまして。作中では、イヤな人として描かれていますが、立場の問題や、内心はいかほどかと。じっくりと考えてみたいと思います。政治劇ですので展開はとろくなりますが、謎をちりばめてゆき、最終的にはポリティカルサスペンスに仕立てる予定です。どうかお付き合いくださいませ。


駄目な自分に吐き気がする。

そんなことばかりを考えて生きてきた。

駄目な自分を少しでもマシに見せたいから、自分のキャパシティを超える努力をしてきた。

必死になって勉強して地方の名門校を卒業し、必死になって公務員試験を受けて、国家公務員になった。

いわゆる官僚というやつだ。

官僚にあこがれていたわけではなかった。

ただ、官僚というのが、世間体的に一番、見栄えがいいと思い込んでいたからだ。

おそらく、親に褒めてほしかったのだ。

僕の親は、土建屋の社長をやった後、地方の小さな町で代議士をやっていた。

父はいつも言っていた。

 

「代議士は偉そうにしていられるが、風が吹けば飛ばされる。成るんなら役人になれ。最後に笑っているのはいつも奴らだ」

 

ならばその究極形は国家公務員、官僚だろう。

幼い僕はそう思った。

なかなかの世間知らずだった。

官僚は官僚で「税金泥棒」だの「どうせ楽しているんだろう」だのとそしりを受けるとは思わなかった。

もう一度言っておこう。

僕は世間知らずだったのだ。

 

社会に出てからの日々はあまりにも素早く過ぎ去っていく。

公務員の部署は一定せず、コロコロと異動がある。

どこになったって同じだった。

特段、志があったわけではないのだから。

あてがわれた部署あてがわれた部署でそこに適応しようと努力した。

残業が多い部署に配属されたときは文句ものべず残業したし、酒の付き合いが多い部署に配属されたときは、酒はあまり好きではないのだが、黙ってほとんどすべての酒席に出席した。

上司からの評判はまずまずだった。

それほど印象には残らないが、従順で素朴な奴だ。

おおむねそういう評価をいただいた。

だが、そんな生活も、僕にとっては苦しいものだった。

相変わらずの癖で、自分のキャパシティ以上の努力をしているのだ。

創造的な仕事をしてはいないが、黙って黙々と言われるがままに働くのも、楽なものではない。

まるで澱のように、疲れやら、不満やらがたまっていく。

だが僕はそれを発散するすべを知らなかった。

 

そんな時、決算審議委員会に出席する機会があった。

僕のような下っ端はほとんど発言する必要はない。

まぁ、勉強のようなものだ。

教育費の項目に差し掛かった時、保守系の議員が挙手した。

 

「少しお尋ねしたいのですが、教育振興費の中のこの、補助費、これはどういったものに使われていますか」

 

担当課の主任が挙手をして答えた。

 

「主なものとして、戦車道の大会開催への補助費です」

「ほかの文化振興と比べて、ずいぶんと比率が大きいように感じられますが」

「戦車道は、大会の規模が大きく、また、戦車や弾などの備品についても費用がかかるものでございます」

「もう少し圧縮することはできないのですか?」

「今後研究し、努力してまいります」

「ちょっと、関連です」

 

隣の席にいた他の若い保守系議員が挙手した。

 

「この費目だけですか? この戦車道と関連しているのは?」

 

委員会室がざわつく。担当課の主任が困った顔をして苦笑いした。

臆さず若い議員はもう一度尋ねた。

 

「この費目だけですか?」

「ちょっと、委員、所管が違うことをお尋ねになるのは……」

 

委員長の老代議士が止めに入る。

 

「いえ、何も中身をここでは尋ねません」

「そうですか、では……教育委員会、答えられますか」

「はっ。このほかに、建設土木費、民生費、総務福祉費などに、戦車道に関する費用が含まれております」

「はい、そうですね」

 

初めから知っていた答えを引き出しただけだといわんばかりに冷静に、質問した議員が言った。

 

「後々、各々の費目で、それぞれに質問させていただきますが、この場では、教育振興費の中だけでもこれだけの予算を投じ、執行率もほぼ100%、そのうえ、他の費目にまでまたがっている。このことだけを指摘させていただきたいと思います」

「それは質問ですか?」

 

委員長が尋ねる。

 

「いえ、意見です」

 

教育委員会の主任が、助かったといわんばかりに着席した。

 

「他にございませんか? ございませんね。では次、職員の入れ替えののち、決算書108ページ……」

 

 

 入れ替えの時、同期の山下がつぶやいた。

 

「篠崎議員、おっかないよ。教育と福祉事業が目の敵だもんな」

「どういうこと?」

「だってあの人、『無駄の削除』ってチラシばっか撒いてるでしょ。だから実績がほしいのよ。教育とか福祉とかは金の動きが見えやすいからね。それで根掘り葉掘り聞いてるってわけ」

「ふぅん」

「あ、そうだ。辻ちゃん、今日、飲みに行く?」

「あ、いや、今日はやめとく」

「え~、付き合い悪いなぁ」

 

この日、僕は初めて、付き合いの飲みというものを断った。

早めに帰宅して、一人暮らしのアパートで、珍しくインターネット検索をした。

『戦車道』とはどういうものか、知りたいと思ったのだ。

PCの画面の中、華やかな戦車戦、それから、ちょっとした英雄扱いの女の子たちの映像が流れていく。

へぇ……。

こういうものなんだ。

映像の中の、戦車を駆る女の子たちは、みんな輝いていて、煌めいていて、迷いがなくて、濁りがなかった。

くすんだ僕の世界と大違いだった。

 

翌日の決算委員会は大荒れだった。

篠崎議員がかなり執拗に戦車道を攻めたのだ。

彼は何度も委員会をストップさせた。戦車道に関する予算が執行されたあらゆる費目で、それがどれぐらいの費用であったかを質問した。

 

「委員長」

「篠崎委員」

「あの、この土木のうちの道路補修費についてお尋ねします。これ、予算の執行のうち、通常の道路舗装ではなく、戦車道によって破壊された道路の保全に必要とされた費用はどれぐらいですか?」

「えぇ、それは、大まかな全体の補修費のうちでございますので、その」

「正確に答えてください」

「全体としては滞りなく」

「話にならない、委員長、止めてください」

「……職員に申しあげます。はっきりとした数字は出てきますか?」

「えぇ、今この場には……」

「それは、部署に戻れば出てきますか?」

「は、はい」

「委員長、休憩を取ってください」

「篠崎委員、発言の折には挙手を」

「委員長!」

「暫時休憩を」

 

 その他にも、民生費の中での、各地域の戦車道の試合のためのスタッフへの謝礼金。

あるいは、福祉の分野での、戦車道による怪我人への手当。

最後には、下水道費で、戦車道での被弾による下水管の破裂による修繕費にまでわたり、批判が繰り広げられた。

こういう委員会の常で、一人批判者が出てくれば、彼一人の手柄にさせまいと相乗りをする議員が現れてくる。

関連質問の嵐となり、戦車道への批判の台風が吹く。

 

 

「ひどいもんだよ。パフォーマンスだな。弱い者いじめだ」

 

その日の夜、酒席で山下が言った。

 

「そういうもんかね」

 

僕は政治には疎い。意図的にあまり考えないようにしてきた面もある。ハイボールを飲みながら問いかけた。

 

「パフォーマンスってのは?」

「いや、つまりさ、今回中心になって批判していたのは篠崎議員と原田議員だろう?」

「そうだね」

「あいつら二人とも与党だぜ。あんだけ言っといて、最後には決算に賛成だ。結局はパフォーマンスなのさ」

「ふぅん」

「なんだよ、反応薄いな」

「だってそれでも、ずっと黙ってて何にも言わないやつよりもましだろう。一応仕事してるんだ」

「あのなぁ、そういう単純なもんじゃねーよ」

「そうかな」

 

その日、僕はいつもよりも2杯多くハイボールを飲んだ。

珍しいことだった。

いつもよりも少しだけ深く酔って、アパートに帰ると、再び戦車道で検索をした。

やはり、少女たちはキラキラとした、すがすがしい汗を流していた。

僕はさらに珍しいことをした。

めったに飲まない缶ビールを、画面を眺めながらひと缶空けたのだ。

 

それからしばらくして、また山下が僕を一杯飲みに誘った。

彼は愚痴を言うのが好きなようだった。

 

「あ、そうだ。この間の戦車道。あんまり興味なかったんだけど、いろいろ検索したら、結構好きになったよ。みんな一生懸命頑張ってるね」

「珍しいな、辻ちゃんがなにかを褒めるなんて。でもさ、今後は予算、削られていくと思うぜ」

「やっぱそうか?」

「あぁ、あれだけ委員会で取り上げられたらなぁ」

「そっか……」

 

 

翌年度予算編成時には、教育の分野ではかなりの議論が交わされたらしい。

教育としては、文化の振興として、少年少女の夢を取り上げたくはない。

しかし、財務のほうからはかなり激しい横やりが入った。

篠崎議員は、与党の若手のホープの一人であり、彼には手柄が必要だった。

そして、財務省は彼の属する派閥の幹事長とズブズブだったのだ。

僕は珍しく、一抹の悔しさを覚えた。

だからと言って、何ができるわけでもないが。

 

ささやかな応援という気持ちで、以来、戦車道の番組があればできる限り見るし、たまには少額の寄付をしたりもするようになった。

勿論匿名でだ。

そうこうしているうちに、10年ほどが過ぎた。

僕は30代後半に差し掛かっていた。

ある時唐突に、文科省教育課への異動が決まった。

 

続く




第1話にお付き合いいただき、ありがとうございます。
この作品は、自分としてはかなり冒険して書いています。
と言いますのも、文体を淡々と固めにして、ギャグを入れず、女子もほとんど出てこないからです。
楽しい要素があまりありません。苦笑
しかも、読者さまには聞きなじみのないであろう政治用語が飛び交います。
展開もかなりゆるゆると進む予定です。
書いている側としては、読者様に楽しんでいただけるのかどうか、非常に心配です。
そこで、もしお手数でなければなのですが、この小説を読んで
・面白いと感じた点
・ つまらないと感じた理由
・読みやすいか読みづらいか
・そもそもこう言ったギャグも女子も出ない政治劇は読む気になるか
・退屈だと感じられたなら、どういった点が退屈か
など、もしも感じることがあれば、厳しい叱咤でもかまいませんので、メッセージを送ってくださいませんでしょうか。
出来る限り、言葉を受け止め努力いたします。
どうかよろしくお願いいたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2  三司馬

教育委員会への異動が決まった日、僕と入れ違いで教育委員会から保険へと異動になった高田という男から電話があった。

僕よりも3歳年上で、それほど面識があるわけではないが、どことなくえぐみを感じさせる印象のある男だった。

一度飲みの場で一緒になった時、関西の私大出身であることを誇らしげに語っていたことがある。

 

「関関同立なんて、東京にくりゃMARCHほどの価値もない。それでも俺はこうやって、この官僚の世界で生き残っている。俺には地頭があるんだよ。わかるだろ? ん?」

 

その時僕はどうしてそんな話を僕にするのかよくわからなかったが、後でよくよく考えてみると、おそらく僕も地方大学出身者だからだった。

僕はふぅん、と思った。

それ以上でもそれ以下でもなかった。

そんな高田は、絶対に関西弁を使わない男だった。

彼の価値観の中では、関西という劣等から這い出し、首都で成功する自分という像こそが絶対的に尊いのだろう。

なので、そんな彼からの唐突な電話にはあまり好い予感はしなかった。

とはいえ、着信を無視するわけにもいかない。

 

「もしもし、辻です」

「あぁ、辻君、お久しぶりだね。覚えてるか? 高田だ」

「はい、もちろん」

「覚えてていてくれてうれしいよ。今晩、暇か?」

 

その日の夜の付き合いの誘いを当日にしてくる人種があまり好きではないが感情をこめず返答する。

 

「今晩は特段なにもありませんよ」

「オーケイ。じゃ、20時に三司馬(みしま)に来てくれ」

「わかりました」

 

 三司馬というのは、何度か行ったことがある店だ。

特段高い店でも美味い店でもないが、立地が良かった。

郊外といっても都心から15分圏内の小都市にあり、かつその駅前は大学があるのみで、客は背伸びをして小料理屋に行きたいような学生がほとんどだった。

ちょっとした込み入った、人に聞かれたくない話をするのに向いている。

逆を返せば、僕にとってはややこしい話が待ち受けているという可能性が十分にあるということだ。

 

 約束の時間の10分ほど前に三司馬につくと、割烹を着た女将が奥のふすまを指し示した。

 

「ふぅん」と思いながらふすまを開けると、篠崎代議士がいた。

 

僕は一瞬声が出なかった。

こういう場合、どうしたらいいのか。

役人と代議士を引き合わせるというのはよくあるパターンだ。

だが、そういうことはある種優秀な限られた人々の間で交わされる約束事だと思っていた。

 

「久しぶりだね」

 

と篠崎代議士が言った。

彼は、この10年で随分と貫禄を出していた。

本人の望む望まないとは別に付き合いが多いのだろう。

かつての青年らしさは贅肉が覆い隠していたが、それでも、怠惰な中年という印象は受けなかった。

それよりも、彼が僕のことを記憶の片隅にとどめていることに混乱した。もちろんそれは、嘘かもしれないわけだが。

後ろから、肩に手を触れられた。振り返ると、高田がいた。

そしてその後ろには、僕が入庁して間もないころにお世話になった中津さんという男性がいた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3 一見無目的な飲み会

 中津さんが高田の後ろにいたことで少し面食らった。一瞬、言葉が出なかった。

 

「ん? どうしたんだ?」

 

白々しいほど何気ない声で高田が尋ねてくる。

 

「あ、いえ」

「お久しぶり。元気にしてた?」

 

中津さんの優しげな声は以前と変わりがなかった。

 

「あ、そこそこです」

「そう。がんばってるんだね」

「あ、いえ、それもそこそこです」

「そう」

「立ち話もなんだから早く座りなよ」

 

篠崎代議士が言った。僕ははっとして頷いた。

 

 篠崎代議士が一番奥に座っていて、僕は高田に促され、その向かいに座ることになった。位置としては上座になる。

 

「僕は手前にいて焼酎など作ります」

 

と言ったが無駄だった。

 

「俺はビールしか飲まないよ」

 

と押し切られた。

僕の右隣に高田、その向かいに中津さんが座った。

計算された席順であることは明白だった。

各々の席が決まるとしんと静かになった。

それで気が付いたが、聞こえないほどの小さな音でドアーズが流れていた。

以前この店に来たときは同じように小さな音でジャニス・ジョプリンが流れていたのを思い出した。

日本料理屋にはよほど似つかわしくない。

だが、聞こえないほど小さな音で粗野なロックを流すというのが役人にこの店が気に入られている理由の一つのような気がした。

ほんの小さな反抗をしたいのだ。

そんなことを考えているとビールがやってきて、もう音は聞き取れなくなった。

互いにビールを注ぎあい乾杯した。

高田は黙ってビールをちびちびと飲み始めた。

中津さんが僕に

 

「ずいぶんと調子がいいみたいだね」

 

とにこやかに言った。

 

「調子がいいですか?」

「うん。今回は主査として教育委員会に配属になったと聞いたよ」

「ありがとうございます」

 

中津さんの笑顔は、ずっと前、僕が入庁して間もないころとほとんど変わらないように見えた。

一方で随分と老け込んだようにも見えた。

それも仕方がない。もう60歳手前だ。

僕と中津さんは、年齢も部署も全く違う。

なので、仕事の上で同じになるということは全くなかった。

入庁したてで、右も左もわからなかった頃、上司に強くどやされたことがあり、行くあてもなく一人で入った都内の沖縄料理店でたまたま出会った仲だった。

その時僕が沖縄料理店を選んだのは、知り合いと会いたくないからだった。

薄汚れたいかにもさえない雰囲気のその店に省庁の人間はいないだろうと思い、愚痴をこぼした。

すると、近くの席にいた男性が僕に、自分も省庁で働いていると声をかけてきた。

それが中津さんだった。

彼は、祖父が石垣島出身らしく、そんな縁で沖縄料理店に一人で来て酒を飲むのが趣味だとのことだった。

 

僕は「しまった」と思ったが、中津さんは、包み込むような優しさで僕の愚痴を聞いてくれた。

以来何度か時折その店で会い、お互いにざっくばらんに話す中になった。

歳が30近く離れていることもあって、僕にとっては、東京で見つけた父親のようなものだと心でひそかに思っていた時期があった。

もっとも、僕が30代半ばに差し掛かってからは、仕事が忙しくなったこともあり、ほとんど会う機会がなくなっていた。

だから、こんなところで唐突に会うことになるとは思わなかった。

意外だとも思ったし、数年間ろくに連絡を取らなかったことへの後ろめたさもあった。

 

「若いのはいいね。君はこれからの希望に満ちている」

「そ、そうでしょうか」

「そうだよ。君はね」

 

君はという部分に違和感をもった。

それはまるで自分を卑下した嫌味のようにも聞こえた。

僕の知っている中津さんの言う言葉ではないように感じられた。

 

「僕なんてもう60手前だよ」

「中さん、あんまり攻めちゃかわいそうですよ」

 

篠崎代議士が言った。

 

「あぁ、申し訳ない」

「……もしかして酔ってますか?」

 

顔を覗き込みながら尋ねた。

 

「あぁ、ちょっと先に一杯ね」

「ワインを飲んできたんだ」

 

高田が言った。

 

「高田さんが一緒に?」

「そう。それで、君の話になってね。中津さん、久しぶりに君の顔が見たいって」

「ご無沙汰してしまってすいません」

 

僕は反射的に頭を下げた。

 

「いや、別にいいけど」

 

中津さんがもう一杯ビールを飲んだ。

 

「お前さ、ずいぶんと中津さんに世話になったらしいな。ちゃんと感謝してるか?」

「も、もちろんです」

「まぁまぁ」

 

篠崎代議士が割って入った。

 

「辻君、前に一度、視察で一緒になったね」

「あ、は、はい」

 

僕は頷いた。

おそらく、議会事務局にいた7年ほど前のことだろう。

篠崎議員の所属する会派の視察に事務局として同行したことがあった。

逆を言えば、僕と篠崎代議士との直接的な面識はそこだけだった。

 

「あの時君、すごく丁寧に準備をしていてくれたね」

「恐れ多いです」

 

言いながら僕はビールを注いだ。障子が開かれ、小料理がいくつか運ばれてきた。

 

「君はしっかりとタイムスケジュールを管理していたし、夜の酒席でも酔いすぎるということもなかった」

「恐縮です」

「おい、お前、褒められてるぞ」

 

高田が横やりを入れた。

 

「は、はい」

 

僕はそれ以上答えようがなかった。

 

「よく覚えているよ。視察の一日目は確か東北だったね」

「はい、一関です」

「岩手県か」

「左様です」

「シャッター街のような商店街で、浜野さんがラーメンを食べたいと言い出した時、ちゃんとラーメン屋を探してきた」

「ありがとうございます。インターネットで簡単に検索しただけで申し訳ありませんでしたが」

「たしか塩ラーメンの店だった。若い、黒スーツの男が、隣の席の女を口説こうとしていた」

 

言われてみて、僕も思い出した。篠崎代議士の記憶力に少し驚かされる。

 

「でも、あれはあまり良さそうな女じゃなかったね」

どっと笑いが起きた。高田と中津さんがその言葉に笑ったのだ。

「あのあと俺はホテルに帰って寝たが、君らはまだどこかへ行ったのか?」

 

僕は記憶の糸を手繰りながら答える。

 

「確か、ラーメン屋を見つけてきたお礼だと浜野議員に連れられて、小さなバーに行ったんです。商店街の外れの」

「そこはどうだった?」

「もう記憶があいまいですが、バーというよりも半ばスナックで、あまりお酒を飲めなかったような気がします」

「そうか、そうか」

 

篠崎代議士が笑った。

 

「翌日はどこへ行ったんだったかな」

「茨城です」

「そうだったな。茨城のどこだっけ」

「……大洗ですね」

「そうか。そうだったな」

 

いつの間にか空になっていた僕のグラスに、代議士がビールを注いだ。

 

「あ、恐れ多いです」

「気にするな。7年越しだがラーメンのお礼だ」

 

また高田と中津さんが声をあげて笑った。

 

「大洗でも君は大活躍だったな」

「そうでしょうか」

「そうだよ。ずいぶんと良い店を紹介してくれたじゃないか。海鮮の。美味いアンコウを食べたぞ。あれはどうした? 向こうの市の職員にでも事前に訊いていたのか? 根回しがいいな」

「あぁ、いえ、あの。僕の実家が大洗なんです」

「へぇ、そういうことか!」

 

篠崎代議士がいつの間にか右手にビール瓶を持っていた。先ほど空けたばかりだったような気がするが。

 

僕は「あの、先ほども注いでいただきましたし、こちらから注がせていただかないと」と言ったが、取り合ってくれなかった。

 

「気にするな、人に注ぐのが好きなんだ。ほら、早く空けろ」

「は、はい」

 

 大慌てでグラスを空にした。

そこになみなみとビールが注がれていく。

急速に摂取したアルコールで少しぼんやりとした頭が、既視感を伝えていた。

何かを過去に見たような。

……思い出した。

篠崎代議士の話し方だ。

10年前の決算委員会と同じだ。

この人はあの頃から、ある意味では変わっていない。

まずは『知らぬふり』をして質問するのだ。

そして、獲物が答えを言うのを待っているのだ。

 

もしそうだとすれば、彼が狙っていた答えは、大洗?

意味が分からない、と、首を振った。

酔いが回りすぎている。

僕が大洗出身だと聞いたところで、どうなるというのだ。

それに何の意味がある。

 

おそらく思い過ごしだったのだろう。

そこからは、何一つ根掘り葉掘り聞かれるということはなかった。

前半やや黙っていた高田が、酒が入ってきて饒舌になったのか、がぜん話し出し、僕は中津さんとの会話が多くなった。

中津さんは随分と愚痴っぽくなっていた。

あまり出世とは関係のないコースを自分で選ぶような生き方をしてきたはずだが、齢をとってふとそのことが空しくなった様子だった。

飲み会はきっちり2時間で終了した。

長引かなかったので、それなりに飲んだはずだが、飲み足りないような不思議な気分になった。

店を出るとき、篠崎代議士が言った。

 

「辻君はなかなか面白いよ。俺は気に入っているんだ。これからもちょくちょく飲もう」

「は、はい」

 

僕は頭を下げた。

10年前、山下は僕に篠崎代議士のことをいけ好かないと言ったが、僕は当時から、篠崎代議士にそれほど悪い印象を持ってはいなかった。

舌鋒鋭さや抜け目のなさが、単純に尊敬に値すると感じられたからだろう。

そんな彼と繋がりができたことが単純にうれしく、この飲み会の不自然さや目的について考えることをやめてしまった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4 帰郷

篠崎代議士を交えた飲み会で地元の話題が出たことをきっかけに、久しぶりに実家に帰ってみたくなった。

東京と大洗はさほど離れているわけではない。

帰ろうと思えばいつでも帰ることができるのだが、ほとんどそうせずに過ごしてきた。

父親や母親と会うのが嫌だった。

仲が悪いというわけではないのだが、家族と離れると、家族という独特のどろどろと濁った交わりのようなものが億劫に感じられてしまう。

これは僕の内面的な資質なのだと思う。

 

しかし、地元そのものが嫌いなわけではなかった。

大洗の、華やかではないごく普通の海辺の空気感は好きだった。

夏場は海水浴客でにぎわうが、春先の今ならばそれほどではないだろう。僕は土曜日を利用して大洗に帰ってみることにした。

 

家に電話をすると、母親が出た。

帰るというと、久しぶりの帰郷を喜んでくれた。

悪い気はしなかった。僕も大人になったというわけだ。

 

「親父は? いるの?」

「今日は外で飲んでますよ」

「暇なんだね」

「馬鹿言いなさい。お仕事です」

「もう引退したんじゃなかったの?」

「表向き辞めても、いろいろあるのよ」

「ふぅん、そう」

 

父は数年前の統一地方選で引退を宣言して町議会議員を辞めていた。その前の統一地方選の頃から、選挙が近くなると奇妙なビラが全戸配布されるようになっていた。

ビラの内容は、父が議員になる前にやっていた土建会社と町の発注の癒着を指摘する内容だった。

ビラは、『落札の仕様書の記載事項が、とある土建会社の独自の基準にもとづいているので違和感がある』と指摘していた。

とある土建会社とはもちろん、父の会社だった。

議員になった後、父はその会社の社長職を退いていたが、副社長だった男を社長に据えて影響力を保っていた。

ビラの内容に父は激怒していた。

 

当時父とこんな会話をした記憶がある。

 

「敵は相当資金力があるな」

「なんでわかるの?」

「全戸配布だぞ。全戸配布。つまり、町域全部のポストにこのビラを入れてるってことだ。表向きは市民オンブズマンだが、配布しているのは金を持っている奴だ」

「新聞に折り込んだんじゃないの?」

「違う。直接ポストに投函している。新聞折り込みなんてやったら身元がばれるからな。アルバイトを雇って直接投函させているんだ。

いいか、こういうビラは、枚数を刷るだけでもそれなりに金がかかるんだ。バックにいるのは俺を気に入らない役人か、左巻きの党か……もしかしたら、うちの会社かもしれんな」

「どういうこと?」

 

僕は驚いて尋ねた。

 

「今の社長……重野からしたら、院政を敷いている俺は目の上のたんこぶだ。失脚させたいと考えているのかもしれん」

「でもこんなビラ、自分の会社も危なくなるよ」

「どうかな? 実際には俺は入札に関わっていない。このビラの内容は嘘だ。つまり、調べられて埃は出ない。噂だけが巡って俺の評判は落ちるかもしれんが、会社がパクられることはない」

 

僕は父なら入札に無理強いをしているだろうと思っていたから、むしろしていないということに驚いた。

 

そのビラはさほど有効ではなかったと判断されたのか、しばらくすると、今度は父が他市に愛人を囲っているという中傷ビラに替わった。

いずれにせよ、手を変え品を変え、中傷ビラが配布され続けていた。父が統一地方選に出ないと宣言した時、ビラ攻撃がボディブローのように効いていたんだろう、とも、あれこれとあった批判のうちどれか一つぐらいは真実だったんじゃないかとも言われていた。

そういった経緯があったので、もう父は政治には関わらないだろうと思っていたのだが、相変わらず暗躍をしているようで僕はため息をついた。

 

「母さん、家に帰って、面倒な話はごめんだよ。父さんに伝えといて」

「もちろんですよ」

 

母親の『もちろんです』は当てになったためしがなかった。

この人の価値観は夫がすべてだった。僕はもう一度ため息をついた。

 

土曜日がやってきた。

上野から勝田行きのときわ53号に乗り込むときは少し気分が高揚した。

個人的な理由でこの列車に乗るのは6年ぶりだった。

75分乗っていると、水戸につく。

 

鹿島臨海鉄道に乗り換えるのが待ち遠しかった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5 応接間で感じた違和感

 数年ぶりに降り立った大洗は、表向き以前とあまり変わっていないように見えた。

 

代わり映えのしない駅前、代わり映えのしない町並み。

それでも、僕が生まれ育った土地だ。

駅を降りて北へと突き進み、途中で東の方向へ。

コンクリートで固められた突堤にたどり着く。

 

大洗の海の匂いがした。

個人的な感覚の差になるとは思うが、海には、それぞれの海の固有の匂いがある。

 

去年、和歌山県の加田に旅行をしたときには、濃厚な磯の匂いに驚いたものだ。

東京の湾岸にも、都心の湾岸部特有の枯れた硬質な匂いがある。大洗の海は、匂いが薄い。

この磯の匂いの希薄さが、逆に特徴的だった。

この無色透明に近い匂いをかぐときに、僕は猛烈に故郷に帰ってきたのだと実感する。

 

海の向こうに学園艦が見えた。

かなり遠い。

ぼんやりと蜃気楼のようだ。

 

僕は陸の育ちなので学園艦には何の郷愁も抱きようがない。

それでも、遠くの海に幻のように揺れる学園艦には、ある種のロマンを感じさせられた。あの場所で送られる青春もあるのだ。

 

僕の脳裏に、自身の高校時代の映像が浮かんだ。

放課後の教室で、退屈そうにホウキを掃いている。

……馬鹿馬鹿しい。

僕の青春は考えてみれば、勉強ばかりだった。

ホウキをギターに見立てたり、野球バットに見立てたりして遊んでいる少年たちは、僕ではなく、僕のクラスにいる他人たちだった。

僕は彼らを横目に黙々と掃除当番をこなす側の少年だった。

 

ギター……。

音楽は嫌いではなかったから、本当は彼らの会話に加わりたかった。

だが、親の影響で古いものしか聴かなかったので、趣味が合うとは思えなかった。

 

 海を見た後、家に帰ると、門の前に母親が立っていた。

待っていてくれたらしかった。

 

「母さん、もしかしてずっとそうやって立っていたの?」

「そうですよ」

「言ってくれよ。だったらまず家に寄ったのに。さっきまで海を見ていたんだ」

「私がこういう人間だというのは知っていることでしょう? 想像をしないあなたが悪いのです」

 

僕は頭を掻いた。何も変わらないいつも通りの母親だった。いやになるほどに貞淑な物腰だが、どことなく他人に対する毒を持っている。僕は彼女の丁寧に結われた髪を見つめる。こんな人通りもまばらな町角に立ち、誰に見せるというのだ。

 

「どうしたのです。早く家にお入りなさい」

「そうだね」

 

門をくぐるとき、柱の表札の横に添えられた「町政相談所」と彫られた板を一瞥した。

 

「お父さんが待っていますよ」

 

母に促されて応接間の扉を開ける。

 

父が浴衣を着てソファに座り、煙草をふかしていた。

部屋に濃厚な香りが漂っている。

僕が子供のころから嗅ぎ慣れたパーラメントの匂いだ。

僕は煙草を吸わない。

そのせいだろうか、嗅ぎ慣れた匂いであることと関係なく、息が詰まって咳き込んでしまった。

その音に気が付いたかのように、父が振り向いた。

 

「久しぶりだな」

 

抑えられた音量で鳴っていた音楽を止める。

 

エレクトリック・ライト・オーケストラの「Turn To Stone」だった。

僕が子供のころから本当に何も変わらない。

この部屋は時が止まっているかのようだ。

 

「家の前の看板。あんなものまだ出しているの?」

「なんのことだ」

「町政相談所って。もう議員は辞めたんでしょ?」

 

父は何も答えなかった。

不機嫌そうに「お前は役人の発想だな」と言った。

 

「お前らのしがらみは、俺たちのしがらみとは価値観が違う」

 

あんたらのしがらみは、しがらみじゃなく名誉欲だろうと言い返したかったが、口の中に留めた。

 

「どうした急に。今までろくに帰ってこなかっただろう。何か頼みごとか」

「違うよ。たまたま仕事の付き合いで故郷談義になったんだ。それで気が向いただけだよ」

「そうか」

 

言いながら、新しい煙草に火をつけた。

 

「どうだ? 久しぶりのこの町は」

「あまり変わらないね」

「馬鹿言え。激動の波にさらされている。老朽施設の建て替え、クリーンセンター焼却炉2号炉の問題、義務教育学校の統廃合。頭の痛い問題だらけだ」

「そっか」

「お前らが地方交付税をもっと流せば片付く問題も多いぞ」

「地方の自立を望んでいるんだよ、きっと」

「自立という名の丸投げ自己責任論か」

「違うよ」

 

吐き気がしてきた。

どうして父親とこんな押し問答をやらなければならないのだ。

 

「クリーンセンターって何かあったの?」

 

話題を変えようと思った。

 

「2号炉の調子がおかしい。かなり古い施設だからな。今は稼働を停止している。建て替えるには予算がない。現状では他市の焼却炉に委託して焼いてもらっているが、これはこれで金がかかる。頭の痛い問題だ」

 

「学校は統廃合が進んでいるんだ?」

 

「進んではいない。詰まらないことで揉めている」

 

人口減少と少子高齢化の流れの中で、義務教育学校の統廃合化は避けられない流れだった。

実際、大洗町も1970年代と比べておよそ75%の人口にまで減少している。

高齢化比率で考えると、子供の数の減少はさらに著しい。

ベビーブームの頃に建てすぎた義務教育学校が今では行政のお荷物と化していた。

施設というのはそこにあるだけで維持費がかかってくる。

 

「詰まらないことって?」

「統廃合せざるを得ない地域で、新たな学校をどの地域に建てるかで揉めているんだ。羽島地区と岡辺地区だ。この二つの地域を統合して、一つの校区にしたい。現状は二校区に分かれているが、どう考えても一校区分の子供の数しかいないからな。羽島小学校を残すのか、岡辺小学校を残すのかで地域住民の間で軋轢が生まれてしまっている」

 

「地区の議員が調停すればいいじゃないか」

「馬鹿言え、焚き付けているのは議員だよ。羽島地区は園田議員の縄張りで、岡辺地区は島野議員の縄張りだ。自分の地区で学校がなくなれば明らかに選挙に影響する。それでお互い必死なんだ。PTAを焚き付けて一歩も譲らない代理戦争をさせていやがる」

 

「それで、その仲を取り持つのが父さんの今の仕事ってわけ?」

「そういうことだ。議員を辞めた俺の立場だからこそできることだよ」

「ふぅん」

 

それで調停料はいくらなんだろうね、と皮肉を言いたくなる。

 

「まぁ、しかし、大体まとまりそうだよ。学校は羽島の方を残すことにして、その代わり、今度改修する公民館は岡辺地区の方を優先しようかと思う」

「へぇ……。そういうと、学校で思い出したけど。波止場で学園艦を見たよ」

「先日まで停泊していたからな。アウトレットモールの連中が掻きいれ時だと喜んでいた」

「アウトレットモールかぁ。久しぶりに僕も行こうかな」

「それならちょうどいい。俺も行こう。ついでにどうだ? 外で飯でも食わないか?」

「いいよ」

「よし、決まりだ」

 

父が立ち上がった時、壁に貼ってあるポスターが目に入った。

ポスターには「改革断行。大洗を新しくする会」と刷られていた。

僕は違和感を感じた。

だが、その違和感がなんなのか即座に把握できなかった。

父が現職の議員だったころから、頼まれてこういうポスターは度々壁に貼っていた。

僕は子供の頃、美しい応接間の壁が汚されるのが嫌で、父に文句を言ったことがあった。

そのとき父は

 

「いいか。応接間っていうのは、いろんな客がやってくる。だからこそ、そこに貼らなくちゃならないんだ」

 

と言った。

だから、ポスターが貼られていること自体にはおかしいところはなかった。

だったら、この違和感は何なのか。

僕は首をかしげながら、応接間を後にした。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6 大洗を新しくする会

春先だというのに少し寒い日だった。

父と連れ立って外に出ると風が吹き肌が泡立った。

僕は普段は厚着をしない性質だが、この日は裏地のあるジャケットを羽織っていて正解だった。

僕の考えを見透かしたように

 

「少し冷えるな」

 

と父が言った。そしてライターで煙草に火をつけた。

外では吸わない人だと思っていた。

 

「人が見るよ」

「もう引退したんだ。俺は自由に生きる」

「暗躍しているくせに」

「これでも気を遣っている。本当は髭を生やしたいぐらいだ。俺はウッドストック世代だからな」

「でも父さんが好きなエリック・バードンは髭を生やしていなかったと思うけど」

 

父は苦笑しながら『サンフランシスコの夜』を口ずさんだ。僕も思わず苦笑した。

こういう部分だけは憎めない。

バリバリの保守系の議員で通っていたくせして、カウンターカルチャーが大好きな人なのだ。

 

「さぁ行こうか。昼を過ぎると人が増える」

 

二人連れ立って町を歩く。ところどころの民家に先ほど応接間で見かけたポスターが貼ってあった。

大げさなフォントで『改革断行!』と銘打っているポスターだ。

 

「これ、家にもあったよね。なんかの政党のチラシ?」

「ううん、まぁ。政党というか、地域の組織みたいなもんだな……」

 

珍しく父が歯切れ悪くつぶやいた。まるでそこに髭があるかのように顎を撫でる。

 

「地域政党ってこと?」

「そこまで大げさなものじゃない。あくまで市民団体だ。それに賛同する議員も募ってはいるが」

「ふぅん」

 

僕は少し気になって、そのポスターを携帯で写真に収めた。

 

「ほら、早く行くぞ」

 

父が急かすように肩をたたく。僕は頷いた。

 

アウトレット・モールに着くと、父はやけにはしゃいだ様子を見せた。

 

「見ろ、ナイキの靴があるぞ。買ってやろうか?」

「いや、いらないよ。東京でも買えるし」

「なんだ、せっかくたまには何か買ってやろうと思ったのに」

 

僕たちはキャンピングカーを模した屋台でホットドッグを買い、ベンチに座ってそれを食べた。

 

「こんなところ、職員に見られたら驚かれるな。辻先生、何をしておられるのです?ってな」

 

父が照れくさそうに笑いながら、ホットドッグと一緒に買ったコーラを飲んだ。

 

「久しぶりに甘いものを飲んだら、トイレに行きたくなったよ。ちょっと待っていてくれ」

「わかったよ」

 

父の後姿を見届けると、僕は携帯を取り出した。

インターネットへと接続する。

検索画面に『大洗を新しくする会』と打ち込んだ。

先ほどからの違和感の理由を知りたかったからだった。

モールに来てから、僕の違和感はますます大きくなっていた。

というのも、モールのいくつかの店舗にもこのポスターが貼られていたためだった。

 

通常、商店というのは『色』がつくことを嫌う。

政治的なポスターを貼ることに対してはナーバスなものだ。

というのも、一定の政党や議員を応援すると、その政党や議員に反対しているお客が逃げてしまうからだ。

地域密着型の商店ならなおさらである。

政治的なポスターに関しては、付き合いなどのしがらみがあれども、一枚も貼らないか、左右取り混ぜてあらゆるポスターを貼るかという二極化が普通だ。

だが、このポスターに関しては、人目を気にしないかのように堂々と商店にも貼られている。

どうにも不思議な気がした。

 

検索をかけて出てきたのは、いかにも素人が作ったような簡素なホームページだった。

フレームも何もなく、薄いクリームを色をした背景にベタベタと大きなフォントで文字が張り付けられている。

ほとんど箇条書きだ。

 

そこには、『われわれ大洗を新しくする会は、公務員の怠慢を許さない』だの『仕事をしない議員を追放しよう』だのと書かれていた。

改革プランと称して『行政のスリム化』『議員定数・報酬の削減』『民間委託の徹底』などが並べられていた。

おかしくはないが、よくある、どこでも耳にするような流行の言葉ばかりだった。

 

スクロールしていくと、『改革に反対する悪徳議員』というリストがあり、何人かの町議の名前が写真付きで掲載されていた。その下に『われわれの改革に共鳴していただける議員リスト』というものがあり、こちらも何人かの議員の名前が写真付きで載せられていた。

そのさらに下には『改革に賛成する市民会員』というリストがあり、何名かの市民が写真付きで載っている。

 

結局のところ、選挙のために特定の議員を支援する目的のサイトだった。

市民会員というのも恐らく今後選挙に出る予定の連中なのだろう。

しかし、ここにおいて『悪徳議員』と名指しされている連中が一体どんな悪徳を成したのかは一切書かれていないし、『改革に共鳴する議員』というのがどんな改革的な政策提言をしているのかも書かれていない。

『行政のスリム化』『議員定数・報酬の削減』『民間委託の徹底』という三つの改革プランは、具体的にどのように実現するのか細かい説明が何も書かれていなかった。

ようするに、エビデンスが何もない。

僕は思わず笑ってしまった。

 

「こんなの、地方の町議会じゃなきゃ訴えられるぞ。名指しで顔写真掲載して他人の悪口書いちゃってるよ。名誉棄損レベルだな」

 

だが、サイトを最後までスクロールして、笑顔が凍りついた。

 

サイトの最下部に『大洗を新しくする会 名誉顧問 辻 誠一郎』という文字があった。

もちろん、僕の父親の名前だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7 父

父の名前がそのサイトにあったことに驚いた。

父の「暗躍」にこういう形で遭遇することになるとは。

同時に、かなり嫌な気分になった。

「大洗を新しくする会」のサイトは、かなりポピュリズムに阿ったものだった。

大衆のルサンチマンをわかりやすく利用するという方向性だった。

僕が役人という職に就いているからかもしれないが、中身のない空虚な、勇ましい修飾語だけが一人でダンスを踊っているような、意地汚いものに見えた。

改革をするというのなら、誠実に数値で、今の大洗町の問題点を指摘するべきだと思った。

予算編成から、税金の使われ道を分析し、

 

「こことここが無駄であるので、このように変える」

 

ときっちりと書けばいい。

そういうことをせずにただただ改革をするとだけ書いているのはアンフェアであるように思われた。

意味のあまりわかっていない一般市民を騙しているようにも感じられる。

また、特定の議員を理由を書かずに「悪徳である」と断じているやり方にも気持ち悪さを感じた。

もしも、彼らが何らかの悪事を働いているのならば、それをきっちりと書くなり、裁判をするなりすればよい。

そうしていない時点で、どうにも嘘のように感じられた。

 

僕は携帯を閉じ、父のことを想った。

僕の中の父の像がぼやけていく。

輪郭を失っていく。

僕の中で父は、決して好ましい人物ではないが、憎むことのできない人物だった。

怒りやすく、頑固で、自己中心的だが、同時に『甘さ』もあった。

その甘さは、他人が困っているときに手を差し伸べるべきかどうか真剣に悩んでしまうというような種類の甘さだった。

悩んだ末に手を差し伸べ、ややこしいことになっているのを何度か見てきた。保守派のくせして、カウンターカルチャーを愛してやまないのも『甘さ』の表れだと思っていた。

刺々しい外面の内側にそういうナイーブで少年的なものを持っている人……だと思っていた。

しかし、ナイーブで少年的な人間が、自己を恥じることなくルサンチマン的なものを利用したり、他者を(恐らくわざと)検証なしに罵ったりするのだろうか。

 

「家族といえども、その内面は見えない、か」

 

僕はひとり呟いた。

そして顔を上げると、父が立っていた。

僕は思わずのけぞりそうになった。

 

「どうしたんだ?」

 

父が問いかけた。その表情には何もおかしなところはない。

僕が携帯で検索をかけていたことは見ていないのだろうか。

 

「いや、なんでもないよ。ぼんやりしてしまっていたから驚いただけ」

 

僕は鼻を掻いた。サイトのことを父に尋ねようかと迷ったが、どう切り出せばよいか判断がつかない。

父の後ろに、人影があることに気が付いた。

人影がぺこりと会釈をした。僕にだろうか?

僕は自分の顔を指さす。人影が頷いたので、こちらも会釈を返した。

 

「こんにちは。辻先生の御子息さんですね」

 

人懐っこい声を発した男性には見覚えがなかった。

 

「そこのスポーツショップの店員をやっている芹澤と申します。辻先生にはお世話になっておりまして」

「あ、ど、どうも」

 

芹澤と名乗った男は、僕と同じぐらいの年齢に見えた。

背は少し低く160センチぐらいかもしれない。

しかし、がっしりとした体格をしていた。

髪を短く刈り、スポーツマン風情を醸し出していた。

対象的に、表情や声は妙に柔らかい。

アンバランスな印象を受けた。見る人によって、厳ついと感じられたり、優しそうだと感じられたりしそうだ。

 

「先ほど、偶然トイレで先生とばったり会ったんですよ」

 

芹澤が慇懃に笑った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8 芹澤

芹澤と名乗った男は、いやに人懐っこい表情を見せ、右手を差し出してきた。一瞬なんなのかわからなかった。

それが握手を求めているのだと気が付くまで数秒かかった。

僕は少し躊躇しながら彼の真似をして右手を差し出す。

 

「どうも。辻廉太です」

 

手のひらを強く握られた。

硬質な、がっしりとした手だった。

僕は基本的に他人とは距離感を保ちたい性格だ。だから、唐突な握手にはあまり良い印象を抱かなかった。

こちらのそんな気持ちは分かっていないであろう芹澤が、父に向って

 

「品のある素敵なご子息ですね」

 

と言った。

 

「そうか。そう感じてくれるなら親としてはうれしいが」

 

父が照れくさそうに笑う。

僕はかなりイライラとしていた。地味でうっとおしい僕のどこに品があるというのだ。

今までそんなことは一度も言われたことがない。あまりにも歯の浮くお世辞だ。

 

「あ、せっちーだ! 何してるの?」

 

僕がうつむいていると、通りがかった女性が手を振った。

 

「お昼の休憩だよ」

「お店ヒマなの~?」

「学園艦が行っちゃたからね。ユウちゃん、なんか買ってってよ」

「え~? もう私、戦車道は引退したもん」

 

じゃぁね、と手を振ってモールへと消えていった。

 

「今の人は?」

「あぁ、うちの店の常連だった子ですよ。高校生の時に戦車道やってて。寄港した時は友達何人かでよく遊びに来てくれてたんですよ。もう卒業して、陸に降りて数年経つのかなぁ。時が流れるのは早いもんです」

「あぁ、戦車道……」

「お! 興味ありますか?」

「興味というほどではないですけど。時々テレビで試合を見るぐらいです」

 

本当は戦車道には10年前から思い入れがあった。

だが、それは僕にとってはややインティメートな性質の思い入れだった。

他人と共有して騒ぎたいとは思わなかったので、抑え気味にした。

それでも芹澤は食いついてきた。

 

「へぇ。テレビで試合見てくれているんですね。それはうれしいなぁ!」

 

まるで戦車道が自分のものであるかのような物言いに聞こえた。

 

「僕はね、戦車道をすごく応援しているんですよ。うちのお店にいろいろとグッズを置いたりしているんです」

「芹澤君の店はすごいんだぞ」

 

父が口を挟んできた。

 

「試合に使う棒みたいなのあるだろ。ほら、あれなんて言うんだ。棒」

「棒?」

 

僕は首をかしげた。

 

「棒だよ棒。試合の判定に使う、審判が持ってる棒だ」

「あぁ、判定用の札のことか」

「そう。大洗市街地での試合には芹澤君の店から卸すようになっているんだ」

「へぇ」

 

それって単に商工会議所と行政がグルになって地元の販売店の売り上げ稼ぎをさせてやっているだけじゃないのか? 

この男の店は製造元というわけではないわけなのだから。

 

「いやいや、恐れ多いですよ」

 

芹澤が笑った。

 

「でもね、廉太君」

 

いつの間にか彼は僕に対する敬語をやめていた。

 

「この町は、OG多いよ。戦車道の」

「そうなんですか?」

「うん。なんて言うのかな。やっぱりほら、スポーツやってる女の子たちだから。考え方がしっかりしているっていうか、ちゃんと愛郷心を持っているっていうか。さっきの子だって、船を降りた後はああやって地元に戻ってきてくれているしね。卒業後もちゃんと町に残ってくれるから。戦車道のOG会ってのもあって、けっこう頻繁に集まったりしているんだよ」

 

「それはいいことですね」

「そうだよ。これからの政治は、あぁいう、心身ともにたくましく、地元愛にあふれる若者を育てるべきじゃないかな」

 

「戦車道のOG会、名前はアンコウ肝の会略してアン肝会というんだがね、市のいろんなイベントに出てもらったり、父さんの選挙でもずいぶんと動いてくれたんだ。芹澤君はそのまとめ役をやってくれていたんだぞ」

「選挙?」

 

聞き間違いかと思った。戦車道と選挙が一体どういう風に結びつくのかがよくわからなかった。

それに、僕が感じていた戦車道の魅力……明るく元気な少女たち……と選挙というどろどろと薄汚れたものとはあまりにも相容れないように感じられた。

だが父は、あっけなく僕の質問に答えた。

 

「そう選挙だよ」

「え? でも、戦車道をやっているのはまだ子供たちだよ?」

 

何かの間違いだと言ってほしかった。

 

「だから、OG会だと言ってるじゃないか。18歳で高校を卒業するんだから、そのまま陸に降りてきたらすぐに20歳だ。大学を出たとしたら、大洗に戻ってきた時点で確実に選挙権がある年齢だ」

 

「廉太君、君はあまりお父さんの選挙を手伝ってこなかったから知らないのかもしれないが、スポーツ関係のOB・OG会っていうのは、選挙にそれなりの影響力を持ってるんだよ。結束が固いし、上の命令をよく聞くからな。

若者は普通はなかなか投票に行かないが、スポーツ系のOB・OG会は上を引き締めれば若い連中も促されて投票に行く可能性が強い。体育連盟の新年会にでも一度顔を出してみるといい。票を狙った町議さんたちがたくさん参加しているよ」

 

「野球は中野議員、サッカーは芳川議員の応援団だ。戦車道はもともと別の議員さんのものだったが、芹澤君が一生懸命まとめてくれたから、だいぶ俺に票が流れたはずだ」

「ははは、頑張らせていただきました」

「そ、そうだったんですか……」

「ん? どうしたの? 顔色悪いよ?」

「大丈夫か、廉太」

「あ、だ、大丈夫。少し疲れただけだから」

 

僕はふらふらと壁にもたれこんだ。

 

「お前、風邪か何かじゃないのか? 東京で仕事を頑張りすぎているんじゃないか?」

 

父が心配そうに覗き込んでくれた。

その瞳にはいやらしさは微塵もなかった。

 

「大丈夫? 今日は実家にいるんでしょ。ゆっくり休んだ方がいいよ」

 

芹澤が猫なで声で言った。

 

「申し訳ないね。俺は廉太を連れて家に帰るよ」

「はい。こちらこそ、親子水入らずのところを邪魔をして申し訳ありませんでした」

 

仕事に戻ります、と言いながら背を向ける。

父が、

 

「ありがとう。また、明日『増野』で」

 

と言った。

芹澤が振り向いて、馬鹿丁寧にお辞儀をしながら言った。

 

「はい。承知いたしております」

 

嫌な笑顔だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9 矛盾

「なぁ、大丈夫か廉太。本当に体調に問題ないのか?」

 

おろおろとしている父を見るのは心地よかった。

僕の心配をしてくれているということが単純にうれしかった。

父を心の半分で疎ましく感じながらも、「褒めてほしい・見て欲しい」、そういう気持ちがどこかに潜んでいる。

官僚を目指そうと思った10代の頃から僕は成長できていないのかもしれない。

それで僕はわざと甘えるように

 

「少し気分がすぐれないかも。家に帰りたいよ」

 

と言った。これが30代後半の男のセリフだろうか。自分で自分を嘲笑したくなる。だが、故郷の空気がそうさせているのかもしれない。ここにいる間は、子供でいたいのかもしれない。

 

「わかった。今日は家でゆっくりと休もう」

父が歩き出した。

「一人で歩けるな?」

 

僕は頷いた。そしてまた笑いそうになった。

歩けないと言ったらどうするつもりなんだ、この人は。負ぶってくれるとでもいうのか? それはさすがにまっぴらごめんだ。

父の背中を見ながら歩く。

お互いに言葉数が少なくなった。僕は黙って、先ほどの父の言葉のことを反芻しながら歩いた。

父は芹澤に「明日また『増野』で」と言った。

『増野』というのは、おそらくは海岸に近い通りにある料理屋だろう。大洗の地の魚をふんだんに出すということと、有田の名のある窒の器を使用しているということを売りにしている店だ。

確か3代ほど続いているいわゆる老舗というべき料理屋だが、父は以前その店を嫌っていたはずだった。

僕が大学生の頃だったと思う。実家に帰った折に、高校時代の同級生に飲みにいかないかと誘われた。

 

「ほら、海岸の方に『増野』ってあるだろ? あそこの二階に行ってみたいんだよ。俺たちも酒の飲める齢だしさ。お前の親父さん議員だろ? 連れてってくれよ」

 

僕がそのことを父に伝えると、父は吐き捨てるように

 

「行きたければ行けばいい。ただし、あんな店、旨くないし美しくもないぞ」

 

と言った。

 

「え? そうなの?」

「良い魚を出すだけだったらもっと安くて旨い店がいくらでもある」

「でも、なんだかお座敷とかあって、すごい器で出てくるらしいけど?」

「お座敷なんか薄汚れてボロボロだ。器? あぁ、有田の何とかいう窒の12代目の器を飾ってはいるな。それはちょっとした値打ちもんだ。今が14代目だが、12代目のは高いんだ。しかし、お前らみたいな若造が行ってもそんな器で料理が出たりはせんぞ。そもそも、客に出すもんじゃない」

「全然噂と違うのかよ」

「そうだ。あんな店、しがらみだけで生き残っているんだ。使うのは各種団体や議員、そういう『お偉方』の付き合いばかりだ」

「じゃ、父さんは使ってるんでしょ?」

「俺は使わんよ。あの店の店主は、いろんな議員を呼んで会合を開かせて、ある種のフィクサー気取りなんだ。いけ好かん」

「へぇ……」

 

結局僕と高校時代の同級生は、水戸に出て普通の居酒屋で酒を飲んだ。

父が芹澤と会う約束をしているのが、その『増野』だとしたら、妙だと思った。

父は頑固な人間だ。

いけ好かないと自分で言っていた店を使うだろうか。

それに、「明日『も』」と言っていたはずだ。

そんなに頻繁に?

 

家に帰ると、本当に疲れが噴き出してきた。

僕は、

 

「久しぶりに自分の部屋でゆっくりするよ」

 

と言った。

 

「あぁ。そうするといい」

 

父が煙草に火をつけながら言った。

 

二階にある自室のドアを開けると、予想していたような埃っぽさはなかった。窓が半分ほど開けられていた。

換気のためだろう。床の掃除も行き届いている。母が、僕がいない間、清潔に保ってくれていたようだった。

僕は窓を閉め、ベッドに横たわった。ベッドはきっちりとメイクされていて心地よかった。

天井はさすがに経年で少し染みが浮かんでいたが、それでも不快な感じはしなかった。

春先の陽光が窓から差し込んでくる。窓越しの日差しが、子供の頃ずっと使っていた机をきらきらと照らしている。

机の上のブックエンドには、いまだに入試用の問題集と、当時読んでいた漫画が並べられていた。

それだけ長い間、家と疎遠だったし、ほんの少し帰ってきてもこの部屋に入っていなかったというわけだ。

僕はなんだか懐かしいような柔らかい気持ちになった。このまま眠ってしまおうか、と思った。

目を閉じる。

目を閉じると、父の顔が浮かんだ。

今日の父は矛盾だらけだった。

『大洗を新しくする会』とのかかわり、『増野』での会合。

おおよそ僕の中の父の像とはかけ離れている。

一方で、直接話すときの父の雰囲気は何も変わっていなかった。

独善的であくが強いが妙な甘さがある。

今度は、芹澤のことが頭をよぎった。

彼の顔が、どこか頭の隅に引っかかっていた。

 

そのまま少し居眠りをしてしまい、気が付くと夕刻になっていた。

のどがカラカラに乾いていた。

僕は起き上がり、1階の今へと移動した。

キッチンから母が出てきた。

 

「あら、起きたのですか?」

「うん。もう6時だね。寝すぎたよ」

「体調が悪いと聞いたけれど。大丈夫ですか?」

「何の問題もないよ」

「そう。それはよかったです」

 

相変わらず淡々と丁寧に話す母の様子からは感情が読み取れなかった。だがこの人は僕がいない間も僕の部屋を掃除してくれていた。

 

「あまり遅くなるといけないから、帰るよ」

「あら」

母が口元に手を当てた。

「せっかくお料理を用意したのですけど」

「そうなの?」

「ええ。食べて帰りなさいな」

「うぅん……」

 

僕は少し悩んだ。今までなら絶対に食べなかったが、今日は後ろ髪ひかれていた。だが、ここでズルズルとこの家にはまり込んでしまうことが怖くもあった。

 

「いや、東京に帰るよ。父さんによろしく」

「わかりました」

 

母が頷いた。僕のこういう態度には慣れているのだ。

荷物をまとめ、玄関の門を開けると、そこに芹澤がいた。

 

「え? 芹澤さん?」

「あぁ、どうも」

 

芹澤が頭を下げた。

 

「いや、体調が悪そうだったから、気になっちゃって。早めに店を閉めて飛んできたんだ」

 

人懐っこい声を出した。

 

「えと、あの、少し眠ったのでもう大丈夫です。これから帰ろうかと」

「そうか! よかった。あとさ、せっかくだから、連絡先の交換でもしておこうと思って。ほら、これも何かの縁だから」

「そ、そうですか」

 

で、僕が出てくるのをそこで立って待っていたと言うのか?

その慇懃すぎる態度が僕には理解できなかった。

それとも偶然、軒先に着いたタイミングだったのか?

 

「名刺でいいですか?」

 

僕は名刺ケースから、仕事用の名刺を取り出す。

 

「携帯の番号は入ってる?」

「あ、いえ……」

「じゃ、アドレスも書いてほしいな」

「は、はぁ……」

 

ボールペンを手渡される。

彼のスピード感についていけず、僕は名刺の空白に携帯番号を書いた。

 

「ありがとう。大事にするよ」

 

芹澤が笑顔で会釈する。

 

「これ、僕の名刺ね」

 

何の変哲もないスポーツ店の名刺かと思いきや、カラーでしっかりとした顔写真が入っていた。

紙もそこそこ、上質なものを使用している。

僕はそれを受け取ると、

 

「で、では」

 

と頭を下げて、彼の横をすり抜け、家を後にした。

しばらく歩いて振り向くと、彼はまだ軒先にたたずみ、こちらを見ていた。

目が合うと、小さく手を挙げてきた。

 

帰りの列車の中で、もう一度、芹澤の名刺を見た。

その瞬間、脳が記憶を呼び戻した。

急いで携帯を開け、「大洗を新しくする会」のサイトへとアクセスした。

スクロールするのがもどかしい。

…………やはり、そうだ。

サイトの下部、「改革に賛同する市民会員」のリストの中に芹澤の顔があった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10 神保町

夜更けに東京のマンションに帰り、フローリングに荷物を下ろすと同時にため息が出た。

久しぶりの帰郷は、たった1日だというのにいろんなことが起こった。

芹澤という男と新しく知り合うことになった。

芹澤は、おそらくは何のことはない、野心の強い俗物だ。例のサイトに名前があったことではっきりとした。

父の選挙を手伝い、今度は自分が議員になろうとしている。

まぁ議員に向いているのかもしれない。

あの猫なで声、柔らかな物腰、そして粘り強さも持ち合わせているように思える。

なりたければ勝手になればいい。

僕とは何の関係もない。

 

一方で、父や母や自宅を久しぶりに見ることができたのは思ったよりも悪くなかった。

東京で離れて暮らしているうちに、家族や大洗のうらぶれた嫌な印象ばかりが僕の中で大きくなりすぎていたようだ。

僕は、自分にはひねくれた部分があると自覚した方がいいのかもしれない。

 

「今更感じるノスタルジア、か」

 

つぶやきながらベッドに腰掛ける。

大洗の実家のベッドから見た光景と比べると、東京の僕の部屋はがらんどうだった。

仕事が忙しかったせいだが、ほとんど趣味的なものがない。

ずっと一人暮らしだということもあるのだろう。

必要最低限のものしかなく、まるで出張先のホテルの一室のようだ。昨日まではこの部屋がとても機能的でクリーンなものに感じられたが、今はほんの少し淋しげに見えた。

 

僕は首を振った。

だからなんだというのだ。

毒されすぎだ。

ここはいい歳をした大人の部屋なんだ。

シンプルで何が悪いというんだ。

シャワーを浴びたかったが、一度ベッドに腰を掛けると、もう立ち上がる気力が失われていた。

ジーンズを脱ぎ、シャツを緩め、そのまま横たわり眠ってしまった。

夢に落ちていく寸前に、今朝、実家で見た父の背中が思い出された。父は今朝、居間でエレクトリック・ライト・オーケストラの「Turn To Stone」を聴いていたっけ・・・。

 

目覚めた時、まだ僕の頭の中でELOのレコードが廻っていた。「Turn To Stone」がオートリピートで再生されている気分だった。

少し懐かしい。

父親が好きだったので、子供の頃に僕も一緒になって聴いた曲だった。でも、もう長い間、自発的には聴いていない。

どこかにあっただろうか……と思い、棚を見渡したが、もちろんエレクトリック・ライト・オーケストラのCDは1枚もなかった。

ロックのCDがそもそもほとんどない。

東京に出てきてから買ったものと言えば、仕事の妨げにならないかと思って購入したクラシックのCD数枚だけだった。

昨日、日帰りで戻ってきたので、まだ日曜日だ。ちょうど仕事がなかった。

 

「たまにはCDを買うのも悪くはないか」

 

僕はジーンズを掃き、Tシャツに薄手のパーカーを羽織って家を出た。

昨日よりもずっと暖かい日になるらしかった。

神保町のディスクユニオンへ行き、エレクトリック・ライト・オーケストラのCDを探した。

 

「Turn To Stone」はどのアルバムに入っていただろうか……。

 

子供の頃、父の傍らで『New World Record』と『Out Of The Blue』の二枚をよく聴いた記憶があった。

だが、「Turn To Stone」がそのどちらに入っていたかがどうしても思い出せなかった。

幸い、二枚とも置いてあったので、曲目をチェックする。

「Turn To Stone」が入っているのは『Out Of The Blue』の方だった。

しかし、僕が比較的好きだった、他の曲……「タイトロープ」や「So Fine」は『New World Record』の方に入っていた。

それに、僕は子供の頃、『New World Record』の都会の夜の街並みが映し出されたジャケットデザインが好きだった。

都会に憧れを抱くようになった一因だった。

 

かなり悩んだ末、結局、「Turn To Stone」が収録されている『Out Of The Blue』の方を買った。

店を出ると、知らない番号から着信があった。

まさか芹澤だろうか、と思った。

ちょうど昨日、勢いに押されてアドレスを教えてしまった。

気は乗らなかったが、無視するわけにもいかない。

表示された番号にかけなおした。

 

「こんにちは。辻君」

 

電話口に聞こえる声は、篠崎代議士のものだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11 仕事の実感

評価やご感想、誤字脱字報告ありがとうございます!


「え? あれ? 篠崎先生ですか?」

 

僕は驚いた声を上げた。

 

「ああ、そうだよ。すまない、急に電話をして」

「あ、いえ」

 

彼の低く洗練された声に、背筋が伸びる思いだった。

 

「驚かせてしまったかな。実は中さんから君の番号を訊いていたんだ」

「左様でございましたか。申し訳ありません、取り乱してしまいました」

「いや、こちらが悪いんだ。知らない番号から着信があると驚くのも無理はない」

ところで今何をしている?と篠崎代議士が問いかけてきた。

「僕はさっきまで、新宿の紀伊国屋でぼんやりとしていたんだ。このところ忙しくて、急に休みができたら、休み方を忘れてしまっていた」

 

小さく笑う。

 

「それでふと、先日一緒に飲んだ君のことを思い出したんだ」

「あ、ありがとうございます」

 

僕は携帯を持ったまま頭を下げた。

 

「それで、今何をしてる?」

「神保町にいます。今日は予定がありませんでしたので私も暇を持て余していました」

「神保町か。良いな。好きなカレー屋があるんだ。もうお昼は済ませたか?」

「いえ、まだです」

「よし、それじゃ、合流してもいいか? それとも、女性と一緒だったりするか? もしそうならそうだと言ってくれて構わない。野暮な男にはなりたくない」

「女性なんていません。むしろありがたいお誘いです。あの、こちらから新宿に行くこともできますが」

「いや、神保町が良いんだ」

「承知いたしました」

 

数十分後、改札口に篠崎代議士が現れた。

彼は淡い茶色のヘリボーンの質の良さそうなジャケットを羽織り、紺色のチノパンツをはいていた。

シャツは真っ白なスタンドカラーで、洗いをかけたようなざっくりとした生地がカジュアルさを演出していた。

 

「やぁ。待たせたね」

「いえ、こちらこそ、わざわざ来ていただいて本当にありがとうございます」

「怒っていないか?」

「え? 何をですか?」

「勝手に中さんにアドレスを訊いたことをだよ」

「むしろありがたいですよ。気にしてくださって」

「そうか」

「神保町はよく来られるのですか?」

「いや、久しぶりだ。若いころ、議員向けセミナーをこの辺のビルの研修室で受けたことがある」

 

ほら、あそこのビルだ、と、代議士が8階建ての細長いビルを指さした。

 

「研修ですか」

「まぁ、つまらん内容だぜ。同じような顔ぶれが同じような内容をいつも語っている。セミナーは政務調査費で落ちるからな。払う方は腹が痛まないから、どんな内容でも成り立つ。俺は二度行く気にはならなかったけどな」

 

僕は苦笑いした。

 

「で、俺の行きたいカレー屋なんだがな……」

 

と言いかけて、彼が僕の手元に目を止めた。

 

「ディスクユニオンの袋じゃないか。何か買ったのかい?」

「あ、実は昨日、実家に帰りまして」

「へぇ、実家に」

「はい。それで、父が好きだった音楽があって。たまたまそれを聞いたので、懐かしくなって、買いなおしたんです」

「なんのCD?」

「エレクトリック・ライト・オーケストラの『Out Of The Blue』です」

「ELO! ジェフ・リンか。『Out Of The Blue』は宇宙船の表紙のやつだな」

「ご存知ですか?」

 

少し意外だった。

 

「ELOのファンじゃないが、70年代のイギリスのロック全般が好きなんだよ。ジェフ・リンといえば、知ってるか? ELOのヒット曲のDO YAは、実はもともとジェフ・リンが最初にいたMOVEというバンドの曲のリメイクだ」

「そ、そうなんですか」

 

あまりの食いつきに少し圧倒される。

 

「そうだ、ちょうどいい。今度、一緒にライブに行かないか?」

「え、ライブですか?」

「あぁ。元GENESISのスティーブ・ハケットの来日公演が来月あるんだ。『魅惑のブロードウェイ』の全曲を再現するらしい。どうだ?」

「しょ、承知いたしました」

「よし、決まりだ! それじゃ二枚買っておこう」

「いえ、恐れ多いです。私が買っておきます」

「まぁまぁ、こういうのは買うのも楽しいんだ」

 

そのあと我々はカレー屋でパキスタン風カレーというものを食べ、しばしロック談議に花を咲かせた。

カウンターで私服でロックを語っている篠崎代議士は、無邪気で熱く、青年然として見えた。

しかし、考えてみれば彼は、委員会に於いても舌鋒鋭く、攻撃的で激しい熱量を持った男だった。

僕は明らかに彼のキャラクターに魅力を感じていた。

昼過ぎに店を出ると、「この後は少し仕事をする」と言って、彼は駅の方へと去っていった。

 

僕は篠崎代議士と懇意になっていく自分が少しうれしかった。

これまで、淡々と仕事をこなしていくばかりだった。

しかし、こうして、篠崎代議士に気に入られることによって、自分が行政という仕事に、今までよりも一歩踏み込んでいるような気持になることができた。

 

昔、何事にも反応が薄い僕に対して、同期の山下が「お前はさ、物事に関係性を持とうとしないから、本腰が入らないんだよ」と言ったことを思い出した。

 

「関係性?」

「そう。関係性。辻ちゃんさ、どっかで一歩引いちゃってるでしょ。でも俺は関係ないから、みたいな醒めた態度」

「いや、僕は僕なりにちゃんと仕事をこなしてるつもりだけど」

「そこだよ、そこ! その淡白な態度! もちろん、辻ちゃんさ、きっちり仕事してると思うよ。てきぱきしてるし、俺より丁寧だし。でもさ、熱が感じられないんだよ」

「熱、ねぇ……」

「もっとこう、深入りしなきゃ。深入り。そうしたら、『このことは俺が何としてでもやらなきゃ』って意地とか熱とかが出てくるんだよ!」

「うう~ん、そうなのかな」

 

今、ようやく僕も、山下が言っていたような仕事との『関係性』を持ち始めているのかもしれない。

そう思いながら、日曜日の街をぶらぶらと歩いた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12 山下

いつも読んで下さりありがとうございます。お気に入り登録もありがとうございます。


篠崎代議士に気に入られていると自覚してから、物事に対するスタンスが変化していた。僕ももう30代後半だ。できることから逃げずに、何でもやろう。そんな気持ちが芽生え始めていた。4月が終わりかけたころに、再び見知らぬ番号から着信があった。

 

「もしもし。辻です」

「廉太君、元気にしてた?」

 

粘り気のある猫なで声は、明らかに芹澤のものだった。

 

「芹澤さんですか?」

「覚えていてくれてうれしいな。今何してるの?」

 

それは夜の21時で、僕は仕事の合間にコンビニエンスストアで缶コーヒーを買おうとしているところだった。

 

「まだ仕事なんですけど、少し休憩に外に出ています」

「煙草?」

「いえ、煙草は吸いません。缶コーヒーを買おうかと」

「そうなんだね。お父さんはお吸いになるのに」

「そうですね」

 

そんなことは息子の僕が一番知っている。

 

「それで、要件はなんでしょうか?」

 

ついつい、少しキツイ言い方になった。

だが芹澤は気にした様子もなかった。

 

「それなんだがね、唐突なんだけど。ゴールデンウィークは忙しいかい?」

「ゴールデンウィークですか? 日にもよりますが。出勤のない日もありますけど」

「そうか。よかった。あのさ、どうだろう。また大洗に帰ってくる気はないかい? お父さんとお母さんも喜ぶと思うんだけど」

「はぁ……」

 

訳が分からなかった。

なぜ芹澤が父と母の気持ちの代弁をしなくてはならない?

 

「いや、先日ね。廉太君が東京へと戻った後でお父さんやお母さんと話す機会があって。その時に、お父さんもお母さんも君がもっと頻繁に帰ってきてくれたらいいのにって言っていてね」

「あ、そうなんですね」

 

ほんの少しだけ心に温かいものがにじんだ。

 

「で、お父さんから託されたんだよ。僕は廉太君と齢が近いでしょ。だから、仲よくしてやってくれって」

「そうですか。ありがとうございます」

「それで、このゴールデンウィークに、お父さんにサプライズをしてあげたいなと思って。戻っておいでよ、大洗に。きっと喜ぶよ」

 

少し戸惑ったが、興味深くもあった。

先日久しぶりに帰郷をして、予想外に故郷を見直すことになった。このポジティヴな気持ちを維持したいという思いがあった。

ゴールデンウィークか。

一泊ぐらいなら、完全な休みが取れなくはない。

僕は、

 

「少し考えさせてください」

 

と言った。

 

「そう。わかった。気持ちが決まったら連絡してくれ」

 

芹澤が電話を切った。

僕の気持ちはおおよそ決まりかけていたのだが、一度で承諾することが何となくできなかった。

缶コーヒーを選び、レジに持っていく。

レジに立っていうアルバイトの青年は、いかにも大学生ですという雰囲気だった。彼もまた、地方出身者なのかもしれない。家を離れ、この東京という集積回路の中で暮らしているのかもしれない。珍しくそんな、感傷的なことを考えた。

部署に戻ろうと、庁舎のエレベーターに乗りこむと、山下がいた。

 

「おっ。辻ちゃん」

 

昔と変わらない明るい声を上げた。

彼と顔を突き合わせるのは3年ぶりだった。

以前より少し痩せ、髪型が中年らしくなっていた。

 

「久しぶりだな」

「本当にそうだわ。辻ちゃん、まだ仕事遅くなりそう? 飲みに行く?」

「え、今日?」

「そっ。久しぶりに顔見たら飲みたくなった」

「お前、奥さんいるだろうが」

「今日は遅くなるって言ってるから大丈夫だよ。んで、どう?」

「そうだな……」

 

頭の中で、残った業務を換算する。

 

「残ってはいるけど、かたずけるのは明日でも構わない内容だからな。キリのいいところで終わらせるよ」

「いいねぇ、話が分かるねぇ。んじゃ、45分後ってことでいい?」

「あぁ、電話する」

「オーキー・ドーキー」

 

きっちり45分後、庁舎を出ると夜の街灯りは美しかった。東京は広い。ビルに囲まれているようでありながら、風がきっちりと流れるほどの空間の広さがある。大洗の夜とは大違いだ。

 

「お待たせちゃん」

 

山下が楽しげにやってきた。

 

「どうよ、久しぶりに俺のドクターの店に行こうぜ」

「まだ潰れてなかったんだ、あの店」

「だって俺の主治医だぜ、潰れてたら俺が死んじゃう」

 

駅の裏手を500メートルばかり繁華街通りとは逆の方向に歩くと、5階建ての雑居ビルがある。

そこの3階に入っている、ややオーセンティックなバーが山下のお気に入りだった。

彼はその店のマスターを『俺のドクター』だの『俺の主治医』だのと戯れに呼んでいた。

僕も、山下と仲良くなった10年前には、連れられて何度か顔を出していた。懐かしくもあった。

 

「お久しぶりです、マスター」

「あ、いらっしゃい」

 

あまりしゃべる人ではないが、丸みのある目つきをしたマスターは、年齢がよくわからなかった。

僕たちが通い始めた10年ほど前、30代の後半ぐらいであるように見えたが、今日久々に会っても、それぐらいの年齢にも見える。

 

「こんにちは」

「いらっしゃい」

 

僕に対しても小さく微笑んでくれたが、覚えているのかどうかはわからなかった。

二人並んでカウンターに腰掛ける。8人並ぶことができるカウンターには誰も客がいず、後ろ手のテーブル席に一組の中年男女がいるだけだった。

 

「何にします?」

「俺はノッカンドーをロックで」

 

山下は酒が好きで、いつもウィスキーを飲む。

僕はあまり詳しくはないので、以前と同じように

 

「なにか、スコッチでハイボールを」

 

と適当に注文をした。

 

「そうですね、では、このホワイトホースの旧ラベルはどうですか? 現行のものよりも飲みごたえがあると思います」

「お願いします」

 

僕たちの前に、手際よく注がれたアルコールが差し出された。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13 戦車道

いつも読んで下さりありがとうございます。評価をつけて下さり、またお気に入り登録してくださりありがとうございます。本当に歩みの鈍い小説ですがどうぞお付き合いください。


注ぎ方やステアの仕方の違いなのだろうか。付き合いで飲まされる酒よりも、ずいぶんと美味く感じた。しかし、マスターが言ったとおり、このホワイトホースはなかなかに飲みごたえを感じた。油断をしていると必要以上に酔ってしまいそうだ。

 

「また難しい思案顔かい?」

 

気が付くと山下が覗き込んでいた。

 

「さっきエレベーターで見かけた時さ、以前よりも明るい表情になってるなって思ったんだけどなぁ」

「あぁ、いや、その。思ったよりもパンチがあるハイボールだったから、酔わないか心配になっていただけだよ」

「酔わないでどぉするんだよぉ! 酒だぞ、酒」

「お前、でも、酔って五月蠅い奴はかなわんって昔言っていなかったか?」

「節度の問題だよ! 酔って勝手気ままにふるまう奴は大嫌いだ。でも辻ちゃんは節度がありすぎるぜ。もうちょっと酔っていいんだよ」

「そうか……」

 

僕は思い切ったように、ハイボールを口に含む。

程よい炭酸が心地よかった。

 

「でも、うれしいよ」

「何が?」

「僕の表情が明るくなったって言われたこと。僕さ、最近少し、物事の考え方を変えたいと思っていて。もう少し前向きにに、何にでも興味を持って生きようかと思ってた矢先だから」

「なに? 辻ちゃん、変な自己啓発本でも読んだの?」

「バカ、違うよ。もとはというと、お前なんだよ」

「俺?」

 

山下がきょとんと自分の顔を指さす。

 

「そう。昔お前にさ、仕事の意気込みに対して苦言を呈されたことがあっただろう。ほら、『関係性を持とうとしないから、本腰が入らないんだ』みたいな」

「言ったっけ」

「言ったよ」

「ま、俺が言いそうなセリフだな」

「事実言ってたんだってば。で、だな。最近、お前のその言葉を思い出す機会があったんだよ。ちょっと身に沁みるような出来事があってさ。それがきっかけだ」

「へぇ! 俺の言葉が巡り巡って辻ちゃんの心に根を下ろしていたわけ。種は撒いとくもんだな。なんかうれしいよ」

「ははは」

 

もう一口、ハイボールを口に含む。

 

「で、いったいどういう出来事があったんよ。何年も前の俺のセリフを急に思い出すなんてさ」

「あぁ、それは。地元に帰ったんだよ。先日、土曜日を利用して」

「地元ってどこだっけ?」

「大洗」

「海水浴で有名なところだ」

「そう」

「俺さ、辻ちゃんってなんとなく奥多摩出身かと思ってたよ」

「どういうイメージだよ」

「だからなんとなくだって。それで、地元に帰って何があったのよ」

「別になんてことはないんだがな。久しぶりに父親と母親に会った。そしたら、以前感じてたほどに億劫な存在じゃなくなっていた」

 

山下が笑った。彼はもう、ロックのウィスキーをほとんど飲み干していた。少し溶けた丸い氷がグラスの中でクリスタルのように光っていた。

 

「お前、不良の高校生かよ〜」

 

楽しそうに笑う。

 

「辻ちゃんは、本当におぼこいねぇ! そういうところが大好きだよ!」

 

僕は少し馬鹿にされた気分になって、

 

「いや、それだけじゃないんだって」

 

と言った。

 

「なに、他にも何かあるの?」

「あぁ、いや、その」

 

一瞬の躊躇が僕の中であった。山下も省庁の人間だ。もう一つのきっかけ……篠崎代議士との関係性のことを話していいものだろうか。

しかし、いつもよりも少し濃いアルコールの力が、僕の口を軽くさせる。

 

「なぁ。ほかの奴には言うなよ」

「ん、あぁ」

「実はな、篠崎代議士と、いろいろとやり取りをしているんだ。これは多分だけど、僕は気に入られたらしい」

「へぇ……」

 

肩のこわばりが抜けるほどに山下の反応は薄かった。

 

「篠崎って、あの舌鋒鋭い篠崎先生だろ?」

「あ、あぁ……」

「ふぅん、としか言いようがないなぁ。ま、それがきっかけで辻ちゃんがやる気出してくれるなら、俺があれこれ言うことはないけど」

「なんだよ、その物言い」

「あぁ、いや、悪かった。たださ。どういう付き合いか知らんけど、あんまり子飼いにされて利用されん方がいいと思うぜ。いいか、俺たち役人と代議士は、別に上司と部下じゃないんだ。雇用関係の契約を結ばれているわけじゃないんだぞ」

「そ、それはそうかもしれないが……」

 

思い出してみると、10年前の委員会の時から、山下は篠崎代議士に対して否定的だった。あの時の言葉を思い出す。『あいつらはどうせ与党だからな』。

 

「山下さ、その、もしかして……野党寄りのスタンスだったり、する?」

「なに言ってるんだよ。ノンポリが俺の主義だっての。与党野党じゃなくさ、行政マンとしてどうかってことしか考えたことねーよ」

 

空になったグラスを持ち上げ、

 

「マスター。もう一杯お願いします」

 

と言った。

 

「同じものでよろしいですか?」

「そうですね……そこの、スプリングバンク12年にします」

「ロックで?」

「はい」

 

新しいグラスが用意され、そこにアイスピックで丸く形を整えられた氷がすとんと降ろされる。マスターは無表情にマドラーでその氷を回転させ、グラスになじませていく。

スプリングバンクが注がれると、濃厚な香りが周辺に一瞬漂った。

僕は少しばつが悪くなり、ハイボールをもう一口飲んだ。

 

「そういうとさ」

 

話題を変えようと思った。

 

「大洗に帰って、おかしな奴に会ったよ」

「おかしな奴?」

「そ。芹澤っていってな。僕たちよりも少し年上なんだが、今度、町議会選挙に出るみたいだ」

「俺たちよりも少し年上ってことは、40歳ぐらいか」

「たぶんな。妙な猫撫で声でさ。わざとらしい感じなんだよ。篠崎さんとは全然違うタイプだ」

「そいつって、どこか党には所属してるの?」

「どうだろうな。詳しくは知らないが、スポーツショップの店員をしてて。スポーツ関連とか、そういうのから票をもらう算段みたいだ。たぶん無所属か、小さな地域政党から出るんじゃないかな。『大洗を新しくする会』って胡散臭いのに所属してるみたいだった」

「ふぅん」

 

山下が新しいウィスキーを口に含んだ。

 

「篠崎氏はお坊ちゃまだからな。若くして与党の国会議員になった。ある意味では堂々としていられるし、媚びる相手は俺たちじゃない。だから、あんなふうに直情的でいられるんだよ。その、芹澤ってやつは、たぶん無所属で町議を狙ってるんだろ? 仕事ができるかどうかは知らんが、媚びた猫撫で声を演じている方が選挙には得かもしれんな」

「あぁ、それは一理あるのかも」

 

僕は大洗のあの閉鎖的な空気を思い出した。

洗練とは程遠いあの町では、おべんちゃらでもなんでも使いこなして、他人に気に入られた方が選挙には有利かもしれない。

そう考えると……芹澤のあのいやらしい猫撫で声は、いやらしさが表出してしまっている分だけ、彼の本心ではないことの証左でさえあるような気がしてきた。

 

「まぁ、辻ちゃんにわざとらしさを見抜かれちゃうようなら、そいつはまだまだかもな!」

 

山下が豪快に笑った。

 

「で、その人、何のスポーツやってるの?」

「本人はやってないと思うけど。戦車道のOG会から票をもらう算段みたい」

 

言ってから、また嫌な気持ちが湧き上がってきた。僕の戦車道。

 

「あれ、そういうと昔、辻ちゃんさ、戦車道好きだって言ってなかったっけ?」

「そ、そこそこね」

「そうだよ、思い出した。そもそもあれじゃない。あれ。篠崎さんが決算委員会で。めちゃくちゃに戦車道せめてたんじゃん」

「あ、あぁ」

「辻ちゃん、すっげー矛盾してない? 戦車道せめてた篠崎さんのこと好きなわけ?」

「いや、それとこれとは別っていうか。篠崎代議士だって、いつも戦車道ばっかり責めてるわけじゃないし。僕は彼のあの、物おじしない鋭さに感心してるんだよ。僕には、その、ないものだから。あんなふうに成りたいってのも心の片隅にあって。戦車道云々じゃないんだよ」

「そういうもんなんかね」

「そ、そういうもんなんだ!」

 

気が付くと、ハイボールのグラスが空になっていた。

 

「もう一杯いっとく?」

 

山下が尋ねる。

僕は空になったグラスと、彼の顔と、自分の手元をにらめっこして。

 

「薄めのハイボールを、もう一杯」

 

と言った。

 

フェイマス・グラウスのかなり薄いハイボールにレモンピールをひとかけら添えたものが出てきた。

 

「あ、あ、あ……そんなに薄くしたら、美味くないのに……」

 

と山下が残念そうにつぶやいた。

 

「いいんだよ、僕は。やっぱり酔いすぎるのは性に合わない」

「そっかぁ……辻ちゃんさ、酒に強くなれよ。もっと時々俺と飲もうぜ」

「強くなれるもんでもないでしょ。それはそうと、戦車道ってさ、そんなに……票になるの?」

「どうだろう。地域にもよると思うけど。大洗はどうなのかな?戦車道自体はまぁ、他のスポーツに比べてめちゃくちゃ人気があるわけじゃないよなぁ。やっぱ金もかかるし。

装備の差がものをいうスポーツでもあるから、どうしても金持ってる学校が有利だしね。やってるところが限られてるって印象だよなぁ」

 

「確かに、戦車の数や性能の差はモノを言いそうだね」

 

「その辺がスポーツとしてどうなの?っていう人もいるんだよ。逆にその差をどう乗り越えるかが面白くもあるんだろうけど。

一時期人気あったけど、最近はもう下火なんじゃない? 好きな人はすっげー好きなスポーツって感じがするなぁ。そういう意味では、OG会ってどんなもん票になるんだろうねぇ」

 

「僕さ、戦車道はその、そこそこ好きだから、時々テレビで見るけど。大洗って目立っていた印象がないな。地元だし、強かったら絶対記憶に残るはずだし」

「でもまぁ」

 

山下が二杯目のウィスキーを飲み干す。

 

「熱狂的な人たちが続けているなら、その人たちは、選挙の時にも熱を持った動きをするかもね」

「…………」

 

僕の口の中で、ほのかなレモンピールの苦さを含んだ炭酸がはじけた。

 

結局、僕の酒を飲むペースが遅いことを理由に、山下はウィスキーをもう一杯飲んだ。

それで時間は23時半を回り、お開きになった。

 

「それでは山下2等兵、鬼嫁の待つ家へ帰還するであります!」

 

おどけて山下が敬礼のポーズをとる。

 

「なんだよそれ」

「バカ、戦車道リスペクトだよ、リスペクト」

「はいはい」

 

僕も手を挙げて別れの合図。

お互いの住むところが逆方向なので、駅の改札口で離れ離れだ。

僕は、夜のプラットフォームに立ち、空を見上げた。建造物に邪魔されて月は見えなかった。ただ真っ暗闇が、空を覆い尽くしていた。だがそれは何も不思議なことではなく、東京の当り前の夜に過ぎなかった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14 再び大洗へ

いつも読んで下さり、ありがとうございます!


山下と久々に飲んだ日から、急速に仕事が忙しくなった。

ほとんど日付の感覚を失ったままゴールデンウィークを迎えた。

ゴールデンウィークのほとんどにも仕事が入っていた。

二日間の休日を作って再び大洗に帰った。こんなに短い期間に二度も鹿島臨海鉄道に乗ることになるとは思わなかった。僕は窓から見える景色を眺めながらつい苦笑した。

駅に着くと芹澤が出迎えた。彼は光沢のある黒のスーツを着ていた。髪型も先月会った時とは微妙に違っていた。前髪をかきあげ、ワックスで固めていた。その雰囲気はなんだか滑稽だった。僕は笑いをこらえた。

 

「出迎えてもらって申し訳ありません」

「いやいや、こちらこそ。帰ってきてくれてありがとう。お父さんが喜ぶよ」

「そうだといいんですが」

「きっと喜ぶに決まっているよ。あ、そうだ。今日はかたっ苦しい服装でごめんね。ちょっといろいろと忙しくて。もしかして、その、察しているかもしれないけど……」

 

わざとらしい男だ。

 

「大体わかっていますよ。選挙に出るおつもりなんでしょう?」

「いや、やっぱりわかってたかぁ。名刺渡したから、たぶんわかるかなって思ってて。さすがやっぱり廉太君、いい大学出てる人は感性が鋭いね」

「でも、どうして選挙なんかに?」

「まぁ、それは歩きながら話そうか」

 

僕と芹澤は並んで大洗の街を歩いた。

父は例のアウトレットモールにいるらしかった。

モールまでの道すがら、何人かの住民が芹澤に声をかけた。声をかけてきたのはほとんどが老婆で「若い人が頑張るのって応援したくなるわ」というような内容だった。

 

「もう名が知れてるんですね」

 

と僕は言った。

 

「小さい町だから、チラシを配ってると自然にね」

 

芹澤が満足げに微笑んだ。

 

「でも選挙ってのは怖いよ。頑張ってね、と声をかけるのと、実際に投票するのとは関係がない。口先では若者を応援していても、現実の投票日になると、しがらみやら人間関係やらが最重視されちゃうからね。都心部じゃない選挙なんてそんなもんだ」

「ずいぶんと詳しいんですね」

「僕はね、今のスポーツ店に勤務するまでは衆議院議員の事務所のスタッフだったんだよ」

 

彼はそう言って、偏った思想と発言で有名な老議員の名前を挙げた。

僕はもちろん名前は知っていたが直接の付き合いはなかった。

しかし、反社会的団体との関係性を指摘されていたり、あまり良い噂を聞かない議員ではあった。

 

「それが、どうしてこの町でスポーツ店に?」

「いや、なにその。高卒で先生に拾ってもらったんだが、大学を出ていないのが悔しくてね。時間を作って通信制の大学を卒業したかったんだ。いろいろと疲れてしまってね。骨休めってところさ。それで、叔父が経営しているスポーツ用品店に再就職したってわけ。35歳の時にね」

「はぁ……」

 

どうにも説得力がない話だった。

流れだけを聞いていると、意味が分からなかった。

 

「それでは、もともとは大洗の人ではないんですか?」

「そういうことになるね。でも、叔父が住んでいるから、子供の頃から何度も来ているよ。それに、もう、こうして長く住んでいるわけだから。落下傘とは言われたくないな」

「あの、父とは」

「辻先生はね、高坂先生からご紹介いただいたんだ」

 

高坂というのが、例の衆議院議員の苗字だった。

 

「まぁ、その、これの関係でね」

 

彼は照れ臭そうに手を合わせた。

つまりは保守系の新興宗教の関係だ。

政治に絡んだ宗教といえば、某党の支持母体が有名だが、それ以外にも全国の無数の小さな宗教団体が、ちょっとした票田として議員に絡んでいる。

どこまで票になるのかわからないと思いつつも、信仰心のあるなしに関係なく、名前だけ登録したり、会合に出席したりする議員は多い。議員にとって、ほんの少しの得票の差が、自分の人生を左右する。

まさに藁をもつかむ思いなのだろう。

父も多聞に漏れずその一人だった。

ほとんど誰も名前を知らないような、地域の小さな新興宗教の会合に時折顔を出していた。

子供の時は、とうてい信仰心のなさそうな父が、どうしてその会合に出席しているのか不思議だったものだ。

高坂議員もそこに絡みがあるのだろう。

 

「大洗に戻った時ね、高坂先生から、地元には辻先生がいらっしゃるからご恩返ししなさい、と言われたんだよ。それで、2回前の統一地方選の時にはお手伝いさせてもらってね。勉強もさせてもらったよ。君のお父さんは、自分にとっても父親みたいなものさ」

「そうですか」

 

そうですか、以上に答えようがなかった。どうにも、芹澤との会話には、僕はレスポンスを返すのが苦手なようだ。

やがて、モールに着いた。

モールの入り口付近にちょっとした人だかりができていた。

何か、イベントでもやっているのだろうかと思った。

怒鳴り声にも似た張り上げた声が聞こえる。

その声には聴き覚えがあった。

人だかりに目を凝らす。

数人の女性が何かのチラシを配っていた。

その中心で、拡声器も持たずに声を張り上げ、演説をしている男に見覚えがあった。

僕の父親だった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15 このチラシは誰が書いているのか

読んでくださっている皆様、本当にありがとうございます。出張中はしばらく書けないと思っていたのですが、ホテルにPCがあったので、結局休みの日に書くことにしました。


演説をしている父の姿を見るのは本当に久しぶりだった。

青年期以降、意図的に政治家としての父と関わってこなかったので、記憶はおぼろげだが、幼い時、父の選挙演説に母親に連れられて立ち会ったことがある。

その時、父は身振りを交えて、熱っぽく、拳を振り上げて町の将来ビジョンを語っていた。

 

今、目の前で声を張り上げる父が、そのおぼろげな記憶と重なった。

 

父は、スーツの上着を脱ぎ捨ててワイシャツの袖をまくりあげ、己を鼓舞するかのように拳を握って語っていた。

町が慢性的な財政難に陥っていること、その体質改善をしていかねばならないこと、人口動静を鑑みるに、ファミリー層の転出が多すぎること、それを食い止めるためには、子育て支援策の充実、教育水準の向上、若者の雇用先の創出が喫緊の課題であることなどを矢継ぎ早に言い放っていく。

オーソドックスな内容ではあるが、間違っているとは言えなかった。

父が僕の存在に気が付いたのか、こちらをちらっと見た。

そして、少し踏み込んだことを語りだした。

 

「また、私たちは、ただただ人口増を訴えるのではなく、所得水準についても考えていくべきだと思っています。

低所得層向けの福祉政策ばかりを打ち出して、低所得層が流入してきても、果たして町としての税収増にどれほどの効果が望めるのでしょうか。

今のこの町の施策は、ただ人口を増やすことのみしか念頭にないように思われます。

私は、町として、いったいどの所得層を分厚くしたいのか、そこをきっちりと考えて、ビジョンを決めて、政策を打ち出していくべきだと思うのです。

今まで、そういったことを考え、訴える人物が議会にはいませんでした。

みんな、その場限りの都合の良い、聞こえの良い福祉政策に乗るばかりでした。

そうではなく、町としての理想像をどこへと導いていくのか、財政の問題をまず念頭に置いて、しっかりと議論すべきなのです。

私は、この町をもう少し高級な町にしたいと思っています。

そのためには、しっかりと税を払ってくれる方々の流入を促進するためにどうすべきかを、今後真剣に提案していく必要があると考えています……」

 

僕は冷や汗が出る思いだった。

父の演説はいつもこうなのだろうか? 

正直言って、街頭演説で言うべきことではないように思われた。

もちろん、方向性や考え方としては一つのあり方だろう。

だが、選挙を目的とした街頭での市民向け演説で、低所得層の流入防止だの、税の徴収率の向上だのを口に出して、利益があるとは思えなかった。僕の後ろで、芹澤がため息をついたように聞こえた。

 

「お願いしまーす!」

 

若い女性スタッフが、こちらに歩み寄ってきて、チラシを手渡した。

下部に『内部資料・討議資料』と銘打たれたそれは、例の「大洗を新しくする会」のチラシだった。

そこには、ホームページと同じように、例の一部の議員に対する罵詈雑言が書かれ、自分たちの組織を誉めそやす言文が記されていた。父の街頭演説の内容とは全く異なっていた。

女性スタッフが、僕の後ろ手にいた芹澤にもチラシを渡そうとして、彼の存在に気づき、

「芹澤さん、戻られました!」

と嬉しそうに言った。

父が演説を止め、こちらに歩み寄ってきた。

僕を見て、表情が変わった。

 

「廉太じゃないか! 驚いたぞ。いつ戻ってきた」

「あ、その、今日。えっと、なんとなくね」

 

そんなつもりはなかったが、歯切れが悪くなった。

 

「そうか。……うれしいよ」

 

そう言う父は心底うれしそうだった。そして、鼻を掻いた。

 

「実は、またちょっと選挙の手伝いをしているんだ。安心しろ、自分が出るわけじゃないぞ」

「わかってる。芹澤さんでしょ」

「そうなんだ。知っていたのか」

「まぁ、ちょっとね」

「知っているのなら話が早い。どう説明すればいいか悩んでいたんだ」

 

「お疲れ様です」

芹澤が父に頭を下げた。

「お疲れ様。バトンタッチするかい。君もやってみなさい」

「はい」

 

芹澤が人だかりの真ん中に立ち、演説を始めた。

まだ慣れないのか、声が少し小さく、聞き取りずらかった。

 

「マイクは使わないの?」

「マイクが使えるのは、選挙期間中だけだ。彼は党にも入っていないからな。言い訳ができない」

「あぁ、そういうことか」

「廉太、お前、役人だろう。それぐらい知っておきなさい」

「選挙管理委員会に配属されたことがないからね。他の部署のことはわからないよ」

「役人の悪いところだ」

「しょうがないよ」

 

「あの……もしかして、辻先生の息子さんの廉太さんですか?」

 

おずおずと、女性スタッフの一人が声をかけてきた。

凛とした雰囲気が美しい、20代後半ぐらいの女性だった。体つきは一見華奢に見えるが、背筋がしゃんと伸びている。無駄な贅肉がそぎ落とされた印象もある。

戦車道のOGだろうか、と思い問いかけた。

 

「そうです。あなたはもしかして、戦車道の?」

「よく御存じですね」

 

女性が微笑む。ビンゴだった。

 

「OG会の渡良瀬と申します。お父さんにはずっとお世話になっていたんですよ。今は、芹澤さんの選挙スタッフをやっています」

「そうですか。こちらこそ、父がお世話になりました」

握手を交わす。

「渡良瀬さんは、俺の最後の選挙の時にウグイス嬢もやってくれたんだ。美しいからな、実に見栄えがあって助かった」

「いえ、そんな」

渡良瀬さんが照れたようにうつむいた。

父の最後の選挙ということは、7年前だ。もしかしたら、20代後半ではないのかもしれない。

「あ、これ、いま配っているチラシです。廉太さんもどうぞ」

「あぁ、先ほどもういただいたんです」

僕は、チラシを前に掲げた。

「そうでしたか」

再びチラシに目を通す。

何度読んでも、無内容で、下品なチラシだった。

そこには大きな見出しで

『現職町議たちは税金ドロボウだ!』

と書かれていた。

政策を訴えるのではなく、憶測による他人の中傷ばかりが書かれていた。

しかし、芹澤は自らが税金ドロボウ呼ばわりするその職に就こうとしている。

とんだ矛盾だった。

裏返してみても、先ほど父が訴えているような政策は一言も書かれていなかった。

唯一政策らしきものは、

『税金泥棒の議員どもの数を減らそう! 定数削減と給与カット!』

というもののみだった。その文字の下には

『私は、即座に提案します!』

とだけ書かれていた。

 

僕はどうにも腑に落ちなかった。父は、先ほどの演説を聞いていても、言葉は過ぎる部分があるのだろうが、基本的に町の方向性的なものを考えている。

一方で、このチラシに書いてあることは、議会に対する不満ばかりだ。

議会改革ももちろんやればいいが、それは政策とは違う。

議員定数や給与を減らすことと、町をどのように発展させるかそのグランドデザインを語ることとは、種類が異なっているはずだ。

 

「ねぇ、父さん」

「なんだ?」

「このチラシって、父さんが書いてるの?」

「いや、俺は関係ないよ」

 

父はあっさりと言い放った。それから、少しばつが悪そうな表情をした。

渡良瀬さんが、こちらを見ていた。

 

「まぁ、なんだ、その。廉太、ちょっとこっちへ来い」

父が僕の手を引いた。

二人で、少し離れた自販機の前へと移動する。父が缶コーヒーを二つ買った。

 

「微糖でよかったか?」

「何でもいいよ」

「そうか。あのな、廉太。芹澤君からどこまで話を聞いている?」

「いや。ほとんど何も」

「彼が選挙に出るというのはどうやって知ったんだ?」

「前に家に帰った時だよ。家に『大洗を新しくする会』のポスターが貼ってあっただろ?あれを見て、HPを検索したんだ。そこに芹澤さんの名前があった」

「そういうことか」

 

父が息をついた。それがため息なのか、安堵の息なのか僕には測りかねた。

 

「ということは、父さんが顧問をやっていることも知っているんだな?」

「一応ね」

「芹澤君はどのように言っていた?」

「行きに少し話しただけだよ。自分から、実は選挙に出る、とだけ言ってきた。それだけさ」

「……今回、急に帰ってきたのは、もしかして芹澤君の提案か?」

「まぁね。前に帰ってきて、懐かしくなったから、その気になったわけだけど。ねぇ、父さん、彼の意図はなんなの?」

「……別に大したことじゃないさ」

 

父が缶コーヒーのプルタブを開ける。

 

「大方、俺に対する点数稼ぎだろう。息子をもう一度、帰郷させてやったという美談を演出したかったに過ぎんさ」

「ふぅん」

 

僕もプルタブを開ける。

 

「彼ってどんな人なの?」

「素直な男だ。一直線すぎるぐらいだがな」

 

父のその評は意外だった。

僕からすれば、あのわざとらしい猫なで声の芹澤は裏表がありそうな人物だった。

それが父には、素直で一直線な人間に見えているのだろうか。

 

「素直で一直線な人間が、点数稼ぎ?」

 

少しいやらしい質問をしたつもりだったが、父は何食わない声で答えた。

 

「それだけ単純ということだ。俺に気に入られたいと必死なんだろう」

その表情は少し楽しげにも見えた。僕は話題を変えたくなった。

「で、あのチラシは?」

「だから、あれは俺は関与していないんだ。会が勝手に使ったものだ。あのな、廉太。お前はもしかしたら勘違いしているのかもしれんが、俺は何もあの会の主催者じゃないぞ」

「顧問なのに?」

「顧問だの相談役だのというのは名義貸しみたいな役柄だ。あの会はできて間もないから、俺みたいに、町議を何年もやった名前のある人物のお墨付きが欲しいんだ。

俺は、顔を出して、こうやって街頭に立って、自分なりの演説をする。

そうすることによって、会のブランドに対する信頼度が向上する。それ以上のことは知らん。チラシは、会の中の連中の考え方だ」

「それって、芹澤さんのこと?」

「まぁ、彼と、おそらくはそのブレーンだろうな」

「ブレーンって誰さ。議員にもなっていない人にブレーンがいるの?」

「さぁな。それも俺は深くは知らん。ただ、ぱっと出の泡沫じゃないのは見ればわかるだろう? 通るための選挙をやっている。こんなカラーのチラシ、無所属の泡沫新人には不可能だ。もちろん、俺を動かすこともな」

「じゃぁ、父さんは誰に動かされてんのさ」

「それは、牧原という……いや、お前に言ってもわからん。とにかく、俺には俺の理由があるし、事情があるんだ。何も、無意味にこんなことをしているわけじゃない」

「あ、っそう」

 

僕は盛大にため息をついた。父が僕をにらんだ。

 

「あのさ、父さん」

「なんだ」

「でも、このチラシは、その、少しおかしいと思うよ」

「なにがだ」

「父さんがさっき街頭でしていた主張と違いすぎるじゃないか」

「だから、俺とは関係ないと言っているだろう?」

「でも、これを配っている中心で演説をしていたのは父さんでしょ。僕は、一応役人だよ。このチラシがおかしいのはわかりきっている。これは政策の提案じゃない。ただのルサンチマンの発露だ」

「…………そんなことはないさ」

 

父が、言葉を選ぶようにつぶやいた。

 

「でも」

「お前は、子供の頃からおとなしく、内面的だった。考え方が批判的で斜に構えている。確かにな、俺は自分ではこんな主張はせんよ。

でも、芹澤君は真剣なんだ。彼は若い。本当に現状に憤っているんだろう。この町の議員を変えたいと思っているんだ。実現など不可能だろうが、初めての選挙だ。若者が何を主張したって自由じゃないか」

 

父と眼があった。

彼は、まっすぐに僕を見据えていた。

その眼を見て、父が本気でそう言っていると分かった。

僕にはもう、返すべき言葉がなかった。

まただった。また、叱られてしまった。

僕は、物事に対して批判的すぎるのだろうか。ほんの少し、前向きになろうとした矢先だというのに。

僕は力なくうなだれ、

「わかったよ」

と言った。

父が、

「さぁ、戻ろう」

と言った。

 

連れ立って、演説がまだ続いているモールの入り口まで戻る道すがら、僕は問いかけた。

 

「さっき、実現は不可能だと言っていたけど、なんで?」

「あぁ。考えてみろ。議会は多数決の民主主義だ。その上、基本的に、全会一致の法則が暗黙のルールとしてある。かりに芹澤君一人が当選して、議員定数の削減案を提案しても、議決されるはずがない」

「確かに、それはそうだね。でもそれって、根回し次第じゃないの?」

「それは非常に難しい。あんなふうに、他の議員を馬鹿にするようなチラシを配っているわけだからな。みんな良い気分はしないだろう。彼が当選して、根回しをしようにも、ケンカを売られていた人たちが賛同すると思うか?」

「無理、だね」

「そういうことだ」

 

僕の頭の中で、今までで一番大きな疑問が顔をもたげた。

芹澤は、そのことをわかっているのだろうか。

父は、おそらくは、芹澤が『素直で一直線』だから計算もなしに突っ走っているだけだと考えているのだろう。

だが、役人の僕からすれば、『否決されることを前提にしてわざと大見得を切っている』ように感じられた。

もしそうだとすれば、なかなかの大衆向けパフォーマンスだ。

 

人だかりに戻ると、ちょうど芹澤は演説を終えたところだった。

幾人かの人々が拍手をしていた。その数は、父が演説をしていた時よりも少し多いように感じられた。

父のこ難しい演説よりもよほど聞きやすかったのかもしれない。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16 OG会との飲み会

いつも読んで下さり、本当にありがとうございます。今回は女性が出てきますが、やはり、女性を書くのは苦手です……。


その日の夜は、自宅でゆっくりしたいと思っていたのだが、芹澤が「夜、一緒に飲もうよ」と提案してきた。

僕は首を横に振りたかったのだが、生来の押され弱さで、結局承諾してしまった。

父も、「良いじゃないか、若者たちで交流を深めてきたら」と言った。

「廉太君、戦車道のOG会の方たちも来るよ」

と、芹澤が言った。

 

「うらやましいな。廉太、せっかくだから恋人でも作ったらどうだ」

 

と父が笑った。

僕は別段うれしくはなかった。

戦車道で輝いている女の子たちは、僕にこれまで勇気をくれていた。

憧れのようなものはあったが、それと、実際にお近づきになるという生々しさとは、少し違っていた。

一方、心の中で、OG会がどのように選挙に関わっているのかを知りたいという好奇心もあった。

 

夜の19時に、芹澤が迎えに来た。

後ろには、戦車道のOG会の女性4人がいた。

それぞれが、大園、前田、竹谷、元木と名乗った。

4人の中に先ほどの渡良瀬さんはいなかった。

4人とも、20代前半ぐらいに見えた。

 

「こういう時期だから」

 

と芹澤が言い、水戸まで出ることになった。地元で飲んでいるところを見られたくない様子だった。

 

「やっぱり、ほらね。まだ無名だけどさ、女性と飲んでいるところを見られたくないじゃない」

「はぁ」

 

それはそうかもしれないが、面倒だ、と僕は思った。

せっかく帰郷したのだから、自室でぼんやりしたかった。

水戸に着くと、予約していたらしい、駅前の居酒屋に直行した。

東京にもあるチェーン店の海鮮居酒屋の個室だった。

僕たちはビールで乾杯し、刺身盛りをつついた。いったい僕は何をしているのだろう……と思った。

大洗まで帰ってきたはずが、訳の分からない連中と、東京と同じような居酒屋で美味くもない刺身を食べている。

 

「廉太君、もう一杯飲むでしょ?」

「え?」

 

言われてみて気が付くと、ビールが空になっていた。

考え事をしながら、ぐいぐいと飲んでしまっていたらしい。

僕の返事を聞かずに、芹澤が新しいビールを注文した。

 

「強いんですね~!」

 

隣に座っていた元木と名乗った女性が言った。

 

「べ、別にそういうわけじゃないよ」

仕事以外で、20代前半ぐらいの女性と話す機会などなかった。僕は戸惑っていた。

「その。仕事の付き合いで時々飲むだけで。今日は、その、たまたま」

「あれ~」

 

目の前で芹澤がニヤニヤとしていた。

 

「廉太君、もしかして、女性は苦手だったりする?」

「え~! 照れてるんですかぁ~?」

 

右斜め前にいた、大園と名乗った闊達そうな女性が食いついてきた。

 

「そ、そんなことは、ないよ」

「うわっ! なんか可愛い~!」

「え、いや、可愛いなんて」

 

その時やっと追加のビールが来た。

僕はいたたまれなくなってそれに口をつけた。

 

「おっ、やっぱりいける口だね、廉太君」

 

芹澤が楽しそうに言った。

 

「どんどん飲もう」

「そ、その。そこそこでお願いします……それよりも、戦車道のOG会のみなさんこそ、お酒はかなりお強いんじゃないの?」

「え~、どうだろう」

 

大園さんが頬に手を当てる。

 

「体育会系だし、飲むんじゃないかと」

「飲まないことはないですけど、そんなに飲んでたら体つくれませんし~。止めてからはそこそこ飲むけど~」

「ねぇねぇ、辻さんって、お酒強い子が好きなんですかぁ?」

 

竹谷という、ショートカットの女性が僕に問いかける。

 

「そ、そういうわけじゃないけど」

「辻さんて聞くと、なんか辻先生のことみたい! 廉太さんて呼ぼうよ~」

 

それまであまり口を開かなかった前田さんが急に提案する。

 

「あっ、それいいね! 廉太さん」

「え、えと……」

 

僕が戸惑っていると、芹澤が、

 

「おっ、廉太君、うれしそうだよ。ほら、みんなで、呼んであげたら?」

 

と冗談めかす。

 

「「「「せーの、廉太さ~ん」」」」

 

黄色い声が4重奏になった。

僕は、たぶん行き場のない苦笑いをしていたのだと思う。

 

しばらく酔ってくると、芹澤が、酒の入った赤ら顔で隣の女性に注ぎながら、自分語りを始めた。

 

「俺はね、昔から、本当に戦車道が好きでねぇ」

 

大園さんが、酒を注ぎ返す。

 

「本当は、男もできるスポーツだったら、俺自身がやりたかったぐらいだよ」

 

女性たちが、「え~」とか「やだぁ~」とか、笑い声を上げる。

 

「いやいや、本当なんだ。

俺のね、親戚のおばさんが、もともとは戦車道をやっていたんだ。

それが、ある試合で負けてしまってから、すっかり自信喪失してまったく駄目になってしまってね。

もともとがそこそこ評価のあった人だったから、コテンパンに非難されてしまった。

悔しかったなぁ。

俺はそのおばさんが好きだったから、本当に悔しかった。

俺が代わりに乗ってあげられたら、って思ったよ」

 

どことなく真摯な物言いに、笑い声が途切れる。

彼は両隣の女性に酒を注ぎながら言った。

 

「戦車道ってのは、本当に危険なスポーツだよね。

いくら、安全に配慮されているといっても、不慮の事故もあるし、精神的な負担だって大きいよね。

それでも、頑張って、輝いているみんなは本当にすごいよ。素晴らしいと思うよ」

 

いつの間にか、戦車道OG会の4人はふざけるのをやめて聞き入っている。

 

「俺はね、だから、戦車道を頑張る人たちには、もっと、今以上に危険手当をつけてあげたり、予算をとってあげたりするべきだと思うんだ。

それが、いったいなんだい、現職の議員どもは。予算の削減、予算の削減、そればかりじゃないか。命がけで頑張っている女性たちの邪魔をしたいのかっていうんだ!」

 

ぱちぱちぱち……と、小さな拍手が聞こえた。

酒に酔って頬をほんのり赤く染めた元木さんが、拍手したのだった。

続いて、残りの3人も拍手をした。

 

「ね。みんなで、しっかり芹澤さんを応援しようよ!」

 

前田さんが決意の声を上げる。

 

「うん! チラシに書いてる通り、現職の議員はバカばかりだもん! 私利私欲に走る奴らを、芹澤さんに倒してもらわなくちゃ!」

 

大園さんの宣言に、そうだ、そうだ!と、皆んな口々に言い始める。

 

「大丈夫だよ、俺、頑張るから!」

 

芹澤が、涙ぐんだような声を出した。

 

「辻先生がついてくださっているし、廉太君だっているんだし」

 

みんなの目が僕の方を向く。

 

「あ、えと、その。まぁ、頑張ります……」

 

場の空気に押されて僕は頷いた。

 

「ありがとう!」

 

大園さんが、僕の手を握った。

 

「廉太さん、芹澤さんのこと、助けてあげてくださいね!」

「う、うん」

「頑張ろう、廉太君。それで、戦車道の危険手当をもっとちゃんと支給できるような町にしようよ」

「そうですよ! 大洗の戦車道は、他市に比べて弱すぎです。もっともっと行政が力を入れて、設備投資して、強くしてくれなきゃ!」

 

だいぶ酒に酔って、ろれつが回りきらない口調で、前田さんが叫んだ。

 

「絶対、絶対強くするから! 約束だから!」

 

芹澤が答える。

 

「ねぇ、廉太君、どうか、どうか、俺を勝たせてくれよ! 頼むよ!」

 

そう言いながら、僕の背をたたいた。

僕も、酒が入っていたからだろう。

 

「もちろんです」

 

と、つぶやいた。

 

「ほ、本当かい。だったらさ、その。君の同級生とか、地元の友達を紹介してくれないか? 明日、もし時間があったら一緒に回ってほしい」

 

僕は、少し考えた。

僕は芹澤と、そこまで深入りするべきなのだろうか……。

僕は、ビールを見つめた。

その水面に、山下の顔が映ったような気がした。

先日、山下と飲んだ時、彼は僕が篠崎代議士と関係を深めることに苦言を呈した。

僕はそのことが少し気に食わなかった。

最近、やっと前向きになろうと決意したのに、出鼻を砕かれた気分だった。

だったら……東京から離れた、この地元で、何かと関係性を持とうとするのも、悪くないかもしれない。

どうせ何をしたって、東京に知られはしないんだ。

僕は、頷いた。

 

「わかりました。少しぐらいなら、いいですよ。明日、自転車で回りましょうか。15時ぐらいまでなら。その代わり、昼飯でもおごってください」

「ありがとう!」

 

芹澤が僕に抱き着いた。

 

それからも芹澤は次から次へと酒を飲んだ。

僕も女性陣も、つられてペースを上げた。

実質の飲み会の時間は2時間半ぐらいだったが、いつもの倍ぐらい飲んだような気がした。

ウィスキーをちびちびと楽しむ山下との飲み会とは全く違うし、篠崎代議士たちとの飲み会ともまた異なっていた。

かなりふらついた足で大洗駅に降り立った。

 

「じゃぁな! 明日の朝9時半に家に行くから!」と、芹澤が叫んで、駅の反対方向に消えていった。

 

4人の女性陣のうち、竹谷というショートカットの女性だけが、家の方角が同じだった。

彼女は、酒に強いのか、それとも自分のペースを崩してしなかったのか、そこまで酔っているようには見えなかった。

黙って夜道を歩くのもおかしな感じだったので、僕は問いかけた。

 

「芹澤さん、すごい君たちと仲がいいんだね」

「……まぁ、昔からの付き合いだから」

「スポーツショップの?」

「そうです。あの人、ほら、気さくでしょ? 私たちが何か買いに行くと、いつも声をかけてくるの。でも、スポーツショップだから、いろんなもの売ってるし。戦車道にあんなに入れ込んでくれてるって知ったのは最近」

「え? そうなの?」

「はい。一年ぐらい前かな。私の家に来て。どうしても選挙に出て、戦車道を盛り上げたいって」

「あれ?」

でも、父の選挙の時も、票をまとめたって言っていたような。

「あの、でも、戦車道って、うちの父親の時代から、選挙ではいろいろ動いていたんでしょ?」

「うぅん、どうなんだろう。辻先生が選挙に出ていたころは、私まだ選挙権なかったからあんまりよく知りませんけど。でも、戦車道の先輩は確か、西出っていう議員さんの応援をしていたよ?」

「え? そうなの?」

「はい。あ、でも、トマトスポーツ用品店……あ、芹澤さんのお店です……はどうだったのかな。私が高校生の頃……辻先生のポスターと西出先生のポスターの両方貼っていたかも」

「へぇ……」

 

そういうと、父が、戦車道はもともと別の議員のものだったと言っていたような。それを、芹澤が動いて突き崩したとか言っていたっけ。

 

「でも、私がよく知らないだけだと思います。これまであんまり選挙には興味なかったから。ちょっと前まではスポーツのことしか考えてなかったし。卒業して、やることなくなっちゃって。

それで、新しいことに興味持ったって感じなんです。

その……戦車道、すごく下火だし、その……後輩のためにも、頑張りたいなって。ほかのみんなも、同じ気持ちじゃないかな」

「あの、戦車道、今はそんなに下火なの?」

「はい。少し、古臭いって。女の子のたしなみだって言われてるけど、もう、流行じゃないんです。お茶の間を沸かせるほどの有名選手もいないし。特に、もともとあまり盛んじゃなかった大洗では、もう、必修選択科目でもないんですよ」

「あ、そうなんだ」

「はい。私が卒業した少しあとぐらいから。それぐらい、人が集まらなくなってきてるんです。だから、その。芹澤さんの主張には、私たち、共感するし、すごく、その、勇気づけられるんです」

 

竹谷さんが、僕の手を握った。

 

「あの、どうか、お願いします。私たちと一緒に、選挙、戦ってください」

「う、うん……」

 

僕は頷いた。

大洗に帰った時ぐらいしか何もすることはできない。

そもそも、僕は役人だ。

そんなに表立ったことは本当はするべきでもない。

だが、せめて明日は頑張ろう。

そう思った。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17 外回り

いつも読んでくださって本当にありがとうございます。何か疑問などございましたら、お気軽にご指摘くださいませ。


翌朝、朝9時半ちょうどに芹澤がやってきた。

彼は相変わらず、光沢のある黒いスーツに身を包み、髪をワックスで固めていた。

フェリージの革のバッグから、クリアファイルを取り出した。

 

「なんですか、これ?」

「俺のプロフィールが書かれた冊子と、名簿。とりあえず、あいさつに行ったら、このプロフィールは絶対に受け取ってもらうんだ。これがないと、俺のことを覚えようもない。あと、こっちの名簿だけど」

 

白黒のペラペラの紙の上部に『芹澤たかのりを応援する会 名簿』と書かれていた。その下には簡単な彼のプロフィール。下半分が切り取り線で分けられていて、『紹介者』欄と『紹介された人』の欄があり、住所氏名・連絡先を書くことになっていた。

 

「芹澤という字が読みにくいという人もいてね。片仮名にするべきかどうかを悩んでるんだよ。でも、孝徳もタカノリと読みにくいんだ。両方片仮名だと滑稽だしなぁ」

「そうですか……。これ、大洗を新しくする会の名簿じゃないんですね」

「それで名簿をとったって、俺の名前を覚えてもらえないだろう? これはあくまで、俺の名前を覚えてもらうためのもの。

それに、嫌々でもなんでも、一度名簿に名前を書いたら義理が生まれるからな」

「なるほど」

 

僕は頷いた。

 

「この、紹介者の欄はとりあえず廉太君の名前を書いてくれたらいいよ。んで、今日廻ってくれる友達の名前と住所と電話番号を、こっちの紹介される側に書いてくれ」

「今ここで?」

「違う違う。勝手に書いたら、個人情報がどうのこうの言われるぞ。そっちは必ず、本人に直接許可をもらって、その場で書いてもらうんだ。渋ったら、置いていって、後日取りに行く」

「後日って、僕、そんなに頻繁に大洗に帰りませんよ」

「それは俺が自分で行くよ」

 

僕は彼のプロフィールが書かれた冊子を見た。

それはA4サイズの二つ折りで、表紙には前面に芹澤の顔のアップ。

拳を握りしめたこれからボクシングでも始めそうなポーズを、背広姿でしている。

『41歳 若さ溢れる挑戦! 大洗を新しく!!』

とキャッチフレーズが銘打たれていた。

41歳で若さを謳うことに僕は苦笑してしまいそうになったが、地方の選挙というのは、そういうものなのだろう。

中を開くと、左半分に、これまでの経歴、右半分に、簡単な政策の抱負が書かれていた。

経歴には、やはり衆議院の事務所で働いていたこと、大洗のスポーツ店で働いていることが書かれていた。

大洗に長く勤めていることと、政治への知識があることが、強調されていた。

ふと、若い頃の生い立ちに目が行った。

『中学生時代に、両親が離婚。父は、その後、長距離トラックの運転手を続け過労で亡くなる。極貧の中、苦労を重ねた生活だった。』と書かれていた。

続いて『若い頃の、極貧生活が、僕の基礎です。あの頃の苦労があるからこそ、清貧でいられます。お金に対する欲望がありませんし、他人のために尽くすぞという気持ちが生まれました』と書いてあった。

僕はもう一度、芹澤の革バッグを見た。

フェリージの銀の刻印がある。

清貧をきどる男が、フェリージのバッグか。

 

チラシの右側の政策欄には、おなじみの『議員給与のカット・定数の削減』が書かれていた。どちらにせよ、スペースがあまりないので、あれこれ書きようはなさそうだ。

ただ、せめて、カットして生み出した財源で何をするのかぐらいは書いておいてほしかった。

裏を向ける。

そこには、『私たちが応援します!』と書かれ、何人かの写真が掲載されていた。

『大洗を新しくする会 顧問』の名義で、父の写真があった。

戦車道OG会の写真もあった。

 

「さ、行こう」

芹澤が僕を急かした。

「あ、はい」

二人して、自転車にまたがった。

 

友人を紹介するといっても、たかが知れている。

僕は、もともとそんなに友人が多い方ではないし、進学を機に大洗を離れている。

そのままもう20年近くが経過しているのだ。

記憶を頼りに、友人の家を回っていくが、そのほとんどが不在であったり、すでに引っ越していたり、家そのものが建て替わっていたりした。

ベルを押し、たまに出てきてくれても、選挙の頼み事だと聞くと、黙ってドアを閉められたりした。

僕はそのうち、ベルを押すのが怖くなってきた。

そんな僕の様子を感じ取ったのか、芹澤が、「そろそろお昼も近い。休憩しようか」と言った。

僕は正直、助かったと思った。

 

二人して、公園のベンチに座り込んだ。

 

「すいません、あまり、芳しい返事がもらえなくて」

「いやいや、こんなもんだよ、こんなもん。むしろ、マシなぐらいだ。数人はチラシを受け取ってくれただろう?」

「まぁ、そうですが」

「俺一人で、ランダムに訪問したりしたら、怒鳴られたり唾をかけられたりすることもあるぜ。一応知り合いってだけでも全然マシさ」

「…………そ、そうなんですか」

 

僕は、少しだけ芹澤のことを見直した。

この肝っ玉の強さは、僕には絶対にないものだ。

 

「その、芹澤さんは、普段はひとりでランダムに訪問するんですか?」

「時と場合によるかな。出来ればそりゃ、人に紹介してもらって一緒に回った方が良いに決まっている。強力な名簿を持っている人だっているし。でも、一人で回ることも多いな」

「す、すごいですね」

「やらなきゃならないことだからな。そうだ、知ってるか?」

「なんですか?」

「戸別訪問っていうのは、名目上禁止されていてな。いろいろとルールがあるんだぞ。ほとんど誰も気にしていないけどな」

「ルール?」

「そう。軒先から敷居をまたいじゃいけないんだ。訪問したことになる。外に出てきてもらって会うのは、家に入っていないから立ち話と一緒だからオーケーだ」

「へぇ……」

「あと、連続して隣の家に行くのも駄目だ。一軒間を開けなきゃいけない」

「わ、訳の分からないルールですね」

「ルールが訳が分からないわけじゃない。俺たちが屁理屈をこねて、ルールの隙間を利用してるんだよ」

 

芹澤が立ち上がる。

「さてと、あと少し頑張って訪問したら、昼飯を食いに行こう」

「は、はい」

 

午前中の訪問では、一軒として名簿をとることができなかった。

三十軒ほどを回り、会えたのが十軒ほど。

うち、話を聞いてすらもらえなかったのが七軒で、一応チラシを渡すことができたのが三軒ほどだった。

 

「ここで昼飯を食おう」

 

と芹澤が指差した先は、古びた中華料理屋だった。

色あせた黄色いビニール製のオーニングに覚龍軒と書いてある。

その文字もほとんど消えかかっていた。

中に入ると、数名の客がラーメンをすすっていた。

 

「お、いらっしゃい!」

 

少し目が悪そうな老人の店主が、大きな声を上げた。

 

「今日は外回りかい?」

「そうなんです。それで、親父さんの中華が食べたくなって。中華定食二つね」

「よう言うわ。ありがとよ。中華定食二つ!」

 

「ここ、よく来るんですか?」

「そうだね。親父さんに良くしてもらっててね」

「そうなんだよ。この人、よ-がんばっとるからね」

 

調理を終えた親父さんが、会話に入ってきた。

 

「やっぱり、若い人が政治を変えんといかん。これからは。耄碌したジジィ議員じゃどうにもならん。若い人が、税金ドロボウの議会を変えてくれんと!」

 

老人が老人の批判をしている様が少し滑稽に見えたが、黙っておく。

 

「あ、そうじゃ。チラシ、まだ余っとるかの」

「えぇ、もちろんです」

「そこのお客さん、このチラシ、持って帰っておくれ」

 

強引に、ラーメンをすすっているサラリーマン風の男に手渡す。

男は迷惑そうにしながらも、仕方がないといった風情でそれをビジネスバッグに閉まった。

 

「今の議会が悪いから、わしみたいな、一人で仕事をして歳とって報われん人間が出てくるんじゃ。ほんに、芹澤君に変えてもらわんといかん!」

 

唐突に語り始める。

客たちは黙ってラーメンをすすっていた。

中華定食は、意外に美味だった。

 

料理を食べ終え、店を出ようとすると、老店主がチラシを差し出してきた。

名簿のチラシだった。

三枚分、びっしりと名簿が埋められていた。

 

「わし、頑張ったぞい」

 

誇らしげに笑う。

 

「もっと追加の紙はないかのぉ?」

「もちろん、ありますよ! ぜひよろしくお願いいたします」

 

芹澤が嬉しそうに新しい紙を手渡す。

 

「店主のおかげです。僕、本当に頑張って、住みよい町に変えていきますので!」

 

馬鹿丁寧なぐらいに頭を下げて、店を出る。

僕は茫然として、

 

「すごいですね」

 

とつぶやいた。

 

「あぁ。店に来る人来る人に無理やり名簿を書かせてるからな。このうちの半分ぐらいは、嫌々書いただけの偽住所だ。ほら、見てみろよ、これ。下北沢なんて書いてあるぞ。大洗のどこに下北があるってんだ」

「あ、本当ですね。でも、本当にすごいなぁ。芹澤さんの大ファンなんですね、あのおじいさん」

「ただの政治好きのじじいだよ」

 

芹澤が冷たく言い放った。

 

「齢食って、一人身になって、自分が惨めだと思ってるんだ。んで、不景気で店も暇になってきたから。なんかに注ぎ込んでストレスを発散したいんだよ。そういう奴だから、こういうネタには喜んでのっかかるんだよ」

「え?」

「そう思わないか? 廉太君」

「あ、いや、その」

「君、国で働いてるんでしょ。頭廻るでしょ。理解できるでしょ?」

「ま、まぁ、その」

「よかった。理解してくれて。さぁ、続きを回ろう。休憩は終わり、終わり」

 

芹澤が口笛を吹きながら自転車にまたがった。

 

その後、午後二時半まで、僕たちは町を回った。僕の交友関係なんて、たかが知れている。中学校区内でほとんどすべてだ。そして、そのほとんどはやはり、無駄打ちだった。

ただ一軒、吉中さんの住所を訪問するのだけは気が引けた。

その人は、僕が高校一年生の時、少しだけ仲良くなった女の子だった。

おとなしく、内向的な雰囲気の子で、僕と似たもの通しだった。

お互い気があって、付き合うか付き合わないかの狭間ぐらいまで行ったのだが、結局、僕は勉強に本腰を入れたかったから、付き合わなかった。

僕はずっと気まずい思いを抱いていた。

彼女の家があったあたりを訪問した時、ちらりと表札を見た。

相変わらずそこには、『吉中』という苗字が張り付けてあった。

高校生の頃、一度か二度、遊びに行ったこともあった。

懐かしさやら、甘酸っぱさやらがこみ上げた。

『吉中』という苗字がまだその家にあっても、彼女がいるかどうかはわからなかった。

もう結婚して、どこか別のところで暮らしているかもしれない。

この家には、親が住んでいるだけかもしれない。

僕は、芹澤には紹介せず、素通りした。

ただ、彼の目を盗んで、自分の名刺だけをポストに放り込んでおいた。

 

「さて、と。今日は本当にありがとうね」

 

芹澤が、猫なで声で言った。

 

「いえ。なんか、勉強になりました。選挙って大変なんだな、って」

「いやいや、望んだ道だからね」

 

僕たちは、握手をして別れた。

六時間ほど一緒に外回りをすると、不思議な連帯感が芽生えたような気がした。

僕は、いったん家に帰ろうかと思ったが、なんだかそれも億劫になった。

もう、大洗はいいや、というような気分になっていた。

荷物を持って出ていて幸いだった。

そのまま、鉄道に乗り込み、夜になる前に、東京のマンションに帰った。

留守番電話にメッセージが残されていた。

再生すると、吉中さんからの伝言だった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18 恋について少しだけ考える

いつも読んで下さりありがとうございます。 
評価をつけてくださったり、お気に入り登録してくださったり、ありがとうございます。本当にうれしいです。もしも、ご意見や気になることがございましたら、気軽にお伝えくださいませ。


『こんにちは。吉中です。

今日は、名刺をいただいて、その、びっくりしました。

あなたのことなんて呼べばいいのかな。

辻君? それとも、レン? 

えっと、また、その、電話します』

 

僕は、頭を固い棒で打ち据えられたような気分になった。

まさか、本当に電話がかかってくるなんて思ってもいなかったからだ。

僕は確かに、吉中さんのポストに名刺を入れた。

でもそれは、僕の省庁での肩書が書かれただけの名刺だった。

そこには、個人的な電話番号は記されていないはずだった。

だからこそ、ポストに入れることができたのだ。

あの時、名刺を投函するとき、僕が考えていたことは二つあった。

一つは、国家公務員になった自分を吉中さんに知ってほしいという見栄だった。

もう一つは、ずっと前に高田と飲んだ時、高田が言っていたことを思い出したからだった。

 

「俺さ、前に有馬温泉に行ったんだよ。

ちょっとした仕事の付き合いで。

んで、コンパニオンの子とまぁ、ねんごろになってさ。

酔った勢いもあって、名刺を渡したわけよ。

そしたら彼女、情熱的で。

会社に電話かけてきやがるの。

びびったぜ、俺。

ある日、急に『学校教育課の高田さんに、飯田さんという女性の方からお電話です』だもんな。

飯田って誰よ、と思ったら例のコンパニオンの本名だとよ」

 

高田はそのことを、半ば笑いをとるための武勇伝として語っていたが、僕は実際にそんなことがあればそれはそれで場合によってはロマンチックだと思った。

それで、仕事の名刺を入れることで、吉中さんから電話があることを期待した部分もあった。

ただし、職場に電話など掛けにくいものだ。

ほぼありえないことだからこそ、ちょっとしたスリリングなゲームとして、名刺を投函できたのだ。

 

それがどうして、自宅に留守録が入っているのか。

僕ははたと気がついて、今日使っていたバッグから、名刺ケースを取り出した。

名刺の幾枚かに、ボールペンの手書きで自宅の番号が記されている。

しまった。

これを入れたんだ。

思い出した。

この春に教育課に配属になった時、新しい上司の1人に、自宅の番号も一応教えてくれと言われて、何枚かの名刺に記したんだった。

その時に自宅番号を書いた名刺の余りをそのまま名刺ケースに入れっぱなしにしていたらしい。

 

どうしようか……。

僕は逡巡した。

吉中さんに対して、甘酸っぱい思い出をまだ抱えていることは事実だ。

だからと言って、今再び会って何になる?

いったい何を言えばいい?

 

僕は、留守録の再生ボタンをクリックした。

もう一度、吉中さんの声が聞こえてきた。

女性の声は、齢を経てもあまり変わらない場合があるという。

吉中さんの声は、僕の記憶の中の声とほとんど違いがないように感じられた。

 

『あなたのことなんて呼べばいいのかな。辻君? それとも、レン?』

 

彼女のその言葉が僕の胸を激しく衝いた。

レンという呼び方がひどく懐かしかった。

廉太だからレンなのだが、彼女以外に僕をそう呼ぶ人は誰もいなかった。

口数が少なくて内向的なイメージの吉中さんが、僕の下の名前を省略して呼び捨てにする。

その不思議な親密の距離に、あの頃僕は強く興奮していた。

そのことをありありと思いだした。

 

僕は受話器を手に取った。

ナンバーディスプレイに表示された番号をプッシュしようとしたが、勇気が出なかった。

時計を見る。

早くに帰ったから、まだ20時だった。

もう少ししてからでも、失礼には当たらない時間だ……。

僕は棚から先日、神保町で購入したCDを取り出す。

これを一曲だけ聞いて、気持ちを落ち着けてから、コールしよう……。

まるで中学生か高校生みたいだ、と苦笑した。

 

結局、Out Of The Blueを丸一枚聴いてしまい21時になってから、再び受話器を手に取った。

数コール後に、女性の声がした。

 

「はい、吉中です……」

「あ、その、辻です……」

「え? もしかして、辻君?」

「あ、う、うん」

 

僕は頭を掻く。どこか照れ臭かった。

 

「久しぶりだね。びっくりした。急に名刺入ってたから」

「あぁ、その、今日、ちょっとね」

「東京にいるんでしょ? 今日は大洗にいたの?」

「その、里帰りをしたんだ。それで、君の家を見て、懐かしくなって」

「そうだったんだ」

「そっちこそ、わざわざ電話をかけてくれてうれしかったよ」

「だって、手書きで番号書いてあったから。掛けてほしいっていう意味だと思って」

「そ、そうだね」

「うん」

「ねぇ」

「なに?」

「その。昔みたいに、レンって呼んでよ。さっきの留守録みたいに」

「……いいよ。レン」

「……ありがとう」

「それで?」

「え?」

「用事があるから、名刺を入れたんでしょ? どうしたの?」

「あ、いや。その……」

 

僕は言葉に詰まってしまった。

本当に馬鹿だ。

一時間も音楽を聴いている時間があったら、電話の理由ぐらい考えておけばよかった。

 

「何でもないんだ」

 

降参だった。

何も理由が思いつかない。

僕は素直に白状した。

 

「ただ懐かしかっただけだ。それ以上何も理由はないんだ」

「そうなんだ」

 

受話器の向こうで、吉中さんが柔らかく笑った。

 

「レンのそういうところ、嫌いじゃないよ」

「あ……」

 

一瞬、言葉に詰まる。

 

「その……」

「待って。子供が帰ってきた」

「え?」

「小学生の娘がいるの。水戸まで塾に行ってるから、いつもこんな時間」

「結婚、してるの?」

 

当たり前のことをつい問いかけてしまう。

 

「してたけど、離婚したわ。でないと実家に帰ってないわよ」

「そ、そっか……」

「また電話する。今度は、外から、携帯で」

 

言って、電話が切れた。

僕は受話器を持ったまま、呆然と立ち尽くしていた。

一瞬ここがどこかわからなくなった。

長く暮らしている、東京のマンションだ。

……受話器を置き、ベッドに座り込む。

今の自分の気持ちがなんなのか、よくわからなかった。

吉中さんに子供がいた。

年齢的に考えれば、当たり前だ。

そして、離婚している。

だからなんだというんだ。

僕は何を期待している?

振り返ると、これまでの人生で、恋らしい恋をしたことがなかった。

根本的に、他人に対して淡白だというのもあるのだろうが。

大学時代は、アルバイトと国家公務員になるための勉強に夢中で、恋愛をしている余裕がなかった。

就職してからは、さらに忙しかった。ひたすらに上司の言うことを聞き、与えられた仕事をこなし、休日は疲れて眠ったりしているうちに過ぎ去っていた。

女性に興味がないわけではない。だが、深入りする機会というものがなかった。

30代になり、同期たちがちらほら結婚をしだすと、「いったい彼らはどうやってそこまで女性と深い関係を築きあげることができたのだ?」と不思議な気持ちになった。

それと同時に、「いったいどうやって恋愛に時間を割けというのだ」という気持ちがあった。

働いて、付き合いの飲みをして、疲れ果てて。

残りの時間を、これ以上さらに他者との関係に費やしたくないのが本音だった。

恋愛は楽しい部分だけではないだろう。

人と人との付き合いだ。

いろいろと気苦労が絶えない部分があるだろう。

仕事ですり減った心を、さらに疲弊させる気にとてもなれなかったのだ。

 

「…………また、関係性だ」

 

人との関係性から逃げてきた結果が、僕のこの一人ぼっちの人生なのか。

 

「あぁ~あ……」

 

ため息をつきながらベッドに横たわる。

都心の5階のマンションの窓からは、夜の街灯りが見えた。

どこかのビルの常夜灯が点滅している。

目を閉じた。

そして、芹澤のことを考えた。

僕は今日、なんであんな奴の手伝いをしたんだろう。

わざわざ自転車で外回りの手伝いなんて……。

 

僕は首を振った。

理由は決まっている。

一つは、前向きになって、何にでも首をつっこんで、自分を少しづつ変えていこうと思っているからだ。

もう一つは、きっと戦車道のためだ。

昨日の夜、OG会の女性たちに頼まれたんだから。

芹澤自体は、僕はそんなに好きなタイプではないが、彼女たちは真剣だった。

竹谷さんだっけ、あの、ショートカットの女性……。

帰り道で僕に懇願した様は、きな臭い政治にかかわる女性というよりも、僕が画面の向こうに見てきた戦車道に打ち込むまっすぐな女性の姿と同じだった。

それに芹澤だって、彼なりの苦労をしているんだ。

僕にはとてもあんな外回りを毎日やることはできない。

胡散臭い男だが、まったく尊敬できないわけではない。

 

僕はベッドから起き上がり、服を脱いだ。

今日はもう寝よう。

明日も仕事だ。

そのためにはまず、シャワーを浴びなければならなかった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19 コンサート

いつも読んでくださってありがとうございます! また、評価やお気に入り登録、ありがとうございます! 心から感謝いたします。


それからというもの、時折、携帯に吉中さんから電話が掛かってくるようになった。

僕は気の利いた話ができなかったが、彼女はそれで満足をしているようだった。

彼女は話し相手を求めているのだろう。

電話はたいてい夜に掛かってきた。

着信をとると、決まって

 

「レン、仕事は終わった?」

 

と問いかけられた。

夜遅いことがほとんどだったので、仕事はいつも終わっていた。

僕は必ずテンプレートのように

 

「うん、終わっている」

 

と答える。

すると吉中さんが

 

「そう。よかった」

 

とつぶやく。

それらの会話の流れは、僕と吉中さんの間で交わされる暗号のようだった。

彼女との会話は、いつもきっちり30分だった。

それほど盛り上がるわけでもなく、お互いの身の回りの報告をするだけだ。

彼女は

 

「あまり遅いと、明日の仕事の妨げになると思うわ」

 

といつも言って電話を切った。

ガチャリ、と音を立てて彼女と僕をつなぐ糸が断たれると、そのあとに一瞬やってくる音のない空白のようなものが僕は好きだった。

それは、吉中さんという向こう側の世界と、東京のマンションというこちら側の世界をつなぎ合わせる接着剤のように感じられた。

 

5月の最後の日に、例のスティーヴ・ハケットのライブがあった。

川崎の駅前にあるライブハウスでの公演だったので、品川で待ち合わせをして京浜東北線に乗った。

僕は、篠崎代議士の前で失礼な格好をしてはならないと思ってスーツを着てきたのだが、篠崎代議士はデニムに洗いざらしのシャツというラフな服装だった。

ラルフ・ローレンの刺繍が入ったブルーのデニムはいい具合に使いこまれていて、太ももに入ったヒゲに味があった。

二人並んで列車に乗る様子は、さぞチグハグな二人組に見えたことだろう。

 

「あの、もしかして、普通のカジュアルな服装の方がよかったでしょうか」

 

と僕はおずおずと問いかけた。

 

「いや、全然。どっちでも気にしないよ。こういうとき、ちゃんと俺に気を遣ってスーツを着てくる真面目さが君の良いところだ。ただし、ロックを聴くのにスーツは君自身が息苦しいだろう。次から普通に私腹を着てくるといいよ」

「あ、ありがとうございます」

 

僕が列車の中で頭を下げると、篠原代議士が

 

「おおげさだよ」

 

と苦笑いをした。

 

川崎のライブハウスは、オールスタンディングで1000人余りのキャパの箱だった。

客の年齢層は高かった。

プログレッシヴロック好きがほとんどなのだろう。

スティーヴ・ハケットやジェネシスに限らず、プログレ関係のフェスティバルのTシャツや、他のプログレッシヴロックバンドのTシャツを着ている者もちらほらいた。

 

「おい、見てみろよ。あれ、ルネサンスのTシャツを着てる奴がいるぞ。レアだな。あっちも見てみろ、オザンナのパレポリのTシャツだ」

 

興奮したように篠崎代議士が言った。

僕はそれらのバンドは名前ぐらいしか知らなかったが、確かに、キャメルやピンクフロイドのTシャツを着ているというのとはマニアックのレベルが違うのだろう。

会場の中に入ると、キャパシティに対しては多少空きが目立った。

満員御礼というわけにはいかない様子だった。

とはいえ、集まってくるのは、好きな人ばかりだ。

独特の熱気があった。

やがて、ステージに灯りがともり、コンサートらしい白煙がたなびき始めた。

グリーンのライトが大きく輝いた時、ギターの音色が聴こえた。

聴衆たちが歓声を上げた。

白煙の向こう側に、スティーヴ・ハケットがいた。

洗練された手つきで、たった一人でエレキギターを弾いていた。

さすがギタリストのライブだ。

ソロ演奏から入るとは。

ギターのみとは思えないような長尺のソロが終わると、やがて後ろに配置していた、ドラムとベースとキーボードが加わり、音に厚みが増していく。

キーボーディストが素晴らしかった。

まるで音の洪水の中に身をゆだねているようだった。

時折、芝居がかった調子でオペラ歌手のような気取った服装をした長髪の男がステージ脇から出てきて、歌を添えた。

しかし、あくまで中心はスティーヴ・ハケットのギターだった。

エレクトリック・ギター。

それが彼の武器だ。

僕たちを音の海へと誘う。

 

3時間近くの公演が終わった時、僕は茫然としていた。

ジェネシスはCDで聴いたことはあったが、その時の印象よりも、生で聴く音は全く違っていた。

まるで芸術だった。

音が僕をどこかへさらっていくみたいだった。

 

「どうだった?」

 

篠崎代議士が、僕に問いかけた。

彼はうれしそうにニヤニヤとしていた。

 

「……ただただ、素晴らしかったです」

 

僕は素直にそう伝えた。

 

「そうだろ! 最高だろ!」

 

篠崎代議士が嬉しそうに僕の背中をたたいた。

 

「さ、今日はもう遅くなったし、おとなしく帰ろうか」

「あ、は、はい」

「また今度、飲みに行こう。今後、仕事でもいろいろと連携していきたい」

「ぜひ、お願いいたします」

 

僕は深々と頭を下げた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20 生きがい

いつも読んでくださってありがとうございます。評価をつけてくださって本当に嬉しいです。また、誤字脱字報告、本当にありがとうございます。



6月のある日、また山下と飲む機会があった。

僕たちは例の雑居ビル3階のバーに集まった。

相変わらずマスターは寡黙で何を考えているのかわからず、山下は一人ではしゃいでいた。

彼はストラスアイラをロックで飲んでいた。

 

「いつも違う酒だな。節操がない」

「そんなことないぞ。ちゃんとスコッチっていう大きなくくりの中で飲んでるんだ。

それに、いろんな酒を飲み比べることができるのがバーの醍醐味だと俺は思ってるからな」

「あっそう」

 

その日は山下の妻が、大学時代の友人と遊びに行っているらしく、遅くまで飲んでいても問題がないとのことだった。

 

「辻ちゃんさ、結婚はしないの?」

 

山下がグラスの氷を指で回しながら問いかけた。

 

「全然その予定はないね」

 

僕は苦笑いをする。

目下その予定は見当たらない。

最近仕事以外で話した女性といえば、戦車道OG会の数名と、吉中さんだけだ。

OG会の面々とはこれから付き合いが発展するとはあまり思えなかった。

年齢が離れているし、芹澤を通じてしか成り立っていない関係だ。

吉中さんは……よくわからなかった。

電話を時々する仲にはなったが、よくよく考えてみると、僕は現在の彼女の顔さえ知らないのだった。

僕が考え込んだ表情をしていたのだろうか、山下が、

 

「まぁ、結婚なんてしないほうが幸せかもな」

 

と言った。

 

「婚期なんていう言葉があるから、不安になってしまうが、結婚したらしたで、別に楽しいもんでもないわ。そのへん、人によって違うかもしれんがな」

「……お前は、不幸せなのか?」

「辻ちゃん、攻めたこと訊くねぇ」

「あ、す、すまない」

「いや、いいって。

……そうだな、別に不幸せではないよ。

幸せでも不幸せでもないってところかな。

なんかこんなもんかって感じだわ。ある程度人生のノルマをクリアした感じっていうか。

結婚したら、それまで俺が持ってた価値観が通用しなくなっちゃったなぁってのはあるよ。

自分の自由な楽しみができないっていうか。

もう一度、親と同居してたガキの頃に戻ったのにちょっと似てるかもな」

「へぇ。そんなもんなのか」

「さっきも言ったけど、これはあくまで俺の主観だからな。

俺の友達でも色々だよ。

大学の同期で仕事の関係で関西に行って、そっちで結婚した奴がいて。高槻に家を買ったんだったかな。

しばらくは、結婚してから何も楽しいことがないってぼやいていたけど、子供ができた途端、新しい生き甲斐ができたってさ。

その子を育てることが新しい人生の目的だって。

要するにさ、なにか目標があるかどうかだよ。

結婚は一つのゴールだからな。

そこまで行くと喪失感があるけど、なんか新しい楽しみを見つけりゃ、それはそれで人生、明るくなるんじゃねーか?」

「なるほどね。お前は今、なんかあるの? そういう楽しみとか」

「目下は、辻ちゃんと酒飲むことかねぇ」

 

にひひっと笑う。

 

「言ってろ」

 

僕は山下の肩を軽く個付いた。

 

「いやいや、割と事実だよ。

やっぱさ、歳食うと酒飲む友達も限られてくるからな。

その高槻に家買ったやつとかさ、学生時代は本当によく飲んだもんだけど、今会えるかっていうと、関西まで行って会う機会なんてないもんな。

そいつんち、駅前からバスで30分ぐらいかかるんだぜ。

なんかの出張のついでとかに会うのもままならねーよ。

だからさ、辻ちゃんは貴重な存在よ。同じ職場に友達がいるっつー点で」

「なるほどね」

「でもよぉ」

 

山下がグラスをカウンターの宿木に置いた。

グラスはびっしょりと汗をかき、中はほとんど空になっていた。

 

「たまの休みにこうやって酒飲んでるだけじゃ、何も生み出してないよなぁって思うわ」

「どういうこと?」

「だから、さっきの人生の目標の話よ。

とりあえず仕事してさ、言われたとおりにそれをこなすことに努力を傾けてさ、んで、残った時間はこうやってうだうだして。

俺って人生で何を残してんの?って思うわけよ。

俺な、大学んとき、映研に所属してたんだ。

そのサークルで短編映画撮ったりしてさ。

後輩に、ちょっと面白い、ひねりの効いた脚本を書く女の子がいてな。

俺はカメラ担当よ。

在校中に2本撮ったなぁ。

30分ぐらいの短編2本。

3本目も撮ろうとしたんだけど、ゼミのレポートやら就活やらで忙しくなって中断して。

そのままだったなぁ。

結婚して今の家に越す時に荷物整理してたらその時の映画のデータが出てきてさ、ついつい見入っちゃったなぁ」

「すごいな、映画かぁ……」

「全然すごくはないぜ。

本当に、照明とかもろくにちゃんと使っていない、学生の作った素人短編よ。

でもな、それでも、この世の中に、なんか自分らの手で、自分らだけで作ったものを生み落してる行為なわけじゃん。

そのことにさ、ふっと思い至って……」

 

山下は再びグラスをつかむと、もうほぼ溶けた氷の水であろう液体を口に含んだ。

 

「こんなことでいいのかなぁって……」

「それ、ここで酒飲みながら言っても支離滅裂だぞ」

「そうなんだよなぁ……」

 

「ま、仕事は仕事で、ちゃんと世の中に何かを生み出してる行為だと思いますよ」

 

急に、寡黙なマスターが口を開いた。

 

「組織が大きすぎると、自分が何をやっているのかわからなくなるとは思いますけどね」

 

「うぅん、そうなんだけど。なんかなぁ。その、他人の意図の言いなりになってる感じがさぁ……」

 

山下が溜息を吐く。

それから、やおら首をあげ、マスターを見据えた。

 

「マスター。すんません。ちょっと愚痴っぽくなってたわ。チェイサーください」

「どうぞ」

 

トールグラスに水が注がれる。

 

「特別にちょっといい天然水入れときましたよ」

 

と微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 

一気にそれを飲み干す。

 

「酔いすぎた。俺もう帰るわ。辻ちゃんは?」

「いやいや、置いてかれても困るから」

 

僕も一緒に立ち上がった。

会計を済ませ、ウェスタン風のスィングドアを開け、階段を下りる。

エレベーターもあるのだが、僕たちはなぜかいつもこの非常階段のような外にむき出しの階段を使って降りることにしていた。

このほうが夜風が気持ちいいからだろう。

駅前で別れる時、僕は何となく、山下に言った。

 

「あのさ、さっきの目標の話だけどさ。俺は山下と違って、映画とかそういう趣味もないからさ。その分、仕事を自分なりに頑張ろうかなって思ったよ」

「お、いいねぇ。前向きだねぇ、辻ちゃんは!」

 

赤ら顔で僕の背中をたたく山下は、もういつものお調子者の表情を取り戻していた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21 外伝 山下氏の茫洋たる夜

いつも読んでくださってありがとうございます。お気に入り登録や評価、本当にうれしいです。出張から帰ってまいりましたので、また頑張って書いてまいります。
今回は、山下さんの話です。20話の逆視点と+αとなります。


35歳を超えてから、めっきり酒に弱くなった。

そのことが山下の目下の悩みだった。

以前は一晩中強い酒を飲んでもせいぜい頭が痛くなるぐらいだったが、最近は、すぐに酔いが回ってくる。

ろれつが回らなくなり、ふわふわと浮ついたことを口にしてしまう。

これまでになかったことだ。

幸い、付き合いの飲みの少ない部署に配属されていたので、仕事上の問題はない。

しかし、山下は酒そのものが好きだった。

付き合い云々ではなく、自分自身で酒を飲むことが好きだった。

 

だから、酒に弱くなってきたのは、死活問題だった。

ハードな仕事が終わった時、行きつけのバーあるいは自宅で、ウィスイキーをロックで飲む。

これを抑えることなんて出来るわけがない。

ウィスキーを買い揃えることは、山下の趣味の一つだった。

行きつけのバーで、気になったウィスキーを一杯飲んでみて、気に入ったら自分でボトルを購入する。

結婚する前は、一人暮らしのアパートに、これまで飲んだウィスキーのボトルをずらりと飾っていた。

お気に入りは、ポットスティールの形をしたオールド・プルトニーのボトルだ。

愛嬌と美しさを両立させた良いボトルだと思う。

 

友人の中には、「本当に好きな銘柄を一つに固定すればいいのに」と言うものもいたが、あれこれと試してみるのが山下にとっての至極の喜びだった。

これだけは、結婚して妻にとやかく言われようとも、できるだけ続けていきたいと思っていた。

なのに最近は、飲み終えていない、3分の1ほど残ったボトルが増えてきている。

酒を飲む量が減った証拠だ。

飲む量が減ったのに、珍しい銘柄を見かけると買いたくなってしまうから、飲み終えていないボトルが増えていく。

それを見るたびに、自分が情けなくなって溜息が出る。

 

 

6月のある日、行きつけのバーに同期の辻と連れ立って飲みに行った。

辻はさほど酒をたしなむ男ではないが、おとなしく、誘いに嫌な顔をせずついてきてくれる。

酒をあまり飲まないものは、バーに誘うと嫌がる場合が多いが、辻は、オーセンティックなバーに誘ってもついてきて、ハイボールを横でちびちびと飲んでくれる。

山下にとっては貴重な存在だ。

辻との会話は気楽だった。

辻には、灰汁がない。

理性的ではあるが、どことなくフラットな男だ。

ウィスキーならば、味わいに複雑みが無さ過ぎてつまらないのだろうが、夜に二人で話すには、灰汁のない奴の方が疲れない。

灰汁の強い奴と話すのは、仕事の場だけで十分だ。

 

だが、その日は、珍しく辻相手に踏み込んだことを語ってしまった。

いつも通り、軽いジャブの打ち合いのような会話で終わるつもりだったのだが。

酒の酔いが回るのが想像よりも早く深かったのだ。

学生時代の思い出や、生きがい、結婚観について自分語りをやってしまった。

話しながら自分が面倒くさい奴になってしまっていると実感はしていた。

だが、言葉を止めることができなかった。

頭の中で、「後悔」の念がじわじわと滲んでいた。

語りすぎているということに対してではない。

自分の今のありように対してだ。

自分自身の今の姿に対してだ。

 

20代前半ごろまでの、「これから俺は何かになれる」「これから俺は何かをやってやる」という無計画に前向きな気持ちを、いつの間に失っていたのだろう。

どうして俺は、こんなにもただ毎日を消費するだけのつまらない中年になってしまったのだろう。

そういった、普段は心の奥底に抑えている「後悔」が、まるで、堅牢な壁の小さな隙間から侵食してくる液体のように、胸の中で広がっていく。

 

やめろ、やめろ、やめろ……。

 

誰だってこんなもんなんだ。

そんな、後悔なんてするな。

ないものねだりだ。

それこそ、青臭いぞ。

 

頭の中で自分に言い聞かせる。

だが、ウィスキーを一口飲むごとに。

辻に向かって一言を発するごとに。

自責の念が、後悔が、漠然とした不安が、胸を襲う。

 

山下は……辻に向かって、学生時代に映研に入っていたことを話した。

ほとんど誰にも言ったことがない話だった。

あまりクールな思い出ではないからだ。

20歳の頃、山下は所謂「シネフィル」を気取っていた。

難しい顔をして名画座の前方の席に座り、ゴダールやタルコフスキー、フェリーニやヴィスコンティの作品のリバイバル上映に見入っていた。

そんな自分は、特別な存在だと思っていた。

この良さが分からんガキどもは相手に出来んぜと思っていた。

だが、実際には山下には、「映画を見ること」以上の何かをする才能がなかった。

 

そのことにはたと気が付いたのは、映研に菅原千砂という後輩女子が入ってきてからだった。

菅原千砂は、小柄で可愛らしい女の子だった。

小動物のように華奢な体つきをしていたが、前向きで気が強い一面があった。

そして、いわゆる「芸術」映画のようなものには一切興味がなかった。

彼女は、ヌーヴェルヴァーグやイタリアンネオリアリズモを否定した。

フィルムノワールも見なかったし、ロシア映画も見なかった。

サム・ペキンパーもエリック・ロメールもテオ・アンゲロプロスも知らなかった。

 

だが。

 

彼女は、なかなか捻りの効いた面白い脚本を書いた。

 

実のところ、自分で脚本を書き上げたのは、映研で彼女だけだった。

映研は、「映画監督になりたい」とぼやきながら、こ難しい映画に見入り、煙草をふかして強い酒をあおる。

そんなワナビーの連中のたまり場に過ぎなかったのだ。

 

「ねぇ、ちゃんと、みんなで自主製作映画作ろうよ!」

 

そんな言葉に、嫌々ながらも頷いたものが多かったのは、菅原千砂が、後輩で女の子で可愛かったからだろう。

気が付くと、彼女を中心に自主製作映画製作スタッフが出来上がっていた。

山下は、カメラ担当になった。

出来上がった映画を見て、

 

「まぁ。まぁまぁだね」

 

山下はつぶやいた。

内心では

 

「こんな程度のもの。俺だって」

 

と思っていた。

山下は、書いたことはなかったが、本当はカメラではなく、シナリオと監督をやりたいと思っていたのだ。

彼は、菅原千砂が映画を完成させた後、しばらく講義をさぼって、自宅でノートパソコンに向かってシナリオを打ち続けた。

 

……書けなかった。

 

意味のない会話や、断片程度は書ける。

だが。

しっかりとした構成のある展開や、人物像の掘り下げ、そういったものが、何一つ浮かばなかった。

 

「どうしてなんだ」

 

強いウィスキーをあおった。

その時だけ、何かが書けるような気がした。

だが、すぐに何も書けなくなる。

 

「くそっ!」

 

山下は、挫折した。

数か月間講義を休んでいたので、友人たちは心配していた。

山下は、自分がシナリオ執筆をしていたことは誰にも言わなかった。

 

「ちょっと、見分でも広めたくて一人旅に」

 

そんな嘘をついた。

以来、映画はあまり見なくなった。

 

 

山下にとって、映研時代の出来事は、総括すればそんな苦い思い出だった。

そのことそのものを話したわけではないが、すらすらと話題に出した自分に驚いた。

そして、酔って話すことによって、「結婚生活」に漠然としたむなしさを覚えている自分自身の心がむき出しになっていた。

あの、小柄で可愛らしくて、前向きな菅原千砂は今、どうしているのだろう。

彼女も、もういい歳だ。

小柄でも華奢でもなくなっているかもしれない。

普通の主婦になっているのかもしれない。

それとも、あの才能をどこかで生かしているのか。

今でも変わらず愛らしいかも知れない。

ひどくもやもやした。

自分が、すべてから置き去りにされたつまらない男であるような気がした。

こんなものは本当の俺ではない、というような気がした。

 

山下は……陽気でひょうきんなしゃべり方のせいで、人から「お調子者」と言われることが多々あった。

省庁での職に就いてからは、世渡りも考えて、わざとそうしている部分もあった。

だが、自分の本質は、どちらかと言えば、内向的で後ろ向きなところがある人間だと思っていた。

そうでなければ、どうしてゴダールなんかにはまるだろうか。

ある意味では、俺は、この、隣で飲んでいる辻と似ている、内向的な男なんだ。

 

 

辻と別れた後、猛烈に喉が渇いた。

そして、何かが足りないという気持ちになった。

もっと酒が飲みたかった。

嫌な自分が分からなくなるまで飲みたかった。

腕時計を見た。

まだ、深夜までかなり時間があった。

だが、あのバーにもう一度一人で戻るのははばかられた。

駅の改札口で、時計を眺めているうちに、ふと、知らない場所へ行きたくなった。

気が付いたら、山手線で渋谷に出て、そこから東横線に乗り換えていた。

東横線は、山下の生活圏内からは少し離れていた。

あまり降りたことのない駅名が多いのが良かった。

武蔵小杉に差し掛かった時、無意識に列車から降りた。

改札口を出る。

駅前は再開発されて、整然とした佇まいをしていた。

東急ストアの3階に、スターバックスがあるのが見えた。

酔いを醒まさなければ、という本能が働いた。

ふらふらとエスカレーターを上る。

だが、スターバックスは閉店間際だった。

顔つきはいかめしいが丁寧な口調の男性店員が

 

「申し訳ありません。もう、お持ち帰りしかありません」

 

と言った。

山下は、紙コップが嫌いだった。

だから、

 

「じゃ、いいです」

 

とつぶやいて、エスカレーターを降りた。

どう歩いたのかよく覚えていない。

グランツリーの周辺を一周し、法政通りの商店街を横切り、気が付くと、一軒のショットバーの前に佇んでいた。

猛烈に飲みたかった。

だが、ドアを開けようとすると、中から、常連客達の楽しげな話し声が聞こえた。

とてもそこに加わる気になれなかった。

舌打ちをしてその場を立ち去った。

再び駅前に戻り、ローソンで缶ビールを一本買った。

缶ビールを買うのは久しぶりだった。

プルタブを開け、口にすると、麦汁のひどい苦みが広がった。

 

「くそっ!」

 

つぶやいて、缶ビールをどこかへ投げ捨てた。

よたついた足取りで改札口を入り、家へ帰ろうと、駅のホームに立った。

空虚だった。

どこまでも空虚だった。

もうすぐ列車が来る。

山下の頭の中で、ビーチボーイズのキャロライン・ノーの最後に入っている踏切の音が再生された。

山下は、ホームから、線路の枕木を見つめた。

自分の体と、深い暗闇が空間としてあり、その奥に、線路があった。

足を、一歩、踏み出す。

その瞬間、列車がやってきた。

山下は、硬直したように、その場に固まっていた。

 

「俺は今、何をしようとしていた?」

 

絶句した。

飛び降りようとでもしていたのか?

わからなかった。

自分が本当にわからない。

首を振り、列車に乗り込んだ。

 

 

そのあとのことはあまり覚えていない。

だが、その日のうちに家に帰り、階段にしがみついて眠っていたらしい。

翌朝、呆れ顔の妻にそう教えられた。

ずいぶんと怒鳴られると思った。

そのことが嫌で仕方なかった。

だが意外にも妻は、微笑んで、

 

「きっと疲れてたのよ」

 

と言った。

 

「しばらく、酒は控えるよ」

 

山下はつぶやいた。

 

「うん。あまり無理はしないで」

 

妻が頷いた。

彼女の顔には、知り合った頃の優しげな空気が感じられた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22 義務教育施設統廃合プロジェクトチーム

「義務教育施設統廃合検討プロジェクトチームというものが今度発足する。そこに入ってくれないか」

 

うだるように熱い8月の末、人事から唐突にお達しがあった。

 

「兼任になるが、とりあえずはミーティングを重ねて、方向性を検討していくだけだ。大きな負担にはならないだろう。実際に会議として動き出していくときには、兼任を解いて専任にする。君にとって、大きなステップアップになるぞ」

 

それが本当にステップアップになるのか判断が付きかねた。

ただ単に、都合の良いように激務を与えられるだけかもしれない。

しかし、いずれにせよ拒否権はなかった。

その場ですでに用意されていた辞令を与えられると、談話室へと連れて行かれた。

第2委員会室の隣にある小さな部屋で、壁が茶色く変色している。

煙草による染みだった。

かつて、一部の会議室で煙草が吸えた頃の名残だ。

特に、この小さな部屋は、委員会で会議がまとまらない時、少人数で話し合いをするために使用される頻度が高かった。

議事録の残る委員会室では言えない言葉……怒号や脅しや泣き文句が飛びかう。

当然のごとく、喫煙頻度も高まる。

通称「煙草部屋」と呼ばれている部屋だった。

 

「うっわー、これからこの部屋でミーティングするの? 煙草の匂いが染みついてるじゃん」

 

水野と名乗った30過ぎの女性が口をとがらせた。

彼女のほかに、飯田、内村、斉藤という3人の職員が集まっていた。

飯田だけは40代だったが、あとはみんな30代だった。

これが義務教育施設統廃合検討プロジェクトチームのメンバーだろうか。

 

「まぁまぁ、これからずっとこことは限りませんし」

 

温厚そうな内村が言った。

彼の顔は、庁舎内で見たことがあった。

お互いに自己紹介を済ませる。

場を取り仕切るのはもちろん飯田だった。

 

「人口減少、少子高齢化の進む今日、かつて建てすぎた公共施設が、地域にとって大きな負担となっています。学級人数などを考えても、学校施設の統廃合は、やむを得ないものと思われます」

 

検討プロジェクトチームという名称がついてはいるが、要は答えありきなのだ。

もっとも、僕にしても、異論はなかった。

人口が減少を続けているのは事実だ。

各地方自治体にしても、施設を維持管理するだけでも金銭的・人的負担はバカにならない。

もしも、国が方針を出して、統廃合時の建て替えなどに補助金を与える制度などを打ち出していけば、それは地方にとってもありがたいことのはずだ。

 

その日の夜、携帯に篠崎代議士から電話があった。

 

「新しいチームはどうだ?」

「篠崎先生の差し向けだったんですね」

「もちろん。意気込みの一つでも聞かせてくれよ」

「頑張らせていただきます」

「よし。いい返事だ。12月議会で、俺は、学校施設の統廃合の推進を質問する。うまく答えてくれ」

「僕がですか?」

「もちろん、最終的には飯田が答えるさ。でも、君にも一言、活躍してほしい。先じて手を挙げてくれよ」

「恐れ多いのですが」

「君に答えてほしいんだよ。ロック仲間だろう?」

「わ、分かりました」

 

12月議会がやってきた。

僕たちは、教育の所管費目で委員会室に着席する。

施設管理費で、篠崎代議士が挙手した。

 

「委員長!」

「篠崎委員」

「学校施設についてお尋ねします。現在、地方の空洞化が指摘され、若年層の人口比率はどんどんと減っていると思われますが、地方において、本来のキャパシティを大きく下回る学校施設が多いのではないですか?」

 

来た。

僕の答える番だ。

 

「委員長!」

 

緊張した面持ちで挙手をした。

 

「え~……」

 

委員長が手元にある座席票をにらむ。

委員会室は縦に細長い。

理事者席に人がずらっと並ぶため、奥の方に座っている僕の顔がよく見えないのだろう。

後ろ手に控えている議会事務局の職員が、

 

「委員長、辻主任です」

 

と小声で指摘する。

 

「辻主任」

 

僕は立ち上がった。

 

「委員のおっしゃる通りでございます!」

「委員長」

 

再び篠崎代議士が挙手する。

 

「篠崎委員」

「では、例えば、2つの学校を統廃合するとき、どのような問題点がありますか?」

 

問題点……頭を働かせろ。

 

「委員長!」

「辻主任」

「問題点として、例えば、地域間の軋轢が考えられます。二つの学校を一つに統合する場合、どちらの地域を残すのかが議論になります。また、学校区の再編により登下校ルートの変更の問題。そして、校舎の解体工事費用と、建て替え費用。これらが問題点であると考えられます」

 

篠崎代議士が小さく頷いた。

 

「委員長!」

「篠崎委員」

「では、そう言った問題点の解決に向けて、国はどうすればよいか。例えば、今後、学校の統廃合はやむを得ないことだというムード作りをしていく必要があるでしょう。そういう雰囲気を作り出すことで、地域としても同意せざるを得なくなってくるはずです。また、解体費用と新築費用。これらに対して、補助金の制度を今以上に強化していくべきではないですか」

 

「「委員長」」

 

声が重なった。

僕とほぼ同時に、水野が手を挙げたのだ。

委員長が、僕たちの顔を見比べ、

 

「水野主任」

 

と言った。

水野が立ち上がる。

 

「ご意見を参照し、種々検討してまいります」

 

委員会室を出るとき、僕は水野の肩をつついた。

 

「どうして僕の番を取り上げたんだ」

「なに言ってるのよ、危なっかしい」

「え?」

「あなた、あそこで、『おっしゃる通りです』とでも言いそうだったじゃない。一度言っちゃうと、取り消せないわよ」

「でも」

「流れとしてはそう。それは問題ない。でも、議事録が残る場で、自分の采配で決定事項にしちゃうとダメ」

 

そう言って、つんと顎を上げると、すたすたと先を歩いて行った。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23 統一地方選

いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!


ほとんど決定路線の理論付けを行うためだけのプロジェクトチームとはいえ、兼任という状況はなかなか堪えた。

僕の本来の業務である教育委員会の仕事の合間を縫って、施設統廃合についてのミーティングが入ってくる。

ミーティングの回数を重ね、種々検討したという名目が欲しいのか、かなりの回数に上った。

だが、楽しさのようなものはあった。

30代中心の若いチームであることが自分には心地よかった。

年上と組む際の安定感はないが、気楽さと、一丸になってやっているという、不謹慎な言い方をすれば部活のような楽しさがあった。

チームの飲みの場には、公然と篠崎代議士がやってくることがあった。

彼を後押しするための省内のチームであることは、誰の目にも明らかだった。

山下は6月以降、飲みに誘ってはこなかった。

1月の肌寒くなった日、庁舎のそばのローソンでばったりと出会った。

彼は缶コーヒーを一本買うためにレジの列に並んでいた。

 

「わざわざ並ぶのに、缶コーヒー一本? 自販機使えばいいのに」

「おっ、辻ちゃん。おひさ。これがいいんだよ。ゆっくりぼんやり並んでる間が休息なの」

「ふぅん」

「そういうとさ、辻ちゃん、最近目立ってるよ」

「そう?」

「あ、俺の番だわ」

 

彼は手をひらひらさせながら、レジへと向かっていった。

 

忙しく仕事をしているうちに、4月がやってきた。

統一地方選が近くなった。

ある日、芹沢から電話があった。

 

「あのさ、廉太君、忙しいとは思うんだけどさ、ちょっとだけ暇はない?」

「なんですか?」

「その、悪いんだけどさ、手伝ってよ選挙」

「……えっと。公務員が選挙の手伝いをすることは禁じられていますが」

「なに言ってんのさ。そんなん、公然と破られてるよ。他の陣営見て欲しいよ。町役場ОBの連中が、わさわさ動き回ってるよ。特に、市長派の現役議員連中の陣営ね。市長の命令が出て、役人がこっそり動いてるって」

「でもそれって、ОBでしょ?」

「廉太君だって、国でしょ。こんな地方来たら、誰にもばれやしないよ。頼むよ。ねぇ、お父さんからもなんか言ってやってくださいよ」

 

芹澤が後ろ手に向かって甘えた声を上げた。

後ろに父がいるようだった。

 

「あのな、廉太。俺からも頼むよ。負けられないんだ」

 

父がぼそぼそと頼んできた。

 

「……わかったよ」

 

僕は頷いた。

有給を2日分利用して日月火と、また大洗に戻ることになった。

告示日が火曜日で、どうしてもその日に大洗にいてほしいと頼まれてのことだった。

駅に降り立つと、どことなくいつもの大洗とは違う緊張感があった。

空気が張り詰めている雰囲気があった。

町中に貼られていたポスターのほとんどがなくなっていた。

 

「廉太君、よく来てくれたね」

 

相変わらず、光沢のある黒のスーツを着た芹澤が顔をほころばせる。

 

「ポスター、選挙前なのにほとんどないんですね」

「選挙前だから無いんだよ。選挙中は掲示板以外には貼っちゃいけないからね。選挙期間中になんか言われたらいやだから、早めにはがしたってわけさ。俺だってちょっと前まで、こんなの貼ってたんだぜ?」

 

芹澤が、携帯で撮った自分のポスターを見せてきた。

それは、『大洗を新しくする会 地方から政治を変える』と書かれていて、よく知らない議員との2連ポスターになっていた。

二連というのは、ポスターを半分で区切って、二人の写真が載っているものだ。

 

「あれ? これって誰ですか?」

「あぁ、木村雅彦だよ。県議会議員の」

「え、どうして?」

「俺が前に秘書してた高坂先生のお知り合いなのさ。大洗を新しくする会に一口噛んでくれているんだ」

「あ、いや、そうではなく。芹澤さん一人で写った方が、目立っていいのに、と」

「やだな、廉太君、知らないのか」

 

芹澤が素っ頓狂な声を上げた。

 

「無所属の議員が街中にポスターを貼ることができるのは告示日の半年前までだけだぞ。それもかなりグレーだけどな。選挙ぎりぎりまでポスターを貼りたきゃ、こういう2連にしてだなぁ、自分じゃなく、属している政党の宣伝ですって名目にしなきゃならないんだ」

「え? じゃ、大洗を新しくする会って、地域政党なんですか?」

「正確にはそうじゃないけど、いろいろあるんだよ。まぁここ見てみろよ」

 

形態の画像の下部を拡大する。

そこには、『弁士 木村雅彦・芹澤たかのり』と、見えないぐらいに小さな文字で書かれ、同じように見えないぐらい小さな文字で、『内部資料・討議資料』と書かれている。

 

「要するにこれは、街中に張り出してあるけど、ポスターじゃないんだ。俺と木村先生との合同討論会のお知らせを、『たまたま家の壁に貼っていた』という名目なわけ」

「普段配っているお知らせチラシと同じ扱いということですか?」

「そういうこと。もちろん、こんな討論会は開催しないぜ。選挙前に討論会なんかして、なんか質疑応答で変な質問喰らったらたまらんからな。だから、見えないぐらいの大きさのフォントで書いてある」

「内部資料ってのは? 前のチラシの時も書いてましたけど」

「そのまんまの意味さ。後援会用の内部資料なんだよ、名目は。それがたまたま流出しちゃったり、貼りだされちゃったりしたってだけってこと」

 

とんでもない言い草だった。

だが、誰もがやっていることだという。

僕は頭が痛くなった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24 電話作戦

いつも読んでくださってありがとうございます!
お気に入り登録してくださって、本当に心から嬉しいです。
展開はとろいですが、ぜひ読み続けてください。



「そういうと、芹澤さん、それはなんですか?」

 

芹澤が持っていた、デパートの紙袋に目をやる。

 

「あぁ、これか。事務所開きの告知だよ。これを入れてまわっている」

 

芹澤が、小さな紙を取り出す。

そこには、火曜日の告示日の日程と、選挙事務所の位置、事務所開きおよび出陣式の時間が書いてあった。

 

「事務所開きをして、当日ガラガラだったら情けないからな。いっちょ大きく打ち上げないと」

 

言いながら、道すがらのポストに投函していく。

 

「そんな風に適当に投函して、人が来るもんなんですか?」

「いや、もちろん来ないよ」

 

あっけらかんと言う。

 

「来るわけないでしょ。急にチラシ入ってても。来てくれそうな人には直接電話作戦をしてるよ。執拗なくらいにね。こっちのチラシは、いわば名前を売るため。俺という人間の名前をちょっとでも覚えておいてもらうためさ」

「あぁ、そういうことですか」

「当日は、高坂先生にも来てもらう予定だ。あとは、俺の出身大学の交友会の支部長、そして戦車道ОB会の面々にも挨拶してもらう。それからもちろん、君のお父さんにも」

「そんなにたくさん?」

「多い方が良いんだよ。高坂先生は元国会議員だ。拍が付く。出身大学の学友会は、俺以外にもう一人同じ大学の出身者の候補がいるからな。そいつじゃなく、俺のモノだって知らしめるためにも、支部長のあいさつは必須だ。戦車道もそうさ。俺のモノだと世間に知らしめなきゃいけない!」

 

芹澤の目はぎらついていた。

 

「そして、出陣式が終われば速攻に外回りだ。君のお父さんには選挙カーに乗ってもらう。俺は足で歩くぞ。町中を歩いて、若くて威勢が良くて、自力で頑張っているというアピールをするんだ。車なんぞには乗らん。同時進行で、徹底的な電話作戦だ。戦車道ОB会の女の子たちに、可愛い声で電話をかけまくってもらう」

 

なるほど、芹澤は、人員配置をしっかりと考えてるらしかった。

とても初めての出馬だとは思えない。

秘書時代に培ったセンスなのだろうか。

 

「出陣式の後、俺はマイクも持たずに歩くから、廉太君は後ろをついてきてくれ」

「え、僕が?」

「そう、君が」

「いや、戦車道ОB会の女の子の方が良いのでは?」

「なに言ってんだ。若い女性を連れて歩いていてどうする? 軟派者かと思われるぞ。俺の陣営はОB会以外はロートル爺ばっかりだ。君みたいな若い男が支援している様子が欲しいんだよ」

「は、はぁ」

 

まるで僕たち一人一人を道具のように表現する芹澤に少し腹が立ったが、選挙前で気が立っているのだろう。

 

「それと、こういう風にチラシを投函できるのも、月曜日までだ。投函を手伝ってもらうぞ」

 

言いながら、名刺と事務所開きのチラシを渡してくる。

 

「俺は左サイドのポストに入れていく。廉太君は右サイドを」

 

僕たちは、道の両脇を歩きながら、ポストに投函し続けた。

やがて、例のショッピングモールにたどり着いた。

 

「今日は人が多いですね」

「学園艦が寄港しているからね。大洗の飛び地扱いだから、学園艦に居住している人たちにも住民票はある。20歳を超えていたら投票できるんだから。こうして選挙前には寄港するならわしだろう?」

「あぁ、そういうとそうですね」

 

制服姿の少女たちの集団が楽しそうに語らいながら僕たちの横を通り過ぎて行った。

彼女たちには選挙など関係ないのだろう。

僕たちは、モールを通り過ぎ、近くの路地に入っていく。

商店街の名残のように、ちらほらと個人商店が点在するバス通りに芹澤の選挙事務所があった。

 

「さ、着いた。ここだ」

 

かなり老朽化した建物だった。

見たところ、閉店した駄菓子屋を改造したようだ。

そういえば、小学生の時に何度か、ここに駄菓子を買いに来たような記憶がある。

腰の悪いおばぁさんが店をやっていたはずだ。

かつては商店の名前が書かれていたであろう屋根のプレートには、芹澤の名前が書かれ、それは薄い白い布で覆われていた。

 

「まぁ、ほんのちょっとした気休め程度の抵抗だよ。告示日まで名前は出せないんだが、透けた布で覆って、ちょっと見えるようにしているんだ」

 

自嘲気味に笑う。

 

「ここって、確か、駄菓子屋ですよね?」

「おっ、よく覚えてるね。そうだよ。駄菓子屋だった。もうだいぶ前に閉店したがね」

「おばあさんは?」

「あのバァさんなら死んだよ」

「そうですか」

「あ、お疲れ様です」

 

華やいだ女の子の声が聞こえた。

事務所から顔を出したのは、戦車道OG会の竹谷さんだった。

以前、夜道を一緒に帰ったあの女性だ。

 

「ここ、彼女の家なんだ」

「へ?」

 

僕は間抜けな声を上げた。

 

「あ、廉太さん。お久しぶりです」

 

竹谷さんがぺこりと頭を下げる。

 

「そうなんです。ここ、私の家なんです。亡くなったおばぁちゃんが横で駄菓子屋さんやっていて」

 

言われてみると、駄菓子屋の店舗の隣に、もう一軒民家がつながっている。

 

「お店だった方はもう、ずっと閉めっぱなしで。売ろうにもこんなちょっとした土地じゃ値が付きにくいし、横が住んでいる家だから、取り壊すのも難しくって」

「へぇ……。僕、子供の頃、ここにお菓子買いに来てたよ」

「え? 本当!?」

 

竹谷さんが嬉しそうに手を合わせる。

 

「じゃ、私、子供の頃に廉太さんと会ってるかも。小っちゃい時、よくお店でおばぁちゃんに遊んでもらってたから」

「それはさすがにないんじゃないかな。僕と竹谷さんだと、齢が離れすぎてるよ」

「廉太さん、いまいくつですか?」

「36歳」

「あぁ~。じゃぁ、私より15歳も上なんですね。小学生の時だと、私生まれてないか」

「そうみたいだね」

「まぁ、外で立ち話もなんだから、入りなよ」

「あ、はい」

 

芹澤に促されて事務所の敷居をまたぐ。

中はほとんどがらんどうだった。

駄菓子を置いていた棚などはすべて取り払い、古い家屋特有のひび割れたコンクリートの地面がむき出しになっている。

 

「靴のままでいいから」

「あ、はい」

 

壁中に、芹澤のポスターが貼ってあった。

ところどころに、『為書き』もある。

為書きの中には、町長のものもあった。

 

「あれ? 芹澤さん、町長には反対なんじゃ?」

「あぁ、まぁ、敵を作りすぎんようにな。初めての選挙だ。どっちの色もなくても問題視されない」

 

だが、芹澤はチラシや演説で堂々と町長批判をしているはずだ。

まるで、笑顔でドロップキックをかましているようなやり方だ。

そんな僕の内心を見透かしたのか、

 

「向こうだって、選挙に通りそうな奴がいたら、一人でも自分の陣営に欲しい。今のうちに媚を売ってるのさ。為書きがもらえるってことは、俺が当選圏内の可能性があるってことだ」

「へぇ」

「まぁ、通ったところで、町長にはつかんがな」

 

ほくそ笑んだ。

 

「さて、廉太君、とりあえず、茶でも飲みながら話を聞いてくれ」

「あ、お茶、いれますね」

 

竹谷さんがぱたぱたと奥へと引っ込んでいった。

やがて、熱いお茶が二つ用意される。

僕はそれを口にする。

 

「今日の予定なんだが、君には、チラシ配りと、明後日の出陣式のお誘いの電話をしてほしい」

「チラシ配りはいいですけど、お誘いの電話って?」

「ほら、前に紹介してくれた同級生たちがいるだろう?」

「あぁ……でも、反応が芳しくありませんでしたし」

 

僕としては、もう一度あんな風な冷たい反応をかつての同級生に取られるのが嫌だった。

 

「大丈夫、大丈夫。俺がちゃんと回っといたから」

「はぁ……」

「電話は、夜遅いと失礼になる。チラシ投函は夜にやる。電話が優先だ」

「わ、わかりました。でも、あまり嫌な返事が多いと、途中でやめますよ」

「いいよ、それで」

 

芹澤があっけらかんと答えた。

 

「ある程度、目星はついてる。表を作っといた。×が書いてるのは電話しなくていい。しがらみがあったり、特定の党の熱烈な支持者だったりする奴だ。それ以外を電話してくれ」

「え? そんなの分かるんですか?」

「俺が足で会いに行って、話して、確かめたのさ。君が帰ったあとね」

「そ、そうなんだ……」

「あと、電話はあくまで、名前を売るためのものだ。出陣式への出席を無理強いしなくていい。さらっとしたものでいいから、言い方は竹谷さんに教えてもらってくれ」

 

芹澤はそれだけ言い残すと、どこかへ歩いて行った。

部屋には、僕と竹谷さんだけが残された。

 

「あ、お茶、飲んじゃってください」

「あ、う、うん」

 

お茶をすする。

僕は表を見た。

そこには、去年僕が紹介した、僕の同級生たちの名前がずらりと並べられていた。

そこには、もちろん、吉中さんの名前はなかった。

僕はそのことに安堵感を覚えた。

表の名前の横に、評価欄が作ってあって、それぞれに○だの△だの×だのが書いてあった。

理由もさらっと書いてある。

例えば×の欄には、氏子だの赤だの労組だの親戚だの書いてあった。

何らかの組織に属していて、揺れる余地なしという意味だろう。

親戚は、特定の議員の親せきという意味か。

僕は、彼らが同級生とはいえ、そんな情報を一つも知らなかった。

この表には、僕の知り合いのことを、僕が知っているよりも詳しく書いてある。

そのことが、少し気持ち悪かった。

 

「あの、廉太さん……」

「あ、ご、ごめん、ぼんやりしてた」

「あ、いえ。お仕事で疲れてるんじゃ?」

「いや、大丈夫だよ」

 

竹谷さんが心配そうに覗き込んできた。

 

「えと、それじゃ、二階に言って一緒に電話しましょうか」

「二階?」

「そう。電話は二階にあるの」

 

急な階段を上り、二階へ。

普通の部屋というよりも、ほとんど屋根裏部屋のようなものだった。

天井が低い。

 

「狭くてごめんね」

 

竹谷さんが頭を下げる。

 

「あ、いや、別に」

 

表情を読まれただろうか。

 

「あの、電話は、二台あるから。私はこっちを使うから、廉太さんはそっちを使ってね」

「わかった。竹谷さんも、電話するの?」

「うん。でも、その表じゃないですよ。私は私の友達に。戦車道の時の友達」

「そういうことか」

「あまりしつこいと、逆に嫌がられるから。私が一つ電話するから、見ててね」

 

竹谷さんがダイヤルを回す。

 

「あ、こんにちは。芹澤選挙事務所の竹谷です。うん、そう。高校の時の。私。あのね、前にもお願いしたと思うけど、戦車道をすごく応援してくれている候補がいて。うん。うん。そう。明後日が出陣式だから。うん。お願いします」

 

ガチャリと受話器を置く。

 

「こんな感じです」

「わ、わかった」

 

僕もダイヤルを回す。

中学の時に親しかった、淡路という男が出た。

 

「あ、えと、その。お久しぶり。覚えてるかな。その。中学の時の同級生の辻です。あの。選挙のお願いで。えと、ほら、前に一度家に行ったと思うんだけど……」

「あぁ、芹澤さんだろ」

「え?」

「ん? 違うのか?」

「あ、あぁ、いや、その通りなんだけど」

 

予想外の反応に僕は戸惑った。

 

「えと、その。明後日、出陣式だから」

「わかった。行けたら行くわ。あ、でも明後日か。平日だな。俺仕事だわ。すまん。投票には行くから」

「え? あ、ありがとう」

「あのあとさ、あの人うちに何回も来てさ。溝の掃除とか、樋が折れたのとかさ、直したりしてくれたのよ。あんなふうにこまめに動いてくれる人なら、信用できるからね」

「あ、そ、そう」

 

驚きながら、次の電話をする。

伊庭。こちらも中学時代の友人だ。

電話口に出たのは、伊庭の妻だった。

彼女は、小学生の息子に、グローブをくれたと喜んでいた。

スポーツ店の余剰在庫だから、と、芹澤がこっそりくれたらしい。

明らかな選挙違反にも感じられたが、もらった方はそんなこと考えてもいないらしい。

芹澤のことを、優しいいい人だと称賛した。

もちろん、好感触で、事務所開きは、夫は仕事だけど自分は暇だから、参加すると言った。

僕はめまいを覚えながら受話器を置いた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25 決意

いつも読んでいただき、ありがとうございます。選挙編に突入しています。さらっと書くつもりが、なかなか長くなってしまっています。なんとかお付き合いいただければ幸いです。


電話の反応は全体的に悪くなかった。

もちろん、そっけない返事も多々あったが、悪意は感じられなかった。

訪問時とはずいぶんと違っている。

僕は芹澤の才覚にうっすらと恐怖心を覚えた。

彼は、訪問するついでに、その家庭のちょっとした困りごとを発見し、それを解決することによって信頼を得ている様子だった。

淡路家の樋の修理を筆頭に、庭の草むしり、家庭用品の買い出しの手伝い、子供の世話、老人の話し相手などなど。

それが政治とどう関係があるのかと思うようなことをやって回っていた。

だが、住民の反応は、「若いのに気が利く」「あれだけ細かいことを嫌な顔ひとつせずにやってくれるなら、政治家になってもきっちりと仕事をするに違いない」というような好反応だった。

また、芹澤は、自分が褒められるとついでに、他の議員の悪口を吹き込んでいくようだった。

 

「僕はこうして、目の前のことを頑張っているんですがね、ベテラン議員の○○さん。彼なんて、僕のことを馬鹿にするんですよ。そんな小さな御用聞きでどうするんだ、とかね」

 

芹澤は、行く先々で、「ベテラン議員が僕のことを邪魔する」とも語っているようだった。

もちろん僕は、そんな邪魔をされているところを見たこともなかった。

既得権益から攻撃されている意欲ある若者というイメージ像を作り出そうとしているに違いなかった。

41歳の若者。

僕には滑稽に感じられたが、町の人々はそうは思わないらしい。

電話をしているときに、能義という同級生の父親が出た。

彼は、息子は出張中だと伝えた後、こういった。

 

「給料泥棒のベテラン議員どもが悪さばかりしとるって書いてあるチラシを見たぞ。俺はあきれとるんだ。芹澤君ってのは、若くて新人だろう?応援してるよ。新人なら、悪事には染まっていないはずだからな」

 

以前から定期的にばらまかれている、ベテラン議員への中傷ビラが、ボディブローのように効いているようだった。

一年かけてばらまかれ続けたビラによって「既存の議員≒悪者」という印象が醸成されていた。

そこに登場する新人の芹澤は、批判なしに正義の味方に見える。

だからこそ、彼が個別訪問して、ベテラン議員に邪魔をされているとささやく言葉は、リアリティを持って受け入れられるのだ。

もっとも、芹澤は公然と現職批判をしている。

現職議員たちからすれば、憎むのも当然だろう。

彼らが腹を立てて暴言を投げつければ、それこそ芹澤の思うつぼだ。

周到に状況が作り上げられていた。

僕は、電話を終えて、リストをしまうために、棚を開けた。

そこには、「大洗を新しくする会」として発行したベテラン議員への中傷ビラの余りが仕舞い込まれていた。

とんだお笑い草だった。

「いじめられているんです。邪魔されてるんです」

と主張する芹澤の方が、他人の中傷をしている側なのだ。

最新のチラシを手に取ると、そこには芹澤の名前が載っていなかった。

体裁上、自分はビラをまいている団体とは直接的な関係はないというように見せた方が得策だと判断したのだろう。

そのやり方には、デジャヴを感じた。

どこかで、以前も、こんな卑怯なやり方を見たような……。

 

「廉太さん、お疲れ様」

 

気が付くと、竹谷さんも電話を終えていた。

 

「あ、あぁ、お疲れ様」

 

僕はあわてて、手にしていたチラシを握りしめた。

小さく丸めて、ポケットに入れた。

勝手に読んでいたことになんとなく後ろめたさを感じたのだ。

 

「電話作戦て、慣れないとつらいよね」

 

彼女は気が付かなかったようで、「疲れた~」と伸びをしている。

 

「そうだね。僕も、同級生って言っても、もう長いことろくに話していないやつも多いし」

「あぁ~。その辺、私の方が楽ですね。いまでも戦車道の友達とはほとんど付き合いあるし。基本的に部活の仲間だから、結束固いし。あ、食べます?」

「ん?」

「おやつに、干し芋」

「ありがとう」

 

二人して、干し芋を噛む。

固くてぐにぐにとした独特の食感が懐かしい。

 

「…………………」

「…………………」

 

会話が続かない。

しばらく、無言で二人、干し芋を食む。

 

「あ、そうだ!」

 

唐突に竹谷さんが声を上げた。

 

「廉太さん、戦車道、お好きだって言ってくれてましたよね?」

「あ、あぅ、うん」

「あの、私たち大洗のチームのPR動画を作ったんです! よかったら見てくれませんか?」

 

え~っと、どこに入れたかな、とつぶやきながら、彼女はバッグを探り、一枚のDVD―ROMを取り出した。

盤面には、「大洗戦車道 発進!」とプリントしてある。

 

「高校の放送部の子たちに協力してもらって作ったんです。もし見たら、感想とか聞かせてください」

「竹谷さんは映ってるの?」

「え、私? う、映ってませんよ~。映ってたら恥ずかしくって渡せませんって。あくまで、高校の戦車道のPR動画ですから! ちょっとでも盛り上がってほしいから、もらってきて、こうやって知り合いに配ってるんです」

「そういうことか。オッケー、見ときます」

「はい!」

 

僕はそれを自分のバッグに入れた。

 

「でも、前もちらっと話が出たけど、そんなにPRしなきゃならないぐらいに、その、盛り上がってないの? 戦車道」

「まぁ……その。結局、好きな人はすごく好きっていうスポーツなんですよね。だから、地域が力を入れてアピールしたり、強豪校が存在したりっていう状況じゃないと、なかなか一般的な人気は獲得できないっていうか。その、ここだけの話なんですけど。選択科目じゃなくなっちゃったら、大洗の高校の戦車道自体、しぼんで消えちゃうかも……」

 

意気消沈した顔で、干し芋の残りをもそもそと食む。

僕は、何か勇気づける言葉を発したくなった。

だが、僕に何が言える?

僕がどんな力を持っている?

僕は今、大洗に住んでさえいない。

 

「その、僕……。何か力になりたいなって思うよ。これは本当の気持ち。実はその、あんまり、芹澤さんのこと、好きじゃないんだけどさ。彼は、戦車道のこと頑張ってくれるみたいだし。今回の選挙、できるだけ、応援するから」

 

そうだ、僕にもできることがある。

せめて、大洗にいる明後日までは、選挙の応援を一生懸命しよう。

 

「ありがとう……」

 

竹谷さんが微笑む。

その瞳はしっとりと濡れていた。

涙ぐんでいるのだ。

僕は何となく気恥ずかしくなって上を向いた。

竹谷さんが、「どうしたの?」という表情をしている。

 

「あ、な、何でもないんだ。あと、そうだ、君さ、僕が何の仕事してるか知ってるよね?」

「えと、国のお仕事……役人さんですよね?」

「うん。だから、政治家とかさ、知り合いがいっぱいいるから。戦車道の応援できるように、僕も、僕なりに頑張ってみるよ」

「あ、ありがとう!」

 

ギュッと、温かい感触。

今度は、手を握られた。

彼女にはそんな気はないのだろうけど、僕はどぎまぎする。

手はすぐに離された。

 

「私も、頑張らなきゃ! 戦車道の友達だけじゃなくて、もっと古い友達にも、電話かけてみるね!」

 

意気込んで受話器へと向かう。

僕はそんな彼女の様子を微笑ましいと思った。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26  父の想い

いつも読んで下さりありがとうございます。


実家に帰って夕飯を食べ、いまでテレビを見ていると、芹澤がやってきた。

いつもの光沢のあるスーツ姿ではなく、スポーツ用のジャージをオシャレにしたようなラフな服を着ていた。

Y3のロゴがあった。

清貧を気取る割にはブランド志向なのは相変わらずだった。

 

「さ、行こうか、廉太君」

「行くって、どこにですか?」

「チラシ配りだよ」

「あぁ、そういうと、まだでしたね。でもこんな夜から?」

「夜からがいいんだ」

 

芹澤が、父を見る。

 

「お借りいたします」

「あぁ、うん……」

 

ソファに座って本を読んでいた父が頷いた。

父が僕を一瞥した。

じっと瞳を見てきた。

何か言いたげだったが、言葉を発さなかった。

 

夜の街はしんと静まり返っていた。

月がぼんやりと空に浮かんでいた。

 

「さぁ、ノルマはこんだけだ」

 

どさっと、芹澤が両手に持っていた袋の一つを手渡す。

重い。

これ、中身はすべてチラシか。

 

「今日と明日しか配布できない。余ったってゴミだ。出来るだけ撒いちゃおう」

「どこで?」

「自転車はあるね?」

「えぇ」

「大洗リバーイーストっていうマンションがあるのを知ってるだろう? あそこに全戸配布しよう」

「えぇ? 今からですか」

「そうだよ」

 

平然と芹澤は言うが、リバーイーストは、かなり規模の大きいマンションだった。

タワーマンションというようなものではないが、マンションが3棟あり、それだけで一つの区画のようになっている。

 

「それよりも、もっと近いところに公団がありますけど……」

「公団は今一つだな。定住者が少ない。住民票が大洗じゃない可能性がある。どうせ配るなら、部屋を買い上げてる奴が多い、ファミリー向けのマンションを狙うべきなんだ」

「うぅ~ん」

「頼むよ。一人でやってると心が折れそうなんだ」

「……わかりました」

 

僕はため息をついた。

だが、昼に竹谷さんに言った言葉を思い出した。

約束したんだ。

頑張ろう。

 

リバーイーストに着く。

見上げるほどの大きさだ。

あまり大きい建物のない大洗において、それは目立つ存在だった。

暗闇の中に、コンクリートの壁が浮かび上がっている。

 

「さて、と。どうしようかな。3棟ある。まずは、こちら側を攻略しようか」

 

慣れた足取りで、右側の棟へと向かう。

 

「登ってちゃやってられんからな。まずはエレベーターで最上階へ行こう」

「はい」

 

11階で降りると、まだそこに階段があった。

 

「あれ?」

「ここはな、おかしなつくりをしているんだ。設備投資の節約か、エレベーターの停止階が奇数だ。偶数の最上階12階には、歩いて登る必要がある」

「はぁ……」

 

重い荷物を持ちながらえっちらおっちらと階段を上る。

 

「まぁ、撒けば撒くほど軽くなるさ」

 

二人で交互にマンションの扉についている郵便入れにチラシを差し込んでいく。

12階が終わると、足で一段降りた。

そこで一息つくと、眼前に素晴らしい景色が広がっていた。

11階から見える、大洗の海の景色だ。

ところどころ、港の灯りが点滅している。

停泊している学園艦が見える。

僕は息をのんだ。

 

「なんだ、見とれているのか?」

 

後ろで、芹澤が笑った。

 

「さ、行くぞ」

「は、はい」

 

二人並んで歩きだす。

 

「俺は、あっちの端から配っていく。君はそっち側から配ってくれ。真ん中で合流したら、下の階へ降りる。その繰り返しで行こう」

「わかりました」

 

 

さすがに手馴れているのか、芹澤の投函速度は速い。

僕は、真ん中よりも少し押された位置で合流する。

 

「遅いぞ」

「すいません」

「退屈だ、何か話せよ」

「え、特に話すようなことありませんよ」

「あっそ。じゃ、歌でも歌うか」

 

芹澤は、小さな声で流行歌を歌い始めた。

こんな姿、住民に見られたらどうするのやら、とか、迷惑はなはだしいとか思いながらも、僕は僕で黙って投函をしていく。

1階に降りるまで、ゆうに30分はかかった。

体が火照っている。

こんなに運動をしたのは久しぶりだ。

 

「さぁ。お疲れ。のこり2棟だな。俺はあっちを攻める。君は向こうを攻めてくれ」

「は、はい……」

 

肩で息をしながら答えた。

もう一度空を見上げると、風で雲が消えたのか、さっきよりも煌々とした月が輝いている。

その光が、無慈悲に見える。

たどり着くと、なんと、指定された真ん中の棟にはエレベーターがなかった。

 

「ま、マジかよ」

 

僕は絶望を感じながら、10階まで上る。

真ん中の棟は、他の棟に比べて小さい。

10階までしかない代わりに、エレベーターがないようだ。

これは、値段も安いだろう。

しかも、上っているうちに気が付いたが、少し特殊な構造をしている。

中2階というのだろうか。

建築に詳しくないので、どうなっているのかわからないが、階と階の間にも2件ほど部屋があるのだ。

そこには、左右それぞれの階段を通じてしか辿りつくことはできないから、結果的に全戸配布しようと思えば、いったん廊下伝いにすべて投函しつつ、左右どちらかの階段を使って一段階段を降りて、それからもう一度、反対側の階段沿いにある部屋に配らねばならい。

頭が痛くなるような作業だ。

途中から、自分が何階にいるのかよくわからなくなってくる。

まるでエッシャーの騙し絵の中に迷い込んだみたいな気分だ。

ふと、まだ灯りがついている窓の横を通った時、夜食でも食べているのか、ラーメンの香ばしい匂いがした。

猛烈な空腹感を感じる。

 

「くそっ!」

 

僕はつぶやいて、強引にチラシをポストにねじ込んだ。

 

かなり時間をかけて、汗だくになって投函し終えると、芹澤が涼しい顔で待っていた。

 

「お疲れ」

 

と、飄々とつぶやく。

 

「つ、疲れましたよ。まさか、エレベーターがないなんて。それに、中2階みたいなのがあって……」

 

言いながら、芹澤の後方にそびえる、マンションを見る。

芹澤が選んだ、左の棟だ。

そちらはいちばん大きく、14階建てだが、あきらかにエレベーターがあった。

それに、中2階のような構造はなさそうだ。

 

「あれ……そちらって、もしかして、エレベーター付いてました?」

「あ、そうだったのか」

 

あっけらかんと芹澤が答える。

 

「真ん中の棟にもついてると思ってたよ。気を遣って、いちばん小さい棟を君に任せたつもりだったんだけどなぁ」

 

まさか、分かったうえでやっているんじゃないだろうな。

そんな疑いが頭をよぎった。

だが、問いただす勇気はなかった。

そもそも、どう問い詰めても本音は言わないだろう。

 

「へとへとです。帰りましょう」

「そうだね、お疲れ」

 

彼は自転車にまたがると、夜食の一つおごってくれるわけでもなく、さっさと事務所に帰っていった。

今夜は事務所に泊まって作業があるらしかった。

 

僕は、家に帰ると、腹が立って、障子を強く引きあけた。

母が

 

「なんですか、行儀の悪い」

 

と非難の声を上げた。

 

「夜食つくってよ」

「え?」

「夜食。簡単なのでいいから」

「……わかりました」

 

母が素直に頷いた。

ジャーを開き、おにぎりを握りだす。

 

「久しぶりですね」

「なにが?」

「あなたが、不機嫌そうに無理を言うのがです」

「……そう、かな」

「えぇ。あなたは子供の頃から、子供らしくありませんでしたので。さ、できました」

「ありがとう」

 

バツが悪くなって、おにぎりを持ってさっさと退散する。

居間に行くと、父がまだ起きていて、ビールを飲んでいた。

ボブ・ディランの「女の如く」が流れていた。

ブロンド・オン・ブロンド。

最高の一枚だ。

 

「懐かしいね」

 

僕は、向かいのソファに座った。

おおにぎりを食む。

 

「何がだ」

「それ。ブロンド・オン・ブロンド」

「懐かしくなんかない。オールタイムのベストセラーだ。いつ聞いても古びてなどいない」

「それはそうかもしれないけど。僕が中学生になった時、洋楽をちゃんと聴きたい、教えてくれっていったら、父さんが最初に教えてくれたのが、ディランの『雨の日の女』とストーンズの『ブラウンシュガー』だったでしょ」

「そうだったかな。忘れたよ」

「結局、僕は父さんみたいに、マニアックにはならなかったけど。でも、ディランの『雨の日の女』の訳の分からない歌声は、ずっと耳にこびりついてるよ。『雨の日の女』が入ってるのが、このブロンド・オン・ブロンドだ」

「巻き戻して、かけようか?」

「いや、別にいいよ」

 

僕は笑った。

 

「なぁ」

「なに?」

「どうして、わざわざ選挙前に戻ってきた」

「どうしてって。父さんだって頼んだじゃないか」

「別に。はっきりと断ってもよかったんだぞ」

「そこまで嫌じゃないよ。戦車道のことがあるし」

「どういうことだ?」

「今、下火でしょ。だから、盛り上げたいなって」

「………………」

 

父は、何も言わなかった。

黙ってビールを飲む。

僕はおにぎりを食べ終わった。

 

「なぁ、帰れよ、お前」

 

口を開いたかと思ったら、そう言った。

 

「な、なんだよ、藪から棒に。せっかく帰ってきたのに」

「芹澤君のことは俺がやるから。お前は、用事ができたと言って、帰れ」

 

その言いぐさに腹が立った。

 

「いやだよ。帰るもんか」

 

僕は言い放ち、居間を出た。

父は、こちらに背中を向けたまま、ビールをあおっていた。

 

続く

 




チラシ配りだけでこんなに書くとは自分でも思いませんでした。余談ですが雨の日の女のエピソードは実体験です。中学一年生の夏休み、父が初めて買ってくれたCDでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

27  選挙のチェーン経営

いつも読んでくださりありがとうございます!お気に入り登録ありがとうございます!ご意見やご感想あれば、どうかお気軽にお伝えください!


自室に帰ってから、ジャケットを脱ぐとき、ポケットにチラシを入れっぱなしだったことに気が付いた。

くしゃくしゃになったそれを広げる。

今夜マンションに撒いたものとは違う、「大洗を新しくする会」のチラシだ。

僕はそれを小さくたたむと、バッグに入れた。

なんとなく気になったのだった。

階下から、70年代のロックが聞こえていた。

父がまだ音楽を聴いているらしい。

耳を澄ませると、Drift Awayという有名なヒット曲だった。

深い喪失感から抜け出すために、昔好きだったロックンロールを聞かせてくれというような内容の歌だった。

父は、何かに喪失しているのだろうか。

確かに、先ほどの様子は情緒不安定に見えた。

僕は、ベッドに寝転び、携帯でインターネットにアクセスした。

手持無沙汰だったのだ。

少し気が立って、眠る気にはならなかった。

なんとなく、県議会議員の木村雅彦のホームページを検索した。

芹澤と2連ポスターを作っていた男だ。

ホームページの下部に、「政治を新しくする会」という組織へのリンクがあった。

「大洗を新しくする会」と似た名称だ。

リンクをクリックする。

「政治を新しくする会」は、選挙のサポートをする任意団体のようだった。

理念は、「政治に新しい息吹を。既存の政治を刷新する力をサポートする」とあった。

所属する下部組織がずらりと並べられていた。

「吹田を新しくする会」

「由利本荘を新しくする会」

「都城を新しくする会」

「龍野を新しくする会」

「宇部を新しくする会」

「十和田を新しくする会」

地方都市の名前ばかりだ。

頭だけを挿げ替えた会の名称が並んでいる。

その中に、「大洗を新しくする会」の名前もあった。

……要するに、選挙のグローバリズムだ。

一見、地方都市から突き上げて自然発生的に出てきた組織のようなふりをして、上でつながっている。

チェーン店経営の手法だ。

新手の選挙商法だ。

恐らくは、この「政治を新しくする会」が、なんらかのマニュアル化された選挙ノウハウを持っていて、それを金銭で、各下部組織に売っているのだろう。

お金を払い、傘下に入れば、「○○を新しくする会」という名称を名乗ることができる仕組みなのだ。

そして、効果的なポスターの作り方や外回りの仕方などを教えてもらえる。業者の斡旋もありそうだ。

芹澤の行動は、初めての選挙にしては随分と立ち回りが洗練されていると感じた。

マニュアルがあるのだ。

とすると、誹謗中傷のチラシも、決まったフォーマットなのかもしれない。

 

「馬鹿げてる」

 

僕はつぶやいた。

 

 

月曜日を挟んで、火曜日がやってきた。

芹澤の出陣式だった。

朝早くに僕が選挙事務所の扉を開けると、芹澤はいつもよりも気合を入れてワックスで髪を固め、シャドーボクシングをしていた。

好戦的な表情をしていた。

 

「よぉ、お早う」

 

いつもの猫なで声がどこかに吹き飛んでいた。

やはり、あの声は作り物だ。

 

「おはようございます」

 

僕は頭を下げた。

 

「今日、帰るんだね」

「はい。東京で仕事に戻ります」

「わかった。ありがとう」

「いえ」

 

 

出陣式の時間が迫ってくると、事務所前は異常な熱気に包まれた。

70人ほどの支援者が、事務所のわきの空き地に集まってざわついている。

 

「そこそこ集まったな」

 

芹澤がつぶやいた。

戦車道のOG会の女性たちが、集まった人たちの名前をチェックしたり、お茶を出したりと、かいがいしく動き回っていた。

その中には竹谷さんもいた。

僕と眼があうと、小さく微笑んでくれた。

高級車がやってきた。

降り立ったのは、県議会議員の木村雅彦だった。

挨拶をするらしい。

他にも、一般の支援者に交じって、これまで見たことのない連中がいた。

一般的な市民とは違う連中だった。

身なりや雰囲気で、なんとなくわかる。

選挙の場に集まってくる特殊な連中だ。

この中には、もしかしたら、「政治を新しくする会」の関係者も交じっているのかもしれない。

僕にはどうでもいいことではあるが。

 

やがて、時間がやってきた。

事務所脇の空き地に、全員が集まる。

県議会議員の木村が、大仰な挨拶をした。

それから、僕の父、そして芹澤の大学校友会の支部長、戦車道OG会と続く。

やっと芹澤がマイクを握った。

 

「みなさん!」

 

あまりの大きな声に、ハウリングが起こった。

 

「すいません、力が入りすぎました」

 

頭を下げる。

上手く笑いをとった。

 

「改めまして、みなさん! 芹澤たかのりです。私は、この町を変えたいという一心で、ここまでやってきました。私は、一人っきりで町を回り、つぶさに、この町の現状を見てきました。自分自身のこの眼で、見てきたのです。ベテランの議員たちが、会議室でふんぞり返っている間、私は、足を棒にして、この町を歩き回りました」

 

おかしな物言いだった。

議員は会議をするのが仕事だ。

議員が会議をしている間、芹澤が町中を歩けたのは、彼が議員ではないからだ。

 

「その結果、はっきりとわかったのです。今、この町は、衰退している。仕事をしない、議員たちに、いいように食い物にされている。

このままでいいんですか? いいはずがありません。 人口は減少し、子供たちの数は減り、お金がないから、福祉もままならないのです。みなさん、このままでいいと思っていますか?」

 

「よくない!」

という声が上がった。

だが、芹澤が言っている言葉は、本当はどの地方都市にも当てはまる、構造上の問題だった。

議員云々というよりも、行政、もっと言えば、国の施策の方向性の問題ではないのか。

 

「ありがとうございます。よくないですよね。だから、私は、変えたいのです! この現状を変えたいのです! いいですか? 私は本気です。本気でなければ、たった一人で、こんなにリスキーな選挙に挑戦などしません! 私には、組織がありません。私は、どこにも属さず、体一つでやっています。勝てる見込みなんてほとんどないのです。それでも、この町を愛しているから、こうして、選挙に出る決心をしたのです!」

 

歓声が上がる。

だが、これも嘘だった。

実際には彼には組織がある。

本当に何もないなら、県会議員も、僕の父も、校友会も、OG会も、挨拶をしたりしない。

 

「皆様! 何の組織も持たない私には、今ここに集まってくださった皆様だけが頼りです! 皆様だけが、こんな、なにも持たない私を見込んでついてきてくれた方々なのです! 私は、そのことが誇らしいのです! 今ここにいる皆様! ぶれず、媚びず、本当にこの大洗の政治を変えたいと思って、ここに集まってくださった皆様! 皆様の力を、私に貸してください! 私は、頑張ります! 頑張ります! だから。 どうかこの選挙戦、一丸となって戦って、力いっぱい戦って、勝ち抜きましょう! お願いいたします!」

 

芹澤が大げさに頭を下げる。

ひときわ大きな歓声が響き渡った。

 

「頑張れ~!!」

 

人々の声が飛び交う。

よく見ると、覚龍軒の店主もいた。

裏で、馬鹿ジジィ呼ばわりされていることも知らずに、芹澤に声援を送っている。

だが、嘘ばかりだとはいえ、上手い演説だと思った。

ここに集まった人たちに向かって、「あなた方は、見る目がある特別な人たちだ」と宣言したわけだ。

支援者たちの意気込みは上がるだろう。

要するに芹澤は、政策の中身ではなく、支援者を鼓舞し、選挙戦を懸命に戦ってくれるようになることを念頭に置いて語っているわけだ。

 

戦車道OG会の女性が、マイクを替わった。

 

「さて、では、芹澤候補、いよいよ出陣です!! 力いっぱい、元気あふれて、若さで走ります!」

 

「いくぞぉ!!」

 

叫んで、芹澤が走り出した。

手を振りながら、通りを駆け抜けていく。

 

「それじゃ、俺も行くよ」

 

父が僕に声をかけた。

 

「どこへ?」

「選挙カーに乗るんだよ」

「あ、そう」

「こちらへ」

 

ガタイの良い、筋肉質の女性が父を手招きした。

芹澤の名前が書かれた選挙カーへ案内する。

女性も、戦車道OG会の様子だ。

 

「植月さん。砲手だったのよ。すごい筋肉でしょ」

 

いつの間にか後ろにいた竹谷さんが教えてくれた。

選挙カーのスタッフは、華やかさを意識してか女性ばかりだった。

それも戦車道OG会の、ガタイの良い女性ばかりだ。

その中に囲まれて父は、ひどく小さく弱々しく見えた。

 

「あれも、作戦のうちなんだって。芹澤さんの。女の子っぽい子ばかり乗ってたら、おかしな目で見られるから、そこそこ中性的な女性がご指定なの」

「ふぅん。難しいもんだね」

 

父が、頼りなさげに手を振った。

 

アナウンスが、

 

「さて、選挙カーも出発です! 芹澤候補を強く強く応援する、もと町議の辻が乗り合わせての出発です!!」

 

と叫んだ。

 

「よろしくお願いしまーす!」

「芹澤でーす!」

「よろしくお願いしまーす!」

 

車の窓から顔を出して、女性たちが口々に叫ぶ。

父はやはり、居心地が悪そうにマイクを握っていた。

なんだかその様子が、どこか遠くへ連れられていく囚人のように見えた。

 

続く

 




読んでくださってありがとうございます。
今回の小説で、一番描きたい場面が書けました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

28 赤坂、遊撃部隊

芹澤からは、「すぐに戻るから事務所で待っていてくれ」と言われていた。

なので僕は、事務所に入り、椅子に腰掛けた。

すると、頭の禿げかかった老人が

 

「スタッフが座っていてどうする」

 

と怒鳴った。

僕が困惑していると、別の老人が、

 

「いやいや、この人、辻先生のお子さんですわ」

 

と言った。

 

「辻? あぁ、あの議員か。なるほどな」

 

品定めをするように、怒鳴ってきた老人が僕を見る。

 

「あんまり似ていないな。親父に似なくてよかったな」

「どういうことですか」

 

むっとして問い返す。

 

「辻っちゅう男は、女癖が悪かったらしいじゃないか。え? 息子の君はおとなしそうでよかったと言ったんだ」

「親父は、母と仲がいいですよ」

「そりゃ、家ではな」

 

老人が含み笑いをする。

 

「前の選挙も、女の事でいろいろ書かれて出られんなったんだろうが」

「いい加減にしてください」

 

立ち上がろうとしたときに、別の老人が制した。

背は低いが、肌が浅黒く、血行の悪そうな表情をした老人だった。

 

「まぁまぁ。選挙中ですよ。いろいろあるでしょうけど、ここは抑えてください。主役は芹澤君でしょう」

 

喧嘩を売ってきた老人が舌打ちをして席に座った。

僕も仕方なく、椅子に戻る。

見回すと、選挙事務所には老人が多かった。

事務所開きの後、集まった人々のほとんどはどこかに散っていき、数人の老人だけが事務所でたむろしていた。

彼らは煙草を吸い、お菓子を食し、わがもの顔をしていた。

何をしに来ているのかよくわからなかった。

先ほどの浅黒い肌の老人が、僕におかきを差し出してきた。

 

「食べますか」

「あ、はぁ……」

 

それを受け取る。

 

「赤坂さん」

 

奥から、30代ぐらいの体格の良い女性が老人を呼んだ。

戦車道OGの、選挙カ-の運転手の一人だった。

選挙カーは、一人では運転しきれない。

交代制になっている。

 

「あの、この堤の下って、通れるんですか?」

 

地図を広げて、老人に問いかける。

 

「通れます。ぎりぎり車一台分。その堤沿いにも、人家があります」

「そうなんですね。あと、こっちの、このルートなんですけど。町の区域の外に出てませんか?」

「それでいいんです。区域外を突っ切った方が、最短ルートなんです。その間は、スピーカーを止めていたらいいだけです」

 

老人は、道に詳しいらしかった。

民家の多い区域や、選挙カーが見落としがちな区域を指摘していく。

年下相手に口調は丁寧だが、妙な威圧感があった。

 

「お疲れさま」

 

芹澤が戻ってきた。

走っていたらしく、額が汗でぬれていた。

その場にいたスタッフたちが立ち上がる。

 

「あ、いいですよ、別に座ったままで」

 

例の猫なで声を出す。

 

「赤坂さん。僕はずっと歩いてますんで、車の方、お願いしますね」

「大丈夫です。お任せください。今日は、公民館で立ち会い演説会です。17時までには必ず事務所にお戻りください」

「わかっています。パネルは万全ですか?」

「用意できています」

「では。廉太君」

「あ、はい」

「行こうか」

 

芹澤と連れ立って外に出る。

その時、他の候補の選挙カーが前の道路を通り過ぎた。

ウグイス嬢が「芹澤候補のご健闘をお祈りいたします」と言う。

そういって通るのが礼儀なのだろう。

芹澤は、車に向かって恭しく頭を下げたが、車が遠くへ行ってしまうと舌を出した。

 

「廉太君、何時に帰るの?」

「そうですね。明日が仕事なので、少し休みたいのもあるので、16時には列車に乗りたいですね」

「俺の演説、見ていきゃいいのに」

「18時半からでしょう? 無理ですよ」

「残念だな。夜の演説が選挙の醍醐味なんだが」

「そんなに凄いんですか?」

「まぁ、凄いか凄くないかは人の感性だがね。夜の演説は、昼に外でマイク持つのとは少し雰囲気が違うぜ。地域の公民館や民家や寺を借りて、座布団引いて、ずらっと聴衆が並んでいる前で、マイクも使わずにやるんだ。独特の熱気がある」

「民家ってのもあるんですか?」

「そりゃ、一日ごとに各地域を回るんだ。公民館がない地区だってあるし、公民館を借りるほどの数の支援者が集まらない地区だってあるさ。今回の俺の演説会も、民間もあるし、八百屋もあるぞ」

「八百屋?」

「そう。商店街の八百屋の軒先を借りるんだ」

「はぁ」

「外から見えるからな。いい宣伝になる」

「それはちょっと見てみたいですね」

「残念ながら、明後日だ」

「じゃ、無理ですね」

「で、今からの予定だが」

「はい」

「15時まで、俺と二人で町を歩き回ってもらう。お昼は適当にどこかの定食屋だ。15時を過ぎると、俺は用事があるから、別れよう。で、すまないが、16時から16時20分ぐらいまで、事務所に誰もいなくなるんだ。その間、事務所にいてくれないか」

「16時の列車に乗りたいんですけど」

「20分遅れても、東京に帰れなくはならないだろうが」

「……わかりましたよ」

 

僕はため息をついた。

 

「それじゃ、行こうか」

 

芹澤が意気揚々と歩き出す。

彼は唐突に、

 

「芹澤、芹澤たかのりでーす!」

 

と叫びだした。

 

「ちょっ、芹澤さん、マイクも持たずに何やってるんですか?」

「マイクが使えるのは、選挙カーに乗っているときだけだ。道を歩くときは使えないぞ。ちなみに、拡声器も使用できるのは、一陣営につき一組のみだ。そちらは、今廻っている戦車道OG会チームが使用している。俺たちは、アンプラグドの遊撃部隊だ」

「え~……」

 

僕は口元をひくつかせた。

 

続く

 




お疲れ様です。読んでくださってありがとうございます。一応、役所に勤めている友人や、実際に選挙に出たことがある人に取材して書いていますが、おかしい点があれば、何なりとご指摘ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

29 角谷 杏

「そもそもなんですか、そのアンプラグドって」

「決まってるじゃないか。エレクトリックじゃないってことだよ。廉太君、ロック好きなんでしょ。君に合わせたつもりなんだけど」

「じゃぁ、これから、拡声器一つ持たずに名前を連呼しながら町中を歩くってことですか?」

「そういうことだな。さ、行くぞ。これ持って」

 

芹澤が、ポールにくくられた旗を渡してくる。

旗には、「大洗を新しく! 疑惑を許さぬ!!」と書いてある。

 

「な、なんですか、これ」

「名前の書いた旗も使用に制限があるんだ。俺たちはこれを使う。旗の色は俺のシンボルカラーに合わせてある。連想がいくようになっている」

「ひぇぇ……」

 

しょうがなく、旗を持ちながら芹澤の後に続く。

まるで桃太郎さんだ。

 

「芹澤です! 芹澤たかのりです! やる気溢れる男です!!」

 

芹澤が大声を張り上げる。

 

「そんなんやっても、聞こえませんよ」

 

路上にはほとんど人がいない。

地方都市などそんなもんだ。

 

「聞こえるよ。場所にもよるが」

 

芹澤が、道路わきの民家の窓に向かって大声を張り上げた。

 

「芹澤です! 僕はやります! 大洗を変えます! 芹澤です!」

 

民家の窓が開く。

 

「うるさい!!」

 

老人が怒鳴った。

 

「な。聞こえるだろう?」

 

芹澤は飄々としている。

僕は老人に向かって頭を下げた。

 

「ほら、さっさとお前も声を出せ!!」

 

芹澤が僕の背中をたたく。

……もうやけくそだ。

 

「芹澤をよろしくお願いします!」

「もっと!」

「芹澤をよろしくー!!」

「よろしくー!!」

 

二人で怒鳴りあう。

 

「いいぞ。その調子だ。どんどん行こうか!」

 

楽しげに芹澤が歩いていく。

 

「僕はやりまーす! 元気あふれている男でーす! こうやって自分の足で町を歩くのは僕だけでーす! ほかの議員は選挙カーに乗っていまーす! 僕だけは、自分の足で歩いていまーす! マイクも使いませーん!」

 

その言葉に、ふと気が付いた。

これも、イメージ戦略の一環なのか。

荒唐無稽、ともすればバカな行動に見えたが、もしかしたら、「若々しく元気で体当たり勝負な新人」という像を作る一環なのかもしれない。

 

「どうした。廉太君、暗いぞ!」

「は、はい!」

 

僕も、精いっぱい声を張り上げた。

 

 

途中、定食屋で天丼を食し、再び街へ繰り出す。

向こうの通りに、一瞬、戦車道OG会の女性部隊が見えた。

彼女たちは拡声器を使って芹澤の名前を連呼していた。

 

「まずいな」

 

芹澤がつぶやく。

 

「どうしたんです?」

「歩きが遅いんだ。選挙カーと場所が重なってしまう。ちょっと電話する」

「??」

 

芹澤が携帯を取り出す。

 

「赤坂さん。今、中原通りでOG会を見かけました。このままじゃ車と重なります。車に連絡いれて、場所ずらしてください」

 

携帯を切るタイミングで尋ねた。

 

「どういうことですか?」

「つまりだな、実は俺たちは選挙違反をしているんだ」

 

芹澤が嬉しそうに小声でつぶやく。

 

「はぁ?」

「いいか。エレクトリックを使えるのは、一陣営につき一班だけだ。つまり、選挙カーが走っている間は、歩いている連中は拡声器を使えないんだ」

「でも、OG会と選挙カーは並行して……」

「そうさ。だから、大洗の、端と端で同時に動いてもらってるんだ。バレにくいようにな。それが、歩いている方が足が遅くて、車に追いつかれつつあった。この時間に中原通りにいる予定じゃないんだ。地域が重なっちゃうと、同時に動いてるのがバレちゃうだろ。だから、引き離した」

「良いんですか、そんなことやって」

「バレやしないよ。わりとよくやる手法だ」

「はぁ」

 

それもおそらく、マニュアル化された「新しくする会」の必勝理論なのだろう。

口先で正義を気取りながら、やり方が狡い。

 

「まぁ、いいですけど」

 

僕はあきれ顔で言った。

 

 

それから、15時まで声を出し続けると、へとへとになった。

のどが痛い。

芹澤は余裕な顔をしている。

 

「そのうち喉つぶしますよ」

「それぐらいの方が、悲壮感を感じてもらえてちょうどいい」

「徹底してますね」

「あぁ。俺は、それじゃ、他のところに行く。オルグしてくる。事務所を頼むぞ」

「はぁ」

「旗を貸してくれ」

「え、自分で持つんですか?」

「たった一人で巨悪に立ち向かう勇者。そんな雰囲気が出るだろう?」

 

彼はうれしそうに、旗を肩に立てかける。

自分に酔っているのだろうか。

 

「じゃぁな」

 

自分の名前を連呼しつつ、駅の方へと歩いていく。

 

 

事務所に戻ると、15時30分になっていた。

 

「あ、廉太さん」

 

竹谷さんがいた。

 

「ちょうどよかった。私ももうすぐ、出なきゃいけないんです。事務所の番、交代してもらえますか?」

「あぁ、そのつもりで来たんだ」

「ありがとう」

「でも、16時30分には出るけどね」

「どこかへお出かけですか?」

「いや、東京へ帰るんだよ」

「あ、そっか!」

 

思い出した、と言うように手をたたく。

 

「じゃ、私このまま出ちゃうから。またしばらくお別れだね」

「うん」

「そうだ。せっかくだから、アドレス交換してくださいよ」

「え?」

「だって、この間渡したDVDの感想とか聞きたいですし」

「あぁ、戦車道の」

「はい」

「わかったよ」

 

アドレスの交換をすると、竹谷さんが事務所を出て行った。

一人きりになると、しんとした気分になる。

僕は何をやっているんだろう……。

ふいにそんな思いが頭をよぎった。

故郷に戻って、訳の分からんことをやってるよなぁ……。

でも、若い女性のアドレスをゲットしてしまった。

別に竹谷さんと何かあるわけではないが、そのことに妙に高揚感を感じた。

20代前半の女性のアドレスなんて、仕事のじゃない関係の人のなんて、この携帯初じゃないいだろうか。

一方で、そんなことで興奮する自分が情けなくもあった。

これが36歳ということか……世知辛い。

そんなことを考えながら、ぼんやりとしていると、急に事務所のドアが開いた。

 

「あ、はい。どちら様ですか?」

 

僕は反射的に立ちあがった。

入ってきたのは、若い女性だった。

20代の半ばぐらいか?

竹谷さんよりはやや大人びて見える。

 

「あの。角谷と申します。この時間、事務所に誰もいないから、少し番をしていてほしいと頼まれたのですが」

 

女性が頭を下げる。

と、背中で泣き声が聞こえた。

 

「あ、す、すいません。赤ちゃんを連れてきちゃったもので」

 

よくよく見ると、背中に赤ん坊を負ぶっている。

 

「どうぞ、座ってください」

「ありがとうございます」

 

席に座ると、赤ん坊を背中から離し、腕の中に抱きしめてあやし始める。

赤ん坊はすぐに泣きやんだ。

 

「おとなしい子ですね。もう泣き止んだ」

「はい。母親としては、手がかからなくってありがたい限りです」

「男の子ですか? 女の子?」

「女の子です。杏っていいます」

「かわいい名前ですね」

「ありがとうございます」

 

褒められたのが分かったのか、杏ちゃんが顔をほころばせる。

 

「そういうと、番って、ここで待っていればいいだけですか?」

「たぶんそうですよ。僕も急に頼まれたんです。誰もいないから、って。みんな選挙戦で走り回ってバタバタしてるから、情報が錯そうしちゃってるんでしょうね」

「きっとそうですね。私は、友達に頼まれたんです。友達が、戦車道のOG会で。すっごく仲がいいんですよ。その娘に、どうしても今日、事務所に顔だしてほしいって」

「あはは。僕も、同じようなもんです。無理やり頼まれたようなものでして」

「でも、選挙事務所って初めて見ました。こんな感じなんですね」

 

角谷さんが部屋を見渡す。

 

「なんだか、不思議な感じの場所ですよね」

「ええ」

 

お互い、顔を見合わせて笑いあった。

 

「戦車道、お好きなんですか?」

 

普段、自分から他人に何か問いかけるのは苦手なのだが、角谷さんには、なぜだかするっと言葉がかけられた。

彼女にはそんな雰囲気があった。

 

「そうなんです。私自身はやりはしないのですけど。見るのが好きで。例の友達がやっていたっていう影響も強いですけど、戦車そのものも結構好きなんです」

「へぇ。良いですね。僕も、見るのは結構好きなんですよ」

「この子も」

「え?」

「親に似るのでしょうか。この子も、戦車道のテレビ放映とかがあると、じっと画面を見てるんです。将来、もしかして戦車に乗ったりして」

「有望ですね」

 

僕は、杏ちゃんを見た。

 

「幾つなんですか?」

「今、ちょうど一歳と少しです。小柄だから、ちょっと心配で。まだ歩けないんですよ」

「きっと元気な女の子になりますよ」

「だといいんですけど」

 

角谷さんとの会話は、流れが良くて心地よかった。

お湯につかっているような、リラックスした時間が過ぎた。

彼女が既婚者だということもあるのかもしれない。

若い女性と二人きりでも変な気まずさを感じなくて済む。

自分よりずっと若い女性がすでに結婚していて、赤ん坊がいるというのは、妙な気持ちがした。

時計が、16時を打った。

 

「16時か」

「16時20分には、みなさん戻ってくると聞きました」

「らしいですね。僕は、そのぐらいの時間にはここを出ます」

「ご用事が?」

「いえ、東京に帰るんです。実家が大洗で、付き合いで手伝わされているだけで。明日からまた東京で仕事なんです」

「え、そうなんですか!?」

 

角谷さんが驚いたというように目を見開いた。

 

「それは大変ですね。お疲れ様です」

「いえいえ。戦車道のためだ、と考えてやりきりましたよ。芹澤は応援してくれてるみたいだし」

「そうみたいですね。みっちゃん……私の、例の友達も、そう言っていました」

 

やがて、16時20分になった。

事務所に人が帰ってきたら、挨拶をしたりで、出るのが遅れるかもしれない。

それが煩わしい。

 

「じゃ、僕はもう出ます」

「わかりました」

「それじゃ、頑張ってください」

「はい。そちらこそ、お仕事頑張ってください」

「ありがとうございます。 じゃあね、杏ちゃん」

 

杏ちゃんに声をかけると、彼女は少しだけ微笑んだように感じられた。

 

鹿島臨海鉄道に乗って、水戸に出て、なんとなく、水戸で早めの夕食をとった。

それから東京に戻ると、もうすっかり夜だった。

アパートに帰るころには、疲れがたまりきっていた。

 

僕は、ほとんど記憶がないうちに眠りに落ち、翌日仕事に遅刻をしかけた。

 




いやぁ、やっとガルパンのヒロインが出てきました。まさか、ここまで書くのに29話必要とは思いませんでした。
さて、ここからが難しいところです。
ガルパン本編では、杏は17歳でしょうから、本編はこの16年後ということになります。
その時、辻さんは51歳ぐらいになる計算になります。
学園艦教育局長という肩書を考えれば、まったくおかしくないというか、むしろ妥当な年齢だと思われます。
しかし、アニメの絵で見ると、辻さんは非常に若く見えます。
30代ぐらいにしか見えません。
この辺、どうしようかなと頭を悩ませています。
というか、これを書き始めてからずっと、肩書を重視するか、見た目年齢を重視するか、悩んでいます。
本作では、辻さんはアニメではあの絵柄だから若く見えるだけ、という説で行こうと思っていますが、もしも、ご意見などあればお伝えください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

30 ハイボール

東京に戻るとまた慌ただしい仕事の日々が続いた。

月曜日と火曜日に有給をとった分、仕事が溜まっていたので、土日も仕事をした。

日曜の夜遅く、選挙結果が出るはずだった。

僕は20時ちょうどに仕事を切り上げると、スーパーに立ち寄った。

せっかくだから、選挙速報をリアルタイムで見ようと思った。

その間、何かを飲みたいと思ったのだ。

僕は、付き合い以外で酒を飲むことがほとんどない。

だがその日は、少し気分が違っていた。

リカーコーナーの前に来た時、ウィスキーの瓶が目に入った。

山下の顔が思い出された。

彼は何を飲んでいたっけ。

彼が好きだと言っていた、オールド・プルトニーを見つけて、値段を見てびっくりした。

5000円ぐらいする。

どれぐらい家で飲むか定かではないのに、そんな投資をする気にはなれなかった。

幾つか、山下が飲んでいて覚えのある酒を見ていく。

スプリングバンクも、グレンリベットも、思ったよりも高い。

結局、バランタインのブルーボトルを買うことにした。

ロックで飲むつもりはない。

氷と一緒に、天然水で作られたソーダを買った。

 

家に帰ると、音楽をかけた。

ハイボールを作ろうとして、よくよく考えたら、背の高いグラスがないことに気が付いた。

仕方ないので、せめて透明な方が雰囲気が出るだろうと思い、耐熱ガラスでできたマグカップに氷を入れた。

それから、マドラーがないことにも気が付いた。

氷の上にバランタインを注ぎ、割箸で氷となじませる。

いつも、誘われるとついていって、適当に飲むだけだったので、どれぐらいウィスキーを入れればよいのかよくわからなかった。

あまり濃いと飲めないだろうと思い、グラスの三分の一ぐらいまで注いだ。

そして、上からソーダ水を混ぜていく。

すると、氷が少なすぎたのか、氷が浮かび上がり、底に空洞ができていた。

とりあえず、仕方がない。

出来上がったハイボールを口に含む。

美味いのか不味いのか、よくわからなかった。

 

ちびちびと酒を飲みながら、時折、インターネットに接続して大洗町の状況をうかがった。

夜も更けるころ、芹澤に当確が出た。

それも、悪くない順位だった。

彼は、六位で当選していた。

携帯にショートメッセージが届いた。

芹澤だった。

『当選した。ありがとう』

と書いてあった。

簡素だと思ったが、今頃大騒ぎしているのだろう。

わざわざメールを打ってくれただけでもうれしいことだった。

 

 

翌日の夜に、竹谷さんから着信があった。

 

「もしもし」

「あ、こんばんは。廉太さんですか?」

「うん」

「あの、芹澤さん、当選しましたね」

「昨日、速報見てたよ。おかげで寝不足だ」

「あはは。実は、選挙事務所の方では、かなり早い時点でわかってたんですよ」

「え? そうなの? なんで?」

「開票の立会人の人から、電話があったの。票を選別して、名前ごとに机に並べる時点で、積みあがっている量で予測が付くみたい」

「へぇ~」

 

そんなこと、知らなかった。

 

「じゃ、事務所は早いうちから、お祭りムード?」

「まぁ、そんなところ」

「そっか」

「あの、いろいろと手伝ってくれて、ありがとう」

「いやいや。僕も貴重な経験させてもらったよ」

「あの」

「ん?」

「私も、頑張るね。戦車道、盛り上げていけるように。今回のは、凄く勇気もらっちゃったから。芹澤さんの選挙の戦いぶりに。自分もなんか頑張らなきゃって思えたの」

「そっか」

 

それで思い出したが、僕は、東京に帰ってから忙しくて彼女のくれたDVDを見ていなかった。

なんとなく言い出しにくくなって、見ておけば、感想のひとつでも言えたのにしまったなと思った。

 

「僕も、仕事とか、頑張るよ」

「うん」

「それじゃ、明日も、早いから」

「わかった。お休みなさい」

「お休み」

 

電話が途切れた。

 

僕はその日の夜、例のDVDを見た。

なかなかよくできていた。

高校生たちが、一生懸命部活に励む様子がしっかりと収められている。

感想を電話しようかと思ったが、なんとなく、気恥ずかしくて、結局僕からは電話をしなかった。

 

 

ある日、篠崎代議士に誘われて飲んでいるときに、ふと思い立って、戦車道のことをお願いしてみようかと思った。

もう少し、補助金とか、そういうのって出ないのでしょうか、とか、そういったことだ。

 

「あの、篠崎先生は、戦車道ってどう思われます?」

「ん? 戦車道か?」

「あ、はい」

「そうだなぁ。別に好きも嫌いもないが」

「あ、そうなんですね」

 

だったら。

例の竹谷さんがくれたDVDでも見せようかと思った。

そこには、一生懸命頑張る高校生たちの姿が映っていた。

篠崎代議士も心を動かされるかもしれない。

口を開こうとした矢先に、篠崎代議士が言った。

 

「まぁしかし、あんな金のかかるスポーツは厄介もんだな。やってる側はドンパチやって痛快かもしれんが、国として考えれば、あれが国技で日本を世界に知らしめるとか、そういうレベルじゃない限り、深入りする必要はないだろう。大体な、下品なんだよ。乙女のたしなみとか言ってるが。やってることは戦争ごっこじゃないか。戦争のおままごとバージョンだ」

「あ、えと……」

 

僕は、言おうとした言葉が言えなくなった。

 

「なぁ。俺たちはロックンロール好きだ。ロック仲間だ。ロックの洗礼を受けてきた。ロックてのは、根本的に、反権力であり、反戦だろう? 戦車なんてなんだ。俺がロックンロールでぶっ潰してやるぜ」

 

篠崎代議士はだいぶ酔っている様子だった。

一般質問で言ったことが通らなかったのだ。

政治の世界は、ちょっとしたパワーバランスで、発言力が変化する。

篠崎代議士の属する派閥の力が弱まっていたのだ。

 

「なぁ、そう思わないか!?」

「いえ、その……」

「あぁ~、もしかして、君、ミリタリー好きか?」

「あ、それほどでもないんですが」

「いやいや、気にするな。ミリタリー自体は俺も好きだぞ。格好いいからな。モッズコートだって大好きだ。だがな、戦争は駄目だ。それは違う。俺はな、戦争ってのは、金もうけの道具だと思ってるんだ。ディランの戦争の親玉って歌、知ってるだろう? 戦争なんてのはな、情弱が騙されて、金もうけの道具に使われる構造なんだ。それが許せないんだ。それはロックの精神に反してるんだ。だから、戦車道だって、あんなもん、結局は……」

 

そこまでまくし立てて、言葉を止めた。

 

「いや、駄目だな。酔うとダメだ。まるで共産党みたいなことを言っちまった。保守派与党だというのになぁ。さっきのは忘れてくれ」

「は、はい……」

 

篠崎代議士の見方は、かなり穿っていると思った。

戦車道は別におままごとではないし、戦争賛美のスポーツでもない。

だが、篠崎代議士に対して不快感を感じたわけではなかった。

ある意味では、ナイーブで直情的でピュアな篠崎代議士らしい物言いだと思っただけだ。

 

この人は、頭は切れるが、根っこが純粋で少年のようなところがある。

普段はそれを抑えて、冷静に、保守本流として毅然としてふるまっているが、ふとした時に、彼の純粋すぎる部分が顔をのぞかせてしまう。

それが端的に表れているのが、ロック音楽への偏愛だったり、反権力趣味だったりするわけだ。

権力の中枢にいながら、心の片隅では、そういうのが気持ち悪いと思っているのだ。

ねじれていて、見ようによれば、ふざけたお坊ちゃん的な甘さだ。

そんなに権力が嫌いなら、議員を辞めて、市民活動家にでもなればいい。

彼はそこまでする勇気はないだろう。

せいぜいがこうして酒に酔って愚痴るぐらいだ。

だが、僕は、そこがとても好きだった。

厳しい政治の世界に身を置いていて、こんなにも幼さを残した人は、そうそういない。

そして、その本音の部分を僕に見せてくれていることが、うれしかった。

だから。

 

「大丈夫です。僕も、別に戦車道に興味なんてないですから。先生のおっしゃることは、分かりますよ」

 

微笑みながらそう言った。

篠崎代議士に、戦車道のことで頼るのは止そう。

そう思った。

これからも、まぁ。

今までと同じように、番組があれば見るし、たまに自分のできる範囲で寄付したりする。

そうしよう。

僕には、僕のできる範囲の応援をするしかないんだ。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

31 父の死

いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。


7年が経過した。

僕は相変わらず、教育委員会に配属されていて、学校施設管理課課長になっていた。

篠崎代議士は、自分が主催する勉強会を持つようになっていた。

志の会という名前で、要するに、自分の子飼いの議員を増やそうというわけだ。

僕は、篠崎代議士に目をかけられている職員としてそこそこ名が通るようになっていた。

庁内の出世レースには、二種類のやり方があるといわれている。

一つは、どこにも属さない方法。

孤独を気取るという意味ではなく、誰に対してもある程度丁寧に対応し、のらりくらりとやっていく。

もう一つは、特定の議員に目をかけてもらうという方法だ。

その議員に力があれば、どんどん引き上げてもらえるが、こちらもその代わり、情報提供や、委員会での連携をしていく必要がある。

ギブアンドテイクの関係を築き上げるというわけだ。

僕は、明確なヴィジョンがあったわけではないのだが、結果的には後者になっていた。

何か情報があればすぐに篠崎代議士に提供したし、委員会質問を事前に打ち合わせ、出来レースに近いやりとりをすることもあった。

僕の地位が上がれば、僕の発言の影響力が増す。

それはつまり、篠崎代議士の提案が通りやすくなるということだ。

篠崎代議士にしても、僕を出世させることには意義があった。

ある日、父の訃報が届いた。

ちょうど70歳だった。

母に電話をすると、死因は脳溢血だった。

風呂から上がってきて、急に苦しいと言い出し、横になった。

そしてそのまま逝ったらしい。

葬儀のために、大洗に戻った。

芹澤の選挙以来、また足が遠のいていたので、7年ぶりだった。

あの時、居間にいた父とちょっとした口論になって、それから気まずくて、帰る機会を失してしまったのだ。

父とは、あれからほとんど話さないままになってしまった。

上野発の列車に乗りながら、そんなことを考えた。

心臓が鉛に変わってしまったような嫌な気持だった。

僕はどうすればよかったのだろう。

もっと早く父に謝ればよかったのか。

いや、謝るのは変だ。

あの日、「さっさと帰れ」と言って拒絶したのは父なのだ。

 

大洗の駅を降りると、家まで歩いた。

途中、ところどころに、「大洗を新しくする会」のポスターが貼ってあった。

2連ポスターで沖田という男と芹澤の顔が並んでいた。

肩書を見て驚いた。

芹澤は県議会議員になっていた。

あれから7年だ。

一期町議を務めたのち、すぐに県議になったということか。

町にはポスターが幾種類もあった。

芹澤と組んで写っているのは、沖田だけではなく、坂本、小塚というバージョンもあった。

僕は、携帯を取り出し、大洗町のホームページにアクセスした。

議員一覧を見ると、5人の議員が「大洗を新しくする会」に属していた。

定数が14の町議会において、それは最大会派だった。

「大洗を新しくする会」が5、自民が2、民主が1、共産が2、公明が2、無所属が1、欠員が1だ。

明らかに議会でイニシアチブが取れる。

政府与党の党の人数の少なさに僕は驚いた。

 

家に着くと、母が出迎えてくれた。

母はぼんやりとした無表情をしていた。

まるで、顔に、能面が張り付いているように見えた。

母は、

 

「どうしてもっと帰ってこなかったのですか」

 

と、刺すように言った。

僕は

 

「父さんが、僕を拒絶したんだ」

 

と答えた。

母が

 

「それは……違います」

 

と言った。

目があった。

口論するのは嫌だった。

僕はそれ以上何も言わずに、軒をくぐった。

家の中は、少し散らかっていた。

汚れも目立った。

母が、苦労しているのだということが感じられた。

僕は居間へ行き、ソファに腰かけた。

まるで、7年前の父のようだった。

あの日、父が聴いていたディランのブロンド・オン・ブロンドを聴きたいと思った。

それは、子供のころに父が僕に初めて聴かせてくれた洋楽でもあった。

それをここで聴くことで、何かがまとまりよく一巡するような気がした。

だが、レコードラックに、ブロンド・オン・ブロンドは見当たらなかった。

レコードラックの他に、本棚の余ったスペースにも、レコードが立てかけてあるのが見えた。

僕は、そこにあるかもしれないと思って、立ち上がった。

本棚においてあったレコードの束をまとめて抜き出し、ソファに座ってチェックすると、ブロンド・オン・ブロンドはそこにあった。

その時、レコードとレコードの間に、何か紙が挟まっていることに気づいた。

スティーリーダンの「幻想の摩天楼」と、ロッド・スチュワートの「ネヴァー・ア・ダル・モーメント」に挟まれて、一枚のチラシが出てきた。

拡げてみると、それは、ずっと前にまかれた父への中傷の文句が書かれたチラシだった。

7年前の選挙中、事務所で老人が僕に向かって吐いた暴言を思い出した。

女関係。

そのチラシには、まさにそれが書かれていた。

父が、鹿島に住む30代の女性と愛人関係を持ち、二人で旅行に行ったということが書かれていた。

かなり強い断定口調で糾弾していた。

その書き口に見覚えがあった。

何だったか……。

妙な興味が引かれ、僕はそれをカバンに入れた。

母がやってきた。

 

「コーヒー、飲みますか?」

「うん」

 

二人で今のソファに座る。

コーヒーはひどく濃厚だった。

 

「これ、濃いね」

「お父さんは、濃いコーヒーが好きでしたからね。これはわざわざ京都のイノダのコーヒー豆を取り寄せていたんです」

「あぁ、あの赤い缶……」

「えぇ。私はコーヒーを飲みませんから、もう買うこともないでしょう。もしも、あなた飲むのなら、持って帰りなさい」

「僕はコーヒーは飲むけど、苦いのは苦手だよ」

「そうですか。でしたら、あの缶の残りは私が、毎日ちょっとづつ飲むことにします」

 

しばらく無言でコーヒーをすする。

 

「父さんは?」

「遺体はもう、葬儀場に移動してあります」

「そう」

 

コーヒーを飲み終えると、車で葬儀場に移動した。

 

 

葬儀場は、ひどく大きかった。

父を昔から支えてくれた、幾人かの本当に親しい支持者の老人が、花の手配などいろいろと手伝ってくれたらしかった。

開始時刻に近くなると、次から次へと人が入ってきた。

僕たち家族は、入り口付近に並んで、頭を下げる。

 

「お忙しいところ、ありがとうございます」

 

そう言うと、

 

「本当だよ。忙しいのに!」

 

と、怒鳴る老人がいた。

僕はびっくりして彼の後姿をにらんだ。

母が、

 

「相馬さんです。昔から他の議員さんの支持者なんです。町内会だから、来ざるを得なかったからでしょう」

 

と、さして驚く様子もなくつぶやいた。

 

「お、怒らないの?」

「お父さんは長いこと選挙に出ていたのですよ。あれぐらいの暴言、いつでも受けていました」

 

 

葬儀が始まり、各界ご代表による焼香になった。

芹澤が、県議会議員として、名前を呼ばれた。

以前よりもさらに高級そうになったスーツが、体になじんでいるように見えた。

彼は、焼香を済ませると、僕をちらりと見た。

そしてそのまま、席に戻らずに出て行った。

各界ご代表では、大洗を新しくする会議員団が、議員団では一番に呼ばれた。

そのあとも、大洗を新しくする市民の会の代表が呼ばれた。

立ち上がったのは、あの肌の浅黒い老人だった。

赤坂だったか。

そのあとさらに、芹澤のスポーツショップの店長が呼ばれた。

彼らも、焼香だけ済ませると、さっさと出て行ってしまった。

ふと考えると、届けられた花にも、いたるところに、芹澤の関係の名前があった。

芹澤のスポーツショップとして花が届けられていたし、大洗を新しくする市民の会としても花が届けられていた。

それらは、大きなプレートにその名前が印刷され、花と一緒に目立つ位置に配置されていた。

それを見ていると、目の前に女性が立った。

竹谷さんだった。

7年を経て、落ち着いた大人の女性という雰囲気になっていた。

彼女は僕にぺこりと頭を下げた。

 

「あの。ご愁傷さまです。気を落とさないでください」

「ありがとう」

 

僕たちは短く言葉を交わした。

 

そのあと、父と同じ年ぐらいの老紳士が、焼香を済ませて僕に頭を下げた。

 

「廉太くんかね」

「あ、はい」

 

僕の名前を知っているようだが、誰なのかわからなかった。

 

「東京で仕事をしているんだったか?」

「そうです」

「いつまでここにいる?」

「明日まではいます」

「そうか。ちょっと話がある。明日、君の家に電話をする。朝の7時に。電話を取ってくれ」

「は、はぁ」

「頼むぞ」

「はい……」

 

よくわからないまま、思わず返事をした。

そのあとも、次から次へと、焼香を済ませた人々が僕たち家族に頭を下げ、一言を交わす。

老人を追いかけて問いただす余裕はなかった。

 

続く

 




さて、時代がだいぶ、ガルパン本編に近づいてまいりました。
選挙編で杏ちゃんが1歳だったので、本編の16年前。
ここからは、その7年後なので、本編の9年前の出来事です。
ちなみに、第一話の決算審議は、実に本編の26年前の出来事になるんですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

32 羽鳥

翌日、朝の7時ちょうどに、電話が鳴った。

とるかどうか悩んだが、母が勝手にとってしまうかもしれないと思い、受話器をとった。

母は、疲れ果てているように見えた。

もしも、おかしな揉め事を持ち込まれるような内容の電話だとしたら……。

これ以上母に負担をかけたくないと思ったのだ。

 

「もしもし、辻さん宅ですか」

 

低い、甘い声が聞こえた。

昨日の老紳士の声に間違いなかった。

彼は、1950年代のアメリカ映画の主演男優のような声をしていた。

クルーナータイプという奴だ。

 

「はい。辻です」

「廉太君、ですか」

「はい」

「昨日の約束を覚えていてくれてありがとう。実は、少し君と話がしたいんだ。東京に帰ってしまう前に、会えないか?」

「あの……どういったご用件ですか? その話というのは」

「君のお父さんのこと。僕は羽鳥という。もう引退したが、この町の議員をしていたんだ。君のお父さんの元同僚だ。仲が良かったんだ」

「え? 議員さん?」

「あぁ。母親に訊いてみるといいよ。羽鳥という議員を知っているか?と」

「ちょっと、考えさせてください」

「わかった。別に、変なことを持ちかけるわけじゃない。ただちょっと情報交換をしたいだけだ」

「情報交換というと」

「君のお父さんや芹澤のことで、腑に落ちないことがいくつもある。君の知っている範囲でいいから教えてほしい。僕も君に自分の知っていることを話す」

 

僕も、腑に落ちない点は幾つかあった。

興味が引かれた。

仮にもしも、この羽鳥という男がおかしな奴だとしても、会っただけで即座に何かをされるということはないだろう。

僕はそう判断した。

 

「わかりました。お会いします。その代わり、何かおかしな話だったら、その場で退席しますよ」

「わかった。大洗じゃ話しにくい。水戸でもいいだろうか?」

「そんなに込み入った話なんですか?」

「それは、お互いの持っている情報次第だと思うが、大洗みたいな狭い町の喫茶店だと、いたるところに知り合いがいるからな」

 

僕たちは、10時に水戸の駅前で待ち合わせをした。

羽鳥は、生地の薄いジャケットを羽織ってやってきた。

季節よりも少し寒い服装だった。

 

「暑がりなんだ」

 

と、彼は言った。

彼の案内で、駅のそばの雑居ビルの5階に入っている『ルーファス』という喫茶店に入った。

昭和の時代からずっとそこにあるような、古臭い純喫茶だった。

小さな音でピアノトリオ編成のジャズが流れていた。

 

「わざわざここまで出てきてもらってすまない」

 

と彼は頭を下げた。

 

「あ、いえ」

「これが僕の名刺だ」

 

彼が差し出してきた、白い厚手の名刺には

 

『日本共産党 大洗町議員団 議員』

 

と肩書が印刷してあった。

僕はそれを見て立ち上がった。

 

「冗談はやめてください。うちの父は保守の与党の議員でしたよ。どうして共産党と付き合いがあるんですか」

「おいおい、待ってくれ。冗談でも嘘でもない。これは本物の、僕が議員の頃に使っていた名刺だ。これしかなかったから、これを持ってきた。君は地方の政治の実態の世界を知らないからおかしいと思うかもしれないが、議会で対立しあう関係でも、仕事以外では友人ということはある。僕と辻君が仲が良かったのは本当だ。齢が近かったし、議会運営とは関係なしに、お互い愚痴をこぼしあう仲だったんだ」

 

父が死んでしまった以上、その言葉を証明する手立てはない。

羽鳥と見つめあう。

僕はため息をついて座りなおした。

 

「仮にそうだとして、いったいどんな腑に落ちない疑問をお持ちなんですか?」

「そうだな……いくつかあるんだが。まず、赤坂だ。どうしてあの男がウロチョロしているところに辻君が関わりを持つのかが疑問だ。赤坂は知っているか?」

 

赤坂。

あの肌の浅黒い老人のことか。

芹澤の選挙の時、おかきをくれた様子がフラッシュバックした。

知っていると言えば知っているが、どういう人物なのかはよく知らない。

 

「日焼けしたような肌の老人ですか? 大洗を新しくする市民の会の代表になっているんでしたっけ。芹澤の最初の選挙の時に初めて会いました」

「彼が昔、何をしていたかは?」

「いえ、知りません」

 

その時、ようやくコーヒーが運ばれてきた。

丁寧にドリップしているらしかった。

品の良い、落ち着いた香りが漂う。

 

「赤坂はな、もともとは大洗町役場の役人だ」

「え、役人?」

「あぁ。もともと、土地持ちの家系でな、水飲み百姓を束ねていたような一族だ。役場でも、力を持っていた。ただし、傲慢で、黒い噂も多々あった」

「はぁ……」

「一時期、副市長にという話が出たこともあったんだ。だが、工事の入札で自分の親せき筋の会社に談合をさせたということがすっぱ抜かれニュースになった。副市長人事は吹っ飛んだ。それどころか、これは僕たちもその当事者だが、首を切れ、と野党が攻め立てた。当時は、大橋町政の時期だ。与党と野党が均衡していた。ここが責め時だと思ったんだ」

「それで、結局首を切ったんですか」

「あぁ。円滑な議事運営のためという名目で奴は辞表を出した。およそ20年前のことだ」

「へぇ。じゃ、ある意味では議会に恨みを持っている人ってわけですね」

「そういうことになる」

 

だったら、あのチラシも納得はいく。

議会に対する誹謗中傷だらけのチラシは赤坂の意向が反映されているのかもしれない。

 

「辞表を出した後、どこでどうしているのか知らなかったんだがな。7年前の選挙の前後からまた大洗で見かけるようになった。ろくでもない人間だというのは辻君だってよく知っていたはずだ。なぜ、芹澤の選挙事務所に平気でい座らせたのか理解できない」

「芹澤はどういう人間なんですか?」

「彼のことは僕はよく知らんが。経歴を見たところ、あまり信用できないな」

「と言いますと?」

「学校を出てしばらく間が開いて、唐突に議員秘書になっている。おそらくは私設秘書だろう。何らかのコネがあったんだろうな。金持ちが、働かないドラ息子を知り合いの政治家の私設秘書にねじ込むことはよくある」

「彼は貧乏だと言っていましたが」

「そうか。まぁ、その辺は僕は知らない。いずれにせよ、賢しい奴だとは感じているよ。たった一期で県議だ」

「それ、僕も聞きたかったんです。今、大洗の会派構成も大洗を新しくする会が最大会派になっていますよね。いったい何があったんですか?」

「寝返ったんだよ」

「寝返り? どういうことです?」

「『大洗を新しくする会』の5人の議員のうち、二人はもともとは自民、一人はもともとは民主。もう一人はもともとは無所属の議員だ。つまり、純粋な新人は一人しかいない。みんな、情勢を見て鞍替えした奴ばかりなんだ」

 

それで『新しくする会』なんだから笑ってしまうよ、と羽鳥はつぶやいた。

 

「『大洗を新しくする会』名義で、既存の議員に対する誹謗中傷のチラシが配られ続けていたのは知っているだろう?」

「えぇ」

「芹澤が悪くない順位で当選したことで、あれが効果的だということを、議員たちは認識し始めていた。芹澤が当選した後も、定期的に誹謗中傷のチラシが配られ続けた。芹澤は、選挙に弱そうな議員を一人一人、『新しくする会から選挙に出るなら、チラシでお前のことを書くのは止めてやる』というように誘惑していたみたいだ。ふたを開ければこんな状況になった」

 

それでやっと納得がいった。

今の大洗町の会派構成は、大洗を新しくする会が5、自民が2、民主が1、共産が2、公明が2、無所属が1だ。

僕は政府与党系の議員の少なさに驚いたが、もともとは、自民が4、民主が2、共産が2、公明が2、無所属が2だったわけだ。

あとは、「新しくする会」の新人が1人当選した分が減っているので、どこかの会派から1人落選したのだろう。

組織票がある団体は選挙に強いので、おそらくはもともとは無所属が3だったのではないだろうか。

 

「一気に会派を増やした腕前が見込まれて、大洗を新しくする会の上部組織『茨城を新しくする会』から県政に出馬したようだな」

「まさに出世街道まっしぐらですね」

「あぁ。アメリカンドリームみたいなものだ。やり方は汚いがな」

 

なるほど。

芹澤が二期目の任期途中で辞職して県政に出馬したから、欠員が1というわけか。

それにしても、茨城を新しくする会。

やはり、7年前に感じたとおりだった。

彼らは、選挙のプロフェッショナルだ。

チェーン経営のような手法を選挙に持ち込んでいる。

芹澤の現象は、大洗だけで起こっていることではなかったわけだ。

各地域で、芹澤と同じ方法を使った人間が、『新しくする会』を、体内で増殖するウィルスのように増やしているのだろう。

そのうち、国政にも顔を出すかもしれない。

そうなれば僕の仕事にも密接にかかわってくる。

 

「さて」

 

羽鳥がコーヒーを口に運ぶ。

 

「僕はだいたい情報提供をした。今度は君の番だ」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

33 情報交換

いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!


「わかりました。僕の知っていることなら、お話しします。ただ僕は長いことほとんど大洗に帰ってはいないし、父とも気まずいままでした。そんなに大したことを知っているかどうかわかりませんよ」

「気まずい? お父さんと?」

 

羽鳥が驚いたような表情をした。

 

「えぇ」

「へぇ……それは意外だな。辻君は、凄く子煩悩だと思っていたんだが」

「え? どうしてそんな風に思っていたんですか?」

「いや、君のお父さんは、息子さん……つまり君のことだな……の話を本当によくしてくれたからね。小さいときは、君がミニカーがすごく好きだという話をよく聞いたよ。中学生ぐらいになってからは、私立のいい学校に入学できたと喜んでいた。それから、君が自分の好きなロックを聴いてくれたという話も、うれしそうにしていたなぁ」

 

父が外でそう言う話を他人にしていることがひどく意外だった。

僕は信じられないというように首を振った。

 

「だから僕は、君が国家公務員になったことも当時から知っていた。辻君にとって自慢の息子だったはずだよ」

「でも、父は僕を拒絶したんです」

「拒絶?」

「ええ。7年前。僕にさっさと東京に帰れと言った。僕は、本当に久しぶりに、大洗に対して親しみのようなものを感じ始めていたのに……」

「……ふむ。それはまぁ、家の中の事情は、僕にはわからんが。しかし、辻君が君の話をよくしていたことだけは、事実として覚えておいてくれ」

「……わかりました」

「それで、聞きたいことなんだがな」

「はい」

「いくつかあるんだが……辻君は、いったいどういった経緯で芹澤の選挙事務所に入ったんだ?」

「それは……よくわかりません。父は最初そのことを僕に言いませんでした。あれは確か……僕が8年前、久しぶりに大洗に帰った時に、たまたま『大洗を新しくする会』のチラシを見かけたんです。それで気になって検索をすると、父が代表だか顧問だかになっていて」

「8年前? 7年前ではなく?」

「そうです。さらに一年前ですよ。その頃、時々大洗に帰るようになっていたんです」

「それじゃ、芹澤の選挙事務所が立ち上がる前か。もともと、その時期から『新しくする会』に一口噛んでいたんだな?」

「そういうことになりますね。あの手のチラシは、父の好みではないと思ったから、凄く違和感があったのを覚えています」

「そうだな。そこが僕も非常に気にかかるんだ。辻君の性格上、あまり他人の中傷は好まないはずだ。大体、彼はいつもそういったことに関しては、どちらかというと、他人にやり込められてしまう側だったんだからな」

 

羽鳥が思いを巡らせるように目を閉じた。

 

「いや、しかし。そうか……自分がそういったことをやられ続けていると、今度は誰かに向かってやり返したくなるものか……」

「あの」

「ん?」

「父がいろいろやられていたというのは、昔撒かれていた中傷ビラの事ですか?」

「そうだよ。もう17年ぐらい前のことになるんだろうか。芹澤の初当選のさらに2期前だからな。唐突に、君のお父さんのいろんな悪口が書かれたビラが配布されだしたんだ。あまり、君が見て心地よいものではないと思うが。見たことがあるのか?」

「えぇ。幾種類かは。その、鹿島の女性関係がどうとか……」

「あぁ」

 

羽鳥がため息をつく。

 

「あれはひどかった。どこまで嘘か本当かわからない、ほとんど推測みたいな下品なチラシだった」

「大洗では、ずっとああいうチラシ合戦みたいなことが行われ続けているんですか?」

「いやいや、そんなことはないよ」

 

ぶんぶんと首を振る。

 

「あんなチラシがまかれだしたのは、あの時が初めてだ。それまでも告発はあった。だが、それはあくまでオンブズマンによる、会計上のおかしな点の示唆だとか、そう言った、まぁある程度まっとうで、内向きなものだ。マス相手にしたコマーシャリズムに訴えたものではなかった」

「………………」

 

僕の中で、何かがつながり始めた。

 

「あの、さっき、赤坂さんが首を切られた事件、それが20年前でしたっけ」

「あぁ。そうだよ」

「いや、でも……父は……」

「どうしたんだ?」

「あぁ、いえ。何でもないんです」

 

つながり始めた考えが瓦解する。

少しつじつまが付かない部分があった。

 

「ところで、辻君が、いったい誰に誘われて『新しくする会』に加わったのか、それは知らないか?」

「ええっと……」

 

頭の片隅にかすかな記憶があった。

ずっと前に父が、『○○に頼まれて』と漏らした瞬間があったような気がする。

だが、どうしても名前が思い出せなかった。

 

「……わからないか」

「すいません」

「いや、昔の話だ。仕方ないさ」

「誰かに頼まれて、と、言っていたような気がするんですがね」

「それなら、もし思い出したら、ここに電話してくれないか?」

 

羽鳥が、喫茶店の紙ナプキンに、番号を記す。

 

「自宅ですか?」

「携帯は持っていないんだ。四六時中何かで呼び出されちゃかなわん。僕は自由が好きだからな」

 

その物言いが、父に少し似ていて笑いそうになった。

確かに、この男は、父と気が合うかもしれない。

 

「共産党なのに自由が好きなんですか?」

「自由ほど素晴らしいものはないよ。自由の良さが分からない奴は、支配されることに鈍感になっている馬鹿だ。共産党が平等だなんてそんなの、理論上の建前だ。組織である以上、上下関係は絶対に存在する。僕は自由を夢見ながら、組織の中であくせく働いていたんだ」

「あはは」

 

僕は思わず声を上げて笑った。

 

「羽鳥さんは、どうして共産党に?」

「フォークミュージックがきっかけさ。URC系のレコードが大好きだったんだ。反戦思想自体は本当に嫌いじゃないぜ。君のお父さんとは、よく音楽談義をしたよ」

「あぁ、なるほど!」

 

二人が酒を飲みながら語らう様子が思い浮かんだ。

案外、似合っている。

 

「でも、話していると全然共産党に感じられませんよ」

「共産党にだっていろんな奴がいるさ。僕は少なくとも、仕事をやりやすいから共産でいつづけていた」

「どういう意味ですか?」

「つまり、市の労組職員から、情報提供が受けられるんだ。それは独自の情報だ。そういったものが、僕にとっては活用価値があったんだ」

 

彼は、自分を納得させるように小さく頷いた。

 

「僕ももう一つ、訊いていいかな」

「はい」

「戦車道OG会。あれは辻君とはどうだったんだ?」

「どうっていうと?」

「いや、あの団体はもともとは西出という議員のモノだった。辻君とはあまりそりが合わなかったはずだが」

「あぁ、それは、芹澤がまとめたと聞きました」

「なるほどね。しかし、芹澤、か。昨日の葬儀ではひどかったな」

「と言いますと」

「花輪だよ。スポーツショップやら、新しくする会やら。普通は、明らかに政治家と関連するところは、名前を出さないのが暗黙の了解だ。それに、本人が来た上で弔電も打っていただろう。あまりにも露骨で、葬儀の場を利用した売名に見えた。まぁ……その。僕が気にしすぎなのかもしれないけど」

 

言葉が途切れる。

言い過ぎたと感じたのだろうか。

見ると、コーヒーカップはとっくに空になっていた。

時間も、たっぷり一時間が経過していた。

 

「ありがとう。いろいろ話がきけて、多少はすっきりした。そろそろ行こうか」

 

羽鳥が立ち上がる。

 

「そうですね」

 

僕も立ち上がった。

 

羽鳥とは、雑居ビルの入り口で別れた。

彼は、水戸まで出たのだから、本屋に立ち寄って帰ると言った。

別れ際に、僕はもう一つだけ問いかけた。

 

「あの。羽鳥さんって、マルクス主義は信じているんですか?」

「信じてないよ、もちろん」

 

彼はにっこりとほほ笑んで、雑踏へ消えていった。

 

続く




ちなみに、URCというのは、アングラレコードカンパニーの略です。昔、そういうのがあったのです。
会員登録するとレコードが送られてくる謎システムでした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

34 調査

羽鳥と別れた後、すぐには駅に戻らず、一人でもう一度喫茶店に入った。

一人きりで、ゆっくりと考え事をしたかった。

先ほどとは違う店を選んだ。

駅前にあるチェーン店だったが、そこそこ空いていたし、ガラス張りの大きな窓が心地よさそうだった。

僕はラージサイズのホットコーヒーをマグカップで入れてほしいと注文した。

アルバイトらしき若い女性が、マニュアル化された流れの良い受け答えをした。

彼女は僕ににっこりと微笑んでくれた。

僕は不思議な気持ちになった。

僕が若かった頃、アルバイト店員なんてものは、もっといい加減だった。

こんな冴えない中年相手に、にっこりと微笑んでくれなどしなかった。

マニュアル。

マニュアルさえあれば、あんな素敵な微笑みを見せてくれる。

僕はため息をついた。

マグカップになみなみと注がれたコーヒーは、先ほどの『ルーファス』の丁寧にハンドドリップされたコーヒーとはまた少し違う香りがした。

だが、僕にはこの安っぽい香りが落ち着いた。

トレイを持ちながら、窓際の席を選んだ。

午前11時過ぎの陽光が、なんとも幸せそうに差し込んでいた。

こんなにも、世の中は美しかっただろうかと僕は思った。

省庁に勤めてから、ひたすらに働いてきた。

目の前にある物事をとりあえず消化する。

そんな生き方を知らず知らずにしてきた。

こんな風に、午前11時過ぎにゆっくりと、街中のコーヒーショップに立ち寄ることなど、ほとんどなかった。

仕事の打ち合わせ以外では。

仕事の打ち合わせの時は、常に向かいに相手がいる。

心はすべて、目前の相手と、その手元の書類に集中される。

向かいの席に誰もいないコーヒーショップというのは新鮮だった。

僕はホットコーヒーを一口、口に含む。

そして、先ほどの会話を思い出した。

 

羽鳥は、赤坂がもとは役人で、20年前に犯罪を起こして失脚したと言った。

彼は当時の野党に恨みを持っている。

芹澤は、その赤坂をおそらくはブレーンにしている。

選挙の時のやり取りを見ていて、そのことは容易に想像がついた。

父は、赤坂の犯罪歴を知っている。

だが、芹澤の陣営に入った。

芹澤は、かなりきわどい手法で、『新しくする会』を勢力拡大させ、それが評価されて県議選に出馬できた。

中傷ビラ。

父の中傷ビラは、16年ほど前にばらまかれ始めた。

そして、戦車道はもともとは、西出という議員のモノだった。

 

……何かが、つながりそうな気がする。

僕は、携帯電話を取り出した。

そして、竹谷さんにコールをした。

彼女に電話をするのは少し気が引けた。

結局、もらったDVDの感想も何も伝えずじまいだったからだ。

彼女には、少し申し訳ないことをしたと思っていた。

昨日、葬儀場で声をかけてくれなかったら。

僕は、彼女に電話をする勇気を持てなかっただろう。

 

「はい。竹谷です」

「あの、久しぶり。辻です」

「廉太さん……あの。ご愁傷様です」

「気を遣ってくれて、ありがとう。あの。急な電話で、しかも頼みごとで本当に申し訳ないんだけど。以前、西出議員さんっていたよね」

「うん。私が学生だったときの人だね」

「その人のこと、詳しい知り合いっていないかな?」

「西出さんに詳しい……。私より年上じゃないとダメですね。たぶん、戦車道の先輩なら、知ってると思う」

「あの。引き合わせてもらえないかな」

「いつですか?」

「……できれば、今日。明日には東京に帰っちゃうから」

「………わかりました。連絡を取ってみます。私も、同席していいの?」

「え、うん。もちろん。その方がありがたいよ」

「よかった。私も、帰っちゃう前に廉太さんと合いたかったから」

「……ありがとう」

 

少しだけ頬が火照った。

別に変な意味はないと思うが、予想外の言葉だった。

僕たちは、18時に居酒屋で会うことにした。

 

電話を切ると、緊張が解け、どっと疲れが噴き出した。

僕は息をつき、コーヒーの残りを飲んだ。

 

昼過ぎに実家に帰った。

僕は自室のベッドに寝転び、二つのチラシを見比べた。

一つは、『大洗を新しくする会』のチラシだった。

ずっと前、芹澤の最初の選挙の時のものだ。

僕はそれを一つ、捨てずにとっておいていた。

それから、昨日、父のレコードの間から出てきた、16年前の中傷チラシ。

これら二つのチラシは、驚くほど構造や文体、方向性が似ていた。

どちらもほとんどゴシップと言えるレベルのことが書いてある。

正確な数字を持ち出して、政策を批判するというたぐいのものではない。

感情に訴えることを第一義としたものだ。

それから。

文体が非常によく似ていた。

 

『怠惰で間抜けな現職議員の代表、辻誠一郎。我々は彼を許さぬ』

『怠惰で間抜けなベテラン現職議員どもに食い物にされた大洗。我々は許すわけにはいかぬ』

 

この部分なんて、ほとんど同じだ。

他にも、言葉使いの癖のようなもので、相当似通った箇所がいくつもある。

僕は、一階に降りていき、母に尋ねた。

 

「あのさ、父さんの仕事関係の書類とかって、どこかに纏めてある?」

「どうしたんですか、藪から棒に」

 

母は、居間のソファに座り、何をするともなくぼんやりと目の前の空間を見つめていた。

 

「ちょっとね。思い出に浸りたいんだ。古いチラシとか、そういうのってスクラップしていないかな?」

「していますよ」

「え、本当? どこにしまってるの?」

「お父さんの部屋の机の隣の棚の下の段です」

「ありがとう」

 

僕は、父の部屋に向かった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

35 会派構成の謎

いつも読んでくださってありがとうございます。謎解き篇のようなものに突入いたしております。


父の部屋には静謐ともいえる時間が流れていた。

そこにもう父はいないのだから当たり前だが、主を失った部屋は、まるで時間の流れからはみ出してしまったかのようだ。

机の上には、読みかけの本が開いてあった。

父は別段体が悪かったわけではなく、たまたま風呂上りに脳溢血で死んだ。

そんなことにならなかったら、夜にこの本を読むつもりだったのだろう。

本を持ち上げてみる。

ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」だった。

父らしいチョイスだと思った。

基本的に真面目な人なのだ。

父の椅子に座ってみる。

そこに座るのは初めてだった。

父は厳しかった。

僕が小さい時でも、自分の椅子には決して座らせなかった。

僕は、この椅子に座る権利を、父から譲り受けることができなかった。

主がいない椅子を乗っ取ることしかできなかった。

 

母から教えてもらった、棚の下段を開けた。

そこには、父の仕事関係の書類や、チラシのスクラップがぎっちりと詰められていた。

一束抜き出してみる。

市町村合併問題の時の審議議事録だった。

あまり関係がないので、机の端に積む。

次の一束。

大洗町の観光都市戦略のプロジェクト案。

これも違う。

まかれていた中傷ビラなどはさすがに残してはいないだろうか。

次の一束。

町議会での代表質問の原稿だ。

ずいぶんと古い。

色がすっかり黄ばんでいるし、パソコンではなく手書きの原稿だ。

これも関係がないだろう……と思ったが、原稿の最初の文字が目に付いた。

 

「お早うございます。辻誠一郎です。質問の機会を与えてくださった、行政、議会の皆様に感謝申し上げます。さて、それでは、私の、良政会を代表しての質問を始めさせていただきます」

 

良政会?

父は、党派で会派を組んでいたわけではなかったのか?

少し気になった。

僕は、市の広報を探すことにした。

広報は別の棚にまとめて置いてあった。

比較的最近のものを手に取る。

議員の代表質問のページを見ると、そこには良政会の名はない。

先ほどの父の代表質問は、いったいいつのものか。

もう一度原稿を見ると、実に20年も昔のものだった。

もう一度、今度は、20年前の広報を探す。

あった。

代表質問のある9月議会の広報を見る。

確かにそこには、良政会として、父の質問が載っていた。

代表質問とは、各会派の議員が、会派を代表して、行政に質問を投げかけるものだ。

父の質問は3点。

1、 不在である副町長の人事を今後どうするのか。

2、 公園施設における危険遊具の指定とその対応について

3、 道路舗装について

ということは、ちょうど赤坂が副町長人事で躓いたころの質問か。

不在のままの副町長をどうするのか問いかけている。

市の返答はそっけない。

現在調整中であり、他市では副町長を任命していないところもあるので、いろいろと研究し、検討する、とだけ答えている。

恐らくは、町長がレームダック状態で、何ら采配をふるえなかったのだろう。

僕は、他会派の名前をチェックすることにした。

代表質問を行った会派はすべてで7会派だった。

 

良政会

市民クラブ

大洗町政・改革の会

社会党大洗町議員団

公明党大洗町議員団

日本共産党大洗町議員団

 

あれ?

所謂、自民党や民主党といったものが存在していない。

どういうことだ。

会派構成がどこかに載っていないだろうか。

僕は、もっと古い広報を探す。

24年前のものが出てきた。

その代表質問をチェックすると、

 

自民党大洗町議員団

大洗町政・改革の会

社会党大洗町議員団

公明党大洗町議員団

日本共産党大洗町議員団

 

となっている。

ふむ……。

会派の人員配置は……おそらくは、委員会の役選時に発表されるはずだ。

春の役選の広報を見る。

24年前と、20年前とを見比べてみる。

すると面白いことが分かった。

 

24年前はこうだ。

 

自民党大洗町議員団

大迫 恵一、野田 儀太郎、西出 聡、辻 誠一郎、中橋 大輔、小暮 裕也

大洗町政・改革の会

酒井 光輝、中西 良治、宇治 耕三

社会党大洗町議員団

生野 大輔

公明党大洗町議員団

小道 博美、倉田 栄一

日本共産党大洗町議員団

菅 光代、羽鳥 浩紀、野口 洋平

 

ところが、20年前になると

 

良政会

辻 誠一郎、中橋 大輔、野田 儀太郎

市民クラブ

大迫 恵一、西出 聡、小暮 裕也

大洗町政・改革の会

酒井 光輝、中西 良治、宇治 耕三

社会党大洗町議員団

生野 大輔

公明党大洗町議員団

小道 博美、築地 由美子

日本共産党大洗町議員団

羽鳥 浩紀、野口 洋平、矢作 俊之

 

になっている。

 

公明党と共産党のそれぞれ一名が変わっているのは、単なる交代だろう。

人数も同じだから、議会運営に影響はない。

問題は、良政会と市民クラブだ。

20年前になると現れるこの二つの会派は、面子の上では、24年前の自民党とまったく同じだ。

つまり、自民党が分裂して良政会と市民クラブに分かれたといえる。

大洗町政・改革の会については、会派の幹事長である酒井の名前で検索をかけると、簡単に中身が判明した。

酒井 光輝は、大洗に大きな工場を持つ全国規模の企業の労組のお偉方として名を残していた。

連合や労組から出馬している議員団……まぁほぼほぼ民主系ということだ。

整理しなおせば、20年前の大洗の会派構成は

 

自民党A 3名

自民党B 3名

民主党  3名

社会党  1名

公明党  2名

共産党  3名

 

 

ということになる。

合計すると15名で、現在の定数よりも多いが、これは20年間の間に定数削減がなされただけだろう。

 

「…………」

 

僕は立ち上がり、居間の電話に向かった。

羽鳥の番号に電話をした。

しばらくすると、女性が電話に出た。

 

「はい。羽鳥です」

「あ、すいません、辻と申します。議員だった辻誠一郎の息子です」

「あら、辻さんの……。あの、このたびはご愁傷様で」

「あ、いえ。……その、ご主人はいらっしゃいますか?」

「主人はまだ帰っておりませんの」

 

時計を見る。

午後3時を少し回っていた。

 

「あの人、一度家を出ると長いから。今日は、水戸でぶらぶらすると言っていたから、夕方を越さないと帰ってこないかもしれません」

「……そうですか」

 

僕は、また夜に電話をしますと言って電話を切った。

竹谷さんとの約束は午後6時だった。

それまでに気になる部分を解明しておきたかったが、少し難しいかもしれない。

僕はため息をついた。

 

続く

 




だいぶ話がややっこしくなってきました。
自分でも、パズルゲームを説いている気分です。
近いうち、人物表と、時系列表を作って掲載します。
まぁたぶん、現代篇に突入直前ぐらいで。
ご要望があれば、今のこのガルパン本編の9年前編の時点で製作いたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

36 突然の襲撃

家を出る直前の17時半にもう一度、羽鳥に電話をしたが、やはりまだ帰宅していなかった。

仕方がないので、僕はジャケットを羽織り、家を出た。

待ち合わせ場所の駅前につくと、彼女と、他に2名の女性がいた。

一人は湯川美奈子さん、もう一人は瀬名芽衣さんと名乗った。

湯川さんは、冗談をよく言う剽軽な雰囲気の女性だった。

 

「年上なのに、みんなから『みっちゃん』って呼ばれてるんですよ」

 

と、竹谷さんが言った。

 

「あ、もしかして」

「どうしたんですか?」

「あ、いや。ずっと前……芹澤さんの選挙の時に、その名前を聞いたような」

「え? 本当ですか? あ、でも、確かに私も選挙の手伝いしてたから」

「ううん、そうじゃなくって、誰かの口から……そうだ! 確か、角谷さん! 赤ちゃん連れた女の人だ。僕は東京に帰る間際に、その人と事務所で会って」

 

湯川さんが手をポンと打った。

 

「角谷さんですか! 懐かしいなぁ。あの日、無理言って来てもらったんですよ。最近は忙しくてあまりあえてないけど」

「やっぱりそうかぁ。赤ちゃん……杏ちゃんだっけ。もう大きくなってるだろうね。あれから7年か」

「そうですね。今、小学生だったはず。小柄ですっごく可愛い子ですよ」

 

人生は不思議に満ちている。

人と人とのつながり。

 

「で、お店なんだけど」

 

政治家の話を聞くわけだ。

一瞬だけ、羽鳥の言うように、大洗を出た方が良いのかもしれないと思った。

だが、そこまで大げさな、という気持ちもあった。

そもそも、竹谷さんたちにしても、水戸まで出るとなると面倒だろう。

最終的にはそう考えて、近くの海鮮居酒屋に向かった。

 

「あれ?」

 

その場所には店が無くなっていた。

テナントそのものが消え、全く別のビルになっていた。

大洗に帰ることがめったになかったから、その間に店が移り変わってしまっていたのか。

気まずくなって僕がうつむくと、瀬名さんと名乗ったセミロングの髪の女性が

 

「あ、それじゃ、私がよく行くお店があるから。そこにしませんか」

 

と言った。

もう他に選択肢はない。

彼女の提案に従った。

海鮮居酒屋があったはずの場所から、10分ほど歩く。

寂れた商店街の一角に、二階建ての木造家屋があった。

古い民家を改築したのであろうその店の二階のベランダに、大きな看板が貼りだされ、『庶民料理 お酒と肴がおいしいお店 田井中』と書いてあった。

 

「わぁ~、ここかぁ」

「せっちゃん、ナイスチョイス」

 

竹谷さんと湯川さんが嬉しそうに声を上げる。

 

「よく来る店なの?」

「はい。昔から、OG会で時々打ち上げをやったりするんです。お魚が新鮮で、創作料理っていうのかな? ちょっと珍しい料理もあって。評判がいいお店なんですよ」

「へぇ~」

 

店の中はそこそこ込み合っていたが、ちょうど4名がけの席が一つ空いていた。

何はともあれビールで乾杯をする。

 

「「「「かんぱーい!」」」」

 

凄く豪華な刺身盛りと酒盗が運ばれてきた。

 

「ねぇ、廉太さん」

「え?」

 

ぐいっとビールを飲み干した竹谷さんが僕に問いかける。

 

「あれから、7年も経っちゃいましたよ」

「あ、えと」

「どうして連絡の一つもくれなかったんですか? せっかくアドレス、交換したのに」

「あ、いや、その」

「お~、なんか訳あり?」

「竹谷ちゃん、やるねぇ」

 

湯川さんと瀬名さんがはやし立てる。

 

「馬鹿。そういうのじゃないですから」

 

竹谷さんが二人をじと眼でにらみつけた。

 

「でも、ほんとに。メールの一つもくれないんだから……」

「ご、ごめん」

「もう、いいですよ」

「あの、実はさ。僕、もらったDVDはちゃんと見たんだけど、その。なんか、仕事とか忙しくって、気が付いたら日にちが経っちゃってて。そしたらもう、いまさらって気がしちゃって。電話とかメールと化する機会を逃しちゃったんだ……」

「……そうですか」

 

竹谷さんが、拗ねたように口をとがらせる。

 

「ま、いいです。もう」

 

そういいながら、刺身を一つ口に含んだ。

 

「謝ってくれたし、おいしいもの食べたら気が晴れました。それで、何か聞きたいことがあるんですよね? 先輩方に」

「あ、あぁ。そうなんだ。実は少し、教えてほしいことがあって」

「なんですか? 戦車道のこと? 何でも聞いてね」

 

湯川さんが胸を張る。

 

「うん。その戦車道といえば戦車道なんだけど。どちらかといえば選挙がらみで」

「選挙?」

「その、僕は、芹澤さんの事務所にも入っていた、辻誠一郎の息子なんだ。父のことは知ってるよね?」

「えぇっと、あぁ。あの元議員さん」

 

思ったよりも反応が薄い。

戦車道OG会は父の選挙を応援していたんじゃなかったのか?

 

「もしかして、あんまり印象にない?」

「いえ、印象にないわけじゃないけど。その、不思議な感じっていうか」

「不思議というと?」

「あの。私たち大洗戦車道のCG会って、基本的に西出さんっていう議員さんの応援をしていたんです。その人はもうだいぶ前に辞めちゃいましたけど。で、私も、ちょうどその人の最後の選挙の時に20歳になった頃ぐらいだったから、ちょっと手伝っただけなんですけどね。辻さんっていうのは、対立候補だったはずなんですよ」

「え、あれ?」

「そうですね。私も覚えています。確か、ちょうどその時、自民党が二つに割れていて。西出さんと、辻さんって対立していたんですよね」

「え、でも。その、芹澤さんが……」

「芹澤さんですか?」

「あ、あぁ……」

「そうですよね。芹澤さんは、西出さんの後援会の青年部長だったんです。だから、辻さんが芹澤さんの後援会で活躍するっていうのが、私すごく不思議で」

「え? え?」

 

芹澤が、西出議員の後援会の青年部長?

どういうことだ?

いや、もしかしたら、票をまとめられるぐらいの存在だ。

内部にいて裏切ったのか?

 

「だ、大丈夫?」

 

竹谷さんが僕の様子が変だと思ったのか、心配そうに顔を覗き込む。

「あ、あぁ、大丈夫……」

「あの……」

 

おずおずと、瀬名さんが手を挙げた。

 

「そのことなんだけど。私も実は、ずっと気になっていたことがあって」

「気になること?」

「西出さんの最後の選挙の時にね、急に芹澤さんが、私たち戦車道OG会の当時の若手を集めて、辻さんの演説会に連れて行ったの。選挙期間中だったと思う」

「あぁ、それは」

 

僕はほっとして、それは芹澤が西出を裏切ったからだと言おうとした。

だが、瀬名さんはさらに話をつづけた。

 

「それでね、演説会が終わったあと、家に帰ったら、芹澤さんから電話があって。『さっきは演説に連れて行ったけど、あの議員には投票しなくていいぞ。予定通り西出議員に投票するようにとみんなに言っておいてくれ』って。あの、辻さんの息子さんの前で、こういうことバラしちゃうのは、なんなんだけど……」

「あ、えと……」

 

僕は言葉が出なかった。

芹澤が、父の選挙を手伝っていなかった?

手伝うふりをして、マッチポンプの役目をしていたのか?

なんのために?

 

「私も、それ、覚えてます。ってか、今思い出した」

 

湯川さんが言った。

 

「あれっていったいなんだったんだろうって」

 

僕は、心を落ち着かせたくて酒を飲んだ。

話題を変えたかった。

 

「あのさ、西出議員って、今はどうしてるの?」

「あ、西出さんは……」

 

湯川さんが口をつぐむ。

 

「何かあったの?」

「その。まぁ、もうだいぶ昔の話ですけど。自殺したんです」

「自殺?」

「はい。なんか、本業の方の会社がうまくいってなかったみたいで。たぶん、西出さんが生きていたら、芹澤さんは選挙に出ることできなかったと思いますよ。芹澤さんのバックボーンの一つの戦車道OG会は、もともとは西出さんのものであるわけだから。私たち、芹澤さんの最初の選挙の時すごく頑張ったのは、西出さんの弔い合戦の意味もあったから」

「そ、そうなの?」

「はい。私たちは年齢的にはそこまで西出さんに思い入れはないですし、こういうことも言えちゃいますけど。もっと上の世代で、ずっと西出さんのこと手伝ってた人たちは、特にすごく張り切っていました」

「そういう人たちの中には、今の芹澤さんに不満持ってる人もいるよね」

 

瀬名さんが横やりを入れた。

 

「だって、結局、戦車道への交付金、何も取ってこないんだもん」

「せっちゃん、あれは芹澤さんが悪いわけじゃなくて、他の議員たちが悪いのよ。前のチラシにも書いてあったでしょ。『戦車道の交付金アップ案を提案したけど、ベテラン議員たちの妨害で否決された』って」

「それはそうかもしれないけど……でもさぁ、必修科目からも外されて、最近誰もやらなくなってきてさぁ、私むなしくってさぁ」

 

僕は頭を押さえた。

早くこの飲み会を切り上げたかった。

 

「あれ? 湯川じゃん」

 

大柄な女性が通りがかりに、声をかけてきた。

 

「あ、内山」

「知り合い?」

「戦車道のOG会」

「あ、そうか。ここってよく使うんだっけ」

「うん」

「なに、男1人囲んで3人で飲んでんの?」

 

内山が下品な笑いを浮かべた。

 

「いや、そういうのじゃないから」

 

湯川さんが手を振った。

 

 

そこからは、あまり話に加われず、僕は終始うつむいてちびちびと酒を飲んでいた。

時々気を遣うように竹谷さんが話しかけてくれたが、僕はあまり答えなかった。

それよりも、早く帰って羽鳥に電話したかった。

 

 

二時間ほどで飲み会が終わり、僕たちは店の前で別れた。

 

「あの、本当に大丈夫? 送ろっか?」

 

心配そうな竹谷さんに首を振り、

 

「大丈夫だから」

 

と別れた。

彼女は何度もこちらを振り返りながら、商店街の奥へと消えていった。

彼女たちが帰っていくと、僕はまず、自販機で水を買った。

少し、落ち着かねばならなかった。

酒の酔いが回っていては、頭が正常な判断をできない。

ペットボトルの水を2本飲み干して、ようやく少し頭が冷えた。

僕は携帯を取り出した。

時刻は、20時半だ。

そろそろ羽鳥が帰ってきているかもしれない。

コールしようとしたところで、ひゅんっ、という音が聞こえた。

僕の携帯がはじけ飛んだ。

 

「え?」

 

一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 

「お、っとと」

 

まだ酔いが残っていて、携帯を落としてしまったのか。

そう思い、地面に転がった携帯を拾う。

携帯には、弾痕が入っていた。

もう一度、ひゅんっ、という音がして、再び携帯がはじけ飛んだ。

 

「う、あ……」

 

僕はようやく事態を理解した。

狙われている。

銃で。

周囲を見渡す。

夜の大洗の商店はしんとしている。

人けが全くない。

どこから撃ってきたのか、皆目見当もつかない。

僕は両手を挙げた。

どれぐらい待っただろうか。

それ以上、ひゅんっという音は聞こえてこない。

僕は一か八か走り出した。

商店街を、一目散に走り、夜の市街地に抜ける。

ひんやりとした空気が肌を刺す。

市街地に抜けると、さすがに車のテールランプなどが見え、異世界から通常の世界に帰ってきたような気分になった。

僕は、携帯を置いてきてしまったことに気が付いた。

だが、戻るのは危険すぎると思った。

 

続く

 




どうするか悩みに悩んだんですが、やはり、サスペンス的なものを入れることにしました。ハードボイルドの定番で殴られて気絶イベントかなと思ったのですが、哲也の冒険で散々書いたような気もするので、銃撃に。違和感あればご一報ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

37 二人の警官

その足で、近くの交番に駆け込んだ。

だが警察官は僕の話に取り合ってはくれなかった。

僕が酔っていたうえに、怪我一つしていないからだ。

 

「急に銃で撃たれたってねぇ。あんた。ここは海外のスラム街じゃないんですよ」

 

背の高い、やたらと背筋の伸びた警官が、ぎょろっとした目で僕を糾弾するように言った。

 

「撃たれたんだったら怪我してるでしょうが。どこ怪我したんですか?」

「いや、だから。携帯を銃で撃たれたんです。だから僕自身は怪我をしてはいない」

「じゃ、その携帯は?」

「恐ろしくなって逃げ出したから、商店街に置いてきてしまって」

「あんた、それじゃ証拠がないじゃない」

 

警官が、僕の口元で鼻をひくつかせる。

 

「あぁ~あ、こんなに酒の匂い漂わせちゃって。そんでその赤ら顔。あんたただの酔っ払いだよ。銃で撃たれてなんていない。酔っぱらって幻想でも見たんじゃないの。それとももしかして、アルコールだけじゃなくて、変な薬でもキメてたりする? そっちの調査ならしよっか?」

「あ、あんまり侮辱しないでください!」

 

僕は思わず怒鳴った。

後ろ手にいた、毬栗頭の少し若い警官が

 

「まぁまぁ。岡田さん。ここまで真剣に言ってるんだから、一応現場を見ましょうや」

 

と言った。

僕は

 

「そうしてください。お願いします」

 

と頭を下げた。

 

「はいはい、一応ね」

 

岡田と呼ばれた背の高い方の警官がめんどくさそうに言った。

僕たちが商店街に戻ると、そこに携帯はなかった。

誰かが持って行ったのに違いなかった。

 

「何にもないよ」

 

呆れたように岡田が言った。

 

「これで気が晴れましたか?」

 

毬栗頭の警官が僕の肩をたたいて言った。

僕は、何も言葉が返せなかった。

悔しくて唇をかむ。

僕を小ばかにしている警官二人に対してではない。

自分の行動の間抜けさ加減についてだ。

僕はせめて、携帯を回収して逃げるべきだった。

これでもう、僕が狙撃されたという証拠は何もない。

……いや、待てよ。

僕は警官たちに言った。

 

「その。もしかしたら、コンクリートに銃痕が残っていたり、硝煙の化学物質か何か残っていたり、そういう可能性はないんでしょうか」

「そんなん、知らないよ」

 

心底バカらしいというような顔をして、背の高い方の警官が言った。

 

「コンクリートの銃痕? こんなところで隈なくそれを探すの? どうやって、ただのへこみとその違いを見分けるの? ん? 硝煙? そんなもんどうやって探知するの? 風の流れだってあるんですよ。仮に本当に銃ぶっ放されてたとしても、もうとっくに霧散してるよ」

 

話にならない。

 

「もういいでしょ。酔っ払いさん。全部あんたの妄言だから」

「ちょ、ちょっと待って。狙撃される直前、僕は友人と飲んでいたんです。その人たちが、もしかしたら何か見ているかもしれない。確認をしてほしい」

 

僕は記憶をたどり、3人の女性の名前を伝えた。

電話番号に関しては、竹谷さんのものしか知らなかった。

 

「あんた、これ、全部女性?」

「え、えぇ」

「へぇ……」

 

値踏みをするように僕の顔を見る。

 

「あんた、おとなしい顔して、お好きなんだねぇ」

 

下品に笑う。

 

「ま、いいや。聞いてあげましょう」

 

竹谷さんに電話をする。

彼女は何も知らないらしかった。

あとの二人の連絡先を聞き、尋ねてみるが、同じように何も見ていないという。

彼女たちは早々に商店街を後にしていた。

それはその通りなのだろう。

僕はあの時、酔いを醒ませるために、商店街の自販機の前で水を二本も飲んでいた。

それなりのタイムラグがある。

 

「証拠も、何もないのか……」

 

ふらふらとその場を離れようとする僕を、毬栗頭の方の警官が止めた。

 

「あ、ちょっと待ってください。調書を作らないと。あなたの氏名等についてお尋ねします。あと、ちゃんと酔いは醒めてきてますか? 家まで帰れます?」

 

結局のところ、彼も僕を信用してなどいなかったのだ。

 

 

そのあと僕は再び交番に連れ戻され、あれこれといろいろ尋ねられ、調書を取られた。

警官はむしろ、僕の妄言壁を疑っているようだった。

僕がおかしな人物ではないかということを。

意気消沈して交番を出ようとすると、背の高い方の警官が

 

「あんたさぁ、議員の辻先生の息子さんなんだね? あんまりお父さんに恥かかせちゃいかんよ」

 

と言った。

僕ははらわたが煮えくり返る思いだった。

振り向いて彼を殴ってやりたかったが、そんなことをするともっとややっこしいことになるのは目に見えていた。

交番を出ると、夜更けのひんやりした空気が肌を撫でた。

背筋が震えた。

僕を馬鹿にしていたとはいえ、先ほどまでは警官二人が一緒にいた。

だが、今は完全に僕一人だ。

今もしも狙撃されたりしたら。

恐怖で足が震えた。

もう、東京に帰りたい。

心の底からそう思った。

僕はおぼつかない足取りで家に帰り、荷物をまとめた。

 

「あら、帰るのですか?」

 

母が僕に尋ねた。

僕は黙って頷いた。

 

「先ほど、女性が尋ねてきましたよ」

「え?」

「これを渡していきました。あなたにと」

 

母が手渡してきたものは、戦車道OG会の名刺だった。

 

「どういうこと?」

「さぁ。私は知りません」

「どういう女性だった?」

「どういう……そうですね。ごく普通の。大人しそうな、30代ぐらいの女性です」

「特徴らしい特徴は?」

「ありません」

 

僕は、竹谷さん、湯川さん、瀬名さんの特徴を伝えたが、違うようだった。

 

竹谷さんに再び電話した。

彼女は、家に来てなどいないと言った。

 

「それに、それっていったいどんな名刺? 名前は書いてあるの?」

 

僕は名刺をひっくり返す。

何も書かれていない。

ただ、黒い名刺に、白抜きで「大洗戦車道 OG会」と書いてあるだけのものだ。

 

「どうなんだろう。私は、あまり詳しくないですけど。何かの宣伝の時に使う名刺かな。それより、さっきの警察からの電話ってなんだったんですか?」

 

僕は、

 

「何でもないんだ。ありがとう」

 

と言って、彼女の言葉の続きを聞かずに電話を切った。

名刺をポケットに入れ、家を出る。

とにかく大洗から離脱したかった。

頭がかなり混乱していた。

 

続く

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

38 Moonburn

いつも読んでくださってありがとうございます。


 

 

 

東京までの常盤線の間、心臓が鐘のように脈打ち、動悸が激しかった。隣の席に座っていた老婆が、そんな僕のことを嫌がったのか、途中で違う席に移動した。

かまうもんかと思った。

心を落ち着かせたくて、缶ビールを3本ほど空けた。

 

とにかく感覚をマヒさせてしまいたかった。

東京に着くころにはそれなりに酔いが回っていた。

もうすっかり深夜だった。

東京の夜のネオンサインを見ると、少しだけほっとした。

ここまでくればもう大丈夫かもしれないと思った。

もちろんそんなのは相手の意図次第だろう。

なにがなんでも僕を殺すという意思があるのならば、東京でもどこでも追ってくる。

だが、この間、僕を殺すタイミングなどいくらでもあった。

商店街でも、僕は動けず、しばらく固まっていた。

そのあとも、おずおずと現場に戻っているし、家に帰る間も、荷物をまとめて駅まで向かう間も丸腰で一人きりだった。

これは恐らくは、脅しなのだ。

ではいったい誰が?

それを確定するには情報が足りなさすぎた。

状況から推測はできる。

だが、推測は推測でしかないし、わざとミスリーディングに導かれている可能性もある。

僕はポケットに入れてきた、戦車道OG会の名刺を取り出して宙にかざした。

単純に考えれば、これはOG会からの警告だというようにとることもできる。

逆に、狙撃と名刺を結び付ける証拠もない。

 

どん詰まりだ。

 

無性に飲みたくなった。

家に帰りたくなかった。

だが、山下と違って、普段一人で飲み歩いたりしない。

行きつけの店の一つもなかった。

僕は、山下の「ドクター」の店に行きたくなった。

あそこなら、少しだけ落ち着けるような気がする。

だが、考えてみると僕は、あの店の名称を知らなかった。

いつも山下についていっていただけだからだ。

いかに自分が無為に生きてきたかの一つの証拠であるような気がした。

検索をしようにも、そもそも携帯がない状態だ。

記憶を頼りに、夜の街を歩いた。

大体の位置はもちろんわかる。

だが、夜の繁華街は、似たようなビルが似たような光を放ち、路地と路地は複雑だった。

一時間ほどかけて、やっとあの雑居ビルを探し出した時には、午前一時になっていた。

三階に上がる。

その時、看板を見て、初めて僕は、店の名前が『Moonburn』であることを知った。

扉を開ける。

 

「いらっしゃいませ」

 

山下と一緒に来ていたころと同じマスターがいた。

客は誰もいなかった。

平日の午前一時だ。

そういうこともあるのだろう。

僕は小さく頭を下げてカウンターに座った。

 

「お久しぶりですね」

 

と、マスターが言った。

 

「え?」

 

僕は驚いて顔を上げた。

 

「あ、違いましたでしょうか? 以前、ご友人と来ておられましたよね」

「あ、そ、そうです。その通りです」

 

山下はここの常連だったが、僕は彼に連れられてたまに来ていただけだ。

それに、ここ数年は一度も来ていない。

覚えられているとは思わなかった。

 

「今日は何に致しましょうか」

「えと、何か、おすすめのハイボールを」

「かしこまりました」

 

マスターが背を向け、並べられたウィスキーの瓶を吟味する。

よく見ると、頭に白髪が混じっていた。

いつ来ても年齢の分からない人だと思っていたが、彼もしっかりと年老いているのだ。

彼は、一本の瓶を手にして僕に見えた。

 

「ボウモア12年の旧ボトルです。サントリーに買収される前のものです。こちらなどいかがでしょうか」

「お願いします」

 

僕は、ハイボールを一口飲む。

それはしっかりとした味で、おいしかった。

マスターが言った。

 

「今日は、いつものご友人と待ち合わせですか?」

「いえ、今日は一人なんです。その、ちょっといろいろあって。飲みたいなって」

「左様ですか」

「あの、僕、覚えていてもらってうれしかったけど、この店の名前すらわからなかったんです。いつも友人に連れられてきてばかりだったから」

「Moonburnっていうんですよ。古い歌からとったんです」

「そうなんですか?」

「ええ。1930年代のヒットソングです。日焼けならぬ、月に焼けるという意味です」

「どういうことですか?」

「私はまぁ、夜のお店なので、太陽は見えませんので、洒落としていいかなと思ったのですが。もともとはなかなかエッチな意味みたいですよ」

「え?」

 

意外な単語が出てきた。

 

「月に肌が焼けてしまうほど、一夜間、野外でメイクラブするという歌みたいですね」

「は、ははは」

 

僕は思わず笑ってしまった。

寡黙で渋いと思っていたマスターから、メイクラブなんて古臭い言葉が出てくるとは思わなかった。

それに、ついさっきまで狙撃されたことへの恐ろしさで緊張していたところに、唐突に卑猥なジョークを聞いて、現実に帰ってきたような気がした。

僕は、ハイボールを一気に飲み干した。

 

「ありがとうございます。なんだか、気が楽になった。これからは一人でもまた来ます」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

39 父の真実

お疲れ様です。ようやく、核心へと迫ってまいりました。少し説明が長いですが、読んでいただければありがたいです。


バーMoonburnから出ると、終電はとっくに終わっていたので、自宅まで歩いて帰り、ぐっすりと眠った。

翌朝、目覚めるとすぐに、上司に風邪をひいてしまったので休むと電話をした。

これまでまじめに働いてきたからだろう。

さほど文句を言われなかった。

それから今度は、羽鳥の自宅へと電話をかけた。

 

「あぁ。辻君か。昨日何度か電話をくれたみたいだな。すまなかった」

「いえ。こちらこそ、夕方にもう一度電話をすると奥さんに伝えたまま、結局今日になってしまいました」

「いや、それは別にいいのだが。むしろ、そんなに何度も、いったい何があった?」

 

僕は一瞬迷った。

昨日の狙撃のことを話すべきかをだ。

だが、持ち出すには唐突すぎる。

まずは、もともと尋ねたかったことを尋ねることにした。

 

「あの、少し教えていただきたいことが。今、時間はよろしいですか?」

「ああ。大丈夫だ」

「水戸で別れた後、実家に戻って、古い広報を見たんです。自民党が、20年前に二つに分裂していたんですね。父の属する良政会と、もう一つの市民クラブに」

「懐かしいな。その通りだ」

「それで、ちょうど20年前といえば、先日教えていただいた、赤坂氏の失脚の時期とも前後します。父は代表質問で副町長不在の件について町長に問いただしていました」

「そうだね。そんなこともあったなぁ。珍しく、僕たちが一致して行政を攻めた出来事だ」

 

一致して行政を『攻めた』?

 

「辻君はなかなかの手法だったよ。赤坂を下ろしてすぐに、新しい人事で町長を攻めた。当時の大橋町長は役人あがりで、ろくに仕事をしない男だった。だから赤坂みたいな男の言いなりになって好き放題やらせてしまったんだ。中から改革しなきゃならんということで、副町長に、これまでのしがらみのない五十嵐さんを押し込んだんだ」

「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことですか? 父は、野党だったんですか?」

「あれ? 知らなかったのか? 前に、よく今更、赤坂とつるむことができるなぁと言ったじゃないか。辻君は赤坂を失脚に追い込んだ張本人の1人だし、自民党を割って、自分の会派を作り、町長の交代を促したんだ」

 

僕は大きな勘違いをしていたことに思い至った。

そうか。

父はもともと自民党だったから、どこまで行っても与党だという勝手な思い込みがあった。

しかし、あくまで舞台は大洗町政だ。

自民党だから与党とも限らないし、分裂して無所属になって反旗を翻すこともありうる。

 

「その時のこと、もう少し詳しくお聞かせください」

「ん? わかった。あのな、もともと、大洗では自民と民主の会派が与党で、公明がどっちつかず、それに対抗する共産と社会党という構図が続いてきたんだ。

その状態が常態化して、どうせ何を反対しても、大多数を自民と民主と、是々非々と言いながらほぼそれに従う公明が決めるという構図が生まれていた。

あまりチェック機能というべきものが果たされてこなかったんだ。

そんな中、事なかれ主義で、役人上がりの町長が生まれ、副町長も、役人上がり。

『まぁまぁ大事がなければいいじゃないか』というような風潮が出来上がっていた。

その風潮を利用して、赤坂のような賢しい人間が、あれこれと暗躍して自分の私腹を肥やしたりもしていた。

でも、このままでいいのだろうか?と、疑問を腹に抱えている人間も与党の中にはいたわけだ」

「それが父だったわけですね?」

「そう。君のお父さんもその一人だ。だが、自民党大洗町議員団は、大林というベテラン議員が重鎮として存在していて、不満分子を抑え込んでいた。その男が亡くなったのが28年ほど前だ」

「抑え込むタガが失われたわけですね?」

「そういうことだ。こちらも、ちょうど当時、菅さんという共産党町議員団の重鎮がお亡くなりになってね。彼女は共産党の中でもどちらかというとバランス派で、僕らを抑えていたんだが、僕らにしてもタガが外れたんだ」

「それで、どうなったんですか?」

「その時ちょうど副町長人事で、件の赤坂が指名された。副町長人事というのは、市長とは違って一般的な選挙は行われない。行政から議会に提案されて、議会が審議をする。本会議場で投票をするんだ」

「議会で投票?」

「つまり、われわれ議員が、事前に、副町長候補の経歴票を渡される。そして、議場で投票するんだよ。賛成か反対かってね」

「なるほど」

「でも、通常はほぼ、反対は出ない。民意でもって選ばれた町長が提案する人事だし、経歴を聞いただけでその人となりは判断できないからだ。もしも、人事に対して疑義があっても、普段なら、白票……つまり、反対とも賛成とも書かないという方法で意思表示だけする。そして、実際の仕事ぶりを見てから判断するわけだ」

「様子はわかります」

「でも、だな。あの時は事態が違った。副町長人事の議案説明が行われてから、本会議での投票が始まるまでの間に、赤坂に工事契約の談合の疑いの情報が流れだしたんだ」

「父がやったのですか?」

「いや、違う。これはいまだに、誰が流したのかわからない。我々が動き出したのはそのあとだ。忘れもしない。僕と辻君は、水戸でこっそり会って、『もしも情報が本当なら、共闘して赤坂の当選を阻止すべきだ』という点で一致した。水戸にあった、彼の愛人の家でだ。そこなら人に聞かれないだろうということだった。僕は、職員労組を総動員させて、裏をとった。赤坂はクロだった。だが、最大与党の自民党内では、赤坂を擁護しようという声もあった」

 

父の愛人の家?

 

「そこで、分断工作が始まった。僕は、多少付き合いの深かった民主系の会派の説得に回り、辻君が、自民の分断と公明への秋波を行った。

結果、赤坂の副町長人事は、自民党のうち3名だけが賛成し、あとはすべて反対という形になった。白票ではなく、反対だ。堂々たる我々の勝利だった」

「では、あの広報は……」

「そうだ。赤坂は失脚し、直後マスコミにも情報が流れ、刑事案件として捜査を受けた。

自民党は、裏切った人間とは一緒にやれんということで、辻君たちは無所属にならざるを得なかった。

一方で自民町議団も赤坂の件を擁護したように市民からみられることを恐れ名を変えた。

そうして生まれたのが市民クラブと良政会だ。

辻君の例の質問は、そのあとの議会での質問だよ。空いていた副町長に、自分の意向の人物を放り込むためのジャブの質問だ」

「そう……だったんですね」

 

眩暈がする思いだった。

これで、本当にすべてがつながってきた。

僕の中で、納得がいかなかったのは、父が与党であるはずなのに、どうして赤坂から恨まれる可能性があるのかという点だった。

むしろ恨みを買って当然の中心人物じゃないか。

 

「あと、何点かお聞きしたいんですけど。さっきおっしゃっていた、父の愛人の家っていうのは」

「ああ、その。つい口を滑らした。君がはっきり知らないなら言うべきじゃなかったか?」

 

羽鳥が申し訳なさそうな声を出した。

 

「いえ。疑問はすべて晴らしたいんです。父の中傷チラシで、愛人が水戸にいるというものがありました。あれは真実だったんですね?」

「まぁ、その。そういうことになるな。どこかで調べられたんだろう。だから、あのチラシを撒いたのは、かなりの調査力を持っているか、町議員に詳しい人物だと思う」

「…………」

「君のお父さんは、でも、その。愛人を作ることにおかしいもおかしくないもないのだが、なんというのか、その。お金で囲ったとか、そういう愛人じゃなかったのは事実だ。昔から愛している人がいて、その。まぁ、いろいろあったんだ。前にも言ったように、あのチラシに書いてあるような下品な内容ではなかった」

「…………」

 

僕はため息をついた。

親子だというのに、こんなにも知らないことがたくさんある。

ボブ・ディランひとつ程度の繋がりじゃお父さん、あなたの姿すべてを知ることはできないじゃないか。

それに、母はあのチラシを撒かれていったいどう思っていたのか。

 

「その、すまない。言うべきじゃなかっただろうか?」

 

羽鳥がつぶやく。

僕は首を振って答えた。

 

「いえ。むしろ、心が不思議にすっきりしました。ありがとうございます。あと一つ、いいですか?」

「あぁ」

「西出さんという議員さんについて、知っていることがあれば教えてほしいんです」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

40 西出の家系

いつも読んでくださってありがとうございます!


「西出か……」

 

羽鳥がため息をついた。

 

「そうだな、彼に関してそれほど深く知っているわけではないが。だが、哀れな男だという印象はある」

「哀れ、ですか?」

「ああ。彼はもともと、例の自民党大洗町議員団の重鎮だった大林健人議員の子飼いだった男だ。

ずいぶんと可愛がられていた。

何度か一緒に飲んだが、根はまじめな男だったよ。

大洗出身ではなく、もともとは金沢の出でね、仕事の関係で大洗に来たんだ。

自分で小さな工場を持っていたな。

仕事の世話を焼いてくれたのが大林議員だった。

まぁ票になるとかそういった計算もあったのだろうが。

見どころがあるということで、彼に自民党に推薦され、議員になったんだ」

「それじゃ、大林議員には大きな恩義があったわけですね」

「そうだ。だから彼は、赤坂の人事はおかしいと内心で思いながらも、大林に入れてもらった自民党を裏切れなかった。人が良かったせいか、いつの間にか市民クラブの代表に祭り上げられていた。大林議員は大橋町長とズブズブだったから、そんな大橋町長を守るべく、与党の幹事長として奮闘していたが、本当にきつかったと思うよ」

「それは想像に難くないですね。内心を知っていたのですか?」

「ああ。一度飲んだことがある。がんじがらめの板挟みだと嘆いていた」

 

僕の中の西出議員像が瓦解していく。

僕は勝手に彼のことを、スポーツ団体を抑えていて、芹澤のコピーのような傲慢な議員だと思い込んでいた。

だが実際には、羽鳥の言うことが正しいとすればかなり違うようだ。

 

「西出さんは、確かその、自殺したんですよね?」

「そうだ。工場の方の経営がうまくいかなかったんだ。経営の方で大変なのに、町政が揉めていて、与党幹事長として右往左往していた。奥さんにも相当、議員を辞めて工場に専念したらどうだと、どやされていたらしい。そういう心労が募ったんだろうな。精神的に限界だったんだろう」

「戦車道はどうだったんですか?」

「どういう意味だい?」

「その、戦車道は、西出議員のものだったけど、うちの父親の応援もしていたと聞きました。それで、先日、実は、OG会の知り合いと会ったんです。彼女らは、父の応援は嘘だったというようなことを言いました」

「ふむ……」

 

羽鳥が、言葉を選ぶように言った。

 

「僕は、戦車道については詳しくはないが、そういうことはありうるだろうな」

「と、いいますと」

「これはある種のバーターだ。団体として生き残っていくには、強いものについていかなくちゃならん。これまでは、自民党のある議員についていきさえすればよかったのが、自民党が二つに割れた場合、こっそりともう一つの方にも尻尾を振っておくのは悪い政治的判断ではない。でも、内心は西出の応援をしているから、実際の票は入れなかったというようなところじゃないのかな」

「……そう、ですか」

 

だとすれば、芹澤はとんだペテン師だ。

僕の父親を助けるふりをして、実際には何ら票を稼がなかった。

なのに、僕の父を利用して、自分の選挙に利用したということになる。

考えてみれば。

西出が自殺をして、うちの父が引退をして。

すべてが、芹澤が選挙に出るための道筋を偶然作り上げているようにも見える。

これが運命というものなのか。

 

「あの。西出議員に、残された家族はいないのですか?」

「ほとんどいないね。さっきも言ったように、金沢から出てきた家系だから。奥さんも、彼が亡くなった後、しばらくしてなくなっちゃったしなぁ。唯一残っているものといえば、奥さんの姉夫婦じゃないか? 確か、その娘さんが君と同じ年ぐらいだよ」

「え? そうなんですか?」

「ああ。僕は仕事柄、町の人たちのことはよく知ってるから。間違いないと思う」

「僕と齢が近い……。もしかして、知り合いだったりするのかな。なんていう苗字ですか」

「吉中だったんじゃないかな。娘さんも結婚したけど、離婚して一人で暮らしてるんじゃなかったっけ」

 

頭を打たれる思いがした。

吉中?

僕と齢が近くて、離婚歴がある?

それは、あの、僕の同級生だった吉中さんじゃないのか?

 

「まぁ。考えようによっちゃ、本当に西出はかわいそうだよ。いろんなことがあって、一家がぐちゃぐちゃになっちゃったわけだから。それに例の芹澤って男が選挙に出るときに、戦車道もなにもかも、後を引き継いでとっちゃったわけでしょ。完全に食われて消えちゃったって感じだなぁ」

 

言葉が頭に入ってこない。

僕は、朦朧とした気持ちになっていた。

 

 

続く

 




なんとか、消えたままだった吉中さんに話を繋げることが出来ました。この展開は非常に悩みました。あまりにも人と人の繋がりが出来すぎだという印象にならないかが心配でした。しかし、縁は異なものの精神で、こういった展開に決めました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

41 二人の、奪われたもの

頭がくらくらした。

理解が追い付かない。

吉中さんが西出議員の親類だというのか。

そんな馬鹿な。

僕は、羽鳥との電話を終えると、震える手で吉中さんの番号をプッシュした。

 

「はい」

 

聞き覚えのある女性の声が受話器越しに鼓膜に触れた。

何年振りだろう。

吉中さんの声だ。

 

「あ、あの……その。ぼ、僕は……」

 

言葉が先に続かない。

すると、吉中さんが言った。

 

「もしかして、レン?」

 

僕は言葉を失った。

すべてを見透かされているような気がした。

 

「ねぇ、違うの? たぶん、そうなんでしょ?」

「……どうして、分かったの?」

「どうしてって。唐突に電話をしてきて、口ごもって。でも声はあなたの声だし。なんとなくわかるわよ」

「そ、そっか……」

「それで、どうしたの? たぶん7、8年ぶりぐらいじゃない?」

「そう、だね」

 

僕は頷いた。

もう長い間、吉中さんから電話はかかってこなくなっていた。

そして、初めからそうだったが、僕の方から電話をしたことは一度もなかった。

これが初めてだった。

 

「あのさ、吉中さん。僕、君に訊きたいことがあるんだ」

「どうぞ」

「単刀直入に訊くよ。君は、元自民党の、西出議員の親類なの?」

「そうよ」

 

なんのてらいもなく、吉中さんが答える。

 

「僕は、そのことをちっとも知らなかった。苗字が違うし……。僕が、その、辻誠一郎の息子だってことは知っていたでしょ? どうして、言ってくれなかったの?」

「言ってどうなるの? 大洗町の人口を知っている? ほんの3万人程度なのよ。議員の親類なんて、町中にいくらでもいるわ。親類で選挙が成り立っているような議員だっているのよ?」

「あ、そ、それは、その……」

 

昔と何も変わらない。

吉中さんの会話は、冷静で冷酷だ。

 

「もしかして、お父さんとおじさんとのことを気にしているの?」

「…………そう、だね。僕は何も知らなかった。今日初めて知ったんだ。あまりにも、親のことを知らなさすぎた。大洗を離れて、東京に長くいすぎた。僕は家庭と、何一つかかわってこなかったんだと、今、凄く実感している」

「その方が良いわよ。その方がずっと」

「でも……」

「勘違い、しないで。私、あなたのお父さんにさほど恨みはないわよ。政治の上での意見の対立は当たり前だし、赤坂さんだったかしら? あの人は本当に犯罪者よ。いろんなものにがんじがらめになって、抜け出すことを選択できなかったおじさんにも非はあるの。

そんなことよりも、私がどうして、レンに電話をしなくなったか知ってる?」

「あ、いや。それは、わからない」

 

本当にわからなかった。

確かに、父のことを恨んでいるのであれば、8年前の時点でもうすでに、西出議員の自殺は起こっていたはずだ。

 

「あなたが、芹澤の応援を始めたからよ」

「ど、どういうこと?」

「あなたが彼と一体どういう関係だったのかは私には知る由もないけれど。彼こそが、私たちの一家にとっては……ううん、父や母は無自覚だから、私にとっては、仇敵なのよ」

「なにがあったの?」

「彼は、もともとは戦車道には何の関係もなかった。

本気で応援しているわけでもなんでもなかった。

それが、ふとしたきっかけでおじさん……西出の後援会に入って来て、気が付いたら、スポーツショップをやっているとかそういう理由で戦車道関係の取りまとめ役になってしまった。

そして、おじさんが亡くなった後は、あれこれと理由をつけて、おじさんの役員名簿とかを持ち出して。

自分の選挙に使ってしまったのよ。

おじさんの工場の人間から、役所で築いた人間関係から、戦車道から、後援会役員から。

すべて奪ってしまったわ。

私には、初めから彼が、いつか選挙に出るつもりでやっていたように見える」

「吉中さん……」

「この気持ち、わかる? 捉えようによっては、ただの被害妄想かもしれない。だけど、私にしてみれば、私のおじさんが持っていたものが、すべて奪われていった気分。そして、あなたまで。あなたまで私を裏切って、芹澤のものになった。そう感じたのよ」

「吉中さん。こう言って、信じてもらえるかどうか、わからないけれど。

僕も同じような気分を味わったよ。つい最近ね。

父が死んで、そして、気が付いたら、すべてを芹澤に奪われている。

父の葬儀は、芹澤の宣伝だらけだった。

花輪の配置や代表焼香の読み上げ順を決めたのは、町内会と、手伝いに来てくれた父の後援会役員だ。

彼らの一部はすでに、芹澤の応援をしているのだろう」

 

二人の間に、沈黙が下りた。

 

「吉中さん。戦車道について、少し、訊きたい」

「なに?」

「君は、西出さんの関係で、多少は戦車道につながりを持っている?」

「……多少は、ね」

「信用できる人を一人、紹介してくれないか?」

「…………」

 

また、沈黙。

たっぷり30秒ほどして、声が聞こえた。

 

「わかったわ」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

42 手詰まり

いつも読んでくださってありがとうございます!
評価やご感想、お気に入り登録、本当にありがとうございます!



「私にとって信頼できる人を紹介するけど、彼女があなたの知りたいことを知っているかは、わからないわよ」

「いいよ、それで。藁にもすがりたい思いなんだ」

「わかった。少し待っていて」

 

電話の向こうで、がさごそという音が聞こえた。

電話帳を繰っている様子だった。

データを電子化していないということに、どことなく吉中さんらしさを感じた。

しばらくして、声が聞こえた。

 

「西條美香子という女性がいるの。父が戦車道の票をまとめていた時に力になってくれていた人よ。小さい時にはよく遊び相手になってくれたわ。私が先に電話しておく。辻という人が電話するから、何を訊かれても素直に、彼が知りたいことを教えてあげて、と伝えておくわ。15分待ってから彼女に電話して」

 

僕は素早く、西條さんの電話番号を書きとめる。

 

「ありがとう。……もし、この件で迷惑をかけたとしたら申し訳ない」

「私にはもう、関係がないわ」

「吉中さん……」

「レン、私はもう本当に、あなたが何を探していて、何を知りたいのかなんて関係ないの。あなたが芹澤と関係を持った時点で、終わったのよ」

 

強い拒絶。

その言葉を残像のように残して、電話は唐突に切れた。

ガチャリ、という音。

それは僕と吉中さんをつなぐ糸が切断された音のように聞こえた。

僕は受話器を抱きしめた。

かつて彼女と頻繁に電話をしていたころ、電話が切れた後に残された暖かい余韻のようなものはもうどこにもなかった。

どうしてこうなったんだろう。

僕は自分なりに必死に生きてきたはずなのに、気が付いたら多くのものを失っている。

 

息を吐いて、電話のプッシュボタンに手をかけた。

その指が震えた。

狙撃された後、家に帰ると戦車道OG会の名刺があった。

そのことは、まるで狙撃が戦車道OG会からの警告であるかのように感じられる出来事だった。

吉中さんが知らないだけで、もしも西條さんという女性が、僕を狙撃した者あるいは団体とどこかで繋がりがある人物だったら。

僕は、あれこれと探りを入れていることが知られ、もっとひどい目に合うかもしれない。

そのことを考えると背筋に寒気が通った。

指先をプッシュボタンから離した。

もう少し考えなくてはならないと思った。

勢いで、吉中さんに戦車道のことに詳しい人の紹介を願ったが、いったいどのように何を訊けばいいというのだろう。

僕は刑事でも探偵でもない。

唐突に

 

「戦車道をやっていると銃が手に入りますか? まずいことがあれば狙撃しますか?」

 

とでも訊くのか?

そんな馬鹿な。

そんなことを訊かれて、素直に答える人間はいないだろう。

だから、何か、直接的ではない訊き方をする必要があると思った。

 

番号をプッシュすると、年配の女性の声が聞こえた。

 

「もしもし。西條です」

「唐突に申し訳ありません。辻と申します」

「辻廉太さんですね?」

「はい」

「吉中から先ほど電話がありました。いったい何を訊きたいのですか?」

 

柔らかいバターをナイフで切り取るような滑らかなよどみない話しをする女性だった。

 

「戦車道で使う武器・火薬類はどうやって調達しているのかを教えていただきたいんです。 そういった軍事用品類を取り扱う商店や工場と、生徒が直接交渉をするのですか?」

「いいえ。武器・火薬類は、学校に申請するんです。申請に従って学校から支給されます。もちろん、どんなものを手に入れたいかは、生徒が自分たちで頭を悩ませます。どのような装備で戦うのかというのは、戦車道の醍醐味の一つですから。けれど、生徒たちが直接買い付けに行くわけではありません。ただ……」

「ただ?」

「最近は、少し事情が違ってきています。大洗商工会議所の提案で、弾薬や一部の備品など、大洗の町工場で生産できるものに関しては、町工場と契約をすることになったんです」

「町工場と?」

「ええ。もちろん、町工場ですべてをまかなえるわけではありませんが。それでも、手に入るものに関しては、大洗の町工場から手配してもらおうということになっています。地方衰退を食い止めるためとか聞きましたが」

「あの、戦車道では、銃やライフルは、使用しませんよね?」

「使いませんよ。あくまで戦車と戦車で戦うスポーツです。個人を攻撃するものではありません」

「わかりました。ありがとうございます」

「いえ。もうよろしいのですか?」

「はい。大丈夫です」

 

僕は受話器を置いた。

そして、ベッドに寝そべった。

見知らぬ人に、これ以上訊くことはできなかった。

幾つか気にかかることはあった。

やはり、試合で実弾を使用しているとはいえ、武器・火薬の支給は学校側に管理されている。

そもそも戦車道では、ライフルや拳銃は使用しない。

僕を狙撃したものは、おそらくはスコープとサイレンサー付のライフル銃だろう。

それは普通に戦車道をしていても手に入れることはできないということだ。

だが一方で、商工会議所からの申請で町工場との契約で一部の装備が支給されているという情報。

こちらは面白い。

町工場でも、ある程度のものを作ることができるということだ。

僕は銃器に詳しくないが、優秀な旋盤工ならば、銃を製造することもできると聞いたことがある。

大洗の町工場に詳しいものならば、どこの工場が戦車道に提供する装備・部品を作っているのか把握できるだろうし、学校に管理された試合用の武器とは別に非合法に直接交渉に行く余地はあるだろう。

ただ、それは戦車道OG会でなくともできることかもしれない。

町工場にそれだけの技術があり、そこと非合法な交渉ができるものならば、逆を言えばだれでも可能だ。

そんなことをするのと、裏社会とつながって密輸することと、どちらが難しいのか判断が付かない。

 

手詰まりだった。

商工会議所がここ数年で急に町工場との専属契約を急がせたことには多少の疑惑を感じた。

芹澤が議会を通じて商工会議所の背中を押したのかもしれない。

だが、それも調べようがなかった。

僕は商工会議所とのつながりが全くない。

せめて父が生きていてくれたらよかったのだが。

 

負けた、と感じた。

僕の探偵ごっこはおしまいだった。

すべてが推測の域を出ない。

まるで茫洋たる闇のさなかに放り出されたようだ。

大洗にもう一度戻って捜査することはほとんど無理だ。

東京での日々の仕事があるし、狙撃の恐怖が、心から消えていない。

僕は目を閉じた。

あの時、僕は竹谷さん、湯川さん、瀬名さんと飲んでいた。

竹谷さんが僕を騙しているとは思いたくなかった。

彼女は、僕に対していつも気遣いをし、純粋な目を向けてくれていたと思いたい……。

僕は唇をかんだ。

そしてふと思い出した。

そういうと、僕たちが飲んでいる最中に声をかけてきた女性がいたっけ。

確か、内山だか内田だかいう女性だ。

もしも、彼女が、僕たちの会話を聞いてなにかまずいと思ったことがあったのだとしたら……。

だが、それもやはり推測の域を出ない。

何もわからない。

 

僕は立ちあがり、コルクボードに、戦車道OG会と書かれた例の黒い名刺を貼りつけた。

それが、僕が大洗に帰郷して持って帰ることができた唯一のものだった。

なんて馬鹿らしいんだ。

 

 

翌日から、また仕事の日々に没頭した。

大洗で起こったおかしなことを忘却したくて、ひたすらに働いた。

にもかかわらず、僕は疲れ果てて帰宅すると、毎日、決まり事であるかのように壁のコルクボードに貼りつけた戦車道OG会と書かれた名刺を睨んだ。

毎日睨むうちにいつの間にかそれは、僕の様々な悔やみややるせなさの象徴となっていくようだった。

 

この頃から、僕は自宅で恒常的に酒を飲むようになった。

酒に強くなったわけではない。

ハイボール1杯だけだ。

そのために、トールグラスを買った。

帰宅すると、一杯のハイボールを作り、それを飲みながらコルクボードの名刺を睨むのだ。

 

1年後の春に、母が死んだ。

父が亡くなってから、めっきりと年老いた雰囲気になっていた。

僕は、母の死をきっかけに、実家を取り壊し、土地を売った。

大洗に、僕の根っこは何もなくなった。

二度と関わりを持たないつもりだった。

僕の残りの人生は、東京で過ぎていくのだと思った。

 

続く

 




さて、これで地方政治篇はいったんの終了です。
真相はすべて闇の中、悔しさだけが残るという形になりました。
物語としてのカタルシスを追求すべきか悩んだのですが、あくまで、主人公は辻廉太という国家公務員。刑事小説ではないということを重視しました。この小説のテーマは、辻廉太が、なぜ大洗女子を憎むようになったか、というところにありますので、このような展開となりました。
次回は、時系列整理を行います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間 時系列整理及び人物表

すいません。今回は時系列整理と登場人物リストです。
作品の性質上、ある程度物語が進まないとネタバレになるので、このタイミングになりました。これまで、オリジナルキャラが多く(というかほぼそうですが)皆様にはご迷惑をおかけいたしました。
これが一助になるかどうかは不安ですが、ある程度の参考として目を通していただければと。


『辻さんの人には言えない事情』時系列および簡易な人物表

 

時間経過がややこしい作品ですので、幕間として時系列の整理を行います。

また、合わせて、オリジナルの登場人物があまりにも多いので、簡単な表を作成します。

廉太の年齢については悩んだのですが、学園艦教育局長という肩書を重視して、ガルパン本編では53歳という設定に致しました。

ただ、ガルパン本編では、大洗女子の戦車道は、廃止されて20年ということになっています。

そこを合わせることはうまくできませんでした。

父の葬儀編で必修科目ではなくなりすっかりすたれだしたという描写を入れていますが、これが10年前ということになります。

どうかお許しください。

 

 

○時系列

 

 

起点   廉太53歳 杏17歳

・大洗女子 戦車道復活   

 

2年前   廉太51歳

・学園艦教育局長になる  

 

9年前  廉太44歳

・母の死、大洗の実家を売る 

 

10年前  廉太43歳 杏 8歳

・父の葬儀        

 

17年前  廉太37歳 芹澤41歳 竹谷21歳 杏 1歳

・芹澤の選挙        

 

18年前  廉太36歳

・久々の帰郷、芹澤との出会い

 

21年前  廉太33歳

・父の引退         

 

24年前  廉太30歳

・西出の自殺      

 

25年前  廉太29歳

・父の最後の選挙      

 

27年前  廉太27歳

・決算委員会(第一話)  

 

27年前  廉太27歳

・父の中傷チラシがまかれだす 

 

30年前  廉太24歳

・会派分裂        

 

31年前  廉太23歳

・赤坂失脚      

 

○人物表

 

東京組

 

辻廉太 国家公務員、この小説の主人公、やや内向的な性格

篠崎  国会議員、廉太を目にかける、学校統廃合推進派

山下  廉太の同期であり数少ない友人、ウィスキーが好き

高田  国家公務員、関西出身

中津  国家公務員、廉太が以前世話になった

マスター 山下の行きつけのバーMoonburnのマスター

 

大洗組

 

誠一郎 廉太の父、大洗町議・自民党~良政会幹事長、まじめな人物

芹澤  大洗町議~茨城県議、なかなかの食わせ物

西出  大洗町議・自民党~市民クラブ幹事長 すでに自殺している

大林  大洗町議・西出の恩人、自民党 故人

羽鳥  大洗町議・共産党、党派は違うが誠一郎の友人

吉中  廉太の同級生、西出の親せき

竹谷  戦車道OG会、廉太と親しくなる

湯川  戦車道OG会、竹谷の知人

瀬名  戦車道OG会、竹谷の知人

内山  戦車道OG会、居酒屋で出会う

角谷  湯川の友人、生徒会長の母

赤坂  元大洗町役人、芹澤の選挙参謀、副町長を狙うも犯罪を犯して失脚

西條  吉中の知人、戦車道OG会

 

ざっと主要人物だけ書くとこんなもんでしょうか。

 

なお、杏の母親が、選挙編で水戸に住んでいると言っているのは、杏が公式設定上、水戸生まれだからです。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

43 学園艦の統廃合案

お疲れ様です。
いつも読んでくださってありがとうございます!
会話ばかりで読みにくい小説ですが、どうか読んでいただけるとありがたいです。

11月23日 午前2時16分、大幅に修正いたしました。


父が死に、母が死に、大洗の実家を売り払った後では、もうその土地に帰る必要性はなくなった。

もともとが半ばそうだったわけだが、僕の生活は完全に東京を拠点としたものにシフトした。

母が死んだ一年後、45歳になったことを機にこれまで住んでいた阿佐ヶ谷のアパートを出る決意をした。

実家の土地を整理したことでまとまったお金が手元にあった。

田町に、美しいデザインの新しいマンションが建ったことを知ると、ローンを組んでその一室を買った。

一人で暮らすには広い一室だったが、別に気にしなかった。

引っ越すときに、いろんなものを捨てたが、コルクボードは新しいマンションにも持ち込んだ。

相変わらず、戦車道OG会のあの黒い名刺をそこに貼りつけ、僕は日々それを睨んだ。

仕事で失敗があった時や、悔しい思いをした時、嫌な気持ちをそこに投げつけるかのように睨んだ。

コルクボードに貼りつけられた黒い名刺は、僕の抱える嫌な気持ちのゴミ捨て場のようになった。

 

それが原動力になったのだろうか。

仕事ぶりが精力的になったと評価されることが増えた。

特に学校施設統廃合プロジェクトチームでの仕事の評判が良かった。

数年だけ他部署に異動させられたが、すぐに教育員会に戻された。

庁内の出世レースにおいて僕は、基本的に教育畑の人間という方向性が定着しつつあった。

51歳になった時、文科省教育委員会学園艦教育局長に任命された。

51歳で局長級だ。

かなり悪くない。

気が付くと、山下よりもずっと出世をしている。

それにしても、よりによって学園艦教育局長か。

僕の脳裏に一瞬だけ、大洗の海岸線に浮かぶ学園艦の姿が思い出された。

チラシ配りをやらされたリバーイーストマンションの12階から見た、夜の海に浮かぶ学園艦の光景は美しかった。

あれはもう何年前のことだろう。

15年以上前の事か……。

 

ある時、篠崎代議士から呼び出しがあった。

議員会館の彼の個室に向かった。

木目のついた分厚い扉をノックする。

 

「どうぞ」

 

篠崎代議士の声だ。

 

「失礼いたします。辻です」

 

扉を開け頭を下げる。

応接セットのソファに腰掛けた篠崎代議士がいた。

 

「待ってたよ。まぁ座ってくれ」

「はい」

 

彼に促されてソファの対面に腰掛ける。

 

「散らかってて申し訳ない」

 

篠崎代議士が、机の上の新聞紙、教育資料、Dファイルを隅へとよけた。

 

「コーヒーでも入れようか?」

「いえ。大丈夫です」

「そうか? まぁ良いじゃないか、俺が飲みたいんだ。付き合ってくれ」

 

立ち上がり、左奥に置いてあるコーヒーメーカーからカップにコーヒーを注ぐ。

僕も立ち上がり、

 

「申し訳ありません。自分で入れます」

 

と言ったが

 

「気にするな」

 

と制されたので、もう一度ソファに腰掛けた。

 

先ほど片隅へと積んだDファイルの表紙に目が行った。

Dファイルとは、様々な地方自治体の政策の取り組みをスクラップした雑誌だ。

高知県の大規模統合校の記事が今月号の目玉らしい。

コーヒーカップを手に持った篠崎代議士が戻ってくる。

 

「ありがとうございます。お手を煩わせてしまって申し訳ありません」

「いやいや、飲みたいと言ったのは俺だ。ところで、辻君」

「はい」

「学校施設統廃合プロジェクトチームでの働きはとても見事だった。おかげで、地域での統廃合は加速度的に進んでいる」

 

やはり、わざわざあのDファイルを机の上に置いてあったのは、何らかの意思表示か。

 

「俺はね、次のステップに進むべきだと思っているんだ」

「次のステップ、ですか?」

「そうだ。地方での人口減少は著しく、その上にコンパクトシティ構想が推奨される流れがあるから、『地方の中の中央集権』のようなものが進んでいる。

人口密度の地区格差は今後どんどん進むことになるだろう。

学校の統廃合は進めざるを得ないそう思わないか?」

「おっしゃる通りですね」

「だが、ただ統廃合するだけでは意味がない。

これは一種のチャンスでもあるんだ。

これまでの学校施設にはない、より高度な設備を投入した新しい学校を作る機会でもある。現に……」

 

篠崎代議士が、机の隅に積んでいたDファイルを開く。

 

「これは高知の例だが、山間部の小学校を取り壊し、小中総合の新しい学校施設を建て、校区を区切らず、幅広くバス通学を認めたら、それ何のニーズを作り出すことに成功した。応募人数が募集人数を上回った」

 

次に、教育資料という教育雑誌を取り出す。

 

「こっちにも載っているぞ。これは京都だ。

学力テストで府下の平均を下回る地域だったが、二つの小学校を統合し、新しい施設を建て、そこで実験的に先進的な教育を行ってみた。放課後学習を徹底させ、学校で自学自習できる環境を整えた。

すると、はっきりと学力テストに数値的効果が表れている」

「素晴らしいことですね」

「ああ。だが、君は長らく教育委員会にいるからよくわかっていると思うが、教育員会はとかく、突出することを嫌がる風潮がある」

「それは否めません」

「団栗の背比べを子供たちに求めている。俺はそれが嫌いなんだ。突出した、目玉となる学校を作ってもいいと思う。それが起爆剤になる」

 

僕は頷いた。

篠崎代議士の言葉に基本的に頷くことにしている。

そうやってこれまで生きてきた。

 

「そこで、だ。君に頼みがあるんだよ。実は今度俺は、学園艦に手を付けようと思っているんだ」

「学園艦ですか?」

「そうだ。あれの維持運営にどれだけの費用が必要だと思う? そもそも、人口減少によって地域は過疎化されているんだぞ? 

もしも、学園艦を統廃合して、数を減らし、陸の学校へとある程度人を戻したら、地域の人口減少を食い止める手立てになる。

そして、学園艦というもののプライオリティをより高め、より高度な教育を受ける者のみが通う機関として再編すれば、高い維持運営費にも理由が付く」

「はい」

「そのために、まずは、各学園艦の将来性を数値化してくれないか? 子供の数、維持費、学業・スポーツなどで出した成果などを比べて、統廃合すべき艦を決めてほしい」

「わかりました」

「問題は与党だな」

「と言いますと?」

「議員立法にするか、閣法にするかだが、この件については、俺が表に出ない方が良いと思うんだ。閣法という形で提案できたらと思う」

「はい」

「現在、与野党数は与党が絶対的に勝っている。委員会審議にさえ持ち込めれば通ったも同然だ。そのためには、与党内をしっかりと納得させなくてはならない。まずは内々をしっかりと納得させられるだけの資料を作り上げてほしいんだ」

「承知いたしました」

「良い返事だ」

 

篠崎代議士が立ち上がった。

僕も立ち上がる。

頭を下げ、部屋を出るとき、尋ねてみた。

 

「あの、ずっと前に、僕を学校施設統廃合プロジェクトチームに組み込んだのは、篠崎代議士でしたね」

「ああ、そうだ」

「今回、僕が学園艦教育局長になれた人事にも、篠崎代議士の意思が働いているのですか?」

「さあな、神のみぞ知るだ。ビーチボーイズの曲の通りさ」

「もしかして、学校施設統廃合プロジェクトチームは、学園艦の統廃合を進める手腕を発揮できる職員を見定めるためのものでしたか?」

「それは面白い考えだな。小説が書けるぞ」

 

篠崎代議士が笑った。

僕はもう一度、深々とお辞儀をして、控室を出た。

 

続く

 




物語も佳境に突入し、学園艦統廃合の話がやっと出てきました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

44 検証 ①統廃合の背景

お疲れ様です。
いつも読んでくださってありがとうございます!
謝らなければならないことがございます。
前話第43話で書いたことについては、この数日で国家公務員の方と話す機会があり、せっかくの機会なのでと法案提出や委員会審議のやり方に関していろいろと教えてもらいましたところ、地方自治体とはかなり違うことが判明しましたので、おかしいところは直しました。
具体的には、地方自治体の委員会のように委員長は発言権がなくあまり主導権を握れないわけではなく、むしろ強い権限を持つ。与野党議論対決というよりも、与野党の数で決まるので、会派で動く地方自治体とはパワーバランスの在り方が違う。なので、与党内をしっかりと納得させられて議案としてあげることができるのかが重要になる。
この二点を踏まえて、修正いたしました。
ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ありません。


 

 

その日から、さっそく資料制作と調査が始まった。

資料に関しては、各委員に説明に回る際に問いかけられるであろう疑問・質問をしっかりと想定して制作しなくてはならない。

そのたたき台を自ら作ることにした。

説得力のある資料にするためには、「学園艦を統合しなければならない背景」「学園艦の統合は可能なのか」「それによってどのような効果がもたらされるのか」をしっかりと記す必要がある。

と同時に、「統廃合した場合のデメリット」も、記載はしないが、考えておかなくてはならない。

向こうから「こういうデメリットは考えていなかったのか?」と突っ込まれたときに即座に答えることができるようにだ。

まず、統合しなければならない理由だが、これは容易に理由が付く。

というか、なんとでもなる。

とりあえず、テキストファイルに仮でタイトルを打ち込む。

 

『学園艦数・適正化計画(案)』

 

統廃合とせず、適正化としたのは、廃するという文字を使うよりも、正しくするという文字を使うほうが、印象が良いからだ。

さと。

まずは簡単に、背景から考えていこうか。

 

○背景

・人口の減少傾向

・学園艦の維持管理費

・陸の学校との維持費の比較

・海外での先進事例はあるか?

・陸の学校と学園艦の実績比較

・各学園艦の就学人口の推移

・施設規模と就学人口

 

と箇条書きを作った。

 

『人口の減少傾向』は簡単だ。

減少傾向にあるのは間違いなく、データを貼りつければよい。

 

『学園艦の維持管理費』については、予算・決算を見れば大まかな数字はわかるし、探せば、各艦の数値もおそらくは出てくるであろう。

 

『陸の学校との維持費の比較』。

これも、おそらくはある程度の大まかなデータであれば出てくるはずだ。

学園艦と陸の学校の比較の場合の規模をどう揃えるかは少し考える余地があるだろう。

生徒数で単純に揃えてもいいが、学園艦の場合は、それそのものが一つの都市核のようになっている。

経済規模で考えるならば、単純に「学校」と「学園艦」を比較することはおかしい。

むしろ、「同規模人口の小都市」と「学園艦」で比較する方が正しいだろう。

だが、これをやってしまうと、学園艦がお荷物であるという「答えありきの作文」をすることは難しくなってしまう可能性がある。

少し考えどころだ。

「学校」と「学園艦」を比較するデータを作成すれば、目に見えて「学園艦」の方が維持管理費がコスト高だ。

「こんなにお金がかかるんです」

と言うことができる。

だがもしも、しっかりとした委員がいて

「ちょっと待ってくれ。学園艦はそれだけで一つの都市機能を持っている。学校と比較するのはおかしい」

と突っ込まれたら逆にこちらが不利になる。

さて、どうするか……。

とりあえず、僕は、『保留』と書く。

 

次に、『海外の先進事例』だ。

実際には全く状況や経済構造が違ったりして、単純な参照にするには危なかったりするのだが、他人を説得させるときに非常に「使える」手段だ。

今は世界的な不況だから、おそらく他国にしても様々な歳出カット策の中で学園艦の統廃合も辞令があるのではないだろうか。

これは後でしっかりとチェックして、データを手に入れればよい。

 

では、『陸の学校との実績比較』はどうか。

実績を何に絞るかにもよるだろうが、とりあえず学力とスポーツ・文化活動で良いだろう。

もしも、これが陸の学校と大差が見受けられなければ、大きな説得力を持つ。

高コストに対して教育上の効果が認められないと言うことができるからだ。

だがどうだろうか。

学園艦は古くからあるものではあるが、先進的な教育法を取り入れている校もある。

データが出てこないと何とも言えない。

むしろ、学園艦の方がむしろ実績として秀でていた場合、逆に突っ込まれる要素となってしまう。

そこをどう切り抜けるかだ。

また、海の上と言うある種の制限された空間で育てられることによって、非認知能力の分野で、子供たちに何らかの影響があることは間違いない。

もしかして、学園艦で育った子供たちと陸の学校で育った子供たちの、将来の年収などの後追い比較をすれば、有意な差が認められるかもしれない。

そういったデータや研究がないか調べてみよう。

ただ、いずれにせよ二つとも、むしろ学園艦の方が優れている場合がある。

その場合は、データ自体載せないか、何らかの改ざんをする必要があるかもしれない。

 

『各学園艦の就学人口の推移』

これは簡単だ。

人口減少により、当然のごとく学園艦の就学人口も減ってきている。

減少傾向にあるというはっきりした数値が出てくるはずだ。

ただ、この推移が、陸の学校よりも緩やかな傾向であれば、むしろ陸の学校よりも優れているということになってしまう。

 

とりあえずは、最後に『施設規模と就学人口』だ。

各学園艦の学校施設規模と、それに対する就学人口の比較。

これは教室の広さや数と人口推移で比べればいいだけだ。

データは簡単に出てくる。

 

ここまでテキストを打ち込んで、一息をついてコーヒーを口に運んだ。

陸の学校と比べた場合に「学園艦が劣っている」と証明することは難しいかもしれない。

学園艦の統廃合は、単純に『コストが高すぎる』という一点に帰結させる方が良いのかもしれない。

陸の学校との比較ではなく、「陸の学校は統廃合の流れはある。むしろ、さらに金がかかる学園艦も、統廃合すべきではないか」という論調の方が良いだろうか。

そのためには、『学園艦の維持管理コスト』と、『設規模に対する就学人口』のデータは必須だ。

次に、学園艦の教育上のデメリットも調べておく必要があるだろうか。

もともと、先進的な教育のために導入された制度であるので、デメリットの強調されたデータや論文があるのかどうか。

学園艦に乗って生活しているというのは、子供たちにとってはある種の寮生活のようなものかもしれない。

学園艦から出ることは寄港時以外は容易ではないのだから。

だが、都心部で暮らすよりも不便な状況で暮らすということが、子供たちの教育上のデメリットかと言えば、むしろそうではない。

実際、全国学力テストの順位は、都道府県で並べれば、都心部よりも、田舎の方が優れている場合が多々ある。

さて、明白なデメリットは出てくるだろうか……。

 

次に、学園艦の統廃合は可能かについて考えてみることにしよう。

 

続け

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

45 検証②

学園艦の統廃合は可能かどうか。

この問題に関して、学園艦で暮らす人々の陸での居住先や職業のあっせんがテーマになるだろう。

子供たちは、本籍地あるいは住民票のある地域の陸の学校へと再配分するのが妥当だ。

だが、子供たちもそれぞれ目的・目標があって学園艦の学校を志願したものと思われる。

となれば、学力、あるいは選択科目の有無など、さまざまに配力が必要になるかもしれない。

統廃合後も残される学園艦への移行という形も考えておく方が良いだろう。

また、学園艦で暮らしているわけだから、居住に関しても配慮が必要になってくる。

次に、学生以外の、学園艦で暮らす人々だ。

彼らに関しては、住居だけでなく、仕事も失うことになる。

それをどうするか。

恐らくは、学園艦統廃合案が世に出れば、「今の暮らしはどうなるんだ」という声が出てくる。

だが。国が職業のあっせんということは難しい。

あくまでハローワークという決まった窓口があるし、学園艦で暮らす人々にしても、職種は様々だ。

その一人ひとりの希望を聞いて、手厚いケアを施すとなると、莫大なお金が必要になってくる。

 

ふむ……。

 

僕は頭を掻いた。

これはなかなか難しいぞ。

はっきり言って、学園艦の統廃合というのは、学校の統廃合ではなく、都市を一つ潰して、他の都市へと人を移動させるというイメージに近い。

都市間の合併はよくある話だが、居住区域がごっそりとなくなるというような話は前例がない。

とりあえず、『課題あり・住環境と職の保証をどうするか』と、テキストを打つ。

 

次は、学園艦統廃合の効果だ。

○効果

と打つ。その下に、

・学園艦数が減ることにより、維持管理費の圧縮

・人口の再分配により、過疎化地域の活性化

と打ち込む。

…………ここまでは、篠崎代議士の言っていた通りのことだ。

しかし、課題が思ったよりも多い以上、たったこれだけで「確実なメリットがある」と大手を振って論じられるだろうか。

維持管理費用はもちろん、学園艦がある以上毎年計上させるものだから、数が減れば毎年予算に余裕が生まれる。

学園艦の人々が陸に上がれば、それだけ人口密度を上げることもできるだろう。

だが、それにしたって、居住区域の強引な指定はできない。

学園艦を統合して、新しい、より豪華な学園艦を作るとしたら、魅力的だが、それこそ建造コストがかかってくる。

はっきり言って問題だらけだ。

 

僕はテキストデータを保存し、プリントアウトをした。

簡単に流れを書いて、部下にデータ収集をさせるつもりだったが、少し難しいことになりそうだ。

庁内の知人に、すこし意見を伺った方が良いかもしれない。

だが慎重にやらねばならない。

これはまだ極秘のプロジェクトだ。

どのように意見を聞くのが良いだろうか……。

とりあえず僕は、都市整備課に電話をすることにした。

課長の上田は以前からよく知っている男だ。

 

「はい。都市整備課課長席です」

「学園艦教育局長の辻です。上田君はいますか」

「少しお待ちください」

 

30秒ほど待つと、上田君が出た。

 

「上田です。辻さん、お久しぶりです」

「少し、君に教えてほしいことがあるんです。今日、お手すきの時に局長室に来ていただけませんか」

「わかりました。今から会議があるので、そのあとにでも。2時間ほどのちに伺います」

「よろしくお願いします」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

46 検証③

いつも読んでいただきありがとうございます!
ご感想やご評価、お気に入り登録、本当にありがとうございます!


2時間後に、都市整備課長の上田厚が来た。

中肉中背で、のっぺりとした顔だちをしている。

福井県の造り酒屋の息子だが、酒はほとんど飲まない。

付き合いで居酒屋に来て、周囲に合わせて笑っているが酔ってはいないというタイプの男だ。

頬に小さな掻き傷のような跡があり、高校生の頃、野球をしていてついた傷だとのことだ。

 

「どういったご用件でしょうか? 辻さん」

「まぁちょっと座ってください」

 

促すと、応接セットのソファに腰掛ける。

 

「上田君、これまで、立ち退きってさせた経験ありますよね?」

「立ち退きですか?」

「はい」

「そうですね。都市計画道路の拡幅や第3セクター系のビルの再開発などで立ち退き交渉というのはありますね」

「もっと大規模な……都市区画全体の移動というようなものは?」

「そんな、民族大移動じゃないんですから。あるいはチェルノブイリですか?」

 

上田君がそう言ってから、「おっと失礼」と口を抑える。

 

「ここからここまでの区画で住んでいる人は全員立ち退いてくださいなんていうエリアレベルの移動というのはないのですね?」

「そうですねぇ……まぁ、しいて言えば、ダム建設工事だとか、限界集落で、もうそこに住んでいたら危険だからとか、そういう状況ですかねぇ。あとは自然災害とか? 昔、タルコフスキーの映画でありましたね。隕石が落ちてきて、その周辺で暮らせなくなって、国が人を放り出して『ゾーン』とか言って区切っちゃうんです」

「その映画、それでどうなったんです?」

「別にどうもなりませんよ。そんなんしても、区切りの中に入って行っちゃう奴らはいるし。『ゾーン』でこっそり暮らしてる人たちの暮らしに焦点を当てた映画でしたよ」

「へぇ」

「それで、いったい用件はなんですか?」

「いや、大きな区画の立ち退きをやることがあるかと思って訊いたんですけど。無いようならいいんです。都市計画道路の拡幅はどういう具合にやるんですか?」

「そうですね、国が計画を立てて、都道府県に連絡して、そこから市町村の都市計画審議委員会で決定をさせるんです。で、実際に着工する、と」

「住民との話し合いは、どれぐらいかかるんですか?」

「それは市町村の役人がやることなので、はっきりとは知りませんが、1年以上かかると聞きますが」

「結構かかるんですね」

「いやいや、1年ってのはたぶん短い方ですよ」

 

上田君が手を振る。

 

「お金の問題ですか?」

「お金ってのももちろんありますが、引っ越そうにも住む場所の当てがないだとか、身寄りのない老人世帯で、どうすればいいかわからないだとか、昔から住んでいて愛着のある土地だとか、いろいろです」

「なるほど……」

「でもまぁ、最終的には合意に漕ぎ着けなきゃ、セットバックも何もできませんので。私らからできることは、粘り腰の交渉とお金だけでしょう」

「さっき、ビルの建て替えの立ち退きもあると言っていましたよね?」

「ええ」

「ということは、店舗ですね?」

「そうですよ」

 

上田君が苦笑いをする。

いったい何が訊きたいんだ、こっちも忙しいのに、と言いたげな表情だ。

 

 

「店舗の立ち退きの場合は、職を失う場合には斡旋はするのですか?」

「基本的にはないと思いますが。就労支援は所管が違うので、少しわかりかねますが、立ち退き時の営業補償というのは概念としてはあります」

「営業補償?」

「はい。営業を廃止せざるを得ない場合や、店舗移転に伴う営業収益の減が明らかに見込まれる場合などに、金銭的補助はあり得ますね」

「そうですか」

 

僕が礼を言うと、上田君は会釈して出て行った。

忙しかったのだろう。

悪いことをしたなと思った。

 

先ほどの隕石が落ちる映画の話で、区画移動という意味では、地震や火山噴火などにより家を失った人の就労支援がケースとして近いかもしれないと思い当たった。

そこで、厚労省の公共職業安定所の業務をチェックする。

被災者の就労支援という施策があることを確認する。

こういったものをベースに組み立てていくのが良いかもしれない。

しかしこれはかなり骨の折れる仕事だ。

ともすれば、学園艦で暮らす人々の生活を一変させてしまいかねない。

下手に陸に戻すよりも、統合校という形で新しい学園艦を建造し、そこに纏めるという形の方が異論が出ないかもしれないな……。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

47 久々の三司馬へ

いつも読んでくださってありがとうございます!


 

考えたことをテキストにまとめ、プリントアウトをする。

そして篠崎代議士に電話をした。

 

「もしもし」

「お疲れ様です。辻です」

「ああ。お疲れ様」

「例の統廃合の件で、ご意見を頂戴いたしたく。少しお時間いただけますか?」

「もちろんだ。そうだな……18時30分に議員会館の俺の部屋に来てくれ」

「承知いたしました」

 

指定時間に篠崎代議士の部屋に行くと、彼はストレッチをしていた。

 

「このところ、体が硬くてな。齢には勝てそうもない」

 

知り合ったころから、もう25年ほどが経つ。

篠崎代議士も、もう60代に差し掛かっている。

だが彼はどことなく若々しかった。

議員という職に就いている人間全体に言えることかもしれないが、齢を経ると余計にぎらついた脂身のようなものが見えてくる。

篠崎代議士の場合、以前は彼の印象で最も表に出ていた直情的でナイーブな雰囲気が後退し、何を考えているのか即座には読み取れない複雑さが印象を支配するようになった。

きっかけは恐らく、自分の属する派閥の影響力の低下で冷や飯を食わされた時だ。

じっくり留まってもう一度浮上し始めた今、彼には味わいのようなものが増していた。

それは逆を言えば、僕が魅力を感じていたあの純潔さの後退でもあるわけだが。

 

「さて。どんな話だい?」

「そうですね。あの、いろいろと考えてみたのですが、これはなかなか……難しい案件ですね」

「そうか?」

「はい。学校の統廃合とはわけが違います。学園艦は、そこで人々が暮らす都市と同じです。それを廃するということは、職を奪い、生活を奪うことになります。そうなると、教育だけの問題じゃなくなってきます。学園艦を降りた後の職のあっせんや、住環境の保証をどうするのか、非常に課題が多いですし、お金も必要になってきます」

「ふむ……」

 

篠崎代議士が、自らの顎を撫でる。

 

「では、どうしたらいいと思う?」

「当初おっしゃっておられた、予算の軽減という視点は外した方が良いかもしれません。どうしたって予算はかかります。それよりも、教育水準の向上という意味で、より良い学園艦の建造という方向性に持って行った方が良いかもしれませんね。しっかりと予算をとって、学園艦を統廃合し、新しい学園艦へと移住させるんです。陸に戻すよりも良いかもしれません。新しい学園艦を作ることで、そこで暮らす人々の雇用を一から創出できますから、以前の学園艦での職業をそのまま移行させることも可能でしょう」

「なるほどな。わかった。ありがとう。少し俺の方でも考えてみよう」

「はい」

「ところで、辻君」

「なんでしょうか?」

「飯でもどうだ?」

 

断る理由は何もない。

僕は頷いた。

 

「ご一緒させていただきます」

「ありがとう。それじゃ、一時間後に……そうだな、久しぶりに三司馬なんてどうだ?」

「承知いたしました」

 

 

僕はすぐに三司馬に予約を入れ、個室を用意した。

店で直接待ち合わせにしたので、少し早めに個室に入って篠崎代議士を待った。

三司馬は、ビルの改修工事に伴って改装され、かなり雰囲気が変わっていた。

照明がLEDの明るいものに替わり、壁紙も真新しくすっきりとした色合いになっていた。

従業員も、若いアルバイトが増え、一見違う店のようだった。

代議士は時間通りにやってきた。

 

「いつも通り早いな」

「いえ、そんな。仕事していない証拠です」

「そんなことはないさ。こういう付き合いも君の仕事だ」

 

スーツのジャケットを脱ぎ、畳に座る。

 

「しかしここも久しぶりだ。そういうと、辻君と視察以外で初めて飲んだのはこの店だったんじゃないかな?」

「さ、左様でございます」

 

25年も6年も前のことだ。

篠崎代議士がそのことを覚えていることに驚いた。

 

「あの頃、君はまだ20代の半ばぐらいだっただろう?」

「おっしゃる通りです」

「君を見たとき、ひょろりとした頼りのない青年がやってきたと思ったんだ。これからはこういう、男でも繊細な雰囲気の若者が増えていくのだろうなとなんとなく思ったよ」

 

僕は、答えようがなく愛想笑いをした。

 

「同時に、こんなにひょろりとした奴でも、庁内の仕事にもまれれば変わっていくのだろうと思った」

「はい」

「でも、辻君は今でも細いままだね。齢は食ったけど」

「そ、そうでしょうか。これでも贅肉が……」

「いやいや、そんなことはないさ。辻君、君は以前よりはずっとしっかりとしたし、人生経験を積んで、顔だちも全然変わった」

「ありがとうございます」

「ただ、自分のことを僕というのは止めた方が良いな」

「そ、そうでしょうか?」

「ああ。『俺』なんてのも駄目だぞ、君は役人だ。年相応らしく、私(わたくし)と言ったらどうだ?」

「私、ですか……」

「ああ。そうだ。その方がずっと貫禄が出る。今回の案件は、相当な根回しと交渉が必要になる。見くびられたり、なめられたりしたら負けだ。自分を強く見せるんだ」

「わかりました」

 

僕は頷いた。

しかし、大人の飲み会とは不思議なものだ。

僕はもう50代に差し掛かったわけだが、篠崎代議士とこうして飲むと、まるで20代の頃に彼と出会った時と同じ自分に戻ってしまうような気持になる。

子供の頃、大人というものは自分たちとは全く違うものだと思ったものだが、齢をとってみれば……。

仕事はこなせるようにはなったが、こんなものだ。

年齢とは一体何なのだろうか。

 

「辻君、政治の世界が、何で動いているかわかるか?」

「パワーバランスですか?」

「もったいぶっていえばそうだな。だが、もっと下世話に言えば、情と利だ」

「情と利……」

「ああ。確か、どこかのジャーナリストが言っていたのだと思うが、もっともだよ。他人に対するしがらみが『情』。自分の利益が『利』だ。そこに、理性の『理』はない。あったとしても数パーセントだ」

「そんなことは……」

「辻君の考え方は、いつも理性だ。先ほどの会話でもね。正しいかもしれんが、他人を抑え込むことはできないぞ」

 

僕は返す言葉が見つからなかった。

政治の世界で生きている篠崎代議士にとっては、世界はそのような理論で構成されているのだろう。

芹澤などまさにそうだったし、父もそういった中であえいでいたのだと思う。

だが、僕は役人だ。

役人が、理にプライオリティを置かず、どうするというのか?

それとも、そんなことを考えているから僕は交渉が弱いのか……。

 

「あの」

「なんだい?」

「代議士は、今回の件、どういうお考えなのですか?」

「なにがだい?」

「つまり、学園艦統廃合の意義です」

 

そういった疑問を篠崎代議士に投げかけるのは初めてだった。

 

「そうだな、意義か……。それがしたいから、だ」

「え?」

「そういうことだよ。辻君、やはり君は、理を作る仕事が向いているな。俺のために、学園艦を統合するための理を組み立ててくれ」

 

篠崎代議士が瓶ビールを僕のコップに注ぐ。

僕もあわてて注ぎ返した。

そのあとの会話は、酒の酔いにほだされ、雑談のようなものになっていった。

 

2時間後、会計を支払おうと、レジに立った時、ふと耳に懐かしいロックが聞こえてきた。

アメリカの「名前のない馬」が小さな音で流れている。

そういうと、25年前に来た時もそうだった。

聴こえるか聴こえないかぐらいの音でドアーズが流れていた。

店の雰囲気は変わったが、そういったところは何も変わっていない。

僕自身や篠崎代議士の変化を想ったあとでは、そのことは妙に好ましかった。

 

「おい、どうした? なんだかにやけているぞ?」

 

篠崎代議士が後ろから僕の背中をたたいた。

 

「あ、いえ、何でもありません」

 

僕は急いで会計を済ませるのだった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

48 篠崎

お疲れ様です。
いつも読んで下さりありがとうございます。


飲み会の後、田町のマンションに戻って鏡とにらめっこした。

鏡に向かって、

 

「私は、辻廉太だ」

 

と幾度かつぶやいた。

私という単語は使い慣れなかった。

だが、繰り返すうちにその言葉が自分になじんでくるようだった。

学生時代に読んだロラン・バルトを思い出した。

人は場と状況に適応していく。

逆を返せば、場と状況が人を作るのだ。

 

「悪くないじゃないか」

 

僕は微笑んだ。

悪くない。

一瞬感じた気恥ずかしさはすでに霧散している。

僕はベッドに寝転ぶと、ベッドサイドの読書灯だけをのこして灯りを消した。

読みかけの小説を30分ほどだけ読んだが、酔いが残っているのかあまり頭に入ってこなかった。

やがていつの間にか眠りに落ちていた。

 

 

夢の中で満天の星のようなものが見えた。

満天の星はめまぐるしく回転し、やがてワルツを奏でるオルゴールに替わった。

オルゴールを回しているのは年老いた老婆だった。

 

 

夢を見たのは久しぶりだった。

起き上がると、ほのかに汗をかいていた。

寝巻を脱ぎ捨て、温めたタオルで体をぬぐった。

その行為は気持ちが良かった。

それから髪をとかし、歯を磨いて口を漱いだ。

いつも通りのスーツに身を包み、文科省へと向かった。

僕は、部下のうち有能だと思われる者を二人局長室に呼んだ。

彼らに昨日つくった書類を見せ、データ収集をしてほしいと申し付けた。

 

「データがそろったらすぐに連絡をしてほしい。それに基づいてこの案の方向性をディスカッションしたい」

 

それまでに篠崎代議士にももう一度会っておく必要があるだろう。

この件はどこまで行っても彼の意向次第だ。

僕たちは案件がスマートに通るように整備をすることに努力を傾けるが、そもそもこの件をどのような方向性に持っていくのかを決めるのは彼なのだから。

 

だがどうにも、今回の統廃合案に関しては、篠崎代議士の意図するところが読めなかった。

これまでの彼の考え方には一貫するところがあった。

戦車道に対する厳しい意見も、陸の学校施設の統廃合も、正解か否かは人の視点によるものとはいえ、効果があるからやるのだという意思があった。

それに対して学園艦の統廃合案は、それそのものをやりたいからやるというように感じられる。

昨日飲んだ時に気になったことだった。

最初、篠崎代議士は「予算の削減効果がある」と言っていたが、昨日、それほどの成果が見込めないことを伝えると、「それでもやるんだ」というように息巻いた。

彼自身の言葉を借りれば「理」がないのだ。

 

「いったいどうしたのだろう……」

 

僕はひとりごちた。

 

 

次の週の火曜日に、大体のデータが出そろったという連絡があった。

それに目を通すと、やはり今回の案が難しいものであることがはっきりとわかった。

学園艦の人口を考えるに、そこで暮らす人々を陸に移動させて新しい生活を始めさせるには相当の金が必要になる。

あるいは、統廃合先の学園艦を新造するという案に関しても、建造コストが高い。

普通の船を作るのとはわけが違う。

もちろん国家予算規模で考えれば不可能な数字ではないが、財務省が許すだろうか。

僕は篠崎代議士に電話をした。

 

「辻です」

「待っていたよ。成果はどうだ?」

「手厳しいものがありますね。財務省が許すかどうか……」

「そこは俺がねじ伏せるさ。君の気にすることじゃない」

「わかりました。とりあえず、方向性を3種考えています」

「ほう」

「学園艦をいくつか廃艦した際、陸に新しい都市核を形成させるという方向性。これをA案とします。いうなれば、学園艦の都市機能をそのまま陸に移すという方法です。生活圏の選択肢をもうけさせないということは法律上かなり難しいとは思いますが。

 

次に、どこに住めという制限を設けず、個々人の自由に任せるという方向性。これがB案です。ただし、それぞれに対して補償やケアは結局必要です。

 

あと、学園艦のいくつかを廃艦し、統合するという案です。これがC案です。廃艦となった学園艦に暮らす人々に関しては一時的に陸に上がってもらいますが、新しい学園艦を建造し、いくつかの学園艦の人口を統合してそこに移ってもらいます」

 

篠崎代議士は頷きながら僕の話を聞いているようだった。

電話口にガサゴソというノイズが聞こえたからだ。

 

「なるほど。辻君はどれが一番いいと思う?」

「しいて言えばC案です。コストは一番必要ですが、文句が出ないでしょう。学園艦で生活していたものが陸で生活するというのは、生活様式が違いすぎます。教育方法も異なってきます。

 

それよりは、新しい艦を建造してそこに移ってもらうというのが一番良いでしょう。それに、『今暮らしている艦は廃艦になるが、その代わり、もっと最新型の新しい艦に暮らすことができるよ』という提案は、なかなか悪くないと思います」

 

一瞬、沈黙があった。

ため息のようなものが聞こえたような気がした。

 

「そうか。わかった」

「では、C案ですか?」

「いいや。B案だ」

「え?」

「どうした? B案で行くと言っているんだが」

「あ、いえ、しかし」

「いいかい、辻君? 俺は、学園艦の数を減らしたいと言っているんだ。それを実現させることが目標だ。最終的には、学園艦なんて制度そのものを廃してしまいたい。A案は論外だ。基本的人権が保障されている社会で、国家が住む場所を規制することなどできやしない。C案は実現可能性は高いだろう。だが、新しい艦を作っていては、俺の目的は達成できないんだ」

「代議士、しかし……」

「大丈夫だ。当てはある。B案を中心に素案を作ってほしい」

「……はい」

 

釈然としなかった。

僕は震える指で携帯の通話を終了した。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

49 中川

釈然としない何かがもやもやと胸の中で渦巻く。

局長室のソファに腰掛け、ため息をついた。

心を落ち着けたかった。

あらかじめ作って保温していたコーヒーをカップに注いで飲んだ。

そして、先ほど3案を作ってきた部下たちを呼んだ。

僕がB案で行くと言うと、彼らは驚いた。

 

「局長、正気ですか?」

「ああ。これで行くことになった」

「…………」

 

うつむいていた部下の一人、中川が顔を上げた。

 

「これはいったい誰の意思なんですか?」

「意思? 何が言いたいんだ」

「局長はご自身でこのことを良いことだと思っておられるのですか? 学園艦は確かに予算をとりますが、教育上、特質のあるものとして大いに評価されています。それを廃艦して、運営コスト以上に掛かるかもしれない住宅保証や職業保障を引っ提げて陸に戻す? 信じられません。何が目的なのか全くわかりません」

「中川……」

「先ほど、局長は『行くことになった』とおっしゃいましたね。ご自身の意思ではない証拠です。いったいどうなっているんですか」

「口を慎め、中川!」

 

僕は怒鳴りつけた。

部下を怒鳴りつけることは珍しいことだった。

中川の肩がびくんと震えた。

 

「これはどこまで行っても、『私』の方針だ。中川、君は世間知らずなんだ。ずっと教育畑にいて他のことを知らない。教育上の特質性だけでそれが大手を振って許されると思うな」

 

中川は再びうつむき、唇を噛んでいた。

二人に、B案をベースにした素案の作成を命じる。

彼らが出ていくと、どっと疲れが噴き出してきた。

だが、『私』という僕を演じたおかげで、不思議と罪悪感が軽減されるようだった。

二人には大変な苦労を掛けることになるが、僕、いや、『私』にはどうすることもできないことなのだ。

僕はこれまで、庁舎内で篠崎代議士の子飼いとして出世させてもらってきた。

この局長席も、彼がいなければ座らせてもらえなかっただろう。

そんな僕が、いったい何ができるというのだ。

そんなことを考えてもう一度ため息をついた。

ソファに座りなおし、中川たちが作成した資料をもう一度見た。

そこには、統廃合の上で、廃校にするべき学園艦のリストが添付されていた。

僕が命じたとおり、成績・運営コスト・スポーツや文化活動実績などを総合的に評価して、ポイント付けしていた。

外部には流出させられないリストだ。

こんなものが表に出たら、教育を順序付けするのかと騒がれるだろう。

ぱらぱらとめくると、大洗女子の名前があった。

成績・スポーツや文化活動ともにさしたるものがなく、ほぼ廃校は免れないであろうポイントだった。

大洗、か……。

久しぶりにその文字を見たような気がする。

僕にとっては、結局は苦い思い出だけが残った場所だ。

故郷だというのに。

 

僕はその日、帰り際にMoonburnに立ち寄って2杯ほどハイボールを飲んだ。

初めて一人でこの店に立ち寄ったあの日以来、仕事のストレスがたまると、たまに立ち寄るようになっていた。

逆に、僕が1人でこの店に来るようになってから、山下とは出会ったことがなかった。

彼はあまり外では飲まなくなったらしかった。

まるで僕と彼が入れ替わったかのようだ、と、マスターが時々冗談めかすことがあった。

そういうと、山下はどうしているだろうか。

彼はこのところずっと企財畑だ。

なかなか顔を合わせる機会がない。

久しぶりに会いたいと思った。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

50 情報漏えい

いつも読んでいただきありがとうございます!
お気に入り登録も、本当にありがとうございます。




学園艦統廃合のプロジェクトが動き始めてからしばらくすると、庁舎内の官僚たちの態度が緩やかに変わった。

目に見える変化ではないが、季節の変わり目に大気が微妙な変化をするように、肌が感じるとることのできるものだった。

おそらく、僕が何らかの大きなプロジェクトに携わっていることが知れだしたのだろう。

重荷過ぎるプロジェクトにかかわるとこういうことがあるという話は聞いたことがある。

誰もが僕を注視しているのだ。

僕が潰れるかどうか。

僕と関係のない部署の人間からすればそれは面白い見世物だし、僕のポストを狙う者からすれば、絶好の機会だ。

しかし結局のところ、学園艦が統廃合されれば教育にどのようなことがもたらせられるのか……そういったことを危惧している人間はほとんどいないように感じられた。

所詮は他人事なのだ。

この閉じられた庁舎内の社会では自分の目の前の仕事以外の興味と言うものはどんどんと薄れていくようだ。

その点では僕に突っかかってきた中川はまともな感性を持った人間なのか。

僕は彼の行く末が心配になった。

彼はタフにやっていけるだろうか。

 

ある日、局長室で資料に目を通しながらコーヒーを飲んでいると、電話が鳴った。

受話器を上げると野太い怒鳴り声が聞えた。

 

「君が学園艦教育局長の辻君か!?」

「はい。左様でございます」

「衆議院議員の土山だ。いったい君は何を考えているんだ!」

「とおっしゃいますと?」

「学園艦の統廃合の件だ。いったいどうなってる!」

「では、議員会館へお伺いいたしましょうか」

「そうしてくれ。30分後に来てほしい」

「はい」

 

受話器を置く。

耳の奥に声が残るかのようだった。

野太く品が無い声音だ。

僕は急いで「土山 衆議院議員」で検索をした。

あまり詳しく知らない人物だったからだ。

検索によると、大阪第17区の選出で、2世議員のようだ。

父の跡を継いで議員になるまでは、倉庫会社の役員か。

倉庫会社の名前で再び調べる。

土山の親族で経営をしているようだ。

大阪第17区は堺市南部とその周辺の湾岸地域だ。

倉庫会社が力を持っているのは頷ける。

先ほどの短い会話から、気が短く感情的な人物であることが予想できる。

待たせないことが得策だろう。

僕は大急ぎで局長室を出た。

 

議員会館の土山の扉をノックすると、どうぞ、という声が聞こえる。

扉を開けると、秘書と思しき30代前半ぐらいの男性が頭を下げた。

ワックスで頭を撫でつけるようにオールバックにしている。

眼がぎょろりとしていて、頬が骨ばっている。

ホテルのドアマン風の恭しい態度だが、どことなく下世話さが滲み出ていた。

 

「奥で代議士がお待ちです」

「そうですか。承知いたしました」

 

失礼いたします、と声をかけ、パーティションの奥へと進む。

土山が応接セットのソファに腰掛けていた。

チャコールグレイのウィンドペン模様のスーツに、深い紺色の幅の広いネクタイを合わせている。

どちらも単品で見れば高級そうな良い品だが、合わせ方には疑問が感じられた。

髪は短く刈り上げられ、スポーツをしている学生のようだが、顔だちはいかにも中年と言う雰囲気だった。

鼻が平べったく、眼が細かった。

眼のぎょろりとしたドアマン風の秘書と正反対だ。

40代の後半ほどだろうか、僕よりも多少若い。

 

「座れよ」

 

横柄な態度で着席を促される。

僕は頭を下げて対面に着席した。

秘書が茶を二つ持ってきた。

土山は音を立ててそれをすすりながら、数枚のプリントのコピーを机の上に置いた。

そして口を開く。

土山の話し方には関西訛りがあった。

 

「なんや、これは?」

「これとおっしゃいますと……」

 

僕はそのプリントに目を通す。

学園艦統廃合の素案の一部だった。

どこからからもうコピーが出回っているのか。

庁舎と言うのは不思議なもので、どれだけ細心の注意を払って、これは極秘だと言っていても、かならず資料のコピーが出回る。

それがこうやって糾弾の材料になる。

僕はさっとすべてのページに目を通す。

大まかなものだけだった。

学校を順番付した部分などは含まれていない。

少しだけ安堵した。

 

「なんで黙ってる! これはなんやって言ってるんやろ!?」

「はい。これは、今度法案として提出させていただくべくして検討中の資料でございます」

「誰の許可もろてやってるんや!」

 

土山が強く机をたたいた。

秘書は澄ました顔をしている。

よくある光景なのだろう。

 

「誰の許可ということはございません。私どもは、国のためになることを種々検討いたします。これも、そういった検討案の中の一つでございます。議員ご存知の通り、日本の人口減少は加速度的傾向にあります。莫大な借金を抱える国家運営の中で、可及的速やかにシステムの最適化をしていかねばなりません。

それは教育という分野においても同じことでございます。ご存知の通り、学園艦は維持管理に莫大な資金が必要でございます。子供の数を今一度しっかりと調査し、必要なものは残し、不必要なものは見直しを検討する。そういう考えでございます」

 

出来る限り会話の中に『議員もご存知のように』という単語を入れるように心がける。

相手がご存知かどうかは関係ない。

持ち上げるふりをして、ご存知で当たり前という前提を作り上げるのだ。

 

「ほなこれは国のために必要な施策やというんやな?」

「左様でございます」

「よぉゆうわ、たわけが」

 

土山が吐き捨てるように言った。

 

「お前、これはなんや?」

 

土山が顎で合図をすると、秘書が新しいプリントを持ってきた。

それはA案とC案だった。

 

「こういったものもあるんやろ。ああ? これじゃなくて、こっちの案にするのはどういう意味があるねん?」

 

僕は言葉に詰まった。

素案よりも早い段階のものまで流出しているとは思わなかった。

 

「種々検討した結果、B案を選ばせていただきました」

「よう言うわ、屑が」

「…………」

 

駄目だ、言葉が出てこない。

 

「お前な、どういう理由があって、こっちの案で突き通そうとしてるねん? これ、もともとお前ら教育から出てきたもんと違うやろ? ん?」

「いえ、これは、私たちが自分たちで提案するものでございます」

「もう世間の噂やっちゅうねん。お前ら、議員に動かされてるってな。え? 学園艦教育局は特定の議員の私物か?」

「滅相もございません」

「よう言うわ」

 

土山が資料を手で丸め、それで机をこつこつとたたく。

 

「お前な、信念っちゅうもんがないんか。これのどこが教育のためやねん。特定の人間の名誉のためちゃうんかい? お前、なんのために教育局長やっとるんや。子供らのためちゃうんかい。議員さんのためかい。ええ?」

「いえ、その、私は……」

「お前は教育のことに興味なんかないんやな。この屑が。もうええわ。この件は、よう調べるからな。党内なんかまとめさせへんぞ。お前、変な真似すると、『いてまう』からなぁ」

 

『いてまう』の意味がよくわからなかったが、どことなく暴力的な音だった。

僕は顔を上げて呟くのがやっとだった。

 

「申し訳ありませんが、これは、議員が懸念するようなものではございません。あくまで、国のため、ひいては子供たちのためでございます」

「もぉええわ。帰れや」

 

僕は頭を下げ、土山の部屋を出た。

扉の前で例の秘書が

 

「うちの議員さん、おっかないでしょ」

 

と笑った。

僕は局長室へ戻る途中、自分が情けなかった。

直情的で御しやすいタイプだろうと、勝手に土山のことを見誤っていた。

彼は思ったよりもしっかりと裏付けをとり、そのうえで強く攻めてくるタイプだ。

なんとか、おかしな言葉を言ってしまわずに踏みとどまったが、完全に気おされてしまった。

 

続く

 




文字として書くと関西弁難しいですね。おかしければご指摘いただければと。汗


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

51 弱気

お疲れ様です。
いつも読んで下さり本当にありがとうございます!
歩みの遅い小説ですが、ごゆるりとお楽しみいただければと。


局長室に戻る途中、中川とすれ違った。

彼はいつも通りに見えた。

僕は扉を閉めると、ソファに腰掛けた。

また、温かいコーヒーが飲みたくなった。

明らかに中毒状態だ。

土山はこちらが考えるよりもずっと資料を持っていた。

いったいどこから流出したのか。

どうしても中川の顔が思い浮かんだ。

彼は、3案を作ることに関わったし、今回のプロジェクトに不満を抱いていた。

だからといって決めつけてしまうのも短絡的だった。

以前、中津さんが言っていた言葉を思い出す。

 

「辻君、情報ってのは、どんなに気を遣っても流れちゃうものなんだ。それも、思わぬところからね。犯人捜ししたって仕方がない。ほぼ、わかりゃしないから時間の無駄だよ。それよりも、前を向いて、対処することに力を割くべきだ」

 

そうですね、中津さん。

僕は拳を握った。

すぐに部下に電話をして、よりしっかりとした資料の制作と、理論づけの強化を命じた。

そして篠崎代議士に連絡を入れた。

 

「土山議員から、横やりが入りました。学園艦統廃合の件でいろいろとお怒りでした」

「そうだろうな。そうだと思ったよ」

「ご存知だったのですか?」

「予想がつくさ。彼はそういう男だ。まぁ、適当に流しておけばいい。ただし絶対に弱音を吐くなよ。馬耳東風の姿勢で行け」

「は、はい……」

 

これはまた拍子抜けな返答だった。

いったいどうなっているんだ……。

 

それから、数日の間、たて続けざまに数人の議員から呼びつけられ、学園艦統廃合の件であれこれと尋ねられた。

大体が同じ内容だった。

 

持っている資料も同じだし、突き方も似ている。

どうにも僕は自分が、ピンボールの球になってしまったような気分だった。

次から次へと小突き回される。

だが、僕はへこたれなかった。

心は幾度も折れそうになった。

ある議員に及んでは、議員会館の彼の部屋で2時間、そのあと飲みにつれていかれ3時間、延々と禅問答のようになじられ続けた。

しかし、

 

「これは文科省の方針で、ひいては国のためだと思い検討しております」

 

と答え続けた。

文科省の名前を出すことについては少し心配があったが、何も言われなかった。

そのあたりの根回しは篠崎代議士が済ましているのだろう。

どこまで問い詰められても

 

「これは我々の側で決めた方針です」

 

としか答えない僕に、同じことを問い詰め続ける議員たちの執念が理解できなかった。

こんなことに時間を浪費して何になるんだろうと思った。

僕を弱らせるのが魂胆なのだろうか。

ようは根競べなのかもしれない。

虚しいレースだ。

とはいえ、なじられ、精神的にこ突きまわされるのはハートにボディブロウのように響いてくる。

そんな状態が3週間も続いたころには、僕はすっかりまいっていた。

酒の量が目に見えて増え、顔つきも不健康そうになっていた。

一人で酒を飲むのも限界だった。

僕は、ある金曜の夜、Moonburnのカウンタ-席で山下の番号を携帯の電話帳から選んだ。

いろいろと考えてみたが、付き合ってくれそうなのは彼ぐらいしか思い当らなかった。

僕には、部下はいるが、友人と呼べるものは職場にほとんどいなかった。

番号をタップする指が緊張で震えた。

山下とは、部署が離れてからほとんど会っていない。

お互い年齢を経て任される仕事が増えていた。

忙しさもあって、疎遠になるのは仕方ないことではあった。

だが、生来の気の弱さゆえだろうか。

久しぶりに電話をすると、唐突に怒られるのじゃないかなどと考えてしまう。

……そんなわけがないじゃないか。

僕は首を振った。

弱気になっている。

疲れている証拠だ。

この状態を脱さなくては。

意を決して番号をタップした。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

52 宅飲み

いつも読んで下さりありがとうございます。


「もしもし」

 

携帯電話ごしに懐かしい声が聞こえた。

山下の声だ。

 

「ひ、久しぶり」

「あぁ。辻ちゃん、おひさだね」

 

以前と変わらない軽い口調に気が楽になった。

 

「どうしたの、本当に久しぶりじゃん。なんかあった?」

「まぁ、その。急にお前のことを思い出してな。その。実は今、Moonburnにいるんだ。もしよかったら来ないか? 今日は金曜だし……」

 

彼に教えてもらったバーに一人でいるということを伝えるのは少し気恥しかった。

 

「Moonburnにいるんだ?」

「そうなんだよ」

「そうかぁ。う~ん、そうだなぁ。家を出ることはもちろんできるんだがなぁ」

「どうしたんだよ?」

「その、俺さ、長い間、Moonburnに立ち寄ってないから、久しぶりすぎて気が引けるんだわ」

「おいおい、鋼のハートのお前が何言ってるんだよ」

「そうでもないんだって。あ、そうだ。辻ちゃんさ、何気にまだ独身でしょ?」

「うぐっ。そ、そうだが」

「そんじゃ、辻ちゃんちお邪魔させてよ。宅飲みしようぜ。宅飲み。たしか田町付近に住んでただろ?」

「ま、まぁいいけど……」

 

宅飲み。

実は僕はその行為をしたことがなかった。

いや、もちろん自宅で一人で飲むことはあるのだが。

所謂「友人との宅飲み」というのをしたことがないのだ。

基本的に自宅に人を呼ばない主義だし、いちばん宅飲みをする機会が多いであろう大学時代には、一緒に酒を飲むような友人がいなかった。

とはいえ、こんな年齢になって、宅飲みをするというのもいい機会だ。

僕は了承することにした。

バーを出て、マンションに帰ると、ちょうど山下も駅前に着いたと連絡があった。

駅前まで迎えに行く。

 

「よっ」

 

山下が笑顔で右手を挙げた。

昔から見慣れた、人懐っこい笑顔。

だが、眼尻にはしわがより、髪は随分とボリュームがなくなっていた。

 

「歳とったな」

 

僕が思わずつぶやくと、肘でつつかれた。

 

「辻ちゃんもな」

「そりゃそうか」

 

二人して笑う。

 

「で、宅飲みってどうやるの?」

「え? もしかして経験ないの?」

「お恥ずかしながらそうなんだ」

「わお。初体験いただいちゃった」

「変なことを言うな」

「ま、とりあえずスーパー行こうぜ」

 

山下が意気揚々と歩き出す。

 

「あ、そうだ。奥さんに謝っといてくれ。急に旦那を連れ出したことを詫びてるって」

「気にすんなよ。久しぶりなんだ。遅くなる、もしかしたら朝帰りかもって言ってある」

「泊まる気かよ」

「状況次第、状況次第。一応保険のつもりで」

 

連れ立って24時間経営のスーパーに入る。

 

「まずは、アテを買うかぁ~」

「アテって、実は買ったことないんだよ」

「え? 辻ちゃんそれマジ?」

「うん。酒は酒だけで飲むことが多くて」

「そりゃちょっと損してるぜ。とりあえず、裂きイカと、チーズと、せんべいと、鮭とばと、あと酒盗も買っとこう」

「買いすぎだろ。お前が金出せよ?」

「いやいや、余ったら辻ちゃんちに置いとくって。あ、酒ってどんなのがあるの?」

「ウィスキーだよ。お前に教えてもらった影響で。バランタインの12年とハイランド・クイーンのマジェスティがある」

「十分だな。水は?」

「ちょっと減ってるかもな」

「そんじゃま、ミネラルウォーター買っときますか」

 

ついでに糖分の吸収を抑えるお茶をかごに入れる。

 

「なにそれ?」

「あ、これは俺の分。一応気にしててさ。辻ちゃんも飲む?」

「う~ん、それじゃ試してみるか」

「あいよ」

 

そんなことをやっているといつの間にか買い物籠が満杯になった。

 

「いやぁ、楽しいねぇ。宅飲みってさ、飲んでだべるのも楽しいけど、こうやってスーパーで買い物してる瞬間も格別なんだよ」

 

山下が子供みたいに笑う。

確かに、それは僕も感じていた。

学生時代にこの男と出会っていたら、こんな風に楽しんでいたのかもしれない。

僕たちはレジに並んで会計を済まし、マンションへと向かった。

街には小雨が降り始めていた。

僕たちは荷物を抱えて小走りした。

 

続く

 






社会人になると忙しくて、本当に友達と遊ぶ機会が減りますよね。
そして、現実逃避か、日常系アニメばかり見るようになる。笑
また学生時代みたいに遊びたいなぁ。
そんな想いを込めました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

53 人生の価値観

いつも読んで下さりありがとうございます。
評価をつけていただいて、本当にありがとうございます!


マンションの扉を開け、灯りをつけると山下が歓声を上げる。

 

「おぉ~、広いな」

「まぁ、どちらかというとファミリー向けの物件だからな」

「いや、いい部屋だわ。それに綺麗に片付いてるねぇ。神経質な辻ちゃんらしいよ」

「そうか? こんなもんだと思うけど」

「いやいや、うちなんて俺も嫁も子供も片付けられない性格だから。スゲー汚いよ」

「それは……お邪魔したくないな」

 

山下が勝手に冷蔵庫を開ける。

 

「おっ。能勢の天然水ソーダじゃん。いいセンスしてるね。あえて山崎じゃないところが憎いぜ」

「別にこだわりがあるわけじゃないけどな。ってか勝手に冷蔵庫を開けるな」

「これ冷やしとくためだよ」

 

と、ペットボトルのミネラルウォーターと氷を入れる。

 

「さてと、お酒は……。うぉっ。ずらっと並べてある。これ、飲み終わったボトルか?」

「ああ。ずっと前にお前がそうしてるって言っていたのを真似てみたんだ」

「へぇ……。俺はもう、こういうことはずっと長い間してないなぁ」

「意外だな」

「嫁が許してくれないんだよ。ゴミを並べるなって言われちまう」

「ははは」

「さて、と」

 

テーブルにとりあえず座る。

 

「あ、どうする? さっそく飲む?」

「そうだな。飲むかぁ。ハイランドクイーン飲んだことないから気になるわ。飲ませてくれよ」

「オッケー」

 

僕は立ち上がり、ハイランドクイーン・マジェスティのボトルと、グラス、氷、ソーダを持ってくる。

 

「どんな味なん?」

「そうだなぁ。スムースなんだけど、ほのかに癖があるかな。苦味みたいなのがちゃんと舌に感じられるっていうか」

「へぇ」

「バランタイの12年を普段よく飲むんだけど、比べるとよくわかるよ」

「なるほどねぇ」

 

グラスに氷を入れ、ウィスキーを注ぎ、マドラーでなじませる。

その上にソーダ水を注ぎ込み、もう一度軽くかき混ぜる。

 

「はい、完成っと。……あっ、山下、ソーダ割りで良かったっけ? いつもの癖で割っちゃったけど」

「ああ、大丈夫だよ。二杯目は自分でロックにする」

「了解」

 

二人同時にグラスを唇につけ、ハイボールを口に含む。

ソーダ水の爽快さとウィスキーの苦味が混ざり合い、なんとも言えない味わいが舌に広がる。

 

「うん。これはけっこう美味いね」

「山下大先生にそう言ってもらえてうれしいよ」

「いやいや、今じゃ辻ちゃんの方が飲んでるんじゃないの?」

「そういうとさ、山下、なんでバ-に行かなくなったの? 奥さんに怒られるとか?」

「いや、そう言うわけでもないんだけどな……。うぅん、なんというのか。もう少し、建設的に生きたくなったんだよな」

「建設的?」

「ああ。うまく言えないんだけど。俺さ、昔はすごくよく外で飲んでたじゃん」

「そうだね」

「それがさ、こう、癖みたいになっちゃってて。酒を飲むのが習慣になっちゃって、なんかこう、他に生きる意味がないというか。ただ仕事して、そんで癖みたいに飲んで、酔って家に帰って、ってやってて、それでいいのかなって思ってさ」

「へぇ……。そういう考えがあって、バーに通わなくなったんだ?」

 

少し照れくさそうに鼻を掻く。

 

「そうなんだよ。バ-で飲む時間をなくしたら、他にいろいろやることができるようになって。酔っぱらってるよりもその方が良いかなって」

「なるほどねぇ。山下ってさ、なんか酒以外にプライベートの趣味があるの?」

「まぁ、そのな、趣味というか。小説とかシナリオとか書いたりしてる。たまにネットに投稿したりしてるよ」

「へ?」

 

意外な単語が飛び出してきた。

 

「小説? シナリオ?」

「ああ。覚えてるかわかんねーけどさ。ずっと前に、お前と飲んだ時に俺、言ったじゃん。大学生の時、映研にいて自主製作映画撮ったりしたって」

「そうだっけ……そういうと、一度そういう話聞いたかな」

「うん。俺さ、本当は映画の脚本家になりたかったんだよ。そんときは何も思いつかなくて書けなくて、俺はカメラ担当だったんだけど」

「そうなんだ」

「んで、ずっとさ、自分がこの世に対して何も生み出していないっていう悔しさみたいなのが胸にあってさ」

「え? でも山下さ、昔から仕事スゲーできるじゃないか」

「仕事はまた別っていうか、自分で創作して何かを作り上げるわけじゃないしさ」

 

そういうことを僕は考えたことがなかった。

目の前にある仕事をこなしていくことが、生きていくことだと思っていて、それ以上のことに思いが及んでこなかった。

だから、山下の言葉には少し驚かされた。

自分にはない価値観。

 

「そっか。そういう考え方もあるんだな」

「辻ちゃん、50歳にもなって何言ってるんだよ。って、でもそういうもんか。社会人になってからずっと忙しくて、なんか目先の糸を手繰るばっかで、違う世界を見る機会なんてほとんどないもんな」

「うん、まぁね……。山下はさ、なんかきっかけがあったわけ? プライベートで小説書こうとか考えるようになった」

 

山下は考え込むように沈黙した。

グラスに口をつけて、ハイボールを一口飲み、天を仰ぐ。

 

「そうだなぁ。あるっちゃぁあるよ」

「どんな?」

「あのさ、俺さ、一度、自殺未遂っていうのかな? そういうことがあったんだ」

「自殺未遂?」

 

また予想外な言葉が出てきた。

陽気な山下からは想像もつかない。

 

「自分でもよくわかんないんだけど。30代の頃、ちょっと鬱っぽくなっちゃって。ストレス晴らすために、仕事終わると酒飲んでさ。その頃ちょうど、学生時代の事とか思い出して、自分の人生ってなんなんだろうとか、なんか変な気持ちになっちゃったのよ」

 

僕は頷きながら、山下の言葉に耳を傾ける。

 

「で、ある日、確かあれって辻ちゃんと飲んだ日だったと思うんだけど、スゲー酔ってて。虚しくってさ。気が付いたら街をうろついてて。忘れもしないわ。なんか急に東横線に乗りたくなって、武蔵小杉で降りたんだよ。でも、立ち寄る店もなくてさ。またホームに戻って。で、列車を見てたら、急に飛び込みたくなって」

 

そこまで言葉を紡いで、あははっと笑う。

 

「飛び込んだわけじゃないぜ。一瞬の気の迷いみたいなの。自分でもはっきりとわかんねーんだけど。でも、踏みとどまって。家に帰って。そしたらさ、なんか、もっと真っ当に生きようって思ったんだよ」

 

山下の目は真剣だった。

冗談ではないのだろう。

僕は、友人の知らない側面を聞かされて少し狼狽した。

それと同時に、自分にはそういう機会がなかったことに少し複雑な思いを抱いた。

僕もこれまで、山下と同じぐらい生きてきて、いろいろな局面に差し掛かってきた。

庁内での仕事。

大洗での選挙。

襲撃されたこと。

父を失ったこと。

吉中さんを失ったこと。

だが、結局は僕は今、山下が止めた一人酒を飲み、流されるように仕事に没頭している。

この違いはなんなのだろうか。

僕に、ものを考える力が欠落していたというのか?

 

僕は首を振った。

わからない。

……いいや、そうじゃない。

たぶん。

僕と山下は、価値観が違ったのだ。

山下には、シナリオだとか小説だとか、プライベートでやりたいことがあった。

一方で僕には、趣味らしい趣味はなかった。

この違いが大きいのだ。

僕だって、ずっと若い頃、自己改革をしようとした。

篠崎代議士についていこうと思ったのも、大洗に帰って人と関わろうとしたのも、「なにもない自分が情けない。もっと積極的に生きたい」と思ったからだったはずだ。

だから、僕にとってのやるべきことは、仕事に没頭することになっていったのだ。

しかし……僕はいつの間にか、そのもともとの理由を忘れていた。

ひたすらに目の前の仕事をこなし、庁舎内での立ち回りに夢中になり、出世レースに乗ることに自分の軸をシフトしていた。

そんなつもりはなかったが、無意識のうちに、そうなっていたのだ。

僕は……。

 

僕がしばらく黙ってしまっていたからだろう。

山下が、陽気な声を上げた。

 

「ごめんごめん、なんか変なこと言っちゃったな! 久しぶりに酒を飲むとダメだ。辻ちゃん、忘れてくれ。さぁ、飲もうぜ」

 

矛盾したことを言いながら、ぐいっとグラスを傾ける。

 

「よぉし、飲み終わったぞ。次はロックだ」

「あ、あぁ。ロックグラスをとってくるよ」

「サンキュー」

 

僕が立ち上がり、キッチンでロックグラスを探していると、山下が尋ねてきた。

 

「俺の話はまぁ置いといてさ。辻ちゃん、久しぶりに俺を呼んだわけじゃん。なんかあったんじゃないの? 悩み事とかあるなら、聞くよ?」

「……ありがとう」

 

僕は机の上にグラスを置いた。

 

続く

 




山下のエピソードは、「21話 外伝 山下氏の茫洋たる夜」に書いてあります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

54 案件の裏にあるもの

いつも読んでくださりありがとうございます!
また、誤字報告もありがとうございます!
本当に助かります。


「そうだな。悩みがあるんだ」

「どんな?」

「最近かかわっている案件だよ。ほら、庁内でうわさになっていると思うが、学園艦の統廃合の」

「やっぱりそうかぁ」

 

山下がため息をついた。

 

「予想はついていたか?」

「まぁね。そりゃ辻ちゃんが巻き込まれている大変なことと言えばそれだろ。そうじゃなかったらもっとプライベートな話かなと思ってたんだ」

「こういう、はっきりとした答えの出ない案件をどうしても通さなきゃならない状況っていうのがこれまでにはなかったんだ」

「答えが出ないって?」

「つまり、その。本当にやるべきことかどうかだよ」

 

僕はうつむいてトールグラスを握りしめた。

 

「これまで、私がかかわった大きな案件……たとえば学校の統廃合なんかは、はっきりとした『正』の理由があった。

人口の減少は明らかだし、高度成長期に建てられ施設の老朽化が著しい校も多かった。パイの再編はむしろするべきことだったんだ。

だから、どんなふうに批判されようとも、やるべきことだと思って突き進むことができた」

 

山下がうなづく。

 

「でも、今回の件は全然違う。単に学園艦の数を減らすだけなら、それはそこで暮らす人々に対する『いやがらせ』みたいなものだ。どうしてそんなことをしようとしているのか分からない」

「あのさ、辻ちゃんさ、お前、バカなのか?」

「え?」

 

バカだって?

僕が?

 

「逆に俺は、そんなことで悩んでいる辻ちゃんに驚いてるよ。よくこれまで、それで庁内でやってこれたなって」

「ど、どういうことだよ?」

「あのさ。おれたちは役人だぜ。基本的に政治に振り回される生き物だ。理由がない政策を書かされるのなんて、いくらでもあるだろうが? 今までそういうことを体験していないってのが信じられないよ」

「いや、もちろん、そんなことはないかもしれないが。ただ、その」

「なんだよ?」

「いままで、人に動かされる立場だった。今回の件は、自分が動かさなければならない案件だ。だから……」

「だから気になるってのか」

 

やれやれだ、というように山下が首を振る。

 

「辻ちゃんさ、今回の件で、熱政連から睨まれてるだろ?」

「熱政連? なんだよそれは」

 

山下がメモ帳に文字を書く。

 

「熱心に政策を勉強する議員の連絡会。要するに、玉田順三郎議員のグループだよ」

「玉田議員……」

 

それは与党の中堅議員の名前だった。

 

「そう。玉田を良いポストにつけようと持ち上げて、おこぼれを狙っている議員連中の集まりさ。辻ちゃん、例えばこいつらの名前を知らないか?」

 

山下が何人かの議員の名前をメモ帳に書いていく。

そのうちの何人かは、僕を呼び出して、学園艦統廃合の件で叱咤している議員たちだった。

もちろん土山の名前もあった。

 

「こいつらが辻ちゃん……というか、統廃合案に反対してるわけよ」

「玉田議員は? 彼に呼ばれたことはない」

「大御所が自分で動くかよ。いいか、こいつらはやくざのグループと同じようなもんだ。下っ端が弾として動くんだよ」

「なるほど……でも、どうして? 特にこの、玉田議員は教育畑じゃないはずだ」

「そういうことも分かってなかったのか」

 

山下がまたため息をついた。

 

「俺さ、辻ちゃんは変わったと思っていたけど、本質は同じだな、若いころからの狭視がずっと続いてるな」

「どういうことだよ?」

「つまり、ずっと教育畑にいて、教育のこといがい考えていないってことだよ。あのな、俺の見たてじゃ、この件は教育と関係がないぜ」

「はあ?」

 

教育と学園艦統廃合が関係ない?

何を言っているんだ。

 

「教育と関係のない目的があるからこそ、教育ベースでこの件を考えると、わけがわからないんだ。いいか、俺が教育の外にある理由を教えてやる」

 

山下がにやりと笑った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

55 俯瞰

いつも読んでくださりありがとうございます!


「今回の案件の裏には、学園艦利権のようなものが存在するんだ」

 

山下の発した言葉には、意外な単語が含まれていた。

 

「利権?」

 

教育機関である学園艦と利権?

 

「ああ、そうさ。学園艦が運行されていて、儲けられる奴らはどういう奴らだと思う?」

「そりゃ、教育関係者じゃないか? 職を得ることができる教師だとか、学校法人だとか」

「違う違う」

 

山下が手を振った。

 

「さっきから、教育ベースでものを考えるなと言っているだろう。学園艦だぞ。陸地の学校じゃないんだ」

「どういうことだよ?」

「つまりだな、学園艦そのものの問題なんだよ。いいか、学園艦の維持管理費は非常にコストが高いな?」

「そうだな」

「そこに一口噛んでいる奴らがいるわけだ。学園艦の建造、そして定期的検診、補修・修繕、燃料費。学園艦が毎日動いているだけで、陸の学校とは全く違う奴らが儲けることができるんだよ」

「あ……」

 

僕は言葉を失った。

 

「お前に食って掛かった議員、土山な? あいつの後援会会長は泉佐野の大きな製鉄会社だ。つまり、学園艦に鉄を供給している可能性が高いのさ」

 

僕は、土山のことを調べた時、彼が大阪第17区……大阪南部の湾岸区域選出であることを思い出した。

彼自身は倉庫会社の役員出身だったが、後援会長にそういう繋がりが……。

 

「そもそも、奴らのドンの玉田議員な。彼も親戚関係に製鉄業だの造船業だの工場だのなんだのが多い。つまり、熱政連は第2次産業の利権でつながっているグループっていう側面があるんだ」

「ということは、彼らが僕を攻撃するのは、教育に対する懸念ではなく……」

 

山下が頷く。

 

「そういうことだ。奴らは教育になんて興味がない。自分たちの関係する会社の『旨味』を突き崩されたくないだけさ。大方、後援会からいろいろ陳情が来てるんだろうよ」

「で、でも、土山議員からいろいろ攻撃されたが、彼は今回の案の教育上の問題点もかなり詳しく把握をしていた」

「そりゃ議員だからな。説得力をもって議論しなくちゃならないから、勉強はしてるだろう。だが、目的は全く別のところにあるんだ」

 

僕はこめかみを押さえた。

 

「そ、それじゃあ篠崎代議士は? 彼はどういう意味があって学園艦の統廃合に熱を上げているんだ。彼は教育畑でずっとやってきた人だ。それに、そういう第2次産業との繋がりも聞いたことがない。彼はやはり、純粋に教育のことを思って……」

「んなわけがあるかよ」

 

山下が冷たく言い放った。

 

「あんな奴、自分のエゴばっかしじゃないか」

「山下、君は昔から篠崎代議士のことを悪く言う。けど、彼は、そんな利益とかには興味がない人だ」

「それはそうだろうよ。おれもそう思うよ、でもな、篠崎は名誉欲に目がない男だ。大臣のポストが欲しいんだよ」

「ポスト?」

「そうさ。今回の案件、俺のところにまで出回ってきたぜ。最初の3案のうち、一番無意味なB案で押し通されたんだろ?それで辻ちゃんは説明理由がなくて困っている」

 

それはその通りだった。

僕は頷いた。

 

「議案が骨抜きにされた理由はすぐに察しがついたよ。わかってないのは辻ちゃんぐらいじゃないか?」

「何が言いたいんだ」

「つまり、だ」

 

山下はロックグラスを口に運んだ。

 

「A案だったかC案だったか忘れたけどさ、新しい学園艦を建造する案があっただろ?」

「……あった」

「あれは悪くない案だ。3案のうちで1番マシだよ。だが、あれじゃ篠崎的にはダメなんだろうよ」

 

僕の脳裏に、すげなくB案を却下した篠崎代議士の顔が浮かんだ。

 

「どういう意味だ?」

「新しい学園艦を建造すれば、結局、玉田たちが一口噛んでいる業界を潤すことになる。それが嫌なんだ」

「それじゃ、篠崎代議士は、玉田議員を苦しめるために今回の案を作らせているというのか? 同じ与党内だぞ?」

「だから、篠崎はポストが欲しい男だっているじゃんか」

 

また山下がため息をついた。

これで何度目だろうか。

彼は呆れかえった目で僕を見つめる。

 

「一時期篠崎が干されていたのを知っているだろう?」

「あ、あぁ……。それは覚えている」

 

属しているグループの力が弱まり、発言権が落ちたことをずいぶんと愚痴っていた。

 

「あの時に篠崎が属している竹田派を弱らせ、党内で勢力を拡大したのが杉澤派なんだ。そこのホープが玉田だ」

「ということは……」

「篠崎と玉田はライバルなんだよ。歳も近い。どちらも、そろそろ閣僚入りの声がかかってもおかしくはない立場だ。つまり、お互いの足を蹴り合っているんだよ」

「学園艦統廃合は、教育議論ではなく、ただの権力闘争……。」

「これは噂だがな、篠崎は冷や飯を食わされた前後、ずいぶんと玉田から嫌がらせを受けていたらしい。個人的な恨みつらみもあるのだろうよ。

玉田のバックボーンの造船だとか製鉄だとかにパンチを入れたくて仕方ないんだ。かといって、彼は教育畑だ。タンカーに手出しなんてできない。自分が影響力を持つ分野で、玉田に一発攻撃できる案件を探していたんだろう」

 

考えてみれば、今回の案件の足がかりともいえた陸の学校施設の統廃合プロジェクト。

あれは、ちょうど篠崎代議士が冷や飯を食わされていたころに動き出した案件だった。

あの頃から、個人的な恨みでこの話の準備をしていたというのか?

 

僕は頭を押さえた。

 

「もういい。山下もういいよ」

「どうした?」

「そんな話、聞きたくなかった」

「そりゃま、お前からしたら、ずっと付き従ってた篠崎の裏の側面は聞きたくないわな」

「…………」

「でもさ、いい歳なんだ。そういうことも理解して仕事に臨んだほうがいいぜ?」

 

僕はグラスを見た。

氷がすっかりと溶け、水ばかりがカサを増していた。

 

「山下。お前はさ、どうしてそんなに詳しいんだ?」

「庁内で泳いでいれば、自然にこうなるよ。俺はさ、他の部署が今どういう案件で揉めてるかを多少はチェックするし、うわさ話や与太話も耳に入れてる。その違いだよ。辻ちゃんみたいに教育にすごく詳しくはないけど、俯瞰で生きてる」

「そう、か」

「かと言って、キャパシティを考えずにあれこれやっても潰れるだけだけどな」

 

自重気味に苦笑する。

 

「俺は好きだよ、辻ちゃんの生き方」

 

山下が立ち上がった。

 

「さて、と。話は終了だな。ちょっと厭味な物言いになっちまってすまなかった。楽しく飲んで朝帰りといきたかったんだが、帰るわ」

「なぁ、山下」

「どうした?」

「この件、どうしたらいいんだろう?」

 

僕は顔を上げることができなかった。

グラスを見つめたまま、弱々しくつぶやいた。

 

「どうもこうもないよ。淡々と説明を繰り返せばいいだけだ。そういうもんだろ? 俺たちの仕事って。最後には議員が決めるんだから。やれと言われたことをできるだけ努力すればいいだけだよ。通らなくても通ってもその態度は評価されるさ」

「でも……」

「いいか? 変な気は起こすなよ。それだけは忠告しといてやる。いまさら自我を出すなよ。さっきの話も、あくまで俺の予想だ。与太話だ。そういうことかもしれん、ぐらいに思って、淡々と仕事をこなせよ」

 

山下がマンションの入り口で靴を履く音が聞こえた。

 

「ああ、わかった……」

 

僕は頼りなげにつぶやいた。

やがて、ドアが開く音が聞こえ、山下が出て行った。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

56 根回しの難しさ

いつもありがとうございます!
また、ご評価つけていただき、本当にありがとうございます!


山下が出て行った後、インターネット検索で熱政連のホームページにアクセスした。

そこには所属する議員のリストが掲載されていた。

各議員の中には自身の後援会のホームページへ飛ぶことができるようにリンクを貼っているものもあり、後援会のホームページでは後援会長の挨拶文が掲載されている場合もあった。

もちろん、後援会会長の肩書も載っている。

調べれば簡単にわかることだった。

そんなことにすら頭が回らなかった自分自身を恥じた。

それから、深夜でも電話に出てくれそうな部下を選んで、電話をかけた。

熱政連を知っているかと問いかけると、もちろん知っていますよという返事だった。

世間知らずなのは僕だけだったのかもしれない。

嫌な考えが浮かんだ。

ずっと教育畑にいて、教育の事しか興味を持たず、世間知らずな男。

そんな辻は、何もわからないまま言うことを聞くだろう。

篠崎代議士は、そう考えていたのではないか。

もしそうだとしたら僕は彼に良いように利用されていることになる。

いまさらながら、2,30年前の山下の言葉がリフレインした。

 

「お前、良いように利用はされるなよ」

 

僕は傍から見ればそんなに危なっかしかったのだろうか。

そして今も変わらないのだろうか。

 

「いまさら俯瞰で考えろと言われても、どうしろというんだ……」

 

唇をかんだ。

足元の地面が砂になってしまうような錯覚があった。

 

 

翌日、なるたけ他部署の情報収集を心がけようとした。

だがそれを一体どうするべきなのか見当がつかなかった。

局長室のソファに座り込み、考えた。

これまで庁内で出会った「社交的」といえる人物たちの行動を思いだす。

彼らは時折、さしたる理由もなく他部署にやってきて「やぁ、調子はどう?」というように話しかけてくる。

そして短い雑談をして去っていく。

時折、思わぬ長話になり、どこかの応接を使わせてもらうこともあった。

あるいは、定期的に飲み会のようなものにあれこれ理由をつけて誘う者。

研修会や勉強会を先導するもの。

やり方は様々だ。

僕も付き合ったことがある。

だが、自分からそうした行為をしたことがなかった。

今までろくに他部署のフロアをウロチョロしたことがない僕が急に訪ねて行っても、怪しまれるのがオチだろう。

根回しと同じだ。

長い年月をかけて形成された人間関係やキャラクター性が必要なのだ。

 

 

それからも僕は度々、熱政連に属する議員連中に呼びつけられ、統合案についての明確な数値目標や根拠を問い詰められた。

ひと月が経つ頃には、他のグループの議員からも疑問を呈されることがあるようになっていた。

彼らは口汚く僕をののしり、長時間拘束し、罵倒した。

強く机をたたき、拳を振り上げるふりをする者もいた。

 

「辻は持たないぞ。グロッキーだ」

 

そんな声が聞こえてくるような状況だった。

だが、運命はどう転ぶかわからない。

翌週の日曜日、大変な事件が起こった。

それは遠い海の向こうで起こった事件だったが、確実に日本の学園艦教育行政にも波紋を広げる出来事だった。

 

続く

 





ようやく、長い物語も最後の山場に突入致します。
頑張って書いてまいりますので、どうかお付き合い下さい。
ご意見、ご感想、ご叱咤などもどうかお願い致します。
参考にして面白くできるよう努力いたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

57 運命の日

いつも読んでくださってありがとうございます!!


日曜日の早朝、ベッドサイドに置いていた携帯電話のベルがけたたましく鳴った。

危機管理局からだった。

僕は驚いてタップする。

あわてたような声が聞こえた。

 

「もしもし。学園艦教育局長の辻さんですか!?」

「はい。そうですが」

「わたくし、危機管理局危機管理課課長の西脇と申します。緊急のご連絡です」

 

危機管理から教育の僕に緊急の連絡だと?

どういうことだ?

 

「日本時間で本日午前6時ごろ、フィリピンのダブラス海峡で学園艦の沈没事故がありました」

「それは、日本の艦ですか!?」

「違います。フィリピン国籍です。日本人が乗っているかどうかは現在、調査中です」

「沈没の原因は? 追突か何かですか?」

「いいえ、まだ詳細はわかっておりませんが、漁船やタンカーなどとの追突ではないとのことです。詳細が判明し次第ご連絡申し上げます」

「わかりました」

「所管はもちろん危機管理ですし、海外の出来事ではありますが、学園艦の事ですので、辻さんにご報告するべきであると判断いたしまして」

「ありがとうございます」

 

僕はすぐに部署の人間に連絡し、できる限り学園艦局の者は登庁するようにと伝えた。

他国での事故とはいえ、庁内には緊張が走っていた。

学園艦が一つ沈没したとすれば、それは大変な事故だ。

日本としても、何らかのメッセージやアクションが必要になってくるであろうし、もしも日本人が巻き込まれていれば、対応が必要になるだろう。

 

フィリピンの方でも情報は錯綜しているようだった。

なにしろ海上の事故だ。

即座に被害を詳細把握することは難しい。

臨時ニュースのヘッドラインはめまぐるしく変化する。

もちろん悪い方向へだ。

行方不明者数、死者数は膨れ上がっていく。

フィリピンでは海上保安庁や軍、民間ダイバーも募って現状把握や救出作業、遺体回収を急いでいた。

だが、海流に救出員が流されて行方不明という事態まで起こっているようだった。

その日の夕刻の発表では行方不明者はおよそ2000人ということだった。

 

夜遅くに携帯電話が鳴った。

篠崎代議士からだった。

 

「辻君。大変なことになったな」

 

開口一番、彼はそう言った。

 

「はい。信じられないような大事故です。2万人規模の学園艦の沈没だなんて信じられません」

「そうだな。死者・行方不明者の数はどんどん跳ね上がるだろう。日本としても援助策を打つと思う」

「はい」

「ところで、この件で辻君は忙しいか?」

「と、おっしゃいますと?」

「君の立場として、だよ。少し、人のいないところで話がしたい。時間を作れないか?」

「そうですね……不可能ではありません」

 

学園艦の事故であるとはいえ、僕は危機管理や海上保安庁の職員ではない。

常時待機をすることが仕事ではない。

 

「よかった。人に聞かれたくない話だ。俺の家に来てくれ」

「家ですか?」

「ああ。議員会館とは別に、個人の物件がある。今から住所を伝える」

「はい」

 

篠崎議員が言う住所をメモする。

シャイン・エステート・セガミ、西1115室。

それは杉並区のマンションの一室のようだった。

僕はタクシーに乗り、そこへと向かった。

 

マンションは15階建ての高級な作りだった。

ファサードが美しくデザインされ、見る者を圧倒する。

入り口のセキュリティ・システムで1115室をプッシュする。

 

「辻君か」

「はい」

 

インターフォン越しに聞こえた篠崎代議士の声に答えると、自動ドアが開いた。

棟内に入る。

大理石調の壁にはめ込まれたエレベーターに乗り込み、11階へと上昇する。

1115室の前に篠崎代議士が立っていた。

 

「さ、入ってくれ」

「失礼いたします」

 

ドアをくぐると、広々とした部屋があった。

窓が大きくとられていて、夜景が一望できる。

明らかにファミリー向けの物件だ。

 

「驚いたか?」

「はい。でも、普段暮らしておられるようには感じられませんね」

 

いらぬ詮索かと思ったが、呟いてしまった。

それぐらいに生活感がなかった。

広々とした部屋に、ソファとステレオ装置が置いてあるぐらいだ。

 

「ここはね、俺の知人から引き受けたものなんだよ」

「と言いますと?」

「バブルの頃に投資目的で購入したものの、売り時を逃がして値が落ちてどうしようもなくなったのさ。高い金で買って損をした物件ということだ。その知人は自身の経営していた会社がうまくいかなくなって倒産した。この物件も、固定資産税や管理費を考えると無用の長物だ。そこで俺が譲り受けたというわけさ。もちろん、金銭のやり取りでな」

 

それで、こうやってほったらかしにしているのか?

誰かに貸すわけでもなく?

今一つよくわからない話だ。

 

 

 

「ま、いろいろ使用方法は考えたんだが、今は俺の瞑想部屋だよ。嫌なことやややこしいことがあるとここに来るんだ」

 

僕はもう一度ステレオ装置に視線を動かした。

 

「お好きな音楽を聴きながらですか?」

「ああ、そうさ。君を待っている間は、久しぶりにアート・ペッパーを聴いていた。再復帰した後のアルバムだ。ジャズはあまり聴かないが、若い頃からアート・ペッパーとリー・コニッツだけは聴きつづけている」

「左様でございますか」

「まぁ、座ってくれよ」

「はい」

 

僕は篠崎代議士の対面となるソファに腰掛けた。

 

「話というのはな、例の海難事故についてだ」

「はい」

「これは近年稀にみる大規模な事故になると思う。学園艦の歴史に刻まれるような事故だ」

「私もそう思います」

「俺の聞いた情報によると、他の船との衝突や座礁ではないらしい」

「いまだ情報は錯綜しておりますが……」

「かなり確かな筋だ。おそらく間違いない。ということはだな、これは、レーダーの不備や、運転時の人的ミスではないということになる。と、なるとだ」

 

篠崎代議士がじろりと僕を見た。

 

「沈没した学園艦にもともと何らかの欠陥があった可能性がある。調べたところによると、沈没した学園艦はタガログ語で『正しい教育』という意味の名前を持つらしい。フィリピンか学園艦を行政に導入したごく初期のモデルだ」

「ということは、かなり古いモデルということですか?」

「まだ詳細はわからんが、自前で造った船かどうか怪しいな。他国の学園艦を買い取り、運用していた可能性もある。ともすれば、元は日本製だという可能性も出てくる」

「もしそうだとすると、責任問題に発展しませんか?」

 

僕は冷や汗をかいた。

だが、篠崎代議士は笑った。

 

「そんな、責任になどなりはしないさ。もしそうだとしても、買い取られたのはずっと昔の話だ」

 

僕は胸をなでおろした。

篠崎代議士が、顔を乗り出した。

 

「俺はな、辻君。今回の事件は、チャンスだと思っているんだ」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

58 問いかけ

一瞬、篠崎代議士の言葉の意味が分からなかった。

チャンス?

何のチャンスだというのだ。

 

「もう察しはついているな?」

「い、いえ。チャンスとはどういう……」

「そうか。相変わらず君は鈍いんだな」

 

篠崎代議士がほくそ笑んだ。

 

「その真面目なところが良いところでもあるが。今回は頭を回してほしい。いいか、この件、学園艦の致命的な落ち度になる」

 

僕は頷いた。

 

「ということは、だ。学園艦再編の大きな材料になるということだ」

「事故を利用するのですか?」

「利用するというと聴こえは悪いが、ありていに言えばそうだな。起死回生のチャンスだ。俺はもしも、沈没したフィリピンの船が日本製だったらそれこそありがたいと思っている。

それと同じか、それよりも古い日本の学園艦に関しては、老朽化や危険性を主張できる。住民たちも、自分たちが危険なものに乗っている可能性を示唆されると、反対運動はできないだろう」

「でも、そんなやり方は……」

「そんなやり方は政治の世界じゃ当たり前だ」

 

篠崎代議士は強く断定した。

 

「危険性を根拠の中心に据えることができたら、さらに建造だということも言えなくなる。学園艦は危ないものなのだという資料を制作するんだ。これまでの事故の記録など、種々さまざまに当たってほしい。俺は知り合いの記者に連絡を取る。メディアで、学園艦について否定的な意見を流すことができたら儲けものだ」

「そんな……」

「なんだよ、その顔は。もうちょっとしゃきっとしてくれ。君の仕事はなんだ?学園艦数を削減することだろう?」

 

違う、と言いたかった。

莫大な予算がこれまでつぎ込まれてきた学園艦施策。

それを崩すことが僕の仕事なのか?

少し前までならば、篠崎代議士の言うことならばと僕は付き従っただろう。

だが。

今では疑問が湧き出ている。

僕は、周囲を見渡した。

誰もいない広い部屋。

嘘か本当かもわからないようなおかしな理由でここを所持している男。

ひどくエグゼクティブで……きな臭い。

僕は勇気を振り絞って、口を開いた。

 

「あの、篠崎代議士」

「なんだ?」

「どうしても、教えていただきたいことがあります」

「言ってみろ」

「その。代議士は、今回の学園艦の統廃合案を、どのような目的で行おうとしてらっしゃるのですか?」

「それはこれまでに話してきたと思うが?」

「はい。以前、僕が問いかけると、代議士は『減らすことそのものが目的だ』とおっしゃいました」

 

篠崎代議士が頷く。

 

「その物言いに違和感を感じたのです。これまで代議士は何事にも熱意を持って取り組んでこられました。その姿勢を私はずっと見てきました。代議士は、その先の目的があって物事を遂行するかたです」

「ありがとう」

「でも、今回の件は。まるで無目的に見えました。自身がおっしゃられるように、数を減らすことそのものが理由であるように見えました。そこには、教育的な価値観も、財政運営的な効果も見えません……」

「それで?」

「ですから、少し、調べたのです。篠崎代議士、僕を攻撃している議員グループは、玉田議員率いる熱政連ですね?」

「ほぉ……」

 

篠崎代議士が面白そうに目を細めた。

 

「珍しいじゃないか、辻君がそういう、政治のグループに興味を持つなんて」

「その通りなんですね?」

「ああ、そうだと思うよ」

「そして。篠崎代議士、あなたは、玉田議員と、強く対立している。以前、煮え湯を飲まされた経験がある。ずっと根に持っている。その代理戦争が、この学園艦問題なんですね?」

 

僕は一気にまくしたてた。

心臓が鐘のように脈打っていた。

 

続く



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

59 政治

高まった気持ちを一気にまくしたてる。

もう止めることはできなかった。

本来、議員に対して使うべきでない強い口調で、憶測による糾弾のようなものをしてしまっている。

僕は気が飛んでしまいそうだった。

 

だが、篠崎代議士は笑っていた。

 

「なんだ、辻君。ちゃんと想像力を働かせることができるんじゃないか」

 

彼は心の底から面白いというように笑っていた。

 

「俺は君のことを、もっと人形みたいなやつだと思っていたよ。いいね。血の通った怒りの声だ」

「ご、ごまかさないでください!」

「ごまかしてなんていないさ。君の想像通りだよ。ほとんどそのままだ。そうだよ、今回の件は煎じ詰めていえば怨恨だ」

「そんな……」

 

僕は首を振る。

嘘だと否定してほしかった。

 

「だが、政治の世界なんてそんなもんだ。前に教えただろ? 情と利で動くんだ。そこに理はほとんど介入してこない。これまでずっとそうだったんだぞ?」

「代議士は、ずっとそうだったというんですか?」

「いいや」

 

篠崎代議士が首を振った。

 

「君と仲良くなった頃はそうじゃなかった。俺は若く、使命に燃えていた。

いったい何をすべきかもわかっていなかったがね。とにかく何かをやりたかったんだ。だが、そう言った直情と正義感のおかげでこれまで何度も失敗してきた。俺は学んできたんだ。何かを成し遂げるには、理なんて必要ない。情と利だ、と」

 

「代議士、でも、それでは政治はおかしくなってしまいます」

 

「違う。政治は前からそうなんだ。そういうシステムなんだ。例えば俺一人がいくら正義感面をして、正論を振りかざしたって、何一つ通らないんだ。

政治の世界で、何か大きいプロジェクトをしようと思えば、多数決をとらなければならない。そのためには、清濁飲み込んだ人間になる必要があるんだ」

 

僕は首を振った。

 

「そんな。それは違います。今回の案件。それのどこが正しいことなんですか? 多数決をとったとしても、怨恨に過ぎないじゃないですか」

「馬鹿にするなよ!」

 

篠崎代議士が語気を強めた。

 

「俺はただ単に玉田に復讐をしたいのとは違う! いいか、これは権力闘争なんだ! 俺が玉田を蹴落として、要職に就くことができれば、俺は発言力を増す。そうすれば、俺はもっと、自分の正しいと思う施策を打つことができる。

俺はその地位にのぼりつめたいんだ。学園艦削減案が正しいかどうかじゃないんだ! わからないのか!?」

 

「そんな、でも……」

 

「辻君。君は大人のふりをした子供だ。典型的な役人のタイプの一つだ。役人は2種類に大別できる。

小賢しく世渡りをするタイプと、楽をして世間を見ずに自分の甘えた正義感の世界に浸っている奴だ。民間で働いてみろ。君みたいな人間はすぐに淘汰されるぞ」

 

その言葉に、僕の中の何かがはじけた。

 

「馬鹿にしないでください!」

 

僕は声を荒げた。

 

「僕だって、苦労してきました! 幾つも嫌なことを体験してきた! それなのに!」

 

「ふざけるなっ!!!」

 

篠崎代議士が応接セットを蹴り上げた。

 

「騙し騙されの政治の世界にいる俺の何がわかる! お前みたいな役人に!」

 

彼は僕のシャツをつかむ。

 

「馬鹿にしているのはお前だ! 誰のおかげで今の地位にいると思っている? 自分でものを考えないお前なんて、俺が引き上げていなかったらとっくに左遷組だぞ!!」

「そ、そんな……」

 

シャツから手を放すと、篠崎代議士が吐き捨てるように言った。

 

「本当だ。君は局長どころか、もっと前に出世ルートから外されている予定だった。40代で天下りという形で企業に配属させられるのがオチだったんだ。

正直に言おう。何年も前の義務教育施設統廃合プロジェクト。君の評価は本当はチームで低いものだった」

「え?」

 

そんな?

僕はあのプロジェクトチームで評価されて、こうして出世コースを歩んできたのではなかったのか。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

60 人事

いつも読んでくださって本当にありがとうございます!!




「あのチームには水野という女性がいただろう?」

「は、はい……」

「機転が利き、かつ、抑えるべきところは、きっちりと抑える。行動力もある。彼女があの中では本当は一番評価が高かった」

「水野さんが?」

「そうだ。次に評価が高かったのは内村だ」

 

内村。

ほとんどものを言わない大人しい男だった。

 

「彼は無駄口をたたかず、しかし、しっかりと無難に調整をしていた。プロジェクトの全体を見渡せていた。『後ろで汗をかく』タイプだった」

「内村が……」

「評価が低かったのは君と飯島だ。飯島は、年長だというのに若手を抑えることができていなかった。リーダーシップがなかった」

「では、僕は……」

「君は、気持ちだけがはやる無能な人間という評価だった」

「!!」

 

その言葉は残酷だった。

 

「飯島が誰を抑えられていなかったかわかるか?」

「水野女史、ですか?」

 

篠崎が首を振った。

 

「君だよ。君。才気走った水野に気圧されてはいただろうが、彼女はちゃんと抑えどころをわかっていた。それよりも、問題は君だった。君は、周りのことをちゃんと見ず、自分ばかりが突っ走った発言をしていた」

 

僕の脳裏に、あの頃の委員会の一幕が浮かび上がった。

僕は、先走った発言をして、それを水野に注意されたことがあった。

 

『危なっかしい』

 

彼女は、つんと澄ました声で僕にそうつぶやいた。

僕はそんな言葉を軽く受け流してしまっていた。

 

「そんあ、僕の、僕の評価が……」

「だが、それで困るのは俺だ。高田の紹介で君を取り込んだのは俺だったからな。俺としては、自分の顔に泥を塗りたくなかった。それに、君は俺を慕ってくれていたしな。言うことを聞いてくれる役人はありがたい存在だ。そんな情と利もあって、君を起用し続けたんだ」

「水野さんは?」

「彼女はプライドが高かった。理論的にも過ぎた。自分が正しいと思っていて、他人との付き合いをしなかった。結局は出世コースからはみ出たはずだ」

 

情と利。

理は関係ない。

その理論がここにも適応されていた。

僕はそれをたった今批判しながらも、結局は情と利によって生かされていたのだ。

 

僕はうつむいた。

もう反論をする気力を失っていた。

 

「さて、どうする、辻君?」

 

篠崎代議士が問いかける。

 

「もう、俺についてくるのは止めにして、首でもくくるか? それだけの覚悟があるなら、止めはしない」

 

僕はうなだれたまま、首を振った。

 

「いいえ。代議士。私は、以前と同じ、弱い辻廉太のままです。世間知らずで、俯瞰ができない人間で。完全に、私の落ち度です。もう長い人間関係の中で、引き返せないところにやってきていました。そのことがわかりました」

「そうか」

 

篠崎代議士が笑った。

 

「それなら問題ない。声を荒げてすまなかったな」

 

彼は、蹴ったことによって位置が変わってしまった応接セットを元に戻す。

 

「年甲斐もなく、粗相をするもんじゃないな。足が痛いよ」

 

僕は、黙って頭を下げた。

 

「まぁ、そんな顔をするな。もう、俺と君は一蓮托生なんだ。今回の件は、絶対に遂行してもらわねば困る」

「篠崎、代議士」

「なんだ?」

「一つだけ、約束してください」

「どんなことだ?」

「今回の学園艦の件は、権力闘争だとしても。それらのステップを経て、代議士が上り詰めた暁には。世のために、理のある施策を、どうか、施してください」

「大丈夫だ。約束する」

 

僕は深く深く頭を下げた。

悔しさなのか、なんなのかわからない。

涙がこぼれた。

 

「馬鹿だな。泣くな。もう帰っていいぞ。明日から、しっかりと仕事に励め。プロジェクトについてはまたおって連絡する」

「許してくださって、ありがとうございます」

 

僕は、まるで影になってしまったかのようにしんしんと歩き、マンションを出た。

夜の街をどう歩いたのかは覚えていない。

気が付いたら、田町の自宅に帰っていた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

62 世論

いつも読んで下さり、ありがとうございます!!
ちょっと仕事が忙しかったのと、展開を考えていたのとで、更新が遅れました。




朝、目覚めたときに、心に空白が生まれていた。

その空白は、氷のようなもので埋められていた。

僕はそれが何であるのかを知ろうとした。

うまく言葉で言い表すことができない。

諦念?

違う。

悔しさ?

違う。

虚無?

違う。

とにかく、心が凍りついたようだった。

僕はいつも通り顔を洗い、歯を磨き、髪をとかし、登庁した。

いつもよりも背筋が伸びているような気がした。

朝から何人もの職員が入れ代わり立ち代わり、局長室へと去来した。

そのほとんどがフィリピンでの学園艦事故の報告事項だった。

僕らはそれら報告に目を通し、対応を指示した。

危機管理課の西脇が電話をかけてきた。

 

「辻さん、あの艦は日本製だったみたいですね」

「やはりそうですか」

「はい。責任が追及されるという流れにならなければよいのですが……」

「そんなことにはならないでしょう。古い艦です。買い取ってから向こうで改造しているに違いありません」

 

僕はそう言い放った。

そして事実、世論はそう動いた。

最初は、かつてその船を提供したのは日本企業だということが話題になったが、すぐにしぼんでいった。

沈没した学園艦は、フィリピンで改造され、積載人数などが大幅に増やされていた。

もともと老朽化していた駆動部やエンジンが、その上の無理やりな改造に耐え切れなかったというのも、事故の原因の一つだった。

事故による行方不明者・死者の数は、日々ひび増えていく。

遺体の回収が進み、数が判明すればするほど、行方不明者数が死者数へと移行していく。

痛ましい事件に対する哀悼の論調は、やがて、学園艦に対する危機管理の問題へと変わっていった。

フィリピン国内で、学園艦運営に対するデモが行われているとメディアが報道する頃には、日本の討論番組でも、有識者やコメンテーターが、学園艦事業の見直しを唱えるようになっていた。

篠崎代議士の読み通りだった。

僕は唇をかんだ。

驚くほど、すんなりと仕事が進む。

この頃になると、学園艦統廃合案に対して、大手を振って反対をする議員は鳴りを潜めていた。

熱政連の議員たちから呼び出しを食らうこともなくなった。

政治家は世論に敏感なのだ。

学園艦存続を唱えれば攻撃されかねない空気が醸成されていた。

このままだと、統廃合案は与党内で合意形成され、法案としてあげることができるだろう。

法案として上程できれば、あとはもう可決は間違いない。

与野党の数のバランスから、それはわかりきっていた。

庁内を歩いていると、他の職員が僕を驚きの目で見つめることがあった。

一人の男が、ある日、僕の肩をたたいた。

 

「すごいじゃないか、辻君」

 

眼鏡をかけた、50代ぐらいのその男は、あまり知らない男だった。

恐らく、文科省の別の部局の男だったか。

 

「なにがです?」

「今回の学園艦の件だよ。まさに粘り腰だな。通りそうじゃないか」

「いえ、運が良かったんです」

「あの事故がなければこうはならなかったもんな」

「はい」

「運も実力のうちだ。誇っていいことだよ」

 

人からこのように褒められるのは珍しいことだった。

明らかに、庁内での僕の評価が変化し始めていた。

 

僕ははじめそのことに対して、虚しさがあった。

それは自分の行動ゆえに得られた評価ではないという気持ちがあったからだ。

どこまでも篠崎代議士の読みが見事だっただけだ。

だが、いろいろな人の話を聞くに、それだけではないということに気がついてきた。

庁内の人々は、『熱政連の議員たちに、こ突きまわされても、折れずに耐え抜き、逆転の状況まで持ちこたえた』という僕の忍耐力を評価しているようだった。

そのことがわかると、誇らしい気分になった。

僕の忍耐力。

 

そんなある日、議員会館の廊下で珍しい人物とすれ違った。

芹澤だった。

すっかり貫禄をつけ、以前よりもさらにいやらしい高級さを醸し出すスーツに身を包んでいた。

僕は、向こうが気がつかないならやり過ごそうかと思ったが、好奇心に勝つことができず、彼を呼びとめた。

 

「芹澤さん」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

63 思わぬ波及

「ん?」

 

僕の声に、後姿が振り向いた。

芹澤だった。

 

「おぉ、これはこれは」

 

嫌らしく芹澤が微笑んだ。

齢をとったせいだろうか。

以前のやや高い声のトーンは鳴りを潜めていた。

あるいは、付き合いの酒の飲みすぎなのか。

 

「お久しぶりです」

 

僕は頭を下げた。

 

「そうだな。実に久しぶりだな。何年ぶりだ? 10年ぐらい経つのか?」

「そうですね」

 

僕は冷たく答えた。

その声のトーンが伝わったのか伝わらなかったのか、芹澤がこめかみをピクリと動かした。

 

「どうしてだい? ずっと大洗には帰ってこなかったじゃないか」

「もう実家はなくなりましたので」

「そうらしいね。ご母堂も亡くなられたんだって? お葬式に呼んでくれればよかったのに。家族葬のような小さいものしかしなかったと聞いて驚いていたんだ」

 

白々しい。

僕が母の葬式を小さなものにしたのは、父の時のように芹澤の宣伝の場にしたくなかったからだった。

僕が黙っていると、取り繕うように芹澤が相好を崩した。

 

「それにしても、廉太君。良い顔つきになったじゃないか」

「良い顔つき?」

「ああ。その頬。やっと大人の顔になった」

 

僕は自分の頬を触った。

 

「ああ。そうだ。頬がぎゅっと締まっている。それに、その眼つき。冷たい雰囲気がするぞ。良い目つきだな」

 

何を馬鹿なことを。

 

「俺はな、廉太君。実のところ、君が嫌いだったんだ」

 

唐突につぶやく。

 

「親に可愛がられて育ち、大人になっても甘えていてナイーブな雰囲気の坊やだったからな。ぶっ潰してやりたいと思っていたよ」

 

目の前で指を握りしめる。

 

「それが、今はやっと俺と同じような目になっているじゃないか。ええ? 嫌なことを体験してきたんだろうな?」

 

僕は黙って芹澤を睨んだ。

 

「おっと、怖い顔をするなよ。その表情……いいぜ。若い頃からその表情ができるぐらいなら、俺と仲良くなれたかもな」

 

そう言い放つと、くるりと背を向けた。

 

「待てよ」

 

僕は思わずその肩をつかむ。

 

「言いたいことだけ言って、どこへ行くつもりだ。芹澤、あんたは県議会議員だろう。国会議員会館に何の用だ!?」

 

芹澤が僕の手を払い、振り向く。

鬼のような形相をしていた。

 

「何の用、だと? ふざけるなよ」

 

掃き捨てるようにつぶやく。

 

「お前ら、国が学園艦統廃合案を推し進めているんだろうが!まだ法案として挙がっていないようだが、大体の情報は入ってきているぞ。大洗も廃艦になるんだろうが。クソがっ。俺の地盤を荒らしやがって! 地元じゃ大騒ぎだ!」

「それじゃあ、今日は」

「陳情だ。何とか大洗の学園艦を存続させてほしい、とな。 あそこは今、俺の票田なんだ!」

 

もう一度、クソがっ!と、つぶやき、芹澤は廊下を歩いて行った。

遠くで、どこかの議員の部屋をノックして、部屋の中に消えていった。

 

「は、ははは……」

 

僕は思わず、頭を掻いた。

 

なんてこった。

なんてこった。

図らずも。

僕はこの施策を推し進めることで、芹澤に打撃を与えていたのか。

 

それは不思議な快感だった。

思わぬジャブが相手の痛いところに入ったようだ。

偶然の産物とはいえ、ほんの少しだけ父と母の敵をとれたような気がした。

大洗学園艦。

あれは今、芹澤の票田なのか。

 

……潰してやる。

 

僕は口の中でつぶやいた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

64  党派

芹澤と再会した日、一つだけ違和感を感じることがあった。

地方の議員が陳情に国にやってくることは確かに珍しいことではない。

だが、それはあくまで、同じ党派の議員への陳情だ。

芹澤は、あの『新しくする会』に属している。

今や『新しくする会』は、『国家刷新党』と国会では名を変え、少数野党ではあるが、一定の議席と勢力を持っている。

だが、芹澤が訪問した議員の部屋は、与党の自民党の議員の部屋だった。

党派が違うのだ。

そもそも、学園艦統廃合案は、いまだに与党内でもんでいる段階だ。

なぜ、他党の芹澤の耳に入り、陳情にまで上京しているのか。

 

まぁしかし、いずれにせよ、あの芹澤を苦しめていることは事実だ。

そのことが心地よかった。

僕はその日から、これまで以上に、統廃合案の法案化に邁進するようになった。

これを法案化させて可決させて、芹澤の票田となっている大洗学園艦をつぶしてやりたいと夢見るようになった。

僕はちっぽけな人間だ。

 

その頃、ちょうど良いタイミングで影響力のある週刊誌が『激ヤバ!! 日本の学園艦の老朽化指数』という記事を掲載した。

もしかして、篠崎代議士のグループが、知り合いの記者に声をかけたのかもしれない。

真相はわからないが、利用しない手はなかった。

僕はその雑誌を片手に、人に見せてまわった。

学園艦は危険だという空気の醸成がしたかった。

 

そんな折、篠崎代議士が、僕を議員会館の個室へと呼んだ。

 

「やぁ。いい塩梅じゃないか」

 

彼はご満悦だった。

 

「この調子だと、上手く押さえつけることができそうだ」

「はい。そろそろ、法案が提出された後……野党対策を考えた方が良いかもしれませんね」

「そんなのは気にしなくていい」

「どうしてですか?」

「採決をとるにしても、与党が多数を占めているんだ。負けるはずがない。せいぜい討論でうるさく言わせておけばいいだけだ。それに今回の案件。学園艦で暮らす人々の命がかかってくるという論調に持ち込めば、平和だの命だの言っている共産党が反対できるか? 教育よりもまずは命だろうさ」

「それはその通りですね」

「それよりも、玉田のグループが最後の抵抗をする方が怖い」

「まだ何かありますか?」

「ああ。おそらく、だが」

 

篠崎代議士が、机の上にB5用紙を置いた。

 

「こういう修正案を提案してくる可能性がある」

 

そこには、学園艦数適正化計画・修正案と銘打たれていた。

 

「失礼します」

 

僕はそれを手に取り、中を見る。

 

「……なるほど」

 

そこには、学園艦の数を減らすのではなく、改良工事をして、より堅牢で安全なものへと生まれ変わらせていくという案が示されていた。

 

「これなら、安全の担保をしつつ、彼らの利権である鉄鋼業界・造船業界の利益も確保できますね」

「確保どころか、改良工事で一儲けだ」

「おっしゃる通りです」

 

篠崎代議士が、机をペンで叩く。

 

「これの提出を何としても阻止したい」

「そのためには、どうすれば?」

「そうだな。いくつか方法はある。こういうのは、党内での空気を形成した方が勝ちだ。修正案は非常にコストがかかることを吹聴するべきだな。学園艦数そのものを暫時減らし、最終的にはゼロへと持っていくという方向性を主流派にするんだ」

「はい」

「人数工作は、もちろん俺たち議員がやる。君は、もう一度しっかりとすべての議員を回り、学園艦は暫時廃止の方向であることを納得させて回るんだ」

「はい」

「どちらになびくかわからないグループから先に回れ。暗黙の了解の事項にするんだ」

「承知いたしました」

 

この頃になると、もう僕の心から、篠崎代議士への反発の気持ちは消えていた。

一度の衝突を経て、自分の無能さを知らしめられ、そのあとやってきた絶望感は、日々の忙しさの中で薄れていた。

そして、極めつけは芹澤との再会だった。

奴を痛い目に合わせてやりたい。

その気持ちが、僕の中で一番強かった。

僕は、資料を持って議員会館の中を走り回った。

学園艦利権に明確に反対している議員には、本音を告げて、さらなる応援を要請する。

中間派の議員には、僕たちの主張に世論が傾きつつあることを示し、こちらへと誘導する。

急速な変化を恐れる議員には、これは暫時進める案であり、即刻全廃止ではない。

まずは、老朽化が激しく、さしたる実績のない艦から廃艦していく旨を重々説明する。

そういった作業を、地道に続けた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

65 ズブロッカ

いつも読んで下さりありがとうございます!
ちょっと仕事が忙しくて更新が遅れ気味です。
会話ばかりの小説ですが、どうかお読みください。


 

 

学園艦統廃合案は、党内での合意はほぼ得られたも同然だった。

政治家は世論には勝てない。

これはその通りなのだ。

10月9日に党内会議でおおよその合意が得られ、国会への提出が内定した。

あとは、方向性の問題だった。

篠崎代議士たち、積極的にこの案件を推している派閥の最終的な目標は、統廃合どころか全廃艦だった。

だがさすがにそれでは急進過ぎて党内はまとまらない。

そこで暫時統廃合という案が表向き採用された。

熱政連から提案があった。

それは、自分たちの派閥の議員に、法案に対する質疑応答の場で質問をさせてほしいという要望だった。

要するに出来レース質問だ。

質問の内容は、

 

・建造年次に関わらずすべての学園艦の安全性のチェックをすること

・学園艦の統廃合時には、生徒へのヒアリングをすること

・実績の詳細の検討を怠らないこと

・案を進めてから一定の期間をおいて、効果の再検証をすること

・統廃合後残された学園艦については、今以上に手厚いケアをすること

 

の5項目。

どれもこれも当たり前のことだ。

質問されなくてもやるべきことである。

なぜそれをあえて訊くのか。

それは、自分たちの派閥の議員が、これらの懸念に対して質問し、その結果、これらの懸念に対する対応がなされたと後で主張したいがためだ。

明らかに彼らはもう、統廃合案に対する批判ではなく、少しでも自分たちの政治的実績をもぎ取る方向へと舵を切りなおしていた。

 

「奴らは負けを認めたんだ」

 

篠崎代議士がほくそ笑んだ。

それは深夜1時。

篠崎代議士が愛用しているナイト・ホークスというバーのテーブルでの会話だった。

 

 

「真っ向から反対を表明しても、世論が味方に回らないと理解したからだ」

 

ロックグラスになみなみとズブロッカを満たし、それを満足げに掌でもてあそぶ。

 

「今日は、ずいぶんと強いお酒を飲むんですね」

 

僕が問うと

 

「ズブロッカはな、特別気分のいい日に飲むことにしているんだ。自分の実績が一つ一つ積み上げられる日にな」

 

そうつぶやく。

 

「見てみろよ。ズブロッカの瓶を」

 

顎でカウンターを指す。

僕は目を凝らした。

 

「瓶の中に香草が入っているだろう。束になって」

「はい。茎のようなものが見えますね」

「あれがボトル一本につき一つ入っているんだ。で、一本空くと、次のボトルを開けるときに、前のボトルに入っていた香草を追加する。それを繰り返してきたうちに、あんな束になっているんだ」

「へぇ……」

「いうなればこの店の歴史さ。そこが仕事と相通じるところがある。俺は今日、学園艦統廃合案を国会提出までほぼ漕ぎ着けた。俺の成した仕事の束が一つ増えたんだ」

「おめでとうございます。では、せっかくですので私もズブロッカを一杯いただいてよろしいですか?」

「あぁ。飲め」

 

僕は右手を挙げてウェイターを呼び、ズブロッカのロックを追加注文した。

恭しい動作でウェイターが頷き、カウンターのバーテンダーに注文を伝える。

 

「そこの額を見てみろよ」

 

篠崎代議士が壁に貼り付けられている絵画を指さす。

深夜のバーのカウンターを店の外から描いている絵が貼ってあった。

 

「あれが、ナイト・ホークっていう絵なんだ。有名な絵だ。そのレプリカだ」

「それじゃ、この店の名前の由来は」

「たぶんあれから取っているんだろうな。でも面白いのは、あの絵の通りの内装じゃないってことだ」

 

確かに、バー・ナイトホークスは、絵画のバーよりもずっと広く、カウンターよりもホールの方が大きかった。

木目調の床やテーブルは重厚で、どことなく寂しげでチープな、絵画の中のバーとは趣が違う。

それは、人の内面と表向きの違いを表している皮肉のようにも見えた。

 

「熱政連の議員の方々が最後の最後で反対するということはありませんよね?」

「大丈夫だ。奴らはもう、この案件に対しては何も言えんよ。一度法案が提出されて審議に入れば、野党も見ている。与党の議員として、そんな馬鹿な真似は出来ん。そして、今回は危機管理の問題の側面が大きい。共産党も表立って反対はできないだろう」

「はい」

「熱政連の議員からの質問項目。生徒へのヒヤリングは、とても全校生徒に対してのアンケートなどとっていられまい。生徒会にでも説明すれば十分だろう。子供たちが大人に反抗できはすまい」

 

ロック好きの篠崎代議士らしからぬセリフだと思った。

ロックは子供が大人に反抗するというテーマを持っていたのではなかったのか。

僕の頭の中で、ピンク・フロイドのアナザー・ブリッツ・イン・ザ・ウォールが一瞬流れた。

教育なんて必要ないぜというあの歌だ。

だが、すぐに音は途切れていった。

 

「パブリックコメントを、という要求ではなくてよかったですね」

「奴らもわかった上でさ。自分たちの質問にする以上、できることを訊いてくるってわけだ」

「実績をとっているんですね」

「そういうことだ。今以上手厚いケアにしたって、具体性がないから問題はない。ちょっとしたことに予算をつけておけばいい。そうだな……すべての艦内照明をLED化する程度でどうだ」

 

篠崎代議士が笑った。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

66 過去の戦車道

お疲れ様です!
いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!!


「あの、そういうと」

「なんだ?」

「先日議員会館で、古い知人と出会いました」

「へぇ。役人か?」

「いえ、地方議員です。ちょっとした知り合いなのです」

「それで?」

 

僕の目の前に、ズブロッカが置かれる。

見上げると、ウェイターが恭しくお辞儀した。

 

「ちょっと不思議に感じたことがありまして。全く違う党派の人間の部屋に入っていったのです、陳情と言って」

「そいつはどの党だ?」

「国家刷新党です」

「あぁ、所謂第三極か」

 

篠崎代議士がしたり顔で笑った。

 

「はい」

「それならよくある話だ。連中は、もともとどこかの党に属していた議員が多い。党内で力を発揮できず埋没した奴らが新天地を求めて新しい党に群がるんだ」

「でも、芹澤は初当選時から国家刷新党の前身である『新しくする会』の所属でした」

「芹澤?」

 

篠崎議員が眉をピクリと動かす。

 

「あ、説明が足りず申し訳ありません。芹澤というのがその議員の名前です。私の地元選出の県議でして」

「地元は大洗だったか?」

「はい」

「なるほどな。芹澤か。知っているよ」

「え?」

 

篠崎代議士が芹澤を知っている?

 

「確か、衆議院議員の高坂幾太郎氏の秘書だった男だ。地元で議員を目指していると聞いていたが、そうか、議員になっていたのか」

 

篠崎代議士は感慨深げに頷いた。

 

僕は芹澤のことを憎んでいたが、篠崎代議士の声音からはそのような雰囲気は汲み取れなかった。

どちらかというと懐かしさや親愛のようなものが感じられた。

 

「彼が秘書をやっていたのは随分と昔ですよね。覚えておられるということは、親しかったのですか?」

「そうだな。親しいとまではいかないが、何度か会話を交わしたことがある。俺もまだ若い頃だったし、彼も若かった。齢が近かった。どことなく親近感を感じていたな」

 

親近感。

篠崎代議士が。

あの胡散臭い芹澤と。

それは恐らく、芹澤の表面しか知らないからではないのか。

 

「俺と芹澤君はとても似ていたんだ」

 

しかし、篠崎代議士の口から発せられた言葉は、さらに予想外だった。

 

「俺は若くして国会議員になって、空回りしていた。前に言ったと思うが、何かをやりたい、だがどうすればいいのかわからない。そんな状況だった。一方で芹澤君も、自分の想いと立場が相反していた」

「どういうことですか?」

「君の世代だと知らないかもしれないが。芹澤君が遣えていた衆議院議員・高坂幾太郎は、相当に危ない人物だった」

 

そのことはうっすらと知っていた。

当時もう高齢だったが、常々反社会的組織とのつながりを噂されていた。

僕はむしろ、芹澤はそういった反社会的組織とのつながりを引き継いでいるのではないかと疑っているのだが。

狙撃されたあの夜から。

 

「高坂氏は、1950年代前半に初当選した。まだ55年体制が確立される前だ。それより以前はどこで何をしていたのかはっきりしていない。一説には、的屋のようなものだったとか、詐欺師だったとか、いろいろな噂はあるがな」

「1950年代」

 

想像もつかないほど昔だ。

 

「でも、そんな素性の分からない男が唐突に衆議院議員になれるものなんですか?」

「なれるさ」

 

篠崎代議士は断言した。

 

「議員なんて、おかしな素性の奴はたくさんいる。選挙に通りさえすれば誰だってなれる。考えてみろ。逆を返せば、人生に詰んだ人間の起死回生・一発逆転の場ですらあるんだ」

 

…………。

僕は返す言葉もなく、グラスを口に含んだ。

 

「まぁ、高坂氏については、議員の娘と結婚したからだ。衆議院議員の高坂善治の娘と結婚したんだよ」

「ということは、高坂という苗字は、入り婿になって手に入れた苗字ということですか?」

「そうだ。それより前の苗字については、諸説あって、よくわかっていない」

「そんな怪しいことがあり得るんですか?」

「1950年代前半だからな。まだ戦争が終わってから10年さえ経っていないんだぜ」

 

頭の中に、テレビのドキュメンタリーで見たことのある、モノクロの街並みが浮かぶ。

 

「いずれにせよ、そうやって議員になってから高坂氏は、メキメキと力をつけていった。人との接し方が抜群に上手かったんだ。硬軟取り混ぜて、相手の懐に入り込み、自分の主張を通してしまう。おべっかを使って上に可愛がられるのとは違うぞ。うまく相手を言いくるめ、自分の言いなりにしてしまう天才だったんだ」

 

僕は合点がいった。

 

「それで、的屋だとか詐欺師だとか、なおさら過去の経歴に憶測が付いたんですね」

「その側面もある。でも、実際、かなり危ない橋をくぐってきた経験があったのだろうと思わせる部分も多々あったみたいだ」

「危ない橋……」

 

「1960年代になると、一気に反社会組織との距離を詰めたと言われている。時はベトナム戦争に揺れ、学生運動真っ盛り、革命の季節だ。左翼嫌いで、わざわざ右翼に接近したとも言われているな」

「右翼……」

「もちろん、右翼イコール反社会組織ではない。だが、中には、左翼にしたって同じだが、かなり怪しい連中もいる。高坂は、右翼の

中でも特にきな臭い連中との関わり合いを強めていったらしい」

 

「…………」

「それはそれとして、高坂氏といえば、豊富な政治的資金力だ。その源泉について教えてやる。当時、左翼のアジトを叩くために戦車道の学生が駆り出されたりもした。高坂氏は戦車道……というよりも、軍事品を輸入する企業や軍需工場に目を付けたんだ」

 

戦車道?

 

「え、戦車道って、そんな歴史があったんですか?」

 

「知らないのか? あれは一時期すたれていたんだぞ。それを復興させたのは高坂氏だ。戦争に負け、日本では嫌戦ムードが広がっていた。そんな中で、人を殺さない平和なスポーツという名目を持たせて戦車道を復興させるキャンペーンを大体的に打ち出したのが、自民党内の高坂氏のグループだ」

 

 

続く



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

67 運命の糸はこんがらがって

いつも読んで下さり、ありがとうございます!!


戦車道と、高坂の関係?

そんな歴史は知らなかった。

考えてみれば、僕がかつて戦車道をよく見ていた時、僕の興味は、戦車道の現在のみだった。

現在のスター選手、現在の試合カード。

そういったことにしか目が向いていなかった。

それがどのような歴史を持っているのかを気にしたことがなかった。

 

「彼らは、自分たちが懇意にしている某財閥傘下の研究所に、着弾しても怪我を負わない特殊なカーボンの開発を命じ、その開発に成功した。それで一気に戦車道の人気が復活したんだ」

 

「戦車道が怪我をしないスポーツになったのは戦後なのですか!?」

 

「当たり前じゃないか。戦前の戦車道は普通に大けがを負うリスクを負ったスポーツだったんだ。だから、危険だから実践試合なんてほとんどなかった。どちらかというと、戦車に乗る訓練を通じて規律正しい婦人を作るというようなスポーツだったんだ。薙刀なんかと同じさ」

 

そんなことも知らなかったのかというように篠崎代議士は笑った。

 

「学生運動が盛んだった頃、『反抗する学生』ではなく、『社会規律を守る品格ある学生』の代表として、盛んに戦車道が喧伝されたんだ。機動隊とともに、彼女たちが乗り込んだ戦車がバリケードを破ったり、火炎瓶の投げ込みに対して壁になって街を守ったりした姿は、新聞や雑誌で大いに取り上げられた」

「そうやって戦車道は市民権を得ていったのですか……」

 

僕は首を振った。

生臭い話だ。

 

「人気を背景に、戦車道向けの弾や装甲を生産する工場も増えた。そういった企業からの寄付金が、高坂氏やその周辺の政治的グループの資金になっていったんだ」

「なんてこった……」

 

僕は思わず呟く。

 

「そんなに落ち込んだ顔をするなよ。戦車道が悪いと言っているわけじゃない。あれはあれでちゃんとしたスポーツだ。俺は以前はあまり好きじゃなかったがな。

今はもうどうでもいいさ。軍産企業からの資金援助だって、別に悪いことじゃない。政治をするにはとにかく金がかかる。俺たちは選挙に落ちたらただの人になっちまう。金を集めなきゃどうしようもない」

 

篠崎代議士が自嘲気味にグラスを揺らす。

ズブロッカはほとんどなくなっていた。

 

「ただし、高坂氏は、その過程でおかしな連中との付き合いにはまりすぎたんだ。彼自身は、反社会的な組織に対して、自分が強い発言力を持っていると信じ込んでいたのだと思う。だが、傍から見れば逆だ。彼は、反社会的組織に絡め取られ、操られていた」

 

篠崎代議士が手を挙げてウェイターを呼び、ズブロッカをもう一杯、と言った。

 

「向こうは高坂氏をさも大切な友人のように扱ったのだろう。ヤバい連中ほどそういう付き合い方をするんだ。無理やり脅したりなんてしない。相手が『俺はこんなに危険な連中と親しくしている』と自慢したくさせるような付き合いをするんだ」

 

その言葉には妙な実感がこもっていた。

彼にもまた、そういった経験があったのもしれない。

 

「いずれにせよ、俺が政治の世界に入った時には、もう高坂氏は反社会的な勢力の『ひも付き』だった。ホテルのドアみたいなもんだ。彼を介して、そう言った連中の意向が政界に出たり入ったりするんだ」

 

篠崎代議士はため息をついた。

 

「芹澤君は、いつも心配していたよ。高坂氏のことを。このままでいいのだろうか、と。国会の食堂で何度か話したことがある。

彼は本当に悩んでいた。自分を拾って秘書にしてくれた高坂氏には恩がある。だからこそ、状況を改善したい。だが、当の高坂氏が、自分の状況をおかしいと思わないんだ」

「芹澤……さんが、そんな悩みを」

「俺も代わりに、彼に悩みを愚痴ったものさ」

 

僕は目を閉じて、芹澤のことを想った。

彼もまた、政治の世界の中でもがき泳ぐうちに、あのような人格へと変貌してしまったというのか?

わからない。

この話もまた、篠崎代議士の一義的な視点に過ぎないのだから。

だが、僕の頭の中に、食堂で向かい合って互いの悩みを打ち明けあう若き日の篠崎代議士と芹澤の映像がぼんやりと浮かんで消えなくなってしまった。

 

「芹澤君は、悩んだ末に高坂氏の秘書をやめた。その時、お世話になったと俺にあいさつに来た。親戚だか何だかを頼って大洗に引っ越すと言っていた。だから俺は、大洗という地名に聞き覚えがあったんだ。覚えているか?」

 

篠崎代議士が僕の目を覗き込む。

 

「三司馬で初めて飲んだ時のことだ。俺は、君の故郷が大洗だと聞いて、少し反応しただろう? 芹澤君が行った土地だと思って感慨深くなったんだ」

 

そういうと、もう、20数年前になるのだろうか。

高田に誘われて三司馬に行き、篠崎代議士と飲み。

あの時、僕が大洗出身だということに篠崎代議士が反応して。

そして僕は大洗に帰郷する気になったのだ。

さらに、篠崎代議士は知らないだろうが、結果的に今度は僕が芹澤と出会うことになり……。

なんて不思議なんだろう。

細い糸でつながっているかのようだ。

だが。

その糸が今はもつれにもつれ、僕はこんな訳の分らないところにいる。

それとも、それが所詮人生ということなのか。

 

僕は、グラスに口をつけながら、壁の絵画を見た。

ナイト・ホーク。

絵の中にはバー・カウンターに佇む男のさびしげな背中があった。

彼もまた、訳の分からない場所にいるのだろうか。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

68 ワン・オブ・ゼム

いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!


党内で意見がまとまると、そのあとは比較的容易に進んだ。

フィリピンで学園艦の事故があり、多数の命が失われた以上、学園艦の統廃合に対して表立った批判は出なかった。

雑誌は日々、老朽化した学園艦の危険性について報道を続けていた。

中には、学園艦の操縦に学生が関わっていることそのものへの警鐘の記事もあった。

教育という名の下で、学生にすべてを任せていることは大人の怠慢だ、というように書かれていた。

そういった状況下で、他党も学園艦の存続を声高に唱えることはできなかった。

幾つかの市民団体が細々と陳情に回っているようだったが、ほとんど効果はなかった。

僕は学園艦を批判した記事が載っている雑誌を手に、複雑な気持ちになった。

これが、『空気』なのか。

『学園艦は駄目だ』という『空気』がぼんやりと醸成されると、政治家はだれも逆らうことができなくなった。

篠崎代議士は、政治家は情と利で動くと言っていたが、それ以上に『空気』で動いている。

そして、その『空気』を形成しているのは雑誌や新聞の報道だ。

新聞が売れない、雑誌が売れない、メディアの影響力は死んだ、と言われて久しいが。

いまだにこうやって、『空気』は、メディアの報道の論調によって創られている。

しかし、もしも、国民すべてに本心をアンケート調査したらどうなるのだろうか。

メディアの論調が表に出てくるから、『学園艦は駄目だ』というテーゼが大手を振って闊歩しているが、国民の大半は、本当に駄目かどうか、はっきりとはわかっていないだろう。

意外に、メディアの論調とは全く違う意見が出てくるかもしれない。

そう考えると、政治家とは、実にふんわりとした形のないものに怯えているものだ。

…………。

国会では、熱政連から土山が、法案に対する質疑とは別に一般質問に立ち、先に約束をとりつけていた、『生徒へのヒアリング』や『再検証』などの5点を聞いた。

一議不再議の法則の観点から、党内でもやや疑問が出たが、どうしても聞きたいということで踏み切ったらしかった。

 

暫時休憩中に、土山と眼があった。

 

「なんや、俺を睨んどるんか」

 

土山がすごんだ。

僕はため息をついた。

相変わらず、喧嘩っ早くガラの悪い男だ。

 

「いいえ、睨んでなどいませんよ」

「そうかい。ま、せいぜい有頂天になっておけや」

「有頂天になど……」

「嘘こけや。有頂天になっとるがな。これは俺が通した法案やぐらいに思っとるんやろ。ええ?」

 

僕は、舌打ちの一つでもしたいところを我慢して答える。

 

「そんな、滅相もございません」

「はっ。よぅ言うわ。このダボが」

 

掃き捨てるように言う。

僕は、それをあえて笑顔でかわした。

 

「いつまでもニヤついていられると思うなよ。ああ?」

 

それだけ言うと、気がすんだのか僕の前から離れた。

どんなに口汚く罵ろうとも、お前は負け犬だ。

僕は土山の後姿に、心の中でそうつぶやいた。

党内の論調を変えることができず、反対意見を出す勇気もなく、ありきたりなことを質問して体裁を保っただけの負け犬だ。

 

 

法案が通ると、即座に、各艦への通告方法の検討に入った。

篠崎代議士が、

 

「学園の責任者だけではなく、各校の生徒会にも知らせるようにしろ。折れてくれたんだ。土山の顔をつぶさないようにしろ。『生徒へのヒアリング』だ」

 

と笑いながら言った。

 

「承知いたしました」

 

僕は、廃艦候補のリストの各生徒会へ、廃艦決定の通告書を差し出すように部下に命じる。

もちろん、先に学園側と話をつけて置いた上でだ。

学生たちは戸惑い、憤るだろうが、学園の責任者側に諭されて終わるだろう。

廃艦候補のリストの中には、大洗の学園艦もあった。

少し気になって大洗の学園艦についての調書に目を通した。

あまり際立った実績的なものがなかった。

典型的な埋没校だ。

特色がない。

スポーツにおいても、学力においても。

廃艦は免れようもないだろう。

生徒会の責任者の名前も調査され、記載されていた。

3人の少女の名前がある。

もうすぐ、この子たちのもとに、『貴艦の廃艦のお知らせ』が届くわけか。

どんな思いを抱くだろうか……。

少し胸が痛んだ。

僕は首を振った。

何を考えている。

これは仕事だ。

これから多くの学生たちのもとに『お知らせ』が届く。

自分の故郷の高校だからなんだというのだ。

彼女たちも、僕にとってはワン・オブ・ゼムにすぎないのだ。

そもそも。

僕にとって大洗はいったい、なんだ?

捨てた故郷じゃないか。

良い思い出などない場所じゃないか。

そうだ、僕は、大洗にあった自分の根っこをすべて失った。

奪われた。

憎んでもいいぐらいの場所なのだ。

 

気がつくと、調書を強く握りしめていた。

薄い紙は、ぐしゃぐしゃになっていた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

69 訪問者

いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!


法案が可決され、各学園艦へと統廃合検討の通知を送るように命じた日。

深夜に篠崎代議士から着信があった。

僕はその時、自宅にいて、ウィスキーのボトルを開けようとしているところだった。

ジョニー・ウォーカーのブルー・ラベル。

何か仕事を成し遂げたときに開けようと思ってとっておいた品だった。

僕はあわてて携帯電話を手に取ったが、もう着信は途絶えていた。

すぐにリコールすると、いつもの低い声が、

 

「深夜にすまないな」

 

と言った。

僕はウィスキーボトルを左手で撫でながら

 

「いえ。全く問題ございません」

 

と言った。

しばらく、沈黙があった。

そして一言、

 

「辻君。今回は、ありがとう」

 

と声が聞こえた。

それは、短い一言だった。

だが、腹の底から絞り出されたような、重みと深みがあるトーンをしていた。

僕は、

 

「滅相もありません」

 

とつぶやいた。

また沈黙があった。

15秒ほどしてから、篠崎議員の声が聞こえた。

 

「本当に感謝している。これからも、よろしく頼む。それだけ言いたかった」

 

通話が終わり、ツーツーという音が耳に聞こえる。

僕は携帯を耳から離した。

これまで篠崎代議士とはさまざまな仕事を共にしてきた。

が、あのように重い声はこれまで聞いたことがなかった。

それは本当の感謝の声だった。

逆を返せば……。

僕は、少し前に篠崎代議士から聞かされた言葉を思い出す。

 

『お前の仕事ぶりは評価されていなかったんだ』

 

今回の学園艦統廃合法案の件で、初めて、自分の『仕事ぶり』そのものが評価された。

僕は、手にしていたウィスキーのコルクを抜いた。

芳醇な香りが部屋にほのかに漂う。

この齢にして、ようやく、新たなスタートラインに立った。

そういう気がした。

 

 

学園艦の統廃合通知が、統廃合候補校に通告されだすと、様々な苦情や問い合わせの電話が殺到するようになった。

教育長学園艦局の課長代理席あたりは、クレームの対応にてんてこ舞いになっていた。

だが基本的には、苦情は相手にしない。

その方向性を徹底するように指示を出した。

決定事項を覆すことはあり得ない。

苦情はもちろん聞く。

だが、聞くだけだ。

それによって、なんらかの変更があってはならない。

ある日、僕は疲れ果てた顔をした課長代理をねぎらってやろうとした。

たまたま少しいいコーヒー豆をもらったので、それを飲ませてやろうと思ったのだ。

課長代理席に電話をし、部屋に来るようにと命じた。

1分ほどして、課長代理がドアをノックした。

 

「入りなさい」

「失礼いたします」

 

緊張した面持ちで課長代理が入ってくる。

人の良さそうな顔立ちをした男だが、ここしばらくはクレーム対応のためか憔悴した色合いが加わっていた。

 

「座りなさい」

「よろしいのですか?」

「ああ。疲れただろう。コーヒーでも入れてやろうと思ってな」

「え、そ、そんな、申し訳ないです」

「気にするな」

 

僕は課長代理をソファに座らせ、コーヒーをドリップする。

 

「いい豆をもらったんだ。これでも飲んでリラックスすると良い」

「あ、ありがとうございます」

 

自分の分と二つのカップを、応接セットの机に置く。

僕は課長代理の向かいに腰掛け、問いかけた。

 

「苦情が多いか」

「は、はい。納得できないという声や、詳しい経緯を説明してくれという声が上がってきております」

「まぁ、それは仕方がないな」

 

僕はカップを口に運んだ。

 

「どんな法案だって異論は出る。ことさら、国民からはな。それをうまく聞き流すのも我々の仕事だ。決まったことに対して、あとから出てきた声を聴いて、法案の方向性がぶれるなんてことがあってはならない」

「は、はい……」

 

沈み込んだように、課長代理が頷く。

顔立ちの通り、繊細な男だ。

嫌いではないが、これでは仕事ができない落胤が押されかねないだろう。

そんなことを考えていると、課長代理がつぶやいた。

 

「親からの苦情はまだいいんです。しかし、子供たちの泣き声というのは、少し、その……」

「堪えるか」

「はい。……実は今日も、子供が直談判に来ていまして……」

「直接、文科省に来たのか?」

「はい。女の子3人組です。すごく必死な様子で」

「それは駄目だな。身の程をわきまえさせなければ。今後、直接入ってこれないように、何か対応のルールを決めなくちゃならないな。いったいどこの学園艦だ?」

「たしか、大洗女子というところです」

「なに?」

 

大洗、女子?

たった今、大洗女子の学生がここに来ているのか。

 

「ほぉ……」

「つ、辻局長、どうなさいました?」

「面白いじゃないか。加納君、その3人はまだ帰ってはいないか?」

「は、はい。おそらく」

「そうか。気が変わった。その子たちをここに通してくれ」

「え?」

「ここに通すんだ。子供たちの声を直接聞いてみるのもいいだろう。何かの参考になるかもしれん。すぐに呼んできなさい」

「は、はい」

 

事態が呑み込めないという表情をした課長代理が立ち上がる。

僕は、ソファに座ったまま足を組んだ。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

70 角谷杏との、再会

10分ほど待っていると、局長室のドアがノックされた。

 

「入りなさい」

 

声をかけると、課長代理がおずおずとドアを開けて入ってきた。

続いて、後ろから、3人の少女たち。

 

「あ、あの、辻局長……」

 

課長代理が弱々しくつぶやく。

本当によろしいのでしょうか、という言葉を飲み込んでいるのが目に見えた。

僕は、

 

「何も問題ない。加納君、君は下がりなさい」

 

と、課長代理に向けて言い放った。

課長代理は、小さくお辞儀をして、こちらを伺いつつも、扉の向こうへ消えた。

 

「さて……」

 

僕は部屋に残された3人の少女たちを見つめる。

一人だけ背が低い。

学年が違うのだろうか。

 

「そんなところに突っ立ていてもどうにもなりません。座って、自己紹介をしてください」

 

僕がそういうと、はっとしたように3人の少女たちはソファに腰掛けた。

 

「初めまして。大洗女学園、生徒会生徒会長の角谷杏です」

 

背の低い少女が頭を下げる。

意外だ。

この子が生徒会長か。

と、同時に、何か心に引っ掛かるものを感じた。

次に、左隣の少女が頭を下げた。

 

「生徒会副会長の小山柚子と申します。よろしくお願いします」

 

ぎこちないながらも、丁寧な言葉遣いだ。

 

「わ、私は、生徒会広報の河嶋桃です」

 

右隣の片眼鏡の少女がお辞儀をする。

慣れない場に来てテンパっているのがどことなく透けて見える。

子供らしいと言えば子供らしい。

背丈は一番高いようだが。

 

「なるほど。みなさん、生徒会に属しているのですね。私は、学園艦教育局長の辻です。よろしくお願いします」

 

子供相手に、あえて丁寧な言葉遣いをする。

3人がそれぞれのしぐさで、もう一度会釈をした。

真ん中に座っている、角谷と名乗った少女の会釈の仕方が目に付いた。

他の二人のどこか怯えたような動作と違い、堂々としている。

なるほど……。

さすがは生徒会長というわけか。

小さなコミュニティであれ何であれ、人を総べるにはそれなりの理由があるというわけだ。

……。

会釈を終え、顔を上げた少女と眼があった。

その瞳の雰囲気に見覚えがあった。

僕は、この瞳をどこかで……。

…………。

どこか……確か、大洗で、遠い昔に……。

 

次の瞬間、記憶がフラッシュバックした。

20数年前。

僕がまだ30代の頃だ。

この瞳にそっくりの女性に出会っている。

芹澤の市議選を手伝い、選挙事務所で待っている時。

あの時にたまたま居合わせた女性の目にそっくりなのだ。

あの時の女性の苗字は確か……。

角谷……。

 

僕ははっとして、もう一度少女を見た。

物おじしない瞳が、先ほどと変わらず、僕を見つめている。

僕は、確かめるためにもう一度名を訊いた。

 

「……生徒会長の方。角谷さん、で間違いありませんね」

 

少女が頷いた。

 

「君は、もしかして。出身地は大洗ではなく、水戸じゃないですか?」

 

探るように問いかける。

すると少女の表情に険しさが加わった。

 

「それにどんな問題が? 水戸出身だと、大洗の生徒として苦情に来たらおかしいとでも?」

「いや、そう言う意味ではありません」

 

ビンゴだ。

あの時、角谷さんは、水戸で暮らしていると言っていた。

そして彼女は、赤ちゃんを連れていた。

あの時の赤ちゃんが、今大きくなって、僕の目前にいるのだ。

 

「お役人ってのは、会う前にこっちの素性を調べるんだねぇ」

 

少女が笑いながらつぶやく。

どうやら、勝手に勘違いしたらしい。

それはそれでいい、と僕は思った。

君の母親と会ったことがある、君とも、なんて言う必要はない。

僕は首を振った。

 

「君たちはわからないかもしれませんが。陳情や苦情という振りをして、おかしな人が入ってくることもあるんです。危機管理上、調べるのは当然です」

 

僕は、机の上で指を組んだ。

 

「さて、みなさんが今日、ここに来たのは、ご自分たちの学園艦がどうなるのか、ということですね?」

 

3人の少女が頷く。

 

「廃校です。検討候補リストの上位に入っています。ほぼ免れないでしょう」

 

出来るだけ冷たく言い放つ言葉に、角谷杏が眉間にしわを寄せ呟いた。

 

「廃校?」

 

河嶋と小山は戸惑い、理解が追い付かないという表情をする。

 

「つまり、私たちの学校がなくなるということですか?」

 

小山の言葉を継いで、河嶋が

 

「納得できない!」

 

と叫んだ。

僕はその一言にカチンときた。

納得できない、だと?

僕はこれまで、どれだけ苦労して多くの議員たちを納得させてきたと思っているんだ。

僕はもう、たくさんの人を納得させてきた。

こ突きまわされながら。

そのことも何も知らない子供が、何を偉そうに。

そもそもだ。

角谷杏にせよ、この河嶋という女子にせよ。

人に物事を頼みに来て、敬語の一つも使えない。

 

僕は、淡々と、来年度からの実施になるので、今年中に納得してもらうよう伝える。

納得してもらう。

それはマジックワードだ。

彼女たちが納得しようが納得しまいが、事実は変わらないのだから。

僕は、彼女らに対し、大洗女学園の現状を伝える。

近年、生徒数の減少が著しいこと。

また、目立った成果もないこと。

その言葉を紡ぐとき、ちょっとした皮肉を言いたくなった。

大洗と言えば、僕にとっては、戦車道のあの苦い思い出だ。

彼女らには伝わるはずのない嫌味を、言いたくなった。

 

「昔は、戦車道が盛んだったようですが」

 

この言葉を受けて、角谷杏が唐突に口を開いた。

 

「あぁ、じゃぁ、戦車道やろっか」

 

それはあまりにも唐突で、予想外の言葉だった。

だが、僕の内心の戸惑いをよそに、彼女は続ける。

 

「まさか優勝校を廃校にはしないよね?」

 

僕は自分の動揺を悟られたくなかった。

表情を変えず、彼女の言葉に同意した。

 

 

少女たちが出て行った後、様々な思いが胸を駆け巡った。

なんということだ。

僕は、まさか、過ちをしてしまったのか?

ほんのちょっとした好奇心で、大洗の生徒を招き入れ。

それがたまたまあの角谷杏だったために、戦車道を思い出し、口にして。

そこからさらに、譲歩を引き出されてしまった。

…………角谷杏の母親は、戦車道をやってはいなかったが、知人を通して戦車道とは密接な関係にあった。

親の血をひく子だ。

まさか、角谷杏は戦車道に明るいのではないだろうな?

 

僕はあわてて、部下に命じ、大洗の戦車道について洗ってもらった。

 

結果は、恐れるに足りない内容だった。

角谷杏は、戦車道を履修したことはない。

大洗女子には今は戦車道すらない。

僕は胸をなでおろした。

と、同時に。

何が何でも、彼女らを戦車道で勝たせてはならないと思った。

もしも。

僕の軽率な一言によって、万が一にも彼女らが試合で勝利を収め。

その結果、廃校を免れたとしたら。

責任問題だ。

僕の立場はとんでもないことになる。

 

僕は課長代理を呼びつける。

強い口調で、僕が生徒会の少女3人を部屋に入れたことを口外するなと命じた。

 

続く

 




お疲れ様です!
いやぁ~。
ようやく、本編と合流できました!
70話かかってしまった。

感想やご指摘などございましたら、ぜひ!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

71 大洗女子

いつも読んでくださりありがとうございます!
また、ご評価つけてくださりありがとうございます!
もしも、良い部分悪い部分などご教示いただけましたら、精一杯研鑽いたします!


まさか、大洗女子が大会で勝ち進み、優勝するとは思ってもいなかった。

因果応報、という言葉を思い出す。

ほんのちょっとした僕の不注意がとんでもない結果を招いてしまった。

あの日、教育局にやってきた大洗女子と会おうと思わなければ。

角谷杏を見、戦車道の話題を出さなければ。

僕は頭を抱えた。

勝手な口約束をした挙句、その口約束通りの事態になってしまった。

こんなことが知れたら、僕は学園艦教育局長ではいられなくなる。

ようやく、学園艦統廃合案を可決させることで、仕事での評価が定まってきたというのに。

悔しい!

…………だが。

この、胸に渦巻く悔しさは、それだけではないことが明白だった。

僕は、今回の大会における大洗女子の戦いぶりを、ずっと観察していた。

彼女たちは、困難が現れるごとに、知恵と勇気を振り絞って対処していた。

それは僕が若い頃に憧憬を抱いた、あの爽やかで輝かしい戦車道の少女たちそのものだった。

僕は長い人生で、あの時の憧憬を忘れかけていたが・・・。

彼女たちの戦いぶりには、一瞬、自分の立場が危ういことを忘れ、食い入るように画面に見入ってしまうことがあった。

腹立たしい。

なんて腹立たしいのだ。

西住みほという圧倒的なセンスを持つ戦車乗りがいて、あとはほとんど素人のチームだ。

本来ならば、西住みほの指示に従うだけの、上司と部下のような戦いぶりになってもおかしくはない。

だが、大洗女子は、そうはならなかった。

西住みほ以外の選手たちも、それぞれが創意工夫をして、危機を乗り越えていた。

たとえば、Ⅳ号戦車の通信手は、電波傍受を知り、とっさの機転でメールによる指示に切り替えた。

あるいは、ポルシェティーガーは、敵の走行を阻むために橋を落とした。

89式と38(t)が、二台協力してマウスを破った方法など、まさに奇策だ。

それらは、彼女たち一人一人が、自分で頭を使って考え出した手法だった。

言いなりになるだけではなく、仲間を勝利に導くために、自分も頭を使う。

…………僕はこれまで、仕事に於いて、そんなことができただろうか。

食い入るように、彼女たちの戦いぶりを見入った直後に、去来するのは、すざまじいまでの自己嫌悪だった。

僕は。

僕の人生は。

こんな年端もゆかぬ少女たちが立った今目の前でなしていることを、やらずに来たのではないのか。

僕はこれまで、自分でものを考えたか?

いつも誰かの言いなりになり、使われていたのではなかったか?

 

極め付けは、川を渡る途中でエンストしたM3リーを見捨てなかったことだ。

自ら体を張って、戦車から戦車へと飛び移る西住みほの姿を見た時。

僕の怒りは頂点に達した。

なぜだ。

なぜ、この、子供たちは。

お互いがお互いを助け合うのだ?

そんなこと、僕のこれまでの人生にはなかった。

政治の世界は、お互いがお互いを蹴落としあい、潰しあう世界だ。

助け合うのは、互いの利が一致する時だけだ。

利が違えば、昨日まで手をつないでいた者同士が潰しあう。

そしてそれは、役人の世界でも。

あるいはおそらく、どんな会社でも。

戦車道でも。

どこかしら、同じであるはずだ。

僕はずっとそんな世界を見てきた。

なのに、あの子供たちは。

僕たち、大人ができないことをやってのけていた。

そのことが悔しい。

悔しくてたまらない。

僕は、画面の中の、少女たちのきらめきが、憎らしかった。

僕が絶対に手に入れられないものを、彼女たちは持っている。

そんなものを、見せつけないでくれ!

 

自分の軽率な言葉が招いた結果の責任をとることの恐ろしさ、悔しさ。

そして、少女たちの持つ、純粋さの羨望。

それらが僕の中で、ないまぜになった。

僕は大会に優勝した大洗高校を存続させるわけにはいかなかった。

大会が終わったあと、角谷杏を教育局に呼びつけた。

口約束は約束ではない、と伝えた。

なんとしてでも、約束を反故にするつもりだった。

だが、それすらも失敗に終わった。

彼女たちは、再び創意工夫をし、戦車道連盟理事長の協力まで得、再び僕は譲歩を強いられた。

僕は大学選抜チームに勝利することという難題を振りかけた。

が、彼女たちは、大学選抜チームにすら勝ったのだ。

またしても。

僕がついぞ体験したことのない、仲間を信じることや、互いが助け合うことによって、勝利したのだ。

 

大学生選抜チームとの試合が終わった日の夜。

僕は自宅でウィスキーをあおりながら泣いた。

 

「僕は終わりだ」

 

酔いに任せ、この言葉を一人でつぶやきつづけた。

もう、どうする気力も残されていなかった。

敗北したのだ。

今回の件は、もはや僕と角谷杏との間の、誰も介していない口約束ではない。

覚書もある。

戦車道連盟理事長という証言人もいる。

言い逃れをすることはできない。

今後、僕が、自分の立場を無視して勝手な口約束をして子供たちを翻弄したことが明るみに出るだろう。

僕は糾弾され、更迭されるはずだ。

いったいどこでどう人生を誤ったのだ?

その日、一晩自問したが、答えは出なかった。

僕はこれまで、自分なりに生きてきたのだ。

確かに、自分の意思や判断に欠けるところはあったかもしれない。

だが、何も努力を怠ったわけではない。

僕は僕なりに、与えられた状況下で、努力してきたのだ。

僕がいた世界が、たまたま、信頼できる仲間が存在せず、互いを助け合う道理が通用しない世界だっただけではないのか!

僕だってもしも。

政治家の息子になど生まれず、あの子供達のように、信頼できる友人に恵まれていたら。

全く違う人生を歩んでいたのではないのか?

畜生!

僕は目を閉じて、これまでに自分を取り巻いた人々を想った。

父さん、母さん。

篠崎代議士。

芹澤、竹谷さん、吉仲さん、羽鳥。

高田、中津さん、土山。

山下。

 

・・・山下。

そうだ、山下。

彼は僕にとって友人と呼べる人物だった。

彼と、昔よく飲んだ店・・・。

 

僕は立ち上がると、ふらふらとした足取りでマンションを出た。

ムーンバーンへと向かっていた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

72 射殺

いつも読んでくださりありがとうございます。
また、ご評価くださりありがとうございます!
原作部分は通り過ぎましたが、もう少しだけ続きます。
クライマックスまでお読みいただければありがたいです!


深夜の街をフラフラと歩き、バー・ムーンバーンへとたどり着いた。

そこに山下がいる可能性は低かった。

だが、どうしてもこの店で一息つきたかった。

いつもの非常階段を上り、扉を開ける。

外との温度差のためか、むわっとした大気が僕の眼鏡を曇らせた。

見渡すと、いつもと違って客で賑わっていた。

そして、音楽が鳴っていた。

僕は少し混乱した。

いつもはこんなに大きい音で音楽が鳴っていただろうか?

思いだせない。

鳴っている音楽は、アラン・パーソンズ・プロジェクトの『ドント・アンサー・ミー』だった。

美しくて物悲しげな、アメリカン・オールディーズへの手向けの花束のような曲だ。

『何も答えないでくれ』

そのタイトルが、今の僕に問いかけているようだった。

僕はカウンターに腰掛けた。

マスターと眼があった。

マスターは僕に声をかけず、小さく会釈するだけだった。

僕のことを忘れてしまったかのようだ。

僕は、大昔ここで飲んだホワイトホースの旧ラベルを思い出した。

そしてそれを注文したが、「もう旧ラベルはない」と言われた。

仕方がないので、グレングラントの12年を注文した。

 

声がうるさかった。

客たちの声だ。

彼らは、僕のことなどてんで無視するようにぺちゃくちゃとおしゃべりを続けていた。

そこに、大きな音で奏でられている音楽がまじりあう。

僕は頭を抱えた。

目の前に、グレングラントのグラスが差し出された。

何も指定しなかったためか、ロックになっていた。

僕はそれを一口飲んだ。

喉をアルコールが通った瞬間、猛烈な吐き気がした。

立ち上がり、トイレへと駆け込んだ。

吐瀉物はほとんどなかった。

何も食べていなかったためだ。

何も食べずにウィスキーを自宅でも飲み続けていたので、胃酸だけが口からはい降りてきた。

カウンターに戻ると、音楽は止まっていた。

僕がマスターを見上げると、申し訳なさそうに、

 

「ステレオセットの調子が悪いんです。音の調節ができないので、止めました」

 

と言った。

いつものマスターだ。

客たちの五月蠅いしゃべり声も幾分静かになっていた。

僕は首を振った。

そうだ。

ここはいつものムーン・バーンだ。

まるでさっき一瞬、ここと似た異世界に入り込んでしまったような錯覚にとらわれてしまったが。

と、その時、客の一人がマスターに声をかけた。

 

「ちょっと、テレビつけてよ、テレビ」

「え? はい、かしこまりました」

 

普段は使用していない、カウンターの奥に設置された小さなテレビをつける。

客の要望で、ニュースにチャンネルが合わせられた。

速報が流れる。

篠崎代議士が、射殺体で見つかったという速報だった。

僕は頭が真っ白になった。

いったい、何が起きているというのだ?

テレビをつけてほしいと注文を出した客の方を振り返る。

中年のサラリーマン風の男が、スマートフォンを片手にテレビに見入っている。

どうやら、スマホに入ってきた速報をニュースで流していないか確認しようとしたらしい。

 

「うわぁ。議員の先生が殺されちゃったんだぁ。こりゃなんか深い闇を感じるねぇ」

 

男が無神経につぶやく。

僕は立ち上がり、5000円札をカウンターに置いて店を出た。

 

続く

 




このバーの場面は描きたい場面でした。
昔、フィリップ・K・ディックの高い城の男という有名な小説がありまして、その中で、作中の《現実》が揺らぐ部分が僕は凄く好きでした。
それで、ずっと、もしも小説を書くなら、ほんの一瞬、現実が揺らぐ場面を書きたいと思っていました。
これまで、作中では、70年代の音楽を中心に出してきましたが、今回初めて80年代のヒット曲を出しました。
その辺も含めて、違和感を感じていただけたら幸いです!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

73 僕にできること

僕はムーン・バーンを飛び出した。

深夜の引き締まった外気が肌を撫でる。

体が震えた。

僕はいたたまれなくなって、大声で叫んだ。

 

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 

狭い路地裏に声が響く。

だがそれは一瞬にして、夜の空気の中へと吸い込まれていく。

通りの向こうを連れ添って歩いているカップルが、不審げに僕を見る。

目が合うと、そそくさと去っていく。

どうすれば。

どうすればよいのかわからない。

篠崎代議士が死んだ!?

射殺!?

射殺ということは他殺!?

そんな当たり前のことが頭の中を巡る。

だが思考に出口はない。

いったいどうすれば良いのかわからない。

僕はあわてて、携帯を取り出して本庁へと電話をかける。

が、当直室へとつながるだけだった。

深夜だから当然だ。

ふと思い立って、山下の番号をコールする。

数コール目で山下が出た。

 

「や、や、山下か?」

「あぁ。どうしたんだ、深夜に」

「篠崎代議士が殺されたって。ほ、本当か?」

「んん? 何言ってるんだ?」

「いや、その、ニュースで」

「え? ちょっと待ってろ」

 

携帯をいじる音がする。

 

「本当だ。射殺されたって書いてある……」

「あ、ありがとう」

 

僕はそれだけ言って電話を切った。

自分の携帯を見るだけでは信じられなかった。

見知らぬ客の言葉も信じられなかった。

だが、友人に確認したことで、篠崎代議士の死が真実であると、やっと頭が理解できた。

携帯が震えた。

山下がかけ直してきていた。

僕は少し迷ったが、着信をとった。

 

「おい、大丈夫か」

 

不安げな声が聞こえる。

 

「あ、あぁ。何とか」

「今、どこだ?」

「外なんだ。家にとりあえず帰りたい。それまでの間、会話をしてくれないか? 誰かとつながっていないと、気が狂いそうだ」

「わかった」

 

僕は山下と電話をしながら、おぼつかない足取りで深夜の街を歩く。

 

「辻ちゃん、お前は、篠崎代議士に何かあったとか、兆候は感じなかったのか?」

「わからない。僕はずっと……ある学校にかかりっきりだったんだ」

「そうか。篠崎議員は強引な手法で知られている議員だ。お前の知らないところでいろんな恨みを買っていたのかもしれんな」

「恨みを……」

「ああ。例えば、最近だってかなり無理やり学園艦の統廃合案を推し進めただろう。どこかで誰かに恨みを抱かれても……あ、いや……」

 

山下が口ごもる。

 

「すまない。今のは忘れてくれ。統廃合案にはお前も一口噛んでいるんだったな」

「いや、いい。確かに、そうかもしれない」

 

僕は首を振る。

 

「統廃合案は、確かに強引だった。恨みを買っても、おかしくはない。それに、戦車道にしたって……」

 

そこまで言って、以前の狙撃事件と今回の事件の類似性に思い至った。

類似性……とまで断言できるかどうかわからないが、どちらも、戦車道がらみで、銃撃……。

背筋に寒気が走る。

まさか、僕も……。

不意に怖くなって、後ろを振り向く。

背後には、何もない。

ただ夜の街が広がっているだけだ。

 

「おい、どうした?」

「い、いや、なんでもない。何でもないんだ……」

「あまり気に病むな」

「ああ。ところで山下?」

「なんだ?」

「僕は、どうすればいいんだろう。どうすればいいのかわからない」

「辻ちゃんに出来ることなんてないさ。事件にかかわったわけでも、刑事でもないんだ。さっきも言ったが、あまり気に病むな。家に帰ってゆっくり休め」

「あぁ……」

 

確かに、山下の言うとおりだった。

僕にできることは、何もない。

僕は、こんなにも事件に近い位置にいるかもしれないのに。

ぎりぎりで交わっていない。

何もすることができない。

 

 

翌日、庁内はざわついていた。

調査のためだろう。

議員会館の篠崎代議士の部屋には警察が出入りして、様々な物品を運び出していた。

教育局学校指導課の水谷という男が、僕に声をかけてきた。

 

「篠崎氏、死んじゃったらしいな」

 

彼はニヤニヤとしていた。

 

「いつも無理難題ばっか言ってたもんなぁ。人から嫌われるよ、あの人は。一匹狼を気取ってたけどさ、選挙資金とかどっから出てたのかねぇ。いろいろ後ろめたいことあったんかねぇ」

 

僕は彼を睨みつける。

すると、

 

「おぉ、こわっ」

 

とつぶやきながら去っていった。

 

 

翌日の夜、篠崎代議士の通夜が開かれた。

焼香を終え、親類席に向かって礼をするとき、意外な人間の姿が目に飛び込んできた。

それは、高田だった。

30年前、ぼくと篠崎代議士を引き合わせたあの男だ。

彼が、前列の親類席に腰掛けていた。

 

「親戚?」

 

僕は思わず呟いた。

僕に気がついたのか、高田が、目配せをした。

 

「え?」

 

そして、手招きをする。

 

「あの、高田さん……」

「久しぶりだな。辻君」

「は、はい」

「ちょっと話がある。通夜が終わるまで待っていてくれ」

 

僕は頷いた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

74 喫茶ノーブル

通夜が終わり、人々が大方掃け、親類のみが残される時間帯。

その時間帯まで待っていると、携帯電話が鳴った。

高田だった。

僕が着信をとると、彼は、今から降りると言った。

葬儀場の一階ホールで待っていると、高田が下りてきた。

 

「待たせたな。少し外に出よう。24時間やっている喫茶店がある。そこに行こう」

 

僕は頷いた。

もう真っ暗になった夜の街を二人連れ立って歩く。

高田が煩わしそうに首元のネクタイを緩めた。

右手でネクタイをさし抜きながらつぶやく。

 

「あぁ、葬式の黒いネクタイは大嫌いだ。気分が憂鬱になる」

 

僕は同意して、自分もネクタイを抜いた。

 

「この、葬儀用のスーツというやつも嫌いだ。生地が固くて息苦しい」

 

見ると、高田はいかにもフォーマルなピークドラペルのダブルを着こんでいた。

 

「俺はいつもイタリア生地の柔らかいスーツを着ているんだ」

 

その気取った言い方が少し可笑しかった。

僕は、彼がそういうキザなこだわりの好きな男だったことを思い出した。

関西出身だというのに、決して関西弁をおくびにも出さない男。

自尊心の塊のような男。

僕はなんだか懐かしいような気分になった。

若い頃、三司馬で一緒に飲んだことを想い出す。

あの頃はえぐみのある苦手なタイプだと思ったものだが、今となっては微笑ましくも感じられた。

無意識に笑っていたらしい。

高田が、

 

「なにがおかしいんだ?」

 

と問いかけてきた。

 

「いや、なんでもないんです」

 

と僕は首を振った。

 

「まぁいい。ほら、そこの雑居ビルの2階だ」

 

高田が指差す先に、昭和に建てられたような古臭いビルがあり、その二階に『喫茶 ノーブル』という看板があった。

二人して、エレベーターに乗り込む。

扉が開くと、赤茶けた蛍光灯の灯りに照らされた店内が目に飛び込んできた。

入り口付近に立っていたウェイトレスが、禁煙か喫煙かを問いかける。

僕は煙草を吸わないが、高田がどうなのかわからない。

彼の顔を見ると、

 

「吸ってもいいか?」

 

と問いかけられたので、僕は頷いた。

すると、ウェイトレスは奥の喫煙席に僕たちを案内した。

古びてスプリングのきしんだ座席に腰掛けるなり、高田は煙草を取り出して火をつけた。

キャメルだった。

僕は、同じ名前のプログレッシヴ・ロックバンドがあることを思い出した。

そして、そこから当然、篠崎代議士のことに連想がいった。

彼はプログレが大好きだった。

 

「ぼんやりしていないで、早く注文を決めろよ」

 

高田の声で我に返った。

 

「申し訳ない」

 

僕はあわててメニュー表に目をやる。

ゴシック体で『香りで魅せる純喫茶 ノーブル』と書いてある。

ブレンドには3種類あり、ハイ・ブレンド530円、マイルド・ブレンド480円、オリジナル・ブレンド460円となっていた。

それぞれの味の説明はなかった。

僕はオリジナル・ブレンドを、高田はマイルド・ブレンドを注文した。

 

「ここのコーヒーは濃いんだ。深夜はマイルドの方が良い」

 

それを先に言ってくれと思ったが、口には出さなかった。

 

「父がイノダのコーヒーが好きだったんです。濃いのは慣れていますから」

 

せめてそう言い換えした。

コーヒーが運ばれてくるまでの間、高田は黙って煙草を吸っていた。

2本吸い終えたところで、コーヒーが運ばれてきた。

コーヒーカップに指をかけながら、高田が僕に問いかけた。

 

「俺が親類で、驚いたか?」

 

僕は素直に頷く。

 

「もちろん。思ってもいないことでした。これまで、そんなそぶりもなかったのですから」

 

「そうだな。議員の親類だということはほとんど誰にも言っていないからな。

省庁の人間が何人も、今日は驚いた顔をしていたよ。

俺の存在が他人にあんなに刺激を与えられたのは多分、生まれて初めてだ」

 

言いながら、コーヒーをぐいと口に含む。

 

「でも、高田さんは確か、関西出身ですよね? 遠縁か何かにあたるのですか?」

「違うよ。結構近しいんだ」

 

高田が首を振った。

 

「俺の母親が、篠崎代議士の父親の妹だ」

 

少し驚いた。

それは確かに、近しい親類といえる。

ただ、苗字が違うことには合点がいった。

 

「それにそもそも。篠崎は関西出身だ。彼が東京に出たのは大学からだ」

「え?」

 

それは僕の知らない事実だった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

75 高田の過去

「俺たちは二人とも、関西で生まれ育ったんだ」

 

高田が、いかにもつまらない事実だというようにつぶやく。

 

「俺は大阪北東部の街、篠崎は兵庫県南東部の街で育った。芦屋って知っているか?」

「ええ、なんとなくは……」

 

それは、関西屈指の高級住宅街だったはずだ。

 

「たぶんお前は今、山手の高級住宅街を思い浮かべているんだろう? 芦屋といってもピンきりだ。篠崎の家は、香露園のあたりさ。海側なんだ。

途中からはたしか、魚崎のあたりに引っ越した。これも海側だ。それでも、俺が暮らしていたところよりはずっとマシだ。北河内に行ったことがあるか?」

 

名前ぐらいしか知らなかったので僕は首を振った。

 

「ろくでもないところさ。動脈みたいに国道一号線が走っていてな。いつでも五月蠅くて、排気ガス臭い。

南に行けば工場地帯だ。喧嘩っ早い男が多い。高度成長期に一気に宅地化されたから、住宅密度も凄い。狭苦しくて、息苦しいんだ」

 

その言葉には、幾分高田の主観が含まれていたような気がした。

彼はどうにも、故郷に恨みがあるようだ。

 

「淀川っていうでかい河があってな。その河を渡れば、向こうは北摂だ。大阪の高級住宅地なんだ。

俺はいつも、淀川から対岸を見つめていた。向こう側に行きたいと思っていた」

 

僕の脳裏に、川べりに佇む少年時代の高田が思い浮かんだ。

その顔は黒く塗りつぶされていたが。

 

「でもな、行けないんだよ。俺の父親は、地元で荒物屋をやっていた。地元密着なんだ。その土地を離れることなんてできやしない」

 

高田が悔しそうに唇をかむ。

その表情から、当時の想いが汲み取れるようだった。

 

「幼いころ、俺は何度か、篠崎の家に遊びに行ったことがある。裕福な家庭だった。

なんというか、空気感が違うんだ。俺の家とは。余裕があり、すべてが豊かなんだ。あくせくとしていないんだ」

 

言いながら、コーヒーカップを強く握る。

 

「篠崎は俺よりも5歳年上だった。彼はどことなく気風が良くてな。俺を弟みたいに可愛がってくれたよ。

でもな、どこか、鼻に着く部分があるんだ。俺を見下しているような。そんな感じが。俺を見下して、それで優しくしているように感じるんだ」

 

それは明らかに、高田の劣等感から生まれた妄想のように思われた。

 

「俺は篠崎家に遊びに行った帰りに、母親を責めたよ。どうして、父さんなんかと結婚したんだ?ってね。

あんな荒物屋のつまらないオヤジと。篠崎家はあんなに金持ちなのに、と」

 

それは残酷な言葉だ。

僕は首を振った。

 

「母親は困ったように微笑むだけだったよ。親父のことが好きだったんだ。

俺は……篠崎家には二度と行くまいと幼心に誓った。勉強して、偉くなって金持ちになってやろうと思った」

 

その物語は、少しだけ僕の幼い頃とも似ていた。

僕は父親のようになりたくなかったから、勉強して役人になろうとしたのだ。

 

「俺は勉強して、中学受験で上本町にある進学校に入学した。そこそこ有名な中高一貫校だ。そこでトップレベルになれば東大や京大に行ける。

俺は合格通知を握りしめて飛び跳ねた。俺だってやればできるんだ、と思った。だがな、運命ってのは数奇なもんだぜ。高等部に、篠崎が先輩として在校していたんだ」

 

「そんなまさか?」

 

僕は思わず問いかけた。

 

「関西は東京と比べりゃ、狭い。進学校の数だって限られてくる。たまたまヒットしたんだ」

 

高田が自嘲気味に笑った。

 

「篠崎はその高校で、優等生として通っていた。俺はそのことに反発を覚えてね。なんだかどうでもよくなってしまった。

それからは、中高とやんちゃし放題さ。もう勉強する気をなくしちまった。髪を染めたり、ケンカしたり。

何度も停学になったぜ。カトリックの学校なんだ。停学になると懺悔室で懺悔させられる」

 

僕はコーヒーカップを口に運ぶ。

いつの間にかコーヒーは空になっていた。

 

「で、ろくに勉強しなかったんで、大学は関関同立だ。あとから訊いたら、篠崎は早稲田に行ったらしかった。そのことを聞いた時、俺は、また悔しさがこみ上げてきた。

俺のもともとの夢は、関西から這い出して東京に行くことだったんだ。それが、俺はいまだできずにいるのに。篠崎の奴は、のうのうと東京の大学に行きやがった」

 

高田が舌打ちをする。

 

「俺は目が覚めたよ。なんとしてでも東京に出る。そして、いい職についてやる。そう思った。それで大学では猛烈に勉強して。誰にも無理だと言われていたが、官僚になったんだ」

 

「そう……だったんですね」

 

僕は嘆息した。

ようやくこれで、高田の抱えていたコンプレックスに合点がいった。

 

「でもな。省庁に勤務して篠崎が議員になっていることを知って驚いたよ。俺はまた負けた、と思った」

 

高田が悲しげに首を振った。

 

「そんな時、俺を諭してくれたのが中さん……中津さんだったんだ」

 

中津さん。

それは懐かしい名だった。

 

「お前も親しくしていただろう? 中さんが、俺に言ったんだ。

『議員なんて、所詮は選挙次第で身分を失う人間だ。人から常に批判の目にさらされているし、選挙だのなんだので、金だってどんどん消えていく。役人になった君の勝ちだよ。きっと最終的にはね』とな」

 

中津さんの声が思い出された。

考えてみれば、中津さんは出世レースから早い時期にリタイヤした人間だった。

その言葉は、自分に言い聞かせる言葉でもあったのではないだろうか。

 

「俺は、その言葉をよりどころに、篠崎に怒りを露わにせず、そこそこの付き合いをやってきた。

せめてもの、自分の矜持として、彼との親類関係をちらつかせて出世レースに利用することだけはすまい、と心に誓ったんだ」

 

「それで、高田さんは、篠崎代議士との関係を黙っていたんですね」

「そういうことだ」

 

高田が唐突に手を挙げた。

近くにいたウェイトレスがやってくると、コーヒーのお替りを注文した。

 

「もっとも、彼からしたら、俺のその態度は、評価が高かったらしい。皮肉なもんだよ。

30年ほど前、たまたま議員会館ですれ違った時に、声をかけられた。『昔は荒れていたが、ずいぶんと男らしくなったな』と。俺は返す言葉がなかった」

 

それは確かに、若い頃の篠崎代議士が言いそうな言葉だった。

 

「ま、俺の話はそんなもんだ。思ったよりも長話になっちまった」

 

やれやれ、というように高田が笑う。

 

「そろそろ、本題に入ろうか」

 

続く






やっと3話ぐらいで書いておいた伏線が回収できました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

76 篠崎の伝言

いつも読んでくださってありがとうございます!
ご評価やご感想ありがとうございます!!
本当、やる気が出ます!!


とうとう来たか、と思った。

本題。

その言葉に震えを感じる。

自然に、机の上で握りしめられた拳に力が入った。

 

「おっと、そうこわばるなよ。本題といっても、俺は篠崎がどうして殺されたのかなんて知らない」

 

高田がおどけたようにそう言った。

僕は顔を上げる。

高田の、切れ長の瞳が僕を見据えていた。

細い瞳の割に妙に黒目が大きく、見つめられると威圧感があった。

 

「いいか。俺は根本的に、篠崎が好きじゃないんだ。そのことはわかっただろう?」

 

僕は頷いた。

 

「だから、人一人殺されるようなこんなヤマに顔を突っ込む気はさらさらない。俺の身にまで危険が及んじゃかなわん。俺はこれまで、蛇行しながらも自分なりに努力して生きてきた。あとの余生はじっくりと楽しみたいんだ」

「それじゃ、本題ってのは?」

 

高田がふっと笑う。

 

「だからなぁ。どうするべきか迷ったよ。実はな篠崎から伝言があるんだ。君宛てにな」

「僕宛てに伝言?」

「伝えるべきかどうか迷った。ついさっきまで俺の胸のうちに収めておこうかとも思っていた。ところがなぁ……」

 

天井を仰ぎ、ふっと息を吐き出す。

 

「葬儀場で君の顔を見ちまった。しかも、眼があった。こうなったらもうお手上げだ。懐かしさやらなんやらがこみ上げてきてな。無意識に君を手招きしていたよ」

「……ありがとう、ございます」

 

僕は深く頭を下げた。

 

「顔を上げろよ。みっともない」

 

高田は心底そういう儀礼は入らないという表情をした。

 

「いいか。一度しか言わないからよく聴けよ」

 

僕は頷く。

 

「今回の件。いったい篠崎がどういう奴らにどういう理由で殺されたのか、俺は全く知らない。ただ、奴は少し前から様子がおかしかった」

「様子が?」

「ああ。ひと月ほど前のことだ。珍しく、俺に電話が掛かってきた。唐突に会いたいと言われた。まぁ、俺だって役人だ。何か、仕事と関係する話かもしれない。そう思って、軽い気持ちで会いに行った。でも場所が妙だった。いつもなら都内のバーかなにかになるんだが、横浜の鶴見にある小さなイタリア料理店に呼ばれた」

 

鶴見のイタリア料理店……。

少なくとも僕は聞き覚えがない。

 

「信頼できる友人がやっている店だということだった。少しきな臭い感じがした。よほど聞かれたくない話をするということだ。篠崎は俺に、自分は痛い目にあわされるかもしれない、と言った」

「痛い目?」

「ああ。そしてそれは事実になったわけだ。仏さんになっちまったんだ。痛い目どころじゃないぜ」

 

やれやれというようにため息をつく。

 

「俺はもちろん、どういう意味だ?と問いかけたよ。でも奴は答えなかった。黙ってうつむいていた。それから唐突に俺に、辻君のことで気に病んでいると言った」

「私?」

「話の繋がりが見えなかった。俺は少し混乱した。すると篠崎は『辻君の信頼を失うようなことを繰り返してきた。彼に直接、頼みごとをする勇気が出ない』と言った。そして、『もしも、俺に何かあったら、辻君に伝えてほしいことがある』と続けたんだ」

「伝えたいこと?」

 

「『八王子に、行きつけのレコードショップがある。ステレオ・ジャックという店だ。そこに行って、店主に俺が預けてあるレコードを受け取ってほしい』」

 

は?

どういうことだ?

 

「八王子? ステレオ・ジャック? どういうことですか? まったく意味が分かりません。そのレコードのせいで篠崎代議士は殺されたとでも?」

「俺にだって意味は分からないさ」

 

高田が苦笑いをする。

 

「とにかく、『レコードは、辻君と俺が20数年前に初めて一緒に行ったコンサートのレコードだ。それを思い出して、店主に伝えてほしい』とのことだ。篠崎から預かっているものを辻が取りに来たと言えば通じるらしい」

 

今度は僕が混乱する番だった。

確かに、まったく意味が分からない。

 

「さて、と」

 

頭が真っ白になっている僕をよそに、高田が立ち上がった。

 

「これで話はおしまいだ。詰まらない話だっただろう?」

「い、いえ……」

 

僕もつられて立ち上がる。

 

「ここは俺が出しておくよ」

 

高田がレシートを手にレジに向かった。

 

 

雑居ビルの階段を下りながら、高田が言った。

 

「これから、辻君も大変なことになるぞ」

「え?」

 

一瞬、僕の脳裏に篠崎代議士と同じように射殺された自分の姿が浮かんだ。

僕は青ざめた顔をしたらしい。

高田が吐き捨てるように言った。

 

「馬鹿。学園艦の件だよ。勝手な約束をして、それを反故にしようとしたり、いろいろやらかしたらしいな」

「あ……」

 

そうか。

もうそのことは知れ渡っているのか。

 

「篠崎も死んだ。君の後ろ盾はないも同然だ。首を切られる覚悟もしておいた方が良い」

「……はい」

 

雑居ビルを出ると、夜の街が広がっていた。

ネオンライトが煌々と照っている。

その明るさは妖艶だった。

先ほどまでいた喫茶の柔らか味のある赤茶けた照明とは全く違う。

もうすっかり深夜になっていたが、どこか遠くでサラリーマンの酔っぱらった笑い声が聞こえた。

車の行きかう音がそこに交じっていた。

 

「じゃあな」

 

高田が僕に背を向け去ろうとした。

僕はそんな背中を呼びとめた。

 

「あと一つだけ教えてくれませんか?」

「なんだ?」

 

高田が振り返る。

 

「20数年前、あなたは私を篠崎代議士に引き合わせました。あれはどうしてですか?」

「単純な話だよ」

 

高田が笑う。

 

「篠崎は俺を信用していた。で、俺に『活きのいい若い役人を紹介してくれ。自分の右腕を育てたい』と頼んできたからだ」

「でも、私は……」

「もう、わかっていると思うが。俺は篠崎のことが嫌いだった。それで、如何にも役に立たなさそうな君をあえて紹介した、というわけさ」

 

ああ。

それで。

そういうことだったのか。

 

「結果的には、俺の20数年前のもくろみは大成功さ。君は今回の篠崎と組んだ学園艦のプロジェクトでポカをやって、めちゃくちゃにした。それどころか篠崎なんて、とうとう死んじまいやがった」

 

は、ははは。

高田の乾いた笑い声が通りにこだまする。

 

「こんなこと。もう、望んでもいなかったのになぁ」

 

つぶやきながら、定まらない足取りで通りの向こうへと消えていった。

僕はそんな高田の後姿を、ずっと見つめていた。

 

続く



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

77 周到な罠

いつも読んで下さりありがとうございます!


翌日、省庁に出勤すると、部下たちの態度に変化を感じた。

微妙に僕と距離をとっているものが多いようだ。

なるほど。

僕の失態はすでに知れ渡っているということだ。

自分の面子のために、少女たちとの約束を反故にし、そのうえでもう一度負けた男。

僕の信頼は失墜しているというわけだ。

誰もがはっきりと口には出さないが、僕を軽蔑した目で見ているように感じられる。

もしかしたら僕も被害妄想というパラノイアに取りつかれ始めているのだろうか。

まるでかつて故郷を憎んでいた高田のように……。

僕は誰とも話さず、まっすぐ局長室に向かった。

木製の扉を開け、灯りをつけ、遮光カーテンを開放する。

朝の光が部屋に満たされると、やっとほっとした。

いつものソファに腰掛ける。

新聞が机の上に置いてあった。

篠崎代議士の射殺が大きく報じられている。

犯人の足取りは全くわからないということだった。

また、小さな記事に、野党が学園艦統廃合法案に対し、廃案も含めた修正案提出の動きとあった。

僕は新聞を床に放り投げた。

すると、ドアをノックする音が聞こえた。

僕が許可を出さないうちに、倉橋という40代前半の職員が入ってきた。

彼は部屋に入ってくるとき、お辞儀すらしなかった。

これまではそういう態度の男ではなかった。

 

「局長。土山議員がいらっしゃっています」

 

倉橋は薄ら笑いをうかべていた。

不遜な態度だ。

僕が窮地に立たされているのが面白いのだ。

これまでは立場上僕に低身なポーズを見せていただけということか。

これが彼の本性なのだろう。

 

「そうですか。お入れしてください」

 

僕は淡々と答えた。

その態度が気に入らなかったのか、倉橋は大仰に回れ右して、後姿のまま

 

「では呼んできます」

 

と言って出て行った。

しばらくして土山が入ってきた。

倉橋以上に不遜な態度だった。

相変わらず派手な色のシャツを着ていた。

白地だが、下品な太い赤のストライプが入っていた。

 

「よぉ。辻。篠崎のおっさん、死んでもぉたなぁ」

 

土山も薄ら笑いを口元に浮かべていた。

どうやらこの連中は薄ら笑いがブームらしい。

僕は頷いた。

 

「左様ですね。お亡くなりになられました」

「ふざけんなや」

 

土山が僕の座っていたソファを蹴り上げる。

 

「議員が来とんのに、なに座ったまま話しとんじゃ」

 

僕は椅子ごと蹴られ、地面に転がった。

床に打ち付けた頬をさすりながら立ち上がる。

眼鏡が少し歪んでしまっていた。

 

「申し訳ありません」

 

僕は頭を下げる。

悔しさがこみ上げた。

 

「今日は……どのようなご用件で?」

「お前に引導渡しに来たんや」

 

土山が僕を見つめた。

ひどく冷たい目つきだった。

 

「ええか。俺らは10月からの臨時国会で修正案を提出する。学園艦の統廃合案の再検証や。それとなぁ、お前を直接つるし上げたるわ。証人喚問じゃ。徹底的にやるで」

 

まるで野党のような言い草だった。

僕を責めるのがうれしくてたまらないというように土山はニヤついていた。

 

「俺をこけにしたツケ、きっちり返してもらうからなぁ。覚悟しとけよ」

 

言い終えると床に唾を吐いた。

 

 

土山が去った後、僕は教育長に電話を入れた。

教育長は15分後に会うと言ってくれた。

指定された時刻に応接室へと向かう。

扉を開けると、教育長が不機嫌な顔つきで腕を組んで立っていた。

僕は思わず、深く頭を下げた。

僕が何かを言う前に、先に教育長が口を開いた。

 

「辻君、今回の件は残念だったね」

 

その口調は穏やかで、僕は幾分救われた思いがした。

だが、そんなものは幻想だった。

 

「本当に残念だ。君は、責任をとらなきゃいけないよ」

「う、ぁ……」

 

責任。

その単語が重くのしかかってくる。

 

「その。どういう形で……」

「座りなさい」

 

促され、お互いソファに腰掛ける。

 

「おそらく、与党は、今回の件を君の暴走として処理する方向に舵を切るだろう」

 

僕の暴走。

 

「野党が攻めの姿勢を見せ始めている。それを避けたいんだよ。与党が悪いのではないく、君の暴走だったのだ、という形に持っていきたいんだ」

「ということは、僕はスケープゴートにされるのですか?」

「なにを言っている!?」

 

穏やかだった教育長の声音が変わった。

 

「スケープゴートも何も、今回の件は実際に君の暴走ではないのか?」

 

僕は返す言葉がなかった。

少なくとも大洗女子の件については、完全に僕の暴走だ……。

だが、しかし、この統廃合案を推し進めたのは、僕の意思ではないのに……。

 

「篠崎議員も死んだ。この件は、君と篠崎が共謀して何らかの利権にありつこうとしたのではないか、と、そう言う形になるだろう」

「は?」

 

僕は耳を疑った。

共謀?

利権?

何を言ってるんだ、教育長は。

それはむしろ、逆ではないのか。

僕たちは熱政連の利権を崩そうともがいていたのに。

 

「情報が入ってきている。近いうち、ある雑誌にそういった疑惑が掲載されるようだ」

「雑誌? どういうことです? どの雑誌ですか?」

 

教育長が口に出した雑誌名は、篠崎議員が買収して学園艦危険説をあおらせたはずの雑誌だった。

僕はめまいを感じた。

つまり、その雑誌は、熱政連とも接触していたということか。

篠崎代議士が死に、僕たちの力がなくなると、今度は熱政連についたんだ。

僕は、裏切りだ、と叫びたかった。

だが、叫べなかった。

もともと、雑誌買収という汚い手を使っていたのは僕たちでもなるのだ。

裏切りも何も、同じ穴のムジナだ……。

僕はうなだれ、つぶやいた。

 

「そんな……。僕たちは、そんな、利権など……」

「死人に口無しなんだよね」

 

教育長があっさりとつぶやく。

 

「篠崎議員は死んでしまった以上、なにを言われても反論できない。ここから先は言われたい放題になっていくはずだ。憶測の域を出ない記事がわんさか飛び出してくるだろう」

 

そしてそれらの記事は、世論を巧みに誘導していくのだろう。

 

「我々は君を守ってやることはできない。もうすぐ臨時国会だ。修正案が与党内から提出され、君は戦犯として調査対象になるだろう」

 

 

応接間を出て、局長室へと歩きながら、審議の折の土山たちの質問を思い出した。

彼らは、要望項目として、

・生徒へのヒヤリング

・時期を見ての再検証

をねじ込んできた。

僕は、生徒へのヒヤリングの一環で角谷杏と会い、泥沼に落ちてしまった。

そして今、再検証の名目で、修正案が与党内から出されようとしている。

学園艦統廃合案は、公布されただけで、施行前だから、修正は可能だ。

ともすれば廃案も可能だろう。

やられた。

あの無意味に思われた質問項目が、このような力を持っていたとは。

土山たちの方が一枚も二枚も上手だったのか。

僕は、法案が通った日、土山が「あとで吠えずらをかくなよ」と言ったのを思い出した。

あれは、悔し紛れではなく予告だったのだ。

くそっ!

僕は唇を噛んだ。

口の中に、少しだけ血の味がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

78 ロスト・トウキョウ・モーメンツ

僕は局長室に戻り、どうすれば現状を打破できるのかを考えた。

だが、何も手立ては浮かばない。

どう考えても僕の力でどうこうなる問題ではなかった。

もはや与党は、野党からの追及を逃れるために僕と篠崎代議士を人身御供に仕立てようとしている。

そして官僚側も同じだ。

その状況を静観している。

政府との間におかしな波風を立てたくないのだ。

僕はこのままでは、雑誌からは標的にされ、国会では証人喚問され、最終的には罷免されるだろう。

頭の中が真っ白になった。

今すぐここを抜け出し、どこかに消えてしまいたくなった。

だが、そんなことはできない……。

まるで嵐の前のように静かだった。

その日は、ほとんど誰も局長室にやってこなかった。

まるで、この局長室が、処刑を待つための部屋のように感じられた。

この部屋の外では、熊のようなトーチャーが、刃物を研いで準備をしているのだ。

僕は気を紛らわせたくて、アイフォンを立ち上げ、イヤホンで音楽を聴いた。

「静けさ」から連想がいき、ジェネシスの「ウィンド・アンド・ワザリング」を選択した。

確か邦題が、「静寂の嵐」だったからだ。

眼を閉じて音楽を聴くと、一時だけ気が楽になった。

逃避以外のなにものでもないが。

もしも今、人が入ってきたら、一体なんだと思うことだろう。

気楽なもんだと笑うだろうか。

それとも、相当精神的に参っているらしいと分かってくれるだろうか。

……ジェネシス。

そういうと、篠崎代議士に初めて誘われたコンサートは、ジェネシスのギタリストの、スティーブ・ハケットのライブだった。

と、そこまで考えて、昨日の高田の言葉に思い当たった。

高田に教えられた篠崎代議士の遺した伝言だ。

『あのコンサートのレコードを、八王子のステレオ・ジャックに預けてある』

僕はノートパソコンを開く。

ステレオ・ジャックが実在するかどうかをまず調べた。

それは実在していた。

八王子の駅前から、歩いて15分ぐらいの場所にある。

そして、スティーブ・ハケットのアルバム。

……これもあった。

『ロスト・トウキョウ・モーメンツ』というタイトルで、ライブ音源がリリースされているらしい 。

トウキョウと銘打ちながらも川崎のチネチッタ・クラブでのライブ音源。

年度も当たっている。

まさに、僕たちが20数年前に行ったあの日のライブだ。

その音源がリリースされていたのか。

どこか感慨深い気持ちになる。

だが、それはレコードではなく、CDでのリリースだった。

時代的にもそうだろう。

篠崎代議士は、レコードと言ったらしい。

どういうことだ?

 

そこで、《スティーブ・ハケット》《ロスト・トウキョウ・モーメンツ》《レコード》で、再度検索をかける。

すると答えが出てきた。

200枚限定でレコード盤がリリースされていたらしい。

これのことだ。

 

僕は立ち上がった。

今日はこれ以上、ここにいてもどうしようもない。

定時になったら八王子へ向かおう。

そう決心した。

 

続く




話の切れ目の問題で、今回は短くなってしまいました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

79 ひとときの休息

八王子駅に降り立つともう夕方の19時を回っていた。

インターネットで検索した折には、営業時間が出てこなかった。

ステレオ・ジャックは個人経営の小さなレコードショップだ。

もしかして早い時間に閉めてしまうかもしれない。

そう思い、僕は急ぎ足で店に向かった。

途中で小さな路地が連なっていて、正確な位置が良くわからなかった。

やっと、『ステレオ・ジャック』と書かれた小さな看板を見つけた時には20時に近い時間になっていた。

そして案の定、シャッターが下りていた。

シャッターには、歯並びの悪い鼠が描かれ、左手にはチーズ、右手にはレコードを持っていた。

彼はどちらを選ぶべきか思案しているのかもしれない。

僕はため息をついた。

これでは無駄足だ。

シャッターには営業時間も記されていた。

12時~19時30分。

ほんの20分ほど間に合わなかったというわけだ。

営業時間の下に記されている電話番号に携帯でコールをしたが、誰も出なかった。

レコードショップの隣には、個人経営らしき小さなケーキ屋があった。

ここまで歩いてきたことに対してせめてもの報酬が欲しくなった。

僕はケーキ屋ののれんをくぐった。

 

「いらっしゃいませっ」

 

二十歳そこそこぐらいの髪の長い、ふわっとした雰囲気の女の子がカウンターで出迎えてくれた。

少し可愛かった。

不意を突かれたような気分になり、僕は少し鼻白んだ。

 

「ご注文はお決まりですか?」

 

女の子が鈴の鳴るような声で尋ねる。

つい入ってしまったが僕は甘いものを食べる習慣があまりない。

回答に困った。

 

「なにか、その、あっさりしたものを」

「え?」

 

女の子が少し戸惑ったように言った。

 

「あっさりしたケーキ……甘いものはお嫌いですか?」

「その。少し用事があってここまで来たんだけど、用事がなくなってしまったんだ。それでつい、ここに入った。ケーキに詳しくないんだ」

「そうですか」

 

女の子が、人差し指を顎に当て、ん~、と思案顔をする。

 

「でしたら、あまりごてごてしていないイチゴのショートケーキと、ご一緒にコーヒーはいかがですか? 苦いコーヒーと一緒に食べれば、程よい甘さになりますよ」

「ここでコーヒーを飲めるの?」

 

女の子が頷く。

 

「はい。ひと席しかありませんけど。ほら、そちらの壁際に」

 

見ると、奥の壁際に小さな藤編のテーブルと椅子があった。

壁際には窓があり、小さなランプ細工が備え付けられていた。

 

「いかがです?」

「そうだね、それじゃそうするよ」

「ありがとうございます!」

 

女の子が嬉しそうに微笑む。

僕はつい、商売上手だね、と言いそうになって、口を押えた。

思考回路が皮肉的になりすぎている。

藤編みの椅子に腰かけると、独特のきしみがして、心地よさを感じた。

店内には小さな音でクラシックが流れている。

窓からは、夜の街並みが見えた。

郊外の都市らしく、道が広く、そして丁寧に舗装されていた。

こじゃれたデザインの街燈が見える。

ひどく落ち着いた気分になった。

このところずっと忙しくて、こんな気持ちそのものを忘れていた。

 

「はいっ。どうぞ」

 

女の子の声で我に返る。

机の上に、良い匂いのする暖かいコーヒーが差し出された。

続いて、上品な雰囲気のショートケーキ。

 

「ゆっくりしていってくださいね」

 

そう言い残して、女の子はカウンターへと戻っていった。

僕は、しばらくぼんやりとコーヒーカップとケーキを見つめていた。

コーヒーカップからたつ深みのある香りが心を解きほぐすようだった。

僕はそれを飲んでしまうのが惜しいとさえ思った。

 

 

コーヒーとショートケーキのセットは美味しかった。

僕はそれらを食べ終えると、立ち上がり、カウンターで会計を尋ねた。

すると女の子は、ショートケーキの値段だけを口にした。

 

「コーヒーとのセットだよ?」

 

僕は尋ねた。

 

「ああ、それは……」

 

女の子がはにかんだように微笑む。

 

「サービスですよ。お客様が、甘いものがお好きではなさそうだったので、自宅のコーヒーを入れて出しただけなんです」

「え? それじゃ、あの席は?」

「あそこは本当は、混んだ時や、ご提供に時間がかかる時の待合用の椅子なんです」

 

まぁ、うちは混むことなんてないんですけど。

少し自嘲気味にそう付け加えた。

 

 

僕は礼を言って、ケーキ屋を出た。

久しぶりに胸が温かい気持ちになっていた。

と同時に、自虐の念が胸を襲った。

僕は、人に優しくされるほどの資格のある人間だろうか。

僕は齢だけを重ねた、子供のような大人で。

学園艦の件で、子供たち相手に約束を反故にしたりもした。

そのことを知っていても、あの子は僕に優しくするだろうか?

そんなことを考えながら、駅までの道を歩いた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

80 ステレオ・ジャック

いつも読んで下さりありがとうございます!
また、ご評価もありがとうございます!!


翌日、仕事の合間を縫って、シャッターに書いてあったステレオ・ジャックの電話番号をコールしたが、無駄だった。

誰も出ない。

コール音だけが空しく鳴り響いていた。

まるでかたちのない闇に向かって電話をかけているような気分だった。

僕は昨日よりも早く仕事を切り上げ、省庁を出た。

僕はもはや仕事の上ではレームダックだ。

さっさと退庁しようと咎める者はいなかった。

再び八王子駅に着いた時、今度は18時45分だった。

昨日よりも少し早い。

それに今回は店までの道をきっちりと頭に叩き込んでいる。

確実に19時30分よりも早くつける自信があった。

そして事実、僕はステレオ・ジャックに19時10分にたどり着いた。

だが、またしてもシャッターは閉まっていた。

シャッターに、定休日毎週月曜日と書いてあった。

明らかに今日は木曜日だった。

僕は舌打ちしながら、シャッターに書かれている電話番号をまたコールした。

相変わらず誰も出なかった。

ほんの少し。

ほんの少しでいいから、心を落ち着けたかった。

隣にある、昨日のケーキ屋が目に入った。

僕はほとんど条件反射のように、ケーキ屋のドアをくぐっていた。

 

「あ、昨日のお客様」

 

例の女の子が少し驚いたように声を上げた。

 

「今日も来てくださったんですね。ありがとうございます。近くにお住まいなんですか?」

 

僕は首を振った。

 

「いいや。僕が住んでいるのは都内だよ。昨日と同じで、今日も空振りだったんだ。何度来ても目的が達成できない」

 

女の子が不思議そうに首をかしげた。

 

「お客様はいつも背広ですから、お仕事でどこかを尋ねているんですよね? アポイントメントをとっているのに会えないということですか?」

 

僕は苦笑いした。

 

「いいや。急いでいるから、職場からそのまま来ているだけなんだ。仕事じゃなく、プライベート。極めて個人的な用事だ。約束は取り付けていない。ただ、そこにいるはずの人に会えないだけさ」

 

女の子が、僕に尋ねる。

 

「こんなこと聞いていいのかわかりませんけど。この近くの方ですか? 町会の付き合いとかで、私、知っているかも」

 

そうか。

考えてみれば、彼女からすればステレオ・ジャックは隣の店舗だ。

何か知っているかもしれない。

 

「ステレオ・ジャックというレコード店だよ。ここのすぐ隣の。店主さんに用事があるんだけど、いつも閉まっているんだ」

「え?」

 

女の子が素っ頓狂な声を上げる。

 

「うちのお父さんに何か御用なんですか?」

 

今度は僕が間抜けな声を出す番だった。

 

「お父さん?」

「はい。隣のレコード店は、父がやっていた店なんです。今はほとんど開店休業状態ですけど。呼んできましょうか?」

 

思わぬ収穫だった。

まさかこんな偶然があるとは。

僕はぜひ呼んできてほしいと言った。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

81  鍵

いつも読んでくださりありがとうございます!


カウンターの女の子が、父親を呼びに奥へ引っ込み。

僕は待つ間、背広の上着のポケットに指を入れ、それを閉じたり開いたりしていた。

15分ほどして、ヒョロリとした男が現れた。

縁の形の丸い眼鏡をかけ、うっすらと無精髭を生やしていた。

髪はみじかいが、寝癖のように左側の頭頂部付近が跳ね上がっていた。

年嵩は60代にかかるかかからないかぐらいに見えた。

篠崎代議士と同じぐらいだろうか。

僕は彼をまじまじと見つめていたらしい。

男は鼻の先を掻きながら、

 

「あの。そんなに見られると照れるんですが」

 

と言った。

柔らかだが、少しハスキーな声だった。

 

「これは失礼を」

 

僕は頭を下げた。

男の後ろから、女の子が顔を出した。

 

「お父さん、寝てたんです。時間かかっちゃってごめんなさい」

 

なるほど。

本当に寝癖だったわけか。

 

「いやぁ、まだフラフラでして」

 

男が申し訳なさげに呟く。

女の子がそんな父に、

 

「もぉ。お客さんの前で。しっかりしてね」

 

と言った。

僕はここが店であることを思い出した。

 

「すいません。ここで話していると商売の邪魔になりますかね?」

「うちはあまり流行っていないので、まぁ大丈夫ですが。なにかお話なら中で聞きましょうか?」

 

男に促され、カウンターの奥へ。

 

「それじゃ私、店番に戻るね」

 

女の子が父親に声をかけた。

 

 

カウンターの奥の厨房と隔てられた細い廊下に急勾配の階段があり、そこを登ると親子のそれぞれの部屋があるようだった。

僕は右側の父親の部屋に通された。

一階の店舗と違い、かなり古びた外装の部屋だった。

床は畳だし、壁は砂壁だった。

砂壁は老朽が激しく、ところどころ剥がれていた。

赤茶けた電燈が天井に所在無げにぶら下がっている。

部屋の隅には、畳んだ布団があった。

先ほどまでここで眠っていたのだろう。

椅子もない部屋に座布団を引き、男がそこに尻を据えると、もう一枚の座布団を指し示した。

座れということらしい。

僕は正座の姿勢で座布団の上に腰を落ち着けた。

 

「さて、どういったご用件ですか?」

 

男が穏やかに尋ねた。

僕はどう切り出すか少し悩んだ。

まずは自己紹介することにした。

 

「突然の訪問、申し訳ありません。私は、辻廉太と申します」

「辻さんですか」

「はい。文科相に勤めております。学園艦教育長という肩書きです」

「文科相?」

 

意味がうまく飲み込めない、という表情を男がした。

 

「よくわかりませんが、官僚さんということですか?」

「左様です」

「そんな方が、うちに一体・・・」

 

そこまで言ってから、はたと何かに気づいた顔をした。

 

「もしかして、篠崎くんと関係が?」

 

僕はうなづいた。

 

「篠崎代議士があなたにレコードを預けているはずなんです。それを受け取りに来ました」

 

そこまで言うと、男が唐突に立ち上がった。

僕は少し驚き、身構えた。

が、男は背を向けて、壁際に添えた書斎机の引き出しを開けた。

なにか小さな紙切れを取り出した。

 

「もう一度、お名前をよろしいですか?」

 

紙を見つめながら問いかけてくる。

 

「辻。辻廉太です」

 

男がうなづいた。

 

「受け取りたいレコードは?」

「スティーブ・ハケットの川崎でのライブ。ロスト・トウキョウ・モーメンツというタイトルです」

 

男が黙って僕を見つめる。

やがて、ふっと表情を和らげた。

 

「そうですか。わかりました。レコードはあります。ついて来てください」

 

男は紙切れを折りたたんでポケットに入れると、再び階段を降りていった。

僕は立ち上がり、急いで後を追った。

急勾配の階段は、手すりを持たなければ降りるのが危なかった。

男は慣れた様子で足早に降りていく。

僕はおっかなびっくり降りていった。

厨房の脇の廊下を通り、再びケーキ屋の店舗に。

女の子が

 

「あ。お話、終わったんですか?」

 

と問いかけてきた。

僕は小さくうなづいた。

 

「上の部屋を使ったんですよね? 古くて汚いでしょ? 恥ずかしい」

「味があるよ」

「え〜」

 

女の子は苦笑いしていた。

男が、

 

「凪子、少しすまない」

 

と言って、女の子の立っているカウンターのレジに触れた。

レジの横にテープで貼り付けてある鍵をとる。

 

「レコード屋さん開けるんだ?」

「あぁ」

「ふぅん」

 

そっけなく呟く女の子の声音はどこか嬉しそうだった。

 

続く

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

82 ロック仲間

男が鍵を手に外に出るのに従う。

話したりしているうちに、もうすっかり暗くなっていた。

時計を見ると20時を回っている。

男は蛇腹状になっているシャッターの正面の鍵穴に鍵を差し込み回した。

かちりという音がした。

鍵を抜くとそれをポケットに入れ、かがみこんでシャッターと地面との隙間に両手を差し込んだ。

掛け声をあげながら、シャッターを持ち上げる。

シャッターの奥にガラスの扉があり、それを開けて、僕を手招きした。

 

 

男が照明をつけると、ステレオ・ジャックの店内の姿が目に飛び込んできた。

今は殆ど無くなってしまった、昔ながらの個人経営のレコード・CDショップだ。

マニアックな輸入レコードを中心に扱っていたのだろう。

なかなか店舗は広く、ロックやジャズという分け方だけではなく、かなり細かくジャンル分けがしてあった。

サイケデリック、ブリティッシュ・ビート、クラウトロック、カンタベリーロック、フィリーソウル。

ビッグバンド、モダンジャズ、フリージャズ、フュージョン、ボーカリーズ。

中でも圧巻なのは、《各種プログレッシブロック》のコーナーだ。

英米に限らず、イタリア、スペイン、フランス、オランダ、日本、と各国のプログレッシブロックが並べられている。

壁面には、ムーディーブルースの『童夢』のアルバムジャケットが誇らしげに飾ってあった。

これは確かに、篠崎代議士が好みそうな店だ。

僕は思わず感嘆の声を上げた。

 

「これは・・・すごいな」

 

すると男が、嬉しさと自虐が入り混じったような声で答えた。

 

「そう言っていたいただけると嬉しいですが。見ての通り、開店休業ですよ」

「どうしてまた?」

「妻が死んだんです。私と妻は、もともと隣同士の家でね。妻の家は昔からケーキ屋でした。結婚したあと、妻はそのまま実家のあとを継ぎ、私は趣味が高じて、レコード店を始めたんです。ずっとそうしてやってきたのですが。妻が亡くなった時、どちらかの店を閉めなきゃならないと思った。人手が足りませんから。悩んだのですが、レコード店を閉めました」

「もったいないですね」

「そんなことはないですよ。今どき、もうレコードなんで売れない。そもそもダウンロード文化になってきたから、実店舗自体、商売が成り立たない。それに比べりゃケーキ屋はマシです。食物はダウンロード出来ませんから」

 

言いながら、棚のレコード盤の背中を愛おしそうに撫でた。

 

「それに、ケーキ屋さんもやってみりゃ、愛着が湧いてきました。実はね、うちのケーキ、私が作ってるんですよ」

「え!? そうなんですか?」

「似合わないでしょう」

 

男が笑う。

 

「ケーキ屋をやるのに資格はいらないんです。妻が亡くなったあと、レコード店を続けながら夜間の料理学校に通って、必死に修行したんです。大変だったなぁ。お金も使い果たしちゃった」

 

僕は、訪問時、男が寝ていたことに納得がいった。

朝から仕込みをして、昼から寝ているのだ。

僕は最初、男の風采から、仕事をしていないのではないのかと勘ぐってしまった。

心の中で、そんな自分を恥じた。

そして、男の努力が尋常ではないと感じた。

男は、レコード店よりもケーキ屋のほうが今どきマシだという言い方をしたが、それだけの理由には思えなかった。

 

「まぁ、私の話は置いときましょうや」

 

男がそう言いながら、レジの奥の段ボール箱を探る。

一枚のレコードを取り出してきた。

真っ暗な舞台に一筋のライトがさしこみ、舞台に立つギターを抱えた男を照らしている、そんな表紙だ。

上面にゴシック体のフォントで英語で、スティーブ・ハケット ロスト・トウキョウ・モーメンツ ア・ライブ・エクスペリメント と銘打たれてある。

 

「篠崎くんの置き土産だね」

 

男が言った。

 

「亡くなったことはご存知なんですね」

「そりゃね。あれだけニュースになってたら否応なしに知りますよ」

 

男は俯いた。

 

「私はこれまで知らなかったんですがね、彼は議員さんだったらしいですね」

「知らなかったんですか?」

「彼はこれまで、なにも言いませんでしたから。ニュースで見て本当に驚きました」

「それでは、お二人はどんな関係だったのですか?」

「どんな関係というと・・・」

 

男が目を閉じる。

懐かしそうな表情をした。

 

「そうですね。一言で表現するならば、ロック仲間ですよ」

 

感慨深げに呟いた。

 

続く

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

83 星の下、路の上 ①

いつも読んで下さり、ありがとうございます!
また、ご評価、お気に入り登録、本当にありがとうございます!
励みになります!


男・・・ステレオ・ジャックの店主は名前を蓮田と名乗った。

男が僕に語りだした物語は、およそこんな話だった。

 

 

子供の頃から音楽が好きだった。

父親はジャズバンドのテナーサックスプレイヤーをしていた。

とはいえ、ほとんど仕事はなかった。

ナイトクラブやキャバレーで吹く仕事がほとんどだ。

客は酒や女に夢中で音楽になど見向きもしない。

時には、「うるさい!」と怒鳴られることすらあった。

それでも、テナーを吹くときだけ、一瞬我を忘れることができたらしい。

世の中のしがらみや嫌なことすべてを忘れて、音と自分だけになる。

その瞬間を生きがいにしていると父親は言っていた。

だが、父親は大酒飲みでもあった。

音楽と向き合うとき以外は、四六時中酒を飲んでいた。

幼心に不思議だった。

ほとんど儲けのない仕事をしているのに、どうして酒を飲むことができるのか、と。

父が肝臓を悪くして死んだとき、やっと理由が分かった。

父は借金をして酒を飲んでいたのだ。

母親は、そのことを知って怒り狂ったが、蓮田は別段怒りを感じなかった。

むしろ、不思議が一つ解決してすっかりとした気持ちになった。

とはいえ、借金を抱えた生活は楽ではなかった。

母親は自営業をしていた祖父の紹介で中小企業連合会の会員向け相談弁護士を頼り、借金を少しづつ返すという合意をしていた。

家は一日中薄暗かった。

照明の問題ではない。

心の中が薄暗かったのだ。

そんな中、隣の家の女の子……中原美砂と遊ぶことだけが唯一の救いだった。

美砂の家はケーキ屋をしていた。

少女の体からは、いつもほのかに甘いお菓子の匂いがした。

その香りをかぐと、心が和らいだ。

だが、その程度では、家庭の息苦しさは癒えなかった。

蓮田は中学を卒業すると、高校には進学しなかった。

中華料理屋の出前のアルバイトをやりつつ、喧嘩をしたり、悪さをしたりして過ごした。

体躯は細いが、パンチにスピードがあった。

そこそこ喧嘩には強かった。

蓮田は17歳になった時、バンドを始めた。

父親の遺したジャズのレコードは、幼い時に良く聴いたが、それほど心動かされなかった。

むしろ、たまたまラジオで耳にしたPFMというバンドに夢中になった。

それは不思議な音楽だった。

ロックンロールであるはずなのに、ロールしている感覚がなかった。

構成が複雑で、起伏に富んでいるのに、どことなく物静かだった。

一曲が長大で、普段ロックで聴かないような楽器の音も聴こえていた。

そして、英語ではない不思議な言語で歌を歌っていた。

後でわかったことだが、それはイタリア語であり、プログレッシヴ・ロックというカテゴリーの音楽だった。

そのことを知った時、蓮田は、

 

「これだ! この音楽をやりたい!」

 

と思った。

必死になって仲間をかき集めた。

当時、インターネットなどというものは存在しなかった。

だからプログレ好きの仲間を探すことなど不可能だった。

蓮田は腕っぷしに物を言わせ、無理やり中学時代のクラスメイトの何人かをバンドメンバーにした。

PFMのレコードを気が狂うほど聴かせ、「こういった曲をやろう!」と言った。

3人のメンバーは渋々という態で頷いた。

だが結果は惨敗だった。

そもそも高度な技術力が必要となるプログレッシヴ・ロックだ。

急増の素人集団にプレイできるはずがなかった。

蓮田は落ち込んだ。

だが、このまま終わりたくないと思った。

何とか音楽にしがみつきたい。

彼はフォークギターとブルースハープを買い込んだ。

まずは、基本からやり直そう。

そう思った。

一人でできる音楽といえばやはりフォークの弾き語りになる。

それを続けるうちに、仲間が揃ってくるはずだ。

彼は地道な活動をつづけた。

フォークをやるために、ボブ・ディランを聴き、ウディ・ガスリーを聴き、ランブリング・ジャックを聴いた。

次第に、聴く音楽の範囲が広がっていった。

暇さえあれば、ギターの練習と、音楽鑑賞に明け暮れた。

それ以外の時間は必死に飲食店のアルバイトをした。

 

 

フォークをやってみたところで、ライブハウスの客入りは芳しくはなかった。

もう、フォークは下火になっていた。

それでも蓮田は呪詛をぶつけるかのように一人きりで歌い続けた。

隣の家の美砂だけは、いつもライブに来てくれた。

うるさい場所も、煙草臭い場所も好きではないはずなのに。

相変わらず彼女の体からは、ほのかな甘い香りがした。

砂糖菓子の匂い。

そこにかすかに、女の匂いが入り混じっていた。

一度、蓮田のライブを見に来ていた美砂がナンパされたことがあった。

蓮田はステージから、美砂に触れようとした客を目にして、ギターを置いてステージを降りた。

男の首根っこをつかんで思いっきり殴った。

見事なストレートパンチだった。

男は蹲り、うんうん唸った後、げろを吐いて失神した。

その日の夜、帰り道で蓮田は4人組の男に囲まれてリンチにあった。

4人組は対バンで出ていたパブロックバンドだった。

蓮田が殴った客は、彼ら目当てに来ていた常連だったらしい。

レオン・ラッセルのような髭を生やした男が、のされて路地に転がった蓮田に唾を吐きかけながら言った。

 

「粋がってんじゃねーぞ、この屑が」

 

蓮田は、もうろうとした意識で空を見上げていた。

路上に寝て見上げる空は、暗かった。

星の一つも見えない。

だが、考えてみればそれはフォークミュージック的だった。

路上の空。

まさに、オン・ザ・ロードだ。

気がつけば口元に笑みが浮かんでいた。

俺は今、音楽している。

…………!!

その笑みも、数秒と続かなかった。

指先に強烈な痛みが広がる。

 

「ぐっ、あががっ…」

 

先ほどのレオン・ラッセルのような髭の男が、蓮田の指先を踏みつけていた。

 

「なに笑ってやがる! 舐めてんのか!」

「ぐぎゃっ!!」

 

蓮田は大声を上げた。

ひときわ鋭い痛みが走った。

靴のかかとで指をつぶされたらしかった。

蓮田はこの日、20歳の誕生日だった。

そのことに思い当たると、とめどなく涙がこぼれた。

17歳からバンドを始めて。

3年もかけて俺は、こんな路上にいる。

こんな路上に転がされ、痛めつけられている。

何が、オン・ザ・ロードだ。

畜生。

俺はこんなことを体験したいわけじゃない……。

そのうちに、意識が朦朧としてきた。

 

 

気がつくと、病室のベッドだった。

医者が、指の骨が割れてしまっていると言った。

それに、神経もおかしくなってしまっている。

動かせるようにはなるだろうけど、前みたいに自由には動かせないと思うよ。

蓮田は泣いた。

泣きまくった。

美砂は毎日お見舞いに来てくれた。

彼女は、自分が蓮田の出番が終わった時点で帰ってしまったことを悔やんでいた。

 

「最後まで待っていて、一緒に帰ればよかった」

 

と、泣きながら言った。

だが、蓮田の後には、3バンド分の演奏があった。

そんなに遅くまで待たせるわけにはいかなかったし、あの夜、美砂が一緒にいたところでどうにもならなかっただろう。

むしろ、もっとひどい目に合っていたかもしれない。

 

 

指の怪我を機に、蓮田はギターを弾くことをやめた。

潮時だと思った。

それはあの夜、強烈に感じたことだった。

たった一度殴られただけで。

たった一度、路上にのそべっただけで。

俺は音楽を否定した。

こんなのは俺の人生じゃないと思ってしまった。

その時点で負けだと感じたのだ。

俺には、音楽を続けていくだけの胆力が備わっていない。

蓮田は、しかしそれでも音楽を愛していた。

今はもう、弾くことではなく、聴くことの方をより愛していた。

父親のジャズのレコードから始まった蓮田の音楽の旅路は、プログレッシヴ・ロックだけではなく、ありとあらゆるジャンルへと広がっていた。

まだインターネットのない時代だ。

口コミや、店主の采配によるレコードの収集・紹介は、大きな影響力を持つ。

自分の知識を生かしたいと思った。

蓮田は、自宅の一階を改造してレコード店を始めた。

金はそこら中からかき集めた。

美砂や美砂の両親まで金を工面してくれた。

いちばん意外なのは自身の母親だった。

絶対に反対すると思っていたのだが、すんなりと同意してくれた。

拍子抜けした蓮田は、恐る恐る尋ねた。

 

「あの、母さん。怒んないの?」

「いまさら何やったって怒らないわよ。今までの生活よりもよほど地に足がついてるじゃないの。お店を持つんだからね」

 

彼女はあっけらかんとしていた。

そして言った。

 

「私が、いちばん好きな曲は、ビートルズのオブラディ・オブラダよ。ジャズ狂いのお父さんの手前では、口が裂けても言えなかったけどね」

 

人生はなるがままというわけか。

蓮田は笑った。

自宅で笑ったのは、ずいぶんと久しぶりかもしれなかった。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

84 星の下、路の上 ②

レコードショップの内装を整えるのは、美砂が手伝ってくれた。

彼女は絵が好きだった。

蓮田は嫌がったのだが、レコードショップのシャッターに、マスコットキャラクターを描くと言ってきかなかった。

仕方なく蓮田が了承すると、どこからがペンキを調達してきて、嬉々として絵を描いた。

不細工なネズミが、レコード盤とチーズの切れ端を見比べている絵だった。

 

「なんなんだよ。これは」

 

蓮田はため息をついた。

ついでに美砂のおでこを軽くチョップ。

 

「あいたた。ひどいよー」

 

美砂が口をとがらせる。

それから、

 

「なかなか可愛いでしょ?」

 

と胸を張った。

 

「いや、可愛くないから」

「ひどいなー。これね、ちゃんとメッセージになっているんだよ?」

「メッセージ?」

「そう! 君がね、お仕事をちゃんと毎日頑張るようにっていうメッセージ」

「どういうことだよ?」

「レコード盤が、毎日のお仕事。チーズの切れ端が、享楽とか怠惰。どっちを選ぶか、よく考えてねっていう意味」

「ふぅん……」

 

蓮田は、鼻筋を掻いた。

 

「ま、とりあえず俺はレコード盤を選ぶよ」

 

言いながら、美砂のペンキをとりあげる。

 

「さてと。店名を書かなきゃな」

「決めてるの?」

 

美砂が問いかける。

 

「おうよ。題して、ステレオ・ジャックだ!!」

「ふぅん」

「……反応薄いな」

「だって、けっこー普通だから」

「普通でいいんだよ。普通で」

 

実はこの店名には一つ意味が込められていた。

ジャックは、スティーリー・ダンのデビュー曲『ドゥ・イット・アゲイン』の歌の中から取られていた。

『ドゥ・イット・アゲイン』は、何かに失敗した男・ジャックに『やり直すんだ!』と繰り返す歌だ。

この店は、蓮田にとっても再起をかけた挑戦だった。

やり直せ!!

自分自身に、そう伝えたかった。

もっとも、のちに気がついたことだが、『ドゥ・イット・アゲイン』の歌詞は、悪癖へと再びジャックを誘っているようにも聞こえるのだが……。

 

 

それから1年が過ぎた。

店の売り上げはそれほど芳しくはなかった。

蓮田が選び抜いたレコードの数々は、玄人ウケはした。

しかし、所詮はマニアックなものだった。

視聴して聴かせたとしても、一発で良さをわかってもらえない時がある。

店内には、いかにもレコードマニアといった風体の中年が多かった。

展開の中心であるプログレッシヴ・ロックがそもそも下火になっていたことも理由だろう。

その中で。

こぎれいな服装をした若い男は、ひどく目立っていた。

男は蓮田と同じ齢か、少し若いぐらいに見えた。

20歳ぐらいだろうか。

髪を短く刈り込みつつも、ワックスで動きを持たせ、清潔感と遊び心を共存させている。

淡いグレーにヴィヴィッドなブルーのストライプが入ったボタンダウンシャツを身にまとい、ラルフローレンの刺繍が小さく入った高級そうなジーンズを穿いていた。

靴は、ダークブラウンのなめし皮だ。

先が尖っていないのが、粋がりすぎていず、余裕を感じさせる。

一見して気に入らないタイプだと思った。

蓮田にとって、ロックンロールとは鬱屈だった。

恵まれていない人間の、恵まれた社会への攻撃だった。

若い男はどう見ても、恵まれているように見える。

お前のような男がロックを語るな。

心の中でそう思った。

どうせ、こんなやつ。

物見遊山気分でこの店に入ってきたのだろう。

と、そんなことを考えていると、若い男がレコードを手に近づいてきた。

 

「これ、ください」

 

年齢に似合わない、品のある声とともに差し出されたのは、オザンナの「パレポリ」だった。

多少なりとも知識がないと選ばないものだ。

適当にチョイスしたとは思えなかった。

蓮田は不思議な気持ちでレジを打った。

男は小さく礼をして店を後にした。

それが篠崎との出会いだった。

 

 

それからも、篠崎はきっちり週に一回、店にやってきた。

ある時はマクソフォーネを購入し、ある時はルネッサンスを購入した。

どうやらプログレッシヴ・ロックの知識は持っているようだった。

蓮田はある時、篠崎に問いかけた。

 

「ねぇ。君。若いのにずいぶんと詳しいんだね。何してる人なの? バンドとかやってるの?」

「え?」

 

篠崎が目をぱちくりとした。

 

「あぁ、いや。俺はただの大学生だよ」

 

気取った声だった。

篠崎が口にした大学の名は、都内でも有数の名門大学だった。

蓮田は絶句した。

いかにも育ちが良く、ロックの知識もあり、そして名門大学に通っている。

年齢は20歳だった。

自分と1つしか違わない。

篠崎が店を後にしてから、蓮田は歯ぎしりした。

この世の中には、恵まれた人間と恵まれない人間がいる。

あの男は、恵まれた人間だ。

奴は大学に通い、ほとんど同じ齢の俺は、こうしてあくせくと働いている。

この違いはなんだ!

 

 

蓮田のそんな内心とは裏腹に、篠崎はちょこちょこと店に通い続けた。

そして、マニアックなレコードを買っていった。

ある時、篠崎が顔を真っ赤にしてふらふらと店に入ってきた。

蓮田は驚いてレジから出て篠崎の体を抱きかかえた。

 

「お、おい、どうしたんだよ」

「ごめん、ちょっと、その。飲みすぎたんだ」

 

篠崎は明らかに酒臭かった。

 

「嫌なことがあってな。飲みすぎちまった。行くあてがなくなって、気がついたらあんたの所に来ていた」

 

よく見ると、気障なシャツにべっとりと反吐がついていた。

 

「なんだよ、そりゃ」

 

蓮田は笑った。

蓮田も一時期良く飲んだ。

荒れている時期だった。

安いブレンデッド・ウィスキーを浴びるほどあおって、このまま死んでやろうかと思ったこともあった。

 

「天下の大学生様にも、嫌なことなんてあるのかい」

「そんなの、毎日だ」

 

ろれつの回らない声で篠崎がつぶやく。

 

「良いご身分で、なにを甘えたことを」

「良いご身分には、良いご身分なりのストレスがあるのさ」

 

その言い訳は悪くなかった。

あっけらかんとして自分を認めている。

蓮田は笑った。

こいつは恵まれている。

恵まれているが、憎めない奴だ。

そう思った。

 

 

それ以来、二人で飲むようになった。

篠崎は蓮田を高級店に連れて行こうとはしなかった。

大概は蓮田に合わせて、路地裏の立ち飲みか、蓮田の自宅で宅飲みをした。

時折、篠崎が高級ウィスキーを差し入れに持ってくることがあった。

 

「こいつはシークレットだぜ」

 

篠崎は冗談めかしてそういった。

そんな様子が微笑ましかった。

二人で、しこたま酒を飲み、音楽談義に花を咲かせた。

朝まで飲んで、ヘロヘロになって、美砂に怒られることもあった。

 

 

そんな風にして、数年が過ぎた。

蓮田は美砂と結婚し、美砂はお腹に子供を宿していた。

5月の最後の日の夜、篠崎が蓮田をドライブに誘った。

買ったばかりだという車を見せてくれた。

それは、白のマーク2だった。

美砂が入院していることで、蓮田は少し渋った。

もうすぐ子供が生まれそうだったのだ。

 

「でもさ、今すぐというわけじゃないんだろ?」

 

篠崎はいつになく強く押してきた。

 

「あ、あぁ。まぁな。お医者さんの話だと、もうすぐというだけで、今すぐというわけじゃなさそうだ」

「だったら、頼むよ」

 

篠崎が頭を下げた。

 

「ちょっと色々あって、もうあまり遊べそうにないんだ。最後の晩餐だと思って、付き合ってくれ」

 

その言葉に、心が動いた。

美砂のことは心配だったが、病院に連絡を入れ、篠崎の車に乗り込んだ。

車は、東名高速をどんどんと走っていく。

 

「どこへ行くんだ?」

 

蓮田は篠崎に尋ねた。

 

「淡路島だ」

 

篠崎が答えた。

 

「淡路島!?」

「あぁ」

「どういうことだよ?」

「子供の頃、何回か行ってな。とても好きなところなんだ」

「どうしても行きたいんだな?」

「あぁ」

 

蓮田はため息をつき、バックシートに体を預けた。

 

「わかった。付き合うよ」

「恩に着るぜ」

 

篠崎が笑いながら、片手で煙草に火をつけた。

サイドガラスを開き、器用に外へ向けて煙を吐く。

 

「淡路島って行ったことあるか?」

「いや、一度もない。兵庫県だっけ? それとも、四国になるのか?」

「馬鹿。兵庫県だよ」

 

篠崎が苦笑する。

 

「国生みの島と呼ばれていてな。日本書紀の最初に出てくる島なんだ」

「へぇ」

「魚が美味いぞ」

「東京から淡路島って、どれぐらいかかるんだ?」

「そうだな。ざっと6時間ぐらいだ」

「6時間か」

「あぁ。だから、寝ていてくれていいよ。昼過ぎには着いている」

「別に寝たりなんかしないよ。話してるさ」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

85 星の下、路の上 ③

いつも読んでくださって、本当にありがとうございます!


 

道中、蓮田と篠崎は様々な話をした。

蓮田の話題のほとんどは、音楽と、今のレコードショップと、生まれてくる赤ちゃんのことだった。

一方で、篠崎は自分が今、何の仕事をしているか、これから遊べる機会が減るのがなぜなのか。

そういったことを話そうとしなかった。

大学はすでに卒業しているはずなのだが。

だが、あまり詳しく訊くのも野暮かと思い、訊きそびれてしまった。

途中で何度か、インターに止まった。

インターで休息するというのは、なかなかに楽しいものだ。

インター独特の食べ物や施設がある。

 

 

昼過ぎに淡路島に到着し、洲本という港町に降りた。

海の香りがした。

 

「あぁ。洲本の港だ」

 

篠崎が感慨深げにつぶやいた。

その瞳は、じっと海を見つめていた。

 

淡路島は、歩くには広いが、車があればぐるっと一周回るのは難しくない。

港で軽く海の幸を食したのち、車で一周した。

それでも、安藤忠雄が設計したという花壇を見ている頃には、もう15時に差し掛かっていた。

 

「そろそろ帰らないか」

 

蓮田の提案に、篠崎は頷いた。

車に乗り込み、神戸淡路鳴門自動車道を抜ける。

途中で大型バスを追い抜いた。

 

「神戸から出ている高速バスだ」

 

篠崎が言った。

そして、何かを思案する表情になった。

 

「なぁ」

 

山陽自動車道を走っているとき、篠崎が口を開いた。

 

「神戸で降りて、夕食を食べないか?」

「え?」

「今が16時だ。さっとどこかで、2時間だけ夕食をしても、18時にもう一度高速に乗り込めば24時には東京に着く。今日中に帰ることはできる」

「いや、でも。適当にインターで食べればいいじゃないか」

「……神戸がいいんだ」

 

篠崎の声はいつになく真剣だった。

 

「今日一日だけ、お前の時間を俺にくれ」

 

蓮田はうなずいた。

神戸ジャンクションで高速を降り、高速の高架下をしばらく走る。

古びた店構えのうなぎ屋の前で篠崎が車を止めた。

 

「ここにしよう」

 

そこは、時が止まってしまったかのような店だった。

年季の入った木製の椅子は、傷んではいるがよく手入れされていて、軋んだりはしない。

ブラウン管のテレビが置いてあり、大きな音で相撲の中継をしていた。

耳の少し悪いらしい老婆が、注文を取りに来た。

二人とも、うな重の竹を選んだ。

美味だった。

湯気が立つような温かい鰻の身は柔らかく、箸でほぐすと肉が白身魚のように崩れた。

しかし、しっかりとした食べごたえもあり、粒だった米との相性も抜群だった。

お互いに、ほとんど話をせずに黙々と食した。

鰻を食べ終え、再び車に乗ると、もうあたりは暗くなり始めていた。

神戸ジャンクションから、中国自動車道に乗り込む。

吹田ジャンクションへ向かう途中、高速道路の柵の隙間から、夜の街並みが見える瞬間があった。

それは驚くほど美しかった。

山の斜面に沿って立ち並んだ家々に、ぽつぽつと灯りがともっている。

まるで光の宝石で斜面を彩っているかのようだ。

蓮田は、思わずつぶやいた。

 

「今日は、ありがとう」

「え?」

 

篠崎が素っ頓狂な声を上げる。

 

「なにを言ってるんだ。無理を言って困らせたんだぜ、俺は。礼を言われるなんて……」

「いや。楽しかったよ」

「……そうか」

「あぁ。お前は、金持ちで、恵まれていて、頭が良くて。俺の持っていないものをたくさん持っている嫌な奴だが。一緒にいると最高に楽しいよ」

 

その言葉に、篠崎がふきだした。

 

「なに言ってるんだよ」

「あ、そうだ」

「なんだ?」

「お前さ、生まれてくる俺たちの子供に、名前を付けてくれよ」

「いいのか?」

「あぁ。お前がつけてくれたら、最高に楽しい子になると思う」

「わかったよ」

 

篠崎が柔らかく笑う。

 

「男の子か? 女の子か?」

「女の子の可能性が高いらしい」

「だったら、凪子なんてどうだ?」

「凪子?」

「凪いだ海の子供。凪ってのは、平穏な様子のことだ。ひとの人生はままならない。お前だって、波乱だらけだっていつも言ってるだろ。そうならないように。平穏に過ごせるように」

 

「いいな、それ」

 

蓮田は目を閉じた。

 

「男の子が生まれたときは自分で考えろよな」

 

そんな篠崎の声を聴きながら、眠りに落ちていった。

 

 

目覚めると、八王子のレコードショップの前で、夜の23時55分だった。

 

「起きろよ。ちょうど本日中に帰ってきたぜ」

 

篠崎が誇らしげに胸を張っていた。

 

「ははは。お疲れ様。まぁ、うちに寄ってお茶でも飲んでいけよ」

 

蓮田は笑いながら、自宅のドアを開けようとした。

が、ドアが開かない。

 

「?」

 

家には母親がいるはずだ。

普段は、誰かが家にいるときは鍵をかけない習慣だった。

 

「おかしいな」

 

ドアベルを鳴らす。

が、反応は無かった。

 

「寝ているんじゃないのか? 起こすとかわいそうだぞ」

 

篠崎が伸びをしながら言った。

 

「そうだな。合鍵を使うよ」

 

鍵を使ってドアを開ける。

玄関は真っ暗だった。

やはり寝ているのだろうか。

軒先の明かりをつける。

と、玄関に母親の靴がないことがわかった。

 

「家を出ているのか?」

 

嫌な予感がする。

 

「なんだ? 何かあったのか?」

「ちょっとおかしいんだ。母親の靴がない」

「靴箱にしまっているだけじゃないのか?」

「いつも出しっぱなしなんだ」

 

二人は家に入り、寝室、客間、キッチンと覗いてみるが、家には誰もいない。

 

「まさか……」

 

青ざめた顔で蓮田が廊下に設置された電話の受話器を取る。

病院にコール。

 

受話器を置いた蓮田がつぶやいた。

 

「……死産したらしい」

 

篠崎の表情が凍りつく。

予感は当たっていたのだ。

 

 

妊娠中期以降の死産というのは、かなり珍しい。

そのめったにない確率が当たってしまった。

それも、たまたま二人で淡路島に行っていた間に。

携帯電話も何もない時代だ。

連絡のつけようがなかったのだ。

 

医者の話によると、何らかの原因で赤ん坊は胎内ですでに死んでいたらしい。

 

「おそらく、数日前でしょうか」

 

と医者が言った。

そして、「もっと早くに気がつくべきでした」とつぶやいた。

そう考えると、篠崎と淡路島に行こうが行くまいが関係なかった。

彼が旅行に誘った時点ですでに胎児は死んでしまっていた。

誰もそのことに気がついていなかっただけなのだ。

だが、篠崎はずっとうなだれていた。

自分を責めているように見えた。

蓮田は、

 

「君のせいではないよ」

 

と言おうとした。

だが、言葉が喉から出てこなかった。

子供を失った悲しみを誰かに少しでも押し付けたいという深層心理が働いた。

篠崎に、

 

「君のせいではない」

 

という言葉をかけないことで篠崎を苦しめ、少しでも自分の苦しみを分け与えたいという気持ちがあったのだ。

俺はなんて嫌な奴なんだ。

だが一方で、こんなに悲しいのだ、何をしたっていいじゃないかという投げやりな思いも頭をかすめた。

ふと顔を覗き込むと、篠崎は涙をこぼしていた。

とめどなく涙をこぼしていた。

蓮田は自分の考えを恥じた。

 

「もういいんだ」

 

と言おうとした。

だが、言葉を発する前に篠崎は深々とお辞儀をして、駆け足で病室を出て行ってしまった。

蓮田は追いかけなかった。

妻の方が心配だったからだ。

篠崎にはまた今度、謝ればいいと思った。

 

ところがそれ以来、彼は二度とステレオ・ジャックにやってこなかった。

数週間後、『本当にすまなかった』とだけ書かれた手紙が一通、届けられた。

先出し人の名前も住所も書いていなかったが、篠崎からだということはわかりきっていた。

返事を書きたかったが、書きようがなかった。

考えてみれば蓮田は篠崎の住所も下の名前さえも知らないのだ。

どんな手紙を書いたところで、宛先のない手紙は戻ってくる。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

86 レコードの中にあったもの

全てを語り終えると蓮田さんは、重く息を吐き出した。

とてもゆっくりと。

これまでの時間の鬱積を全て吐き出そうとしているかのようだった。

僕は彼の顔を見た。

表情は変わっていなかった。

丸眼鏡の奥の瞳の光は柔らかいままだ。

しかし、この一時間ほどで一つか二つ歳を経たようにも見えた。

 

「他人にこんな話をするのは初めてです」

 

蓮田さんが言った。

 

「それも、初対面の人に。ただレコードを渡すだけでもよかったのに。あなたは、人の話を聞くのが上手いらしい」

 

そんなことを言われた事がなかった。

僕はどう反応していいのか分からず、曖昧な笑みを浮かべる。

先ほどから気になっていた事があった。

聞き上手のついでだ。

尋ねてみる事にした。

 

「実は先ほど、あなたがシャッターの鍵を取るときに娘さんの名前を呼ぶのが耳に入りました。凪子さんというのですね? それは、篠崎代議士の提案した名前ですよね?」

 

蓮田さんが、あぁ、と小さく呟いた。

 

「その通りです。妻は、子供を生む事が難しくなる年齢に差し掛かってから、もう一度子供を欲しがりました。迷いましたが、子供を作る事にしました。生まれてきた子には、凪子と名付けました。私はずっと、篠崎君との約束を心残りにしていましたから」

「篠崎代議士は、そのことは知ったのですか?」

 

蓮田さんはうなづいた。

 

「レコードを預けに来た時に。私から言いました。彼はずっと悔やんでいたと思うから、その重荷を軽くしてあげたかった」

 

その時のことを思い出すように目を細めた。

 

「私を訪ねてきた時、彼は落ち着かない様子でした。服装も変わり、顔立ちもすっかり歳をとっていたが、豪快に見えてどことなく繊細な様子は昔のままだった。私は凪子を呼んで、篠崎くんに挨拶させました。彼は泣き崩れましたよ。凪子はわけがわからず戸惑っていましたが」

 

蓮田さんが楽しそうに笑う。

僕の脳裏にもその時の様子が思い浮かんだ。

 

「篠崎くんは大げさに頭を下げて、何度もありがとう、ありがとうと言いました。余りにも繰り返すものだから、私は君は鸚鵡になったのか?と、からかいました。そして私は、これからはちょくちょく遊びに来てくれよ、と彼に言ったんです」

 

蓮田さんの表情が不意に曇る。

 

「ところが、彼は曖昧に笑うだけでした。そして、おもむろに革の鞄を開き、中からレコード盤を取り出しました」

 

彼は僕が傍に抱えたレコードに向かって目配せする。

 

「そのレコードです。スティーブ・ハケットのライブ盤」

 

僕はレコードに目をやり、頷く。

 

「多少珍しくはありますが、別に大したプレミアが付いているわけでもない。数十年ぶりにやってきて、そんなもの一枚を売るのか? と訝しみました。ですが、そうではありませんでした。彼は、《このレコードを暫く預かって欲しい》と頼みこんできたのです」

 

そこまで話し、喉が乾燥したのか小さく咳き込んだ。

 

「わけがわかりませんでした。だが、篠崎くんの表情は真剣でした。私はレコードを受け取りました。訊きたい事は沢山ありました。でも、今は黙って受け取ることが、彼を長い間苦しめたことへの罪滅ぼしだと思ったのです。私がレコードを受け取ると、彼は、本当に心の底からという声で《ありがとう》と言いました」

 

篠崎代議士の深みのある声が、僕の耳にも聞こえるかのようだった。

 

「帰り際、彼の背中にもう一度、声をかけました。《また昔みたいに遊ぼう》と。彼は振り返り、手を振りました。そしてそのまま、またやって来なくなりました! 以前と同じように!」

 

蓮田さんが、語気を強める。

 

「考えてみると、彼は一度も私の言葉に頷かなかったのです。私は気付くべきでした。彼の死のニュースがテレビで流れた時、《あぁ、そういうことか》と、一瞬ひどくけだるい気持ちになりましたよ。なるほどな、と。そのあと、強い恐怖がやってきました。篠崎くんは、私に黙っていたが、国会議員だった。そして、何かあって殺された。彼が死の直前に私に渡したものがある。私はそれを持っている。分かるでしょう? この恐怖。私の身にも、何か降りかかるかもしれない。それどころか、家族にも! 私には、凪子がいる。また、子供を失えというのか!?」

 

一気にまくし立て、息をついた。

 

「だが、結局、私はレコードを捨てられなかった。何度も、深夜に車で遠くに捨てに行こうかと思いました。実際、奥多摩の地図を買ってきたりまでした。でも、無理だった。脳裏に、篠崎くんのあの時の真剣な表情が映るんです。《あと1日、あと1日保管して、誰も取りに来なければ捨てよう》 毎日そう思いながら今日まで過ごしてしまった」

 

「そのおかげで、このレコードを受け取ることができました。蓮田さん、本当にありがとうございます」

 

僕は深く頭を下げた。

彼は照れ臭そうに鼻を掻いた。

 

「まぁ、篠崎くんらしいよ。最後の最後まで、やり方がミステリアスで気障なんです。それに国会議員だって? 本当に恵まれてる。私は私で昔と同じ。彼には迷惑をかけられ通しです」

 

「でも、篠崎代議士は死んでしまいました。今では、蓮田さんの方がずっとマシな人生ですよ」

 

「どうでしょうかね」

 

やれやれというように蓮田さんは肩をかしげた。

そして苦笑して呟いた。

 

「もう一度、あいつと飲みたかったんですけどねぇ。何事もなかなか上手くいかないんです。本当に私は恵まれていない」

 

 

蓮田さんと別れたあと、僕はレコードを大切にバッグの中に隠して田町のマンションに帰った。

部屋に入ると、直ぐにレコードを開けた。中にはレコード盤が普通に入っていた。

レコード盤はどう見てもレコード盤だった。

それをレコードプレイヤーにかけてみる。

本当に、スティーブ・ハケットのライブが鳴り出した。

 

「どういうことだ?」

 

僕はレコードジャケットを手に取る。

中で何かが動く音がした。

レコードジャケットを逆さにして振ると、一枚のカードがすべり落ちてきた。

 

続く

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

87 マンションへ

転がり落ちてきたプラスチックのカードを手に取る。

 

「なんだ、これは?」

 

それはホテルなどで使用されるカード型のルームキーに見えた。

レコードはただのレコードだった。

となると、篠崎代議士が僕に渡したかったのはレコードではなく、これではないだろうか。

だが、カードだけがあっても何もわからない。

何かメッセージのようなものがないとどうしようもない。

僕は再びレコードジャケットを手に取った。

中に入っていたライナーノートを取り出す。

だが、そこにはそれらしいメッセージは何も書かれていない。

空になったレコードジャケットの内部に、何かが見えた。

内側に、薄いメモ用紙がセロテープで張り付けてあった。

これだ。

僕はメモ用紙をそっと指ではがした。

予想通り、それは篠崎代議士からの伝言が書かれた紙だった。

 

『辻君。覚えているか? 

俺の所有しているマンションの一室を。

このカードは、マンションのカギだ』

 

篠崎代議士らしい丁寧な筆致でそのように書かれている。

僕は、以前、篠崎代議士にマンションの一室に呼ばれたことを思い出した。

あれはどこだっただろうか。

そして、いつのことだったか。

このところ、目まぐるしく色々なことが起こりすぎて、記憶が混乱していた。

マンションの一室に招かれたことはずっと遠い昔の出来事のように感じられた。

だがよく思い出してみると、それはほんの数か月前のことだった。

フィリピンの学園艦事故の直後に呼び出されたのだ。

あれはたしか……杉並区だった。

だが、マンションの名前まではうまく思い出せない。

僕はこめかみを撫でた。

○○エステートだったような記憶はある。

パソコンを起動させ、インターネットを開く。

≪杉並区/マンション/エステート≫で検索をかける。

大量の物件が検索画面に出てくる。

エステートという名前を冠したマンションはあまりにもありふれたもののようだ。

エステートの意味は、地所や団地、動産だ。

マンションの名前としては、あまりにもありふれている。

僕は舌打ちをした。

唯一の手がかりは、エステート○○ではなく、○○エステートだったという記憶だ。

そして、確か、杉並という言葉は入っていなかった。

地名が入っていないな、と思った記憶がある。

検索の上位に挙がってくる名前のほとんどは例えばエステート高円寺のようにエステート○○だ。

これらを除外していくと、おのずと限られてくる。

それと同時に、画像検索も利用した。

外見はぼんやりとだが覚えている。

15階建ての高層マンションだったはずだ。

低層や団地のようなものは除外できる。

そうしていくと、残ったものは、外ノ池エステート杉並という、外見の出てこなかったマンションと、シャイン・エステート・セガミというマンションだった。

ほぼシャイン・エステート・セガミの方だと思った。

が、一応、確認はしておきたい。

僕は、時計を見た。

まだ夜の22時だ。

一応、薄手のジャケットを身にまとい、外に出た。

駅前でタクシーに乗る。

まずは外ノ池の方をあたった。

明らかに外見も方向も、記憶と違っている。

そのまま通り過ごし、今度はシャイン・エステート・セガミの方へと向かった。

ビンゴだ。

数か月前、篠崎代議士に連れられて訪問した、マンションにたどり着いた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

88 シャイン・エステート・セガミ

いつも読んで下さりありがとうございます。


シャイン・エステート・セガミの前でタクシーを止め、夜の通りに降りた。

秋が忍び込んでいた。

ほんの少し肌寒く、ジャケットを羽織ってきて正解だったと思った。

通りの向かいの喫茶店のドアがひっきりなしに開いて、会社員やら若い男女やらが出入りしていた。

彼らは一様に、深い悩み事とは無縁に見えた。

それは僕の思い込みなのだろうけれど。

僕は、財布にしまっておいたルームキーを取り出してマンションの入り口のセキュリティシステムに押し当てた。

扉が開く。

意を決して、中に一歩足を踏み込んだ。

エントランスホールは広い。

高級そうなワンピースを着た高齢の婦人が、エレベーターから降り、こちらへと歩いてきた。

僕のことをちらりと見た。

見慣れない人間だと思ったのか。

それとも、僕がよほど緊張した面持ちでもしていたのか。

数秒目が合ったのち、老夫人は興味をなくしたというように通り過ぎた。

僕はエレベーターのドアの前に立った。

以前と同じように、高級感のあるエレベーターに乗り込み、11階へと向かう。

部屋番号は覚えていた。

マンションの部屋の扉も、ルームキーで簡単に開くことができた。

拍子抜けをするぐらいに物事がスムーズに進んでいる。

部屋の中に入ると、すぐに入り口のボタンで灯りをつけた。

中の様子は以前とほとんど変わりがないように見えた。

物のほとんどおいていない、すっきりとした部屋だ。

すっきりとした広い部屋特有の寂しい心地良さを感じた。

奥に設置されたステレオセットもそのままだった。

電源はきっちりと切られている。

レコードプレイヤーには、アート・ペッパーのレコードがセットされていた。

数か月前も篠崎代議士はここでアート・ペッパーの後期のレコードを聴いていた。

時が凍りついて止まってしまっているようだ。

 

「さて……」

 

僕はつぶやく。

ここからが正念場だ。

この部屋のどこかに、なんらかの、篠崎代議士が僕に伝えたい物事が隠されているはずだ。

だがそれが一体何なのか、全く見当がつかない。

どのようにして探せばいいのだろうか。

僕は部屋を見渡した。

幸いにして、この部屋にはあまり物がない。

何かを隠すにしても、場所は限られてくるし、目立つだろう。

僕はとりあえず、引き出しや冷蔵庫などの収納部をあたることにした。

だが、驚くほど何もなかった。

引き出しの中は空っぽ、冷蔵庫にはソーダと冷えたジン(それはタンカレーだった)があるだけだ。

続いて、レコード盤の内側をチェックする。

先ほどのように、内側にメモが貼ってあるということもなかった。

僕は頭を掻いた。

どうしたものだろうか……。

と、机の上に置いてあるノートパソコンに目が行った。

これは……。

数か月前、この部屋を訪問した時、ノートパソコンはあっただろうか?

記憶は定かではなかった。

ノートパソコンなんて、あって当然だという思い込みから、今まで気にしていなかったが。

もしかしたら、あのときは置いていなかったかもしれない。

気になったのは、ノートパソコンの電源部だった。

点滅している。

電源を切りきっていないのだ。

スリープモードのまま放置されている。

僕は、慎重にノートパソコンを開いた。

と同時に、画面が立ち上がる。

動かされることによってスリープ状態が解かれたのだ。

パスワード入力画面が現れる。

僕は舌打ちした。

どうやって推測しろというのだ。

とりあえず、『sinozaki』と入力してみる。

エラーが表示された。

が、下部にパスワードのヒントが提示される。

そこには、Steely Dan From?と書かれていた。

僕はすかさずyokohamaとタイプした。

タイプしながら、思わず笑みがこぼれる。

ウィリアム・バロウズじゃないか。

実に篠崎代議士らしい。

パスワードが解かれ、ウィンドウズ画面が表示される。

タスクバーにワードファイルが残されていた。

僕はそれをクリックした。

ワードファイルが画面上に開いた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

89 男

いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!
ご評価も、ありがとうございます!


ワードファイルに書かれていることをすべて読み終えると、僕はそれを閉じた。

そして少し迷ったが、そこに書いてあった頼みごとの通り、ファイルを消去した。

ノートパソコンを閉じる。

そして、ターンテーブルのそばの棚をちらりと見て、鞄を手に取ると部屋を出た。

廊下に男が佇んでいた。

男はジャージ姿で、ベースボールキャップのようなものを目深にかぶっていた。

ベースボールキャップには、大きな狐の刺繍がしてあった。

男は僕を見ると、こちらに歩み寄ってくる。

僕は一瞬後ずさりしたが、男はすれ違うだけで通り過ぎた。

ほっとしたのはつかの間だった。

背中に、何か固いものが押し付けられた。

 

「動くな」

 

男にしてはややトーンの高い声だった。。

 

「俺が押し付けているのは銃口だ。篠崎と同じ目にあいたくなかったら手を上げろ」

 

僕は言われるがままに手をあげた。

どうしようもなかった。

 

「素直ないい子だ」

 

男が優しげな猫なで声を出した。

 

「そのまま、もう一度ドアを開けろ」

「ドアを開けるには、ルームキーが必要だ。それを取り出さないと開けることはできない」

「それはどこに入っている?」

「鞄の中だ。財布に挟んである」

 

鞄は、僕が両手を挙げたおかげで地面に転がっていた。

男が舌打ちをした。

 

「そのまま動くなよ」

 

言いながら、転がっていた鞄を取る。

片手は銃を僕の背中に押し付けたまま、もう片方の手だけでチャックを開けようとしたが、上手く行かない様子だった。

しばらくして、ようやくとりだしたらしい財布が足元に投げ捨てられた。

ルームキーを取ればあとは邪魔なだけだからだ。

 

「体を横にずらせ」

 

僕は頷いた。

体を少しひねると、男がルームキーをドアノブのすぐ上に設置された認証機にかざした。

開錠された証拠のカチッという男が聞こえた。

 

「お前が開けろ」

 

男の言葉に従い、ドアを開ける。

僕は再び、篠崎代議士の部屋に戻ることになった。

もう夜も遅い。

部屋は真っ暗だった。

男が、声に凄みを持たせて言った。

 

「灯りをつけろ」

 

灯りのボタンが分からないらしい。

このマンションはデザイナーズマンションで、灯りのスイッチの造型に凝っていた。

入り口付近の壁に、タッチパネル式のスイッチがあるのだ。

僕は、男に言った。

 

「今つける。少し体を動かさせてくれ」

「さっさとやれ」

 

僕は体をひねった。

ほとんど賭けのようなものだった。

体をひねった瞬間に、男の脇腹に肘でエルボーを入れた。

男はうめき声をあげた。

男の手が僕の背中から離れた。

僕はその手を思いっきり蹴りあげた。

拳銃が床に転がった。

男が何か声を発しようとする前に、今度はその顔面を蹴った。

男が蹲った。

僕は男に覆いかぶさるようにして、男を押し倒した。

男は僕よりも小柄だった。

押さえつけることができた。

ベースボールキャップが脱げ、素顔がさらされていた。

声を聴いて予想した通りだった。

芹澤だ。

だが、彼の風体は随分と僕が知っているものとは異なっていた。

頬が少しそげ、無精ひげが散らかっていた。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

90 暴力

いつも読んでくださり、ありがとうございます!


「小汚い恰好をしても、成金趣味は変わらないな」

 

僕は床に落ちたKitsuneのベースボールキャップを見ながら言った。

 

「抜かせ」

 

芹澤が唾を吐いた。

それは馬乗りになって押さえつけている僕のシャツを汚した。

スーツカンパニーのセールで買った2500円のシャツだった。

それでも少し腹が立った。

 

「初めて会った時から、分不相応のブランド趣味が気に食わなかったんだ。そのジャージもひん剥いてやろうか」

 

僕が声を荒げると芹澤はひるんだ顔をした。

これも予想通りだった。

この男は、人を殺せるほどの度胸を持ち合わせてなどいない。

かつての付き合いから僕はそう思っていた。

恐らくは拳銃も偽物だ。

僕は芹澤を羽交い絞めにしながら後ろ向きにさせようとした。

こいつの手足を縛るなりしなくてはならない。

だが、手元には今縄も何もない。

せめて両手を後ろに組ませて何もできなくさせるべきだと思った。

だが僕が後ろをむかせようとした隙に芹澤が僕の顔面に頭突きをくらわせた。

鼻面に痛みが広がる。

なかなか強烈な一発だった。

僕は彼を見くびっていたことを恥じた。

今度は彼の反撃の番だった。

芹澤が拳に体重を乗せて僕の腹を殴った。

胃袋に刺激を感じ、喉元に熱いものが逆流した。

足を払われ、僕は盛大に転がされた。

転んだ拍子に顔を床で打った。

口の中に苦い味が広がった。

起き上がろうとしたところに芹澤のキックが飛んできた。

眼鏡が吹き飛ばされる。

失力の弱さを狙った攻撃だった。

視界が一気にぼやける。

そこに拳の嵐が降った。

僕は避けることもろくにできず馬乗りにされ、殴られた。

頭を強く殴られた時、意識が飛んだ。

 

 

気がつくと、椅子にくくりつけられていた。

芹澤ははじめからロープを用意してきていたらしい。

どれぐらい時間が過ぎたのか判然としなかった。

腕時計を見ようとしたが、両手ごとくくりつけられていた。

外はまだ暗かった。

夜が明けていないことは確かだった。

 

「目が覚めたか」

 

芹澤がやってきた。

彼は手にペットボトルのコーラを持っていた。

床を見ると、カップラーメンの残骸が無造作に置かれていた。

僕が伸びている間に、コンビニにでも行ってきたのだろう。

暢気なものだと思った。

 

「篠崎が残したメッセージはどこだい?」

 

背筋が寒くなるような猫なで声を出した。

これだけ人を殴っておいてよくもまぁそんな声を出せるものだ。

 

「なんだ、見つけられないのか」

 

僕は笑おうとした。

だが、顔面を激しく殴られたせいで、唇の端をほんの少し歪めるのがやっとだった。

ハンフリー・ボガードがよくこんな笑い方をしていたような気がする。

芹澤が僕のくくりつけられた椅子を蹴った。

僕は再び転ぶことになった。

僕の髪をつかんで起き上がらせると、芹澤が顔を覗き込んで言った。

 

「あまりふざけるなよ。メッセージはどこにある?」

 

口を開くと鋭い痛みが走った。

 

「ノートパソコンの中だ。テキストファイルがある」

「馬鹿にするなよ? そんなものチェック済みだ」

「馬鹿はあんたの方だ。篠崎代議士の遺志で、消去したんだ」

 

その言葉に芹澤の目が見開かれる。

 

「あわてるな。ゴミ箱に放り込んだだけだ。まだ再現できる。どうせドキュメントフォルダしかチェックしなかったんだろう」

「いつでもお前を痛めつければ、隠し場所なんて吐かせることができるからな」

 

芹澤が拳を撫でた。

拳には僕のものらしき血がにじんでいた。

 

「そんな手で夕食をとったのか。いい神経をしているな」

 

僕の言葉に芹澤は、自分の拳を見た。

まじまじとそれを見つめていた。

まるで初めて今、自分の拳が血だらけだということに気がついたようだった。

 

「何日もろくに食事をとっていなかったんだ。感覚がマヒしてしまっている」

 

芹澤が言った。

 

「お前がこのマンションにやってくる日を、向かいのカフェでずっと待っていた。県議会の会期までにお前が現れてくれて助かったよ」

 

一瞬どういうことだかわからなかった。

それからようやく頭が、マンションの向かいにあった24時間経営の喫茶店のことだと理解した。

 

「そういえば、向かいに喫茶店があったな」

「篠崎がこのマンションを保有していることは知っていた。だが、セキュリティシステムのおかげで中に入ることができない。部屋の鍵もない。お前がやってくることはわかっていた。だから俺は待ち続けたんだ」

「無精ひげだらけなのはそういうことか」

「ろくでもない風体になっちまった」

 

芹澤がノートパソコンに歩み寄り、電源を入れた。

 

「さて、テキストをチェックさせてもらうぞ」

「あぁ。勝手にするといい。ただし、お前が求めているようなものはないぞ」

「どういうことだ?」

 

芹澤が振り向いて僕を睨む。

 

「言葉通りの意味だ。テキストファイルはゴミ箱に入っている。復元して読んでみろ」

 

芹澤が外付けのマウスを操作する。

ゴミ箱をクリックし、捨てられたファイルを戻したようだ。

画面にワードが立ち上がったのが見えた。

文章を読み進める芹澤の肩が震えていた。

僕は芹澤の背中に問いかけた。

 

「どうだ? それがお前の望むものだったか?」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

91 テキスト・ファイル

いつも読んでくださり、ありがとうございます!


辻君

 

俺のゲームに付き合ってくれてありがとう。

ここまでたどり着くのにはそれなりに苦労しただろう?

日々の生活を忘れ楽しんでくれたなら幸いだが。

いや、むしろ君は怒るだろうか。

肩透かしだと思うだろうか。

この文書が、もっと大事なものだと期待していたのではないだろうか。

 

もともとはそうだった。

俺はついさっきまで、告発めいた文書を書いていた。

だがそれをたった今、すべて消したんだ。

告発文を書き終え、スコッチのソーダ割りを一杯飲んだら、考えが変わってしまった。

 

俺は狙われている。

遠からず殺されるかもしれない。

ある人物、古い友人が、俺にそのことを教えてくれた。

彼は俺に災いは避けるべきだといった。

だが俺は、逃げたくはなかった。

これでも政治家だからな。

そこで、いざという時のための告発文をしたためておくことにした。

それが、たった今、自分で消した文書だ。

理由は簡単さ。

俺に情報をリークしてくれた古い友人に迷惑がかかるからだ。

彼の身も危うくなるかもしれない。

せっかく俺を助けようとしてくれた友人を危ない目に合わせたくない。

 

そんなわけで、この文書の趣旨は、まったく変えることにする。

辻君、君へのちょっとした懺悔の書にするよ。

君はこれまで俺を慕い、ついてきてくれた。

だが俺は、先日君にひどいことを言った。

政治という世界にいつしか染まりきって、卑怯な人間になりかけていた。

打算や、人を利用することで生きるようになっていた。

俺は後悔しているよ。

政治は情と利だなんて言ったことを。

それは事実かもしれないが、それを受け入れてしまうと、もっと世の中は悪くなる。

俺は今でも、ちゃんとロックを愛している。

その想いをこめて、君と昔聴いた音楽のレコードにルームキーを隠した。

 

ここまでわざわざ来てもらって、本当にすまなかった。

俺からの伝言は、以上だ。

適当に作ったスコッチのソーダ割が、ずいぶんと美味い。

たった一杯で、ほろ酔い気分だ。

文章が支離滅裂だったとしたら申し訳ない。

若いころに読んだチャンドラーの小説に、フィリップ・マーロウがとても美味しそうにスコッチのソーダ割を飲む場面があった。

銘柄は書いていなかった。

俺はずっと、そんな美味い一杯が飲みたいと思っていた。

今日それを味わえたような気がする。

ほんの少しだけ、幸せな気分だ。

 

P・S 

 

この文書は読み終えたら破棄してほしい。

 

もうひとつ、P・S  

 

俺が今飲んでいるウィスキーは、ターンテーブルのそばの棚に入れてある。もしよかったら君にあげるよ。持って帰って、家で飲むといい。

 

ここまでわざわざやって来て肩透かしを食らった駄賃にしてはつまらないものかもしれないが、どうかこれで許してほしい。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

92 トンネル政党

いつも読んでくださってありがとうございます!!
お気に入り登録も本当にありがとうございます。



「なんてこった! なんてこった!」

 

芹澤が狂ったように声を上げる。

彼はノートパソコンが置いてあった机を拳で叩き、それから髪をわしゃわしゃと掻いた。

 

「なんだ、この文書は!? ほとんど無意味じゃないか!! 俺は勘違いをしていたのか!!」

 

僕は椅子にくくりつけられたまま、芹澤を睨みつけて言った。

 

「だから言っただろう、お前の求めているようなものではないと。お前の行動はむしろ藪蛇だったんだ」

「くそっ!」

「もう大体察しはついているぞ。文書に書かれていた古い友人とは、お前の事だろう芹澤?」

 

芹澤が黙り込む。

今度は彼の目線が僕を睨みつけた。

冷たい、乾いた目線だった。

 

「否定をしないんだな。あの文書を読んだ時、古い友人とは誰なのかが気になった。高田や蓮田さんじゃないのは確かだ。

 彼らは何も知らない。高田に関してはこの件に関わることを躊躇してさえいた。

 そこで思い出したのがお前だ。お前は、若い頃に篠崎代議士とかなり仲が良かった。

 その上に、お前は戦車道や学園艦利権と繋がりがある。篠崎代議士を撃ったのは、おそらくは学園艦利権に絡んだ反社会的勢力だ。

 そしてそれは、10年前に私の携帯を撃ち抜いたのと同じか近しい団体だ」

 

「黙れ、このくそが」

 

「黙らないぞ。これは私の推測だ。私は刑事でもなんでもない。だから、考えたときはまさかそんなと思った。

 だが、実際にお前がこうしてやってきた。ビンゴだった。

 お前は、篠崎代議士に忠告した。だが篠崎代議士は忠告を聞かなかった。そして殺された。問題はそのあとだ。

 お前は篠崎代議士がメッセージを残していることを知った。そこに告発文が書かれていると思ったんだ。それが表に出ると、お前の立場が危うくなる。

 もともとは篠崎代議士を助けるために事態を教えたのだろうが、篠崎代議士が死んでしまった今となっては、お前にとっては全く無意味だ。それどころか自分が危険になるだけだ。

 それでメッセージを消しに来た。そうなんだろう?」

 

「…………」

 

芹澤は黙っていた。

僕は声を荒げた。

 

「そうだと言えよ!!」

 

僕の声に対応するかのように芹澤がもう一度強く机を拳で殴った。

 

「あぁ、そうだよ、その通りだ! 俺が篠崎に情報をリークした。

 なのにあいつは俺の忠告を聞かなかったばかりか、勝手にメッセージを残しやがった!最低な卑怯者だと思った。俺を殺す気なのかと思った。

 このマンションのことは知っていた。俺が篠崎に情報を伝えたのもここでのことだ。

 なんとかしてメッセージを消そうと思った。それが……くそっ! 俺の危険を想ってだと!? メッセージをすべて消して書き直しただと!?」

 

「お前は馬鹿だ。お前の行動はかえってお前が関係者だと知らせることになったんだ」

 

「くそっ!」

 

僕は芹澤の顔を見据えて言った。

 

「お前が関わっていること、そして与党である熱政連も学園艦利権と根が深いこと。お前が与党の議員に陳情に来ていたこと。

 これらを考えれば、大方予想がついてきた。

 お前ら国家刷新党あるいは『新しくする会』は、政府与党と同じ政治グループだ。

 お前らは、表向き威勢のいいことを言って政府を批判して改革派を気取っているが、 法案審議ベースで見てみると、ほとんどの与党案に賛成だ。

 さらには、政府が表だって提案しにくいようなダーティな案件を自ら法案として提出し、政府がそれに乗る形で採決に持ち込んでいる。

 お前らは、野党よりも先に政府批判をしてガス抜きをするプロレス的役目と、政府が口に出しにくい利権がらみの提案を外部から出た形で法案審議に乗せることが目的のトンネル政党だ。

 上ではすべて与党と話がついているんだ」

 

「そんなもの、お前の妄想だ」

 

「妄想じゃない。真実だ」

 

僕がはっきりと彼の瞳を見据えると、芹澤はあきらめたかのように盛大にため息をついた。そして、口元に小さな笑みを浮かべた。

 

「…………廉太君、やるじゃないか。正解だ。思ったよりも頭が冴えてるじゃないか」

 

ゆっくりと僕に近づいてくる。

 

「篠崎の奴は、馬鹿なんだ。党内で敵ばかり作るから、横の繋がりが見えていなかった。彼は裸の王様だったんだ。

 彼は学園艦および戦車道の利権を潰そうとしたが、それは手を出すべき分野ではなかった。それは熱政連の一部の連中の利権ではない。国を挙げての大きな利権なんだ。

 中途半端な正義や自分の発言力の補強のために手を突っ込んでいい分野じゃなかったんだ。

 なぁ。篠崎がなぜ、死を受け入れたかわかっているか?」

 

「それは……わからないが」

「篠崎を殺せと命令した連中。それは彼の対立陣営ではないぞ」

「え?」

「むしろ、彼の派閥の幹事長だ」

 

続く



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

93 利権のシステム

いつも読んで下さりありがとうございます!
セリフが長いですが、よろしくお願いいたします。


「篠崎は唖然としていたよ。その名前は、政府の中枢幹部、それも自分自身の派閥の幹事長の名前だったんだからな」

 

「篠崎代議士の派閥も、学園艦利権に一口噛んでいたのか?」

 

「違う。だが、派閥としては、政府の利権に手を突っ込みたくなかったんだ。

 篠崎は世論をうまく利用して、やりすぎた。本当に学園艦利権を潰すところまで来ていた。

 これではもうプロレスでは済まなくなる。

 派閥としての落としどころとしては篠崎の命といったところに落ち着いたわけだ」

「なんて最低な話だ……」

 

僕は首を振った。

 

「そんなもんさ、世の中は。だが篠崎は大きなショックを受けた。

 自分は派閥から見放された。守ってもらえなかった。それどころか、裏切られた。

 これまで、派閥の中で登り詰めようと努力してきたすべてが、奴の中でガラガラと音を立てて崩れてしまったんだろうよ。俺の話を聞いたとき、奴は本当に呆然としていた。

 もう、抜け殻のようになってしまっていた」

 

思い出すかのように芹澤が目を閉じる。だが、足取りはしっかりと僕の方へと向かっていた。

 

「ほかに聞きたいことはあるか? 出血大サービスだ」

 

「戦車道だ。学園艦利権以外に、戦車道にも大きな利権があるのか?それらは繋がっているのか?」

 

僕は以前、大洗で脅迫めいたことをされたことを念頭に置いていた。

10年来の謎が解ける瞬間だった。

 

「あれこそ大きな利権だよ。今の日本では戦争はできない。

 だからこそ、戦車道は素晴らしいシステムなんだ。いいや、むしろ戦争以上というべきかもしれないな」

 

「どういうことだ?」

 

「考えてもみろ。定期的に安定して戦闘が繰り広げられ、実弾が使用され、戦車や道路や建物が破壊される。

 これ以上見事な、消費活動はあるか? 軍産企業や土建屋からしたら最高の仕組みだ」

 

芹澤が笑う。

犬が咳き込むような笑い方だった。

 

「中東にでも戦車を送り込んでいろ」

 

僕は皮肉めかして呟いた。

 

「馬鹿か。『怪我をしない』からこそ支持されているスポーツなんだ。

 そんなことをすれば人気を失う。誰もやりたがらなくなる。子供の戦争ごっこに留めておくのが一番いいんだよ。

 国にすりゃ、戦車が破壊されて、弾が減って、生産が求められれば御の字なんだ。人が死ぬかどうかじゃないんだよ」

 

その言いぐさにひどく腹が立った。

この男は昔からそうだった。

戦車道を票田にしながら、それをちっとも愛してなんかいない。

ただの産業として受け止めている。

 

「いいか。俺は昔からノンポリなんだ。

 右翼の集会にも顔は出すが、それは票のためだ。国家も戦争も愛国も何でもいいんだよ」

 

僕は大洗町議会で、芹澤が国旗の常時掲揚条例を提出したことがあったことを知っていた。

反対する議員を彼が売国奴と罵っていたことも知っていた。

それらすべてが芹澤の中では空虚な演劇なのか。

 

「戦車道の試合ってのは最高に効率的なシステムだ。

 バンバン弾を使って、バンバン戦車をぶっ壊すんだからな。道路も家も壊したい放題だ。

 業者は毎日でも試合をしてほしいってもんだろう」

 

構造が見えた気がした。

戦車道の裏には、軍需産業や工事業者など、試合によって儲けられる企業連合がある。

彼らからすれば、定期的に行われる試合は、安定した発注につながるシステムなのだ。

いつ起こり、いつ終わるかわからない紛争や戦争よりも、常態的に儲けを得ることができる。

 

となれば、企業連合からすれば、戦車道の人気を盛り上げ、試合回数を増やす必要がある。

そのためには、マスコミや議員など、様々な権力を抱き込む必要がある。

戦車道を票田とする子飼いの議員たちを造ることによって、彼らに国会で戦車道の後押しをさせる発言をさせることができるというわけだ。

 

恐らくは政府与党に莫大な献金もしていることだろう。

2年後に行われる世界大会も、プロパガンダの一環というわけか……。

下火となっているはずの戦車道と世界大会という取り合わせにはどことなく違和感を感じていたのだ。

強引な後ろ押しが見え隠れする。

 

「……純粋にスポーツを楽しむ子供たちを利用しやがって」

 

僕の言葉に芹澤が答えた。

 

「どのスポーツだって同じさ。儲けがなけりゃスポンサーなんてつかない」

 

僕は舌打ちをした。

 

「怖い顔をするなよ。もうひとつ面白いことを教えてやる。篠崎が消されるという噂が出回った時期だ」

「時期?」

「九月の終わりだよ」

 

頭を打たれる思いがした。

それは僕が、無理矢理に大洗の再度の廃艦を伝えた時期に合致していた。

 

「さて、話は終わりだな」

 

芹澤が目の前に立っていた。

指が、僕の首筋を這った。

 

「悪いが、廉太君はここで死んでくれ」

 

僕の喉元に這わされた指先に力がこもる。

僕は逃げようとしたが、逃げることはできなかった。

椅子にくくりつけられ、身動きが取れなかった。

詰んでいた。

どうすることもできない。

僕は死を覚悟した。

 

「う、ぐっ」

 

だがその時、インターフォンのベルが鳴った。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

94 大洗女子が、守ったもの

いつも読んで下さり、ありがとうございます!
ご評価・ご感想、お気に入り登録、ありがとうございます!


 

唐突なインターフォンの音に、芹澤が狼狽した。

その様子から、芹澤の仲間がやってきたのではないことは明白だった。

芹澤が僕を睨んだ。

 

「どういうことだ」

「わからない」

 

僕は首を振った。

本当に意味が分からなかった。

 

「くそっ! 訪問販売か何かか? だがここはセキュリティマンションだぞ」

「お前と同じように、誰かが入った隙に一緒に入ればいいだけだ」

 

「……やり過ごすか」

 

音を潜め、じっとしているともう一度インターフォンが鳴った。

 

「誰が来ているんだ?」

 

小声で芹澤が呟くと同時に、ドアをたたく音が聞こえた。

芹澤の体が音に反応してびくんと震えた。

続いて、ドアの外から声が聞こえた。

 

「おぉい、辻さん。いるんでしょ? 返事してくださいよぉ。どうしちゃったんですかぁ?」

 

今度は僕が狼狽する番だった。

 

「人を呼んでいたのか!?」

 

驚いて尋ねる芹澤に僕は首を振った。

 

「そんな覚えはない」

「立て!」

 

芹澤が僕の縄を外し、僕が逃げないように注意を払いながら慎重に立ち上がらせた。

先ほどのようにエルボーを食らわせられないように、右腕を警戒しながら僕の背中を押す。

 

「ゆっくりと歩け。誰が来ているかチェックするんだ」

 

僕は頷いた。

逆らってもどうしようもない。

むしろチャンスを待つべきだと思った。

僕はゆっくりと音をたてないようにドアに近づき、ドアスコープから外をのぞいた。

ずんぐりとした田舎くさい男が立っていた。

40代後半ぐらいだろうか。

髪はやや長めで、サラリーマン風ではない。

青いネルシャツの上に黒いジャンパーを羽織っていた。

見覚えがあった。

篠崎代議士が買収した雑誌の記者だったはずだ。

確か、佐古という苗字だったか。

 

「見覚えがあるのか?」

 

耳元で芹澤がささやいた。

僕は小さく頷き、

 

「雑誌の記者だ」

 

と言った。

 

「雑誌?」

「あぁ。篠崎代議士の知り合いだ」

「なにか嗅ぎ付けたというのか?」

 

芹澤が悔しそうに歯を食いしばる。

その間にももう一度インターフォンが鳴った。

 

「辻さん、いるんでしょう? 開けてくださいよ。私ですよ。以前お会いしたことある佐古です。学園艦の記事でお世話になったものです」

 

芹澤が大きく息を吸う音が聞こえた。

どうすればいいのか判断がつかないという様子だった。

 

「ちょっとお尋ねしたいことがあるんです! 開けてください。それとも何か、開けられない事情でもあるんですか? 救急車でも呼びましょうか?」

 

救急車という言葉に芹澤が反応した。

人を呼ばれると不味いことになると思ったのだろう。

舌打ちをしながら、ドアノブに手をかけた。

ドアを開くと同時に、佐古の手をつかみ、マンションの中に引き入れた。

佐古が小さく悲鳴を上げた。

その声が終わらぬうちに、芹澤の右手が顔面を殴っていた。

僕はその瞬間を見逃さなかった。

がら空きになった背中に向けて突進し、力の限りに蹴りを入れた。

芹澤の体が左方向へと薙ぐように倒れる。

佐古が僕を見た。

 

「佐古さん、そいつを殴って!」

 

僕の言葉を理解し、即座に芹澤に飛び掛かった。

右の拳で鋭いストレートを芹澤の顔面に撃ちこんだ。

鈍い音がした。

芹澤の後頭部が、床に強くたたきつけられた音だった。

続いてもう一発、拳を芹澤の頭に入れた。

芹澤が沈黙した。

気絶したようだった。

僕は佐古の手際の良さに驚いた。

ずんぐりした体躯からは想像もつかなかった。

 

「格闘技でもしていたんですか?」

「たまたまですよ」

 

佐古が立ち上がった。

 

「どうにもとんでもない状況になっていたみたいですね」

 

僕の腫れあがった顔を見ながら面白そうに言った。

 

「ずいぶんとひどく殴られたみたいに見えますけど。こいつにやられたんですか?」

 

僕は頷いた。

床に落ちている、僕をくくっていた縄を見て佐古が言った。

 

「深夜に秘密のマンションで男同士のSMプレイ……ってなわけじゃなさそうですね」

 

その縄を手に取り、気を失った芹澤の両腕両足をくくる。

 

「あぁ。そんなに楽しいものじゃありませんよ」

 

僕はようやく一息がつける思いがした。

体中の疲れがどっと溢れかえってきた。

 

「佐古さん、どうしてここに?」

「いま、篠崎さんの暗殺の件で調べていましてね。そうしたら、篠崎さん子飼いの役人さんが頻繁に八王子なんかに行くじゃありませんか。なんかありそうだな、と」

「どうしてこの部屋が分かった」

「篠崎さんの身辺調査を徹底的にさせてもらいました。変な物件持ってるなと思いまして。この部屋、名義は篠崎さんですが、買ったのも、かつて使ってたのも別人です。部屋番号をメモっといて正解でしたよ」

「タイミングが良すぎる。私を尾行してたんですね?」

「それが何か?」

 

悪びれず舌を出す。

 

「本当はマンションから出てきたところを直撃取材するつもりだったんです。それがちっとも出てこない。

 おかしいなって思ってたら、拳に血痕つけたヤバそうな男が出てきてコンビニに行ったから。

 こりゃなんかあったなってね。記者の勘ってヤツっすよ」

「あの救急車ってのはわざとですか?」

「ご明察。そういえば開けると思ったんです」

「・・・助かりました」

 

僕は頭を下げた。

 

「お礼に、なにがあったかちゃんと教えてくださいよね。そのために助けたんですから」

 

商魂たくましい表情で佐古が身を乗り出した。

僕は、彼に事のあらましを言って聞かせた。

佐古は僕の言葉を、興味深そうに聞きながら、ボイスレコーダーに録音していた。

すべてを話し終えて、僕は佐古に問いかけた。

 

「でも、あなたのところの雑誌は熱政連にも買収されていたんじゃないんですか?」

 

佐古が豪快に笑った。

笑うとヤニに黄ばんだ歯が目立った。

 

「やだなぁ。私らは振り子みたいなもんですよ。面白そうなネタがあったら食いつくんです。それが記者ってもんですよ」

 

ひどい言い草だった。

だが不思議と腹は立たなかった。

この佐古という男の飄々としたキャラクターが憎めなかった。

 

「ま、私のことを命の恩人だと思ってくれるなら、警察には行かないでくださいな。うちの大スクープにしたいですから。

 これ、すごい大ネタですよ。ことによれば、政権がひっくり返るかもしれない」

 

僕は少し考えてから同意した。

篠崎代議士の暗殺の件でも、警察はろくに動いているように見えなかった。

もしかしたら、彼らは与党に阿っているのかもしれない。

僕はもはや公的権力を信用できなくなっていた。

 

「それにしても、一つ謎があるんです」

「ん? なんですか?」

 

立ち上がって帰ろうとする佐古に問いかけた。

 

「この男。芹澤。とんでもない奴なんです。でも、どうして篠崎代議士を助けようとしたんだろう」

 

佐古が芹澤をちらりと見た。

 

「さぁ」

 

と、一言言ってから、言葉をつづけた。

 

「でもねぇ。私ら、この業界に長くいて、いろんな事件を取材しましたけどね。訳の分んないことってのは多いですよ。

 ことさら、人の感情だとか、行動だとかは。その人もなんか、魔がさしたんでしょうねぇ。怖い人や冷酷な人が、急に優しくなることってあるもんです」

 

 

佐古が出て行った後、僕はもう一度芹澤を見た。

彼はいまだ気を失い、床に寝そべっていた。

僕は彼を殺してやりたい衝動に駆られた。

このまま、首を絞めれば息の根を止められる。

僕の脳裏に、彼にめちゃくちゃにされたもの……父や母の顔が浮かんだ。

だが、篠崎代議士の顔が浮かんだ時に、考えが変わった。

篠崎代議士は、この男を生かすために、告発文を消した。

二人の間には、何かあるのだろう。

僕の知らないような何かが。

篠崎代議士の遺志を尊重したいと思った。

今後もしも、事件が雑誌の記事になれば、この男の身もどうなるかわからないだろう。

だがそこまでは僕の知ったことではない。

僕はポケットに入れていたルームキーを彼のそばに投げ捨て、縄をほどいた。

そして、少し迷ってから、篠崎代議士がメッセージに書いていたスコッチを鞄に入れた。

本当はそれを持って帰るつもりはなかった。

それを受け取ると、篠崎代議士の謝罪を受け入れてしまうことになりそうだったからだ。

だが、ひどく酒が飲みたかった。

篠崎代議士の遺した酒を。

 

 

マンションを出ると、すぐ近くにコンビニがあった。

僕はそこに入った。

篠崎代議士が飲んだのと同じソーダ割りが作りたかった。

ウィルキンソン炭酸を一つ手にとって、レジに向かった。

 

店内には人はいなかった。

退屈そうな中年のアルバイトが1人いるだけだった。

僕の腫れた顔を見て、彼は驚くだろうかと思ったが、チラリと見ただけで無反応だった。

芹澤の時もこの調子だったのだろう。

自分でも理由がわからないのだが、彼の顔を見ていると、唐突に煙草を注文したくなった。

 

「煙草もください」

「何番ですか?」

 

のっぺりとした声だった。

実は僕は煙草を買ったことがなかった。

番号を言うのだということを初めて知った。

適当な番号を口にする。

店員が、赤いマルボロを一つ差し出した。

僕は一緒にライターも買った。

 

外に出ると、煙草を吸った。

それは生まれて初めて吸う煙草だった。

意外にむせたりしなかった。

夜風に、煙草の煙が溶けていく。

 

 

家に帰り、ノートパソコンを立ち上げると、戦車道のDVDをセットした。

それを見るのは久しぶりだった。

ビデオの中の彼女たちは、やはりきらきらと煌めいていた。

 

気がつくと僕は泣いていた。

 

『彼女たちには何の罪もないのだ』

 

と思った。

あの、大洗女子たちも。

彼女たちは、ただひたすらに、自分たちを信じ、努力をしただけだ。

それが結果として、戦車道の裏に潜む利権を守ることになってしまったとしても……。

 

とても美しくて純粋なものが、薄汚れたものを偶然にも守ってしまった。

とめどなく涙がこぼれた。

それが頬の傷に染みて、ひどく痛んだ。

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

95 一夜明けて

いつも読んでくださり、ありがとうございます!
また、ご評価つけてくださり、本当にありがとうございます!


翌日、鏡に顔を映すといまだに腫れは引いていなかった。

殴られたことがすぐにわかる状態だった。

休みの連絡を入れようとは思わなかった。

感覚が少し麻痺していた。

登庁すると、廊下ですれ違う人々の視線を感じた。

僕はジャン・ポール・ベルモンドの真似をして「勝手にしやがれ!」と叫びたくなった。

学園艦教育局の扉を開けると、入り口にいた若い職員が唖然とした表情で僕を見た。

その後ろ手に倉橋もいた。

彼は不思議なものを見るような顔で僕を見つめていた。

彼の口が動いた。

何かを言ったのかもしれなかった。

それを無視して局長室の扉を開けた。

一人きりになると少しだけ心が落ち着いた。

僕は椅子に座り目を閉じた。

15分ほどそうしていると、机に置いてある電話が鳴った。

内線だった。

番号は1125と表示されていた。

教育長室からだった。

受話器を上げると、怒鳴り声が飛んできた。

教育長じきじきのお電話だった。

 

「いったい君は何をしているんだ! 辻君」

「いろいろ訳がありまして。昨日はとてもハードな一日だったんです」

 

僕の言葉にさらに教育長の声が激しくなった。

 

「いいから今すぐ私の部屋に来なさい」

 

僕は無気力に受話器を置いた。

 

教育長室の扉を開けると、先日と同じように教育長が立っていた。

不機嫌な顔つきと、腕を組んだポーズ、立っている位置まで同じだった。

時間が巻き戻ったんじゃないかと錯覚した。

それとも、日がなこうしているのが彼の仕事なのだろうか。

そんなことを考えていると、教育長が「座りなさい」と言った。

僕は言われるがままにソファに座った。

 

「率直に訊く。何があったんだ?」

「殴られたんです」

「誰にだ」

「知りません」

 

教育長のこめかみが動いた。

馬鹿にされているとでも思ったのだろう。

 

「本当に知らないんです。知らない人に殴られたんです。昨日の夜、酒に酔って通りを歩いていたら、若い連中に因縁をつけられて。言い返したら集団で殴られたんです。警察が来る前に彼らは逃げてしまった。それだけです」

 

教育長が首を振った。

彼の表情から、彼の考えていることは読み取れなかった。

 

「辻君。有給がまったく消化し切れていないな」

「は?」

「どうなんだ?」

 

教育長が僕の目を覗き込んだ。

僕は先ほど彼を馬鹿にしたことを少し後悔した。

その瞳には、彼なりの聡明さが宿っていた。

 

「少し休め。学園艦の件でずっと忙しかっただろう。有給を消化しろ」

「いえ、しかし……」

「これは命令だ」

 

僕はうなづいた。

立ち上がり、頭を下げた。

 

「そうさせていただきます」

 

退出しようとしたとき、教育長が後ろから声をかけた。

 

「辻君。学生時代、第二外国語は何をとっていた?」

「ロシア語ですが」

「珍しいな。ロシア語で『さようなら』はなんて言うんだ」

「ダスヴィダーニァ、ですね。私の記憶が正しければ」

「そうか」

 

教育長が興味深げにうなづいた。

 

「私は、人にさよならというのが嫌いなんだ。その言葉を言うと、少しづつ自分が磨り減っていくような気がする。だが、知らない言語ならば何も感じはしない」

「そうですか」

「辻君。ダスヴィダーニァ」

「さようなら」

 

僕はありったけの皮肉をこめて、日本語で返答した。

 

 

その日のうちに、有給の申請を出した。

5日間の有給を出し、土日をあわせると、実に一週間休むことになった。

そんなに大きな休みを経験するのはいったい何年ぶりだろうか、と思った。

学生時代の友人で大手家電メーカーに勤めた男が、勤続10年の報奨で一週間の休みを得られたときに、飛び上がるほどはしゃいでいたことを思い出した。

僕は何か、人から褒められることをしただろうか。

街をふらふらとあてどもなく歩いた。

歩きながら、先ほどの教育長の言葉を反芻した。

彼は僕に何が言いたかったのだろうか。

彼の言葉は、僕が懲戒免職になるというようにも、あるいは篠崎代議士のように消されるというようにも読み取れた。

それとも、何の意味もない気障な言葉遊びに過ぎなかったのかもしれなかった。

駅前に着く直前に、携帯電話が鳴った。

高田からだった。

 

「もしもし」

「辻君。俺だ」

「はい」

「庁内で噂になっているぞ。ズタボロで登庁したってな。いったい何があった?」

 

僕は黙った。

どこまで話すべきか悩んだ。

 

「まさか、俺が伝えた篠崎の伝言絡みか?」

「高田さんはそれを知ってどうするんですか?」

 

僕は少し考えて、そういった。

 

「あなたは、関わることを恐れていたじゃないですか。何も聞かないほうがいいと思います」

 

電話口の向こうに沈黙が下りた。

サイレントムービーの登場人物になってしまったような気持ちだった。

 

「私は、しばらく有給をとります。土日を合わせて一週間の大きな休みです。こんなの、滅多にないですよ。うらやましいでしょう?」

「俺は、君にいらないことを言わないほうが良かったのかな」

「え?」

「もし君が何かトラブルに巻き込まれたのだとしたら、俺のせいだ」

「そんなことはありません」

 

言葉がすんなりと口から出た。

 

「私は知るべきことを知りました。何も問題ありません」

「辻君……」

「あぁ、そうだ。ひとついいことを思いついた。休みを使って、旅行でもしようかと思うんです。先日喫茶店で芦屋の話を聞いたとき、興味が出たんです。篠崎代議士が青春を過ごした場所をふらついてみたいなと。どのあたりか、正確に教えてくれませんか?」

 

高田が小さく笑う声が聞こえた。

 

「そんなことでいいなら、お安い御用だよ」

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

96 西へ

いつも読んで下さり、ありがとうございます!


「香櫨園付近にはほとんどホテルはない。宿だけは三宮付近に取るといい」

「三宮?」

「近辺でいちばんの繁華街さ」

「その街には篠崎代議士はよく行ったのですか?」

「ああ。彼は遊び人だったからな」

 

高田の言葉の端に古い悪友を思い出すようなニュアンスがあった。

 

「洒落た服を買ったり、レコード屋を冷やかしたりするのが好きだったよ。でも」

 

でも。

 

「御前浜の海の方が本当は好きだったんじゃないかな」

「御前浜の海?」

「あいつの家のそばの海さ。とてもちっぽけな海。

 香櫨園駅を降りると、すぐそばに夙川オアシスロードという海まで続く細長い公園がある。子供のころの俺たちはその公園が好きでな。海までよく歩いたもんだ」

「その公園の先が海なんですね?」

「そうだよ。海辺には砲台もある。ゆっくりと散歩してみるといい」

 

僕は電話を切ると、インターネットを立ち上げ、ホテルの状況をチェックした。

確かに、芦屋や西宮にはほとんどビジネスホテルが見当たらなかった。

おそらく、大阪にも神戸にも近いからだろう。

仮に芦屋や西宮に用事があったとしても、大阪か神戸に宿をとれば十分事足りるということだ。

調べてみて阪神間の狭さに驚いた。

梅田から三宮だと、もしかしたら田町から八王子よりも近いかもしれない。

インターネットを閉じると、ベッドに寝転がった。

明日から1週間。

1週間を、篠崎代議士の地元で過ごすのだ……。

 

 

朝早くに目覚めると、髪をとかし、私服に着替えた。

長い間、仕事ではスーツばかりを着ていた。

土日もそんなに遊びまわる性格ではない。

だから、あまり私服というものがなかった。

少し迷ってから、くたびれた青いデニムとグレーの無地のTシャツを選んだ。

襟のついていないシャツを着るのは久しぶりだった。

ネクタイを締めないのも。

ずいぶんと首回りが楽になるのだなと感心した。

それから、クローゼットを見回し、ダークブラウンの薄手のジャンパーがあるのを見つけた。

M1ジャケットをカジュアル風にアレンジしたものだった。

ずいぶん前に丸の内のビル街にあるセレクトショップで買ったものだ。

勤務後に山下と、飲み屋を探して丸の内をぶらついていて、ふと目に留まった品だった。

山下に茶化されながら買ったのを覚えている。

懐かしくなってそのジャンパーをクローゼットから出し、袖を通してみた。

着心地は悪くなかった。

10月の半ばだ。

夜は冷えるだろう。

これも持っていくことにしよう。

ただし、荷物を多くしたくはなかった。

最小限のものだけで旅立ちたかった。

小さめのボストンバッグを選び、そこに下着と着替えの服を詰めた。

それだけあれば十分だ。

そう思ってから、ふと机の上のウィスキーボトルが目についた。

篠崎代議士の遺品のウィスキーだ。

昨日の夜かなり飲んだから、半分ぐらいになっていた。

僕はそれをバッグに入れた。

彼の遺品を、彼の故郷で飲みたくなった。

 

その時、がさっという音がした。

僕は飛び上がりそうになって振り返った。

マンションの扉の郵便物差込口に書類のようなものが差し込まれた音だった。

玄関に落ちた薄い書類を見ると、マンションの管理組合による下水管の清掃の知らせだった。

僕は胸をなでおろした。

どうにもナーヴァスになっている。

 

 

品川から新幹線に乗り、新神戸駅で下車した。

駅の前に川が伸びていた。

空が広く見えた。

川沿いにまっすぐ道が広がっているからだろう。

東京とは随分と違う光景だった。

空気も違っていた。

からからに乾いた、冷たい空気。

呼吸をすると胸の奥を冷気が刺した。

ホテルはトアロードという大通り付近にある。

どちらかというと阪急の三宮駅に近い。

新神戸駅からは少々歩かなければならない。

僕はボストンバッグを手に、歩き出した。

 

 

 

 

続く



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

97 他人の街

いつも読んで下さりありがとうございます!


ホテルに荷物を置くと、ボディバッグだけを身に着けて街に出た。

周辺をぶらぶらと歩くと、東急ハンズが見え、続いて生田神社が現れた。

歓楽街と言っても差支えのない場所に唐突に神社があるので少し驚いた。

だがもちろん、神社の方がもともとそこにあったのだ。

そもそも神戸という名称は、生田神社の神封戸の集落という意味に由来すると聞いたことがある。

神社を超え、さらに北上すると異人館の立ち並ぶ地区にたどり着くはずだ。

観光ではないのだから、そこへ行く必要はないと思った。

僕はくるりと方向を変え、南へと降りていくことにした。

神戸の道はわかりやすい。

背中には山、正面には海。

細かい路地は多数あれども、そのことだけは変わらない。

こんなに山と海が近い地域を僕はほかに知らない。

センター街にたどり着くと、どっと人が増えてきたような気がした。

それでも東京よりはずっと人が少ない。

アーケードの広さに対して人が少ないのでとても快適だ。

アーケードを西へと歩くと大丸百貨店と中華街が見えた。

中華街にも興味はなかった。

海に早くたどり着きたかった。

ジャーナルスタンダードの店舗から、若い男女が腕を組んで出てきた。

彼らは幸せそうにじゃれあっていた。

僕と眼があうと、少し悲しそうな表情をしたように感じられた。

僕は首をかしげた。

平日にラフな格好でぶらついている中年が哀れに見えたのだろうか。

それとも、あの手の表情は最近の若者の専売特許なのか。

気取った憂い顔という奴だ。

ファストファッションを扱う店舗の鏡張りのファサードに映った自分の顔を見て驚いた。

まるで抜け殻だった。

眼もとに隈ができ、一応整えたはずの髪はろくに梳かしつけられていなかった。

顎には無精ひげが散らばっていた。

服装だけが、不釣り合いにおろしたての様子のジャンパーだ。

これは見る者を悲しい表情にさせるな、と、僕は苦笑した。

だが、どうこうするつもりはなかった。

街の人々の佇まいは洗練されていた。

昔よく、歓楽街で見かけたような、背筋を丸めた薄汚い中年は見当たらなかった。

鏡張りのファストファッションの店舗の上方には巨大な広告が掲げられていた。

白人と黒人のモデルに交じって、アジア人のモデルが拳を腰に当てて微笑んでいた。

颯爽としていて、日本人の微笑みには見えなかった。

まるでこれでは、白人化されたアジア人だ。

だが、広告の下にはローマ字でモデルの名前が刻んであった。

それは日本人の名前だった。

元町商店街に入ると、昔ながらの雰囲気が少し取り戻されたような気がして、ほっとした。

凝った意匠の街燈が、古い時代のロマンを感じさせた。

英圀屋、西村珈琲店、風月堂。

有名な珈琲店が立ち並んでいたが、父が好きだったイノダ珈琲はここにはなかった。

あれは京都にしかなかったのだったか……。

途中、ベトナム料理店があった。

父の世代にとってベトナムは、ある種の政治的ジャーゴンだった。

カウンターカルチャーの時代のことだ。

ベトナム戦争。

反戦。

反戦という言葉が、本当の意味で反戦であったのか、今では定かではない。

多くのロックバンドが、歪んだギターを響かせ、反戦を叫んでいた。

反戦と言いながら、暴力的でもあった。

あの時代、サイケデリックロックの音が、どれだけ攻撃的で暴力的であったことか。

それは反戦というよりも、大人や権力への抵抗、ルサンチマンの発露。

そう言ったものの置き換えられた姿だったのかもしれない。

大洗の街を歩きながら父が、『サンフランシスコの夜』を鼻歌で歌っていたことを思い出した。

フラワーパワーの時代のサンフランシスコを歌った歌だった。

今の時代、警察と若者の衝突を歌った歌があるだろうか?

そう考えると、この世の中には衝突が減ったような気がする。

政治的ポーズの何もかもが演技なんだと言い放った芹澤。

システムの中で金儲けをする戦車道。

先ほどの若者たちは、僕を哀れな目で見ただけで、ケンカを売ってはこなかった。

底が抜けている。

シニカリズムが跋扈している。

 

 

僕はベトナム料理店の中をガラス越しに覗いた。

驚くほどしゃれた内装で、まるでナイトクラブのようだった。

若い女の子のグループが、楽しそうに喫茶していた。

店頭に立てかけられた看板に書かれたメニュー表を見る。

驚くほど高かった。

ここにあるベトナムは、《貧しきベトナム》などではない。

僕は首を振った。

ベトナムは、ロックンロールのジャーゴンではないのだ。

そんなことの『だし』に使われてはいない。

装いを変え、異国情緒の一つとして成り立っているのだろう。

だがそれもまた、彼らの本当の姿ではないのではないのか。

 

 

元町通り商店街の5丁目あたりでアーケードを抜け、突堤の方向へと向かった。

ほんのかすかだが、海の匂いがした。

海の匂いは嗅ぎ慣れていた。

大洗の育ちなのだから。

だが神戸の海の匂いは、全く違う感じがした。

強いピートの香りが一瞬だけ立ち込めるが、即座に消えていく。

そして何も残らない。

そんな安ウィスキーに似ている。

あまり僕の好きな匂いではなかった。

ここは他人の街なのだ。

ふいにそう思った。

いま僕は他人の街にいる。

人生を泳ぎ、随分と居心地の悪い場所に流れ着いてしまった。

 

 

 

 

 

メリケンパークに着くと、綾取りの様な神戸海洋博物館と、赤いポートタワー、180度広げた扇のようなオリエンタルホテルが見えた。

港にはルミナスが停泊していた。

横浜の山下公園よりも小さいように感じられた。

午後3時の日差しがポカポカと心地良かった。

ギターを持った中年が、ポートタワーのそばの広場で下手くそな声でカントリーロードを歌っていた。

外国人観光客がそれを聞いていた。

海を眺めると、猛烈に腹が減ってきた。

考えてみると、新幹線に乗る前からほとんど何も食べていなかった。

モザイクという商業施設があることは知っていたが、それはいかにも観光客向けで、家族連れかカップルでないと居ずらいように感じられた。

その隣に、ウミエというショッピングモールがあった。

そちらの方がマシだと思った。

 

続く

 




ただ歩いているだけの描写って難しいですね……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

98 心の靄

いつも読んで下さり、ありがとうございます!
あと3話です!
どうか最後までお付き合いいただければ幸いです!


ウミエは、巨大なガラスの檻のようなショッピングモールだった。

内部は北館と南館に分けられているが、外見上は一つの建物のようだった。

アメリカ製の巨大なビー玉コースターが広場に置いてあった。

子供たちが、からくりで動くビー玉を楽しげに眼で追っていた。

一階に、大きな喫茶店があった。

僕はそこでかなり遅い昼食をとることにした。

中は洋館のようになっていた。

ビーフシチューとクロワッサンそしてコーヒーのセットを注文した。

入り口の机の上に、新聞が置いてあった。

それを手に取る。

長野県の山中で身元不明の遺体が発見されていた。

一瞬芹澤のことが頭をよぎった。

だがそんなことはないはずだった。

彼は仮にも県議会議員だ。

いなくなれば、まず県議が行方不明という記事が先に出るだろう。

ざっと目を通したが、戦車道や学園艦についての記事はなかった。

机の上には新聞のほかに月刊誌や週刊誌も置かれていた。

佐古の属している雑誌もあった。

だが、つい先日のことがすぐに記事になりはしない。

ぱらぱらとめくると、案の定、僕の期待するような記事は載っていなかった。

 

「あの、お客様……」

 

プレートを手にしたウェイトレスが僕に声をかけた。

見ると、僕の席にはすでにビーフシチューのセットが運ばれていた。

僕は立ったまま、雑誌の置かれた机の前で雑誌をめくっていた。

 

「冷めてしまいますよ?」

 

ウェイトレスは、20代ぐらいの闊達とした表情をしたショートカットの女性だった。

彼女は僕に、とてもチャーミングな微笑みをくれた。

ほんの少しだけ、若い頃の竹谷さんを思い出させた。

 

 

遅い昼食を終えると、歩いてホテルに戻った。

熱いシャワーを浴びると、体の膿が溶けていくようだった。

ビジネスホテルの部屋には、不思議な心地良さがある。

見知らぬ土地で、ここだけが心置きなく自由になれる場所だと思うからかもしれない。

遅い昼食を食べたので、空腹を感じず、夕食は取らなかった。

夜になるとホテルを出て、街を歩いた。

歓楽街は騒がしかった。

夜の姿は、どの街でも同じだ。

僕は騒がしさを逃れたくて、無計画に山手の方へと進んだ。

Y字路に小さなベーカリーがあり、その隣に薄汚いバーがあった。

あまり人声は聞こえてこなかった。

ふらりと扉を開けると、カウンターに60代ぐらいの男が座っていた。

一瞬、店員は不在なのかと思った。

カウンターに座っていた男が立ち上がり、椅子を指さした。

座れということらしかった。

僕は恐る恐る、指差された席に腰掛けた。

使い古された椅子がぎしりと音を立てる。

男が、奥のスィングドアからバーカウンターの中に移動し、僕の前にコースターを置いた。

 

「何を飲む?」

 

マスターだったのか。

僕は面食らいながら、ハイボールを注文した。

 

「観光客かい?」

「まぁ、そんなところです」

「だろうね。見たらわかるよ」

 

男はぞんざいな口利きだった。

口元にしわが多く、眼光が鋭かった。

髪は白髪で、バックに撫でつけていた。

 

「ハイボールは、神戸流?」

「え?」

「なんだ、それを飲みに来たんじゃないのか?」

「いいや、ふらっと入っただけです」

「ふぅん」

「神戸流ってのは?」

「氷を入れないんだよ」

 

氷を入れないハイボールが美味いとは思えなかった。

何か特殊なレシピでもあるのかと思い、好奇心から注文したが、男はただ単にボトル1000円の安ウィスキーをソーダで割っただけだった。

とても飲めたものではなかった。

 

「神戸の人はみんなこれを飲むんですか?」

「いいや、めったに飲まないだろうね」

 

僕は苦笑した。

小さな音で、シールズ&クロフェッツの『思い出のサマーブリーズ』が聴こえた。

10月にはちょうど良い選曲だと思った。

そのことだけが唯一心地良かった。

男は無愛想だった。

僕も黙って酒を飲むことにした。

氷を入れないハイボールは、味が薄まることがなく、ちびちびと飲むことになった。

一杯で酔いが回ってしまった。

 

「明日はどこへ行くんだい?」

 

男が問いかけてきた。

どこへ行く?

そんなことをなぜ聞くんだ?

酩酊した頭で考える。

そうか、僕が自分で観光客と名乗ったのだった。

 

「……海に行きたいのですが、よくわからないんです」

 

酔いのためだろうか。

そんな言葉が口をついて出た。

 

「わからない?」

「そこへ行って何をすればよいのかわからなくて。それで今日は、本来行くはずでない所ばかりをぐるぐるとまわっていました」

 

男が、しゃがみこんだ。

何をするのかと思ったら、足元に設置している冷蔵庫から、キンキンに冷えたボンベイサファイアを取り出した。

同じように冷やしていた、霜の降りたショットグラスを机の上に置くと、それに注いだ。

 

「景気づけだ」

 

僕は頷いた。

ショットグラスを手にすると、一気に飲み干した。

 

店を出るとき、男はきっちりと2杯分とチャージ料を請求した。

一瞬、ボンベイサファイアの分は奢ってくれるのかと勘違いした僕は、頭を掻いた。

自分の勘違いっぷりが滑稽だった。

自己憐憫的で実に僕らしいじゃないか。

僕はいつの間にか、声を出して笑っていた。

 

「なんだよ? 一体どうしたってんだ」

 

男は訳が分からないというような表情をしていた。

 

「いや、いいんです。僕がなんだか、勝手に楽しくなっただけだから」

 

心の中にあった靄が、不思議と消えかかっていた。

僕はバーを出ると、ホテルへと急いだ。

ホテルに戻ると、もう一度、熱いシャワーを浴びた。

そしてベッドに潜り込んだ。

 

 

 

 

 

 

続く

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

99 御前浜

いつも読んで下さり、ありがとうございます!


翌朝、ホテルを出ると阪神の三宮駅へと向かった。

阪神電車は地上を走っているという印象があったのだが、三宮駅は地下にあった。

ところどころレンガ風の意匠が施された駅のコンコースに立ち、線路を見つめた。

枕木はいつも同じように横たわっている。

僕はもしも自分が枕木ならば、そんな生活には耐えられないだろう。

やがて直通特急が来た。

御影まで直通特急に乗る。

美術館で有名な岩屋駅を通過したあたりから、列車が地上に上がった。

窓の景色が開けていく。

阪神間特有のクリスプな明るさが目を刺した。

御影で降りると、普通列車に乗り換える。

香櫨園までは11分かかった。

香櫨園駅は、どことなくレトロな雰囲気を漂わせていた。

細い川をまたぐような構造になっている。

これが高田の言っていた夙川だろうか。

地図でチェックする。

その通りだった。

川をまたいだ駅の構造からもすぐにわかるように、夙川オアシスロードは駅と直結していた。

どことなく、多摩川駅と雰囲気というか空気感が似ているなと思った。

駅を出てすぐに、緑と川の匂いがするところが。

僕は川沿いの道を海へと下ることにした。

平日なので人はまばらだった。

それでも、幾人かの老人がジョギングしている姿を見かけた。

犬を連れて散歩をしている夫人もいた。

静かだった。

ほとんどだれも言葉を発さない。

繁華街の三宮とは大違いだった。

夙川沿いには、松と思われる木がずっと植えられていた。

少し珍しい光景だと思った。

川沿いに松。

だが、その事がかえって、海へと続く道であることを強調しているようにも感じられた。

海辺の白砂には松がつきものだからだ。

道は、ところどころ幹線道路で分断されていた。

僕は歩くのが早いほうだが、そのたびに、犬を連れた老婦人に追い付かれることになった。

犬は白いダックスフンドだった。

何かを欲しがるように、舌を出して息を吐いていた。

僕が犬に視線をやっているのに気が付いて、老婦人がこちらに微笑みを向けた。

僕は頭を搔いた。

やがて、明らかに海辺の空気を肌が感じ始めた。

空の遠景に、カモメのような鳥が見えた。

もう少し歩くと、病院が見えた。

西宮回生病院とファサードに銘打たれている。

その後ろ手に、いかにも南国風のヤシの木が見えて、僕は笑ってしまいそうになった。

そこまで来ると、もうほとんど海だった。

川沿いの公園道という雰囲気が消え去り、コンクリートで河口を囲んだ突堤という装いが現れだした。

向かいから、犬を連れて歩いてくる中年の男性がいた。

犬の毛足が濡れていた。

海で遊んでいたのだろうか。

僕は心の高鳴りを感じた。

コンクリートで固められた道を端まで辿ると、眼前に海が広がっていた。

それは、港ではなかった。

浜だった。

コンクリートは、唐突に途切れ、途中から砂へと変わっていた。

僕は驚いた。

実際にこうして目で見るまで、コンクリートの突堤で固定された港のような海だと思っていた。

だが、ここは、昔ながらの浜だ。

僕はぴょんとコンクリートの跡切れから飛び、砂浜に降り立った。

砂特有の柔らかさが、スニーカーに心地よい衝撃を与える。

小さな浜だった。

これが本当に海なのだろうかと思うほどに、小さい。

対岸がひどく近かった。

対岸にはビル群が見える。

まるで、内海のような光景だ。

だけど、砂浜を歩き、海辺へとたどり着くと、それは確かに海だった。

柔らかな波が、押しては引いていく。

それは何時間眺めても飽きないほどに、心休まる光景だ。

かつて僕が暮らした大洗の海を思い出した。

子供のころ、大洗の海を、僕はこういう風に、飽きもせず眺めていた。

はたと思い立ち、砂浜を左へ歩いた。

ざくざくと、砂を踏みしめる。

砂粒が靴の隙間に入り込んでくる。

左方向へ向かえば向かうほど、道路と砂浜を隔てるコンクリートは高くなるようだった。

まるで一つの世界だ。

外界と隔てられた、とても小さな海と砂の世界。

やがて、目前に、古びた一台の砲台が現れた。

それは予想よりもずっと大きくて、そして迫力があった。

これが、西宮砲台か。

雨と風に耐え抜いてきたのだろう。

おそらくは白磁のような色であった外観は、ところどころ黒々と黒ずみ、灰と煤でペイントされたようになっている。

1886年に竣工されたということだ。

100年以上を、こうして鎮座しているというのか。

先日の電話口で、高田が僕に言った言葉が思い出された。

 

「篠崎はな、子供のころ犬を飼っていたんだ。大きな毛むくじゃらの犬だ。裕福な家庭につきもののやつさ。

 俺はうらやましかった。俺も犬が欲しかった。でも、うちの親はそんなもの絶対に飼ってくれなかった。

 俺が篠崎の家に遊びに行くのが嫌だった理由の一つがその犬さ。遊びに行くと篠崎は必ず、犬を連れて御前浜に散歩に行こうというんだ。犬は無邪気でさ。篠崎を追いかけて、砲台の周りをぐるぐる回るのが好きだった。ぐるぐるぐるぐる、回りやがるのさ。まるでバターになりたいみたいに。俺はふてくされて、いつもそれを眺めていたもんさ」

 

砲台のそばは、今はもう柵で覆われていて、丸くぐるぐると回ることは不可能だった。

それでも僕の瞳の裏に、幼いころの篠崎代議士と、大きな毛むくじゃらの犬が見えた。

僕は、バッグからウィスキーのボトルを取り出した。

篠崎代議士の遺品のスコッチ。

もう、それを飲む気はなくなっていた。

この海へ帰すべきだと思った。

僕は、それを持って、海のぎりぎりまで歩いた。

押し寄せる波が、靴を濡らす。

スコッチの蓋をあけ、海へと注いだ。

10月の晴れた午後の光にきらきらと照らされた海に、スコッチがとけていく。

その光の明滅を見ている時。

僕の目の中に、懐かしい人々の顔が映った。

父、母。

そして篠崎さん。

すべての、すでに死んでしまった人たち。

僕の人生から損なわれ、消えてしまった人たち。

涙は出なかった。

だが、いつのまにか僕は肩で息をしていた。

 

ずいぶんと長い間、海辺に立ち尽くしていたのだと思う。

気がつくと空が茜色に染まり始めていた。

砂浜に戻り、砲台の柵のそばに腰を下ろした。

そして、じっと海を見つめた。

海はただそこに佇んでいた。

 

 

 

続く

 




次回、最終話です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

100《最終話》 帰るべき場所

海を見つめているうちに、いったいどれだけの時間が過ぎ去ったのかわからなかった。

ひどく長い時間だったような気もするし、とても短かったような気もする。

時計を確認するつもりはなかった。

僕は立ち上がった。

そして、つぶやいた。

 

「さようなら。篠崎さん」

 

その小さな穏やかな海は、僕の言葉を吸い込んでいく。

 

 

 

 

大気が冷たくなり始めていた。

もう午後から夕刻に変わりかけているのかもしれない。

砂浜をゆっくりと歩いて戻り、道路に出た。

臨海線をずっと西へ歩くことにした。

そのうち打出駅にたどり着くはずだ。

こんなに歩いたのは久しぶりだった。

足が悲鳴を上げ始めていた。

それでも、無理やり歩き続けた。

空が茜色に染まっていった。

棚引く雲を見て単純に美しいと感じた。

その空を眺めていたおかげで、僕は歩き続けることができた。

やがてたどり着いた駅前には申し訳程度の商店街が、ちょこんとあった。

高校生ぐらいのグループが、楽しそうにじゃれあってアーケードを駆けている。

小さな女の子が、父親に手を引かれている。

篠崎さんも、こんなふうにしてこの街で育ったのだろうか。

彼の実家は、香櫨園から打出の間だったという。

もしかしたら、今日、気がつかないうちに前を通ったかもしれない。

 

 

 

 

ホテルに戻ると、すっかり夜になっていた。

カウンターには、中年のホテルマンがひとり佇んでいた。

エントランスの照明が暗いので彼の表情はハッキリと読み取れなかった。

薄暗いホテルのカウンターとホテルマン。

まるでつまらない絵画のように見えた。

僕は彼にゆっくりと歩み寄り、言った。

 

「申し訳ないけれど、明日以降の予約はすべてキャンセルしたいんだ」

 

ホテルマンは口をぽかんと開けた。

よく意味がわからないという表情だった。

僕は彼に表情があることを知り妙に安心した。

台帳を調べ、僕が連泊客である事を認識すると、困った表情を浮かべた。

 

「キャンセル料金がかかってしまいますが」

 

僕は構わない、と答えた。

 

 

 

 

部屋に戻り、バッグを床に置いた。

煙草を取り出して、火を付けた。

芹沢とやりあった夜に買った煙草がまだ残っていたのだ。

ゆっくりと吐き出すと、白い煙が部屋に充満し、やがて消えていった。

ベッドに腰掛けた。

僕はいま、大洗に帰りたくて仕方がなかった。

故郷の空気が吸いたい。

ずっと自分が遠ざけて、忘れようとしていた町。

父も母も家も失い、もう戻ることはないと思っていた町。

何もない、古ぼけた漁港の町。

そこに帰りたくて仕方なかった。

こんな気持ちになったのは、何十年ぶりだろうか。

僕は目を閉じた。

まぶたの裏に海が見えた。

子供の頃に見た、大洗の海が、磯の匂いを伴い飛沫をあげていた。

 

 

 

 

 

 

いつのまにか、眠ってしまっていたらしい。

外が妙に騒がしかった。

カーテンを開くと、朝の光が目を刺した。

眩しさに目を細めた。

ゆっくりと瞳を開くと、窓の下の光景が飛び込んできた。

大通りに人の群れがあった。

色とりどりの旗が振られ、賑やかなパレード音楽が流れていた。

幾台もの戦車が、ゆっくりと通りを北上している。

 

〝心を一つに! 勝利を目指そう!!〟

 

勇ましい言葉が描かれた垂れ幕が、戦車の車体から垂れ下がっている。

 

「……戦車道のイベントか」

 

僕は呟いた。

2年後の世界大戦に向けて、各地で行われていることは知っていた。

しかし、なんてタイミングだ。

こんな日に遭遇するなんて。

軍服を可愛らしくアレンジしたような衣装に身を包んだ女の子たちが、戦車から身を乗り出して手を振っていた。

きらきらと陽光を受けて、彼女たちはとても眩かった。

彼女らの無垢な姿は、30年前に下宿の部屋で見たDVDの中の映像と何ら変わりがない。

この世界は同じテーゼを延々と繰り返している。

 

パァン。

 

高らかに弾ける音がした。

一瞬銃声かと思い僕は身震いした。

だがそれは、祝砲だった。

晴々とした秋空に、色とりどりの祝砲が上げられていく。

僕は、カーテンを閉めた。

 

 

 

 

荷物をまとめ、ロビーへ降りた。

ロビーは人でごった返していた。

観光客の群れ。

戦車道のイベントが目当ての客たちだ。

チェックアウトする僕に、若い女性のホテルマンが微笑んだ。

 

「お客様、運がよろしいですね」

「え?」

「今日はちょうどパレードですから。お帰りの際に、ぜひご覧になってください」

 

僕は曖昧に苦笑した。

なんの悪意もない彼女に、どう返答すれば良いのかわからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪完≫

 

 

 

 




これで、物語は完結となります。

100話という長い物語、そのうえ、おじさんたちしか出てこない物語を、ここまで読み続けてくださって本当にありがとうございました。

今作は、「本当にこんなにゆっくりとした展開で、読み続けてくださる方がいらっしゃるのだろうか?」という恐怖や葛藤とともに書きました。

完結まで書きつなぐことができたのは、本当に、アクセスしてくださった皆様、お気に入り登録してくださった皆様、感想や評価をつけてくださった皆様のおかげです。

ポリティカルサスペンスを書きたいという想いで書き始めた今作ですが、最終的には物語は、辻さんが自分なりの心の答えを見つけるという位置に収まりました。

ガルパン本編とはかなりかけ離れた作品になってしまいましたが、ガルパンが女の子たちの努力や苦労や葛藤や友情を描いているように、大人たちの努力や苦労や葛藤や友情も、画面からは見えないところに潜んでいたのではないか、と思い、書き続けました。

いかがでしたでしょうか。

少しでも、皆様が楽しんで読んでくださっておられれば嬉しいのですが。

さて、少し休憩して、次作に取り掛かろうと思います。
まだ何を書くかは考えておりませんが。

勉強させていただきたいので、今作に対する、ご意見、ご感想など、お待ちいたしております。

ありがとうございました。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。