月光が導く (メンシス学徒)
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01

月光が好きなんです。ただそれだけだったんです。




 本を糺せば、大臣の喰らっている肉がどう見ても生であったことだった。

 

 ―――失礼ながら、衛生面への御配慮は? 生肉を喰らい続けた結果、全身を虫に蝕まれた事例は枚挙に暇がございません。

 

 それが廊下ですれ違い、軽く一礼して行き過ぎるだけだった筈の両者の間に雑談を咲かせた種である。

 毒にも薬にもならない会話が暫く続いた。

 

「ああ、ときにご存知でしたかなオネスト大臣。本来寄生虫とはその殆どが、宿主にさしたる悪影響を及ぼさない、共存可能な生物らしいですよ」

「ほう」

 

 大臣は初耳という顔をした。が、この古狸の喰えないところは、例え知っていても知らないふりをする点にある。

 人間、特に己をしてを知恵者と自惚れている者にとって、無智なる輩の蒙を啓いてやる以上の快感はないであろう。その手の人種には、精々好きなだけ喋らせてやっていればよい。そうすればどんどんつけ上がって浮き足立ち、やがては掬ってくれと言わんばかりに無防備な足元を晒すようになる。

 

 ―――では遠慮なく。

 

 とばかりに、この男がどれほどの人間を転倒させてきたか、むろんコジマ・アーレルスマイヤー警察長官は知っている。

 

「寄生虫にしてみても、宿主が健康体でいてくれた方が安定して栄養を横領出来ますからね。体内で穏やかに生を満喫する為には、宿主に栄養が吸われていると、吸っているなにものかが居ると気付かれないことが肝要だ。その辺りの上限を、彼らは本能的に心得ている」

「ははあ、なんとも世渡り上手な連中ですなあ。いやはや感服致しますぞ。虫の生態は勿論のこと、斯くも博識なコジマ長官、貴女にもです」

 

 知っていて尚、彼女は得意げな顔で言葉を継いだ。

 言うまでもなく擬態である。散々利用し、葬ってきた連中と同様に、自分を御することは容易いと油断してくれることを僅かながらも期待した。

 

「寄生虫が宿主を殺してしまうのは、専らそれが本来宿るべきでない肉体の中に入り込んでしまった場合です」

「誤解に基く悲劇ですな」

「全く左様で。すれ違いからの不幸は人間社会の独占物ではないようです。―――ですが時たま、最初から宿主を殺すつもりで体内に侵入してくる奴がいる」

「そんな不届き者が」

「ええ、ロイコクロデ―――いや、ロイコクロル? 私も随分前に『姉』に聞かされたっきりで、正直うろ覚えなのですが。兎に角こいつが喰えない奴でしてね」

 

 ロイコクロリディウムのことだろう。

 この長ったらしく、ある種の鉱物然とした名前の扁形動物は、生まれるまでの卵の期間を鳥の糞の中にて過ごし、それをカタツムリが喰らうのをじっと待つ。

 無事にカタツムリに食べて貰えたならばしめたもの、成長を遂げつつカタツムリの触覚に移動して、脳を操り意のままに動かすようになる。この時、ロイコクロリディウムの膨れきった体が触覚を透かして見えるのだが、これがまた壮絶なのだ。盛んに蠕動を繰り返すその様は、生理的嫌悪感を抜きにしては語れない。

 すべてはカタツムリを芋虫と誤解させて鳥に捕食させるため。そうして今度は鳥の体内にて残る人生を全うし、糞の中に己の卵を忍ばせる。

 最初から他者の死を前提として成立している命の輪。自然の容赦のなさを実感したのは、あれが最初だったろう。

 そうした内容のことを、コジマは時に情感を交えて縷々と語った。最後に、

 

「こういう奴には、昔から抜き難い憎悪を覚えます」

 

 とはっきり言った。

 

「憎悪とは、長官らしからぬ激しいお言葉ですねぇ」

「失礼。ですが、こればかりはどうにもならないのです。分際を弁えて薄暗い腸管の中でせせこましく最低限の栄養素だけ啜っていればいいものを、宿主を害し、あまつ天敵に殺させようとするなど言語道断。こういう輩には絶対に容赦しない。虫下しでも外科的摘出手術でも、何を使ってでも人体から駆逐してやりたくてたまらなくなるんですよ」

 

 爆弾発言と言っていい。

 これが市井の閑話(ひまばなし)なら無害で済むが、語り合っているのは共に国政を左右し得る権力者、大臣と長官なのである。その内容が単なる生物的雑学の披露でないことは、ロイコクロリディウムはカタツムリに寄生する虫と説明したのに、当のコジマがいつの間にかさらりと「人体」から追い出してやると言っていることからも自明であろう。

 この「人体」という単語の裏に、彼女は「国家」という響きをにおわせているのだ。際どいどころではない、ともすれば宣戦布告と受け取られかねない、ぎりぎりの発言だった。

 

 ―――人が次第に朽ちゆくように、国もいずれは滅びゆく。

 ―――千年栄えた帝都すらも、いまや腐敗し生き地獄。

 ―――人の形の魑魅魍魎が、我が物顔で跋扈する。

 

 このような落首さえも貼り出される現下の帝国にあって、コジマの発言はそれ自体が命懸けであった。

 分を弁えない寄生虫とは、国力の低下も気にせず民に対して酷烈無惨な振る舞いを続ける貴族に権力者、腐敗役人どもだろう。それを虫下しでも外科的摘出手術でも―――どんな手段に訴えることになろうとも、必ず一掃してやると気炎を吐いた。

 

(天敵とは、さしずめ異民族のことでしょうねぇ。外敵嫌いは相変わらずのご様子だ)

 

 むろん、その過程でオネスト大臣も抹殺する予定なのだろう。なにせ、帝国を蚕食する「寄生虫」の頭目と看做されている男である。枝葉を幾ら断ったところで、大元が無事ではどうにもならない。まだ何度でも生えてくる。いたちごっこにしかならない。

 そんな同じ輪の中を延々走り続けるに等しい愚行を、この女長官が犯すわけがなかった。いずれ必ず殺すと言っている。

 その内意を余すことなく、舐め上げるように読み取って、されども大臣の笑みは崩れない。不快の色をおくびにも出さないあたり、この男の面の厚さは筋金入りだった。

 

(忌々しい。ですが、この発言のみを梃子に失墜させるのは無理ですねぇ。言い訳の余地が広すぎる。揚げ足を取ろうとすれば、逆捩じを食らわされる未来がありありと見えます。安い挑発には乗らないでおきましょう)

 

「フフフ……」

「ははは……」

 

 互いに「笑み」を浮かべていた。

 にも拘らず、和やかな雰囲気を微塵も感ぜられないのは何故なのか。偶々通りがかった侍女が、この情景を目にした途端即座に踵を返してもと来た道を戻っていった。獣の威嚇めいた原初の意味での「笑み」とも違う、政治という、この人間が生み出した中で最も複雑怪奇な代物に骨の髄まで浸かりきった者だけが浮かべることを許される、なんともおぞましい「笑み」だった。

 

「いや、これはお恥ずかしい。ついつい稚気に駆られてしまうとは、私もまだまだ修行が足りないようです。如何に着飾って見せようとも、この身は所詮毛虫を恐れて早く叩き潰してよと父に泣き付いた少女の頃から、一歩も進めていないらしい」

「でしたら私は果報者ですな。あのコジマ長官の少女の顔など、帝国広しと雖もどれほどの者が見知りましょうか。いや、今日は朝から運がいい。まだまだ良いことに恵まれそうです」

 

 そうして去ってゆくコジマ長官の背を見詰めつつ、オネストは改めて確信する。やはり、コジマ・アーレルスマイヤーだけは、何があっても絶対に殺さなくてはならないと。

 世間ではブドー大将軍を以ってオネストの対抗馬と見込み、彼の動きを熱烈に宿望している者も多いが、オネストに言わせてみればそんな奴らは軒並み揃って眼球の使い方も知らない無能である。

 

(あのでくの坊に、何を期待しておりますのやら)

 

 軍人としての節義を守ると言ってしまえば聞こえはいいが、何のことはない、早い話が頭の中身が濃厚に中世的なだけであり、旧弊を墨守するしか能がなく、ために成せることも高が知れていて、早い話が恐るるに足らない。

 

(仮にアレが思い立って出陣し、反乱軍を掃滅し、然る後に私を含めた帝都の闇とやらを一掃できたと仮定しましょう。で?)

 

 その後に高く掲げて披露して、人心を惹き付け熱狂させるべき華麗な帝国の未来図を、あの男は切れ端たりとて用意していないに相違ない。そもそも描く能力さえないだろう。彼に可能なのは先例を遵守することのみ、現れるのは時代遅れもいいところな何百年も前の帝国の姿だ。

 

(人の心はその時からずっと遠いところまで進んでしまっているというのに。元に戻そうとしても、今更手遅れなのですよ。哀れですねえ、流れに取り残された骨董品は)

 

 確かに帝国の切り札と称される戦闘能力は脅威だが、その脅威は言わば、山中に潜む劫を経た大熊か何かと同質なもので、所詮獣の恐ろしさに過ぎない。あの巨漢から人間的迫力を感じたことなど皆無であった。

 獣など、如何に強力であっても狩人の知恵には敵わない。

 血は流れ、少なからぬ犠牲を払わされるだろう。だがそれでも、最終的に勝利するのは必ず人だ。況してやオネストはその狩人どもを雇い、指揮する権力者ではないか。

 

 そこをいくと、コジマ・アーレルスマイヤーだけが唯一「人間」としてオネストに恐れを感じさせる存在だった。

 曲がりなりにも、「政争」を営める相手だった。

 この帝国で、自分と彼女だけが将来帝国が至るべき明確な青写真を持っているのである。それだけでも許せないのに、その概要も、至る手段も、何もかもが真っ向から正反対とあっては、これはもう殺し合うしかない。

 中途半端は有り得ない。行く所まで行く。どちらかがどちらかを完膚なきまでに喰らい尽して、名誉も尊厳も残らず奪い、懐に秘めた青写真を千々に引き裂き炎にくべて灰を川にばら撒くまでやるしかない。

 

(が、だからといって短慮軽率は禁物ですぞ)

 

 原則として、オネストに挑戦状を叩きつけるような真似をすれば、そいつはまず間違いなく三日以内に死体になる。

 帝国国内にあって、彼の権力はそれほどまでに絶対的なものだった。

 が、何事にも例外はある。彼の神通力が通用しない相手が、たった二人だけ存在する。

 ブドー大将軍とコジマ長官だった。

 この両者に共通しているのは、皇帝からの信任が―――大臣ほどでないにしろ―――極めて厚いという点だ。

 歴史書をちょっと紐解けば分かる通り、アーレルスマイヤーといえば、始皇帝の覇業をその草創期より扶け続けた譜代の重臣。皇室を除けば帝国に於ける最も旧い血筋であり、その由緒正しさは到底大臣などの比ではない。ブドー大将軍を以ってすら一枚落ちることだろう。

 本来ならば、この血筋から摂政が輩出されていても不思議ではなかった。

 が、どこでどう因果がねじれたものか、遥か超深宇宙の彼方より何かの間違いで飛来してしまった啓蒙的真実の一片が、この一族の運命を決定的に歪ませた。

 ある時期を境に、アーレルスマイヤーの人間はひどく閉鎖的になったという。しかもその特徴は代を重ねるごとに悪化して、やがては世のなにもかもが厭わしくてたまらなくなり、中央から離れ、ひたすら辺境の領地に引き籠って毎晩絶えず襲い来る自殺への衝動に耐えねばならなくなったらしい。謂わば、鬱病が遺伝病として根付いてしまった。

 先代のアーレルスマイヤー家当主とてその例外ではなく、いつも胃痛を堪えているような顔色をして、

 

「さっさと娘に家督を譲りたい」

 

 と、しきりに退隠への欲求を口にしていた。

 斯くも不活気な一族が今日のこの日まで血を保ち、多少は削られたとはいえ領地を保ち、家を存続して来られたことは一種奇観の思いがする。目立たないが離れ業であり、神経を病んでいながらこれだけの働きが出来たのだから、元々の資質がどれほどのものか推して知るべしというものだろう。

 そして、当代に至って遂にアーレルスマイヤーは嘗ての如く真実英邁なる姿を取り戻した。

 コジマ・アーレルスマイヤー。

 そして大臣は逢ったこともないが、腹違いのその姉も。

 帝国の、延いては皇室の運命が地響きを立てて揺れ動こうとしているこの時期に、千年前の忠臣の再来が現れるとは―――なんともはや、大衆が喜びそうな演劇的な話であった。

 

(冗談じゃありませんよ。つくづく、血とは厄介なものです)

 

 オネストが戦慄を以ってそれを再認識させられたのは、忘れもしない、コジマが初めて皇帝に謁見した日のことだ。

 彼女が恭しく膝をついた瞬間から、大臣の後悔は始まった。既に両者の間にただならぬ雰囲気がたちこめているのである。礼に則った立ち居振る舞いを保ちつつも、例えば目元の色合いや、例えば肩の線の柔らかさなどの端々に、気心の知れた者同士の格別な馴れがにおっている。王城という権力機構の魔窟にて、長らく生きながらえてきた大臣はそれを敏感に嗅ぎ取った。

 ついに皇帝が、

 

「そちとは他人の気がしない。何か、不思議な懐かしさを感じる」

 

 と言い出すに及んで、大臣の後悔は頂点に達した。

 彼にしてみればやってられない話である。自分が必死の思いで入手した「信頼」という財産を、あの女はただその五体を循環する液体だけを縁として、あっさり獲得してしまったのだ。これだけでも殺意を抱くには十分であろう。

 

(何故、もっと早く血脈から断っておかなかったか)

 

 自らの迂闊さにこめかみの血管が怒張したが、幾ら歯軋りしようと既に遅い。あれよあれよという間にコジマ・アーレルスマイヤーは出世を重ね、警察長官という立場に収まり、更にそこでも功績を積み上げ、帝国の権力構造内に大きく喰い込んでしまっていた。

 もはや適当に罪を被せて始末するというやり方は使えない。使えば、必ず皇帝は取り乱すだろう。彼女が裏切り者だったと如何にかきくどいても、

 

「うそだ」

 

 と容易に信じようとせず、直接対面して真偽を訊き出そうとするに違いない。そして、合わせてしまえばもう駄目だ。謁見の日の再現になる。必ず蕩し込まされるに決まっている。彼女を葬る為の刃が、そのまま自分に跳ね返ってくる破目になる。

 

(先んじて死体にしようにも。―――難しいですねえ、あの『唯一本懐を遂げた臣具』がある限り)

 

 その狂気的と言っていい性能は、コジマの実験に協力しているとある医者(・・・・・)の密告から存分に聞き及んでいるところである。

 結局のところ、反乱軍とぶつけ合わせて疲弊しきったところをこれまた反乱軍の仕業に見せかけて始末する以外に活路はない。

 これなら自分が皇帝の信頼を損なうような目にも遭わずに済む。どころか幼い皇帝はコジマを殺した反乱軍に煮え滾るような憎悪を覚え、視界はますます狭窄し、より操縦し易さが増すであろう。

 幸い、コジマが帝国に反旗を翻して反乱軍と結託する恐れは万に一つも有り得ない。たったひとつの致命的な痛点から、彼女が彼女である限り、そんな展開は起こり得ないのだ。仮にそうしなければオネストを斃せないと天から託宣を下されたとしても、コジマは頑として首を縦には振らないだろう。

 

(険しいですが、道は見えているのです。ならば突き進むまででしょう。私は勝つ、これまで通り、これからも。勝って栄耀栄華を楽しむのです。権力()の座は、決して誰にも譲らない―――)

「……フッ、フフフ、ヌフフフフフッ」

 

 自らの精神がなにやらひどく若やいでいるのを自覚して、大臣は肥満しきった腹部を波打たせ、人知れず湿った笑いを漏らすのだった。

 

 

 

 

 帝都は広い。

 なにせ、面積だけでも二十万平方キロメートルもある。日本列島の本州が大凡二十二万七千九百七十平方キロメートルだから、これとほぼ変わらない計算だ。

 地図を覗けば分かる通り、綺麗な丸型を為しているため、その直径や周の長さも比較的容易に割り出せる。

 直径は約五百四キロ。周は千五百八十五キロといったところで、これに沿って外敵の侵入を防止する城壁が築かれているのだから、建設当時の苦労と、それを命じ、実現させた始皇帝の偉大さが自然と偲ばれるものである。

 王城はこの巨大な版図の丁度中心部に位置していて、ここから貴族達の暮らす城下町は一際馬鹿高い壁によって更に外部と仕切られている。もし日照権などという概念がこの世界にあったなら、さぞや訴訟が相次いだだろう。

 そんな特権意識の塊めいた中心区を起点として、ケーキでも切り分けたように帝都は八地域に分かれている。この極めて広大な帝都の治安を維持するのが帝都警備隊の役目であったが、当然のことながらその隊長が一人だけということは有り得ない。

 大体、一地域に一人づつ。

 人口密度や地形等々も考慮に入れて実際にはもう少し細かく配置されているが、まあそのように考えておけば間違いはない。

 その隊長どもを一手に束ね、管理し、命令し、決裁するのが警察長官たるコジマ・アーレルスマイヤーの役割だった。

 当然、その仕事量は膨大の一言に尽きる。彼女の執務室の窓から灯りが消えたところを見たものはいないとまで噂され、

 

 ―――あの人はいつ寝ているのだ。

 

 と、畏敬をこめて噂されもしたものだ。

 

「が、如何に懸命に働こうと、黴臭い建物の一室に籠りきりではどうにもならんこともある」

 

 とは、本人の弁である。

 

「報告書に書き連ねられた文言とは所詮、何処まで行っても他人の耳目を通して観測された事実に過ぎない。今の帝国ではそもそも事実ですらなかったりもする。やはり時には自ら足を動かし、現実と脳内に構築された風景との乖離を防がねばな」

 

 そうした建前で、コジマはよく各地へ視察に赴いた。

 移動中の車内にさえ書類を持ち込み、これが天井を擦らんばかりだったという逸話さえ残っている。本人の生真面目な性格からして、おそらく真実だろう。彼女にとって視察は骨休めの旅行ではなく、厳粛な職務の一環だった。

 そんな気分の上官が、何の予告もないままいきなり詰め所に乗り込んでくるのである。

 警備隊員どもにすれば、不意打ちもいいところであろう。

 

「近くまで来たので、折角だから足を運んでみた」

 

 と、コジマはあくまでついで(・・・)を装い入ってくるが、こちらが本来の目的であるのは間違いない。日々の業務の繰り返しにより気風が緩み、ともすれば腐敗の温床になることを予見して引き締めのために(とぶら)うのだ。

 コジマが警察長官に就任して間もない頃は彼女を侮る気持ちもあり、ついその目の前でいい加減な業務態度を晒した者も居たが、次の日に彼らが一人残らず消えているのを目の当たりにしていっぺんに油断は吹き飛んだ。

 今となっては何処の詰め所の隊員も、

 

 ―――あんな風に消されたくはない。いつ襲撃(・・)されてもいいように、常に気を張っておかねば。

 

 と、心中恐々として業務に励み、日々の勤めを全うしている。

 

(これでよい)

 

 コジマは満足だったろう。

 彼女の認識上に於ける人間といういきものは、まず以って恩知らずでむらっ気で猫被りの偽善者で、金を欲しがり美味いものは喰いたがり、仕事は嫌で暴力行為が好きという、至って手に負えない代物である。

 これにまともな仕事をさせるには、彼らの欲と恐怖を巧みな按配で刺激して行くしかないであろう。コジマは性悪説論者であった。

 

 

 

 そんな彼女が本日訪問したのは、オーガという、「鬼」と通称される男が隊長を勤めている詰め所であった。

 

「忙しいところ、急に済まんね。ああ、敬礼は要らん。そのまま業務に励んでいてくれたまえよ。私の所為で諸君の仕事が滞るようでは心苦しい」

 

 軽く手を振り、ブーツの音をカツカツ響かせ奥へと向かう。扉を開けると、意外にもオーガは一人ではなかった。部下を伴っていた。優しい栗色の髪の毛をポニーテールにした、幼さを多分に残す顔立ちの女隊員だった。

 

(おや)

 

 と、その特徴に思い当たる節があったが、今はひとまず措いておく。

 

「報告の途中かね? なら、私を気にせず続けるといい」

「いえ! 丁度完了したところでありますから、長官こそどうぞこちらへ!」

 

 溌溂と答え、脇に下がって道をあけ、直立不動で敬礼しながら言うのである。

 その動作が一々きびきびしていて小気味よく、コジマは素直な好感を抱いた。

 

「ありがとう、セリュー・ユビキタス巡査官。相変わらず元気そうでなによりだ」

「はっ、光栄であります! それでは隊長、私は午後のパトロールに出て参りまってうえええぇっ!?」

「なんだ、どうした巡査官」

 

 突然狼狽し、奇声を上げた少女に向かって問い掛ける。一瞬爆弾でも投げ込まれたかと危惧したが、部屋の中に異常はない。何に驚愕したかわからず、コジマは胡乱気な瞳を向けた。

 

「あ、あの、そのっ」

「……長官、セリューのことをご存知で?」

 

 上手く舌が回らない少女を見かねて、オーガが助け舟を出した。コジマは何を愚問な、という顔をした。

 

「そりゃあ知っているだろう、警備隊に於ける数少ない―――本当に、ほんっとうに数少ない帝具保有者だ。頭の私が知らんでどうする。何より適正検査の際、私もあの場に居たことだしな」

 

 ついでながら、帝具について触れておく。

 帝具とは、もとはと言えば千年前に始皇帝が起こしたある煩悶から生まれている。大帝国を築き上げた彼は、その後あらゆる独裁者が罹患した病に取り憑かれた。死への恐怖である。

 ただ、ほとんどの独裁者がこれほど偉大な俺が死ぬなどあってはならないと妄執的自己肥大の方向へ走り、しばしば暴虐の沙汰に及んだのに対し、始皇帝のみは定命ゆえに国を永遠に守れぬ我が身の不甲斐なさを儚み、口惜しがったという点でやはり只者ではないのだろう。

 しかも、彼は永遠の命すら求めなかった。

 ただ国家の永続のみを願い、その為に遥か未来まで伝えられる兵器を遺した。

 伝説に謳われる超級危険種の素材、オリハルコンなどのレアメタル、世界各地から呼び寄せた最高の職人達。始皇帝は彼の持つ莫大な財と権力を惜しみなく注ぎ込み、やがて四十八の超兵器を産み落とすに至る。

 それこそが帝具。その絶対性は千年後の現代に至って尚覆されてはおらず、再現すら不可能というのが定説だ。

 その内の一つに、魔獣変化ヘカトンケイルなるものがある。セリューが適合し、所持を許されたのがこれである。

 適合という言葉が出た。そう、帝具はただの便利で強力な兵器ではない。強烈なまでに使い手を選ぶ。

 後方支援用のものなら兎も角、一騎当千と謳われるほど強力な帝具を選ばれてもいない者が握ろうものなら、最悪の場合即死する。そしてヘカトンケイルは、コジマの見る限り確実に非適合者を死に至らしめる代物だった。

 

「そんなことで部下を死なせるわけにはいかんだろう。だから部屋の隅で待機して、拒絶反応が出たらすぐさま割って入って引き剥がせるよう監視していた、というわけだよ」

「そ、それはコロがお手数をお掛けしたようで―――誠に申し訳ありませんでしたあっ!」

 

 がばっ、と、今度は土下座しかねない勢いで頭を下げるセリューである。

 

(犬の不始末は飼い主の責任、ということか)

 

 にしても、セリューは一々動作が大袈裟だった。こまねずみがあっちこっちへ駆け回るのを見ているような思いがして、どうにも毒気が抜かれてしまう。

 

「気にするな、巡査官。所詮月光を抜かずとも素手で充分片付く仕事、ヘカトンケイルも本気ではなかったのだろう。じゃれつかれたのを宥めてやったようなものさ。ここ最近実戦からは遠ざかっていたからな、いい運動になったと逆に礼を言いたいくらいだ」

 

 気前のいい返事を貰ってセリューは無邪気にほっとして、ありがとうございます! などと笑顔を見せているが、オーガにしてみればそんなものでは済まされない。

 

(アレを素手で鎮圧かよ)

 

 化物としか言いようがない。

 上司として、セリューが持つ帝具の性能を当然オーガは認識していた。その上で試みに、自分がアレに素手で立ち向かう場面を想像してみる。

 

(………)

 

 どう楽観しても不可能だった。

 鎮圧どころではない、逃げに徹したとしても生き残れる自信がない。三分と持たずに捕食されてばらばらになるのがオチだろう。

 が、これを以ってオーガを弱者に分類するにはあたるまい。そも、帝具に人間が立ち向かおうという発想自体が狂っているのだ。もしそんなことが出来てしまったら、そいつはどう抗弁しても人の域を超えている。そして、コジマ・アーレルスマイヤーとはそんな逸脱者の一人に他ならなかった。

 

「―――それでは長官! セリュー・ユビキタス、正義を執行すべく街の巡回に参ります!」

「ああ、君には期待している。いずれまた、今度は卓を囲んでゆっくり話そう」

 

 オーガが戦慄している間に、一通りの会話は済んだらしい。セリューは感激を全身で表現しながら去っていった。

 

「嵐のような娘だな」

「は、はい。まったく左様で」

 

 体内で色濃く渦巻く恐怖の念が、オーガをしてつい彼が付き合っている商人どものような媚びへつらいの言葉を吐かしめた。顔付きまでどこか卑しくなっている。

 

「上手く音頭を取って乗りこなせる奴が居ればいいのだが。アレをただの一過性の嵐に留めてしまうのは、なんとも惜しい」

 

 窓の桟に指を置き、去り行く背中をじっと見詰める。その目付きは、自分が彼女を乗りこなすとしたら、どのような餌と鞭とを与えるべきか既に推し量っているようだった。

 

 

 



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02


捏造設定多数。
散々迷いましたが、これで行きます。




 

 

 

「―――と、無駄話が過ぎたかな。そろそろ本題に入ろう、オーガ隊長」

 

 実務的な話が始まった。

 中央に於いて決定された政策の最新情報と、それがこの辺りの民心に及ぼすであろう影響の検討。

 地図を睨み、ピンを立て、書き込みを入れつつの重要巡回区域の策定。

 部下の錬度とその教育内容、及び不満についても慮ってやらねばならない。

 その最中、不意に犯罪発生率の推移や検挙数について明確な数字を訊ねられることがある。

 これに対して必要以上にまごついたり、先に提出した報告書と大幅に食い違う発言をした暁には、たちまちあの目がナイフのように鋭く光って襲いかかって来るのである。オーガは絶えず緊張を強いられ、必死の思いで記憶野を活性化させねばならなかった。

 甲斐あって、どうやらさしたる失態も演じずに済んだらしい。オーガは神に感謝した。

 このまま何事もなく、平穏無事に終わってくれと懇願までした。

 

「ああ、そうだ」

 

 それがいけなかったかもしれない。

 この業突く張りめ、と神が天から雷を降らすイメージが勝手に脳内に発生した。何気なく放たれたコジマの言葉は、それほどの凶兆を孕んでいた。

 

「お友達のガマル君は元気かね。ほら、油屋を営んでいるという彼だよ、彼。最近、とりわけ仲がよくなったというじゃあないか」

「―――」

 

 なんのことやら、と言おうとして出来なかった。

 喉に鉛玉でも突っ込まれたかの如く息苦しい。肝が縮まり、胃がひっくり返りそうになった。蛇に睨まれた蛙の心地は、きっとこんなものだろう。血管に氷水が流されたようで、指一本たりとて動かせない。

 

(ばれている)

 

 オーガは全てを覚悟した。問いかけを装ってはいるが、長官には絶対の確信があるのだろう。彼女の地獄耳は有名である。独自の諜報員を帝都全体にばら撒いて、上は皇帝の朝食から下は浮浪者の戯言めいた噂話まで悉皆存知しているという。

 オーガとてそれは聞いていた。だからこそ、このダークブルーの双眸に常に見張られている感じがして、賄賂を差し出されてもその都度不安がよぎったのである。

 

(……これを受け取ったら)

 

 握った腕ごと叩き切られるのではあるまいか。

 血を噴き上げながら舞い飛ぶ己の両腕を、オーガははっきり幻視した。妄想とは呼べまい。なにせ、コジマ長官が隊長格相手だろうと躊躇を挟まぬことは既に実証済みである。幻視が真に迫る生々しさを帯びていたのも道理であろう。

 が、その不安を掻き消すほどに、商人どもが押し付けてくる心づけが魅力的に過ぎた。黄金の輝きを見ていると、次第に心に麻酔がかかり、恐怖心が溶かされて手掴みに取ることしか考えられなくなってしまう。

 オーガは誘惑に屈した。耽溺したといっていい。

 金額が増えるにつれ、要求の過激さも増していった。

 最初は証拠を握り潰すだけでよかったはずが、いつの間にやら権力を盾にした恫喝や脅迫へと姿を変え。

 まずいか、と薄々思いつつも一線を越えてしまった以上後戻りなど出来る筈もなく―――すればガマルは間違いなく自分を道連れにしようとするだろう―――。

 遂に先日、来るべきものが来た。邪魔な人間に罪を被せて消してくれ、と言うのである。

 かつての帝都では日常茶飯事な、しかしコジマが警察長官の椅子に着いた今となっては余程の覚悟を要する「依頼」であると言っていい。

 流石に、オーガは躊躇した。

 その動揺を、ガマルは目聡く察知した。

 

「やはり、駄目ですかな。長官があの方になってからというもの、誰も彼も尻込みしてしまって。さぞや恐ろしい人なのでしょうね、コジマ・アーレルスマイヤーとは」

「……あ?」

 

 例え真実であろうとも、自分一個の裡に蔵しているのと他人の口から語られるのとではまるで違った印象を受けるものだ。

 この時のオーガがそうだった。普段こそ彼女の恐ろしさを素直に認められていた筈の彼が、

 

 ―――こわいんでしょう。

 

 こんな子供の悪口めいた挑発一つで、見事にその感情を逆方向に振り切らせた。

 

「俺がビビッてるって言いてえのか、おい」

「いえ、そんなことは」

 

 曖昧に笑うガマルに、オーガは執拗だった。

 

 ―――もういっぺん言ってみやがれ。

 

 と迫り、遂には、

 

「誰があんなケツの青い小娘一匹にビビるかよ。おおいいとも、望み通り殺ってやらあ」

 

 金に目が眩んだというより、コジマに対して常日頃から鬱積していた不満こそがオーガの首を縦に振らせた。

 翌朝になってまずいと気付いたが、既に前金まで受け取ってしまっている。やるしかないのか、と覚悟を決めかけたところにこの視察である。どんな馬鹿でも何らかの作意を感じずにはいられまい。正味な話、コジマが部屋の扉を潜って入ってきた瞬間からオーガは生きた心地がしなかった。

 

 ―――知っているのか。

 

 いっそのこと、叫び上げて楽になりたいと何度思ったか分からない。ところが案に相違して、いつも通り実務的な会話ばかりが展開される内につい希望を見出した。これはひょっとすると、杞憂に終わるのではないかと期待した。

 その油断を、コジマに容赦なく衝かれた。心憎いばかりに絶妙な間の外し方であった。

 こうなると、総てバレていると考えるしかない。

 

(畜生、あれだけ用心したってのに)

 

 自室にガマルを呼びつけるようなヘマはしなかったし、接触時間もなるたけ縮めて人目を忍び、細心の注意を払っていたはずだ。それでもバレた。彼の努力など所詮は小器量者の浅知恵に過ぎぬと嘲笑されているようだった。

 

「……まあ、仕事柄付き合いが多くなるのは已むを得まい。多方面に顔が利かねばとてもやってられんからな。蛇の道は蛇、兇賊を捕えるには連中の通る裏道に精通した情報源も必要だろう」

 

 こつ、こつ、こつとブーツが近付く。

 手袋に包まれた指がすらりと伸びて、オーガの眼球、数ミリ手前まで迫っても、彼の金縛りは解けなかった。

 

「だがな、節度は守りたまえよ。次の日にまで酒気を引き摺り、この建物を穢すようなら、残った片目も塞がるぞ」

 

 コジマは物事に線を引いている。限度を示す線である。

 この内側に留まる限り多少の悪戯は寛恕してやってもいいが、一歩でも踏み越えた瞬間、不倶戴天の敵になる。例え相手が誰であろうと何処何処までも喰らいつき、必ず殺すと決めているのだ。

 オーガの爪先は、今、線の数ミリ手前にある。丁度、彼の眼球とコジマの指との関係のように。

 

 

 

 ―――遺憾ながら、贈賄行為を地上から根絶しきることは出来ない。

 

 それがコジマの諦観だった。人が人である限り不可能だ、とさえ思っていた。この手の悪事は取り締まる側がどんなに法網を整備しても、手を変え品を変え、ときにこっちが感心したくなるほどの巧妙さでしぶとく生き延びてみせるのだ。

 

(不完全な存在である人間が社会を形成する以上、ある程度の腐敗は仕方ない。受け入れるべきだ。完全に潔癖な社会というのも、それはそれで息苦しかろうしな)

 

 だから、重要なのは度合いである。

 オネスト大臣との会話で触れた寄生虫のように、宿主である社会を食い潰さぬ程度に腐敗を調節するのが肝要だ。

 

 ―――賄賂は文化。

 

 などというたわけた台詞が半分本気で語られるこんな国であったとしても、表向きは犯罪として扱われているのだから大人しく人目を忍んで影の中でせせこましくやっていればいいものを、どうしても人は増長する。

 繰り返す内に後ろめたさは消え、罪を罪と認識出来なくなり、結果どんどん傲慢になる。「みんなやってる、何が悪い」なんて頭の悪い台詞を大真面目に口にしだす。

 

(だから法の守り手たる我々は、定期的に思い上がった馬鹿を白昼堂々逆さに吊るして水をかけ、心胆寒からしめてやらねばならない。―――一罰百戒、いい言葉だ)

 

 出ては叩き、出ては叩き。

 それを延々続けることで、徐々に―――それこそ牛歩の如くゆっくりと―――閾値を下げて行く。これほど根深い問題に対しては、腰を据えてじっくりかかる以外ない。 

 こうした考えを、少女時代に「姉」との語らいを通してコジマは形成し終えていた。

 

 

(どうも、この風向きは)

 

 差し当たって、今すぐ自分を殺す心算はコジマ長官には無いらしい。

 彼女の言葉を解き解すべく何度も何度も反芻し、これが最後通告であるとやっとのことで理解すると、オーガの金縛りは漸く解けた。全身から汗が噴き出し、腰が抜けてどっと尻餅を着いてしまう。それを恥だと、みっともないと思えないほど、オーガは疲弊しきっていた。

 

「ガマル君との友人付き合いがこの先どう推移するのか、興味深く見守らせて貰うぞ。手を切るにしろ改善(・・)を図るにしろ、君の裁量でやってみたまえ。その結果如何で私から君に下す処分も変わるだろう」

「………何故です」

「なに?」

 

 だが、極限の疲弊は時として人に真実の声を上げさせる。自らを取り繕う余裕さえも失ったとき、人は思いもかけず赤心を吐露してしまうのだ。

 勝手に動き出そうとする口を、オーガは最早止められなかった。

 

「何故、俺達警備隊ばかりがこんな目に遭わなきゃならねえ。なんでこんな、報われない努力を続けなくちゃあならねえんだ」

 

 多年に渡り胸中に鬱積していたものが、次々溢れた。

 

「俺達がやっているこたァ何です。命を懸けて、必死に凶悪犯を追っかけて、やっとの思いでとっ捕まえてもそれを裁くのは司法官の連中だ。俺達以上に深く腐りきってやがる、正真正銘の猖獗だ。国のために戦った軍人さえも金額如何で平然と監獄にぶちこむ連中ですぜ。金を積む相手が警備隊(おれたち)司法官(あいつら)かの違いしかないじゃないですか」

「だから金を受け取って罪を擦りつけて何が悪いと、そうとでも言う心算かね」

「ああそうですよ、何が悪いってんだァ!」

 

 忘れもしない。

 同期の友人を惨たらしく殺した異常性癖の連続殺人犯が、三日もせずに出獄した。

 貴族の息子だった。

 積み上げるカネと、それを活かすコネを持っていたというだけで。

 あれだけのことを仕出かしておきながら、堂々日の当たる街道を歩いていた。

 それどころか、彼を逮捕する際、既に投降していた相手に必要以上の暴行を加えたとかふざけた言いがかりをつけられて、現場指揮官が首を切られた。

 防衛行動を名分に犯人を殺そうとする新人を、どうにか抑えたのは彼だったというのに。

 気前のいい、感情量の豊かな、尊敬できる上司だった。

 一週間後、彼の死体が川に浮いていた。

 明らかに拷問を受けた痕があった。

 検死官は自殺と断定した。

 何もかもどうでもよくなった。

 そして一度受け入れてしまえば、意外と居心地は悪くない。

 強者に媚びへつらい、弱者をいたぶっているだけで、自然と出世の道が開けていった。

 帝都警備隊隊長の座に就いたとき、オーガはやっと理解した。ああ、これが、これこそが、正しい世の姿だったのだと。

 この腐臭に満ちた街で王を気取り、権力の甘美さに陶酔した。漸く自分の人生が正しく回転し始めたように思えた。幸福だった、幸福だったのだ―――目の前ですまし顔で佇む灰色髪のこの女が、遥か天上の御座にて何かおかしなことを始めるまでは。

 

 

 

 オーガは、洗いざらいぶちまけた。

 

 ―――あんたのやってることは全部無駄だ。

 

 とまで叫んだ。

 

 ―――世間知らずの坊ちゃん育ちの小娘が、薄っぺらい正義感振り回して図に乗りやがって。

 

 これなど、何故まだ彼の首が繋がっているのか分からなくなる発言だろう。オーガ自身にも疑問であった。何故この女は、ああまで暴言を浴びせられて平然としていられるのか。

 ―――否、平然としている、どころではない。

 

「……懐かしいな」

 

 あろうことか、コジマは穏やかな顔をしていた。

 目を細め、オーガを通して何処か遠くを眺めているような風情である。オーガは気味が悪くなった。

 

(おかしいんじゃねえか)

 

 頭が、である。

 おそるおそる、訊ねた。

 

「何が懐かしいんです」

「私も昔、君と同じようなことを言った」

「えっ」

「相手は姉だったよ。その時のことが思い出されて、つい、な」

 

 余程輝かしい思い出らしい。口元を柔和に緩め、コジマはぽつぽつと語り出した。

 

 ―――彼女は夢見がちな人だった。

 

「私とは正反対に、心の底から性善説を奉じていてな。物窮ずれば通ず、だったか? どんなに事態が悪化の一途を辿っても、いや、最悪の状況にまで陥ればこそ、却って活路は開かれる。夜明けは必ず訪れる。暗黒の泥濘の上にこそ、自ら燐光を放つ瑞々しい蓮の華は開くのだ。嘘じゃない、この手で開いてみせてやると事あるごとに豪語していた」

 

 ―――それがまぶしくて、うっとおしくもあった。

 

「彼女の笑顔を曇らせたかった。先を行く者の足を引っ張りたくなる衝動と一緒だよ、私は姉ほど楽天的にはなれなかったからね。花になるより、一緒にこの泥濘に沈んでいて欲しかった。甘っちょろい考えだと、現実を知れと何度言ったかわからない。分際を弁えろ、何をやろうが世は変わらん、貴女の情熱はまったくの無為、ただの徒労でしかない。―――……」

 

 いつの間にやら、自分が息を詰めまでしてコジマの言葉を拝聴していることにオーガは気付かない。この女長官にもそんな時代があったのか、と青天の霹靂を喰らったような思いがした。

 

「すると、姉はこう言ったのさ。―――“そうだね、私は『結果』だけを求めてはいない”」

 

 ああ、これは、この言葉だけは、何年経とうと忘れない。

 何故ならこれこそ私の人生を決定付けた一言。暗夜に迷い、挫けそうになる私を支えた、もう一つの月光なのだから。

 

「“『結果』だけを求めていると人は近道をしたがるものだ………近道をした時真実を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく”」

「“大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあればたとえ何回失敗したっていつかはたどり着くでしょう? 向かっているわけだからね………違うかな?”」

「―――、―――、―――、それ、は」

 

 今度こそ、ハンマーで頭をぶん殴られたような衝撃だった。

 なんという高潔さ、なんという人間性、まるで黄金のような意志の言霊。

 これほどまでの感動を、かつて味わったことはない。自分にそんな資格はないと理解しつつも、こみ上げて来る熱いものを止められなかった。

 

「信じられるか、まだ十四の乙女がこんなことを言うんだぜ。彼女は本当に不思議な人でな、他にも色々な事を教えてくれたよ。どうやってあれだけの叡智を練り上げたのか、それなりに読書家を気取れるようになった今の私ですら見当が付かん。生きていれば哲学者として、或いは思想家として、さぞや一世を風靡しただろうに」

「……生きていれば? では、まさか長官の姉君は」

「ああ、死んだよ」

 

 さらりと言ってのけるコジマである。

 

「―――」

「死んだ。もう随分と昔の話だ。虫のように殺された」

「そん、な」

「だが、意志は生きている」

 

 火山弾を噛み潰すような、凄まじい決意の籠った言葉であった。

 

「これも姉の受け売りだがね。―――真実から出た『誠の行動』は、決して滅びはしない。滅ばないのだ、絶対に。姉は死んだ、儚くも。だが、彼女の願いは、意志は生きている。この私の胸の裡に今も在る。かつて私は姉と同じ夢を見た、この世界のこの大地に、我々の理想の国家を築き上げると。その夢を、私は必ず実現させる。必ず、必ず、必ずだ。彼女の信じたこの夢が、真実から出た誠であると証明してやる」

「……子供の夢が、国を、世界を振り回しますか。巻き込まれる側は堪ったものじゃありませんな」

「まあ許せ。―――それにな、別段今に始まった事じゃあるまい。理想なんてものは本より総じて子供っぽいものだろう」

「はっ―――」

 

 たまらぬとばかりに、オーガはとうとう吹き出した。ああ、まったくこいつはなんという、規格外の怪物だ。重々承知していた心算であったが、甘かった。コジマの真の恐ろしさは、単純な戦闘能力などにない。その力を行使して何事かを成し遂げようとする意志の強さ、延いては魂にこそ宿る。

 単純に、異常なのだ。その密度も熱量も形状も、何もかもが常人の想定枠を遥かにぶっちぎっている。この手の人種が至れる未来は二つに一つしかないだろう。勝利し、走り抜けた果てで何もかもを手に入れるか、志半ばで斃されて死体をどぶに棄てられるかのどちらかだ。

 家族を守り、平穏無事に生きて行ければそれでいいという発想にどうやっても甘んじられない。必ず自らの志を世に向かって実現させようとする。

 その結果世界に強いる犠牲ときたらなまじっかな悪党より余程巨大なものとなるが、本人が疚しさを感じることはない。

 果てしなく暴走する巨大な車輪のようなものであり、距離を取る以外に対応策などないのだが、その質量と外連味のなさから妙な引力を生み出して人を惹き付け、共に暴走行に加えようとするから性質が悪い。最後まで着いて行ける者など、ほんの一握りに過ぎないというのに。残りは皆悉く、轍を彩る鮮血にしかなれないというのに。

 オーガはそんな末路などまっぴらだった。まっぴらだと、懸命に思おうとした。

 

「ははは、ははははは―――まったく、付き合いきれねえや」

 

 立て掛けられた剣を取り、出て行こうとした。

 

「何処へ行く?」

「巡回に出てきます。頭を冷さないと、とてもやってられない気分でしてね」

「そうか。まあ、偶には初心に帰るのもいいだろう」

 

 コジマは止めなかった。が、今にも部屋を出ようとするオーガに向かって、

 

「ただ、腹は切るなよ」

 

 と、釘を刺すのを忘れなかった。

 

「な―――んの、ことでしょう」

「そんな顔をしていた」

「………」

「よくやるんだよ、皆。自分の身さえ犠牲にすればあらゆる責任が果たされるような気になって。だがな、一死を以って大罪を謝す、なんてのは精々敗軍の将のような特殊な環境下でのみ成立し得る特権だぜ。君がそんな恩典に浴せると思うか。そうでもなしに勝手腹を斬るのは畢竟ナルシズムの変形で、ヒスを起こした女とさして変わらんのだが、何故か本人だけが気付かない。全く以って困ったものだ」

 

 どうやら自分の頭蓋骨はいつの間にやらガラス張りになったらしい。何もかも見透かされている、と観念する他なかった。

 

「……では、俺は一体どうすれば」

「もう言った、自分の頭で考えろ。そうでなければ人間の発達などあるものか。ヒントを求めて書を漁るのも、縁を頼るのもいいだろう。兎に角『奴を殺して自分も死ぬ』以外の答えを出してみせろ。私がそれを添削するまで、とりあえず命はとっておけ。なに、心配するな、落第点だったなら即座にこの手で殺してやるさ」

 

 この異常な発言が、オーガの心に風を通した。

 

(ああ、そうか)

 

 何を頓悟したかは本人自身さっぱりわかっていないのだか、急に心が広々として、許されたような気分になったのは確かである。

 

(俺の命は、もう俺の好き勝手に出来るものですらないのか)

 

 そのことに、ぞくぞくするような喜びを感じるのである。

 普通、自らの生殺与奪を握られて喜ぶ馬鹿もいないだろう。よっぽどの変態でもない限り有り得ない。

 が、よくよく考えてみれば、人生の苦しみは自意識からこそ生まれている。ならばいっそ、この自分という荷厄介な代物を丸ごと他人に委ねてしまえば、後に残るのは重石から解放されのびのび動く肉体と、解脱にも似た法悦ではあるまいか。

 二流以下の人間にとって、誰かの道具になる以上に甘美な生き方はないのかもしれない。

 そしてコジマ・アーレルスマイヤーは、魂を売りつける相手としてこの上ないほど信頼出来る最高の買い手だった。

 もはやオーガは、コジマの引力に抗う気力を失っていた。

 その果てに彼女の轍を彩る真っ赤な染みの一つになろうとも、それはそれでよいではないか、と思うようになっていた。

 

「―――了解致しました、我らが警察長官殿」

 

 別人のような謹直そのものの声で言うのである。

 

「不肖オーガ、半熟の脳漿ながらも搾りに搾って考えてみせます」

「うん、頑張れ。君がどんな絵を描き上げるか、私も楽しみにしているよ」

 

 ―――願わくば、それが聖血を注ぐに値する出来であらんことを。

 

 謎めいた言葉を残し、コジマは去った。残されたオーガは、この日を境にあらゆる苦悩から解放されて永遠に醒めない夢のような陶酔の渦へと堕ちていった。

 人間にとっての幸・不幸など、まるで見当がつかない。

 

 

 



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03

 

 体内に兵器を仕込むとなると、当然今までとは色々勝手が違ってくる。

 施術の激痛なぞは正義を遂げんとする目的意識の強烈さにより耐えることなど造作もないが、重心の変化はそうもいかない。単純に、腕が重いのだ。おおよそ人体よりも金属の方が比重は大きくなる以上、これは仕方のないことであろう。が、だからと言ってこの違和感をそのまま放置しておくなど有り得なかった。

 

(早いところ、慣れないと。動きに不自然さが混じったままでは、そこから仕込みを看破されるおそれもある。折角の切り札、ちゃんと切り札として使わないと。―――)

 

 セリュー・ユビキタスは悪を滅殺するためならばどんな苦難も厭わない、至って熱心な娘であった。

 そうした次第で、今日もオーガを相手に道場稽古に励むのである。

 組み手がひと段落し、乱れた息と装束を整えている最中だった。

 

「セリュー、お前、今晩ヒマか?」

 

 上司からこのような声をかけられた場合、まず以って酒席の誘いと考えるのが妥当だろう。

 が、セリューはそうは思わなかった。目に、何か含むところがある。

 近頃妙に透明な顔をするようになったこの上司を薄気味悪がる同僚も居たが、セリューはむしろよい変化であると捉え、歓迎していた。

 なんといっても、彼がこうなったのはあのコジマ長官の視察の日以降なのである。セリューの正義の志を汲んでくれた、あの人の、だ。彼女が齎した影響でオーガに変化が起きたのならば、それは問答無用で正義の道に則った、いいものであるに違いない。尊敬できる隊長が、更に尊敬できる隊長になったのだ。セリューの思考回路はこのように組み上げられていた。

 心ない者は、

 

「洗脳でもされたのではあるまいか」

「いやいや、あの長官のことだ。脳髄をそっくり入れ替えるくらいやりかねないぞ」

 

 とひそひそ噂していたが、まったくとんでもない暴言だ。注意はしておいたから、心を入れ替えてくれるといいのだが。

 とまれ、そうした信頼に基いて、セリューはオーガの問いに素直に答えた。

 

「はい、空いています。ご用があるなら、なんなりと」

「よし。じゃあ、日が沈んだらここに記されている住所へ向かえ」

 

 と言ってオーガが押し付けてきたのは、薄っぺらい茶封筒だった。

 

「これは?」

「おっと、ここじゃあ開けるなよ。人目につかない所で読んで、憶えたら燃やして灰を水に流しちまえ。機密保持ってやつだ」

「はっ、了解しました!」

 

 セリューは、そのようにした。

 記載されていた住所はメインストリートを外れ、水はけが悪くいつも地面が湿っているような区画にあった。こんな場所に棲んでいるからか、住民にも生気が薄く、滅多に目を合わせようとしない。

 目的の建物に着いた。壁は不快に黄ばみ、碌に手入れもされていないのか漆喰が剥がれて雑草の出ている部分さえある。周囲の家と比べても一際薄汚い外観に、さしものセリューも眉を顰めた。

 

(機密、と言われたから何らかの特殊作戦―――巨大な悪を消滅させるチャンスかとも思ったけど)

 

 このみすぼらしさを見ていると、膨れた期待が萎まされてゆくのをどうしようもない。

 何やら狐につままれたような心境で、指示通り扉を六回規則的にノックした。

 建てつけまで歪んでいるのだろうか。扉は、老婆のようにしわがれた悲鳴を上げて開いた。

 そこに、コジマ・アーレルスマイヤーが立っていた。

 

「ちょうか―――」

 

 思わず声を上げかけたが、コジマは取り合わず、セリューの腕を掴むなりぐいと引き寄せ、続く言葉ごと黴臭い屋内へと引きずり込んだ。

 

 

 

 

「特殊隠密作戦、ですか?」

「そうだ。君とは担当地区が違うがね、先月のガサ入れの話は聞いているか?」

「ええと、噂話程度なら」

 

 警備隊にとっては耳の痛い失敗談である。

 先月、コジマ自身が指揮する一隊がとある貴族の屋敷に踏み込んだ。以前より黒い噂の絶えないところで、門扉を破って雪崩れ込む警備隊を目にした市民は明日には新鮮な貴族の水揚げが拝めるかと期待した。

 が、思わぬことが起きた。

 空ぶったのである。何時間粘ろうと悪事の証拠は何一つとして見付からず、結局撤退を余儀なくされた。これまで万事抜かりなく、卒なくこなしてきたコジマ長官の初めての躓きに世上は騒然となった。

 貴族は冤罪をかけられたと盛んに主張し、ためにコジマへの風当たりがかなり厳しくなったらしい。これで彼女も沈むか、と早くも見限る者さえ現れた。

 

「勝手なことを言ってくれる」

 

 苦笑しつつ、コジマは言う。蝋燭の灯りに照らされた地下室で、彼女の影がゆらめいた。

 

「あいつはクロだよ、間違いない。似たような犯罪者を散々見てきた経験、それに何より月光が私に告げるのだ。あの場所で流された、夥しい血の遺志を」

 

 貴族のような政治に強い影響力のある者を狙う際、コジマはよく内偵捜査を試みる。

 少し以前、帝都に住まう貴族の間でとある遊びが流行した。地方から帝都にやって来たばかりの若者達を手厚くもてなし甘い言葉で誑かし、心気を緩ませ隙を晒すや一服盛って拘束し、人語を絶した拷問にかけ愉しむのである。

 

「信じた相手に裏切られる悲劇。大事な夢が、それを叶える為の肉体が、どんどん台無しにされてゆく絶望。私にはさっぱり理解できんが、そういうモノが殊更好きな連中がいてなあ。ただ罪人を拷問するのでは得られない、特別な味があるとのたまったものだよ」

 

 セリューの顔付きが既に尋常ではないが、コジマは構わず話を進めた。

 そうした貴族相手に用いたのが密偵だったという。時には「おのぼりさん」に偽装して、時には彼らの雇用する衛兵達に紛れ込み、密かに証拠を得るべく策動させた。

 

「甲斐あって、随分と多くを吊るせたよ。過酷な任務を、彼らは本当によくやり遂げてくれた。感謝してもしきれない」

「やっぱり正義は必ず勝つんですね!」

 

 セリューはうんうんと頷いた。

 この密偵捜査の功績は、実質検挙数よりも貴族達の心理面に及ぼした影響にこそあるやもしれない。今や彼らは「おのぼりさん」を見ても、格好の獲物と考えるのではなく巧妙に擬装された地雷を連想するようになった。

 軽度の疑心暗鬼といっていい。

 貴族達にしてみれば、毒を呑み込む危険を踏んでまでこの行為に執着する気は毛頭なかった。

 何故なら、彼らにとってこれはあくまで「遊び」に過ぎないからだ。遊びで命を落としては馬鹿馬鹿しい、というのである。

 流行は()んだ。

 コジマの愛する一罰百戒、恐怖による治安維持が覿面な効果を発揮したと言っていい。

 

「ほんの僅かな例外を除いて、な」

 

 その一つが先月襲撃した、例の屋敷の貴族共であると言う。

 政界に強い影響力を持つ故に増長したか、拷問趣味が中毒の域まで至ったか、或いはその両方か。いずれにせよ、この一家が何も知らぬ辺境出身の若者を連れ込むことを止める気配は一向なかった。

 

「そのくせ、此方が用意した密偵にはどういうわけだか喰い付かん。セリュー、何故だと思うね」

「勘がいいのでしょうか? 悪の分際で生意気な……!」

「いや、その程度ならば取るにも足らんよ。私が危惧したのはな、警備隊内にモグラが潜んでいることだ」

 

 最初からその心算で入ってきたのか、それとも金でも積まれて転向したか。不自然なまでの危機回避能力を前にして、コジマは水漏れの音を聞き取った。

 

「そんな、正義の味方の警備隊(わたしたち)から、悪に手を貸す奴が出るなんて、そんなこと―――」

「確信したのは実際に邸内に踏み込んでからだ。貴族にも奴が雇った衛兵達にも、不意の捜査に動揺した気配が欠片も無かった」

 

 事前に知らされていなければ、こんなに顔色を保てない。

 まさか、と身内の裏切りを信じたくなさそうにしていたセリューも、この一件を明かされてしまっては認めざるを得なかった。ぎりっ、と音が立つほど奥歯を噛んだ。血の気が退くほどの怒りが彼女を内側から焼いているのは瞭然だった。

 

「結果は、言うまでもないな。風聞の通りだ、証拠はすっかり消されていたよ。が、それでももしかすれば、何処かに僅かな手落ちが見付けられるかもしれない。その可能性に賭けて限界まで粘り、壁紙をひっぺがす勢いで調べ上げた」

 

 その執念が実を結んだか、本宅から少し離れた蔵の中で興味深いものを発見できた。

 棚の下の床板に、明らかに血を拭った痕跡がある。

 もし人血ならば、楽々致死量を超えていよう。

 

「これについて問い質したときの答えが、連中の人間性をよく顕している。なんと言い訳したと思う?」

「………何て、言ったんです?」

家畜の血(・・・・)だとよ。息子に命の大切さを学ばせるため、豚を解体させた痕跡だとぬかしてくれた」

「殺しましょう、長官。生かしておいちゃいけない奴らです。その屋敷の住所を教えてください、今すぐ走って消滅させて参ります」

「落ち着きたまえよ、巡査官」

 

 逸るセリューを、コジマはどうにか押し止めた。

 

「曲がりなりにも『官』に所属する以上、明々白々な掟破りはできん。我々は手続きに拘束される宿命にある。最低限、辻褄を合わせる工作はしておかなくてはならんのだ」

「放置せよと? 眼前に悪を控えながらその粛清を諦めろと、そう仰るのですか長官!」

「そんなわきゃあないだろう」

 

 地獄の底から響いて来るような重苦しい声色に、セリューの興奮は俄かに醒めた。

 

「こいつは吊るす、必ずな。自分の臓物で窒息しながら、これまでの人生を悔いて貰う。だがな、セリュー、覚えておけよ。我々警備隊が犯人を殺害出来るのは、生死問わず(デッド・オア・アライブ)の手配犯を除いては、対象が此方の勧告に従わず、逃走又は攻撃に打って出て来た場合のみだ」

 

 要するに、防衛行動の結果に限ると言う。

 現場の判断で勝手に処刑を執り行う権限など警備隊には無いし、あってはならないとさえコジマは考えていた。このあたりは、彼女の政治哲学に依る。

 

「ゆえに、我々の仕事は連中の悪事の決定的証拠を掴むこと。然る後に捕縛に移るが、この時抵抗された場合に限って武力行使(さつがい)を許可する。この点、順序を履き違えるなよ、証拠を握るまでは殺害はおろか邸内の衛兵に発見されてもいかん。総て隠密裏に事を進める。いいな?」

「っ……、了解しました」

 

 猛獣を鎖に繋ぐ気分である。

 可能であればもう二・三度鎖を引いて、拘束が行き届いているか確かめたかった。

 

「幸いにして潜り込んだモグラの特定も済んでいる、成算は高いぞ。内々に告知したとはいえ、あのガサ入れの予定を知っていた者は限られるのだ。絞り込みは容易だったよ」

「誰だったんです?」

「それを言ったら、君はまた即座に殺しに走るだろう?」

「まさか、まだ生かしておられるのですか!?」

「そちらの方が都合がいいからね。彼は今、此方で用意したダミーの情報を真と信じ、せっせと飼い主に送っているよ。これは敵を油断させる上で非常に役に立ってくれた。が、そろそろ用済みだ。本体を挙げ次第、彼にも退場してもらうさ」

「なるほど、それなら。……でも、これは、あれ?」

「どうした、巡査官」

 

 顎に指を当てて考え込むそぶりを見せるセリューに、コジマが問うた。

 

「あの、悪にこちらの動きが察知される危険はもうないんですよね?」

「そうだな、第二、第三のモグラの存在を危惧して今日まで調査を続けたが、結果はシロだ。奴さえ封じれば、敵の知る此方の動きは全くの幻影にしてしまえる」

「では、何故再び堂々と正門から乗り込まないんです? 証拠を隠滅する暇がないのなら、それでもよいのではないでしょうか。人目を忍んでこっそりと、それも長官自らが潜入する必要性が、ちょっと、どうにも解せなくて」

(ほう)

 

 目の洗われる思いで、セリューを見た。

 

(なかなか、どうして……)

 

 猪突するばかりの獣かとも思ったが、存外細かい処に目端が利く。コジマは内心にてセリューの評価を上方修正した。

 

「いいところに気がついたな、セリュー」

「あ、ありがとうございます」

「実を言うとな、私は更にもう一段罠が張られているのでは、と警戒している」

「もう一段、ですか?」

「うん、ひょっとすると向こうは、モグラが私に発見されることすら想定していたのではないだろうか」

 

 そも、ガサ入れを受けたにも拘らず、何事もなかったかのように「おのぼりさん」をつかまえて屋敷に導き続けていることがおかしいのだ。自分達が目を付けられているのは明白なのだから、少しは自粛なり警戒の色なりが混ざってもいいのではあるまいか。

 

「が、連中の挙動にはそうしたものが一切ない」

 

 この貴族が一ヶ月間に連れ去った地方出身者の総数は十八名。二日に一人以上のペースである。いくらなんでも異常と言えた。

 自己肥大もここまで極まったか、もはや自分達を捕まえられる者など何処にも居ないと驕っているのか、と単純に考えてしまえばそれまでだろう。

 

「しかし私は、そこに挑発の意図を見出した」

 

 むろん、コジマに対する挑発である。

 彼女がこうした行為を許さないと知るゆえに、敢えて見せ付けることで迂闊な一手を誘っているのだ。スパイを見付け、擬装情報を流し、これでもう大丈夫と油断させ、再び踏み込んでみればあら不思議、拷問の証拠など影も形も見当たらない。それもそのはず、ガサ入れの日以降彼らが声をかけた十八人の地方出身者は、軒並みサクラなのだから―――。

 

「同じ相手に、同じ嫌疑をかけ、同じように失敗する。こんな奴は私から見ても無能だよ。警察長官の椅子に座らせておくなど以っての他だ」

 

 相手の貴族は当然「激怒」するに違いない。

 何度も何度もあらぬ疑いをかけおって、もう我慢の限界だ、さっさと辞職せんか小娘が。―――……

 そうねじ込まれれば、抗う術はないのである。コジマの政治生命は終わるだろう。彼女はそこまで予見した。被害妄想、警戒のし過ぎと言われるかもしれないが、コジマから見れば十分有り得る展開である。

 

(なにせ、あの貴族と繋がっているのは大臣だ。奴が何らかの入れ知恵をした公算は高い。サクラ用の人員だって好きなだけ送れるだろう)

 

 が、だからと言って放置など、更に輪をかけて論外である。

 

「我々の使命は帝国臣民の安全と幸福追求を保証すること。ならば、一パーセントでも可能性があるならば」

 

 ―――征かぬことなど許されん。

 

「そうだろう、セリュー・ユビキタス巡査官」

「はい、長官。断固として進むべきです。正義の光を、照らさなくては」

 

 疑問は霧消したらしい。と言うより、これはどうでもよくなったのか。誇りに満ちた表情で、敬礼しつつセリューは言った。

 冷静な第三者的視点から眺めれば、まだまだ突っ込むべき箇所が山のように横たわっているのであるが。セリュー持ち前の乗せられやすい性分を差っ引いたとしても、げに恐ろしきは場の勢いであったろう。

 

 

 

 この夜、雲が厚い。

 空は鎖され、星の流れも弧を描く三日月の光も届かない。絶好の潜入日和だった。

 

「皮肉なものだ」

 

 とある屋敷の塀の影、一際色濃い闇溜りから声がする。

 

「月光を背負うこの私が、月明かりをおそれ、無明の夜を喜ばねばならんとは」

 

 黒装束に身を包んだコジマであった。

 背景に溶け込むこと尋常ではなく、通りがかった者がこれを聞けば闇そのものが喋り出したかとさぞやたまげることだろう。

 

「なあ、君もそう思わんかね、オーガ隊長」

「はっ、心中お察し致します」

 

 そう答えたのは、同じく全身黒で固めたオーガである。

 この男はこの男で、別の経路を辿って装束を改め、現地で集合したらしい。なんとも念の入った手筈であった。

 コジマ、セリュー、オーガ。以上三名が、本作戦に於いて現地で動く実働部隊の顔触れである。

 

「だろう? こんな小細工を弄さずとも済むように、さっさと国を正常化させねばな。これもまたその為の一歩なれば、呑み込むことに否はない。―――始めるぞ。セリュー、ヘカトンケイルには言い聞かせたな?」

「はい、大丈夫です。何があろうと鳴き声ひとつ立てないと、ちゃんと約束してくれました」

「よろしい。君とコロ(・・)の絆を信じよう」

「お任せください!」

 

 感極まって大声を出しかけたセリューの後ろ頭を、コジマは慌ててひっぱたいた。

 

 

 コジマほどの身体能力の持ち主からすれば、生半可な壁など問題にもならない。セリューを投げ上げ、上からロープを垂らしてもらえばそれで済む。

 鉄柵などがついていればもう一工夫必要なのだが、経費を惜しんだか、この屋敷には用意がなかった。

 侵入後は、予定通りに動いた。

 

 ―――まずは蔵だ。

 

 と、事前の打ち合わせで決めてある。広い敷地内を―――主の虚栄心を反映したかのように、本当に広い。この鬱然と繁る屋敷林はどうであろう。数ブロック先のスラムでは、猫の額ほどの土地に人がすし詰めになって生活しているというのに、なんたる格差であることか―――巡回する衛兵達の死角に入り、ときに草の根に顔をつけ、ときに樹の幹と一体化し、蟲や夜烏の鳴き声を歯の間から搾り出しつつ進んだ。

 これが、見かけ以上に神経を使う作業である。

 セリューもオーガも、共に武術経験者である以上気配の殺し方は心得ていたが、その状態でじっとして、獲物が網にかかるのを待てばいいのとはわけが違う。敵と遭遇しても倒してはいけないどころか、気付かれるのも、不審を抱かせるのも駄目なのである。

 両名揃って何度か緊張の糸が途切れそうになっている己を発見せねばならなかった。コジマの先導がなければ、とうに見付かり大騒ぎになっていたに違いない。

 三十分弱ほど費やして目的の蔵へと辿り着いた頃には、二人とも未知の疲労に蝕まれ、辛さに顎を上げたくなっていた。

 

「しっかりしたまえよ、ここからが本番だぞ」

 

 そこをいくとコジマは手馴れたものである。

 詳述は後に譲るが、軍人―――それも佐官として、南方征伐戦に従軍した彼女である。

 

 ―――部隊の士気を昂揚させるには、何よりもまず敵情を知らしめ、これに対する我が軍の配備と計画を知らしめることが肝要だ。

 

 との信条に基いて、散々将校斥候をやっている。

 慣れない気候条件の下、毒虫に喰われ、腐乱し膨張した死体に埋もれ、泥水の中を進んだ思い出に比べれば、今夜の潜入行はほとんど天国を散歩している観がある。翻って云えば、そういう慣れがあったればこそ未熟な二人を引き摺りつつも大禍なく此処まで来られたのだろう。

 

 さて、蔵の内部である。

 

「ほう」

「おっと」

「なんてことを……!」

 

 右から順に、コジマ、オーガ、セリューの第一声である。

 コジマは敵の頭が悪すぎて逆に不意を衝かれるという得難い経験に感心し。

 オーガは匂い立つ新鮮な血臭に、危うくえずきかけたのを抑え込み。

 そしてセリューは、あまりに凄惨な悪逆非道を前にして、顔色を失うほど激怒した。

 蔵の中にあったのは、死体と、死体になりかけている者達と、血と皮がたっぷり付着した拷問機具の数々だった。

 

(まさか本当に、ただ増上慢の赴くままに拷問を重ねていただけとはな。いや、まだ断定するには早いか? ()が一致するからといって早合点は禁物だ。正規のルートで売買された奴隷の可能性が残っている)

 

 やはり、調査は必須であろう。

 コジマにすれば、とうに見慣れてしまった光景である。足元を浸す苦悶の声にもさして動揺することなく、淡々と指示を下していった。

 

「オーガ」

「はっ」

「機具を調べろ。これを売ったのが誰かが気になる。ひょっとすると、前回敷地内を捜索した際遺体の埋葬痕さえ見出せなかった謎を紐解く糸口になるやもしれん」

「了解しました」

「セリュー、君は私と一緒に生存者への聞き取りだ。名前と、出身地を重点的に訊ねろ。リストと照合してみたい」

「………」

 

 懐から平綴じされた紙束を取り出して、ぱらららっと捲くって見せてもセリューは反応を示さない。何のリストです、とも訊かないのである。気のせいか、その後姿からは薄らと、青白い炎が立ち昇っているようにも見えた。

 

「セリュー・ユビキタス巡査官」

 

 少々強めに呼びかけて、漸くセリューは此方を向いた。びっくりするほど虚ろな眼差しだった。が、これを以って中身まで空っぽと考える者は絶無だろう。逆であると、誰もが一見して悟るはずだ。

 ヘリのローターよろしく高速回転する物体が、ときに止まって見えるように。

 激情が限界を遥かに突き破ってしまった場合、人は凪いだ水面のような無表情を呈すのだ。

 

「もう一度だけ言うぞ。生存者を探して、名と、出身地を聞き出せ。間違っても本邸に突っ込んで血風呂にしようなどとは考えるなよ」

「駄目ですか」

「駄目だ。出る前に説明しただろう、順序を守れ。これより言い逃れの目を潰す、ネズミの通り道すら見落とさぬよう徹底的に、だ。身柄確保(おたのしみ)はその後だよ、いいな?」

「っ……了解、しました」

 

 噛んで含めるように言い聞かせ、どうにかセリューを動かすことに成功した。

 そうして本題に移ったものの、これが難航した。

 何分、虫の息の者ばかりなのである。

 おまけに頬の肉を削がれ、舌を切られて喋りたくても喋れなくされている。そうでない輩も居るには居たが、既に正気を失っていてまともな会話を営めなかった。

 コジマが相手をした連中は、見事に全滅といっていい。

 

「―――長官、この人は、まだ」

「喋れるか。待っていろ、すぐ行く」

 

 希望を見出したのはセリューであった。檻の鉄柵越しに、同年代かちょっと下程度の少女の手を握っている。

 ……いや、本当にこれを「希望」と呼んでいいのだろうか?

 ひどいものであった。

 かつては艶やかであったろう黒髪は凝固した血泥によってあらゆる光沢を簒奪されて、もはや見る影もない。

 衣服を剥ぎ取られ、曝け出された表皮には削ぎ痕や刺し傷の他にも赤錆めいた斑模様が浮かんでおり、ルボラ病の末期症状を呈していると見て取れる。

 唯一残されている桜花をかたどった髪飾りが、より一層の悲壮感を演出していた。

 

(よくぞ。………)

 

 ここまでされてよくぞまだ、自我が壊れず残っていたとコジマは称賛してやりたくなった。

 

 

 

「なるほど、サヨというのか。出身は―――ああ、その村なら知っている。雪深く、こぢんまりとしているけれど人情味あふるる良いところだね。私の故郷に見習わせたいくらいだよ」

 

 大急ぎでリストと照合しつつ、セリューに命じて意識が途切れぬよう呼び掛けさせる。それに反応し、ぽつりぽつりとサヨが漏らしたうわごとめいた言葉の切れ切れを縫い合わせると、つまりはこういうことらしい。

 彼女は最初、困窮する村を救うべく、志を同じくする幼馴染み二人と共に村を出た。

 幼い時分より肌を接するようにして育ち、苦難を分かち合い、鍛錬を積んで共に高め合ってきた三人である。彼らを結ぶ絆の強さは、まさかりを以っても断ち切れないと信じていた。

 が、外界は非情である。程無くして夜盗の襲撃を受け、まずは一人と離れ離れに。

 暫くの間残った一人と旅路を急ぐが、今度は危険種の大群と遭遇し、どうにか切り抜けはしたものの、ふと辺りを見回せばすっかり孤立している始末。

 

(どうしよう)

 

 途方に暮れなかったと言えば嘘になる。

 しかし、それでも目指す場所は帝都一つと決まっている以上、いずれは合流出来るだろう。方向音痴のイエヤス―――幼馴染みの名前らしい―――が不安といえば不安だが、なに、あれはあれでいざとなれば頼り甲斐を発揮する男である。

 余計な心配は無用。むしろ誰よりも先んじて帝都で待ち、それなりの地位も確保して、遅れてやって来た男どもにうんと自慢してやろう。うん、そうだそうともそれがいい。

 ……そう、強気に構えて自分を鼓舞し、いざ帝都に足を踏み入れてみればその後は、ああ、そのあとは―――。

 

「あ、あぁ、うぅあああああぁッ………」

「いいんです、もう。それ以上は言わなくていい。大丈夫、必ず私達が救けます。絶対に報いを受けさせてやりますとも。だから、どうか、呼吸を楽に―――」

 

 檻の格子を力ずくで捻じ曲げて―――明らかに筋繊維が纏めて断裂する音がしたが、本人に痛みを感じる様子はない。脳内物質の過剰分泌に依るだろう―――サヨの体を解放し、抱き締めながらセリューが言う。

 こういう行動を計算抜きの本心からやれるのは、紛れもなく彼女の美点といえた。

 

(やはり、リストに一致する氏名は見られない。これで人身売買の逃げ道は潰せたな。この少女さえ抑えれば、無辜の民草の拉致・監禁・殺害未遂で立件出来る。取っ掛かりさえ掴めたならばこっちのものだ、残りも芋蔓式にいけるだろう。しかし、まあ、なんと運の悪い娘であることか)

 

 帝都までの道中にて度重なる襲撃を受け、仲間と散り散りにされた挙句、今や下火になりつつある貴族の「遊び」に引っ掛かる?

 滅多打ちとしか言いようがない。

 不幸の神の抱擁でも受けたのか、と十人が聞けば十人共に同情を寄せることだろう。

 

(が、逆説的に言うならば)

 

 それほどまでに悪い目ばかりを揃えられて、曲がりなりにもなお命を保てているのは地力の高さを物語る。

 貧弱な生命力であったなら、とうに廃人化して自分の名前も言えなくなるか、そもこの帝都にまで辿り着けなかったに相違ないのだ。換言すれば将来有望、そんな良質な人的資源がこんな処で台無しにされてしまうのは、コジマからすれば犯罪的に惜しかった。

 

(いっそ、打つ(・・)か? これならば、或いは()つやもしれぬ)

 

 そろそろと懐に伸びるコジマの手は、

 

「長官」

 

 しかし、厳かな部下からの呼び声によって中断された。

 

「オーガか。調査は終わったのかね?」

「取りあえずは一段落、といった所ですかねえ。率直に言いますと、此処にある拷問機具の殆どは、歴とした官製品です」

「……間違いないのか?」

 

 重大な報告だった。

 

「迂闊にも、所有する拷問官を示す焼印が幾つか残されたままでしたから。確かかと」

「それはまた、杜撰な仕事をしたものだ。給料泥棒もいいところだな。そんな奴にこそ、これらの備品を活用してやるべきなのだが―――しかし、そうか、官品の横流しか」

 

 コジマは人の悪い笑みを浮かべた。王城内に調査の手を突っ込む口実が掴めたことに内心随喜しているのである。

 

(名目上、あそこは近衛の管轄だ。下手に触れればブドーと熾烈な縄張り争いを演ぜねばならなくなるだろうが、やる価値はある。連中の怠慢と見逃しをあげつらい、私の兵を公然跳梁させられるようになれば、事は大きく進むだろう。そう、霊廟にさえ踏み込めたなら、後は―――)

「―――長官!」

 

 コジマの思考(わるだくみ)はまたしても、部下の声によって中断される。

 絹を裂くようなセリューの悲鳴に何事かと振り向けば、サヨの様子が尋常ではない。

 体中の骨を抜き取られでもしたかのようにだらりと四肢から力抜け、セリューに体重を預けきっているのである。慌てて手首を取ってみれば、脈拍、消え入りそうなほどに儚い。

 

「っ、安心して気が抜けたか……!」

 

 容態が急変するのは、主にこうした場合である。うっかり踏み止まるのを忘れ、あれよあれよと幽明の境を越えてしまうのだ。

 それを見越してセリューに話し続けろと命令したが、甘かった。そんな程度でどうにかなる領域は、とうの昔に過ぎていた。

 瞳孔の拡大も起きつつある。血が、沸騰寸前まで高まっているセリューに抱かれているにも拘らず、サヨの体温はびっくりするほど低い。熱を送っても、何処かに空いた穴からそっくり漏れてしまっているようだ。

 

(猶予はない)

 

 隠密性をかなぐり捨てて、強行突破を図ったとしても屯所に辿り着く前にサヨの命は尽きるだろう。

 彼女を生かしたいならば、今、ここで手を打つ必要がある。

 

「………イエヤス………タツ、ミ………」

「……この土壇場で、友の名前を呼んでみせるか」

 

 ともすれば周囲を覆う粘ついた闇に溶かされて、誰にも―――それこそ、本人自身にさえも―――認識されることなく消え入りかねない呟きを、しかしコジマは確かに聴いた。

 

「泣き言でも、恨み言でもなく。いいだろう、それだけの強さがあるのなら―――」

 

 万が一の事態に備え、常にひとつは携行しているそれ(・・)を取り出す。

 ベルベットの内張りが施された、真っ黒なケースだった。

 開けると、注射器とアンプルが納められている。

 それは、と目で問うセリューの疑問に答えてやる暇も惜しく、アンプルからシリンジ内へワインのように真っ赤な液を吸い上げさせた。

 気泡を抜き、注射針をサヨの肌に突き立てる段に至って―――コジマは、俄かに逡巡した。

 

(待て。……場の雰囲気に流されているのではないか、私は。本人の承諾も得ぬままに、これが最善の道であると、手前勝手な判断でぶち込んで、本当にそれでよいのか)

 

 この輸血液を打った瞬間、未来は極端なまでに絞られる。

 便宜上、コジマはこれを「血の医療」と称しているが、どっこい内実ときたら医療などとは程遠い。

 なるほど確かに生きる活力がいや増して、あらゆる病は消えるだろう。不治の病も、代々科せられてきた呪いの如き遺伝病も、疾病と名の付くものは悉皆尻尾を巻いて退散するに相違ない。

 が、それは所詮、黒をもっと濃い黒で塗り潰すようなものなのだ。細菌やウィルスといった常識的な存在では到底太刀打ち不能なる、遥かに邪悪で圧倒的なおぞましき因子が巣食ったゆえに、それ以外の病根が駆逐されたに他ならない。

 やがて、その因子が花開く日が来るだろう。

 それは絶対に避けられない、約束された破滅の日。夢と現実を区別する能力が急速に衰え、視界に有り得ざるモノが混ざり込み、脳内にて何かが蠢く感覚に延々悶えさせられる。

 その不快感を、コジマはよく知っていた。

 どんな拷問技術を以ってしても再現すら叶わない、脳を内側から虐められるあの感触! いったい何度頭蓋骨をかち割って、脳室を這いずるその存在を抉り出してやりたいと念願したかわからない。今でこそ脱却したが、一時期は手足を拘束してからでなくては眠りに就けなかったほどだ。

 行きつく果ては愚かさに敗れて獣に堕ちるか、物質階梯を踏破した高次元暗黒の住人として羽化するか。いずれにせよ、人としての生は完全に終わる。

 荊どころではない、地獄の針山を持ってきてもまだ追っ着かぬ過酷な道だ。

 

(そんなものを歩ませるよりも、いっそ)

 

 このまま此処で、人として死なせてやるのが慈悲というものではなかろうか―――

 

(………。人としての死(・・・・・・)、だと?)

 

 そのフレーズに、凄まじい引っ掛かりを覚える。

 それはそうだろう、我ながら笑止極まりない。帝都の闇のどぶさらいをする中で、下らぬものばかり見せ付けられてきた所為であろうか。ああ、気付かぬ内に随分と毒されてしまっていたようだ。

 

(これのどこが、人の死だ)

 

 何処を探せば尊厳が見付かる。

 人間が人間として在るために必要なあらゆる権利を剥奪されておきながら―――これで、人としての、なんだって?

 畢竟脚をもがれて転がされた虫けらと、何ら変わらないではないか。

 もはや何の希望もなく、早く楽にしてくれと、殺されることだけを希求する命。

 ふざけるのも大概にしろというものだ。

 蟲のまま死ぬな。許していいわけがないだろう、そんなこと。

 どうせ死ぬなら、せめて獣として走って死ね。

 その機会をくれてやる。掴み取ってみせるがいいと、コジマは決然と血の医療を再開した。

 

 

 

「君、君、聴こえているだろうか。私の声が、ほんの僅かでも届いているだろうか」

「………」

「届いていると信じて言う、先達からの忠告だ。どうか気を確かに持ちたまえよ。想像を絶する目に遭うだろうが、決してそれに囚われるな。何を見せられたとしても―――そう、悪い夢のようなものさね」

 

 恋人に睦言を囁くように、耳殻の産毛をくすぐるように。

 耳元でそっとささめいて、コジマはサヨの静脈に、注射器の中身を流し入れた。

 

 

 



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04

 

 

 蔵の門前に幾つかの気配が現れたのは、丁度その時といっていい。

 輸血液を一滴残らず注射して、サヨの容態が劇的に好転するのを見届けた直後である。

 ほんの数十秒前までは今にも三途の川を渡るのではないかと危惧されていたサヨであるが、みるみるうちに顔色が戻り、現在はセリューの腕の中で穏やかな寝息を立てている。

 

(うん、ひとまず急場は脱したな)

 

 輸血液の効能、その凄まじさに改めて戦慄させられるが、いつまでもそれに浸っていてはまずい。この蔵に接近しつつある何者かにどう対処するか考えねばならなかった。

 

「まあ、何者か、と言っても十中八九この屋敷の主であろうが。日中溜め込んだストレスを発散でもしに来たのかね、浮かれ気分が壁を隔てたこの距離からでも丸分かりだぞ、俗物め」

「護衛も連れていますな。四人でしょうか、小心な野郎だ」

 

 どうします、とオーガが視線を以って問い掛ける。コジマはしばし黙考した。

 数々の証拠に加え、サヨという生き証人を抑えた以上、もはや問答無用で制圧作業に移ってもよい。

 勝算は十分にあった。

 この場の戦闘に於ける勝算ではない。そんなものは戦力差がありすぎて、そも勝負にすらならぬだろう。コジマがそろばんを弾くのは、その後待ち受けるに違いない政治上の後始末。司法官を筆頭とした汚職官僚、延いてはオネスト大臣を向こうに回してなお此方の正当性を押し通す机上の激闘についてである。

 

(現状でも勝てる。まず勝てようが、いかんせん)

 

 どうにも時間が掛かりそうなのである。

 コジマの揃えた武器は多いが、快刀乱麻を断つ如く、一撃でぐうの音も上げられぬほど敵の反論を叩き潰せる威力を備えたものがあるかと問われれば、否だった。

 

(敗色濃厚と悟った連中が、ひたすら重箱の隅を突いて審議を引き延ばそうとするやもしれん。いや、きっとそうする)

 

 コジマにとって時間は貴重であった。それはもう、叶うのならば同時に二・三箇所に存在したいと願うほど。

 帝都警備隊の浄化と掌握こそ完了したものの、王城内部に於けるコジマの勢力はまだまだ小規模。おまけに誠意はあれど人がいいばかりで実務能力に乏しい面々揃いで、例え一時であろうと自分の代理を任せるなどと、思いもよらない沙汰だった。

 もっともそれだけの手腕を持つ者が居たならば、最初からコジマの傘下になど加わらず、自力で所謂良識派文官達を水面下にて糾合し、反オネスト連合なるものを立ち上げていたに相違ない。で、実質戦力確保のためにコジマに取引を持ち掛けて、都合よく彼女を操作しようとたくらむのだ。

 その意のままになってやるかどうかは別として、コジマはそうした悪辣さが好きだった。

 

(政治家たるもの、それくらいのふてぶてしさがなくてどうする)

 

 と、思うのである。

 ところが現実にはその手の動きは一切なく、コジマが政界に踊り出るや雨に打たれて濡れそぼった老犬の如く尻尾を垂れて保護を求めに来たという時点で、彼らの器量のほどが窺える。

 結局彼らは、この悲惨な現実に対して処する術を知らず、婦女子(おんな)のように泣き濡れて相手の情感に訴えるのが精々な、極言すれば小物であった。

 このためコジマは時にほとんど絶望しかけ、

 

 

 ―――馬鹿と無能を大勢集めたところで所詮は馬鹿と無能の結合体に過ぎない。こと現下の帝国の政治体制にあっては、多数即ち強力ということにはならんのだ。

 ―――如何に意気軒昂であろうとも、こういう物質をいつまでも背負っていると、やがて来るしっかりした分子が仕事をする上で邪魔にしかならぬに違いない。

 

 

 当時のコジマの日記を紐解くと、彼女らしからぬほとんど呪いを籠めた文体でこう書き付けられたページが発見出来る。現にこの記述が為された日以降、コジマは王城内の良識派文官を良識派だからという理由のみで保護するのを止め、大臣に謀殺されそうになろうと冷厳と黙殺する態度をとりだした。

 が、それまでに抱え込んだ連中だけは、相も変わらず保護し続けた。

 

(一度受け入れた以上、使えないからといって放り出しては信義に悖る。誰も私を頼ろうなどとはしなくなろうさ)

 

 授業料と思って諦観している節がある。

 こうなれば、野に埋もれた人材を発掘するしかないであろう。

 警備隊の詰め所をしょっちゅう視察しているのも、自分の手持ちに才気あふるる人材が眠っていないか検分する意図も含むらしい。

 甲斐あって、何名か有望そうな若者を見出し引き立てはしたものの、やはりまだまだ経験不足。迂闊に大きな権限を持たせれば、逆上(のぼ)せてしまって思わぬ下手を打ちかねない。ものになるまで、時間がかかる。秀才は居ても天才が居ないのがコジマの悩みの種だった。

 

(彼女さえ生きていれば)

 

 姉の横顔を思い浮かべて、何度嘆息したか分からない。あの叡智と折衝能力がどれほど貴重であったことか、いよいよ思い知らされる。彼女相手ならば何の憂いもなく、それこそ一時的な全権の委譲さえすらすらやれたことだろうに。

 更に、武官上がりの新興組と根っからの文官たる古参組との間にそろそろ軋轢の音が立ち始めている。

 コジマ・アーレルスマイヤーという核を失えば、この勢力が四分五裂するのは誰の目にも明らかだった。

 当然、敵対派閥にも、である。彼らこそが一番よく承知していたであろう。

 

(私の足を止め、耳を塞ぎ、拘束し続けるその裏で、妙な工作を施されてはたまらない)

 

 例えば急な御前会議を催して、コジマが頑強に反対し続けている幾つかの法案を一気呵成に通してしまう、などである。

 この展開を警戒して、視察に赴く際も王城内に独自の連絡線を保ち、一報あるやすぐさま取って返せるように準備してあるコジマであるが、流石に審問と称して王城内の一室に閉じ込められ、あの手この手でのらりくらりと謀略成るまで時間稼ぎに徹されてはどうにもならない。今夜の「勝利」も、何のための「勝利」であったか分からなくなる。

 

(その愚は避けたい。……本当ならば、現行犯で抑えられれば最上なのだが)

 

 それならば、過去の判例と照らし合わせて強行捜査の一件も瞬時に不問にしてしまえる。正に快刀、乱麻を断つが如く、だ。

 

(しかし、なあ)

 

 ちらり、と鉄柵が飴細工よろしくひん曲げられた檻を見る。

 やがて入って来るであろう貴族がこれに気付かず、暢気に他の虜囚の拷問に取り掛かってくれるだろうか?

 

(可能性は低いな)

 

 とても楽観できなかった。

 むしろ、この蔵の中で唯一正気を保っていたサヨにこそ、主は一際執心していると見るべきであろう。今更サヨを檻に戻し、鉄柵を整えるわけにもいかず―――純物理的に見れば可能だが、セリューからの信頼が地に堕ちるのは確実である以上、到底選べる選択肢ではなく―――理想的な展開には、もはやどうあっても至れそうになかった。

 

(が、それでも、一厘でも残されているのなら―――)

 

 賭けてみたい、とコジマは思った。

 ハンドサインで適当な場所に隠れるよう、部下二人に指示を下そうとして―――漸く、気付く。

 セリューの形相が尋常ではない。口は耳元まで裂けんばかりにつり上がり、噛み合わされた犬歯が哀しいばかりに震動している。白目は血走り、薬の切れた中毒者のよう。こんな獣性を丸出しにした人間が、やらかすことなど一つだろう。

 

(まずい)

 

 あれは視えていないし聴こえていない。脳の全領域を、殺戮に傾けきっている。生半可な手段では、到底引き戻せなどすまい。

 コジマは思索に熱中し、セリューに科した鎖が千切れかけていることに気付けなかった己を悔いた。扉から、鍵の外れる音がする。今更間に合わない。彼女を無理矢理引き倒したところで、隠れる時間がないだろう。扉が開かれ、屋敷の主が姿を現し、セリューの笑みが一層深まり、ああ、そして。

 

「コロ、捕しょ―――」

「待ていセリュー!」

 

 コジマの雷が落ちた。

 蔵の骨組みが鳴動し、梁に積もった埃が落ちて、泡を喰った蜘蛛や鼠が逃げ出した。

 今にも巨大化を果たさんとしていたヘカトンケイルも、ぴたりと止まる。

 俄かには信じがたいことだった。如何にセリューの命令が途中で掻き消されたとはいえ、その意図は明白。帝具ヘカトンケイルの性質から考えて、自己判断の下実行してもおかしくない。むしろ、するのが当然と言えた。

 それが、止まった。コジマ・アーレルスマイヤーが如何に常軌を逸したモノか、この一事からでも十分伝わることだろう。

 

「ッ……! 何故です、長官ッ!」

 

 そのコジマに向かって、鼓膜の痺れを引き摺りつつもすぐさま反駁してみせたセリューとて、やはり並ではないのだろう。今にも両眼から火を噴きかねなかった。彼女は完全に、一個の激怒の塊と化していた。

 

「こんなことをやらかす悪を、あんなものをこれ以上、一秒たりとて生かしておいてはなりません! いけないんですよ、同じ空気を吸わせては! 速やかに全力を以って正義の鉄槌を下すべきです! それが出来ずしてなんのための警備隊か、なんのための絶対正義かあッ! 何故、何故わかって下さらないのです!?」

 

 控えろっ、と一喝しかけたオーガを制して前に立つ。その僅かな間にもセリューは、顔中を口にしながら叫び続けた。

 

「お答え下さい、隊長、長官! 何故、こともあろうに貴方がたともあろう御方がこのような、まるで悪を庇うかのような真似事を!? 有り得ない、絶対におかしい、これではまるで道理が合わないではありませんか!」

 

 その熱量に、辟易よりもいっそ感動したくなる。幼稚だろうが盲目的だろうが、ここまで苛烈に一つ主題で自らの人生を貫ける者が他にどれほど居るだろうか。

 啓蒙的真実、超越的思索からは最も遠い、血の医療を施した瞬間獣に堕ちかねない愚かさの塊ではあるけれど。

 これはこれで、紛れもなく得難い資質であろう。矯正などあまりに勿体なさすぎる。狂熱の迸る方向だけをほんの僅かでも調整出来れば、己と帝国の未来にとってどれほど有益に働くことか。

 

「何故か、だと?」

 

 その価値を、きっと誰よりも知る故に、猶更ここで退けはしない。己が主で、セリューが従だ。自らの思想で彼女を染め上げるのであって、セリューの熱に自分が牽引されるのでは断じてない。

 

「理由を問うか、この私に」

 

 この場合、議論は禁物であったろう。状況が許さないのみならず、やれば必ず負けるからである。

 なにしろ、人情としての正義(・・・・・・・・)は一点の曇りなくセリュー・ユビキタスにこそ在る。人はこんな残虐を許してはならないし、下手人の権利などまるきり無視して殺してしまえと言い騒ぐのも感情の流れからはまったく自然だ。

 なにせ、彼自身がこれまで他人の人権を散々無視してきたのだから。

 因果応報、やり返されても文句は言えまい。

 

(が、我々官憲がそれを認めていては、やがて社会など破綻する)

 

 何故ならば、官が依って立つべき正義とは、人情ではなく法の正義(・・・・)なのだから。

 

「決まっている。これは仕事だ、巡査官! 職務に私情(・・)を持ち込むな! 社会人としての基本だろう、こんなもの」

 

 しかし、コジマはその理屈を持ち出さなかった。

 感情論で頭を煮え滾らせている相手に対し、理屈を以ってかかるのは禁物であろう。どれほど弁舌に優れていようと、火に油を注いで猛烈な駁撃を受ける結果にしかならない。

 

 ―――まず相手に殴らせるのだ、先に殴りかかる奴があるか。それでは名分が立たんではないか。

 

 と、小手先の技術論を弄すのも悪手。

 よって、悪びれもせず、堂々と。コジマはセリューの憤激を、一切相手にしない態度を示してみせた。

 お前の私的な好悪をこんなところで持ち出すなと、頭から突っ撥ねてのけたのである。

 

「は、え、は―――?」

 

 この「返答」が、よほど慮外であったらしい。セリューは一瞬、呆然となり、異星言語でも聞かされたかの如く白っぽい表情を晒してみせた。

 

 ―――私達の仕事は、職業じゃない。生き方(・・・)でしょう、長官!

 

 もう少し彼女が議論慣れしていれば、このように切り返すことも可能だったやもしれない。

 が、これまでセリューは、自らの正義について他者と意見を競わせたことがなかった。

 困ったことに世間では、この手の論議を青臭いと一蹴し、ただ冷笑を以って報いてしまうむきがある。本気になって付き合ってくれる者が居なかった。

 外部からの刺激が乏しい以上、自問自答にも至りにくい。よって、これが正真正銘初体験。政界という蛇の巣を、弁舌を以って渡り歩くコジマ・アーレルスマイヤーが初っ端の相手なのである。

 

(ひでえ)

 

 手合い違いもいいところだ、とオーガは他人事のように思った。相撲で云えば、虫眼鏡の序ノ口が横綱に挑むようなものだろう。むろん、一瞬とはいえ確かに生まれた空白地帯、これ以上ない心の隙を見逃すような横綱(コジマ)ではない。セリューの心が大反発を起こすより先に、

 

「しばし黙って見ていたまえよ、仕事のやりかたを教えてやろう。それが終わったら、ああ、楽しみに待っていろよ? お前には説教が山ほどある」

 

 と言葉を滑り込ませ、そのエネルギーを散らしてしまった。

 もしコジマが、ほんの少しでもセリューに理解を示すそぶりを見せていたり、自らの言動に対する疑いがあったのならば、展開は逆になっていただろう。セリューはますます激昂し、手の施しようがなくなっていたに相違ない。

 が、コジマにはそうした弱弱しさが微塵もなかった。徹頭徹尾自らの行いを正しいものと信じきり、セリューに対しても出来の悪い生徒を叱りつけるような態度を一貫した。

 鋼もかくやとばかりの精神強度。そこから生じる威を以って臨まれると、如何な正義狂いのセリューでさえなにやら粛然としてしまうのだから恐ろしい。彼女はいま、幼き頃に粗相をして父親に叱られたあのときの心細さを追体験しつつある。

 

(ひとまずは、まあ、これでよし)

 

 暴走の危険は去ったと判断して、コジマは漸く外の連中へと向き直れた。

 

 

 

「おやおや、これはこれは」

 

 当たり前だが、あれだけの大声を出したのである。

 集結した衛兵により、蔵はすっかり囲まれていた。

 曲者の侵入に一時は腰を抜かしかけていた主人であったが、数の利を頼んで落ち着きを取り戻したのだろう。特に屈強な男二人を盾にして、じろりと蔵の内部を覗き込んだ。

 

「誰かと思えば、警察長官殿ではありませんか。はて、貴女を我が家に招待した覚えはありませぬが―――こんな夜分に、一体何用ですかな」

「何用か、とはあまりに白々しく過ぎましょう」

 

 腕を広げ、ぐるりと地獄の光景を見回し、言う。

 

「私が足を運ぶ以上、用件は犯罪者の逮捕、これ以外にありますまい。この蔵の有り様、今度こそ言い逃れは出来ませんよ。まさか知らない間に変質者に潜入されて、蔵を勝手に拷問部屋に変えられたなどと仰りませぬな」

「流石英邁を世に謳われたコジマ長官。正にその通りなのですよ」

「おたわむれを」

 

 一度は沈んだセリューの気配が、俄かに膨れ上がるのを背中で感じる。

 犬神に仕立て上げられるべく首を残して土中に埋められ、目前の美食に喰いつきたくても喰いつけない犬だけが、辛うじて彼女の心境を理解できるに違いない。いざとなったらしがみついてでもセリューを止めろ、と言いつかったオーガは、人間の顔とはこれほどまでに怒りを湛えられるのか、となにやら場違いな感心をした。

 

「……なにか、勘違いをしておられる」

 

 その凶相にあてられた、というわけでもないのだろうが、貴族は話の方向を変えた。

 

「犯罪などとは甚だ心外。ここに揃えた人体は、一つ残らず正統な取引に基いて買い集めた奴隷どもです。私の所有物を私がどう扱おうが、長官、貴女が首を突っ込める沙汰ではないでしょう?」

「おっと、偽証罪まで追加で負って下さいますか」

「言いがかりだ。不愉快極まりない。このことは然るべき筋を通して正式に抗議―――」

「私の目が節穴とお思いか。貴方がその言い逃れを試みると、予想だに出来なかったと、まさか本気で?」

 

 そう言って取り出したのは、セリューに見せた例のリストである。

 

「それは?」

もの(・・)がものであるだけに、人身売買を行う際には買い手と売り手のみならず、官庁に対しても正式な書類の提出が義務付けられる。ご存知ですね」

「……待て。まさか」

「ええ、過去半年に遡って、帝都に於ける売買記録を全部調べ上げました。資料作成は骨が折れる仕事でしたが、相応の成果はありましたよ」

「馬鹿な! それは警察の、貴女の権限が及ぶ範囲ではない! 彼らが易々と書類を差し出するはずが―――」

「これでもそれなりに顔は利くので。交渉も人並みにはこなせますし。ええと、続けましょうか。このリストと照合してみたところ、此処に居られる何方(いずかた)も、貴方の云う『正式な取引』とやらに基いたものではありませんね。『正式』の定義が、私の聞き知らぬところでいつの間にか変わっていたなら別ですが」

 

 言質を取れたのはサヨだけなのだが、態々正直に喋ってやる必要もないだろう。コジマは少々、話を盛った。

 

「官庁の許可がない以上、これらの行為は商取引にあらず、ただの拉致・監禁であり、貴方がやっているのは殺人です。これだけでも私が貴様をしょっぴくには充分。―――神妙にお縄を頂戴しろ、下劣な犯罪者ふぜいめが」

「この、小娘―――」

 

 首筋の血管が怒張する。

 

(撃つか)

 

 と期待を籠めて待ったが、生憎そうはならなかった。この貴族の沸点は、存外高いところにあるらしい。

 

「長官」

 

 にまにまと、気味の悪い愛想笑いを浮かべながら言うのである。

 

「思いませぬか、こんなことは無意味だと」

「思わんね、砂漠の砂の一粒ほども」

「まあまあ、聞きなされ。歳を重ねているぶん、私は貴女より世の仕組みというものをわかっている」

 

 そこから展開されたのは、予想通りの講釈だった。自分を捕まえ、牢にぶち込んだとしても、それは所詮一時的な話。あちこちにいる「友人」達が扇動して、必ずや自分を釈放させる。権力の前では法など何らの意味をも持たない。そんな徒労を重ねるよりも、ここは一つ、自分と取引をしないか―――

 

「貴女が私のささやかな愉しみ(・・・・・・・・)を見逃してくださるのであれば、私からも相応の対価を支払いましょう。そうですね、表向きは今の派閥に属したまま、しかし裏ではこっそり貴女に情報を流し続ける、というのはどうでしょうか」

「………」

「いっそのこと、一度きりなら更に輪をかけて大胆な、目に見える工作を請け負ってもいい。悪い話じゃないでしょう、どうかこれで」

「貴様、自分の頭目がどんな男かも知らんのか」

 

 兆歩譲ってこの口約束が正しく履行されたとしても、そんな真似をすれば三日どころか三秒でバレる。オネストとはそういう男だ、そうでなければとっくに自分が蹴落としている、とコジマは叫びたかったろう。

 

「答えは否だ。否、否、否、否、断じて否。法に力がないと言うならば、この私が付与せしめるまでよ。よって、貴様の申し出は端から考慮するにも値しない。さて、そろそろ法で認められた権限を発動させてしまおうか」

「ぐっ……くそっ、物の道理も知らん小娘が!」

 

 男はヒステリックに足元の地面を蹴りつけた。

 

「無駄な足掻きと、何故わからん!? こうして私の機嫌を損ねるほどに、釈放された後の復讐が苛烈になるだけだぞ!? もはや楽に死ねると思わんことだな!」

「前任者ならいざ知らず、私にその手は通じんよ」

 

 せせら笑って、コジマは言った。

 

「忘れてもらっては困る。私自身、これでも貴族の身の上だ」

「あっ」

「うん、だからお前達の生態も掌を指すように知っている。各方面の『友人』が、貴様を獄から助け出す? 馬鹿を言っちゃあいけない、貴族とはそういうものじゃない。如何に他家をうまく欺き、身内を裏切り、恩ある者に毒を盛るか。それが今の帝都に於ける『良い貴族』の条件で、そうでない方などとっくに墓の下だろう」

「ぬぅ、ぐっ」

「まあ、嫁なり息子なりを娑婆に残せたなら、或いは話は別かもしれんが。そうと知るがゆえに、ええ、勿論手抜きは致しませんとも。家族、衛兵、猫の子一匹に至るまで、この屋敷に生息する生命体は残らず屯所に招待します。さて、そうなると家が空っぽになるだけでなく、権力機構に重大な空白地帯が出現しますね」

 

 物理的に、空間は真空を忌むよう出来ている。よって真空(その)状態を維持したいと願うなら、緻密な計算に基いた仰々しい機構が必要となるだろう。

 

「居ませんよ、多大な資本と労苦を投入し、ついでに私と真っ向対立するリスクを負ってまで、貴方のためにそんな機材を揃えてくれる物好きなんて。こうまで完璧に証拠を握られ、愚物であることを露呈した以上、もはや誰一人として恐れますまい。皆悉く、貴方の屍肉を啄ばむ烏と化すに決まっている。そうですね、一週間も拘留すれば、すっかり骨になりますか」

 

 でしょう、と。

 大輪の花が開くように。コジマはこれ以上ない、最高の笑顔を浮かべてみせた。

 それが何よりの挑発になると、確と認識していたゆえに。

 

「ふざけるなこの売女めがァァァ―――ッ!」

 

 貴族にしては驚異的な我慢強さを持っていた男も、遂に自制心を失った。怒号し、懐から取り出したのは黒光りする回転式拳銃(リボルバー)

 ぱぁん、と。

 乾いた音が木霊した。

 

 

 

「―――撃ったな」

 

 コジマの笑みがいよいよ深まる。

 弾丸はライフリングに導かれ、回転しながら飛翔して、彼女の頬をわずかに掠め、朱色の線を残していった。

 値千金の傷だった。

 碌に狙いをつける暇もなかったにしては、なかなかの腕前といっていい。

 

(いや、違う。態とそうなるように身を動かした)

 

 セリューにははっきり見えていた。トリガーを引くべく男が指に力を入れた、その刹那。コジマがさりげなく首を傾け、本来ならば虚しく空を切るばかりであったはずの軌道上に、自身を割り込ませた瞬間を。

 

「罪状を述べ、投降を勧告し、極めて文明的に扱ってやった。にも拘らず、暴力を以って法網から脱しようとしなさるか」

「やかましい、何が法だ、何が罪だ! 貴い血筋のこの私が、馬糞臭い田舎者共をどう扱おうと勝手だろう! どうせ奴らなど、生きていたところで何にもならん! いくらでも替えのきく、無価値で無意味な人生をただダラダラと送るだけだ! それに比べてたとえ一時でも私を愉しませられるなら、それはどんなに価値のあることだろう! 感謝されこそすれ、咎など断じて受けるものか! ―――なにをぼさっとしておる、衛兵ども!」

 

 怒号され、為す術なく事態の推移を眺めていた兵隊達に魂が戻る。

 

「殺せ、さっさと殺さぬか」

「し、しかし旦那様、相手はあの(・・)『アーレルスマイヤーの虐殺者』です」

 

 懐かしい呼び名に、コジマの片眉がぴくりと上がる。主人はふんと、馬鹿にするように鼻を鳴らした。

 

「それがどうした、相手はたかだか三人ぽっち。数で圧倒的に勝る上に、奴らめ、身に寸鉄さえも帯びていないではないか。何を恐れることがある。第一、貴様、わかっているのか。あの女は貴様ら衛兵をもしょっぴくとぬかしたのだぞ」

 

 兵どもの顔色が、さっと変わった。高高と逆さ吊りに処された主人の下の地面に於いて、仲良く首を刎ねられて、一直線に並ばせられた自分達の姿が見えたのだろう。

 この人間集団の頭上に漂う雰囲気が、俄かに変じた。ぴりぴりと殺気を纏ったのである。

 

「そうだ、殺れ。あの雌畜生さえ屍にしてしまえれば、後はどうとでもなるのだァッ!」

「あくまでそういう伝で来ますか。うん、ならもう、これは仕方ない」

 

 と言った時にはもう、コジマの手には一振りの大剣が握られていた。

 

「えっ」

 

 驚愕の声はセリューから。誓って言おう、彼女は瞬きをしなかった。

 コジマ・アーレルスマイヤーの意図を理解せんがため、その背をじっと―――そうすることで、やがて肉の体が透け、心が露になると言うかのように―――凝視し続けていたのである。にも拘らず、大剣が出現した瞬間がわからなかった。

 セリューだけではない。オーガも、貴族も、衛兵達も。誰一人として、コジマがいつ何処からどうやって剣を取り出したのかわからない。それは本当に、気付いたら既にあったのだ。

 それも当然である。何故ならこれは、コジマの愛する月光とは、剣にして剣にあらず。

 切っ先から柄頭に至るまで、この星の要素を一片たりとて含まない、正真正銘の外宇宙兵装なのだから。

 よって、人間世界のあらゆる道理はこの聖剣の前では意味を持たない。

 物質と概念のちょうど中間の存在に身を置いて、状況に応じて都合のいい側へと性質を偏らせてみせる程度の芸当、当たり前のようにこなしてのける。

 だから、貴族の男が丸腰と判断したのは完全なる誤りなのだ。

 啓蒙の低い―――いっそ皆無といっていい―――彼には見透せなかっただけである。月光は、常にコジマと共に在る。物理的手段では永遠に辿り着き得ない、観測すらも不可能な、虚空を掻き毟る(かそ)けき音色の反響する、あの窮極の深淵へと導くために、決して彼女の背から離れない。

 

「官吏に傷を負わせ、あまつその殺害を声高々に指示する凶悪犯だ。こんな輩はあらん限りの戦力を投入して可及的速やかに鎮圧するしか他にない。ああ、本当に仕方のない、已むを得ざる措置であるよ」

 

 そんなものを見てしまったのである。

 この場に立つ総ての人間が、眼球の奥に発生した形容不能な痛みに呻きを上げた。視覚を通して叩き込まれた啓蒙的真実が、視床の陰、脳梁後端上部より突出した石灰化の進む小器官―――松果体を直撃し、今にも血を噴き上げんばかりに叫喚させているのだ。

 彼らが未知の痛みに動揺しているその隙に、コジマは更なる一手を打っていた。

 聖剣の剣身を、根元から中腹にかけて恭しく撫で上げる。その動作を合図として、月光はその名の通り、己が身を輝かしく一変させた。

 

「………綺麗」

 

 呆然と、童女のような口ぶりで、セリューが漏らした一言が総てであった。これほど美しいモノは、この先千年生きたところで、決して拝めはしないだろう。

 迸り、大刃を為すは花緑青(はなろくしょう)。明暗によって浮かび上がった紋様の奥に何かが見える。絶対に理解してはいけない、人間の脳味噌では理解しようのない、慈悲深く覆い隠されるべき啓蒙的真実が、この宇宙の実相が。

 これが、これこそが月光の聖剣。彼方より来りて我々の脳を揺らすもの。厳にして秘されるべき、コジマにとっての「導き」である。

 それをこうして曝した以上、敵対者の末路は決まっていた。

 

「あ」

 

 だらしなく垂れた貴族の唇から、音がこぼれる。

 声ではない、「(おと)」である。なんらの意味も、感興も含んでいないこんなものは、こちらの単語こそ当て嵌めるのに相応しかろう。

 男はまったく、急に白痴化でも進行したかのようだった。

 自分の兵隊が片っ端から塵と化し、光波が奔流となってとうとう我が身に殺到しても、彼は身じろぎひとつしなかった。涎を垂らし、何処か遠くを見詰める眼差しで、五体が砕け散るのを待っていた。

 ひょっとすると、自分が死んだということにすら気付かなかったかもしれない。彼がこの地上にて重ねた罪業に比べれば、些か釣り合いが取れていないのではないか、と非難したくなるほどに呆気ない最期であった。

 

 

 



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05

繋ぎ回、若しくは事後処理回。
にも拘らず、今までで最大の難産でした。文章書いてて本気で逃げ出したくなったのは久し振り。
ですが、セリューを主要人物に据えると決めた以上、これは避けられない命題でした。




 屋敷の制圧は完了した。

 それはもう、紙の砦を崩すが如く、あっさりと。今は亡き館の主が戦力のほとんどを蔵に呼び集めていた以上、これは当然の帰結であろう。

 本邸に残されていた衛兵達は保身のため、守るべき夫人と子息を自分達の手で縛り上げてコジマを迎えた。コジマは彼らに寛容を以って接し、昏倒させ、拘束して床に転がすだけで済ませている。

 全工程が完了すると、続いてオーガを最寄りの屯所に走らせた。容疑者の連行と被害者の保護、及び証拠品の押収の為に人数を動員させるのである。

 それまで、若干の暇がある。天蓋つきの豪華なベッドにサヨの体を横たえて、コジマは残りの課題を片付けるべく、セリュー・ユビキタスと向き合った。

 

「どうだ」

「えっ?」

「月光に見えた衝撃は。そろそろ精神が均衡を取り戻してもいいはずだが、どうだろう」

「あ、はい、大丈夫です。私は正常です、頭はすっかり冴えています」

 

 棒読みな上、無表情なのである。

 

「いまいち信用の置けない台詞だが、まあいいさ。なら、私に言いたいことの一つや二つ、あるはずだよな?」

 

 遠慮は無用、思うままに述べたまえ、と言われてセリューの皮膚が引き締まった。

 夢の世界に片足を突っ込んでいるような亡羊とした気配が消え、いつもの凜と鳴るばかりのセリューが戻ってくる。

 

「それでは。長官、貴女は私の正義の情熱を『私情』と仰りました」

「言ったな、確かに」

「ショックでした」

「撤回はせんぞ。謝る心算も毛頭ない」

「……そうまでして私の裁きを止めたのに、貴女は結局あの悪を誅している。それも態々挑発までして、銃を撃つよう仕向けさせて」

「気付いていたか」

「はい、態と弾丸に当たりに行ったところから、迷路を出口から解くようにして考えて、やっと」

「辿り着いたと。いやはや、これは一本取られたな」

 

 チェシャ猫のように笑ってみせて、傷痕に指を這わせるコジマである。

 

「私にはさっぱりわかりません、長官は何がしたかったのです。どうせ結果は同じなのに、どうしてああまで長引かせる必要があったのか。長官にとっての正義とは、一体全体なんなのです」

「決まっている。法だ」

 

 言葉を濁したり曖昧さの立ち入る余地を寸土たりとも許さない、まるで沖天を切り落とすかのような、断固たる決意の伝わってくる言葉であった。更に、

 

 ―――そも、法とはなにか。

 

 と続く。

 コジマの認識上に於いて、法こそが国家の基礎を生むものであり、翻っては基礎そのものであり、これによって国民を縛り上げてゆく以外、人間という、この始末に負えない動物をして円満な共同社会生活を営ませる方法はないと信じていた。この点、コジマは言い訳の仕様もなく完全なる国権主義者である。

 彼女に言わせれば、法律とは命令であった。

 それも厳として侵すことの許されない、主権者からの命令である。よって、個々の良心に訴えて、守るか否かは各人の自由意志に委ねるなんて、そんな生易しい微温的な道徳とは峻別されねばならぬだろう。

 

「ご遠慮ください、なんて文章を使った時点でそれはもう法律ではなくなる。そんなものは哀訴であり、陳情だよ。国家の強制力を伴わずしてなにが法か」

 

 と、見方によってはセリュー以上の過激さで法の重要性を物語り、いよいよコジマは個々人の倫理感を淵源とする人情としての正義と、法の正義との違いを持てる語彙力の限りを尽して懇々と説きはじめた。

 コジマの理屈からすると、国家の吏僚として立つ以上、優先すべきは当然後者の、法の正義という流れになる。

 

 このあたり、コジマの真骨頂というべきであろう。

 

 コジマが如何に法の正義を尊重していたかは、血の医療の確立に於いて彼女が強いた、あまりにも膨大かつ酸鼻を極める犠牲を見てもよくわかる。

 輸血液を現在の水準に仕上げるまでに、いったいどれほどの実験があり、その何割が失敗したか。あらゆる意味で、正視に堪えないとしか言いようがない。

 真っ当な感性の持ち主ならば望みなしと判断し、無謀な挑戦と早々に見切りをつけてしまうか、あまりの無道に心折れ、愚かな好奇に突き動かされた過去の自分を深く恥じ、腹を切って詫びようとしたに違いない。

 しかし、彼女は諦めなかった。

 諦めることができなかった。

 血の道と血の道と其の血の道を踏み破り、冒涜には更なる冒涜を、溢れる呪いは杯に注いで飲み干して、血と獣の香り以外確かなものなど何も無い、じっとり湿って絡みつく闇を延々彷徨い続けた果てに―――僅かながら、報われた。

 夢のような神秘に見え、指先の薄皮を触れさせたのだ。

 もしこれを―――例えばナイトレイドのような―――仁義に厚い正義漢が、何かのはずみで知るところになったとすれば、たちまち発狂の(てい)を示すだろう。

 前後の思慮を忘れるほどに怒り狂って、

 

 ―――人皮の獣め、生かしておけぬ。

 

 怒号の下、あらゆる政治的都合を一切無視し、コジマを殺すべく走り出すはずだ。

 下手をすればそうなる以前に、憤激のあまり脳内血管を破裂させて死ぬかもしれない。

 これが冗談にならないほどの行為を、この時点で既にコジマはやっている。

 その上で正義論を語り、自らもまた正しさの裡に在るのだと当たり前に信じていた。

 何故か。むろん、理由はある。

 隠蔽工作が万全で、露見(ばれ)るはずがないと高を括っているから? いいや違う。寸毛たりとて掠りもしない。

 コジマの所業は倫理・道徳・人間性に基いた、人情としての正義から観測すれば黒も黒、暗黒星雲も及ばないほどどす黒い、邪悪の極みといっていいが。

 帝国の現行法に基き裁定を下すとするならば、どのような解釈を以ってしても彼女を黒と、有罪と処断することはできないからである。

 そう、彼女はそれほどまでのことをやりながら、尚且つそれが合法の範囲内(・・・・・・)に収まるように逐一気を配ることを忘れなかった。

 それで正義は守られていると、自らは正当な立場の上で与えられた権限を行使しているだけだと、臆面もなく主張できる人間だった。

 数多ひしめく人類種の中にあっても、これは最悪に分類されるタイプだろう。人間としての根本が致命的にズレている。かつてオーガが感じた通り、近寄らないのが最適解な、どうしようもない異分子だ。

 国乱れ、人倫ほとびる狂気の世だけがこういう人種を必要とするに違いない。その意味では、正しく時代の寵児であったろう。

 

 

 閑話休題。

 

 

 しかしながら、今目の前に座っているセリュー・ユビキタスとて立派な気狂い。この病的正義狂信者が、いつまでも大人しく聞き役に徹していられるはずがなかった。

 なにしろ悪法だと判断したなら頭ごなしに踏み破れ、法律不遡及の原則など知ったことか、悪党には寸刻の猶予もくれてやるな、知覚し次第ぶち殺せ、と誰憚ることなく豪語してのけるセリューである。

 論理、信条、どちらも極端、どちらも苛烈。このため議論は白熱し、怒号が飛び交い机を叩き、蹴っ飛ばして立ち上がり、ついには互いの胸倉を掴み上げて頭突き合う、とんでもない景況さえ現出した。

 そのあいだ、コジマは何度、

 

 ―――それではナイトレイドと変わらんではないか。

 

 と怒鳴りつけてやりたかったかわからない。あの連中もまた、法に則った迂遠な改革を諦め―――というより、いま目の前で流される血をこそ看過できぬと判断し―――自分一個の良心を核とした正義感に重きを置いて、その命ずるままに行動する人種であろう。

 自己を律する規範を、外ではなく内に求めたのだ。

 妥協を許さぬ潔癖そのものなセリューの気質は、実のところ彼らの側にこそ近い。

 

(だが、言えぬ)

 

 言って、本当にナイトレイドに身を投じられては困るのである。それでは何をやっているのかわからない。悲劇にさえもなれやしない、目も当てられぬ喜劇であろう。

 コジマの目的は、あくまでセリューを自家薬籠中のものとすること。この期に及んでも、初志を棄てる心算は毛頭なかった。

 やがて、

 

「勘違いしているようだから言っておくが、警察の本分とは予防力だ、巡査官! 正義が悪を誅したことに一々喜悦しているようではまだまだ未熟、事件が起きた時点で既に我々の敗北であると心得ろ。その後の捜査をどれほど巧みにこなそうが、所詮は敗残処理に過ぎん!」

「馬鹿な! それでは我々にとっての勝利とは、いったいなんだと言うのですか、長官!」

「おお、言ってやろうじゃないか」

 

 セリューの獣性が伝染したかのような表情で、コジマは言った。

 

「そもそも事件を起こさせないことだ。人々が抱えている悪性を顕在化させない世界を創る、予防力の究極形とはそういうものだ。見果てぬ夢と嗤われようが、現実にぶつかり木っ端微塵に砕かれようが、何百年かかろうが諦めん。何度でも立ち上がって進み続ける、いつか現実を屈服させるその日まで―――」

 

 ―――それこそが。

 

「大理想というものだ。仮にも貴様、正義の味方を名乗るなら、この程度の啖呵ぐらい切ってみろォ!」

 

 この喝破を浴びせられて、焔の如きセリューの意気が漸く揺らいだ。

 

(……誰も、悪を行う者がいない世界)

 

 それは確かに、セリューが胸に抱いた夢の形とぴたりと一致するもので。

 

(世に蔓延る悪という悪を、一匹残らず磨り潰してゆけばいずれそんな世界が来ると、私はずっと信じてた。……けれど)

 

 今更になって、コジマによって突き立てられた言葉の棘の一つ一つが疼くのである。その意気や良し、しかし手段までもが幼稚であってしまったら、それは取り返しのつかない惨禍しか招きはしないだろう。理想は幼女の如くあどけなく、しかし手段は魔女の如く狡猾に。それでやっと一人前だ―――……

 

(それに、考えてみれば)

 

 かつてこれほど明快に「正義」というものを定義して、かつ真っ向から自分とぶつかり合ってくれた人がいただろうか。

 否である。誰一人として、そんな酔狂な真似をしてくれる者は居なかった。

 それだけでも、セリューはコジマに対して抱きつきたくなるほどの愛念を感じざるを得ないのである。自分の意見を否定されるのは腹が立つが、それでも曖昧にいなされるよりかはマシであろう。うんそうだね、でもそれは君の価値観だ、真実なんて無数にある、私はこっちの道を行くから君はそっちへ進めばいい。

 一見理解を示しているようで、こんなものは何でもない、ただの断絶であり無関心の変形である。

 そいつの人生に興味がないから、もしくは己の自我をほんの僅かでも傷付けられたくないから、耳ざわりのいい言葉を弄して体よく身をかわしているだけだろう。

 価値観の違いとはあらゆる議論を瞬時に無為へと帰する毒で、便利だからと多用すると、やがては思考停止に陥って、禅坊主の生悟りめいた屁理屈しか垂れ流さないようになる。

 本人は案外幸福かもしれないが、見せ付けられる方にとっては消化不良も甚だしい。ひたすら胸が悪くなる。

 本当に己の信念に自信があるなら、相手のことを想っているなら、傷付き、傷付けるのを覚悟して、角突き合わせて衝突しなければならない。関係の破綻を恐れず、どんなに嫌な顔をされようと、お前は間違っていると面罵してやらなければならない。

 それこそが人間として認めるということだ。当人が見たがらない、不都合な真実を突きつけてやれる者こそ友人だ。

 互いの住まう価値観(せかい)の殻をぶつけ合わせて叩き割らねば、理解も融和もあったものではないのだから。

 帝都を守る暴力装置、武断派の性根である以上、こうした感性を受け入れる受容体を、セリューはもちろん備えていた。

 備えて、しまっていたのである。

 

 

 

 此処が好機と判断し、共に来い、そして夢を叶えよう、道は私が指し示すと、畳みかけるようにコジマは言った。

 

「来いよ、セリュー・ユビキタス。上司と部下などという小さな枠組みから脱却し、真に私と志を一にする同志となれ。国家に創られるのではなく、国家を創る側へと参入しろ。戦火の果てにやがて来る、偉大なる帝国が再び一つに統合されるその日には、御旗の下に集う隊列の、力に満ちた先頭を、君が、君こそが担うがいい。暗黒の時代だからこそ、世には指標が必要だ。私と君とで導こうではないか、この千年帝国に、更に千年の秩序と繁栄を齎さんがため―――」

 

 うるさいだまれわたしがただしいわたしがせいぎだわたしにしたがえ。

 

 コジマ・アーレルスマイヤーがセリューに説いた内容を、あらゆる装飾をひっぺがして要約し、身も蓋もなくしてしまえばこうなるだろう。お前に運転を任せればどうせ地獄にしか行けないのだから、私の指差す方角めがけてアクセルだけを踏み込んでいればそれでよいのだ、是非そうしろと言っているようなものである。

 ふざけるなと、横っ面をぶん殴るのが真っ当な感性であったろう。

 が、弁舌技巧の真髄は、こんな無茶苦茶な内容だろうと言い回しや抑揚のつけかた、身振り手振りの方法等で聴衆にそれを受け入れさせてしまうところにある。

 

(同志。―――)

 

 実際、コジマがさりげなく口にしたこの一言に、セリューは信じられないほど感激した。

 

(私をそこまで買ってくれていたのか、この人は)

 

 確かに、よくよく考えれば常識外れの厚遇である。たかがヒラ隊士一人に同じ目線で議論を交わし、セリューがどんな暴言をぶつけようとも権威をかさに黙らせるなんて真似はせず、どう考えても刎頸ものの狼藉―――胸倉を掴んで引き寄せる―――さえも気にしたそぶりを見せていない。

 コジマ・アーレルスマイヤーはセリュー・ユビキタスの価値を、この世で誰よりも認めている。

 その志を快いと感じている。

 嘆いているのは、それを実現させる上での手段だけなのだ。

 

 ―――売り言葉に買い言葉、ただその場その場の憤激に任せて、自ら制する所以を知らず、徒に小爆発を繰り返すのみでは結局小丈夫に留まるしかないぞ。現世で大事を為す者とは、そうではない。そうではないのだ、セリュー。

 

 そのことを今こそ実感を伴い理解して、すっかり下落していたコジマの株、彼女に対する尊信が、一瞬にして復活した。

 それはもう、不死鳥の如く鮮やかに。現金というか単純というか、ともあれこれがセリュー・ユビキタスなのだろう。

 

「………。白状します、長官」

「自白を聞くのは本職だ。いいぞ、喋れ」

「私はたぶん、いえ、きっと、貴女の言うことを半分も理解できてない。私の正義のいったい何処が未熟なのか、どうしても納得がいかないんです」

「ふむ。それで」

「でも、理解したいとは感じます。やっぱり私には、貴女が悪であるとはどうしたって思えない。長官は私の憧れです。その貴女がこの世の中を、どんな風に眺めてどう動かそうとしているのか知りたい。いつの日か私も同じ足場で、同じ視点に立ってみたい。ですので」

 

 と、そこでぺこりと頭を下げて一礼し、

 

「なにとぞ、末永くご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い致します」

 

 初めて会った時そのままな、きちっとした敬礼の下。

 そんなことを、言ったのだった。

 

「―――」

 

 コジマの瞳孔がほんの僅かに開かれた。芯から驚いているのである。言葉自体は社交辞令として多用される慣用句の類だが、籠められた意味はまるで違う。

 

(つまり、こいつは)

 

 本人に自覚はないのだろう。が、セリューは明らかに、暗に盲従しろというコジマの誘いを撥ね退けて、己の道は己で決めると、自分の眼と頭脳を駆使しながら進むのだと、それらを研ぎ澄ます為にお前を利用してやるのだと、そういう独立独歩の気概に燃えていた。

 己が荒削りの半人前であることは自覚させた。が、自覚の衝撃から波及した意識変化は思わぬ方向へと転がって、こうなってしまえば彼女を自家薬籠中のものとするのは不可能になったと見るしかあるまい。

 

「は―――ははっ、あっははははははははは!」

 

 それを理解し、やがて、コジマは弾けるように笑い出した。愉快で愉快でたまらないとばかりに、彼女は一個の笑い袋と化していた。

 

「ああ―――まったく、素晴らしい。生きている喜びを感じるよ。人生、何がたまらないといっても、予想を覆される以上の快感はないな」

 

 ずれた軍帽を直して、言う。

 

「いいだろう、ならばついて来い。そして学べ。私の背から、足跡から、切り開いた道筋から、何かを掴み取ってみせるがいい。あらゆるものを己を育てる肥やしとせよ。その結果、完成された君が私に反旗を翻そうが、共に夢を見ることを望もうが一向構わん。どの道情けない進化にはなるまいさ。ああ、本当に本当に楽しみだ。期待させてもらうぞ、セリュー・ユビキタスという人間に―――」

 

 

 

 この夜の顛末はこれにて幕引き。振り返ってみるならば、久方振りに月光を抜き、当初の標的であった貴族を見事成敗し、新たなる血の治験者たるサヨを確保し、忠誠心をそのままに、セリューの盲いた眼をほんの僅かながら開いてみせた。

 コジマ・アーレルスマイヤーにとっては大満足といっていい、まこと、実り多き夜だった。

 

 

 

 



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06

 

 

 繰り返すようだが、帝都は広い。東西南北にこれだけの幅があるならば、四隅の気温や天候にちょっとした差さえ生まれてくるほどである。

 そんな広大な版図の悉くが市街地で埋まるなど、むろん有り得る話ではない。東には千から千五百メートル程度の標高の、大凡なだらかと呼んでいい山々が肩を並べて、南に目を転ずれば、我々のよく知る琵琶湖を丸々呑み込んでしまえる程に巨大な湖が、悠然と面を空に向けている。

 水。

 そう、水だ。

 魔術にせよ呪術にせよ、およそこの世ならざる領域に手を伸ばさんとする学問に於いて、水はしばしば重要な因子として扱われる。

 それは宇宙の本質に迫らんとする、啓蒙的真実の探求者達にとっても変わらない。特に大量の水は眠りを守る断絶であり、故に神秘の前触れとされる。

 だからこそ、涜神も恐れぬ好奇心の奴隷どもは、こぞってその先を目指すのだ。例え、誰一人戻ってこないという痛烈な現実を浴びせられても、性懲りもなく、何度でも。

 そうした思想を継承するかのように、コジマ・アーレルスマイヤーの帝都に於ける血の医療の研究所は、とある湖の真横にあった。

 隣接しているといっていい。

 むろん、南の巨大湖ではない。あのあたりは優れた景勝地として人目が多く、ふとしたことから秘密の入り口が発見されぬとも限らないし、万一研究所の内部環境が取り返しのつかない悪化をみた場合、「最終的解決策」を実行する上で少々都合が悪すぎる。

 よって、コジマが選んだのは東部山脈。人も通わぬ山奥に、ひっそり佇む人工湖。

 この湖を成立させているダム自体が、丸ごと血の医療の研究所だった。

 実はこれ、帝国どころか全世界を見渡しても類のない、おそらくは史上初の中空重力式コンクリートダムなのである。

 堤高五十六メートル、堤頂長一〇八メートル。

 重厚にして雄大なたたずまいは極めて高度な力学上の計算に裏打ちされた、ある種の機能美の結晶と評して構わない代物であり、観光地化が図られ、各方面から称賛を寄せられるのが正当な扱いの筈であったが、あいにくと一般的な帝国臣民にはその偉大さを理解するだけの能がなかった。

 

(上と下との学力差は深刻だな。ピラミッド型どころじゃない、下が厚すぎ、上があまりにも先細りすぎている)

 

 頭を悩ます一方で、好都合なのも確かである。裏からあれこれ手を回し、コジマはこの内側に広がる空間を密かに占有。大いなる探求の場として機能するよう設えた。

 そのことと、釣り人すらこの人工湖を訪れることがなくなったのは無関係ではないだろう。餌に魚が喰いつかないばかりか、近付くだけでえもいわれぬ不安と困惑に蝕まれ、よほど病的な空想力の持ち主でもない限り到底思い付かないような奇怪な妄想をどう足掻いても振り払えなくなるのである。

 肝試しに訪れた向こう見ずな若者さえ、このダムの姿を一瞥すると急にアルコールが抜けたような顔付きになり、黙って踵を返している。その後、この件に関しては誰に訊かれようとも決して語らず、恰も一個の石像に化すが如しで、それだけでも類のない不気味な印象を周囲に与えるには充分だった。

 

 輸血液を注射されたサヨが運び込まれたのは、正しくこの施設である。

 

 当然の判断であったろう。

 潜在的獣の病罹患者を一般病棟に放置しておくなど、それこそ正気の沙汰とは思えない。立派なテロリズムとして認定していい行為である。

 以降、それなりに日が経つが、彼女が目覚める気配は、未だない。

 

 

 

「どういうことだと思うね、ドクター」

「そうねえ。検査してみた限りだと、心拍・呼吸・血圧・体温のバイタルサインに異常はないのよ」

 

 神ノ御手の異名を有する手甲の帝具、「パーフェクター」の使い手たるDr.スタイリッシュにとって、コジマ・アーレルスマイヤーとは好悪入り乱れる複雑な関係性の相手であった。

 悪感情を抱く根拠としては、この女の所為でかつてほど自由に人体実験ができなくなったのが一点。

 

 

「囚人といえど、未だ帝国臣民としての権利を有します。制限はされますが消滅したわけではありません。二食を以って賄われ、何らかの臨床・投薬実験に於いても本人の同意を必要とし、結ばれた契約が歴とした法的拘束力を有することからもそれは明らかでしょう」

 

 然るに、不審ですな、とコジマは続けた。

 

「死刑囚にすら保証されるこれら最低限の権利条項が、なにゆえ家族のために我が身を捧げた憐れな少女に付与されぬのか。金がないということは、人殺し以上の悪徳だとでも言うのでしょうか。いいや、否、否、そんな馬鹿な話はない。決して、あってはならないのです」

 

 時期的には丁度、貴族的悪趣味の精髄たる拷問蔵を摘発していた最中である。

 流行の終息を予見して、しかし彼らのような人種が一度覚えた甘美な味をそう簡単に手放せるわけがないと見抜いた一部の女衒が、またぞろ下劣な企画を立て出した。

 そのやり口は敢えて語るも愚かしいほど、貴族達のそれと同一なりといっていい。何も知らぬ田舎の娘を甘い言葉と歓待でもてなし、緊張がときほぐれた頃合を見計らって一気に地獄へ落とすのである。

 

 ―――わしらに比すればまだまだ未熟。されども、その手並みに光るものがあるのもまた事実。なにより合法なのがいい。

 

 ということで、コジマを恐れた多くの貴族がそちら側へと流れて行った。市場の声に、女衒どもは見事に応えたと評していい。

 ただ、機密保持に関しては、彼らはまるで素人だった。この潮流は、すぐにコジマの耳に入った。

 

「私の振り撒く恐怖まで金儲けの出汁に使うか。これだから商人という連中は」

 

 呆れたように呟いて、とはいえ放置するコジマではない。

 これを見逃せば仏作って魂入れず、虎を描いて毛を忘れるようなものだろう。早速行動を開始した。幼帝の前で、前述の発言をぶちあげたのである。

 

 まあ、現実には囚人の権利保護とてとっくに空文化されているのだが。

 

 しかしながら、この幼い皇帝は多分に現実から乖離した幻想世界に棲んでいる。この鳥籠(せかい)から逃さず、虜にし続けることに大臣の苦心の全てがあり、かつこの花園(せかい)にあって囚人とは自らの罪を悔いて深く反省し、更生のため進んで獄舎の鎖に繋がれているものだった。

 それを今更、少々都合が悪くなったからといって、すみませんあれは嘘です大嘘です、本当は誰一人として納得して刑に服する者などおりません、それどころか出所()て来られると困る輩は牢名主に殺させるか強制的に人体実験の材料にして表向きは病死と処理してしまっています、などと暴露出来るわけがないではないか。

 結局のところ、制限はされているものの、囚人にも一定の権利が保証されていることを前提として議論を展開せざるを得ないのである。

 

(まんまと逆手に取られましたか。小癪な真似を―――)

 

 そして、この前提を覆せない以上は、如何なオネストとてコジマを口で圧倒するのは不可能だった。

 なにせ、この女の弁舌技巧は劇団仕込みである。

 

 ついでながら触れておくと、そういう噂があるのだ。帝都に出る前、未だアーレルスマイヤー家を継がざる時分にとある劇団の一座に身分を隠してこっそり師事し、あらゆるノウハウを汲み上げた、と。

 発声方法から空間に合わせた声量調整、効果的なジェスチャー、及び観客の情感を鷲掴みにする抑揚の付け方に至るまで、悉くを学んだという。

 なるほど演説も演劇も、要するに人を惹き付けねば始まらない。根底に流れる技術を応用可能と見た発想自体は平凡で、だからこそ説得力があるだろう。この風説は、或いは真実だったかもしれない。

 

 それはよい。

 重要なのは、その技術を惜し気もなくふるまわれた皇帝である。

 コジマは説いた。

 具体的な実例を幾つも交え、売り飛ばされた少女らが、如何に憐憫を垂れるに相応しい生物であるかを説き抜いた。

 たちまち彼の網膜上には痩せ細って凍え死ぬ幼い少女の姿が浮かび、あまりの悲惨さに血の気が退き、小刻みに震え、何度か悲鳴を上げさえした。

 

「なんということだ、余の治める帝国に、よもやそんな悲劇が罷り通る場所があったとは。―――」

 

 大勢は決した。

 娼妓取締規則を筆頭に人身売買に関連する諸々の法案が新たに制定、乃至改定された。

 とはいえ、オネストとてただで転ぶタマではない。これらの草案に意見して、コジマから一定の譲歩を引き出すことには成功している。

 例えば、権利が保証されるのはあくまで帝国臣民に限り、異民族にはこれを認めない。彼らの身柄のやりとりは変わらず奴隷取引であり、一切の人権が許されず、どのように処置するも購入者の自由であった。  

 抜け道を残したといっていい。また、法の不遡及原則も適応された。例の下劣な見世物を散々やったといえど、そのことで女衒どもはしょっぴけない。彼らを捕えられるのは、法律施行後にそれが行われた場合のみである。

 

(やはりこうなったか。まあ、この辺りが落としどころとして妥当よな)

 

 政界を遊弋するにあたって如何に平衡感覚が重要かは、敢えて語るも愚かしい。一方的な完勝ほど危険なものはないだろう。

 よって、表情だけはしぶしぶ繕い、

 

 ―――それで結構。

 

 と、コジマは譲歩を受け入れた。

 善悪は別にして、オネストは奮戦したと評していい。

 が、スタイリッシュのようなマッドサイエンティストにとっては冗談ではない。

 

「役に立たない官僚どもめ、あの偽善者の倍以上も生きていながら、まったく何てていたらく(・・・・・)よ!」

 

 一見すると彼にはまるで関係ない世界の話のようであるが、さにあらず。

 

「あの女が、これで終わりにするわけないでしょう!」

 

 職業上、数多の定理に通暁するスタイリッシュにはこれからの展開がありありと見えた。

 今回の「成果」を橋頭堡に、コジマは人権という、科学の発展上邪魔でしかない長物の伸張を図るに違いないのだ。スタイリッシュに言わせれば、これは力学的必然の現象である。

 

「だからこういう議論では、一歩も退くべきじゃなかったのに! ああもう、一人残らず麻酔無しで目玉を抉ってやりたいわ!」

 

 普段の優雅さ―――少なくとも、本人の認識内に於いては―――をかなぐり捨てて、地団駄を踏む様子が側近たる「目」や「耳」によって確認されている。

 が、それも仕方あるまい。

 これより訪れるに相違ない、研究者にとっての暗黒時代を考えれば、外聞を取り繕う余裕など残しておけるわけがないではないか。地団駄程度で済んでいるぶん、彼はまだしも理性的といっていい。

 

 

「やあ、邪魔するよ」

 

 

 そんな修羅場へ、ふらりと本人がやって来たのだからたまらない。

 一応その研究所はごく一部の限られた者しか知らない、入念に隠蔽された施設だったのだが、コジマは当たり前のように現れた。

 侵入者を探知する警報の類は、最後まで静かなままだった。

 

「なあドクター、君は歴代の、どの皇帝を以って最も偉大なりと考える? ああ、始皇帝はむろん抜きでな」

 

 彼の功績はあまりに巨大だ、比較対象に用いるのは酷であろうよ、と肩でも抱いてきそうな馴れ馴れしさで言うのである。

 

「―――」

 

 それを不気味とも、鬱陶しいともスタイリッシュは思えなかった。

 目下最大の憎むべき怨敵が、こともあろうに手勢も連れず、自陣の最奥、正に懐に居るにも拘らず、である。

 これ幸いと袋叩きに処するべく、部下達に号令してもいいであろう。普段のスタイリッシュならば、間違いなくそうしていた筈だ。話を合わせるふりをして時間を稼ぎ、こっそり配下に指示を下して脱出不可能な蜘蛛の糸を紡ぎ上げ、同時に自分を安全地帯へ運ぶ手段も模索していたに相違ない。

 

「―――」

「どうした、返事がないぞ」

 

 が、この瞬間。スタイリッシュは総ての思慮を喪失していた。舌をもぎ取られたかのように絶句して、ひたすらとある一点ばかりを見詰めている。

 

「―――」

「ふむ、人に訊ねるのならば、まず自説を述べてみろ、ということか。いい根性じゃないか、気に入った。よし、ならばひとつ語るとしよう。―――私は断然、六百年前の彼の帝、臣具を創らせた皇帝だ」

 

 そのうち眼球が乾燥し、血涙が滴る段に至っても、彼は瞬きをしなかった。

 これを見ながら視力を失うならば構わない。最後に見た光景として永遠に網膜に刻めるならば、むしろ進んでそうしたいとさえ思ったろう。

 思ったろう(・・)と、推量の文体を用いたのは当時の彼が、まったく思考という機能を紛失してしまっていたからである。

 

「始皇帝の功績は絶大にして無類。ああ、そのことは認めよう。しかし、だからと言ってひたすら彼を仰ぎ見て、その遺産に縋るばかりでは駄目だろう。情けない進化どころか退化の一途を辿っている」

 

 こんなものは堕落だよ、恥以外の何物でもないと、コジマは大仰に嘆いてみせた。

 

「先人に敬意を払いつつも、彼らの先へと進まんと、超えて行こうとする気概こそが子孫たる我らに課せられた義務ではないか。然るに、現状たるやどうであろう。いつまで帝具を至高の地位に据えておいてやる心算なのだ? ―――いい加減にその座を簒奪してやらなければ、誰よりも始皇帝に対して申し訳が立つまいよ」

 

 だからこそ、その気概を多少なりとも有していた彼の帝を敬すのだ、と続く。

 むろん、スタイリッシュは聴いていない。

 耳には入っている。鼓膜を震わせ、耳小骨を揺らし、蝸牛を通して電気信号へと変換され、ちゃんと中枢へと送られている。

 だが、情報を処理すべき脳味噌が、それら電気信号を意味のある文章として解釈するのを放棄してしまっていた。

 それもむべなるかな。この研究室に姿を現し、スタイリッシュに声をかけたその時点から、コジマの手には月光の聖剣が握られている。

 

「―――……素晴らしい。なんて、美しいの」

 

 出し惜しみはない。月の光を凝縮させた青い刃は宇宙の深淵そのもので、漂う粒子は月光蝶の鱗粉か、それとも深海に降る夢幻の六花(マリンスノー)か。

 いや、降る(・・)では語弊がある。これは上から下へと落ち行くものではないのだから。

 果ても見えない海の底の深みから、音もなく無限に立ち昇って来るものだ。

 ああ、あの昏い淵の向こう側から予感がする。

 海の底に出現した更なる水面。塩分濃度の極端なまでの差異こそがこんな幻想的な光景を生むのだと、何時か、何処かで耳にした。

 にしてもこの、墨汁めいた暗さはどうだ。塩の濃い・薄いで、本当にこんな色彩が現出するのか。

 夜の闇よりなお黒く、瞼の裏より生々しい、こんな無明の澱みからあれほどまでに美しい粒子が立ち昇って来るのだからこの世の仕組みは分からない。

 ああ、ちょろり、ちょろりと音がする。奈落の水面が波打っている。

 きっとあの中に飛び込めば、途方もなく素晴らしい、これまでの人類史に例がないほどの光栄が、矮小な我が身を包んでくれるに違いない―――……

 

「お、おおっ、おおああああああぁ………!」

 

 手段も経路もまるで違えど、真理に至る研究を進めていたから分かるのだ。

 あれが、あの聖剣が、あの輝きが、いったいどんな意味を持つモノか。どれほどの価値を、持ってしまっている(・・・・・・・・・)モノなのか。

 何故だ。

 何故こんなものがこの世にある。

 石器時代の遺構から、スーパーコンピューターが発見されるに等しいオーパーツ。

 これに比べれば、自分が今まで創り上げてきた「作品」どもはどうであろう。投薬と外科的手術による身体能力の増強? 人間を細胞レベルで危険種へと変性させる? 脳を残して、肉体を機械と入れ替える?

 ああ、なんて、なんて慎ましい改造だ。思わず赤面したくなる。

 本当に度外れたモノとはそうではない。今、それをはっきり思い知った。知らされた。危険種などという、所詮はこの惑星の重力圏から脱することも叶わない、中途半端な生物を手本としていたことがそもそも間違いだったのだ。

 本当に目指すべき高みとは、空にある。

 あの暗黒の大海を這いずるように遊泳し、煌く星々の回廊を自由自在に練り歩く、真に偉大なる上位者こそが理想と仰ぐに相応しい。

 

 スタイリッシュをしてそのように啓蒙せしめた月光を、コジマは何の前触れもなく消失させた。

 

「ちょっとお!」

「取引だ、ドクター」

 

 抗議に声を荒げつつ、掴みかからんとする気勢を示したスタイリッシュ。衝撃醒めやらぬ彼をやんわりと宥めてやりながら、コジマは本題を切り出した。

 

「君をめくるめく神秘の世界へ導こう。その代わり私の研究に、啓蒙的真実の探求に、どうかその手を貸して欲しい。我が師、我が導きたる月光を、私はより深く知る必要がある。これまではどうにか一人で廻してきたが、いかんせん」

 

 ここのところどうも手詰まり気味でね、所謂スランプというやつだよ、と灰色髪を弄びつつ告白するコジマであった。

 

「折角帝都に居るのだ、ここはひとつ、私のような紛い物ではない、本職(プロ)の医療者の智慧を得たいと思ってな。どうだろう、手を貸してはくれまいか。君にとっても悪い話ではないと思うが」

 

 返答は、最早語るに及ぶまい。Dr.スタイリッシュはむしゃぶりつくようにコジマ・アーレルスマイヤーの手をとった。

 

 

 

 これがコジマに対して好意を抱く方の理由。

 あのまま研究を続けていても永劫に知覚することは出来なかったに違いない、豊潤な叡智にあふれた新境地へと蒙を啓いて案内してもらった恩である。

 

 少々、余談が過ぎたきらいがある。時系列を現在へと戻そう。

 

「脳波や眼球運動を調べても、夢さえ見ない深い眠りが続いているとしか言えないし。正直、説明を求められてもお手上げよ。血の医療が気紛れなことぐらい、貴女だってよく分かってるはずでしょう?」

「それを常に一定圏内の効果に留めるよう、調整するのが君に期待した役割なのだがね」

 

 ずけりと言葉の棘を突き刺され、スタイリッシュの背筋に冷たい汗が噴き上がる。

 コジマはそっと屈みこみ、薄く柔らかなサヨの瞼をめくり上げた。

 

(……蕩けてはいない。兆候すらも見当たらず、か)

 

 ひとまず安心出来る要素であった。

 

「やっぱり瀕死の患者に施しを与えた所為かしら。いえ、でも似たような状態に陥らせてからの投与実験ではこうはならなかったハズ。ルボラ病の病原体と何らかの相互作用を起こした? そんな馬鹿な、それならもっと人体に破滅的な影響が出ていていい。にも拘らず、バイタルサインは至って正常ということは―――」

 

 ぶつぶつと、頭脳を高速回転させているのだろう、思考の切れ切れをこぼしながらうろつき回るスタイリッシュ。そんな彼を放置して、コジマは更に顔を近付け、互いの瞳がほとんど触れ合わんばかりに寄せるのだった。

 

(どれ、ひとつ視てみようじゃあないか)

 

 サヨの焦げ茶色の虹彩を、ではむろんない。

 見通すべきは更に奥。変質し、弾力を帯びたコジマの脳液が蠢いた。三次元の向こう側を透かし視る思考の瞳、その雛形といっていい器官を以って、この治験者の精神が何処に在るかを突き止めるのだ。

 

「ぎ―――ぐ、お―――」

 

 あっと言う間に床が消えた。

 次いで重力が消失し、景色が混ざり、流転しながら上下左右の、そのいずれにも当て嵌まらない方向へと落ちてゆく。いや、それともこれは、昇っているのか?

 自我の境界線が曖昧だ。時間と空間の軛から解放されて、視力では有り得ない異様な感覚によりすべてが見える。

 瞳を通して流れ込む情報量に何度も何度も発狂しかける。人間の範疇に留まる限り―――脳などという不出来な思考機関に頼る限り―――とてもこれらを処理しきれない。脈絡もなく人間の視界を与えられた蟻だけが、コジマを苛む苦しみを辛うじて理解できるだろう。

 己が名を、口腔内にて擦り込むように繰り返す。私はコジマ、コジマ・アーレルスマイヤーだ。それ以外に名など存在しない。私はこの惑星の上に居るのだ。この時代で生きているのだ。此処に留まっていたいのだ。ああ、導きの月光よ。どうか私に、私を繋ぎとめる(よすが)を与えたまえ。………

 

 

「―――づッ、らああッ!」

 

 

 それはまるで、落ちて砕ける大瀑布から目当ての一滴だけを掴み取るが如き所業。

 脳と精神に多大な負荷をかけることを代償に、その不可能事を成し遂げた瞬間、コジマは総身の力を振り絞り、稚拙な瞳を閉じていた。

 周囲の機具を薙ぎ倒しながら仰向けにどうと横たわる。コンクリートの壁一枚を隔てた先が湖だからか、床がひんやりしていて心地よい。暫くは起き上がる気になれなかった。

 

「……使った(・・・)のね?」

「ああ、やった(・・・)

 

 こんな短い遣り取りでも、両者の間では充分に意図が通じ合う。

 血の医療の最終目的地。人の身にて上位者と伍する唯一の法。思考の瞳の情報は、早くからスタイリッシュに告げてある。

 そして現状、コジマ・アーレルスマイヤーの脳こそが、この星の上でそれに最も近いモノであることも。

 

(今なら、或いは)

 

 腹の底から欲情にも似た、ドロリと熱い何かがこみ上げて来るのをスタイリッシュは自覚する。

 解剖したい。

 実験したい。

 そうだ、まずはこの灰色髪を剃り落とそう。メスを取り上げ、露になった表皮を切り裂きめくり上げ、頭蓋骨を継ぎ目に沿って綺麗に外す。そうすればいよいよお楽しみだ。皺の一本一本まで見過ごさぬよう丹念に丁寧に押し広げ、思考の瞳をじっくり探そう。ああ、想像するだに股座がいきりたってしまって仕方ない。

 

(でも、駄ぁ目。駄目よアタシ。強いんだから、この人。これしきの疲弊じゃちっとも当てにならないわ。もっともっと弱ったところに、惜しみなく全戦力を注ぎ込んで捕まえるの。だから、ここは自重よぉ)

 

 好奇の狂熱を押さえ込むのは、時として溶岩を呑み込むよりもなお辛い。

 それを顔色も変えずやってのけ、あまつ何事もなかったように会話を営み続けるあたり、スタイリッシュの情欲が如何に強烈で抜き差しならないものであるかを逆説的に物語る。

 

「どう? 氷水でも持ってきましょうか」

「いや、いいよ。こうして暫く寝転がっていれば回復するさ。……ふふ、ふふふふふ」

 

 普段のコジマからは想像もつかない、力の抜けた、弱弱しい笑声だった。

 

「いやはや、まったく。私が視たものの十分の一でも、君に分けてやりたいよ。独占するには惜しすぎるし、誰とも語り明かせぬのが辛すぎる」

「そんなにも?」

 

 引き込まれるように訊ねた。コジマはこっくり肯いて、

 

「私は見たぞ、見たんだよ。星風を、超新星を、事象の地平を、銀河の織り成す貴き壁(グレートウォール)を。遍く驚異を焼きつけた。―――けれど、けれどね」

 

 そこで一旦言葉を区切り、さも大儀そうに上体を起こす。

 

「こんなものは所詮三次元世界の範疇に収まる代物に過ぎない。今は無理でも望遠鏡が発達すれば、いずれ誰もが目にするだろう。早い話が浅瀬(・・)だよ、思考の瞳に映るもの―――時間と空間と次元を重ね合わせて漸く覗き見ることが許される、創造の根底、宇宙の実相からは程遠い」

 

 言葉に力が戻って来た。聴くだけで心の水面を騒がせる、狂念が確かに宿っている。

 

「完成に到れば、きっと見える筈なのだ―――輝く泡の金線細工(フィリグラン)、その内側に広がる超空洞(コズミックヴォイド)の奥底にて微睡(まどろ)み続ける存在が。眷属でも化身でもない、真なる上位者の玉体が。……されど、悲しいかな」

 

 私の瞳はまだまだ未熟、脳液からほんの半歩だけ進んだ程度に他ならん、とコジマは嘆じた。

 たかが半歩、されど半歩。

 この僅かな距離を稼ぎ出すため、一体どれだけの失敗作を生んだことか。ちょっとでも経済感覚のある者が聞けば、あまりの採算の合わなさに卒倒するに違いない。

 しかもこの脳室に孕んだ未熟児ときたら、いまだ安定期からは程遠い。

 下手に自惚れ、注意を欠いて慢心すれば、たちまち腐って瘍壊し、邪眼に堕ちてコジマ自身も醜い獣にまっさかさまとなるだろう。鮪に似ている。あの回遊魚が泳ぎ続けなければ死ぬように、コジマも進化を止めれば自滅するのだ。

 

「冗談ではない」

 

 そんな結末は要らん認めん覆す。情けない進化など、コジマは頑として撥ね退けてやる心算だった。

 

「どうあっても血の医療をより高度な域へと昇華させ、その成果を我と我が身に還元し、思考の瞳を育て上げてやらねばならぬ。私達は、愚かさの先に進まなければならないのだから」

「ええ、勿論よ長官。これまで通り、これからも、アタシは協力を惜しまないわぁ」

 

 蛇のように体をくねらせ、スタイリッシュは言うのだった。

 

 

 

「で、それはいいとして、肝心のサヨちゃんはどうだったのよ。元はといえばあの子の容態を調べるために瞳を開いたんでしょう?」

「ああ、彼女か。うん、まあ、そうだな、とりあえず栄養補給の点滴だけ打っていれば問題なかろう。そのうち自然と目覚めるさ」

 

 この件に関して、コジマは露骨に言葉を濁した。スタイリッシュが如何にしつこく訊こうとも、ひたすら微笑を烟らせるのみで真相を霧の向こうへ押しやろうとした。

 ただ、それでも彼の執念深さに根負けしたか、僅かながらも意味のあり気な台詞を残している。

 

「輸血液に不備はなかった、それは確かだ。この点、私は君に謝罪せねばならないな。すまない、君に落ち度はなかった」

 

 礼儀正しく頭を下げて、容易ならないのは次である。

 

「計算外だったのは、あの血と彼女の相性の良さだよ。ここまでの親和性を示したのは、私を除けばひょっとすると初めてかもしれぬ」

 

 これを聞いたスタイリッシュの脳裏に真っ先に浮かんだ構想は、サヨの故郷を突き止めて、そこの住人を丸ごと実験棟にぶち込もうというものである。この特質がサヨ一人の突然変異か、それとも血族全員がそう(・・)なのか、是が非にも対照実験をしたかった。

 その願望が、表情筋に露骨に出ていた。

 

「それそれ、それよ。そんなだから迂闊に胸襟を開けんのだよ、君にはね」

 

 生きたまま黄色い背骨を引き抜かれるイメージが勝手に脳内に発生し、スタイリッシュは悲鳴を上げて九十センチも跳躍した。

 むろん、現実ではない。

 コジマは殺気を浴びせただけである。

 が、やろうと思えばいついつだとて、寸分違わず同じ光景を現出できるということは、誰の目にも明らかだった。

 彼女らしい、過激で効果的な警告であるといっていい。これを喰らったのは輸血液を無断で持ち出そうとした時以来、実に二度目の経験だった。

 果たして三度目があるのか、どうか。古語に倣って、今度こそ実行されるのではなかろうか。

 

「んもう、つれない人ねぇ」

 

 手の甲で頬に滲んだ汗を拭き取り、それでもスタイリッシュは食い下がる。

 

「これがどれだけ価値を有する発見か、貴女にだってよく分かっているでしょうに。ひょっとすると、大いなる邂逅の第一歩になるやもしれないのよ?」

「だからと言って君の発想は飛躍しすぎだ。何の罪も犯していない人々を、村ごと掻っ攫おうなどと正気の沙汰ではあるまいよ。まあ焦るな、その内検疫なりなんなりと名目付けて、住民全員分の血液サンプルでも持ち帰ってみせるゆえ」

 

 それまで大人しく待っていろ、と言うのである。舌打ちを堪えるあまり、スタイリッシュの顎部全体がつりかけた。

 

(相変わらずわけわかんないところに拘るわね、こいつ)

 

 スタイリッシュの目を借りるなら、コジマ・アーレルスマイヤーという人間は、正しく矛盾の塊だった。

 条件(・・)さえ整ってしまえばスタイリッシュも顔色を失くす、酷虐無道を鷹揚自若にやってのける分際で、法に対するこの従属性はどうであろう。制限された環境に進んで我が身を追い込んで、狭苦しいその範囲内にて生き抜くことに情熱を燃やす、ある種の倒錯趣味の変態としか思えない。

 

(不純物が多すぎよ。これさえなければ超越的思索のひとつやふたつ、とっくに得られていたでしょうに。惜しいわぁ)

 

 ああ、本当に不条理だ。何故月光は自分を選ばず、このような、寄り道ばかりに気を取られ、蝸牛の如き歩みしか為せない女を択たのだろうか。

 きりきりと、奥歯を噛みたくなるほどに懊悩する。そんな彼をよそに、コジマは懐中時計を覗き込み、暢気に時刻を確認していた。

 

「おっと、もうこんな頃合か。私はそろそろ帰るよ、ドクター。サヨについては言った通りだ、くれぐれも無体な扱いを加えるな」

「あら、今日は随分と早いじゃない。実験棟は見ていかないの?」

「取り立てて報告すべき新発見も無いと言ったのは君だろう」

「そうだけど。いつもなら、それでも自分の眼から見れば違うかもしれないって、一通り巡察するのを欠かさないでしょ? 今日に限って、珍しいわねえ」

「……別に、深い意味はないのだが」

 

 瞼を瞑り、長嘆息してコジマは言う。

 

「知らないか? 帝都に馬鹿が接近している噂」

「ああ、もしかして元首斬り役人の」

「そう、ザンクだよ。とち狂った阿呆といえど、帝具を所有している以上侮れん。下手に死人を出そうものなら、またぞろオネストに警備隊は無能と攻撃する材料を提供してやるはめになる」

 

 ただでさえナイトレイドの跳梁を許し、未だ一味の首級ひとつも挙げられていない、苦しい身の上なのである。

 この上頭のいかれた猟奇的連続殺人鬼の凶行まで止められなかったともなれば、コジマはいよいよ立つ瀬を失う。よって迅速に、誰の眼にも判り易い、明確な成果を得るために。

 

「幹部連中を招集して対策会議を開く予定でね。発起人の私が遅刻するわけにはいくまいて」

「やれやれね。気苦労ばかりが多そうで、貴女を見てるとすまじきものは宮仕えって痛感するわぁ」

「なあに、この苦労に見合うだけの楽しみもあるさ。特に、今のような沸騰しつつある時勢では、な」

 

 

 

 

 その日、帝都警備隊本部内に設置された第一会議室には各地域の隊長以下主だつ面々がずらりと並び、ぴりぴりと肌を刺す緊張感が直方体の空間内に横溢し、ともすれば粛殺たる印象さえ与えかねないほどだった。

 なにせ、音頭を取っている人間が一番殺気立っている。

 

「諸君、滑稽劇の時間だ。首切り役人を首級(くび)にして、天下の往来に晒してやろう」

 

 開口一番、薄笑いを浮かべながらコジマが放った台詞である。

 上司がこうである以上、付き従う部下としては、同調しない方が難しい。コジマは自分の心の色に、すらりと部隊を染め上げてしまえる女であった。

 

「はっははは、それは皮肉が効いていますな、長官殿!」

「待ち遠しくてなりません。帝都の守護者の腕前を、監獄上がりの田舎者にたっぷり教えてやりましょう!」

 

 うむ、と頷き、コジマは背後の壁に掛けられた帝国地図をだぁんと叩く。

 

「逃げながらもものを喰わずにはいられんドブネズミよろしく、奴も通り道に死体を生みつつ進んでいる」

 

 諜報員からの報告を基に、この数週間以内にかけて発見された、首と胴を泣き別れにされた遺体の座標にピンを打ち、こまめなことに横には日付と被害者の概要まで書いてある。

 こうして上から眺めてみると、なるほど下手人が帝都を目指しているのは明白だった。何らかの理由で急激なペースダウンでも起こさぬ限り、まず三日で城壁を越えてしまうだろう。

 

「調査の結果を総合するに、私はこれら一連の殺人が同一犯の犯行であると断定。所謂『首切りザンク』の仕業であると確信するに到った。であるが以上、壁外の自治組織や汚職と腐敗で弱体化した軍隊などには期待するだけ無駄だ、奴は必ず帝都に入る。これより先はその前提で動いて行くぞ」

 

 そう言って、全員分用意させた書類を机上を滑らせ配布する。

 

「全警備隊員に通達。絶対に一人で出歩くな。必ずスリーマンセルで行動し、細胞間同士の連絡を密にしろ。もし何処かで連絡が途絶えた場合、どう動くべきか等々も纏めて文書化しておいた。各自欠かさず眼を通し、叩き込み、部下達を教育しておくように」

「三日でですか?」

「不可能か? 日頃の訓練を怠らず、部隊の錬度向上に努めていれば充分対応可能なはずであると、それだけの応用力は培われているに違いないと、信頼して立案した心算なのだがね」

 

 第一、私にそう信頼させた根拠は、他ならぬ君自身が差し出した報告書ではないか、と。

 やんわり言われて、北西地区の隊長は迂闊な発言を後悔した。

 誤魔化すように配布された書類を取り上げ、没頭するように読み進めると、なるほど既存のやり方を無理なく変形させて組み合わせ、三日という僅かな期間内にも形を整えられるようになっている。

 

(なるほど、こういう会議の場では脊髄反射で発言すべきではないのだな)

 

 この地区の隊長は、前任者がコジマによって首を切られ、新たに任ぜられて日が浅い。

 もっとよく学ばなくては、と反省するのを見届けて、コジマは議事を再開させた。

 

「―――それと、市民達にも夜歩きを慎むよう呼びかけること。特にザンクが狙いそうな年代の男女を見かけた場合、引き摺ってでも帰宅させてしまって構わない」

「それはそれは。まるで非常事態宣言ですな、長官」

「似たようなものだ。と言うより、個人的にはいっそ発令して夜間通行禁止区域を設けてやりたいくらいだよ」

「やはり、帝具持ち相手となると物々しくならざるを得ませんか」

「特に今回の相手は、どんな能力を持っているか判らんからな。信じられるか? 奴の帝具は元々獄長が持っていたのをかっぱらったものらしいが、ふざけたことにこの獄長自身、それがどんな能力を持っているのか知らなかったときたものだ」

「は? いや、有り得んでしょう、そんなこと」

「私も初めて聞いたときは同じ台詞を口にしたよ。が、事実だ」

「帝具保管者にはその名と機能の詳細を克明に記した書類の提出が義務付けられていましたよね。資料の散逸等の理由でそれが不明な場合では、先ず研究所に届け出て性能を調べてもらわねばならない、と」

「贈賄」

「畜生め! ……あ、失礼致しました」

 

 一言で察せてしまうあたり、帝国が如何に末期かを物語る。

 

「聞かなかったことにしておこう。斯く言う私自身、こいつの頭蓋を切開して中身を覗き込んでやりたくてたまらない。一体帝具をなんだと思っていたのか、持ってるだけで御利益を齎してくれる御守りか? 代わりに味噌でも詰め込んでやっておいた方がまだものの役に立つんじゃないか」

 

 この発言に、一同どっと沸き立った。

 

「なるほど、それはいい考えですなコジマ長官!」

「だろう? そんな無能のお蔭で我々の危険度が増すとは忌々しさも一入(ひとしお)だ。が、嘆いたところではじまらん。唯一判明している名前を頼りに資料庫を漁らせてはいるが、あまり過度な期待を懸けるな。最悪を想定して行動する」

「となると、やはり?」

「ああ、諸君らがザンクと直接やり合う必要はない。警備隊員の役儀はあくまで民衆保護と自分達の安全確保、この二項に絞る。その為の布陣、血に飢えた人殺しをして容易に手を出しえない構図を整えるのだ」

「餓狼を更に餓えさせる、と。後は囮に喰いついてくれれば完璧ですね」

「その通りだが、一つ違うな」

「えっ」

「奴が狼だと? 馬鹿を言うなよ、おこがましい。狼とは誇り高い生き物だ。然るにこいつの犯行の、一体何処に誇りなんて上等なものを見出せる。美学も敬意もない、いいとこ狂犬病の痩せ犬が精々だろうさ」

「これは失礼を、仰る通りでございます」

「構わん、それよりよくぞ囮を使うと見破った。……この厳戒態勢下、二人の帝具使いをそれぞれ孤立した位置に徘徊させる」

 

 帝具には帝具を以って対応すべし。

 常識であり、王道である。

 尤も月光の聖剣は帝具ではなく臣具という扱いだが、性能が生半可な帝具を軽く超えているために、一々語句を使い分ける必要はなしとコジマは判断したらしい。

 

「むろん、私服で、だ。おまけにどちらも奴が好んで殺したがる若い娘ときているよ。この餌に喰い付かないだけの自制心を残しているか、さて、ひとつザンクを試してやろうじゃあないか」

「その囮というのは、やはり?」

「うん、私とユビキタス巡査官でやる」

 

 と、この場で唯一の巡査身分の少女を引き寄せ、宣言した。

 彼女がここ最近のコジマ長官の「お気に入り」であることは、情報通の間では半ば常識と化している。近々昇進辞令が下るだろう、というのが衆目の一致した見解だった。

 抜け目のない輩は今のうちに気脈を通じておこうかと、密かに画策していたりする。

 

「上手いこと交戦開始と相成れば、諸君らは立体的な包囲網を敷き、慎重にこれを狭めつつ、同時に厚さを増して行く。直接戦闘は私と巡査官に限定したい、少なくとも両方の死が確認されるまではな。むろん、そうならないことを祈っているが―――やれるな?」

「はっ、不肖セリュー・ユビキタス、死力を尽くす覚悟であります!」

「よろしい。では諸君、早速準備にかかろうじゃあないか。分不相応な玩具をくっつけた人間の屑を、盛大にもてなしてやる準備をな」

 

 号令一下、彼らは爛々と目を光らせて、捕食者そのものの笑みを浮かべながら、部屋を後にするのだった。

 

 

 

 さて、時は流れて、四日後の夜である。

 この晩、ついに帝都に足を踏み入れた首切りザンクは、一際高い時計塔の頂上から蟻のように地面を蠢く兵隊どもの動向をつぶさに眺め、その統制の見事さに手でも打ってやりたくなった。

 

「んーっ、愉快愉快。これだけ腐敗した街の中で、よくまああれだけの士気を保てるじゃないか」

 

 彼が獄長から奪った帝具は五視万能こと「スペクテッド」。装着者に洞視、遠視、透視、未来視、幻視の「五視」を与えるというもので、結果得られる情報アドバンテージは一々語るのも馬鹿らしい。

 その帝具が、告げるのだ。あの兵隊どもが自分の来襲をとうに予期して万全の備えを敷いていたことも、いい加減な気持ちで任に就いている者がほとんどおらず、誰も彼もがこの都を護るのだと、若々しい使命感を燃やして恐怖に対抗していることも。

 

「たまらんねえ。さあて、どの首から切っていこうかなぁ」

 

 精一杯の知恵を絞って考えたらしい対策が如何に無意味か、三人一組を順々に潰して廻るのも、やる気に欠けた現実認識の甘い輩に冷水を浴びせてやるのもいい。

 

「選り取り見取りで困ってしまうが、ここはやはり。奴らの心の拠り所を一番最初に刈り取って、恐慌を来した死に顔のまま干し首にしてやるのが一番愉快か。さあて、囮を買って出た勇敢な長官殿は何処かなぁっと」

 

 隊士らのあたまの中身を洞視によって覗き込み、得られた情報を継ぎ合わせれば目当ての場所はあっと言う間に特定出来た。

 

「どれどれ?」

 

 尖塔から尖塔へと夜走獣の如く飛び移り、

 能力の射程圏内に捉え、

 その方向に遠視を試み、

 ザンクは、

 それを、

 見た―――。

 

「……あ?」

 

 なんだこれは。

 

 違和感。

 余りに甚だしいゆえに、具体的には何が狂っているのやら咄嗟に気付けないほどの、圧倒的違和感がスペクテッドを通して流れ込む。

 耳で匂いを嗅ぐような。

 舌で景色を見るような。

 全身の感覚器官とそれに繋がる神経との接続が一度切れ、てんでばらばらに繋ぎ直されたとでも言えばいいのか。

 今まで自分がどうやって呼吸していたかも分からなくなる。自律神経が自律性を失った。陸に打ち上げられた魚のように、口がぱくぱく開閉しては止まらない。

 

「ひ、ひっ―――」

 

 駄目だ。

 アレは駄目だ。

 肉体を構成する三十七兆の細胞が、一つ余さず声を限りに叫んでいる。逃げろ逃げろ、脇目もふらさず遁走するんだ。

 さもないととんでもないことになる。死ぬよりもおぞましい結末が待っている。想像さえしたくない、微かに思いを馳せるだけでも即座に頭を撃ち抜いた方がマシだと確信可能な結末が。

 急速に霞みつつある理性の上でも、この警告が大袈裟でもなんでもない、完全無欠な正論であると、ザンクは確かに理解していた。

 

 

 ……なのに、なんで自分はこんな処を歩いている?

 

 

 どうして、あの絶対的に忌避すべき、超脱の悪夢へ近付こうとしているのだ?

 炎に飛び込む蛾のようだ、と頭の片隅、一握りの脳細胞で考えた。

 

「未来に目を向けよ………人の本質は闇である………んぎぎ………ぐごご………病める砂のローラン………宇宙に触れた聖なるイズよ………星の恩寵を、彼の地より………」

 

 断続的に零れ落ちるうわごとは、何を言っているのかザンク自身わからない。

 というよりこれは、明らかに理解してはならない禁断の知識の類だろう。そんなものが他ならぬ己の口から垂れ流されていることに、内臓を吐き出したいほどの嫌悪感が止まらない。

 知らないはずの物事を勝手に喋る。自分の体が自分の意志を反映しない。

 ああ、それは。それこそは、この醜い肉の塊が既に自分の体でない、何よりの証明ではあるまいか。

 なら、今これを動かしているのはいったいどいつだ?

 顔をみせろ、いいや待った見たくない。これ以上余計なものを見せられたなら、それこそ溺れてしまいそうだ―――。

 

「ふむ、此方へ来たか」

 

 気付けば、既に間合いであった。

 裏路地に響き渡る女の声が、二重奏にも三重奏にも感じられる。その奥から迫り来る、ああ、あの獣の叫びはいったいなんだ。

 

「些か出来過ぎのきらいがあるが、まあよかろう。―――警察長官、コジマ・アーレルスマイヤーだ。帝都へようこそ、歓迎しよう、盛大にな」

 

 濃厚なワインレッドのドレスの裾を翻しながら振り返り、ダークブルーの双眸が、ザンクの眼窩を刺し貫いた。

 

「―――ぐ」

 

 ……帝具スペクテッドの装着者は、読心としか思えぬほどに相手の考えを看破出来るようになるのだが、なにもこれは本当に、心という形而上の存在を書物さながらに読み解いているわけでは、むろんない。

 表情筋の微細な動作や眼球移動、呼吸のリズムに頬を巡る血潮の様子といった諸々の情報から擬似的な読心を可能とする、畢竟観察力の延長線上の能力に他ならないのだ。

 が、それでも、常人にはまるで理解できない異様な視界を獲得するのは確かだろう。

 そんなもので、コジマ・アーレルスマイヤーを視てしまったのである。

 脳液が変質し、弾力を帯び、影響が新皮質にまで広がって、緩やかなれども確実に人の範疇から脱しつつある、誰も見たことのない全く新しい生命体の内側を、ほんの僅かたりと雖も真正面から覗いてしまったのである。

 

「ぎぃぃいいいやああああああああああああああぁぁッ!」

 

 硝子細工を落としたように。

 ザンクの自我は、その瞬間に完膚なきまで破壊された。

 

 

 

「で、何なんです、これ」

 

 神経を掻き毟る、不吉な悲鳴を耳にして急ぎ駆けつけたオーガが目にしたものは、何やらばつの悪そうな顔をした上官と、四肢を砕かれ地面に転がる凶悪犯の姿であった。

 

「返してくれ……俺の耳を返してくれよ……罪人どもの悲鳴に戻してくれ……湿った音はいやだ……鼓膜の内側で……滴るんだ……蜜を囁く冒涜の獣! ああ、白痴の蜘蛛よ! 憐れみを、どうか憐れみたまえ! 蛆の集る乳の霧にて、慈悲深く全てを覆い隠したまえ!」

 

 そこから先は、もはや人間の言葉ではなかった。

 無事な手足など、一本たりとて残っていない。悉く粘土細工のように捻り曲げられ、そんな状態であるにも拘らず、筋肉に命じて無理矢理動かそうとした結果、烏賊や蛸の触手めいた不気味な蠕動を繰り返す。

 見ているこっちが痛々しい。生理的嫌悪感を伴う光景に、新人がひとり胃の腑の中身をぶちまけた。

 

「なにやったんです、長官?」

 

 なにをどうすれば人間を、ここまでどうしようもなく壊せるのかと。

 明日の天気を尋ねるような気軽さで、オーガはコジマに問い掛けた。

 

「さあな。余程恐ろしい怪物でも見たんじゃないか」

 

 投げ遣りな返答だった。

 実際、コジマにしてもわけがわからない。自分の顔を見るなり突如発狂した初対面の殺人鬼、幼児の如く四肢を振り乱して暴れる彼を物理的に行動不能にしたはいいが、精神を再起不能に追い込んだのは完全に想定外の沙汰である。

 

(ただ、推測は可能だ)

 

 ザンクの額からもぎ取った帝具を弄ぶ。

 目の形をしたそれを見やれば、能力の方もおおよそ見当がつくだろう。きっと、彼は視てしまったのだ。

 知るべきではない事を。その結果、囚われるべきでない場所に囚われ、しかも未来永劫解放されない。

 此処にある肉の体は残骸だ。体腔の内側にこびりついた残留思念が、辛うじて動かしているに過ぎない。精神の源流は、きっとおそらく夢の中。狂気的な悪夢の渦中で、無限に脳漿を破裂させ続けているのだろう。

 流石に同情を禁じ得ない。

 コジマの視線は自然と西へ、忌まわしくも愛おしい呪いの生地たる「焼け野」の空へと向いていた。

 

 

 

 メインストリートから繋がる広場にて、ザンクの処刑が行われたのはそれから三日の後である。

 朝早くから見物客が大挙して押し寄せ、この刺激的な演目を拝もうとし、露天商が大繁盛だと喜んだ。やがてザンクの体が曳き出され、首が胴から離れると、勢いよく噴き上がる血に誰しもが割れるような快哉を叫んだというからたまらない。

 人の本性が獣であると、如実に示す光景であろう。

 とまれかくまれ、帝都の闇とは、ザンクの如き真っ当な狂人が我が物顔で闊歩するには深すぎる、空前の狂気が裏に潜みし極地へと、どうやら既に変化してしまっていたらしい。

 

 

 



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幕間


おそらく、これが年内最後の投降となります。この先、少々立て込みそうなもので。
再会は一月中旬あたりを予定しております。畏れ入りますが、しばしの間、どうかお待ち下さいませ。




 

 

 

 夢を見る。

 見続ける。

 形容もできず定義の下せぬ無始曠劫の中核で、少女はひとり、血に染まった夢を見る。

 其は封じられた恥の記憶。上位者の怒りに触れ、尽きせぬ呪いに囚われた愚か者どもの断末魔。

 覆い隠された罪の跡にして、いつか暴かれるべき秘密である。

 

 

 

 事の発端は、実に六百年もの昔に遡る。

 

 それは臣具の生まれた時代。野心家で自己顕示欲に満ち溢れた皇帝は、しかしそれゆえに不幸であった。

 偉大なる始皇帝が帝国を建立してから、既に四百年もの時間が流れている。これだけ長々と国体を維持することに成功したなら、ふつう君主の賢愚は国の興亡にさして影響を及ぼさない。発達し、洗練された官僚機構の存在が、最高権力者の手を煩わすまでもなく実務のほとんどを処理してしまうし、逆に君主が能力の表現を求めて新規の事業を興そうとしても―――その内容が暴虐であれ善政であれ―――「さあ、それは」と口を挟み、難癖をつけ、わかったようなわからぬような、とにかく不得要領な訓戒を垂れつつ煙に巻き、遂にはそれを立ち消えさせてしまうからである。

 そして、このひたすら旧習の中に引き籠り、事なかれのなあなあでやって行こうという処世法が、秩序維持には案外都合が良いのである。社会的動物としての人間は、一般に生活環境の急激な変化を望まない。技術の飛躍的な進歩なりを契機に深刻な内憂を抱えた場合や、他国との全面戦争状態にでも陥った、所謂火急の(とき)ならいざ知らず、泰平の世にあっての君主とは、軍事・行政・立法・司法の独裁権を一手に握った覇者でなく、御簾の向こう側に鎮座して、実体も朧にただ影だけを世に投じ、なんとなく尊い存在だと民衆からさりげない敬意を寄せられる者こそ理想的と呼ぶべきだった。

 無能者ならばよい。

 めしを食い、酒に酔い、女を抱くこと以外に何らの興味も示さない者にとってはこれほど適した職種もあるまい。

 が、なまじっか才に恵まれ、世に志を立てんとする者がこういう座に着いてしまうと、誰にとっても不幸であった。

 そういう輩の骨を抜くべく、「女」を駆使した技術も宮中内では発達し、この当時にはほぼ完成の域にある。

 が、時の皇帝はそれを以ってすら篭絡されない、尊貴な血筋の末裔としては極めて珍しい鉄腸の持ち主だったらしい。彼は公務と言えば時々差し出される書類に玉璽(ハンコ)を押す程度のことしかない日々に絶望しかけ、

 

「おれは何のためにいるのだ。こんなことをするために五体満足で産まれ出たのか」

 

 と、毎日のように繰り返し、時たま頭皮を掻き毟り、発狂寸前にまで陥った。

 

「人として、男として産まれたからにはせめて己の生きた爪痕を、深くこの世に遺したい。市井の無頼漢ですら抱く願いが、何故皇帝たるおれに限って許されんのだ」

 

 募るばかりで衰えを知らない憂憤は、やがて一つの思想を生むに至る。

 

 ―――我が帝国には帝具なる、四十八の至高の兵器が存在する。畏れ多くも我らが祖たる始皇帝が、国家の永久的安寧を祈って遺し下されたものである。

 ―――が、だからといってそれに甘えて、縋り続けるばかりでは恥であろう。子は父を超えるものである。あらゆる先人は後進に超えられるを以って快とする。

 ―――安寧の裡でも乱を忘れず、力を蓄え、大いなる発展を成すことこそ始皇帝が未来に懸けた本懐であろう。文化・文明の爛熟期たる今こそが、その大義を叶える時なのだ。

 

 臣具創造事業の根底的思想である。重臣たちは難色を示した。

 

(折角安定している国境線が、またぞろ騒がしくなるではないか)

 

 強力な力を手にしたならば、使いたくなるのが人情である。現に帝具創造後の始皇帝を見よ。たちまち四方へ押し出して、地政学をもまるきり無視し、取らでもな領土を取ったばかりに今日まで残る紛争の火種を撒いたではないか。

 

(超兵器を持たず、純粋に兵理を重んじられていた若き日の彼ならば、決してあのような真似はなさらなかったはずなのだ)

 

 第一、周辺国家が反応しないわけがない。

 帝具に匹敵する超兵器を作成中と聞きつければ、どの国も慌てて軍拡へと乗り出すだろう。敵の戦力向上を、指をくわえてじっと見ている馬鹿はいない。いたら国賊と罵られるのが当たり前の時代である。場合によっては厭戦気分の強い国民どもをして、軍備増強へ賛同せしめる出汁に使われかねなかった。

 

(お止めしたい。したいが)

 

 いかんせん、民意が既に出来上がってしまっている。

 この頃になると、皇帝も小手先の技を覚えたらしい。栄爵に目のない御用学者をひきつけて、民間に自分の思想を鼓吹した。

 長く続いた平和に倦む雰囲気が、そろそろ目立ちつつある時期である。

 景気よく、かつ勇壮な語句によって彩られたこの新説は、民衆からは熱狂を以って迎えられた。

 重臣たちの反応と、見事に正反対といっていい。これに逆らい、あくまでも諌止する姿勢をとれば、君側の奸として罵倒され、血迷った民衆が一揆を起こし、城門前に虚しく首を晒されかねない。

 

(馬鹿げている)

 

 無駄死にもいいところである。沈黙する他なかった。

 この、日頃口やかましい老臣どもの沈黙ほど、皇帝の溜飲を下げたものはない。

 

(それみよ、やったわ。漸くおれの才腕を自由に揮える日が来たぞ)

 

 得意満面で、皇帝は臣具作成に取り掛かった。

 が、そうは言っても、なにもこの男自身が槌を取り上げ鋼を叩き、ふいごを動かし風を送って打ち伸ばし、武具を鍛造したわけでは、むろんない。

 彼の仕事は予算を引き出し、これを適切に分配することで、実行者は別にいた。

 国中から集められた、えりすぐりの職人集団がそれである。

 大半を占めるのが無骨な鍛冶師で、しかし全てではない。生まれてこのかた槌など握ったこともないような、痩せぎすの白衣の男が居れば、解読不能な文字で書かれた御札を全身余すところなく貼り付けた、見るからにあやしげな土着の呪術師まで混じっている。

 噂では、他国で魔女認定された錬金術師まで招いたらしい。

 これらの人間百景を眺めても、皇帝が如何に本気であったか窺える。彼は本気で帝具を超えようとし、その成功を梃子に自らの発言力の拡張を期するという遠大な計画(・・・・・)を秘めていた。

 

 

 

 ……ただ、彼にとって最大の誤算は。

 自分が集めた人材の中に、極めて危うい―――独自の世界観と行動学によってのみ駆動する、とびきりの異端集団が混入していたことだろう。

 その存在は歴史から完全に抹殺され、名すら何処にも残っていない。狂気的な悪夢の世界に無限に滴る血の中に、唯一遺るのみである。

 客気に富んだこの皇帝の耳元で、きっと彼らはまことしやかに説いたろう。

 

 ―――おそれながら、陛下。

 

「この世界に存在する鉱石や危険種を幾ら素材に使ったところで、出来上がるものは所詮帝具の二番煎じに過ぎませぬ。この四百年間に、新たな鉱石や超級危険種が発見されたという噂も聞かぬ以上、これは必定の話かと」

「貴様、泣き言を垂れおるか」

 

 冠の下、こめかみの血管が怒張した。

 

「いえいえ、滅相もない。我々はただ、発想を四次元的にする必要があると申し述べたいだけでございます」

「よじげん、とな?」

「左様で。なに、簡単なことでございますよ。この世界にあるもので足らぬなら、」

 

 と、そこで一旦言葉を切って、

 

世界の外から来たモノ(・・・・・・・・・・)を使えばよろしい。きっと誰も見たことのない、超次元兵装が生まれます。それでこそ陛下の御名を、千歳の後まで伝える事が叶いましょう」

 

 不気味な笑みと共に囁かれたその言葉は、この上ないほどこの権力者の柔い部分を衝いていて。

 その精神を電磁的に感応せしめるには充分だった。

 

「ふうむ、世界の外から、か。なるほどもっともらしく聞こえるが、現実的に当てはあるのか? 空理空論では話にならぬぞ」

「ございます。陛下はアーレルスマイヤー家をご存知で?」

「知らいでか。我が皇統成立に最初期より大なる貢献を果たし続けた、譜代も譜代の重臣だ」

「では、彼の者どもの領内に、十五年前天蓋を突き破って飛来した星の話も?」

「ああ、そんな事件もあったな。確か、何処ぞの農園に落ちたのだったか。お陰で幸いにも死者も出ず、隕石自体何の変哲もない鉄隕石で、農具に利用したと申しておったが」

「ああ、陛下、陛下、おいたわしや」

 

 大仰な身振りで嘆いてみせて、そこから先に語った内容が尋常ではない。

 

「陛下は欺かれております」

 

 と言うのである。

 

「何の変哲もない、などと一体どの口が申すのでしょう。あの隕石の落下痕を一度でも目にした者ならば、絶対にそんな発言は出てきません。凄まじいものですよ、有機無機物のべつなく、あらゆるものが命を吸われ、灰色の塵しか残っていない光景は。十五年もの月日が経過したにも拘らず、未だに周囲の植生は奇怪にねじれ、新たに芽吹く命もなく、どんなに小さな虫けらとてもあの場所へだけは絶対に近付こうと致しません。土地では『焼け野』と呼ばれていますが、まったくそれ以外に名付けようのない、異界の景色が広がっております」

「なんだと? おれは知らんぞ、そんな話。アーレルスマイヤーはおろか、臣下の誰からも、間諜の報告にさえ載っていない」

「情報統制です、陛下。アーレルスマイヤーは持てる力の全てを使い、あの場所が外部に漏れないよう計らっているのです。陛下の耳(スパイ)には金を握らせ、実情とはまるで違った報告をさせ。それ以外にあの場に近付く者あらば、勝手に設けた関で阻んで追い返し。もしも万一、その眼を潜って奥地に侵入したならば、何も知らぬ旅人の好奇心ゆえの行為だろうと決して許さず、処刑して。闇から闇へと葬って。実のところ、この情報を得るまでにも私の仲間が何人か、彼らによって斬られました」

「馬鹿な!」

 

 たまりかねて叫び上げた。もし事実だとすれば、既に割拠であり、叛逆ではないか。

 

「あのアーレルスマイヤーが、信じられん。何故だ、何故そうまでしてたかが隕石の落下痕を隠蔽する?」

「勿論、ただの隕石ではないからですよ、陛下」

「では、なんだと」

「力です、陛下。あれは星海からの贈り物。この世の外に無限に広がる、光も腐る高次元暗黒よりの使者。それ自体が大いなる神秘の結晶であり、超越的思索へ至る道。その利用方法を、アーレルスマイヤーの連中も見出したに違いありません」

「まさか、独占しようとしているとでも」

「流石はお聡い、その通りにございます。陛下、どうか帥を起こし下さいませ。急ぎアーレルスマイヤーを討ち、我らをあれに、あの宇宙からの色彩に見えさせて下さいませ。さすれば我らはそれを以って、如何なる帝具だろうとも足元にさえ及ばない、超越の力を御前に披露してみせまする。陛下、どうか、どうか我らを、あの『焼け野』に―――……」

 

 

 帝都からの軍勢が、一切の予告無きままに、突如大挙してアーレルスマイヤー領に押し寄せたのはそれから暫くのことである。

 あちこちで火の手が上がり、軍勢同士が衝突し、一帯は手の施しようもない混乱に陥った。

 その騒ぎに乗じて、明らかに軍隊と装束を異にする一団が「焼け野」に侵入。もう誰も使う者のいない、質量的な暗闇に満たされた井戸の底へと身を投じ、やがて再び地上に這い出た時には数が半数に減っていた。

 が、それでも彼らは笑顔であった。

 畢生の大作を仕上げた芸術家のような。

 最前線にて敵国が降伏したと知らされた兵士のような。

 大願を成就させた者のみが浮かべ得る、あのはじけるような笑顔そのもので。

 ついにやった、手に入れたぞと、狂いきった笑声を響かせながら、混沌の坩堝より離脱した。

 

 

 

 ……これこそが、帝国の犯した最大最悪の愚行の端緒。

 好奇の狂熱に衝き動かされた空前絶後の冒涜者達は、その夜、「焼け野」の底にて何かに見え、如何なる手段に依ったものか、本来物理的接触が不可能な筈のそれに干渉し、何処かへと連れ去った。

 きっと、口に出すのも憚られる―――出そうものなら途端に舌が腐りかねない―――陵辱を加えた結果だろう。でなくば、その後の「焼け野」があれほどの呪いを孕むわけがない。

 ただでさえ忌み地扱いされていた場所が、完全にこの世の法則から脱け堕ちた、どうしようもない極地へと変貌したのである。推して知るべし、というものだ。

 一朝明けて事態の全貌が把握出来るようになると、時のアーレルスマイヤー家当主は己の努力が無為に帰したと完膚なきまでに理解して、

 

 ―――なにもかも手遅れか。

 

 と、暗澹たる気持ちで灰の空を見上げている。

 

 

 

 

 

 …。

 ……。

 ………。

 

 

 ああ、あなた、泣いているの?

 

 

 ………。

 ……。

 …。

 

 

 

 

 

 夢を見る。

 見続ける。

 すべてに繋がり何処へも通じぬ、矛盾が矛盾のまま矛盾なく成立する人智の及ばぬ超次元を揺り籠に、桜花の少女は夢を見る。

 其は耽溺する血髄の子守唄。拝領した聖血は羊水にも似て、常軌を逸した親和性が同調を超えた合一を叶え、ここに声なき声の噎びを聴く。

 目覚めの時は、近かった。

 

 

 



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07


お久し振りでございます。
またゆるゆると更新して参りますので、どうかお付き合い下さいませ。





 

 

 

 水と油。

 犬猿の仲。

 氷炭相容れず。

 不倶戴天。

 理解も融和も有り得ない、反撥が宿命付けられた関係性を表す言葉は山とある。

 しかしながらこの時代、この帝国にあって多少なりとも耳の使い方を知る者ならば、そのいずれにも先がけて、

 

 ―――コジマとエスデス。

 

 の一句を持ち出すことだろう。

 泥沼の南方戦線で初めて対面して以来、この二人が顔を合わせて和やかな雰囲気が醸し出された(ためし)がない。向かい合えばたちどころに双方巨大な火の玉と化し、視線は赤熱化した鏃の如しで、衝突に伴い飛び散る鉄粉に慄いた鳥が飛び去り猫は逃げ、その凄惨の状、真に人の肝を奪うものがある。

 

「長官があそこまで感情を剥き出しにする相手を、他に知らない」

 

 不幸にもその場に居合わせてしまい、プレッシャーに耐え切れず、重度の胃潰瘍を発症させて病院に担ぎ込まれた警備隊員がベッドの上から医師に洩らした台詞である。

 苦悶に喘ぎつつも、彼の顔にはどこか爽やかな興奮があった。

 事実、そうであったろう。コジマ・アーレルスマイヤーとは本来、その魂胆を隠すことに長けた人間だ。これは女と言ういきものの普遍的素養であろうが―――なべて皆、生まれついての役者である―――、彼女は特にその傾向が強い。腹の底の感情と表情筋の運動とを切り離す技能をよく修めており、一見しただけでその真意を悟れる者は皆無とされた。

 ところがことエスデス将軍相手となると、コジマは途端に童子に戻ってしまうらしい。

 些細な挑発にも本気になって喰いかかり、施策・信条を一々批難し、その烈しさときたら文弱の徒相手ならそれだけでもう千々に砕けんばかりであり、皮膚の薄い頬には朱が差して、軋みを上げる白い歯と歯の間から、

 

 ―――この、原始時代の英雄め。

 

 という悪罵を投げ付けるのである。コジマのエスデス観は、まったくこの一語に集約されていた。

 ……いや、これは本当に罵倒なのだろうか? 字面だけを追ってみると、貶しているのか褒めているのか一寸わからなくなる台詞である。

 この奇妙さはコジマのみに限った話ではない。対するエスデスから観たコジマ評を述べるなら、

 

 ―――蟻の機嫌を窺う獅子が。

 

 であり、

 

「グロテスクなことこの上ない。あいつだけは許容できん。いずれ必ず、私自らの手で矯正してくれよう」

 

 と、度々側近たる三人の帝具使い―――通称、「三獣士」相手に語っていた。

 こちらも讃えているのか扱き下ろしているのか、咄嗟の判断に迷う言い草であろう。

 いや、それ以前に、三獣士がこぞって違和感を覚えたのが、

 

(……矯正?)

 

 その部分である。

 

(跪かせるでも調教してやるでも、ましてや息の根を止めるでもなく、矯正とな―――?)

 

 きょうせい(・・・・・)とは即ち欠点を直すことであり、誤った何がしかを正常な状態に回帰させて正す行為に他ならない。

 嗜虐心の塊めいた(あるじ)の唇が紡ぐには、あまりに穏当な単語であった。

 しかもエスデス自身、その不自然さに毫も気付いた素振りがないのである。思わず顔を上げた部下の様子にきょとんと目を丸くして、

 

「? どうしたお前達、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」

 

 と逆に問うたことからも、それは間違いないだろう。

 

 

 

 コジマもエスデスも、双方互いに相手のことを世に蔓延る有象無象と懸絶された、ある種特別な存在として自身の裡に置いていたのは紛れもない。

 それだけにこの二人の遭遇は危険であり、控え目に言っても火薬庫に松明を投げ込む行為に等しく、北で騒乱が巻き起こり、その平定にエスデスが派遣された際には関係者一同こぞって胸を撫で下ろしたものである。ああ、これで火種が燃料から離れてくれた、と。

 

 そのエスデスが、戻った。

 

 北方異民族四十万を生き埋めにし、勇猛で鳴ったヌマ・セイカ王子を犬の如く辱めてから蹴り殺すという、赫々たる大戦果を引っ提げて、である。

 

(これは、大変なことになる)

 

 普段は壁の絵相手によりかかって管を巻く、スラム街の飲んだくれですらそう予感して、緊張に背筋を寒くした。

 

「……頭が痛い」

 

 が、彼女ら二人と敵対し、殺し殺されの無惨劇を演ぜねばならないナイトレイドにしてみれば、受けた衝撃はそんな程度では済まされない。

 ダークスーツのよく似合う隻眼隻手の首領格、ナジェンダなどは諜報員からの報告書を一読するなり呻きを上げつつ椅子の背もたれに倒れ込み、暫く起き上がることが出来なかったほどである。

 

「単にエスデスという脅威が増えただけじゃない。これでコジマにも火が着くぞ(・・・・・)

 

 かつては将軍の一人として名を連ね、次代を担う俊英として期待されたナジェンダである。彼女がコジマ、エスデス両人の性質に通暁しているのは至って道理であったろう。

 

「警察長官、か。あのいかれた少佐が、今や帝都治安維持の立役者とはな」

 

 ナイトレイドという、この革命軍お抱えの暗殺集団にとって、帝都警備隊とは地味に厄介な目の上のたんこぶであり続けた。

 ヒラ隊士にナイトレイドのメンバーを直接逮捕する能力が無いことは、就任以前より百も承知。ならばとばかりにコジマ・アーレルスマイヤーは、焦点をズラしてみせたのである。

 具体的には、ナイトレイドと民衆との分断工作を開始した。

 風説によると、コジマのデスクには黒い背表紙の「リスト」なるものがあるらしい。

 ナイトレイドに暗殺依頼を出しそうな市民の名を、その危険度ごとに分類した、極めてろくでもない目録(リスト)である。

 これに則り密偵を放つなり、あの手この手で無言の圧力を掛けるなりと、コジマは実にいやらしい手を打ってきた。

 単純だが、やられる側にしてみればたまったものではないだろう。危うく依頼人を敵方の工作員と誤認しかけた事例まである。一歩間違えれば大惨事になっていた。切歯扼腕したくなるほどの悪辣さだといっていい。

 

(我々の帝都に於ける活動が、あいつ一人のためにどれほど抑制されたことか)

 

 更に苦々しいのは、この問題の「リスト」とやらが、どうも帝都市民の密告に基いて作成されているらしいことである。

 これが意味するところは重大だった。

 

(人々は革命軍(わたしたち)による解放よりも、コジマの下での相互監視社会を望むのか)

 

 そう突きつけられたも同然だろう。危うく虚脱状態に陥りかけたというのだから、当時ナジェンダが如何に愕然としたかが窺える。

 この衝撃をそっくりそのまま共有したのが、遥か辺境の地で着々と蜂起の準備を進める革命軍本隊だった。

 

「なんたることだ」

 

 彼らにとって、帝国に英雄が生まれることほど厄介な事態はないであろう。

 民衆が救いを求めて伸ばした掌。その先にある対象はあくまで自分達に限定されるべきであり、そうでなければ革命なぞ、到底成算が見込めるものではない。にも拘らず、現実はどうか。コジマに対する信望はいよいよ高まる一方で、先だっての猟奇的連続殺人鬼―――世に言うところの「首切りザンク」―――の電撃的逮捕により、もはや磐石の重きに置かれてしまった。

 

 ―――この人ならば。

 

 という期待が、彼女を仰ぎ見る誰の目にも宿っていた。

 誰よりも、コジマ自身が一番そう思っているに違いない。

 

 ―――今しばらく私が生きていなければ、この国はどうにもならんよ。

 

 そう言ってせせら笑う狂人の横顔が脳裏をよぎり、ナジェンダはつい咥えた煙草を噛み潰した。

 

「……くそっ」

 

 甘ったるいタールの味も、蠱惑的に揺れる紫煙の姿も、今のナジェンダの心を癒すには足りなかった。

 忌々しいほどの傲岸さ。何時如何なる場合でも絶対的に自分は正しいと臆面もなく言い放ってのけるコジマの態度は自惚れと驕慢の極みであり、しかしだからこそ背骨に確たる芯を持たない浮草のような民衆の心をどうしようもなく引き寄せる。

 この点、ナイトレイドは不利であった。

 闇の住人である彼らにとって自らの正当性を堂々主張できる場などあるはずもなく、よしんば奇跡が折り重なって眼前に出現したとしても―――その、なんというべきか、ナジェンダの仲間達はこぞって人間が出来ている(・・・・・・・・)

 彼らは皆、知っているのだ。如何なる大義やお題目を唱えようとも、所詮人殺しは人殺し。其処に正義などある筈もなく、また宿ってはならないと。

 罪を罪と弁え、いつか業の炎に焼かれることを承知して、それでも行動に踏み切った彼らの覚悟は掛け値なしに素晴らしい。そう、人間性という観点から述べるのならば全く非の打ち所がないのである。

 

(だが、それゆえに)

 

 彼らは理解を求めない。

 受け容れられてはならんのだ、とまで自戒しているふし(・・)がある。目の前に現れた舞台を見ても、自ら登壇を拒絶するに違いなかった。

 実際、それに近しい事例が少し前に起きている。

 タツミという新入りを迎え入れた時のことだ。組織の概要をざっと説明すると、いまだ少年のあどけなさを色濃く残したこの新人は目を輝かせ、

 

「スゲェ―――いわゆる正義の殺し屋ってやつじゃねえか!」

 

 拳を握り、感激も露に賛美の声を上げたのである。

 これに対するナイトレイドの反応は、爆笑だった。

 一笑に付したといっていい。そのあと、

 

「―――タツミ。どんなお題目をつけようが、やってることは殺しなんだよ」

「そこに正義なんてある訳ないですよ」

「ここにいる全員……いつ報いを受けて死んでもおかしくないんだぜ」

 

 と口々に、容赦のない現実認識を叩き込みにかかった。

 

(コジマなら、ああはすまい)

 

 理屈の製造にかけては天才的な彼女なら、さだめし鷹揚に頷いて、

 

「如何にも私は正義である。役に立たない神仏に代わりて、善因善果、悪因悪果の輪を正しく廻らせてやっているのだ」

 

 と堂々主張するだろう。

 現にしている。

 あの女が世界に強いた出血の夥しさときたら、表に出ている数字だけでもナイトレイド全員分の殺害数を総合してもなお追っ着かず、真に膨大と言う他ない。

 にも拘らず、彼女が警備隊内で施している思想教育ときたらどうであろう。

 

 ―――腐敗した局部は父母の身体の一部でも切断せねばならん。

 

 と、のっけから矯激な語句で始まり、

 

 ―――外科治療のメスを(ふる)うのを見て、この医者は親の仇だと言う者が居たら馬鹿でなければ気狂いだ。

 

 以下、徹頭徹尾自分達の正当性を前面に押し出しつつ、公人として戎衣を身に纏った以上、その判断は湿っぽい情緒などではなく乾ききった理性によって下されねばならぬと説き、護民官としての誇りと心構えを強烈に植えつける内容が続く。

 その効能たるや覿面で、警備隊の内情を探るべく派遣した間諜(スパイ)が真実あちらに転向してしまうという、三文芝居さながらの事態を本当に惹き起こしたほどである。

 とどのつまり、人間が好悪を判断する基準は道義上の善悪などでは全然ないのだ。

 ただ、さわやかであるか否か。どうも鍵となるのはそれらしい。

 而して口惜しいかな、コジマにもエスデスにもそれがあった。

 退かぬ、媚びぬ、顧みぬ。傲慢という概念に手足をくっつけたような両人であるが、それもあそこまで徹底されるとなにやら薫風が吹き抜けるような爽快感を伴いだす。

 虐殺だの粛清だのと、極めて邪悪な行為に手を染め尽くしているくせに、息を呑むような華々しさを帯びるのだ。

 対照的に、自罰的なナイトレイドはどうしてもある種の暗さを拭いきれない。

 

(しかし、だからといって)

 

 今更ナジェンダにコジマの模倣をやれなどと、到底無理な相談である。

 彼女の論を受け容れられなかったからこそ、ナジェンダは将軍の地位を捨て、今、この椅子に座っているのだ。

 

 

 

「いずれ立ち塞がるとは思っていたが。まさかここまでの大禍に膨れ上がるとは、夢にも思わなかったぞ、少佐……!」

 

 見通しの甘さを悔いても遅い。

 コジマの狂熱によって練成され直した帝都警備隊はもう、やられ役と揶揄され続けた嘗ての案山子集団では断じてない。

 そんな面影は何処にもないのだ。隊員達を駆動せしめる燃料は、

 

 ―――いずれ、長官が天下をお獲りになる。

 

 という、信仰にも似たその一念。

 コジマがこの国の実質的な主となれば、当然彼女に付き従った自分たちにも相応の報酬が下されるであろう。

 働き次第によっては、立志伝中の英傑にしか為し得ぬような、神懸り的な栄達の道が拓かれるやもしれぬのだ。命を賭すには充分過ぎた。

 

「やってやろうぜ。ここでタマぁ張らずして、いつ張れって言うんでえ」

「ああ、歴史に名を刻む好機なんだ。竦んだりしていられるものか、遅れをとってたまるかよ」

 

 若気の至り、愚かなる英雄願望と呼ぶなかれ。これに興奮しないようでは、もはやそいつは男ではない。

 男として生まれたのなら人間は、例えお山の餓鬼大将にせよいっぺんは、大将として君臨したがるものなのだ。

 が、苦労は人の志を縮小させる。

 他者と交わり、世間に()でて、厳しい風浪に何度か揉まれてしまえばもう、極めて可燃性の高かった嘗ての血潮は失われている。何の面白味もない一家庭人が出来上がる。

 特に現下の帝国に吹き荒れている風ときたらどうであろう、夢見がちな青年の肝さえものの五秒で拉いでしまう前古未曾有の凶風ではないか。

 その影響を抜き、部下どもをして健康的な欲望の発露を取り戻させるため、長官就任からこっち、コジマは随分と長いあいだ骨を折らされたものである。

 

(しかし、まあ、そうするだけの価値はあった)

 

 前途に光輝溢るる栄華を見せて、そうした上で退路を塞ぐ(・・・・・・・・・・・)

 

「敢闘するも、力及ばず取り逃がした、ならばよい」

 

 敵前逃亡をやらかした敗北主義者を吊るし上げつつ、昔日のコジマは語ったそうだ。己が非力さを自覚させられ、いっそ消滅したいほどの口惜しさに苛まれている部下に対し、更なる叱責の鞭を当てるほど、自分は愚劣な女にあらず。

 

「だが、臆病風に吹かれ、果たすべき義務を忘れて遁走する、そんな恥知らずに対しては―――」

 

 こうである、と。

 コジマは時に、地獄の鬼すら蒼褪めさせる惨刑を以って報いてみせた。

 その光景が今も尚、隊員達の網膜に―――それこそ、焼き鏝を押し当てられたほどの鮮やかさで―――刻印されてしまっている。

 彼らにとっての恐怖の極致、それ即ち、コジマなのだ。であればこそ、生半可な脅威ではびくとも揺るがぬ恐るべき戦闘集団が出来上がった。

 退がれば確実に長官の手で屠られる。活路は前方にしかない。ならばいっそ、一心不乱に突入し、遮二無二突破を図った方がまだしも生き残れる率は高い。そして上手く生き残れたなら、あの上官は必ずや、リスクに見合うだけのリターンを与えてくれるに違いないのだ。

 それに最悪、死んだとしても、前のめりに斃れた者の遺族には年金が出る。平均的な生活水準の一家が、生涯食っていけるだけの金額が、だ。この予算を確保するために、コジマはなんと自腹を切った。

 ただでさえ政治活動上の必要性から実家の財を磨り潰す勢いで傾けていたところに、これである。若隠居した両親に冷や飯を喰わせてもまだおっつかず、不足分をどうにか捻出するために、先祖伝来の什器も具足も片っ端から売り払わせたというのだから物凄い。

 この蕩尽ぶりに流石の父もどうやら閉口したらしく、

 

「近頃、屋敷の風通しが随分よくなってしまいました」

 

 と、迂遠で曖昧でねちっこい、如何にもアーレルスマイヤーの人間らしい抗議の手紙を作成し、娘宛に送りつけている。むろん、コジマは黙殺した。

 

 ―――だから諸君、安心して死にたまえよ。

 

 すべてはその一言を暗黙裡に告げるため。敢えて裏を返すなら、ここまでお膳立ててやらねば人間は敢然と死に就いたりしないとコジマは見切っていたことになる。このあたり、性悪説を掲げる彼女の人間不信的傾向が窺えて興味深い。

 本来、国庫ではなく私人の財布を財源に年金を支給するなど、公的機関の私物化もいいところであったろう。

 が、この時代、公私を分かつ境界線は多分に曖昧で整備不十分な代物だった。

 その峻別の必要性を最も熱烈に叫んでいるのが当のコジマときているのだから、誰に止められるものでもない。斯くして事業は実現された。

 果たして兵卒は奮い立った。皆悉く死兵になった。

 すべては飴と鞭、欲と恐怖の匙加減。幾度となく触れたことだが、このあたりの調節がコジマは抜群に上手かった。

 

(帝国広しと雖も、あそこまで完璧に部下を統制してのけたのはコジマとエスデスだけだろうな)

 

 そこはナジェンダとて、不承不承ながらも認めざるを得ないところであった。

 もしこの両名の仲が円満で、帝国を護るという一ツ目的の下、一衣帯水でやっていこうと握手するほどであったなら、国民はどれほど安らげるかわからない。如何に凶悪な侵略者、如何に破廉恥な売国奴が現れようと、帝国の安寧は決して妨げられはしないだろう。

 が、現実の二人が交わす握手とは、万力のような力を籠めて相手の手を握り潰す以外のどんな目的も孕んでいない行為である。

 

(ありがたい。光明も、付け入るべき隙もそこにある)

 

 そこまで考えて、ふっとナジェンダは自嘲した。

 

「民にとっての不安要素を喜ぶか。やれやれ、我ながらいやな大人になったものだ」

 

 しかし、それでも。

 この身をどれほど穢し尽くすことになろうとも、成し遂げなければならぬ使命が彼女にはある。

 苦難は必至。敵の強大さとて、身に染みて嫌というほど理解した。奪われた腕と右目とが、今も生々しく疼くのだ。目の前で為す術もなく死んで逝った仲間達、彼らの痛みを代弁しているかのように。

 ああまでやられてしまった以上、ここまでやってしまった以上、今更退けないのはナジェンダとて同様なのだ。戻り道がとうにないのは、なにも警備隊だけの特質ではない。

 

(考えろ)

 

 事を全うしきるために、これから先の展開を。弾き出された未来図がどんなに不愉快な色彩だろうと、直視しなければいずれもっと不愉快な現実に叩き込まれる。

 

(……大臣がエスデスを帰還させた意図は明白。嫌がらせ程度の対策しか取れていない我々を、本格的に討ち取るためだ)

 

 となれば、それに呼応してコジマも動く。

 損耗を厭い、部下をして遠くから飛礫を投げさせているような時期は去った。これから先は、彼女も本腰を入れてナイトレイドを殺りに来る。指揮官自ら前線に立つ機会も増えるだろう。あいつ(エスデス)に獲物を掻っ攫われて、大きな顔をされるなんて許せないという、極めて小児的な動機によって!

 

「ふざけるなよ、破綻しきった外道どもめが……!」

 

 狩猟祭のトロフィー扱いされるナイトレイドこそいい面の皮であったろう。虚仮にするのもいい加減にしろと叫びたい。が、ことエスデス絡みとなると、コジマは正気でこのような思考を展開させた。

 

「今や帝都は我々にとって死地に等しい。くそ、どこかに圧力緩和の道はないのか―――コジマとエスデス、せめてどちらか一人だけでも排除出来れば―――上手くあいつらを喰らい合わせ、諸共に消し去る方法は―――」

 

 暫くぶつぶつと呟き続け、やがて何かに気付いたようにハッとした表情になると、ナジェンダは苦笑を浮かべ、首を左右に動かした。

 

「……駄目だな、どうも」

 

 堂々巡りになっている。

 気負うがあまり意気が却って空転し、思考の迷路に迷い込み、ふと気が付けば同じ所を延々回り続けている自分の姿を発見したのだ。

 

「何もかもを自分一人で抱え込もうとするのは悪癖だ。張り詰めすぎた風船は、いずれ破裂してしまう」

 

 ナイトレイドの行く末を左右しかねない、こんな大事な判断を自分一個の頭脳で処しきろうというのがそもそも間違っていたのである。

 

「仲間を頼るのは恥ではない。そうだ、まず何よりも先がけて、あいつらと情報共有を図っておくべきだった」

 

 そうすれば思いもよらない別角度からの意見も聞けて、刺激ともなり、思わぬ妙案が浮かんだりするものである。

 一度決断したなら行動は早い。背中と癒着しかけていたのが嘘のような軽やかさでナジェンダは椅子から身を起こし、コートをひっかけ、仲間達を呼び集めるべく部屋を後にするのであった。

 

 

 

 

 

 一方、帝都のコジマである。

 

「………」

 

 エスデスが戻った。

 と同時に、所謂良識派に属する文官達が相次ぎ横死。

 そして初日以降、目撃情報が絶えてない三獣士とくれば、これらの符号が意味するものはただ一つ。

 

(やってくれるじゃあないか、好き勝手絶頂に、盛大に)

 

 相手が相手なだけに、言葉尻がつい乱暴になるのをどうしようもない。

 本当はそこまで腹が立ってはいないのだ。死んだのはコジマの派閥に属さない、彼女から「手を結ぶ価値なし」と看做された連中だし、それに何より三獣士どもは少なくとも、帝都の壁の内側で事を起こしてはいない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)からである。

 被害に遭った文官はみな、何らかの事情で帝都を一時的に離れたか、若しくは元より退隠等の理由で壁の外に居住していた手合いである。彼らが何人死んだところで、コジマにとっては管轄外の沙汰であり、責任を問われる懼れもない。政治的な打撃についても考慮するに足らぬだろう。

 

(むしろ彼らが消えて空になったその席に、どうこちらの人員を送り込むかを考えるべきか)

 

 無能がいなくなったこと、それ自体は喜ばしいが、代わりにやって来たのがオネストにへつらう事しか知らない寄生虫ではどうにもならない。この椅子取りゲームには何としてでも勝利しなくてはならなかった。

 そう、無能。

 連続文官横死事件の詳細な報告を集めるにつれて、コジマのその認識はいよいよ揺るがぬものへと進んでいった。

 最初の一人目が死に、現場にナイトレイドの犯行声明を記したビラがばら撒かれていた時点で、本当の下手人が誰かなど容易に察知出来るだろう。

 

(エスデスの帰還から間を置かずして、コレなんだぞ。明らかに不自然だろう。夜走獣並に慎重なナイトレイドが、態々こんな挑発めいた真似などするものか)

 

 コジマは彼らを暗殺者として、変な言い方だが信頼していた。自己の存在を衒わず、楽しみを交えず、従って無用に苦しめる真似もせず、一切の目撃者を残さずに、淡々と目標を消してゆく。紛れもなく、プロであると。

 

(連中とてエスデスの帰還を気にはしているのだろう。が、そのとき取るべき対応は、奴の出方を窺うことで積極的に足元を荒らしまわることではない)

 

 暫くは「見」に徹し、その活動はなりを潜めるのではあるまいか、とコジマは密かに推察していた。

 これだけでもコジマの知るナイトレイド像と大きく食い違う上に、加えて姿を消した三獣士である。何をかいわんや、というものであろう。

 だから最初の一人が死んだ時点で、身に覚えのある―――大臣に目障りと思われて、かつブドーにもコジマにも保護されていない文官―――連中は、大人しく家にでも閉じ篭ってひたすら身体を小さくし、この殺戮の波が過ぎ去るのをじっと待っておくべきなのだ。

 にも拘らず、現実の彼らときたらどうか。窮乏する村落への支援だかなんだか知らないが、何かと理由をつけては自らコジマの支配領域から離れて行く、まるで逆の対応である。

 

(理解できんよ)

 

 この時期に敢えてそんな真似をするとは、よほど危機意識が鈍いか、分析能力に欠けるか、さもなくば自殺願望に駆られたとしか思えない。

 

(そもそも、なんで政治家が自らそんな真似をする必要がある?)

 

 備蓄米の放出・及び分配などは、代官でも派遣すればそれで済む仕事だろう。態々危険を冒して指揮官陣頭を気取る意味がコジマにはさっぱりわからなかった。

 

(その程度の仕事もろくに任せられないほど、手持ちの人的資源に窮乏しているのか? 常に監視しておかなければ逆に略奪でも働きかねんと? いやいやまさか、そんな阿呆な話はないだろう)

 

 結局、導き出される結論は唯一つ。彼らが極めつけの無能であり、政治家としての力の使い方も、努力の場も、まるで理解できていない馬鹿だったということである。

 そんな連中に対して懸けてやるべき情けはないし、死んだところで困らない。第一、コジマは現在忙しいのである。それはもう、同情なんて余興に耽っている暇などこれっぽっちもないほどに。

 

 

 

「ふむ、やはり齟齬は起きるか」

 

「首切りザンク」の電撃的逮捕と、帝具スペクテッドを無傷のまま奪還した功を出汁に、コジマは警察長官としての権限を更に拡張。警備隊員の中でも特に精強かつ忠勇な者を選び抜き、独自の装備、独自の徽章、独自の旗を付与せしめ、兼ねてよりの念願だった特別治安作戦部隊の結成を遂に成就させていた。

 後に革命軍をして、

 

 ―――一人残らず八つ裂きにして、その肉を(くら)ってやってもまだ足りぬ。

 

 とまで叫ばせるほど憎まれぬいた殺戮機関、「聖歌隊」の誕生である。

 オネストが傍目から見ても性急にエスデスを北から呼び返したのも、この一件が絡んでいるのは間違いなかろう。昇り竜の勢を示すコジマに対する牽制の意も含んでいた。

 が、彼の心配は杞憂であったと、程無く誰もがそう判断した。少なくとも発足当初のこの段階に於ける「聖歌隊」とはまだまだ常識の枠に収まる存在で、ここから後年の彼らの姿を予知し得た者は完全皆無であったろう。

 純粋な戦力分析を試みるに、彼らの技量は近衛の中堅と同等か、若しくはやや下回る程度の水準止まりだ。聖血の拝領に相応しい素体とは、口が裂けても言えなかった。

 

(が、ないものねだりをしても仕方ない)

 

 結局、いつも通りの漸進主義でやる以外にないのである。

 

(時間が要るな)

 

 彼らをして意志と器を鍛え上げ、そう易々と血に呑まれないだけの土台を築き上げる時間が、だ。

 それまでに生じる不便・不利益に対応し、折角作り上げた聖歌隊を解散させぬように取り計らってやることが、差し当たってコジマが対応すべき仕事であった。

 

「……優秀な連中を引き抜いたのだ。むろん、現場の混乱は予期していたし、可能な限り手を打ってはおいたのだが」

 

 やはり、破れ目は出てくるものである。

 最近新たに雇用した、とある優秀な秘書官が纏めてくれた資料には、各地区の隊長からの新たに噴出した問題点の報告と、「せめて奴だけでも返してくれないか」という泣き言めいた懇請がつらつら列挙されていた。

 それらに一々眼を通し、別途用意させた各種データとも照らし合わせて、それが本当に抜き差しならない困難なのか、それともちょっと尻を蹴り上げて激励すれば片付く程度の些事なのかを判別し、解決法の策定までやってしまわねばならない。言うまでもなく激務であり、いつ寝ているのかを疑われるのも納得な念の入りようだったろう。

 三獣士の動向に気を配る余裕がないのも道理である。

 

(私の管轄内で事を起こそうものなら、地獄の果てまで追い詰める。そうでなければ、まあ暫くは放置する。とりあえずはそれでいいだろう)

 

 もしこのとき、規則正しいノックの音が執務室のドアからしなければ、コジマはこの一件を放置して流れに任せていたに違いない。

 

(ああ、秘書官(かのじょ)か)

 

 が、そうはならなかった。書類から顔を上げ、入れ、と短く呼び掛ける。

 

「はい。政務秘書官、サヨ、入室致します」

 

 コジマ、エスデス、三獣士、そしてナイトレイド。

 彼らの運命を思いもよらぬ方向へと叩き込む一枚の書簡を携えて現れたのは、こともあろうに桜花の少女。

 血の医療を施されて以来、ずっと続いていた昏睡から、ついに目醒めたサヨだった。

 

 

 

 



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08

 

 

 

「どこまで消えた?」

 

 サヨが目覚めた。

 その報告を受けるなり、椅子を蹴飛ばし飛ぶように駆けてやって来たコジマが最初に放った台詞である。誰の、何が消えたのか。一連の主語を欠いている点を筆頭に、彼女の焦慮が透けて見えるといっていい。

 裏を返せば、それだけコジマがサヨを重要視している証左だろう。

 

「いきなりそう言われても、ねえ」

 

 なんにせよ、滅多に見られる光景ではない。

 更に揺さぶりをかけるべく、スタイリッシュは空っとぼけを装った。

 

「………」

 

 が、これは逆効果に終わった。

 謀略に対しては明敏な嗅覚を持つコジマである。スタイリッシュの反応から反射的に自己を客観視した結果、冷静になる必要性を悟ったのである。

 

 ―――とぼけるな、サヨだ、あの娘の記憶の話だ。

 

 と言いかけていた口を噤み、顎を引いて瞳を落ち着け、じっとスタイリッシュの眼窩目掛けて視線を注ぐ。

 これが効いた。

 

「んもう、可愛げのない人ねえ」

 

 両手を挙げ、如何にも降参とばかりにスタイリッシュが音を上げた。

 

「隙がないったらありゃしない。強いってのはそれだけで価値のあることでしょうけど、たまには弱みも見せないと、寄り付くオトコも居なくなるわよ」

「無用な心配だよ、ドクター。国家と結婚する覚悟はとうの昔に出来ている」

「あら、国が添い臥してくれるのかしら。空閨は寂しいわよぉ、若気の至りで強情張って、晩年床の寒さに泣いた志士が過去に何人居たと思う?」

「兆歩譲って未来の私が人肌恋しさに襲われたとしても、問題はない。何の為に娼館なる施設があると思っている。カネの巡りを潤滑ならしめ、世を益する為にも、憐れな目をした(おんな)どもに黄金(こがね)の雨を降らせてやるさ」

「ナチュラルに同性相手を口にしたわね」

「君の言えた義理ではなかろう」

「んん、ちょっと誤解があるようね。アタシは性に偏見がないだけよぉ、男だろうと女だろうと、いっそ異種であろうとも、スタイリッシュで美しければなんでも貪る。自分の情欲に嘘を吐いたりしないの。世俗の良識だの何だので自分を縛っているようじゃ、千年経っても飛躍的発想なんて降りて来ないもの」

「だから言った、君の言えた義理ではないと」

「あら、それって―――」

「体を売って絵にも(うた)にもなり得るのは女だけの特権さね。少なくとも私が認める男性的美しさとは、男娼なんぞにゃ寸毫たりとて宿らんよ。前提からして失格だ。畢竟、買うのは同性相手のみとなる」

 

 それにだな―――と、コジマは下腹部を指して続けた。

 

「胤をばら撒くだけの君と違って、こちとら子宮を抱えた身だぜ。母体だよ(・・・・)。臍の緒を通じて血やら何やら、あらゆる総てを注ぎ込む役目を負った存在だ。下手に孕んだりしてみたまえよ、何が股座から這い出すと思う? 絶対に碌でもないモノに決まっているのだ」

実験棟(ここ)の最下層に廃棄した、あの出来損ないどもみたいな?」

「うむ。よって、生産性のある行為(・・・・・・・・)には極限まで注意を払わにゃならん。窮屈なれど、血を受け入れた者の宿命だ。このあたり、あの娘にもよく言い聞かせねばならんのだが―――」

 

 話が出来る容態か、と。

 僅かに目を細めることで問い掛ける。馬鹿話はここまでだと気配を悟り、スタイリッシュも自然容儀を整えた。

 

「問題は無いでしょう。検査してみた限り、患者の脳に委縮の兆しはこれっぽちもなかったわ。言葉も認識していたし、ペンを始めとした道具の使用や一般常識もちゃんとある。失くしているのは名前に年齢、生育史、家族なんかの個人情報を根こそぎ、ね」

「まるで全生活史健忘症だな。まあ、拷問蔵にぶち込まれて散々甚振られたのだ。そうなるのも決して不思議じゃなかろうが―――」

「原因は別にある。でしょう?」

 

 輸血液との比類なき親和性に加え、先刻のコジマの第一声である。あれが兼ねてより胸奥にて渦巻いていたスタイリッシュの推測に、揺るぎない確信を与える結果となった。

 

「初めてじゃないのね? 前例がある。極端に相性のいい素体に血を注いだ場合、記憶の一部か、全部が飛ぶ。きっと貴女は、以前にもそれを見たことがあるのよ」

「鋭いな。その通りだとも」

「いったいどうして―――脳の中の、記憶が格納されている場所は―――上位者の意志と感応しやすい何かが、其処に秘められているとでも―――思考の瞳との関連性は―――いえ、それよりも。一体誰、誰なのよ。貴女が以前遭遇した、その記憶喪失の被験者は」

 

 駄目元の問い掛けであった。

 十中八九、その被験者とやらはアーレルスマイヤー領の人間だろう。おそらくは帝都に繰り出す以前、スタイリッシュの助けを借りず、独力で研究を進めていた時分の発見ではなかろうか。

 サヨのような突然変異体がそうそう居るとは思えぬ以上、候補は土壌に恵まれた者に限られる。呪いを浴び、尚且つおぞましい交配の果てに血を凝り固まらせた彼の地ほど、そうした個体を排出する土壌として相応しい場所はないであろう。

 となると、帝国臣民の権利保護にはひどくやかましいコジマである。

 本人のプライバシーを尊重してとか何とか、どの口が言うのだと罵りたくなるような愚論を吐いてはぐらかしてしまうのは、容易に想像のつく展開だった。

 だからこそ。

 

「……まあ、名前程度なら教えてやっても構わんが」

「嘘ぉ!?」

 

 予想と真逆のコジマの言葉に、喜びよりも驚愕からスタイリッシュは叫びを上げた。

 

(しめた。―――)

 

 油断か、それとも最初の焦りの残滓ゆえか。

 どっちにしろ、散々煩わされてきたコジマ・アーレルスマイヤーの秘密主義に一点の穴が穿たれた瞬間である。放置は論外、覗き込まずしてなんとする。この失言にはたっぷりつけこんでやるべきであろう。

 

(アタシを甘く見ないことね、長官。名前だけでもきっとそいつを突き止める。そいつを触媒代わりに使い、先に血の医療の深奥に至って、貴女を出し抜くのはこのアタシよぉ)

 

 鼻息も荒く、ずいと顔を寄せてみせ、スタイリッシュは話の続きを懇望した。

 

「さ、さ、早く。早く教えて頂戴」

「眼がぎらついているぞ、ドクター。野心、大いに結構だが、少しは隠せ」

 

 こほん、と一息ついて喉の調子を整えて、

 

「■■■■・アーレルスマイヤー。私の蒙を一番最初に啓いた少女。呪いに打ち克ち、共に世を救おうと誓い合った、とうに儚き腹違いの我が姉だ」

 

 

 コジマはさらりと、特級の爆弾を投下した。

 

 

「あっ―――姉ぇ!?」

「ああそうだとも。どうしたドクター、私に姉妹が居たことが、そんなに驚くべき話かね」

「そりゃそうでしょう。貴女が、貴女みたいな怪物が、人の胎から産まれて来たって事自体アタシにとっては驚きよぅ」

「あっははははは」

 

 快活に笑い、コジマは言った。君、君、それは買い被りが過ぎるというものだ。

 

「それとも、人類種を悲観し過ぎていると言うべきかな? 人の範疇は想像以上に甚深にして幅広く、その外殻は呆れんばかりに強靭だ。生半可なことではぶち破れない。―――……とまれ、残念だったな、アテが外れて。ああ、墓を暴いたところで無意味だぞ」

「なによ、火葬にでもしたの? 貴女の故郷は土葬でしょうに。秘密を守るためには風習に背くのもなんのその、家族だろうと綺麗さっぱり灰にする。呆れた完璧主義者だわ」

「それもある。が、だけじゃない」

「というと?」

「価値あるものは総て私が引き継いだからね。完全に、完全にだ。あの冷たい土の小部屋の中の、しみったれた骨壷なんかに彼女は居ない。あれに収まっているあんなものは、なに、所詮ただの抜け殻さ。彼女の()は悉く、絶えず、揺るがず、ずっと私と共に在る」

 

 ぞわり、と。

 足下を言い知れぬ不快感が駆け抜けた。

 ただでさえ重苦しく沈殿した実験塔内の大気に、深淵から発散される名状しがたい無形のなにかが混入したような心地がして、スタイリッシュは思わず背筋を寒くした。

 

(……比喩じゃないわね)

 

 心の中で生きているとか、そういう類の精神論でないのは明らかだった。

 コジマ・アーレルスマイヤーの気質がその種の慰安を受け付けないというのもあるし、それに何より、血の医療の被験者には半物理的にそういうことを可能にする手段がある。

 

「……殺したの? 腹違いとは言え、自分の姉を」

 

 殺して、血の遺志を受け継いだのか、と。

 無機質な声色の問い掛けに、コジマは静かに首を振った。

 

「まさか。私が彼女を傷付けるなど、それこそ沙汰の限りというものだ。天地が逆転しても有り得んよ。そんな真似をする位なら先に自分の腕を斬り落とす」

「じゃあ、どうやって」

「死血だよ。変わり果てた彼女の亡骸に手を突っ込み、背骨を引き摺り出して中身の髄を全部啜り上げたのだ。まだ温かく、新鮮だった」

 

 ほう、と。

 蕩けるような吐息がコジマの唇から零れて落ちる。

 多感な年頃の青年ならもうこれだけで腰が砕け、へなへなと崩れ落ちてしまうに違いない。甘い体液がにおい立っている気さえする。凄絶なまでの艶やかさが、其処にあった。

 

(……近親者の血液は格段に熱く甘美な味わいだって言うけれど)

 

 それにしたってこれは度が過ぎている。かつての記憶を回顧するだけでもう体幹が灼熱し、それが皮下組織を泡立てるなど尋常一様ではないだろう。いったいどれほどの快楽刺激が当時のコジマを直撃したのか。全身の毛穴から射精するに等しかったに相違ない。

 

「っ、ああ、そういうこと。骨髄、造血器官(・・・・)―――!」

「血の生まれ出る場所、いわば最も濃厚な死血さね。幼く、愚かな当時の私にそんな知識は無かったが―――まあ、本能なのだろうな。野生動物が病を罹患した際に、喰らうべき薬草を誰に教えられもせず察知してのけるように、あの時は私もそれしかないと確信していた。大泣きしながら姉の体を掻き分けたのだ」

「地獄絵図ね。流石のアタシも耳を塞ぎたくなったわよ」

「地獄というなら、私にそんなことをするよう強いたこの世界こそが地獄だよ。姉は死んだ、ただのつまらん極ありふれた暴力に巻き込まれてな。彼女を殺したのは、啓蒙的真実の産物でもなければ星海からの来訪者でもない。この惑星の、この大地の上で蠢く雑多な悪意の一粒だ」

(……血の医療の被験者が、単なる凡愚俗悪の一肉塊に殺される?)

 

 馬鹿な。

 有り得ない、とすぐさま反駁してやりたかった。

 その効力をまざまざと、最前線で観察してきたスタイリッシュである。俄かには受け入れられずとも無理はなかろう。

 が、その叫びは喉奥にて堰き止められる。

 

(顔が―――)

 

 何一つ嘘を言っていない。

 いまやダークブルーの双眸は奈落の底に直結し、迂闊に覗き込もうものならやがて意識を切り離されて、二度と戻れぬ無明の彼方を彷徨わされる心地がした。

 

「それが最初の一滴だ。私の血の目覚めは、姉の体を通して行われたんだよ。斯くて私は遺志を受け継ぎ、啓蒙的真実と対面し、果てない探究の道へと踏み出した。初志を貫くためだ、何もかも。彼女と描いた新世界、其処に営々と繁栄の足跡を積み上げ進む理想国家。そうだ、何一つ、何一つ零していない。失っていない。忘れたりしてなるものか。あの日共に見た夢は、彼女の想いは、甘く切ない疼きを伴い、今も私の胸に在る。―――……」

「―――」

 

 圧倒された。

 ここまで来ると取り繕おうとも思わない。素直に脱帽を認めよう。

 

(どんだけ重度の姉好き(シスコン)よ、こいつ)

 

 詰まるところ、それがコジマの核なのだろう。一個の巨大な愛の奴隷だ。

 ここで一旦振り返り、かつてオーガの魂を得る際に、コジマが語った内容を思い出していただきたい。彼女は言った、

 

 ―――彼女の笑顔を曇らせたかった。先を行く者の足を引っ張りたくなる衝動と一緒だよ、私は姉ほど楽天的にはなれなかったからね。花になるより、一緒にこの泥濘に沈んでいて欲しかった。

 

 と。

 この一事からでも読み取れるように、幼年期のコジマ・アーレルスマイヤーとは現在の姿と打って変わり、陰気で内気で外界を拒絶し他者との接触にいちいち怯える、所謂引き籠り的気質を多分に含んだ少女であった。

 こういう人種の通弊として、滅多なことでは他人に心を開かないがその代わり、ひとたび一線を越えてしまうと物凄い。その後の傾倒ぶりは到底常人の追い縋れる域ではない。

 想いを寄せる相手の為なら身も世もなくなる。体も命も捧げ尽くして悔いはない、いやいっそ捧げたいと積極的に希い、仕舞いにはその欲求を満足させるべく進んで機会と状況を作り上げにかかるという、鬼気迫るようなものがある。

 早い話が、コジマは死ぬほど愛の重い女であった。

 しかもその「愛」は、絶頂期に於いて相手が非業に斃れたために、却って完全なものへと昇華している。

 

(手が付けられない)

 

 もはやコジマ・アーレルスマイヤーの中にあって、姉とは無二の聖像(イコン)と化しているのだろう。

 その思いの丈は大海にも似て、如何なる計測器を以ってしても測り切れるものではない。正味な話、こんなものを常時詰め込んでおきながら、何故コジマが未だに人の形を保っていられるのか本気でわからなくなったほどである。

 

(水深くして影愈々(いよいよ)(こま)やかなり。―――こりゃあ魔を孕むわけだわ)

 

 そう得心するスタイリッシュは、しかしだからこそ気付けない。

 一番重要な案件に。自分が既にコジマの姉の名前を思い出せなくなっている、純然たるその事実に。

 常日頃の彼ならば、こんなことは有り得ない。何度無駄だと言われても、それでも涅槃寂静の彼方の可能性を追い求め、いつか機を見て彼女の墳墓を暴くべく、その名を脳裏に書き留めていたはずである。

 そういう偏執狂的傾向がなくば、神秘の探究者なぞやっていられたものではないだろう。

 が、このとき、スタイリッシュにそんな発想は欠片もなかった。

 まるで脳細胞そのものが、彼女の名を、その響き自体を拒絶しているかの如く。

 最初に口にして以降、コジマがただの一度もその単語を舌に乗せようとせず、「姉」だの「彼女」だのといった代名詞のみで賄い切った不自然さにも、ついに気付けぬままだった。

 

 

 

 

 さて、病室にてサヨと対面して以降のことである。

 入室と同時に、律儀にもベッドから上体を起こした少女と軽く会話してみて驚いた。

 

(これは、本当に失くしているのか)

 

 記憶を、である。

 受け答えもはっきりしているし、何より亡羊とした雰囲気がない。

 普通、記憶喪失者とはもっと、夢と現実との区別がついていないような、薄ぼんやりとした色合いが表情の何処かに混ざっていたりするものだ。ましてやこの少女は、他に患者のいない、やけに天井が高く、じめじめして薄暗い、耳を澄ませば微かに水の音が聴こえて来る、極めて胡散臭い病室に置かれている身ではないか。

 で、訪ねて来る者といえばオネエ口調の医療者に、飾り気のない軍服姿の女ときている。

 何をかいわんや、というものであろう。

 

「君は―――」

「はい?」

 

 たまりかねて口を開きはしたものの、そこから先が続かない。サヨは可愛らしく小首を傾げて待っている。馬鹿なことになった。記憶を失くした者が泰然としていて、健常者の方が逆に動揺しているのである。ついにコジマは、窮したあまり、

 

「妙だとは、思わないのかね」

 

 と、魯鈍そのものの台詞を吐いた。

 自分がサヨの腹の内を皆目読めぬと自白して、かつその不安が露骨に滲んだ台詞だろう。

 

(私は、なんという……)

 

 むろん、コジマとて一秒後には自分の迂闊さを認識している。臍を噛み千切りたい衝動に駆られたが、表情に出さぬよう努力する。これ以上失態を重ねた暁には、自己嫌悪で夜も眠れなくなりかねなかった。

 

「………」

 

 サヨは困ったように苦笑して、コジマの問いに乗らず、話題を別な方面へと転換させた。

 

「いい香りに満ちていますね、この場所は」

「ほう、黴の匂いが心地よいと? それとも消毒用のエタノールかな? どちらにせよ、珍しい趣味の持ち主だ」

「いえ、そうではなく。星空の香り(・・・・・)のことですよ」

「―――」

 

 この一言で、どこかズレていたコジマの頭の歯車が音を立てて噛み合った。

 

「これだけ濃いなら宇宙は近い。あと、薄膜一枚分を残すのみと見受けましたが、どうでしょう」

「ふむ。驚いたな、大した慧眼だ」

 

 先刻スタイリッシュにそうしたように、じっとサヨの両眼を覗き込む。すると、どうであろう。たじろぎもせず見詰め返してくるではないか。

 瞬きさえしない。

 並外れた胆力だった。

 共に揺るがぬ視線と視線はいつしか熱を帯びて絡み合い、それを縁に言語に依らぬ、脳の奥での昏く蕩けたささめき合いを実現させる。誰も立ち入れない筈の小部屋を共有しての語らいは、どこか睦み事にも似た雰囲気で、暫くすると頭骨を内側から擦り上げられる感覚に不慣れなサヨが微かに喘ぐ。白く柔らかな首筋を、珠のような汗が一滴伝い落ちていった。

 

「Seek the old blood. Let us pray... let us wish... to partake in communion.

 Let us partake in communion... and feast upon the old blood.」

 

 それを契機に、コジマもまた沈黙を破った。

 

「Our thirst for blood satiates us, soothes our fears.

 Seek the old blood... but beware the frailty of men.」

 

 紡ぎ上げるは闇に埋もれた釈教歌(しゃっきょうか)。六百年前、あわや帝都を亡ぼしかけた最悪の異端集団が、事あるごとに口ずさんでいた警句である。

 

「......Their wills are weak, minds young.

 The foul beasts will dangle nectar and lure the meek into the depths.」

 

 一片の痕跡も残すまいと、念入りに念入りに磨り潰されて、歴史の上から完全に抹殺された怪物(けもの)達。

 誰も知り得ぬはずのその歌を、しかしサヨはすらすら引き継ぎ謳い上げてみせていた。

 出来て当然と言うように。

 満腔の怒りと、惜しみない哀憐の情を載せ。

 

「「Remain wary of the frailty of men. Their wills are weak, minds young.

  Were it not for fear, death would go unlamented.」」

 

 最後は一緒に声を重ねて、恰も唱和するかの如く。

 一切の澱みも交えぬままに、二人はその工程を完了させていた。

 

「……馬鹿が。大馬鹿が。囚われるなと、ちゃんと言っておいただろうに」

「さあ、何のことでしょう。わかりませんね、もはや記憶は定かでないので」

「こいつめ」

 

 しゅぱっ、と無駄に切れのいい動作でもってサヨの額を軽く小突く。きゃっ、と鈴のような悲鳴が上がった。

 

「怪我人になにするんです」

「やかましい。カルテには一通り目を通した、君はもう退院だよ」

 

 ほぼほぼ初対面の人間同士が醸し出すべき空気ではない。

 これが超次元コミュニケーションの成果なのだろうか。十年も苦楽を共にして、幾度か死線を潜り抜けでもしたかのような親愛が既に確立されていた。

 

「まったく仕方のない奴め。―――いいさ、いいとも、いいだろう。仮にも導きを与えた者としての責任だ、君を此処から連れてゆくぞ。私としても腹を割って話し合える相手が居るのは助かるからな、精々酷使してやるゆえに覚悟しておけ」

「あらこわい。お手柔らかにお願いしますよ、長官殿」

 

 

 

 

 サヨがコジマの政務秘書官という立場に収まった経緯は、大方このようなものである。

 連れて来たはいいものの、さてこの娘をどう扱うかについて少々迷った。

 

(聖歌隊に組み込むか、それともセリューと組ませてみるか)

 

 どちらも魅力的で、大きな成果の期待できる案である。故にこその逡巡だった。が、だからと言って有能な人材を遊ばせておくなど、彼女の経済観念が許さない。例えそれが、決断を下しそれを事務化させるまでのほんの僅かな期間でも、である。

 

「暇を持て余すのも辛かろう」

 

 という計らいにより、書類整理や身の回りの雑務等を処理させてみたのである。

 すると、意外にも要領がいい。

 コジマの教え方もあるのだろうが、新しいことでもすぐに覚える。正に乾いたスポンジが水を吸収するかの如く、だ。

 

「戦場で剣を振り回すより紙上にペンを旋回させていた方がいいな、君は。よほど効率的に世を動かせる」

 

 コジマにすれば待望の、政務面での天才である。

 舌なめずりしたくなる衝動をどうしようもない。はしたないと知りつつも、ちろりと紅い舌をのぞかせた。

 その次の日にはもう、立派な官服に身を包んだ政務秘書官としてのサヨが誕生していたというのだから、権力の魔術性を思い知る。こういう思い切った人事を独断即決でやれるあたり、ワンマン経営の強みであろう。

 尤も、すべてがすんなり運んだわけでは決してない。

 小人の妬心―――やっかみの声も多かった。

 

「長官の物好きにも困ったものだ」

 

 と、言うのである。

 

「何処の山奥から掘り出してきたともしれぬ、あんな土臭い小娘を。―――」

「大体、文字が書けるのか。知っているのは縄を綯う方法と、皮のなめし(・・・)かたくらいじゃないのかね」

 

 こういう底意地の悪い観測は、大抵老人の専売とされる。

 その俗説を態々証拠立てるかの如く、コジマの派閥内でこうした反応を示したのは、その殆どが古参組―――長年政界に身を置きながらも昨今の情勢悪化に対処しきれず、冷たいものを予感して、慌ててコジマに庇護を求めて駆け込んだ、根っからの文官どもだった。

 

「あの人たちの気持ちも、分からなくもないのですが」

 

 コジマの代筆を勤めつつ、ぽつりと漏らした一言である。

 

「なにせ、自分の三分の一も生きているかどうか怪しい相手から、いきなり偉そうに命令されるわけでしょう? 誰だって良い気持ちはしない。するわけがない」

「その不快感を露骨に出すから、彼らは無能と言われるのだよ。あの齢で面従腹背も出来んとは、いよいよ以って嘆かわしい。それともあれか、齢を重ねて劣化したのか」

 

 コジマの論に基けば、老人の意識は屡々明確な二極化を遂げるという。

 一つは歳を重ねるにつれいよいよ自我が肥大化し、過去に成し遂げた事業の数々が実態以上にきらびやかに見え、その功績を鑑みれば殿様扱いされて当然、誰のお陰でこの「今」があると思っていやがる、もっと労われ、わしに敬意を示してみせよと傲慢ぶりに拍車がかかり、無駄に膨れ上がった自尊心が満たされなくば時間も場所も頓着せずに、口角泡を飛ばして顔を真っ赤に染めながら罵詈雑言を撒き散らすタイプ。

 ここまで来ると、もはや一種の妖怪だ。稚気と自己愛のばけものと言っていい。

 対してもう一方は、逆に時の流れに晒されるうち、我執という我執がこそぎ落とされ、自然容貌柔和となり、生きながらにして自然の風景に溶け込んでしまったかのような―――そういう植物的変化を起こすひとである。

 

「ところが、政界とはやはり伏魔殿だな。此処に首を突っ込んで以来、後者のような人間を見たことがない。どいつもこいつもばけものばかりだ」

 

 ―――そんな相手に。

 

「共感、同情など無意味だよ。いや、敢えて有害と言い切ろう。ようく刻んでおきたまえ、人間とは恐れている相手より、愛情をかけてくれる者をこそ、容赦なく傷付けるものだということを」

「牙があるのを教えてやれと? 黙って聴こえぬふりをせず、正面きって毅然と対応しなさいと、つまりはそういうことでしょうか」

「あくまで法に則って、だぜ。共に沈むなど馬鹿げていよう。陰口程度で済めばよいが、君が大人しくしているのをいいことに、もし連中が増長し、職務に差し障りのあるいやがらせまで仕掛けてくるようになってしまえば、それこそ悲劇が待っている。流血が不可避とあらば先んじて流すに如くはないのだ。結局のところ、それが被害を最小ならしめる道である。いわば瀉血、外科的治療の一環とでも思いねぇ。その為の名目作りに手間を惜しむな、必要な権限は既に与えた、存分に利用したまえよ」

「長官、もしかして試してません?」

「さあ、どうだろうな。ただ、権謀術数は必須技能だ。磨ける内に磨いておいた方がいい。よく言うだろう? 若い内の苦労は買ってでもしろ、と」

「ずるいなあ。またそうやってはぐらかす、本当に人の悪いお方です」

「少なくとも期待しているのは確かだよ。そこは信じて貰いたいね」

「ありがとうございます。ええ、ええ、勿論信じていますとも」

 

 しかし、しかしですよ―――と、サヨは少々むきになっている。

 

「ただでさえ長官は冷血主義、暴力主義、厳格主義一辺倒じゃないですか」

「これはあいさつだ」

「そこへ私までもが温情主義をかなぐり捨てて厳に徹したらどうなります。下からの意見は封殺されて、内部の空気が硬直しますよ。天日暗き景況とはこのことだわ」

(ああ、この娘はやはり聡い子だ)

 

 組織に於ける自分の役目を、資質から逆算してよく心得ている。

 実際、サヨは時に苛烈に過ぎるコジマに対して、唯一物怖じせず意見し諌めることが可能なバランサーとして、後々名を博すのである。

 このあたり、両者の呼吸の合い方は並々ならず、まるで一ツ芝居を見ているように見事であった。

 或いは、本当に芝居を演じていたのかもしれない。

 

 

 

 

 話が、前後に逸れた。

 そろそろ時間軸を戻してやるべきだろう。具体的にはコジマがサヨから例の書簡を受け取った直後あたりに、だ。

 差出人の名前を一瞥し、コジマはすぐさまその面貌を脳裏に浮かべた。

 

(あの禿頭(とくとう)か)

 

 なんだろう、と淡い懐疑の念を覚える。

 派閥に属しているというわけでもない。彼は近頃収穫時の大根よろしくぽんぽん首を引き抜かれまくっている良識派文官の一員で、廊下ですれ違いでもすれば互いに軽く頭を下げるが、言ってしまえばその程度の関係だ。政策について論議を闘わせた記憶もなく、このような仰々しい封筒を送り付けて来る筋合いがとんと思い浮かばない。

 釈然としないながらも、ぽんと封印を弾き飛ばし、中の文書に目を通す。

 

「―――ほう」

 

 一行を経るごとに、コジマの瞳に愉快気な光が増して行った。

 

「良い知らせですか?」

「とは、言い切れん。が、興味深いのは確かだ。―――サヨ、君は『大運河』を知っているか?」

「ええ、それは勿論」

 

 大運河。

 全長、実に二五〇〇キロメートルを数える、並外れた規模の運河である。論を待たずして世界最長の称号を冠せられるべき代物だろう。

 竣工期間、七年。動員された民衆の数、およそ百万。

 驚異的を通り越して、もはや神業といっていい。作業員に将軍級の人外がグロス単位で混ざっていたのではなかろうか。

 我々の感覚に即して考えるなら、隋の時代の唐土に於いて築かれた、京杭大運河が近かろう。あちらも丁度、完成時の総延長は二五〇〇キロメートルだ。

 が、地球に於ける二五〇〇キロメートルとこの世界に於ける二五〇〇キロメートルは意味が全く異なってくる。なにせ、此方には危険種なる脅威がそこらにうようよ満ちているのだ。

 その厄介さは虎や獅子なんぞとは到底比較になり得ない。場合によっては軍隊ですら太刀打ち出来ず、尻尾を巻いて退散する。地形に大規模な変化を加える場合、この獰猛な野生生物から痛烈な反撥が起こるのは摂理と言っても言い過ぎではなく、相応の覚悟が要求された。

 まだある。悲観材料には事欠かない。情勢不安を反映し、物資を狙った匪賊の類も数多跳梁するだろう。

 

(十五年。或いは、二十年越しの大仕事にさえなりかねん)

 

 当初、コジマはそのように予測した。

 ところが蓋を開けてみれば、なんと七年で完了したというのだから、これには呆然とせざるを得ない。遥かな高難易度にも拘らず、要した期間は京杭大運河よりずっと短かったのだ。

 

(この一事だけでも、帝国は内外に向けてその国威を十二分に誇示し得る)

 

 そういうわけで、大運河に対するコジマの評価は極めて高い。

 尤も、民衆の評価は真逆である。

 彼らにしてみればただでさえ重税に喘いでいるところへ、働き盛りの壮丁を奪われて、畑は荒れるわ子供は泣くわ碌なことがない。多年に渡る労苦を終えていざ家路に就いてみれば、生活難に耐えかねて、首をくくった女房の死体と対面する者まで居たという。

 人間世界の悲惨であろう。というより、これははっきり官吏の罪だ。これほどの偉業を成し遂げたにも拘らず、支配者層が現場作業員に報いたところは僅かであった。

 本来、彼らこそが英雄として讃えられるべきであったのに。

 

(叛乱分子を大量生産しているようなものではないか。国家の基礎を揺るがしかねん失政だ)

 

 船を持たぬゆえに輸送業にも関われず、既得権益の横行により商売に参入する目も潰されている農民にとって、大運河が齎す恩恵などは遠い世界の話に等しく、実感するのは不可能であり、積み上がるものといえば怨みばかりで、

 

 ―――我らの生き血を啜り上げて流れる河め。

 

 と、憎悪の視線のみを差し向けた。

 

(どうも、昨今の帝国では)

 

 この大運河にせよ、コジマが実験棟として利用している中空重力式コンクリートダムにせよ、偉大な土木建築物が評価されない傾向にあるらしい。

 

(職人の権威失墜に繋がらねばよいが)

 

 と、彼女は密かな危惧を抱いた。

 それはよい。

 

「その大運河に」

 

 このたび出来上がった皇帝陛下巡幸用の大船舶、通称「竜船」をどっかと浮かべ、盛大なセレモニーを行う予定があるという。

 大運河を活発ならしめんと奮闘する、良識派の涙ぐましい努力であった。

 が、努力の方向性が少々おかしい。こんなことをした暁には、「自らの好みのために民衆を徴発した」と批難された煬帝よろしく、なおのこと憎悪の声が高まるのではなかろうか。

 

「彼らのやることはいつもこうだ。何処かピントがずれている」

「はあ。それで、長官とどんな関係が?」

「参加してくれ、と言って来ている」

「投資でもしておられたのですか?」

「いいや。が、この手紙の差出人―――式典の責任者は、我が父の旧い友人らしくてな」

 

 それを出汁に使って来たというわけだ、と、にやにや笑いながらコジマは言った。

 

「見直したよ。良識派にも危険を嗅げる奴が居たか」

「と言うと、やはり昨今の連続文官横死事件を受けた上での誘いでしょうか」

「間違いなかろう。帝都近郊とはいえ、壁の外で開く行事だ。本来、私が首を突っ込む件ではないが―――その場に居合わせたともなれば、これは話が違ってくる」

「なるほど、警察長官を護衛要員に雇ってしまう腹積もりですか。これは豪気な構想だ」

「父との友人関係も、真偽のほどは疑わしい。が、確認の使者を出したところで、帰って来るまでにはどうしても、それなり以上の時間がかかる。セレモニーには間に合わない」

「後々嘘がバレたとしても、おや左様でしたか、なにぶん歳が歳でしてな、どうも記憶が混濁しがちで、とでも言えば割とすんなり逃げれる。兎に角長官を出席させられればそれでいい。嘘も方便、ハッタリ誤魔化しなんのその、と。確かに巧い手です」

「そして健気だ。読んでみたまえ、この文章を。もはや先の限られたこの老体、せめて懐かしき朋友(とも)が遺してくれた麒麟児と、時勢の先を大いに論じ、以って後生の障りを除いてから心静かに世を去りたく―――おいおい、書いたのはどんな死病人だ。それにこれでは、まるで私の父が既に亡いかのようじゃあないか」

 

 常ならぬはしゃいだ口調の物言いに、コジマの心が動かされているのをサヨは悟った。

 

「行かれるおつもりですね」

「ああ。この厚顔さは貴重だよ、みすみす三獣士にくれてやるには、ちと惜しい。何より今は、君が居るしな」

 

 一昔前のコジマなら、王城を一定時間以上留守にするなど思いもよらぬ沙汰だろう。

 が、今は懐刀を持っている。

 それも抜群の切れ味を誇る刃を、だ。

 オネスト一派が下らぬ企みを起こそうと、自分の代わりにサヨが防衛線を張ってくれる。帰還まで、必ず遅滞戦闘(じかんかせぎ)を果たしてくれると信頼していればこそ、かつてとは比べものにならない自由な動きが可能となった。

 正に虎が翼を得たようなものだろう。コジマの布陣は、いよいよ完全な姿へ近付きつつあるといっていい。

 

「御武運をお祈りします。どうか、無事の帰還を」

「大袈裟だな、そこまで重く考える必要性はなかろうさ。私としても、今エスデスと全面的に事を構える心算はない。いやがらせ程度に留めるよ」

「でも、何が起こるかわからないのが世の常ですから。予定なんて一寸した誤算ですぐ引っくり返ってしまう。ですから、くれぐれもお気を付けを。貴女に斃れられでもしたら、それこそ全部台無しなんです。絶対窮極の外世界は文字通り、永遠に手の届かないところへ行ってしまう。私は彼女(・・)を救えなくなる」

 

 おお、おぞましい、おぞましい、想像するだに卒倒しそう、と。

 芯から慄いていると言わんばかりに、ぶるりと震えるサヨだった。

 

「まったく、随分入れ込みやがって。血も呪いも、本来の君には縁もゆかりもない話だったはずなのに」

「そう仰られましても。『本来の私』なんて、とっくに焼き尽くされていますから。追憶が戻ることはない以上、私は私としてやっていくしかありません」

「その結果、人のカタチを失うことになろうとも、かね?」

「はい。―――そりゃ、ついこないだ生まれたばかりみたいな意識の私が、二十年近く使い込まれた『私』の体を勝手にあれこれ弄るのは、なんだか変な申し訳なさも浮かびますけど。でも、昔の『私』だって、きっと分かってくれた筈です!」

「言い切ったなあ。その根拠は?」

「―――だって、誰にも知られない場所で、ずっと独りで泣いてる子がいるんですよ。その涙を拭ってあげたい、悲しみを癒してあげたいと思うのは、当たり前じゃあないですか」

 

 ましてやそれが、あんなに綺麗な()なら猶更じゃない、と。

 そう言って微笑むサヨの姿は儚げで、触れれば今にも崩れそうな美しさに満ちていて。

 

「……なるほど、畏れ入ったよ政務秘書官。君が正しい」

 

 しかしながら、崩したその後に(・・・・・・・)飛び出すものは一体何か。

 その答えを知る者は、未だコジマ・アーレルスマイヤー唯一人を除いていなかった。

 

 

 

 



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09

前回の更新から約七ヶ月……平身低頭してお詫びします。
構想はほぼほぼ出来上がり、イメージも湧いてくるのですが、それがうまく文章に出力できないと言いますか。
端的に、スランプ真っ只中です。
なんとかして脱出すべく引き続き努力致しますので、どうかお付き合い下さいませ。


※竜船の描写は漫画版準拠で参ります。




 

 

 

「古語に曰く、金を散ずるは易く、金を用いるは難し、と。まあ要するに、生き金と死に金の違いさね」

 

 異様な光景が現出していた。

 竜船の甲板上に於いて、である。竣工したてのこの超巨大豪華客船は、それだけに塗料のぬり跡も真新しく、未だ濡れているようで、足元の板敷すら覗き込めば顔を映さんばかりに輝いていた。

 乗り合わせている面々も、それに引けを取らない華やかさである。

 彼らが纏う着物ときたら、その美しさはどうであろう。染み、皺無きは当然のこと、僅かな動作にもいちいち付随する衣擦れの、幽けき音色の心地よさ。これを一聴しただけで、どんな文盲無学の輩でも生地の上質さを自然と察し、我知らず溜息を洩らすに違いない。

 大量生産された粗製品には到底期待し得ない典雅な格調。明らかに一流の職人の手により仕上げられたその服を、殆どの者が指輪、宝石、首飾りにより重ねて装飾しているのである。それも決して全体の調和を乱さぬよう、選りに選った上でのことだ。

 ただ光らせればいいのではない。高価なものをなるたけ多くぶら下げれば良いというのは畢竟成金の発想で、そうした浅慮は物笑いの種として終わらざるを得ないだろう。

 

 ――見よ、あのごてごてしい様を。中身がないゆえ、せめて外観を取り繕おうとする必死さが透けて見えるではないか。

 ――まったくですな、如何に金を掴もうが所詮は重みのない泡銭。気品までは購えませぬ。

 

 およそあらゆる成り上がり者にとって、由緒正しい正当な権力からの承認ほど胸を焦がすものは他にない。

 そんな彼らに対し、この種の侮蔑の囁きはどんなナイフより鋭く刺さった。他愛もないが、しかし人が後生大事に抱えているものなど、傍から見ればいつだって他愛のない、下らぬものであるだろう。心中の秤が個々人によって異なる以上、それは当然のことなのだ。

 

「こうして眺めると、いや、流石は皇帝陛下の御巡幸艦に招かれただけの皆様だ。よく用い方を心得てらっしゃる」

 

 幸いにしてこの竜船上の式典では、斯様に惨酷な光景は生じなかった。出席者は皆、血統に恵まれた面々で、社交界には慣れている。いまさら極彩色の成金趣味をひけらかすほど幼稚ではない。TPOを弁えていた。

 ……まあ、別の方面で趣味を爆発させている輩は居たが。奇行と突飛な物言いで知られるアクアビット水運の社長などは、なんと全身を艶のある甲殻で包んで出席していた。

 左様、繋ぎ合わされた甲殻(・・)である。全体を通して鋭角的で、特に胸部に於いてその特徴が甚だしく、思い切って前へせりだし、これだけでも異様なのに、極めつけはその色彩(いろ)だ。

 眼も醒めんばかりに鮮やかな、水色なのである。

 

 ――それは何でございます。

 

 たまりかねた婦人が訊くと、彼は鷹揚に頷いて、

 

「さる特級危険種の甲羅ですよ」

 

 と答えた。

 

「まあ、危険種の」

「ええ、水底に潜み劫を経て、船を一息に転覆させるほどの力を培った奴でしてな。あと百年も生かしておけば、若しくは超級(・・)に届いたやもと専らの評です。我が縁故が討伐したのを幸い、これは是非ともその生命力にあずからばや、と」

「ああ、聞いたことがあります」

 

 確かそいつは、この大運河を掘削する際、しばしば出没して作業を滞らせた札付きの悪獣ではなかったか。

 水という天然の防弾装甲に守られているため兵卒の装備程度では有効打を与えにくく、手を拱いている間にも人が喰われるわ堤を切られるわで被害が嵩み、とうとう全体の工事予定にすら影響を及ぼすに至ったという。

 が、それが怪物の寿命を縮めた。業を煮やした上層部が多額の懸賞金をかけた結果、たちまち名も無き傭兵達が集結し、やがてその内の一人が見事退治てのけたのだ。

 未来の超級危険種は、未萌のままその芽を摘まれた。

 

「まあ、お上手なこと。――」

 

 かつて帝国を悩ませた怪物が、いまや物言わぬ装束として加工され、帝国の象徴にして最高権力者たる皇帝陛下の船に在る。その御稜威に傅いている。なんという構成の妙であろう、まるで古代の服属儀礼ではないか。

 

 ――ただの変人ではない。

 

 大胆にして繊細、奇抜でありながら同時に大道を踏んでいるこの所作に、多くの賞讃が寄せられた。

 和気藹々としたその雰囲気こそ斯様な祝典には相応しかろうに、

 

(わしの置かれた、この場はどうじゃ)

 

 と、彼――はげあたまの老文官は嘆かずにはいられない。

 彼の立ち位置を中心として、半径十メートル弱の円を描く。その内側に、敢えて立ち入ろうとする出席者は誰一人としていなかった。

 まるでそこに、見えない断崖が口を開けているかのように。うっかり直視すれば自分も引き摺り込まれかねないと恐れてでもいるかのように、ちらちらと、横目で覗き見るような視線を時折送ってくるばかりであった。

 

(さもあろう)

 

 その気持ちはよくわかる。彼自身、叶うのならば今すぐ此処から逃げ出したくてたまらない。空間の緊張が臨界に迫り、今にも血飛沫を噴き上げそうな、こんな場所に留まりたいと願う者など余程の狂人を除いて皆無であろう。

 

「しかしながら、金銭などより更に、更に。運用が難しいものが世にはある」

 

 そして、他ならぬ彼が招いたコジマ・アーレルスマイヤーという人間は、不幸にも「余程の狂人」としてカテゴライズされるべき人種であった。

 この、雪をも欺きかねない真っ白な皮膚の持ち主は、場に蕭殺とした雰囲気が醸し出され、寒風吹き荒ぶが如き景況になればなるほど、却って生き生きするらしい。諸君、それが何かお分かりかな、と問う姿は、仕入れたばかりの新知識を父親に披露したがる童女のようにあどけなかった。

 しかし、彼女がじゃれつく相手は温和な父親などでは決してない。

 

「どうなされた、先刻から(おし)のように黙りこくって。貴公らに訊ねているのだがなあ、何処ぞに声帯を置き忘れて来たのかね。それとも舌が液状化でもしたのかな、」

 

 ――三獣士のお歴々、と。

 焦燥、呵責、慙愧、赫怒。あらゆる憤懣怨恨が丹田下にて発動機(モーター)さながらに急旋し、ために血液の逆流を呼び、誰であろうと直視する勇気を失くすほど凄まじい顔色を呈している帝国軍きっての修羅連に向かい、コジマは天使のように微笑んだ。

 

 

 

 

 何故斯様な、情けない仕儀と相成ったか。暗殺対象を目前に控えながら一指も触れることが許されず、間抜け面を天日に干され、ひたすらに歯を軋らせるだけが能の無為無能な置き物然たる立場にまで追い込まれたか。

 

(決まっている)

 

 コジマだ、すべてコジマが悪いのだ。開幕一番、先天性白皮症(アルビノ)めいたこの狂女が彼らを暗がりから摘出したのがあらゆる過誤の元凶だ。

 なんでこんな処にいると、叫べるならば叫びたい。お前の趣味は犯罪者の摘発と内部粛清の二つだろう? 酒より血に酔うのだと、かつて言っていたではないか。大人しく街路に死体を吊るしていろよ頼むから。

 

(こいつさえ乗っていなければ――)

 

 今頃ニャウの吹き鳴らす優雅な旋律を愉しみながら、この禿頭を熟れた西瓜さながらに、あっさりかち割れていたろうに。それが彼らの共通認識に他ならず、つい先ほどまでその未来図に疑いを差し挟む余地など寸土たりとて見出せなかった。

 ところが現実はこうである。のっけから完全に躓いた。いつもの軍装の上からローブを着込み、フードを被って顔を隠して竜船に乗り込もうとしたところ、

 

「いよう――」

 

 だしぬけに、頭上から大音響が降ってきた。

 三獣士は、あとあとこのときのことを振り返ってみると、どうにもおかしい。面妖である。まず、あれだけの――鼓膜が吹き飛び脳を攪拌されんばかりの声量を叩きつけられたにも拘らず、周囲にあった群集どもの無反応ぶりはなんであろう。自分達以外の誰もが知らぬ顔の半兵衛をきめこみ、少しも視線を泳がせなかった。

 むろん、耳を塞ぐ気振りも見せない。

 

「――三獣士の御三方。妙なところで出会うじゃないか、なんだ、どうしたその格好は。黒魔術の儀式に誘われでもしたのかね? 水盆の上で不吉な鐘でも鳴らすのか?」

 

 声は、更なる異常性を孕んでいた。

 二方向(・・・)から聴こえるのである。天そのものが一個の巨大な拡声器と化し、霹靂のように凛々と打ちつけてくる一方で、その正反対、背後から耳の産毛をくすぐる程度にそっと囁かれている実感がある。触れれば、耳殻がわずかに濡れていた。湿り気のある熱い吐息を間近で受けたとしか思われない。それはもう、唇が触れるほどの近さで、だ。

 

「ンだおい、なんだよこりゃあ――!」

 

 白昼夢としか思われないこの倒錯した感覚に、激しく反応したのはダイダラだった。目力もいっぱいに、地面に焦げ跡が生じるほどの勢いで反転し、運悪く背後を歩いていた水夫に腰を抜かさせた。

 たちどころに股ぐらが濡れ、湯気が立ち、アンモニア臭が漂った。ダイダラは露骨に顔を顰めた。どう見ても無害な一般人である。

 

「むごいことをする」

 

 この時点で隠匿性などずたずたに切り裂かれていたといっていい。脈絡もなく突然虚空に向かって叫び上げ、血走った眼でわけのわからぬ運動を披露した彼らは必然周囲の耳目の的であり、穴が開くほど見られている。景観に溶け込むべき暗殺者が、これ以上ないほど景観から浮いてしまった。こうなればもう、暗殺など痴れた戯言でしかない。

 

(なんという失態、主の任務を――)

 

 血が、氷水と入れ換えられたようだった。

 エスデスに心からの忠誠を誓う彼らにとって、最大の恐怖とは死にあらず。絶対と信じ、至高と奉じた彼女から失望され、路傍の石と扱われることに他ならない。

 同じ任務失敗にしても、このしくじり方は致命的だ。敵と刃を交えるでもなく、正体不明の声によって惑わされ、狼狽のあまり自滅したなど報告出来るものではない。愛想を尽かされないと考える方がどうかしていた。

 その戦慄が、老練なリヴァの脚をしてさえ硬直せしめ、三獣士はついに逃げ出す機まで失った。

 

「北で満喫した戦の火照りが、まださめやらないでいるのかね? だとしても、いたずらに無辜の民草を驚かせるのは感心しないな」

 

 甲板上から、わっと悲鳴が迸る。

 

 ――落ちた、落ちたぞ。

 ――焦るない、身を躍らせたのは長官だ。

 

 乗客達が盛んに咆えていたのだが、三獣士の耳にはぶ厚い水の層を隔てたようにくぐもってしか聴こえなかった。それに対し、どういう反応も示せないのである。

 彼らを包む茫然自失という名の液膜。神経の麻痺効果を含んだそれはしかし、とん、と、重力に反して羽毛の如く軽やかな着地を果たした女の姿で、いっぺんに弾き飛ばされた。

 

「貴様――」

 

 合点がいったのである。

 なるほど、こいつならば納得だ。この女郎(めろう)ならやれる(・・・)やる(・・)。自分達に不様を晒させた主犯と見て相違なく、動機も能力に関しても、心当たりがあり過ぎた。

 

「そうだ、私だ」

 

 彼らの直感を、あたかも承認するかのように。

 コジマ・アーレルスマイヤーは、滴るような愉悦の相を突きつけた。

 

 

 

 

 そこから先は、なし崩しである。コジマは背を押すような強引さを発揮して、三獣士の身柄を一挙に甲板上まで運び上げてしまったのだ。

 

「やあやあ、申し訳ない。勝手な中座の無礼を詫びます。なにぶん馴染みの顔を見つけたもので、つい居ても立ってもいられなくなり」

 

 そうして引き合わされた相手を見て、三獣士は思わず声を上げかけた。やや腰の曲がりかけたこの老人は、間違いない。彼らが抹殺するよう仰せつかったターゲットではあるまいか。

 

(こいつ、こいつ、こいつ、こいつ、こいつ!)

 

 この瞬間、コジマの意中はすべて読めた。なんと悪辣な計画であろう、よりにもよって三獣士というエスデス軍きっての猛獣をして、犬神(・・)の儀式に具する気なのだ。首から下を地面に埋められ、その前に餌を置かれた犬と、暗殺対象を目前に控えながら一指も触れられない今の彼らの状況は、驚くほどに符合する。

 これほどまでに虚仮にされ、誇りを傷付けられたことはかつてない。思わず視界が真っ赤に染まり、帝具に指をかけようとしたニャウであったが、寸前でリヴァに手首を掴まれ、止められた。

 

(よせ。手遅れだ)

 

 体温を通して重厚な、渋味がかった彼の声が伝わってくるようである。

 

(わかってるよ、そんなこと!)

 

 既に前提は崩壊した。ただ命を奪えばいいのではない。暗殺の罪をナイトレイドに擦り付けるのが本任務の欠くべからざる要点であり、ここからそれを達成しようとするならば、前回までと同様に目撃者を全員始末する以外に術がなく、しかしそれはあまりに無理な相談だ。

 元大臣や文官にくっついていた護衛兵どもを始末するのとはわけが違う。目下竜船に乗り合わせている客達は、例外なく富豪であり、資本家であり、或いは貴族階級の出身だ。帝国の経済に寄与するところ巨大な彼らを一時に消そうものならば、大混乱は避けられまい。大臣の懐に流れ込む金穀も、間違いなく滞る。そのまま二度と回復しない可能性とて多分にあろう。

 そも、商人どもが手を擦り合わせてオネストの前に進み出て、せっせと袖の下を通すのは、彼に人間的愛着を感じているからでは全然ない。身の安全を図り、あわよくば仕事が円滑に運ぶよう、あれこれ融通を利かせて貰いたいがためである。

 これまでオネストは、その要求におおむねよく応え続けた。彼の政治思想の骨子は、上流階級を堕落させ、放蕩に溺れきった腑抜けとし、下層階級を無智無識の畜獣ならしめる、ということにある。

 

 ――快楽の湯に浸かりきり、骨までふやけた人間は、夢寐にも叛逆を思いません。帝都はもっと、徹底的に艶彩迷酒(えんさいめいしゅ)の歓楽郷と化すべきです。

 ――土を耕すのに文字は必要ありません。すべて習慣で事足ります。敵を殺すに至っては、倫理の源たる学識など却って有害。原始人的な獣の暴威さえあればよろしい。

 

 おそるべき信念といっていい。

 なるほど庶民が畜獣ならば、これを如何にこき使おうが生きたまま皮を剥いで上がる悲鳴を愉しもうが、まるで問題はないだろう。様々な伝手を通じてオネストの「信念」に触れた権勢家達は、これに憤り、対抗しようとするよりも、むしろ彼の望む人間像に近付くべく積極的に堕落した。

 そして実際、そのように振舞っている限り、オネストが彼らに危害を加えることはなかったのである。

 

(これはいい)

 

 ここに一つの信頼関係が成立した。醜悪で、腐敗臭芬々たることこの上ないが、それは確かに信頼だった。無辜の民草を面白半分に痛めつけ、彼らの汗と努力の結晶を容赦なく搾取し、奢侈に耽っている限り、自分達は安泰であろう。少なくとも、大臣(うえ)から攻撃されることは有り得ない。――…

 人間のあさましさと言うべきか、一旦堕ちると決めたなら底なしである。最初は保身目的の、いわば擬態として享楽していた者でさえ、気付けばすっかり染まりきり、小オネストと呼ぶべきモノに変身していた。この類の肉塊が群をなして台閣に蔓延り、人間性を退廃させる方法について朝から晩まで語り合い、結果現出したのが例の落首の世界である。

 もしコジマの長官就任があと一週間も遅かったなら、近親姦とそれに纏わる行為の全面的な合法化、及び国を挙げての奨励という、耳を疑ぐる政策が堂々発布されていただろう。

 ついでながらその後は、十八歳以上の童貞・処女の存在を刑罰化する心算であった。

 

(沙汰の限りだ)

 

 ゆくゆくは全帝国民の頭蓋に啓蒙を植えつけたいと念願しているコジマにとって、こんな風潮は到底肯んぜられるものでない。

 

(仮にも一行政機関の長たる私が、立法府にまで首を突っ込むということは、あまり好ましからざる行為だが)

 

 既にそんな、原理原則に拘泥していられる状況ではない。権力の分立などは、泰平の世が成立してからのんびり図ればよいであろう。むしろ全権を掌握した独裁者たるべしと意を決し、コジマは敢然、政争の渦へと身を投じ、以来こんにちにまで続いている。決着は未だ定まらず、一進一退、三歩進んで二歩下がるを繰り返している。

 ところがここで、三獣士による上流階級の大量虐殺などが起きてしまえばどうなるか。

 ビラを撒く程度の偽装工作は通用しない。連続文官横死事件の真犯人が誰かなど、多少なりとも消息に通じていれば容易く察し得るものだ。大臣が営々築き上げてきた信頼などは積み木細工より容易く崩れる。損得の帳尻が合わないどころの騒ぎではなく、支離滅裂の極みであった。

 第一、鏖殺自体がそう上手くいくか、どうか。

 

(もし敗れ、死体を改められようものならば――)

 

 暗殺をナイトレイドの仕業に見せかけるための、偽作した斬奸状が懐にごっそり詰め込まれたままである。

 陰謀の、決定的な証拠であった。

 これがコジマの手に渡れば、彼女のことだ、えたり(・・・)とばかりに膝を打ち、喜悦しながら大攻勢をかけるだろう。必ず主を煩わせる。その未来だけは、何が何でも、どんな代償を支払ってでも防がねばならない。

 

「…………人、でしょうな。金を用いるは易く、人を用いるは難し」

 

 例えそれが、コジマの衒学趣味に付き合わされるという屈辱的なことであっても。

 火を噛むような思いで耐え忍び、リヴァは答えざるを得なかった。

 

「如何にも然り、その通りだとも。流石は元将軍閣下、腕のみならず頭も回る。部隊の指揮を任されるのも納得だよ」

「勿体なきお言葉」

 

 態度だけは恭謙に、よくできた執事のように繕ってみせて、しかしこみ上げる不快感をどうしようもない。

 この男はかつてその高潔さゆえに、政争に勝利し大臣の位に就いたばかりのオネストに対して賄賂を送らなかった過去がある。

 

(あんな男の機嫌奉仕など、出来るものか)

 

 そういう腹であった。

 が、それが彼を没落させた。オネストを中核とする新政権下にあっては、腐敗を拒むこと、高潔で在り続けようとする以上の罪科はない。

 たちまち身に覚えのない罪を着せられ、法廷とは名ばかりの蛇の巣に引き据えられてふくろだたきに処せられた。こうなるともう、名誉も功績もあったものではないだろう。万軍を指揮した将軍は、なんという運命の変転か、あらゆる誇りを切り刻まれて薄汚い獄へと叩き込まれた。

 そのとき芽生えた怨嗟の念は、そう易々と消えたりしない。

 官僚嫌いが骨髄に徹するのも無理はなく、そんなリヴァからすればコジマの迂遠な物言いは、正しく嫌悪するところの官僚的お役所言葉でしかないのだろう。

 

「人を用いるは難し、而してまた、圧するは易く、服するは難し。――」

(さっさと本題に入れ)

 

 朗々と吟ずる女に向かって、そう怒鳴りたくてたまらない。長大な迂回路を取りながら、どうせ最後は自分達への厭味に行き着くに決まっているのだ。

 そう信じて疑わなかったからこそ、続く言葉は以外であり、不意討ちだった。

 

「この点、私はエスデスが羨ましい」

 

 と、言うのである。

 

「あいつはこの、本来最も難しいはずの人をして服さしめる(・・・・・)ということを、いとも容易くやってのける。それも、金も言葉も必要とせずに、だ。ただ同じ釜のめしを喰えばいい。三日も続けば充分だ、もう彼女の号令一下、喜んで死に就く命知らずが出来上がる。死兵化(・・・)する(・・)。そういう理屈を超えた人間的魅力に富んでいる」

 

 なんというずるだ、英雄め――と、コジマはどこか喜ばしげに、夢見るような表情で毒づいた。

 しかもどうやらその不一致に、本人だけが気付いていない。

 

(これは、なんたることか)

 

 三獣士が愕然としたのはその有り様があまりにも、コジマについて語る主人に酷似していたためである。エスデスもまた、矯正(・・)という彼女にしては穏当すぎる単語を用いた違和感を、毛ほども自覚出来ていなかった。

 やはりこの二人の精神には、どこか深い部分で相通ずるものがあるらしい。

 

「いやいや、長官の部下とても」

 

 口を挟んだのは、禿頭の文官である。

 広闊な額いっぱいに、玉のような脂汗が浮いている。日は天頂に差しかかり燦々と降り注いでいるものの、汗ばむような陽気ではなかった。

 気温ではなく、心理的圧迫から出た汗であろう。目の前に立つ男どもが、どうやら自分を殺す目的でやってきたらしいことは彼にも察しがついている。

 

(とすれば、こんな護衛どもは紙屑じゃ。何の役にも立ちはせぬ)

 

 頼みの綱はコジマ・アーレルスマイヤーただ一人であり、彼女の機嫌を取るためならば、どんな媚でも売ろうという気になっていた。

 

「その指揮の高さ、一糸乱れぬ統率された振る舞いは、まことに名高いではありませんか。帝都警備隊かエスデス軍か、これは甲乙付け難しと我らの間でも専らの評ですぞ」

「私が生きている限りはそうでしょう」

「えっ、生きて――」

「はい。死ねばどうなるかわかりません」

 

 十中八九――身内の贔屓目を入れても四分六で崩れるのではあるまいか、とコジマは正直な観測を口にした。

 コジマを押し上げることによって自らの運をも切り拓き、以って栄光に浴せんと望む健康な野心こそ帝都警備隊の原動力に他ならず、言ってしまえば契約的・功利主義的なにおいが強い。

 こういう組織はどんなに精強であったとしても、報酬を約束した首領株が斃されれば脆いものだ。途端に夢も酔いも醒め果てて、蜘蛛の子を散らすように去ってしまう。

 背中に突きつけられた銃口の冷たさが消えたなら、督戦隊など逃げ散るに決まっているではないか。

 

「だが、エスデスの士卒は違う」

 

 万が一、億が一にも征途半ばで彼女が斃されたとしても、意気阻喪など有り得まい。残された者達はわれ死に遅れたりと痛憤し、大将亡き後の世界に何の楽しみが残れりやと咆哮し、後を追うべく敵陣へ突っ込んで行くだろう。自殺的どころではない、完全に死ぬための突撃を、一つの軍団が塊になって行うのである。

 心魂を貫く歓喜の中で逝くだろう。相対する側にとって、これほどの悪夢も他にない。

 

「忠誠心と言うより、もはや個人崇拝の域ですな。妬けますよ、私の部下でそれだけのことをやってくれる者はせいぜい五十人にも届かない。あとは皆、」

 

 そこまで言うと、コジマはぱっと拳を開いてみせた。逃げます、ということだろう。

 

(わかっているではないか)

 

 気をよくしたのは三獣士である。人間、危害を加えられると信じていた相手から思いもかけず手厚く遇されたりすると、必要以上に恩義を感じてしまうものだ。彼らのような男でさえもコジマの薄い唇から紡ぎ出される主人に対する賞讃に、胸が膨らむのをどうしようもない。

 

 

 

 

 常のコジマ・アーレルスマイヤーであったなら、ここで矛を収めていたろう。式典が終わるまでなし崩し的なこの雰囲気を持続させることに注力し、悠々帰途に着いていた。

 

(別段、私が力を揮うまでもなく)

 

 三獣士は始末されるに決まっているのだ。ナイトレイドがそれをする。彼女の瞳は最初から、透明化して竜船に乗り込んで来たブラートの巨躯を捉えていた。

 重ね合わされた次元の彼方、超深奥を透かし視る神秘の探求に比べれば、たかだか光学迷彩を見破る程度児戯にも等しい。それを承知で見逃したのは、そうした方が我に利である、と判断したからに他ならない。

 

(勝手に名を使われた報復に来たか。そら、貴様らの狙っている連中は曝け出してやったぞ感謝しろ)

 

 都合のいいことにナイトレイドは二人組み。ブラートの他に、手配書の出回っていない少年がいる。

 ならば岸に下り次第、一人が三獣士の尾行を続け、もう一人が急行し、増援を引き連れて来ればいい。自分ならまずそうするし、彼らもきっとそうだろう。後の話は簡単だ、数で劣る上に奇襲を受ければ如何な三獣士とてどうにもなるまい。必ず、死ぬ。全滅する。

 

(出来ればナイトレイドにもそれなりの被害を与えてから死んで欲しいが。まあ、そこは彼らの根性に期待だな)

 

 斯くしてコジマは何の労力も支払うことなく三獣士を片付けて、憐れなはげあたまの文官も命が助かり、万々歳で終わる――はず、だったのだ。

 

「で、だ」

 

 少なくとも、続く言葉をコジマが口に出さない限り。

 

「そんなエスデスに服すること厚き兵士の中でも飛び抜けて熱烈な貴公らが、揃いも揃って此処に居る。――当然、独断ではないのだろう?」

 

 三獣士の顔筋が、にわかに緊張を取り戻した。

 それだけでもう、自分の発言が如何に有害無益な代物か、わかりそうなものである。

 しかしコジマは、エスデスについて語り過ぎた。

 喋れば喋るほど、彼女の意識下で玲瓏としたあの美貌がはっきり像を成して行き、いまや三獣士の背の向こうで佇む姿が見えている。いつものように傲然と、胸を反らして腕を組み、微風(そよかぜ)に髪を靡かせている。

 

(なんぞ、きさま。――)

 

 お定まりの幻覚だと承知しながら、灼熱するはらわたをどうしようもない。鎮静剤の用意を怠ったのがいけなかった。後悔しても、既に後の祭りである。高まる熱に憑かれたあまり、つい、無用なあてこすり(・・・・・)を続けてしまった。

 

「咆えろと言われた時に咆え、噛めと命ぜられた相手に脇目もふらさず跳びかかる。その代わり、指示がなければ微動だにせず黙って頭を伏せておくのがよく調教された犬としての習性だ。あいつの指示なく、勝手に膝下を離れるなど有り得まい。はてさて今日は、ご主人様からいったい何を言いつかったのかな?」

「てめえ!」

「控えろ、無礼者がァ!」

 

 噴火した。

 三獣士が、である。噴火としか表現の仕様がないほどに、彼らの怒気は凄まじかった。この瞬間、コジマの構想も音を立てて崩れたとみて構わない。

 

「はン」

 

 が、彼女は落胆もせず、更に言った。

 

「態々てめえらで獣と名乗っておきながら、犬呼ばわりされた途端に激昂かね。滑稽だ。むしろ犬の(サガ)あると言われたことを喜べよ、尻尾の一つも振ってみせろい」

 

 西方、アーレルスマイヤー領の訛りが出ているあたり、平常心をなくしている証拠であろう。

 とまれ、ここまで虚仮にされてしまった以上、三獣士としてはコジマを殺すより外に道がない。

 即座におっぱ(・・・)じめ(・・)なかったのは、やはり懐に感じる書類の重みと、圧迫感に耐え切れず老文官が上げた悲鳴に因っている。

 

「ひいぃーっ」

 

 精神のどのあたりが破れたものか、首を絞められた鶏のように一叫すると、この老人はよちよち(・・・・)と、正に鳥そのものの足取りで以って駆け出して、そのまま船外に身を躍らせようと試みた。

 船は都市部を離れ、緩やかに波を切りつつ航行している。

 落ちれば当然、死ぬであろう。しかし彼にとっては船上よりも、水底の方がまだ安全と判断されたに違いない。

 結果的に護衛の黒服に取り押さえられ、彼の「脱出行」は失敗したが、この狂態がコジマの昂りをにわかに醒ました。幻影は銀の霞となって消え、たちまち現実がやって来た。

 

(やりすぎた)

 

 と、思わざるを得ない。

 見れば、三獣士の目が完全に座りきっている。

 一線を越えた目であった。こういう輩が仕出かす行為はいったい何か、コジマはようく心得ている。

 

「我々が何故此処に居るか。そう訊かれましたな」

 

 ()の意識から復活した文官が元の位置に戻るなり――医務室に行かれますか、と訊ねられたが頭を振った。針の莚どころの騒ぎでないが、コジマから離れるのはもっと怖い。こうなればいっそ、シャコ貝よろしく張り付いていたい――、リヴァが重々しく口を開いた。

 

「ご推察の通り、主命によるものでございます」

「ほう」

「この佳き日の式典を、台無しにせんと企む叛徒どもの動きを察知しまして」

(ああ、そう来たか)

 

 にじり寄り、押し殺した声でリヴァは続けた。敵は既に、この船の何処かに潜んでいる可能性があります。是非とも調査を許可していただかねばなりません。――…

 

「よろしいですな」

 

 要請ではない。

 脅迫である。眉宇に、殺意がみなぎっている。これを認めなければ、おれは何を仕出かすかわからんぞ、と全身で表明しながらこの式典の責任者、憐れな禿頭に迫ったのだ。

 既に腰砕けになりかけている老人に、これを突っ撥ねろと頼むほうが酷であろう。そんな気力は何処にもなく、強いて求めれば外部に頼る他ないが、コジマもまた、此処に至ればいっそ彼には頷いて貰いたいと思いつつある。

 

(嘴を突っ込み、不審な点をほじくり返し、反論するのは容易だが)

 

 しかし、つい今しがたあれだけ真っ向から侮辱を加え、喧嘩を売りつけた彼女である。

 その手前、いざ三獣士が無理矢理にでも決起せんと立った矢先に今度は火消しを試みるというのは、どうにも筋が通っていないように思われた。

 

(認めよう、私は一線を越えたのだ。取り返しはつかない。戦争の覚悟もなしに、言っちゃあいけない台詞だよ、あれは)

 

 にも拘らず、いまさらおたおた芯のぶれた振る舞いをして、臆病者の謗りを受けるくらいなら、いっそ気狂いと看做された方がましであろう。

 失態を取り戻すべく炎に水を撒くよりも、一旦崩れた構想などはガラクタよと蹴り飛ばし、馬鹿めその発火すら思い通り、私の掌の上なのだふはははは、と悪辣に嗤うべきだった。

 禿頭が、激しく何度も上下した。

 

「せいぜい気張ることだな、諸君。犬の爪牙は鋭利なりと、せめて証明してみせるがいいさ」

 

 すれ違いざま、葡萄酒を傾けながらコジマは言った。

 三獣士は、返事もしない。完全に黙殺してゆきすぎた。

 船内に向かう彼らのために、人垣が音を立ててざっと割れ、一筋の道が形成される。

 やがてその背が見えなくなると、そこかしこから安堵の溜め息が上がると共に、残念そうな呟きも、種々漏れた。

 

「これで終いですかな? やりとりの内容は、正直よく聴こえませんでしたが、随分あっさり退いたものです」

「然り然り。てっきり骨が軋み、血が流れるに違いないと予期していたのに、なにやら肩透かしを喰らった気分ですよ」

「三獣士も存外大人しい、ケモノというのは名ばかりか」

「いやさ、そうではあるまい。彼らをしてさえ噛みつくのを躊躇うほどに、アーレルスマイヤー卿が隔絶しておられるのよ」

 

 現下の帝国で富貴を誇れるような輩は、多かれ少なかれ血に酔っている。

 惨事を観賞できるものなら、是非したい。ましてやそれが、大量殺戮者同士の殺し合いなら尚更だ。実に稀少なみせもの(・・・・)であり、孫子の代まで自慢できよう。如何な惨事に巻き込まれても自分だけは大丈夫、きっと命は救かるに違いないという例の心理も手伝って、恐れの裏側に潜みつつも、コジマと三獣士の激突を期待する向きは強かった。

 が、もはや恐れる必要がなくなった今、その期待が前面に出たらしい。

 

「惜しかったのう」

 

 と、露骨に残念がるやつまでいる。

 コジマは欄干に寄りかかり、はあ、と天を仰いで嘆息した。

 

 

 

 

(サヨが、怒るだろうな)

 

 いやがらせ程度に留めると、今エスデスと全面的に事を構える心算はないとはっきり言っておきながら、この始末はなんであろう。なにもかも、彼女が危惧した通りになった。

 

(エスデスが絡むと、私はいつもこのざまだ)

 

 焼き尽くしたはずの獣性が、灰の中からむくりと頭を擡げるのをどうしようもない。差し伸べられる掌をつい受けて、気付けば野蛮な衝動の虜になっている。

 

(あいつを殺さない限り、私は真に私として完成しないのではあるまいか、などと――)

 

 こんな妄想的予兆が脳裏をかすめてしまう時点で、囚われている証明なのだ。

 愚かさの先は遥かに遠く、まだまだ見通しは立たないな、と、流石に自嘲したくもなろう。

 追いかけてきた老人が、その動作を目聡くみつけ、どうなされたと問い掛けた。

 

「いやさ、正直に告白致しますと。私はあまり、太陽が好きではないのです」

 

 咄嗟にそう誤魔化した。

 それはまた、風変わりな趣味ですなあ、と老人は変に引き攣った表情のまま言い返す。

 が、これが藪蛇だった。

 

「それよりも、やはり月明かりこそ好ましい。あの太陽というやつは、直視する者の眼を容赦なくたちどころに焼きますが、月にそんな心配は要りません。夜が続く限り、永遠の鑑賞に堪えるものです」

 

 これだけでも天体としてどちらが秀麗かおわかりでしょう、と、コジマは意味不明なことを口走った。

 

「しかもその光彩の妙ときたら飽く事を知らない。一秒毎に新たな興趣が湧き出して、痙攣にも似た感動が脳の髄を貫くのです。私はね、酒を呑むにも満月さえ頭上にあれば、他にどんな肴も無用でしてな。何杯でも盃をあけられる――…」

 

 コジマは、どうしてしまったのだろう。月への賞讃を語り出してとめどもない。

 しかもその口調ときたらかつてないほど熱っぽく、何かに憑かれているようで、聞く者の意識を不安定にするものだ。老文官はたまりかね、

 

「この国は、どうなってしまうのでしょうな」

 

 と、無理矢理話題を転換させた。

 

「我々が如何に苦心して手を打とうとも、国内の人心は離れる一方。遊離して、向かう先は反乱軍です。このままでは本当に戦争が起きてしまう」

「戦争なら」

 

 コジマは態と惚けてみせた。常に起きているではないか。長きに渡る帝国の歴史で、国境線が完全に静謐であった時期などそれこそ数えられる程度しかない。

 

「対外戦とは違います。今度のは内戦だ、その惨は比べるべくもない」

「五百年前は、凄まじかったようですな」

「人を殺す技術がまだまだ未発達だった当節でさえ、あれほどの地獄を招いたのです。爪痕は深く、大きく、しかも未だに癒えていない」

 

 散逸した帝具のことを言っているのだろう。

 

「規模も被害も、必ず膨れ上がりますぞ。その流血に、疲弊したこの帝国が耐え切れるとはわしにはとても信じられない。よしんば耐え切れたとしても、次に来るのは四方からの蚕食じゃ」

「同意します。異民族ども、寄って集って棒で叩きに参るでしょうな。失地回復を掲げ、鼓を打ち鳴らし、復讐の熱狂に衝き動かされて」

 

 要は金貸しと一緒です、と、政治活動の必要上から資金はいくらあっても足りないコジマは、忌々しげに吐き捨てた。

 

「あの連中はこっちの羽振りがいい時は是非御使用を頼みますと、バッタよろしくへいつくばるが、いざ落ち目と見るや豹変する。債鬼になる。首根っこを掴んで捻じ伏せて、ぺしゃんこにするほど強烈な取立てを開始する。その掌返しの鮮やかさたるや、雪が墨に化するが如しだ」

「全く以って。異民族の連中が叛徒に何を約束したか知らないが、本気にするなど馬鹿げておる。帝国の前途は、ああ、暗い、まっくらじゃ。このまま進めば待つのは奈落で、しかしお諌めしようにも、陛下に我らの誠意(こえ)は届かぬ。打つ手なしとは情けなくてたまりませんわい、いったいどうすればよいのやら」

「死んだら、いかがです」

「えっ」

 

 文官は、耳を疑った。いま、さらりと、自分は何を言われたのか。

 

「父から聞いておりませんか? 声が届かなければ血によって誠意を示すまで、それがアーレルスマイヤーの伝統ですよ」

「い、いや、わしは」

「陛下の御前に進み出て、貴方と、貴方と志を同じくする皆々様が、一斉に腹を切っては如何です? 蠕動する腸を掴み出して、思いの丈と一緒くたに投げつけたなら、これ以上ないショック療法として機能する。君側の奸が齎した花園の幻影、迷妄の霧など一瞬にして晴れましょう。仮に駄目であったとしても、そこまでやれば諦めがつきます」

 

 昏君(ばかとの)、とでも遺言して自ら作った血の海に沈めばよいのである。

 むろん、コジマはこの老人にそんな大それた真似が出来るとは欠片も期待していない。

 人はそう簡単に捨て身になどなれぬ。仮にも権力者なら尚更だ。だからこの良識派という連中のやることは、たった今演じてみせたような、善意はあれども意味のないおしゃべり程度に終始せざるを得ないのだろう。

 彼らが開く「会議」とやらは畢竟現状が如何に悲惨であるかを再確認して泣くばかりが関の山な小田原評定に他ならず、いつか陰謀の刃にかかって殺されるまでの暇潰しの範囲を決して出ない。

 涙では、政治も時代も動かないというのに。

 もっと濃くて(なまぐさ)い――生き物の在り方を決定する、血液こそが必要なのだ。

 

「む、無茶な」

「無茶かなあ」

「よく考えられよ、謁見の場に腹を――」

 

 鉛玉を飲み込んだような顔つきで、老人は一旦言葉を切った。口にするのも厭なほど、その行為は彼にとって抵抗があるものらしい。

 

「――切るための凶器など、持ち込めるはずがありますまい。近衛に体を改められるのをお忘れか。必ず見付かり、見付かれば、その時点で破滅です。陛下に言上するどころか、わしは叛逆の容疑で連行される」

 

 現実的な困難を持ち出して安堵を強めているあたり、いよいよその気がない証拠であろう。武人はすぐ命を捨てたがり、文官はいざとなれば指の先の傷ほどの犠牲でさえ払いたがらず、過剰に恐れる。この国の宿痾といっていい。

 

「ああ、仰る通りです。お許し下さい、ついついその障碍を忘れていました」

「はっ、あは、あっはははははは、困ったものですなあ、長官閣下。あまり老人を驚かせないでいただきたい」

「では、近衛のほうは私がなんとかいたしましょう」

「――は?」

「道は必ず作ります。私はやると言ったらやる女だ、どうか信頼して任されよ。その日来る瞬間まで、くれぐれもご自愛下されますよう」

「…………」

 

 老人は、急に失語症を罹患したらしい。それ以上、彼の舌が音を紡ぐことはなかった。

 

 

 

 

(実際、そう的を外した考えでもなかろうさ)

 

 彼ら良識派が政治手腕でオネストを上回れる可能性など紙より薄く、ほとんど誤差の範囲であり、ならばいっそ思い切った盤外戦術に出るというのも有りなのだ。

 

(大臣とて、こればかりは読めまい)

 

 あの老文官本人には不可能でも、命惜しさが極まるあまり目眩(めくるめ)くような悪辣ぶりを発揮して、同僚の中からまだ血の熱い男どもを見つけ出し、そいつを煽って上手いこと殉死の役目を擦り付けることに成功したなら、さぞかし面白い展開が期待できることだろう。

 コジマとしても約束を口にした以上、どうあってもブドー大将軍を処さねばならず、悪謀の組み立てに一層熱が入るというものだ。

 なにしろああまで言った手前、もし彼らが覚悟を決めたにも拘らず、必要以上にぐずついて、いつまでも場を整えられない――水を腐らせてしまうようならば。

 

(そのときは、私が腹を掻っ捌かねばなるまいて)

 

 人に死を薦めた以上、当然のことだと彼女は無造作に認識していた。

 

(声で足らねば血によって、という誠意の示し方は本当にあるのだ。でまかせを言ったわけじゃない)

 

 それは真実、アーレルスマイヤーの血統に、古くから受け継がれてきた伝統なのだ。

 流される血もなしに、清算される呪いもない。

 要るというなら、容赦なくぶちまけてやるべきだろう。

 

(呪いは、解かれなければならないのだから)

 

 さもなくば、「焼け野」はずっと「焼け野」のままだ。悪夢が醒めることもない。

 

(それでは駄目だ。始まったものは終わらせねばならない。悪夢の終わり、夜と朝の狭間、最も暗いと謳われる、その刹那にこそ――)

 

 偉大なる上位者は待っている。

 青ざめた月は降りてくる。

 すべては準備だ、そのための。

 たった一夜の邂逅のため、我らは数百年の時を費やした。

 百万遍を超える祈りがあり、百億滴を超える血があった。

 それは宇宙的視座から俯瞰すれば笑ってしまいたくなるほどちっぽけで、しかし人間の尺度では膨大だ。

 決壊は近い。秘匿は必ず破られる。確固たる(・・・・)と無思慮に信じ込まれてきたあらゆる現実を打ち拉ぐ、夢の大氾濫がやってくる。

 押し寄せるその波濤にただ呑まれるか、それとも叡智と執念の限りを尽くして乗りこなし、ついには「突破」のための推進力たらしめるか。どちらが堕落で、どちらが貴い進化の道か。三歳児でも言い当てるに違いない。

 露払いは私が済まそう。赤血によって汚点を雪ぎ、いかなる密雲が立ちはだかろうと散らしてみせよう。

 だから、――だから。

 LUNAQVE SIVE NOTHO FERTUR LOCA LUMINE LUSTRANS......碧落を貫き地上へ注ぎ、遍く照らせよ月光よ。世界は蒙を啓かれる日を待っているのだ。

 

 

 

 

 笛の音色が聴こえはじめた。

 波が、高くなっている。

 

 

 

 

 



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10


今回、かなり激しく悩みました。仮にも主人公がこんなことしていいのかと。
しかしながら何度書き直してもこれ以上に彼女らしい行動は有り得ず、こうなれば腹を括るしかありません。





 

 

 

 ここにひとつの事実がある。

 コジマはよく働いた。

 血の医療によって変質した肉体は、彼女をして能率の(・・・)落ちない(・・・・)超長時(・・・)間労働(・・・)という、ふざけた行為を実現させた。

 世上に普く企業戦士にとって、垂涎の効果といっていい。もし、血の医療のこの面だけを聞きつけたなら、彼らはこぞって自らの、青く浮き出た静脈に輸血液を注ぎ込んだことだろう。

 大いなる神秘の領域から持ち帰った成果物を俗事の処理に利用して何ら憚らないあたり、コジマの人間性が窺える。

 とまれ、彼女は働いたのだ。身をすり減らし、常人ならとっくに過労死しているに違いない熱烈ぶりを発揮して。

 甲斐はあった。帝都の治安は回復の一途を辿りつつあり、誰もがそれを実感している。

 警備隊内部の洗浄も進み、組織としての体面、内実、共に充足の極みにあると評してよかろう。

 一見、いいことずくめなように思える。

 ……が、しかし、コジマが多忙を極めるということは。

 そのぶん、帝都の闇に立ち向かわんと奮い立ったある集団(・・・・)の仕事を奪っているということでもあったのだ。

 とりもなおさず、その事実は、一人の少年から成長の機会を奪うことにも繋がっていて。

 詰まる所、彼は未熟に過ぎたのだ。本来踏むべき仲間の喪失、箍の外れた狂人との遭遇、諸々経験していない。如何に伸び代の塊、将軍級の器といえど、こうした奈落の炎に炙られて、鍛冶(たんや)されねばどうにも越えられぬ一線がある。

 中身の練り(・・)の甘いまま、彼は今日のこの日を迎えてしまった。本人の過失でないにせよ、幾つもの段階を素っ飛ばしていきなりコジマ・アーレルスマイヤーという特級の魔と見えてしまった。

 とすれば何が起こるかなど、それこそ火を見るよりも明らかで。

 結局、あの結末に至るのはどうしたって逃れ得ない――不可避の因果だったのだろう。

 

 

 

 

 たおやかな旋律が船体の隅々にまで浸み透り、乗り合わせた人々からあらゆる気魄が抜けてゆく。

 

(心臓さえも、脈を打つのを止めそうな)

 

 無気力白痴の群れに加工された甲板上の客どもを眺めて、コジマは胸に賛嘆の念がこみ上げて来るのを自覚した。

 笛の帝具、「軍楽夢想」スクリーム。聴いた者の感情を自在に操作する帝具だが、これほど強烈な効果を発揮できるとは思わなかった。誰も彼もが倒れ伏し、四肢からは力が溶け落ちて、全身これ粘膜の軟体動物よろしくだらりと広がり、わずかに開いた口からは、涎が垂れ流されてとめどもない。

 

(帝具というより、使い手の集中力をこそ褒めてやるべきなのだろうか。ニャウ、残虐趣味の小僧めが、らしくもなく気合を入れやがって。私の顔も剥ぐ心算かね)

 

 させるものかよと念じつつ、コジマは作業を開始した。

 虚脱状態に陥った客どもの肉体を運搬し、適当な場所へ積み重ねて行くのである。しかもどうやら何らかの意図があるらしく、しっかり顔を確認し、こいつはここ、この女はこっちと配置に拘りをみせていた。

 態々テーブルを引っ張ってきて、それに寄りかからせるやつもいる。

 

「あんた、何を……くっ、力、が……」

「見てわからんか? 場を整えているのだよ」

 

 手を動かしながら肩越しに顔を向けてみると、案の定、先刻ブラートと連れ立って、時折何らかのやりとりをしていた少年だった。

 片膝をつき、息も荒く、見るからに苦しそうなのに、視線だけは真剣に、未だ力を残している。コジマに対し、あからさまな猜疑と警戒を向けていた。

 

「……場、だって?」

「そう。もうすぐ此処は修羅の巷と化すからね。このまま放置しておけば、この連中、余波を浴びただけで死にかねん。阻止してやらねばならんだろうさ、人非人と怨まれるのが厭ならば」

 

 コジマは、実に手際がいい。たったこれだけの会話の間に、もう全員を収集し終えた。

 次いで彼女は最寄りのテーブルクロスを引っこ抜き――料理も酒も微動だにせず、さざ波ひとつ立っていない――びりびりと、音を立てながらそれを裂き、幾つもの細長い布切れを作っていった。

 

「にしても、まだ立っていられる者がいるとはね。感心したよ少年、若い世代もまだまだ捨てたもんじゃない。あまり見たことのない顔だが、どこの家の人だったかな?」

「えっ、あっ、その、俺、は――」

 

 少年は、気の毒なまでに狼狽した。

 事前に聞き及んでいた人物像とあまりに食い違うコジマの立ち居振る舞いと、何よりこの異常事態に際会し、でっち上げた背景に関する設定が、すっぽり頭の中から抜け落ちてしまっていたのである。

 

(な、なんだったっけ?)

 

 地方富豪のお坊っちゃま、という最低限度の概要だけは覚えている。

 が、具体的にどの地方に根を張る富豪か、家名は、何代続く家柄かという詳細については、綺麗さっぱり思い出せない。まるで消しゴムで消されたように、いくら記憶を手繰ろうとしても一向手応えがないのである。

 

(やっべえ)

 

 募る焦燥に、思わず胃がひっくり返りそうになる。

 慧眼隼の如しと謳われた尋問の名手を前にして、とんでもない不様を晒している。即答出来なかった時点で顔色を失くすには十分なのだ。少年は、覚悟の臍を決めかけた。

 

「ん、答えられないか? わかるよ、脳が麻痺すると、舌を動かすのも億劫になるよな。海綿にでも化したみたく縺れてしまって、煩わしいことこの上ない。なあに焦るな、私はコツを知っている。まずはゆっくり深呼吸して、それから名前だけでも紡いでみようか」

 

 が、不審に思うどころではない。意外にもコジマは助け舟を出してきた。

 しかもその口調の優しさときたらどうであろう。厭味のない共感と同情が底にあり、少年の置かれた境遇、その苦しみを理解して、なんとか助けになってやりたいと願っているに違いないのだ。

 でなくばこんな穏やかな声で、吸ってー、吐いてー、などと言えるわけがないであろう。

 人は――特に男は――恐怖には立ち向かえても、安らぎには存外弱い。切り裂くのは容易でなく、そもそも警戒自体抱きにくい。少年は、不覚にもとびついた。――タツミ、と、呼気に紛れて本名をうっかり唇の隙間からこぼしてしまった。

 

(これで誤魔化せる)

 

 という安堵がそうさせた。

 

「そうか、いい名だ。ああ、名乗られた以上は返さなければ失礼だよな。――アーレルスマイヤー家当主、コジマ・アーレルスマイヤーだ。よろしくタツミ君、前途有望な若人よ」

「コジマ……さん、あんたは、どうしてあんただけは」

「平気なのか、と? なあに、種を明かせば簡単だ。この現象は要するに、音を介して脳に作用しているのだろう? だったら効かんよ、この程度で揺らされるほどヤワな脳みそは詰めていない」

 

 冒涜が足りん、汚濁が薄い。唾棄すべき音色には程遠い――と。

 タツミの眼から見れば、答えるコジマの態度は如何にも高官らしく泰然として、落ち着き払っているように映ったが、これは彼女一流の演技であって真実ではない。

 

(まさか、だな。他人の空似であれかしと祈っていたが、儚い希望か。運命とやらはつくづく皮肉を好む性悪らしい)

 

 内心、忸怩たる思いが渦巻いている。

 タツミと言うその名には、随分前から聞き覚えがあったのだ。忘れもしない夜の底、酸鼻を極めた拷問蔵の只中で、サヨが確かに口にした。

 医療行為というものは、施術だけでは完結しない。そして血の医療とは、最先端の科学技術と古い智慧の私生児である。少なくともコジマはコジマなりに、アフターケアの重要性を理解していた。その面で、心を通わせた幼馴染みというものは、大いに役立ちそうである。

 

 ――確保しておくに如くはない。

 

 名前、年齢、出身地まで掴んでいるのだ。さして労せず、消息は割れると期待した。

 が、案に相違して、待てど暮らせど一向に情報が集まらない。本腰を入れた調査でなく、低コストの失せ人探し程度に止めたのは失策だったか、とコジマは密かな悔いを抱いた。

 

(この具合だと、両人とも死んだか、それとも革命軍にでも入ったか)

 

 前者はまだしも、後者はまずい。彼らを捜す動向を相手方に探知されれば、不審を抱かれるのは必定である。

 組織内にて吊るし上げを喰らうか、それとも調査の仕手を再会出来ていない幼馴染みと判断して辿ってくるか。一応、指示は代理人(カットアウト)を通して飛ばしたが、その気になれば断絶を繋ぎ合わせることとて可能だろう。

 面倒なことになりそうだった。

 血の医療の被験者を手放すなど論外で、しかしタツミ・イエヤス両人があちらの思想に染まりきっていた場合、下手な接触は命取りになりかねない。よしんば転向までは至らずとても、サヨの精神に与える影響は甚大だろう。

 最悪、獣化の急激な進行まで予測された。

 もっとも一連の心配は、いざサヨが覚醒する段に及んで悉皆解消されたのだが。

 しかしながら、啓蒙的真実に関する事案でコジマに手抜きは有り得ない。

 スタイリッシュが心待ちにし、先日ついに実行された、サヨの故郷に対する擬装検疫作戦に於いて、実行部隊たる「聖歌隊」が二人についてもそれとなく探りを入れている。

 村人全員の血を採取し、一帯に伝わる伝承を調べ、更には帝都へ出稼ぎに行った若者達を調査する。それも所属と素性を偽って、だ。みるからに怪しげなこの任務を、しかし「聖歌隊」の面々は文句も言わず為遂(しと)げてのけた。

 

「素晴らしい。それでこそ、諸君らを選んだ甲斐があった」

 

 というコジマの台詞から、部隊内では忠誠心と命令への服従性を確認するための試験的任務だったのではあるまいか、と取り沙汰されているという。

 考える癖は重要である。部下が思慮深くなるのはいいことだった。その調子でいつの日か、宇宙は空にあると気付いて欲しい。

 収集した情報を元にタツミ・イエヤス両名の人相書きも作製し、脳裏に焼き付け、コジマは結果に満足している。

 血液の方は、目下スタイリッシュが不眠不休で解析に取り掛かってはいるものの、あまり期待していない。サヨは本当に、極小の確率で誕生した突然変異、紛うことなき例外(イレギュラー)であろう。

 彼女を迎えられたことは、コジマにとって、ここ数年来の僥倖だった。

 

(だからこそ、あの娘に対して不義理は働きたくなかったのだが)

 

 やんぬるかな、ここからの流れ次第では、自分がタツミを殺してしまう展開も大いに有り得そうなのだ。

 

 

 

 

 作製した布切れは、目隠しとして使用した。出席者達の目に、片っ端から巻き付けてゆく。

 

「あの、なんで態々、そんなことを? この人たちの眼は、どう見ても何も映していません」

 

 タツミの疑問はもっともだった。

 ニャウの入念な演奏により、まぶたこそ開いているものの、どの瞳もとろんと蕩け、薄い膜がかかったようになっており、明らかに機能していない。光刺激から電気信号への変換業務すら怠っているような、これはもう眼窩というより孔だった。

 

「私は心配性な女でね」

「…………」

「少々、刺激の強い光景が現出するのは請け合いだ。万が一にも記憶化されて、心的外傷でも負われてはかなわん。やれることがあるのなら、やっておくべきじゃあないか」

 

 今度は満更、嘘を吐いたわけではない。

 目の前で大砲をぶっ放されても無反応を守りそうな彼らであるが、しかし啓蒙的真実の暴露にさえも同様のままでいられるか、これはちょっとわからない。

 むしろ、白痴化しているからこそ危険と言える。

 下手に発狂者でも出そうものならおおごとだ。おあつらえ向きに莫大な水も揃っている。足下を滔々と流れている。水面に靄気(あいき)が滲み出しつつあることからも、最低限度の条件は整っていると看做してよく、となれば爆散した脳漿を触媒に、何が湧くやら知れたものではないだろう。面倒どころの騒ぎではなく、もしそうなれば、さしものコジマとて事態を収拾しきれる自信がなかった。

 

(それに、何より)

 

 月光を衆目の前に晒すなど言語道断。考えるだに血圧が急上昇して気死しかねない恥辱であった。

 

(白昼、路上で強姦された方がまだましだ)

 

 馬鹿げているが、本人は大真面目なのである。正気でそう信じていた。

 コジマにとって、それは単なる羞恥心の問題に止まらず、なにか手酷い裏切りのようにさえ思われるのだ。神秘的――否、そのもの(・・・・)といっていい花緑青の大刃は、彼女の、彼女だけのものとして、固く密かに秘されるべきであるだろう。

 逆説的に言うならば、コジマがこれを披露した際、籠められた意味は二つに一つ。何が何でも此処で貴様を終わらせるという容赦なき抹殺宣言か、それとも背中を預けて共に夜を渡ろうとまで信頼し抜いた、満腔の友情表現か。このどちらかしかないのである。

 

「……手伝いますよ。それくらいなら、俺にだって出来る」

 

 その一切を、むろんタツミは知る由もない。

 これは案外、いける(・・・)のではなかろうか、と甘い希望に魅せられて、コジマに提案を試みた。

 

「おや、そうかね。ではあちらを頼む」

 

 あっさりした返答に、もはや疑念も抱けない。差し出された布束を無造作に受け取り、指示された方へと歩を進める。

 作業に紛れて護衛の武器を掠め取るのも、信じられないくらい上手くいった。

 

(やっぱり、全然警戒されてねえ)

 

 ここまで都合よく事が運ぶと、却って申し訳なくなってくる。自分は人の好意につけこむという、最低な行いをしているのではあるまいか?……

 本来、殺しを(ひさ)ぐ人間が囚われるべき感情ではない。

 タツミは、そこが生煮えだった。つい罪悪感を覚えてしまった。となれば、連鎖して次にやってくる感情は何であるか、ほぼほぼ察し得るだろう。

 

(みんな、誤解してるんじゃないか? 案外この人、話せばわかってくれそうな)

 

 自分だけがこの麗人の真実を知っているという、同情と義憤と侠気とが綯い交ぜになったものである。

 少なくともマインの言っていた、

 

 ――冷酷、傲慢、差別主義者の糞袋女よ。あいつの額に風穴空けろって仕事なら、タダでも喜んでやるわ。

 

 との評は、当たっていないように思われた。ネギの先っちょでも千切るみたく捕虜の首をもいで(・・・)まわったとか、命令に背いた部下の腹腔に手を突っ込んで、引き摺り出した小腸で首を絞めて殺しただとか、流石に尾鰭がつきすぎだろう。

 南方でやらかしかけた民族浄化(・・・・)、彼女に虐殺者の汚名を負わせた悪名高き一件も、職責に対する過度の自覚が齎した発作的行為に過ぎないのではなかろうか。だからと言って罪が軽減されるわけではないが、もしそうならば説得の余地は残っている。

 

(もし、味方につけることが出来たなら――)

 

 その恩恵は計り知れない。帝都に於ける革命軍の活動は、その日を境に一変しよう。重度の糖尿病を患っていた人間が、適合性の完璧な腎移植を受けるようなものである。透析を含めたあらゆる不便から解放されて、どんな仕事ものびのびこなせる、我が世の春が手ぐすね引いて待っている。

 

(こりゃ凄え)

 

 度を失ったタツミの思慮は、ついにこんな大構想にまで到達した。

 一面、彼の大器を証明するものかもしれない。

 

「コジマさん」

 

 声の上擦りは、なんとか抑え込めたと思う。

 

「ん? どうした、布が足りなくなったか?」

「いえ、そうじゃなくて。――何と言うか、随分噂と違いますね」

「ふむん。大方、血に飢えた鬼畜とでも言っていたかね? 私のことを、ナジェンダは」

「いやあ、頭のいかれた権力亡者……ッ!?」

 

 そこまで言って、漸くタツミは戦慄した。なんの気なしな声色で、いま、こいつは何を言ったのか。どうしてボスの、ナイトレイドのリーダーの名がここで出る。

 

(バレていた――)

 

 思うより先に、体が動いた。鞘を払って翻身し、無防備な背中めがけて斬りかかる。

 

「くくく、あいつらしい物言いだ」

 

 耳元で柔らかな声がする。

 冷たい両刃のきらめきが、なにもない中空を斜めに裂いた。体勢を崩すほど下手ではない。すかさず剣先を返そうとして、叶わなかった。視界の外から延びた手が、タツミの腕を掴まえて、思い切り捻り上げている。曲がってはいけない方向に曲がりかけ、関節がみしみしと悲痛に鳴いた。

 

「どうして、どうやって、この野郎――!」

 

 瞬きなどしなかった。

 にも拘らず、コジマの回避運動の一切が、タツミの眼には映らなかった。映画のコマ落としよろしく、気付いたときには側面に廻り込まれていたのである。掌が勝手に開き、折角拾った得物が落ちて、板張りの床を傷つけた。

 

「それが人にものを尋ねる態度か? まあ、慇懃無礼に訊かれたところで、精進しろとしか答えようがないのだが――なっとぉ!」

 

 膝を内側から蹴り飛ばし、タツミの身体をがくんと落とす。重心の崩れをいいことに、そのまま襟首を掴んで引き回し、風をまいて迫りつつあったノインテーターの穂先に晒してやった。

 

「――ッ!」

 

 鎧の帝具、「悪鬼纏身」インクルシオの副武装。鋭利なこと鋼鉄を貫いて余りある大槍は、しかし少年の柔い肉をほんの僅かに縫っただけで停止していた。

 

「よう、百人斬り。態々死地まで、足労だったな」

「てめえ、アァレルスマイヤアアァァァッ!」

 

 既に装甲は展開され、彼の表情を窺い知ることは叶わない。

 が、相当激しく猛り狂っていることは、怒声だけでも明らかだった。

 

 

 

 

 靄気に呼応するかの如く、天にも雲が広がり始めた。

 鼻の奥で雨の到来を予感する。万象、固有の色彩が、順次剥げ落ちつつあった。境界線が曖昧となるこういう時こそ、人はよく魔に魅入られる。

 

「さて、とりあえず後ろに下がってくれないか? 君の発散する気は暑苦しくてかなわない。このままでは話をする気にもなれんのだ」

「殺し屋相手に、人質が通用すると思ってんのか? 随分おめでてえ頭じゃねえかよ」

「そこのところを確かめてみたくもあってなあ。何事も、やはり我が身で実証せねば。――下がれ、ブラート。二度はない」

「…………」

 

 ――駄目だ、兄貴。俺に構わず、やってくれ。

 

 そう叫べたらどれほどよいか。が、コジマの拘束は周到だった。腕が蛇のように絡みつき、絶妙の加減で喉を締め上げ、どんなに気合を入れようと呻き声しか漏らせないようにされている。

 タツミの切なる願いもむなしく、やがて重いものが床を擦りつつ遠ざかる音が聴こえてきた。

 

「結構、そこで止まれ。その位置がいい、すごくいい。……ああ、そう睨んでくれるなよ。人質の価値を失くすほど、馬鹿高い要求をする心算はないさ。他愛もない質問に、幾つか答えてもらいたいだけだ」

「他愛もない、ね。価値観について、てめえの秤は偏ってるって有名だがな」

「世間が間違っていることを祈りたまえよ。――では、まず一つ目。革命軍(・・・)は私の抹殺を決定したのか? その方針で一決したと?」

「ああ? 知るかよ、なんで反乱軍(・・・)の事情を俺に訊く」

 

 鼻をかむようなさりげなさで、コジマはタツミの指を一本、へし折った。かっと眼が見開かれ、肺腑が激しく収縮する。痛みを悲鳴で誤魔化せないのが、苦しみを更に助長した。

 

「タツミぃ!」

「吐くならもっとマシな嘘を吐いてくれ。でないと、折れる指があっと言う間に尽きてしまう」

「ゲスが!」

「おいおい、素人みたいなことを言わんでくれよ、仮にも元軍人が。作戦情報の収集上、茶飯事だったろう、こんなもの。敵に捕縛されておきながら、虚偽の供述をして殴られないと思う奴こそどうかしている。もし身に覚えがないのなら、そりゃ君の目が届かぬどこかしらで、代行役を務めてくれた何者かが居たのだろうさ」

「そんなだから、俺はこの国に仕えるのを止めたんだろうが。何も変わってねえと今改めて実感したぜ、てめえも大臣も根は同じ、糞溜めで肥えた蛆虫野郎だ」

「で、革命軍に転向したと。素晴らしいな感服したよ、人間とはこうまで愚かになれるものなのか。国家の敵への暴力行為は駄目と言い、つむじから湯気を立たせる分際で、麻薬の密売は寛恕すると、そんな奴がいるとはね。私から見りゃ、そっちの価値基準こそ少々常軌を逸している」

「なんだと?」

 

 ここまでのやりとりを通して、微かながらも、初めてブラートが芯から揺らいだ瞬間だった。

 

「おや、意外だな。ここはてっきり、取引相手は将来の仮想敵国だから問題ないと戦略上の正当性でやり返してくると思っていたよ」

「何を言ってやがる」

「とことんまで惚ける心算か、それとも本気で知らんのか。――ふむ、そうさな。どっちにしろ乗ってやろう。たぶん今頃、テンスイ村なる辺境の一集落が、地図から消されている真っ最中だが」

「!?」

「罪状は異民族との勝手交易、及びその利益を革命軍に供与した、即ち国家反逆罪。――だが、なあ、しかし、ブラートよ。君、あの村を実見したことが一度でもあるかね?」

「……いいや」

「私はあるぞ。だから当然、疑問に思う。交易と言うが村の連中、これといった特産品も無く、その日のめしにも難渋していた有り様のくせして、いったい何を売り捌いていたのだろう、と」

 

 抜け荷の罪は重大だ。特に交戦国相手となれば洒落では済まない。露見すれば最低でも一族郎党皆殺しは固かろう。

 それほどのリスクを覚悟してまで、なお取引するに値するハイリターンな商品とは果たして何か。穀物、毛皮、香辛料――いずれも条件を満たしているとは言い難い。胡椒が黄金と同じ価値を有した時代など、とうの昔に過ぎ去ったのだ。

 

「加えて陸路というのも見逃せないな、軽量で隠し易く、且つ高価であることが、ますます望ましくなってくる」

 

 となればこれはもう、麻薬以外にないであろう。これほど慢性的に供給が需要に追いついていない商品も珍しく、ゆえに何処へ持って行っても歓迎される。

 現に我々の世界に於いても、最も金になる犯罪は、誘拐、強盗、偽札造りを抑え込み、麻薬売買が伝統的に堂々一位を占めている。そして革命とは――革命に限らず、あらゆる政治的活動に言えることだが――とにかく金の要るものだ。

 

「使命感さえあれば強力な軍隊が組織出来ると、もし本気でそんな風に考えている奴がいるのなら、そいつは間違いなく知能に重篤な欠損を負っている。速やかに距離を置くべきだ」

 

 おまけに革命軍の標榜する目的は、地方割拠などというせせこましいものでなく、壮大な軍旅を起こして中央を落とそうというものではないか。かかる費用は、戯れに概算しただけでも目玉が飛び出そうな額に及ぼう。

 

「有志からの供出や、富豪を強請って賄いきれるものでは断じてない」

 

 現にその二つを頼りにした清朝末期の辛亥革命などに至っては、財政に極端な窮乏を来し、到底独力では政府を脅かすだけの軍事力など整えられなかった事実がある。

 もしこの時、中華の大地に袁世凱なる政治的怪物が存在しなかったのならば、世界はどうなっていただろう。野心に満ちたこの魔人にとって、革命勢力とは皇帝を退位に追い込む格好の脅迫材料に他ならなかった。

 ゆえに、支援した。強力に。革命軍を討伐するという名目で、清朝から引き出した資金をそっくりそのまま当の革命勢力に横流しするという方法で。

 魔術的な政治芸といってよく、彼にこれほどの天才が包蔵されていなければ、その後の歴史がどう変転していたかわからない。

 が、現下の帝国に袁世凱(・・・)()いなかった。

 であるが以上、革命軍はまた別途、資金調達の道を模索する必要性に迫られる。

 そして革命の看板は、快楽の煙と親和性が非常に高い。

 地球の歴史に即して述べるのならば、ペルーの熱狂的毛沢東主義集団たる「輝く道」か、マフィアと結託した左派ゲリラ、コロンビア武装革命軍(FARC)が有名か。

 あとはヒズボラ、タリバンと、例を挙げればきりがなく、革命の資金調達に白い粉を売り捌くのはもはや常道といっていい。

 そして事実、潤沢な資金の確保に成功した彼らは強かった。

 

「要するにこういうことだよ、テンスイ村を擁する山岳地帯の何処かに()があって、民家の内の幾つかは、擬装された工場だ」

「出鱈目だ。その手は喰わんぜ、扇動屋」

「焼却部隊ではなく暗殺部隊を派遣して、村民だけを一掃するよう命じたあたり、いい証拠になっている。工場や畑は無傷で残し、そのまま利用する気なのさ、オネストは」

 

 そうして新たに生産された粉末は、流れを一八〇度転換し、今度は帝都に向かって流れ込む。

 

「私の仕事がまた増える、と。いやはや、迷惑極まりない」

「いい加減に黙りやがれ。ペラペラペラペラ、偉そうに、根も葉もねえことでっち上げて悦に入ってんじゃあねえぞォッ!」

「ああそうかもな。私の言葉など一から十まで捏造で、諸君らを混乱させ、不信の種を胚胎せしめ、やがては内部分裂に導くための真っ赤な嘘に違いない。――そう疑うのは自然だよ、むしろあっさり信じられていたならば、なんたる軽佻浮薄な粗忽者かと失望していた」

 

 やはり真実とは、誰かの語る言葉ではなく、自分の心で知らねばなあ、――と。ぬけぬけと語るコジマに対し、ブラートは、石地蔵の頭を刺そうと躍起な蚊にでも化したが如き無力感が拭えない。

 

(俺に議論や交渉の能が無いのは知ってたが――にしても、これは)

 

 浴びせられる論理の痛烈さはいっそ快感を伴う域に達しており、ふと気が付けばもっとこの明弁に触れていたいと惹き込まれている自分がいて、魅せられた分だけ彼女に対する畏怖の嵩が増してゆく。

 

(もしこいつが五年早ければ、ひょっとすると、俺達は)

 

 闇に堕ちる必要などなかったのではないか? と。

 甘酸っぱい未練にともすれば惑わされそうになり、それを断ち切るためにも殊更激してどやしつけてみたのだが――気味が悪いくらい手応えがない。

 硬軟自在、伸縮可能な不定形生物でも相手にしているような心地がした。

 こちらが刃を振るっても雲を突いているようで一向手応えがないくせに、いざあちらが弁じ立てる番になるとその舌鋒は途端に鋭く、急所を抉り、ついには急峻な坂道で巨岩を背負わされているように、息をするのも困難な域まで圧される。

 

 ――だから、あいつと遭っても会話はするな。何と呼びかけられようが、全部無視して踵を返せ。

 

 という上司(ナジェンダ)からの勧告が、今更ながらに耳朶の奥で甦る。あれはまったく正しかった。

 

 ――とにかく逃げるのが最適解だが、どうしても逃げられない状況ならば、仕方ない。耳に栓でも詰めてひたすら殴れ。

 

 続いて聞かされた対処法に従いたいのは山々である。

 が、タツミが人質に取られている以上、そうもいかず。

 

(何もかも気の迷いだ、しっかりしろ、俺。こんな奴相手にこの俺の燃える情熱が、汚染されてたまるかよ)

 

 自戒して、自戒して、自戒し尽くして対話に臨むブラートだったが、その後革命軍の内情を尋ねるコジマに対し、彼の口が知らず軽くなっていたのは疑念を挟めぬ事実であった。

 種はしっかり、肥沃な大地に根付いたらしい。

 

 

 

 

「なるほど、ようくわかった。この状況を招いたのは、偏に君らのやり口の拙劣さに由るものだ。ナジェンダめ、少し見ぬ間に脳みそまでカビたのか」

「そうやって、人を見下していればいい。侮るなよ、俺達は必ず、お前に報いを受けさせる」

「テロリストの脅迫には屈さんよ、私は言いたいことを言う。――そも、この少年を着飾らせて潜入させようとしたのが失策だったな。具眼者ならば、服を着ているか着られているかは一秒で見抜ける」

 

 脳に孕んだ未熟な瞳の恩恵という、裏技はむろんのこと明かさない。コジマは、適当にそれらしいことを言って茶を濁した。

 

「で、あんまりにも怪しいものだからひとつカマをかけてみた、するとあっさり馬脚を現した。焦りか何か、動機は知らんが攻撃されたのでやり返したと、どうだ、私の行動に手落ちはあるまい? 失態を犯したのも、先に殴りかかったのも、それに不法に乗船したのも君らの側だ。非難されるのは筋違いだし、心外だよ」

「それで?」

「ん?」

「俺に何が言いたい、『アーレルスマイヤーの虐殺者』。詫びか? 土下座して靴でも舐めて欲しいのか?」

「私をエスデスと取り違えてないか? はっきり言うがあいつと違ってこの私には――ああ、いい、やめよう。そんなことはどうでもいいのだ。もっと建設的な話をしようじゃあないか」

 

 ナイトレイドの目的は、畢竟文官の保護と名を騙られたことへの報復であって、コジマの殺害は任務の達成条件に含まれていない。

 革命軍の上層部でもコジマの処置に関しては意見が分かれ、纏りを得ず、留保されているのが正直なところだ。断固として殺すべし、帝国民に我ら以外の希望は不要と怒号する者もいれば、大勢がこちらに有利になれば彼女は説得に応じ得る、名声ごと取り込むに如かず、下手な刺激は命取りだと訴え譲らない声もある。

 ナジェンダが勧告の中でまず逃げろ(・・・)と言ったのも、そうした背景の錯綜に依っているだろう。

 

「私としても、どうあっても今すぐ君達を殺さなければならないほど、切迫した事情は抱えていない。此処へは警察長官としてではなく、アーレルスマイヤーの当主として招かれた身だからね。つまり、この場に於いてのみではあるものの、我らは妥協が成立し得る」

「待て。おい待て正気かおい、ここまでやっておきながら、まさか今更、手を組もうって言い出すんじゃないだろうな」

「いや、言う心算だが? 手を組もう」

「…………」

 

 絶句した。

 この厚顔ぶりは、ちょっと理解を超えている。何処に心臓がついているのか見当がつかなくなるほどだ。

 

「むしろ何故、訝しがるのかわからんな。より豊富な収穫のためなら、未来の食物の上に糞を撒き散らす嫌悪感だって乗り越えてゆく、それでこそヒトというものじゃあないか。目的の為なら好悪を投げ捨て、なりふり構わず行動してこそ人間性の証明だろう」

「糞を、か」

「あくまで形式に拘りたいなら、仕方ない、私が依頼を出してもいいぜ。この事件の主犯を始末しろ、とな。契約しよう。報酬は――そうさね、命の保証が妥当なところか。私から君達二人にこれ以上の危害は加えず、無事にこの船から降ろすと誓う。勿論、後を尾けることもしない」

「……!」

「どうだ」

 

 コジマは、見るからに愉しそうに言葉を継いだ。魂の契約書を鞄に詰めた悪魔が見れば、あれこんな親戚がいたっけかと戸惑いそうな貌だった。

 

「悪い条件ではないだろう。むしろ破格といっていい。ここは一つ、手を打ちたまえよ」

 

 

 

 

「駄目だな。潰し合いを始めればと期待したが、ブラートめ、あの調子では逆方向に堕ちかねん。これ以上待ったところで状況が悪化するだけだ。――ダイダラ、やれ」

「応よ。待ちくたびれたぜ」

 

 

 

 

 コジマはまず、タツミを思い切り突き飛ばした。

 右手側、船内に続く通路の奥から、猛烈な勢いで飛来する「何か」を感知したためである。

 向き直ると、正体は意外にも人であった。

 それも女だ。歳若い。服装から推察するに、給仕であろう。主に飲食の接待を役儀として船の一員になった少女は、何の因果か脳の機能を強制的に停止させられ、いま砲弾の如く飛翔している。

 

(そうきたか。――そこまでやるか、やれた(・・・)のか(・・)

 

 クラシックなロングスカート。下に何かを隠すには最適な、ゆったりとした装飾こそ彼女が選ばれてしまった原因とみて相違ない。

 

(弔いはする)

 

 動かず、避けず、一見受け止めようとするかのような勢を示したコジマの前で、少女の脚が真っ赤に爆ぜた。

 両の腿に括り付けられ、スカートの下に隠されていた容器から、水が槍となって射出された反動である。

 血飛沫を後ろに、乗り物(・・・)に先駆け、六条の水刃がコジマめがけて殺到し、

 

「狗め」

 

 暗く滾る月光が、迫る一切(・・)、小賢しいと塵も残さず消滅させた。

 顕現した聖剣を担ぎ直して、姿を露にした三獣士へと呼びかける。

 

「なるほどな、ついに真実、狗畜生に成り下がったというわけだ。誇りも名誉も棄て去って、ふふ、さぞや体は軽かろう? 羨ましいよ、なんとも生き易そうじゃあないか」

「漸く見せたな、それが『月光の聖剣』か。唯一本懐を遂げた臣具、眉唾だと思っていたが、触れ込みは確かだったらしい。私の水が蒸発ではなく消滅した。単なる熱の放射だけでは、こうはならぬ。――得体が知れんな。二人とも、瞬きほどの油断もするなよ」

「……揺れんか、もはや」

 

 狂気を克服するためには、より巨大で純度の高い狂気に身を浸すより他にない。

 時の流れを押し返し、無限に沸騰を繰り返す宇宙の深淵に直結した刀身を目の当たりにして、こうも淡々と振舞えるあたり、覚悟は決まりきっているのだろう。

 生死を離れ、手段を選ばず、ただどこまでも闘い続ける修羅がいる。

 

「しかし惜しいな、元将軍よ。どうせ棄てる矜恃なら、もっと以前に擲っていれば、貴様は今も将軍のままであれたろうに」

 

 具体的には、片意地を張らずオネストに賄賂を贈ってしまえばよかった。

 万が一にも自分が更迭されるような目に遭えば、残される部下はどうなるかと、そういう大義名分もあの時点では充分成立し得たのだから。

 本当に勝ちを目指すなら、敵の意中に身を委ね、一時的に道化を気取って踊るくらいがなんであろう。他ならぬコジマ自身、軍人時代に何度かそうした忍辱を強いられている。

 なにしろ戦地へ着く以前、行軍の段階に於いてさえ、袖の下を通さなければろくに宿舎も確保出来なかったのだから。怒りを通り越して唖然とした。

 

(私独りならば、よい)

 

 プライドと心中するのも勝手だろう。そんな腐れ長屋に誰が泊まるか、藁に潜って寝たほうがましだ、せいぜい夜道に気をつけやがれと唾を吐き捨てて去ればいい。

 

(が、今や仮にも一集団を率いる身だ。こんな馬鹿なことで彼らの戦闘能力を削ぐわけにはいかぬ。自尊心の犠牲にして許されるのは、原則自分だけだろう)

 

 コジマはその行為に埋没した。いつか必ず復讐すると、密かに怨念を募らせながら。

 そして現に、それが可能な地位にまでのし上がってみせたのだから、この女は侮れない。心当たりのある連中は、さぞや怯えたことだろう。

 

「どうでもいいことだ。あの方に仕えなかった私になど、何の興味もありはしない」

「その台詞。仮にも元部下の前で言うことかね」

「……ブラートか」

「名前を呼ぶな、俺の名を。リヴァ将軍はとっくの昔に死んだんだ。その皮を被っただけのケダモノが、よくもやりやがったな、おい」

 

 熱いだけでは生き残れないとタツミに言った。取り乱すなと、常に周囲に気を配れとも。

 

(だが、無理だ)

 

 こんなことを見せられて、頭に来ない奴はいない。

 打算も利得も放り投げ、自分が逆上することを、ブラートはむしろ誇りに思った。

 

「何の関係もない、何も知らない、ただそこにいただけの女を! てめえだけの都合で! 外道どもッ! 一丁前の人間ヅラして、心臓動かしてんじゃあねえェェ――ッ!」

「兄貴ィ……!」

 

 大喝破の熱にあてられたか、折られた指を元の位置に無理矢理戻し、タツミがゆらりと立ち上がる。

 既に痛みを感じていない。戦意はどう見ても最高潮。吐き気を催す邪悪を前に、ナイトレイドは正義の怒りに燃えていた。

 それはいい。

 問題は、その熱量が確実に、コジマに対してまで向けられていることである。

 

「交渉は決裂、というわけか。人質を離した途端にこれとはね、現金なことだ。どうやら君を買いかぶっていたらしい」

「わかってねえな、狂人が。ここでそんな発想しか出来ない奴を、どうして信じられる。語る誓いに、どんな重みを見出せってんだ。――あの()を吹っ飛ばしておきながら、平気でせせら笑ってるてめえなんぞと組んだなら、手が腐っちまうんだよ!」

「ああそう、それは残念」

 

 ……月光の威力を調節すれば、脅威だけを一掃することも出来たろう。

 

(が、そうしてあの娘を受け止めたところで)

 

 どの道救かる命ではない。彼女はとっくに終わっていたのだ。胃の中に、たっぷり水を詰められている。この第二の仕掛けがたちどころに作動して、親でも見分けがつけられぬ肉片へと加工されるだけだった。

 言ってしまえば人間爆弾。投げ付けられたのは、肉体以上に心を削る、最悪の兵器だったのだ。

 

(ならばいっそ、私の手で、だ。殺してやれば、血の遺志を引き継ぐことも可能となる。私の中で蠢いて、三獣士への復讐に、ある意味共に赴くことが出来るのだ)

 

 そんな合理的思考に基いての行動である。

 正当性は我にありとコジマははっきり確信していて、であればこその曇りのない眼差しが、却ってブラートに血の通わぬ破砕機めいた印象を与えてしまったのだろう。

 事実、まともな人間の神経ではない。

 この女はきっと、それし(・・・)かない(・・・)と、必要に迫られさえしたならば、人質ごとテロリストを吹き飛ばす作戦とて躊躇なく決行するのだろう。

 次の人質事件を抑制するためと、まことしやかに嘯いて。

 明らかに人道を踏み外している。

 こんな人間が、よりにもよって治安維持の責任者とは、いったいどんな悪夢だろうか。

 

(殺す。こいつは殺さないと駄目だ)

 

 人間としての根本倫理が、ブラートを猛々しく焚きつけていた。

 

(気高いことで。――まあ、いい)

 

 その気高さゆえに、不信の種を植え付けて無事に帰せばゆくゆくは、革命軍とナイトレイドの分離工作に役立ってくれるかと期待した。

 自分が如何に契約に対して義理堅いかを上層部の保身に長けた閣僚どもに悟らしめ、彼らの心に安堵を与え、楽な気持ちで裏切りを打てるよう導く材料にもなったろう。

 

(敵は細かく分断するに限る。可能な限り調略し、戦う前に立ち腐れの状態までやってしまうのが最上だ)

 

 そうした狙いからも、ひとつ懐柔を試みたが……最後の最後、三獣士に横から引っくり返された。

 

(しかし、これでもう、舞台袖には誰も居ない。横合いから殴りつけられる危惧は不要。全員表に引っ張り出して、ふふ、随分やり易くなったじゃあないか)

 

 最上ではなくとも、及第点は超えていると判断してほくそ笑む。

 始まるのは妥協を排した三つ巴。三者が三者、自分以外の全滅を欲し、血みどろになって殺し合う。戦いは混迷を極めるだろう。

 そしてこの種のおおっ(・・・)ぴらな(・・・)混沌(・・)こそ、コジマの非常に得手とするところであったのだ。

 

「ならば貴様は国賊だ。駆除すべき、下劣な売国奴というわけだ。よろしい、アーレルスマイヤーの手並みを見せてやる。どいつもこいつも、次の目覚めは血の池だ――!」

 

 

 

 

 層々と積み重なった黒雲から、気の早いしずくが一滴、地に降りた。

 船の舳先に命中し、矮躯を砕き、たっ、と孤独な響きを残す。

 彼の仲間がその背を慕い、大挙して押し寄せる頃にはもう、船の上では四つの命が消えていた。

 

 

 



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11


およそ五ヶ月ぶりの投稿…
赦してくれ…赦して…くれ…





 

 

 

 思えばその日は、最初から嫌な予感がしていたのだ。

 現地の警備責任者として勤務していた某大尉は、往時をそう回顧する。

 

「なに、竜船が?」

 

 もう戻ってきたと言うのである。

 にわかには信じ難い報告だった。離岸してから、まだ数刻と経っていない。事前の航行計画では、往路の途上に在る筈である。

 

「何かの間違いではないか。望楼の連中、この真昼間から酒でも喰らっていたのではあるまいな」

 

 諧謔を弄びつつも、彼の声色には、隠しきれない(ふる)えがあった。むしろそうであってくれ、と願っているかのようだった。

 さもありなん、馬車のように、忘れ物に気付いたからといってすぐに取って返せる乗り物ではないのである。

 船だ。

 それも皇帝陛下の御巡幸艦、城かと見紛う巨大船。おまけに本日、その船体は、雲の上のお歴々が寄り集まって鵜の目鷹の目を光らせる、一大交際場裡と化している。急病人への備えとして、船医だって増員された。余程のことでもない限り、進路の変更さえ有り得ぬだろう。

 

(が、もしも真実、戻ってきたとするならば――)

 

 それはつまり、「余程の事態」が発生した何よりの証拠ではなかろうか。

 

(碌でもない。絶対に碌でもない事態だ畜生め!)

 

 こんな状況に立たされて、それでも声の慄え程度で済むならば、むしろそいつは豪胆の評を受けていい。

 己が眼で状況を確かめるべく望楼へと向かった大尉は、その途中、何度も階段を踏み外しかけた。

 自分が登っているものが、ふと死刑台への十三階段に見えたのである。しかもそれは、あながち錯覚とも言い切れないのだ。

 

(帰りてえ)

 

 今すぐ此処を逃げ出して、安酒と、馴染みの娼婦に溺れたかった。あの細い腰に指を(うず)めて抱き寄せて、白い肉と熱い血を、思い切りむさぼり尽くしてしまいたかった。

 ところが現実の彼の手は、堅い遠眼鏡を掴んでいる。部下からもぎ取るように受け取ったそれを、血眼で覗き込んでいる。

 

「――――」

 

 雨にけぶる景色の向こう、映っていたのは絶望だった。

 獣めいた呻吟が、彼の喉奥から漏れた。

 不意に重力が消失する。かくんと膝が落ちかけた。

 

「大尉殿!?」

「鐘を鳴らせえええええッ!」

 

 警報の発令である。直ちに緊急対処体制が整えられた。

 竜船の巨体がゆっくり近付き、埠頭に横付けされるに及んで、兵卒の端々に至るまで、大尉の受けた衝撃が共有されるようになった。

 

(なんということだ)

 

 至るところ、傷だらけなのである。

 欄干などは八割方が吹き飛んでしまって影もない。甲板は割れ、船腹にも岸壁を擦ったような痕があり、全体的に風通しがよくなっている印象だ。

 あってはならない光景だった。

 帝国の権威が傷付けられたと物狂いしたように言い騒ぐ連中の姿が目に浮かぶ。その怒りの矛先は、下手人はむろんのことながら、犯行を阻止すべく配置されていた沿岸警備隊にも向けられるに相違ない。

 

(つまりは、俺達のことではないか)

 

 兵どもの顔色が、みるみるうちに蒼褪めた。

 無能と糾弾され、吊るし上げられる未来図に、世界の総てを呪わずにはいられないのだ。

 その只中に、竜船上から魔の如く飛来した影がある。

 

「あっ」

 

 大尉は、ふと妙な既視感に襲われた。この光景は、つい数刻前に一度見ている。その時降り立った人物は、そうだ、確かに――

 

「警察、長官――殿ッ……!」

「やあやあ、諸君。出迎えご苦労、私である」

 

 果たして、影はやはりコジマであった。

 ただ、その風采は一変している。

 外套は赤黒い襤褸屑と化し、羽織っていると言うよりも、纏わりついているといった表現こそが相応しい。その下の軍服も無事ではなく、あちらこちらと切り裂かれ、白い肌が露になって、醸し出される艶めかしさは直視するのを躊躇うほどだ。

 が、それにも増して目を引いたのは、やはり右手にぶら下げられた物体であろう。

 

「ちょ、長官殿、それはいったい――」

「大尉、君は知っているはずだ。酒場で、街角で、城壁で、何度も目にしているだろう? ――手配済みのナイトレイド、その一人、『百人斬り』のブラートだ」

 

 そう言って、未だ血の滴る生首を、コジマはずいと掲げてみせた。

 

「す、すると、この有り様は」

「うむ、畏れ多くも皇帝陛下の竜船に不敬をはたらいた下手人である。――晒せ」

 

 沿岸警備隊に対する直接の命令権など、本来コジマは持っていない。

 海軍の管轄なのである。

 まずは船上に人を入れ、現場検証を行うことで、この発言が真か偽か、確認するのが道理であろう。コジマ・アーレルスマイヤーとてそれまでは、推定容疑者の一人の筈だ。事情聴取を名目に、尋問室へ連行しても文句は出せない立場である。

 ところが当の大尉の反応ときたらなんであろう。脊髄に電流を流し込まれたかのように姿勢を正し、頭を垂れて両手を差し伸べ、まるで王侯から栄爵を賜るさながらに、恭しくその物体を受け取っていた。

 

「それとな、大尉。運河沿いの両岸に、哨兵を派遣してくれたまえ。一人逃がした。手傷は負わせたが生きていよう。この雨だ、痕跡はあっという間に消えるだろうが、可能性は捨てたくない。対象の特徴はここに纏めてある」

 

 と、手を取り紙片を握らせて、

 

「頼んだぞ」

「はッ、直ちに!」

 

 完璧な敬礼で応えてみせた。

 それ以外の対応は、ちら(・・)とも脳裏をかすめなかった。

 事態の転がるあまりの速さに脳の機能が追い付かず、茫然と突っ立っている部下共へと喝を入れる。唾を飛ばして怒鳴ることで、彼は必死に自分が今見たものを忘れようと努めていた。

 

(笑っていた。――)

 

 雪すら嫉妬しかねない真白の頬を、ほんのり桜に色づかせ。

 コジマはずっと、蕩けるように微笑んでいた。

 その瞳孔はときに焦点を失い彷徨し、重度の熱病患者を連想せずにはいられない。

 熱。

 そう、熱だ。

 彼女の中で殺人の興奮、黒々としたその余燼がとぐろを巻いて、蛇体を軋らせもっともっとと哭いているのだ。

 

きんたま(・・・・)がずり落ちそうになったぞ、冗談じゃねえや、化物め)

 

 むろん大尉とて、そこは軍属の身の上だ。使命感に勇み立つ、紅顔初々しい新兵ばかりを相手にしてきたわけではない。

 時には明らかに娑婆で何人か殺していそうな、有り余る殺人欲求の捌け口として軍役を志願したとしか思えないような奴もいた。

 世に云うところの屑中の屑、戦争がなければ猟奇殺人者にでもなるより仕方のない手合いである。この種の輩には――誰も明言したがらないが――それ相応の扱い方が、軍には確と存在している。言葉に出せない彼らの密かな衝動を、どう任務という形に当て嵌めて満たしてやればよいものか。経験から、大尉は十分承知していた。

 対処法さえ掴んでしまえば、それはもう、化物でもなんでもない。単なる一個の消耗品だ。怯える必要がどこにあろうか。

 

(だが、違う)

 

 コジマ・アーレルスマイヤーは、その種の手合いと決定的に違うのだ。猟奇殺人者が真っ当な軍人の皮を被っているのでは断じてない。

 真っ当な軍人を、猟奇殺人者に変えてしまえる怪物なのだ。

 箍の外れた感化力。深淵に手を突っ込まれ、最も穢らわしい部分をこすり上げられるおぞましさと快楽を、一瞬にして味わわされた。

 

(南方の連中が狂うわけだ)

 

 ――(いま)だ産まれざる赤子から、(まさ)に死に逝かんとする老人まで。

 ――老若男女、貴賤上下の区別なく、一切合切平等に。

 ――構うものか、皆殺せ(・・・)。殺して殺して殺し尽くせ。この大地を連中の血で、寸土も余さず塗り潰せ。

 ――故郷を愛してやまない彼らのことだ、きっと涙を流して喜ぶだろうさ!

 

 ……こんな号令をかけただけのことはある。

 又聞きのあやふやな噂であるものの、今や彼は、間違いないと確信していた。コジマなら言う、必ず言う。そして自分がもしもその場に居たのなら、やはりたちどころに欣喜雀躍、夢見るような恍惚に包まれ、その行為に邁進したであろうとも。

 

 

 

 

「あら、おかえりなさいませ、長官殿。それで、何枚お顔の皮を剥かれたんです?」

「そういじめてくれるなよ、政務秘書官」

 

 苦笑しながら、コジマは愛用の椅子に腰を下ろすと、そのまま背もたれに体重をかけた。臍の前あたりで手を組んで、ふーっと長い呼気を漏らす。

 

「ああ、やっと人心地がついた」

「ようございましたねえ。ご不在の間、手入れを怠らなかった甲斐があります。――本当に、些細なはずの御他行が随分と長引かれたことで」

 

 これ見よがしに、サヨは机の上から小冊子を取り上げた。

 

『号外。――竜船、ナイトレイドに襲撃さる!?』

『居合わせた警察長官、作為かはたまた偶然か』

『三獣士、殉職。その時、長官は何を。――疑惑の数十分間、鍵は直前の騒動にあり』

 

 見出しを拾うだけで頭痛がしてくる。

 散々な書き立てられようだった。

 どの方向に読者を誘導したいのか、記者の――ひいては、彼にカネを握らせた人物の――意図が丸見えになっている筆跡だった。

 

「ふむ。――査問会(・・・)の連中がわめいていたのと変わらんな」

「その澄まされよう。やはりもう何枚か、お顔の皮を剥いで差し上げようかしらん」

「よせ」

 

 いやに座りきったまなざしで、指を痙攣させるように動かしながら迫るのである。

 ただならぬサヨの気色ぶりに、コジマはぎょっと身を引いた。

 

「なんですよう。いいじゃないですか、玉ねぎやらっき(・・・)ょう(・・)、自然物とは異なって、人の面の皮だけは、いくら剥いても減らないどころかますます厚くなるものでしょう。それに出鱈目を混ぜて捏ね上げたなら、はい、新聞の出来上がりです。長官から新聞を刷り出して、対抗論陣を張るんです。逆撃の(とき)は今なのです。ぺしゃんこにするまでやりましょう、ぎゃふんと言わせなければ気がすみません」

「サヨ、君は疲れている」

 

 つとめて朗らかに、コジマは言った。 

 派閥内部の動揺、市民に広がる不安感。ここぞとばかりに噂をばら撒き、世評を回天させんと目論む敵陣営。

 その総てに対応せざるを得なかったのである。必然として、多忙を極めたサヨだった。

 如何に才気あふるるといえど、任官からの日の浅さが齎す不具合は排しきれない。彼女を軽んじる例の意向も手伝って、対処法を理解しながら現実に実行へ移せない――満足に耳を傾けてもらえない、動いてくれないこともあり、その都度煮え湯を飲まされた。

 これで憤懣が募らないほど、彼女は聖人ではないのである。

 

「随分と、血が鬱しているのだろう。餅の如く凝っているのだ」

 

 幸いコジマはあの船で、久方振りに思い切り酔う――それはもう、べろんべろんになるぐらい。やはり量より質である――ことが出来たため、その後に待ち受けていた数多の不快な手続きを経た今であっても、血の流れは清澄だった。

 

「が、しかしそこをいくと君はなあ。すまない、配慮が足りないのは私であった。捌け口もなしによくぞ耐え、我が留守を大過なく乗り切ってくれたものだよ」

「いえ、平気です。こんなのなんでもありません。サヨはまだまだやれますとも。やれと命ぜられたなら、呪いと膿と死臭に満ちた神の墓だって今すぐにでも暴いてきます」

「それだよ、自分のことを名前呼びなんていつから始めた。平衡を欠いている何よりの証拠じゃあないか。――いいから近くに寄りたまえ、ねぎらってやる。素晴らしいものを君にやろう」

 

 胡乱げな顔をしながらも、サヨはその通りにした。

 棚からコジマが取り出した物を見て、その表情はたちどころに一変する。

 

「これは――」

「匂い立つ血の酒。貴重品だぜ、それも実家から持ち込んだ、三十年物の逸品だ」

「ひどい人です、長官は」

 

 瞳が、七色に輝いている。

 なめらかな咽喉が、はしたなくもごくりと鳴った。

 

「こんなものを見せつけて、私に何をしろと言うんです? 狗みたく舌を出してねだれとでも? それとも腹を出して寝転がる、猫の作法がお望みかしら? むごい、あまりにむごい辱め。ああでも、なんて官能的な、誘うような赤でしょう。いけないわ、この馨しい深紅のためなら、わたし、何でもしてしまいそう――」

「おいやめろ、不用心だぞ、軽々にそんな台詞を口にするなよ。困った娘だ、やる(・・)と言ったじゃあないか」

 

 言いながら、コルクを無造作に引き抜いた。

 針金を幾重にも巻き付けて、厳重に封をしていたはずが、まるでこより(・・・)のように引き千切られた。

 匂い立つ、の名に恥じず。信じられないほど濃厚な香りが、たちどころに噴き出した。

 部屋全体が、赤っぽいヴェールに包まれてしまったようだった。サヨが自らの体を掻い抱いたのは、そうでもせねばこの矮躯は統御を失い、勝手に跳ね飛び、遮二無二むしゃぶりつきにかかると分かったからだ。

 やがて、福音が来た。

 酒をなみなみと注いだグラスが、上司の手から渡される。

 サヨは、勢いよくそれをあおった。少女の中で、歓喜が爆ぜた。どこか耳の奥底で、潮騒が鳴り響いていた。なにも不思議なことではない。生命は陸へ上がるに際して、自らの裡に海を閉じ込めたのだから。すべてを受け入れ、そしてすべてがやってくる、暗い暗い、あの海を。

 視界の端で、オウムガイが踊っている。アンモナイトを嘲笑(わら)いながら、触手をくねらせ揺蕩っている。最後の一滴まで、名残惜し気にすすり上げるサヨだった。

 

「ああ…すごく、おいしい」

「それは重畳。いや本当に、見ていて気持ちよくなる呑みっぷりだよ。そら、もう一杯」

 

 コジマは、瓶を傾けた。その動作があまりに自然で、ついサヨも、つられてグラスを出してしまった。

 

「今度はもっと、落ち着いて呑んでみるといい。肴に私の、査問会での屈辱を添えよう。丹念に舌でころがし、味わいたまえよ」

 

 

 

 

「いったいどう責任を取るおつもりか!」

「…………」

 

 戦争が物理的・直接的な戦闘行動――いわゆる干戈の沙汰だけで完結する、そんな単純至極なものならば、どんなにか世は幸福であろう。

 退(しりぞ)くべからず、(とど)まるべからず、道はただ一つ、勝つか負けるか。なんと判り易く美しい。

 

(が、そうはいかぬ。いかないのが現実だ)

 

 戦場に於ける勝利の果実を手にしても、それだけでは不完全。そこから栄養たっぷりの美味い汁を吸い上げるには、もう二手間も三手間もかかる。

 そもそも得られる果実の形からして戦争によりまちまち(・・・・)だ。堅い殻に包まれているものもあれば、棘だらけのものもあるし、毒袋を含んでいるもの、刺激臭を放つものと千差万別。どの道具を使い、どんな手順で調理するか、細心の注意が要求される。

 よしんば上手くさばけたところで、横合いから飛び出してきた盗っ人に、まんまと皿ごと掻っ攫われることとてあるのだ。干戈の沙汰に劣らない、熾烈な争いといっていい。

 

(血の流れぬゆえ、世人の興味はそそられにくい――否、それどころか、詐欺漢と同一視さえされかねないが。こうした交渉術の巧者とて、十分以上に英傑よな)

「長官、答えていただきたい、長官!」

 

 さて、そろそろあの生き物の鳴き声が耳を聾せんばかりに高まってきた。

 浮世を戯画化し弄び、現実逃避に耽る遊びも、ここらで切り上げなければならない。そう思うと、コジマは無性にこめかみを揉みほぐしたくなるのである。

 

(が、出来ぬ)

 

 その程度の所作ですら、「不謹慎」として糾弾の槍玉に挙げられるのが査問会。実際の名目にはもっと長ったらしい看板を用いているものの、内実は査問会(それ)に他ならなかった。

 どうにも小児めいてはいるが、ここに列席している連中からして、頭の禿げた幼稚園児も同然の輩揃いなのである。むべなるかな、というものだろう。が、しかしそれだけに、どんな馬鹿げたことでも本気で言い出しかねないこわさがあるのだ。

 

(いまに見ていろ。此処をいつまでも、貴様らの養老院にしておくものか)

 

 いずれ必ず、台閣から一掃してくれる。コジマは敵意を滾らせた。

 喧嘩をする気なのである。まずは気を大きく持たねばどうにもならない。

 

「三獣士とナイトレイドが交戦する只中に居合わせながら、その間、貴方はいったい何をなさっていたというのか! 納得のいく説明をお聞かせ願いたい!」

「お手元の報告書をご確認あれ」

 

 冷厳たる口調で、コジマは答えた。

 

「そこに詳述した通りであります。見物(・・)していた」

「け、けんぶっ……!?」

「左様で。あの(・・)エスデス将軍の腹心たる部下ならば、まさか数で劣る叛徒ふぜいに遅れは取るまいと信頼(・・)したゆえ、無用の手出しは控えたまでです。私が首を突っ込むまでもなく、ただ余波による人命の損失を防いでいれば、彼らが事を収めてくれるに違いない、と」

 

 異様といっていい。信じられぬほどの傲岸さだった。御伽噺の奸物そのものの振舞いである。通常、このような場に召喚されれば、もうひたすらに恐れ入り、米搗きバッタの霊にでも憑依されたかの如く、ただただ頭を上下させ続けるのが道理であろう。

 それが処世術というものであった。

 そうであってこそ可愛気も感ぜられ、人としての情も湧き、多少は手心を加える気にもなるのではないか。

 だというのに、この女ときたらどうであろう。

 

(なんたる生意気、面憎さ。――)

 

 列席者の毛穴から、悪感情が黒煙のように噴き出した。

 

「ところが意外にも私の信頼は裏切られ、三獣士の全滅と相成ったゆえ、急遽後を引き継ぎナイトレイドとの交戦を開始。世に『百人斬り』の名で知られる離反者ブラートめを討ち果たした次第であります」

 

 無能共の尻拭いをしてやったにも拘らず、こんな処へ呼びつけられるのは不満だと、暗に言わんばかりであった。

 

 ――落ち首拾いだ。

 ――弱りきった相手を斃して、そんなに自慢か。恥を知れ。

 

 たちどころに野次が飛ぶ。

 十の鼎が、一斉に沸いたようだった。そのやかましさが質問者の神経をささくれ立たせ、彼の逆上をいよいよ駆り立て、抜き差しならぬ高みへ導き、口角泡を噴き上げさせる。

 

「はぐらかさないでいただきたいッ!」

「なにをおっしゃる」

「何故、最初から三獣士に加勢して、一致団結、ナイトレイドの撃破に臨まなかったのか! どう考えてもそれこそ被害を最小化ならしめる道である! そうしておけば、帝具インクルシオを持ち去られることとてなかった筈だ! 長官、貴方の個人的(・・・)な感情(・・・)面の確(・・・)()こそが、斯くも明白な戦理に従うのを拒んだのではないのかね!」

 

 今や彼は、顔じゅうを口にしてわめいていた。……

 

 

 …………

 ……

 …

 

 

「で、最終的にはどう決着をつけたんです?」

「セリューを取られた」

「えっ」

「返す返すもあの少年、タツミを逃がしたのが痛恨だったよ。私の勝利は画竜点睛を欠いていたのだ。であるが以上、どう粘ってもこれ以上の落としどころは見つからなかった。彼女はエスデスの新設する特殊部隊に編入される」

「……まずいですよね」

「最悪極まる」

 

 苦虫を噛み潰したような表情で、コジマはそう吐き捨てた。

 サヨとセリューの縁は薄くない。記憶には残っていないものの、瀕死であったサヨを見出し、いの一番に救い上げたのはセリューなのだ。サヨは、忘恩の徒にあらず。実験棟から無事「退院」したその足で、当時の礼をするべく彼女の元を訪れている。

 

 ――よかった……本ッ当に、よかったぁ……!

 

 外聞も憚らず、思い切り抱きしめられたという。

 たちまち目尻に涙が溜まり、瞬く間に決壊した。むろん、セリューの、である。いったいどちらが救われた側かと、サヨはちょっと混乱した。気が付くと、肩口がびしょびしょになっていた。ふしぎと不快さは感じなかった。

 以来、休日になるとよく連れ添って、街をぶらつく仲である。

 

「君から見て、セリューはどうだ?」

「危ういですね。とてもとても、危ういです」

「だろうな、思想即行動の娘だ。ゆえにこそ興味深くもある」

 

 コジマの語るところに依れば、人とはもっと、引っ込み思案なものだという。彼らは何らかの志を抱いても、いざ実行の段階に移ると、途端に自己分析を開始する。

 

「自分とはいったい何であろう、ただいっぴきの男に過ぎない、或はただいっぴきの女に過ぎない。――ひとりで何が成せるものか。我よりずっと先に生まれたずっと大きいこの社会を、後からのこのこやって来た小さな我が、どうして思い通りに動かせようぞ、とね。自分で自分を卑しめて、力が足りないと手前勝手に定めてしまって。それがまた、気持ち良いのだ。死にたくなるほど安らかなのだ」

 

 ひどく実感の籠った口ぶりだった。

 

「しかし、セリュー・ユビキタスは違う。自己分析など決してやらず、即座に行動へと移す。よしんば力が足りないと嘆くことがあったとしても、それは玉砕した後だろう。勝敗も優劣も度外視して、まず噛み付くに違いない」

「問題は、彼女の思想骨格が『正義』であるということです」

 

 ずけりとサヨが切り込んだ。

 

「貧者窮民に対する同情心がないわけではないんです。むしろあふれんばかりに持っている。自分も早くに父親を亡くした影響でしょう、決して楽な生い立ちではなかったはずだ。私と街を歩いていても、ふと路地の奥にそうした人々がたむろしているのを見かけると、苦しそうに眉を歪めておりました」

「ふむ。しかし、ひとたび彼らが悪事を犯すと」

「ええ、事前にあった同情心の総てが消える」

「焼き尽くされる、と言ったほうが相応しかろう」

「確かに、ゼロどころかマイナス方面に突き抜けているような観さえあります。よくも私を裏切ってくれたな許さない――と。生きながら地獄に堕ちる典型ですね」

 

 貧は罪の母、渇えて死ぬより盗泉の水を口にしてでも生き延びんと欲すのは、人間性に則った、当然の行為といっていい。それすら許容不能となればそれはもう、アレルギーの領域だ。至極端的に病んで(・・・)いる(・・)

 

「だからこそ、なんでしょうか。辟易しつつもその一方でなんとなく、愛着のようなものを感じるのは。どうにも放っておけなくて、ついつい世話を焼きたくなるのは」

「わかるよ、病み人は愛しいものだよな。だからこそ、地獄の釜の底を貫くところまで、あの娘の狂気を純化して、濃縮して昇華させてやりたかったが。――よりにもよって、エスデスが」

 

 ここでアレのミームを浴びようものなら、何もかもが元の木阿弥になりかねない。

 少なくともコジマはそう観測していた。頑な、といってもいいほどに。

 

「どうにか、なりませんか」

「ふむん、ちょっと考えてみるとしよう。この状況下で私に何か、打てる手が残っているとするならば――」

「壮行会などは」

「容喙するかね」

「はい。長官が出席する以上、周囲の者は憚って、無礼講とはいかなくなってしまいましょうが」

「この際それもやむを得ん、か。――ああ、本当に、祟ってくれるぜ。三獣士の連中は、つくづく余計なことをしてくれた」

「と、申されますと?」

「あのカイゼル髭の元将軍。あれだけ派手に決裂したにも拘らず、最後の最後でより(・・)を戻して見せやがった」

 

 ――今だブラート、小僧を逃がせぇ! こいつに完勝させるなアアァ――ッ!

 ――……ッ、くそったれがああああああああああッッ!

 

「片目を失い、脚を付け根からもぎ取られ、はらわたが露出してもなお私に挑み続けた。もはや勝てぬと知りながら、ただ数十秒、この足を止めるためだけに。あんなものを目の当たりにすれば、そりゃあ死人だろうと起き上がろうさ。漢ならば尚更だ。で、『百人斬り』は奴の言葉に従って、連れの少年に帝具を託し、無事竜船から落とした、と」

 

 カバーストーリーをひっぺがした裏地には、そんな一幕があったのである。

 

「少年。――タツミ、ですか」

「然り然り。流石は君の幼馴染みだよ、いい目をしていた。今回私が刻んでやった敗北にも、きっと折れまい。必ずバネにして立ち上がってくる、そんな目だ。――どうだ、逢ってみたいかね」

「…………」

 

 サヨは即答を避けた。ちょっと俯き、内心で、

 

(タツミ、タツミ、タツミ、かぁ)

 

 その名を三度繰り返す。

 石や燐寸を投ずることで、縦穴の様子を探ろうとする行為に似ていた。もしも自分の内側に嘗ての少女(サヨ)が遺っているなら、それがどんなにわずかであろうと、必ず反響があるだろう。

 が、むなしかった。

 びっくり(・・・・)するほど(・・・・)何もない(・・・・)。彼女の中の暗闇は漣ひとつ立てることなく、ただ暗闇であり続けた。

 

(実際に顔を合わせてみれば、また何か違うのかしらん? でも、そこまでするのは、ちょっとねえ)

 

 あまりに過去に囚われすぎた振舞いだろう。もっと未来志向で進みたい、というのが偽らざる本音であった。

 ところがコジマ・アーレルスマイヤーという人物は、己の過去があまりにきらびやかであったためか、他人の過去までいやに尊重しすぎるきらいがある。

 

(……べつに、逢いたいとも思わないのだけれども)

 

 サヨは利口な娘であった。そう明言することで、相手が自分にどんな印象を抱くかよく知っていた。

 

(微笑うに限るわ。何も言わずに、困ったように、曖昧に)

 

 そのように表情筋を動かした。

 実際、困っているのは本当である。

 

(気をまわしすぎですよ、長官。ありがたいのは山々ですけど、そこまで行くとありがた迷惑に抵触します。まあ、そんな貴女だからこそ、信じてついて行く気にもなるわけですが)

 

 意図は、齟齬なく伝わったらしい。満足そうに頷いて、コジマはまたも――都合何度目になるだろう――、サヨに酒瓶を向けてきた。

 それを今度はグラスではなく、直接鷲掴みにしてしまう。目を丸くするコジマをよそに、サヨは残っていた血の酒を、一気に胃の腑へ叩き込んだ。未だ膝を屈さないでいる素面の自分を、圧殺してしまうような呑み方だった。

 果たして、期待通りの結果となった。波に揺れる海藻よろしく、上体を右に左に泳がせたあと、ぱったり横倒しになって、すぐに穏やかな寝息が聞こえ始めた。コジマだけが取り残された格好である。やがてコジマの口元から、くつくつと忍び笑いが這い出した。

 

 

 



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12



救いがたい亀更新。
すみません、ただひたすらに、すみません……




 

 

 

 その夜の情景は、セリュー・ユビキタスにとって生涯忘れられぬ記憶となった。

 

 

 

 既に辞令は下りている。近く新設が予定される、帝具使いのみで構成された特殊部隊。帝国の各方面からこぞって集められ、名簿化されたその人員の只中に、セリュー・ユビキタスの文字列もまた、しっかり刻印されていたのだ。

 一昔前なら間違いなく過剰戦力のそしりを受けていたであろう編成。ましてや指揮棒を握るのが、難敵と目されていた北方異民族の争乱を草でも薙ぐような容易さで片付け、「帝国最強」の看板に曇りなしと見事証明してのけた、エスデス将軍その人ときては最早言葉もないではないか。

 

「今の帝国の風雲がどれだけ急か、露骨にあらわしているじゃあねえか」

 

 この人事異動の告知の最後に、オーガが付け加えた一言である。正しく乱世のみが存在を許容する部隊といっていいだろう。それを構成する連中が同質のキワモノ揃いになることも、ある面に於いては必然だったに違いない。その事はもうじき開かれる「顔合わせ」の場に於いて、如実に証明される筈だ。

 が、まだいくばくかの猶予はある。

 その僅かな日々を、セリューは常と変わらぬ勤務態度で貫いた。

 いつも通りいの一番に登庁し、自主鍛錬に精を出し、犯罪を未萌に防ぐべく、(まなこ)を光らせ相棒(コロ)と共に帝都の市街を駆け廻る。「栄転」に浮き立つ心はあるものの、だからといって浮かれるあまりつい有頂天外まで魂を飛ばし、粗忽な振舞いに及ぶという軽佻浮薄な習性は、彼女に限って有り得ない。この点だけに着目すれば、セリューはまったく模範的な公僕であった。

 ことほど左様に忠勤を励んでくれた部下である。ただ紙切れ一枚を投げつけて、向こうでもしっかりやれよと放り出すのはさしものオーガといえど後ろめたいものがあったらしい。慌ただしくも手配りを済ませ、どうにか期日ぎりぎりまでに壮行会の開催へとこぎ着けた。

 会場は、メインストリートから若干離れた、安普請の料亭である。急なだけあって出席者も多くなく、数名の同期とあとはオーガ自身といった、まことにささやかな宴に過ぎない。

 

「わた、私なんかに、こんなに手厚く……!」

 

 にも拘らずセリューの感激は甚深であり、目尻に涙を溜めてまでこの「温情」に感謝を示し、ために却って出席者の方が狼狽するほどだったという。

 

「かくなる上は見ていて下さい、向こうでも決して警備隊の名を汚すような真似はしませんとも。私達がどれほど正義の熱情に燃えて悪を誅滅して来たか、粉骨砕身働いて、しっかり証明して来ます!」

 

 尤もその狼狽も、間を措かずして苦笑いに変わったわけだが。

 

「お、おう。まあ、その、なんだ、頼もしいよ、とても。けれどもそんなに気負わなくてもいいからな? 人間無理なく頑張れば、それで充分なんだから」

 

 同期の一人が、あたりさわりのないことを言った。

 

「はい!」

 

 最高の笑顔が返って来た。

 日輪と見紛う輝きに満ちた表情は、どう考えても言葉の裏に秘められたる感情などは読み取っていない。その熱量で、気付く間もなく悉皆灼き尽くしてしまっている。 

 

(血の雨が降るなあ、これは)

 

 事後処理(あとかたづけ)に駆り出されるであろう未来を思えば、暗澹たる淵に沈まざるを得ない(ヒラ)隊士達の心情である。

 

(呑むに限る、先は忘れて)

 

 罪も報いも後の世も、忘れ果てて面白や。――…

 さる有名な謡曲の一節を思い浮かべて――口ずさみはしない。すれば、目の前の危険物質がどんな化学反応を示すか目に見えている。態々地雷を踏みに行く奇矯な趣味など、誰一人持ち合わせてはいないのだ――、一同ぐっと盃を干した。

 山海の珍味を交えて酒の量は増えて行き、順次空気もほぐれ出す。

 一同、雑談に花を咲かせた。

 つり上がる物価によって圧迫される生活への愚痴から出発し、御政道の風向き加減、殉職した同僚の思い出話、果ては色恋沙汰に至るまで。

 話の種は次から次へと湧き出して、紅燈の下酒宴はいよいよにぎわった。

 丁度、そんな時である。玄関から異様なざわめきが聴こえてきたのは――。

 

 

 

 

(すわ、押し込み強盗でも入ったか)

 

 こうなると職業が職業である。一同、途端にしん(・・)として、座った眼になり火急の事態の備えを固めた。

 が、注意深く障子戸越しに気配を探るとどうもそうではないらしい。店側にとって思わぬ事態が発生したのは確かなようだが、それは別段、命の危険が伴うものでもないようだ。察するに、予約もなく高貴な誰かが来訪したか。

 

(なんだ)

 

 ほっと気が抜け、抜けた後の空白地帯に、すぐさま憤りが流れ込む。

 

(どこのどいつか知らねえが、人騒がせな)

 

 だいたい従業員共の、この無様さときたらどうであろう。玄関で大騒ぎを演じただけでは飽き足らず、先ほどからどたどたと、無遠慮に板敷を踏み鳴らして廊下を往来する様は、自分達元々の客の存在を忘却したとしか思えない。

 

「ちっ」

 

 一座の中で最も背丈の低い者が鋭く舌を打ち鳴らし、その勢いを駆って立ち上がる。

 

「よせ」

「静かにするよう注意してくるだけですよ。このままじゃ雰囲気もへったくれもありゃしない」

 

 オーガが諌めるのも聞かず、彼はぐわらり(・・・・)と障子戸を開け、腕まくりして出て行った。

 次に、思いもかけぬことが起こった。たった今出て行ったばかりのその彼が、巨人にでも突き飛ばされたような勢いで、部屋の中に転がり込んできたのである。

 

 ――どうした。

 

 とは、問う必要がなかった。すっと障子に映り込んだ影法師を一瞥しただけで、全員がその理由を頓悟する。同時に彼らの姿勢が、背中に定規でも突っ込まれたかのように正された。そう、仮にも帝都警備隊に籍を置く者である以上、この輪郭を見紛うことなど有り得ない。

 

「いい夜だな、諸君」

 

 人とは思えぬ白磁の肌。

 底に果てなき埋み火を隠した灰銀の瞳。

 警察長官、コジマ・アーレルスマイヤーが、供も連れずにたった一人で部屋の中へと身を入れた。

 

「宴もたけなわといったところか? ちと邪魔するよ、空けてくれ」

「はっ、直ちに」

 

 嘗てなく迅速なオーガの手配りによって、たちまち新たな席が設けられた。

 膳部が置かれ、取り上げた盃にやはりオーガが酒器をあてがう。なみなみと注がれたその透明な液体を、ぐっと一息であけてしまうと、コジマは改めて一座を眺め、

 

「楽にしたまえ。私も所詮、この会の目的に共鳴して誘引された一分子に過ぎん。余計な気兼ねは無用である。呑み、騒ぎ、謡い、景気よく我らが朋友を送り出してやろうじゃあないか」

 

 無礼講の宣言である。

 が、如何に立場忘却の建前をぶち上げられても、社長と同席させられて、その通りの振舞いに及べる社員はいまい。自ずから雰囲気は別物となる。

 

(その程度のことが、判らぬ方ではないはずなのだが)

 

 だからこそ、彼らにとってコジマの料簡は一層不明瞭なものとなり、漠然とした不安感が付き纏う。

 

(ましてや景気よく送り出してやろう、とは――)

 

 今回の人事がどういう性質のものであるかは、全員が全員、つと(・・)に承知しているところである。

 まず間違いなく、三獣士を見殺し(・・・)にしたコジマに対する、オネスト・エスデス一派による報復と見ていいだろう。長官のはらわたは煮えいるに相違なく、だからこそ目の前にあるこの陽気さが理解(わか)らないのだ。

 理解不能なものへの恐れは人間の本能に立脚している。暗雲はいよいよ厚みを増して、彼らの肩にのしかかった。

 

「聞いたぞセリュー、君、近頃随分と調子いいみたいじゃないか。鍛錬とは言えこいつ(オーガ)相手に立合って三本に二本は堅いとは、いやさ実際、大したものだよ」

「なっ、何故そのことを!? あっ、サヨですか、サヨですね!? うー、まったくもう」

「照れる必要ァねえだろう、本当のことだ。ったく、あっさり追い抜いて往きやがって、腹立たしいくらい鼻が高いぜ、ほんとによ」

 

 例外は、オーガとセリュー位のものだろう。

 前者は今ここで首を切り落とされようと、それがコジマの手によるものなら恍惚として受け入れる魂の譲渡者に他ならず、後者に至っては二十歳(はたち)にもなって本音と社交辞令の区別もつかない、空気を読む能力から決定的に見離された女ときている。

 苦労するのはいつだって常識人だということが、えげつないほど明確に証明された場であった。

 

「――そう、この程度で面映ゆがってはいられない。君はこれから、オーガに、帝都警備隊隊長に、命を仰ぐ(・・)のではなく下す(・・)側に廻るのだから」

「えっ?」

「ん? なんだ、知らなかったのか? 今回新設される特殊部隊だがな、アレは命令系統上、帝都警備隊の上に位置する。疑いようもなく、明確にな。その権限は帝国全土に及ぶと既に議決された以上、所轄に煩わされることもない。帝都の何処で起きた事件であろうとも、君は直ちに現場の警備隊士から指揮権を取り上げ、事件解決を主導することが可能になるのだ」

「おお、そん時ァひとつ、せいぜいお手柔らかに頼むぜえ」

「えっ、えっ、えっ」

 

 おどけて敬礼の真似事までしてみせるオーガに対し、セリューはただただ、目を白黒させるより他にない。彼女の想像力では、自分が師匠の上に立つなど――あまつさえ指先一つでこき使っている情景なんぞは夢寐にも描けなかったに違いないのだ。

 が、コジマは容赦しなかった。セリューに付与されるであろう超法規的特権の数々を、ここぞとばかりにつるべ打ちに浴びせにかかる。

 

(まずは自覚だ。それなくしては話にならぬ)

 

 こういうことをやらせると、コジマの右に出る者はいない。令状なしの強制的な家宅捜索権、裁判所を介することなく即座に容疑者を逮捕、投獄、処刑する許可、他にも他にも――こうした硬質な文字の羅列が彼女の唇を介するや、たちどころに経口補水液より吸収効率の高い生温い粘液に変化して、脳髄の中枢まで滲み透ってしまうのだから玄妙と評する以外ない。

 一座の者は不安も忘れて聞き入って、やがて揃って理解した。これはとんでもないことだ。

 

(それほどまでの強権を、こんな狂犬めいた女に渡すのか)

 

 血の雨が降る、どころの騒ぎでは済まされない。おれたちの予想はまだまだ全然甘かったのだと、彼らは顔を青ざめさせる。

 類例を地球史に求めるならば、丁度旧ソ連に於けるチェーカーが相応しいと言えるだろう。レーニンという独裁者に実質直属していたあたり、いよいよ近い。反革命分子・人民の敵という至極便利なレッテルを何処へでも好きなだけ張ることを許されたこの集団が当時のロシアで如何に凄愴酸鼻な赤色テロルの旋風を巻き起こしたかは、地獄の邏卒も兜を脱がんばかりであった。

 なにせ、初代長官の就任演説からしてもう既に、「私には裁判など必要ない。必要なことは、反革命と徹底的に闘うことだ。反革命を皆殺しにしてやる」と怒号するわ、「我々の指導者一人の命が奪われれば、人質一〇〇人の頭を吹き飛ばせ」と非常に景気のいい戦術を週報に載せるわ、挙句の果てには外国人に道を教えただけの市民をスパイと決めつけ処刑するわと、誰が聞いても開いた口が塞がらなくなる滅茶苦茶を、しかし正気で罷り通らせた機関である。

 俄かには現実と信じられぬ話ばかりだが、何よりも受け入れ難いのは、彼らチェキストどもをしてこれほどまでの凶行に走らせた原動力が、揺るぎなき信念と正義の熱情に他ならないという一点だ。

 まこと、「正義」ほど手に負えない、厄介な代物も珍しい。

 のち、この組織はGPU(ゲーペーウー)と改名し、やがてKGBへと続く。

 その名を聞いては泣く子も黙る、地上に並ぶもの無き神の如(・・・)き権勢(・・・)が、まさに今、この帝国にも誕生しようとしているのだ。

 

「――そう、だからこそ、君には神の如(・・・)き聡明(・・・)()が要求される」

「……!」

 

 なんのことはない、権利と義務の原則論だよ、と。

 そうコジマに告げられるや、セリューはとうとう、雷にでも打たれたような顔をした。

 

「不安かね」

「恥ずかしながら、あまり自信が持てません。熱誠にかけては誰にも譲る気はないんですけど、聡明さとなると、ちょっとその。昔から机の上で勉強するより、外に出て身体を動かす方が好きでしたから」

「入隊試験にもろに出てたな、その傾向。筆記は壊滅的だったくせに、実技で図抜けて面接の好印象でどうにか合格。変わってねえなあ、お前はよ」

「今回だって、引継ぎの書類作成に大苦労していましたねえ。頭を抱えて真っ白な紙面と向き合って、しかもぴくりとも動かないから、てっきり念写に挑戦しているのかと思ったよ」

「最終的には半べそかいて俺らに泣きついて来たっけか。忘れんなよ、貸し一つだぜ」

「わー! わー!」

 

 セリューの弱気の告白に、オーガが突っ込み、隊士達が便乗する。尊敬するコジマに知られたくない数々の失態を暴露され、セリューは羞恥で真っ赤になった。

 

「もう、みんなひどいです」

「くくく、そうむくれるな。不足を知るは『足る』への一歩だ。現段階で及ばないと分かっているなら、これから鍛えればいいだけの話。鉄とて百錬すれば鉄をも断ち切る刃と化すぞ、ましてや人間においてをや、だ」

「長官……」

 

 潤んだ瞳でコジマを見上げるセリューの姿に、男どもがなにやら艶かしい雰囲気を感じ、特定の部位に血を昇らせた。やむを得ざる悲しきサガといっていい。コジマが登場して以来、張り詰めっぱなしだった空気が初めて緩んだ瞬間である。

 

「いいかねセリュー、安心したまえ。私は何も君に向かって、責任の重さに怖じけるあまり、何者をも裁けぬ腑抜けになれと言ってるわけじゃあないんだよ。良心に従うことが常に最善の判断とは限らぬように、聡明さと寛大さとは必ずしも一致するわけではないからね。惨刑を下すに相応しい状況というのは必ずあるし、そういう場合に躊躇するのは愚だろうさ。どんどんやるよう期待する」

「あ、それなら得意です!」

 

 ところが続くやり取りが、色っぽい空気をものの見事にぶち壊しにしてくれた。途端に部屋が血腥くなったような気さえする。

 

「結構、いい返事だ。ああ、しかしな、これだけは篤と弁えておけよ? ――他を裁くに急なる者は、往々にして自らを裁くに緩となる。返り血に染まり過ぎるのあまり、自分自身を見失うようなことにはなるな。それもまた、愚かさへの転落に変わりはない」

「勿論です」

「本当か? そんな不用意に即答して、本当にいいのか? 人間誰しも自分の事は自分が一番分かっているとのたまうけれどね、これがどうして、見当外れな場合が多いぞ」

「そんな、嘘です。だってこの、自分ですよ? 長官は私をからかっておいでだ」

「しかしながら、自分の顔を直接自分の目で見た奴はいないだろう? 背中や、尻の穴とて同様だ。存外、見落としがちなものだよ、自分自身と云うやつは。――ゆえ、絶えず油断なく見張らねばならん」

 

「尻の穴」でおもいきりむせた阿呆がいたが、コジマは無視した。ここだ、と、澱みなく語を継いでゆく。

 

「正にこれこそ、聡明と愚かさ、人と獣を分かつのだ。自分で自分を見張ること、それはすなわち、自覚と反省の繰り返しに他ならない。この繰り返しこそが、意識界に於ける折り返し(・・・・)である。この鍛造工程を踏むことで、人間性に厚みと強度、柔軟性が加えられ、夜にありて迷わず、血に塗れて酔わぬ強き個我が出来上がる」

 

 

 

 ――…だから君、論理を超越する神秘に憧憬(あこが)れ、利害を無視する純情に生き、仄白い霧の彼方まで踏み入らんと欲する者よ。まずは内なる獣を直視したまえ。

 

 

 

 ぐじゅり、と。

 側頭葉が泡立つようにざわめいた。悪夢の底から拾い上げ、脳裏に刻み込んだ警句の数々――ついに果たされなかったその一つを、意識するや否やこれである。

 

(おちおち追憶にすら耽れんとはな)

 

 まったく閉口の限りではないか。無遠慮に、何かがこじ開けられているようだ。不快だが、勝手知ったる感覚でもある。

 そうだ、見なければ、知らなければ支配することも叶わない。視覚が生命に及ぼす力は、他のどの感覚にも増し激甚たるべきものがある。なにしろ遥か太古の昔、生命を海から陸へと導いたのは、発達した眼球だったというのだから。

 

 ――ああ、ひょっとしてそれなのか? 古き探究者どもがこぞって超越的思索獲得の鍵たる器官を「思考の瞳」と名付けた理由はそこにあるのか? 「見る」という行為はときに進化を誘発する。そのことを、あの冒涜的殺戮者たちも知っていたのか?

 

 つくづく以って、獣の病は恐ろしい。瞳孔の蕩けた目玉では何も見えない。自らの獣化にさえ気付けぬままに、粗末な武器を手に取って、獣狩りに立ち上がる愚さえ容易に犯す。やがて本物の狩人がやって来て、彼らに死を叩き込む、その瞬間に至るまで、憐れで惨めで、そして何より滑稽で滑稽で仕方ない自家撞着を繰り返すのみだ。何処へ辿り着くことも無いだろう。それはそうだ、本人は進んでいるつもりでも、その実一箇所をぐるぐる廻っているに過ぎないのだから。

 

 おぞましきかな獣の軛、悦ばしきかな上位者の智慧。

 

 智性こそ人の持ち得る究極兵器とコジマ・アーレルスマイヤーは信じている。本能ではない。何となれば智性を以って本能を忖度することは可能だが、本能を以って智識を解釈することは、これは絶対に叶わぬ相談なのだから。

 そうだ、成長の過程に於いて人間は、どうしても叡智の焼刃で自らの本能(獣性)をかっさばいてやらねばならぬ。

 手を突っ込み、直接触れて取り出すのだ。セリュー・ユビキタス、この可憐なる病み人も、そろそろ己が本能(アレルギー)たる悪への憎悪に刃先ぐらいはぶち込んでいい頃合いだ。

 

「絶えず自らを解剖台の上に乗せ、無慈悲なメスを加えたまえよ。腑分けして、凝視するのだ。苦痛を厭うてそれを避ければ、君の裁きはやがて必ず平衡を失う。自分一個の愉しみのため、快楽のため、復讐心を満足させるために殺し続けるようになる。それの何処に美があるか、正義があるか。私達は公僕だ。刑罰もまた公務の一環であることに変わりはなく、その目指すところは私利にあらずして公益である。にも拘らず、一罰百戒の効も望めず、将来の利益も念頭に置かない刑罰を敢えて下すようならば、所詮他人を傷付け勝ち誇り、得意がる破落戸(ゴロツキ)どもと何ら変わりはしないだろう。自律なき自由は必ずそんな放恣に至る。そうはなって欲しくはない。そんなものは見たくないんだ」

「――」

 

 長い御講釈だった。

 が、奇妙にも、こうしたことに付き物である疲弊感がまるでない。

 それどころか、躰の奥から激しく洶湧(きょうよう)して来るものがある。火のように熱いその何か(・・)が血に溶けて、肉を甘く疼かせるのだ。後日、一座の多くが、この時わけもなく大声で叫びたくなったと述懐している。

 やがて、セリューが口を開いた。

 

「……重ね重ねの御厚情、心より感謝致します。そして、ああ、どうか御安堵くださいますよう。私、これでも耐え忍ぶのにはちょっと自信あるんです。長官の仰った数々の義務、痛みを受け止め、必ず成し遂げてみせること、ここで父の名に誓います」

 

 厳かに掲げられた両の手は、しかし血が通わなくなって久しいものだ。

 最初こそ骨肉を削いで銃を仕込んだだけであったが、あの変態(ドクター)が次から次へと新たな機構を思いつき、その度に改造を繰り返したため今となっては二の腕以下が完全に無機物と入れ替わってしまっている。

 これから先の人生ずっと、誰と手を繋ごうが、どんなに指を絡めても、ぬくもりを分かち合えることは二度とない。

 それを承知で、彼女は施術に同意した。

 毎回、一秒だって逡巡せずに。話を持ちかけられるや否や、

 

 ――やります、是非ともお願いします。

 

 と快諾してきた。 

 いずれは乳房に子宮――およそ女たるの証明さえも取っ払い、自決用の爆弾やらジェネレーターやら仕込むことさえしかねない。セリューには、そんな凄味が確かにある。

 

「そうか、そうだな、そうだった。正しいと信じる目的の為なら限界はない、自らの四肢とて躊躇を交えず切り落とす、そうであってこその君だった。――よかろう、セリュー、信じるぞ(・・・・)

「っ、はい!」

 

 未だ完成には程遠い、粗削りもいいところ。

 けれどもしかし、その言葉の重みが読み取れぬほど、もはや幼くはないのである。それがセリュー・ユビキタスの、現下に於ける位置だった。

 

 斯くて思惑は成就する。

 

 他に影響を及ぼさずにはいられない、重力場めいた強烈な個我の持ち主へと送りつけるに先駆けて、コジマとサヨが描いた絵図。この危なっかしくも愛おしい病み人の真ん中に、楔を一本、深々と打ち込んでおくことが。

 

(この手応えならば、いいだろう)

 

 野暮な真似をした甲斐があった、と、コジマは心中深く満足した。

 これで安心して、日々の雑務に勤しめるというものである。コジマはまた、書類の山に埋没する習慣へと還っていった。すべては終わった。

 

 

 

 が、終われなかった。

 

 

 

 彼女の首根っこを引っ掴み、紙の山から引き摺り出す者が居たのである。帝国広しといえども、そんな乱暴が可能な相手はただ一人しか有り得ない。

 

 順を追って説明しよう。件の夜から五日後の、穏やかな昼下がりのことだった。執務室にて机に向かい、黙々と、張り巡らせたスパイ網から上がって来た諜報の束を整理して、歴とした報告書の形式に仕上げ直していたコジマの指が、急に停止したのである。

 

「長官?」

 

 この程度の異変とて、見逃すサヨでは有り得ない。彼女もまた作業の手を止め、視線をやると、コジマの態度はいよいよ妙だ。

 

「――」

 

 サヨの呼びかけにも答えない、どころかそも、気付いたけぶりさえもない。目つきも鋭く、扉の向こうを凝視している。ただ事ではないと悟って、サヨが身構えた瞬間だった。

 

(……足音)

 

 こつ、こつ、こつと、ぶれることなく一定の間隔を保ちながら、床を踏み鳴らす音がする。真っ直ぐに、この執務室へと近付いている。

 やがて扉の前まで差し掛かると、今までならば次の足音が聞こえていたタイミングで、ばきゃあん、と、留め具が甲高い断末魔の悲鳴を上げて、勢いよく蹴り開かれた。風圧で、カーテンの裾が僅かに揺れた。

 

「久しいな、少佐(・・)

 

 美麗でありながらどこか背筋を寒からしめる、おそろしいものを秘めた声。

 豊穣なる起伏に富んだ肉体は、袖の先まで機能美に貫かれた軍服によって包まれて、一種凛然たる凄気を帯びる。

 腰どころか、実に膝まで流れて余りある髪ときたらどうであろう。雪の溶けざる遥かな極地で何世紀もの時を噛み、形成されるに至った氷河――その中でも特に純度の高い氷河のみから滲み出す、蒼古たる青色(グレイシャーブルー)としか、これは形容しようがないではないか。

 

(ああ、この人が――)

 

 理解する。

 この女性こそ「帝国最強」、おそるべき氷の魔人、エスデス将軍に違いない。

 

(大丈夫かしら)

 

 サヨの心に、不安が募った。巷の風聞を信じるならば、この二人の関係は――。

 

「ノックぐらいしたまえよ、仮にも文明社会に属すなら。その軍服は飾りかね?」

「ふん、変わらんな、お前は。相も変わらず、格好つけの気取り屋め。今日も自分の美辞麗句に酔っぱらっているらしい」

「風雅を解する心も持たんか、これだから野蛮人は度し難い」

「軟弱化を文明的と取り違えている馬鹿の口から言われたところで、痛し痒しとも思わんな」

「あ?」

「ん?」

「どうどう。長官、殿中です、殿中ですから」

 

 何もかも風聞通りだった。

 内心盛大に嘆きつつ、決死の覚悟で両者の間に割って入るサヨである。

 前門の虎、後門の狼――どころではない。気分はさしずめ、デーモン・コアを組み込んだ二つのベリリウムの半球に、マイナスドライバーを突っ込んでいる科学者のそれ。手が滑り、ドライバーが外れ、半球同士が完全にくっついてしまったが最後、即座に臨界が訪れる。その上輪をかけて悲劇的であることは、サヨはルイス・スローティンと異なって、こんな所業に及んでまで名を揚げたいと逸る心も持ち合わせてはいないのだ。

 

「……お前、変わった匂いがするな」

 

 が、サヨの受難はまだ終わらない。

 運命を呪いながらもなんとか「事故」を防ぐべく力を尽くす、そんな健気さが興味を惹いてしまったのか。薄い瞼をすっと細めて、獲物を見付けた蛇のような表情で、エスデスが顔を寄せてきたのである。

 

「ふむ、ふむ。なんだ少佐、随分と面白そうなやつを見つけたじゃないか。何処から掘り出したんだ、これ」

「手を出したら微塵切りにしてやるぞ。既にセリューを持って行った分際で、貴様というやつは、いやらしい」

「おっ、それは誘い受けというやつか? お前が相手をしてくれるなら、その気がなくとも思わず手を出したくなるじゃあないか、ええ? 少佐」

「その呼び方はよせ。今の私は警察長官だよ、ばかたれ。いつまでも上官風を吹かせてもらっては困る」

「私は一向に困らん」

「なんだと貴様」

「長官、抑えて下さい。後生ですから、長官、長官ぁん!」

 

 後でまた、匂い立つ血の酒を強請ってやろう、絶対そうする。

 そうでもしなけりゃ到底この苦労に見合わない――と、密かに誓うサヨだった。

 

 

 

 暫くして場が鎮まると、改めてコジマは問い直す。いったい何の用件だ。

 

「ああ、それはな、是非ともお前に協力して欲しいことがあってだな」

「なに、協力? 協力だと? 貴様が私に協力を求めるだと?」

「その通り。――それ、受け取れよ」

 

 軽やかな言葉と共に飛んできたのは、紐綴じにされた書類だった。

 

(礼儀知らずめ)

 

 まるで手裏剣の如く高速回転するそれを、コジマは危なげなく掴み取り、早速ぱらぱらめくりだす。

 

「……都民武芸試合開催の計画書、か」

「そうだ、適格者の居ない帝具が手元に三つもあるからな」

 

 むろん、「水龍憑依」ブラックマリン、「軍楽夢想」スクリーム、「二挺大斧」ベルヴァークのことである。殉職した三獣士が揮っていたこれらの帝具はコジマによって回収され、その後めぐりまわって今はエスデスの手元にあるらしい。

 

「いつまでも遊ばせていては大臣に持って行かれてしまうし、何より勿体ないからな。ひとつ私が直々に、相応しい持ち手を鑑定してやろうというわけだ」

「そうか、まあ趣旨は概ね理解した。まずまず妥当な提案だろう。……だが、お前、模範試合(エキシビジョン)だと? これは正気の沙汰事か?」

「何を不思議がることがある? 生ぬるい試合ばかり演ぜられては迷惑だ、思わず殺したくなりかねん。うっかり手が滑って槍でも投げ込んだら事だろう。だから劈頭一番、手本を見せて、参加者どもに気合を叩き込んでやる。どうだ、理に適っているではないか」

「その為に、たかがカンフル剤の用を果たす為だけに、私と貴様を動員するのか。いやはや、なんとも豪気なことだな」

 

 傍に控えていたサヨの顎が、すとんと落ちた。

 

「しかも後は私の同意さえあれば済むところまで手筈を整えてきやがって。帝具の使用はなし、武器も同様、持ち込んでいいのはただ己の五体のみ、ねえ。よく大臣が通したなあ、こんなもの」

「私の恋人探しが難航しているからな。どれもこれも、飼うにも足りないクズばかり揃えおって。その埋め合わせにと迫ったら、案外あっさり頷いたぞ」

「ああ、あれも耳を疑う提案だったが。――もしや貴様、最初からこう生かすことを考えて?」

「ふっ」

「……では、ないな。改めて周囲を見回してみたら、偶々利用出来そうだと気付いただけか」

「どうでもいいだろう、そんなこと。じれったくなってきたぞ、いい加減。今、お前が頭を使うべきは、やるか、逃げるかの選択だけだ。――来いよコジマ、怖いのか?」

(あっ)

 

 その瞬間、サヨは確かに、チェレンコフ光(・・・・・・・)の放射(・・・)を目の当たりにした。

 椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がり、ペン立てから愛用の万年筆をむしり取るように引き抜くと、目にも止まらぬ勢いで同意書の上を滑らせる。

 瞬息裡にて署名を済ませ、書類をエスデスに突き返したコジマは、笑っていた。

 積年の恋がようやく容れられた乙女のような、幸福そのものの笑みだった。

 

「いいさ、いいとも、いいだろう、私も偶には羽目を外そう。――遊ぼうか、エスデス。お望み通り、根限(こんかぎ)り。どちらかの息が絶えるまで」

「うん、遊ぼう」

 

 童女の如き素直さである。

 勘弁して欲しかった。あたまがおかしくなりそうだ。なぜ、この嗜虐趣味で名高い将軍までもが邪気のない、安らかな微笑を浮かべているのか。これではまるで婚姻前夜の光景だ。

 サヨですら、あまりにそぐわぬ両者の態度に錯乱しかけているのである。まして亡き三獣士がもしもこの場に居たのなら、彼らの中のエスデス像とあまりにかけ離れたこの口吻に、自我崩壊程度軽く起こしたに違いない。

 

「嬉しいな、ああ、本当に嬉しい。ここに来るまで、ごねるお前をねじ伏せ無理矢理、というのも素敵とばかり考えてたが、こう、思いが通じるのも悪くないなあ。――よし、やろう、根限り」

 

 

 

 斯くて合意は果たされた。あらゆる障害は取り除かれて、後は突き進むのみである。ついにコジマとエスデスが、帝国の誇る二大巨頭が、超級危険種も裸足で逃げ出す怪物二匹が、正面切って殺し合う。

 帝都に身を置く総ての命が、心底恐怖しながらも、同時に待ち望んだ大衝突(Giant Impact)――その実現は今ここに。

 天も地も、息を殺して見守るだろう。頂点捕食者を決定づける、月光と氷河の闘争を――。

 

 

 

 



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