the Garden of demons (ユート・リアクト)
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悪魔の境界  前編

 

 

「また変なモノ買ったんですか、橙子さん!?」

 出社早々、僕こと黒桐幹也は叫んでいた。我ながら健康的だと思う。

 僕の勤め先である橙子さんの事務所は、工場地帯と住宅地の間にあるビルの四階にある。

 ビルと言っても工事の途中で放棄された廃ビルであり、四階より上はなく、造りかけの五階のフロアが屋上らしきものになっていた。壁も床も素材が剥き出しになったこの建物は、どことなく伽藍のようで……だからだろうか、正式な社名のないこの事務所は、世間様には『伽藍の堂』という名前で通っているらしい。専門は人形造りなのだが、大部分の仕事は建築関係だったり、業腹なことに荒事めいた依頼なども受けたりしているので、ほとんどよろず請け負い会社になってしまっている。

 大抵、僕らは四階の事務所で職務をこなす。二階と三階は橙子さんの仕事場で、どういう内装なのか見たことはない。見たことはない、が……おそらく中は十中八九、摩訶不思議なことになっているのだろう。なにせ蒼崎橙子は魔法使いなのだから。

 正しくは魔術師なる人種らしいのだが、オカルトとは無縁な僕からしてみればどちらも大差なく、そうした神秘を取りあつかう所長の仕事場は、きっと魔女の釜があったり変な生き物の頭蓋骨があったりと、それはそれはメルヘンチックな環境になっているに違いないのだ。

 とまあ、そんな偏見はさておき。

 我らが伽藍の堂の所長は、ときおり妙な買い物をする性癖がある。

 出社早々、僕が事務所のなかで見たものは、いつもの散らかった光景に違和感なく溶け込む三人の見知った顔と、見慣れない段ボール箱。

 所長の机に置かれている、その大きな段ボール箱には丁寧に封がしてあり、ひと目で郵便物だと判断できる。例によって橙子さんが購入したものなんだろう。そして、はたと思い出した。

 かつて橙子さんは、ナントカ朝のウイジャ盤なんていう胡散臭い代物を購入した前科があるのだ。

 ――こともあろうに。

 ――この僕の給料まではたいて、だ!

 ここでようやく冒頭のセリフに話が戻るのである。

 まさか今回も……そう危惧した僕がずかずかと詰め寄ると、パイプ椅子に座って机に向かっている橙子さんは、

「変なモノとは失礼ね、幹也くん」

 と、拗ねるように呟いた。

 飾り気のないタイトな黒色のズボンに、新品みたいにパリッとさせた白いワイシャツを着たいつものスタイルの橙子さんは現在、眼鏡をかけているので、やわらかい口調だった。僕の言葉に不満そうではあるが。

「心配しなくていいわ。ちゃんと残ってるわよ、お給料分のお金は」

 所長は僕を安心させるように微笑みながら、そう言った。

 あぁ、よかった。思わず安堵のため息が漏れた。これでまた学人にお金を借りずに済む。いくら相手が小学校の頃から付き合いのある親友とはいえ、そう何度もお金を借りるのは本当に気が引けるのだ。

 安心でへたり込みそうな僕は、くすくすと笑う橙子さんを見つめる。大人の女性なのに無邪気な、あどけない笑顔。それが気を許した相手にだけ見せる表情であることを、僕は知っている。

 思わず見蕩れていた僕に、うん? と小首を傾げる橙子さん。

 彼女が見つめ返してくるので、僕は慌てて目を逸らす。その拍子に橙子さんの胸元へと目がいった。大きく開いた胸元で光っているアクセサリーは、もちろんオレンジ色だ。理由は不明だけど、この人はオレンジ色の飾りを必ず一品つけるという嗜好があるらしい。羽根をモチーフにしたそのペンダントは、橙子さんの豊満な胸の谷間に居場所をみつけ、ぴったりと収まっていた。

 目を逸らして自爆した僕は、赤くなった顔に気づかれないことを祈りながら横を向き、目に毒な橙子さんを完全に視界の外へと追いやった。そして事務所内にいる、あと二人の人物の様子をうかがった。

 一人は、来客用のソファーに腰を下ろしている、和洋折衷の女性。藍色の着物のうえに血のような色のジャンパーを羽織っている、和風なんだか洋風なんだかよくわからない彼女は、フルネームを両儀式という。僕とは高校時代からの友人で、彼女は何をするでもなく行儀正しい姿勢で座り、ぼんやりとしていた。

 もう一人は、一番奥まった机に向かって課題をこなしている、赤系の服を身にまとった少女。ロングの黒髪を、おしゃれなマゼンタ色のベストの背中に流しているその少女の名前は、黒桐鮮花……名字が僕と一緒ということからお察しのとおり、僕の妹である。

 高校一年生の鮮花が現在、熱心に向き合っているのは、だが学校の課題ではない。師匠である橙子さんが与えた、あらゆる妖術、儀式の類の書物を写し書きしている魔法使いの弟子の姿を、僕は暗鬱な眼差しで見つめるしか他になかった……妹の鮮花がそのうち、生贄のニワトリをくびり殺したり、素っ裸になって踊り狂ったりしたらどうしよう、とは思いつつ。

「今回の買い物はすごく安価で済んでね。ほとんどタダ同然の値段で買えたんだから、ラッキーという他にないわ」

 妙に嬉しそうに橙子さんは言う。確かに買い物は安く済むのに越したことはないけれど、それが橙子さんの目に留まるような代物である以上、怪しげな一品であることに変わりはない。

「それで。一体、何を買ったんですか?」

 僕が訊ねると、よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりに眼鏡をはずす橙子さん。

 その瞬間。

 彼女の雰囲気が、目に見えて変貌する。先ほどまでの温かな印象は何処にもない。そこにいるのは、いるだけで空気を黒く淀ませる、ひとりの凶悪な魔術師だった。

 もはや別人になった橙子さんは、ぞっとするほど冷たい声で答えた。琥珀色の瞳を、性悪そうに細めて。

「――悪魔だよ」

 

 

 

 

 

「すみません。もう一度お願いします」

 自分の耳を疑い、すかさず僕は聞き返していた。

 でもやはり、驚いたのは僕だけではない。鮮花も、式でさえ顔を上げて橙子さんに注目している。

 それくらい、告げられた内容はアレだった。

「だから悪魔、だよ。魔界の住人、第六架空要素、邪悪なる存在――簡単に言い換えれば、これくらいか。一般的なイメージでは角と尻尾、そして蝙蝠のような翼を持つ黒っぽい怪物といったところだろう。あながち間違いではないが、一概にその通りとも言いきれない。彼らは多様だ。姿形は千差万別、ピンからキリまで様々な悪魔がいる。その起源すら定かではない。人間の想念によってカタチをなした実像幻想や、最初から魔として創造された真性悪魔……これは眉唾だが、なんと人類が誕生するより以前の原初から存在する悪魔までいるそうだ」

 眼鏡を外した所長は、その口調が豹変する。

 本人に言わせると眼鏡をスイッチにして性格を切り替えているだけ、という話なのだが、そこにどんな意味があるというのか。僕には与り知らぬことである。

 先ほどとは一変した冷たい口調で流暢に語る橙子さん。しかし僕たちが疑問に思ったのは、もっと根本的なところだった。

「……悪魔って、実在するのか?」

 それまで口を閉ざしていた式が、皆を代表して質問する。

 そうだ。おとぎ話の悪魔といえば、邪悪な、恐ろしさも極まる生き物ではある。しかし、それが現実に『存在しないもの』である以上、恐怖する必要もない。

 だというのに、橙子さんは紅い唇をつり上げ、にやりと笑った。

「何を言う、式。おまえは悪魔と出会ったことがあるどころか、それを殺したこともあるじゃないか」

 何でもないことのように告げられた衝撃事実に、当の式はもちろん、僕たち黒桐兄妹もフリーズした。

 橙子さんは、とっておきの悪戯が成功した子供の笑みで、うまそうに煙草を吸っている。

「式。以前からおまえには、街に出没する人外の始末をちょくちょく頼んでいただろう? あれが、悪魔だ」

「あぁ、あの訳のわからない化け物のことか」

 あいつら、暗がりからいきなり飛び出してくるんだよなあ、と暢気につぶやく式に、悪魔なんだから闇から生まれ出ずるのは当然だろう、と橙子さんがうそぶく。まるで茶飲み話のように淡々と繰り広げられる、非日常的な会話。僕は両目のあいだを押さえて、軽い眩暈を食い止めようとした……この二人、僕が知らない間に色々と妖しいことをやっていたというのは本当らしい。

「ちょっと待ってください。じゃあ何ですか。悪魔が、この街には現れるんですか? それって大変なことなんじゃ……」

 鮮花の危機感はもっともだった。悪魔が人を襲う、なんてことは、おとぎ話ではよくあることだ。

 実際、橙子さんの頼みで式が人知れず悪魔を始末しているという。その危険性があるからこそ。

「そのとおり、これは大変な事態だ。といっても、依り代がなければ実体化もできない下級の悪魔ばかりだがね。その程度の相手なら被害が広がる前に始末をつけることができる」

 じゅっ、と煙草の火を灰皿でもみ消しながら先を続ける。

「魔界……文字通り『悪魔の棲む世界』と人間界の間にある次元の壁は、言うなれば大雑把な網のようなものだ。高等な悪魔であればあるほどその強大な力が災いして、よほど好条件が揃わない限りはこちらの世界に出てはこられない。逆に低級な魔物ならこの網の目をくぐり抜けることが可能だ。しかし、そうなると今度は力が弱すぎて、こちらの世界では肉体を維持できない雑魚も出てくる。そういう脆弱な悪魔は、この世にある受け皿――人々が創造したカタチ――とりわけ呪いや怨念の籠もった邪悪な器物――つまり『依り代』に憑依して地上に出現し、活動を始める。己の飢えに満足を与えるべく、形あるものを破壊し、生あるものを殺して回るんだ。それが悪魔の本能だからね」

 橙子さんは、そう言って二本目の煙草に火を点ける。

 相変わらずペースが早い。

「だが、悪魔が憑りついているとはいえ、しょせんはこの世の物質にすぎない。ちょっと手荒く扱ってやればすぐに壊れてしまう。そうして依り代を失えば、必然〝中身〟も割れた風船のガスのように霧散し、消滅する。しかし、たとえ雑魚でも悪魔は悪魔だ。一般人が相手をするには荷が重い。だから式の出番、というわけさ。――闇の眷属は闇から出さず、闇の中で狩って滅ぼす。誰に気づかせることもなく」

 謳うように独白する橙子さんもまた、夜の住人。

 事を表沙汰にするのは好まないからこそ、お金にもならないのに引き受けているのだという――悪魔の始末を。

「依頼として受ければ、けっこう金になるのだがね、悪魔狩りは。害虫駆除みたいなものさ。やつらはまったくどこにでも現れる。デビルハンターという仕事が、それこそ稼業として成立する程に、な」

「……デビルハンター?」

「文字通り、悪魔狩人のことさ。彼らは主に銃器を用いる。古びた人形や寄り集めた砂などに取り憑いた低級悪魔は、つまり人間界の物質に依存している為、銃器での破壊も充分に可能だからな。悪魔と戦うのに祈りや聖水を使うとでも思っていたか? それはエクソシストの仕事だ」

 底意地の悪い笑みで橙子さんは言う。

 なるほど。だから基本的にナイフしか使わない式でも、悪魔を倒すことができるのだろう。彼女が特別な目を持っているとはいえ。

「だが、治安大国の日本で銃器を使うのは難しい。世界各地に点在するデビルハンターが、この国だけは敬遠しているのも頷ける。魔術を使って銃器の存在を隠蔽することも可能だが、だったら最初から魔術師が動いたほうが手間はない。結局、私と式がやるしかない、というわけさ」

「おまえは高みの見物を決め込んでるだけで、やるのはいつもオレだろうが、トウコ」

 不満を訴える式を平気でやり過ごし、橙子さんは煙草をくゆらせた。電灯のない事務所に、紫煙がただよう。

「だがもしも、自らの肉体を持った高位悪魔が出現してしまった場合は、それはもう私の手には負えん。式でさえ役不足だ。それほどの悪魔が出入りできるような巨大な道は、そうそう開かれるものではないがね」

 だから安心しろ、と言葉を足した橙子さんだったが、あり得ない、あってはならない『もしも』を想像して、僕の顔は蒼くなる。

 炎に包まれる街。湧きあがる悲鳴。血に染まって倒れる人々。その中には、式の姿もあった……

「式でさえ役不足って……なら、そのときこそデビルハンターとかいう人たちの出番なんじゃ……」

「あのな、デビルハンターも人間なんだぞ。私と式だって、魔術を使える、直死の魔眼を持つ、という点を除けば、ただの人間と大差はない。高位悪魔から見れば塵芥にも等しい、脆弱な存在だ。基本的に人間が勝てる相手じゃないんだ――悪魔という存在はな」

「なら、どうしろって言うんですか? 神様に祈ってガタガタ震えてるしかないんですか?」

 人間よりも上位の存在に敵意を燃やして鮮花が言った。

 勝ち気な瞳に、火のような闘志が揺らめいている。悪魔にさえ喧嘩を売る好戦的な態度……つくづく負けず嫌いな性分の愛弟子に、橙子さんは苦笑する。

「そう、いきり立つな。嫁のもらい手がないぞ?」

「よ、余計なお世話ですっ!」

 ……何でそこで僕を見るのだ、わが妹よ?

「悲観的になることはないさ。『世界』は、いついかなる時でもカウンターを用意しているものだ。魔剣士スパーダの話を聞いたことはあるか?」

「あっ! それ知ってます。子供向けの絵本ですよね?」

「スパーダの伝説なら、オレも知ってる。昔、正義に目覚めた悪魔が人間のために戦ったっていう。おとぎ話だろ?」

 魔剣士スパーダの逸話なら、僕だって知ってる。けれど……二人とも、肝心な点に気づいていない。

 さっき橙子さんは、悪魔は実在すると言った。

「さすがに聡いな、黒桐」

 言葉を失った僕を見て、にやりと笑う橙子さん。

 悪魔は実在する。なら、それはつまり……

「……魔剣士スパーダもまた、実在する……?」

 うめくような僕の言葉に、あっと息を飲む式と鮮花。

 二千年も昔、魔界にたった一人で半旗を翻し、ついには魔界の王をも打ち負かした、万夫不当の魔剣士。伝説によれば、彼は剣の力を使って魔界を封じた。そして以後、彼は人間界に降り立ち、人々の平和を見守ったという。それが事実だとすれば……

「ちょっと待てよ。じゃ何か?」

「悪魔が存在するならスパーダも存在していて」

「強大な悪魔が現れたときは人々を助けに来る」

「とでも言うんですか」

「二千年前と同じように?」

「長生きなおじいちゃんね」

「まったくだ」

 軽快なテンポで二人のかけ合いが展開される。普段はいがみ合ってるくせに、こういうときだけ妙に息が合う式と鮮花だった。まったく、相性が良いのか悪いのか……

「いや、残念ながら伝説の魔剣士が再来することはない。なぜなら彼はすでに死んでいるのだから」

「はぁ? 何だよそれ。さすがの魔剣士サマも、二千年生きてるうちに寿命を迎えちまったのか?」

 がっかりした表情を隠そうともせずに式が言った。なんだか、ヒーローの衣装の中身を知ってしまった子供のリアクションに似ていた。

「だいたい橙子さん。スパーダが死んだって、どうして分かるんですか? わたしとしては、まだ悪魔の存在そのものにすら懐疑的なんですけれど」

 実際に悪魔と遭遇した経験もなく、そして自分の目で見たことしか信じられない性分の鮮花に、

「そりゃおまえ、スパーダの血族と会ったからに決まってるだろう」

 そう、しれっと橙子さんは答えた。

「血……族?」

「スパーダには人間の女とのあいだに生まれた息子がいた。私は、その息子に会ったことがあるのだよ」

 ……驚きに声もない僕たちであった。

「彼によると、スパーダは死んだのではなく、ある日を境に行方をくらましたそうだ。生死不明である以上、死んでいるのと変わりはないがね。だが彼は、こう言っていたよ。父の死そのものは重要ではない。大切なのは、父が自分たちに未来を託したという事実だ――とね」

 スパーダは姿を消す前、息子に魔剣を残していったそうだ。

 そう言って橙子さんは、ふぅっと一息、紫煙を吐く。

「そうして伝説の継承者となった彼は、数年前、魔界へと赴き、復活を遂げようとしていた魔界の王を再封印した。剣だけでなく銃をも駆使した戦いの様は、父スパーダを超えているとも言われている。しかも半分は人間だから、死後、英霊として『世界』に召し上げられる資質をも備えているというわけだ」

 英霊――以前、橙子さんに聞いた話によると。

 ヒトの身に余る偉業を成した者は、その業績を讃えられて死後、精霊の域にまで昇格するという。

「……だがまあ、あいつは英雄(ヒーロー)なんていう器じゃないがね。なにせ気まぐれな男なんだ。自分の気に入った仕事しか引き受けない。十代の若者が聴くようなロック・ミュージックを好んで聴く。昼間から酒を飲んでピザを食う。まるで人間だ。あんな性格で『人間と悪魔とのあいだに生まれた』というのだから笑ってしまうよ」

 橙子さんの声には、まるで十年来の友人について語るような親しみがあった。魔剣士のご子息を、いきなり〝あいつ〟呼ばわりしてるところを見ても、その認識に間違いはない。

 自分でも気づかないうちに弾んだ声で、橙子さんは先を続けた。

「私とあいつが知り合ったのは、アメリカに渡って地下に身を潜めていたときのことだ。クソったれな妹のせいで使い魔を切らしていた私は、そのタイミングで運の悪いことに尻尾を掴まれてしまった。『協会』の派遣した執行者だけでなく『聖堂教会』の代行者にまで、だ。不可侵協定の裏で今もなお殺し合っている連中だ、標的が同じとなれば、お互いの威信をかけて私を狙ってきたよ。執拗な追っ手を振り切ることもできず、自衛すらままならない状態だった私は、形振り構っていられなくなり、ある事務所を訪ねたんだ。スラム街の一画に入り、薄汚い路地を抜けた突き当たりに、その事務所は建っている。『Devil May Cry』と書かれたネオンサインが目印でな。最初は卑猥な、いかがわしい店のように見えたんだが……そこで退屈そうに仕事を待つ、どこの勢力にも属さない一匹狼の男だけは敵に回してはならないと、誰もが――それこそ『協会』と『教会』の二大組織でさえ――肝に銘じているのは、この世界の闇の領域では有名な不文律なんだ。看板の名前が示すとおり、そこは悪魔も泣き出す危険地帯に他ならないのだから」

 事実、彼を怒らせて壊滅寸前にまで追いこまれた組織は数知れない。

 そう言って橙子さんは、また一息、紫煙を吐く。

「腕利きの男に頼ることにした私だったが、正直助けてもらえるという保証はなかった。あいつは金で動くような男じゃないし、魔導の類を扱う連中を嫌っているからな、私のような。だが、これが意外に甘い男でね。バカどもの勢力争いになど興味はないが、女子供が抗争に巻き込まれて助けを求めてきたなら話は別だ、といって手を貸してくれたんだ、報酬もいらないと言ってな。しまいには『あんたには危険が付きまとってる。そして俺は美女が大好きで、危険なことにも目がないんだ』とまで言い出したので、はっきり言って正気を疑ったよ。いいや、あれは完全にイカレていたな。そんな理由で見ず知らずの女を助けようというんだからな。第一級の殺戮者、人間兵器としての修練を潜り抜けてきた『協会』の執行者と『教会』の代行者を同時に相手にするというのにだ」

 あるいは彼の父スパーダの行動もまた、そんな気まぐれだったのかもしれんな。

 二本目の煙草の火を揉み消した橙子さんは、まもなく三本目の煙草を取り出す。

「これは私もヤキが回って頼る男を間違えたかなあ、と内心頭を抱えたんだが……いざ戦いが始まると、そんな不安は杞憂に終わったよ。強さは、極まると美しさになる。あいつの実力は、そんな表現がぴったり来るほど次元が違っていた。無骨にして優雅。爽快かつ刺激的。身の丈程もある大剣と大型二挺拳銃を軽々と振り回し、あいつは執行者と代行者とを同時に相手取ってなお圧倒した。まるで子供と戯れているかのように鼻歌まじりでな」

 橙子さんの声が、どこか戦慄した響きを帯びる。

「その強さに恐れをなした執行者は早々に退散したが、代行者のほうはしつこくてな。『聖堂教会』は主に『魔』と呼ばれる異端を標的とする。だから悪魔狩人のあいつと仕事がバッティングし、そのたびに苦杯を舐めさせられてきたであろうことは容易に想像のつくことだ。実際にあいつの仕事の邪魔をして代行者が返り討ちに遭った、という事実は、記録にこそ残っていないがよく耳にする話でな。そして私のときの場合、血眼になって追いつめた獲物はもう目と鼻の先で、それを匿っているのが商売敵……こんなシチュエーションでは撤退できるはずもない。面子を賭けて果敢に挑みかかった代行者だったが、まあ言うに及ばず、結果は悲惨なものだったよ。代行者は命懸けの覚悟で戦っているというのに、あいつは殺すまでもないと言わんばかりに手加減していた。決して命を奪おうとまではしなかった。実力の差を教えてやる場合において、これほど屈辱的なものもあるまい。結局、遊ばれてると気づいた代行者は打ちひしがれ、今にも泣きそうな顔で引き返していったよ。『Devil May Cry』……悪魔も泣き出す、という看板に偽りなしと、その場の誰もが思い知ったわけだ」

「悪魔も泣き出す、ねぇ……」

 万事興味なさげな式が、橙子さんの話を聞いて身を乗り出している。

 いつの間にかナイフを取り出して手慰みに弄んでるところを見ても、彼女の血が騒いでいるのは明白だった。戦士とは、得てして強者の逸話に闘志を高ぶらせるものだ。まったく勘弁してほしかった。式、君も女の子なんだから、そんなふうに目をギラギラさせながらナイフを振り回さないでほしいよ……

「その後のことだが、結局、私はあいつの許でしばらく厄介になることにした。下手に身を潜めるより、あいつの事務所で過ごしているほうが安全だとわかったからな。それからというもの、憎まれ口の応酬が絶えなかったがね。『最強の悪魔狩人のくせに煙草は嫌いらしいな』と私が言えば、『自分で自分の肺をヤニ漬けにして楽しいかよ?』と彼も返してくる。『いつもながら、女運は良くないらしい』と彼が呟いたときは、さすがの私も、こんなイイ女を捕まえてひどい奴だと、ちょっぴり傷ついたがね」

 饒舌に語りつづける橙子さんの眼差しは、いつになく穏やかだ。

 眼鏡を外したときの目つきの悪さが、今はまるで怖くない。

「そうやって一緒に過ごしているうちに、私は変わったよ。良くも悪くも影響力の強い男だからな、あいつは。刺激的な毎日だった。あいつの何者にも縛られない自由気ままな生き方に、たぶん私は心惹かれていたんだ。しばらくして彼のもとを離れても、気がついたときには小さな事務所を営んでいた、あいつと同じようにだ」

 鮮花が、なにかを期待しているように目を輝かせている。

 僕はため息を吐いた……そういう話に興味のある年頃なのはわかるけども。

 相変わらず、下衆の勘繰りが好きなやつだな、おまえはっ。

「本当、退屈しない男だったよ、あいつは。残念ながら私の恋愛対象にはなり得ないタイプだがね」

 まさに急転直下。

 お星様のようにキラキラしていた鮮花の目は、橙子さんのその言葉を聞いて一気に死んでしまった。

「さて、話が逸れたうえに長くなってしまったな」

 気を取り直して橙子さんが例のダンボール箱に目を向ける。

 気を取り直せない鮮花には目も向けず。

「あの、橙子さん。このダンボール箱に悪魔が入ってるということですけど……もしかして、生きたまま?」

「うーん、説明の難しいところだが、私が購入したのは『魔具』と呼ばれる代物でな。これには二種類あって、単純に悪魔によって生み出された物質でしかないものと、それ自体が悪魔の変化した姿であるものとが存在するんだ。今回私が買った魔具は後者に当たるんだが、それ自体が悪魔とはいえ物質と化してしまっている以上、口を利くことはないし動くこともない。一応、生きてはいるようだが」

 とりあえず開けた瞬間に襲われるようなことはないみたいなので、ひと安心する僕と鮮花。

「生きている……いい言葉だな」と、意味深に物騒なことを式が呟いていたが、橙子さんがダンボール箱のガムテープを引っぺがす音のせいで、よく聞こえなかったことにした。

「まあ、百聞は一見にしかずということで、ほれ」

 橙子さんが慣れた手つきでダンボール箱を開ける。

 おそるおそる中を覗き込むと、式が声を上げた。

「……剣か、これ?」

 緩衝剤代わりに敷き詰められた木屑の上に、二振りの剣があった。

 中華風の剣を連想させる、三日月状に湾曲した分厚い刀身。

 柄の部分には、人の顔を象った不気味な意匠が浮かび上がっている。

「迂闊に触らないほうがいいぞ。タダ同然の値段で市場に出回るような魔具だ、名もない低級悪魔のなれの果てだと思うが、それでも悪魔は悪魔だ。もしかしたら呪われるかもしれん」

 二振りの剣を取り出そうとした式が、その言葉を聞いて手を引っ込める。

 相変わらず蒼崎橙子という人がわからない。我らが所長は、どうして触っただけで危険なものを買い付けたりするんだろう?

 何だかやるせなくなって本日何度目かのため息を吐いた、そのときだった。

「そのような、わかりきったことを申すな」

「そうじゃ。わかりきったことを申すな」

 ……僕たちは耳を疑うよりなかった。

「我らより弱き者がこの身を操ろうとすれば、それ相応の報いを受けるのは当然であろう」

「そうじゃ。当然であろう」

「見よ、兄者。愚かな人間どもが呆気に取られておる」

「――アッケ? アッケとは何じゃ、弟よ?」

「アッケというのは――」

 ひずんだ声の発生源は、ダンボール箱の中。

 二振りの剣の柄の部分……人の顔を象った不気味な意匠が、信じられないことに人語を放っているのだ。それこそ人間と同じように口を動かしながら、だ。

 僕と鮮花の黒桐兄妹はもちろん、滅多なことでは動揺しない式と橙子さんでさえ、これには衝撃を受けたらしい。唇に挟んだ煙草が、散らかった床にポロリと落ちる。

 そして次の瞬間にはもう、僕たちの驚きの声が、電灯のない事務所内に響き渡ったのだった。

『しゃ、喋ったぁ!?』

 

 

 




 初見の方は初めまして、そうでない方はお久しぶり。らっきょのキャラクターは橙子推し、ユート・リアクトです。理由はエロいおねえさんが好きだから(ぉ
 さてさて、らっきょとデビルのクロスオーバー小説ですよ、奥さん! 学生時代の構想から数年経ち、今では社会人となってしまった僕ですが、ようやく投稿することができました……といっても、まだ前編だけだけど(死
 クソったれ遅筆なユート・リアクトですが、なるべく早く次話を投稿できるように精進致します。
 前半は、らっきょとデビルの世界観を違和感なく浸透させる、準備運動的なパート。
 後半は、あのやかましい悪魔の兄弟と、らっきょのメンバーが織り成す、ドタバタな展開を描けたらなあ、と思っております。
 ……もしかしたら番外編で、橙子とダンテの出会いを詳しく掘り下げるかも(ボソッ
 とにもかくにも、読者の皆様が程よく楽しんでいただけたら、これに勝る幸福はありません。またお会いしましょう。感想や苦情は随時、受け付けております。
 でわでわ。


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悪魔の境界  中編

 

 

『しゃ、喋ったぁ!?』

 品がないと分かっていたけど、私こと両儀式は思わず叫んでいた。我ながら健康的だと思う。

 幹也と鮮花はもちろん、見ればトウコでさえ度肝を抜かれた様子だった。琥珀色の瞳が、まるで幽霊でも目撃したかのように見開かれている。

「聞いての通りだが? 口を利けぬという自己紹介など、したかの?」

「そうじゃ。したかの?」

 ダンボール箱のなかに入った、二振りの剣。

 不気味な人の顔を象った、その柄の部分が流暢な人語で話しかけてくる。

 これだからトウコの言うことは信じられない。これのどこが、物言わぬ低級悪魔のなれの果てなんだか。

 年季の入った口調には、知性がある。私が倒してきたザコ悪魔とは格が違う存在だ。それは認めなければならない……こいつらの声が、こないだ幹也のアパートで観た、あるアニメの登場人物に似ているところが気になりつつも。

(歌がド下手なガキ大将と、とんがり頭の金持ち息子の声に、そっくりだ)

「えーと……君たちは?」

 そんなことを考えていた私をよそに、幹也が声をかける。

 邪悪な悪魔が姿を変えたという二振りの剣に対して、だ。

「ほら、君たちの言うとおり、自己紹介がまだだったよね。僕は黒桐幹也って言うんだけど、君たちは? 名前とかあるのかな?」

 ……こいつのこういう無防備なところが、私は怖い。たしかに相手を知るために会話は必要かもしれないけどさ。

 相手は人間に害為す存在なんだから、もう少し警戒してかかれよ、ばか幹也。

「悪魔を相手に名乗りを上げるか、うかつな小僧め。それで我らが名乗り返すとでも思うたか」

「兄者の言うとおりじゃ。弁えよ、人間」

「力無き者に教えてやるほど、我らの名は安くはないぞ」

 自らの偉大さを誇示するような、高圧的な物言いに、むしろ鮮花のほうが逆上する。

「兄さんに向かって、なんて口の利き方!」

 目をつり上げた鮮花が、片割れに『兄者』と呼ばれている赤い剣に手を伸ばす。

 地獄の炎を連想させる色をした剣を、恐れてもいない。こいつのこういう怖いもの知らずなところが、私は嫌いじゃなかった。少なくとも幹也の無防備さよりは攻撃的で、私の性格に通じるものがある。

「待て、鮮花!」

 赤い剣の柄を掴んだ鮮花を見て、それまで黙していたトウコが慌てて声をあげる。

 制止の声は、しかしあと少しだけ遅かった。

「悪魔のくせに生意気よ、へし折ってやるわ!」

 床に叩きつける気だろうか。鮮花は細腕に似合わぬ力強さで、赤い剣を高々と振り上げた。

 振り上げて、しまった。

 そうしてダンボール箱から取り出された魔性の刀身が、事務所の空気に触れた瞬間、

 

 

 ずるり、と。

 世界が反転した……そんな感覚に、私たちは襲われた。

 

 

「遅かったか!」

「……え、え?」

 歯噛みするトウコの目には、いつもの余裕がない。

 露骨に変質した事務所の空気に、鮮花は怒りも失念して戸惑っている。

 まるで怪物の胃袋のなかにいるような、えも言われぬ不安と圧迫感。窓を開けてもいないのに、どこからともなく生温かい風が吹き、腐臭まで漂ってくる。

 私はいつでも幹也を庇える位置で、緊張に身を引きしめた。

「結界がまるごと切られたか……これは大変なことになったぞ、式。私の影響下から逃れ、下の階のモノが溢れだしてしまった」

 トウコの言葉に、私は絶句するよりなかった。

 うんまあ、これはアレだな。いわゆる〝最悪の事態〟ってやつだ。

「私が式に頼んで人知れず悪魔を始末していたという話はしたな、鮮花?」

 事情を理解できず、目を白黒させるばかりの愛弟子に説明をするトウコ。

 心無し、その声は厳しい。気丈なはずの鮮花が、まるで母親に叱られる子供のように肩を小さくしている。

「式に倒されて実体を保てなくなり、ガス状になった悪魔を、私は封印して下の階に管理していたんだ。凄まじい魔力を持った、それこそ魔具のような強力な武器による攻撃でなければ、奴らを魔界に送り返すことはできないからな。もちろん霊格のない通常兵器でも悪魔を倒すことは可能だが、それは依り代という肉体の代替品がなくなり、悪魔がすごすごと引き返すしか他になくなるまで攻撃するという、徹底的な破壊だ。それだけ周囲に及ぼす被害も大きい。実力の高いデビルハンターほど、報酬以上の損害賠償をこしらえることが多々あるのは、そのためだな。だが私は、できるだけ奴らの痕跡を残さずに始末をつけたかった。下手に目立ちすぎると『協会』の追手にも見つかってしまうしな。だからこそ悪魔を封印して管理するという、あまりやりたくなかった方法を取るしかなかった」

 気持ちを落ち着けるためだろうか。

 トウコは、こんなときだというのに普段と変わらない調子で煙草を取り出し、火を点けた。

「だが、私の結界が消失したことによって封印も破られ、下の階のモノが一斉に解き放たれてしまった。私の工房なら肉体の代替品となる依り代も、腐るほどあるからな。つまり奴らは身支度を整え、いつでもパーティーを始められるというわけだ」

「そ、そんな……それじゃ悪魔が、事務所の外に繰り出して街の人たちを襲うってことですか!?」

 顔を蒼くした鮮花の叫びは、ほとんど泣き声に近い。

 事態のヤバさを理解した以上、無理もない話だけどな。

「あぁ、まだその心配はしなくていい。私の結界が消失した直後に、奴らが結界を張り直している。自分たちを閉じ込めた腹いせに、まずは私たちを殺すつもりだ。この悪意ある結界は、さしずめ檻といったところか。狩りをするときの常套手段だからな、獲物を逃げられないようにするのは……まるで怪物の胃袋のなかにいるような圧迫感も、そのせいだな」

 とりあえず、いきなり悪魔が街を襲う、なんてことはないみたいだが、だからといって全くありがたい話でもない。逃げ場ナシの限定的な空間で悪魔どもと殺し合い、か……嫌いなシチュエーションじゃないが、さすがの私も危ないかもな、こいつは。

「本当、大変なことになってしまった……私の結界をまるごと切り開くなんて、そう起こり得ることじゃないんだがね。だが、口を利かぬはずの魔具が口を利き、低級悪魔にはない知性まで持ち合わせていた……この時点でもう、嫌な予感はしていたんだ」

 トウコは、そう言って結界を破壊した張本人……鮮花がその手に持つ、湾曲した赤い剣に詰め寄った。

「歴史を積み重ねた武器は、それだけで魔術に対抗する神秘になる――答えろ悪魔。貴様、一体どんな年代物の概念だ」

 トウコは決して大声で怒鳴ったわけじゃない。

 だが橙色の魔術師の声には、答えをはぐらかすことを許さない、有無を言わせぬ迫力があった。弟子としてトウコという魔術師の本性を知る鮮花が、ごくりと喉を鳴らしている。

 だが赤い剣は、まるで意に介した様子もなく、ただ質問されたから答えるような気軽さで口を開いた。

「我ら兄弟を打ち破った、かの魔剣士により『塔』の門番を命じられたのが、そうさなあ……たしか二千年前のことだったと思うが、そのときには既に高位悪魔として存在していた。我らが誕生した起源など、今となってはもう、思い出せぬほど遠い昔の話よ」

 過去を懐かしむような声で、赤い剣は語る。

 ポロリ、と。トウコの唇から、火を点けたばかりだというのに煙草が落ちる。その両肩が、なにか度し難いものにでも遭遇したかのように、わなわなと震えていた。

「二千年以上は存在する概念だと……ふ、ふざけるなッ! 何でそんなものが、タダも同然の値段で市場に出回る……!?」

 不条理に抗議するかのような仕草で、トウコが声を荒げる。この女がここまで感情的になるのも珍しいな、と思っていると、不意に異変が起きた。

 部屋の片隅の空間に、ぼんやりと蜃気楼のような影が立ち現れる。それが次第に人のようなカタチを備えると、いきなり私たちに向かって飛びかかってきた。

 飢えた捕食獣のように動く、塵から生まれた黒い影――それは漆黒のトーガに身を包み、死神の大鎌を携えた、おとぎ話に語られる通りの悪魔の姿だった。

「幹也、危ないっ!」

 鮮花の緊迫した声。

 この場で最も仕留めやすい獲物を理解している悪魔は、まっすぐに幹也を狙って大鎌を振り下ろしていた。鮮花が兄を守るように割って入ろうとするが、間に合わない。だが私は、いつでも幹也を庇える位置にいた。

 私はナイフを取り出し、悪魔を睨みつけた。……塗り潰されたかのように幾重にも絡み合った、死という黒い線が視える。ここまで殺しやすい存在も珍しい……生きているのかさえ不確定な、まっとうな生き物じゃないのだから、当然か。

 死そのものな黒い影に、さっとナイフを滑り込ませる。狙いなどつけていない。それで構わなかった。こいつら相手じゃ、どこもかしこも死が潜在していて、急所を外すほうが難しいくらいだ。

「死の塊が、オレの前に立つんじゃない」

 私がナイフを引き抜くと、音をたてて黒い影が崩れ去る。跡形もない消滅。砂を寄り集めた肉体が、死という繋ぎ目を切断された結果だ。灰は灰に――塵は塵に帰る。

「ほう、直死の魔眼か」

「器物に憑りつくしかない、綻びだらけの低級悪魔には天敵とも言える能力だな」

 双子の剣が、ひと目見ただけで私の力を看破する。なるほど、伊達に二千年以上も生きていない、ってことか。

 だが感心してる場合じゃなかった。見れば、事務所内のあちこちから黒い影が出現しつつある。

 ただでさえ狭苦しい事務所の中、徒党を組んだ悪魔どもを前にするプレッシャーは、並々ならぬものがあった。

「下がってろ、コクトー」

 私は幹也を壁際まで押しのけ、前方の悪魔に切りかかる。

「し、式ばっかり美味しいところを持っていかせないわ!」

 赤い剣を手放した鮮花の、なぜか焦った声。

 鮮花は空いた右手に革製の手袋をはめ、その右手を引きつけるように構えた。

 ダン、という踏み込みから撃ち出された右のボディ・アッパーが、悪魔を直撃する。

「AzoLto――!」 

 短い詠唱とともに燃え上がる、人のカタチをした黒い影。

 そうして火だるまとなった悪魔は吹き飛び、派手な音をたてて書棚に激突した。

 ドサドサッ、と大量の本が散らかった床にぶちまけられる。

「お、おいおい! ちょっと待て、おまえたち。私の事務所で暴れ回るな!」

「言ってる場合じゃないだろ!」

 組手の要領で私が投げ飛ばした悪魔が、トウコの事務机に落下する。

 ベキベキィ、と木材がへし折れる音。

「ぬぉっ! わ、私のデスクが真っ二つに!? あの黒檀の机、まだ借金が残っていたんだぞ!」

 トウコの似合わない悲鳴を聞いて、私と鮮花は、たぶん気を良くしてしまったんだろう。

 蒼崎橙子という人物は、常からして他人をからかって愉しむ癖のある、たいへん困ったやつだ。

 普段の腹いせに、あえて事務所内に被害が出るような立ち回りで暴れる、私と鮮花。

 応接用のソファが舞い上がり、うず高く積まれたブラウン管のテレビの山が崩落する。

「ああああああああ」

 悲鳴とともに頭を抱えるトウコを見て、私は戦闘中だというのに吹きだしそうになった。

 鮮花も笑いを堪えるのに必死な様子である。以前、他人の不幸は蜜の味という話を聞いたことがあるけれど、あの話は本当だったようだ。腹筋が引きつりそうで戦闘に集中できやしない。それでも私と鮮花は、着実の悪魔を倒していったが。

 だというのに敵の数が減らない。空間の歪みから無限に現れては、こちらに向かってくる。

「えぇい、次から次へと!」

 焦れた鮮花が声を荒げる。

 私も埒があかないと感じていた。敵の数は減るどころか、むしろ増えているようですらある。

 ここで生まれる疑問――悪魔にもピンからキリまで、様々な種類が存在するという――例えばの話、後方支援に特化した悪魔がいるとしたら?

「そういえば、オレが倒した悪魔の中に、仲間を呼び寄せるやつがいたな」

「何でそんな大事なことを忘れてるのかしら、このうっかりさんは!」

 鮮花の罵倒ももっともだが、突破口を見つけたことで、また新たな問題点に気づく。

 後方支援という性質上、問題の悪魔は間違いなく戦線の最後列にいる。

 その場所は――伽藍の堂、三階。私とトウコが悪魔を封印していた、階下の魔術工房!

(だけど……)

 私は厳しい眼差しで前方を見た。まるで無限を見ているかのような、悪魔の群れ。

 階下に辿り着くためには、この包囲網を突破しなければならない。だが私は、幾重にも居並んでいる悪魔の密集度に、あらためて歯噛みする。くそ、ナイフじゃダメだ。単純に攻撃力が足りない。せめて、もう少しリーチのある長物がここにあれば……

 ないものねだりの弱気に付け込まれた、そのときだった。

 

 

「力が欲しいか?」

 

 

 正真正銘、本物の悪魔の囁きが、私の耳朶を打った。

 声のした方向を振り向く。見れば、鮮花の手放した赤い剣と、その片割れの白い剣とが宙に浮き上がり、こちらを見下ろしていた。

 畏怖と、どこか偉大ささえ感じる光景。

 幹也と鮮花はもちろん、私とトウコでさえ息を飲んで双子の剣を見上げる。

 悪魔に取り囲まれているという状況も、今は意中になかった。

「普通、人間に助力を申し出るような我らではないが」

「久方ぶりの出番じゃ。思う存分に暴れてみたい」

 壮絶な闘争を期待する、暗い声。

 こいつらやっぱり悪魔なんだ、と私は再確認した。こいつらの声がジャイ○ンとス○夫に似ていて、その風格を台無しにしてはいるが。

「それに、ただの小娘と思って見ていれば」

「うむ。なかなかに大きな闘気をしておる」

「その意気や良し。――シキにアザカ、といったな?」

「今この時だけ、お主らを仮初めの主人として認めよう」

 たしかに一点突破の強大な攻撃力が要り様だった私にとって、これは願ってもない申し出だった。

 だけど、さ……

「我が名はアグニ」

「我が名はルドラ」

 私は皮肉に肩をすくめるよりなかった。

「我らを手に取るがいい」

「我ら兄弟が力になろう!」

 幸運の女神さまが寄越したのが、まさか悪魔とはね。

「……あぁ、よろしく頼むぜ。だけど、あいにく二刀流の心得まではないんだ。オレが持つのは一本だけでいい」

「よかろう。汝がそれを望むなら」

 ルドラと名乗った白い剣が、そう言って飛来し、私の手に収まる。

 柄を握りしめた瞬間、私は脳の機能が切り替わるのを感じた。青竜刀のような形状に一抹の不安を覚えたが、どうやら日本刀でなくとも自己暗示による洗脳は有効らしい。これより両儀式は、ただ殺し合うためだけの肉体に変貌する。さしずめ私自身が、一振りの剣とでもいったところか。

「さて、と……待たせたな、おまえたち」

 気を取り直して私は悪魔どもに向き合う。

 部屋の出入り口までひしめく悪魔の数は、ざっと十三体……試し斬りには、ちょうどいい。

「いくぞ……!」

 私は右手のルドラに呼びかける。

 白い剣は猛々しい声で呼応した。

「我が力は風! 我が力の加護は汝を包み込み、逆らう者をすべて吹き飛ばす!」

 ルドラの力強さに背を押され、事務所の床を蹴りつける。

 すると身体が爆発的に加速して私自身が驚いた。冗談だろ。なんて速いんだ!

 ルドラの与える風の加護は、重力のくびきを完全に断ち切っている。まるで翼を得たかのような速力……本来が身の軽い私との相性は、恐るべきものがあった。

 疾風そのものと化した私の踏み込みに、どんくさい悪魔どもが対抗できるはずもない。

 ルドラの剣先が、あり得ないスピードで大気を斬り裂く。

 幾重にも折り重なる包囲網の隙間を縫うようにして私が駆け抜けた直後に訪れる、真空にも似た静寂と、一瞬の空白。

 次の瞬間にはもう、悪魔どもの体表に出現する、いくつもの〝切れ目〟……その後の末路など、あえて語るまでもない。

「――やるな」

「当然だろ」

 憎まれ口を返す私は、しっかりと視た。

 私に斬られた瞬間、耳には聞こえぬ絶叫を残して消滅していった、異形の魂を。

 ――強力な武器を手に入れた。あとは地獄の亡者を、あるべき場所へ送り返そう。

「何してるんだ、鮮花。モタモタしてると置いてくぞ?」

 階下までの道は拓けたとはいえ、まだ根本の解決には至っていない。

 早くしないとまた増援が来る。仲間を呼び寄せられる前に食い止めなくっちゃな。

「待ってよ式! わたしまで離れたら、一体誰が幹也を守るっていうの?」

「む」

 確かに、それは盲点だった。

 いちおうトウコが事務所内に残るが、あいつは戦闘向きじゃない。幹也を任せるには一抹の不安がある。

 そんなことを考えている内に、また悪魔の一団が出現した。しかし……

「――あぁ、その点は心配しなくていいぞ」

 煙草の火で虚空に描かれた文字が、意味をなす。

 F(アンサズ)と。

「事務所をめちゃくちゃにされた私は、とても虫の居所が悪くてね――あまり趣味ではないが、ひと暴れしたい気分なんだ、これが」

 牙を剥くような笑みで嘯く魔術師の足元には、焼き尽くされた悪魔が数体、転がっている。

 かつて私が見たときとは比べものにならない火力……これなら安心して幹也を任せられる。

「この場は私が預かった。式と鮮花は下の階に行って、さっさと大元を叩いてこい」

 言われるまでもない。

 私はトウコに背を向け、勢いよく走りだした。

「ちょっと待ってよ! ああもう、ばか式! 待ってったらっ!」

 鮮花の声と慌ただしい足音。

 それに遅れて、事務所の騒音が聞こえてくる。

「ちょ、ちょっと橙子さん!? そんな見境なく攻撃しないで……って、うわわっ!? いま僕の服がジュッていったジュッて!」

「巻き込まれてくれるなよ、黒桐。今の私は手加減なんぞしてやれないからな!」

「手加減ナシは僕の安全を保障してからお願いしますっ! じ、事務所を荒らされて苛立つのは分かりますけど、だったらこれはリフォームのきっかけになったと思って前向きに考えれば……」

「おまえなあ、ただでさえ私は借金まみれなんだぞ! そんな金払えると思ってるのかああっ!?(泣)」

「うわーん! 橙子さんが泣いちゃったああっ!!(泣)」

 ……ちょっとトウコに対する腹いせが過ぎたらしい。

 とばっちりを受けた幹也の無事を祈りつつ、私は悪魔の溢れる階下へと急いだ。

 

 




 月の労働残業時間は安定して八十時間を超えるユート・リアクトです。転職するなら、おっぱぶがいいです(ぉぉ
 久しぶりに一ヶ月以内の更新ができました。前回の後書きで前編と後編の二部パートにすると言いましたが、長くなりそうだったので中編を差し込みました。全部で三部パート。これはまあ、楽しみが増えたと思って何卒ご了承くだせぇ<(_ _)>
 個人的な好みで、どうしても橙子を贔屓して描写してしまいがちですが、こんな橙子もアリ、と受け入れていただけたら幸いです。苦情や感想は随時、受け付けております。
 でわでわ。


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悪魔の境界  後編

 

 

「ちょっと待ってよ! ああもう、ばか式! 待ってったらっ!」

 先行する式に置いていかれまいと走り出しながら、わたしこと黒桐鮮花は叫んでいた。我ながら健康的だと思う。

 結界の破断により封印が解かれ、あふれ出した悪魔の群れ。

 倒しても倒しても際限なく増える闇の軍勢には、仲間を呼び寄せるタイプの悪魔も存在するらしい。

 後方支援というその性質上、問題の悪魔は間違いなく戦線の最後列――式と橙子師が悪魔を封印していた、階下の魔術工房にいる。

 そう睨んで先陣を切る式に追いすがりながら、わたしは一抹の不安を感じていた。

 この先に待ち受ける熾烈な戦いに対して、ではない。

 わたしの了承もなく背中に取り憑いた(文字通りに!)、この世の生き物じゃない存在が物質化したという魔剣に対して、だ。

 あぁ、もう……目には目を、歯には歯を、とは言うけれど。

 悪魔と結託して悪魔と戦うなんて経験は、できればこれが最初で最後であってほしいところだった。

「我の助力は不本意か、アザカよ?」

 悪魔だから人間の心を読み取ることができるのか。

 式が持ち去った双子の剣の片割れ――アグニと名乗る、炎の色をした剣が、わたしの意中を察して話しかけてきた。

「当然よ。兄さんにあんな口を利くやつなんて、信用できないわ」

 さっき幹也を見下したようなアグニの発言を指して、わたしは言う。

 斬りつけるように敵意を持った声。

 しかし、アグニは特に気にした様子もなく鼻を鳴らす。

「我ら悪魔と人間とは決して相容れぬ存在、背中を預けるには値せぬ、か」

 他人事のように淡々と事実を述べるアグニが気に入らない。

 だっていうのに、こいつは勝手にわたしの背中に取り憑いて離れる気配もない。

 気持ち悪いから力ずくで引き剥がそうとしても、どうして背中に固定されたみたいにびくともしないのよこいつはああっ! なによ、ア○ンアルファ!? 最高の接着力!? ふざけんじゃないわよおおッ!!

「……すさまじい闘気だ。人間の小娘風情が、よもやそこまで荒ぶるとはな」

「アンタのせいだからね!?」

 なにを勘違いしたのか、わたしの激昂を戦いを目前に控えた高揚によるものだと、都合のいい解釈をするアグニ。

 こいつはさっき、久しぶりに大暴れしたいと言った。だからわたしと式に力添えする、とも。

 その暗い闘争心に満足を与えるまで、意地でもわたしから離れるつもりはないらしい。敵を殲滅する、という目的が一緒とはいえ、はた迷惑もいいところよね。さっさと済ませてこいつを引っぺがさなくっちゃ。

「いよいよ出番か……フフ、血が騒いでおるわ」

 階下の入り口まで差しかかると、興奮を隠しきれない声でアグニが呟いた。

 背中越しに、人ならざる魔の闘気が伝わってくる。猛々しい魂の鼓動。それに背中を押されるように、わたしは目の前の扉を蹴り開けた。

 女の子らしくない、乱暴な仕草……もしかしたら、このときわたしは、アグニの魂に同調していたのかもしれない。意気揚々としたアグニの声が、わたしの魂に直接語りかけてきた。

「いくぞ、アザカよ。我が力は炎――この身に宿した地獄の業火で、汝の敵を焼き払ってくれよう!」

 

 

 

 

 悪魔のあふれ出した魔術工房に踊り込むと――果たして、そこは人外の魔境と化していた。

 周囲には精巧なマネキンから呪術に使うような布人形まで、様々な種類の人形が鎮座している。その全てが人形師(ハイマスター)である橙子師の作品だった。

 それが、この世のものではない魂を得て活動を始めていた。

 橙子師の手がけた人形ならば、単純に魔力で動くものも珍しくない。だが無機物にはない、おぞましい生気さえ身にまとって人形たちは動いている。まるで目に見えない糸で操られているかのように、関節をねじ曲げながら徘徊する傀儡(マリオネット)――無機質なその手に錆びた短剣を持ち、獲物の血を求めて彷徨う様は、人形に殺人鬼の魂が宿る有名なホラー映画を思い出させた。

 ヒトのカタチをした器物に何かの自我が乗り移るという概念は珍しくもない。人形は〝ヒトガタ〟とも読むし、ヒトに近いカタチほど魂は宿りやすいものだから。

 橙子師の工房を我が物顔で闊歩するのは、マリオネットだけではない。

 素材のむき出しになった床は、ここ半年間一度も掃除をしたことがなくて、紙クズのつまった焼却炉の中みたいになっている。そこにうず高く積もった、塵や砂ぼこりを媒介として出現した黒い影――それは漆黒のトーガに身を包み、死神の大鎌を携えた、おとぎ話に語られる通りの悪魔の姿だった。

「気味の悪い人形に、絵に描いたような地獄の住人……本当、悪魔のセンスって最悪ね!」

 威勢良く吐き捨てたけど、にじみ出る冷や汗を誤魔化すことはできなかった。

 人は本能的に闇を恐れる。それは長い年月にわたり、悪魔に恐怖してきた遠い先祖の記憶を、その血に受け継いでいるせいなのかもしれない。

 人間である以上、決して逃れることのできない、原初的な恐怖。まるで自分が子供の頃に戻ったような気分だ。

 しかし、わたしだけがガタガタと震えて神様に祈っているわけにもいかなかった。

 なぜなら一陣の旋風が、その地獄のような光景の中でなお吹き荒れていたからだ。

「ははッ!」

 普段の物静かな姿とは一変し、捕食獣が牙を剥くような笑みで楽しげに声を漏らす式は、まさに暴風そのものだった。

 百合のような白い手が振るうアグニの兄弟剣、ルドラ。

 その風の加護は類まれなスピードを使い手に与え、ただでさえ身のこなしが軽い式の速力を不可視の域にまで底上げしている。

 残像さえ生み出すスピードで動き回り、周囲の悪魔を斬り刻んでいく式は、まるで電動ジューサーの回転刃だ――あらゆる方向に対応し、襲い来るものを蹂躙するダンスマカブル。

 文字通りの死の舞踏が、そこに演出されていた。

「この分だと、わたしの援護はいらないんじゃ……」

 一方的すぎる戦況を前に、そう呟きかけたところで、はたと気づく。

 あれだけ式が暴れ回っているというのに、敵の数が減っていない。むしろ増えているようですらあった。

 わたしは自分の頭をこつんと叩く。うっかりしていた。悪魔にもピンからキリまで、様々な種類が存在するという。そして、仲間を呼び寄せる厄介者を叩いて増援を止める為に、ここにやって来たのではなかったか。

 周囲を見渡す。案の定、部屋の一番奥まった場所に、それらしき悪魔を発見した。

「ヘル=グリードか、やはりな」

 そんな気はしていたと言わんばかりに驚きもないアグニが、その悪魔の名を呟く。

 有名な拷問危惧を思わせる巨大な棺を持った、異形の影……その棺桶のなかは冥府へと繋がっており、苦悶と憎悪の表情を浮かべた異界の魂を呼び寄せている。

「あいつが元凶ってわけね」

 わたしは右手に火蜥蜴の皮手袋をはめ、獲物に狙いを定めた。

 あのクリプトキーパー(棺の番人)が陣取る一帯だけ、明らかに敵の密集度が高い。知性を感じさせない雑魚に見えても、弱点を心得るだけの知恵は回るようね。

 烈風のような式でも、あれほどの包囲網を突破するのは至難の業だ……よし!

 甚だ不本意だけど、せっかくだから悪魔の力を使ってみますか。

「あいつまでの道を切り開くわ。できる?」

「造作も無い」

 背中のアグニに呼びかけると、頼もしい返事が返ってくる。

「おぬしは発火現象(パイロキネシス)が攻撃手段のようだな? なら我との相性は悪くない。我を剣ではなく増幅器として使え。あとは汝が『燃えろ』と命じるだけで、現実はそのようになる」

 アグニを介して背中越しに流れ込んでくる炎の魔力が、わたしの右手に集束する。

 人間では到達し得ない、圧倒的な魔力。なるほど、でかい口を利くだけのことはあるようね。わたしは右手を引きつけるように構え、球状に膨れ上がっていく炎の制御に努めた。

 じじじ、と火蜥蜴の皮手袋が焼け落ちつつある。天井は知らぬとばかりに膨張をつづける魔力。う、嘘でしょ……まだ上がるっていうの?

 徐々に制御の難しくなってきた魔力は、わたしでさえ不安に駆られる程だ。バランスボールくらいの大きさまで膨れ上がった炎の塊は、ついには溶岩のように不気味な音をたてて脈動を始めた。

 右手が震える……体勢が維持できなくなる。これ以上は……だめ! 暴発する!

「吹っ飛べぇ!」

 わたしは右手を砲塔に見立てる格好で、限界まで集束した炎を撃ち出した。

 それは隕石(メテオ)のように真っ赤な尾を引いて、まっすぐに標的へと直進し――

 炸裂する轟音と閃光。ものすごい衝撃波が部屋どころかビル全体を震撼させ、わたしを骨の髄まで揺るがした。

 なまじ密集していただけに、悪魔どもは炎の威力を存分以上に受け止める羽目になった。そのおかげで威力が拡散することもなく、余波で建物内に被害を出さずに済んだのは僥倖としか言えない幸運だった。

 固体も同然に凝縮された大質量の火球は、居並ぶ悪魔どもを粉砕し、まるで見えない巨人の手が大地をなぎ払ったかのように一直線に道を開く。熱風が吹き抜けたその瞬間、悪魔どもの包囲には完全な穴が貫通していた。

「す、す……凄すぎぃ」

 生身の人間に実現できるレベルをはるかに超えた魔力出力と、それがもたらした破壊の跡を目の当たりにして、わたしは思わず感嘆の声を漏らしていた。これが戦闘中でなければ、へたり込んでいたところだ。凄いなんてものじゃない。これが、悪魔の力……

「この程度で驚くでない、アザカよ。今のは、かの炎拳魔神の真似事に過ぎん。これが本家なら、今頃、この一帯は焦土と化しておるだろう」

 アグニが敬意を示すほどの悪魔の力なんて想像もできないので、わたしは軽い目眩を堪えつつ、気を取り直して前を見た。

 メテオの破壊力は、けれど幾重にも折り重なっていた悪魔の群れと相殺されて、ヘル=グリードの元まで届く頃には空気をチリチリと焦がす程度の火の粉にまで減退していた。

 そして、穿たれたとはいえ穴は穴。いまだヘル=グリードが呼び寄せつづける悪魔の密度をもってすれば即座に塞げる綻びでしかない。

 もう一度大技を放とうにも、そんな暇を許す程、敵も馬鹿じゃないだろう。

 考えている間にも無尽蔵に召喚される異界の魂は次々に実体化を果たし、その密度でもって切り開かれた道を塞ぎにかかっている。うんまあ、これはつまりアレね……

「急げ、ダッシュだわたし……!」

 ヘル=グリードまでの距離を阻む障害が再び出現する前に、あいつの懐に飛び込んでブチのめすより他はない。

 単純明快な答えに行き着いたわたしは、スカートだというのに大股で走り出していた。我ながら淑女だと思う。

 わたしの狙いに気づいた周囲の悪魔が、させじと飛び上がって凶器を奔らせる。

 わたしは全ての妨害に対応せざるを得なかった。アグニの与える加護はパワーを重視したもので、ルドラのようにスピードに特化した代物ではない。式さながらの速力で追撃を振り払うことは望むべくもなかったのだ。

 そして何より、この服装が猛ダッシュに適していない。歩幅を制限するスカートを煩わしく思いながら、目前の悪魔を右の打ち下ろしで叩き伏せる。しかし、やっぱりスカートのせいで満足な踏み込みができなかった。充分な運動エネルギーを確保できなかったパンチは敵を仕留め損ない、その結果にわたしの苛立ちはピークに達する。ああもう、うっとうしいわねこれ……!

「邪魔ぁ!」

 わたしは迷うことなくスカートの裾に手をかけ、びりびりと引き裂いた。

 それなりに上等だったスカートは台無しになったが、これで不自由なく動けるようになった。右脚を頭上まで振り上げ、一気に振り下ろし、十八番の踵落としを披露する。

「よっしゃあああーッ!! いくわよ!」

 仕留め損なった悪魔をぐしゃぐしゃに踏み潰したわたしは、広くなった歩幅に快哉の声をあげて床を蹴りつける。

 勢いに乗ったわたしの俊足は、あっという間にヘル=グリードの目前まで距離を縮めた。

 そのわたしの背中を襲いかかる、いくつもの凶刃。

 いくらわたしが俊足とはいえ、やっぱり人間の脚力では、悔しいけど悪魔を出し抜くことはできないらしい。そしてダッシュに専念するあまり、わたしは無防備な背中を晒してしまったようだ。

 だけど、わたしは振り返らなかった。なぜならわたしの黒髪をなびかせて、刃物のような疾風が吹き抜けたからだ。

「世話の焼けるやつだな。もっと速かった気がするけど、太ったか?」

「お生憎さま。こっちは出るところはしっかり出てんのよ、つるぺたのあんたと違って」

 式の操るルドラの剣先が、わたしへの追撃を鮮やかに斬り払う。

 ナイスアシスト……と言いたいところだけど、わたしたちは言葉の一部を悪意を持って強調し、憎まれ口を交わした。わたしをデブって言ったツケは、あとで絶対払ってもらうんだから。

 相変わらずのやり取りを手早く済ませ、わたしは火蜥蜴の革手袋に包まれた右手を握りしめる。

 ヘル=グリードまでを阻む障害は、もはや皆無である。さて、と……ちゃちゃっと仕上げにかかりますか。

 身の危険を感じたヘル=グリードが、その手の棺桶を横薙ぎに振り回してきた。

 棺桶を鈍器に見立てた攻撃は、そのサイズと重量だけを見れば確かに脅威だけど……そんな攻撃、式と比べたら、まるで遅いし、まるでぬるい。

 わたしは地を這うように身を低くし、頭上を擦過する鈍器をやり過ごす。

 そして立ち上がりざまに強烈なアッパーカットを繰り出した。右手にアグニの豪炎をまとった必殺パンチは、まるで噴火するマグマのような軌跡を描いて直撃し、敵の動きが一瞬、止まる。

 その隙を見逃すわたしじゃない。

「おネンネの時間よ」

 間髪入れずに跳ね上がった左脚が、ヘル=グリードの脇腹にめり込む。わたしの足先は、もちろん地獄の業火に包まれていた。

 蹴り込んだ勢いで身体を回転させ、もう一発……今度はその反動を利用して身体を切り返し、さらに一発!

「はああああッ!」

 烈火怒涛と降り注ぐ、われながら見事な蹴り技のコンビネーション。

 背後の式が呆れたように呟くのが聞こえた。地獄送りのフルコースだな。

「とどめッ!」

 都合十三発目となるハイキックが、だめ押しで炸裂する。火だるまになり、もはや悲鳴もなく消滅する異形の影。やった、とわたしは歓声を上げかけ……無視できない異臭に、くんと鼻を鳴らした。火薬や燃料の匂いに人一倍敏感なわたしの嗅覚は、それが銃弾に使用される発射薬の匂いだと気がついた。

 見れば、たったいま崩れ去ったヘル=グリードの影にマリオネットが身を潜めていた。その血塗られた手にショットガンを持って、だ。

 ダブルバレルの銃身とストックとをコンパクトに切り詰め、携帯性に優れた熊撃ち用の散弾銃。

 メル・ギブソンの映画でも有名な、そのソウドオフ・ショットガンは、どう見てもわたしに真っ黒な銃口を向けていた。

 わたしは自分の失敗を悟る。とどめの瞬間に気を良くしていたわたしは、まさかの反撃を想定などしていない。そして紅い光を灯すマリオネットの暗く虚ろな眼窩は、われわれの目的は味方を守ることではなく、たとえ味方を犠牲にしてでも人間を殺すことだと告げていた。

 結局、後方支援と思われたヘル=グリードは立派に囮の役割を果たし、まんまと引っかかったわたしの命運はこれにて尽きたわけだ。防弾チョッキもない生身の人間に、熊撃ち用の散弾銃を防ぐ手立てなどあるはずもない。自分の最期を理解して、わたしは脱力したように嘆息する。

(あちゃー、つまんない終わり方になっちゃったわね……)

 今際の際に、そんな間の抜けた感想を漏らしたわたしの胸を襲う、とてつもない衝撃。

 散弾粒が拡散する前の至近距離で銃撃され、ショットガンの最大威力を堪能する羽目になったわたしは、そのまま声もなく吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。

「鮮花ああッ!」

 初めて耳にする、式の狼狽しきった声。

 わたしを撃ち殺したマリオネットを細切れにし、わたしに駆け寄ってきた式の表情は、あの物静かな姿からは想像も出来ない程に、普段の冷静さをかなぐり捨てていた。それがなんだかおかしくて、わたしは消え行くような微笑を浮かべる。フフ、馬鹿ね。そんなに慌てても、わたしはもう、助からないってのに。

 熊撃ち用の散弾銃に胸を吹き飛ばされた身体は、あばら骨が飛び出したり肺が潰れたりして、きっとイチゴジャムのように見るも無残な姿に……

「「……あれ? なってない?」」

 きょとんとした顔で、わたしと式の声が重なった。

 困惑したまま上体を起こす。ショットガンの威力は、お気に入りだったベストとブラウスをずたずたに引き裂き、その下のブラまで食い破っていたが……

 思わず自分の胸元をまさぐる。傷一つ、しみ一つ、ない。十代の艶でコーティングされた、われながら完全無欠の乙女の素肌が、そこにはあった。確かにダブルオー・パックの散弾を食らったというのに、だ。

「……おまえの胸、防弾仕様だったのか?」

「そんなわけないでしょっ!」

 理解不能な状況に混乱し、あほなことを口走る式をぴしゃりと制しながら、わたしは背中の硬い感触を思い出す。

 接着されたかのように離れる気配のない、赤い剣。

「……あんたの仕業?」

「然り」

 わたしの問いに、さして特別なことをしたわけでもないと言わんばかりの声で、アグニが頷く。

「小賢しい飛び道具がおぬしを襲う瞬間、魔力を集中して体表を硬化させた。まあ、それだけのことだ」

「それだけのことだが、身体を硬化させておられるのは一瞬の間でしかない。まさに奇跡のようなタイミングよ」

 アグニの説明に、その兄弟剣のルドラが続いた。

「ほんの僅かでもタイミングを誤れば、まともに相手の攻撃を受けることになる――兄者の防御が完璧でなければ、アザカよ、おぬしは今頃、現代の人間の言葉でいう、お嫁に行けない身体になっておったぞ」

「――オヨメ? オヨメとは何じゃ、弟よ?」

「オヨメというのは――」

 かけ合いを始めた兄弟剣をよそに、わたしはもう一度、自分の胸元を確かめる。

 引き裂かれた衣服、散弾を受けた衝撃の余韻こそ残っているが、やはり傷のひとつも見受けられない。信じられなかった。瞬間的に魔力を集中させ、肉体を硬化させることであらゆる攻撃を無効化するロイヤルガード……悪魔の力に驚かされてばかりのわたしだが、これは尚もわたしを脱帽させるに足る破格のスキルだった。

 まったく、この兄弟剣を手に取ってからサプライズの連続である。

「ありがとう。感謝するわ」

「礼には及ばん。かりそめの主人とはいえ我らの使い手が、この程度で死なれては高位悪魔の沽券に関わるのでな」

 照れ隠しでなく本音でそう言っているあたり、こいつかわいくないなー、と不満に思ったが、わたしの口元は笑っている。こいつとは案外、上手くやれそうな気がした。悪魔と共闘するなんていう経験は、どう考えても歓迎できることじゃないけれど。

「……ったく。心配かけやがって……」

 さも迷惑そうにため息を吐いた式の目つきが、そのとき、縄張りに外敵が侵入した気配を嗅ぎ取った肉食獣のごとく険しくなる。鋭利に細められた眼差しは、まさに抜き身の日本刀のような危うさだ。

 その刃の視線を追って周囲を見渡せば、あれだけ蠢いていた悪魔の群れが、いない。

 確かにヘル=グリードを叩いて増援を打ち止めにはした。けれど、まだ敵の数は多かったはずだ。

 不利を悟って逃げ出した、とは思えない。それではこの緊迫した空気に説明がつかないからだ。式は触れたら切れそうな程に殺気立ち、アグニとルドラも無駄口をやめて注意を払っている。

「なるほど、遊びの時間は終わりのようだ」

「端役は退場を終え、あとは主役の登場を待つのみか」

 戦いの舞台は整った、とばかりに闘気を高める兄弟剣。

 式は、わたしには見えない何かを視ているように目の前の虚空を凝視している。

「――来るぞ」

 式の呟きが予言であったかのように、異変は始まった。

 空間の歪みが次第に凝固して形を成し、屈強な人型として実体化を果たす。

 そうして出現したのは、人の姿をしていながら、頭部だけは山羊を思わせる格好の、悪夢のような姿。

 黒魔術の象徴である、淫らな雄山羊の姿をした、この世に存在し得ないイキモノ。

「グォオオオオオオオッ!」

 半人半獣の上級悪魔は一度その身体を屈め、それから耳を覆いたくなるような咆哮を上げた。

 自らの偉大さを誇示するかのような仕草。一対の巨大な黒翼が、これ見よがしに広がる。

「……ゴートリングか。すさまじい魔力を感じたから、爵位を持つ大悪魔が来るかと思ったが」

「だが見よ、兄者よ。あの罪悪の深淵を映したかのような漆黒の体色を」

「山羊の一族の中でも最も強力な個体か。相当な数の魂を取り込んだと見える。こいつは……一筋縄ではいかない相手のようだな」

 黒山羊の存在感に圧倒されるわたしと式とは対照的に、兄弟剣は茶飲み話のような気軽さで言葉を交わしている。それで、山羊に連なるものはアグニとルドラに気づいたらしい。雄々しい角を備えた頭部が、口を開く。

「さぞ高名な悪魔とお見受けすル。それが何故、脆弱な人間ごときに力を貸ス?」

 ゴートリング――罪悪の深淵(アビス)を映したかのような漆黒の体色をしているから、さしずめアビスゴートとでも言ったところか――がそう人の言葉を口にしたところで、驚きはなかった。アグニとルドラだって、よく喋るからだ。

 だけど人語を解すという事は、これまでのザコ悪魔とは格が違うということだ。力と知性を兼ね備えた悪魔……それこそアグニとルドラに匹敵するような。

 そのアグニとルドラが答えた。

「なに、ただの利害の一致よ。この娘らは強き力を欲し、我らは戦いの場を求めた」

「長い永い年月のなかで肉体はとうの昔に滅びたが、魂は物質化してなおも闘争を継続しておる。この底無しの欲望に、ひとときの満足を与えられるのであれば、たとえ小娘の細腕に操られることになろうとも構わん。刺激があるから人生は楽しいのじゃ」

「――シゲキ? シゲキとは何じゃ、弟よ?」

「シゲキというのは――」

 ほんの少しの気後れもなく、人間と共闘することを『良し』と肯定した兄弟剣。

 あからさまに不服そうな態度で、アビスゴートが鼻を鳴らす。

「もはや闘争を求めるだけの現象にまで成り果テ、悪魔としてのプライドも忘れた老いぼれガ、度し難いにも程があル……」

 露骨な怒りをぎらつかせる人外の双眸が、わたしと式をも補足する。

「貴様らもダ、小娘どもメ。人間の分際で我が同胞を仇なした罪、死をもってしか償えぬものと知レ」

 尊大に腕組みをした巨体が宙に浮き上がり、詠唱もなく魔術を発動させる。

 雨のごとく降りかかる、強力な魔力の矢。 

 それを、わたしと式は難なく弾き返した。相殺された魔力が、跡形もなく霧散する。

「なニ!?」

 驚愕の声が上がる。人間の小娘に、この攻撃が防げるとは思っていなかったらしい。

 確かに生身の状態だったら危なかったかもしれない。だが今は、アグニとルドラの加護がある。同じ悪魔の力。対抗できぬ道理はない。

 そして、こういう偉そうなやつは実力で黙らせてやるのが一番の処方だと、わたしと式は知っていた。だから真っ向から相手の攻撃を叩き伏せたのだ。アビスゴートの存在感に圧倒され、本能的な恐怖で縛られていた身体も、いまは生意気な山羊もどきに痛い目を見せたくて、ぶちのめす気満々だった。

「ずいぶんと偉そうな口を利くじゃないか、ヤギ頭。細切れ肉にされたいか?」

「それとも丸焼きがお望みかしら? 生憎、焼き加減は苦手だから真っ黒な炭クズにしかできないけれど」

 式はルドラをバトンのように振り回して剣舞を披露し、わたしは炎を灯す右の拳を片方の手のひらに叩きつける。

 挑発されて鼻息も荒いアビスゴートの双眸が、ぎらりと赤光を放った。

「思い上がったナ、人間メッ! 泣き叫ぶ貴様らの秘所かラ、はらわたをすすリ、喰らってやル!」 

 怒りと憎悪にまみれた咆哮。それが開始のゴングとなった。

 先ほどよりも密度を増した魔力の矢が放たれる。

 獲物を追尾する意思を持っているかのような軌跡を描く、それこそホーミング・ミサイルを彷彿とさせる攻撃。

 式はそれを、ルドラの剣閃で撃ち落とし、あるいは回避してやり過ごしながら、少しずつ、しかし確実にアビスゴートとの距離を詰めていく。間断なく降り注ぐ弾幕に晒されているというのに、あくまで風のように不退転だ。魔力弾が巻き起こす風圧が式の黒髪を揺らしても、その貌に浮かぶ獰猛な微笑みまでは揺らせない。

「疾ッ!」

 彼我の距離があと八メートルまで差し迫った瞬間、式の身体が弾けた。

 跳躍する肢体、極限まで引き絞られた弩弓から解き放たれたかのようなスピード。

 颶風のごとき速度を伴って振りかざされるルドラを前に、だがアビスゴートは慌てる素振りを見せない。

「大したスピードだガ……所詮は小娘の細腕に過ぎヌ」

 つまらなさそうな吐息と同時に出現する、魔力によって生み出された光の壁。

 練り上げられた魔力量からその硬度を見て取ったわたしは、たとえ太古の悪魔の魂が物質化したという魔剣でも、その光の壁を突破するのは不可能なものと予想したが……

 いざ振り下ろされたルドラは容易く光の壁を通過し、その刃を深々とアビスゴートの肉体に食い込ませていた。

「がァッ!? ……その目、直死の魔眼カッ!」

 激痛よりも驚きで、アビスゴートの紅い双眸が見開く。

 その驚きも当然だ。式は、べつだん強大な攻撃力によって光の壁を突破したわけではない。特別な目によって視える、死という名の切断面をなぞっただけだ。理屈で言えば、それだけのことだ。だが、これにはわたしも舌を巻いた。まさか形のない、生きてもいない魔力障壁さえも殺害するとは、なんという絶対性だろうか。

「グ……」

 袈裟懸けに斬りつけられたアビスゴートの身体が、高度を落とす。それを見逃すわたしじゃない。

 式がジャブなら、わたしはストレートだ。相手が怯んだ隙に、とどめの一撃を打ち込むべくアビスゴートに接近する。地獄の業火に包まれた両手両足は敵をぶちのめしたくて、うずうずしていた。

 ぺろり、と。血の匂いを嗅ぎつけた鮫のごとき心境で、わたしは舌なめずりする。さぁて……フルボッコの時間よ!

「させるものカ!」

 アビスゴートが毛むくじゃらの右腕を振り上げる。その動きに追随する格好で、わたしの足元の地面を割って噴き上がる、毒々しい深紅の奔流――火薬では決して生み出すことのできない、魔力によって呼び出された地獄の業火。

「うわ熱ゃあッ!?」

 巨大な火柱に飲み込まれ、わたしは悲鳴を上げる。

 像だってフライにできるくらいの火力も、炎の加護に守られたわたしの肉体を燃やし尽くすことはできなかったが、これで服の方は完全にダメになった。さすがにアグニの威光も服の方にまで気は回らなかったらしい。わたしが自分で引き裂いたスカートは跡形もなく焼失し、ボロボロだったブラウスも完全に焼け落ちた。警察を呼ばれたら即、逮捕されるレベルの露出度だ。嗚呼、兄さん……鮮花は、鮮花はもう、お嫁に行けないかもしれません。もらって。

 わたしが怯んで足を止めた隙に、アビスゴートは次の行動に移っていた。

「その厄介な目、潰させてもらうゾ」

 悪意に満ちた眼差しで、アビスゴートが何事かを呟いた。

 わたしの耳には理解さえできない魔界の言語で紡がれた呪文は、すぐにその効果を表出させる。

「……ッ!?」

 驚愕と戸惑いの表情で、いきなり式が足を止める。

 何が起こったというのか。それまで疾風のごとく動き回っていた彼女が、ぴたりと制止したまま、動かない。

 その手のルドラが苦虫を噛み潰したような口調で呻く。

「目くらましの魔術か……呪術には不得手な我らでは、さすがに抵抗(レジスト)しきれなんだか」

「それに、かなり緻密な呪文で編まれておる。これでは魔力に任せた解呪(ディスペル)もできん」

 ルドラの呻きにアグニが続き、ようやくわたしは事態を把握する。

 直死の魔眼を持ち、ルドラの加護による機動戦を主体としていた式にとって、これは致命的なダメージに他ならない。なにせ目が見えないのでは死の線も視えないし、満足に身動きも取れない。まるで崖の淵で足を踏みそこなったかのように不安げに佇む様は、あまりにも式には似つかわしくなかった。

 式の戦力が大幅にダウンしたことを理解し、わたしは式を背後に庇ってアビスゴートと対峙する。

 山羊に連なるものは、余裕も露わに鼻を鳴らした。そこには勝者の優越感しかない。

「愚かナ、仲間を守ろうとするとハ……丁度いイ。二人まとめテ、あの世に送ってくれル!」

 アビスゴートは自らの正面に魔方陣を展開させ、そこに魔力を集束させていく。

 唸りを上げる架空の熱量、際限なく回転数を増していく魔力は、明らかに膨大なものだ。わたしの頬を冷や汗が伝い落ちる。

「まずいわね……」

 恐らくは魔力をレーザーのように一直線に放射する気なのだろう。だとしたら、攻撃判定は持続するので、ロイヤルガードによる防御は意味を成さない。身体を硬化させていられるのは一瞬の間でしかないからだ。

 そして、あれだけの魔力を用いた攻撃が、広範囲に及ばぬはずもない。動けぬ式を見捨てたところで、果たして逃げ切れるかどうか……

 防御も回避も不可能――ならば、わたしに取り得る手段は、相手を上回る攻撃で競り勝つより他はない。

 つまりはパワーで勝負、単純極まりない力比べってわけね。嫌いじゃないわ。

 しかし今一度、アビスゴートの練り上げる魔力量を見て、わたしは戦意を喪失しそうになる。

 やるしかない。だが、あれに打ち勝つことなどできるのか。

「逃げろ、鮮花」

 落ち着きはらった式の声が、こんな状況でもはっきりと耳に浸透した。

「オレを見捨てれば、おまえだけでも逃げ切れるかもしれない」

 目は見えなくとも、唸りを上げる魔力を肌で感じているのだろう。だからこそ式は、最も希望のある可能性を冷静に見出し、わたしに「逃げろ」と進言した。それが自分の存命を考慮しない選択であっても、だ。

 正直、式を見捨てるという選択が、ベストでなくともベターであることは、わたしも認めていた。式を諦めてアビスゴートの大技を誘発し、その隙を突いて反撃する。それが最も勝率のある手段である、と。

 だけど。

 だけど、だ。

 よりにもよって式にまでそれを言われると、わたしは無性に腹が立って式のほっぺをつねっていた。

「なっ! ななななな!? ☆◎#%&!!!」

 普段の式なら、こんな狼藉を絶対に許さないだろう。しかし今は呪術によって目が見えず、無防備な状態だ。それを良いことに、わたしがもう片方のほっぺもつねると、式は意味不明な声を漏らした。それが面白くて、わたしは餅のようにやわらかい式のほっぺを左右にひっぱる。みょーん。

「……みょーん」

 思わず声にも出してしまう程に、みょーんだった。

「何が、みょーんだ!? ふざけてる場合かよ!」

「ふざけてるのはあんたの方よ、式」

 わたしの手を振り払った式が声を荒げると、わたしは静かな怒りを含んだ声で言い返していた。

「このわたしに逃げろ、ですって? ふざけんじゃないわよ」

 わたしは決して大声で怒鳴ったわけじゃない。

 だが、完全に迫力負けした式は押し黙り、わたしは言葉を続ける。

「いいこと? わたしは、あんたが大っ嫌い。だから、あんたの言うことになんて絶対に従うものですか」

 大体、仲間を見捨てるなんて、わたしのスタイルじゃない。

 膨大な魔力を誇る黒山羊とパワーで勝負することに、未だ自信など持てないが、もう覚悟は決まっていた。言葉を失った式をよそに、わたしは背中のアグニに呼びかける。

「聞こえる、アグニ? あいつを火星までブッ飛ばすわ――できる?」

「造作も無い」

 少しの逡巡もなく、頼もしい返事が返ってくる。

「おぬしの魂は、あ奴に負けてなどおらん。自分を信じよ。勝つのは己だ、と。――さすれば現実は、そのようになる」

「――オーケー、やってやろうじゃない」

 アビスゴートの魔力は今なお集束を続け、その魔力が生み出す嵐のような風圧に髪を巻き上げられるが、わたしの口元には不敵な微笑みが浮かぶ。

 わたしは背中のアグニを抜き放った。わたしに剣術の心得はないが、棍棒代わりに振り回すことぐらいならできる。ただ一撃、思いっきりスウィングできればそれでいい。力比べに手数など必要ない。

 剣を構え、腰を落とし、わたしは目が見えなくて不安げな式を一瞥する。悔しいけど、こいつの協力がなければアビスゴートには勝てない。だからこそ、わたしは誠意ある言葉で式にお願いすることにした。

「そこの蚊に食われた跡みたいな胸のお嬢さん。目が見えなくても一度だけ剣を振り回すことぐらいはできるでしょ? なら、そうしてよ。あとはわたしが、どんくさいあんたに合わせてあげるから」

 カッチーン、という愉快な音が、式のこめかみ辺りから聞こえた。

 不安げで弱々しい姿はなりを潜め、つるぺた女は毅然とした態度を取り戻す。

「何をしようとしてるか判らないけどな、上っ面だけの女が無茶をすると後が怖いぞ? おまえの胸の中のシリコン、今にも破裂しそうじゃないか」

 目が見えないくせに、ムカつくほどピンポイントでわたしの胸を指差しながら、もう片方の手でルドラを構える式に一言、物申さなければならない。これは天然ものよっ!

「HAHAHAHAッ! 何を話していル? さては末期の祈りカ!?」

 まだ集束を続ける魔力の制御に全身を震わせながら、アビスゴートが哄笑を上げる。

 本当、耳障りな声……わたしと式は悪魔に対する敵意を共有し、腰溜めに構えた剣に力を込める。

「愚かな人間どもヨ、滅びるがいイッ!」

 その叫びと同時に、ついに魔方陣から一気に光の帯が放たれる。

 膨大な熱を伴った光を前に、わたしと式は慌てることなく、ただ静かに……力を集中する。

 わたしたちが何か仕掛けようとしているのを察してか、アビスゴートは胡乱に目を細める。間合いは随分開いている。剣を振り回したって当たるような距離じゃない。近づこうにも、その前に巨大な光の帯に身を焼かれるのがオチだ。

 だがそれに構わず、わたしと式は力の高まりが最大限(マキシマム)にまで達した瞬間、大きく一歩踏み出して剣を一閃した。

「「吹っ飛べッ!」」

 式の斬撃に合わせる格好で、わたしはアグニを振り下ろす。

 X字を描いたふたつの斬撃の軌跡に、アグニの炎とルドラの剣風とが絡み合い、巨大な衝撃波を形成する。

 それは真っ向からアビスゴートの攻撃と激突し、巨大な光の帯を切り開きながら、なおも前へ前へと突き進んでいった。

「なニ……ッ!?」

 山羊に連なるものは紅い双眸を見開く。

 たかが人間の攻撃、最後の悪あがきに過ぎぬ、と侮る気持ちがあったことは否定できない。

 ありったけの魔力を込めた一撃が負けるはずもない、という絶対の自信があったのかもしれない。

 だが、それらはすべて、突き崩されようとしていた。ゆっくりとではあるが、炎と剣風の融合したエネルギーの塊は、確実にアビスゴートの領域を侵略している。あと一押し、それでこの山羊がうっかり進化してしまったような化け物に、お引き取り願える。

「ぐゥゥゥッ……いい気になるなヨ、人間めガ……!」

 その言葉も強がりとしか思えない。アビスゴートにできるのはもはや必死で光の帯を射出しつづけ、少しでも永く生き永らえる事だけだ。

「――ねえ、式。知ってる? こういう時に、ぴったりな決め台詞があるんだけれど」

「?」

 不思議そうに首を傾げる式に耳打ちすると、

「そういうものなのか……」

 むむ、と眉をひそめて呟く。……もしかすると、和風びいきなこいつは、英語というものがまったくダメなのかもしれない。いま教えたのが簡単な英単語だっただけに、ちょっと意外だった。

 そうしている間にも、わたしと式が撃ち出した衝撃波は光の帯を食い破り、今にもアビスゴートへと到達しようとしている。

「お、お、オ……ッ!」

 両足のひづめで踏ん張り、かろうじて吹き飛ばされるのを堪えているアビスゴートの形相に、恐怖が浮かぶ。 

 そしてついに巨大な衝撃波がアビスゴートを包み込んだ瞬間、強烈な光が爆発のように炸裂した。部屋中を白く染め上げる閃光。

「ばかナアアアアアアアアアアッ!?」

 断末魔の叫びを上げるアビスゴートの身体が、その光に飲み込まれ、あるべき場所へと押しやられていく。

 光が収まった後にはもう、見る者を屈服させる黒山羊の巨体は、どこにもない。

 あれだけ無尽蔵に湧いていた悪魔たちも、今は気配さえ感じられない。強大な主を倒されたことに恐れをなし、闇は闇へと還ったのだろうか。

「終わったみたいね……」

 闘争の空気が残っていないことを確認し、わたしは疲れたように大きく嘆息すると、ぺたんと座り込んだ。

 そのわたしの肩に、いきなり上着がかけられる。

「いつまでそんな格好してるつもりだ、このヘンタイ」

 アビスゴートを倒したことで呪いが解け、視力を取り戻した式が、わたしにジャンパーを寄越したのだった。

「なによ、異常者のくせに」

 憎まれ口を返し、わたしは血のような色の赤いジャンパーに袖を通す。式の服なんて着たくもないが、いまわたしは通報されたら即、逮捕されるレベルで裸なのだ。背に腹は代えられない。このままでは幹也にもらってもらうしかなくなる。

 ファスナーを上げ、前合わせを閉じて立ち上がったわたしは、式と顔を見合わせた。

 お互い、素直な性分じゃない。こんなことをするのはガラじゃないことも判っている。

 だがそれでも、わたしと式は少し逡巡した後、ハイタッチを交わしていた。

「「ジャックポット!」」

 

 

 

 

「――で、質問に戻るが」

 美貌に似合わぬ渋い表情で煙草に火を点けながら、橙子師は壁に立てかけられている兄弟剣に詰め寄る。

「二千年以上は存在している概念が、どうして? 一体何があって? タダも同然の値段で市場に出回ったというのだ?」

 いつになく不機嫌な口調で問い詰める橙子師の髪は、まるでドーナツ作りに失敗でもしたかのように煤まみれで、ボサボサに乱れていた。見れば、橙子師の傍らに黒焦げの人型が転がっている。それが見覚えのある黒ぶちの眼鏡をかけているので、どうやら橙子師の戦いは、わたしの敬愛する兄を巻き込むほどに熾烈を極めたらしい、と容易に察する事ができた。

 窓が吹き飛んだり、壁紙が焼け落ちたりして見るも無残に荒れ果てた事務所の中、兄弟剣は呑気に質問に答える。

「どうして、と言われてもなあ、弟よ?」

「うむ。元の主人に『勝手に喋ってうるさいから』という理由で売り払われて以来、似たような経緯で各地を転々とし、気つけばここにいた。それだけの話じゃ」

「まったく失礼な話よな、弟よ?」

「うむ。最近、我らの扱いが軽んじられておる。これでも高位悪魔の端くれじゃぞ」

 アグニとルドラの話を聞いている内に、わたしは軽い眩暈を堪えながら、そんなことだろうと一人納得していた。時として過ぎた力とは、いても厄介なだけの存在になる。ましてそれが、ぺらぺらと喋って喧しいともなれば尚更だ。

「――ハシクレ? ハシクレとは何じゃ、弟よ?」

「ハシクレというのは――」

 ほら、こんな具合に。

 タダなのに金銭的な被害を被り、この中で最も割りを食って苛立ちもひとしおな橙子師が、うるさいアグニとルドラに吐き捨てる。

「いちいち癇に障る奴らだ。頼むからNo talking(喋るな)、いまいましい悪魔め」

「なんと!? ひどい言い草とは思わないか、弟よ」

「兄者の言う通りじゃ。おぬしこそ、人と話すときはNo smoking(煙草を吸うな)と母君から習わなかったのか、魔術師よ」

「余計なお世話だっ! 大体、貴様らは人間じゃないだろう!?」

 鬼のような形相で橙子師が歯軋りをすると、その拍子に煙草がちぎれて床に落ちた。……これはまずいわね。橙子師のサーモスタットは赤になる寸前だ。そのことに、そろそろアグニとルドラには気づいてほしいところだった。

「いい歳をした人間の女が、何をそんなに憤っておる? 皺が増えるぞ」

「――シワ? シワとは何じゃ、弟よ?」

「シワというのは――」

 ブッチィ、という破滅的な音が、橙子師のこめかみ辺りから聞こえた。どうやら手遅れだったらしい。

 わたしと式は、とばっちりを受ける前に戦術的撤退を済ませる。幹也を連れていくという選択肢はなかった。なぜなら怒声を上げる橙子師は、よりによって幹也だった人型を振り回してアグニとルドラに殴りかかっていたからだ。いまは巻き込まれ体質の兄の無事を祈るより他はない。

 ……まったく、あの兄弟剣ときたら、とんだ地雷を踏んでくれたものだ。

 だって、そうでしょう?

 橙子師のような年頃の女性に『シワ』だなんて、そんなの『行き遅れ』や『三十路女』とかと同じ位、言っちゃいけない言葉なんだから。

 

 

 後日。

 アグニとルドラは、橙子師によって強制的に返品されたそうな。

 

 




 こないだロシア人系列のおっパプに行ったのですが、ついた女の子がイタリア語とスペイン語を話せるブラジル人だったことに絶望を禁じ得なかったユート・リアクトです。ロシア要素ゼロじゃん(死
 さてさて、久しぶりの更新、本編の最終話でございます。如何でしたでしょうか? 思えば『小説家になろう』時代からの着想を経て、これを読みたいという声を頂いてから優先的に執筆をし、ようやく完結にまでこぎつけました。たった三話だけど(ぉぉ
 次回、という言い方もおかしいでしょうが、蛇足的に橙子とダンテの出会いを描いた番外編を投稿する所存ではございます。この際、ダンテは教会の代行者と協会の執行者とを同時に相手取る、という設定ではありますが……
 皆さんは、代行者と執行者の揃い踏みと聞いて、誰と誰を想像しますでしょうか?
 その期待に応えられたらいいと思っております。またお会いしましょう。感想や苦情は随時、受け付けております。
 でわでわ。


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悪魔の境界  番外編①

 

 

「ああ、もうっ! 不幸だわ! 何でこんなことになっちゃったのかしらーっ!?」

 ダッシュに適さぬスカートだというのに大股で走りながら、私こと蒼崎橙子の元気な悲鳴が治安の悪い路地裏に響き渡った。我ながら健康的だと思う。

 頭上を擦過する鉄拳、飛来する長剣の刃をルーンで強化した脚力で逃れながら、私は考える。どうして。一体何があって。この私のような、いたいけなレディが半ばスラム化した深夜の裏通りを駆けずり回る羽目になっているというのかしらん。

 事の発端は、ひとつの依頼だった。

『英霊を受肉させる人形を作ってはくれないか?』

 ハイマスターである私の元に舞い込んできたそんな依頼が、この災難のきっかけであった。

 依頼主の名は、ユニテリウス・ウロボロス。

 複合企業(コングロマリット)、ウロボロス社の創設者にして、それを中心とした一大企業グループの前総裁。

 現在はその座を息子のアリウスに譲り、先立った妻を弔いながら静かに余生を送っている――表向きには、そういったプロフィールになっている。その実態は、私と同じく封印指定を受けた希少な魔術師だ。

 ユニテリウスは降霊術と召喚術とに通ずるエキスパートであり、限定的ながらも空間に歪みを引き起こした結果、『繋がってはならない場所』へのアクセスに成功したらしい。

 次元の狭間、神代の幻想種が移り住んだ『世界の裏側』とも違う座標から呼び出したのは、とある生き物――本来ならばこの世にいてはならぬ、しかし時折この世界に迷い込む異形。

 人はそれを悪魔と呼ぶ。

 悪魔の住まう世界と人間界とを隔てる次元の壁は、言うなれば大雑把な網のようなものであり、低級の魔物であればその網の目をくぐり抜ける形でこちら側に呼び寄せることが可能だった。

 しかし、そういった悪魔は力が弱すぎて、こちらの世界では肉体の維持もできない脆弱な存在だ。

 ユニテリウスが欲したのは、依り代に憑依することでしか地上に出現できない雑魚ではなく、もっと強大で自らの血肉を備えた、それこそ爵位を持つほどの大悪魔である。

 だが、それほどの上位存在が、魔術師とはいえ人間に使役できるはずもない。基本的に人間が制御できる相手ではないのだ。悪魔という存在は。

 だがそれも……ある〝戦争〟に通ずるシステムを応用すれば、あるいは可能なのではないか。稀代の召喚術師、ユニテリウス・ウロボロスはそう考えたらしい。

 人間以上の存在、世界最高峰の神秘である英霊を用いた大儀礼――『聖杯戦争』というゲームにおいて、その参加者たちは三つの聖痕を行使し、自分よりも強大な使い魔を使役したという。ユニテリウスはそこに目をつけた。

 むろん、この聖杯戦争のシステムを模倣しないことには『令呪』による主従関係は確立しない。であれば、その召喚のプロセスを踏んで呼び出されるのは、悪魔でなく英霊でしかあり得ない。

 ヒトの身に余る偉業を成し、その業績を讃えられて『英霊の座』に召し上げられた彼らの中には、もちろん〝人ならざる存在〟と交わって誕生した出自の者も存在する。ギリシャやアイルランドの大英雄がその好例だ。

 しかし、あくまでユニテリウスが望んだのは、神霊ではなく蛇蠍魔蠍の類である。彼の研究対象である悪魔の因子をその身に宿した英霊――そんな特異な存在など、私は一人しか知り得ない。

 魔剣士スパーダ。

 二千年前、悪魔でありながら同族を裏切って人間のために戦い、ついには勝利を収めた孤高の英雄。

 これはさすがに英霊の格にすら収まらぬだけに有り得ないが、その眷属であれば英霊として『世界』に登録されている可能性は高かった。魔剣士スパーダは大戦後、人間界に移り住んで人々の平和を見守ったという。であれば、彼が何らかの形で子孫を残していてもおかしくはない。そして、彼の実子が今もなお〝現代に生きている〟ことは、この世界の闇の領域では有名な事実だった。

 悪魔の研究に腐心するユニテリウスは、もちろん魔剣士スパーダにまつわる触媒も所持していた。その縁(えにし)を元に、かの伝説の魔剣士の眷属を『英霊の座』……抑止の力の御座より呼び寄せ、こちら側の世界に繫ぎ止める。

 だがしかし、その力の一部を招来して借り受ける程度のことならともかく、英霊などという神にも等しい霊格の存在を、まるごと召喚して現世に固定するなど、それこそ聖杯戦争でさえ不可能な話だった。だからこそ聖杯戦争では、あらかじめ英霊が憑依しやすい〝役割〟を用意し、かりそめの物質化を手助けしたという。かの魔剣士の眷属の降霊にも、そういった憑依に適した器、魂を注ぎ込むための受け皿が必要不可欠だった。

 もちろん、スパーダと同じ遺伝子を持つ者の肉体であれば、魔剣士ゆかりの英霊を降ろす依り代としては最適である。しかし、そもそもユニテリウスの目的は伝説の魔剣士の眷属を呼び寄せることであった。それを達成させる為にスパーダの血族を見つけ出さねばならぬというのであれば本末転倒も甚だしい。

 今もなお現代に生きるスパーダの実子を捕らえる、という手もあるが、それは不可能に近いと言わざるを得ない。直接お目にかかったことはないが、彼の実力は想像を超えて手に余るという噂だ。事実、彼の住まう地域には『魔術協会』と『聖堂教会』の二大組織でさえ無闇に干渉せず、不可侵を保っている。神秘とその秘匿を巡る闘争で騒ぎを起こした結果、彼に睨まれて大怪我を負ったという連中は数知れないからだ。聖杯のバックアップもなしに、かの大儀礼の英霊召喚システムを模倣するなどという、なんとも回りくどい方法にユニテリウスが奔走する羽目になった最たる理由が、そこにあった。

 だからこそ――そこで私の出番、というわけだ。

 ないのなら作ればいい。なるほど実に魔術師らしい発想である。

 英霊の降霊にも耐え得る人形(ヒトガタ)の作成。先にも述べた通り、それが私の受けた依頼の内容だった。

 封印指定を受けて姿をくらます前は、複合企業のトップだけあってユニテリウスの提示した報酬は破格だったし、人形作成にかかる費用も全てあちら持ち。しかも、超常存在である英霊を降ろす以上、今までの作品を大きく上回る性能の人形を作ることになる、そのことに対する興味と熱意。私が依頼を受けぬ道理はなかった。基本的に、お金よりも興が乗るかどうかを大事にする性分なのだ、私は。

 伝説に曰く、人間の姿を擬したスパーダは、銀色の髪を持っていたという。その話を参考にして作り上げた人形は、すこーしだけルックスに私の好みが反映されている以外、英霊を宿す器として相応しい風格と強度を備えた出来だった。そして、それをいざ納品し、つつがなく依頼が完了した直後――事件は起きたのである。

 ユニテリウスが隠れ蓑としていた、放棄された教会の地下墓地(カタコンベ)。そこに襲撃が入ったのだ。封印指定を受けた魔術師を追跡する『魔術協会』の執行者だけでなく、そういった異端を審問の名の下に抹殺する『聖堂教会』の代行者の襲撃までもが、だ。

 さしものユニテリウスも、二大組織の狩人に同時に狙われたとあっては、ひとたまりもない。英霊を呼び出して対抗する間もなく彼は始末され、その魔術工房は火の海となり、私の作ったイケメン人形も炎の彼方に消えたのだった。

 そこまでの話なら、まだ良かった。問題は、ユニテリウスと連絡を取っていた痕跡を辿り、芋づる式に私の居所までもが発見されてしまったという点だ。我ながら、とんだドジを踏んだと思う。魔術師という人種は世間一般のテクノロジーを忌避する傾向にあるが、私とユニテリウスはその性質とは裏腹に、電子機器による連絡を取り、追跡者の目を欺いてきた。『協会』の執行者も科学技術を軽視する手合い、まさかインターネットによるやり取りを追えるはずもない。

 その認識に間違いはないのだが、それが油断であったことも否定できない事実だった。世界規模の情報収集能力を持つ『教会』の追跡術(トラッキング)を侮っていた私は、まんまと居所を割り出され、こうして危機に瀕している。

 しかも始末の悪いことに、代行者のトラッキングの成果を目ざとく見咎めていた執行者までもが、その成果に便乗する格好で私を追い立てている。ユニテリウスが陥った状況と同じ構図だ。彼の二の舞にだけはなるものかと、必死に抵抗し逃げまわる私ではあるが、やはり状況は芳しくない。

 二大組織の狩人に同時に狙われるというだけでも絶望的なのに、より致命的なのが代行者と執行者とが〝協力して〟私を追跡している、という点だ。

 本来、聖堂教会と魔術協会は協力しあう仲ではない。不可侵協定の裏で今もなお殺し合っている連中だ。だから標的が同じともなれば、それこそ私のこともそっちのけで衝突しそうなものだっていうのに……

「二大組織の狩人が手を取り合うなんて、私と青子が仲良くするくらいあり得ないことじゃないの……って、どひゃああっ!?」

 とっさに身を低くした私の頭上を擦過する足先が、街灯のポールを直撃し、へし折る。私と同じ、ルーンの魔術で強化された脚力。逃げ遅れた髪の毛が数本、宙をたゆたう様を見て、直撃した場合は首のねん挫では済みそうにないことを直感した。どこかにヘッドギアでも落ちてないかしらん。

 ハイキックの主である魔術協会の執行者は、その手足を凶器とばかりに振りかざし、少しずつ、しかし確実に間合いを詰め、プレッシャーをかけてくる。対戦相手をロープ際に追いつめるボクサーの手際だった。総勢で三十人ほどしかいない対魔戦闘に特化した執行者の中でも、とりわけ格闘術に秀でたファイターのようね、この〝女〟は……

 戦慄とともに地面を転がる私の回避先を予期していたようなタイミングで、追撃が入った。

 今度のそれは、やけに細身の長剣だった。刃渡り一メートル余りの薄刃はフェンシングフォイルを連想させるが、刀剣にしては柄が極端に短い。『黒鍵』と呼ばれる、聖堂教会の代行者が使う特徴的な投擲武器である。私の右足を掠め、ふくらはぎを傷つけた刃がそれだった。

 聖堂教会においては代行者の基本装備のひとつに数えられている黒鍵だが、その取り扱いは難しく、実戦において使いこなせるのは、ごく一握りの達人のみであるという。そういう希有な一人に、どうやら私は行き会ってしまったようだ。まったくもって運が悪い。

「くぅっ!」

 痛みを噛み殺して立ち上がった私を、執行者の回し蹴りが襲う。魔術的な加工を施したコートを着ていなければ、ガードした私の両腕を粉々に粉砕していたであろう威力。

 その衝撃に、あえて抗うことなく私は吹っ飛ばされた。大きく距離を取って体勢を立て直すためだ。

 しかし、そんな私の考えすらも先読みしていたかのように飛来する、黒鍵の刃。

 その間断のなさは私を封殺し、次の動作に移らせるタイミングを奪う。獅子狩りの鉄則だ。私は反撃の暇さえ与えられず、そうしてまた執行者の猛攻が迫り、やっとの思いで回避したところへやはり黒鍵の牽制が差し込まれる。

 真綿で首を絞めるように、じわじわと私を追いつめるコンビネーション。

 反目しあう二大組織の回し者が、まるで申し合わせたかのように息の合った連係を披露する光景。これのどこが犬猿の仲なのだと私は不条理を訴えたくなった。

 たとえ標的が共通でも、決して相容れぬ間柄だからこそ行動にも不和が生じるはず。

 その隙こそが私の活路になると踏んでいたのだが、そんな目論見は儚い期待に終わってしまったようだ。

 もはや打つ手はなかった。戦力となる使い魔は妹とのいざこざで切らしているし、私自身も直接的な戦闘に向いている魔術師じゃない。第一級の殺戮者、人間兵器としての修練を潜り抜けてきた二大組織の狩人を相手取るなど土台、無理な話でしかなかった。

 となれば、あとは助っ人に頼るより外はない。

 むろん、私に『協力者』などという贅沢の持ち合わせはない。だが、アテならあった。

 そもそもの事の発端となった魔剣士スパーダ。

 その実子の住まう古びた事務所が、ここから程近い場所にあるのだ。

 ユニテリウスが魔術工房に定めた位置は、なんと実は魔剣士の息子が居住する区域であった。

 彼に見咎められぬようにだけ配慮すれば、なるほどユニテリウスのように封印指定を受けた魔術師にとって、ここより安全な場所など早々ない。彼の住まう地域には魔術協会と聖堂教会の二大組織でさえ無闇に干渉せず、不可侵を保っているからだ。

 此度の追手は彼のテリトリーに堂々と踏み入ることも厭わぬ手合いだが、ならば過去の事例を鑑みても、なおのこと魔剣士の息子の協力を得られる可能性は高い。そして、彼は父と同じく悪魔を狩ることを生業としている傍ら、裏稼業の便利屋として名を馳せているともいう。依頼という形で彼を味方につければ、これほど絶望的な状況でも逆転の望みは大いにあった。幸いにして、彼を雇うお金ならユニテリウスから支払われた報酬がある。やはり先立つものはマネー、マネーなのよ。それが世の真理であると私は実感した。我ながら、いい大人に育ったと思う。

 肉弾凶器と黒鍵の脅威に翻弄されながら、そんなふうに打算する私の視界に、とある看板が見えた。

 薄汚い路地を抜けた突き当たりに、『Devil May Cry』と描かれたネオンサインが、かすかな音を立てながら瞬きつづけている。間違いない。文字通り、あそこが〝悪魔も泣き出す〟という危険地帯だ。

「急げ、ダッシュだ私……!」

 ここぞとばかりに取っておいた早駆けのルーンを発動し、私は疾走する。

 その私の後を間一髪で掠めながら、雨のように降り注ぐ黒鍵の刃。

 手投げ武器でありながらアスファルトの地面を易々と貫く音を背後に聞きながら、私は目前に迫った事務所の扉に体当たりする勢いで手をかけ、

「ゴォー!」

 入り口手前にあるステップに足を引っかけ、つまずいた。

「……ル? きゃあああっ!」

 まさかのドジっ子スキルを発動した私は、そのまま頭から転がり込むような格好で事務所の中へと入っていた。

「いたたた……」

 顔面を打ちつけた私は、起き上がるよりもまず先に、ずれた眼鏡をかけ直す。レンズに傷が入った様子はない。貴重な魔眼殺しが無傷に済んだのは、ちょっとした幸運だった。

 薄暗い店内の片隅から、ひび割れた音のハード・ロックが流れている。

 床に倒れ伏す私の頭上から、ひどくクールな声が聞こえてきたのは、そのときだった。

「慌てた客だな……トイレなら向こうだぜ?」

 

 

 

 

 骨董品のジュークボックスから、年代物のハード・ロックが流れている。

 埃っぽい室内を飾る品々は、猛獣のトロフィーだったり、ビリヤード台だったり、髑髏のオブジェが付いた大剣だったりと、まるで統一感に欠けていた。

「いいねぇ、最高だ。夜中に美女か」

 そして、その中心で黒檀の机に足を投げ出し、スライス・レモンの付いたジン・トニックのグラスを傾けている、銀髪の男。

 三十代前半に見える、ハンサムな男だった。派手なこと極まりない真紅色のコートを違和感なく着こなし、愉快だとでも言いたげに私を見下ろしている。

「……どんな仕事でも請け負う便利屋というのは、あなたね?」

「ああ。やばい仕事は大歓迎だ、わかるだろ?」

 赤の男は首肯し、おもむろに立ち上がると、ゆったりとした足取りで私の元に近づいてきた。

 なにかを期待するような眼差しで先を促す彼に、私は懇願する。

「お願い、助けて。追われてるの! お金ならいくらでも払――」

 私の台詞をさえぎる風切り音が頭上を通過した時にはもう、赤の男の全身に、無数の黒鍵が突き刺さっていた。

 ビクン、と赤の男の身体が硬直する。全身から夥しい量の血を流し、そのまま背中から崩れ落ちた。

 そこに倒れることを拒否しようとする意思は全く感じられない。まさに糸が切れた人形のように彼は力尽きたのだ。

 無数の黒鍵は全身に突き刺さり、うち一本は確実に心臓を貫いている。誰がどう見ても、明らかな致命傷。私が頼みの綱としていた男は、こうして呆気ない死を迎えたのだった。

「あ、あ……」

 最後の希望が一瞬のうちに奪われて言葉もない私は、事務所の入り口に二人分の足音が聞こえたので背後を振り向いた。

 魔術協会の執行者と、たったいま赤の男を殺害せしめた聖堂教会の代行者が、そこにいる。

「観念しなさい、アオザキの魔術師」

「戦闘には向かない魔術師にしては上手く立ち回ったが、ここまでだ」

 男装の麗人と神父服の大男という、なんともアンバランスな二人組を、私は決死の思いで睨みつけた。

「……バゼット・フラガ・マクレミッツ」

 一人は、まだ若い女であった。フォーマルなスーツを着込んだ身体は戦闘的に鍛えられているが、胸や腰の辺りは女らしい曲線を描いている。アイライナーどころか口紅すらも使わない艶とは無縁の、まだ少女期を抜け切らない年頃の女が、封印指定執行者という人型の修羅などと、どうして思えよう。こと戦闘において右に出る者はいないと称される、ルーンの大家であるフラガの麒麟児が彼女だった。

「……言峰綺礼」

 もう一人は、名状しがたい威圧感を漂わせる、影そのものが厚みを得て立ち上がったかのような長身の男。漆黒の僧衣に身を包み、魂と繋がっていないような目をした代行者は、教会側の人間でありながら聖杯戦争に参加したという、異色の経歴の持ち主だ。そんな男と、どうして魔術協会の猟犬とが手を組む?

「抵抗しなければ手荒な真似はしません。先のユニテリウスは言峰に譲りましたが、その代わりに貴女は私が回収するという約束ですので」

 それが敵対する組織の回し者同士が手を組むうえで交わした条件なのだろうが、そんな事情など今さらどうでもいい。

 進退窮まった私は、せめて一矢報いようと火(アンサズ)のルーンに魔力を通し……抜き撃ちで投擲された黒鍵の剣先に、右手の甲を貫かれていた。

「いぐぅっ!?」

「言峰!」

 右手を床に縫いつけられた私を見て、マクレミッツは声を荒げる。

「殺しはせん。そういう約束だし、殺しては〝次の彼女が起動してしまう〟からな」

 だが抵抗されては手間なのでな、と抑揚のない声で言って、黒い聖職者は再度黒鍵を投げ放ち、今度は私の左手を磔にしていた。激痛が襲う。

「ああああああっ!」

「そう騒がしい声を立てるな。死人を起こしてしまうぞ」

「もう起きてる」

 言峰の無感情な軽口に、あり得ない返事があった。

 私は痛みも忘れて声のした方向を振り向く。さも当たり前のように立ち上がった死人が、その右腕を一閃する。室内の壁に飾られていた髑髏の大剣が、いつの間にか死人の手に握られていた。

 異変に気づいた言峰が、大剣による一振りから逃れるようにバックステップし、マクレミッツの横に並ぶ。だがやはり、その顔には驚愕の念がありありと浮かんでいた。さしもの歴戦の代行者でも、このような事態は初めてらしい。隣のマクレミッツも似たような表情だった。

「結構なトラブルに巻き込まれてるようだな、レディ?」

 何事もなかったかのように振る舞う赤の男が私の両手に突き立つ黒鍵を握ると、それだけで細身の刀身は跡形もなく霧散した。赤の男が帯びる魔力が、半霊体である刀身を打ち消した結果だ。単純に引き抜くなんて真似はせず、まるで痛みを伴わぬ方法で私を磔の状態から逃してくれた赤の男は、いたずらっぽく笑って言葉を続けた。

「悪いが、俺にできるのはここまでだ。応急処置は自分でやってくれ」

 止血は専門外なんでね、と言って今度は自分に突き刺さる黒鍵の除去に取りかかる赤の男は、私のときとは打って変わり、無造作な手つきで次々と黒鍵を引き抜いていく。そのたびに鮮血がほとばしるが、彼は靴裏のガムほどにも気にしていない。肉を裂く濡れた音が、しばらく続いた。

 やがて全ての黒鍵を抜き終えると、赤の男は凄みのある目つきで言峰を睨みつけた。

「随分なご挨拶だな。おかげで俺のコートが台無しになっちまった」

 不機嫌な声で、これ見よがしに切り裂かれた真紅色のコートを指し示す。

 自分の全身が串刺しにされたことよりも。

「……噂には聞いていたが、まさか本当に串刺しにされた程度では死なぬとはな。さすがは伝説の魔剣士の息子といったところかな。最強のデビルハンター……ミスター・ダンテ?」

「ガキの頃から俺の身体には悪魔がいた……」

 言峰に『ダンテ』と呼ばれた男の周囲の空間が、歪んで見える。大気が澱むような濃密な魔力。形のない魔力に色など付くはずもないが、私にはそれが炎のように真っ赤に見えた。

 それだけではない。

 ダンテの足元から伸び、薄暗い室内の壁に映りこむ黒い影。薄暗いとはいえ照明の下にいるのだから、あって当然のものだ。ただ一つ、その影が人間の形をしていないという事を除いては。絵本に出てくる悪魔の挿絵みたいなカタチを背にした男は、業火のような魔力に指向性を持たせて言峰とマクレミッツにぶつけていた。

「よければ紹介してやってもいいぜ?」

 二大組織の狩人が、とてつもない威圧感にたじろぐ。

 それを尻目に、ダンテが私を見やる。

「見たところ、あんたも魔術師のようだな?」

 値踏みするような視線。

 私の両手は、ルーンの治癒によって早くも回復の兆しを見せていた。

「……もしかして、魔術師の依頼はお断りなのかしら?」

「いつもならそうなんだが、美人となると話は別だな」

 試すような私の物言いに、おどけた笑顔でダンテは応じた。

 笑うと幼いのね、と私は思った。

「あんたには危険が付きまとってる。そして俺は美女が大好きで、危険なことにも目がないんだ」

 だから報酬もなしに私を助ける、とダンテはいう。

 正直、彼の正気を疑った。第一級の殺戮者、人間兵器としての修練を潜り抜けてきた執行者と代行者とを同時に相手にするというのに、そんな理由で見ず知らずの女を助けようというのだ。

 イカレているかどうかではなく、どれくらいイカレているか測るような目を向ける私に、ますます気分を良くした様子のダンテは、不敵な微笑みを浮かべて言峰とマクレミッツに向き直った。臨戦態勢の二人とは対照的に、まるで緊張した様子がない。むしろ、楽しんでる。

「This party is getting crazy(イカレたパーティの始まりか)……」

 髑髏の大剣を背負い、両手の自由を得たダンテは、懐から何かを取り出す。

 現れたのは、白銀の威容と漆黒の外観。純正パーツなどスプリングひとつ使っていない見た目の、コルト・ガバメントをベースにしたと思しき大型二丁拳銃であった。

 ダンテの両手が華麗な舞を見せ、二丁の銃が優雅に、優美に宙を踊り狂う。

 回転は激しさを増し、銃身それ自体が生を得たかのような場違いなパフォーマンスに、私は不覚にも目を奪われていた。やがて壮絶な銃の舞は、ダンテが両手を胸の前で交差させることでエンディングを迎える。

 今から撮影に臨むトップモデルのように、一分の隙もない、完璧に決まったポーズ。

 次の瞬間にはもう、最強のデビルハンターは二大組織の狩人に向けて銃をぶっ放していた。

「Let's Rock(派手にいくぜ)ッ!」

 

 




 今年初の投稿でございます、ユート・リアクトです。
 さてさて、ついに来ました、ダンテと橙子の出会いを描いた番外編! 長くなりそうだったので二部構成に分けております。後半は、ごりごりのバトルパート。まあ程よくお楽しみに。
 ユニテリウス・ウロボロスの設定については、賽子 青さんの代表作『黒き騎士王 -Alternative Edge-』の〝伝説の魔剣士編〟から引用しております。原作のデビルメイクライには登場しないキャラクターですので、どうか混乱なさらないように。
 感想や苦情は随時、受け付けております。
 でわでわ。


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悪魔の境界  番外編②

 

 

『普通の人間はね、拳銃をマシンガンのように乱射したりはしないんだよ』

 エボニーとアイボリーと名付けられた、二丁の銃。それを作り出した銃職人は、そう言って苦笑したものだった。

 秒間十数発の連射にも耐え得る強靭な銃身など、おそらくはダンテ以外には無用の長物かもしれない。それだけの速さでハンドガンの引き金を引ける人間など、この世には存在しない。悪魔の血を引くダンテだからこそ可能な芸当だ。

「ハッハァ、こいつを喰らいな!」

 場違いな歓声と共に、ダンテの両手が火を吹くような銃撃を披露する。

 ハンドガンにあるまじき猛連射による銃弾の雨を前にして、だが『聖堂教会』と『魔術協会』の猟犬――言峰綺礼とバゼット・フラガ・マクレミッツは、両腕で頭をガードするだけで、避けようとすらしなかった。詰め襟の僧衣、フォーマルなスーツは袖まで分厚いケブラー繊維製。しかも教会代行者特製の防護呪礼と硬化のルーンとで、それぞれ隙間なく裏打ちを施されている。四十五口径の拳銃弾程度ならば至近距離であろうとも効果は望めない。

 そのはずだった。

「な――」

「……に?」

 当惑の声が重なる。

 雷光の尾を引きながら綺礼とバゼットに襲いかかる弾丸の威力は、もはや通常の拳銃弾の域にない。ダンテの人ならざる魔力を込められた弾丸は、有無を言わさぬ衝撃で以って綺礼とバゼットを吹き飛ばしていた。

 悪魔の血を引くダンテは、弾丸に魔力を込めるといった行為を平然と行える。それによってただの弾丸も威力を増し、二大組織の武闘派にも充分に通用する兵器となるわけだ。

 着弾の衝撃で、綺礼とバゼットが事務所の窓を突き破って外に追いやられたのを見届け、ダンテは二丁の銃のマガジンを交換する。

 それから、彼の背後で呆然と座り込む真夜中の訪問者――この騒動の中心人物である、蒼崎橙子のほうに振り向いた。

「魔術師と言ったな。あんた、名前は?」

「……蒼崎橙子よ」

 その名前を聞いて、ダンテの視線が鋭くなる。

「――へえ、あんたが? 本物と寸分違わぬ義手や義足、果ては魂の容れ物としての肉体そのものまで作り出せる人形師がいる、と噂に聞いたことはあったが……まさか、こんな美人だったとはね」

 面食らったように嘯くダンテだったが、気を取り直して彼は先をつづける。

「オーケー、トウコ。俺の名前はダンテだ。自己紹介が済んだところで本題だが、あの連中から守ってほしい、ってのがあんたの依頼だったな?」

 綺礼とバゼットが吹き飛んだ方向を見据えてダンテは言う。

 緊張の面持ちで橙子は頷いた。

「あんたが噂通りの魔術師なら、大方、この騒ぎも『封印指定』とかいう希少な才能を巡っての争奪戦、と言ったところか? まぁともかくだ」

 トリガー・ガードに指をかけ、早撃ちで有名なガンマンのようにダンテは右手のアイボリーを回転させる。

 従来のモデルよりも遥かに巨大で取り回しも容易ではない大型自動拳銃は、彼の手の中にあって軽快に動き回っていた。腕の延長、肉体の一部ででもあるかのような不自由のなさ。あまりの一体感に、橙子は目を奪われる。

「聖堂教会と魔術協会、神秘とその秘匿を巡る闘争なんていう、くっだらねえ小競り合いを見かけたからには俺も黙っちゃおけない。事態を収拾するためなら街を焼き払うことも躊躇しねえバカどもだからな、あいつらは。はっきり言って嫌いなタイプだ」

「……その『嫌いなタイプ』には、私も含まれるのかしら?」

「あんたも魔術師なら、もちろんだ」

 試すような橙子の物言いに、ダンテは取り繕うこともなく即答する。

「魔術師が訳のわからねえ研究に没頭し、無関係な人間を巻き込むから、あちこちで血が流れることになる。罪もねえ人間を殺めるという点じゃ、俺が憎くて憎くてたまらねえ悪魔どもとやってることは一緒だしな」

 静かな、だが獰猛な怒りを秘めたダンテの眼差しを受けて、橙子の胸に諦めの念が芽生え始めていた。

 私はこの男に助けてもらえないかもしれない。

「その定義だと、貴方が私の依頼を受ける道理はないのだけれど」

「確かにそうだな。だが」

 眼差しから殺気を消したダンテは、いたずらっぽく破顔して言葉をつづけた。

「あんたからは魅力的な香りこそすれ、掃き溜めの匂いはしない。魂が腐ってない証拠だ。見れば、魔力の流れにもまるで淀みがない。マジックサーキットとかいう回路の造りがきれいだからだろうな。まぁつまりだ、あんたは外見だけじゃなく内面も〝いい女〟だ、ってことさ」

 俺が保証するぜ、と言ってウィンクを飛ばすダンテに、橙子は柄にもなく頬が熱くなるのを感じた。

 かつて、こんな飄々とした男を好きになった経験が、彼女には一度あった。

「それでなくとも女を見殺しにするなんて俺のスタイルじゃないんでね。最近は仕事もなくて退屈だったしな。ガンショップを冷やかすのも『ラブ=プラネット』に行って可愛い子ちゃんのパンツにチップを挟むのにも、もう飽き飽きだ」

「……あ、呆れたわね。まさか暇つぶしで、代行者と執行者とを同時に相手取るつもり?」

「人生には刺激が必要なのさ。そうだろ?」

 ゲームに興じるかのような気軽さで戦闘に臨もうとするダンテの赤い背中に、橙子は言葉をかける。

「相手は対魔戦闘のスペシャリストよ。だから悪魔の血を引く貴方に対しても有効な手段があると見て間違いないわ。……気をつけて」

 らしくもない助言が口を衝いた、と言った後で後悔する橙子。

 気恥ずかしさで顔を赤くする彼女を見て、ダンテはからかうような笑みを浮かべる。

「心配してくれるのかい? いいね、やる気が出てきた」

 景気のいい台詞とは裏腹に、ダンテの膝から一瞬、力が抜け落ちた。

「お……?」

 軽い驚きで声を漏らすダンテは、そこでようやく気がついた。

 言峰綺礼の黒鍵によって穿たれた無数の刺傷。それが回復していないのだ。

 人間よりも、そして並みの悪魔よりも遥かに強靭な肉体を持つダンテの自然治癒能力は常軌を逸している。たとえ腹を突き刺されたり眉間を撃ち抜かれたりしようと、その程度のダメージならば瞬く間に完治し、傷痕すら残らないのが常だ。

 だが、黒鍵に穿たれた傷口は今なお多量の血を流し、ダンテの体力を奪っている。

 黒鍵、別名『摂理の鍵』の持つ霊的干渉力が、ダンテの自然治癒能力に何らかの影響をもたらしたのかもしれない。橙子は先ほど、相手には悪魔の血を引くダンテに対しても有効な手段があると言っていた。

「――なるほどね」

 失血感と、その〝寒気のような熱〟から来る興奮にダンテは口角をつり上げる。まさしく手負いの獣の如き、獰猛な表情。まごうことなき死の感触が、この男のスイッチを入れてしまったらしい。紅蓮の炎のごとき闘気と魔力とが、その全身から沸々と湧き上がっていた。

 人間であれば失血死も必至な量の血を流し、不気味な小ぬか雨のような音をたてるダンテは、しかし衰弱など微塵も感じさせぬ力強い足取りで出口のほうに歩いていく。

 頑丈な樫の木でできた両開きの扉を、蹴破らんばかりの勢いで蹴り開けながら、最強の悪魔狩人は嬉々として叫んでいた。

「楽しいパーティになりそうだ!」

 

 

 

 

 留め具が弾ける。

 頑丈な樫の木でできた扉は、いびつに歪み、まるで指向性の爆薬でも使用されたかのようにダンテの前方へと吹き飛んだ。

 ものすごい勢いで滑空する左右の扉は、だが進路上にいた綺礼とバゼットによって難なく弾き返される。ハンマーそこのけのバックハンドに打ちのめされた扉は、今度こそ粉々の木片と化して薄汚れた裏路地の地面に転がった。二大組織の猟犬に、さしたるダメージは見受けられない。魔力の乗った弾丸の衝撃に吹き飛ばされこそすれ、その両腕に損傷は与えられず、防弾仕様の衣服にも不具合は生じていない。

 まさに意気軒昂といった風体の綺礼とバゼットに、ダンテは『ヒュウ♪』と感嘆の口笛を漏らす。

「やる気たっぷりって感じだな」

 大きな闘気を発散する二人に微笑み、ダンテは右手のアイボリーを持ち上げ、その必要以上に無骨な銃身で自身の肩をとんとんと叩く。

 臨戦態勢の二人とは対照的に、まるで緊張感がない。むしろリラックスしている。それが絶対の自信に裏付けられた不敵さであるのは言うまでもない。

 そして、こういう手合いが決して侮れぬ強敵であることを、歴戦の代行者と執行者は知っていた。

「なんという力だ……ただの弾丸を、あそこまで底上げするとはな」

「噂通り……いや、噂以上の力ですね。魔術協会が彼を危険視し、避けているのも頷ける」

 ダンテの軽口を無視し、綺礼は懐から黒鍵の柄を複数本取り出すと、それを両手の指に挟みこんで銀色の刀身を具現化させる。その隣では、バゼットが常に背負っている長筒を投げ捨て、強化のルーンを組んだ手袋(グローブ)をはめ直し、拳を引きつけてファイティング・ポーズを取っている。

 ダンテの力を目の当たりにし、彼が二大組織さえ不干渉を決め込むほどの実力者であることを再確認して尚、二人が退く様子はない。与えられた任務は遂行する。それが血生臭い部署に身を置く彼らの役割である。たとえ相手が悪魔であろうと。

 夜明け前の一瞬。

 ただでさえ全てが静寂に包まれる時間だというのに、この一帯はそれに輪をかけた静寂に支配されていた。

 急激に集中し、高まっていく、渦のような殺気。

 空気の音さえも聞こえそうなほど静まり返った、緊迫しきった夜のしじま。遅れて事務所を飛び出し、ダンテの背後で彼を見守る橙子が、ごくりと生唾を飲み込む。

「嵐の前の静けさ、ってやつか」

 素人なら耐えかねて悲鳴を上げてしまいそうな緊張感の中、不意に口を開いたのは、やはりダンテだった。あらゆる局面でも動じない彼こそが、この場の主導権を握っている。

「嫌いじゃないが、もうちょい騒がしいのが性に合っててね。ハード・ロックは好きかい?」

 パーティの進行役のような口調で、ダンテは先を進めた。

 その両腕が、激しい雷撃を帯びる。ダンテの力の顕現である赤い魔力。

 力の高まりが最高潮に達した瞬間、悪魔狩人は両手の銃を嬉々としてかき鳴らしていた。

「演奏するぜ!」

 静寂を打ち破る、強力な霊気をまとった弾幕攻撃。

 数多の悪魔を葬り去ったダンテの銃撃を前にして、しかし綺礼とバゼットに焦りはない。

「闘争の時間だ……いくぞ執行者、遅れを取るな!」

「貴方と組むと、ろくな目に遭ってない気がするのですが……まあいいです。いきますよ、代行者!」

 かけ声と同時に二人は行動を開始する。前進するバゼット、後退する綺礼。互いの役割を理解している両者は打ち合わせをする必要もなく、それぞれが得意とするポジションに移動して悪魔狩人の迎撃にかかる。

 迫りくる弾丸に真正面から突っ込む格好のバゼットは、やはり両腕で頭を庇うのみで、避けようとすらしなかった。先ほどはそれで吹き飛ばされこそしたが、今度ばかりは同じ轍を踏むバゼットではない。弾丸に魔力を込めて威力を底上げしているのだと解ったならば、そう弁えたうえで対処すればいいだけのことである。そして、その気になったバゼットにとって、ダンテの銃撃も決して耐えきれない程の脅威ではなかった。

 金属バットの猛打のような衝撃に揺るぐこともなく、しかと地を蹴って突進してくるバゼットに、ダンテは思わず口笛を吹いた。

「見かけによらずパワフルなお嬢さんだな」

「お嬢さんではありません、バゼットです」

 ダンテの軽口に生真面目に返事を返しながら、バゼットは右腕を引きつけ、拳を握りしめた。

 銃器が用を成さない至近距離まで敵の接近を許したダンテは、だからこそ迷うことなく愛銃をホルスターに仕舞い、背中の大剣『リベリオン』に手を伸ばす。ケブラー繊維は銃弾に対する耐性とは裏腹に、刃物による切断には極めて脆い。それでなくとも、当たった際のダメージは銃よりも剣のほうが格段に上だ。エボニーとアイボリーの洗礼を掻い潜るほどの強敵に出会った場合の、これがダンテの対処法であった。

 上段から振り抜かれ、稲妻のように閃く大剣。長大な刃渡りと引き換えに小回りの利かぬ大剣よりも、拳による打撃の方が機敏さの点において圧倒的に有利なはずなのだが、魔界最強と謳われた剣士の血を引くダンテの斬撃は、そんな理屈をも無視してバゼットに先んじていた。単純にダンテの動きの方が速いのだ。あとは『斬られた』という認識さえ与えることもなく、雷のような一閃が女の肢体を無残に斬り伏せるものと――

 横合いから飛来した黒鍵の剣先がリベリオンと激突し、ダンテの攻撃を阻害して女執行者をアシストしたのは、そのときだった。

 それが後方支援に回った言峰綺礼の仕業であるのは言うまでもない。そして、申し合わせたかのようなタイミングで援護射撃が入ることを予期していたバゼットにとって、この援護射撃も驚きに値しない。対立する二大組織の回し者同士だというのに、まるで長年のパートナーのように息の合った動きだった。

「シッ!」

 バゼットの攻撃を阻むものは今や何もない。鋭い呼気とともに、充分な踏み込みを経過して撃ち出された右のボディ・ストレートが、まずはダンテの鳩尾にめり込む。内臓破裂、あるいは背骨がへし折れることも大いにあり得る、凶悪な破壊力のストレート。

 声もなく身体をくの字に折り曲げたダンテの下顎を狙って、返す刀ですかさず左のアッパーカットがフォローされた。たかが二撃、されど二撃。人ひとりを仕留めるのに、大仰な手数など必要ない。

(取った……!)

 満足の持てる手応えに、バゼットは勝利を確信する。むべなるかな。硬化のルーンを組まれ、タングステン鋼を超える硬度の手袋(グローブ)に包まれたバゼットの拳は、まさに建物を解体する鉄球のごとき威力をダンテに叩き込んでいるのだ。さしもの魔剣士の息子といえど、これを二発もジャストミートされて無事に済むはずがない……

 のけ反って不様に天を仰ぐダンテが、なのに手を動かして剣先を突き込んできたので、バゼットは最強の悪魔狩人の危険度をまだ見誤っていたことを思い知らされた。

「くぅっ!?」

 目視もなく、体勢だって不十分だというのに機械のような正確さとスピードで振りかざされる大剣に、さすがのバゼットも回避が遅れた。鋭利な剣先がスーツの胸元を引っかけ、その下のカッターシャツも巻き込み、そうして横一線に切り裂かれた衣服の隙間から飾り気のないワークアウト・ブラが露出する。だが、そのことを気にする恥じらいも余裕も、今のバゼットにはない。

「……っとと。やるな、お嬢さん。こんな重いパンチを喰らったのは久しぶりだ」

 たたらを踏みながらもバランスを取り戻し、殴られた下顎を撫でさするダンテは、逃げるように間合いを離したバゼットを称賛する。だが、それを素直に喜べる程、バゼットは穏やかではいられない。数多の敵を叩き伏せた、単純だが必殺のコンビネーション。それを耐え抜かれた挙げ句、反撃という汚点まで追加されたのだ。その憤怒たるや、視線だけで戦場の鴉をも追い散らせよう。

「おいおい、そんなに睨むなよ。せっかくの美人が台無しだぜ?」

「……タフだと言っても限度があるでしょうに。本当に生き物ですか、貴方は?」

 今度ばかりはダンテの軽口を無視して、バゼットは苛立ちを吐き捨てた。

 闘争において冷静さを欠くことは死に直結する愚行だと理解してはいても、それを納得して飲み下せる程、彼女は歳を重ねていない。たとえ封印指定執行者という人型の修羅といえど、バゼットもまだ、若いのだ。

「さあ? 自分でもよく分からなくてね」

 おどけるダンテは、血気盛んな若武者を見つめる老練した戦士の面持ちで、にやにやと笑みを浮かべる。

 その余裕の態度を気に入らないと感じたバゼットは、再度地面を蹴りつけてダンテに突進していた。さっきの攻防で相手が自分よりも優れた身体能力、戦闘技術の持ち主であることが理解できぬほど愚かではないバゼットだが、それで怖気づくような様子は微塵もない。

「ガッツのあるお嬢さんだ……期待するのは五年後だがな」

 闘争心の塊と化した女執行者の拳を、紙一重の見切りで回避し、あるいは剣で防ぎながら、ダンテは呟く。

 肩から先が消失したかのように見えるスピードで繰り出されるパンチ。嵐のような回転力と拳圧が織り成す威力に、大気がヒステリーを起こして荒れ狂っているが、ダンテの赤いコートは揺らせても、その不敵な微笑みまでは揺らせない。

 バゼットの連撃の合間を縫うように、絶妙なタイミングで飛来する黒鍵。だが、それすらも決定打には至らない。常人なら視認すら危ぶまれる速度の投擲も、ダンテは人外の反応速度でかわし、叩き落とし、時には直撃に耐えつつ、目の前のバゼットに対峙しつづけている。将来が楽しみな戦士を見つめるような表情で。

 見守る蒼崎橙子が、まるで大人と子供が戦っているかのようだと思ってしまう程、両者の実力差には大きな開きがあった。

「このぉ……!」

 顔面ばかりを狙うコンビネーションを囮にして放たれた下段回し蹴りを、まるで読まれていたかのように飛び越えられると同時に、バゼットの苛立ちはピークに達した。

「舐めるなあッ!」

 腕の戻りやカウンターへの警戒も度外視し、大きく右腕を引きつけて渾身の一撃を解き放つ。

 ――硬化、強化。

 何の工夫もプロセスも無しに単調な大振りが当たるような相手ではないが、これ見よがしに予備動作を見せつけてやった方が、相手の性格からして、あえて正面から受ける可能性が高かった。そんなバゼットの期待通り、ダンテは剣を下ろして構えを解くと、まるで迎え入れるように両手を広げたではないか。

 ――加速。

 それは絶対の自信の表れなのか、あるいはどうしようもない馬鹿なのか。いずれにせよ、ぶん殴ることに変わりはないバゼットである。その余裕たっぷりなニヤけ面を、突き崩してやります。

 ――相乗

「食らえええッ!!」

 精神による詠唱で高まりに高まった威力を集約し、いざバゼット渾身の一撃が撃ち出される。

 乾坤一擲。時速にして八十キロという数値を弾き出す必殺の右ストレートが、依然不敵なスマイルを浮かべるダンテの鼻っ面を目がけて射出され――

「な――」

 驚きの声が漏れた。バゼットの口から。

 結果としてバゼットの拳は、みごとに空を切り、ダンテの鼻を頭蓋骨にめり込ませることは実現できなかった。なぜなら直撃の瞬間、両手を広げて立っていたダンテの姿が、かき消えたからだ。それこそ煙か幽霊のように、だ。

 躱された――否、違う。それでは瞬時に姿を消したダンテが、バゼットの後方に陣取っていた言峰綺礼の目の前にいきなり出現した理由を説明できないではないか。

 そう、それは『回避』ではなく『移動』だった。

「今のは……!」

 魔術の何たるかを知るバゼットと、とりわけ魔導を極めるべく日々執心している橙子は、その怪異の名を知り得るが故に驚愕の念を隠せない。

「空間転移ですって!?」

 蒼崎橙子の驚きもむべなるかな。

 この世界から失われて久しい秘術、現代では決して再現が不可能な神秘の極致――そういった〝奇跡〟を、魔術師たちは『魔法』と呼ぶ。その『魔法』の域に近しいとされる大魔術の一つが、空間転移だ。

 高次元を経由して一瞬のうちに移動する魔術を、だがダンテは特別な準備も呪文詠唱もなしに行使してみせた。たとえ魔術刻印の補助を受けたとしても考えられない発動速度で、あたかも手足を動かすかのような自然さで、だ。

 悪魔の異界常識に代表される、異常な空間干渉力のみが可能とする、種も仕掛けもないエアトリック――蒼崎橙子のような天の才を持つ魔術師が、確かな理論と過程を踏んでようやく到達する高みが、ただの一息で踏みにじられたと言っても過言ではない冒涜的なワンシーンであった。

「将来有望なお嬢さんとのデートを楽しみたいんでね……野暮な外野には、すっこんでもらうぜ。悪いがな」

 バゼットの意表を突き、まんまと出し抜くことに成功した緋色のトリックスターは、まずは言峰綺礼を無力化するべく背中の剣に手をかけた。バゼットとの一騎打ちに水を差されたくない思惑ももちろんあるが、後方支援を断つことによって状況を優位に進めるのが戦いの定石である。ダンテの個人的な目論見は、図らずも合理的なやり方に繋がっていた。

「祈りは済ませたかい、神父さん?」まさしく聖職者に牙を剥く悪魔のごとき微笑みを浮かべ、ダンテは背中の剣に手をかけた。「命乞いはナシだぜ?」

「ぬぅ……っ!」

 聖堂教会代行者とはいえ生身の人間に、魔剣士の奇襲を防ぐ手立てがあるとは思えない。さしもの言峰綺礼も重苦しい目を焦りに見開く。

 接近を果たしたダンテに応戦すべく、とっさの反応で両手に黒鍵を抜いたのは歴戦の代行者としての貫禄かもしれない。だがそれも、圧倒的な実力差の前に突き崩されようとしていた。

「俺を相手に剣で挑むたあ、勇敢だな」

 だが無謀だ、と鼻で笑うダンテの右腕が雷光のように閃く。

 けたたましい金属音が鳴り響いた。刃渡りだけならリベリオンに対抗できる黒鍵も、あくまで投擲に特化した刃物である。そして元より、この世での実体すら定かではない半霊体の刀身が、数多の悪魔の血を吸って磨き抜かれた地獄の剣に、文字通り太刀打ちできるはずもない。

 薄いガラスが割れるように呆気なく砕け散る黒鍵。

 魔力で編まれた刀身が、あわい光の粒子となって消滅する様子にダンテは微笑み――

「あん……?」

 武器を無力化されて怯むかに思われた綺礼が、後退するどころか素手のままダンテの懐に踏み込んでいることに気づいて、そんな間の抜けた声を漏らしていた。

「――人の身と侮ったな、魔剣士の息子よ。元より斬り合いで勝てるなどと思ってはおらん」

 感情の籠らない声で嘯く綺礼の万力のように硬く筋張った指が、さながら蛇のようにダンテの右手首に絡まった。

 そびえ立つような黒衣の長身が低く身をかがめ、そのままダンテの右腕の下をくぐる。次の瞬間、まるで怪我人に肩を貸すかのような姿勢で、綺礼はダンテの右腕を肩の後ろに背負い込んでいた。

「あの動きは……!」

 離れた位置で一連の動作を見届けていた橙子が、はっと息を飲んだ。

 黒鍵使いの代行者。その先入観に騙された。言峰綺礼にはバゼット・フラガ・マクレミッツのような近接戦のスキルなどないと早合点していた橙子は、ダンテの身を案じる間もなく理解する。あれは中国拳法、八極拳の――

 綺礼の体側がダンテの腰に密着すると同時に、左腕の肘は鳩尾を一撃していた。

 鮮やかなまでに決まった『六大開・頂肘』。リベリオンを持つ手首を掴んでからは、すべてが一瞬のうちの一動作である。まさに八極拳の極意とされる攻防一体の套路だった。

 思いもよらぬ反撃を受け、ダンテの動きが一瞬、硬直する。見逃す聖堂教会代行者ではない。

 ダンテの内懐に、僧衣の長身が死神のごとく滑り込む。八極拳が最大効果を発揮する至近距離。その拳は、八方の極遠に達する威をもって敵門を打ち開く……

 踏み込んだ震脚が、ひび割れたアスファルトの亀裂をさらに広げながら地面を揺るがし、繰り出された巌のごとき縦拳が、ダンテの胸板を直撃する。金剛八式、衝捶の一撃。もはや胸元で手榴弾が炸裂したも同然の破壊力だった。吹き飛ばされたダンテの身体は藁屑のように宙を舞い、さびついたダストボックスに受け身も取れぬ勢いで突っ込む。赤衣の長身が酸っぱい臭いを発するゴミの中に埋もれたのを見届け、ゆっくりと吐気して残心する綺礼。

「……私のコレは真似事でな。師の塘路を真似ただけの、内に何も宿らぬものだが――」

 それでも相手が常人であれば一撃で胸郭を粉砕し、肺と心臓をまとめて粗挽き肉へと変えるだけの威力。そう、あくまで常人が相手であれば、の話である。

「やはり、そんな程度の児戯では貴様に通用はせぬようだ」

 瞬く剣閃がダストボックスを真っ二つに切り裂き、そうして二つに分かれた鉄屑のあいだから血の色をした男が姿を現す。確かめるまでもないが、まったくの無傷である。攻撃を受けたことより身体の汚れのほうが気になるのか、ダンテは自慢のコートに付着した野菜の食べかすやらゴキブリの死骸やらを鬱陶しそうに払い落としていた。

「……こいつは驚いた。最近の神父さんはカンフーもできるのか?」

 俺もブルース・リーには影響を受けた、とダンテは言って、ふざけ半分にカンフーの真似事までし始める。

「なんて……化け物」

 あまりにも遅蒔きながら、バゼットは本当にこの男に勝てるのだろうかという不安に襲われていた。じりじりと無意識に後退する両足が、端的に彼女の心情を表していた。それは伝説の魔剣士の息子、最強の悪魔狩人と対峙した誰もが等しく感じる力の差であり、絶望だった。

「逃げるがいい、マクレミッツ」

 戦意を喪失しつつあるバゼットの、おぼつかない足元を見咎め、言峰綺礼は無感情に進言した。

「な……この私に尻尾を巻け、と言うのですか、貴方は!?」

「おまえももう、気づいているだろう。あれは私たちの手に負える相手ではなかった」

 反射的に声を荒げるバゼットに、ここが引き際だと見定めた代行者は冷静に言葉を続ける。

「私が囮になる、その隙に退け。おまえはまだ若くてチャンスがある。これ以上、目の前の破滅に深入りする必要はない」

「で、でも……!」

 綺礼の物言いが嘲りではなく、こちらの身を案じてのことだと理解し、ひとまず怒りを抑えてバゼットは食い下がる。一方、綺礼は決定事項だと言わんばかりにバゼットに取り合わない。そんな二人のやり取りを、ダンテは面白そうな顔で見つめている。

「――やつは危険な男だが、この世界には似合わぬことに『不殺』を信条としている手合いだ。私の生死を気にしているのなら、いらぬ心配だ。手ひどい仕打ちを受けるだろうが、命まで取られることはないだろう」

「……っ!」

 言峰綺礼を死地に置き去りにすることが後ろ髪を引く最大の要因であったバゼットにとって、その後押しは理性的な判断を促す決定的な一手だった。それに、勝てぬと判った戦いに命を賭ける程、彼女も愚劣ではない。戦術的撤退の必要性も認めていた。

 そうして頑固な女執行者が折れようとした、そのときである。

「……っく」

 こらえ切れぬとばかりに笑い声が漏れた。ダンテの口から。

「クッ、クッ……ハハ! ハハハハハハッ!」

 堰を切ったかのように、笑い声は止まらない。

 だがそれは、乾いた冷笑。見せかけだけで心など籠っていない、それこそ悪魔が浮かべるような――

「おいおい、感動的だな。涙でも流すか?」

 わざとらしく手を打ち鳴らして拍手をし、皮肉に口元を歪めるダンテの目は笑っていない。

 静かに、だが確実に豹変した銀髪の悪鬼は、温度のない声で先を続ける。

「あんたの言う通りだぜ、神父さん。必要のない殺しなんてダサいぜ」

 裏世界に身を置く人間にしては珍しい建前を、ダンテは平然と口にする。

 だが、それは『必要であれば人殺しも厭わない』という逆説に他ならない。

「将来有望なお嬢さんを逃がして、いい人を気取ろうとしたって無駄だぜ。俺はこう見えて鼻が利くタチでな」

 言葉の温度が急激に下がっていく。

 人には決して持ち得ない、闇の感情ゆえの冷気が、橙子を、バゼットを、そして言峰綺礼を包み込む。

「コロン臭い修道士よりはマシだが、まるで掃き溜めのようなにおいだ。十字架と祈りで上手いこと取り繕ってはいるようだがな、俺の鼻は誤魔化せない。――あんたの魂は、腐ってる」

 そのとき、ダンテの瞳が真っ赤になった。血のような赤に。

「何が狙いで〝俺とサシで戦いたかった〟のかは知らないがな、あんたみたいな嫌なにおいをしてるやつの考えてることなんざ、ろくなもんじゃねえって相場が決まってる。二度と悪だくみできないようにしてやるぜ」

 膨大な、もはや視覚化できるほどに膨大な魔力が、ダンテの全身から沸々と溢れる。

 周囲一帯を走り抜ける禍々しい気配。

 ずるり、と世界が裏返ったと錯覚するような恐怖と戦慄。

 ヒトではあり得ない力を、これ見よがしに放射するダンテを味方に付けている橙子は、そんな彼に守られている立場だというのに身体の震えを抑えきれなかった。優秀な魔術師である蒼崎橙子は、もちろん恐怖を抑える術を心得ている。だが、そんな彼女も人間という卑小な存在の一人であり、その細胞の奥底には原始時代の記憶ともいうべきものがまだ残っていて、その有史以前の本能が、ダンテの放つ闇の気配、圧倒的な力の波動に触れた途端、恐怖に震え上がるしかなかったのだ。

 人は本能的に闇を恐れる。それは長い年月にわたり、悪魔に恐怖してきた遠い先祖の記憶を、その血に受け継いでいるせいなのかもしれない。

「鬼が出るか、蛇が出るか……いずれにせよ、彼を味方に付けて正解だったわね」

 恐怖を誤魔化すように軽口を叩き、稀代の人形師は気丈に笑い飛ばす。

 だが、ダンテと相対する言峰綺礼にとっては笑い事ではなかった。明らかに真の姿、人の皮の裏側に秘め隠された本性を露わにしつつある赤い男の先ほどの言葉を、その意味するところを、これまで数々の夜の眷属と戦ってきた代行者は今更ながらに思い出していた。ガキの頃から俺の身体には悪魔がいた。よければ紹介してやってもいいぜ?

「なるほど、これほどの力ならば……いっそヒトでなくなってしまったほうが道理が通るな」

 これまで鉄のように微動だにしなかった綺礼の表情が動いた。それは笑みというには、あまりに些細な口元の歪み。

 だが、このとき確かに言峰綺礼は、笑っていた。この世ならざる闇の生き物に標的とされておきながら。

 含まれた感情すら察することのできない、ゆがんだ笑み。一体なにが鉄のような代行者の心を揺さぶったというのか。恐怖か、絶望か、それとも――

「やれやれ、呆れた魔力量だな……奇蹟を巡る冬木の闘争、現世に呼び出された英霊たちの宝具でもあるまいに」

 いつになく饒舌に、言峰綺礼の口は回る。教会側の人間でありながら魔術師の戦争に参加したという、異色の経歴の持ち主は、その〝戦争〟で行使された最強のマジックアイテムの存在を思い出していた。

 宝具――英雄を伝説たらしめるのは、その英雄という人物のみならず、彼を巡る逸話や、彼に縁の武具や機器といった〝象徴〟の存在である。その〝象徴〟こそが、英雄の持つ最後の切り札にして究極の奥義。俗に『宝具』と呼ばれる必殺兵器なのだ。それを行使し、竜殺しや神殺しといったヒトの身に余る偉業を成したからこそ、英雄は伝説となり、死後の魂は世界へと召し上げられたのである。

 

 

 そう、かつて英霊たちの宝具が竜を殺し神を殺したというのなら。

 その伝説上の破壊を再現できれば、悪魔も殺せぬ道理はない。

 

 

「これは……!」

 バゼットが常に背負っている長筒。

 近接戦の妨げとならないように投げ捨てられ、地面に転がっていたそれが、カタカタと独りでに震えている。ダンテの魔力に反応しているかのように。

「――後より出て先に断つ者(アンサラー)!」

 一も二もなかった。最後の切り札である迎撃礼装の〝発動条件〟が整っていたことを理解したバゼットは、右の拳を高々と突き上げて声を放つ。その呼びかけに応じ、筒の中身が勢いよく飛び出す。それはバゼットの右拳の先で浮遊し、帯電しながら停止した。

 鉛色の球体、である。どう見ても武器には思えぬそれを見た蒼崎橙子が声を上げる。

「まさかあれは……エースを殺すジョーカー……フラガが現代まで伝えきった神代の魔剣!?」

 ルーン魔術を得意とする蒼崎橙子は知っていた。バゼットの生家でありルーンの大家であるフラガの魔術特性について。

 伝承保菌者(ゴッズホルダー)――端的に言えば、神代から脈々と受け継がれてきたあるモノから感染した魔術特性である。

 そう、かのフラガの血脈は頑なに保管し、現代まで伝えきったのだ。

 戦神の剣、時間の経過による神秘の風化を、ついに免れた〝宝具の現物〟を。

 その真価は、『敵の切り札に反応し、時間をさかのぼり切り札発動前の敵の心臓を貫く』――

「斬り抉る戦神の剣(フラガラック)――ッ!」

 振り抜かれた右腕に追随し、光の線と化して逆光剣が撃ち出される。

 その能力に基づき、時間を遡行して〝切り札を発動する〟という事実をキャンセルされたダンテは、いきなり魔力をかき消された脱力感に驚き、そのことを困惑する間もなく心臓を貫かれていた。

 胸板に大穴をあけ、赤衣の長身が吹き飛ばされる。

「今しかない……退きますよ、言峰!」

 必殺宝具の手応えを感じつつも、バゼットは戦闘の続行を良しとはしなかった。

 フラガラックの特性上、被弾した相手は心臓を貫かれるので、確実に命を落とすのが普通だ。

 だが今回の敵は、ノーマルではない。全身を串刺しにされようが、大量の血を流していようが平然としているアブノーマルだ。そういった〝死なない相手〟がフラガラックの天敵であることくらいバゼットも理解していた。

 そして、ブロック塀に叩きつけられ、衝撃で崩れ落ちた瓦礫の下敷きになったダンテの生死を確認していては、せっかくの離脱のタイミングを逃すことになる。

「聞こえてますか、言峰! 突っ立ってないで動きなさい!」

「……」

「早く!」

 なぜか不満そうに目を細め、立ち尽くしたまま瓦礫を見つめる綺礼の腕を強引に引っ掴み、バゼットはその場を後にした。そうして、二大組織の狩人は死地より離脱を果たす。朝を迎えつつある裏路地の陰へと消えていく二人の背中を、橙子は安堵の面持ちで見送った。彼女に対する刺客は去ったのだ。

 ほぼ時を同じくして、瓦礫の下からダンテが姿を現す。

「クソッ、シャレたオモチャだ」

 さすがにダメージを受けたのか。珍しく悪態を吐くダンテではあるが、大穴があいたはずの胸元にはその痕跡すらない。くり抜かれたように破れたインナーだけが、唯一の名残だった。

 橙子が呆れたように、くるっと目を回した。どういう脅威が生じたら死ぬのかしらね?

「聞くだけ無駄なことだと思うけど、けがはない?」

「被害があるとすれば、特注のコートだけだ。こいつの予備は少ないんだがな」

 ダンテは見せかけではない悲しげな表情で、ボロボロになったコートを指し示す。橙子は思わず苦笑した。

「コート代くらいは報酬として出すわ。さすがに何のお礼もしないっていうのは申し訳ないし」

「いや、金ならいい。久しぶりに楽しめたからな」

 あんな野郎を助けようとした、お嬢さんの男の趣味だけが気がかりではあるがね。ダンテは橙子に聞こえぬ小さな声で、そう呟いていた。

「それより、あんたの追手は振り払った。こんなスラムに美女を一人にするのは気が引けるが、もう俺の護衛は必要ないだろ?」

「ああ、そのことなんだけど――」

 退屈しのぎを終え、いい気分のダンテはさっさと寝ぐらに戻って一杯やりたかったが、その足を橙子が呼び止めた。彼女は眼鏡に手をかけ、ゆっくりと外す。

「――下手に逃げ回るより、おまえと一緒にいるほうが安全だとわかった。ふつつか者ではあるが、しばらく厄介になるぞ?」

 人格が切り替わったかのように豹変した橙色の魔術師に、さしものダンテも面食らった。そして、たちまち嫌な予感がし始めた。まさか、こいつはいつものパターンか?

「……なるほどね、それが本性ってわけか」

「女なんだから裏の顔を持つのは当然だろう? 私たちは上手に男を騙さなくてはいけない生き物なんだからな」

「その『騙さなくてはいけない相手』には、俺も含まれるのか?」

「おまえも男なら、もちろんだ」

 というか、すでに騙されていた。急に目つきの悪くなった美女は、ついにはダンテの嫌いなタバコまで取り出して断りもなく吸い始めていた。俺が最初に気に入った、あの眼鏡の美女はどこへ行っちまったんだ。

 うるさそうにタバコの煙を手で追い払うダンテに、橙子は底意地の悪い笑みを浮かべた。

「最強の悪魔狩人のくせに、タバコは嫌いらしいな」

「自分で自分の肺をヤニ漬けにして楽しいかよ? 俺がやるのは酒だけだ」

「女はどうだ? やらないのか?」

 紫煙を吐いた橙子は、赤い唇を歪めて言った。

「こんないい女と一つ屋根の下になるんだ。金が嫌なら、この身体で払ってやってもいいぞ」

「……いや、やめとく。あんたが相手だとベッドの中でさえペースを握られそうだ」

「つれないやつだな」橙子は勝ち誇った笑みで流し目を送った。「主導権を支配されることくらい、男の甲斐性で受け入れてほしいものだ」

「それより、あんたが俺の事務所で厄介になるのは、もう決定事項なのか?」

「こんなスラムに美女を一人にするのは気が引けるんだろ?」

 やんわりとではあるが、取り付く島もない。

「なに、おまえの身の回りの世話くらいはするさ、これでも厄介になるんだからな。必要とあれば仕事も手伝おう。劣情を催したのなら相手になってやってもいい」

「するかよ。あとが怖い」

「ああ、きっと高くつくぞ」

 満足した猫のように、橙子は笑っている。

 恐ろしいビッチめ。ダンテはそう思ったが、幸いにもそれを口にすることはなかった。この思ったことをすぐ口にする男にしては珍しく。

「……いつもながら、女運は良くないらしい」

 厭世的なため息を吐き、ダンテは朝焼けの空を見上げた。

 

 

 

 

 父は美しくあれと祈って、綺礼と名をつけた。

 それがずっと疑問だったのだ。

 父が美しいとするもの。

 それを――少年は、一度たりとも美しいと感じ得なかったのだから。

 話はそれだけのことだ。

 彼が美しいと思うものは蝶ではなく蛾であり、

 薔薇ではなく毒草であり、

 善ではなく悪だった。

 人並みの良識を持ち、道徳を信じ、善であることが正しいと理解していながら。

 少年は、その正反対のものにしか、生まれつき興味を持てなかった。

 

 

 だから、大人になった少年は、神でなく悪魔に救いを求めた。

 

 

 かつて手にした答え。

 十年前の地獄で己の魂の在りように気づいた言峰綺礼は、その倫理から外れた解答を導き出せる存在を追い求めていた。

 世界に害を成すことを前提として生まれるだれか。自分と同じく、初めから規格外の存在として生を受け、世界から断絶されたまま死に至るなにか。数年前、女執行者の要らぬ横槍がなければ、あと少しで目撃できたかもしれないモノ。

 悪魔と呼ばれる存在であれば、あるいは倫理の問いにまるで違う可能性が拓かれるのではないかと。

 人並みの幸福を理解できぬ男は、切にそう思っていた。

「――我らを動かす操り糸は悪魔の掌中にあり――」

 ふと、何の前触れもなく聞こえてきた声に、言峰綺礼の意識は現実に引き戻される。

「――されば人は忌まわしき物にこそ魅入られ――」

 場所は冬木市新都の郊外、小高い丘の上に立つ言峰教会。

 そこの中庭には、司祭しか知らない秘密がある。

「――穢れた暗闇の中にあれど怖れもなく歩む――」

 壁と壁の間、建物の陰になっていて、普通なら見落としてしまう窪みに、細い階段がある。

 その先の地下聖堂に、言峰綺礼と、そして声の主はいた。

「――日毎日毎緩やかに、されど確たる足取りで――」

 言峰綺礼は、ゆっくりと階段を下りてくる声の主を見上げた。

 やけに背の高い、禿頭の男である。左右で色の異なるオッドアイが、その手の古びた本を読み上げている。

「――人は皆、堕ち行く。『地獄』の彼方へと――」

 ひとしきり読み上げたところで、男は古びた本を閉じ、言峰綺礼を見下ろした。

 交差する視線。不気味なオッドアイと、重苦しい目とがかち合う。

「……貴様、何者だ」

 この地下聖堂を知っているのは、ごく一部の関係者だけである。

 もちろん禿頭の男は、その限りではない。綺礼は警戒心も露わに誰何する。

「私の名はアーカム――」

 禿頭の男は、ひずんだ声で答えた。

 その足元の影が蠢く。広い石室に伸び上がった影は、まるで笑い狂った道化師のようなシルエットをしていた。

 ――冥王は約束の日に現れ、大地と天地を引き裂くだろう。

「第五次聖杯戦争の開幕を告げる者だよ」

 ――その者、裏切りの黒き翼持ちて冥王の前に立ちはだかるべし。

 

 

                 Thank you for reading ―――― continued to ‘Fate/screaming soul’

 

 




 こうして物語は、『Fate/screaming soul』に繋がっていくのでした。
 ダンテと橙子の出会いを描いた番外編、如何でしたか。程よく楽しんでいただけたなら幸いです。意外と長くなっちゃったなあ(誤算
 感想や苦情は随時、受け付けております。
 でわでわ。


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