ドラゴンクエストⅢ 時の果てに集いしは (ゆーゆ)
しおりを挟む

プロローグ

ジパングの地下倉庫でヤヨイの存在に気付いたのは、SFC版をプレイしていた時でした。
FC版では壷を調べるなんて発想がなかったので……。


 

 ―――死にたくない。それだけを願いながら、私は大壷の中で、恐怖に身を震わせていた。

 ヤマタノオロチ様への贄。皆を救うための人身御供。身に余る光栄だと己に言い聞かせど、慟哭は鳴り止まない。全てを捨て去る覚悟は、灼熱と暗闇を前にして、脆くも崩れ去ってしまっていた。

 甘かったのだろう。結局私は生贄の祭壇から逃げ出し、我を忘れて走り去った。洞窟を出て、人目を避けるように集落の外れにある地下倉庫へ飛び込み、大壷の中身と入れ代わりに身を隠した。あれからどれぐらい時間が経ったのか、その感覚すら失われていた。

 

(死にたく、ない)

 

 死にたくない。死にたくない。生き永らえなくてもいいから、死にたくない。故郷を、大切な人を守りたいのに、それでも私は、まだ死にたくない。

 本物の死に迫られた者にしか理解し得ない感情。底なしの恐怖。後悔の暇もなく、ただひたすらに怖くて―――地下倉庫に降り立った者の足音に、私は気付いてすらいなかった。

 

「ちょっとアレル。こんな場所に何の用があるのよ?」

「いや、その。声が聞こえた気がしてさ……誰か、いるのか?」

「……え?」

 

 絶望の淵から私を救い出してくれたのは、紛うことなき、勇者様だった。

 

_______________________

 

 キッカケは何かと問われれば、やはり二年前。あの出会いがそうなのだと思う。初めて目の当たりにした異国の人間が、この世界を光で照らすことになる、英雄だったという小さな奇跡。勇者の名が世に知れ渡った時、私は全てを悟った。

 いつしか私は、外の世界を知りたいと感じるようになっていた。海の外を知りたかった。ジパング―――『黄金の国』なんて大仰な呼び名もつい最近になって知った―――で暮らすだけでは知り得ない、触れることができない世界達。

 あの日。暗く狭い壷の中から這い出た時のように。抑え切れない憧憬に身を任せて、ともかく外へ。願いが現実となったのは、今から二ヶ月前のことだ。

 

(……お父様、元気にしてるかな)

 

 目を瞑れば、故郷を発った日のことが鮮明に思い出される。私を溺愛していた父は、最後の最後まで泣き止んではくれなかった。幼馴染の男の子も、一時の別れを惜しんで目を腫らしていた。

 無理もないと思う。魔王が討たれたことで海に巣食う魔物が激減し、『ぼうえき船』と呼ばれる船がジパングを度々訪ねるようになったことを機に、ものの数日で決心した旅だ。我ながら無鉄砲と言わざるを得ない。

 ともあれ。ああ、本当にそうなんだ。今でも信じられない。願いは成就し、私はこうして『アリアハン』の城に―――

 

「こら、ヤヨイ!何をぼさっとしてんだい!?」

「は、はい?」

 

 女将さんの怒声で、現実へと引き戻される。そうだ。私は今、仕度中の身だった。

 

「今は猫の手でも借りたいぐらいなんだ。新人らしくしっかり働きなっ」

「も、申し訳ありません」

 

 立ち込める熱気。じゅうじゅうと肉が焼ける音。ぐつぐつと煮え立つ汁の湯気。ひっきりなしに人が出入りをする広大な厨房―――アリアハン城で振る舞われる食事の調理場が、今の私の居場所だ。

 

「そこの酒樽を『会場』に持ってっておくれ。お前さんなら持てるだろ」

「畏まりました」

 

 見れば、厨房の出入り口付近に木製の樽が数個置かれていた。中に酒が入っているのだろう。ここへ来て早々に気付かされたことだけれど、私が拾われた理由の一つは、きっと故郷の習わしにある。

 

「ふんぬっ」

「……頼もしい限りだよ。下手な野郎共よりもね」

 

 女と女子の違いは、米俵を背負えるか否か。というか、米俵一つ持てなくて何が女か。幼少の頃から当たり前のように教わってきた概念は、このアリアハンには存在しない。私は両肩に樽を一つずつ抱えて、厨房を後にした。

 

_______________________________

 

 海を渡る上で、私なりの覚悟はあった。食い扶持を稼ぐためなら、どんな仕事でも構わなかった。けれど、新天地に着いて早々に、私は路頭に迷うことになる。

 聞き覚えのない単語、見慣れない建物、奇妙な出で立ちの住人達。眼前に広がる別世界に、何処へ向かえばいいのか、何をすればいいのかがまるで分からなかった。

 それが今はこれだ。深く考えずとも、天恵と言っていい。私を拾ってくれた女将さんには、どんな言葉を並べても感謝し切れそうにない。恩返しをするためにも、しっかりと働かなくては。

 

「左、ですよね」

 

 樽を担ぎながら、だだっ広い通路を慎重に進んでいく。

 今では幾分慣れてきたけれど、アリアハン城の内部は本当に広い。女王様の宮殿がいくつも入りそうな程に巨大な城が、何故倒れずに保っていられるのか未だに分からない。

 

「……あれ?」

 

 待て、落ち着こう。左で間違ってはいないはずだ。いや、その前を右だったか。いやいや、違う違う。いつもの食事場ではなくて、宴用の大広間だ。そもそもの目的地が間違っていた。

 溜め息を付いて踵を返そうとすると、見知った女性が前方から歩いて来る。驚きと一緒に、安堵が胸に広がった。

 

「あら、ヤヨイちゃんじゃない」

「ルイーダ様。お久し振りでございます」

「あー、そういう堅苦しいのはいいから。パスパス」

「はぁ」

 

 城下町の外れに佇む、酒盛りができる食事処の女主人ルイーダさん。私が城の厨房に勤めることになったそもそものキッカケは、この女性が与えてくれた物だ。女将さん同様、私にとっては恩人に他ならない。

 

「ルイーダさま……ルイーダさんも、今回の宴に?」

「まあね。でも流石にお偉いさんの前じゃ、一服し辛くって。その帰り道。ヤヨイちゃんは今日も仕事中?」

「はい。この酒樽を会場へ運ぶよう言われていまして」

「会場はあっちでしょう」

「……知っています」

 

 精一杯の強がりを見せて、元来た道へと引き返す。含み笑いをするルイーダさんも、私と横並びになって続いた。

 私の予想通り、ルイーダさんは大広間で催されている宴の客人として招かれた身だそうだ。酒が入ると煙草が吸いたくなる、というよく分からない欲求を満たした帰りに、私とバッタリ出会わしたらしい。

 

「さーて。もう少し飲ませて貰おうかしら。折角だし、ヤヨイちゃんも参加したら?」

「そ、そういう訳には。でも……一つ、聞いてもいいでしょうか」

「なに?」

「どうして、『今日』なんですか?」

 

 宴の開催が決まった時から、抱き続けてきた疑問。ここ数日は忙しさのあまり、誰にも問えず仕舞いになっていたけれど、ずっと不思議に思っていた。

 何を隠そう、宴の目的は『魔王バラモス』の脅威が去ったことにある。勇者様の手により魔王が討伐されたことで、地上に生きる私達人間は、怯えるばかりの日々から解放された。魔物達はその多くが凶暴性を失い、人の在り方は変わりつつある。もう一年前の出来事だ。

 そう、一年以上も前なのだ。勇者様の偉大なる所業と功績を称えるのは然りとして、何故今更になって大騒ぎをするのだろう。日程が急だったこともあり、文字通り猫の手を借りたいぐらいに厨房は混乱の真っ只中だ。愚痴をこぼす者も少なくはない。

 

「それはね。アレル達の凱旋を祝おうとした、一年前のあの日に……不幸があったからなの」

「不幸?」

 

 私の問いに対し、ルイーダさんは神妙な面持ちで返し始める。

 城に勤める兵士らが総出になって勇者様御一行を出迎えた、その時。複数の落雷が、アリアハン城を襲った。犠牲者は二十名超に及び、残された者達はやがて訪れるであろう平穏を垣間見る暇もなく、悲しみに明け暮れてしまう。筆舌に尽くしがたい悲劇だった。

 

「だから王様は、敢えて祝いの場を用意しなかったのよ。公式には色々な祭典や催しがアリアハンで開かれたし、諸外国との付き合いもあったけどね。でも本当の意味での凱旋祝いは、今日が初ってこと」

「そんなことが……」

 

 漸く合点がいった。

 亡き者を尊び、慎ましく後生を願う。国は違えど、死別に関する考えや捉え方は共通しているのだろう。この国で暮らす人々にとっては、今日という一日が新たな節目になるのかもしれない。

 

「っていうのは全部建前。本当はね、終わっていなかったの。何もかも」

「え……え?あ、あの」

「ふふ、冗談。ほら、着いたわよ」

 

 最後の付け足しを訝しみながら、そっと背中を押される。目の前の一室は、希望と光で満ちていた。

 

「うわあ……」

 

 溢れんばかりの人の顔。純白の上に整然と並ぶ豪勢な料理。見たこともない楽器が奏でる壮大な音。この世の幸せと呼べる物の全てが入り混じり、まるで一つの生命体かのように蠢いている。

 ことある毎に故郷と比較をしがちだけれど、規模が違い過ぎる。眩くて仕方ない。こんな光景を、私は未だかつて見たことがなかった。

 そして―――輪の中心に、あの人はいた。

 

「勇者様……」

 

 モルドム・ディアルティス・アレル。特別には映らない。言葉にしてしまえば、四つだけ年上の男性だ。あの方が世界を救った英雄だと言われても、何も知らない者にとっては世迷言にしか聞こえないだろう。きっとそれが、勇者様の魅力の一つに違いない。

 それにしても、どうしたのだろう。隣で大らかに笑い声を上げているのは、この国を統べるアリアハン王。勇者様も笑みを浮かべてはいるけれど、ひどくぎこちない。困り果てているようにも見受けられた。

 

「やれやれ。王様にも困ったものね」

「どういうことですか?」

「要するに、王様は褒美を取らせたいのよ。お金とか権力とか、そういう分かり易い物をね。でもアレルは無欲な子だから、当然受け取るつもりはないの。それでも諦め切れない王様が用意したのが、あれ。選りすぐりのメイド達って訳」

 

 勇者様の傍らに並ぶ、壮麗な女性達。段々と目が慣れてきた私にとっても、大変に艶やかな同性に映る。一人一人特徴は違えど、ある一点においては全員が同じだった。

 

「メイドって言っても分かんないか。身の回りの世話をする使用人。分かる?」

「侍女のようなものでしょうか?」

「まあ、間違ってはいないわ。当然アレルは断るつもりでしょうけど……完全に押されてるわね」

 

 容易に想像は付いた。身近に一例があったからだ。私を育ててくれた女性は、女王様に仕える侍女として、宮殿で暮らす日々を送っていた。身を粉にして、全てを女王様に捧げていた。

 それなのに。結局あの人は報われず、父とも結ばれず、挙句の果てに―――

 

「あっ」

 

 不意に、肩が軽くなる。何かが落下した音に続いて、ごろごろと床を転がっていく小樽。血の気が引いて、私は一瞬呼吸を忘れた。

 

「あ、あ、ちょ、ま、待って!」

 

 待つ訳がなかった。小樽は勢いをそのままに、宴の会場を突き進み始める。人ごみを押し退け、誰の足にも当たることなく、私だけが泣きそうになりながら後を追う。

 問題ない。小樽は真っ直ぐに転がるだけだ。逃げ出した鶏を捕まえる役目は、いつだって私だった。躊躇うな、飛べ。

 

「とりゃっ」

 

 前方に腕を伸ばしながら飛び込み、小樽を掴み掛かる―――まではよかった。思いの外に床面が滑りやすく、腕に抱えた小樽諸共、私は料理が置かれた机へと突っ込み、盛大な音が大広間に鳴り響いた。

 やがて訪れる深い静寂。ああ、終わった。全部終わりだ。きっと私は追い出される。勇者様を称える場を台無しにしてしまった私に、居場所なんて残りはしない。

 

「だ、大丈夫かい?」

「痛たたたた……え?」

 

 絶望感に浸りながら半身を起こすと、既視感を抱いた。

 

「うん?あれ、確か君は……」

 

 二年前。暗い深淵の底に落とされた私に、手を差し伸べてくれたように。勇者様は再び、私に光を与えてくれた。

 

 

 

 キッカケは何かと問われれば、それはやはり二年前。故郷での出会いに他ならない。けれど、私の生き方が、私を取り巻く世界が変わったのは、アリアハン城での再会。あの瞬間から、全てが変わった。

 そして時は流れ―――更に『七年後』。私が二十二回目の誕生日を迎えた頃。再び、世界が変わる。現世と未来が交差をして、いくつもの世界同士が重なり合い、やがて私達は、運命の歯車に翻弄される。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第1章
タバサ・エル・シ・グランバニア


 

 アリアハン城下町南部の居住区。民家が軒を連ねる細い通りにひっそりと構えられた門の前で、私は箒を手にしながら日の光を浴びていた。

 本日も天気は良好。故郷ジパングが冷え込みの厳しい季節を迎える一方、アリアハンでは過ごし易い日々が続いている。

 

「ふう」

 

 手早く掃き掃除を済ませ、門の脇に設けられた木箱から紙束を取り出す。週に一度発行される情報紙。私の一週間が始まりを告げる合図。もう七年間も前から続く、お馴染みの光景だ。

 

 

 

 アレル様が実家を離れ、この街区に移り住んだのは、私が使用人として仕えることが決まった直後のことだった。その頃には新しい住居の建設も終えており、アレル様は皆の目から逃れるように、一人暮らし―――私という使用人を置いた、独り身での生活を始めた。

 何故家族と離れて暮らすのか。成人した一人の男性として、自立心を養うため、というのがアレル様の表向きの言い分。つまり建前だ。その裏には、まるで異なる類いの真情があった。

 良くも悪くもアレル様は、魔王を討った英雄として名を馳せ過ぎていた。当初は勿論、数年間を経た今も尚、勇者様の尊顔を一目拝みたいという目的で、このアリアハンを訪れる観光客が後を絶たない。更に言えば、英雄という後ろ盾を欲する者は、どの世界にもいる。政治、軍事、教会、商業。物を知らなかった頃の私は理解に及ばなかったけれど、今は違う。要するにアレル様は、そういったあれやこれやで家族に迷惑が掛かるのを避けたかったのだろう。

 ともあれ、アレル様は新しい生活の共に、私を拾ってくれた。最上級のメイド達、という王様のありがた迷惑な褒美を回避するための逃げ道ではあったけれど、事実として私はアレル様との共同生活を続けている。そして今日も新しい一日が始まる。お父様、ヤヨイは今も元気でやっています。

 

「ヤヨイちゃーん、おっはー」

 

 意気込みを新たに張り切っていると、透き通るような声が耳に入る。私は自然と笑みを浮かべ、アレル様と同い年の聡明な女性と挨拶を交わした。

 

「おはようございます、ジル様。戻っていらしたのですね」

「昨晩にね。あのバカ、いる?」

 

 

_______________________

 

 

 寝惚け顔のアレル様が二階から姿を見せたのは、ちょうど朝食の準備を終えた頃。私と同じ色の短髪には寝癖が付いていて、表情は優れない。まだ酒が残っているようだ。

 

「おはようございます。昨晩は随分とお楽しみでしたね」

「おはよ……はぁ。第七兵団の中将さんの誘いを断れなくて。ルイーダさんにも付き合わされた」

「……相当飲まれたようで」

 

 並々と冷水を注いだコップを差し出すと、物の数秒で空っぽに。アレル様は決してうわばみではないけれど、強引な誘いを断り切れないことが多い。二日酔いを見越した朝食を選んでおいて正解だったようだ。

 

「軽めの物を用意しておきました。すぐに召し上がりますか?」

「食欲ないんだけどな……」

「駄目ですよ。少しでも口に入れておかないと、後々支障が出てしまいます」

「……何だろう。君は段々と母さんに似てきた気がするな」

「味が似るのは当たり前だと思いますが……」

「そういう意味じゃないって。まあいいや、頂くよ」

 

 料理の味が似るのは極自然なことだ。七年前の私に、ルシア様―――アレル様のお母様は、沢山の宝物を与えてくれた。使用人という立場に求められる知識と技能は勿論、幅広い教養や嗜みを教わり、教会の日曜学校にも通わせてくれた。年端もいかない子供達の輪に加わるのは多少恥じらいがあったけれど、学ぶことの喜びを教えてくれたのは、紛れもないルシア様だ。片親の私にとって、二人目の母親と言っていい大切な存在だった。

 

「情報紙、もう読んだ?」

 

 物思いに耽っていると、スープを口に運んでいたアレル様の視線が、テーブルに置かれていた情報紙に向いた。週に一度発行される、国内外の時事に関して記された貴重な情報源。既に大まかには目を通してあった。

 

「先週末に予定されていたエジンベアとポルトガの大臣会合ですが、延期となったようです。ポルトガ側の頑なな態度が原因とされています」

「あまり良い報せじゃないな。他には?」

「……例の『営利目的のルーラ課税法』について、ポルトガが前向きな姿勢を見せているとのことです」

「……勘弁してくれ。頭痛は二日酔いだけで充分だ」

 

 同感と言わざるを得ない。少なくとも私が知る限り、呪文が課税の対象になるだなんて議論は、歴史的に見ても存在しない。教会への献金とは別次元の問題だ。

 背景は理解できなくもない。魔物の脅威が去った今、とりわけ船旅の安全性は以前とは比較にならない程に保障されている。『ルーラなんて使わずに船に乗れ、ウチが作った船を使え』という、造船業が盛んなポルトガならではの主張が込められているに違いない。それにルーラの効力を秘めたキメラの翼は、老衰した個体からしか手に入らない。魔物の数が減り、入手自体が困難となった今、キメラの翼が担っていた金銭的価値は、ルーラへと移りつつあることは確かだ。

 

「実際のところ、どうなのでしょう。営利目的、の線引きが難しいような気がします」

「だろうね。もしかしたら、ヤヨイも気軽にルーラで帰郷できなくなるかもよ」

「そ、それは困りますね。……あの、アレル様。その件なのですが」

「ああ、休暇のこと?いつでもいいさ。日程が決まったら教えてくれればいいから」

 

 話題を移そうとするやいなや、先回りをして答えが返ってくる。

 故郷の大集落では、冬を迎えるに当たって何かと準備が要る。食糧の備蓄に防寒等々、男手も女手も多いに越したことはない。毎年この時期になると、私は数日間の休暇を貰い、故郷で暮らすのが常だった。

 

(……私から言わないと、駄目ですよね)

 

 気を遣わせてしまっていることは明らかだ。きっとアレル様は、私の胸中を察しているのだろう。

 始まりがあれば、終わりがある。私がアレル様に仕えてから、もう七年が経つ。今年で二十二歳。故郷では家庭を築き、子を産んでいて然りの年齢だ。

 この七年間、満ち足りた日々だった。外の文化と概念を知り、沢山の人に恵まれ、何よりこの世界の広さに触れた。もう充分だろう。自由気侭な人生を謳歌するには長過ぎたぐらいだ。節目は私次第。こればっかりは、私から切り出さなくてはならない。

 何れにせよ、今はアレル様のために尽くそう。この世界を救い、希望の象徴となった今だからこそ、アレル様は多くを背負っている。その重荷を軽くするためなら、私はどんな苦労も厭わない。

 

「アレル様。今日のご予定を確認させて下さい」

「軍務会議なら欠席するよ。ナジミの搭の様子を見ておきたいんだ」

「ええ、ジル様から聞いています。今日の十時半に、船着き場で落ち合おうとのことでした」

「は?あの、え?ジルから?」

「今朝方お見えになり、言伝を預かりました」

 

 勇者という肩書は、広義で言えばアレル様の他に三人。アレル様は十六歳の誕生日を迎えたその日、後に聖戦士と称されることになる三人の仲間と共にこの国を発ち、魔王討伐を成し遂げた。

 アリアハン城の王宮戦士、ヴァン様。カザーフ出身の女武闘家、リーファ様。そしてアレル様と同日に生を受け、幼少の頃から付き合いの長い僧侶―――今では最も『理』に近いとされる大賢者、ジル様。私にとっては呪文の師であり、憧憬の女性でもある。

 

「変だな。会議を欠席するって話、まだ誰にもしていないはずだけど」

「『全部お見通しだからうだうだ言ってないで早く来なさい。遅刻したら燃やすわよ』」

「……おえ」

 

 言伝を告げると、アレル様の顔が青ざめていく。返事がない、驚き戸惑っているようだ。

 正直なところ、アレル様とジル様の関係を、私は未だに理解できていない。相思相愛なのは誰の目にも明らかなのに、互いに意識をして距離を取っているようにも見受けられる。ヴァン様とリーファ様の二人は、カザーフの地で円満な生活を営んでいるというのに。一方のルシア様は、完全に二人を夫婦扱いしているのだから、益々分からない。とりあえず、今は置いておくとしよう。

 

「ナジミの塔、と言いますと……例の噂、ですね」

「ああ。四件目となると、流石に無視できない」

 

 物騒な話ではない。けれど、私も気に掛かっていた。事の始まりは約一ヶ月前に遡る。

 アリアハンの西部、入り江の小島にそびえるナジミの塔は一般に開放されていて、アリアハン地方を高所から見渡せる観光地として知られている。小島へは定期的に船が出ているし、気軽に足を運ぶこともできる。

 そのナジミの塔で、不気味な声を聞いたという観光客の証言が一件目。二件目も同じ類で、続く三件目が一週間前。塔の管理人が、夜間に上層で奇妙な光を見たのだという。そして四件目が一昨日の晩だ。目撃証言は多数あり、塔の頂上の辺りが、やはり光に包まれたというのだ。

 

「念のために、昨日から立ち入りを禁止するよう言ってある。既に一度調査はされているけど、俺も一応見ておきたいんだ」

「そうでしたか。私はてっきり、会議を欠席するための建前かと」

「……それも、ジルが言っていたのか?」

「いえ、ただの感想です」

「あれだな。君はジルにも似てきた」

「本当ですか?ありがとうございます、光栄です」

「違う違う」

 

 現時刻はアレル様の遅い起床もあり、午前九時過ぎ。まだ幾何かの余裕はあるけれど、身支度を始めるとしよう。何せ今日はジル様直々に、『調査に同行してもいい』という許可を得ているのだから。

 

 

_______________________

 

 

 小島の船着き場に設けられた案内所には、観光客用に馬車が置かれており、馬を使って周辺の様子を調べながら塔へ向かう手筈となっていた。約束の時間の十分前、アレル様のルーラで船着き場に降り立つと、待ち構えていたかのように、腕を組んで立つジル様の姿があった。

 知性を表す銀色のサークレット。目が冴えるような青の長髪と同色のマントに、純白のドレス。表情はやや不機嫌そう。いや、相当に悪そうだ。

 

「よう。帰ってたんだな」

「……つい先日にね」

「ジル様、お待たせしてしまい申し訳ありません」

「いいのよヤヨイちゃん。手綱、お願いできるかしら」

 

 アレル様とジル様が荷台に乗り、私が手綱を握った。調査のために遠回りをしても、塔まで一時間と掛からない道のりだ。

 馬が駆け出して間もなく、後方から二人のやり取りが聞こえてくる。会話の内容は予想していた通り、ジル様の機嫌を大いに損ねた原因にあった。

 

「情報紙、読んだか?」

「『営利目的のルーラに課税』なんていう馬の肥やしにもなり得ないクソ法案のこと?」

「……読んだんだな」

 

 聖職者らしからぬ罵詈雑言はこの際仕方ない。それ程憤りを覚えているということだ。

 呪文という存在を、ジル様は誰よりも神聖視している。私にとっても当たり前のことだ。ジパングにも生まれながらに才を持つ人間はいたけれど、神より授かりし賜物として、術者ではなく呪文その物を敬っていた。

 

「呆れて物が言えないわ。呪文っていうのはね、皆が考えている以上に尊い物なの。それに税を課すですって?冗談じゃないわ。ルビス様に唾を吐くのと同じよ」

「落ち着けよ。まだ成立した訳じゃないし、現実的に考えて通りっこないさ。ポルトガの戯言だ」

「議題に上ること自体が問題だって言ってるの。近いうちに罰が当たるわよ、きっと」

「お前が言うと怖いからやめてくれ……」

 

 同じく。ジル様の口から語られると、現実味があるから恐ろしい。心なしか馬が怯えている気がする。 

 

「まあいいや。一応聞いておくけど、どうしてお前まで着いて来るんだよ。例の噂、そんなに気になるのか?」

 

 話の流れを変えたかったのだろう。アレル様の、そして私が抱いていた素朴な疑問が、ジル様に投じられた。少々の時間を要してから、ジル様は声色を変えて言った。

 

「私も見たのよ」

「え?」

「だから、ダーマ神殿で私も見たの。あれは多分、ガルナの塔の光だった」

 

 予想だにしない五つ目の証言。会話が途切れ、馬の蹄が鳴らす渇いた足音だけが、風と共に流れていく。

 塔。そして光。その二つが意味する物は。考えたところで、答えが見付かるはずもなかった。

 

 

_______________________

 

 

 塔の根元に着く頃には、太陽は真上に位置していた。馬車を停めて塔の正面に立つと、正門は施錠がされていた。立ち入り禁止なのだから当たり前かと思いきや、アレル様が「うわっ、鍵掛かってんだっけ」と呟きを漏らす。ジル様がアレル様の後ろ頭を小突いた後、その場はジル様の『アバカム』の呪文で事無きを得た。

 ナジミの塔には以前にも来たことがある。というより、この地上で名が知れた観光地には、アレル様のルーラで一通り足を運んだことがある。レイアムランドのど真ん中で凍えた直後、イシス地方の砂漠で肌を焼いたあの日を、私は生涯忘れないだろう。

 

「それで、昨晩アンタは何をしていた訳?」

 

 注意深く周囲を見渡しがら三人で歩を進めていると、ジル様が素っ気無く告げた。その一言で、不機嫌さの根底にあった、もう一つの存在に気付かされる。

 

「何って、ただ酒の席に誘われたから、応じただけだ。それがどうかしたのか?」

「兵団の中将と?何度も言ってるでしょ。アンタ自分の立場を分かってるの?」

 

 アレル様は、何処にも属していない。何事にも中立の立場を貫き、己の思うが儘の言動を選ぶ。政治や軍事に携わる機会はあれど、あくまでアリアハンで暮らす一人の人間として立ち振る舞っている。

 英雄としての影響力が強過ぎるからだ。アレル様の一挙手一投足に、誰もが注視している。右を向けば右に、左を向けば左を向く。事実として、アリアハンの国力は勇者という存在なくして語れない。それすらもが、アレル様に圧し掛かる重荷の一つに過ぎない。

 

「分かってるよ。俺は何者にもなるつもりはない」

「私はその言葉をどう捉えればいいのかしら」

「俺は俺ってことさ。別に深い意味はないって」

「だったら潰れるまで飲まされてんじゃないわよ」

「悪い。心配掛けたな」

「……バカ」

 

 けれど、私が思い悩む必要はない。ジル様という存在が、アレル様を支えてくれている。私にできることは、ジル様が苦手な料理を振る舞い、身の回りのお世話に尽力すればいい。

 いつのことだろう。以前にルシア様が、私はアレル様とジル様の妹のようだと言ってくれたことがある。前を行く二人を追い掛けることが、私にとっては誇らしく、嬉しくもある。私に兄妹はいないけれど、きっとこの温かみは、本物のそれだ。

 

 

_______________________

 

 

 少々入り組んだ内部を順調に上って行き、最上層へ。老朽化の影響で頂部は多少崩れ掛かっていて、保全のために補修された跡が所々に見られた。一昨日の晩の目撃証言によれば、光とやらはこの周辺から放たれたことになる。

 

「特に変わった様子はないな。ジル、どうだ?」

「そうね……多少空気が淀んでいるけど、別にって感じ」

 

 取り立てて気になる点は見当たらない。以前よりも草臥れた感はあるけれど、それが寧ろ居心地の良さを思わせた。

 上層ならではの風が頬を撫でて、汗ばんだ肌を乾かしていく。名所とされるだけあって、眼下に広がる光景も格別だ。浅い青色の入り江に広大な平野、峻厳な山々。やはり私は故郷を思わせる自然が好きだ。気分が高揚する。

 

 

 

 ―――私は、何者にもなれない。

 

 

 

「へっ?」

「うん?」

「え?」

 

 思わず素っ頓狂な声が漏れる。我に返ると、二人の怪訝そうな視線が私に向いていた。

 

「ヤヨイちゃん、どうかした?」

「何だ。何か気付いたのか?」

「いえ……その」

 

 空耳だろうか。声が聞こえた気がする。

 何者にもなれない。似たようなことを、先程アレル様の口から聞いた。でも若干の違いがある。それに、確かに聞こえた。淑やかで優しげな声が、そう言っていた。

 

「ま、待って。これはっ……何か、来る!」

 

 ジル様の警告と同時に、正面に光の粒が浮かんだ。粒は一気にその数を増していき、やがて一つの集合体となり―――眼前が、光に包まれる。眩しさのあまり、私は目を閉じて身を屈めた。

 

 

 

 どれぐらいそうしていただろう。光に当てられた目を擦り、恐る恐る瞼を開くと、私は知らぬ間にジル様の胸に抱かれていた。前方を見れば、背に携えていた剣を正面に向けるアレル様。光は跡形もなく消えていて、その代わりに―――床に横たわる、人の姿があった。

 

「……女性、か?」

「……女性、ね」

「……女性、ですね」

 

 三人の視線が交差をして、首が縦に振られた。

 見間違いではなく、錯覚や幻でもない。光が放たれた場所のすぐ傍に、人間の女性が仰向けの姿勢で眠っていた。

 

「コホン。その、なんだ。ち、近付くぞ?」

 

 誰に向けた言葉やら、アレル様は丁寧に前置いた後、そっと歩を進めた。私とジル様も、手を取り合いながらアレル様に続いた。

 たっぷりと時間を掛けて歩み寄り、アレル様の背後から様子を窺う。見紛うはずもなく、やはり女性だった。

 

「……ヤヨイと同じぐらいの歳かな。すごい美人さんだ」

「アンタ何言ってんのよ」

 

 場違いとも取れるアレル様の言葉に、しかし同意せざるを得ない。

 金色に輝く細髪は短く切り揃えられていて、猫のような小顔は幼さを感じさせるけれど、アレル様が言ったように恐らく同年代。服装はジル様と似通っている一方、レッドパープル色のマントが違った印象を抱かせた。

 他に気になる点と言えば、剣だろうか。女性の傍らには二本の剣が置かれており、柄には鳥のような装飾が施されていた。

 

「ねえ。それってもしかして、『隼の剣』?」

「ああ、多分な。この軽さはどちらも……こいつは、名前か?」

 

 アレル様の指が、剣の鞘の部分を差す。そこには文字が彫られていて、アレル様が指でなぞりながら文字列を読み上げていく。

 タバサ・エル・シ・グランバニア。アレル様の「名前だよな?」という問いに、ジル様が「名前でしょうね」と返答する。あまりに異様な事態を前に、互いに慎重な判断を下そうとしているのだろう。

 

「あ、あのー。一体、何が起きたんですか?」

「俺が聞きたいよ」

「私が聞きたいわよ」

「……ですよね」

 

 分かってはいたけれど、聞かずにはいられなかった。無理もないと思いたい。

 目の前が光に包まれた後、見知らぬ女性が眠っていた。それだけだ。見事に前後半の現象が繋がらない。まさか昼寝の最中にバシルーラで飛ばされてきたとか、ルーラの直後に居眠りを始めたとか、いやいや落ち着こう。冷静になろうとして、冷静さを欠いている気がする。

 

「参ったな。こいつはどうしっ……ああもう。ジル、気付いてるか?」

「当たり前でしょう。ヤヨイちゃん、こっちに来て」

「え、え?」

 

 ジル様に手を引かれて、強引に背後へと立たされる。何事かと思い、何もない方向に歩き始めたアレル様の背中を見て、戦慄が走る。血の気が引いた。

 先程とは正反対だった。漆黒の闇が、前方に広がっていた。まるでそこだけに夜が訪れたかのように、黒に染まった空間があった。息を飲んで見守っていると、やがて闇の中から、何かが姿を顕し始める。

 

「魔物の殺意なんて久しぶりだ。しかもこいつは、相当に厄介だな」

 

 筋骨隆々とした四肢。紫色の禍々しいたてがみ。青白く生気が感じられない肌。口部から滴る液体。この地上から消え去ったはずの脅威。

 足が竦んだ。馬と形容するには邪悪過ぎる存在が、何の前触れもなく顕れ、仁王立ちをしていた。

 

「オオオオォォオオッッ!!!!」

 

 雄叫びが耳の奥に刺さり、この付近一帯に横溢する空気を震わせ、足元が揺れる。頼りない古びた塔が崩れ落ちてしまいそうで、私はジル様の腰に縋り付き、恐怖に身を震わせていた。

 

「マホカンタ」

「え?」

「ヤヨイちゃん。口を開けて耳を塞いで。安心して、すぐに終わるわ」

 

 言われるがままに耳を塞いだ途端。両手越しに、轟音が辺りに鳴り響く。

 

(―――!?)

 

 瞼の裏に、光の点滅が刻まれた。脳裏に過ぎったのは雷雨。音と光が頂点に達し、落雷の直後に放たれる鳴動が、塔の内部で幾度も反響を繰り返すかのように余韻を残していき、徐々に収まりを見せ始める。

 

「ふう。もう大丈夫よ」

「……?」

 

 先ず感じたのは、焦げ臭さ。ジル様の優しい声に促され、前方を見やると、そこには真っ黒な何かがあった。アレル様はそれを見下ろしながら、首を傾げて言った。

 

「手加減したつもりはないんだけどな。即死を免れたみたいだ。平和のせいで腕が鈍ったか?」

「きっと無意識のうちに抑えたのよ。流石に観光の名所を壊す訳にはいかないしね」

 

 ああ。どうして忘れていたのだろう。この二人はかつてあの魔王バラモスを、そして人知れず大魔王との死闘に臨んだ、勇ましき聖戦士だというのに。不謹慎ではあるけれど、黒焦げにされ虫の息となった魔物に憐みさえ覚える。

 

「それで、俺達はどう受け止めればいいんだ?人間の女性が現れたと思いきや、ボストロール級の魔物だぞ。賢者様の個人的見解を聞きたいところだな」

「うっさいわね。私だって何が何や……ら……」

 

 尻すぼみになっていくジル様の声。食い入るように見開かれた眼の先には、上半身を起こした女性。

 静寂が時が止めた。アレル様はやれやれといった仕草のまま立ち尽くし、ジル様も頭を抱えた状態で目をぱちぱちとしている。起き上がった女性はきょとんとした表情を浮かべて、私は両者の間に挟まれていた。

 さてどうしたものか。とりあえず、挨拶ぐらいはしておこう。

 

「お、おはよう―――」

 

 一陣の風と共に、女性の姿が消える。

 

「―――ございます。って、あら?」

 

 からんからんと音を立てて、床に置かれた二本の鞘。鞘の中身と女性は何処へ消えた。ぐるりと見回すと、アレル様とジル様の向こう側。女性は剣をそれぞれ逆手に構えながら、ひどく取り乱した様子で口を開いた。

 

「だ、誰!?貴方達はっ……あれ?わ、わたし……え、あれ、ええ!?なな、ちょ、ふぁ!?」

 

 私達の比ではなかった。女性は狼狽えながら後ずさっていき、やがてその踵が真っ黒な魔物の成れの果てにぶつかる。

 

「……ジャミ?」

「「じゃみ?」」

 

 三人の声が重なり、訳の分からなさが最高潮に達した。私達とタバサさんの出会いは、そうして始まった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

迷い猫

 

「待ってくれ。こちらに敵意はない。その魔物とやり合っていただけなんだ」

 

 膠着状態に陥り掛けた頃、初めに口火を切ったのはアレル様だった。アレル様は手にしていた剣を腰の鞘に収め、身構えていたジル様を制止するような素振りを見せる。するとジル様もアレル様に倣い、両手を上げて溜め息を付く。

 

「ヤヨイちゃん。それ」

「あ、はい」

 

 ジル様の視線に頷きで返し、足元に置かれていた二振りの鞘を拾い上げる。金属とは程遠い軽さに戸惑いを覚えつつ、そっと歩を進めると、女性は剣を逆手に構えたまま、警戒心露わな目で私を見詰めていた。

 どうか斬り捨てられませんように。内心怯えながら、努めて平静に振る舞う。

 

「どうぞ。とても素敵な剣ですね」

「……あ、ありがとう」

 

 ややあってから、差し出した鞘が受け取られる。すると女性は二本の剣と鞘をそれぞれ器用に操り、カシャンと小さな音が鳴った。その流れるような手付きを見ただけで、相当な手練れであることが窺えた。

 胸中で感嘆の声を上げていると、アレル様が一歩前に進み、未だ警戒を解いていない様子の女性に声を掛ける。

 

「よし。まずは自己紹介といこうか。俺はアレル。こっちがジルで、彼女がヤヨイだ」

「あ……え、と。タバサ、です。タバサといいます」

 

 鞘に刻まれていた文字列を思い起こす。タバサ・エル・シ・グランバニア。当たりを付けていた通り、あれは持ち主である女性の名を示した物だったようだ。

 互いに名乗り合った後、タバサさんの視線が後方の亡骸―――アレル様により身を焼かれ、微動だにしなくなった魔物の成れの果てへと向いた。食い入るようにまじまじと見詰め、大仰に首を傾げながら再度口を開く。

 

「あの……ご、ごめんなさい。こ、ここは一体……わ、私には、何がなんだか」

「分からないってところかしら。安心して、私達も同じよ」

 

 まるで説明のしようがない中で、恐らく四人の中で唯一の繋がり。今し方この場で何が起きたのかが、分からない。

 不思議と冷静でいられるのは、混乱のあまり表情が目まぐるしく変わっていくタバサさんのおかげだろう。その狼狽振りは私達の比ではなく、居た堪れない。外見は同年代のはずが、まるで迷子の少女のようだ。きっと当たらずとも遠からずに違いない。

 

「あー、そうだな。とりあえず、先にやりたいことがある。詳しい話は後回しでも構わないか?」

「はあ」

「こちらとしても緊急事態と言っていい状況でね。この場の対応を優先したい」

 

 緊急事態。一体何事かと考え掛けたのは一瞬だった。アレル様の声色が、事態の深刻さを抱かせた。

 唐突に降り立った脅威は去れど、この大陸でも有数の観光地として名を馳せるナジミの塔に、邪悪な魔物が前触れなく顕れたのだ。何もなかったはずの、無の空間から。

 あまりに恐ろしいその事実が、何を意味しているのか。そして―――この女性は、一体誰なのだろう。

 

 

_______________________

 

 

「「トヘロス」」

 

 二重に展開した聖なる結界が、塔を囲むように描かれたジル様特製の印によって増幅され、塔全体を覆っていく。ジル様曰く、並大抵の魔物なら触れることすらままならない障壁が、一週間以上も持続するらしい。目にはぼんやりとしか映らずとも、魔物にとっては近付くだけで命取り。まずは一安心といったところだろうか。

 

「城へ行って事情を説明してくる。周辺はすぐに兵士達で固めた方がいいな」

「ダーマ神殿にも一報を入れておきなさい。私が見たガルナの塔の光も、何か関係があるのかもしれないわ」

「了解……ジル。彼女のこと、任せてもいいか?」

 

 アレル様が声を潜めて言った。ちらと後方を見ると、タバサさんはやや離れた位置で、周囲を見渡しながら一人佇んでいた。

 状況が状況なだけに、無関係とは思えない。魔物と同じくして姿を見せたあの女性が、今回の件に関わっている可能性は大いにあり得る。慎重に事へ当たる必要があるだろう。私を含め、意見は合致しているようだ。

 

「ヤヨイもジルの手助けをしてやってくれ。君の『力』が、きっと役に立つはずだ」

「はい。アレル様もお気を付けて」

 

 今後の予定を確認し合った後、アレル様は先んじてルーラの呪文でアリアハン城へと飛び立つ。するとジル様が振り返り、ゆっくりと歩を進めていく。私も後に続いてタバサさんの下へ近寄り、ジル様の第一声を見守った。

 

「さてと。何から話せばいいのやら……とりあえず、剣は抜かないで貰えると助かるわ」

「それは、ごめんなさい。気が動転してしまって。もう、大丈夫です」

「まあ無理もないわね。まずはお互いに話をする必要があると思うけど、こちらからで構わないかしら?」

 

 タバサさんが首を縦に振り、ジル様が掻い摘んで語り始める。

 と言っても、話せることは限られていた。私達はアリアハンの住民で、ここ最近に街で流布する妙な噂の真相を確かめるべく、このナジミの塔を訪ねた。そして行き着いた先で、タバサさんが光の中から顕れた。直後に魔物も。事実を並べるだけなら、左程時間も掛からなかった。

 

「急に貴女が姿を見せたことに、私達も戸惑っているのよ。ここまではいい?」

「私が……は、はい。大丈夫です」

「そう。なら次は、貴女の話を聞かせて貰える?」

 

 返事はなかった。タバサさんは一度振り返り、結界に覆われたナジミの塔を一瞥した後、険しい表情のまま告げた。

 

「私は、グランバニア王国の人間です。目が覚めたら―――」

「待って」

「え?」

「ぐら……グラン、バニア?」

 

 会話が途切れ、ジル様の頭上に疑問符が浮かんだ。するとジル様から問い掛けるような視線を向けられ、私は首を振って応えた。

 聞くまでもないだろうに。世界各地を点々とするジル様に覚えのない国名を、私が知っている訳がない。以前の私はアリアハンすら知らなかったのだ。

 

「グランバニア……ごめんなさい、聞いたことがないわ」

 

 グランバニア王国。確かに聞いたことがない。各大陸の主要国なら、アレル様と共に一通り訪ねたことがあるけれど、その中にグランバニアという名の国はなかったはずだ。つい最近になって設立された国なのだろうか。

 考えを巡らせていると、ジル様がやれやれといった様子で言った。

 

「立ち話もなんだし、私達も一旦アリアハンへ戻りましょ。折角だから、冷たい物でも奢るわ」

 

 ジル様の提案に、無自覚だった空腹がやって来る。言われてみれば昼を過ぎているし、食事時ではある。

 タバサさんは物憂げな表情を浮かべながら、アリアハンの方角をぼんやりと見詰めていた。彼女が私達と同様、アリアハンの名を今日初めて耳にした事実を知ったのは、それからすぐのことだった。

 

 

_______________________

 

 

 ジル様のルーラで街中に飛び、向かった先は酒場『ルイーダ』。五代目の店主であるルイーダさんの名を看板にした酒場は、昼時は食事処として繁盛をするのが常だ。

 ジル様を先頭に店内へと入り、空いていたテーブル席に座ると、男性店員の一人がトレーを抱えながら注文を取りに来る。

 

「日替わりのフルーツを三つ。それと、最新の地図を貸して貰える?」

「地図?大陸のですか?」

「ううん、世界地図。陸土と国名が全て載っている物があったわよね」

 

 ジル様の妙な注文を訝しみつつ、店員がカウンターの奥へと戻っていく。書き入れ時を過ぎた店内に客の姿は少なく、私達を含め数人しか見当たらない。ルイーダさんは厨房で調理中、或いは休憩に入っているのだろう。

 

「タバサ。もう一度、話を聞かせて貰えるかしら」

「……はい」

 

 テーブルを挟んで向き合い、改めてタバサさんの話に耳を傾ける。

 グランバニアは東の大陸に位置する、山脈に囲まれた王国。タバサさんはそのグランバニア出身で、長年に渡り故郷で暮らしていたのだという。

 ナジミの塔で目覚める前の記憶は鮮明に残っていた。昨日の夜更け過ぎ、普段と変わらずにベッドに入り就寝し、目が覚めると―――眼前には、私達がいた。それ以上でも以下でもなく、本当にただそれだけ。前後にまるで繋がりがない、青天の霹靂とでも言うべき事態だった。

 

「混乱するのも当たり前ってわけね。心中お察しするわ」

「妙な話ですね……ジル様、一体どういうことなのでしょう」

「そうね。一応、似たような前例がなくもないわよ」

「「えっ」」

 

 私とタバサさんの声が重なる。思いも寄らない返答に驚く私達に対し、ジル様は淡々と二つの実例を並べた。

 一つ目は、とある商人が見舞われた悲劇。商売品を馬車で運んでいる道中、不運にも魔物の群れに遭遇する。馬を走らせて逃げ惑うも、鬼面導士のメダパニで正気を奪われ、挙句の果てにバシルーラの呪文で強制的に遠地へと飛ばされてしまった。混乱から覚めた頃には、見知らぬ土地で立ち尽くしていたらしい。

 二つ目も似たようなケースだった。取引先から仕入れた装飾品の中に、強力な呪いを掛けられた巻物が紛れていた。呪いにより真面な判断が付かなくなった商人は、港に泊まっていた船に忍び込み、密航という形で海を越え、知らぬ間に遠い地で保護されたのだという。

 いずれにも共通しているのは、正気を失っている間に遠地へと渡ってしまったという点だった。数奇が重なれば、あり得ない話ではない。

 

「タバサさん。何か心当たりはありますか?」

「そう言われても……それらしい物は、ないとしか」

「んー。確かに、毒気や呪いの類は微塵も感じないわね」

 

 物は試しと言わんばかりに、ジル様が眼前で印を組む。呪文の発動を待たず、可能性は却下となった。ジル様のシャナクやキアリーに引っ掛からないのなら、タバサさんは正常だと言っていいだろう。そもそもの話が、彼女は塔の頂上で放たれた光の中から顕れたのだから、少なくとも通常の移動手段やバシルーラとは異なる何かが関わっていると考えた方がいい。

 ともあれ。何かしらがタバサさんの身に起き、この地にやって来てしまったことだけは確かなようだ。

 

「原因は気になるけど、優先すべきはグランバニアに帰ることね。その認識であっているかしら」

「それは、はい。きっと家族も心配していると思いますから」

「そう。でも貴女、ルーラが使えるはずよね?」

 

 目をぱちぱちとさせるタバサさん。ジル様が言うのだからそうなのだろう―――と、当たり前に受け取ることができるのは、この人を深く知る人間に限られる。光栄なことに、私もその一人だ。

 世界の理を識り、全能に最も近いと称される大賢者による指摘に対し、タバサさんは怪訝そうな面持ちで首を縦に振った。

 

「確かに、ルーラの呪文なら……あの、どうして分かるんですか?」

「その話はまた今度。問題なのは、何故『使えないのか』ということね。貴女さっき、何度か試していたでしょう?」

「……はい」

 

 いつの間に。段々と私も話に付いていけなくなっている。少し落ち着こう。

 

「えーと。タバサさん、どういうことですか?」

「私にも、よく分からないんです。グランバニア以外にも、何度か試してはみたんですが……呪文自体に問題があるというより、記憶に靄が掛かるみたいに、何処も駄目で」

「目的地との繋がりが上手くいっていないようね」

 

 成程。ルーラの呪文なら、原因は私にも理解できる。

 ルーラを正しく発動させる際に求められるのは、使い手と行き先の繋がり。自身の手で目的の地に刻んだ印はそれをより強固な物にするし、魔鉱石や呪文具の類も同様の効力がある。

 そして何より『記憶』が重要だ。生まれ故郷のように馴染みが深い地なら、最もルーラを成功させ易い。タバサさんにとっては、グランバニアが当て嵌まるはずなのに―――どうやら事はそう簡単に運ばないらしい。

 

「こんなこと、初めてです。何度も使ってきた呪文なのに」

「まあまあ落ち着いて。これ、冷えていて美味しいわよ」

 

 困惑するタバサさんをジル様が宥めていると、テーブルに三枚の皿が置かれた。盛られていたのはアッサラーム地方で有名なフルーツ。食べ易いよう一口サイズにカットされていて、見るからに冷えている。女性に人気の日替わりメニューの一つだ。

 

「こちらが地図になります」

「ありがとう。助かるわ」

 

 同時に注文の品である一枚の地図が、ジル様の手に渡った。旅人や商人が使う実用的な物ではなく、各大陸全土を見下ろすことができる世界地図。皿をテーブルの隅に引いて、ジル様が中央に広げた。

 

「グランバニア王国というのは、どの辺りにあるんですか?」

「えーと……少し待って下さい」

 

 タバサさんが地図と睨めっこを始める。一方のジル様はフルーツを堪能しながら、私の肩をとんとんと叩いて問い掛けてくる。話の内容は、私も考えていたことだった。

 

「ねえヤヨイ。キメラの翼、最近見た?」

「いいえ。粗悪品を時折見掛けるだけですね」

 

 ルーラの魔力を秘める、老衰したキメラからのみ採取される翼の羽根。魔物の数自体が減少の一途を辿る昨今、入手は困難と言っていい。稀に出回っている紛い物は狩猟された個体の翼であることがほとんどで、決まって質が悪い。バシルーラを自分に使うようなものだ。

 

「お城に相談してみますか?緊急用の物が残っているかもしれません」

「女王様に個人的なお願いをするのは、ちょっと……タバサ?」

 

 ジル様の声に、はっとする。地図を凝視していたタバサさんの顔色が、一層濁っていた。私達の視線に気付いたタバサさんは、表情をそのままに言った。

 

「あの……もっと広い地図は、ありませんか」

 

 身を乗り出して、地図を覗き込む。北方と南方で一部、見切れている部分は確かにある。けれどそれはグリンラッドとレイアムランド地方程度で、人間が暮らせるであろう陸地は全て地図に載っているはずだ。

 

「充分に広い地図だと思いますよ。グランバニア、載っていないんですか?」

「いえ、その。この地図は、いつの物ですか?」

「はい?」

「グランバニアどころか、テルパドールやポートセルミに、ラインハットもっ……こんな地図、見たことがありません。大陸の形も全然違います。何か、変です」

「待って、タバサ」

 

 聞き慣れない単語の数々が並んだ直後、取り乱し始めたタバサさんをジル様が制止し、その視線が私へと向いた。込められていた意図は、すぐに理解できた。

 

(……どういうこと?)

 

 彼女は『嘘』を付いていない。今し方の発言には、一つも嘘が含まれていない。タバサさんは真剣に、この地図はおかしいと感じている。目を見れば、私には分かってしまう。

 頷きで返すと、ジル様が冷静な声で言った。

 

「この地図は国が発行した正式な物よ。国印もある。主要各国で共有している最新の世界地図なの。間違いがあるはずがないわ」

「で、でも」

 

 何かを言い掛けて、タバサさんは声を飲み込むように口を噤んだ。すると店内を見回してから椅子を引いて立ち上がり、声を張った。

 

「すみません。グランバニアという国をご存知の方は、いませんか?東の大陸にある、チゾット山脈に囲まれた城塞都市の、グランバニアです」

 

 少しの静寂が訪れた後、ぽつぽつと声が上がる。しかしどれもが似たり寄ったりで、「城塞都市って、エジンベアのことか?」「山脈に囲まれてんならサマンオサだろ」といったような呟きが店内に流れていく。少なくとも、タバサさんが求めているであろう返答は見付からなかった。

 

「……失礼しました」

 

 居た堪れない空気の中、肩を落とした様子のタバサさんが再度席に着くと―――チャリン、という小さな音が耳に入る。金属同士が鳴らす音。出処はタバサさんの腰の辺り。見れば、紐で縛られた小振りの布袋があった。財布だろうか。

 同時に、奇妙な点に気付く。タバサさんの身に何が起きたかは定かではないけれど、これは少し不自然だ。

 

「あのー。お話を伺った限りでは、ご自宅で就寝された後に何かが起きたようですが、そのお姿でベッドに入られたのですか?」

「え……あっ」

 

 すぐに私が言わんとしていることを察してくれたようで、タバサさんが自身の出で立ちを改めて確認していく。

 寝間着ではないだろう。どう見ても余所行きの服装だし、テーブルに置かれた財布と思しき袋には硬貨が入っていた。自宅で剣と共に眠りへ付いたとも思えない。

 これはどう受け取るべきか。就寝前後の記憶が曖昧なのか、それとも。判断に迷っていると、ジル様がテーブル上の財布を指差して言った。

 

「それ、見てもいい?」

「これを……はい。でもこれ、ただの財布ですよ?」

 

 了承を得てから、ジル様が財布の中から一枚の硬貨を取り出す。

 まるで意図が掴めないジル様の行動を訝しんでいると、ジル様は硬貨の表裏を真剣な面持ちで見詰め、それを私へと差し出してくる。

 

「見てみなさい」

 

 言われるがままに受け取り、親指と人差し指で硬貨を縦に持ち、まじまじと見入る。五百ゴールド銀貨―――と思われたそれは、よく似た『何か』だった。

 

「……何ですか、これ」

 

 銀貨の周囲には『Glanvania』の綴りが円状に三つ並んでいて、中央に立派な王冠が刻まれていた。黒ずんだ汚れや細かな傷から判断して、かなりの年季物だ。王冠の下の数字は造られた年号かもしれないけれど、それもおかしな話だ。各国特有の元号はあれど、貨幣には『精霊歴』を使用するという大前提がある。

 

「な、何ですかって。もしかして、初めて見たんですか?」

「初めて、と言いますか。勿論銀貨は身近な物ではありますけれど……これは、初めてです」

「待って下さい。分かりません。五百ゴールドですよね?」

「それはこっち」

 

 返答に困っていると、ジル様の横槍が入る。右手にはジル様の路銀と思しき銀貨が置かれていた。ジル様が受け取るよう促し、タバサさんが二枚の銀貨をそれぞれ見比べ始める。

 

「気を付けなさい。この国では『偽造』した時点で罪になるの」

「……それも、よく分かりません。何を言いたいんですか」

「使おうとしたら、もっと重い罪になるわよ」

「っ……そんなはず、ない」

 

 駄目だ。考えるよりも前に、身体が動いていた。財布を片手に店員の下へ向かおうとしたタバサさんの腕を取り、足を止める。振り払われそうになり、容赦なく力を込めて踏ん張りを効かせると、明確な怒気を孕んだ声を向けられた。

 

「放して下さい」

「気を悪くされたのなら謝ります。ですがジル様のお話は本当です。ここ最近貨幣の偽造が問題視されていて、新たな法の影響で取り締まりも強化されているんです」

「これが偽物だって言いたいのっ?」

 

 一室に響き渡る叫び。途端に店内がしんと静まり、複数の視線が集まる。

 このままでは埒が明かない。私は先程手渡された銀貨を手に、タバサさんに代わってカウンター越しに立った。男性店員に無言で差し出すと、数秒後に首が横に振られた。

 

「……ですよね」

 

 当たり前の反応を受け取り、振り返る。唖然として立ち尽くすタバサさんは、感情を隠し切れていなかった。そのどれもが本物であると、私には理解できてしまう。

 彼女は今、心底傷付いている。祖国の誇りに傷を付けられたかのような、衝撃と動揺。重苦しく陰鬱な空気を身に纏ったタバサさんに、躊躇いつつも声を掛ける。

 

「これ、お返しします」

 

 銀貨を掌に乗せたタバサさんは、視線を落としたまま力なく呟いた。

 

「お手洗いに、行ってきます」

「それならあちらに。ご案内します」

「大丈夫です。一人で、いけます」

 

 この場から逃げるように、しかし重い足取りで店の奥へと進んでいく。そのまま消え去ってしまいそうな小さい背中を見送り、周囲に「お騒がせしました」と頭を下げてから、席へと戻る。

 

「ジル様、どうしてあんな言い方をされたのですか。怒って当然です」

「敢えてそうしたのよ。彼女、本気だったでしょう?」

「それは……はい。確かに」

 

 憎まれ役を買って出たようだ。結果としてタバサさんは、怒りを剥き出しにして食い付いた。しかしこれでは益々分からない。

 貨幣の発行を認められた国は数えるぐらいしかない。グランバニアという国で、銀貨が製造されているなんて話は聞いたことがない。店員の反応は然りなのだ。

 

「現時点では私にもさっぱりよ。正直に言ってお手上げだわ。まるでアレルガルドに迷い込んだ地上人ね」

 

 対面のジル様は腕を組みながら、テーブルに置かれた銀貨を見詰めていた。

 タバサさんが何者で、何処から来て何が起きたのか。分からないことだらけの状況の中、私が考える頼りの綱はジル様しか見当たらない。そのジル様が匙を投げてしまっている。それ程に異様な―――アレフ、ガルド?

 

「アレフガルドっ……じ、ジル様。もしかして、タバサさんはアレフガルドの!?」

「それはないわね」

 

 唐突に降り立った閃き。と思いきや、間を置かずに否定を示される。思わず身を乗り出して立ち上がったせいで、椅子を背後に倒してしまっていた。今日は嫌な視線ばかり集めているような気がする。

 地下世界アレフガルド。公にはされていない、この地上とは全く異なる別世界。その存在を知る者はアレル様やジル様をはじめ、主要各国の一部に限られている。私も話でしか聞いたことがない。

 

「私達も身に覚えはあるのよ。見知らぬ世界で一ゴールドすら使えない……初めは苦労させられたわ」

「なら、タバサさんも同じなのでは?共通点も多いですし」

「グランバニアなんて王国はなかったの。さっき彼女が口にしていたのは国や街の名前だろうけど、どれも聞いたことがない。それに……」

「それに?」

「ううん、何でもない。とにかく、このまま彼女を放っておく訳にもいかないわね」

 

 何かを誤魔化された感が否めないけれど、言わずもがなだ。

 一連の出来事の真因を探る必要はあっても、考えるべきことは他にもある。既に午後の十五時を回る頃だし、あまり時間も残されていない。

 

 

_______________________

 

 

「改めまして。ヤヨイ・クシナダと申します。今年で二十二になります」

 

 ルイーダの店先で慇懃に挨拶し、頭を上げてタバサさんと向かい合う。やはり顔色が優れない。返事に困っている様子も窺えたので、思い当たる節について触れた。

 

「変な名前ですよね。故郷が辺境の島国なので、このアリアハンでも珍しいとよく言われますよ」

「いえ、そうじゃなくって……グランバニアの、タバサです。二十二なら、私と同い年ですね」

 

 差し出された右手をそっと握り、握手を交わす。未だ警戒心のような物を感じるのは無理もない。それだけ異様な立場にあるということだ。

 

「同い年なら、そう畏まらないで下さい。敬称も結構です」

「……それなら、貴女もそうして貰えると助かるわ」

「あー。それは、難しいですね」

「え?」

「幼少の頃から、そうしてきたといいますか、育ちといいますか。これでも頑張っている方なのですが……ううん」

「フフ、別に無理にとは言わないわよ。その感じ、何となく分かるわ」

 

 説明するには長話になってしまうし、今この場で私の身の上を語っても仕方ない。

 ともあれ、ぎこちない笑みではあったけれど、タバサさんの表情が少しばかり緩んでくれた。今思えば、これが初の笑顔かもしれない。この女性にはこちらの方がよく似合っている。

 

「タバサさん。原因はどうあれ、貴女が見知らぬ地に来てしまったことに変わりはありません。私達にできることがあれば、仰って下さい。力添えは惜しみませんよ」

「そ、そんな。ご馳走になった上に、これ以上お世話になる訳には」

「いえいえ。こうして出会えたのも何かの縁ですから」

 

 ナジミの塔に顕れた魔物の件を含め、アレル様にはやるべきことがある。ジル様も各地の書庫を回り、真相究明と解決の糸口を探すと言っていた。私にもできることはある。取り急ぎタバサさんに必要な物は、安らぎだ。

 

「まずは私のお部屋に行きましょうか」

「えっ」

「と言っても、アレル様のご自宅にある離れです。狭いですが、使用人の身には余るぐらいですよ。今晩は是非泊まっていって下さい」

「え、で、でも」

 

 無一文では早々に野宿をする羽目になってしまう。そろそろ夕飯の支度も始めなければならないし、今日のところは早めに戻り、身体を休めた方がいいだろう。

 

「気が引けるようでしたら、そうですね。お代は頂きます」

「……グランバニアの貨幣しかないわよ?」

「フフ、充分です。さあ、行きましょう」

 

 私は遠慮をするタバサさんの手を引いて、街中を歩き始めた。同い年の同性と手を繋ぎながら歩くのは、初めての体験だった。

 

 

_______________________

 

 

 アレル様邸の敷地内には、こじんまりとした来客用の離れがある。恐れ多くも、普段は私が使っている一室だ。英雄には不釣り合いな母家と同じく、決して大きくはないけれど、寝泊りをするには充分に広い。ベッドも二つあるから事足りるはずだ。

 

「今冷たい物を出しますから、休んでいて下さい」

 

 きょろきょろと室内を見回すタバサさん。反応から察するに、部屋に入って感じた温度の低さを不思議に思っているのだろう。

 

「ねえヤヨイ。すごく涼しいけど、氷でも置いてるの?」 

「半分正解ですね。氷河魔人の欠片のおかげです」

「ひ、氷河魔人?」

 

 キメラの翼と同様で、息絶えた氷河魔人の氷粒には不思議な効力がある。溶けるまでに要する時間が途方もなく長いのだ。とりわけこの時期は足が早い食材の保管に役立ってくれる。保管庫に置いておくだけで一石二鳥。アレル様が発見したというとっておきだ。

 よく冷えた水をコップに注いでいると、タバサさんの関心は別の所へ向いていた。大きめの本棚に収めていた、私の宝物だった。

 

「すごい本の数……これ、全部ヤヨイの本?」

「借り物もありますが、大体はそうですね。さっきも言いましたけれど、故郷が閉鎖的な島国だったので、学ぶことが沢山あったんです」

 

 全体の二割は娯楽目的の物語小説等々。残りは全て教養を身に付けるための物だ。使用人としての給金を貯めて、少しずつ数を増やしていき、七年間。今では棚を自作しなければならない程の量になっている。また整理をしないと後々面倒そうだ。

 

「読んでもいい?」

 

 興味津々なタバサさんが、一冊の本を手に取る。史学に関する少々厚めの文献を、ぱらぱらと捲っていく。

 

「それは最近購入した物ですね。文面が硬くて面白みは……タバサさん?」

 

 凍り付いたように、タバサさんの動きが止まっていた。

 それからタバサさんは、一心不乱に文献の文章をなぞり続けた。夕食後に、身体を拭いている間も。声を掛けることすら憚れて、私は見守ることしかできなかった。

 

 

_______________________

 

 

「んん……」

 

 微睡から覚めて、目元を擦る。部屋はまだ薄暗いけれど、光があった。ゆっくりと半身を起こすと、鮮明になっていく視界に、小さな背中が映る。

 まだ起きていたのか。物音を立てないようベッドから出ると、私の様子に気付いたタバサさんは、ひどく申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 

「ごめん、起こしちゃった?」

「いえ、自然と。寝付きが悪い体質なんです」

 

 見え透いた嘘を並べてから、壁の時計を見やる。日付が変わり、午前一時。こんな時間に目が冴えるのはいつ以来だろう。

 上着を羽織り、タバサさんの向かい側に座る。アレル様は今晩城で過ごすとジル様から伝え聞いているから、朝は遅くてもいい。たまには深夜の静寂を楽しむのも悪くはない。

 

「眠れませんか?」

「……まあね」

 

 タバサさんは多くを語ろうとしない。けれど、テーブルに積まれた本の冊数を見れば、大体は察してしまう。そのほとんどが史学や地学に関する文献だった。

 

「先に謝っておくわ。正直に言うと、ずっと疑ってたし、まだ信じられない。ヤヨイ達の言葉に、あの地図も、この本も全部間違いだって思ってる」

「私も似たようなものですよ。タバサさんが何者なのか、まるで見当が付きません」

 

 お互いにくすくすと笑い声を漏らす。タバサさんの笑みには、自棄や悲観が込められていた。それでも今は、笑った方がいいに違いない。吐き出せば、気が楽になってくれる。

 

「本当に、不思議ですね」

 

 どんな感覚なのだろう。知らない歴史に、知らない大陸。知らない世界。容易に一晩を共にすることができるというのに、決定的な違いがそこやかしこから溢れ出てくる。想像を働かせることすら叶わない。私がアレフガルドに降り立ったら、同じような立場になるのだろうか。

 

「でも、少しは眠らないと。身体に障りますよ」

「……うん」

「或いは、一杯やりますか?」

「うん?」

 

 果実酒が入った戸棚の方を指差し、酒盛りを持ち掛ける。とても得策とは言えないけれど、ラリホーの呪文に頼るよりかは余程健康的だろう。以前に福引の景品として当ててから置きっ放しになっていたし、ある意味ちょうどいい機会だ。

 

「それは、流石に……。でも、まあいっか。やっぱり頂くわ」

「ではすぐに準備しますね」

 

 躊躇いを見せながらも、タバサさんは私の誘いに応じてくれた。

 戸棚から瓶を取り出し、比較的綺麗なコップと一緒にテーブルへ並べる。酒一本では胃に障るので、軒先に吊るしていた干し肉を数切れ小皿に盛り付ける。ルイーダで出されるような料理と比べれば質素極まりないけれど、まあよしとしよう。

 果実酒を注いだコップ同士を鳴らして、一口含む。景品に出されるだけあって、質の良い芳醇な香りが広がっていく。久方振りの味を堪能した後、私は何とはなしに話題を振った。

 

「ふう。タバサさん、ご結婚は?」

「まだ。相手が見付からないの」

「タバサさんなら引く手数多だと思いますが」

「そんなことないわよ。ヤヨイは?良い人はいないの?」

「曲がりなりにも仕える身なので、今はそういった感情を控えています」

 

 私なりに考えての縛りの一つだ。使用人として仕える上で、色恋は業務の支障にしかならない。と、言えば聞こえはいいけれど、タバサさんと同じく相手がいないというのが正直なところではある。

 

「ふーん。ヤヨイって、兄妹はいるの?」

「一人っ子です。タバサさんは……待って下さい、当てて見せます」

「五、四、三、二―――」

「お姉様か、お兄様?」

「ん、まあ正解かな。双子の兄がいるわ。レックスっていうの」

 

 早々にタバサさんのコップが空になったので、二杯目を注いだ。タバサさんは椅子の背もたれに背中を預け、窓がある方角に視線を向けた。月明かりとランプの灯に照らされた横顔には、微笑みが浮かんでいた。

 

「ねえ。変な話をしてもいい?」

「どうぞ。何でも聞きますよ」

「レックスはね、天空の勇者って呼ばれていたわ」

 

 干し肉を取ろうと伸ばしていた手が、皿の上で止まった。

 天空の勇者。神聖さと偉大さを思わせる肩書き。私はアレル様を連想しながら、話の続きに耳を傾けた。

 

「こう見えて、剣の腕には自信があるのよ。でもレックスには一度も勝ったことがないの。何度も手合せしたけど、一本も取れなくって。全然ダメ」

 

 双子と言っても、男女の差があるのだから仕方ない。そう口にするのは躊躇われた。理由は分からないけれど、遠い何かを見据えるようなタバサさんの目が、漠然とそうさせた。

 

「タバサさんは、お兄様に勝ちたいのですか?」

「どうだろ。初めはそうだったのかもしれないけど、最近はよく分からないかな」

「……上手くいっていないという訳ではないようですね」

「あはは。兄妹仲はいい方だと思うわよ」

 

 一方で、不思議と距離が埋まっているような感覚があった。酔いの影響か、赤の他人だからこそ気楽に明かせるのか。恐らくタバサさんは今、本音に近い部分を露わにしている。それならこちらも、同じ物で返すのが礼儀だろう。

 

「私も、変な話をしても構いませんか」

「何?」

「私って、他人の嘘が分かるんです」

「え……ね、ねえ。それ、どういう意味?」

「そのままの意味ですよ。私には、分かるんです」

 

 明確な自覚を持ったのは、確か十歳の頃だ。生来の感覚ではなく、ある一時を境にして、私の目と耳は言葉の裏側を覗くことができるようになった。

 勿論、万能という訳ではない。意識していないと判断を下せないし、対象は主体的な嘘に限られる。それに、あまり気持ちのいいものではない。時に必要な嘘があることは理解しているけれど、意図に反して他者の内面を盗み見てしまうことだってある。

 

「ともあれ、タバサさんはとても誠実な方です」

「私が?」

「私達と出会ってから、貴女は一度も嘘を言っていませんから」

「私は……そんなことない。余裕がなかっただけよ」

 

 タバサさんは小声で答えると、テーブルに置いた両腕に顔を埋めるような姿勢を取った。と言うより、突っ伏してしまった。これは嫌な予感がする。

 

「あの、タバサさん。もしかして、お酒に弱い方でしたか?」

「んん……そんなに飲んだことないけど、多分」

 

 一杯半でかなり酔いが回っていたようだ。もう遅い時間だし、心身共に疲弊し切っている影響もあるのかもしれない。気分が悪くなる前に、眠りに付いた方がいいだろう。

 

「この辺でお開きにしましょう。片しておきますから、ベッドに入って下さい」

「うん……そうさせて貰うわ」

「ちなみに明日の朝は―――え?」

 

 不意に、耳が反応した。小さな嘘。今し方の何処かに、嘘がある。

 意表を突かれ、思わず振り返ると、頬を赤らめたタバサさんが立っていた。

 

「ラリホー」

 

 

_______________________

 

 

 断続的な浅い眠り。金縛りと息苦しさ。夢と現実を行ったり来たりの繰り返し。

 

「うぅ……ん、はぁ。んん?」

 

 はっと目を覚まして、まず呼吸が乱れていることに気付く。衣服が湿っているのは、全身に浮かんだ汗のせい。飛び起きると、額から粒になった汗が頬に流れていく。 

 頭が重くて、思考が鈍い。口内に気持ち悪さを感じ、水を飲もうとベッドから立ち上がる。テーブルに置いていた水差しに手を伸ばすと、傍らに一枚の紙切れが映った。

 

「あっ……」

 

 段々と昨晩の記憶が蘇っていく。起床の気怠さは酒のせいではなく、呪文による強制睡眠。紙切れには、達者な字で短い文面が綴られていた。

 

『ありがとう。それに、ごめんなさい。初めに出会えたのがヤヨイ達で、本当に良かった』

 

 テーブル上には紙切れの他に、数枚の銀貨が置かれていた。私は一枚一枚を手に取り、その金額を合計した後、再度ベッドへと寝転がった。

 

「……多過ぎますよ、タバサさん」

 

 一晩の宿代が三千ゴールド。釣り銭を返そうにも、その相手が見当たらなかった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

光を求めて

 

 ―――起床。瞼を開けると同時に、全身から一気に冷や汗が浮かんだ。

 窓から差し込む陽の光が多過ぎる。慣れ親しんだ朝とは異なる空気。恐る恐る半身を起こすと、時計の針が『寝坊』の二文字を報せてくれた。

 

「ああ!?」

 

___________________

 

 

 大急ぎで身支度を整えて、母家へと走る。玄関を開けると、案の定アレル様はリビングで情報紙を片手に、紅茶を啜っていた。どう見たって、食後の一服だった。

 

「おはよう、ヤヨイ」

「も、申し訳ございませんアレル様。食事の用意もせずに……あの、誠に、誠に申し訳ございません」

「いいってそんな。ぐっすり眠ってるみたいだったから、俺も敢えて起こさなかったんだ」

 

 勿論、今回が初の寝坊という訳じゃない。何度か覚えはあるけれど、少なくとも直近は一年以上も前のことだ。しかも二時間以上の寝過ごし。最悪な記録を塗り替えてしまっていた。

 

「そういう時もあるさ。寧ろヤヨイはもっと気を抜いてもいいぐらいだと思うけどな。使用人って言ったって、働き過ぎだよ」

「そう言われましても……はあ」

 

 ともあれ後悔しても仕方ない。失態を犯したその分、普段よりも働いて返せばいい。

 気を取り直してテーブル上の食器を片していると、今度はアレル様が溜め息を付いて、肩を落とし始める。

 

「アレル様、今日のご予定は?」

「月一の剣術指南役だよ。帰りは遅くなると思う」

「ああ、通りで」

 

 すぐに合点がいった。アレル様の凛とした顔に憂いが浮かぶ原因は、大まかに二つ。パートナーであるジル様から無理難題を吹っ掛けられたか、或いは気乗りのしない職務を任された時。今は後者だ。

 アレル様としては、アリアハン国軍への剣術指導に前向きではある。一方で魔物の脅威が激減した昨今、専ら『対人』を想定した術技が重視されているらしい。得手不得手という話ではなく、アレル様が気後れするもの無理はない。

 

「あっ」

 

 ―――パリン。

 失態その二。利き手から落下したガラスのコップが一つ、砕け散る。尖った音が響き渡って、言葉を忘れた。

 

「……えー。その」

 

 私は何をしているのだろう。早朝から泣きたくなってくる。というか既に視界が滲んでいた。

 身体を強張らせて立ち尽くす私に先んじて、アレル様は身を屈めてガラスの破片を拾い集めながら、やれやれといった様子で告げた。

 

「やっぱり、休んだ方がいいみたいだな」

「いえ、違うんです。疲れているとか、そういった訳では」

「違うなら、尚更だよ」

 

 言い淀んでいると、アレル様の真っ直ぐな瞳が、私の中を覗き込んでくる。

 不快感のない見透かし。滅多にない寝坊と食器の破損を仕出かした時点で、隠しごとどころの話じゃない。

 

「今年はまだ、故郷に帰ってもいなかっただろ。気持ちは分かるけどさ……タバサの件は、ヤヨイが気に病むことじゃない」

 

 あれから。唐突な出会いと別れの一夜から、今日で二ヶ月間が経つ。

 常日頃意識をしている訳じゃない。けれどあの部屋で寝床へ入る度に、どうしたって思い起こしてしまう。

 彼女は今、何処で何をしているのだろう。

 微塵も覚えのない異世界で、生き永らえているのだろうか。

 

「……眠れないんです。眠ろうとすると、思い出してしまって」

 

 考え出すと目が冴えて、眠りに付こうとすることそれ自体に、罪悪感が伴う。まるで私が見放したかのように、胸の奥底へと突き刺さる。微睡みとの境界を彷徨っている間に、どれだけ長い夜でも終わりを告げて、太陽が昇る。その繰り返し。

 慢性的な寝不足は苦痛じゃない。罪滅ぼしにもならないことは理解しているけれど、帰郷を躊躇っているのも、結局は同じことなのだろう。私には、最近の私が分からない。

 

「だからまあ、好きにすればいいさ。ヤヨイの気が済むまで、長期休暇にしよう」

「はい?」

「暫くは母さんと実家で過ごすよ。たまには親孝行もしておかないとね」

 

 重い瞼を擦っていると、アレル様は私の肩をぽんと叩いた後、踵を返して玄関口に向かった。

 完全な置いてけぼり。確かに今年はまだ休暇を貰っていなかったけれど、あまりに唐突過ぎる。思わず呼び止めようとするやいなや、アレル様は振り返って言った。

 

「それともう一つ。ジルから伝言だ。今後一切、『呪文』は好きに使っていいってさ」

「え……あ、あの」

 

 バタン。アレル様の背中が消えて、静寂が訪れる。室内に残された私は、アレル様が集めてくれたガラスの破片を一瞥して、右手の掌を見詰めていた。

 

「ジル様……。アレル様」

 

 呪文。一度は闇に包まれたこの世界を再び光で照らした、賢者様が授けてくれた力。その行使はほとんどが禁じられ、必要最低限しか許されていなかった。

 でも今なら。私にできることはある。たった一夜の付き合いと言えど、本物だった。掛け替えのない時間を取り戻すことが、できるはずだ。

 

___________________

 

 

 不死鳥の月、初旬。

 真冬の峠を越えて、山々が雪を被った季節に、ジパングと呼ばれる小国の東部、大集落を訪ねる女性の姿があった。

 

「止まれ。何者だ」

 

 入口の警備に当たっていた兵士は、長槍を女性―――タバサ・エル・シ・グランバニアに向けた。

 タバサの出で立ちはあまりに際立っていた。金色の短髪は乱れていて、異国民のそれと一目で分かる。衣服は小汚く随所が解れており、長旅の真っ只中を思わせる。浮浪者と捉えられても無理もない様相は、とりわけジパングという島国では、受け入れ難い姿だった。

 

「怪しい者ではありません。女王様に、お目通りを願います」

「ふざけたことを。大方貴様も、下らん流言を聞き及んだ口だろう」

 

 兵士が指した噂は、主要各国に広まりつつある、不可思議な術技に関する物だった。

 曰く、ジパングを統べる女王は、手を使わずに大岩を動かす。

 曰く、他者の感情を読み取る。

 曰く、天候を操り雨を降らすことができる。

 曰く―――未来を、見通す。

 

「ガイジンを通す訳にはいかん。即刻立ち去れ」

「待って下さい。違うんです。私はただ、見て頂きたいだけで」

「帰れと言っている!」

「お願い、します。私はっ……!」

 

 タバサにとって、女王は最後の希望。藁をも縋る思いで海を渡り、ジパングに流れ着いていた。

 喪うことの苦しみを、彼女は知っていた。物心が付いた頃には、既に喪っていたからだ。

 両親を求め、幼少から剣を握り、双子の兄と死に物狂いで世界中を回った。一生物の傷をその身に刻みながら戦い、戦って取り戻し、守り抜いた大切な光。その全てが、消えてしまった。

 

「お願い。もう、いやよ」

 

 唐突に落とされたこの世界に、家族はいない。どころか、彼女を知り、名を呼ぶ人間すら存在しない。着の身着のまま路銀もなく、生きることさえ儘ならない、何も知らない世界で、たったの一人。心が、限界を迎えていた。

 嘆きが呻きとなって、叫び吐いてしまいたくなる。

 分からない。分からない。もう、考えたくない。

 

「もう、いや。誰か、誰でもいいから。私は、わたし、は―――」

「探しましたよ。タバサさん」

 

 刹那。あるはずのない声。いないはずの人間。誰かが、名を呼んだ。

 そっと振り向いた先には、朗らかな笑みが浮かんでいた。

 

「こんな所にいたんですね。食事はきちんと取れていますか?ぼろぼろじゃないですか」

「……ヤヨイ、なの?」

「はい。私です」

 

 目を疑う光景に、しかし別の違和へと気が向いてしまう。ヤヨイの左腕には添え木が当てられ、布で固定されていた。

 あまりに痛々しい負傷。タバサは懸命に嗚咽を抑えて、両手で口元を覆いながら聞いた。

 

「その腕……なに?」

「ルーラの呪文、実は苦手なんです。連日何度も唱えていたら、着地に失敗しまして。一週間ぐらい前に、骨を折ってしまいました」

「そ、そんな。どうして」

「ルーラなしでは、時間が掛かり過ぎますから」

 

 ヤヨイの魔力というより、ルーラという呪文その物に付き纏う危険性の問題だった。高等な瞬間移動呪文であるルーラは、一歩間違えば即死。余程の使い手でない限り、発動した時点で最期を迎えてしまう。

 アリアハンを発って以降、ヤヨイは幾度もルーラを使っていた。骨折で免れたのは、寧ろ幸いと言える。その全てが―――タバサの行方を求めるため。

 

「わた、わたしの、せいで」

「いいんです。こうしてまた会えましたから。ついでに帰郷まで……一石二鳥です」

「う……うぅ、う」

「タバサさん。ご無事で、何よりです」

 

 止め処なく溢れ出る大粒で、タバサは両頬を濡らした。一方のヤヨイは、優しげな色を浮かべてタバサを受け止めた後、傍らで呆けていた兵士に、小声で言った。

 

「クシナダヤヨイ、ただいま戻りました。『ナズナ様』にそうお伝え下さい」

 

___________________

 

 

 集落の大通りを歩きながら、タバサはこの二ヶ月間半の旅路について、ヤヨイに語り聞かせた。

 故郷を求めてタバサが渡り歩いたのは、西大陸の一部。北レーベから海を越えて、ロマリア、カザーブ、アッサラーム、バハラタ、ムオル、そしてジパング。食い扶持は教会の炊き出しが主で、それも街を離れればあり付けない。行き当たりばったりの流れ旅だった。

 

「随分と無茶をしていたんですね。少し痩せましたか?」

「疲れてるだけだと思うけど……ねえヤヨイ。一つ、聞いてもいいかしら」

「何ですか?」

「すごく、見られてる気がする。すごーく」

 

 二人に降り注ぐ数多の視線。奇怪な生物を恐々として見るかの如く、住民の誰もが近付こうとしない。寧ろ逃げるように二人から遠ざかっていく。妙な挙動の根底にあったのは、所謂国民性。ジパング人特有の気質にあった。 

 

「私も外に出て初めて認識しましたが、このジパングで暮らす住民は、他国に対して非常に閉鎖的なんです。近年は国交が盛んになってきましたけど、今でも住民の大半は、あんな感じです。他の集落も同様ですね」

「そ、そうなの。でも何だか、ヤヨイも変な目で見られてない?」

「もう七年間もアリアハン暮らしですから。私も少々奇異な存在となってしまいました」

「平然と言っちゃうのね……」

 

 同じ集落で暮らしていたはずのヤヨイに対してですら、この有り様。その排他性は言うまでもなかった。

 とは言え勿論、例外は存在する。少なからず変化の兆しはあり、それが他国との僅かな繋がりを生み始めていた。

 

「それに親しい友人や家族は、帰りを喜んでくれますよ。後ほど実家にご案内しますね」

「あ、ありがとう」

「話を戻しましょう。あれがナズナ様の宮殿です」

 

 連続鳥居の入り口付近で、ヤヨイが足を止めた。タバサはその先に佇む厳かな建屋に、自然と目が釘付けとなる。

 知らない世界と言っても、共通点の方が圧倒的に多い。生活様式や習わしを含め、細かな差異に目を瞑れば、不自由のない生活を送ることだって可能ではある。そんな中でも、ジパングはとりわけ特異な存在で、眼前の宮殿も神々しさで満ち溢れていた。

 

「では、行きましょうか」

「ま、待って。こんな恰好で謁見は、流石に失礼よ」

「心配は要りません。ナズナ様はお優しい方ですから、私なんかとも気兼ねなく接して下さいます」

「……もしかしてヤヨイって、そういう身分の人だった?」

「あはは、一介の農民ですよ。でも、そうですね。私とナズナ様の関係は、話すと少々ややこしいんです」

 

 ヤヨイの思わせ振りな物言いに、タバサの頭上へ疑問符が浮かんだ。

 ヤヨイは一考してから、タバサにも理解し易いよう、取っ掛かりとなるであろう人物の名を口にした。

 

「タバサさんは各地を転々とする中で、『オルテガ様』のお名前を耳にはしませんでしたか?」

「オルテガ……ええ、何回かは。『この世界』の大まかな史実は、頭に入ってるわ」

 

 かつてこの地上に蔓延っていた悪魔達。その頂点に君臨していた魔王。平穏が訪れた今も尚、勇ましき親子の名は、世界中で語り継がれている。タバサの知るところでもあった。 

 

「タバサさんもご存知の通りです。オルテガ様は魔王バラモスを討伐せんと、たったの一人でアリアハンを旅立ちました」

「その約一年後に、魔王城の目前で……ネクロゴンド、だったかしら。その火口で、強大な魔物と対峙した末に、亡くなった、のよね」

「そう言われていますね。今の話、少し妙だとは思いませんか?」

「え?」

「だってオルテガ様は、単身で旅立たれたのですよ。誰がオルテガ様のご勇姿を見届けたんですか?」

「……あ、そっか。そうよね。でも、誰が?」

 

 誰しもが行き着く当たり前の疑問。一般的には、オルテガに仕えていたアリアハンの従者が報せたとされていた。

 しかし実際は異なる。一部の者のみが知る、公にはされていない真実。ヤヨイも、その一人だった。

 

「実のところ、オルテガ様はこのジパングで、一人の女性と出会います。それが後の先代、ヒミコ様……当代の姉君に当たるお人でした。ヒミコ様はネクロゴンドに至るまでの間、影ながらオルテガ様を支えていたんです」

「えええ?」

 

 それがどれほどの驚愕に値するのか。タバサは推し量りながら、再度首を傾げてしまう。

 そもそも一体何故、オルテガとヒミコの名が上がったのか。自分はヤヨイとジパング女王の関係について、尋ねただけだというのに。

 

「えーと。今の話って、ヤヨイと女王様にどう繋がるの?」

「まだお話の途中ですよ。続きは後にして、そろそろ向かいましょう」

 

 ヤヨイの声に、タバサは改めて自身の身嗜みを確認した。

 

「う、うーん」

 

 仮にも一国の―――グランバニア王女という立場柄、この恰好は流石に。タバサは頭を痛めつつ、ヤヨイの背中を追った。

 

___________________

 

 

 木と漆の香りが漂う宮殿内。謁見の間。

 タバサはヤヨイの隣で、藁椅子に座るジパング女王ナズナの繊手を見詰めていた。

 

「おかえりなさい、ヤヨイ。頭を上げて下さい」

「はい」

 

 色白の肌よりも更に白い、純白の見栄えた着物。真逆の黒髪は腰元まで届き、化粧気はない。あまりに特異な外見にも関わらず、不思議と目が離せない。吸い込まれてしまいそうな、白と黒。

 

「そちらの女性は?」

「アリアハンで知り合った、私の友人です」

「まあ……こんなことは初めてですね。嬉しく思います」

「お初にお目に掛かかれて光栄です。タバサと申します」

「ようこそジパングへ。ジパング女王、ナズナです。以後よしなに、タバサ」

 

 閉鎖的な島国の主とあれば、身構えてしまって然り。しかし集落の住民とはほど遠い、ナズナの慈しみとその笑顔に、自然とタバサの表情が緩んでいく。

 何時だって孤独だった。文字通りの別世界で過ごした二ヶ月半は、何かを憎まずにはいられなかった。理不尽さばかりだったけれど。恐らく自分は、間違っていたのだろう。

 

「あら、ヤヨイ。その腕はどうしたのですか?」

「不得手の呪文で、少々ありまして」

「……ヤヨイ、こちらへ」

 

 ナズナの声で、ヤヨイはゆっくりと歩を進めた。ヤヨイが膝を付いて身を屈めると、ナズナの両手が光を帯び始める。固定された左腕を撫でるように、指先が白光の軌跡を描いて、光が生まれては消えていく。

 タバサが二人の様子を見守っていると、やがて変化が訪れる。ぴくりと左腕が反応して、動きが増す。段々と力が込められていき、骨が折れていたはずの腕は、まるで何事もなかったかのように、生気を振りまいていた。

 

「ふう。具合はどうですか?」

「もう痛みもありません。ありがとうございます」

「え……え?」

 

 信じ難い現象を前に、タバサは口をぱくぱくとさせて、ヤヨイの左腕に見入っていた。

 回復呪文とも異なる、自然の理に反した奇跡。正に奇跡と称するに相応しい光だった。

 

「今のは、ベホマ?」

「違いますよ、タバサさん。神仙術と呼ばれる、この国の限られた人間が操る術技の一つです」

「しんせんじゅつ?」

「私はてっきり、タバサさんもナズナ様のお力がお目当てだと考えていたのですが」

「あ……」

 

 図星を突かれて視線を落としたタバサは、居た堪れないといった様子で一歩、後ずさった。

 贔屓目に言っても半信半疑。漂う中で誇張された、中身のない噂だとばかり考えていた。それでもタバサは、願わずにはいられなかった。窮地に立たされた故の逃避の末に、この国を訪ねていた。

 真実を見通す眼。未来を予見する力。

 もしかしたら、知っているのかもしれない。いや、このヒトなら、きっと。

 

「何やら込み入った事情があるようですね」

「私からお話します、ナズナ様」

 

 タバサに代わって、ヤヨイがナズナへ経緯を明かした。タバサが見舞われた一連の現象。ナジミの塔での邂逅。二ヶ月半に及んだ揺蕩い。

 ヤヨイが語り終えると、ナズナは瞼を閉じたまま、深い悲しみの色を眉間に浮かべて口を開いた。

 

「そんなことが……。大変な物を、背負ってしまったようですね」

「……ナズナ様?」

「大丈夫。少しだけ、私と目を合わせて頂けますか?」

 

 タバサは小首を傾げつつ、藁椅子から立ち上がったナズナと顔を見合わせて、真っ直ぐに正面を見据えた。

 目を合わせてと言われても、ナズナの瞼は落とされたまま。かと思いきや、ヤヨイの左腕を癒した光と同じ色の輝きが、瞼の裏から溢れ出す。見えないから見えるという矛盾が、タバサの瞳を捉えて離さない。

 ほどなくして、ナズナは口尻を上げた。しかしその穏やかな表情の裏には、寂しげな影が落ちていた。

 

「概ね、理解しました。確かに貴女は、この地上とは異なる別の世界から迷い込んでしまった」

「っ……で、では私は、どうすればよいのですか?」

「ごめんなさい。私にも、そこまでは。私はただ、貴女という存在を認識したに過ぎません」

 

 ナズナの言葉に、重い沈黙が漂い始める。極度の疲労と底なしの落胆。足元から世界が崩れていく感覚に陥り、タバサは立ち眩みをするように、力なく身体を揺らした。それを抱き留めたは―――ヤヨイだった。

 

「ですがその出会いを、どうか大切になさって下さい。この世界は決して貴女を拒みません。勿論、私も」

 

 ナズナの声掛けを体現するかのように、ヤヨイは両腕に力を込めて、抱き包んだ。感情を押し隠さずに、全てを露わにして、叫ぶようにそっと囁く。

 

「もう二度と、黙っていなくならないで下さいね。タバサさん」

「……うん」

 

 いるはずのない人間が、それでもこの世界に存在するのだと、ヤヨイは誰かに示したかった。

 今し方生まれ落ちた赤子のように、タバサは誰かに声を届けようとしていた。

 様々な感情と願いをない交ぜにして、二人は声を上げた。きっと誰かが聴いていると、頑なに信じて。

 

 

 

 

 

 ややあって。

 タバサが落ち着きを見せ始めた頃。ヤヨイとナズナは長年親しんだ友人のように、よしなしごとで話に花を咲かせていた。

 

「ヤヨイも元気そうで何よりです。アレル様にも、お変わりはありませんか?」

「はい。ジル様とも相変わらずです」

「フフ。ヤヨイの見立てでは、アレル様は今頃ジル様を娶っていたはずでしたが?」

「……外界には、私の理解を超えた男女仲が存在するようです」

 

 その場凌ぎの言い逃れに、ナズナは品の良い笑みを浮かべて、頭上を仰いだ。

 

「ヤヨイがアレル様に見定められた時、私は運命のような物を、感じずにはいられませんでした」

 

 不意に、タバサの脳裏に一つの繋がりが浮かんだ。

 アリアハンとジパング。過去と今。ヤヨイとアレル。そして―――ヒミコとオルテガ。

 タバサが黙考していると、ナズナはその先回りをして、タバサに告げた。

 

「オルテガ様への同行は、姉様……先代の意志によるものでした。この地上を覆っていた闇を祓い、光を取り戻すべく、影ながらオルテガ様を支えたいと」

 

 勿論、契機は複数あった。

 ヒミコは真の平穏を求め、勇ましき者に願いを託して。魔王の根城に繋がるネクロゴンド活火山の脈動は、神仙術なくして治まらない。

 一方のオルテガも、大蛇の洞窟で深手を負い、ムオルの村で療養の日々を送る中で、良くも悪くも己の力に限界を感じていた。

 

「ですがお二人の邂逅は、悲劇的な終末を迎えてしまった。先代も心を蝕まれ、ヤマタノオロチという悪夢へと変貌して……。だからこそ私は、ヤヨイに光を見い出したのです」

「ナズナ様。私は、なにも」

「それにこの国も、変わるべき時期にあると考えています。私はアレル様とヤヨイの関係が、ジパングと諸外国の友好の象徴になると、そう信じていますよ。ヤヨイ」

「……光栄です」

 

 何度目か分からない息苦しさ。ヤヨイはひた隠しにして、平静を装った。

 勇者に仕え、日々尽くすことに誇りを抱く自分。目が眩むような大役を背負わされたような気がして、気後れをする自分。一体どちらが、本物なのだろう。答えはまだ、見付かりそうにない。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

勇者のいかずち

第1章、最終話です。


 

 ジパング。アリアハン地方は比較的寒暖差が穏やかな一方、この国は四季がはっきりとしている。不死鳥の月中旬の今は、真冬の峠を越えた頃。段々と春が近付いてきてはいるけれど、朝は吐息が真っ白に変わる。私はこれぐらいの季節が好きだ。

  

「おはよ、ヤヨイ」

「ん。おはようございます、タバサさん」

 

 薪を抱えて朝空を仰いでいると、実家の建屋からタバサさんが顔を覗かせた。寝ぼけ眼を擦っている辺り、今し方起床したのだろう。若干の疲労感が窺えるけれど、表情は晴れやかだった。

 

「よく眠れましたか?」

「ええ。ここ最近じゃ、一番熟睡できたかも」

「……それは意外です」

 

 海を渡ってきた異国人にとって、ジパングの衣食住は大抵『時代遅れ』として映る。ふかふかの綿布団なんて物が存在するはずもなく、藁や稲で編まれた『ござ』に拒否感を示す者が大多数を占める。刀鍜治のような例外はあれど、ほとんどは他国に比べて後進的と言っていい。

 

「まあ、野宿とかは慣れっこだしね。こう見えて、小さい頃は色々と苦労をしてきたのよ」

「そうでしたか。アレル様とジル様は、まるで逆の見解でしたが」

「あら、そうなの?」

「『家名が刻まれた隼の剣』なんて高貴な代物は、お二人も見たことがないと言っていました。しかも二刀流」

「……あ、そう。と、とりあえず私の話はまた今度に」

 

 ぎこちない身振りで話題を変えようとするタバサさん。目に見えて動揺し始めた理由は、一先ず置いておくとしよう。誰にだって触れて欲しくない物はある。それは私だって―――同じだ。

 

「さてと。私に手伝えることはある?お父さんはまだ眠ってるみたいだし、お世話になった分、何だってするわよ」

「そう言われましても……あっ。でしたら、私と一緒に『火』を採りに行きましょうか」

「火?火って……ああ、そういえば昨日、話していたわね」

 

 冬の季節に置いて、この集落で『火』が意味するところは、熱を帯びた小石。寿命を迎えた『溶岩魔人』の欠片は、長期に渡り熱を発し続ける。冬に採取しても春先まで使える、貴重な暖なのだ。この習わしに目を付け、氷河魔人の欠片に同様の有用性を見い出したのが、アレル様。食材の足を緩めてくれる氷石は使い勝手が大変良く、私もその恩恵に与っていた。

 

「魔王バラモスが討たれて以降、火は容易に採取できるようになりました。私達二人でも、何の問題もないかと。寧ろタバサさんにも来て頂けると、私も心強いです」

「勿論構わないわよ。それで、何処へ行けばいいの?」

「少し遠いので、ルーラを使います。お父様が起きるまでには、戻って来れると思います」

「……ルーラ?」

「だ、大丈夫ですよ。遠いと言ってもすぐそこなので、失敗はしません。故郷ですし」

 

 思わず左腕を隠してしまった。ナズナ様の治癒術で完治はしたものの、着地の直後に響いた骨折音が未だ耳に残っている。ルーラに付き纏う危険性は常々頭の片隅に留めておこう。

 とはいえ、目的地は集落からそう離れてはいない。長年暮らしていた故郷で失敗の可能性は皆無と言っていい。そう何度も説明しても、タバサさんの笑みはぎこちなかった。

 

___________________

 

 

 手早く身支度を整えてから、ひとっ飛び。目的地付近へ無事着地した私達は、開けた平地にぽっかりと空いた大穴の、数メートル手前に立っていた。

 

「あれが、そう?」

「はい。かつてヤマタノオロチが巣食っていた、大蛇の洞窟です」

 

 魔王バラモスが健在だった頃は、溶岩魔人をはじめ多数の魔物が蔓延る、正に魔窟だった。しかし今となってはそのほとんどが鳴りを潜め、魔物による被害も過去の物。寧ろ熊や狼といった獣の方が怖いぐらいだ。

 周囲を見渡しながら洞窟に向かい、入口の手前で立ち止まる。火の採取には松明が必需品だけれど、私には『これ』がある。

 

「レミーラ」

 

 呪文の詠唱。広大な洞窟通路が、レミーラの光で照らされていく。私が先導して再び歩き出すと、タバサさんは意外そうな表情で言った。

 

「ヤヨイって、色々な呪文が使えたのね」

「一部の系統なら、中級まで修めています。でも私の場合、師に恵まれているだけの話です。元々ジパングの民の気質には、合っていないようですね」

 

 使い手はゼロじゃない。先天的な才がある者は過去にもいたけれど、よくてメラ系統やギラ系統。回復呪文や補助呪文は勿論、中級以上の呪文を修めたのは、恐らく私が初だろう。それだけ師であるジル様の存在が偉大だということだ。

 

「なら、神仙術は?女王様以外に、神仙術を使える人はいるの?」

「それは……今はもう、ほとんどいません。ナズナ様の血縁に限られています。みんな、亡くなりました」

「え……?」

 

 無意識のうちに、声色に感情が混ざり込んでしまう。私は努めて平静に、歩みを止めずに告げた。

 

「この洞窟には、生贄の祭壇と呼ばれる一角があります。ヤマタノオロチの支配下で、多くの女性が犠牲となりました」

 

 アレル様と聖戦士によってヤマタノオロチが討たれ、魔王バラモスの脅威が去った今も尚、傷は癒えていない。このジパングが見舞われた惨劇は、数多の犠牲者を生んで、私達は絶望という名の暗闇に、叩き落されてしまった。

 

「九年前のことです。オルテガ様がお亡くなりになり、ジパングに戻られたヒミコ様は、やがて正式な女王の座に即位されました。それが、全ての始まりでした」

 

 ヒミコ様の心は、その頃には既に蝕まれていた。心身をヤマタノオロチに乗っ取られたヒミコ様は、圧政の限りを尽くした挙句―――人身御供。ヤマタノオロチを鎮めるという名目の下、うら若き乙女を、次々とこの洞窟に送り込んだ。

 どういう訳か、神仙術の使い手は真っ先に槍玉となった。元々神仙術の才は女性にのみ発現することから、集落の女性の数は減少の一途を辿り始めた。直に見境が付かなくなり、集落中の女が狩り出されていき、最後に残された若年層は、私と『カヨ様』。カヨ様は私を護るために、進んでその身を。

 

「気付いていたかもしれませんが、同年代の同性は、あの集落に存在しません。集落の存続と繁栄が難しいぐらい、歪んでいるんです」

「……そうだったの」

「だから、タバサさん。今後も仲良くして頂けると、嬉しいです」

「え?」

 

 正直な話、アリアハンにおける私への風当たりは手厳しい。世界中から羨望を集める英雄に、異国から流れ着いた田舎者が仕えているのだから、無理もない話だ。とりわけ同性からは拒絶されることが多い。

 どうせ色香を使って、アレル様に取り入ったのだろう。

 アレル様の優しさに付け込んで、あの女は。

 夜伽の役目なら、私にだって。

 そんな根も葉もない噂を耳にしたのも、一度や二度じゃない。

 

「割り切ってはいますが、長年続いてしまうと、流石に。恥ずかしい話……同い年の友人は、貴女しか、いないから」

「……フフ。案外、寂しがり屋なのね、ヤヨイって」

 

 私が差し出した右手を―――タバサさんは、両手で包んでくれた。その温もりが心地良くて胸が弾み、不覚にも目頭が熱くなる。こんな風に充たされた感情は、いつ以来だろう。

 大切にしたいと思える。いずれは元いた世界に去ってしまうのだとしても、この温かさと笑顔だけは、本物なのだから。

 

「―――!?」

 

 心からの笑みで応えようとした、その時。洞窟内部が突如として、揺れた。

 同時に地下深くから噴き上げてくる殺気。一気に周囲の温度が上昇すると共に、その熱源が巨腕を地面から突き出して、半身が露わになる。ぎょろりとした真っ赤な瞳が、私達に向いていた。

 

「そ、そんな。こんな場所で……!?」

 

 唐突に現れた溶岩魔人。想定外の事態に見舞われ、思わず腰が抜けてしまい、尻餅をついていた。

 おかしい。溶岩魔人の縄張りは、大蛇の洞窟の奥部。洞窟の入口付近に魔物が現れるなんて、魔王が息絶えた八年前から一度もなかったというのに。

 

「オオォォォッッ!!!」

「ひっ!?」

 

 いや―――それよりも。この異常な殺気の方が妙だ。魔物のほとんどは温厚になったはずなのに。まるで以前の魔物と同じか、それ以上。

 身を焦がされるような眼光に射抜かれて、呼吸が儘ならない。頭上に掲げられた右腕は赤々と燃え盛り、今にも振り落ろさんとばかりに、揺れ動いていた。

 

「ヤヨイ、じっとしてて」

「た、タバサ、さん?」

「大丈夫だから。多分、いけると思う」

 

 地べたで身動きが取れないでいると、間に割って入るように、タバサさんが一歩前に出る。タバサさんは腰に携えた剣を抜こうともせず、両腕を大きく広げて、何かを言った。

 

「―――!」

 

 『音』のない声が、辺りに響き渡った。頭の中に直接言葉が入ってくるかの如く、タバサさんの意思が、耳鳴りと共に流れ込んでくる。力強く、それでいて優しげで、抱き留めるような声。

 

(なに、これ?)

 

 呆然として見守っていると、当てられていた殺気が揺らいだ。魔人の焔が収まりを見せ始め、半身が洞窟へと同化していき、巨腕が沈んでいく。

 やがてその場に転がっていたのは、魔人を成していた欠片。目当ての小さな火だけが、通路の中央に残されていた。タバサさんは何ごともなかったように、振り返って言った。

 

「ふう。敵意がないことを話したら、分かってくれたみたいね」

「ま、待って下さい。タバサさんって……『魔物使い』、だったんですか?」

「私がというより、父がそうだったの。色々なことを教えてくれたわ」

 

 存在自体は知っていた。動物の調教と同じで、獰猛な魔物を従えて、己の意のままに操る。中でも鳥獣族の魔物は最も扱いが容易く、街中で見掛ける機会だってある。動物よりも灰汁が強い分、一度手懐けさえすれば、その有用性は言うまでもない。

 しかし相手はあの溶岩魔人だ。温厚になったとはいえ、一角ウサギや大アリクイとは訳が違う。今し方目の前で起きた一連が、今でも信じられない。

 

「よ、溶岩魔人が自分から欠片を差し出すなんて。聞いたことが、ありませんよ」

「まだ子供だったからじゃないかしら。あの子、素直な良い子よ。私は好きかな」

「……ぅゎ」

「ねえちょっと。どうして離れるの。引き過ぎでしょう。なによその顔は」

 

 おっといけない。知らぬ間に数歩後ずさっていた。少し落ち着こう。

 それに、腑に落ちない点は残っている。タバサさんの手腕は別として、溶岩魔人が異様に殺気立っていた事実に変わりはない。ここ数年は魔物の方が逃げ隠れをするぐらいだったのに、あれはどう説明すればいいのだろう。

 

「多分、だけど。あの子、何かに怯えていたみたい」

「怯えていた?」

「ええ。だから気が立っていたんだと思う」

 

 怯えていた。溶岩魔人ほどの魔物が、何に対して。

 考えようとするやいなや、再び地面が揺れた。

 

(地震―――?)

 

 先ほどの震動とは異なる地響き。巨大な何かが地下深くから這い出てくるかのような威圧感。膨れ上がっていく脅威。私はタバサさんと視線を合わせて、お互いに首を縦に振った。

 

「「リレミト!」」

 

 すぐさま瞬間移動呪文を唱えて、視界が暗転する。ふわりとした浮遊感と共に瞼を開くと、ルーラで降り立った着地点に戻っていた。

 同時に背後から叩き付けられた巨大な殺気。溶岩魔人のそれとは比較にならない重圧。振り返った先には―――耳をつんざくような咆哮を轟かす、巨体があった。

 

「や、ヤヨイ。あれって、ヒドラ!?」

「なんて大きい……大きいにも、ほどがあります」

 

 ヒドラ族。彼のヤマタノオロチと同属の、ある意味では希少な存在が、木々を薙ぎ倒しながらゆっくりと前進していた。

 まるで動く城塞だ。巨大な胴体と繋がった五本の首が、それぞれの意思を以って大蛇のように宙を舞っていた。口元からは焔が絶え間なく滲み出し、吐息が赤色の瘴気となって、森林が火の海へと変貌し始めていた。

 

「どうして、あんな魔物が……そ、それにあの先には、集落が」

 

 魔物の行き先を察した途端、全身に戦慄が走る。

 鈍足ではあるものの、少しずつ歩は進んでいた。ヒドラが向かっている先は、私が生まれ育った大切な居場所。あのまま足が止まらなければ、いずれ。最悪の事態に陥ってしまう。

 

「ヤヨイ。先回りをして、集落のみんなを避難させて」

 

 不意に、風を切る鋭い音が鳴った。見れば、すらりとした細い刀身が二本、タバサさんの両手に握られていた。

 

「ま、待って。まさか一人で、ヒドラと対峙する気ですか」

「勿論。早く止めないと、手遅れになるわ」

「無茶です!私達と一緒に、安全な場所へ―――」

「大丈夫、信じて。絶対に守ってみせるから」

 

 凛然とした声と同時に、激しい鳴動が響き渡ると、ヒドラの周囲にいくつもの火柱が突き立った。火球が爆ぜて轟音が鳴り、緑が瞬く間に赤へと染まっていく。

 どうすればいい。私は今、どうすれば。

 

「っ……必ず、帰って来て下さいね」

「勿論。昨日、そう約束したでしょ?」

 

 迷いに足を取られながら、私は下唇を噛んで、ルーラの詠唱を始めた。

 

___________________

 

 

 集落に降り立つと、既に住民らは悲鳴を上げながら、我先にと避難を始めていた。ヒドラの首は集落からも遠目に映っていて、やがて到達するであろう脅威のほどは、誰に目にも明らかだった。

 

「お父様、お父様!ヤヨイです、何処ですか!?」

 

 駆け足で唯一の肉親を探しながら、声を振り絞って名を呼び続ける。すると不幸中の幸いか、お父様の背中はすぐに見付かってくれた。

 

「や、ヤヨイっ……よかった、無事でいてくれたか」

「申し訳ございません、タバサさんと外に出ていて。ここは危険です、すぐに離れて下さい」

「ああ、分かってる。急いで避難しよう」

 

 お父様の大きな手が、私の左腕を掴んだ。

 行き先は住民の間で共有していた。アレル様に追い詰められたヤマタノオロチが、この集落で暴れ狂った過去の教訓として、万が一の事態に備えた避難先が山の麓に設けられている。ある程度の備蓄も用意されているはずだし、一刻も早くヒドラの進路から外れなくては。

 

「ヤヨイ?」

「私は……」

 

 しかし私の足は、自然と止まっていた。少しずつ蓄積していた迷いが、足を捕えて離さない。お父様が腕を引っ張れば引っ張るほど、両足に力が入り、お父様の戸惑いが増していく。

 

「ど、どうしたんだヤヨイ。一体何のつもりだ?」

「……分かりません。でも、嫌なんです」

「馬鹿を言うな、さあ、急ぐんだ!」

 

 自分でも理解できない苛立ちに似た感情が、お父様の腕を振り払った。まるで娘に裏切られたかのようなその表情を直視できず、視線が泳ぐ。

 分からない。何故私の足は、動かないのか。募り積もっていく漠然とした葛藤の正体が、見えてこない。

 

「ヤヨイ」

「……ナズナ様?」

 

 お父様の傍らで立ち尽くしていると、いの一番に避難したとばかり考えていたナズナ様の声が、聞こえた。ナズナ様は背後に二人の侍女を引き連れて、普段と変わらない穏やかな笑みを浮かべながら、私とお父様を交互に見やってから、告げた。

 

「ヤヨイ。貴女は今、何を考えていますか」

「私は……私はただ、嫌なんです。もう、逃げるのは、嫌で」

「だから何を言っているんだヤヨイ。お前は、一体何を」

「もう、嫌なんです!!」

 

 そう。私は嫌なんだ。逃げたくない。私はもう、逃げたくない。

 あの頃。まだ十三歳だった私は、逃げることしかできなかった。直向きに私を守ろうとするお父様に甘えて、逃げ惑っていた。同年代の同性が人身御供となり、段々とその数が減っていく中、私は逃げ続けていた。

 その果てに待っていたのは、別れ。母親代わりの大切な女性が犠牲となり、私に残されたのは、底なしの自己嫌悪と後悔。身を裂かれるような想いで慟哭しながらも―――結局私は、現実から逃れるために、逃げたんだ。生贄の祭壇から、逃げ出して。勇者様に、命を拾われた。

 

「私は、私のせいで、カヨ様は。私は……逃げて。アレル様に、全部、押し付けた」

 

 もう終わりにしよう。私は変わりたい。全部、変えたい。私の意志で選びたい。

 勇者様に尽くすのは、贖罪や負い目ではなく『誇り』。

 外の世界に飛びだしたのは、逃避ではなく『前に進むため』。

 戦う術を求めたのは、もう逃げたくはないから。だから―――私は。

 

「大切な友人が、戦っているんです。私はっ……ナズナ様。私、行かないと」

「……そうでしたか。これもクシナダの、運命なのかもしれませんね」

「え?」

 

 クシナダの運命。ナズナ様の呟きを訝しんでいると、侍女の一人が抱えていた包みを、ナズナ様が受け取った。

 

「これを貴女に託しましょう。今はまだ、全てを話せませんが……貴女の行く末を、どうか見守らせて下さい。クシナダヤヨイ」

 

 手渡された包みは、ずしりと重かった。その重みが、私の心を、軽くしてくれた。

 

___________________

 

 

 ヤヨイが肉親を探し当てた頃。ヒドラの前進を止めるべく駆け付けていた兵士達は、眼前で繰り出される異次元の剣技に、誰もが見惚れ、我を忘れていた。

 

「はああぁ!!」

 

 隼二刀。逆手に握られた隼の剣が、瞬く間にヒドラの体躯を深々と斬り裂いていく。激痛のあまり五本の首がのた打ち回り、咆哮と共に吐き出される焔が、肌を焼いた。

 隼の如く舞っていたタバサがヒドラから距離を取って着地すると、兵士達は奮い立つように歓声を上げた。しかしそれも束の間のことで、ヒドラの傷が塞がっていくに連れて、絶望感が漂い始める。

 

「くっ……何なのよ、こいつ」

 

 優勢ではある一方、戦局は平行線を辿っていた。

 ヒドラ族の生命力は、他の魔物のそれとは比較にならない。とりわけずば抜けた再生力は広く知れ渡ってはいるものの、眼前のヒドラは常軌を逸していた。あまりに、異常だった。

 

(このままじゃ、じり貧になる)

 

 一瞬のうちに深手が癒えるほどの再生力。そして『スクルト』の呪文。ただでさえ分厚い皮膚が、変動呪文を以って更に密度を増して、刃が通らなくなっていく。そもそもの話、呪文を操るヒドラ族など前例がない。速さと鋭さに特化したタバサの剣技とは、あまりに相性が悪かった。

 

「ス、ク……ルト」

「ま、また呪文をっ……?」

 

 負ける要素はなく、しかし討ち取る術が見当たらない。このまま長丁場になれば、こちらの体力が先に尽きてしまう。

 どうする。どうすればいい。タバサが活路を見い出そうとしていると、ヒドラの背びれが一際強く発光して、五つの大蛇が大きく口部を開け放った。

 

「いけないっ……みんな、逃げて!!」

 

 遠巻きに見守っていた兵士らに、タバサが叫び声を上げた。男達が一斉にその場から逃げ去って行く中、視界の端に、力なく座り込んだ少年の姿が映る。

 

「っ!?」

 

 十代前半、若年の兵士。その場から動けないでいた少年を庇うように、タバサが踵を返して走り出す。同時に吐き出された膨大な火炎が、タバサが羽織っていたマントを燃やした。

 もう、間に合わない。少年を抱いて蹲ったタバサの体躯を、焔の渦が飲み込んでいき―――上空から降り立った女性が、その全てを撥ね退ける。

 

「フバーハ!」

 

 間一髪のところで展開された防御呪文は、三人を聖なる衣で包み込み、熱を遮断した。恐る恐る顔を上げたタバサは、ぽかんとした表情で、ヤヨイの笑顔を見詰めていた。

 

「や、ヤヨイ?」

「ご無事でしたか、タバサさん。間に合ってよかったです」

「あ、ありがとう。じゃなくって!どうして、ここに?」

「苦戦しているようですね。私にも、手伝わせて下さい」

 

 ヤヨイは言いながら、背に縛っていた包みの布を解いた。中から取り出されたのは、煉瓦色の両刃剣。ヤヨイが頭上に掲げた剣が深い碧色の光を放つと、その輝きが地面を走り、やがてヒドラの足元から伝っていった。

 

「『草薙の神剣』よ、彼の者の邪なる衣を剥ぎ取れ」

 

 光が全身を覆った途端、禍々しい紫色の皮膚が、目に見えて緩んでいく。スクルトの効力が立ち消えて、ヒドラの動きが止まった。

 タバサは目を見開いて、畏縮したヒドラとヤヨイを交互に見やりながら言った。

 

「や、ヤヨイ。今貴女、何をしたの?」

「ええっと。よく分かりませんが……この剣には、ルカナンの魔力が秘められているようでして。恐らくは、そんな感じです」

 

 スクルトとは真逆の効果を及ぼす変動呪文。ルカナンの呪文はタバサも熟知している一方、ヒドラが見せた変貌振りを、タバサは信じられないといった様子で、食い入るように見詰めていた。

 

(あれが、ルカナンだって言うの?)

 

 スクルトにより厚質化していたはずの皮膚が、だらしなく垂れ下がっている。筋力自体が緩んでいるせいか、途方もない自重を支え切れておらず、動作の一つ一つが鈍い。守備力の変動どころか、最早あらゆる点で弱体化していた。

 それほどの魔力がある神剣なのか。それとも、別の何かか。疑問は残るものの、舞い降りた勝機。この機を逃す訳にはいかない。

 

「ヤヨイ、この子をお願い。決着を付けてくる」

「任せて下さい。でも、どうやって?」

 

 無防備と言えど、驚異的な再生力は依然として健在。呪文の効力は一時的な物である以上、一撃で仕留めなければ、また振り出しに戻ってしまう。

 

(今の、私なら)

 

 邪悪を祓う一閃。私の身体に流れる血。誰の物でもない、私の力。

 守りたい物がある。守りたい者がいる。このちっぽけな手で、私は守りたい。今の私になら、絶対にできる。不思議とそう信じることができる。

 

「ふう……はあぁぁ!!」

 

 地を駆けて、真正面から打って出る。ヒドラは即座に動きを見せ、五頭の大蛇がタバサへと牙を向いた。

 足を止めずに、バイキルトの呪文を詠唱。速さに重みが加わったタバサの剣技は、五本のうちの二本を斬り落とし、頭部が音を立てて落下した。

 

(まだ―――)

 

 間を置かずに第二撃。胴体を駆け上ったタバサは、首の根元付近で構え直し、渾身の力を込めて隼の剣を突き下ろした。沸騰した血液が肌に纏わりついて、耐え難い苦痛が全身を蝕んでいく。しかしタバサは手を止めず、足を止めずに宙返りをして、胴体の頭上へと舞った。

 

「我は天空の光人、轟け、聖なる雷」

 

 戦いに塗れた過去。かつての嘆き。長年兄に抱いていた劣等感も、何もかもを力に変えて。私は今、一筋の光となる。

 

「ライ、デイィン!!」

 

 遥か上空から射られた矢が、鳴動と共にヒドラの巨体を貫いた。光と音が周囲に広がり、幾度も反響を繰り返すかのように余韻を残していき―――やがて、束の間の静寂が訪れる。その身を焦がされたヒドラは目の光を喪い、ゆっくりと崩れ落ちた。勝敗は既に、決していた。

 

「……タバサ、さん?」

 

 ヤヨイは地上に降り立ったタバサの背中を、呆け顔で見詰めていた。

 ライデイン。選ばれし勇者のみが操る、雷鳴を生む究極の天候操作。全ての呪文を修めたとされるジルでさえもが匙を投げた、勇ましき者の証。この地上において、アレルだけが手にした光。

 それなら、彼女は。彼女は一体、誰なんだ。言葉に窮するヤヨイに先んじて、タバサは晴れ渡った面持ちで、告げた。

 

「改めて、自己紹介をしておくわ」

「はい?」

「タバサ・エル・シ・グランバニア。誇り高きグランバニア王国、現国王の子女。それが、私」

「……えーと。つまり、王女様?」

「そういうことになるわね」

「ええええええええ」

 

 火傷の痛みに悩まされながらも、タバサは笑った。心の底から、笑い声を上げた。

 生きていこう。いずれ訪れるであろう別れの、その時まで。笑いながら、私は生きていく。掛け替えのない友と一緒に、ずっと。

 

___________________

 

 

 同日の深夜帯。ダーマの神殿二階のテラスからは、周囲の景色を一望できる。ジルは所持品である世界地図を片手に、山脈の間から顔を覗かせるガルナの塔の頂上を、見詰めていた。

 

「……本当に、不思議ね」

 

 ガルナの塔は近年、ガルナの『斜塔』と称されることが多い。ギアガの大穴を塞いだ大地震を境に、ガルナの塔は南側に傾いてしまっていた。当初は崩落の危険性があるとされ、一時は立ち入りが禁じられた一方、ガルナの塔は今も尚、傾いたまま。ジルの目には寧ろ、以前よりも安定しているように映っていた。

 

(あんなに歪なのに……倒れない)

 

 歪んでいるからこその安定。人工的な建物とは異なり、自然界には左右非対称が溢れ返っている。ガルナの塔も周囲の風景に溶け込んで、当たり前の一枚として成り立っていた。

 そもそも地上に聳え立つ四本の塔には、多くの謎が残されている。ナジミの塔、ガルナの塔、シャンパーニの塔、アープの塔。魔石を交えて建築されたそれぞれに、現代の建築学は通用しない。

 誰がいつ、何の目的で建造したのか。それすらもが不透明。

 けれどこの世界で、何かが起きようとしている。その起点が、塔。

 

(ナジミの塔で起きた異変と、私が見たガルナの塔の光。異世界から現れた人間に、魔物)

 

 手掛かりらしい手掛かりは限られている。現時点では、判断材料が少な過ぎる。ジルは頭を掻きながら、手にしていた世界地図を広げた。

 ナジミ、ガルナ、シャンパーニ、そしてアープ。座標に規則性は見い出せない。しかし改めて見ると、等間隔のようにも映る。

 規則性と不規則。歪な安定。歪んでいるから、整っている。

 

「……もう寝よ」

 

 考えが纏まらず、ジルは地図を折り畳んだ。

 ガルナの斜塔は、誰の目にも映らない光を、湛えていた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2章
老兵と迷い犬


 

 今日は二週間に一度の『洗濯』の日。洗濯屋に依頼するのが最も手っ取り早いけれど、それなりの費用が掛かる。生活費の管理を任されている以上、省ける部分は省く。節約に越したことはない。

 たらいに溜めた水の中に洗濯液を入れた後、衣類を浸して足踏み。何度も踏んでいるうちに汚れが流れ出ていき、綺麗な水ですすぐを繰り返す。というのは一般的な方法で、恐れ多くもアレル様の衣服を足蹴にするなんて真似ができるはずもなく、両手で擦り洗い。すすいだ後は裏庭のロープに吊るして、陽の光をたっぷりと浴びせながら―――

 

「レミーラ!」

 

 秘技、レミーラ干し。ジル様から授かった呪文干しは『殺菌力』とやらが優れていて、しかも短時間で乾いてくれる。詳細な原理は今一分からないけれど、旅を続ける中で考案した洗濯法だそうだ。

 

「これでよしっと。タバサさん、そちらはどうですか?」

「全部干し終わったわよ。他には?」

 

 最後の一枚を吊るし終えたタバサさんが、朗らかな笑みを振り撒きながら答える。

 金色に輝く細髪が眩しく、気を抜いていると思わず見惚れてしまう。猛々しくも美しく、目覚め前に消えてしまう夢のような儚さを内包する女性。それが私が知る、タバサという女性だった。

 

「今のが最後です。少し早いですが、切りがいいのでお昼にしましょう」

 

 タバサさんと共にアリアハンへ戻ってから、月が変わり、女神の月初旬。あれから、約一ヶ月が経つ。

 タバサさんは現在、私と共にアレル様邸の離れで暮らしている。本来は来客用の寝床であったはずが、今ではすっかり私達二人の衣食住の場と化していた。

 

「朝に作っておいたスープと、パンでいいですか?」

「ええ、頂くわ」

 

 アリアハンでの生活にも段々と馴染んできたようで、普段はこうして私の家事を手伝い、二日に一度はルイーダさんの飲食店で働いている。食材の扱いは見事な物で、客受けもすこぶる良い。素行の悪い客を腕っぷしで追い払う姿は、老若男女を問わず、注目を集める存在となりつつあった。

 

「ねえヤヨイ。女王様って、どんな人なの?」

 

 そうして迎えた今日。タバサさんはアレル様と共に、アリアハン国家元首である女王陛下との謁見が決まっていた。

 

「ナズナ様と同じで、お優しい方ですよ。三年前にサルバオ様がお亡くなりになってすぐ、長女であるレイア様が即位されたんです」

 

 七つの大陸上に成り立つ国々の中で、女王が治める国家として有名なのは、砂漠の国イシス。そしてこのアリアハンにおいても、レイア様の王位継承が認められ、数代振りの女王が戴冠式を迎えるに至っていた。

 元々アレル様とジル様は、情報交換を目的に、定期的にレイア様に謁見を賜る立場にある。とりわけジル様は、世界中を渡り歩く旅人でもあり、各国の情勢や動きに精通している。アレル様は元より、即位してまだ間もないレイア様にとって、ジル様は気さくに話せる相談役の一人なのだろう。

 

「最近は相談を受ける機会が増えているそうです。ナジミの塔も、あんな状態ですから」

「……無理も、ないわね」

 

 レイア様にとっての悩みの種は、ナジミの塔での一件。アリアハン大陸でも有数の観光地であったはずのナジミの塔は、未だ立ち入りが禁じられている。それに伴い、凶暴な魔獣が降り立ったという事実も大陸外に知れ渡り、駄目押しと言わんばかりに―――先月は、ジパングでも。アリアハン国内は勿論、各国の間に不穏な空気が漂い始めていた。

 

「詳細については追々。あまり時間もありませんから、早いところ食べてしまいましょう」

「そ、そうね」

 

 ともあれ、ジパングが見舞われた異変のこともあり、午後からの謁見には私にも声が掛かっている。時間は厳守しなければならないし、少し早めに仕度をしておこう。

 

「あれ。タバサさん、どうかしました?」

「え。な、何が?」

 

 私が指差したのは、スープを盛った小皿。タバサさんが手を付けていた小皿には、橙色の具材だけが、形そのままに残されていた。こんにちは、ニンジンさん。

 

「えーと、ね」

「……」

「その。あれよ」

「……」

「ちがう、ちがうのよ?私は、ただ」

「ピーマン、玉ネギ、白身魚に、ニンジンが追加ですね。他にありましたか?」

「……ないと思う。多分」

 

 生活を共にする中で、分かったことが一つ。タバサさんは、かなりの偏食だった。ごめんなさい、ニンジンさん。

 

___________________

 

 

 ―――旅の扉。

 光の奔流の起点となる泉は、世界各地に点在し、主要各国の厳重な管理化に置かれている。何の前触れもなく自然発生したかと思いきや、忽然と消えてしまうこともしばしば。精霊の気紛れと称される一方、幾百年もの時を超えて、安定して扉同士を繋ぎ続ける物もある。

 中でも、今から七年前。アリアハン王宮地下深くに発生したそれは、唯一無二の起点。すなわち『地上世界ガイア』と『地下世界アレフガルド』を結ぶ、たった一つの旅の扉だった。

 

「ジパングに出現した個体は、恐らくキングヒドラの亜種かと。彼のゾーマが従えていた魔物です」

『そのような魔物が地上に……むう。穏やかな話ではないな』

「ラルス王。アレフガルドでは、何かお変わりは?」

『これと言って聞いておらん。そなたがもたらしてくれた平穏は、変わらずに続いておる』

「……恐縮です」

 

 旅の扉を介した意思の疎通。アレルはラダトーム現国王であるラルス王へ、地上世界で生じ始めた異変について話し聞かせていた。

 ナジミの塔には、ジャミと呼ばれた魔物が。そしてジパングではヒドラ族の頂き。いずれにも共通するのは、邪悪で強大な魔物が唐突に降り立ったという点。その場に居合わせたアレルやタバサの手により事なきを得たものの、一歩間違えれば街単位の犠牲が出ていて然り。被害が最小限に留まったのは、単なる偶然に他ならなかった。

 

『しかし気になるのは、そのタバサという名の女子だな。今の話では、こちら側からの迷い人、という話でもあるまい』

「そのようです。暫くは彼女のような人間が他にいないか、主要各国を当たってみようかと思います」

『ふむ。こちらも前例がないか、調べておくとしよう』

「ありがとうございます。では、また後日に」

『ああ。ルビス様のご加護を』

 

 通信を終えて、ふうと溜め息を一つ置く。アレルは鏡のように透き通った泉の水面を見て、七年前を思い起こしていた。

 大魔王を討ち、背負ってきた全てを為し終えた自分を、故郷へと送り届けてくれた旅の扉。

 地下世界を覆っていた闇は消え、長きに渡った夜が明けて、朝を取り戻した。

 そう。終わったはずだった。終わったと思っていた。それなのに、一体何が。

 黙考していると―――不意に、気配を感じた。

 

「収穫はナシみたいね」

「っ……ジル。リリルーラはやめてくれ」

「あら、こんなに便利な呪文なのに?」

「心臓に悪い」

 

 瞬間合流呪文、リリルーラ。施錠技術の発展が生んだ『アバカム』以来、実に二百年振りとなる新規呪文の誕生は、その利便性のあまり、一部の者しか把握していない。

 アレルは平静を装い、口を尖らせて言った。

 

「それで、どうしたんだよ急に。ガルナの塔を調べるって言ってなかったか?」

「どうも何も、陛下との謁見はそろそろでしょう。もしかして、忘れてた?」

「……ああ、そうか。そうだったな」

 

 どうも様子がおかしい。女王陛下との約束を忘れるなんて、彼らしくない。

 ジルが小首を傾げてアレルの様子を窺っていると、互いの距離が縮まっていき、やがてアレルの両腕が、ジルの背中に回る。吐息が混じり合い、唇が触れた。

 

「んぅ、んっ?」

 

 再び唇が重なって、噴出した湿潤な欲望が、身体の強張りを奪っていく。逞しい腕に包まれ、生々しい感触を全身で感じながら、ジルは久しく彼と触れ合っていなかったことを、漸く思い出す。

 何よりも大切な者に、割れ物にそっと触れるような、寂しげな優しさ。

 いつだって彼は、変わらない。

 

「……なに。なんなの」

「すまん。俺にも、よく分からない」

「謝らないでよ。バカ」

 

 変わらない。何も変わってはいない。

 遠ざかっていく背中は、この国を発った十年前の、あの日と同じく。

 

___________________

 

 

 アリアハン現国家元首、レイア女王。亡き父より王位を継承したレイアの評判は、こと国内においては若年を感じさせず、大多数の支持を得て、国内に漂っていた悲愴感を払拭した。

 教会頼りをよしとせず、自然治癒力を高めることで、心身共に健やかな生活を。

 魔王が滅び、魔物の脅威が去った今だからこそ、隣人と手を取り合って、慎ましく。

 何より英雄を生んだ国の民として、誇り高くあらんとする意志を。

 反面、悩みの種も複数抱えていた。ロマリアとポルトガの対立に、サマンオサの独り歩き。各国の新天地開拓に伴う領土争い、旅の扉の管理問題。そして―――ナジミの塔。

 

「タバサ王女。貴女の話は、以前にもアレルから窺っていました。このアリアハンで暮らす上で不都合がないよう、私からも各方面に呼び掛けておきましょう」

「……心より、感謝申し上げます」

「問題は、ナジミの塔の今後についてですね。ジパングの騒動と合わせて考えますと、問題は国内に留まりません」

 

 レイアはアレルとジルの二人を交互に見やり、静かに瞼を閉じた。

 国民の支持は有り難く受け止めつつ、国家運営に携わる首脳陣においては、同様ではない。寧ろ各大臣らは、己を未熟な国王として捉えている節がある。だからこそ、幼少の頃から付き合いの長い、気兼ねなく会話を交わせるアレルやジルのような同年代は、心の拠り所でもあった。

 

「ナジミの塔の封鎖は、賛否ありますが……引き続き、厳戒態勢を継続しようと思います。ジル、貴女はどのようにお考えで?」

「政に口出しをするつもりはありません。ですがまあ、賢明なご判断かと。今のは独り言よ、レイア」

「フフ。変わりませんね、貴女は」

 

 わざとがましいジルの言い回しに、レイアが小さな笑みを溢す。

 するとジルの隣に立っていたアレルが、一歩前に出て告げた。

 

「陛下。我々はこれから、タバサに関する調査を含め、異変の真因を探ろうと考えています。何か手掛かりとなるような情報があれば、把握しておきたいのですが」

「手掛かり……そうですねぇ。少々お待ちを」

 

 何かが起きつつある事実は共有していながらも、現時点では取っ掛かりすら見当たらない。タバサがいたという世界は勿論のこと、魔物が何処から、何故立て続けに顕れたのか。今は些細な情報を手掛かりにして、根底を目指す他ない。

 暫しの沈黙が続いた後、レイアは何処か気まずそうな面持ちで言った。

 

「アープの塔に、仔犬が住み着いたとか」

「はあ?」

 

 予期せぬ返答に、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。アレルは咳払いをして取り繕い、その先を促す。

 

「勿論ただの仔犬が、という話ではありません。アープの塔を訪れた観光客の間で、ここ最近話題となっているそうでして。大臣から小耳にはさんだ次第です」

 

 アープの塔。ナジミの塔と同様、海辺付近に聳え立つ塔の頂上からは、広く大海を見渡すことができる。周辺ではサマンオサにより急速に開拓が進み、漁業の根拠地として栄え始めたと共に、アープの塔に足を運ぶ観光客の数も、近年では増えつつあった。

 

「突然可愛らしい仔犬が現れて、後を追ってみると、忽然と姿が消えていた。概ねこのような証言が、観光客から多数寄せられていると聞いています」

「アープの塔……か。ジル、何か関係があると思うか?」

「現時点では何ともね。でも取っ掛かりとしては、上出来じゃないかしら」

 

 ナジミの塔の異変。次いでジルが見たというガルナの塔の光。そしてここに来て、図ったようにアープの塔。仔犬云々は別としても、塔という明らかな共通点がある以上、放ってはおけない。

 

「それと、サマンオサ繋がりでもう一つ。先日開かれた『武術大会』の件は、ご存知ですね?」

「はい、勿論。結果の方は聞いていませんでしたが、何かありましたか?」

 

 レイアが触れたのは、先週末にサマンオサ国内で開催された祭典。トーナメント形式で繰り広げられた、一対一の武芸者同士による立ち合いの場だった。

 名目としては武芸の益々の発展と、祭典が生む経済効果。しかし他国の目には、新たな兵力を見い出す場。つまり軍備増強の一環として映り、開催中止の要請が入るほどに悪目立ちをしていた。

 

「私も動向を注視していたのですが……今回の優勝者は、予選上がりの老兵だったそうです」

「ま、待って下さい。それは、確かですか?」

「はい。齢六十手前の、一介の剣客だったと」

 

 あまりの衝撃に、アレルとジルは言葉に窮して、唖然とした。

 二人が見せた動揺に対し、ヤヨイが挙手をして詳細を尋ねる。

 

「あのー。今の話は、つまり驚愕に値すること、なのですか?」

「ヤヨイちゃん。サマンオサっていう国は、これまで魔王軍を圧倒的な国力で退けてきた軍事国家なの。過去にも似たような祭典はあったけど、六十手前のおじいちゃんが優勝なんて、まずあり得ないわ」

 

 優勝候補筆頭は、かつてオルテガと同じく勇者と称されたサイモンの一人息子、サザル。若くして一個大隊を統べる剣士は、小細工抜きの剣技だけなら、アレルに匹敵する腕前の持ち主として、大陸中に名を馳せる存在だった。

 そんな彼ですらが届かなかった剣客。アレルは剣の道を歩む一人の武人として、身震いをした。

 

「どうでしょう。何かお役に立ちそうですか?」

「はい、恐らくは。アープの件も含め、早速当たってみます」

 

 アレルは一礼をして、傍らにいたジルと視線を重ねた。

 互いの関心が別方向に向いているのは明らかだった。それなら、役割分担は言うまでもない。

 

「さてと。ヤヨイちゃん、一緒に来てくれるわよね?」

「えっ。あの、い、今からですか?」

「思い立ったが吉日。さあ、飛ぶわよ!」

「ちょ、ま―――」

 

 無言詠唱による瞬間移動。謁見の間にいたはずのジルとヤヨイは、ルーラの光を辺りに振り撒いてすぐ、消えていた。残された光を呆け顔で見詰めていたタバサは、取り乱した様子でアレルに言った。

 

「お、屋内でルーラ!?あ、アレルさん、今のは何ですか!?」

「リレミトとの合わせ技さ。あれぐらいジルには朝飯前だよ」

 

 瞬く間の二重呪文。ジルの人智を超えた魔力に慣れ切ったアレルはともかく、タバサにとっては戦慄を覚えるほどの妙技だった。

 

「やれやれ。ヤヨイも行ったことだし、タバサ。よかったら君も、俺と一緒に来るか?」

「勿論です。私にも、お手伝いをさせて下さい」

 

 アレルは後ろ頭を掻きながら、武術大会を制したという老兵について意識を向けた。

 祭典の褒美は、願いを叶えること。サマンオサ国王、ルカス王の裁量で、優勝者の願いを一つだけ叶えるという物。なら件の老兵が望んだ物は、一体。

 

___________________

 

 

 ジル様に連れられて、約一分後。私とジル様はアープの塔入口の手前に並んで立ち、塔の頂上付近を見上げていた。

 

「これがアープの塔……外観は、ナジミの塔と似ていますね」

 

 スー大陸西岸に位置するアープの塔は、サマンオサにより管理、観光の運営が為されている。本来はサマンオサ領土『外』の建造物であるはずが、まるで領土拡大を前提にしたかのようなサマンオサの態度に、やはり他国は快く思っていないらしい。

 

「シャンパーニやガルナも一緒よ。早速入ってみましょう」

 

 ジル様が扉に手を伸ばすやいなや、見知らぬ男女二人が内部から扉を開けた。入れ替わる形で屋内に入ると、周囲には観光客と思しき複数人の姿が散見された。

 

「結構賑わっていますね。中の雰囲気は、ナジミの塔と大分違いますけど」

「暫く見ないうちに、随分と様変わりしたみたい……完全に見世物と化したわね」

 

 上層に繋がる階段に差し掛かると、壁面には額縁に収まった書物や、歴史的価値がありそうな巻物の類が掲示されていて―――その全てが、何故かサマンオサ関連。人の手を加えず、極力自然体を残すべく管理されたナジミの塔とはまるで正反対だ。何というか、色々な意味で好きになれそうにない。

 半ば呆れながら階段を上っていると、私の前を行くジル様が、不意に口を開いた。

 

「ヤヨイちゃん、調子はどう?」

「どう、と言いますと?」

「聞いたわよ。ジパングじゃ女王様の眼前で啖呵を切ったとか」

「あ、あれはそういうつもりじゃ……。でも最近は、考え込むことが多いかもしれません」

 

 自分でも理解に及ばない葛藤。想いの数だけ、悩んでしまう機会も増えた。

 ジパングを離れたキッカケは、外界に対する純粋な好奇心だった。けれど心の何処かで、故郷に居た堪れなさを感じていたことは確かだ。人身御供という犠牲から逃げ出して、自分だけが生き永らえたという負い目は、今も残っている。

 アレル様に仕える身としても同じ。勇者様に仕え、日々尽くすことに誇りを抱く私がいて。逃げ出した過去を受け止めきれずに、償おうとする私もいる。

 

「それにナズナ様は、私とアレル様の関係を、まるでヒミコ様とオルテガ様のように……過剰な期待を抱かれているようですし。ジパングでは見栄を切りましたが、全てを割り切れた訳ではないんです」

「ふーん。意外に色々と考えているのね」

「あ、ひどいです。私だって、思い悩むことはあるんですよ」

「ごめんごめん。でも今は、まどろっこしいことを抜きにして、タバサと楽しんだら?」

 

 それは言われずとも。恥ずかしながら、十年以上友人らしい友人がいなかった私にとって、タバサさんとの出会いは降って湧いた光。この一ヶ月間の充実した日々は、タバサさん抜きでは語れない。

 

「同い年の分、気が合うみたいです。昨日も一緒にお酒を飲んで、同じベッドで眠ったんですよ。気付いたら朝でした」

「……ふ、ふうん。そうなの」

 

 あれ、どうしたのだろう。ジル様の目の色が突然変わった気がする。声も上擦っているし、何か変なことを言っただろうか。

 訝しみながら歩を進めていると、やがて三階へと辿り着く。三階以上は中央の空間が広大な吹き抜けとなっていて、頭上には無数のロープが張り巡らされていた。話には聞いていたけれど、直に目の当たりにすると、異様な光景だ。

 

「フフ、昔を思い出すわね。ロープの上を渡っていたら、頭上からスカイドラゴンが火を噴いてきたっけ」

「全く笑えませんが……」

「あの頃は私も転職してまだ間も……なっ…………」

 

 突然声が尻すぼみとなり、ジル様の足が止まった。視線を追うと―――その先に佇んでいたのは、一匹の仔犬。尻尾を小刻みに振る仔犬は大変愛らしく、「くーん」と一鳴き。思わず胸が躍った。

 

「わあ。本当にいましたね。すごく可愛いです」

「のっ……ろ?」

「ジル様……ジル様?」

 

 振り向いた途端、異変に気付く。ジル様の様子が、おかしい。

 まるで海の底でもがいているように、空気を探しているかの如く、視線が泳いでいる。呼吸も止まっていた。顔に血の気がなく、言葉を発せずにがたがたと震えていて、両目が一瞬、白目を剥いた。

 

「げ、げぇ、かはっ」

「じ、ジル様!?」

 

 膝が折れると同時に、床に嘔吐物が不快な音を立てて流れ落ちた。背中に手をやると、背筋に悪寒が走るほど、ジル様の身体は冷え切っていた。

 数度咳込んだ後、ジル様は口元を乱雑に拭って、掠れた声を漏らした。

 

「の、ろい。こんなの、あり得ない」

「のろい……呪い、ですか?」

「あり得ない。絶対に、あり得ないわ」

 

 訳が分からず、再度仔犬を見やる。目を凝らして無邪気な小顔を見詰めていると―――ぞっとするような恐怖で、呼吸を忘れた。

 歪んでいた。姿形ではなく、存在その物が歪んでいた。何がおかしいのかを把握できない一方、否応なく凝視をしてしまい、五感が泥沼の中へと引き摺り込まれていきそうな、歪み。

 

「なんですか、あれ。あんなの、あり得ない」

 

 私は自然と、ジル様と同じ言葉を吐いていた。

 あり得ない、あり得ない、あり得ない。脳裏に存在を否定する声が響く中―――前方の空間に、光の粒が浮かんだ。

 

「え?」

 

 粒は段々とその数を増していき、それらが中央付近へと集まっていく。

 仔犬は恍惚に、淫靡に、妖艶に蠢いて。

 真っ黒な眼球を拳一つ分ほど見開き、口尻を耳元まで上げて、悍ましい笑みを湛えながら、『言った』。

 

「い、お、な、ず、んんんんんんんんんんんんんんんん」

「ヤヨイちゃん伏せて!!」

 

 凝縮された魔力。呪文の正体を察したのと、ジル様の胸に抱かれたのは、ほぼ同時だった。

 

___________________

 

 

 耳の奥を射抜かれたような炸裂音。直後に背中から感じた体温に、鳴り止まない崩落音。

 かちかちと歯を鳴らしていると、ジル様の声が耳の痛みを和らげ、繊手が頭を撫でてくれた。

 痛みはない。生きている。仔犬の邪悪な気配も、感じない。

 

「もう大丈夫。私が先に起きるから、ゆっくり、頭を上げて」

「っ……は、はい」

 

 恐る恐る瞼を開き、慎重に身体を起こす。ジル様の手を借りてどうにか立ち上がると、周辺の様子は一変していた。

 イオナズン。最上位の破壊呪文は、塔の上層を半壊させていた。中央の吹き抜けは西側半面を失い、高所を流れる風が、塔の内部へと流れ込んでいる。一瞬のうちに、見るも無残な有り様と化していた。

 

「じ、ジル様。さっきの仔犬は?」

「あそこよ」

 

 呪文の主は、驚いたことに床の上に寝そべり、眠っていた。すやすやと寝息を立てる様は、文字通りただの仔犬。幼気な動物だ。今し方イオナズンの呪文を唱えただなんて、誰が思える。

 

「マジックバリアを二重に展開させながら、ラリホーを唱えたの。効いてくれて助かったわ」

 

 言い換えれば、あの僅かな間に三重詠唱。それはそれで感嘆ものだけれど、あの仔犬が前では、どうしたって霞んでしまう。一体あれは、何なんだ。

 

「ジル様。あの仔犬は、仔犬じゃありませんよね」

「ええ、恐らく女性ね。人間の女性よ。私の魔力に反応したみたい」

「女の……ひと?」

「これほどの呪いとは、私も出会ったことがない。獣化の呪いを掛けられた人間なら、私も見たことがあるけど……あの女性の呪いは、常軌を逸してるわ。身も心も、魂も、幾重に幾重に縛られてる。重ねて言うけど、あんなの、あり得ない」

 

 そんな呪いの塊のような存在が、この塔に平然と居座っていただなんて、考えたくもない。今度は私が胃液を吐き出してしまいそうだ。

 

「ぐずぐずしていられないわ。私達もサマンオサへ向かいましょう」

「サマンオサに?」

「駄目元で、『試してみたい物』があるの。ルカス王にも、一報を入れておきたいしね」

 

 言われてから漸く、ナジミの塔と同様の緊急事態に気付かされる。

 国内有数の観光地が半壊。怪我人の有無も含め、早急に事へ当たる必要がある。レイア様といい、ルカス王も気苦労が増えそうだ。

 

___________________

 

 

 ジルとヤヨイがアープの塔を登り始めた頃。

 サマンオサ城下町の門を潜ったアレルとタバサは、周囲から羨望の眼差しを向けられながら、街中のそこやかしこに張られた情報紙を見詰めていた。

 

「この男性が、陛下が仰っていた剣客か」

「そうみたいですね」

 

 内容は、先日に開催された武術大会の結果。時事性の高い出来事は、速報性を重んじ、紙を媒体にして街中へと流される。貴重な紙を消費してでも、大会結果を国民らに報せようとする辺り、その影響力の大きさを思わせた。

 

(参ったな。疑っていた訳じゃないけど……まさか、この人も?)

 

 優勝者の名は、ライアン。五十七歳、晩年の剣士。

 そして優勝者に与えられた特権、ライアンが望んだ願いは―――『ラーの鏡』。全ての真実を映すとされる、国宝だった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

レイアムランドにて

 

 ジル様の呪文でアープの塔を発ち、降り立った先はサマンオサ城の門前。アリアハンとは比較にならない規模の荘厳な王宮は、十メートルを越える防御壁に囲まれていて、こうして見上げているだけで圧倒されてしまう。サマンオサは以前にも来たことがあるけれど、城下町に限った話だ。軍事国家としての象徴を前に、私は心なしか足が竦んでいた。

 

「アレル様は……見当たりませんね。城内でしょうか?」

「そうみたい。リリルーラはこういう時に便利なんだけど、他者を連れていると精度が落ちるわね。考え物だわ」

「十二分過ぎると思いますが……」

 

 ジル様の専売特許に苦笑いを浮かべていると、鋼鉄の鎧を身に纏った兵士が、城内から歩き出てくる。その背後にはアレル様、そしてタバサさんの姿があった。ジル様と私の存在に気付いたアレル様は、案内役と思しき兵士に声を掛けた後、私達を一瞥して言った。

 

「二人も来てたんだな。アープの塔へ向かったんじゃなかったのか?」

「行ったわよ。そのアープの塔がとんでもない目に遭ったから、ルカス王とアンタに報せに来たの」

「……途方もなく嫌な予感がするんだが」

 

 アレル様が辟易とした様子で肩を落とすと、背後に立っていたタバサさんが顔を覗かせた。私が抱えていた布の中ですやすやと眠る仔犬は、彼女の興味をそそるには充分な魅力を湛えていた。

 

「あら、可愛い仔犬ね。もしかして女王様が言ってた―――」

「ふ、触れては駄目です!」

 

 思い掛けず声を荒げて、小さな体躯をタバサさんの手から遠ざける。門前で大声を上げたことで、門番の鋭い眼光が私に向いた。何でもないです、ほらこの通り。

 

「び、びっくりした。ヤヨイ、どうしたの?」

「先に言っておくわ、二人共。この仔犬には絶対に触らないこと」

 

 怪訝そうなアレル様とタバサさんに、ジル様は左手をかざして、告げた。

 

「手が腐るわよ。こんな風にね」

 

 回復呪文を以ってしても、癒し切れないほどの穢れ。薄紫色の痣が浮かんだジル様の掌は、子犬を縛る枷―――この世に存在する全ての負を凝縮させたかのような呪いで、爛れていた。

 

___________________

 

 

 アープの塔が見舞われた事態をルカス王に報せた私達は、その足で城下町北部へと向かった。

 繁栄を誇るサマンオサの町は、王城と同じく堅牢な防御壁に四方を囲まれている。徒歩では一日費やしても回り切れないほどに広大な街並みが、すっぽりと四角に収まっているのだ。壁の構築にどれだけの年月を要したのか。想像の域を遥かに超えていた。

 

「待て、待ってくれ。今の話を、信じろっていうのか?」

「受け入れなさい。二度は言わないわよ」

 

 そんな街中を、私達は旅客用の馬車に乗って移動中の身。目的は二つ。その一つが、連れ帰った仔犬にある。

 道すがら、ジル様の口から語られた一連の事実。獣化の呪いに縛られた女性と、最上級の破壊呪文。アープの塔の半壊。ルカス王の狼狽加減から考えて、アープの塔は即刻封鎖、ナジミの塔と同様の扱いが為されるに違いない。

 

「ねえヤヨイ、怪我はなかったの?」

「平気です。ジル様が守って下さいましたから」

「本当に?痛い所とかない?」

「大丈夫ですよ。怪我一つありません」

 

 妙に私の身を案じるタバサさんを宥めて、足元に寝そべる仔犬をちらと見る。

 仔犬は変わらずに眠ったまま。ジル様曰く、『呪いの影響で魂が弱まり、呪文が効き易くなっている』そうで、ラリホーの強制睡眠の効果は持続してくれていた。マホトーンも掛けてあるし、町のど真ん中で大爆発などという事態は万が一にもなさそうだ。

 

「それで『ラーの鏡』に思い至った訳か。あの鏡で、本当に呪いが解けるのか?」

「さあね。いずれにせよ、放っておく訳にもいかないでしょう。彼女は貴重な手掛かりでもあるし、是が非でも呪いを解いてあげたいの」

 

 ラーの鏡。かつてルカス王に成り済まし、このサマンオサで圧政の限りを布いた偽りの王。一人として見抜けなかった化けの皮を剥いだのが、太古に精錬されたという聖なる鏡。

 

(私は……どうなんだろう)

 

 真実を映し出す水鏡。鏡であって鏡にあらず。アレル様からその存在を聞かされてはいたけれど、私の姿はどんな風に映るのだろうか。純粋に気になる反面、漠然とした怖さもある。

 

「アレル、まだ着かないの?」

「そろそろだと思うぞ。ルカス王の話では、この辺りのはずだ」

 

 見れば、知らぬ間に周囲の風景が、変わっていた。

 旧市街区。栄えに栄えた中心部から外れた、市街地北東部。住宅街の一角ではあるものの、住民は主に貧困層と呼ばれる人々で、周囲に漂う空気は何処か重々しい。こんな所に、ラーの鏡を贈呈された男性―――武術大会優勝という名誉を手にした猛者が、本当にいるのだろうか。

 

「どんな人なんだろうな。その仔犬も相当だけど、俺にとっては武術大会結果の方が、よっぽど信じ難いよ」

「……分からなくもないけど。決勝戦を『不戦勝』なんて、前代未聞ね」

 

 呟くように語るアレル様の身体が、一瞬震えた。それが所謂、武者震いと呼ばれる勇みなのか、それとも純粋な畏れからくる震えなのか。複雑そうな面持ちから、その心境は窺えなかった。

 

「お客さん、着きましたよ。ここいらでいいですかい?」

「ありがとう、助かったよ。ヤヨイ」

「はい」

 

 手綱を握っていた男性に馬車代を手渡して、荷台から飛び降りる。踵を返して元来た道を走り去っていく馬車を見送り、周囲を見渡すと、眼前には砂を被った城壁が聳え立っていた。人気はなく、住民と思しき姿も見当たらない。

 

「この辺りは、旧市街区の北端だな。住民の数も少なそうだ」

「本当にここ?間違ってたら殴るわよ」

「いや、合ってると思う……うん。多分、あれだ」

 

 住所と地図が記された紙と周囲を見やりながら、アレル様が向かった先は―――市街区の端で、ひっそりと佇んでいた小屋。私やタバサさんが暮らしている離れよりもこじんまりとした、まるで物置のような小屋だった。

  

(えっ。あれが、そう?)

 

 家屋と称するにはあまりに慎ましい小屋の扉を、アレル様がこんこんとノックをする。

 反応は早かった。中から物音が聞こえたかと思いきや、引き戸がゆっくりと開かれていく。同時に一歩後ずさったアレル様の背中が視界一杯に広がり、私の鼻を押した。痛いです、アレル様。

 

「むぐっ?」

「あ……ご、ごめん」

「いえ、お気になさらず」

 

 鼻頭を擦りながら、背中越しに立っていた男性の出で立ちを確認する。

 白髪交じりの頭髪と口髭。上下に纏った革製の鎧と、筋骨隆々な体躯。深い皺が無数に刻まれた顔に浮かぶ蒼色の瞳。齢五十七という前情報と合致する部分は、毛髪や皺のみ。丸太のように隆起した腕は、若々しさで溢れていた。

 

「ふむ。何用ですかな」

 

 連想されたのは、大木。幾百年の時を刻み、地上に根を張り巡らし、天頂に達した峻厳な巨木。それらが無数に根付いて並び、森林と化した壮大さに覆われた―――『山』。森羅万象が両脚で立っているかの如き存在感。思わず息を飲んで、仔犬を抱く腕に力が入る。

 

「っ……貴方が、ライアンさんですね」

「如何にも。そなたは?」

「アレルといいます。アリアハンから来ました」

「アリアハンの……おおっ。ではそなたが、『この世界』の勇者殿か」  

 

 山が、厳かに笑った。男性―――ライアンさんは、私達四人の顔を興味深そうに見やると、やがて左端に立っていたタバサさんを食い入るように見詰め、頷きながら告げた。

 

「込み入った事情がおありのようですな。ここではなんです、場所を移すとしましょう」 

 

___________________

 

 

 ややあって。ライアンが話の場として選択したのは、礼拝堂。旧市街区にも教会の慈悲は届いており、生活苦に悩む住民らへ日々炊き出しを提供すると共に、祈りの場には専属の神父が駐在していた。

 神父の計らいで一室に通された五人と一匹は、テーブルを挟む形で向かい合って座った後、アレルが咳払いをして口火を切った。

 

「貴方を訪ねた理由は、何点かあります。まず『ラーの鏡』についてですが、今現在はライアンさん、貴方が所持していますね?」

「左様。武術大会の褒美として、一時的に私が預かっております。大変貴重な品と聞いておりますが故に、こうして肌身離さず」

 

 ライアンは小奇麗な布地に包まれたラーの鏡を、テーブルの上に置いた。中身を確認せずとも、破邪の波動を肌で感じ取ったアレルは、ジルに頷いてから続けた。

 

「分かりました。では、次に。貴方は……何者、ですか?」

「ふむ。それは如何なる意味ですかな」

「貴方は先ほど、俺のことを『この世界』の勇者と呼びましたよね。俺の考えでは……貴方は」

 

 静寂が訪れ、重々しい沈黙が漂い始める。

 お前は何者か。至って端的な問いであると共に、哲学的な複雑さを内包した問い掛け。ライアンは両者の視点から己を客観視して、一度頭上を仰いでから、やがて視線をタバサへと向けた。

 

「タバサ殿、といいましたかな。恐らく私は、そなたと同じ立場にある」

「え……?」

「私がこの世界に迷い込んだのは、今から約二ヶ月前のことです」 

 

 予想だにしない言葉に、タバサは目を見開いて驚愕の表情を浮かべた。対してアレルは、合点がいった様子で相槌を打っていた。

 不思議と確信めいた物を抱いていたからだ。この地上で生じ始めた異変。付随する別世界からの迷い人。ナジミの塔にはタバサ。そしてライアンは恐らく、件のアープの塔に。

 

「アレル殿。私が元いた世界にも、勇者と呼ばれた若き戦士がおりました。光栄なことに、私は勇者殿と旅路を共にして……。しかしやがて訪れた平穏は、そう長くは続かなかった」

「……詳細を、聞いてもいいですか」

「戦ですよ。人と人の争いが、各地で勃発したのです」

 

 戦争。平穏を一時の過去に変えた、血に塗れた人間同士の争い。悲劇の顛末を、ライアンは語った。

 戦火に見舞われた一国に、ライアンは一人の戦士として仕えていた。戦が長引き被害が拡大していく中で、戦地へ赴くよう、ライアンにも白羽の矢が立って然り。

 しかしライアンは、争いを拒絶した。己が欲していた力は、邪悪を斬り祓うための剣。何としてでも平和の光を取り戻そうとする勇気。頑なな正義の意志に衝き動かされてきたライアンは、やがて選択を迫られてしまう。

 流れ着いた人里が、唐突に赤々と燃え盛り、人々が逃げ惑う。

 慟哭と悲鳴が耳を突いて、凌辱の限りが広がっていく。

 眼前には―――人の皮を被った、人ならざる者。

 

「私はこの手で、多くの生命を奪いました。私は人間を守りたいがために、数多の人間を斬ったのです、アレル殿。私が犯した過ちは、今も尚この手に残っている」

「……それから、どうしたんですか?」

「人里を避け、剣を振るい続けました。山に籠り、幾度も幾度も剣を振るっては、ただ無心に、ひたすらに剣を。道を見失った私には、剣しかなかったのです」

 

 陽が昇り、陽が暮れてからも剣を握る。春爛漫な日も、茹だるような真夏日も、紅葉が舞う日も、雪を被りながら剣を振るう。幾年も幾重に、一枚ずつを丁寧に重ねていく日々。

 かつての栄光と、贖罪の今。平和と混沌。光と闇。

 相反する二つを背負いながら、剣の何たるかを求め、ただそれだけのために時を刻み続けた男は―――終には時を斬り、己の知らぬ間に、無自覚のまま、一つの境地へと達していた。

 

「ライアンさん、貴方は……漸く、理解できました。決勝戦で貴方を前にしたサザルが、剣を置いた理由を」

「剣を握った歳月に差があっただけのこと。私は国を捨て、逃げ出した愚者に過ぎませぬ」

 

 純粋な剣技だけの立ち合いなら、到底及ばない。アレルは独りごちながら努めて平静に振る舞い、声色を緩めた。

 

「この二ヶ月の間は、どうしていたんですか?」

「サマンオサに居付いたのは、一ヶ月半ほど前のことですな。この世界に関することは、ある程度心得ているつもりです」

「私達も概ね理解したわ。その過程で、真実を映し出すという『ラーの鏡』の噂を耳にして、武術大会に参戦したのね」

「仰る通りです、ジル殿」

「鏡は見た?」

「勿論ですとも。だからこそ私は、本来この世界に存在しない迷い人なのだと、確信した次第です」

 

 ライアンは丁寧な手付きで包みを解き、中から取り出したラーの鏡を、鏡面を上に向けてテーブル上に置き直した。

 ライアンがラーの鏡を欲した理由。己が見舞われた異変を受け入れるに至った理由。タバサはごくりと喉を鳴らして、ライアンと視線を交えた。

 

「タバサ殿。その覚悟がおありなら、そなたも是非」

「わ、私は……」

「タバサさん」

 

 タバサの左手を、ヤヨイの右手が包み込む。タバサはゆっくりと握り返し、意を決して立ち上がり、恐る恐る水鏡を覗き込んだ。

 

「……不思議。何も、映らないんですね」

 

 映し出された真実は、無。天井の木目調だけがはっきりと浮かび、己の表情が何一つ映らない。心の何処かで抱いていた淡い期待は、最早見限る他なかった。

 タバサは一層の力を込めて、ヤヨイの手に指を絡めた。己の存在を確かめるように、この世界で出会った者達が、見い出した絆は本物なのだと、自分自身に言い聞かせながら。

 

「ジル。早速試してみるか?」

「ええ、そうね。ライアンさん。このラーの鏡だけど、少しだけお借りするわ」

 

 ジルの声で、各々が動き出す。それこそが真の目的であり、ライアンを訪ねた理由でもあった。

 ヤヨイは布越しに抱いていた仔犬をテーブルの上に。アレルとタバサはライアンに事情を説明し、ジルがラーの鏡を両手で抱えた。

 何重もの呪いで縛られた女性。見当違いでなければ、彼女が三人目。タバサとライアンに続く、異世界からの迷い人。ラーの鏡に宿る破邪の力が呪いを凌駕するのなら、首尾よく運んでくれるはずだ。

 

「さあ、始めるわよ」

 

 ジルが胸に抱えていた水鏡が、仔犬へと向けられた。

 途端に仔犬の体躯が、びくりと跳ね上がる。全身の体毛が逆立ち、まるで針鼠に似た出で立ちとなり、身体が風船のように膨らんでいく。その身に帯びた碧色の光は、目まぐるしく点滅して、室内を照らした。あまりに急な変貌振りに、アレルがジルの腕を取った。

 

「じ、ジル!大丈夫なのか!?」

「効いてるわ。段々と呪いが解かれ始めてる」

 

 ジルの見立て通り、身体から突き出ていた針が一本、抜け落ちる。針が金属のような音を立ててテーブル上に落下すると、元の柔らかな体毛となり、次々と抜けては刺々しさを失くした。次第に膨らんでいた身体が蠢いて、段々と人間の四肢を形成していった。

 右腕、左腕、左脚、右脚、そして頭部。頭髪は見る見るうちに伸びていき、薄紫の美麗な色合いを見せ始め、身体が女性特有の柔らかさを取り戻していく。胸部からは豊満な乳房がゆらゆらと揺れて、一糸纏わぬ姿を前に、アレルとライアンは思わず目を背けた。

 

「あと少しよ。もう一息でっ……きゃあっ!?」

「「!?」」

 

 刹那。ぱりんと乾いた音を立てて、鏡面が砕け散った。宙を舞った破片は魔力を失い、そのまま液体へと変わり、ぼたぼたと床に大粒が零れ落ちていく。

 鏡の崩壊と急変。女性の変化を見守っていた五人は、彼女の異様な眼の色に、声を失った。一切の白が存在しない漆黒の瞳。両眼がぎょろりと蠢くと、変貌を終えた女性は苦しそうに咳込み、獣のように鋭い爪を生やした指を震わせて、咆哮した。

 

「ううぅ、うううう!!あああぁああ!!!」

「ヤヨイ、下がって!」

 

 無造作の跳躍。テーブル上から前方に飛び掛かった女性が、爪を立てて右腕を振り下ろした。ヤヨイに襲い掛かる寸でのところで、間に割って入ったタバサが剣の鞘で腕を受け止める。タバサは咄嗟の判断で鞘を構え直し、女性の下腹部目掛けて突きを放った。

 

「かはっ……!」

 

 よろよろと後退していき、その背中がライアンの胸板に触れた。直後、振り向き様の引っ掻きを、ライアンはいとも容易く躱すと共に、女性の両手首を力任せに抑え、拘束しながら平坦な声で言った。

 

「鎮まれよ。そなたの手は、清き繊手のはず」

「あああぁあ、ああああああ!!!!」

 

 室内に轟いた絶叫が、意図せずして吐血に繋がった。女性が吐き散らした『真っ黒な血』が、ライアンの顔部へと飛び火する。目元に纏わり付いた漆黒は、一気にライアンの眼孔を蝕んでいき、瞼を越えて、不快な音と共に両眼を焼いた。

 

「ぐぬぅ……ぬああぁ!?」

「「ラリホー!!」」

 

 間髪入れず、四人掛かりの強制睡眠。覚醒直後は効果が薄いと言えど、強引な微睡みは女性の意識を泥沼へと引き摺り込み、遮断した。力なく崩れ落ちた女性の前で、ライアンは両手で目元を押さえながら、声を殺して耐え難い苦痛を耐え忍んでいた。

 あまりに濃密な数秒間。ジルは己の甘さ加減に憤りつつ、唇を噛みながら全てを頭の外へと追い出して、冷静且つ手早く指示を下した。

 

「ヤヨイちゃんとタバサは、神父と一緒にありったけの薬草と聖水を掻き集めて。それと包帯も。アレルはその人をお願い。目を覚ましたら大変なことになる」

「わ、分かりました」

「合点承知です!」

 

 二人が駆け足で部屋を後にすると、アレルは上着を脱いで、女性の裸体にそっと被せた。ライアンの容体を窺うジルに、アレルは女性の寝顔を見詰めながら言った。

 

「ラーの鏡が……呪いは、どうなったんだ?」

「……大部分は、もう消えたわ。でも、彼女の心を縛っていた呪いが、まだ残ってる。心だけが獣化したままなのよ」

「た、助かるのか?」

「分からない。それよりも今は、ライアンさんの方が……ごめんなさい、私のせいだわ」

「そなたが気に病む必要はあるまい。私が未熟だっただけのこと」

 

 ジルは回復呪文を維持しながら、鏡面を失ったラーの鏡に視線を向けた。

 ラーの鏡の破邪力を以ってしても、敵わなかった呪い。大魔王を凌駕するであろう邪術。何者が、何のために、どうやって。そして彼女は、一体。

 

___________________

 

 

 再び深い眠りへと落とされた女性は、万が一に備えて金属製の拘束具を取り付けられ、礼拝堂の奥部に監禁、アレル達の監視下に置かれた。呪いの縛りがラリホーの効果を促しているとは言え、何度も繰り返していては、いつか必ず限界が来る。完全に拘束したとしても、言わば人の姿をした獣。何を仕出かすかはまるで見当が付かなかった。

 女性が眠る室内には、重い沈黙だけが澱んでいた。呪いは未だ健在で、頼みの綱であったラーの鏡は消えた。

 眼部を蝕まれたライアンも、ジルと神父の手により処置が施されている真っ最中。患部が患部なだけに、誰もがライアンの身を案じていた。

 

「……ライアンさん、大丈夫でしょうか」

 

 ヤヨイがぽつりと呟くと同時に、扉が開かれる。その先に立っていたジルの表情は、目に見えて沈んでいた。

 

「ジル、ライアンさんは?」

 

 ジルの背後には神父、そしてその傍らにライアン。ライアンの顔部は上半分に包帯が巻かれていて、視界が完全に閉ざされていた。沈痛な面持ちの神父が、重い口を開く。

 

「薬草と呪文が効いて、侵蝕は治まりました。ですが……患部の治癒が、芳しくなくて。現時点では、快復の見込みがありません」

 

 深い絶望感が到来し、悲哀が痛みとなって、全員の胸の中を走り抜ける。奥底から止め処なく込み上げてくる悲痛が波立ち、ヤヨイとタバサは思わず口元を覆った。アレルでさえもが、ライアンの痛々しい様を、直視できないでいた。

 そしてジルも、底なしの無力感に。偉大な賢者として称えられ、敬われた叡智が、肝心なところで届かない。女性を救えなかったばかりか、己の甘さが引き金となり、彼の光を奪ってしまった。どうして、こんなことに。

 

「天罰が下ったのでしょうな。私は気高き剣の道を、逃げ道にしてしまった。元より現実から目を逸らしていた身であるが故、何も変わりませぬよ」

「ライアン、さん。私は」

「ジル殿」

 

 ジルに先んじて、ライアンは打ち震えるジルの肩に手をやった。まるで見えているかのような自然な手付きで、ライアンは手の甲でジルの頬に触れ、諭すように告げた。

 

「その想いと慈悲を、私ではなくどうか彼女へ。ラーの鏡なき今、彼女を救う術は、恐らくそなたしか持ち合わせておりませぬ」

 

 ジルはベッドの上で微睡む女性に目を向け、次いで己の掌を見詰めた。

 この身に宿る光。精霊神より授かりし賜物。蓄積された知識。正しくあろうとする正義の意志。誰の物でもない、私だけの物。賢者の称号を戴冠したあの日に―――私は。

 

「……ありがとう。ライアンさん」

 

 どうかしている。彼女に触れたことで、呪いに当てられていたのだろうか。それとも平穏に飽いて、我を見失っていたか。いずれにせよ私は、まだ何も為していない。為そうともしていない。

 

「みんな。二日間だけ、時間をちょうだい」

 

 呪文とは、信じる心。願いが魔力を生み、想いが形となる。魔物のそれとは、根底が異なる。

 たとえこの世界から、呪文という存在が『消えゆく定め』なのだとしても。私は生涯を賭して抗って見せる。伊達や酔狂で、こんな生き方を選んだ訳じゃない。

 

「待ってくれ、ジル。どうするつもりなんだ?」

「今から絶食するわ。余計な物を全て出し切りたいの」

「……まさか、呪文で彼女を?」

「それまでの間、彼女をお願い。きっかり二日後に、『レイアムランド』で会いましょう」

 

 ジルは約束の場を口にするやいなや、足早に礼拝堂を後にする。

 残された者達が頭上に大きな疑問符を浮かべる中、アレルだけが、ジルの思惑を理解するに至っていた。

 

「アレル様。い、今のは?」

「この地上で最も穢れのない聖域を、ジルは選んだってことさ。ヤヨイにも話したことがあっただろ」

「レイアムランド……レイアムランド?って、えええ!?」

 

 合点がいったヤヨイが悲鳴に近い声を上げる一方。タバサとライアンは、やはり首を傾げるばかりだった。

 

___________________

 

 

 年中氷雪に覆われ、人を拒絶し続ける大地、レイアムランド。その中央にひっそりと構える祠の存在を知る者は、極々僅か。

 かつて六つのオーブにより蘇り、大空を舞った不死鳥ラーミアは、ギアガの大地震を境にして、再び永き眠りに付いた。二人の巫女と共に殻へ籠り、いずれ訪れるであろう宿命を全うする、その日まで。この事実を知る者も、アレル達を含め限られた人間のみ。

 

「ふむ。外は凍えるような吹雪だというのに、中は異様なほどに静かですな」

「周囲一帯に結界が張られているんです。この祠も、外からは見えません。ライアンさん、俺の肩を掴んで下さい」

「かたじけない」

 

 ルーラで直接レイアムランドの祠へと降り立ったアレル達五人は、粉雪を被る石段を上っていき、やがてその先に、先んじて籠っていたジルの背中が映る。

 色白の肌が剥き出しの、生まれたままの姿。丸二日間祈り続け、一切の血肉を断ち、聖水のみを口にしてきたジルは、おぼろげな光を薄らと身に纏っていた。

 

「二日振り。少し痩せたか?」

「つまんないこと言ってないで、さっさと彼女を祭壇に寝かせなさい。それと、拘束具は外すこと」

「外していいのか?」

「枷を外そうとしてるのに、枷を付けたままでどうするのよ」

 

 女性を腕に抱いていたアレルが、オーブに囲まれた祭壇上にそっと女性の体躯を寝かせ、拘束を解く。そのすぐ先には―――不思議な紋様を浮かべた卵。二人の巫女と共に眠るラーミアは、微かな胎動を殻内で響かせながら、すやすやと。

 もしかしたら、また君の力を借りることになるかもしれないな。アレルが小さな笑みを浮かべて祭壇を下ると、ジルは擦れ違い様に、小声で言った。

 

「それと……あんまり、見ないでよね」

「ああ。分かってる」

 

 四人が固唾を飲んで見守る中、ジルが物音を立てずに立ち上がる。すると身に纏っていた光が一層の輝きを見せ始め、ほの暗い祠の内部を照らしていく。

 

「いよいよですな」

「はい。後はジルに託しましょう」

「ジルさん、どうかお願いします」

「ジル様……ルビス様の、ご加護を」

 

 計らずも、その想いはジルの背に。極限まで穢れを削ぎ落とし、研ぎ澄まされた感性は、呪文の効力を倍加させる。胸の前で組まれた両手が、希望という名の耀きを放ち、ジルを中心にして、渦を巻いて風が吹き上っていく。

 

「ラーミアの御卵を守りし光よ……リリ。それにララ。今だけでいい。貴女達の、力を貸して」

 

 ジルの囁きに応えるように、大いなる卵が僅かに揺れた。

 同時に巫女らの声が、直接頭の中へと流れ込んでくる。

 

『祈りましょう』

『祈りましょう』

『縛られし、子のために』

 

 六つのオーブが光で繋がり、六芒星の紋様が頭上へ浮かんだ。

 声は力強さを増して、かつて不死鳥が蘇ったその日と同じく、祠全体が揺れた。

 

『祈りなさい』

『祈りなさい』

『今こそは、目覚めの時』

 

 想い、願い、そして信じる心。衝き動かすは正義の意志。

 全てを一つの呪文に込めて、聖域の頂に放たれるは破邪の灯火。

 

『念じなさい、慈悲深く』

『破邪の火は、貴女の物!』

「邪なる威力よ、退け―――『シャナク』!!!」

 

 呪文の詠唱と共に、溢れんばかりの光が充ちて、レイアムランド全土を覆った。

 それは紛うことなき陽の光。古来より祖先を育み、今この瞬間を生きる人類を照らし、未来に生まれる子孫を永劫湛え続けるであろう太陽。呪文の域を超えた聖なる力は、一気に女性の呪いを解き始め―――光を介して、ジルは女性の嘆きを聞いた。

 

 ―――みんな、死んでしまった。

 

「な、何?」

 

 ジルが思わず顔を上げると、女性の身体は、再び蠢いていた。

 光を拒み、忌み嫌うかの如く、四肢があり得ない方向に折れて、人形のように踊り狂う。

 

 ―――もう、誰もいない。家族も、血を分けた兄妹も。 

 ―――共に旅した『彼』も、そして『彼』も。みんな、死んだ。

 ―――死んだ、死んだ、死んだ。私は、何者にもなれなかった。

 

 立て続けに流れ込んでくる負の連鎖。深淵のような深い悲しみに胸を刺され、否がおうにも心へ沁み込んでいく。ジルは大粒の涙を目元に溜めながら、始めて彼女を理解した。

 呪いの根源は彼女自身。生きようとする意志は何よりも強く、逆に失った人間は、あまりに脆い。全て諦めてしまった彼女の心は、呪いに弄ばれ、光を拒んでいた。

 

「駄目よ、生きて!貴女は生きるの!生きようとする意志を、捨てては駄目!!」

「うう、うううぅううう!!!」

 

 獣の咆哮が、祠の内部に響き渡る。禍々しい爪が伸びて、女性は再度、唸りを上げた。

 もう、駄目なのか。誰もが最悪を覚悟し掛けた、その時。盲目の戦士が、歩みを見せた。

 

「不思議な物だ。見えないことで、見えてくる物がある……。このように穏やかな感情は、幾年振りか」

「ら、ライアンさん!?」

 

 歩を進め出したライアンの一挙手一投足に、誰もが目を瞠った。

 光を失った両眼は、今も尚塞がっていた。包帯が巻かれた眼部は閉ざされたまま。そのはずなのに、見えているように見えてしまう。不安定な足場を意に介さず、一片の迷いなく祭壇を上っていく。やがて辿り着いた壇上で、ライアンは静かに口を開いた。

 

「何も畏れる必要はなかろう。この世界は、そなたを拒みはせぬ。私のような老いぼれを、受け入れてくれたようにな」

「しん、だ。しん、ん、んん」

「為せなかったことは、これから為していけばよい。機はそなたの中にある。我々と共に、生きてはくれぬか」

 

 唸りが止んだ。悍ましさが立ち消えて、しかし裂けるような想いと痛みは残されたまま。

 悲しみのどん底で立ち竦む女性に、ライアンは傷だらけの硬い手を、そっと差し伸べる。

 

「そなた、名は?」

「せ……り、あ」

「良き名だ。セリア殿」

「う、ううぅ。ひ、ぐっ。うう、あぁ、あああ」

 

 歪められた世界に翻弄されて、与えられて然るべき全ての未来を、奪われて。

 それでも彼らは、手を取り合って見い出していく。僅かな光に、希望を託しながら。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

白髪の拳士は、拳聖と共に

 

 峻厳な稜線を描く山脈に四方を囲まれた村、カザーブ。

 村の名を知る者は少ない。村民が二百名程度の平凡な村だ。かつて魔物の大軍を拳一つで退けたという武術家の逸話が残っているぐらいで、大陸という規模から考えれば、小国ノアニール領土内の人里に過ぎない。

 しかし近年では、遠路遥々カザーブを訪ねる者が増加の一途を辿っていた。かつてアリアハンの勇者と旅路を共にし、魔王討伐に貢献した、生ける伝説。聖戦士の一人、『武闘家リーファ』が生まれた聖地として、世界中にその名を轟かせるに至っていた。

 

「お、おい。見ろよ、あいつ」

「……何だありゃ。『棺桶』、だよな?」

 

 そして、彼もまた。見知らぬ地に落とされながらも、強者と剛剣を欲し、流れ着いたさすらいの剣士。青年は漆黒の棺桶を縄で引き摺り、カザーブの東部を目指していた。

 

___________________

 

 

 山々に囲まれ、他の地域から隔離されたカザーブの盆地は、独自の環境を形成している。とりわけ農業の観点から見れば、広大な平野と安定した気候は畑作に適しており、ノアニールという小国にとって、カザーブは貴重な資源村の一つでもあった。

 十年前に帰郷を果たしたリーファは、今では立派な所帯持ち。彼女もまた、村と隣接した広大な畑で働く身であり、今日も愛娘を背に抱きながら、草むしりに勤しんでいた。

 

「……あたしに何か用かい、青年」

 

 額の汗を腕で拭ったリーファは、我が子を起こさないようそっと立ち上がり、畑道に立っていた男性の方を向いた。

 腰に携えた二振りの大剣。右手に握る縄と繋がれた、紛れもない棺桶。あまりに異様な品々を所持する白髪の青年は、辺りを見渡しながら口を開いた。

 

「剣聖と呼ばれた男を探している。勇者と共に魔王を討ったという男だ。この辺りにいると聞いたが」

「ああ、そいつはあたしの旦那だね」

「旦那?」

「ヴァン!あんたにお客さんだよ!」

 

 リーファと並ぶ、もう一人の聖戦士。剣術の腕前ならアレルをも上回るとされたかつての剣士は、今現在ノアニール国民、兼カザーブ村民。リーファに永劫寄り添うと誓ったヴァンは、その剛腕を戦士としてではなく、畑を耕すために揮っていた。

 

「お前が剣聖か」

「見ない顔だな。外の人間か?」

「お前が剣聖なのかと聞いている。答えろ」

 

 青年の強引な物言いに、ヴァンは一度リーファと顔を見合わせてから答える。

 

「懐かしい通り名だな。そう呼ばれていたことはある。それで、用件は何だ」

「業物を探している。剣聖と呼ばれたお前なら、心当たりがあるだろう。お前が所持している刀剣を見たい」

「剣……生憎だが、魔物の脅威が去ってから、武具は全て手放した。剣が欲しければ余所を訪ねてくれ」

「そうか。それなら、次の用件だ。俺と立ち合え」

 

 言い放った声が、ヴァンとリーファの笑みを消した。

 訪ねて早々、赤の他人との果し合い。皆目見当が付かない青年の思惑に、言葉に窮したヴァンは、大仰に両腕を上げながら首を横に振った。

 

「言っている意味が分からんぞ。一体何のつもりだ?」

「二度も言わせるな。こいつを抜け」

 

 青年は高圧的な態度を崩さず、腰の大剣を一振り掴み、ヴァンの足元へと無造作に放り投げる。鞘の先端が畑の畝へと突き刺さり、土中に根付いていた作物を砕いた。

 あからさまな挑発と誘い。ヴァンの気を引こうとした青年の目論見は、しかし逆効果を生んだ。

 

「断る。帰ってくれ」

「何だと?」

「剣は手放したと言っただろう。それに、お前さんと剣を交える理由がない」

「……フン。理由が必要なら、俺が作ってやるよ」

 

 煩わしい。遠回しな言動は性に合っていない。形振り構わず、力技で押し通すまで。

 青年の右手が剣の柄に触れると同時に、リーファが両者の間に割って入る。リーファはぱんぱんと掌同士を叩き鳴らし、青年と向かい合って宥めるように言った。

 

「はいはいそこまで。潔く帰んな、青年。みっともないったらありゃしない」

「おい女、そこを退け」

「大声を出すんじゃないよ。この子が起きちまうだろ」

「黙れ。ここまで来ておめおめと―――」

「それとも、『あたし』とやるかい。青年」

 

 突如として発せられた気当たり。望んでいたはずの戦意に、青年は思い掛けず一歩後ずさった。

 自分よりも一回り小さい体躯が、瞬時にして膨れ上がっていくかのような威圧感。猛虎の如き牙を目の当たりにした青年は、不敵に笑いながら、リーファを頭上から睨み下ろした。 

 

「お前が、俺と?」

「目は利く方でね。あんた、『こっち』の心得もあるんだろ」

 

 眼前に突き出されたリーファの左拳。意味するところは、徒手空拳での立ち合い。青年は放浪する中で耳に挟んだ、もう一人の聖戦士の名を思い起こした。

 剣聖とは異なる次元で、最強の名に相応しい最狂。『拳聖』と称された女拳士。不鮮明な記憶に頼らずとも、叩き込まれた裂帛の気合いが、全てを物語っていた。

 

「おいリーファ。本気か?」

「いい運動になりそうじゃないか。それにアカネを生んでから、身体が鈍って仕方なかったしね」

「俺は構わないぜ。『運動』で、済めばいいがな」

 

 上等だ。青年は逸る気持ちを、飛び掛かりたい衝動を抑えるように、固く拳を握った。

 力が欲しい。もっと力を。より強大な力を、この手に。

 

___________________

 

 

 立ち合いの場は、農地から離れた平野。念のためにと村から距離を取るよう言い聞かせたヴァンは、二人の拳が交わってすぐ、目を見開いて驚愕の表情を浮かべ続けていた。

 

「……こいつは、驚いたな」

 

 互いの拳圧が地面を抉り、大木に無数の風穴を空けて横倒しになる。足刀が草木もろ共空間を裂き、鈍重且つ鋭利な音が辺りに響き渡っていく。度々襲い来る拳圧に気を払っていないと、観ているこちら側が先に倒れてしまう。

 不撓不屈。四肢を不動の刃とするリーファの猛攻が、同等かそれ以上の妙技によって流され、返り討ちに遭う。常にリーファと隣り合わせで前衛役を担ってきたヴァンだからこそ、青年の才を理解するに至っていた。 

 

「はあぁ!!」

「ぐっ……!」

 

 やがて。青年の前蹴りが、リーファの下腹部へと突き刺さる。

 身体がくの字に折れ曲がったリーファは後退を余儀なくされ、下っ腹を押さえて苦悶しつつ、乱れた呼吸を整えていく。

 

「ふうぅ……ど、度肝を抜かれたよ。あんたみたいな使い手が、この地上にいたなんてね。青年、出身は?」

「さっさと構えたらどうだ。次で終わらせてやるぜ」

 

 青年はリーファの問いに無視を決め込み、腰を深く落として、前方を見据えた。利き腕の右拳を脇下に引いて、左手は前方に添える。呼吸は緩やかに、深々と。

 正拳突きによる渾身の一撃。あれを食らったら、間違いなく立ってはいられない。

 

「仕方ない。『小細工』を使わせて貰うよ」

「後悔するなよっ……!」

 

 構えはそのままに、青年が仕掛ける。互いの距離が一気に縮まっていき、間合いの半歩手前。

 未だ動きは見られない。恐らくは後の先を狙った受け流し。交差の刹那を見極めて、当てて見せる。

 

(―――!?)

 

 青年が拳に力を込めた瞬間、リーファは場違いなほどに緩やかな動作で、両手を前に突き出した。掌がぼんやりと発光し、太陽のような眩しさが、青年の距離感を惑わせる。

 これは何だ。呪文じゃない。剣気でもない。得体の知れない力が、前方に凝縮されていく。

 

「波ぁっ!!」

「な―――」

 

 直後に放たれた波動は、意趣返しだと言わんばかりに、青年の下腹部を射抜いた。受け身を取り損ねた青年は、背中から地べたに倒れ込み、四つん這いの体勢で大いに咳込みながら、辛うじて顔を上げた。

 したり顔が見下ろしていた。勝敗は既に、決していた。

 

「一応言っとくけど、呪文じゃないよ。遠当てでもない。紛れもない、あたしの『武』さ」

「い、今のが……?」

「でもまあ、真正面からの打ち合いならあたしの負けだ。言い訳する気もないよ」

 

 リーファは両膝に手を置いて、青年の顔を覗き込んだ。

 

「かなり深く入っちまったようだね。手を貸すよ」

「さ、触るな」

 

 差し出された手が、ぱんと音を立てて弾かれる。リーファは鋭い痛みが走った手を見詰めると、腰を下ろして屈み、青年と同じ目線で告げた。

 

「一つ聞かせてくれないか、青年。あんた、何で剣を探してるのさ?」

「剣士が、剣を求めて、何がおかしい」

「ふうん。なら、旦那と立ち合いたかった理由は?」

「俺はただ、強く……い、いい加減にしろ」

 

 青年は吐き捨てるように言うと、よろよろと身体を揺らしながら強引に立ち上がる。対するリーファは、青年の目をまじまじと見詰め、彼がその目に宿す異様さを、目の当たりにした。

 傲慢無礼な振る舞い。己を上回る天賦の才に、恐らくは剣術も然り。それほどの力を秘めながらも、彼は心底剣を求め、強さを求めている。

 

「な、何を見ている?」

「あんたの目だよ。言っただろ、目は利く方だって……へえ。案外、優しいんだね」

 

 それなのに―――目の色は、澄み切っていた。悲愴と悲壮が混じり合い、重々しい罪悪感のような枷の向こう側には、溢れんばかりの純粋さ。まるで子供のように初々しい、本能に近い衝動や感情しか見て取れなかった。

 

(綺麗な目……でも、どうして?)

 

 荒んだ男共なら、星の数ほど見てきた。剣に溺れ、力に驕る者の行く末は、決まって見るに堪えないものだ。

 でも、彼は違う。他の誰とも異なっている。

 どうやったら、どんな境遇が、彼のような男性を育むというのだろう。

 

「やめろ、見るな!」

「おっと」

 

 青年がリーファの視線を遮るように腕を振るい、後退したリーファの背中を、ヴァンの厚い胸板が受け止める。リーファはヴァンに心配ないと言い聞かせ、考えごとを後回しにして、快活に笑った。

 

「あはは。あたし、あんたが気に入ったよ。青年、名前は?」

「うるさい」

「待ちなってば」

 

 足早に去ろうとした青年の腕を取り、リーファは告げた。

 

「雪辱を果たしたいんなら、いつでも来るといい。受けてあげるよ」

 

 煮え滾るような激情。底なしの辱めと屈辱感。青年はその全てに蓋をして、深呼吸を置いた。

 誇りは不要だ。戦士としての誇りよりも、強さを。無意識のうちに欲する力を何より重んじた青年は、振り返ることなく、背を向けたまま告げた。

 

「望むところだ。明日の明朝に、またここで」

「はああ?馬っ鹿じゃないのあんた?こちとら所帯持ちの身なんだ。朝っぱらから手合せできるほど主婦は暇じゃってはーい、よしよし。アカネ、どうしたのー?待ってねー、すぐマンマにしましょうねー」

 

 身を翻したリーファの声に、青年はちっぽけな誇りが崩壊していく音を聞いた。

 

___________________

 

 

 それからというもの、青年はリーファの申し出に少しも遠慮をせず、日々立ち合いに臨んだ。カザーブ唯一の質素な宿屋に住み着き、来る日も来る日もリーファと拳を交え、光の波動―――真気を刃とするリーファの絶技で、昏倒した。

 二人の立ち合いは、瞬く間に村中へと知れ渡り、一気に注目を集めた。カザーブの象徴と化した拳聖の技の数々。それらを真っ向から捌き、対等に渡り合う謎の男性。一考に名乗ろうとしない青年はそのまま『青年』という呼び名で親しまれ、カザーブはかつてないほどの賑わいを見せる日々が続いていた。

 そして青年が流れ着いてから、二週間後。昼時を迎えたカザーブの外れには、お馴染みの光景が広がっていた。

 

「がはっ!?」

 

 序盤は手数で勝る青年が優勢。次第に追い込まれていくリーファが、起死回生の一撃。取り巻きは大いに盛り上がり、村民の半数以上が立ち合いの場へ集結するに至っていた。

 

「やれやれ、三十路の主婦には堪えるね。あんたも毎度よくやるよ。それにそろそろ、技の起こりを見切られちまいそうだ」

 

 リーファが腕を振りながらその場を後にすると、次いで青年がふら付きながら立ち上がる。すると遠巻きに観戦していた男性の一人が青年に近寄り、肩に手をやって激励の言葉を贈った。

 

「惜しかったな、にーちゃん。今度こそ期待してるぜ」

「触るな!」

 

 力任せの拒絶。掌で胸を叩かれた男性は、体勢を崩してしまい、立っていられずに尻餅を付いた。青年は男性の様子に構わず、目を向けようともせずにリーファとは反対の方向に去って行った。

 今回が初ではなかった。負け惜しみなのか、それとも八つ当たりの類いか。青年が時折見せる乱暴な振る舞いを快く思わない村民も、決して少なくはない。

 

「いってえ。な、何なんだよあいつ。応援してやってんのに」

「……多分、相当なモンを背負ってんだろうな」

「あん?」

 

 呟くように声を発したのは、村で宿屋を営む男性。宿屋の主は、青年の背中を見詰めながら、気まずそうに胸の内を明かした。 

 

「この間、あいつが部屋で身体を拭いてる時に、見ちまったんだ。どえらい傷痕が、身体中にあって……。まるで継ぎ接ぎの人形みたいな身体だった。きっとあいつは、ずっとああやって生きてきたんだろうな」

 

 無数の視線が、名も知らない青年の背中に注がれた。

 その身に一生物の傷を背負い、頑なに強者へ挑み続けながら、何を求めているのか。その目に映っている物、先に見据えている物は、一体。一人として、分かるはずもなかった。

 

___________________

 

 

 犬頭神の月下旬。青年が宿泊先の一室でベッドに寝そべり、天井を見詰めていた最中、扉をノックする音が鳴った。半身を起こすと、扉を半開きにして顔を覗かせたのは、剣聖と呼ばれた男だった。

 

「よう。今、いいか?」

「何の用だ。勝手に入るな」

「そう邪険にするなよ。ただの差し入れだ。宿屋暮らしだと、何かと掛かるだろうからな」

 

 お前もか。青年は無言で独りごちて、頭を痛めた。

 立ち合いが村民の目に留まるようになって以降、食料や衣類といった物資を押し付けてくる輩が後を絶たない。村民にその気はなくとも、同情や憐みを向けられているようで困り物だというのに。

 青年が辟易していると、ヴァンは壁に立て掛けられていた大剣を一瞥して言った。

 

「前々から感じていたが、見事な業物だな。何処で手に入れたんだ?」

「それは……」

 

 ヴァンの何気ない問いに、青年は言葉に窮した。不意を突かれたせいか、珍しく感情が表に出てしまう。

 知らぬ存ぜぬを決め込めばいい。慌てて表情を消した青年は、何かを察した様子のヴァンを見て、顔を顰めた。

 

「『分からねえ』って顔だな。俺も薄々勘付いてはいたんだが、リーファの言う通り……いや、まあいい」

 

 ヴァンは敢えて深きに触れず、テーブル上に置かれていた薬草の葉を一枚取り、口調を緩めて言った。

 

「それにしても、大した奴だ。戦いから身を退いて長いとはいえ、あいつと対等に打ち合える奴がいたなんてな」

「全盛期は、もっとすごかったのか?」

「どうだろうな。今でも手刀で薪割りをするような奴だ。そんな女、あいつぐらいのものさ」

「男だってしないだろ……」

「クク、違いない。なんだ、普通に話せるんだな」

 

 青年は舌打ちをして立ち上がり、ヴァンの手にあった薬草を奪い返し、無駄話は終いだと言わんばかりに背を向けた。青年の極端な挙動にヴァンは呆れつつ、踵を返して扉に向かい、ドアノブを半分だけ回したところで、手を止めた。

 

「リーファは、お前との立ち合いを心底楽しんでいる。あいつに代わって礼を言わせてくれ」

「戯言も大概にしろ。俺はただ、力ある者と戦いたいだけだ」

「ああ、それでいい。それと……『記憶』、戻るといいな。思い出したら、名前ぐらい教えてくれよ」

 

 ヴァンが言い残してから、扉が閉ざされる。

 記憶。二十六年分の記憶。青年は上半身の衣服を乱雑に脱ぎ捨て、己の身に刻まれた無数の傷痕に触れた。

 名乗らない、じゃない。名乗りたくとも、分からないのだ。一番分からないのは自分自身。思い出そうにも、見付からない。剣を探し求める理由も。力を欲し、己を衝き動かす根柢にある物が、理解できない。

 

「どうして俺は……どうして、なんだ」

 

 何より、目を合わせられない。立ち合いの場は別として、『リーファ』に見詰められると身体が強張って、吐き気がする。毒物のように耐え難い嫌悪が身体中を走り回って、気が狂いそうになる原因が、見付からない。

 分からない。どうして、俺は。誰か―――教えてくれ。

 

___________________

 

 

 その日の立ち合いは、人目を忍んで行われた。誰の目にも触れたくないという青年の言い分に、リーファは多少戸惑いを覚えつつ、普段と同じように青年と向かい合った。

 

「……ねえ。あんた、何かあったの?」

「何のことだ。さっさと構えろ」

 

 訝しみながら構え、青年の様子を窺う。

 目に見えた焦り。焦燥感が前傾姿勢に繋がり、腰の位置が低く、引き手も深い。全身から発する気当たりが荒々しくて、肌を刺すような痛みが走る。たったの一日でこの変わりよう。

 

(失った記憶……か)

 

 大方を察してはいた。青年は何も語ろうとしない。名前に始まり、年齢、出身、生い立ち、家族。頑なに口を閉ざそうとする青年は、どういう訳か視線の交わりを拒絶する。立ち合いを終えるとすぐ、私と目を合わせようともしない。

 歩み寄りたいのに、近付く術がない。

 不意に消えてしまいそうで、拳を向け合う時間だけが、唯一の会話。

 分からない。青年は今、何を想っているのだろうか。

 

「まあいいさ。さあ、行くよ!」

 

 地を駆り、間合いに入るやいなや渾身の連撃。連日のように手合せが続いたためか、技が一段と冴えている。何処となく精彩さを欠いていた体捌きは切れ味を増して、身体が意のままに動いてくれた。

 

「ぐっ……!」

 

 青年は一旦後方へ大きく飛び退き、最も得意とする正拳突きの構えを取った。まるで弓に矢をつがえているかのような視線に、リーファはすぐに青年の意図を察した。

 遠当て。拳圧に重きを置いた無手の矢。下手に踏み込めば、迎撃される。

 

(上等―――)

 

 それなら、こちらも。生命の根源たる気流を操り、対象を穿つ秘技。遠当てを紙一重で流し、間髪入れずに撃ち返す。日常と化した立ち合いは、今日も同様の結末を迎える―――はずだった。

 

「ま、ま。まーま」

「「!?」」

 

 互いの動きに気を取られ、思わぬ者の接近に、毛ほども気付いていなかった。既に青年の拳は前方の空間を叩き、射られた圧は不可視の矢となり、リーファとアカネを同線上に捉えていた。

 一片たりとも逸らしてはならない。リーファは地に足を突き立て、遠当てを正面から受け止めると、途方もない衝撃が、彼女の半身を襲った。

 

「きゃあぁ!?」

 

 脇腹に激痛が走り、身体が宙を舞った。背中から倒れ込み、呼気が胃液と共に吐き出される。横向きに蹲って苦痛を耐え忍んでいると、眼前に小さな二本の足が映った。

 

「ぐぅ、ううっ……あ、アカネ?怪我は、ない?」

「まま、まま!?」

「あはは。よ、よかった」

 

 我が子の狼狽した声が、大きな安息感を生んだ。ほっと胸を撫で下ろし、地面に寝そべったまま腹部を押さえていると、まるで正反対の感情を露わにした怒号が、頭上から降り注いだ。

 

「ふざけるなぁ!!」

 

 青年は感情を少しも隠そうとせず、不得手な回復呪文を詠唱しながら、声を大にして続けた。

 

「何のつもりだ!お前、死にたいのか!?どうして躱さなかった!?」

「できる訳、ないじゃないか。アカネは……はは。ほ、本当に、よかった」

 

 そう。できるはずがなかったのだ。腹を痛め、難産の先に出逢った最愛のためなら、私は。リーファは武闘家ではなく、一人の母親として、掛け替えのない愛娘の体温を噛み締めながら、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

 

「っ……ねえ、さん?」

 

 無条件の慈しみ。その笑みが、青年の奥底に眠る何かに触れた。

 青年の鼓動が瞬時に波打つように高鳴り、感情がない交ぜになって、思考が停止する。

 

「せ、青年?」

「ああ、あぁ、あああぁあ?」

 

 突然の崩落。心が音を立てて、壊れていく。リーファは青年の異変を、瞬時に理解した。

 姉さん。その一言で充分だった。それ以上を、リーファは求めようとしなかった。

 

「青年。あたしは、平気だよ。何も怖がらなくていい。怖くなんて、ない」

「お、俺は、おお、おれ」

「あれだけ拳を交えれば、嫌でも分かるさ。あんたは……喪うことの痛みを、知ってるんだね」

 

 生い立ちなんて分からない。小難しいことは分からなくていい。

 何より、彼は人間だ。人間だから、誰かを愛していた。彼も誰かに愛されていた。家族とか、恋人とかは関係なく、ヒトとしての感情が青年を育み、喪った痛みが今の青年を成している。ただ、それだけのことだ。

 

「自分じゃない、誰かのために生きる。守りたいから、あんたは力を求めるんだ。あたし達と同じさ。何も変わらないよ」

「分からない。分からないんだ。何も、思い出せない。名前も、何もかもっ……ただ、怖いんだ」

 

 彼に必要な物は、一歩踏み出す勇気。喪った物を取り戻すためではなく、恐らくは凄惨さに満ちた過去と向き合い、乗り越えた先に待っている明日に他ならない。

 

「ずっと迷ってたけど、決めたよ。これを、あんたに預ける」

「……これは?」

「『夢見るルビー』。以前知り合ったエルフが、友好の証にって譲ってくれた物さ」

 

 リーファが手渡したのは、夢その物。神々しい装飾が施された六角柱型の宝石の中には、精霊を模した小さな像が、ピジョンブラッドの光を湛えていた。

 

「自分と向き合う覚悟があるなら、その宝石の中身を覗きな。あたしに言えることは、それだけだ」

 

 かつて旅路を共にした、賢き者が教えてくれた。夢とは心像であり、己を投影する鏡。魔力を宿した宝石は、彼の奥底に眠る記憶に触れて、きっと夢は―――悪夢に、等しいだろう。

 期待はできない。最悪の方向へ転がる可能性だって、十分にあり得る。そうだとしても、私は彼に託したい。だから、頑張れ。青年。

 

___________________

 

 

 明朝。朝陽が山の端から顔を覗かせ、生まれたての太陽がカザーブの盆地を照らし、そこやかしこから新たな今日を示す産声が上がり始めた時間帯。

 

「おはよ、青年」

 

 リーファは背に陽の光を浴びながら、すっかり立ち合いの場と化した平原の一画で、大の字になって仰向けに寝そべる青年に、朝の挨拶を投げた。青年は微動だにせず、喉と口を精一杯動かして、開口一番に不満を漏らした。

 

「どうして、話さなかった」

「何のことさ?」

「身体中が、麻痺して、丸半日の間、この有り様だ。どうしてくれる」

「あはは。これ、満月草。持ってきたから……。ほら、口を開けて」

 

 リーファは川の水でふやかしておいた満月草の葉を大雑把に割き、身を屈めて、青年の口の中に一切れずつ、指で押し込んだ。青年は赤子のように頼りない力でゆっくりと咀嚼し、飲み込んでは口に含むを繰り返した。

 

「直に効いてくるよ。よいしょっと」

 

 リーファは青年の傍らに座り、同じ風景を共有した。

 目覚めの朝。まだ住民のほとんどは眠っている時間だ。家畜や鳥のさえずりを除けば、誰の声も耳には入らない。まるで無人のように静寂が広がるこの地には―――確かに、人間がいる。限られた時を過ごし、誰かを愛し、愛されながら今を生きて、夜は必ず終わりを告げて、新たな一日が訪れる。

 そして今日もまた、私達は誰かを想い、寄り添いながら生きようとしている。

 

「テリー」

「え?」

「名前だ。俺の、名前」

 

 痺れが薄れたのか、青年は両手を胸の上に置いて、仰向けの姿勢はそのままに、太陽を仰いでいた。

 青年の頬は心なしかこけていて、血の気が薄い。今にも消え去ってしまいそうな危うさが、昨晩をどのようにして過ごしたのかを、思わせた。

 

「夢、見れたみたいだね。テリー」

「……ああ」

 

 一陣の風が吹いて、青年の掠れた声を遠ざけていく。脆く儚げな物悲しさが、胸に去来する。

 リーファは何とはなしに、後頭部でひとまとめに結っていた髪を解いて、風の流れになびかせた。青年はその姿に暫し見入ってしまい、一人として気付きそうにない小さな笑みを浮かべると、そっと瞼を閉じた。

 

「姉さんがいた。たった一人の、肉親だった」

「お姉さんか。どんな人?」

「生きていれば、多分、お前と同じぐらいの歳だ。死に目には、付き添えた」

「……そっか」

 

 期せずして、同い年だった。リーファと正面から向き合えない理由。目を覗かれると、心身が波打って拒んでしまう理由。

 きっと、似ても似つかないんだろうな。リーファは苦笑をして言った。

 

「それが、剣と力を求める、理由なんだね」

「俺は、守れなかった。守れなかったんだ」

 

 全てを思い出せた訳ではなかった。漠然とした感情と、身を裂かれるような胸の痛みに裏打ちされた、否定のしようがない過去。二十六年分の負い目を一点に凝縮させたかのような一夜の夢が、最愛の『声』となって脳裏でこだまして、耳から離れない。

 

「俺は、多分……何者にも、なれなかったんだ。苦しいだけで、涙すら出やしない。自分が自分じゃないみたいで……でも、寒いんだ。寒くて仕方ない」

 

 心底望んでいた力を手にした先にあったのは、どうしようもない虚無感。まるで別の誰かを俯瞰して見ているように、自分とはほど遠い無力な自分が、何処か別の世界の中で、喪失していた。

 分からない。遠い過去のように思えて、違う。

 見知らぬ世界の端っこに取り残されて、身体が冷えていく。

 ただ、寒い。寒いんだ。だから―――誰か。

 

「テリー」

 

 不意に当てられた体温。柔らかな温もりが、ひどく懐かしく思えて、微睡みを誘った。

 同時に、誰かの歌声が聞こえた。眠気を思わせる歌詞と、誰かの声。

 ずっと長い間聞いていない、記憶の底の、更に奥深くに眠っていた、遠い遠い過去の声。

 互いに年端もいかなかった頃の、あどけない歌声。

 

「大切な過去を想うことはできる。でも、変えることはできない。もう手が届かないんだ。だから、『今』。これからどうするかが、大切なんだって、あたしは思うよ」

 

 リーファはテリーの頭を膝の上に乗せて、額をそっと撫でながら、紛れもない愛情を、彼に注いだ。見返りを求めない感情は、歪められた何かを正すように、じんわりと沁み込んで、広がっていく。

 

「自分を赦してやりな、テリー。あんたが大切だって思える物を、守りたいって思う人間を、今から守ることはできる」

「俺が……。まも、る」

「そのための力を、あんたに授ける。あたしの『とっておき』を継がせてあげるよ。だから……今は、眠って」

 

 再び、歌声が聞こえた。

 優しげで、風と共に消え去っていく幻の歌は、いつまでもいつまでも、奏でられた。

 

___________________

 

 

 それから―――半年後。半年間の月日が過ぎた、女神の月、五日目。

 身支度を整えたテリーは、ずっと放置をしていた棺桶を引いて、村の北部に店を構える武具屋を訪ねていた。

 

「ほ、本当に、いいんですか?」

「いいと言っているだろう。俺にはもう、不要な物だからな」

 

 僅か三千ゴールドによる即決。膨大な時を費やして厳選し、各地から掻き集めた業物の数々は、この世界においても値の付けようがないほどの希少価値がある。刀剣の全てを路銀の足しに換えたテリーは、その足で村の西部へと向かった。

 旅は身軽な方がいい。水や食料を詰めた麻袋を背負い歩いていると、やがて視界に映った二人の男女の前で立ち止まり、交互に視線を交わした。

 

「もう、行くのかい」

「……ああ」

 

 こつんと拳同士を合わせてから、ヴァンにも同様に。ヴァンは竹筒に入った酒をテリーに手渡すと、旅の行き先を聞いた。

 

「それでお前さん、これから何処へ向かうつもりなんだ?」

「シャンパーニの塔とやらへ。恐らくあの塔が、俺がこの世界に降り立った鍵のはずだからな。……もう、行くぜ」

 

 素っ気なく言い残し、テリーが歩を進める。すっかり伸びた細く長い白髪は、リーファの手で結われていた。文字通り後ろ髪を引かれたテリーは、誰の耳にも届かない小声を漏らした。

 

「じゃあな。ヴァン、リーファ……。リーファ、姉さん」

 

 唯一無二の二人。二人目の最愛を呼ぶ声。それは誓いであると共に、頑なな決意。

 過去と向き合い、決して逃げず、手放さずに、今を生きる。きっとその先に光があると信じて、ただひたすらに、前へ。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

地球のへそ

第2章、最終話です。大方の役者は揃いました。


 

 そこは、深き深淵の狭間。光という概念が存在しない、漆黒の闇。地上世界より深く、地下世界の更に奥底で、『彼女』は仮初の胎動に、打ち震えていた。

 歪に膨らみ、異形と化した肉の膨らみは、育むための器。

 絶望を啜り、憎しみを食らい、慟哭の涙で喉を潤すことで、膨らんでいく。その度に胎が疼き、果実が濡れて、粟立つ。

 

(―――まだよ。もっと)

 

 けれど、足りない。歪みが足りない。

 時空を越え、世界を越えて歯車を狂わせ、然るべき未来を奪っては歪ませ、地上という名の苗床に、歪な種子を蒔き散らす。

 歪みは更なる歪みを生んで、『へその緒』を介して流れ込み、漆黒の奔流が胎動を生む。

 

 充ちてはいないものの、揃いつつある。あとは、肝心な源。そっと床へ着かせてしまえばいい。

 雄は、勇者の血肉。雌は、精霊神の処女。歪な器の中で、この世の歪みとない交ぜにして、賜物を宿せばいい。

 

 さあ。孕みましょう。我が名は―――

 

________________________

 

 

「―――!?」

 

 無声の驚愕。アレルは目を覚ました途端に跳ね起き、ベッドを揺らした。

 今し方まで呼吸が止まっていたのか、水中で溺れ掛けた直後のように息苦しく、乾いた喉に痛みを覚えた。全身に浮かんだ冷や汗と相まって、微睡みの中で耳にした囁きが、背筋に悪寒を走らせる。

 

「はぁ、はっ……。ふうぅ」

 

 深呼吸を繰り返しながら、寝間着の袖で額の汗を拭う。しかし声は、耳から離れない。それはまるで、泥濘に足を取られたかのよう。両手で耳に蓋をしても、一層声は残響をして、囁きが繰り返される。

 アレルは僅かな月光を頼りに、己の利き手を見詰めた。

 

「やっぱり……。まだ、なんだな」

 

 血の気が引いた掌を確かに流れる、父から継いだ血。身体中を流れる、勇者の血。

 いつだってそうだった。魔の脅威を前にすると、血がざわつきを見せる。血の巡りが逆流するかのような錯覚が、確固たる悪の存在を知らせるに等しく、自分が『普通』ではないという現実を突き付けられる。

 まだ、終わってない。

 全部終わったら一緒になろうと、想い人にそう告げて、自分は今、何をしている?

 だからまだ、終わっていない。何かが始まろうとしている。

 

「……ジル」

 

 小声を漏らしてから、アレルは拳を強く握った。血盟するように強く、強く。

 

_______________________

 

 

 アリアハン城下町東部に設けられた礼拝堂の二階には、数名の寄る辺ない者達が暮らしている。

 重い病を患い、寝たきりの生活を続ける者。重傷を負って、療養生活を余儀なくされた者。そして―――あまりに悍ましい呪いから解放され、漸く落ち着きを取り戻しつつある女性。

 

(どうして、こんな子が……)

 

 ジルは静かな寝息を立てる女性を見詰めながら、そっと額に手を這わせた。

 外見から判断して、年齢は十代後半。清楚な物腰と言葉遣いから察するに、名のある家柄の人間かもしれない。

 何より、ラーの鏡を破壊するほどの呪いを背負わされ、身も心も獣と化したまま、一体どれだけの歳月を経たというのか。そしてそんな呪いを、一体何者が。

 

「……セリア」

 

 呪いの後遺症なのか、ヒトであった頃の記憶は、一部しか取り戻せていない。

 彼女が口にした手掛かりらしい手掛かりは、己の名『セリア』と、生まれである『ムーンブルク』。名前はともかく、ムーンブルクという名の人里は、この地上は勿論、地下世界アレフガルドにすら存在しない。彼女もタバサやライアンと同じく、別世界からの迷い人と考えていい。

 

「あら?」

 

 ジルが口を閉ざして考え込んでいると、緩く握られたセリアの手の中で、何かが光った。

 セリアを起こさないよう慎重に指を解き、やがて現れた光に―――ジルは、唖然とした。

 

「え……」

 

 思わず立ち上がり、言葉を発せなくなる。ただただ息が詰まって、光から目が離せない。

 あり得ない。あっていいはずがない。だって、これは。

 ジルは驚愕の表情を浮かべながら、急ぎ足で室内を後にした。慌てて階段を駆け下り、夜間勤めを担っていたシスターの一人、エリスを呼び止めて、声を掛ける。

 

「ジル様?どうされたのですか、随分と慌てたご様子で」

「あ、貴女、セリアを看てくれていたわよね。この『指輪』を、彼女が持っていたのよ。何か、知ってる?」

 

 セリアが手にしていた光は、『祈りの指輪』。所持者に魔力を注ぐ効能を秘めた聖なる指輪は大変希少で、その製法はエルフのみが知ると言われていた。

 

「ああ、その指輪はセリアさんの所持品です。今朝方に、私も目にしました」

「所持品って、あの子は何も持っていなかったのよ。指輪どころか、衣服だって」

「その……ここだけの話に、して頂きたいのですが。身体の『中』に、隠していたようなのです」

「か、身体の中?」

 

 体内。それが意味するところは、想像するに容易い。エリスは伏し目がちな様子で続けた。

 

「セリアさん、今朝からずっとその指輪を手放さなかったんです。セリアさんにとって、それほど大切な物なのだと思います」

「そんな……そんな、こと」

「……あの、ジル様?その指輪が、何か?」

 

 ジルは答えようともせず、セリアが手にしていた指輪をまじまじと見詰めた。

 何度見ても、どう見たって、見覚えのある刻印。賢しき者の冠を戴いた、あの日に授かった祈りの指輪に―――己の手で印した誓い、『賢しき光であれ』。

 唯一無二の指輪を付けたこの手に握られた、もう一つ。あるはずのない指輪が、ここに。

 

(セリア……貴女は、誰なの?)

 

 ジルの想いを余所に、祈りの指輪は僅かな光を湛えていた。

 捻じ曲げられた運命は少しずつ、動き始めていた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3章
邂逅


 

 レイアムランドからアリアハンへ戻り、二週間後の朝。

 起床したアレルが寝惚け眼を擦って階段を下りると、一階にはグリーンティーを啜りながら佇むライアンの姿があった。アレルの足音に気が付いたライアンは、カップを置いてコホンと小さな咳を出した。

 

「おはようございます、ライアンさん。もう来ていたんですね」

「これは失礼。外で待っていたのですが、ヤヨイ殿から声を掛けられまして。お邪魔しておりました」

 

 セリアに纏わる一連を見届けたライアンは、サマンオサには戻らず、アリアハンの宿屋で過ごす日々を続けていた。

 というのも、視力の大部分を失ったライアンにとって、サマンオサ旧市街での独り身はあまりに酷。日常生活すら儘ならない。そんな彼の身を案じたアレル達や宿屋側の協力の甲斐あって、今日に至っていた。

 

「これから用意するので、早速教会へ行きましょう。ジルも一緒にいるはずです」

 

 そしてアリアハンに留まったもう一つの理由が、セリア。呪いから解放され、療養中の身だったセリアは、不自由ない生活を送れる程度に精気を取り戻しつつある。以降はジルが彼女の面倒を見る手筈となっており、快気祝いを兼ねて様子を見に行こうという約束を交わしていた。

 

「あれ。ヤヨイは、外ですか?」

「そのようです。午前中はタバサ殿の勤め先の手伝いをすると言っていましたが」

「ああ、そうだったっけ。……ライアンさん、その便りは?」

 

 アレルの目に留まったのは、テーブルに置かれていた封筒。アレルの声に、ライアンはふと思い出したような様子で答える。

 

「失念していました。アレル殿宛で今朝方に届いた文だと、ヤヨイ殿が。確か、カザーブ村といいましたかな」

「カザーブから……おっと。ヴァンとリーファからだ」

 

 差出人の名に続いて、日付を確認する。王の月、竜の日。つまり手紙が書かれたのは、今から一ヶ月半前。アレルが日付を口にすると、ライアンは怪訝そうな表情を浮かべた。

 

「一ヶ月半前、ですか。随分と配達に時間が掛かりましたな」

「キメラの翼が出回らなくなった影響ですね。ルーラ便を使えば話は別ですけど、料金が以前とは比較になりません。余程急ぎじゃない限りは利用しませんし、手紙に限らず物流は変わりつつあるんです」

「ふむ。呪文に税を課す、という異国の法案も、あながち的外れではないように思えてきます」

「それ、ジルの前じゃ言わない方がいいですよ。絶対に」

 

 苦笑いをしながら封を切り、文面に目を通し始める。

 冒頭は取り留めのない四方山話だった。二人の近況に、愛娘アカネの成長。カザーブの盛況具合、小国ノアニールとエジンベア・ポルトガ間の情勢。

 

「……え?」

 

 そして、一つの出会い。起点はシャンパーニの塔。カザーブで生活を共にするようになったという、とある青年に関する話が、紙面には綴られていた。

 やがて読み終えたアレルは、そっと手紙を折り畳んで、考え込むような仕草を見せる。

 

「アレル殿?」

「いえ……とりあえず、セリアの所へ行きましょう。歩きながら、話します」

 

 声色を頼りに、ライアンはアレルの表情を察した。

 

________________________

 

 

 アレルが礼拝堂の扉を開けると、室内にはシスターの一人と会話を交わすジルが立っていた。アレルとライアンが堂内へ入ると同時に、ジルは二人を交互に見やりながら微笑みを浮かべた。

 

「ライアンさんまで。わざわざありがとうございます」

「暇を持て余す身でありますが故。して、セリア殿の具合は?」

「日に日に良くなってきてますよ。予定通り、今から自宅へ案内するつもりです。ただ……」

 

 ジルは一旦言葉を切り、気遣わしげな面持ちで告げた。

 

「記憶の方は、まだほとんど。思い出そうとすると、ひどい頭痛に襲われるみたいで」

「そっちの方は変わらず、か。ジル、やっぱり呪いの影響なのか?」

「分からないけど、恐らくはね」

 

 日常的な記憶や知識はあるし、呪いが解かれて以降の記憶にも不備は見られない。

 欠けているのは、セリア個人に関する記憶だ。自身の名と故郷の国名―――『ムーンブルク』という単語は覚えているものの、それ以外がすっぽりと抜け落ちてしまっている。生い立ちや家族構成、己の年齢さえ定かではないのだ。

 

「記憶を強引に呼び覚ます方法に、心当たりはあるけど……あまり焦らない方がいいのかもしれないわ。暫くの間は一緒に生活をして、様子を見てみようと思うの」

「俺もそう思うよ。それに彼女、お前には心を許してるみたいだしな」

「連日顔を合わせていれば、自然にそうなるわよ」

「そういうものか?」

「そういうものよ。それに―――」

 

 何かが脳裏を過ぎり、ジルは祈りの指輪を嵌めていた左手を、ぎゅっと握った。

 何故セリアが全く同じの、存在しないはずの指輪を持っていたのか。それが意味するところは。何も分かっていない状況下で、一際謎めいた事実に触れるのは、気が引けた。

 焦らなくていいのは、私も同じ。全てを見極めてからでも遅くはない。

 

「ううん、何でもない。その封筒、なに?」

「ああ、これか。ヴァンとリーファから、俺宛で届いたんだ。今ここで、読んでくれないか」

 

 アレルが封筒から手紙を取り出して、ジルに手渡す。

 どうしてこの場で。疑問を抱きつつ黙読を始め、視線が文面の後半に差し掛かるやいなや、ジルは大きく目を見開いて、唖然とした様子で言った。

 

「……驚いた。珍しく手紙なんて寄越したと思ったら……『もう一人』、来てたってことね」

「ああ。しかも読んだ限りじゃ、今から半年以上も前の話だ」

 

 青年の名はテリー。この地上とは異なる別世界からやって来たとされるテリーは、アリアハン暦で言えば昨年の一二八三年、牛頭神の月に、カザーブ村に現れた。時系列で考えると、タバサやライアンよりも前。場合によってはセリアよりも前に迷い込んだ、一人目の異世界人ということになる。

 

「この件については、俺が当たってみる。久し振りにヴァン達の顔も見ておきたいしな」

「私もお供します。アレル殿、宜しいですか」

「勿論です。その方が、俺も話をし易いです」

「分かった。セリアのことは、私に任せて」

 

 時期はともかく、放ってはおけない。謎ばかりが増加の一途を辿る以上、今は少しでも多くのそれを集め、繋がりを見い出すしか、選択肢はないのだから。

 

________________________

 

 

 アレルとライアンがカザーブへ飛び立ってから、一時間後。

 セリアを連れて自宅へと戻ったジルは、三日振りに玄関扉を開けて、室内へ入るようセリアに促す。

 

「さあ、遠慮しないで入って」

「し、失礼します」

 

 セリアは恐る恐る歩を進め、こじんまりとした家屋の中央で、内部の様子を見渡した。

 まず目に飛び込んで来たのは、分厚い書物で埋め尽くされた棚。それを囲むように積まれた本。ざっと見ても三桁に及ぶ書物の大部分が、『呪文書』。まるで書庫のような光景と、立ち込める紙の匂いに、セリアは不思議と安堵に似た感情を抱いていた。

 

「幼い頃に両親が亡くなって、この家は一度売りに出されたのよ。買い戻したのは、七年ぐらい前になるわね」

「……それまでは、何処で暮らしていたのですか?」

「教会の孤児院。でも、ほとんどはアレルの家で……兄妹同然に育てられたの。ルシアさんが、よく面倒を見てくれたわ」

 

 そっと瞼を閉じて、記憶の海に身を委ねる。

 あの頃。喪失と向き合えず、現実を受け入れ切れずにいた私を、優しく包み込んでくれた、忘れようがない温かな記憶達。思い出せばその分だけ、清涼の風が屋内を吹き抜けるようで、思わず笑みが零れる。

 こんな風に、幸せを思い起こす当たり前が―――目の前の少女には、叶わない。思わず胸に痛みが走り、ジルは誤魔化すように告げた。

 

「普段はあまり帰らないから、掃除なんかはヤヨイちゃんに見て貰っているの。今日からそれを、貴女にお願いしたくて。セリア、できそう?」

「は、はい。私にできることなら、何でも仰って下さい」

「ふふ、ありがとう」

 

 勿論、意図はあった。ヒトは無意識のうちに思考を働かせて、何かを考えようとする生き物だ。今日のこと、昔のこと、これからのこと。

 しかしセリアにとってそれらは全て、思い出そうとする行為に等しい。自分が何者で、何故ここにいて、この先どうしていけばいいのか。判断材料は存在せず、不意に訪れる頭痛に苛まれては、自我を失っていく。

 今のセリアを繋ぎ止めるためにも、時間を持て余してはならない。ちっぽけな遣り甲斐や幸せが、セリアには何より求められる。そう考えての同居だった。

 

「すごい数の呪文書ですね……これを、全てジルさんが?」

「まあね。量が増え過ぎて、預り所から苦情が来たっていうのも、この家を買い戻した理由なのよ。自宅兼倉庫って感じかしら」

「見ても、いいですか?」

 

 ジルが頷きで返すと、セリアは一冊の呪文書を手に取り、ぺらぺらと頁を捲った。

 するとすぐに、セリアの表情が一変した。視線が書に釘付けとなり、口をぱくつかせながら、夢中になって一枚一枚を指でなぞり始める。

 

「これって……こ、これも」

「セリア、どうかしたの?」

「し、信じられません。私の知らない呪文が、こんなに沢山……!」

 

 ジルはセリアの隣に立って、視界を共有した。

 目に映ったのは、メラ系統。全ての呪文の基礎とも呼ぶべき、人間の生活を象徴する火を生み出す呪文。ジルは大仰に首を傾げて、セリアの肩をとんとんと叩いた。

 

「ねえセリア。もしかして、メラを使えないの?」

「はい。というより、知りませんでした」

「でも貴女、イオナズンの呪文を使えるわよね」

「えっ。ど、どうして分かるんですか?」

「……な、何となくよ」

 

 そのイオナズンが、アープの塔を半壊させたなんて、言えるはずもなく。あの破壊呪文は獣化の呪いとは関係なく、セリア自身が唱えた物であることは、ジルも理解していた。

 イオナズン。数ある呪文の中でも最大級の威力を秘めるそれの使い手は、地上世界でも自身を含め数人しか存在しない。この一点だけでも、呪文を操る素養としては申し分ないばかりか、こうして直に触れていれば、己に匹敵する魔力のほどを肌で感じ取ることができる。

 だというのに、メラを使えない。寧ろ『知らない』というセリアの言葉が、一つの可能性を思わせた。

 

(ひょっとして、これって―――)

 

 呪文とは何か。ヒトの営みと共に在る呪文は、一体何処へ向かおうとしているのか。長年を経て募り積もってきた問いと、それに対する壮大な仮説。もしかしたら、これは。

 

「私にも、使えるようになりますか」

「え?」

 

 セリアの声で、ふと我に返る。ジルは手を置いていたセリアの肩が震えていることに気付き、セリアの横顔を窺うと、驚きのあまり、絶句した。

 

「私、にも……使える、ように」

 

 呪文書を見詰めていたセリアの頬を、水滴が伝って、頁に水玉模様が描かれていた。涙は止め処なく溢れていき、身体の震えが増していく。じわじわと肩に圧し掛かる重さが、身体を強張らせる。

 

「セリア……」

 

 肩から伝わってくる感情は、レイアムランドでの解呪中にも流れ込んできた物。記憶の断片達。未だ取り戻せていない、思い出してはならない暗闇が、彼女の嘆きを想起させる。

 もう、誰もいない。家族も、血を分けた兄妹も。 

 共に旅した『彼』も、そして『彼』も。みんな、死んだ。

 死んだ、死んだ、死んだ。私は、何者にもなれなかった。

 

「わた、わ、私、は」

「大丈夫よセリア。セリア、ほら」

 

 ジルはセリアの正面に立ち、両腕を彼女の背中に回して、何度も名を呼んだ。抱き留めながら、呪文を欲したセリアの想いごと、包み込むように。

 恐らく彼女は、あまりに多くを喪った。全てを奪われ、呪いに凌辱されながら、それでも尚、光を求めている。セリアにとっての呪文は力であり、希望の象徴。だからこそ呪文を望んでいる。応えてあげることができる人間は―――私だけだ。

 

「そうね。セリアならきっと、全部使えるようになるわ」

「……本当、ですか?」

「ええ。私に任せて。……ねえセリア。今はまだ、何も思い出せないかもしれないし、元の世界に戻る方法も分からない。でもね、私達がいる。貴女には、私がいるから」

 

 分からないことだらけの中にある、祈り指輪という確かな繋がり。ジルはセリアの未来を想いながら、いつまでも彼女を抱き続けた。呪文書に浮かんだ水玉模様が消えるまで、ずっと。

 

________________________

 

 

「変わらないな。この辺りは」

 

 カザーブを経由してシャンパーニの塔付近に飛んだアレルとライアンは、周辺に広がる平原を見渡していた。

 

「見事な景色です。歳を取ると、こういった自然に囲まれている方が落ち着きます」

「……見えてるんですか?」

「風が教えてくれるのですよ。盲目の身にも、段々と慣れてきました。早速向かいましょう」

 

 言いながら、ライアンが歩を進めた。寸分違わず、塔の扉の方角へと。

 この人は本当に、底が知れないな。盲目を思わせないライアンの挙動に目を奪われながら、アレルは後に続いた。 

 

「この辺りはエジンベアとポルトガ領土の境い目です。ちょうどあの塔が一つの基準になりますね」

「アープと違って、周囲に人気はありませんな」

「ナジミやアープは観光地として栄えましたけど、シャンパーニは今でも手付かずなんです。以前は盗賊が住み着いていたこともあったので。……今でも、あまりいい話は聞きません」

 

 例を挙げれば、罪を犯して追放された者。食い扶持が見付からず、人里を見限った者。流れ者が行き着く先と化したシャンパーニの塔に近付く人間は少なく、状況は悪くなる一方。魔物や盗賊が蔓延っていた以前とはまた違った意味で、腫れ物扱いをされていた。

 

「ふむ。エジンベアとポルトガは、敢えて見て見ぬ振りをしているという訳ですな」

「難しい問題ですが、アリアハンとしてもこれ以上は……ん?」

 

 視界に人影が映り、目を凝らして前方を見やる。塔の入口付近からこちらに向かってやって来る男性の出で立ちを見て、アレルは思い掛けず足を止めた。ライアンも何者かの気配を察し、アレルに問い掛ける。

 

「アレル殿。もしや、彼が?」

「そうみたいです。こんなに早く見付かるとは思ってもいませんでした」

 

 やがてお互いの距離が縮まっていき、青年が二人の数歩手前で立ち止まる。アレルは満面の笑みを浮かべて、とりあえずの挨拶を向けた。

 

「どうも。こんにちは」

「……フン」

「ちょ、ま、待ってくれ。君が、テリーだろ?」

 

 無視を決め込んで通り過ぎようとした青年の進行方向に立ち、慌てて声を掛ける。突然名を呼ばれた青年、テリーも警戒心を露わにしながら、やや距離を取って口を開いた。

 

「何だ、お前達は?」

「ライアンと申す。以後見知り置きを」

「俺はアレル。アリアハンのアレルだ。君のことは、カザーブでヴァンとリーファから聞いたんだ」

 

 アリアハンのアレル。ライアンという名に覚えがなくとも、半年間をカザーブで過ごしたテリーにとって、警戒を解くには十分過ぎる、英雄の名だった。 

 

「勇者アレル……成程な。お前のことは、俺もあの二人から聞かされたことがある」

「俺達もさっき、君の話を聞いたよ。気付いた時には、この塔の最上層にいたんだって?」

 

 アレルの含みのある物言いに、テリーは腕組みをして眉間に皺を作った。

 テリーがカザーブを発ったのは、今から二週間前のこと。この世界に迷い込んだ異変の真相を解明すべく、起点となったシャンパーニの調査を始めたのが、二日前。

 

「だからどうした。お前達には関係ないだろう」

「色々話したいことはあるんだけど、まずは確認させてくれ。塔の中に、変わった様子はなかったか?」

「丸二日間掛けて調べたが、別に何もなかったぜ。人っ子一人いやしない」

「一人も?人間が、いなかったのか?」

「大方魔物に追い出された口だろう。ちょうど俺がこの塔で目を覚ました時に、デュラン……凶暴な魔物が暴れていたからな。俺が仕留めていなかったら、大惨事になっていただろうぜ」

 

 大勢が住み着いていたはずの塔が、魔物の出現によってもぬけの殻に。そこまでの大事が各国に伝わっていなかったのは、エジンベアとポルトガが意図して伏せていたからだろうか。

 ともあれ、強大な魔物と異世界からの迷い人という大きな共通点がある以上、彼もそうであると考えていい。

 

「詳しいことは、後で話すよ。俺達と一緒に、アリアハンへ来てくれないか?。君に会わせたい人達がいるんだ」

「お断りだ。そこを退け」

「……うん。リーファから聞いていた通りだな」

 

 やれやれといった様子で肩を落とすアレルに代わって、ライアンが一歩前に出る。

 

「迷い人は、そなた一人ではないということだ。かく言う私も然り」

「……何だと?」

 

 漸く食い付いたテリーの右腕を、ライアンの左手が掴み取る。

 さあアレル殿、今のうちに。無言の促しに、アレルは躊躇いつつもルーラの呪文を唱えた。

 

________________________

 

 

 アレル邸に集ったのは、計七人。アレルにジル、ヤヨイ。そして異世界からの来訪者が四名。タバサはヤヨイの隣に座り、向かいの席にライアン。一方のセリアはジルの傍から離れようとせず、テリーに至っては部屋の隅に立ちながら壁に背を預け、沈黙を続けていた。

 

「テリー、座らないのか?」

「俺に構うな。さっさと始めろ」

 

 あからさまに不機嫌な声に頭を痛めつつ、アレルは全員を自宅へ招き入れた目的の説明を始めた。

 

「一つずつ確認していこう。四人に共通しているのは、この地上とは全く別の世界からやって来たという点だ。もう一度確認したいんだが、それぞれの出身を教えてくれないか?」

「私はグランバニア王国です」

「生まれは名もない村ですが、バトランドという国に腰を据えておりました」

「ムーンブルク、です」

「……ガンディーノだ」

 

 続々と上がる国名達。その全てが地図には記載されておらず、ヤヨイは勿論、世界中を渡り歩いてきたアレルやジルにも覚えがない。

 四人にとっても同様だった。お互いが口にした国名に心当たりはなく、同じ世界からやって来たという話でもない。言い換えれば、四人という人数分の世界が、次元を越えて存在しているということになる。

 

「よし。次は、四人が降り立った塔についてだな。タバサがナジミの塔で、セリアとライアンさんはアープ、テリーがシャンパーニ……そういえば、ジル。ガルナの塔でも、怪しげな光を見たって言ってたよな」

「前にも話した通りよ。あの光は、ナジミの塔で見た光とそっくりだった」

「てことは、ガルナの塔にもってことか?」

「可能性はあるけど、現時点ではそれらしい証言はないし、何とも言えないわね」

 

 時期はタバサと同じで、今から約四ヶ月前。ガルナの塔でも同様の現象が起きていたとするなら、最寄りの人里であるダーマで有力な情報が得られそうだが、現状は収穫なし。保留とするしかない。

 

「話を戻そう。厄介なのは魔物の問題だ。四人と同じように、強大な魔物が各地に出没し始めている。他の魔物達も獰猛さを取り戻しつつあるんだ」

 

 塔に出現した魔物に加え、ヤヨイの故郷ジパングには唐突にヒドラ。更に各地では魔物による被害が生じ始め、主要各国は対応に追われつつある。このアリアハンも例外ではなく、国家元首であるレイアも、頭痛に悩まされる日々が続いていた。

 

「いずれにせよ、こうして巡り合えたのも、何かの縁さ。同じ境遇の者同士、助け合っていくべきだと思う。元の世界へ戻る方法を見付けるためにも、俺達は協力を惜しまないつもりだ」

 

 その場を纏めるようにアレルが告げると、テリーは壁に預けていた身体を起こして、玄関口へと向かった。

 

「テリー?」

「話は終わったんだろ。これ以上お前達に構うつもりはない」

「いや、もう一つ聞いてくれ。暫くの間、このアリアハンで暮らす気はないか?」

 

 面食らったテリーは、馬鹿を言うなと言わんばかりの面持ちで答える。

 

「聞こえなかったのか。お前達の手を借りるつもりはないし、長居をする気もない。この大陸の塔は見ておきたいが、俺は俺一人で動く」

「好きにしてくれて構わないけど、俺とジルのルーラがあれば世界中何処にだって行けるし、各国に顔も利く。アリアハンは交易が盛んだから情報も集め易い。腰を据えるなら、打って付けだと思うんだ」

「それは……そうかもしれないが」

「思い付きで言っている訳じゃないさ。さっきも言ったように、俺達はこの世界で起き始めている異変の真相を究明したい。そのためには、当事者である四人の協力が必要になるかもしれない。だからこれは、俺からのお願いだ」

 

 アレルはテリーのみならず、他三名の迷い人に向けて、真っ直ぐな眼差しを向けた。するとライアンは首を大きく縦に振って応じ、タバサはヤヨイと、セリアはジルと視線を重ねた。お互いの想いを、確かめ合うように。

 そして未だ決め倦ねている様子のテリーには、アレルが。アレルは懐から一枚の紙を取り出して、テリーに差し出す。

 

「何だそれは」

「リーファからの言伝が書いてある。何かあったら使ってくれって言われてたから、今渡すよ」

 

 言伝を受け取ったテリーが、一文を無言で読み上げていく。一気に顔色が変わり、テリーは紙をくしゃくしゃに丸めてから、肩に提げていた鞄の中に荒々しく押し込んで、元いた位置へと直った。

 効果のほどを満足気に眺めていたアレルに、ヤヨイが小声で訊ねる。

 

(アレル様。何と書かれていたのですか?)

(聞かない方がいい。でもテリーは、リーファにだけは逆らえないみたいだな)

(……流石はリーファ様で)

 

 テリーとリーファの間に何があったのか、勿論ヤヨイには知る由もない。けれど、彼をこの場に留まらせたのは、他ならないリーファの言葉。悪態ばかりが目立つテリーにも、きっと―――

 

「てことで、ヤヨイ。あとは任せていいか?」

「え……え?」

 

 ―――テリーがカザーブで過ごした半年間に想像を働かせていると、ヤヨイは予想だにしない言葉に、思わず耳を疑った。アトハマカセテモイイカ。呪文の詠唱か何かだろうか。

 

「昨日話した通り、俺とジルはこれから城へ行かないといけないんだ。首脳会談も近いしな」

「あの、アレル様?えと、私は、何をすれば?」

「そうだな。ここは好きに使ってくれて構わないけど……」

「アレル、そろそろ時間よ」

「ああ、分かってる。ヤヨイ、夕食前には戻るから、宜しくな」

 

 時間に追われていたこともあり、アレルとジルが足早に去って行く。夕食までに戻るということは、大まかに見てあと三時間以上はこの場に残った四人の間を取り持たなければならない。

 厳かに佇むライアン。見るからに不服そうなテリー。ジルが消えた途端、落ち着かない様子のセリア。さて、これはどうしたものだろう。

 

「えー、コホン。その……タバサさん?」

 

 唯一無二の親友から助け舟を求められたタバサは、四人の中央に立ち、両の掌を叩き合わせて言った。

 

「改めて、自己紹介をしておきましょう。私はタバサ。二ヶ月前ぐらいから、ここでヤヨイと一緒に暮らしているわ。宜しくね、みんな」

 

 タバサに続いたのは、ライアン。

 

「ライアンと申す。今はこのアリアハンで宿屋暮らしをしている。見ての通り、訳あって目が不自由な身であるが、慣れるのも時間の問題であろう。見知り置き願いたい」

 

 控え目な声で、セリア。

 

「セリアです。皆さんのことは、ジルさんから……。記憶が曖昧で、覚えていることは少ないですが、皆さんに助けて頂いたことだけは理解しています。本当に、ありがとうございました」

 

 若干の間を置いて、テリー。

 

「テリーだ。半年前からカザーブにいた」

 

 あまりに手短なテリーの語りに半ば呆れつつ、ヤヨイは丁寧に頭を下げた後、掉尾を飾った。

 

「クシナダヤヨイと申します。生まれはジパングという島国で、七年ほど前から使用人として、アレル様に仕えています。普段はアレル様の身の回りのお世話を……あ。そろそろ食事の支度をしないとっ」

 

 ヤヨイは今晩の献立と陽の傾き具合を確認すると、慌てた様子でエプロンの紐を縛った。煮込み料理は調理に時間を要する上に、不足している食材の買い出しにも行かなくてはならない。タバサの手助けがあるとはいえ、すぐにでも準備を始めないと間に合わなくなってしまう。

 しかしアレルからはこの場を任されているし、放置をする訳にもいかない。ヤヨイが困り果てていると、タバサが何かを思い付いたような面持ちで告げた。

 

「ねえヤヨイ。折角だから、みんなでやりましょう」

「はい?」

「みんなで作って、みんなで食べるの。好きにしていいってアレルさんも言っていたし、それぐらいは構わないと思うけど、どうかしら」

 

 タバサの突飛な提案に、ヤヨイは他三名の反応を窺った。案の定、物言いたげな様子の男性が一人。テリーはタバサとヤヨイの会話に割って入って言った。

 

「おい待て、勝手に仕切るな。誰も手伝うとは言っていないだろう」

「それなら、テリーは買い出しの方がいいわね。私も一緒に行くわ」

「違う、そうじゃない。俺は別に、ちょ、待―――」

 

 瞬く間の強行突破。有無を言わさずテリーの腕を引いて、タバサが室内を後にする。ヤヨイは胸中でありがとうを言いながら、エプロンの紐を縛り直した。

 

________________________

 

 

 テリーとって、アリアハンを訪れたのは今日が初。城下町の大まかな案内を兼ね、タバサはテリーを連れて回りながら、必要な食材の仕入れを続けていた。

 

「お待たせ。野菜が安かったから、少し買い過ぎちゃったかも」

「寄越せ。俺が持つ」

「でもこれ、結構重いわよ?」

 

 一方のテリーは、無愛想な態度を取りつつ、麻袋一杯の荷物持ちを買って出て、タバサの隣を歩いていた。会話は長続きしないものの、話を振れば、しっかりと答えが返って来る。口数の少なさも愛嬌の一つと捉え、タバサは表情を緩めて言った。

 

「カザーブにいたって言ってたわね。カザーブなら、アリアハンで暮らし始める前に、私も一度立ち寄ったことがあるわよ。もしかして、何処かで会っていたのかしら」

「小さな村だからな。覚えていないだけなのかもしれない」

 

 カザーブを離れてから、今日でちょうど二週間。滞在していた半年間と比べれば、微々たる時だ。

 そう。ほんの二週間に過ぎないのに、まるで遠い昔の出来事のような、ずっと離れ離れになっているような感覚がして、テリーは苦笑をした。ルーラを使えば、事足りるだろうに。 

 

「……どうかしたのか?」

 

 テリーが物思いに耽っていると、タバサはきょとんとした表情を浮かべて、足を止めていた。

 

「ううん、その。急に優しく笑ったから、少し、驚いて」

「笑ってない」

「いやいやいや。笑ってたじゃない、しっかりと」

「笑ってない」

 

 笑った、笑ってない。路上のど真ん中で繰り返される押し問答。何度目か分からないやり取りが続く中、タバサの視界に、小さな黒色の翼が映る。

 

「あっ」

「ん?」

 

 通行人の頭上を飛んでいたのは、二羽のドラキーだった。アリアハンでは大して珍しくもない野良の魔物を目の当たりにしたタバサは、胸を弾ませて言った。

 

「可愛いっ。あの子達、野生よね?」

「番いだな。最近出会ったばかりのようだ」

 

 平然と口にしたテリーを、タバサは一層目を見開いて見詰めた。

   

「ま、待って。もしかして、分かるの?」

 

 タバサだからこそ理解し得る、テリーの驚異的な目と耳。魔物の雌雄一つ取っても外見だけでは判断し辛く、人語を発しないドラキー属特有の高音域は、注意深く聞き取らない限り声に変換できない。

 その全てを、一瞬のうちに。テリーの離れ業に気を取られていると、ドラキー♂がぱたぱたと飛来して、テリーの頭上で羽休めを始めた。一方のドラキー♀は、吸い寄せられるようにタバサの頭へ。

 

「あはは。この子達、人間慣れしているわね」

「お前も随分と手慣れているな」

 

 タバサは指先で頭上のドラキー♀を突きながら、思い切ってテリーに告げた。

 

「ねえ。子供の頃の遊び相手が爆弾岩だったって言ったら、どう思う?」

「別に何も思わないが」

「イエティと一緒に眠るのが大好きって言ったら?」

「ぬいぐるみを抱いて寝るようなものだろう……何なんだ、その顔は?」

「だってだって!こっちに来てから、誰も理解してくれなかったから」

 

 これもタバサだけの、誰の理解も得られなかった苦悩。ドラキーの艶やかな黒髪のような長い羽根が堪らなく愛おしい、などと口にすれば、周囲から際物扱いをされてしまう。ヤヨイに至っては真顔で「気味が悪いです」と吐き捨てる。

 犬や猫を愛でるのと同等か、それ以上の感情を以って魔物と接する人間が、私以外にもう一人。タバサは感極まり喜びの声を上げる一歩手前で踏み止まり、ドラキー♀を頭の上に乗せたまま、路上を歩き始めた。

 

「この子達、連れて帰ったら怒られるかしら」

「多少頭が重くなっただけだ。気付いていない振りをしておけ」

 

 その異様な光景は、良くも悪くも周囲の視線を一手に集め、二人の名は街中に知れ渡ることになる。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

世界変革の時①

 

 アレル様邸の前庭は広大で、広過ぎるが故に手入れも一苦労。彩りを求めて私が植えた草花が目立つぐらいで、山盛りの洗濯物を干しても、十分な余裕がある。

 そんな平庭の中央で相対しているのは、一組の男女。ひのき製の剣を互いに向け合う、タバサさんとライアンさんの姿があった。

 

「いざっ!」

「尋常に」

 

 二本の木剣を逆手に構えたタバサさんが地を駆り、宙を舞っての連撃。その全てを事もなげに捌いたライアンさんの反撃が、タバサさんを後方へと吹き飛ばして、再度タバサさんが仕掛ける。

 斬撃が走る度に突風が生じて、洗濯物が吹き飛びそうになる。手心を加えているとはいえ、下手に近付けば生死に関わる。本気を出されたらどうなってしまうのだろう。

 

「……相変わらず、ですね」

 

 立て続けの異変の中に生じた日常、とでも呼ぶべきか。魔物による被害が各地で相次ぐ一方、タバサさんをはじめとした異世界からの迷い人の出現は途絶え、私達の生活は落ち着きを取り戻しつつある。

 タバサさんは今でも私と同じ家屋で暮らしている。昼間は食事処として繁盛する酒場『ルイーダ』の貴重な戦力の一人。最近はライアンさんに手合せを申し出る機会が増えてきていて、今日も剣戟が街中に響き渡っている。

 ライアンさんも、アリアハンでの生活に馴染み始めているようだ。六十手前という老齢を感じさせない膂力は尋常ではなく、各方面から力仕事全般を任されたり、アレル様に代わって軍兵への剣術指南役を依頼されたりと、忙しない日々を送っている。視力は依然としてゼロに等しいというのに、時折忘れてしまいそうになる。本当に。

 

「えー、コホン。お二人共、そろそろお時間です」

 

 頭上でぎらぎらと輝く太陽を一瞥してから、二人に向けて声を張った。タバサさんは午後出勤だと言っていたし、ライアンさんも所用があったはずだから、正午の今が頃合だ。

 

「ふう……ありがとうございました、ライアンさん。いつも付き合って頂いて、助かります」

 

 額に汗を浮かべながら、肩を上下に揺らすタバサさん。対するライアンさんは汗一つかいていないばかりか、呼吸も平常その物で―――どういう訳か、思案顔でタバサさんを見下ろしていた。

 

「ふむ。タバサ殿、気を悪くしないで欲しいのだが、宜しいか」

「あ、はい。何ですか?」

 

 やがてライアンさんは、意を決したような様子で口を開いた。

 

「そなたの剣は、大切な何かが一つ、欠けている」

「欠け……欠けて、いる?」

 

 息詰まるような沈黙が訪れる。あまりに突然の提言に、タバサさんは勿論、私も声を出せず、身動きすら取ることができない。ライアンさんは巨大な木剣を頭上へとかざして、続けた。

 

「我が剣技は無頼一刀流。単身孤往を貫く、何者にも頼らぬ我流。そなたの隼の剣技も、恐らく我流であろう?」

「は、はい。大部分は、そうです」

「我流は『心の在り方』に等しい。そなたの二刀流……タバサ殿が『二羽の隼』に込めた流儀と信念は、そなたにしか知り得ぬこと。私が言えることは、それだけだ」

「私は……。私は、その」

 

 タバサさんが返答に窮していると、ライアンさんの大きな掌が、タバサさんの肩に置かれた。

 

「焦る必要はなかろう。セリア殿と同様、少しずつでよい。自ずと思い出せるはずだ」

 

 意味深な言葉を残したライアンさんは、とても自然な笑みを浮かべながら、その足で前庭を後にした。一方のタバサさんは、俯いた姿勢のまま微動だにせず、その表情が窺えない。彼女は今、一体何を考えているのだろう。

 

(二羽の隼……もしかして、双子の?)

 

 前々から感じていたことでもある。タバサさんは、過去に関して多くを語らない。私が知っているのは、彼女を成している一部分だけなのだ。ジパングでの一件以来、何処か吹っ切れたような印象があったけれど、傍にいる私達だからこそ、決して忘れてはならないことがある。

 この世界に生きている以上、『元いた世界の何かが変わる』訳じゃない。

 戻れないという現実があり、『手が届かない過去』がある。

 

「あの、タバサさん。そろそろ」

「ん……そうね。私も行かないと。これ、お願いしてもいい?」

 

 木剣を私に手渡したタバサさんは、逃げるような足取りで、私の前から走り去っていった。思わず後を追いそうになり、ぐっと耐えて小さな背中を見送っていると―――

 

「ひゃあぁ!?」

 

 突如として地面が揺れて、辺りに砂塵が舞い上がった。目元に砂が入り、手で押さえながらコホコホと咳を付いていると、前方から冷ややかな声を掛けられる。

 

「何をしているんだ、お前は」

「て、テリーさん、ですか?」

 

 やがて姿を見せたのは、銀色の長髪を揺らすテリーさん。右肩にはドラキチと名付けられたオスのドラキーが乗っていて、その愛くるしい間抜け顔が、テリーさんの整った顔立ちを一層際立たせていた。

 悪気がないとはいえ、不意を突くルーラは迷惑極まりない。口の中にも砂が入ってしまったようだ。

 

「お帰りなさい、テリーさん。五日振りですか?」

「いや、六日だ」

 

 比較的穏やかな生活を送るタバサさんと違って、テリーさんの日常はライアンさん以上に荒々しい。

 アレル様のルーラで主要各国を巡り、やがてこの世界の土地勘が付いて以降は、己のルーラで意気軒昂に飛び回る。アリアハンを拠点に世界を股に掛け、情報収集と魔物討伐の毎日。その目覚ましい活躍振りは国内に留まらず、各地で注目を集め始めていた。

 

「聞きましたよ。イシスの女王様から、直々にお言葉を頂いたそうですね」

 

 極め付けは先日、イシス地方の砂漠地帯における一件。イシス国からほど近い人里を襲撃していた魔物の軍勢が、唐突に降り立った一人の青年によって壊滅し、数多の人命が救われた。一報はすぐにアリアハンにも伝わり、友好国同士の関係にあったイシスとアリアハンは、その繋がりを益々深めるに至った。何を隠そう、テリーさんのお手柄だ。

 

「俺は偶然居合わせただけだぜ。特に騒ぎ立てることでも、へ、へくしっ」

「テリーさん?」

 

 テリーさんがくしゃみを出すと同時に、頭上から白色の何かが落下した。よくよく地面を見ると、驚いたことに雪の塊。頭上のみならず、身体のそこやかしこに粉雪が散見された。

 

「雪?ど、どうして雪を被っているんですか?」

「さっきまでレイアムランドにいたからな。生憎の悪天候だった」

 

 年中氷雪に覆われた大地、レイアムランド。場所によっては生憎どころか悪天候が常の極地なんかに、一体何故。

 大いに気に掛かるけれど、今はそれどころじゃない。身体が冷え過ぎているせいか顔色が優れないし、このままでは体調を崩してしまう。

 

「すぐにお湯を沸かしますので、どうぞ中に入って下さい」

「構うな。これぐらい平気だ」

「嘘を付かないで下さい。この間お話しましたけど、私に嘘は通用しません」

 

 言葉の裏側を覗き見る、嘘を嘘と見抜く力。先回りをして通せんぼをすると、テリーさんは観念した様子で頭を垂れた。

 

___________________

 

 

 あり合わせの食材をごった煮にして、即席のスープを拵える。皿によそったスープを一口啜ったテリーさんは、身体の芯から温まった様子で大きく息を吐いて、傍らに立っていた私に視線を向けた。

 

「一つ聞きたいんだが、お前のそれは、神仙術なのか?」

「はい?」

「神仙術の噂は、俺も聞いたことがある。ジパング人の中には、呪文とは違う不思議な術の使い手がいるそうだな」

 

 『それ』が何を指して言っているのかが分からず、暫し考え込んでから漸く気付く。

 神仙術。他者の嘘を暴く私の体質は、そんな大仰な力とは違う。

 

「いえ、違いますよ。神仙術は一部の血縁者にしか操れませんし、私なんかが、そんな。全くの別物です」

 

 神仙術の使い手は、女王であるナズナ様をはじめとした女性に限られる。ヤマタノオロチの策略だったのか、そのほとんどが人身御供の犠牲となったのが、九年前。少なくとも私が生まれ育った大集落には、数名しか残っていない。

 

「それよりも、どうしてレイアムランドなんかに行かれたんですか?」

「スー大陸の北端で、奇妙な噂を聞いてな。それが少々気になっただけだ」

 

 スー大陸はサマンオサ北部。大国が存在しない、開拓途上の巨大な大陸だ。六日前にアリアハンを発って、数日前にはイシス地方にいたはずだから、その後にスー大陸を渡り歩いて、更にレイアムランドへ。そして今。

 無茶が過ぎる。ルーラがあるとはいえ、強行軍にもほどがある。しかも、たったの一人で。そうまでして事を急く必要が、あるのだろうか。

 

「あの、テリーさん。あまり一人で無理をしない方が……焦る気持ちは、理解できますけど」

「面白いことを言うな。俺は別に、焦ってる訳じゃない」

 

 テリーさんはスプーンを置いて腕を組み、視線を左方に向けた。その先には、壁に立て掛けておいたタバサさんの木剣が二振り。

 

「焦ってるのは寧ろ、あの三人の方じゃないのか。何を背負っているのか知らないが、この世界は『逃げ場所』じゃない。それが分からないうちは、探し物は見付かりはしないさ」

 

 遠回しな形容に理解が追い付かず、虚空を見詰めること十数秒。

 逃げ場所。この世界の安寧が、逃げているに等しい。抽象的過ぎて、やはり理解には及びそうにない。

 

「勘違いはするなよ。あいつらは、この世界と向き合うことで、自分自身と向き合おうとしている。それ自体を咎めるつもりはない」

「それは……分かる、気がします。何となくですけど」

「今は道半ばといったところだろうがな。かつての俺も、そうだった」

「それは、カザーブでのことですか?」

「……俺の話は、どうだっていい」

 

 テリーさんは呟きながら立ち上がり、両腕に装着していた手甲を見詰めた。その柔らかな表情が、カザーブでの半年間を物語っているようで、不覚にも胸の奥底が高鳴り、思わず視線を逸らしてしまう。

 

「あいつらはともかく、アレルやジルは、この国の王を支える役目も担っている。自由に動けるのは俺ぐらいだ。一人旅は性にも合っているからな。精々働いてやるさ」

「そこまで考えて……」

 

 他者との関わりを最低限に留め、単独行動を優先する理由。世界中を駆け巡り、異変の究明を一手に担う理由。全ての行動が、確固たる考えがあっての物。

 私は大変な誤解をしていたのかもしれない。取っ付き難く、素っ気ない態度ばかりに気を取られていたけれど、この人は同じ境遇に置かれた三人のことを慕っている。しっかりと想っている。私なんかよりも、ずっと。

 

「何をにやついている。気味が悪いな」

「いえ、少し驚きました。テリーさんは意外に、皆さんのことを見ていたんですね」

「別に俺は……付き合いは短いが、二ヶ月もあれば分かることもあるさ」

「私はてっきり自分勝手で独りよがりなだっ……私は何も言ってません」

 

 時既に遅く。明後日の方向を見やって口を噤んでいると、テリーさんは目を細めながら両拳を打ち鳴らしていた。口は災いの元とは正にこのこと。

 

「あっ」

 

 不意に感じた魔力。まるで木の葉が地面に落下するかの如く、音が伴わないルーラの着地。玄関扉を開けたのは、理力の杖を携えた、法衣姿のセリアさんだった。救いの神とは正に彼女のこと。

 

「どうも、こんにちは」

「セリアさん……ありがとうございます、セリアさん」

「えっ。な、何のことでしょうか?」

 

 セリアさんはジル様と同居をしながら、シスター見習いの一人として教会に通っている。私と同じく、呪文をジル様に師事して学んでいて、姉弟子に当たる私としては、妹弟子ができて嬉しい限り―――だったはずなのだけれど。

 先程のルーラが全てを物語っていて、セリアさんはジル様が会得している呪文の八割以上を、既に自分の物にしている。あのジル様が目を瞠るほどの魔力と才は、私のような凡人とは比較にならない。始まる前から、抜かれていた。

 

「こちらの話です。えーと、ジル様をお探しですか?ジル様ならお城だと思いますよ」

「いえ、今日は特に用事もありませんので、何かお手伝いできればと思いまして。何なりとお申し付け下さい」

「えっ。ほ、本当ですか?」

 

 アレル様の使用人として、やるべきことは幾らだってある。手を貸して貰えるのなら有り難い限りだ。

 さて、何をお願いしようか。考え始めた矢先に、テリーさんが思い付いたように告げた。

 

「ちょうどいい。セリア、俺と一緒に来てくれないか」

「っ!?」

 

 予期せぬ言葉に、セリアさんは目を見開いてテリーさんを見詰めた後、視線がうろうろと泳ぎ始める。

 無理もないと思う。客観的に見て、テリーさんは異性としての外見的魅力があり過ぎるのだ。無駄に心が躍ってしまうから、不用意な言動は慎んで欲しい。

 

「レイアムランドでの話は、俺も聞いている。間接的にでもあの『卵』に触れたお前なら、何か分かるかもしれないしな。ヤヨイ、お前もだ」

「……レイアムランド?」

 

 聞き間違いだろうか。この人は今、レイアムランドと言ったか。しかも名を呼ばれたような気もする。

 

「詳しい話は後だ。早速飛ぶぞ」

「え、え?」

「て、テリーさん?」

 

 テリーさんの右手がセリアさんの左腕を、左手が私の右腕を掴み、向かった先は玄関口。

 どうして私まで。いやそれより、何故こんな急に。言葉にするよりも前に、テリーさんはルーラの呪文を詠唱した。

 

___________________

 

 

 瞬間移動は何度経験しても、身体が一向に慣れてはくれない。とりわけ寒暖差をはじめとした急激な変化は耐え難い物で、着地して間もなく四肢が悲鳴を上げて、身体の震えが止まらなくなってしまう。

 

「ささ、寒い!?や、やや、ヤヨイさん、こ、ここは」

「じ、呪文を応用して暖を取りましょう。セリアさんは、メラをお願いします」

 

 フバーハの障壁を展開して、セリアさんが生んだ小さな火球が辺りを照らした。その場凌ぎの策だけれど、これで暫くは凍える心配もない。

 それにしても、思い立ったが吉日な行動力はジル様を思わせる。せめて防寒具ぐらい用意させてくれてもいいだろうに。胸中で不満を溢していると、テリーさんは辺りを見渡しながら、怪訝そうな表情を浮かべていた。

 

「やれやれ、またか。魔物が殺気立っているのは、このレイアムランドでも同様らしい」

「わ、わわ!?」

 

 足元が揺れると共に、氷面に亀裂が走り、邪悪な気配が一気に噴出した。吹雪が勢いを増して荒れ狂い、やがて現れた巨人の半身は、溶岩魔人と対を成す存在。

 

「ひ、氷河魔人……!?」

 

 凍てつくような眼光に射抜かれて、身体が動かなくなる。大蛇の洞窟に現れた溶岩魔人をも上回る、異常な殺気。耳をつんざくような咆哮が、氷雪の大地に響き渡った。

 

「私に、任せて下さいっ」

 

 セリアさんが勇ましい声を張って、身構えていたテリーさんの前方に躍り出る。暖を取るために浮かべていた火に両手が触れると、火球は見る見るうちに膨れ上がっていき、彼女の身体から溢れ出る魔力の奔流に、私は声を失った。

 

「メラゾーマ!!」

 

 メラ系統の頂点。放たれた大火球は氷河魔人と共に爆ぜ、緋色の光が周辺一帯を照らして、焔の渦が頭上高くに巻き上がっていく。

 後に残されたのは、ぽっかりと空いた円環状の大穴。氷河魔人は欠片一つ残さず消滅していて、セリアさんは可愛らしい仕草を取りながら、呪文の成功に小躍りをしていた。

 

(何、この……何?)

 

 開いた口が塞がらない。二ヶ月前にはメラ系統の存在すら知らなかった人間が、最上級の呪文を手にするなんて現実が、あっていいのだろうか。七年間の歳月を費やしてヒャダルコがやっとの自分が情けなく思えてくる。

 

「まだだ。油断するな」

 

 緩み掛けた空気が、テリーさんの声で張り詰める。前方を凝視していると、氷面が再度揺れ動き、大穴を囲うように突き出た複数の氷柱が、瞬時に魔人へと変貌した。

 レイアムランドを象徴する魔物、氷河魔人が五体。身体の震えが一層強まり、その場に座り込んでしまいそうになるのを耐え忍んでいると、前方に立っていた二人が、同時に動きを見せた。

 

「も、もう一度私がやります」

「やめておけ。これ以上の火炎は、却って奴らの敵意を生む。お前は下がっていろ」

 

 テリーさんは腰を深く落とした構えを取り、緩く握った右手を脇に添えて、左手を前方に向けた。右手がぼんやりとした光を纏うと、吹雪の轟音が遠退いていく。

 呪文とは異なる力の波動。清流を思わせる体捌き。逞しい背中に、リーファ様の面影を垣間見た、その刹那。時の流れまでもが止まったような感覚に陥って、音が完全に消えた。

 

「拳聖流、霊光掌―――二の型『流星』」

 

 上空へ放たれた波動は、やがて無数の光の矢へと変わり、夜空を駆ける流れ星の如く、辺り一帯に降り注いだ。足元から伝わってくる振動に耐えかねて、耳を塞ぎながら身を屈めていると、向けられていたはずの殺気が、一気に消えていった。

 

「終わったぜ。もう起きてもいい」

 

 恐る恐る顔を上げると、辺りには大小入り混じった氷塊が転がっていた。テリーさんは呆然と佇んでいたセリアさんをまじまじと見詰めて、苦言を呈し始める。

 

「呪文の腕は認めるが、使いどころを間違えるな。弱点を突くことで、逆効果に繋がる場合もある」

「はい。以後気を付けます。それにしても、すごい技ですね」

「師に恵まれただけだ。俺の技じゃない」

「……あのー。私、帰ってもいいですか?」

 

 この二人は、本当に私と同じ人間なのだろうか。全く別の生物のように思えて仕方なかった。

 

___________________

 

 

 ラーミアの祭壇へ向かう道すがら、テリーさんはスー大陸で耳にしたという奇妙な噂について語ってくれた。

 

「三日前の深夜、遥か北の夜空に、流れ星のような六色の光を見た、という原住民の話を聞いてな。俺が調べて回った限りじゃ、目撃者は複数人に渡る。内容はどれも似たり寄ったりだったぜ」

「六色の……成程。それでレイアムランドの祠を訪ねたんですね」

 

 余ほどの理由がない限り、レイアムランドに足を運んだりはしない。漸く合点がいったけれど、問題は六色の光とやらの正体についてだ。

 引っ掛かるのは、『六色』という点。かつてアレル様は、世界各地に眠っていた六つのオーブを祭壇に捧げ、不死鳥ラーミアを蘇らせた。オーブが湛える神々しい輝きは、今でも瞼の裏に深く刻まれている。何かしらの異変が起きているとすれば、オーブの可能性が高い。

 

「一度調べてはみたんだが、如何せん以前の状態を知らないからな。お前達なら、何か分かるんじゃないか」

「分かりました。少し時間を下さい」

 

 セリアさんと共に石畳の階段を上り、祭壇の手前で立ち止まって、辺りを見回した。

 セリアさんの呪いが解かれた場であるとはいえ、呪いが健在だった頃の記憶は不鮮明なはずだ。一方の私は三度目。一度目はアレル様に連れられて、二度目が前回、そして今日。明確な変化があれば、私でも気付くことができる。

 

「えっ……あ、あれ?」

「ヤヨイさん?」

 

 思わず目元を擦り、もう一度。見間違いじゃない。オーブが―――無い。

 台座に安置されていたはずの六つのオーブ。ブルー、レッド、シルバー、パープル、グリーン、イエロー。その全てが跡形もなく、忽然と姿を消していた。

 

「オーブが消えた……つまり、どういうことだ?」

「わ、私にも分かりません。どうして、オーブが……?」

 

 六つのオーブの消失。それが何を意味しているのか。困惑を深めていると、知らぬ間にセリアさんは祭壇上に立って、前方に佇んでいた不死鳥の卵を撫でるように、そっと両手を添えていた。

 

「セリアさん?な、何をしているんですか?」

「お静かに」

 

 今度は目ではなく、耳を疑った。普段のあどけなさが一切感じられない、凛然としたセリアさんの声が、静寂を生んだ。

 すると卵が僅かに振動をして、殻内から微かな声が漏れた。

 

『貴女からは、聖なる力を感じます』

『貴女からは、聖なる光を感じます』

『貴女は、何者ですか?』

 

 前回も耳にした二つの美声。太古よりラーミアの御卵を見守り続けたという二人の巫女が、セリアさんに応じるように、声を揃えて言葉を並べた。

 

「私はセリア。貴女達は?」

『私はリリ』

『私はララ』

『私達は、ラーミアの御卵を守っています』

 

 しかし声は続かず、やり取りはそれが最後。再び深い静寂が訪れて、セリアさんと二人の巫女は、それ以上を語ろうとはしなかった。

 けれどセリアさんは、瞼を閉じながら、卵を撫で続けた。まるで母親が赤子を愛でるかのように、繊手が卵の紋様をなぞっては、優しく、柔らかに。声を掛けることすら躊躇われて、私とテリーさんは立ち尽くしたまま、セリアさんの背中を見守っていた。

 

「……教えてくれて、ありがとう。ラーミア」

 

 ほどなくして。

 セリアさんは優しげな声を漏らした後、振り返って祭壇を降りた。頭上に疑問符を浮かべる私達に、セリアさんは多少戸惑いながら、順を追って説明を始めた。

 

「えーとですね。オーブは消えた訳ではなく、独りでに世界中へ散らばったようです」

「……おい。本当に順を追っているのか?」

「お、追っていますから、一つずつ説明させて下さい」

 

 気を取り直して、セリアさんの声に耳を傾ける。

 今から八年以上前。アレル様をバラモス城へと導き、使命を全うしたラーミアは、再び永き眠りに付いた。巫女の力を借りて殻に籠り、少しずつ生気を蓄えていき、眠りが深き安眠に達した今、六つのオーブは更なる生吹を求めて、台座を離れた。

 

「そもそもオーブは、それ自体にはラーミアを蘇らせる力はありません。この地上に生きとし生ける者達の、生命の流れに溶け込んで、気が遠くなるような歳月を経て、生気を宿すんです」

「……そのために、オーブは世界中へ散らばった、ということですか?」

「はい。要するにこれは、喜ばしい変化と言えます」

 

 話が壮大過ぎるせいか、本音を言えば俄かには信じ難い。しかし少なくともオーブの消失は、昨今の異変とは無関係。三日前の流れ星はオーブが上空で振り撒いた光であり、ラーミアの胎動を示す耀き。そう捉えて相違ないようだ。

 

「成程な……しかし釈然としないな。お前は今、何をしたんだ?」

 

 しかし一方では、全く別の謎が浮かび上がる。セリアさんは何故、一連の真実に触れることができたのか。私達の当たり前の疑問に対し、セリアさんは困惑を露わにして言った。

 

「私にもよく分からないのですが、自然と声が聞こえたんです。もしかしたら、私の魔力に反応したのかもしれません」

「そもそもラーミアとは一体何なんだ?」

「それも、分かりません」

「お前と話していた巫女は」

「す、少なくとも、ヒトではないようですね」

「……もういい」

 

 歯切れが悪過ぎる返答を前に、テリーさんは頭を抱えて俯いた。私も聞きたいことは山積りだけれど、問い質すのは後回しにしよう。十中八九、埒が明かない。

 するとセリアさんは再度振り返り、ラーミアの卵を見詰めてから、告げた。

 

「一つ、お願いがあるのですが。もう少しだけ、ここに留まってもいいでしょうか。不思議と、何かを思い出せそうな気がして……。お願いします」

 

 深々と頭を下げるセリアさんの申し出を、断れるはずもなく。私とテリーさんが頷きで応えると、セリアさんは子供のように、朗らかな笑みを浮かべた。

 

___________________

 

 

「すっかり夜だな」

「ええ、すっかり夜ですね」

「ご、ごめんなさい!本当にごめんなさい!」

 

 もう少しだけ。セリアさんの言葉を真に受けた私とテリーさんは、見事に裏切られる結果となった。

 祠の隅で○×遊びに興じ続けた私達は、その回数が三十に達した頃になって、漸くレイアムランドを発った。ルーラでアリアハンに戻ると、陽は完全に沈んでいた。何ごとにも限度があるだろうに。

 

「ヤヨイー」

「あ、タバサさん。それにライアンさんも……ああっ!?」

 

 庭先で呆然としていると、後方からタバサさんとライアンさんがやって来る。二人の顔を見て、益々頭が痛くなってしまう。

 夕飯の支度を、何一つしていない。朝と昼はともかく、夜だけは皆で食べる日常が当たり前と化した今、この場に集った全員分の夕飯が見当たらない。アレル様とジル様は、お城で食事を取ると言っていたから問題ないものの、これはどうしたものだろう。

 

「それなら、外へ食べに行きましょう。お店なら沢山あるじゃない」

 

 困り果てていると、タバサさんが気にする素振りも見せずに告げた。

 やはりそうなるか。これ以上セリアさんを追い詰める訳にもいかないし、いい機会だと受け取って、今晩ぐらい少々の贅沢をしてもいいのかもしれない。

 

「それしかありませんね。では、場所は何処にしますか?」

「酒を飲める店にしてくれ。酒で鬱憤を晴らしたい」

「最寄なら、ルイーダ殿の酒場であろうな」

「私も賛成。そういえば、セリアってお酒飲めるの?」

「は、はい。時折ジルさんと一緒に、嗜む程度ですが」

 

 思い思いを口にしながら、私達は夜の繁華街へと向かった。

 歩きながら見上げた先には、一面の星空が広がっていた。

 

___________________

 

 

 ―――羽目を外し過ぎたのかもしれない。

 ルイーダさんの酒場だけでは飽き足らず、二軒目の酒場から帰路に着いた私達は、ひどくゆっくりとした歩調で、夜の帳が下りた街路を歩いていた。

 

「うぅ……テリー、速い。もっとゆっくり」

 

 タバサさんの酒の弱さは今晩も変わらずで、赤面を通り越して顔面蒼白となったタバサさんは、テリーさんの肩を借りて歩くのがやっと。今日は大して飲んでもいなかったはずだけれど、どうも悪い方向に酔いが回ってしまったらしい。昼間の一件を、引き摺っているのだろうか。

 

「無理をするな。少し休んでいくか?」

「んん。多分、大丈夫」

 

 一方のテリーさんは強い体質のようで、ほど良く楽しめたようだ。今日になって分かったことだけれど、テリーさんは酔いが回ると素直な一面を覗かせるというか、普段の刺々しさが鳴りを潜めて、端的に言えば優しくなる。もしかしたら、こちらの顔が本来のテリーさんなのかもしれない。

 

「このように愉快な夜は久方振りだ。一興一興」

 

 ライアンさんは異次元。水で喉を潤すかのように、私の倍以上は飲んだはずなのに、顔色一つ変わっていない。でも、ああやって己を曝け出すライアンさんも珍しい。常に調和を重んじて、他人の感情に応じることがほとんどのライアンさんが、自分から。

 

「ジルさん……ジルさん」

 

 そんなライアンさんの背中で寝息を立てるセリアさん。酒を飲むと饒舌になる人間は多いけれど、セリアさんはその傾向が顕著で、ジル様について捲し立てるように語り出す。ジル様がどれほど偉大で、魅力的な女性なのかを語り出しては止まらなくなる。聞いている側が恥ずかしくなるぐらいに。

 

(こんな日々が……いつまで、続くのでしょうか)

 

 最近は考え込んでしまう場面が増えつつある。

 そもそも四人の足並みは同じではない。元いた世界へ戻りたいという想いに差があるように映るし、テリーさんの言葉を借りれば、道半ば。誰しもが重い何かを背負いながら、毎日を精一杯生きている。こんな風に笑い合える夜の隣では―――得体の知れない異変が、この世界の何処かで、生じ始めている。

 明日に何が起こるのか、誰にも分からない。分からないからこそ、今は穏やかな日常を過ごして欲しいと、そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

世界変革の時②

 

 アレルとジルが王城から戻り、ややあって。

 ヤヨイとタバサが暮らす離れの屋根上で、テリーは闇夜に浮かぶ星々を仰ぎながら、物思いに耽っていた。幼少の頃の記憶を頼りに、口笛を静かに鳴らしていると、背後から人の気配を感じた。

 

「よいしょっと。こんな所にいたのね」

 

 タバサが身軽な跳躍で屋根に上ると同時に、番いのドラキー達が、二人の頭上で翼を羽ばたかせる。タバサは深々と息を吸って伸びをしてから、テリーの左隣へと座り、彼と視界を共有した。

 

「酔いはもう醒めたのか」

「少し残ってるけど、もう平気。心配掛けてごめんね」

 

 別に心配なんてしていない。そう言い掛けて、テリーは仰向けに寝そべり、タバサの横顔を窺った。

 顔色が優れないのは、悪酔いの影響。何処となく浮かない表情は、酔いとは別の何か。タバサは宙を見詰めながら、静かに口を開いた。

 

「ねえ。変な話、してもいい?」

「好きにしろ。聞き流してやる」

「ん……私ね。セリアと、同じなのかもしれない」

 

 唐突な告白。テリーは僅かに眉を動かして、タバサの声に耳を傾ける。

 

「昼間に、ライアンさんから言われたのよ。私の剣は、何かが欠けているって。正直に言うと、思い出せないことがあるの」

 

 隼の剣。速度に特化した二刀流の剣技は、長年を経て編み出した我流。この世界に迷い込んで以降も鍛錬を怠らず、剣と共にある日常に変わりはない。欠けている物などあるはずもなく、ライアンが呈した苦言を前に、まるで心当たりがなかった。

 しかしながら、どうしても思い出せないことがある。剣技ではなく、その根底にあるべき物が、見当たらない。

 

「あの日の私が……私がどうして、剣の道を歩もうと思ったのか。自分のことなのに、思い出せないの」

 

 私は何を想って、剣の道を往く決意を固めたのか。

 二羽の隼に込めた想いは、一体何だったのか。

 そもそも私は、何故剣を握っているのか。

 思い出せない一方で、脳裏を過ぎるのは、双子の兄の姿。天空の勇者という肩書を思い起こす度に、ない交ぜになった記憶と感情の蓋が閉ざされて、自分を見失いそうになる。

 

「ライアンさんに言われるまで、気付きもしなかった。こんなこと、あり得るのかしら」

「おかしな話でもない。俺も初めは、そうだったからな」

「……テリー、も?」

 

 テリーは半身を起こすと、腰に着けていた皮袋の中へ右手を入れた。取り出されたのは、今から半年近く前に託された宝石。『夢見るルビー』は、闇夜の中でもしっかりと、ピジョンブラッド色の光を放っていた。

 

「この宝石は、所持者が願う『夢』を見せてくれる。代償として、凄まじい身体の痺れに襲われるが、使いようによっては、記憶を呼び覚ます術にもなり得る」

「記憶を……もしかして、テリーもそれを使ったの?」

「ああ。何度か夢を見ているうちに、全部思い出せた」

 

 テリーは苦笑をしながら、夢見るルビーを強く握り締めた。その姿を見て、タバサは躊躇いつつも、テリーの過去に、そっと触れた。

 

「どんな、夢を見たの?」

「聞きたいのか?」

「聞きたい、かも」

「後悔するかもしれないぜ」

「……でも、気になる」

 

 やや間を置いてから、テリーは語った。

 幼き故に抗う術もなく、奈落の底で歪んでいった少年の名は、テリーといった。

 

___________________

 

 

 少年にとって、最愛の姉は彼の全てだった。悪戯好きで向こう見ずな少年は、姉の手を焼かせては叱られて、その手で慰められる。泣き疲れる度に、姉が奏でる子守唄に導かれて、微睡む日々を繰り返す。安寧と平穏に満ちた毎日は、しかしそう長くは続かなかった。

 最愛を奪われた少年は、何より己の非力さを呪った。何度も何度も拳を地に打ち付けて、血に染まるばかりのちっぽけな手が、途方もなく憎かった。行き場のない憎悪の塊は、自分自身に向けるしかなかった。

 いつしか少年は、力を欲するようになった。故郷を捨て、抗う力を求め、世界中を渡り歩いた。少年は青年へと成長し、やがて行き着いた先で―――青年は、人間をも捨てた。

 感情を捨てた。

 尊厳を捨てた。

 矜持を捨てた。

 思い付く限りの全てを捨て去り、代償を力に変えて、更なる力を欲した。精神を闇に支配されても尚、力が欲しかった。誰も救おうとしてくれない世界で、救える力が存在するのだと、誰かに証明するために。

 

「……姉、さん?」

 

 そうして手に入れた力は、変わらずに鮮血で染まっていた。

 誰の物でもない自分だけの、ずっと欲しかった力は、青年の最愛を凌辱していた。

 奪われたはずの最愛。失ったはずの最愛。ちっぽけな手が掴み損ねた最愛が、動かない。

 

「ああ、あああぁぁあ、ああああぁあ!!?」

 

 ただ理不尽な世界に翻弄された末に、青年は漸く、巨いなる力を手にしていた。その力を以って、己を支配していた闇を斬り、目に留まった敵を斬り、斬るべき存在を求め、世界の果てまで流れ歩いた。

 ふと我に返ると、肉塊の海の中央に立っていた。

 血生臭い池の真ん中で、青年は血涙を流しながら、微かな声で口ずさむ。

 子守唄。遠い過去の記憶に触れて、青年は慟哭しながら、世界が歪んでいくことに気付く。記憶を失った青年が降り立った塔を、人々は『シャンパーニの塔』と呼んだ。

 

___________________

 

 

 夢の中身を語り終えたテリーは、再び身体を寝かせると、隣から伝わってくる感情の正体を窺った。

 大部分は、明確な恐怖。控え目な拒絶。無理もないと、テリーは苦笑した。夢の中には、誰も救おうとしてくれなかったあの世界には、いつだって救いようのない末路しかなく、夢は現実に等しい。夢は、夢ではいられない。

 

「テリーは……元の世界に、戻りたいの?」

 

 漸く口にした言葉は、腫れ物にそっと触れるように、遠回しだった。テリーは間を置かず、頑なな意志を込めた声で答える。

 

「当前だろ。俺達は本来、この世界の住人じゃないんだぜ」

「そっ……それは、そうだけど」

 

 テリーは仰向けの姿勢のまま、右手を夜空に向けてかざした。

 決して届かないこの空の下で、数多の人間が生きている。誰かを愛し、愛されながら生きる人間がいて、そんな当たり前の現実と向き合える自分が、ここにいる。

 

「タバサ。俺はこの世界を、『逃げ場所』にはしたくないんだ」

 

 漠然とした想いは、固い信念に変わりつつある。一切の人間らしさを失ったからこそ、見い出せた物がある。

 剣を握らないという力がある。

 自分を赦すという強さがある。

 変えようのない過去がある一方、明日を変えることはできる。

 失った物は、これから取り戻せばいい。捨て去ったはずの感情がある。あの二人が教えてくれたことがある。多くを与えてくれたこの世界で、できることがある。

 逃げ場所にしてはならない。居場所だからこそ精一杯生きて、一日たりとも無駄にはしたくない。帰るべきその瞬間まで、身を焦がす覚悟も、ここに。

 

「あいつらが生きる、あいつらが守り抜いたこの世界を、俺も守りたい。それだけの話だ」

 

 言い終えてすぐ、タバサが音もなく立ち上がる。タバサは伏し目がちに視線を背けながら、両手を強く握り締めて、その拳は小刻みに震えていた。

 

「ごめんね。私、甘えてた。何も知らずに……何の覚悟も、なしに」

 

 私は彼に、何を求めようとしていたのだろう。どんな言葉を期待していたのだろう。

 私にだって、守りたい物がある。守りたい者がいる。親友の故郷で手にした聖雷は、希望の灯火。迷い流れた果てに、この世界で見付けた光がある。

 けれど今は、失った記憶一つに見っともなく怯えて。取り乱すばかりか、自分自身の弱さに気付きもしない。向き合おうともしていなかった。

 

「何を謝っているのか知らないが、まあいい。こいつはお前に預ける」

 

 テリーは腰を上げて、手にしていた夢見るルビーを、タバサの眼前に差し出した。

 

「どうするかはお前次第だが……焦るな、とだけ言っておくぜ。ヒトは追い詰められると、手が届く身近な所に、答えを作ってしまいがちだ。俺もその一人なのかもしれないがな」

「ううん、そんなことない。そんなことないわ」

 

 タバサは微笑みを湛えながら、宝石を受け取った。

 するとテリーの手が、素早い動作でタバサの肩へと伸びる。多少の力を込めて肩を掴まれ、タバサは思わず上擦った声を漏らした。

 

「あの、えっ、なに?て、テリー?」

「あれは、何だ?」

 

 テリーの目線を追って、頭上を仰ぐ。その先には、不可思議な光景が広がっていた。

 闇夜に覆われていたはずの空が、光を放っていた。まるで時刻が深夜から日没前に逆戻りをしたかのように、橙色の輝きが、地上を照らしていた。この世界を見下ろす『空』が、『呪文』の光を纏っていた。

 

「……『ボミオス』?」

 

 真っ先に思い浮かんだ呪文の名を、タバサは口にした。

 

___________________

 

 

 自宅へと戻ったアレルは、道中に合流した五人のうちの一人、ライアンと杯を交わしていた。

 住民のほとんどが寝静まり、夜の静寂に包まれる中、生真面目な男二人が咲かす話題は固い。開催を三日後に控えた首脳会談に始まり、各国間の情勢。国軍への剣術指南と、互いの剣技について。少量の酒を口に含んだアレルは、以前から抱いていた既視感について言及した。

 

「無頼一刀……ライアンさんは何処となく、父に似ています」

「これは光栄の至り。して、その心は?」

「孤高を強さとする強さ、でしょうか。前々から考えていたことです」

 

 単孤無頼。自らの信念を貫き通し、何者にも頼らず、為すべきを為す。

 父親に関して知ることは少ない。物心が付いて間もなく、オルテガは単身このアリアハンを発った。それでも父親の背中は、鮮明に眼へ刻まれている。地下世界の奥底で目の当たりにした背中は、変わらずに逞しく、大きかった。大き過ぎて、到底手の届きようがない、壁のような背中。

 

「そういった強さもありましょう。されど強さと弱さは表裏一体。アレル殿、貴方は頼るべきです」

「俺は……」

 

 不意に言葉が詰まり、アレルは視線を落とした。

 この身に流れる血のざわつきが示す、確固たる悪の存在。各地で相次いでいる異変が、何かの始まりを告げようとしている。何が起きても不思議ではない状況下で、どういう訳か、孤独感ばかりが募っていく。

 

(この感覚は、何なんだ?)

 

 これも前々から感じていた違和。変化の兆しは自分自身の中にもある。

 振り返れば、いつだって誰かが隣にいた。頼るべき者達に囲まれ、孤独は一時もなかった。どれほどの窮地に立たされても、選択に迷う余地などなく、その結果が今に繋がっている。

 しかしここに来て、掴みどころのない不安に苛まれている。漠然とした畏れ。自分が何に怯えているのかが、一向に見えてこない。

 

「ライアンさん、俺は……ライアンさん?」

 

 胸の内を明かそうとしたアレルは、ライアンの視線を追った。見えていないはずの目が、頭上の何かを凝視している。天井の向こう側、遥か上空から降り注ぐ―――魔力の奔流。

 

「気付かれたか、アレル殿」

「はい。一旦、外に出ましょう」

 

 勢いよく席を立ったアレルとライアンが、足早に玄関口から屋外に躍り出た、その刹那。

 淀んだ夏空に雷鳴が轟くように、一瞬だけ地上が光に照らされて、夜が消えた。橙色の耀きに視界を奪われたアレルは、目に沁みた光を振り払って恐る恐る瞼を開き、そして愕然とした。

 

「何だ、これ。い、今のは、呪文なのか?」

 

 戦慄が身体中を駆け巡る。

 まだら蜘蛛の糸が全身に纏わりついたような感覚。特有の身体の重み。減速呪文、ボミオス。

 

「間違いありませんな。この呪文は、確かにボミオスです」

「待て、待ってくれ。そんなっ……!?」

 

 アレルは、頭が空回りしているのを自覚した上で、思考に鞭を打って回転させた。呪文の正体はこの際どうだっていい。問題はその対象と詠唱元だ。

 たった今、減速呪文は誰に向けられた。

 呪文を詠唱した何者かは、何処にいる。

 この受け入れ難い現象を、どう捉えればいい。

 

「……あれも、そうなのか」

 

 光の色が、変わった。夜が再び中断を告げて、目が冴えるような青色の光と魔力で、上空が染まっていく。

 変動呪文、『ルカナン』。眼下を嘲笑うかのように、空が地上に向けて、呪文を詠唱した。

 

___________________

 

 

 朦朧とした意識の中、吐き気と喉の渇きが、段々と治まっていくのを感じていた。次第に頭痛も和らいでいき、ゆっくり時間を掛けて瞼を開けたセリアは、傍らに座っていたジルに声を掛けた。

 

「ジルさん……。えと、私は」

「ん、起きたみたいね」

 

 熱を帯びた吐息と共に、酒の残り香が口内に広がった。上半身を起こしたセリアは、頭を手で押さえながら、ジルの声に耳を傾けた。

 嫌な予感は当たっていた。身に余る量の酒を飲んだセリアは、ライアンの背に担がれて、ジルと共に暮らす部屋のベッドへと運ばれた。目を覚ましたのは、それから約一時間後。日付は既に変わっていて、皆で夜を満喫したのは、昨日の出来事となっていた。

 

「ご、ごめんなさい。私、またご迷惑を」

「それを言うなら『ありがとう』。気分はどう?ホイミが効いたはずだから、大分楽になったと思うけど」

「……ホイミ?」

 

 改めて自分の体調を見詰め直す。言われてみれば、睡眠に至るほどの深酒に及んだ割には目が冴えているし、頭も軽い。酒の経験が浅くとも、不自然さは理解できてしまう。

 

「少しコツは要るわよ。通常のホイミじゃ効果はないの。今度教えてあげるわ」

「ホイミにそんな……は、初めて知りました。呪文が、酔いに効くなんて」

 

 セリアは胸を躍らせて、目を瞠った。少女のような初々しい反応を前に、ジルはセリアの頭にそっと手を触れた。姉が妹へ注ぐ愛情を思わせる、慈しみ溢れる愛撫。

 

「ねえセリア。呪文がどうやって生まれたのか、考えたことはある?」

「え?」

 

 それはジルが抱き続けてきた、世界に対する壮大な問い掛け。きょとんとした表情を浮かべるセリアに、ジルは饒舌に言葉を並べた。

 

「ヒトが使う呪文と魔物の呪文は、根底が違ってる。なら、何が違うのか。そもそも呪文とは何なのか。私なりにずっと考えてきたことけど、結局のところ、何も分かっていないの」

「それは……考えたことも、ありませんでした」

「でも一つ言えることは、呪文は私達人間の歩みを映し出す、鏡みたいな物だって思うのよ」

「鏡、ですか?」

「そう。例えば、こんな風に。……『アバカム』」

 

 ジルの利き手が光を纏い、放たれた光玉は、宙を漂って玄関扉へと向かった。セリアが固唾を飲んで見守っていると、扉を閉ざしていたはずの錠が、がちゃりと音を立てて独りでに外れた。

 

「施錠という概念が存在しなかった太古に、この呪文は存在し得ない。こうやって新たな呪文が生まれることもあれば、その逆も然り。消えて往く呪文も、あるんだと思う」

「……消える?」

 

 賢者の称号は、与えられた肩書きにあらず。言わば先人達が築き上げた、蓄積された知識と想いの集合体。

 呪文とは何か。何処からやって来て、何処へ向かうのか。賢者と称された者の数だけ答えがあり、それら全てが文字として綴られ、『悟りの書』に新たな頁が生まれる。ジルが見い出した境地もまた、形に成りつつある。

 

「ヒトの営みが変われば、呪文の在り方も変わる。呪文は私達が生きた証でもある。だからこそ私は、呪文と真摯に向き合って、大切にしたいの。……セリア?」

 

 誰にも明かしたことのない信念を語り終えて、ジルはセリアの頬を伝う水滴に目が留まった。

 

「ごめんなさい。私、どうして」

「……大丈夫。今は、分からなくていいから」

 

 理由のない涙が、次々に零れ落ちていく。セリアは左腕で目元を隠しながら、未だ眠り続けている記憶達の一片を、僅かに垣間見た。

 私はきっと、何かを成し遂げることができなかった。救おうとして救えた者がいて、しかしヒトは、いつだって誰かを救える訳じゃない。救いようのない世界で、守れなかった何かがある。

 だから今は、呪文という希望の光を、尊い物にしたい。私の手に残された光は、もっともっと大きくなる。導いてくれる女性がいる。何故なら私は今、この世界で生きているのだから。

 

「ジルさん。私は―――え?」

 

 異変は何の前触れもなく、舞い降りた。

 時の流れに何かが絡まり、息苦しさが込み上げる。意識と身動きが噛み合わず、ジルとセリアはぎこちない動作で、頭上を仰いだ。

 何者かによる減速呪文の詠唱。堪らずに飛び起きたセリアは、ジルの背中を追って、既に開錠されていた玄関扉から屋外へ駆け出した。

 

「きゃあぁ!?」

 

 立て続けの変動呪文。ルカナンの光が上空から放たれるや否や、全身の薄皮を剥かれたかのような不快感が到来する。ボミオスとの相乗が更なる苦痛を生み、遥か頭上の夜空は三度、不気味な輝きを放つ。

 

「封魔の光……ジルさん。これは、夢なのでしょうか」

「そう思いたいけど……覚悟を決めましょう。世界が、変わるわ」

 

 『ボミオス』、『ルカナン』、そして封魔の呪文『マホトーン』。この地上で生きとし生ける全ての者達に、三つ目の呪文が向けられた。

 アリアハン暦一二八四年、一角獣の月初旬、竜の日。生命は三重の枷に縛られ―――世界が、変わった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。