もこっちの楽しい日常 (ニックワンワン)
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お品書き ~各話紹介~

 現在投稿済みの各話に関する概要です。

 お好みの作品を選んで頂く際の参考にして頂ければと思います。

 

『黒木琴美という絶望』

 二年生編が舞台。

 智子視点の一人称形式で、黒木姉弟+小宮山さん×智貴要素ありのちょっと暗めなお話。

 智子の前に智貴と小宮山さんが現れ、「自分達は付き合ってる」と明かしてくるが……。

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『私たち原幕ダンジョン探検隊』(全三話)

 二年生編が舞台。

 智子視点の三人称形式で、智子となかまたちが学校の地下に出現したダンジョンへと赴く現代ファンタジー的なお話。

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『もここみひとり飯』

 二年生編が舞台。

 群像視点の三人称形式で、学食でぼっち飯を食らっていた智子がその場に居合わせた小宮山さんへと絡んでいくお話。

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『もこっちと小さかった智くん』(全四話)※2021.5/31追記:全面的に改訂しました。

 智子視点の三人称形式で、黒木姉弟要素あり。

 姉弟仲睦まじかった頃を懐かしむ智子がひょんな事から幼い頃にタイムリープしてしまうお話。

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『スウィートホーム 智子夫人の肖像』

 群像視点の三人称形式で、小宮山さん率いるテレビ局の取材班が、山奥にあるいわくつきの屋敷「黒木邸」へと赴くまでを描いた導入編的なお話。黒木姉弟+若干のホラー要素あり。

 ファミコンのRPG『スウィートホーム』のパロディで、年代及び舞台設定や人間関係等がわたモテ本編と全く異なっています。

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『弟切草 カエッテキタトモクン』(全十四話+あとがき)※2020.7/22追記:全面的に改訂しました。

 小宮山さん視点の三人称形式で、黒木姉弟+小宮山さん×智貴要素あり。

 山道で夜のドライブ中だった小宮山さんと智貴が、ふとした事から森の奥に潜む不気味な洋館へ迷い込むホラーなお話。

 スーパーファミコンのサウンドノベル『弟切草(おとぎりそう)』のパロディで、年代及び舞台設定や人間関係等がわたモテ本編と全く異なっています。

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 ≫あとがき

 

『わたモテvsちょく! 可愛いものマニア現る』(全五話)

 一年生編終盤を舞台とした智子視点の三人称形式で、谷川(たにがわ)ニコ先生の漫画『ちょく!』とのクロスオーバー。

 二年生への進級を目前に控えた智子が『ちょく!』のヒロインである赤井芹花(あかいせりか)と偶然出会った事から始まる騒動を描いたお話。ほんのり百合要素あり。

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『原幕キス祭り』(全三話)

 三年生編序盤が舞台で、智子視点の一人称形式。

 キスしないと出られない部屋に閉じ込められた智子が、色んな人達とやむなくキスしていく百合要素ありありのお話。

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『もこ式好感度測定機』(全三話)

 三年生編序盤が舞台で、智子視点の一人称形式。

 艦これの『零式好感度測定機』が元ネタで、他人からの好感度を測る事の出来る装置を智子が拾った事から始まる騒動を描いたお話。黒木姉弟要素あり。

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『かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く』(全七話+あとがき)※2020.7/13追記:全面的に改訂しました。

 二年生編が舞台で、智子視点の一人称形式。

 冬休み、弟と二人っきりでスキー旅行へ出掛けた智子が親戚の経営する山奥のペンション「シュプール」にて遭遇する殺人事件を描いたミステリー風のお話。

 スーパーファミコンのサウンドノベル『かまいたちの夜』とのクロスオーバーです。

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 ≫あとがき

 

『岸辺露伴は動かない 蠱惑の人』

 三年生編が舞台で、荒木飛呂彦(あらきひろひこ)先生の作品『岸辺露伴(きしべろはん)は動かない』とのクロスオーバー。

 漫画家の岸辺露伴が智子を取材した際に遭遇した奇妙な事件を、彼の視点から描いた一人称回想形式のお話。うちもこ要素あり。

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『もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴』(全十二話)※2021.5/25追記:全面的に改訂しました。

 小宮山さん視点の三人称形式で、三年生編のゴールデンウィークを間近に控えた時期を舞台として小宮山さんと智子の精神が入れ替わってしまう騒動を描いたお話。もここみ要素、小宮山さん×智貴要素、黒木姉弟要素あり。

 大林宣彦監督の映画『転校生』およびその原作小説である山中恒先生の『おれがあいつであいつがおれで』を意識させて頂いた内容となっています。

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『原幕小の七不思議』(全九話+あとがきとおまけ)

 三人称形式で、小学五年生の智子が主人公。

 学校の七不思議に興味を持った智子がなかまたちと共に恐るべき怪異へと巻き込まれていくホラー要素ありのお話で、映画『学校の怪談』を意識させて頂いています。

 わたモテ原作とは舞台やキャラの配置、年代などが異なっています。

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 ≫あとがき

 ≫おまけ

 

『ガールズ&パンツァー 智子の戦車道』

 テレビアニメ『ガールズ&パンツァー』とのクロスオーバーで、原幕学園艦に在籍する智子が今江先輩のもとで戦車道に励む一人称回想形式のお話。今もこ要素あり。

 葉夢堂様の小説アンソロジー『クロはモテない文学少女(偽)2』に寄稿させて頂いた作品です。※2020.9/28追記:主催者様よりご許可を頂けましたので、加筆修正を加えた上で投稿させて頂きました。

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 スーパーファミコン風動画(若干のネタバレあり) https://www.youtube.com/watch?v=yAz3R0ISCaE



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黒木琴美という絶望

こんな内容ですが作者は小宮山さんが大好きです。
※こみ×智貴要素あり。


「俺、小宮山(こみやま)先輩と付き合ってるんだ」

 

 珍しくはにかんだ表情を見せる弟が、ボソリと呟くような声で私に言った。

 

「黒木さん、智貴(ともき)君を私にください!」

 

 弟の傍らに立つメガネもそれに同調して鼻息をふんすか吹きつつたわごとをのたまう。

 ふいに私の前に現れた二人が脈絡も無くそのような事を突然言い放ったものだから、私はまるで交通事故に遭った瞬間のように意識が宙に浮いた。

 

 耳の奥がキーンと鳴り出す。鼓膜が突如塞がれたように外界の音が遮断されていく。全身の血管を乾いた灼熱が逆流していくような感触に体中の産毛が一気に逆立っていき、それに合わせて私の中から体温と共に色という色がみるみる抜け落ちていくような感じがした。

 

 ぐにゃりと大きな擬音付きで世界が波打って歪む。

 

 先程二人が私に言い放った言葉の意味が上手く理解出来ない。頭の中の脳みそもなんだか子供の遊んだ粘土のようにぐにゃぐにゃになってしまって、正常な思考力がすっかり損なわれてしまったようだ。

 

 いやいや、本当は理解している。ワカっている。いましがた私が見せ付けられたばかりの出来事の意味を既に明確に理解出来ている事は、私自身のこの急激な感覚の乱れこそが如実に物語っている。頭の中で言葉を反芻せずとも、思考を巡らせずとも、弟から開口一番ぶしつけに告知を受けた直後に全てを察してしまったが故のこの反応なのである。

 

 この二人は、つまり、いつの間にかそういう事だったのだ。全然知らなかった。気付かなかった。今の今までそれらしい疑惑を抱く事すら許されなかった。

 

(どいつもこいつも、私抜きで事前に打ちあわせでもしてるのか……?)

 

 いつも周りから出遅れる度にそんな風に訝しんでいた私だけれど、どうもその推察はやはり正解だったのかもしれない。一瞬にして世界中の全てから置いていかれたような寒々しい空しさだけが、すっかり冷え切って色の抜け落ちた私の中を塗りつぶしていく。

 そんな私の哀れなまでの狼狽ぶりを知ってか知らずか、二人は先程の宣告の続きを行い始める。

 

「俺達、卒業したら結婚するつもりなんだ」

「智貴君とは二人でアパート借りて一緒に暮らすから。アンタも私と同居なんて嫌だろ?」

 

 私に何かを語りかけている二人の言葉が耳の中に遠く響く。

 すっかり塞がってしまった私の耳は最早まともに音を聞き取れなくなっている筈なのに、それでもその言わんとしている事だけは何故だか明確に心に伝わってきてしまう。

 

 こいつはいっそ派手に泣きじゃくってやりたい。力の限り目一杯喚き散らして私が受けた衝撃をこの阿呆な二人に容赦なくぶつけてやりたい。

 だけども悲しいかな、私の体は先程から全く持って自由が利かなくなり一切の意思表示すらも許して貰えなくなっていた。

 とうとう五感の全てがぼやけたようになって、私は立っているのがやっとの状態だ。小刻みに揺れる両膝が私の意志に関係なくぺちぺちと互いに衝突を繰り返している。

 

 目の前でこれ程までに私があからさまな変調を見せているというのに、この二人には私の憔悴ぶりを気に掛ける様子はさっぱり見られない。

 それどころかすこぶる顔色の良い二人は私に向かい合いつつも、隣り合って立つお互いを時折横目で確認しては何が嬉しいのか口元を緩ませたりしていた。

 

 そうなのだ。こいつらは私に向かって語りかけているようでいて実はちっとも私の事など気にしていないのだ。情けなき我が弟とこのメスの顔をしたメガネもまた、その辺の浮かれたカップル達同様に結局はお互いの事だけしか意識に無いのだという事が良く判ってしまって、一人取り残されてしまった私を顧みてやろうという配慮は甚だ感じ取れなかった。

 全身を蝕み続ける虚脱感とは裏腹に、そんな二人に対してふつふつと沸き立ち始めた強烈な苛立ちがお腹にどんどん詰め込まれる感覚が募っていく。

 

 私の弟の癖に。私のものなのに。勝手に誰かのものになるなんて。

 メガネの癖に。変態で性欲の塊の癖に。いつもいつもお前は私の大切なものを奪いに来る。

 

 今やお腹に溜まった苛立ちは重たいボーリング玉のようになっていて、その重さに立っていられなくなった私は遂にその場にへたり込んでしまった。何もかもが気持ち悪い。吐きそうだ。

 

 と、そんな私の方をメガネがいつの間にかまじまじと見つめている事に気付いた。

 

「あ、あのさ、黒木さん」

 

 中腰に屈んで顔を近づけてきたメガネが普段の低く冷たい声とは異なる甘ったるいメスの声色で語り掛けてくる。こいつのツラを間近で見せられていると本当に嘔吐してしまいそうだ。

 

「結婚したら私って、つまり黒木さんの妹って事になっちゃう訳だし……」

 

 メガネの眼鏡に嵌っている爛々とした目玉がせわしなく右往左往する。私のお腹の中に溜まった気持ちの悪いモノを眼前のコイツの顔面に全て吐き出してやりたい。

 

「だからさ、これからは黒木さんの事……」

 

 判った、もういい。お前は喋るな。それ以上喋ったら本当に出てしまう。

 おねがい、やめて。

 

「お、『お姉ちゃん』って呼んでいいかな?」

「オォエエェェェェェェ────ッ」

 

 ◆

 

 出すものをひとしきり出しきってからぜいぜいと息をつく。気付けば私は廊下の窓辺から身を乗り出して本当に嘔吐してしまっていたようだ。眼下に広がる草むらには私が全力で吐き出したお昼のお弁当が無残にも撒き散らされている。

 

 今まで私は何を見せられていた? 確か私はつい先程までただ窓辺によりかかってボンヤリと物思いに耽っていただけの筈だ。そう、もしも私の弟がこの先あのメガネとまかり間違ってくっついてしまう事があったらどうなるか。ふとした思い付きで、ほんの興味本位でそんな事に思いを巡らせていた筈だったのだが、気付けば私は己の止めどもない思索の果てに突きつけられたおぞましき未来を目の当たりにして正気を失ってしまっていた。

 

 滅多に無い事ではあるのだが、私は先の未来やもしもを想像したりする際、今しがたのように時折異様な現実感と共にその光景を垣間見てしまう事があるのだ。

 

(これはもしかするともしかするんじゃ……)

 

 私に予知の一種のような力があるかは判らないが、先程味わってしまった生々しい体験の強烈さが心中に警鐘を鳴らす。あのような酷い未来が万が一にも実現してしまわないよう、なんとしてもメガネのヤローは弟から遠ざけねばならぬ。いわんやあの破廉恥な妹もだ。

 エヘンエヘンと咽つつ汚れた口元をハンカチで拭いながら、そう固く心に誓って拳を作る手には強い意志の力がこもる。この私がいる限りお前ら姉妹の好きにはさせんぞ、と。

 

(……さっきの誰かに見られてないよな?)

 

 先程のなりふり構わぬ吐きっぷりを他人に目撃されていないか、心配になって思わず辺りを見回してしまう私なのだった。

 

おしまい




★例のあの人の噂(New!)
急にガクガク震えだしたかと思ったら、いきなり窓からゲロを噴射した(ゲロ木さん状態)。


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私たち原幕ダンジョン探検隊(上)

西暦二〇XX年、突如出現したダンジョンの脅威が智子を襲う。


原幕(はらまく)に地下ダンジョン出現!』

 近頃世界的に話題になっている『ダンジョン』が智子(ともこ)の通う学校にも出現したと全校集会で発表されたのはつい一ヶ月程前の事だった。この出来事は当然の事ながらいまや全校生徒達の間で大きな話題となっており、それは智子のいる二年四組においても例外ではなかった。

 

 朝のHR前後から始まり、授業間の小休憩や昼休みは勿論の事、果ては放課後に至るまでと、教室の中では四六時中生徒達がダンジョンの話題でひっきりなしに盛り上がっており、実際に一部の上級生が本格的な攻略パーティを組んで財宝を持ち帰る事に成功したという話や、それに調子づいた生徒らが功名心に駆られて同じく攻略を試みるも返り討ちにあってしまった等という話が連日教室の至る所でささやかれていたのだった。

 

 そんなこんなで学校全体がダンジョン熱にのぼせあがっていく中、我らが黒木智子(くろきともこ)はというと、一見そういった話題には関心無さげな風を装ってはいたものの、内心では他の生徒達同様に興味津々なのであった。

 ありふれた日々の日常に対し人一倍退屈を感じてやまない智子であるからして、こんな非日常的な面白イベントが起ころうものなら持ち前の好奇心がうずいて仕方がなくなってしまうのだ。

 

(でも結構凶暴なモンスターとかも居るみたいだし……)

 

 とは言っても大変に慎重で臆病な性格でもある智子にとって、盗み聞きした他の生徒らの噂話から伺えるダンジョン内の魔窟ぶりは物見遊山気分の気安い挑戦を躊躇させるには十分なものがあった。

 これが中学時代の積極的な、悪く言えば思慮の浅かった頃の自分であれば、よくつるんでいた当時の級友らと喜び勇んで無謀なダンジョン攻略を敢行していた事だろう。

 

(仮に行くとしても、やっぱり仲間は必要だよな)

 

 見学程度にごくごく浅い階層だけを探索する程度であっても、今もって謎が多いとされるダンジョンの中では何が起こるか判らない為、生徒が一人だけでダンジョンに足を踏み入れる事は学校としても堅く禁止していたのだった。

 それまで思考の海に沈んでいた智子がふいに何かを思いついたように意識を浮上させ、誰かを探すかのように騒がしい教室内を見回した。

 

 と、目当てとする人物の姿をそこに認めたのか、おもむろに席から立ち上がった智子は遠慮がちにヒョコヒョコと意中の相手へと歩み寄っていった。

 

 ◆

 

「え? ダンジョン?」

「う、うん……試しに行ってみようかなって思ってて……」

 

 ダンジョンに入る為には最低でも二人以上のパーティを組まねばならないというのが学校の規則だ。であるならばと、必要に駆られた智子が共に連れ立ってくれる仲間を求めて声を掛けたのは、クラスメイトの田村(たむら)ゆりだった。

 といっても智子がゆりを頼ったのは別にダンジョン内での頼もしい戦力になってくれると考えたからでは無くて、クラスの中では一番誘い易い相手であったというだけの話だったのだが。

 

(別にガチで攻略しに行く訳じゃねーしな……ほんのちょっとうろつく程度ならこいつとでも大丈夫だろ)

 

 もし己に超人的な戦闘能力でもあったのであれば話は全く違ったであろうが、ごく普通のそれも随分と非力な部類に入る女子高生である智子としてはダンジョンを実際に攻略してみようか等といった冒険心は毛頭起きないのだった。

 

「別に良いけど、結構危ないらしいよ? 怪我するかも」

「あ、大丈夫……最初らへんの階だけ少し見てく位だから」

 

 この手のダンジョンのお約束に漏れず原幕に出現したダンジョンもまた、表層階においてはごくごくレベルの低いモンスターしか出現しない事が行政の調査によって明らかにされており、それもあって比較的浅い階層では肝試しのつもりで訪れた多数の生徒達で連日賑わっている程であった。

 

「そう、じゃあ放課後に真子(まこ)も誘って行こっか?」

「え? あ、うん……良いと思うよ」

 

 そうと決まれば話は早く、即席で結成された智子ら三人組パーティは午後の授業が終わるまで待ってから早速ダンジョンの入り口がある場所へと赴く事になったのだった。

 

「黒木さんもダンジョンに興味あったんだね。私も今度ゆりとちょっとだけ行ってみようかなって思ってたんだ」

「へー、そ、そうなんだ……!」

 

 ゆりと並んで歩いていた真子が、その後ろを付いて歩く智子へとふいに話しかけた。瞬間、思わず体をこわばらせてしまった智子がそれに対し上擦った声でどもり気味に相槌を打つ。

 

 ゆりと大層仲が良いらしい真子というこの少女。智子が彼女と知り合ったのはゆりを介しての事ではあったものの、近頃は三人一緒に昼食を取ったり、下校時には一緒に帰ったりする程には智子にとっても交流のある相手ではあった。

 とはいえこの真子に対する智子の印象としては少しばかり思う所が無い訳でもないのが正直な所だ。これは実際にはお互いのちょっとした誤解が原因ではあるのだが、智子の主観では彼女があろうことか同性である己に対して並々ならぬ性的興味を抱いていると思い込んでいたのである。

 

(ダンジョンの中って暗いみたいだし、ドサクサにまぎれてこっそりセクハラされたりして……)

 

 以前智子がトイレの中で一息つこうとした時、己のいる個室の中にまで入り込んで来た真子から力づくで迫られた事もあって、奥手そうに見えて何をしでかすか判らないこのクラスメイトに対し智子は少なからず貞操の危機を感じてしまってもいたのだ。

 ましてやこれから向かおうとしている先は普段の学校とは何もかも勝手が異なる異次元空間なのである。それ程危険な階層へ行く訳ではないとはいえ、思いもよらないトラブルやハプニングに見舞われた場合にパーティメンバーが突飛な行動に出ないとも限らないのだ。

 

(なんか隠し扉みたいなのがあって、そん中にうっかり二人で閉じ込められでもしたら最早逃げ場が……)

 

 同性愛に関しては比較的ライトな興味しか持ち合わせていない事を自負する智子にとっては、そちらの方がモンスターに襲われるよりも余程恐怖に感じられなくもない。

 が、さりとて智子にとってダンジョンへの侵入はこれが生まれて初めての事である。如何に探索を表層階だけに留めるとはいえど不安が無い訳ではなく、今の智子としてはダンジョン内での仲間の数が一人でも多く居てくれるに越した事は無いのであった。

 

 ◆

 

 原幕におけるダンジョンの入り口は部室や空き教室等が集中している棟の裏手に存在する。

 今でこそ常に人で賑わうようになったこの校舎裏ではあるが、ダンジョンが発生する以前はたいへんに人通りが少ない場所であり、智子はここを貴重な隠れスポットの一つとして時折教室に居辛くなった時等に利用させて貰っていたものだったから、ダンジョン発生後に場の雰囲気がすっかり一変してしまった事には少しばかりの残念さを感じてもいたのだった。

 

 一行がそんな校舎裏へ到着すると既にそこには狭い校舎裏にひしめくようにしてたむろしている生徒達の姿があった。皆、智子らと同じようにダンジョン見学をしたり、実際にパーティを組んで攻略を試みる為に集まってきたのだ。

 ただ、見ればどうも彼らの様子が些かおかしいようで皆一様にその場から動こうとせず、なにやらダンジョンへの入り口がある校舎裏の突き当たりをこぞって注目しつつざわめいていたのだった。

 

「なんだろうね?」

「うーん、誰か怪我しちゃったのかなぁ」

「し、死人でも出たとか?」

「あはは……まさかぁ」

 

 真子の憶測にギャグのつもりで不謹慎なジョークを返してみせる智子ではあったが、それもダンジョンという場所を前にしては少々笑えない冗談となりうる。

 原幕のダンジョンは世間一般のそれと比べると全体的に難易度が低めと判断されており、それ故に学校側も生徒らに条件付きでダンジョン攻略を許可しているのだが、ダンジョンという場所そのものが常識の通用しない魔境である事は変わらない為、一般の学生の立ち入りが許可されているレベルのダンジョンであっても思わぬ事故というものが発生してしまう可能性は常にあるのだ。

 

「ねえ、あそこにいるのって吉田(よしだ)さんじゃない?」

 

 と、つまさき立ちをして人ごみの視線の先を伺っていたゆりが、そこに自分達の顔見知りが居る事を見て取ったようだ。

 

「ホントだ、なんか先生と揉めてるみたいだね」

 

 真子もまた同じようにして確認してみた所、一行が目指していた方向の先では確かに自分達の見知った者同士が口論している様子が見えたのだった。

 

(前が見えねぇ)

 

 背の低い智子には目一杯背伸びしても他の二人のように確認する事が出来なかった為、知り合いの揉め事と聞いて俄然気になってしまった智子は真相を確かめるべく慌ててジャパニーズチョップスタイルでモゾモゾと生徒らの間をかき分けていく。

 

 ◆

 

「だから、別に一人でも大丈夫だっつってんだろーが!」

「そういう問題じゃないの! 何度も言うけど、学校が親御さんからあなた達を預かっている以上、これは必ず守らないといけない決まりなのよ?」

 

 人ごみの最前列まで進んだ智子の眼前で押し問答を繰り広げていたのは、果たして確かに顔馴染み達であった。一方は智子らのクラスメイトである吉田という名の素行不良で通っている女子生徒が、そしてもう一方には智子ら二年四組の担任を務める女性教諭・荻野(おぎの)の姿があったのだ。

 彼女らは丁度ダンジョン入り口の手前に設置されている詰め所の前で二人してああでもないこうでもないと互いに声を張り上げていたのである。

 

 ちなみにこの詰め所は生徒達が好き勝手にダンジョンへと侵入してしまわないように学校側が見張る為に用意されたもので、ダンジョン入り口の封鎖が解かれる昼休みや放課後になると各クラスの教師らが持ち回りでこの詰め所に駐在してダンジョン探索を行う生徒達からの申請の受付や彼らへの安全確認を行う取り決めになっていた。

 

 吉田嬢の手の中で握り潰されているクシャクシャの白い紙は彼女がダンジョンへと赴くにあたって用意しておいた申請用紙であろうか。どうもこの二人の様子からすると彼女が果敢にも単独でダンジョンに挑戦しようとした所を荻野教諭に咎められているという事のようだった。

 過去、これまでに世界中で起こってきたダンジョン内における数々の事故や事件から人々が得てきた教訓を鑑みれば、いくら吉田嬢が己の力に絶対の自信があるといえど、彼女の身の安全に配慮すべき学校側がこのような対応で返すのは至極当然の事なのである。

 傍から見ればここは吉田嬢の方が折れるべき局面なのは誰の目にも明らかであったのだが、彼女はこれと思う事にかけては強情で粘り強い気質を見せる人であったようで、目の前の担任教師が根負けして首を縦に振るまでは梃子でも喰らいついてやろうという姿勢を崩さなかった。

 

「まったく、どう言えば判ってくれるのかしら……」

 

 教え子の頑なさに流石に困り果てて首を振る荻野教諭であったが、丁度そんな二人のやりとりを他の生徒らに紛れて野次馬根性で傍観していた智子とたまたま目が合ってしまった。

 

「黒木じゃない……もしかしてあなたもダンジョン探索しにきたの?」

「え!? あ、はい、そです」

「誰か一緒に組む人はいるの?」

「あ、はい、田村さん達と来てて……」

 

 険しい顔つきと声色を保ったままの担任からそのように問い正されて反射的に答えてしまった智子であったが、そんな智子の返答を聞いた荻野教諭の表情が途端に良い事を思いついたようにパァッと様変わりするのを見て、智子の中にすぐさま予感めいたものが走った。

 

(あ、これってもしかして……)

「丁度良いわ。だったらあなた達のパーティに吉田を加えてあげなさい」

(やっぱり!)

 

 担任との口論の中であからさまに不機嫌極まっていた感のある吉田嬢であるからして、智子としてはこんな野獣モードの彼女と一緒に隣り合って行動するなどごめんこうむる所ではあったのだが、そこへ畳み掛けるようにして吉田嬢が担任からの提案に不機嫌MAXな態度で合いの手を入れる。

 

「あぁ? こいつと組めってか?」

 

 私が組みたくないのでお断りします、なんてぶっちゃけた本音は今の今まで吉田嬢の剣幕を目の当たりにしていた智子には到底言い出せる筈がなく、どうかこのヤンキーのソロプレイが許可されますようにと願うしかないのであった。

 が、当の彼女はというと何やら急に押し黙ってしまい、そのまま智子の顔をじっと見据ていたかと思うと、ややあって耳に掛かった髪をかきあげる仕草を見せつつ舌打ちをした。

 

「ちっ、わーったよ」

(マジかよ!?)

 

 どうも吉田嬢としても智子とパーティを組むというのはまんざらではなかったのか、彼女はあっさりと担任の提案を承諾したのである。

 

(ヤンキーの癖に根性ねーな! もっとさっきみたく粘れよ!)

 

 存外に物分りが良い面を見せたと言える吉田嬢であるが、気乗りしない智子としては何やら勝手に話が決められてしまってどうにも釈然としない思いであった。そんな智子の心中を知ってか知らずか、担任はうんうんとさも事が一件落着したかのように満足げな顔で智子に同意を求める。

 

「黒木もそれでいいわね?」

「アッハイ」

 

 最早この教師には何も言うまい。智子は担任からの同意を求める問いかけに対して二つ返事で恭順の意を示した。

 

「OK! じゃああなた達の分の用紙に吉田の名前も書いてから申し込みするようにね。はい、じゃあそこの皆ももう大丈夫だから早く申し込みにいらっしゃい!」

 

 これで話はもう終わったとばかりにパンパンと手を叩き他の生徒達に気持ちの切り替えを促しながら詰め所の窓口に戻っていく荻野教諭につられて、それまでギャラリーと化していた生徒らもぞろぞろと思い思いに当初の目的に沿って動き始めたのだった。

 

 色々と強引過ぎる担任の独断ぶりにすっかり気疲れさせられながらも、智子はそれまでの場の空気の張り詰めがすっかり雲散霧消した事を感じ、ふ──っと長い溜息を漏らしつつ、先程から己の傍らで何も語らず腕を組んだままでいる新たなメンバーについて考えを巡らせていた。

 

 見た所、件の吉田嬢が先程見せていたような苛烈さはすっかり引っ込んでしまったようで、今も特に機嫌が悪そうな素振りは見られない。智子としてもそれならばまあ一緒に行動してやらん事もないかと寛容さを見せられる程には、彼女はすっかり落ち着いていた様子だった。

 パーティの人数が増える事自体は智子にとっても吝かではない。吉田嬢の腕っ節の強さは智子自身がその身を持って度々思い知らされている所であるからして、予想外に強いモンスターと出くわしてしまった時の備えとして脳筋の女戦士枠を加えたと思えばむしろ悪い話ではない筈なのだ。

 勿論そんな事を口に出して言おうものなら怒れる吉田嬢からモンスターの代わりに自分が攻撃されてしまうであろう事を学習しつつある智子としては、うっかり口を滑らせてしまわないようにと気が抜けないのであったが。

 

(あっでもこいつヤンキーだからな! そのうち血が騒いで「もっと強いモンスターが出る所まで行こうぜ」とか言い出すんじゃ……)

 

 ダンジョン内の探索においては原則としてパーティメンバー全員での団体行動を厳守するよう定められている為、例え仲間の一人が勝手に突っ走ってしまったとしても、他のメンバーはそれを放置したりせず付いていってやらねばならないというルールがある。だからこそ智子は、血気盛んな吉田嬢が妙な気を起こして突出した行動を取ってしまった結果として、実際にそんな危険な場所にまで己が足を踏み入れざるを得ない状況が発生しかねない可能性に思い当たると、急に嫌な汗が滲み出てきてしまうのだった。

 

「んだよ、何見てんだ?」

 

 ギリッと歯ぎしりをしつつ非難がましい視線を横目で送ってくる智子に、当の吉田嬢はただ眉を潜めて訝しんだものである。

 

 それまで遠巻きに事の推移を見守っていたゆり達が、智子らの姿を見つけて手を振り歩み寄ってくるのが智子の目に映る。智子としてはこうなってしまった経緯の説明を吉田嬢に期待出来るとも思えなかったので、彼女達には己の方からちゃんと説明してやらねばならないと思い立ち、また少し溜息をついてしまう。

 

(ちょっと遊びにいくだけのつもりだったけど、なんかヤバそうな事になってきたか……?)

 

 ほんの好奇心から始まった智子のダンジョン探索であったが、その前途がこれからの波乱を十分に予感させるものであった為か、智子は自らの提案が発端となって結成されるに至ったこの探検隊を早くも解散させて家に帰りたい気持ちでいっぱいになってしまったのだった。

 

 




つづく


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私たち原幕ダンジョン探検隊(中)

智子となかまたち、いざ地の底へ!


(おお……結構色々置いてあんな……)

 

 ダンジョン手前に建てられている詰め所はちょっとした駐輪場程もあるそこそこ大きめのプレハブ小屋だった。予想外の新メンバー電撃参入というアクシデントはあったものの、ひとまずは先程申請を終えて無事探索の許可を与えられた智子ら一行は今、小屋の中に保管されている数々の武具や防具類を他の生徒達に混じって物色していた。

 これらの装備品はダンジョン探索時の安全性を高める為にと学校側が生徒の為に用意したものであり、生徒達は必ず前もってここで基本的な装備一式をしっかりと整えていく事が義務付けられているのだ。

 

「なんかすごいね、これとか買ったら高いんじゃない?」

「うわぁ、スタンガンだって。本物初めて見たかも」

 

 物置棚にズラリと安置されて物々しい雰囲気を放つ装備品の中には実際に警察や軍隊で使われていそうな本格的な品々も並べられており、普段こういった物に興味の無いゆりと真子ですらも日常生活でまずお目に掛かる事の無いであろうそれらを前に目を丸くしつつ、お互いに感想を言い合いながら思い思いに装備を手に取っている。

 

(学校の癖にこんなモンまで置いてんのか……! ハンパねーな)

 

 同じように備品を物色していた智子が手に取ったのはいわゆる暗視ゴーグルと呼ばれるもので、単眼鏡タイプのそれは頑丈そうな迷彩色のヘルメットとセットになっている。何かと暗い場所の多いダンジョン内において視界を確保出来るようにと用意されたものであるようだが、廉価品とは思えない程にしっかりした作りのそれは智子には随分と高価なものに見えた。

 

(これいいかも……なんか特殊部隊みたい)

 

 手にとって興味津々にあれこれ暗視装置のスイッチを押してみたりしていた智子であったが、実際に身につけてみたくなったのかおもむろに手に持つそのヘルメットを己の頭にすっぽりと被せてみせた。

 そのまま更にゴーグルを下ろしてみれば益々気分が乗ってきたようで、テンションの上がり出した智子が他にも面白いものが無いものかと他の生徒らでごったがえす小屋の中をチョロチョロ歩き回っては気になる装備品達を次々と手に取っていく。

 

(やっぱ実際にこういうの見てると、攻略とかやってみたくなってきたかも……)

 

 さながらゲームのインターミッションのような場面を実際に己の身で体験する内、智子の中の抑えられていた冒険心がほんのちょっぴり顔を出し始めたようであるが、そんな智子へとふいに声が掛けられた。

 

「これだけいっぱいあると何選んだらいいか判んなくなっちゃうね」

 

 ヘルメット姿の智子が声をした方をぱっと振り返ってみれば、先程まで智子と同じく装備品を見て回っていたゆりと真子が歩み寄ってくる姿があった。二人はいずれも防災用のヘルメットを頭に被っており、見れば他にも彼女らの体には既にグローブや膝パット等の簡易的な防具が装着されているようで、早くも装備の方はある程度整えてきたようだ。

 

「黒木さんこういうの好きなの? なんか楽しそう」

「え? あ、うん、ちょ、ちょっとだけ興味ある方かな……」

 

 意気揚々と装備品を物色していた智子の様子を見ていたゆりが微笑ましいものを見たかのように尋ねたのだが、我に返って少し恥ずかしくなってしまった智子は頭に被っていたご大層なものを慌てて脱ぐと遠慮がちにそう返す。

 

「た、田村さん達はそんな武器でいいの?」

 

 実際の所はこの手の戦闘用装備に関して智子は中学時代にミリタリー趣味をかじった事もあってそこそこ造詣のある方だったのだが、『武器に詳しい黒木さん』等という小っ恥ずかしい印象を彼女らに持たれてしまうのは流石にご勘弁願いたくもある為、照れ隠しに話を逸らしたかった智子はゆりが手にぶらさげている武器らしき得物を指して尋ね返した。

 

「えっと、今日は別に戦いに行くのが目的じゃないから……」

 

 そんな智子に問われたゆりはおもむろにそれを手前に掲げてみせる。ゆりが見せたそれは、柄の部分にストラップが括り付けられている伸縮式の小型警棒であった。

 

「こんなので十分じゃない? 一応黒木さんと吉田さんの分も取ってきたけど……」

「あ、うん……じゃあ私もそれでいいや」

 

 初めて目にする珍しい装備品達に目を奪われていた智子であったが、よくよく思い起こせば今日の自分達はただ単にダンジョンを見学しに来ただけなのだ。赴く先はほんの表層階である為、満足に扱えるかどうかも判らない物々しい武装を両手で抱え、全身を覆うプロテクターや顔をすっぽり覆うフルフェイスガードでガチガチに防備を固めるといった重装備で挑む理由等は全く無く、ゆり達がそうしているように最低限の防具と護身用の携帯武器程度であっても低レベルのモンスターを追い払うには十分と言えた。

 ゆりから警棒を手渡された智子は脇に抱えていた物々しいヘルメットを棚にそっと戻すと、その辺のケースに重ねて放り込まれていた簡易的な装備一式を適当に漁ってさっさとそれを身に着ける。さてこれで各自準備は整ったと思った矢先、智子がふとゆりに尋ねる。

 

「そういえば、ょ、吉田さんは?」

 

 先程から吉田嬢の姿が見当たらない事に気付いた智子が辺りを見回す。智子の問い掛けに「そういえば」と思い立ったゆりと真子も他の生徒らでごった返す小屋の中に彼女の姿を求めて視線を泳がせた。

 

「あっ、ほらあそこ」

 

 と、早速声を上げたゆりが指差した先には、小屋の隅の方で装備品をしげしげと見つめつつ思案に耽る吉田嬢の姿が確かにあった。

 

「吉田さん、何持ってくか決まった?」

「お?……おお」

 

 彼女の元へ歩み寄っていく一行が声を掛けると、吉田嬢は決心が付いたのか思案するのを止めて目当ての武器をそれが収められていたスタンドからスルリと引き抜いてみせた。

 

「えっと……それにするの?」

「ん」

 

 ゆりの問いかけにそっけなく返事を返す吉田嬢が、手にした得物の感触を確かめるように己の肩をおもむろにそれでポンポンと叩いて見せる。彼女の手に握られているブツは、いわゆるひとつの金属バットなのであった。

 

(((違和感が全く無い……!)))

 

 それは誰の心が発した声だったのか、あるいは彼女の姿を目の当たりにした全員のものだったのか。

 常日頃から彼女をヤンキー扱いしてやまない智子はといえば案の定「やっぱりヤンキーってバットみたいな武器とか好きなんだね」等という直球過ぎる感想が脳裏に浮かんでしまったのであったが、流石に目の前で実際に凶器を構えている彼女にそのような事を口走ってしまう程には智子も迂闊ではなかった。

 

(つーかコイツ、バリバリ殺る気マンマンじゃねーか!)

 

 智子らとしてはあくまでもダンジョンへは興味本位で遊びがてら足を運びに来ただけのつもりなのであるが、吉田嬢がそもそもどういうつもりでダンジョン探索に挑戦するに至ったのかは一行の誰も聞かされていなかった。

 智子がゆりに指摘された通り、単に見物気分で済ませるつもりであれば今しがた吉田嬢が持ち出したような物騒な得物は不要な訳で、つまりそれは彼女だけが本格的なモンスターとの戦いを想定している事の表れとも言える。

 

(今日は一階までしか行っちゃダメって事になってるけど、コイツ絶対自分が強いって思ってるから好き勝手にズンズン下りてきそーだな……)

 

 吉田嬢含め智子ら一行は全員がダンジョン初心者であった為、荻野教諭からは今回の探索における移動範囲は必ず表層階だけに留め、二階以降の下層階には決して下りていかないようにと念を押されてはいたのであるが、それで吉田嬢がハイそうですかと素直に従うとは智子には到底思えなかったのだ。そうなると、ルール上は必然的に己もそれに引きずられる形で危険な下層階へと下りていかざるを得なくなる。

 

「よし、んじゃ行くか」

 

 そんな智子の不安を他所に、貴重品ロッカーへ鞄を詰めて運動靴に履き替えた吉田嬢は一行を率いるように颯爽と小屋を出てダンジョンの入り口へと向かう。そんな彼女の後をゆり達と共に追いながら、とぼとぼとした足取りの智子はこれからの事についてあれやこれやと考えを巡らせる。

 

 今からでも体調が悪くなったと言い訳をしてこの探索を辞退するべきだろうか等と思いはするものの、せっかくここまで同行しに来てくれたゆり達に引け目を感じてしまう智子としてはそれも避けたい所だった。

 それに今回は碌に装備を整えている訳でもないのだから、ゆり達としてもいきなり下層階に行かざるを得ない状況になりそうであればきっと抵抗するに違いない。流石に三人が一緒になって反対すればあのヤンキー少女に自分が無理に下層へと連れていかれるような事にもならないだろうとひとまずは結論付ける。

 

(まぁいざとなったらヤンキーだけ置いて全力で逃げりゃいいか……ルール違反になっちゃうけど、こっちだって命が掛かってんだし別に怒られはせんだろ)

 

 ひとまずこれ以上クヨクヨ悩んでも栓無い事。せっかく己が意を決しクラスメイトを誘ってまで訪れたダンジョンなのである。不安もあるにはあるのだが、ひとまず考えを改めた智子は、いつの間にか距離が離れてしまった仲間達を追って、校舎裏でポッカリと口を空け待ち受けるダンジョンへの入り口へと駆け足で飛び込んでいったのだった。

 

 ◆

 

(ダンジョンって言うけど、なんか地下鉄ん中みたいだな……)

 

 学校側によってご丁寧にアルミ製の手摺が備え付けられた入り口の大きな階段を下っていった一行がまず最初に辿り着いたのは、地下一階に存在するホールフロアであった。

 確かにダンジョンの内部には独特の雰囲気を感じさせるヒンヤリとした空気が充満しており、苔むした壁や床の石材も相当に年季が入っている事が伺える等、いかにもダンジョンらしい様相を呈してはいたのだが、天井に無数に設置された現代的な照明器具によって適度に照らされているこのホール内は既に先客となる多数の生徒らで賑わっており、その光景はさながら利用者でごったがえす地下鉄駅構内を彷彿とさせる。

 

「こんなのが学校の下にあるんだ」

「雨とか降ったら水浸しになっちゃわないのかな」

 

 智子と同じくダンジョンを訪れるのが初めてのゆりと真子は早速物珍しそうに周囲を見物し始める。天井を見上げればそこには羽虫なのか何なのか、パタパタと生き物のように飛び回る色とりどりの淡い光の玉らしきものの姿も見える。

 

「おおー……結構面白れーな」

 

 このような場所がこれまでずっと自分達の学び舎の足元に広がっていたのか。超常的な地下迷宮の実在を前にして改めて感嘆を覚える吉田嬢も俄然興味を惹かれたようで、見物気分で訪れている他の生徒らと同様に辺りの様子を興味深げに見回している。

 

「あ……じゃあ、ちょっとその辺歩いてみようか?」

 

 己のポッケから取り出したプリントを広げた智子が、ダンジョン内の光景に目を奪われていたメンバーらにそう提案する。

 智子が手に持っているペラリとしたその藁半紙は、ダンジョンを訪れる道中に通った校内掲示板の前で配布されていたのを拝借してきたものであるのだが、そこにはダンジョンを探索する上での心得等の他、現時点で判明しているこのダンジョンの構造や各フロアの説明が簡易的に記されており、ちょっとした案内図ともなっていた。

 本格的な攻略ともなれば有志らによって刷新され続けている最新のダンジョンマップを利用するものなのであるが、遊び半分で訪れた智子達にとってはこんなものでも十分なのである。

 

「なんかあっちの通路の方とか結構面白いみたいだよ」

 

 さながらどこかのアトラクションのようであるこのダンジョン空間に高揚感を覚えた智子は、珍しく先頭に立って一行を誘導し始める。普段は何事にも慎重さが先立ってしまう智子であるが、今は共に行動する仲間がいる心強さが彼女を積極的にさせていたのだ。

 

 智子が指差した先にはホールから直接繋がってそのまま一直線に伸びる大きな通路があった。ホールと同様に奥の方まで十分な照明が続いているその通路の中には、見事な作りの噴水台の他、通路全体を大きく貫く巨大な用水路等もあるようで、見物目的で訪れた生徒らはまずは手始めにそこを散策するのが通例のようだった。

 

「いや、駄目だ。こっちの方に行く」

「えっ!?」

 

 が、そんな智子の提案にそっけなく反論の声を上げる吉田嬢。彼女が指差した方向は、智子が誘導しようとしていた場所とは正反対の方向にある通路だった。そちらもそちらでそれなりに大きな通路ではあったのだが、いかんせん智子が手にするプリントの地図には何やらその場所について気になる事が書かれている。

 

「あ……でもなんかそっちは結構モンスターとか出るらしいよ……」

「こんだけいんだから大丈夫だろ」

 

『モンスター多発地帯』と注意書きがなされていた地図上のその場所を指差して遠慮がちに反対材料を提示してみせる智子であったが、その為のパーティだろうがと言わんばかりにゆりと真子の方を顎で指す吉田嬢。手にした得物で肩をポンポンと叩いてみせる彼女には、なんなら己一人の力で全て退治してみせてやるという意気込みが見え隠れしており、意思を変えるつもりは毛頭見受けられそうにない。

 

(早速血を求めてんのか!? まあザコばっからしいから大丈夫だろうけど……)

 

 表層階であるこの場に出没するとされているモンスターはいずれもごくごく低レベルのいわゆる「雑魚敵」である事が既に知れ渡っている。その為、吉田嬢が今正に行きたがっている件のモンスター多発エリアも、戦い好きの生徒達からはちょっとした連戦が楽しめる格好の初心者用修行コースとしてそれなりに親しまれていたりする程度には危険度も低めなのであった。

 

 それ故に智子は、なんとも節操の無い奴だと呆れつつも子供の駄々に付き合ってやるつもりで渋々その提案に従うのであった。ゆり達も少し不安げではあったものの、確かにこの人数であれば何とでもなるだろうという事で一行は大人しく吉田嬢が希望する方向へ向かって歩き出す。

 こちらは先程の場所とは打って変わって人通りも随分控えめなようで、物は試しにとモンスター相手の戦闘を求めて訪れたらしきパーティの姿がチラホラと見られるだけだった。

 

 順調に歩みを進めていく一行であったが、直角の急な角を曲がりきった先に広がっていたその光景を前にして吉田嬢を除く他のメンバーらは思わずたじろいでしまう。先程までの十分に照明で照らされていた通路と違い、そこから先は一挙に明かりの乏しい暗闇が広がっていたのである。

 

「え、えと……結構暗いみたいだけど、ホントに行くの?」

 

 暗闇の手前には『この先モンスター多数出現!』と生徒らへ注意を促す看板が立て掛けられていて、そこで遭遇する可能性のあるモンスターの解説等も記されており、いやがおうにもこの先に待ち構える戦いの気配を予感させられてしまった智子はゴクリと息を呑みつつ吉田嬢に確認する。

 

「ああ、ちょっと見に行きてーモンがあるんだ」

 

 智子らの目の前に伸びるその長い長い直進通路の奥には申し訳程度の数の照明で照らされた場所が遠くの方まで点々と続いているのが見えた。内部で探索している他の生徒らの持った懐中電灯の放つ明かりであろうか、通路内の大半を占める暗闇の中では幾つかの小さなスポットライトのような光が右に左にせわしなく揺れては通路内を照らしている様子が伺える。

 

(まあ、私はお化け屋敷だって別に平気だしなー……他の連中も結構来てるみたいだし問題無いか)

 

 智子の言うお化け屋敷というのは昨年の文化祭の時に入場したものを指しているに過ぎなかったのであるが、そこは別にこわだるべき部分でもなかったようだ。

 支給されていた物入れポーチよりおもむろに懐中電灯を取り出した智子ら一行は、それが正常に点灯する事を確かめると手に持った武器を構え直して慎重に暗い通路の中へと突入していったのだった。

 

 




つづく


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私たち原幕ダンジョン探検隊(下)

こんな日も、きっとあっていい。


「わっ、黒木さんの後ろにもいるよ!」

「どぅおおっ、こんにゃろっ」

 

 一行のサポート役に回った真子が両手に構えた二つの懐中電灯で辺りを照らす中、丁度自身の背後から飛びつかんとしていたモンスターに向かって智子は己の手に持った警棒を振り回し牽制してみせる。

 そんな智子のやたらめったらな打撃がまるで大きなクワガタのようなモンスターのその顔にガツンと当たると、怯んだモンスターはギギッと擦り切るような鳴き声で慄いて一行から逃げるように走り去っていく。

 

「見えねぇ! こっちも明かり向けろ!」

「は、はい!」

 

 と、今度は前の方で戦っていた吉田嬢の方からサポートを求める声が上がる。慌てて真子が明かりを向けた先には三匹のモンスターが固まってカチカチと牙を鳴らしていた。

 

「オラァッ!」

 

 そちらへ向かって勢い良く駆け出した吉田嬢が、地面を舐めるような低いスイングを的確に放ってモンスター達を豪快になぎ払う。こちらは怯んで逃げる所か、彼女の強烈なスイングの衝撃によってそのまま宙で爆散してしまったようだ。

 

「どう真子? 今ので全部?」

「うん、もう他には居ないみたい……」

 

 同様にして先程まで一生懸命モンスターを追い払っていたゆりが問いかけ、周囲を明かりでくまなく照らしつつ警戒していた真子がそれに答える。

 

 モンスター多発エリアの名に違わず、智子らが足を踏み入れた通路内ではこのようにして時折暗闇から現れたモンスター達が行く手を阻むようにしては襲い掛かってくるのだった。

 現れるモンスターはごくごく低レベルのものであり、ちょっとこちらが反撃しようものならそそくさと逃げ出してしまうようなものばかりであったのだが、油断して噛みつかれたりするとなかなかに痛い。一行は安全を確保すべくメンバーごとに索敵役や攻撃役等の役割分担を決めた上でそうした不意の襲撃に順調に対応しながら道中の歩みを進めていたのだった。

 

「ふぅ、結構ハラハラさせられるね」

「うん……あ、でも結構コツ判ってきたかも。あいつら頭のとこ叩いたらすぐ逃げてくよ」

 

 モンスターを撃退し終えたゆりと智子が各々の感想を話し合う。こういった荒事には不慣れな二人ではあったが、襲撃の度に先鋒を切っていの一番に駆け出していく吉田嬢が瞬く間にモンスターの大半をオラオラと薙ぎ倒してくれる為、二人としても余った少数の個体だけを相手取る分には然程問題はなかった。

 初めの方こそそのサイズの大きさに面食らって怖気ついたりもしていたのだが、意外と見かけ倒しの組し易い相手だと判るや二人ともそれ程苦労せずに追い払えるようになっていったのだ。

 

 特に元々昆虫類のような生き物は案外平気で殺傷出来てしまう性分の智子としては、この通路に現れる虫モドキのモンスターを手加減せずしたたかに打ち据えてやる事は特に難しい事ではない。

 これが人一倍気の優しい真子であれば生き物に攻撃する事自体が到底無理な話で、だからこそ彼女は武器を構えない代わりに視界の悪い通路の中で他の仲間をサポートすべく戦闘中は懐中電灯を手に仲間らの視界確保や周囲への警戒に努めていたのだった。

 もっともダンジョンに出没するこれらのモンスターはある程度のダメージを与えられるとたちまち灰になって消滅してしまう為、本当に生き物なのかどうかも怪しいとされているのであるが。

 

 ともあれ流石に表層階といってもここはダンジョン。人外魔境のこの地底世界においては普段遭遇し得無いような奇怪が蠢いており、通路内の音に耳を傾ければそこかしこで先程の自分達のようにモンスターと遭遇した他のパーティによる騒ぎ声がちょくちょく響いているようだった。

 

「ちょっとあそこで休憩してこっか」

 

 ゆりが指し示す先にあるのは通路内に所々設置されている照明器具で照らされた場所で、生徒らが道中休憩出来るようにとご丁寧にベンチまで備え付けられていた。場を照らすその明かりにはなんでも虫が寄り付かなくなる類の光線が含まれているそうで、虫モドキなモンスターの類しか居ないこの通路内においては確かに一息つける場所ではあったのだ。

 

 ◆

 

(ふう……なんだかんだで結構奥まで来たな)

 

 仲間と共にベンチの空いている場所にどっかと腰を下ろした智子は、格好を崩しつつ持参した水筒から汲んだお茶を片手に一時の休憩に入る。既にその場には他のパーティの生徒達が休憩していたようであったが、彼らは手にしたスマホを持ち寄ってダンジョン内で各々が撮影してきた写真やら動画やらを互いに見せ合ったり、並んで記念写真を撮ってみたりと賑やかであった。

 

(……私もなんか撮ってこうかな)

 

 なんとはなしにボンヤリ見つめていた彼らのそんな様子に触発されたのか、智子は己の懐に収めてあるスマホの存在を制服の上から撫でつけて確かめる。せっかくパーティで来ているのだから彼らと同じように自分達も記念撮影なんてしてみたって良いかもしれない。

 誰かとどこかへ行った記念に一緒に並んで写真を撮る。そんなメモリアルな経験は近頃とんとご無沙汰の智子としては今がそのチャンスなのではと思ったのだ。

 

(ガチレズさんもヤンキーも結構頑張ってるみたいだし、やっぱり居てくれてよかったのかもな)

 

 己の傍らで思い思いに休憩しているパーティメンバーらを見やり、智子はそんな事を思う。

 当初は智子としても少しばかり思う所のあった二人の同行であったが、いざ蓋を開けてみれば両者とも各々の能力に見合った働きを見せてこのパーティを支えてくれていたのだ。

 表層階と言えどこのエリアの探索は智子の想定以上に骨の折れるものだった為、これがもしゆりと己の二人だけのパーティであったとしたらとっくに最初の方で諦めて引き返していたかもしれない。いやいや、であればそもそもこんな場所は避けて通るのであったが。

 

 と、そんな風に物思いに耽っている内、休憩が済んだのか他パーティの彼らは智子達がこれまで歩いて来た道を遡っていくようにしてその場を去っていった。帰り道でもモンスターとの遭遇戦が控えている訳であるから、メンバーらの残りの体力を考えてそろそろ潮時であると引き返したのかもしれない。

 

(ガチレズさん達もちょっと疲れてきてるみたいだし、そろそろ帰りたいな……ヤンキーがなんて言うかだけど)

 

 物入れポーチに水筒を仕舞い込みつつ、くたびれていそうな様子も無くまだまだ進む気マンマンに見える傍らの吉田嬢をどう説得したものかと思案していた智子であったが、なんとはなしに通路の先に目を向ける。

 

(ん……?)

 

 と、休憩所の明かりにボンヤリと照らされる形で、向こうの暗がりの方から何らかの動物らしきものがこちらへ向かってヒョコヒョコと近づいて来ていた事に気付いた。

 

「な、なにあれ……!?」

 

 ぎょっとした智子が思わず声を上げた事で、それまでリラックスしていた他のメンバーらも智子が注視する方向を見やり、そこに確かな闖入者の存在を認めるとすぐさま立ち上がり武器を構えて警戒を強める。

 

(タヌキ……か? なんか普通に立って歩いてるけど)

 

 こちらに襲い掛かる様子も特に無く、すっかり照明に照らされる所まで大人しく近づいて来たその動物の姿を、智子はまじまじと観察する。そこに居たのは中型犬程の大きさもある狸か小熊のような奇妙な動物であった。しかもこのクマダヌキ、一般的な動物と違って器用にも二足歩行で歩いているではないか。

 まるでサーカスで仕込まれた動物の如く人間的な動きを見せるそのモンスターは、智子らの傍までやってきて歩みを止めると、その場に立ったまま何か言いたげにじっとこちらを見上げてきた。

 

「おおっ……!」

 

 と、その姿を目の当たりにしてだしぬけに声を上げた吉田嬢が構えていたバットをそっと傍らに置くと、ソロリソロリと目の前のクマダヌキへと近づいていく。

 

「えっ、ちょっと危ないんじゃ……」

 

 何を思ったのか無警戒にその珍妙なモンスターに歩み寄ろうとした吉田嬢をゆりが慌てて咎める。

 

「いや、コイツは大丈夫だ」

 

 そんなゆりを軽く手で制止した吉田嬢が件のクマダヌキの前にゆっくり座り込むと、おもむろに彼に向けてそっと手を差し出した。と、その手に反応を見せた様子のクマダヌキが間髪入れずに片手で彼女の指先を掴んだかと思うと、そのまま掴んだ指先をクイクイと上下に揺さぶり出す。

 

(なんだコイツ、中に人でも入ってんのか……!?)

 

 妙に手馴れた様子で行われるこのクマダヌキの突然の奇行は、あたかも彼が人間相手に握手をしているつもりのようにも見える。こんな妙ちきりんなものまでうろついているとは。すっかり目を丸くした智子は改めて地上の常識が通用しないダンジョン内部の不思議に脅威を覚える。

 

「大人しいね、モンスターじゃないのかな?」

「わからん、でも結構人に懐いてるって聞いたぜ」

 

 まるで警戒する様子も無くクマダヌキと戯れ出した吉田嬢の姿に緊張を解かれたゆりと真子は、自分達も近づいていって目の前のクマダヌキの奇妙な風体やしぐさをしげしげと眺め出す。どうも吉田嬢の反応からするに彼女はこのモンスターの存在を知っている様子だった。

 

「今日はこいつを見に来たんだ」

 

 お目当てにしていたらしいそのクマダヌキにひとしきり握手して貰って満足した様子の吉田嬢は、握手を解かせると今度はその手で彼の頭をウリウリと撫でてやる。 

 その愛嬌のある奇妙な習性と友好的な態度はこれまで彼に偶然遭遇した生徒らの間でも評判になり始めていたようで、彼は知る人ぞ知るダンジョンのちょっとした有名人らしかったのだ。

 

 特に抵抗する様子も見せず大人しく撫でられるままの彼の姿を見るに、どうやら本当に敵意の無いモンスターらしい。であれば自分もちょっと握手して貰おうかなと思い立った智子がその輪に加わろうとそそくさ近づいた所……。

 

「あっ」

 

 急に近づいた智子に驚いたらしいクマダヌキは、慌てて一行から距離を取るとそのまま暗闇の方へと二足歩行で駆け出していってしまった。人恋しさに訪問者へ自ら近寄ってくるような彼ではあるが、どうもどこかの誰かさんのように少し臆病な性格でもあったらしい。

 

「てめー……逃げちまったじゃねーか」

「えっ? あっ、で、でも……!」

 

 丁度手に持ったスマホで彼の写真を撮ろうとしていた吉田嬢であったが、せっかく会えたお目当ての彼を逃がしてしまった事にたちまち機嫌を損ねてしまい、怒りを露わに智子へ詰め寄る。

 お前どんだけ見たかったんだよ! と思いつつもそんな彼女の剣幕にすっかり縮こまって怯える智子であった。

 

「……ちっ、もう帰るか」

 

 と、そんな智子の様子があの臆病なクマダヌキの姿と被ってしまったのか、ふいに吉田嬢は威圧を止めたかと思うとややスネた様子でこの探索を切り上げようと言い出した。

 

「え……? もっと下の階まで降りたいんじゃなかったの……?」

「ああ? 行く訳ねーだろ」

 

 急な吉田嬢からのその提案に思わず問い返してしまった智子であるが、智子が内心危惧していたその可能性を彼女はあっさりと否定してみせる。

 智子としてはてっきり吉田嬢が日頃溜め込んだエネルギーの発散を求めてこのダンジョンに挑戦したのだと決めて掛かっていたのだが、どうやら彼女の本日のお目当ては本当にあのモンスターに会う事だけだったらしい。

 いまや彼女からは先程まで見せていた探索への意欲はすっかり消え去ってしまたようで、もう用事は済んだとばかりに帰りたそうにしているのだった。

 

(んだよ、心配して損したじゃねーか! このピュアヤンキーめ……)

 

 吉田嬢の真意を聞かされ己の不安が単なる取り越し苦労だったと判って内心悪態をつく智子であったが、それにしてもそのような可愛らしい理由の為だけにあれだけ声を荒げて担任と必死に口論までしていたのかと思うと、智子としては思わずクスクス笑ってしまいたい気持ちにもなってしまうのだった。

 

 ◆

 

(うおっまぶしっ)

 

 すっかり目が暗い場所に慣れてしまっていた智子ら一行は、暗闇を抜け出た所で天井からまんべんなく注ぐ照明の光に晒され皆一様に手でひさしを作る。

 

(なんだかんだあったけど、どうにか戻って来れたか……)

 

 帰りの道中でも度々モンスターに襲撃される事はあったものの、それらを切り抜けてようやく安全圏まで無事帰還を果たした智子は思わず肩の力が抜けて「は──っ」と長い溜息をつく。

 

「結構疲れちゃった? 大変だったね」

「黒木さんすっごい頑張ってたもんね、お疲れ様」

 

 そんな風にくたびれた様子を見せた智子にゆりが語りかけると、傍らの真子もまた智子のこれまでの働きに労いの言葉を掛ける。続く連戦で流石に動きが鈍り始めた攻撃役のゆりをフォローすべく、存外に体力のある所を見せた智子は軽快なフットワークを発揮して忙しく立ち回っていたのだった。

 

「あ、うん、全然大丈夫……虫とかやっつけるのって結構得意だし」

 

 思いがけず二人から気遣われたり労われたりしたものだから何やら気恥ずかしさを感じてしまい、照れ隠しに少しばかり虚勢を張ってみせる智子は、それに……と前置きをして言葉を続ける。

 

「ああいうのって、ちょっと面白かったかも」

 

 思いも掛けない出来事が(主に吉田嬢のせいで)重なった本日のダンジョン探検であったが、結果的には智子としてもなかなかに悪くない一時であったと言えるだろう。

 己が趣味としているネットゲームの中では常にソロプレイが基本な智子としては人生初のパーティプレイをよもやリアルの方で先に経験してしまう事になるとは夢にも思わなかった訳であるが、初めて経験する連携プレーの楽しさは自身の体に残る疲労がむしろ心地よく感じてしまう程には適度な充足感を彼女に与えていたのだ。

 これで良い話のネタが沢山出来たぞと、己の弟や親友にお得意のホラを交えつつ本日の冒険話を披露してやるのが今から楽しみな智子であった。

 

「ちょっとお腹空いちゃったね、皆で帰りにどっか寄ってこっか?」

「あ、うん、いいけど……」

「どこか行きたい所とかある?」

「あ……じゃあ、マクドとか行ってみたいかも……」

 

 と、ふいにゆりがそんな事を言って智子らにお誘いを掛けた。彼女としても本日のダンジョン探索は存外に楽しいものだったようで それを肴に皆であれやこれやと話に花を咲かせてみたいのだ。

 

「吉田さんも行こうよ」

「ん? おう……んじゃ、行くか」

 

 道中でのパーティメンバーらとの協力を通して連帯感のようなものが芽生えたのだろうか、普段からつっけんどんで愛想の無い吉田嬢にしては珍しく、彼女もまたゆりの提案に素直に乗った。

 それではと話もまとまった所で、ダンジョンの出口目指して一行は歩み出す。

 

「あ、ちょ、ちょっと待って!」

 

 と、そんなメンバーをだしぬけに智子が引きとめた。

 

「よ、良かったらここで皆の写真撮っていかない? えと、ほら、記念撮影的な……」

 

 懐から取り出したスマホを手に、智子は先程自分達が出てきた通路を振り返ってそんな提案をする。探索の途中に立ち寄った休憩所で思いついて以降、それを皆に言い出す機会を伺っていた智子なのであった。

 

「あーそれいいね、じゃあ誰かに撮って貰おっか」

 

 一行が居並ぶ姿を撮影してくれる協力者を求めてゆりが辺りを見回すが、絶えず賑わっている安全な方の通路と違いそれ程人が行き交っている訳ではないこの場所には今、撮影を頼めそうな他の生徒の姿は生憎近くに見当たらなかった。

 

「どうしよっか、入り口の所まで戻って誰かに撮って貰う?」

 

 せっかくならば今しがた自分達が挑戦を終えたばかりのこの場所の前で撮影してみたかったのだが、全員一緒に写ろうとするのであれば誰かもう一人は人手が必要なのである。さてどうしたものかとしばし思案する一行であったが、そこへ幸運にも何人かの女子生徒らがお喋りに興じながら連れ立って入り口方向の曲がり角から姿を現したのが見えた。

 

(ん? あいつは……)

 

 見ればその中には智子にとっても一応は顔見知りと言えなくもない一人の女子生徒の姿もあった。確か彼女は友人達から常日頃『うっちー』などという愛称で呼ばれているクラスメイトだった筈だ。

 

「ま、真子さん、あれ……」

「あっ、うっちー!?」

 

 智子からヒソヒソ声で話掛けられた真子も、そのパーティの中に己が普段から親しくしている友人の姿があった事に気付く。と、そんなうっちーの姿を遠目に認めるや否や、吉田嬢が彼女らに向かってスタスタと歩み寄っていく。

 

「ほんとだってー、こっちの通路ですっごい可愛いモンスターがいるって言ってたもん」

「えーでもこの先って結構危ないって先生言ってたよ」

「ちょちょ、ねぇあの人、なんかめっちゃこっち見てるんだけど」

 

 それまで会話に夢中で前方に意識を向けていなかった彼女達であったが、バット片手に自分達目掛けてズンズン迫ってくる吉田嬢の存在に気付くや、その迫力に思わず後ずさってしまう。

 

「おい」

「な、何? なんか用なの?」

 

 そんな様子の彼女らに配慮するでもなくむしろ因縁をつけるが如き態度で声を掛ける吉田嬢であったが、どうもこれは自分に話しかけているようだと、一応の顔見知り同士であったうっちーがそれに負けじと強気な態度で友人らの前に出る。

 

「ちょっと撮ってくれ」

「はぁ? いきなり何言ってんの?」

 

 不審がるうっちーのそんな質問に対し、吉田嬢はまことに不躾な態度と足りなさ過ぎる言葉で撮影の代理を引き受けてくれるよう依頼してみせた。何事にも直球過ぎる彼女であるからして人に頼み事をする場合もこんな調子であったりするのだ。

 当然ながらこのような一方的な頼み方をされてハイハイと頷く者は余程のお人好しか、或いは彼女の不良じみた風采に怯えて大人しく従う者だけである。

 そのどちらでも無いうっちーとしては吉田嬢のあまりに無骨過ぎる要求じみた頼み方にすっかり気を悪くしてしまったようで、その顔にはありありと不快感が表れていた。

 

「写真だ写真、見りゃ判んだろ」

 

 察しのわりぃ奴だな、とでも言いたげな表情の吉田嬢が、片手で粋なハンドジェスチャーを作って智子らの居る方をクイッと示してみせる。

 

「いや、だからなんで私がそんな事……って」

 

 せっかく訪れた協力者獲得のチャンスであった筈だが早くも交渉決裂の気配を見せるそんな二人の様子を感じ取った真子が、そろそろ自分が仲裁に入った方が良いのだろうかと悩み始めた矢先。

 吉田嬢に手で示された方を見やったうっちーが、そこに何かと己にとって因縁深い相手の姿がある事に気付いた。その相手とは勿論智子の事なのであるが。

 

 途端、うっちーのそれまでの険しかった表情が霧散して即座に驚きの表情へ一変する。かと思えばそのまま今度は智子の方を睨み付けるようにして何やら思いつめた表情で思案し始めた。

 智子の傍らには己の友人である真子もいる筈なのだが、どうも彼女の視線は先程から智子にのみ釘付けになってしまっているようだった。

 

「おい、聞いてんのか?」

「い、いいよ。撮ってあげる」

 

 どういう心境の変化であろうか、一転して吉田嬢の頼みを了承したうっちーは戸惑う友人らにちょっと行ってくるねと声を掛けてその場に残すと、吉田嬢と連れ立って智子らのいる方へと歩み寄っていく。

 

「ごめんねうっちー、ありがとう」

「ううん、いいのいいのこれくらい」

 

 普段からうっちーと親しくしている真子はすったもんだの末ではあったが撮影を快く引き受けてくれた友人の様子に安堵して労いの言葉を掛けるのだが、そんな真子の気遣いにうっちーは愛想良く返答しつつも先程から智子の方ばかりをチラチラ伺っているのだった。

 

「あ、じゃあこれ……もうカメラモードにしてるから」

「えっ!? う、うん……判った」

 

 と、そんなうっちーにジロジロ見られて何だか居心地の悪さを感じていた智子が遠慮がちに己のスマホを差し出すと、彼女はやや震えを見せる己の手を伸ばして智子のそれをぎゅっと握り締めた。

 

(大丈夫かコイツ、なんか妙な顔色してるけど……)

 

 思わず智子もじっと観察してしまいたくなる程に、彼女の顔色は先程から青ざめたり赤らめたりと色んな色が混ざりに混ざって奇妙な状態になっていた。こんな顔色って有り得るのか? 今まで見た事も無いその不思議な生理現象は、智子をしてどこか具合でも悪いのではないかと些か心配になってしまう程だった。

 

 ◆

 

「じゃあ行くよー、ハイッ」

 

 ともあれそんなこんなで撮影準備は整い、まっくら通り(命名・真子)を背にして並んだ一行はカメラマンの指示に従ってお互いの位置を調整しつつ、丁度良い位置で皆がポーズを決めた所を撮って貰っていた。

 他にも何枚かポーズや表情を変えた上で撮影して貰ったのだが、ヒソヒソ話をしているうっちーの友人らの様子に何やら急かされているような気がした智子は、とりあえずこんなもんでいいかと撮影タイムをお開きにする。

 

「あ……ご協力ども」

 

 まるで一仕事終えた後のようにフーッと息を付いていたうっちーに、スマホを返して貰うべく歩み寄った智子が一応の礼を述べて手を差し出す。

 と、何を思ったのかうっちーが智子のその差し出された手をまじまじと見つめたかと思うと、何故かおずおずと自分自身も手を差し出して智子に握手で応えようとしてきたのだった。

 

「あ、じゃなくてスマホを……」

「えっ? あっ」

 

 突然のうっちーの奇行に訳が判らず咄嗟に手を引っ込めてしまった智子であったが、何か勘違いでもされたのかと思い、彼女の持つスマホを指差しつつ改めて己の意図を伝える。

 と、ようやく智子の言わんとしている事を察したうっちーの顔が今度はまんべんなく赤一色で染められていく。

 

「わ、判ってるし、ほら!」

「うおっ」

 

 何故かキレ気味のうっちーはそのまま智子にスマホを押し付けるようにして返却すると、ササッときびすを返して慌てた様子で友人らの下へ走り去ってしまったのだった。

 

(なんなんだ? これってやっぱ避けられてんのか……?)

 

 どうも様子がおかしくはあったものの、相変わらず自分を避けているようにも見えるうっちーになんとなく釈然としないものを感じてしまう智子であった。

 

 ◆

 

「痛つつ……!」

「大丈夫?」

 

 己の腕に走る痛みに思わず呻いてしまった智子に、傍らの真子が心配そうに声を掛ける。

 詰め所で生徒らの帰りを待っていた荻野教諭に帰還届けを提出して学校を後にした一行は、これからちょっとした打ち上げ会をする為に連れ立って街中を歩いていたのだが、智子が急に立ち止まってしまったものだから皆の歩みも自然と止まる。

 慣れない戦闘で武器をずっと振るい続けていたものだから、そのしわ寄せが来てしまったのかもしれない。

 

「悪りーな、無理に付き合わせちまったみてーで」

 

 そんな智子の様子を見た吉田嬢が、どういう風の吹き回しか普段滅多に言わない詫びの言葉を口にしつつ頬を指先で掻いてみせる。確かに彼女の言うように自身の我がままであのような場所にまで智子らを連れて行った訳ではあるので、流石に彼女もそこの所を悪いと思ったのかもしれない。

 

「あ、うん……大丈夫。それよりほら、これさっきの写真」

 

 智子としてもなんだかんだで自ら進んでハッスルしていた所が無い訳でもなかったので、特にあてつけでおおげさにしたりはしない。痛みをこらえつつ手に持ったスマホをぎこちない動きで操作すると、先程撮影して貰った自分達の集合写真を皆に提示してみせる。

 

「ほんとだ、ちゃんと撮れてるね。あ、でもこれ……」

 

 その写真を見たゆりが思わず苦笑してしまう。普段からこうして自分達を写真に収める事に手慣れているのだろうか、まずまずの写真写りを見せているゆりや真子と違って、智子と吉田嬢の方には如何にもこういった事に不慣れである様子がありありと表れていたのだ。

 不自然な作り笑顔で精一杯のピースサインを作っている智子の傍らでは、そもそも撮って貰う事自体が嫌なのかと疑ってしまいかねないスネた様子でカメラから目を背けている吉田嬢の姿があった。

 

 確かに自分としても流石にこれはどうかなと思うその写り栄えを前に、他にもっとマシなものは無いのかと写真を順々にスライドしていく智子であったがその中に意外なものを発見する。

 

「あれ? これって……」

「なに?」

「ほらこれ……休憩してた時に近寄ってきてたあの変なのだよ」

 

 そう言って再び掲げられた智子のスマホをゆり達が覗き込んでみれば、確かにその写真に写る智子達の背後からそっと様子を伺うようにして通路の奥の暗闇で佇んでいるあの人懐っこいクマダヌキの姿があったのだ。

 

「わぁほんとだ、可愛いね」

「この子、私達に付いて来てたんじゃない?」

 

 そんな推測をゆりが口にするが、だとしたらそれは果たして誰に付いて来たのであろうか。もしかすると自分をいたく気に入ってくれている吉田嬢と戯れたくて後を追って来たのかもしれない。

 

「ちょっと貸せ」

「あっ」

 

 目の色を変えた吉田嬢が有無を言わさず智子のスマホを拝借すると、「おお……」と感嘆の声を上げつつそれを眺め出す。

 

「……この写真、私にもくれ」

 

 どうやらその偶然の一枚は随分と彼女のお気に召したようで、智子から取り上げていたスマホを返却した彼女は、自分にもこれを共有するようにと願い出たのだ。

 

「あ、うん、良いけど……」

「吉田さんってLINEやってる? 黒木さんも入ってるグループがあるからそっちで写真貼って貰おうよ」

 

 かつて智子にそうした時のように、ゆりがフォローを入れるようにしてこれを機会にと吉田嬢を自分達の繋がりの場へ誘う。

 と、そんなやりとりを彼女らと交わしていた智子が、急に己の胸の内から何やら感慨深さを含んだフワフワとした気持ちが湧きだしてくるのを感じた。

 

(こういうのって、なんかリア充っぽいな……)

 

 色々あった今日の出来事を思い返せば、日々を充実して生きる高校生に相応しいイベントが何気に盛り沢山だったかもしれない。一緒に誰かとどこかへ遊びに行ったり、皆して写真を撮ったり、今もこうしてクラスメイト達と共に憩いの場へと向かう途中なのである。

 ふとそんな考えが頭に浮かんでしまった智子ではあったが、いやいやそんな、まさか自分がそんな事、といった自己卑下じみた謙遜がすかさず顔を出してその考えを打ち消そうとしたものだから、その内に何だか己の気持ちが良く判らなくなってしまうのであった。

 

 今の智子が己を所謂リア充的であると規定するに至るかどうかは本人の考え方次第といった所もあるかもしれないが、ともあれ道端で賑やかにたむろしている智子達の横を通り過ぎて行った通行人達からすれば、智子の姿は誰がどう見ても仲良し女子高生グループの一員である事だけは間違い無いのだった。

 

 




おしまい


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もここみひとり飯

 午前の授業も一段落したお昼時。毎日の事ではあるのだが、校内の食堂は今日も今日とて学校中から詰め掛けた大勢の生徒達で混雑していた。

 

 誰も彼もが級友らとテーブルを囲んでお喋りに興じつつ、各々が持ち寄った料理をその健康的な食欲でたいらげていく。そんな風に騒がしくも活力に満ちた様子を見せる食堂であったが、隅っこの方によくよく目を向けてみればそこには置き忘れられた観葉植物のようにひっそりと座っている智子(ともこ)の姿があった。

 

 他に食事を共にする連れ合いがいる風でもなし、背を丸めて黙々と規則的にオムライスの山を突つく智子の周囲では、スプーンと皿がぶつかる硬質な音と彼女自身の緩い咀嚼音だけが繰り返されている。

 

(やっぱ隅っこの方でも居辛いな……)

 

 以前、智子はちょっとした思いつきから一人で学食に来た事があった。

 その際はたまたま空いていた食堂のど真ん中のテーブルに陣取ってしまったものだから、必然的に大勢の衆目の前でぽつねんと一人孤独にうどんをすする羽目になって大変に気まずい思いをしたのだが、それではと今度は目立たぬような場所を選んで昼食を取る事にしたのだった。

 

(これはこれでなんか惨めだ……やっぱ学食なんて一人で来るもんじゃないな)

 

 いつもは母が持たせてくれるお弁当やコンビニで買う出来合いのもので昼食を済ます智子であったが、たまには出来立ての暖かい料理を食べてみたいと思う事もある。それでこうして懲りずに学食に挑戦していた訳なのであったが早くもそれを後悔し始めていた。

 

 本当なら今日は己の数少ない級友と言えなくもない相手と一緒に行く約束を取り付けてあったのだが、何やら急な用事とやらでドタキャンされてしまった結果、またしてもこの場に一人で訪れる羽目になってしまったのだ。

 

(大体何だよ、いつも教室でボーッとしてる癖に今日に限って急用って……どうしても私をぼっちにしたいのか?)

 

 まるで己を罠に掛けるが如きクラスメイトの間の悪さにボヤきつつも、いい加減全く美味しくも無い作業的な食べ方に疲れてきた智子がふとスプーンの動きを止めて周囲へ視線を漂わせる。

 

(私以外にも一人で来てる奴っているのか……?)

 

 少しでも気を紛らわそうと無意識に同類の存在を探してしまうのは果たして本能なのか。救いを求めるように食堂内をさ迷う智子の視線であったが、ふとそれが場の一角に縫い付けられる。

 

(おっ、あいつもしかして……)

 

 智子が居るのとはまた別方向の隅に、智子と同じように背を丸めてもそもそ何かを食べている小宮山琴美(こみやまことみ)の姿があった。

 

(メガネじゃねーか、流石に便所飯が嫌になったんか)

 

 メガネだの便所コオロギだのと普段からおざなりなアダ名で呼んでいる件の知り合いを見つけた事で、智子の目に意地の悪そうな光が宿る。

 こうなると先程までのいじけた気持ちはどこへやら、自分と同じ立場か或いはそれ以下と見なせそうな相手の出現を受けて、智子の中で根拠の無い優越感がむくむくと湧き上がってきてしまう。

 

(ちょっくら声掛けに行ってやるか)

 

 そう思い立ったが早いか料理を載せたトレイを持ち上げた智子は、人ごみをすり抜け軽い足取りで琴美の元へと歩み寄っていった。

 

 ◆

 

「何いっちょ前にこんな所で食ってんだよ」

 

 己の持つトレイをこれみよがしに琴美の隣へ乱暴に置いてみせた智子は、開口一番軽めのジャブを放つ。

 

「お前かよ……」

 

 それまで隠れるようにして食事をしていた所に突然そのような事をされてしまったものだから、驚きのあまり体を震わせてしまった琴美であったが、声の主が智子であると見るや露骨に嫌そうな態度で返した。

 

「ここはこみなんとかさんみてーなぼっちが来ていい場所じゃねーんだぞ?」

 

 自分の事は棚に上げてそのような嫌味を言い放ちつつ、迷惑そうにしている琴美の隣へ椅子を引いてどっかと座り込む智子であった。

 

「……そういうあんただって一人だろうが」

 

 一体何が楽しいのやら、こうしてわざわざ己の姿をめざとく見つけて悪態を吐きに来る智子の無神経さに呆れつつ、少しばかりの憎まれ口で返してみせる琴美。

 

「いやいや、私は今日一緒に来る“友達”が急用で行けなくなっただけだから。仕方なく一人で来てるだけだから」

 

 お前と一緒にするんじゃないよ、と言外に露骨な含ませ方をしてくる智子を前に、なんとも面倒臭い相手に絡まれたと言いたげな様子で溜息をついてしまう琴美であった。

 

 さっさと食べ終えて教室へ戻ろうと思ったのか、智子にそっぽを向いた琴美が無言のまま食事を再開する。実の所、真に偶然ではあるのだが琴美が本日この場に一人っきりで訪れる事になったのもまた、己の数少ない友人の都合が土壇場で合わなくなってしまった結果であったのだが、わざわざそれを智子に説明してやる気は無いようだ。きっとなんのかの屁理屈をつけて言い負かそうとしてくる事が、智子の人となりを悪い意味で良く知る彼女には判っていたのかもしれない。

 

「……何食ってんの?」

 

 そんな琴美の素っ気無い態度が癇に障った様子の智子が、おもむろに琴美のトレイを横から覗き込んでは性懲りもなく彼女の食事を邪魔しにかかる。

 

(無視だ、無視……!)

 

 そんな智子を相手にせず、琴美は黙々と手に持った昼食の残りにかじりつく。琴美が先程から食べているのは大きなウインナーを長パンでサンドした軽食、いわゆるホットドッグであった。

 

「うわっ、ホットドッグ食ってる……やっぱ変態は普段の食いもんからしてイカれてんのな……」

「!?」

 

 無視をするとはメガネの癖に生意気な。ここはお仕置きとしてキツめの一発をお見舞いしてやるかと急に妙な事を言い出した智子は、さも信じられない物を見たかのような表情をわざとらしく作ってみせる。

 言われた側の琴美はというと、自分が何を言われているかが判らず智子の言葉に疑問符を浮かべる。

 

「お前あれだろ、そのウインナーをチンコに見立ててコソコソぱくついてたんだろ? 公衆の面前で何やってんだよ」

 

 今正に公衆の面前で堂々とあらぬ事を口にしているのは自分の方なのであるが、どうも智子としては琴美の食べている物を指して最低な例え方をしてみせたつもりのようだった。

 ともあれこの智子、普段は口下手な癖にこういう時ばかりは舌が回って相手を貶す言葉が流暢に出てきてしまうのである。

 ようやく相手の言わんとしている事が理解出来た琴美は流石に頭に血が昇り黙っていられなくなる。

 

「おまっ、いい加減にしろよ……!」

「あっうそうそ、冗談っ、本気にすんなって」

 

 そんな琴美の様子にしてやったりな表情を滲ませつつも、琴美の爆発点がそろそろ近い事を見極めた智子はここらが潮時かと思い、己に憤って目を血走らせ始めた琴美をどうどうと宥める。

 この小宮山琴美といういけ好かない知人が口で勝てないと見るやなりふり構わず暴力に訴えかねない手合いである事を智子はその身を持って思い知らされていたから、こうした闘牛士の如き際どい駆け引きもまた智子なりの意地の悪い学習の成果なのであった。

 

「ふぅー」

 

 ともあれひとしきり琴美をからかって気の済んだ様子の智子は、満足気に一息つくとおもむろに己の食事を再開する。他人の恥辱で飯が美味いぜ、と言わんばかりに今度はちゃんと味わって食べているようだ。

 隣り合っている琴美の顔には「気が済んだらどっか行けよ」と言いたげな不快感がありありと浮かんでいるのだが、智子としては一人ぼっちでいた先程よりもこちらの方が居心地が良かったようで席を立つ気配は無い。

 

 ともあれ初っ端こそ程度の低い賑やかさを見せていた二人ではあったが、そこから先は会話も途切れてしまったようで、お互いに黙々と食事の残りを片付けに掛かる。琴美としても実際は先程まで一人で肩身の狭い思いをしていたのだろうか、智子に苛立つ様子を見せていた割には己の方から別の席へ移ろうとする素振りもなく、大人しく智子と相席のまま食事を続けていた。

 

「……あ、あのさ」

「え? 何? ロッテの話なら聞かねーぞ」

 

 と、ふいに琴美がそんな二人の間の沈黙を破るかのように唐突に智子へ話しかけた。

 また興味の無い野球の話を聞かされるのかと思った智子は、彼女が本題に入ろうとする前に牽制球を放つ。

 

「いや、ちげぇよ……その、あんたのさ……友達の事なんだけど」

「へ?」

 

 野球でないなら弟の事について探りを入れてくる気かと身構えた智子であったが、意外にも己自身の交友関係について話題を向けられた為に意表を突かれてしまう。

 

「ほら、たまにあんたと一緒にいるあの、ちょっと不良っぽい金髪の子、いるだろ?」

「あー……うん、まあ」

 

 琴美が言っているのは、智子のクラスメイトである吉田(よしだ)という名の一人の女生徒の事だ。

 あれは友達なんかではないのだがと思わず否定しそうになった智子ではあったが、琴美がそのように勘違いしているのであれば自身の交友関係の広さを見せつけられると考え、一応同意してみせる。

 

「いるけど、それがどうかした?」

「いや、なんかあんまし評判良くないみたいだぞ、あの子」

 

 ああ、そりゃそうだろうなと思う智子。何かと粗暴な所のある吉田嬢はクラスの中でも浮いた存在であり、以前は授業にもまともに顔を出していなかった程であるから、比較的進学校の部類に入るここ原幕では、そういった素行不良気味の生徒に対する周りからの評判が芳しくないのも当然であろう。

 

「まあ、そりゃそーだろ、あれはヤンキーだしなー」

「大丈夫なのか?」

「えっ何が?」

 

 琴美の言った事の意味が判らない智子は、思わず聞き返してしまう。

 

「いや、あんた、あの子にいじめられてたりとかしてないか?」

「え!? なんでそういう話になんの?」

 

 まるで予想もしていなかった言葉を琴美から投げ掛けられてしまい、智子の目が思わず丸くなる。確かにあの短気な吉田嬢に痛い目に遭わされるのは割と日常茶飯事ではあるのだが、だからといって己が彼女にいじめられている等とは毛ほども思っていない智子としては正に寝耳に水の琴美からの質問なのであった。

 

「あ、いや……なんかあんたが結構あの子に殴られたりしてるって聞いたから」

 

 聞いたって一体誰にだよ、と智子が琴美を問い正してみれば、どうもそれは噂という形で他所のクラスの琴美の耳に届いたようだったのだ。確かに吉田嬢を目の上のたんこぶのように思ってはいる智子であったが、だからといって彼女が、そして己が周りからまさかそのようにあらぬ誤解を受けているとなると、なんともモヤモヤした気持ちになってしまう。

 

 もしかしたら自分が時折彼女に対して怯えた素振りを見せているから周りがそんな風に誤解してしまうのか。智子としては吉田嬢が粗暴なヤンキーである事は疑いようもない事実ではあるのだが、だからといって自分をいじめてくるような人間ではないだろうと確信を持って言える自信が多少なりともあった。それは智子が普段苦手としている筈の吉田嬢の本当の人となりを他の生徒達よりも理解し始めている証拠でもあったのだが。

 

 そもそも己がいじめられている等という不名誉な風評は智子にとって看過出来ないものであった。特にこのメガネにまでそう思われてしまっているとあっては真に面白くない。ここはおおげさに言ってみせてでも誤解を解かねばならぬと智子は反論を開始する。

 

「なんか誤解されてるようだけどさ、アレと私の間にはイジメとかそういうの全然無いから」

「そうなのか?」

「ほら、あいつって見たまんまヤンキーだから。暴力を通してでしか人と意思疎通が出来ない可哀想な奴なんだよ」

「いや、普通にやばい奴だろそれは……」

 

 きっぱりと己達への疑惑を否定してみせる智子であったが、琴美の訝しげな様子からしてまだまだ弁明が足りないとみた智子は、多少無理やりにでも好意的な評価を加える形で吉田嬢の擁護を続ける。

 

「それに、あいつ実はハローキティとか好きみたいで……なんかガキ向けのぬいぐるみも集めてるっぽいし、あんなナリしてるけど結構可愛い所もあるんだぜ?」

 

 外見にそぐわぬ少女趣味を持つ吉田嬢であるが、一応は彼女が内緒にしたがっているそれを智子は遠慮なく暴露してみせる。普段ワルぶっている者がこっそり子犬を可愛がってたりするとギャップ効果で良い奴に見えてしまうという、智子としては何とも癪に障る法則があるのだが、ヤンキーをヨイショしてやるにはやはりこの手に限ると思う智子であった。

 

「去年なんか、クレーンゲームで欲しいぬいぐるみがあるから私に取ってくれってせがんできた事もあったしな」

 

 さり気なく「自分のが上なんだぞ」と言ったニュアンスを含ませた補足を付け足すのも忘れない。その際に自分も乱暴者の吉田嬢から景品のように吊り上げられてしまった事は勿論伏せておくのだが。

 

「へえ、そ、そう……」

 

 言葉を詰まらせ気味に相槌を打つ琴美の様子によしもう一押しだと、続けてこれまで彼女から受けた親切と言えなくもない行為を思い出す限り引き合いに出していく智子。

 

「あいつああ見えて結構気の利く奴でさ、前に雨降ってて傘忘れた時に(無理やり)私を自分の傘に入れてくれた事とかもあったし……おお、そういや修学旅行の時も私がケガしたらおぶさってくれたぞ」

 

 そのあと山ん中に置き去りにされそうになったけどな、と心の中で補足する智子であったがひとまず効果はてきめんのようで、見れば琴美の顔からは疑惑の念がすっかり抜け落ちていた。いやむしろ、ややたじろいだ様子すら見せているのであった。

 

「だから、あいつ別に悪い奴とかじゃないの。判った?」

「あっ、そうなんだ……うん、判った、判ったよ」

「おう、判りゃいいんだ。まあお前からもその噂してる人達に説明しといてくれ」

 

 ひとしきり智子の弁明を聞かされた琴美は、すっかり己の中の誤解が解けた事を智子に伝えてみせる。その反応に満足した智子は「ギャップ効果マジお手軽だわー」などと思いつつ、さらりと面倒臭い頼み事も口にするのだった。

 

(つーか、成瀬(なるせ)さん以外でこいつがこんなに人を褒めるなんてな……)

 

 が、当の琴美本人は何やら意外なものを見てしまったと言わんばかりの表情をしている。

 吉田嬢の赤裸々な人となりを知る事によって誤解が解けたか見えた琴美であったが、その思う所は別にあった。琴美としては滅多に人を褒めないあの偏屈者の智子がここまで誰かに対する好意的な見解を述べてみせた事に驚きを感じており、件の不良生徒とはそこまで言わしめる程の間柄なのだと解釈したのだ。だからこそ、思わずこんな言葉が出てしまう。

 

「……仲、良いんだな」

「えっ!? いや、まあ、それなりには……」

 

 そんな琴美の呟きに「ほんとはそんな事無いんだぞ」と言いたくはあったのだが、今さら否定する訳にも行かないので言葉を濁す智子。

 

「あんたの噂聞いてから正直ちょっと気になってたけど……まあ安心したよ」

(んんん?)

 

 ふいに琴美が爽やかな表情でそのように言ってのけたものだから、智子は思わず面食らってしまう。普段から智子に対して冷淡な態度で接する事の多い琴美であるが、この時ばかりは本当に安心したのか、まるで親しい友人に向けるかのような温もりを含ませた眼差しを智子に向けたのだった。

 

(えっ何これ、もしかしてこいつ私の事心配してたの……?)

 

 メガネの癖に生意気な。お前はむしろその噂を聞いてほくそ笑むべきだろう等と思う智子であったのだが、琴美の突然の告白を前にどう返していいものかと言葉に詰まってしまう。人からの悪意にはそれなりに耐性がある智子であったが、こうした善意に晒されようものなら途端にたじろいでしまう性分なのである。ましてや普段は悪態を吐きあってばかりの間柄である琴美であるからして、そのギャップが智子にもたらしてみせた戸惑いもひとしおなのであった。

 

「あっ予鈴……」

 

 と、どうにも困った様子でいた智子を助けるかのようにランチタイムの終わりを告げるメロディが食堂に鳴り響いた。それを合図に、早々に切り上げねばと一斉に食器を返却し始めた生徒達で再び食堂の受付口が混雑の様相を呈し始める。

 さて智子達の方はどうかと言えば、すっかり料理をたいらげていた智子に対し琴美の方はまだ幾分かの添え物が皿に残っていたようで、彼女は慌ててそれを片付けに掛かっていた。

 

(ま、いいか……)

 

 先程の琴美の予想外の一言にドキリとさせられた余韻を感じつつも、努めて平常心を取り戻そうとする智子は自分に言い聞かせるようにそう心中でひとりごちる。

 

「ほら、見ててやるから早く食べろよ」

「いや、お前はもう戻っとけよ」

 

 先に琴美を置いて教室に戻るでもなく、おもむろに頬杖をつきつつ琴美を急かす智子なのであった。

 




おしまい


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もこっちと小さかった智くん(上)

智貴×もこっちです。

★イラスト
こちらはしましま。様が描いてくださった、拙作のイメージイラスト(一枚目のほう)です。
作者様に快諾頂けましたので、この場を借りてご紹介させて頂きます。
https://twitter.com/simasimatusika/status/1061467177419649025

[2021/5/31]『もこっちと小さかった智くん』を全面改訂しました。主に文章表現の拙い部分を改めた形となりますが、会話や心理描写の細かい変更なども加えてあります。


あの頃はよかった

 最近の智子(ともこ)の密かな楽しみがある。それはある古いビデオテープたちを視聴する事だ。

 きっかけは、リビングのテレビ台の中にいつの間にか並べられていた一本のテープだった。先日それを発見した智子がテープの背に書かれたタイトルに興味を惹かれて再生してみた所、思いのほか彼女の心を捉えて離さない内容が映っていたのだ。

 

『おねーちゃん、おねーちゃん』

『なぁに? ともくん』

 

 今、智子が自室でボンヤリと眺めているテレビ画面には、幼い姉弟の仲睦まじい様子が映し出されている。

 

(ほんと、この頃は小さかったんだなぁあいつ)

 

 智子が見つけたもの、それは自分達の両親がずっと昔に撮影しておいた、どこにでもあるような我が子の成長記録の類だった。

 ビデオテープのように最早廃れて久しいその記録媒体を再生出来る機器は、黒木家においてはリビングに設置されているものただ一つだけであったから、智子は普段あまり使われていない様子のそれをわざわざ自室に持ち込んで、好きな時に視聴出来る環境を整えたのであった。

 

(昔はこんな風によく撮って貰ってたっけ……)

 

 最初に見つけたテープをすっかり見終わったあと、他にも似たようなものはないだろうかと思った智子は、納戸を漁って類似のタイトルが書かれた数本のテープを引っ張り出してきたりもした。

 今観ているこれらが一体いつビデオカメラからダビングされたものなのかは智子には知る由も無いが、この手の記録媒体は保管状態が悪かったりすると経年劣化によって使い物にならなくなる事も珍しくないので、多少ノイズはあるものの今こうして特に支障も無く再生出来ているこのテープたちは貴重であるといえた。

 

『おかえりーともくん』

『ただいまー。ね、ね、おかえりのチューして?』

 

 帰宅した夫とそれを出迎える妻という設定のおままごとなのであろうか、画面には互いに挨拶を交わした後に迷い無く唇を重ね合わせる姉弟の姿が映し出される。このビデオには他にもこんな風に二人が頻繁にキスを交わす様子が幾つも映っていた。

 

(キスばっかせがみやがって、ドスケベ弟め……)

 

 頬に口付けするだけならまだしも、時には遠慮なく当たり前のように唇同士での接吻を行う姉弟の姿に、智子は何やら気恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。といっても所詮はお子様レベルのキスでしかないのだが、こうした無邪気なスキンシップが妙にいやらしく感じられてしまう智子の目は紛れも無く腐っているといえた。

 

(あっ、このぬいぐるみ!)

 

 画面の中でおままごとを続ける姉弟の傍らには、モヒカンヘアーが特徴的なペンギンらしきぬいぐるみがちょこんと置かれている。これは夫婦を演ずる二人にとっての子供なのであろうか、幼い智子は向かい合って座る弟とそのぬいぐるみの前におもちゃの食器を配膳してやり、さあお食べなさいと主婦の真似事をしてみせていた。

 

(これ、確かきーちゃんとこの犬が食い千切りやがったんだよな)

 

 このモヒカンペンギンは当時の智子がいたく気に入っていたもので、どこへ出掛けるにも家族の一員のように持ち出していた程であったのだが、いつの日だったか智子の従妹である希心(きこ)の家を訪れた際に当時その家で飼われていた犬から手荒い歓迎を受けてしまった為、原型を留めない程に破壊されたそれを泣く泣く処分する羽目になってしまった。そのような苦い想い出をたった今思い出した智子は、まったく主従揃って人の嫌がる事をしてくるものだと軽く溜息が出そうになる。

 

『おねーちゃん、つぎはこれやってー』

『はーい、じゃあジャンケンでじゅんばんきめようね』

 

 ともあれ画面の中でひたすら飽きもせず戯れ続ける小さな姉弟の姿は今の智子にとって大変に物珍しく、そしてどこか懐かしくもあった。それ故に飽きもせずここ数日は時間があればしょっちゅうビデオを見返しているのであった。

 

(あの頃は楽しかったなぁ)

 

 映し出される数々のありし日の記録に記憶中枢が刺激されたのか、今までとんと忘れてしまっていたような幼少期の想い出の数々が、今や智子の頭の中で次々に蘇っては消えていくようになっていた。そしてまた、その想い出のひとつひとつには常に己の傍らにいた弟の姿が色鮮やかに焼きついていたのであった。

 

(とも)くん、かぁ……」

 

 ふいに智子は映像を一時停止させると、画面にアップで映されたかつての愛弟の幼い顔をまじまじと見つめる。もし仮に己が今の弟を「智くん」などと呼ぼうものなら、かの愚弟はふざけるなとさも嫌そうに舌打ちで返してくるだろうからして、尚更当時の弟の従順な姿が懐かしくて堪らない。

 

(昔はこんなに甘ったれ坊主だったのに、それが今じゃすっかりクソ生意気になりやがって)

 

 当時はどこへ行くにも智子の後ろを付いて回っていた弟である。智子が幼稚園に入った時は一緒に行くと言って聞かず、小学校に上がる頃になれば自分の通う幼稚園に向かわず姉に付いていこうとする程の懐きぶりであったのに、それが今では寄るな喋るな関わるなと言わんばかりのぞんざいな態度を向けてくるようになったのだから、むかっ腹のひとつも立てたくなるというものだった。

 

(私はお前のお姉ちゃんなのに……)

 

 ふぅと小さく息を吐いて座椅子の背もたれに頭を預けた智子は、そのまま目を閉じてしまう。

 ずっとこんな風に昔の想い出に浸っていても、あの頃のように無邪気な二人に戻れない事は勿論智子も判っている。自分も、弟も、歳を重ねてもうすっかり子供ではなくなった。かつて智子がいつも感じていた小さな幸せは幼年期の終わりと共に別れを告げ、手放してしまった風船のように空の彼方へ飛んでいってしまったのだ。

 

 と、そんな風に智子が物思いに耽っていると、玄関のほうから部活の練習を終えてきたらしい弟の帰宅を告げる声が聞こえてくる。

 

(……たまにはお出迎えしてやるか)

 

 ちょっくらイケ好かない弟の面でも拝みに行ってやろうかと思い立った智子は、思った以上に深く閉じられていた重い瞼をゆっくり開き──

 

(んんん?)

 

 開眼しきった智子の周りに広がっていたのは、先程まで居た二階の自室などではなかった。ファミリーサイズのソファーの前に鎮座するテレビ。家族全員分の椅子で囲われた大きな机。部屋の端にはキッチンや冷蔵庫。やけに広々した空間の中に一家の生活の中心的要素が詰まったそこは、どう見ても黒木家の一階にあるリビングとダイニングが一体化した部屋なのであった。

 

(えっ、ワープした!?)

 

 突然の事態に気が動転し、風切り音を放ちそうな勢いでキョロキョロと首を振って周囲の様子を伺う智子であったが、ふと己の背後に人の気配を感じたようで、すっとそちらを振り返る。

 

「おねーちゃん、どうしたの?」

 

 そこには小さな男の子が所在なげに立っていて、先程から目をまるんまるんに丸くしている智子の顔をじぃっと見つめていたのだった。

 

「おぅっ、な、なにこれ!?」

 

 驚愕のあまり飛び跳ねるように立ち上がった智子であるが、それに驚かされた男の子が「わっ」と声を上げて尻餅をついてしまった。

 

「おねーちゃん、おこして……」

「え? あ、う、うん」

 

 ぐずった様子で助けを求めるように手を伸ばし足をバタつかせる男の子のことを、智子はひとまず手伝ってやる。

 

「びっくりしたー」

 

 えへへ、と台詞がつきそうな人懐っこい笑みを浮かべた男の子は、立ち上がるとそのまま智子の体にギュウとしがみついて顔をうずめた。

 

(えっ? えっ? なにこれ? どういう状況……?)

 

 今以て全く頭が追いついてこない智子であったが、己に体重を預けたままの男の子の体温にどこか懐かしいものを感じ、

 

「あ、えと、ちょっといい……?」

 

 男の子の肩をそっと押して引き離した智子は、己の目線よりもやや下にある彼の顔を改めて観察する。それはつい最近まで頻繁に件のビデオを見返していた智子にとっては見間違えようもない、どこからどう見ても幼い頃の弟、智貴(ともき)なのであった。

 

「えっと、と、智貴……だよな?」

 

 それでもまずは確認しなければと、智子はまず男の子の名前を尋ねてみる事にした。すると智貴はその問いかけに引っ掛かるものを感じたのか、首をふりふりと振ってみせる。

 

「ぼく、ともくん」

「あ、うん、そうだね、と、智くんだね……」

 

 幼い頃の愛称の方を自分の名だと認識しているのか、智子の問いかけを訂正してくる智貴。ともあれこの男の子が智貴本人と見て間違い無さそうだと智子は結論付ける。

 あの図体のデカかった弟が突如このように縮んでしまったとでも言うのだろうかと、益々混乱してきた智子は異常な状況を訴える先を求めていつもこの部屋に居る筈の年長者の姿を探す。

 

「あ、お母さんは……?」

「わかんない」

 

 今自分達がいる部屋を改めて見回してみるが、どうも母の姿が見当たらない。家全体もしんと静まり返っていて、他に人のいる気配がさっぱりしないようだ。何より智子がぞっとしたのは、つい先程まで確かに日もすっかり沈んだ夕方頃であった筈なのに、窓を見やればさんさんと太陽の光が室内を照らし出す真昼間へと変わっていた事だった。

 

(ホントどうなってんだ、この状況……)

 

 気が付けば一瞬で部屋を移動していた自分、突如現れた幼い頃の弟、逆転してしまった時間帯。こうも異常な状況が重なっては智子の混乱も極まるというもの、故に自身の体に起きている顕著な変化には未だ気付かないでいた。

 

 全く持って何が何だか判らないものの、己の上着の裾を千切れんばかりにギュウと握り締めて、手掛かりを求めるように部屋の中を恐る恐るうろつきだす智子。

 と、その後ろを智貴がとてとてと小さな足で付いて来ている事に気付く。これはどうした事かと訝しんだ智子が試しに小走りで8の字を描いてみせたら、やはり智貴もその通りの軌跡を辿って己の後方からピッタリと追随してくる。

 

(なんで付いてくんの!?)

 

 姉くっつき虫と化した智貴に思わず問い掛けそうになる智子であったが、その理由にすぐ思い当たって途中で言葉を飲み込む。姉の行く所あらばどこまでも付いていくと言わんばかりの弟の迷い無きその行動は、幼かった頃の彼が普段からこのようにして家の外でも中でもとかく自分の後ろにくっついてきていた事を智子に思い出させてくれたのだ。

 当時はそれを当たり前の事として受け止めていた智子であったが、今改めて体験してみるとこれが地味に鬱陶しかったりするのは、幼い子供とそうでなくなった者との相容れない感性のズレを如実に物語っていた。

 

「あっ智くん……後ろから付いてくるの、ちょっと止めようね」

「えっどうして?」

 

 邪魔くせーんだよ、という本音をこの人懐っこそうな幼子にぶつけてしまうのは流石に智子としても憚られたようで、ここはおおげさなハッタリでもかましてやろうと口を開く。

 

「お姉ちゃんね、今日は誰かに後ろから付いてこられると爆発しちゃう日なんだ」

「えーそうなの!?」

「そう、まあ今日だけなんだけど、でもメチャクチャ爆発するから。家とか全部消し飛ぶから」

 

 だから今日はちょっと我慢しようねと、あからさまに子供騙しなデタラメで弟を諭してみせる智子であった。

 

「ごめんねおねーちゃん、もうしないから……」

 

 とはいえその効果は十分にあったようで、ややしょげた様子の智貴は姉の言葉をすっかり信じて素直に追跡ごっこを諦めるのだった。

 

(やっぱりガキは扱い易いぜ)

 

 もしかすると昔からこんな風にして幼い彼を口八丁で手玉に取っていたのであろうか。どこか手馴れた様子で智貴をあしらってみせた智子であったが、そもそもこんな事をしてる場合ではないのだと、改めて今自分が置かれた状況に危機感を募らせる。

 

 智子には先程からどうにも言葉に出来ない違和感がつきまとっていた。今自分がいるのは確かに普段生活している家の中である筈なのだが、まるで他人の見知らぬ家の中に上がり込んでしまったような印象を受けてしまっていたのだ。

 

(あれ、ウチのテレビってこんなんだったっけ……?)

 

 その違和感の原因を求めて部屋の中を注意深く観察していた智子は、リビングに鎮座しているテレビが日頃見慣れたものと随分違っている事に気付く。智子の知るそれは液晶タイプのテレビであった訳で、今己の目の前にあるブラウン管タイプのこれは最早完全に別物なのであった。

 

(つーか、なんかデカくね? これ)

 

 自分の背丈以上の圧倒的に巨大なその威容に益々違和感を強めた智子は、ふとそのブラウン管テレビ特有のツルツル画面に自身の姿が鮮明に映っている事に気付いた。

 

(!!)

 

 その時、智子に電流走る。

 画面の向こうからこちらを凝視してきているのは、智子の見知った姿などではなかった。そこに居たのは智子に良く似た顔立ちの、髪を二つ結びでまとめた小さな女の子なのであった。

 

(えっ? これ、もしかして私!?)

 

 だがその女の子の一挙手一投足が己の動きと寸分違わず同期している事から、疑いようもなく己の姿が今正にこの目の前の幼子のようになってしまっている事を智子は自覚し始める。

 

(私まで、子供に戻っちゃってる……?)

 

 果たして昔の状態に戻ってしまったのは自分達姉弟だけであろうか。いやそうではない。先程からずっと感じていた奇妙な違和感の正体に智子はようやく気付く。

 そうなのだ、この部屋に置かれている家具も、日用品も、窓から覗く庭先の様子も、あらゆるものが智子の普段見慣れたそれらとは随分と異なる様相を呈していたのである。このブラウン管テレビも、よくよく思い出してみればずっと昔に黒木家で使われていたものに違いないのであった。

 

(昔に、戻ってきちゃった? タ、タイムスリップってやつ……?)

 

 これら諸々の奇怪な状況が意味する所に、智子は遂に思い当たる。どうやら彼女はその精神だけを遡らせる形で過去へと戻ってしまったようなのだ。それも随分と昔に。

 

 ようやく状況を把握し始める智子ではあったが、今度はここにきてあからさまな動揺を見せ始める。何故このような事が起こってしまったか、解決するにはどうすれば良いのか、等といった事を考える余裕も無く、自分が放り込まれてしまったこの異常極まる事態を前にしてただひたすら怯え出してしまうのであった。

 

「ふひゅっ、ふひゅっ」

「おねーちゃん、どうしたの!?」

 

 突如としてあからさまな変調を見せ始めた智子の様子を心配する智貴が、先程と同じように声を掛けてくる。

 

 呼び掛けられた智子のほうはといえば、最早どうもこうもない。今やその心臓は痛みを感じてしまう程に激しく脈打ち始め、乱れに乱れた呼吸は自力では整えようもなくなってしまい、血の気の引いた体はひとりでにガックンガックン揺らぎ続けるばかり。

 ではその内心はどうかといえば、思考はすっかり散り散りになってしまい、信仰心など毛程も無かった筈なのに先程からひたすら神さま、神さま、と無意識に救いを求めて祈り出している始末。

 

 想像を遥かに超える異常な状況に直面した場合、人というものはここまで心身にあからさまな変調をきたしてしまうものなのであろうか。そんな知りたくもなかった人間の心と体の不思議を身を持って経験する羽目になってしまった智子は、精一杯の不満の声を脳内で搾り出す。

 

(私はただビデオ見てただけなのに、なんでこんな事になってんだよっ!)

 

 突如として訳の判らぬ異常な状況に陥ってしまった事に今度は怒りすら湧いてきて、声が出せるのであればお空に向かって「バカヤロ──ッ!」と大声で怒鳴ってやりたい気分の智子なのであった。




つづく


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もこっちと小さかった智くん(中-前篇)

黒木智子の逆行

 智子は今、人生史上かつてない程に混乱していた。

 常日頃、何かにつけて混乱気味な所を見せる彼女ではあったが、現在のうろたえぶりは普段のそれとは比較にならない。タイムスリップなどという、智子が知る限りでは創作かオカルトマニアの与太話の中でしか起こらないような四次元的シチュエーションにこうもあからさまな形で遭遇してしまった訳であるから、それも無理ならぬ事ではあったのだが。

 

(ほんとこれ、どうなっちゃうんだ!? 一体私が何したってんだよ……っ!)

 

 智子の中ではこのようなとびきりのアクシデントに巻き込まれてしまった事に対するはちきれんばかりの恐怖と、何ゆえ自分がこのような目に遭わねばならぬのかといった理不尽への憤りが交互に湧き起こっては嵐のように渦巻いていく。

 さてそろそろショックのあまり気絶でもするのではないかという様子の智子であったが、そんな彼女の体にふいに温もりが与えられた。

 

「おねーちゃん、だいじょうぶ……?」

 

 あからさまに姉の様子がおかしい事を心配した智貴が、智子の体に両手を回してギュッと抱きついてきたのだった。先程から呼吸すらままならず身も心もすっかり平静を失ってしまっていた智子ではあったが、青ざめて著しく体温を失っていた己の体に突如押し付けられた子供特有の高い体温は、混乱の極みにあった智子が思わず我に返ってしまう程に熱く感じられた。

 

 何やら懐かしいその温もりを智子が感じている内、今の今まで乱れに乱れていた呼吸を少しづつ整える余裕が不思議と生まれてくる。瞬時に体の震えが止まるという程でもないのだが、ひとまずはなんとか自力で立っていられるだけの踏ん張りも効くようになってきた。

 

 そうしてしばらく時間に任せて己の中の嵐が過ぎ去るのを待っていた智子であったが、姉に何事かあったのではと先程から心配そうにしている目の前の弟の様子に気が付くと、無理やりにでも落ち着いた風を装ってみせる。

 

「あっ……うん、な、何でもないよ……」

「ほんとにー?」

 

 ずっと姉に抱きついたままでいる智貴の頭をポンポンと軽く叩いてやった智子は、もう大丈夫だと言わんばかりにその肩をそっと押して弟を引き剥がす。突如として訳の分からぬ状況に放り込まれてしまった智子ではあったが、そこにただ一人、自分の良く知る身内が傍らで身を案じてくれている事を感じて多少は安心を覚えたのかもしれない。もっともその身内は普段見知った姿よりかは随分と縮んでしまっていたのであるが。

 

「ふ──……」

 

 とりあえず突っ立っていてもどうにもならぬと、智子はおもむろにソファーへとよじ登ってそこに腰掛けると、己を落ち着けるように一息ついてみせる。

 

「わっ、なにっ?」

 

 するとそれを合図と見たのか、智貴が後を追うようにソファーをよじ登って、智子の膝の上へ強引に乗っかりそのまま体重を預けてくる。

 

「だっこー」

「あ、そ、そう、抱っこね、うん……」

 

 まるでいつもこのようにする事が当たり前だと言わんばかりの弟のそのスキンシップに、ああそういえばそうだったなぁと昔を思い出してしまう智子。彼女としても不安を少しでも紛らわせたかったのか、いつも愛用のぬいぐるみに対してそうしているように、自分とあまり差がない弟の体をギュッと抱きしめる。

 

(これって、もしかして夢なんか? いや、夢であって欲しいが……)

 

 ともあれこの不可思議極まる状況の中で徐々にではあるが冷静さを取り戻しつつあった智子は、ひとまず自身を落ち着かせる為の呪文を唱えてみる事にする。

 

(これは夢だ、これは夢だ……放っときゃそのうち覚める、はず……)

 

 本心では全くもってこれが夢だとは到底思えなかったが、そう思い込みでもしないと気がどうにかなってしまいそうだった智子は、ひとまずその希望的観測を無理にでも信じてみる事にする。

 これがもし普段の己であれば自分の代わりに弟の頬を容赦なくつねって夢かどうか確かめてやる所なのであるが、己の腕の中の幼子にそのような狼藉をする気にはとてもなれない智子は、代わりにそのふっくらとした頬をすりすりと撫でさすってみせる。と、それがくすぐったい智貴はキャッキャッとはしゃいで智子の膝の上で身をよじらせる。

 

(まあ、夢なら覚めるのはもうちょっと後でもいいか……)

 

 これが夢であるのなら何も取り乱す必要は無いと、幾分か余裕をもって考える智子。自分の膝の上で何が楽しいのかしきりに足で船を漕ぎながらふんふんとご機嫌に鼻歌を歌う智貴を見ている内、この時間をもう少し続けてみても良いかもしれないと、そのような気持ちが智子の中で生まれつつあったのだ。

 

「ねぇ、智くん」

 

 と、ようやく呼吸も落ち着き体の震えも収まった智子はふいに弟へ呼び掛ける。途端、グイッと身をよじって智子のほうを振り返った智貴が口をポカンと開けたまま姉からの次の言葉を待つ。

 

「何して遊ぼっか?」

「パズル!」

 

 言うが早いか、智子の問いかけに元気よく答えた智貴はソファーの上からサッと飛び降りると、そのまま部屋の隅の玩具箱に駆け寄って中を漁り出す。

 

(せっかくだし、こいつと遊んでやるか)

 

 かつての自分は弟と普段どのような遊びに興じていたのか。件のビデオの内容から窺い知れる以外の事は朧げな記憶しか無い智子であったが、夢の中とは言えこうして幼き日の弟と図らずも再会出来た事で当時の暮らしぶりに少しばかり興味が湧いてきた。

 と、玩具箱からお目当てのパズルゲームの箱を引っ張り出してきた智貴が、その中身をカーペットの上にひっくり返してゲームの準備を始める。

 

(うわ~、あったあったこんなの)

 

 智貴が引っ張りだしたのは、幾つものブロックを正しくボードの上へ嵌め込んでいく知育用のパズルであった。対象年齢はやや高めであるのか、ブロックの数も多くその形も若干複雑である。昔はこれを弟と二人して解いていたものだが、現物を目にして古い記憶が呼び起こされた智子は懐かしさのあまり内心で感嘆の声を上げる。

 

「はい、おねーちゃんからだよ」

「あ、うん」

 

 と、智貴がブロックの一つをおもむろに掴むと、それを智子に差し出す。最初の一手はいつも智子からで、智貴はその後を追随する形で完成させていくのがこのパズルゲームにおける当時の二人の通例だったのだ。

 

(今にしてみるとクッソつまらん遊びだが、ガキの頃はこんなもんでも楽しんでたっけ)

 

 自分達が成長していく内にいつの間にか家の中から消えてしまったこの手の玩具であるが、それが今またこうして己の前に現れた事にちょっとした感慨を覚えなくもない智子であった。

 

(あっそうだ……)

 

 ただパズルを解くだけではつまらない。ここはひとつ、とっておきのミラクルを見せてやろうと思い立った智子は、つい先程まで哀れな程に狼狽していた人間とは思えないような不敵な表情で弟に提案してみせる。

 

「ねえ智くん、ちょっと面白い事見せてあげるよ」

「えっなになに?」

「今から智くんが三十秒数える内に、お姉ちゃんがこのパズルを全部完成させてあげる」

「えーむりだよー」

 

 当時がどうであったかイマイチよく思い出せない智子であったが、智貴の反応からするとどうやら姉弟そろってこのパズルには中々苦戦させられていたのかもしれない。が、それはあくまで子供の頃の話。今の智子からしてみれば所詮幼児向けに過ぎないこのパズルゲームは至極単純なものでしかなかった。

 

「いやいや、こんなの簡単だって。智くんちゃんと三十秒数えられる?」

「うん、だいじょうぶ……」

「じゃあほら、今から数えていいよ」

「えー? じゃあいーち、にー……」

 

 カウントダウンが始まるや否や、智子は息つく間もなく手当たり次第に次々と正確にブロックをボードに嵌め込んでいく。その様子に目を丸くする智貴は興味津々に姉の挙動を見守りながらも律儀にカウントを続ける。

 

「にじゅなーな、にじゅはーち……」

「はい出来たっ!!」

 

 智貴が三十を数え終わる前に、智子はそのパズルを見事完成させて勝利のバンザイポーズを取ってみせた。

 

「すごい! もうできちゃった!」

 

 普段ならたっぷり時間を使って二人掛かりで完成させるはずのパズルを本当に速攻で完成させてしまった姉の勇姿に、興奮気味の賛辞を述べる智貴がパチパチと拍手する。一方の智子はと言えば、やや息を切らせつつも試みが上手くいったとご満悦の様子。

 

「じゃあもっと他にもお姉ちゃんの凄い所、見せてあげよっか?」

「うん!」

 

 弟から得られた好感触にすっかり気を良くした智子は、まだまだこんなもんじゃあないんだぞと、更に己の有能ぶりをアピールすべく自ら玩具箱を漁り始める。

 

(なんかガキ向けのもんばっかだな……)

 

 ああでもないこうでもないと手当たり次第に箱から玩具を取り出し脇へ無造作に並べていく智子であったが、当然ながらそれらはいずれも当時の自分達の歳相応に親が買い与えたものが大半で、今の智子の中身高校生なスペックを見せつけられそうな目ぼしいものは中々見当たらない。

 

(おっ、いいもんあるじゃんか)

 

 ようやくお気に召す品を見つけた様子の智子が手に取ったのは、かつて有名所の老舗メーカーが発売したROMカセット型の携帯ゲーム機であった。既にセットされているゲームROMを確認してみると、どうやらそれはアクションゲームのようである。当時は弟を傍に置いてよく己のプレイする様子を見せてやったものであるが、これなら今の己のゲーマーとしての腕前を遺憾なく見せ付けてやれそうだ。

 

「智くん、これ、お姉ちゃんが今から一回も死なないで全クリするから見ててね」

「えー? そんなのぜったいむりだよー」

 

 出来るんだなぁこれが、とおもむろに本体の電源を入れてみせた智子は、スタートボタンを連打するとオープニングデモも飛ばして早速ステージ攻略に挑み始めた。実はこのゲームは当時智子が相当にやり込んでいたもので、プレイしなくなって久しい今となっても尚攻略の勘が体に染み付いていたものだから、単純にクリアする以上のプレイを披露してみせる自信があったのだ。

 

 さてそこからはあれよあれよという間に攻略が進んでいく。時にショートカットを駆使し、時にハメ技を駆使し、はたまた時にはバグも利用しつつ、尋常ならざるスピードで攻略を進めていく。これはいわゆるノーミスプレイを兼ねたタイムアタックである。

 

「おねーちゃんすごい……」

 

 このゲーム最大の難所である中盤ステージのボスを、何をどうやったのか登場開始からたったの十秒で撃沈せしめた智子に、事態を飲み込めない智貴が感嘆の声を漏らす。

 

「はい、おしまい」

「やったー!」

 

 目まぐるしいプレイに智貴がすっかり翻弄されている間に、とうとうラストステージのボスまでをも数秒程度で撃破してみせた智子はゲームクリアを宣言する。流石にノーダメは無理だったかと、久しぶりにプレイするゲームなだけにまずまずの結果といった所の智子であったが、傍らで固唾を呑んで見守っていた智貴としては姉のプレイは最早神業も良い所であった。

 

「おねーちゃんってゲームのかみさまみたい! なんでそんなにうまくなったの?」

 

 毎度姉がこのゲームに苦戦する様を傍らで見ていたらしい智貴は、すっかり興奮しきって智子に最大級の尊敬の眼差しを向ける。それはもう、まるで姉が突然スーパーマンにでもなったかのようなはしゃぎぶりなのであった。

 

「まあ、長年の努力の積み重ねって所かな」

「そうなんだー、おねーちゃんってやっぱりすごいなぁ」

 

 傍目にはほんの幼子でしかない智子がそのような事を言ってみせるのは本来であれば物笑いの種なのであるが、現にこうして大人顔負けの腕前を披露してみせた智子のその言葉には妙な説得力があった。いわんや姉に全幅の信頼を置いている智貴からすれば、姉がそう言うのだからそうに違いないと、素直にその言葉を信じてしきりに感心した様子を見せるのだった。

 

(そうそう、この顔なんだよなぁ……「あいつ」に一番欠けているものは……)

 

 久方ぶりに経験する弟からのこうした懐かしい反応に充足感を覚える智子ではあったが、それもやがては彼の成長と共に失われてしまうのだと思うと、何やらチクリとした痛みを胸の辺りに感じないでもなかった。

 

「ねえねえ、こんどはこれやって!」

 

 姉の凄い所をもっともっと見てみたいと、智貴は他のゲームROMをどこからか引っ張り出してきて、期待混じりの眼差しで智子の前に差し出す。

 

「あっ、そういうのもういいや。お姉ちゃんさっきのでちょっと疲れちゃったからさ、休ませてよ」

「えー……」

 

 ともあれ姉の偉大さを弟へ存分に見せつける事の出来た智子はすっかり気が済んだのか、最早智貴との遊びには興味を失ってしまったようだ。急に付き合いの悪くなった姉の言葉に智貴はどこか残念そうな顔をしながらも、それ以上駄々をこねる様子は見られない。それはわざとらしく疲れたそぶりを見せている智子を気遣っての事なのであろうか、智貴は姉思いの弟なのであった。

 

(ふぅ……テレビでも見よ)

 

 智子はテレビ台の上に置かれていたリモコンをさっと手に取ると、ソファーの足元にすとんとあぐらをかいて座り込み、おもむろに電源ボタンを押す。つい先程までは見知らぬ家に上がり込んでしまったかのような気味の悪さを感じていた筈の智子であったが、これは夢だと己に言い聞かせる内に早くもその警戒心が薄れてしまったようで、今やここが我が家だと言わんばかりに遠慮無く寛ぐ様子を見せ始めている。

 

「わくわくノンちゃんやってるかなぁ?」

「え? あ、どうだろ、やってないんじゃないかなー」

 

 と、そんな姉の後を追うように自分も智子の隣に座り込んだ智貴は、姉の袖をクイクイと引っ張って己の見たい番組をリクエストしてみせる。タイトルを聞いてもどんな番組だったかサッパリ思い出せない智子ではあったが、当時の自分達がもっぱら見ていたチャンネルと言えばいつも決まっていたので、適当に相槌を打ちながらもそちらへと切り替えてやる。

 

『次のニュースです。昨日、千葉市○○小学校に配属された教育実習生の男が、児童らに対し自身の局部を露出する目的で「ウインナー見せたる」などと迫ったとして……』

 

 智子が切り替えた先のチャンネルでは、何やらどこかで聞いたような事件を読み上げるニュースキャスターが映し出される。

 

「あっ、なんかニュースとかしかやってないみたいだね」

「そっかー」

 

 どうも今は弟がお目当てとしている番組はおろか、子供向け番組自体が放送されていない時間帯であるようだった。

 他にも適当にチャンネルを切り替えてみる智子であったが、いずれも幼い子供の興味を惹くような番組はやってないようだ。とりあえず適当なチャンネルに固定した智子は、流されている番組をなんとはなしに視聴し始める。

 

「……」

 

 テレビを付けてはみたものの、大して興味を惹かれるような内容でもなかったからか、智子は心ここにあらずといった様子で画面を見つめたまま口をぽけーっと開ける。傍らの智貴もまた、姉に寄り添い無言でテレビを見つめ続けていた。

 

「…………」

 

 特にする事も無い。何か考えるような事も無い。傍らの弟の体温を感じながらひたすらボンヤリとしている内に何やら時間の感覚も曖昧になってきた頃、智子は体がフワフワと軽くなったような錯覚を覚え始めた。

 何かに追い立てられるような事情も特に無かった幼少期はこんな気分に浸れる瞬間が度々あった筈なのだが、いつしかすっかり頭の中がワケの判らぬ喧騒で包まれるようになってしまった智子にとっては、最早それはとうの昔に忘れられて久しくなってしまった心地良い静けさなのであった。

 

 そうしてしばしの時間が経った頃、智子は己の肩を揺する小さな手の感触にハッと我に返る。見ればそこにはぐずる智貴の目をこする姿があった。

 

「おねーちゃん、ねむいよぉ」

「へ? あ、うん……」

 

 どうも先程までの刺激の無いのんびりとしたひとときはまだほんの小さな子供である智貴に眠気を催させてしまったようで、智子にそのお世話をして欲しいと訴えているのであった。そんな弟の様子を見た智子はつい面倒臭さが先立ち「眠いんならその辺で寝転がっときゃいいだろ」などと思ってしまったのだが、立派な人間のお子様である弟をペットの犬猫と同列に扱いかけてしまった己のあんまりな思考をすぐさま打ち消す。

 

「あ、じゃあお昼寝しよっか?」

 

 特に見てもいなかったテレビをさっさと消してすっくと立ち上がった智子は、眠気で体に力が入らないでいる様子の弟に手を差し出し問い掛ける。その言葉にコクンと頷いた智貴は、そのまま姉の手を取り引き起こして貰う。

 

(私はこいつのお姉ちゃんなんだもんな……ちゃんとしてやらないと)

 

 己がこの幼子の姉である事を自覚し始めた智子は、こんな時にいつもどうしてあげていただろうかと、古い記憶の中にある当時の行動を思い出そうと頑張る。ずっと昔の話ではあるが、かつての智子はこのように昼寝をしたがる弟を寝かしつけてやる役目をいつも自ら買って出るような面倒見の良い姉であったのだ。

 

 そうして寝惚け眼の智貴のたどたどしい歩調に合わせながら、手を繋いだ姉弟は連れ立って部屋を後にしたのだった。

 

 *

 

 智貴が用を足し終えたのを確認した智子は、姉のなすがままになっている弟に下着とズボンを履かせてやる。昼寝の途中で催してしまわないよう、弟を寝かしつける前にはこうしてトイレに連れていってやるのが当時のお世話ルールであった事を思い出した智子は早速それを実践していた。

 

(シモの世話まで姉にやらせるとは、ホンマ甘ったれな弟やで)

 

 最後の仕上げにトイレの水を流しつつ、こんな事まで姉任せにしたがる弟の様子に少々呆れを感じてしまう智子であった。どうもこの頃の智貴は随分と周りへの依存心が強かったようで、本来なら自分で出来るような事まで身の回りの年長者、それもどちらかと言えば主に智子から世話をして貰う事を期待しているような所があった。

 あるいはそれは、彼が智子と触れ合う機会を求めて意図的にそのような振舞いを姉の前でしていたからなのだろうか。

 

 ともあれ智子は弟の手を引いてやり、当時の二人の寝室となっていた子供部屋を目指して階段へと向かう。ここで本来ならトイレ後の手洗いを智貴にしっかりやらせるのが弟への躾も兼ねた当時の智子流ではあったのだが、何かに付けて面倒臭がりになってしまった今の智子は「ま、ションベンだけだし別にいいだろ」と考えて、トイレ後の清潔習慣をスルーしてしまうのであった。

 むしろこの場合、弟が用を足すのを存分に手伝ってあげた智子の方こそ手を清めておかねば不潔なのであったが、そこに思い至る気配は残念ながら見受けられない。

 

「じゃあお姉ちゃんが押してあげるから、ゆっくり上がっていこうね」

「うん……」

 

 小さな子供にとってまだまだ階段は高くて怖い所であるのか、幼い頃の智貴を二階に上がらせる時は決まって母や自分が後ろから彼を支えてあげていた事を思い出した智子は、四つんばいになった弟の小さなお尻に手を添えてやると、彼が眠気をこらえつつよちよち歩きで階段を一段づつ上がっていくのを手伝ってやる。

 智子自身が小さかった頃は特段誰の手を借りる事もせず小さなその体で身軽に階段を駆け上がってみせていたものだが、今の智貴のようになまじ頼ってしまいたくなる相手が常に身近にいる環境ではこのようになってしまうものなのかもしれない。

 

(昔はこんな風に何でもかんでもこいつの面倒見てやってたんだよな、私って……)

 

 かつて子供部屋で智貴と寝起きを共にしていた智子は必然的に彼の面倒を見る機会も多かったのであるが、当時としては可愛い弟の世話をしてやる事はちっとも苦ではなかったのだ。

 

(こいつも何かあればお姉ちゃん、お姉ちゃんってすぐ頼ってきてたし)

 

 そんな面倒見の良い姉に甘えたい一心で、弟である智貴も必要以上に頼りきってしまうというのが当時のこの姉弟の関係なのかもしれなかった。

 

(いつの間にあんな風になっちゃったんだろーなー……)

 

 そのようにして蜜月を過ごしていた二人にも、やがて時が経つと共に避け難い変化が訪れる。

 智貴はいつしか姉からの手助けを嫌がるようになり、何事にも自力で挑戦しようとする心構えを身に付けていく。それは姉への依存から脱しようとする自立心の芽生えであってむしろ至極健全な兆候ではあったのだが、彼の変化はそれだけに留まらなかった。

 

 更に時が経つと今度は姉との付き合い自体に対しても遠慮がちになっていったものだから、かつては何をするにも二人一緒が当たり前であった姉弟の関係はここに来て大きく変わり始める。智貴はもっぱら自分の友人達との付き合いの方を優先するようになり、智子がたまに遊びに誘ってみせても消極的な態度を見せるか、あるいはその誘いを突っぱねてしまうようになったのだ。

 

 また、幼少期に特有の人懐っこい面もすっかり鳴りを潜めてしまい普段の口数自体も少なくなっていった智貴は、おそらくはそれが本来の性分だったのであろう、やがては随分と寡黙でどこか超然とした雰囲気を放つ少年へと成長していった。

 それ故に智子の方から彼に話題を振ってみせても、「ああ」だの「おお」だのと愛想に欠ける素っ気無い返事を返すばかりになった訳なのであるが、このような智貴の態度は智子からしてみるとまるで弟が自分との会話を、ひいては自分と関わりを持つ事自体を煩わしく思っているかのように映ってしまったのだった。

 それが智子には悔しかった。二人の心地良い関係がいつまでも続いていくのだという考えを幼い頃からずっと根拠も無しに信じきっていた彼女は、勝手にどんどん変わっていってしまった弟に自分一人だけが置いていかれたように感じ始める。

 

 そのような苛立ちが弟に対する智子の態度に刺々しさを生むようになっていったのは必然であったか。二人が中学へ上がる頃にもなると、たまに珍しくテレビゲームで対戦でもしてみれば躍起になって弟を叩きのめした挙句にあからさまな嘲笑を浴びせてみせたり、はたまた思春期に入った彼の少し気取ったような言葉遣いをこれみよがしにあげつらっては馬鹿にしてみせる等、最早かつての弟思いな優しい姉としての面影は少なくとも表面的にはすっかり見られなくなってしまったのであった。

 

 とはいえ智貴が姉を避けるようになったのは単に彼自身の成長に伴う変化だけが理由という訳でもなく、むしろ人格的に問題ありと言えなくもない歪な成長を遂げてしまった智子の方にこそ多分に原因があったのだが、それを当の智子自身が認める筈もなく、かつての蜜月が嘘のように二人の関係が冷めきってしまった全責任は弟の方にこそあると信じてやまないのであった。

 

(あっ、なんか涙出そう)

 

 気がつけばとめどもなく弟の事を考えてしまっていた智子であったが、深みに嵌った思考を続けていく内に胸の奥から言いようのない感覚が込み上げてきて唇を震わせてしまったものだから、思わず口をきゅっとヘの字に結んでしまう。

 

「おねーちゃん、だいじょうぶ……?」

 

 自分の体を支える智子の手を通してその心境を感じ取ってしまったのか、ふいに歩みを止めた智貴から姉を心配する言葉が掛けられる。

 

「……ううん、何でもないよ。ほら、早く行こ?」

 

 このような智貴からの優しい気遣いも、いつしか自分に向けられなくなってしまう日が来るのだと思うと余計に胸が苦しくなってしまう智子は、とっとと弟を寝かしつけてやろうと彼のお尻をグイグイ押してやるのだった。




つづく


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もこっちと小さかった智くん(中-後篇)

結婚! 結婚! さっさと結婚!

(おお、昔はこんなんなってたんか……)

 

 将来的に己の自室として使われる予定の子供部屋へと足を踏み入れた智子であったが、かつての室内の様子など最早殆ど覚えていなかっただけに、その内装が当時はこうも違っていたのかと、興味深げに部屋のあちこちへ目を向けてしまう。

 据えられている家具の数々はいずれも子供サイズのちんまりとしたものになっており、そのどれもが子供用家具御用達のカラフルなデザインで統一されていた。

 また、部屋の中には当時の姉弟が肩を並べてテーブルゲームやお絵描き等をする際に使っていた小さなちゃぶ台も置かれていて、これは将来の智子の部屋からは撤去されて久しいものであった。

 

 他にも特徴を挙げればキリが無いのだが、とにもかくにもそこは如何にも幼い子供達の為に設えられた「ザ・子供部屋」といった様相を呈しており、テレビも置いていなければ当然パソコンの類は影も形も無い。

 見知っている自室の面影が微塵も見当たらない事に、智子は今確かに過去の世界を垣間見ているのだという事を改めて実感する。

 

(ていうか、なんか結構広々してんなー)

 

 先程弟と一緒に階段をのぼっている時もそうであったが、どうも家の中がどこもかしこも今の智子にはやけに広く感じられて仕方が無かった。それは当然ながら智子自身の体が縮んでしまった事による相対的な感覚のズレが生んだものであったのだが。

 

 と、それまで姉に手を握られていた智貴が急にその繋がりを振り解いたかと思うと、室内の様子に目を奪われている智子を尻目に自らの足で部屋の隅に設置されている子供用ベッドの方へと駆け寄っていった。

 

「んしょっと……」

 

 手際良く靴下を脱いでから自力でそれによじ登った智貴は、ベッドの上に雑に丸められていた毛布を引っ掴んで寝そべると、それを自分の体の上にきちんと掛けてみせる。

 

(なんだよ、ちゃんと一人で出来んじゃねーか)

 

 睡魔に襲われすっかり赤ちゃんモードであった筈の弟が、このようにして突如自分自身で手際よくおやすみの準備を整えてみせたものだから、あれやこれやと手伝ってやるつもりでいた智子としては些か肩透かしを食らってしまった気分だ。

 

 つい今し方まで姉におんぶにだっこであった筈の幼子が急にこのような行動を取った理由は定かでは無い。

 もしかするとそれは、先程からどこか物憂げな様子を見せ始めていた智子を気遣った彼が、姉の手を煩わせまいと自立心を芽生えさせたが故の事であったのだろうか。

 そうしてすっかりおねむの体制に入った智貴であったが、ベッドの上でおもむろに寝返りを打つと智子の方をじっと見やってきた。

 

「おねーちゃん、おはなしして……」

 

 前言撤回。やはりかの幼子はまだまだ甘えん坊のようであった。己の傍らをポフポフと叩いてみせる智貴が言いたいのは、要するに智子も一緒に添い寝をしておやすみ前のトークをして欲しいという、いかにも小さな子供らしい要求なのであった。

 

「あー、お話ね、はいはい」

 

 そういえば昔はよく弟を寝かしつける際にそのような事もしてやったものだと、新たに自身の古い記憶が掘り起こされてしまった智子は、それに導かれるようにして自分もベッドによじ登ってみせる。

 その際、普段素足で過ごしている筈の己が今は靴下を履いていた事にようやく気付いたようで、思い出したかのようにそれをポイポイと脱ぎ捨てていくのだった。

 

(あっ、これ昔捨てちゃったやつだ!)

 

 ベッドの上にはその手のものが好きだった智子の為に両親が買い与えた幾つものぬいぐるみが転がっていたのだが、その中の一つに智子は目が釘付けになってしまう。それはタマネギの根っこのような頭髪を頭からチョロリと生やした、へちゃむくれ顔で丸々とした体つきのペンギンだ。

 これこそはとうの昔にやむなくお別れしてしまった筈の、当時の智子が大層気に入っていたぬいぐるみであったのだ。

 

「おねーちゃん、はやくはやく」

「あっ、うん……」

 

 そのぬいぐるみを手に取り懐かしさに浸っていた智子であったが、足をバタつかせて急かす智貴に促され、再会の余韻もそこそこに、毛布をめくって体をもぐり込ませる。

 姉の添い寝を待ち侘びていた智貴は、これから智子が何を語ってみせてくれるのだろうかと興味津々のご様子だ。

 

(お話ったって、こんなチビガキ相手に何話しゃいいんだ……? 桃人間が鬼をボコりに行く話とか、ありきたりなやつでいいのか?)

 

 当時の智子はこうしたおやすみ前トークに限らず、小さい子供にウケの良い話の引き出しをそれはそれは豊富に持っており、それを弟の智貴は勿論の事、時折一緒に遊ぶ事のあった従妹の希心にも存分に披露してやっていたのだが、己のそうした話術を発揮する機会にとんと恵まれなくなって久しい今の智子には、最早その辺りの勝手がすっかり判らなくなっていた。

 

(ま、こいつなら何話してやっても喜びそうだが……)

 

 ふてぶてしさを感じさせる姿勢でベッドに雑魚寝した智子はそのように考える。

 例え内容自体がどうであろうとも、この弟は姉からの話に無条件に食いついてくるに違い無いと智子は踏んだのだ。であるならば自分にとって退屈な童話をわざわざ選ぶ必要は無いと、そう思い立った彼女は早速口を開く。

 

「あ……じゃあ未来の話とかしてあげようか?」

「みらいってなに?」

「ずっとず~っと先の事って意味だよ。お姉ちゃんや智くんが、大っきくなって中学生とか高校生とかになった時の話」

 

 突拍子も無い姉からの提案をやや理解出来ないでいた智貴であったが、その様子を見てとった智子が補足してやる。智子は興味本位から、己しか知りえない未来の情報を目の前のこの幼子に吹き込んでやろうと思い立ったのだ。

 

「ポ○モンの次の次のそのまた次に出るやつとか、ワ○ピースやナ○トがこれからどうなってくのかとか、実はお姉ちゃん全部知ってるんだ」

「えっなにそれ、すごい!」

 

 姉の口から出てきたその衝撃的な告白を前にしていっぺんに睡魔が吹き飛んでしまった智貴は益々興味を惹かれた様子を見せる。

 時空を超えた壮大なネタバレを弟相手にやらかす気満々の智子であったが、これが夢であるのならば当然その手の気遣いは無意味である為、遠慮するような気配は一切見られない。それ以前に智子はどちらかと言えばこの手のネタばらしを嬉々として行いたがる類の人間であったのだが。

 

「あ~でもこれな~、今話しちゃっていいのかな~。もしどっかから情報が漏れちゃったら、世の中が色々ヤバい事になっちゃうしな~」

「え~ききたいよぉ」

「ははは……じゃあこれからお姉ちゃんが話す事は絶対ナイショだからね?」

 

 かくして四次元的リーク情報を多分に含んだそのトークショーは、語り主智子のもったいぶるような前置きを皮切りとしてベッドの上で開始されていく。

 

 *

 

「──で、次に出るのがエックスとワイってタイトルで、これはもっと新しい次世代機で発売されるんだ。あ、この次世代機っていうのがね、ゲーム画面がホントに浮かび上がって見えるやつで……」

 

 語り始める内にどんどん興が乗ってきた智子は、己の記憶にある限りの未来の事柄について次々と披露してみせる。そんな智子の饒舌な語り口に先程から熱心に耳を傾けている智貴。姉弟が被っている毛布がお互いの体温で温まってきたのに合わせて、二人のトークタイムもいまやすっかり熱を帯びていた。

 

「未来のお姉ちゃんはカードゲームがすっごい強くなるんだよ。もうね、皆からクイーンとか呼ばれてガチで崇められてるから。マジこの辺りじゃ敵無し状態だから」

「うわぁ、すごいな~」

 

 さりげなくトークの中に己を自画自賛するエピソードを混ぜ込む事も忘れない智子であったが、先程智子から達者なゲームプレイの一部始終を見せて貰っていた智貴は、この才気溢れる姉ならきっとそうした遊戯においても存分に活躍してみせるに違いないと、素直に賞賛の言葉を贈る。

 

「じゃあ、ぼくは?」

「えっ?」

「ぼくがおおきくなったら、どんなふうになってるの?」

 

 と、ふいに智貴がそのような質問をしてみせた。智子の未来の武勇伝を聞く内に、そんな頼もしい姉の傍らに居るであろう自分がどのように変わっているのかが気になってしまったようだ。

 

「あ、えーと、うーん……」

 

 対する智子はと言えば、弟からこのように問い掛けられてしまって急にその声をトーンダウンさせてしまう。

 どうにも返答に詰まった様子でしばし逡巡していた智子であったが、何やら言いにくい事でも語るかのようにその口をおもむろに開く。

 

「そうだねぇ……智くんは大きくなったらサッカーが上手になるよ」

「えっ、でもぼくサッカーしたことないよ?」

「小学生位になったらやり始めるんだよ。もっと大きくなったら大会とかにも出たりするみたいだし……」

「ふーん……」

 

 先程までの熱量はどこへやら、どこか冷めた様子でぼそぼそと語る智子に、自身もまた控えめな相槌で返す智貴。

 己が将来スポーツに熱心に取り組むようになるのだという事を姉の口から聞かされても、当の智貴はイマイチしっくり来ない様子だ。どうも彼にとってこの情報はさして興味を惹かれるものではなかったのか、その反応はいやに薄かった。あるいはそれは、先程とは打って変わってあまり楽しくなさそうな様子で語り出した姉の様子に影響されての事なのかもしれない。

 

「あっ、じゃあぼくとおねーちゃんって、けっこんしたの?」

 

 だからなのか、智貴は己が今最も関心のある事柄を思い出すと、先程までの話題を切り替えるかのように新たな質問を投げ掛けたのだった。

 

「あっ、いや~……結婚とかはしてないかなー」

「え~、なんで?」

「ほら、私と智くんって姉弟だし、そういう事って他人同士がやるもんでしょ?」

「でも、したいもん」

 

 する訳ねーだろ。弟からのストレートな要求に思わず心の中でツッコミを入れてしまう智子であったが、当時の智貴は姉を慕うあまり何かあればこんな風にすぐ自分と結婚すると言って聞かない子供であった事を思い出す。

 だが将来的に智貴が日頃自分に対してどのような態度で接してくるようになるのかを知っている智子は、そんな彼の無邪気な言葉に対してつい意地悪で返したくなってしまう。

 

「ていうかさぁ……未来の智くんは、もうお姉ちゃんと結婚なんかしたくないって思ってるみたいだよ」

「えっ、どうして!?」

 

 姉の口から飛び出したその言葉を聞いた途端、反射的に大きな声で聞き返してしまう智貴。このような返答はまるで予想していなかったのだろう、その瞳には驚きの色がありありと浮かんでいた。智子が口にしたその宣告は「将来お前は死ぬのだ」と言われたに等しい衝撃を智貴に与えてしまったようだ。

 

「なんか判んないけどさ、多分お姉ちゃんの事、嫌いになったんじゃないかなー」

「ぼく、そんなふうにならないもんっ!」

 

 智子のもたらしたあまりにも衝撃的な未来情報が受け入れられず、目の色を変えて反論してみせる智貴。現在進行形でお姉ちゃん大好き病に罹患中の彼としては、そのような事は到底納得出来る筈もないらしい。

 

「でもねぇ……智くん、大きくなったらもうお姉ちゃんと全然遊んでくれなくなっちゃったし……」

 

 そんな智貴の必死の否定を嘲笑うかのように、どこか遠い目で未来の弟の心変わりについてつらつらと語る智子。その瞳には眼前の幼子ではなく、今この場に居ない未来の少年の姿が映っているのかもしれない。

 

「お姉ちゃんが智くんの部屋に遊びに行ってもすぐ『出てけよ』とか『うぜえんだよ』とか言って追い出そうとしてくるし……何か話し掛けてやってもお姉ちゃんの事、無視するし……」

「えぇー、そんなのいやだよぉ……」

 

 よもや将来の自分がそのような事になってしまうとは。智子の明かした内容に初めこそ猛烈な拒絶反応を示した智貴ではあったが、まるでさも実際に見てきたかのように語ってみせる姉の口ぶりからは否定し難い程の真実味が感じられてしまう。

 これはひょっとしたら本当なのではないか? 元々姉に全幅の信頼を寄せていた智貴であっただけに、彼が智子の言葉を信じるのにそう時間は掛からなかった。いや、それどころか信じ過ぎるあまり落胆を隠せず今にも泣きそうな様子すら見せ始めている。

 

(あっ、やべっ)

 

 つい未来の弟への愚痴が長引いてしまった智子ではあったが、気付けば目の前の弟が目に涙を湛えて鼻をすすり出したものだから焦ってしまう。

 

(こんな程度でイチイチ泣くんじゃねーって……メンドくせーな)

 

 智子としても別に弟を泣かせたかった訳ではないのだ。

 自分は何をやっているのだろうと、自省とも自己嫌悪とも付かないやるせなさがこみ上げてきた智子は溜息をつきたくなってしまうが、最早智貴が泣き出す寸前であったから、身を起こして彼に向き直り、急ぎフォローしに掛かる。

 

「あーえーと、だ、大丈夫だって!」

「……?」

「ほらっ、運命は必ずしも決まってないって言うしさ、そうならなかった未来とか世界線とか、そういうのもあるかもしんないぞ?」

「せかいせん……?」

「そーそーそれな。要はさ、お前がデカくなっても姉ちゃんを敬う心掛けをこの先ずっと忘れなきゃいいんだよ。そうすりゃなんとかなるって」

 

 慌てるあまり最早幼児向けの語り口調を装う所にまで気が回らなくなってしまった智子は、普段のぶっきらぼうな口調に戻ってしまっている事にも気付かず、目の前の幼い弟が理解出来るかどうかも怪しい単語をちりばめた慰めの言葉を掛けていく。

 

「姉を称え、姉を尊び、姉の為にこそ生きる。お前がこれから先もずっとず~っとそーしてくれりゃあ、私ら姉弟の未来は安泰間違い無しだ」

「そうなの……?」

 

 智子自身としても、未来の弟が本気で姉の事を心底嫌っているなどとは思っていない。その態度こそ目に見えて変化してしまったが、それでもあの弟には姉を慕う気持ちが幾分かは残っているのだろうと、そう智子は信じていたのだ。

 

「そうなんだよ。ほら、姉ちゃんを信じろって」

「うん……しんじる」

 

 支離滅裂と言えなくもない姉からの慰めの言葉を正しく理解出来たのかどうかは別として、ひとまずは智子の必死なフォローの甲斐あって幾分か落ち着つきを見せ始める智貴。姉がここまで断言してみせるのならきっと大丈夫に違いないのだと、先程と同様に彼は智子の言葉を素直に信じたのだった。

 が、そうすると今度はまた新たな事柄が気になり出してしまったのであろうか、涙の滲んだその目尻が乾く暇もなく次なる質問を姉に投げ掛ける。

 

「おねーちゃんは?」

「え?」

「みらいのおねーちゃんも、ぼくのこときらいになったりするの?」

 

 将来的に姉と自分とが仲違いするかもしれないという、智子の語ってみせた暗黒の未来に言いようのない不安を感じてしまった智貴は、事の真偽をハッキリさせたい一心でそんな事を尋ねてしまう。

 未来の自分が姉を嫌ってしまうように、姉もまたそんな己の事を愛してくれなくなったのではないか。今の智貴にはただその事だけが気掛かりなのであった。

 

「あ、いや、それはだな……」

 

 そんな智貴からの質問に再び言葉が詰まってしまう智子ではあったが、枕に顔を半分うずめたままこちらをじっと見上げてくる弟の瞳が不安に揺れているのを見てとると、ひとまず彼を安心させてやる為、その柔らかな頬に己の手をぺたんと添えて語りかける。

 

「大丈夫だよ。お姉ちゃんは智くんの事、別に嫌いになったりしないから」

「ほんと?」

「ほら、私ってやっぱ智くんのお姉ちゃんだし。弟がどんだけ生意気なハゲでもさ、姉としての寛大な心で許してあげちゃうんだよ」

 

 実際、智子は成長した智貴の事も憎からず思ってはいた。確かに彼の素っ気無い言動に苛立ってしまう事は多々あるし、姉をないがしろにして青春を謳歌していそうな所は正直けしからんとも思っている。

 が、だからといって弟の事が嫌いかといえば、そんな気持ちはこれっぽっちも無いというのが智子の偽らざる本音なのであった。お互いが成長してその関係がどれだけ変わってしまったとしても、智子は変わらず智貴の事をこの世でたった一人の自分の弟として、彼女なりに愛してはいるのだった。

 

「じゃあ……すき?」

「えっ? あ、う、う~ん……」

 

 己が望む答えを姉から貰えた事にひとまず胸を撫で下ろした様子の智貴ではあったが、それだけではまだ満足していないらしい彼は、自身にとっておそらく死活問題なのであろう、更に斬り込んだ質問を智子にしてみせる。

 

(好きだの嫌いだの、こんなガキの癖して早くも恋愛脳かよコイツ)

 

 なんとも気恥ずかしい質問をしてくる弟に心の中で文句を垂れる智子ではあったが、弟が今問うているのは「家族として好きかどうか」という事なのだと勿論彼女も判っている。

 弟の事は勿論嫌いではない。だが、ここで「好き」と率直に言ってしまえる素直さがあれば、智子はそもそも将来における弟との関係を極端に拗らせてしまう事も無かったであろう。単純な好悪だけで語れない弟への鬱屈した感情の積み重ねが、いまや智子の中にはズシリと横たわってしまっているのだった。

 

「そうだね、うん、好き……かも」

 

 が、何と言ってもこれは所詮夢なのであるからして、己の言動ひとつに今はそこまでナーバスになる必要も無いと軽く考えた智子は、ひとまず目の前の幼子が満足するような答えを与えてやる事にした。

 別に嘘は言っていないのだ。嫌いでないという事は、つまり多少なりとも「好き」であると言い換えてしまっても差し支えは無い筈なのだと、そう智子は己を納得させる。

 

「そっかー、あーよかったー」

 

 智子の思惑通り、姉から与えられたその耳触りの良い回答にようやく安堵した智貴は、毛布を撥ね除け元気よくその身を起こすと、ふっくらとした頬を綻ばせて満面の笑みを智子に向ける。

 

「ぼくもね、おおきくなってもおねーちゃんのこと、ずっとだいすきだよ!」

「ホントにぃ? 後になってから『んな事言ってねえよ』とか言ったりしない?」

 

 意気揚々と誓いの言葉を口にしてみせる智貴であったが、先程弟を泣かせそうになったばかりだと言うのに学習しない智子は早速それに茶々を入れてしまう。

 

「いわないもんっ!」

「ははは……わかったわかった」

 

 そんな自分からの茶々入れに手足をばたつかせながらムキになって反論してくる弟の様子がおかしくて、つい笑ってしまう智子であった。

 

「だから、ぼくがおおきくなったらけっこんしよ?」

「えっ、またその話?」

 

 かと思えば、またもや智貴は当初の話題を蒸し返してみせる。どうもこの当時の彼の頭の中は、敬愛する姉と添い遂げたいという思いに余程支配されていたのかもしれない。

 

「やっぱりきょうだいだからダメ……?」

(なんかやけにしつこいな……いつもこんなだったっけ?)

 

 当時は弟がこのような事を言う度に「姉弟は結婚出来ないんだよ」と都度諭してやっていた智子であったが、今日の智貴はどうも諦めが悪いようだった。

 

「じゃあ、智くんが大きくなってもお姉ちゃんの事まだ好きでいてくれたら、その時は結婚してあげてもいいよ」

「ほんと? やったぁ!」

 

 とりあえずこの場を収めようと適当な約束を交わしてやる智子であったが、その効果はてきめんであった。目に見えて興奮し出した様子の智貴は、気持ちが昂ぶって思わず智子に抱きついてしまう。

 先程はつい姉の予言を前にして弱気になってはしまったものの、やはり慕ってやまない姉に対する心変わりなど将来決して起きる筈もないのだと自信を取り戻した彼は、早くも念願の姉との結婚が成就したと言わんばかりのはしゃぎようだ。

 

「あ、じゃあいまからけっこんしきやろうよ」

 

 と、姉の体に顔をうずめていた智貴が、パッと智子を見上げてそのような事を言い出す。

 

「えっ? な、なんで……?」

「だって、おおきくなるまでまてないもん」

 

 自分が将来姉を嫌いになる事など決して有り得ない。だから今からだってご褒美を先取りで受け取っても良いのではないか。そのような拙い打算を幼心ながらに働かせたのか、智貴は姉に対して気の早い要求をしてみせたのだった。

 

「あー、うん、まあ別にいいけど……」

「やったー!」

 

 ここで拒否すればまたしつこく食い下がって来るのではと思った智子は、面倒ではあるが子供のおままごとに付き合ってやるかといった程度の軽い気持ちで、弟からの求めにひとまず同意してやる。

 

 言うが早いか、姉からの同意を得た智貴はベッドの脇に置かれていたぬいぐるみ達の中からひとつを手に取ると、それを智子の前に掲げてみせた。彼が手にしたそれは、先程智子と懐かしい再会を果たしたあのペンギンのぬいぐるみであった。

 

「じゃあ『ぼくしさん』はペンペンにやっもらうね」

「あ、そこから入ってくんだ」

 

 ペンペンというのはこのぬいぐるみに当時の智子が付けてやっていた愛称であったのだが、西洋風の結婚式では新郎新婦の間に牧師が入って立会い人を務めるという事を智貴は知っていたようで、手に持つそれを牧師役に抜擢したのである。

 

「えーと、じゃあ、ふ、ふたりは、いついつ、もぉ……」

「いつ如何なる時も?」

「あっ、うんそれそれ!」

 

 牧師に見立てたペンギンのぬいぐるみを己の顔にあてがった智貴は、拙い口調で誓いの言葉を一生懸命に唱え始める。一体何処でそのような言葉を覚えてきたのだろうかと訝しむ智子ではあったが、ちょくちょく言い間違えてしまう弟を合間合間でフォローしてやる。

 

「えっと、しんろーともきは、えいえんの、あいをちかいますか?」

 

 智貴は牧師と化したペンギンを自身の顔の前でユラユラと揺らしながら、彼に声をあてているつもりでそのような事を言う。

 

「はい、ちかいます!」

 

 途端、牧師を引っ込めてパッと顔を出した智貴は、姉を見つめながら己の誓いを高らかに表明してみせる。

 

「じゃあしんぷ、ともこはちかいますか?」

 

 自分で尋ねて自分で答えるという一人芝居を器用に打ってみせた智貴は、同様に今度は智子に対して同じ質問を投げ掛ける。

 

「あ、うん、じゃあ……ち、誓います」

 

 ぬいぐるみを通して尋ねられた智子はといえば、どこか気恥ずかしさを感じつつも、弟のごっこ遊びに付き合ってやるべくそれに同意してみせる。

 

「えへへ……じゃあ、しんろーしんぷは『ちかいのきす』をしてください」

(そう来たか!)

 

 ペンギンごしに目を覗かせる智貴が、はにかみながら言葉を続けた。

 日頃から姉にキスをせがんでばかりの智貴であったから、なんとなくそう言われるんじゃないかと予感していた智子は、ホント何処でそんな事覚えたんだよと思わずにはいられない。

 

 結婚式における牧師のお決まりの台詞を一通り言い終えた智貴は、掲げていたぬいぐるみを枕元にそっと置くと、智子に向き直ってじぃっと熱い視線を投げかける。

 その頬には明らかに朱が差しており、単に子供らしい血色の良さでそうなっている訳で無い事は明白であった。

 

(なんだこいつ、もしかしていっちょ前に照れてんのか……?)

 

 そんな弟の様子を受けてか、智子自身もその小さな心臓がひとりでに高鳴り始めてしまう。

 

「ちゃんとおくちにしてね……」

 

 おもむろにすっと目を閉じた智貴が、智子に向けて控えめに唇を突き出してみせる。この行為が秘めやかなものであるとどこか自覚しているのか、その所作はやけに神妙である。

 

(くそっ、こんなチビの癖しやがって……ドスケベ弟め)

 

 まさかこのような歳から色気付いているのだろうか? それも姉相手に? などとドギマギしてしまう智子であったが、いやいやきっといつもの癖で姉に「チュー」を求めてきているだけなのだろうと、ひとまず自分を落ち着かせる。

 

 こんな時はこうするのだろうかと思った智子は、ぎこちない手つきで智貴の肩にそっと自分の手を添えてみた。

 それを受けて一瞬身じろぎする智貴であったが、姉のなすがままの彼は再び大人しく「その瞬間」が訪れるのを待ち続けるものだから、智子もいよいよ踏ん切りをつけるしかなくなった。

 

(これはノーカン、ノーカンだ。つーかいつもやってた事だし……)

 

 智貴の口元に唇をおそるおそる寄せていく智子は、やがて互いの吐息が交じり合ってくすぐったくなる距離にまで接近する。手に触れる弟の体がやけに熱を帯びているのを感じた智子であったが、そんな自身の体も今やすっかり熱っぽくなっている事には気付かない。

 

 そうしてしばらくしたのち、やがて二人の唇は重なった──。

 

 途端、唇を通して自らの熱が弟へと流れ込んでいくのを、智子はそのとき確かに感じ取った。そしてまた、互いの熱を交換するかのように弟のその小さな体に蓄えられていた熱も智子の中へと流れ込んでいく。

 生まれて初めて感じるこの不可思議な奔流は、きっと自分だけでなく弟の方も感じているに違いない。何故だかそのような確信めいた考えが智子の中で生まれる。

 お互いの体に広がっていくこの激しくも心地良い感覚にすっかり取り込まれてしまった智子は、思わずその身をぶるっと震えあがらせてしまった。

 

「ぷはぁっ……!」

 

 そうして二人の誓いの儀式がどれ程続いたであろうか。その間ずっと息を止めてしまっていた智子は、突如として行為を切り上げたかと思うと慌てて呼吸を再開する。ぜいぜいとあえぐその顔は真っ赤であったが、それはきっと酸素不足だけが理由ではない。

 

(なんなのこれ!? なんか思ってたのと全然違うんだが……)

 

 対する智貴もまた、赤い顔のままうっとりした目で姉を見つめている事に智子は気付く。

 どうやら彼にとっても先程の行為は普段のスキンシップとは一線を画した特別な意味を持っていたのかもしれない。

 

「あ……じゃあ、今のでもう満足したでしょ? ほら、そろそろお昼寝しよっか……?」

 

 そんな弟の様子に益々気恥ずかしさを覚えてしまった智子は、もうおひらきの時間だと言わんばかりにこの妙な空気を払拭したくて話を逸らそうとする。

 

「……おねーちゃん」

「えっ!? な、なに……?」

 

 急に口を開いた智貴は、姉弟の誓いの儀式を枕元で見守っていた立会い人を抱きかかえると、

 

「ペンペンをぼくにちょうだい」と、頼み事をしてきた。

「な、なんで?」

 

 姉の智子と違い、当時からして別段ぬいぐるみ好きという訳でもなかった筈の智貴がそのような事を言い出したものであったから、智子は思わず問い返してしまう。

 

「たからものにするの」

 

 そんな智子の問い掛けに智貴がすぐさま答える。どうやら智貴はこのぬいぐるみを自身の思い出の品として所持したいという事のようだった。

 わざわざ自分のものだという事にせずとも、この頃の姉弟は口に出さずとも自然と互いの所持品を共有していたようなものであったのだが、彼にとってはあえてそうしてみせる事に何か特別な意味があるのかもしれない。

 

「あ、うん。じゃあ別にいいけど……」

「ありがとー! ぜったいなくさないようにするからね」

 

 そう言って、智貴はそのぬいぐるみをギュウと抱きしめ嬉しそうにはにかんでみせる。

 

(こういう所は昔っから変わんねーんだよな……)

 

 この弟が実は成長してからも姉からの貰い物を後生大事にする癖があるという事は、時折智貴の部屋に忍び込み、己が過去に贈呈してやった品々が健在であるかをチェックしていた智子はよく知っていたのであった。

 

「さっきのけっこんのやくそく、わすれないでね。ペンペンが『たちあいにん』だからね」

「はいはい、約束ね」

 

 頑張って覚えた難しい言葉を使って念押ししてくる弟のその必死な様子に苦笑してしまう智子であったが、彼のこうした筋金入りのシスコンぶりを実に久々に拝む事の出来た彼女は、なにやらずっと長い間無くしてしまっていたものを見つけたような気持ちになってしまい、胸の辺りにポカポカとした温もりが灯されたような感覚を覚えてしまう。

 

 と、そんな時である。

 ふいに玄関の方から扉を開く音が響いたかと思うと、今度は「ただいまー」と大人の女性の声が聞こえてきた。どうやら先程までずっと出掛けていたらしい智子達の母が帰ってきたらしい。

 

「智子ー、智くーん、何処なのー?」

 

 いつもなら一目散に駆けてきてお出迎えをしてくれる子供達の姿が無い事を疑問に思った母が、智子らの名を呼びながら家の中を探し始める。

 

「おかーさんかえってきたね」

「あ、う、うん……」

 

 階下の母の様子にじっと聞き耳を立てていた智子であったが、なぜだか急に自身の胸中で理由の判らない焦りが生まれ始めていた。

 

(なんだろう……なんか知んないけど、今見つかったらヤバいような気がする……)

 

 理由は判らないが、智子は今の自分の姿を母には決して見られてはいけないという思いに駆られてしまったのだ。それはあたかも己の中にあるもう一つの意思が、これはマズいぞと慌てて智子を急かしているような感覚なのであった。

 

「あっ、もう! 散らかしっぱなしにしてっ! 二人とも何処にいるの!? 返事なさい!」

 

 智子がリビングで弟と遊んでいた際、床に無造作に放り出しておいた玩具類の散らかりように母が気付いたのであろうか。その声色にたちまち刺々しいものが含まれる。

 やがて一階に子供達の姿が見当たらない事を見てとった母は、今度は子供部屋を目指して階段をどしどしと上ってくる。

 

(上がってきた!? どうしよう! どうしよう!)

 

 間もなく母は子供部屋の戸を開け放つであろう。そうすれば己の姿も見つかってしまうに違いない。だからどうなのだという話ではあるのだが、それでも智子の中では焦りが募っていく。

 

「おねーちゃん?」

 

 そんな智子の突然の慌てぶりに傍らの智貴も目を丸くして声を掛けるが、最早智子にはそれに返答してやれる余裕が無い。

 

(あっ……そうだ。()()()()()()()

 

 ふいにそう気付いた途端、智子は己の体から自分の意識が急速に離れていくのを感じた。




つづく


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もこっちと小さかった智くん(下)

愛をとりもどせ

「おうふ……」

 

 眠りから覚めるように意識を覚醒させた智子は、ぱっと目を開く。

 目の前のテレビは電源が付いたままになっていたが、そこにはまっ黒な再生停止画面だけが映っていた。

 

 しばらく茫然自失とした顔でその画面を見つめていた智子であったが、やがて自分が今居る部屋に目配せしてそこがどこなのかを確認する。

 己の通う高校の制服が掛けられているその壁にはゲームキャラのポスター等も貼られており、部屋の中央に座り込んでいた智子の背後には愛用のパソコンデスク一式が据えられている。今、智子が居るのは紛れも無く普段見慣れた自室に他ならなかった。

 

 そこまで確認してようやく我に返った様子の智子は「ああやっぱり」とひとりごちる。

 先程まで体験していた一連の奇妙な出来事、あれらは結局全て夢だった、自分はやはり自室でビデオを見ていただけであり、いつの間にか居眠りしてしまったのだと、そう結論付けるのだった。

 

(こんなもんばっか見てるせいだな……)

 

 ふうっと溜息をついた智子はおもむろにデッキのイジェクトボタンを押してテープを取り出し、それをケースに収めてやると、そのままテレビとデッキの電源を消す。

 

(にしてもえらくリアルな夢だったなぁ)

 

 再び座椅子に己の体重を預けた智子は、先程まで見ていた夢の内容を振り返る。

 目が覚めて尚、夢の中での幼い弟との触れ合いの数々が今も鮮やかに思い起こされて仕方が無い。脳裏に焼きついたそれらの記憶を噛み締めながら、無意識に自身の唇を指先でそっと撫でてしまう智子。

 

(あいつ帰ってきてんのか?)

 

 まだ幾分か頭にボンヤリとした感じが残る智子であったが、夢を見る前に智貴が部活から帰ってきた声を聞いた気がしないでもない事を思い出す。

 確か自分は彼に出迎えの挨拶をしてやろうと思っていたのではないか。何故だか急に弟の顔が見たくなった智子は、ヒョイと軽快に立ち上がったかと思うと彼の部屋へとすたこら足を運ぶ。

 

(なんだ、いねーのか?)

 

 智貴の部屋の戸をノックもせずに開く智子であったが、室内には誰もおらず電気も消えたままであった。

 

(なんかあいつが帰ってきてた気がするんだが……)

 

 ひとまず部屋の電気を付けて室内の様子を探ってみる智子であったが、壁に備え付けられたハンガーには弟の制服は掛けられておらず、彼がいつも部活の為に持ち歩いているスポーツバッグも見当たらない。

 もしかするとあれも夢だったのだろうか? そんな風に智子が思い始めていると、誰かが階段を上がってくる音が聞こえてきた。

 

(んだよ、やっぱ帰ってきてんじゃねーか)

 

 帰宅してすぐ自室には直行せずリビングにでも居たのだろうか。姿を見ずともその足音だけで弟の気配を察した智子は、廊下の方を振り返る。

 

「おい、何勝手に入ってんだ……」

 

 スポーツバッグを肩に掛け、制服姿で二階に上がってきた智貴であったが、己の部屋の中で姉が突っ立っている事に気付いた途端に眉をしかめてしまう。

 苛立ちを覚えつつ自室に入っていこうとした智貴であったが、そんな彼をとおせんぼするかのように智子が入り口の前に立ち塞がった。

 

「おかえり」

「あ?」

 

 智貴の顔を見上げた智子が、ふいにそのような事を言ってみせる。どうも智子のこの行動は、弟の帰宅を出迎えてあげているつもりのようだった。

 

「どう? 嬉しい?」

 

 弟からの反応を期待するかのようにそうあっけらかんと口にする智子であったが、もしかするとそれは件のビデオの中でおままごとの夫婦を演じていた自分達の姿を思い出しての事だったのであろうか。

 

「いや全然」

「そうか、全然か……」

 

 全くもって愛想の欠片も無い弟のその反応に、やっぱりなぁと少しばかり落胆した様子を見せる智子であった。

 

「あっそうそう。さっき姉ちゃんな、面白い夢見たんだよ」

 

 ひとまずとおせんぼを解除してやる智子であったが、カーペットに座り込むと今度はそのような事を言ってみせる。「ちょっと聞いてけよ」と弟を手招きする智子は、どうやら先程自分が見た不思議な夢の内容を肴に弟とのお喋りを楽しみたいようだ。

 

「興味ねーからさっさと出てけ」

「おうっ」

 

 だが部活でヘトヘトに疲れている身の智貴としては姉の与太話を聞いてやるつもりは更々無いようで、智子の背後に回り込み首根っこを掴んで無理やり立たせると、そのまま部屋の外まで力づくで押し出していこうとする。

 

「ちょ、待てって! マジにすげー夢だったんだって。なんかえらく昔の世界に行っちゃって……!」

 

 唾を飛ばしてまくし立てる智子が、その場に留まろうと足を踏ん張る。

 常日頃からひとりよがりな迷惑行為をしてくる姉に対して智貴がこのような強硬手段に出るのは特に珍しい事でもなかったのだが、今日の智子はいつになくそれに抵抗してみせていた。

 

「お前の夢など知らん、どうでもいい」

「あっ、じゃあほら、お前のガキん頃の話とかしてやるよ。ちょっと色々思い出しちゃってさ」

 

 夢の話が嫌なら別の話題にしよう。だから私とお話しようよ。

 そう弟に一生懸命訴えてみせる智子であったが、また彼女の面倒臭い自己満足な行動が始まったとウンザリした様子の智貴は、姉を追い出そうとする力を益々強める。

 

「疲れてんだからいい加減にしてくれ……」

「なんでだよ! お前、すぐそうやって追い出そうとすんのやめろよ! 姉ちゃんなんだぞっ!」

 

 取り付く島の無い弟の無体を咎める智子が声を荒げて叫ぶ。だがいつも弟に対して強気な彼女にしては珍しく、その声色にはどこか懇願するかのような悲壮さが少なからず含まれていた。

 そしてとうとう部屋の入り口まで押しやられてしまった智子は、そのまま背中から突き飛ばされてしまう。

 

「痛っ!」

 

 そんな智子がよろめきながら廊下に踊り出た弾みで階段の手摺に己の肘をぶつけてしまったものだから、堪らず悲鳴をあげてその場に座り込んでしまった。

 突き飛ばしてしまった方の智貴もぎくりとした顔になるが、ぶつけた所を気丈そうにさすってみせている智子の様子からして大事には至らなかったのを見取り、ほっとした様子を見せる。

 

「な、なんだよ、お前……姉ちゃんにこんな事して……弟の癖に……」

「……着替えるからもう入ってくんなよ」

 

 姉の無事をひとまず見届けた智貴は、何やら恨み言をぶつぶつと呟き出した智子を訝しみながらもこのやりとりを終わりにすべく戸を閉めようとした。だが弟のそんな行動に気付いた智子が、座り込んだ姿勢から一転、飛びかかるようにして戸に手を引っかけそれを阻む。

 

「おい、何してんだ馬鹿!」

「……嘘つき」

「あ?」

 

 指でも挟んだらどうするのだと慌てて戸を閉めるのを中断した智貴であったが、どうも智子の様子がおかしい事に気付く。

 

「いっちょ前に一人でデカくなったような面しやがって……昔は私が全部お前の面倒見てやってたのに……」

 

 先程肘をぶつけてしまったのが余程悔しかったのであろうか、何故か突然昔の事を蒸し返して自分を責めてくる足元の姉に智貴は困惑してしまう。 

 一体何が姉の機嫌をそこまで損なわせているのか知る由も無いが、部活ですっかり疲れきっている身としてはこのように突然訳の判らぬ絡まれ方をされてはたまったものではない。

 

「悪かったよ。判ったから手、離せよ……」

 

 帰宅して早々にどっと気疲れを感じた智貴は、よく判らないままとりあえず形だけ謝ってみせると、もういいだろうと戸を掴んだまま離さないでいた智子の手に触れる。

 

「うっさいっ、触んなっ!」

「いてっ!」

 

 しかし弟から伸びてきたその手を渾身のチョップでしたたかに打ち据えてやった智子は、自分を見下ろしている弟をキッと睨み付ける。

 そうした姉の顔を見た智貴は思わず息を呑んでしまった。今や智子の両の眼からはポロリポロリと涙が零れていたからだ。その口元はギュッとヘの字に曲がっていて、嗚咽が漏れ出そうになっているのを必死に堪えている様がありありと見てとれた。

 

「いや、泣く程の事かよ……」

「お、お前、姉ちゃんとの約束、もう忘れちゃったんだろ……!」

「何の話だ?」

 

 単に無神経な侵入者を部屋から追い出そうとしただけであるのに、何故それが姉をこのような状態にさせてしまったのか判らず戸惑いを隠せない智貴であったが、唐突に「約束」などと口にしてみせた智子の言葉の意味が理解出来ずに聞き返してしまう。

 

「とぼけんじゃねえっ! 嫌いになったりしないって言った癖に! ずっと姉ちゃんの事、好きなままでいてくれるって、お前約束したじゃねえかっ!!」

 

 智子が涙声混じりの怒声を浴びせて激しく弟を責め立てるが、その「約束」とはついさっき自分が見ていた夢の中での話に過ぎない。

 今目の前に居る現実の智貴本人にそれを言っても全くの見当違いではあるのだが、どうも今の智子は怒りのあまり夢と現実がごちゃ混ぜになってしまっている様子だ。

 

「っ!?」

 

 が、言いがかりをつけられた筈の智貴はといえば、何故か姉のそうした言葉を聞いた途端に体を固まらせてしまった。

 

「薄情モンめ! この嘘つきヤローがっ!」

「ぐっ……!」

 

 そんな智貴の不意を突くように勢い良く立ち上がった智子は、弟の頬に素早くその手を伸ばしたかと思うとそのまま彼の頬をつねり上げてしまう。

 

「嘘つきっ! 嘘つきっ!」

「止めろ!」

 

 智子の怒りが込められたその痛烈な不意打ちにさしもの智貴も冷静さを失い声を荒げてしまう。己の頬を容赦なくつねってくる姉の腕を強引に引っ掴むと、それを力尽くで振り払った。

 

「待て、落ち着けって!」

「うるせー馬鹿! 人の心を弄びやがって!」

 

 おそらくは全力だったであろう姉のつねり攻撃に頬をさすらずにはいられない智貴であったが、まだ怒りが収まらぬ様子の智子はわぁわぁと喚きながら再び掴み掛かろうとする。

 

「ちょっと智子、何怒鳴ってるの!?」

 

 そこへ二階の姉弟の尋常ならざる騒ぎを聞きつけたのか、階下より響いてきた母の声が二人の耳に届いた。

 

「別になんでもないよっ!」すっかり興奮しきっていた智子が、廊下に向かてまた怒鳴る。

「何でもない事ないでしょう! いいからちょっとおりてらっしゃい!」

「……チッ、うっさいなぁ」

 

 おりていかなければきっと母は自ら二階に上がってくるのだろう。そんな雰囲気を感じ取った智子は、しばし逡巡した後、涙に濡れたその瞳で改めて智貴を睨み付けると、そのまま彼に背を向けて大人しく階段をおりていく。

 

 そしてその場には、呆然とした様子の智貴だけが取り残されたのだった。

 

 *

 

 やがて黒木家では夕食の時間となり、二人の子供達は両親を交えたテーブルで互いに黙々と料理を口にしていたのだが、その間、智子は弟の方に一切視線を向ける事は無かった。

 

 いつもは寡黙な弟にあれやこれやと益体も無い事を話し掛けてやる智子の声が黒木家の食卓を彩っていたのだが、今夜の晩餐は普段よりも随分と静かなのであった。

 そうする内に智子は早々に夕食をたいらげたようで、ごちそうさまも言わずそのまま逃げ込むようにして自室へと戻っていく。

 

 部屋に入るなりベッドに飛び込んだ智子はそのまま頭から布団を引っ被ると、弟との喧嘩を思い出して物思いに耽る。

 

(何やってんだ、私は……)

 

 いきなり追い出されそうになった事に腹が立ったのはともかくとしても、夢の中での出来事を引き合いに出して弟に怒りをぶつけるのは甚だ筋違いも良い所である。そんな当たり前の事に頭が冷えてからようやく気付いた智子なのであった。

 そう考えるとあの時の己の取り乱しぶりが急に恥ずかしくなってきてしまう。弟の態度があのようにそっけないのはいつもの事なのに、何故あの時ああも自分は取り乱してしまったのだろうか?

 

(もうあんなビデオ見んの止めよ)

 

 あまりにも自分が昔にこだわり過ぎてしまったから。過去の思い出にすがろうとしてしまったから。そして、あの変な夢を見てしまったから。

 だからいつもと変わらない筈の弟の態度に、あそこまで腹を立ててしまったのではないか。自分をおかしくさせてしまう程に過去への郷愁が大きく膨らんでしまっていた事を危惧した智子は、それらから距離を置く必要があると気持ちを改める。

 

(ああ、でも……でも……)

 

 とは言ったものの、そう決意した所で智子が先程からずっと感じていた胸の疼きがすぐに消えてくれる訳ではなかった。やがてその苦しみに耐えかねた智子は、とうとう胸を押さえてうずくまってしまう。

 そんな智子の様子を、普段彼女がかわいがっているぬいぐるみ達もどこか心配そうに見守っているようだ。

 

 そうしてうずくまり続けてどれだけ時間が経っただろうか。途中、風呂へ入るようにと階下から促す母の声も無視し続けていた智子であったが、ふと時計を見ればもうすっかり夜も更けてきた頃であった。

 今日は誰かとこれ以上顔を合わせるのがおっくうな智子は、もう少し待って皆が寝静まった頃にでも風呂に入りに行こうかと考える。

 

 そこへふいに智子の部屋をノックする音が響いたかと思うと、カラカラと遠慮がちに戸を開ける音が響いた。

 

「姉ちゃん、ちょっといいか?」

 

 今一番会いたく無い相手が来た。部屋の入り口に背を向ける形で寝そべっていた智子は、背中ごしに投げかけられた弟からの問い掛けに無言で返してやる。

 いつまでも返事をしない姉の様子をしばらく伺っていた智貴であったが、やがて意を決したように部屋の中へと足を踏み入れてきた。

 

(勝手に入ってくんなよっ、ここはお前の部屋じゃねーんだぞ!)

 

 内心で悪態を吐く智子であったが、無視を決め込むつもりなのか布団から顔を覗かせる気配は無い。

 そうしてだんまりしている内、自分が寝そべっているベッドの手前で弟の座り込む気配がしたのを智子は感じる。

 

「………」

 

 座り込みはすれど、何か喋るでもなくじっと無言のままでいる智貴。

 弟からの布団ごしの視線をひしひしと背に感じてしまった智子は、いい加減根負けしてしまい、彼に背を向けたままようやく口を開く。

 

「なんだよ、なんか用かよ」

 

 自分でも気付かない内にまた涙声になっているのに気付いた智子はしかし、そう一言だけ言い放って智貴の出方を伺う。

 

「さっきは、ごめん」

 

 どうやら智貴は喧嘩の事を謝りに来たようだ。

 なんだそんな事を言いに来たのかと思う智子であったが、やけにしおらしい弟の態度にどこか違和感を感じてしまう。

 

「おう……」

 

 ともあれ素直に詫びを入れに来た弟であるからして、何か言ってやらねばと思う智子ではあったが、ばつの悪さも手伝ってそっけない返事しか返せないのだった。

 するとそんな智子に向けて更に智貴が言葉を掛ける。

 

「さっき姉ちゃんが言ってた事なんだが……」

「あん?」

「約束がどうのこうのって言ってただろ」

 

 あの時、思わず口走ってしまった智子の見当違いな発言が智貴なりに気になっていたのであろう。智子の言った「約束」という言葉に智貴が食いついた様子を見せてくる。

 

「ああ……ありゃもういいよ。お前にゃ関係ねー事だ、気にすんな」

 

 弟にしてみれば、きっと訳の判らない責められ方をされてさぞかし困惑した事であろう。それで益々自分の事を、頭のおかしな姉だと思って距離を置いてしまうのだろうか。

 

「もういいから出てけよ、姉ちゃん疲れてんだ」

 

 これ以上弟と話をしていても胸のつかえは取れはしない。ふぅと溜息をついてみせた智子は、弟に取り付く島を与えてやらず、彼をそっけない態度で追い払おうとする。

 

 そんな智子の返答を受けてか、智貴が無言ですっくと立ち上がる気配がしたのを智子は察知した。そしてそのまま彼が部屋から出ていくのを、智子はじっと布団の中で身を潜めて待つ。

 

 ──ギシッ……

 

(えっ? な、なにごと!?)

 

 その時、智子の予想外の事が起きた。退室するかに思えた智貴が、何を思ったのか智子のベッドの上に膝を乗せて来たのだ。

 突然の出来事を前にして智子が狼狽している間に完全にベッドの上に身を乗せた智貴は、今度は智子の被っている布団の端をめくり上げ、体を潜り込ませて来たのだった。

 

(ヒィィィッ……!)

 

 突如として添い寝を決行してきた弟に面食らい、堪らず智子は声にならない悲鳴を上げて勢い良く身を起こしてしまう。

 

「おおお、お前! な、何してんの!?」

 

 突然の弟の行動に目を白黒させる智子であったが、当の智貴におふざけをしている様子はまるで見られない。

 

「姉ちゃんさ、これ……覚えてるよな?」

 

 やがて智子と同じようにベッドの上で身を起こした智貴は、自身の手に抱えていたものを智子の前に掲げてみせる。

 

(えっ……?)

 

 目の前の()()に、智子の目が釘付けになる。記憶が確かならば、それはずっと昔に失われてしまったものであり、本来ならばこの場に存在する筈のないものであったからだ。

 

「な、なんでお前がそれ持ってんの……?」

 

 智貴が手にしていたもの、それはあの珍妙な成りをしたペンギンのぬいぐるみ、「ペンペン」であったのだ。

 

「ガキん時に姉ちゃんに貰ったから。俺が欲しいって言ったんだよ」

「いや、だってそれは……」

 

 智子からの問い掛けに対して、これは幼い頃に姉から譲り受けたものであると言ってのける智貴。彼の語るそれは、まるで智子が見たあの夢の中の出来事そのままではないか。

 

「約束だったから。絶対失くさないようにするって」

「や、やくそく……?」

「そうだよ。俺と、姉ちゃんとの約束」

 

「約束」という単語を口にした智貴は、ペンペンを己の顔にあてがってユラユラとそれを揺らしてみせる。

 

「ずっと昔にさ、こんな感じで約束した事、あっただろ?」

 

 そう言葉を続けていく智貴の様子は、常日頃からクールな態度を崩さない彼にしては実に珍しく興奮気味のようでもあり、その声色にもどこか熱気を孕んでいるように智子には感じられた。

 

「でも姉ちゃんはあの時の事、なんでかすぐに忘れちゃってさ……俺、それがほんと悔しくって」

 

 言葉が出ないでいる智子を前に、智貴は淡々と己の心の内を告白していく。

 

「俺にばっかり約束させて、でも姉ちゃんは最初からそんな事なかったみたいに振舞ってて」

 

 淡々とはしていたが、智貴の語る言葉にはズシリとした重みが含まれており、どこか姉に対する恨み言を言っているように聞こえなくもなかった。

 

「だから、あの時姉ちゃんが俺に言ってくれた事も全部嘘だったのかなって……」

 

 そこまで語った智貴は、思い余って手に抱えたぬいぐるみをギュウと締め付けてしまう。そんな彼の瞳の中に虚ろな何かがよぎったような気がした智子は目をしばたたかせる。

 

「でも、やっと思い出してくれたんだよな?」

「え、あ、う、うん?」

 

 急に声のトーンを変えてそのような事を智子に問うてくる智貴であったが、見ればその顔はいつもの無表情を常とする彼のものではなくなっていた。

 そこには祈るような心持ちで姉の返答に救いを求めているような、彼にしては大変に珍しい必死さがありありと滲み出ており、もしかしたら今にも泣き出してしまうのではと、そんな心配を智子に抱かせてしまう程にその瞳は揺れていた。

 

 だがいきなり弟からそのような事をまくし立てられても、智子としては全くもってこの急展開に頭が追いついてこない。

 そもそも弟の言う「約束」というのは、智子が思うに全て夢の中での出来事であった筈であるから、今現実にいる目の前の弟からそれらについて問い質される事は有り得ない筈であった。

 それ以前に、弟がその手に持つ懐かしきぬいぐるみもまた、本来ならばこの場に存在する筈がなかったのだ。

 

(あ、あれ~? もしかして私、まだ夢見てんのかな~……?)

 

 すっかり混乱してしまった智子であったが、おもむろに弟の頬に手を伸ばす。ひとまずこれが夢なのか確かめてやろうと考えて、その手で彼の頬をつねってみせようとしたのだ。

 が、指に力が入らなくなってしまった智子の震える手は、そのまま弟の頬を撫でているような形になってしまう。

 智子が触れた弟の頬は大変に熱を持っており、掌を通してその体温が智子の中にまで広がっていきそうな程であったから、思わず智子はぶるっと身を震わせてしまう。

 

 と、そんな智子の仕草に何かを勘違いしてしまったのか、智貴が己の頬に添えられた智子の手の上から自身の手を重ねてきたものだから、またもや智子は体を震わせてしまう。

 

(何してんのコイツ……! ほんと何してんだ……っ!)

 

 目の前の弟が頬だけでなくその手にも抑えがたい程の熱を孕んでいるのだという事が、今や智子にはその身を通してひしひしと感じられてしまう。

 驚くあまり手を引っ込めてしまう智子であったが、そのあまりにも実感を伴った生々しい感触は、これが決して夢などでは無いという事を智子に教えてくれる。いや、夕飯前に見た例の夢にしたって、その実在感たるや決して夢とは思えない程のものであったのだが。

 

「姉ちゃん……あの時の約束、やっぱり思い出してくれたんだな」

 

 先程までの不安に揺れていた智貴の姿は最早そこには無かった。智子の思わせぶりな仕草を無言の肯定と受け取った智貴は、今や心の底から安堵したと言わんばかりの様子を見せる。

 智子にとってはひどく懐かしさを覚えてしまう、あの人懐っこい微笑みを湛えた弟の姿がそこにあったのだ。

 

「姉ちゃんは今も俺の事、好きなんだよな……? それ、俺もだから。姉ちゃんの事、今だってちゃんと」

 

 好きだから、と口にする智貴。

 途端、それを耳にした智子の心臓が、限界を超えてドクンと脈動する。その震えの大きさに体までもが飛び上がってしまいそうだ。

 智子の耳の中でキンと甲高い音が鳴り響いた途端に周囲の音の一切が途絶えてしまったのだが、何故だか目の前の弟の吐息とその声だけはやたらとクリアに聞き取れるようになってしまう。

 

「今まで冷たくしてごめん……ほんと、俺ってあの時姉ちゃんが言った通りになっちまったな」

 

 智子のその人一倍大きな瞳をじっと見つめ、実際に熱を感じるのではと錯覚してしまう程の熱視線を痛い程に姉に送ってくる智貴が、そのような事を言って詫びてくる。

 

「でも俺……今からでもあの時の約束、守りたいんだけどダメかな?」

「あ、あにょ~、しょ、しょれは~……」

 

 智貴が言う「約束」とは、あの夢の中で交わされた結婚の約束と、それに付随する条件の事を指しているのは明らかであった。弟からこのように迫られている緊張と、夢と現実が入り交ざる訳の判らない状況に智子は混乱で頭がどうにかなりそうで、やかんの沸騰音のような声しか出せない。

 智子が先程から必死に握り締めていた布団のカバーは今や彼女の手元でグシャグシャになってしまっている。

 

「これからは姉ちゃんとの約束、絶対に守ってくから……」

「とと、と、とも……」

 

 かつて幼い頃に交わされた約束の遵守を改めて誓ってみせた智貴は、脇に抱えていたペンギンを枕元に置いてみせると、意を決したかのように智子との距離を詰めてその両肩に手を乗せてくる。そうして更には互いの吐息がぶつかりあう距離まで顔を近づけてくる。

 

(ヒィィィィッ! ち、近い!)

「姉ちゃん、ずっと大好きだよ……」

「んむぅううんっ」

 

 二人の唇がその瞬間、重ね合わされる。

 幼い弟相手のキスとはケタが違う、とてもとても情熱的な、大人の男性へと変わりつつある成長期の少年から与えられたキスの感触は、僅かに残っていた智子の理性をいともたやすく粉砕してしまった。

 

 智子の体の中で形容しがたい何かが頭のてっぺんから爪先まで駆けていき、反射的に体がのけぞってしまうが、そんな彼女を逃すまいと智貴は姉の小さくて華奢な体をより深く抱きしめる。

 頭の中がんほぉ──っとなってふにゃふにゃになってしまった智子は、体が小刻みに震え出し、全くもって力が入らなくなってしまったようだ。

 

 いつまでも続くかのようなその甘い刺激に最早なすがままの智子は、頭の片隅でボンヤリと考えを巡らせる。

 目の前にいる弟は、果たして本当に自分が知る智貴なのであろうか。私の弟が、あの生意気でいけ好かない智貴が、こんな事をしてくるなんて到底信じられない。姉相手にこんなにも積極的で、情熱的で、色気付いた事をしてみせるのは、あの甘えん坊の「智くん」だけだ。

 

 ああ、やはりこれは夢だ。こんな事がある筈が無い。きっと自分は、今もまだあの夢の中にいるのだ。そう自分に言いきかせなければ、そろそろ気絶でもしてしまいそうな智子であった。

 

 互いが成長した姿で再び交わされた姉弟のその誓いの儀式を、二人の枕元に座り込んでいる立会人と、部屋に置かれた物言わぬ智子の友人達が一同揃って見届けていたのだった。




おしまい


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【微ホラー・パロディ】スウィートホーム 智子夫人の肖像

FCのホラーゲーム『スウィートホーム』のパロディです。智貴×もこっち要素があります。また、黒木姉弟が既に故人です。


──心の力を、私にください──

 

 日本の戦後期に活躍した一人の画家が居た。名を黒木智貴(くろきともき)と言う。

 今日(こんにち)、黒木画伯が残したその作品群は国内外を問わず高く評価されており、今以て尚、日本にこの人ありとの名声を欲しいままにしている。

 

 昭和四年、千葉市を拠点に海外貿易を営む父の下に長男として生まれた画伯は、幼い頃より芸術全般、とりわけ西洋絵画に強い関心を示したと言われる。

 やがて画伯が七歳になった頃、両親が息子の教育の為にと東京より招いた洋画家・山村一己(やまむらいっこ)から絵画技法全般の手ほどきを受ける事になるのだが、そこで彼は後の己のライフワークとなる『フレスコ画』と出会う。

 

 自身の師となった山村氏を『イッコ先生』と呼び慕う画伯は、成長と共に彼から様々な技法をふんだんに吸収していったが、取り分け生の漆喰の壁に直接絵を描く技法であるフレスコ画を好んだと言われており、それを証明するように彼が二十代の初めまで過ごした生家には自身の家族の為に描いたフレスコ画によるプライベート作品が幾つも残されている。

 これらの作品は今以て健在であり、かつて千葉市を襲った幾たびもの空襲を乗り越えた画伯の生家(現在は記念館に改装)にて、今もその見事な出来栄えを目にする事が出来る。

 

 また、画伯はフレスコ画に限らず油彩や水彩を用いた絵画においてもその驚くべき卓越した画才を遺憾なく発揮しており、それらの技法を用いて制作された作品群は地元の美術展覧会は勿論の事、師の薦めで出品した全国的な展覧会の一般部門においてすら度々上位入賞を果たす程であった。

 これらの功績はいずれも画伯が十代前半の、まさに少年と言って差し支えない時期に成し遂げられた事であった為、やがて柳瀬正夢(やなせまさむ)の再来かと称賛される程の早熟の天才画家として世間にその名を知られるに至った画伯は、当時まだ学生の身であったにもかかわらず早々に地元の陸軍省関係者より勧誘を受けており、満十七歳を迎える年を待ってから下級奏任官(そうにんかん)(現在の尉官相当)という厚待遇にて嘱託の画家として従軍する事が決まっていたと言われる。

 

 しかし画伯が戦場において自身の手腕を発揮する機会は結局訪れなかった。昭和二十年、彼が十六歳となったこの年に日本が終戦を迎えたからだ。

 終戦の前年より画伯は、千葉市と隣接する大網町(おおあみまち)(現在の大網白里市(おおあみしらさとし)西部)の親類を頼って自身の一つ違いの姉と共に疎開していたが、彼の父、そして父の事業を手伝う母らは仕事の関係上千葉市を離れる事が出来なかった為に、終戦直前の七月七日に千葉市を襲った大空襲(七夕空襲)に巻き込まれた結果、不幸にも命を落としてしまう事になる。

 

 そうして両親を失い戦災孤児となってしまった画伯であったが、終戦の翌年となる昭和二十一年、長らく世話になっていた親類の家を出て自身の姉と共に千葉市へと戻り、姉弟は運良く戦火を逃れて健在であった生家へ移り住む事になる。

 この頃、復興もままならず荒れ果てていた故郷に戻ったばかりの画伯が当初どのように生活の糧を得ていたのかは定かではないが、無事生き延びていた彼の師より援助を受けていたのではないかと考えられている。

 

 やがて画伯は師の紹介により、当時の市内において優先的に復興が進められていた映画喫茶街にて用いられる看板画制作を請け負うようになる。これがまことに好評であった為に画伯は腕ききの看板職人として瞬く間にひっぱりだこになり、姉と二人で暮らしていく分には十分な程の稼ぎを得ていくようになる。

 

 そうしてひとまずは自分達の生活基盤を築いてみせた画伯であったが、やがてそんな彼に転機が訪れた。

 折しも日本ではGHQの後押しによりキリスト教団体がその活動規模を拡大し始めていた頃でもあり、彼らは新設した教会に壁画を描いてくれる人材を求めていた為、フレスコ画こそを自身の最たる得意分野としていた画伯に白羽の矢が立つ事となったのだ。

 

 そこから先の画伯は正に水を得た魚であった。

 元々西洋世界の宗教画に造詣が深く、そうしたモチーフを好んでいた画伯としては、そんな自分が本来の作風を封印してまで世の消費的な需要に迎合して看板画制作を生業とせねばならなかった事に思う所があったようで、これを機会にと今までの鬱憤を晴らすかのように自身の本来の感性を遺憾なく発露してみせた。

 

 その結果がどうであったかは、今日画伯が国内外から現代宗教画の大家と称えられている点からもご想像頂ける事と思う。

 画伯が完成させたその渾身の一作は、完成品を目の当たりにした依頼主は勿論の事、当時千葉市を訪れていた外国人宣教師達をも著しく驚愕させるに至った。

 

 彼らは教会内に描かれたそのフレスコ画を絶賛し、画伯の仕事ぶりに対する報酬も惜しまなかったという。

 この一件が呼び水となり画伯の下にはその後も関東一帯の教会から依頼が続々と舞い込む事になっていくのだが、こうして念願叶ってフレスコ画家としての活動範囲を広げていく事になった画伯は、当時まだ十代後半という若さであったにもかかわらず自身の類稀なる才覚によって瞬く間に戦後世界の画壇を席巻していく事となる。

 

 そうして成人後も精力的に活動を続けていった画伯は日本の復興と同調するが如く数々の功績を打ち立てて行き、やがては名声を欲しいままにし莫大な財産を築くまでに至ったのであるが、そんな彼の活躍ぶりは唐突に終わりを告げる事となる。

 

 日本芸術界における戦後最大の巨人とまで言われる黒木画伯。しかしその活動時期は彼に与えられた世間的評価の大きさと比べると意外な程に短く、終戦後からの活動時期だけに絞ってみれば僅か十数年程でしかない。

 その原因は彼が三十一歳という若さで命を落としたとされているからだ。

 

 何故画伯は亡くなったのか? 彼に一体何が起こったのか? 世界的に高名であった若き天才画家の突然の訃報に世間は騒然となり、彼の熱烈なファン達はその突然の死を大いに嘆いた。

 だが、この画伯の死には多くの不可解な謎が残されている。実際は誰一人として画伯の死を看取った者はいないのだ。

 画伯が何かしらの病気や怪我で近隣の病院に搬送されたという記録はどこにも残っておらず、そもそも遺体自体が発見されていない事からして、実際は行方不明に近い形であったとされている。

 

 ではなぜ彼が死亡扱いされているかというと、これには理由があった。

 画伯の死が世間に知られる数週間前、当時の彼が住んでいた千葉県内のとある山間部の町の地元役場に、画伯から依頼を受けたという弁護士が画伯直筆の遺書と思われる手紙を携えて訪れたためだ。

 

 その手紙によれば、もうすぐ自分は死ぬであろうから、それによって発生する諸々の後始末の一切合財を役場の人々に委任したいという事であった。

 また、自身の屋敷には今後何人たりとも立ち入らせないように便宜を図って欲しいという頼み事も書かれており、これらの面倒事を引き受けてくれるのならばその対価として己の財産全てを町に寄付しても良いという旨が記されていた。

 これを受けて当時の関係者達の間では一騒動起こったようであるが、最終的には画伯の意向を汲む代わりにその遺産を自分達の自治体へと引き継がせる事に決まったという。

 

 当然ながらこの一件に関しては警察の手も入る事になったが、ここからが益々この事件の奇怪さを深める事になる。

 当初、画伯の死の真偽とその前後関係を確認する為に派遣された数名の警官が町外れの山奥に居を構える画伯の屋敷を訪れたのだが、どういう訳か彼らは満足に調査もしない内にその場を引き上げてしまった。

 勿論そのような事が許される筈も無く、何故かひどく怯えていた彼らを下がらせて新たに編成されたチームが現場に向かう事になったが、これがまたもや碌に調査をしない内に帰ってきてしまったというのだから、どうにも不可解であった。

 

 彼らも先発した者達と同じく皆一様に怯えきってしまっていたのであるが、ただひとつ判った事は、とうの昔に屋敷は無人となっているようで、屋敷の中には人の気配が一切感じられないという事らしかった。

 

 画伯には同居していた自身の姉を除いて他に肉親はおらず、その姉も今回の騒動が起きる半年程前には既に亡くなっていたのだが、だからといってそれが屋敷に誰も居ない事の理由にはならなかった。

 かなりの資産家でもある画伯が当時住んでいた屋敷はそれは立派なものであり、その広さに見合うだけの使用人も相当数同居していた筈であったが、どういう訳か彼らもまたどこかへ消え去ってしまっていたというのだ。

 

 その点については人知れず画伯が彼らに暇を出しただけなのではという事でひとまずは結論付けられたものの、実はその後の調査によれば、当時屋敷に勤めていた使用人達の姿をこれ以降見た者はおらず、最終的にいずれもが失踪扱いになってしまったのだという。

 

 ともあれ調べに行かせた者達が出向いた先から尻尾を巻いて逃げ帰ってくるものだから、警察としても打つ手が無く困りかねている状況であった。それ故か、その後ほどなくして屋敷の調査は打ち切られてしまう事となるのだが、その理由というのが『邸宅内の捜査が困難を極める為』という、なんとも不可解極まるものであったとされている。

 

 ひとまず画伯が事前に整えておいた法的な手続き自体には特に問題が見受けられなかった為、以後、主を失った屋敷は画伯の遺言に従って何人たりとも立ち入らないようにと完全に封鎖される運びとなる。

 かつては画伯と交流を持つ人々が度々訪れていたその屋敷は最早誰も足を踏み入れる事の許されない場所として、全ての謎を包み込んだまま奥深い山林の中に埋もれていく事になった。

 

 そして時は流れ、およそ三十年の月日が経過した。

 

 ◆

 

 一九八九年、昭和最後の年が終わり新たな年号が発表されたこの年の夏。とある集団が千葉県南東部の山あいに位置する某市を訪れていた。

 

小宮山(こみやま)さん、遅いなぁ」

 

 そう呟いたのは、頬に多少のソバカスをこしらえた麦わら帽子姿のショートヘアの女。

 

「もう、プロデューサーったら何やってんだろほんと……」

 

 それに応えるように傍らで愚痴を零してみせたのは、何とも形容し難い淡白に過ぎる顔立ちをした女で、そのふわりとしたボブヘアーの頭にはハンチング帽が乗せられていた。

 

 おそらくは市役所と思われる建物の前には一台の泥に汚れた白塗りのジープが停車させられており、その周囲には車から降りてボンヤリと役所の方を見やっていた二人の女が何やら待ちぼうけているようだった。

 砂浜沿いに設立されているその役所の付近では今、例年にない浜風に煽られて辺り一帯に酷い砂塵が舞っていたのだが、そんな中にあっても立ち尽くして気を揉んでいる彼女らの様子からすると、小宮山なる仲間の一人が今、何かしらの重大な用事があって役所に赴いている最中であるらしい事が見て取れる。

 

「メンドくせぇな、ちょっくらあたしがガツンと言ってきてやるぞ」

「えーと、もうちょっと待ってた方がいいんじゃないかな……?」

 

 と、今度は首にタオルを掛けた金髪の女がジープの後部座席からそのしかめっ面をぬっと覗かせたかと思うと、やけに鋭い眼を光らせて些か過激な事を口にしたものだから、同じく後部座席に座っていたらしいヘッドスカーフを被った黒髪のおさげの女がそれをやんわりと宥めてみせる。

 

「あっほら、来たよ!」

 

 すると間もなく役所の玄関から出てきた一人の女性が砂塵舞い散る強風の中を駆けてきたので、気づいたソバカス嬢がそちらを指さし声を上げる。どうやら件の小宮山という仲間がようやく戻ってきたようだ。

 

「ごめんごめん、お待たせ……」

 

 やや息を切らせて仲間の下まで戻ってきた小宮山なる人物は、すっかり待ちくたびれていた仲間達に謝意を述べる。地味な色合いのパンツスーツを着た彼女は眼鏡を掛けており、その丸みを帯びた黒いショートヘアはどこかダンゴ虫を彷彿とさせた。

 

「おせーぞ、何してやがったんだ」

 

 先程からすっかり不機嫌な様子であった眼光鋭き金髪女は、自分達に駆け寄ってきた小宮山をやや非難めいた口調で詰問する。

 

「あーそれがね、ちょっとゴネられちゃって……でもどうにか許可は貰えたから、ほら」

 

 そう言って小宮山はポケットから取り出した物を皆の前に掲げてみせる。それは如何にも古風なデザインをしている、錆び付いた一つの鍵であった。

 

「ふーん、それが黒木邸の鍵なの?」

 

 小宮山の持つ古びた鍵を、己の帽子に付いた砂を払っていた淡白顔が興味深げにしげしげと眺める。

 

「でもよく許可が下りたよねぇ。あそこってガードがキツくて取材でも絶対入らせて貰えないって聞いたけど……」

「それは面白半分で行こうとする人達の話でしょ? 私達はどこぞの馬鹿みたいな番組の取材で来てるんじゃないんだし、これは日本が誇る稀代の天才の、未だ知られていないその功績を世に知らしめる為の真面目な取材なんだから一緒にされたら困るよ」

 

 そもそも今まで黒木邸に学術的調査の手が入らなかった事自体がおかしいんだよね、などと聞かれてもいない事までクドクドと語り始めた小宮山の様子はどこか誇らしげでもあった。どうやらこれから自分達の成す事に大きな社会的意義を感じているようで、その気負いから来る興奮が彼女を饒舌にさせていたようだ。

 

「おい! ダベってねーでさっさと乗れよ!」

 

 そんな小宮山の様子にいい加減シビレを切らしてしまった金髪女が、窓から伸ばした手で後部座席のドアをバシンと叩いたものだから、それに促される形で小宮山達は一目散に車へ乗り込んでいった。

 

「あ、じゃあ(うち)さん……ここから先はお願いね」

「はいはい」

 

 助手席にてシートベルトを締めた小宮山は、傍らの運転席に座る内と呼ばれた淡白顔にそう告げる。ここまでの道中は小宮山が運転していたのであるが、彼女らがこれから向かう先は碌に整備されていない荒れ果てた山道である為、その手の道に手馴れた内が交代する事になっていた。

 そうしてエンジンを始動させたジープは一行を乗せて出発する。

 

 彼女らが向かう目的地。それはかの高名なフレスコ画家、黒木智貴が終生まで住んでいたとされる屋敷であった。

 人里離れた山奥に建てられているその屋敷には、生前の画伯が描いた数多くのプライベート作品が残されているという事が当時画伯の下を訪れた人々の証言で明らかになっており、一行の目的もそうした秘蔵作品の所在を突き止めに行くというものだった。

 

 そもそも彼女らは一体何者なのかといえば、それはこれまでの会話の端々からも伺い知れるように、要は番組の取材の為にこの地を訪れたテレビ局の撮影班という事なのであった。

 そうした撮影班一行をまとめるリーダーとして同行した小宮山であったが、この取材を企画したのは他ならぬ彼女自身でもあった。

 局に務める新米プロデューサーである彼女はまた、黒木画伯に心酔する熱烈なファンでもあった為、いつか機会があれば黒木邸への本格的な調査を決行したいと考えており、今回念願叶って此度の取材が実現した訳なのである。

 

 ちなみに小宮山が初めて画伯の作品と出会ったのは中学生の頃にまで遡る。

 当時、課外授業の一環としてクラスメイト達と共に千葉市内にある画伯の記念館を訪れていた小宮山は、そこで見た若き日の画伯の作品群にたちまち心を鷲掴みにされてしまったのだ。

 以来、まるで一目惚れを経験した乙女のように小宮山はその後の人生において、画伯に対する溢れんばかりの敬意と抑え難い程の強烈な憧憬を携えて生きていくようになる。

「一度で良いから画伯にお会いしたかった」というのは、彼女が常日頃抱いている決して叶えられる事の無い切実な願いなのであった。

 

 *

 

「あのー小宮山さん……私は何をしたらいいんですか?」

 

 やがて一行を乗せたジープが黒木邸へと続く山道へと入り始めた頃、後部座席に座っていたソバカス嬢がふいに小宮山へそのような質問を投げ掛けた。

 

「え? あ……そうだね、真子(まこ)さんも一応それなりに手伝っては貰うけど……また現場についたら吉田(よしだ)さんから指示を貰って動いてくれたらいいよ」

 

 後ろを振り返った小宮山は、自身が真子と呼んだソバカス嬢にそう答えてみせる。

 

「そういう訳だから吉田さん、面倒見てあげてちょうだい」

 

 そう言って小宮山は同じく後部座席に乗っていた金髪女にも声を掛ける。先程小宮山らを怒鳴りつけていた彼女はどうやら吉田という名前らしい。

 

「おう、任せとけ……遊びで連れてってやるんじゃねーんだ、オメーにもキッチリ働いて貰うからな」

 

 小宮山に小気味良く返事をした吉田は自分の隣に座る真子を横目で睨みつけてそのような言葉を掛ける。

 彼女はこの撮影班のディレクターを務めており現場の指揮を一手に担う立場にあったが、吉田が真子に対してこのようなつっけんどんな態度でいるのには理由があった。

 あたかもスタッフの一員としてこの一行に同行している真子であったが、実は彼女はテレビ局の人間ではなかったのだ。

 そんな彼女が何故この場に居るのかについては後述するとして、ともあれ吉田のその態度からは真子のような素人が物見遊山気分で現場に出しゃばってくる事をあまり快くは思っていないであろう様子が見て取れた。

 

「あ、はいっ、よ、よろしくお願いします……!」

 

 現場では人使いの荒さから鬼吉田の異名で恐れられる彼女の放つ威圧感を前にすっかり縮こまってしまった真子があたふたと頭を下げる。

 

「大丈夫だよ、そんなに難しい事させられる訳じゃないから」

「う、うん……ありがとう」

 

 真子と隣り合って窓側に座っていたおさげ髪の女が、些か不安げな様子を見せていた真子を安心させるように彼女の手の上にそっと自身の掌を被せて緊張をほぐしてやろうとする。

 

「ゆりの方も、お仕事頑張ってね」

「あーうん、まあぼちぼちやってみる」

 

 自分が励ました真子から返ってきたこのような言葉に対して、ゆりと呼ばれたおさげ髪はなんとなくやる気の感じられない曖昧な返事をしてみせる。

 元々ゆりは音声技術スタッフとして局に勤めていたのだが、その持ち前の涼やかな美貌を見出された結果、今ではリポーターとして活動するに至ったという経緯を持っており、今回の取材でも彼女はその役を務める事になっていた。

 

 ともあれこの真子とゆりはその様子からして随分と親しげな関係である事が伺えた。それもその筈で、彼女らは元々同じ高校に通う友人同士であり、それだけに留まらず二人して同じ大学に入学して以降はアパートを一部屋借りてそこで寝食を共にするようになった程の親密な間柄であり、社会人となった現在もその同居生活は続けられていたのだ。

 そもそも今回真子が部外者ながらも有給休暇を使ってまでこの取材に強引に同行した理由というのも、リポーターであるゆりが今回の取材の為に数日間出張せざるを得なかった事に端を発しており、真子曰く「夜に一人で部屋に居るのが怖いから」という、なんともな理由が背景にあった。

 

 と、それまで順調に進んでいたジープが徐々に速度を弛め始めたかと思うと、やがて完全に停止してしまう。

 

「うっちー、どうしたの?」

 

 急に止まってしまった事を訝しんだ真子がそのように内へ尋ねた。真子は内とも学生時代からの付き合いであり、この『うっちー』というのは真子が彼女を呼ぶ時の愛称である。

 

「ほらあれ、なんかバリケードみたいなのがあるの……」

 

 そのように言う内が差し示す方向には確かに一行の進路を阻むかのように見事な造りの鉄格子式の門が据えられており、狭い山道を塞いでしまっていた。

 

「ああ、役所の人が言ってた門だね……ちょっと待ってて、開けてくる」

 

 そう言ってジープを降りた小宮山は門の前までさっさと歩み寄っていくと、おもむろにその年季の入った錆びだらけの鉄格子をガシャガシャと前後に揺すってみる。見事な装飾が施されたその鉄格子には錆び付いたチェーンが幾重にも巻きつけられており、どうやらそれが閉じられた門を固定しているらしい事が見て取れた。

 チェーンをほどけないかと慎重に解きに掛かる小宮山であったが、随分と固く巻きつけられているそれはビクともしないようだ。どこかに仕掛けがあって、チェーン自体がそれで固定されているようにも思えた。

 

「ほら、あたしがやっからどいてろ」

「え? そ、そう?」

 

 と、開門に手間取っていた小宮山の後を追ってジープを降りてきたらしい吉田が彼女を脇に下がらせると、今度は自分がチェーンを外しに掛かる。

 

「っと、結構かてーな……」

 

 そうして腕に力を込めた吉田は、強引にそれを引きちぎらんとして門全体を揺さぶる勢いで力任せにオラオラとチェーンを引っ張り始める。

 

「ちょっと吉田さん、そんな風にしたら壊れ……」

 

 ──バキンッ

 

 あまりの乱暴さに小宮山が咎めようとした途端、何か金具らしきものが壊れるような音が辺りに響いたかと思うと、チェーンはあっけなくスルスルと解けていった。

 なるべく画伯の所有物であった屋敷に連なるものを傷付けてしまわないようにと気を使っていた小宮山とは違い、そうした遠慮が全く無い吉田の力技によって、固く閉ざされていた門はようやく開かれる事となったのだ。

 

「ほら、開いたぞ」

「ああ、うん、そうだね……」

 

 よくよく見れば鉄格子自体も今し方の狼藉によって些か歪んでしまっている事に気付いた小宮山は頭を抱えたくなった。

 自身が敬愛する文化人である黒木画伯。その画伯にゆかりのある貴重な文化財の一部がこのように無下に扱われた事に対して憤りとも呆れともつかぬ感情に捉われた彼女は、そのこめかみに怒り印の血管を浮かび上がらせつつも黙って車に戻る。

 ともあれ通行の妨げとなっていた障害を取り除いてみせた一行は再び移動を再開するのであった。

 

 *

 

「ああ、いよいよなのね……私、すっごいドキドキしてきたかも」

 

 そう口にしたのは、小宮山ではなく現在ハンドルを握ってジープを運転している内の方であった。

 

「あー、そういえば内さんも画伯の事、結構知ってるんだっけ?」

 

 助手席に座る小宮山は、どこか軽薄そうな感じのするこの部下が実は黒木画伯に関してそれなりの造詣を持っている事を聞かされて意外に思っていた。

 

「まあ一応はね。これでも結構調べたんだから……でも、私が気になるのはやっぱり何といってもアレね」

「アレって?」

「ほら、『智子(ともこ)』だよ。私、今日は屋敷に智子の絵が残されてないか徹底的に探してやろうと思うの」

 

 内が唐突に口にしてみせた『智子』という名前。何を隠そうこの『智子』というのは黒木画伯の実の姉の事であった。

 黒木智子(くろきともこ)なるこの女性は、終戦直前に両親を失って孤児となった画伯にとっての唯一の肉親なのであるが、実は彼女の存在は黒木画伯の作品を語る上で欠かせない存在でもあったのだ。

 

「私ね、ずっと前に記念館で智子を見た事があったんだけど、その時からなんか結構気に入っちゃってさー」

「……へーそうなんだ。あそこ、私もたまに行くけどあんまり智子の方は見に行かないかなぁ」

 

 内が見た智子というのは、要するに画伯が自身の姉をモデルとして描いたプライベート作品の事である。

 千葉市内にある画伯の記念館では彼が十代の頃までに制作した数々のフレスコ画を鑑賞する事が出来るのであるが、内はかつて学生の頃に友人らと遊びでここを訪れた際、どうやら館内に展示されていた智子の肖像画の数々をいたく気に入ってしまったようなのである。

 

 画伯は絵を習い始めた当初から自身の姉をモデルとして度々その筆を振るう事があったが、フレスコ画の技法を修得して以降は智子が誕生日を迎えるごとに彼女の肖像画を一つずつ自身の生家(現在の記念館)の壁に残していった。

 それ故に、そうして生み出された数々の智子絵を描かれた年月ごとに見ていけば、それは見事に智子自身の成長記録とでも言うべきものになっていた。

 黒木画伯の隠れたライフワークとも評されるこうした智子絵の制作は画伯自身が他界する年まで続けられていたと言われており、画伯の作品を研究する者や愛好家達の間では、彼が千葉市内の生家を離れて移り住んだ先の終の棲家にて未だ世に知られていない『智子』が多数残されているのではないかというのが定説になっていたのだった。

 

「まあでも、アレはちょっと初見の人にはキツいよね」

「そうそう! 確かにパッと見はマジでキモいしゾッとする絵なんだけどさ……でもほら、あれってじっと眺めてると何だか色んなものが見えてこない?」

 

 褒めているのか貶しているのかよく判らないその智子評であるが、これは何も彼女ら個人だけの偏見という訳でもない。

 絵のモデルとなったこの智子という女性はどうも相当に複雑な性格の持ち主であったようで、モデルの内面までをも見通し暴き出す類稀な画才を持った画伯の手によって描き出された智子の肖像は、見る者の心に様々な波紋を呼び起こす異様な迫力を備えており、それを目の当たりにした者は時に悪夢にうなされる事すらある劇薬的作品であるというのが世間一般からの評価でもあるのだ。

 

 かくいう内自身も初めてこうした智子の肖像に遭遇した際は三日三晩うなされてしまった口であったりするのだが、それが今では積極的に智子を求めてやまない愛好家へと変貌してしまったという事実は、この智子絵が単なる奇画に留まらない魔性の魅力をも携えている事を如実に物語っており、そうした点が益々それを生み出した画伯への評価を高める要因にもなっていた。

 

 尚、千葉県一の黒木画伯のファンを自認する小宮山としてもこの『智子』は現存している作品群を一通りその目で鑑賞してきた訳であるのだが、さりとてこの絵が好きであるかと問われれば、些か回答に困ってしまうというのが彼女の本音であった。

 それは単なる愛好家の域を通り越して最早画伯の熱狂的な信者と言える程の崇拝ぶりを見せていた小宮山にしては異例の事であり、本人としてもその点については悩んでしまう所ではあったが、やはり彼女としては智子絵よりも普段の画伯の作品の方が余程素晴らしく映ってしまう。

 小宮山は絵の中でじっとこちらを見つめてくる智子のその佇まいの中に、何故だか己自身の卑小な姿を見出してしまうようで、それが故にこれらの作品を手放しで評価する事が出来ないでいたからだ。

 

 また、余談ながら今も小宮山が付き合いを保っている中学以来からの親友は、そんな智子絵を見て「とても優しそうな子」であると感じていたく気に入ったという。

 

「画伯は毎年必ず智子をモデルにした作品を残してきた……きっと黒木邸にも智子の絵が沢山残されてるに違いないって私は信じてる」

 

 そう語る内は、運転そっちのけで早くも屋敷の中にあるかもしれない智子絵の事が気になって仕方ない様子であった。

 

「なんとしてもそれを撮ってやるんだから。公開したらきっと世界中が震えちゃうよ……」

「トモコさんの絵ってそんなに凄いんだ、私も見てみたいなー」

 

 カメラマンである内は此度の取材において屋敷に残された智子絵を必ずやそのレンズに収めてやると息巻いていたのだが、普段以上に饒舌な彼女の熱弁に興味をそそられたのか、後部座席の真子が興味ありげにそのような事を言ってみせる。

 真子がかつて通っていた学校ではカリキュラムの都合上、生徒らに記念館で画伯の作品に触れる機会を与えなかったが故に、自主的にそこを訪れる事のなかった真子は未だ持って智子絵を目にした経験が無かったからだ。

 

「あーダメダメ、まこっちなんかが見たら多分卒倒するよ? アレはほんと一般人には刺激が強すぎるんだから」

「えーホントに? なんか怖いなぁ」

 

 そんな真子が口にした興味本位の言葉に、なんとも事情通ぶった得意気な面持ちで釘を刺してみせる内。その如何にも勿体ぶった口ぶりはまさしく自身の好きなものを語る一部の愛好家特有の態度そのものであった。

 

「おおげさに吹いてんじゃねえよ、んなモンどーって事ねーだろ」

 

 と、智子に関するそんな彼女らのやりとりに聞き耳を立てていたのか、先程からだんまりとしていた吉田が内の脅すような言葉に強気な態度で反発してみせる。平面上で大人しくしているに過ぎない絵を相手に人間がそこまでの脅威を感じるなど、彼女としてはまったくお笑い草なのであった。

 

「いや、別にアンタには言ってないし……ってか何割り込んできてんの」

「あぁ?」

 

 途端、それまで上機嫌であった内の表情が曇る。

 それは単に己の好きなものに軽くケチをつけられただけにしてはやけに過敏な反応で、内のそんな態度に対する吉田の反応もまた刺々しいものであった。どうもこの二人は元々反りが合わない間柄なのかもしれない。

 

「ちょ、二人ともこれから撮影なんだから、少し落ち着いて……ね?」

 

 車内に流れ始めた険悪なムードを察した小宮山が慌てて二人の仲裁に入る。

 彼女としてはこのような人間関係の調整はまことに不得手であったのだが、これからスタッフ全員で協力して撮影に挑まねばならないのであるからして、それが始まる前から不和を起こされては堪らないのであった。

 すると、

 

「はぁ、もういいや」内がため息をつき、

「ちっ」吉田が舌打ちをする。

 

 小宮山の仲裁が一応ながら功を奏したのか、ひとまずは二人とも矛を収めたようだ。

 そうしてしばらくの間、車内には気まずい沈黙が流れる。

 

「……ねえゆり、トモコさんの絵ってちょっと見てみたくない?」

「え? あー、私は別にどうでもいいかな」

 

 そんな中にあってふいに真子が口を開くが、話題を振られたゆりはというと「興味ないし……」と、なんとも投げやりな言葉で返してみせる。

 これといって美術方面に関心がある訳でもないゆりとしては、世界的な巨匠が残した作品と言えども特に興味を惹かれる訳ではなかったからだ。

 

「何? 見に行きたいの?」

 

 が、傍らの友人が何を言いたいのか察していたゆりは、真子にそのように尋ねる。

 

「うん……」

「そっか、じゃあ内さんが見つけてくれたら一緒に行こっか?」

「ホント? ありがとう!」

 

 要するに真子は、一人で智子絵を鑑賞するのが怖いのでお供が欲しかったのだ。

 ただ単に絵を見るだけであれば智子絵にご執心な内にでも付き添って貰えば良いのであるが、怖いものを前にするならやはり親友であるゆりが傍に居て欲しいと思う真子なのであった。

 本当に存在するのかどうか確証もない黒木邸の智子絵ではあったが、内がどうにか見つけてくれるであろう事を期待して、ゆりは真子からの頼みを快諾してみせる。

 

「ねえ、うっちー」

「んー?」

 

 と、今度は内に対して声を掛ける真子。

 

「そのトモコさんって、画伯の奥さんだったの?」

 

 智子なる人物について何も知らなかった真子は、彼女の事情に詳しそうな内にそのような質問をしてみせる。

 

「ほー、なるほどねー、知らない人はやっぱりそう思っちゃうんだぁ」

 

 途端、先程までの不機嫌さはどこへやら、声のトーンを上げた内はまたしてもそのよく回る舌を動かし始める。

 

「え? じゃあ違うの?」

「違うよ、智子は画伯の実の姉なの。()()()はね」

 

 内が語ってみせたように実際智子は画伯の姉であったのだが、さりとて内の思わせぶりな説明からは、それだけに留まらない事情が智子にある事を伺わせた。

 

「表向きって?」

「ふふ……智子のアダ名を知ってる? 画伯のファンの間では彼女、『黒木夫人』って呼ばれてるんだけど」

「えっ? お姉さんなのに夫人なの?」

 

 これは何も現在のファンの間だけに留まらず、実は画伯が存命中の頃から既に周囲は智子を指して密かにそのような名で呼んでいた。

 

「要するにさ……この二人って実は『姉弟でデキてた』んじゃないかってもっぱらの噂なの」

「えー……」

 

 内の口から突然飛び出したその背徳的な言葉に、声量を落とした真子の顔が赤くなる。

 黒木画伯は妻を娶らず生涯独身を貫き通した孤高の人物としても知られていたが、そんな彼の傍らには常に寄り添う姉の姿があった事から、周囲からのそのような詮索を招いてしまう事となった。

 

「あ、それはどうなんだろ……私はただの噂でしかないと思うけど」

「えーだっておかしいでしょ? 毎年姉の為に絵を描いてあげるなんて、どんだけシスコンなのよ」

 

 内が熱く語り始めた画伯のそのスキャンダラスな噂に何か思う所があったのか、助手席の小宮山が控えめな反論をしてみせる。

 だが内の言う通り、確かに画伯の姉に対する扱いには単なる身内に対するそれを超えた感情があったのではないかと識者の間で指摘されているのも事実である。その証拠として挙げられる一例の最たるものが、画伯が並々ならぬ情熱を持って描き続けてきた一連の智子絵なのであった。

 

「私、智子の絵を見てると確かに感じるの。『ああ、これを描いた人は智子の事を愛していたんだな』って……」

「ああ、そうなんだ……私、アレあんまり良く見た事無いからそういうの判らないけど……」

 

 内程の智子愛好家の観察眼を持ってすれば、智子絵に込められた描き手の思いを読み取る事はそう難しくはないのであった。

 

「ああ~、ほんとキモいよねぇ姉弟でデキちゃうなんて。智子ったら本当にキモいんだから……」

 

 キモいキモいと智子を口で貶しながらも、うっとりとした目でそう語る内の様子はまるでテレビの中のスターの色恋沙汰にはしゃぐ少女のようであった。

 

「ちょ、内さん! 前、まえっ!」

「え?」

 

 と、そんな内に小宮山が慌てて注意を促す。我に返った内が前方を見やれば、道を塞ぐ形で倒れ込んでいた木がジープの目前まで迫っていた。

 

「きゃあっ」

 

 咄嗟にブレーキを踏みつける内であったが、勢いは止まらずそのまま倒木をメキメキとなぎ倒してしまう。

 幸いそれは比較的小さな木であったから事から車体は無事であったが、内の不注意な運転のせいで冷や汗を流す一行であった。

 

「おいっ、ちゃんと前見ろやテメー!」

「ははは……へ、へーきへーき」

 

 堪らず吉田が声を張り上げて運転手を怒鳴りつける。

 彼女らの乗るジープは頑丈な作りをしているだけにこの程度ではビクともしないのだが、だからといってこのような乱暴運転では生きた心地がしない。

 智子の話題を前にしてうっかり心ここにあらずの状態になってしまった内も流石にそれを恥じたようで、誤魔化すように笑ってみせるのだった。

 

「ったくよー……」

 

 あわや衝突事故かと少しばかり肝を冷やした吉田であったが、すぐさま落ち着きを取り戻した彼女はなんとはなしに窓から覗く景色に目を向ける。

 と、そこで木々の間から垣間見えたものに彼女は思わず目を奪われてしまった。

 

「なあプロデューサー、黒木邸ってもしかしてあれの事か?」

「え? あ、そうだね。あれが画伯のお屋敷、かな」

「へー……なんかスゲーな」

 

 吉田からのその問い掛けに、窓の外へと目を向けた小宮山がまるで尊いものでも仰ぎ見るかのような表情で答える。今彼女らが走っている山道から若干遠い位置にあったそれは、なんとも古めかしい洋館であった。

 屋敷はたいへんに巨大な作りをしており、山林の中に隠れるようにしてそびえ立つそれはまるでヨーロッパのおとぎ話にで出てくる森の古城のようである。

 千葉県内にて数年前に開園された新感覚テーマパーク『東京ネズミーランド』の施設を思わせる屋敷の威容は、密かにその手のものが好きであった吉田の心の琴線に触れたようで、先程から興味津々にそちらを見やっている。

 

「うわぁ、すごいねぇ。なんかお化けとか出そうだけど……」

「んなモン気合だ気合。もし出やがったらこっちからブチかましてやりゃいいんだよ」

 

 つられて屋敷を見やる真子であったが、その威容を前に感嘆の声を上げながらも息を呑まずにはいられなかった。

 吉田は異国情緒溢れる屋敷の見た目から色鮮やかに飛び回る妖精達の姿でも想像していたのか、まるで屋敷を恐れていない様子であったが、一方の真子はその如何にもな廃墟ぶりから別のものを想像してしまったようだ。

 

「ねえゆり、見て。お屋敷すっごいボロボロだよ」

「え? あ、うん……」

 

 お化けが出る出ると怖がっている割にはどこかはしゃいだ様子を見せている真子は傍らの親友にも声を掛ける。

 

「なんだろう……あそこ、あんまり良くない場所のような気がする」

「えー? 怖い事言わないでよぉ」

 

 真子に促されて車窓から屋敷の方をじっと見据えていたゆりがふいに妙な事を呟いた。

 ゆりは遠目に見える件の屋敷から何か言い様のない不吉さを感じ取ったようで、楽しそうな様子の真子とは対照的にその表情には些か険しいものが浮かんでいた。

 

 ゆりが口にした直感、それは実際に正しかったのかもしれない。

 あと数分もすれば到着するであろう黒木邸でこれから彼女達が体験する出来事を考えればこの時点で何をおいても引き返すべきであったと、そう思える程には。

 

 彼女ら撮影班一行の長い長い取材はまだ始まったばかりであった。




END


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(1)

SFCのサウンドノベル『弟切草』のパロディです。
智貴×小宮山さんですが智貴×もこっち要素もあります。
また、本作品には一部グロテスクな表現や暴力描写がありますのでご注意下さい。

▼タイトルロゴ
【挿絵表示】

[2020/7/22]『カエッテキタトモクン』を全面改訂しました。主に改行の塩梅を見直した形となりますが、細かい部分の表現にも手を加えてあります。
加えて、あとがきを投稿しました。≫あとがきを読む。


タダイマ。

 一九九二年の八月初頭。夕暮れ時を過ぎてすっかり日も落ちた頃、鬱蒼とした山道にて車を走らせる小宮山琴美(こみやまことみ)の姿があった。彼女は今、助手席に同乗者を乗せて夜のドライブを満喫中だった。

 

「あっ、智貴(ともき)くんは車酔いとかって無い? この先結構くねくね道になるんだけど……」

「大丈夫です」

 

 琴美はそう言って助手席の同乗者の様子をチラチラと横目でうかがって気遣うが、智貴と呼ばれたその青年は言葉少なに返答する。そんな智貴に「そっかーそれは良かったー」と、どこかぎこちない相槌を打ってみせる琴美であったが、交わされた言葉はそれっきりで後には互いの間に沈黙が漂う。

 

「あ、そうだ……や、野球は面白かった?」

「はい、まあ」

 

 と、そんな沈黙を振り払うようにして琴美が再び智貴に話題を振ってみせる。この少し前まで二人は地元の千葉市内にある千葉ロッテマリンスタジアムにて野球観戦をしていたのだ。オリオンズ時代からのロッテ球団の熱烈なファンである琴美は、智貴に実際の野球場で地元球団を応援する楽しさを知って貰いたくて普段野球にあまり興味の無さそうな彼を誘ったのであったが、琴美としては果たして智貴がその体験をどう感じたのかが気になる所であった。

 

「きょ、今日はちょっと調子悪かったけどさ、本当のロッテはあんなのじゃないんだよ?」

「そうですか」

 

 満を持して意中の相手を球場に招待した琴美であったが、彼女が応援する千葉ロッテマリーンズの快勝とは行かず、なかなかの塩試合だったようである。あれでは智貴に野球への興味を持って貰えないのではと心配した琴美は自身の贔屓球団のふがいなさを庇うように弁解を始める。

 

「なんたって今年はロッテが千葉に来てから迎える最初のシーズンだしね。今日だって来客数も凄かったし、皆それだけ今年のロッテには期待してるんだ……。前半戦は調子良かったし、八木沢(やぎさわ)監督になってからのロッテは何かが違うの。もしかしたら上位狙えちゃったりするかも」

「……」

 

 先程までどこかぎこちなく遠慮がちな喋り方の琴美であったが、ロッテの話題になった途端饒舌になる。根っからのロッテ狂いの琴美は、かの球団の話題ともなればこのように聞かれてもいない事を誰彼構わずぺらぺらと語って聞かせる悪癖があった。

 そんな琴美の独り言に近い熱弁を聞いているのかいないのか、智貴は前を見据えて無言のままだ。

 

「あ……だ、だから、こ、今度もまた一緒に行けたらなー、なんて……。と、智貴くんが嫌じゃなかったらだけども!」

 

 しばらく続いたロッテ語りを一区切りつけた所で、さりげなく次なるお誘いを口にしてみせた琴美はしきりに智貴の反応をうかがう。

 

「まぁ、はい」

(今ハイって言ったよね!? それOKって事だよね!?)

 

 よし。よし。よし。琴美が心の中で快哉を叫ぶ。どちらかと言えばただの生返事に聞こえなくもないのだが、琴美としては智貴から次の〈デート〉への色良い返事を貰えたと早くも有頂天だ。そう、琴美としては今しがたのやりとりはデートのお誘いのつもりなのである。勿論先刻までの野球観戦やこの夜のドライブだって琴美としてはデート以外の何物でもなかったのだ。対する智貴の方がどう認識しているかは全く別であるとしても。

 ともあれぎこちないながらも一見すればどこにでもいる年若きカップルに見えない事もないこの二人であったが、実の所そうではなかった。琴美と智貴は同じ大学に通うゼミの先輩後輩の間柄ではあったのだが、さりとて別に付き合っているとか、そういった訳では全くなかったのだ。此度のデートにしても実際は智貴に一方的な好意を寄せる琴美が勇気を振り絞って申し込んだものであり、そもそも琴美はまだ己の気持ちを彼に告白する事も出来ていないのであった。恋に関して奥手な琴美ではあったが、琴美の通う大学には他にも一人、智貴に想いを寄せる彼と同学年の女生徒が居た為、焦る琴美がライバルに一歩リードせんとして奮起した結果が今回のデートに繋がった訳である。

 そんな琴美の想いを知ってか知らずか、智貴の方はといえば先程から口数も少なく琴美からの問い掛けにもどことなく無愛想だ。尤もこれは彼自身が元々このような性分の人であり、世渡りする上での最低限の社交性こそ備えているものの実際彼は決して愛想の良い類の人間とは言い難い人物であったから致し方ない事でもあった。とはいえ琴美としては彼のそうした寡黙でどこか冷めたような性格もまた大変魅力的に映っていたのであるが。

 

「あっそうだ、りゅ、流星楽しみだねー! 今日ちょっと曇りみたいだけど、ちゃんと見えるかなー?」

「見えるといいですね」

 

 二人一緒のこの時間を一秒たりとも無駄にはしたくないと、智貴との味気ない会話に飽きもせず琴美はしつこく彼に話題を振る。それはどうにも一方通行な会話であり、琴美からの問い掛けに対する智貴の反応はまともに会話する気があるのかと疑ってしまいたくなる程に薄いものであったのだが、琴美はそれを意に介さない。智貴の声をもっと聞きたい。そしてまた、自分の声を智貴に聞いて欲しい。素っ気無い答えしか返ってこずとも琴美はただそれだけで幸せなのだ。

 ともあれ琴美が先程言ったように、この日は夕暮れ以降から例年に無い大規模な流星群が観測出来るという事で、予め立てておいたデートプランに沿って琴美は智貴と流星群を見る為に山頂の展望台を目指して移動中なのであった。

 

(智貴くんと一緒に天体観測……これはもう実質恋人同士と言って良いのでは……?)

 

 そんな事を思いながらクーラーの十分に効いた筈の車内にてハンドルを握る琴美の手にはじっとりと汗が滲んでおり、自身の体の内から発する熱のせいで多少の蒸し暑さすら感じてしまう。夏とはいえ山中は比較的気温が低い為、クーラーを付けずとも窓を開けていれば涼しい風が勢い良く入り込んで己の火照りを冷ましてくれそうなものであるが、琴美は傍らの青年の芳しい香りを堪能したいが為にあえて窓を閉め切っていた。

 

(こんな幸せなドライブがいまだかつてあっただろうか……)

 

 すぅっと車内の空気を深く吸い込めば、肺に満たされた幸福感で胸が一杯になる。運転中だというのに何かをキメてしまったように酩酊しそうになる琴美ではあったが、「まだ早いぞ、ここからが本番なのだ」と自身に言い聞かせ、何としても無事山頂に辿りついてみせるべく己に改めて活を入れる。慎重さを増した琴美の巧みなハンドル捌きで、車はその後も順調に山道をスイスイと進んで行く。

 

「……あれ、何の花なんですかね」

「えっ?」

 

 と、ふいに智貴が珍しく自分の方から口を開いた。突然の智貴からの問い掛けに思わずドキリとしてしまった琴美であったが、智貴の視線の先にあるものを見やれば、そこには山道に沿うようにして咲いている黄色い花々の群生が続いているのが見えた。

 

「あ、うん……たぶん〈弟切草(おとぎりそう)〉かなぁ」

「オトギリソウ、ですか?」

「そう、()()()って書いて、弟切草」

 

 特に草花に詳しい訳でもなかった琴美であるが、以前どこかで読んだ事のある本に毒草の一種として紹介されていた弟切草の特徴を彼女は覚えていたのだ。

 

「気味悪い名前ですね」

「まあねぇ、確か弟がお兄さんに殺された時の返り血が葉に付いたとか、そんなのが由来らしいけど」

「……へぇ」

 

 智貴が呟いた率直なその感想の通り、この弟切草にはとある兄弟にまつわる陰惨な伝承が残されている事で知られていた。

 

「あっ、ごめんね。なんか気持ち悪い話しちゃって」

 

 琴美も雑学の類としてその伝承の内容は頭の片隅に記憶してあったので思わずそれを口にしてしまったのであるが、それがせっかくの楽しいデート気分に水を差すかのような不吉な内容である事に思い至り、慌てて口を噤む。

 

「いえ、別にいいです」

「そ、そう……?」

 

 謝る琴美にどうという事は無いと言ってみせる智貴。だが今しがた琴美が口にした弟切草の名称の由来が智貴の心の奥底に何かしら触れてしまったのであろうか、普段は感情の振れ幅に乏しい彼の物静かな声色には、ともすれば聞き流してしまいかねない僅かばかりの物憂げな響きが含まれていた事に琴美は気付いた。それはあまりにも些細なものではあったのだが、常日頃から智貴の事を強く意識し続けてきた琴美であったからこそ感じ取れた変化だったのかもしれない。

 

「あ……えっと、智貴くんってさ、確か一人っ子でしょ?」

「そうですけど」

 

 そんな智貴の様子に感じるものがあったのか、ふいに琴美がそのように問い掛ける。智貴に関する事ならなんでも知りたがる性分の琴美としては聞くまでもなく彼の家族構成なぞとっくの昔に把握済みであったのだが、あえて今一度それを尋ねてみせる。

 

「私もなんだ」

「はぁ」

 

 琴美の言わんとしている事が見えてこない智貴は、やや首をかしげながらも気の無い返事をする。

 

「だけどね……もし私に弟がいたらきっと凄く可愛がったんだろうなぁって、そう思うの」

 

 先程話題に出た弟切草の伝承を意識しての事であろうか、いる筈もない自身の弟への扱いについて何やら急に語り始めた琴美であったが、智貴はひとまず黙ってそれに耳を傾ける。

 

「毎日沢山お喋りしたり、たまにどっかに一緒に出掛けたりとかさ……あ、あと誕生日にはプレゼントとかもして目一杯お祝いしてあげたり……」

 

 もしも自分に弟がいたら。そのように仮定して琴美は思いつく限り弟にしてあげたい事を挙げていく。そうした琴美の唐突な独白ではあったが、しみじみと語る彼女の様子からは少なくともそれらが本心から出た思いであろう事が見てとれた。だからなのか、何も言わず琴美の話を聞いていた智貴の顔色が幾分か和らいだものになる。

 

「先輩、弟が欲しかったんですか?」

「え? あ、うん、ま、まあねっ」

 

 普段よりも少し柔らかくなった智貴のその声が琴美の鼓膜をそっと撫ぜたものだから、彼女はゾクッとした甘い痺れを感じて思わず身を震わせる。だが今は運転中。すぐさま気を持ち直した琴美は、見通しの悪いくねくねカーブの夜道に注意しながら智貴の問い掛けに答える。

 

「私、子供の時にお父さんが死んじゃってからずっとお母さんと二人暮らしだったんけどさ」

「えっ」

 

 琴美がそのような事を突然明かしたものだから、智貴は傍らの運転手をまじまじと見やってしまう。大学で琴美と直接的な交流を持つようになってからまだまだ日の浅い智貴ではあったから、いつもゼミで顔を付き合わせているこの先輩に実は父親がいないのだという事を彼は今日初めて知ったようだ。

 

「もし弟とかがいたらきっと寂しくなかったんだろうなぁって、いつも思ってたんだ」

「……そういうもんですかね」

 

 己の発した何気ない問いが切っ掛けとなって智貴は小宮山家の内情を知らされる結果となった訳であるが、こんな時にどういう反応をすれば良いのか判らない彼は、しばし逡巡したのち琴美の家庭事情には言及せず無難な言葉で返す。

 

「あ、智貴くんはさ……その、お姉さんとか欲しいなって、思った事ある?」

 

 そんな智貴の様子にもしや気を遣わせてしまったのではと心配した琴美は慌てて話を逸らしに掛かる。会話の流れで意図せず自身の生い立ちを打ち明けてしまった琴美ではあったが、他人に気遣われてしまわないようにと普段の彼女は極力その手の事を口に出さないよう常日頃から心掛けていたのだ。

 

「いえ、一人の方が気楽なんで」

「そ、そっかー」

 

 が、そうした琴美の配慮が含まれたネタ振りは智貴のにべもない返答で早々に終了したものだから、暗い車内には再び沈黙が訪れる。どうもこの二人、本質的には会話を弾ませられるようなセンスをお互いとんと持ち合わせていないようであった。

 

「あれ……?」

 

 と、何かに気付いた様子の琴美が、自分達が今走っている辺りをキョロキョロと見回し始めた。

 

「どうしました?」

「あ、いや、ちょっとね」

 

 そんな琴美の様子を訝しんだ智貴が声を掛けるが、せわしなく周囲に目を向ける彼女のその顔には何やら焦りの色が現れ始めていた。

 

「ヤバ、道間違えちゃったかも……」

 

 山頂の展望台目指して上へ上へと走っていた筈の琴美達であったが、いつしか気付けば車は山道を随分と下っているようだった。これはどうも完全に道を間違えてしまったに違いない。智貴との会話に余程気を取られていたのか、この日の為にとデートスポットへ向かう道中の下調べにも余念の無かった琴美としては額を押さえたくなる痛恨のミスであった。

 

「ほ、ほんとゴメンねー。ちょっと一旦戻ってみるから」

 

 どこかで道を間違えてしまったのなら、ひとまずは来た道を引き返してみるしかない。丁度進行方向の道路脇にUターン出来そうなスペースがある事を見て取った琴美は、速度を弛める為にブレーキペダルを踏み込む。

 

「ん? え? な、なんで?」

 

 踏み込んだ筈のペダルに手応えが感じられなかったものだから、改めて足元のペダルを何度かスコスコと踏みつけてみた琴美であったが、どうにもサッパリ反応が無い為に思わず目を白黒させてしまう。

 

「智貴くんっ、な、なんかブレーキ効かないんだけどっ!」

「マジすか!?」

 

 この緊急事態にパニックに陥った琴美は、すっかり用を成さなくなっているにもかかわらずブレーキをしつこく踏み続ける。

 

「どどど、どうしよう! 智貴くん、とと、止まんないよ!」

 

 突如発生したまさかのブレーキ故障であったが、丁度車が下り道を走っていた事が更に災いした。速度を弛める術を失った琴美達の乗るその車は、タガが外れたかのようにひたすら加速していく。

 

「わあぁぁ、サイドブレーキもだぁっ」

 

 いい加減ブレーキペダルを踏んでも無駄だと悟った琴美は、咄嗟に別の停止手段に思い当たり慌ててレバーを引いてみせるが、これまたさっぱり手応えが無い。

 

「先輩! 前! 前!」

 

 と、そんな琴美達に更に追い討ちを掛けるように、今度は狭い山道の対向車線から一台の車がけたたましくクラクションを鳴らして急接近してくるのが見えた。正に絶体絶命、あわや正面衝突かと思われたその時、琴美はこんがらがっていた自身の頭の中が急速にクールダウンしていくのを感じた。この車には他ならぬ智貴を乗せているのだから、何があろうとも決して彼を危険な目に遭わせる訳にはいかない。どうにかしてこの窮地を脱さねばならないと、彼女は今この瞬間に全神経を集中させる。

 そこから先の事は琴美にとってはまるでスローモーションのようであった。目の前に迫った対向車の脇に、車一台がギリギリ通れるだけのスペースが空いている事を見て取った彼女はすぐさまハンドルを切って車体をそこへ潜り込ませる。途端、激しい火花を散らして車体の側面が対向車と接触したがそれも一瞬の内に過ぎ去っていった。

 ひとまずは狭い山道において奇跡的に対向車と衝突せずに済んだ琴美達の車であったが、だからといって難を逃れた訳ではない。素早くクラッチを切ってホイールがロックしない程度にギアを下げてみせる琴美であったが、それでも多少減速する程度で依然として彼女らの乗る車は危険なスピードで山道を下っており、このままではいずれカーブを曲がりきれずどこかに激突するか、或いはガードレールを突き破って崖から落ちてしまうのではと思われた。

 

(イチかバチかだけど、やるしかない……!)

 

 無理やり掛けられたエンジンブレーキにより車内が著しく振動する中、素早く辺りの状況を確認した琴美は丁度道路脇に広がる森の中になんとか車が乗り上げていけなくもない、なだらかな斜面になっている場所を発見する。

 

「智貴くん、森に突っ込むからちゃんと掴まってて!」

「は、はい!」

 

 そうして車は猛スピードで森の中へと突入していく。全くもって舗装されていない場所に車がそのような速度で入っていけばどうなるのかといえば、それはロデオマシーンなどの比ではない。当然の如く殺人的な揺れが車中の二人を襲ったものであるから、智貴はシートベルトを握り締め、琴美は上半身全体でハンドルにしがみついて耐えようとするが、大きく跳ね上げるようなその衝撃に耐えかねた琴美の眼鏡はスポンとどこかへ飛んでいってしまった。そしてまた、暴れ馬のように跳ねつつ森の中を突進していく車の前では数多の太い木々達が行く手を阻んでいたものだから、途中何度もハンドルに額を打ちつけられつつも琴美は眼鏡を失ったその目で前だけを見据え、そそり立つ樹木達が目前に迫る度に必死にそれらを避け続けていく。

 そうして何度も繰り返された森の中での窮地であったが、散々暴れ回っていく内に車は徐々にその力を失い始める。やがてゆるゆると前進するだけになった車は、ついには目の前の巨大な樹木に鼻先をぶつけると、完全にその動きを停止させた。

 *

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 ようやく静けさの戻った車中にて、琴美はうなだれた様子でハンドルにもたれかかったまま荒い息をつく。

 

「……先輩、大丈夫ですか?」

 

 そんな琴美に、同じくうなだれていた様子の智貴が一息ついてから声を掛けてみせる。

 

「ふぇ? あ、うん、な、なんとかね……はぁ」

 

 自分でも信じられない程のドライビングテクニックを発揮して辛くもピンチを脱した琴美であったが、一歩間違えれば大事故になっていたかもしれない訳であったから、その事に今更ながらに慄く気持ちも手伝って体の震えが止まらないでいた。だが傍らの智貴の無事な姿を見て、彼女はようやく安堵のため息を漏らす。

 

「これ、先輩のですよ」

 

 と、智貴が琴美に何かを差し出してみせる。見ればそれは先程琴美の顔から飛んでいってしまった眼鏡に違いなかった。

 

「えっ? ああホントだ、いつの間に……」

 

 思わず自分の目の辺りをさすって確かめてしまった琴美は、日頃お世話になっているそれが己の体から離れてしまっていた事にようやく気付いた。どうやら彼女の相棒は車中を飛び跳ね続けた末に、最後は智貴の膝元で寝そべっていたようだ。

 

「あ、じゃあ、ありがとう……」

 

 先程から小刻みに震えたままのその手で眼鏡を受け取った琴美は、おずおずとそれを装着する。ようやく視界がいつも通りクリアになった琴美はなんとはなしに智貴の顔を見やった。琴美の目に映る智貴の顔には、日頃から些か表情の乏しいきらいのある彼にしては珍しく、琴美の様子を心配しているかのような感情の色がありありと現れていたものだから、これは貴重なものを見れたかもしれないと、こんな状況であるにもかかわらず琴美は内心で得をした気分になってしまう。

 

「ふふふ、あはは……」

「?」

 

 琴美は自分でも判らない内に何故だかおかしさがこみ上げてきて笑ってしまったものだから、そんな彼女に疑問符を浮かべてしまう智貴であった。

 ともあれようやく体の震えも収まってきた琴美は、ひとまず車の具合を見てみようとシートベルトを外して車外に出てみたのだが、彼女につられて智貴もまた車を降りる。

 

「うわっ、やだなぁこんな時に……」

 

 外に出た琴美は、生温い水滴が空から幾つも落ちてくるのを肌で感じて上空を見上げる。どうやらそこに居座ったままでいた曇り空がとうとう降雨をもたらし始めているようだった。

 車のブレーキが故障している以上、この車を使って再び山道を走る等という無謀は最早出来かねること。まだまだ一般に普及し始めたばかりの手のひらサイズの携帯電話など、学生の身である二人は持ち合わせていなかった為、そうした手段を用いて助けを呼ぶ訳にもいかなかった。最も、例え携帯電話を持っていたとしてもこのような山中で電波が入るかどうかは甚だ疑問ではあったが。

 であるならば、自分達の足で山を下りて助けを呼びにいかねばならない訳であるからして、そう考えるとこの降り始めの雨はなんとも困ったものなのであった。

 

「車、ボロボロになっちゃいましたね」

 

 先程から車の状態を見ていた智貴が、そのような感想を口にする。確かに彼の言う通り、まず何よりも件の対向車と激しくすれ違った際に出来た車体横の傷は痛ましい事この上なく、他にも森の中を突っ切ってきた際に出来たであろう大小の傷跡が車体の至る所に残されていた。いわんやあれだけの悪路を突破してきたのだ、足回りにだって相当ガタが来たに違いない。無茶なシフトダウンを耐えたエンジンは健在で今もアイドリング音を立ててはいるものの、それ以外は満身創痍という有様であった。

 

「うん、ま、まあその辺は保険でなんとかなるかもだし……大丈夫だよ」

 

 そう口にする琴美ではあったが、その顔はつい先程けらけらと笑っていたのが嘘のようにどこか気落ちしている様子を見せている。

 この車、普段は琴美の母が仕事で使っているものであったのだが、今日のデートの為にと琴美が借りてきたものなのであった。母の仕事に差し支えのないよう早々に代車を手配して貰う事にはなるだろうが、それは別として自分が事故に遭い掛けたともなれば、きっと母を心配させてしまうに違いない。自宅を出る前、娘の初デートであるとはしゃいだ様子で自分を見送ってくれた母の顔を思い出し、なんとも申し訳なさで一杯になってしまう琴美であった。

 

「先輩……あれって家じゃないですか?」

 

 と、何やら遠くの方を見やっていた智貴が、森の更に奥の方向を指差してみせる。

 

「ほんとだ、誰か住んでるみたいだね」

 

 確かに智貴が示した森の中の暗闇の先には、ポツンと民家の電灯と思わしき明かりが浮かんでいるのが見てとれた。

 

「行ってみます?」

「あ、うん……じゃあ、そうしよっか?」

 

 このまま山を自力で下りていった場合、果たして何時間掛かるか判ったものではない。ましてや天気は雨なのである。雨足はまだまだ弱いとはいえ、遠くの空からはゴロゴロと雷鳴らしき音が聞こえくる所からして、おそらくは間もなく本降りが訪れるであろう事がうかがえた。それに加えて先程からピュウピュウと吹いて森をざわめかせている風もまだまだ勢いは弱いものの、これから大きく力を増していきそうな気配を感じさせる。これはもしかすると嵐か何かが近づいてきているのかもしれない。

 頼る事の出来るアテがあるのであればここは無理をせず、大人しく住人に助けを求めて電話を貸して貰うのが最善と言えるだろう。そうと決まれば話は早いと、琴美は車中に置いたままになっている貴重品を持参しようと車のドアに手を掛けるが──

 雷光一閃。琴美達のいる辺り一面をまばゆいばかりの光が襲った。そして間を置かず今度は耳をつんざく程の激しい轟音が琴美達の頭上で鳴り響く。

 

「わああっ!?」

「うおっ!?」

 

 突然の出来事に琴美も智貴も堪らず目を閉じ耳を塞いでしゃがみ込んでしまう。間もなく光が収まり再び周囲が暗くなった事で瞼を開けられるようになった二人であったが、その目に飛び込んできた光景にまたもや度肝を抜かれてしまう。

 自分達の車が鼻先をくっつけていたあの巨木の太々とした幹に、てっぺんから根元に至るまで一筋の赤熱する亀裂が走っていたのだ。巨木から弾け飛んだと思われる無数の枝々が上から降り注ぐ中、琴美達がその光景に口をあんぐりさせていると間髪入れず今度はその巨大な幹がメキメキと音を立てて二つに裂けていく。

 

「先輩、危ねぇぞっ!」

「とととっ、ともきくぅぅぅん」

 

 あまりの出来事にすっかり腰を抜かしてしまった琴美であったが、状況を察して素早く立ち上がった智貴は琴美の腕を強引に引っ張り上げると、自分達目掛けて倒れてくる幹から逃れる為に琴美を連れて全力で駆け出す。

 やがて縦に裂かれた巨木の幹は豪快な地響きを放って地面に倒れ込んだものだから、森に潜んでいた鳥達が一斉にギャアギャアと喚き立てながらいずこかへと飛び去っていく。更に運の悪い事に、裂けた幹の一方は琴美の車に向かって倒れ込んでしまったものだから、かの車は盛大にその車体を叩き潰されてしまう。

 そして辺りには木の焼け焦げる臭いと、もうもうとした煙が立ち込めるのみとなった。どうやら先程の眩い光と轟音は雷であったようで、丁度この巨木にそれが直撃した結果、このような惨事を招いたであろう事がありありとうかがえた。

 

「こんな、こんな事って……」

 

 智貴の機転で危うく難を逃れた琴美ではあったが、一瞬の内に目の前で起こったこれらのショッキングな出来事を前にして再びその体が震え始めてしまう。一難去ってまた一難とは正にこの事を言うべきか。またしても自分達を襲った災難に琴美はほとほと肝を潰されてしまったようだ。

 

「先輩、マジでここにいたらヤバいですよ。早く行きましょう」

 

 力なくへたり込もうとする琴美の肩を掴んで立たせた智貴は、早々に件の民家へ避難させて貰うべきだと主張する。

 

「う、うん、そうだね……」

 

 愛しの智貴にこうして肩を抱かれていると言えなくもないこの状況、本来であれば琴美にとって大変に美味しい感涙モノの場面ではあったのだが、このような危機的状況に連続して見舞われてしまったとあっては、琴美の内なるパトスも流石に鳴りを潜めざるを得ないようであった。

 

「あ、じゃあ荷物だけでも……」

 

 そう言って半ばスクラップと化してしまった車に近寄ろうとする琴美。幹にひしゃがれてしまった琴美の車ではあったが、車中にはロッテ応援グッズ等も含めた琴美の私物が未だ残されており、今夜智貴と天体観測をしながら一緒に食べる筈であった食料品も置かれたままになっていたのだ。

 

 ──ボフゥッ

 

 と、そんな車から小気味良い音が鳴ったかと思うと、ひしゃげたボンネットの辺りからメラメラと勢い良く炎が立ち上がり、やがてそれは急速に車体全体を包み込んでいった。

 

「燃えちゃいましたね」

「うん……行こっか」

 

 見たまんまの感想をポツリと述べる智貴に力なく返事をした琴美は、くるりと踵を返すと民家のある方へ向けてとぼとぼと歩き始める。

 

 ◆

 

 本降りになる前の小雨がポツポツと木々の葉を弾く中、琴美と智貴は森の中の雑草を掻き分け突き進んでいた。先程よりも勢いを増してきた風にざわめく森の中で、ホーウホーウとフクロウの鳴く声が一際目立って響き渡る。その間にも森の上空ではゴロゴロと不吉な気配が轟いており、いやがおうにも彼女らの心を焦らせる。

 智貴が身に着けていたウエストポーチから取り出した懐中電灯で足元を照らしつつ、遠目に見える民家の明かりを頼りに道無き道を歩いていた二人であったが、やがて森が終わって妙に開けた場所に到達したものだから、やっと民家の敷地に連なる場所に出てこれたのだと安堵する。

 

「先輩、もうすぐですよ」

「あ、ほんとだ……」

 

 一息ついた琴美が辺りを見渡せば、僅かに開いていた雲間から届く月明かりにうっすらと照らされて、遠目には何やら古風な洋式スタイルを思わせる立派な柵が広場の端から端まで張り巡らされている様子が見て取れた。どうもただの民家かと思っていたが、これはひょっとすると何か屋敷のようなものであるのかもしれないと琴美は考える。

 が、そこで琴美は一つの異変に気付く。

 

「ね、ねぇ智貴くん、光消えちゃったよ」

「え?」

 

 先程まで自分達を誘導してくれていた民家の明かりであったが、その目印がたった今、己の視界の先でふっと消えたのを琴美は確かに見た。

 

「なんだろう……もう寝ちゃったのかな?」

「まさか、まだ日が暮れかてらそんなに経ってない筈ですけど……」

 

 もしかしたら随分と夜はお早いご一家なのかもしれない。であるとしても、ここまで来たら無理を言ってでも自分達は民家の住人に匿って貰わなければならない。更に歩みを進めた二人は、やがて先程琴美が目にした柵の前までやってきた。

 

「凄いねこれ、本格的って言うか……」

「こっからじゃ入れないですね、どっかに門とかあるんじゃないですか?」

 

 どうも琴美が思っていた以上に柵は立派な作りであったようで、長い鉄格子で組み上げられた如何にも頑丈そうなそれは、優に三メートル以上はあろうかという威容を放ち、不心得者の気まぐれな侵入を拒んでいた。思わずそれに手を触れて感触を確かめてしまった琴美であったが、鉄格子は中々に年季の入ったものであったようで、著しく錆びを浮かせたざらついた手触りが伝わってくる。

 この柵から向こうが自分達の目指す民家の敷地になるのだろうか? 入り口を求めて柵に沿う形で歩きつつ、その柵の間から敷地内の様子に目を凝らしてみた琴美は、真っ暗な敷地の中でボンヤリとその輪郭を浮かび上がらせている家屋の姿を見て取る。

 

(うわ、結構大きいな……)

 

 琴美の目に映ったそれは、民家と言うより最早屋敷と言って差し支えない立派な規模のものであった。この柵といい屋敷といい、もしかしたらどこぞの資産家の別荘なのではと思った琴美は、そんな畏れ多い相手の所へ赴いて助けを請うというのはどうにも気が引ける思いがしてしまった。

 だが今は智貴がいるのだ。自分だけならまだしも、こんな天気の中で夜の山中を彼に歩かせる訳にはいかない。琴美としては例え相手が嫌だと言っても、ここは噛り付いてでも自分達の面倒を一時見て貰わねば済まされないのであった。

 

「入り口、あそこじゃないですか」

 

 前方を歩いていた智貴が、ふいに背後の琴美を振り返って自分達の進行方向にあるものを口で示す。琴美達の歩く先には確かに一際背の高い門柱らしきものの姿が闇夜に浮かび上がっている様が見て取れた。あれこそがこの屋敷への入り口に違いないと、二人は早足で門の前に駆け寄っていく。

 

「あ、でも閉まっちゃってるね……」

 

 門の前までやってきた琴美達ではあったが、見ればその門に据えつけられていた巨大な鉄格子の扉はピッタリと閉じられてしまっていた。

 

「鍵掛かってないですよ、ほら」

 

 おもむろに智貴がその門戸を手で押してみせると、内開き構造のそれは軋んだ音を辺りに響かせていとも容易く開いていった。開かれた門の先に広がる暗闇に琴美が目を凝らしてみれば、確かにその門からは道らしきものが奥に向かって伸びており、突き当たりには件の屋敷らしき建物がそびえ立っている様子がうかがえた。

 ようやく目的地に辿りついた二人が、お邪魔しますとばかりに敷地内へと遠慮がちに足を踏み入れたその時。二人の視界一杯に突如として青い閃光が広がり、夜空も含めた辺り一帯を瞬時に照らし出す。その瞬間、雷光に照らされた夜空に浮かび上がる屋敷のシルエットが琴美と智貴の目に焼き付けられて、間髪入れずにまたもやあの耳をつんざく雷鳴が大音量で鳴り響いて地を震わせたのだった。

 空を満たしていた眩いばかりの光量がやがて引いてゆき、しばし目が眩んでいた琴美達は再び視界が効くようになったのだが、そんな自分達の目の前に広がっていた光景に、思わず二人は息を呑んでしまう。

 

「ひっ……!」

「花畑……?」

 

 先程までは視界の利きづらい暗闇であったがために気付かなかったが、いまや琴美達の目の前には敷地一杯に広がる黄色い花々の群生地帯が広がっていた。

 先程までは見えていなかった筈のそれらが急に姿を露わにした事に驚いた琴美は、どこかにこの花畑を照らす照明でもあるのだろうかと辺りを見回すが、周囲に光源らしきものは見当たらない。

 

「なにこれ……花が光ってる……?」

 

 改めて花畑を観察する琴美であったが、よくよく見てみればどうも花の一つ一つが自ら仄かな光を放っている事に気付く。目の前の奇妙な光景はそうした花々自身の光が作り出しているのだという事を理解した彼女は膝を震わせた。

 

「まさか、こいつら……」

 

 そんな琴美を尻目に、どうも智貴の方はその花畑に群生しているものが全て、先刻琴美から聞かされていたあの不吉な言われのある花であった事に目を奪われているらしい。

 

「と、智貴くん、ほら、お屋敷が!」

 

 その場に立ち尽くして弟切草の花畑を眺めていた智貴であったが、己の肩を掴んで揺さぶる琴美に促されて屋敷の方を振り向く。見れば先程まで電灯の一つも灯していなかった筈の屋敷が、花々の群生地帯の中で今や自らの威容をありありと周囲に誇示するかのようにハッキリと浮かび上がっていたのだった。どうやらクラシックな洋風建築である事が見て取れるその屋敷はなんとも古びた外観をしており、どこか言葉に出来ない禍々しさをも放っているように見えた。

 

「先輩……あれ、なんかおかしくないですか?」

「う、うん、なんかお屋敷そのものが光ってるっていうか……」

 

 智貴が感じたその違和感は同様に琴美も感じていた。いまや暗闇の中にあっても明確に屋敷の様子が見て取れるようになっていたのだが、その光景は何かしらの照明によって作られた類のものとはとても思えない。まるで蛍光プラスチックで出来たチープな玩具のように、屋敷自身がのっぺりとした仄明るい光を纏っているかのようであった。

 生まれて初めて目にする奇妙なその視覚体験に二人は改めて息を呑む。花畑といい、屋敷といい、この場所はどう考えてもまともではない。森の中を彷徨う内、ひょっとしたら自分達はどこかこの世ではない別の場所へと迷い込んでしまったのではないか。そのような自らの憶測に戦慄を覚える琴美であったが、彼女の頭の中でふいにこれから取るべき行動の選択肢が意識せずしてひとりでに浮かんできてしまった。

 そして琴美が次に選んだ行動は──、

 A 勇気を出して先へ進むことにした。

 B 怖気づいて引き返そうとした。

 C どさくさにまぎれて全裸になろうとした。

 D「私は智貴くんのお兄ちゃんだ!」そう叫んで(トライブ)することにした。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(2)

オカエリ。

「あのー、ごめんくださぁーい!」

 

 大きめの声でそう声に出しながら、先程から琴美は目の前にある重厚な造りの扉を強めにノックし続けていた。今、琴美と智貴は件の古びた洋館の玄関前に立っている。ただならぬ雰囲気を放つその不気味な屋敷を前にその場を立ち去るべきか否か迷っていた琴美ではあったが、自分達の上空でいよいよもって激しさを増してゆく雷鳴と、とうとう訪れてしまった本降りの雨には勝てず、琴美は呆然と屋敷を見やっていた智貴を促してそこへ立ち寄る事にしたのだ。

 警戒しつつも屋敷に近づいていった二人は、よくよく観察してみれば屋敷の窓から確かに人工的な明かりが漏れている事を見てとり、やはり誰かしら人が住んでいるのではないかと考えて家人を呼び出してみるが──

 

(誰も住んでないのかな……?)

 

 いくら呼べども家人が玄関から顔を覗かせる気配は一向に無く、それもあって琴美は再びこの屋敷に対する気味の悪さを募らせ始めていた。

 と、そんな琴美の様子を見ていた智貴であったが、おもむろに彼女の傍らに立つと玄関扉の取っ手を掴んで奥に押し込んでみせる。

 

「……開いてますよ、これ」

「え? あ、ホントだ!」

 

 智貴の言う通りそうしてあっさりと玄関扉が開いたものだから、てっきりそれが施錠されているものと思い込んでいた琴美は拍子抜けした。先程の門と良いこの玄関と良い、普通に考えれば何とも無用心なものではあるのだが、ことこの瞬間においては逆にその事がまるで自分達の来訪を察知した屋敷があえてそうしているように思えてきて、琴美は背筋にゾクリとしたものを感じる。

 

「とりあえず入りましょうよ」

「う、うん、そうだね……」

 

 躊躇する様子もなく中に入っていこうとする智貴に促され、彼についていく形で琴美も恐る恐る屋敷へと足を踏み入れるのだった。

 *

「わぁ……凄いねここ」

 

 屋敷内の空間を目の当たりにした琴美は感嘆の声を上げてしまう。建物の重厚な外観にたがわず内部の造りもそれに相応しいものであったようで、まるでどこぞのヨーロッパ貴族の邸宅かと思わせるような古風かつ荘厳な光景がその場には広がっていたのだ。

 天井の巨大なシャンデリアによって照らし出される吹き抜け構造の広々とした玄関ホールには、奥に向かって伸びる二つの大きな階段が両脇に据えられており、それらは二階側の廊下を通して繋がる構造になっていた。壁沿いに設置されている大きな振り子時計のコチコチとした音が規則的に聞こえてくるそのホールを見回せば、レンガ造りの本格的な暖炉やその横に立つ厳めしい西洋甲冑などの姿も見てとれ、広い室内の床にまんべんなく敷き詰められた真っ赤な絨毯にも存分に金が掛けられている事を伺わせる。

 琴美が普通に生活している分にはまずお目に掛かれないような高級住宅特有の様相を呈しているその場所を前にして、彼女は圧倒されてしまう事しきりであった。ここに向かう途中で琴美が屋敷の姿を遠目に認めた際、もしかすると資産家の別荘か何かなのではないかと彼女は思っていたものだが、その推測は確かに当たっていたのかもしれない。

 

「すんません、誰かいませんかぁっ!」

 

 今一度家人を呼び出さんとして智貴が男性特有の大きな声量で叫ぶと、それがホール一帯に残響する。すると彼の傍らに立つ琴美が、たちまち目をうっとりさせてしまう。

 

(ああ、叫んでる智貴君の声もイイっ……!)

 

 智貴のもたらしたその逞しい響きに、琴美はまるでどこぞの人気声優の熱演を耳にしたファンのような反応を見せる。日頃からあまり大きな声を出さない智貴ではあったから、そんな彼の存外に張りのある声を間近で聞く事の出来た琴美は思わずそれを噛み締めてしまったのだ。その声で自分をドナってくれたりなんかしたらもっと良いのになぁ、などと妙な事まで考え出してしまう琴美の頭は、今この瞬間だけは確かに平和そのものであった。

 

「やっぱ誰もいないみたいですね」

「えっ? あ、うん、そ、そうだねー」

 

 しばらく辺りの様子を伺っていた智貴ではあったが、屋敷の中からこうして直接的に呼び掛けているにもかかわらず依然として誰も出てくる気配が無いのを見て取り、傍らの琴美にそう声を掛ける。と、呼び掛けられた琴美は我に返った様子で慌てて適当な相槌を打ってみせるのだった。

 

 ──ゴトリ

 

 振り子時計の機械音を除けばシンと静まり返っていた屋敷の中であったから、その音は二人の耳にもよく届いた。屋敷の二階の方から何かしらの物音が確かに響いたのだ。

 

「智貴くん、今なんか聞こえたよね……?」

「ええ、たぶん二階の方です」

 

 無人かと思われた屋敷ではあったが、ふいに鳴り響いたその物音に、再び二人は何者かがここに住んでいるのでないかという推測を強める。そもそもこうして室内の照明が確かに灯っているのだから、家人が生活の為にライフラインをこの屋敷に引いていて、今実際にそれが利用されている事は確かなのであった。

 

(もしかして、強盗か何かだと思われてる……?)

 

 よくよく考えてみれば自分達は今、不法侵入一歩手前の事をやってしまっているのである。この屋敷の不気味さを前にして気付かぬ内に自分達こそが屋敷に迷い込んだ被害者のような気がしていた琴美であったが、仮にこの屋敷に人が住んでいるのだとしたら、家人からすると自分達は無断で家に上がり込んできた不届き者以外の何者でもないのだ。それ故に臆病なこの屋敷の主人は部屋のどこかで身を潜めてしまっているのではないだろうか。

 琴美としては実際にそうであってくれればありがたいと思ってしまう。屋敷の主に会った後でどうとでも謝り倒して誤解を解き、その上で自分達の窮状を伝えて助力を乞えば良いのだから。

 

「あ……じゃあ、ちょっと行ってみよっか?」

 

 そうして二階の方を指差し遠慮がちに言う琴美の提案に、智貴は同意するように無言で頷く。

 土足で──それこそ雨に濡れた靴のままで人様の家の絨毯を超えていくのはなんともはばかられる二人であったから、できるだけ汚さないようにと、歩みを進める前に足元の泥落としを踏みしだいていくのだった。

 

 ギシギシと軋む階段の板を踏みしめつつ、二階へとあがりきった琴美達が廊下を見回す。二階の廊下は左右にそれぞれ一直線に伸びており、壁面には多数の扉が並んでいるのが見て取れた。屋敷の規模に見合ったそれなりの部屋数を備えているようだ。

 

「あっほら、あそこのドア、ちょっと開いてない?」

 

 琴美は右手の廊下の突き当たりにある、廊下の進行方向と向かい合う形で据えられたその扉が若干開いたままになっている事に気付いた。どこに居るともしれない家人ではあるが、ひとまず手始めにその部屋をあたってみるべく二人は長い廊下を歩いて扉の前まで足を運ぶ。

 

「俺が開けます」

 

 扉のドアノブに触れようとした琴美を引き止めた智貴は、彼女を下がらせて自らがその扉を開けてみせる。手前に引かれてキィと小さく軋んだその扉が全開にされると、部屋の中は真っ暗であった。廊下に灯された非常に頼りないボンヤリとした照明のその光が部屋の中に差し込むが、暗がりに目の慣れぬ二人には内部の様子はなんとも伺い知れない。

 

「あのぅ、すみません……わ、私達、ちょっと遭難しちゃった者なんですけど……」

 

 もしも屋敷の主かその家族が中に隠れているのなら怯えさせてはいけないと、ひとまず琴美が部屋の中に向かってそのような言葉を投げ掛けるが、シンと静まり返ったその空間から返事が返ってくる気配は無い。

 と、無言の智貴が部屋の中へと慎重に足を踏み入れていったものだから、琴美も彼の背中についていく。

 

(うっ……)

 

 その部屋の内部はやけにカビ臭く、そして埃っぽい部屋であったものだから、琴美は手で口を押さえてしまう。人に使われている気配の無い様子のその部屋に、果たして先程の物音の原因となった存在は潜んでいるのだろうか。

 

 ──バタン

「いや先輩、閉めなくていいですよ」

 

 と、琴美の後ろで部屋の扉がひとりでに閉まったものだから、智貴が背後を振り返って暗闇の中で声を掛ける。

 

「えっ? ち、違うの、今勝手に閉まったみたいで……!」

 

 どっかから風が入ってきてるのかなー、とその現象の原因と思わしきものをそれとなく口にしてみせる琴美ではあったが、急に扉が閉じられてしまった事に内心ではすっかり心臓が縮み上がっていた。慌てて背後を振り返り扉を開けようとした琴美であったが、カチリと音が鳴って部屋の中にうっすらと明かりが灯された事に気付く。見ればどうやら室内の隅に置かれたスタンドライトの電源が入れられたようだった。

 

「あぁ、ありがと」

「……俺じゃないです」

「え?」

 

 気を利かせてくれた智貴に礼を言う琴美であったが、智貴が言うにはこの照明がひとりでについたという事らしい。それを聞いた琴美の心臓がまたもや跳ね上がる。一時は屋敷に家人の気配があるという事で少し安心し始めていた琴美ではあったが、今し方遭遇した気味の悪い現象に、その心中で再び恐怖が募り始めてしまう。

 

「や、やっぱり誰かいるのかな……?」

 

 なんとも頼りない光量のそのスタンドライトは部屋の全てを照らしてはくれず、依然として周囲には暗闇がそこかしこに充満していた。

 と、その暗闇の中に何かを見つけたのか、智貴がふいに部屋の奥へと歩みを進めてしゃがみ込む。

 

「智貴くん、ど、どうしたの……?」

「いや、なんか本が」

 

 琴美の問い掛けに、しゃがんだままの智貴がそう答えて彼女の方を振り返る。

 

「あ、ほんとだね……」

 

 智貴の前には布が被せられた足の低いテーブルがあり、その上には一冊の本らしきものが置かれているのが暗がりの中で目を凝らす琴美にも確かに見えた。だが次の瞬間、何かを見て取った様子の琴美の表情がただならぬ様子へと一変する。

 

「とととと、智貴くん! そそ、そこから離れてッ!」

 

 途端に声を裏返らせた琴美が、震えるその手で本のある方を慌てて指差しそう叫ぶ。智貴がしゃがみ込んでいる目の前にある存在に琴美は気付いてしまったのだ。

 

「え? 何が……って、うおぉっっ!」

 

 と、ようやく気付いた智貴が声をあげて飛び退く。二人の目の前にあったもの、それは椅子に腰掛けてこちらを向いているミイラの姿であった。

 

「嘘、なにあれ……ほ、本物?」

 

 智貴と共に部屋の入り口手前まで後ずさった琴美は、手前の智貴にすがりつきつつ、部屋の奥に居る異形の姿を改めて凝視する。照明に僅かに照らされている人型のそれはドクロを思わせるおぞましい干からびた顔をしており、紛れも無く人間のミイラである事を物語っていた。

 

「……先輩、出ましょう」

 

 思いも掛けず出くわした目の前のミイラを油断無く見据えていた智貴が、それから目を逸らさず背後の琴美にそっと語りかける。彼に促された琴美は小さく返事をするとドアノブに手を掛けて扉をそっと開けつつ、智貴と共にそろりそろりと後ずさっていく。

 扉の小さな軋みと共に再び部屋の中に差し込んだ廊下の明かりによって、室内に佇む異形の姿がより明確になる。どう見ても生きているとは思えない土気色の干からびきった肌と、顔面に空く二つの大きな落ち窪んだ眼窩。これはやはりどう見ても人間がミイラ化した姿であった。頭から伸びているクシャクシャのもっさりとした長い白髪は、これがどうやら女性のものであるらしい事を伺わせていた。大人と言うには些か小柄に過ぎるそのちんまりとした体格からすると小中学生位の女の子であったとも考えられるが、あるいは背の低い老婆だったのかもしれず、その朽ちた姿からは元々の年齢はどうにも伺い知れない。食いしばるようにして歯を剥き出しにしているその表情からは、今にも生きている者に対する怨嗟の声が聞こえてきそうな、なんともうらめしそうな様子が漂っている。

 

(やだ、やだ、やだ……)

 

 兼ねてよりこの屋敷に感じ続けていた恐怖心がここに来て琴美の中で一気に膨れ上がった。こんな所に来るんじゃなかったと今更ながらに激しい後悔が湧き上がってくる。

 

(怖いよ、智貴くん……!)

 

 一刻も早くこの屋敷から逃げ出したくて堪らない琴美であったが、今確かにこの恐怖を共有しているであろう目の前の智貴がどこかへ行ってしまわないようにと先程から彼の服の裾をギュッと掴んで離さない。そのやや汗ばんだ衣服から仄かに感じられる智貴の香りだけが、心細さに消え入ってしまいそうな琴美の心を繋ぎ止めていた。

 

「くそっ、何なんだよこの家……」

 

 抜き足差し足でようやく呪われたその部屋の中から出る事が叶った二人。知らず冷や汗をかいてしまっていた事に気付いた智貴は腕で首元を拭うと、軽く悪態を吐きながらも一息付いた様子を見せる。

 

 ──キィコ、キィコ

 

 その瞬間、それまで物言わぬ置物同然であった筈のミイラが突然金属の軋む音を立てながら琴美達の方に向かって進んできたものだから、二人はその身を大きく震わせてしまう。

 

「うおおぉぉ!」

「わああぁぁ!」

 

 ミイラが自力で歩いているというのではない。まるで車輪が付いているかのようにミイラが座っている椅子ごとスーッと前進しているのだ。あたかも部屋を立ち去ろうとした琴美達を追い掛けるかのように動き出したそのミイラの様子に叫び声を上げた二人は長く伸びる廊下の中を脱兎の如く走り出した。と言っても中学・高校とサッカー部で鍛えていた筈の智貴にしてはそのスピードは随分と遅く、彼本来の全力の走りとは程遠いものがあった。自分が本気で走ればまず間違いなく傍らで必死に走っている琴美を置きざりにしてしまう。こんな時でもそうした配慮を忘れる事の無い冷静さが彼にはあったのだ。

 そんなこんなで階段まで辿り着いた二人は、勢いを保ったまま今度はそこを滑るように駆け下りていく。

 

「わわっ!」

 

 と、階段を下りる途中で琴美が慌てるあまり足を踏み外してしまったものだから、彼女は盛大に階下へと転げ落ちていってしまう。

 

「いったぁ~……」

 

 打ち所が良かったのか大事には至らなかったようだが、体のアチコチをしたたかに打ち据えてしまった琴美は、その痛みに堪らず顔をしかめて体をさすってしまう。

 

「先輩、大丈夫か!?」

 

 まだ階段を下りている途中であった智貴が足を止め、琴美の身を案じて階下の彼女に声を掛ける。

 

「あ、うん、だ、だいじょ……」

 

 そんな智貴に「大丈夫だよ」と返事を返そうとした琴美であったが、その言葉を最後まで言い終わる前に口を噤んでしまう。突如屋敷の外で激しく鳴り響いた雷鳴を合図とするかのように、彼女達が今居る玄関ホールの照明が唐突にフッと消えてしまったのだ。もしかすると落雷によって停電でも起こってしまったのだろうか。

 

(……ッ!)

 

 何も見えない。全く見えない。自分自身の目からの情報入力が一切途絶えてしまった。

 不安にかられて咄嗟に智貴の名を呼ぼうとする琴美であったが、己の心をも包み込んでしまった暗闇への恐怖がそれを邪魔する。このような特異な状況下において人間は闇に潜む何かに自分の存在を気取られぬよう、声を上げる事を本能的に恐れてしまう生き物なのだという事を、琴美は今この瞬間にその身を持って知らされる事となる。それは智貴の方も同じなのか、おそらくは息を殺しているであろう彼が琴美に向かって呼び掛ける気配は未だ無い。

 

(と、とにかく智貴くんの所へ……)

 

 前後左右も判らず、天地までもが危うくなって己の体が宙に浮いたような錯覚すら覚えてしまいそうなその暗闇の中で、痛む体を押して立ち上がった琴美は記憶を頼りに連れ合いの居た方向にあたりをつけてソロリソロリと慎重に足を踏み出す。

 と、前方の様子を探るようにして己の両手を前に突き出しながら歩いていた琴美の指先にふと何かが当たったものだから、琴美はそれを改めてペタペタと触りその感触を確かめる。

 

(え? 智貴くんなの……?)

 

 己の両手でひとしきり検分している内に、それが何であるのかが琴美にも見当が付いてきた。これは人だ。人間の姿形をした何かが今確かに自分の目の前にいるのだと、彼女はそう結論付ける。それが本当に智貴なのであれば、どさくさに紛れてイケない所を触っても許されるかな、という程度の破廉恥な考えが浮かびそうなものなのであったが、手を通して伝わってくるひとつの感覚がそれをためらわせる。

 

(なにこれ、冷たい……っ)

 

 琴美の目の前に立つ何者かの体はまるで死人のように冷え切っており、血の通った人間の体とは到底思えなかったのだ。

 

 ──ンフッ、ンフフッ

 

 これは智貴などでは無い。そう気付いた琴美が手を引いて後ずさった瞬間、押し殺したような含み笑いと共にその何者かが目を見開いた。一切の光が断たれた筈のその暗闇に浮かぶ二つの双眼だけが、琴美を見据えて妖しく爛々と光る。

 途端、その視線に射すくめられたかのように体を硬直させた琴美は驚きのあまり呼吸すら止めてしまう。こんなものが人間である筈が無い。幽霊なのか何なのか。暗闇に突如として現れたその怪異から、琴美は一瞬たりとも目を逸らせずにいた。

 

(……?)

 

 琴美は何故かその目に見覚えがあった。いや、不思議な事にどこかしら馴染み深いものすら感じてしまった。普段自分が見知っている人の中に、果たしてこういう目をした者が居ただろうか? どこか引きこまれてしまいそうな深みを持った緑色の虹彩が、琴美の心の深い部分に根ざす何かを想起させるのだ。

 

「先輩、そこか!?」

 

 と、ふいに近くから智貴の声が聞こえてきた途端、琴美を絡め取っていた目の前の気配が瞬時に霧散してしまう。暗闇の中でようやく琴美の姿を発見したらしい智貴が、その手に持つ懐中電灯の光を彼女の方へと向けながら、手すりを持って階段を下りてくる。

 暗闇の中で心細さに押し潰されそうだった琴美は、それまでの緊張から解放されたかのようにふぅーと息を吐きながらその場にへたり込んでしまう。

 

「大丈夫ですか?」

 

 琴美の傍まで歩み寄ってきた智貴が、自身も膝をついて彼女に目線を合わせつつ、どこかくたびれた様子の琴美を気にしてそう尋ね掛ける。

 

「あ、あのね、い、いますごい事があって……」

 ──ニャオ~ン

 

 たった今自分が遭遇した奇怪な出来事を智貴に伝えるべく口を開いた琴美であったが、それを遮るようにして彼女らのすぐ近くで突然鳴き声が上がった。

 

「猫、か……?」

 

 咄嗟に立ち上がって鳴き声のした方を懐中電灯で照らした智貴は、一匹の猫の姿がそこにある事を認める。するとその猫は琴美達の方へ向かってとてとてと歩み寄ってきた。

 

「か、飼われてるのかな?」

「さあ」

 

 それは耳のてっぺんから尾の先っぽまで全身真っ黒な毛並みの黒猫であった。やけに毛足の長いモッサリとしたその黒猫は智貴の足元まで近づくと、愛おしそうな様子で彼に擦り寄ってみせる。

 

「懐っこいね、おいで」

 

 そんな黒猫の様子に幾分か安堵した琴美が、撫でてやろうと手を伸ばしたその時。

 

「痛っ!」

 

 途端、態度を豹変させたその黒猫が威嚇の声を上げると同時に琴美の指先を自身の鋭い爪で素早くひっかいてみせる。

 

(こ、このクソ猫……ッ!)

 

 突然の不意打ちを喰らってしまった琴美のこめかみに血管が浮かび上がる。先程までの恐怖の連続のせいですっかり縮み上っていた琴美の心の中にポッと小さな怒りの炎が灯ったものだから、知らず拳に力がこもってしまう。

 オア~と唸って琴美と睨み合っていたその黒猫であったが、何を思ったのか今度は突如として傍らの智貴の足に飛びついていく。

 

「うおっ、こいつっ!」

 

 そのまま彼のジーンズに爪を立ててバリバリと勢い良く上って行く黒猫。懐中電灯で片手が塞がっている智貴はそれを上手く振り払う事が出来ず、とうとう猫は智貴の肩の上まで上りきってしまった。途端、ゴロゴロと喉を鳴らして上機嫌な様子で尻尾をピンと立てた黒猫は、智貴の肩の上から勝ち誇ったかのように琴美を見下ろしてくる。

 

(ムカつく! なんか知らんがこの猫はムカつく……!)

 

 なんとも冴えない目つきをしたその猫にまるで自分が馬鹿にされているように感じてしまった琴美は、智貴の肩に無理やり乗り上げたこの狼藉者をどうしてやろうかと考える。ともあれいつまでも見下ろされているのは癪なので、床にへたり込んだままでいた琴美はヨイショと立ち上がる。

 

「先輩、ちょっとこれ持って」

「え? あ、はい」

 

 と、そんな琴美へ己の手にしていた懐中電灯をズイと差し出し預けてみせた智貴が、己の肩に乗っかっている猫を鬱陶しそうに両手で掴んで引き剥がす。猫はぐねぐねと身をよじって抵抗したが、とうとう智貴に床へと放り投げられてしまった。

 

 ──ミャオオッ!

 

 それが気に入らなかったのか、何やら怒声を上げるかの如く大きく一鳴きしてみせた黒猫は、そのまま琴美達にお尻を向けて暗闇の方へと駆け出していく。そうして辺りの闇の中へと消え去っていくかに見えた猫であったが、最後にその全身を一瞬だけ緑色に発光させたのを琴美と智貴は見てしまったものだから、二人はギョッとしてしまう。

 

「……今、光りましたよね」

「う、うん……バ、バケネコ?」

 

 やはりこの屋敷は普通ではない。ミイラや幽霊だけでなく光る猫まで出てくる始末だ。この分では次に一体何と出くわしてしまうか判ったものではない。いけ好かない猫とのやりとりで少し心に活気を取り戻し始めていた琴美ではあったが、改めて今自分達がいるこの場所の異常性に尋常ならざる脅威を覚えてしまう。

 

「あ、電気が……」

 

 どうやら停電からようやく回復したのか、琴美達の居るホールが再びシャンデリアの放つ弱々しい光で満たされる。

 

「先輩、もう行きましょう」

 

 琴美に預けておいた懐中電灯を受け取った智貴が、もうここには用は無いとばかりに玄関の方へと歩み寄って行く。

 先程の黒猫のインパクトで印象が薄れてしまったが、自分達は二階で出くわした動くミイラに驚いて、屋敷から逃げ出そうとここまでやってきたのだ。そのことを思い出した琴美は階段の方を見上げるが、そこには自分達を追いかけてきた筈のミイラの姿はなく、耳を澄ましてみてもあのキィキィ音はどこからも聞こえては来なかった。

 ともあれこんな気味の悪いどころの話ではない異常極まる屋敷からは一刻も早く立ち去るべきだと、琴美は智貴の後を追って自分も玄関の方へと駆け寄って行く。

 

「あ、開かないの?」

 

 だが先程から玄関の取っ手をしきりにガチャガチャと引いていた智貴であったから、何かおかしな事でもあったのだろうかと思う琴美が声を掛ける。

 

「ええ、なんか鍵掛かってるみたいで……」

 

 智貴の答えを聞いた琴美が試しに自分も開けてみようとするが、確かに扉は軋むばかりで二人を外に出そうとしはしてくれない。扉には鍵穴らしきものが空いており、どうやら施錠されたそれは内側から開けるのにもキーが必要な面倒臭い造りになっているようだ。

 

「あれ? でもこれ、か、鍵なんて掛かってなかった筈だよね……?」

 

 琴美の言う通り、彼女達がこの屋敷を訪れた際は確かに扉は施錠されていなかった。だからこそいとも容易く中に入る事が出来たのだ。だがひとりでにドアが閉まったりライトが付いたりする屋敷である。玄関の鍵がひとりでに掛かる程度の事は朝飯前なのかもしれない。

 

「窓から出ましょうか」

 

 ひとまず玄関からの脱出を見送った智貴は、ホール内に幾つかある人一人が十分出入り出来そうな大きさの窓へと近寄り、今度はそれを開けようとしてみせる。

 

「先輩、ちょっと下がっててください」

 

 が、それはどうやら嵌め殺しの窓であったものだから、普通のやり方では開ける手段が無いと判断した智貴は、手にした懐中電灯を構えて琴美に下がるよう言ってみせる。その様子からして窓を力づくで破って強行突破を試みるつもりのようだ。手にした懐中電灯でコツコツと窓を軽く叩いてその強度を確かめていた智貴であったが、やがてそっと振り被ったかと思うと、ふんっと力を込めて懐中電灯を叩きつける。

 が、割れない。屋敷の外から吹き付ける強風にガタガタと揺らされているそれは傍目には大した強度も無いかと思われたのだが、それなりの力で智貴が振り下ろした懐中電灯を力強く跳ね返してみせたのだ。そんな予想外の反応に一瞬戸惑った智貴であったが、力の加減を間違えたようだと、改めて今度は大きく振り被り、手にしたもので再び窓を強く打ち据える。

 が、やはり割れない。その様子に流石にたじろいでしまった智貴が、今度は懐中電灯を逆手に持ち替えて、柄の部分をガツンガツンと盛んに窓へ叩きつけてみせる。

 

「わ、割れないの?」

 

 その様子を後ろで見ていた琴美が、智貴のただならぬ様子を見て声を掛ける。

 

「駄目です、全然手応えがありません……」

 

 やや息を切らせた智貴が、琴美の方を振り返ってそのように答える。

 

「も、もしかして、防弾ガラスってやつなのかなー?」

 

 琴美がそのような憶測を口にするが、こんな無人のボロ屋敷にそのような最新テクノロジーの代物が使われているというのは如何にも突飛な考えであり、現実味に欠けるものであった。だが大して強度も無いように見えるその薄いガラスがあれだけ叩いても無傷であるというのは、それこそ輪を掛けて現実味に欠ける状況ではあったのだが。

 

「どうしようか、他に出口とか……」

 

 最早窓が割れない程度の事では驚かない。そういうものなんだろうなとひとまず割り切った琴美は、異なる脱出方法を求めてホールを見回す。玄関だけが出入り口にあらず、これだけ広い屋敷であるからして裏口の一つや二つは探せば見つかる筈なのだ。

 

「ん?」

 

 と、そんなホールの中に琴美は一つの違和感を感じる。最初、それが何であるのか気付けないでいた琴美ではあったが、しばらく無言のまま考え込んでいた彼女は、やがて違和感の正体に思い当たったのか途端に表情を引きつらせる。

 

「と、智貴くん、ちょちょちょ、智貴くん……!」

「なんです?」

「あ、あれ、ほら、あそこ……!」

 

 傍らに歩み寄ってきた智貴の衣服の裾をサッと掴んだ琴美は、ホールの脇にある暖炉の方向をしきりに指差す。

 

「ほら、あそこにあった鎧が……!」

「!」

 

 いつの間にか無くなっている。暖炉の横に直立不動で構えていた筈の厳めしい西洋甲冑が、忽然と姿を消している事に琴美は気付いたのである。一体彼はどこへ行ったのであろうか? まさか自分で歩き出して何処かへ歩き去ってしまったのでは? そのような荒唐無稽な考えが浮かぶ琴美であったが、この狂った屋敷の中ではそれも十分有り得る話ではあった。

 ひとりでに動く車椅子のミイラ。闇の中に浮かぶ人の目。憎たらしいバケネコに、まるで自分達を閉じ込めるかのように閉ざされた玄関と窓。そして、今度は何処かへと消え去った鎧。これらの奇怪な出来事の数々を改めて思い返した琴美は、果たして本当にここから無事に出る事が出来るのだろうかと身の危険を感じ始めてしまう。

 自分達は全くもってとんでもない場所へと足を踏み入れてしまったのだ。やはり最初にこの屋敷と出くわした際に早々に立ち去るべきであったと、琴美の中に改めて強い後悔の念が押し寄せる。

 

(ごめんね、ごめんね、私のせいで……!)

 

 自分がそもそも智貴を此度のデートに誘わなければ。色気を出して彼を天体観測にまで連れ出したりしなければ。今にも恐怖に押し潰されそうな琴美ではあったが、それ以上に自分のせいでこのような場所へと愛する青年をむざむざ連れてきてしまう羽目になった事に、ただただ申し訳ない思いで胸が潰れそうになってしまうのであった。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(3)

琴美のしおりはピンク色

 ──ゴーン、ゴーン、ゴーン……

 

 静まり返ったホールの中に、振り子時計の鐘の音が現在時刻の数だけ鳴り響く。その時報を信頼するのなら、丁度時刻は午後八時といった所であろうか。玄関側から脱出する事を断念した琴美達は今、それ以外の出口を求めてホール内を探索していた。

 

「あっ、これって……」

 

 と、階段の裏手を覗き込んだ琴美が何かに気付いた様子で呟く。

 

「ねえ智貴くん! 電話、あったよ」

 

 琴美は自分から少し離れた所に居た智貴を手招きして呼び寄せる。彼女が見つけたもの、それは押しボタン式が主流となった今でも一部の家庭等で使われ続けているような、古いタイプのダイヤル式の黒電話であった。随分と埃が積もっていたそれは長らく使われていないであろう事を伺わせたが、琴美は受話器に付く埃を手で払ってからそれをおもむろに耳に当ててみせる。

 

「良かった、一応使えそうだよ」

 

 受話器から耳を離した琴美がそう智貴に伝える。その受話器からは無機質なダイヤルトーンが聞こえてくる所からして、特に壊れているという訳ではないようだ。これなら使えるかもしれない。そもそも自分達は電話を貸して貰うつもりもあってこの屋敷を訪れたのだ。例えとうの昔に電話を止められていたとしても、回線が通っているのであれば緊急電話を掛ける分には支障は無い筈だ。

 先程はこの屋敷に閉じ込められてしまったかのような不安に襲われ一刻も早い脱出を望んでいた琴美であったが、このまま首尾良く玄関以外の場所から屋敷の外へ逃れ出たとしても今度はまた別の困難が待っている事に思い至っていた。琴美としてもこの気味の悪い屋敷にこれ以上留まり続けるつもりは毛頭無いが、すぐ様ここを発って荒れ模様の天気の中で当ても無く下山なりヒッチハイクを試みるよりも、可能ならば事前に警察なり何なりに連絡しておいてこの近辺まで迎えに来て貰う方が良いのではないかと、そう考えたのだ。

 屋敷の正確な住所なぞ知る由も無い琴美ではあったが、自分達の車が暴走していた際に見掛けた標識上の路線番号が手掛かりになる。あの時は極度の集中から目に映るもの全てをスローモーションで捉えていた琴美であったから、幸いにも彼女はその標識の内容を一応記憶に留めていたのである。加えてこのような山中にある家など限られている訳であるから、自分達は○○山の○○号線沿いにある廃屋の近辺にいるとでも伝えればきっと救援に来て貰えるのではないかと期待してダイヤルに指を掛けようとする。

 

「いや先輩……それ、線切れてますけど」

「えっ!?」

 

 琴美が使おうとしていた電話機に対して智貴がそのような事を指摘する。まさかと思い琴美が確かめてみれば、電話機の背から垂れ下がっていたコードは確かに途中でプツリと千切れてしまっていた。

 

(ホントだ……! いやでも、さっき確かに音が……)

 

 気味悪さのあまり琴美は手にしていた受話器を慌てて戻し後ずさってしまう。

 この手の黒電話というものは電源線と通信線が一体化している為、こうしてコードが繋がっていない以上は今し方琴美が耳にしたような電子音は聞こえる筈が無いのだ。まるでゾンビのような黒電話に不吉なものを感じた琴美は、その場から智貴を連れて離れたくなった。

 

 ──チリリリリリーン! チリリリリリーン!

 

 と、そんな琴美の心情を察したかのように突如として電話機が着信を知らせるベルをけたたましく鳴らし始める。

 

「な、なんで!?」

 

 作動する筈の無い電話がこうして自分達の目の前で実際に騒ぎ出したものだから、琴美は目を白黒させてしまった。心をかき乱すようなそのベルの騒音はいやおうもなく二人の不安を募らせていく。

 

「……ちょっと取ってみます」

「え? で、でも……」

 

 延々と鳴り響くそれがヒステリーを起こした誰かの金切り声のように感じられてしまったのであろうか、堪りかねた様子の智貴は傍らの琴美に断りを入れると受話器を取り己の耳へそっとあてがう。

 

「……もしもし」

 

 けたたましいベルが鳴り止んで辺りに静寂が戻る中、智貴が電話口の向こうに耳を澄ませる。

 

「……!」

 

 と、しばらく無言でいた智貴が急に驚いたような表情を見せた。そうして彼は受話器を己の耳から離して傍らの琴美に顔を寄せる。

 

「……声が聞こえます」

「ひゃ、ひゃいっ! そそ、そうなの?」

 

 どうも電話口に誰かがいるようだと、智貴がヒソヒソ声でそのような事を耳元で囁くものだから、思わず琴美は状況も忘れて彼の吐息が耳に掛かる感触にその身を痺れさせずにはいられない。途端に心拍数を跳ね上がらせた彼女は自身の頬が熱くなってしまうの感じる。きっと鏡で見ればそこにさぞかし紅が差している事だろうと思う琴美であった。

 そんな琴美に智貴が無言で受話器を差し出す。電話口から聞こえてくる声を確かめて欲しいという意思表示のつもりのようだ。それにしおらしく頷いた琴美は僅かに震える手で受話器を受け取ると、鼻息も荒いまま電話口でフスーフスーと呼吸音を立てつつ受話器に耳を傾ける。

 

(ほんとだ、何か言ってる……!)

 

 確かに智貴の言う通り、環境ノイズの中に紛れるようにして何かしらのささやき声が受話器の向こう側から聞こえてきたものだから、そのただならぬ事態に琴美の顔から途端に熱が抜けていく。

 

「あの、もしもし?」

 

 ものは試しにと、琴美はひとまず電話口に立つその何者かに話し掛けてみる事にした。

 

「もしもし? ねえ、あなた誰?」

『……ん、たい』

「え?」

 

 途端、それまでか細かった声が急に声量を増したかと思うと、そのように断片的な言葉が聞こえてきたものだから思わず琴美は聞き返してしまう。

 

「何? 聞こえないんだけど」

『この、変態が』

 

「変態が」と、電話口の存在が確かにそう言い放つ。その声は低くくぐもったような、どこか老婆を思わせるしゃがれた声色ではあったが、同時に子供のような幼い響きをも含む不気味なものであった。

 

「はぁ? あんた何言ってんだ?」

 

 まるで地の底から這い出てくるようなその声は聞く者の心を凍りつかせるには十分なおぞましさを放っていたが、顔も知らない相手から急に罵られて頭に血の昇った琴美は、怯えるよりも先に口を開いて思わず強い口調で言い返してしまう。智貴と会話している時とは打って変わって低く刺々しい声色へと変わった琴美であったが、このようなつっけんどんな態度もまた、彼女という人間の一面なのだった。

 

『お前は、変態だろうが』

 

 まただ。変態、変態と、電話口の相手はそう言って琴美を再び罵ってくる。

 

(何だこいつ……!?)

 

 てっきり呪いのメッセージ的なものでも聞こえてくるのだろうかと身構えていた琴美であったが、蓋を開けてみればまるで嫌がらせ電話同然の内容であったものだから、彼女は苛立ちを感じつつも拍子抜けしてしまう。

 

『この、ド変態野郎め』

 

 尚も己への罵倒を続けるその声を尻目に琴美は考え始める。このように幼稚なイタズラ電話を掛けてきた電話口の存在は、もしかすると生きた人間なのではないかと、そのように思えてきたのだ。

 

『変態、変態、変態、変態……』

 

 そうなるとこれまで自分達が屋敷で遭遇した数々の怪異も、実際はこの電話の先で延々と口からクソを垂れ続けるクソなクソ野郎のクソ仕業だったのかもしれない。そんなクソクソクソなド低能クソイタズラに自分達は嵌められたのではないだろうか。であるのならば、このクソ屋敷のどこかに潜んでニタリとほくそ笑んでいるクソムシ家主を引きずり出して胸倉を掴んでやりたい気分の琴美であった。

 

「てめー、いい加減に……!」

 

 こちらが黙っていれば言いたい放題のその罵倒に我慢ならなくなった琴美が口を開こうとした途端、反論は受け付けないとでも言わんばかりにブツリと電話が切られてしまう。そのままツーツー音が聞こえてくるかと思ったが、それ以降受話器は電源が通っていないかのようにウンともスンとも言わなくなってしまった。

 振り上げた拳を下ろす直前で相手に逃げられてしまった琴美はやり場の無い怒りに思わず身を震わせてしまうが、やがてふぅと溜息をつくと手にしていた受話器を戻す。

 

「なんなんだよ、ったく……」

「どうでした?」

 

 些か気疲れしてしまった琴美に智貴がそう尋ねる。一触即発であった今しがたの琴美の様子から、何か相手から妙な事でも言われたのだろうかと気にしているようだ。

 

「え? あ、な、なんかね、ワケ判んない事言われちゃって……」

 

 先程の低い声色から一転してそのトーンを何倍にも引き上げた琴美はそう答えるが、具体的に何を言われたのかについてはあえてボヤかしてみせる。

 

「そ、それよりさ、今電話掛けてきた人、これ絶対この家の人だと思うなー。やっぱ誰かどっかに隠れてるんじゃないかな?」

 

 取り繕うようにして話題を逸らした琴美は自身が感じていたその疑惑を口にする。この屋敷に潜むイタズラ好きな家主が、自分達のような訪問者を陥れて悦に浸っているのだと琴美は主張したいのだ。

 しかしそう言いながらも琴美は先程までの奇妙な電話の内容を思い出してしまう。電話口の存在は確かに自分に対して「変態」と言ったのだ。それはもうしつこい程に。確かにアブノーマルな事柄について自分が多少なりとも興味を持っている事を自覚している琴美としては心当たりが無いでもないのだが、何故それを見ず知らずの相手からいきなり指摘されてしまったのだろうかと、それがどうにも引っ掛かってしまう。

 愛する傍らの青年に対して時折行き過ぎた情欲を催してしまう事が無いでもないが、それにしたって琴美としては態度に出てしまわないよう心の内に秘めたままにしているつもりであるのだ。自分の頭の中を覗かれでもしない限りは、琴美が抱く身悶えせんばかりの智貴への不道徳な情熱は誰も預かり知らぬ筈の事であった。

 

「あの……」

 

 と、急に物思いに耽ってしまった様子の琴美に対して智貴がふいに語り掛ける。

 

「えっ? な、なに?」

「さっきのミイラの事、もう一度確かめに行きませんか?」

 

 智貴がそのような突拍子も無い事を提案したものだから、琴美は思わず目をしばたたかせる。先程自分達は件のミイラからほうほうのていで逃げてきたばかりだというのに、一体どういうつもりなのであろうか?

 

「えっと、ど、どうしてかな……?」

 

 可愛い可愛い智貴からの提案にノーと答えてしまうなどもってのほかであると心情的には思ってしまう琴美であったが、今自分達を取り巻く状況を思えばそのような迂闊な行動は避けるべきであったから、彼女は智貴の発言の真意を一応尋ねてみる事にする。

 

「いえ、なんかちょっと気になるんで……ダメ、ですかね?」

 

 しかしそれに対する智貴の答え方はなんとも歯切れが悪い。彼自身もそのような理由で琴美が納得するとは思っていないのか、どこか遠慮がちにしている様子が見てとれる。

 どうやら智貴としても理由は判らないが何故かアレが気になってしまうという事のようだ。一体あのミイラの何が彼にそこまで興味を持たせるのだろうかと訝しんだ琴美は、そんな彼の提案に反対するべきか迷う。が、理由は判らずとも智貴の方から頼み込むようにしてまで彼があそこへ戻ってみたいというのであれば、自分は黙ってそれについていってあげたいと、琴美はそう思った。

 

「……そっか、じゃあ行ってみよっか?」

「すみません」

 

 己の予想に反して物分りの良い反応を見せた琴美に、智貴は安堵した様子で彼女に頭を下げる。

 

「あっ、いいのいいの! 私もちょっと気になってたし……」

 

 未だこの屋敷への警戒心が解けないでいる琴美ではあったが、屋主への怒りが燻り続けている彼女としても出来るのであればその正体を暴いてやりたいという気持ちが芽生え始めていたものだから、謝意を述べる智貴にそのような言葉を掛けてやる。

 もしあのミイラが再び自分達に襲い掛かってくるのであれば身を守る物が必要だ。武器になりそうなものが無いかと辺りを見回す琴美であったが、生憎手頃なものが見当たらなかった為、仕方なく電話台に仕舞われていた分厚い電話帳を手に取る。

 

(来るなら来てみろ、クソミイラめ……!)

 

 もう怖がってばかりいられるものかと、幾許かの闘志を胸に宿した琴美の体に自然と力がこもっていく。あのミイラにしたってどうせリモコンか何かで動かしていたに違いない。説明のつかない怪奇現象は他にもあるけれど、きっとそれらも何かカラクリがあるのかもしれないと、琴美は自分にそう言い聞かせる。

 

(つーかどうやって掛けてきたんだコレ?)

 

 ふと気になってしまい、すっかり沈黙した電話機を本体ごと持ち上げてみた琴美であったが、やはり千切れたコード以外に特に線らしきものは繋がっていないようだ。

 

(無線とか、そういうのなのかな……?)

 

 そのカラクリがサッパリ判らない琴美ではあったが、考えても仕方が無いとひとまずは電話機を台の上に戻す。

 ともあれ二人は再びあのおぞましい変死体が潜んでいた部屋へと足を運ぶ事になった。

 

 ◆

 

「い、いないね、ミイラ」

「……そうですね」

 

 家主の仕業なのか、ここを出る際は確かに開け放たれていた筈のミイラ部屋の扉がしっかりと閉じられていたものだから、智貴は電源を入れた懐中電灯を構えつつ扉をゆっくりと開き内部の様子を確認する。が、部屋の隅のスタンドライトは点灯したままではあったものの、先程までこの部屋に居た筈のあの呪わしいミイラの姿が見当たらなくなっていた。部屋の主照明らしきスイッチを探し当てた琴美がそれを押してみた所、弱々しくはあるものの室内全体を照らし出すには十分な量の光が天井からもたらされたが、やはりどこを見ても部屋の中は無人であった。

 車椅子でひとりでに移動するようなミイラである。とっくに部屋を出ていき、今はどこか別の部屋で再び琴美達を驚かさんとして潜んでいるのかもしれない。

 

「あ、これ……」

 

 そう言って室内の丸テーブルに歩み寄る琴美。テーブルの上には赤いフェルトカバー仕立ての本が置かれていたのだ。これは最初にこの部屋に入った際に智貴が発見した、ミイラの膝に乗せられていたあの本ではなかろうか。その表紙には特にタイトルらしきものが書かれていない事からして、ノートか何かの類ではないかと思われた。

 手にしていた電話帳を一旦机の上に置いた琴美がおもむろにその赤い本の表紙を開いて中のページを幾つかペラペラとめくっていると、智貴も傍らに立ってそれを覗き込む。

 

「日記ですか?」

「う、うん、そうみたい」

 

 手書きの鉛筆文字で日々の出来事らしき内容が書き連ねられているそれは、確かに日記帳に違いなかった。

 

「……あのミイラが書いてたのかな?」

 

 これはミイラとなった人物が生前書き残したものではあるまいか。そのような推測を口にした琴美であったが、いやいやあのミイラは自分達を驚かせる為のただの作り物に違いないのだと考え直す。ともあれもっと詳しく読んでみようと思った彼女はその日記帳を持ち上げてみるが──

 

「うわぁっ!」

 

 日記を持ち上げたその手にヌルリとした感触を感じた琴美が、思わずそれを床に取り落としてしまう。

 

「……?」

「あ、だ、大丈夫……なんか裏側がヌルってしてて……」

 

 琴美が突然叫んでしまったものだから、智貴は何かあったのかと言いたげな視線を琴美に送る。そんな彼に大した事ではないのだと言いつつも、ヌルリとしたものを触ってしまったその手を確かめた琴美は思わず息を呑んでしまう。

 

「これ、ち、血が……!」

「!?」

 

 掲げられた琴美の手のひらには赤黒い血液のようなものがべったりと付いていたものだから、それを見た智貴が目を見張る。

 

(もおぉぉぉ……っ!)

 

 慌てて部屋に置かれたベッドのシーツでその血を拭おうとする琴美。途端、ぶわっとシーツに積っていた埃が舞い上がったものだから、琴美は鼻のむずがゆさに顔をしかめながらも手にこびり付いた気持ちの悪いヌメりを拭き取っていく。

 

(手の込んだ嫌がらせしやがって、くそっ……!)

 

 家主許すまじ。琴美としてもいい加減この手のドッキリイベントに慣れ始めてきたのか、気味の悪さを感じる以上に腹立たしい気分にすらなってしまう。

 

 ──ミャオ~ン

(またこいつか……)

 

 と、開け放たれていた扉から部屋の中へと入ってきたのか、再びあの黒猫が二人の前に姿を現したかと思うと、己の存在を知らせるかのように猫撫で声を上げる。暗闇でピカリと光る不思議な毛並みの持ち主ではあるが、ただそれだけの何の変哲も無いモコモコの猫であるそれに琴美も今更怯えたりはしない。

 

「くんなくんな」

 

 またもや自分の足に飛びつきたそうにしている猫の様子を見て取った智貴が、しっしっと追い払うような仕草で牽制してみせる。そんな彼の対応が癪に障ったのか、猫はご機嫌ナナメな様子でウ~ムと口ごもるとホウキのようなその尻尾を苛立たしげに揺らし始める。

 

「あんたのご主人はどこにいるの? 呼んできてよ」

 

 この奇怪な仕掛けだらけの屋敷に潜む趣味の悪い主人にいい加減文句の一つでも言ってやりたい気分の琴美は、猫を見下ろしてなんとはなしにそう問い掛ける。途端、それを聞いた猫は琴美に対して低く唸り出し、体毛を膨らませつつ琴美から距離を取る。相変わらずこちらの事は嫌っているのであろうか、無駄にオーバーなリアクションで敵意を示してみせるその猫の様子に、やはりコイツの事は好きになれないと思う琴美であった。

 すると猫が突然何を思ったのか、急に駆け出してンゴゴ、ニャゴゴと興奮気味に喚きながら部屋の中のベッドやら机やらに飛び乗ったりして走り回る。

 

「わっ、ちょっ、もう!」

 

 暴れ出した猫のせいで室内に積もっていた埃が辺りにもうもうと舞い上がり、二人は堪らず手で口元を覆う。やがて部屋の隅の棚に置かれていた花瓶を猫が蹴飛ばしてしまったものだから、そのままそれは床に落ちて割れてしまった。

 やりたい放題の猫は散々部屋で暴れ回った後、うおォン!と唸ってそのまま部屋の入り口から廊下の方へと勢い良く走り去っていってしまった。

 

「何やってんだあの猫……」

 

 そうボヤいた智貴は小さな溜息をつくと、面倒臭そうにしつつも先程の猫の粗相の後始末をすべく床に座り込み、割れた花瓶の破片を拾い集める。

 だが琴美のほうは、そうした智貴の行動を一瞬だけ奇妙に思ってしまう。今はこの屋敷の主に気を使うような状況でもない筈なのに、何故わざわざ片付けをしてやるのだろうかと、そう感じたからだ。しかし常日頃から何かと気配りの出来る彼の事、おそらくは身に染みた性分からついそうしてしまったのだろうと琴美は思い直す。

 

「……この花」

 

 と、床に散乱していた花を拾い上げた智貴が何かに気付いたように手を止めてしまう。彼が手にしているそれは、あの弟切草なのであった。傍らで琴美もそれを覗き込むが、まだ鮮やかな黄色を花弁に宿すそれはつい最近摘み取ってきたばかりのものであるように彼女には思えた。

 

「あっ……!」

 

 何かを思い出したかのように、ふいに琴美が小さく声を上げる。

 

「なんです?」

 

 そんな琴美の様子に彼女の顔を見上げた智貴が、琴美にそう尋ねてみる。

 

「あ、いや、どうでも良い事なんだけどね、それの花言葉、なんとなく思い出しちゃって」

「……教えて貰っていいですか?」

 

 やけにこの花について関心を持つ智貴であったが、琴美はひとまず彼の求めに応じてやろうと口を開く。

 

「えと、弟切草の花言葉は色々あるんだけど、その中に〈敵意〉っていうのがあって……」

 

 ドライブ中、かの野花について多少の薀蓄を披露していた琴美であったが、その不吉な花言葉についてはデートの雰囲気を壊しかねないとして口に出す事を控えていた。だが事ここに至り、無数の弟切草達に囲まれたこの屋敷で自分達を襲う怪異と、目の前の弟切草の不吉な花言葉とを琴美は思わず結びつけてしまったようだ。自分達はこの屋敷の敷地内に足を踏み入れたその瞬間から、ずっと敵意そのものに囲まれているのではないか、と。

〈敵意〉という言葉を口に出した琴美であったが、自身の発したその言葉を受けて彼女はひとつの可能性に思い至り身を固くする。

 

「……智貴くん、やっぱりもうこの家にいちゃいけないよ、行こ?」

 

 この屋敷の主が単なるイタズラ好きの人間であればまだ良い。しかしそれがもしも常軌を逸した異常者であったのならば、このまま自分達が屋敷に留まり続ければ次は何をしてくるか判らない。屋敷に踏み込んだ者へ見境なしに敵意を剥き出しにしてくるような危険人物であれば、自分達へ危害を加えようとする事すらあり得るのではないか。この花瓶に生けられていた弟切草が、そうした家主からの自分達に向けたメッセージなのではないかと、琴美はそう感じてしまったのだ。

 

「そうですね……付き合わせちまってすみません、行きましょうか」

 

 気になっていたミイラが居ない以上、智貴としても最早この奇怪な屋敷に留まる理由は無い。むしろ一刻も早く立ち去るべき状況な訳であるから、片付けを止めて立ち上がった彼は琴美と共にミイラ部屋を後にしたのだった。

 *

(うわっ、気持ち悪……)

 

 先程までは周囲を観察する余裕が無かったので気が付かなかったが、ミイラ部屋から伸びる長い廊下を智貴と並んで歩いていた琴美は、壁に沿って幾つも並んでいる扉の中に、なんとも薄気味の悪い真っ黒な扉がある事に気付いた。その黒い扉の端々には外側から幾つもの板が乱雑に釘で打ちつけられており、内外から開ける事が出来ないよう封鎖されていたのだ。

 

 ──アッオ~ン、アッアッオ~ン

 

 だがそんな開かずの間の中から、これみよがしにあの黒猫の悩ましげな声が聞こえてくる。一体どうやって入ったのだろうかと思わなくもない琴美であったが、おおかた隣の部屋と繋がる抜け穴でもあるのだろうと己を納得させる。

 まるで「ウッフ~ン」とベタな台詞でも付きそうな、琴美としてはどうにも癪に障るその甘ったるい鳴き声が何故だか智貴に向けて放たれているようにも聞こえてしまったものだから、その声にギョッとして振り返った智貴に焦りを感じた彼女は「気にしない気にしない」と、歩みを止めないよう彼を促し扉の前を素通りしていくのだった。

 それにしても部屋数の多い屋敷である。階段を挟んで向こう側にもずっと伸びている廊下に目を向ければ、まだまだ幾つもの部屋の扉が壁沿いにぞろりと並んでいるのが琴美の目に映る。こうして見ている分にはまるでどこぞの宿初施設さながらであるその光景を前にして、何やら琴美の中で妙な考えが頭をもたげ始めた。

 

(なんかこれって、ホテルみたい……!)

 

 琴美の考えるそのホテルとは一般的な意味での宿泊施設ではなく、つまりアッチのホテルの方であった。そのような場所へ実際に足を運んだ経験などあろう筈もない琴美ではあったが、もしかするとかの不夜城の内部はこんな感じなのではないだろうかと考えてしまったのだ。

 

(智貴くんとロッテ戦の帰りに、ホテルで休憩……!)

 

 もしも今自分がそのような場所で傍らの智貴とこうして並び歩いているとしたらどうだろうか? そのような背徳的なシチュエーションを思わず想起してしまった琴美は、自らの思考に頭がクラクラしてしまいそうになる。

 前年にバブルが崩壊したと言えどまだまだ好景気の余韻が残る日本では、こんな郊外の山奥にその手の施設がデンと構えて営業していたとしても何ら珍しくは無いのであった。さしずめここはホテル弟切草館とでもいうべきか。ならば自分はベッドネーム・コミィを名乗り今すぐにでもチェックインを終えて意中の相手とゆっくりたっぷりじっくりのんびり心ゆくまで浴びるように休憩タイムを延長戦ギリギリまで燃え尽きるほど満喫していきたいものだ。

 自分達の今置かれている状況も弁えず、降って湧いたそのような淫らな妄想に浸る自分を止める事が出来ない琴美であったが、もしも本当にこの屋敷が自分達の愛の営みを応援するそうした善良な施設であればどんなに良かったかと、ままならない現実に悔し涙すら出そうになる。

 

(いやいやいや、智貴くんはまだ未成年だぞ……! 何考えてんだ私っ)

 

 既に成人済みの琴美ではあったが、短時間の内に数々の妄想を堪能した後で傍らの智貴が未だ十代である事を思い出したものだから、慌ててそうした邪念を払おうと頭を振る。

 

(ん? いやでも、男の人って十八歳になったら結婚とか出来ちゃう訳だし……いいのか? 別にいいのか!?)

 

 であるのならば特に問題ないのではと再び邪な期待を抱き始めた琴美は、はて青少年保護条例の適用年齢は何歳までであっただろうかと歩みを進めながらも考え込んでしまうのだった。或いはそれは、この異常な屋敷の中にあって自身の心を落ち着かせようとする琴美なりの心の働きであったのかもしれないが、ともあれ彼女の顔は今や真剣そのものなのであった。

 脳内がピンク色に染まった琴美とそれに気付かぬ智貴が二人一緒に階段を下りていく中、アッオォォ~~~~ンと切ないバケネコの鳴き声が二階の廊下に響き渡っていた。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(4)

こみの貰い飯

「ここ、食堂……かな?」

 

 出口を求めて屋敷内を探索していた琴美達が、幾分か大きめの扉を備えたその部屋へと辿り着いたのはつい今し方の事。開け放たれた扉の先に広がる空間を智貴の背中ごしに覗き込んでいた琴美はそのような推測を口にする。

 天井の照明が落とされている部屋ではあったが、広々としているらしい事が伺えるその空間には火の灯った燭台がポツンと置かれていて辺りの様子を朧気ながらも浮かび上がらせていたのだが、よくよく目を凝らしてみれば部屋の中央には白いクロスが丁寧に掛けられた大きなテーブルが据えられており、それを囲むようにして幾つもの椅子が並べられている事が見て取れる。更には燭台が乗ったテーブルの上に食器らしきものまで並べられていたところからして、ここは屋敷のダイニングルームではないかと思われた。

 

「調べてみます?」

「う、うん……そうだね」

 

 智貴の問い掛けに頷いた琴美は彼の後ろを付いていく形でおそるおそる部屋の中へと足を踏み入れていく。途端、室内の空気を吸い込んだ二人は何かに気付いた様子で互いに顔を見合わせた。

 

「智貴くん、これって……」

「メシの匂い、ですかね」

 

 二人が言うように、確かに部屋の中には何かしらの料理から放たれているらしい鼻腔をくすぐる香りが漂っていたのだ。理不尽だらけのこの屋敷ではあったから、思い掛けず遭遇したそのような人間味を感じさせる出来事に面食らった二人は、室内の照明スイッチを探す事も忘れてまるで吸い寄せられるかのようにテーブルの方へと歩み寄っていく。

 

「こ、ここんちの人のごはんなのかな?」

 

 この屋敷の住人の為に用意された夕食なのであろうか、テーブルの上に並べられていた食器には正に出来立てといった感じの温もりが伝わってきそうな料理の数々が盛られていたのを琴美達は発見する。部屋に満ちるこの香りはやはりここから漂ってきていたようだ。

 どこもかしこもさっぱり掃除された形跡の無い古びた屋敷ではあったが、この食堂の中だけは清潔に手入れされているようで、クラシックな調度品で統一されている事が暗がりの中にも伺える室内の雰囲気と相まって、さながらどこぞの品の良いレストランのようでもある。

 

「……多分、俺達の分だと思います」

「えっ?」

 

 琴美の憶測に対して智貴がそのような事を言い出したものだから、思わず彼女は聞き返してしまう。確かにそれらの料理はまるで示し合わせたかのように丁度二人分用意されていたものであったから、あたかも自分達の為に用意されたものだと彼は感じてしまったのかもしれない。

 

「そ、そうかなぁ……」

 

 だが不穏な空気しか感じられないこの怪しげな屋敷において、自分達がそのような歓待を受けられるとは琴美には到底思えない。仮にここがまともなお宅であったとしても、訪れて間もない見ず知らずの自分達にこのような振る舞いをする理由が見当たらない。にもかかわらず、これが自分達の為に用意されたものなのではないかと感じている様子の智貴。その心の内がどうにも見えてこない琴美にはロウソクの炎に照らされている彼の横顔がどこか遠く感じられてしまったものだから、幾ばくかの寂しさが彼女の胸をジリジリと焦がした。

 と、並べられている料理の傍らに置かれていたらしき紙片に気付いた智貴がそれを手に取って、明かりに照らしつつじっと眺める。

 

「これ、やっぱそう言う事みたいですね」

 

 そこにある何かを読み取った智貴が手にした紙片を琴美に差し出したので、受け取った彼女もまた暗がりの中でそれに目を凝らす。

 

『どうぞ、たべてください』

 

 紙片にはそのような事が書かれていたものだから、琴美は思わず眼鏡を掛け直して目を見張ってしまう。智貴の言う通り、確かにこれらの料理は屋敷の主が自分達の為に用意してみせた夕食なのかもしれない。

 

(だとすると益々怪しいじゃん!)

 

 幾ら自分達の為に用意されたものだからと言って、それにホイホイとありつく程琴美は不用心ではない。今まで自分達を散々翻弄してきた屋敷で出されたものなのだ、マトモな料理である筈がない。大方また自分達を苛める為の悪意ある仕掛けがなされているに違いない。

 

(誰が食うか、こんなもん……!)

 

 料理から漂ってくる美味しそうな匂いにすんすんと鼻を反応させつつも、琴美はこの屋敷の性悪主人の思う壺になってたまるかとその料理を睨みつける。

 

 ──グゥゥゥ

 

 だがそんな琴美のお腹が彼女の意図に反してくるくると鳴ってしまったものだから、傍らの智貴にそれを聞かれてしまったと思った琴美は恥ずかしさを誤魔化す為に慌てて口を開く。

 

「あ、あはは……そういえばお昼あんまり食べてなかったっけー」

「……」

 

 昼食時、来場客でごった返す球場のフードコートにて購入したモツ煮ライスやら何やらを智貴に振る舞ってあげた琴美はしかし、ガツガツ食べる女だと思われたくなくて自身は控えめにフランクフルト一本だけで済ませていたのだ。流れ星を見ながら智貴と仲良く食べようと思いコンビニで買い込んでいた弁当やお菓子類も結局手を付ける前に車ごと燃えてしまったものだから、琴美は今やすっかりひもじい女なのであった。

 

「俺、食ってみます」

「え? ちょ、智貴くん!?」

 

 そんな琴美の様子を見ていた智貴が、何を思ったのか椅子を引いて食卓の前に座ってみせる。

 

「待って、毒とか入ってるかもだし……!」

「ちょっと味見してみるだけですから……大丈夫、だと思います」

 

 慌てて止めに入る琴美ではあったが、智貴にやんわりとなだめられてしまう。まるでこの料理が安全であるのだと確信しているかのような智貴のその落ち着きぶりに、何が彼をそうさせるのだろうかと琴美は困惑してしまうが、すっかりその気になっている彼の言葉を改めて否定してしまうのは何とも気がひけてしまったものだから二の句が継げない。

 

「先輩もとりあえず座りましょうよ」

「あ、う、うん……!」

 

 そんな琴美の心情を知ってか知らずか、智貴は用意されていたお絞りで手を拭いつつ琴美にも席へ着くよう勧める。言われた琴美はというと、智貴からの勧めに反対するでもなくひとまずは大人しく彼の向かい側の席に回り込む。そうした彼女の表情は少々口元が緩んでいたのだが、こんな風に智貴の方からあれこれ話し掛けて貰うのがやはり琴美としては嬉しいのだ。

 思えばここに来てから今日は沢山智貴と会話しているなぁと、椅子に座って一息ついた琴美はある種の達成感にも似た感慨深さを感じてしまう。お互いにまだまだ遠慮のある間柄な二人であるからして、琴美は智貴と大学で会っても二言三言言葉を交わすだけでその日が終わってしまう事も珍しくはなかったのだ。智貴の前で極端にあがってしまい、会話を成立させるどころか顔をマトモに合わせる事すらままならなかった以前の自分から考えると、これはもう格段の進歩なのではないだろうかと琴美は考える。

 

(あぁ食べちゃう、智貴くんったら本当に食べちゃってる……)

 

 自身と向かい合ってテーブルの上の料理に手を付け始めた智貴を大丈夫だろうかと心配しつつも、彼の食事する所作から目が離せない琴美。悠長に構えてもいられない切迫した状況の只中ではあるが、恋い焦がれてやまない目の前の想い人との交流はどんな形であれ琴美の心を震わせてしまうのだ。

 美味いとも不味いとも言わず黙々と食事を続ける智貴の姿をしげしげと観察しつつ、琴美はここに来るまでの間にあった出来事を思い返す。

 

(智貴くん、カッコよかったなぁ)

 

 雷に真っ二つにされた大木が倒れてきた際、いち早く立ち上がった智貴が腰を抜かしていた自分を助けてくれた事に今更ながら感銘を受けてしまった琴美は思わず目頭を熱くさせてしまう。危ない所をああして彼に助けて貰ったのは〈あの時〉以来ではなかろうかと、ずっと昔に経験した智貴との大切な思い出が琴美の中にありありと蘇る。それは智貴にとっては最早覚えてもいないような些細な事だったかもしれないが、琴美にとっては長きに渡る初恋の始まりを意味するものなのであった。

 

 琴美と智貴の出会いはお互いがまだ中学生だった頃にまで遡る。同じ地元の町で生まれ育った二人は通う中学校も同じであったのだが、さりとて特別何かしら付き合いを持っていたという訳ではない。むしろ智貴からすれば琴美とは大学のゼミを通じて知り合ったという程度の認識であり、実は彼女が中学以来からの先輩でもあったという事を知ったのはつい最近の事なのである。

 だが琴美の方はそうではない。彼女は中学時代にある出来事を通じて智貴を知ってからというもの、片時もその存在を忘れた事はなかった。その切っ掛けとなった出来事というのは傍から見れば特別際立ったものという訳でもなく、放課後に野球部の練習を見物していた琴美に向かって飛んできた打球を、たまたま側を通り掛かった智貴が器用にも自身の足先で受け止めて琴美に当たらないようにしてあげたという程度の事なのだが、この事は琴美にとって一生忘れられない程の強烈な印象を残す事になったのである。

 名も告げずそのまま去っていったこの通りすがりの男の子の事を、それからの琴美が如何にして調べ上げ、そして長年に渡りその姿を追い続けていったのかについては今ここで語るべき事ではないが、ともあれ琴美にとっては自分を助けてくれた智貴の存在こそが実在するヒーローそのものなのであった。

 *

(ああ、それに肩まで抱かれちゃって……!)

 

 大破した車を前にして恐慌をきたしかけていた自分を、智貴はその力強い両の腕で支えてくれた。彼に抱かれた時の感触を目を閉じながら思い起こす琴美は、思わずはふぅと熱いため息を漏らす。

 

「今の、先輩ですか?」

「えっ!? な、なに?」

 

 そんな琴美に智貴が唐突に声を掛けたものだから、うつむき加減でモジモジしていた彼女は慌てた様子で火照った顔を上げる。

 

「いや、声がしたんで」

「えと……な、なんて聞こえたのかな?」

 

 はてそんなもの聞こえただろうかと首を傾げる琴美ではあったが、もしや自分の考えていた事が知らず口に出てしまったのではと心配になってしまい、それを確かめたくて智貴に確認する。

 

「美味いか?って、そう言われたような……」

「そ、そうなんだ、私はなんにも聞こえなかったけど……」

 

 何とも気味の悪い事を言う智貴であったが、ひとまず己の心の内を彼に聞かれた訳では無いようだとホッとする琴美。が、それきり会話は途切れてしまったものだから、互いに顔を見合わせたままの二人の間に沈黙が訪れる。

 強風が屋敷の外に吹きすさぶ音と、それに煽られてガタガタと揺れる窓の音だけがしばし場を支配していたが、やがてその沈黙に耐えかねた琴美の方が口を開く。

 

「あっ……と、ところでそれ、どう? 変な味とかしなかった?」

「ああハイ、まあ大丈夫みたいです」

 

 智貴が耳にしたという声についてそれ以上詮索しない事にした琴美は、ひとまず彼が先程から口にしていた料理について感想を求める。味見程度と言っていた割りにしっかり食べている智貴であったから、彼女としては妙なものを食べて彼の具合が悪くなってしまわないかどうかの方が余程気掛かりなのだ。

 

「先輩もどうですか? 折角ですし」

「あっうん、そうだね、じゃあ食べよっかな……」

 

 琴美としても本音ではすっかりお腹がペコペコであったから、智貴がそう言うのなら食べてみても良いかもしれないと考えて自分の席にも置かれていたお絞りで手を丹念に拭っていく。

 

(なんかこれ、智貴くんに毒味させちゃったみたいだなぁ……)

 

 得体の知れない料理を率先して食べてみると言い出した智貴であったが、もしかするとそれはご馳走を前にしてお腹をグゥと鳴らす程に空腹であったにもかかわらず躊躇していた自分の事を慮ったが故の事だったのかもしれない。そのように考えた琴美は何やら急に申し訳ないような気持ちになってしまったのであるが、ひとまずはフォークを手にして皿の上のポテトサラダをぱくりと口に運んでみせる。

 

「ぶほぁっ!」

「うおっ!?」

 

 瞬間、琴美が燭台の炎を大きく揺らめかせる勢いで盛大に噴いたものだから智貴も思わず声を上げて仰け反ってしまう。

 

「ごほっ、ごほっ、げふん……!」

「え……先輩?」

 

 顔を背けて口元を手で抑えつつ咽せている琴美に、席から身を乗り出した智貴が心配そうにその様子を伺う。

 

「こ、これ、カラシがぁ……すごい入ってるぅ」

「マジすか……」

 

 やられた。自分はまたしても屋敷の主にしてやられたと、目から涙を浮かべている琴美の心に悔しさが広がっていく。二組の料理の内、どちらか一方はこうして露骨に刺激物が混ぜ込まれていたのだ。屋敷のどこかでイヒヒ、ウフフ、アハハと仕掛け人の邪悪な高笑いが聞こえてくるような気がした琴美であったから、怒りのあまりその目がみるみる血走ったものへと変化していく。

 

(殺す、絶対にブチ殺す……!)

 

 こちらの料理を智貴が食べなくて良かったと思う琴美ではあったが、代わりに彼の前で大変みっともない姿を晒してしまう羽目になったものだから、彼女の中でこの最低な悪戯を仕掛けた屋敷の主に対する殺意が膨れ上がっていく。いっそこの屋敷に火でも放ってやろうかと、物騒な事まで考え出してしまう琴美であった。

 

「げほっ、み、水……」

 

 刺激物で焼かれた口の中に潤いを与える為、琴美は予め水が注がれて料理と共に並べられていたグラスを手に取る。

 

(待てよ、これも何か入ってるんじゃ……!)

 

 が、すぐさまそのような疑いが生まれたものだから琴美はそれに口を付けるのをためらってしまう。仕掛け人の手口の傾向がなんとなく読めてきた琴美は、間違いなくこの水にも何かしらの罠が仕込まれているのではと警戒したのだ。

 

「先輩、これ」

「え?」

 

 そうしてグラスと睨めっこしている琴美の懸念を察したのか、智貴がすっと水の入った自分のグラスをテーブル越しに彼女へと差し出す。

 

「え、で、でも……!」

「俺も飲んだけど大丈夫でしたから」

 

 だからこちらの水を飲めば良いと、そのような申し出をした智貴。対する琴美はといえばそんな彼に「でもでもだって」と悩ましげに遠慮する様子を見せつつも差し出されたグラスに手を伸ばさずにはいられない。

 

(ふぁ──! これ間接キスやん!?)

 

 嗚呼神よ、なんという事でしょう。降って湧いた信じられないチャンスに琴美は一気に頭の中が沸騰する。智貴からグラスを受け取った琴美の手は今や興奮のあまりカタカタと小刻みに震える程であったから、グラスの中の水がチャプチャプと波打つ。

 

(大丈夫だよな!? 飲んでいいんだよな!? 変に思われないよな!?)

 

 これはあくまで刺激物に苦しんでいる自分を助ける為に智貴が緊急的に与えてくれたものであって、それに口を付ける事に何らイヤらしい意味合いは無い。そう己に言い聞かせた琴美は、自分を見守る智貴の目を気にしつつも恐る恐るそれに口を付ける。

 

(はうっ)

 

 途端、琴美の味覚が、嗅覚が、持てるポテンシャルの全てを引き出して研ぎ澄まされる。意識そのものが加速していき、心なしか周囲の時間の流れがゆっくりとしていくように彼女には感じられた。自身の口の中に広がるその澄みきった芳香は、無味無臭の筈の水に含まれる確かな智貴の存在を琴美に訴え掛ける。そして舌を潤す湧水は、ある筈の無い甘美な味わいすら彼女に齎した。ごくり、ごくりと無心になってグラスの水を飲んでいく琴美であったが、それが喉を通っていくごとに心地良い慈雨の恵みが己の全身へ染み渡っていくのを感じる。

 

「ぷはぁ」

 

 智貴にすればほんの数秒程度で水を飲み干した琴美は、まるで水中から上がってきたダイバーのように大きく息を吐いてみせたかと思うと、そのまま荒い息遣いで呼吸を整え始める。

 ただ水を飲んだだけなのに何故そこまで息が上がっているのだろうかと言いたげな智貴の視線に気付いた琴美は、取り繕うようにエヘンと一つ咳払いをすると、グラスをテーブルに置いて落ち着いた風を装ってみせる。

 

「あ……お水ありがとね、その、すごく美味しかったよ」

 

 あぁこの言い方って何だか気持ち悪いなぁと我ながら思ってしまう琴美ではあったが、その顔にはとびきりのご馳走にありつけて満足したかのような福々しい様子がありありと浮かんでいた。

 実の所、先程までは空腹のあまりその足取りがふらつき始めていた琴美ではあったのだが、今や彼女の全身には言い知れない活力が漲ってすらいた。智貴が与えたただの水は、琴美の体の中で謎のエナジードリンクへと変換されてしまったのかもしれない。

 

「良かったらこれも食います?」

 

 食べかけですけど、と、智貴は己の分の──おそらくは安全と思われる──料理まで差し出したものだから、琴美はそれだけで先程のように噴き出してしまいそうになる。

 

「えええっ!? で、でも悪いよそんなの、智貴くんの分が無くなっちゃう……!」

「いや、俺もう十分食いましたんで」

 

 全く以って今日は一体どういう日なのだろうか、こんなの東京ラブストーリーやんと心の中で飛び跳ねる琴美の顔には、最早先程まで抱いていた家主への激しい怒りの色はどこにも見当たらない。むしろ彼女としては図らずもこのような状況を作り出してくれた家主に今は礼を言ってやりたい気分なのであった。

 

「あっ、じゃあお言葉に甘えて……」

 

 高揚するあまりまたしても呼吸が乱れてきた琴美が、その差し出されたご馳走を受け取ろうと手を伸ばしたその時。

 

 ──キャァァァァ!

 

 二人の耳に、どこからか響いてくる誰かの悲鳴らしき声が確かに届いた。

 

「……先輩、今の聞こえましたか?」

 

 差し出していた皿を引っ込めすぐさま席を立ち上がった智貴は、辺りを警戒しつつ琴美にそう尋ねる。

 

「う、うん。今、キャーって誰か叫んだような……」

 

 伸ばしていた手が空振ってしまった琴美であったが、彼の問い掛けにそう答えて自身も周囲を見回す。

 

 ──キャァァァァ!

 

「また……女の人、だよね?」

「みたいですけど……」

 

 またしても聞こえてきたその甲高い悲鳴はどうやら女性のもののようだ。それがこの屋敷の中からか、或いは外から聞こえてくるのかは不明だが、ともあれ誰かがどこかで悲鳴を上げている事だけは間違いないようだ。

 

「行ってみます?」

「えっ? あ、う、うん……」

 

 せっかくの晩餐の途中ではあったのだが、残念ながら最早悠長に食事を楽しめるような雰囲気でもなさそうだと、未練を残しつつも琴美は智貴の提案に頷いて席を立ち上がる。

 悲鳴の主が何者なのかは判らないが、その声の様子からしてただ事ではなさそうだ。単に発狂した家主が叫んでいるのか、或いは他の誰かが悲鳴を上げざるを得ないような目に遭わされているのか。どちらにせよその発生源を確かめに行くのならば手ぶらで赴くのはあまりにも不用心だ。先程ミイラ部屋に武器代わりの電話帳を置き忘れてしまっていた琴美は、改めて手頃な武器になりそうなものはないかと辺りを見回す。

 

(ハッ!? こ、これだっ……!)

 

 それは自身の目の前にこそあった。琴美は悲鳴の聞こえてきた方を見やっていた智貴の目を盗む形でテーブルの上に身を乗り出して〈それら〉を音も無く次々に掴み取ると、卓上に置かれていたナプキンでささっと包んで素早く懐に隠す。

 琴美が今し方拝借したもの、それは智貴が使っていたフォークとナイフ、そしてスプーン。自分の席にも同じものが配膳されているにもかかわらずわざわざそちらに目を付けてしまう琴美なのであった。そもそも武器にするのならばスプーンのようなものまで持ち出す必要は無いのだが、琴美にとっては三種の神器の一つとして見逃す訳にはいかなかったらしい。

 

「……?」

「あ! じゃ、じゃあ行こっか?」

 

 自分の席の向かい側で何やらゴソゴソしていた琴美に気付いて振り返った智貴であったが、彼の訝しげな視線を受けた琴美は取り繕うようにして慌ただしく食堂の出入り口へと向かって歩き出す。そんな彼女の胸は激しく脈打っており、さながら本人の目の前で大胆にも使用済みの何々を盗んでみせたドロボーの心境であると言えなくもない。

 ともあれ先程から繰り返し耳に届く悲鳴の聞こえてくる方向を頼りに、二人は食堂を出てその発生源を突き止めに行くのであった。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(5)

ト・モ・キ

 件の悲鳴が聞こえてくる方角に向けて屋敷の中を慎重に進んでいた琴美達は、やがて食堂から繋がる廊下の突き当たりに行き着いた。そこには鉄製の錆びついた扉が立ちはだかっており、扉の向こう側からは先程よりもより明確な音量であの悲鳴が響いてくる事からして、その発信源は近いと思われた。

 

「……じゃあ、開けますんで」

 

 何が飛び出してくるか判らないからと、琴美を少し下がらせた智貴が音を立てないようドアノブをゆっくり回してから、扉をそっと開いてみる。

 

「わっ……!」

 

 たちまち生温い雨風が廊下へビュウと流れ込んできたので、琴美は小さく声を上げてしまった。その吹き付ける強風に押されそうになる扉を体で押し留めた智貴は、扉の隙間から向こう側の様子を伺う。

 

「裏口みたいですね、ここ」

「ほんとだ……」

 

 自身も扉に近寄ってその隙間からあちらの様子を覗き込んだ琴美は、己の顔に雨交じりの外気が強く吹き付けてくるのを感じる。

 

「良かったね、ここから出れそうだよ」

 

 悲鳴の発生源を探っていたら意図せずして屋敷からの脱出口を発見出来たものだから、琴美の顔に明るいものが浮かぶ。外は大雨に強風の合わせ技で、おまけに時折落雷まであるという悪天候ぶりではあったが、それでもこんな場所に居るよりはマシであろうと早くも琴美はこれからどうやって下山したものかと算段を始める。

 

(トランクにカバーとかあったし、あれなら合羽の代わりになるかも……)

 

 大破した自身の車ではあったが、その後部トランクには車を覆う為のカバーが積まれていた事を思い出した琴美は、それが道中でこの雨風を凌ぐために役立つかもしれないと考える。ボンネットからの発火により炎に包まれてしまった車ではあるが、流石にこの大雨の中では既に鎮火していると考えられるので、後はシートが火の手を免れて無事である事を祈るばかりだ。

 

 ──キャァァァァ!

(うわっ……!)

 

 扉の隙間から吹きすさぶ雨風に乗ってまた例の悲鳴が聞こえてきた。今度は遮蔽物を挟まない分、その悲壮な叫びがハッキリと琴美達の鼓膜を震わせる。

 

「いますね、この先に」

「う、うん……すっごい叫んでるね」

 

 声の方向からして悲鳴の発信源はこの裏口から広がる庭の奥の方である事は疑いようがない。自分達がここからもしそちらへと赴けば、きっとそれと鉢合わせする事になるだろう。

 

「誰かあっちの方で襲われたりして……?」

 

 まるで誰かに助けを求めているかのようなその叫びに、琴美は自分達と同じような遭難者がこの狂った屋敷の主人に捕えられた結果、絶叫せざるを得ないような残酷な仕打ちを受けている様を想像してしまう。

 今日は自分達以外にも流星を見物するつもりでいる人々がこの山の付近には幾人も訪れている筈である。その内の誰かが自分達と同じように道を間違えた末にここに迷い込んでしまったという事はないだろうか? そんな突拍子もない琴美の疑念ではあったが、現にこうして悲痛な叫びが繰り返し聞こえてくる以上、そこに誰かが居てこの嵐の中で恐怖しているらしい事は確かなのだ。庭先に広がる暗闇が、琴美の不安を掻き立てて次々にあらぬことを考えさせてしまう。

 

(助けに行ってあげた方がいいのかな……)

 

 だがそもそも自分達はこの屋敷から脱出して逃げおおせる事が目的なのだ。下手に悲鳴の発せられる現場に赴いてそこで危険な何かと出くわしでもしたら、自分達の身にまで害が及ぶかもしれない。そうした可能性が万が一にもあるのであれば、そのような所に智貴を行かせたくはないというのが琴美の本音であった。

 

(チェーンソーとか持ってる奴が居たら敵わないし……)

 

 人里離れた屋敷に住む殺人鬼一家が来訪者を捕らえて次々と血祭りにあげていくという、一昔以上前に話題になった映画の事を思い出してしまったものだから、琴美の背筋にゾッとした悪寒が走る。

 ひとまずここは自分達だけでも先に脱出して、まだ見ぬ哀れな被害者については山を下りた後ですぐ警察に通報して助けに向かって貰うようにするのが良いのでは無いか。きっとそうした方が良いに違いないと、琴美は罪悪感に胸を締め付けられつつもそう己を納得させる。

 

「あ、あのさ、智貴くん。とりあえず今は……」

 

 声のする方向には向かわず、一旦このまま裏口から出て玄関の方まで回り込み、そのまま門から出て行こう。そう言おうとした琴美であったが、後から口を開いた智貴にそれを遮られてしまう。

 

「……俺、ちょっと見て来ます」

「ええーっ!?」

 

 悲鳴が聞こえてくる方をじっと睨みつけていた智貴が、意を決したようにそう琴美に告げたものだから、琴美は声を裏返らせてしまう。

 

「俺達だけじゃどうにも出来ないかもしれないけど、でもこのまま見捨ててったらマジでヤバそうじゃないですか?」

「そ、それはそうだけど……」

 

 智貴としても琴美が言いたい事など重々承知の上のようであったが、琴美が目を背けようとした可能性をあえて指摘する。自分達が山を下りて警察を呼んだとしても、この分ではその間に被害者はどうにかされてしまうかもしれない。助けるならば今しかないのだと、智貴の目はそう訴えていた。

 

「先輩はここで待ってて下さい、もし何かあったら大声で呼んでくれたらすぐ戻ってきますんで」

 

 見捨てていこうとした己と違い、自身を省みず人を助けようとする智貴のその心意気に眩しさを感じずにはいられない琴美ではあったが、それでも今だけは彼のそんな善性の輝きがもどかしい。

 

「一人じゃダメ! 私も一緒に行くから!」

 

 こんな所に置いて行かれるのは心細くて堪らないし、それ以上に彼を一人っきりにさせてしまうのが心配でならない琴美は、自分も一緒に付いていくと主張する。智貴に対しては日頃からどこか遠慮がちな彼女ではあったが、この時ばかりは真っ向から彼の言葉に逆らってみせるのだった。

 そんな琴美の想いを汲んだのか、しばし黙り込んでいた智貴はおもむろに琴美の目を見つめながら頷いた。了解したとの彼なりの意思表示だと琴美は理解する。

 

(あっ、これ「目と目で通じ合ってる」ってやつだ……!)

 

 智貴とアイコンタクトを交わすなど初体験の琴美は、彼のその鋭利な瞳に見つめられて舞い上がった。

 智貴と一緒ならきっとどんな事も怖くない。先程のマジカルミネラルウォーターのお陰ですっかり活力を取り戻していた琴美の目には、今や愛する男性を屋敷の脅威から護衛せんとする気概すら浮かび上がっていた。そうして決意を固めた琴美は、裏口の近くに立て掛けられていたデッキブラシを手に取り護身具代わりとする。どうやら懐に収めた三種の神器はいざという時の為に温存するつもりらしい。

 扉を抑えていた智貴が後ろに半歩引き、扉が風圧によって開いていくに任せると、開ききったその出入り口から益々雨風が侵入してきてしまう。逆風を押しのけるようにして二人が足を踏み出せば、やがて吹きすさぶ風の音と共に、屋敷を取り囲む森が強風に煽られ轟々と唸りを上げているのが聞こえてくる。

 

(うわぁ、びしょ濡れだよもう……)

 

 懐中電灯の明かりを頼りにしてぐしょぐしょにぬかるんだ庭の中を智貴と共に歩いていく琴美であったが、その全身は早くもシャワーを浴びせられたかのように濡れそぼってしまう。眼鏡に付いた水滴のせいで視界もおぼつかないものだから、たまらず琴美は前を歩く智貴の上着の裾を掴んでその後を付いていくのだった。

 

(これって……)

 

 少しして夜目が効くようになってきた琴美は、道すがら庭の中に建てられていたプレハブ小屋の前を通りすがった事に気付く。それは物置小屋の類であろうか、はたまた……。

 

(ガレージとか?)

 

 このような山中にある屋敷であるからして、交通手段として車の一つも置いていない筈は無い。出来る事ならそうした車を奪ってでも帰りたい琴美ではあったが、よしんば車があったとしてもそれに都合良くキーが挿さったままになっている事など期待出来そうになかった。

 

(あっ、でも確か……)

 

 しかし琴美は、先程自分達が居た裏口の手前で目にした壁掛け式のボードの事を思い出す。そこには部屋数の多いこの屋敷で使われていると思わしき鍵が名札付きで幾つもぶら下げられていたのだが、ひょっとするとあそこに車のキーなんかもあるのではないかと考えてしまう。

 

(どうしよう、後で戻ってみようかな……?)

 

 迷った琴美が歩みを進めつつも背後の屋敷を振り返ると、レンズに付いた水滴の合間からあの屋敷の不気味な威容が目に映る。窓から明かりが漏れている二階の部屋はあのミイラが潜んでいた場所であると思われたが、それ以外の部屋はさっぱり電気が付いている気配がないようだ。そもそも屋敷を初めて目の当たりにした際は家屋自体が不気味な仄明るい光を放っていた筈であったが、今はそれが嘘のように古びたその外観を闇夜の中にうっすらと浮かび上がらせるだけになっていた。

 琴美がふと辺りを見回せば、庭のそこかしこに群生している弟切草達もいつの間にやら発光しなくなっているのが見て取れた。果たしてあの時自分達が見た光景は現実だったのだろうかと、琴美は今更ながらに疑問に思ってしまう。およそ人為的に引き起こす事が出来なそうなあの超常的な光景を思い起こしていた琴美の脳裏に、停電の際に己の目の前に現れた例のゾッとするような冷たい瞳が浮かび上がる。

 

(あれ、結局何だったんだろう……)

 

 家主の度を越した悪戯の一環であったとしても、取り分け気味の悪さを感じさせたあの体験が琴美の中にしこりを残す。あれにも何か仕掛けがあったのだろうと疑いつつも、まるで幽霊そのものと出くわしたとしか思えない琴美ではあったが、それはともかくどうにも気掛かりな点があった。

 

(あの目、誰かに似てた気がするんだよなぁ)

 

 果たしてそれが一体誰であるのか、今一歩の所で思い出せないでいた琴美はもどかしさを感じてしまう。

 

 ──キャァァァァ!

「ひええっ!」

 

 今正に自分達のすぐ目の前で聞こえてきたその絶叫に、心ここにあらずであった琴美は思わず自分も悲鳴を上げてしまう。すかさず智貴が声のした方向に懐中電灯を向けてその正体を確かめようとする。

 

 ──キャァァァァ! キャァァァァ!

「……ああ、これだったのか」

 

 連続する悲鳴が辺りに響く中、智貴はほっとした様子を見せる。そんな彼の言葉に、その背後でデッキブラシを握りしめていた琴美が恐る恐る顔を覗かせて前方を確認する。

 

「ええー……」

 

 それを見た琴美の体から途端に緊張感が抜けていく。悲鳴を上げていたものの正体、それはこの強風に煽られてバタバタと開閉する際に軋む音を立てていたガラス戸なのだった。温室か何かだろうか、内部に数多の植物らしきものを茂らせているらしいガラス張りの小屋が庭の中に建てられていたようだ。

 

 ──キャッキャーッ! キャキャッ、キャー!

(キャアキャアうっせーんだよ! 割るぞ!)

 

 引っ掛かった引っ掛かったと、まるで琴美を嘲笑うかのようにリズミカルな音を立てるそのガラス戸を睨み付ける琴美。こんなものに自分達は振り回されていたのかと拍子抜けする一方でムカムカした衝動が込み上げてくるが、ともあれ危惧していたような事は無いのだと判っただけでも良しとする。

 

 ──キャァァ……

 

 風に煽られ続けていたガラス戸はとうとう弾みで完全に閉じられてしまったようで、最後に小さく一鳴きするとそれきり動きを止めて沈黙してしまった。

 

「ねえ智貴くん、ちょっと裏口まで戻っていいかな? 確かめたい事があるんだけど……」

 

 ひとまず屋敷を去る前に車のキーが無いかだけでも確認していこうと思った琴美はふぅと一息つくと、己の手前でずっとガラス戸に明かりを向けたままでいる智貴にそう語り掛けた。

 

「……」

 

 が、智貴はそれに返事をしようとせず、ただただ目の前のガラス戸をまんじりと見つめるばかりだ。

 

「えと、と、智貴くん……?」

 

 そんな彼の様子にただならぬ気配を感じた琴美が、改めて気遣わしげに智貴の名を呼ぶ。

 

「……先輩、これ見て下さい」

 

 そう言って明かりを揺らす智貴。言われた琴美がそちらを見やれば、閉じられたガラス戸があるだけだった。

 

「あ……!」

 

 しかしそれをまじまじと見た琴美もまた言葉を失ってしまう。ガラス戸の表面に赤い色で大きく『 智 貴 』と書き殴られていたからだ。それは紛れもなく琴美の想い人と全く同じの、漢字の一字も違わぬ名前であった。

 しばらく互いに呆然としてその場に立ち尽くしていた二人であったが、嵐の音に紛れて屋敷の方からにゃおう~んと猫の鳴き声が聞こえてきたような気がした琴美は、いち早く我に返って智貴に声を掛ける。

 

「智貴くん! と、とりあえず戻ろ? ね?」

 

 これ以上ここに居てはいけないと感じた琴美は、彼の腕を引っ張って屋敷の方へ戻るよう促す。

 

「これ、俺の名前ですよね……」

 

 が、それでもまだ智貴は自分と同じ名が書かれたガラス戸を見つめたままだ。その声色に彼の心の動揺がありありと含まれている事が琴美には確かに感じられてしまう。これが琴美達の会話を盗み聞きする等して智貴の名を知った家主による露骨な悪戯だとしても、漢字まで同じであるというおよそ偶然とは思えないその一致に薄ら寒い思いでいるのは琴美も一緒だ。当の本人である智貴にしてみれば、尚の事気味の悪さを感じているに違いない。

 

「そうかもしれないけど……! でもここに居ちゃいけないよ? もう行こ?」

 

 であれば尚更この場所から一刻も早く立ち去らねばならない。初めて目の当たりにする智貴の弱気な姿が可哀想でならない琴美は、いっそ彼を抱き抱えてでもこの場から遠ざけてあげたくて仕方がなかった。

 と、急にはぁーとため息をついて懐中電灯を下ろした智貴は、雨に濡れそぼった顔で琴美の方を振り返る。

 

「……戻りましょうか」

 

 彼が心ここにあらずの状態であったのは少しの間だけであったようで、気丈にも自分を取り戻した智貴は琴美にそう言って、彼女と共に来た道を引き返していくのだった。

 *

(智貴くんが、狙われている……?)

 

 智貴の背に手を添えてやりつつ屋敷の方へ向かって歩いていた琴美は、先程からあれやこれやと考え込んでいた。智貴の事を名指しされたに等しい先程の出来事であったから、事態を重く見ずにはいられないのだ。

 そもそも敵は何故智貴の正確な名前まで知っていたのだろうかと、琴美の中にそのような疑問が浮かぶ。仮に智貴が本名を知られる手掛かりなどを持ち合わせていて、それをたまたま屋敷の中に落として拾われてしまったというのであればまだ理由も付くのだが、先程からずっと無言のままでいる智貴にこれ以上この件を思い出して欲しくないと思った琴美は、あえてそれを口に出さないようにする。

 

(もしも智貴くんに何かしてきたら、その時は……その時は……)

 

 鬼にでも悪魔にでもなってやる。何にしても早々にこの屋敷を立ち去って自分達の安全を確保せねばならない訳であるのだが、もし敵が智貴に手を出してくるようであればと考えてしまった途端、琴美の中にドス黒い怒りの渦が巻き起って仕方がない。まだこれまでのように趣味の悪い悪戯の範疇であれば許してやらない事もないが、仮に本気で自分達に危害を加えようとしてきた場合はどうするか。そうなれば例え相手と刺し違える事になってでも……と物騒な事まで考え始めた琴美の目には鋭い光が浮かんでいた。

 やがて屋敷の近くまで戻ってきた二人であったが、琴美はふと二階の方を見上げた。ミイラ部屋の窓からは今も頼りない光が漏れていたのだが、その窓際に何かが居る事に琴美は気づく。それはあの黒猫で、窓際に佇み黒いシルエットを浮かび上がらせ、屋敷の方へと戻ってきた琴美達をじっと見下ろしていたのだ。

 琴美にはその黒猫の視線がまるで人間のものであるように感じられたものだから、負けじと強く睨み返してやる。と、猫の目玉が一瞬だけギラリと真っ赤に光ったかと思うと、そのまま窓際を下りて姿を消したものだから、琴美にはそれがあたかもこの屋敷の主からの自分に対する明確な敵意の表明であると感じられてしまうのだった。

 ともあれ開け放たれたままになっていた裏口から琴美達は再度屋敷の中へと足を踏み入れていく。外を吹き荒れる嵐はまだまだ当面続きそうであった。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(6)

小宮山さんのチャレンジ熱湯コマーシャル

(良かった、やっぱり有った!)

 

 先程まで開け放たれていた扉から入り込んでいた雨のせいでびっしょりと濡れてしまった裏口にて、琴美はあっさりお目当てのものを発見出来たものだから、緊張に強張っていたその頬を少しばかり緩めた。

 裏口の壁に掛けられていた鍵置きボードを物色していた琴美は、そこにぶら下げられていた車の鍵らしきものを手に取った。鍵にはプラスチックの名札が付けられておりマジックで『ワーゲン』と書かれているのが読み取れるが、それは琴美にも聞き覚えのある大衆車の名であったから、自身の読み通りこの屋敷には車が置いてあるのかもしれないと、彼女の心へ一筋の光明が差し込む。

 

(ああでも、これってやっぱ窃盗罪とかになっちゃうのかなぁ)

 

 同じくボード上にぶら下げられていたガレージの鍵も拝借してそれらを上着の内ポケットにモゾモゾと仕舞い込んだ琴美であったが、これから自分のやろうとしている行為が果たして今のような状況下においても罪に問われてしまうのかが気になり始めてしまう。身の危険を肌で感じつつあった琴美ではあるが、今の所はまだ決定的な状況に出くわしたという訳でも無いので、後から警察にあれこれ追求されてしまった場合にどのように説明すべきかと考えずにはいられない。

 

(変死体を見つけて怖くなったからって言えば大丈夫かなぁ……。いやでもここんちの奴が後で「あれ偽物なんですけど? ていうか不法侵入なんですけどぉ?」とか言ってくるかもだし……って、あーもうヤメヤメ!)

 

 ともあれそうした事を心配するのはひとまずこの屋敷を無事脱出してからにしようと、琴美は頭を振ってその思考をストップさせる。今は自分達の身を守る事だけを考えなくてはならない、本当に何かがあってからでは遅いのだ。例え後から罪に問われてしまったとしても智貴が共犯者扱いされてしまうような事だけは避けなくてはならないが、ひとまず車泥棒の実行を決意する琴美であった。

 

「クシュン!」

 

 と、そんな琴美の様子を背後で見守っていた智貴が控えめなくしゃみをした。琴美同様に彼も全身ずぶ濡れで、今も前髪や顎から水滴を滴らせているのが見て取れる。

 

「大丈夫? 体冷えちゃった?」

「いや、平気っす」

 

 気遣わしげな琴美のその問い掛けにどうという事は無いと答える智貴ではあったが、廊下の頼りない照明に照らされる彼の顔はどうにも血色が良くないようだ。

 

(このままじゃ風邪引いちゃうかも……)

 

 先程からその小さな体に闘志とも使命感ともつかぬ気力を漲らせていた琴美と違い、先程の一件からどうにも悄然としているように見える智貴であったから、そんな彼の体力が雨に晒された事で奪われつつあるのかもしれない。元よりずぶ濡れになってでも下山しようと考えていた琴美ではあったのだが、首尾良く車を手に入れる事が出来るのならその前に智貴の体の水気を拭いてやれないものかと考える。

 

「あっ智貴くん……私、ちょっとタオル持ってくるね」

 

 二人が出口を求めて屋敷の中を探索していた際、中を確認してみた部屋の一つに脱衣所らしき場所があった事を思い出した琴美は、あそこならバスタオルの一つや二つ位は置いてあるのではないかと考えてそのような事を言い出す。

 そうして壁に立て掛けておいたデッキブラシを再び持った琴美は、すぐ戻るからと智貴に告げて早速駆け出そうとするが、途端にその手を智貴に掴まれてしまった。

 

「え!? な、なに? どど、どうしたの?」

「……先輩だけじゃ危ないですよ、俺も付いてきます」

 

 突然智貴がそのような行動に出たものだから、目を白黒させた琴美がついでに頬っぺたも赤くする。琴美だけを一人行かせては何があるかわからないと心配したのか、自身も同行すると申し出る智貴であった。

 

「そ……そう? じゃあ、い、一緒に……行こっか?」

 

 何とも健気に映ってしまう智貴のそうした心意気を前にして、はあぁぁんと心の中で間の抜けた声を上げる琴美は思わず彼を抱きしめたくなってしまう。許されるのならば己を掴んでいる智貴の手をそのまま手繰り寄せ、デート中のカップルさながらのように恋人繋ぎしてみたい衝動に駆られる琴美なのであった。

 無論琴美にそのような思い切った事が出来る筈もなかったから、やがて自分を掴んでいた智貴の手が離れていってしまうのを、琴美はただ名残惜しそうに見届けるのだった。

 

 ◆

 

 廊下を二人して進み、例の食堂の前を通り過ぎた先にある扉の一つを開けば、目的の場所がそこにあった。照明のスイッチを入れて室内の様子を確認してみれば、湿った空気の中にカビ臭さが漂うその小じんまりとした部屋は確かに脱衣所であるようだ。扉から入ってすぐ目の前には開放式の棚が据えられており、その隣には洗面台がある。更にそのまた隣にはすりガラスの引き戸も設置されており、そこを開けばおそらく浴室なのではないかと思われた。

 中に誰も潜んでいない事を確認した二人は、やがて部屋の中へと足を踏み入れそのまま扉をそっと閉じる。

 

「はい智貴くん、これタオルね」

 

 棚に収められていたバスケット達を次々に傾けて中身を確認していた琴美は、その内の一つにバスタオルが畳まれた状態で幾つも重ね入れられているのを発見する。長らくここに放置されていたのだろうか、それらのバスタオルからはいやに古びた臭いがしないでもないのだが、無いよりはマシであるとそこから二人分のタオルを取り出して片方を智貴に渡してやる。

 ども、と軽く頭を下げてそれを受け取った智貴はひとまずそれで頭や顔を拭うが、やがて一旦タオルを棚に掛けておもむろに上着を脱ぎ出すと、それを手に洗面台へと向かう。雨でびちょびちょに濡れた智貴の衣服はずっしりと水気を含んでいたものだから、ギュっと絞ってやりでもしないと体を濡らすばかりなのだ。

 が、そんな智貴の様子を琴美が見逃す筈も無く、彼女はバスタオルで頭を拭く振りをしつつもタオルの隙間からチラリ、チラリとしきりに目を覗かせては彼の姿を熱心に観察していたのであった。このような状況下で誠に節操の無い事ではあるのだが、何分たっぷりと水に濡れた智貴というものを琴美は初めて目にする訳であったから、風呂上りに見えなくもないその姿に普段の凛とした彼とはまた違った蠱惑的な印象を感じてしまわずにはいられないのであった。彼の濡れたシャツから透けるその肌色が、雨で冷えてしまっていた琴美の体を火照らせる。

 

「なんすか?」

 

 シャツとズボンも脱いだりしないかなぁと意識せずそのような期待を浮かべていた琴美であったが、やがて自分の方を振り向いた智貴と目が合ってしまう。

 

「あっ! ち、違うの! そうじゃなくて……」

 

 先程から智貴の体を舐め回すように見ていたのがバレたのではと焦った琴美は、手をパタパタ振りつつ慌てて言い訳を考える。

 

「そ、その、お風呂! お風呂とか入れたらなーと思って!」

「えっ」

 

 自分でも何を暢気な事を言っているのだろうと思う琴美であったから、智貴のその呟きに含まれる些か呆れの混じった気持ちを察してしまい、いたたまれなくなる。

 

「あっでもそこまで入りたいって訳でもなくて……そのぉ、えと」

「……じゃあちょっと見てきます」

 

 咄嗟の己の出まかせに更に言葉を重ねて取り繕おうとする琴美であったが、智貴はそのように返答すると浴室の引き戸を開けて中の様子を確かめ始めてしまう。自分がそうであるように、琴美もまた雨風に打たれ体が冷え切ってしまっているが故にそのような事を言い出したのだろうと彼は考えたのかもしれない。

 しかし智貴のそうした気遣いも今の琴美には心苦しさを感じさせる。体が冷えているどころか火照る己の体温で蒸し暑い位の琴美であったから、自分の嘘で彼に気を遣わせてしまった事が何とも申し訳なく感じられてしまう。さりとて今更その嘘を訂正するのも憚られる為、照明を付けた浴室でシャワーを捻ったりしている智貴の背中やうなじをひとまずは見守る事にするのだった。

 

(うわぁ、私の顔ヤバいな……!)

 

 やがてなんとはなしに洗面台の鏡へと目を向けた琴美は、己のメイクが雨ですっかり乱れているのにようやく気付いた為、洗面台に身を乗り出してその具合を慌ててチェックする。主張の強いメイクはあまり好まぬ性分の琴美であったから悲惨な状態には至っていないものの、だからといってこんな顔をこれ以上智貴に晒したくは無い。ならばすっぴんの方が幾分かマシであろうと考えた琴美は顔を洗う為に眼鏡を外して手元の蛇口を捻る。

 そうしてゴポゴポと水の上がってくる音が聞こえ、琴美はそれをすくおうと手を差し出すが──

 

(ゲッ!)

 

 蛇口からは赤黒く汚れた水が勢い良く噴き出してきたものだから、琴美には一瞬それが血であるように見えてギョッとしてしまう。しかしどうやら古い水道管に溜め込まれた錆びが流れ出ていただけであったようで、しばらくすると透明な水が流れてきた事に琴美は安堵の溜息を漏らす。

 気を取り直した琴美は自身のメイクを水だけの洗顔で可能な限り落としていき、やがて蛇口を閉めて鏡の前で己の顔を念入りに確認していく。

 

(ん……?)

 

 と、琴美は鏡を通して見える己の背後に何やら人影らしきものがある事に気付いたので、手元の眼鏡を掛けて鏡を見直してしまう。

 

(え? 誰!?)

 

 視界のクリアになった琴美の目に今度こそ背後の存在がハッキリと映り込む。そこにはいつの間に現れたのか、一人の少女が佇んでいたのだ。その姿を見てしまった琴美は思わず体を固まらせてしまい、鏡に映る背後の存在から目が離せなくなってしまう。

 身長からして小中学生位かと思われるその少女はボリュームのあるモサモサの黒髪に白いワンピース姿といういでたちであったが、その顔色は大変に生気が無く、病人を通り越してまるで死人のようですらあった。そして何よりも琴美を戦慄させたのは、背後の少女が憎悪に歪んだおぞましい表情で、爛々とした赤い光を放つ邪悪な視線を鏡越しにぶつけてきている事であった。

 これは人間などではない。そう本能的に察した琴美ではあったが、その刺し殺すような少女の視線に呼吸すら止められて身じろぎが出来ない。射竦める相手を干からびさせるような乾いた熱気と、それでいて心の底まで凍りつかせるような鋭い冷気とが琴美へ同時に浴びせかけられる。

 凍ったまま焼かれるようなその形容し難い感覚に晒される事しばし。それは実際の時間にしてほんの数秒程度であったかもしれないが、やっとの事で体を動かす事の出来た琴美がどうにか背後を振り返ってみれば、そこには誰も居ないのであった。

 

(何……今の……!?)

 

 琴美の背筋に粘り気を帯びるゾワリとした感覚が広がっていき、嫌な汗がじっとり滲んできてしまう。つい今し方まで己の後ろには確かに少女が佇んで強烈な視線でこちらを睨み付けていた筈なのだが、今やその姿はどこにも見当たらない。

 

「先輩、お湯出せますよこれ」

「あ、う……」

 

 と、浴室からヒョイと顔を覗かせた智貴が琴美にそのような事を言う。しかしそれに声にならない声で返事をする琴美であったから、智貴も何かあったのかと脱衣所へ戻ってくる。

 

「え、なんかありました……?」

 

 つい先程まで自分の後ろに恐ろしい形相をした女の子が立っていたと、琴美はそう伝えるつもりであった。だが咄嗟の所で彼女は口を噤んだ。

 

「な、なんでも無いよ……ちょっと、虫が出て驚いただけだから」

 

 智貴には先程の女の子の事を教えてはならないと、琴美はそう直感する。知ったが最後、あのミイラの時のように智貴がまたその姿を求めて屋敷を調べたがるのではないかという懸念が湧き上がってきてしまったのだ。

 先程見た少女の姿が件のミイラと何故だか重なってしまった琴美は、もしかするとあれはミイラの幽霊なのではないかと考えてしまう。あのミイラは家主が自分達を驚かせる為に用意した作り物だとずっと自分に言い聞かせていた琴美ではあったが、事ここに至り己のその認識に疑いを持ち始めていた。

 そもそも本当にこの屋敷に人間など住んでいるのだろうか? 頭の悪い電話が掛かってきたり子供じみた悪戯が仕込まれた料理が用意されていたりと、どこか人間味を感じさせる出来事が続いたものだからすっかり生きた人間としての家主の存在を認めていた琴美であったが、同時に人間のなせる業とは思えない奇怪な出来事の方もそれ以上に起こっている。

 これはもう、何か得体の知れない存在に化かされているのではないか。そう考えた方がしっくり来てしまうこれまでの不可解な出来事の数々を思い起こす琴美であったから、それまで智貴への底無しの愛と家主への猛烈な怒りが生み出す精神力で抑え付けていた己の中の恐怖心が再び顔を覗かせてしまい、この屋敷の全てがどうしようもなく不気味に感じられて仕方がなくなるのであった。

 

「大丈夫ですか? 顔、真っ青ですよ」

「ど、どうかなー、ちょっと寒気するかも……」

 

 そう言って己の肩を抱きすくめるような仕草をする琴美の体は実際、先程までの熱気が嘘のように冷え切ってしまっていたのだ。びしょ濡れの衣服を着たままでいた琴美であったから、尚更体温が奪われていく。

 

「……シャワー浴びます? 壊れてなさそうでしたし」

「えっ?」

 

 そんな琴美の体調を今度は智貴が心配し、湯浴みでもして体を温めてはどうかと提案する。幸い彼が確認した限りではシャワーは暖かい湯を吐き出していたものだから、この屋敷の湯沸かし器が正常に稼動していると判断したようだ。

 

「え、えっと~、ど、どうしよっかな~……」

 

 正直とても風呂に入るような気分ではない琴美ではあったが、自分の出まかせを信じた智貴が折角琴美の為にと浴室を調べてその具合を確かめてくれたのである。「やっぱいいわ、すまんな」などとは言い出し辛い琴美であった。

 

「あ、じゃあ、ちょっとだけなら……」

「俺、扉の前で見張ってますから。何かあったらすぐ呼んで下さい」

 

 琴美の消極的な返事を受け、智貴は自分のバスタオルを拾い上げて脱衣所の外へ出ていこうとする。

 

「え? あ、ちょ、待って待って!」

 

 そんな智貴のシャツの裾をグイっと掴んだ琴美が慌てて彼を引き止める。自分の目の届かない所に智貴を置いてしまっては、そのままふらっと居なくなってしまうのではないかと不安に駆られたからだ。

 

「こ、ここでいいよ! この中で見張っててくれたらいいから……」

「え? いや、でも……」

 

 何か言いたげな智貴ではあったが、琴美が一人になるのを怖がっているのかもしれないと考えたのか、ひとまず足を止めてこの場に留まる様子を見せる。

 

「判りました、ここで待ってます」

「ご、ごめんね……じゃあすぐ上がるからね」

 

 そう言って外した眼鏡を洗面台に置いた琴美は引き戸の前で靴を脱いで脇に避けると、今度はびっちょり濡れたその上着を脱いで引き戸の手前に置かれた脱衣カゴの縁に引っ掛ける。続けてシャツを脱ごうとヘソの辺りまで捲くった所で、智貴の様子にはたと気付いた琴美はその手を止めた。先程まで向き合っていた筈の智貴が、今は何故だか琴美に背を向けて不自然に壁と向き合い押し黙っているようだった。

 

「ど、どうしたの? 何かいるの?」

「いや、そっち見ないようにしてるんで……」

 

 そんな智貴の様子が気になってつい声を掛けてしまった琴美であったが、彼のそのような返答を受けてようやく状況を理解する。

 

(ああああ! 私、智貴くんの前で脱ごうとしてたあああ!)

 

 脳天を突き抜ける衝撃が琴美を穿つ。入浴前は脱衣所で脱ぐものと、これまでの人生で染み付いた習慣を無意識に実行した琴美ではあったが、意図せずしてとんでもない事を仕出かしそうになった自身の迂闊さが恐ろしくなった。

 

「あ、ごごご、ごめんねっ、お、お風呂場の中で脱ぐから……!」

 

 そう言ってカゴから上着を拾い上げ、慌てて浴室へと入った琴美はその引き戸を勢い良く閉める。はぁはぁと肩で息をする彼女の頬はいまやニホンザルのように赤く火照っていた。

 

(ああびっくりしたぁ~……)

 

 ドキンドキンと痛い程に脈打つ胸を両手で押さえる琴美は、カビの臭いが満ちるジメジメしたその古ぼけた浴室の中で呼吸を必死に整える。

 

「ふぅ──……」

 

 やがて呼吸を落ち着かせた琴美は、いやはや大変な事があったと大きく溜息をつきながら先程のハプニングを振り返る。だがその顔には自身の気付かぬ内にニヤニヤと笑みが浮かんでもいたのだった。

 

(ああでも、勿体無い事したかも……)

 

 あのまま何も言わず黙っていれば智貴の前で全裸になれたのに。ドサクサに紛れて想い人の前で堂々と素肌を晒す一世一代のチャンスを自らふいにしてしまった琴美に何とも平和な後悔が押し寄せる。そうした煩悩で頭がいっぱいになってしまった琴美の心には、先程あれだけ自分を戦慄させた幽霊の事など最早毛程も残っていなかった。何から何まで智貴中心に物を考えてしまいがちな琴美には、実の所怖いものなど何も無かったのかもしれない。

 ともあれ早く風呂を上がって智貴とこの屋敷を出ていかねばならないので、そそくさと残りの衣服を脱いだ琴美はそれらを一つづつギュッと絞って水気を切ってやるのだった。と、上着の内ポケットに入れておいた二つの鍵が落っこちてしまったものだから、うっかり無くしてしまってはいけないとそれらを拾い上げて再びポケットに突っ込む。ついでに反対側の内ポケットをまさぐる琴美であったが、これは食堂で手に入れた貴重な品々を落としてしまっていないかが気になったためだ。家に持ち帰って宝物にでもするつもりなのだろうか、ポケットから取り出したそれをしげしげと眺めていた琴美は、鍵よりも余程丁重にそれを再び元あった場所へと収める。

 ともあれ水気を切った衣類を脱衣カゴに置くべく、琴美は遠慮がちに引き戸を少しだけ開けて浴室から顔を出した。脱いだシャツを洗面台の前で絞っていた最中の智貴であったが、急に顔を覗かせた琴美に反応した様子を見せる。

 

「あ、へへへ……こ、これ、服をね、カゴに……」

 

 真に残念ながら生憎今は眼鏡を外してしまっていた為、シャツを脱いだ智貴の姿をハッキリと拝めない事が琴美には悔やまれてならないが、今の自分はガラス一枚隔ててすっぽんぽんの状態で彼と相対しているのである。智貴の表情はボヤけて見えないが、きっと彼もこちらの姿を目にしているのだろうと考えた彼女は恥ずかしさを紛らわせる為にわざわざどうでも良い説明をする。まるで恋愛漫画のワンシーンのようではないかと、またもや自身の胸が激しく鼓動していくのを感じてふんすか鼻息が荒くなってしまう琴美だった。

 ひとまず脱衣カゴを戸の前まで引き寄せて、手にした衣類をそこへ入れていく琴美であったが、最後にさりげなく己のブラとパンツをこれみよがしにそれら衣類の山の上に乗せてから顔を引っ込め扉を閉じた。意図的なのか無自覚なのか、逆セクハラと受け取られかねないそうした所業も、今この瞬間だけはきっと許されるのだと琴美は開き直っているのかもしれない。

 *

(さて、と……)

 

 ひとしきり先程のシチュエーションを堪能した琴美は、おもむろにシャワーのコックを捻る。すると先程まで智貴が調子を見ていたおかげで、すぐさま暖かい湯がシャワーヘッドからチョロチョロと流れ出した。

 

(もう寒くないんだけどなぁ、まあついでだし)

 

 己の肩を抱いて寒さを訴えていた琴美はもはや過去の存在。今またすっかり火照りを見せている彼女の体はこれ以上の温もりを必要としておらず、暑くなったり寒くなったりと体温の季節がコロコロ変わって真に忙しい琴美なのであった。

 やがてコックを全開にしてその身を湯に晒す琴美であったが、日中の野球観戦でかいた己の汗を流していく心地良さにまんざらでもない様子だ。

 

(ここがホントにホテルだったらな──……くそ──……)

 

 智貴がすぐ近くにいる中でこうしてシャワーを浴びているという、この官能的な状況を受けてまたしてもそのような未練がましい思いを湧き上がらせてしまう琴美。いつか智貴が成人する頃にはチャンスをモノにしてみせるぞと、昂るあまりそんなことを誓ったりするのだった。

 

(えーと、石鹸は……と)

 

 一旦シャワーを止めた琴美は狭い浴室の中にそれらしいものが置かれていないかと足元を見回す。すっかりメイクを落としてしまった琴美ではあるが、愛する男性の前ではせめて香りの身だしなみぐらいは整えておきたかった。元より自分の体臭が臭いのではないかと密かに心配している琴美としては、智貴に内心で「くっせ」と思われてしまうのは何としても避けたい所である。そういうプレイならまだしも、本気でそのように敬遠されてしまったとあっては流石の琴美の乙女心もダメージを免れない。

 

(無いな……こっちか?)

 

 周りに目当てのものが見つからない琴美は、シャワーと浴槽とを仕切っているらしい黒カビだらけのカーテンを開けて中を覗き込む。

 

「うげぇ、何これ……!?」

 

 カーテンで仕切られた先には人間一人が足を伸ばして入れそうな陶器製の浴槽が置かれていたのであるが、その浴槽の中を目の当たりにした琴美は声を上げる。

 浴槽の中に予め張られていたらしき水はまるでヘドロのように淀みきっており、見るからに腐敗している様が見て取れたのだ。浴槽から立ち昇る腐臭が琴美の鼻にも届いてしまったものだから、彼女は思わず手で口元を押さえてしまう。その水面にはまるでここで散髪でもしたかのように女性のものと思われる黒い髪が大量に浮かんでおり、天井の明かりに照らされたそれらはヌラヌラとした生々しい光沢を放っていた。

 

(気持ち悪っ! やっぱこの家ほんとイカれてるわ……)

 

 これ以上それを目にするのがウンザリな琴美はひとまずカーテンを閉めて自身の視界からそれをシャットアウトする。なにやらまた己の中の不安がぶり返してきそうな琴美であったから、早々にシャワータイムを切り上げてしまおうと考えるのだった。

 

(あっ、バスタオル持ってきてないや)

 

 自分が頭の水気を拭くのに使っていたバスタオルを脱衣所に置いたままであった事を、琴美は今更ながらに思い出す。これは智貴にお願いして取って貰うしかないなと、今し方見た光景をひとまず忘れる事にした彼女は新たな刺激に挑むべく引き戸に手を掛ける。

 

「あれ? んっしょ、え?」

 

 しきりに引き戸へ力を込める琴美ではあったが、戸はガタガタと音を鳴らすばかりで一向に開いてくれようとしない。

 

「ねえ智貴くん。これ、ちょっと開かなくなっちゃったんだけど……」

 

 見た目通りオンボロな浴室であるからして、立て付けが悪いのだろうかと考えた琴美は、脱衣所で待っていてくれる智貴に助力を乞うべく声を掛ける。

 

「智貴くん、居るの? ねえ!」

 

 が、何故か返事が無いものだから、浴室にはシャワーから滴る水の音だけがピチョンピチョンと響く。ガラス戸を焦り気味に叩いて呼び掛けてみるものの、やはり智貴からの返事は無いようだ。それを受け、琴美の胸中にじわりと不安が広がり始める。

 

「うわぁっ!」

 

 琴美の背後のシャワーが、突然ひとりでに湯を吐き出し始めた。そのことに仰天させられる琴美であったが、訳も判らないままひとまずそれを止めようと、頭から湯を被りつつコックを捻る。

 が、止まらない。幾らコックを回そうと、シャワーの勢いに何ら変化は見られなかった。

 

「え? なにこれ、ちょ、熱っ!」

 

 そうしている内にみるみる湯の温度が上昇していき、最早それは苦痛を感じるレベルにまで達する。

 

「やぎさわぁぁ────!」

 

 遂にはシャワーから熱湯そのものが噴き出したものだから、それを浴びせられた琴美が堪らず絶叫する。反射的に横っ飛びした彼女は傍らのカーテンにしがみついてしまうが、その勢いのままブチブチとカーテンが千切れていく。そうして琴美は例の浴槽の縁にバランス良く両足を広げて着地してみせるのだった。

 

(なんだこれ! 壊れてんのか!?)

 

 危うく本当に茹で上げられてしまう所だった琴美はすんでの所で危険を逃れたものの、シャワーから吐き出される熱湯の放つ湯気が瞬く間に浴室内をもうもうと埋め尽くしていく。嵌め殺しの小さな換気窓が高い位置にある以外は窓らしい窓も無いこの浴室であったから、このままではいずれこの中で蒸し殺されてしまい兼ねないと、琴美は危機感を募らせる。

 

(さてはまたやりやがったな、ゴミムシが!)

 

 この突然の出来事にまたしても作為的なものを感じ取った琴美は、これがおそらくは屋敷を支配する悪意の仕業であろうと当たりを付ける。その正体が幽霊なのか、はたまた狂人なのか、最早琴美にはどうでも良かった。敵はとうとう自分に直接的な危害を加えてきたのだ。ここまでいったらもう戦争しかないと、琴美の目に再び怒りの炎が灯る。

 

(智貴くんが危ない……!)

 

 これだけの騒ぎにもかかわらずやはり智貴が声を掛けてくる気配が無い事から、彼がいずこかへ連れ去られてしまったのではないかと胸騒ぎを覚えてしまう琴美。ならばこうしてはいられないと、琴美は中途半端に千切れかけていたカーテンをあらかた引き千切ると、熱湯を吐き出し続けるシャワーヘッド目掛けてそれを上から覆い被せる。琴美の狙い通り、水を弾くそれによって湯はせき止められ、そのままカーテンをシャワーヘッドに巻きつけてやれば、ひとまずは熱湯攻撃を封じる事が出来たのであった。

 しかしカーテンの隙間からは漏れ出た湯が方々に噴出され続けている訳であるから、この大量の熱気を含む湯気はいかんともし難い。早々に戸を破って浴室から脱出せねばならない琴美はもうもうと白く煙る周囲を見回す。

 

(何にも無い……こうなったら!)

 

 残念ながらガラス戸を破れそうな手頃なものが見当たらなかったものだから、琴美は意を決して浴槽の縁から下りる。

 

(アチチチッ……!)

 

 浴室の床一面を満たすその熱湯に琴美の素足が悲鳴を上げた。急に排水溝が詰まってしまったのか、シャワーから吐き出される湯は排水されず先程から浴室に溜まる一方のようである。

 

(気持ち悪いけど、もうこうするしか!)

 

 足から容赦無く伝わるその熱に耐えながらも、琴美は持ち上げるような姿勢で浴槽の縁に両手を掛け、目一杯力を込めてそれを盛大にひっくり返す。そうして浴槽から流れ出たヘドロで湯の熱さが中和され、琴美の足に伝わる熱が幾分かマシになるが、代わりに浴室内が吐き気を催す腐臭に満たされてしまう。当たり一面に気色悪い髪の毛が漂い、ヘドロの中に沈んでいたらしい幾つもの動物や魚の骨もその姿が露わとなる。水面には数多の虫の死骸らしきものまでがそこかしこに浮かび上がっていたものだから、浴室は嗅覚のみならず視覚にも大変宜しくない場所と化してしまった。

 が、今の琴美はそれらに気を取られている暇は無い。次なる脱出の一手として、彼女はその重い浴槽をずるずると引き戸の前まで引きずっていく。そうして今度は浴槽の片方を必死に持ち上げて立たせた状態にすると、それをどりゃあーと押し込み引き戸目掛けて激突させる。それに成す術も無いガラス戸はあわや木っ端微塵となり、無事に突破口を開いた琴美は足元に散乱する破片に注意しながら慎重に脱衣所へと逃れるのであった。

 

(やっぱり居ない……一体どこに……?)

 

 琴美の思った通り、脱衣所に智貴の姿は無かった。見れば入り口の扉が開かれたままになっていたものだから、そこから顔を覗かせ廊下を見渡してみるが、やはり誰の姿も見当たらない。これはもう自分がシャワーを浴びている隙を狙って何者かが彼を連れ出したに違いないのだと、琴美はそう確信する。

 琴美はもうもうと湯気を上げ続ける背後の浴室を尻目に、すっかり散らかって床一面に汚水の広がる脱衣所の中で急ぎ身支度を整えていった。そうして先程水気を切っておいた上着を琴美がカゴから掴んで着込んだ所で、ふと何かが気になった彼女は懐の内ポケットをまさぐる。

 

(あれ? 無い……なんで?)

 

 琴美が大事にしていたあの食器類がいつの間にかポケットの中から無くなっていたのだ。もう片方のポケットに入れておいた鍵は無事であったから、誰かが意図的に抜き取ったとしか思えない状況に琴美は思わず歯噛みしてしまう。

 

(盗られた!? クソムシお前かコノヤロー!)

 

 盗られたも何も、そもそもこの屋敷にあった物を出来心で勝手に拝借したのは琴美の方なのであるからして、「取り返された」の間違いなのだが、今やあの食器は完全に琴美の所有物(おたから)として認定されていたから、彼女の憤りも致し方なかった。

 ともあれ出立の準備が整った琴美は壁に立て掛けられたままになっていたデッキブラシを再び手に取ると、愛する智貴の姿を求めて勢い良く脱衣所を飛び出していくのだった。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(7)

黒木智貴の事情

『おいで、智貴……』

 

 またこの夢だ。真っ暗な空の下に黄色い花々だけが広がるその世界で、例によってあの声が聞こえてくる。

 

『ほら、早く来いよ智貴』

 

 この夢の中で俺はいつもこうして誰かに名前を呼び掛けられる。その声は家族のものでも友人のものでもなく、どこの誰とも知れない赤の他人のものだ。

 

『聞こえてんだろ? 返事しろよな』

 

 なのにどうしてだろう。こちらを呼ぶその声はいつかどこかで聞いた事があるような、そんな気がしてならない。だから俺はいつもこう尋ねるのだ。

 

「あんた誰だよ」

 

 すると決まってこのように答えが返ってくる。

 

『お姉ちゃんだよ、お前の』

 

 俺は一人っ子だし、そう言われても全く心当たりなど無い。なのにこの声はさも当然のように毎度そのような事を言う。

 

『いいから早く来いよ、姉ちゃんずっと待ってんだぞ』

 

 どこからか風が吹いてきて周囲の花をザワザワとなびかせる。しきりに招くその声に惹かれるように俺は前へと踏み出していく。

 

『こっちこっち……そう、そのまま……』

 

 そうして歩き続けて行くと、どこまでも続く花畑の向こうに誰かが佇んでいるのが見えてくる。白い服を着た女の子らしき姿がこちらへ向かって手を振っている様子が伺える。

 

『おとうとー! おとうとー! おーいおーい!』

 

 姉ちゃんだよ、姉ちゃんだよと、遠くの方からしきりに声を上げるその女の子。いつもこの夢に出てくる彼女は、一生懸命手招きするばかりで決して自分の方から俺に歩み寄っては来ない。だから俺はその子の方へと向かって歩き続ける。

 もしかしたら知り合いなのかもしれないと、その子の顔を間近で確かめてみたい気持ちが湧き起こる。だけどもそれは叶わない。早くあの子の下へ辿り着かなくてはと気が焦るのに、何故だか足が鉛のように重いせいでひたすら歩く事しか出来ないものだから、もどかしさばかりが募っていく。

 早くしないとまたいつものように向こう側へ辿り着く前に目が覚めてしまう。そう思って進み続けるのだが、あの子との距離は一向に縮まらない。その間も女の子は休む事なく呼び掛け続けているが、やがて声が遠くなり始める。ああ、これは夢の終わりが近づいてきた合図だ。そうするといつもあの子は悔しそうな声で、意識を浮上させる俺に向けてこう叫ぶのだ。

 

『お前は私の弟だかんな! 忘れんなよ!』

 

 あんた、本当に誰なんだ。

 

 ◆

 

 智貴の姿を探し求めて屋敷の中を走り回っていた琴美の姿は今、玄関ホールの階段手前にあった。手当たり次第に一階の部屋を片っ端から開け放って中を確認していた彼女であったが、結局智貴を発見するに至らなかったものだから、続いて二階へと捜査の手を伸ばしに来たのだ。

 この広い屋敷の中で随分と走ったのだろう、息を上がらせ額に汗を浮かべている琴美ではあったが、その顔に疲れの色は微塵も見られない。己の行く手を遮るものあらば手にした得物で一戦交える事すら厭わない程に殺気立った様子の彼女が、二階へと続く階段を相棒たる自身の眼鏡で捉える。

 

(智貴くん、どうか無事でいて……!)

 

 何もかもが狂ったこの屋敷ではあるが、しかしそれを恐れて躊躇している暇など琴美には無い。来るなら来いとばかりに力強く足を前に踏み出し、豪打無敵の構えで一歩ごとにギィギィと軋みをあげる階段を上っていく。

 

(ん……?)

 

 そうして階段を上りきった琴美がさてどこから手をつけていくべきかと赤い絨毯の敷かれた廊下を見回していたところ、その耳が何かを捉えた。

 

(誰か喋ってる……?)

 

 左側に向かって伸びる廊下の方から、何やら人の話し声のようなものが聞こえて来たものだから、声のする方に向けて琴美がそろりそろりと歩み寄っていく。

 

(ここだ、やっぱり中でなんか言ってる……!)

 

 声は廊下の途中にある白塗りの扉の中から聞こえてきていた。琴美が扉の前で聞き耳を立ててみれば、どうやら部屋の中にいる誰かが絶え間なくペチャクチャと喋っているようだ。

 

(智貴くん、じゃないよな……もしかしてここん家の奴か?)

 

 何を喋っているのかまでは判然としないが、そのくぐもった声色は舌っ足らずな子供のようでもあり、或いはしわがれた老婆のようでもある。ともあれ智貴でない事だけは確かだ。

 

(もしかして智貴くんと話してる……?)

 

 あたかも目の前の誰かに向けてずっと話し掛けているようだと、声の主の口調から琴美はそのように感じてしまう。くだんの声色からは上機嫌な様子でいる事がありありと伺え、話し方もまるで仲の良い友達とのお喋りを楽しむかのような気安さを感じさせるものであった。少なくともそこに剣呑な雰囲気は微塵も見受けられなかったものだから、それまで殺気立って得物を握りしめていた琴美は些か脱力してしまう。

 もしや部屋の中では今、智貴が屋敷の主人から歓待を受けているのではないだろうか。てっきりここが無人の幽霊屋敷ではないかと思い始めていた琴美ではあったが、今また改めて生きた人間としての住人の存在を認めるに至った。

 

(ドッキリでしたーとか言ってネタばらししてきたのかな……?)

 

 きっとようやく気の済んだイタズラ家主によって智貴は一足先にこの部屋の中でこれまでの怪異の真相を明かされているのだと、先程自分が危うく殺されかけた事を脇に置いて琴美はそのような希望的観測にすがってしまう。やはり彼女としてもホッと一安心出来るような展開が待っていてくれる事を切に望んでいたのだ。

 そうした期待を込めて琴美がおもむろに目の前の扉をノックしてみた所、途端に部屋の中の喋り声がピタリと止む。

 

「あっ、と、智貴くん、私。小宮山だけど……」

 

 おそらく中に居るであろう智貴に向けて、琴美は扉越しにそう声を掛ける。そうしてしばし様子を見ていた琴美であったが、どうも返事が無い。疑問に思った琴美はドアノブを回してそっと扉を開けてみる。

 

(えっ!?)

 

 少しだけ開いた扉の隙間から中の様子を伺った琴美の目には、ただただ暗闇だけが映る。部屋の中は電気もつけられておらず真っ暗なのであった。扉を開け放った琴美がその真っ暗な空間に踏み込めば、いやに埃っぽい部屋の中はしんと静まり返って誰も居ないようであった。

 確かに部屋の中から人の話し声がしていた筈なのにと、そのあからさまな齟齬にぞっとしたものを感じる琴美。彼女が先程まで抱いていた小さな期待は早くも消え去ってしまうのだった。

 

(ううっ……)

 

 途端、この怪物のような屋敷の中で一人置き去りにされてしまったかのような心細さが琴美の胸にじわりと広がり始める。殺気立つ程に気を張っていた彼女ではあったが、先程目の前にぶら下げられていたかに見えていたありもしない救いを前にしてつい心のタガを緩めてしまった事が綻びを生んでしまったようだ。彼女の中で虎視眈々と機会を伺っていた恐怖はその隙を見逃さない。誰も居ないその部屋の中で立ち尽くす琴美の心を孤独と不安が取り囲もうとしたものだから、これ以上ここに居たくないと思った彼女は後ずさるようにしておぼつかない足取りで出口へと向かっていく。

 と、そんな琴美の嗅覚が部屋の埃混じりの空気の中に何かを感じ取り、それが故に思わず足を止めてしまう。

 

「と、智貴くん、居るの……?」

 

 すんすんと音を鳴らす琴美の鼻は、確かにこの部屋に漂う智貴の気配を感じ取っていた。意を決して部屋の奥まで入り込んで辺りに目を凝らしてみれば、暗がりの中で今度こそ本当に琴美を安堵させてくれる存在と出会う事が出来た。部屋の隅に縮こまるようにして、俯いた様子の智貴が黙りこくってそこに座り込んでいたのを琴美は発見したのだ。

 

「ああっ、良かったぁ──智貴くぅぅぅん!」

 

 手にしていたデッキブラシをその場に取り落とした琴美は智貴に駆け寄り倒れ込むようにして彼の肩にすがり付く。するとそのまま彼女は嗚咽を漏らし始めてしまった。どうやらそれまで張り詰めていたものが切れてしまったようだ。

 

「先輩……?」

 

 そこまでいってようやく気付いたのか、顔を上げた智貴が傍らの琴美に声を掛ける。どうやら今の今まで彼はこの暗い部屋の中で一人、心ここにあらずの状態で閉じこもっていたらしい。

 

「と、智貴くんが……い、居なくなっちゃったから……誰かに……どっか連れてかれちゃったのかなって……」

 

 涙声混じりの琴美はそうして心の内を智貴に吐露していく。そんな彼女の様子にようやく自分を取り戻したらしい智貴はベソをかく琴美を驚かせないようゆっくりと立ち上がる。

 

「……ほんとスンマセン、勝手な事して」

 

 床にへたり込んでいる琴美にそう詫びて手を差し出す智貴。己の顔の前にあるそれをぼんやり眺めていた琴美であったが、やがておもむろに両手でがっちり掴み返して、そのまま智貴に支えて貰いながら立ち上がる。智貴の手から伝わる力強いその感触に、彼と無事再会出来た事を改めて実感した琴美はまた泣きそうになってしまう。

 

「連れてこられたとか、そういうんじゃないんです。ただ、誰かに呼ばれてるような気がしたんで……」

「呼ばれたって……こ、この家の人?」

 

 智貴が言うにはどうも脱衣所で琴美を待っていた際に何者かがどこかで自分の名をしきりに呼んでいるのがかすかに聞こえて来たそうで、その声の出所を探している内にこの部屋までやって来てしまったという事らしい。

 

「どうなんでしょうね、結局誰も居ませんでしたし……」

 

 智貴のそうした返答に、琴美は先程までこの部屋から聞こえていた喋り声を思い出す。居なかったのではない。確かにそこに声の主は居て、つい今し方まで智貴にずっと話し掛けていたのだと、そのように思えてならない。今だって声の主はこの部屋の暗がりに溶け込んで自分達の事を見ているのではないだろうか。

 が、それを智貴に伝えてわざわざ怖がらせてしまってはいけないと、琴美は自身の憶測を口に出さず飲み込んだ。先程智貴が語った内容からも判るように、今や彼が完全にこの屋敷から狙われてしまっている事は明らかであった。もう二度と彼から目を離してしまわないようにと決意を新たにする琴美は、早々にこの屋敷を出ていかねばと気がはやる。

 

「あ、でもなんで智貴くん、ここでずっと座ってたの……?」

 

 一つ、琴美には気になることがあった。己を呼ぶ声に惹かれてこの部屋を訪れた智貴が、何故今の今まで電気すら付けず一人この場に留まっていたのかが疑問であったのだ。

 

「……」

 

 琴美にそう問われた智貴はすぐには答えず、代わりに部屋の様子を眺めてみせてから口を開く。

 

「ここ、見覚えがあるんです」

「え?」

 

 答えにもなっていないような智貴のそうした返答に目を瞬かせる琴美。見覚えがあるというのは、つまり過去にどこかでここと似たような部屋を見たという事であろうか。薄明りを頼りに目を凝らしてみれば、どうも室内のそこかしこにぬいぐるみや幼児向けの玩具が置かれているらしい様子が見て取れた。

 

(子供部屋……?)

 

 その光景に、琴美はここが幼い子供の為に用意された私室なのではないかと考えてしまう。

 

「えっと、ど、どういう事かな……?」

 

 言葉足らずな智貴のその主張の意図が判らず尋ね返す琴美。見覚えがあるというのなら、それは琴美だって同じだ。誰しもかつては幼い頃に自宅や友人宅のこうした子供部屋で遊んだ事位はあるだろうと彼女は思う。

 

「似たような部屋で遊んだとか、そういうんじゃなくて……この家の、この場所の事を覚えてるんです」

 

 琴美の戸惑いを理解しているかのように答えた智貴は更に言葉を続ける。

 

「俺、もしかしたら昔ここに住んでたのかもしれません」

「は……え、えっ?」

 

 突拍子もない智貴の告白を聞いた琴美が口をパクパクさせる。いきなり何を言い出すのだと、普通であればすぐさま否定しに掛かる所だ。しかし他ならぬ智貴の言葉を琴美は無下にしたくなかった。

 

「住んでたって、いつの話……?」

「ずっと昔だった気がします、俺が本当に小さかった頃かも……」

 

 だから琴美は、言葉少なな智貴の心の内が知りたくて更に質問を投げ掛ける。そうした彼女の問い掛けに答える智貴ではあったが、彼にも確信は無いようでどこか手探りでいる様子が見て取れた。

 

「ご両親からは何か聞いてない? 今のお家に住む前は、ここに皆で住んでたって事なのかな?」

 

 閑静な住宅街にある智貴の自宅をこっそり間近で見に行った事のある琴美はその外観を思い出す。建てられてからまだそれ程年月が経っていないように見える住居であったから、もしかするとあの家が建つ前は智貴の言う通り本当にここに住んでいた可能性も否定出来ないのだ。

 

「いえ、親父とおふくろは……一緒じゃなかった気がする」

 

 が、琴美の問い掛けにまたしても智貴は不可解な答えで返す。両親と共にではなく、幼い彼一人だけでこの家に住んでいたとでもいうのだろうか。

 

「そう、女の人が居ました、大人の……。それに、小さい女の子が一人」

 

 記憶を絞るようにして断片的に語る智貴の話は徐々に具体性を帯びていく。自分の口が語るその言葉が呼び水となって、彼に更なる記憶を呼び覚まさせているのかもしれない。

 

「女の子は、もしかしたら俺の家族だったのかもしれません。大人の人は、多分母親……」

「ちょちょ、ちょっと待って智貴くん!」

 

 智貴の独白に耳を傾けていた琴美であったが、流石に待ったを掛けずにいられなかった。今彼は何と言ったのか。それではまるで、今とは異なる家族と暮らしていたという事になるのではないか。

 

「そ、それ、変だよ……だって智貴くんは一人っ子だし、今一緒に暮らしてるご両親の子供でしょ?」

「そりゃそうですけど……。ああ、でも俺、なんでこんな事覚えてんだろ……」

 

 頭痛でもし始めたのか、智貴が己の記憶の著しい矛盾にこめかみを押さえてしまう。

 

「俺、この屋敷に来た時からずっと思ってたんです……。変な話ですけど、どこもかしこも妙に懐かしいなって……」

 

 そう言いながら、開け放たれたままになっている扉の方へふらふらと歩み寄っていく智貴。淡々と己の心情を打ち明けていくその声は僅かに震えていて、先程までは気丈そうに見えた彼が言葉を続けるごとに戸惑いと不安を滲ませていくのが琴美には判ったものだから、彼のそんな様子に胸が痛んで仕方がない。

 

「智貴くん、もういいから、もう大丈夫だから……。変な事聞いちゃってごめんね? 家に帰ったらご両親とその事でちゃんとお話ししよ?」

 

 だからもう帰ろうと、琴美は扉の前でうなだれる彼に歩み寄ってその背に手を添えてやる。事の真相が気になる所ではあるが、智貴の辛そうな様子に耐えられない琴美は想い人を悩ませるこの屋敷から一刻も早く連れ出してあげたくて仕方がなかった。

 

「先輩……これ見て下さい」

「え?」

 

 が、智貴は己の目線の先にあるドア枠を指し示し、琴美にそのような事を言う。言われた琴美がそちらに目を向けてみれば、そこには釘か何かで彫ったような傷が付けられていた。

 

(背比べの跡かな……?)

 

 幼い子供が自身の身長を測る為に彫ったようにも思えるそれは、よくよく見れば二人分彫られている。横線が縦並びで幾つか刻まれている所からして、おそらくは折あるごとに記録されていたのであろう事が伺えた。

 

「あっ!?」

 

 それをまじまじと観察する琴美は、あるものを見つけて驚きの声を上げた。二つの背比べの跡に添えるようにして『トモコ』『トモキ』と名が記されていたのだ。智貴の朧げな記憶を裏付けるかのようなその痕跡に琴美は瞠目する。

 

「俺、やっぱりマジでこの家に住んでたんですよ。ここで女の子と背比べしてたの、なんとなくですけど思い出してきました」

 

 この証拠を前にして幾分か迷いが晴れてきたのか、今度は確信を持ったかのように語る智貴であるが、その額には少なからず冷や汗が浮かんでもいた。

 

(女の子って、まさか……)

 

 智貴の言葉を受けて琴美が真っ先に思い浮かべたのは、脱衣所で自分が見たあの鬼の形相をした少女の事であった。まさかあれが智貴の言う女の子だったのではと、その正体の一端を掴めたような気がする琴美。

 

「じゃあ、ここってやっぱり今も誰か住んでるのかな……? その、お母さんと女の子とかが……」

 

 生活感のない廃墟一歩手前な屋敷の割に妙な所でライフラインが生きていたりと、そのチグハグさがどうにも釈然としない琴美ではあったが、智貴の言うようにこの屋敷で彼がかつて誰かと暮らしていたというのであれば、今もその人達がここで生活を続けている可能性は否定出来なかった。あの温室のガラス戸に書かれた智貴の名前も、実際に彼の事を知る者による仕業だと考えれば合点がいく。

 

「判りません……ただ、あのミイラはそのどちらかだったんじゃないかって、そんな気がします」

 

 あれが作り物でなく本物だとしたら、それはかつての同居人の成れの果てなのではないか。その正体が自分と同じ年頃の女の子であるのか、それとも母親と思わしき女性であるのかまでは判然としないが、ともあれ智貴の中では自身の遠い記憶の中にある人々と例のあのミイラとが結びついてしまう。

 

(きっとあの子だ……。あの幽霊は、ミイラになった女の子だったんだ……)

 

 智貴の口にするそうした推測を前にして、琴美はひとつの確信を得る。闇の中に浮かぶ不気味な誰かの目、そして脱衣所で目にした凶相の少女。琴美がこれまで遭遇したあれらの正体こそは、このドア枠の幼い成長記録に名を残す〈トモコ〉なる女の子が幾分か成長した姿だったのではないかと。

 

(さっき聞こえたあの声も、あの電話も……)

 

 先程までこの部屋でお喋りをしていた何者かの声と、ホールにて電話を通して自分を口汚く罵ってきた声とが琴美の中で重なる。あの子供なのか老人なのか判らない独特の声で喋っていたのはいずれもトモコの幽霊だったのではないかと、今更ながらにそう思えてきてならない琴美であった。

 

「先輩……やっぱり俺、もう少しだけ……」

 

 しばしの間考え込んでいた琴美に、傍らの智貴が何かを切り出したがっている様子でそのように歯切れの悪い言葉を掛ける。そんな彼が何を言いたいのかを、琴美はなんとなくだが察してしまった。思いがけず過去の自分と縁のあるこの場所に訪れてしまった智貴としては、このまま中途半端な形で屋敷を去る事に抵抗があるのだろうと、その心情を慮る。

 

「いいよ」

 

 だからこそ、言い出し辛いその意向を智貴が口に出す前に琴美は二つ返事で了承してみせる。

 

「もっと調べてみたいんだよね? この家の事……智貴くんが忘れちゃってた昔の事とか」

「ほんとすみません……俺のワガママなのに」

 

 心底申し訳ないといった様子で智貴が琴美に対して深く頭を下げる。彼としてもこの屋敷の異常性を重々理解してはいるようだ。ただ、智貴よりも更に多くの怪異に遭遇してきた琴美からすると、そこにはまだ幾分か危機感が足りていないようにも見えてしまう。だがしかし、ならば自分こそがそれをフォローすべく力を尽くして彼の事を守り通すべきなのだと彼女は考える。

 先程風呂場にて危うく殺されかけてしまった事をもし琴美が今この場で打ち明ければ、きっとその身を案じて智貴は自分の気持ちを抑えてでもすぐさま一緒に帰ってくれようとするだろう。それが判っているからこそ、琴美はその事を口に出さない。何が起こるか判らないこの場所に留まり続ける事が自分達にとって危険である事は判っていても、それでも琴美としては自身の愛して止まない青年がこうまでして願い出るその切実な想いを尊重してあげたいのだ。

 

「とりあえずあのミイラの部屋の日記だけでも持って帰って、それでもう帰りますから……」

 

 智貴としても長居するつもりはないようで、屋敷を去る前に手土産としてあの手掛かりになりそうな血まみれの日記だけでもせめて持ち帰りたいという事のようだ。後の事は無事家に帰ってから直接自分の両親に聞くなり、警察に屋敷を調べて貰うなりして事の真相を探る気でいるらしい。

 

「先輩も、付いてきてくれますか?」

 

 さりとてこれまで琴美はずっと帰りたそうにして度々怖がっていた訳であったから、そんな彼女の事を自分が振り回してしまっているという自覚のある智貴は遠慮がちにそう尋ねる。

 

「うん、もちろんっ」

 

 そのような智貴に、琴美は迷わず即答する。付いてきて欲しいという智貴の申し出をやけにきっぷの良い返事で快諾してみせたその顔には、愛する男性の求めに応じる事への喜びすら浮かんでいた。

 

「大丈夫だよ。私、智貴くんの行く所ならどこだって付いてくから」

 

 だから、これからもずっとずっとあなたに付いていきます。そうした本音混じりの最後の一言を、琴美は心の中でだけ呟くのだった。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(8)

秘密のとんでも日記、ご開帳

「あーっ!」

 

 床に落ちる何かを懸命に噛み破っていた黒猫の姿に、琴美は思わず声を上げてしまう。猫が矢継ぎ早にその口で引き裂き続けていたもの、それは裏表紙を血で濡らすあの赤い日記帳のページであった。日記を回収すべくミイラ部屋を訪れた琴美達であったが、どうやらお目当のそれは先客の粗相によって悲惨な状態にされつつああったようだ。

 

「やめろバカ!」

 

 慌てて日記を猫から取り上げようと駆け寄る琴美であったが、対する猫はそれに驚いたのか仁王立ちになり、爪を伸ばした両手で素早く宙をかき混ぜ彼女を牽制する。

 

「ほら、しっしっ!」

 

 迂闊に手を出そうものなら鋭い爪で怪我をさせられてしまいそうであったから、琴美は手にしたデッキブラシを突き出して狼藉者を追い払いにかかる。

 

 ──ミャンウォォ~~

 

 唸り声を上げつつ己の口元をペロリと舐め上げる猫は、突き出されたそのデッキブラシを払い落とさんとして盛んに手で叩く。琴美はと言えば、得物を突きつけはしたものの罪の無い猫相手に手荒な真似をする訳にもいかないので、日記の上に陣取って退こうとしないその猫と一進一退の睨み合いとなってしまう。

 が、その隙に猫の背後に回った智貴が日記をその足元から素早く引き抜いたものだから、不意打ちをくらいバランスを崩した猫は「ドゥオッ?」と間抜けな声を上げてその場で転倒してしまった。引き抜く際に日記がベリッと乾いた音を鳴らした事から、例の血糊の方はすっかり乾いているらしい事が伺える。

 

「プッ……なにこの猫」

 

 ともあれ猫にしてはなんとも鈍臭いその挙動に、琴美は思わず吹き出してしまった。笑われてしまった猫はと言うと、すぐ様何事も無かったかのように起き上がり、その場で盛んに毛づくろいを始める。

 

「あーもう、こんなにしちゃって……」

 

 ザマミロと少しだけ愉快な気持ちになれた琴美ではあったが、悪戯好きな猫に噛み破られてしまった日記帳のページが床に散乱しているのを見て溜息をついてしまった。どうせ破くのなら机の上に置き忘れたままになっていた電話帳の方にすれば良かったのにと、心の中で愚痴をこぼす。

 

(この猫、ほんと何なんだ? 飼われてんのか?)

 

 いつ終わるとも知れない毛づくろいを続けるその猫の姿に、琴美は不審なものを感じ始める。こうして見る分には何の変哲も無い猫であるのだが、この異常な屋敷の中においてはそれが却ってどうしようもなく不自然に映ってしまったのだ。ずっと昔の夏休み、当時まだ存命だった父と映画館で見たホラー映画にこのような毛足の長い不気味な猫が出てきた事を思い出した琴美は、そのうち目玉がサイケデリックに激しく点滅し始めたりするのではないかと想像してしまった。

 そのようにしてしばしの間この妙ちきりんな住人にあれやこれやと考えを巡らせていた琴美であったが、猫に構わず足元の紙切れを膝をついて黙々と拾い集めていた智貴に気付いて、急ぎそれを手伝いに掛かる。智貴の過去について重要な手掛かりが残されているかもしれない日記の一部であるからして、それぞれに何かしら内容が書かれているのが見て取れるそれらを一枚たりとも捨て置く事は出来ない。

 そうして紙切れを一通り集めきった二人であったが、智貴が部屋の隅に落ちていた小さい何かを拾い上げたかと思うと、それを凝視し始める。

 

「それ、どうかしたの?」

「……俺の写真です」

 

 そんな智貴の様子が気になって声を掛ける琴美に、彼は手にしていたものを差し出す。日記に挟まれていたものなのだろうか、それは一枚の古ぼけた写真であった。写真には気をつけの姿勢で屈託のない笑みをカメラに向ける小さな男の子が写っており、その傍らには同じ位の年頃の女の子が並び立っていた。

 

(ホントだ! この子、智貴くんだ!)

 

 子供にしては些か三白眼気味な写真の男の子を一目見て、琴美はそれが幼い頃の智貴に違いないと瞬時に見抜く。特徴的な顔立ちである場合は別にしても、ある人物の幼少期の写真を見せられてその中に本人の面影を明確に見出すというのは、家族や古い付き合いの友人でもなければなかなかに出来る事ではないのだが、これまでに何百回何千回と智貴の目鼻顔立ちを密かに観察し続けてきた琴美にとっては一目瞭然なのであった。

 

(あー凄いっ……ああーやばいっ)

 

 幼い智貴の愛くるしい姿に釘付けになってしまった琴美は、食い入るようにその写真を見つめたまま固まってしまう。あーだのうーだの、ブツブツと小さな呟きを漏らす彼女はそのまま放っておけば写真に口づけしかねない勢いだ。

 

「あの、先輩」

「えっ!? あっ、ごめん、な、なに?」

 

 その一枚に心奪われ恍惚としていた琴美ではあったが、智貴に声を掛けられすぐ様自分を取り戻す。

 

「俺の隣に居る女の子ですけど、多分それが……」

「えと、トモコって子、かな?」

 

 幼い智貴の傍らで微笑んでいる愛らしいその女の子こそは、どうやら智貴の古い記憶の中に存在するかつての同居人らしい。このようなものがこの屋敷にあるとなっては、二人もいよいよ確信を抱かざるを得なくなってしまう。確かにここは智貴が幼少期に住んでいたらしい場所なのだと。

 と、おもむろに写真を裏返す琴美。この手の写真には時折余白の所に何かしらメモ書き等が残されているものなのだが、果たして彼女の読み通り、そこには一文でこう記されていた。

 

『78.2 智子(ともこ)6才のお誕生日』

 

 智子、とある。智貴と一字違いの名前だ。これはもう、この写真の女の子は本当に智貴の家族か何かだったのではないかと考えた琴美は口を開く。

 

「この子、智貴くんのお姉さんだったんじゃないかな?」

 

 智貴の年度ごとの年齢データは全て頭にインプット済みであった琴美は、そのメモ書きが写真を撮影した年と月を示すものであると解釈し、この写真に写る女の子が智貴の一つ年上であるという結論に瞬時に至った。丁度この時期の智貴といえば、翌月に誕生日を迎える予定の四歳児であった筈だというのがその根拠である。

 

「そうですね……俺もそんな気がします」

 

 対する智貴も琴美のそのような推測に頷いて同意を示す。最も彼の場合、そのように感じた根拠は琴美が考えているのとはまた別の所にあった。

 

「結構前の話なんですけど、しょっちゅう妙な夢ばっか見てる時があったんです」

「え? 夢?」

 

 手を差し出し、琴美の集めた紙切れの束を預かった智貴が唐突にそのような事を言う。彼はやおら立ち上がると、己の集めていた分とそれとをまとめて机の上で整えながらも話を続ける。

 

「知らない女の子が出てきて、でもそいつが夢ん中で言うんですよ。『自分はお前の姉だ』って」

「へー、そ、そうなんだ」

 

 急な話についていけない琴美は、ひとまず曖昧な相槌を打ちながらも智貴の後を追って立ち上がる。

 ようやく毛づくろいの終わったらしい猫はというと、そんな二人のやりとりに何やら耳をそばだてているかのような素振りを見せていた。

 

「あれ、もしかしたらその写真の子だったのかもって、そんな気が……」

 

 智貴がそのように言うので、琴美は改めて写真の中の女の子をまじまじと観察してしまう。この写真に写る女の子こそは、自身が屋敷の中で幾度か遭遇したあの少女、〈智子〉の幼き頃の姿なのではないか。自身のこれまでの体験と、そして屋敷に残される物証からそのような推測を導き得るに至った琴美ではあったが、さりとて無垢で善良な顔をした写真の中の子供と、件の鬼の形相をした幽霊少女の印象とがどうにも一致しない。

 

(でも、あの女の子が智貴くんのお姉さんだとしたら……)

 

 あの目だ。例え写真の中の幼子と、自分が出くわした智子の印象がまるで一致せずとも、琴美の頭の中ではそれらを繋ぐ一本の線が見出される。停電が起こった際、暗闇の中で自分を凝視してきたあの印象的な目に何か引っ掛かるものを感じていた琴美であったが、遂にその答えへとたどりついた。

 

(そうだ! あの目、智貴くんにソックリだって、私、そう感じてたんだ……!)

 

 造形的な観点からじっくりと見比べでもすれば、似通った部分は実際それ程多くないのかもしれない。だがそういった捉え方を超えた部分で、琴美は言葉に出来ぬ形容し難い共通点を見出していた。敢えて言うのならば、その瞳の奥に宿る仄暗い濁りのようなものが、何かを見据えているようでその実どこも見ていない幽鬼のようなその無常さが、どうにも両者の間に分かち難い印象を感じさせるのかもしれない。それもやはり二人が姉弟であるが故の事と考えれば、琴美は得心がいったような心持ちになった。

 

(お姉さん、なんであんな事に……)

 

 おそらくはあの幽霊少女の遺体と思われる件のおぞましいミイラと、その在りし日の溌剌とした姿を収めたこの写真。その変遷には果たして如何なる事情があったのか、当事者でもない琴美にはどうにも窺い知れない。

 

「えっと……その夢に出てきた子って、他にも何か言ってたのかな?」

「『こっちに来い』って、確かそんな事も言われました。ずっと呼んでるんです、俺の事」

 

 智貴の夢の話からすると、あの幽霊少女、智貴の姉と思わしき智子嬢はいつぞやか彼の夢の中にまで出張ってきていたという事らしい。そうした現象は智子の並々ならぬ一念の成せる業であったのか、かねてより屋敷に潜む何者かが智貴を狙っているのではと危機感を持っていた琴美は、件の少女が智貴に対して抱く尋常ならざる思いの深さを感じ取る。

 

「そうだ……あの花。夢ん中でいつもアレがそこら中に咲いてて」

 

 そう言って部屋の隅に散乱する割れた花瓶の方を見やる智貴。そこには何本かの弟切草も散らばったままになっていた。

 

「どっかで見た事あるなって、ここに来る途中もずっと気になってたんすけど……」

 

 山中でのドライブ中、琴美からの問い掛けにも生返事を返すばかりでどこか心ここにあらずな様子を見せていた智貴であったが、どうやらそれは道路脇に自生していた弟切草の事を気にしていたが故の事だったらしい。

 

「そっか……なんか不思議な夢だね」

 

 落ち着いた様子でいるように見えつつも内心の不安をうっすらと声に滲ませていた智貴であったから、琴美は自分が弟切草にまつわる不吉な伝承を彼に聞かせてしまった時の反応を思い出してしまう。

 弟の、殺された無念が血となって染み付いた花。それが弟切草に持たされたいわれである。そのような花が出てくる夢を度々見てきた己が、今はこの弟切草に囲まれた奇怪な屋敷で数々の怪異に遭遇し、あまつさえ自分が誰かの弟であったかもしれないという証拠を突きつけられる。怖いとも恐ろしいとも零さず気丈を保つ智貴であるが、その心中を慮った琴美は一刻も早く彼の不安を払拭してやりたい気持ちになる。

 

「ねえ智貴くん、それちょっと読んでみてもいい?」

 

 整理し終えた紙切れを日記帳へ挟み込んでいた智貴に琴美がそのように申し出てみたところ、彼は特に異議を唱えず素直にコクリと頷いた。持ち帰ってからじっくり読ませて貰えば良さそうなものであるが、どうやら琴美は今この場で少しばかり日記の内容を拝見していきたいらしい。

 無知は恐怖を生む。人は知らないからこそ余計な不安を抱え込む。なればこそ、智貴の内心の不安を少しでも晴らせればと、真相の一端がそこに秘められている事を期待しつつ、琴美は閉じられていた赤い表紙を開いてページを手に取っていく。

 *

『夫が鎧になってしまった。きっと娘の仕業だ。叱られてカンシャクを起こした智子が夫をあのような姿にしてしまったのだ。あの子に自覚は無いけれど、きっと私と同じような力が遺伝してしまったに違いない。どうにかしてあの人を助け出さなくては』

 

『娘の力は私よりもずっと強かったようで、私にはもうあの人を元に戻してあげる事がどうしても出来ない。鎧の中にあの人の存在を感じはするけれど、もう一言だって言葉を交わせない。自分のしでかした事に気付いていない娘は「お父さんはどこ?」と無邪気に尋ねてくる。あなたのせいなのに』

 

『あの日以降、娘が様々な事を引き起こすようになった。壁を通り抜けたり、ぬいぐるみ達をダンスさせたり、とうとう塀の鉄格子を捻じ曲げたりもした。あの子にも自覚が芽生えてきたようで、自分の力を楽しんでいるようだ』

 

『外でハチのように空を飛び回っていた息子がしきりに泣き叫んでいた。慌てふためく娘がそれを追いかけ回していたけれど、智貴を楽しませてあげようとしたつもりが上手く力を操れなくなってしまったのかもしれない。娘を叱ってもう二度と力を使ってはいけないと言いつけておいた。あの子の力は危険だ、このままにはしておけない』

 

『あの子は私に隠れて力を使い続けているようだ。だけど普通じゃない人間のままでいるのは、やはりダメなのだ。きっといつか周りから恐れられて辛い思いをするに違いないし、娘にはそんな目にあってほしくない。これからは些細な事でも決して力を使ってしまわないよう、しっかりとあの子に教えていかなくては。私も夫に出会ってからは、ずっとそうして生きてきたのだから』

 *

 傍らの智貴の為にも聞かせてやろうと、手にした紙切れに書かれていた内容を声に出しながら読み進めていた琴美は、区切りを付けて一息つくとそのまま黙りこくってしまう。

 

(なにこれ!?)

 

 初っ端からブッ飛んだ内容であったからして、あまりの内容に絶句してしまう事しきりの琴美は二の句が継げないでいた。それは琴美の口から内容を聞かされた智貴も同じであったようで、幾分か呆れすら混じったような表情でいる。

 

「あ、えーと、こ、これ……お母さんの日記なのかな?」

 

 書き方から推測するに、どうやらこれは姉弟の母親らしき人物が記したもののようだ。にわかには信じ難い内容ではあるが、大真面目に書かれている様子のそれは単に全力のジョークのつもりであったのか、はたまた書き手が相当なきちがいであった為か。

 

「あはは……智貴くんが蜂みたいに飛んだんだって。あ、もしかして覚えてたりとか……?」

「いや、覚えてないです」

 

 ラジコンのように自分が飛ばされた事についてはおろか、何やらよろしくない目に遭ってしまったこの屋敷のご主人(鎧)の事もまるで記憶にないらしい。ある筈も無いようなデタラメな内容であるからして、彼がそれを覚えていないのは当然であると思えなくもないが、よしんばこれが本当だとしても、日付が一九七六年から始まっているその一連の記述からすると、当時智貴はまだ三歳頃であるからして、あまりに幼い為に記憶がとんと抜け落ちているのかもしれない。

 ひとまず気を取り直して他のページも読んでみようと思う琴美であったが、初っ端からこの調子であるからして、果たしてどのような奇天烈な事が書かれているのかと、恐る恐る次の紙切れを手に取る。今度は幾分か年月が進んで一九七八年頃の内容のようだ。

 *

『今日はクリスマスパーティーの日だった。ケーキを作って、子供達と一緒に部屋の飾り付けをする。娘は進んで私のお手伝いをしてくれる優しい子に育ってくれた。もうすっかり力も使わなくなったようで、どうかこのまま普通の子供として大きくなっていってほしい』

 

『先日大変な事があった。その日は雪が積もって子供達が朝から庭で雪だるまを作っていた。昼食の支度を終えて二人を呼びに行くと智貴の姿が見当たらない。智子も急にあの子がいなくなったものだから探しているという。久しぶりに力を使って息子の居所を探してみたら、あの子は雪だるまの中に埋められていた。体が氷のように冷えきっていたけれど、すぐに麓の病院まで連れていってどうにか一命をとりとめた。娘を問いつめても自覚が無いのか、そんな事はしていないと泣きじゃくるばかり。あの子は智貴の事を目に入れても痛くない程に可愛がっている。そんなあの子がわざとあのようなむごい仕打ちをしたとは信じられない。一体何が起こっているのだろう』

 

『智子は自分の力が抑えられなくなってしまっている。自らの意思とは関係無しにフォークやナイフを捻じ曲げてしまったり、窓を割ってしまったり、強過ぎるあの子の中の力が溢れ出して矛先をあちこちに向け始めたのかもしれない』

 

『あの子の力から息子を守る為に、これまで抑えていた自分の力を使う日が続くようになってしまった。娘も自分自身のどうにも出来ない力を恐れてしまっている。智子にとても懐いていた智貴には、お姉ちゃんは今病気だから一緒に遊んではいけないのだと言いきかせるのだけど、むずがってなかなか言う事を聞いてくれない』

 

『娘と違って特別な力など何も無い息子はごく普通の子供。智子の力に抗えないあの子は、このままではいつか夫のように取り返しのつかない目にあってしまうのではと心配でならない』

 

『今日、相談所に連絡を取った。娘の力の事は伏せて、智貴を他所様の家の息子として養子縁組を行いたいと相談した。あの子を守る為にはもうこの方法しかない』

 *

「ね、ねえ、これってもしかして!」

 

 超常現象によって智貴が危うく死に掛けた事や、娘の力の暴走に苦悩する母の心情が綴られていたりと、相も変わらず奇想天外な内容が続く日記であったが、養子の話が出た所で急に現実味を帯びてきたものだから、またもや読むのを中断した琴美が顔を上げて智貴と目を合わせる。

 

「今の親は俺を引き取った人達だったって、そういう事になりますね……」

 

 琴美の言いたかった事を、智貴が代わりに口にしてみせる。仮にこの日記が真実であるとするのなら、それまで彼が実の両親だと信じて疑わなかった人達が、本当はそうでは無かったという事になるのだ。その可能性をこうして示唆されてしまった事は彼にとって殊更突き刺さるものであったようで、なんとも顔色が悪い。これでは智貴を余計に不安にさせてしまっただけではないかと焦る琴美であったが、そんな彼に掛けてやる上手い言葉が見つからないものだから、口下手な己に不甲斐なさを感じてしまう。

 

「えっと、つ、続きはどれかな……?」

 

 ともあれ信じ難い内容尽くしな日記であったが、ここへ来てやにわに事の真相へと近づいてきた為、どうにもその続きが気になってしまう琴美は紙切れの中から先程読んでいたのと日付が近いものを探し当てる。

 猫はと言うと、先程から続く琴美の朗読会に退屈したのか、床に寝そべって耳を掻いたり大きなアクビをしたりしていた。

 *

『今日は息子が家を出ていく日だった。幼いあの子にも自分がこれからどうなるのかが判ってしまったのか、私達と離れたくないと言って聞かない。私の胸は張り裂けそうだった。そんなあの子に娘が言って聞かせる。自分の病気が治ったらまた一緒に暮らそうと、そう言って慰める。尚もぐずるあの子に智子は来年の来年のそのまた来年ぐらいには治るからと適当な事を言って指きりを交わして、そのあと沢山キスをしてあげていた。智子はずっと泣くのをガマンしていて、あの子がいなくなった後にわぁわぁと夜まで泣き続けた。やっと泣き疲れてさっきようやく眠ったばかりだ』

 

『息子のいない生活が始まった。娘と二人っきりで暮らしていく分には私達は何の支障もない。窓が割れれば私が直し、食器が曲がればそれも私が直す。夫の残してくれたこの家と財産があれば、私達はこれからも暮らしていける。だけど今のままでは娘を学校に通わせてあげる事も出来ない。あの子が成長と共に自分の力を抑えられるようになる事を祈るばかりだ』

 

『今日は智子の七才のお誕生日だった。ともくんがいないから楽しくないと、しきりにそのような事をボヤいてケーキにも手をつけない。娘は弟のいない寂しさを日増しに募らせているようだ』

 

『娘が部屋に閉じこもりがちになった。中を覗くといつもあの子はぬいぐるみやおもちゃを床に並べ、あたかも智貴と一緒に遊んでいるかのように振舞っている。そんな事を一日中繰り返しているあの子の事が可哀想でならない』

 

『息子が去ってからというもの、こうして日記を付ける事もおっくうになってしまう。智子はあれ以来全く笑わなくなってしまった。だけども先程そっと寝顔を覗きに行ったら、楽しい夢でも見ているのかコロコロと笑って何度も智貴の名を呟いていた。これ程までに愛し合っていた子供達を私は自分の手で引き裂いてしまったのだ』

 

『七夕さまを飾ったのに、智子は自分の短冊を笹につけるとまたすぐ自分の部屋に引きこもってしまった。ともくんにあいたい、ともくんとくらせますように、ともくんがかえってきますように。あの子の短冊にはこんな事ばかりが書かれている。向こうの家では智貴も私達と同じように寂しい気持ちでいるのだろうと思うと、胸が苦しくて仕方がない』

 *

「うっ、うっ……グスン」

 

 おもむろに朗読を中断した琴美は、眼鏡を外して自身の上着で己の目元を拭う。嗚呼神よ、このような不幸があって良いのか。この日記がもし真実を書いているというのであれば、ちゃっかり懐に収めておいた例の写真の中で微笑むあの愛くるしい幼子に、そしてまた、己の拙い朗読を静かに傾聴してくれている傍らの青年に、かような悲劇が降り掛かったという事になるのだ。嘘か真か未だ判然としない内容ではあるものの、仮に真実であったとすればこれは泣かずにいられないと、琴美の涙腺から涙が溢れてくる。

 このお話に救いは無いのかと、そうした涙をひとまず抑えてみせた琴美は更なる展開を求めて新たなページを無作為に選び取った。今度は一気に年月が飛んで一九八七年頃、丁度智貴が中学三年生位になっていた年度の事が綴られている。

 *

『智子はもう十五歳になるけれど、未だにその力が落ち着く気配はない。だから学校にも行けず友達もいない。あの子はすっかり気難しい子に育ってしまったけれど、長い孤独が娘の心を蝕んでしまったのかもしれない。近頃は些細な事で私を口汚く罵ったりする事もある。その度に叱りつけてはいるけれど、あの子は益々頑なになってしまうばかりだ』

 

『あの子はもう私の言う事など聞いてくれない。昔から使ってはいけないとあれ程教えてきたのに、今ではお構い無しに力を使って好き放題にしている。お母さんは力の使い方がヘタクソだ、何故コソコソして生きていかなくっちゃいけないのだと言って聞かない。幼い頃からの私の言いつけはもうあの子には何の意味も成していないようだ』

 

『そんなに力を使いたいのなら、いっそ鎧に変えられたあの人を元に戻してみろと娘に言った。あの子なりに頑張ってはみたようだけど、結局どうにも出来なかった。一度あのような姿になってしまったら、もう二度と元には戻れないのかもしれない。私には毎日夫の体を磨いてあげる事しか出来ない』

 

『智子は今日もあの花を庭に植えていた。自分が温室で育てたあのお気に入りの花を、智子はもうずっと前からそこかしこに植え続けている。家の周り全てが花で埋め尽くされれば智貴が帰ってくるのだと言い張っている。そんな事に励む位なら自分の力を抑える努力をするべきだとは思うけれど、智子は今でもずっとあの子との再会を心待ちにしているのだと思うとやりきれない』

 

『もう自分は完全に力を操れるようになったのだから智貴を呼び戻したっていいじゃないかと智子は私に訴える。私から見れば相も変わらず智子の力の扱いは甚だ未熟で昔と変わらず野放図のままだというのに。あなたが本当に力を抑える事が出来ればすぐにでもそうしてあげると私が諭せば、そんなセコい生き方は嫌だと言って突っぱねてくる』

 

『智子はあの子の居場所を私に何度も尋ねてくるようになった。決して教えてはいけない。自分が何でも出来ると思い込んでいる智子は、何をしでかすか判らないのだから』

 

『智子があの子の事で私に何か言う事がすっかり無くなった。どうしたのかと私が尋ねてみれば、いい方法を思いついたのだと、ただニタニタと笑ってそのようにしか答えない。一体何をしようとしているのか』

 *

 まだ途中ではあるが、そこまで読み進めた所で琴美が再び朗読を中断してふぅと息を吐く。幼い姉弟の別れから一転、話がなんとも雲行きの怪しい方向へと転がってきたものだから、そこに不吉なものを感じた琴美はその先を今この場で智貴に聞かせても良いものかという懸念が湧いてきてしまったのだ。

 琴美の予想していた通り、やはりこの智子なる少女は智貴に対してただならぬ執着を抱いていたようである。離れて暮らしていた智貴の事を一体彼女はどうするつもりだったのか。それが気になって仕方が無い琴美ではあったが、傍らで黙して話を聞いていた智貴の顔色をつい伺ってしまう。

 

「……それ、読ませて貰ってもいいですか?」

「え? あっ、う、うん」

 

 琴美にばかり読み上げさせているのは申し訳無いと思ったのか、手を差し出して紙切れを受け取った智貴は、今度は自分が読み聞かせるつもりなのか、先程の内容の続きを口にし始める。思いも掛けず始まった智貴の朗読会に、琴美の聴覚神経が野生動物のように鋭敏になっていく。

 *

『あの子がいつものように花を植えに行ったのを見計らって、智貴を引き取ってくれたご夫婦のお宅へ本当に久しぶりに連絡してみたら恐ろしい事が判った。近頃の智貴は深夜に寝巻き姿のままで急に家を抜け出してふらふらとどこかへ向かって歩いていく事が度々あるらしい。ひどい時には遠く離れた山中にまで足を運んですらいたそうで、失踪事件として扱われそうになった事もあるという事だった』

 *

 内容が内容なだけに、そこまで読み上げた所で智貴は早くも黙りこくって朗読を中断してしまう。

 

「と、智貴くん……その、今言った事って、本当にあったの?」

 

 そんな彼の額に滲む冷や汗を見て、琴美はまさか心当たりがあるのだろうかと堪らず彼にそれを尋ねてみせる。

 

「マジです……俺、確かにそんな時期がありました」

 

 どうも日記に書かれているそれは事実らしかった。智貴の告白を聞いた琴美の二の腕に鳥肌が立つ。何故ならそれが事実であるという事が、これまで読んできた内容の信憑性をも裏付けるという事になってしまうのだから。養子となった智貴。そして超常の力を備えているという彼の実の母と姉。それらの情報が否定し難い程の現実味を帯びて琴美に迫ってくる。

 

「さっき先輩に夢の話、しましたよね? あれ、俺が中三位の時の話なんですけど、丁度そん頃にこういう事があったんです」

 

 智貴とは自身が地元の中学を卒業して以降一年間程離れ離れになってしまった琴美であったから、当時の彼がよもやそのような事に悩まされていたとは今の今まで知る由も無かった。

 

「夢の中でお姉さんは、智貴くんをずっと呼んでたんだよね……。そ、それってさ、もしかしてこの家に智貴くんの事、連れてこようとしてたのかな?」

 

 なんとも飛躍した考えであるが、今の琴美にはそのように思えてならない。超常の力を振るう事の出来るらしい智子が夢を通して彼を操りこの場へ引き寄せようとしていたのだとしたら、当時の智貴のそうした異常行動にも説明が付いてしまうのだ。

 

「正直判りません、でも」

 

 そうかもしれないと、智貴はどこか疲れた様子でそのように答える。

 

「なんで俺、こんなにも忘れちゃってるんでしょうね? 本当に、殆ど何も覚えてないんですよ。この家の事も、一緒に暮らしてたっていう家族の事も……」

 

 それは琴美に向けたものなのか、或いは己自身に向けた自問なのか。ともあれその問い掛けに正しい答えを与えてやれるものは、この場にはいなかった。

 

「……」

 

 どこか救いを求めているようにも聞こえてしまう彼のその言葉に、今こそ何か言ってやらねばと思う琴美ではあったが、やはりどうにも上手い言葉が浮かんでこない。さりとてただの慰めの言葉などきっと今の彼には不要であろうから、琴美は口を閉じたままでいるしかなかった。

 いよいよもって顔色を悪くする智貴ではあったが、何かが彼を駆り立てるのか、手にした紙切れを持ち直して再び朗読を再開し始める。閉めきられている筈の部屋の中から猫がいつの間にか居なくなっていたが、琴美達がそれに気付く事は無かった。

 *

『智子を問い詰めたけれど、あの子は知らぬふりをするばかり。寝ぼけた弟が我が家恋しさにそのような事をしているだけなのだろうと、そう言い張るのだ。幸い智貴はまだ事故にはあっていないとあの家の人は言っていたけれど、このままではいつか命に関わるような事になりかねない。智子を止めなくては』

 

『あの子が何をしていたのかが判った。智子は夜な夜な自分の部屋で奇妙な儀式を行っていた。あの花で編んだワラ人形を智貴に見立てて、それに向かって延々と自分の元へ来るよう汗だくになって呼び掛け続けていた。すぐ様あの子のそうした行いを止めさて、儀式に使っていた怪しげな品々も全て処分した。またあの子が妙な事をしないよう、これからは毎晩見張らないといけない』

 

『智子が急に歩けなくなってしまった。それだけじゃなく体全体が思うように動かせなくなってしまったらしい。不安がるあの子の事をお医者様に診て頂いたけれど、原因は判らなかった』

 

『智子はやがて殆ど力を使えなくなってしまった。どこにいるとも知れないあの子を連れてこようとして、ひどく無茶をしてしまっていたのかもしれない。力が失われると共に体の方も弱ってきているようで、心配でならない』

 

『肌が黒ずんで土のように乾いてしまう症状が智子に現れ始めた。やはりお医者様にも原因は判らず、あの子は自分の身に起こり始めた異変にただただ怯えてしまっている』

 

『しばらく日記を付ける事が出来ないでいたけど、この事だけは書いておかなくてはいけない。先日あの子は十六歳の誕生日を迎えた。すっかり元気の無くなってしまった智子の為に久しぶりにバースディケーキを作ってあげていた。でも突然それが粉々に飛び散った。それからすぐとても大きな声で二階から智子の怒鳴り声が聞こえた。お母さんのせいだと叫んでいるように聞こえた。どうしたのかとすぐ様子を見に行ってみたら、あの子は自分の部屋ですっかり干からびたミイラになってしまっていた。今際の際に私への怨みを叫んで、可哀想なあの子は死んでしまったのだ』

 *

 そのページはそこで終わっているようで、読み終えた様子の智貴は紙切れを机の上にそっと置いた。彼の朗読したそのページは智子の最期を生々しく綴っており、ただただ壮絶であった。

 

「先輩、俺達が見たあのミイラって……」

「うん……きっと、お姉さんなんだろうね」

 

 琴美としては既に見当の付いていた事ではあったが、智貴は日記を通して初めてミイラの正体に思い当たったものだから、戸惑いもひとしおである。その瞳には普段彼が見せないような様々な感情が浮かんでは消えを繰り返しており、その事が琴美の胸を締め付けずにはおかない。

 見かねた琴美はそれまで自分達が読み進めていた紙切れをテキパキと日記の中に挟み込むと、そのままそれを手に取ってお持ち帰りの用意を整えてみせた。そうして今度は黙りこくる智貴に努めて明るい口調で声を掛ける。

 

「そろそろ帰ろっか?」

「あ、はい……」

 

 無理に笑顔を作ってみせた琴美がそのように言う。少しでも智貴の不安を拭ってやれればという思いから日記を試し読みしてみようと提案した訳であったが、結局はいたずらに智貴を苦しめてしまう事にしかならなかった為、琴美の内心は泣きたい気持ちでいっぱいだった。

 果たしてこのまま無事屋敷から出して貰えるかはどうかはミイラのみぞ知るといった所であるが、ともあれ琴美は大胆にも自ら智貴の手を取り、彼をこの部屋から連れ出そうとする。いつも彼を前にするとあがってばかりの琴美ではあったが、今だけはイヤらしい気持ちなど微塵もなくそうした事が自然に出来たのだ。

 

 ──ボフゥッ

 

 だが突如、琴美の手にしていた日記から炎が吹き上がったものだから、慌てた彼女はそれを地面に取り落としてしまう。

 

「え! な、なに? なんで……!?」

 

 みるみる内に灰になっていく日記を消火するのも忘れて、突然の事に二人は呆然とその様子を見届けるしかなかった。そうして燃え尽きた日記の残骸から煙が立ち上り、ぷぅんと部屋の中が焦げ臭さで満たされた頃、ふいに扉のドアノブがカチャリと音を鳴らして回り始めた。

 身じろぎ出来ないでいる二人が扉の方を凝視する中、やがて扉がゆっくりと開いて少しばかりの隙間を作った所で止まる。するとそこからぬぅっと何か黒いものが部屋の中を覗き込むようにして姿を現した。

 それは琴美には見覚えのあるものだった。あの智子が扉から顔を半分覗かせて、部屋の中にいる琴美達を恨めしそうな目でじぃっと見つめていた──。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(9)

変態vs怨霊

 琴美にしてみれば、()()との遭遇はこれで三度目となる。であるが故に、正気に返るのは早かった。床に置き忘れられそうになっていたデッキブラシを咄嗟に拾い上げると、それを構えた琴美は智貴を庇うように前へ出てみせる。

 一方の智貴はといえば、彼にしてみると初の遭遇となる()()の姿を目の当たりにし、あまりの驚きに体を動かす事はおろか声すら出せないままでいた。本来、琴美よりは余程肝が座っていると言える智貴ではあったが、さしもの彼も()()を前にして固まらずにはいられなかったようだ。琴美がこれまで幾度か経験させられてきた戦慄を、彼もまた味わっているのだろう。

 ()()は、〈智子〉たる少女は、そんな二人の事をただただ扉の隙間から覗き込み、人形が如く微動だにせず凝視し続けていた。その瞳は全く揺らぎもせず、一切の瞬きもしない。ただただ暗く深い闇を目から垂れ流し、視界に捉えた者を包み込んで異界へと連れ去らんとする禍々しさを放ち続ける。

 

(コイツを智貴くんに近づけちゃ駄目だ……!)

 

 目の前の異様な存在が、ただ自身の弟との再会だけを望んでこの場に現れたとは到底思えない。この智子は何かを考えている。それはきっと智貴にとって非常によろしくない結果を齎すのではないかと、琴美にはそう思えてならなかった。

 だが追い払おうにも相手はこの世ならざる存在。特別な力など何も無い自分であるからして、一体どうすれば良いのかと手をこまねいてしまう琴美であったが、試しにお経っぽいものでも唱えてみようかと考える。或いは心霊番組の除霊師がよくやるように「あなたはもう死んでいる云々」的な説得でも試みてみるべきだろうか。

 そうして扉の方を見据えたまま必死に頭を振り絞る琴美であったが、急に智子の霊が顔を引っ込めたかと思うと、そのまま扉を閉じてしまった。続け様に廊下を駆けていく足音が扉の前から遠ざかっていき、やがてそれも聞こえなくなっていった。

 

(どっかいったのか? なんで……?)

 

 そうした智子霊の行動に意表を突かれた琴美であったが、ひとまず脅威が自ら去ってくれたのであればそれに越した事はないと、ふぅと息を吐いて傍らの智貴を振り返る。

 

「あ、智貴くん、大丈夫だった?」

「はい、まあ、なんとか……」

 

 そのように気丈な返事をしてみせる智貴であったが、きっと心臓が飛び跳ねるような思いをしたのだろうと、彼の顔に浮かぶ気疲れの色を見てその実際の所の心情を察する琴美。

 

「先輩、今のってもしかして……」

「うん、きっとあれがお姉さん……智子さんなんだと思う」

 

 あれが人ならざるものであると直感的に理解したのか、智貴は先程出くわしたものの正体が霊的な存在、つまり自身の亡き姉の幽霊か何かであると察したようだ。さりとて姉弟感動のご対面とはいかず、その様子からして彼の心の中は尋常ならざる怪奇的存在にこうもあからさまな形で遭遇してしまった動揺で満たされているだけのようだ。

 

「また戻って来ない内に逃げよう?」

「そう、ですね……」

 

 あのようなとんでもない存在がこの屋敷に潜んでいたのかと、智貴も事ここに至ってようやく強い危機感を募らせたのか、琴美の言葉にすぐ様同意してみせる。先程の朗読会によって一応は真相と言えなくもない情報を知る事が出来たのだから、日記を持ち帰れずとも最早問題は無かった。何故か去っていった智子霊が再びこちらに戻ってこぬうちに、琴美達は早々にこの部屋を出て行かなくてはならない。

 そうしてひとまず閉じられた部屋の扉を開けようと、先頭に立つ琴美がそのドアノブに手を掛けるが──

 

「ヒャッ……!」

 

 途端、琴美の全身がぴぃんと起立した状態で硬直した。一斉に体中の筋肉がギチギチと音を鳴らしているのではないかと錯覚する程に激しくこわばる。髪の毛が派手に逆立ち、その目は外眼筋の限界を超えてグルリと上を向く。

 電流である。琴美の握ったドアノブを伝って彼女の体に著しく電気が流されたのだ。

 

「先輩っ!」

 

 ドアノブを握ったまま異常な震え方をしだした琴美の変調に気付いた智貴が、咄嗟に彼女の肩を掴んで扉の前から引き剥がそうとする。途端、琴美の体に流れる電気が智貴にも流れてしまったが、彼はどうにか脚を前に突き出して扉を踏み付けると、琴美をつかんだまま後ろ向きに倒れ込んだ。

 智貴に電気が流れたのは僅かな間の事であったから腕が痺れる程度で済んだものの、対する琴美はと言えば背後の智貴にのしかかったまま天を仰いで痙攣してしまっている。

 

『アハハハッ、イヒヒヒッ』

 

 そんな琴美を嘲笑するかのように、扉のすぐ向こう側からけたたましい笑い声が響いた。耳にするだけでも心底ぞっとさせられるような、邪悪な意思が込められた悪魔の声だ。どうも智子は、去った振りをしつつもその実ずっと扉の前に張り付いていたらしい。

 

(ク・ソ・ム・シ……ブ・チ・コ・ロ・ス……!)

 

 全身を電撃によるショックで痛めつけられたものの、智貴の咄嗟の救出で幸い一命を取り留めた琴美であったが、頭の中をショートさせていた火花が過ぎ去った途端、間髪入れずに今度は怒りの特大火花が炸裂する。出来る事なら今すぐにでも起き上がって扉の前に立つ智子に飛び掛かり、しっちゃかめっちゃかに噛み付いてやりたい琴美であったが、悲しいかな体の方は言う事を聞いてくれず、指先一つ満足に動かす事が出来ない。

 と、そんな琴美の耳に扉が勢い良く開かれる音が聞こえた。首が動かせず、ひたすら天井を眺める事しか出来ない琴美ではあったが、智子が部屋の中に入ってくる気配を受けて焦りが募る。

 

(智貴くん、逃げて……!)

 

 そう叫びたかった琴美であったが、声にもならぬ掠れた吐息が出るばかり。智子の霊はまたもや智貴の事を連れて行くつもりに違いないというのに。

 どうにか起き上がってみせようと奮闘する琴美であったが、その視界の端に智子らしき者の立ち姿が映る。目だけを動かしてそちらを見やってみれば、あの死人のような、いや正に死人に相応しい肌色をした少女の顔を下から仰ぎ見る形になったのだが、智子がその死魚が如き暗い瞳で琴美をじっと見下ろしていたので、必然目と目が合ってしまう。

 

(くそっ、あの猫みたいな顔しやがって……!)

 

 寝そべったままの琴美に投げ掛けられていた智子のその眼差しには、さも勝ち誇ったかのような嫌味たっぷりの嘲笑の色がありありと浮かんでいた。それを受け、琴美は例のいけ好かない黒猫のことを思い出さずにはいられなかった。この屋敷を訪れたばかりの頃、智貴の肩にのぼった猫がなんとも嫌味ったらしい表情で琴美のことを見下ろしてきていたが、今こうして自分を見下ろしている智子の表情と、あの時の猫の表情とがぴたりと重なってしまったのだ。もしかするとこの智子こそがあの黒猫の正体だったのではないかと、そのようにすら思えてくる。

 

「んじゃ、行こうか? そんなの放っといてさ」

 

 喋った。いま初めて、智子が明確な意思を感じさせる言葉を発した。幽霊の癖に随分と砕けた口調ではないかと、琴美は意外に思う。そしてまた、智子の声色が例の電話口で自分を罵ってきた、あの憎らしげな声とまさしく同じものであるとも感じていた。

 変態だの何だのとしつこく馬鹿にされ、言い返す暇もなく一方的に電話を切られてしまった時の怒りが蘇る琴美であったが、智子のその呼びかけが己の背後でクッション代わりになってくれている智貴に向けられたものだと察し、そこに待ったを掛けようとする。

 

「だ……め……行っ……ちゃ」

 

 痺れきったままの唇を開いてどうにか言葉を紡いでみせる琴美。動け、動けと己の体に活を入れる琴美であったが、気持ちばかりが空回りして、体の方は彼女のそうした呼び掛けに碌に答えてくれそうもない。

 

「あんた……マジであんとき俺を呼んでた奴、なのか?」

 

 どうやら上半身を起こしたらしい智貴が、対峙する智子に向かってそう問い掛ける。彼女のその声に聞き覚えがあるのは琴美だけではなかった。智貴もまた、かつて夢の中で散々聞かされたその声と、智子霊の放つ声が同じ響きである事を感じ取り、目の前の存在がかつて自身を悩ませた悪夢の少女の正体であると理解したようだ。

 

「そうだよ」

 

 智貴の問い掛けを受けた智子はニンマリとした笑顔でそう答え、続けて中腰の姿勢になって顔を突き出しこう言い放つ。

 

「お姉ちゃんだよっ、お前の!」

 

 どこかはしゃいでいるようにも見える智子のそうした振る舞いはあたかも生きている人間のようで、彼女の様子を仰ぎ見ていた琴美は、その顔色までもがいつの間にかすっかり良くなってきている事に気付いた。しかしこれが紛れも無く亡霊である事を思い知っている琴美にとっては、その事自体が甚だ不気味に映る。先程まで確かに灰色めいていた筈の肌がやにわにこうも色付いたりするなど、明らかに人間の生理反応ではあり得ない事だ。

 

「ずっとずっと、待ってたのにさぁ」

 

 頭をリズミカルに揺らして智貴の顔をじろじろと観察する智子は、あの敵意に満ちた毒々しい声が嘘であったかのように、猫が人に甘える時のような様子で彼に語り掛けていく。

 

「お前があんまり遅いから、姉ちゃん死んじゃったんだぞ? どうすんだよ、なあ?」

 

 そのような事をあっけらかんと言いながら笑う智子は、おもむろに膝をついて智貴の傍らに座り込む。

 

「こんなに姉を待たせてた癖に、自分だけのうのうと青春を楽しんでさ」

 

 智子に顔を寄せられて思わず仰け反る智貴が、更に詰め寄った彼女から耳元へそのような事を吹き込まれているのが琴美にも判った。彼自身の身の危険も省みず無理やり連れてこようとしていた癖に、何とも勝手な事を言ってくれるものだと歯噛みしたくなるが、顎に力の入らぬ琴美にはそれすらできない。

 

「お前は悪い弟だなぁ」

 

 じわりじわりと智貴をなじる智子ではあったが、言葉に反してその表情や声色にはどこかうっとりとした感情が浮かんでおり、腹を立てている様子は見られない。が、対する智貴はといえば、琴美の目にも明らかな程にその顔には人ならざるモノに間近で迫られる事への恐怖の色が浮かんでおり、呼吸を乱す彼の息を呑む音が聞こえてくる。

 と、急に智子が両の腕を智貴の首に回したかと思うと、そのまま彼の頭を抱え込むようにして自身の胸にぐいと抱き寄せる。

 

「おかえり、ト・モ・ク・ン」

 

 部屋中に染み渡るような重い響きを含んだ智子のその呟きを受け、智貴が体を著しく強張らせた事が、彼に支えられたままになっている琴美にもハッキリと伝わる。琴美も経験させられたあのぞっとする冷ややかな肌の感触を、智子に抱きしめられている智貴もきっと今この瞬間に与えられているのだろう。

 

「これからは、ずっと姉ちゃんと一緒に暮らそうな」

 

 遂には智子が頬ずりまでし始めるものだから、そのおぞましさに智貴の顔がますます歪む。そんなやりとりを見守っていた琴美もまた、今し方の智子の言葉を聞いて僅かに動くその眉をしかめる。

 

(こいつ、やっぱり智貴くんの事を……!)

 

「一緒に暮らす」という事は、つまり「この家で」という事だ。智貴をこの屋敷へ連れ戻す事に執着していた智子であったから、今の彼女の狙いがどういったものであるのか、琴美にはおよそ見当が付いてきた。要するに智子はこの奇怪な屋敷に智貴を閉じ込めて、一生逃げられなくするつもりなのだ。

 

「もうどこにも行くんじゃないぞ? いいな?」

「……いいや」

 

 尚も猫撫で声で智貴に囁き続ける智子であったが、そんな彼女の一方的な要求を受けて智貴がようやく口を開く。

 

「俺達は……帰る」

 

 顔は甚だ青く、声には震えが滲む智貴ではあったが、智子の求めを振り払うかのようにして、彼は気を張り智子を睨み付けて明確な拒絶の意を示してみせた。そんな彼の手が、己の懐で伏したままでいる琴美の肩をぎゅっと掴んだ。

 

「オレ()()?」

 

 その宣言を聞いた智子が、急に面食らったような顔になってそれまで抱きしめていた智貴の頭を突き離すと、倒れ伏したままでいる琴美の方をちらりと横目で見る。

 

「ふぅん。帰る、ねぇ……」

 

 再び視線を智貴に戻した智子の目は、先程の甘ったるい様子から一転冷え切ったものへと変わっており、その肌には熱が抜けていくようにして再びくすんだものが入り混じっていく。

 

「オマエ、なんかカンチガイしてるだろ?」

 

 おもむろに立ち上がってみせた智子の、その暗い瞳の奥に赤く小さな光がポッと灯ったかと思うと、それがじわじわと目の中一杯に広がっていく。そのただならぬ様子を目の当たりにして、未だ回復に至らぬ琴美は勿論の事、智貴もまた金縛りに遭ったかのように動く事が出来ない。

 

「オマエは、カエッテキタんだよ」

 

 智子の顔が、怒りで歪むハンニャのそれへとみるみる変貌していく。琴美が脱衣所で遭遇した時の、あの顔だ。

 

「ココが、オマエの、イエだろうがッ!」

 

 智子の両の眼が遂には溢れんばかりの光を迸らせて、にぶく鋭く輝いた。途端、それまで琴美を支えてくれていた智貴の体が彼の意に反してズルリと引き抜かれていったため、支えを失った琴美は後頭部を床に打ち付けてしまう。

 

「うおおおっ……!」

 

 突然頭に加えられた衝撃のせいで軽い眩暈を起こしてしまった琴美の視界の上を、宙に浮いた智貴が叫び声を上げて勢い良く通り過ぎていく。そうして数瞬の後、廊下の方で何かが強かに床へ落ちる音と、その後に続く智貴の苦しそうな咳き込む声とが聞こえてきた。

 首を動かせない為に上手く状況が把握出来ない琴美であったが、今正に自分の目の前で智貴が明らかな危害を加えられた事だけは確かに理解する。おそらくは智子の持つ超常の力によって、彼は廊下の方へと乱暴に投げ飛ばされてしまったに違いないのだ。

 

(こ、このヤロォォォ!)

 

 己の人生史上、おそらくは最高レベルに達したと思われる程の怒りを込めて、その血走る目を智子の方に向ける琴美。ああ殺す、殺す殺す殺してやるとも。既に死んでいる相手だとしても構うものか、もう一度殺して地獄の底に沈めてやると、琴美は心の中で激しく吼える。一人の淑女が今、一匹の鬼と化した瞬間であった。

 と、それまでさっぱり動かないでいた筈の己の手が、いつの間にか骨が軋む程に強く拳を握り締めていた事に気付いてハッとする。それまではすっかり何処かへ消えてしまっていたように感じられていた四肢の感覚が、今再び己の下に戻りつつある事を琴美は確かに感じた。それは電流に焼かれる寸前まで痛めつけられていた彼女の神経が、ここにきて急速にその機能を回復させ始めた表れなのかもしれない。

 

「しゃあねえ、ちぃと教育してやるか……」

 

 対する智子はと言えば、愛しい筈の自身の弟に容赦のない暴力を振るったにもかかわらず、涼しい顔をしつつ元の暗緑色に戻ったその目で廊下の方を見やってそのような事を呟いていた。その様子からは足元で自身を激しく睨み付けてくる琴美の事を歯牙にも掛けていない事が見て取れる。

 そうして智子がヒョコヒョコと軽い調子で廊下の方へと足を運んでいく。神出鬼没な幽霊の癖して律儀に歩いたりするのは、単に彼女の気まぐれなのか。しかしそうして生まれた僅かな時間が、琴美に口を開かせる猶予を与えた。

 

「ま、て……よ」

 

 自分を引き止めるその声に、智子が歩みを止めて琴美の方へ向き直る。智子をしっかと睨み据えた琴美は今、床に取り落としていたデッキブラシを拾って支えにしながらも、ヨロヨロと立ち上がってみせたのだ。そんな彼女の様子を、智子はただ黙って見つめている。

 

「智貴くんは……帰るんだ、私と、一緒にっ!」

 

 遂には両の脚でしっかり体を支えるに至った琴美は、腹に力を込めつつ大きな声でそう啖呵を切ってみせた。

 

「……あーっと、お前、何て言うんだっけ? ええと……ほら、さっき自分で名乗ってただろ」

 

 そうした琴美の啖呵にも何ら反応する事なく、智子は己の曖昧な記憶を確かめたい様子で琴美の名を尋ねる。例の子供部屋の前で琴美が扉をノックした際、自ら名乗った時の事を指しているのかもしれない。

 智子の背後で、扉が突然ひとりでに閉まる。あたかもそれは、これから部屋の中で起こる出来事を廊下で倒れ込む弟の目に入れてしまわぬようにと、智子なりに配慮を働かせたが故の事のようであった。

 

「小宮山、だ……小宮山、琴……」

 

 そんな智子の問い掛けに律儀に答えようとする琴美であったが、同時に手にしたデッキブラシを大きく振りかぶり──

 

「美ィッ!」

 

 幽霊相手にそのような攻撃が果たして通用するのかどうかといった事はお構いなしに、琴美は渾身の力を込めて得物の重心部分を智子の脳天へと一切の手加減無しに振り下ろしてみせた。それは仮にもし相手が人間であったとしてもためらい無く放たれたであろう、迷いの無い一撃であった。

 

「……っ!」

 

 琴美は振り下ろした得物から伝わる手応えを確かに感じた。しかしそれは粘土の塊を断ち切ったような、およそ人体を打ち据えたとは思えない何とも不自然なものだった。琴美が全力で振り下ろしたデッキブラシが勢い良く智子の脳天から胸の辺りまでをばっさりと縦に割ったものだから、思わずギョッとしてしまう琴美であったが、すぐさま得物を智子の体から引き抜こうとする。しかしまるで智子の体内から握り締められているかのように、いくら力を入れても彼女の体に深く入り込んだデッキブラシは引き抜けそうもなかった。

 そうこうしていると、まるで粘土細工のように分断されていた智子の上半身が突然ぐにょぐにょと変形して結合し合い、再び人の形を作っていく。

 

「こみなんとか、だっけ? お前さ、中々面白かったよ。久しぶりに結構笑ったかも」

 

 見る間に己の姿を元通りに復元せしめた智子。その体内に残されたデッキブラシがあたかも胸の辺りから生えているような形になってしまう。

 面白かった、というのはつまり、これまで幾度か琴美を陥れる事で味わった愉悦の事を言っているのだろう。彼女の瞳に、再び赤い光が灯ってゆく。

 

「まあでも、私達これからちょっと用事があんだよ。だからお前」

 

 智子が片手を前に差し出し、あたかも照準を合わせるかのようにしてその手のひらを琴美に突きつける。

 

「そろそろ死んどけ」

 

 智子がそう口にした瞬間、浮き上がった琴美の体が勢い良く壁に叩き付けられた。続け様に今度は反対側の壁へと激突させられる。すると今度は天井へ、そして床へ。そうしてゴム鞠のように室内を無軌道に跳ね続ける琴美。

 ものの数秒もしない間にボロ雑巾のようになってしまった琴美は今、止め処無く鼻血を垂らしながら部屋の宙へと磔られたかのように浮いていた。かすかに息をしてはいるものの、その目は眠るように閉じられており、既に意識を失っているようだ。

 

「んじゃな、もう戻ってくんなよ」

 

 智子が別れの挨拶を口にすると、宙に浮く琴美に向かって指で爪弾くようなジェスチャーをする。途端、矢のような勢いで琴美の体が部屋の窓ガラスを突き破って外に広がる暗闇の中へと投げ出されてしまった。

 

「おっと、汚ねぇ眼鏡だな」

 

 無残な姿と化した琴美の相棒が床に落ちているのを目ざとく見つけた智子は、それらの破片もいっしょくたにして宙に浮かせると、風穴の空いた窓からまとめて放り捨てるのであった。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(10)

ハウス・オブ・もこママ

 目を覚ました琴美の視界に、緑を基調とする壁紙で飾られた天井が映る。しばらくそうして呆然と天井を見つめていた琴美であったが、おもむろに頭を動かしてみれば自分がどこかの部屋の中に居る事に気付く。彼女はそこで床に寝そべっていたのだ。

 手を突いてゆっくりと上半身を起こした琴美は、ひとまず肺の中の空気を入れ替えるようにふぅーと息を吐いてから、大きく吸い込む。それに合わせて部屋の中に漂う古ぼけた匂いも嗅ぎ取ったのだが、それは琴美には馴染みのあるものだった。

 

(本の匂いだ……)

 

 それなりの読書愛好家でもあり、かつては学校で図書委員を務める事もあった琴美にとって、その独特の匂いが古めの書籍に特有のものである事を察するのに時間は掛からなかった。

 

(書斎なのかな、ここ)

 

 ズレていた眼鏡を掛け直しつつ改めて室内の様子を見渡してみれば、そこには壁一面に並べられた本棚の中に無数の書籍がぎっしりと収められており、窓際の方には重厚な作りの書斎机が据えられていた。体に力を込めて立ち上がった琴美が窓の向こう側に目を向ければ、そう高くない距離にある地面へと窓枠の影が落ちているのが見て取れる。とすればここは屋敷の一階なのであろうか。智貴が脱衣所から姿をくらました際は彼を探して一階部分の部屋を手当たり次第に見て回っていた琴美であったが、このような部屋があったとはとんと気が付かなかった。

 そもそも何故こんな所で寝ていたのだろうかと疑問に思いはするものの、自分が先程までどこで何をしていたのかがイマイチ思い出せない琴美は、何とはなしに本棚の方へと歩み寄っていく。読書家の性であるのか、どのような本を揃えているのだろうかとつい確かめたくなった彼女は棚に収められた本の背表紙をざっと流し見していく。

 

『中世魔術と魔女』、『精神病理と超心理学』、『ソビエトの魔術師達』、『戦前戦後の超能力者』

 

 このように一部の書籍にはオカルト寄りのものも含まれてはいたが、それ以外については大半が心理学に関連する専門書などで占められていた。それはこの部屋の主がその道の研究家であったか、さもなくば本職の人間であった事を伺わせる。

 

(小説は……無いな)

 

 未だボンヤリとした頭でそのような益体もない事を考える琴美であったが、何か大事な事を忘れているような気がした彼女は、果たしてそれが何であったのかと、ゆらゆら歩いて本棚の検分を続けながら思い出そうとする。

 

(おっ?)

 

 と、何かに気づいた琴美がふと顔を上げる。別に興味を惹かれる本が見つかったという訳ではなく、壁に沿って並べられている本棚の切れ目に差し掛かった際、棚に寄り添うようにして立つ大きな何かが己の目の前にある事に気付いたためだ。そこには厳めしい雰囲気を放つ西洋甲冑が、天井からの照明に照らされその身を鈍く輝かせていた。

 

「うあぁっ!?」

 

 思わず飛びのいてそこから距離を取った琴美が、改めて目の前の鎧を注視する。いきなりの事に心臓を飛び跳ねさせた彼女からは、先程までの何処か夢見心地のような感覚はすっかり抜け落ちてしまっていた。

 そうしてしばらく鎧に警戒心を向けていた琴美であったが、いつまでも大人しく直立不動で佇んでいるその様子にひとまずは安心したようで、ふぅと息を吐く。

 

(そういや玄関にもこんなのあったな……知らん内に消えちゃってたけど)

 

 琴美の脳裏に、屋敷の玄関ホールに飾られていたあの鎧の姿が思い起こされる。しばらく目を離していた間にそれがいずこかへと消え去ってしまっていたものだから、あの時はひどく不安になって傍らの智貴の服を掴んだりしたものである。

 

「あっ……!」

 

 そのような記憶を反芻していた琴美であったが、突如として重要な事を思い出した様子で声を上げる。

 

(そうだ! 智貴くんっ、智貴くんがっ!)

 

 それまでどうにも頭にもやが掛かっていた琴美であったが、ここに至り完全に己を取り戻した様子で辺りをせわしなく見回す。確か自分は、例の部屋で智子と対峙していたのではないか。智貴に危害を加えられて激昂した自分は、あの化け物に食って掛かって、そうして確か、そのまま……。

 

(でも、怪我とかしてないみたいだけど……)

 

 試しに己の体をあれこれ動かして見る琴美であったが、特に痛みのようなものは何処にも感じられない。記憶が確かならば、智子が自分に対して手を向けた途端、猛烈な勢いで壁に激突させられた筈ではなかったか。その後も繰り返し部屋中に叩きつけられたような気もするが、その辺りの記憶はどうも曖昧だった。

 

(これ、私の血だよな……?)

 

 己の着ているシャツの首元が血で汚れているのに気付いた琴美が、自身の顔を手で撫でて確かめる。と、確かに鼻から顎にかけて血の跡が残っている事が認められた。壁に叩きつけられて鼻血でも出たのだろうかと思いはするものの、幾分か衣服が汚れていたり所々破れている事以外は特に異常は無かったものだから首を傾げざるを得ない。そもそも破れているのは元々がそのような意匠のあしらわれたデザインであったからなのだが。

 ともあれ琴美は口元に付いていた血を手で拭い取る。

 

『よかった、もう大丈夫そうね』

「わーっ!」

 

 どこからともなく突然声を掛けられてしまったものだから、またもや心臓を躍らせた琴美が声を上げて爪先で小さく跳ねる。

 

「だ、誰……っ!?」

 

 声の出所が掴めないものだから、辺りをキョロキョロと落ち着き無く見渡す琴美。しかし室内には自分と目の前の鎧以外は誰の姿も見当たらない。

 

『あらごめんなさい、驚かせちゃったかしら。安心して、ここに智子は入ってこれないから』

(えっ、何!? もしかしてこれって……)

 

 すぐ目の前、どころか己の内側から聞こえてきたその声に、琴美は両手を頭に添えて意識を集中させる。

 

『そうよ。今、あなたの中に直接話し掛けているの』

 

 凛とした響きを持った女性のその声が、確かに自分の頭の中へと語り掛けてきているのを琴美は理解する。これはいわゆる〈テレパシー〉というやつなのだろうか。心に直接語り掛けられるなど、琴美にとっては生まれて初めての経験であるが故に戸惑うばかりではあったが、ひとまず彼女は聞こえてきたその声に対して頭の中で返答してみせる。

 

(誰、なの……?)

 

 そう誰何する琴美としては、声の主が一体何者であるのかが気になって仕方がないのだ。

 

『母です。あの子達……智貴と、智子の』

 

 自分はあの姉弟の母親であると、声の主は確かにそう答えた。それを聞いた琴美が息を呑み、慌てて次なる質問を頭の中で紡ぎ出す。

 

(えと、お母さんって、もしかしてあの日記を書いた人、ですか?)

『ええそうよ。あれは私の日記なの』

 

 よもや著者ご本人とこのように声を通して対面する事になるとは。突如降って湧いたこの遭遇に、琴美は一体何から尋ねていいものやらと頭をこんがらがらせてしまう。

 あれを聞くべきか、いやいやこれを聞くべきでは。智貴くんは本当に息子なんですか? 彼の名付けの由来は何ですか? 思い出のエピソードなどここでひとつ。私が今何を考えてるのか当ててみて。おにっ、あくまっ、いぐちっ!

 

『逃げたりしないから、ゆっくりでいいのよ? 小宮山さん』

 

 聞きたい事が沢山あり過ぎて混乱気味の琴美を見兼ねたのか、声の主がそのように言って彼女を落ち着かせる。そうしてさり気なく名前を呼んできたものだから、その事に気付いた琴美が小さな疑問を抱く。何故知っているのだと。

 

『さっきあなたが名乗ってたの、私も聞いてたから』

 

 そうした琴美の疑問をまるで正確に察知したかのように、声の主が先回りして答えてみせる。が、そのような事を言われたものだから、却って琴美は疑問を募らせる。

 

(聞いてたって……えっと、お母さんって、今どこにいるんですか?)

 

 あの時、隣の部屋辺りでこの声の主は自分達の騒ぎに聞き耳でも立てていたのだろうか。これまでさっぱり姿を現さないでいた家人のそうした物言いに、思わず琴美は居所を尋ねたくなってしまう。不慣れなテレパシーに軽い頭のふらつきを覚える琴美としては、出来る事ならこのような交信手段ではなく直接会って話してみたいのだ。

 

『どこにでもいるわ。私はこの家の中でなら、どこにだって居られるの』

 

 煙に巻くようなそうした答え方をされたものだから、琴美はむず痒いものを感じる。小説の中の一文としてそのような回りくどい表現を使うのであれば問題無いが、実際の会話で同じ事をされると話が進まないのである。

 

『ごめんなさいね、ややこしい言い方だったかしら。でも本当にその通りの意味なのよ』

(えーと、つまりどういう……?)

 

 さっぱり合点の行かない琴美が改めて尋ねようとした途端、部屋の照明が落ちたかのように彼女の周囲が突如として暗闇に包まれる。一体何事かとうろたえる琴美であったが、己の背後に誰かが立っていた事に気付いてそちらを振り返る。

 

『改めてこんばんわ、小宮山さん』

 

 暗闇の中で柔らかな光を放って琴美の視界に映るその人物は、慎ましい雰囲気を漂わせる婦人であった。

 

「あ、こ、こんばんわ……!」

 

 思わず自分も挨拶を返してしまう琴美であったが、一体この人はどこから出てきたのだろうと考えてしまう。

 

『ずっとあなたの側に居たのよ? ああでも、正確にはそうじゃないわね』

 

 またもやそうした琴美の疑問を読み取ったかのように答えてみせる女性。こうして対面しているというのに、口を開く事もせず尚も頭の中へと言葉を送ってくる。

 

『あなたが私の中に居るの。今この瞬間も』

 

「中に居る」とはどういう事か。一体何の比喩表現なのか。この人は何を言っているのだろうか。

 

『この家自体が私の体なのよ。私は、この屋敷と一体化させられたの』

 

 ただただ疑問符を浮かべるばかりの琴美に女性は至極具体的に説明してみせた。要するに自分は家と化した非人間的存在であるのだと。意思を持った家そのものなのであると。てっきりこの人も幽霊の類か何かなのではと思い始めていた琴美ではあったが、予想の上を行く想像もしていなかった答えを聞かされてポカンと口を開けてしまう。

 

『あなたも日記で読んだでしょう? 私の夫が、あの子の力で鎧にされてしまったって』

 

 そう語る女性の傍らに、あの厳めしい鎧がふっと姿を現す。

 

「え? じゃあ、その鎧って……」

『そうよ、これは夫。もう何にも言わなくなってしまったけれど、確かに私の夫で、あの子達の父親なの』

 

 女性はその鎧に物憂げな様子でしなだれかかると、彼の逞しい銀腕を愛おしそうに撫でさする。

 

『そして私も、あの子の力で家にされてしまった……』

 

 そうした女性の一連の言葉を受けて琴美にもようやく事情が飲み込めてきたが、人が家そのものにされてしまうなど、なんともイメージが湧かない奇天烈な話だ。それをやってのけたあの智子は、やはり正真正銘のとんでもない化け物だという事になる。

 ともあれ女性のそうした事情を、琴美はひとまずそういうものなのだと素直に受け入れる事にする。

 

(じゃあ壁とか蹴ったりしたら痛がるのかな……?)

 

 食堂で智子の仕掛けた罠に嵌められてしまった際、怒りに任せて屋敷に火を放ってやろうと割と本気で考えてしまった事を思い出した彼女は、実行しなくて良かったと今更ながらに冷や汗をかく。

 

『ふふふ……過激な子ね、小宮山さんって。蹴られても別に痛くはないけど、燃やされちゃうのは嫌かしら』

 

 と、そんな琴美の心情が筒抜けであるかのように、女性が愉快そうな様子でそのように語り掛けてくる。

 

「えっ!? あっ、その、すみません……あの、ちょっぴりそう思っただけなので、本気じゃなくて……」

 

 未遂に終わった放火の事まで見透かされておっかなびっくりの琴美は、頭の中で言葉に出さずとも自分の考えが読み取られているのではないかと思い、慌てて弁解しようとする。本気でないと言いつつも、本当はやっぱりちょっぴり本気だったのであるから、そんな所も見抜かれているのかと思うと、琴美はなんとも居心地が悪くなってしまう。

 もしかして自分が内に秘めているあんな事やこんな事まで知られてしまっているのだろうかと、そのような心配を抱いた琴美は、決して人に知られたくないあんな気持ちやこんな気持ちをうっかり考えてしまわないようにと身を固くして拳を握り締める。が、そのように力めば力む程、自身の愛する青年に対しての秘めたる色欲が心の奥底からモヤモヤと勝手に思い起こされてしまったものだから堪らない。日頃からそのような妄想に耽ってばかりいる彼女の自業自得であった。

 

(あああああ────! ダメダメダメダメッ!)

 

 自身の想い人への変態的欲望を、よりにもよってその母親であるという人に知られてしまいかねない。激しい羞恥と焦りに駆られた琴美は堪らず自分の顔を手で覆い隠してその場にしゃがみ込んでしまった。

 

『…………』

 

 急に女性が絶句したかのように押し黙ってしまったため、二人の間に沈黙が訪れる。ああこれは絶対にバレたなと、琴美はそのように理解したものだから顔を上げる事が出来ない。

 普段の習慣とはげに恐ろしきもの。いつもの己の悪癖を再現してみせるが如く、日頃抱いているような如何わしい思念想念を壊れたビデオデッキのように勝手に再生し続ける琴美の脳であったから、己の頭の電源線があれば今すぐにでも引き抜いてやりたくて仕方がない。智子が己の力を碌に制御出来ぬというのであれば、同じように琴美もまた己の色情をさっぱり制御出来ないのであった。

 

(ううぅ~……)

 

 この女性には何も隠し事が出来ない。いたたまれなくなった琴美の顔が真っ赤になってしまい、その目に涙が滲む。琴美が想起してしまった諸々の内容は「誰々くんのちんちん見てみたい」といった程度の可愛げのあるものでは勿論なく、それはそれはアレなソレのくんづほぐれつであったからして、琴美の前に立つこの品の良い女性からすれば卒倒モノであるに違いない。智貴とゼミを通して度々会えるようになったという幸福が、近頃の琴美をすっかりピンク色に染め上げてしまっていたのであるが、こんな事なら煩悩を断ち切って日々清らかな気持ちで学生らしく学業に専心すべきであったと、切ない後悔がその胸に押し寄せる。

 

『……あなた、智貴の事が本当に好きなのね』

「えっ?」

 

 てっきり侮蔑や嫌悪の感情でも向けられるかと思っていた琴美であったが、どこか好意的な様子で声を掛けられハッとなる。いつの間にか周囲の暗闇は消えており、元居たあの書斎へ戻っていた事に気付くが、そこに女性の姿は無かった。

 

(あれ……? お、お母さん?)

『大丈夫よ、ここにいるわ。さっきのはただの幻覚みたいなものよ』

 

 再び琴美の頭にあの凛とした声が響く。どうやら先程まで目にしていたものは、戸惑う琴美の為に女性が見せてやっていたイメージに過ぎなかったらしい。恥ずかしさで死にそうだった琴美としては目の前から女性の姿が消えてくれた事に安堵するが、同時に何やら寂しさをも感じてしまう。

 

『小宮山さん、よく聞いてちょうだい』

(あっ、はい)

 

 と、それまでどこか緩やかだった場の雰囲気を引き締めるかのように、何やら急に声の主が険しさを含んだ様子でそのような事を言い出したものだから、琴美も畏まってしまう。

 

『あなた、もう逃げなさい』

 

 もしや先程の破廉恥な妄想を咎められてしまうのではないかと構えていた琴美ではあったが、声の主は彼女の予想に反した事を口にする。琴美よ、逃げよと、かの女性はそう言ったのだ。

 

『智子はもうあの子にしか興味が無いわ。だから、あなた一人だけなら逃げられる』

(え? ちょ、ちょっと待ってください)

『あなたの思ってる通り、ガレージには車があるの。古いものだけど、ちゃんと動かせるようにしておいたから……』

(いや、でもだって、まだ智貴くんが……!)

 

 声の主より突然そのような事を言われた琴美であったから、反論せずにはいられない。智貴はあの人外に連れ去られて、きっとこの屋敷のどこかに囚われているに違いないのだ。それを置いて自分一人だけ帰るなど、そもそも琴美の頭の中には存在しない選択肢であった。

 

(私、智貴くんを助けます! でないと帰りません!)

 

 気持ちの昂りに己の体が火照り出すのを感じつつ、琴美は頭の中で叫ぶようにしてそう主張する。自身の想い人をこの危険な屋敷から連れ出すまでは、何があっても絶対に帰らないという覚悟がその面構えには表れていた。

 

『無茶よ、やめなさい。今度こそ本当に殺されるわ』

 

 そんな琴美の熱意に対して、一方の声の主は冷ややかに警告する。お前如きに何が出来るのだと、そう言外に含ませているようにも聞こえてしまう。

 

(大丈夫です。大した事ないですから、あんな奴)

 

 確かに智子にはしてやられたかもしれないが、現にこうして自分は無傷なままである。壁に叩きつけられて鼻血ぐらいは出たものの、その程度の力しか無いのだろうと考えた琴美は智子の力を侮ってみせる。人を鎧や家と融合させてしまう智子のそのズバ抜けた異能の被害者とこうして対話しているにもかかわらず、智貴を助けに行きたいと逸る気持ちからか、己が無傷であったのをいい事に敵の力をあえて小さく見ようとしているようだ。

 

『でもあなた、さっきまで死に掛けていたのよ?』

(えっ?)

 

 そんな琴美の危うさを戒めるかのように声の主がそのような事を明かした。しかしそう言われても現にこうして五体満足で傷ひとつ無いのであるから、琴美としては何とも的外れな指摘に感じてしまう。

 

『智子にこてんぱんにやられちゃって、もうボロボロだったんだから』

(そ、そうなんですか……?)

『本当よ。あなたは何度も何度も壁に叩きつけられて、そうして最後は窓から放り捨てられたの』

 

 智子の力で振り回されていた途中から意識を失ってしまっていた琴美であったから、己が結果的にどのような惨状に至ってしまったのかについてはまるで記憶に無かった。それ故にてっきり大事に至らずに済んだものとばかり思っていたが、実際はどうもそうではないらしい事を明かされ戸惑ってしまう。

 

(あ、でもじゃあ、なんで私、なんともないの?)

 

 声の主からのそうした指摘を受けて、琴美の中で一つのあからさまな矛盾に対する疑問が湧き上がってくる。仮に自分がそのような状態であったとすれば、体に傷や痛みのひとつも残っていないのはどうにもおかしい。

 

『私ね、怪我してる人の体とか、壊れた物とかを元に戻せるの。それで小宮山さんの事、治してあげたのよ』

(そんな事が……!?)

 

 その眼鏡だってグシャグシャだったんだから、と声の主が言う。一方の琴美はというと、そのような事が現実に可能なのかと、到底信じられないような事を聞かされて思わず唸ってしまう。しかし自身が読んでいる漫画のひとつに、主人公のそのような力を売りにしていた作品があった事を思い出した彼女は、あんな感じのものなのだろうかと考えてひとまずは納得する。漫画世代はこの手の突拍子もない超能力に対する受容性も高いようだ。

 

『あの子、あれでもまだ遊びのつもりだったのよ。運が良かっただけだわ……でなければあなた、きっと八つ裂きにされていたもの』

 

 それこそまるで虫でも殺すかのように、と声の主が脅してみせるので、琴美はそれ程までに己が危うい状況であったのかと今更ながらに思い知り、背筋に冷たいものを走らせる。怨霊と化し人の心を失った智子は、とかく容赦が無い。そんな彼女の前に今一度姿を現わそうものなら、殺しそこねた害虫を躍起になって駆除するが如く、今度こそ確実に琴美の息の根を止めようとするに違いないのだ。

 が、しかし。だが、である。例えそれが判ったとしても、だからといって小宮山琴美という女が大人しく尻尾を巻いて逃げ帰るかといえば、断じて否であった。その程度の事で簡単に諦めてしまうような柔な性根と恋心を、彼女は生憎持ち合わせていない。琴美はこれぞと思う事に掛けてはどこまでもタフなのだ。だからこそ彼女はこう言う。頭の中ではなく、敢えて声に出して宣言してみせる。

 

「それでも……私、逃げません。智貴くんの事、助けてあげたいんです」

 

 その為なら、死んだっていい。いいや、彼を救い出すまでは決して何があっても死ぬものか。

 壁を見据える琴美の真っ直ぐな目には恐れなど無く、迷いも躊躇も無かった。ただそこにあるのは、愛する男性の為に命すら懸ける事も惜しまないと言う、一人の情の深い女の祈りにも似た献身的な愛だった。今この場に琴美の姿を見る事の出来る者が居たとすれば、どこまでも純粋な心根を持つ彼女のその背に、羽根を舞わせて美しく広がる純白の翼を幻視した事だろう。一匹の鬼であった淑女の心境は今、天の光を背負って立つ御使いのそれへと至っていた。

 

『ああ……あなたって子は……』

 

 琴美のそうした揺るぎない心の内を読み取ったのか、声の主は嘆息する。それは琴美の頑なさに呆れたが故なのか、或いは彼女の心の輝きの中に我が子を救いうるかもしれない可能性を見たからなのか。

 

『あの子は果報者ね……小宮山さんみたいな子が彼女になってくれて嬉しいわ』

「か、かのじょっ?」

 

 声の主から突然そのような事を言われたものだから、琴美は慌てて両の掌を盛んに振って否定しに掛かる。

 

「違いますっ! わ、私、全然彼女とかそういうのじゃなくて……! そんなの、私なんかが畏れ多いっていうか……」

 

「畏れ多い」などとは流石に卑屈が過ぎるのではないかと思われる琴美のあたふたとした弁解を受けて、声の主はそれを面白がるように言葉を続ける。

 

『あらそうなの? でもあの子の事、好きなんでしょう?』

「あ、ええと……あ、その……す、好き、です」

 

 この声の主に隠し事は一切出来ないのだと思い知っている琴美は、照れに照れつつ素直に己の気持ちを白状してみせる。よもや本人に告白する前に、その母たる人物へと自身の赤裸々な思いの丈を晒す事になるとは。波乱含みの展開を定石とする巷の恋愛物ドラマに負けず劣らず、己の恋路もまた中々に数奇なものであると思う琴美であった。放送禁止な己の妄想まで知られてしまった事はまことにご愛嬌である。

 

『ふふっ、いいわねぇそういうの。夫と付き合い始めた頃を思い出すわ。ウチはね、私が高校生だった頃に……』

 

 琴美のそうした初心な反応に喜色を滲ませる声の主はそのまま上機嫌な様子でお喋りを続けようとしたが、今はそのような場合でない事を思い出したのか、すぐ様言葉を改める。

 

『小宮山さんともっとお話ししたいけど、そうも言っていられないわね。あの子、智貴に何かしようとしているようだから』

 

 名残惜しそうな様子でそのように切り出した声の主であったが、それは琴美とて同じ思いだった。このような状況でさえなければ話してみたい事はまだまだある。互いの間に交わされたやり取りはごく短いものではあったが、智貴の実母であるというこの婦人に対して、琴美は早くも好感を持ち始めていたのだ。

 

『あなたの気持ち、良く判ったわ。だったら私にも協力させて頂戴』

「あ、は、はい……!」

 

 そう言って声の主が本題に入ったので、それを受けて琴美の背筋も伸びる。自分一人で智子相手に勝ち目の薄い戦争を始めるつもりでいた琴美ではあったが、こうした思わぬ援軍の登場は彼女にこの上ない心強さをもたらす。暗闇の中で一筋の光明が、僅な希望が、見えてきたかもしれない。

 

『智子の力は確かに強いわ。私も、あの子に抑えられている時は力を上手く出せないでいるの』

 

 どうも声の主は己の本来の力を十全に発揮出来ないでいるようだ。そうした自身の窮状を説明する彼女であったが、その後に「でもね」と思わせぶりに続けてみせる。

 

『あの子の力には、秘密があるの』

「秘密、ですか?」

『あなたも目にした筈よ。この家を囲んでいる花畑……智子が植えた、あの弟切草の花を』

 

 そう指摘されて琴美は、ここで度々目にしたあのいわくつきの黄色い花を思い出す。確かあれらは、日記によれば智子が自分で屋敷の敷地に植え続けていったものではなかったか。

 

『あれが今の智子の力の源になっているの。元々のあの子の力は、もうとっくに使い果たされていたのよ』

 

 これもまた日記にあったように、智子はあまりにも無謀な力の使い方をしたが故にその反動で力を失い、遂には生命力までもが体から抜け落ち干からびてしまったという事であった。だがそんな智子が、怨霊として復活した後に今一度往年の力を取り戻す事が出来た秘密が、例の花にあると声の主は言うのだ。

 

『あの花にはね、智子の強い気持ちが込められていたの。毎日、毎日、あの子がずっと植え続けてきたあの花達が、いつの間にか智子の分身みたいになっていたんでしょうね』

 

 そこまで聞いて、琴美は自分がこの屋敷を訪れた際に見た光景を思い出してしまう。屋敷を取り囲む辺り一面の弟切草畑が、久方ぶりの来訪者を、智貴の帰郷を、目一杯歓迎するかのように暗闇の中で淡い光を放っていたあの幻想的な光景を。声の主の説明によれば、長年に渡り一人の超能力者から世話を受ける内に、いつしかあれらは魔の花々と化してしまったという事らしい。

 

「あ、じゃあ、もしかしてその花をどうにかしちゃえば……!?」

『そうなの。引きむしったり、踏み潰したりすれば、花がダメになってその分だけあの子の力を削ぐ事が出来るわ。あのお花達には可哀想だけどね』

 

 そうであるならば、今から大急ぎで花むしりに赴かなければ。或いはあの花畑の上で盛大に転がり回ってやろうか。それとも何か手頃な農具でも見つけてバッサバッサと刈り取ってやるべきか。智子が手塩に掛けて立派に育てたというあの可憐な花畑を、琴美は如何にして最短時間で蹂躙すべきかと考えを巡らせる。雨で花が濡れているせいで火を放って一挙に焼き払うという手を使えないのが今は何とももどかしい。己を拒絶されていきり立っていたあの怨霊は、智貴に対し「教育してやる」と言っていたのだ。それを考えれば、今この瞬間にも彼がどのような酷い目に遭わされている事か知れない。それが故に一刻も早く彼を助け出してやりたくて仕方がない琴美であった。

 

『待ちなさい。そんな事してたらすぐ智子に気付かれてしまうわよ? あの子とあの花は繋がっているんだから』

 

 気の逸る琴美を落ち着かせようと声の主はそのように注意する。屋敷の庭はとかく広いのだ。その敷地一帯に咲き誇る花々を琴美一人で除こうとするのなら、例え不眠不休で取り組んだとしてもいつ終わるか知れたものでは無い。それ以前に、花の危機を察知した智子が必ずや何かしらの妨害、或いは琴美への直接的な危害を加えてくるであろう事は想像に難くない。

 

『私とあの子はね、お互いに力を抑え合っているの。だからあの子はここから出られないし、家の外へもきっと手を出し辛い筈なのだけれど……』

 

 どうやら抑え付けられていたのは声の主だけではなかった。智子もまた、自身の母の妨害によって己の力の及ぶ範囲を制限されてしまっているらしい。

 

『でも花を操ってあなたを縛り上げる位の事は簡単でしょうね。それに、もしかしたらそれ以上の事をしてくるかもしれない』

「えっと、じゃあ、それじゃあ……」

 

 他にも何かきっと手がある筈だと、琴美は更に頭を回転させる。智子の妨害をものともせず、それでいて素早く豪快にかの花畑を蹴散らせる方法はないものかと。

 

「あっ……車!」

『そうね、私もおんなじ事考えてたわ』

 

 突如閃いた様子で声を上げた琴美を面白がるように、声の主はそれに同意してみせる。二人の考える作戦とはつまり、ガレージにあるという車で敷地内を縦横無尽に爆走してやり、その車輪で持って智子の力の源を荒らし尽くしてやろうというものだった。

 

『全部でなくていいのよ。ある程度まで花を減らす事が出来たら、きっと私の力があの子に届くようになるから』

 

 そうしたら後は私に任せなさい。声の主はそのように頼もしい事を言って琴美を勇気付ける。事態の打開を琴美に託した声の主であったが、智子との力の均衡を崩してさえしまえれば、逆に自分が智子を抑え込む事が出来ると言うのだ。

 

「じゃ、じゃあ私、すぐ行ってきます」

『あ、ちょっと待って……』

 

 そうと決まれば話が早いと、琴美は懐の内ポケットにガレージと車の鍵が入ったままである事を確かめると、脱兎の如く部屋を飛び出していこうとする。しかし肝心の出入り口となる扉が部屋のどこにも見当たらないものだから、琴美は出鼻を挫かれてしまった。

 

「あの、なんかドアが無いんですけど……」

『消したの。こうしておけば、あの子がここに入ってくる事は無いから』

 

 智子は入ってこれないと、最初に声の主から話し掛けられた際にも確かそのような事を言われたのを琴美は思い出す。しかしドアを無くした位で幽霊の出入りを阻めたりするものなのだろうか。もしかするとそうした処置だけではなく、この部屋自体に何か特別な護りが施されているのかもしれないと、不思議と安らぎを感じさせるこの部屋にそのような事を思う琴美であった。

 

『どのみち家の中をうろつくのは危険よ。そこの窓から外に出ていきなさい、丁度裏庭に出られるわ』

 

 書斎机の背後にある大きめの窓が、外から吹きすさぶ風に当てられガタガタと揺れている。あの窓はきっと自分を閉じ込めるような意地悪をする事なく素直に開いてくれるのだろう。ならばと気を取り直し、改めて琴美がそちらへ向けて足を運んでいく。

 

『それとね、出て行く前にこの部屋にあるもの、どれでもいいから何か一つ持って行ってちょうだい』

「え?」

『外に出たらあなたとの繋がりが薄くなってしまうのよ。でもこの部屋のものを持っていてくれたら、それを通して少しは守ってあげられると思うわ』

「えっと、じゃあ……」

 

 そう言って、琴美は部屋の中を見回す。何か手頃な本でも一冊持って行くのが良いだろうか。或いは書斎机に置かれたペンが良いだろうか。

 

「これ、持っていってもいいですか?」

 

 そう言って琴美が目当てのものに駆け寄り手で触れてみせたのは、本棚の脇に佇んだままでいる鎧の、その腰に吊り下げられていた剣であった。これなら武器代わりにもなるだろうと、その片手持ちの手頃な獲物を琴美は所望したのである。ちょっとカッコいいなと内心思っていた事もそれを選んだ理由ではあったのだが。

 

『ええ、どうぞ。構わないわ』

「あ、じゃあお借りしますね……」

 

 一応の礼儀として、琴美は物言わぬ鎧に一言断りを入れる。そうして彼女はその腰に吊り下げられていた獲物の留め金を外して拝借し、鞘から垂れ下がる革紐を己の腰に巻いている洒落たベルトへと括り付けてみせた。聞けば元々この鎧は智貴の父の趣味の品であったという。それを今では己自身の体とさせられてしまい、こうして不自由な置物でいる事を余儀なくされているのであるから、なんとも不憫なものであると琴美は同情を禁じ得ない。

 

「あの、息子さんの事、きっと助けてみせますから」

 

 微動だにしないその厳めしい硬質な顔にどこか物憂げな様子が浮かんでいるような気がしてしまった琴美は、鎧に向けてそのように語り掛ける。が、やはりウンともスンとも言わぬ鎧であった。仮に何かしら言いたかったとしても、かの御人は喋る事も出来ぬ状態であるのだから当然なのであるが、その事が琴美としては物悲しい。

 

『大丈夫よ。小宮山さんの気持ち、ちゃんと届いてる筈だから』

 

 そんな琴美の心を知ってか知らずか、声の主がそう告げる。

 

『何も出来なくなっても、まだ心はちゃんとそこにあるの。ほら、この人も喜んでるみたい』

「ウーン……」

 

 言われてみれば先程何となく鎧から感じられたその物憂げな様子が、今は消えてしまったような気がしないでもない。が、それも結局は気のせいとして片付けられるレベルの希薄な印象でしかなかった。きっとこの夫婦の間だけで通じ合う何かがあるのかもしれないと、琴美はそのように思う。もしかするとそれこそが愛し合う者同士の絆というものなのであろうか。

 ともあれ準備は整った。いざ出陣の時であると、琴美は窓へと歩み寄って鍵の掛かっていないそれを開け放つ。途端、窓から勢い良く風が入り込んでくるが、その中に雨粒が含まれていない事に琴美は気付いた。どうやらいつの間にか雨は止んでいたようで、雨音も聞こえてこない。

 

「あの、じゃあ、行ってきます」

『ええ、行ってらっしゃい』

 

 出立の挨拶をする琴美と、それを送り出す声の主、もとい智貴の母。二人の間には最早それ以上の言葉は必要ない。前に立つ者と、それを後ろから支える者。一人は愛する青年の無事を願い、もう一人は愛しい我が子の無事を願う。そうした願いを同じくする者同士の共同作戦が、これより始まろうとしていた。

 足を掛けて窓から身を乗り出した琴美は、そのまま一思いに飛び降りる。木立のざわめきがそこかしこから聞こえてくる裏庭へと降り立った彼女は、そのままガレージを目指して力強く駆け出していく。

 嵐の終わりは、近い。




ご両親への挨拶、完了。(次回に続く)


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(11)

弟を切に想う花

 雲間から僅かに顔を覗かせ始めたささやかな月明かりが照らす中、雨ですっかりぬかるんだ裏庭を駆けていた琴美は、ガレージと思わしき小屋がある場所まで辿り着いた。観音開き式となっている扉の取っ手を掴んだ琴美は試しにそれを前後に揺すってみたが、どうやら施錠されているらしい手応えが返ってくる。視界の利きづらい暗がりの中で改めて取っ手の付近を指でまさぐってみた所、彼女はそこに鍵穴らしきものがある事を感じ取った。早速懐より二つの鍵を取り出した琴美であったが、この暗がりの中ではどちらがガレージの鍵であったか判別が付かない為、ひとまずその片方を鍵穴に差し込んでみる。

 

(これだな……)

 

 手応えあり。錆のせいか引っ掛かりはあったものの、ひとまず差し込む事の出来たその鍵を、今度は右に左にと捻ってみせる。やはり錆のせいか、その感触はどうにも固い。が、そうこうしている内に鍵が上手く回ったようで、ようやく解錠に成功した感触が琴美の手元へ伝わってくる。そうして鍵を差しっぱなしにしたまま取っ手を引いてみれば、蝶番の軋む音と共にガレージの扉が開け放たれ、内部の様子が露わになる。

 

(こいつか!)

 

 僅かな月光が差し込むガレージ内に目を凝らせば、そこには確かに琴美が目星を付けていた通り、一台の車と思われるものが場のスペースを占領していた。

 ガレージ内へと足を踏み入れた琴美は、ひとまずその場の照明スイッチを探して入り口付近の壁を手で確かめていく。やがてそれらしきスイッチに触れた琴美が指でいじってみれば、天井から吊るされていた裸電球が発光し、ガレージ内に申し訳程度の明かりが灯された。床を這っていた小虫達がその明かりに驚いたのか、そそくさと思い思いに物陰へと隠れていく。

 照明に照らされ姿が露わになったそれを、琴美はしげしげと観察する。随分と埃を積もらせている為に白っぽくなってはいたが、そこにあるのは赤い色をした小ぶりな乗用車であった。デザインからして一昔以上前の型であるらしい少々レトロな風采をしたそれは、車体のあちこちが錆び付いており、随分と年季が入っている事を伺わせる。何かしらの思い入れでもある智貴の母が、新しいものへと買い替える事も無く古びたこの旧車を長らく使い続けていたのかもしれない。

 

(これ、ガソリンとか大丈夫なんですか?)

 

 お世辞にも状態が良いとは言えないその車を前にして、果たしてこれがまともに走るのだろうかと心配になった琴美は、頭の中で智貴の母に語り掛けてみる。

 

(あの、お母さーん……?)

 

 が、どうも返事が来る様子が無い。屋敷の外では意思疎通が出来ないのかと思いもした琴美であったが、このような離れた場所にある車を直してみせたと言っていた智貴の母である。ひょっとしたら屋敷の方で智子の動向を見張っていて、単にこちらに注意が向いていないだけなのかもしれない。

 あの声を聞けない事に少しばかり心細さを感じないでもないが、今は腰に携えた剣を通してかの女性との繋がりが生きている筈なのだと、琴美は己に言い聞かせた。

 

(へー〈14-14〉か、いいじゃん)

 

 何気なく車のナンバープレートを確かめた琴美はそのような感想を抱く。〈14〉は琴美の好きな数字で、これは千葉ロッテのエースを務める鉄腕投手の背番号であるというのがその所以なのだが、そうした中々に縁起の良い数字が偶然にも車のナンバーとして用いられていたのだ。これは何とも幸先が良いぞと、琴美はそのように思う事で己を一層鼓舞してみせる。

 

(どれどれ……)

 

 運転席側のドアを解錠して内部の様子を確かめてみる琴美。途端、長らく車内に滞留していた何とも言えぬ臭いを含んだ古い空気を吸い込んで咽そうになったので、うちわを扇ぐようにドアの開け閉めを繰り返し、内部の空気を少しでも入れ替えようとする。

 運転の邪魔にならぬよう、フロントガラスにすっかりこびり付いていた埃を手でおおざっぱに拭ってみせた琴美は、ひとまず運転席に座り込んでみる。小ぶりな車体に相応しく、運転席もそれ相応に狭いものであったが、小柄な体躯の琴美が座る分には特に差し障りは無い。シートにムカデでも潜んでいたりしないものかと思いはしたが、今はそんな事を気にしている場合ではないとその心配を切って捨てる。

 

(ガソリンはっと……これかなぁ?)

 

 普段乗り慣れていた自家用車と比べると物足りなさを感じる程にシンプルな作りの計器類であったが、その中で燃料計らしきものにあたりを付けた琴美は、その針がまだ目盛りの中頃を指している事を見て取った。とはいえ長期間入れ替えられる事も無くタンクに残っていたガソリンであるから、とっくの昔に変質していてもおかしくはないのだが、智貴の母は「ちゃんと動かせるようにしておいた」と言ったのである。一体何をどうやったのかサッパリ判らぬ琴美ではあるが、その言葉を信じてひとまずエンジンを始動させるべく、鍵を差し込み捻った。

 途端、オンオンオンとエンジンの始動音がガレージ内に鳴り響いた。見た目のボロっちさを払拭するその確かな反応に手応えを感じた琴美は、更に繰り返し始動を試みる。

 

(やった、掛かった!)

 

 ブゥゥンと唸りを上げたエンジンは、無事動いている事を誇示するようにその振動を車中へと継続的に伝えてくる。計器類に光が灯り、ヘッドランプも爛々とした輝きを放ってガレージ内を明るく照らす。試しにアクセルを少しばかり踏み踏みしてみれば、小気味良いエンジン音の高鳴りが聞こえてきた。

 

(こんなボロなのに凄いなぁ)

 

 屋敷の住人達に異変が起きて以降は手入れもされず放置されていた事が伺えるこの車であったが、とりあえずのコンディションチェックにおいては特に問題は見受けられなかった。かの女性による有限実行の結果を目の当たりにした琴美は、この場にて朽ちる一方であった代物をいとも容易く復活せしめたその力に、なんとも便利なものだと羨ましさを感じてしまう。しかしそうした異能を持つ事と引き換えに背負わされる運命の重さについてはいまいち思い至れないようだ。

 

(見てろクソムシ、グチャミソにしてやる……!)

 

 初めて旧車を操縦する事になった琴美ではあったが、手前の何とも無骨なハンドルを握り締め、これを乗りこなしてやろうという気力を漲らせる。そうしておもむろにギアを切り替え、僅かにアクセルを踏んでみれば、ガレージ内の砂利を踏みしめてゆるゆると車体が前進していく。

 これは走行する分にはいよいよ問題が無さそうだと見て取った琴美が、思い切ってアクセルを更に踏み込んだ。たちまちエンジンが唸りを上げて車体を加速させるが、勢い余ってガレージの扉を突き破ってしまい、辺りに盛大な破壊音が鳴り響く。

 

(やべっ、バレたか……!?)

 

 外は相も変わらず強風がビュウビュウと吹きすさび、その度に森が轟々と鳴いていた。しかし流石にこうも大きな物音を立ててしまっては、屋敷の方へ音が届いてしまったかもしれない。そのように思った琴美は車を止めて窓の外を見やる。

 こちらに気付いた智子が何か仕掛けてくるのではと、そう警戒する琴美であったが、ふと智貴の母の言葉を思い出す。それによれば、確か智子は屋敷の外に対してはそれ程派手な事も出来ないという事ではなかったか。そもそも琴美の事は最早眼中に無いのだとも言っていた筈だ。その(げん)が確かなのであれば、仮に智子がこちらに気付いたとしても、死に損なったお邪魔虫がほうほうの体で車に乗って一人逃げ帰ろうとしているのだと、その程度の受け止め方をして無視するのかもしれないと、そう考えを改めた。

 ともあれおちおちしてはいられず、一刻も早く智貴の母に託されたミッションを達成する必要がある。琴美は玄関側の広大な庭へと向かうべく、再び車を前進させてハンドルを回そうとする。表庭の方には弟切草が数多く密集していた事を覚えていた琴美は、そこを蹂躙するのが手っ取り早いと踏んだのだ。

 

(なんだこれ、重いぞ……?)

 

 少しばかり手応えのあるそのハンドルに、琴美は些か面食らった。流石旧車というべきか、近頃の車とはその使い勝手に隔世の感があったようだ。が、幸い乗っているのは軽自動車であったから、琴美の細腕であってもそこまでハンドル操作に難儀する程でもなかった。

 ともあれ第二の相棒となったそれを駆り、かの花畑をこれより襲撃せんとする琴美は、腕に一層の力を込める。そうして重ためのハンドルを力強く切って車の向きを変え、表庭へと走っていくのだった。

 

 ◆

 

(やるぞ! やってやるからな……!)

 

 表庭へとやってきた琴美は一旦車を止め、汚れ気味のフロントガラス越しに広がる弟切草畑を見やる。ささやかな月明かりの下でその姿を誇示し、風に揺られているそれらは実に見事な花畑であった。夜中に薄気味悪く発光するのはいただけないが、日中にでも見物すればさぞかし見ものだろう。

 智貴の母はこれらの花への少しばかりの同情を口にしていたが、実行隊長としてこれより眼前の花畑を蹴散らす任を授かった琴美としても、その胸中に幾許かの哀れみの気持ちが湧いてしまう。状況が状況とはいえど、やはり可憐な花々を実際に踏み荒らす事は彼女としても心が痛む。

 だが琴美は迷わない。智貴の母が見込んだ琴美の強い決意は、その程度では揺るぎはしない。可憐な花園へと己の駆る古びた鉄騎を乱入させる為、意を決した彼女はアクセルを踏み込んだ。

 

(行けっ、踏めっ、潰せっ……!)

 

 足元のぬかるんだ泥を周囲に飛ばしながら、琴美の乗る車はいよいよ件の花畑へと突入していった。途端、草を激しくかき分ける音が車体越しに絶え間なく届いて車中を満たす。なるべく多くの花々を踏みにじれるようにと、琴美が重いハンドルを右へ左へと交互に傾け蛇行運転を行ってみせれば、庭内には大量の花びらが舞い散り始めた。だだっ広い庭内にて大雑把な乱暴運転を繰り広げる車の通った後には、踏みにじられた花々の跡が轍のように伸びていく。智子が一つ一つ種から育てて芽吹かせ、長年掛けて手作業で植え続けていったというそれらは、このほんの僅かな時間でいとも容易く失われつつあった。

 

(これは……そろそろ気付いたかな)

 

 スラローム走行による花刈りを順調に続けていた琴美であったが、それに呼応するように花畑に異変が起こった事を受け、智子の気配を感じ取る。最初にこの屋敷に訪れた時のように、庭の弟切草達が一斉に淡い光を放ち始めたのだ。もしやと思った琴美が車を走らせたまま屋敷の方にちらりと目を向けてみれば、果たして玄関付近の窓に何やら人影がべったりと張り付いているのが伺える。

 

(ヤロウ、こっち見てやがんな……!)

 

 逆光に浮かび上がるシルエットだけでも、それが智子である事が琴美には瞬時に判った。窓に張り付く人影の顔の辺りから、あの二対の赤い眼光が爛々と放たれていたからだ。これは何か仕掛けてくるのではないかと警戒する琴美であったが、その兆しは屋敷を取り囲む花畑の中から早速現れた。

 

 ──ワオォォ──ン!

 

 甲高い獣の咆哮が庭に響く。それを皮切りに、あちらこちらから似たような咆哮が次々と琴美の耳に届いてきた。声のする一角を琴美が見やれば、いつの間に出現したのか花畑の中に幾つもの二対の赤い光点が潜んでいる事が伺える。

 

(犬!?)

 

 先程の遠吠えが合図であったのか、花畑の中に伏せて潜んでいたその獣達が一斉に立ち上がって姿を露わにする。いずれも目を爛々と赤く光らせて、我先にと琴美の乗る車目掛けて全力で駆けてくる。もしやこれは智子の差し金なのであろうかと考える琴美であったが、庭内でくねくねと蛇行するだけの車は花畑を疾走する獣の群れに間もなく追い付かれてしまう。

 

(何こいつら? オ、オオカミ……!?)

 

 花畑の放つ淡い光によってハッキリと姿を浮かび上がらせたその獣達の姿に、琴美は息を呑んでしまう。大型犬と言える程の立派な体格に、モサモサとした黒い毛並み、シベリアンハスキーを彷彿とさせる精悍な顔つき。狼の実物など見た事は無い琴美であったが、実際このような風采であったりするのかもしれないと彼女は思う。

 そんな狼達が群れを成して車の進行方向に立ち塞がったものだから、琴美は思わずブレーキを踏みつけ車を停めてしまった。そのままお構いなしに走行してなぎ倒す、などという事は流石に彼女としても憚られたのである。

 

(あっ、こいつら!)

 

 それを隙ありと見たのか、群れの中の数匹がすかさず車の足回りに飛び付いていった。ウーウー、ハウハウと盛んに唸り声を上げる狼達は、どうやら琴美の乗る車を獲物に見立てているらしい。狼如きでは車中に籠城している己に何か出来るとも思えなかったが、もしやと思った琴美は慌てた様子でアクセルを踏み込む。途端、車の足元でキャンギャインと狼達の悲鳴が上がったが、どうやら彼らは車をパンクさせる為にタイヤへ喰らい付いていたようである。

 

「ほら、どけよお前ら!」

 

 足元の狼藉者を振り払った勢いのまま、止まる事なくこの包囲網を突破せんとする琴美は、車を前進させたままクラクションを鳴らして進行方向の狼達を追い払おうとする。が、彼らはそれにたじろぐ事は無く、その凶暴さを滲ませる赤い両の眼で琴美を睨みつけてその場を動こうとしない。

 頑固な彼らに根負けして咄嗟にハンドルを切り進行方向を変える琴美であったが、曲がった先にも同じようにして壁を作っている狼達が並んでいたのでどうにもならない。

 

(ああっ、轢いちゃう!)

 

 急停止すべく咄嗟にブレーキを踏みつけた琴美であったが、意に反してエンジンが唸り、車が急加速してしまった。凶器と化した車が眼前の狼達を次々と轢いていったものだから、彼らはギャンギャギャンと思い思いに悲鳴を上げて撥ね飛ばされたり車の下に巻き込まれていったりする。慌てるあまり琴美がアクセルとブレーキを踏み違えたが故の、初歩的な事故であった。

 

(うわっ、うわっ……!)

 

 撥ねられてボンネットの上に乗り上げた一匹の狼が、まだ息のある様子で寝そべったまま歯を剥き出しにしてガラスに鼻を押し付け、運転席の琴美に激しく食って掛かる。が、そんな狼の鼻先が唐突にボロリと崩れ落ちた。何事かと目を見張る琴美であったが、やがて狼は刈られた芝のようにハラハラと急速にその身を分解させていき、風に乗ってボンネットの上から消え去ってく。その流されていく体の欠片達は、よくよく見れば光の抜け落ちた無数の弟切草であった。

 

『作り物よ、惑わされないで』

 

 突如、琴美の頭にあの声が響いた。どうやらかの女性も庭内における本番戦が始まった事で、今再びこちらへ注意を向けてくれるようになったらしい。

 

『追い付かれないようにしなさい、車輪に巻き付かれるわ』

(あっ、はい!)

 

 そのように注意された琴美が、緩め掛けていたアクセルを改めて踏み込む。狼達の吠える声が背後から絶えず聞こえてくるのは、彼らがずっと車に追いすがってきているからなのであろう。それにしても巻き付くとは一体どういう事かと思う琴美であったが、先程ボンネットに乗り上げていた狼がフロントガラス上に残していった何本かの弟切草にはまだ光が灯っており、それらがまるで生き物のように動き出していた事に気付く。

 

(蛇っ!?)

 

 その弟切草の一つ一つが、やがて形を変えて生々しいうねりを見せる黒い蛇へと変貌したのを琴美は確かに見た。そうして蛇達はフロントガラスに張り付いて運転席側の方へと集まっていき、視界を遮るようにその身を互いに絡ませ始めたので、そこに明確な妨害の意図がある事を琴美は感じ取る。

 

(くそっ、離れろっ!)

 

 それらを排除すべく琴美がハンドルの根元から伸びるレバーを引いてみれば、ぎこちない音を響かせるワイパーがガラスの上の蛇達をこそぎ落としていく。

 狼が無数の弟切草となってバラけたり、その欠片が蛇に転じてみせたりする光景を目の当たりにした琴美は、なるほど確かに智貴の母の言う通りだと感じる。これらは智子の超常の力が生み出した作り物の動物達なのだった。

 仮に大量の蛇が車輪に巻き付きでもすれば、流石にこの車も走らせる事が困難になるかもしれない。ならば隙を与える訳にはいかないと、ハンドルを握り直した琴美は改めて前を見据える。その視線の先では、別方向から回り込んできていた狼達がまたしても車の進行方向に立ち塞がって壁を作っていた。

 

(轢いたる! ワンコロども轢いたる!)

 

 が、今度はそれに躊躇する事もなく、アクセルを一切緩めず容赦なく狼達を次々に撥ね飛ばしていく琴美。オオカミ轢いたるお姉さんと化した琴美の耳に、キャンギャンワインと立て続けに彼らの痛ましい悲鳴が届く。花畑荒らしに加えて動物達への著しい虐待行為と、事情を知らぬ者が見ればあまりにも残酷に過ぎる琴美の凶行であったが、彼女としても命懸けなのだ。ましてや相手は智子の力によって作られたという妖怪じみた獣達なのである。それを証明するように、勢い良く撥ね飛ばされた狼の内の一匹が宙に投げ出されたまま爆ぜたかと思うと、その身を構成していた無数の弟切草とその花びらを辺りに散らせていく。

 散った花びら達が嵐による風で更に吹き上げられ、庭の中をそこかしこに舞っていく。その光景はさながら花吹雪のようだと、運転に集中しつつも横目でそれらを見ていた琴美はそのような感想を抱く。屋敷の中に居る智子はこの光景をどのような気持ちで眺めているのだろうかと、右に左に車を目まぐるしく走らせる琴美の脳裏にふとそのような思いがよぎった。かの悪霊の胸中にあるのは、花畑を荒らす狼藉者への激しい憎悪であろうか。それとも屋敷に縛り付けられ、自らこの場に打って出る事の出来ない悔しさであろうか。或いはそれとも──大切な花畑を(けが)された悲しみなのか。

 

 ──トモクン……

 

 度々邪魔をしてくる狼達を蹴散らしつつ、最初の頃よりもうんとスピードを上げて疾走していた琴美であったが、ふとどこからともなく声が聞こえてきたような気がして耳を澄ませてしまう。それは智貴の母の声ではなく、どこか幼い子供のような、そんな声であった。

 

 ──トモクン……トモクン……

 

 まただ。今度は聞き間違えなどではなく、確かに子供の呟くような声が聞こえてきたのを琴美は確信する。

 

(何この声? 一体どこから……)

 

 絶賛走行中の車であるから、外部の音などそうそう車中に届くものではないのだが、この小さな呟きはまるで直接心の中に届いてくるようだと、琴美にはそのように感じられてならない。

 

 ──オトウトォ……トモクン……トモキィ……

 

 声は一つだけではなかった。気付けば同じようにして何人もの呟きが立て続けに聞こえてくる。その中には幼い子供の声だけでなく、どこか聞き覚えのある特徴的な声も聞こえてくる。それはどうやらあの智子の声なのだった。

 

(これ、もしかして……!)

 

 琴美は先程から聞こえ始めたこの不思議な声が、辺り一面の弟切草達より発せられているのではないかと見当を付ける。どうしてそのように思えたのかは判らないが、庭に咲き誇る花々の一つ一つが意思を持っているのではないかと、今更ながらにそう感じられてしまったのだ。

 

 ──トモクン……アイタイヨォ……

 ──トモクン……カエッテキテェ……

 ──カエッテコイ……オトウトォ……

 ──アンニャロォ……トモキコノヤロォ……

 

 今や声は途絶える事なく琴美の頭へ届いてくる。そのいずれもが、おそらくは智貴を呼んでいるであろう事が伺えた。この花々にはひょっとすると智子の長年に渡る想いが宿っているのかもしれない。車に踏みにじられた事で、そこに込められていた智子の切実な想いがこの庭内の空間に解き放たれているのだと、琴美はそう考えた。

 この花々は、智子が離れ離れになった自身の弟の帰還を願っていつの頃からか植え続けていったものらしい。しかし智貴の母曰く、その行いは何ら意味を成さないものであったという。が、琴美はまたそれとは違った己なりの見解を抱く。智子はそれらしい理由を付けてはいたようだが、実際の所はもっと単純で、彼女は〈弟〉と名の付くこの花の事を自身の弟代わりにしていたのではないか。だからこそ、せめてもの慰めにとしゃにむに敷地へ花を植え続けていったのではないだろうかと、琴美にはそのように思えてならない。

 いつかまた再び弟と共に暮らせる日を願う、一人の少女の切実で純粋な想いの表れがこの花畑そのものなのだ。いや、その想いはいつしか肉親への愛情という枠組みすらも超えていき、半ば恋にも似たどうしようもない情熱へと至っていたのではないか。ミイラ部屋で智子が自分達の前に姿を現した際の、智貴に対するあのベタベタとした接し方の中にどうも色気めいたものを感じてしまっていた琴美であったから、事ここに至ってそのような考えに辿り着いてしまう。

 一人の相手を長きに渡って想い続け、その帰りをただひたすらに願った末に、遂には己の身を削るが如き無謀に手を染めてしまう。そしてまた、そうした行いが相手の身を危険に晒してしまいかねない事も厭わぬ程に、理性を喪失してしまう。これが恋煩いでないと言うのであれば、果たしてそれは一体何なのであろうか。智子もまた、かの青年に深く心奪われていたという事が今や琴美には判り過ぎる程に理解出来てしまった。

 

(そんなの、私だって、私だって……!)

 

 琴美は知らぬ内に己が涙を流していた事に気付く。飛び散った泥と花びらとで汚れきったフロントガラスであったが、それ越しに映る空には淡い光を放つ無数の花びらが風に吹かれてそこかしこに舞い散っていた。琴美にはその光景があたかも花々の命が天へと還っていくように見えてしまい、哀れで哀れで仕方がなくなってしまったのだ。

 だからといって琴美は己の使命を途中で止める訳にはいかない。この花畑を削りに削り、何としても智貴を助ける為の突破口とせねばならない。胸を締め付ける感情に背を向けて、琴美は尚も弟切草を蹂躙し続ける。

 

(花が……!?)

 

 そうこうしている内に、辺りの花々から何やら急速に光が抜け落ち始めていくのが琴美にも見えた。と同時に、聞こえ続けていた花々の呟きもすっかり鎮まってしまったようだ。

 狼達は機敏に走り回る琴美の車に追いつく事も出来ずにいたのだが、その数もいつの間にかすっかり減っており、今では数える程しか残っていなかった。が、そんな彼らもとうとう疲れ果ててしまったのか、走るのを止めてトボトボと舌を垂れつつ歩き始めたかと思うと、やがて力尽きるようにして元の弟切草へと分解していく。それはいやがおうにも智子の力の弱まりを感じずにはいられない光景であった。

 

『小宮山さん、もういいわ。もう、十分よ……』

 

 ふいに智貴の母の声が再び聞こえてきた。どうやら当初の目的をようやく果たす事が出来たらしい。琴美は体の緊張を少々緩めると、アクセルから足を離しブレーキを掛けてみせる。

 

(大丈夫なんですか?)

『ええ、そこで待っていてちょうだい。今に智貴を連れてきますからね……』

 

 すっかり減速した車は、やがて門の付近に差し掛かった辺りで停車した。智貴の母と練った作戦によれば後の事は彼女に任せる手筈であったから、琴美は気を揉みつつもエンジンを掛けたままの車中にて彼が救出されるその時を待つ。

 智貴が来れば、後は彼を車に乗せてそのまま門から出ていき、この呪われた場所とおさらばするだけ。そう、その予定であった。その筈、なのであったが──

 

『ああっ、なんて事なの……!』

 

 突如、琴美の頭の中に智貴の母の悲鳴のような叫びが届いてきたものだから、琴美は慌てて彼女に呼び掛ける。

 

(何かあったんですか!?)

『小宮山さん、あなたも家の中に来てちょうだい! 早く!』

 

 急にそのような事を要請されて面食らう琴美であったが、何が何だか判らぬままに車を降りて屋敷の方へと駆けていく。

 

『智貴が溺れて死にそうになっているわ……あの子の、智子の仕業よ……!』

「そんなっ!?」

 

 琴美が駆けている最中に智貴の母がそのような事を伝えてきたので、琴美は声を張り上げてしまう。追い詰められた智子がヤケになって暴挙に出たのであろうか。はたまたそれは当初から計画していた事であったのか。

 

『あの子を抑えきるまでには時間が必要なの……私が案内するから、あなたが智貴を助けてあげて……』

「うおあぁ──────!!」

 

 全く持って状況の掴めない琴美であったが、事はあまりにも急を要する。智貴の命が今この瞬間にも失われつつあると聞かされて目の前が真っ暗になりそうな琴美であったが、そんな己に活を入れる為に大声で吠えてみせた。やがて屋敷の前まで辿り着いたところ、迎え入れるようにして玄関の扉がひとりでに開かれたので、琴美は走り抜けた勢いのまま館の中へと飛び込んでいく。

 最後の嵐が今、吹き荒れようとしていた。




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(12)

★イラスト
DDT様がこの第十二話のラストシーンをイラスト化してくださいました。作者様にご許可頂けましたので、この場を借りて紹介させて頂きます。
https://twitter.com/DDT000125/status/1253683967175168002


ドウカンガエテモ……

(なんだコイツら!?)

 

 開かれた玄関扉から屋敷の中へと勢い良く飛び込んだ琴美であったが、己の前に立ち塞がる者達の姿に思わず足を止めてつんのめりそうになる。玄関ホールに大勢の動物達が詰めかけていたからだ。兎にリス、イタチに狸、フクロウや色とりどりの小鳥、中には猿や猪の親子に加えて鹿に似た動物まで居る。そんな彼らは思い思いに鳴き声を上げつつ、何やら皆一様にせわしない様子で今し方琴美が入ってきた玄関扉の方を伺っていた。よくよく見れば、その体はいずれもうっすらと透けている。

 

『小宮山さん、二階に行ってちょうだい』

 

 一体彼らはどこから湧いて出てきたのであろうかと訝しむ琴美であったが、頭の中に届く智貴の母からの誘導を受けてすぐ様我に返る。何が何だか判らないが、特に琴美を妨害するつもりもなさそうな彼らであったから、琴美は動物達の合間を縫うようにして階段の方へと駆けて行く。

 と、一匹の子猿がキキッと一鳴きして母猿の体から降りたかと思うと、開け放たれたままの玄関へと走り寄り、そのまま外へと出て行く。それを見た母猿も我が子を追い掛け、同じように外へ出て行ってしまった。途端、堰を切ったように他の動物達も玄関扉から次々に脱出し始める。それはさながら釈放の恩赦に沸く虜囚達のようであった。

 そんな彼らに疑問符を浮かべながらも、琴美は大きな階段の上を数段飛ばしに勢い良く駆け上がって行く。

 

「うわっ!」

 

 突如として屋敷が強く揺れたものだから、琴美は階段から転げ落ちてしまわぬようにと駆け上がるのを止めて手すりに掴まる。が、その揺れはすぐしない内に鎮まってしまった。

 

(地震……? って、まただっ!)

 

 鎮まったかに思えた揺れが再び起こり、そうしてまたすぐに鎮まり、その矢先にまたしても再開する。地震などに負けるものかと、手すりを掴みつつ散発的な揺れに耐えて階段を上っていく琴美であったが、そうした奇妙な揺れの中にどこか人為的なものを感じ取る。もしかするとこれは屋敷のどこかで智貴の母が今正に智子と戦っている事の表れなのかもしれないと、そのように思えてしまったのだ。

 

『右の廊下の……黒い扉……智貴が……』

(へ? あ、えと、ドアに板とか打ち付けてた部屋ですか?)

 

 ようやく階段を上り終えた琴美に再び智貴の母の声が届いたが、それはどうにも途切れ途切れであった。琴美としても智貴の母が示した部屋に心当たりはあるが、聞き取りにくい通信であったから念の為にと改めて聞き直す。だがそれに対する答えは返って来ず、代わりの返事とばかりに再びあの揺れが屋敷を軋ませる。ともあれ見当を付けた場所へと急ぐ他ないと、琴美は時折揺れる廊下の上で足をもつれさせながらも駆けて行く。

 *

(ここだ……! きっとここに智貴くんが……!)

 

 以前に見掛けた際、何とも気味が悪いと感じていたその黒塗りの扉の前まで琴美は辿り着いた。扉には幾つもの板が乱雑に打ち付けられて封鎖されていたのだが、どうもその開かずの間から何かしらの音楽が鳴り響いているのが聞こえてくる。そのことにただならぬものを感じ取った琴美は、やはりこの扉の先に智貴が居るに違いないのだと確信を得る。

 

「智貴くん! 今行くから頑張って!」

 

 中に居るであろう智貴に向けてそのように呼び掛けた琴美は、言うが早いか扉から距離を取ると、そのまま駆け出し己の足に体重を乗せて勢い良く扉を踏み付ける。斧か鉈でもあれば封鎖された扉を破壊出来るのだが、生憎琴美の手元にあるのは腰に下げた細身の剣だけである。今から手頃な得物を探しに行くよりもここは己の体を使った方が早いと、琴美は骨が砕けんばかりの力を込めてその扉へと盛んにアタックを繰り返していく。

 

(早く、早く、早く!)

 

 が、扉はひどく頑丈であった。木製の扉らしく軋みはするものの、中に鉄板でも入っているのではないかと思えてしまう程に重い感触が琴美の足に伝わってくるものだから、どうにもこの扉を蹴破れそうな気配が無かった。

 

(クソッ、駄目か……)

 

 そうしてしばらく扉を全力で蹴り続けていた琴美であったが、一向に手応えが無いのを見てとうとうそれを止めてしまう。ぜいぜいと肩で息をする彼女の顔色は今や青ざめつつあった。己がこうしてモタモタしている間にも智貴の命は失われつつあるのだと、ただでさえ焦りに焦っていた琴美の中に狂おしい程の焦燥が渦巻く。

 

(どうしよう、どうしよう……!)

 

 嫌な汗が次から次へと浮かんで仕方がなく、心臓が凍りついてしまいそうな程の寒気に侵されそうになる琴美。愛する人の死がいよいよ現実味を帯びてきてしまった事を受けて、彼女はかつてない程の戦慄に包まれていた。

 この異常に堅牢な扉はおそらく智子が何か仕掛けを施していったに違いないのだと、今更ながらにそう考える琴美。であるのならば今からでも急ぎ扉破りに使えるものを探しにいくべきだと思いはするものの、何故最初からそうしなかったのだと、どれだけ時間を無駄にしてしまった事かと、遅きに失する己の判断ミスが悔やまれてならず、その自責の念が気持ちの切り替えを益々遅らせてしまう。そうした琴美の顔には絶望の兆しすら生まれ始めていた。

 

『剣を使いなさい! それで扉を斬っ……』

(えっ!?)

 

 そのような琴美の混乱を感じ取ったかのように、またしても智貴の母から途切れ気味の声が届いた。それを受けて琴美が腰に下げている剣に目を向ける。今し方智貴の母は「その剣で扉をどうにかしろ」と言ったのだ。

 

(これでどうにかなんて……)

 

 かような細い剣で目の前の木製モドキの鉄扉が破れる訳がないと思いつつ、琴美は震える手で言われた通り剣を鞘から抜いてみせる。が、その丁寧に磨かれた美しい刀身を見た途端、琴美に一つの気付きが訪れた。

 自分は一人ではない。屋敷の中では今、この剣を快く貸し与えてくれたかの女性が智子を抑え込む為に戦ってくれている。そしてこの剣の持ち主である智貴の父もまた、娘の凶行に心を痛めつつもその鎧の奥で息子の身を心から案じているに違いない。智貴の無事を願う両親の想いがこの剣に込められているように感じられた琴美は、息を深く吸ってからそれを両手で構え直す。そうして振りかぶった琴美は、手にした武器の刃先を力いっぱいに扉へ向けて振り下ろした。

 

(わわっ!?)

 

 相応の反動が来る事を予想していた琴美であったが、逆に手応えが軽過ぎた為に勢い余って空振りした打者のようによろめいてしまった。一体何が起こったのかと目の前の扉を見やる琴美であったが、確かに己が今斬りつけた太刀筋に沿って扉にざっくりと大きな切れ目が走っていたのをそこに認める。

 

(これ、もしかして凄い切れるやつ!?)

 

 非常識な程に切れ味の良いその剣に思わず息を呑んでしまう琴美であったが、そうと判ればやり様はあると、先程己が切り付けた太刀筋の終点から続けるように、剣の切っ先を扉へ突き刺してみせた。琴美の見立て通り、切っ先が易々と扉へ深く刺さったので、そのまま一思いに刃を走らせて行く。

 やがて人一人が通れそうな程の大きな切れ目を扉に作った琴美は、剣を引き抜き改めて扉を蹴り付ける。と、今度は殆ど抵抗も無く切れ目に沿って扉の板が奥へと倒れ込んでいき、それに合わせて部屋の中で鳴り響いていた音楽が直に聞こえてきた。それはあたかもカッターで紙を切り裂くが如き容易さであったから、琴美はこの剣を通して智貴の母の力が確かに顕現しているに違いないのだと確信し、おおいに頼もしさを感じてしまう。依然として続く屋敷の揺れに、琴美はかの女性の勝利を願わずにいられない。

 室内の照明は点けられていなかったのか、切り抜かれた扉の先には暗闇が広がっていたが、琴美は剣を片手に迷わずその中を潜って、何やら聞き覚えのあるクラシック曲が響く部屋の中へと足を踏み入れる。

 

(電気、電気は……!)

 

 こうも暗くては敵わないと、入り口付近を急ぎ確かめた琴美は手に触れたそれらしいスイッチを入れてみる。

 

「うわっ!?」

 

 途端、天井の照明が点いて室内の様子が露わになったのだが、部屋の中にあったものを目にして心臓を踊らせる琴美。そこには車椅子に座ったあのミイラが置かれていたのだ。

 

(ウエディング、ドレス……?)

 

 そのミイラのいでたちに、琴美は眉をひそめた。以前見かけたミイラは果たしてこのような格好をしていただろうかと、そのように思ったからだ。目の前のミイラはその生々しく朽ち果てた体に、清潔感のある純白の可憐な花嫁衣装を身にまとっていたのだ。頭に被せられたベールの上には、ご丁寧に弟切草で編んだ花冠まで載せられていた。それはあまりにも不釣り合いな組み合わせであり、最早悪趣味を通り越して醜悪とすら言える光景であった。

 ここに来て、琴美は部屋に置かれたレコードプレーヤーから鳴り響いていた楽曲が何であるのかにようやく思い当たる。結婚式などで良く使われているお馴染みのクラシック曲──メンデルスゾーンの〈結婚行進曲〉、それこそが部屋の中を満たす音に違いなかった。

 この部屋で智子は己の遺体を飾りあげて結婚式でも挙げるつもりだったのだろうかと思う琴美であったが、その相手をさせられるのが誰なのかと言えば、智貴以外に居ないのである。が、部屋の中に肝心の智貴の姿は見当たらない。そもそも智貴の母は彼が「溺れている」と言ったのである。人一人が溺れてしまうような場所が一体どこにあるのだと、大人しい置物と化しているミイラを尻目に部屋を改めて見回す琴美。

 この部屋、扉と同様に壁紙や家具、果ては部屋の脇に置かれたベッド上の寝具も含めてどこもかしこも黒一色という凝りようであった。まるで黒魔術の儀式にでも使うような妖しさと禍々しさに満ち満ちた不気味な部屋である。ひょっとしたら智子は生前、この部屋の中で弟を呼び寄せる儀式を行っていたのかもしれない。

 

(あれは……)

 

 と、部屋の奥の壁に何やら違和感を感じた琴美はすぐ様そちらへ駆け寄って確かめてみる。真っ黒な壁と思われたそれであったが、手で触れてみれば滑らかな布の手触りが伝わってくる。試しに琴美がまさぐってみれば、それに合わせて布がズレた。これはと思った琴美がそれを掴んで引き寄せてみれば、するすると布が壁から剥がされていく。そうしてすっかり布が引き剥がされた後に残ったのは、壁一面に広がる一枚の大きなガラスであった。

 最初、それが何であるのか琴美は判らなかったが、よくよく観察してみれば濁りきった暗緑色の水を湛える非常に巨大な水槽であった事に気付く。どうもそれは黒い布ですっぽりと覆い隠されていたらしい。

 

(これって……もしかして……!?)

 

 一体このような巨大なものをどうやって部屋の中へ運び込んだのかと思う琴美であったが、ともあれようやく智貴の母が言った「溺れている」という事の意味が理解出来た。濁りきった水槽の中に何があるのかはまるで見通せないが、おそらく智貴はこの中に沈められてしまったに違いないのだ。そのことに思い至った琴美が血相を変え、手にした剣を用いて目の前のガラスを大きく切り抜いていく。

 やがてある程度太刀筋を走らされたところで、ガラスは自らの内に蓄えたその水圧に耐えかねてひとりでに弾け、割れた箇所から大量の濁った水が勢い良く排出されていく。それを浴びてしまわないよう身をかわす琴美であったが、ひどく腐った臭いが部屋の中に充満したため吐き気をもよおしてしまう。

 汚水の奔流を受け、レコードプレーヤーはそれが載ったテーブルごと倒れて演奏がストップする。着飾られていたミイラもまた、壁まで押し流された後に車椅子から転げ落ちてその純白の衣装を台無しにしてしまった。そうしてみるみる内に水位を下げていく水槽の中で、やがて一人の人間の姿が露わになる。それは、横倒しになった椅子に縛り付けられている智貴であった。

 

「ああ……嘘……そんなぁ……」

 

 ぐったりとうなだれて生気の無い彼の姿を目の当たりにした琴美はショックのあまり悲鳴を上げてしまいそうになるが、それをどうにか堪えてガラスの割れた箇所から水槽の中へと足を踏み入れ、彼を急ぎ水槽内から引っぱり出そうとする。が、足元に転がる何かをうっかり踏んでしまった彼女はバランスを崩してしまい、その場で滑って尻餅をついてしまった。

 

(ほ、骨!?)

 

 巨大な水槽の中に広がっていたその地獄絵図に、琴美は目を見張る。水槽に沈められていたものはどうやら智貴だけではなかったらしい。今やすっかり水の抜けた水槽の中には、この非常時において尚、琴美をたじろがせる程に夥しい数の骨が底に溜まったヘドロに埋もれてそこかしこに散乱していたのだ。それらはどうやら大小様々な動物達のものである事が伺え、琴美が今し方踏みつけてしまったものも、鼻先の尖った何かしらの動物の頭蓋骨であったようだ。

 

(畜生っ、サイコ野郎が……!)

 

 これらの事も智子の仕業であると見た琴美は、心の中で悪態を吐いた。玄関で出くわしたあの動物達の群れが一体何であったのか、ここにきてようやく判ったような気がしたからだ。あれらはきっと皆、今ここに亡骸を散らばらせている動物達の幽霊に違いない。何を思ってか、智子はこれまで森の動物達を家の中に度々引き入れてはこのように水槽に沈めて溺死させ、その哀れな霊魂をまるでコレクションのようにこの屋敷へ閉じ込めていたのだろう。

 かの狂人の霊がなにゆえにそのようなおぞましき行為に手を染めていたのかなど判りたくもない琴美であったから、足元に散乱する彼らから目を逸らし、倒れている智貴に駆け寄り彼を椅子に縛りつけるその戒めを剣で素早く断ち切っていく。そうして剣を鞘に戻した琴美は、意識を失っている智貴をその細腕でどうにか引きずって水槽の中から連れ出した。大量の汚水で水浸しになった床に彼を寝かせるなどとても出来なかったから、ひとまず部屋の中にあった黒いベッドの上へと寝かせてやる。

 

「智貴くん、ねぇ、智貴くん……!」

 

 琴美がさかんに呼びかけつつその具合を確認してみるが、すっかり呼吸の止まっている智貴がまるで死人じみた顔色でいるものだから、とうとう抑えていた胸の内を爆発させてしまう。

 

「おがあざぁぁん! 智貴ぐんが死んじゃうぅぅ──!!」

 

 喉が張り裂けんばかりに、琴美が大声で智貴の母へと助けを求める。

 

「お母さんの力で、治してあげられないんですかぁ──!?」

 

 必死にすがるようなそうした呼び掛けに対する智貴の母からの返答は無く、その代わりに建物の揺れが依然として散発的に続いていた。果たして智子との戦いの行方はどうなってしまったのだろうかと心配になる琴美であったが、今はそれよりも目の前の智貴の事が重要だ。

 

(あ、でも……)

 

 智貴の母ならどうにか出来るのではないかと、祈るような気持ちで彼女に思念を送り続けていた琴美であったが、ふとその脳裏にミイラ部屋で読んだ日記の内容が思い起こされる。確か智貴は幼い頃に、雪だるまに埋められて瀕死の状態に陥った事があった筈ではないか。その時の智貴の母の対応はといえば、急ぎ息子を病院に担ぎ込んでようやく一命を取り止めさせたという位であったからして、もしかすると今直面しているような形の命の危機においてはかの超能力者といえども出来る事が無いのかもしれない。

 ひょっとしたら自力で復活してくれるかもしれないと、いちるの望みを求めて智貴の胸に耳を当ててみる琴美であったが、やはり心音や脈動らしきものは一切感じられなかったものだから、琴美の目にみるみる涙が滲んでいく。

 自分が智貴の母より急な報せを受けてから一体どれだけの時間が経過したのだろうか。そもそも智貴は一体いつからあのように水槽に沈められていたのだろうか。智貴の命のわずかな灯火は、果たして今も消えずに残っているのだろうか。結局の所、何もかもが既に遅かったのではないか。

 智貴はもう──死んでしまったのだろうか。

 そうした様々な思いが琴美の中を駆け巡っては、心にポッカリ空いた穴の中へと消えていく。それに合わせて大切な何かが崩れ落ちていくのを琴美は感じた。己の自我を形成していた根幹部分に、次々とヒビが入り始めていくような気さえしてしまう。

 

()()()()?)

 

 壊れゆく琴美の心の中で、何故だか唐突にそのような言葉が浮かび上がってきた。途端、彼女は急速に己を取り戻していく。溺れた者に対してまず初めに行わなければならない応急処置の事が、今の今まですっかり頭から抜け落ちてしまっていた事に琴美は気付いたのだ。

 

(そうだ、人工呼吸! なんで私、今まで……?)

 

 例え急を要する場合であったとしても智貴相手にそのような大それた事を実行するなど許されるものではないと、過剰なまでに卑屈な遠慮が無意識に働いてしまったのであろうか。それが故に彼女の中からこの危機的な状況においてすら人工呼吸という最有力の選択肢が不自然に消えてしまっていたのかもしれない。その割には日頃から智貴を妄想の中で遠慮なくいじり倒していたり、昂ぶった時は彼をホテルに連れ込んでやりたいと息巻いたりもする琴美であるが、結局はそれらも頭の中だけで完結してしまう願望に過ぎず、いざ実際にそういった場面に直面しようものなら緊張のあまり逃げ出してしまうような人間であったのだ。

 ともあれそうした心が壊れかけ、その過分な卑屈さや遠慮すらも消え去ったが故に、琴美は人工呼吸という真っ当な選択肢をようやく取り戻す事が出来た。今し方思い当たったその応急処置を実践する為にベッドの上へ乗った彼女は、いつだったか自動車教習所で習ったその具体的方法を試そうと必死に頭を振り絞る。

 

(えと、まずは鼻をつまんで、だっけ? あと、あとそれと、ええと……!)

『えーでは呼吸確認をし終えたら、先に心臓マッサージを三十回行います。圧迫位置の確認の為にシャツはめくる事』

 

 はて一体どういう手順で行えば良かったのだろうかとまごつく琴美であったが、その脳内で突如として、かつて習った心肺蘇生術の講習の模様がまるでビデオを再生するが如くありありと蘇った。

 

『両手を重ねて添えて、位置は胸骨の上。みぞおちを押してしまわないよう注意して、丁度この辺りを押していきます』

(これは……!)

 

 何故このような現象が起きているのか自分でも判らない琴美であったが、それはもしかすると智貴の窮地を救う為に琴美の中の記憶中枢が、今この瞬間に必要な記憶を引き出そうと尋常ならざる働きをしてみせたからなのかもしれない。ともあれその記憶に従うようにして智貴のシャツをめくった琴美は、露わになった彼の逞しい胸板に場違いな興奮を覚えたりする事もなく、そこに己の掌を添えて正しい圧迫位置を探し当てる。

 

『肘をまっすぐ伸ばして、こう、真上から体重を乗せるように。手は離さずに押す事。ではイチ、ニ、サン、シ』

 

 記憶の中で実演を行う教官を真似て心臓マッサージを開始した琴美であったが、以前人形相手に己が実践してみせた際に教官から「力が弱過ぎる」「もっと早く」といった注意を受けた事も思い出し、それらを踏まえた上で正しい処置を続けていく。

 

『次は人工呼吸。こうして顎を抑えて上を向かせて。それから鼻をつまんで、胸が上がる位息を吹き込みます』

(うぅ……)

 

 まずは初手の心臓マッサージを終え、返す刀で人工呼吸に移る事となったが、琴美は一瞬だけ躊躇してしまう。それは今以て智貴と口を重ね合わせるという行為に無意味な遠慮が残っていたからなのか。だが少しもしない内に意を決した琴美は、己の記憶に倣って適切な人工呼吸を行い始める。自身の唇に触れる智貴の唇がすっかり冷たくなっていた事が悲しくてならず、彼の顔にポタポタと涙を落とす琴美は、嗚咽を漏らしながらも想い人の肺へと懸命に酸素を送り込む。

 

 ただひたすらに処置を繰り返していく琴美の脳裏に、意識せずして智貴とのこれまでの思い出が駆け巡っていく。智貴と大学のゼミを通して直接的な交流を持てるようになったのは最近の事ではあったが、それよりもずっと以前から彼を密かに想い続けてきた琴美であったから、その思い出の量は数え切れない程であった。

 智貴と同じ中学に通っていた頃、結局彼へ声一つ掛ける事の出来ないままに卒業を迎えてしまった琴美は、それ以降の一年間、随分と張りのない日々を送っていた。あれから智貴はどうしているのだろうかと、彼の様子を覗きに行きたいと思わないでもない琴美であったが、魅力的な彼の事であるからして、もし自分の知らない内に彼女でも出来ていてそれを目撃させられる事になったらと思うと、恐ろしくてとても見に行く気にはなれなかった。

 そうして元々繋がりらしいものも無かった智貴と益々疎遠になってしまった琴美であったが、そんな彼女は思わぬ形で彼との再会を果たす。智貴が己の通う高校へと入学してきたのだ。もしかしたらそうした可能性もあるかもしれないとささやかな望みを持っていた琴美であったから、この事がどれだけ当時の彼女の青春に彩りを呼び戻したか知れない。自分と同じく彼に好意を寄せているらしい、井口(いぐち)という後輩の女子の存在にやきもきしつつも、琴美は暇さえあれば彼が放課後のグラウンドで部活に励む様を見物したり、果ては長期休暇中にもサッカー部の活動日程を調べ上げてはこっそりその様子を覗きに行ってみたりしたものである。

 何とも慎ましやかな琴美のそうした恋路であったが、それでも彼女は智貴と同じ学校に通えていて、遠目にでも日々彼の姿を目にする事が出来るだけで幸せだった。実を言うといっそ留年して彼と同学年にでもなってみようかと思ったりした事もあったのだが、苦労を掛けている母の事を思えば、とてもではないがそのような暴挙には踏み切れなかった。

 そうして琴美の忍ぶ恋は続いていき、やがて時が進んで高校の卒業式を迎えた。今度こそ本当に智貴と離れ離れになってしまうのだと思った琴美は、思い切って彼に告白するべきか否かで大いに悩む事になる。激しく恋い焦がれているにもかかわらず、琴美はその時点においても智貴とまともに言葉を交わした機会は中学で初めて出会った時の事を除けば皆無に等しかった。それが故に、贔屓目に見ても智貴の中での己の存在は名も知らぬ不審人物程度の扱いでしかない事を彼女は自覚していた。だからこそこのままでは智貴から永遠に忘れ去られてしまうのではないかと、それが恐ろしくてならなかった。

 しかしながら、琴美は結局勇気を出すことができなかった。自分のような者が智貴へ告白したとしても、きっと気持ち悪がられてしまうに違いないと、迷惑を掛けてしまうに違いないと、自己を卑下する気持ちの強い少女であった琴美はそうした臆病な気持ちに捉われて何も出来ず終いだったのだ。

 そうして再び琴美の青春からは色が抜け落ちていった。今度はささやかな望みすら期待出来そうにない大学である。都合良くまた智貴が己と同じ学校へ入学してくる事などあろう筈も無い。そう考えはするものの、さりとて長年に渡りこじらせてきた恋煩いが治まるはずもなく、暇さえあれば想い人のことを思い出してはそのたびに狂おしいほどの情欲と、胸が張り裂けんばかりの喪失感にさいなまれ続けていた。

 だが、またしても琴美は彼と再会を果たす事となる。それは一体どういう偶然であろうか、大学生活二年目の春に、自身が通う大学へとあの智貴が入学してきたのだ。智貴の姿をキャンパスで見掛けた時の衝撃を、琴美はよく覚えている。こんな事が本当にあるのだろうかと、これはもしかすると何か運命的なものがあるのではないかと、琴美は智貴との二度目となる奇跡的な再会に何かしらの見えない力のようなものすら感じてしまい、この事を神に感謝せずにはいられなかった。

 が、だからといってすぐ智貴に声を掛けられるような積極性があれば、そもそも琴美はとっくの昔に智貴の知己を得ていた筈である。結局奥手な琴美が選んだのは、時折校舎や食堂で見掛ける彼を以前よりも気持ち近めの距離からチラチラ盗み見たり、購入したスチルカメラでバレないようにその姿を盗み撮りするという、傍目にはどうにもじれったく、それでいて際どいアプローチであった。

 今やすっかり顔を覚えていたあの智貴狙いの後輩女子(メスブタ)の姿が当然の如く彼の周りで見られた事は頂けなかったが、ともあれ琴美としては今度こそチャンスをふいにしてしまわないようにと、智貴とどうにかしてお近づきになれるその機会の訪れを願い続けていたのである。

 その後の琴美がどのようにして智貴と直接的な交流を持つ機会を得たのかについては既に幾度か触れられている事なので割愛するが、ともあれ琴美の智貴に懸ける思いの深さには長い長い歴史があるのだった。

 *

(あっ……)

 

 さっぱり反応を返さない智貴へ汗だくになって応急処置を行い続けていた琴美は、本来であれば今日のデートにおいて、ある重大な予定があったことをふと思い出す。天体観測の最中、琴美はこれまで秘めてきた智貴への想いを遂に告白しようと決意していたのだ。ずっと昔から好きだったと、一目惚れだったのだと、そう彼に伝えたかった。だが、それももう出来そうにないのかもしれない。

 

(死んじゃやだ……! 死なないで……!)

 

 目からとめどなく溢れる涙のせいで、琴美はもう智貴の顔が見えなくなっていた。いくら蘇生を試みても一向に手応えが無いものだから、やはりもう既に手遅れであったのかもしれないと、ここに来て疲れが頂点に達した琴美はそうした悲観的な考えに支配されてしまう。そしてまた、そのような思いが更に体から力を奪っていってしまう。琴美はもう今にも気絶してしまいそうであった。

 

「智貴くんっ! 好きだよ、大好きだよっ、愛してる!!」

 

 すっかり力の入らなくなってきたその震える腕で必死に心臓マッサージを続けつつ、琴美はそのように叫んだ。

 

「ずっと前から好きでした! 一目惚れでした!」

 

 喉の奥から絞り出すようにして、その本心を打ち明けていく琴美。ぜいぜいと苦しそうに呼吸を繰り返す彼女であったが、それを押してでも彼に想いを伝えねばやりきれなかったのだ。

 

「私、中学の時、君に助けてもらったんだ! あの時のお礼、私、まだ、言えてない、から……!」

 

 だから死なないでと、そう続けたかった琴美であったが、息も絶え絶えな彼女は最早満足に声も出せなくなってしまった。とうとう力尽きてしまった琴美は、崩れ落ちるようにして智貴の胸の上に倒れ込んでしまった。嗚呼、これはいよいよお終いだと、智貴を救う事が出来そうにない絶望に捉われて目の前が真っ暗になった琴美は、荒い呼吸を繰り返しつつ、しばらくは指一本動かせそうにない己のふがいなさを呪う。

 智貴の母はどうしているのだろうか。首尾よく智子を抑え込む事は出来たのだろうか。今となってはもはやどうでも良くなってしまった。

 

 ──トクン……

(ん?)

 

 かすかに聞こえたその音に、琴美は呆然としていた意識を引き戻される。つい今し方、己の耳元でそのような音が鳴ったような気がしたのだ。そうして何事かと琴美が思っていると、更にまた同じ音が耳元から聞こえてきた。

 

(え? これって……!?)

 

 音は図らずも琴美が耳を押し当てる形になっていた智貴の胸板の内から響いてきていた。

 

(もしかして、もしかして!)

 

 弱々しくはあるものの、確かに智貴の鼓動が戻ってきていた。その事を確信した途端、琴美は動かなかった筈の己の身を勢いよく起こし、

 

「とっ、智貴くん!?」

 

 と、盛んに呼び掛ける。

 鼓動は再開したものの未だ呼吸が戻っていない智貴であったから、ここはひとつまた息を吹き込んでみようと唇を近付ける琴美であったが、

 

「ゴボッ……! ガハッ、ゲホッ……!」

 

 それをお断りするかのように智貴が急にえずいて水を吐き出した。

 

「げほっ……はぁ……はぁ……」

 

 そうして遂には呼吸すらも再開させたので、ベッドから降りた琴美は智貴に横向き寝の姿勢を取らせて頭を幾分か反らす形にしてやる。これも応急処置のひとつ、回復体位というやつだ。

 

「良かったね、智貴くん……頑張ってくれたんだね……」

 

 苦しそうに咳込みつつも確かな呼吸を自力で繰り返す想い人の様子に、琴美は感極まらずにはいられなかった。智貴が生きているというその事実が計り知れない程の安堵と喜びをもたらしたからだ。

 自然と伸ばされた琴美の手が智貴の頭を慈しむように撫でる。そうした柔らかな感触に気付いたのか智貴がうっすら目を開いた。

 

「智貴くん、私だよ。判る?」

 

 ぼんやりとした様子で己を見つめてくる智貴に、琴美は優しく声を掛けてやる。すると小さく頷く反応が返ってきたので、意識の方も問題無さそうだと安堵した琴美がふぅと息を吐く。

 

「先輩……やっぱり、生きてたん、ですね……」

 

 と、そのように途切れ途切れの小さな声で智貴が言ったので、どういう事かと疑問符を浮かべる琴美。

 

「あいつが……先輩はもう死んだって……でも、車の音とか色々、聞こえてましたから……」

 

 智貴が言うには、つまり智子から「もう琴美は死んだ」と吹き込まれていたという事らしい。己が連れ去られてしまった後も琴美の安否を気にしていたと思われる智貴であったから、智子はそのような事を言って智貴の未練を断ち切ろうとしたのかもしれない。が、彼はその言葉に惑わされずに琴美が生きている事を信じ続けていたのだ。

 

「よかった……」

 

 そう言って一息ついてみせる智貴。琴美が智貴の復活を心から喜んでいたように、智貴もまた、琴美の無事を確認する事が出来て深く安堵したらしい。智貴の様子からそうした心情を汲み取った琴美は、自分の事をそこまで心配してくれていた彼に改めて愛おしさを募らせる。

 

「智貴くん、立てそう? 門の所に車があるから、それで逃げよう」

 

 が、今はそうした気分に浸っている場合ではない事を琴美は思い出す。智貴の母がかの怨霊を抑え込んでくれている内に、一刻も早く智貴を連れてこの屋敷を脱出せねばならないのだ。無事に逃げ帰れたら、是非とも智貴にはあの心優しい母の事を存分に話してやろうと琴美は思った。

 

「辛かったら、私がおんぶしてあげるから」

 

 先程蘇生したばかりの身である智貴に無理をさせるような事は琴美としても心が痛む為、ついそのような事を言ってみせる。今やすっかり己に活力が戻ってきていたのを感じた琴美であったから、きっとそんな力技すらもやってのける事が可能なのではないかと思ったのだ。

 

「大丈夫です、自分で歩けますから……」

 

 小柄でか細い琴美にまさかそのような無茶はさせられないと、ゆっくりと身を起こした智貴はそのままベッドを降りようとする。それを見て取った琴美は彼が立ち上がるのを手で支えてやった。気丈に振る舞う智貴ではあったもののやはりその体には碌に力が入らないようであったから、琴美は彼の手を取って有無を言わさず己の肩を貸してやる。

 

「こうしたらちょっと楽でしょ?」

「すみません……」

 

 床に転がっていた智子の車椅子を拝借してそちらに智貴を乗せてやるという事も考えたのだが、それは些か不吉な気がしないでもなかったから、そのまま琴美はふらつく智貴を支えながら扉の穴を通って廊下へと出た。気付けばあの散発的な揺れもいつの間にかすっかり治まっていたようで、もしかすると智貴の母は無事智子の制圧に成功したのかもしれない。

 そうして玄関に向かうべく、開かずの間から溢れ出した大量の汚水で水浸しになった廊下を進む二人であったが、突如として一階の方から耳をつんざく轟音が鳴り響き、同時に屋敷全体がかつてない程に揺さぶられた。あまりの衝撃に二人は立っていられなくなり、その場で膝をついてしまう。

 

「なな、なに今の!?」

「なんか爆発したって感じですけど……」

 

 と、またもや先程のものにひけを取らない規模の衝撃と轟音が階下から響いてきたが、今度はそれに留まらず、ホールの方から勢いよく吹いてきたらしい熱を帯びた風圧が廊下一帯を走り抜ける。そんな琴美達の目に、自分達が今目指していた先にあった階段の一部らしき構造物が廊下に転がっている光景が映る。玄関ホールのシャンデリアの光も消えたようで、そちらの方が暗くなっているのが遠目にも見て取れた。

 

『小宮山さん、玄関の方はもう駄目よ!』

「何があったんですか!?」

 

 唐突に頭の中に響いてきた智貴の母の声には切羽詰まった様子がありありと浮かんでいたものだから、堪らずそう口に出して問い返してしまう琴美であったが、もしや智子を抑える事にしくじったとでも言うのだろうかと不安を感じてしまう。

 

『智子が地下のボイラーを爆発させたの……あの子、もう駄目だと思って全部を道連れにするつもりなんだわ』

「そんな……!」

 

 どうやら追い詰められた智子が力で敵わぬと見て最後の手に打って出たらしい。

 

『ああ、熱い……体が、焼ける……』

 

 智貴の母の苦しそうな声が届いてくる。彼女は屋敷と一体化させられたと言っていたが、そうするとつまりこの建物はかの女性の体そのものと言えるのかもしれない。燃やされてしまうのは嫌だと冗談めかして言っていた彼女であったが、この様子からすると屋敷の中では先程の爆発で火災が起こっているのだろうか。とすれば、直にこの二階にも火の手が回ってくるのも時間の問題かもしれない。そしてそれ以前に、先程からホールの方より勢いよく立ち上ってくるあの煙に巻かれては危険だ。

 

『日記があった部屋に行きなさい……そこならまだ少し、火をしのげるから……』

「わ、判りました!」

 

 その指示を受けてすっくと立ち上がってみせた琴美は、先程から一体誰と話しているのだろうかと訝しげな様子でいた智貴の腕を掴んで引き上げてやり、立ち上がった彼に再び己の肩を貸す。

 

「玄関のほう、なんか火事になってるみたい……あっちのほうに行こう?」

 

 そうした琴美の提案にひとまず智貴が頷き、琴美は彼と共に目当ての場所へと避難すべく踵を返して自分たちが進んできた道の方を振り返る。だがその先で立ち塞がるようにして佇んでいた者の姿を目にし、たちまち二人は息を呑んだ。

 

「ドイツ、モ……コイツ、モ……」

 

 そこにいたのは、智子だった。所々にひび割れを作っている彼女の顔は、憎悪に満ち満ちて悪魔の如き形相であったが、その瞳に宿る禍々しい光は随分と精彩を欠いているようにも見えた。そんな智子がおもむろにぎこちない動作で片手を前方にかざす。

 

「ミ・ン・ナ・モ・エ・ロ」

 

 熱気が満ち始めていたこの屋敷の中にあって尚、凍てつくような響きを持ったおぞましい声で智子がそのような事を口にした途端、前に突き出されたその手のひらより青い炎が琴美達目掛けて勢いよく放たれる。

 

「智貴くんっ!」

 

 咄嗟に己の身で智貴を庇おうとする琴美であったが、そんな二人を青い炎は丸ごと容赦無く包み込んでしまった。

 

「ミンナガ、ワルインダ」

 

 己の手より炎を放射させ続ける智子が、誰に向けてか恨み言のような呟きを漏らす。

 

「オカアサンガワルイ。オトウトガワルイ。オトウサンガワルイ。ヘンタイメガネモワルイ」

 

 青い炎に照らされて出来た影が、智子のその怒り一辺倒だった顔にどこか複雑な表情をも作り出してみせた。苦しんでいるのか、泣いているのか、或いは笑っているのか。智子の呟きは止まらない。

 

「ゼンブゼンブ、ミンナミンナ」

 

 己のままならなかった短い生涯を嘆くように、そしてまた、怨霊となって尚も思い通りにならないその現実へ吠え立てるように、口を大きく開け広げた智子が絶叫する。

 

「オ マ エ ラ ガ ワ ル イ !」




続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(13)

さらば智子、さらば弟切草

 おわかれするのがいやなのでずっとないてたら、あたまのなかでおねーちゃんがはなしてきた。おねーちゃんはチョーノーリョクがつかえるから、しゃべらなくてもぼくとはなしができる。

 おかーさんにナイショで、おねーちゃんがやくそくしてくれた。おねーちゃんのビョーキがなおったら、ぼくのおよめさんになってくれるって。だからもうないちゃダメだって。

 らいねんのらいねんの、そのまたらいねんになったら、おねーちゃんのビョーキがなおるから、ぼくはうちにかえれるみたい。ゆびきりしたし、やくそくのちゅーもしたから、ホントなんだ。おねーちゃんのいうことはぜんぶホントだから、ぼくはしんじる。

 おかーさんとおねーちゃんがいないけど、ぼくはなかないようにする。らいねんのらいねんの、そのまたらいねんになったらおねーちゃんとぜったいにけっこんするので、ちっともかなしくない。ぜんぜんなかなかったよっていったら、おねーちゃんはびっくりするかもしれない。

 はやくおねーちゃんのビョーキがなおりますように。

 

 ◆

 

(熱く……ない?)

 

 自分達を焼き尽くさんとして智子の手より放たれた青い炎。その呪われた火が目前に迫った琴美は、傍らの智貴に覆い被さるようにして咄嗟に彼を庇った。そうして目をぎゅっと瞑り自分達を襲う灼熱の苦しみに備えていた琴美であったが、しばらく待っても予想していた苦しみは訪れなかった。

 これは一体どうした事かと閉じていた目をそっと開いてみれば、琴美は驚くべき光景を目の当たりにする。智子から勢いよく放たれていたその邪悪な炎が、自分達の手前で見えない力によって押し返されていたのだ。

 

(もしかして……!)

 

 己の腰に下げていた剣が何やらひとりでに振動してカタカタと鞘を鳴らしていた事に琴美は気付くが、今目の前で起きている出来事がこの剣を通して発現した智貴の母の力によるものであると理解する。智貴の母から剣を借り受けた際、これを通して少しは守ってやれると言われていた事を彼女は思い出す。その約束が今まさに自分達の目の前で果たされているのだ。

 

「先輩、これは……?」

「智貴くんのお母さんだよ。あの人が、私達を守ってくれてるんだ……」

 

 何が起きているのか把握出来ない様子の智貴であったが、琴美からそのように言われたものだから益々訳が判らないという顔になる。智貴はまだ、この屋敷と一体化したという己の母の存在を知らないでいるからそれも当然だった。

 と、琴美のベルトに結び付けられていた鞘の、その革紐の結び目がひとりでに解かれていく。そうして剣を収めたままのそれがふわりと宙に浮いたかと思うと、琴美達を庇うようにして正面に踊り出る。

 益々炎は押し返されて行くが、その鞘が徐々に朽ちていくのが琴美には見て取れた。この猛火はただの炎とは性質が異なるのか、このようにして炎が吹き荒れている廊下の壁や床には特に火が燃え移っている様子は見られない。だがあの智子が強烈な殺意を込めて放ったものであるからして、それに無防備に晒されでもすれば即刻命を奪われかねないものである事は間違いないようだ。

 そうして直にこの守りも失われてしまうのではないかと琴美が心配していた所、ふいに鞘から金属をこする音が響いてひとりでに剣が引き抜かれ、その切っ先が智子の方へと向けられる。そしてそのまま激しい火炎の中を突っ切るように、智子目掛けて突進していく。

 ギャッと智子の呻く事が廊下に響いた。と同時に青い炎の放出が止む。視界の晴れた琴美達の目に映ったのは、己の胸に突き刺さった剣をどうにか引き抜こうともがく智子の姿であった。だがその剣は智子の体に深く食い込んでいるようで、まるで抜けそうな気配がしない。やがてその刺さった箇所を中心として、元々壊れ気味であった智子の体に更に大きなヒビが走っていき、そこから勢い良く蒸気のようなものが漏れ出していく。そうしてとうとう智子の目からは電池が切れるように赤い光が消え失せ、その場に倒れ伏してしまった。

 

「智貴くん、今の内に……!」

 

 智子が動かなくなった事を見て取った琴美は、改めて件の部屋へと避難すべく智貴を促す。そうしてミイラ部屋を目指して進む二人は、廊下にうずくまる智子を警戒しつつその横を通り過ぎて行く。

 

「トモ、クゥゥン……」

 

 そんな二人に気付いたのか、智子がうずくまったままの姿勢でそのように呟いた。その声には今や弱々しさが滲んでおり、あの傲岸不遜な態度はすっかり消え失せてしまっていたようだ。

 

「ワスレナイデ……オモイダシ、テ……」

 

 懇願するかのような智子のそうした呼び掛けに、智貴は思わずそちらの方を見てしまう。

 

「わりぃ……ホント、思い出せないんだ……」

 

 彼があの開かずの間に監禁されていた間にも智子と似たような問答があったのか定かではないが、どこか申し訳無さそうな様子で智貴がそのように言葉を返す。そんな彼の返答が聞こえているのかいないのか、尚も同じ事を繰り返し呟き続ける智子を尻目に、そのまま二人は煙が満ちつつある廊下の突き当たりまで進んでいった。

 

 智貴と共にミイラ部屋へと入って扉を閉めた琴美は、照明が点けられたままになっていた室内の様子が随分と荒れている事に気付いた。窓は割れ、家具類はしっちゃかめっちゃかになっており、壁や床のそこかしこにおそらく己自身のものと思われる血痕が残っていたものだから、確かにこの部屋で自分がこっぴどく痛めつけられたらしい事を改めて実感する琴美。足元には少しの間だけ世話になったあのデッキブラシも転がっている。

 一旦智貴をベッドの上に座らせてやる琴美であったが、風穴が空いていた窓の外よりパチパチと音が聞こえてきたので、気になってそこから顔を出して外の様子を覗いてみる。

 

(これ、かなりヤバいんじゃ……)

 

 琴美の眼下には、一階部分のあちこちの割れた窓から炎を勢い良く吹き出させている屋敷の様子が広がっていた。どうも火の手は既にこの家の半分にまで回りきっているらしい。真下の方を覗き込めば、丁度自分達の足下にある部屋にも既に火が及んでいるらしい事が伺えた。確かこの階下にあるのは、自分が介抱して貰った時に居たあの書斎ではなかっただろうかと琴美は思う。

 

(こっから飛び降りてみるか……?)

 

 この分では直に二階部分も火の海と化すに違いない。背に腹は変えられぬと、巨大な屋敷故に結構な高さのある地面を見下ろしてそのような事を考える琴美。屋敷の周囲はコンクリートの床が巡らされている為、上手く着地したとしても怪我をしてしまうかもしれない。ましてや体の自由がまだ利かずにいる智貴がここから飛び降りればどうなってしまう事か。ここはまず自分が先に飛び降りて、後から降りてくる智貴をどうにか受け止めてやるしかないのではないか。だが智貴はそのような無茶を決して琴美にはさせないだろうという事も判ってしまう。自分の事なぞいっそ押し潰してくれたって構わないと思う琴美だが、心優しい智貴は無理をしてでも自力で降りようとするに違いないということもわかっていた。

 

『大丈夫よ……受け止めてあげるから……』

 

 と、再び母の声が届いたものだから、どうしたものかと思案していた琴美は顔を上げる。その声は先程の智子同様に弱々しさが滲んでいたが、この建物の炎上が彼女を著しく弱らせているのかもしれない。

 

(受け止めるって……お母さんが、ですか?)

『ええ。あなたがそこから放り投げられた時も私が受け止めたのよ?』

(そ、それは……どうもです)

 

 このような高い場所から意識を無くしたまま落下すれば、それこそ回復が難しい程の致命傷を負っていたかもしれない。そうならないで済んだのは、ずっと自分の事を見守っていた母がすかさず手を差し伸べてくれたからなのだと、琴美は今更ながらに知った。

 

『小宮山さん……ううん、琴美ちゃん……本当にありがとう、あなたのおかげよ』

 

 別れの言葉でも告げるかのように、母は感慨深げに琴美を下の名で呼び礼を述べてみせる。ただの人間に過ぎない琴美が助力を受けつつもどうにかここまでやってこれたのは、ひとえに琴美自身の奮闘の結果なのだと母は感じ入っているようだ。

 ともあれ智子は倒れ、彼女らの行く手を阻む者は最早居ない。後は窓から思い切って飛び降りれば、母が残るその力で受け止めてくれるらしい。そうしてこの脱出劇にようやく終止符を打つ事が出来るのだ。

 

『私はもう駄目だけど、智貴の事をよろしくね……』

(お母さん……)

 

 やはり先刻からの火災は母にとっても危機をもたらしていたようだ。生者と亡者の中間のような存在と化していた彼女であったが、拠り所となっていた屋敷が失われれば、その魂も最早この世に留まる事が出来なくなるのかもしれない。

 

『あぁ、それにしても孫の顔が見れないのが残念ねぇ』

(いやいやいやっ、そ、そんな孫なんてイキナリ……!)

『ふふ、冗談よ……』

 

 智貴とはまだ彼氏彼女の間柄ですら無いというのにそのような気の早い事を言う母の言葉に、嬉し恥ずかしの琴美は頬を染める。切羽詰まっている状況であるにもかかわらずそのような茶目っ気を見せる母であったが、それは己が屋敷と共に最期を迎えるにあたり、少しでも琴美と砕けた話をしてみたいと思ったが故の事か。琴美が智貴の母を好いたように、かの女性もまた、短い交流を経て琴美の事が好きになっていたのかもしれない。

 

『さあ、飛び降りてちょうだい……』

 

 そうした会話を切り上げるように智貴の母が固い声で脱出を促したものだから、琴美はベッドで休みつつも何やら扉の方を油断無く警戒していた智貴に事情を説明してやり、窓の方へと連れていってやる。

 

「あ、じゃあ私、先に降りて待ってるからね」

 

 まだまだ顔色のすぐれない智貴であったが、窓枠を乗り越える位であれば問題無いと見て琴美はそのように言う。母を信頼していない訳ではないが、その力は屋敷の焼失と共に失われつつある事が懸念される為、万一母が十分に智貴を受け止めきれないようであれば自分がどうにかしてやろうと考えてのことだ。高い所に苦手意識でもあるのだろうか、本当に大丈夫なのかと少しばかりの躊躇を見せていた智貴を後押しする為にも、ここはひとつ景気良く飛び降りて無事な姿を見せてやりたい琴美であった。

 そうして窓枠に足を掛け、琴美はそこから躊躇無くひょいと飛び降りてみせた。高所からの落下に恐怖を感じるのは人間の本能であるが、最早今の琴美はこの程度で腰が引けるような女ではない。そうして宙に身を投げ出した琴美の体をたちまち柔らかい風のようなものがふわりと包み込み、そのまま羽のように浮いた彼女を屋敷から少し距離を空けた場所へと軽やかに送り届ける。

 

「ははっ……すげぇ」

 

 少しばかりヒヤッとしなくもなかったが、約束通り安全に降ろしてくれた母に拍手を送りたい気分の琴美であった。彼女としてもこのような不思議な経験など生まれて初めてであったから、なんともそれが新鮮に感じられてならないようだ。

 

「智貴くーん、大丈夫だよー!」

 

 飛び降りていった琴美をはらはらした様子で見守っていた智貴であったが、手を振って声を上げる彼女の姿に胸を撫で下ろしたのか、自分も飛び降りようと窓枠へと手を掛ける。だが突如何かに気付いたように己の背後を振り返った彼は、そのまま固まってしまった。

 

「どうしたのー!? ちょっと智貴くーん!」

 

 そんな智貴の様子を見て取った琴美が慌てて彼に呼び掛ける。が、智貴がそれに反応する事はなく、何かに魅入られたように身じろぎもせず扉のある方を見つめているようだ。

 

(え……なに? どうしちゃったの……!?)

 

 琴美の中に嫌な予感が走るが、果たしてそれは的中してしまった。庭の方から窓際の智貴を見上げていた琴美の目に、固まっている彼の前に立った何者の頭が映る。モサモサした黒髪頭のそれは、あの智子以外の誰でもなかった。それを理解した瞬間、琴美の体中の血が凍りつく。

 琴美が声を上げようとした途端、智子は自身の弟を屋敷から逃すまいとして無防備な智貴へとその小さな体で飛び掛かった。そのまま怪物らしく己の歯を彼の首筋に食い込ませでもするのだろうかと絶句する琴美であったが、そうではなかった。智貴の首に己の腕を回してぶら下がるように抱き付いた智子は、精一杯に首を伸ばして彼に口付けをしてみせたのだった。そうして智貴はそのまま押し倒されてしまい、窓から姿が見えなくなってしまった。

 

「あ……あ……」

 

 パチパチ、ガラガラと屋敷のあちこちが焼け崩れていく音がそこかしこから聞こえてくる中、琴美は今し方の出来事を頭の中で整理出来ずにいた。智子に見せつけられたその姉弟の接吻が、言葉に出来ない屈辱感を琴美に与える。と同時に、弱っている智貴を迂闊にも屋敷の中で一人きりにしてしまった事への深い後悔が押し寄せる。

 変に気を利かせて自分が先に降りてしまったのがいけなかったのか。モタモタせずにもっと早く行動していれば智子に追いつかれる事はなかったのではないか。もしかすると、智子はあの部屋の前に張り付いて智貴が一人っきりになる機会を伺っていたのかもしれない。智子はもう倒れたものと、すっかり油断してしまっていた己を責める気持ちが琴美の中で湧き上がる。

 

(しっかりしろ、私!)

 

 が、そうした己の弱気を一喝して奮い立った琴美は急ぎ屋敷へと駆け寄ろうとする。一階の窓枠を足掛かりにして、どうにか二階へとよじ登るつもりだった。しかし今や一階部分はどこもかしこも割れた窓から炎を噴き出させる程に炎上しており、とても近寄れたものではなかった。燃え盛る屋敷から放たれる耐え難い熱波に阻まれるように、琴美はそれ以上前へと進めなくなってしまった。目も開けていられないようなこの熱さである。今屋敷に近づけば大火傷では済まないかもしれない。

 母はどうしたのだろうか、智貴を助けてやってはくれないのだろうかと思う琴美であったが、弱る一方の彼女ではもしかするとこれ以上智子に対抗する事が難しいのかもしれない。

 

(あの車なら……)

 

 表庭の門の方に停めておいた車は小ぶりな車体であった為、あれならば火災の熱や煙を多少しのぎつつ、この大きな屋敷の玄関口や廊下を通る事は出来るだろうと踏んだ琴美は、一旦屋敷から距離を置くと大急ぎで表庭の方へと向かう。あれに乗ってこの燃え盛る屋敷の中へと突入し、そのまま車で階段を駆け上って速やかにミイラ部屋まで辿り着こうという算段だ。この屋敷の階段は二つもあった訳であるから、どちらか一方がまだ健在であってくれれば望みはある筈だと、琴美はそこに賭けるつもりだった。

 二階部分に火の手が回るまでにはまだ幾許かの猶予がある筈だ。その間にあの部屋へ突入して智貴を救出しなくてはならないと、少し前に己が車で荒らしに荒らして悲惨な事になっていた花畑の中を全速力で突っ切ってようやく車へと辿り着く琴美。ドアが開けっ放しになっていた運転席側の座席に飛び込んだ琴美は、エンジンが掛かったままになっていた事を確認するとドアを勢い良く閉じる。

 

(智貴くん、今行くから待ってて……!)

 

 そうして今まさにサイドブレーキを解除しようとしたその瞬間、車が何かに激突したのかと錯覚する程の激しい衝撃が車内を襲い、耳をつんざく爆音が山中に轟く。

 琴美は見た。衝撃が発生する直前、燃え盛るあの屋敷が閃光を放ち一瞬にして大きく膨らんだのを。そうして凄まじい衝撃と共に屋敷が一挙に爆ぜて、内部から現れた入道雲のような爆炎が空へ立ち上っていくその光景を。

 辺り一帯を襲った衝撃と轟音は巨大な爆発によるもので、その爆心地は屋敷であった。空から様々なものが降ってくるのか、琴美の乗る車の天井に時折何かがぶつかる音が聞こえてきたり、ボンネットの上にも瓦礫らしきものが落下してきたりする。

 突然の出来事を前に、琴美はただ呆然とするしかなかった。

 

 ◆

 

「……」

 

 屋敷があった場所は、最早ただの瓦礫の山と化していた。爆発の衝撃と熱波のせいで、庭の中にまだ残っていた弟切草達も一掃されてしまったようだ。これ程までに激しい爆発が起こるなど、地下にはボイラーだけではなく爆薬もあったのではないかとすら思えてしまう。はたまたそれは、琴美に自身の弟を奪われまいとする智子が最後の最後に見せた力の発露であったのだろうか。真相は杳として知れない。

 事態を飲み込めず車中で固まっていた琴美であったが、やがてドアを開けて外へ降り立つ。辺り一面には肺が焼けるような熱気が漂っていたが、やがて強めの風が吹いてそれらを森の方へと押し流していった。二歩、三歩と屋敷の跡地へ向かって足を運ぶ琴美であったが、少しも歩かない内に膝から崩れ落ちるようにしてその場へへたり込む。先程の爆発に驚いたであろう森の中の動物達が思い思いに甲高い鳴き声を上げているが、激しい轟音に耳をやられていた琴美にはどうにもそれが聞こえない。琴美は今、静寂の中でただただ屋敷のあった方を見つめているだけだった。

 早く立ち上がって智貴を迎えにいかねば。あの部屋の中で今も智貴が助けを待っているのだ。部屋──部屋とはどこだ。そんなものがどこにある。あるのはあの遺骨のような瓦礫の山だけではないか。家であったものは消し飛び、その中にあったものは全て焼かれて白い灰と化したに違いない。どうもここにはもう自分以外誰も居ないらしい。自分を待ってくれる人は居ないし、誰かが頭の中に優しく語り掛けてくる事もなかった。様々な考えが浮かび上がっては消えていく琴美であったが、その心は場外に打ち上げられた白球のようにどこかへ飛び去り戻ってこない。

 やがて森から聞こえてくる動物達の喧騒も静まり、瓦礫の山の中で燻っていた残り火も鎮火していった。琴美の聴力も回復してきたのか、勢いを弱めた風が優しく木立を撫でる音を彼女は聞く。それが何故だか無性に寂しくて、やがて琴美はメソメソと泣き出してしまった。わんわんと声を上げる気力もなく、ただただ消え入りそうな慎ましさで、琴美は時折鼻をすすっては涙を流し続ける。こんな風に泣いたのは、大好きだった父が亡くなった時以来であった事を琴美は思い出す。愛していた人が突然居なくなってしまった言い様のない虚脱感を、彼女は今再び経験させられていたのだ。

 

「ウィー、ラブ、ラブ、ラァブ……ラブ、マリーンズ……」

 

 か細い声で、うつむきながら何か歌のフレーズのようなものを繰り返し口ずさむ琴美。それは彼女の応援する千葉ロッテマリーンズが今年になって発表した新たな球団歌であった。清く爽やかで、それでいて熱い闘魂をも感じさせるその希望に満ちた曲を、琴美はこれぞ新生ロッテに相応しい名曲だとしていたく気に入っていた。

 元気が無い時もこの曲を聞くだけで慰められたし、ロッテが押されて負けそうな試合でもひとたびこの曲が場内に流れればただそれだけで逆転勝利を信じる事が出来た。そうした魔法のような球団歌が今の抜け殻になった自分に元気を与えてくれないものかと、琴美は無意識にそれを口ずさんでしまったようだ。

 

(ん……)

 

 そうして茫然自失のまま歌を口ずさみ続ける琴美であったが、ふと己の前に誰かが立っているような気がして顔を上げてみると、そこには一人の幼い女の子の姿があった。どこか見覚えのあるその子供は、なにやら頭に黄色い花で編んだ冠のようなものを被っている。

 突然の事に琴美は「え?」とか「あ?」などと気の抜けた声を上げてしまうが、気付いて貰えた事を悟ったらしいその女の子がニンマリと人懐っこい笑みを浮かべると、琴美に背を向け屋敷跡へ走り出す。その姿はうすぼんやりと光を放っているようで、この夜の闇の中でもどこにいるのかハッキリと認識出来た。

 

「ま、待って……!」

 

 慌てて立ち上がり、女の子の後を追い掛けていく琴美。やがて屋敷のあった所まで辿り着くが、この付近はまだ火災の熱が抜けていないようで辺りにじりじりとした熱気が漂っている。女の子はそうした熱気を気にする事なく瓦礫の山の中へと足を踏み入れていったものだから、琴美も熱さに耐えつつその子を追う。

 所々煙を立ち上らせている瓦礫の上を、空から注ぐ月の光を頼りに歩いていた琴美は、道すがら何かを見つけて足を止めた。それは例のミイラが使っていた車椅子の残骸らしきものだったが、爆炎にさらされたためか真っ黒こげになっている。ミイラの姿は見当たらなかったが、この瓦礫の中に埋まっているのか、或いは木っ端微塵になってしまったのだろうか。

 ともあれ瓦礫の上を難なく歩いていく女の子を見失わないようにと、琴美は再び歩みを進めていく。そうしてある場所まで来た所で急にしゃがみ込む女の子だったから、追いついた琴美がその傍らに歩み寄る。どう声を掛けたものかと迷う琴美であったが、その子の足元に何やら人型の煤けた塊が突っ伏していた事に気付く。

 

(これ、お父さんの……)

 

 それは、智貴の父であると紹介されたあの鎧であった。丁寧に磨き上げられていた事が伺えていたその立派な体も、今や火に晒された事ですっかり無残な有様となってしまっているようだ。

 もう誰も居ないのだと心細さに泣いていた琴美であったが、まだこうして形を残していたその鎧を見て、僅かばかりの慰めを得る。そうしてその場へしゃがみ込み、なんとはなしに兜の部分へ手を触れてみる。が、彼女の触れた部分がまるで薄氷のように割れてしまった。

 

(え? これって……)

 

 それ程までに脆くなっていたのは高温で熱せられ続けたせいなのだろうかとも思った琴美であったが、割れた兜の中にどうも何かが入っているらしい事に気付いた。それを確かめる為、卵の殻を剥くようにして脆い兜を手で取り払っていく琴美。兜の中にあったものが徐々に露わになっていく。

 

(人が入ってる!?)

 

 それは明らかに人間の頭であった。琴美が両手でその頭を撫でてみれば、どうも短めの髪型をしているらしい感触がする。耳もしっかりと付いているようだ。まさか智貴の父の中身が復活したのかと思う琴美であったが、鎧の肩を持ってそれを仰向けにしてみた所、そうではない事がすぐに判った。露わになったその顔は、琴美が見紛う筈もないあの智貴であったからだ。その顔は火事で黒焦げになるでもなく、綺麗なままであった。

 

「ほ、ほんとに……これ……と、智貴、くん……!?」

 

 目の前の光景が信じられず、手を使って確認するように月の光に照らされた彼のその顔を触ってみる琴美。

 

(熱い……)

 

 琴美の手に、確かな実感を伴って智貴の体温が伝わってくる。燃え盛る屋敷の中に居た為か、まるで風呂上がりのように火照っている。そっと琴美が己の耳を智貴の口元に近付け、呼吸の有無を確かめてみた所、ゆっくりとだが確かに彼が息をしている事を確認した。

 智貴は、生きていたのだ。一体何をどうやったのか判らぬが、彼はあの火災と爆発の中でも黒焦げになる事なく、こうして今また無事な姿を琴美の前に見せたのである。事態に頭が追いついていなかった琴美であったが、これらの事を受けて徐々に現状を理解していく。

 

「ど、どもぎぐんが……どもぎ、ぐんがぁ……うあぁぁ……」

 

 生きている。生きている。その事を何度も確かめる琴美は、やがて嗚咽と共に目から鼻からボタボタ、タラタラと水を流し始める。今日という日は泣いてばかりの琴美であったが、この時ばかりはかつてない程に泣きじゃくる。しかしそこに悲しみの色は微塵も無く、あるのはただひたすらに愛する人との再会を喜び、その生存に感謝する暖かな心だけであった。

 もう会えないと思っていた人に琴美はこうしてまた会う事が出来た。智貴とはいつもそうであった。進学に伴い彼と離れ離れになる事はあったが、その度にまた不思議な縁で再会する事が出来ていた。もう何があっても離れない、一生彼の傍にいようと、智貴との運命を感じた琴美は改めてそう心に誓う。

 自分の気持ちをもっともっと素直に彼に伝えるようにしよう。長らく己にまとわりついてきた卑屈さも、きっとこれからの二人の関係には不用なものとなる。心に秘めた想いを言い出せないまま、その伝えるべき相手が突然居なくなってしまったとしたら──その時の苦しみを嫌と言う程思い知らされた琴美は、もう迷わないのであった。

 とにもかくにも智貴が無事だと判った以上、いつまでもこのような熱気の満ちる場所に置いてはおけない。意識の無い彼をどうにかしてここから連れ出してやろうと、琴美はひとまず彼を抱き起こす。するとその身をおおっていた黒焦げの鎧が乾いた音を立ててひとりでに割れていく。まるで役目を終えて力尽きたかのように、少しもしない内にそれらは智貴の体から全て剥がれ落ちていった。

 

(お父さんとお母さんが守ってくれたのかな……)

 

 この鎧は果たして智貴が自力で着たものなのであろうか。或いは何か不思議な力が働いて、爆発にも耐えうるこの尋常ならざる鎧の中へと避難させられたのか。その場に居なかった琴美には判らない。

 

「どっこい、しょぉ!」

 

 智貴を背負う体勢を取った琴美は、そのまま体に力を込めて立ち上がってみせる。長身で体格の良い智貴を、琴美はその小さな体で懸命におぶさってみせたのだ。これこそまさしく火事場のなんとやら。いや、愛のなせる業というべきか。

 

(あれ、そういえばさっきの……)

 

 自分をここまで案内してくれた先程の女の子が居なくなっている事に琴美は今になって気付く。あれが人ならざるものである事はすぐ様見当がついていたのであるが、一体何者であったのだろうと考えてしまう。そこでふと、琴美はあの子供が頭に被っていた花冠の事を思い出した。それと似たものをあの開かずの間で見掛けたからだ。あの花嫁姿のミイラも、その頭に同じようにして弟切草で編んだ花冠を被ってはいなかっただろうか。

 そこまで考えて、琴美はあのどこか見覚えのあった女の子が誰であったのかに思い当たる。それは智貴から渡されたあの写真に写っていた、幼少期の智子なのだった。まさかあのミイラが子供に化けたとでもいうのだろうかと思う琴美であったが、辺りを見回してみても女の子の姿は最早どこにもなかった。狐につままれたような気分の琴美であったが、ともあれずっしりとしたその足取りで智貴を背負って瓦礫の山を後にする。

 

 ◆

 

 庭の中程まで歩いた所で琴美は流石に辛くなってきたものだから、一旦一休みしようと背負っていた智貴をすっかり焼け焦がされていた花畑の上へと下ろす。智貴をおぶっていた間中、その命の健在ぶりを主張する鼓動や息遣いを身近に感じていた琴美であったから、最早焦って無理をする必要は無かった。そうして己の膝を枕代わりにして智貴を寝かせてやった琴美は、気を失っている智貴の乱れた前髪を手で整えてやる。

 今日は本当に色々な事があったと、これまでの出来事を思い出していく琴美。幾度も恐怖を味わわせられ、自分も智貴も何度も死にそうな目にあった。奇妙な現象にも度々遭遇して肝を冷やされたし、耐え難い程の絶望も与えられた。せっかくのデートなのにロッテが負けた残念さなんてのもある。

 だけれども悪い事ばかりではなかった。愛する智貴と今までにない位に触れ合えたし、彼の事をこれまでよりもずっと深く知る事が出来た。智貴の本当の両親にだって会う事も出来たのだ。恐るべき怨念を抱えた彼の姉が出てきたりもしたが、それも今となっては全て終わった事だ。この経験はお互いにとって生涯忘れ得ぬものになるのだろうと、琴美にはそういう予感があった。

 今一度、琴美はあの智子の事を思い出す。己の事を面白半分に苛め、戯れに命すら奪おうとしてきた智子。琴美としても彼女に対して何度激しい怒りを感じたか知れない。しかし琴美は今、そんな彼女に対して哀れみを感じていた。彼女と自分の境遇にどこか通じるものがあるように思えてしまったからだ。共に幼き頃に父を失い、そして弟たる存在が己の傍に居てくれる事を望んでいた。何より智子とは同じ一人の男性を心底愛した者同士なのである。

 智子は自身の弟を一人の異性としても愛していた。それは、あの窓から脱出しようとしていた智貴に追いすがって強引に口付けしてみせた事からも明らかであった。智子が元より自身の弟に抱いていたその想いが如何にして姉弟愛の枠を逸脱していき、異性に向けるそれへと転じていったのかは定かではない。幼少期より長らくこの人里離れた場所にこもって母と二人きりで生活してきた彼女の世界はとても限られたものであったに違いないから、もしかすると思春期に差し掛かった智子が同年代の異性として真っ先に思い当たる智貴を恋愛対象にしてしまったのであろうか。あの飛躍に過ぎる奇妙な結婚式の真似事も、世間知らずな智子が考え出した稚拙な求愛行動の一環だったのかもしれない。だが実際の所はどうであったのかなど、智子本人以外には誰にも判らない。ともあれ彼女がその短い生涯でただ唯一恋をしたのが、自身の弟であったという事なのだろう。

 琴美は思う。仮定の話をしても詮無い事ではあるが、互いの立場や状況がまた違ったものであれば、或いは智子とは真っ当とは言わずともそれなりの関係が築けたのかもしれないと。ついぞ智子は学校に通えなかったそうだが、年齢的には己と同学年にあたる彼女であったから、例えば二人とも同じ学校に通っていたりして、お互い憎まれ口を叩き合いながらもなんだかんだで腐れ縁のような間柄になれていたのではと、そのように考えてしまう。

 なまじ特別な力に恵まれた為にその運命を大きく狂わせてしまった智子。超能力の実在を目の当たりにした琴美としてはそうした力に憧れや興味が湧かないと言えば嘘になるが、そのようなものを軽はずみに望んではならないという戒めの思いが、智貴の出自にまつわる悲劇の顛末を見届けた琴美の中に刻まれる。智貴の母もまた、そうした力を持つ事の危うさを思い知っているが故に我が子の特異な才能をあえて押さえつけ、頑なにその力を否定するような教育をしてしまったのだろう。いや、或いはそれは智子の強大ではあるが未熟な力に対して恐れとも憤りともつかぬ思いを持ってしまったが故の事であろうか。智子が己の父を意識せず鎧に封じ込めてしまった時から、あの母娘の間には決定的なヒビが入ってしまっていたのかもしれない。誰が悪いというのでもない、全ては運命の悪戯によるものであったのだと、そのように考えでもしなければやりきれない琴美であった。

 

「先輩……」

 

 そうしてしばらく物思いに耽っていた琴美であったが、ようやく意識を取り戻したらしい智貴に声を掛けられ我に返って彼の顔を見返す。

 

「どう? どこか痛い所とか無い?」

「すげーダルいですけど、多分大丈夫です……」

 

 智貴の様子はどこかまだぼんやりとしているようだが、ひとまず受け答えは出来るようであったから、琴美は胸を撫で下ろす。とはいえ衰弱している事には変わりないから、山を降りたらすぐにでも病院に運び込んで入院させてやらねばならないだろう。

 

「ちょっと休んだら帰ろうね。もう、全部終わったから……」

「……ほんと、すみません」

 

 子供をあやすように優しく語り掛け、彼を安心させる為にその手を握ってやる琴美であったが、智貴からそのように言われてしまったものだから、何を謝る事があるのだろうと思ってしまう。

 

「俺んちの事なのに先輩を巻き込んじまって……それなのに、助けられてばっかで……」

 

 智貴としては己の個人的な事情に関する事で琴美をさんざんに振り回し、あまつさえ自身の危機を度々琴美に救って貰ったのだ。その事を彼はただただ申し訳なく思っているようで、故にそのような詫びの言葉が出てきたのである。

 

「ううん……そんなの全然いいよ。気にしないで」

 

 そのような遠慮は無用だと、琴美は首を振りつつ当然の事のように言ってみせる。彼女としては智貴の為にする苦労ならばちっとも苦ではないのだ。己の身を省みない程に尽くしたいと、心からそう思える相手がいるという事は琴美にとっての幸せなのである。

 そうした琴美のまっすぐな気持ちが伝わったのかは判らないが、その言葉を受けた智貴はしばし感慨深げに目を閉じる。そうして再び目を開けた智貴は、己を見下ろしている琴美の目を見つめて口を開く。

 

「俺……ここで暮らしてた時の事、全部思い出したんです」

「えっ?」

 

 この人になら話しても良いかもしれないと、何やら琴美に大事な事でも打ち明けるような様子でそのように切り出す智貴。対する琴美はといえば、そのような彼の続く言葉を聞き逃すまいと傾聴の姿勢に入る。幼少期の事は朧げにしか覚えていないと言っていた智貴であったが、どうやらここに来て己の過去についての記憶を遂に取り戻す事が出来たらしい。

 

「よく姉ちゃんと一緒にそこの森ん中に入って虫とか、あと動物とか捕まえたりしてました」

 

 彼が語ったのは、姉と一緒に遊んだ際の思い出であった。虫はともかく動物を捕まえるなど幼い子供には容易に成せる事ではない筈だが、そこは超能力者として目覚めつつあった智子であるから容易い事であったのかもしれない。

 

「姉ちゃんはおふくろに隠れてしょっちゅう力を使ってたんですけど、内緒にしておけって、よくそう口止めされてました」

 

 そうした己の過去を少しばかり愉快げに語る智貴の声には、遠くなってしまったその思い出を懐かしむような色が浮かんでいる。

 

「何でも出来たんです、姉ちゃんと一緒なら。森ん中を飛んでって山のてっぺんまで行ったり、でかい穴とか掘ってトンネルにしてみたり……」

 

 そうした智子の異能ぶりは、何の力も持たぬごく普通の幼い子供であった智貴にはさぞかし頼もしく映ったであろう。テレビアニメの中の魔法使いやらエスパーやらが起こすような奇跡の数々を己の姉が実際にやってみせるのである、それに魅了されない筈がない。

 

「俺がはしゃいで喜ぶから……だから姉ちゃんは、俺と二人でいる時だけは使ってみせてくれたんです」

 

 母の日記には、智子はある時期までは聞き分けが良く言いつけを守る子供であったと書かれていたが、それは単に取り繕うのが上手くなっただけで、実際の所は言いつけをまるで守れていなかったらしい。もしかするとそうした密かな反抗は、ただ己の弟を楽しませてやりたい一心であったが故の事だったのだろうか。その後の智子が頑なに己の力を封印しようとしなかったのも、自身の力が愛する弟との思い出と深く繋がっていたからなのかもしれない。

 

「そんな事も……今までずっと忘れてました」

 

 かつてこの場所で家族と幸せに暮らしていた頃の記憶を失っていた己に腹立ちを感じたのだろうか、そのように呟いた智貴が口惜しそうな様子で唇を噛む。

 

「本当は養子になった後もまだ覚えてたんですよ。そんな簡単に、忘れられるような事じゃないですから」

 

 この場所で生まれ育った思い出の数々を忘れ去ってしまったのは単に自身の幼さ故ではなかったと、智貴はそのように言う。そうした記憶を忘れざるを得ない程の、何か特別な事情でもあったという事だろうか。

 

「三年経ったらまたここに帰ってこれるって、ずっと信じてたんです。絶対にそうなるんだって、本当に信じてて……」

 

「三年」という期間はおそらく、智子が弟との別れ際に交わしたというあの適当な約束に基づいているのだろう。姉を慕っていた幼い智貴は、その言葉を真に受けてしまったのだ。

 

「でも、そうじゃなかった。いくら待っても、そんな話は来なかった……!」

 

 すっかり智貴の話に聞き入っていた琴美であったが、ここに来て初めて智貴の声が震えを見せたものだから、握っていた彼のその手を今度はそっと撫でさすってやる。智貴は今、かつての自分が抱えていた苦しい心の内を吐露しているのだ。琴美はそうした彼をどうにか支えてやりたくて仕方が無いが、今の己に出来るのは傍にいて話を聞いてやる事だけだと、そのまま口を挟む事なく次の言葉を静かに待つ。

 

「俺は捨てられたんだって、そう思ったんです。姉ちゃんの病気はとっくに治ってる筈なのに、それでも迎えにこないんだって、姉ちゃんもおふくろも、俺の事なんてもう忘れてるんじゃないかって……!」

 

 智貴が己の拳を握り締めつつ、辛い様子でそのように言葉を搾り出す。彼の声の震えは一層強くなっていく。

 

「それがすげー悔しくて、怖くて……俺、何も判ってなかった癖に、姉ちゃんの事、嘘つきだって……姉ちゃんが、俺を騙したんだって、思い、込ん、で……っ」

 

 そこまで喋った所で智貴が喉を詰まらせるようにして言葉を止めた。今や彼の両の眼からは涙が零れ始めていた事に琴美は気付く。そうしてしばらく嗚咽を漏らす智貴であったが、少しばかり落ち着いたのか再び話の続きを語り出す。

 

「……だったら俺も姉ちゃん達の事を全部忘れてやろうって、そう決めたんです。本当の親なんて元から居ないんだって、自分は一人っ子なんだって、そう毎日思い込もうとしてました……そしたら」

 

 そうしたら、本当に全て忘れてしまった。智貴が言うにはどうもそういう事らしい。人はあまりにも辛い経験をした場合、時として己の心を守る為に苦悩の原因となる忌まわしい記憶を改変してしまう事があると言う。だがここまで顕著に、狙ったように特定の事柄に絞ってそれを完全に忘却せしめるなどという事が果たして可能なのであろうか。もしかするとそれは母から受け継がれなかった筈の異能の片鱗が、智貴の中にわずかに存在していたが故の事であったのかもしれない。そうしたささやかな力を無意識に使って当時の彼は自身の望む結果を自らにもたらしたと、そのようには考えられないだろうか。

 

「馬鹿ですよね、本当に……誰も俺の事、忘れてなんていなかったのに……」

 

 自嘲するような智貴のそうした呟きであったが、誰も彼を責める事など出来ないと琴美は思う。かつての家族に恋しさを募らせる幼い少年がちょっとした誤解から絶望した末にそのような行動を取ってしまったとしても、それを咎める事など出来はしないのだと。強いて言うのなら、どこまでも姉を信頼していた智貴に対してその場しのぎの説得でお茶を濁した智子の迂闊さが悪かったと言えなくもない。

 もし自分がその時の智貴の所へ行けるのであれば誤解を解いてやって幼い彼を抱きしめてあげたいと、琴美はそう思わずにはいられなかった。元の家族と再び共に暮らす事を何よりも願っていた一人の孤独な少年の事が哀れでならなかったのだ。

 言いたい事を言い終えたのか、智貴はそれきり口を閉じてしまった。その目は夜空に向けられ、物憂げな様子でただただそちらを見つめている。

 

「お姉さんと、一緒に暮らせたら良かったのにね……」

 

 ぽつりと琴美がそのように呟いた。先程聞かされた智貴の思い出話はその大半が自身の姉に関する事であったから、彼にとって姉の存在が如何に大きいものであったのかを理解したからだ。智貴が何事もなく元の家族と共に暮らせていたら、果たして彼はどのように育ったであろうか。何でも出来る姉に頼ってばかりの甘えん坊になっただろうか。或いは難儀な性格の姉に振り回される苦労人になったのだろうか。どちらにしてもそれは彼にとってきっと幸せな事に違いないと、琴美はそのように思った。愛し合う者同士が一緒に居られない悲劇に比べれば、きっとどのような事も笑って済ませられるに違いないのだから。

 琴美の呟きに、智貴は言葉を返さない。琴美の呟きはまさしく彼の内心を言い当てたものであったから、それを彼女に理解して貰えた智貴は最早何も言う必要が無かった。

 

「あっ……」

 

 ふと何かに気付いたように智貴が声を上げた。そうした智貴の様子にどうしたのかと尋ねる琴美であったが、彼は一言こう呟く。

 

「星が……」

 

 その言葉に促された琴美が空を見上げてみれば、そこにはすっかり雲の晴れた夜空に流れる無数の流星が煌めいていた。降り注ぐ星々に目を奪われる琴美は、しかしその流れに逆らい天へと昇っていく三つの星を見たような気がした。あれはもしや智子とその両親だったのではないかと、何故だかそのように感じられてならない。

 

「綺麗だね……」

 

 見事なまでのその星空に琴美は感嘆の声を上げる。そうして彼女は智貴と共にいつまでもその光景を眺めていた。本日自分達が予定していた天体観測を、二人はようやく果たす事が出来たのであった…………。

 

 




エピローグに続く


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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(エピローグ)

モテないし墓参りする

 ──二〇一一年、八月。

 

「智子っ! もう置いてくよ!?」

「待ってー、すぐ行くー!」

 

 玄関の方からお母さんの急かす声が聞こえてきたので、私は慌ててスマホをポケットに突っ込み階段を下りていく。

 

「ちゃんと酔い止め飲んだ?」

「うん、大丈夫」

 

 今年もまたこの日がやってきた。これから行く場所はくねくね道が続く山の中なので、乗り物酔いしやすい私は薬を飲まないと大変なのだ。

 我が家では毎年夏休みの時期になると家族全員で山奥にあるお墓へお参りしに行く事になっている。あれはお父さんの「本当の親のお墓」というやつらしい。この辺りの事はちょっとややこしいのだけど、要するにお父さんは養子で、育ての親と産みの親とがそれぞれいるという事だ。つまり私の本当のおじいちゃんとおばあちゃんのお墓なのだけど、この二人には一度も会った事が無い。私が生まれるよりも前に死んだんだとか。

 急いで靴を履いた私が車の助手席に乗り込めば、お父さんが狭苦しい後部座席で腕組みして待っていた。そうして玄関の鍵をかけたお母さんが運転席に座ってエンジンを掛ける。途端に「ゴンゲ~」と間抜けな鳴き声みたいなエンジン音が聞こえてきた。これのせいで子供の頃はこいつに乗る度にしょっちゅう笑わされたもんだ。稀にンゴンゴと鳴いたりもするから今でもやっぱり笑ってしまうけど。

 ウチの車はかなり年季の入った古いもので、私は物心ついた頃からこれに乗っている。もうすっかり家族の一員みたいなもんで、私はこいつの事を〈ゴンゲ〉って呼んでやっているのだけど、なんでもこれは元々おばあちゃんが使ってたお古を譲ってもらったものらしい。そのおばあちゃんのお墓が今からお参りに行く場所にあるのだけれども。

 そういう訳でゴンゲは相当な年寄りなんだけど、今でもこうして元気に走っている。理由は判らないけど何故か殆ど故障したりする事が無いらしい。ちなみにゴンゲゴンゲと鳴くようになったのはお母さんがずっと前に無茶な走りをさせちゃったせいらしいから、やっぱりどこかちょっと壊れてるのかもしれない。

 お墓はウチから結構遠い。わざわざ山奥なんかに建てるのが悪いんだけれども、毎度の事ながらこのくねくね道は嫌になる。薬を飲んでても油断したら酔いそうなので、いくら暇でも車ん中でスマホなんっていじってられない。ホントは面倒臭いし行きたくないのだけど、置いてけぼりにされるのが癪なので私は結局付いていく。別に寂しいからって訳じゃない。ちっともそんな事はないったらない。私がわざわざ付いてってあげるのは、お父さんとお母さんを二人っきりにしたらそのまま変な所で休憩とかしたりして夜まで帰ってこなそうな気がするからだ。

 ウチのお母さんは変態主婦おばさんなので全く油断ならん。大体お父さんとお母さんが結婚した経緯からしてアレなのだ。私もこの歳まで生きてると両親の若い頃の話なんてものを、聞きたくなくても偶然耳に入れる機会があったりするのだけど、いつの日か聞いた二人の結婚のきっかけはそりゃもうヒドいもんだった。

 大学を卒業して社会人になったばかりのお父さんを、お母さんがしょっちゅう如何わしい場所に連れ込んでたら間もなく私がデキちゃったらしいのだ。そんで、お父さんが責任取るって言い出してソッコーでプロポーズして結婚したらしい。デキ婚だデキ婚! なんか知らんがむかっ腹が立つ……。

 

 そんなこんなでお墓に到着だ。車を停めてやけにでっかい門の中に入ってくと広い空き地があるんだけど、お墓はこの中にある。この広い空き地には元々大きな家があったらしいけど、ずっと昔に火事で焼けてしまったそうで今は草がぼうぼうになってるガレキの山があるだけだ。

 その家はお父さんの本当の両親、つまりおじいちゃんとおばあちゃんが住んでたもので、なんでもお父さんも小さい頃ここに住んでたんだとか。いつの間にか他所の誰かの手に渡っていたこの土地を、お父さんとお母さんが二人してどうにか取り戻したみたい。

 というか墓地でもない所に勝手に墓なんて作って良いのかと思ったんだが、ネットで調べたら遺骨もなんも埋まってないお墓なら別に好きにしていいと書いてあった。そう、おじいちゃんとおばあちゃんのお墓には遺骨が無いのだ。なんでかは知らないし、お父さん達も教えてくれない。

 ここには同じ種類の花が沢山生えている。〈弟切草〉っていう黄色い花で、お墓にはいつもこいつらを適当にちぎってお供えしてやる事になっている(おかげで花代が浮くぜ)。こいつらは葉のとこの裏に返り血みたいなポツポツの模様があるけど、私はそんな所も含めて気に入ってる。なんか不吉な言い伝えとかもあるんだけど、こうして見てる分には可愛い奴だ。昔からなんだが、なんかたまに広場の中のこいつらが私に話し掛けてきてるような気がしてならない。もしかすると人がいなくて寂しがってるのかな?なんて思ったりする。

 お父さんにはずっと昔に死んだお姉さんがいるんだけど、こいつらは元々その人が植えたものだと聞いた。ちなみにそのお姉さんのお墓もここにあったりする。私からすると伯母さんになるんだけど、どうも私の名前はその人から取ったらしい。なんか縁起悪くね? 別にいいけど……。

 ともあれ今や私が今代の智子ってやつなのだ。ウチのアルバムの中にこの伯母さんの写真があるんだが、ガキん頃のお父さんと並んで写ってる伯母さんは目がとっても大きな子で私とはあんまし似てない筈なんだけど、名前が同じなせいか不思議と自分を見てるような気がしてしまうから変な感じだ。

 お母さん達が花を摘んでる間、暇だから私はその辺の森ん中に入っていく。この辺は昔っから毎年来るたんびに探検したりしてるので、今や勝手知ったる我が家のようなもんなのだ。まーでもこんなクソド田舎に住めって言われたら絶対嫌だけどな。私は都会っ子なんだ。ゆうちゃんとも離れ離れになっちゃうし……。

 

「おっ、キョンみっけ」

 

 木の陰から一匹の子鹿みたいな動物がヒョコっと顔を覗かせてこっちを見ている。千葉の山にはこんな風に野生動物が結構いるんだ。あれは鹿に似てるけどキョンって動物で、なんかどっかの観光地から脱走したらしいこいつらが、今は大量に繁殖して結構問題になってるらしい。

 

「おいで」

 

 しゃがみこんで手招きしてみるけど、ビビリのキョンは私を怖がって遠くの方へと慌てて逃げていく。ああいう野生のやつに限らず、どうも私は動物全般に怖がられてしまう所があるみたいで悲しい。前世で嫌われるような事でもしたのかな。私に念力でもあれば、あの逃げてくキョンをヒョイと浮かせてこっちに連れてこれたりするのになぁ。

 なんだかつまらないのでお墓の方に戻ってみたら、何やらお父さんとお母さんがお墓の前でべったりくっついてやがった。人が見てないとすぐこれだ。指とか絡めてんじゃねえ! ハゲ親父! 色情おばさん!

 まあお父さん別にハゲてないけど……とにかくお父さんなんてハゲ親父のブサイク親父なんだ。無口だし愛想ないしクソつまらんし。私があれこれ話し掛けてあげても、ああ、だの、おお、だのしか言わないし。年頃の娘に話し掛けてもらったら普通は父親ってもっと嬉しそうにするもんじゃないの? あんなんでよく結婚できたなぁ。そんなだからお母さんみたいなのしか寄ってこないんだぞ。

 あっ、これキスとかする流れだ……所構わず発情しやがって! けだものか!

 

「あいたっ!」

 

 怒りに任せてぴゃいっと放り投げてやった小石はお母さんの頭上にポコンと見事に落っこちた。ザマミロ。怒ったらしいお母さんがこっちに向かって一直線に走ってくる。あっやべ、ありゃマジギレしてる時の目だ。

 私は今来た道を引き返して森ん中に逃げる。昔っからこの辺で遊んできた私にとってここはもうテリトリーみたいなもんだから、お母さんを撒くのなんて簡単だ。

 

「ぎゃふっ」

 

 とか思ってたら丁度顔の前に木の枝が突き出してて、うっかりそいつに顔面からぶつかってしまった。酔い止めのせいでちょっとフラフラしていたせいだ。

 

「~~~~っ!」

「バカ! なにしてんのあんた!」

 

 私に追いついてきたお母さんが、やれやれといった感じに溜息をつく。そんなお母さんが鼻を押さえて尻餅をついてた私を立たせて、お尻に付いた泥とかを払ってくれた。

 

「大丈夫? 鼻血出てない?」

「う、うん……」

 

 私の顔を心配そうに覗き込むお母さんはもう怒ってないみたいだった。変態だし口うるさいし怒ると怖いお母さんだけど、たまにこうして優しくされるとなんだかむず痒くなってしまう。蹴っ飛ばした相手から親切にされるみたいな、そんなムズムズ感だ。

 とか思ってたらお母さんの肩にぶぅんと大ぶりな羽虫が一匹止まった。毒々しい危険な色をしたそいつは大きなハチだった。

 

「おかーさん! ハチ! 肩に!」

「えっ? えっ?」

 

 ぶぅん、ぶぅーんと、いつの間にか辺りにハチどもが飛び回っていて私達を取り囲もうとしている。さっき私がぶつかった木の枝を見たら、先っちょに巨大なまだら模様の丸い塊がくっついていた。あ、これスズメバチの巣っぽい……。

 私はまだよく判ってない様子のお母さんを放り、広場に向かって猛ダッシュで逃げた。

 

「うわぁっ!?」

 

 遅れてハチに気付いたお母さんも慌てて私の後を追うようにして逃げる。大量のハチどものいかつい羽音が背後から迫ってくる。こりゃもう墓参りどころじゃねえ! 車に避難だやれ急げ。

 

「お父さん、スズメバチめっちゃ来た! もう帰ろうっ」

「マジかよ!」

 

 広場でこっちの方を暢気に眺めつつポケットに手とか入れてカッコつけてたお父さんも、私のそんな叫びに血相を変える。そのまま車に避難するのかなと思ったら、逆に森の方へ走ってって足の遅いお母さんの手を引いてやっていた。別にいいけど……仲良し夫婦で結構な事だけども……。

 とにかく今日の墓参りはここまで。おじいちゃん、おばあちゃん、あと伯母さん、来年もヨロシク。そんじゃまたな、弟切草!

 

 ──またね……

 

 ふと弟切草達の返事が聞こえたような気がして足を止めてしまったけれど、それはやっぱり私の気のせいかもしれなかった。

 

 

カエッテキタトモクン 完



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【クロス】わたモテvsちょく! 可愛いものマニア現る(上-前篇)

谷川ニコ先生の漫画『ちょく!』とわたモテのクロスオーバーです。
時系列的にはちょく!の原作終了後で、もこっちの一年次三学期末頃のお話になります。

★イラスト
こちらは喧噪社様の描かれたもこっちと芹花の素敵なツーショットです。
作者様に快くご許可頂けましたのでこの場を借りてご紹介させて頂きます。
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=64049545


 春の学年末テスト最終日。普段よりも長めのホームルームを終えた一年十組の教室は、下校の準備を始めた生徒達の声で賑わっていた。

 連日続いた一年次最後のテストもようやく一段落ついたという事で、どの生徒達の顔にも大きな試練から開放されて一気に緊張の解けた様子が表れており、これから皆でどこへ遊びに行こうかと早速話し合っているグループの姿も見受けられる。丁度明日からは土日を挟んだ三連休であったから、なおのこと彼らのそうした会話にも喜色が滲んで弾みに弾んでいった。

 

(帰るか……)

 

 そんな中にあって一人黙々と帰り支度をしていた智子(ともこ)は、静かに席を立って己の通学鞄を背負うとそのまま騒がしい教室を後にした。

「一緒に帰ろう」等と誰かが誘ってくれるでもなし、テストの出来についてあれやこれやと会話に花を咲かせる事の出来る級友がいるでもない。本日の智子はただテストを受ける為に登校しただけであり、それが終われば後はもう帰るのみ。それ以外には本当に何も無く、ただただ無であり、空虚であった。

 

 余計な事はしないとでも言えば聞こえは良いが、智子の場合はむしろしたくても出来ないといった方が正しい。

 テスト期間中に仲間内で誰かの家に集まって勉強会を開いたり、或いはこの放課後に打ち上げ会と称し友人達と連れ立って街に繰り出すといった事を、智子だって経験してみたいと思わないでもない。

 しかしそれには友人の存在が必要不可欠であったから、クラスに一人もそうした相手の居ない智子としては指を咥えて他の生徒らが青春を謳歌する様をただ遠目に羨ましがるしかなかった。

 尤も智子本人はそうした物欲しげな思いが己の中にある事を決して認めようとはせず、「悔しくねーし」と強がってみせたり、或いは「どうぞカス同士でベタな青春を送ってくれ」などと内心で毒づいてみせたりして己を誤魔化すのだった。

 

 ともあれ本日の学年末テスト最終日以降の主立った行事といえば、あとは大掃除と修了式ぐらいなものだ。

 それが終われば念願の春休みで、その後の生徒達には新二年生としてのスタートが控えている。

 進級すればおそらくはもう今のクラスメイトとはその大半と離れ離れになってしまうだろう。仲の良い生徒達の間では次の学年でお互いが引き離されてしまうのではという不安もあるようで、それもあって進級までに残された時間を目一杯使い、少しでも多く交流の機会を持とうとする者も居る。

 

 だが当の智子はといえば、これが何の感慨も湧かないのだった。クラスにまともな知り合いと呼べるような相手は一人も居ないのだからそれも無理ならぬ事であった。

 智子の心の中にクラスメイトは誰一人としておらず、そしてまたクラスメイトの誰もが智子の事を見てなどいなかったのだ。ひょっとすると一人ぐらいは密かに見ていたりする物好きも居たのかもしれないが、それも智子のあずかり知らぬ事であったものだから、結局彼女はこのクラスにおいて一年間を通し孤独の人であり続けたのだった。

 この後の智子の予定といえば、帰りしなに近場の書店へと寄り道してそこで手頃な雑誌やら漫画やらを立ち読みしていくという、いつもと変わらぬ味気ない暇潰しの日課がある位なものであった。

 

(結局この一年間、なんも無かったな……)

 

 いつものてくてくとした足取りよりも幾分か重い足運びで帰路につく智子は、ボンヤリとこれまでの己の高校生活を暫し振り返った後でそのような感想を抱く。

 智子が無い無い尽くしなのは別に今日に限った事では無い。入学してから此の方、クラスの内外に友人と呼べる相手はおらず、心に残る印象深い学内での出来事なども無かった。

 

 昨年の文化祭にて中学以来からの友人と連れ立って催し物を見て回った際は大変に心温まったりしたものだが、これは他校に通うその友人がわざわざ会いに来てくれたからこそであり、当の彼女が帰ってしまった後は再び灯が消えたような心持ちになってしまったものである。

 

 故に、この学校そのものに対して何かしら思い入れを持てるような要素が見当たらないのだ。強いて言うならば、美術の授業の一環として他所のクラスの冴えない男子生徒から可愛い似顔絵を描いて貰ったり、他にも昨年の文化祭の折に誰とも知れぬ相手から着ぐるみ越しに抱きしめられた事などが妙に照れ臭かったりしたものだが、それらを除けばこの学校に入って良かったと思える心地の良い思い出などさっぱり無いのであった。

 

 その一方で学校の中で恥をかいたり嫌な気分になった事であればこれが枚挙にいとまが無いというのだから、智子は長い溜息の一つもつきたくなる。

 とはいえ別に周囲から何かしらの嫌がらせや苛めを受けたという訳でもなく、そのいずれもが智子自身の妬みやそねみ、或いは空回りの努力や短慮からの自爆行為が生んだ結果ではあったのだが、ともあれこの一年間の高校生活を振り返れば「クソつまらん」の一言で片付けられてしまうような希薄で無価値で忌々しい印象だけが智子の中に残ったのであった。

 

 高校に入れば、女子高生にさえなれば、友達も沢山出来て、男子からはモテて、皆からチヤホヤされて、きっと楽しい高校生活が送れるに違いないと、かつての智子はそのような根拠の無い期待に胸を膨らませていた。

 が、蓋を空けてみればこのザマなのである。おかしいな、おかしいなと、智子はこれまでに幾度も自問し続けていた。

 入学当初は膨らみに膨らんでいた彼女の中の瑞々しい期待感はその後みるみる空気が抜けていき、数ヶ月も経つ頃にはすっかりしぼんで地に落ちてしまったものだから、それに焦った智子は再び己を浮上させんとして自分なりに数々の努力を重ねてきたつもりではあったが、それもこの現状を鑑みればまるで無意味だったのだと思えてならない。

 

「次も同じクラスになれるといいね」と未練を持ってくれるような相手も、「また一緒のクラスだね」などと進級後に再会を喜んでくれそうな相手も、智子はついぞ作る事が出来なかった。

 こういうルートを辿った場合、学園モノの恋愛ゲームなどではバッドエンドが待っている訳であるから、智子としては己の高校生活もまたバッドエンドを迎えてしまったような気分になってしまう。

 自身のこの一年間は完全に失敗であったのかもしれないと、そのような諦観にも似た考えが湧き上がってきたものだから、それが智子を益々白けた気持ちにさせる。

 

(二年になってもこんな感じなのかな……)

 

 もしそうだとしたら、なんと面白くない事であろうか。であればいっそ今年の卒業生達に混じって自分もこの学校を卒業してしまいたかった。これまでのように無味乾燥な高校生活が今後も続くのだとしたら、もうそこには何の未練も無い。

 先日執り行われた卒業式にて、少しばかり言葉を交わした卒業生から「あと二年頑張って」という励ましのお言葉を頂戴した智子ではあったが、二年生になる前から早くも頑張る気力が消え失せてしまいそうなのであった。

 

「は────……」

 

 いつの間にか校門も通り過ぎて駅前へと続く道筋を歩いていた智子が、新緑の季節の訪れと共に青みを増してきた街路樹を見上げつつ長い長い溜息をつく。

 

(せめて一人ぐらい友達でもいりゃ楽しかったのかなぁ)

 

 思えば中学生の頃はそれなりに充実していたと、智子は当時を思い返す。あの頃の己の傍には、親友と呼ぶに相応しい一人のクラスメイトの姿が常にあったのだ。彼女とは今も親しい付き合いを続けており、昨年の文化祭にて智子を訪ねてきたというのもこの親友なのであった。

 だからこそ、例え他に友人がおらずとも中学時代の智子がそこに不満を感じる事は一度も無かった。ただ一人、その親友さえ己の傍に居てくれれば、それだけで智子の学校での日常は彩りを保つ事が出来たのだ。

 なんとなくもう一人妙な何者かが自分達の傍らに居た時期があったような気もするが、これに関しては何故だか全くもって記憶が判然としない。

 ともあれあの親友のように真に仲の良い友人を一人だけでもこの学校の中で作れてさえいれば、己の高校生活もそんなに悪いものでは無かっただろうにと、そのように悔やみたくなる気持ちがこみあげてくる。

 

(どいつもこいつも人を無視しやがってからに……)

 

 智子としても機会さえあればクラスメイトと仲良くなりたいと思ってはいたのだ。

 だが内気でシャイな智子としては、肝心のクラスメイト達が個人的に気後れを感じてしまうような手合いばかりであったものだから、とてもではないが自分から声を掛けてみようか、などという勇気は湧いてこなかった。

 智子としては自分の方が優位に立てて下に見れそうな冴えない同性が居てくれる事を所望していたのであるが、生憎そのような者はクラスには一人もおらず、他の女生徒達はいずれもが智子と違って垢抜けた雰囲気を携えていたものだから、なんとも近寄り難い限りなのであった。

 

 だからそんな智子としては、誰かが積極的に声を掛けてきてくれて、自分に魅力を感じてくれて、友人になりたいと望んでくれるような、そんな都合の良い展開を期待してしまうのだった。

 そのうち誰かが自分に気付いて興味を持ってくれるその時を智子はこの一年間、待っていた。その合間に自分なりに考えた周囲への控えめなアピールを挟みつつも、智子はずっと待ち続けていたのだ。

 そしてその結果現れたのが、学年末のこの時期に名残惜しんでくれるような相手もおらず今こうして一人寂しく下校している自分自身なのであった。

 

(ん……?)

 

 浮かない顔で出口の無い思考を繰り返しながら歩いていた智子であったが、その歩みが急に止まった。

 誰かからの突き刺さるような強い視線を突如感じてしまったからだ。普段人に無視されてばかりの智子であったから、そうした己への注目の気配に敏感になってしまっていたのかもしれない。

 

(なんだありゃ?)

 

 視線の出所を把握した智子が訝しげに眉根を寄せる。智子の歩いていた歩道側に寄せるようにして、一台のバイクが路上でアイドリング音を周囲に響かせながら停車していたのに気付いたのだ。それはいかにもスピードの出そうな大型の赤い流線形のバイクであった。

 が、ただそれだけでは智子も妙に思ったりはしない。問題はそのバイクの隣にくっついている何かだ。

 

(タヌキ!?)

 

 それは動物だった。正確には、動物の姿を象った側車であった。いわゆるサイドカーというものである。

 茶色い毛皮に包まれ、ファンシーにデフォルメされたタヌキっぽい顔つきの動物が伏せたようなフォルムをしたそれは、まるでスーパーにある子供達の遊び場にでも置かれているような、ワンコインで動く幼児向けの乗り物を彷彿とさせた。

 そしてまた、智子が先程からひしひしと感じられて仕方がない熱視線は、その問題のバイクに跨る何者かから放たれていたのだ。

 

(女の人……?)

 

 奇抜なデザインのサイドカーバイクに負けず劣らず、そのライダーの身なりもまた智子の興味を惹くものであった。

 全身のボディラインがくっきりと浮かび上がるような革ツナギのバイクウェアを着込んでいたライダーは、女性らしい起伏と曲線に富んだしなやかな体つきをしている事が見て取れた。

 その女性ライダーが先程から身じろぎもせずバイクに乗ったまま、少し離れた先から智子の方をじっと見つめている。

 バイクのボディと同じく真っ赤なフルフェイスヘルメットを被っていた女性であったが、その閉じられたメットのスモークシールド越しであってもはっきりと判ってしまう程に、彼女が自分を凝視してきている事を智子は確かに感じ取っていた。

 

(なんかやべーのがいるな……)

 

 どうもこれは気味が悪いぞと、得体の知れない女性ライダーの様子に不穏なものを感じた智子は、彼女から出来るだけ距離を取るべく歩道の端に寄ってから、目を合わせてしまわないよう俯き加減で件のライダーの前を足早に通り過ぎようとした。

 

 が、今正に智子がライダーの前を通り過ぎようとした瞬間、タイミングを合わせたかのように彼女が唐突に警笛を鳴らしたものだから、思わず智子は小さく悲鳴を上げ、その猫背気味だった姿勢が反射的に正されて気をつけの姿勢を取ってしまう。

 と同時に、まるで魔法でも掛けられたかのようにその身が固まってしまい、それ以上歩みを進める事が出来なくなってしまった。心臓の鼓動が異常に早まり、全身から嫌な汗が滲んできたのを智子は感じる。

 

 周囲には他にも幾人か下校中の生徒らの姿があったが、ライダーはそちらには目もくれず、己の前を通過していこうとした智子の姿だけを見据えていた。

 こうなると今し方の警笛はどうも己に向けられたものに違いないのではと、智子はライダーのその行動に絶望的な確信を得る。つい先程まで己を支配していた陰鬱な気持ちや思考が一瞬にして吹き飛ばされてしまい、今や智子の心の中は得体の知れない相手から突然このようにして引き止められてしまった事への恐怖で満たされてしまっていた。

 

「ヘイ彼女」

 

 そうして己のコートの裾を掴みつつ身を強張らせていた智子に、なんとも古臭い口説き文句のような台詞がどこか棒読み気味の口調で投げ掛けられる。メットのシールドを開いたらしい女性ライダーが、どうやら智子に話し掛けているようだ。

 

「あ  わ  わた、私……?」

 

 こうもあからさまに呼び掛けられては無視する訳にもいかない智子であったから、隠しきれない怯えを滲ませた表情でおそるおそるライダーの方へと振り返り、相手と目を合わせないよう俯き加減で己の顔を指差しながら喉から搾り出すようなか細い声でその呼び掛けに答えてみせる。

 そうした智子の呟きに近い声は、バイクから響いてくる大きなアイドリング音でかき消されてしまいかねなかったが、女性はそれに反応した様子を見せる。

 

「そう、あなたに言っている」

 

 智子の先程の問い掛けを確かに聞き取っていたらしいライダーがはっきりとそう返答したものだから、観念した智子は女性ライダーにそっと控えめな視線を送ってその姿を観察する。

 ハンドルから手を離し、シートの上で上体を起こした彼女のそのすらりと伸びた長い足の先は、乗っているのが大型のバイクであるにもかかわらずしっかりと地面へ届いていたものだから、女性ながらに中々の高身長である事を伺わせる。

 ボディラインがクッキリと浮かびあがるようなピュアホワイトを基調としたそのエナメルレザー仕立てのライダースーツは磨かれた光沢を放っており、それがより一層彼女の女性らしさに富んだ体つきを強調していた。

 シートに載せられたヒップから背中にかけてのラインが美しい曲線を描いており、背にはヘルメットの首元から伸びた豊かなセミロングヘアーが掛かっている。そのしとやかな黒髪はよく手入れされたきめ細やかな質感を湛えているらしい事が、彼女と少し距離を取っていた智子の目からでも確認出来た。

 

(あっ……)

 

 そうして智子が女性ライダーの体を下から上へと観察していく内、そのヘルメットの開かれたシールドから覗く彼女の目元を見てしまったものだから、思わずドキリとしてしまう。

 それは緊張と恐怖によるストレスで心臓が縮みあがってしまうといった類のものではなく、むしろそうした強張りを瞬時に忘れさせてしまうような、ひどく印象的なものを目にしてしまった戸惑いによるものだった。

 

 有り体に言えば、美人である。彼女の非常に整ったその目鼻立ちからは、メット越しにでもその内部に本来の美貌を隠しているのだろうと、思わずそのように想起させられてしまう魅力の一端が垣間見えていたものだから、智子はそれに目を奪われてしまったのだ。

 己をじっと見据えてくる女性のその澄んだ瞳に、智子はなにやら吸い込まれるものを感じてしまい目を逸らせない。二人は今、完全にお互いを黙々と見つめあう状態になっていた。

 

 家族や親しい友人以外の他人とまともに目を合わせるというのは、本来であれば智子にとって大変に難しい事であった。

 周囲から注目して貰いたがる欲求がある一方で、智子は己の姿を他人からまじまじと見られてしまう事に耐えがたい恥を感じてしまいがちなのだ。

 それは己に目を向けてくる他人の視線の中に、どこか自分の事を採点しているかのような色が含まれているように感じられてしまうからだ。

 

 髪が手入れされていない。笑い方が不自然だ。声が汚く喋り方も舌っ足らずだ。肌が不健康だ。目の隈が不気味だ。服もダサい。あとなんか臭そうだ。とにもかくにも『みっともない奴』だ。

 

 もしかしたらそんな風に悪く思われているのではと、智子は他人と接する度にそのような不安を抱えずにはいられないのだ。

 人恋しさを募らせる一方で、そうしたプレッシャーが智子を追い詰めてしまうものだから、結局は他人との関わりから逃げて安楽を得たがる性分が智子にはあった。

 勿論このような心配の大半が実際は杞憂であったし、そもそも他人は智子自身が思う程に智子の事を見てなどいなかったのだが。

 

 ともあれそんな智子ではあったが、しかし何故だか今この瞬間だけは一切の気恥ずかしさも無しに、自分の事を見つめてくるその女性と素直に目を合わせる事が出来た。

 これがただ単に相手の美貌に目が眩んだだけというのであれば、智子はすぐしない内に正気に返り、己の中から湧き上がる恥の感情に耐え切れず目を逸らしてしまっていただろう。だが智子はそうした厄介な恥らいを感じずに済んでいた。その要因は女性の眼差しにあった。

 

 見た目は大人と言って差し支えない風采のその女性ライダーであったが、ヘルメットから覗くきりりとした瞳からはどうにも世間一般で言う所の大人らしさのようなものが感じられない。どちらかといえば純朴な未成年の、それもかなり歳若い、ぶっちゃけると幼稚園児並かそれ以下の幼さとでも言うべき雰囲気が宿っていたのだ。であるが故に、まるで幼子のようなその視線が智子を萎縮させるような事は無かった。

 

「……」

 

 智子も女性も、先程から互いにだんまりであった。二人とも次に口にする言葉を失っているかのようだ。

 お互いにお互いを見つめてどこか惚けているようでもあり、むしろ女性の方にこそそうした様子が顕著であった。

 何か素晴らしく尊いものでも仰ぎ見るかのような、そうした興奮気味の好意的な感情が女性のその眼差しに強く込められているのを智子は感じ取ったものだから、どうしてこの人は自分なんかをこのような目で見てくるのだろうと気になってしまう。

 とはいえちっとも悪い気などしない。こんな風に他人から好意に満ちた眼差しを向けられてみたいと、そのように求めてやまない智子であったから、それが今唐突に与えられた事に困惑しつつも心地良さを感じずにはいられなかったのだ。

 

「お茶しよう」

「……はっ?」

 

 急に女性が口を開き、そのように短い言葉を発する。それ受けて智子はようやく我に返った。

 女性の声は声量こそ控えめなものであったが、不思議とよく通るその淡々とした喋り口調の声質がアイドリングの音に邪魔される事なく智子の鼓膜を十分に震わせたものだから、彼女が今し方何と言ったのかを智子は確かに聞き取る事が出来た。

 

 が、それでもその言葉の意味を理解するのにはしばし時間が掛かった。「ヘイ彼女」と来て次は「お茶しよう」である。きょうび漫画でもドラマでもまず使わないベタな口説き文句であるが、それを受けて智子の中に急激な戸惑いが湧き上がる。

 

(えっ? これってナンパ……!?)

 

 まさかそんな事が。この自分にそんな事が。青天の霹靂が如き出来事が、今まさに訪れたとでもいうのだろうか。

 突然のそうしたお誘いに、しばし落ち着いていた智子の心臓がまたもやその鼓動を早めていく。

 しかし智子の心の中に今度はまた別の疑問が生まれた。

 

(この人、ガチレズなの!?)

 

 己を誘ってきた相手はどう見ても女性なのである。それの意味する所を考えた智子は戦慄を覚える。

 尚も向けられるその熱っぽい眼差しからは彼女がどうやら本気で己を誘っているらしい事が伺えたものだから、その好意的な視線の意味合いが先程までとは違って感じられる。

 これはつまり、相手の女性が己を性的な目で見ているという事なのではないかと。それは多分に憶測を含むものであったが、智子としては一度そうだと疑ってしまうともうその認識を覆せない。

 ノンケの己がこうして真性のレズビアンにお誘いを受けているというその大事件を前にして、智子は自分の膝がひとりでにカクカクと震え出すのを止められなかった。先程までのどこか心地良い感覚が彼方へと吹き飛び、今再び智子の中で恐怖が募っていく。

 

「乗って、早く」

「え!? あ、あにょ、そ、そにょ……」

 

 せっかちであるのか、もじもじしていた智子に向けて女性がやや命令口調で促してくる。

 乗れというのは、つまり己の運転するバイクにくっついている珍妙なデザインの側車に搭乗せよという事だろう。そうして乗ってしまったが最後、果たしてどこに連れていかれるのやら。

 

 智子がちらりと側車の方へと目を向ければ、そこには丸々と太ったモヒカン頭の大きなペンギンのぬいぐるみがシートベルトで座席に縛りつけられていた。そのぬいぐるみは少々年季が入ったものなのか、所々破けた部分を裁縫で補修されたような跡がちらほらと見受けられる。また、よく見れば血のようなものが点々と付着したらしい跡なども残っていた。智子はそこに何やら不吉なものを感じずにはいられない。

 

「どうして乗らない? 早くして」

 

 このままではしびれを切らした相手がバイクを降りてこちらに向かってくるかもしれない。そのように考えた智子の恐怖は今や最高潮に達してしまったものだから、それが彼女に思い切った行動を取らせてしまう。

 

「あ、そそそ、そのっ……、すすすす、すいませんっ……!」

 

 激しくどもりながらペコリと頭を下げてそのように詫びると、智子はそのまま近くにあった歩道橋へと走り寄り、一気にそこを駆け上がっていった。そうしてそのまま橋を伝って近場のショッピングモールの二階部分へと一目散に逃げ込んでしまった。

 

(やべー……マジやべー……)

 

 買い物客で賑わうモール内にて一人ぜいぜいと息をついていた智子。十分に暖房の効いた店内であったから、蒸し暑さを感じて首元に巻いてあったマフラーを外してしまう。

 

 流石にここまで来れば大丈夫だろうと思い、今己が走ってきた歩道橋の方を店内から振り返る智子。このまま店の中にある本屋で時間でも潰していれば、その内諦めてアレもこの辺りから去ってくれるだろうかと考える。

 

 が、もしかすると先程の女性ライダーがバイクを降りて今正に己を追い掛けに来ている真っ最中なのではないかと、何故だかそのような不安に駆られてしまったものだから、寄り道するのを止めた智子は駅前へ通じる出入り口を目指して再び店内を走る。

 その間中、あの女性が今にも背後から追いすがってくるのではないかと、智子は何度も後ろを振り返らせられた。そうして件のナンパ女に発見される事なくどうにか駅まで辿り着いた智子は、普段己が利用しているホームから丁度発車しようとしていた車両へと飛び込みそのまま家路に着くのであった。

 

 果たして智子の勘は当たっていたのか。彼女が早々に立ち去ったショッピングモールにて、その後しばらく誰かを探すように徘徊するフルフェイスヘルメット姿の不審人物の姿が有ったとか無かったとか。

 

 ともあれ何事も無く帰宅した智子はその夜、自身の弟にこの時の出来事を聞かせてやらずにはいられなかった。ただしそこにはふんだんに脚色が加えられており、自分が街中でイケメンにしつこくナンパされただの、それを軽くあしらってやっただのと、すっかり別物な智子好みの内容へと仕立て上げられていたのであったが。

 

 喉元過ぎれば何とやら。人生初のナンパ相手(♀)から与えられた恐怖の一時も、その晩ぐっすり眠ってみれば早くも印象が薄れてしまい、その後に始まる連休をたっぷりと満喫し終える頃には、すっかり智子の中から件の女性ライダーの事など忘れ去られてしまっていた。

 

 そうして連休明け。今日も今日とていつもと同じ、毎度お馴染みの無味乾燥な一日になるだろうと考えていた智子の元へ、そうした惰性と退屈と諦観に満ちたマンネリズムを粉砕せんとする嵐が訪れた。




つづく


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【クロス】わたモテvsちょく! 可愛いものマニア現る(上-後篇)

 本日から智子の学校では学年末テストの結果が発表されていく。

 ここでもし赤点でも出してしまったならば、その生徒には春休み中の追試が待っている訳であるから、テスト終了後に少々緩んでいた生徒達の空気は今再び引き締まったものになっていた。

 それは智子としても例外ではなく、些か自信の無い教科に関しては結果を受け取るまで安心出来ないのであった。

 

(よし、ギリギリ平均点……!)

 

 これが平均点の半分を下回っていようものなら赤点となり追試確定なのであるが、せっかくの貴重な春休みを追試などで潰してなるものかとそこそこ努力した甲斐もあり、ひとまず本日結果を伝えられた分の教科に関してはいずれも平均点に届いていたものだから、智子としてはそれなりに満足であった。

 とはいえその点数自体は中の中、智子自身に言わせれば「正に凡夫」といったものであり、取り立てて良い成績とも言えないのだが、彼女としては追試さえ受けないで済むのであれば特に気にするような事でもないらしい。

 

 オール教科で高得点を叩き出す、といった秀才ぶりを周囲に見せつける事が出来ればそれはもう良い意味で注目されて一目置かれる事だろうとかつては企んでみたりもした智子であったが、そのような分不相応な野望はこの学校に入ってから幾度かテストを受けていく過程で己の学力の限界を知って早々に諦めたのであった。

 

 これが地元の中学に通っていた頃であれば、そこそこの勉強量であっても中々の高得点を出せるだけの地力が智子にはあったものだから、当時はそうした事もあって自分なりの見栄のようなものを保つ事が出来ていた。

 だがそれもこの高校に進学してからはあまり通用しなくなったものだから、結局己はそれ程秀でた人間ではなかったのだという事を思い知らされる結果となっていた。

 

 普段から熱心に勉強していない己が、テストの時だけ本気を出して軽々と高得点を叩き出すといったファンタジーを現実に起こす事が出来ればさぞかし愉快だろうと思う智子ではあったが、そのような夢物語は結局の所、天才的な頭脳の持ち主でもなければ不可能だろうという事が今となっては身に染みて理解出来ていたものだから、本日通知されたテストの結果があまりにも己の身の丈に合っていた事に、追試を受けずにすむ安心感はあれど悔しさや向上心といったものは一切湧いてこないのであった。

 これがもし高みを目指してそれなりの結果を出したいと願うのであれば、それに見合うだけの労力や時間を勉学の為に差し出さなければならないのだから、最小限にも満たない雀の涙ほどの働きで過大な成果を得たがる智子としてはそのような公正な取引はごめんこうむる所であった。

 故に、自身のこの平凡な成績は智子としても納得の上での事なのだ。

 

(漫画とかだと実は頭良いでした系の奴がいきなり本気出して満点取ってたりするけど、あれ嘘だかんな。あんなの普通いねーからな)

 

 かつてはそうした創作内の登場人物のように己もここぞという場面で普段見せない秀才ぶりを発揮して、周囲をアッと驚かせる事が出来るのではないかと根拠も無く信じていた智子であったが、現実は当然のように厳しかったので、そんな事は自分には無理なのだとやがては悟っていく。

 もし先述したような離れ業を実際にやってのける人物が居るのであれば、それこそお目にかかってみたい智子であった。

 

「うわー最悪、追試決定だわコレ」

「ちょ、マジかお前ー」

「あーあかわいそ~。わかんないとこ教えてあげよっか?」

 

 智子の周囲ではテスト結果に一喜一憂している生徒達の姿があり、赤点を取ってしまった者は大げさに嘆いてみせて友人に笑われたり、或いは好成績であった者は得意気になってみせたりと、結果発表の場における緊張の中にも垣間見える緩和の一時が教室の中に賑やかさを生み出していた。

 

「…………」

 

 今日も今日とて口を開く機会の無かった智子が、その口をへの字に結んで益々頑なさを増したような顔になる。

 そうして智子は周囲の様子を横目で盗み見る。悲喜こもごもの様相を呈していたクラスメイト達の表情であったが、そのいずれにも智子は見覚えの無さを感じてしまう。

「こいつ誰だっけ?」という、この一年間を共にした相手に対して抱くものとしてはなんとも薄情な感想が智子の中に浮かんでいたのだ。

 ひがみ根性のある智子が普段から特に妬みを募らせていたグループのクラスメイトであれば智子としても多少は顔を覚えてやってはいたのだが、それ以外の生徒達についてはまるで印象に残らず終いなのであった。

 であるが故に、仮にもしこの中で進級した後も同じクラスになれた者がいたとしても、おそらく気付けないであろう事は間違いなかった。そしてまた同時に、智子自身も彼らから殆ど覚えて貰っていないような希薄な存在でもあったから、結局はお互い様なのであった。

 

 どうでもいい。どうでもいい。そんな事はもうどうでもいい。

 色々と間違えてしまったこの一年生としての己に、智子はもう未練など無い。この一週間を無事乗り切れば、後は待ちに待った春休みである。

 そうすれば新二年生になるまでの少しの間だけでも学校を忘れる事が出来る。己が学生である事を忘れてひたすら怠惰の一時を享受し、惰眠を貪る事が出来る。

 

 授業よ、終われ。時間よ、あっという間に過ぎて行け。

 残された一年生としての最後の時間を他のクラスメイト達が噛みしめる傍らで、智子は一秒でも早くそれらの時間が終わって、己の中で燻るぼんやりとした挫折感と共に過ぎ去ってほしいと願っていた。

 

 ◆

 

 ここの所、どうも智子は学校に居ると度々落ち着かない気持ちになっていた。

 精神的なストレスを感じるという意味でなら、それは近頃に限らず入学当初からほぼ毎日の事ではあったのだが、ここ最近感じる落ち着きの無さはそれとはまた別のものであった。

 

 何も無いまま一年生が終わってしまう。何も築けず、何も受け取れず、そして誰にも何も与えられないまま、とうとうこの一年間が終わりを迎えてしまう。その事が智子をいつも以上に焦らせていたのだ。

 こんな一年間などもうさっさと終わってくれて良いのだと開き直っている智子ではあったが、己の意識しない部分ではこのままで終わりたくないという無念の思いもあったようで、それは入学前の彼女が確かに抱いていた筈の、瑞々しくも危うさに満ちた浅慮な希望の残りカスでもあった。

 

 そのようなものに今の己の心が支配されている事に当の智子自身は気付けていなかったが、ともあれ放課後、帰り支度を済ませて校舎の外を歩いていた彼女は本日も浮かない顔であれやこれやと不満めいた色々を考え込んだりしていた。

 だからなのか、智子は誰かが己のすぐ背後にまで迫っていた事にまるで気付かなかった。その誰かに肩を掴まれるまで、己がいつの間にか校門を出て通学路を歩いていた事にも気付かなかった。

 

「見つけた」

「……へ?」

 

 何者かに肩を掴まれた智子が反射的に己の背後を振り返る。これが普段の智子であれば臆病な彼女はおおげさに驚き、おっかなびっくりで途端に挙動不審な様相を呈するのだが、この時ばかりは先程まで嵌まり込んでいた深い思考の海から抜け出しきれず心ここにあらずの状態であったものだから、その表情にはいまいち何が起こったのか理解出来ていない様子が現れていた。

 

 智子の前には一人の女性が立っていた。その女性はやけに大柄であったから、振り返った智子が相手の顔を確認する為に咄嗟に顔を見上げてみれば、涼しい顔で己の事を見下ろしていた彼女と目が合ってしまう。

 

(うおっ!?)

 

 年の頃は二十代といった所のその女性であったが、彼女の顔立ちは平凡な日常の中では滅多にお目に掛かれないのではないかと思われる程の非常に端整な、審美的に見てもある種の美しさの理想形に少なからず到達していると言っても差し支えないものであったから、それを目の当たりにした智子は面食らわずにはいられなかった。

 

 が、女性はどうも表情らしい表情を浮かべず本来の顔の作りそのままの状態で固定されたような面構えをしていたものだから、智子は目の前の相手がひょっとするとマネキン人形か何かなのではないかと錯覚してしまいそうになる。

 

(ん? ん?)

 

 何やらどこかで見たような目だと、図らずも相手の女性と見つめ合う体勢になっていた智子は彼女のそのきりりとした目元に既視感を覚える。が、それ以前に突然こうして見知らぬ他人に引き止められた訳であったから、その事に思い至った智子は途端に怖気付いていく。

 

「あっ……! えと、あの……な、何か御用で……?」

 

 おずおずと二歩三歩後ずさり、いきなり現れた不審な女性から智子は遠慮がちに距離を取った。異常事態に気付いた智子の体が、何かあればいつでも走り出せるようにと心臓の鼓動を早めて逃走の為の準備を整え始める。

 

「ずっと待ってた」

「は、はい?」

 

 女性がふいに口を開き、控えめな声量ながらよく通る声でそのような事を言うものだから、智子は意味が判らず間の抜けた声で聞き返す。

 面と向かい「待っていた」と言われたのであるから、当然彼女が待ち続けていた相手はこちらという事になる訳だが、智子としてはこのような女性に待ち伏せされるような覚えはない。

 常識的に考えて見ず知らずの相手から突然このような事を言われた場合、それはよからぬ事の起こりを予感させるのに十分であったものだから、智子は己が今正に何か妙な事に巻き込まれてかけているのではないかと不安を感じ始める。

 

「あ、あのー……どど、どこかで、お、お会いしましたっけ……?」

 

 見ず知らずの相手ではあったが、智子は一応そう尋ねてみる。もしかすると自分が忘れているだけで、相手はこちらの事を知っている可能性もあるのだ。失礼があっては相手を怒らせてしまいかねない。それが怖い智子はこのように慎重な態度に出る。

 

「こないだ会ったばかりだが?」

「え、えーっと……」

 

 どうやら本当に相手はこちらを知っていたようで、しかもつい最近会ったばかりだと当たり前のように言うが、そう言われても智子としてはどうにもピンと来ない。

 にもかかわらず、女性はまるで待ち焦がれていた相手に会えたかのような興奮をその瞳に宿していたものだから、智子としても知らぬ存ぜぬと言い張る訳にもいかなかった。

 妙に見覚えのある目をしたその女性ではあったが、このようなひどく印象的な人物と最近会った事などあっただろうかと、その混乱する頭を働かせて必死に思い出そうとする。

 そうして目を泳がせていた智子の視界に、何やら珍妙なものが映った。自分達のすぐ傍の道路脇に、一台のバイクが静かに停まっていたのだ。

 

(なんだありゃ……)

 

 それを見た智子が眉根を寄せる。

 こちらに太い作りのマフラーを向けている手前の大きなバイクは一般的に言う所のネイキッドタイプというもので、カウルを付けずエンジンを剥き出しにしたその作りは所々黒さが目立つ重厚なカラーリングと相まってなんとも無骨な雰囲気を醸し出していた。

 そしてまた、そのバイクには何やら一人用の乗り物のようなものが傍らに連結されていた。いわゆるサイドカーバイクというものであったのだが、智子が訝しんだ原因は本体の無骨なバイクとはあまりにもミスマッチなその側車のデザインにあった。

 

(アザラシ!?)

 

 ふわふわの白い毛皮に包まれたその車体からは二対の短いペンギンの翼のようなものが生えており、胴体の先にはまるで尾びれのようなものが伸びていた。その姿はあたかもかのゴマフアザラシの仔を彷彿とさせるものであったから、きっと前面に回り込んで確認してみれば愛嬌のある顔が付いていたりするのではないかと、智子はそのように想像してしまう。

 

(これって……まさか……)

 

 つい先日、智子はこのようにファンシーな側車を引き連れた珍妙なバイクを下校中に丁度今居るこの場所で目にしていた事を唐突に思い出してしまった。確かその時見たのは流線形の赤いバイクにタヌキっぽい側車をくっ付けたものだった筈だが、色々と違う部分はあれど、あまりにも方向性の似通ったその珍妙な乗り物を前にして、智子の中ですっかり忘れ去られていた筈の恐怖が急速に蘇えり始める。

 

 慌てて智子は目の前で先程から突っ立っていた女性の姿を改めて見やる。彼女の服装はおよそあのような大型のバイクに乗るものとしては相応しくない、普通に街中を出歩く為の冬系の洒落たコーデで固められていたものだから、そこだけ見れば彼女とあのバイクとの間には何ら関連性は見出せない筈であった。

 が、彼女はその頭に白い半帽タイプのゴーグル付きヘルメットを被っていたものだから、例えそれが見覚えのあるあの真っ赤なフルフェイスヘルメットでなかったとしても、いやがおうにも智子の中でこの女性と件のファンシーバイクとが分かち難いものであるとの認識が強まっていく。

 そもそもそれ以前に彼女の目元とその熱視線はあまりにも見覚えのあるものであったのだから、心当たりのあるものを幾つも突きつけられた事で、まさかという思いが確信へと変わっていく。

 辺りに風が吹き、智子と違ってよく手入れされているらしい彼女のその長めの黒髪がふわりとなびいた。

 

「あ、ああー、あ、あのっ、もも、もしかして、あのっ……」

 

 全身から急にじっとりとした汗を吹き出し始めた智子が、方向の定まらないその震える指先で目の前の女性を不躾に指差してしまう。

 そんな事をすれば失礼だし相手に悪く思われるのではという懸念から、普段はよく知らない相手にそのような粗相はしない智子であったが、最早そうした配慮を巡らせる余裕を失ってしまっていた。

 

「あのっあのっ、こないだのっ、お、お茶しようって、言ってた人……!?」

「そう」

 

 悲鳴すれすれの擦り切れるような声で智子が女性に問い掛けてみれば、すぐ様女性はそれを淡々とした口調で肯定してみせる。

 

(やっぱあんときのガチレズかよ!!)

 

 智子が心の中でそのように絶叫した。一度は逃げおおせたと思っていた相手であったが、まさかこのような形で再会してしまうとは。以前遭遇した場所でこのように待ち伏せまでされてしまっていた事に、智子は改めて目の前の女性の尋常ならざる本気の思いを感じ取り、心底恐ろしくなってしまう。これはもう、完全に目をつけられてしまっているに違いないのだと。

 

「また誘いに来たから行こう」

 

 押しの強さで強引に連れていこうとするでもなく、言葉巧みにその気にさせようとするでもない。クールビューティーとでも言うのだろうか、何を考えているのかどうにも判り辛い涼やかな無表情のままではあったが、その目の中にだけは確かな熱っぽい感情を宿らせている女性が、些か抑揚に欠ける平坦な口調で単刀直入に智子を誘う。

 なんか変わった人だなと、女性のどこか超然とした立ち振る舞いに物珍しさを感じなくもない智子ではあったが、そうした好奇心も今己が直面している危機的状況を前にしてはすぐ様意識の外に追いやられてしまう。

 

(なんで私なんだよ! JKなら他にいくらでもいんだろ!)

 

 ともあれ自分が先程から留まっているこの歩道は下校時ともなれば多数の生徒達がひっきりなしに通行する場所であるからして、先日の一件以前にこの女性が下校中の女子生徒達を品定めしていたとして、それら多数の中から何故よりにもよって冴えない風貌の己がナンパ相手として選ばれてしまったのかと嘆きたくなってしまう智子であった。

 つい先程だってそれなりに器量良し揃いの女子グループが、路上で立ち尽くすこちらにちらりと視線を向けながも横を通り過ぎていったというのに、この女性は彼女らには全く目もくれないのだから、一体こんな自分のどこに魅力を感じたのだろうかという疑問が湧いてくる。

 

(あれか? ちょっと女の子とか好きそうな奴に見えたから、そんで狙われたのか!?)

 

 智子とて己にその手の同性愛的な気がちょっぴり無い事も無いという自覚は少なからずあるのだが、それとてほんの気まぐれのように時折発揮される程度のものでしかないのだと考えていた。

 むしろ智子としてはそれらは親しみや憧れを強く感じる相手への親愛の気持ちがたまたま極端な形で現れてしまったというだけの事であり、そっと匂いを嗅いでみたり、さりげなく抱きついて色んな所を触ってみたり、或いは冗談のつもりで試しにキスなんかしてみたりといった事は余程好きな相手でもなければしたいとすら思わない筈だという自負があった。

 

 その癖いかがわしい動画を好んで視聴したり、見知らぬ女子の下着を興味本位で覗き込もうとした事もある智子なのだが、仮にもし誰かからそうした見境の無さを追求されたとすれば「たまにゃそんな事もあるんだよ」と悪びれず都合の良い言い訳をしたりするものなのであった。

 ともあれ智子としては『わたしゃガチじゃないよ!』という事を強く主張させて頂きたい所であったから、例え相手が目を見張る程の際立った佳人であったとしても、碌に知りもしない人間からこのようにあからさまなアプローチをされては困り果てるしかなかったのだ。

 

 先日のようにいっそ逃げ出してみようかと思う智子ではあったが、そうすると今度は女性がすぐ様追い掛けてきそうに思えたものだから、ここはもう女の子の事など別に好きではないという事を伝えてお引き取り願う他ないと智子は覚悟を決める。

 

「あ、あの~~……わ、私、えと、そ、そういうんじゃ、ないんで……」

 

 最早女性とまともに目を合わせるのも辛くなっていた智子ではあったが、それに負けず顔を上げて己のコートを皺になるのも厭わず握りしめつつ、言葉を選びながら精一杯の勇気を込めて此度のお誘いを諦めて貰う為に口を開く。思えばここ最近で己が家族や親友以外と会話したのはこの人だけだなと、そんな思いが智子の脳裏によぎった。

 

「?」

 

 だがいまいち智子の言いたい事が伝わっていないのか、女性は相も変わらず眉一つ動かさぬ無表情で智子のその言葉に首を傾げるばかりであったから、焦った智子はいっそこのお誘い自体をキッパリお断りしようと更に言葉を捻り出す。

 

「あのっ、だ、だからっ、お茶しないっていうか……い、行けないっていうか……!」

 

 大してキッパリともしていない智子のそうした遠慮がちな断り方であったが、どうかこれで諦めてくれという願いを込めて女性の顔色を伺う。

 

(うわっ……)

 

 目線を上げた智子がたちまち相手のことを凝視してしまったのは、さっぱり表情が無いと思われていたそのマネキン顔に顕著な変化が現れていたからだ。

 といって表情そのものはどこか放心した様子で口をやや開き気味にしている以外は相変わらずのニュートラルぶりであったのだが、それでも智子には今彼女が確かに大層ショックを受けてしまっているらしい事があまりにもよく判ってしまった。これは別に智子がとりわけ人の心を察する力に長けているからではなく、十人居れば十人ともが今の彼女の心境を正しく言い当てる事が出来るのではないかと思われた。

 

 その理由は目である。彼女のその長いまつ毛に彩られた黒い瞳に宿る『目の色』とでも言うべきものが、どのような表情にも勝る程に今の彼女の悲しみに満ち溢れた感情をありありと表現せしめていたのだ。そしてまた、その健康的な珠肌に浮かんでいた筈の程良い頬の色付きが、いまや見る影もなく蒼白なものへと転じてしまっていたものだから、誰がどう見たって落ち込んでいるようにしか見えないのであった。

 

「じゃあ、行かない?」

「え!? あっはいっ、せ、せっかくですけど……す、すいません」

「そう……」

 

 そんな彼女の様子に面食らってしまった智子ではあったが、特に食い下がるでもなく智子のそうした意思表示を素直に受け取ってくれたらしいその口ぶりに、どうにかこれで諦めてくれそうだと少しばかり安心してしまう。

 そうしてそのまま女性は俯き加減で黙りこくってしまったものだから、智子としては話が終わったのならそろそろおいとましたい所なのであった。

 

「あ……じゃ、じゃあ私、帰りますんで……」

 

 一言断りを入れてから、智子は彼女に背を向けてその場を去ろうとする。

 だがしかし、視界の端に一瞬映ってしまった女性の様子に智子は思わず振り返ってしまった。

 

(えっ!? 泣いてんの!?)

 

 己の目を疑うが、やはり間違いなかった。嗚咽を漏らすでもなく、この世の終わりのような顔をしてただただ静かに彼女は泣いており、いまやその潤みきった瞳からは絶え間なくはらはらと大粒の涙が零れ落ちていた。

 道ゆく人々が一体何事かとその様子をちらりと盗み見しながら通り過ぎていくものだから、それもあって智子の中にばつの悪い気持ちが広がっていく。

 

(勘弁してくれよ……)

 

 これはもう実に面倒な相手に引っかかったものだと、智子は溜息をつきたくなってしまう。先程までは自分が怯えさせられる側であったというのに、こうもしょげかえった態度を取られてしまってはまるでこちらが泣かせてしまったような罪悪感すら湧いてきたものだから、要領良く無視する事も出来ず再び女性に向き直る。

 

 そんな智子の様子に気付いたのか、放心状態であった彼女は顔を上げると口をきゅっと引き結んで、なおも涙を流し続けるその目で静かに訴えかけるような視線を送ってくる。

 それはあたかも大人しい子供が、自らの要望を却下されてなおも自身に出来る精一杯の抗議をしつつ己の我儘をなんとか叶えて欲しそうにしている様子を思わせた。

 大きな図体をしている割に何とも言えぬある種の幼さを漂わせるその女性であったから、智子は何やら毒気を抜かれてしまったような気分になってしまう。

 

(なんか赤ん坊みたい……)

 

 ああそうだと、智子は先日この女性と初めて出会った時に感じられた印象を思い出す。あの時も、そして今も、彼女の目にはある程度年齢を重ねた者に特有の、本来あって然るべき種々の雑多な感情がなにひとつ浮かんでいない事を見て取る。

 あるのはただ、智子をしてそこに無垢を感じずにはいられないシンプルな純朴さだけであった。人間誰しもが幼い頃に備えていたその稀有な気質を、彼女が今も失う事なく保ち続けているのだとしたら、外見に似つかわしくない幼稚な反応も納得出来る事であった。

 ひょっとすると自分が今相手にしているのは大人などではなく、実は体が大きなだけの幼い子供なのではないかと、そのような錯覚すら覚えてしまう。

 

 彼女を真性のレズビアンであると捉えていた智子であったが、今のこうした姿を目の当たりにした事で、果たしてその認識は的を射たものだったのであろうかと、今更ながらに己のそうした判断に疑問を抱いた。

 もしかすると己を恐怖させた先日のあの口説き文句も、或いは言葉を覚えたての子供がその意味をよく知りもしないで得意げに使ってみせたといった事に通じるような、そうした思いつき程度に発せられたものだったのではないかと思えてきてしまう。

 

「あ、あのー……」

「!」

 

 己の目の前でめそめそと泣いている大人のふりをしたこの子供人間に何か声をかけてやらねばと、智子はひとまず口を開いてみせた。

 それを受けて途端にはっとした表情に転じた女性は、智子の口から飛び出す言葉に注意を傾け、固唾を飲んでいるかのような様子を浮かべる。

 

「そ、その辺でお茶するぐらいだったら、べ、別にいいかなって……」

「いいの?」

 

 先程は断ってしまったお誘いであったが、一体どういう風の吹きまわしか、智子は改めてそれを受ける事にしたようだ。

 涙をぴたりと止めた女性の顔にみるみる活力が戻っていくので、なんとも判り易い人だと智子は感心したような気持ちになってしまう。

 

「あっ、で、でも! ホ、ホテルとかは行かないけど……!」

「そんな所は行かないが?」

 

 まだどこか彼女を警戒する気持ちの残っていた智子は、一応釘を刺しておかねばとそのように言うのだが、対する女性はさも当然のようにそう答える。むしろ彼女のその口調からは、わざわざ智子がそのような事を言う意図を掴みかねている様子すら浮かんでいた。

 

「あっうん、じゃあそれなら……」

 

 彼女のそうした素っ気ない返答に少々肩透かしを食らったような気持ちの智子であったが、これはもしかすると本当に純粋な好意で自分を誘ってくれただけだったのではないかと思えてきたので、体の強張りがいくぶんか和らいでいく。

 

「どこがいい?」

「えっ?」

「この辺りの事はよく知らないから、あなたに任せる」

 

 自分から誘ってきた癖に行き先を何も決めていなかったという女性のその手落ちぶりに智子は少々脱力してしまうが、その事がまた彼女の他意の無さを表しているようでもあったから、余裕の出てきた智子は笑ってしまいそうになる。

 

「あっ、じゃあアッチの駅前に色々あるから、そこ行こっか……?」

「わかった」

 

 商業施設で賑わう最寄り駅の方向を指差しながらそのように提案する智子の言葉へ素直に同意してみせる女性。

 智子はもう彼女に対して敬語を使わなくなっていた。見た目は大人であるが中身は思った以上の幼さが感じられてならない女性であったから、智子としてはそのような相手に必要以上に気を使う事もないだろうと無意識に感じたようで、気付けばその口調も幾分か砕けたものになっていたのだ。

 

「あれに乗って」

 

 先日もそうしたように、女性はすぐ傍に停めてある己の珍妙なサイドカーバイクに同乗するよう智子を促す。言われた智子が女性と共にそちらへ歩み寄っていくが、興味本意でその前面へ回り込んで確認してみれば、やはりそこには思った通り、動物然とした愛嬌のあるおちょぼ口の上に丸くて黒い鼻が付いており、こうして見るとまるでぬいぐるみである。

 そのまつ毛の長い大きな目のパーツは眠り子のようにそっと閉じられていたが、おもむろに指で突いてみれば、どうやらパカパカと開眼させられるような凝った作りになっている事が伺えた。

 

「早く行こう」

「あっうん……」

 

 そんなアザラシカーの造形にしばし見入っていた智子であったが、先にバイクに跨った女性から声が掛かる。およそこのような厳ついバイクに乗る者とは思えないようなフェミニンな衣装に身を包んでいた彼女であったから、その短めのスカートから伸びたふとももが大胆にも露わになってしまっていたが、どうも女性はそのような事はまるで気にしていないらしい。

 

 智子としてはこのような女子力の高いミニスカートなど間違っても人前で履こうとは思えないのであったが、仮にもし己が目の前の彼女のように背も高くて誰もが羨む類い稀な美貌を備えていたのなら、自分にもっと自信が持てて、青春を謳歌する同年代の女子達のようにあれやこれやと己を着飾って楽しもうという意欲も湧いてきそうなものなのにと、そのように無いものねだりな考えが頭をよぎってしまう。

 ともあれ智子を同伴出来る喜び故か、どうにも気が急くらしい彼女から改めて促された智子は背負っていた己の鞄を下ろしてそのメルヘンチックな乗り物の座席下に押し込むと、意を決してそれに乗り込む。

 

 座席に据えられていたシートベルトは安全性を高める為か、やたらとベルトやバックルの数が多かったものだから、この手の乗り物に乗るのが初めての智子はどうも付け方がよく判らないそれに手こずってしまう。

 歩道を行き交う人々が皆一様にもの珍しいそのバイクへちらちらと視線を送りつつ通り過ぎていったが、その中には智子の通う学校の生徒達の姿もちらほらと見受けられた。

 中には自分達の横を通り過ぎた後にくすくすと忍び笑いを漏らしている者などもいたから、かちゃかちゃ音を鳴らしてシートベルトを装着しようとしていた智子の頬に赤みが差してしまう。

 

(せいぜい笑ってろ……! どうせお前らなんて、私の人生にゃ必要ねーんだかんな)

 

 このような物に乗っている所を顔馴染みのクラスメイトにでも見られればそれこそ恥ずかしくてたまったものではないのだが、幸か不幸かそのような親しい知り合いなど一人もいない智子であったから、どこの誰とも知れぬ相手からこのように控えめな注目を浴びたとしても、多少の恥ずかしさを覚える位で済んでいた。

 どうせ自分の事など誰も知らないだろうし、今し方目にした事だって物笑いの種にし終えた後はすぐしない内に忘れ去ってしまうに違いないだろうと、普段であれば胸のむかつきの一つでも覚えてしまうそのような卑屈な考えであったが、この時ばかりはむしろそうであって欲しいという心境に智子はなっていた。

 

(この人は違うもんね。なんか知んないけどこんな綺麗な人が私に魅力を感じてくれて、私とお近づきになりたいって、そう思ってくれてるんだ……!)

 

 同乗者がシートベルトを装着し終えるのを待っている女性のことをちらりと見上げながら、智子はそのように己に言い聞かせる。

 なんかちょっと変な人だなと思わなくもないが、ともあれ智子としてはこのようにハイスペックな容姿を備えた女性から純粋な意味で好意を寄せられているらしいという事実そのものにはまんざら悪い気もしなかった。

 

 もしかすると凡百の一般人如きでは到底理解し得ない隠された魅力が己にはあって、こうした一握りの最上位ランクに属するような人達だけが己のそうした本当の魅力に気付けるのではないかと、他人に話しでもすれば失笑されて然るべき浅はかな考えが智子の中に生まれる。

 そうした彼女の心境の変化は、普段から慢性的な栄養不足に陥ってしまっていたその自尊心が急に過剰な栄養を与えられてしまい増長を始めてしまったが故の事かもしれなかった。

 

「名前」

「あうん?」

 

 女性から唐突に声を掛けられたものだから、智子はなんとも格好のつかない声で返事をしてしまう。

 

「えっ、な、名前……?」

「そう、あなたの名前」

 

 どうやら女性はこちらの名前を知りたがっているようだと、智子はそのように理解する。であるならば、己には黒木(くろき)智子(ともこ)という立派な名前があるのだから、それをそのまま伝えてみようと口を開いたのだが、言葉が出るその寸前で思い留まってしまう。

 

 少しばかり気を許した相手とはいえ、果たして今日初めて会ったばかりの人間に名前をそう易々と教えてしまって良いものだろうかと、この期に及んで智子の中にはいまだ彼女を警戒する気持ちが多少なりとも残っていたため、それが本名を口にする事をためらわせてしまう。

 

「あっ、えと…も、ももこ……」

「ももこ?」

「あっうん、そうそう、それ」

 

 咄嗟に出た偽名は、かつて己がとある他校の男子から名前を呼び間違えられてしまった時のものだった。ともあれこの名前で押し通してみようと、慎重な智子はひとまずそのように考える。

 

「桃みたいで可愛い名前」

「あっ、へ、へへっ……そ、それはどうも……!」

 

 可愛い、などと言われてしまった。

 普段から褒められ慣れていない智子としてはもうそれだけでのぼせ上がってしまい、先程まで頬に差していた程度だったその赤みが顔全体に広がっていく。

 

芹花(せりか)

 

 お返しとばかりに、今度は相手の女性が自身の名前を口にする。

 主語も何もあったものではない彼女の物言いであったが、ひとまず相手の言わんとしている事を理解した智子はそれに相槌を打つ。

 

「あーうん、せ、芹花さんね」

「そう」

 

 なんとも必要以上にものを喋らない人だなと、これまでの芹花の淡々とした喋り方を思い返した智子はそのような感想を抱いた。

 

 これから自分達はとりあえず手頃なカフェにでも行って、そこでなんやかやと話でもしてみようという事になった訳であるが、さてこのような手合いと一体どう会話すればよいものかと思案する智子。

 こうも寡黙な女性であったから、相手の方から会話をリードしてくれるとは到底思えない。こちらが積極的に話を振ってやらねば黙々と飲み物を飲んだりするだけに終始し、無為な時間を過ごすことになりかねないのではとの懸念があった。

 

(あのハゲ)とトークしてるみたいな感じでいいのか……?)

 

 極端に口数の少ない相手との会話であれば、実の所智子としても普段から手慣れてはいた。尤もその相手とは気心の知れた己の家族の事であったのだが、まあ似たようなもんだろうと考えた智子は、ひとまずそうした心配を脇に置く事にする。

 

「もう大丈夫?」

「う、うん、いいけど……」

 

 そのように尋ねる芹花に、体のあちこちをシートベルトで固定し終えた智子が答える。

 元々己とそれ程差の無い体格の者が乗っていたからなのか、同年代と比べても際立って小柄な部類に入る己に合わせてベルトの長さを調節するまでもなかったから、あとは多少気になる緩みを整える程度であった。

 

「あっ、ちょっと待って」

 

 そう断りを入れて、智子は首元に巻いていた白いキツネのようなマフラーを外すと、足元に置いていた鞄へと詰め込む。

 

「何故外す? 可愛いのに」

「えっと、風で飛んでったりするかもだから……」

「そう、残念」

 

 それ程しっかりと巻き付ける事の出来ないようなマフラーであったから、万一走行中に外れてしまいでもしたら事である。鞄からひょっこりはみ出たその顔だけを見てみればあたかも小動物のペットがそこに居るようであり、そんな所も気に入っている智子としては寒い季節に外を出歩く際はいつも付きっきりで寒さから守ってくれるこのキツネマフラーを一応は大切にしていたのだ。

 そんな彼の事を芹花も一目見て気に入っていたのか、智子がそれを外してしまった事に何やら名残惜しい様子を見せていた。と、おもむろに手を伸ばした芹花が側車の収納ボックスから何かを取り出すと、「これ被って」と智子に差し出す。

 

「えっなにこれ」

「ヘルメット」

 

 智子が渡されたそれは、ヘルメットとは名ばかりの単なる被り物にしか見えなかった。

 一応は頭部を全体的に保護する構造をしており頑丈そうな手応えも伝わってくるが、その表面は柔らかな手触りの乳白色のフェルト生地で覆われており、更には頭頂部から二対の長い垂れ耳のようなものが生えている。なんとも愛嬌に満ちたそのデザインは、おそらくウサギ辺りを模しているのではないかと思われた。

 

「ももこの為に買ってきた」

「あ、そ、そうなんだ……」

 

 そのような事を言う芹花は、そのヘルメットもどきを早く被ってほしそうに期待を込めたまなざしを向けている。

 こんなものを被りでもすればたちまち一人のコスプレ少女の出来上がりなのであるから、智子としても人目のある中でそのような格好になるというのは憚られるのだが、どうもこれは芹花がこの日のためにわざわざ購入したものらしいから、それを無下に突き返してまた泣かれてしまうような事があっては厄介だと、智子は一時の恥を忍んでそのへんてこな代物を思い切って被ってみせる。

 

(ううぅ……)

 

 途端、周囲を通りかかる通行人達の視線が一斉に自分へと向けられたのを智子は肌で感じ取る。これは明らかに変な奴だと思われているに違いないと、込み上げてくる羞恥のせいで顔が熱くて仕方がない。

 そうして己に刺さる幾つもの視線の中になにやら物理的な圧力を錯覚しかねない程の一際強いものがある事を感じ取った智子であったから、なんとはなしにその出所を探ってみれば、果たしてそれは己のすぐ傍にこそあった。

 

「ひっ……!?」

 

 いつの間にやらその形の良い鼻から一筋の血が流れ、顎先から雫をぽたりぽたりと垂らしていたらしい芹花が、心奪われたような様子で智子を見下ろし瞬きもせず凝視していた。そこに異様な迫力を感じた智子は体をのけぞらさずにはいられなかった。

 

 途端、堰を切ったように芹花の鼻から大量の鼻血が噴き出した。

 それはまるでブバァッと小気味良い効果音でも付きそうな程の見事な噴出ぶりであったから、智子は人が突如として死に至るショッキングな現場に遭遇してしまったかのような衝撃に襲われる。

 

「ななななっ、なに……!? え!? は!?」

 

 尋常ならざる芹花のそうした様子に怯えて反射的に座席から飛び出そうとした智子であったが、シートベルトで体をがっちりと固定されていたため、いたずらに側車を揺らすばかりだ。

 

「大丈夫、興奮しただけ」

 

 しかし大した事ではないと言わんばかりに涼しい口調で説明する芹花は、取り出したハンカチで己の血まみれ顔をぬぐっていく。

 

「えっ、で、でもっ、ち、血が……!」

 

 車体だったり地面だったりと、芹花が今しがた噴出させた鼻血があちこちに飛び散っている。芹花の肩口や袖も血しぶきを浴びてしまったらしく、その上等な生地にあちこちまだらの染みを作っていた。

 これだけを見てもやはりただ事ではないのだが、当の本人のあまりにも平然とした様子からして、どうも彼女にとっては大した事ではないらしい。

 

「ごめん、可愛いももこを見ていたらつい」

「へ!?」

 

 もしかすると何かしらの持病でもあるのだろうかと理由を探す困惑気味の智子であったが、芹花から唐突にそのような事を言われてしまったものだから益々混乱させられる。

 

「可愛いものを見ると鼻血が出る」

「へ、へぇー……」

 

 そろそろ出発しようかと、発車準備を終えていた芹花はバイクのセルモーターを回してエンジンを始動させる。途端、震えを伴う重厚な響きが辺りに轟いて智子はあっという間にそうした騒音の中に包み込まれる。

 

(ほんと変わってんなこの人……)

 

 己が今乗っているこのサイドカーといい、先程被らせられたヘルメットといい、この芹花という女性がどうも可愛いもの好きであるらしいという事は、先程己が鞄に収めたキツネマフラーに興味を示していた事からもなんとなく察する事の出来ていた智子であったが、ここまで極端な反応を示されてはただただ圧倒されるばかりであった。

 ここは期せずして褒められた事に照れて良いのか、或いは単に可愛いというだけの理由で容易く血を噴き出させる彼女の変態性に呆れるべきなのか。

 

(まあ、似合ってるって事なんか……?)

 

 恥ずかしくて仕方がないと思っていた己のコスプレ姿であったが、それを随分と気に入ったらしい相手からの賛辞を受け、まんざらでもない気持ちが智子の中で芽生える。

 

 そうなのだ、この人は私の中の隠れた魅力に気付いてくれる数少ない『選ばれた人』なのだ、だからきっと今の自分は見る人が見れば可愛いと思えるような、そうした価値ある良き存在に違いないのだと、先程から増長しつつあった智子の自尊心がそのような自己肯定の考えを抱かせる。

 それもあってか智子は何やらこの後の事が急に楽しみになってきてしまったようで、ここ数日浮かない顔をしてばかりであった彼女の顔にもようやく明るい兆しが生まれ始めていた。

 

 そんな智子を尻目に先程から安全確認をしていた芹花が、頃合いを見計らってアクセルを捻り、マフラーから放たれる爆音を周囲に響かせながらバイクを車道へと進ませる。

 

 なんとも奇妙な出会いから急造仕立ての縁を結ぶに至った智子と芹花であったが、いまや二人揃って隠しきれない期待に胸を膨らませている様子であったから、そんな彼女らの姿をそれぞれの知人が目撃したならば、友達同士でどこかへ遊びにでも行く最中なのだろうかと、きっとそのような誤解を抱くに違いないのであった。




つづく


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【クロス】わたモテvsちょく! 可愛いものマニア現る(中-前篇)

「ご注文はいかがなさいますか?」

「あ、えと……じゃあこれの、ト、トールで……」

 

 店員からの問い掛けを受けて、早く決めねばと気の焦る智子は大して選ぶ素振りも見せずカウンター上のメニューから適当にホットコーヒーを指差し注文してみせる。

 智子は今、芹花を連れて駅前のアミューズメント施設内にあるカフェを訪れていた。

 

「せっ、芹花さんは?」

「ももこと同じのでいい」

 

 自分が案内してやっているのだという気持ちが働いたのか、気を利かせたらしい智子が背後の芹花へ率先してそのように尋ねてやれば即座に返事が来たものだから、智子は噛みながらも自分の口から改めて店員に相方の希望を伝えやる。

 

「あっ、じゃあ私、席取っとくから」

「わかった」

 

 そうして会計を済ませた後で店員から暫く待つよう案内された二人であったが、智子がそのように言って芹花を残し店の奥へと入っていく。

 その様子にはどこか気取ったものが浮かんでおり、先程芹花の注文を代わりに聞いてやった事も含めてこうした場所に慣れている感じをどうにか装っているようにも見えた。

 実際は未だ数える程しかこの手のカフェを利用した経験の無い智子であったが、ともあれ今この時だけは自分をそのように見せたいという事らしい。

 

 智子は以前、この店に一度だけ興味本位で訪れた事があった。その際は生まれて初めての不慣れなカフェ体験であった為に少々痛い目を見てしまい、こんな所は二度と来るものかとヘソを曲げてしまう一幕などもあったのだが、今となってはそれも過去の事。

 先日十六歳の誕生日を迎えて一つ大人に近づいた智子としては、こうした場所を訪れる事に今や何の躊躇も気後れも無いし、注文だって席取りだってそつなくこなせるのだぞという自負が芽生えていた。実際の様子を周りが見てどう思うかは別としても、一応本人としてはそのつもりなのだった。

 

 下校時とあって店内には他にも学生らの姿が多く見られる。その中には智子の学校の生徒も居るようであったが、どうもその中に見覚えのある顔がある事に智子は気付く。

 それは智子のクラスにて目立った存在である二人組の女子であった。名前も碌に覚えてはいない相手であったが、彼女ら二人のその特徴的なポンパドールヘアとツーサイドアップの髪型は他人への興味が薄い智子としても比較的印象に残るものであった。

 

 ふと彼女らの片割れが自分の方へちらりと視線を送ってきた事に気付く智子。

 もしかすると一人でこのような場所へ来たように見える自分を珍しがっているのかもしれないと考えた智子の中に、普段慣れ親しんでいる恥の感覚が湧き上がりそうになってしまう。

 

(こっちはお二人様だぞ、文句あっか!?)

 

 これが普段のひとりぼっちの智子であれば、そんなクラスメイトの視線から逃げるようにして店内の隅の目立たない席にでも座ろうかと考えそうなものであったが、今の自分には誰もが振り返る魅惑的な相方が同行しているのだという思いが智子に勇気を与える。

 

 そんなに見たいのであれば逆に見せつけてやろうじゃないかと、智子は臆する事なく人目に晒される席を選んで堂々とそこへ陣取ってみせた。と言ってもそれは己の足が届かないカウンター席を避けての事ではあったが。

 以前この場を訪れた際に、無理をして座ったカウンター席からみっともなく転げ落ちた自分を思い出してしまった智子であったが、身長の高い芹花であればあのような場所に腰掛ける姿もきっとサマになるのだろうと、そんな思いがよぎったりもする。

 

 ともあれ二人分の席を確保した智子が、己の脱いだコートを掛けたその椅子を引いてとすんと座り込む。そうしてなんとはなしに受付口の芹花を見やってみれば、彼女はピンと綺麗に伸びた直立不動の姿勢で身じろぎもせず店員を見据えて静かに注文の品の出来上がりを待っていた。

 モデル体型のその身に纏うセンスの良いファッションと相まって、ああしているとまるでブティックの店先に置かれているマネキンのようだなと、改めて智子はそのような印象を抱いてしまう。

 

 それにしても見過ぎだろうと、これといった表情も浮かべずひたすらカウンターの店員に目を向け続けている芹花に智子は心の中でつっこみを入れずにはいられない。あれでは見据えられている店員の男性も居心地が悪いのではと心配になってしまう程であった。

 

(あっ……)

 

 そんな芹花の様子を遠目に見守っていた智子であったが、やがて注文の品が出来上がったのか、置き物でいる事をやめた芹花が動き出したのを見て取る。

 飲み物を受け取った芹花がそれらをトレイに乗せて店の奥へと入ってきたものだから、智子は他の客の中に埋もれぬよう控えめに手を振り彼女へと自分の居場所を伝えてみせる。

 

「出来た。飲もう」

「あっうん……」

 

 やがて智子の座る席までやってきた芹花が、そのギリギリ二人用として使えない事もない小さなテーブルの上に二つのコーヒーカップを載せたトレイを置く。そんな芹花の存在に気付いたのか、何かと目立つ彼女へと周囲の客がこぞって視線を集中させたのを智子は見逃さない。

 

(見とけよお前ら、私にはこういう連れがいるんだぞ……!)

 

 智子は横目で離れた席にいるクラスメイト達の様子をちらりと伺う。

 この黒木智子にもお前らと同じようにこうして学校帰りにお茶する相手がいるのだぞと、それもそんじょそこらじゃお目に掛かれないレベルの美人なんだぞと、そのような事を見せつけてやりたくて仕方がない智子であった。

 

「その前にうんこ」

 

 が、そうしたささやかな自尊心の充足に智子が酔い始めた矢先、彼女にバケツ一杯の冷や水を浴びせるが如き言葉が芹花から放たれた。

 

「……はぁ?」

「漏れそうだから、ちょっとうんこしてくる」

 

 己の耳を疑ってしまった智子が思わず芹花に聞き返してしまったものだから、それがまた先程の爆弾発言の再来を招いてしまう。

 

「あぅ、えと、あ、あのぉ」

 

 恥ずかしげもなくそのような事を衆目の前で堂々と言い放った芹花に困惑した智子はしどろもどろになってしまうが、そんな彼女を尻目に芹花は颯爽とした足取りで店内のトイレへと向かっていった。

 

(何あの人!? 何考えてんだ!? 馬鹿なのっ……!?)

 

 一人その場に取り残された智子は、今し方の芹花の発言を周囲の客に聞かれてしまったのではないかと激しい羞恥がこみ上げてきたものだから、顔を上げる事も出来ず猫背気味だったその背を益々丸めてしまう。

 

(ガキじゃあるめーし、いちいち言わんでも……!)

 

 女子にあるまじきデリカシーゼロの芹花の発言に自分までもが巻き添えを食らってしまったような気分の智子は、今すぐ店を出てこのまま帰りたくなってしまった。

 しかしそんな事をすればまたあの泣き虫な女性は絶望的な顔をしてめそめそと泣き出してしまうであろう事が容易に想像出来たものだから、それが智子をすんでの所で思い留まらせる。

 どうにも子供っぽい人だなと思っていた智子であったが、どうやらあれは本当に子供そのものなのではないかとすら思えてきたものだから、これ以上そんな芹花を責めても仕方がないという気になってしまう。

 

(大丈夫だ……たぶん聞かれてない、筈……)

 

 カフェと言えば静かでリラックス出来る場所という先入観を持っていた智子であったが、それは客の入りが少ない時の話であり、大体の席が埋まっている今のこの店内においてはその限りではなかった。

 店のそこかしこに居る客の喋り声が混じりに混じってこの場を満たしており、どこからか流れてくるBGMや店外から聞こえてくる雑音なども手伝って、些か騒がしいぐらいであった。

 この分なら大きめの声でもなければ周囲に会話をはっきりと聞かれる事はおそらく無いのではないかと、智子はそのように考え始める。

 

 そうして周囲の客の様子をそっと伺ってみれば、成る程確かに彼らは特に戸惑ったり仰天している様子もなく、芹花が去った後はこちらから視線を外して思い思いに過ごしていた。

 

「ふ────……」

 

 これはどうやら本当に大丈夫そうだと、顔を上げた智子はようやく一息つく事が出来た。近くに居た周りの客がこの様子なのであるから、当然ながら離れた場所にいる己のクラスメイトであれば言わずもがなである。

 気になって彼女らの様子を伺ってみれば、さっき己の事を見ていたツーサイドアップの女子はこちらにもう関心が無いのか、今は相方とのお喋りに夢中のようである。

 先程の下品な会話の件はともかく、自分が決して一人などではなく連れ合いと共にこの店を訪れたのだという事を彼女らにもちゃんと気付いて貰えたのだろうかと、そのような事が気になってしまう智子であった。

 

(ほんと、変な人だな……)

 

 砂糖もミルクも入れずただ苦いだけのコーヒーをちびちびと啜りながら、智子はぼんやりとそのような事を考える。

 会って間もない相手だというのに、芹花のその奇人変人ぶりを目の当たりにした智子は早くも圧倒されてしまっていた。

 あの顔で『うんこ』などと涼しげに臆面もなくのたまうのであるから、与えられたインパクトの大きさたるや智子の人生史上初と言っても良かった。そもそも芹花のような一風変わった人間と関わりを持つ事自体が生まれて初めての事である。

 元々会話の取っ掛かりを掴むのに苦労しそうな相手だとは思っていたが、この分では先が思いやられるなと、そのような考えが浮かんできてしまう。

 

(なんか話題のネタになるものは……)

 

 普段智子が会話するのは己の家族か気心の知れたごく一部の友人に限られていたものだから、知り合って間もない相手と会話を弾ませる為の術など持っている筈もなかった。

 今はまだ己に興味津々らしい芹花ではあるが、実際に話してみてつまらん奴と思われ興味を無くされるのが怖い智子であったから、彼女が用を足している内に対策を練らねばと、鞄から取り出したスマホで情報収集を図り始める。

 どうもあの芹花は可愛いものが大層好きらしいから、そうした話題を調べてみようと検索ワードを入力していく智子であったが、何かを思いついたようでふとその指を止めてしまう。

 

(動物とか好きなのかな……?)

 

 あのサイドカーといい、自分が渡されたヘルメットといい、そのいずれもが動物達をモチーフとした可愛いものグッズであったから、智子は芹花の関心事についておおよそのあたりを付けたような気持ちになる。

 であるのなら、同じく動物全般がそれなりに好きで時折その手の情報を求めてネット巡りをする事もある智子としては話題に事欠かないのであったから、ここはひとつ自分のとっておきなんかを披露してやりでもすれば芹花の歓心を買えるのではないかと考える。

 

 このように他人の好みを自ら積極的に推し量ろうとするなど、自己中心的なきらいのある普段の智子の姿からは考えにくい事ではあったのだが、果たしてそれは芹花の特殊な人柄こそが彼女をそのような心境へと至らせたのであろうか。

 これが智子の親友である成瀬(なるせ)ゆうが相手であれば、智子は自分の全てを受け入れてくれるその包容力に甘えてしまい、己に合わせてくれる親友との一体感に酔いしれるばかりでそうした事にまで気が回らないのが常であった。

 

 ともあれそうと決まればまずはどれから見せてやろうかと、人に何か良いものをオススメする時の楽しさが湧いてきた智子はブックマークからそれらしいネタを漁り始める。手が滑っていかがわしい動画のブックマークを芹花の前で開いてしまわないようにと、そこだけは要注意であった。

 

(なになに、千葉でキョンが大繁殖……)

 

 普段よく見ている動物関連のまとめサイトへアクセスしていた智子は、そこの最新記事としてここ千葉県における話題が掲載されていたのを見つけ、なんとはなしにその記事を読んでしまう。

“キョン”とは鹿に似た草食動物で、元々外来種であるこのキョンが千葉県南部の山林地帯にて絶賛大繁殖中であるとのニュースが、彼らの様子を映した映像と共に紹介されていた。

 

「出してきた」

「えっ!? あ、そ、そう……」

 

 いつの間にか戻ってきた芹花から唐突に声を掛けられたものだから、スマホの方に気を取られていた智子の肩がびくっと小さく跳ねる。

 これはもう癖のようなもので、急に人から話し掛けられたり、ふいに物音がしたりすると決まって智子は人並以上に過敏に反応してしまうのだ。

 その様子はまるで小動物のようで傍から見れば愛嬌のあるものだったが、智子としては地味に辛いと感じさせられる面倒な性分の一つであった。

 

「なに見てる?」

 

 席に座らず智子の傍らに立った芹花がそのように尋ねる。先程から智子が熱心に見入っていたものが気になってしまったらしい。

 

「あっ、な、なんか千葉にキョンが沢山いて大変なんだって……」

 

 そう言って、手に持つスマホの画面を芹花にも見えるようにしてやる智子。画面には今し方見ていたニュース映像の中で木々の葉を食んでいるキョンの群れが映っている。

 途端、それを目にした芹花がスマホを覗き込むように智子へ体を寄せて興味津々な様子で映像に食いついたものだから、見上げてばかりだった芹花の顔が自分の目の前まで迫ってきた智子は思わずそちらに目が行ってしまう。

 

(ふあっ……)

 

 芹花から何かとても良い匂いがふうわりと香ってきたものだから、智子は思わず我を忘れてうっとりしてしまう。綺麗な人というものはどうしてこうも良い香りがするのだろうと、同じ女性である筈の己には無いそうした特性が、智子としては羨ましくも憧れなのであった。

 

「こないだ私も見に行った」

「へっ? な、何を……?」

 

 映像を見ていた芹花がふいにそのような事を言ったものだから、うたかたの陶酔から覚めた智子は彼女にそう聞き返す。

 

「この子達」

 

 芹花が映像の中で元気に跳ねるキョンを指差す。見に行った、というのは要するにどこぞの動物園にでも行って話題の彼らの姿を見てきたという事なのだろうか。

 やけにこの手の話に興味を示すものだから、やはり自分の見立て通り芹花は動物が好きなのだろうかと思う智子。

 

「千葉の山は可愛い動物たちがいっぱいだからいい」

「あ、そうなの?」

「そう。南の方に行くと沢山いたりする」

「へぇ……」

 

 何やらまるで実際に見てきたような口ぶりの芹花であったから、ひょっとしたらこれはバイカーである彼女がツーリングがてらそのような場所へと赴いて、自身の目で確かめでもしたのかもしれないと智子は推測する。

 そこまで考えて、智子は先日学校付近で初めて声を掛けてきた際の芹花の姿を思い出す。確か彼女は如何にもスピードの出そうなバイクに全身ライダースーツという仰々しい出で立ちであったから、もしかするとあの日はここ幕張よりもずっと南の山間部まで遠征していた帰りだったのかもしれない。

 そう考えるとあのタヌキがモチーフなサイドカーも、山の動物達に合わせてチョイスされたものだったのではと思えてくる。

 

「あ、あの、じゃあ……」

「?」

「芹花さんって、バ、バイクとかでよくそういう所とか行ったりするのかな?」

 

 せっかくなのでもう少しこの話題を掘り下げてみようかと、智子がそのように尋ねる。これが普段の智子であれば、さして親しくもない相手の話にここまで乗ったりする事もなく適当に無難な相槌を返してそれで終いであったから、彼女にしてはいつになく積極的であると言えた。

 

「行く。動物たちがいそうな所は大体行った」

 

 これは思った以上に筋金入りのようだと、芹花の返答を聞いてそのような感想を抱く智子。この分なら自分が芹花に見せてやろうと思っているあれやこれやにきっと食いついてくれるだろうとの確信を得る。

 

「動物とか好きなの?」

「好き。とても」

 

 智子のそうした質問を受け、コクンと頷き素直に答える芹花。

 

「あ、じゃあいいの見せてあげる」

「?」

 

 芹花の返答を聞いた智子は、それを待っていたかのように手際よくスマホを操作し、芹花に見せてやりたいと思っていたとっておきの動画を開いてやる。海外の誰かがネットに投稿した犬猫達の面白動画集だ。

 

「ほら、これとか面白いよ」

「……」

 

 芹花のその目が画面に吸い寄せられるように固定され、まじまじと動画に見入ったものだから、智子はそこに確かな手応えを感じてしたり顔になってしまう。なんとなくこの女性の中にある一種の“チョロさ”のようなものを見つけた気になってしまったのだ。

 昨年あたり犬好きの従妹にこの手の動画を見せてやった時の好感触が智子の中で蘇る。それもあって今や智子の中で『ガキはこういうもんを見せりゃ喜ぶんだ』というロジックの正しさが証明される事となった。

 こうなるともう、この動画に夢中な芹花はすっかり智子の中でガキ扱いなのであった。これは案外やり易いぞと、どこか肩の力が抜けていくのを感じる智子。

 

「なにこれ、可愛い!」

「わっ、ちょ、鼻血っ……!」

 

 黙々と視聴に集中していた芹花がようやく口を開いたかと思えば、それと同時に彼女の鼻から血がツーっと垂れてくる。制服を汚されては敵わないと、それを見た智子が反射的に身をのけぞらせて椅子を鳴らす。

 

「そんなもの見たら出さずにはいられない」

「あ、ハハ……」

 

 そのちょっとした騒ぎに一体何事かと周囲の客がまたしても視線を寄越してくるが、当の芹花はどこ吹く風でハンカチを取り出し血を拭っていく。

 そうして芹花は智子の向かい側の席へと座ってみせるが、智子としては芹花のこのような鼻血癖に遭遇するのも二度目となるので、少しは慣れが出てきた様子だ。

 

 まずは一服したいのか、芹花は己のコーヒーカップを手に取りそれをずずっと啜る。こちらも智子と同じ、ミルクも砂糖も入っていないただのブラックコーヒーだ。

 

「そういうのもっと見たい。見せて」

「えっ? あ、うん、いいけど……」

 

 カップを置いた芹花が開口一番、そのようにねだってきた。

 やはり食いついてきたかと思う智子だったが、それにしたってなんとも直球で判り易い反応である。一体どういう育ち方をすればこのような人間になるのかと、ある種の疑問すら湧いてきてしまう程だ。

 

「あっ、じゃあこういのはどう?」

 

 ともあれ次なるオススメ動画を開き、スマホを芹花に手渡してやる智子。渡された芹花はそれを握りしめ、食い入るように動画に見入ってしまう。例によって時折鼻血を出したりもするが、顎を伝って下に垂れてくるそれを芹花は器用にテーブルの上に置かれたトレイへと溜まらせていく。

 

 そうして動画を見終えれば、芹花がもっともっととねだり、智子がそれに応えるべく次のオススメを見せてやる。そうしたやりとりを幾度か続けていく内にすっかりトレイ一面に血だまりが出来てしまっていたものだから、そこに飲み物を置きたくない智子はやがて己のカップを持ちっぱなしにせねばならなくなった。

 智子らの周囲の席に座る客もその異様な光景に気付いたようで、ちらちらと視線を送ってきたり、中には離れた席へと移る者までいる。

 対する芹花はそのような事はお構いなしで、時には鼻血を流し続けたままカップを口に付けたりするものだから、きっと己の鼻血混じりのコーヒーを飲んでいるに違いなかった。

 

 ◆

 

「もうないの?」

「あっうん、探せばもっとあると思うけど……」

 

 今の所思い当たるオススメを一通り芹花に見せ終えた智子であったが、芹花はまだまだもっと欲しいと貪欲に求めてくる。

 

「ほら、なんかもう充電切れそうだから」

「それは残念」

 

 動画を再生させられてばかりいた智子のスマホの充電残量が底を突きかけていたものだから、すっかり飲み干していたコーヒーカップを血まみれのトレイに置くと、そろそろ視聴会はお開きだと言わんばかりに所々血の付いていたスマホをティッシュで拭いてから鞄へと収めてしまう智子。

 

「ももこはもしかして動物博士?」

「えっ、はかせ?」

「そんなにも色々知ってるなんて凄い」

 

 そのように持ち上げてきた芹花が尊敬の念を込めた眼差しで見つめてきたものだから、たかがあの程度のものを見せてやった位でそのように褒められてはと、智子は妙に気恥ずかしくてむず痒くなってしまう。

 

「ま、まあ、結構詳しい方かなぁ」

 

 しかしその実、智子はこうした眼差しで見られるのが好きだった。このような目で自分を見て貰う為ならば、あからさまな法螺話もするしゲームで躊躇なくイカサマもしてみせる。そうまでしても得たいと思わせる何かを、智子は他人からの賞賛の中に見出していたのだ。それが如何に一時的で儚いものであったとしても、智子はそこに縋らずにはいられなかった。

 

「じゃあもっと色んなの教えて欲しい」

「えっいやっううん、そ、それはちょっと……」

 

 どうも芹花はすっかり智子の事を可愛い動物に関する専門家であるかのように捉えてしまったようだ。

 休日などは日がな一日ネット巡りに費やす事も多い智子であるから、その過程で動物達のユニークな姿を収めた画像やら動画やらを見つける事もあり、そういう意味では確かにそれなりの情報通と言えなくもなかったが、何かにつけてにわか仕込みな所のある智子であったから、こうして本格的に己の知見をアテにされてはボロが出かねない。

 

「なにがちょっと?」

「あ、いや、今はちょっと……スマホ使えないと教えてあげれなくて……」

 

 充電切れ一歩手前のスマホを引き合いに出してどうにか言い逃れをしようとする智子であったが、本音を言うと少し面倒臭くなってきたというのもあったりする。自分が関わりたい時だけ絡み、気が済んだらそっぽを向く。そうした気まぐれな所が智子にはあったから、わざわざ相手に合わせて付き合ってやるといった事が彼女は苦手なのであった。

 

「じゃあ電話番号教えて」

「へっ!?」

「また電話で動物の話とかしたい」

 

 唐突にそのような事を言い出す芹花であったが、智子としては自分の連絡先を他人から聞かれるなど中学の頃に親友のゆうとお互いの番号を交換した時以来であったから、その戸惑いもひとしおであった。

 もう一人、同じく中学の頃に嫌々ながらも番号を交換した何者かがいたような気がしないでもない智子だったが、そんな者の番号など己のアドレス帳に影も形もないのだから、やはり気のせいに違いなかった。

 

「あ、いやー……そ、それもちょっと……」

「ちょっととは?」

 

 如何に好意的であるといえど知り合って間も無い人間においそれと己の連絡先を教えてやれる程、智子は不用心でも開放的でもなかったから、芹花からのそうした求めに言葉を濁して渋った態度を見せる。

 しかし芹花としてはそう簡単に引き下がるつもりがないのか、なおも食い下がってくる。

 

「友達同士は電話番号を教えあうもの」

「えっ、友達っ?」

「そう。ももこと私はもう友達」

 

 一体いつの間に友達になったのかと、芹花から一方的にダチ公宣言をされてしまった智子はその顔に更なる戸惑いの色を滲ませる。

 己が友と呼べる相手は今の所ゆう唯一人な訳で、それにしたってかつてのクラスメイト時代の親密な交流が友人としての縁を育んできた訳であるから、つい先程初めて膝を突き合わせたばかりの相手からいきなりそのように歩み寄られては、智子としてもどう受け止めて良いのか判らないのであった。

 

(あっ……)

 

“友達”という言葉を口にしたからか、どこか高揚したような様子を見せ始めた芹花が頬をほんのりと赤く染めて智子を見つめていた。彼女の瑞々しい瞳の中になにやら艶めかしい魅力を感じた智子であったから、その胸に軽い痛みすら感じてしまいそうな疼きが走った。ありていに言うと『ドキッとさせられた』のである。

 

 ガキはチョロいぜと侮りかけていた芹花の中に突如浮かんだ、大人とも子供ともつかぬその不思議な色合いが智子の興味を惹きつけてやまない。相も変わらず無表情な筈なのにどうしてこんなにも表情豊かなのだろうと、芹花という人間の持つ神秘性が智子の曇った目を開かせる。

 

 しばし言葉を失い芹花と見つめ合う形になっていた智子であったが、やがて我に返った彼女はいつの間にか自分の心臓がその鼓動を随分と早めていた事に気付く。きっと鏡で見てみれば、己の顔が赤く染まっているのではないかと思える程に火照っているのが判る。

 そうした己の変化が一体どういった理由によるものなのか、智子は説明する事が出来ない。が、自分の中にそのような変化が起きた理由があるとするのなら、それを誰にも知られてはいけないような、そんな気がしてしまった。

 

 ともあれ電話番号ぐらいなら教えてやってもいいかもしれないと、そのような心境の変化が智子の中で生まれていた。そうして己の滅多に開示されないプライベート情報をこの女性にだけ特別に明かしてやろうと考えれば、それが益々己の胸を高鳴らせるものだから、智子は頭がくらくらしてしまった。

 

「これに書いて」

「あ、じゃ、じゃあ、ちょ、ちょっと待って……!」

 

 準備の良い事に芹花がバッグからメモ用紙とペンを取り出し智子に渡そうとするが、それを制した智子は椅子に引っ掛けておいた鞄を取り上げ膝の上に乗せると、もたついた手つきで先程その中に入れておいた己のスマホを改めて取り出す。

 

「あ、あのっ、番号覚えてなくて……! 今調べるから……!」

 

 普段から人に連絡先を教えてやる習慣など無いものだから、己の電話番号を記憶していない智子は実際にスマホをいじってそれを調べるしかなかったのだ。

 そうしてスマホのスリープ状態を解除した智子が、些か震えを見せるその指先で己の電話番号を表示させようと試みる。だが肝心のその方法をここにきてド忘れてしてしまっていたものだから、焦る智子はネットで調べてみようと検索を始めた。

 あれも違うこれも違うと探し回った末にようやく自身の番号を知る為の手順が判明したものだから、早速それを試してみようとする智子。

 

「あ──っ!」

 

 しかし突如スマホの画面にメーカーのロゴが表示されたかと思うとそのまま暗転して何も映さなくなってしまったものだから、思わず智子が声を上げてしまった。間の悪い事にここへ来て充電残量が尽きてしまったのである。

 

「どうした?」

「あっ、あのっ、で、電池切れちゃって……」

 

 なんとも格好のつかない結果に終わってしまったものだから、それが悔しいやら恥ずかしいやら、智子の目尻にはじんわりと涙すら浮かんできてしまう。

 

「じゃあ私の番号を教える」

 

 智子の事情を察した芹花がさらさらと手元のメモ帳に何かを記入すると、それを一枚破って智子に差し出す。

 

「あっ、ど、どもっ!」

 

 芹花の連絡先をうやうやしい手つきで受け取った智子は、それを無くしてしまわぬようにと鞄の中のチャック付きのポケットに収める。自分の番号は伝えてやれなかったが、芹花から番号を教えて貰えた事に幾ばくかの慰みを得る智子であった。

 

「いつでも掛けてきていい。なんなら今夜にでも」

「あっ、そ、それはまた、次の機会にでも……」

 

 芹花としては今晩早々にでも智子とのお喋りを楽しみたいという意気込みを見せているが、すっかり余裕を無くしていた智子はそのように迫られても十分に受け止められず、無期限に先延ばしにするような事を言ってお茶を濁してしまう。

 

「帰ろう」

「えっ!?」

 

 脈絡もなくまたしても唐突な事を言い出した芹花であったから、もう先程から智子は聞き返してばかりであった。

 

「凄く楽しかったから満足」

「そ、そう……?」

 

 満足したからもう帰るという、なんとも単純明解で一直線な理屈に基づいている芹花。彼女のそうした直進直撃・直接直感・率直極まる素直発言に、智子はもう笑い出してしまいそうだった。この人は面白いと、別に悔しさも何もなくただ純粋にそう認めてしまえる自分がそこにあった。

 芹花の言う通りこのまま店を出れば、きっとそれで本日はお別れと相成るのだろう。そうしたら次に会えるのはいつになるのだろうか。そもそも次の機会はこれからも巡ってくるのだろうか。

 

「あっ、あのさ! ゲーセン、ゲーセン行こうよ!」

 

 行きずりの相手と言えなくもない芹花であったから、どうにもここでお別れしてしまうともう会えなくなってしまうような予感のした智子の口から芹花を引き止める言葉が飛び出してしまう。

 今自分たちがいるこの建物の中に丁度手頃な遊び場があったものだから、智子はそこへと芹花を誘ってみせたのだ。

 お茶するだけならという条件で芹花に同行した智子ではあったが、今や自らその前提を覆す行動に出ている事を彼女は自覚していない。

 

「行きたい。行こう!」

 

 智子から積極的にそのような誘われ方をしたのが嬉しかったのか、それを受けた芹花の方も乗り気である。ひょっとすると本当は芹花としても智子ともっと長く一緒に居たかったのだろうか。それを押してでも帰ろうとしたのは、智子との当初の約束を守ろうとする彼女なりの律儀さの表れだったのかもしれない。

 

 ともあれそうと決まれば話は早く、自分達のコーヒーカップを血まみれのトレイと共に返却した二人はその足で意気揚々と次なるステージへと赴くのであった。




つづく


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【クロス】わたモテvsちょく! 可愛いものマニア現る(中-後篇)

 両替機からジャラジャラと吐き出された硬貨を掴み取り、それを己の財布へと回収していく智子。

 辺りには騒々しいまでに様々な音が満ちており、それが智子の耳にひっきりなしに入ってくる。

 このような喧騒は人によっては耐え難しと根を上げる事もあろうが、こうした場所に通い馴れている智子としては特段気にもならない。

 智子は今、芹花と共に先程まで自分達が居たカフェから歩いてすぐの場所にあるゲームセンターを訪れていた。

 

(どこ行った……?)

 

 これから芹花と色んなゲームで遊ぶ為にと軍資金を調達した智子であったが、両替機に背を向けた智子が辺りを見回してみれば肝心の芹花の姿が見当たらない。先程までは己の後ろに居た筈なのにと、彼女の姿を求めて店内をうろつく智子。

 

(お、いたいた)

 

 広い店ではあったがそれ程遠くに行っていなかったのか、智子はすぐしない内に芹花を見つけたものだから、何やら目の前のプライズゲーム筐体をしげしげと眺めている彼女の傍へと歩み寄る。

 

「あ、それやる?」

 

 芹花の横に立った智子がそのように声を掛けてやる。可愛いもの好きな芹花の事であるから、きっと何か気に入った景品でも見つけたのだろうと考えたのだ。

 芹花の居た辺りはプライズゲームが集中しているエリアで、周囲にはそこかしこにその手の筐体が設置されていた。

 芹花が見入っていたのは通りに並列して設置されていたUFOキャッチャーの内の一つで、ガラス越しに見える筐体の中には同じ種類のぬいぐるみが幾つも並べられ、己が釣り上げられるその時を待っている。

 

「いい。持ってるのばかり」

「あ、そうなの……?」

 

 しかし芹花から来た返答は素っ気ないものだった。何か欲しがっているものでもあればここは一つ己の腕前でも見せてやろうと思っていた智子だったが、流石は芹花と言うべきなのかこの店に置いてあるようなファンシーな景品はいずれも確保済みという事のようだ。

 それは果たして芹花が自力で取ったものなのか、はたまた友人か誰かを頼って代わりに取って貰ったものなのか。ともあれ可愛いものマニアなこの女性に掛かれば、巷に溢れるファンシーグッズ達はいずれも彼女の配下に加わる運命なのであった。

 

「ももこが得意なので遊ぼう」

「あー、えーとじゃあ……」

 

 そう促された智子は逡巡すると、芹花を引き連れビデオゲームのあるエリアへと向かっていく。そちらには智子の得意とするゲームが幾つも置いてあるのだ。

 

「あ、じゃあこれやろっか」

「これは何?」

 

 とある筐体の前で足を止めた智子がそれを指しつつそのように言う。それは智子が得意としているゲームの一つで、いわゆる“音ゲー”というものだった。

 対する芹花といえばこの手のゲームは初めてなのか、画面の中で動く愛嬌のあるキャラクター達を興味深げに見やっては智子へと説明を求めた。

 

「えと、音楽に合わせてこことか押してくやつで……」

「?」

 

 智子は身振り手振りでざっくりと説明してやるが、いまいち要領を得ないのか芹花の頭に疑問符が浮かぶ。

 

「ま、ちょっと見ててよ」

「わかった」

 

 一度やってみせた方が早いと、智子はコートのポケットから財布を取り出し小銭入れのスナップを外すと、早速筐体に硬貨を投入していく。

 智子としては本当ならば己のスマホをかざして過去のプレイデータを引き継がせたかったが、そちらは充電が切れてしまったのだから致し方ない。

 

 ともあれ手馴れた手つきでゲーム開始の準備を進めていく智子であったが、その顔にはどこか得意気な様子が浮かんできていた。

 それは自身の得意分野にて芹花に良い所を見せたいという気持ちの表れであり、智子としてはここらでいっちょ己のスーパープレイによって彼女を魅了し、ももこは凄いねと褒めて貰いたいのだった。

 先程カフェにて可愛い動物博士だと芹花に賞賛して貰えた嬉しさが、ここに来て智子の心を貪欲にさせていたのかもしれない。

 

(こいつで行ってみるか……!)

 

 智子が選んだその楽曲は上級者向けと言って差し支えない高難易度のものであったが、このゲームをやり込んでいる智子としては問題なかった。

 むしろあえてこうした難しい楽曲に挑み、それを鮮やかにクリアしてみせる事で芹花というギャラリーを沸かせてみたい。チビで地味で凡庸極まる自分にも、人に胸を張れるだけの得意な事がこうしてあるのだと、智子はヤル気満々なのであった。

 ゲーム開始数秒前、智子は息を吸って画面に集中する。

 

 そこから先、智子の流れるような手捌きが筐体の前で目まぐるしく展開されていく。メロディと共に画面上に流れる無数のリズムのオブジェに一つも遅れる事なく、それらに合わせたタイミングで手元のボタンを叩き続けていく。

 息もつかせぬそうした華麗なアクションを鮮やかに紡いでみれば、今や智子は見事に一つの複雑な楽曲を演奏してみせているのだった。

 目にも止まらぬその早業に、傍らの芹花もどこか興奮した様子で瞬きもそこそこに目を見張っている。

 

(よしパーフェクト! どうよ!)

 

 そうして最後まで目立ったミスもなく無事演奏し終えた智子は、ふすーふすーと肩で息をしながら傍らの芹花を振り返る。

 

「ももこ凄い! 今のはカッコよかった」

「はぁ、はぁ……そ、そう……?」

 

 軽く拍手しながら芹花がそのように智子へ賞賛の言葉を送る。薄い反応が返ってきはしないかと心配してもいた智子ではあったが、どうやら好感触のようだ。望んだ通りまたしても芹花から褒めて貰えたものだから、それが智子を益々得意にさせてしまう。

 

「はぁー……あ、じゃあ芹花さんもやってみる?」

「やる」

 

 お手本を見せてやった智子がそのように提案してみれば、すぐ様芹花がそれに飛びつく。

 ただ見ていただけではこのゲームの本当の難しさは判らない。先程の己の見事な演奏が如何に離れ業であったのかを深く知ってほしい智子は、芹花にも実際にこれを触らせてみようと思ったのだ。

 

「さっきみたいに丸いのが流れてくるから、下んとこの線まで来た瞬間に同じラインのボタンを押せばいいんだよ」

「なるほど」

 

 改めてこのゲームのルールを教えてやる智子に、芹花がふむふむと素直な生徒になって頷く。そうして次なる演奏曲を選ぶ為に智子がボタンをとすとすと連打していく。

 

「さっきのと同じのがいい」

「えっ?」

 

 ひとまず初心者向けの曲でもやらせてみようかと考えていた智子であったが、そこへ芹花が待ったを掛ける。芹花としては先程智子が演奏していたのと同じものを自分もやってみたいと、そのように言うのだ。

 

「あ、でも難しいよ?」

「いい。やる」

 

 先程の曲はとても初心者がやるような曲ではなかったから思わず智子がそのように忠告するが、芹花はやりたいと言って聞かない様子であった。

 

(まあいいけど……)

 

 きっとまともに演奏出来る筈もないと思う智子であったが、それならそれでより一層先程の自分の大変さを判って貰えるだろうと、ひとまずその曲を選んでみせる。

 そうして演奏開始前のシークエンスに合わせて芹花が筐体の前にすっと立ち、その両手をボタンの前に置く。

 ここでよろしくない結果に終わってしまえばその時点でゲームオーバーであったから、智子としてはキリの良い所で助っ人に入ってゲームクリアに必要なスコアを稼いでやろうと考えていた。

 

『アーユー、レディ?』

 

 演奏直前の合図が鳴り、すぐしない内に大量のオブジェが画面の上から降り注いでくる。

 智子が先程見せた手本と事前に受けたレクチャーに倣い、芹花がそれらに対応すべく筐体に据えられた九つのボタンを小気味良く叩いていくが、その結果は玄人の智子から見れば実に初心者然としていた。

 度々オブジェを逃す事もあれば、首尾良く捉えたオブジェもピッタリのタイミングとはいかず大なり小なりズレていたものだから、如何にも素人臭い限りなのであった。

 

(どれ、そろそろ私が……)

 

 そうして失点の限界ラインが近付いた頃合を見計らい、智子が助っ人に入ってやろうかと思い始めた矢先。

 今し方まで拙いリズムを刻んでいた芹花が何を思ったのか急に手を止めてしまったものだから、まさかもう諦めたのかと智子は思ってしまう。

 

「だいたいわかった」

 

 ふいに口を開いた芹花がそのように言う。そうしてすぅっと息を吸い込み両の足を肩幅まで開いたかと思うと、彼女の様子が一変した。

 先程までは初めて触る玩具に興味津々な様子だったその瞳が打って変わって鋭いものとなり、画面を睨み付けるように前のめりの姿勢となった。

 どうも芹花は諦めてなどいなかったらしく、再びその手が台のボタンを叩き始める。

 

(おお……!?)

 

 そうした芹花の変わり様に一瞬呆気に取られた智子であったが、再開された彼女の演奏ぶりに度肝を抜かれてしまった。先程までの芹花のプレイとは何もかもが一変しており、今度は流れてくるオブジェに合わせてミスする事なく正確にリズムを刻み出したのだ。

 

 そのボタン捌き、正確無比。台の上のボタンを鮮やかに連打し続ける芹花のその手の動きは、ただやたらめったら闇雲に叩いているのでは決してない。彼女は明らかに狙いすましたかのように一つ一つのリズムに対し完璧に対応していた。

 それが証拠に刻まれたリズムの評価を示す表示は『クール』。『グッド』や『グレート』など、幾つかあるセーフ判定の評価レベルの内、最高のタイミングでボタンが叩かれている事を示すものであった。

 

(フィーバー!? マジか!)

 

 画面の上から大量に降ってくるリズムのオブジェ全てを余す事なくベストタイミングで捉え続けていった結果、ゲーム内の観客の熱狂ぶりを示すゲージがやがてクリアに必要な上限を突破してしまったのだが、のみならず更にゲージは上がり続け、遂にはそれが限界値に達してしまった。

 そうして尚も正確極まるリズムを刻み続けた結果、判定評価を示す文字が今度は七色に変化する。これこそは特定の条件を満たすベストプレイをキープ出来た時にだけ発生する『フィーバー状態』である。

 自身であっても中々に難しいそれを芹花が難なくやってのけたものだから、智子は演奏が終わるまで彼女のそうした姿を呆然と見守るしかなかった。

 

「なかなか面白い」

「あ、そ、そりゃよかった……!」

 

 無事その楽曲をクリアした芹花が、ふぅと一息だけついて智子を振り返る。

 その顔はしれっとしたもので先程の智子と違って少しも息など切れてはいなかったものだから、智子は改めてそんな芹花がとんでもないものに見えてくる。

 

「えっ、ていうかこれ結構やった事ある?」

「一度も無いが?」

「はぁ、そうなんだ……」

 

 念の為智子が尋ねてみれば、芹花はこれが初挑戦というのだから畏れ入る。これでは先程己の腕前を見せつけてちょっといい気になっていた自称玄人の自分が何やら小さく思えてくる。

 大して練習もしていないどころか全くの初心者であった芹花にこうも見事な演奏を見せられてしまっては、智子のゲーマーとしてのプライドが萎れてしまいそうになるのだ。

 

 普段努力しない者がここぞという時に群を抜いた成績を難なく叩き出してみせるという、そのような離れ業には智子としても憧れがあったし、実際にそうした事をやってのける者がいればお目に掛かりたいとも思ってはいた。

 だがいざ実際にそうした人間が目の前に現れてその異能ぶりを発揮してみせた時、凡人に過ぎない己がそれをどう受け取るのかが、智子は今やよく判ってしまった。

 

 相手の驚異的な腕前に感嘆を覚える前に、まず自分への自信を無くしてしまうのだ。

 ましてや一応は己が得意としている分野においてそのような出来事に遭遇したのであるから、智子のその落胆もひとしおであった。

 努力を重ねてきた人間を己の才能だけで軽々追い越し優越感に浸りたいなどと不埒な事を考えてしまう事もある智子だったが、いざ自分がそのように追い越されてしまう側に回ってみれば、これが何とも苦々しい事この上ない。

 

 本当なら素人の芹花にこのゲームをプレイさせてその難しさを判って貰い、それで益々自分の事を尊敬して貰う筈だったのに。とんだ誤算もあったものだと、そのように思ってしまう智子だった。

 

「あっ、じゃあ他の曲とかもやってみたら……」

 

 こうなるともう先程までの得意気な気持ちはどこへやら。ちょっぴりすねたような気持ちにもなってしまった智子はどこか投げやりな様子で芹花にゲーム続行の権利を譲ろうとする。

 

「一緒にやろう」

「へっ?」

 

 しかし唐突に芹花がそのように誘ってきたものだから、予想外の事に智子は気の抜けた返事をしてしまう。

 

「あの子達もそうしてる」

「あ、う、うん……」

 

 芹花が少し離れた先を指差せば、同じゲームが複数台並んでいる先にある筐体で演奏している中学生達の姿が見て取れた。彼女らは一つの台を共有してボタンを分け合い、それぞれ役割分担しながら賑やかな様子で楽曲を演奏していたのだ。

 それはいわゆる協力プレイというもので、このゲームを製作したメーカーは元々こうした複数人で遊ぶ事を想定して作ったとされているらしい。

 智子としても中学の頃は親友とそうした事をやったりもしていたから、これが初体験という訳でもなかった。

 

「もう一回さっきのでやりたい」

「また?」

 

 何か心に触れるものがあったのか、三度同じ曲をリクエストする芹花。

 

「あっ、そんじゃボタン配分は……」

 

 台の上のボタンは全部で九つ。二人でそれらを分担するのなら、その割合を決めねばならぬ。ボタンの数は奇数であるから平等に等分するという訳にもいかず、さてどうしたものかと智子は考える。

 

「私が五つ押すから、芹花さんのは四つでいい?」

「それでいい」

 

 自分の方が一つ多くなるように配分を決める智子。これは長年このゲームで研鑽を積んできた彼女なりの譲れない一線であった。

 

(5ボタンとかメチャクチャ久しぶりだな……)

 

 智子がまだほんの初心者だった頃はよくそうしたボタンの少ないモードにて楽しんでいたものだが、やがて上級者入りを目指すようになってからはすっかり九つのボタン全てを使う事が当たり前になってしまっていた。

 

「じゃあ芹花さんはそっちで、私はこっち」

「ちょっと待って」

 

 そうして左右に別れて協力プレイに挑もうとする智子であったが、そこへ何を思ったのか芹花が待ったを掛ける。

 

「ふぇっ!?」

 

 芹花が智子のその両肩を掴みグイッと台の中央まで引っ張ると、そのまま智子の背後から覆い被さるような姿勢を取った。

 

「これでいこう」

「あっ、あっ、で、でもっ……」

 

 智子に中央の五つのボタンを任せ、芹花自身は両サイドの四つを担当するというまさかまさかのプレイスタイルである。これではまるで親が我が子と共に遊んでいるようなものであるから、なんとも恥ずかしいスタイルに智子の顔に赤みが差していく。

 

「こっちのがいい」

「う、うう~ん……」

 

 芹花に背中から密着されて何やら変な気分にもなってしまう智子であったから、そこから逃れたい気持ちが体をもじもじさせつつも、同時にこのままでいたくもあるような、そうした矛盾が湧き上がってしまう。

 

「じゃあ始める」

「あっ!」

 

 智子のやり方を見ていてすっかり操作方法を覚えたのか、勝手にボタンを押してゲームを進めてしまう芹花。

 心の準備が出来ていない智子はそれにあたふたしてしまうが、間もなく演奏開始前のシークエンスへと入ったものだから、やむなくボタンを叩く構えを取るのだった。

 

 突然のこうした事態にドギマギしてしまう智子ではあったが、流石そこは手慣れたもの。動揺があって尚、智子のプレイに揺らぎはなかった。

 むしろ普段よりも追わねばならぬオブジェが大きく減った分だけ一つ一つのボタンを叩くタイミングも正確性を増しており、ゲーム開始から今の所、智子の叩き出す評価はベストタイミングを維持していた。

 両サイドのボタンを担当する芹花の方はといえば、相も変わらず機械のような正確さでボタンを叩き、クール評価を延々と連発させている。

 

 そうして二人の正確無比なセッションが続いていく内、観客の熱狂を示すゲージがグングン伸びていく。クール評価の獲得数を示すカウンターだけが止まる事なく数値を刻んでいくものだから、今や二人のそうした演奏は全国規模の上位ランカーのそれと比して遜色のないものになっていた。

 

(すげえ! ここまでいけたの初めてかも!)

 

 そうした思いの外の手応えが、智子を益々ゲームに集中させる。間も無くリズムの評価はフィーバー状態へと移行し、画面には七色の評価アイコンが絶え間なく表示される事となる。

 これがゆうとのセッションであればこうはいかない。些かのんびりした所のある智子の親友は初心者向けの楽曲であっても少ないそのオブジェを追うのに精一杯であり、とてもではないが上級者といって差し支えない智子に随伴する事は叶わないのだ。

 自分と同じかそれ以上の技量を持った相手とこうして難曲に挑み合奏するなど初めての事であったから、智子は今、確かに興奮していた。

 このゲームによもやこのような楽しさがあったとは、つい今し方まで知りもしなかった智子なのであった。

 

 そうして曲も終盤に差し掛かり、いよいよもって数を増した大量のオブジェを前に華麗なフィニッシュを決める為、智子はラストスパートを掛ける。

 が、ここにきて智子の鼻に何やら急にむずむずとした感覚がこみ上げてきてしまう。

 

(あっヤバ……!)

 

 くしゃみが出そうなその感覚に智子は焦る。瞬きの一つも許されないラスト一歩手前の怒涛のオブジェの嵐を前に、智子は必死でくしゃみをこらえて残りあと僅かとなったオブジェを叩き落としていくが……。

 

「ういっくしゅ!」

 

 あと一歩という所でとうとう我慢の限界が来たようで、智子は盛大にくしゃみをしてしまった。そうして間髪入れず楽曲が鳴り止んだ。

 

(くそっ! もうちょいだったのに……!)

 

 くしゃみをする直前、明らかに自分の担当分のオブジェが幾つか流れてきていたのを智子は把握していたものだから、それらをみすみす逃してしまった事は確実であった。

 あれさえしのげていれば今までにない新記録を達成出来たのにと、それが智子には悔やまれてならない。

 

(んっ? あれ? なんで?)

 

 そうしてはぁはぁと荒い呼吸をしつつ画面を見てみれば、そこに『パーフェクト』とポップな字体で大きく表示されていたものだから、智子は思わず目を疑ってしまう。それはプレイ中に一度もミスやギリギリセーフの凡庸な判定を出さなかった事を意味するものであり、今し方自分が逃してしまった分の失点がカウントされているのであればそのような事はあり得ない筈であった。

 その代わりベストタイミングの獲得数を示すスコアはMAXの数値を示しており、それはつまり先程逃してしまった筈のオブジェにもバッチリ対応出来ていた事を意味していた。

 

「押しといた」

「えっ……!?」

 

 困惑していた智子の心情を察したように、背後の芹花がそのように説明してやる。どうやら芹花は智子がくしゃみをした瞬間に、その担当分のボタンを代わりに押してやったという事らしい。

 

「仲間のミスをカバーする。これが協力プレイの醍醐味」

「は、はは……あ、ありがと……はぁ」

 

 しれっとそのような事を言う芹花だが、あの一瞬で瞬時にそのような行動に移れる芹花に智子は(ハンパねーな……)と常人離れしたものを感じてしまう。どうもこの人とは生きる次元そのものが違うのかもしれないと、そのような畏怖にも似た考えすら浮かんできてしまった。

 

『ユーアーパーフェクト!』

 

 スコアの集計が終わった際にゲーム画面からそのような賞賛の声が上がる。このボイスは一つの楽曲に対し満点かそれに近い高得点を達成出来た時にのみ発せられるもので、智子も満点ではないものの初めの方のソロプレイ時に似たような成績を叩き出してはいた。

 

(クールパーフェクト、初めていけた……!)

 

 が、今回達成したのはそうした不完全なパーフェクトではなく、本当にスコアの限界値いっぱいにまで点数を獲得した文句なしの満点状態だったのである。

 これこそはこのゲームの愛好者の間で『クールパーフェクト』と呼ばれているもので、比較的初心者向けの楽曲ですら難しいそれを今演奏してみせていたような難易度の高い曲で実現するのは至難の業と言えた。

 自分でも驚いてしまうようなその快挙に改めて震えを感じてしまう智子。今し方の記録を残せていたらと、毎度このゲームで遊ぶ際のユーザー認証に使っていたスマホの充電が切れてしまった事が残念でならない。

 

「もっとやろう。これ面白い」

「あっ、そ、そうだね……!」

 

 興奮冷めやらぬ内に芹花がそのようにねだってくる。彼女としても先程の智子とのセッションが楽しかったのか、随分と気乗りしている様子だ。

 

「今度は違う曲がいい」

「えっとそれじゃあ……」

 

 そうして智子は芹花と共に次々と他の曲を演奏していく。いずれも最初に芹花とセッションした時のものに並ぶスコアこそ出せなかったが、そこはもう気にするような所でもない。

 智子としては芹花とこうして協力しながら高難易度の曲へと挑戦していく事自体が新鮮な体験であったので、すっかり意識はそちらの方へと向けられていった。

 

 ◆

 

「はぁ──もういいや……もうおしまいで……」

 

 担当するボタンが少ないといえど流石にこう何曲もぶっ続けでやっていては疲れてしまうというもの。気付かぬ内に随分と夢中になっていた智子はボタンを叩き過ぎた己の掌がいい加減痛くなってきたものだから、キリの良い所でゲームの終了を宣言する。

 

「じゃあ次は何する?」

 

 ちっとも疲れてなどいなさそうな芹花が、新たなる遊興を求めてそのように言う。店内にはまだまだ様々な種類のゲームがあったから、今度はどんな面白いものをやらせて貰えるのだろうかと、芹花の顔にそのような期待感を込めた表情が浮かんでいた。

 

「うーん……」

 

 少々疲れてしまった智子ではあったが、彼女としてもまだまだ芹花と遊び足りなかった。あれもこれもやってみたいと考えを巡らせる智子は、またしても己の得意分野に彼女を誘おうと思い立つ。

 

「じゃああれやろうよ、あれ」

 

 智子が少し離れた先にある筐体を指差しそのように言う。実銃を模したコントローラーを用いて画面上の標的を狙い撃っていくという形式であるそのゲームは、いわゆるガンシューティングと呼ばれるものであった。

 筐体に据えられた大きな液晶画面には無数のグロテスクな怪物達が画面へ向かって次々と襲い掛かってくるデモ映像が流れている。

 

「ああいうのはちょっと……」

「えっなんで?」

 

 しかしそれを見た芹花が何やら浮かない顔で難色を示したものだから、智子はその理由を尋ねてしまう。

 

「怖い」

「えー……」

 

 芹花から返ってきた非常にストレートなその理由に、智子は言葉を詰まらせてしまう。

 先程の芹花との協力プレイに味を占めた智子としては、続いてあのガンシューティングでも彼女との息を合わせたコンビネーショントリックをキメてみたいと思っていたのだが、出鼻を挫かれてしまったような気持ちになってしまう。

 

「あ、大丈夫だよ、そんな怖くないから……!」

 

 時折この手のゲームでカップルが遊んでいるのを目にした事のある智子は、大抵の場合女性の方がキャーキャー悲鳴を上げながらも片割れの男性にリードして貰ったりして結局は楽しそうにしていた事を思い出していた。

 であるのなら、きっと芹花だって適度な恐怖を楽しさに変えてくれるに違いないと、一緒にプレイしてほしい智子は尚も食い下がる。

 

「ちょっとやってみようよ、凄く面白いよ?」

「ももこがそう言うのなら……」

 

 そうした智子の姿がまるでねだってきているように見えてしまったからなのか、気の乗らない様子ながらも芹花は智子からの求めに応じてみせた。

 そうと決まれば話は早く、智子は芹花を連れて件の筐体の前まで赴くと、二つある内の片方の銃を握らせて一通りのルールやコツを説明してやる。

 

 そうしている間も手前の画面に映るデモ映像に怯えているような素振りを見せる芹花の顔色は、明るい場所で確認でもしてみればすっかり青ざめていたのであるが、些か薄暗いそのエリアでは彼女のそうした変調に智子が気付いてやる事は出来なかった。

 もっと芹花の様子に注意を向けていれば智子としても彼女がこのゲームをやりたくない気持ちでいっぱいな事を察してやれたのかもしれないが、今の智子は妙にテンションが高くなって芹花と遊ぶ事にばかり意識が向いてしまっていたものだからそれも叶わない。

 

 そうした二人の温度差が埋まらないままゲームは始まってしまう。おどろおどろしいBGMが流れる中、開始早々に無数の醜悪な怪物達が雄叫びを上げながら画面手前へと迫ってくる。

 すかさず智子が銃口を向けてそうした標的を仕留めていけば、彼らは絶叫しつつ血を噴き出させながら倒れ伏していく。

 

「芹花さん、ほら撃って撃って!」

「……」

 

 銃を構えたまま一向に攻撃に移らないでいた芹花は、ヒィともキャアとも言わずただ黙って画面を凝視していたものだから、そのように怖じ気づいていてはゲームにならないと智子が横から促す。

 言われた芹花がようやく引き金をカチャカチャと引いてみれば、見当違いな場所に銃弾が数発打ち込まれた。

 

「ダメだよ、敵を狙わないと!」

「……」

 

 智子のそうしたアドバイスが聞こえているのかいないのか、一言も喋らない芹花はその後もまるで定まっていないふらふらとした照準で弾を無駄に消費し続けていた。

 

(こりゃ選択ミスったかな……)

 

 常人離れした反射神経を持つ芹花の事であるから、智子としては彼女が際立った反応速度で敵を次々に仕留めていく心強い働きを期待していたのだが、蓋を開けてみれば散々な結果であった。

 まさかここまで芹花が下手だとは思わなかった智子であったから、何でもそつなくこなしてしまえそうに思っていた彼女のその姿に意外なものを感じてしまう。

 ともあれ自分一人だけでもゲームを進めるのに支障はないものだから、芹花にはもうこのまま戦闘能力の無い一般市民になって貰おうと考え自身の銃を撃ち続ける。

 

「ももこ……」

「えっなに?」

 

 それまで口を閉ざしていた芹花が急に声を掛けてきたものだから、智子は画面から意識を逸らさないようにしつつも傍らの彼女にちらと視線を向ける。

 

「おしっこが漏れそう」

「はっ!?」

 

 聞き捨てならない台詞を芹花が口にしたものだから、智子はゲームそっちのけで傍らの芹花を振り返る。

 よくよく見れば芹花は今や銃を構えた姿勢のまま全身を小刻みに震わせており、ただならぬ様子である事を伺わせた。

 

「出していい?」

「ちょっ、ダ、ダメ! といれっ、トイレでっ!」

 

 今この場で女子力を解放するぞと、とんでもない宣言をした芹花であったから、最早ゲームどころではない智子は銃を手放し、彼女の腕を引いてトイレのある場所まで急ぐ。

 

「もういい」

「えっ?」

 

 しかしすぐしない内に芹花が足を止めてそのように言うものだから、まさか手遅れだったのかと彼女のふとももに思わず視線をやってしまう智子。

 

「もう尿意は引っ込んだ」

「あ、そうなの……?」

 

 どうも無事らしい芹花のその様子に一安心しつつも、智子はなんとも人騒がせなものだと呆れたような気持ちになる。うんこに続いておしっこと、シモの事で振り回されるのはこれが二度目であったから、内心では別にその手の話題に抵抗のない智子としても流石に辟易としてしまった。

 

「怖いのを見ると漏らしそうになる」

「マジで!?」

 

 どうも先程の失禁未遂事件は単に芹花の緩さが原因であったという訳ではないようで、聞けばあのゲームにいたく戦慄させられた芹花が恐怖のあまり漏らしてしまいそうになったという事のようだった。

 智子としてはよもやそこまで芹花が怖がっているとは思わなかったものだから、ちょっと可哀想な事をしてしまったかもしれないと幾許かの罪悪感を覚えてしまう。

 そしてまた、そんな芹花の内心に気付かず一人はしゃいでいた自分が今更ながらに恥ずかしいような気にもなってしまった。

 

 それにしても怖いという理由だけで粗相をやらかしそうになってしまうとは。そんな所まで律儀に子供じみている芹花であったから、隙だらけに見えるようでいて侮り難さを感じさせたり、かと思えばやはりてんで幼稚だったりと、もう智子は芹花という人間が判らなくなってしまうのだった。

 

「えと……せ、芹花さんっていくつ?」

「二十歳だが」

「あ、そうなんだ……」

 

 思わず智子が芹花の年齢を尋ねてみれば、やはり見た目相応といえる年齢が返ってきた。もうとっくに未成年と呼べる年を超えている芹花は立派な大人と言えたが、世の通念でいう所の大人らしさに全くもって当てはまらない彼女の在り方は、智子をただただ困惑させるばかりだ。

 

「ももこは?」

「えっ私?」

「何歳?」

「あっ、じゅ、十六だけど……」

 

 年齢を尋ね返してきた芹花に答えてやる智子であったが、それを受けた芹花は何か得心のいった様子でふんふんと軽く頷く。

 

「ももこはそんなに小さいのに高校生だなんて偉い」

「あ、そ、そりゃども……」

 

 突然訳の判らぬ事で褒められたものだから、もう智子としては適当な相槌を打つしかない。

 ひょっとすると図体の大きな芹花からすると、自分のような身長の低い者は益々小さく見えて小中学生並に感じられでもしたのだろうか。

 自分が芹花に対して見た目にそぐわぬものを感じているように、芹花もまたこちらに対し同様の思いでいるのかもしれないと、そのような考えが浮かんできたりもする。

 

「あ……ちょっと休憩しよっか?」

「そうしよう」

 

 軽い沈黙が二人の間に流れた後、智子がそのように言い出す。このままこの場に突っ立っていてもしょうがないので、ひとまず腰を落ち着ける場所を求めてゲームセンター内の休憩所へと向かう彼女らであった。

 

 ◆

 

「ふぃ────……」

 

 合皮張りの腰掛けにどっかと座り込んだ智子が大きく長い息を吐く。今は何時なのだろうと受付窓口のカウンターにある時計を見やれば時刻は既に五時を過ぎていた。本日芹花と出会ってから今に至るまであっという間だったようにも思えるし、或いは随分と長かったようにも思える。

 常日頃無為に過ごしていた代わり映えのしない日常に比べれば、芹花と過ごしているこの一時の密度は非常に濃いもので、普段であれば考えられないような人生の一幕であった。

 

「疲れた?」

「えっ?」

 

 ぼんやりとしていた智子へ、傍らに座っていた芹花がそのように声を掛ける。どうも先程の智子の長い溜息の中にくたびれた様子を感じ取っていたらしい。

 

「あー、うん、ちょっとだけ……」

「そう」

 

 芹花の問い掛けに対してそのように己の本音を明かす智子。

 芹花にしてみればただお茶をしてゲームで遊んだ程度の時間だったかもしれないが、智子にしてみれば楽しいながらも気疲れを感じずにはいられない目まぐるしい時間であったのだ。

 

「じゃあ最後にあれだけやって帰ろう」

「あ……」

 

 芹花が離れた先にある大きな筐体を指差す。過剰気味なメイクが目立つ女性の巨大な顔写真がプリントされたその筐体は、智子としても見覚えのあるものであった。

 

(プリクラ……!?)

 

 それは智子もかつて一度だけ挑戦した事のある写真撮影台で、もっぱら友人や恋人同士で筐体の中に入って自分達の姿を撮って楽しむという、お一人様お断りな遊びを提供するものであった。

 

「あー、あーいうのはちょっといいかな……」

 

 しかし智子は先程の芹花の真似でもするかのように、そうした彼女からの誘いに難色を示す。

 というのも、智子はプリクラというものに強い苦手意識を持っていたのだ。

 智子としても元々そうだった訳ではなかった。とりわけ中高生の女子に人気なその手のものに、仮にも女子高生のはしくれである智子としても興味はあったのだ。

 

 だがそうしたささやかな興味を完膚なきにまで叩き潰してしまうある出来事があった。

 智子はかつて人目を忍び自分一人だけでプリクラに挑戦した事があったのだが、これが色々あった末に散々な結果に終わってしまったのだ。

 普段写真を撮られ慣れていない智子であったから、とてもではないが自分が可愛く見えるような写り方やポーズを実践する事など出来なかった。ましてやそうした行為をする事に妙な抵抗のある智子であったから、ただ突っ立ったままの姿を撮られたり、或いは珍妙な顔つきになった状態などを撮られてしまったのである。

 

 そんな調子であったから、小遣いを奮発してまで撮影した己の姿の数々はそのいずれもが言いようのないみっともなさに満ち溢れており、目にするのも嫌になってしまう程であったのだ。

 智子としてはプリクラの誇る盛りに盛った補正機能によって普段の冴えない自分とは別人のように可愛く撮って貰えると胸をときめかせていたのに、とんだ期待外れなのであった。

 

「何故?」

「え? あ、うーん……」

 

 そのように聞かれても、嫌なものは嫌なのである。わざわざ金を払ってまで己の見苦しい姿を撮影されるなど、智子としては真っ平御免なのだ。

 ましてや傍らの芹花にあのようなみっともない自分の姿など決して見られたくないと、智子はそのように思ってしまう。

 自分の事を一応は可愛いと思ってくれているらしいこの女性にもし幻滅されでもしたら、智子はもう立ち直れないような気がしてしまい、それが怖いのだ。

 

「えと、私って写真写り悪いから、変な感じになっちゃうし……」

 

 自覚している己の欠点を、プライドだけは高い筈の智子が何を思ったのかつい芹花に打ち明けてしまう。そのような弱味など普段であれば例え気心の知れた親友が相手であっても中々見せたりはしない智子ではあるが、意識しているのかいないのか、そうした己の失言を取り繕う様子は見られない。

 

「大丈夫。ももこならきっと可愛く写る」

「そ、そうでもないと思うけど……」

 

 芹花がそのように励ましてみせるが、尚も智子はそれに抵抗してもじもじとその言葉を否定する。しかしもう一押しと見たのか、芹花に諦める気配はなく今度は俯き加減な智子の顔を覗き込むようにして口説き文句を重ねていく。

 

「どうしてそんな事言う? ももこは凄く可愛いのに」

「あうっ……!」

 

 どこか熱を帯びたような声色で発せられた芹花のそうした褒め言葉を耳にした途端、智子の心臓が跳ね上がってしまう。

 凄く可愛い。そのように手放しで最上級の褒め方をして貰えた衝撃が、その喜びが、智子の体の中に甘い痺れを生む。

 

 仮にこれがただの知り合いから同じような事を言われたとしても、ここまで動揺してしまう事はないだろう。芹花だからこそなのである。このように褒めそやしてくれた相手が芹花だからこそ、今や智子の心はすっかり打ち震えてしまっていたのだ。

 一体全体どうしてこの人は自分の事をそこまで可愛いと思ってくれるのだろうと、智子にはそれが不思議でならない。

 

「でっ、でも私っ……そんな可愛くないかもだしっ……!」

 

 言ってしまった。心の中をくすぐられてしまった智子は、とうとう今まで誰にも打ち明けた事のない、自分自身ですら認めたがらずにいた己の中にずしりと横たわるそうした密かな不安を口にしてしまった。

 その様子はどこか芹花に救いを求めているかのようでもある。

 

「……」

 

 それを聞いた芹花がすっと席を立って智子の前へと静かに立つ。それに気付いた智子が顔を上げてみれば、どこか真剣な様子でじっと見つめてくる芹花と目が合ってしまう。

 これまで心の壁で覆い隠していた筈の、そして今や剥き出しになってしまった自分の中の無防備なその本心に芹花が直接向き合ってくれているような気がしてしまい、智子は彼女から目が逸らせない。

 

「ももこが可愛い事は、この私が保証する」

 

 まるで智子の中に潜むコンプレックスに向けて高らかに宣言するかのように、芹花が断固曲げぬその主張を改めて繰り返してみせる。

 一貫して平坦な口調であるにもかかわらず、芹花の力強く愛に満ちたその言葉はどこまでも智子の中に響き、そして染み渡っていった。

 

「自信を持って、ももこ。私を信じればいい」

 

 そうして芹花がそっと手を差し伸べてみれば、それを受けた智子はもう言い逃れじみた言葉など出せる筈もなかった。

 誰にも顧みられる事など無いのだと勝手に決めつけすっかりいじけた気持ちになっていた自分の存在を、智子は今この瞬間にようやく人から見つけて貰えたような気持ちになってしまったのだ。

 途端、智子のその目尻にじわりと涙が滲む。

 

「行こう」

「うん…………」

 

 芹花が改めて穏やかな声で智子を誘う。

 智子がそれまで力いっぱい握りしめていたコートの裾を手放し、汗の滲む小さな手をおそるおそる伸ばしてみれば、芹花の大きく優美な白い手がそれを優しく掴み取る。

 ただそれだけの事で智子は自分の体がまるでふわりと宙に浮いたような錯覚を覚えてしまい、芹花に引き寄せられるまま軽やかに立ち上がったのだった。

 

 ◆

 

 それから先の事を、智子はあまりよく覚えていない。印象に残っているものといえば現実感の薄い夢心地の中で何かとてつもない素敵な体験があったという感覚だけであり、その後芹花とどのように別れたのか、どうやって家まで帰ってきたのか、それすらも記憶が曖昧なのであった。

 

 果たして彼女と過ごしたあの目まぐるしくも刺激的な時間は現実であったのだろうか。ひょっとするとあれは孤独に苛まれる己が見た白日夢だったのではあるまいか。

 あのように何もかも現実離れした不思議な女性が実際に存在するとは到底思えない智子であったから、時折そうした不安に陥る事などもあった。

 

 しかし己の手元に残された一つのプリクラシールセットが智子の中の心配を払拭してくれる。そこには確かに自分と共にもう一人、あの芹花の姿が写っていたのだから。

 とはいえシールの中の己の姿があまりにも普段の自分とかけ離れた様子であったから、やはり智子としてはどうにも実感が湧かずにいたりもしたのだが。

 

 シールの中の智子はというと、それはそれは様変わりしていたものだ。

 根暗者の印象を付与していたあの深い目のクマは綺麗さっぱり消えており、頬はほんのりと色付いている。じめじめと陰湿な雰囲気を放っていた筈の伏せ目がちだったその覇気のない瞼も別人のようにパッチリと見開かれており、瞳の中には瑞々しい輝きすら宿っていた。

 

 こうした事はおそらくプリクラの補正機能が上手く働いた結果だと考えられたが、それにしたって随分と良い表情をしているなと智子は思う。

 幾分か照れた様子を浮かべながらも、まるで自分が可愛い事を知っていてそんな己をカメラの前で存分に披露してみせているかのような、そうした自信に満ちた表情の自分がそこに居たのである。

 

 一体どういう風の吹き回しか、本来であれば気恥ずかしさからとても出来そうにない可愛いポーズなども大胆にキメる事が出来ており、その様子はもうノリノリと言って差し支えなかった。

 そのようにしてシールに写り込む己の姿の数々を、智子は我が事ながら可愛いと思わずにはいられない。これはもうどこに出しても恥ずかしくない美少女であると、そのようなときめきを感じてしまうのだった。

 

 一体何が自分をこうも変身させたのかといえば、おそらく理由は一つしかないと智子は考える。シールの中で己の傍らに写っている芹花の存在こそが自分を変えてくれたのだと、そのように思えてならなかったのだ。

 あれやこれやと理由を付けてプリクラ撮影を渋っていた己へ向けて、あの時の芹花が言った言葉とその差し出された手の温もりが、少しも色褪せる事なく智子の心に残り続けていた。

 

 春休みが明けて二年生へと進級した後も、智子は芹花とのあの短い交流の一時を思い返す事が度々あった。

 一年生の最後の最後に、まさかあのような思い出を作る事が出来るとは。

 もう何もかもが失敗だと思っていた己の女子高生生活もまんざら捨てたものでもなかったのだと、智子の中にそのような気持ちが芽生えていた。

 そしてまた、自分にそう思わせてくれた芹花の事が智子は実のところ恋しくて堪らないでいた。

 ひょっとしたらまたその内ふらっと自分の前に現れて、あのバイクに乗せていってくれるのではないか。

 そのように思って下校中にあの通りでふと辺りを見回したりしてしまう事もある智子だったが、結局その後、芹花が再び姿を現す事はなかった。

 

 渡されていた電話番号へと余程掛けてみようかと思った事もあるのだが、どうしても智子はそれに踏み切れないでいた。

 これがあの出会った初日の夜にでも掛けていれば話は違ったのであろうが、なんとなく自分から電話するのを遠慮している内に気が付けば随分と間が空いてしまっていたものだから、いきなり電話を掛けて変に思われたりはしないだろうかと考えてしまうのだ。

 そしてまた、万が一にも芹花から冷たくあしらわれてしまったらと、そのような不安が頭をよぎってもいた。

 

 そうした手のひらを返すような態度をあの純朴な女性が取るとは考えにくい事ではあったが、そもそも智子は彼女の事を殆ど何も知らない訳であったから、芹花が心変わりを起こすような人間ではないという確証はどこにもなかった。

 だからこそ智子はこのまま何もアプローチせず、結果として芹花が自分の事を忘れ去ってしまったとしても構わないのだった。

 

 下手に自分から未練がましい動きをして、結果的に思い出を台無しにしてしまいかねないような事態に陥るリスクがあるのなら、智子としてはこのまま何もしないでいたかった。

 そうすればきっと芹花と過ごしたあの一時は美しい思い出としてずっと自分の中に残しておけるだろうと、智子はそのように考えたのだ。

 

(鼻血、うんこ、おしっこ、そして……)

 

 芹花との出会いの中で感じた彼女への数ある印象を智子が思い返す時、まず最初に浮かんでくるのは決まって前述したようなその愉快な奇行の数々であった。そしてもう一つ、彼女の在り方を決定的に印象付ける際立った特徴があった。

 

(可愛いものマニア)

 

 それが、智子が知り得た芹花という人間の全てであった。




つづく


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【クロス】わたモテvsちょく! 可愛いものマニア現る(下)

「帰ろっか?」

「あっうん……」

 

 春の学年末テスト最終日。普段よりも長めのホームルームを終えた二年四組の教室にて下校の準備をしていた智子に声を掛ける者が居た。

 それは智子のクラスメイトである田村(たむら)ゆりという女子生徒で、防寒着に身を包みすっかり帰り支度を終えた彼女は智子の事を誘いに来たらしい。

 そして彼女の傍らにはもう一人、真子(まこ)という名のこちらも同じくクラスメイトの姿があった。

 

 呼びかけられた智子が己のコートを羽織って通学鞄を背負えば、誰が合図するでもなく三人はひとかたまりの集団となって教室の出入り口へと向かっていく。

 近頃の智子は彼女らと共に下校する事が常となっており、かつてのように一人だけで帰る日の方が珍しくなっていた。

 

「黒木さんはテストどうだった?」

 

 今やすっかり顔なじみとなった二人のクラスメイトと共に下校時の騒がしい廊下を歩いていた智子であったが、それまで真子と他愛ない会話をしていたゆりがそのような話題を智子に振ってくる。

 

「あーうん、まあぼちぼちかな」

 

 なんとも無難で面白味のない返答をする智子であったが、その顔にはここ数日の緊張からようやく解放された少々晴れやかな様子が浮かんでいる。連日続いた二年次最後のテストがようやく一段落つき明日から三連休に入るという事で、智子はそれが嬉しいのだ。

 

「まあむしろ、私は吉田(よしだ)さんの方が心配かな」

「えっ?」

 

 なにやら意地の悪そうな笑みを浮かべた智子が急にそのような事を言い出す。吉田というのは智子と同じクラスに居る女子生徒の一人で、時折智子やゆりとつるむ事のある相手でもあった。

 

「だってほら、吉田さんってなんかテストとか白紙で出してそうなイメージあるから」

「あ、ど、どうだろ……」

 

 件のクラスメイトの学力が如何程のものなのか全く知らない智子ではあったが、にもかかわらずさも当然のようにそのような事をのたまう。

 それを受けたゆりは困惑気味に曖昧な返答をするが、きっぱり否定しない所を見るに彼女としてもそうした可能性が少しはあるかもしれないと感じてはいるようだ。

 

「吉田さんってタバコばっか吸って全然勉強していなそうだし……」

 

 吉田嬢が喫煙者であるというのは完全な偏見であり、そのような現場を目撃した事など一度もない智子ではあったが、いわゆるヤンキーと言って差し支えない尖った風采の彼女に智子は遠慮なくそうしたレッテル貼りをしてみせる。

 

「あの人、もしかしたら留年とかするんじゃない?」

「ちょ、黒木さん!」

 

 妙に楽しげな様子でクラスメイトへのあんまりな憶測を口にする智子であったが、それを聞いていたゆりが何やら慌てた様子で智子を咎める。

 

「誰が留年するって……?」

 

 ふいに智子の背後からそのような声が聞こえてきたかと思うと、何者かが彼女のその肩を強引に掴んで引き止める。

 

「あっ!?」

「なあ、誰が留年するんだ? もっぺん聞かせろよ」

「ぅ、え、えとっ……!」

 

 その声に聞き覚えのある智子が慌てて背後に首を回せば、そこには静かに怒りを立ちのぼらせる吉田嬢の姿があった。

 一体いつから智子達の近くに居たのか、よりにもよって一番聞かれたくない相手に先程の偏見に満ちた会話を聞かれてしまっていた智子は狼狽するばかりだ。

 

「う、うそうそっ! ご、ごめんなさいいいっ……!」

 

 日頃から吉田嬢相手に失礼な発言をして怒らせてしまっても、そのプライドが邪魔したり、或いは何故怒らせてしまったのかが判らない為にそう易々と謝ったりはしない智子ではあったが、折角これから三連休を満喫するというのに怪我でもさせられては敵わないと、怒れるヤンキー娘から制裁を加えられる前に智子は必死で許しを乞うてみせた。

 

「ったく、あんまナメてんなよオメー」

 

 ここで普段であればとち狂った智子が更に失礼な発言を重ねて相手を憤慨させる所ではあったのだが、本日は珍しくそうした事もなく素直に詫びを入れたものだから、吉田嬢としてもこれ以上智子を咎めるつもりはないようで、掴んでいたその肩を解放してやる。

 

「吉田さん、今日はもう帰るの?」

「あ? おお、まあ……」

 

 そうして少々気まずい雰囲気のまま連れ立って歩き続ける一行であったが、意図せず智子達と合流するような形になった吉田嬢へゆりがふとそのような事を尋ねる。

 

「じゃあ皆でどっか寄っていこうよ」

「お?」

 

 何やらゆりがこの面子で帰りに寄り道していこうと提案したものだから、そのように誘われると思ってもみなかったらしい吉田嬢は気の抜けた返事をしてしまう。

 

「ほら、最後になるかもだし……」

「ああ……じゃあ行くか」

 

 思案する様子を見せていた吉田嬢であったが、そうしたゆりの言葉に思う所があったのか結局彼女からの誘いを受け入れる事にしたようだ。

 

「黒木さんも行こ?」

「へ? あ、じゃあ、うん」

 

 間を置かず今度は自分がそのように誘われたものだから、苦手としている吉田嬢が一緒というのは気にくわないものの同じくそれに乗ってみせる智子であった。

 そのまま傍らの真子にも同じ事を尋ねるのかと思った智子だったが、どうもゆりにそうした様子は見られない。どうやらお互い事前に打ち合わせ済みであったのか、彼女ら二人の寄り道に智子と吉田嬢とが誘われたという事らしい。

 

 ゆりのそうした積極的な誘いは、進級を目前に控えたこの時期において名残惜しさが生まれたが故の事であろうか。

 やがて訪れる新三年生としての新たな学生生活において、クラス分けの都合で今のこの面子が散り散りになってしまう可能性は十分にありうる為、そうなる前に少しでも親睦を深めておきたいと、朴念仁な所のある彼女にしては珍しい行動に出たのかもしれなかった。

 

 ◆

 

(あとちょっとで二年も終わりか……)

 

 級友らと連れ立って歩く道中、智子は少しばかりの感慨深さを感じつつ物思いに耽っていた。二年生としての終わりを間近に迎えた今この時に至り、学校における自身のこの一年間を振り返っていたのだ。

 実に様々な事があった。楽しい事も苦々しい事も、そして悲しい事も含めて、忘れてしまったものも含めれば数え切れない程の出来事がそこにはあった。

 

 とにかく誰からも気に留められず目ぼしい事が何も無かった一年生の頃と比べれば、関わりを持つ人間も格段に増え、最早別物と言ってよい智子の学生生活であった。

 いや、本当はそうでもなかったのだ。空虚さに苛まれていた一年生のあの頃だって、自分の事を気に掛けてくれた人は少なからず居たのだと、智子は思う。

 少し前に卒業を見送った一人の女子生徒から智子はその事を教えて貰っていた。何かと親身になってくれていた彼女から、智子はずっと前から自分が知らないだけで誰かがそっと遠くから見守ってくれていたり、或いは興味を持ってくれていたのだという事に遅まきながらに気付かされていたのだった。

 

 智子の胸に件の卒業生との別離の悲しみが今再び去来するが、同時にその事がもうひとつの、決して忘れられない別れの記憶をも思い起こさせる。

 それは智子が一年生の最後の時期に出会った一人の女性の事だった。ほんのごくごく僅かな時間しか交流しなかった筈のその素性の知れない女性の事を思い出す度、智子は胸がしめつけられるような思いになる。

 

 女性は非常に不思議な人間であり、彼女と経験した一時は智子にとって夢のような心地を感じさせるものであったのだが、同時に大きな心残りもあったのだ。

 智子は彼女との別れ際の記憶が殆どない。余程のぼせ上がっていたのか、最後に彼女とどういう言葉を交わして別れたのかを碌に覚えていないのだ。

 

 いつの間にか居なくなってしまった人。自分がぼうっとしている間に消えてしまった人。

 消えてほしくなかったし、居なくなってほしくなかった。サヨナラをするにしても、最後にちゃんと別れの挨拶をしたかった。そしてその事を覚えていたかった。

 

 いつかまた自分に会いにきて欲しいと、そのような願いを心に秘めていた智子ではあったが、結局その願いは叶わず終いであったものだから、余計に前述したような悔いを残してしまうのだった。

 

(名前、嘘ついちゃったなぁ……)

 

 彼女から名前を尋ねられた際に智子は咄嗟に偽名を使ってしまったのだが、その事もまた智子の心にしこりを残させるものであった。

 仮に女性が今でも自分の事を覚えてくれていたとしても、その記憶の中での自分の名前は黒木智子などではなく“ももこ”という偽りの名前なのだ。

 己の電話番号を教えてやる事も出来ず、名前すらまともに伝える事が出来なかった。そうした事が彼女と過ごしたあの思い出自体を嘘にしてしまいそうな気がして、智子は当時を思い返す度に後悔してしまうのであった。

 

 もし、もし今また彼女に相見える事が出来るのであれば、今度こそ本当の自分を洗いざらい知ってほしいと、智子はそのように思わずにはいられない。彼女には包み隠さず何でも話してしまいたいと、そうして彼女の前に自分の心をさらけ出してあの大きな体で受け止めてほしいと、そのような思いに駆られてしまう。

 

 親身になってくれた自身の先輩も、そして自分に熱烈な好意を寄せてくれたあの不思議な女性も、今となっては手の届かない遠くへと行ってしまった。

 遠慮していたり、或いは機を逃してしまった結果として彼女達と十分に心を通いあわせる事も出来ない内にすっかり置いていかれてしまったような寂しさを感じていた智子ではあったが、ともあれ人との別れは辛いものだと、そのような人間らしい気持ちを教えられる事となった二人の存在は、智子にとって教師としての役割をも果たしていたのだった。

 

「ねえ黒木さん、あれ見て!」

 

 暫しの間思考の海に沈んでいた智子であったが、少しばかり興奮した様子の真子から突然そのように声を掛けられ袖を引っ張られてしまう。

 

「えっ何……?」

「ほらあれ、あのバイク」

 

 やぶからぼうな真子のそうした呼び掛けを受けて我に帰る智子であったが、どうも手前を歩いていたゆりと吉田嬢も何かに目を奪われている様子だった為、一体何事かと真子が視線で示す先を見やる。

 

「あっ……!?」

 

 智子の視線の先には歩道に横付けする形で路肩に乗り上げ停まっていた一台のサイドカーバイクの姿があったのだが、それを見た彼女は思わず声を上げてしまう。智子はそれに強く見覚えがあったからだ。

 

「すごいねー、アザラシの赤ちゃんかな?」

 

 そのサイドカーバイクは非常に珍妙なデザインをしていた。真子が言うように、バイクと連結されていた側車はまるで動物のぬいぐるみのような見た目であったのだ。

 白いふわふわの体毛に包まれた側車のフロント部分には幼さを感じさせる愛嬌のある目鼻や口が取り付けられており、その大きな目のパーツは眠り子のように閉じられていたが、智子はその目のパーツをかつて己の手でパカパカと開いてみせた事が確かにあった。

 

 しかしそれよりなにより、智子はその大きなバイクにまたがっていた女性に目を奪われてしまっていた。

 バイクの持ち主と思われるその髪の長い女性はヘルメットをミラーに引っ掛けハンドルへしなだれかかって休んでいたようだが、智子と目が合った途端、おもむろにその身を起こしてみせる。

 

「どうしたの?」

 

 一人立ち止まってしまった智子に気付いた真子が、後ろを振り返りそのように声を掛けたものだから、それまで手前のサイドカーに意識が行っていた他の二人も足を止めて智子の方を見やる。

 どうも智子は件のサイドカーを凝視したまま固まっていたようだ。

 

 そのような智子の様子を訝しんだ彼女らであったが、やがて智子が拳を握りしめつつ俯いてしまったものだから益々困惑してしまう。

 そんな智子を心配した真子が智子に歩み寄ろうとした所、何者かがさっと彼女を追い越して先に智子の前に立ちはだかった。

 

「来ちゃった」

 

 首元に巻いた赤いマフラーを指で緩めつつ、自分へ向けてあっけらかんとそう言い放った者の事を智子は忘れる筈もなかった。

 また聞けるとは思っていなかったそのひどく懐かしい女性の声が、智子の淡い記憶に今再び現実感を吹き込む。

 智子の前に立ったのは、他の誰でもないあの芹花その人であった。

 白いコートにミニスカートを履いたその格好は相も変わらずあのような大型のバイクに乗る者の姿とは思えず、ともすればその辺の女子大生に見えなくもない。

 

「あっ……んっ、おっ、お久しぶり、です……」

 

 尚も俯いたままの智子が、ずずっと鼻をすすると何やら詰まり気味に挨拶をする。

 久方ぶりの再会がそうさせるのか、その口調はどこか遠慮がちでもあった。

 

「おい、なんか用か?」

 

 そうした智子の様子が芹花に対してひどく萎縮しているように見えてしまったのか、彼女らに歩み寄ってきた吉田嬢が警戒心の滲む口調で芹花を咎めるようにして声を掛ける。

 

「ももこに用があって来た」

「あ? ももこ?」

 

 そうした吉田嬢の喧嘩腰な口調にも何ら動じる事なく、彼女の方へと振り返ってみせた芹花が素っ気ない返答をしてみせる。

 

「どういう用件だ? 言ってみろや」

 

“ももこ”と聞こえたような気がするが、おそらくそれは芹花の前で俯いている智子の事を言っているのだろうと考えた彼女は尚も芹花への尋問を続ける。

 

「お前には関係ない。部外者は黙ってて」

「あぁ?」

 

 そうしたやりとりに煩わしさを感じたのだろうか、智子への態度とは打って変わって何とも突き放した物言いでそのように返してしまった芹花であったから、それを受けた吉田嬢の目の色が途端に変わる。

 

「関係あんだよ。そいつはあたしのツレだ」

 

 そう言って自分よりも背の高い芹花に詰め寄り、その顔を見上げるようにして至近距離から睨みつける吉田嬢が、尚も言葉を続けていく。

 

「用があんなら、あたしが聞くっつってんだよ」

「ちょっと、吉田さん……!」

 

 傍らでそうした様子を見守っていたゆりであったが、今にも取っ組み合いの喧嘩へと発展しそうな二人の様子に気が気でなかったものだから、たまらず吉田嬢を宥めようとする。

 

「ほら、黒木さんの知り合いとかじゃない?」

「じゃあなんであいつ泣いてんだよ? 完全にビビってんじゃねーか」

 

 吉田嬢の発したその言葉を受けて、彼女を含めた全員が智子の方を見やる。

 俯いていてその表情が窺い知れない智子ではあったが、何やら顔からぽたりぽたりと幾ばくかの水滴を落としていたものだから、いつの間にか智子が泣いていたらしい事に吉田嬢以外の者もここでようやく気付いたのだった。

 

「ももこ、どうして泣いてる? どこか痛い?」

「あ……ぅん……」

 

 そうした智子の様子を心配したのか、少し屈んで彼女の顔を覗き込むようにした芹花がそのように尋ねてみせる。

 尋ねられた智子はというと、コートの袖で己の顔をごしごしと手荒くこすりながらそれに答えようと声を絞り出す。

 

「なんでもないよ……か、花粉症で、ちょっと目が……」

 

 鼻をずびっとすすりつつそのように言って、自分は泣いてなどいないのだと主張する智子であったが、ようやく顔を上げたその目はすっかり泣きはらしたようになっていた。

 てっきり智子が芹花に泣かされていたと思っていた吉田嬢であったが、当の智子自身がそのように言い張るもののだから、彼女としてもこれ以上その点を追求する気にはなれなかったのか、気勢をそがれた様子で鼻息をふんすとつく。

 

「知り合いなのか?」

「あっうん、その……」

 

 吉田嬢からそのように尋ねられた智子は、しばし言い淀むような様子を見せた後でその言葉の続きを口にする。

 

「と、友達、かな……」

 

 お腹の前で指をもじもじさせつつ芹花の事をそのように紹介してみせた智子の目尻に、先程ぬぐいきれなかった涙の残りが滲んでいた。

 

 ◆

 

「今まで会いに来れなくてごめん」

「あっ、うん、ぜっ、全然いいよ……!」

 

 隣り合って歩道のフェンスに腰掛けていた二人であったが、芹花がこれまで音沙汰なしであった事を詫びてきたものだから、それには及ばないと智子がフォローを入れてやる。

 智子は芹花と二人っきりになる為に、ゆりからの誘いを断って彼女らには先に帰って貰ったのだった。

 

「正直忘れてた」

「あっ、う、うん……! べ、別にいいけど……」

 

 わざわざ言わなくてもいいような事を付け足す芹花であったから、案の定自分が忘れられていたらしい事を知ってショックを受ける智子であったが、それも間が空いたとは言えまたこうして会いに来てくれたのだから非難する気など起きる筈もない。

 

「先日部屋を掃除してたらももこと撮った写真が出てきたから、それで思い出した」

「はぁ、そうなの……?」

 

 どうやら例のプリクラシールが智子に関する芹花の記憶を刺激してくれたらしい。それで思い立ってすぐ様こうして会いに来てしまうという単純な所が、なんとも彼女らしいなと感じてしまう智子であった。

 

(なお)との生活があまりにも楽しく……」

「え?」

「それ以外の色んな事を忘れてしまっていた」

 

“ナオ”という、おそらくは人の名前であろうそれを芹花が急に口にしたものだから、初めて聞くその名前に首を傾げる智子。

 

「あ、ナオって、せ、芹花さんの友達……?」

「違う。直はもう友達じゃない」

 

 友達でないのなら、一体何だというのだろう。過去形な所が妙に引っかかる智子であったが、芹花の次の一言でそのような些細な疑問は即座に吹き飛ばされる。

 

「直は私の夫」

「お…………お、おおっ!?」

 

 芹花のそうした突然の爆弾発言であったから、智子は思わず体重を預けていたフェンスからずり落ちてしまいそうになった。

 

「えっ、あっ、せ、芹花さんって、け、結婚してたのっ……!?」

「した。去年に」

 

 何でもない事のようにそう言ってみせる芹花であったが、その頬には照れるように赤みが差しており、おそらくはそれが彼女にとってとても大切な事なのだろうと、智子はそう理解した。

 

(人妻……なんだ……)

 

 そうした芹花の告白を聞いて、何故だか智子は膝から崩れ落ちてしまいそうな脱力感を覚えてしまった。

 芹花の再来を受けて満たされ始めていたその胸が、今またズドンと容赦無く撃ち抜かれてしまったような衝撃を受けていたのだ。

 

 別に芹花だって頭の中身はともかく年齢的にはもういい大人なのであるから、結婚ぐらいはしたっておかしくないのだろう。ましてや彼女程の器量良しであれば、それこそ積極的に求婚してくる相手にも事欠かない筈なのだ。

 だがしかし、それでも智子は己が受けたショックを誤魔化しきれなかった。真に身勝手な話ではあるが、智子はその相手の男性に芹花を取られてしまったような気持ちになったのだ。

 

 芹花と同性である筈の自分が何故そのように思ってしまうのか智子自身にも判らないが、ともあれもう己が芹花の心の中の特等席に座れなくなってしまったように感じられて、その事が無性に悲しかった。

 折を見て己の本当の名前や連絡先などを芹花に教えようと思っていた智子であったが、今やすっかりそんな気持ちもしぼんでしまう。

 

「結婚式の時の写真がある」

 

 そう言って一旦バイクの方へと戻った芹花が車体の収納ボックスを開けて何やら中を漁り出し、そこから一枚の写真らしきものを取り出して智子の所へと戻ってきた。

 

「これ」

「あっうん……」

 

 そんなもの見たくないのにと思う智子ではあったが、自慢げにそれを差し出す芹花に悪いような気がして、渋々ながらもそれを受け取ってみせる。

 

「は……?」

 

 しかし写真に写る光景を目にした智子が、思わず口から声を漏らしてしまう。全くもって訳が判らないその光景に我が目を疑った智子が改めて写真を食い入るように見つめる。

 

「これ……せ、芹花さん、だよね……?」

「そうだが?」

 

 写真の中の芹花らしき人物を指差す智子が念の為そのように尋ねれば、当然のようにそう答える芹花。

 おそらくは結婚式場と思われる場所で新郎新婦二人の立ち姿を撮影したらしいその写真であったが、写真に写っている芹花は髪を後ろに流してオールバックにしていたものだから、一瞬智子はそれが芹花だと判らなかった。とはいえそれだけであれば別にどうという事はないのだが、問題は芹花のその格好である。

 結婚式だというのに新婦である筈の彼女はウエディングドレスを着ておらず、まるで新郎のようないでたちで黒いタキシードを着込んでいたのだ。

 その代わりというべきなのか、芹花の傍らには華やかなウエディングドレスで着飾られた一人の可愛らしい少女が、何やら困惑気味の表情をして寄り添っていた。

 

「じゃ、じゃあ、この人は……?」

「それが直。私の夫」

 

 もしやまさかやはりガチレズであったのかと、かつて芹花に感じた戦慄が危うく蘇りかけてしまう智子であったが、写真の中の傍らに写るその少女こそが自分の夫であると、どうにも矛盾した事をのたまう芹花であったから、智子はもう訳が判らなくなってしまう。

 

「えっでもこの子、女の人だよね?」

「違う。直は男の子」

「ついてるの?」

「ついてるが」

「じゃあこれ女装?」

「そう」

 

 矢継ぎ早に芹花とそのような問答をする智子であったが、最早何もかもが理解の範疇を超えていた。

 どう見ても新婦にしか見えないその見た目麗しい少女が実は新郎なのだと言われて、ああ成る程と納得出来る筈もない。このような非現実的な事を突きつけられてしまっては、もしや自分は今、白日夢でも見てしまっているのではないかと錯覚すらしてしまいそうになる智子であった。

 

「こういう結婚式をするのが夢だった」

「そ、そりゃあまた……まあ、うん」

 

 どこかはにかんでいるようにも見える芹花であったから、智子としてはこの奇妙極まる記念写真についてもうこれ以上とやかく言う気にはなれなかった。

 先程までは芹花の結婚にダメージを受けていた智子であったが、今やそれすらもどうでも良く思えてきてしまうのは、それを遥かに上回る衝撃を与えられてしまったからなのか。

 

(まあいいか……)

 

 ともあれ芹花が幸せそうにしているのだから、きっと何も問題ないのだと智子は思う事にする。

 全くもって相も変わらずこの女性は自分の理解の範疇をいとも簡単に飛び越えてしまうものだと、智子は呆れたような、それでいてどこか安心したような、そうした懐かしさでいっぱいの気持ちにもなってしまった。

 

 芹花はどこまで行っても芹花なのだと、改めてそのように思う智子。

 彼女が心変わりを起こしているのではないかと勝手に心配して臆病になっていた自分がひどく間抜けのように思えてきてしまったものだから、智子はなんだかこのままけらけらと笑ってみたいような、そうした可笑しさがこみ上げてきてしまい、自然とその口がにやけてしまう。

 ここはひとつ今晩あたり芹花に電話でも掛けてやろうと、そのように思う智子であった。

 

「そろそろ行こう」

「えっ?」

 

 急に立ち上がった芹花が智子にそのような事を言って誘いを掛ける。

 

「ももことまた色んな事を話したい」

「あっうん……! そ、そうだね!」

 

 一年ものあいだ音信不通であったのだから、芹花としても積もる話があった筈。また以前のようにどこか手近な場所で共に寛ぎたがっているのだろうと、智子はそのように理解して彼女の誘いを二つ返事で受ける。

 この一年間は様々な出来事があったものだから、智子としても芹花にそうした己の近況を沢山聞いてほしかったし、芹花に見せてあげたいと思っていたオススメの動物映像などもあれからまた沢山増えたのだから、それを思えば智子としても気が逸るのであった。

 

 そうして芹花と共に例のサイドカーへと乗り込んだ智子であったが、またしても複雑なそのシートベルトに手間取る事数分、やっと装着し終えた後でなんとはなしに己の手前にある収納ボックスを開いてみる。

 智子の思った通りそこには自分の為に用意されたと思わしきヘルメットが入っていたものだから、またこれを人目のある場所で被らねばならないのかと少々うんざりした気持ちにもなってしまう。

 今この場にゆり達が居なくて良かったと、今更ながらにそう思わずにはいられない智子であった。

 

(ん? これって……)

 

 ボックスから取り出したそれを手にした智子が、その見覚えのなさに違和感を感じてしまう。

 確か以前自分が被らせられたのはウサギ耳を生やしたクリーム色のヘルメットであった筈だが、いま手にしているものは紫色の毛皮に包まれており、頭の左右から三角形の大きな耳を生やしていた。

 

「え、これ、猫……?」

「そう。ももこの為に買ってきた」

 

 またしても智子用のヘルメットを新調してきたらしい芹花に呆れてしまう智子であったが、わざわざ自分にそこまでしてくれる芹花の気持ちが今は妙に嬉しくもある。

 自分に向けられる芹花からのその愛情に少しも変わりが無い事を智子は感じ取ったのだ。

 

「手袋もあるからそれも着けて」

「えっ? あ、これ?」

 

 芹花の言う通り、ボックスの奥には何やら対になった手袋が入っていたものだからそれも取り出してみる智子であったが、陽の光に当たって露わになったそれを見て顔を引きつらせてしまう。

 丸い肉球の付いたその手袋はやけに大きかった。あまりに大きいので、最早それは手袋というより着ぐるみの一部であった。

 

「えっ、これも着けるの?」

「そう」

「いや、これはいいよ」

「駄目。着けてくれないとどこにも行かない」

 

 猫ヘルメットを被り、その上このようなものまで身に着けては最早完全にコスプレである。流石にそのような羞恥プレイは願い下げである智子としては拒否の言葉を口にするが、どうも強情な所を見せる芹花はそれに応じる気配がない。

 

「それを着ければ、ももこの可愛さは完璧になる」

「いや~……でもこれはちょっと……」

 

 そのように芹花がおだててくるが、それでもやはり恥ずかしい事に変わりはないものだから、どうしても渋ってしまう智子であった。

 

「早くしないと私が無理やり着ける」

「えっ!?」

「そしてしばらく抱っこする。ナデナデして、フサフサスリスリする」

「わ、わかった、つ、着けるからっ、そういうのナシでっ……!」

 

 意味不明な事を言って脅してくる芹花であったから、彼女の目の中に本気の思いを見て取った智子はそのような事を実行されては敵わないと、慌てて芹花の注文に応じてやる事にする。

 

 そうして装備一式を身に着け終えた智子であったが、案の定それまであからさまにこちらを見たりせず通り過ぎるだけだった通行人達から一斉に視線が集中した事を肌で感じてしまう。

 そしてまた、例によって一番の見物人と化しているであろう傍らの芹花から強烈な視線を感じたものだから、智子はそっと彼女の様子を上目遣いで窺ってみた。

 

(マスクッ……!?)

 

 思った通りそこには並々ならぬ熱視線を智子へ投げかける芹花の顔があったのだが、いつの間に装着したのか彼女の口元には凝った造りのガスマスクのようなものが装着されていたものだから、その異様さに智子は思わず身をのけぞらせてしまう。

 

 ゴポゴポと、そのマスクの中で何かが噴き出すような音が聞こえてくる。と同時に、それに合わせてマスクに装着されていた二対の小瓶の中に血のような赤い液体が流れ込んでいるのが智子には見えた。

 

「な、なにそれ……!?」

「鼻血マスク」

 

 小瓶の中に流れ込んでいたのは血のような液体ではなく、どうも血液そのものであったようだ。なんとも準備が良いと言うべきか、芹花は噴き出す己の鼻血が周囲に飛び散らないよう、そのようなものを装着してまで智子の猫変化(へんげ)に備えていたようだ。

 

「凄く可愛い。今すぐ抱っこしたい」

「いやいいよっ、は、早く行こう!」

 

 言われた通り自ら恥ずかしいグッズを装着してみせたというのに早速約束を反故にせんとする気配を見せた芹花であったから、智子は慌てて彼女に一刻も早い出発を促す。

 

「少しだけ。ちょっとだけだから」

「だ、駄目っ! こ、ここじゃ駄目だからっ!」

 

 早くも満タンになってしまったマスクの小瓶を素早く外してみせた芹花がその中身を地面に遠慮なくぶちまけると、次の噴出に備えて手早く再装着してみせる。

 どうも自分のこの姿は芹花にとって刺激が強過ぎたのだろうかと狼狽える智子であったが、ふとそんな自分達の滑稽な押し問答に視線を向けていた誰かが横を通り過ぎていったのが智子の目に留まる。

 

 見覚えのあるその顔に智子が慌てて後ろを振り返ってみれば、同じく振り返るような姿勢でまだ智子の方に目を向けていたらしいその相手と目が合ってしまった。

 それは智子が“ネモ”というアダ名で密かに呼んでいる同じクラスの女子生徒であった。

 智子にとっては普段から何を考えているのかよく判らないそのクラスメイトであったが、仲の良い友人と二人連れ立って歩いていた彼女のその顔は明らかに智子の今の姿が可笑しくて堪らないといった様子で、今にも吹き出してしまいそうなのを必死で堪えているようだった。

 

(バカヤロ────ッ! 見せモンじゃねえぞ!!)

 

 そう叫びたい衝動を抑えつつ、心の中の言葉をなぞるように口をパクつかせる智子はネモに対して拳を振り上げつつ無言の罵倒を浴びせてみせる。

 そうした智子の仕草も可愛いと思ってしまったのか、彼女の心中を知らぬ芹花がまた景気良くマスクから音を鳴らしてその小瓶の中を満たしていく。

 

(クソッ! 見られちまったじゃねーか!)

 

 こうなるともう傍らの芹花に怒りすら感じられてきてしまったものだから、顔を真っ赤にした智子は早くこの地獄を終わらせる為に、いい加減芹花に抗議してやろうと思い立つ。

 が、そうして前を向いた智子を更なる悲劇が襲った。彼女の視線の先にはまたしても自身の顔見知りが居たからだ。

 

 いつからそこに居たのか、その場に立ち尽くしてどこか放心した様子で明らかに智子の事を凝視していたその顔は、(うち)という名のこれまた智子のクラスメイトの女子であった。

 その傍らには他にも内の友人達が立っており、彼女らもまたこちらに目を向けヒソヒソ話をしていたものだから、もう智子としては今すぐこの場から消えてしまいたかった。

 

「せっ、芹花さん! おおお、お願い! 早く! 早く行ってぇぇ────!!」

「わかった」

 

 もうなりふり構っていられない智子は、その大きな猫手袋で顔を覆って伏せるとそのように絶叫した。

 智子のそうした必死さがようやく伝わったのか、マスクを外した芹花がエンジンを始動させたバイクのアクセルを回して道路へと躍り出ると、智子を苦悶させるその場所から爆音を鳴らしてあっという間に去っていった。

 

 ◆

 

 そうしてしばらく顔を伏せながらも風を感じていた智子であったが、すっかり火照っていた顔を冷やしたい彼女は流石にもう大丈夫だろうと頃合いを見計らってその身を起こす。

 

「ふ────……」

 

 思わぬ所で殺しに掛かられたものだと思う智子であったが、ひとまず難を逃れた事に安堵の溜息をつく。

 このような強烈な恥もきっと一日寝て起きたら多少はマシになっているのだろうと、いつしか身に付いた己の精神的なタフさ加減を頼もしく感じてしまうのだった。

 

(ん……?)

 

 ふと周囲の景色に違和感を感じてしまった智子であったから、なんとはなしに辺りを見回してしまう。

 

(えっ? どこ行ってんだこれ?)

 

 確か自分達は今、憩いの場を求めて駅前のカフェに向かっている筈ではなかったかと思う智子であったが、明らかに駅前へ至る道とは異なる場所を走っていたものだから戸惑ってしまう。

 そうして智子が狼狽えている内にバイクが赤信号に引っかかったものだから、その隙に智子は傍らの芹花にも聞こえるよう大きな声で呼び掛けた。

 

「芹花さん! ど、どこ行くの!? 駅前に行くんじゃなかったの!?」

 

 そうした智子の問い掛けに気付いたらしい芹花が、何か言おうとしてハンドルを握ったままその身を伸ばすようにして智子へと顔を近付ける。

 

「ちょっと東京まで」

 

 気持ち大きめの声量で発せられた芹花の良く通るその声であったから、周囲の雑音に邪魔される事なく智子の耳にもそれが届いた。

 

「え……? あ、と、とーきょー!?」

「そう、東京」

 

 どうにも聞き捨てならない芹花のその不穏な台詞を受けて念の為聞き返す智子であったが、やはり結果は変わらなかった。

 

「え……なんでそんな所に行くの!?」

「ももこを直と私のスイートホームに招待する」

「カフェは!? お茶しないの!?」

「ウチで沢山おもてなしするからいい」

「いやっ、でもっ、ほらっ、今日もう遅いしっ! ま、また今度でっ!」

「泊まっていけばいい。着替えも買ってあるから大丈夫」

「いやっ、あ、明日学校だしっ! い、忙しいしっ!」

「それは嘘。ももこの学校は明日から三連休」

「なんで知ってんの!?」

 

 そこまで言われて智子はもう絶句するしかなかった。

 今回のテスト休みを兼ねた三連休は土日祝日に沿わない形で学校側が制定したものであった筈なのに、何故か芹花が己の休日を正確に把握していた事に軽く恐怖すら感じてしまう智子であった。

 着替えまで用意しているという事は、こうして突然知らされた東京行き決定が芹花の思いつきなどではなく、予め計画されていたものである事を意味していた。

 

 どうも本日の芹花は単に自分に会いに来たのではなく、東京方面にあるらしい自宅まで有無を言わさず連れて行く為にやってきたのだという事を智子は今更ながらに思い知ったものだから、彼女のその顔がみるみる青ざめていく。

 心待ちにしていた芹花との再会の一時をコーヒーでも飲みながら堪能しようと思っていた筈なのに、気付けば見知らぬ土地へと拉致されそうになっていた智子であったから、それも無理ならぬ事であった。

 

 芹花の事は嫌いではない。嫌いではないし、むしろ好意的にすら思ってはいたが、思いもよらぬ急な出来事に弱い智子としてはこれはあんまりなのである。故に彼女は今、パニックに陥っていた。

 

(に、逃げないとっ……!)

 

 バイクが止まっている今の内にサイドカーから降りるべく、慌てて手袋を外すと厳重に締めておいた己の座席のシートベルトを急いでいじり始める智子であったが、どうにも手が震えて上手くいかない。

 そうこうしている内に信号が切り替わり再びバイクが発進してしまった為にその機を逃してしまう智子。

 左折した芹花のバイクが東京方面へと通じる高速道路の入り口へと侵入していくものだから、いいよいよ智子は観念せざるを得なくなってしまった。

 

(あはははっ! メチャクチャだこの人! もーほんと、メチャクチャっ……!)

 

 観念したは良いが、今度はそれを通り越して何やら急激にテンションが上がってしまう智子。

 その心持ちは今やもう矢でも鉄砲でも持って来いといったヤケクソ気味のものになっていたが、もしかすると自分は芹花にこうして振り回される事が、実の所そんなに嫌ではないのだろうかという考えも湧いてきてしまう。

 

 まったくもって芹花と過ごす一時というものは予測不能な事で満ち溢れている。

 彼女という人間を理解するのは、その行動を推し量るのは、まだまだ付き合いの浅い自分には到底叶わぬ事なのだろうと智子は思うのだが、そもそも普通の人間であれば下心でもない限り芹花のその特異極まる人となりに多少触れただけでもその時点で逃げ出して関わりを断とうとする筈だ。

 にもかかわらず己はというと、これがつい先程までは彼女との再会を心から歓迎していたというのだから、もしかすると自分もまた芹花と同じくマトモな人間ではないのではないかと疑ってしまう。

 

 或いはそれは自分の中にある何かもっと別の気持ちが作用しているような気もする智子であったが、試しにその正体を探ってみようとすると途端に気恥ずかしい衝動がこみ上げてくるものだから、結局は見て見ぬ振りをする事に決めたのだった。

 芹花はもう誰かと結婚してしまった身なのであるから、自身の中にあるその不思議な気持ちに名前を付けてしまってはいけないと、自分でも理由が良く判らないままそのように己を戒める智子であった。

 

 そうしてすっかり芹花と共に高速道路を爆走する形になった智子がぼんやりと遠くの風景を眺めていた所、その脳裏に意識せずして一つの考えが浮かんできた。ひょっとすると芹花とは自分にとっての嵐なのではないかという、なんとも大げさな考えがそれであった。

 突然現れたかと思えばいつの間にかいなくなり、そしてまた忘れた頃にやってきてはこうして自分の事を大層慌てふためかせる。そうした性質を備えた芹花であったから、これが嵐でなくて一体何なのだと智子は考えたのだ。

 

(そうだ……!)

 

 これから芹花に連れていかれる先々にて己を待っているであろう波乱の予感に慄きながらも、智子は芹花という存在を定義付けるにあたってのこれ以上ない特徴を見出してみせた。

 

(嵐みたいな人だから……芹花さんってそんな感じだから……)

 

 そう。だからこそ彼女を一言で表す言葉といえばこれしかないと、智子はそれを頭の中で高らかに唱える。

 

人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)!)

 

 それこそが、芹花という名の強烈な洗礼を受けた智子が辿り着いた一つの結論であった。

 この台風はきっとこれからも、自身が望むと望まざるにかかわらずやって来たり来なかったりするのだろうと智子は思う。何故なら台風とはそういうものなのだから。

 

 こちらの思惑を超えて好きなように動き回る存在。己とは生きる次元そのものが違うと痛感させられる存在。

 そしてまた、ちっぽけなこの自分にとめどなく愛を与えてくれる不思議な存在。

 それこそが、智子が遭遇した芹花という台風について今の所知り得た全てなのである。

 

 ともあれ芹花と智子を乗せたサイドカーバイクは、辺りへ爆音を響かせながら長い長いその高速道路を風になって突き進んでいってしまった。

 その後、台風の中へと突っ込んでいった智子が何を経験したのかは、本人だけが知っている事なのであった。




おしまい


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原幕キス祭り(上)

本作には百合要素があります。


『というわけでルールは以上です。がんばってね~』

 

 長々と私に話しかけていたその鼻につく甘ったるい声が、軽い調子でルールとやらの説明を締めくくった。

 

(がんばってね、じゃねえよ! なんなのこの状況……!?)

 

 ついさっきまで私は学校帰りの電車に乗っていたはずだった。なのに気がついたらいつのまにかこの真っ白い部屋ん中にいた。

 そんで足元に落ちていたタブレット越しに誰かが話しかけてきたと思ったら、この部屋を出るためには云々と突然ワケのわからんルールを説明してきやがったのだ。

 

(キスしないと出られない部屋……)

 

 タブレットを拾いあげてみれば画面にはでかでかとそんな文字が表示されていた。文字の下には“ゲームスタート”と書かれたボタンがある。

 タブレットの声の説明によると私はどうやらこのクソみたいなゲームとやらに強制参加させられたらしい。

 そんなの嫌に決まってるけど部屋の中には出入り口もなければ窓ひとつすらない。壁を小突いてみたけど随分と固い感じで、これはもう完全に閉じ込められているみたいだった。誰かに助けを求めようにも電波が一切届かないときたもんだ。

 

『ほらほら、早く始めようよ』

 

 画面とにらめっこしているとタブレットから私を急かす声が聞こえてきた。

 なんとも簡単に言ってくれるものだと、どこか面白がっているような響きを滲ませるその声が私は憎らしくて仕方がない。

 なんかアニメのキャラみたいな可愛い感じの声だけど、この異常な状況ではかえってそれが私の神経を逆なでする。

 

「うっせーなぁー! やってやんよっ、やりゃあいいんでしょ!」

 

 強い口調でアニメ声に言い返してやった私はもうヤケになってボタンを押そうとする。

 だけどもそんな私の指先は実際のところ震えてしまっていた。

 そりゃそうだろう。だっていきなりキスしろって言われても嫌に決まってるし、相手が誰かもわからないのだから。

 

 ゲームのルールとしてはこうだ。

 まずタブレットを使って画面に出てくる三人の候補者たちの中から私が相手を選んでやる。

 するとそいつが部屋の中に現れるらしいから、あとは実際にキスをする。

 それを合計三人分繰り返せば私は晴れてこの部屋を出ることができるというわけだ。

(ちなみに候補者は毎度のキスごとに全員入れ替わるそうな)

 

 ひどいルールだ。これを考えた奴は悪魔だ。うんこ野郎だ。

 ゲームなのに全然面白くないし、こんなのつらいだけだ。

 でもさっきアニメ声に説明された感じでは、これをクリアしないと本当にここから出してもらえないみたいだった。

 

(おっさんとか変態が出てきたらどうしよう……)

 

 候補者の中にせめてイケメンがいてほしい。そんならまあ別に悪いもんでもない。

 いやダメだ。できっこない。無理だ。本当にイケメンとキスしろなんてことになったら部屋を出る前に私が精神的疲労で死んでしまう。

 

 この際文句はいわん。ブサイクでもいいからおっさんや変態以外ならもうなんでもいい。

 こんなゴミみたいなゲームで私のファーストキスが面白半分に散らされてしまうのは腹立たしいが物は考えようだ。

 これはチャンスだ。女子高生たるものキスのひとつやふたつの経験がなくてどうする。

 今年の七夕までには非処女になれますようにって短冊にも書いたりしたし、これはその前哨戦。脱処女への第一歩だ。

 ここを出れたら弟にうんと自慢してやろう。見知らぬ男どもと三連続キスだぞ。姉ちゃんスゲーだろう。盛りに盛って自慢してやるからな。そうでもしないと気がおさまらん。ちくしょう!

 

 わきあがる怒りにまかせて恐怖を押し殺した私はとうとうボタンを押してしまった。

 すると画面が切り替わり、すぐさま候補者のものと思わしき一枚の顔写真が画面いっぱいに表示された。

 

「えっ!?」

 

 それを見て私は声をあげてしまった。画面に映っていたのは知っている奴だったからだ。

 知っているどころか毎日顔を合わせている。飽きるぐらい見慣れたあのブサイクづらだ。

 

(おとうとー、おまえかー)

 

 それまでの緊張と不安がふっとんで脱力した私はへなへなとその場に座りこんだ。

 こんなアホみたいなゲームに我が不肖の弟も参加させられているのかと思うと、いよいよもって腹が立ってきた。仕掛け人がいるのならそいつをうんとひっぱたいてやりたい気分だ。

 

「あんだよ、ビビらせてやがってよー……」

 

 どこぞのおっさんとかイケメンしかいなかったらどうしようかと思ってたよ。ほっとしたぜ。

 弟が相手なら別にどうってことない。ガキん頃はせがまれてしょっちゅうキスしてやったもんだしな。

 あいつとキスするなんて慣れっこだ。いやいや、キスって言い方はおかしいな。

 そうだよ、これは“チュー”だ。ガキん時と一緒だ。あんな感じのノリなんだよ。

 

 自分の弟とキスするなんて考えるとなんだかモヤモヤしてしまうけど“チュー”なら別にいい。

 あいつだって姉ちゃんから久しぶりにしてもらって喜ぶかもだしな。

 

(とりあえずこいつでいいか)

 

 写真の下には『キスする』と書かれた大きめのボタンが表示されている。なるほど、これを押せば候補者決定なんだな。

 

『決まったー? 早く選んでね』

「あ、ちょっと待って……」

 

 せっかちなアニメ声が急かしてきたけど私はそれに待ったをかける。

 一回のキスにつき選べる候補者は三人ということだったから、せっかくなので他の面子も確かめてやろうと私は写真の上に連番で並んで表示されていた数字のボタンから『2』を押してみる。

 さて一体どんな奴が出てくるのだろうと思っていた私だったけど、次に映し出された写真にまたもや驚かされてしまう。

 

「ゆうちゃん!? なんでっ?」

 

 候補者の二人目はまたしても知り合いだった。私の友達、かわいいゆうちゃんだ。

 かくも残酷なゲームに巻きこまれてしまったゆうちゃんのことが私はかわいそうになった。

 ゆうちゃんはビッチだけどこういう破廉恥な催しに参加させられるのはきっと嫌がるに違いないのだ。

 例えキスする相手が私だったとしてもだ。

 

 いや待て。待て待て。ほうほう。ふむ。

 ゆうちゃんとキス。ふむ。うん。

 

(……それってイイんじゃないか?)

 

 ゆうちゃんは私のこと友達だって思ってるから別にキスぐらい嫌がらないのでは。

 私をここから出すためならゆうちゃんはたぶんキスさせてくれるのでは。

 そこまで考えたところで急に顔がかあっと熱くなって心臓が痛いくらいに脈打ちはじめてしまった。

 

(わーどうしよっかなー、ゆうちゃんにしよっかなー、ゆうちゃんがいいかなー……?)

 

 ゆうちゃんとキスできるなんてまたとない大チャンスだ。

 このゲームを仕組んだ奴はアホだけど、ゆうちゃんを選ばせてくれるところだけは褒めてやってもいい。

 よーしゆうちゃんとキスするぞー。スーハー……スーハー……落ち着け私、大丈夫だ……。

 

『ほらほら、早くー』

「あっうん、すぐ選ぶから……」

 

 もうゆうちゃんとキスすることに決めた私だったけど、その前にまだ見ぬ三人目の候補者をちょっと確認してみたくなった。

 もしかしたらそいつも私の知り合いかもしれないと思うと妙に気になってしまうのだ。

 

(どれどれ……)

 

 そうして興味本位で三番目のボタンを押した私だったけど、そこに映し出された人物に仰天させられ危うくタブレットを取り落としてしまいそうになった。

 

(変態がいた!)

 

 便所コオロギ、おまえかよ。

 よりにもよって最悪の相手が候補者に含まれていたことに私は嫌な汗をかいてしまった。

 間違って操作ミスで選んでしまおうものなら一巻の終わりだ。

 

(あぶねー……とんでもねー爆弾仕込みやがって……)

 

 一人目、二人目と無難な候補者を出しておいて最後に猛毒を突きつけるなんて、油断も隙もあったもんじゃない。慄くあまり私の体は震えてしまっていた。ここはひとつ深呼吸して自分を落ち着かせよう。

 

『さーん、にー、いーち』

「えっ?」

 

 急にアニメ声が間の抜けた調子でカウントダウンを始めたものだから、私はワケがわからず戸惑ってしまう。

 

『はい決定~』

 

 てぃろりん、とタブレットから音が鳴ったかと思うと変態メガネの写真の上に『決定しました』という文字が大きくかぶさる。

 

「ああああああああああ!?」

『最初のお相手は小宮山(こみやま)さんだね』

 

 信じられない。ひどすぎる。

 私はまだ選んでなんかいないのに勝手に決められちゃったぞ。ふざけんな!

 

「な、なに勝手に選んでんだテメー!」

『時間切れになると自動的に決まっちゃうから注意してくださーい』

「取り消してよぉ────!!」

『ダメでーす』

 

 時間切れがあるなんて聞いてないんだが。

 取りつく島もないアニメ声に憤るあまり、私はこのくそタブレットを床に叩きつけてやりたくなった。

 誰が言う通りになんかしてやるものか。誰があんな変態とキスなんてするものか。

 もうここで飢え死にしてやるからな。このゲームの仕掛け人よ、おまえを立派な人殺しにしてやんよ。

 

「おい」

「うおっ!?」

 

 誰かが背後から話しかけてきたので振りかえると、そこにはむすっとした表情のコオロギがいたので私は体中に鳥肌が立ってしまった。

 一体どこから現れたのか。今一番出てきてほしくない相手だ。

 

「ほら、その……あれだ、さっさとやるぞ」

「はぁぁ?」

 

 苦々しい口調でコオロギことメガネは私から目をそらしながらそんなことをのたまう。

 まさかこいつ、本気でこのクソゲーに乗っかるつもりなのか?

 

「なに言ってんだ! やるわけねーだろ!」

 

 慌てた私は断固とした拒絶の意を示してやる。

 まかり間違ってこいつとキスなんかした日には、これまで私が人生の中で少なからず経験してきた悪夢のように忌まわしい出来事の数々を押しのけてダントツでワーストワンの最低最悪な思い出になってしまう。

 何が悲しくてこのような拷問を受けねばならないのか。

 

「こっちだって嫌に決まってんだろ……。でもやんないと私も出られないんだよ」

「ほーんそうか」

「今日夕方からロッテの中継あるし、それまでに帰んないとさ」

「はぁ」

「だから早く済ませたいんだけど」

「えっ嫌だけど」

「ふざけんな! あんたが選んだんだろうが!」

「私はゆうちゃんがよかったんだよ! 勝手に選ばされたんだよチクショー!」

 

 私たちの口論はヒートアップしていく。

 メガネのほうも本心では私とキスすることに全く乗り気でないらしいのはよくわかってる。そりゃ当然だしお互いさまだ。

 でもこのメガネときたら私とのキスを随分嫌がってるくせして、仕方のないことと割りきろうとしている。

 自分だけが早く帰りたいからこんな態度なんだなと、そうしたメガネの利己的な姿に益々苛立った私は、なにがなんでもこいつの要求には応じてやるものかと心に決める。

 

「はぁー……おまえなんかとするぐらいならその辺のおっさんの方が千倍マシだわ」

「……」

「吐き気がするね。ほんと最悪。もうこのままここで餓え死にしようかなー」

 

 そんときゃおまえも道づれだかんなと、もう私はメガネに言いたいだけ悪態をついてやる。

 本当は私だってこんなところに閉じ込められたままなのは嫌だ。

 メガネが本心から泣いて頼み込んでくるのなら、そりゃまあ私だって鬼じゃないし軽いキスのひとつくらいはどうにか死ぬ気で我慢してやる。

 気にくわないのは、私を嫌いなくせして面倒ごとのようにさっさとキスして帰ってしまおうという人を馬鹿にしたその浅ましい考えだ。

 私を安く見るんじゃないと、このメガネにはよくよく思い知らせてやらなければならない。

 

「……そんなに嫌か?」

「おっ?」

 

 先程まで顔を真っ赤にして怒鳴っていたはずのメガネが、急にトーンダウンした様子でそんなことをたずねてきた。

 そりゃもちろん嫌の嫌の嫌だね。わざわざわかりきってることを聞くなよっていうかなにどうしたの怒ってんのかちょっと待っ──

 

「~~~~ッ!?」

 

 突然メガネが無言で獣のようにつかみかかってきたものだから、さっきから座り込んでいた私は勢いのままよろめいてその場に組み伏せられてしまった。その拍子に持っていたタブレットを落としてしまい、部屋の中に固い物同士のぶつかる音が響く。

 床に寝そべる形になった私の上にまたがってもの凄い力でこちらの顎をガシィとつかんだメガネは、鬼気迫る様子でその顔を私の目の前に寄せてくる。

 

「ちょちょ、ちょっ、ま、まっちぇ! おちゅ、おちちゅいて!」

 

 なんてこった。どうやら先ほどの私の態度がメガネをプッツンさせてしまったらしい。

 どうにかなだめようとする私だったけど、顎をつかまれていてうまく喋れない。

 野獣のような目つきで私を見据えるメガネがブツブツと早口で何かをつぶやきながら更に顔を近づけようとするので私は必死に抵抗してみせる。

 

「やめひぇ────っ!!」

 

 ダメだ、敵わない。メガネの顔面を掴んでどうにか押しのけようとするも馬鹿力を発揮したこいつの前には無意味なあがきだった。

 

「んむぶぶぶ……っ!」

 

 やられた。最悪だ。

 まるでピラニアが食いつくかのように、メガネは強引に私の唇へと自分の口を押しあててきた。反射的に目と口とを力いっぱいギュッと閉じる私。

 こんなもんがキスであるものか。じゃあこれはなんなんだ。

 

「ぶはっ……!」

 

 お互いの唇がくっついていたのは時間にしてほんの一瞬だった。課題をクリアしたとみるやメガネはすぐさま私から顔を離して上半身を起こすと、乱れた呼吸を整えはじめた。

 

「んんん、ん、ん……」

 

 目と口を閉じたまま、脱力して床に寝そべっている私は自分の袖で口元をごしごしと懸命に拭う。そうしたら今度は目尻からじわっと涙が滲んできたのでこちらも一緒に拭ってやる。

 

「どうだクソムシ、ざまあみやがれっ……!」

 

 私にまたがったままのメガネがこれみよがしにそんなことを言う。

 悔しくて何か言い返してやろうとするのだけど、小刻みに震えていた口には力が入らず言葉が出せない。

 拭っても拭っても涙が溢れてくるので、私はもう袖で目元を覆って隠すしかなかった。

 

「お、おい……?」

 

 少し頭が冷えたらしいメガネが私に声をかけてくる。

 すんすんと鼻がひとりでに鳴って止まらないものだから、いまや私がみっともなくベソをかいてしまっていることをメガネにもきっと見抜かれてしまったに違いない。

 

「……いつまで乗っかってんだよ」

「あっ、うん……」

 

 重いんだよ、さっさとどいてくれ。

 唾を飲み込みやっとのことで声を出した私が抗議すると、メガネはまたがるのをやめて大人しく立ち上がった。

 

「もう用は済んだろ? さっさと帰れよ」

「あっうん、じゃあ……」

 

 私の言葉にメガネが遠慮がちな返事をしたあと、やにわにその気配が消えた。

 そっと袖の下から部屋の様子をうかがってみれば、もうあいつの姿はどこにもなかった。

 

「ふ────……」

 

 ここでようやく上半身を起こした私は大きくため息をついた。ずずっと鼻をすすると懐から取り出したハンカチで改めて目元をぬぐってやる。

 ああ、きっと鏡で確認したら泣きはらしたような目になっているに違いない。

 メガネのせいで制服も随分とシワだらけになってしまったのが悔しい。

 

『まずは一人目クリアだね、おめでとー』

 

 落とした際にすべっていったのか、少し離れた先に落ちていたタブレットからあの能天気なアニメ声が聞こえてきた。

 もし先ほどの騒動をどこかから一部始終見ていてこのようなことを言っているのなら、こいつもまたゲームの仕掛け人と同じく悪魔に違いない。

 

『じゃあ続けて二人目、いってみよーか?』

 

 足に力をこめてどうにか立ち上がった私は、ふらふらとした足どりでタブレットを拾いにいく。

 晴れて人生史上ワーストワンの思い出を獲得した私だったけど、この部屋から無事出ることができたら全力で記憶を改変して本来あるべきはずだったゆうもこTrick(トリック)な内容へと塗り替えてやろうと誓うのだった。

 

 残るキスはあと二回。

 

 




つづく


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原幕キス祭り(中)

「あのさぁ……次から十秒前になったら教えてくんない?」

『いーよー』

 

 不意打ちの時間切れでとんだ目にあわされた私は過ちを繰り返さないよう釘を刺しておく。

 意地の悪いこのくそゲームのことだから、きっと二回目の候補者にもおかしな奴がまぎれこんでいるに違いないのだ。

 であるのならばまた土壇場でカウントダウンなんかされては敵わないと、いやがうえにも慎重になってしまう。

 

 手にしたタブレットの画面には『次のキスをはじめる』と書かれたボタンだけが映っている。

 こいつを押せば、また候補者たちが表示されて私はそいつらのうちの誰かとキスしないといけない。

 すでにウンザリな気持ちでいっぱいだけど、早く家に帰って今日のことを忘れたい私は軽く深呼吸したあとにタブレットの画面をタッチした。

 さて今度はどんな奴らが出てくるのやら。

 

(おっと、こいつかー……)

 

 もしかしたらと思っていたけど、画面に現れた候補者はまたしても私の知り合いだった。

 画面にはつんとすました様子のクラスメイト、田村(たむら)さんの顔が映っていたのだ。

 このぶんなら得体の知れない赤の他人が出てくる心配はないのかもしれない。

 

(うーん……どうしよっかなー……)

 

 別に田村さんのことは嫌いじゃないけど、だからといってキスできるかと言われたらどうにも躊躇してしまう。

 ノーマルな私としては特に好き好んで女同士でキスしたいというわけでもないし、それを抜きにしても普段つるんだりする相手と致すのは正直気恥ずかしいものがある。明日からどんな顔して会えばいいんだって話だよ。

 

(他も見てみるか)

 

 田村さんを選ぶかどうかはひとまず保留にしといて、それ以外の選択肢を確認しにかかる。

 もしかしたらもうちょっと抵抗の少ない相手が見つかるかもしれないしな。

 

(おっ、こいつは)

 

 こないだまで私と同じクラスだった絵文字だ。名前はたしか……(うち)さん、だったような。

 まあお土産とかチョコとか貰ったりしたけど、そんなに関わりがない相手だったからキス相手にと呼びつけるのはなんとなく気が引けてしまう。

 とりあえずこいつはパスだ。

 

(いやまてよ、このパターンだと次は……)

 

 次は爆弾が現れるはずだ。となると誰だ?

 ああそうだ、きっとあいつだな。体育教師(デリカシーゼロ)を持ってくるに違いない。

 そんなのお見通しだかんな。私にはわかるんだ。

 

 三年生に進級してサヨナラできると思っていたらまたしても私の担任になりやがったあの教師。

 あれとキスなんて死んでもごめんだと、想像するだけで口がへの字に曲がってしまう。メガネのほうがまだマシなレベルだっての。

 

 仮にもし相手に選んでしまったとしたら、どうせ嫌がる私を怒鳴りつけて強引に致そうとするに違いないのだ。

 そこに私の意志が介在する余地なんてありはしない。私がどれだけその怒鳴り声のせいで怖がっているかなんて考えちゃいない。

 あの教師はいつだってそうだ。私の気持ちなんてちっとも知ろうとしないで、勝手になんでもかんでも決めつけて上から押しつけてくる。

 

 ああ、もうよそう。考えるだけ損だ。

 私がどれだけこんなことを愚痴ったって、あの教師はきっと一生あの調子なのだから。

 そして私はあんにゃろーから受けた仕打ちをたぶん一生忘れることはないだろう。

 なんであんなのが私の担任なんだよもう。

 

(どんなツラ晒してんのかだけでも見といてやるか……)

 

 嫌なことを考えてしまった私だったけど、ともあれ絶対に選ぶことのない三人目の候補者を表示させてみる。

 ひょっとしたら他の誰かが出てくるかもだしな。

 

(おぉっ……!?)

 

 全然違った。ちっとも担任なんかじゃなかった。画面に映ったのはこれまたクラスメイトの女子。

 

(ネモか!)

 

 三人目の候補者は私の隣の席にいるあいつ、ネモこと根元(ねもと)さんだった。

 進級初日の自己紹介ではいきなりカミングアウトをかましてきて随分と驚かされたりしたもんだ。

 正直なに考えてんのかよくわからん奴だし、キスする相手としてはどうかと思う。

 たぶん私のことを嫌ってはないんだろうが、ときたま妙につっかかってきたりするんだよなこいつ。

 

(あっ、そういや前に……)

 

 確かネモが自分の使ってたリップクリームを私に使わせたことがあったっけ。

 あの頃の私は「間接キスだー」なんて浮かれてたけど、今思うと馬鹿みたいだな。

 ネモの本性を知った今となっては、もうちっともあいつにドキドキしたりなんかしなくなったのだ。

 昔の私だったら色々期待しちゃってキス相手に選んでたかもしれないけど、今はそうじゃない。

 

(だから選んでなんかやらねー)

 

 他がパッとしないからもう田村さんでいいや。

 さっさと一枚目の写真に切り替えた私は目当ての相手を選択してやった。

 

『ふーん、そっち選んじゃうんだ?』

「えっ?」

 

 アニメ声がつまらなそうな様子でいきなり私の選択にケチをつけてきた。なんだこいつ。

 私としては無難に田村さんを選んだつもりだが、なんだか責められてるような気がして困惑してしまう。

 

『じゃあ二人目がんばってね』

「お、おう……」

 

 さっきまではムカつくほど甘ったるい声だったくせして、今は妙に無愛想な感じがする。

 なんなのもう。

 

「ねえ」

 

 ああ来た来た、田村さんかな。

 不機嫌そうにしているアニメ声はほっといて、私は声のした方を振り返る。

 

「あ……えっ!?」

 

 私は思わず声を上げてしまった。後ろにいたのは田村さんじゃなかったのだ。

 そこには私がパスしたはずの絵文字、もとい内さんが立っていた。

 

「えっ? な、なんで?」

「……」

 

 内さんは何か言いたそうな様子でこちらをじっと見つめている。

 

「あの、ちょっと、なんか違う人来たんだけど!?」

 

 慌てた私は手にしていたタブレットに向かって事態の異変を訴えた。

 確かに私は田村さんを選んだはずだ。なのに来たのは違う人。こりゃいかんだろ。

 

『えっ……? あっ、ほんとだっ!?』

 

 スピーカーの向こうからアニメ声の焦った様子が伝わってきた。

 どうやら本当に手違いのようらしい。なんだよしっかりしろよなー。

 

「誰と話してるの?」

「うおっ」

 

 いつの間にか私の背後にぴったりとくっつくように迫ってきていた内さんが肩越しにタブレットの画面を覗き込んでくる。

 

「私、あんたとキスしてこいって言われてここに来たんだけど」

「あー、いや、な、なんか手違いらしくって……」

 

 本当は内さんじゃなくて田村さんを選んだのだと、ずいっと顔を寄せてきて間近で喋る内さんに私は事情を説明してやる。

 内さんが近くにいるだけで妙に周りの気温が上昇したように感じられてしまうのは何故だろうか。

 

「別に私でもいいんじゃない?」

「えっ?」

 

 いきなり内さんがそんなことを言い出したものだから私は戸惑ってしまう。

 

「しちゃいなよ。ねっ?」

「あっ、えと、その……!」

 

 急に私の肩に触れてきたかと思ったら、内さんがそのまますっと目の前へと回り込んできた。

 それに驚いてしまった私は思わずタブレットを胸に抱くようにして身を縮こませてしまう。

 後ずさろうにも、内さんに肩を掴まれているので思うように動けない。

 

「ほら早く。さっさとやっちゃってここから出ようよ」

「あーいやー、て、手違いみたいだからちょっと待てば……」

 

 なんだか内さんは焦っているようだった。急な用事でもあるのだろうか。

 そんなら別に私とキスしなくても、手違いで呼び出されただけの内さんは少し待てば帰れるのに。

 

「時間がないのっ! ほらっ、ほらっ、しようってば!」

「ちょぉー! ちょちょちょ! ままま、待って!」

 

 内さんが強引にキスしようと迫ってきた。いくらなんでも慌てすぎだろうに、何考えてんだこの絵文字は。

 

「させてよぉぉ──!!」

「ああ──っ!!」

 

 尋常でない様子の内さんがとうとう力任せにキスしようとしてきたので、私はその絵文字顔にタブレットを押しつけて必死に逃れようとする。こんなのレイプだよ! 助けてヘルプ!

 

「ぎゃふっ」

 

 急に肩を掴んでいた力が消えたものだから、勢いあまって私は後ろにすっ転んでしまった。

 何が起こったのかわからなかったけど、頭を起こして辺りを見てみればもうそこに内さんの姿はなかった。

 

『ごめんごめん、今帰ってもらったから……』

 

 固く掴んだままでいたタブレットからやれやれといった様子の声が聞こえてきた。

 どうやらすんでのところで手違いは正されたらしい。

 

(なんなんだまったく……)

 

 まさかあんなにやべー奴だったとは。絵文字顔の中に潜む激情を垣間見た思いだ。

 ともあれどういう理由があったにせよ、あんな風にされては私としても拒むしかない。

 そもそも私は内さんなんか選んじゃいないのだ。ふぅとため息をついて私は起き上がる。

 

(ん? よだれか……?)

 

 さっきまで内さんの顔を押さえつけていたタブレットの裏面がなにやら少し濡れている。

 でもよだれが付いたにしてはさらっとしているので、ひょっとすると涙なのかな?

 私も怖さのあまり力任せにタブレットを押し付けてしまったから、内さんは痛かったのかもしれない。

 

黒木(くろき)さん」

「おっ」

 

 またしても後ろの方から聞こえた呼びかけに振り返ってみれば、そこには今度こそ田村さんの姿があった。

 

「さっき内さん来なかった?」

「あっうん、来たけど……」

 

 ポケットに手をつっこんでいる田村さんが早速そんなことをたずねてくる。そりゃまあさっきまでここにいたけども。

 

「あーやっぱり」

「?」

 

 案の定、といった感じで訳知り顔の田村さんがそんなことを言う。

 二人ともここじゃないどこかで顔でも合わせていたのだろうか。そもそもこいつらどっから来てるんだ?

 

「とりあえずしよっか、キス」

「あっうん……」

 

 わざわざ口に出すほどでもない私のささいな疑問だったけど、田村さんがすました顔でそんなことを言うものだからどうでもよくなってしまった。

 うわぁ、なんかちょっと緊張してきたかも。

 

「じゃあ目とじて」

「う、うん……」

 

 田村さんと向き合った私は言われるままに目をとじる。すると私の肩にそっと田村さんが手を置いたのがわかったものだから思わず身を固くしてしまう。

 こいつ、なんか手馴れてね?

 

(あっ、来た……!)

 

 田村さんの顔が近づいてきたのが目をとじていてもわかる。

 緊張でふぅふぅと息があがり気味の私に対して、田村さんの吐息は静かなものだ。

 

「黒木さん、そんなにのけぞられたら出来ないよ」

「えっ?」

 

 急に田村さんがそんなことを言ってきた。

 田村さんの接近を感じた私はどうやら反射的に身を引いてしまっていたらしい。

 

「もっと楽にしていいよ? 軽くキスするだけだから」

「あっ、ご、ごめん……じゃあ……」

 

 キスだキスだと言葉に出されると余計に緊張してしまうのだけど、ともあれふぅと息を吐いた私は姿勢を正して再び目をとじた。

 

「じゃ、するよ」

「うん……」

 

 改めて田村さんの顔がそっと近づいてきたものだから、今度はのけぞってしまわないようにと体をこわばらせる私。

 そうしてとうとう田村さんと私の唇が触れ合いそうになったのだけど、ここでまたしても私は反射的に身を引いてしまった。

 

「ちょっと黒木さん」

「あっ、で、でも……!」

 

 もう、といった感じで田村さんが声をかけてくるけど、体が言うことを聞かないんだから仕方がない。

 これはもう椅子に縛り付けてがんじがらめにでもしてもらわないとどうにもなりそうになかった。

 

「じゃあちょっとそこの壁に立ってもらっていい?」

「?」

 

 急に田村さんがそんなことを言い出したけれど、よくわからないながらも私は言う通りにしてみせた。

 なんだかすっかり田村さんのペースだ。

 

「ほら、これなら大丈夫でしょ?」

「あっ、う、うん……!」

 

 壁に立った私の目の前に田村さんが立ちはだかり、こちらにおおい被さりそうな姿勢で壁に手をついてきた。

 

(これあれだ、壁ドンだ!)

 

 田村さんの言葉に誘導されるうち、気付けばやけに恥ずかしい状況になってしまった。

 っていうかなんでこんなに手馴れてんのこいつ!?

 

「じゃあするよ?」

「あぅ……う、うん……」

 

 こうなったらいよいよ覚悟を決めなくてはならない。

 後ろはもちろん、右にも左にも逃げられなくなった私はもうまな板の鯉だ。

 気付けば心臓の鼓動が随分と早まってしまっていた私は、この落ち着かない状況が一刻も早く終わってくれることを願って目をぎゅっとつむる。

 んあぁぁ、体の震えが止まんねぇー。

 

「くくっ、ふ、ふふっ……」

「?」

 

 そうして決定的な瞬間の訪れを待っていた私だったけど、なにやら様子がおかしいことに気付いて目を開けてしまう。

 

「ご、ごめん……ふふ、ふふふっ……」

 

 さっきまで私にキスしようとしていた田村さんは、何故か口元を手で抑えて必死に笑いをこらえているようだった。

 えっなに? なんで笑ってんの?

 

「すぅー……」

 

 どうにか笑いを鎮めたらしい田村さんが、自分を落ち着かせるように目を閉じてゆっくりと鼻から息を吸う。

 だけども固く閉じられた口元はいまだちょっとにやけ気味だ。

 

「ごめんね、なんか可笑しくなっちゃって」

(こいつ……!)

 

 これはひょっとして私のうろたえる様子が面白かったから思わず笑ってしまったということなのだろうか?

 なんだかちょっと馬鹿にされたような気がして、私はむっとしてしまう。

 こっちは必死で緊張に耐えてたんだぞコノヤロー。

 

「た、田村さんは平気なの?」

「えっ?」

「いや、女同士でするってのにやけに落ち着いてんなぁって……」

 

 こいつはなんでそんなに余裕ぶっていられるんだろう。

 ささやかな反撃のつもりで私はさっきから気になっていたことを遠慮せずたずねてみることにした。

 

「も、もしかしてさ、け、経験あったりすんの?」

「……」

 

 どうだこいつめ。レズ疑惑浮上だぞ。

 私の問いかけを受けて黙った田村さんの様子に、手ごたえアリと感じた私は少しばかり調子を取り戻す。

 

「……黒木さんはどう思う?」

「えっ?」

 

 私の質問を受けて黙っていた田村さんだったけど、口を開いたかと思ったら逆にこちらへ問い返してくる。

 質問したのはこっちなのに、気付けば私の方が答える立場になってしまった。

 

「えっと……あ、ありそうかなーって……」

「誰と?」

「えと、それはー……そのー……」

 

 いつものすまし顔でそんなことを聞いてくる田村さんに気圧された私は、どう答えてよいものやらとしどろもどろになってしまう。

 なんだよもう、なんで私の方があたふたさせられるんだよ。

 

 ここはガチレズ疑惑のあるガチレズさんの名前でも出すべきなのだろうか?

 いやでもそれを私が言ってマジで二人がガチガチな間柄だと判明しちゃったら、それこそ明日からどんな顔で会えばいいんだろうか。ここはシラを切るべきかもしれないぞ。

 

 無難な答えを求めてあれやこれやと必死に考えを巡らせていた私だったけど、いつの間にか田村さんの顔が私の目の前まで迫っていたことに気付いた。

 

(あっ…………)

 

 一瞬だった。田村さんの唇がほんの一瞬だけ私の唇とくっついたその感触を、私は後になってからじわりと実感する。

 田村さんは私が考えごとをしている隙を狙って素早くキスしてきたのだ。

 

「こんな感じでいいのかな?」

「あう……」

 

 しれっとした顔でそんなことを言う田村さんに、私はいよいよなにも言えなくなってしまった。

 なんだか急に頭がぼうっとしてしてきて、顔がやたらと熱くなってきたのを感じる。

 

(手馴れすぎだろ! これ絶対経験者だよね!?)

 

 その黒目がちの瞳で私をじっと見つめてくる田村さんの視線が恥ずかしくて、目を合わせられなくなった私は顔をそむけてしまう。

 そうしてようやく頭に浮かんできた適当な言葉でこの妙な雰囲気をごまかしてやろうと再び前を向いた私だったけど、もうそこに田村さんの姿はなかった。

 

「は────……」

 

 やれやれだ。キスひとつでなんでこんなにあたふたしなきゃならんのだ。

 いまや並の女子高生以上の人間強度を持つに至った私といえども流石に疲れてきたぜ。

 

『二人目クリアおめでとー。じゃあ次はいよいよ最後だね!』

 

 それまで大人しく黙っていたアニメ声が、頃合を見計らってゲームの進行を促してきた。

 正直もうさっきのでお腹いっぱいな気分だから、私としてはそろそろ勘弁してほしいところなんだが。

 

(しちゃった、あいつと……)

 

 今になって田村さんとのキスの余韻がやってきたものだから、自分の唇をそっと指先で撫でてしまった。

 なんだかちょっと良い匂いがしたかもしれないと、田村さんの残り香を感じながら私はそんなことを考えてしまう。

 

(次はヤンキーがいたりして……)

 

 ともあれゲームを進める気になった私は、最後のキスへと向かうべくタブレットを操作するのだった。

 

 




つづく


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原幕キス祭り(下)

(ほーらやっぱりいた!)

 

 手に持つタブレットの画面にはあのヤンキーの不機嫌そうなツラが映っていた。

 私の知り合いばかりを候補者に出してくるこのゲームのことだから、例によってこいつもぶっこんでくると思ってたぜ。ミエミエだっつーの。

 

 さあどうしたもんかなー。

 タバコばっか吸ってそうだし、ヤニ臭かったりしたら嫌だなぁ。ヘタしたらいきなりキレて殴ってきたりするかもしれんし……。

 どうせキスなんてしたこともないんだろうな。それこそ馬鹿みたいに意地はって本当に餓死するまで拒否しやがる可能性だってある。

 経験者の私はもうどうってこたぁないが、ピュアなヤンキーにゃ少々刺激が強すぎるかもだ。

 

(こいつはダメだな、次いこ……)

 

 少し考えてから私は早々に見切りをつける。時間は有限なのだ、迷ってる暇なんてない。

 ああでも、ヤンキー以外の私の知り合いでキスしてやってもよさそうな相手となるとあんまし思いつかないな。

 

 絵の描ける安藤(あんどう)はどうだ? あいつ私のこと好きみたいだし……。いや、でもあれとキスすんのはなんかやだな。

 コオロギの友はどうだろうか? ふむ、まあ悪くないかもな。よく考えたら普段付き合いのない相手の方がやりやすいもんな。

 おお、そういやクラスに妙な顔してるのがいたな。前に騎馬戦で見かけたやつ。あれでもいいぞ。なんの後腐れもなくできそうだ。

 ともあれ私はタブレットを操作して二人目の候補者の写真を呼び出してやる。さあどんなやつが出てくるのかなっと。

 

(あっ!? だ、だめっ! この人はダメだってば……!)

 

 画面に映し出されたのは私の前の席にいるクラスメイトの加藤(かとう)さんだった。

 やはりこのゲームは意地が悪い。私が例え死んでも選べそうにない相手をわざわざこうして候補者にしやがるんだから。

 こんなの爆弾だよまったく。

 

 ああでも、もし私が加藤さんを選んでしまったとしたら、果たしてあの人にどう思われてしまうだろうか。

 いやいや、もしかしなくてもきっとドン引きされるに違いない。

 こんな破廉恥なゲームに巻き込もうとした私のことを嫌いになってしまうかもしれない。

 変なやつだって、気持ちの悪いやつだって思われてしまうかもしれない。

 

 そんなの耐えられない。考えただけでもめまいがしそうだ。嫌な汗が出るわホント。

 やっぱりもうヤンキーでいいや。一発ブン殴られるの覚悟でこっちから隙を見てぱっとキスでもしてやりゃ、それで私はこの部屋から出られるんだ。そこはもう我慢してやろう。

 

(ふぅ、やれやれ……)

 

 そうして一人目の候補者へと写真を戻そうと画面へ指を伸ばす私だったけど、ふと思いとどまってしまう。

 

(三人目……)

 

 そうだ、まだあともう一人候補者がいるじゃないか。もう半分ヤンキーに決めたようなもんだけど、まだ時間はある。

 最後にちょっと確認してみてもいいだろう。もしかしたら手頃なのがいるかもだしな。

 そんな事を考えながら、ものは試しに『3』と書かれたボタンをひとまず押してみる。

 

(え……? えぇ────……!?)

 

 違った。本当の爆弾は三人目にこそ潜んでいた。うそだろ、まじかよ。

 こんなの選べるわけがない。絶対に絶対に選ぶわけにはいかないんだ。

 

「せんぱい……っ」

 

 画面の中では黒髪の美少女がこちらを向いて微笑んでいた。

 今となってはその姿に随分と感じ入るものがあり、胸を苦しくさせる。

 気が付けばタブレットを持つ私の手は震えだしてしまっていた。

 

『十秒前でーす』

 

 そんな私を追い立てるように、時間切れが近づいてきていることをアニメ声が知らせてきた。

 早く写真を切り替えねばと思うのに、画面の中の先輩に見入ってしまってなかなか行動に移ることができない。

 何をもたついてるんだ私は。何を躊躇することがあるんだ。早くしないと本当に先輩を選んでしまうはめになる。

 さあ、押すぞ。一人目に戻すぞ。いでよヤンキーよ。ほらっ、押せっ、押せったら。

 

(どうしよう、どうしよう……!)

 

 戻れない。なぜだか一人目に戻るためのボタンを私は思いきって押すことができない。

 このままだと大変なことになるぞ、早くしろ私。

 先輩を選んじゃだめだ。先輩とキスなんて、そんなのお願いしちゃ絶対にダメだ。

 

『五秒前ー、よん、さん……』

(はやくっ、はやく押さなきゃっ……!)

『にー、いち』

(あぁ──……っ)

 

 カウントダウン終了直前でとうとう決断を放棄した私は目をぎゅっとつむってしまった。

 そのことが一体どういう結果を招くのか。もうなにも考えられない。

 

『はい決定~。時間切れです』

 

 手元のタブレットから候補者決定を告げる声が聞こえてくる。

 その候補者が誰なのか私はわかっている。先輩が選ばれてしまったに違いないのだ。

 勝手にヤンキーが選ばれていたなんてこと、きっとありはしない。

 私はなんてことをしてしまったんだ。

 

 先輩が来る、来てしまう。

 目を開けることのできない私は背を丸めてタブレットをぎゅっと抱きしめたまま震えてその場に立ちすくんでしまった。

 これがただの夢だったらどんなにいいか。ここらで一発目が覚めでもすれば、ああよかったと安堵できるのに。

 

「智子ちゃん」

「ひゃうっ!!」

 

 背後から呼びかけられた私は反射的に背筋が伸びて思わず情けない悲鳴をあげてしまう。

 その柔らかな声に私の心臓はもう破裂しそうだった。

 忘れるはずもない。それは確かに私の先輩、今江(いまえ)さんの声だったのだ。

 ドッ、ドッ、ドッと、先輩にまで聞かれてしまうのではと心配になるほど胸の辺りから音が鳴り続ける。

 

「どうしたの?」

 

 背を向け続ける私を心配したのか、先輩が改めて声をかけてくる。

 いよいよ観念するしかなくなった私は、下をうつむいたままおずおずと遠慮がちに先輩の方へと向き直ってみせた。

 視線の先にはきれいに揃えられた先輩の靴先がある。姿勢のいい人なんだなと、そんなことを思ってしまう。

 

「あっ……あのっ、おっ、おひ、おひさしゅっ……!」

 

 お久しぶりです、だなんて先月の卒業式で会ったばかりの先輩についそんなことを言ってしまう。

 なんだかあの時のことがもう随分前のことのように感じられてしまうのだ。

 まさかこんな形でまた会えるなんて思ってもみなかった。

 

「ふふっ……」

 

 そんな私の言葉にもなっていないかすれ声をどう受けとったのか、先輩がくすっと笑うような吐息をついた。

 

「ほんとだね、なんだか久しぶりみたい」

「あっ、そっ、そですね……!」

 

 なんとも奇遇なもので、どうやら先輩も同じ気持ちでいたらしい。

 ああ、それにしても顔をあげられない。とてもではないが今の私は先輩の顔を見ることができない。

 だって先輩は私とキスするためにここに来たに違いないのだから。

 数ある候補者の中から私が先輩を選んでしまったことを、きっと先輩の方もわかっているはずなのだから。

 

「だいじょうぶ?」

「えっ、な、なにが……です?」

 

 少し前かがみになったらしい先輩が、私に顔を近づけてそんなことをたずねてくる。

 

「顔、すごく真っ赤だよ?」

「あっ! べ、べつに、だいじょぶです……っ」

 

 ミシミシと、胸に抱えるタブレットが音を立てる。私が強く抱きしめてしまっているせいだ。鳴り止まない心臓の音を先輩に聞かれてしまわないよう、こいつでフタをしてしまわないといけない。

 手ににじむ汗のせいでうっかりすべり落としてしまいそうだ。

 

「ねえ智子ちゃん」

 

 また先輩が私の名前を呼んだ。

 以前までは私のことを“黒木さん”と呼んでいたのだけど、卒業式の日にお互い自己紹介したあとはこうして下の名前でちゃん付けして呼ぶようになったのだ。

 親戚の人たち以外でこんなふうに呼んでくれるのは先輩ただ一人だけだ。

 

「キス……しなきゃいけないんだよね?」

 

 わざわざ呼び出したのはこっちなのだから、本当は私から切り出さなければいけない本題に先輩の方から踏み込んできた。

 その言葉を受けて、私の体はいよいよもって震えが止まらなくなってしまった。

 ああ、そうです。そうなんです。キスの相手を選べと言われて、私はあろうことか先輩を選んでしまったんです。

 選んじゃダメだ、選ぶなんてありえないって思っていたくせに、本当は先輩が相手だったらいいなって心の底で思ってしまったんです。

 

「しゅ、しゅみません……! わ、わたし、ほんとは、え、選ぶつもりじゃなくて……!」

 

 なのに口から出るのはこの期に及んで苦しい言い訳だった。

 私が先輩とキスしたいと思ってしまったなんて、知られたくなかった。

 そんなことを考えるいやらしいやつだったなんて、この人にだけは思われたくなかった。

 

「わ、わたしなんかとっ、い、いやだと思うけどっ……ほ、ほんと、すみませんっていうかっ……」

 

 私はただひたすらに低姿勢で先輩にあやまる。

 そうすることで私に他意はないのだと、いやらしい気持ちなど微塵もないのだと先輩に思わせたいからだ。

 こんな状況でも私は自分の心を守りたくて仕方がなかった。例え先輩をあざむくことになってしまってもだ。

 

「そんなことないよ?」

 

 苦しい弁解を搾り出す私に、小さい子供をあやすような感じで先輩がそう言った。

 そのやさしい言葉の中に、私は求めていた先輩からの許しを得られる兆しを感じ取る。

 

「私、智子ちゃんとキスするの全然いやじゃないもの」

 

 その言葉に私の体はひときわ大きく震えてしまう。私が言ってほしかったことを先輩がついに言ってくれた。

 この人ならきっとそんな風に言ってくれるんじゃないかと、あさましくも期待していた私はそれに飛びつかずにはいられない。

 

「あっ、そっ、そなんですかっ……? よ、よかったです……っ」

 

 いちいち噛んでばかりの私だったけど、いま口に出せる精一杯の言葉でそれに応えてみせる。

 

「智子ちゃんの方こそいやじゃない?」

「あっ、どってことないですっ、自分、全然へーきなんで……っ!」

 

 この受け答えはちょっと変かもしれないなと思いつつも、私は先輩の問いかけにそう返した。

 よかった。これでもう先輩が私を嫌いになったりすることはないはずだ。きっと大丈夫だ。

 ともあれ先輩のお許しが出たことで私はようやく顔をあげることができた。

 タブレットの画面越しなんかじゃなく、ちゃんとじかに先輩の姿を見ておきたかったのだ。

 

(制服じゃないんだ……)

 

 当たり前だけど先輩はもう原幕(はらまく)の制服なんて着ていなかった。

 そのかわりにショピングモールなんかで見かけるおしゃれな女の人たちと同じような格好をしていたのだけど、はじめて目にする先輩の私服姿が珍しくて私は思わずじろじろ見てしまう。

 さすが女子大生ともなると違うもんだ。

 

「なぁに?」

「あっ、な、なんでもないですっ」

 

 あんまりじっと見ていたものだから、変に思った先輩に首をかしげられてしまった。

 そんな姿もすごく様になっていて、本当にどこに出しても恥ずかしくない美少女っぷりだ。

 いや違うか、先輩はもう少女じゃないもんな。女子大生っていったら大人の仲間入りする年頃だもんな。

 もはや先輩は高校生じゃないし、原幕の生徒でもない。そのかわりに今は私が三年生で、下級生たちから先輩と呼ばれる立場になってしまったのだ。

 先輩が学校にいるうちにちゃんとした関わりをもてなかったことを、私は少し後悔していた。

 

「じゃあ、ちょっとだけ我慢してね」

 

 一言そう断って目の前までそっと歩み寄ってきた先輩が、私を支えるようにして両肩に手をそえてきた。

 緊張ですっかり息があがっていることを悟られないよう、私はゆっくりと慎重に呼吸を繰り返す。

 だけども小刻みに震え続けるこの肩を通して、きっと私の動揺は先輩に見抜かれているに違いないのだ。

 肩を支える先輩の手は暖かく、そしてやわらかい。

 

 先輩の方を見なくっちゃ。前を向かなくっちゃ。

 それまで先輩と目を合わさないようにしていた私だったけど、意を決して目の前に立つ人と正面から向き合ってみせた。

 

(先輩、真っ赤だ……)

 

 少し顎を引いて私を見つめていた先輩の頬や耳には誰の目にも明らかなほどに赤みが差していた。

 こんな様子の先輩ははじめて目にしたものだから、私はごくりと唾を飲み込んでしまう。

 さっきまではあれだけ恥ずかしくて中々顔を向けられなかったはずなのに、一度そんな先輩の顔を見てしまったらもうそこから目が離せなくなってしまった。

 

(先輩も恥ずかしいんだ……)

 

 私だけじゃない。先輩だっておんなじなんだ。

 私はそんな先輩のことをかわいいと思った。

 

 先輩はまじめだからきっとキスなんてしたことないのかもしれない。

 どうかそうであってほしいと私は思った。誰とも経験のない先輩のままでいてほしかった。

 そしたらきっとこれが先輩にとってのファーストキスになるのだから。

 

 先輩にとっての特別になりたい。

 今までずっと先輩との関わりを避けてしまっていたくせに、今さらそんなふうにワガママな気持ちがわきあがってしまった。

 私にとっての先輩が特別であるように、先輩にもおなじように私のことを特別に思ってほしいのだ。

 まさかまた先輩に会えるとは思っていなかったから、私はこの降ってわいたチャンスを前にして貪欲になってしまっていた。

 

「お、おねがいしますっ……」

 

 かすれた声でそう言ってから、私は少し上を向いた姿勢のままでぎゅっと目をとじた。

 それを受けてか私の肩を支える先輩の手に少し力が入る。

 そうしてしばらくしたあと、先輩の吐息がはっきりと感じられるほど顔が近づいてきたのがわかった。

 

 先輩の吐息は少し乱れ気味で、やはり緊張しているらしいことが伝わってくる。

 私の方もいよいよ息があがってきて、もはや呼吸の乱れをとりつくろうことができなくなってしまっていた。

 来る。来る。来た。来た。あっ──

 

 ◆

 

 密着していたとても熱いその感覚が、やがてそっと身を引いたことを感じて私はようやく我にかえった。

 うっすらと目をあけてみれば、私の肩から手をおろしてふぅとため息を漏らす伏せ目がちな先輩の顔があった。

 どうやらキスが終わったらしい。一体どれくらいのあいだお互いがくっついていたのか、私にはまるで感覚がない。

 胸元のタブレットをずっと強く抱きしめていた私の手はすっかりしびれてしまっていた。

 

 一眠りするぐらいの長いあいだだったような気もするし、そもそも最初からキスなんてしてなかったようにも思えてしまう。

 なんだかまだ実感がわかなくて、まるで立ったまま不思議な夢を見ていたような感じだ。

 先輩の良い匂いが私を包んでいたものだから今もまだ夢心地が続いている。

 

「しちゃったね」

「ふぁ、ふぁい……」

 

 まだ赤い顔をしている先輩が照れ隠しのように微笑みながらそんなことを言う。

 ああ、やっぱり本当に私たちはキスしたんだ。

 ようやく緊張を少しばかり解いた私の方もふぅ──とため息をついてしまった。

 そうすると急に足に力が入らなくなって、うっかり前のめりに倒れてしまいそうになった。

 

「あぶないっ」

 

 それを先輩が咄嗟に支えてくれたものだから、そのまま私は先輩の服にしがみつく姿勢になってしまった。

 取り落としてしまったタブレットが床に落ちる音が部屋の中に響く。

 

「だいじょうぶ?」

「あっ、しゅ、しゅみません……っ!」

 

 先輩の胸元へ頭を預ける形になった私の耳に、どっどっどっと心臓の鼓動が聞こえてくる。

 

(ああ……一緒だ、私と……)

 

 先輩の胸の中も私と同じようにこんなにも高鳴っていたんだ。

 そのことが無性にうれしかった。こんなふうに胸をどきどきさせている先輩のことが、私はかわいくてたまらなくなった。

 だけどもそんな先輩はもう原幕の制服を着てはいない。校内で偶然先輩に出くわすなんてことは金輪際ないのだ。

 

 私は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。こんなにも素敵な先輩がいたのに、どうして今まで素直になれなかったんだろう。

 先輩にもっと自分から声をかけてみればよかった。運よく先輩と会えたなら、恥ずかしがって逃げたりせずもっと色んなことを話してみればよかった。

 先輩のことをもっと見ていたかったし、私のことを見ていてほしかった。

 

 もうなにもかもが遅かった。

 先輩はもういないんだ。今までずっと私のことを気にかけてくれていた先輩は遠くへ行ってしまったんだ。

 本当は少しどころじゃない、実際のところ私は激しく後悔していたのだった。

 

「ぅ……うぇ……えぐっ……」

 

 そのことが急に悲しくなって、より一層先輩にしがみついた私はとうとうみっともなく泣き出してしまった。

 こんなのすごく迷惑かもしれないし、先輩の服だって汚してしまうけど、でもこの人ならきっと許してくれるように思えて私は甘えてしまう。

 

 すると私の頭と背中とに先輩の手が回されて、きゅっと自分の方に抱き寄せるようにして包み込んでくれた。

 そのことがうれしくて私は益々先輩の胸の中で嗚咽を漏らしてしまう。

 

(そうだ……)

 

 私はふとあることを思い出した。

 もし先輩にまた会うことができたら伝えておきたいことがあったのだ。

 

(ありがとうって、いわなくっちゃ)

 

 ひとりぼっちだった私のことを、見ていてくれてありがとう。

 誰にも気付かれなかった私のことを、見つけてくれてありがとう。

 

 私、先輩がしてくれたのと同じことを誰かにしてあげられたらって思ってるんです。

 私なんかが先輩みたいになれるなんて思えないけど、それでも少しくらいは与えてあげられる人になれたらって、そう思ってるんです。

 

 次から次へと伝えたいことが溢れてきて、胸がいっぱいになってしまう。

 でも言わなくっちゃ。次にまた先輩に会えるチャンスなんてあるかどうかわからないのだ。

 いま顔をあげて先輩にちゃんと気持ちを伝えないと、きっとまた私は後悔してしまう。

 

「せ、せんぱい……」

「うん?」

「あの、えと、その……」

 

 その胸元にうずめていた顔をあげて、私は改めて先輩の顔を見やる。

 泣きはらした私はきっとひどい顔をしているのだろうけど、先輩はそんなこと気にせず私の話を聞いてくれるはずだ。

 

「私、あの、ふ、ふわっ……」

「?」

 

 あっ、いかん、くしゃみが出そうだ。しんじらんねー、こんなタイミングで来るかフツー?

 うわー、止まれ、止まれったら。

 

「っくしゅん!」

 

 せめて先輩にみっともない顔を見せてしまわないようにと、咄嗟に身をよじった私は口元を手でおおって控えめにくしゃみをした。

 

「あっ、す、すみませ……」

 

 まったくどうしてこう格好がつかないんだろうと、自分の間の悪さに呆れつつも改めて前を向いたときには、もう先輩の姿はそこになかった。

 

「…………」

 

 こんなのってあるか。もうちょっと待ってくれたっていいじゃないか。

 意地の悪いタイミングで先輩を帰してしまったこのゲームの仕掛け人のことを、私は心底うらめしく思った。

 まだ体に残っていた先輩のぬくもりが段々と消えていくのが感じられたものだから、さっき泣いたばかりなのにもう一度泣きたくなってしまう。

 

『おめでと~。三人目クリアだね!』

 

 床に落っこちてたタブレットから聞こえてくるのんきな声がしんとした部屋の中でやけに響く。

 ずずっと鼻をひとすすりした私は、とぼとぼとした足どりでタブレットを拾いにいってやる。

 

『ねえねえ、どうだったー?』

「なにが?」

『ほら、キスした感想』

「……べつに」

 

 なんとも無神経な質問をしてくるやつだ。デリカシーゼロかよおまえ。

 

『えー、色々あるでしょ? 特にさっきのなんてすごかったよね』

「うるせー死ねノゾキ魔ヤロー」

 

 はったおすぞこら。

 私と先輩がキスするところをどっからか覗き見していたであろうこいつのことが私は気に入らなかったから、口調も自然と刺々しくなってしまう。

 

『あはは、ごめんごめん……。あっじゃあ最後に一つだけ聞いていい?』

「なに?」

『私は誰でしょう?』

「は……? いや知らんけど」

 

 アニメ声がやぶからぼうに妙なことを聞いてきやがった。だけどそんなこといきなり聞かれても答えられるわけがない。

 

『知ってる人だよー』

「知らん」

 

 そんなこと言われてもわからんっつーの。

 あれか? きーちゃんか? そうだ、きーちゃんならサイコパワーとか使ってこのおかしなゲームを仕組んだりとかできそうな気がする。

 というのはもちろん冗談なのだけども。

 

『本当にわからない?』

(なにこいつ……)

 

 しつこいぐらい質問を繰り返してくるアニメ声だったから、いい加減私は気味の悪いものを感じはじめる。

 聞き覚えのない声でしゃべるこいつのことなんて私が知るわけがないというのに。

 あっもしかして川本(かわもと)さんとかだったりして。

 

『そっかー、わかんないかー』

 

 答えることのできない私にしびれを切らしたのか、さも残念そうにわざとらしいため息をつくアニメ声。

 なんか知らんが馬鹿にされてるようで悔しいな。

 

「御託はいいから、もうこっから出してくれよ」

 

 これ以上こいつに付き合いたくない私はアニメ声のまわりくどい態度を無視するようにそう言ってやった。

 

『はいはい、じゃあ無事ゲームクリアってことで出してあげまーす。うえーい! やったね』

(んんっ!?)

 

 最後にアニメ声が変な声で口走ったその台詞に私はどきりとさせられた。

 デジャヴだ。こんなことが確かに前にもあったぞ。そうだ、あいつだ。

 

「え? ね、根元、さん……?」

「せいかーい」

 

 頭に浮かんだ推測を口に出した途端、タブレット越しにではなく背後から直接あのアニメ声が聞こえてきたものだから、私は慌ててそちらを振り返る。

 

「やっほー」

 

 そこには首にヘッドセットをかけたネモが立っていて、挨拶するかのように私に軽く手を振っていた。

 あまりに急な展開に理解の追いつかない私は、なんと応えればよいものかと言葉につまってしまう。

 

「黒木さん、気付くのおそいよー」

 

 すたすたと私の前まで歩み寄ってきたネモが愚痴るようにそんなことを言う。

 今はすっかり普段のネモの声だけど、この様子からすると今までタブレットから聞こえてきたあのアニメ声はこいつのものだったってことになる。

 

(ああ……ネモおまえそうか……目指してるんだもんな……声優……)

 

 やられた。今さらアニメ声の正体に気付いた私がなんだか馬鹿のように思えてくる。

 私のことを知っていて、アニメみたいな声で喋れそうなやつなんて一人しかいないのに。

 

「は────……」

 

 遠慮もクソもなく私は大きなため息をついてしまう。

 なんだかもう疲れちゃったな。こいつに色々言いたいことはあるけど、それも面倒になってきてしまった。

 一体誰の差し金なんだよとか、そもそもおまえが仕掛け人なのかよとか、しれっと候補者に混じってきやがってなに考えてんだとか、そうした諸々をこの場で問いつめてやる気力が今の私には残っていなかった。

 

「もう帰る……」

「うん、おつかれさま」

 

 それまで手にしていたタブレットをネモに押し付けてから私が一言そうつぶやけば、ネモも素直にねぎらうような言葉を口にする。

 

「じゃあ目とじて。それで帰れるから」

「あっうん」

 

 ネモの言葉を特に疑うこともなく私は静かに目をとじ、やれやれやっと帰れるぜと肩の力を抜いてみせた。

 だけどもその瞬間だった。

 やわらかくて熱っぽい感触が、なんの前触れもなく私の唇へそっと押しあてられたのだ。

 

(っ!?)

 

 驚いて目をあけた時には、もう私は見なれた地元の駅のホームに立っていた。

 辺りには利用客の姿がちらほら見えるけど、ネモの姿なんて影も形もなかった。

 

「なにいまの……?」

 

 確かになにかが私の唇に当たったはずだった。いや違う、正確には誰かに“キス”をされたのだ。

 すでに度々キスを経験してしまった私だったから、その形容しがたい感触を間違えるはずもなかった。

 果たしてその相手が誰だったのかなんて私にはすぐさま見当がついてしまったのだけど、それでもあえて考えないようにした。

 

 口元を手でおさえたまま私は改札へ向かって走り出す。

 ひんやりとした風が頬のほてりを冷ましてくれるようで気持ちがよい。

 早く家に帰らなくっちゃ。帰ったらなにをしようかな。

 今日あったことを弟に聞いてもらおうかな。いやダメだ、誰にも教えてやるもんか。

 

 このことは秘密なんだ。

 コオロギと、田村さんと、先輩との秘密なんだ。(あと絵文字もな)

 そしてそして。

 

(明日会ったら絶対とっちめてやるかんな……)

 

 秘密を共有するもう一人のことを思い浮かべながら、私はホームの階段を勢いよくかけあがっていった。

 




おしまい


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もこ式好感度測定機(上)

艦これの好感度測定機スレ的ガジェットをワタモテ世界に持ち込んだらどうなるかというお話


「ほらっ取ってこい」

 

 袋から取り出したササミのおやつをその辺にほうり投げてやれば、くいしんぼのあいつは一目散にそちらへ駆けていく。

 そうしてお目当てのものにはぐはぐとかぶりついて食べ終わると、ベンチに腰かける私のところへ戻ってきておかわりをねだる。

 

「もう食べたのかよ。もっと欲しいのか?」

「ンニャーン」

 

 こいつは地元の公園に住みついてるノラ猫なんだけど、何年か前に餌をやって懐かれて以来、今じゃそこそこ長い付き合いだ。

 学校帰り、ときたま私はこいつのためにこうしておやつを買い与えてやったりする。

 ぴこぴこと物欲しそうに動くイモムシみたいな短いしっぽを面白半分にそっとつまんでみたりするけれど、こいつはちっとも怒ったりなんかしない。

 私が手に持つ袋が気になりながらもお尻を持ち上げたりなんかして機嫌が良さそうだ。

 

「しゃあねえなぁ……ほれっこれで最後だ」

 

 袋の中に残っていた一片の干し肉を見せびらかしてこいつの気を引いてから、それを気持ち強めに投げてやった。

 すると少し離れた先の茂みに落ちていったものだから、おいしいものが食べたいこいつは慌てて茂みの方に走っていく。

 

「じゃあな」

 

 おやつも無くなったしそろそろ帰るかと、立ち上がった私は空になった袋をゴミ箱へ捨てにいく。

 

「ホニャ……」

「お? どうした?」

 

 おやつを求めて茂みの中にもぐり込んでいた筈のそいつが、なにも取らないうちから私の元へとんぼ帰りしてきて切ない声で鳴いた。

 

(ははーん、アレを見つけられなかったんだな。しょうがないやつめ)

 

 茂みの中に落ちたおやつを探し出すことが出来なくて、早々に諦めたこいつは再び私におかわりをねだってきたのだ。

 

(確かこのへんに……っと、あった)

 

 せっかくのおやつを無駄にしちゃいかんと、茂みの中に入っていった私が見当をつけた場所を足でかきわけてみれば早速お目当てのものを見つけることが出来た。

 私の後ろをついてきていた猫の鼻先に拾い上げたその干し肉を差し出してやれば、待ってましたとばかりに食いついて夢中でかじりはじめる。

 こんな簡単に見つかるんだからもっとちゃんと探せよなー。そんなんじゃこの弱肉強食の世界を生きてけないぞ。

 

(そりゃそうと……なんだこりゃ?)

 

 丁度おやつがあった辺りには他にも妙なものが落ちていたから、気になった私はそれを足先でつついて確かめてみる。

 

(大人のおもちゃ!?)

 

 白いプラスチックで作られているらしいそれは、片手で持てるぐらいの小さな機械みたいなものだった。

 てっきり如何わしいアイテムが捨てられているのかと驚いてしまった私だったけど、よくよく見ればどうもそうじゃないらしいことがわかった。

 

(なんに使うんだこれ……?)

 

 興味本位で拾い上げたそれを眺めてみるが、見たこともない機械だ。なんだかスタンガンっぽい形をしてるけど、そんな物騒なもんでもないらしい。

 機械の握り手の所には親指で押せるボタンがいくつかあって、先端には小さな液晶画面がそなえられている。

 クーラーのリモコンのようにも見えるけど、それにしちゃやけに凝った形をしてやがる。

 

 気になった私はそいつを持ったままさっきまで座っていたベンチに再び腰かけた。

 またなにか貰えると期待しているのか、すっかりおやつを食べ尽くした猫もベンチの上に乗っかって私の隣に座る。

 

 日のあたる場所で改めて得体の知れないこの機械を調べてみたところ、丁度握り手の所に小さく文字が刻印されていることに気がついた。

 白いボディの上に白い立体文字で彫られているからよーく目を凝らしてみないとわからないが、確かになにか説明のようなものが書かれている。

 

(好感度……測定機……?)

 

 説明書きの冒頭には、他よりも大きな字でそう書かれていた。続けて残りの説明書きにも目を通してみれば、この装置を使って他人からの好感度を測る事が出来るのだと謳っていた。

 

(はぁーなるほどねぇー……)

 

 どうもこいつは結局如何わしいアイテムであることには違いなかったようだ。

 詐欺まがいの玩具のくせに、なかなかどうしてしっかりした造りをしてやがる。

 

(こんなアホみたいなもん買うやついるのかよ)

 

 きっとこれを買った本人も、しばらく使ってみて自分が騙されたことを思い知ったに違いない。

 だからこうしてそのへんに捨ててったんだろうな。

 

(おっ……こいつ、動くぞ!)

 

 適当にボタンをぽちぽちと押していたら、突然液晶画面に光が灯ってカラフルな文字や図を映し出す。

 ご大層にカラー液晶なんか使ってやがんの。

 

(ふーん……これを、こうすんのか?)

 

 画面上にはこの装置の簡易的な使い方の案内が表示されていたので、ものは試しにと私のそばに座り込んでこちらを見ていた猫に装置の先っぽを向けてみる。

 

(測定、と……)

 

 そのまま握り手の所にあるひときわ大きな赤いボタンを親指で押し込んでみれば、画面が切り替わって円グラフとカウンターのようなものが表示される。

 するとグラフの中のゲージがぐんぐん増えていって、やがて伸びが止まりピピッと電子音が鳴ったら今度はカウンターに六〇%という数値が表示された。

 どうやらこれが測定結果ということらしいけど、いいのか悪いのかよくわからん数値だ。

 

「おまえ、私のこと好きなのか?」

「ンァァ……」

 

 そう言って猫の頭をうしうしとなでてやると、こいつは気持ちよさそうに目を閉じながら一鳴きした。

 懐いてるどうぶつの数値としてはこんなもんなのかもしれないな。

 

(いやいや、こんな数値デタラメに決まってんじゃねーか。もっかいやってみよ……)

 

 変に納得させられそうになった私だったけどそうはいくか。どうせ今のは適当な数値を出してみせただけに違いない。

 そう思って改めて猫を測りなおしてみるのだけど、なぜか結果はさっきと全く変わらなかった。

 

(ふーん……どういう仕掛けになってんだこれ?)

 

 こんなもん信憑性もくそもないが、ちょっと気になった私はこいつを使って他にもなにか測ってみたくなった。

 

「あ、ちょっといい?」

 

 公園の砂場で遊んでいたガキ共に一声かけた私は、ぽけっと口を開けてこちらを見上げていた一人を適当に選んで測定してみた。

 

(四〇%……赤の他人だとこんなもんってことか……?)

 

 見ず知らずの相手だとだいたいこれくらいが平均値なのだろうか。

 いやいやこれだって適当な数値かもしれないと思った私はその場にいた他の子たちのことも順に測ってやる。

 

(全員同じか……)

 

 赤の他人、というところが崩れない限りは誰であってもこの数値なのだろうか。詐欺グッズのくせして妙に一貫性があるな。

 益々気になった私は他に目ぼしい測定対象がないものかとキョロキョロしながら歩みだす。

 

「ワワワワワン! ワワワワワン!」

「うおっ!?」

 

 余所見していたのがいけなかったのか、飼い主に連れられ散歩していたポメラニアンの目の前を私が通り過ぎようとしてしまったものだから、驚いたそいつが激しい剣幕で吠え立ててきやがった。

 

「ラニーちゃん、ダメよ!」

「ギュルルルルル……」

「あっ、す、すみません……!」

 

 思わず謝った私は後ずさってポメラニアンと飼い主から距離を取る。

 そのまま一礼して去っていこうとする飼い主だったけど、ハーネスを引っ張られながらもポメはまだ私のほうを振り返って敵意むき出しで唸っている。

 

(あっそうだ……!)

 

 瞬時に思い立った私は、飼い主がこちらを見ていないことを確認すると装置を素早くポメのほうへ向けて測定してやった。

 そんな私の動きに目ざとく反応したポメが飛び跳ねてまた吼えてきたけど、そのやかましい声から逃げるように私はそそくさとその場を後にする。

 

(おぉ、一〇%かー)

 

 さっきからベンチの上で丸まっていた猫の隣に座った私は、装置が示した凶暴犬の測定結果を確認して面白いものを見たような気持ちになる。

 こちらに強い敵意をもってる相手に対してはきっちりこうして低い数値が出るみたいだ。

 

(なんなんだろうこれ……もしかして結構ガチで使えるやつなのかな?)

 

 本当に好感度が測れてしまう装置があるなんて聞いたこともないけど、色々試してみた感じだとあながちデタラメな結果を出すというわけでもないみたい。

 今度は私の知り合いを測ってみようかな。

 こいつは思わぬ拾いものをしたかもしれないと妙にワクワクしてきた私は、鞄からスマホを取り出してアドレス帳に登録されている一人の友人へと電話をかけた。

 

「あ、もしもしゆうちゃん? 私だけど……」

 

 ◆

 

「もこっち、面白いものってなに?」

 

 注文の品をトレイに載せて席に戻った私に、制服姿のゆうちゃんが早速たずねてきた。

 あのあと私はゆうちゃんに連絡して、この喫茶店で会おうと誘ったのだ。

 

「あっうん、これなんだけど」

「へぇ、なんだろう……」

 

 鞄から取り出した装置をおしぼりできれいに拭いてやってから、私はそれをゆうちゃんに手渡してやる。

 一応落っこちてたモンだからな、ばっちいままじゃゆうちゃんに渡せないぜ。

 

「それね、他人からの好感度を測れちゃう装置なんだ」

「そうなの? すごいね」

 

 私の説明を疑いもせずすんなりと受け入れたゆうちゃんが、感心したような様子で装置をしげしげと眺める。

 ゆうちゃんは私の言うことならこうしてすぐ信じてくれるのだ。

 

「そいつを誰かに向けて、そこんところの赤いボタンを押すと測れちゃうってわけ」

「じゃあもこっちのこと測ってみていい?」

 

 もちろんいいよと胸を張った私は、そのままゆうちゃんが測り終えるのを待つ。

 

「八〇%だって。いいのかなこれ……?」

「あーいいねー。うん、これは凄く仲良しな相手って意味だよ」

「そうなんだー、よかったぁ」

 

 数値を見せられた私がそのように返答してあげれば、良好な結果が出て安心したのか嬉しそうに顔をほころばせるゆうちゃん。

 随分と懐いてる猫が六〇%なんだから、八〇%といえばそりゃもう大の仲良しということなんだろう。

 どうやらこの装置はまたしても正確な数値を計測したらしい。大好きなゆうちゃんに対する私の想いをきっちり数字に表してくれたようだ。

 

「じゃあゆうちゃんも測ってあげよっか?」

「うん!」

 

 お返しとばかりに今度は私がゆうちゃんのことを測ってあげる。

 こんなのわざわざ測らなくても結果はわかりきっているけど、それでもゆうちゃんが本当は私をどう思っているのかが多少は気になるのだ。

 

「あっおんなじだよ、八〇%だって」

「ほんとだー」

 

 わかっちゃいたけど、私とゆうちゃんの気持ちはやっぱりおんなじだったことがわかって一安心だ。

 

「ゆうちゃんは私のこと好きなんだね」

「うん、大好きだよ」

 

 私の問いに対して臆面も無く素直に自分の気持ちを口にするゆうちゃん。

 気恥ずかしいやりとりだけども、期待していた通りの答えが返ってきて私は益々ゆうちゃんのことが愛おしくなった。

 それにしてもこの装置は中々のものだ。私たち二人の親密な関係をこうも的確に数値化してしまうなんて、ただものではないぞこいつは。

 

「ねえ、それでこみちゃんのことも測ってあげようよ?」

「えっ? あ、えーと……」

 

 突然ゆうちゃんがそんなことを提案したものだから私は言葉につまってしまう。

 同じ席でさっきから私たちのやりとりを黙って見ていたそいつのことを、ゆうちゃんは測ってやれと言うのだ。

 

「あっ成瀬(なるせ)さん、私は別に……」

 

 いきなり話を振られて戸惑っている様子のそいつはコオロギこと小宮山(こみやま)さんだった。

 そうなのだ。この場には私とゆうちゃんだけでなくこいつもいるのだ。

 あろうことかゆうちゃんは先にこいつとここでこっそり会っていて、そこへ連絡を入れてきた私が逆に招かれたということらしい。

 

 帰りしなに偶然会ったなりゆきでということらしいが、このような背信行為は許されざることであるからして、今後小宮山さんとお茶する時は必ず私にも声をかけるようにと、私はきつくゆうちゃんに言い含めておいたものだ。

 コオロギのほうも私を出し抜いてやったといい気分でいたかもしれないが、そうはいくもんか。

 

「でもこの機械すごいよ? ちょっとだけ測ってもらおうよ」

 

 不思議アイテムを前にして好奇心がわいてきたのか、ゆうちゃんにしては珍しくやけに粘った様子を見せる。

 そんなゆうちゃんの可愛らしいお願いをモゴモゴ言い訳してどうにかかわそうとするコオロギだったけど、そのみみっちい態度がなんともケチ臭く感じられてしまう。

 

「いいじゃんか、ちょっと測ってやるよ」

「あっ!?」

 

 コオロギに装置を向けた私は有無を言わさず測定ボタンを押してやった。

 別にコオロギからの好感度を知りたい訳じゃないが、こんぐらいのことで何を渋る必要があるのやら。

 いやそりゃまあ、こいつのことだからどうせ低い数値が出るに違いないのだろうけど。

 

(ん……?)

 

 計測されたコオロギからの好感度は四五%だった。

 それこそあの凶暴犬に近い数値が出るかと思っていたのに、実際は公園で測ったあの子供達よりも若干上回る数値が出た。

 

(どうなんだこれ……赤の他人より多少マシってことなんか……?)

 

 思いもよらぬ計測結果に困惑してしまった私だけど、要するにこいつは私が思ってるほどこっちを嫌ってるわけでもないのだろうか。いやいやそんな筈はないだろう。

 やっぱりデタラメな数値を出しているだけなのかもしれないが、この数値をどう受け取っていいのかわからなくて釈然としない気持ちになってしまう。

 

「もこっち、どうだった?」

「あっ、う、うん……! えと、ふ、普通、かな……」

 

 ゆうちゃんが計測結果を確認しようと私の手元を覗き込んできたものだから、慌ててそれを隠した私はとりあえずそう答えてみせた。

 私としてはどっちみちゆうちゃんには計測結果を見せないつもりでいたのだ。低い数値が出たらゆうちゃん落ち込むもんな。

 

「えっ、普通なの……?」

「あ、えと、違くて……ふ、普通に良かったよ! さっきとおんなじぐらいかな……」

「わぁーそうなんだー」

 

 私が適当にごまかしてあげると、心配そうにしていたゆうちゃんの表情がまたぱぁっと明るくなる。

 真っ赤なウソをついてしまったけど、こんなしょうもないことでゆうちゃんの笑顔を曇らせてしまってはいけないのだ。

 

「じゃあもこっちも測ってもらおうよ、こみちゃんに」

「えー……」

 

 なんかやけにグイグイ押してくるなゆうちゃん。私とこいつの仲がいいとそんなに嬉しいのだろうか。

 

(おい、変な数値が出ても適当にごまかしとけよ)

(あ、お、おお……)

 

 ともあれ数値をリセットしておいた装置をコオロギに渡してやった私は、計測された数値を正直にゆうちゃんに伝えてしまわないようあらかじめ釘を刺しておく。

 どれくらいの数値が出てしまうのかが私にはなんとなく予想がつくのだ。

 

「あ、じゃあ測るぞ」

「おう」

 

 軽く使い方を教えてやった私は測定にそなえてコオロギの前に立ってやる。

 そうして私に装置を向けたコオロギが赤いボタンを押せば、すぐしないうちにピピッと音が鳴って計測が終了した。

 

「ほー、まあこんなもんかな」

「くっ……!」

 

 さてどんな数値が出たのかなとコオロギの手元を覗き込んでみた私だったけど、案の定というか予想通りというか、計測された数値は二〇%と随分低いものだった。

 そうそう、こんくらいが妥当だよ。となるとやっぱりデタラメに数値を出してるわけじゃないのかもしれないな。

 だけど私と同じようにその数値を確認していたコオロギは、押し黙っていてなんだか随分と不機嫌なようだった。

 こいつめ、わかりきったことのくせして今更ショックなのかよ。

 

「どうだった?」

「あっ、う、うん、よかったよ……!」

「そっかー、やっぱり二人ともすごく仲良しなんだね」

「そ、そうかなー……?」

 

 結果が気になったゆうちゃんが興味津々にそうたずねてきたから、私は予め用意しておいた答えを与えてあげた。

 ちっとも仲良しなんてことはないのだけど、ゆうちゃんのために私は話を合わせてやるのだ。

 そしたらゆうちゃんは胸の前で手を合わせて、これがもう幸せでたまらないといった顔をして満足げに微笑むものだから、私はそんなゆうちゃんに悪い気がしてしまった。

 

(おい、ちゃんと数値リセットしとけよ)

(うっさいな、わかってるよ……)

 

 うっかりゆうちゃんに本当の測定結果を見られてしまわないようにと、コオロギにそっと耳打ちした私は数値を初期状態に戻すボタンを押すよう促してやる。

 

「あ、あのさ……」

「あん?」

 

 無事証拠を隠滅し終わったコオロギが、装置を握り締めたままなにか言いたそうな様子で私に声をかけてきた。

 

「これ、ちょっとだけでいいから貸してほしいんだけど……」

「えっ?」

 

 唐突にそう申し出たコオロギだったから、私はどう返答したものかと思案してしまう。

 

「明日にはちゃんと返すからさ。なっ?」

「……誰に使うんだ?」

 

 なんだか嫌な予感がしてしまったから、私はそう尋ねずにはいられなかった。

 こいつ、さてはよからぬことを考えてるな。

 

「あ、と、友達とかかな……」

「ほんとに?」

「あ、うん、ほ、ほんと……」

「ウソつけ! どうせ弟に使うつもりだろうが!」

 

 目を泳がせたコオロギがみえみえの言い訳をするものだから、予感が的中した私は強引に装置を取り返そうとする。

 

「一回だけでいいから! 一万、一万出すから!」

「いらん! 返せよ!」

 

 興奮した様子で装置に並々ならぬ執着を見せるコオロギだったけど、私だってここは絶対に譲れないぞ。スケベ心を出した変態の思い通りにさせてなるものか。

 突然争い始めた私たちをゆうちゃんがあたふたした様子で見守っているけど、こればっかりは仕方がない。

 そんなこんなで結局ぐだぐだに終わる私たちのお茶会なのだった。

 

 ◆

 

「ただいま」

 

 玄関のほうから帰宅を告げる弟の声が聞こえてきたものだから、私は早速装置を手にしてどたどたと階段を下りていく。

 いつもより部活が長引いたのか今日に限ってやけに帰りが遅いんでやんの。弟のくせに私を待たせるんじゃないぞ全く。

 

「おかえり」

「あ? おお……」

 

 こうして出迎えてやった私へ、座り込んで靴紐を解いていた弟がちょっとの間を置いてからそっけない返事をした。

 そうしてこいつが靴を脱ぎ終わるまで、手にした装置を背に隠しながら私はその場に立ってじっと待ってやる。

 

「……なんだよ?」

「いや、ちょっとな」

 

 そんな私の様子を変に思ったのか、こちらを見上げてそう尋ねてくる弟。

 なにも知らないで無愛想を装っているこいつだけど、今から姉ちゃんがおまえの心を丸裸にしてやるからな。

 

「ほら、ちょっとそこに立ってみな。んでこっち向いて」

「……」

 

 ようやく靴を脱ぎ終えた弟が立ち上がったのを見計らって私はそう指示してやる。

 測定機の説明書きによればお互い顔を向け合って測らないとちゃんとした数値が取れないってことらしいから、ここは出来る限り正確に測ってやりたいのだ。

 

「あっ、ちょ、ちょっと……!」

 

 だけどそんな私のことを無視して弟はのしのしと二階へ上がっていってしまう。

 おい、なに逃げてんだコノヤロー!

 

「なあ待てって。すぐ終わるからさ、な?」

「なにする気だ?」

 

 愛想がないにも程がある我が愚弟を追って階段を上がっていった私は、あいつの部屋の前でようやくその腕を捕まえて引き止めた。

 

「ちょいと測るだけだよ、こいつでな」

 

 手に持つ装置を見せつけてやった私は、この脅威のメカのことを知らないでいる弟に機能を説明してやった。

 その的中率、たぶん一〇〇%。犬も猫も人間も等しく心の奥を見通してみせるスーパーマシンだ。

 こいつにかかれば万年仏頂面のおまえのことだってまるっと全部わかっちまうんだからな。

 さあわかったらそこに居直るがいい、姉ちゃん直々におまえを測定してやんよ。

 

「ちょっと! おい!」

 

 せっかく私が説明してやったのに、それを聞き終えた弟はなにも言わずさっさと自分の部屋に入っていってしまった。なに無視してんだよ!

 なんともじれったい弟のその態度だったから、少し苛立った私はすぐさま引き戸を開けて部屋の中にあがりこんでやる。

 

「測らせろよ! こっち向けオラァ!」

 

 こうして私が必死に訴えてみせても、弟がそれに反応する素振りは見られない。

 私の言葉を聞いているのかいないのか。特にこれといった反応を見せない弟はスポーツバッグを部屋の隅に置くと今度は上着を脱ぎ始める。

 

「着替えるから出てってくれ」

 

 装置に興味がないのか、こちらに背を向けたままため息まじりにそう言い放つ弟。

 なんだよ、せっかく面白いもん見せてやろうと思ったのによー。

 

「じゃあ後で測らせてくれる?」

「……」

 

 急ぐもんでもないかと思いなおした私がちょっとばかし譲歩してみるのだけど、それでも弟は特に返事をするでもなく部屋のカラーボックスから着替えを取り出しはじめる。

 ああこいつめ、きっとこのままウヤムヤにするつもりだな。そうはいかんぞ、ゆるさんぞ。

 

「おい、いい加減出てけよ」

「測らせてくれるまで出てかない」

「出てけ」

「やだ」

 

 しばらく成り行きを見守っていたこちらにしびれをきらしたのか、またしても弟が私を追い出しにかかる。

 出てけ出てけって、さっきからおんなじことばっかり。なにかにつけて語彙の少ないこいつだけど、もう少し言葉を尽くして人とコミュニケーションをとれないものかと悲しくなってしまう。

 

「なんだよ、おまえ恥ずかしいのか?」

 

 まあたとえ言葉少なであったとしても、姉である私としては弟のいわんとしてることはだいたいわかっちゃうんだなぁこれが。

 どうもこいつは興味がないんじゃない。その逆だ。興味津々すぎてこの装置のことを警戒しているのだ。

 要するに照れてるんだな。この装置で自分の気持ちが明るみになってしまうことを怖がっているわけだ。

 いくつになってもシスコンのくせしてなにを今更隠すことがあるんだか。

 

「あーほら、さっきのウソウソ、冗談。これただのおもちゃだし」

 

 私はそんな風に言って弟の警戒心を解いてやろうとする。

 一度測っちまえばこっちのもんよ。油断した所をピピッとやってやる。

 

「もしかして信じちゃった? マジでさっきの話、信じちゃったの? ねえ?」

「信じてねえよ……」

 

 私の挑発を受けてようやくこちらに向き直った弟が、つんとした表情で悔し紛れにそう言い返す。

 だけど私にゃわかる。そんなこと言っても本当は信じちゃったんだろうなぁ。

 強がりな言葉とは裏腹にまだ警戒が解けてないのか、今だって私の手にもつ装置に油断なく目を向けているのがわかるぞ。

 

「だったらいいよね、ほら」

「やめろ!」

 

 隙を見て私が装置を弟に向けてみれば、慌てたこいつがすぐさま私の腕を掴んでそれを制止しにかかったものだから驚いてしまう。

 

「な、なんだよ! 減るもんじゃねえだろ!」

「いいからやめろ」

 

 とうとう私は弟に力づくで装置を取り上げられてしまった。

 おいおいそこまですることねーじゃねーか。なにそんなにビビってんだよこいつ。

 

「それ私のだぞ、返せよ」

「おまえのじゃねーだろ」

「いやいや私のだって。今日公園で拾ったんだよ、それ」

 

 もともとガラクタみたいにその辺に捨てられてたんだから、元の持ち主なんてもういないようなもんだろうに。

 ん? でもこんなスゲー装置を簡単に捨てたりするもんなのかな?

 

「返して」

「だめだ」

「返せったら!」

 

 ひょっとしたらこの装置は捨てられてたんじゃなくて、誰かがうっかり落としてしまったものなのかもしれない。

 となると結構ヤバいもんを拾ってしまったのだろうか? 元あった場所にでも返しといたほうがいいのかな?

 ともあれ取り上げられてしまったままではそれすらも出来ないものだから、私はぴょんぴょん跳ねたりして弟の掲げられたその手から装置をどうにか取り返そうとする。

 

「こんにゃろー、なめんなっ」

「うおっ!?」

 

 とうとう私は木登りする猫みたいに弟の体にしがみつきながら、そのままてっぺんの装置目指してよじ登っていく。

 

「おい、あぶねえぞ馬鹿っ!」

 

 そう叫んだ弟の体がバランスを崩すのと、取り上げられた装置を私が掴んだのは同時だった。

 そうしてあっと思う間もなく、私たちは二人一緒になって倒れ込んでしまった。

 

「いってぇ……」

 

 弟はどうにか上手いことベットの上に倒れこんだようだけど、私の下敷きになってしかめっ面になってうめいている。

 一方の私もヒヤッとしたのだけど、弟が犠牲になったおかげで別にどこも痛いところはない。

 

「あ、だ、大丈夫か?」

「……」

 

 慌てて弟の体から下りてやって具合を尋ねてみた私だけど、ゆっくり体を起こした弟はふぅとため息をついて恨めしそうに私を見やってくる。

 装置を取り返すことに夢中で思わず無茶をしてしまったけど、ちょっとかわいそうなことをしてしまったかもしれない。

 そんな風に思う私の手には、ちゃっかり取り返していた装置が握り締められていた。

 

「そんなに測りたいんなら好きにしろ」

「へ?」

 

 なにやら観念したらしい様子で、弟は私にそんなことを言う。

 だけどもその口調はどこか投げやりで、少し苛立ちが混じっているようにも感じられる。

 

「あ、もしかして怒ってる……?」

「別に」

 

 うそつけ、姉ちゃんの目はごまかせんぞ。すっかりへそを曲げた時の弟ときたら、だいたいいつもこんな感じなのだ。

 

「測れよ、早く」

「お、おう……」

 

 弟に急かされた私は、とりあえずベッドから下りて弟と向き合ってみた。

 ぶっきらぼうな姿勢でベッドに腰かけたままの弟が、そんな私を鋭い目で睨みつけてくる。

 

「なんだよ、なんでそんな怖い顔すんだよ!」

「いいから測れって」

 

 突き放してくるような冷たい態度の弟を前にしていたら、思わず涙がじわっと滲んできそうになる。

 私は別にケンカしたいわけじゃなかったのに。こんなことなら測ってやるなんて言わなきゃよかった。

 さっきまでは重宝すると思っていた装置のことが、なんだか急につまらないガラクタに思えてくる。

 

「ったくよー、最初から大人しくそうしとけっつーの……」

 

 だけども弟にちょっと強く出られたぐらいでメソメソなんかしてちゃ姉としての沽券に関わる。

 内心の動揺を表に出してしまわないようブチブチと文句を言ったりして気丈を装いながら、私は弟に装置を向けて測定ボタンを押してやった。

 

(ん……?)

 

 測定が開始されると早速液晶画面のグラフに変化が生まれたのだけど、なんだか様子がおかしい。

 一端そこそこの値まで増えたかと思ったゲージが今度は逆にみるみる減少していったり、あるいは再び増えようとしたりするのだ。

 まるでなにかがせめぎあっているようにも見える安定しないグラフの挙動に首を傾げていると、やがて一定の値で安定したらしいゲージが動きをとめる。

 そうしてピピッと計測終了の合図が鳴ったのだけど、私は画面上に示されたその数値に全くもって納得がいかなかった。

 

(一五%って……マジか)

 

 コオロギに対する私の好感度だって二〇%ぐらいだったのに、それ以下とかありえんぞ。

 えっなに? こいつ私のことこんなに嫌いだったの……?

 

「もういいか?」

「えっ!? あ、う、うん……!」

 

 弟にそう尋ねられて返事をした私だったけど、思わず心の動揺が声に出てしまう。

 こんなのありえない。きっとなにかの間違いだ。測り方を間違えたのか? いやいや、そんなことはないはずだ。

 やっぱりこの装置はポンコツなのか? でもゆうちゃんの時はちゃんと測れたけど……。

 あれかな、ちょっとケンカしたみたいになってたからそのせいで数値がブレちゃったのかな。

 でも常時私に悪感情もってるコオロギですらまあまあのレベルだったし……。

 

 あれやこれやと色んな事が頭の中に浮かんでくる私だったけど、なんだかこれ以上弟の部屋にいるのが辛くなってきたものだから、考えがまとまらないうちにおぼつかない足どりで自分の部屋へと戻っていった。

 ひょっとしたら弟と揉みあってるうちに装置が壊れてしまったのかもしれない。そうだ、明日になったらクラスの奴らのことも測ってみて具合を確かめてやろう。

 

 ひとまずそう結論づけてこれ以上悩むことをやめたつもりの私だったけど、結局その日は色んなことが気になってなかなか寝付けなかった。

 

 




つづく


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もこ式好感度測定機(中)

「ほらこれ、貸してやる」

「えっ、いいのか!?」

 

 翌朝のホームルーム前、教室にいたコオロギに私は装置を差し出してやる。

 まさか貸してもらえるとは思ってなかったのか、椅子に座っているコオロギが目を丸くして私を見上げる。

 

「あ、じゃ、じゃあお金……」

「いらねえよ、昼メシんときまでには返せよな」

 

 するとコオロギが慌てて自分の鞄から財布を取り出そうとしたから、それには及ばないと私は金銭のやり取りを断る。

 ていうかマジで金払おうとすんなよ、なんか気持ち悪いぞおまえ。

 

 ともあれコオロギよ、てめーは実験台だ。

 装置を貸してやりゃきっと喜び勇んで弟を測りにいくだろうから、その結果を確かめてやろうじゃないか。

 どうせロクな数値は出ないだろうけど、まかり間違ってこいつを喜ばせるような数値が出るのならやっぱりこの装置は壊れてしまったのだということになる。

 

 そうして本日最初の授業を終えた私だったけど、トイレへ向かう際に廊下を走っていくコオロギの姿が見えた。

 どうも装置を手にしていたようだから、早速弟のことを測りにいくつもりなのかもしれない。

 

 やがてチャイムが鳴って次の授業がはじまったのだけど、他の生徒が全員席についている中でコオロギだけがまだ戻ってきていないようだった。

 一体どうしたのかとちょっと気になりはじめた私だったけど、やがてあいつはカラカラと力なく戸を開けて教室へ戻ってきた。

 なんだかその足どりはふらふらしてるようでやけに危なっかしい。

 授業に遅れたことを教師から注意されていたけど、あいつは気のない声で「すみません」と一言だけ詫びると自分の席へ崩れるようにして座り込んだ。

 

(なんだよ、別に壊れちゃいないのか……?)

 

 コオロギのそんな様子を受けて、私は何があったのかだいたい察しがついてしまう。

 あいつの落胆ぶりからすると、きっと正確ともいえる残念な測定値が出たに違いないのだ。

 いい気味だと思えないこともないけど、同時になんだかモヤモヤしてしまう。

 いっそコオロギがコオロギらしく飛び跳ねて小宮山コオロギになってしまうぐらいのデタラメに高い数値が出たのなら、私だって昨日の弟との一件は単なる装置の故障ってことで納得出来たのになぁ。

 

(でも絶対におかしいんだ……あんなの本当の好感度なんかじゃない)

 

 だいたい測定中の装置の動きもなんかおかしかったもんな。こう、ゲージが減ったり増えたりを繰り返してたし……。

 きっと時折調子が悪くなったりすることもあるんだろう。公園に捨てられてたっぽいのはどこかしらアレにそういう欠陥があったからなのかもしれん。

 

 ◆

 

「おい、装置」

「あ……うん……はい……」

 

 次の休憩時間、私はコオロギに装置を返すよう言いにいった。

 いまだにうつろな顔でいるコオロギだったけど、こちらの呼びかけに反応してのろのろとした動きで机の中から装置を取り出し差し出してくる。

 こんなに落ち込むなんて一体どんだけひどい結果が出たんだろうと気になってしまうが、カウンターを確認してみたらコオロギはちゃっかり数値をリセットしてやがった。

 

(このぶんだと一五%……いや、一〇%はありえるな)

 

 流石に実の姉の私がコオロギと同レベルで嫌われてるなんてことはないだろうから、きっとそれくらいの数値だったのかもしれない。

 ああ違う違う、そうじゃないぞ。油断すると昨晩のあのひどい測定結果を認めてしまいそうな考えが頭をもたげてくる。

 あれは故障か何かに違いないと昨日から何度も自分に言いきかせてるってのに。

 

(あっ、もしかしたら)

 

 ひょっとするとおかしいのは装置じゃなくて弟のほうなのだろうか。

 随分とへそ曲がりなあいつのことだから、あの時だけは装置が混乱してしまったのかもしれない。

 流石のひみつ道具も素直じゃない人間の心までは見通せないってわけだ。

 

(そうだよな……きっとそう……たぶん……)

 

 あれやこれやと都合のよい考えが浮かんでは消えるけども、そうしていくら自分に言い聞かせてみてもやっぱり心のモヤモヤは一向に晴れない。

 まったくもう、バカ装置め! 人を弄びやがってからに!

 

「それ……」

「えっ?」

 

 コオロギの前で立ちつくして物思いにふけっていた私だったけど、背後から突然声をかけられたものだからハッと顔をあげて振り返る。

 

「あ、な、なに……?」

 

 私に話しかけてきたのは、コオロギの隣の席に座っていたやつ。見覚えはあるけれど名前も知らないクラスメイトのひとりだった。

 一度も会話したことなんてないけれど、なんとなく違和感のある顔つきをしてるこのクラスメイトのことを私は知っていた。

 確か去年あった体育祭の騎馬戦でやけに張り切っていた妙なやつで、最近じゃあ休憩時間に教室の後ろのほうで人目を気にせずストレッチなんかしてやがる。

 

「この世界のものじゃない」

「は? あ、えーと……」

 

 私が手に持っていた装置を指さして、こいつはそんなことを言ってきた。

 

「こ、これのこと……?」

 

 私が装置を見せながら尋ねてみれば、それに同意するようコクンとうなずきやがった。

 そりゃまあえらく珍しい装置ではあるけど、いきなりそんなこと言われてもな。

 ひょっとしたらギャグのつもりなのかもしれないが、こいつと話したことないからどうリアクションしていいかわからないぞ。

 

「あっどうなんだろ……これ貰ったやつだから……」

 

 とりあえず無難な感じで返答してみた私だけど、こいつは私の手に持つ装置をじっと見据えていた。

 なんとなくマヌケな顔立ちをしてるくせに、黒目がちというよりも黒目しかないように見えるそのまん丸い目つきからは妙な圧力を感じさせられる。

 

「あっ、でもこれ、なんか色々測れるみたいで……け、結構面白いっていうか……」

「…………」

 

 居心地の悪さを感じながらも間を持たせようと私がどうにか言葉を続けてやったのに、こいつときたら特に反応もせずぽけっと口を開けてだんまりしている。なんか言えよ!

 

「えと、こうやって測ると……」

 

 なんとも面倒くさいやつに話しかけられてしまったなと思いつつも、話題をつなげるために私は手に持つ装置でこいつのことを測ってやることにした。

 

(んっ?)

 

 だけどもボタンを押したと同時に『ブブー』という電子音が鳴ったものだから、変に思った私は装置を確かめてみる。

 

(エラー? なんで?)

 

 液晶画面には測定失敗を知らせるメッセージが表示されていた。そのメッセージによれば『測定対象がありません』ということらしい。

 どうやら測る対象を装置が認識できていないからこんなことになっているみたいだ。

 

 測り方が悪かったのかなと改めてこの名も無きクラスメイトを何度か測りなおしてやる私だったけど、結局ブーブー鳴るばっかりだった。

 

(あー、やっぱどっかおかしいんだなこれ) 

 

 そう考えた私は内心ほっとしたような気持ちになる。

 弟が結構乱暴に扱ったからか、あるいは元から調子があまりよくなかったのか、やっぱり装置は本当に故障気味のようだった。

 いまのところはだいたい正確に測れてきたけど、弟の時みたくときたま怪しい数値を出すこともあるから、ちゃんと測れりゃラッキーぐらいのものなのかもしれない。

 

「あ、なんかちょっと壊れてるみたいだから……」

 

 とりあえずそう言い訳した私はさっと軽く手をあげてその場を離れることにする。

 そんな私の挨拶に言葉で返すでもなくクラスメイトはまたコクンとひとつうなずくだけだった。

 

(帰ったらもっかい測ってやろうかな……)

 

 席に戻った私は装置を手の中で遊ばせながらぼんやりとそんなことを考える。

 たった一回しか測らなかった弟のことをもう一度測定しなおしてみてもいいかもしれない。

 そんで今度こそ納得のいく数値が測れたらこの測定機は元あった場所に返してやろう。

 さっきのクラスメイトの指摘を信じるわけじゃないけど、確かに得体の知れない装置ではあったからそうしといたほうがいいような気もする。

 

「黒木さん、それなに?」

「えっ? あ……」

 

 椅子を引いて隣に座ってきたネモが、私の手にある装置を見ながらそんなことを尋ねてきた。

 

「マッサージ器? 肩こってるの?」

「あ、いや、ちがくて……」

 

 見当違いな憶測を口にするネモだったから私はそれを否定する。確かにマッサージ器なら持ってるけど、わざわざ学校なんかに持ってくるわけないだろ。

 

「これで人の好感度を測れちゃうんだよ」

「あーそういうのあるよねー」

 

 あはは、と軽い調子で笑ったネモは私の言ったことを本気にしてない様子だった。

 そりゃまあ当たり前だろうけど、もしや巷に溢れる馬鹿みたいな詐欺商品に私が釣られてしまったとでも思っているのだろうか。

 

「いや、別に私が買ったやつじゃないけどね? 知り合いがいらないからって渡してきたやつだから」

「ふーん」

 

 まさかその辺に落っこちてたものを拾ってきたなんて、そんなしみったれたことをする奴だと思われたくない私は適当な理由をでっちあげて二重に見栄をはってみせる。

 

「ねえ、ちょっと私のこと測ってみて」

「え?」

 

 興味がわきでもしたのか急にネモがそんなことを言ってきた。

 こいつとしては軽い気持ちでいるのかもしれないが、故障気味とはいえこの装置にかかればそのワザとらしいニコニコ顔の裏だって暴けてしまうかもしれないというのに。

 

「あ、じゃあ……」

 

 そういやネモが私のことをどう思っているのか、実際のところよくわからないんだよな。だったらちょっくら測ってやるのもいいかもしれない。

 こいつの場合はちょっと予測が難しいけど、まあ無難に五〇%台ってとこじゃないだろうか。

 そういうわけでとりあえずものは試しにと私は言われるままにネモを測ってやった。さっきと違って今度はエラーが出ることもなくちゃんと測定出来たようだ。

 

(おおっ……!?)

 

 そうしてカウンターに表示された測定値を見て、私は思わず面食らってしまった。

 

「どうだった?」

「あっ! え、えと、こ、こんな感じかな……」

「それいいほうなのかな?」

「あっ、わ、わかんない……わ、悪くはないんじゃないかなー……」

 

 結果を確認したネモが気安い感じでその是非を問うてきたのだけど、なんと言っていいのかわからず私は言葉を濁してしまう。

 

(えっなにこいつ、そんなに私のこと好きなの……?)

 

 ネモのやつを測ってみたら七五%だった。

 これまた驚きの測定結果だ、ゆうちゃんと五%しか違わないぞ。

 唯一無二の大親友なゆうちゃんが八〇%なんだから、それでいくと七五%という数値だって相当なものだ。

 そりゃ普段から挨拶したり軽く話したりはするけど、だからってここまでいい結果が出るほどの仲だなんて到底思えない。

 

(どうなんかなー……ちゃんと動いてたように見えたけど、また故障なのか……?)

 

 弟の時みたく測定中のゲージがおかしな動きをしていたというわけでもないし、なんだかよくわからない。

 別に悪い気はしないけど、仮にこの結果が正しいものだというのならそれこそ納得がいかない私は首を傾げてしまう。

 ともあれそうこうしているうちにチャイムが鳴って授業がはじまってしまった。

 

 ◆

 

「二人ともちょっとこれ使ってみて」

 

 机を合わせて一緒に昼メシを食ってた田村(たむら)さんとガチレズさんに、私は装置を見せてそうお願いしてみた。

 

「え、なにそれ?」

「あ、うん、なんか今日の運勢とか測れるやつで……」

 

 何に使うものなのか見当がつかないでいる田村さんが尋ねてきたものだから、そばにネモがいないことを確認しつつ私は装置の機能や使い方を二人に説明してやった。

 もちろん運勢を測れるなんてのはウソだけど、私としてはちょっくらこの二人にお互いを測らせてみたいのだ。

 特に仲が良さそうに見える田村さんたちだったから、きっと測定される数値も相当なものに違いない。

 実際に測ってみてだいたい私が思った通りの結果が出るのなら、今のところ正常に測定出来ているということになる。

 今日ウチに帰ってまた弟のことを測ってやる前に、私は少しでもこの気分屋な装置のコンディションを確かめておきたいのだ。

 

「まー子供のおもちゃみたいなもんだよ。こないだ従妹が私にくれたんだ」

 

 とはいえこの手の装置は下手すると人間関係に亀裂を走らせかねない危険もあることに思い至った私としては、この装置の本当の機能を田村さんたちに教えてしまうのはためらわれてしまう。

 大の仲良しだと信じていた相手が実はそうじゃなかったなんて、そんなことが明らかになった日にゃおおごとだ。

 特に田村さんは変に冗談が通じなそうっていうか、こんなのただの子供だましだとフォローしてやったとしても根に持ちそうな気がするんだよな。

 

「じゃあちょっと真子(まこ)さんのこと測ってもらっていい?」

「いいけど……」

 

 そう促しながら装置を渡してやれば、田村さんは手にしたそいつを早速ガチレズさんへと向けて測定ボタンを押してみせた。

 すぐしないうちにピピッと音が鳴って測定はスムーズに終了する。

 

「八〇%って出たけど、これってどうなんだろ?」

「あーうん、かなりいいね。絶好調って感じ」

 

 ほうほうなるほど。やはり私の予測はおおむね的中だ。

 ちょっと予想してたのよりも高めの結果だったけど、まあだいたいこんなもんだろう。

 

「だって。よかったね、真子」

「へー、どうやって測ってるのかなぁそれ」

 

 何も知らない二人はのんきにそんなことを言い合っている。

 田村さんとしては今しがた出た八〇%という数値はあくまでガチレズさんの今日の運勢を示すものだと考えているけど、実際はそんだけガチレズさんから好意を向けられてるってことだからな。

 むしろ田村さんのほうこそよかったねって感じだ。

 

「じゃあ真子、測ってみてよ」

「うん。えーと、これ押せばいいんだよね?」

 

 互いの役割を交代した二人が改めて測定を試みようとする。次は田村さんが測られてしまう番だ。

 まあこのぶんだとさっきとだいたいおんなじぐらいの結果が出るんだろうなー。

 しかし私とゆうちゃんに匹敵するほどとは、この二人の友情パワーもあなどれん。

 

「すごいねゆり。ほら、九〇%だよ!」

「あっほんとだ」

 

 カウンターを確認したガチレズさんが高揚した様子で結果を口にしたのだけど、それを聞いた私は耳を疑ってしまう。

 

(マジか……! 九〇%って……!)

 

 おいおいおいおい田村さん。

 やべーぞ、こっちの予想を軽くぶちぬきやがったぞこいつ。今まで測ってきた中でも最高得点じゃねーか。

 いやはやこれはなんとも。私とゆうちゃんの時よりも上回ってるなんて、どんだけガチレズさんのことが好きなんだろうか。

 なんだか田村さんの秘密を意図せず暴いてしまったうしろめたい気持ちになってしまう。

 

「黒木さんも測ってもらったら?」

「あっ、い、いいよ別に……! えと、ほら、今朝自分で測ったし……」

 

 田村さんがそんなことを言い出したものだから、私は咄嗟にそれを遠慮してしまう。

 ゆうちゃんたってのお願いでもなければ自分の心の中をおいそれと測定させるのはなんとなく気が進まないのだ。

 昨日コオロギのヤローには測らせてやったけどあれは特別なんだからな。

 気まぐれに測られでもしたら嫌なので、私はさっさとガチレズさんから装置を返してもらう。

 

(ま、とりあえず今のところはちゃんと動いてるっぽいな)

 

 カウンターに表示されたままの極端な結果をしげしげと眺めながら、私はこの装置が再び調子を取り戻してきたことを確認する。

 やはりこの装置は面白い。こう言っちゃ悪いがさっきの田村さんとガチレズさんの測りあいもひとり真実を知る私としては中々に見ものだった。

 いやまあ、田村さんのはちょっとシャレにならんかったかもだけど。

 

(……私が測ってやったらどんくらいになるのかな?)

 

 田村さんの横顔に目をやりながら、ふと私はそんなことを考えてしまった。

 最近はよく一緒にいたりすることが増えた私たち三人だけど、元々仲のよかった田村さんたちの間に私が後から入っていったような形なのだ。

 昼メシ時だっていつもおしゃべりを楽しんでいるのは田村さんとガチレズさんで、私はといえばもっぱらそんな二人からの振りに対して適当に相槌を打ったりするぐらいのことしかしていない。

 だからこそ田村さんがこちらのことを実際はどう思っているのかが、私はちょっとだけ気になってしまう。

 

「あ、あのさ!」

「え?」

「ちょっと測らせてもらっていい?」

「……別にいいけど、一緒じゃない?」

 

 田村さんに装置を向けて、私はそう切り出してみた。

 ついさっきお開きとなった運勢占いの話題を私がまた蒸し返したものだから、田村さんはちょっと訝しげな様子だ。

 

「あっうん、でも試してみたくて……」

 

 言い訳にもならない理由を口にする私だったけど、ともあれそのまま測定ボタンを押してみる。

 親友とまではいかなくとも普通に友達同士と言っていいぐらいには付き合いがあるわけだから、ひょっとしたら六〇%台はいくかもしれないな。これが猫なら随分懐いてるといっていいほどの好感度だ。

 まあ流石にネモの時みたく七五%ぐらいってこたないだろう。いや、ネモのあれは本当かどうかわからんけども。

 

(お…………おおっ!?)

 

 とかなんとか考えていたら目を疑うような数値がカウンターに表示されてしまったものだから、ネモの時みたく私はまたしても驚いてしまう。

 

「どうだった?」

「えと、は、八〇%だって……!」

 

 田村さんを測ってみた結果はネモのあの妙にオーバーな数値を更に上回るものだった。

 装置がバグってるのでもなければ、これが私に向けられている田村さんからの好感度ってことになるんだが……。

 

「そうなんだ。結構適当なのかなそれ」

「あっ、ああー、うんっ、そうかも」

 

 それなりに占いの結果を気にしていたのだろうか、「さっきは九〇%だったのに」とでも言いたげな田村さんがそんなことを言う。

 私は自分の動揺をごまかすように田村さんの言葉へ適当に同意してやった。

 

(もしかして私って親友扱いなの……!?)

 

 知らなんだ。てっきり私のことは普通の友達ぐらいの扱いかと思っていたのに。

 こんな結果が出るなんて意外も意外だったからちょっとだけ胸がどきどきしてきてしまった。

 

(いっつも澄まし顔してるくせになぁ……)

 

 田村さんはゆうちゃんみたいに好意を表に出したりしないからわかりにくいけど、結構好かれてるって考えちゃってもいいんだろうか?

 なんだか急に気恥ずかしいような気持ちになってしまったのだけど、この測定された数値が装置の故障とかじゃなくちゃんとした結果であってほしいなと思ってしまう私だった。

 

 ◆

 

(もうひとりぐらい測っときたいな……)

 

 午後の授業の半分が終わった頃の休憩時間。机に突っ込んでおいた装置を取り出した私は教室の中を見回す。

 せっかくだから他にも測ってみたい知り合いがいれば試してみようと思ったのだ。

 

(もしこいつらのこと測ったらどんな感じなのかな)

 

 目の前でたむろしていた三人の姿を見て私はそんなことを考える。

 私のひとつ前の席に座る加藤(かとう)さんと、更にその前の席にいる岡田(おかだ)とかいうネモのダチ、そしてそんな二人の間に入ろうとしてるあのキバ子ヤローだ。

 

 妙な装置でちょっと測らせてくれだなんて不躾なお願いをしてみるにはちょっと抵抗のある面々だったから、私としても実行に移すつもりは毛頭ない。

 だけどもちょっとばかし気にはなってしまうのだ。

 いや、だいたいの予測はつくんだよ。私にゃ今まで色んなやつを測ってきた経験があるからな。

 それを踏まえて個々の相手と私とのこれまでの関係性を鑑みればおよその結果が自然と浮かびあがってくるってなもんだ。

 

 加藤さんはそうだなぁ……だいたい六〇%台ってところか?

 二年の時も私の前の席だった縁があるし、まあそこそこ関係はいいほうだろう。少なくとも嫌われたりはしてないはず。

 もう落としちゃったけど、いつぞやか雪がつもってた日なんかは私にネイル塗ってくれたりしたもんな。

 

 ネモのダチはどうだ? あいつはなー、前に私がヤンキーにシメられてた時になんでか知らんがいきなり裏切りやがったからなぁ。

 あの一件以外には絡んだことなんて殆どないし、なんか向こうがこっちのこと無視してるような感じもする。

 何気にネモとおんなじで奇しくも私と三年続けて一緒のクラスになったわけだけど、これからも関わることなんて滅多になさそうな相手だ。

 というわけであいつからの好感度は赤の他人よりもちょい下の三〇%台ってところだな。

 あっ思い出したぞ! 確かあいつが体育の授業でいきなりくそデカいボールをパスしてきたから、それを私がカッコよく中継してやろうとしてえらい目にあったんだっけ。あの時メチャクチャ痛かったんだぞこのやろー。

 

 あとはキバ子か。こいつは考えるまでもない、きっと二〇%あたりだ。

 なーにが“例のあの人”だ。陰口のつもりかもしれんが、お前が自分のツレと一緒に私のことをそう呼んでたことぐらいこっちは知ってるんだぞ。

 ついでに言うとこいつに田村さんを測らせたらたぶん〇%という前代未聞の結果が出るんじゃないだろうか。なんか相当嫌ってるって感じするもんなぁ。

 

(とりあえずヤンキーでも測っておくか)

 

 目の前のクラスメイトたちにあれやこれやと考えを巡らせていた私だったけど、クラスの中で気軽に測らせてもらえそうな相手が他にいたことを思い出したものだから早速教室の中を見回してみる。

 

(いないな……トイレか?)

 

 たまに授業をフケたりすることもあるヤンキーだったから、もしこのまま戻ってこなかったら測るチャンスを逃してしまいかねない。

 単に誰かを測るだけならガチレズさん辺りに頼めないこともないんだが、いまだガチレズ疑惑の晴れないガチレズさんを測定してもし一〇〇%とか出ちゃったら怖いもんな。それこそ見てはいけないものを見てしまう羽目になる。

 

(探しにいってみるか……)

 

 そう思った私は装置を手に席を立って教室の出入り口へと向かう。

 いやまあ別に無理してヤンキーのことを測りたいってほどでもないんだが。どんくらいの数値が出そうかってのもだいたい想像がつくし。

 あいつは根が粗暴なヤンキーだから、よくてもきっと多少懐いた野獣レベルにちがいない。

 

「おっ?」

「あっ……!!」

 

 私が廊下に出ようとしたところ、目の前の戸が音もなくすっと開いてそのまま教室の中へひょいと入ってきたやつとかち合った。

 何故か自分の背後を気にしつつ入ってきたそいつだったけど、再び戸をそっと閉じてから前を向いた途端、私の顔を見て飛び上がらんばかりの驚きぶりを見せる。

 教室に入ってきたのは他所のクラスにいるはずの絵文字こと(うち)さんだった。

 

「あ、ど、ども」

「えっ!? あっ、う、うん、えと……!」

 

 知らない仲でもない私たちだったから一応それらしい挨拶をしてみたのだけど、それに対する内さんは驚き過ぎたせいかロクに返事が出来ないでいるようだった。

 なんか用事があってきたんだろうなと思った私は、自分が内さんを通せんぼする形になっていたことに気付いて身を引いてやる。

 

「あ、じゃ、じゃあねっ……!」

「は? あ、ちょ、ちょっと」

 

 なのに内さんときたら、そのまま踵を返して教室から出ていこうとしたものだから思わず私は呼び止めてしまう。

 

「な、なに……!?」

「いや、用があるんじゃないの?」

「あ、な、ないない! あるわけないしっ!」

 

 そんな私の問いかけに首をぶんぶん振ってやけにおおげさな様子で否定してみせる内さん。

 もしかして単に入る教室を間違えでもしたのだろうか? 内さんがどこのクラスなのかは知らんがここは3-5だぞ。

 

(おっそうだ)

 

 そんな内さんを見て私はふとひらめいた。

 こいつならいいか、と思った私はちょっくら内さんのことを測ってみたくなったのだ。わざわざヤンキーを探しにいくより楽だもんな。

 

「あっねえ、ちょっといい?」

「へ? なに? な、なんなのっ……!?」

 

 改めて内さんを引き止めた私は早速手にした装置を見せてお願いしてみることにした。

 そういやこいつとマトモに話したのって何気に修学旅行の時以来だな。

 

「これちょっと内さんに使ってみてもいい?」

「えっなにそれ……?」

「あっ、大丈夫、ただのおもちゃだよ」

「オ、オモチャァ!?」

 

 おいおい、なにをそんなに驚いてるんだこいつ。というかまるで私の手に持つ装置に怯えているような様子だ。

 面倒臭いし早くしないとチャイム鳴っちゃうから説明を省いたけど、まさかこれが物騒なもんにでも見えてるのか?

 

「えっ? も、もしかして今ここで……?」

「あっうん、そうだけど」

「──ッ!?」

 

 内さんの問いかけに私が当たり前のようにそう答えてみれば、益々その絵文字顔を青ざめさせたものだからわけがわからない。

 

「さ、最低っ……アンタ、こ、こんなところで……そんな……そんなことするなんてっ……」

「あっ、い、嫌ならいいけど」

 

 遂にはブツブツと呟きはじめた内さんだったから、少し怖くなってきた私は別に断ってもいいんだよと声をかけてやる。

 お手軽に済ませるつもりだったのになんだか面倒なことになってきたぞ。

 

「い、いいよ……! つ、使えるもんなら使ってみなさいよっ! ほらっ!」

 

 何かを決意したかのようにそう宣言する内さんだったけど、ちょっとおおげさ過ぎやしないかこれ?

 ほらみろ、教室の連中までこっちを気にしはじめたじゃないかもう。

 あっ、今度は青くなってた顔の下半分がみるみる赤くなってきたぞ。いやホント大丈夫かよこいつ。

 

「あっうん、それじゃあ」

「うっ……くふっ……ぅう……っ!!」

(えっなにこの人。なんかメチャクチャ震えてんぞ)

 

 なぜか歯をくいしばってぎゅっと目をつむった内さんが、内股になってブルブルと震えはじめた。

 胸の前に持ってきた両の拳を力いっぱい握り締める内さんの鼻息は荒く額には汗まで浮かんでいたものだから、見てるこっちまでえらく緊張してきてしまう。

 なんだよ、これじゃあまるで私が今からとんでもなくひどいことをするみたいじゃないか。

 

(とっとと測っちまおう……)

 

 ただ測るだけなのになんでこうなるんだよと思いつつも、尋常でない様子の内さんと早くさよならしたい私は適当に装置を向けてさっさと測定ボタンを押してやった。

 手頃な知り合いを測ってみようという当初の目的は最早どうでもよくなってしまって、今は早くこの場を離れたい気持ちでいっぱいだ。

 そうしてすぐさまピピッと測定終了の音が鳴ったのだけど、内さんはその音にすらビクッと驚いてしまう始末だ。

 

「あっ、もう大丈夫だよ。んじゃ」

「えっ?」

 

 用は済んだとばかりに内さんへ一言挨拶してみせると、私はその場に立ちつくす内さんを残して足早に自分の席へと戻っていく。

 

「ちょ、うっちーなにしてんの!? 授業はじまるよっ!」

「えっ!? あっ、う、うん……!」

 

 ガラッと勢いよく扉を開けた誰かが内さんに声をかけたようだけど、言ってるそばからチャイムが鳴ったものだから内さんは慌ててその誰かと一緒に自分の教室へと戻っていったようだ。

 

「ふ────……」

 

 なんかさっきので妙に疲れたな、思わず長いため息が出ちまうぜ。ていうかヤンキーのやつ結局戻ってきてないし。

 まあいいや、今日はこんぐらいにしといてやろう。後はウチに帰ってからが本番だ。

 

 ◆

 

(おっそういや……)

 

 授業がはじまってノートを取っていた私だったけど、さっき内さんを測った結果をまだ確かめていなかったことを思い出したものだから、教師にバレないようそっと机の中から装置を取り出した。

 

(んんん?)

 

 まだリセットボタンを押していないからさっき内さんを測った時の結果は残ったままになってるはずだが、カウンターの数値を見て私は装置がバグを起こしてしまったのかと一瞬目を疑ってしまった。

 

(ひゃ、一〇〇%……!?)

 

 なんだこれは。こんなのはじめて見たけどおかしいだろこれ。どう考えてもありえない数値だ。

 

(いやいやいやいや。こいつめ、ほんとポンコツだな)

 

 ありえない数値というのは全くその通りで、要するにまたしても調子の悪い装置が間違った測定結果を出してしまったということなのだろう。

 そりゃそうだ、一〇〇%だなんて極端な数値はそれこそ気が狂うほど好きってレベルだろうからな。

 ロクに話してもいないはずの内さんがマジに私のことをそこまで好きだったとしたら逆に怖いわ。

 

(しっかりしてくれよー、帰ったらあいつを測りなおしてやるんだからさー)

 

 ウチに帰る頃には装置の機嫌がよくなっていることを願って、私は手にしたそれを改めて机の中に戻してやるのだった。

 




つづく


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もこ式好感度測定機(下)

「おかえり」

「あ?」

 

 今日も今日とて部活の長引いた弟がようやく帰ってきたのを察知した私は、玄関で靴を脱いでいた弟を出迎えてやる。

 

「おっそいなぁ、もうご飯食べちゃったぞ」

「……もうすぐ試合があんだよ」

「そうかそうか、二年生ともなると大変だな」

 

 今か今かと弟の帰宅を待ちわびていた私としては、つまらん球蹴りなどしてないでさっさと帰ってこいと言ってやりたいところだが、部活で疲れているであろう弟にここはひとまずいたわりの言葉をかけてやる。

 

「なんだよ、気持ちわりぃな」

「いやいや、毎日がんばってて偉いなーって思ったんだよ」

 

 そんな私の様子に何か思うところがあったのか、顔をあげてこちらを見やった弟が憎まれ口をきいてきた。

 優しい言葉をかけてくれた相手に対してあんまりな態度ではあるけれど、こいつのこういうひねくれたところは今更なので別にどうってことはない。

 

「いっぱい走って疲れたろ? アイス買ってきたから食べていいよ」

「お、おお……」

 

 それだけ言って、私は大人しく自分の部屋に戻っていく。

 別に焦ることはないんだ、昨日は私のほうもちょっと強引だったかもだしな。

 

(とりあえず掴みはオッケーって感じだな……)

 

 なるべくあいつの機嫌をよくしてやって、それから測ってやろう。それが本日色々考えた結果、私が思いついた作戦だった。

 この装置が一体どういうカラクリで人の心の中を測っているのかはわからないが、その示される数値は測定する相手の気分によって変化するのではという仮説を立てたのだ。

 確かに壊れかけの測定機はときたまデタラメな数値を出したりするけど、少なくとも昨晩弟を測ってやった時の結果はそうした装置自体の不具合とは関係なかったのではないか。

 

 そう考える根拠は昨日公園で測ってやった凶暴犬にあった。

 あのチビだって最初から私を嫌っていたわけじゃない。私がうっかり驚かせて敵意を抱かせたりしなければ、案外普通の測定結果が出たかもしれないのだ。

 餌付けなんかしてみたりすればきっと好感度は更にアップするのではないだろうか。

 

(昨日のあいつ、なんかちょっと怒ってたもんな)

 

 だからこそ一五%だなんていうふざけた数値が出たのかもしれない。

 だとするならば、今日はうんと弟に優しくしてやればきっと本来の好感度が測れるに違いない。

 元から嫌われてるような相手ならどうしようもないが、あいつに限ってその心配はないからまあ大丈夫だろう。

 

 そう考えるとなんだかワクワクしてしまう。

 さて一体あのヤローはホントのところ私のことがどんくらい好きなんだろうか。

 いい歳していまだにシスコンなあいつのことだから、もしかすると笑ってしまうような数値が出るかもしれない。

 今日こそは姉ちゃんがそこんところを徹底的に暴いてやるかんな。

 

 ◆

 

「智貴ー、ちょっといいー?」

 

 弟がお風呂からあがってきた頃合を見計らって、私は装置を手にしてあいつの部屋へと向かった。

 いきなり部屋に入ると文句を言うシャイな弟だったから、ここは少しでも心証をよくしてやろうと一応戸をノックして反応をうかがう。

 

「あぁ? なんだよ」

 

 戸の向こうから弟の返事が聞こえてきたから、お許しが出たとばかりに私はガラリと戸を開け放ってやる。

 

「どうした?」

 

 机に向かっていた弟が、部屋の中へとあがりこんだ私に訝しげな視線を向けてくる。

 

「アイスおいしかった?」

「あ? おお、まぁ……」

「あれ高いやつだかんな。ちゃんと味わって食べたか?」

「なんか用か?」

 

 私が弟のために買ってきてやったアイスクリームの感想を聞いてやろうとしたのに、それを無視するように弟が用件を尋ねてくる。

 男ってやつはこれだからいかんな。すーぐ結論を求めたがる。

 そんなんじゃモテないぞ。も少し会話に広がりってもんを持たせる努力をしろよなー。

 

「こいつだよ、こいつ」

「おまえ……まだそれ持ってたのかよ」

 

 背に隠していた装置をさっと見せてやれば、途端に弟の表情がくもった。

 相変わらずこれのことを警戒していると見える。

 

「ちょっと測らせて」

「昨日測ったろ……」

 

 はぁー、とこれみよがしにため息をついた弟はやはり自分が測られてしまうことに消極的な様子でいる。

 だけども私としてはあんなものはちゃんと測ったといえないわけだから、やりなおすのは当然だ。

 

「おまえ、あん時なんか機嫌悪かったろ? そのせいでちゃんと測れてなかったみたいでさぁ」

 

 闇雲に測定させろと訴えてもきっと昨日みたく装置を強引に取り上げたりしてきそうだったから、私はもっともな理由を述べて弟を説得してやろうとする。

 

「測る時に怒ってたりするとなんか低い数値が出るんだよ、これ」

「……」

 

 私が自らの仮説を交えた説明で再測定の必要性を訴えてみたところ、それを聞いていた弟は一理あると思いでもしたのか急にだんまりしてしまった。

 

「だから、なっ? いいだろ? もう一回だけ。お願いっ!」

 

 手ごたえありと感じた私はここいらで更に強く頼み込んでみせる。

 弟相手にここまで下手に出るなんて癪だけど、これもへそ曲がりなこいつのご機嫌を損ねないようにするためだ。

 どうせならベストコンディションの時に測ってやりたいからな。

 

「……何回やってもおなじだぞ」

「おっそうか、わかってくれたか」

 

 そう言って弟が渋々といった様子でやっと私に向き直ったものだから、こちらの熱意に折れたらしいと見てほっと胸をなでおろす。

 今度は別にケンカしたわけじゃないし、昨日みたく必死で嫌がってるようでもなさそうだ。

 これはあれかな、私のご機嫌取り作戦が功を奏したのだろうか。わざわざ高いアイスを買ってやった甲斐があるってもんだ。

 

「んじゃま、早速……」

 

 昨晩のリベンジに挑むべく、私は装置を弟に向けてやる。

 ひょっとしたらまたタイミング悪く装置がバカになってるかもしれないけど、そんときゃアレコレ理由をつけてちゃんとした数値が取れるまで何度でも測ってやれば済むことだ。

 

(ん?)

 

 だけども猫背気味に構えている弟のその目を見た途端、測定ボタンを押そうとした私の指は止まってしまう。

 

「……おまえ、また怒ってるだろ?」

 

 特に表情らしい表情を浮かべず涼しい顔をしていた弟だったけど、そんなのに誤魔化されるもんか。

 目を見りゃ一発でわかるんだよ。さっきまでは普通にしてたってのに、今のこいつときたら目の色変えて私に怒りの感情を向けてきやがったのだ。

 

「あ、いや……」

 

 バレないとでも思っていたのか、そうした私の指摘を受けた弟がわずかに動揺するのがわかった。

 

「別になんとも思ってねーよ。ほら、測るんだろ?」

「ウソつけ! いま絶対怒ってたろ!」

 

 そんなこと言ってはぐらかそうとする弟だったけど、これは重要な問題だから私はなおも食い下がる。

 

「だから、んなことねーって」

「何が気に食わないんだよっ! アイス買ってきてやったろー!?」

 

 せっかく私があれやこれやとご機嫌取りをしてやったのに、結局こうなっちゃうのかよ。

 こんなんじゃあ測ってみてもどうせまた昨日とおんなじ結果が出るに違いない。

 なんで普通にしてくんないんだ。私に心の内を見せるのがそんなにも嫌なのか。

 

「……測りたくねーんなら好きにしろ」

 

 そんな風に言った弟が、ぷいと顔を逸らすとついには私に背を向けてしまった。

 今わかったけれど、こいつはたぶんワザとやっている。

 さっき弟を説得するために説明してやった私の仮説を逆手に取ってきたのだ。

 要するに私が測ろうとした時だけ無理やり怒りの感情を呼び起こして装置をあざむこうとしているってわけだ。

 それにしたって傍目にはインチキ商品かガキのおもちゃとしか思えない筈のこの装置をまさかそれほどまでに警戒してるだなんて。

 

(ふざけんなよこいつー! 人をバカにしやがってー)

 

 何も気づかない私に測らせておいて、そうしてまた低い数値が出ればしめたものだと思っているのだろうか。

 そのせいで私がどんだけ嫌な気持ちになるのかわからないのだろうか。

 昨日の夜からずっと悶々とさせられていたのはおまえのせいだってのに。

 たかが弟の好感度ひとつにここまで振り回されるなんて思ってもみなかったけど、このまんまじゃ私は一生悶々続きだ。

 だけどこうも露骨に対策を取られちゃ、まともな結果はどうやったって測れそうもない。

 

「んだよ、いつまでいんだよ……」

 

 部屋の中で立ちつくしていた私だったけど、ちらりと振り返った弟が迷惑そうな様子でそんなことを言ってくる。

 まるで私がここにいちゃいけないみたいな言い方だ。ここは私の家だし、私はおまえの姉なんだから、ここにいて何が悪い。

 

 アイス買ってあげたのに。おかえりって言ってやったのに。

 偉いねってほめてやったのに。おまえが帰ってくんのをずっと待っててやったのに。

 昔はあんだけ可愛がってやったのに。たくさん面倒見てやったのに。

 いっぱい遊んでやったのに。勉強だって教えてやったのに。

 ちょっと図体がでかくなったくらいで偉そうになりやがって。

 自分でなんでも出来るようになったら私はもう用済みなのかよ。

 

「ふっ……ふぐぅ……ぅうぉふっ……」

 

 そんな風にあれこれ考えながら弟の背中を見ているうちになんだか涙が出てきて、やがて私は唇を震わせて泣き出してしまった。

 こんなのすごくみっともないけど、それでも泣かずにはいられなかった。

 

「どうした急に……?」

 

 私の様子がおかしいことに気づいた弟が、また振り返ってこちらをうかがってくる。

 

「お、おまえ……! ね、姉ちゃんのこと、きっ、嫌いになったのかよ……!」

 

 ああダメだ、私ときたらすっかり弱気になっている。

 普段だったら言わないようなこんな恥ずかしいことを口走ってしまうのだから。

 だけどもそれは今一番私が確かめたいことでもある。

 

「なんでっ……ぅふっ……な、なんでちゃんと……ひっく、は、測らせてっ、くんないんだよ!」

「いや、なにも泣くこたないだろ……」

 

 なにをおおげさに、とでも思っていそうな弟がそんなことを言う。

 私が今こうして泣き出してしまったのはおまえのせいだっていうのに。

 

「あるんだよー! 私のこと嫌いじゃなかったら、ひっく、ちゃ、ちゃんと測らせろよー!」

 

 なぜこんなにもムキになってしまうのか自分でも不思議だ。

 だけど私はどうしてもウソ偽りのない弟の本心を確かめてやらなくちゃいけない。

 いや、そうじゃないな。私はきっと怖がっているんだ。

 昨日弟を測ってやった時のあのひどすぎる数値、あれこそが実はこいつの本心なのだとしたら。

 私はそのことがなによりも恐ろしいのだ。だからこそ昨日のあれはウソなんだって証明したいんだ。

 

 ぶっきらぼうな態度でいつも邪険にしてくる弟だったけど、なんだかんだで内心では姉を慕っている可愛いやつなんだと私は思っていた。

 たまにケンカしたりするし時には手を出してきたりもするけど、それでもやっぱりこいつはガキの頃と変わらず私のことを好きなままでいるんだと信じていた。

 

 でもそれが実際は全部私の勘違いでしかなかったとしたら、どうだろうか?

 姉を慕う弟が今までずっと私のそばにいるんだと思って生きてきたのに、もうとっくの昔にそんな弟はいなくなってたことになる。

 もし、もしも本当にそうだとしたら、私は自分がどうなってしまうのかわからない。

 私という人間が砕け散ってバラバラになってしまいそうで、それが心底恐ろしかった。

 

「なんでもするからっ! お、おまえのしてほしいことなら、姉ちゃん、なんでもしてあげるからっ、だから……!」

 

 だから、私を嫌いにならないで。私を置いていかないで。

 どうかずっと、あの頃の智くんのままでいて。

 ちゃんと測らせてほしいとか、もうそんなことすらどうでもよくなっていた私の心はいなくなった弟を探し求めて走り回る。

 

「ふぅっ……う、うおぇっ……ふぐっ、ぐぅ……」

 

 口からはもう言葉にならないうめきしか出てこなくて、体に力が入らなくなった私はその場にへたりこんでしまう。

 ああ情けない。こうなっては姉としての威厳なんてもう微塵もありはしない。

 今の私はただただ弟に嫌われたくなくて、みっともなくすがりつくだけの鼻たれだ。

 

「姉ちゃん」

 

 そんな私の前に弟が膝をついて話しかけてきたものだから、はっとなって顔をあげる。

 きっと鼻水と涙でひどいありさまになっているだろう私を弟がじっと見つめてきていた。

 

「俺のこと測ってみて」

「ひっく、で、でもおまえ……」

「大丈夫だから、ほら」

 

 そう言って弟は装置を握りしめたままでいる私の手をそっと引いて、自分を測定するよう静かに促してくる。

 大丈夫だと言う弟の目を確かめる私だったけど、確かにさっき密かに浮かべてみせていたような怒りの色は見られない。

 それどころか何かを悲しんでいるかのような色すら浮かんでいた。

 こんなみっともない姉を哀れんでいるのだろうかとも思ったけど、自分の行いを後悔しているような、そんな風にも見える。

 ともあれ私は鼻をひとすすりすると、言われるがままに測定ボタンを押してみた。

 

(え……?)

 

 例の妙なゲージのゆらぎが起きることもなく、すんなりと測定の終わったらしい装置がピピッと鳴る。

 そうして表示されたカウンターを確認した私は、だけどもその数値を前にして理解が遅れてしまう。

 

「今度はフツーに測れたよな」

「えっ!? あ、そ、そうみたい……!」

 

 弟に尋ねられて返事はしたけど、でもちゃんと測れたのかどうか私には確信が持てなかった。

 だってこんなの信じられない。意外すぎる。

 可能性がないわけでもないと多少思っていたりはしたけど、それにしたって半分冗談のつもりだったのに。

 

「これでいいだろ? ほら、もう部屋戻れよ」

「う、うん……」

 

 これじゃあ測定結果をネタにこいつをからかってやることも出来ない。

 なんだか弟の部屋にいるのが急に恥ずかしくなってしまった私は、慌てて立ち上がると自分の部屋へと逃げ込むように戻っていった。

 

 ◆

 

(故障なのかな? これ……)

 

 ベッドに寝転がってぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた私は、改めて先程の測定結果を確認してみる。

 もしかしたら見間違いかもしれないと思ったりはしたけど、結局さっき見たのと変わらない数値が示されていたものだから「はふぅ」とため息が漏れてしまう。

 なんだか見てはいけないものを見てしまったような気持ちだ。これはもう、誰にも内緒にしておきたい。

 

(もういいや、寝よ!)

 

 恥ずかしいものを消してしまうかのようにカウンターの数値を思いきってリセットした私は、一旦起き上がって装置を鞄の中に突っ込むと、そのまま部屋の電気を消して布団にもぐりこむ。

 

 なんか疲れたなぁ。あの奇妙な装置には昨日今日とで随分振り回された気がする。

 ひょっとしたらあれは人の心を惑わす危ない装置だったりするのかもしれない。

 元の持ち主もそうしてすっかりくたびれてしまったが故に、あんな所に捨てていったのだろうか。

 もしかしたらそいつ自身もあの装置をどこかで拾って振り回された被害者だったりするのかもな。

 

(元あったとこに返しておくか……)

 

 そんなことを考えているうち、私はいつの間にかぐっすりと眠ってしまう。

 その日は夢の中に智貴のやつが出てきて色々しちゃったりしたけど、やっぱりこれも内緒にしておきたいことなのだった。

 

 




おしまい


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【クロス】かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く(1)

この作品はSFCのサウンドノベル『かまいたちの夜』とわたモテのクロスオーバーです。
物語の展開上、人死に&暴力描写やグロテスクな表現がありますのでご注意下さい。

▼タイトルロゴ
【挿絵表示】

[2020/7/13]『黒木姉弟シュプールへ行く』を全面改訂しました。主に改行の塩梅を見直した形となりますが、細かい部分の表現にも手を加えてあります。
加えて、あとがきを投稿しました。≫あとがきを読む。


ペンション「シュプール」へようこそ。

お客様のお名前は 智子 様。

おつれ様は 智貴 様ですね。

 

「ほらほら智貴(ともき)、付いてこいよー!」

 

 粉雪をぶっかけられて怒っている弟をからかうように、私はそう言って颯爽と斜面を滑り出す。スキーなんて中学の林間学校の時にやって以来だったけど、インストラクターの人からレクチャーを受けて何度か練習しているうち、すっかりコツがわかって上手いこと滑れるようになったのだ。さっきだって弟の前で派手に横滑りのブレーキをかけてあいつを雪まみれにしてやったもんだ。

 

(へへっ、遅い遅い)

 

 私が複雑な軌道を描いて巧みに雪原を滑っていく一方で、ずっと後ろのほうから付いてくる弟ときたらなんともつまらん堅実な滑り方ばかりしてやがる。万が一転んで怪我でもして部活に支障が出たら嫌なんだとさ。

 

(せっかくこういうとこ来たんだから、うんと楽しまなくっちゃあな)

 

 今日の私達は朝からスキー場(ゲレンデって言うんだぞ)に来て以降、合間に休憩を挟みつつずっとこうして滑りっぱなしだった。スキーなんて危ないだけでつまらん遊びだと思っていたけど、上手いこと滑れるようになってみるとこれが中々面白くなってきたものだから、柄にもなく私ははしゃいでしまっているのかもしれない。

 

「おい、そろそろ戻るぞ」

「なんだよ、もうへばったのか?」

 

 麓の方まで滑りきった私が待ってあげていたら、遅れてやってきた弟がゴーグルを外してそんなことを言ってきた。私はまだまだ滑れるぞ。なんか自分でもびっくりするぐらい体がよく動くんだが、やっぱ楽しいからかな?

 

「ちげーよ。ほら、なんか天気悪くなってきただろ」

「おっ……?」

 

 言われてゴーグルを外した私が空を見上げてみれば、からっと晴れていた筈だったのがいつの間にかどんよりとした灰色の雲で満たされていた。風も随分と出てきたみたいで、それを受けるほっぺたや鼻が冷気のせいでちくちくと痛くなってくる。

 随分長いこと滑っていたが、いま何時ぐらいなんだろうか。だいぶ日がかげってきているところを見るにそろそろ日没の時間が迫ってきているのかもしれない。

 

「んじゃ、こんくらいにしとくか」

「ああ」

 

 ここらが切り上げ時かと、私達はインストラクターの人が待っているレストハウスへと向かう。

 

「おっ、もういいのかい?」

「あっはい、えと、なんか弟が疲れちゃったみたいで」

「ちげーっての……」

 

 長椅子に座っていたインストラクターの人が、重たいスキー板を担いでやってきた私達を見てそう声をかけてくる。

 

「ははは、案外お姉ちゃんのほうがスキーに向いてそうだね」

 

 じゃあ戻ろうか、と立ち上がったインストラクターの人が脇に置いていた自分の荷物を持ち上げて駐車場へと私達を引き連れていく。この人は俊夫(としお)さんという名前で、昨日から私達が泊まっているペンションの従業員だ。とてもスキーが得意な人らしく、今日は小林(こばやし)のおじさんのはからいもあって特別に仕事そっちのけで私達二人のコーチをしてくれている。結構離れた場所にあるペンションからゲレンデまで車で連れてきてくれたのも俊夫さんだ。

 

智子(ともこ)ちゃん達はいつまでこっちにいるの?」

「あ……その、あ、明日までです」

 

 雪深い山道を車で走っている途中、助手席へ座る私へ俊夫さんが他愛のない話をしてくる。絶賛冬休み中の私としてはもちっと滞在していたいところなんだが、弟の部活の関係でそんなに長居することが出来ない。

 

「へぇー、せっかく上手くなってきたのに勿体ないね。来年も来なよ? 君なら絶対もっと滑れるようになるよ」

「あっ、えと……ど、どうしよっかなー……」

 

 一応褒められて悪い気はしないけれど、この手の気安い誘われ方が苦手な私は曖昧な返事をしてしまう。

 年がら年中スキーのことばっか考えてると自嘲するだけあって、俊夫さんは見込みのある私にもっとスキーの楽しさを知ってもらいたいと思っているみたいだ。今日だって筋がいいと見た私へとりわけ熱心にあれやこれやと教えてくれていたからな。

 

「やめとけよ。調子乗ってるとそのうち怪我すんぞ」

 

 そんな私達のやりとりを聞いていた弟がふいに後部座席から口を挟んできた。

 

「んだよ、おまえ私より下手じゃねーか」

「いやいや、智貴君はお姉ちゃんのことが心配なんだよな?」

「そんなんじゃないっすけど……」

 

 弟の後ろ向きな言葉を俊夫さんが気さくに茶化してみせる。

 まあスキーは面白かったし、またいつか弟と一緒に来てみてもいいかもしれない。タダで泊まらせてもらえる訳だから、交通費以外は我が家の懐が痛むってもんでもないしな。

 *

「二人とも先戻ってていいよ。荷物は俺が下ろしとくから」

 

 日がとっぷりと暮れた頃にようやくペンションへ戻ってこれたのだけど、そのまま車は建物の裏手へ回って停車した。使わせてもらったスキー板やらストックやらは俊夫さんが片付けてくれるらしいから、お言葉に甘えて私達は手ぶらで車を降りる。

 

(うひゃー、すげえなこりゃ……!)

 

 途端、吹きすさぶ大量の雪に容赦なく襲われたものだから、私達は慌てて玄関の方へと足早に向かっていく。

 ゲレンデで見たあの怪しい雲行きは、いまやすっかり猛吹雪をもたらすようになっていた。あそこで切り上げて帰って来たのは正解だったかもしれん。

 

「おお、おかえり二人とも。スキー面白かったかい?」

「うん、結構よかったよ」

 

 雪で濡れてしまったスキーウェアや帽子を乾燥室に預けて玄関口で靴を脱いでいたら、ちょうどロビーにやってきた小林のおじさんが私達を出迎えてくれた。球蹴りバカの弟の方はそうでもなかったみたいだけど、私としては本日のスキーをなかなか楽しめたんじゃないかと思う。

 

「もうちょっとしたらご飯だから、シャワーでも浴びて着替えてきなさい」

「はぁい」

 

 厨房の方から漏れてきたらしい食欲をそそる匂いがロビーに漂っていたから、私は自分が腹ぺこになっていたことに気付く。壁にかけてある鳩時計を見るとそろそろ六時半に差し掛かりそうな頃だった。朝からゲレンデに出かけて今までずっと滑りっぱなしだったもんな、そりゃ腹も減るわ。

 ともあれ私は一旦自室へ戻るべく、弟と連れ立ってロビーから続く階段を上がっていった。

 

 ベッドの上には私が今朝出かける前に脱いで畳んでおいた部屋着がある。この部屋には自分以外誰もいないから、髪をまとめていたヘアゴムを解いた私は誰に気兼ねするでもなく今着てるものをさっさと脱いで再びそちらへと着替えていく。

 そう、弟と私は別々の部屋を取ってあるのだ。このペンションはどこもツインルーム以上の部屋しかないのだから別に二人でおんなじ部屋に泊まったっていいのに、弟のやつときたら私と相部屋になるのが恥ずかしいみたいで、おじさんに頼み込んでわざわざもう一つ部屋を用意してもらったのだ。おじさんは親戚だから身内のよしみで全部タダにしてもらってるけど、これがもし他所さんだったら部屋代二倍増しだぞまったく。

 

(おっと、こいつを忘れちゃいかんな)

 

 ベッド脇の小棚の上に置かれていたルームキーを手にするついでにその傍らのネックレスをつまみ上げた私は、部屋から出る前にそいつを首に付けてみる。付けた姿を手鏡でちょっとばかし確認してみるけど、小さな十字架に細い鎖を通したそれは今着ている黒のタートルネックと相まって中々さまになってると思う。興味本位で買ったはいいが滅多に出番が無くて机の引き出しの中で眠っているこいつだけど、私だってこういうところに来た時ぐらいはちょっとばかし攻める感じのお洒落をしてみたいのだ。

 

 ◆

 

「おばさーん、このゲームやっていい?」

「ああそれ? んーどうかしらねぇ、いいけどもう壊れてるんじゃないかしら」

 

 厨房から出てきた今日子(きょうこ)おばさんに一応許可を求めてみる私だったけど、おばさんはそんな風に言ってからロビー奥の廊下へと姿を消していった。ロビーにはテレビやソファーが置いてあったりして談話室としても使えるようになっているのだけど、そこにあるテレビ台の中に収納されている面白そうなブツに私は昨日から目をつけていた。

 

(今どきスーファミなんて置いてやんの)

 

 私も現物を目にした事は殆ど無いそれは、大昔に出たゲーム機の類だった。テレビ台の中で埃を被っていたこのゲーム機はお父さんが若い頃に流行ったもので、ずっと前に家族でここに泊まりに来た時にお父さんが懐かしそうにこいつで遊んでいたのを私は覚えている。

 随分と黄ばんでしまったらしい筐体やコントローラーを台から取り出しテーブルの上に並べた私は、コンセントを繋げたり付属のケーブルの端子をテレビに繋げたりして遊ぶ準備を整える。昨日は宿泊客の人達が談話室に居座ってたから出来なかったけど、今はちょうど誰もいないからこの隙にちょっとばかし遊んでやろう。いやまあ、おばさんの言う通りとっくの昔に壊れてるかもしれんけど物は試しだ。

 同じくテレビ台の中に収められていたプラスチック製の小さなカゴの中にはゲームカセットが幾つか入っていたのだけど、面白そうなもんはないかなと私はカセットのラベルを確認していく。

 

(おっ、これいいんじゃね?)

 

 目を引かれた一つのカセットがあった。そのカセットに貼られた黄色いラベルには気味の悪い廃墟の絵が描かれていて、タイトルロゴのデザインも実におどろおどろしい。いいねこういうの、気に入ったよ。『弟切草(おとぎりそう)』っていうタイトルなんだけど、弟をズバズバ斬ってやっつけたりするゲームとかだったりしてな。

 

(よし、まだ動くぞこれ)

 

 筐体の著しい色あせ具合からして相当昔に買ったと思われるゲーム機だったけど、カセットを差し込んで電源スイッチを入れてみれば特に問題なくテレビにゲームの映像が映し出されたものだから感心してしまう。スーファミはとことん頑丈で長持ちするって聞いた事があるけどマジみたいだな。

 

(おーなんだこりゃ、やっぱホラー系なやつかな……)

 

 雷鳴のエフェクトや禍々しい音楽と共にでかでかと画面に映し出されたのは、ラベルにも描いてあった不気味な廃墟の絵とタイトルロゴ。流石大昔のゲーム機だけあってなんとも古臭い感じのグラフィックだけど、これはこれで雰囲気があって悪くない。

 

(ん? ここで名前を決めんのか?)

 

 タイトル画面の音楽にしばらく聴き入っていた私だったけど、そろそろゲームを始めようとスタートボタンを押してみる。すると新しくセーブデータを作成するっぽい画面が出てきて名前の設定を求められたので、私は適当に『ちんちん』と入力していく。

 

「なんだそれ?」

 

 遅れて二階から下りてきた弟がそう声をかけてくる。どうせ後で風呂入るんだからと私はスルーしちゃったけど、こいつは律儀にシャワーで汗を流していたのかもしれん。

 

「いいとこ来たな。まあここ座れよ」

 

 私は自分の隣を手で叩いて座るよう促してやったのだけど、弟はそれを無視して私が座っているのとは別のソファーへと腰かけてしまった。まあいいや、なんかちょっと怖そうなゲームだから弟にも私のプレイする様子を傍で見ていてもらおう。

 

「ほら、昔ここに来た時お父さんがこいつで遊んでたろ? おまえもちょっとやらせてもらってたじゃん」

「そうだったかな……」

 

 私の言葉にそう返す弟だったけど、あの頃はこいつも随分と小さかったから覚えてないのかもしれん。

 

「おい、やめろ」

「えっいいじゃんか別に」

 

 弟と話しつつコントローラーを操作していた私は、先程入力した名前を一旦消してから『智貴』と入れ直してやったのだけど、それに気付いた弟が待ったをかけてきた。

 

「しゃあねえな、じゃあこれだ」

「ぶん殴んぞ」

 

 もっと粋な感じにしてやろうと、私は先程入力してやった名前の先頭へ更に『ちんちん』と付け足してやる。

 

「あっ!? なに消してんだテメー!」

 

 私のちょっとしたおふざけに目の色変えた弟が、急に立ち上がってゲーム機の電源を切りやがった。

 

「意地悪すんなよー、姉ちゃんにゲームさせてくれよー」

「おまえがアホなことすっからだろ」

「わかったわかった。もう変な名前つけないからさ、な?」

 

 ははは、ムキになりおって。こうやって弟をからかうのはゲームより面白いかもしれん。スキーだってこいつよりうんと上手く滑れたし、今日は完全に私のペースだな。

 

「だからケイコに任せるのは嫌だったのよ!」

「……でも、お料理がおいしいって、ここにほら、書いてあるでしょ?」

「おいしいものが食べたければ、東京にいくらだってあるでしょう? まったく……」

「まあまあ。いいじゃないの。雰囲気だって悪くないしさ。こういうところの方がサービスいいと思うわよ」

 

 なにやら二階の廊下の方から声が聞こえてきたと思ったら、何人かが騒がしい様子で連れ立ってロビーに下りてきた。見ればそれは宿泊客と思わしき三人組の女の人達だった。昨日も今日も見た覚えのない顔だったけど、もしかすると私達がスキーに行ってる間に新しくチェックインしてきた人達なのだろうか。

 女の人達は夕食が始まるまでこの談話室で待つつもりなのかもしれない。この分だともうおちおちゲームもやってられないと思った私は渋々スーファミを片付け始める。

 

「あっ、ねぇあなた」

「えっ!? あ、は、ハイなんでしょか……!」

 

 フロントの前でたむろしていた三人組のうち、さっきまでぷりぷり怒っていた一人が私に近寄って声をかけてきた。

 

「写真撮ってほしいんだけど、お願いしていいかしら?」

「あっはい、い、いいです」

 

 そう言って自分のスマホをこちらに差し出してきたのは、髪が長い女の人だった。ちょっと派手目で綺麗な人だったから、私はえらく緊張してしまう。なんでこっちに言ってくるんだよと思ったりしたけど、目つきの悪い弟は怖がられてしまったのかもしれない。

 

「あっ、じゃあ撮るんで……」

 

 フロントを背に三人並んでポーズを取った女の人達を、私はひとまず撮影してあげる。

 

「どう? ちょっと見せて」

「えと、こんなんですけど……い、いいですか?」

 

 スマホの持ち主が私の隣に立って画面を覗き込んで写り具合を確認してくる。途端に少し強めの香水の香りが私の鼻をくすぐったけど、むしろこの女の人にはそれが似合ってるように感じられる。

 ああしまった、私もゆうちゃんの香水を持ってくりゃ良かったな。ていうか今の私、ちょっと汗臭いのかもしれん。

 

「あっいい感じー。ありがとね」

「はは……ど、どもです」

「ねぇあなた達、どこから来たの?」

「えーと、ち、千葉の方です」

「へーそうなんだぁ、あたし達さっき来たばかりなんだけど……」

 

 そうして女の人達となりゆきでソファーに座りあった私は、三人からそれぞれ自己紹介を受けることになった。私としてはこういうノリの人達と会話するのは苦手だったのだけど、変に思われないようどうにか頑張って言葉を搾り出していく。

 弟の方はといえば最初に軽く頭を下げただけで特に改まって挨拶するでもなく、さっきからソファーのはしっこで他人事のようにこちらを見ていやがる。一応おまえも私のツレだと思われてんだから、しゃんとしろよなもう。

 ともあれこの女の人達のことがある程度わかった。私に写真を撮らせた勝気そうな髪の長い女の人は可奈子(かなこ)さん。スキーが趣味みたいで、さっき騒いでいたのはこのペンションがゲレンデから遠いことをぼやいていたからなんだとか。髪を派手目に染めていたり服装がちょっときわどい感じだったりと、どことなくビッチ臭がする。

 次は亜希(あき)さんという人で、ソバージュっていうのかちょっとモジャモジャ気味のボブカットヘアにウチのお父さんが持ってるような黒縁眼鏡をかけていた。なんとなく神経質そうな感じではあるけれど、眼鏡女だからって別に変態っぽい感じはしないぞ。

 でもって最後のおっとりした感じの人は啓子(けいこ)さんといって、さっき怒られてしのごの言い訳してた人だ。その若干太めな体型よろしく食いしんぼうなのか、もうすぐメシ時だっていうのに今も手に持つスナック菓子をパクパク食べている。メシがうまいからという理由でゲレンデから遠いこのペンションをわざわざ宿泊先に選んだのはこの人の仕業ということらしい。

 三人とも東京の方に住んでいて、同じ会社に勤めているOL仲間なんだそうな。なんだか早くも名前を忘れてしまいそうだったから、私は心の中で順にビッチさん、メガネさん、お菓子食ってる川本(かわもと)さんと呼ぶことにした。

 

「えーっ、高校生なの!? 全っ然見えないし!」

「あ、よ、よく言われます……」

「やだー、スッゴイかわいいんだけどー」

 

 今度は私が自己紹介する番ということであれこれ伝えてみたら、隣に座っていたビッチさんがえらく驚いてみせた後にはしゃいだ様子で私の肩へと手を回して抱き寄せてきた。思わず私は「ひゃぁ」と小さく悲鳴を上げてしまったのだけど、その様子が面白いのか皆してクスクス笑っている。ああ、こりゃイジられてんなー私。

 

「じゃあそっちの子は彼氏かしら?」

「あっ、いやっ、ちがくて……」

 

 弟の方を見やったビッチさんがいきなりそう尋ねてきたものだから、私は慌ててそれを否定しようとする。

 

「〈弟〉です」

「そ、そうそう、こいつ、弟の智貴って言って……」

 

 するとそれまでだんまりしていた筈の弟が急に横から口を挟んできやがった。「弟」ってところだけやけに力がこもっていたように感じるけれど、こういう時だけ口を開きやがるんだからしょうがないやつだ。

 

「あっホントだね。なんか結構似てるかも」

「智子ちゃんの方が妹みたいなのに逆なんだねー」

 

 私と弟とを見比べたメガネさんと川本さんが得心のいった様子でそんな感想を述べる。親戚の人達にもよく似た姉弟だと言われるんだが、そんなに似てるのか? 私は弟みたいにブサイクってわけじゃないんだが。

 

「ねぇあなた達、明日も滑りにいくんでしょ?」

「えっ? あっ、そーですね、い、いきますけど……」

 

 スキー好きのビッチさんが知りたがったので本日のゲレンデの具合なんかを教えてやっていた私だったけど、今度はそう尋ねられたものだからひとまず頷いてみせる。本日の好調な結果に気を良くしていた私だったから、もちろん明日も弟を連れて再挑戦するつもりだ。

 

「じゃあさ、あたし達と一緒にいきましょうよ」

「え、えぇー……」

 

 私としては弟と二人だけの方が気ままでいいのだが、ビッチさんときたらやけに乗り気みたいだ。私がそこそこ滑れる方だとさりげなく自慢してみせたのがいけなかったのだろうか。メガネさんやお菓子の人はそんなにスキーが好きでもなさそうな感じだったから、同好の士を見つけてちょっと興奮してるのかもしれない。

 

「そ、そですねー、えと、まぁーそのー……」

 

 なんとか言い訳を探そうと目を泳がせる私だったけど、こんな時に限って弟が「やめとけよ」と口を挟んでくれないのが恨めしい。さっきからビッチさん達に何聞かれても「はい」とか「まあ」とかクッソつまらん返ししかしないもんだから、皆すっかり私の方にばっか話しかけてくるようになったじゃないか。姉ちゃんだって疲れるんだぞ。

 ともあれ私がビッチさんの誘いにどう返答したものかと困っていると、窓の外から車のエンジンの音が聞こえてきた。

 

「誰か来たみたい」

 

 私と同じく車の音に注意を向けていたメガネさんがそのように言う。ゲレンデに出かけていた他の客でも帰ってきたのだろうかと思う私だったけど、やがて玄関扉にぶらさがっているベルが派手にカランコロンと鳴った。

 

「ひゃあ、助かった。死ぬかとおもたわ」

 

 なんだかデリカシーの無さそうなでかい声でぼやきながらロビーに姿を表したのは、頭のてっぺん辺りがバーコード状に禿げあがった小太りのおっさんだった。その傍らにいるのはおっさんとは対照的にほっそりとした感じの、三十代ぐらいの綺麗な女の人だ。奥さんか何かだろうか?

 

「ああ香山(かやま)さん、いらっしゃい。遅かったですね。心配しましたよ」

 

 ベルの音で来客に気付いたらしいおじさんが、食堂の方から出て来て二人を出迎える。

 

「えらい吹雪き始めよって、迷うところやったわ。ホンマかなんなぁ」

 

 そんな風に言って、おっさんは体や頭に付いていた雪を手で払っていく。

 

(おおー、関西弁ってやつかこれ)

 

 私もアニメなんかでこんな喋り方をするキャラは見たことあるが、実際に関西弁を使う人をこうして目の当たりにするのは初めてだ。喋り方以外にもおっさんのその態度から見た目まで私が抱いている関西人、というか『大阪人』ってやつのイメージにピッタリで笑ってしまいそうになる。

 そんな風に私が思っていると、七時ちょうどを指した鳩時計が急にポッポポッポと鳴き始めた。

 

「食事の用意ができましたので、食堂の方へどうぞ」

 

 まるで鳩の鳴き声を合図としていたかのようにタイミング良く食堂から出てきてそう案内したのは、俊夫さんとは別にもう一人いるペンションの従業員。日焼けした肌とポニーテールが特徴的な、みどりさんという女の人だ。

 その案内を受けて立ち上がったビッチさん達が「また後でね」と言い残して、扉が開きっぱなしになった食堂の中へと入っていく。

 

「じゃあ荷物と上着は運んでおきますから、香山さん達も食堂へ」

「ああ、ほなそうさせてもらうわ」

 

 フロントでは、ロビーに上がりこんで記帳をしていた新顔の二人におじさんが食事をすすめている。

 

(おっさん、もっと喋ってみてくれ)

 

 大阪のおっさんが喋ってるだけでなんだか面白い私は、宿泊名簿にせかせかと記帳しているその丸い背中をじっと見てしまう。そうしたら、おっさんの後ろに立っていた女の人が私の視線に気付いたようでこちらに目を向けてきた。

 

(わっ……)

 

 なんだか恥ずかしくて咄嗟に目を逸らしてしまった私だったけど、失礼だったかなと思い再びそちらの方を伺ってみれば、女の人は静かに微笑んでこちらを見つめてきていた。吹けば飛んでしまいそうな儚げな印象の人だったけど、その顔にはなんだか面白いものでも見たような色が少しばかり浮かんでいる。

 もしかして変なやつだと笑われてしまったのだろうかと不安がよぎる私だったけど、やがて女の人は私にそっと会釈をしてきたので、慌ててこちらも頭を下げる。

 

「あっ、おい待てよ」

 

 そんなやりとりを尻目に腰を上げた弟が食堂の中へとさっさと入っていこうとしたものだから、私は思わず呼び止めてしまう。だけども弟は聞こえてない振りをして、そのままロビーから姿を消してしまった。姉を置いていくとはけしからんやつだ。一声ぐらいかけてけよなー、私だって腹ぺこなんだぞ。

 記帳を終えたらしい大阪のおっさんまでもが食堂に入っていこうとするものだから、立ち上がった私は図らずもおっさんの後ろを付いて歩く女の人と並ぶ形で食堂へと入っていく。なんとなくの印象だけどこの人は『人妻』って感じがするから、心の中で人妻さんと呼ぶことにしよう。

 

 ◆

 

 食堂に入ってから私は弟の姿を探す。すると奥の方の席でこっちを見ていたあいつと目が合ったから、私はそちらへ行って椅子に腰を下ろした。食堂内の幾つかあるテーブルには既にフォークやらスプーンやらの食器類が配膳されていて、おばさんやみどりさん達が各テーブルへと料理を運んできている。

 

「二人とも、何か飲みたいものある?」

「あっはい……えと」

 

 私達のところへスープを運んできたエプロン姿のみどりさんが気安い感じでそんな風に尋ねてきたから、私はテーブルの上に置いてあったメニュー表を確認する。

 

「あ、じゃあこの木いちごジュースってやつで……」

 

 昨日は物珍しさから「こけももジュース」ってやつを頼んだんだけど、他にもおいしそうな地元産のフルーツジュースが各種取り揃えてあったから今度はこいつを飲んでみたい。

 

「オッケー、弟くんは?」

「コーラでいいです」

「おい、せっかくなんだからもっと違うの頼めよ」

 

 なんでそんなどこにでもあるようなのを頼むんだよ、こういうとこに来たんなら他所じゃ飲めないレアなもんを頼めよな。弟の分もちょっと味見させてもらいたい私としては、俊夫さんおすすめの信州産完熟りんごジュースなんてのを注文してほしいところだ。

 

「コーラで」

「あはは、じゃあコーラね」

 

 人の話を聞いてない弟は強引に注文を通しやがった。たまにこいつは耳ついてんのかなと思うことがあるけれど、たぶん聞こえないふりをしてるだけなんだと思う。お姉ちゃんの声に耳を傾けない意地悪な弟にいつか天罰が下りますように。

 

「うめーなこれ」

「ああ」

 

 みどりさんが置いていったスープに早速手を付けた私達だったけど、これがまたうまいのなんの。流石ガキん頃から料理人になるのが夢だったというだけあって、おじさんの料理の腕は相当なものだった。まるで高級レストランにでも出てきそうな料理をタダで食わせてくれるってんだから、余計においしく感じてしまう。昨日の夕食も随分と楽しませてもらったから、今日はどんな献立なのか楽しみだ。

 とか言って油断してたら、おばさんの方が作ったあのクソマズ料理が混ざってたりしてな。おばさんは料理が超ド下手クソなんだけど、本人はそれでも一応料理好きということらしい。ずっと前に家族みんなでここに来た時、不意打ちでおばさんの手料理を食わされて吐きそうになったことを思い出すぜ。以前私に豚の餌以下の生ゴミを食わせやがったあのクラスメイトといい勝負だ。

 

(おっ……? なんだあいつ)

 

 夢中でスープを味わっていた私だったけど、ふと食堂のすみっこの方にいた一人の客の姿が目に入ったものだからぎょっとしてしまう。そいつは部屋の中だというのにロングコートを着てつばの広い帽子を被り、色の濃いグラサンをかけていたのだ。見るからに怪しいそいつは男の人みたいだったけど、まるで外国のマフィアって感じだ。

 

(ありゃたぶんヤクザだな……)

 

 そう結論付ける私だったけど、昨日は見かけなかったところからしてビッチさん達と同じように本日チェックインしてきた人なのかもしれない。

 

(ヤクザがスキーなんかすんのかよ。〈ヤク〉の取引でもすんのか……?)

 

 そういえばと食堂内を見回してみる私。私と弟以外にいる客といえばビッチさん達三人組にさっき来たばかりの大阪夫婦、そしてあのヤクザだけだ。私達がスキーに出かけてる間にチェックアウトしてしまったのか、昨日見かけたお客さん達の姿は見当たらず、今いるのはどれも今日初めて見かける新顔ばかりだった。もしかしたらこの中に取引相手がいたりして。大阪のおっさん辺りが怪しいな。

 

(うわっ……!)

 

 そうしてヤクザのことをしばらく観察していたら、うつむき加減でじっとしていたそいつが私の方をほんのわずかに見てきたような気がしたから慌てて顔をそらす。

 

(なんだよもう、あんなやつが泊まってんのかよ。おちおち眠れやしねーじゃねーか)

 

 せっかくこっちは遠路はるばる長野くんだりまでやってきて羽を伸ばしにきたってのによー。姉弟水入らずの時間になんとなくケチをつけられたような気がして、私はちょっと不満に感じてしまう。

 

「おい、すみっこのほう見てみろよ。ヤクザがいんぞ」

 

 私はヤクザに聞こえないよう、声をひそめて弟にそう伝えてやる。

 

「いやちげーだろ……」

「どう見てもヤクザだってありゃ。警察呼んだ方がいいんじゃねーの? 拳銃とか持ってるかもよ」

 

 いまいち警戒心の薄い弟が寝ぼけたことを言うけど、私にゃわかるんだ。危険な匂いをプンプン放ってやがるからな。仮にあれがカタギもんだというのなら、それはそれでヤクザごっこをしてるやべーやつということになる。

 

「はい、お待ちどうさま」

「あっ、ど、ども」

 

 私達がヤクザについてああだこうだとひそひそ話をしているうちに、みどりさんがスープに続く他の料理と共にさっき注文しておいた飲み物を運んできてくれた。まあ得体の知れない客のことばっか考えててもメシがまずくなるだけだな。とりあえず今は食事の時間を楽しもう。

 あー、うんめーなぁこのジュース。弟にもちょっと飲ませてやろうかな。

 

 途中で席を立ってトイレで用を足した私は、足早に食堂へと戻ってきた。あまりにもおいしい料理だったから、私がいないうちに欲張った弟が人の分までこっそり盗み食いするのではと思うと気が急いてしまう。

 

「あっ、へへっ……」

 

 OL三人組がいる席の前を通ろうとしたら、私に気付いたらしいビッチさんがニッコリ笑って手を振ってきた。そのまま無視するなんて失礼だったから、一旦足を止めて私なりに愛想よく応えてみせる。

 

「あたっ!?」

 

 そうして前方不注意になっていた私が前に向き直って歩き出した途端、進行方向に立ち塞がった誰かにぶつかってしまい、尻餅を付いてしまった。一体誰だよと前に立つ相手を見上げた私だったけど、その姿を目にして途端に血の気が引いてしまう。

 

(ヤクザッ!?)

 

 目の前に突っ立って私のことをグラサン越しに見下ろしていたのは、あの得体の知れないヤクザ風の客だった。ヤクザは随分と大柄な体格をしていたようで、こうして下から見上げているともの凄い威圧感だ。

 

(やばい! 因縁つけられる……!)

 

 慌てて立ち上がろうとする私だったけど、腰が抜けてしまったのか足に上手く力が入らない。

 

「ごごっ、ご、ごめんなさいぃぃぃっ!!」

 

 喉から搾り出すような声で私はヤクザへ必死に詫びを入れずにはいられなかった。相手は裏社会の人間なのだ、ちょっとぶつかっただけでもどんな目に合わされるかわかったものじゃない。他のお客さん達も何事かとこちらへ一斉に注目する。

 と、何やら周りの目を気にしたらしいヤクザが焦った様子で私にさっと手を差し出してきた。これはつまり、私のことを引き起こしてやろうということなのだろうか。ヤクザの親切を無下にすると余計に怒らせてしまいそうだったから恐る恐るその手を握る。ごつごつとした硬い感じの、ちょっとばかし毛深い大きな手だった。

 

(ん? 怒ってないのか……?)

 

 私の手には恐怖と緊張のせいでじっとり汗が滲んでいたものだから、不愉快に思われやしないかと生きた心地がしなかった。だけどもヤクザは特に気にする様子もなくこちらを軽々と引き起こしてみせると、私の肩をぽんぽんと叩いてそのまま何も言わず食堂を出ていってしまう。

 

「ふ────……」

 

 助かった。特に気を悪くした様子はなかったから、ひとまず見逃してくれたのかなと安堵した私は盛大にため息をつく。

 

「なにしてんの?」

「いや、ちょっとぶつかっただけ」

 

 様子を見に来たらしい弟が、何があったのかと尋ねてくる。私のあまりの怯えようを見て息を呑んでいたらしい他のお客さん達も、何事もなく済んだのを見届けて安心したのか食堂内の空気は再び緩やかなものになった。

 どう見てもヤクザなあの客だったけど、もしかすると案外本当にただのヤクザ好きな一般人なのかもしれない。ともあれ食堂を出ていったヤクザは早めに夕食を切り上げでもしたのか、それきり戻ってくることはなかった。

 *

「ふぃー、食った食った」

 

 食後のデザートをたいらげた私は、お腹をさすりながらコーヒーの残りをちびちびすする。今食べたのは追加注文で頼んだ「ミシシッピ・マッドケーキ」というへんてこな名前のチョコケーキなのだけど、以前ゆうちゃんのバイトしていた店へお呼ばれした時に見かけたこれのことが私は長らく気になっていたのだ。あん時は遠慮して一番安いケーキを頼んでしまったのだけど、この場においては気兼ねする必要は全くない。気前のいいおじさんはお年玉だって弾んでくれるし、身内の私達がこうして泊まりに来れば全部タダでご馳走してくれるってんだからありがたいぜ。

 

「おいしかったかい?」

「あっうん、ごちそうさま」

 

 食べ終わった客の食器を従業員の人達と手分けして下げていたおじさんが、私達のところへ来て料理の感想を聞いてくる。

 

「すみません、何から何まで」

「はは、遠慮なんかしなくていいんだよ」

 

 おじさんに頭をぺこりと下げてそんな風に言ったのは、私と同じくケーキを食べ終わって一服ついていた弟。こいつめ、自分が目上だと思った人の前ではかしこまってやがんの。

 

「しかし智貴くんは本当にお父さんに似てきたね。こうしてみると彼の若い頃にそっくりだよ」

 

 目を細めてそうしみじみと語るおじさんは、なんだか我が子の成長を喜ぶ父親のような感じだ。おじさんと今日子おばさんの間には子供がいないのだけど、だからなのか昔っから親戚の寄り合いで顔を合わした時なんかはいつも私達のことを気にかけたりしてくれる。

 

「ああ、そうだ。二人とも、明日帰るのはちょっと厳しいかもしれないよ」

「えっどうして?」

 

 思い出したようにそう口にするおじさんだったので、私は聞き返す。予定だと私達は明日の昼過ぎぐらいには荷物をまとめて家に帰ることになっているのだ。もちろん時間が来るまでは弟と一緒に最後のスキーを楽しんでおくつもりなのだけども。

 

「ほら、ずいぶん吹雪いてきてるだろう? どうも予報じゃ明日ぐらいまで近年にない大雪になるそうだ」

「ふーん……」

 

 おじさんが言うには夕方頃から降り始めたこの雪はどんどん酷くなっていくそうで、明日はスキーどころか道が塞がって帰ることすらままならなくなるらしい。閉じ込められた時の一応の備えとしてスノーモービルとかも置いてあるそうだけど、とりあえずは雪が止んで再び道を通れるようになるまでは大人しくここで待つしかないとおじさんは言う。

 そりゃまあ、そういうことならしゃあねえよな。明日滑るのを楽しみにしてたビッチさん辺りはたいそう残念がりそうだけども、一応ネット回線も来てるこのペンションだったから私としては部屋にカンヅメになったとしても別に構わない。

 そうだ、例のスーファミでもやって暇潰ししよう。二人で遊べそうなゲームで久しぶりに弟と対戦でもしてみるか。部屋の方にもテレビがあるから、あれを使えば誰にも気兼ねせずに済みそうだ。

 

「マジすか……」

 

 だけどもおじさんの話を聞いた弟が渋い顔をする。さては予定通りに帰れなくなったもんだから部活のことが気になってるんだな。サボりとみなされて後で顧問や先輩達にしごかれちゃうってか? 大変だなぁおまえも。まあ球蹴りのことなんか忘れてもう少しのんびりしてろってことだよ。

 

「後でお母さんにも言っておきなさい。まあ冬休みが終わるまでずっといてくれたって構わないがね」

 

 そう冗談めかしておじさんはにこやかに笑う。毎日こんな風にご馳走を食べてたら流石の私も川本さんになってしまいそうだったから、それはちょっと遠慮したいところだ。

 ともあれお母さんからは夜になったら必ず家へ電話をするよう言いつけられていたから、後で連絡ついでに猛吹雪のことも伝えておこう。

 

「ねぇあなた、ちょっと来てちょうだい」

 

 食堂の出入り口に立ったおばさんが、なんだか困った様子でおじさんの事を呼んでいる。

 

「どうした?」

「それがね、お客様が……」

 

 呼ばれるままにそちらへと足早に向かっていったおじさんは、そのままおばさんと一緒に食堂から出ていってしまった。

 

「行こっか」

「ん? ああ……」

 

 そろそろ部屋へと戻るべく、私は弟に声をかけて二人一緒に席を立つ。

 

 ◆

 

「ちょっとちょっと。落ち着いて話して下さい。一体何があったんです?」

「だから! 今部屋に戻ったら、床にこんな……こんな物が……!」

 

 私達が食堂から出ると、例のOL三人組が必死な様子でおじさんに何かを訴えていた。メガネのお姉さんが震えるその手に持っていた小さな紙切れをおじさんに突きつける。

 

「これは……? いや、こんなもの誰かのいたずらでしょう」

「でも……誰かがあたし達の部屋に入ってこれを置いていったんですよ……?」

 

 だから気持ち悪くてとてもあそこじゃ眠れないと、怯えたように言うのは、メガネさんの後ろで腕を抱いていたビッチさんだ。

 

(なんだ? 何があった?)

 

 ただならぬ場の雰囲気に足を止めて様子を見ていた私達だったけど、やがて私に気付いたビッチさんがちょいちょいと手招きしてくる。

 

「ねぇ智子ちゃん、これ見てよ。なんだか怖いでしょ……?」

「え、何これ」

 

 メガネさんから借り受けた紙きれを私に見せたビッチさんが、不安の滲む声でそのように訴える。紙に書かれた文字を見た私も、その物騒な内容に思わず息を呑んでしまった。そこには赤いマジックでこう書き殴られていたのだ。

 

『こんや、12じ、だれかがしぬ』




続く


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【クロス】かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く(2)

長い夜のはじまり

(なんだこりゃ、きもちわりーな……)

 

 ビッチさんから受け取った紙きれを私は改めて読みなおす。こいつは予告状、あるいは脅迫状ってやつなのだろうか。その怪文書には漢字が一切使われておらず幼稚な印象を受けるのだけども、書かれている内容が内容なだけに却って不気味さを際立たせていた。

 

「さっきあたし達の部屋に落ちてたの。誰の仕業かしら……」

 

 そう不安を口にするビッチさんは今にも泣き出しそうな様子で、私の肩に手を置いて心許なげに寄り添ってくる。気が強そうに見える一方で実は随分と怖がりな人なのかもしれない。

 

(さてはヤクザの仕業か?)

 

 一体誰がこんなものを、と考えた所ですぐさまあのヤクザ風の格好をした変態のことが頭に浮かんだ。今このペンションにいる連中の中で一番こういう悪趣味なことをやらかしそうなのは、どう考えても不審者そのもののあいつしかいないからだ。その格好よろしく単に悪ふざけのつもりなのかもしれないが、おじさんのペンションでこんな事をされては私としてもちょっと気分がよくない。

 

「た、たぶんあの人じゃないですか? ほら、ヤクザみたいな格好してた……」

「ヤクザ?」

 

 周囲に本人がいないことをちらりと確認してから、私は最有力と思われる容疑者のことをビッチさんに教えてあげた。

 これはおじさんから厳重に注意してもらわないといけない案件だな。ついでにビッチさん達を怖がらせた罰としてここを追い出してくれないものだろうか。変態と一つ屋根の下で寝泊りするなんて出来ればごめんこうむりたいかんな。

 

「智子ちゃん、憶測でそんなことを言うのはやめなさい」

「えっ? で、でも……」

 

 だけども私の言葉を聞いたおじさんは、眉をひそめて逆にこちらを注意してきた。そりゃ憶測ではあるけど誰がどう見たって一番怪しいのはあいつなんだから、肩を持つことなんてないのにな。

 

「あの変な格好してた人、何者なんですか?」

 

 するとメガネさんが横から口を挟むようにおじさんへ質問してきた。

 ほらやっぱり。皆だって気になるよな? 露骨におかしな格好しやがって、怪しいったらないぜ。

 

田中(たなか)さんという方です。皆さんがいらっしゃる少し前にウチに来られたんですよ」

 

〈田中〉か。なんか偽名くせー名前だな。これで下の名前が〈一郎(いちろう)〉とかだったら間違いなく偽名ヤロー確定だ。ただ泊まりに来ただけの奴がわざわざ偽名を使うなんておかしいから、その場合はやっぱヤクザ好きの変態じゃなくてガチのヤクザだったりするのかな……?

 

「誰がやったにしても、きっとドアの隙間から差し込みでもしたんでしょう。鍵はかけていらしたんでしょう?」

「あっ、そっかー。中に入らなくてもいいんだぁ」

 

 不安を紛らわせるように、手にした箱からチョコプレッツェルを次々に取り出してはしきりにかじっていた川本さんが、おじさんの指摘を受けてぽかんとした表情を浮かべる。

 

「……でもやっぱり気持ち悪い。その田中って人、どこの部屋なんですか? まさかあたし達の隣とかじゃないですよね?」

 

 ぽかんとしたついでに深刻さもどこかへ飛んでいってしまった様子の川本さんだったけど、そんな彼女を尻目にメガネさんは尚も警戒心の滲む表情で口元に手を当てつつ不安を訴える。

 

「いえいえ、皆さんとはずっと離れたところにお泊りですよ。ほら、階段をあがってすぐ右側の手前にあるお部屋です。ここの上らへんですかね」

 

 そう言いながらおじさんは天井を見上げたのだけど、その言葉に私は少しばかり不吉なものを感じる。

 

「おい、おまえんとこの隣だぞ。やばいんじゃね?」

「……大丈夫だろ」

 

 後ろの方でぼけっと突っ立っていた弟を振り返り、私はそう指摘する。

 ヤクザの泊まる部屋が自分のところの近くでなくてよかったと安心する一方で、どうやら弟の部屋の隣らしいことがわかって私は同情を禁じえなかった。平気そうな風を装っちゃいるが、こいつがあまりにもヤクザのことを怖がるようだったら私の部屋に泊めてやってもいいぞ。

 

「どうする? 部屋替えてもらう?」

「そうだね、やっぱり気持ち悪いし……」

 

 犯人に目星は付けども不安が拭えないビッチさんは、脅迫状を送りつけられた部屋に泊まるのが怖いのかそんなことを言い出してメガネさんに相談する。

 

「ああ、それなら大丈夫ですよ。幸い空き部屋もありますから皆さんさえよろしければ」

「その部屋にもテレビ、ついてます?」

 

 気を利かせたおじさんが早速他の部屋を案内したまではよかったのだけど、そこへ口を挟んできたのは川本さんだった。重要なことでも確認するかのようにテレビの有無を尋ねる川本さんに対して、おじさんは申し訳なさそうに首を振った。

 

「テレビは置いてないんです。ふた部屋だけ置いてある部屋があるんですが、それが今お泊りの部屋なんですよ」

「もうひと部屋は?」

「あいにくふさがってます。ですから、テレビをご覧になるんでしたら、今のお部屋で我慢していただくしか……」

 

 空き部屋にテレビは置いてないと言っているのに尚も念入りに確認してくるあたり、川本さんは余程テレビのことが気になるらしい。そのふさがってるもうひと部屋というのは、たぶん私の部屋のことだな。

 

「テレビは我慢しようか?」

「えー、あたし見たいテレビがあるの」

 

 妥協してでも部屋を移りたいビッチさんはそう提案するのだけど、納得のいかない川本さんは指先でつまんだプレッツェルをぶんぶん振りながらわがままを言う。

 

「テレビなんかいいでしょ! なにしに来てんのよあんたは。あたし達はスキーしに来たのよ、スキーに!」

 

 それを受けてビッチさんが呆れた様子でぷりぷりと怒り始める。

 

「分かってるけど……でも今日は見逃せないの。『101体目の複製人間(クローン)』の最終回なんだもん」

 

 川本さんが言っているのは、最近流行りのドラマのことだ。私は見たことないけど、なんかクローン人間どもがウジャウジャ出てきて毎回バカをやりまくる話らしい。

 ここで私が快く自分のテレビ付き一等部屋を明け渡してやれば丸く収まるのかもしれんが、そういう訳にはいかないぜ。こっちだってテレビは欲しいんだ。スーファミで遊んだりしたいからな。

 

(こりゃもう警察呼んだほうがいいんじゃね?)

 

 そんでもってあのヤクザだか変態だか分からん奴がマジで怪文書の差出人だったら、そのまま脅迫罪で逮捕してもらうんだよ。そしたら全部丸く解決するのにな。おじさん、頼むよマジで。

 とかなんとか私が考えていたら、フロントの電話が控えめな音で鳴り出した。話の途中だったけど、おじさんはOLの人達に断りを入れてから受話器を取る。

 

「はい、〈シュプール〉です」

 

 さっきまでの不穏なやりとりを感じさせない明るい調子でおじさんが応対する。そんなおじさんを抜きにしてOLの人達はしばらくひそひそ声で議論していたのだけど、やがて折り合いが付いたのかそのまま連れ立って二階へと上がっていってしまった。まあ、あんなのガキのいたずらみてーなもんだからな。気味は悪いがそんなに大騒ぎするほどのもんでもないんだろう。

 

「これやるよ」

「いらん」

 

 脅迫状を手にしたままだったことに気付いた私は、不吉なそのブツを手放したくて弟に差し出す。そうしたら、弟は受け取りもせずさっさと私を置いて二階へと上がっていってしまった。

 

「……そうですか。では、お待ちしております。雪がひどいですから、お気をつけください」

 

 そう言って受話器をそっと置くおじさん。時計を見れば時刻は八時を少し過ぎたぐらいだったけど、どうやら猛吹雪にもかかわらずこんな時間からやって来る客がいるみたいだ。ともあれ電話の応対が終わったようだから、私はおじさんに脅迫状を差し出した。

 

「おじさん、これ……」

「おお、すまないね」

 

 こんな物騒なもんは責任者のおじさんに預かっといてもらうのが一番だな。意趣返しに「だれかが」のとこを「やくざが」に書きなおしてからヤクザの部屋へこっそり返却してやったりしたら面白いかもだが、バレた時が怖いので勿論やらない。

 

「あの人達はどうしたんだい?」

「なんかもういいんだって」

 

 OLさん達はどうやら諦めたらしいと、私はおじさんに教えてあげる。

 

「そうかね、それならいいんだが……迷惑なことをする人がいるもんだなぁ」

 

 頬をぽりぽりかいてボヤくおじさんだったけど、ひょっとしたらおじさんだって一応あのヤクザのことが怪しいと思ってはいるのかもしれない。OLさん達の様子からして自作自演とも思えないから、早々にメシを切り上げてったヤクザが私達のいない間にこっそり犯行に及んだんだろう。

 なんて具合に私が推理していると、重量感のある足取りで誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。

 

「ふぃー、どっこいしょ……」

 

 現れたのはあの大阪のおっさんだった。下りてくるなしソファーにどかっと座り込むと、早速リモコンを手にテレビをつけてチャンネルを次々に切り替えていく。おっさんのソファーに座った姿はなんだか丸々としていて鏡餅みたいだ。

 

「あかん。どこもやってへん。こんなんやったらスマホ置いてくるんちゃうかったわ」

 

 かと思ったら何かを諦めたようにテレビを消してしまったおっさんが独り言を呟いた。

 

「小林くん、今日の終わり値聞いてへんかな」

(オワリ……ネ?)

 

 おっさんがよく分からないことをおじさんに尋ねる。

 

「香山さん、仕事のことは忘れるって約束でしょう」

「ああ……いや別に、仕事やないんや。毎日見てるさかい、見んと気持ち悪いっちゅうだけでな」

 

 でんがなまんがな口調でオワリネがどうたらと言うおっさんに、やれやれといった様子でおじさんは腰に手を当ててため息をつく。知り合い同士なのかなと思う私だったけど、そのまま二人が他愛もない話を始めたので部屋へ戻ることにした。

 おっと、その前に例のゲーム機とカセット一式を拝借しておかないとな。今夜はあれで遊び倒すぜ。

 

「ああ、そうそう。香山さん、この子は私の姪なんですよ。智子といいます」

 

 さっき自分で片付けておいたゲーム機を持ち出そうと脇に抱えたりしていたのだけど、おじさんが急にそんなことを言って私のことを話題にしてきたものだからドキリとしてしまう。

 

「そうかー。きみの姪御さんか。おチビちゃんやなぁ、小学生か?」

「あっ、いや、えと……!」

 

 いくらなんでもそりゃないだろう。おっさんのあんまりな誤解に「あたしゃ高校生だよ!」と反論したかったけど、人生初の関西人との会話を前にして私はすっかり慌ててしまった。こういう場合はなんて言やいいんだ?「ちゃいまんねん」とか、それっぽい関西弁で返せばいいのか?

 

「いえいえ、この子はもう高校生ですよ」

「ホンマかいな! そりゃまた大変やなぁ。栄養足りてへんのとちゃうか、きみ」

「はは……」

 

 私に代わっておじさんが本当のことを明かしてみせれば、それを聞いたおっさんはおおげさに驚いた後で何が面白いのかダハハと笑っている。これはつまり遠回しにチビだと笑われてるようなものだから、愛想笑いをしつつも私はムカッとしてしまった。なんだかあの体育教師(デリカシーゼロ)と同じ匂いがするぞこいつ。

 

「香山さんは、わたしが前の仕事をしている頃お世話になったんだ。大阪で社長をされている」

「あ、そ、そうなの……?」

「せやで。わしんとこはお好み焼きのチェーン店出しとんねん。『浪速のど根性焼き』ゆうてな、知らんか?」

 

 そないけったいな名前の店は知りまへんわ。根性焼きとかヤンキーかよ。

 なんてことを考えつつも適当に相槌を打っていたら、夢はでっかく一万店舗や、日本だけやのうて海外展開も狙っていくんや、だなんて聞いてもないことを大きな声でグダグダと語られてしまう。関西弁も聞き飽きてきたし、おっさんの長話に付き合うのも嫌なのでもう解放してほしいんだが。

 

「ご迷惑ですよ。あなた」

 

 急に背後から女の人の声がしたから振り返ってみたら、いつの間に下りてきたのか階段の下にあの人妻さんが立っていた。

 

「困ってらっしゃるじゃありませんか」

 

 そう語りかけながらしずしずと歩み寄ってきた人妻さんはおっさんの隣にそっと座ったのだけど、そこでようやくおっさんの暑苦しいマシンガントークは止まった。

 

「女房の春子(はるこ)や。……こっちは小林くんの姪御さんやそうや。智子ちゃん、やったかな」

「あら、そうなの? こんばんわ」

「あ、ど、ども……!」

 

 おっさんが仲介役となって挨拶を交わした私と人妻さんだったけど、やはり思った通りこの二人は夫婦のようだった。あまり品性が感じられないおっさんと違って、人妻さんの方はその佇まいから声色までどことなく気品のようなものを漂わせている。五十代ぐらいに見えるおっさんに対して人妻さんは三十代ぐらいという印象だったから、そうしたところも含めてなんとも不釣り合いな夫婦だなぁと、私はそんな感想を抱く。

 

「あっ、じゃ、じゃあ私、へ、部屋戻るので……!」

 

 しっとりと艶を帯びた視線で私のことを興味深げに見つめてくる人妻さん。それがなんだか恥ずかしくって、私はぎこちなく断りを入れてからそそくさとその場を後にする。ああ、綺麗な人だなぁと、そんな印象ばかりが私の心の中に焼きついたのだった。

 

 ◆

 

(また死んだ! バランスくっそ悪いなこれ)

 

 持ち込んだスーファミを自室のテレビに繋げた私は、数あるカセットの中から選んだ一つのゲームをプレイしていた。これは『不思議のペンション』っていうダンジョンRPGで、随分昔に流行ったらしいそこそこ有名なゲームなのだ。

 

(なんか裏技とか無いのかよ)

 

 一旦コントローラーを置いた私はスマホを手に取る。以前見たレトロゲーのプレイ動画で紹介されていたこの作品のことを私は知っていたのだけど、実際にやってみるとこれがまた難しいのなんの。さっきだって敵から強そうな武器をぶんどってやったら、それが呪いのアイテムだったせいで主人公が発狂しちまいやがった。予備知識無しでサクサク進めるのはしんどいと判断した私は、さっきからゲームの進行に詰まる度にスマホで攻略情報を確認していたのだった。

 

(ありゃ?)

 

 開きっぱなしにしていた攻略サイトの気になるリンク先を押した私だったけど、なにやらページが読み込めないとエラーが出てしまった。ついさっきまではネットを使えていた筈なのに、なんだか急に接続が出来なくなってしまったみたいだ。

 

(電波の調子が悪いのかな?)

 

 気になってスマホの設定を確認してみたら、確かにネット用の電波が来なくなっていることが確認出来た。このペンションは外部からの電波がまともに届かない場所にあるから、ネットを利用する為には宿泊客の為に用意された無線LANの電波を拾う必要があるってことみたいだけど、そいつの調子がよくないのかもしれない。

 

(おじさんに言ってみるか……)

 

 これから夜も長いってのにネットが出来ないだなんて敵わないし他の皆だって困るに違いないから、私はルータの具合をおじさんに見てもらうべく立ち上がる。

 

「っ!?」

 

 だけどもその瞬間、ドサドサッと窓の外で何か大きなものが落ちる音が突然聞こえてきた。

 

(ああ、雪か。ビビらせんなよなー)

 

 窓の方に目を向けた私は、そこから見えるひさしから雪がぼろぼろと小さく零れ落ちているのを見てとる。今外から聞こえた大きな音というのは、どうやら屋根に積もっていた雪の塊が重みに耐えかねて一気に落ちていった音のようだ。夕方から降り始めたこの猛烈な吹雪は、いまや随分とこの辺一帯に雪を積もらせてしまっているらしい。

 

(おっ、車か……?)

 

 そうして窓の外をぼんやりと眺めていると、どこかから車のエンジン音が近づいてくるのがわかった。やがてペンションの敷地内へと侵入してきた車は裏手の方へと回って停車したようだ。そのままなんとはなしに耳を澄ませていると、この猛烈な吹雪の中にあってもざっくざっくと雪を踏みしめる足音が確かに聞こえてきた。

 

(さっき電話してきてた客が来たのか?)

 

 この吹雪の中、ご苦労なことだと思う私だったけど、ともあれおじさんに会いに行くべく廊下へと出る。

 

『フミャァ……フミャァ……』

 

 途端、ドアを開けてすぐ左手のほうにある物置の中から切ない様子で鳴き声が聞こえてきたので足を止めてしまった。

 

「ジェニー?」

 

 廊下の突き当たりにあるその物置に向かって呼びかけてみれば、私の声を感じ取ったかのように鳴き声はピタリと止む。気になってそっと物置を開けてみれば、思った通り中から黒い猫がするりと出てきて姿を現した。

 

「なんだよおまえ、閉じ込められてたのか?」

 

 そう言ってしゃがみこんだ私は猫の背中を撫でてやる。こいつの名前はジェニーといって、このペンションで飼われている黒猫だ。どうも姿が見えないと思ったら、こんなとこに隠れていたとは。

 

「すみません! 美樹本(みきもと)ですが! どなたかいらっしゃいますか!」

 

 その時、ロビーのほうでカランコロンとベルの音が鳴ったかと思ったら男の人の声が聞こえてきた。随分大きな声だったので、二階にいる私のところまで届いてくる。あれはたぶんさっき車でやって来た客だな。

 そちらに気を取られていたら、ジェニーが階段のほうへと走っていってしまった。かと思ったら、階段近くの部屋の前まで行くとそのドアの隙間に鼻を押し当ててしきりに匂いを嗅ぎ始める。やがてジェニーは部屋に入れてほしいとでも言うように、ドアにすがりついてニャアニャアと駄々をこねるように鳴き出した。

 

(中になんかあんのか……?)

 

 そこはどうもあのヤクザが泊まっているらしい部屋なのだった。ともあれジェニーの鳴き声につられてヤクザに出てこられては面倒だと思った私は、そっと部屋の前まで駆けていってジェニーを抱っこしてやる。もしあいつが猫嫌いな奴だったら、最悪ジェニーを蹴っ飛ばしたりしかねないから私が保護してやらんとな。

 なんてことを考えていたら、誰かが階段を上がってくる。廊下に姿を現したのは初めて見るヒゲもじゃの男の人だった。その人は私の姿に気付くと一瞬驚いた様子を見せたけど、やがてニカッと愛想の良い笑顔を浮かべて無言のまま手で挨拶してみせると廊下の奥へと進んでいった。

 

(私の隣か……)

 

 おそらくは新たに訪れた宿泊客なんだろう。荷物を担いでいたその人は私の隣の部屋を鍵で開けると中へ入っていった。そういやさっき自分で名乗ってたな。みき……なんとかっていう名前だったような。

 ともあれ私はジェニーを抱っこしたままロビーへと下りていくのだけど、丁度そのとき鳩時計が一度だけポッポと鳴る。時刻は八時半だった。

 *

「ぷはーっ、うんまいのー」

 

 グラスに注がれたビールをぐいとあおっていた大阪のおっさんが、如何にもおっさん臭い感じで声を上げていた。ロビーの談話室ではいつの間にやら晩酌が始まっていたらしい。

 おっさんの隣に座る人妻さんは紅茶と一緒にケーキを食べているようだった。あれは私が晩メシ時に食ってたのとおんなじやつだな。

 

「おっ、猫やんか」

 

 階段の下でその様子をじっと見ていた私だったけど、こちらに気付いたおっさんが私の抱っこしているジェニーに興味を示したのか、グラスをテーブルに置いて歩み寄ってくる。

 

「おー猫ちゃん猫ちゃん」

 

 おっさんが指先でジェニーの喉をこちょこちょと撫でてやれば、ジェニーは気持ちよさそうに目を細めて首を伸ばす。

 

「どら、ちょっとええか?」

「あ、はい……」

 

 どうやらジェニーを抱っこしたがっている様子のおっさんが両手を広げてきたから、私はジェニーを渡してやる。するとおっさんはご機嫌な様子でそのままソファーへと戻っていった。今度はジェニーがおっさんの長話に付き合わされる番なのかもしれない。

 

「ジェニーって言うんですよ」

「ジェニーちゃんか、そらまた可愛い名前や。女の子か」

 

 食堂から出てきてビールのおかわりを運んできたらしいおじさんが、ジェニーの名前をおっさんに教えてやる。

 

「おじさん、ジェニー閉じ込められてたよ。二階の物置」

「ああ、そうだったのか。どうりで見かけないなと思ったよ」

 

 さっきまで暗くて狭い所にいて寂しい思いをしていたジェニーだったけど、今はおっさんが食べているおつまみのさきいかをくんくんと物欲しそうに嗅いでいる。そんなジェニーを「アカンアカン、猫にイカはアカンのや」と制するおっさんの様子はどこか楽しげだった。もしかしたら猫好きなのかもしれないな。

 

「どうもこんばんわ!」

 

 さっき出くわしたヒゲもじゃの人が、ロビーの皆に手を振りながら階段を下りてきた。

 

「ありゃ、ビールですか? 参っちゃうな。ここに凍えかけた人間がいるってのに」

 

 いかにも山男といった風貌のその人は、随分と愛想のいい様子であははと笑ってみせると人妻さんの隣に腰掛ける。

 

「どうぞ紅茶でも飲んであったまってください」

 

 みきなんとかさんをもてなすおじさんのその言葉通り、今日子おばさんとみどりさんがティーポットとカップをのせたお盆を持ってやって来た。

 

「ああ、生き返るみたいだ……!」

 

 熱い紅茶をふうふう吹きながらありがたそうに飲むみきなんとかさんは、心底ほっとしたような様子だった。声の印象からしておっさんと言うにはまだ随分と若い感じのする人だったけど、ヒゲもじゃの人というのは実際の年齢がよく分からなくなる。

 

「智子ちゃんも何か飲む? ココアはどう?」

「あっうん、まだいらないかな……」

 

 お盆を持ったおばさんが私にそう尋ねてきたのだけど、つい三十分ばかし前にコーヒーをご馳走になったばかりの私は遠慮する。別に何か飲みたくて下りてきた訳じゃないもんな。

 

「おじさん、なんかネットつながんないよ」

「えっ、本当かい?」

 

 本来の目的を思い出した私は、おじさんに無線LANの不調を教えてあげた。そうしたらおじさんは「後で見ておこう」と言ったのだけど、お客さん達とのお喋りに夢中なようで当分はここを動きそうにない感じだ。

 

「そうだ。篠崎(しのざき)くん。上の皆さんもお茶が欲しいかもしれない。ちょっと聞いてみてくれないか」

「はーい」

 

 おじさんの指示を受けたみどりさんが、ぱたぱたとスリッパの音をさせてフロントにある内線用の電話を手に取る。そうしてどこかの部屋と話していたらしいみどりさんだったけど、一旦電話を切った後に改めて別の部屋へとかけ直す。

 

「あっ、もしもし智貴くん?」

 

 どうやら今度は弟の部屋にかけているみたいだ。少しばかりあいつと言葉を交わしていたみどりさんはやがて電話を切った。

 

「オーナー! みんな飲みたいそうです。今からこっち来るって!」

 

 おじさんへ向けてみどりさんが大きな声でそう伝える。

 

「待ちなさい、ちゃんと全員に連絡したのか?」

「全員じゃないですけど……あの人は別にいいんじゃないですか? ほら、変な格好したちょっと怖い感じの……」

「ああ、田中さんか。そうだな、人付き合いのよさそうなタイプでもないしな」

「そうですよ。たぶん呼んだら逆に怒りそうですよ、あの人」

 

 ざまあ。ヤクザはここでも皆の嫌われ者だ。もしかしたら今頃部屋ん中でタバコ吸いまくって酒をあおったりしてるのかもしれない。酔っぱらって暴れたりしなきゃいいけどな。

 

「じゃああたしは、もう四人分、用意して来ますね」

 

 おばさんがそう言って、お盆片手に台所へと消えていった。このままだとどんどん人で賑わいそうなロビーだったから、部屋で気楽にくつろいでいたい私はそこから逃げるようにして二階へと上がっていった。

 *

「あっ、智子ちゃん!」

 

 自分の部屋に向かう私だったけど、廊下の突き当たりの部屋から出てきたビッチさん達とばったり出くわしてしまった。この人達は私の部屋の真向かいに泊まっていたようで、さっきゲームをしてた時も笑い声なんかが聞こえてきていたもんだ。

 

「なんかお茶出してくれるって言ってたけど、行かないの?」

「あっ、はい、えと、の、喉渇いてないから……」

 

 私が自分の部屋に引っ込むつもりでいたのを察したのか、メガネさんがそう尋ねてくる。

 

「また後で下りてきなよー。ケーキとかもあるって言ってたよ?」

「あーうん、ケーキはもういいかな……さっき食べたし……」

 

 また性懲りもなくお菓子を食べてる川本さんが、もう待ちきれないといった様子でそんなことを言う。

 

「えー、智子ちゃんともっとお喋りしたいのになぁ」

「あ、す、すみません、えと、なんか沢山滑ったから疲れちゃって……」

 

 残念そうな様子のビッチさんが、なにかをねだるような目で私を見てくる。ここでホイホイ付いていったらまた皆からイジられそうだったから、私としては遠慮したいところなんだが。

 

「そっか。じゃあ今日いっぱい休んで、また明日一緒に滑ろうね」

「あ、はい、そ、そですね……はは」

 

 そんな風に言うビッチさんは明日を楽しみにしているようだったけど、この様子だと例の天気予報のことをまだ知らないと見える。明日は下手すると一日中ここでカンヅメになるかもしれないってのになぁ。

 ともあれ私の前から去っていったビッチさん達が階段を下りていくところまで見送っていたら、今度は遠く離れた向かい側の突き当たりにある部屋から弟の奴が出てきたのが見えた。あっちも廊下に佇む私に気付いたようだけど、お互い何も声をかけないまま弟は階段を下りていってしまう。

 いいのか弟よ、そっちにゃ自分の自慢話を聞いて欲しい大阪のおっさんが待ち構えているんだぞ。「わしの会社は実力主義や!」とかドヤ顔で長話されちゃうかもなんだぞ。

 

(いま二階にいるのは私とヤクザだけか……)

 

 誰もいなくなった廊下でふとそんなことを考えた私だったけど、なんだか急に寒気がしてきたものだからすぐさま自分の部屋に入る。

 

(戸締りしとこ……)

 

 変態が侵入してくる可能性があったから、念のためドアの鍵を閉めた私は一時中断したままのゲームを改めて再開するのだった。

 

 ◆

 

(あっ、電話すんの忘れてた)

 

 意地悪な難易度のゲームに四苦八苦していた私は、夜になったらウチへ必ず電話を入れるようにというお母さんとの約束を思い出した。一旦ゲームを止めて時刻を確認してみたら、ちょうど九時になったところだ。どうすっかな。まだ誰も二階に戻ってきてないみたいだし、いま下りてったらビッチさん達に捕まるかもしれん。

 

(後でいいか……)

 

 ちょっとぐらい遅くなっても大丈夫だろうし、また頃合を見て電話しに行けばいいや。ついでにおばさんに言ってココアでも作ってもらおう。

 

「うおっ!?」

 

 そう考えて再びゲームを始めようとしたのだけど、突然どこかでガラスの割れるような音が響いてきたので、私は驚きのあまり飛び上がってしまった。

 

(なんだ今の!?)

 

 どうも窓の外のほうから聞こえてきたような気がするから、私は窓辺に立って外の様子を見やる。だけども吹き荒れる雪のせいで碌に視界が利かないようだったから、代わりに聞き耳を立ててみた。

 

(もしかすっと窓が割れたんか?)

 

 ガタン、ガタンと何かが強く壁に叩きつけられるような音が外から繰り返し聞こえてくる。その音は結構近くて、どうも私のところのちょっと離れた先ぐらいの部屋がある辺りから聞こえてきていた。これはきっと窓枠が吹雪に煽られて壁にぶつかっている音なのかもしれない。

 

(ヤクザが部屋ん中で暴れてんのかな?)

 

 私の部屋の隣の、そのまた更に隣には階段を挟んであのヤクザの部屋がある。この窓枠の音はひょっとしたらあの辺から鳴っているのかもしれない。私の頭の中には泥酔したヤクザが酒瓶を投げつけて窓を割ってしまった様が思い描かれる。窓が割れたことにおじさん達も気付いたのか、一階のほうから慌ただしく駆け回る誰かの足音が聞こえてきた。

 あいつめ、とうとうやりやがったか。こりゃもう通報確定だな。脅迫状のことだってチクられるだろうし、おまえはもうおしまいだぞ。

 怖いながらもなんだか高揚してきた私は胸の鼓動が早まっていくのを感じる。

 

(部屋から出てきたりして……)

 

 今度はドアの前に立って扉に耳をあてがった私は廊下の様子に探りを入れる。酔っ払いヤクザが私の部屋に入ろうとしてくる可能性だってあるもんな。

 

(ん? ジェニーか……?)

 

 廊下のほうから聞こえてきたのは、ジェニーの鳴き声だった。ニャアニャアと、駄々をこねているように感じられる鳴き方だ。ジェニーの様子が気になった私は、思い切って鍵を外しそっとドアを開いて廊下の様子を伺う。そうしたら、案の定ジェニーがさっきと同じようにヤクザの部屋の中へ入りたそうにしているのが見えた。

 

(バカ! 見つかったら蹴っ飛ばされちゃうぞ)

 

 慌てた私は廊下に出ると、ヤクザに気付かれないよう注意しながらジェニーのところへと静かに駆け寄っていく。そしてジェニーを抱っこしてやったのだけど、ヤクザ部屋のドアの下からひんやりとした冷気が漏れてくるのを自分の素足で感じ取る。ドア越しにびゅうびゅうと風の吹きすさぶ音が聞こえてもくるから、やっぱりヤクザの奴が自分の部屋の窓を割ってしまったのだろう。シュプールは客室の窓ガラスに値の張る特注品を使ってるらしいけど、そんなことも知らず気軽にやってくれるもんだ。

 ヤクザの蛮行をおじさんにチクってやろうと思い、私はその場を静かに離れようとした。すると何人もの人達が連れ立って階段を上がってくるのが聞こえてきた。先頭に立つおじさんを筆頭にぞろぞろとやって来たのは、他の宿泊客達だった。弟は一番後ろから付いてきたようで、私に気付いてちらりと視線を向けてくる。

 

「ああ、智子ちゃん。さっき窓が割れる音がしたろ。そっちは大丈夫だったかい?」

「あ、うん……」

 

 宿泊客の人達はそれぞれ自分の部屋のドアを開けて中を覗き込んだりしていたけど、どうやら皆は二階の部屋の窓が割れたかどうかを調べに来たようだ。だったら話は早いぜ。私は犯人を知っているぞ。

 

「たぶんこの部屋だよ。なんか風吹いてきてるもん」

「えっ? そこは確か……」

 

 ヤクザ部屋を指し示す私の言葉を受けたおじさんが、ちょっと険しい表情になる。あの怪しさ満点のヤクザがいるところで窓が割られたとあっては、おじさんも警戒せざるを得ないのだろう。

 

「なになに? どうしたの?」

 

 自分の部屋を調べ終わったビッチさん達が、私とおじさんのやりとりに気付いて声をかけてくる。

 

「あ、た、たぶんこの部屋で割れたみたいだから……」

「やだ。そこ、あの変な人の部屋じゃないの……?」

 

 ビッチさんの表情が曇ってまた不安げな様子になる。まったくもって人騒がせなヤクザだよなぁ。

 

「……ねえ、もしかしたら中で人が死んでるんじゃない?」

「えっ、どうして?」

 

 声を潜めていきなりとんでもないことをささやいたのはメガネさんだった。そしたら傍らの川本さんが、お菓子を食べる手を止めて理由を尋ねる。ていうか延々となにかしら食い続けてんなこの人。

 

「ほら、あの脅迫状よ。『誰かが死ぬ』って書いてたじゃない」

「えー、こわいよぉ」

 

 例の脅迫状のことを蒸し返したメガネさんは、鋭い目をしてそんな憶測を口にする。それを真に受けた川本さんは怯えた様子で手にしていた菓子袋をぎゅっと握りしめた。

 

「でも、まだ九時よ? 十二時って書いてたじゃないの」

 

 メガネさんの大胆な発言に微妙な表情でそう反論してみせるのはビッチさんだった。そうであって欲しくないという気持ちからなのか、友人の言葉をすんなりとは受け入れたくないみたいだ。

 

「かく乱よ、かく乱。捜査陣を惑わす為の工作ね。我孫子武丸(あびこたけまる)とかで読んだことあるもの」

 

 どっかで聞いたことのあるような名前を引き合いに出して力説するメガネさん。ああ、そういやそんな名前の作家さんがいるな。確か『鎌井(かまい)達の夜』とか『Oの喜劇』なんていう推理小説を書いてたように思う。

 

(窓が割れただけじゃねーか。なにおおげさにビビってんだこいつら)

 

 ああだこうだと憶測を巡らし盛り上がってるOLさん達を見ていたら逆に冷静になってきた。あんなもんは変態ヤクザのいたずらなんだろうと考えていた私だったから、いくらなんでも騒ぎ過ぎじゃないかと思ってしまう。

 気が付けば、自室の確認を終えた他の人も私達を取り巻くように集まってきていた。皆の関心はいずれもあのヤクザ部屋へと向いているようだ。

 

「お客さま! 田中さま!」

 

 皆の期待へ応えるように、意を決したおじさんがヤクザ部屋のドアを強くノックして大きな声で呼びかける。しばらく待っても返事が無いので改めてノックを続けるけれど、やはり反応は無かった。

 

「中で何かあったんじゃないですか?」

 

 そう指摘するのは、皆の中から進み出てきた弟だった。その言葉にうなずいたおじさんは、ドアノブに手をかける。

 

「駄目だ。鍵がかかってる」

 

 少しの間だけ思案したおじさんだったけど、やがてポケットから取り出した鍵を使ってドアを開けてみせた。

 

「失礼します」

 

 おじさんがドアを開けた途端、そこから飛び出してきた風が強烈な冷気と共に私達全員を包み込んだ。ビッチさん達がたまらず小さな悲鳴を上げる。

 

(さっむ……!)

 

 凍えるような風がびゅうびゅう吹いてくる部屋の中からは、カーテンが風に激しく揺られる音や、さっき私が窓辺で聞いたあのガタンガタンという音が盛んに聞こえてくる。

 

「お客さん!」

 

 おじさんがドアを開ききると部屋の中があらわになったものだから、私は他の皆と一緒になっておそるおそる覗き込んでみる。腕の中のジェニーも首を伸ばして室内の様子に興味津々のようだ。

 予想通り窓は割られていたようだけど、ヤクザの姿は見当たらない。割れていたのは私達から見てちょうど正面、部屋のつきあたりにある窓だ。観音開きタイプのそれは、いまや右側の窓枠のほうだけごっそりガラスが無くなっている。ただ風に煽られるばかりとなったその無残な窓枠をくぐり、部屋の中へとひっきりなしに入り込んでくる雪がベッドに積もり始めているようだった。

 

「お客さん! 田中さん!」

 

 尚も大声で呼びかけ続けるおじさんは部屋の中へと足を踏み入れて入り口脇にあるバスルームを確かめるのだけど、やっぱりそこにも人の気配は無いようだった。

 

(もしかしてあいつ、窓からダイビングしたのかな……?)

 

 酔っ払ったヤクザがとち狂って窓に頭から勢いよく突っ込んでいったのだろうかと私は思ってしまう。そしたらきっと今頃雪の中に埋もれてるんじゃないだろうか。

 

「いないの?」

「ああ、うん、どうしたんだろうね。どこにもいないんだが……」

 

 私がそう聞いてみれば、入り口まで戻ってきたおじさんが困った様子でうなじをかく。

 

「奥の方は調べないんですか?」

「そうだな、よし……」

 

 もっとよく調べてみてはと言う弟に促されて、おじさんは小さくうなずくと再び部屋の中へと入っていき、言い出しっぺの弟もその後ろから付いていった。

 ひどい風と雪から顔を守るように手をかざしながら進むおじさんと弟だったけど、やがて窓辺のほうまでたどり着いた途端に何かを見つけたらしく、足元を見据えてぎょっとしたように二人して立ちすくんだ。

 

「なんかあんの?」

「来るな! 見るもんじゃねえ!」

 

 気になった私が部屋の中に入ろうとした瞬間、弟がこちらに向かって叫んだので思わず後ずさってしまう。

 

「なんてこった……こりゃあ……こりゃあ……死体だ。人間の死体だ!」

 

 真っ青になったおじさんが悲鳴のようなかすれた声で叫んだ。腕の中のジェニーは鼻をひくひくさせて部屋の匂いを盛んに嗅ごうとしている。

 

「ウソでしょ……?」

「ほらやっぱりっ! あ、あの脅迫状、本物だったのよっ……!」

「ふぇぇ……」

 

 今しがたのおじさんの叫びを聞いたのか、私の背後にいたビッチさんが押し殺したような声を上げたと思ったら、その驚きと恐怖が廊下にいた皆に次々と伝播していく。

 

「なんや、小林くん! どないしたんや!?」

 

 入り口前に立っていた私やOLさん達を押しのけて、大阪のおっさんが部屋の中へ入っていこうとした。

 

「すみません、皆さん、一旦ロビーに戻ってください!」

 

 そしたらおじさんが慌てて入り口まで駆け寄ってきて、おっさんを追い出してしまう。

 

「智子ちゃんも下で待っててくれ。さあ!」

 

 そう言って、おじさんはドアを閉めきってしまった。

 

「なんやねんホンマ……」

「あ、あの、いま死体がどうのって言ってませんでした……?」

 

 いの一番に部屋の前から逃げるように去っていったOLさん達に続いて、困惑顔のおっさんやみきなんとかさんが連れ立って階段を下りていく。

 

(ヤクザ死んじゃったのか? マジで……?)

 

 あまりの急展開に理解が追いつかない私はぼんやりと扉の前に立ち尽くしていたのだけど、心臓が今頃になって痛いほどバクバクしてきたものだから、腕の中のジェニーをぎゅっと抱きしめてしまう。部屋の中からおじさんと弟の声が聞こえてくるけれど、何を話し合っているのだろうか。

 

「……ほら、行きましょう?」

「あ、は、はい……!」

 

 そんな私に人妻さんが声をかけてきて、背中をそっと押してくれた。そうして促されるまま、私は人妻さんと一緒に階段を下りていく。

 

(どうなるんだ? これ……)

 

 ひょっとしたらこれから長い夜になるかもしれないという嫌な予感がじわりと胸の中に広がっていくのを、私は止めることが出来なかった。




続く


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【クロス】かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く(3)

舞台となるシュプールの間取り図を作成してみました。
原作ゲームにおけるシュプールの構造はモデルとなった実在のペンションと全く同じという訳ではなく、かつ曖昧になっている部分なども幾つかあったりするのですが、更にそこへこの小説に合わせて間取りを微調整してる部分なども一部ありますので、おおまかなイメージとして捉えて頂ければと思います。
★一階間取り図:
【挿絵表示】

★二階間取り図:
【挿絵表示】



閉ざされた山荘

 すっかり体を冷やしてしまったおじさんと弟が、おばさんに淹れてもらった紅茶を吹き冷ましながらすする音がやけに目立つ。ロビーには「シュプール」に泊まっている客と従業員が全員集まっていたのだけど、さっきから誰も口を開こうとしないので随分と静かなのだ。川本さんですら、今はお菓子も食べずビッチさんやメガネさんと身を寄せ合ってソファーのほうで縮こまっている。

 

「ねえ、いい加減何があったのか教えてくれてもいいんじゃないの?」

 

 壁に背を預けていたみどりさんが、黙りこくっている皆に対して苛立った様子でそう切り出した。みどりさんや俊夫さん、おばさん達はずっと下にいたままなので、二階で何があったのかまだ知らないのだ。

 

「せや小林くん……。きみ、さっき死体がどうこうゆうとったやないか。何やったんや?」

 

 さっきヤクザの部屋に入ろうとして追い出されてしまった大阪のおっさんも、思い出したように事情の説明をおじさんに求める。

 

「ああ……そうですね……その、まあ……」

 

 だけどもおじさんは心ここにあらずの様子で、カップを持ったまま生返事をするばかりだ。間近で死体とやらを見てしまったせいか、この様子からすると随分ショックを受けてしまっているらしい。

 

「死んでたんですよ。人があそこでバラバラになってました……」

 

 どこか疲れの滲む声色で代わりにそう説明したのは、私と一緒に階段の下に腰掛けていた弟だった。それを聞いた私は言葉の意味を理解して唾を飲み込んでしまう。

 

(おいおい、〈バラバラ死体〉ってことか……!?)

 

 どうもヤクザはただ死んでいたのではないらしい。おじさんと同じく青ざめていた弟だったけど、こいつがこんなにもただならぬ様子でいたのは例の部屋で相当ヤバいものを見つけてしまったからなのだ。

 嫌なことを聞いてしまったと思った時にはもう遅くて、生前のヤクザの手を握った時の感触がいやに蘇ってきてしまう。あの手の主がいまやこの談話室のちょうど真上で変わり果てた姿となって散乱しているのだ。もしかしたらそのうち天井から血がしたたり落ちてくるかもしれない。そう考えてしまった私の膝がひとりでに震え始めたものだから、その上で寝ていたジェニーが目を覚ましてしまう。

 

「ちょっと待って。バラバラって……それ、どういうこと?」

 

 いきなりそんなことを言われて戸惑ったみどりさんが改めて聞き返す。その傍らに立つ俊夫さんも、弟の物騒な言葉に目を見張っているようだ。

 

「バラバラ死体ってやつです……顔とか、手とか足がその辺に転がってて……」

「いや──っ!」

 

 自分が見てしまったおぞましいものを淡々と、だけども生々しく語っていく弟の言葉を受けて恐怖したのか、ソファーに座るビッチさんが耳を塞いで悲鳴を上げる。その傍らに座るメガネさんや川本さんだって今にも泣き出しそうな顔だ。声に驚いたジェニーは一体何事かとビッチさんを凝視している。

 

「……田中さん、とかいう人なの?」

 

 緊張の度合いを深めたみどりさんが、ヤクザの名前を出してそう質問する。今この場にいない人間が一人だけいることに思い当たったのかもしれない。

 

「たぶん……そうだと思います。男だったし、あのグラサンとかも落ちてましたから」

「それってもしかして、よくできた人形なんじゃないの? それもあの脅迫状と一緒で、いたずらなんじゃないの?」

「どうでしょうね。本物にしか見えませんでしたけど」

「でもさー、映画なんかの特殊技術ってすごいじゃない? ああいうやつなんじゃないの」

 

 おじさんから聞かされていたのか、どうもみどりさんは例の脅迫状のことを知っていたらしい。だからなのか、弟の言葉を受けたみどりさんは尚も念を押すように真偽の程を確認してくる。OLさん達なんてさっきからビビりっぱなしだっていうのに、みどりさんときたらグロい話を聞かされてもそれ程ひるんでいるようには見えない。

 

「……あれは人間だ。間違いない。血もついてた」

 

 それまでだんまりしていたおじさんだったけど、ようやく正気に戻ってきたのか弟の証言を肯定してみせた。二人からこう言われては流石に認めざるを得なくなったのか、口を閉じたみどりさんは傍らの俊夫さんと顔を見合わせる。

 

「もうやだ……あたし、帰りたい……!」

 

 悲痛な願いを口にして、とうとうビッチさんは顔を手で押さえてメソメソ泣き出してしまった。隣に座る川本さんはそんな彼女のことを慰めてあげたいのか、ポケットから取り出した棒付きの飴なんかをすすめてやるのだけどビッチさんはいやいやと顔を振るばかりだ。

 

「そういえば……ぼく、聞いたことがあるよ。……〈かまいたち〉のこと」

 

 急に口を開いて何やら話し始めたのは、定員オーバー気味のソファーの端で体を縮こめてOLさん達の隣に座っていたみきなんとかさんだった。

 

「みんな知ってるかな? かまいたちっていうのはほら、風が強い時なんかにいきなり何もないところで切り傷ができたりする現象のことなんだけど……」

 

 かまいたち。それなら私も知っている。というか弟やおじさん達にとっても聞き覚えがある筈の名前だ。

 

(小林ナントカ左衛門、だったっけ……)

 

 このナントカ左衛門って人は、まあいわゆる私達のご先祖様ってやつだ。そのご先祖が、みきなんとかさんの言う「かまいたち」とどう関係があるかと言うと……。

 

「ぼくも詳しく知らないんだけど……この辺りは冬になるとやけにその手の現象が起きるらしいんだ」

 

 かまいたちなんて本来は滅多に起きるもんじゃない。だけどもみきなんとかさんの言う通り、この辺の土地では何故だかそうした出来事がよく起きたりするのだと、私や弟はお母さんから何度か聞かされたことがある。

 

「このことを地元の人達は、鎌を持ったイタチのような生き物のしわざだと考えて『かまいたち』と呼んだ」

 

 声を低くして話すみきなんとかさんは私達の顔を見回す。だけどもその話に少し付け加えさせてもらうなら、これにはもう少し尾ヒレというか伝承のようなものが存在していた。妖怪みたいなイタチが悪さをしてるってところはみきなんとかさんが言った通りなのだけど、昔っから地元の人達はこうしたかまいたち現象の頻発を指して「かまいたちの祟り」と呼んでいたりするのだ。

 しかも因果なことに、どうもこの〈祟り〉というのはずっと昔にこの辺一帯の大地主だったらしい私のご先祖、ナントカ左衛門に向けられたものとされているようだった。

 

「そのかまいたちのせいで田中さんはバラバラにされたと言うんですか? 馬鹿馬鹿しい」

 

 どこの誰に聞いたんだか分からない話を得意気に披露するみきなんとかさんだったけど、それを聞かされたおじさんが少し嫌そうな顔で返す。

 実は私のおじさんは、このかまいたちの話をされるのが好きではなかったりする。というのも、例のご先祖がこの妖怪かまいたちにひどく恨まれて切り刻まれてしまったとされているからだ。おじさんが以前教えてくれたところによると、小林家の人が書いた当時の文献にも当主の不可解な死亡事件という形できちんとそれらしい記録が残っているんだそうな。

 

「そうは言いますけど、でも妖怪か自然現象か分かりませんが何かそういったことがこの辺りでよく起こるのは確かなんでしょう?」

「それはそうですが……でも人間がバラバラになったなんて話は聞いたことがありませんよ」

 

 ずっと昔に起きたというご先祖の件を例外とすれば、きっとそうなのだろう。

 不機嫌さや困惑ぶりがないまぜになった表情を滲ませるおじさんだったけど、みきなんとかさんは唇をなめて尚も言葉を続ける。

 

「妖怪のしわざだなんだとしたらどんなことだって考えられませんかね。……ああ、そんな顔をしないでください。ぼくは別に、妖怪なんて信じてるわけじゃないですからね」

 

 難しい顔をしていたおじさんの様子にようやく気付いたのか、みきなんとかさんが手を振って取りつくろったようなことを言う。だけどもどうしておじさんがそんな顔をするのか、本当の理由をみきなんとかさんはきっと知る由もないのだろう。

 

「じゃあ自然現象だと考えてみましょうよ。この風の音はどうです? これほどの激しい風なら、めったに起きないようなかまいたち現象が起きたとしても不思議じゃない。そう思いませんか?」

 

 妖怪説から自然現象説へと切り替えたみきなんとかさんがそんな風に言って皆に同意を求めているけど、どっちにしたって極端にオカルトじみている。

 この地方特有の頻繁なかまいたち現象が、記録的な吹雪の影響でついには一人の人間を死に至らしめるほどの猛威を振るった。そんなことが本当に起きたのだとしたら凄いことだけど、世界中の不可思議事件に関する記事をオカルト系サイトなんかで面白半分に読んできた私ですら聞いたことがない話なのだから、他の皆だってすんなり信じる訳がない。

 

「これ、要するに見立て殺人ってことかしら……」

 

 みきなんとかさんのオカルト話を受けて、口元に手をやったメガネさんがさっきよりかは幾分か落ち着きを取り戻した様子でそう呟いた。

 

「見立て殺人って?」

 

 もう我慢できなくなったのか、懐からラムネ菓子を取り出してポリポリ噛んでいた川本さんが率直にそう尋ねる。

 

「ミステリーものの小説なんかでよくあるのよ。地方のいわくつきな伝承とかになぞらえて人が殺されてくって話が……ちょうど今の美樹本さんの話だと、そのかまいたちっていう妖怪か、あるいは自然現象のしわざで死んだように見せかけて誰かに殺されたってことになるわね」

 

 自分で語ったその憶測を受けて、メガネさん自身が息を呑む。

 

「おいおい、ちょっと待ってくれよ。さ、殺人だなんて……ぼくは別にそんなつもりじゃ……」

 

 話が予想外の方向へ展開してしまったからか、みきなんとかさんが慌てて口を挟む。突拍子もないオカルト話を披露していた時は饒舌だったけど、現実に引き戻されてしまう物騒な話題になった途端、声に少しばかり怯えの色を滲ませるのだった。

 

「脅迫状……! そうよ、あの脅迫状を出したやつがきっと犯人なんだわ!」

 

 例の怪文書のことを思い出したらしいメガネさんが、はっと顔を上げて声を大きくする。

 

「なぁ、脅迫状ってなんのことや? 亜希ちゃん、さっきもそないなことゆうてへんかったか?」

 

 興奮気味のメガネさんの言葉に反応したおっさんが、自分にも分かるように言って欲しいと説明を求める。

 

「ああいえ、実はですね……」

 

 おじさんが一瞬私のほうを見たけれど、隠し立てしても仕方ないと思ったのか、ぼつぼつと例の怪文書の件を話し始めるのだった。

 *

「そんなことが、あったんですか……」

 

 おじさんの説明を受けて絶句していた様子のみきなんとかさんがそう呟いた。

 

「そういうことは、ちゃんとゆうといてもらわんと、かなんなあ……」

 

 大阪のおっさんが、ため息まじりにぼやいて頭のてっぺんに手をやる。

 

「……でも済んでしもたことはしゃあない。とにかく上にあるんがほんまに死体なんやったら、はよ警察に連絡せなあかんわな」

 

 おっさんが至極当たり前のことを指摘したのだけど、それを聞いた皆の顔にあっと気付かされたような表情が浮かぶ。そうだ、警察だよ。人が死んでたんならまず通報しなきゃいかんだろ。そんなことも今の私達は見落としていたみたいだったから、異常な状況のせいでまともにものを考えられなくなっていたのかもしれない。そうした中で本来取るべき行動をいち早く皆に示したおっさんのことを、私は少しだけ見直した。

 そうしておっさんに促される形でおじさんが慌ててフロントの電話から受話器を取り上げ耳にあてたのだけど、なんだか様子がおかしい。何かを確かめるようにフックをガチャガチャと押したり、一旦受話器を置いて電話線を確かめ始めたのだ。

 

「すみません、どうも調子が悪いみたいです」

 

 そう言って、おじさんはロビーから続く廊下の奥へと走っていった。

 フロントに置いてある外線電話は随分と古めかしい造りのもので、今どき滅多にお目にかかれないダイヤル式のものだ。白と金の小洒落た装飾が施されたその古電話は半ばインテリア目的で置いてあるようにも見えたから、もしかするとタイミング悪くガタが来てしまったのかもしれない。

 

「駄目です……どの電話も繋がりません」

「な、なんやて! そら困るで!」

 

 他の部屋にある電話を試しにいっていたらしいおじさんが、戻ってくるなり浮かない顔でそう明かす。そしたら顔色を変えたおっさんが立ち上がって抗議の声を上げた。

 

「多分、どこかで電話線が切れたんでしょう。こういうひどい天気だとたまにあるんですよ」

 

 最悪だ。よりにもよってこんな状況で電話が通じなくなってしまったらしい。おじさんによれば、倒木か何かのせいで外の電話線に影響が出てしまったのではということだった。

 

「ああ、せや。携帯つこたらええんとちゃうんか? わし、かけてこか?」

「いえ、それも駄目でしょうね……」

 

 携帯電話を使ってみようと提案するおっさんだったけど、無駄なことだと首を振ったおじさんはその理由を説明してやる。そうなのだ。この辺一帯は携帯の電波が届かないから、それで連絡することも出来そうにないのだった。要するにこの猛吹雪が降りやまない限り、私達は交番に駆け込むことも出来ず死体と一緒にこのまま過ごすしかないということになる。そのことを周りの皆も理解したのか、一様に青ざめているのが分かった。

 

「そ……そしたら、一体どないしたらええんや。人殺しがこの辺うろついとるっちゅうのに」

 

 人殺し。さっきメガネさんが主張していたように、確かにヤクザは誰かに殺されたのだとしか思えない。自殺でも、事故でもない。ましてや妖怪や自然現象のしわざでもない。だとするのなら、おっさんの言う通りヤクザを殺してバラバラにした異常者がこの近辺にまだいるかもしれないのだ。

 

「あ、あの!」

 

 手を上げて大きな声でそう発言したのはみきなんとかさんだった。

 

「公衆電話はどうですか? ここに来る前、近くのバス停にあったのを見たんですけど……」

 

 おお、その手があったか。私を含めた皆の顔にも明るい兆しが生まれる。だけどもおじさんの顔色は晴れないままだ。

 

「今は無理ですよ」

 

 みきなんとかさんの提案に、今度は俊夫さんが首を振って答える。

 

「この雪の中で外に出ていくなんて、はっきり言って自殺行為だ。美樹本さんがうちにたどり着いたのだって奇跡みたいなもんだよ」

 

 少なくともこの雪がやんでからでないと到底外に出れそうにないと、俊夫さんはそう警告する。徒歩は論外として、例え車を使ったとしても立ち往生するに違いないだろうということだった。

 

「えと、あれは……? ほら、スノーモービルってやつ……」

 

 ここに来て初めて口を開いた私は、おじさんの顔を見ながらこの状況を打開してくれるかもしれない乗り物の名前を挙げてみせた。ガレージに置いてあるという雪国御用達のパワフルマシンを使えば、どうにか件の公衆電話までたどり着くことが出来るんじゃないかと思ったのだ。

 

「ああ、そうだね。確かにあれなら雪が積もっていてもなんとかなる」

「じゃ、じゃあ……」

「でも今は駄目だ。俊夫くんの言う通り、こんな猛吹雪の中で出ていったんじゃ方向が分からなくなって確実に迷ってしまうよ」

 

 運良く公衆電話までたどり着けたとしても、もしこの辺一帯の回線をまとめているおおもとの線が切れてしまっていたのだとしたら骨折り損になってしまうとおじさんは言う。それどころか、そのままその場で力尽きて凍死する可能性だって十分にあるのだとも警告する。結局、雪の恐ろしさを知らない人間の意見はおじさん達からすれば迂闊に過ぎるようだ。

 

「明日、もし雪がやんでくれたら俊夫くんと見に行ってくるよ」

 

 だからどうか安心してほしいというニュアンスを込めて、おじさんがそんな風に言う。それでも電話が使えなそうだったら、今度は近場の交番のほうまで足を運んでみるつもりらしい。こうしたおじさんからの言葉は、きっと私だけじゃなくて不安そうにしている他の皆にも向けられたものなのだろう。

 

(ん? 待てよ……)

 

 何かひっかかる気がして思案した私だったけど、やがて頭の中に一つのある可能性が浮かび上がってきたものだからぞっとしてしまった。

 

(犯人のヤロー、ここに隠れてんじゃねーのか……!?)

 

 どこにも姿が見えないものだから、ヤクザをバラした犯人はてっきり窓を割って外へ逃げてったものだと誰もが思っているようだった。だけどもこの天気の中で外を出歩こうものなら凍死しかねないと俊夫さんもおじさんも口を揃えて言う。仮に車をどこかに隠してあったとしても、さっきの俊夫さんの話を聞く限りじゃきっとすぐさま立ち往生して雪に埋もれていってしまうのだろう。

 そんなにも危ない橋をわざわざ渡ろうとする人間がいるだろうか? さっきの私やみきなんとかさんのように、雪を甘く見てしまっていた場合は確かにありえるかもしれない。だけども仮に犯人がある程度その辺りの心得を持つ者であったのなら、あるいはこの猛吹雪に怖気づいたのだとするのなら、この近辺で唯一の安全地帯とも言える私達のペンションの中で今も息を潜めているんじゃないだろうか。

 

「な、なぁ」

「?」

 

 おじさん達に聞かれないよう、私は隣に座る弟にそっと耳打ちしてやった。

 

「犯人ってさ、まだどっかの部屋に隠れてたりするんじゃね?」

「……まあ、ありえねえ話じゃねーけど」

 

 こちらの言わんとしていることに共感したのか、特に否定することもなく弟はさもありなんといった顔をする。

 しかしどうしたものか。この恐ろしい可能性のことをおじさんに伝えてみるべきだろうか。ともすれば皆を益々不安にさせてしまいかねない訳だから、不用意に煽るようなことを口にするのは私としてもはばかられてしまうのだ。

 

「おじさん」

 

 私の指摘を受けてしばらく黙っていた弟が、何を思ったのかすっと立ち上がるとおじさんに声をかける。

 

「一度、ペンションの中を皆で調べてみませんか?」

「そりゃまた……どうしてだい?」

「犯人が隠れてるかもしれないからです」

 

 私が言おうかどうか迷っていたことを、弟は躊躇なく皆の前でずばり口にしてしまった。

 

(言っちゃうのかよ!)

 

 弟のその言葉に、場の空気が凍りついて全員が息を呑むのが分かる。すんすんと鼻を鳴らしていたビッチさんでさえ、一瞬泣きやんで何ともいえない表情を見せていた。

 

「外に出るのは自殺行為なんですよね? だったら犯人はこのペンションの中に隠れようとするんじゃないでしょうか?」

「それは……そうかもしれないが……」

 

 犯人が生き延びようとするのならそれしかないだろうと弟は説明するのだけど、おじさんは自分のペンションにいまだ殺人犯が潜んでいるかもしれないということが受け入れられないのか、困惑を隠せず言葉に詰まっている。

 

「おお、せやせや。わしも実はそない思うとったんや。やろうやないか」

 

 便乗したおっさんが、いやに乗り気な様子でそんなことを言い出した。

 

「人殺しがおるかもしれんっちゅうのに安心して眠れるわけあらへん。何とかせな」

「何とかって……どうするんです」

 

 息巻くおっさんの言葉を受けて、ますます困惑の色を深めたおじさんが聞き返す。

 

「そら、捕まえるしかないやろ。警察に来てもらえん以上、自分らで捕まえなしゃあないやないか」

 

 いかに殺人犯と言えどもこれだけ人数がいれば大丈夫だろうと、気が大きくなっているのかおっさんはグイグイ押していく。そうしたおっさんの言動が影響したのか、なんとなく場の雰囲気が変わりつつあるのを私は感じた。社長をやるような人間ってのはこういう感じに周りを引っぱってく力があるものなのかもしれない。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 だけどもそうした流れに待ったをかけたのは、手をアワアワさせるみきなんとかさんだった。

 

「人を殺してその死体をバラバラにするような、凶悪な人殺しですよ? 下手に手を出すより、ここでみんなでじっとしてた方がよくありませんか……?」

 

 これだけ人数がいればきっと犯人だって手出しはできないだろうと、そう主張するみきなんとかさん。人の多さを受けて攻めの姿勢になったおっさんと、逆に守りに入ったみきなんとかさんとではどうも意見が合わないようだ。薄々感じていたけれど、みきなんとかさんは腕っぷしの強そうな見た目に反して随分と気の小さい人らしい。

 

「じゃああんたは、このままここでずうっと起きとけっちゅうんかいな。寝とる間に、皆殺しにされるかもしれへんのやで」

 

 おっさんの遠慮のない言葉のせいで、また場の空気が凍りつきそうになった。

 皆殺し。頭の中で反芻するだけでも肝が冷えるような言葉だけど、そんな極端なことが本当に起こりうるだろうか? でも確かに日本刀なんかで武装してるような奴だったら、あり得ない話でもない。刃物を握るたった一人の人間のせいで一度に何人もの人が犠牲になった事件なんてのは、それこそ枚挙にいとまがないのだ。今のうちにグースカ寝ておいた犯人が、夜更けになって皆が眠くなった頃に満を持してハッスルしだしたら、それこそどうなるか分からない。

 

「いや、いくらなんでもそこまではしないでしょう……。でも、そうですね、分かりました。一度調べてみましょうか」

 

 おっさんの極端な意見にこそ同意しなかったけど、ペンション内の捜索については前向きになったおじさんがそう返す。それは私達のために安全を確保しておきたいという、おじさんなりの責任感が働いたからなのかもしれない。

 

「なんにしても、みんな何か、武器になるものを持った方がいいんじゃない?」

 

 それまで黙り込んでいたみどりさんが、口を開いて皆にそう提案する。さっきまでは死体のことすら疑ってかかっていたのに、いまやすっかり臨戦態勢のようでその表情には張り詰めた様子こそあれど怯えの色は見られない。

 

「そら、言えてる。イザっちゅう時のためやな」

「じゃあ俺、用意してきますよ」

 

 おっさんを始め他の皆も賛成の色を示したのを見て取ったのか、俊夫さんはそう言い残すと廊下の奥へとすぐさま走っていった。

 *

(こんなモンしかねーのか! 大丈夫かよ……)

 

 俊夫さんが持ってきた武器の数々を皆が手に取っていったのだけど、用意されたものは殺人犯を相手取るにしてはなんとも心細いものばかりだった。スキー用のストック、果物ナイフ、そしてモップの柄。包丁なんかはかえって危ないというので持ってきてくれなかったのだけど、ここはただのペンションに過ぎないので武器らしい武器が無いのは当然のことなのかもしれない。

 

(こいつでいいか……)

 

 大した選択肢もないけれど、私は用意されたものの中から一本のストックを手に取ってみせた。非力な私でも、イザとなりゃこいつで犯人の目ん玉や喉元なんかを思いっきり突いてやりゃそれなりに戦えるかもしれない。弟のやつがモップとかで犯人をブン殴ってひるませた隙に、私が必殺の牙突(がとつ)をお見舞いしてやる算段だ。

 

「何人かでチームを組んで、しらみつぶしに調べるんや。ベッドの下、クロゼットの中、バスタブ……どこに隠れとるか分からへんのやで」

 

 捜索班のリーダー気取りなおっさんが、武器を持って並ぶ男連中にあれやこれやと指示を出しているのを私は弟の横に立って聞いていた。

 

「いや、おまえはここにいろよ」

「えっ?」

 

 私に向かってそう言った弟が、なんでおまえまで行くつもりなんだと言いたげな視線を向けてくる。見れば私以外の女性陣は皆してソファーに座っているようだった。てっきり全員で調べにいくかと思ったのに、どうもそうではないらしい。

 

「智子ちゃん、こっちにいらっしゃい」

「あ、うん……」

 

 そう言っておばさんが立ち上がって手招きしてくるものだから、私は手にしていたストックを足元に置いた。自分の席を譲ってくれたおばさんだったけど、丁度そこはあの人妻さんの隣だった。

 

「あなた、気をつけてくださいね」

「ああ、任しとき。わし剣道やってたさかいな。犯人のやつが出てきよったら燕返しでチャッチャとこらしめたるわ」

 

 送り出す人妻さんのその言葉に、おっさんは手にしたモップを勇ましく構えてみせる。嘘くせー。なんか嘘くせー。こういうのに限っていざ犯人が現れたら、きっと皆のことを盾にして後ろに引っ込んだりするもんなんだよな。

 ともあれおっさん率いる捜索班は、そうしてペンションの中の色んなところを探して回った。まず手始めに一階からということで、しばらく部屋のあちこちに行ってはドタバタしていたようだけど、やがて一階部分を調べ終えたのかロビーに戻ってきた。結局怪しい奴はいなかったらしく、出発前は皆して緊張の面持ちだったのが今じゃ随分とリラックスしてるように見える。そうして今度は二階へと捜索の手を伸ばすため、連れ立って階段を上がっていこうとしていた。

 

「わしはこう見えてもな、高校時代は柔道やっとったんや。もし犯人が出てきよったら、一本背負いから押さえ込んで……」

 

 皆の一番後ろから付いていくおっさんが、手前の弟に何やらしょうもないことを話しかけているようだった。だけども弟は、おっさんのたわごとを聞いている風もなく相手にしてないようだ。

 

(あんな感じでいっつも私のことを無視してやがんだな)

 

 まるで普段の自分を見ているような気がしたものだから、無愛想な弟に冷たくされているおっさんに私は少しだけ同情してしまうのだった。

 *

「皆さん、コーヒーはいかが?」

 

 弟達が二階へ行ってしまった後で、おばさんがソファーに座る皆を見回して言う。

 

「そうですね、いただきます……」

「じゃあ今淹れてきますからね」

 

 人妻さんがうなずいて、他の皆もそれに倣うような素振りだったから、おばさんは台所のほうへ行ってしまった。おばさんを一人だけにしてはいけないと思ったのか、床に落ちてたモップを拾い上げたみどりさんもその後を追う。

 天井のほうからギシギシとたくさんの足音が聞こえてきたから、今ちょうどヤクザの部屋を皆が調べている真っ最中なのかもしれない。またジェニーがあの部屋に入りたがるんじゃないかと見回してみたら、ジェニーは玄関の手前あたりの床で丸まっていた。

 

「ジェニー、おいで」

 

 私がそう声をかけて手を差し出してみれば、気付いたジェニーがこちらへとことこ歩み寄ってきて、ヒョイと膝の上に乗ってくる。ジェニーはとても懐っこい猫で、あまり人間を警戒するということを知らない。私も昨日ここに来たばかりの時、話に聞いていたペンションの猫を一目見たいと思っていたのだけど、間もなく自分から挨拶しにくるように私の前に現れたものだからしばらく遊んでやったのだった。毎日色んなお客さんが入れ替わり立ち替わり来るから、ジェニーは知らない人と触れ合うことにすっかり馴れてしまっているのかもしれない。

 

「猫、好きなの?」

「えっ? あ、そ、そですね……はい」

 

 ジェニーをなでなでしてやっていると、傍らの人妻さんが話しかけてきた。

 

「まあ、そうなの。うちの人もね、猫が好きなのよ」

「へ、へー……」

 

 そう言って、人妻さんはジェニーの背中をそっと撫でてやる。なんとなくそんな気はしてたけど、あのおっさんはやっぱり猫好きということらしい。

 

「私達も猫を飼ってるの。『ナツミ』って言うのだけど」

 

 ジェニーを撫でていた人妻さんの手が、ふっと動きをとめる。

 

「今頃どうしてるのかしらね……」

 

 そんなことを言って遠い目をする人妻さんだったけど、もしかすると家が恋しくなっているのかもしれない。出来ることなら今すぐにでも飛んでいって帰りたいのだろう。それは私だっておんなじ気持ちだ。なんだかウチに置いてきたぬいぐるみ達のことが、私はどうにも恋しくなってしまった。

 

(お母さん、心配してるだろうなぁ……)

 

 本当ならもうとっくにウチへ電話を入れていた筈なのに、電話線がダメになったせいで結局連絡出来ずじまいだ。おじさんのペンションで今まさに事件が起きていて大変なことになってるなんて、きっとお母さんは想像も出来ないだろう。

 

「はぁー……」

 

 意識せずため息が漏れてしまった私は、なんとはなしにポケットからスマホを取り出して電源を入れる。

 

(あ、そっか)

 

 今ネットは使えなくなっていることを私は思い出す。ゲームをしている時に気付いておじさんに相談しにいったのだけど、ルータの不調と考えていたあれは、どうも実際は電話線の断線によるものだったのかもしれない。

 一体いつ頃電話線が切れてしまったのかと考えた私は、みきなんとかさんがペンションに電話してきた時間を思い出す。あれは八時をちょっと過ぎたぐらいの頃だった筈だ。それから私がネットが使えないことに気付いたのが、確か……八時半ぐらいだったように思う。ちょうどそん時ぐらいにみきなんとかさんがペンションに来て、鳩時計が一回鳴ったのを覚えているぞ。そう考えるとみきなんとかさんが連絡を入れてきたタイミングは結構ギリギリセーフだったってことになる。

 

「ねえ、どうなの……?」

「ダメ……やっぱ全然繋がんない」

 

 もう一つのソファーのほうで、OLさん達がなにやら話し込んでいる。見ればメガネさんがスマホを手にして、どこかに電話をかけていたようだ。携帯は使えないとおじさんから言われていたけれど、諦めきれないのかもしれない。

 

「屋根とかに登ったら使えるんじゃないかなぁ?」

 

 冗談なのか本気なのか分からないことを川本さんが言う。ここよりもっと高いところなら、多少は電波が拾えるんじゃないかってことだろうか。

 

「あのね啓子、そんなことしたら落っこちて大怪我するわよ?」

 

 ため息混じりにメガネさんがその提案を一蹴する。全くもってその通りで、この猛吹雪の中そんな真似をしようものなら強い風に煽られて吹き飛ばされるか、あるいは屋根の上に積もる雪と一緒に滑り落ちてくのがオチだろう。

 

「じゃあ、屋根裏は? ほら、なんか二階より上のほうにもちっさい窓とかあったじゃん。あの辺からかけたら繋がらないかな」

 

 案外本気だったりするのか、川本さんは尚も自説の有力性を訴える。確かに川本さんの言う通り、このペンションは外から見ると屋根裏と思わしきところにも窓がある造りになっているのだ。ペンション風の建物なんかだとよく見かけるああした妙な位置にある謎の窓だけど、一体あんなところに窓を設けて何に使うつもりなんだろうか。そもそもどこからあの窓のところまでたどり着けるんだろうか。ガラスが割れたりなんかした時はどうするのだろう。

 

「はい、おまちどおさま」

 

 台所のほうから、お盆に乗せた沢山のコーヒーカップを運んできたおばさんとみどりさんが戻ってきた。今この場にいる人の分としては随分とカップの数が多かったから、きっと後で戻ってくる男性陣の分も用意したのだろう。テーブルに並べられたカップから適当なものを選んだ私は早速そいつに口を付ける。

 川本さんはなにやら懐をまさぐり始めると、やがてそこから細長いクッキー箱を取り出して封を開ける。きっとコーヒーに合うおやつをチョイスしたのだろう。どうも川本さんの懐やポケットの中には常備用のお菓子が沢山詰まっているらしかった。

 

「食べます?」

 

 そうしてテーブルの上にクッキーを広げた川本さんだったけど、人妻さんや私にもそれをすすめてきた。

 

「ごめんなさい、今は遠慮しておくわ」

「あ、わ、私もいらないかなー……」

 

 それに対して少しすまなそうに返す人妻さんだったけど、そりゃそうだ。川本さんと違って他の皆は今のところ呑気に何かを食っていられるような気分じゃないんだぜ。

 ともあれ私がコーヒー片手にちびちびやっていると、やがて階段から捜索を終えた弟達が戻ってきた。

 *

「あなた、どうだった?」

「ああ、あちこち探したんだが……特に何もなかったよ」

 

 一息ついたおじさんにそう尋ねるおばさんだったけど、どうやらめぼしい結果はなかったらしい。いや、この場合に限っては結果がないほうが良かったのだ。それがこのペンションの中に怪しい人物が潜んでいないということを一応は証明してくれるのだから。俊夫さんから話を聞いていたみどりさんも、結局犯人は外に逃げたのだろうかと言ったりしている。

 やがて男性陣もテーブルの上のカップを手にとってめいめい一服し始めるが、人が増えて狭くなってきたので私は階段の下に座りなおす。ロビーにいる皆の顔色をうかがってみるのだけど、いずれもほっとしたように見えつつ、けれどまだまだ不安げな、複雑な表情を浮かべている。それもその筈で、本当に誰かが隠れていないかまだ完全に確信できた訳じゃないし、よしんば犯人が外へ逃げたのだとしてもいつまた侵入を試みてくるかしれないのだから。

 

(そういや……)

 

 私の頭の中にふと疑問がわいてきた。それは、ヤクザを殺した犯人がどうやってこのペンションに入ってきたのかってことだ。皆がメシ食ってる時にでもこっそり玄関から入ってきたのだろうか。そんでもってヤクザの部屋の中に潜んでおいて、部屋に戻ってきたあいつをブチ殺したりしたのだろうか。

 

「あ、おじさん……」

「ん?」

「玄関から誰かがそっと入ってきたら、分かんなかったりするもんなの?」

「いや、それはないな。ドアが開いたらちゃんと奥のほうでもチャイムが鳴って分かるようになってるんだ」

「ふうん……じゃあ、どっか鍵かけ忘れてたとことかあったりする?」

「いやいや、智子ちゃん。その辺りは私も普段から気を付けてるよ。お客様の安全を守らないといけないからね」

 

 私がこんなことをいちいち尋ねる理由をおじさんも察してくれているようで、特に渋ることなくこちらの質問に答えてくれる。ともあれ今のおじさんの話からすると、玄関から入ってきたり、あるいはどこか開いてた場所から入ってきたって線はないな。

 

(二階の窓はどうだ? もしかすっとヤクザのとこだけ開けてあったのかも)

 

 ペンションの裏手はあまり除雪されてないようで、今朝目にした時点でもそれなりに雪が壁沿いに積もっていたように思う。ましてやこの吹雪なのだから、益々積もったそこを伝って人間が二階の方まで登ることだって出来るんじゃないだろうか。

 

(仲間、だったのかな……?)

 

 仮に窓のとこまでたどり着けたとしても、鍵が閉まっていたら割ったりしない限り中へは入れない。だとするのなら、ヤクザが手引きして犯人をペンションの中へ招き入れたということは考えられないだろうか。そんでもって、何があったか知らないがソッコーで仲間割れしてヤクザをぶっ殺した犯人が、もの凄いスピードで死体をバラバラにしてあの辺に放っていったのではないか。

 ヤクザが生きてる姿を最後に見たのが多分七時半ぐらいだったろうから、それからおじさん達が死体を発見する九時過ぎぐらいまでの一時間半が犯行時刻ってことになる。それだけの時間で一人の人間をバラバラにするなんてチェーンソーでもなければ不可能なように思えるけど、もしかすると切れ味の良い日本刀を装備していた剣の達人だったのかもしれない。

 その後の犯人の足どりはさっぱり分からない。ペンションの中に隠れてるかもと思ったけど、皆が捜索した感じでは誰もいないようだった。だからといってこの荒れ模様の中を雪中行軍していったという確証もない。

 そもそもなんで犯人は窓を割っていったんだろうか。そんなことをしたら皆に気づかれるだろうし、こっそり逃げるだけではダメだったのだろうか。あるいは、単に何かの拍子にうっかり窓を割ってしまったのだろうか。

 

(そういやあん時、足音が聞こえなかったような……)

 

 例え外がどんだけ吹雪いていたとしても、ペンションの周囲を人が歩いていたら雪を踏みしめる音が聞こえてくることを私は知っていた。みきなんとかさんがここに来た時も、その足音が外からちゃんと聞こえていたことを覚えてる。

 窓の割れる音が聞こえた時、私はすぐに窓辺に立って外の様子を注意深く窺っていたのだけど、ドア枠が壁に叩きつけられる音以外は何も聞こえなかった筈だ。誰かがペンションから去っていく足音なんて、ちっとも聞こえなかった。

 

(……!)

 

 自らの考えに私はぞっとしてしまった。犯人はやっぱり外に逃げてなどいないのではないだろうか。窓を割ったこと自体が犯人の罠だとしたらどうだろう。わざとらしく窓を割ってさも外へ逃げたように見せかけ、皆の捜索の目すらかいくぐって今もペンションのどこかにのうのうと潜み続けているのではないか。

 

(窓を割ったのは犯人……だけどもそいつは外へ逃げていかなかった……)

 

 かと言って廊下へ出てきた訳でもない。あのとき廊下の様子をドア越しに確かめていた私だったけど、人の気配は全く感じなかった。それにもし出てきていたら、ジェニーが待ってましたとばかりに部屋へ入っていったに違いない。

 やがてすぐしないうちにみんなが二階に上がってきたから、外にも廊下にも逃げていかなかった犯人はあの部屋の中に隠れるしかなかった筈だ。あの時はベッドの下にでも隠れていて、死体を発見したおじさん達のあたふたするさまにほくそ笑んでいたのだろうか。

 

(いや待て待て、そもそもなんでヤクザが死んでることを皆に教える必要があったんだ?)

 

 犯人の行動はどうにも不可解だ。こっそりペンションに忍び込んで仲間のヤクザを殺したまではいいけど、その後のやり口がてんで腑に落ちない。あったかいペンションの中でこの吹雪をしのぎたいのなら、ヤクザが死んでることは誰にも教えず部屋ん中にこもってりゃいいんだもんな。

 私を含めて誰もヤクザの部屋から人が争うような物音は聞いちゃいないんだ。あいつの悲鳴だって聞こえなかったし、きっと一撃で仕留めたりしたんだろう。だからあの部屋で人が殺されたなんて、黙ってればそうそう分かりゃしないんだ。バラバラにしておいた死体はバスルームにでも置いときゃ血の匂いだってマシになるだろうし、そのまま部屋の中でグースカ寝て吹雪がやむのを待ってればいいのにと思う。

 

(匂い、か……)

 

 なんだろう。何かがひっかかるぞ。匂い、臭い、ニオイ……?

 その時、目を覚ましたジェニーがぐっと伸びをして、私の膝から下りて廊下の奥へと行ってしまった。もしかしたらトイレに行くつもりなのかもしれない。

 

「あっ!」

 

 ジェニーの姿を見送っていた私の中で急にひらめきが生まれたものだから、思わず声を上げてしまった。

 

「どうした?」

 

 私の隣に座ってしかめっ面をしていた弟が、何事かと声をかけてくる。他の皆だってこちらに視線を向けてきていた。きっとさっきの私は鳩が水鉄砲……じゃなくて、豆鉄砲をくらったような顔をしていたのだろう。だけどもそんなことは気にしていられない。している場合じゃなかった。

 

(そうだよ、匂いだよ……! 確かあん時、ジェニーが……)

 

 私が物置に閉じ込められていたジェニーを助けてやった時、ジェニーはすぐさまヤクザの部屋の前に行ってしきりにドアの隙間から部屋の中の匂いを嗅いでいなかっただろうか。そして、窓が割れた時も同じようにしてジェニーはしつこくあの部屋の前でうろついていた筈だ。あの時は中になにかあるのだろうかと首を傾げていた私だったけど、今ならジェニーがあの部屋に執着していた理由に見当がつく。

 

(ヤクザの奴、もうとっくに死んでたんだよ! そんで部屋ん中から血の匂いがプンプンしてたんだ!)

 

 だからジェニーはしきりに部屋の中を気にしていたのだ。肉食の猫にとっちゃ血の匂いなんてごちそうの匂いだもんな。人間では気付けなくても、猫の嗅覚ならきっと簡単に察知出来たんだろう。

 

(じゃあじゃあ、ヤクザが死んだ時間ってのは……)

 

 少なくともジェニーが物置から出てきた八時半の時点ではもう死んでたってことになる。だとするのなら、犯人はあのときも部屋の中にいたかもしれないのだ。

 

(こえー、一歩間違ったら私も殺されてたな……!)

 

 部屋から不審者が出てこないうちにあの場からそっとジェニーを連れ出したのは正解だったかもしれない。ドアの前でにゃんにゃんと騒ぐジェニーをどうにかしようと、犯人が廊下に出てきかねなかったのだから。

 

(ジェニー、命拾いしたなおまえ。私に感謝しろよ)

 

 トイレを終えて戻ってきたらしいジェニーが、川本さんが食べているお菓子を分けてほしそうにまとわりついている。人間達がこんなにあたふたしてるってのに呑気なものだ。

 きっとジェニーは、仮に私達が殺人鬼に皆殺しにされてしまったとしても我関せずでいつも通りの生活を送ろうとするのだろう。そしたらジェニーはこんな山奥の小屋の中でひとりぼっちになってしまう。いつもご飯を与えてくれていたおじさん達もいない訳だから、やがては餌が尽きてジェニーも死んでしまうに違いない。

 そこまで考えて、妙に寒気を感じた私はぶるっと震えてしまった。一応家捜しは何事もなく終わったけど、私はちっとも不安が拭えないでいる。犯人が都合よく外に逃げていってくれたなんて、どうにも信じきることが出来ないのだ。それに犯人の奴はどうしてわざわざ窓を割ったりなんかして、ヤクザが死んでることを皆に気付かせようとしたのか。そんなことはもう本人に問いただしてみなければ知りようがなかった。

 

(ほんと、どうなっちゃうんだろう……)

 

 なんにしても分からないことが多くて、あれこれ考えているうちに頭がこんがらりそうになる。犯人はペンションの中にいるのかいないのか、そのことが気になって仕方がない私だった。

 

「ちょっとあなた、どこに行くの……?」

「ああ、いや……」

 

 何やら準備を始めたおじさんを、変に思ったおばさんが呼びとめる。

 

「外を調べて来る」

「外を? ど、どうして?」

「……何か、痕跡があるかもしれないじゃないか。足跡とかタイヤの跡とか」

 

 どうもおじさんは今から外を調べに行くつもりらしい。ペンションの中を捜索しただけでは不安を拭えないでいたのは私だけじゃないのだろうけど、とりわけおじさんはその気持ちが強かったらしい。

 

「痕跡って……そんなのあったとしたってこの雪じゃとっくに消えてますよ」

 

 どこか焦りが見えるおじさんへ、そう冷静に指摘してみせるのは俊夫さんだった。

 

「そりゃそうだが……。殺人犯がここに戻って来るかもしれんというのに、何もしないでいるわけにもいかんじゃないか」

 

 このまま指を咥えてはいられないと、おじさんはそう主張する。それはやっぱり、このペンションのオーナーとしての責任感がそうさせるんだろなと私は思った。

 

「俺も行きます」

 

 そしたら、傍らの弟がそう申し出て立ち上がる。何があるか分からない場所へおじさんを一人で行かせたくないという、身内としての気遣いが働いたのかもしれない。あるいはこいつもこいつで、犯人に繋がる手がかりが外にあるかもしれないと睨んでいるからだろうか。

 

「じゃあオーナー、また俺達みんなで行きましょうよ。もし犯人の奴が外に隠れていても、それならとっ捕まえられるでしょう?」

「ま、またですか……?」

 

 後に続けとばかりに今度は俊夫さんがそう提案した。みきなんとかさんはあまり乗り気でないようだけど、捜索班の再結成という訳だ。

 

「ああ、すまんけどわし、その……寒いの苦手なんやが……」

 

 そうした流れに水を差すように、おっさんが消極的な態度を見せる。自慢の燕返しや一本背負いも、外の厳しい寒さの中では形無しになってしまうようだ。

 

「私達だけで見てきますので、香山さんはゆっくりしてらしてください」

「ん、そうか。まあもし変なやつ見つけたら、中に追い込んでくれ。わしの地獄車をおみまいするさかい」

 

 おじさんに気遣われて安心したのか、おっさんがそんな大口を叩く。あまりにも堂々としたビッグマウスぶりに、私はこんな状況にもかかわらず噴き出してしまいそうになった。このおっさんは笑いのセンスがあるのかもしれないな。

 

「じゃあ皆、まずは着替えてきてくれ。凍えてしまわないように、しっかり厚着してくるんだ。美樹本さんも、すみませんがお願いします」

 

 おじさんの言葉を受けて、弟やみきなんとかさんは早速二階へと上がっていく。俊夫さんも準備を整える為に廊下の奥へと姿を消していった。

 やがて着替え終わった皆が戻ってきたのだけど、そのとき鳩時計が鳴き出した。時刻はちょうど十時のようだ。用心の為にと各々が再び武器を手に取って、玄関で靴を履いていく。

 

「あ、智貴。ちょっと待って」

「なんだよ?」

 

 特に理由はないのだけど、私は玄関でしゃがんでる弟のところまで駆け寄って声をかけた。

 

「えと、まあ……」

 

 何も考えてなかったので少しの間もじもじする私だったけど、とりあえず無難な言葉をかけてやることにする。

 

「き、気ぃつけろよ」

「……ああ」

 

 それに対する弟の反応は、いつも通りではあるのだけど素っ気ないものだった。もしかしたら内心怖がってるんじゃないかと思ったけど、その仏頂面からはいまいち感情が読み取れない。

 

「そんなんで寒くないのか? もっと着たほうがいいんじゃねえの?」

「分かってるよ。スキーウェアがあんだろ、それ着てくから」

 

 ゲレンデから帰ってきた時、私達のスキーウェアは乾燥室に預けておいたのだけど、弟はそれも着ていくつもりらしい。そんならまあ、この吹雪の中でもちょっと出歩くぐらいなら大丈夫そうだ。

 

「なんかあったら大声で呼べよ?」

「分かったって」

 

 犯人がペンションの中にいまだ潜んでいるのではと睨んでいた私だったけど、ひょっとしたら外で即席のかまくらなんて作ってみせて、案外その中でぬくぬくとくつろいでいたりするのかもしれない。そう考えると少し不安になってきたものだから、私はイザという時の対処法を言い聞かせてやるのだけど、弟はなんだかちょっと鬱陶しそうだ。こいつめ、人がせっかく心配してやってるっていうのに。

 

「智子ちゃん、大丈夫だ。智貴くんのことは私がちゃんと見ておくよ」

「う、うん……」

 

 おじさんにそっと肩を叩かれてなだめられたものだから、ひとまず私はそれ以上何も言わないことにした。だけども玄関口から覗く外の様子は真っ黒と真っ白が入り混じっていて、一歩そちらに踏み出せばたちまち飲み込まれてしまいそうに思えた。

 弟やおじさんは、果たしてこの猛吹雪の中を無事に帰ってくることが出来るんだろうか。ただただそのことが気がかりで、やがて玄関を出ていった弟達の背中を、私はその場に立ち尽くしていつまでも見送っていたのだった。




続く


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【クロス】かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く(4)

犯人の行方

「はぁー、しっかし難儀やなぁ……」

 

 ソファーに深く腰掛けるおっさんが、くたびれたように目を閉じて天を仰ぐ。かなわん、かなわん、とむにゃむにゃ呟くおっさんだったけど、お酒が入っているからなのか、うっかりするとそのまま呑気に眠ってしまいそうに見えた。

 いいのかおっさん。犯人がもし外に隠れてたら、おじさん達に追い込まれたそいつがいつなんどきこっちに来るか分からないんだぞ。地獄車をお見舞いする準備でもしとけよな。さっきから武器を片手にずっと玄関のほうに立って見張りをしているおばさんやみどりさんを見習ってほしいもんだ。

 

(何話してんだ……?)

 

 ソファーに座らずフロントの前でたむろしていたOLさん達は、なにやら顔を寄せ合いひそひそ話をしていた。どうもメガネさんが他の二人にあれやこれやと何かを吹き込んでいるように見える。

 

「そや! 携帯電話、試してみよ!」

 

 あわや居眠りをこくと思われたおっさんが、突然声を上げてぱっと身を起こす。おじさんに無駄だと言われていたのに、OLさん達と同じくおっさんも諦めきれないらしい。

 

河村(かわむら)さんもさっき試していらしたけど、繋がらなかったみたいですよ」

「お、ホンマかいな……?」

 

 さっきのOLさん達のやりとりを見ていた人妻さんが、おっさんにそう助言する。おっさんのど根性で都合よくどうにかなるならいいんだが、現実は非情なのだ。

 

「おおい、亜希ちゃん」

「えっ? は、はい」

 

 少しばかり思案していたおっさんが、メガネさんへ声をかけた。いきなり話しかけられて驚いたのか、メガネさんはヒソヒソ話をやめて、どもり気味に返事をする。

 

「携帯、アカンかったんか?」

「あーはい……そうですね、駄目みたいです」

「もしかしてそれ、スマホでかけたんとちゃうん?」

「そうですけど……」

 

 スマホがどうたらと言うおっさんの質問の意図が読めないのか、メガネさんがやや困惑気味に返事をする。

 

「あーアカンアカン。スマホはな、こういうとこやと弱いんや」

 

 メガネさんの答えを聞いたおっさんが、したり顔でそんなことを言い始めた。

 

「こういうとこ来んのやったらきみ、ガラケー一択やで。つことる電波のモノが違うわ」

「あぁ、はい、まぁ」

 

 得意気な様子で講釈を垂れるガラケー推しのおっさんと、それに対してどうでも良さそうに生返事をするメガネさん。

 おっさん、どうした急に。

 

「わしな、今日はガラケー持ってきとんねん。それやったら繋がるかもしれへん。どや?」

「そ、そうですね。繋がるかもしれませんね」

 

 なるほどー、そういうことか。前置きが長かったけど、私達の顔を見回して、どや?どや?と連呼するおっさんが言うには、要するに自分の持ってる携帯電話なら繋がる望みがあるかもしれないってことだ。

 

「ほな春子、ちょっと行ってくるで」

「ええ、いってらっしゃい」

 

 どっこらしょと立ち上がったおっさんが、人妻さんにそう言い残すと階段のほうへ歩いていく。わざわざ席を立つということは、おっさんの電話は部屋ん中に置いてきたのだろうか。

 ともあれさっきまで寝ぼけつつあったのが嘘のようにハッスルし出したおっさんだったけど、それが頼もしく映るのか人妻さんの表情にも幾分か明るいものが浮かんでいた。

 

「屋根裏なら繋がるかもしれませんよー」

「おお、ほうか」

 

 まだ例の自説にこだわっているのか、階段を上がっていくおっさんに向けて川本さんが妙なアドバイスをしてやる。だけども流石に真に受けたりはしないのか、おっさんは手をひらひらさせて適当に返事をするだけだ。

 そうしておっさんがいなくなると、ロビーはやけに静まり返ってしまった。すっかり人の少なくなったソファーには私と人妻さん、そして空いた席で丸まってるジェニーだけがいる。またヒソヒソ話を再開したOLさん達以外は皆だんまりしているから、鳩時計の針の音だけがいやに響く。

 

「ねえみどりちゃん、ちょっと遅くないかしら……?」

「大丈夫ですよママさん。ほら、まだ十五分ぐらいしか経ってないんだから」

 

 急に口を開いたかと思ったら、皆の帰りが遅いと不安を訴え始めたおばさん。それを受けたみどりさんは、時計を見やって落ち着かせようとする。言われてみれば確かにおじさん達が出ていってから大して時間は経ってない。だけどもかれこれもう三十分ぐらいは待ち続けてるように感じられてしまうのだから不思議なものだ。

 

(ん……?)

 

 今、外のほうから人の声が聞こえた気がするぞ。ほら、大声で誰かが呼んでるような感じだ。

 

(智貴、なのかな……?)

 

 その声が気になった私は、ソファーの上に乗り上げて窓のカーテンを開ける。そしたら外は相変わらず真っ黒と真っ白で満たされていたのだけど、さっきよりも明確に声が聞こえるようになった。

 

(やっぱ智貴だ。なんかあったのか?)

 

 少し遠くのほうから聞こえるけれど、確かにあいつの声のようだった。声がする方向からして、ちょうどこの窓からまっすぐ進んでちょっと離れた辺りにいるように思える。おじさん、おじさん、と盛んに呼び続けているけれど、もしやこの吹雪の中でおじさんとはぐれでもしたのだろうか。

 

「智子ちゃん、どうしたの?」

「あ、うん。なんか弟が叫んでて……」

 

 私の様子に気付いたおばさんが、一緒になって窓の外を覗き込む。

 

「どうしたのかしら……」

「ここから呼んでみよっか?」

 

 あいつが迷子になっているといけないから、私はおばさんにそう提案する。とはいえ窓を閉めたままではこちらの声が届かないかもしれないから、ちゃんとあいつに知らせてやろうと思ったらここを一旦開け放つ必要がある。

 

「そうね……何かあったらいけないものね」

 

 おばさんが、私の提案に頷いて同意してくれた。窓を開ければ途端に猛烈な冷気がロビーの中へと入ってくる訳だから、普通ならそんなことはまずしない。だけども今は非常時なのだ。万が一を考えるのなら多少のことには目をつむるしかないとおばさんは判断したらしい。

 

「すみません、皆さん。今からちょっと窓を開けてもいいかしら?」

 

 一応周りに尋ねてみたおばさんだったけど、誰も反対しないようだったからそのまま窓の鍵を外す。

 

(さ、さむぅぅ……っ!)

 

 そうしておばさんが引き戸式の窓をそっと開けてみれば、容赦なく吹雪が入ってきたものだから、私は途端に縮こまってしまう。OLさん達は悲鳴を上げるし、突然のひんやりに襲われて仰天したジェニーなんかは食堂のほうへ飛び逃げていってしまった。

 

(やっぱえげつねぇ寒さ……! 雪国ハンパねーな……!)

 

 窓から身を乗り出してみた私だったけど、油断していると今にも氷漬けになってしまいそうだ。弟もおじさん達もこんな寒さの中をうろついてるのだと思うと可哀想になってしまう。

 

「おぉ──い! 智貴ぃ──!」

「智貴く──ん!」

 

 寒さに耐えながら、私とおばさんは出来る限り大きな声で呼びかけていく。奥歯がカタカタ鳴り始めて顎に力が入らないけど、それでもどうにか声を張り上げる。激しい吹雪のせいで目を開けるのも一苦労だし、鼻から吸い込む冷気のせいで頭の芯まで凍ってしまいそうだ。

 

「あっ、き、気付いた、かも……っ!」

 

 寒さのせいで上手く喋れない私だったけど、遠くから聞こえる弟の声の様子が明らかに変わったことをおばさんに教えてやる。耳をそばだててみれば、どうも今度は私のことを呼び始めたようだ。

 

「あ、あたし達、部屋に戻ります!」

 

 寒さに耐えかねたのか背後からメガネさんの金切り声が聞こえたのだけど、私もおばさんもそれに構う余裕もなく弟を盛んに呼び続けた。

 

「ほ、ほら! きき、来たっ、来たよ……!」

 

 やがて正面のほうに人影が見えてきたかと思うと、ゆっくりとした足取りでザクザクと雪を踏みしめながらこちらに向かってくる弟の姿がはっきりと確認出来た。

 

「なんだよおまえー! 迷っちまったのかー!?」

 

 そうしてようやく窓からの明かりが当たるぐらいのところまで弟がやって来たので、私は吹雪にかき消されないよう大声で尋ねる。そうしたらフードを深く被った弟はそれに答えず、代わりに手でちょいちょいと合図を送ってくる。もういいから窓を閉めろと、そう合図しているように見えた。

 ここまで来ればもう大丈夫だろうと判断したのか、その合図を受けたおばさんは窓を閉める。

 

(ふぃー……ったく、世話焼かせやがって……)

 

 おかげで頭やら肩やらに雪が積もってしまったから、私はそれを手で払い除けていく。

 窓から見える弟は辺りを見回しているようだけど、おじさんの姿を探しているのかもしれない。

 

「タオル、持ってくるわね」

「あ、うん……」

 

 そう言うおばさんも私と一緒で雪まみれだ。後ろを振り返ってみれば、ロビーにも雪が入ってしまったのかそこかしこが濡れてしまっているようで、みどりさんが自分の手にするモップを使って早速それらを拭き取っていた。さっき部屋に戻ると言っていたOLさん達だけでなく人妻さんの姿まで消えてしまったと思ったら、玄関側に避難していたようで物陰からそっと顔を覗かせているのが見えた。

 コンコンと、窓を小突く音に振り返ってみれば、そこには顔を雪まみれにした俊夫さんの姿があった。外から幾つもの足音が聞こえるので、様子を伺おうとガラス越しに覗き込んでみれば、弟だけでなくいつの間にやらおじさんやみきなんとかさんも集まってきていたようだ。

 

『今から戻るから!』

 

 俊夫さんがジェスチャー混じりに大きな声でそう伝えてくる。その声に気付いたみどりさんも窓辺に駆け寄ってきたのだけど、俊夫さんはそれ以上は何も言わず手を軽く振ってみせると、そのまま皆で固まってぞろぞろと玄関側の方向へと歩いていくのだった。

 *

「おまえさー、なに迷子になってんだよ。ちゃんとおじさんに付いてかなきゃ駄目だろ」

 

 ひとまず無事に帰ってこれた弟が、ソファーに腰掛け一息ついていた。その隣に座りなおした私は、迂闊に過ぎる我が弟へ早速説教してやることにする。たかが建物の周りをうろつく程度のことなのに、一歩間違えれば遭難してたかもしれないなんて笑えない話だ。

 

「いや智子ちゃん、わたしが悪いんだよ。ちゃんと見ていてあげれなかったんだ、すまない」

 

 私に小言を言われてむっとしたような顔で押し黙る弟だったけど、それを見たおじさんが仲裁に入ってくる。

 

「いえ、俺のほうこそすみません……正直、吹雪をナメてました……」

 

 おじさんを気遣っているのか、弟が自身の至らなさを詫びてみせた。やっぱりこいつはおじさん相手だと殊勝な態度になりやがる。生意気にも猫かぶりをしている訳だ。いつもみたく「ああ」とか「おお」とか「出てけ」とか言ってみようぜ、な?

 ともあれ弟が言うには、どうやらほんのちょっとおじさんから目を離した途端にもう見失ってしまったということだった。まったく雪国はこれだから怖い。自然が全力で殺しにきやがるんだもんなー。

 

「あなた、何か暖かい飲み物でも……」

「ああ、そうだな。智貴くん達の分も頼む」

 

 おじさん達の分のタオルを渡してあげていたおばさんが、その頼みを受けて台所へと向かっていく。そうしたら人妻さんが「手伝います」と声をかけておばさんの後を追っていった。きっと人妻さんもこの非常時の中でじっとしていられなくて、皆の為に何かしら役立ちたいのかもしれない。

 おじさんを含め、外回りに出かけていた人達は鼻やほっぺたが真っ赤になっていた。外に出ていたのは大した時間じゃないけど、それでも体の芯まで冷え切ってしまったに違いない。皆してソファーの上でぐったりしているから、雪の中を歩くだけでも相当体力を奪われてしまうのだろう。

 

「それでオーナー、どうでした? 何かありました?」

 

 肩の力を抜くように、立てたモップに顎を乗せていたみどりさんがそう尋ねる。

 

「……いや、何も見つからなかったよ。一応ガレージなんかも見に行ってみたんだが、誰もいないようだった」

 

 だけども聞かれたほうのおじさんは首を振る。成果なしということか。まあ薄々予想はしていたけど、やはりという感じだ。

 

「俺たちのほうも駄目でした。何もありゃしませんよ」

「はは、これじゃあただ凍えに行っただけみたいだね……はぁ」

 

 少しほっとした様子で結果を報告する俊夫さんに、皮肉めいたことを言ってため息をつくみきなんとかさん。もし何かあればそれはそれで一大事だったろうから、結果が出ないことに安心する俊夫さんの反応はもっともだ。みきなんとかさんはペンションに来る前も一度凍えかけたそうだから、ちょっとうんざりしているようなその態度は分からないでもない。

 

「おまえはどうなんだよ。なんか見つけたのか?」

 

 わざわざ自分から遭難しにいったも同然の弟だったから、特に目ぼしい成果もなかったのだろうと思う私だったけど、なんの気なしに一応聞いてみた。

 

「ああ……まあな」

 

 すると弟は意外にも私の問いかけにこくりと頷き返した。なんだなんだ、何を見つけたっていうんだ。

 

「おじさん、気付きましたか? そこの壁に積もってた雪、一箇所だけごっそり崩れてましたよ」

 

 そう言って、さっき開け放った窓の辺りを指差す弟。

 

「ほう、そりゃまた……見逃していたかもしれん。それがどうかしたのかね?」

 

 顎に手をやったおじさんが弟の言葉に興味を示す。

 

「ちょうどあの田中って人の部屋の下辺りが崩れてました。犯人が窓から逃げるとき、そこを狙って飛び下りたんじゃないでしょうか?」

「なるほど……雪をクッション代わりにしたという訳か」

 

 うんうんと納得がいったように頷くおじさんだったけど、ちょっと待ってほしい。そいつは私の推理と少しばかり食い違ってしまうのだ。なるほど、積もってた雪が一箇所だけ不自然に崩れていたのか。となるとやはり……。

 

「逆じゃないの? たぶん犯人があの部屋に入ってった時に崩れたんだよ」

 

 私が二人の会話に口を挟んだものだから、皆がこちらに意識を向けてくる。

 

「智子ちゃん、どういうことだい?」

「えと……だから、壁に積もってた雪を伝って、犯人が窓から中に入ってったんじゃないかなーって……」

 

 おじさんが説明を求めてきたので、私は自分なりに考えていたことを言ってみた。

 

「窓を割って入ってきたってことかい?」

「あ、そうじゃないよ。窓は開けてもらったんだと思う、あのヤクザみたいな人に」

「被害者自身が犯人を……? 何故わざわざそんなことを?」

「えっと、仲間だったから、とか……?」

 

 おじさんがちょうどいい質問をしてくれるので、私も自分の推理を順序立てて説明してやることが出来る。なんかいいなこういうの、探偵になったみたいだぞ。

 

「そうか! つまりあいつらはグルで、仲間割れしたって訳か!」

 

 私達の話に耳を傾けていた俊夫さんが、急に声を上げて結論を先取りしてしまった。それは私が言うつもりだったのに!

 

「最初から怪しいと思ってたんですよ、あの客。滑りに来たようにはとても見えませんでしたからね。名前なんて〈田中一郎〉ですよ? どう見たって偽名じゃないですか」

「ふむ……確かに私も妙だとは思っていたが……」

 

 おじさんも得心がいったように顎をなでさする。あんにゃろー、やっぱ偽名使ってやがったか。こりゃもうガチのヤクザだったということで間違いないな。

 ともあれ皆の嫌われ者だったヤクザなだけに、私の推理は抵抗なく受け入れられたようだ。私が最初に気付いたんだからな。俊夫さんの推理って訳じゃないんだぞ。

 

「そ、そうそう! あのヤクザ、きっと犯人と一緒になんか企んでたんだよ。麻薬の取引とか、そういうの? でさ、結局取り分とかのことで揉めて殺されちゃったんじゃないかなー……」

 

 オチとしては大方そんなところなんだろう。ヤクザもんの考えることなんざ似たり寄ったりだから、行動パターンが容易に想像できちゃうんだよな。

 

「だとすると犯人の狙いは田中さんだけ、ということになるのかな」

「え? あー、えと、ど、どうだろ……」

 

 おじさんとしてはその点が気がかりだったのか、犯人のターゲットについて質問を投げかけてくる。確かに単純な仲間割れが理由なのなら、無関係な私達が狙われる可能性は薄いのかもしれないな。

 

「あの、ぼ、ぼくもそうなんじゃないかと思います……」

 

 おじさんの質問にどう答えたものかと思案する私だったけど、代わりにみきなんとかさんが手を上げておじさんの意見に賛同してきた。

 

「その、田中って人のことはよく知りませんが……人をバラバラにするなんて、よっぽど相手に強い恨みがあるからじゃないですか? 普通、仲間割れしたってだけでそこまでは流石にしないと思うんですけど……」

 

 だからやっぱり犯人の狙いはあのヤクザだけだったんじゃないかと、みきなんとかさんはそう考えているようだ。

 そこは私も実のところ気になっていた。最初は仲間割れを起こした犯人がたまたま持ってきていた長ドスか何かでヤクザをスパスパッと鮮やかにバラしていったんだと思ってたんだけど、よくよく考えてみればちんけなヤクザの仲間ごときが都合良くそんな剣の達人みたいな凄いスキルを持っているだなんて考えにくいことだ。

 

(デカいニッパーみたいなもんでもありゃ十分なのかな?)

 

 だとするなら、はなからあいつだけをバラすつもりでわざわざ特注品の得物を事前に調達してこのペンションにやってきたのかもしれない。それなら短い時間しかなくても力さえありゃチョキチョキっとやるだけでなんとかなりそうだしな。一時間もあれば、きっと余裕なんじゃないだろうか。

 

「なるほど、では怨恨の線もあると」

 

 みきなんとかさんの意見にもうんうんと頷いたおじさんは、それを要約してみせる。こうして皆から淡々と意見を聞いたりしているおじさんの姿を見ていると、これが職業柄ってやつなのかもしれないなと思ってしまう私。おじさんは元々弁護士をやっていた人だったから、昔の勘が戻ってきたのかもしれない。

 

「ふうん、じゃあ計画的犯行だったかもって訳ね。だったらさ、ここから逃げてく為の用意なんかも色々してあったんじゃない? 森の中に前もってしっかりしたテントでも張っておけば、そっちに逃げ込むことだって出来るんじゃないの?」

 

 今度はみどりさんが意見して、「ねえ?」と俊夫さんに同意を求めるように首を傾げてみせる。まあヤクザの死が仲間割れによる偶発的なものではなく、予め計画されていたことだとするのなら、話はまるで変わってくる訳だからあり得ない話でもないのかな。

 

「確かに……そういうことも考えられるな」

「この吹雪で隠れ家が吹っ飛んでさえなきゃ、犯人のやつも安心してそこで眠れるって訳ですね」

 

 おじさんと俊夫さんが一緒になってうんうんと何度も頷く。二人とも心なしか表情も和らいできているのだけど、犯人が大人しくどこかへ逃げ去っていてくれたのならそれに越したことはないのだから当然だ。

 

「こうは考えられない? まず犯人は智子ちゃんの言う通り、壁に積もった雪を足がかりにしてあたし達に知られずあの部屋にこっそり忍び込んだ。田中さんが手引きしたってことね」

 

 みどりさんが犯人に見立てた自分の手をモップの柄に沿わせ、二本指をばたつかせて壁を登っていく真似をする。

 

「積もった雪って結構頑丈だから、きっとこの時はまだそんなに壁の雪は崩れてなかったと思うの。だから、あの人を殺したあとに窓から逃げてった犯人がクッション代わりにして、その時にごそっと崩れちゃったんじゃないかしら」

 

 説明しながら、みどりさんは柄のてっぺんから犯人をひょいと飛び降りさせる。

 

「そ、そういえば聞こえました! 窓が割れる直前だったんですけど、こっちのほうからドサドサッて何か落ちてきたんですよ。落雪かなって思ってたんですけど、あれってもしかして……!」

 

 みどりさんの推理を聞かされて思い当たることがあったのか、窓を背にしていたみきなんとかさんが自分の後ろのほうを指差しながら慌てて証言した。そしたら皆から感心したような声が上がる。

 

「そりゃ犯人ですよ! 間違いない!」

 

 ようやく全てが繋がったと思ったのか、そう断言する俊夫さんは興奮気味で膝を打つ。ともあれ弟の調査報告から始まったこの推理談義は一応の決着を見たようだ。

 

「どうしたの? みんなして」

 

 台所のほうからお盆を手にしたおばさんたちが戻ってきたのだけど、皆が騒いでる様子を受けてそう尋ねてくる。

 

「ああ、いやなに、犯人はやっぱり外へ逃げていったんじゃないかって話してたんだ。智貴くんがね、それらしい跡を見つけたんだ」

「まあ……!」

 

 湯呑みを受け取ったおじさんがそう答えてみせれば、おばさんは驚いたように目を見張る。

 

「足跡なんかは雪に埋もれてしまったようだが、あの部屋の窓から飛び下りた時の跡がしっかり残っていたんだ」

「そうなの……じゃあ、もう大丈夫なのかしら?」

 

 ああ、どうしよう。これはどうも分からなくなってきたぞ。てっきりまだペンションのどっかに犯人が潜んでいるものと睨んでいた私だったけど、皆の話を聞いているうちにその推理が揺らいでしまう。不自然にごっそり削れていた雪というのが、動かぬ証拠のように思えてきた。

 

(じゃあ足音はどうだ? あんときゃ足音なんて聞こえなかったぞ……?)

 

 それでもやっぱり引っかかってしまう点は残る。他の皆は知らないだろうけど、なんといっても私は窓が割れた直後に外の様子を窺っていたのだ。あのとき誰かが外をうろついていたのなら、それに気付く可能性は十分あったように思う。仮に着地に失敗してそのまま気絶でもしていたんだとしたら、さっきおじさん達が見回りに行った際に凍りついた犯人が見つかった筈だ。

 

(もしかしてソリとか使ったのかな?)

 

 おお、これはいい線行ってるかもしれん! 誰にも気付かれず逃げるつもりでいた犯人が、ちっこいソリみたいなもんを予めヤクザの部屋の下に用意しておいて、逃げる際はそれに乗ってせこせことペンションから離れていったとしたらどうだろうか。

 

(いけるな……!)

 

 なんだか希望が見えてきたぞと、私は一人うんうんと頷いてしまった。本当は私だってペンションの中にまだ犯人が潜んでいるだなんて考えたくないのだ。ここじゃないどっかで好きにテントでもなんでも張って寝泊りしてくれていたのなら、それに越したことはないもんな。頼むからそうであってほしい。

 となると、ガラスが割れたのも犯人のヤローがドジを踏みやがったからで、飛び降りる際に窓をちゃんと閉めることが出来なかったからなのかもしれない。この吹雪だものな、閉め切れなかった窓が結局強風に煽られてガッシャーンといってしまった可能性は十分に考えられる。

 

「うわぁ、美味しいですねこのお茶。奥さんが淹れたんですか?」

 

 二度も凍えかけた体にはひどく沁みるのか、お茶をすするみきなんとかさんが感嘆の声を上げた。

 

「いえいえ、春子さんが淹れてくれたんですよ。お茶を習ってるんですって」

「へー、やっぱ違うもんですねぇ」

 

 お茶を口にした他の人達もこぞって絶賛するものだから、褒められて照れてしまったらしい人妻さんがはにかんだ様子でそっと一礼した。そんなに美味いお茶なら、私も一杯貰えばよかったかな。でもわざわざお願いしてまた用意しにいってもらうのも悪いしな……。

 

「なあ、私にもちょっとくれよ」

「あ?」

 

 試しに一口飲ませてもらおうと、お茶を吹き冷ましていた傍らの弟に私は声をかける。

 

「おまえも淹れて貰えばいいじゃねーか」

「いいんだよ! 少し味見するだけだから」

 

 なのにケチ臭い弟は渋って湯呑みをよこそうとしない。こいつめ、独り占めするつもりだな。

 

「あれか、恥ずかしがってんのか? 気にすんなって」

「……」

 

 そしたら弟はだんまりしてしまった。あー、またこの顔だよ。なにふてくされた面してやがんだ。みんな見てくれ、猫被っててもこいつの本性はこんなんだぞ。

 

「ほんと仲いいよなぁ二人とも」

 

 こらえきれないといった様子で笑いをこぼした俊夫さんが、そう言って私達を茶化してくる。見れば他の皆の様子も随分と和らいできているようだった。物騒な事件が起きてすっかりピリピリした雰囲気が続いていたけど、ここにきてようやく緊張がほぐれつつあるのだろうか。茶化された弟だけが気まずそうな顔をしているけど、こいつも内心ではほっとしているのかもしれないな。

 

「おおー、小林くん。どないやった?」

 

 そう言いながら、階段をどすどすと下りてきたのはおっさんだった。携帯を試してみると言って二階に上がっていったおっさんだったけど、結果はどうだったのだろうか。

 おっさんの登場に合わせたように鳩がポッポと一回だけ鳴く。時計の針は十時半を指したところだった。

 *

「ホンマかいな!? そらもう間違いあらへんで!」

 

 おじさんから外回りの結果を聞かされたおっさんが、目を剥いて分かりやすい反応をする。犯人はとっくにペンションの外へと逃げ去った可能性が高いと聞かされれば、おっさんとしても今夜は安心して眠れるのだろう。

 

「わしもなー、一応携帯は試してみたんやけどなー……」

 

 そう言って苦笑いするおっさんは、そのあとの言葉を濁してしまう。あー、こりゃ駄目だったんだな。おっさんお疲れ。

 

「とりあえず今日はわたし達が朝まで見張ってますから、香山さん達はもうお休みになってくださって大丈夫ですよ」

 

 犯人が外へ逃げていったとはいえ、まだまだ油断は出来ない。だから夜が明けるまで、おじさんや俊夫さんが寝ずの番をしてくれるのだという。

 

「いや、わしも男や! 今日はとことん小林くんらに付き合うで」

 

 そう言って拳で自分の胸をどんと叩いてみせるおっさんは、おじさん達と一緒になって寝ずの番に参加する気概を見せる。こんなことを自信満々に言っておいて、きっとすぐにグースカ居眠りこきそうなのがこのおっさんの愉快なところだ。

 

「はは、そうですか……では、すみませんがよろしくお願いします」

 

 あまりアテにしていないのがなんとなく透けて見えるおじさんだったけど、もみ手をして気合を入れなおしているおっさんがそれに気付くことはなさそうだ。

 

「あ、あのー、ぼくはちょっと……そういうのは……」

 

 すると遠慮がちな声でみきなんとかさんがモゴモゴと何かを言いたそうにする。その様子からすると、同調圧力に引っ張られて自分まで徹夜させられるとでも思ったのだろうか。

 

「ああ、いえいえ、美樹本さんはお休みになってくださって構いませんから」

「すみません、そうします……なんだか疲れちゃって」

 

 おじさんが気遣うような言葉でフォローしてやると、頭を下げたみきなんとかさんはそのまま席を立ち、フワァとあくびをしつつ二階へ上がっていった。

 

「さあ、君たちも疲れたろう。部屋へ戻って休んでなさい。春子さんも、どうか遠慮なさらずに」

 

 するとおじさんが今度は私達や人妻さんに向けて声をかけてくる。どうしたものかと顔を見合わせる私達だったけど、このまま起きていても仕方ないので結局おじさんの言う通り自分の部屋で休むことにした。

 

(まあ、大丈夫だと思うが……)

 

 一応の用心として、私は床に転がっていたストックを一本手に取り携えていく。

 私達と一緒に席を立ったおじさんは、なにやらフロントの内線電話を手に取りどこかに掛けようとしているようだ。もしかしたら部屋に戻ってしまったOLさん達にも、犯人の行方におおかたの見当が付いたことを教えてあげるつもりなのかもしれない。

 

 ◆

 

(眠れねぇ……!)

 

 今日は朝からずっと滑りっぱなしで体は疲れている筈なのに、ベッドで横になった私はまるで眠れる気がしなくて結局起き上がってしまう。さっきコーヒーを飲んだせいだろうか、目が冴えて仕方がない。だとしたらOLさんや人妻さんもきっと今ごろ眠れない夜を過ごしているのだろう。

 

(ゲームでもすっかな……)

 

 部屋に戻った際、付けっぱなしになっていたスーファミの電源を消しておいた私だったけど、今度はまた別のソフトで遊んでみようかと考えてみる。そうして寝床から下りた私はカゴの中から目ぼしいカセットを漁ってみるのだけど、途中でなんだかどうでもよくなってしまったものだから再びベッドへ寝転がってしまう。

 こうして目を閉じていると、どうも心の中にモヤモヤが広がっていくのを感じずにはいられない。無理もないか。今日は人が一人死んでいたところに出くわしてしまったのだ。犯人が去ったとはいえ、呑気にゲームなんてしていられる訳がない。私は思っていた以上に自分がショックを受けていることを自覚させられる。

 

(あのヤクザ、結局なにしにきたんだろう……)

 

 食堂でぶつかった時、ヤクザの癖してあいつは私のことを引き起こしてくれたから、極悪人ってほどでもなかったのかもしれない。だけどもあいつは仲間をこっそり部屋に招きいれたりした訳だから、何かを企んでいたのは確かなのだ。麻薬取引? 銃の密輸? それともこのペンションに強盗でもしにきたとか? だったらこんなところをわざわざ狙わないでもっと金のありそうなとこに行けって話だけどな。例えば銀行とか。

 マヌケにも仲間と思っていた相手に裏切られてあっけなくタマを取られた訳だから、逃げた相方がどっかでそのうち捕まりでもしない限りはヤクザの企みも永遠に分かりそうになかった。

 

(そういやぁ……)

 

 ペンションに来る前、新幹線の中でネットをしてたら東京の方で銀行強盗が起きたとかいうニュースを見たことを思い出す。犯人は大金を持って車で逃走中とか、そんな感じの内容だった。もし、もしだ。その銀行強盗犯があのヤクザだったとしたらどうだろう? そしてヤクザを殺した犯人も、一緒に銀行へ押し入った仲間だったとしたら?

 逃げた強盗犯を逮捕しようと、きっと今は警察があちこちで検問とか張ったりしている筈だ。そんな中で大金を抱えたまま逃げ切ることが出来るだろうか? いやまあ、出来る奴には出来るんだろうが、私だったらほとぼりが冷めるまでどっかに隠れたりするだろうな。

 

(おお! そんならあいつはここを隠れ家にするつもりだったのかも!?)

 

 あくまで仮定の話だけど、私はそのまま取りとめのない想像を広げていく。こうしているとなんだか気が紛れていくように感じられるのだ。

 

(犯人は金を独り占めしたいからヤクザを始末したのかな?)

 

 当初は銀行から奪った金を仲良く山分けする予定だったけど、金に目がくらんだ犯人が極端な行動に出てしまったとしてもおかしくない。あるいは最初っから裏切るつもりでヤクザと手を組んだのだろうか。あれこれ準備していたっぽい犯人だったから、きっと後者なのかもな。裏切り上等な裏社会の人間なんてそんなもんだ。

 いやいや待て。それならわざわざバラバラにする必要もない訳だから、やっぱり怨恨の線も捨て切れないな。となるとその場合は……。

 *

(風呂でも入るか)

 

 そういやペンションに帰ってきてから汗を流してなかったなと思った私は、ヤクザについてあれやこれやと考えるのも飽きてきたのでひとっ風呂浴びることにする。

 

(誰もいないよな……?)

 

 バスルームの電気を付けた私は、静かにドアを開けてそっと覗きこんでみる。そうして中を見回してみるのだけど、特に誰かが潜んでいる気配はないようだった。まあ、万が一ってこともあるからな。用心するに越したことはない。

 ともあれ安全が確認出来た私はバッグから着替えを取り出していたのだけど、ふいにドアを誰かがノックしたものだから少しばかり身が跳ねてしまった。

 

「ねーちゃん、いるか?」

 

 ドア越しに弟の声が聞こえる。どうやら尋ねてきたのはあいつのようだ。

 

(よーし、いっちょビビらせてやっか)

 

 ちょっとしたいたずらを思いついた私は、枕元に置いてあったストックを手に取りドアにそっと歩み寄ると鍵を外してやった。そうしてしばらく様子を見ていたら、鍵が外れたことを理解した弟が自分からドアを開けてくる。そこですかさず私はドアの裏側に隠れて息を潜めた。

 

「ねーちゃん……?」

 

 部屋の中に私の姿が見当たらないことを不審に思ったのか、弟が声を潜めて私を呼びつつ慎重に足を踏み入れてくる。

 

「うぃー!」

「うおぉっ!?」

 

 それ今だと、ドアの裏から素早く飛び出した私は手にしたストックで弟のことをつつきまくってやった。

 

「あっははは、マジでビビってやんの」

「てめぇ……!」

「危なかったな。私が殺人鬼だったらもう死んでたぞ」

 

 あからさまに腹を立てている弟が、私から力づくでストックを取り上げる。

 

「なんだよ、なんか用か?」

 

 弟は自分のバッグを肩にひっ下げていたのだけど、そんなもんを持って私の部屋に尋ねてきたのは何故なのだろう。私がどうしたのかと聞いてみても、さっきの不意打ちでヘソを曲げてしまったらしい弟は、ため息をつくと何も答えず部屋の隅へとそのバッグを下ろした。そうして部屋の使われていないベッドのほうへ腰掛けると、手にしたストックを床に突き立ててそのまま押し黙ってしまう。

 

「え? なに? どうしたの……?」

 

 そんな風にされると妙に威圧感があるから、少し不安になった私は改めて声をかけてみる。黙ってねぇでなんか言えよなー。

 

「いや……一応、な」

「?」

 

 やっと口を開いた弟だったけど、全然答えになってないようなことを言うものだから余計にむずがゆくなってしまう。

 

(ははーん……!)

 

 あーそうか、分かったぞ。私は弟が何を考えているのか察しがついてしまった。要するに心細いから私の部屋に泊めてほしいんだな。しょうのないやつめ。まあ壁一枚へだてた隣の部屋で人がバラバラになって死んでるってんだから、無理もないか。こいつはモロにその死体を目にしちゃってる訳だからな。気丈そうに見えて実際は私以上にショックを受けているのだろう。ひょっとすると何か忘れ物をした犯人がペンションに戻ってきて、例の部屋から侵入してくるんじゃないかと警戒しているのかもしれない。

 

「しゃあねえなぁ」

「?」

 

 怖がりな弟を慰めてやろうと、私はその隣へと腰掛ける。

 

「まあ、今日のとこは私がついててやっからさ。安心しろって」

「おい、何勘違いしてんだ」

 

 元気づけてやろうと弟の肩をぽんぽん叩いてやる私だったけど、見栄っ張りな弟はそれを認めようとせず減らず口を叩く。

 

「そうだ、久しぶりに添い寝してやろうか?」

 

 ガキの頃はおんなじ部屋で寝泊りしていた私達だったから、その頃はよくこいつと添い寝して寝かしつけてやったもんだ。部屋が別々になってからも、初めの頃は怖い夢を見たとか言って怯える弟が私の部屋に逃げ込んできていたのを思い出す。

 

「いらん。そっち行けよ」

 

 だけども弟は恥ずかしがっているのか、せっかくの私の気遣いを突っぱねながらもう片方のベッドを指差す。

 

「遠慮すんなってー。姉ちゃんと添い寝してもらえるなんて滅多にないチャンスだぞ?」

「あのなぁ……」

 

 その仏頂面に隠された本心を引き出してやろうと食い下がった私は、弟の袖をくいくい引っ張ってみる。だけども弟はなんだか呆れたような顔をし始めた。

 

「もういい」

 

 急に立ち上がった弟が、今度は反対側のベッドへと座り直してしまう。

 

(なんだよこいつ、ほんと可愛くねーな!)

 

 そんなに姉ちゃんと添い寝すんのが嫌なのか。むっとした私は、後を追いかけるようにすぐさま弟の隣にどかっと座り直してやった。姉ちゃんから逃げようたってそうはいかないぞ。

 あっ、こいつ! これみよがしにため息なんかつきやがって!

 

「ま、待って……!」

 

 性懲りもなく逃げようとする弟が再び立ち上がったので、私は声を上げて咄嗟にその袖を掴んでしまった。そしたら弟が、ちょっと驚いた様子で私の顔を見てくる。

 

「頼むよ……横に座ってるだけでいいからさ……な?」

 

 自分の口から出てきたその言葉に私は驚いてしまう。これじゃあまるで、私のほうが怖がっていて傍にいてほしいと言っているようなものだ。

 

「……」

 

 私の言葉をどう受け止めたのか、やがて弟は無言のまま隣にそっと座りなおしてくる。掴んだままだった弟の袖を逃してしまわないよう、私はそれをぎゅっと握りしめずにはいられなかった。

 

(情けねぇな……結局ビビってんのは私のほうだったって訳だ)

 

 弟にぴったり寄り添うようにしていた私は、ここに来て己の本音をようやく自覚する。みっともない話だけど、どうやら私は部屋に一人でいるのが心細かったようなのだ。弟が泊まりにきてくれたことだって、本当はちょっと嬉しかったりする。

 傍らの弟はさっきからなんにも言わないけれど、その体温が今はただ心強い。

 

 そうしてどれくらい時間が経っただろうか。弟の肩に頭を預けてうとうとしていた私は突然鳴り出した内線電話の呼び出し音にはっとなる。

 

「なんだろ……?」

 

 思わず私は弟と顔を見合わせた。ひとまず取らない訳にはいかないと、立ち上がった弟が電話のとこまでいって受話器を手に取る。

 

「はい……はい……ああいえ、すみません、姉の部屋にいたんで……」

 

 電話口の相手と喋っていた弟だったけど、やがて話が終わったのか受話器を戻してこちらを振り向く。

 

「おじさんが下に来てくれだって」

「えっ? なんで……?」

 

 その言葉に私はどきりとしてしまった。もしや何かよからぬことがあったのではあるまいか。

 

「知らねーけど、なんか大事な話があるって……」

 

 弟が聞いた感じでは、他の皆もロビーのほうに集合してきているらしい。これは益々おかしいぞ。もしかして犯人のやつが戻ってきたりしたのか?

 

「とりあえず行こうぜ」

「う、うん……」

 

 ベッドの上に置かれていたストックを改めて手に取った弟が廊下へと出ていこうとするので、置いていかれないよう私も慌ててそれに付いていく。

 そうしてロビーへと行ってみれば、確かに私達以外の全員が既に集まっているようだった。みきなんとかさんは寝ていたところを起こされでもしたのか、寝グセがついて瞼も半分閉じかかっている。しばらく姿を見なかったジェニーまでもが集合に応じたようで、今はフロントのカウンターに乗っかり皆の様子を伺っていた。

 

「おじさん、なんかあったの……?」

 

 ともあれただ事ではないと見た私は、やや困惑したような様子で腕を組んでいたおじさんに問いかける。

 

「いや、どうも河村さんから皆に伝えたいことがあるって言うんだが……」

 

 そう言って、おじさんはソファーのほうに座っていたOLさん達を見やった。河村って誰だっけと一瞬考えてしまったが、確かメガネさんがそんな感じの名前だったなと思いなおす。

 

「これで皆さん全員集まりましたね」

 

 小さく頷いたメガネさんがおもむろに立ち上がり、なにやら神妙な面持ちで話し始めるのだけど、傍らのビッチさんや川本さんはその様子を固唾を呑んで見守っているようだった。

 

「今から話すこと、冗談だと思わないでください。あたし達もまだ信じられないけど、大変なことが分かっちゃったんです」

「亜希ちゃん、前置きはええからはよゆうてんか。何が分かったんや?」

 

 もったいぶるメガネさんにしびれを切らしたのか、こらえ性のないおっさんがそう急かす。

 なんだよ、てっきり犯人のやつがまた何か仕出かしたのかと思ったけど違うのか。驚かせやがって。

 

「ああ、はい、そうですね……じゃあ言っちゃいますけど」

 

 一体何を言うつもりなのかと、その場の全員がメガネさんに注目した。そしたらメガネさんは自分の眼鏡をくいっと上げて目を光らせる。

 

「犯人の正体が分かったんです」

 

 メガネさんがきっぱりとそう言い切ったものだから、困惑気味だった場の空気が一変してしまう。

 

「正体って……それはどういう意味でしょうか? 田中さんの仲間じゃなかったってことですか?」

「違います。あの人には仲間なんていなかったんです」

 

 発言の真意を探るべく説明を求めたおじさんだったけど、それに対するメガネさんの答えに皆がどよめく。

 犯人の行方や正体について皆で推理をしてた時はあの場にいなかった筈のメガネさんだけど、後でおじさんに教えてもらったのか、その辺りのことは承知済みのようだ。その上でメガネさんもメガネさんであれこれ推理していて、別の結論に達したってことなのか?

 

「そして犯人は……この中に、いるんです」

 

 声に力をこめてそう宣言したメガネさんは、手を広げるような仕草をしてロビーにいる皆を見回してみせた。途端、場がしんと静まり返ってしまう。

 

「な、なんやて……!? そらあれかい、わしらん中に犯人がおるっちゅうことかいな?」

「残念だけど……そうなりますね」

 

 慌てておっさんが確認してみれば、メガネさんは声のトーンを落として同意する。

 

(おいおい、どうなってんだこりゃ……?)

 

 とんでもないことを言い出したメガネさんの言葉にしばらくぼんやりしていた私だったけど、ようやく理解が追いついてきた。私としても犯人はあのヤクザの仲間だと考えていたから、そんなことは思いもしなかった。ペンションにいる人達はみんな虫も殺せなそうな顔をしていたから、それを疑うなんて発想はなかったのだ。だけれどもメガネさんは違ったらしい。

 

「まさか! そんな馬鹿馬鹿しい話があるもんですか!」

「いいえ、馬鹿馬鹿しくなんてありません。あたしだって根拠もなしにこんなこと言ってるんじゃありませんから……」

 

 私と同じ気持ちだったおじさんが声を上げて早速反論するのだけど、メガネさんは自分の説を撤回する気は毛頭ないようだ。この人が疑心暗鬼に駆られてこんなことを言っているのか、それとも本当になにか確信があって言っているのか、私には皆目見当がつかない。

 

「せやったら誰やねん、その犯人っちゅうのは……? まさか自分がやったっちゅうんやないやろなぁ」

「ちょっと……やめてくださいよ! あたし、ふざけてるんじゃないんですよ!?」

 

 おっさんが最後のほうは半笑いになって冗談めかしたことを言うのだけど、気に障ったらしいメガネさんは顔をしかめて金切り声を上げる。

 

「犯人はあたしでもなければ……もちろんこの子達でもありません」

 

 傍らのビッチさんや川本さんを見やりつつ、まずは自分達の関与を否定するところから入るメガネさん。一体誰の名前がその口から飛び出すんだろうと、メガネさんの次の言葉が待ち遠しくて仕方がない。ぎゅっと握り締められた私の手のひらは今や自分の汗で随分と湿っていた。手に汗握るとはまさにこのことかもしれない。さあ誰なんだ、誰なんだ──

 

「智子ちゃん、そして智貴くん。あなた達が犯人なんでしょう?」

 

 並び立つ私と弟のほうを鋭く指差して、メガネさんがそんなことを言った。そのつりあがった目には、強い警戒の色がありありと浮かんでいる。

 

「……はぁ?」

 

 私の口から意図せずして気の抜けた声が出てしまった。え? なんだこれ? なに言ってんの?

 傍らの弟の顔を見てみれば、やっぱりこいつも固まっているようだ。私達だけじゃない、その場にいるOLさん達以外の全員が固まっていた。

 

「へ? なに? わ、わたしたち……?」

 

 聞き間違いであってほしいと思った私は、改めて自分を指差しそう尋ねてみる。

 

「聞こえなかった? 田中さんを殺した犯人はあなた達二人だって、そう言ったの」

 

 すがるような私の言葉を一蹴したメガネさんは、腰に手を当て再び言い放つ。

 ああ……そうかメガネよ。おまえ、疑ってるんだな。私と弟のことを、疑ってやがるんだな。どうもこれは間違いのないことのようだ。

 

(こ、このくそメガネがぁ──……ッ!)

 

 よりにもよって私達を犯人呼ばわりしてきたものだから、青ざめるよりも前にそのトンチキな決めつけが腹立たしくて強い怒りがこみ上げてくる。やっぱりメガネかけたやつは駄目だなと、私は心底思わずにはいられない。

 外の吹雪がより一層激しさを増して、うるさい程に風切り音を響かせていた。




続く


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【クロス】かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く(5)

疑惑のふたり

 ぽっぽ、ぽっぽ、と鳩の鳴き声がロビーに繰り返し響く。時刻はちょうど十一時のようだ。

 今しがたのメガネのとんでも発言を受けて、誰もが呆然として言葉を発せずにいた。

 

「な、なんで? なんで私達が、は、犯人なの……!?」

 

 黙ったままじゃいけないと、私は声を上げてその沈黙を破る。よっぽど弟の持ってきたストックでメガネのことをめちゃめちゃに叩いてやろうかと思ったけど、それじゃあ犯人が逆上したように思われるのでどうにかその衝動をこらえる。

 

「そうだとも! 何を言い出すかと思ったら……この子達がそんなことをする訳がない!」

 

 我に返ったおじさんが、声を荒げてメガネに食ってかかる。おじさんはハナっからメガネのたわごとなんて信じるつもりはないみたいだ。

 

「わ、分かってます! いきなりこんなこと言ったって、信じてもらえないって……」

「ええ、当然です。そんなでたらめ、誰が信じるっていうんですか」

「あたしの話、最後まで聞いてください。そしたら納得してもらえますから」

 

 おじさんの剣幕にたじろぎはしたものの、それでもやっぱりメガネは自分の主張を曲げるつもりはないようだ。どうやらこれから私達を犯人扱いしたその理由を皆に説明するつもりらしい。

 見れば弟は、ことの成りゆきを固唾を呑んで見守っているようだった。そしてそれはおじさん以外の他の皆も同じようだ。そうした雰囲気を感じ取ったのか、ひとつ咳をしたメガネが言葉を続ける。

 

「犯人は外へ逃げていったって、みんなはそう考えてるんですよね?」

 

 まずはそう問いかけて周りを見回すメガネ。それを受けたOLさん以外の人達は思い思いに頷いていく。

 

「でもあたしは違います。犯人が外へ逃げていったなんて思えない」

 

 そう言ってかぶりを振るメガネ。

 おっ、なんだおまえ。そんなこと考えてたのか。そりゃまあ、私も初めのうちはそう思ってたんだが。

 

「……どうしてそう思うんですか?」

 

 皆の思っていることを代弁するようにおじさんが尋ねた。あからさまな痕跡も残っていて疑う余地はない訳だから、その疑問はもっともだ。

 

「それは〈音〉ですよ、オーナーさん」

「音、ですか?」

 

 その言葉を待ってましたとばかりに、人差し指を立てて即答するメガネ。

 なんだなんだ、音がどうしたって?

 

「窓が割れた時、美樹本さんは上から何かが落ちてきた音も一緒に聞いたんですよね?」

「え? ああ、そうだね、確かに聞いたよ」

 

 ちょうどあの時に外で物が落ちるような音が聞こえたと証言していたみきなんとかさんだったけど、ソファーに座る彼のほうを振り返ったメガネはそう確認する。

 

「それ、本当はやっぱりただの雪だったんじゃないですか? 人間が落ちてきたって証拠はありませんよね? 実際に見た訳じゃないですよね?」

「い、いや、どうだろう……ちょっと分からないけど……」

 

 念を押すよう矢継ぎ早に聞いてくるメガネに、みきなんとかさんは曖昧な返事をする。

 

「待ってください、証拠ならありますよ」

 

 そこへ待ったをかけるおじさん。そうなのだ、弟が見たという壁に積もった雪の不自然な崩れこそが動かぬ証拠なのだ。メガネよ、おまえも皆が考えた推理のことはおじさんから聞いてるんだろう? 知らないとは言わせないぞ。

 

「分かってます、あの部屋の下に積もってた雪だけ不自然に崩れてたんですよね? 確かにそれだけ見れば犯人が窓から飛び下りていったんじゃないかって、そう思えますけど……」

 

 口元に手をやり思案するような仕草を見せるメガネ。場はすっかりメガネの独擅場で、皆はその言葉のひとつひとつに注意深く耳を傾けている。

 

「でも、不自然なんです。もし本当にあのとき犯人が外へ逃げていったのなら、窓が割れたり何かが落ちる音だけじゃない、もうひとつの音をあたし達は聞いてる筈なんです」

「と、いいますと?」

 

 一々皆の反応を伺いながら言葉を続けていくメガネだったけど、律儀に合いの手を入れてあげるおじさんの言葉を受けてまたひとつ咳払いをする。前置きが長いなぁと思って聞いていたけれど、この流れからするとようやく本題に入るのかもしれない。さっきから音がどうたらと、メガネはやたらその部分にこだわっているようだ。

 あっ、こいつもしかして……。

 

「〈足音〉ですよ。犯人がここから逃げてく足音です」

 

 やっぱりそこか! どうも犯人の足音のことを気にしていたのは私だけじゃなかったらしい。

 

「雪の上を歩く時って意外と大きな音が鳴りますよね? こんなに吹雪いていたって、ちゃんと聞こえるんですよ。香山さん達がここに来た時だって、誰かが外を歩いてるなってあたしすぐに分かりましたから」

「ほほー、足音か。そら盲点やったわ」

 

 メガネの指摘を受けて、おっさんが感心したような様子で頷く。

 

「あの時、智子ちゃんやバイトの男の人以外はみんなこの談話室にいましたよね? 犯人が落ちてきた場所はすぐそこだから、人が歩いてたら絶対に聞こえる筈です。でもそんな音、誰か聞きましたか?」

 

 バイトの男の人、というのは俊夫さんのことだ。ともあれメガネはそう言って皆を見回すのだけど、誰も彼も心当たりがないのか首を傾げたりしている。

 

「勿論、最初は気付かれないようにしばらくじっとしてたってことも考えられます。窓が割れた音に驚いたみんなが二階へ様子を見に行ったところで、すかさずここから立ち去るってことも……」

 

 考えられる別の可能性を一旦提示してみせて、また前置きを長くしようとするメガネ。おっさんのせっかちが移ったのか、私もそのやり口がもどかしく感じてしまう。メガネがいま説明してることなんて、色々推理してた時の私がとっくの昔に通った部分なのだ。

 

「でも、この談話室には常に人がいました。あたし達がオーナーさんと上に行った後も、ここにはまだ何人か残ってましたよね? どうでした? 外から足音か何か、聞こえました?」

「そ、そうねぇ……何も聞こえなかったわ」

 

 メガネがそう尋ねてみれば、おばさんは首を振って否定してみせる。

 

「俊夫くん、そんなの聞こえたっけ?」

「いやぁ……まあ、聞こえ……なかったと思いますけど」

 

 続けてバイトの人達が顔を見合わせて確認し合うのだけど、答えは同じだった。俊夫さんは談話室にはいなかったとさっきメガネが言っていたけど、窓が割れた後に駆けつけてきたのだろうか?

 ともあれやたらと足音にこだわるメガネだったけど、そんなもん私に言わせればどうとでも誤魔化せる。ちっこいソリでもあれば静かに逃げ去ることが出来るというのは、私があれこれ推理していた時に思い至った結論だった。それを突きつけてやってもいいのだけど、あくまで可能性の一つに過ぎないと言われてしまうような気もするのでどうしたもんだろうか。

 

「なるほど、河村さんの言いたいことは分かりました……。要するに犯人は窓から外へ逃げたように見せかけておいて、実際は何食わぬ顔でわたし達の中に紛れ込んでいたと、そういうことでしょうか?」

「まあ、そうですね」

 

 腕を組んで難しい顔をしたおじさんが、メガネの話を要約する。まだ半信半疑という様子だったけど、理屈だけは一応通ってると考えたようだ。

 

「では何故なんです? それでどうしてこの子達が犯人だと決め付けるんですか?」

 

 そうだそうだ、それこそがこの話の論点なんだぞメガネよ。きっちり納得のいく説明をしてくれるんだろうな。いや、そもそも前提からして間違ってるんだから、どんな説明を聞かされても納得なんか出来る筈もないんだが。

 

「あたしが二人を犯人だと思った理由はいくつかあるんですけど……」

 

 そんなもんがいくつもあってたまるもんか。その理由ってのは全部おまえの妄想だかんな。さあ言ってみろよ、私が直々に論破してやる。

 

「一番の理由は、窓が割れた時に智子ちゃんがここにいなかったことです」

 

 おいっ、そんなんが理由なのかよ。どんだけ安直なんだテメー。ああいや待て、なるほどな、アリバイってやつのことを言ってる訳か。

 

「ちょっと待ってくださいよ。俺だって窓が割れた時はここにいなかったんですよ? そんな理由だったら、別に智子ちゃんだけが怪しいってことにならないじゃないですか」

 

 壁に背を預けながら黙って話を聞いていた俊夫さんが急に口を挟んできた。やっぱり俊夫さんは私と同じで、窓が割れた時はこのロビーにいなかったらしい。でもわざわざ自分にもアリバイがないことを持ち出して反論するあたり、ひょっとしたら私のことを庇ってくれているのかもしれない。

 

「でもあなたは一階にいたじゃないですか。あたしはその子が二階にいたから怪しいって思ってるんです」

「へぇー、彼女が二階にいたってだけで犯人扱いか。ずいぶん単純なんですね」

 

 私を怪しむその理由をメガネが口にするのだけど、それを聞いた俊夫さんは鼻で笑う。この態度からすると、どうやら俊夫さんもメガネの話をすんなりと信じる気はないようだ。いいぞいいぞ、もっと言ってやってくれ。

 

「違いますよっ、ちゃんと理由があるんですってば……! もう少しあたしの話を聞いてください」

 

 馬鹿にされたと思ったのか、声を張り上げキャンキャンわめくメガネが拳をぶんぶん振るう。落ち着いて話してるように見えて、誰かにつつかれるとすぐこの調子だ。元々こういう性格なのかもしれないな。

 

「ねぇ智子ちゃん。あなた、どうしてあのとき談話室に集まらなかったの?」

「えっ? あ、うん、えーと……」

 

 メガネがいきなりこちらへ話を振ってきた。こいつが言ってるのは、事件が起きる前におじさんのはからいで宿泊客が懇親の為にロビーに集められた時のことだろう。そりゃまあ確かに私はあのとき皆の中に加わることを渋って部屋に戻ったのだけど、そのことを怪しんでいるのだろうか?

 

「その、つ、疲れてて……寝ようかなって思って……」

 

 おまえらにイジられんのが嫌だったんだよと、よっぽど本音をぶちまけてやろうと思ったのだけど、ひとまず私は前に言ったのと同じような理由を改めて口にする。

 

「本当は違うんじゃないの? あの部屋の窓を割るために準備するつもりだったんじゃないの?」

 

 ファック! 頭のわりー決め付けしてんじゃねえぞコノヤロー。これはもういよいよ本気出してぐうの音も出ないほどにこいつを論破してやらんといかん。

 

「ち、違うよ! 部屋でずっとゲームしてただけだよっ!」

「ゲーム?」

 

 あ、言っちまった。咄嗟に私が自分の部屋で何をしていたのか正直に答えてやったのだけど、一応こいつらには内緒にしとくつもりだったのだ。

 

「ゲームって、もしかしてあなたがそこで遊んでたやつ? 部屋に持っていったの?」

「あ、うん……」

 

 視線を鋭くしたメガネが、談話室のテレビを指で示しながらそう聞いてくる。

 

「そういえばあなた、啓子がテレビのことでゴネてたとき、なんにも言わなかったよね? どうしてあの時、部屋を替わってくれるって言わなかったの? あなたの部屋にもテレビ、あったんでしょ?」

 

 なんで私がおまえらの為にわざわざそんなことを言わなきゃなんねーんだ。私だってテレビを使いたかったんだよ、そんだけの理由で十分だろうに。

 

「部屋を替えたくない理由があったんじゃないの? 例えば……あなたの部屋から田中さんの窓を割らないといけなかったから、とかね」

 

 声を低くしてそう語るメガネの目が、キラリと一瞬だけ光ったように見えた。

 

「河村さん……訳の分からんことを言わんでください。この子の部屋は田中さんの部屋とは随分離れているんですよ? それなのに一体どうやって窓を割ったって言うんです?」

 

 あーおじさん、駄目だよその言い方は。そんなこと言ったら、こいつ絶対ノリノリで理屈を並べてこじつけてくるつもりだぞ。

 

「出来るんですよ、あるトリックを使えば」

「トリック……?」

 

 メガネは自信満々といった様子でおじさんの質問に答えてみせる。ほら見たことか、思った通りだ。この分だと予めこいつなりに考えておいたそのトリックとやらを説明する機会をうかがっていたのかもしれない。

 

「いいですか? まず凄く長い紐を用意しておくんです。それをあの部屋の窓の取っ手に通して輪にしておいて、今度はその紐の先を智子ちゃんの部屋の窓から引っ張れるようにしておくんです。そしたら、ほら……」

 

 勢いよく紐を引っ張っる仕草をしつつ、「ガシャン!」とガラスの割れる音を口で真似てみせるメガネ。

 

「部屋が離れていてもこのトリックを使えば、鍵を外しておいた窓を外の壁に叩きつけて割ることが出来る筈です。トリックに使った紐だって輪を切ればそのまま簡単に回収出来ますからね」

 

 ほほう、よく考えたもんだ。どんなトンデモトリックを口にするのかと思ったが、一応真面目に考えてはいるらしい。宿泊客用の部屋の窓は外開き式になっているのだけど、その左右の窓枠にはそれぞれコの字型の取っ手が付いているので今言ったようなことは一応出来なくもない。ああ、でもこの分だとこいつが次に言ってくることがなんとなく予想出来てしまうな。

 

「それは……確かにそれなら可能かもしれませんが……ですが……」

 

 そこまで喋って、おじさんは途中で言い淀んでしまう。その言葉の先を言えば、間違いなくメガネはそれに対する答えを持ち出してくることを予感したのかもしれない。

 

「そんなの一人じゃ出来ないって、そう思ってるんですよね? その通りです」

 

 おじさんが何を言いたいのか察したメガネが先回りしてみせた。そうなのだ、メガネがさっきでっち上げたトリックというのは、私一人だけじゃ実現不可能なのだ。

 

「このトリックは、そこの二人が協力して仕掛けたものなんです」

 

 改めて私と弟のほうを指差してきたメガネが、きっぱりと断言する。

 

(好き放題言ってくれやがって……!)

 

 まったくもって身に覚えがないので断固否定してやりたいが、理屈には理屈で対抗してやらないとどうにもならない。どう言い負かしてやろうかと必死に考えを巡らせている私だったけど、そのうちこいつのでたらめな主張にほころびが出るんじゃないかと思って今は様子を見ることにする。

 

「やり方は単純ですよ。まず智貴くんが田中さんの部屋に入ってトリック用の紐をセットしておいて、紐の先に重りみたいなものをくくりつけて窓の外から垂らすんです」

 

 ふんふん、なるほどね。それからどうすんだ?

 

「そしたら今度は智子ちゃんが自分の部屋で窓を開けて待ち構えておいて、智貴くんから振り子の要領で渡された紐の先っぽを受け取る。そしたら後はその紐を部屋に引き込んでおけば、いつでも好きなタイミングで窓を割ることが出来るようになります」

 

 ふ────ん。そりゃ凄いな。やったぜ、完璧なトリックだ。さて今の理屈に矛盾はないだろうか。きっとある筈だ。ええと、ええと……。

 

「振り子ねぇ……でも紐が長すぎたら駄目なんじゃないですか?」

「え?」

 

 そう言ってまた俊夫さんが口を挟んできた。突っ込みをくらうとは思っていなかったのか、メガネは意外そうな顔で聞き返す。

 

「あの田中って人の部屋から智子ちゃんの部屋って結構離れてますよ。そこまで届くぐらい長い紐だったら、重りのほうだって地面に届いちまうんじゃないですか? それでどうやって振り子にするんですか?」

 

 そうそう、私も今その矛盾を指摘してやろうと思ってたんだ。どうなんだメガネよ、そこんとこをちゃんと説明出来んのか?

 

「そこはほら、上手にやれば出来るような気がしますけど」

「上手にって……どうやって?」

「例えばその、最初はちょっと短めに紐を持っておいて、振り子が伸びきる時にタイミングよく手を緩めたりすれば……こう、紐がシュッと伸びたりとか……」

 

 なんだそりゃ、随分苦し紛れな答え方じゃないか。もちっと真面目に考えろよな、そんなんじゃ誰も納得しないぞ。

 

「ねえ亜希。その紐って智子ちゃんの部屋じゃなくて弟くんの部屋と繋げたんじゃないの?」

「そう、それよ……っ! きっとそうだと思う!」

 

 ここに来て初めて口を開いた川本さんが突然そんなことを言い出した。そしたらメガネのやつ、一も二もなく飛びつきやがった。

 

「仕掛け自体は彼の部屋から扱えるようにしておいて……後で智子ちゃんがこっそり部屋に入って紐を引っ張れば……うん、そうよ。これなら可能ね」

 

 皆に聞かせるようにしてその当て推量を口にしていくメガネは、納得したような様子でうんうんと頷く。ああ言えばこう言うとはまさにこのこと。自分の推理に固執しているのか、どうあっても私達を犯人に仕立て上げたいと見える。川本さんも余計なこと言うなよなー。黙ってお菓子でも食ってろよもう。

 

「待ってください河村さん。それだと余計に無理があるのでは?」

「無理って、何がです?」

 

 一人盛り上がるメガネに冷や水を浴びせるように、今度はおじさんが突っ込みを入れる。

 

「わたしは智貴くんと一緒に少し部屋を調べましたが……割れていたのは右側の窓枠だったんです。でも智貴くんの部屋は田中さんの部屋の左隣じゃないですか。これだと仮に彼の部屋とその仕掛けってやつを繋げたとしても、紐を引っ張って勢いよく窓を壁に叩きつけるなんてことが出来るもんでしょうか? せいぜい窓枠を揺らすぐらいしか出来ないと思いますが」

 

 よっしゃ、ナイスだおじさん。さすが元弁護士は違う。見たかメガネよ、これで決まったな。

 

「そ、そんなの、やってみないと分からないじゃないですか」

 

 それでもまだどうにか粘ろうとするメガネだったけど、無駄なあがきだ。誰がどう見たってもうおまえに勝ち目はないんだぜ。さあ、早く私達に土下座でもなんでもして許しを乞うがいい。そしたらまあ、許してやらんこともないぞ。

 

「亜希、あれは? ほら、あんた言ってたじゃん。屋根に積もってる雪に板を突き刺しておくって」

「え? ええ、言ったけど……」

 

 また川本さんだ。なんだよ、今度は何を言うつもりなんだ。

 

「その板も紐で繋いであるんでしょ? だったら紐を取っ手にも巻きつけといたら、雪が落ちる時に勝手に思いっきり引っ張ってくれるんじゃないの?」

「そ、それっ! それよっ!」

 

 川本さんの発言がヒントにでもなったのか、残念ながらまたメガネのやつが息を吹き返してしまった。ともあれ自分達だけで納得してないで、こっちにも分かるように説明して欲しいもんだ。

 

「オーナーさん、いいですか? 聞いてください」

「はぁ」

 

 仕切り直しとばかりに咳払いをしたメガネが落ち着きを取り戻した様子でまた推理トークを再開するのだけど、おじさんの顔には少しばかりの呆れが滲んでいた。

 

「犯人は窓が割れる仕掛けだけじゃなく、もう一つ別の仕掛けもセットしていた筈だとあたしは考えてました。それがさっき啓子が言ってた〈落雪のトリック〉です」

 

 そうしてメガネは新たなトリックを口にした。いい加減自分の間違いを認めてほしいのだけどしゃあねえな、そっちがその気なら何度だって論破してやんぜ。

 

「ただ単に窓を割ってみせただけじゃ、犯人が外へ逃げていったことを演出するには少し説得力が足りません。だからもう一工夫したんです」

 

 もう合いの手を入れてやることもしなくなったおじさんは、腕を組んだまま黙ってメガネの話を聞いている。一旦話を区切って口を閉じたメガネだったけど、誰も反応してくれないことを見て取ったのか、仕方なく自分から続きを語り出した。

 

「要するに窓が割れるのと同時に屋根に積もってる雪も落とせるようにしたんですよ。原理は簡単です。別に輪にしなくてもいいのでまず一本の紐の先に板を括りつけておいて……そうですね、バッグの底板なんていいかもしれません。それを屋根に積もってる雪の中へ慎重に突き刺しておくんです。その板から伸びる紐を窓枠の取っ手に通しておけば仕掛けの完成です」

 

 完成しちゃったよ。即興で考えた割には自信ありげに説明しやがるあたり、お菓子食ってない川本さんのアドバイスはこいつにとってよっぽど天才的なひらめきだったのかもしれない。

 

「そうして頃合を見計らって智貴くんの部屋から紐を引っ張れば、取っ手が支点になって屋根の板を下から引っ張る形になります。そしたら〈てこ〉の原理みたいになって持ち上げられた雪が板を巻き込んで一気に崩れ落ちていきますから、板と紐で繋がっている窓枠も勢いよく引っ張られて壁に叩きつけられる筈です」

 

 どうなんだこれ? 話だけ聞けば確かに出来そうな感じもするけど、無茶があるような気もしてくる。さっきみたく誰かそこんところを鋭く突っ込んでくれないものか。

 

「どうですか? このトリックを使えば、あたかも犯人が窓から飛び下りたとみんなに思わせることは難しくありません。外の雪が不自然に崩れていたのだって、どうにだってなります。二人がゲレンデから帰ってきた直後にその辺りを故意に崩したりして偽装するチャンスはあった筈です」

 

 してないしてない、そんなことしてないって。なに勝手に人の行動をどんどん決め付けていってるんだ。皆も黙ってないで何か言ってやってくれ。ていうか弟、おまえさっきから一言も喋ってねえじゃねえか。人任せにしてないでちったあ反論とかしろよ。

 

「みんなはそれにまんまと騙されたって訳ね」

 

 最後にそう締めくくったメガネがふーっと一息つく。私達を疑う一番の理由ってやつについての説明はひとまずこれで終わりらしい。

 

「……ちょっといいですか?」

「な、なに……?」

 

 だけども弟がそれに待ったをかけたものだから、メガネはやや緊張したように身を固くする。なんだどうした、上手い反論でも思いついたのか?

 

「そのトリックに使った底板ですけど……どうやって回収したんですか? あの部屋の窓にはそんなもんぶら下がってませんでしたから、窓を割った後で回収したって考えるのが普通ですよね」

 

 ふむ、消えた証拠品の謎に注目したって訳か。まぁさっきのメガネの推理でいくと、怪しまれない為にも用済みになった仕掛けをどうにかして回収する必要があるもんな。

 

「それは……紐で繋がってるんだから引っ張ればいいだけじゃない」

「いや、取っ手に引っかかって回収出来ないと思うんですが」

 

 おっ!? 言われてみれば確かにそうだ。よく考えりゃガキでも分かりそうな見落としだな。所詮は即興の推理、こうした矛盾にまではメガネも頭が回らなかったらしい。

 

「えと、それは……な、何か方法がある筈よ?」

 

 ああでも、一応紐の使い方を工夫すりゃ出来ないこともないのかな。大きな輪っかにした紐で板と取っ手を繋げておく感じにすれば、後で輪を切って回収出来そうな気がするぞ。でもそれを私がわざわざ指摘してやって敵に塩を送る必要はないから、このまま黙っておこう。気付くんじゃないぞメガネよ。

 

「紐を手放しちゃえばそのまま地面に落ちてくんじゃないの? そしたらそのうち雪が積もって板も隠せるじゃん」

「はっ……!? そそ、それよっ! それしかないわっ!」

 

 おいぃぃぃ! ほんともう黙ってろよ川本さんは。さっきからいらんことばっか言いやがって。その口にお菓子をたくさん詰め込んでやりたい気分だ。

 

「だったらその板がまだその辺に落ちてる筈ですよね?」

「……ええ、そうなるわね。その通りよ」

 

 だけども弟のやつはそうした相手の反応を予想していたようにすぐさま指摘してみせる。あーなるほどな、弟の意図が大体読めてきたぞ。

 

「じゃあもう一度外を調べてみて、それらしいものが見つからなかったらどうするんです?」

「そんな筈がないわ、あの部屋の下にきっと落ちてる筈よ。実際に調べられて困るのはあなた達じゃないの?」

 

 要するに弟の言いたいことはこうだ。メガネの主張するトリックが実際に行われたとするのなら、その時に使った板とやらが雪に埋もれながらもどこかに落っこちていなければおかしいと。もし証拠となるものが見つからないのなら、メガネ……というより川本さんの推理にケチがつくことになるのだと。こいつはもう決め手になったんじゃないかな。だってそんなもの、いくら探したってどこにも落ちてる筈がないのだから。

 

「じゃあ自分で調べてきてくださいよ。納得いくまで、いくらでも」

「い、いいわよ、やってやろうじゃないの」

 

 冷ややかな声でそう言い放つ弟だったけど、こいつもこいつであらぬ疑いをかけられて腹に据えかねているのかもしれない。あんまりにも弟が堂々としているものだからメガネのほうも少し自信がなくなっているようだけど、それでも虚勢を張って弟の挑発に乗ってみせる。

 

「……でしたら、わたしが付いていきます。この吹雪の中を一人で出ていったら遭難しかねないですからね」

 

 ことの成りゆきを見守っていたおじさんが、外へ調べにいくなら自分も同行すると申し出た。弟のやつでさえあっさりと遭難しかけたんだから、この間の抜けたメガネならソッコーで迷子になってそのまま凍死しかねないと心配したのだろう。

 ともあれ周りからの言葉を受けて今更引き返せなくなったメガネは、おじさんと一緒に早速外へ出かける準備を始めたのだった。

 *

「ふぃー、えらいこっちゃで……どないなっとんねん」

 

 おじさんがメガネを連れて外へ出ていってから少しした頃。先程までのピリピリした雰囲気にあてられて気疲れしたのか、おっさんがため息をつきながらボヤく。とうとう我慢しきれなくなったのか、川本さんは懐から取り出したポテトチップスの封を開けたりしていた。他の皆も少し肩の力が抜けているようだったけど、それでもやっぱりまだ幾分か困惑が抜け切らないでいるのが見て取れる。

 

(この人も私のことを疑ってるのかな……?)

 

 弟と一緒に階段の下に腰掛けていた私だったけど、ソファーのほうでさっきからずっとうつむいているビッチさんのことが気になってしまった。きっとあのメガネから私達が犯人に違いないとさんざん聞かされていたのだろう。だとしたら、仲間の言葉を信じた彼女がそれに同調して私を疑いの目で見ていたっておかしくない筈だ。

 そう考えると、なんだか胃の辺りがずしんと重いような感じがして気が滅入りそうになる。メガネみたいなやつにいくら疑われたって別になんとも思わないけど、一応は私を気に入ってくれていたらしいビッチさんにまで犯人扱いされてしまうのはなんとなく嫌だった。

 

「二人とも、ココアでも飲む?」

「え? あ、うん……」

 

 少しかがんで私達の顔を覗き込んだおばさんが、そんな風に言ってくる。今はちょっとそんな気分になれないのだけど、どうしようかな。

 

「甘いものでも飲んでリラックスしたほうがいいわ。二人とも疲れた顔してるもの」

 

 そう言うと、私達の返事を待たずにおばさんは台所へと駆けていった。

 弟と顔を見合わせるのだけど、確かにおばさんの言う通り、その顔には少しばかりげんなりした様子が浮かんでいた。そしてそれは私もきっと同じなのだろう。全部メガネのせいだ。

 

「せやけど自分ら、ホンマにやってへんのやろな?」

 

 そんな私達へおっさんがなんとも遠慮のない言葉を浴びせてきた。メガネがいなくなったら今度はおっさんがつっかかってくるのか、勘弁してくれ。

 

「当たり前です。なんで俺達がそんなことしなきゃなんないんですか?」

「そらきみ、色々あるやろ。あの客ときみらが知り合いやなかったっちゅう保証かて無いんやし」

 

 そうした疑惑をきっぱりと弟が否定するのだけど、尚もおっさんは食い下がる。

 おいおっさーん、適当なこと言うなよなー。そんなのこのペンションにいる連中全員に当てはまることじゃねーか。

 

「あんな人、知る訳ないじゃないですか。今日初めて会ったばかりなんですから」

「口ではなんとでも言えるわな。わしらはきみらのこと、なんも知らんねんから」

 

 やけに食い下がるおっさんだったけど、もしかしてこいつもさっきのメガネの主張を真に受けてしまっているのだろうか?

 

「……いくら言われても、知らないもんは知りません」

「そない言うて結局嘘ついとったやつ、わしナンボでも見たことあるで。だいたい後ろめたいやつっちゅうのは頑としておのれの非を認めんもんやからな」

 

 おっさんしつこいぜ。どうもお得意のその長話癖が今は悪い方向に働いているようだ。メガネが帰ってくるまでの暇つぶしのつもりなのかもしれんが、それに付き合わされるこっちはたまったもんじゃない。

 

「なっ、なんやねん!? そ、そない怖い顔せんでもええやないか……。わしはやな、その、あれや、一つの可能性の話としてやな……」

 

 なにやら急におっさんが顔色を変えてあわあわと言い訳し始めた。どうやら弟のやつがいい加減しつこいおっさんを一睨みしてやったらしい。あっ、人妻さんまで威圧してどうすんだよ。ほら、怖がってんじゃねーか。

 ともあれおっさんがそれきり口をつぐんでしまったものだから、静まり返ったロビーでは川本さんのお菓子を食べる音だけがやけに目立つ。

 

(おっ、来たな)

 

 そうして少しした頃、ザックザックと雪を踏む音が外から近づいてきたことに気付く。きっとおじさん達がヤクザの部屋の下までやってきたのだろう。

 

(ま、せいぜい頑張ってくれよ。どうせなんも出てこねーだろうけど)

 

 これからメガネは必死こいて辺りの雪を掘り返したりしていくのだろう。この吹雪の中でそんな茶番に付き合わされるおじさんが可哀想になってしまう。

 そうしてしばらく雪を掘り返す音なんかが聞こえてきていたのだけど、ふいに窓のほうからガラスをコンコンと叩く音が聞こえた。見れば丁度みきなんとかさんの背後の窓を、誰かが外から手を伸ばしてノックしているようだった。それを受けて、はっとなった川本さんがソファーの上に乗り上げ窓を覗き込む。

 

『あったよ! ほら、これ!』

 

 川本さんに向けてなのか、ガラス越しにそんな感じの声が聞こえてきた。私と弟は立ち上がって窓のほうへ駆け寄り、他の皆も一様に窓を覗き込もうとする。

 外では雪まみれになったメガネが突っ立っていたのだけど、こちらに向けて掲げられたその手には、紐でくくられた平べったい板が確かにぶら下げられていた。

 

(なんだこれ……)

 

 ぐにゃりと、視界が一瞬歪んだような気がしてしまう。なんだか悪い夢でも見ているようだった。

 

 ◆

 

 はぁ、とココアをすすっていたメガネがため息を漏らす。さっきおじさんと一緒に帰ってきたメガネは、ソファーの上で一旦休憩しているようだ。メガネが持ち帰ってきた紐付きの板は、くっついていた雪を落とされて今はテーブルの傍に立てかけられている。

 私もおばさんからカップを受け取ったのだけど、どうにもそれに口を付ける気になれない。それはどこか青ざめた様子で壁に背を預けているおじさんも同じようだ。おじさんとしても、何も見つかる筈がないと踏んでいたのだろう。だからこそメガネを早々に諦めさせようとして自らも再調査に乗り出したのだ。その結果がこれなのだから、おじさんとしても困り果てているのかもしれない。

 

「という訳で、証拠品がこうして見つかったんだけど。二人とも何か言いたいことはある?」

 

 カップをテーブルに置いたメガネが、階段の下でだんまりしていた私達へ声をかけてくる。そりゃ言いたいことなら山ほどあるさ。だけども今は、何から言えばいいのか分からない。

 

「……まだ、俺達が犯人だと決まった訳じゃないでしょう」

 

 黙っていられないと思ったのか、弟がまずは直球の返しをする。勿論その通りなんだが、メガネの足元にある証拠品のせいでいまいち説得力が出ない。確かにバッグの底板のように見えるそれは、ちょうどヤクザの部屋の下辺りに埋まっていたものらしい。

 

「そう、あくまで否定するつもりなのね。いいわ、別に証拠はこれだけじゃないもの」

「どういうことだ? まだ何かあるってのか」

 

 気になることを言うメガネにそう尋ねたのは、おじさんの隣で難しい顔をしていた俊夫さんだった。悄然としているおじさんに代わってメガネの真意を問いただすつもりなのかもしれないけれど、余裕がないのか、その言葉遣いも些かぶっきらぼうだ。

 

「あたしがこの子達を怪しいと思う一番の理由はさっき説明した通りです。だから今度は、二番目の理由について話します」

 

 次から次へとよく理由が思いつくもんだ。言ったもん勝ちだと思ってるんじゃないのか。さあなんだ、言ってみろ。一体どんな理由があるってんだ。

 

「それは脅迫状です。あれがもう一つの理由なんです」

「脅迫状って……あんたらの部屋に落ちてたってやつのことか?」

 

 俊夫さんが確認してみれば、メガネはこくりと頷いてみせる。

 何かと思えばあれのことか。なるほど、疑り深いこいつのことだから例の怪文書のことを見逃す筈はないもんな。またああだこうだ理屈を並べ立てて、私達とどうにか結びつけでもするのだろうか。

 

「あの脅迫状も、この子達が出した……あたしはそう考えてます」

 

 やっぱりそう来るよな。うん、知ってた。メガネの考えてることなんてお見通しだぜ。

 

「……一応聞いときますけど、一体いつ俺達がそんなことをしたって言うんですか?」

 

 重たい口を開くようにして、弟がメガネにそう尋ねてみせる。こいつの言う通り、誰にも見られずこっそり脅迫状を出しにいく時間なんて私達には勿論なかった。そのことはメガネ自身だってちゃんと分かっている筈だ。元々私と弟はメシ時になるまで談話室でゲームをしていたんだぞ。そこにメガネ達が下りてきてそのまま話し込んでいたら、間もなくメシの時間になってそのまま全員食堂へ入っていった。でもって私達より先に食堂を出ていった連中が、すぐしないうちに部屋に落ちてた怪文書を見つけて泡食ったようにロビーへ下りてきたって訳だ。

 ほら見ろ、誰が聞いても私達に犯行が可能だったとは思えないだろうに。確かにあの怪文書の出どころは気になるが、メガネ達のしょうもない自作自演でないのだとしたらやっぱりそれはヤクザを殺した犯人が何らかの意図をもって出したとしか思えない。それを私達と結びつけようっていうのがどだい無理な話なのだ。

 ん? いや、待てよ。もしかしてメガネのやつ、あのことを持ち出してくるんじゃあ……。

 

「言いたいことは分かるわ。タイミング的にみんなの目を盗んで脅迫状を出せる時間なんてなかったって、そう思ってるのよね?」

「……」

 

 もういちいち返事をするのも面倒なのか、メガネの問いかけに対して弟は無言で頷いてみせる。

 ほらほら、これはメガネお得意の前置きなんだよ。この後にこいつの本当に言いたいことが来るに違いないんだよ。ああ、ちくしょう。こんなことになるなら行かなきゃよかった。

 

(トイレなんか、我慢してりゃよかった……!)

 

 そうなのだ。メガネはきっと、私が食事中に一度トイレに行くために席を立ったことを指摘してくるに違いない。そうはいくか、おまえのペースにこのまま乗せられてなるものか。

 

「そ、そりゃトイレぐらいは行ったよ! で、でも、すぐ戻って来たし! 二階になんか行ってないし!」

 

 勢いよく立ち上がった私は、焦るあまり過程をすっ飛ばした反論をしてしまう。きっと他のみんなは何のことだと思うだろうが、メガネには通じる筈だ。

 

「ちょっと、あたしまだ何も言ってないけど? 何をそんなに焦ってるの?」

(ぐ、ぬぬ……!)

 

 私の言わんとしてることが分かってる筈なのに、メガネは白々しい態度を取ってみせる。

 

「智子ちゃん、落ち着けって。トイレがどうしたんだい? 分かるように話してくれよ」

「それはあたしが説明します」

 

 俊夫さんが興奮気味の私をなだめようとしてくるのだけど、そんな彼からの質問に口を挟んできたのはメガネだった。ああ、結局またもやメガネのペースだ。ちょっとばかし妙な板っ切れが見つかったぐらいですっかり調子に乗りやがって。

 

「いいですか? まずあたし達が部屋を出てロビーに下りてきたのが七時前のことでした。そしたらこの子達がここでゲームをしてたんですけど、それからすぐ夕食が始まってみんな食堂へ入っていきましたから、確かにまだこの時は犯行は不可能だったと言えます」

 

 へーへー、そうかい。なんでもいいから早く結論を言えよな。私がメシの途中で食堂を抜け出して、脅迫状を届けに行ったんだって言ってみろよ。

 

「でも、夕食中にたった一度だけそのチャンスがあったんです。それは……」

 

 もうそこから先は真面目に聞く必要もなかった。予想した通り、やっぱりメガネは私が食事中にトイレへ行ったことを指摘して、みんなの目を盗んで脅迫状を出しにいったのだと主張してきた。

 もうなんか色々と面倒臭くなってきたぞ。いくらこっちが否定してもメガネは聞く耳を持たないのだから、いっそこのままだんまりして成りゆきに任せてしまおうか。そう思い始めた私はへたり込むようにして再び階段の下へと腰掛けた。

 妙な板が見つかったぐらいで必死になるのもなんだか馬鹿らしい。どうせ司法に通用するようなマジモンの証拠と言えるもんはある筈もないのだから、そのうち来る警察にちゃんと調べてもらいでもすりゃ、私達の潔白はきっと証明されるだろう。そしたら、その時こそ平謝りしてくるメガネのやつをうんとなじってやればいいのだ。後で覚えとけよテメー……。

 *

「────!!」

「──!? ッ──!」

 

 なんだか周りが妙に騒がしかったから、それに気付いて我に返った私は辺りを見回す。そしたら何故か息を乱れさせたおじさんが、弟と俊夫さんに二人がかりで止められつつもひどく興奮した様子で今にも誰かに飛びかかりそうになっているのが見えた。他の皆は一様に立ち上がっていて、おじさんのただならぬ様子に目を見張ったりしている。

 なんだなんだ、一体何があったんだ? どうもこの分だと、私は自分でも気付かないうちに一眠りしてしまっていたのだろうか。あるいは失意のあまり意識が飛んでしまっていたのかもしれない。時計のほうへ目をやれば、いつの間にか十一時半を過ぎているようだった。

 

「この子達が人殺しだって……!? 冗談じゃない、そんな、そんなことがあってたまるものかっ……!」

 

 顔を真っ赤にしたおじさんが吠えかかるようにして叫ぶ。怒りに燃えるその視線の先にいるのは、身を寄せ合って怯えた様子を見せるOLさん達だった。いつも優しいおじさんのこんな姿は初めて見るものだから、私の足は震えてしまった。

 ロビーの奥の方では、へたり込むおばさんが体を震わせ泣いている。そんなおばさんの傍らにいるみどりさんが、心配そうにその肩を支えてあげていた。

 

「この子達のことは、生まれた時からずっと見てきたんだ! わたしにとっても、今日子にとっても我が子同然なんだ……それを、それをあんたらは……!」

「だ、だからってあたし達を犯人呼ばわりすることないじゃない! なんなのよもう!」

 

 責めるようなおじさんの言葉にはどこか悲痛なものすら浮かんでいたのだけど、それを受けたメガネは半泣きになってわめく。一体全体何がどうなってこんなことになっているのかさっぱり把握出来ないけれど、この様子からすると躍起になって私達を犯人扱いするメガネにとうとうおじさんがブチギレてしまったのかもしれない。

 

「あんた達はこのペンションに相応しくない……金はいらんから、今すぐ出ていってくれ……!」

「小林くん、無茶いいな。そらなんぼなんでもあんまりやで」

 

 メガネのほうを指差して吐き捨てるようにそう言い放つおじさんだったけど、見かねたらしいおっさんがそれをたしなめようとする。確かにこの吹雪の中へ放り出すだなんて、死ねと言ってるようなものだから無理もない。

 

「香山さん、あなたもです……この子達のことを疑っているのなら、どうぞお引き取りください」

「いやいやいや、小林くん。ええから一旦落ち着きぃな」

 

 おじさんの極端な言葉に気を悪くした様子もなく、おっさんは尚もおじさんの気持ちを鎮めようとする。そうしているうちにおじさんもようやく落ち着いてきたのか、やがて力なく床へ座り込んでしまった。

 

「亜希、もうやめましょう……? あたし、やっぱり信じられない。智子ちゃん達が犯人だなんて、そんなの何かの間違いよ……」

 

 メガネの腕を引っ張ってそう説得するのは、ビッチさんだった。彼女もメガネにあることないこと吹き込まれてすっかり私達に疑いの目を向けているものと思っていたのだけど、そうじゃなかったのかもしれない。

 

「でも、でも……じゃあ誰なのよ? この子達じゃなかったとしても、この中の誰かが本当の犯人なのよ? 証拠品だってちゃんとあったのよ? あたし、嫌よ! 人殺しと一緒にいるのなんて、嫌っ、嫌ぁっ……!」

 

 元々半泣きだったメガネはガキのように駄々をこねながらとうとう泣き出してしまったが、犯人がこの中にいるという主張だけは意地でも曲げるつもりがないようだ。随分思い込みの強いやつだとは思ってたけど、疑心暗鬼に駆られるあまり正気を失っているのかもしれない。

 

「ねぇ河村さん……お互い疑い合ったりしても、いいことなんか何もないわ。今はみんな信じ合わなくちゃ」

「せやで、亜希ちゃん。春子の言う通りや。きれいごとかもしぃへんけど、このまんまやったらみんなドツボにはまってまうで?」

 

 そんなメガネを慰めるように、人妻さんとおっさんが二人して声をかける。おっさんだってさっきまでは私達のことをちょっとぐらいは疑っていただろうに、この惨状を目の当たりにして考えを改めたのかもしれない。

 

「ねーちゃん、大丈夫か?」

「お? おお……」

 

 私があれやこれや考えつつぼんやりしていたら、弟がこちらにやってきて具合を尋ねてくる。おじさんのことは俊夫さんに任せたようだけど、弟の顔にはさっき見た時よりも更に疲れの色が滲み出ているようだった。

 

「ねーちゃんが全然返事しねーから、おじさん達心配してたぞ」

「いやまあ、ちょっとな……」

 

 何かしら話しかけられていたみたいだったけど、全然気づかなかったぜ。傍から見たら犯人扱いされたショックで口も聞けなくなっているように映っていたのだろうか? もしかしたらそんな私の姿を見てしまったから、おじさんの中でメガネに対する怒りが益々高まってしまったのかもしれない。

 そういやジェニーの姿がまた見当たらないなと思って辺りを探してみれば、食堂の奥からこちらを窺っているジェニーと目が合ってしまった。今日はなんだか皆の様子がおかしいなと、ジェニーも不安がっているのだろうか。

 

(ほんと、ヤクザはロクなもんじゃねーな……)

 

 あいつが今日、このペンションに泊まりにこなければこんなひどいことにはならなかったのに。そしたら、おじさんやおばさんをこんなに悲しませることもなかった筈だ。メガネのやつが疑心暗鬼に狂うこともなかったし、川本さんが川本さんらしからぬ小賢しさを発揮することもなかった。事件さえ起きなければ大雪で滑れないことをビッチさんが愚痴りつつもなんだかんだ三人で楽しくやっていたのかもしれない。

 おっさんは例によってしょうもない長話をしたりして、人妻さんがその傍らで品良く微笑んだりするのだろう。バイトの二人はあれだ、たぶんあの人達は密かにデキてるっぽい気がするから、きっとまあそれなりによろしくやるのかもしれない。みきなんとかさんのことはよく知らんけど、あのモジャヒゲを使ってなんか面白い一発芸でもやってくれたりしそうだ。

 それもこれも、事件さえ起きなければの話だった。犯人のせいでなんだか色んなものが奪われてしまったように感じられてしまう。一番悔しくてならないのは、せっかく弟のやつと羽を伸ばしにきたってのに、それを台無しにされてしまったことだ。今はただ、傷跡をつけるようにして皆の中に様々なわだかまりを植え付けて姿をくらました犯人のことが腹立たしくて仕方がない。

 

(あの板、なんなんだ……? なんであんなとこに落ちてたんだろう……)

 

 さっきまではテーブルに立てかけられていたけれど、今は床の上に無造作に転がっていたその板きれを見やる。メガネが回収してきたそれのことが、私は今になってどうにも気になってきた。あれはもしかすると犯人がここから逃げ去る時に取り忘れていったものなのではないだろうか。

 案外メガネの推理も当たってる部分はあったのかもしれない。犯人は外へ逃げる際にうっかり窓を割ってしまったのではなくて、特殊な仕掛けを用いて故意に割ってみせた可能性だって十分にある。その痕跡こそが、あの紐付きの板きれなのではないだろうか。

 

「なぁ智貴」

「あ?」

 

 ため息をつきながら隣へ座り込んできた弟に、私は話しかけてみる。疑問に思っていることを相談してみる為だ。

 

「あの板、やっぱ本当の犯人が使ったのかな?」

「……まあ、そうかもな」

 

 私の言葉を一応は肯定してみせる弟。疑いを向ける対象はともかく、メガネの推理は半分ぐらい当たっていたのではという考えは弟のほうにもあったのだろうか。

 

「なんでわざわざあんなの使うんだ? そもそもなんで窓を割る必要があったんだ?」

「……」

 

 私の問いかけを受けた弟は、即答せずに一旦思案する様子を見せる。そうしたら、やがて弟は私の耳元に顔を寄せてきてこうささやいた。

 

「アリバイ作りのため、だと思う」

 

 その言葉の意味がよく分からなくて思わず弟の顔をまじまじと見てしまったのだけど、その表情にはどこか思いつめたような色が浮かんでいた。

 

「……なんだよ、どういうことだよそれ」

「ああ、いや、まあ……」

 

 こっちの質問に言葉を濁していた弟だったけど、また私にだけ聞こえる声でその真意を伝えてきた。

 

「窓が割れた時、他の誰かと一緒にいりゃアリバイが作れるだろ? たぶん、その為に仕掛けといたのがアレじゃねえの」

 

 そう言って、ちらりと板きれのほうに目を向ける弟。その言葉を聞いた私は、自分の顔から血の気が引いていくのを感じる。

 

「おまっ……おまえ、あれか? おまえもこん中に犯人がいるって、そう思ってんのかよっ?」

「一応可能性としては考えてる。でも本気にはしてねぇ」

 

 本気にはしてないと言いつつも、弟の顔には拭いきれない疑念ってやつが浮かんでいる。こりゃもうちょっと突っ込んで聞いてやったほうがいいかもしれん。

 

「じゃあ誰だっていうんだよ、その犯人は」

「分かんねぇよ……ただ、この中に紛れ込んでるって考えると少し納得出来るんだ」

「足音か? 足音のこと気にしてんのか? ありゃおまえ、ソリだよ。ちっこいソリとか使ってそっと逃げたのかもしれんぞ」

「じゃあなんで妙な仕掛けまでしてわざわざ窓を割ってったんだ?」

 

 ただ単に逃げるのが目的なら、そもそも仕掛けは必要なかった。にもかかわらずこうしてそれらしき物証が見つかった。その意味するところを弟なりに考えた結果、この中に犯人がいるかもしれないという一つの疑念が生まれてしまったということらしい。

 

「分かんないよ、私も分かんないけど……」

 

 ひとまずおじさんのなりふり構わない擁護のおかげで私達への見当外れな追及は止んだけど、一方で謎は深まるばかりだ。

 いや、違う。そうじゃない。弟と違って私は目を背けているんだ。「この中に犯人がいるかもしれない」という可能性から目を背け続けているからこそ、真相への糸口をつかめないでいるのだろう。これまで拾ってきた幾つものヒントは、結局のところそのいずれもが弟の言うように内部犯の可能性を示しているというのに。

 

「あのさ、智貴……」

「なんだよ」

 

 もし本当に内部犯の仕業だったとしたら、そのままにしておいていいのだろうか? 皆の中に紛れ込んでいる犯人をこのまま野放しにしておいて、果たして無事明日の朝を迎えられるのだろうか? 私達はちゃんと家に帰ることが出来るのだろうか?

 何よりこれだけ皆のことを引っ掻き回しておきながら、犯人のやつが素知らぬ顔をしてるだなんて思うとその悪辣さに反吐が出そうだ。出来るなら私もそのくそフザけた犯人の正体を暴いてやりたい。暴いた上でメッタメタのギッタギタにしてふんじばってやりたい。

 

「あのヤクザの部屋、ちょっと一緒に調べてみないか?」

 

 犯人の正体を暴いてやろうにも、あまりに分からないことが多過ぎる。だからこそ今はもっと手がかりになるものが欲しい。その為には私がじかに調べたことのないあの部屋のことも見ておく必要がある。事件のあった現場なのだから、ひょっとしたら有力な手がかりが隠されているかもしれない。

 

「おまえ、マジで言ってんのか……?」

「そりゃ私だって嫌だよ。でもこのまんまじゃなんかヤバい気がすんだよ」

 

 勿論私だって一人であんな場所へ足を踏み入れるのはごめんだ。だけども弟と一緒なら、そこに死体が転がっていたとしてもどうにか耐えられそうな気がする。

 

「犯人がこの中にいるってんならそいつがこのまま大人しくしてると思うか? こんだけ私達が騒いで、そのうえ証拠品みてーなもんまで見つけられちまったんだぞ。もしかすっと口封じに皆殺しにしてやろうって思うかもしんないじゃん」

 

 考えられる最悪の可能性を口にする私だったけど、何もこれは無茶な話でもないのだ。外部犯の犯行であることが明らかなら、警察もそれを前提に捜査を進める筈だ。そうなりゃ犯人も枕を高くして眠れるって訳だ。だけども内部犯の可能性がちょっとでも浮上したとしたらどうだろうか? おそらく警察は私達一人一人のことも入念に調べ上げるように思う。そしてそれが犯人にとっては絶対に避けておきたいことだったとしたら、きっと何かしら行動を起こすに違いない。

 人一人をバラバラにして殺すサイコ野郎なのだから、自分に捜査の手が及ぶぐらいならいっそ関係者全員を始末して警察が来る前にトンズラしてしまおうという極端な考えに至っても不思議ではないだろう。

 

「……本気、なんだな?」

 

 こちらをまっすぐに見据える弟が、私の覚悟のほどを確認してくる。だから私は胸を張り、こう言ってやるのだ。

 

「しのごの言ってねぇで姉ちゃんに付いてくりゃいいんだよ、おまえは弟なんだからさ」




続く


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【クロス】かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く(6)

探偵姉弟

「なんだって? あの部屋を……?」

「はい、俺とねーちゃんとでちょっとばかし調べてみたいんです」

「そりゃ一体……どうしてまた? 警察が来る前に勝手にさわっちゃいかんだろう」

 

 ひとまずは落ち着きを取り戻した様子のおじさんに弟が早速例の部屋の調査を申し出るのだけど、流石に二つ返事で了承してはくれないようだ。

 

「余計なことをするつもりはありません。少し気になることを確かめに行くだけですから」

「気になるって、何がだい?」

 

 ちゃんとした理由が確認出来なければおじさんとしても迂闊な返事は出来ないのか、弟に尋ねてくる。

 

「その……さっき河村さんが言ってましたよね? あの部屋のバスルームで田中さんが解体されたんじゃないかって。それが本当かどうか一応確かめてみたいんです」

 

 ここで智貴までもが内部の人間の犯行説を持ち出してしまったら、おじさんがまたショックを受けるかもしれない。なので一応の名目が必要だと私達は考えたのだけど、弟なりにでっちあげたのが今しがたの理由という訳だ。

 にしてもメガネのやつ、そんなことまで考えてたのか。おおかた私達のどちらかがヤクザを風呂場で解体したんだとか言いがかりを付けてきてたんだろうな。

 

「君達がわざわざそんなことをせんでも……それこそ警察に任せておけばいいじゃないか」

「……今のうちにハッキリさせておきたいんです。ちょっと見てみるだけなんですが、どうしても駄目ですか?」

「ううむ……まあ、そこまで言うのなら……」

 

 元々司法関係の仕事に就いていたおじさんなだけに、素人が現場を荒らすリスクは普通の人以上に理解しているのだろう。尚も渋る様子を見せるおじさんだったけど、結局可愛い甥っ子からの頼みをつっぱねることは出来なかったらしい。

 

「駄目よ! 証拠を消されたらどうするのよ!?」

 

 そんな二人のやりとりに聞き耳を立てていたのか、ソファーに座ってメソメソ泣いていた筈のメガネが急に声を張り上げてきた。こいつめ、まだそんなこと言ってんのか。おじさんのほうもウンザリといった様子で、目をつむって嫌そうに眉をしかめる。

 

「まあまあ亜希ちゃん、ちょっと待ちぃな」

 

 そしたらおっさんが立ち上がって、興奮しているメガネを手でどうどうとなだめてみせる。

 

「なんや智貴くん。あの部屋、調べるんかい?」

「はい、まあ……」

 

 おっさんに確認された弟が肯定してみせるのだけど、それを受けたおっさんは「ほうかほうか」とうんうん頷いている。

 

「せやけどな、亜希ちゃんもこう言うとる訳やし……まあ、その、なんや、見張りっちゅうんかな、そういうの、いるんとちゃうか?」

 

 おっさんの言いたいことは、要するに調査するならするで見張り役を同行させろということだった。おじさんとしてはそうしたおっさんの物言いも不愉快ではあったのだろうけど、一応筋は通ってると思ったのか反論はしないようだ。

 

「では、わたしが付いていきますよ。それでいいでしょう?」

 

 そう言って早速おじさんが見張り役を買って出る。おっさんもそれで問題ないと思ったのか「かまへんで」とあっさり承諾してみせた。

 

「オーナーさんじゃ駄目よ……見て見ぬ振りをするかもしれないじゃない」

「ちょっと亜希、やめなってば……!」

 

 泣きベソ顔のままおじさんを睨んでそんなことをぬかすメガネだったけど、傍らのビッチさんがそれを咎めようとする。

 

「いい加減にしてください……いつまでそんなことを言っとるんですか」

「あーまあまあ、ええやないか。ほんならわしが付いてったるわ。どや、それでええやろ?」

 

 また険悪な雰囲気になりかけたのだけど、仲裁に入ったおっさんがメガネのほうを向いてそんなことを言い出す。そしたら一応は納得したのか、メガネが黙ってこくりと頷いた。

 

「では……すみませんがお願いします」

「ああ、任しとき」

 

 そう言って、おじさんはポケットから取り出したマスターキーをおっさんに手渡す。ほんなら行こか、と声をかけてきたおっさんに促される形で私達は二階へと上がっていった。

 *

「ちょ、ちょい待ち! こらかなんわ……!」

 

 鍵を外してヤクザの部屋を開けようとしたおっさんだったけど、すぐさまそう言ってドアを閉めてしまう。

 

「あかん、寒過ぎる。こんなん一秒で凍ってまうわ」

 

 どうやら部屋の中はいまや極寒の場所と化しているようで、寒さに弱いおっさんは耐えられないみたいだ。

 おっさんは私達に少し待つよう言い置くと、ヤクザの部屋の真向かいにある自分の部屋へと入っていってしまった。そうしてしばらく待っていたら防寒着を着込んだおっさんが戻ってきたのだけど、手に引っさげてきたものを私達にそれぞれ渡してくる。

 

「二人ともそれ着とき。風邪引いてまうで」

 

 おっさんから渡されたのは、綿のたっぷり入ったモコモコのどてらだった。どうやら気を利かせたおっさんが、私達の為にこいつを貸してくれるらしい。

 

(死ぬ程ダセーなこれ……まあいいけど)

 

 至るところに「ど根性」と書かれたロゴがあしらわれたそのどてらには、極めつけとばかりにおっさんの似顔絵らしきものが胸のあたりにプリントされていた。暑苦しい笑顔を浮かべるその似顔絵のおかげか、なんだか着ているだけでほかほかしてきそうだ。

 

「それな、今度こっちのほうに店出そおもて作ったんや。ええやろ? スタンプ集めて交換出来んねん」

 

 そんなことを自慢気に語り始めたおっさんだったけど、話を打ち切るようにして弟がヤクザの部屋のドアを開けてみせる。途端、風切り音と共に鋭い冷気が勢いよく廊下全体を満たしてしまった。部屋の中を覗き込んでみれば、割れた窓から絶え間なく吹き込んでくる雪のせいで床やベッドの上はその半分以上がすっかり白くなってしまっている。そのまま慎重に室内へと足を踏み入れていった弟に私も続くのだけど、素足に薄いスリッパしか履いてない私だったから、雪を踏みしめる足の裏が冷たいのなんの。確かにこの分では厚着しなければ調査する上でひどく難儀したに違いない。

 

「ほなわし、ここで待っとくで!」

 

 私達に続こうとしないおっさんが、入り口から顔だけを覗かせつつそう言ってきた。寒さに弱いおっさんでは、冷凍庫と化した部屋の中が耐えられないのかもしれない。

 

「とりあえず風呂場でも見てみっか?」

 

 おっさんが見張っている手前、まず手始めにそこから調べてみることにした私は弟に声をかける。それに頷いた弟が、バスルームの電気を点けてそのドアを開いた。弟と一緒に中へと入ってみれば、吹雪に身を晒す寒さが幾分かマシになる。

 

「どうだ? なんかありそうか?」

「いや、ないな……」

 

 血痕が残っていたり凶器が隠されているんじゃないかと思ったけど、二人がかりでバスルームの中を調べてみてもそういうものは一向に見つからない。

 

「つーかここ、全然使われてねぇな……」

 

 そう弟が呟くのだけど、確かにこいつの言う通りだった。このバスルームでは浴槽はおろか、洗面台すら水が流された形跡がさっぱりないのだ。

 

「そんなら、メガネの見立ては外れてたってことだろ?」

「メガネ……? ああ、まあそうなるけど」

 

 メガネというのがあのメガネ女のことを指していると理解した弟が、私の言葉に同意する。実を言うと私もメガネの見立てには一応同意するところがないでもなかった。人一人をバラバラにするのならそれこそ血がドバドバ出るだろうから、水で洗い流せるような場所でもないとやってられないんじゃないかと思っていたのだが、どうもこの分だとそうではなかったようだ。

 

「なに見てんだよ、天井がどうかしたか?」

「あそこから天井裏に行けるらしいぞ」

 

 頭上を見上げていた弟に私が尋ねてみれば、そっと天井の一角を指で示してみせる。そこには人ひとりがくぐれそうなぐらいの四角い切れ目があった。

 

「そうなんか?」

「河村さんが言ってた……俺の部屋の風呂場とここが天井裏で繋がってるって」

 

 マジか、そりゃ知らなかった。聞けばそれはメガネのハッタリという訳でもなくて、実際に自分達の部屋で確かめてみて知り得たことなんだとか。どうもこのペンションのバスルームは隣り合う部屋同士でそういう構造になっているらしい。

 

「あ、じゃあアレだろ。おまえが天井裏を伝ってヤクザの部屋に忍び込んだとかなんとか、言いがかりつけられたんだろ」

「まあ、そんなとこだ」

 

 やっぱりな。まったくもって想像力のたくましいことだ。どうせ「三番目の理由があるんザマス」とか言ってメガネをくいくい上げ下げしてたんだろう。もしかすっとその辺りも川本さんがメガネにいらんことを吹き込んだせいなのかもしれない。電話を試そうとしてた時に、やたら天井裏がどうこう言ってたもんな。

 

「どうする? 調べてみるか?」

「うーん……」

 

 案外、天井裏にどこの馬の骨とも知れない犯人が今もこっそり隠れてるかもしれないのだから一応確かめておく必要はある。本当は私だって出来れば内部の人間の犯行だとは思いたくないので、どうしても外部犯の可能性を完全には捨てたくないのだ。

 

「今はやめとく」

 

 なのだけど、天井から頭を出した途端に不審者から鈍器で叩かれでもしたら敵わないので迂闊な行動は避けたほうがいい。だから天井裏を調べるのはこの部屋で犯人に繋がる手がかりが何も得られない場合だけにしておこう。そんときゃ私達じゃなくてメガネのやつに頑張ってもらおうかな。絶対嫌がってやらなそうだけども。

 

(とりあえず風呂場は手がかりなしか……)

 

 となれば、次はどこを調べてみようか。バスルームから顔を出した私が辺りを見回してみるのだけど、部屋の中でカーテンを風にたなびかせているクロゼットが目に付いた。

 

「あそこ、なんか入ってんじゃないかな?」

 

 今度はクロゼットの中を調べてみようと、バスルームから弟を連れ出しそちらへ向かう私。他の場所も調べてみていいかと、廊下で寒がっていたおっさんに一応確認しておいたのだけど、何でもいいから早くしてくれとのことだったので遠慮せずに済みそうだ。

 ともあれクロゼットのカーテンを開け放ってみれば、そこには私が食堂で見かけた時にヤクザが着ていたあのコートがハンガーにかけられていた。そしてその下には、スキー用と思われるキャスター付きの大きなバッグが置いてある。

 

「なんか入ってるか?」

「ないな、からっぽだ」

 

 ハンガーにかかるコートを調べていた私だったけど、しゃがみ込んでバッグの中身を漁っていた弟にそう尋ねてみれば特に目ぼしい結果はないようだった。

 

「からっぽってこたないだろ。着替えとかは?」

「いや、マジでなんも入ってないんだが」

 

 念を押してみた私だったけど、弟の答えは変わらない。どうも妙だぞこれは。こんだけデカいバッグを持参してきた癖して、ヤクザのやつは着の身着のままでこのペンションに泊まりに来たのだろうか?

 

「そっちはどうだ?」

「うんにゃ、なんもねーな」

 

 財布やタバコなんかが懐のポケットに入ってないかとまさぐってみたけど、コートからは紙切れひとつ出てこなかった。無一文だったとも考えられるけど、こんなので一体どうやって町から遠く離れたこのペンションまでやってきたのだろうか。宿泊代は踏み倒すつもりだったのだろうか。元々怪しいヤクザだったけど、調べてみると益々その得体の知れなさが明らかになっていく。

 

(ん? こりゃ……毛か?)

 

 コートの袖の辺りに何かが付いているように見えたものだから目を凝らしてみたのだけど、どうやらそれは短い毛のようなものだった。コートの他の部分も改めて確認してみれば、懐の辺りにもやはり同じようにその毛のようなものが若干くっ付いていたことに気付く。

 

(これって猫の毛、なのか……?)

 

 黒い色をしたその短い毛は、動物の体毛のように見える。そう考えた場合、それはこのペンションで飼われているジェニーの毛である可能性が高かった。毛の付き具合やその位置からして、どうもジェニーを抱っこした時にくっ付いたようにも思えてしまう。もしかしてヤクザのやつがジェニーを懐に抱きかかえたりしていたのだろうか?

 

(案外猫好きだったのかな)

 

 そんな風に思う私だったけど、こればっかりはヤクザに聞いてみないと分からないことだった。そしてそのヤクザ本人は、この部屋の奥のほうで物言わぬバラバラ死体となって眠っているのだ。

 

「あ、あのさ……」

 

 バッグを調べ終わった弟に、私は声をかける。今のところこれといって犯人に繋がる手がかりは見つかっていないのだから、今度は窓を調べてみようかと思ったのだ。ただ、そうなるとどうしても目に付いてしまうものと対面しなくてはならなくなる。

 

「窓のほう、見に行きたいんだけど……」

 

 窓辺を指差して、遠慮がちにそう言ってみた。

 

「……分かった」

 

 そしたら弟は、表情を固くしつつもそれに同意する。ジャリ、と雪を踏みしめながら部屋の奥へと進む弟と、その背に隠れるようにして後を追っていく私。

 果たしてそれは、ベッドの脇に確かに存在していた。随分と雪が積もったらしく、でこぼこの白い山と化した何かが床に落ちている。バラバラになったものを一箇所にまとめて置くと、こんな感じの山になるのかもしれない。

 

(ひぇぇぇぇ……っ!)

 

 嫌でも目に入ってしまったそれを前にして、私は思わず弟に背中からしがみついてしまった。弟のほうも随分と身を固くしているのは、割れた窓から入ってくる吹雪に凍えていることだけが理由ではないのだろう。

 

「こ、これ、これが、そうなの……!?」

「ああ……随分埋もれちまってるけど、そうだ」

 

 何が「そう」なのかといえば、勿論死体のことに決まっている。幸い殆ど雪に埋もれかけているせいで、じかに目にしなくて済みそうなのが救いではあるが、だからといって平気な訳がない。

 

(ちくしょうっ、ちくしょうっ……!)

 

 嫌なもん見せやがって。なんで私がこんなもんを目にしなくちゃいけないんだ。勝手に死にやがったヤクザのことが、私は恨めしくなってしまった。そしてまた、こんなひどい殺し方を平気で出来てしまう犯人の異常性が改めて恐ろしくなってしまった。

 

「ねーちゃん、窓……」

「お、おう……!」

 

 嫌々ながらも死体の山から目が離せなくなっていた私だったけど、弟に声をかけられて気を取り直す。

 弟が開け広げられた片側の窓の外に手を伸ばして窓枠を掴むと、調べやすいようそれを手前に引き寄せた。勿論ガラスなんてすっかり無くなっていたから、風は遠慮なく窓枠を通って部屋の中へと吹きつけてくる。窓の左右ではためき続けるカーテンが微妙にうっとうしい。

 

(この取っ手に引っ掛けたのかな……)

 

 窓枠にはコの字型の小さな取っ手が付いている。客室の窓はこの取っ手を下にスライドさせると鍵がかかって、逆に上へとスライドさせれば鍵が外れる、そういう仕組になっている。そうして左右の窓枠ごとに鍵をかけたりかけなかったり出来るようになっているのだ。

 

「おい智貴、見てみろよこれ」

「なんだ?」

「これ、鍵かかった状態になってんぞ。たぶん雪が落ちた時に取っ手が紐で引っ張られたんだよ」

 

 どうも割れたほうの窓枠の取っ手は下へとスライドしていた。つまり鍵のかかった状態にされていたのだけど、勿論この窓はついさっきまで開けっぴろげになっていたので最初から鍵がかかっていた訳がない。これは元々鍵が外れた状態になっていたところへ、例の仕掛けがぶらさがる形になった段階で取っ手が自然にスライドしてしまった為と思われる。凍りついた雪が板に幾分かくっついたままであればそれなりの重量になった筈だから、ありえない事でもない。

 

「やっぱあの変な板、マジでこの窓に仕掛けられてたっぽいぞ」

「みたいだな」

 

 ここにきて疑惑が確信に変わったものだから、私は弟と顔を見合わせる。

 

「なぁ、さっきのバッグなんだが……」

 

 何かに気付いた様子の弟がそう話しかけてくる。さっきのバッグとは、こいつが調べてたヤクザの私物のバッグのことだろう。

 

「底板が入ってなかったぞ」

「おお、そりゃおまえ……!」

 

 弟の言いたいことをすぐに察した私は息を呑む。なるほどな、あの板きれはもしかすっとヤクザのバッグに使われていたものを犯人が拝借したかもしれないって訳だ。となれば試しに後で問題の板きれを持ってきて、あのからっぽのバッグの底に敷いて確かめてみようかな。

 

「やっぱちゃんと調べてみるもんだな。色んなことが分かってきたぞ」

「……でも、こんだけじゃまだ何も分かんねーよ」

 

 思いのほか手応えがあったことで希望が見えてきたように感じる私だったけど、一方の弟はまだまだ手がかりが足りないと思っているのかその表情は固い。

 

(あと、他に調べるっつったら……)

 

 弟の満足するような手がかりが他に無いものかと考えを巡らす私だったけど、その思考の先に浮かび上がるものがあった。

 

(こいつぐらいしか……ないよな、やっぱり)

 

 ちらりと横目でそれを見やる私。手がかりになりうる可能性を秘めたものが、今まさに私達のすぐ傍で山を作っていた。なるべくそれのことを考えないようにしていたけど、このまま目を背け続けてもいられないようだ。だけどもいざ調べてみようと思うと、やっぱりひとりでに膝が震えだしてしまう。どうしようかな、弟に調べてもらおうかな。

 

「ぶえーっくしょい!」

 

 入り口で待っていたおっさんが、いきなり馬鹿デカいくしゃみをしたものだから私は驚きのあまりちょっと飛び上がってしまった。なんだよおっさん、びっくりさせんな!

 

「二人ともまだかいな。はよしてんかぁ……」

 

 入り口から顔を覗かせるおっさんが、辛そうな声で部屋の奥にいる私達へ声をかけてきた。

 

「すんません、もうちょっとだけ待ってください」

「なにをそんな調べとるんや。いらんことしとんちゃうやろな」

 

 痺れを切らしたらしいおっさんが、体を縮こませながら部屋に入ってきて私達のところへと駆け寄ってきた。

 

「おっ、なんなんそれ? なんか、こんもりしとるで」

「あ、そ、それは……!」

 

 私が引き留めようとしたのだけど遅かった。ベッド脇の山に気付いたおっさんは、私達の間を通り抜けてそれに近づくと、考えなしにその上に積もる雪を手で雑に払い始めた。

 

「なんやろ、これ……」

 

 山のてっぺんに乗っかってたものを、おっさんがなんとはなしに拾い上げてしまう。その光景を前にして私は胃からすっぱいものがこみ上げてきそうになる。

 

「ぬぉっ!? こここ、こら、手、手ぇやないか……っ!」

 

 それが何なのかようやく気付いたおっさんが、持っていたそれを慌てて投げ捨てる。そうしてベッドの上に落っこちたそれは「手」だった。ひどく変色した手首なのだった。

 

「うっぷ……!」

 

 もう我慢出来ない。私は咄嗟に窓から顔を出し、こみ上げるものをとうとう全力で吐き出してしまった。幸い胃の中に残っていたものは少なかったのか胃液ばかりが出てくるけれど、気分は最悪だった。おっさんの馬鹿野郎、なんてことをしてくれるんだ。

 

「あ、アカンアカン……! こないなもん見てもうたら、運気下がってまうわ……!」

 

 そんなことを言い残して、おっさんは逃げるように廊下のほうへと慌てて戻っていった。

 

「はぁ……はぁ……くそっ……」

「……ねーちゃん、もう戻ろうぜ」

 

 少ししてようやく落ち着いた頃、私を心配したらしい弟がそう言ってくる。ああ、ダセーところを見られてしまった。私としたことが、弟のいる前でとんだ醜態だ。

 

「べ、別に……大丈夫だよ……」

「いや、大丈夫じゃないだろ」

 

 尚も食い下がる弟だったけど、私にも意地がある。こんなのメガネのヤローに絡まれてた時のことを思えばどうってことない。有力な手がかりが隠されているかもしれないこの死体をちゃんと調べてやるのだ。そんでもってもし内部犯の仕業だってことがハッキリしたんなら、私達に濡れ衣を着せやがった真犯人のヤローを白日の下に晒してやらないと気が収まらない。

 

「ふ────……」

 

 気を取り直す為に大きなため息をついてみるけど、風の吹きすさぶ部屋の中では吐息が白くなることなんてない。いまや私の体は随分冷え込んでしまっていたのだけど、どてらも無意味になりつつあるぐらい寒さが侵食してきているようだ。足の裏の感覚はすっかり無くなっていた。ついさっきドギツいものを見せられたせいで気分もすこぶる悪い。

 この分だとやがて音を上げるのは時間の問題と見た私は、早く部屋を出ていきたいという衝動と戦いながらもひとまず死体の山があるほうとは反対側のベッド脇に回り込む。そうしてベッドの上に放置されていた先程の手首を調べてみることにした。

 

(こんなもん、怖くなんかねぇぞ!)

 

 とはいえ直接触るのはおぞましいことこの上ないので、どてらの袖の先を使ってベッドの上のそれをチョイチョイとつついて転がしてみる。これが人間の肌なのかと疑ってしまうぐらい、見たこともない程に青ざめた色をしていた手首は五指をまっすぐ伸ばした形のまま硬直していた。

 

「なにしてんの?」

 

 手首を調べる私を妙に思ったのか、寒さに身をすくめていた弟が訝しげに聞いてくるのだけど、それに答える余裕はない。姉ちゃんはいま大事なところなんだ、黙って見てなって。

 

(こうして見るとマネキンみてーだな……)

 

 本当にそうだとしたら、どれだけ良かっただろう。だけども断面から覗く骨や筋肉の生々しさを見るに、とてもではないがこれが作り物だとは思えなかった。やっぱりこれはヤクザのあの手に違いないのだ。あのでかくてごつごつした、ちょっと毛深い感じの──

 

(んんん?)

 

 妙だな。なんかおかしいぞ。手首をまじまじと観察していた私は、突然言いようのない違和感に襲われてしまった。

 

(えっ、なにこれ……?)

 

 その違和感の正体が、ようやく分かった。手が、違うのだ。今ベッドの上に転がっているそれは、生々しい印象と共に私の記憶に焼き付いていたあのヤクザの手とは到底思えなかった。まずなによりこの手は随分と小さい。勿論それでも私の手よりかは大きいのだけど、とてもではないが私の手をまるごと包んでしまいそうだったあの大きさとは比ぶべくもない。ごつごつともしていなかった。どちらかといえばひょろっちい感じの、骨っぽさが目立つ手だった。そしてなにより、全然毛深くなんてない。目を凝らしてみても、やっぱり殆ど毛なんて生えてないようなすべすべの手だった。

 

(おまえ、誰だよ……)

 

 この手の主が窓辺のほうに転がってる死体であるというのなら、それはつまりあのヤクザの死体などではなかったということになってしまう。なんだかもう、色々と前提がくつがえってしまいそうだ。

 

「……そいつが、どうかしたか?」

 

 呆気に取られていた私にまた弟が声をかけてきた。この衝撃を一体どう説明してやったものかと考えるのだけど、混乱していて上手く頭が回らない。

 

「……行こっか」

 

 だからひとまず、私は部屋を出ることにした。なんだかもうこの部屋で調べておくべきことはこれ以上ないように思えたからだ。

 *

「なんだよ、話したいことって」

「あ、うん……」

 

 おっさんにどてらを返却した上でロビーに戻ってからすぐ、私は弟を連れて食堂のほうで二人っきりになった。何か発見はあったかとおじさんに先程聞かれたのだけど、そこは一旦言葉を濁しておいた。

 食堂にいたジェニーが足元に近寄ってくるけど、今はそれに構ってやれそうにない。

 

「あれ、ヤクザじゃねーぞ」

「は?」

 

 一体何から弟に話したものかと思案していたのだけど、とにもかくにもこれだけは真っ先に伝えておかないといけない。だけども弟は、私の言ってることが理解出来なくて聞き返してくる。

 

「あの死体だよ。あいつ、ヤクザのヤローじゃなかった。全然別人だった」

「ちょっと待て……なんでそう思った?」

 

 もう少し順序立てて話してやれば良かったのだけど、私は随分焦っているようで結論から入っていってしまう。

 

「手だよ、手! ほら、おっさんが投げ捨てやがった手があんだろ? あれ、ヤクザの手と全然違ったんだよ」

「……それ、詳しく聞かせてくれ」

 

 表情を変えた弟が、真剣に耳を傾けるべく居ずまいを正す。だから私は改めて自説の根拠を説明してやった。ヤクザの手の特徴を知ってるのは、このペンションで唯一私だけなのだ。だからあの死体がヤクザなんかじゃないことに気付けたのも私だけってことになる。

 

「どうしようか? これ、おじさんに言ったほうがいいかな?」

「……その前に、ちょっと整理してみようぜ」

 

 衝撃の真相を皆に教えてやるべきか問うてみるのだけど、弟はそれに待ったをかける。こいつとしてもあまりに急な話過ぎて混乱しているのかもしれない。

 

「死体はあの田中って客じゃなかった、これは間違いないってことだよな?」

「おう」

 

 弟だって私が食堂でヤクザとぶつかった時にあいつと手を繋いでたことは遠目に見ていて知っている筈だ。だから、私がヤクザの手の特徴をしっかり覚えてたってことはそのまますんなり受け入れてくれたようだ。

 

「じゃあ、あのとき俺達がそこで見かけた人は誰なんだ?」

 

 そう言って、メシ時にヤクザが座っていた食堂のすみっこの席を見やる弟。

 

「……犯人、なのかな。たぶん」

 

 落ち着いて考えてみれば、むしろそうとしか思えなくなってきた。あのヤクザのヤローは怪しいどころの話じゃなかった。今回の事件を引き起こした張本人、それこそがあのヤクザに違いなかったのだ。

 

(だから警察呼んだほうがいいって言ったのによー……!)

 

 ヤクザを見かけた時、私は直感的にこいつは何かやらかすんじゃないかと思っていたのだけど、その勘は残念ながら当たってしまったようだ。

 

「おお、そんじゃアレだよ。脅迫状もあいつが……」

「だろうな」

 

 メガネ達がワーワー騒いでた例の怪文書も、私の当初の見立て通り結局あのヤクザが差出人だったと見て間違いないだろう。

 

「今夜十二時、誰かが死ぬ……かぁ。何考えてあんなもん出したんだろーな」

 

 メガネはあれを指して「かく乱のために犯人が用意した」とか言ってたけど、もうちっと別の理由があるような気がする。あんな風に思わせぶりなことを書くなんて、まるであの部屋に置かれた死体に気付いてもらいたいみたいじゃないか。

 

「あれかな、ホントは十二時ぐらいに窓を割りたかったのかな?」

「まあ、そうかもな……」

 

 そうすれば脅迫状通りに事を運ぶことが出来る。なんで犯人がわざわざ先走って九時頃に窓を割ってしまったのかは分からないが、元々の予定ではもっと遅い時間に騒ぎを起こすつもりだったのかもしれない。

 

「なぁ、ねーちゃん」

「ん?」

 

 弟が私に顔を近づけつつ、声を潜めて尋ねてきた。

 

「ねーちゃんは田中ってやつの手の特徴、覚えてるんだよな?」

「おお、ちゃんと覚えてんぞ」

 

 念を押してくる弟だったから、勿論そうだと肯定してやる。そしたら、それを聞いた弟の表情が益々緊張を増したように見えた。

 

「皆の中に、そいつと同じ手をしたやつはいなかったか?」

「あ……!」

 

 弟の言葉を聞いた私に電流が走る。途端、心臓が早鳴り出して、嫌な汗が滲んできてしまった。そうなのだ、指摘されるまで気付かなかったけど一番重要な部分じゃないか。

 

「あ、その……いっ、いる、かも……!」

「……誰なんだ?」

 

 そう答えてみせてから、私は開けっ放しになっていた食堂の入り口のほうを振り返った。誰かがこちらを覗いているんじゃないかと、そんな気がしてしまったのだ。皆はまだロビーにいるようで、話し声なんかが聞こえてきている。

 

「ねーちゃん、教えてくれ。誰だ?」

「あっうん……じゃ、じゃあ耳貸して……」

 

 誰にも聞かれてしまわないよう、私は心当たりのある人のことをそっと弟に耳打ちしてやった。

 

「……それ、マジなんだな?」

「お? おお……マジだよ、大マジだよ」

 

 息を呑みつつそう確認してくる弟に、私は何度も頷いてみせる。そしたら弟は、ふぅっとため息をついて椅子に背を預けると、そのまま目を閉じてしまう。

 

「なるほどな。それならまぁ、確かに色々辻褄が合うかもしれねー……」

 

 しばらくして、弟が納得したような様子でそう呟く。どうやら弟の中で何かしらの答えが出たようだ。

 

「どうすんの? やっぱ皆の前で言うのか?」

「いや、待て。その前に……」

 

 すぐにでもこの話を皆に教えてあげなくてはと気が急く私だったけど、弟は尚も待ったをかける。犯人の正体におよそのあたりは付いたけど、実際の犯行方法なんかについてはまだ不明な部分が多い。なので弟はそうした点についても話を詰めておきたいようだった。

 ここから先、どれくらいのあいだ二人で話をしていたのか分からない。ただ、私も弟も自分が持てる限りの知恵を振り絞って、互いが知り得たことや気付いた点なんかを共有していった。そうするうちに、やがて犯人が使ったおよその手口にも見当が付いてきたのだった。

 *

「皆を集めてくれだって? なんでまたそんな……?」

 

 弟からの頼みを受けたおじさんが、訝しげな表情を作ってそれに答える。

 私達がロビーに戻る頃には随分と人が減っていて、いまこの場にいるのは引き続き寝ずの見張りを再開したおじさんと俊夫さん、そしてソファーのほうで居眠りこいていたおっさんだけだった。他の皆はそれぞれ自分の部屋に戻っていったらしい。

 時刻はもうとっくに十二時を過ぎてしまっている。

 

「犯人が分かったんです」

「智貴くん、きみまでそんなことを……!?」

 

 途端、おじさんがひどく困惑した様子を見せる。やっぱりこの話を蒸し返えされるのはおじさんとしても嫌なのだろう。せっかく皆が一応は外部犯の仕業ってことで納得してるのに、また振り出しに戻ってしまうのだから。

 

「おじさん、嘘じゃないよ。私達、あの部屋を調べてて色んなことが分かったんだ」

 

 そう言って、私も横から援護射撃をする。

 

「あのヤクザ、本当は死んでなんかいなかったんだよ。あの部屋で死んでたのって、全然別の人だったんだよ」

「智子ちゃん、待ってくれ。そりゃ一体、どういうことなんだ……?」

 

 もう頭上から疑問符が飛び出してきそうなぐらいにおじさんが困惑ぶりを深めたので、私はその理由を手早く説明してあげた。

 

「おいおい、マジかよそりゃ……」

 

 そしたら、おじさんの傍らで話を聞いていた俊夫さんがやにわに顔色を変える。

 

「……見間違いってことはないんだね?」

「そんなことないよ。本当だよ、信じてよ」

 

 そう言って念入りに尋ねてくるおじさんだったから、私は自分の主張に嘘はないことを訴える。

 

「なんてこった……それが本当なら、色々考えなおさなくちゃならん訳だが……」

 

 私達が冗談や思い違いでこんなことを言ってる訳じゃないと信じてくれたのか、ただならぬ様子でおじさんが顎に手をやる。

 

「智貴くん……さっき犯人が分かったと言ったね? そりゃあひょっとして……」

「はい、俺達の中に紛れ込んでます」

 

 弟の答えを聞いたおじさんが、目をぎゅっとつむってため息をつく。

 

「分かった、皆を集めよう」

 

 だけどもすぐに気を取り直したのか、シュプールにいる人達をこの場に招集することを承諾してくれた。

 

「俺、ママさん達を呼んできます!」

「ああ、頼む」

 

 話の流れを察した俊夫さんが、そう言い残してバタバタと廊下の奥へと駆けていった。おじさんのほうは早速内線で二階にいる宿泊客に連絡し始める。

 

「ん……? なんや、どないしたんや?」

 

 その騒ぎで目が覚めたのか、ソファーの上で気持ちよさそうに寝ていたおっさんが目をごしごしこすって私達に尋ねてくる。いつの間にか食堂からいなくなったジェニーもその膝の上で丸まっているようだった。

 

 ◆

 

「なんやねんホンマ……亜希ちゃんの次は、お二人さんかいな」

 

 すっかり目を覚ましたおっさんがそうボヤく。

 ペンションにはいまや宿泊客や従業員を含めた全員がロビーに集まってきていた。再び招集されたことを訝しんでいた皆だったけど、間もなくその理由を弟が説明してやったらすぐさまどよめきが生まれる。今度こそ犯人が分かったと、弟は皆に直球でそう言ったのだ。

 

「まさか、あたし達が犯人だなんて言うんじゃないでしょうね? 言っときますけど絶対に違うわよ」

 

 取り乱したおじさんから勢いあまって犯人扱いされてしまっていたらしいメガネは、まだそのことを引きずっているのかおじさんのほうを見ながらそう言ってきた。

 

「それは今から説明します。とりあえず話を聞いてください」

 

 それを軽くいなした弟は早速本題に入る。私は皆の前で上手く話せる自信がなかったので、こうしたことは弟に任せるということで事前に打ち合わせしておいたのだ。容疑者に面と向かって「犯人はおまえだ!」なんて指を突きつけてやれたら痛快だろうけど、相手がそれにどう反応するのかを想像すると恐ろしくてとても出来そうにない。

 

「まずハッキリさせておきたいのは、あの部屋の死体が田中さんじゃなかったってことです」

 

 ロビーの中央に立つ弟は、皆に向けてそう断言する。そしたら一段と大きなどよめきが周囲から生まれた。

 

「そ、そらホンマかいな!? なんでそないなことが分かんねん」

 

 たまらずおっさんが、皆も思っているであろうその質問を投げかけてくる。

 

「香山さんのおかげですよ」

「お? そうなん? わし、なんかしたっけ……?」

 

 そう返されたものだから、おっさんは不思議そうに首をひねる。

 

「さっき俺達があの部屋を調べてた時、香山さんが死体の手首を拾って放り投げてったから、それがヒントになったんです」

「あーあれか……。せやけど、なんであんなんがヒントになるんや?」

 

 ともすれば遺体を粗末に扱う行為である訳だから、話を聞いていた何人かが眉をしかめた。おっさんがあの部屋で悪ノリしてふざけていったんじゃないかと、あらぬ誤解を招きそうだ。

 

「姉が……田中さんの手の特徴をハッキリ覚えていたからです」

 

 ここで弟は私のことを持ち出してきた。皆の視線が一斉にこちらへ集中したのを肌で感じる。

 

「姉が夕食中にあの人とぶつかって、彼に引き起こされてたところは皆さんも見てましたよね?」

 

 あの時、食堂にはまだペンションに来てなかったみきなんとかさんを除く宿泊客全員が集まってきていた。そんな中で私が悲鳴を上げてあのヤクザと揉め事を起こしかけていた様子は、周りの皆も確かに目撃していた筈だった。

 

「その時に姉は田中さんの手の大きさや形なんかを記憶した訳ですが……例の部屋にある死体の手は、それとは全く違っていたそうです」

 

 弟の説明に聞き入っているのか誰も言葉を発しない。代わりに唾を飲み込む音があちらこちらから聞こえてくる。メガネなんかはもう、すっかりだんまりで弟の次の言葉を待っている。

 

「そして……その手と全く同じ特徴の人が、この中にいます。つまり、田中さんがいる訳です」

 

 その言葉に、場の空気が凍りつく。既にある程度事情を知っているおじさんや俊夫さんは、弟の語る様子を固唾を呑んで見守っているようだ。

 

「田中という名前は……やっぱり偽名だったんでしょうね。自分の身元を隠すつもりだったんでしょう」

 

 一度に畳みかける訳でもなく、弟は本題から一歩引いて今度はヤクザ自身のことを話題にあげた。

 

「あの人は部屋の中だってのにコート姿のままで、サングラスをかけて目深の帽子まで被っていました。普通に考えればまともな格好じゃありません。でも、あれが変装する為だったと考えれば納得がいきます」

 

 私を含めて他の人達をひどく不審がらせたあの珍妙な格好も、これなら説明が付く。要するにああやって目立つような格好をすることで、あたかも田中という客が自分とは別に存在するように印象付けたかったのだろう。

 

「部屋の中にあったデカいバッグなんかも調べましたが、何も入っていませんでした。着替えはもちろん財布すら持ってきてないんですよ、あり得ますか? 少なくともスキー客としてここに泊まるにはあまりにも不自然です」

 

 元々一時的な偽装のために田中という人物の存在を演出してみせただけだったから、そうした小道具にまでは気が回らなかったようだ。あるいは、それらの準備をする余裕が犯人になかっただけなのかもしれない。

 

「智貴くん、ちょっと待ってくれ……! いや、荷物が空だったというのはおかしい。あの人がウチに来た時は、確かにその大きなバッグを引きずっていて随分重そうに運んでいたんだが……」

 

 弟の説明に違和感を感じたおじさんが、そう口を挟んでくる。そりゃ確かに妙ではあるのだけど、その点についても私達はすでに見当を付けていた。

 

「ええ、その時はまだ中身がぎっしり詰まってたんでしょうね……。なにせ、バラバラになった死体が入っていたんですから」

 

 物騒な話を聞かされて怯えたのか、ビッチさんが小さく悲鳴を上げる。

 そう、つまりこういうことなのだ。そもそもあの死体はこのペンションで死んだんじゃない。きっといま弟が説明したような方法で、外部からヤクザが運び入れてきたものに違いないのだ。

 

「あーそうか、だからあの人……!」

 

 何かに思い当たったみどりさんが、急に声を上げた。

 

「あたし、ここであの人の荷物を代わりに運んであげようと思ってバッグに触ったのよ。そしたらあの人、慌てて飛んできて手を振り払ってきたんだけど……」

 

 どうやら犯人が田中として泊まりにきた時に、みどりさんとの間でそんな一幕があったらしい。

 

「そん時は感じ悪いなって思ってたんだけど……そうよね、今の智貴くんの説明が本当なら、死体が入ったバッグを人に触られたくなかったんだわ、きっと」

 

 弟の語る推理をきっかけとして、次々に皆からその推理を裏付ける証言が出てくる。犯人当ての場は、いよいよ大詰めの気配を見せていた。

 

「ねぇ……ねぇ、その田中さんの振りをしていた人って誰なの? この中の誰が……犯人なの……?」

 

 もう辛抱出来ないといった様子で、メガネが弟にそう聞いてくる。きっと犯人以外の皆も、そのことを知りたくて仕方がない筈だ。

 

「犯人は……その人ですよ」

 

 それを受けて、弟はもったいぶることなく素直に犯人のほうを指差してみせた。そいつは私達がよく座っていた階段下に腰かけていて、前かがみの姿勢で手を組んでさっきからこちらをじっと見つめてきていた。

 途端、その近くにいた人達が蜘蛛の子を散らすように慌てて距離を取る。

 

「あんたが犯人なんだろ? 田中さん……いや、()()()さん」

 

 犯人を見据える弟が、その名前をとうとう口にしてみせた。名指しされたみきなんとかさんは弟の言葉にも押し黙って特に反応することはなかったけど、そのごつごつとした毛むくじゃらの大きな手には動揺が表れているようで、落ち着きなく指をぱたつかせているのだった。




続く


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【クロス】かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く(7・完結)

★イラスト
DDT様が作中のクライマックスの場面をイラスト化してくださいました。作者様にご許可頂けましたので、この場を借りて紹介させて頂きます。
https://twitter.com/DDT000125/status/1253908966360244224

≫[2020/7/13]あとがきを投稿しました。


かまいたちの夜明け

「……ぼくが犯人だって? そりゃ本気かい?」

 

 弟が犯人を名指ししてから場の雰囲気が一気に張り詰めたのだけど、それに似つかわしくない穏やかな声でみきなんとかさんがゆっくりと口を開いた。

 

「本気じゃなきゃ、こんなこと言わねぇよ」

「おいおい、ちょっと待ってくれよ」

 

 眼前から僅かたりとも目を逸らさない弟が語気も鋭くそう返せば、両手を持ち上げたみきなんとかさんはそれをなだめるような仕草をしてみせる。

 

「まいったな、まさか手が似てるってだけでぼくを疑っているのか? いくらなんでもそりゃあんまりだ」

 

 私としてはもう決定的と言っていい程の理由だったけど、そんなものは証拠にならないとみきなんとかさんは困り顔で弁解し始める。

 

「ぼくみたいな手をした人なんて、世の中いくらでもいるだろう……そんなことで犯人扱いされてちゃたまらないよ」

 

 眉をハの字にして心底弱ったような声を出すみきなんとかさんが、おおげさにかぶりを振った。

 

「君達だってさっき犯人扱いされたばかりじゃないか。なのに、今度は別の人を疑い出す。疑心暗鬼はもうウンザリだよ。いい加減にしてくれ」

 

 かと思ったら、今度はやや語気を強めて私達を責めるように睨みつけてくる。こんな風にされると本当にこの人が犯人なんだろうかという気持ちがうっかり湧いてきそうになるけれど、これはきっと演技なのだ。騙されてはいけない。

 

「別に手のことだけが理由じゃない。あんたが犯人だと思った理由は他にもあるんだ」

 

 相手を追求する材料が一つだけというのでは心許ない。故に私達を散々苦しめたメガネのあの多段構えの手口に図らずも則る形で、弟は犯人の逃げ道を塞いでいこうとする。

 

「夕食の時、ここにいる皆があの田中って客と居合わせていた……だったら、唯一あいつになりすませるとしたら後からペンションに来たあんたしかいないんだよ」

 

 これは消去法だ。あの場でヤクザと同じ空間にいた人達は必然的に容疑者候補から外さなくてはいけない。あのとき忙しく料理を運び回っていたバイトの人達やおばさんは勿論のこと、厨房のほうにいて姿を見せなかったおじさんだって夕食が始まる直前にはロビーのほうで大阪夫婦を出迎えたりしていたのだ。だとしたら、やっぱり疑わしいのはみきなんとかさんだけってことになる。いつの間にか食堂にいたヤクザだったけど、きっとみどりさんが私達を呼ぶ前からなんのかの言ってあの場に居座っていたのだろう。

 

「そんなこと言われてもな……」

 

 そうした指摘を受けても尚、身に覚えがないと言わんばかりに難しい顔で唸るみきなんとかさん。

 

「……そうだ! ご主人、覚えてますか?」

「は? な、なんでしょう」

「ほら、ここに来る前にぼく、電話したじゃないですか」

 

 みきなんとかさんは急に何かを思い出した様子でおじさんへと話しかけた。やっぱりな、それを持ち出して来ると思ったぜ。

 

「ああ、はい……確かにそうでしたね。夕食が終わったぐらいの時に、今からお越しになると……」

「でしょう? あの時ぼくは駅にいたんですよ。吹雪がひどくて、ここまで来るのも一苦労だったんですから……このペンションと駅を行ったりきたりする時間なんて無いと思いませんか?」

 

 その電話なら、私もおじさんの傍らで少し聞いていたのを覚えてる。ちょうどメガネ達もその場に居合わせていた筈だ。あの時の電話がどうやらみきなんとかさんによるものであったことは弟にも共有しておいたから、おかげでそれに対する答えを私達は既に見出すことが出来ていた。

 

「確かにその通りだ。でも、電話は別に駅から掛けなくてもいい」

 

 みきなんとかさんを見据えたままの弟が、改めて彼の主張を崩しにかかる。

 

「あんた、確か自分で言ってたよな? 近くのバス停に公衆電話があるって。そっちを使えば時間の問題は解決出来る筈だ」

「ああ、言ったね……そんなことも」

 

 その指摘を聞いて、おじさんがあっという表情を作る。だけどもみきなんとかさんのほうは特にうろたえる様子もなく、それがどうしたと言わんばかりだ。

 

「田中って客は随分早く食堂から出ていった。今思えば、ペンションから抜け出して公衆電話を使う為だったんだろうな」

 

 そう、これこそがヤクザがメシを早々に切り上げてった理由なのだ。近場にあるとは言えどこの吹雪だ。徒歩でそこまで辿り着くのはそれなりに時間が必要だと踏んだからに違いない。

 

「バス停の近くにでも車を隠しておけば、電話をかけた後でそれに乗って頃合を見てペンションに戻るだけでいい……勿論、その時には変装を解いた全くの別人として泊まりにくる訳だ」

 

 みきなんとかさんがここに到着した時、凍えかけて大変だったとボヤいていた。あれは実際のところ、徒歩で電話のあるところまで向かう際に思いのほか苦労させられたことを言っていたのだと思う。なにせこの天気なのだ、おじさんや俊夫さんが言うように自殺行為に近いものがあったのだろう。

 

「では、智貴くんが見た雪の不自然な崩れというのはひょっとすると……」

「ええ、実際にこの人がペンションを一旦抜け出していった跡だったんでしょうね」

 

 私の隣でモップを手にして控えるおじさんが確認してみれば、弟は振り返らずに口で肯定してみせる。誰にも気付かれずここを出ていこうとするのなら、例の部屋の窓から飛び下りるのが手っ取り早いって訳だ。外で大きな物音がしたって、誰もが雪の落ちる音と考えて気にも留めなかったのだろう。

 

「なるほど、君も上手いこと考えるもんだな。確かにその方法なら、どうにでもなりそうな気がするよ」

 

 弟の説明を聞いたみきなんとかさんは、一旦納得したような様子でうんうんと頷いてみせる。

 

「でも駅から電話したのは本当だよ? 証明してみせろって言われたらどうしようもないけどね」

 

 あくまでとぼけるつもりなのだろうか、それでもこの人はのらりくらりと弟の追及をかわし続ける。駅から電話したことを証明する術はないと言う彼だったけど、それは逆を言えば近場の公衆電話を使ったことを私達が証明することだって出来ないと言外に含めているようなものだ。

 

「まあ、ぼくが思うに……田中って人は夕食が終わってからはすぐ逃げたりせずにしばらく例の部屋の中にいたんじゃないかな? でなきゃ誰が窓を割ったっていうんだい? ぼくはあの時ずっと皆と一緒にいたっていうのに」

 

 今度は窓が割れた時の状況を持ち出して、みきなんとかさんは自身を弁護してみせる。

 

「亜希ちゃんが見つけてきたあの板だって、ひょっとしたらあれこれ推理されることを見越した犯人が君やお姉さんに罪を着せようとして、逃げてくついでにわざとあそこに埋めていったのかもしれないよ。おおかた警察をかく乱するつもりだったんだろう」

 

 弟に向けてみきなんとかさんがそんなことを言ってくる。確かにあの板きれのせいで私達が散々な目に合わされたことは本当だ。メガネの考えたトリックは単独犯では不可能な手口だったからこそ、私達二人に疑いが向けられてしまったという訳だ。

 

「いや、違うな。あの板はあんたがペンションを抜け出す前に仕掛けてったものだ。その仕掛けを使って窓を割ってみせたんだ」

 

 だけども弟はそうした可能性を斬って捨てる。

 

「しぶといね君も……そんなにぼくを犯人にしたいのかい?」

 

 それを受けてみきなんとかさんの目に鋭い光が宿り始めたように見えた。

 

(粘りやがんなこいつ……)

 

 初めの頃は情に訴えるようにして困り顔を見せたり不機嫌になってみせたりしていたみきなんとかさんだったけど、今は妙に落ち着いているようだった。それは己のアリバイに絶対の自信があるからだろうか? だとしても次から次へと追求されているというのにこうも平然としていられるものだろうか? どこか開き直っているようにも感じられるその態度が気味悪く感じられてしまう私だった。

 

「ねぇ、どういうことなの? 美樹本さんはどんな仕掛けを使ったっていうの……?」

 

 ソファーのほうでビッチさん達と身を寄せ合っていたメガネが、弟に質問してきた。元々のトリックの提唱者としては、例の紐付き板が実際はどう使われたのかが気になってしまったのだろう。

 

「大体は河村さんが言ったような感じで合ってますよ。ただ、それを一人でも実行可能で、なおかつ時間差で窓が割れるような方法にしただけです」

 

 問われた弟がそう答えてやれば、更なる疑問を顔に浮かべるメガネ。当然いまの言葉だけでは理解出来ないであろうから、弟は詳細を説明してやる。

 

「あの板きれを使って、窓と屋根の雪とを繋ぐというところは変わりません。違ったのは、実際は雪が落ちるタイミングを自分で操作せず成りゆきに任せたってことです」

「成りゆきって……?」

 

 トリックに関するメガネの推理は、実際のところイイ線いってたと思う。だけども私達二人が犯人に違いないという先入観に縛られるあまり、余計な当て推量を盛り込んでしまい真相を見誤っていたのだ。

 

「屋根の上の雪は、一定以上積もりさえすればわざわざ板を引っ張らなくても自然にそのうち落ちていきます。美樹本さんはそれを利用したんですよ」

 

 これこそが真相だった。みきなんとかさんが談話室で皆とワイワイやってた時に窓を割ることが出来たのは、こうした時間差トリックを使ってみせたからだ。

 

「なるほど! 確かにそれなら皆とここにいるだけでそのうち自動的にアリバイが作れちまうって訳か」

 

 手にしていたモップで自分の足元を小気味よく小突いた俊夫さんが、感心したような声を上げる。

 

「その通りです。河村さん、あの脅迫状の内容を覚えていますか? 今夜十二時に誰かが死ぬと、そう書いてましたよね?」

「え? ええ、そうだけど……」

 

 顔をみきなんとかさんに向けたままの弟が、言葉だけでメガネにそう問いかけた。

 

「きっと美樹本さんは、屋根の上の積もり具合からして、雪の落ちる時間が遅くともそれくらいになると踏んでいたんです。結局、吹雪が思った以上に激しいせいでそれよりも随分早く仕掛けが作動してしまったんですが、本人にしてみれば自分がペンションに来た後であればいつ窓が割れてくれても構わなかったんでしょうね」

 

 どうもしっくりこなかった例の脅迫状の内容だったけど、こう考えると納得がいく。犯人にしたって、狙った箇所の雪が屋根から落ちるタイミングを完全に予測することなんて出来る訳がないのだ。だからこそある程度時間に余裕を持たせておいたのだろう。

 

「あの脅迫状を出した目的は、おそらく仕掛けが上手く作動しなかった時の保険だったんじゃないでしょうか? ああしてペンションの人間を不審がらせておけば、後から周りを焚きつけて例の部屋を調べさせることだって出来たんですから」

「はぁ~、よう悪知恵が働くもんやなぁ」

 

 今度はソファーの上でジェニーを抱っこしていたおっさんが、弟の説明に感心してみせる。

 一方のみきなんとかさんといえば、先程からどこか退屈したような様子で顎ヒゲの辺りをぽりぽりかいたりしていた。一体何を考えているのやら、その様子は甚だ不気味だ。

 

「ちょっといい? さっきの仕掛けの話なんだけど……」

 

 話を静かに聞いていたみどりさんだったけど、気になる点があったのか弟に声をかけてくる。

 

「それって板にくくりつけておいた紐を窓の取っ手に結んでおくってことでいいの?」

「そうですけど」

「だったら、取っ手に結ばれたままの紐はどうやってほどけたの? 誰かが部屋に入ってほどかないと駄目なんじゃないの?」

 

 細かいようだけどそうした問題がまだ残っていた。弟が説明したトリックでは取っ手に紐を結びつけておく必要があるのだ。窓が割れる時まではしっかり結びついていて、用が終わったらひとりでにほどけていく。そんな仕組みでもなければ板は依然として取っ手からぶらさがったままになってしまうだろう。

 

「それは……正直言って分かりませんでした。でも、特定の方向から引っ張った時だけほどけたり、あるいは引っ張り続けることでほどけていく特殊な結び方があるのかもしれません」

「ふぅん……そういうもんかしら」

 

 こればっかりは私達にも皆目見当がつかなかった。だから、ここは言ったもん勝ち作戦でいく。メガネのヤローに何度か使われたこの手口も、自分達が攻める側に立って使う分には案外便利だったりする。どっちみち犯行に使った証拠品があの窓の下に埋もれていたっていう揺ぎない事実があるんだから、細かい手口が謎だったとしても然程問題ではないのだ。

 

「まぁ、俺達の推理としてはこんなもんです。後は……」

 

 ひとまずこちらの主張は一通り言い終わった。きっと皆もこれでみきなんとかさんが犯人と見て間違いないのだということを信じてくれただろう。

 

「本人が認めるかどうか、ですけど」

 

 だけども皆から一斉に疑惑の目を向けられてしまった犯人がどういう反応をするのか、それが問題だ。素直に罪を認めるのか、あるいは尚もシラを切り続けるのか、はたまた逆上でもしてしまうのか。

 

「ふぅ……なんだかなぁ」

 

 ため息をついたみきなんとかさんが、疲れた様子でそう呟いた。

 

「なるほどね、よく分かったよ。その窓のトリックってやつかい? うん、よく出来てると思うよ。実際、上手いことやれば本当にそういうことが出来ちゃうんだろうな。ははっ」

 

 なんとも他人事のような言い草だけど、同時にどことなく私達を小馬鹿にしているようにも聞こえてしまう。

 

「まあでも、やっぱりぼくは犯人なんかじゃないよ。どうせ信じてくれないんだろうけど」

 

 投げやりな様子でうそぶくみきなんとかさんだったけど、どうやらもう推理の内容自体に反論するのは諦めて、あくまでシラを切り通すことに徹するつもりらしい。これはもしかすると警察に逮捕された後も「弁護士を呼んでくれ」とか言って延々とゴネ続ける気でいるのかもしれない。

 

「で、ぼくをどうする気だ? 皆して袋叩きにでもするつもりかい? そんなことして、ぼくが無実だったら全員傷害罪で逮捕だな」

「一応、地下室に入って頂きます。後のことは警察に任せますので、ひとまず今晩だけでも我慢してください」

「はぁ、まいったなぁ。なんでぼくがこんな目に……」

 

 あくまでも無実を訴えるみきなんとかさんが自分の扱いについて尋ねてみれば、おじさんがそう答えてみせる。おじさんとしても彼が大人しくしてくれるのなら、これ以上事を荒立てたくはないようだった。

 実のところ、本当は犯人が暴れ出した時のことを考慮して弟はおじさん達と手短にこっそり打ち合わせしてあった。何かあれば弟とおじさん、そして俊夫さんの三人掛かりで取り押さえるつもりでいたのだ。

 

「分かった分かった、分かりましたよ。地下室でもなんでも行こうじゃないか。それで皆の気が済むのならね」

 

 両手を上げて降参の意を示すような素振りをするみきなんとかさんは、もうすっかり抵抗する意思はなさそうだった。彼がわずかでも妙な動きをすればその顔面に蹴りを叩き込んでやろうと、弟なんかはこれまで少しも気を抜かずその一挙手一投足を見張り続けていたようだったけど、こうも潔い態度を取られるとなんだか拍子抜けだ。観念したというよりも、「こいつらには何を言っても無駄だ」と諦めきっているようにも見えてしまうから、本当に私達の推理が当たっていたのかどうかすら少しばかり不安になってくる。

 

「申し開きがあるのでしたら、あとは警察にでも話してください。なんなら弁護士を紹介しましょうか?」

「へぇ、伝手でもあるんですか?」

「ええ。私も昔、その手の職に就いていましたので」

「そりゃあ大したもんですね。じゃあ、お願いしようかな」

 

 いくら怪しくても頭から犯人だと決め付けるのはポリシーに反するのだろうか。おじさんはみきなんとかさんの今後に配慮したようなことを言ってやる。この分だとみきなんとかさんは警察に逮捕された後もゴネる気満々のようだ。

 

「で、その地下室ってのはどこにあるんだい?」

「すぐそこですよ。さあ、こちらにいらしてください」

 

 大儀そうに立ち上がったみきなんとかさんがそう尋ね、前に進み出たおじさんに促されるまま、すごすごと皆の前を通り過ぎようとする。地下室の入り口はちょうど下駄箱のすぐ傍にあって、外側から鍵が掛けられるようになっているので誰かを閉じ込めるにはもってこいなのだ。

 

(やれやれ……どうにかなったな……)

 

 一時はどうなることかと思ったけど、きっとこれで今夜は安心して眠れる筈だ。傍らの弟を見やれば、こいつも幾分かほっとした様子で私のほうに目を向けてきていた。

 

「なぁ、とも……」

 

 頑張った弟をちょいとばかしねぎらってやろうと、私は声をかけようとした。だけども、それを最後まで言い終えることは出来なかった。誰かが横から私の首に素早く腕を回すと、そのまま強引に持ち上げてきてあっという間にどこかへ引きずっていってしまったからだ。

 

「ぐぇっ………!」

 

 首に巻きついた大蛇のように太いその腕は力の加減なんてされてなかったから、私の喉は締め上げられてしまいカエルの鳴き声のような音を漏らしてしまう。途端、あちこちから悲鳴が上がったのが聞こえる。

 

「おっと、全員動くなよ……。こいつの首がへし折れてもいいのか?」

 

 頭の上からドスを効かせた声が聞こえてくる。その一言を聞いただけで、私はもがく気も失せて全身がすくみあがってしまう。随分印象が違って聞こえるけれど、これはきっとみきなんとかさんの声なのだろう。

 いつの間にか私は玄関口のほうまで連れていかれたようだった。少し距離を置いたおじさん達が、血相を変えてこちらを見ているのが伺える。弟のやつなんかは今まで私が見たこともないような表情でいるようだった。

 

「たひゅ、たひゅけてっ……!」

 

 体の震えが止まらないでいる私だったけど、どうにか搾り出すような声で助けを求めようとする。

 なんてこった、こんなことになってしまうなんて。みきなんとかさんは大人しく観念したように見せかけて、こうして人質を取る機会を虎視眈々と狙っていたのだ。

 

「やはり……やはりあんたが犯人だったのか……!?」

 

 おじさんが怒りもあらわにそう声を荒げる。その様子は今にも犯人に飛びかっていきそうだったけど、私がこうして人質に取られている以上、ぐっとこらえるしかなかったようだ。

 

「そうだよ。そこの小僧が言ったとおりさ。俺が死体をあの部屋に運んだ。見破られるはずはないと思っていた。こんなところにとんだ名探偵がいたもんだ」

 

 そこの小僧、というのは弟のことなのだろう。なにやらぺらぺらと白状し始めたようだけど、とうとうみきなんとかさんは本性を現したという訳だ。いや、いい加減犯罪者に「さん」付けはやめよう。こんなやつは「犯人」と呼んでやるだけで十分だ。

 

「……これからどうするつもりだ?」

 

 視線だけで人を殺せてしまいそうな程の圧を込めつつ犯人を睨みつけた弟が、低く唸るように問いかける。そしたら犯人は、ふっと照れたように鼻で笑ってみせると顔の辺りから何かを剥がしていくような音を鳴らす。やがて地べたに何かがぽとっと投げ捨てられたのだけど、見ればそれはモジャモジャの付けヒゲのようなものだった。

 

「あー、かゆい。のりがよくないのかな。早く取りたいと思ってたんだよ……そうだな、じゃあまずは顔でも洗ってこようかな?」

 

 そんなことを言って頬をポリポリとかいてみせる犯人。どうやら変装を解いてみせたらしい。結局あのヒゲ面は、なるべくヤクザと同一人物に見えないようにする為のカモフラージュに過ぎなかったということか。

 ともあれどこかとぼけた調子で冗談のようなことを言ってみせる犯人だったけど、場に似つかわしくないその軽い態度が今はひたすら恐ろしく感じられてしまう。いまやこうして沢山の人間と対峙していても尚、まるでどうってことないように感じているようだ。

 

「ぐええっ!?」

「ほらほら、動くなって言ってるじゃないか……大切なお姉さんがどうなってもいいのか?」

 

 急に私の喉を締め上げてきた犯人が、そう脅してみせる。どうも弟が何か動きを取ろうとしたから、それをけん制したようだ。

 

「全く油断ならん小僧だな……おかげで、こいつを取り出す暇もなかった」

 

 そう言って犯人は私を片腕で拘束したまま何やらごそごそとやり始めたのだけど、やがて私の顔の前に差し出されたその手には黒い何かが握られていた。

 

(や、やっぱ持ってやがったぁ──!?)

 

 それが何か分かった途端、体中の血が逆流しそうな感覚を覚えた。犯人が取り出したのは、なんと拳銃だったのだ。それを受けてまたしても皆の中から悲鳴が上がる。ヤクザなだけにもしかしたら拳銃なんて持ってたりするかもしれないと、そうした可能性を弟に訴えていた私だったけど、当たってほしくもない予想が的中してしまったようだ。

 ともあれ私を締め上げたまま器用に銃をスライドさせて弾を装填してみせた犯人は、そのまま眼前の皆へと銃口を向ける。

 

「なんてこった……なんてやつなんだ、あんたは……あんたって人は……!」

 

 まさかここまで凶悪なやつだったなんて思わなかったのだろう、おじさんの顔には怒りと同時に絶望一歩手前のような色まで浮かび始めている。

 

「……あんた、何なんだよ。ウチに一体何しに来たってんだ? なんでわざわざ死体なんか持ってきやがったんだ? あの死体は、あんたの仲間なのか?」

 

 俊夫さんが警戒心をむき出しにしつつ責めるような口調でそう尋ねてみせる。ヤクザもん同士の仲間割れが原因で殺人が起きたんじゃないかと踏んでいたこともあって、あの死体が犯人の仲間だったんじゃないかという憶測が俊夫さんの中にあるようだ。

 

「あいつは相棒だよ。といっても、一緒の仕事は今回が最初で最後になったがな」

「……仕事だと?」

 

 案の定、ヤクザと例の死体の主はそういう間柄だったらしい。どういう仕事なのか知らないが、どうせ犯罪みたいなことなんだろう。拳銃なんて持ってやがるから、その相棒と一緒に何かやらかそうとしたのかもしれない。

 

(あっ、こいつもしかして……!?)

 

 不確かではあるけど、ひとつだけ思い当たるフシがある。私は自分の部屋で寝転がっていたとき、ヤクザの正体についてあれこれ考えていたことがあった。その時に私は、ヤクザが先日から巷を騒がせている噂の銀行強盗犯だったんじゃないかと憶測を巡らせていたのだ。こいつは拳銃なんて隠し持ってやがった訳だから、案外本当にその見立ては当たっていたりするのかもしれない。

 

「まあいいじゃないか、とりあえず仕事仲間だったってことさ……色々あって殺してしまったがね」

 

 だけどもこんな状況で、それを直接こいつに確認する訳にはいかない。今はただ、首にきつく巻かれた腕のせいで息をするのもせいいっぱいなのだ。

 

「死体を完全に消すのは君達が思っているよりもずっと難しい……だから発想を逆転したんだ、下手に隠すよりも堂々と誰かに見つけて貰えばいいと。このペンションにあいつを持ってきたのは、そういう理由からだ」

 

 外から持ち運んだ死体をあの部屋に放置しておいて、さもこのペンションで殺害されたように見せかける。その上でちゃんとしたアリバイを作っておきさえすれば、駆けつけた警察の前でも堂々としていられる。そうして警察が外部犯の線を疑って捜査している隙にどこぞへ高飛びするつもりだったと、犯人はそんなことを丁寧に説明してくる。

 

「あいつは……そう、(みなみ)とかいうけちな野郎だったんだが、やつは元々偽名を使ってここに泊まる筈だったのさ。そうして後から来た俺と合流することになってたんだよ。なのにやつのおかげで予定が随分狂っちまった。人生ままならないもんだよ、全く」

 

 思い出すような調子でそんなことを語り出す犯人。なにやらこいつなりの事情があるようだけど、そんなの私達には関係ない。こんなやつが死体を引っさげて泊まりに来るなんて、ただひたすらに迷惑極まりない話だ。

 

「俺だって本当は大人しくしてるつもりだった。警察が来たら後は任せるつもりでいたんだ。だからこそちゃんと外部の人間の犯行だと思えるようにしておいたってのに」

 

 愚痴を吐き出すように語り続ける犯人だったけど、こいつの言葉が本当なら今まで私達がやってきたことはヤブヘビだったとでも言うのだろうか。

 

「でも、君達があれこれ騒ぎ立ててしまったんだからしょうがないじゃないか……だからこういうことになるんだ」

 

 その口調はまるで皆を責めているようだった。周りの人間が余計なことをしたから、今のような最悪の事態を招いたのだと言わんばかりだ。

 確かに途中までは本当に大人しくしてるつもりだったのかもしれない。でも、どのみちメガネが例の板きれを見つけちまった時点で手遅れだったのだ。内部犯の可能性を決定的に生み出してしまうあれが見つかった時点で、計画がおじゃんになったこいつはきっと私達全員を始末する算段を始めていたのだろう。確証はないけれど、そのように思えてならない。

 

「運が無いな、俺も……。電話が使えれていれば、全ては丸く収まっていたんだ。警察と連絡さえついておけば、()()()()が疑心暗鬼になることもなかった」

 

 さっきまでは「君達」呼ばわりしてたのに、急に「おまえら」と来たもんだ。こうした微妙な呼び方の違いには、犯人なりの恨みつらみが表れているのかもしれない。

 ともあれ電話が使えなくなったことは、どうやら犯人にとって大きな誤算だったらしい。思い出してみれば電話の断線が発覚した際、こいつは真っ先に近場の公衆電話を使うことを提案したのではなかったか。あれはつまり、当初の計画が狂うことを恐れたが故のことだったのだろう。

 

「そしたら、くだらない犯人探しに俺が付き合わされることもなかった。ただでさえ疲れてたってのに、この吹雪の中を連れ回されたんだぜ? 正直クタクタだよ」

 

 自分勝手な都合を並べ立てていった犯人は、最後にふぅとため息をついてみせる。犯人探しになにかと消極的だったこいつの態度は気の弱さから来るものだと誰もが思っていた。だけど結局、そんなものは演技に過ぎなかったのだ。今ならそれがよく分かってしまう。

 

「さあ、告白タイムは終わりだ。ご主人、ロープがあるだろう。洗濯ロープでもなんでもいい。持って来てくれないか」

「自分で持って来るんだな」

 

 言いたいことを言い終えた犯人は、おじさんに銃口を向けつつそんな要求をする。だけどもおじさんは、腕を組んだまま犯人を睨みつけてそれに応じる気配はない。

 

「おや、撃ちたきゃ撃てって顔だな……さて困ったぞ」

 

 そう言って犯人は銃口をすうっと動かしていく。

 

「ひゃああっ!?」

 

 そうしたら、こいつは私のほっぺたに銃口を押しつけやがったのだ。それだけのことで、私は今まで考えていたことの全てが吹き飛び最早どうでもよくなってしまった。

 

「おい、何をする!」

 

 一転して悲壮な顔つきになったおじさんが、手を広げて犯人を制止するような姿勢を取る。頼むからやめてくれと、そう犯人に懇願しているようにも見えてしまう。

 

(いやだ……! いやだ……! いやだ……!)

 

 私自身も、こんなひどいことをやめてくれるなら今すぐ犯人に土下座でもなんでもしてしまいたい気分だ。今日あったことは絶対誰にも喋らないから、どうか勘弁してくださいと、恥も外聞も捨てて惨めったらしく命乞いしたくなる程に、頬に突きつけられた銃口は私の心を一瞬にしてへし折ってしまった。

 

(なんで……なんで私がこんな目に……!)

 

 かつてこれ程までに自分のことを可哀想と思ってしまったことはない。まるで無理やり心の中のスイッチを押し込まれてしまったように、何故だか次から次へと自己憐憫の思いが溢れて止まらないのだ。涙が出そうになる。いや、もう既に私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまっていた。犯人に捕らえられてからというもの、どうやら私はずっと泣きベソをかいていたようだ。

 

「……いいのかい? かわいい姪の顔が台無しになるぜ」

 

 殺し文句だ。こう言われて、おじさんがつっぱねられる訳がない。こいつはそのことを分かっているのだ。とうとうビッチさんが恐怖のあまり嗚咽を漏らして泣き出してしまったのだけど、犯人を刺激しまいとしているのか、その泣き声をどうにか押さえこもうと必死で口元を押さえている。誰かが「げす野郎」と憎々しげに呟いたように聞こえた。

 

「おじさん……ロープ、どこにあるんですか?」

「あ、いや、うむ……」

「大丈夫です、俺が持ってきます」

 

 犯人の言う通りロープを持ってくれば、きっと全員縛られてしまう。そしたら後は犯人の思うがままだ。かといって犯人の要求を突っぱねれば、私のほっぺたに風穴が空きかねない。板ばさみになったおじさんは、冷や汗を流してどうにも動けなくなってしまっているようだ。そうした辛い気持ちを察したのか、弟が自ら犯人の使いっぱしりになることを申し出た。

 

「どちらでもいい。早くしてくれないか?」

 

 しびれを切らした犯人がそう促してきたものだから、結局おじさんはロープのありかを渋々弟に教えてやる。決断出来ないでいる自分のことが心底情けないと思っているような様子だったけど、おじさんがそんな風に自分を責めることなんてないのに。悪いのは全部犯人のやつなのに。

 二階に上がっていった弟が、やがて数本のロープを手に下りてきた。そうしてそのまま何も言わず、相手の出方を伺うように犯人を睨みつける。

 

「それだけしかなかったのか?」

「……ああ」

 

 先に口を開いたのは犯人のほうだった。どうもロープの本数に不満があるらしい。

 

「まあいい。まずは男から縛れ。後ろ手にロープの端だけ使って、一本で二人縛るんだ」

 

 単に縛るだけでは安心出来ないのか、用心深い犯人は細かく注文を付けてくる。先に男の人から縛っていこうという算段のようだ。

 

「結び目は後で調べるぞ。緩かったら、まずこいつの……そうだな、腕の一本でもへし折ってやることにするか」

「うわぁぁん! や、やめてよぉぉぉ!」

 

 そう言って弟を脅しつける犯人だったけど、その言葉は私にとってまるで死刑宣告のようだったから叫ばずにはいられなかった。

 

「待つんだ智貴くん、変な気を起こしちゃいかん!……さあ、遠慮しないでわたしを縛ってくれ!」

 

 あっと言う間に目の中が涙でいっぱいになって視界の滲む私だったから、そのとき弟がどんな反応をしたのかは分からない。だけども強く制止するようなおじさんのその声を聞くだけでも、弟がどんな気持ちでいるのかがなんとなく察せられてしまった。きっと弟は、我を忘れて今すぐにでも犯人に飛びかかっていきたかったのだろう。

 

「他の連中もよく聞いとけ。誰か一人でも反抗するようなことがあったら、それは全員の責任だ。見せしめに誰を選ぶかは俺が決める。怪我したくなかったら、周りの奴が妙なことを考えないようによく見張っとくんだな」

 

 わずかな抵抗にも制裁を加えると、改めて皆の顔を見回しながらそう宣告してみせる犯人。こうして強く怯えさせることで、この男は私達の心を支配しようとしているのだろう。

 

「すみません……ほんと、すみません……」

「大丈夫だ、もっと強く縛ってくれて構わないよ。そう、それでいい」

 

 ともあれ手始めにおじさんが後ろ手に縛られていったのだけど、弟を気遣ってかそんなことを言うおじさん。犯人の言いなりにならざるを得ない弟の罪悪感を少しでも和らげてあげたいのだろう。やがて縛り終わった弟は、おじさんから伸びる紐で今度は俊夫さんの腕を拘束して二人を繋いでいく。

 次はおっさんと人妻さんが。そしておばさんとみどりさんが順に縛られていった。そのまた次はOL三人組が一本の紐を使ってどうにかワンセットで繋がれていく。ロープの本数は限られているから、二人一組のままでは全員を縛りきれないとみた犯人の指図だ。そうして残っているのは弟と私だけになってしまった。残るロープはあと一本。

 

「よくやった。それじゃあ、お姫様を解放してやるとするかな」

「わわっ……!?」

 

 犯人が急にそんなことを言い出したと思ったら、私の首に巻きつけていた腕を解いて背中をどんと押してきた。前のめりになりながらたたらを踏む私だったけど、危うく倒れこみそうになったところを弟がどうにか受け止めてくれた。そのまま力の限り弟に抱きついて、目いっぱい泣きじゃくってやりたかったのだけどそうも言っていられないようだ。

 

「さあ、まだロープが残っているだろう。そいつで弟を縛ってやるんだ」

 

 玄関口に立つ犯人が、私達に銃口を向けてそう指図してくる。弟の胸に抱かれたままの私は、後ろを振り返りここに来てようやく犯人の顔を見てやった。

 

(これが……これがこいつの、本当の……)

 

 そこにいたのは最早別人だった。皆の前で演技をしていた時のあの温和そうな雰囲気は微塵も残っていなかった。いかにも山男といったふうのもじゃもじゃヒゲも無くなって、今はぞっとするような冷徹さを湛えた鋭い顔つきへと変貌している。こんなにも恐ろしい目つきをした人間を私は生まれて初めて見たものだから、また足がガクガクと震えだしてしまう。とてもではないが、こいつが私や弟と同じ人類として扱われる存在だとは信じられなかった。私達とは決定的に何かが異なる別種の生き物、あるいは別世界からやってきた存在のように思えてならない。こいつと比べたら、あのメガネのなんと善良なことだろう。今ならあいつと抱き合ってキスだってしてやれそうな気分だ。

 

「なにをしている。早く言う通りにしろ」

 

 最後に残るのは非力な私のほうがいいと考えているのだろう。残ったロープで弟を縛るよう、犯人は改めて私に命令してくる。このままではまたどんな脅しをされるか分かったものではなかったから、そっとロープを手渡してくる弟に促されて、私は渋々弟のことを後ろ手に縛り始めた。こんなやつの言いなりになるしかないことが悔しくてたまらなかったから、皆を縛り上げていった弟の辛さがいまや痛い程分かってしまった。だからせめてもの抵抗にと、少しばかり緩めに縛ってやることにする。手を抜いたと思われないギリギリの範囲でだが。

 

「俺達をどうする気だ?」

 

 私に縛られながら、なんとはなしに弟が犯人へと質問を投げかける。

 

「安心してくれ、殺しはしないよ」

 

 そうしたら、妙に柔らかい口調でそんな答えを口にしてきたものだから、私だけでなく他の皆も意外そうな様子で犯人の顔を見やってしまう。

 

「明日辺りにここへ荷物が届けられることになってるんだ。そいつを受けとりゃ、もう用は無いのさ。君達のそのロープはほどいてやれないが、俺がいなくなった後にでも自力でなんとかしてくれ」

 

 今後の予定についてそう皆に言い聞かせていく犯人。仮にこいつが噂の銀行強盗犯だったとしたら、その「荷物」とやらはもしや銀行から奪った金だったりするのだろうか? 警察が捜査の手を広げて血眼で下手人を追っている中、大金を持ち歩きながらその目をかいくぐっていくというのは如何にも骨が折れそうだ。東京からこの長野まで逃げ延びてくる間だけでも、奪った金を一旦手放しておきたかったのかもしれない。その為に宅配便を利用したってことも考えられる。実際のところは知る由もないし、真相を知ったところで何か意味がある訳でもないから、私としてはどうでもいいことなのだけども。

 ともあれさっきの犯人の口ぶりからすると、ひょっとしたら命だけは助けてくれる望みがあるのかもしれない。そんなふうに私の中で犯人の言葉を信じてしまいたい気持ちが湧き上がってくる。よく考えれば見えすいた嘘に決まっているのに、それでもこんな状況ではすがりたくなってしまうのだ。

 

「そんなこと言って、本当は俺達を始末するつもりなんじゃないのか?」

 

 だけどもそうした私の弱い心を一喝するように、弟が犯人へ鋭い言葉を投げかける。弟は犯人の語る甘い言葉などハナから信じちゃいないようだ。

 

「……確かに今まで人を殺したことは何度かあるが、カタギに手を出したことは一度もないんだ。本当だ、信じてくれ」

 

 そうして尚も皆を安心させるようなことを言ってくる犯人。

 ああ、そうか。分かったぞ。こいつは恐れているんだ。このままじゃ間違いなく殺されると思えば、誰だって死に物狂いで立ち向かっていくに違いない。この期に及んでまだ用心深さを見せる犯人が、そうした事態を警戒して私達の抵抗の意志を削ごうとしているのだ。

 

「よし、縛ったな……」

 

 弟を縛り終えるのを見届けた犯人が、こちらへと歩み寄ろうとしてくる。だけどもその足元にまとわりつくようにして、何も知らないジェニーがすり寄っていった。先程の騒ぎが起きてからまたどこかへ姿を消していたジェニーだったけど、しばらく様子を見て戻ってきたのだろう。犯人がうっとうしそうに足の先で追い払うような仕草をするのだけど、ジェニーはそれが分からないのか無邪気に甘えようとする。

 

(どうしよう、ジェニーが……!)

 

 悪魔のような犯人だったから、このままでは苛立ったこいつがジェニーに危害を加えるに違いない。慌てて私が呼びかけてみるのだけど、ジェニーは知らんぷりだ。

 

「まったく、妙に邪魔ばかりする猫だ……」

 

 ふっと笑った犯人が、意外なことにそっとジェニーを懐に抱き上げると、食堂のほうへと軽く放って素早くドアを閉めてしまった。

 

「ちょっとどいてろ」

「あ、は、はい……」

 

 こちらを振り返った犯人がそう言って手で払うような仕草をしてきたので、私は言われるままに後ずさる。それを見届けた犯人はやがて弟の背後へと回りこんでいき、ロープの縛り具合を確認し始めるのだった。

 

(ああ、そうか……だから猫の毛が)

 

 ジェニーを蹴飛ばしたりしなかったのは単なる気まぐれだったのだろうか。あるいは皆の目を気にしたからかもしれない。ともあれ何事もなくてほっとした私だったけど、ここに来て例のヤクザのコートのことを思い出してしまった。あのコートには、ちょうどさっき犯人がやってみせたような感じで猫を抱き上げたと思わしき痕跡があったのだ。

 おそらくジェニーは、夕食後に犯人が部屋の中であれこれ仕込みをしようとした際にもドアの前でにゃんにゃん鳴いて騒いでいたのだろう。そのことを不審に思われてはいけないと焦った犯人が、一応変装しておいたままの姿で廊下に出て、ひとまずジェニーをあの物置に放り込んでしまったに違いない。だからこそ、ジェニーはあんな所に閉じ込められていたのだ。

 

「こんな、ゆるくちゃ駄目だ。もっと離れてろ」

 

 どうやら私の縛り方に納得いかなかったらしい。犯人は拳銃を振って再びこちらへ指図してきたものだから、私は階段下の辺りまで後退させられる。そのとき足元に何かが当たったのでちらりと目をやってみれば、そこには弟が持ってきていたあのストックが落ちていた。

 

「これくらい……しておかないとな」

 

 やがて犯人は私に背を向けたまま、弟のロープをきつく縛り直し始める。手にしていた拳銃は腰のベルトに挟んでおいたようだ。

 

(これ、チャンスなんじゃね……!?)

 

 咄嗟にひらめいた私は、躊躇することもなく足元のストックをそっと拾い上げた。このままいけば、きっとみんな殺されてしまう。弟を縛り上げる犯人の姿を目にした瞬間、私の頭の中にそう遠くない最悪の未来のビジョンがほんの一瞬、だけどもぞっとするほど明確に浮かんできた。

 

()らなきゃ、()られる……ッ!)

 

 チャンスは犯人が前かがみで私に背を向けている今この瞬間しかない。そう思うのと、体が動き出すのとはほぼ同時だった。

 

(くそ犯人っ! 私の牙突を喰らいやがれ!)

 

 こいつのさきっぽでテメーのお菊さんを容赦なく貫いてやる。素早くストックを両手で構えた私は、犯人のお尻目がけて無我夢中で突きを放った。これまでの分の怒りも乗せた、全力の一撃だった。

 

(あっ……)

 

 そうして、犯人を悶絶させた隙に皆のロープを解いて全員で袋叩きにしてやるつもりだった。なのに、突き出した矛先は狙いが逸れて犯人の腰元の拳銃に当たってしまう。

 

(外したァ──!?)

 

 最後のチャンスだったというのに、とんだ大失敗だ。犯人の腰元から弾かれていった拳銃が固い音を鳴らして床に落ち、そのまま滑っていく。驚いた犯人がストックを突き出した姿勢のまま固まっていた私のほうを一瞬だけ振り返ったけど、拳銃を落としたことに気付いてすぐさまそちらへ飛びつこうと駆け出した。

 

「おごっ」

 

 途端、それに反応した弟が足で素早く妨害したものだから、犯人が受け身も取れず盛大にころんでしまった。ロビーに響き渡る程の大きな音が鳴ったから、どうやら顔面をしたたかに床へ打ち付けたようだ。そしたらすかさず弟が、拳銃の落ちていたところまで走り寄る。そうして今度は床に落ちていたそれを、足を使って器用に私のほうへと滑らせてきた。

 

「それ持って二階行ってろ!」

 

 硬直していた私だったけど、弟の声を受けて我に返ったものだから慌ててストックを放り投げ、手前に落ちていた拳銃を拾い上げる。それはずっしりと重く、うっかりしていたら取り落としてしまいそうだった。

 

「させるかぁぁ──ッ!」

 

 がばりと勢いよく上半身を起こしてこちらを振り返った犯人が吼える。私を逃がすまいとして、すぐさま立ち上がろうとしたのだ。その顔からは先程までの冷えびえとした鋭さが消え、代わりに赤熱するマグマのような憤怒の色がありありと浮かび上がっていた。その剣幕があまりにも獣じみていたものだから、ああやっぱりこいつは人間じゃないんだなと、そう思わずにはいられなかった。

 ともあれ拳銃を手に大急ぎで階段を上がろうとする私。だけども一段目で早速けつまづいてしまいそうになり、たまらずよろめいてしまう。極度の緊張のせいなのか、足が上手く動かせないのだ。

 

「がふぁっ」

 

 またしても犯人がうめき声を上げる。何かを盛大に蹴り飛ばしたような、凄い音がした。

 

「なにしてんだ! 早くいけ!」

 

 弟が改めて私にそう叫ぶ。

 蹴り飛ばしたのは弟だった。弟の足元で犯人が顔を押さえて膝をついている。後ろ手を縛られてはいたが、足が自由だった弟は犯人が立ち上がる前にその顔面へと強烈な蹴りを喰らわせてやったらしい。

 

(逃げなきゃ……っ!)

 

 モタモタしていて捕まったら、今度こそおしまいだ。

 手にした銃で戦ってみようかと一瞬だけ考えたりもしたけれど、すぐにその考えは打ち消した。銃なんて一度も撃ったことのない私だったから、こんなにも人の密集してるところで闇雲にブッ放しでもしたら下手すると関係ない人に当ててしまいかねない。

 果敢にも足技だけで立ち向かう弟の邪魔にならないように、犯人にまた人質にされてしまわないように、私は一刻も早くどこかへ避難しないといけないのだ。

 

「うおっ!?」

 

 そうして姿勢を取り戻した私は急いで階段をのぼり始めたのだけど、不意をつかれたような弟の声が聞こえたと思ったら、そのまま激しい物音がする。

 思わずそちらを振り返ってしまったが最後、私はもうそこから目が離せなくなってしまった。弟のやつがあおむけに床に組み伏せられて、犯人がその上へ馬乗りになっていたからだ。足技を厄介と見た犯人が弟を引き倒して寝技に持ち込んだ結果なのかもしれない。両手を縛られている弟だったから、それに抗う術はなかったのだ。

 

「かはっ……!」

 

 弟が声にならない悲鳴を上げた。犯人がその大きな両の手を使い、全身の体重を乗せるようにして首をグイグイと絞め始めたからだ。必死に抵抗する弟の足が激しく床を叩く。

 

「やめてぇ────!!」

 

 それを見たおばさんがたまらず悲痛な声で叫んだ。他の皆だって口々に怒声や悲鳴を上げている。もう私には考えている余裕などなかった。滑るようにして階段を下りていった私は、手にした銃を両手で構えてあらん限りの大声を張り上げる。

 

「なにしてんだテメェェェ! 撃つぞコノヤロ──ッ!」

 

 その怒鳴り声を受けて、犯人の動きがピタリと止まった。それに合わせて皆も一斉に口を閉じてしまったから、ロビーはしんと静まり返ってしまう。

 

「さっさと手ぇ上げろ! 殺されてーのかっ!?」

 

 喉が張り裂けそうだったけど、そんなの構うものか。銃口を犯人に向けつつ、ペンション中に響き渡る程の声量で私は威嚇してみせる。

 

「おっと。待て待て。落ち着けって」

 

 さっと弟の首から手を放してみせた犯人が、ゆっくりとこちらを向いて私になだめるようなことを言ってくる。弟の攻撃で鼻柱が折れでもしたのか、その口元は著しく血で汚れていたのだけど、さながら捕食中の肉食獣のようだ。

 圧迫から解放された弟が犯人の下で苦しそうに咳き込んでいる。弟は今、元々テーブルがあった場所で組み伏せられていたようだけど、その傍らでテーブルがひっくり返っていた。

 

「やめておけ、撃てる訳がない。おまえには無理だ……さっさとそれを返すんだな」

 

 ぷっ、と口に溜まった血を吐き捨てた犯人が、ひどく落ち着いた声色で話しかけてきた。その口調はどこか私に言い聞かせているようにも思えてしまう。

 

(この野郎、ナメやがって……!)

 

 場合によっちゃ本当に引き金を引く覚悟だって出来てるんだ。私をみくびるんじゃないぞ。そう心の中で言い返すのだけど、何故かこいつが「無理だ」と言ってくるだけで本当に無理そうな気がしてしまうから危険だ。

 

「さっさと立てよ……! こっちは本気なんだぞっ」

 

 ともあれ相手の言葉に耳を傾けまいと、私は銃で脅すようにして強い態度で命令してやる。だけども犯人はうすら笑いを浮かべたまま応じようとしない。

 念の為に拳銃の安全装置をちらりと確認してみたのだけど、それはきっちり解除されていたようだ。昔取った杵柄と言うべきか、かつては銃器に興味があった私だったから、この拳銃がなんていう名前で、安全装置がどの部分にあるのかといったことが大体分かってしまうのだ。

 

「ほう、じゃあ撃ってみるか? 俺じゃなくて弟に当たっちまうかもしれないぜ?」

 

 挑発するようなことを言って私をじっと見据えてくる犯人。

 

「素人がしっかり狙って撃つなんて、そうそう出来るもんじゃないんだ。狙いが外れてうっかり味方を殺しちまったやつを俺は知っている。きっとおまえだってそうなるに違いない」

 

 この距離なら外す筈がない。頭ではそう考えるのだけど、犯人の言葉はいやに説得力があった。

 

「俺が殺すんじゃない。おまえがその手で自分の弟を殺すのさ」

「う、うるせー! テキトーこいてんじゃねぇ!」

 

 聞いちゃいけない、聞いちゃいけない。こいつのペースに乗せられちゃいけないんだ。分かっちゃいるのに、手元が勝手に震えてきてどうにも狙いが定まらなくなってしまう。こんな調子で引き金を引いたんじゃ、本当に弟のことを撃ってしまいかねない。

 

「彼の首を絞めたりしたのは悪かった……ちょっと頭にきただけだよ。ほら、さっきから鼻血が止まらないんだ。こんなことされたら誰だって怒るだろう?」

 

 なにやら口調を柔らかくした犯人が、急にそんなことを言ってくる。それがどうにも気味悪くて、こちらが優位な筈なのにちっともそんな気がしてこない

 

「殺すつもりなんてない、本当だ。さっきみたいに抵抗されたら保証はしないが、出来れば誰も傷つけたくないんだ。頼むから大人しくしておいてくれよ。俺にこれ以上、皆を傷つけさせないでくれ」

 

 まるで私を説得でもするように、さもすまなそうな声と表情で語り出す犯人。

 

「ご主人の料理は美味しいし、奥さんも気が利いて優しい。可愛い猫だっている。いいペンションだよ……壊したくないんだ。馬鹿な相棒がここに泊まりたいって言った時に止めてりゃ良かった。ずっと後悔してるんだ」

 

 嘘だ! 嘘だ! こんなのハッタリに決まってる! 聞くんじゃないぞ、私。こいつの言葉に絡め取られてなるもんか。きっと弟だったら、犯人に何を言われたって全て突っぱねてみせる筈だ。

 ふと組み伏せられている弟に目を向けてみれば、苦しそうな様子で荒い呼吸を繰り返しながらも私のことをじっと見つめてきていた。「こいつの言うことなんか絶対に信じるな」と、弟の目はそう強く訴えてきているようだった。

 

「それに、君がこのまま俺を撃ったとしても間違いなく過剰防衛になる。日本の法律はややこしいからな……俺には皆をどうこうする気なんて本当に無いのに、それでも撃つってんなら君はきっと有罪になっちまうだろう。なんなら君のおじさんに聞いてみなよ。元弁護士なんだろう? その人」

 

 今度は法律のことまで持ち出してきて、私をどうにか懐柔しようとする犯人。こんなの脅しに決まってると思いつつも、不安になってしまった私は思わずおじさんのほうを見てしまう。

 

「どうなんだい? ご主人。無罪放免って訳にゃいかないよな?」

「……ああ、確かにそうかもしれん」

 

 おじさんは静かな口調でそう肯定してみせた。どうもマジみたいだ。こんなのってあるか! 悪いのは全部犯人なのに、私まで罪に問われてしまうだなんて。

 

「だから智子ちゃん、ちょっと下がってなさい」

 

 おじさんがそう言うやいなや、突然犯人に向かって駆け出した。それは一瞬の出来事だった。腕を縛られて俊夫さんと繋がれていた筈のおじさんが、両手を伸ばして犯人に勢いよく飛びかかっていったのだ。

 

「貴様っ!?」

 

 慌てて立ち上がろうとした犯人だったけど、そのままおじさんが犯人へと力任せに体当たりしたものだから二人してソファーのほうへと吹っ飛んでいった。そしたら今度は後を追うように俊夫さんが走り出し、床に落ちるモップを素早く拾い上げつつ犯人ともみ合うおじさんに加勢する。やっぱり俊夫さんも両腕がいつの間にか自由になっているようだった。見ればおじさん達がいた場所には切断されたロープの残骸が落ちていた。これはひょっとすると二人のうちどちらかが小さいナイフでも隠し持っていたのかもしれない。

 

「ねーちゃん! これほどいてくれ!」

 

 呆気に取られていた私だったけど、素早く自力で立ち上がった弟がこちらへ駆け寄り背を向けてくる。とにかくこの隙に弟の戒めだけでも解いてやらねばと、一旦銃をズボンのポケットに差し込む。

 

「だ、駄目! ほどけないよぉ!」

 

 だけども犯人のやつが念入りにきつく結び目を縛っていたからか、私の力ではびくともしないようだった。そのことを悟った弟が軽く舌打ちする。

 

「どっかに隠れてろ!」

 

 私のほうを一瞬振り返ってそう言い残した弟は、おじさん達に加勢すべく駆け出していく。下駄箱を派手に引っ倒してみせたりして狂ったように暴れまわる犯人に、おじさん達も手こずっているようだ。

 ぞっとしたのは、皆を相手に暴れながらも犯人が度々私のほうを凝視してきていることだった。どうにかして私から銃を奪い返したくて仕方がないのだろう。こうしてはいられないと、私は慌てて階段を駆け上がっていく。何がなんでもこの銃をあいつに奪われる訳にはいかない。このまま自分の部屋にでも籠城しておけば、きっとおじさん達があいつをやっつけてくれる筈だ。

 

「ヴォオオオオオオオオオオアアアアアアアアアア──ッ!!」

 

 まるでペンション全体が震えるような怒号が放たれたものだから、階段を上りきらないうちに私の体がびくんと硬直して足が止まってしまう。犯人が雄叫びを上げたのだ。だけどもそれはもう人間のものじゃなかった。けだものの咆哮と言ってよかった。

 馬鹿力で大きな下駄箱を抱え上げた犯人が、そのままおじさん達へと倒れ込むようにして前のめりで突進していく。木の爆ぜる音やら皆の叫び声やらがごちゃ混ぜになって、もう何がなんだか分からなくなる。

 

(逃げなきゃ……! 隠れなきゃ……!)

 

 死に物狂いで暴れる犯人のせいで、ロビー内はもう乱戦の場そのものだ。いつなんどき犯人がこちらへやってくるか分からないのだから、止まっている場合ではなかった。そうして前に向き直った私は足に力を込めて再び階段を駆け上がっていく。だけども今はその一段一段が、おかしいぐらいに長く感じられて仕方がない。意識ばかりが加速していくけれど、まるで鉛のように重く感じられる足の動きがそれに追いついてこない。早く、早くこれを上り終えなければ。廊下に出るまであと三段、あと二段、あともうちょい……。

 そうしてようやく上り終えたその時。誰かが猛烈な勢いで階段を駆け上がってくる音が聞こえた。それが誰なのかなんて振り返らなくても分かる。だけども私は振り返らずにはいられない。案の定、階下から迫ってくるのは犯人のヤローだった。顔は血まみれで、獰猛そうな歯がくいしばるようにむき出しになっている。ぎらついたその目は大きく見開かれ、目玉が今にも飛び出してきそうだ。そこにいたのは一匹の魔物だった。その魔物が今、私めがけて突進してきているのだ。

 今から部屋へと逃げ込む余裕はあるだろうか? その前にこの怪物が私に喰らいついてくるのではないだろうか? そうした思いがよぎった途端、私の手はひとりでにポケットの拳銃へと素早く伸びる。拳銃を抜き出し、両手で構えるまでの動作は自分でも驚く程にスムーズだった。もうやるしかないと、たった一つの思考だけが私を支配した。ここでヘマをすることが私のみならず他の皆にどういう結果をもたらすのか、考えるまでもなかったからだ。廊下の壁にそっと背を預け、まばたきもせず眼前の魔物に狙いをつける。

 ──ねーちゃん、と階下から弟の叫ぶ声が聞こえた気がした。

 

(待ってな、いま姉ちゃんがこいつをやっつけてやるから)

 

 私は迷うことなく引き金を引く。まさか撃たれるとは思っていなかったのか、驚きのあまり魔物はその直前に人間へと戻っていた。あっと口を開けた間抜けな顔で、後ろへのけぞりながら両手で待ったをするような仕草をしていた。

 耳をつんざく破裂音が二階の廊下中に響き、一気に銃口が跳ね上がった。のけぞる犯人は、そのまま盛大に階段をずてんどてんと転げ落ちていく。おかしな姿勢で階段下に倒れ込んだ犯人は、目を閉じてぴくりとも動かなくなったようだ。それを見届けた私は、やがて力なく銃口を下ろすとそのまま廊下にへたり込んでしまった。

 

 ◆

 

 階段下の犯人は、やがて誰かによって引きずられていったようだ。ロビーのほうから皆の話し声が聞こえてくるのだけど、今はその音がとても遠く感じられる。吹き抜けから下を覗き込んでみれば皆の様子が見えるのだろうけど、立ち上がる気力もなかったから私はずっとぼんやりしたままだ。おじさん達はどうなったのだろう。弟のやつは無事なのだろうか。

 

(さむ……)

 

 冷たい床に座り込むうち、体が随分冷えてきた。ヤクザの部屋から漏れ出る冷気のせいもあるのだろう。

 

(ああ……あいつ、死んだのかな)

 

 疲れた頭でそんなことを考える。さっき私は犯人のやつを撃ってやったのだ。あいつはあの後ぴくりとも動かなくなってしまったから、きっと本当に死んでしまったのかもしれない。

 

(殺しちゃった……)

 

 仕方がない。ああするしかなかった。指が硬直しているせいなのか、いまだ手にしたままの拳銃は呪いがかかったように私の手から離れてくれない。こんなものでもあれば、私のように非力な人間でも簡単に人が殺せてしまうのだ。

 

(私、人殺しになっちゃった……)

 

 だけども、いい。それでもいいんだ。みんなの命が助かったのだから、私のやったことは間違っちゃいない。逆上して弟のことを手にかけようとした犯人、あんなやつは死んで当然の人間だった。そう自分に言い聞かせ続けないと、私は自分の心が今すぐにでも何かに押しつぶされてしまいそうな気がしてしまう。

 と、誰かがゆっくりと階段を上がってくる音が聞こえてくる。顔を上げてみれば、ロープをほどいてもらったらしい弟のやつがこちらへやってくるのが見えた。

 

「ねーちゃん……大丈夫か?」

 

 私の前までやってきた弟は、膝をついて私と目線を合わせてくる。犯人との戦いの激しさを物語るように、顔のあちこちにすりきずや打撲のあとが残っていた。

 

「あ、うん……大丈夫」

 

 私は気の抜けたような声でひとまず応えてみせる。言いたいことが色々あったように思うけれど、全部忘れてしまった。

 

「ともき……」

「どうした?」

 

 意識せずして弟の名を口にしてしまう私。そうしたら、弟は次に私が何を言い出すのだろうかと神妙な面持ちで耳を傾けてくる。こっちの話をしょっちゅう無視してきやがる弟も、今度ばかりは姉の言うことが気になって仕方ないようだ。

 

「私がムショに行っても、ちゃんと元気でやるんだぞ」

「……なんだって?」

 

 さっきまで言いたかったことを忘れた代わりに、新たに言ってやりたいことが湧き上がってきたものだから、私はそれを口に出す。だけども私の言葉がイマイチ理解出来ないのか、弟が聞き返してきた。

 

「姉ちゃんがいなくても落ち込むんじゃないぞ。たまにゃ手紙とかも書いてやっからさ」

「おい、ちょっと待て」

 

 時間があれば面会にだって来ればいい。別に毎日来てくれたって構わないけど、こいつにも部活やら勉強やら色々やらんといけないことがあるだろうから仕方がない。

 

「そうだ……私の部屋のぬいぐるみ、あれおまえにやるよ。姉ちゃんの匂いがするから寂しくないだろ?」

「待てって。落ち着け。何言ってんだ?」

 

 益々訳が分からないといった顔をする弟だったけど、私も自分が何を言ってるのかよく分からなくなってきた。

 

「だって私、人殺しだし。警察に捕まるし」

「……」

 

 私は今まで自分の人生が面白みに欠けたつまらんものだと思っていた。平凡でありきたりどころか人よりも少々潤いや彩りが不足気味の不公平な人生だと思っていた。だけども、そうした生活も今となっては高嶺の花だ。例え相手が凶悪犯罪者だったといえど、殺人の罪を犯してしまった私があの日常に帰ることはもう出来ないのだ。

 

「ごめんな。ずっと一緒にいてやりたかったけど、もう無理みたい」

 

 これからの弟のことが心配でならない。お姉ちゃん子なこいつのことだから、きっと目に見えて憔悴してしまうんじゃないだろうか。私が弟についててやらないと駄目なのに。ずっとずっと傍にいてあげないと駄目なのに。姉としての責務をまっとう出来ないまま、弟と離れ離れになってしまうことが無念でならない。

 

「ねーちゃん、なに勘違いしてんだ?」

「……へ?」

 

 だけども弟は、訝しげな様子でそんなことを言ってくる。勘違いって、なにが勘違いなの?

 

「あいつ、別に死んじゃいねーぞ」

「お?」

 

 どうも弟のやつは、犯人が死んだ訳ではないと言っているようだ。そんなまさか。姉ちゃんを安心させようとして嘘を言っているんだろう。

 

「でっ、でもっ! わ、私、う、撃っちゃったし!」

「いや、当たんなかったんだろ? ほら、あそこ……」

 

 弟がそう言って吹き抜けの天井のほうを指さす。そちらによくよく目を凝らしてみれば、確かに小さな穴のようなものが空いているのが見えた。もしかすると私の撃った銃弾はあんな見当違いの場所に飛んでったというのだろうか。

 

「え……? え……? で、でもあいつ、なんか死んでたっぽかったけど……」

「頭打って気絶してただけだよ。ふつーに息もしてた。どこも撃たれてなんかいなかったぞ」

 

 素人が狙って撃つなんてそうそう出来るものじゃない。まったくもって犯人の言う通りだった。てっきり私が射殺してしまったものとばかり思い込んでいたが、どうもマヌケなあいつが自爆しただけということらしい。

 ああ、ひどい冗談だ。なんて馬鹿な話なんだろう。こっちはもう人生終わりだと思って絶望してたってのに、全部私の勘違いだったなんて! 疲労感が全身にどっと押し寄せてくる。

 

「あ、これ……手から取れなくなっちゃって……」

 

 気が抜けたせいか片方の手は拳銃から剥がれたのだけど、もう一方の手はグリップを握りしめたままひどく硬直していたから自力ではどうにもならなかった。だから私はひとまずセーフティレバーを下げておいてから、弟に銃を握ったままの手を差し出した。ひっぺがすのを手伝ってほしいのだ。

 こちらの言いたいことを察した弟が、早速私の手を取ってその指を一本づつゆっくりと開かせていく。やがてすっかり指が離れたところで、弟はそっと拳銃を取り上げて床に置いてみせた。

 

「は────……」

 

 そのことが切っ掛けになったのか、ここで私はやっと安堵のため息をつくことが出来た。今ようやく心の底からほっとしたのだ。そうしたら、なんだかもう体に力が入らなくなって弟にしなだれかかってしまう。すかさず弟が抱きとめてくれたような気がしたけど、私はそのまま眠り込むように意識を失ってしまった。

 

 ◆

 

 ウーウーと外から聞こえるけたたましいサイレンの音で私は目が覚める。どうもふかふかのベッドの上で寝かされていたらしい。窓のほうに目を向ければ、外はすっかり明るくなっていた。

 

(吹雪、やんだのかな……?)

 

 いまや嵐は過ぎ去ってしまったようで、あれだけペンションを包み込んでいた風切り音はもう全く聞こえなくなっていた。どこからかドサドサっと雪の落ちる音が聞こえてくる。

 

(おっ……)

 

 ふと隣側のベッドに目を向けてみれば、そこには弟がいた。布団も被らずベッドの上で身を起こしたまま、弟が腕組みしながら静かに寝息を立てていた。

 

(ずっと見張っててくれたのかな?)

 

 なんとなく私はそう思ってしまった。ひょっとしたら弟はこうして寝ずの番をしていたのかもしれない。あれから結局どうなったのか私には分からないのだけど、ひとまずこの分だと大丈夫そうだ。

 やがてサイレンの音が鳴り止んで、バタリ、バタリと何台かの車のドアを閉める音が聞こえてきた。警察がやって来たのだ。早速何人もの人達の雪を踏みしめる足音がし始める。

 

(あ、起きた)

 

 外の騒ぎに気付いたのか、弟が目を覚ましてしまったようだ。やがて私のほうを振り向いたのだけど、こちらを見つめたまま寝ぼけまなこでぼうっとしている。

 弟が目を覚ましたら、言ってあげたいことがあった。ごくごく平凡な、だけどもいつもの私達らしい言葉を。大切な大切な、二人のいつもの日々にかかせない挨拶を。

 

「おはよう、智貴」

 

 それは、私達をあの愛すべき日常へと連れ戻してくれるおまじないの言葉なのだった。

 

 

黒木姉弟シュプールへ行く 完



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【クロス】岸辺露伴は動かない 蠱惑の人

荒木飛呂彦先生の漫画『岸辺露伴は動かない』とワタモテのクロスオーバーです。

★イラスト
こちらはジョナさん様の描かれた作中のワンシーンのイラストです。
作者様に快くご許可頂けましたのでこの場を借りてご紹介させて頂きます。
https://twitter.com/watamaonsen/status/992432899382067201


 突然だがぼくの名前は岸辺露伴(きしべろはん)──漫画家だ。いま二十七歳で、デビューから大体十一年目ぐらいになる。

 君が『少年ジャンプ』の読者なら(あるいはそうでなくとも)、『ピンクダークの少年』という作品を目にしたことはあるだろうか? それこそがぼくのデビュー作にして代表作だ。まあ他にも色々描いてるんだが、とりあえず一番の有名どころと言えばこれかもしれないな。

 漫画家であるぼくは「リアリティ」こそが面白い作品を描く上で最も重要なことだと考えている。作品にリアリティがあるとないとじゃあ大違いだからな……。少なくともぼくはこれまでの漫画家人生において、そこのところを大事にしてきたつもりだ。

 で、リアリティのある漫画を描こうと思ったら何と言っても取材が欠かせない。題材に関する資料をあれこれ漁るってのもいいが、やはり一番は自分自身で取材対象を直接「体験」してみることだ。こうした取材の為の労力をぼくは惜しまない。ひとたび漫画の題材になりそうなネタが決まれば、あとはひたすら取材を重ねて創作に必要なリアリティを集めていくって訳さ。

 これから紹介するエピソードは、そんな取材活動の中でつい先日ぼくが体験したある出来事についてだ。この話には【黒木智子(くろきともこ)】という一人の女の子が出てくる。この子こそがぼくの取材対象であり、思いがけず遭遇したあまりにも奇妙過ぎる出来事の渦中にいた人物だったんだが──。

 

 ◆

 

 黒木智子の存在を初めて知ったのは一年と半年ぐらい前のことになる。当時ぼくは連載している漫画誌のイベントに呼ばれてたまたま彼女が通う学校の近くに来ていたんだ。その時に催されたサイン会にやってきたのが彼女だったのさ。

 彼女はぼくのサインを貰う為に列の最後尾に並んでいたんだが、その時にプレゼント用の色紙(複製品だがぼくのイラスト入りだ)が手元に足りなくなってしまう手違いが起きた。といっても予備の色紙ぐらいはどこかにあるだろうからスタッフに持ってこさせようとしたんだが、それを待たずに彼女は一言断りを入れるとそのままどこかへ去ってしまったんだ。

 よほど急ぐ用事でもあったのか、あるいは面倒になったのか。いずれにしてもぼくはそんな彼女の態度にちょいとばかり納得がいかなかった。わざわざ抽選に応募してまでサイン会の参加権を獲得したってのに、あっさりそれをふいにしちまうんだぜ? これじゃあ当選できなかった他の応募者(きっとそいつはぼくのサインが死ぬほど欲しかったに違いない)が気の毒というものだ。それにこの岸辺露伴がたかがサインごときでヘマをやったのだと、万一にも彼女に誤解されてしまうのは嫌だからな。

 だからぼくはスタッフがようやく持ってきた予備の色紙を受け取ってからすぐさま彼女を探しにいった。彼女以外の希望者にはもう全員サインをくれてやっていたから、ちょっとばかし席を外したって問題はない。そうしてしばらく会場を見回っていたら人気の無い場所でぼんやりしていた彼女を見つけたんだが、こっちが声をかけた途端に随分と萎縮した様子で視線を泳がせ始めた。どうもぼくが追いかけてきた理由が分からなくて困惑していたようだったから、持ってきた色紙にさっさとサインを書いて差し出してやったのに……彼女ときたら変に遠慮して受け取ろうとしないんだぜ。

 ぼくだって暇じゃあない。さっさと色紙を渡してサヨナラしたいと思っていたんだ。だからもたもたしている彼女のことが、ほんのちょっとだが面倒になってしまった。その面倒を手っ取り早く解決する為にぼくは彼女へ「命令」することにした。なんのことはない、ただ色紙を大人しく受け取ってくれればいいと、たったそれだけのささやかな命令だ。

 ことわっておくが、この時ぼくにそれ以外の意図はまったく無かったと言っていい。命令するついでに彼女の生い立ちから何からを全て暴いてやろうだなんて、予めそんなことを企てていた訳じゃない。彼女にそうするだけの価値があるだなんて、少なくともこの時点まではこれっぽっちも思わなかったからな。「今こいつ何考えてんのかな」と、ほんの軽い気持ちで確認したくなったのは本当に単なる気まぐれに過ぎなかった。ぼくが何を言ってるのかよく分からないかもしれないが、この辺りのことは後で説明しよう。ともあれちょっとしたきっかけからぼくは彼女の人となりを嘘偽りない形で知るチャンスを得たという訳だ。

 この先の展開を話すと少し長くなるからもうオチを言ってしまうが、結果としてぼくは彼女に対する認識を完全に改めることとなった。どんくさそうなやつだとか、ネクラそうだとか、そうした最初の印象は吹き飛んでしまった。いや、彼女は確かにちょっとどんくさいところがあるしネクラっぽい性格をしているのも事実だ。しかしそうした部分も、この黒木智子という非常に興味深い内面性を抱えた人物がそなえるひとつの立派な個性であると考えれば途端に輝かしく感じられてしまう。

 ぼくは日頃から漫画の題材として活かせそうなネタ集めに余念がないんだが、彼女の豊かな内面世界はそうしたぼくの好奇心を十二分に満足させるものだった。最高のネタをつかんだと、そうした歓喜が湧き起こった。数年に一度あるかないかの手応えを確かに感じさせられたんだ。取るに足らない凡俗さがありつつも、同時にどこかファンタスティックな性質をそなえている黒木智子。そんな彼女の劇的でこそないが哀愁とユーモアに満ちた日々の生き様は、それを目の当たりにした者の心に波風を立たせずにはいられないだろう。彼女のように類まれな個性を持った人物を漫画に登場させれば、きっと読者から愛されるキャラクターになるとぼくは思った。万人には受けずとも、必ずや一部の人々の心を鷲掴みにする筈だと。

 ともあれこれがぼくと黒木智子の最初の出会いだ。彼女はその後、搾り出すような声で御礼の言葉を呟くとぼくから受け取った色紙(余白のところに彼女の名前と似顔絵も描き足してやった特別仕様だ)を大事そうに抱えてその場からそそくさと去っていった。また機会があれば彼女に会いに来てみようと思いつつも、既にぼくの頭の中では新たな漫画の構想が渦巻いていて、早く仕事場に帰りたくて仕方がなくなっていたものだ。

 さて、いよいよ本題に入ろう。さっきも言ったと思うが、ぼくがつい先日遭遇した奇妙な出来事についてだ──。

 

 ◆

 

「そろそろかな」

 

 歩道橋の柵に体重を預けていたぼくは、間延びしたメロディが聞こえてきたのを合図に双眼鏡を構えた。それでどこを覗くかといえば、歩道橋から少し離れた先にある高校の校門前だ。この高校は〈原宿(はらじゅく)教育(きょういく)学園(がくえん)幕張(まくはり)秀英(しゅうえい)高等(こうとう)学校(がっこう)〉という長ったらしい名前をしていて、千葉の幕張辺りにある。ここには例の黒木智子が通っていたから、この日のぼくは久しぶりに彼女と会う為に待ち伏せしていた。前回会った時に色々知ることが出来たと言ってもぼくはまだ彼女の全てを理解した訳ではなかったし、彼女はきっとあの後もまた色々と興味深い経験を重ねてきたに違いないから、新たなネタを提供して貰う為にコンタクトを取るつもりだったんだ。

 ともあれ放課後の訪れを告げるチャイムが鳴り終わってからしばらくすると下校する生徒達がぽつぽつと現れ始めたので、その中に目当ての人物が紛れ込んでいないかとぼくは注意深く目を凝らした。

 

「いたぞ、黒木智子だ!」

 

 ぼくが双眼鏡で捉えたのは、ある一人の女子生徒だった。もっさりとした長い黒髪と、猫背気味の姿勢。あまり生気の感じられない青白い顔と、どこか空虚さを感じさせるうつろな表情。それでいていやに主張してくるあのうらめしそうな目つき。以前イベントで会った時と全く変わらないその独特の風貌を見間違えるはずもない。彼女こそはぼくが再会を心待ちにしていた人物であり、遠路はるばる千葉まで赴いて取材を申し込むつもりの相手だったんだ。

 タイミング悪く風邪か何かで欠席してるのではという心配なんかもあったが、どうやらこの日はちゃんと登校していたようでぼくは安心した。もっと言えば不登校になってしまってる可能性なんかもあったから、その時は直接彼女の自宅を訪ねてみるつもりでいたんだが。

 

「なるほど、あれが彼女の友人って訳か……」

 

 もしかしたら今でも毎日一人ぼっちで下校しているんじゃないかと思っていたが、彼女は友人と思わしき他の女子生徒達と連れ立って歩いていた。この少し前に荻野(おぎの)とかいう教師から()()()()()()()とおりだった。たいへん意外なことではあるが、クラスで孤立していた彼女にもどうやら無事友人ができたということらしい。

 ああそうだとも、黒木智子ってやつは元々学校に友人が一人もいないような孤独な生徒だったんだ。

 

「あっちのおさげが『田村(たむら)ゆり』で、その隣のショートヘアは『田中真子(たなかまこ)』か。『吉田茉咲(よしだまさき)』は……いないようだが」

 

 いま名前をあげた三名はいずれも黒木智子と親しい付き合いをしているクラスメイトで、このうちの二人は彼女が去年参加した修学旅行にて同じ班になったことが縁の始まりだ。

 どうしてそんなことをぼくが知っているかだって? さっきも言ったじゃないか。荻野っていう教師に教えてもらったんだよ。そりゃあもう「詳しく」ね。校門の近くをうろついてたらそいつが学校から出てきて「何か用か」って話しかけてきたから、丁度いいやと思って黒木智子のことを尋ねてみたんだよ。そしたら自分は彼女の担任だって言うから、こりゃラッキーだと思って知ってる限りのことを手早く教えてもらったんだ。

 いやいや、この担任はなにも守秘義務を放棄してぼくのような部外者にペラペラと教え子のことをしゃべったって訳じゃない。ぼくには自分の知りたいことを他人からこっそり引き出すちょっとした「才能」があるんだ。だからこの担任はぼくに情報を与えてしまったことをそもそも認識しちゃいないのさ。

 

「む、あの生徒……」

 

 そんなこんなで黒木智子ご一行の動きをレンズ越しに追っていたぼくだったけど、ふとあることに気付いた。歩道橋の上から遠目に見ていたぼくだからこそ分かったことなんだが、どうも妙なやつが彼女らのあとをつけているようだった。黒木智子と同じ学校の女子生徒のようだったんだが、うまいこと物陰に隠れたりなんかして彼女達に見つからないようにしてるそいつのことがぼくはとても気になってしまった。だからつい好奇心が湧いてそいつの様子をしばらく観察してしまったんだ。

 

「おっと……!」

 

 そしたらそいつが急にぼくのほうを見上げてきた。勘がいいのか、ぼくが遠くから見ていたってことに気付いたんだろうな。自分の妙な行動を見られてしまってばつが悪くなったのか、この女子生徒は慌てた様子で校門のほうに引き返すとそのまま姿を見せなくなってしまった。

 

「なんだぁ、あいつは……? 黒木智子の友人なのか?」

 

 担任から引き出した情報の中には、このような友人のことは含まれていなかったように思う。あの担任が黒木智子の友人候補と目していた「根元陽菜(ねもとひな)」かとも思ったが、それにしちゃ特徴が一致しなかった。

 どこかに隠れて出てこなくなったこの女子生徒のことは気になったが、この日のお目当てである黒木智子のことを思い出したぼくは改めて彼女の姿をもう一度探し始める。そしたら彼女はいつの間にかぼくがいた歩道橋の下をも通り過ぎて随分先へと行ってしまっていたようだった。どうやらこの時のぼくは件の謎の人物にすっかり気を取られてしまっていたらしい。

 

「まずいッ、電車に乗られてしまうぞッ!」

 

 本当は道すがら彼女にさりげなく声をかけてみるつもりだったんだが、うっかりその機を逃してしまったみたいだった。黒木智子が向かっている先には、この近辺の学校の生徒達が普段通学に利用している駅がある。時計を確認してみれば、彼女がいつも下校時に乗っている電車の発車時刻が迫っていたので少し慌てたよ。まあちょいと走っていきゃあ追いつけるだろうからと、ぼくは一旦歩道橋を下りるべく急いで階段のほうへと向かったんだが……。

 

「おじさん……見てたでしょ、さっきあいつのこと」

 

 その階段から急に現れた人物のせいで、ぼくは立ち止まらざるを得なかった。そいつは少し前に見失った筈の例の女子生徒だったんだ。開口一番、彼女はいきなり詰問してきた。

 

「……なんだい君は。いきなり何を言ってるんだ? 悪いがちょっと急いでるんだ」

「とぼけないでよ! さっきあんたがその双眼鏡であいつのことジロジロ見てたって知ってるんだからッ!」

 

 こいつは面倒なことになったぞと、ぼくは思った。何故かこの妙な女子生徒は、明らかにぼくが黒木智子を観察していたことを見抜いていてそれを追及してきたんだ。うまく誤魔化せないだろうかとも思ったが、この時の彼女の様子だとそれも難しそうだった。だからここは手っ取り早くお帰り頂く為に「命令」することにしたのさ。

 

「ヘブンズ・ドア────ッ!!(天国への扉)」

 

 そう叫んだぼくの体からシルクハットを被った白い少年が飛び出し、そのまま目の前の女子生徒へと向かっていく。そうして少年の指先が彼女の顔に触れた途端、その表面がまるで本のページのように次々とめくれ始める。そのまま彼女は気を失い、倒れこんでしまった。

 

「さて、と……」

 

 女子生徒のそばにしゃがんだぼくは、おもむろに懐から愛用のペンを取り出してすっかり本と化した彼女の顔に字を書き込む。『今日は岸辺露伴のことを忘れてさっさと帰る』と、そう書いてやったんだ。

 これこそがぼくなりの「命令」の仕方さ。こうして他人の体を本みたいにして、そのページに命令を書き込めばそれが例えどんな内容だろうと相手をその通りに操ってしまえる。そうした特異な才能がぼくには備わっているんだ。ついでに『岸辺露伴はまだ二十七だからおじさんじゃない』とも付け足してやったからな。

 

「それはそうと……こいつ、一体何者だ?」

 

 早く黒木智子の後を追わないといけないのに、ぼくの持ち前の好奇心がうずいてしまった。いきなり突っかかってきたこの奇妙な女子生徒に興味が湧いてしまったんだ。だからぼくは、その顔面のページをつい()()()()()()()

 

「ふむ……名前は『内笑美莉(うちえみり)』……誕生日は○月○日で平成○年生まれ……学年とクラスは三年四組……」

 

 そうしてぼくはこの内笑美莉なる女子生徒のプロフィールを次々に調べあげていく。なんのことはない、彼女のページにそうした情報が()()()()()から、ぼくはただそれを読むだけでいい。本と化した彼女の顔には他にも自身のこれまでの生い立ちや日々の生活ぶりなんかが嘘偽り無く記載されている。

 少し前の話で「説明しよう」と言っていたのはこのことさ。ぼくには他人に命令を書き込むだけじゃなく、こうして相手の過去の記憶を読み取る力もあるんだぜ。この能力を使って、ぼくはかつて黒木智子に関する様々な情報を彼女自身から得ることが出来たって訳だ。

 

「ン? こいつ、やはり黒木智子の知り合いか……!」

 

 特に面白味もなく普通過ぎる彼女の人生だったが、ぼくに突っかかってきたことからしておそらく黒木智子の知人か何かではないかと睨んでいた。その推測どおり黒木智子に関する記述が出てきたものだからぼくは目を見張ってしまった。さて一体どんなことが書いているのかなと目を凝らしてみたんだが……。

 

『私は黒木のウンコを食べてしまった。あいつのウンコは()()()()()

 

 ぼくは目を疑ったね。冗談じゃなくマジにこんな下品なことが書いてあったんだぜ。ぼくの能力〈ヘブンズ・ドアー(天国への扉)〉は嘘偽りない真実を暴きだす。だから彼女の顔に書いてあったことは全て本当のことなんだ。信じられないことだったが、この内笑美莉は実際にそういう体験をしたらしい。

 

「なんだこいつ……黒木智子とは一体どういう関係なんだ?」

 

 内容の下品さはともかくとして、彼女に益々興味が湧いたぼくは他にも黒木智子に関する記述がないかとページをめくっていく。そしたら次々とその手の情報が見つかった。

 

『せっかくの修学旅行なのにろくな班員がいない。偏屈者の田村と、不良の吉田。あと黒木とかいうちょっとキモい感じがするぼっちの子だ。あーあ、みやちゃん達と一緒の班がよかったなぁ』

『修学旅行で黒木と相部屋になった時、あいつが私のパンツを盗もうとした。シャワー浴びてるところをこっそり覗いてきたし、夜中に襲われそうになった。こんなこと人生で生まれて初めてだ。気持ち悪っ!』

『チアダンスの練習をしていたら、私をつけ回していたあいつがスカートの中を覗いてきた。それだけじゃなく、私をおかずにしてごはんを食べていた。キモいキモい!』

『黒木は可愛い女の子に目が無い。私のことを性的な目で見てくるし、他の子達にも次々と手を出している。なんて恥知らずなんだろう』

『卒業式で黒木が三生の可愛い先輩と人目も気にせず女同士で抱き合っていた。あの先輩は確か以前生徒会長をしていた今江(いまえ)とかいう人だ。きっと二人して最後の性を楽しんでいたに違いない。きもいきもい……』

『黒木が遠足で色んなタイプの女を引き連れていた。節操のないあいつを私が見張ってあげなくっちゃいけない。ぼっちの癖して女の子から人気があるもんだから、すっかり王子様気取りになっちゃってキモ』

『離れていても心はつながってるって思っていたのに、そんな私の気持ちを黒木は裏切った! ちっぽけなキーホルダーひとつで浮かれていた自分が馬鹿みたい!』

『最近黒木にちょっかいをかけてるあの加藤明日香(かとうあすか)が私から黒木を奪う!』

『こないだ黒木を見張っていたら、新入生の可愛い子に早速つばをつけていた。あの新入生……平沢雫(ひらさわしずく)は要注意だ。ちょっとばかり黒木に目をかけて貰ったぐらいで調子に乗ってるフシがある』

『私のことをちゃんと見てくれない黒木のことが恨めしい。私はいつもあいつのことを見ているのに、あいつときたら私の体だけが目当てなんだ。私がいつもどんな思いでいるのかなんて、きっと知りもしないのだろう』

 

 まさに黒木智子づくしだった。一部意味不明なところもあるが、どうもある時期を境に内笑美莉の記憶は黒木智子に関する事柄で埋め尽くされるようになっていたんだ。尋常でない「執念」のようなものを感じさせられて、少しばかりだがゾッとしたよ。

 

「信じられない……! あの黒木智子が今こんな風になっているというのか……?」

 

 黒木智子が時折同性に対して性的興味を抱く人間であるということをぼくは既に知っていたから、その点について今更驚きはしない。中学生の頃から付き合いのあるたった一人の親友「成瀬優(なるせゆう)」へ度々セクハラ行為に及んでいたことだって知ってるぞ。

 が、孤独の人だったあの黒木智子がいつの間にやら周囲の人間達から随分と慕われるようになっていたことにぼくは驚きを隠せなかった。まさかあの彼女がって気分だ。二、三人程度の友人が出来たというならまだ分かるが、内笑美莉の記憶を読む限りではいまやすっかり学年問わずちょっとした人気者のようだった。

「加藤明日香」ってのはクラスメイトから一目置かれてるマドンナのような存在らしいんだが、そんな人物までもが黒木智子に興味を抱いてるみたいなんだぜ。

 

「いや、それよりもこの内笑美莉……明らかに黒木智子に執着しているとしか思えないッ!」

 

 しかしそれ以上に困惑させられたのは、そんな黒木智子に対して並々ならぬ関心を抱く内笑美莉自身のことだった。昼食後にはいつも学内のどこそこで休憩する習慣があるとか、意外に綺麗で可愛らしい字を書くだとか、彼女のページには黒木智子に関する事細かな情報までもがみっちりと記載されていたんだ。

 一体何が彼女をここまで突き動かしているというのだろうと、ぼくは不思議でならなかった。だからその原因を突き止めるべく、無我夢中で彼女のページを読み続けた。そうしてあるページを開いたところでぼくの手はぴたりと止まってしまった。妙なページがあったからだ。普通は様々な記憶の断片がスクラップ記事みたくページのあちこちに載ってるものなんだが、そのページだけは違っていて、たった一言ドデカい字でこう書かれていた。

 

『私は 黒木智子に 蠱惑(こわく)されている』

 

 こんな風にページの全面を使って書かれている内容は、大体が本人にとってよほど強い記憶や考えだったりするんだが、そうすると内笑美莉にとってこの記述は非情に重要な事柄だってことになる。

 

「蠱惑……? 魅了して夢中にさせるとかっていうあの『蠱惑』のことか……?」

 

 額面通りに受け取るのなら、つまり内笑美莉は黒木智子にすっかり夢中なんだろうかとぼくは考えた。これこそが黒木智子に向ける激しい情念の理由なのだと。

 

「好きってことなんだろうか……内笑美莉は、黒木智子を愛してしまっている……?」

 

 そう考えると全てに合点がいく。彼女がやたらと黒木智子に詳しいのも、その周囲の人間に嫉妬めいた感情を向けているのも、全ては黒木智子への愛ゆえなのだと。下校中の黒木智子とその友人らを尾行していたのも、想い人に対する抑えきれない思慕の念から出た行動なのかもしれない。どうもこのようなことは今の内笑美莉にとって日常茶飯事らしいからな。

 が、それにしたってやはり意外だった。あの黒木智子にこれ程までに熱烈なファンとでもいうべき存在がいるだなんて、それまでのぼくにはとても想像出来なかったのだから。確かに彼女は人間的魅力を内に秘めてはいるが、それでも普段は周囲の人間達から無視されるような存在感の薄い人物だったというのに。現にこの内笑美莉だって、最初の頃は彼女のことを軽んじていた筈だ。

 その疑問に対する答えが知りたくて、ぼくは更に内笑美莉のページをめくってみた。どんどん読み進めていけば、やがて本人が意識していないような深層心理の動きまでも分かってしまうのがこの能力のスゴいところだ。

 

『蠱惑の秘密を探ることを禁ずる。この禁を犯す者には報いを与える』

 

 そうしてページをめくり続けていったところで、突然こんな文面が目に飛び込んできたから心臓が踊ったよ。またもやページ一面にでかでかとした文字でそれは書かれてたんだが、まるでこの時のぼくの気持ちを見透かしたような内容だったんだ。

 

「オイオイオイオイ、なんだァ~これはッ!?」

 

 まるでこちらに向けて警告するかのようなそのページを前にして、ぼくは一気に警戒心が湧いてきた。こんなことは本来ある筈が無いからだ。記憶を読まれている当人が、そのことを認識してこんな風に反応してくるなんて余程特別な場合を除いてはあり得なかった。

 

「内笑美莉の意識ではない、別の『何か』が働いているのか……?」

 

 そんな考えが浮かんできたものだから、何かちょっとヤバい感じがしてきたんだ。ぼくがこの警告を無視して秘密を探り続けたら何かが起こるような、そんな予感があった。

 君ならどうするだろうか? 大人しくこの得体の知れない警告に従って、これ以上ページを読み進めることを断念してしまうだろうか?

 

「だが断る。秘密があるってんならそいつを暴いてやろうじゃないか」

 

 勿論ぼくは警告に屈しなかった。こんな脅し文句でぼくを止められると思っているのなら、そいつはマヌケだ。その辺の一般人ならここでビビって引き下がるところだろうが、この岸辺露伴には通用しない。

 

「教えて貰うぞ、蠱惑の秘密とやらをッ!」

 

 そうしてぼくは迷いなく次のページをめくってやったんだが、そこに書かれていたものは文字なんかじゃなかった。

 

「これは……?」

 

 それは人の顔面だった。真っ白なページの中で、目を閉じた人間の顔らしき輪郭が浮かび上がっていたんだ。ぼくが呆気に取られていると、その顔が急に目をカッと見開いた。そうしてそのギョロリとした緑色の目をこちらに向けてきたんだ。

 

『コ、ココ……コ、蠱惑ノ秘密、ヲ……サ、探ル者、ニ……コレヨリ……報イ、ヲ、与エル……』

 

 かと思ったら、そいつがおもむろにしゃがれ声でそんなことを言ってきた。明らかにこいつはぼくのことを認識していて、しかもどうやら敵意を向けてきているらしいことがはっきりと理解出来た。

 

「ヘブンズ・ドアー、こいつに命令しろッ!『岸辺露伴を攻撃できない』と!」

 

 背後に控えていたシルクハットの少年を操り、ぼくは素早くその奇妙な顔面に命令を書き込んでやった。目にも止まらぬ〈ヘブンズ・ドアー〉の手捌きで、やつに攻撃する暇を与えず抑え込むつもりでいたんだ。そうして一瞬のうちに書き込まれたぼくの命令文は、特に消えたりすることもなくその不気味な顔面に定着してくれたんだが……。

 

『報イ、ハ……与エ、ラレタ……モウ蠱惑カラ、逃レラレナイ……』

 

 そう言い放った顔面の輪郭が急に曖昧になったかと思うと、どういう訳かやがてページ上から消え失せてしまった。そうしてページにはさっき〈ヘブンズ・ドアー〉に書き込ませた命令文だけが残るのみとなった。

 顔面は消える前に「報いは与えられた」と確かに言った筈だ。しばらく様子を見てみたがぼくにはこれといって何も被害は無かった。だからぼくの能力によってやつの攻撃が無効化されたのではと思いはしたものの、この時ぼくはもうひとつ別の可能性が頭に思い浮かんでしまった。もしかしたらぼくは()()()()()んじゃなくて、ただ単純に何かを()()()()()()()()()だけなんじゃないかってね。

 

「え? ちょっとなに!? うっちーどうしたの……!?」

 

 背後からただならぬ様子の声が聞こえてきたので、ぼくは咄嗟に振り返った。そしたら誰がいたと思う? 黒木智子だよ。彼女がそこにいたんだ。

 

「う、うっちーだよね、あれ……か、顔、なんか本みたくなってない!?」

「ちょっとォ~~おじさん! あんたそこで何してんのッ!?」

「ねえヤバくないっ? けっ、警察呼んだほうがよくないっ!?」

 

 黒木智子は一人だけじゃなかった。そこには()()()()()()()()んだ。どう見ても黒木智子な人物達がひしめきあって、口々にああだこうだと喚いていた。

 

「なんだなんだ、どうしたァ?」

 

 今度は逆の方向から男の声がしたんだが、そこにはまたしても黒木智子がいた。背丈や格好は全然違うが、顔だけは確かに彼女そのものだ。

 

(何が……何が起こっている……? どいつもこいつも……()()()()()()()じゃあないかッ!)

 

 目の前に倒れていた内笑美莉へとふと視線をやったところで、ぼくはいよいよもって異常な事態が起きていることを確信した。顔こそページがめくれていて判別出来ないが、頭なんかはいつの間にか他の連中と同じように黒木智子特有のあのぼさぼさした長い黒髪に変わってしまっていたからだ。

 

(もしかして……これなのか? これこそが、あの奇妙な顔面が言ってた「報い」ってやつなのか……!?)

 

 あの顔面がぼくに与えた報いとは、他人の顔が全て黒木智子に見えるという呪いだったのだろうか。いや、呪いというよりも「そういう能力」をぼくに授けたということなのかもしれない。()()ではなく()()。それも望まぬ形での強制的な授与だ。

 

「早くゥ──! 警察呼んでェ──ッ!!」

「せ、先生! 先生呼んでくるから!」

「テメーこの変態ヤロォ~、その子から離れろッ!」

 

 ぼくを取り囲んだ連中がいよいよもって騒ぎ出したから、この分だと誰かがぼくを取り押さえようとするのは時間の問題だった。

 

「なるほど、確かにこいつは恐ろしい報いかもしれない……人の認識能力における重大な障害ってやつだ……このままだとやがて正気を失っちまうかもな」

 

 この報いが解除されない限り、おそらくぼくは一生黒木智子に取り囲まれて生きることになるだろう。漫画を描いても登場人物全員が彼女の顔になってしまうかもしれない。

 そうなったらぼくの漫画家生命にとっても致命的だ。いくらぼくが黒木智子に興味津々と言っても、流石にこういうのは困る。だからここはひとつ、ぼくらしいやりかたで切り抜けさせて貰うことにした。

 

「漫画家という人種をなめるなよ……ヘブンズ・ドアーが万能なのは、ぼく自身に不可能を可能にするだけの()()()()()()があるからだ。ぼくの『心の力』そのものがこの能力を支えているんだ」

 

 このあと実行したことは流石のぼくにとっても前例の無いことだったんだが……それでも必ず成功すると、ぼくは「信じる」ことにした。今までのぼくには出来ないことだったかもしれないが、今この瞬間のぼくになら可能な筈だと、そう強く信じたんだ。

 いいかい、君。人間にとって最も難しいことってのは「自分自身を乗り越えること」なんだ。逆を言えば、それさえ出来れば他のことは何だってやり遂げられてしまう。それは「成長」というもので、ぼくにとってこの時こそが成長のしどきだったのさ。そしてそれを見事達成してみせたっていうのは、今ぼくが君とこうして普通に話せていることからも明白なんだぜ。

 

「ヘブンズ・ドアー! 今からぼくに命令しろ!」

 

 ぼくは〈ヘブンズ・ドアー〉に命じて自分自身にこう書き込ませたんだ。『この三十分以内に岸辺露伴に起きた変化は全て無かったことになる』とね。〈蠱惑の秘密〉が勝つか、ぼく自身の力がそれに打ち勝つか、二つに一つだった。そして結果は、さっきも言ったようにぼくの勝利だった。

 ぼくは今まで能力を使って他人に命令を書き込んだりしていたが、自分自身にこうして命令するのは初めてだった。いや、以前に試したことはあったがその時は結局何も起こせなかったんだ。当時のぼくはまだそこまで成長出来てなかったってことなんだろうな。

 

『ミギャァ────ッス!!』

 

 ともあれ効果はてきめんだった。ぼくが自分への命令を書き込み終えた途端、誰かの悲鳴のようなものが頭の中で鳴り響いた。すると周囲の連中がすぐさま元の顔を取り戻したんだ。見ず知らずのおっさんがムカつく顔でぼくに詰め寄りながら威嚇してきていたから、とりあえず黙らせてやった。『何も言わずさっさと帰る』とかなんとか書き込んでやったんだっけか。

 

「先生ェ──! あの人ですッ! あのおじさんがうっちーに変なことしたんです──ッ!」

「ちょっとあなた、さっきの不審者でしょ! やっぱりウチの生徒を狙ってたのねッ!?」

 

 女子生徒が連れてきたのは校門前で出くわしたあの荻野とかいう教師だった。こいつと会うのはこれで二度目だったが、その顔はちゃんと元の彼女のものだったからちょっと安心した。

 ともあれぼくが奇妙な現象に気を取られている間に周りの状況は随分面倒なことになってしまっていた。だからそろそろ騒動の原因になっている彼女に目を覚ましてもらうことにしたんだ。

 

「えっ、なになに……どうしたのみんな……?」

 

 さっと起き上がった内笑美莉は、状況が把握出来なくて辺りを見回した。周りの連中も突然こうして彼女が何事も無かったかのように復活したものだから戸惑っているようだった。

 

「うっちー大丈夫? そ、その人に変なことされたんでしょ?」

「変なこと?」

 

 内笑美莉の友人らしき女子生徒が荻野教諭の後ろに隠れながらそう尋ねたのだけど、当の内笑美莉自身はぼくのほうをちらりと見て首をかしげる。まるでいま初めてぼくと出会ったような、そんな感じの反応だった。

 

「いや、されてないけど……」

「えっ? で、でもさっきまで倒れてたじゃん!」

 

 戸惑う友人達の質問に答えつつ彼女らに歩み寄る内笑美莉は、とんと身に覚えのないことばかり言われて困惑顔だ。さっきまで倒れていたことに自覚が無いだけでなく、ぼくを怪しんでいたこともきれいさっぱり忘れ去っていた。

 

「君さぁ、さっきいきなりここで倒れたんだぜ? ぼくは心配になって横で見てただけだったんだが……具合でも悪いんじゃあないか? もうウチに帰ったほうがいいんじゃねーの?」

「そうかも……うん、そうだ……早く帰らなくっちゃ。さっさと帰ろォ~~っと」

 

 ぼくの言葉を聞いて急に何かを思い出した様子で、内笑美莉は心配する友人達や教師を尻目にきびきびと歩き出して歩道橋を下りていってしまった。予めぼくが彼女に書き込んでおいた命令通りに動いてくれているのだ。

 

「あのさァー……おたく、このぼくを不審者扱いするってどうなのよ? 誤解が解けたんなら、ぼくも帰っていいよなっ?」

「えっ!? あっ、それは……も、勿論ですけど」

 

 何の根拠も無しに不審者扱いしてきた失礼極まりない教師にほんの少しばかり恨み言をぶつけつつ確認してみたんだが、彼女はそれ以上ぼくに突っかかるつもりは無いようだった。

 

(また今度にするか……)

 

 本物の黒木智子のほうはもうとっくに電車に乗って出発してしまった頃だった。思わぬ妨害が入ったせいで直接取材することは叶わなかったが、これから先もチャンスはあるのだからぼくに焦る気持ちは無かった。それにこの日はこの日で中々に興味深い体験が出来たのだから、嬉しい誤算だったと言ってもいい。内笑美莉の深層意識に潜んでいた〈蠱惑の秘密〉。あんな得体の知れないものまでもが関わってくるだなんて、益々黒木智子という人物に興味が湧いてきたよ。彼女は本当に一体何者なんだろう。全くもって普通じゃあないぞ。

 おっと、ぼくのことを「懲りないやつ」だと思ってないか?〈蠱惑の秘密〉からの警告を無視して、まんまと罠にかかったマヌケだと思ってるだろ? まあ、そうだ。そこんところは……君が思ってる通りかもしれない。粋がって挑んでみたはいいが、結局秘密とやらの手がかりは何もつかめなかったんだからな。

 でもぼくは諦めるつもりはさらさら無いぜ。あの〈蠱惑の秘密〉からは、面白い漫画のネタになりそうな匂いがプンプンするんだ。ま、それを差し引いたとしても黒木智子が素晴らしい取材対象だっていう認識は揺るぎないがね。

 そしてこの日の出来事で分かったのは、彼女だけでなくその周囲の人間にも取材する価値がおおいにあるってことだ。内笑美莉と同じように「蠱惑」されてしまった者がまだ他にいるかもしれないからな。あの内笑美莉の心が黒木智子と出会ったことで変わったように、きっと他の蠱惑者達にも同じような変化が生まれている筈だ。ぼくとしてはそうした周辺事情も含めて取材してこそ、黒木智子という存在を真に理解することが出来ると考えている。まあ気長にやってみるつもりだよ。これはそこそこ大がかりな取材になりそうだから、すぐには終えられないだろうしな……。

 

 この話についてはひとまずここで終わりだ。でも黒木智子に関する取材は今も現在進行形で続いているから、またいつか機会があればその成果をこうして披露してあげられるかもしれない。この話をしてやったのは今のところ君だけなんだぜ。

 しかし黒木智子は取材対象であることを抜きにしても実に興味深い人物だと思う。まだまだ目が離せないぞって感じがするんだよなぁ。彼女はいわば渦の中心だ。例え彼女自身の内面に特筆すべき大きな変化が無くとも、その周囲では絶えずゆるやかな嵐が巻き起こり続けている。また来月あたり会いに行ってみるつもりだが、その時に彼女を取り巻く状況が一体どう変化しているのやら。こんな風に彼女のこれからのことが妙に気になってしまうのは、ぼくもまた【蠱惑】されてしまった一人だから……というのは考えすぎだろうか……。

 

 

『蠱惑の人』──終わり



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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(1)

大林宣彦監督の映画『転校生』およびその原作小説である山中恒先生の『おれがあいつであいつがおれで』を意識させて頂いた内容となっています。

★イラスト
こちらはしましま。様が描いてくださった、拙作のイメージイラスト(二枚目のほう)です。
作者様に快諾頂けましたので、この場を借りてご紹介させて頂きます。
https://twitter.com/simasimatusika/status/1061467177419649025

[2021/5/25]『もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴』を全面改訂しました。主に文章表現の拙い部分を改めた形となりますが、会話や心理描写の細かい変更なども加えてあります。


黒木コトミまたは小宮山トモコ

(こんなもんでいいかな……)

 

 火バサミと袋を手にゴミの類や松ぼっくりなどを拾い集めていた小宮山琴美(こみやまことみ)が、ややくたびれた様子で背筋をうんと伸ばす。今朝からずっと地べたを見回したり中腰になったりしていたものだから、随分と体中が凝ってしまったようだ。日が高くなってきたからか、蒸し暑さを感じてしまった琴美は着込んでいたジャージの襟を開いてシャツの胸元をはためかせる。

 本日の琴美は地元町内会が実施した清掃ボランティアに今朝から参加していたのであるが、予め伝えられていた目安の時刻が近づいてきたので頃合と見てそろそろ切り上げようと考えたのだった。随分と中身の詰まったゴミ袋を収集場所へと持っていった琴美は、参加者をねぎらうために配られていた缶ジュースを受け取ってからなるべく人気(ひとけ)の少ない場所を探して地べたに座り込む。そうして小気味よく(ふた)を開けた缶をあおってみれば、よく冷えた潤いが喉に染み渡っていく。朝から働き通しであった琴美はやっと人心地つく事が出来たようだ。

 

(そういやここに来んのも久しぶりだよなぁ)

 

 琴美が今いる場所は、自宅からそこそこ離れた場所にある松林だった。ここは「稲毛(いなげ)の松林」と呼ばれている場所で、辺り一面にはその名が示す通り松の木がそこかしこに群生していた。住宅街に囲まれる形で存在するこの林は琴美の住む稲毛区でも名勝として知られる風光明媚な場所であり、すぐ傍には神社なども建立(こんりゅう)されている。

 普段から子供達の遊び場にされたり、道行く人々の通り道となっているこの松林であるが、琴美の家からは些か距離があるため、特に必要が無い限りは進んで足を運ぶような場所でもなかった。ここに関する思い出らしきものがあるとすれば、それは幼い頃に当時まだ存命だった父に連れられ祭りの日に訪れた時の事ぐらいなものである。遊歩道の脇に立ち並ぶ出店を巡っておやつやおもちゃを沢山買って貰ったり、すぐ傍の神社へお参りに行ってみたりしたものであるが、それも今となってはぼんやりとしたおぼろげな記憶となってしまった。

 

「あひぃぃ────っ!?」

 

 あの頃は眼鏡なんて掛けてなかったなぁ、などと当時を思い出して物思いに耽っていた琴美であったが、突然首筋に冷たい感触を押し当てられたものだから思わず絶叫してしまう。せっかく潤いをもたらしてくれていたねぎらいの品も驚きのあまり取り落としてしまったようだ。

 

「あっはっはっはっ……なんだよおまえ、あひーって」

 

 仰天した琴美が慌てて背後を振り返ってみれば、そこには琴美と同じくジャージ姿をした学校の同級生、黒木智子(くろきともこ)のけらけらと笑う姿があった。いつも体育の授業などでそうしていたように、彼女は己のもっさりとした長髪をこざっぱりと後ろにまとめたりしている。智子の手には今しがた琴美の首筋に押し当てたと思われる缶ジュースが握られており、顔には如何にもしてやったりといった感じの意地悪そうな笑みが浮かんでいた。

 この智子もまた琴美同様に本日の清掃へ参加していた(くち)であり、他の参加者達に交じって林の中でのボランティア活動に従事していたのだった。どこか居心地が悪そうにしつつも黙々とゴミを拾い集めていた智子の姿を見かけた際、もしや彼女の弟である智貴(ともき)も来ているのではと辺りを探した琴美ではあったが、生憎彼の姿は見当たらず智子ひとりっきりであったため残念な気持ちになったものである。

 しかし智子のほうはといえば、琴美の存在に気付くや否やその目にいたずらっぽい輝きを(とも)したかと思うと、その後はいやにまとわりついたりして冗談まじりに口でからかってみたり、琴美が油断した隙を狙っては程度の低いイタズラを仕掛けていたものである。普段学校で顔を合わせた時などは露骨に嫌そうな顔をする割に、こういう時ばかりは鬱陶(うっとう)しいぐらいに絡んでくるものだから、そんな智子の気まぐれな人間性に琴美は辟易とさせられていた。

 

「こんのゴミムシが……っ!」

 

 ともあれ度重なる智子からのイタズラにいい加減我慢ならなくなった琴美はすぐさま立ち上がろうとするが、それを察した智子はまるで追いかけっこが始まったといわんばかりに脱兎の如く広々とした林の中を駆け出していく。

 

「待てコラァ──!」

 

 しょうもないイタズラを仕掛けてきた同級生に一矢報いてやらねば気が済まない琴美は、今しがた己が取り落としてしまった缶を拾い上げてその後を追う。足の速さでは智子に敵わぬ事を知っている琴美であったが、すっかり中身が流れ出してしまったその空き缶をせめて智子に投げつけてやろうと考えたのだ。

 

「ほらほらこみさん、こっちこっち!」

 

 それにしても逃げる智子のすばしっこい事。投げる空き缶がどうにか届きそうな近さまで迫ろうと琴美が追いかけるものの、ふたりの距離が縮まる気配はまるで無かった。それでいて時折わざと立ち止まっては挑発してきたりもする智子だったので、それが益々琴美の頭に血をのぼらせる。一向に自分へ追いつけないでいる琴美を組し易しと見て余裕が出てきたのか、智子は先程から手に持ったままでいた缶ジュースのフタを開けて走りながらそれを飲んでみせたりと、さながら給水所に差し掛かったマラソンランナーのような真似事までしてみせる。

 ともあれふたりのただならぬ様子に一体何事かと目を見張る他の参加者達であったが、そんな彼らを尻目に追走劇の舞台は新たな場所へと移り変わっていく。林の中で散々琴美を翻弄していた智子が、今度は隣接する神社に向かって逃げていったからだ。この頃になるともう琴美はすっかりへとへとになってしまい、荒い息で智子のあとをずっと後ろのほうからついていくのがやっとだった。

 *

「ひぃ……ひぃ……はぁ……」

 

 神社の建つ土地はちょっとした高台になっており、その頂上に位置する本殿へと参るためには境内(けいだい)の曲がりくねった参道を通っていく事になる。それなりに勾配があるその参道を智子は調子よく走り抜けていったのだが、彼女の後を追う琴美はといえば道の中腹まで来た辺りで最早疲労困憊(ひろうこんぱい)と言ってよい状態に陥った。

 

「はひっ……はひっ……くそっ、あのヤロー……」

 

 己を奮い立たせていた当初の怒りもどこへやら、息のあがった琴美はこれ以上智子に付き合っていられないと、とうとう参道脇に腰をおろしてしまった。智子の挑発に容易く乗せられてしまい、気付けばこんなにもぐったりさせられる羽目になった琴美であったから、今になって馬鹿を見た気持ちになってしまう。何かされたり言われたりしても無視を決め込んでおけばよかったと、猪突猛進(ちょとつもうしん)な己を反省する事しきりであった。もうすっかり追いかける気の失せた琴美であったから、また智子がこちらの様子を見に戻ってきてしまう前にさっさと帰ってしまおうと思い立つ。呼吸が落ち着くのを待たずして立ち上がった彼女はとぼとぼとした足取りで来た道を引き返していった。

 と、そこで琴美はいつの間にやら手にしていた空き缶が無くなっていた事に気付く。必死で走り回るうちにどこかで知らず落としてしまったのだろうかと考えるが、つい先程までゴミ拾いに従事していた己が自らゴミを増やすようではいけないと、あちらこちらを見回しながら参道をくだっていく。境内にはそこかしこに青々とした葉を蓄える木々がひしめきあって鬱蒼(うっそう)とした様相を呈していたため、周辺の住宅街から隔絶された静謐(せいひつ)な雰囲気を琴美は感じたものである。

 

(あっ、これって……?)

 

 そんな琴美の目に留まったのは、参道脇にひっそりと存在していた小さな祠だった。この神社の参道にはこのようにして本殿とは別に小規模な社殿が幾つか点在しており、これもそのうちのひとつらしい。

 

(あーそうだよこれこれ。ここでお参りしたっけなー)

 

 近づいてよくよく確認してみた琴美が納得したような顔になる。特に目立つ造りでもない祠ではあったが、琴美はこれに見覚えがあったのだ。それは彼女が幼い頃、今は亡き父親に連れられてこの神社を訪れた際に親子でお参りした祠に違いなかった。

 

(ロッテが優勝しますようにって必死にお願いしてたっけ、お父さん……)

 

 祠の傍に立つ案内板には「心願成就の御利益(ごりやく)あり」といった趣旨の説明がなされており、この祠はどうもその手の祈願を受け付けてくれているようだった。琴美の父がそれを()に受けたのか、或いは冗談半分だったのか、ともあれ今の琴美に負けず劣らず地元球団の千葉ロッテマリーンズに深く心酔していたかの御仁(ごじん)は遠慮なく神仏に己の趣味丸出しのお願い事をしてみせたらしい。

 が、彼のその行動を笑う事なかれ。全くの偶然であるのか、はたまた本当に氏の願いが天に届いたのか、確かに彼が祈念したその年のロッテ球団はペナントレースにおいて破竹の勢いで勝ち進み、遂にはまさかのリーグ優勝を果たしてしまったのだ。のみならずその年の日本選手権シリーズにて相手チームをおさえたロッテは見事日本一に輝く栄光をも手にしたのであるが、駄目押しとばかりに続くアジアシリーズにおいてすら優勝を勝ち取ってみせたものだから、当時の琴美の父の喜びようはとても言葉では表せない程であった。

 

(ホントに願い事、叶ったりするのかなー)

 

 勿論そんな事は琴美としても真に受けている訳ではなかった。しかしこの祠にちょっとした縁を感じてしまった彼女は自分も何か試しに祈願してみようかなと思い立つ。それは当時の父との思い出が懐かしくなってしまったが故の気まぐれかもしれなかった。

 

(ええと、何がいいかなー? やっぱりロッテ優勝とかかなぁ)

 

 何がなんでも叶ってほしい事といえば、やはりこれが一番だろうかと考える琴美。が、すぐさまそれを吹き飛ばす程の本願ともいえる思いが湧き上がってきた。

 

(一番叶えてほしいっていったら、これしかないよねやっぱり……!)

 

 そうして願い事が決まるが早いか、祠に向き合った琴美はパチンと辺りに音が響く程の勢いで合掌してみせる。神前での礼儀作法など学んでいない琴美であったからその所作はいかにもとってつけたようなものであったのだが、ともあれ彼女は早速己の願いを口にし始めた。

 

「と、智貴くんと……ここ、恋人同士になれますように……」

 

 自身が愛してやまない球団の栄光よりも優先されるべき大きな願い事が琴美にはあったようだ。うわずった声でその思いを口にし始めた途端に頬がみるみる赤くなってしまう琴美なのであった。

 

「智貴くんとっ! け、結婚出来ますようにっ!」

 

 より語調を強めて次なる願い事を口にしてみせる琴美。軽い気持ちでお試し程度にやってみるだけのつもりが、早くも必死さがにじみ出る本気の祈願へと変わりつつあった。

 

「智貴くんと家族になれますようにっ!」

 

 なおも願い続ける琴美は止まらない。あふれ出る思いが言葉となって口から発せられる度にそれが自分を高揚させるのか、琴美はいまや己の体の内に感じられるフワフワとした不思議な感覚に酔いしれつつあった。

 

「智貴くんと、一生一緒に暮らせますように────っ!!」

 

 遂には全身を震わせつつ声を張り上げる琴美であったから、他の参拝者が彼女のこの尋常でない姿を目にすれば、きっとその異様な光景に誰もが肝を冷やしてしまうに違いなかった。

 

「あいたっ!?」

「やめろ──! フザけた事してんじゃねーぞコノヤロ──!」

 

 突然頭に何かを勢いよくぶつけられてしまい、祈願に夢中であった琴美はその痛みに目を白黒させてしまう。そうして怒鳴り声が少し離れた先から聞こえてきたものだから、頭をおさえた琴美がそちらを振り返る。

 

(クソムシ……!)

 

 視線の先にいたのは参道のどまんなかで仁王立ちしていた智子であった。己の足元には先程ぶつけられたらしい空き缶が転がっていたので、おそらくは智子が自分めがけて投げつけてきたのだろうと琴美は理解する。神聖な儀式を邪魔されてしまったような悔しさと、切実な本音をぶちまける姿を見られた恥ずかしさが引き金となり、琴美の中でいま再び智子への怒りが蘇ってしまう。

 

「なにすんだこのっ!」

 

 咄嗟に足元の空き缶を拾い上げた琴美は、智子に向かってそれを全力で投げ返してみせた。突然の反撃に身を縮こまらせる智子ではあったが、狙いの甘い空き缶は見当違いな方向に逸れてしまう。

 

「んむっ!?」

 

 放り投げられた空き缶が境内の木に当たったかと思うと、そのまま狙ったかのように琴美の顔面目がけて跳ね返ってきたものだからたまらない。のけぞる琴美は勢い余って尻餅をついてしまった。

 

「いったぁ~……」

「ははっ、おまえが変なことすっからバチが当たったんだぞ」

 

 お尻が痛くて顔をしかめる琴美であったが、そんな彼女に対して今まさに悪人が成敗されたのだと言わんばかりの調子で嫌味を投げかける智子。

 

(落ち着け、落ち着け……ここでまたキレたらこいつの思うツボだ……)

 

 理不尽な事を言う智子に腹の立った琴美は何がバチなものかと内心で毒づくが、ここは安易に相手の挑発に乗せられてはいけないと、先程己の猪武者(いのむしゃ)ぶりを反省したばかりなだけにどうにか冷静になろうと努める。

 

「はぁ……」

 

 ため息をついた琴美はおもむろに立ち上がり、体についた砂埃をさっさと払う。そうして今度は足元に転がっていた空き缶を拾い上げると、そのまま智子に背を向けて参道をくだり始めたのだった。

 

「おーい、帰んのかー?」

 

 背後から智子がそのように呼びかけてくるが、琴美は振り返らずにだんまりしたまま歩みを進める。無視された事に立腹した智子がまた何かちょっかいを掛けてくるのではと警戒する琴美であったが、いずれにしてもこれ以上くだらないイタズラに反応するつもりは更々無かった。

 

「こみなんとかさんが未来永劫(みらいえいごう)モテませんよーに」

(んーっ!?)

 

 しかしパンパンと手を叩く音がしたかと思うと、なにやら妙な事を口走る智子の声が後ろから聞こえてきたものだから、琴美は振り返らずにいられない。

 

「こみなんとかさんが死ぬまで独身でいますよーに!」

「おいっ、やめろよっ!」

 

 どうも智子は先程の祠の前で合掌してあらぬ願い事をしているようだったから、琴美はそれを止めようと声を荒げる。

 

「弟と一生縁の無い生活を送れますよーにっ!!」

(ブチコロス……ッ!)

 

 声を張り上げこれみよがしに琴美の先程の願いを覆すかのような祈願をしてみせる智子であったから、とうとう怒りをこらえきれなくなった琴美は智子目がけてやにわに駆け出した。

 

「待てコラァ──!」

 

 危険を察した智子もすぐさま駆け出したので、またしてもふたりの追いかけっこが始まってしまう。今度こそは逃すまいと琴美が目の色変えて全力疾走してみれば、狭い参道の中ではちょこまか動き回って相手を翻弄する事も出来ない智子が徐々に追いつかれ始める。その事に危機感を覚えたのであろうか、智子が慌てた様子で参道から伸びる脇道へと入っていく。道の先には石造りの階段があり、そこをおりれば境内の外へと出ていけるようになっていた。

 

「逃がすかぁっ!」

 

 おそらく智子はこのまま逃げ帰るつもりなのだろうと見た琴美は、怒号と共に手にしていた空き缶を智子目がけて投げつける。今度は方向が逸れることもなく、空き缶は目標に向かって一直線に飛んでいった。しかし今まさに石段をおりようとしていた智子がそれに気付いたものだから、彼女は咄嗟に身をひねってどうにか背後からのその投擲(とうてき)をかわすことに成功する。

 

「わっ、わわわっ!?」

 

 だがそれがいけなかった。石段の手前で不用意にそのような事をしたせいでバランスを崩した智子は、手をあたふたさせてつんのめりそうになる。

 

(あっ、やばっ……!)

 

 倒れまいと粘る智子を助けようと咄嗟に駆け寄ったまではいいが、琴美も琴美で随分と慌ててしまっていた。結果、それが最悪の事態を招く事になる。

 

「ちょちょっ、邪魔っ、おいっ!」

「あっ、わっ、ご、ごめっ……!」

 

 どうにか持ち直しかけていた智子ではあったが、駆け寄ってきた琴美が勢い余って押しかかるような形になってしまったものだから再び大きくバランスを崩してしまう。図らずも抱き合う姿勢となったふたりが石段の手前でくるくるとダンスする光景はまるでふざけているようであったが、本人達としては必死なのだった。

 

「ばかっ、お、落ちるぅ──!」

「うわあぁ──!」

 

 嗚呼南無三。とうとうふたりは仲良く抱き合ったまま石段を転げ落ちてしまう羽目になったから、境内に彼女らの絶叫が響き渡る。

 

 ◆

 

「うーん……」

 

 石段の高さ自体はそれ程でもなかったからか、幸い大怪我に至る事はなかったようで、琴美は頭をふらつかせながらも上体を起こしてみせた。天も地も無い上下感覚の狂いが徐々に正されてきた事で、彼女はようやく意識をはっきりとさせる。

 

(あっ、眼鏡が……)

 

 石段から転がるうちにどこかへ飛んでいってしまったのか、普段着用している眼鏡が外れてしまっている事に琴美は気付く。眼鏡が無ければ何も出来ないと、痛む体を押して立ち上がり周辺を見回してみるが、やけにクリアになった視界にそれらしきものが映る事はなかった。

 

「いてて……ったくよー」

 

 琴美のすぐ傍で声がしたが、これは一緒に石段から落ちた智子のものである。彼女もまた意識が明確になったようで、頭をさすって先程の災難を愚痴りつつもゆっくりと立ち上がる。

 

「あ? なんだこりゃ」

 

 何か違和感を感じたのか、智子が己の顔をぺたぺたと触る。そうしておもむろに何かを顔から外したのであるが、手に取ったそれを改めて確認してみた智子は益々首を傾げるばかりだった。

 

「あ、それ私の……」

 

 智子の手に握られていたのは琴美が探していた自身の眼鏡であったから、それを受け取ろうと手を差し出す。だが智子の顔に目を向けた途端、琴美はのけぞらんばかりに驚いた様子を見せた。

 

「なあ……なんか目が変なんだけど……なんか凄くボヤけるんだけど……?」

「あ、うあ……」

 

 急に辺りをキョロキョロとし始めた智子がそのように己の違和感を訴えるが、対する琴美はといえば先程から言葉を失っているようだった。

 

「なんで? なんで? えっ? なにこれっ!?」

 

 目をごしごしとこすってみたりもする智子であったが、違和感はまるで解消されないようで次第に焦りの色が浮かび始めていた。

 

「見えないっ、見えないよぉ──っ! ちゃんと見えないっ!」

 

 遂には顔を青ざめさせた智子がそのように騒ぎ出した。どうも先程から智子の視力に著しい変化が起きているらしく、その事を彼女は震える声でしきりに琴美へ訴える。

 

「頭打ったせい!? どうしよう、どうしよう!」

「こっ、これ付けてっ、これっ……!」

 

 たまらず智子は琴美にすがりついて助けを求めるが、それを押しとどめた琴美はいつの間にやら取り落とされていた眼鏡を拾い上げると、それを智子に掛けてやった。

 

「ん? おっ? なんだこれ、どうなってんだ?」

「ありえない……ありえない……」

 

 途端、視力が回復したらしく一応の落ち着きを取り戻した智子。一方の琴美はといえば()()()()()()()()()()()()()()を何やら盛んに手で確かめたりしながら呟きを漏らしている。

 

「あ? てかおまえ、なんだその(つら)……?」

 

 眼鏡ごしに琴美の顔をまじまじと見つめる智子の表情には、先程とはまた異なる混乱の色がありありと浮かんでいく。

 

「えっ、ちょっ、わた、わたしっ!? えっ、なんでっ!?」

「ちょっと待って。落ち着いて。状況、状況を確認しよう。なっ?」

 

 ふたり揃ってあたふたとするばかりではどうにもならないと、琴美はひとまず智子の興奮を鎮めようと彼女の両肩に手を添えて向き合った。

 

「えーと……まずあんた、黒木さんなのか?」

「そ、そうだよ! 黒木智子だよっ!」

「あっ、じゃあ私は誰に見える? 小宮山なんだけど……」

 

 何か思い当たる節でもあるのかひとつひとつ整理するように琴美が質問を投げかけていくが、対する智子のほうは何が何だか分からない様子でひどく狼狽していた。

 

「いや、でもおまえ、それ私だよ……その顔、私じゃんかっ!」

「あんたもだよ……あんたも私の顔してる……小宮山琴美の顔だよ、それ」

「はぁ──? なんだそりゃ!?」

 

 お互いの顔に対してそのような事を言い合うふたり。もしも今この場に両者の共通の友人でも立ち会っていれば、ふたりの発言がてんで支離滅裂であると感じずにはいられないだろう。傍から見れば智子は琴美を、琴美は智子を、それぞれがお互いの顔を指して「それは私の顔だ」と主張し合っているのだから。

 

(こんな事ってホントにあんのか……?)

 

 智子ほど慌てふためいてはいないように見える琴美であったが、その内心はやはり智子と同様混乱の極みにある。しかしそれでも彼女は今現在の自分達の状況をおおまかにではあるが把握しつつあった。

 

(私達、入れ替わってる……!)

 

 今の状況を正しく説明するのであれば、おそらくはそれこそが適切な表現であるに違いなかった。琴美と智子の体はいまや完全に入れ替わってしまっていたのだ。故に今この場にいるのは智子と化した琴美であり、そしてまた琴美と化した智子なのであった。

 

「うわぁぁ──なんだよこれぇ──! コオロギになってるぅ──!?」

 

 琴美達がいたのは鳥居の真下で、ここは丁度境内から外へと向かって伸びる階段をくだりきった所にあったのだが、神社のすぐ目の前を通る道路に設置されていた背の低いカーブミラーへと駆け寄った智子が、それに映った己の姿を確認するや悲痛な声をあげる。そんな智子のもとへ歩み寄った琴美が同じようにして自身の姿をカーブミラーで確認してみるが、想像していた通りそこには智子と化した己の姿が確かに映っていた。

 

「どうすんだよおいっ、どうすんだよぉ────!」

 

 掴みかかってきた智子から激しく揺さぶられてそのように訴えられても、今の琴美に返せるような言葉はなかった。何故こんな事になってしまったのか。果たしてこれは現実なのだろうか。夢でないとしたら一体自分達はこれからどうすればいいのか。まとまらない思考だけが心の中で浮かんでは消えていく。

 

(せめて智貴くんとだったら良かったのになぁ……)

 

 だからもう琴美は、キャンキャンと騒がしい智子を尻目にぼんやりとそのような事を考えて現実逃避するしかないのであった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(2)

おかあさんはわからずや

「な、なぁ……ホントにやるのか?」

「やるんだよっ! ビビってる場合じゃないだろ!」

 

 何やら琴美が消極的な態度を見せる一方で、智子はそんな相方を苛立った様子でせっつく。互いに抱き合うような姿勢で地べたに寝そべっていた琴美と智子は今、石段の手前にいるようだった。と言ってもそこは(のぼ)り口ではなく、ふたりが石段を転げ落ちる直前まで立っていた()り口の所であったから、頭をもたげて先を見やる琴美の視界には下の方までずらりと続く石段が映っていたので息を呑んでしまう。

 

「じゃあいくからな……ちゃんと掴まってろよ」

「お、おう……!」

 

 発破を掛けられ覚悟の決まったらしい琴美がそのように言えば、対する智子はそれを合図と見てより強く琴美に抱きつく。そうして琴美が一思いにえいやとその場を転がり始めてみれば、智子も巻き込まれる形でふたりはごろりごろりと石段を転がり落ちていった。

 

「むぐっ、うぐっ、んぐっ……!」

「痛い痛い痛いっ……!」

 

 事故同然に勢いよく転がり落ちてしまった先程とは違い、多少はゆったりとしたスピードで石段を(くだ)っていく琴美と智子。しかしそれでも一段ごとに自分達を襲う衝撃が(こた)えるのか、ふたりは時折うめき声を上げたりしている。一体彼女達は何をしているのかというと、これはもう実に見たままであり、単純にもう一度石段の上からふたりして転がり落ちているのだった。不意の出来事であった一度目とは違い、今回は故意にである。

 そもそも何故このような事をしているかと言えば、それは智子の発案によるものであった。彼女としては今回の騒動の原因が(くだん)の石段にこそあると見ており、ここから琴美と抱き合って転がり落ちてしまった事で何かしらの作用が発生し、結果として信じられないような入れ替わり現象が起きたのだと考えているようだった。故にもう一度同じ状況を再現してやれば元に戻れる筈だというのが智子の主張なのであるが……。

 

「はぁ……はぁ……ど、どうだ……?」

 

 ともあれどうにか石段を転がりきったふたりは荒い息をつきながら地べたの上で大の字になっていたが、おもむろに上体を起こした智子が己の傍らで目を回していた相方を見やり、その顔を間近で確認する。しかし意にそぐわぬ結果であったのか、少しばかり期待の色が浮かんでいた智子の様子は見る間に険しいものへと変わっていく。

 

「あー……やっぱダメか」

 

 己の顔を覗き込んでいる智子に気付いた琴美は、寝そべったままため息混じりにそのような事を口にした。そうしてよっと上体を起こした彼女は衣服についた泥や埃を払っていく。

 

「も、もっかい! もう一回やろう!」

「ちょっ、痛いっ!?」

 

 先程の荒行を今一度繰り返そうと、すっくと立ち上がった智子はそのように提案しながら琴美の腕を掴んでぐいぐい引っ張りあげようとする。途端、琴美が顔をしかめてたらまらず悲鳴を上げた。石段から転がり落ちて尚も一応は平気そうにしている智子と違い、琴美のほうは随分と応えていたようであり、体の節々が痛むのであった。打ち所が悪かったのかもしれないが、あるいは智子ゆずりの華奢(きゃしゃ)な体になってしまった事も手伝っているのかもしれない。

 

「い、いま無理! ちょっと休ませて……」

「あ、うん……」

 

 そのように懇願(こんがん)する琴美の様子を受けて我に返ったのか、掴んでいた腕を大人しく離してやる智子。中身が琴美であるとはいえ、相方の今の体は本来己自身のものである事に気付いたからなのか、(いたわ)わってやらねばという気持ちが湧いたのかもしれない。

 

「は────……」

 

 普段からいつもそうしているように長いため息をついた智子は、植え込みの石垣へと力なく腰掛けた。そうして石垣の上に避難させておいた眼鏡を掛け直してみれば、今度は目をしばしばさせながら琴美のほうをじっと見やったりする。

 

「なんだよ?」

「おまえ、なんか変じゃね?」

 

 己を見つめてくる視線に気付いた琴美が問い掛けてみれば、智子は妙な事を言い出した。

 

「変って……何が?」

「私、そんな感じじゃないぞ」

「はぁ?」

 

 言われている事の意味が分からない琴美であったが、対する智子のほうは口でへの字を作って如何にも納得がいかないといった様子である。

 

「そんな喋り方しないし。声もなんか変」

「いや、そんな事言われても……」

 

 いきなり難癖をつけられてしまった琴美であったが、どうにもならなそうな事を言われている気がしてしまい益々困惑するばかりであった。しかしかくいう琴美自身も入れ替わってからというもの、智子のその姿や素振(そぶ)りに多少なりとも違和感を感じていた事は否定出来なかった。普段は鏡ぐらいでしか見る事のない己の姿をこのように客観的かつ直接的な形で()の当たりにするという機会は、普通に生きていればある筈もないだろうからそれも無理ならぬ事である。本来の己自身が今まさに目の前で他人として存在している気味の悪さを琴美は改めて実感していた。

 

(私、こんな声してたっけ……?)

 

 低くて冷たい感じのする智子の声に改めてそのような感想を抱く琴美。あるいはそれは今の智子のささくれだった心情が反映されているだけなのかもしれないが、もし普段から己がこのような調子で他人と接しているのだとしたら中々に悪い印象を与えていたのではないかと今更ながらに心配する琴美であった。

 

「…………」

 

 やがてどちらともなしにお互いから視線を外したふたりであったが、両者ともこれ以上自身の姿を観察する事に耐えられなくなったのかもしれない。これがナルシストの類でもあれば客観的に見た己の姿にうっとりしたりもするのであろうが、どちらかと言えば自分を卑下しがちな琴美と智子にとってはあまり気持ちの良いものではなかったようだ。

 なんとも言えない空気が流れ始めた所で、石垣の上に置かれていたスマホから不意に着信音が流れ出した。気付いた智子がそれを手に取り着信相手を確認する。「もしもし……」と、通話モードに切り替えた智子がそのまま電話口の相手と話し始めるが、どうも鳴っていたのは彼女の電話だったようだ。

 

「あっうん、もう終わったよ」

 

 智子の口ぶりや態度からするに、電話の相手はおそらく家族か何かであろう。おそらくは清掃活動が終わる頃合を過ぎても帰ってこない智子を心配し、連絡してきたのではないかと思われた。

 

「えっ!? あ、そっ、そんな事ないよっ」

 

 しかしそれまで落ち着いた様子で会話していた智子が、何やら急に慌てた様子でどもり始めた。途端、彼女が普段緊張した時などにやる癖が出たようで、己のジャージの裾をぎゅっと握り締めてしまう。

 

「いや、ほんとちがくて、そのっ」

 

 何かを電話口で追及されでもしているのか、智子の慌てぶりは益々ひどくなってしまい満足に言葉をつむげなくなっていた。すると何を思ったのか、急に石垣から下りた智子は先程から座り込んだままでいた琴美へと駆け寄り耳打ちする。

 

(これうちのお母さんだから! 適当に話合わせといて!)

(えっ? ちょ、なんで……!?)

 

 そのようにひそひそ声の智子から要求された琴美は、差し出されたスマホを前にして気が動転してしまう。電話口の様子がおかしい事に勘付いたのか、そのスピーカーからは盛んに呼び掛けてくるような誰かの声が聞こえていた。

 

「あ、もっ、もしもしぃ……」

 

 どうあっても引き下がるつもりのない智子が強く目で訴えてくるものだから、折れた琴美は渋々スマホを受け取り電話口の相手へと(うわ)ずった調子で返事をしてみせた。

 

『ちょっと、どうしたの急に黙って』

 

 電話から聞こえてきたのは、いつだったかどこかで聞いた覚えがあるような中年女性の声であった。智子の言う通り、彼女の母親から電話が掛かってきているのだという事を琴美は把握する。

 

「あ、はい、す、すみません……」

 

 ともあれ琴美は電話の相手からやや強い口調で詰問されてしまったので思わず謝ってしまった。途端、(ばかっ、フツーに喋れよフツーに!)と、すぐ傍で聞き耳を立てていた智子がそのようにささやいて琴美を小突く。

 

『ねえ、あなた智子よね?』

「あっ…………えと、はい、わ、わたし、ともこ~……」

 

 どうも智子の母は、電話口の相手が本当に己の娘であるのか疑っているようだった。もしかするとそれは先程の智子との会話で娘の声色が普段とはあまりにも掛け離れている事を不審に思ったからなのかもしれない。僅かな間にそのような推察を巡らせた琴美であったが、話を合わせろと言われた手前、この母親からの質問に対していきなり否定するのもどうかと思われたので咄嗟に同意してみせる。

 

『もう、ふざけてるの?』

「あっうん、あはは……」

 

 よく分からないままどうにかこの場を誤魔化さねばと思う琴美ではあったが、娘の声色が普段通りのものに戻った事を悟った母親が安心したらしい事を見て取る。

 

『じゃあ、寄り道してないで早く帰ってらっしゃい』

「う、うん……」

 

 そうして無難なやりとりを交わしたのち電話は切れてしまった。途端、一仕事終えたかのような疲労感がどっと湧いてきた琴美であったから、うなだれた様子でため息をつく。

 

「どうだった? 変に思われなかったか?」

「あーうん、一応……」

 

 相方の手から己のスマホをひょいと取り上げた智子がそのように尋ねてみれば、対する琴美は無難な答えを返す。話を合わせるために一応はそれらしい受け答えが出来た筈だろうと、そのように思う琴美。しかし電話を終えた後になってからひとつの疑問が浮かんできたので彼女はそれを口にしてみた。

 

「別に隠さなくていいんじゃないか?」

「えっ?」

「いや、だってこういうの、ちゃんと病院とかで見て貰ったほうがいいと思うんだけど」

「あー……」

 

 至極まっとうとも思える琴美のその意見ではあるが、今まで智子の中には選択肢としてまるで無かったのか意表を突かれたような顔になる。どうにか秘密裏のうちに元に戻らなくてはと考えていたらしい智子ではあったが、わざわざ家族に隠し立てする理由も無いのではという琴美からの指摘に反論する様子は見られない。ともあれ自分達以外の誰かに相談するという手段もあるのだと気付かされたからか、彼女は何かを思案するようにそのまま黙り込んでしまった。

 

「一旦うちに帰るから、おまえも来てくれ」

「あ、うん、いいけど……」

 

 やがて口を開いたかと思えば、そのような事を言って琴美を誘う智子。琴美としても別段渋るような理由など無いので素直にそれを了承するのだった。

 

 ◆

 

「……」

 

 チリチリチリ、と車輪を鳴らしつつ己が乗ってきた自転車を押す琴美の視線は先程から前を歩く智子の背を捉えたままだった。その後ろ姿は少し前まで確かに己自身であった筈なのに、いまや他人のものになってしまった訳であるから、それがどうにも奇妙な感覚を琴美に与えていた。

 

(なんて言えば信じて貰えるんだろう……)

 

 彼女らは今、一旦智子の自宅へと向かうべく移動の最中であった。これから向かう先で果たしてどのような騒動が起こるのか。智子の家族の理解を得なくてはならないとしても、きっと一筋縄ではいかないだろうという懸念が琴美の中でじわりじわりと広がっていく。

 ともあれ智子の自宅は神社からほど近い場所にあったから、徒歩であっても数分足らずでたどり着く事が出来た。道中言葉も交わさず黙々と歩いていたふたりであったが、一息ついた所でようやく顔を見合わせるのだった。

 

「おまえ、ちょっくらうちのお母さんに説明してきてくれ」

「えっ!?」

 

 先に口を開いたのは智子であったが、やぶからぼうにそのような頼み事をしてくるものだから琴美は面食らってしまう。

 

「いやほら、いきなり私が行ってもお母さん驚くだろ?」

「ああ、まあ……うん」

 

 しかし一応は智子なりに考えあっての事らしく、理由を聞かされた琴美はひとまず納得してみせた。

 

「ほら、来いよ」

 

 ひとまず己の自転車を車庫に停めさせて貰った琴美は、開け放たれた玄関扉から顔を覗かせた智子に招かれるまま、彼女の自宅へとお邪魔する事になった。

 

「んじゃ、頼むぞ」

「お、おう……」

 

 智子に急かされる形で靴を脱いでホールへと上がり込んだはいいが、滅多に訪れる事のない黒木家の中は嗅ぎなれない独特の匂いに満ちており、それが琴美をどうにも落ち着かない気持ちにさせた。

 

「そこな。そっちにお母さんいるから」

 

 玄関を上がってすぐ左側にある扉を智子が指し示した。智子が言うにはそこに己の母がいるだろうとの事なので、琴美は躊躇しつつもそっとそのドアノブに手を掛ける。そうして音を立てないように少しだけドアを開いてみれば、中から聴こえてくるのはテレビの音だった。更にドアを開いて琴美が中の様子をこっそり(うかが)ってみれば、広々としたその室内の奥で女性らしき人物がソファーに座ってこちらに背を向けている様子が見て取れた。

 

(いた……!)

 

 後ろ姿だけでもそれがおそらくは智子の母であるらしい事を察したものだから、琴美は緊張のあまり息を呑んでしまう。どうも先程から彼女は(ぬぐ)いきれない後ろめたさに晒されており、幾ら智子の許しがあるといえども他人の家へと勝手に忍び込んでいるように感じられてならないのだった。

 

「あ、あのっ……!」

 

 ともあれ件の女性の背後へとそっと忍び寄った琴美は、意を決して声を掛ける事にした。途端、驚いた様子で後ろを振り返った女性であったが、琴美の顔を見るなりすぐさま緊張を解いてみせる。

 

「なによもう、びっくりするじゃない」

「あっ、す、すいません……!」

 

 これが智子の母親なのだろうかと、琴美は目の前の女性をまじまじと観察する。年の頃は己の母と大差無いように見えるものの、小奇麗に整えられたその佇まいの中に智子とは似ても似つかぬ上品さを感じ取ってしまう琴美であった。智子の母親であるという事は、同時に智貴の母親でもあるという事だ。図らずも自身の想い人の母と相対する事になった訳であるから、これが平時であれば色々と感じ入るものがありそうなものだが、そうした余裕は残念ながら今の琴美にはない。

 

「すいませんって……なぁにその喋り方?」

「あ、いや~、その~……」

 

 ひどく他人行儀なその受け答えのせいか、早速不審に思われてしまう琴美。しかし今更取り(つくろ)う必要もないので、彼女はそのまま本題へ入る事にした。

 

「あのっ! す、すこしよろしーでしょーかっ?」

「えっ、なに?」

 

 上ずった声で話を切り出す琴美であったが、対する智子の母はといえば突然の娘のそのような物言いに戸惑っているようだった。

 

「その……えーと……ちょ、ちょっと玄関まで来てほしいんですけど……」

 

 何から話せばいいのかとあれこれ考える琴美であったが、まずは実際に変わり果てた智子の姿を見て貰うのが手っ取り早いだろうと踏んでそのように言う。先程の智子からの頼み事を忘れてしまった訳ではないが、折からの緊張が彼女にこのような言動を取らせてしまったようだ。

 

「智子、どうしたのあなた」

「いや、だからその、玄関……」

 

 が、このような物言いですんなりと相手が言う事を聞いてくれれば苦労はしない。(いぶか)しげな表情を作る智子の母は、違和感だらけの娘の態度そのものに関心がいってしまったらしい。

 

「なんで敬語なの? 玄関に何があるの?」

「あっその、と、智子さんがいて……」

「誰が?」

「あっ、だから智子さんが……」

「あなた大丈夫? さっきから何言ってるの」

 

 どうにも噛み合わない両者の会話は平行線を辿る。それも仕方のない事であり、智子の母からすれば全くもって己の娘の言い分は理解不能だったからだ。玄関のほうに「智子」がいるのだと、他ならぬ智子本人が目の前でそうのたまっているようにしか見えないのであった。

 

「あっすみません、その、とりあえず来てほしいんですけど……」

「それやめなさい。なんで敬語なんか使ってるの」

 

 しどろもどろになりつつも、どうにか言い分を聞いて貰おうと粘る琴美。少し落ち着きでもすればもう少し言いようがありそうなものだが、言葉を交わす度に不信感を募らせている事がありありと見て取れる智子の母であったから、それが益々琴美を焦らせてしまう。

 

「えと、あの、き、来てくれたら分かりますから!」

 

 たまらず琴美はそう言い置くと、智子の母の追求から逃げるように部屋を出ていってしまった。自分達が陥った不可思議極まるその状況を初対面の相手にすぐさま理解させるというのは、流石に彼女ひとりには荷が重かったようである。

 

「どうだった?」

「あ、うん、すぐ来ると思うから……」

 

 玄関口で待っていた智子から結果を尋ねられた琴美は、そのように答えて今しがた己が出てきた扉のほうを見やる。その言葉通り、少しもしないうちに智子の母が小走り気味にスリッパを鳴らしてやってきた。

 

「なんなのもう……あら?」

 

 困惑しつつも琴美の後を追ってきた母であったが、玄関口に立っていた智子に気付いたようで様子を改めた。それを受けて智子のほうも、いよいよ己のみじめな窮状(きゅうじょう)を訴える時がやってきたのだと表情を硬くする。

 

「友達?」

「あ、いえ、友達っていうか……」

 

 が、そんな智子を尻目に当の母は琴美へと質問してきた。何も事情を知らぬ智子の母であったから、まさか目の前にいるジャージ姿の眼鏡少女が己の娘であるとは夢にも思わなかったのだ。質問された琴美はと言えば、言葉を濁しつつも後は任せたと言わんばかりに智子のほうを見やる。先程は碌に事情も伝えられず逃げ帰ってきたものの、どのみち口下手な自分が中途半端に首を突っ込むよりも親子で直接話し合って貰うのが一番だと考えたのだ。

 

「どうしたのあなた。うちに何か御用?」

 

 先刻の琴美との妙なやりとりを受けてか、目の前の相手が単なる娘の友人でもないらしいと母は考えたようで、探るような視線を智子へ送りつつそのように問い掛けた。

 

「あ、うん、えと、わ、私、智子なんだけど……」

 

 もじもじと手を組む智子が口を開き、まずはそのような事を言って母の出方(でかた)を窺う。ある程度話は通っているものと考えている智子であったから、実際に赤の他人の姿をした己の口からこのように訴えれば多少なりとも信じてくれるのではと踏んでの事だった。

 

「えーと……智子?」

「う、うん! そうそう、智子だよ!」

 

 聞き返してきた母の反応を受け、一応は話が進みそうだと安心したのか、智子は幾分かほっとした様子を見せながらも更に語気を強めて主張してみせる。自分こそが黒木智子なのであると、その事を母に分かって貰いたい一心が滲み出ているようであった。

 

「ああうん、そう、偶然ねぇ」

「ん?」

 

 しかし当然と言うべきか、智子の思惑は外れていた。事前に満足な説明もしてやれなかった琴美であったから、今しがたの智子とのやりとりは母にとって単に己の娘と同じ名前の少女がその事を自ら主張しているとしか映らなかったようである。期待外れな母のその態度に何かがおかしいと感じて戸惑う智子。

 

「で……何か御用かしら?」

 

 少し呆れたような様子で改めて先程と同じ質問を繰り返す母であったが、それが智子にこのイマイチ噛み合わない状況への理解を与えてしまった。矢庭に彼女の表情が険しいものへ変化したかと思うと、先程から事の推移を見守っていた琴美に対して鋭い視線を向けるのだった。

 

「おまえっ、説明しとけっつったろーが!」

「あっ、いや……」

 

 母からの問い掛けには答えず、代わりに琴美の不手際を責めるように怒鳴り出す智子。既にある程度話は通っているものと思い込んでいた彼女なだけに、結局お粗末な形で丸投げされてしまった気分になったようだ。

 

「ちょっと、なんなのいきなり!?」

 

 尋常でない剣幕で突然怒り出した智子になにより面食らったのは母であった。つい今の今まですがるような態度でよく分からない事を訴えてきていた少女が豹変したのだからそれも当然である。

 

「智子、誰なのこの子は」

「いや、違うんです……あの、その人が本当の智子さんで……」

「あなたの友達なの? 知り合い? どうなの?」

 

 ここにきてようやく琴美のほうからも事情を説明しようとしたのだが、要領を得ない回答だと思われたのか智子の母は矢継ぎ早に質問を続けていく。

 

「お母さん、そいつニセもんだよっ! ホントの私はこっち! 智子は私! そいつと入れ替わっちゃったんだよ!」

 

 するとそこへ智子が強引に口を挟んできた。琴美を偽者扱いしつつ、あなたの娘は私なのだとしきりに訴えてみせる彼女は必死だった。

 

「……ねえ智子ちゃん、ちょっとあがってらっしゃいな」

 

 果たして智子のそうした主張を一体どのように受け止めたのか、何か危ないものを目の当たりにしたような様子でしばし絶句していた智子の母であったが、急に落ち着いた声色でそのような事を言い出した。

 

「はぁ?」

「ああ、うん、そうね……じゃあ智子、とりあえずこっち来なさい」

 

 そんな母親の態度に肩透かしを食らった様子の智子が気の抜けた声を出すが、少し言い方が悪かったかな、といった具合に言葉を改めた母が智子を家の中へと招き入れようとする。

 

「あのさー、ホントに分かってんの?」

「ええ、大丈夫よ……」

 

 促されるまま靴を脱いだ智子はボヤきながらも母に連れられていく。そうして廊下を通っていったふたりが部屋の中へと姿を消していったものだから、ホールには琴美だけが取り残された。

 *

(どうなんだこれ? とりあえず待っときゃいいのかな……?)

 

 急に手持ち無沙汰になってしまった琴美であったから、ひとまず玄関脇の階段へと腰掛けてみる。ぼんやりと見つめる先には先程智子達が入っていった扉があったのだが、今は閉じられてしまっているそこから親子の会話が不明瞭ながらも漏れ聞こえてくるので自然と耳を傾けてしまう。そうした時間がどれ位続いただろうか、やがて扉が不意に開かれたかと思うとそこから智子の母が姿を現した。

 

「ちょっと、あの子の家の電話番号知ってる?」

「あ、えと、電話……?」

 

 琴美の姿を見つけるや、静かに駆け寄ってきた智子の母が前かがみでそのようにひそひそ声で(ささや)いてきたものだから、その真意を図りかねる琴美は思わず問い返した。

 

「あの子の家の人に迎えに来て貰わないと……同じクラスなんでしょう?」

「えっ!? あっ、いやっ……」

 

 続く母の言葉に目を白黒させた琴美であったが、どうも事態は妙な方向へと進み出していたようだった。

 

(駄目だ……全然分かってないぞこれ……!)

 

 智子の母のそうした口ぶりからおよその察しがついてしまった琴美は、結局何も状況が進展していなかった事にそこはかとない疲労を感じてしまう。もしかしたら、という危惧が琴美の中にも無いではなかった。己と智子の精神が入れ替わったなどという突拍子もない事をいくら当人達が訴えた所で、それを信じて貰うのは容易ではないだろうと少なからず考えていたのだ。

 

「小宮山さんっていうのよね、あの子……。ほら、前にうちに電話してきてたじゃない」

「あー、はい、まあ……」

 

 物憂げな様子で頬に手を添えながらそのように言う智子の母であったが、彼女の言っている事は琴美自身確かに思い当たる節があった。いつの日だったか、智子の忘れ物を拾った事がきっかけで悪友の自宅に直接電話を掛ける機会があり、その時に応対したのが他でもない智子の母だったのだ。

 

「で、どうなの? 知ってるの? 番号」

「知ってるというか、その……まあ自分ちのっていうか……」

 

 聞かれた通りすんなり教える分にはこれといって難しくも何ともない。琴美にしてみれば己の自宅の電話番号なのだから、知らないほうがおかしかった。だが、それを目の前の女性に伝えても良いものかと琴美は思案してしまう。外へ働きに出ている琴美の母親は今も仕事中であったから、例え自宅のほうに連絡を入れたとしても繋がらない事を彼女は知っていたのだ。当然ながら琴美としても自身の母へと今回の件を相談するつもりではあったが、急いでどうにかなりそうな事とも思えなかったので、ひとまず仕事の邪魔にならないよう今晩母が帰宅するのを我が家で待っていようと考えていたようだ。

 

(最初からこうしてりゃ良かったな……)

 

 何にしても親子間での望ましい交渉が成立しなかった以上、ここは自分がどうにかしなくてはと考えた琴美は改めて己の口から事の経緯を説明すべく腰を上げた。

 

「あの、お母さん……私の話、聞いてください」

「えっ?」

 

 かしこまった態度でまずはそのように話を切り出す琴美。対する母は突然そのように言われたものだから、一体何事かと身構える。

 

「智子さんからもう聞いてると思うんですけど……あれ、本当の事なんです。信じて貰えないかもだけど、でも私と智子さん、本当に入れ替わっちゃって……」

 

 それから琴美は事のあらましについてああだこうだとひとつずつ語って聞かせていった。上手く伝わっているだろうかと心配する琴美であったが、対する母は神妙な面持ちでその話に黙って耳を傾けているようだった。

 

「あ、だからそういう訳で……私、本当は小宮山でして……」

 

 琴美としても人前でこれだけ熱心に喋るのは己の趣味の話に幾らでも付き合ってくれる親友を前にした時ぐらいなものであるが、ともあれ粗方話し終えた所で彼女は話を締めくくった。

 

「あなた、それ本気で言ってるの……?」

「えっ? あ、はい、もっ、勿論です!」

「ふざけてる訳じゃないのね……?」

「違います! これ、真面目な話ですから!」

 

 話が終わったと見て智子の母がようやく口を開くが、まるで相手の正気を確認するかのようなその口ぶりであったから、どうにか信じて貰おうと琴美はフォローを入れる。

 

「そんな……うそでしょ……こんな事って……」

「まあその、私も信じられないですけど……あはは……」

 

 琴美にふざけている素振りがまるでない事を見て取り、智子の母が顔を青ざめさせていく。そうしてよろめくまま壁にもたれかかる彼女のあまりの動揺ぶりに、なにやら申し訳なさすら感じてしまう琴美であった。

 

「すぐに病院で診て貰いましょう! 大丈夫よ智子、大丈夫だから……!」

「あっうん、そ、そーですね」

 

 気を持ち直したらしい智子の母から両肩をがっと掴まれ、そのように励まされる琴美。相手の尋常でない様子にたじろいでしまったものの、ともあれようやく話が前に進みそうだと少しばかり胸をなでおろすのだった。いまだに智子呼ばわりしてくるかの女性であったが、それもまだまだ混乱が抜けきらないが故の事であれば致し方ないと琴美は納得する。

 *

「ふたりともちゃんとここにいてね。いい? どこにも行っちゃ駄目よ?」

 

 智子の母がソファーへ腰掛けていた琴美と智子へそのように言いつける。それに対して智子が「はぁい」、琴美が「あっはい」と、各々が自分なりの返事をしてみせた。そんなふたりの反応を見届けた智子の母は、電話台の上に置かれていたペンとメモ帳、そして電話の子機を手にして部屋を出ていってしまった。

 

「あーあ、なんかめんどくさい事になっちゃったなぁ」

 

 頭に手を回してうんと伸びをする智子が、誰に向けるでもなく気だるそうにボヤいてみせる。傍らの琴美はといえば、背筋を伸ばして行儀良く座る姿勢を崩さない。

 

「どうなんのかなー、ちゃんと戻れんのかなぁこれ」

「分からんけど……とりあえず病院連れてってくれるみたいだぞ」

「そうなんか?」

 

 琴美の見ていない所でどのような親子の会話がなされていたのかは分からぬが、智子は随分と落ち着きが出てきたようだ。我が家でくつろぐ事が出来ているからか、少なくともそこには当初のように不安に苛まれている様子は見られない。

 

「おっ」

 

 おもむろにソファーを立った智子が、食卓の上に並べられていたおにぎりや卵焼きを見つけて声を上げる。ラップが掛けられたそれは智子の母が作っておいた本日の昼食であったのだが、朝から働きに出ていた智子としてはそろそろ空腹が気になっていた所だった。これから自分達が(おもむ)く病院にて検査だ何だと時間を取られてしまう事になるだろうから、今のうちに腹ごしらえしておこうと智子は早速それにありつく事にした。そうしてキッチンのほうで手洗いを済ませてから箸やら飲み物を用意して席に着いた矢先、なんとはなしにその様子を眺めていた琴美と目が合ってしまう。

 

「あー、こみさんの分は無いから」

「いらんわ」

「ごめんな、私だけこんなの食べちゃって……朝から働きっぱなしだからお腹空いてるでしょ?」

「いいから食えよ」

「沢山走ったから疲れてるよね? 水なら飲んでいいよ」

(うざいな……)

 

 流石というか馬鹿というか、こんな時でも人をからかう事を忘れない智子のそうした態度に呆れ返ってしまう琴美。だのに智子のその外見と来たら本来の己の姿そのものである訳だから、まるで自分自身から挑発されているような錯覚にも陥ってしまう。「腹立つ顔してんなこいつ」などと一瞬でも思わせられた事がなんとも悔しい琴美なのであった。

 

「そんじゃ、いただきまーす」

 

 前菜代わりに琴美をからかい終わった智子がようやく料理に手をつけていく。実際の所、余程腹が減っていたのかそれからは黙々と食べるばかりで大人しくなったので、一時的とはいえどひとまず琴美は煩わしさから解放されたのだった。

 

「ちょっとあなた」

 

 そうして智子がおにぎりの最後のひとつを口いっぱいにほおばっていた頃、部屋に戻ってきた母親が食卓につくその姿を目にして眉をひそめた。

 

「それ智子のなんだけど……」

「ん、んむっ……?」

 

 まるで卓上の食事を勝手に食べてしまった事を咎めているような口ぶりの母であったが、対する智子のほうは訳が分からず頬を膨らませたままのその顔に困惑の色を浮かべる。

 

「もしかして全部ひとりで食べたの?」

 

 続けざまにそのような質問をしてくる母であったが、事実その通りであるのだから智子はばつが悪そうに(うなず)くしかなかった。

 

「もういいわ……お腹が空いてたのね」

 

 はぁ、と小さくため息をついた母がそれ以上智子を追及する事はなかった。そうして先程部屋から持ち出していったあれこれを元あった場所へと置いた彼女は、キッチンのほうへ行って冷蔵庫や戸棚から何かを取り出していく。

 

「ごめんね、こんなのしか無いけど」

「あっ、ありがとうございます……!」

 

 ソファーに座る琴美のもとへと智子の母が歩み寄り、手に持っていたものを差し出してきた。突然の事に戸惑う琴美ではあったが、咄嗟に礼を述べつつそれを受け取ってみせる。琴美が貰ったもの、それは一本のバナナと紙パックの野菜ジュースだった。どうも智子の母は簡易的な昼食としてこれを琴美に与えたようだった。

 

(うわぁ……なんかくれたぞ。食べちゃっていいのかな?)

 

 智子が先程嫌味混じりに指摘してきた通り、今の琴美はお腹がぺこぺこなのであった。故にこうした智子の母からの気遣いは恐縮する一方で正直ありがたくもあった。

 

「ほら、病院行くからふたりとも来てちょうだい」

 

 軽く化粧や装いを整えたのちに電話台の引き出しから財布やら何やらを取り出していた母が、支度は整ったとばかりに琴美と智子を呼びつける。彼女は早速ふたりを病院に連れていくつもりらしい。昼食にありついていた琴美であったが、「車の中で食べて」と促されたものだからひとまず言われた通りにするのだった。

 *

「あっ、すいません……ちょっと保険証だけ取りに帰りたいんですけど」

 

 一行を乗せた車が信号待ちをしていた所、後部座席に座っていた琴美が思い出したように口を開いた。智子の母が運転する車は市内の大きな病院へと向かう途中だったのだが、自身の分の保険証を持参していない事に気付いた琴美であったから、一旦それを取りに己の自宅へ寄ってほしかったのだ。生憎手持ちが無いため診察代は智子の母にひとまず立て替えて貰えないかとお願いしてみるつもりだったが、それにしたって不必要に負担を増やす訳にもいかないので保険証ぐらいは持っていきたい所なのであった。

 

「えっ? 持ってきてるけど」

「あっ、いえ、智子さんのじゃなくて」

「あぁ……そうね、大丈夫よ。小宮山さんのお母さんがあとで持ってきてくれるみたいだから……」

 

 心配には及ばないと、智子の母はそのように返した。どうも水面下で既に手配がなされていたのか、わざわざ琴美が自宅まで赴く必要はないらしい。

 

「うちの親、来るんですか!?」

荻野(おぎの)先生にね……連絡先教えて貰ったの。いま仕事中だけど、なんとか来てくれるって……」

 

 時折胸がつかえたような様子を見せる智子の母であったから、琴美の疑問に答えたあとはそれきり言葉を続ける事はなかった。ともあれ自身の母の仕事を邪魔せぬようにと遠慮していた琴美ではあったが、結局己の知らぬうちに智子の母が話をつけていたようだった。

 

(なんか結構大事(おおごと)になってきたな……)

 

 世に知られれば大ニュースになりそうな程の超常現象に遭遇している真っ最中とはいえ、別に生き死にに関わるような逼迫(ひっぱく)した状況でもないのだから、みんなしてそこまで慌てなくてもいいのにと琴美は思う。異常な事態に巻き込まれて当初はただただ智子と一緒に青ざめるばかりの彼女であったが、一応はこうして第三者に理解して貰えたという事が、彼女を多少なりとも安心させているようだった。

 

(もしかして入院とかすんのかな?)

 

 病院に到着するまでの間、これからの事について琴美はあれやこれやと考えを巡らせる。自分達のような症状は前例がある筈もないだろうから、診察する医師は仰天するか、そうでなければたちの悪い冗談だと思うに違いない。そうしていよいよ本当に此度(こたび)の入れ替わり現象が現実のものであると受け入れざるを得なくなったら、果たして病院側はどのような検査や治療を試みるつもりなのだろうか。なんにしても今日はすんなり帰して貰えなそうだと、琴美はそのように覚悟していたのだが──。

 

(帰ってきちゃったぞ……! いいのかこれ……!?)

 

 向かった先の病院であれこれ診察を受けたり、遅れて到着した自身の母から事情を聞かれたりもしていた琴美であったが、色々終わってみれば結局その日の夕方には家に帰ってくる事が出来た。

 

「ほら智子、分かる? ここはあなたの家なの」

(いやいやいやいや、どうしてこうなった!?)

 

 車の助手席から降りた琴美がその場で立ち尽くしていると、智子の母がやってきて肩にそっと手を添えてきた。帰りしなの車中には琴美ひとりだけが乗せられていたのだが、智子の母が運転するその車は琴美の自宅に立ち寄る事もせずに黒木家へと戻ってきたのだった。

 

「あなたはね、今ちょっとのあいだ記憶が変になってるだけなの……」

(ヤブ医者め……適当な事言いやがったな……!)

 

 担当した医師が自分たちに一体どのような診断を下したのかはいまだ知らされていない琴美であったが、ひとまずは自宅療養という形で家に帰される事となった。が、肝心の帰宅先は己の家などではなく何故か智子の自宅のほうだったのだが、それは現在この場にいない智子も同様であり、きっと今頃は琴美の母に連れられて他人の家へとお邪魔する羽目になっていると思われた。別れ際、泣きじゃくって本来の母親についていこうとしていた智子の──「小宮山琴美」の姿をした智子の哀れなその顔が、今一度琴美の脳裏に浮かんでしまう。

 

「だから、がんばって少しずつ思い出していきましょうね」

「そ、そーですねー……あはは……」

 

 慈しむように肩を優しく撫でてくる智子の母からそのように諭された琴美は、心の内の混乱を誤魔化すように無難な返事をしてみせる。この分ではいくら「自分はあなたの娘ではない」と訴えた所で、それを素直に聞き入れて貰えるとは到底思えなかった。

 

(やばいぞー……ほんとどうすんだこれ……どうやったら元に戻れんだ……?)

 

 智子の母に背を押されるまま玄関扉をくぐっていく琴美であったが、結局誰も自分たちの窮状を理解出来ていない事が明らかになったものだから、それまで心の底で(くすぶ)っていた不安がここに来てはちきれんばかりに膨らんでいく。このまま他所(よそ)様の家で家族以外の人々に囲まれて暮らしていかねばならないのだろうかと、そう考えるだけで早くもホームシックになってしまいそうだった。

 

「おかえり……どうだった?」

(ホアッ!?)

 

 が、しかし。

 帰宅した琴美と母を出迎えるように廊下の奥から姿を現した人物の姿を見た途端、琴美の中で張りつめていた不安はいとも容易く弾け飛んでしまった。

 

GENKAN(ゲンカン)TOMOKI(トモキ)くんが────っ!)

 

 琴美の前に立っていたのは他ならぬ彼女の想い人である智貴だったのだ。その事を認識した途端、全身が震える程の怒涛の興奮が琴美の内から溢れ出してくる。あたかもそれは絶望の(ふち)に落とされた琴美に向けて、救いの神から慈悲が与えられたかのようであった。

 

「大丈夫よ、しばらく経過を見ましょうって事になったから」

「そっか……」

 

 病院で診察を受けていた姉の事が心配だったのか、どこか浮かない様子の智貴。そんな息子を安心させようと、彼の母はひとまず娘の病状がそれほど大事(だいじ)には至っていないのだと伝えてやる。それを受けてちらりと琴美を見やる智貴の顔には少しばかり安堵の色が浮かんでいたのだった。

 

「もう飯作っといたから」

「あらそうなの? ありがとね、助かるわ」

(智貴くんの手料理(スペシャルディナー)……だと……!?)

 

 夕飯の用意は自分がしておいたと、そう言い残して智貴は再び廊下の奥へと引っ込んでいく。

 

「ほら、着替えてご飯にしましょう」

「え、え~、そんなそんな、い、いいんですか~~……?」

「いいに決まってるじゃない……あなたのおうちなんだから好きにしていいのよ?」

「あ~、そ、それじゃあお言葉に甘えて……」

 

 母からのそうした(すす)めに対して遠慮する風を装いつつも、琴美は一切の躊躇なく家の中へと上がり込んでみせる。つい先程まで自分が何を思い悩んでいたのかすら忘れてしまいそうになる琴美であったが、ともあれ母に案内されるまま脱衣所に連れていかれたかと思うと、そこで着替え一式を与えられひとりにさせられたのだった。

 

(この状況……つまりアレだ……よーするに……!)

 

 すっかり埃っぽくなっていたジャージを脱ぎ捨てていく琴美は自分が置かれている状況を改めて冷静に把握しようと努めていたのだが、今の熱に浮かされたような頭ではろくすっぽ考えがまとまらない。

 

(智貴くんと同棲(どうせい)しちゃうって事だよね!? これから一緒に暮らすって事だよね!?)

 

 だからもう、琴美の頭の中は最早この手の事柄で埋め尽くされるばかりであった。

 

(ご両親とも一緒に暮らす訳だし、これはもう智貴くんと結婚(けっこん)したも同然なのではっ!?)

 

 遂にはそのような飛躍した考えに行き着いてしまって「あばばばばばば……」と奇声を発し始めたものだから、興奮するあまり気絶してしまいかねない琴美なのであった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(3)

琴美姉さんのわくわく新生活

(ああ、先にお風呂入りたいなぁ)

 

 危うく気を失いかけた先程の興奮状態からどうにか己を取り戻した琴美であったが、そんな彼女は洗面台の鏡に映る小憎らしい顔をした己の姿を丹念にチェックしつつも心の中でぼやいていた。日中あれだけ走り回ったのだから、きっと智子も随分と汗をかいていたに違いない。故に今は己のものとなった智子のその体が汗臭くはないだろうかと琴美は心配しているのだ。一応は拝借したタオルを濡らして顔や体を(ぬぐ)ったりもしたのだが、これから智貴と食事を共にする訳であるから、万が一にも顔をしかめられはしないだろうかと不安の残る琴美なのであった。

 とはいえ仮にそうなったとしても、今は智子に成り代わっている身の琴美であったから何ら不都合がある訳ではない。悪い印象を持たれるのは「黒木智子」のほうなのであって、本来の自分自身ではないのだから。が、それでもやはり気になるものは気になる。潔く開き直ることも出来ない琴美は、今になって智貴達の前に出るのが少しばかり恥ずかしくなってしまった。

 

「智子、もう着替えたの?」

「あっ、はい!」

「早くいらっしゃい、待ってるのよ」

 

 いつまで経っても脱衣所から出てこない娘のことが気になったのか、智子の母が気遣わしげな調子で扉越しに声をかけてきた。これはもう心を決めるしかない。意を決した琴美がダイニングへと続く扉をおそるおそる開けてみれば、待ち構えていたらしい母に導かれるまま食卓につかされたのだった。

 

(ああ~~智貴くんがお隣にぃ~)

 

 ふたり分空いていた席のうち、琴美が座らせられたのは丁度智貴の隣であった。途端、琴美の心拍数は跳ね上がり、頭も心ものぼせあがっていく。つい先程まで彼女が抱いていたその幾許(いくばく)かの羞恥心も、特等席へ座った途端に蒸発してしまったようだ。

 以前にも一度、まったくの偶然でありながら似たような状況に遭遇したことのある琴美であったが、当時は諸事情あってせっかくの降って湧いたチャンスを堪能する余裕もなかった。そのことは彼女の中で心残りとなっていたのだが、故に今こうして再びそのチャンスが巡ってきたことに興奮を抑えられないでいた。

 

「ほら、食べましょう?」

「は、はい……!」

 

 娘を席につかせたはいいものの、料理に手もつけずそわそわしているだけの姿が遠慮しているように見えたからか、母がそのように促してくる。それを受け、ひとまず琴美は震えるその手で己の席に配膳されていた箸をつかんでみせた。

 

(智貴くんの家で、智貴くんの手料理を食べる……! それも彼と一緒に、彼の隣で……!)

 

 卓上には本日智貴が用意したという料理の数々が配膳されていたのだが、どれもこれも今の琴美には輝いているように見えてしまう。それ程凝った献立(こんだて)ではなかったが、可愛い智貴が自分のために腕によりをかけて作ってくれたのだと思えば、それだけでもう今世紀ナンバーワンのごちそうなのであった。

 ましてや状況が状況である。日頃から母の帰りが遅い時などはひとりきりで夕飯にありつくことも多い琴美であったが、今宵は違う。長らく恋焦がれてきた意中の相手と食卓を囲む特別な夕飯なのだ。これがとびきりのごちそうでない筈がない。いつかこんな時が来るんじゃないかと、いつかこんな時が本当に来てくれればと、そう密かに願い続けていたことが今、現実のものとして訪れたことに琴美はもう泣いてしまいそうであった。

 

「あっ、じゃじゃじゃ、じゃあ、あのー、ともっ、ともきくん、いたっ、いただきまっす!」

「お……おう……」

 

 激しくどもりながら傍らの智貴に食前の礼を精一杯述べる琴美であったが、対する智貴はそのひどくおおげさな様子に面食らってしまったらしい。のみならず、彼からしてみれば現在の姉の姿はどこもかしこも(はなは)だ奇異に映って仕方がないようだった。だからなのか、早速料理を口に運んではグルメ漫画さながらに(とろ)けた表情となっていた琴美のその様子を、智貴は箸を止めてしばらく観察していた。

 

(智貴くんが私を見ている!?)

 

 食べる喜びここにありと、口の中に広がる甘美な味わいを堪能しつつ、智貴の料理で腹が満たされるその幸福感に酔いしれていた琴美。しかし己の傍らから向けられるその訝しげな視線にふと気付いたものだから、智貴のことを見返してしまう。

 

「あっ、な、なに……?」

 

 口に入っていたものを飲み込んだ琴美が、照れているのかへつらっているのかよく分からないような表情で尋ねてみた。智貴からこんなにも至近距離で熱心に見つめられるなど初めてのことであったから、もうそれだけで新たなエクスタシーへの扉が開いてしまいそうで体がむずむずしてしまう。「そんなにも美味しそうに食べてくれて嬉しいよ」などと言われたらどうしようと、少しばかり期待してしまう琴美なのであった。

 

「いや、なんかマジで別人みてーだなって」

「えっ? あっ、うん……」

 

 しかしながら智貴が注目していたのは、普段と様子が大きく異なる姉の姿に対してであった。その口ぶりからして既に母からある程度事情を聞かされていたようであるが、己の姉が本当におかしくなってしまったらしいということを改めて実感しているようだった。

 人間というものはひとたび中身が一変してしまおうものなら、その所作やら口ぶりやら、あるいは顔つきから日常的な癖に至るまで、様々な面で変化が表れることは避けられない。故にほんの少しのあいだ観察しただけでも、智貴は姉の内部で起きているらしい顕著な異変を確かに感じ取ったようである。

 

(なんだろ……智貴くん、怒ってるのかな……?)

 

 そんな智貴の視線の中には、まるで異物を検分するかのような(けわ)しさが含まれていた。そのことを察してしまった琴美であったから、自分がまるで智貴から睨まれているように感じられて少しばかり萎縮してしまうのだった。

 

「大丈夫よ、今だけだから。ちょっと変かもしれないけど、いつも通りにしてあげてね」

「ああ、まあ……」

 

 そこへフォローを入れるようにして母が口を挟んでくる。戸惑いを感じるのは当然のこととしても、それを理由に他人扱いするような真似はつつしむようにと、そのように諭しているようでもあった。

 

「なんかやっといたほうがいい事とかあんの?」

「ううん、本当にいつものままでいいの。元に戻るには普段通りの生活をさせてあげることが大事なんですって」

 

 姉の回復のために出来ることはないかと智貴が問えば、母はこのように答えてみせた。どうも琴美達を診察した医師によれば、今回のような記憶の混乱を回復させるにはそうした形での自宅療養が望ましいということのようだ。

 

(ああ、そっか……そういやそうだった……)

 

 そうした親子のやりとりを見ていた琴美は、己が少しばかり浮かれてしまっていたことを自覚する。まるで自分が智貴の新妻として此度(こたび)の晩餐に招待されたように錯覚していたものの、実際のところ周囲の人々にそのようなつもりがある筈もないということは明白なのだった。

 

(みんな私のこと、あいつだって思ってるんだよな)

 

 今この場にいることが許されるのは黒木智子その人であり、本来の自分である小宮山琴美を歓迎している者は誰ひとりとしていないのだ。消えてくれなければ困る異物、解消されなくてはならない悩みの種、それこそがこの家における己の立ち位置だった。そこまで考えたところでうたかたの夢はふっと消えてしまい、先程までの高揚感も体からするすると抜け落ちていく。

 

(…………)

 

 現実を正しく理解した琴美ではあったものの、それと同時に肩身の狭いような気持ちに襲われてしまった。昔からひとりでいることにある程度は慣れていたものだから、寂しいという気持ちとあまり縁の無い性分の琴美ではあったが、この時ばかりは妙に心細くなってしまう。先程智貴が向けてきた訝しげな視線を思い出すと、なにやら胸の奥がちくりと痛むのだった。本来なら彼からのそのような態度にもさほど傷ついたりはしないのかもしれないが、普段滅多に無いような夢心地に浸ってしまっていたのが良くなかった。マッチに灯された幸せなひとときの幻想が、琴美の心を随分と感傷的にしてしまったようだ。

 いま一度智貴の様子をちらりと窺ってみれば、食事を再開した彼は黙々と料理を口に運んでいるようだ。なんだかもうすっかり食欲の無くなってしまった琴美ではあったが、せっかく智貴が作ってくれたものを残しては申し訳ないと、少しばかり冷めはしたがやはり美味しいままのその夕食に手をつけていくのだった。

 

 ◆

 

(静かだなー……)

 

 黒木家での夕食は終始淡々としたものだった。ダイニングと同じ空間にあるリビングの奥には大きなテレビが据えられていたのだが、この家では食事中にテレビをつけない習わしなのか、電源は切られたままになっている。普段から寡黙(かもく)な智貴はもちろん、母のほうもとめどなく喋るような類の人ではないようで、この家の人々の食事風景はおおむね静かなものであった。

 

(いつもこんな感じなのかな?)

 

 これが小宮山家であれば夕食どきともなれば大抵はナイター中継の視聴がセットになっていたし、ナイターが無い日も適当な番組にチャンネルを合わせたりしていることが常であったから、琴美としてはこうもひっそりしているとかえって落ち着かない。であれば適当な話題でも振って多少は会話に花を咲かせてみればよさそうなものだが、琴美は先程からなんとなく居心地の悪さを感じていたので、へたなことを言ってまた智貴を不審がらせてしまうのではと思うとどうにも口が重くなってしまう。

 せっかく憧れの智貴と夕食を共にしているのに。本来であればありえないようなチャンスなのに。話してみたいことならそれこそ山程あるのに。そのように考えはするものの、今はまだ臆病な気持ちのほうが(まさ)ってしまうのだった。

 

(誰か来た……?)

 

 そうして食事だけに専念していた琴美であったが、やがてそれもすっかり食べ終えた頃。母が淹れてくれたお茶で一服させて貰っていた琴美の耳に、玄関扉を開け放つ音が聞こえてきた。来客を出迎える為であろうか、その音に気づいた母はあと片付けを中断して足早に部屋から出ていってしまう。そうして琴美がしばらく様子をうかがっていると、やがてひとりの男性が母と連れ立って部屋の中へと入ってきたのだった。

 

(あっ!? この人もしかして……!)

 

 そのまま母はキッチンのほうへ行ってなにやら支度を始めたのであるが、こちらを見やってきた男性と目が合った琴美は、その顔を目の当たりにしてすぐさまピンと来るものがあった。

 

(智貴くんのお父さんだー!)

 

 智貴をある程度老けさせればまさしくこのような容貌(ようぼう)になるのではという印象の男性であったから、彼が何者であるのか琴美にはすぐさま見当がついてしまう。夕食の場へ一向に姿を現さないでいたこの家のご主人が、今ようやく帰宅してきたに違いないのだ。

 

「ただいま」

「あっ、ここ、こんばんわっ」

 

 彼の第一声は己の娘への挨拶だった。智貴の父親と思わしきそのワイシャツ姿の男性を凝視していたのもつかの間、食卓のほうへと歩み寄ってきた彼からの挨拶に、琴美は椅子を鳴らして立ち上がる。咄嗟に挨拶を返してみせたはいいが、ここは「おかえり」と言ったほうが良かったのだろうかと、すぐさまそのような考えが浮かんできたりもする琴美。だがこの家の中でどう振舞うべきかが分からなくなり始めていた彼女には、その答えを見つけることが出来ない。

 

「…………」

 

 ともあれ娘からのかしこまった挨拶にやや面食らったような様子を見せていたものの、さりとてそれを咎めるようなこともしない智貴の父であった。そうして彼は食卓の椅子を引いてみせると、手に下げていた上着や(かばん)をそこに預け、おもむろに自身のネクタイを緩めていく。

 

「具合はどうだ? 階段から落ちたってお母さんから聞いたけど」

「あっはい、だ、だいじょうぶです」

「怪我とかしてないか?」

「あっ、まあ一応は……はい」

 

 かの御仁(ごじん)を前にして緊張気味の琴美であったが、ふいに彼からそのようなことを質問された。多少の打ち身はあれど一応は大した怪我もせずに済んでいたので心配には及ばないと伝えたのだが、このような受け答えすらもやはり普段の智子を知るこの家の人々からすると奇異に映ってしまうのだろうかと、琴美は不安を拭えない。

 

「そうか」

 

 しかしそうした琴美の返答に納得したのか、はたまた思うところがあっても言わないだけなのか、智貴の父は特に不審がるような様子も見せず静かに相槌をうつだけだった。「それならよかった」とだけ言ってから、彼はやがて脱衣所のほうへと向かっていく。

 

「ふぅー……」

 

 今回の騒動について既に己の妻から事情を聞かされていたからかもしれないが、てっきりあれやこれやと質問攻めにあうのではと構えてもいた琴美としては、智貴の父のどこか素っ気無く見えるその態度にほっとしつつも些か拍子抜けなのであった。あるいはそれは、「普段通り接するように」という医師からの指導を彼もまた妻から共有してもらっていたが故のことかもしれなかった。

 

「ああ、おかえり」

「ただいま」

 

 風呂を沸かしに行っていたらしい智貴が、脱衣所の出入り口から丁度出てきたところで己の父親と鉢合わせする。そんな息子と軽く挨拶を交わした智貴の父は、そのまま交代するように脱衣所の中へと入っていった。

 

(智貴くん、お父さん似なんだぁ……)

 

 父と入れ替わりで戻ってきた智貴の顔を見て、琴美はそのような感想を抱いた。生き写しとまではいかないが目元などはとりわけよく似ているなと、父親譲りだったらしい智貴のその鋭い目をまじまじと観察した琴美の脳内には「イケメン親子」などという言葉まで浮かんできてしまう。

 

「なんだよ?」

「あっ、違うの! な、なんでもないのっ」

 

 己がじろじろ見られていることに気付いた智貴がそう尋ねたものだから、我に返った琴美はおおげさな身振り手振りを交えて弁解しようとする。しかし彼女の挙動やその妙に媚びたような声色がどうにも己のよく知る普段の姉と一致しないからか、まるで気味の悪いものを見たと言わんばかりに智貴の目には隠しきれない困惑の色が浮かんだ。

 

(ああ~~智貴くん、そんな目で見ないでぇ~)

 

 またしても己に向けられた訝しげな視線を受け、今再び胸の奥にちくりとしたものを感じる琴美。しかしながらどうも先程とは少しばかり具合が違っているようだった。本人にも理由は分からないものの、胸をしめつけるその痛みの中に若干の甘いときめきのようなものが含まれていたのだ。ありていに言って()()()()してしまったのである。ただ辛いばかりだった筈の智貴からの不審に満ちた眼差しが、徐々にではあるが奇妙な快感をも生み出しつつあることを琴美はまだ自覚出来ていなかった。

 彼女の名誉のために補足するならば、これはなにも琴美がアブノーマルな人間であるが故のこととも言い切れない。自身の想い人から与えられるものであれば、それが例えどのような仕打ちであっても出来る限り好意的に受け止めてあげたいという健気(けなげ)な気持ちの表れかもしれないのだ。中学時代に智貴から面と向かって「死ね」と罵倒された苦々しくも衝撃的な思い出が性的嗜好を歪ませてしまった可能性がなきにしもあらずだが、ともあれ不安に揺れていた琴美の心に少なからず慰めが与えられたことだけは確かだった。

 

「ちょっと智貴。悪いけど智子のこと部屋に連れてってあげて」

「え?」

「お父さんとちょっと話したいことあるから……智貴もあとで来てちょうだい」

「ああ、うん」

 

 運んできた茶碗や箸を卓上に配膳していた母が、智貴へそのような頼みごとをしてみせた。これからのことを家族で話し合うつもりなのかもしれないが、そのやりとりを智子には聞かせたくないのだろう。母の気持ちを察したらしい智貴であったから、ふたつ返事で了承すると琴美のほうを見やる。

 

「姉ちゃん、じゃあ……」

「あっ! う、うんっ!」

 

 廊下へ続く扉のほうを軽く指さしながら、そのように言って姉を促す智貴。どうやらこれから智貴がどこかへ案内してくれるようだと理解した琴美は、彼に寄り添うようにとてとてと歩み寄った。

 

()()()()って呼ばれたー! わたしっ、いまっ、智貴くんのお姉さん!?)

 

 智貴からすれば他愛ないことであったが、彼の今しがたの言葉を聞き逃さなかった琴美のほうはそうもいかない。かつて成り行きから智貴の姉を勝手に自称したこともある琴美であったが、よもや彼自身から姉呼ばわりされる日がやってくるなんてと、本来ならありえない筈の体験に感動が湧き上がってしまう。世間には年下の美少女から「お兄ちゃん」などと呼ばれることに喜びを感じる男性達がいるらしいということは琴美も知っていたが、今なら彼らの気持ちが全力で理解出来そうな気がしたのだった。

 

(ああああ……私の弟! 智貴くんが私の可愛い(ダーリン)に……!)

 

 我こそは正真正銘の琴美姉さんであるぞと、世界中に宣言したくてたまらない。そのようにすっかりのぼせあがった琴美であったから、智貴のあとをついて歩く彼女の脳内では早くも彼との幼い頃からの思い出の日々が猛烈な勢いで捏造されたりしていた。

 小さい頃から毎日一緒に登下校したり、いつも一番の遊び相手だったりする仲なのは当然のこと。同じ布団で寄り添い合って寝起きを共にしたり、おはようとおやすみのチューを欠かさなかったり。もちろん一緒に風呂へ入ったりもする。母の帰りが遅いときだって、弟と一緒にテレビの前でロッテを応援していたら時間なんてあっという間だ。夏休みともなれば更にふたり一緒の時間は増える。姉弟で協力して自由研究を頑張ったりするし、ナイター中継が始まるまで涼しい図書館で過ごしたりもする。遅い時間に出歩くことを許される年齢になってからは、遠くマリンスタジアムのほうから打ち上げられる花火を近所のスーパーの屋上から連日眺めることが夏休み恒例の姉弟のお楽しみイベントとなるだろう。

 あんなこともあった、こんなこともあったと、ありとあらゆる架空の思い出が走馬灯のように琴美の脳裏を駆け巡っていく。ある時期からずっと母とのふたりきりの生活だった琴美の人生に、例え仮定の話といえども弟という存在が付け加えられたことで劇的な化学変化が起きていたのだ。

 

(人生って素晴らしい……! 人類みなキョーダイ! 智貴くんと私もキョーダイ!)

 

 例えうたかたの夢であっても、何千何万ものマッチを一斉に燃やせばそれはとてつもない猛火となる。激しく燃え上がった琴美の炎は、疎外感を感じて以降じわじわと広がり始めていた彼女の中の心細さをすっかり焼き尽くしてしまったようだ。

 

「うっ、うっ、うぇっ、うぇっ」

「なんで泣いてんの……?」

 

 智子の部屋の前へと連れてこられた頃には、琴美はもうすっかり感極まって泣きべそをかいていた。実際の時間にしてみればほんの短い間だったにもかかわらず、琴美としてはなんだかもう随分と長いあいだ己の再構築された人生を追体験していたように感じられる。智貴からしてみれば何の前触れもなく泣き出した情緒不安定な姉の姿は恐ろしくすらあったようで、ただただ困惑しているようだった。

 

「あっうん、ご、ごめん……ぐすっ」

 

 そうした智貴の反応を受けて流石に琴美も我に返ったようで、慌てて涙を拭ってみせる。智貴の前でこんな風に泣き顔を晒してしまったことは生まれて始めての経験であったから、恥ずかしいような、だけどもドキドキするような、えもいえぬ感覚を琴美は味わった。

 

「えと、こ、これからどうなっちゃうのかなーって考えてたらさ、なんか泣けてきちゃってさー」

「……」

 

 嘘が下手な琴美にしては上出来ともいえる誤魔化し方であったが、それを受け、智貴は思案した様子を見せる。

 

「姉ちゃん、マジで自分が違うやつと入れ替わったって思ってんのか?」

「えっ? あっ……そ、そうだね、そうみたい」

 

 思っているもなにも、入れ替わったことはただひたすらに事実なのだから、琴美としては思い込みや記憶の混乱という話で片付けてほしくない。が、いくらそれを訴えたところで信じて貰うのは難しいだろうと彼女は少しばかり諦めてもいた。故に智貴からのこうした質問にも、曖昧な言い回しではあるが一応は同意してみせる。

 

「うちのことなんも覚えてねーのか? 自分の部屋のことも?」

「あ、うん……分かんないや」

 

 本当は智子の部屋のことなら、以前お邪魔したことがあったから琴美としても多少は覚えがあった。もっと言うとその隣室となる智貴の部屋に至っては、室内のどこそこにどういった家具が置いてあったか、ベッドの布団や枕の色はどんなだったか、それらはどんな匂いや感触だったのか、といった諸々のことまで克明に記憶していたりもする。が、わざわざそれを言ってしまうと話がややこしくなりそうだったので、ひとまず知らぬ振りをした。

 

「じゃあ俺がこないだ貸したジャージのことも覚えてない?」

「あっ、し、知らないけど……」

「去年ふたりで鍋食ったこともか?」

「う、うん……ごめんね」

「どっかの声優になんか気持ちわりーセリフ言わせた音声ファイルは?」

「えっなにそれ」

 

 続く質問は当然ながらどれも琴美が全く知らないようなことばかりだった。それまで姉に対して一歩も二歩も引いたような態度でいた智貴であったが、ここにきて少なくない変化が起きたようで、あれこれと質問を重ねてくる。そうした彼の様子から、どうにか思い出してほしいという切実な気持ちを感じ取ってしまう琴美。実の姉がこのようなことになってしまったことを受け、彼もまたその心の内では自分なりに事態を重く受け止めていたのだった。

 

「あの小宮山って先輩がさ……自分のほうが姉ちゃんだって言い張ってるみたいだけど……」

 

 これも母から事前に聞かされていたのか、今この場にいない智子について言及する智貴。対する琴美は急に自分の本来の名前を出されたものだから、一体何を言うつもりなのだろうかと固唾を飲んでしまう。

 

「俺はそんなのぜってー信じねー。だから姉ちゃんも、あの人の言うことなんか信じるな」

「あっ……えと、その~……」

「姉ちゃんは姉ちゃんだ。絶対思い出させてやるから……だから心配すんな」

 

 そのように言い切る智貴の顔には強い決意が浮かんでいたから、こうまで言われてはもはや琴美としては何も言い返せなかった。母親と同様に入れ替わり説を(かたく)なに否定する彼ではあったが、それも家族を取り戻したくて必死であるが故のことなのかもしれない。第三者にとっては精神が入れ替わるなどという荒唐無稽(こうとうむけい)な話よりも、かなり特殊なケースの記憶の混乱が起きているのだと考えたほうがまだ現実味があるし、回復の見込みもありそうに思えるからなのだろう。

 智貴は確かに本当の姉を取り戻したいと心の底から願っていることが、いまや琴美にははっきりと分かってしまった。自分のような偽物ではなく、智子その人にこそ帰ってきてほしいのだと。

 

「あの、智貴くん……ほんとごめんなさい……でも、その、すぐ元に戻れるよう、私もちゃんと頑張るから……!」

 

 申し訳ないというような表情を顔いっぱいに浮かべた琴美はそのようなことを智貴に言った。先程は妄想が(こう)ずるあまり、このままずっと智貴の姉としてこの家で暮らせたらいいな、なんていう能天気な考えが頭の中に浮かんだりもしていた琴美。しかし姉の回復をどこまでも信じているこの少年を前にしていると、とにかくこのままではいけないという気持ちになってしまったのだ。どうすれば元に戻れるのかまるで分からないが、それでもどうにかしてみせなくてはならないのだと。

 

「……じゃあさ、その『智貴くん』ってのからやめようぜ」

「えっ?」

「普通に呼び捨てでいいから」

「あ……でも、えと、その……」

 

 琴美の心意気が伝わったのか、智貴がそのようなことを提案してきた。まずは手始めに弟への呼び方を本来のものへ戻してみようということらしい。しかしそれはそれで琴美的にはハードルの高いことであったから、彼女は早速言い淀んでしまう。やぶれかぶれで彼のことを呼び捨てにしたことなら過去に一度だけあったりしたが、いま改めてそのような呼び方をしてみせるのはなんとも気後れがしてしまうのだった。

 

「ちょっと呼んでみてくれ」

「あ、うー、と、と、ともぉ~……」

「遠慮なんかいらねぇって、ほら」

「と、ともき~?」

「そう……そうやって呼んでくれたらいいから」

 

 照れに照れつつようやく琴美が智貴のことを呼び捨てにしてみれば、それに満足したのか智貴は肩の力を抜いてふぅと息を吐く。

 

「じゃあここ、姉ちゃんの部屋だから」

 

 ともあれ本来の用事に戻った智貴が扉を開けて部屋の中へと琴美を案内してみせる。そうして彼の知る範囲ではあるが部屋の中のあれやこれやを説明したり、トイレはどこそこにあるだのといったこの家全体のことも軽く教えたりする。

 

「智貴ー、まだなのー?」

 

 そうこうしているうちに階下から智貴を呼ぶ母の声が聞こえてきた。娘抜きでの家族会議を開くため、息子の戻りを待っていたのだろう。

 

「じゃあ、行くから」

「あっうん! あ、ありがとね」

 

 そう言って智貴は部屋を出ていく。そんな彼に礼を述べて見送った琴美であったが、少ししてからひとつ言い忘れていたことを思い出してしまった。

 

「あっ、智貴くん! ちょ、ちょっと待って!」

「だから呼び捨てでいいって……」

 

 慌てて廊下へ飛び出して智貴を呼び止めた琴美であったが、その声に振り返った彼は姉からの呼び方がまた戻ってしまっていることをやんわりと(とが)める。

 

「あ、ごめん、えと、と、ともき……あのね……」

「?」

 

 ひとまず呼び方を改めた琴美であったが、もじもじとした様子で何か言いたそうにしているものだから、一体何を言い出すのだろうかと智貴は姉からの言葉を待った。

 

「今日のご飯、ごちそうさま……すっごく美味しかったよ」

「ああ……いや、まあ」

 

 言おう言おうと思いつつも口に出せずにいたその感謝の言葉を、琴美はようやく伝えることが出来た。それを受けて智貴は意表を突かれたような表情になったが、それも一瞬のことで、すぐしないうちに元の調子を取り戻す。

 

「いつもの姉ちゃんだったら、あれが駄目これが駄目って文句ばっか言いそうだけどな」

「あ、あはは……そうかもね」

 

 今のは智貴なりの冗談のつもりだったのか、彼にしては珍しいことに、その顔にはほんの少しばかりいたずらっぽい様子が浮かんでもいた。ともあれそれだけ言い残し、智貴はそのまま階下へと()りていってしまった。

 しんと静まり返った廊下であったが、そんな中でも琴美の心臓だけはバクバクと大きな音を鳴らしていた。いまや顔全体も随分火照(ほて)っていたようで、はふぅとため息が漏れてしまう。ともあれひとまずこれからのことをじっくり考えてみようと、部屋に戻った琴美はそこに置かれていた座椅子に座って人心地つくのだった。

 *

(……?)

 

 そうしてしばらく考えごとをしていた琴美であったが、先程から妙に視線を感じるなと思っていたものだから、なんとはなしに辺りを見回してみた。さりとて誰かがいるような気配はさっぱりない。しかしそれでも視線だけはやはり感じられてならないと、今一度周囲を念入りに見回していく。そうしていくうちに、やがて琴美は謎の視線の発生源をつきとめることが出来た。

 

(ぬいぐるみ……?)

 

 それは部屋の脇に置かれていた大小ふたつのぬいぐるみであった。大きいほうはどことなく間抜けな表情をした人形(ひとがた)タイプのもの。小さいほうはしょんぼりした顔が特徴的な丸いクッションタイプのもの。仲良く寄り添い合うようにして置かれているそれらふたつのぬいぐるみが、先程から自分のことをじっと見ているように思えてならない琴美なのだった。

 

(なんか気持ち悪いな……)

 

 考え過ぎかもしれないが、どうにも気になってしまった琴美は立ち上がって彼らのもとに歩み寄り、壁と向き合うような形に置き直してやる。ぬいぐるみらしく愛嬌のある見た目の彼らではあったが、本来は智子のものである筈の部屋にこうしてひとりでいると、彼らの視線がまるで自分のことを部外者として監視してきているように思えてしまうのだ。あるいは彼らは、この部屋の(ぬし)が別人に成り代わってしまっていることを見抜き、怯えていたのかもしれない。

 

「うわっ!?」

 

 突如、ポケットに入れてあるスマホから着信音が鳴り響いたものだから、琴美は思わず声を上げてしまう。一体誰だろうと慌てた彼女がそれを取り出してみれば、神社の石段から転げ落ちた際に幾分かヒビが入ってしまっていたその画面には「黒木智子」と表示されていたのだった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(4)

わたしがあいつで⇄あいつがわたしで

(あれ、眼鏡は……?)

 

 寝ぼけまなこの琴美が普段慣れ親しんだ己の相棒を求めて辺りを見回すが、その姿は見当たらなかった。ベッド脇の隙間にでも落としてしまったかと覗き込んでみるが、これがやはり見つからない。

 

(あっ、そっか)

 

 やがてすっかり目の覚めてきた琴美であったから、それに伴い視界がはっきりしてきたことでようやく気付く。今の自分は相棒の助けを必要とせず、眼鏡無しではっきりとものを見ることの出来る体に成り代わっているのだと。

 

「ん~~……っ」

 

 先行き不安な状況ながらも悪くない睡眠を取れたのか、ベッドの上でうんと伸びをした琴美の調子はすこぶる良さげであった。やがてベッドから降りた彼女はそっと扉を開けて廊下の様子を窺うと、そのまま一階にあるトイレへと向かう。他人の家でこうして朝を迎えるという経験などそうそうあるものではないし、ましてや智貴の家にお泊りしてしまった訳であるから、目に入るものや肌に触れる空気の全てが新鮮に感じられてならない。

 そうして用を足したあと、続いて脱衣所へと向かった琴美は洗面台の前に立つ。琴美としてはこの家の住人と挨拶を交わすよりもまず先に、己の身だしなみを整えることが先決なのだ。特に智貴にだけは寝起き直後の色々とだらしない部分を見られたくはなかった。

 

(えーと、これか)

 

 自分用のものであると教えられていた歯ブラシを手に取った琴美は、一旦口をゆすいでみせると朝一番の歯磨きを開始した。普段智子が使っている歯ブラシを口に入れるのは正直言って気持ちの悪いものがあったが、今の体は智子のものなのだから問題はない筈だと昨晩同様に自分へ言い聞かせる。

 そうして洗面台の鏡に映るぼさぼさ髪の己と向き合っているうち、昨晩智子から掛かってきた電話のことが思い出されていく──。

 *

『いまひとりか?』

「あーうん、あんたの部屋にいるけど……」

 

 智子は声をひそめた様子でまず周囲に他の者がいないかどうかを確かめてきた。それはまるで電話していることを誰かに気取られないようにと警戒しているようでもあった。

 

『そっちはどうだ? お母さん、どんな感じだった?』

「いやまあ……なんつーか、完全に誤解されてるっていうか……」

『まだおまえのこと、私だって信じ込んでんのか?』

「うん、そんなところ」

 

 まず智子は自身の母の様子について真っ先に探りを入れてきた。ひょっとすると冷静になった母が遅まきながら真相に気付いてくれたのではと期待していたのかもしれないが、琴美にはそのような吉報を返してやることが出来ない。

 

「そっちは?」

『あーダメダメ。おまえんとこのおばさんも、あのヤブ医者の言うこと()に受けてやがんの』

 

 今度は琴美のほうから訪ねてみれば、智子はそのように答えた。案の定と言うべきか、自身の母親も病院での診察結果を鵜呑(うの)みにしたままなのだということを琴美は把握する。

 

(しょうがないか……信じろってほうが無理だよな)

 

 仕事を抜けてきた実の母と会った際、琴美は自分なりに己の窮状(きゅうじょう)を訴えてはみたのだが、やはりそれも錯乱ゆえの世迷い言でしかないと受け取られていたようで少なからず無力感を覚えてしまった。あの時の母の、自分を見るぎょっとしたような目つきが琴美の中で苦々しくも思い起こされる。

 

『弟は?』

「え?」

『智貴だよ。なんか言ってたか?』

「ああ、うん……えと」

 

 今度は自身の弟についても質問する智子。母が駄目でも弟ならばと、いちるの望みを求めてその様子を知りたがっているようだ。

 

「だいたいおんなじかな。智貴くんも私のこと、あんただって信じてるよ」

『マジか……あのハゲ野郎……!』

 

 弟だけは分かってくれるのではという思いがあったのかもしれないが、今しがたの琴美の返答でそれも否定されてしまったものだから、智子の声には落胆した様子がありありと滲んでいた。

 

『ったくよー、普段私の何を見てんだよ。たったひとりの姉が入れ替わってるっつーのに、気付かねーとかありえんだろ』

 

 そこから先はもう、智子のひとり愚痴大会だった。よほど鬱憤(うっぷん)が溜まっていたのか、理解のない弟に対する不満をひとしきり口にするだけでは飽き足らず、その矛先は他にも向けられていく。やれ琴美の自室が狭いだの臭いだの、面白いものが何も置いてないだの、そもそも今回の騒動の原因はしつこく自分を追いかけ回した琴美にあるだのと、あれやこれや言いたい放題なのであった。

 

(まあ一応は元気そうだな……)

 

 病院で別れて以降の智子のことを少しばかり心配してもいた琴美であったが、電話から聞こえてくるそのお喋りな声は鬱陶(うっとう)しいながらも存外に気丈そうであったため、杞憂(きゆう)であったかと思い直す。

 

『んじゃ、あそこの鳥居の前で集合だかんな。遅れんなよ?』

 

 ともあれ智子の言葉を締めくくりとして、通話はそこでようやく終了する。一方的な愚痴大会に区切りが付いたあとは「勝手にパソコンを使うな」「部屋のものを触るな」などと口うるさく注意されたりもしていた琴美であったが、ひとまず翌日に例の神社で落ち合う約束をするに至ったようだ。彼女らはそこで、どうにか自分達が元に戻るための手がかりを探るつもりでいた。

 *

「あら、早いじゃない」

「あ、えと、お、おはよー……!」

 

 歯磨きに続いて洗顔も終えた琴美が、クシで梳いた己の長い髪をヘアゴムで(うし)ろに束ねていた頃、キッチン側の扉を開けて脱衣所へと入ってきた母が少し驚いた様子で声をかけてくる。琴美は廊下側の扉から脱衣所へと入っていったから、母は起きてきたのが娘だとは思わなかったようだ。ともあれそんな母に対してぎこちないながらも挨拶してみせた琴美であったが、その口調はもう敬語ではなくなっていた。他人行儀な口の聞き方はやめてほしいと、母から昨晩そのように懇願(こんがん)されていたが故のことであった。

 

「休みの日はいつもお昼ぐらいに起きてくるのに」

「あ、そうなんだ……」

 

 琴美が目を覚ました時刻は彼女としては普段通りであったのだが、智子の夜更かし癖が日常となっていた母からすれば珍しいことであったようだ。

 

「ほら、朝ご飯食べてきなさい。あとで作ってあげるから」

「は、はぁーい」

 

 洗濯機に衣類を放り込んでいた母が、そのように言って琴美を促す。母の態度は平素と変わらぬようにも見えるが、一方でどこか観察してくるようなところがあり、それが琴美に()()()()()振る舞うことを多少なりとも意識させる。昨晩のように黒木家の人々から異物扱いされるのは、やはりどうにもこたえるからだ。

 ともあれ開け放たれたままの出入り口からダイニングへと向かった琴美であったが、そこには先客がいた。

 

「あ、おはっ、おはよっ……!」

「ああ、おはよ」

 

 食卓にはジャージ姿の智貴が既に着席しており、朝食をとっている最中だった。父のほうはまだ寝ているのかその姿はなく、いるのは智貴だけのようだ。彼と目が合った琴美は咄嗟に挨拶したのだが、智貴のほうは姉の早い目覚めを珍しがる様子もなくそれに応じてみせる。

 

(智貴くんと「初・おはよう」しちゃったー! 朝からこんなの心臓に悪い……! いや、むしろイイッ!)

 

 ただ朝の挨拶を交わしたというだけのことなのに、琴美はもうすっかりはしゃいでしまっていた。そうして彼女はキッチンでコップ一杯の水をゴクリと拝借すると、おもむろに智貴の正面の席へと座ってみせる。昨日の夕食では隣り合ったので、今度は向かい合ってみたいということらしい。かりそめながらもいまや黒木家の一員となったその特権を存分に利用して、ここぞとばかりに琴美は想い人との接触を図りたいのであった。

 

「な、なに食べてるの?」

「いや、見りゃ分かんだろ……」

 

 なんでもいいから話しかけてみたいと、琴美は特に意味もなくそのようなことを尋ねたりする。一方の智貴はそのどうでもいいような質問に少し面倒くさそうな様子で答えた。

 

「納豆食べてるの?」

「ああ」

「美味しい?」

「……普通」

「そっかぁ、普通かぁ」

 

 箸を止めることもなく黙々と食べ進める智貴であったが、そんな彼を放っておくまいと、琴美はあれやこれやと言葉を投げかけていく。それは智貴にとっては些か鬱陶しいものであったが、彼の食べる姿を見ているのが楽しい琴美はすっかり浮かれてしまってそうしたことに思い至らない。

 

(あぁ……可愛いなぁ智貴くんは……)

 

 やがてはうっとりした様子で智貴を見つめたりするものだから、対する智貴はなんとも居心地が悪そうだった。それにしても普段の琴美であればもう少し奥手というか、智貴に対しては日頃から控えめなアプローチに終始するばかりであったから、それからすると今の彼女は随分と大胆であると言えた。

 

(こうしてると、なんか本当に私の弟みたい……)

 

 今の自分は「智子」なのだから変に遠慮する必要などない。むしろ余所余所しく接するほうが却って不自然だし、そのような態度は智貴や彼のご両親を不安にさせてしまうに違いない。琴美はそのように考えていたのだが、智貴の身内である人物に成り代わっているという事実が彼女の気を大きくさせていたようだ。

 

「姉ちゃんさ……」

「えっ?」

 

 ふと箸を止めた智貴が急に声をかけてきたものだから、夢心地に浸っていた琴美は目をぱちくりとさせる。

 

「もしかしてちょっと思い出してきてんじゃねーの、自分のこと」

「あっ、そ、そうかな……?」

「俺が朝メシ食ってるとさ、たまに姉ちゃんが話しかけてくっからうぜーって思ってたけどさ……なんか今の姉ちゃん、そんな感じだったから」

 

 どうも智貴は食事中の自分へ茶々を入れてくる琴美に思うところがあったらしい。自身の姉から時折似たようなことをされていた彼であったから、そうした姉の些か迷惑な行動と今の琴美の姿とが重なってしまったようだ。

 

「あっ、ご、ごめんね、邪魔しちゃって……!」

「いや、いいって。別に邪魔じゃねーから」

「そ、そう……?」

 

 自身の行動が智貴から鬱陶しがられていたと知り、琴美は慌てて席を立とうとした。しかしそれには及ばないと、琴美を制した智貴は彼女に改めて着席するよう促す。己の姉がいかにも普段の姉らしい行動をするのはむしろ彼にとって好ましいことであり、そのぶんだけ回復の兆しが見えてきたということ。いつもは煩わしいはずの姉の過干渉気味な行動も、この時ばかりは却って智貴を安心させたらしい。

 

(よく分かんないけど、ご許可が出た……!)

 

 ともあれ当の本人が良いと言っているのだから、再び席についた琴美はいよいよ遠慮なしに智貴の一挙手一投足をじろじろと眺め回す。そうして自身のにへら顔を隠そうともしないのだった。いっそこれこそが琴美の朝食で、(わん)に盛られた白米でも出されればそのまま智貴をおかずにパクパクたいらげてしまいそうな勢いだ。

 そうこうしているうちに母から朝食の用意をしてもらった琴美であったが、その頃にはすっかり食事を終えた智貴であったから、己の食器をキッチンへ運んでいく彼を名残惜しそうに見やる。やがて智貴はリビングのほうに置いてあったショルダーバッグを担ぐと、母に一言「いってきます」と挨拶してみせた。

 

「あっ、もしかして部活……?」

「そうだけど」

 

 本日は日曜日であったが、智貴は朝からどこかへ出かけるつもりらしい。もしやと思い琴美が尋ねてみれば、予想通りの答えが返ってくる。

 

「に、日曜なのに大変だね」

「まあ、昼までだから」

「そっかー、あ、じゃ、じゃあ、えと……」

 

 あまり長く引き止めても悪いと思った琴美ではあったが、最後にこれだけは言っておきたいと、もじもじしつつもその言葉を口にする。

 

「いってらっしゃい! がんばってね」

 

 花の咲くような笑顔で、琴美はこれから部活に励まんとする智貴へとねぎらいの言葉をかけてやる。今までこのようなシチュエーションを想像はしても、実際には許される筈もないと思っていたことだ。しかし今、琴美はそれを堂々と実行してみせた。頑張り屋な弟を姉が見送ってあげるのは当然のことだから少しも不自然ではないと、そのような思いが琴美を後押ししていたのだ。昨晩は寝床の中で目を閉じながら今後の生活について思案していた琴美は、もし機会があればこのようなことも是非やってみたいと密かに考えていたのである。

 

「お、おお……」

 

 そうした姉からのお見送りを受けてか、智貴は少しばかり動揺した様子を見せた。今の自分が出来る精一杯の可愛らしい声色で喋ったつもりの琴美であったが、そのような彼の態度を受けて首をかしげてしまう。

 

「ど、どうしたの?」

「いや……なんか、昔の姉ちゃんみてーだなって……」

 

 何かおかしなことをしてしまったかと心配した琴美がそのように尋ねてみれば、彼女から目を逸らした智貴は一言そのようにだけ答えてさっさと部屋から出ていってしまった。今しがたのお見送りの言葉は智貴にとって少なからず琴線(きんせん)に触れるようなものだったのだろうか。彼の口ぶりからすると、いつ頃かは分からぬがあの智子もかつては部活へ赴く弟を先程の自分と同じように見送ってあげていたのかもしれないと、琴美はそのように思う。それはつまるところ、今となっては失われてしまった姉弟の(なら)わしであることをも(うかが)わせた。

 

(大きくなったらどこもそんな感じなのかなー……)

 

 実際は今の智子だって早朝から部活に出掛ける弟を気まぐれに見送ってやることが(まれ)にあったりするのだが、そのようなことを知る由も無い琴美の中では憶測が広がっていく。

 

(私だったら、毎日お弁当とか作ってあげるのになぁ)

 

 自分だったらああするし、こうもしてあげたい。こんなことだってしてみたい。そんなふうに己が姉の立場になった時のことを想定して、愛してやまぬ大切な弟のために何が出来るだろうか、どんなふうに尽くしてあげられるだろうかと、上げ膳据え膳のゆったりした朝食の中で琴美はあれやこれや楽しい想像を膨らませていくのだった。

 

 ◆

 

「えっ? ジャージ?」

「あっうん、他にないのかなーって思って……」

 

 二階のベランダで洗濯物を干していた母に、琴美は探しものの所在を尋ねに行った。昨日自分の着ていたジャージは既に洗濯中であったから、替えはないのだろうかと思ってのことだった。

 

「大丈夫よ、今日中に乾くから」

「あっ、じゃなくて……その、いま着たいっていうか……」

 

 体育の授業で使うのならわざわざ替えなど用意する必要はない訳だから、母はそのように答える。しかし琴美としては学校の授業とは関係なしに、本日その着用を所望しているのであった。今日は智子との約束のため、(くだん)の神社へ足を運ぶつもりでいた琴美であったが、それにあたって運動着を着ていくつもりなのだ。また智子と一緒に石段から転げ落ちたりするのなら、そうした装いで挑むのが良いだろうと考えてのことだ。

 

「寒いの? 別にジャージじゃなくてもいいじゃない」

「あっ、でもなくて……えーと、その、ちょっとランニング的なのしてこようかなって……」

 

 そうした琴美の思惑を知らない母であったから、単に肌寒さをしのぎたいのなら他にいくらでも着るものがあるだろうと諭す。しかしそうではないのだと、琴美は理由を口にしてみせた。要するにこれから汗を流しにいくのでジャージが欲しいと訴えているのだ。

 

(ほんとのこと言う訳にもいかないしなー……)

 

 ランニングなどという、なんとも取って付けたようなその理由であったが、なにしろ騒動が起きたのは昨日の今日だ。母としてもまだまだ娘が心配な筈であったから、あの智子と会いに行くつもりだとはとても言えない琴美であった。

 

「どうしたの急に……? そんなのいつもしてなかったじゃない」

「あーいや、うーん……」

 

 案の定、そのような言動を母に不審がられてしまった。休日ともなれば日がな一日家にこもってゲームしたりアニメを見たり、はたまたネットサーフィンなどに没頭するのが智子の常であったから、こうした反応は当然とも言える。あるいは、己の娘が普段やらなかったような行動は今後それとなく咎めていくつもりなのかもしれない。ともあれなんと言えば母に納得してもらえるのだろうかと、琴美はどうにか考えを絞り出していく。

 

「な、なんか運動したくなってさー。そのっ、と、ともきも部活頑張ってるし、私も怠けてちゃ駄目かなーって……」

 

 どうかこれで納得してほしいと、琴美は智貴を引き合いに出してそれっぽい理由をでっちあげてみせる。しかしその態度には内心の動揺がありありと浮かんでいた。こんな風に嘘をついたり何かを誤魔化したりするのが本当は心苦しくてたまらないからだ。それは琴美なりの道徳心にもとづくものでもあったが、とりわけ嘘がバレないようにあれこれ取り繕う時のプレッシャーが彼女はたいへん苦手なのである。

 以前ちょっとした出来心から己の後輩を騙してしまった際、多大な心労を背負う羽目になった挙げ句、結局嘘がバレて非常に気まずい思いをした苦い経験が琴美にはあった。幸いその時の後輩からは寛大な心で許してもらうことが出来たから、それ以後、琴美はもうつまらない嘘など無闇につくまいと心に誓っていたのだった。

 

「……じゃあちょっと待ってて」

 

 ともあれ琴美の苦し紛れの嘘がどうにか通用したのか、やや困惑した様子ながらもそれ以上追及するのをやめたらしい母は洗濯物を干すのを中断し、一旦家の中に戻ってからベランダ手前の部屋へと入っていってしまった。そこは納戸(なんど)代わりに使われているのか、幾つものタンスや家財がそこかしこに置かれている。

 

「ほら、これ着てきなさい」

「あっうん……」

 

 やがて母がひとつのタンスから上下揃いのジャージを取り出し、それを琴美に手渡してくる。そのやや小ぶりなジャージはサイズ的にも今の琴美の体に見合ったものであったが、見覚えのある校章が刺繍されたそれは中学生時代の自分や智子がかつて着用していた学校指定の品であることに琴美は気付く。随分長いことタンスの中に仕舞われていたからか、そうした衣類に特有のやや古ぼけた匂いが鼻腔をほのかにくすぐった。

 

(あれっ……これもしかして……?)

 

 瞬間、琴美の鼻が()()に鋭く反応した。その何かを改めて確かめるように、彼女は手にしたジャージに鼻を近づけスンスンとその匂いを嗅いでみる。

 

(こ、この汗の匂い……! 間違いないっ……!)

 

 しっかり洗濯された上で仕舞われていたから、感じ取れたのはほんのわずかだった。しかしそうした微々たる証拠であっても琴美にしてみれば十分であった。ジャージを持つ彼女の手がにわかに震え始める。

 

「あのっ! これっ! もしかして、と、ともきのっ!?」

「えっ? そ、そうだけど……」

「やっぱり……!」

 

 突如素っ頓狂な声を上げ、琴美は心に思っていたことを母に確認する。急に落ち着かない様子になった娘からのそうした質問に、母はひとまず同意してみせた。しかし彼女としてはタンスの中から適当なものに目をつけて取り出しただけに過ぎなかったから、どうしてこのような反応をされるのかがさっぱり分からない。

 

(智貴くんが中学の時に使ってたジャージ(おたから)やん……!)

 

 驚くべきことに、琴美はこのジャージに残っていたわずかな体臭からその元々の持ち主が一体誰であったのかをすぐさま特定したのだ。愛のなせる(わざ)と言うべきか。今は智子の体を借りている琴美であるが、彼女のその魂の力が、肉体の感覚器官にそなわるポテンシャルを十二分に開放したが故の芸当だったのかもしれない。

 

(着ちゃってもいいのか!? マジで!?)

 

 良い香りのするその貴重な品を思いがけず(たまわ)った琴美であったから、(おそ)れ多さのあまり身震いしてしまいそうだった。

 

(いや、良いに決まってる……だって家族だもんな……弟のジャージを姉が着たって、全然おかしくないもんな……!)

 

 そのように都合よく解釈してしまえば、まるで免罪符(めんざいふ)を得たような心もちだ。そうしていよいよ琴美の胸はドンドコ、ドコドコと太鼓のように鳴り響いていく。これはもう今すぐ自室に飛び込んで、己の身を包む「あの頃の智貴」を堪能せねば収まりがつかないのであった。

 

「ちょっと智子」

「えっ? あ、はい」

 

 しかしそんな琴美へ水を差すように、母はどこか真剣味の浮かぶ様子で声をかけてきた。それに返事した琴美は思わず敬語に戻りかけてしまったが、もしやジャージを取り上げられてしまうのではと脈絡もなく妙な心配をしてしまう。いまやすっかりこの()()()()は琴美の所有物となっていたので、今更返すつもりは毛頭ない。

 

「それ、なんで智貴のだって分かったの?」

「えーと……そ、それはー……そのー……」

 

 ジャージには「黒木」と苗字が刺繍されているものの、それ以外に智貴の持ち物であることを示す情報は含まれていなかった。智子たちが通っていた中学では学年ごとにジャージの色が違うといったこともなく、代わりに目印となるようなバッジを付ける規則だったのだが、それも既に取り外されているようだ。サイズ自体も今の智貴の体格を考えれば随分小さめで、それはおそらく母が琴美のサイズに合うようにと見繕ったが故なのであろう。であるならば、これが智子自身のものであると考えても不思議ではないし、むしろそれこそが順当であると言える。にもかかわらずジャージを受け取ってすぐさまそれが智貴のものであると突き止めた琴美の言動に、母は何かしら思うところがあったようだ。

 

「いやっ、ほらっ、あれかな……そう、ここ、こことかの破け具合が……!」

 

 まさか「大好きな智貴くんのいい匂いで分かりました」などと、かの少年の母を前にして言えるわけもない琴美であったから、それ以外のめぼしい特徴を必死に見つけ出してみせた。確かに琴美が主張するように、ジャージのちょうど肘あたりにはどこかですりむいた際に出来たような穴が少しばかり空いている。こうした些細な特徴を指して、琴美は己の鑑定の根拠とするつもりだった。

 

「そうね……それ、前に智貴が部活でケガした時のだものね」

「あっうん、そうそう……たぶんそれ……!」

 

 その場しのぎもいいところなあてずっぽうであったが、偶然にもそれは母を納得させるに足るものであったから、話を合わせつつも琴美はほっと胸をなでおろす。

 

「ほら……ちゃんと覚えてるじゃない。少しずつ思い出してきてるのよ」

「へっ?」

 

 芯から安堵したような、それでいて今にも泣き出しそうな様子を滲ませる母が、琴美の肩にそっと手を置きそのように言う。一方の琴美は、突然そのようなことを言われたものだから目を白黒させてしまう。

 

「やっぱりお医者様の言う通りね。そのうちきっと全部思い出せるようになるから……」

「あー、そ、そうかなー……?」

 

 お母さん、それは違いますと、本当ならそう否定してやるべきであった。母のこうした反応はぬか喜びに過ぎず、全ては誤った前提にもとづく希望的観測でしかないのだから。しかし愛おしげに頭を撫でてくる母の喜びようを見ていると、とても反論する気にはなれない琴美なのだった。もし本音を口にしたとして、それを聞いたこの人はどんな顔をするのだろうかと思うと、それが琴美にはなんだか怖くもあった。

 

「ま、まあそのうちね、そのうち……あはは……」

 

 故に琴美はその場しのぎの曖昧な態度を取ってしまう。変に誤解させてしまったものの、どのみち手を尽くして必ずや元の自分に戻るつもりの琴美であったから、わざわざ今ここでかの御母堂(ごぼどう)を悲しませる必要はないという判断もあってのことだ。

 ともあれ己の外出を咎められる気配は無いようであったから、智子との約束の時間に間に合うよう、琴美は早速自室に戻って支度をするのだった。

 *

(すごい……まるで風のよう……!)

 

 町なかを走り抜ける琴美は、己の体が羽毛のように軽く感じられてならない。走ることはこんなにも爽快なものであったのかと、普段の己の人並みでしかない脚力に慣れていた琴美はまるで自分が別人になってしまったかのような錯覚すら覚えた。事実その体はいまや全くの別人であったから、こうしたことは駆け足に自信のある智子の身体能力が発揮されていたが故のことと言えた。

 

(私はいま、智貴くんとひとつになっている……!)

 

 が、琴美としてはこうした恩恵が別のところからもたらされているのだと信じて疑わない。力の源はもちろん己の身を包む智貴のジャージであった。先刻、かの羽衣(はごろも)との合体を果たしてからというもの、なにやら体の奥底から力が湧いてきて仕方がないのだった。気分はもうフィールドを駆け回るサッカー選手。はたまた安打に成功した走塁中の打者。機会があるたび遠くから眺めたりしていた部活中の智貴のランニングフォームをそれっぽく真似た琴美はいま、走ることの楽しさを生まれて初めて実感していた。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 そんな調子であったから、待ち合わせ場所となる神社の鳥居の下へはあっという間に着いてしまった。智子の姿はまだ見当たらないようで、参拝に来たらしい老人などが境内へ続く石段をのぼったりしていた。ひとまず休憩でもしようかと、琴美はそのまま石段に腰掛ける。少し蒸し暑くなって胸元のファスナーを下げてみれば、己の汗と智貴の汗とが混じったような匂いがして、それがまた琴美の肌を(あわ)立たせるほどの陶酔(とうすい)をもたらしたから(たま)らない。はぁはぁと肩を上下させていたその荒い呼吸が、そのうち悩ましい吐息に変わってしまいかねない琴美なのであった。

 そんな琴美もやがて呼吸が整ううちに落ち着きを取り戻していったのだが、そうなると今度は智子のことが気になってしまった。持参してきたスマホで確認してみれば、待ち合わせ時刻はとっくに過ぎてしまっているようだ。ひょっとしたら自分と違って智子は母親から外出を咎められたりしているのかもしれない。もう少しだけ待ってもやはり来ないようなら一旦電話をかけてみようと琴美は考える。

 

「ぜぇー……ぜぇー……はぁー……」

 

 と、そうこうしているうちにようやく智子が待ち合わせ場所へとやってきた。見ればその様子は随分とくたびれており、息が上がりすぎて呼吸するのもやっとという具合だ。待ち合わせ時間に遅れないようにと必死で走ってきたからか、随分汗だくになっている。本来は己のものである筈のその姿がなんとも惨めな様相を呈していたから、琴美は一体どういう訳かこんなふうになっている智子のことが哀れになってしまった。

 

「あ、だ、大丈夫……?」

「あ……?」

 

 歩み寄った琴美が心配するような言葉を投げ掛けてみる。しかし智子のほうは意識が朦朧(もうろう)とするあまり琴美が見えていなかったのか、話しかけられたことでようやく相方の存在に気が付いたようだ。

 

「なんでそんな息切れしてんだ?」

「いや……走って、きたから……めっちゃ、走ったし……」

 

 素直な疑問を持った琴美からのその質問に、智子は途切れ途切れになりながらも答えた。

 

(そんな無理しなくても……)

 

 もしかしたら智子は家を出る時間が遅かったのかもしれない。母に引き止められていたのか、あるいは単に家を出るタイミングを見誤ったのか。ともあれ智子としても一応は自分と約束した待ち合わせ時間を律儀に守ろうとしたのだなと琴美は理解した。そうして智子の呼吸が落ち着くまで待ってあげることにした琴美は、そのまま黙って相方を見守り続ける。自分と同じくジャージ姿の智子であったが、着用しているそれはかつて中学生だった当時の己が使っていたものに違いないことを琴美は見て取る。

 智子もまた、先刻の自分と同じように母に頼んでお古を出してもらいでもしたのだろうか。外出するにあたってどのように母を納得させたのだろうか。「ランニング的なのしてこようかな」と、取って付けたような理由でも口にしたのだろうか。智子ならきっとそんなことを言いそうだなと、琴美の中でとりとめのない思考が広がっていく。

 

「こみさんさぁ……」

「えっ?」

 

 どれくらいそうしていただろうか、不意に声をかけられた琴美は我に返る。見ればようやく呼吸の落ち着いたらしい智子が……今は小宮山琴美としての姿をした智子が、眼鏡の奥の目元を不機嫌そうに歪めて琴美を睨んでいた。

 

「どうなってんのこの体? 足、遅すぎなんだけど?」

「そ、そう……?」

 

 刺すように自身の体を指先で鋭くつつく智子は、そのようなことを訴える。どうも智子にしてみると、今の己の身体能力にはまるで納得がいかないらしい。それはつまり、琴美の肉体についておおいに不満があるということだ。

 

「ちょい走っただけですぐバテちゃうし……なんか体も重いし……おまけにちょっと臭いし……マジえげつーねぐらい『ゼロの者』だし……」

(コイツ……ッ!)

 

 自分の本来の体にあれこれケチを付けられて、琴美も段々と不愉快な気持ちになってきた。特に最後の一言は聞き捨てならない。この口ぶりからすると、智子は昨晩風呂にでも入る際に()()()()のだろう。恥ずかしいような、悔しいような、恐ろしいような、複雑な気持ちが琴美の中で渦巻いた。智子は果たして今の己の体を大切にしているのだろうか。もしかすると随分ぞんざいに扱っているのかもしれない。だとしても、現在の自分にはどうすることも出来ない。いまや本来の体は智子に奪われてしまったも同然なのだから。サラサラで艶やかになるようにと日々手入れをかかさないでいたその髪も、面倒臭がりな智子にかかれば程なくしてボサボサになってしまうだろう。もしかしたら風呂にだって入らない日があるかもしれない。

 

(くそ──! 絶対元に戻ってやるからな──……!)

 

 もとよりそのつもりでいた琴美であったが、改めて危機感を募らせる。このまま智子に己の体を預けたままでいたら、きっと悲惨なことになってしまうに違いない。そのようなみっともない姿を智貴に見られでもしたら、幻滅されることは避けられないだろう。近頃は智貴と学校で話す機会も(多少は)増えてきたし、まさか貰えるとは思っていなかったバレンタインデーのお返しの品までプレゼントされたのだ。こんなふうに順調な進展を見せている智貴との仲であったから、それを智子のせいで台無しにされては敵わない。

 

「ほら、これ」

「?」

 

 歯噛みしつつ思考に沈んでいた琴美であったが、智子が差し出してきたものを見て、相方と交わしてあったもうひとつの約束を思い出す。

 

「ああ……じゃあほら」

「おう」

 

 差し出された品を受け取った琴美はお返しにと、自身のポケットからも似たようなものを取り出して智子に渡す。ふたりが交換したもの、それはスマホの充電ケーブルだ。今後どのくらい入れ替わり生活が続くのか見通しが立たない状況であったから、ひとまずスマホの充電を切らしてしまわないための必需品ぐらいはこうして持ち寄ることになっていたのだ。昨夜の長電話のせいですっかり充電残量も心許なくなっていたから、おかげで昨日の昼から行なわれたロッテの試合結果もいまだネットで確認出来ていない琴美なのであった。

 

「あー……じゃあどうする? またあそこから転がってみるか?」

 

 ともあれ本日この場に集まった本題へと踏み込んだ琴美が、鳥居の先に伸びる石段のほうを指差してそのように言う。周囲に生い茂る木々が風に揺られて音を鳴らすたび、石段に落ちる柔らかな木漏れ日もそれに合わせてゆらゆら揺れた。こうして見ると中々に風情のある場所であるが、あいにく今の琴美にそれを楽しむ余裕はない。なんとなれば、ここで自分と智子は厄介な超常現象に巻き込まれた訳であったから、むしろ得体の知れなさすら感じてしまうのだ。

 

「うんにゃ、私に考えがあんだよ」

 

 琴美の提案を断った智子はそのように言う。どうもこの場を訪れるにあたって彼女なりに計画していたことがあるようで、その口ぶりからは少なからず自信ありげな様子が垣間見えていた。

 

「こみさんみたくなんでもかんでも闇雲にやってちゃあダメだ。頭を使わねーとな」

「ほぉー」

 

 随分な言われようだが、智子なりの考えがあるというのならそれを聞いてみようという気になる琴美。どのみち彼女としても、何をどうすれば元に戻れるのかなど皆目見当がつかないでいるのだ。

 

「今日私たちがやるべきことは『トレース』だ。昨日の私たちがここでやったのと同じことを、イチから十まで全部トレースすんだよ」

 

 智子の考えは、つまりそういうことだった。一体どのようなことが要因となって入れ替わり現象を発生させたのか分からないのなら、ひとまず昨日の自分たちの諸々の行ないを今一度改めて再現してみようということらしい。もしかしたらその過程でなにかヒントが見つかるかもしれないし、運が良ければ再び入れ替わり現象が起きて元に戻れるかもしれない。また、再現するのは行動だけではない。本日の集合時間もまた、昨日の琴美と智子が神社近くの松林へゴミ拾いをしに訪れたのと同じ時間帯が指定されてもいたのだ。

 

(なんだよ、ちゃんと考えてるんだな……)

 

 頓珍漢な意見が出てくるのかと構えていた琴美であったが、一通り説明を聞かされたあとはむしろ納得させられた。これならば、ひょっとすると有用な手がかりが見つかるかもしれないと思えたからだ。と同時に、智子も智子で真剣に今回の件への対処を考えていたのだということが分かって少しばかり感心したような気持ちにもなる。それだけ智子も元に戻りたくて必死なのだろう、事態を(うれ)えているのは自分だけではないのだと、同じ悩みを共有する者として、なにやら智子のことがほんのちょっぴり頼もしく映るのだった。

 

「これより作戦を開始する!」

 

 ともあれやることは決まった訳であるが、気合を入れるためなのか、智子が急に声を張り上げ芝居がかった言葉を口にする。なんとも似合わぬことをするものだと、その様子を琴美が黙って見ていれば、やがてちらりと視線を向けてきた智子が恥ずかしそうに口を尖らせた。なにかしら追随(ついずい)を期待していたのかもしれないと、相方の気持ちに気付いた琴美は、ひとまず「お、おー……」と控えめに拳を作ってやったりするのだが、それが却ってふたりの間に沈黙をもたらしたので、なんとも格好がつかない。

 

「あ……じゃ、じゃあ、ちょっと飲み物買いに行こっか?」

「あっうん」

 

 先に口を開いた智子が遠慮がちにそう促してきたので、琴美は言葉少なに同意する。昨日の状況を再現するにあたり、冷たい缶飲料は欠かせないアイテムだと智子は考えているようだ。そんなこんなで、まず手始めに近場の自販機へと買い出しに向かうふたりなのであった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(5)

智子の帰還(仮)

「んほぉおお────っ!!」

 

 松木立ち並ぶその広々とした空間に、智子の悩ましげな絶叫がこだまする。そんな彼女の背後には、缶ジュースを手にした琴美が立っていた。

 

「おいっ、変な声出すなよ……!」

 

 まるで喘ぎ声のような智子の叫びに、琴美は語気を荒げずにはいられない。本日の試みの一環として、琴美は缶ジュースを遠慮がちにほんのちょっぴり智子の首筋へ押し当ててみたのだが、それに対する反応がおおげさ極まりないものであったからだ。

 林の中には神社の参拝ついでに立ち寄ったらしき客や、ボール遊びに興じる親子連れの姿が見られたが、騒がしい智子たちの様子に一体何事かと面食らっているようだった。

 

「でも昨日のこみさんこんな感じだったよ」

「嘘つけ! あんたがおおげさにしてるだけだろ!」

 

 四つんばいの姿勢になっていた智子が言い訳をするが、本来の自分の姿かたちでもってこのような痴態を人前に晒されたのでは敵わない。恥ずかしいやら腹立たしいやら、智子がふざけているのだと思った琴美は顔を赤くしつつも反論する。

 

「いやいやホントだって。自覚ないの? めっちゃ変な声で叫んでたからなおまえ」

「……マジで?」

 

 しかし智子がなおも言い張るものだから、琴美のほうも段々と自信がなくなってきた。確かに言われてみれば大声で叫んでしまったような気もするので、もしかすると仰天するあまり声が裏返るほど取り乱していたのかもしれないと、そのように思えてくるのだった。

 

「んじゃ、次は追いかけっこだな」

 

 さっと立ち上がった智子が、傍らによけておいた己の缶ジュースを拾い上げると、そのまま残りを一気に飲み干してみせた。自販機でお互いの飲み物を買ったあと、琴美と智子は昨日の出来事を再現すべく神社近くの松林でしばらくゴミ拾いの真似事などをしていたのであるが、プログラムは順調に進行しているようだ。

 

「ほら、走って」

「あ、うん……」

 

 いまのところ手がかりらしいものは何も見つかっていないが、まだまだこれからということで、今度は林の中における追走劇を再演することになったふたり。促されるまま走り出した琴美のあとを追いかけるように、智子もそれに続いていく。

 

「まてこらー」

 

 誰かの真似でもするように、智子が拳をふりふり声を上げたりもするが、その走りようはなんともノンビリしたものだった。息を切らしつつも鬼の形相で獲物に食いつかんとしていた本来の琴美の狂犬ぶりとは似ても似つかない。

 

「おい、真面目にやれよ」

 

 そうしてみるみるうちに距離の空いてしまうふたりであったが、足を止めて振り返った琴美が、遅れてやってきた智子に注意する。出来るだけ昨日の出来事を再現してみようと提案したのは智子なのだから、いいだしっぺがこれではいけないと思ってのことだ。

 

「んなこと言ったって、こっちはマジで疲れてんだよ……。おまえんちからここまで全力で走ってきたんだぞ? 死ぬかと思ったわ」

「あ、そ、そっか……」

 

 どうも智子は待ち合わせ場所に来た時点で既に力尽きてしまっていたらしい。故に今改めて調子よく走り回る元気はもはや残っていなかったようだ。本来の自宅からこの近辺までの距離に思い至った琴美はさもありなんといった気持ちになる。自転車ならともかく、走ってここまでやってくるのは元々の自身の脚力を思えばそこそこ骨の折れるものに違いなかったからだ。

 

「それよりほら、こみさんジュース飲んでみてよ。走りながらで」

「えっ? ああ、うん」

 

 そうして智子からまた促された琴美は、ポケットから己の分の缶ジュースを取り出した。これもまた昨日の再現のひとつで、怒り狂う琴美から逃げ回っていた智子は己の余裕を見せつけるように走りながら水分補給をしてみせていたのだ。

 ともあれふたりは再び走り出す。今度は智子のペースに合わせようと、琴美のほうもゆったりとした走りだ。そうして缶ジュースのフタを開けた琴美はそれをちびちび飲み始めるが、走りに合わせて揺れる中身がいちいちこぼれそうになるものだから、飲みにくいことこの上ない。

 

「ぶほっ!」

 

 そんな琴美の頭に突如、背後から何かがスコンと小気味よく当たった。驚きのあまり口に含んだものを噴き出してしまう琴美であったから、たまらずむせてしまう。

 

「ゴホッ……てめっ……なにすん……!」

「あーすまんすまん。当たっちゃった」

 

 またしても足を止めて振り返ってみれば、悪びれた様子もない智子がそのように謝った。琴美の足元には空き缶が転がっていたが、どうもこれを背後からぶつけてきたのは智子のようだ。

 

「いやほら、昨日こみさんもここで私に空き缶投げてきたじゃん。その再現をちょっと」

「ゴホッ、ゲホッ……はぁ……?」

 

「ま、私はちゃんとよけたがな」と主張する智子の言い分によれば、どうも昨日の林の中における追走劇の途中、同じように琴美が空き缶を投げつけてきたということらしい。神社のほうでなら確かに何度か似たようなことをやりはしたが、林のほうでもそのような一幕があっただろうかと、琴美はさかんに咳き込みつつも当時を振り返る。彼女としても智子を追いかけている最中は手にした空き缶を全力でぶつけてやるつもりでいたから、身に覚えがないとも言い切れないのだ。

 

(ひと声かけるぐらいしろよなー……ったく)

 

 あの時は自分も怒り狂っていたから、ひょっとしたら智子に挑発されるうちに無我夢中で放り投げたのかもしれない。いつの間にか手元から無くなっていた空き缶は、そうして失われたのだろうかと琴美は考える。が、それにしたって不意打ちのような真似はやめてもらいたい。というよりわざわざジュースを飲もうとしていたタイミングを狙ってやったとしか思えない琴美であったから、なにやら自分が智子に遊ばれているような気持ちになってしまう。どれだけ外見が変わっても中身は相変わらずなままの智子にため息が出そうな琴美であった。

 

「おいっ、おまえそれ……!?」

「えっ?」

 

 なにやら急に顔色を変えた智子が、ジャージの袖で口元をぬぐっていた琴美の腕を急に掴んできた。すると智子はその肘の辺りをまじまじと観察し始める。

 

「テメー、これ弟のじゃねーか! なに勝手に着てやがんだっ!」

「あっ、いや、これはその……!」

 

 どうも智子は、琴美の着ているそのジャージが自身の弟のものであったことに目ざとく気付いたらしい。それ故に彼女は目の色変えて激しい剣幕で琴美に詰め寄った。

 

「ウチん中漁ったのか!? この泥棒ヤローッ!」

「違うって! お、お母さんが出してくれたんだよ!」

 

 智子の怒りようは随分なものであったから、琴美は必死に釈明する。腕を掴んだまま揺さぶってくる智子の力は随分と強かったので、もう体ごと振り回されてしまいそうだ。手に持つ飲みかけの缶ジュースもたまらず取り落としてしまった琴美は、ともかく智子をどうにか引き剥がそうとする。

 

「脱げよ! ほらっ!」

「ちょ、やめっ……!」

 

 琴美が弟のジャージを着用していることが余程気に入らないのか、ついには強引に脱がせにかかった智子が力まかせにジャージを剥ぎ取ろうとする。抵抗しようにもすっかり力負けしてしまう琴美だったが、たまらず相方の顔を手で押しのけたところ、そのまま智子が掛けていた眼鏡までをもずり落としてしまう。途端、視界のぼやけてしまった智子は咄嗟に眼鏡を拾い上げようとしたから、その隙に琴美は脱兎のごとく逃げ出した。

 

「待てコラァ──!」

 

 そんな琴美のあとを、眼鏡を掛けなおした智子が怒鳴りながら追いかける。最早そこに先程のようなノンビリした様子は微塵もなく、残る力を振り絞るかのように全力で走ってみせていた。そんな智子の剣幕にすっかり気おされた琴美は、恐れをなして林の中を逃げ惑う。捕まれば身ぐるみを剥がれ丸裸にされてしまいそうな気さえしてきたから、彼女も彼女で必死だった。

 が、しばらく智子から逃げ回るうちに琴美は落ち着きを取り戻してきた。最初こそ焦りを感じていた彼女であったが、どうもさほど警戒する必要はなさそうだと思えてきたのだ。その理由は自身の身軽さにあった。驚くほどに体がよく動く今の琴美だったから、あちらこちらを縦横無尽に走り回って智子を翻弄することにさほど苦労しなかったのだ。

 

(ははっ……なんか猿みたい……!)

 

 林の中には長年の土壌の侵食でその巨大な根をすっかり地表に露出させた松などもそこかしこに生えていたが、足をからめ取られかねないこうした障害物のような根も琴美はホイホイと身軽に飛び越えていく。一方の智子はというと、これがもうすっかりおぼつかない足取りで松の根を避けてよたよた走ったりするものだから、そんな彼女の鈍臭い様子が益々琴美を安心させる。

 

「ほらほらオソムシ、なにしてんだよ」

 

 すっかり調子づいてしまった琴美は、あたかも昨日の仕返しと言わんばかりに普段ならしないような安い挑発までしてみせる。己の体がこんなにも身軽に動くことが楽しくて、それが琴美を変に高揚させてしまったようだ。

 

「ひぃ……ひぃ……ちくしょう……! なんだよこれ……! なんなんだこれ……!」

 

 やがて走ることもままならなくなった智子はやむなくトボトボ歩きに切り替えたのだが、しばらくするとそれすら出来なくなったようで、とうとう彼女はその場に倒れこんでしまった。

 

(あっやばっ……!)

 

 智子のほうから一方的に突っかかってきたといえど、(いささ)かやり過ぎてしまったかもしれない。心配した琴美は倒れ伏した智子の近くまで駆け寄って様子を窺う。よくよく考えずとも今の智子の体は元々己のものなのである。その分身とも言える存在にこのような無茶をさせてしまったことを、琴美は今更ながらに後悔してしまった。

 

「あ、ご、ごめん……その、おまえがいきなり変なことするから……」

 

 智子の傍らにしゃがみ込んだ琴美がそのように声をかけてみるが、智子は顔を伏せたままぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すばかりで返事をしない。

 

「うわっ!?」

 

 と、伏せたままの智子が急に手を伸ばし、琴美の足首を掴んできた。突然のことに尻もちをつく琴美であったが、これは罠にはめられたかと思い、慌てて立ち上がろうとする。しかしそんな琴美が足を一振りしただけで、智子の手は容易く離れてしまうのだった。

 智子にはもう、相方を掴む力すら残っていないのかもしれない。振り払われた手はそのまま何かを求めるように虚空を漂っていたが、それはあたかも智子の魂が本来の体を探してさまよっているかのようであった。

 

「……」

 

 このような智子の様子が見ていられなくなったからか、一度は距離を置いた筈の琴美が遠慮がちに歩み寄る。そうして何を思ったか、今度は智子の手を自ら取り、安心させるようにぎゅっと握り締めてやるのだった。

 それは果たして琴美の本心だったのか。あるいは琴美が借り受けているその肉体が、本来のあるじの求めに応じたからなのか。ともあれ琴美は自身の手のひらを通して智子の体温を感じ取る。汗ばんだ智子の手のひらはじっとりしていたが、それを不快に感じることはなかった。それどころか却ってその湿り気が自分と智子とを接着してひとつにしてしまうような、心地よくも不思議な感覚が広がっていく。

 そうしてどれくらい時間が経っただろうか。やがて智子のほうから手を離したことで、ふたりのつながりはそこで途切れてしまった。途端、手のひらが外気に晒されてひんやりしたものだから、そのことが琴美にほんのちょっぴり寂しい気持ちを湧き起こさせるのだった。

 

「は───……」

 

 やがてむっくり上半身を起こした智子は、そのままあぐらをかいた姿勢を取ると長いため息をついてみせる。その表情には先程までの怒りの感情は見られず、代わりにすっかり疲れてしまったような色が浮かんでいた。

 

「帰ろっか」

「えっ?」

 

 かと思えば、唐突にそのようなことを言い出す智子。彼女の視線は琴美に向いておらず、先程から地べたをぼんやりと見つめている。ジャージの件はもうどうでもよくなってしまったのか、そのことについて言及してきそうな気配はない。

 

「いいのか?」

「うん……今日はもういい。また今度にする」

 

 どうもこの様子からすると本当に智子は疲れきってしまったらしく、これ以上の作戦続行を断念するつもりのようだ。まだまだ再現すべきことは残っている筈だったが、先程の追走劇が智子を随分と消耗させてしまったことを琴美も理解したものだから、それ以上引き止めるようなことは言わなかった。

 

「おまえのチャリ貸してくれよ。私んちに置いたまんまだろ?」

「あっうん……でもあんた、乗れないんじゃなかったっけ?」

「いつの話だよ。もうフツーに乗れるわ」

「ああ、そうなんだ。じゃあいいけど……」

 

 智子にはもう徒歩で小宮山家まで戻る体力が残っていなかったからか、昨日琴美が乗りつけてそのまま黒木家に放置されていた自転車を貸してほしいと頼んできた。断る理由も無いし、なにより随分と無理をした智子の具合が心配だった琴美はそれを快諾してやる。

 ともあれ一旦黒木家と向かうべく、ふたりは連れ立って松林をあとにした。うっかり置き忘れたりすることもなく、琴美の両のポケットには空き缶ふたつ分が詰め込まれてぽっこり膨らんでいたものだった。

 

 ◆

 

「あっ、た、ただいま……!」

「あらおかえり。どうだった?」

 

 黒木家へと戻った琴美は、まずリビングに顔を出して己の帰宅を母に知らせた。娘の突拍子もない行動はさておき、確かに一汗流してきたらしいその様子を見て取った母は感想を尋ねたりする。

 

「あっうん、まあぼちぼちかなー」

 

 ひとまず無難な答えを返した琴美であったが、ある意味智子とふたりでランニング的なものに励んだとも言える訳であったからあながち嘘でもない。外出する際の言い訳が図らずも一応は真実となってしまったのだ。

 

「ほら、今のうちに……!」

 

 そうして玄関へと戻った琴美は、開け放たれたままの玄関扉の裏側に潜んでいた智子に小さな声で呼びかけた。周囲の様子を窺いながらも姿を現した智子はそのまま玄関扉をそっと閉じ、靴を脱いで家の中へと上がり込むと、仕上げに自分の靴を下駄箱の中へ手早く隠す。忍び込むといった表現がぴったりな智子のこうした行動であったが、そもそも自転車を借りに来ただけの彼女がなぜわざわざ家の中にまで上がり込むことになったのかと言えば、黒木家に到着した際に智子が急にそのようなことを言い出したからだ。

「いくつか私物を持っていきたいから」という理由を付けていた智子であったが、一日ぶりに見る我が家を目の当たりにして恋しくなってしまったのかもしれない。そのように考えた琴美は、後ろめたさを感じつつも家人(かじん)に内緒でこうして智子をこっそり家の中に招き入れてやるのだった。ともあれふたりは派手な足音を立てないように注意しつつ、そのまま階段を素早くのぼっていく。目指す先は智子の自室だ。

 

「やれやれ……自分ちだってのに、なんでコソコソしなきゃなんねーんだか」

 

 ベッドにどっかと腰をおろした智子が、ため息混じりに愚痴を漏らす。騒動が起きたのは昨日の今日であったから、彼女としても今の自分が黒木家に上がり込むことで新たな騒ぎを生み出しかねないことぐらいは分かっているが、文句のひとつも言いたいのだ。が、その様子は幾ばくか気が和らいでいるようであったから、やはり自室は彼女にとってなによりも落ち着ける場所なのだろう。

 

「あー昨日は全然眠れんかったわー。やっぱ寝床はこうでないとな」

 

 己が普段愛用してきたベッドに寝そべり体をうずめながら、智子はそのようなことを言う。昨晩は快眠出来た琴美であったが、智子のほうはそうもいかなかったようだ。

 

「こみさんさぁ、あんな地べたで寝たりして体とか痛くなんないの?」

「いやまぁ、特には……」

 

 カーペットの上にぺたりと座り込んでいた琴美は、智子からの質問に対してそう答える。琴美の自室にはベッドなどは置かれておらず、就寝時は床に直接布団を敷いて寝るのが慣わしだったのだが、別段それを苦に思うことは無かったのだ。しかしこうしたことは普段ベッドを寝床としている智子からすると違和感しかなく、随分と寝心地の悪さを感じていたようだ。

 

「あっ、なに勝手に動かしてんだよ!」

 

 と、何かに気づいた様子の智子が勢いよく起き上がると、部屋の脇に置かれていたぬいぐるみ達へと歩み寄る。琴美に気味悪がられて壁のほうを向かせられていた彼らであったが、この部屋の主である智子はそれが気に入らなかったようだ。

 ふたつのぬいぐるみを抱き上げた智子はそのまま座椅子に座り込み、彼らをはべらせおもむろにテレビの電源を付ける。そうして録画しておいたらしいアニメを再生させる智子であったが、ぽけっと口を半開きにするその姿はずいぶんとリラックスしているようだ。単に私物を取りに来ただけにしては随分と悠長であったから、あるいは元からこのようにして居座るつもりだったのかもしれない。

 

(大丈夫かなー……)

 

 あまり長居されて家人にバレでもしたらまた面倒なことになるのではと心配する琴美ではあったが、ともあれ智子の気が済むまでしばらく寛がせてやろうかと、何も言わず相方の様子を見守ることにした。昼以降に放送される予定のロッテのデイゲーム中継が始まる頃までにはテレビを明け渡してもらえればいいかと考える琴美は、おもむろにポケットから取り出したケーブルを部屋のコンセントに差し込み、それを己のスマホと接続して充電を開始する。

 

(あっ、だめだこりゃ)

 

 手持ち無沙汰な琴美は、充電しつつ昨日のロッテの試合結果でもチェックしてみようと思った。しかしスマホのバッテリーはいつの間にか完全に底をついてしまっていたようで、今すぐ利用することが出来なくなってしまっていた。こうなってはある程度まで充電されるのを待つほかない。

 

「智貴は?」

「えっ?」

 

 ことわりを入れてパソコンでも使わせてもらおうかと考え始めた琴美であったが、相方からふいにそのようなことを聞かれてしまった。いま智貴はどうしているのかと、智子はそう質問しているのだ。

 

「あー……ぶ、部活みたいだけど」

 

 ひとまずそれに答えた琴美であったが、それを聞いた智子はうしろを振り返ってパソコンラックの上に置かれた時計を見やる。時刻は午前十時半を過ぎたぐらいで、部活に出かけた智貴が帰ってくるのはまだ当分先のことだった。

 

「まったく……姉が大変なときだってのに相変わらず球蹴りかよ。呑気してんなーあのハゲ」

 

 智貴が家にいないことが不満だったのか、刺々しい声色でそのようにボヤく智子。しかしそれは琴美にとって少しばかり聞き捨てならないことだった。

 

「おい、やめろよ」

「あ?」

「智貴くんだってあんたのこと、凄く心配してるんだからな」

 

 智子からすれば自分の姉の一大事であるにもかかわらず智貴が部活にうつつを抜かしているように見えたのかもしれないが、実際はそうでないことを琴美はよく知っていた。彼もまた姉の異変を前にして不安に揺れており、その回復を切に願ってやまない心持ちでいることは間違いないのだ。

 

「自分の家族がおかしくなってるんだぞ? 平気な訳ないだろ」

 

 ましてや呑気している筈もない。それどころか智貴は本来の自分を失ってしまった姉のために尽力するつもりでいるに違いないのだ。そうした姉思いの智貴の心労を知りもせず悪しざまに言うことは、琴美にとって腹立たしいことなのであった。

 

「……智貴がなんか言ってたのか?」

「えっ? ああ……うん、まあ色々」

 

 しかし智子のほうは琴美のそうした言葉を受けて、別のことが気になってしまったらしい。アニメの再生を一旦停めて探るような視線を向けてくる。琴美と智貴とのあいだに昨晩なにかしらのやりとりがあったのではないかと、彼女はそう考えたようだ。

 

「色々って、なに?」

「いやまぁ、だから色々と……」

 

 智貴が自分を励ますために言ってくれた言葉の数々を、琴美は一言一句漏らさず記憶していた。思い出すだけで胸が熱くなるような想い人とのひとときであったが、しかし悲しいかな智貴は姉の異変の真相について根本的に誤解したままであったから、その微妙にズレた励ましの言葉のひとつひとつはきっと智子にとって許しがたいものであるに違いないのだ。

 

「言えよほら。なんだってんだ?」

「えと、ほら、姉ちゃんがんばれって励まされたっていうか……」

「違うだろー! ほんとのこと言えよっ!」

 

 どうにかはぐらかそうとする琴美であったが、その手の誤魔化しが苦手な彼女であったからすぐさま智子に見破られてしまう。これは何か隠し事をしているに違いないと、智子は益々追求する姿勢を強めるのだった。

 

「なんで隠すんだ! やましいことでもあんのか!?」

「ね、ねえよそんなの! ただほら、智貴くんも結構誤解しちゃっててさ……」

 

 これはもう何かしら情報を与えてやらねば智子も収まりがつかないのではと見た琴美は、細部をぼかしつつもそれとなく昨日の智貴とのやりとりを教えてやった。小宮山琴美と化した今の智子の言い分に彼が耳を傾けることはおそらく無いだろうということも、一応はそれとなく伝えてやる琴美。

 

「かーっ! 馬鹿だなぁアイツ……」

 

 座椅子を回転させて琴美と向き合い、その言葉にひとしきり耳を傾けていた智子が、額に手をやりおおげさに嘆いてみせた。琴美なりに気を遣って説明したから激昂するようなことこそなかったが、それはそれとして智子は自身の弟の言動に呆れてしまったらしい。

 

「もー勘弁ならん。私が直々に説教してやる」

「えっ!?」

 

 かと思えば今度は妙に息巻いた様子でそのようなことを言い出した智子は、手元のぬいぐるみの頭をしきりにぽむぽむ叩いたりして落ち着かない様子だ。

 

「あいつが帰ってくるまで私もここにいるからさ。こみさんフォローよろしくな」

「あー……うん、えと、まぁ……」

 

 急にそのようなことを言われてどう返答したものかと言葉を濁す琴美であったが、智子のほうは本気らしい。フォローしろというのは、つまり智貴が帰ってくるまで智子の存在を知られないように配慮せよとのことだろうか。もし母に見つかりでもすれば、なんのかの理由をつけて小宮山家へ戻るよう諭されたり、あるいは力づくで追い出されてしまうのではという危惧が智子にはあるようだ。

 

(どうなんだろ……実際に会ってみたら分かってもらえるのかな……?)

 

 昨晩は智子の言うことなど絶対に信じないと言い張っていた智貴であったが、直接相手を見ていないからそのような考えになってしまっているのではないか。だとしたら、対面してお互い話し合ってみればその認識が変わる可能性はある。智子の母が駄目でも、弟の彼ならばあるいはどうか、試しにふたりを引き合わせてみるのもいいかもしれないと、琴美はそのように思った。理解者はひとりでも多くいてくれるに越したことはないし、そのほうが智子にとってもいくらか気の休まることに違いないのだから。

 

「あっ、お母さん来た……!」

 

 何かに反応した様子の智子が、だしぬけに声をあげる。階段をのしのしとあがってくる足音が扉ごしに聞こえてきたからだ。その気配が母親のものに違いないと判断した智子は、すぐさま立ち上がって周囲を見回す。しかし適当な隠れ場所が見当たらず、やむなく彼女は人型のぬいぐるみを抱えると、そのままベッドの中に潜り込んだ。

 一方の琴美は心の準備も整わぬうちから事態に直面させられて、ただあたふたとするばかり。洗濯物の残りを干しに来ただけの可能性もあったから、どうかこのままやり過ごせればと願いつつ、扉に耳を当てて廊下の様子を窺う。しかしまさにこの部屋の前で「智子、入るわよ」と声がしたのでぎょっとしてあとずさる。

 

「ちょっといい?」

「あっはい」

 

 ガラッと扉を開けて部屋に入ってきた母が、開口一番そのように言った。一体何用かと身構える琴美であったが、きょろきょろと視線を巡らせる母はなにかを探しているようだった。

 

「ねえ、もしかして小宮山さん来てたりしない?」

「はうっ」

 

 単刀直入である。あまりにそのものずばりな母からの質問に、琴美の口からおかしな声が飛び出る。

 

「さっきあの子のお母さんから電話があったのよ。ランニングするって出てったきり帰ってこないって」

「あ、そ、そーなの……?」

「携帯のほうも全然つながらないみたいで……あなた、何か知らない?」

 

 どうも思わぬところから足が付きかねない事態になってしまったようだ。朝から外出した己の娘がいつまで経っても戻ってこないことを心配した琴美の母が、手がかりを求めて黒木家へと連絡してきたらしい。

 

(あちゃー……)

 

 スマホの充電はとっくに切れていたようだったから、琴美は己の母が再三電話してきていたことに気付けなかった。しかしよしんば電話に出られたとしても、声の質がまるで違うとして怪しまれることは必至であるから、どちらにしても話がややこしくなりそうだった。智子が傍にいる時は代わりに電話に出てもらうなどして誤魔化せるだろうが、そうでない時は一体どうすればいいのか。いっそのこと智子と自分のスマホを交換してしまえばこれ以上懸念を増やさずに済むのであるが、そんなことはあの智子が決して承知しないだろうということも琴美には分かってしまう。

 

「で、どうなの? あなた、もしかして今日あの子と会いに行ってたの?」

「あー、うん、えと……まあその、ちょっとだけ……」

「まあ……! どうしてランニングだなんて嘘ついたの?」

「あっ、(ちが)くて……! その、ぐ、偶然だよ! 外走ってたら、たまたまあいつがいたから、その、それで……えーっと…………」

「それで?」

「あ、あいつにジュース買ってもらって……んで、ちょっと一緒に走ったりとかして……あとはもう知らないっていうか……解散したっていうか……」

「それ本当なの? 嘘じゃないのね?」

「ほ、ほんとだよっ! これ、真面目な話だから……!」

「あの子のこと、家に上げたりしてないでしょうね?」

「し、してない……よ……」

 

 母からの追求を前にしてひたすら苦しい言い訳に終始せざるを得なかったから、琴美はすっかり余裕を無くしてしまっていた。つまらない嘘はもうつかないという誓いも遵守(じゅんしゅ)することは叶わず、むしろ進んでないがしろにせざるを得ない状況だ。

 いっそ本当のことを白状してしまおうかとも思うほどであったが、変なところで口の回る智子ならこんな時どのように乗り切ってみせるのだろうかと彼女は考える。いまや布団の中で息を潜めている相方に助けを求めたい気持ちでいっぱいの琴美であったから、無意識に智子のいるほうをちらちら見やったりしてしまうのだった。ベッドの上では布団から顔だけ覗かせたぬいぐるみが、間の抜けた表情を琴美に向けていた。

 

「……?」

 

 だがそれがいけなかった。挙動不審な琴美の視線が度々部屋の奥に向けられていることを見て取った母は、部屋の中へと足を踏み入れるとベッドの前で立ち止まった。

 

「あーっ! あのっ、あいつっ、う、ウチんなかに入ってこようとしたけど、ちゃ、ちゃんと追い返したから! だからもう大丈夫だから……!」

 

 そんな母の様子にいよいよもって慌てふためいた琴美が、どうにか引き止めようとする。しかし先程の受け答えとは随分食い違うその取ってつけたような言い訳であったから、もはや母が娘の言葉を真に受ける様子はない。その代わり彼女はベッドの上の布団へと手を伸ばし、おもむろにそれをめくってみせる。

 

「きゃあっ!? い、いるじゃないのっ!」

 

 途端、母は悲鳴を上げて飛びのいてしまう。布団をめくってみたら、そこにはぬいぐるみを抱きしめて目をぎょろつかせる智子の姿があったからだ。

 

「あっ、ごめんなさいっ、そのっ、ど、どうしてもウチに来たいって言うから……!」

 

 一瞬にして己の嘘が全てバレてしまったから、泡を食った琴美は舌をもつれさせつつ弁解しようとする。だが一方の母はもうそのようなことはどうでもよく、今はただ突如姿を現した闖入者(ちんにゅうしゃ)を前にして少しばかりうろたえているようだった。

 そうこうしているうちに黙ったままの智子が起き上がり、ベッドの上であぐらをかいてムスッとした表情になる。それは自身に向けられる母からのその警戒心を滲ませる視線が甚だ不当であると訴えているかのようであった。

 

「小宮山さん? あのね……よく聞いてちょうだい」

「だから違うって! 私が智子だって言ってんじゃん! なんで分かんないの? ねえ、なんで?」

 

 諭すような口調で話しかけようとした母であったが、「小宮山」と呼ばれたことが余程(かん)に障ったらしく、智子が声を荒げてそれに噛み付いた。理解のない母から他人扱いされてしまうことは、彼女にとって耐え難いことなのかもしれない。

 

「大丈夫よ小宮山さん。大変なのは今だけだから。あなただってもう少ししたら、きっと色んなことが思い出せるようになる筈よ?」

「なに言ってんのお母さん……? 私、ほんとに智子だよ……? なにを思い出せっていうの……?」

 

 智子を刺激しないよう、言葉を選びながらなおも語りかけていく母。己の娘と違ってこの()()()()()のほうはまだまだ錯乱の度合いが強いのだろうと彼女は考えているようだ。

 

「うちの智子もね、まだほんの少しだけど本当の自分のことを思い出してきてるの。だからあなたもそのうち……ね?」

「はぁ……? なに? そいつがどうしたの?」

 

 傍らの琴美を引き合いに出した母がそのように諭すものだから、目を丸くした智子の視線が琴美に向けられる。

 

「おいこみさん。おまえからも言ってやれよ。お母さん、なんか勘違いしてんぞ?」

 

 智子のその表情はどこか助けを求めているようであったから、何かしら口を挟んでやるべきだろうかと琴美は思った。母の前向きな誤解は自身の思わせぶりな振る舞いが招いたものに違いない。であるならば今ここで彼女に改めて本当のことを伝えるべきかもしれないと、そのような気持ちが湧いてくる。

 

(どうしよう……どうしよう……)

 

 が、しかし。何故だか琴美は今一歩踏み出すことができない。自分はあなたの娘などではなく、やはり小宮山琴美その人なのだと、そう傍らの母に改めて主張すべきだった。なのに琴美の口は重くなり、言うべき言葉を発することができない。

 

(言わなきゃだけど……でも……)

 

 琴美の胸中に、昨夜の夕食どきに感じたあの強烈な孤独感がよぎった。他人の家の中でひとりぼっちになってしまったような孤独。小宮山琴美としての自分の存在が許されず、誰ひとりとして顧みてくれないのではないかという孤独。もしも今ここで智子の母を落胆させるようなことを主張してしまえば、己の居場所を再び失ってしまうのではないか。いまや本来の肉体と切り離され、根無し草も同然となってしまった琴美にはそれが怖かった。黒木家の人々をいたずらに不安がらせないようにと本来の自分を主張することを控えていた琴美であったが、実際のところは彼女自身がそのように振る舞うことで仮初の安心を得たいという側面のほうが強かったのだ。

 それがために言葉遣いや態度を改めてまで家人に取り入ろうとしていた琴美であったから、ここにきてすぐさま気持ちを切り替え、手のひらを返すということができなかった。一度ついた嘘をずるずる引きずってしまうという、そうした彼女のちょっとした悪癖がこんなところでも顔を出していたのであった。

 

「…………」

 

 故に彼女が選んだのは沈黙であった。勇気を出して相方を援護してやることも出来ず、硬い表情でいる彼女はただ己の一時的な保身のために口をつぐんでしまう。

 

「なに黙ってんだよっ、なんか言ってくれよ──!?」

「ちょっと、やめてちょうだい!」

 

 痺れを切らした智子が焦りを滲ませる声色で催促するが、それに待ったをかける母。彼女にとって琴美の先程からのだんまりは、智子の言動のせいで今また再び記憶が混乱し始めた兆候だと見えたらしい。己の娘を庇うかのように琴美と智子の間に立った母は、その険しい視線をベッドの上の錯乱者へと向ける。

 

「お母さん、違うよっ! そいつニセもんだよ! 私が本物なんだってば!」

「違うのよ、小宮山さん……。そうじゃないの、あなたはうちの子じゃないの……!」

 

 そうした母の頑なな態度を受けて、やにわに智子がうろたえ出した。たまらずベッドから下りた彼女は、そのまま母の腕にしがみついたかと思うと必死に訴え始めた。

 

「わっ、わたしっ、自分の誕生日知ってるよ!? 平成○○年の○月○日だし! でもって智貴の誕生日は○月○日! ○○に住んでるおじいちゃんの名前は○○で、おばあちゃんの名前は○○! ねっ? 合ってるでしょ? きーちゃんが昔飼ってた犬はプリン! もう死んでる! 去年きーちゃんちから自転車で帰ろうとして、結局お母さんに迎えに来てもらったことあったでしょ? あとお母さん、昔は髪長かったよね? 結婚する前は○○ってところで働いてたんだよね? あっ、お母さんの誕生日はえと、○月○日だっけ? 合ってる? 合ってるよね? お父さんの誕生日は忘れちゃったけど、でも○月だったと思う……! ほらっ、ね? ちゃんと覚えてるでしょ? 私、もっともっと色んなこと知ってるよ? 信じてよぉ──っ!」

 

 まくし立てるように思いつく限りのことを早口で並べ立てていく智子のその様子に、母は呆気に取られたような顔をする。やがて智子は母の腕を掴んだまま力なく座り込むと、とうとう声を詰まらせ泣き出してしまった。

 

(すまねぇ……すまねぇ……!)

 

 そうした智子の姿に(あわ)れみを抱く琴美であったが、同時に先程の智子からの要請に応じてやれなかったことに罪悪感がわきあがる。さりとてやはり口を開く気にはなれず、琴美の心は我が身かわいさと智子への同情心との間でひたすら揺れ動くばかりだった。琴美には薄々分かっていたのだ。このように本人しか知らないような情報をただ単に並べ立てたとしても、それが家族を納得させる材料になり得ないということを。周囲からの理解を得るための追い風にはなり得ないということを。

 

「本当に不思議よね……こんなことが起きるなんて……」

 

 自身もしゃがみこんでみせた母が、肩を震わせる智子の頭をそっと撫でてやる。母の顔には目の前の少女を憐れんでいる様子がありありと浮かんでいたが、かといって智子の言い分を聞き入れたという訳でもないようだ。

 

「お医者様はね、もしかしたら『記憶の転写』が起きてるのかもしれないって言ってたわ。あなたの頭の中に、うちの子の思い出とかそんなのが沢山入り込んじゃないかって」

 

 昨日診察を受けた病院で、琴美と智子は医師から様々な質問を受けていた。それは普段の暮らしぶりについてだったり、あるいは本人とその家族しか知らないようなことについてだった。その場には真偽を確認するために各々の母親が同席していたものだから、彼女らも当初はそうした数多の質問にまったくの他人が淀みなく正解していく信じがたい光景を目の当たりにしておおいに驚いていたものだ。

 にもかかわらず、帰宅して以降の智子の母は依然として入れ替わり現象を否定したままだった。それどころか己の娘の異変について妙に納得した様子ですらあったから、ただでさえ受け入れがたい筈の入れ替わり説を押しのけるに足る見当違いな見立てが医師によって行われたと見て違いない。問題が起きているのは琴美や智子の自意識のほうであり、彼女らがさもお互いの人格が入れ替わっているように感じているのはあくまで錯覚に過ぎないと受け取られてしまっているのだ。

 

「治そうと思ったら、ちゃんといつも通りの生活を続けることが大事なの。だからあなたも、いつまでもここにいちゃいけないのよ?」

 

 故に母はどこまでも医師のそうした見立てを信じるつもりのようだ。というよりも、それにすがりつきたいということなのかもしれない。娘を襲った突然の怪奇現象を前に不安に苛まれていた母親が、権威ある相手から提示された回復への道筋に固執してしまうことを一体誰が責められようか。

 

「違うよぉー……そんなの嘘っぱちだよぉー……私はちゃんと、私なのにぃ……」

 

 声を震わせ訴える智子だが、母は首を振るばかりだった。そうした態度に「これ以上何を言っても無駄だ」と悟ったのか、代わりに智子は先程から立ち尽くして事の推移を見守っていた琴美へと視線を向ける。

 

「おまえっ! なに私の振りしてやがんだ! おまえはコオロギだろうが!」

「ちょっ、うわっ……!」

 

 智子が突然立ち上がり、琴美に詰め寄ったかと思うとその胸ぐらを掴んで涙混じりに怒鳴りつける。あまりに智子がグイグイ迫るものだから、やがて琴美はたまらず押し倒されてしまった。

 

「返せっ、返せよっ! 私の体、返せったら!」

「ウググ……」

 

 倒れた琴美の上に馬乗りになって、なおも智子は相方を責め立てた。胸ぐらを掴まれ激しく揺さぶられる琴美であったから、もう目を白黒させるばかりで言葉が出ない。のしかかる智子のその体をどうにか押し返そうとする彼女であったが、これがまるでびくともしないものだから、自身のあまりの非力さに驚いてしまうほどであった。

 

「やめなさい! なにしてるのっ!?」

 

 慌てて智子の母が止めに入るが、返せ返せとうわごとのように繰り返して相方にしがみつく智子を引き剥がすことが出来ない。

 

「あなた──っ! すぐ来てちょうだい! 智子が大変なのっ!」

 

 これは自分ひとりではどうにもならなそうと見た母は、一旦廊下に出ると大声で夫に助けを求める。そうしてすぐしないうちにかの御仁(ごじん)が駆けつけてくれたから、そこでようやく琴美は解放されたのだった。

 

「智貴ぃ──! 智貴どこぉ──!? うあぁぁ……うああああぁぁ──!!」

 

 父に取り押さえられた智子が、いまだ戻らぬ弟に向けて悲痛な声で泣き叫ぶ。母に抱き起こされた琴美は、そんな智子の姿に戦慄を覚えずにはいられなかった。こいつは誰だ、誰なのだ。私の顔で、私の声で、好き放題に取り乱す目の前の()()は──。

 

(なんだよこれ……なんなんだこれ……)

 

 琴美の中に形容しがたい不安が広がり、天地の感覚を狂わせていく。長らく()(どころ)としてきた体が、いまや別の誰かに占有されてしまったという否定しがたい現実。己の一部だと信じていたはずの体が別個の意思を持ち、勝手に外へ飛び出していったような感覚。それは琴美にとって、そしておそらくは智子にとっても、例えようのない恐怖でしかないのだった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(6)

小宮山琴美となかまたち(前篇)

「あ……お、ぉはよ……」

 

 朝。登校してきた生徒達で賑わう昇降口の下駄箱前で智子の姿を見かけた琴美は、ぎこちないながらも挨拶してみせた。それに気付いた智子はしばしのあいだ無言で琴美を見やっていたが、やがて口を開く。

 

「なんだよおまえ、その格好」

「へっ?」

 

 挨拶を返すでもなく、智子はそのような言葉を投げかけてきた。彼女のじろりとした視線はまるで琴美の身なりを検分しているかのようだ。

 

「タイツぐらい履いてこいよ、みっともねぇな」

「はぁ?」

「スカートもなんか短いし」

「いや、こんなもんだろ」

 

 会うなり始まった智子からのファッションチェックに琴美は些か困惑してしまう。彼女としては何も思うところのない自身のそのいでたちが、どうも相方にしてみれば色々と不服であったようだ。

 

「髪型もほら。私、いつもこんなんじゃねえぞ」

「いや、これはその、ちょっと鬱陶しいっていうか……」

 

 歩み寄ってきた智子が手をすっと伸ばし、ヘアゴムで小奇麗にまとめられた琴美の髪に触れる。その感触がくすぐったくて、琴美は思わず身をよじった。

 

「いいから外せよ。変に思われるだろ」

「あっ、ちょっ」

 

 体育の時間でもないのに琴美がポニーテール姿でいるのが気に入らないのか、背に回りこんだ智子はそのように言って琴美のヘアゴムを外しにかかった。

 

「おまえはいいかもしんないけどさ、私が困るんだよ。人のイメージ、勝手に崩されちゃたまらんわ」

「お、おお……?」

 

 どうも智子としては今の琴美の姿が周囲からどう見られてしまうのかが気になるらしく、それが故に先程からこまごまとケチをつけていたようだ。そうして琴美は解かれた髪を手で整えられ、すっかり普段の智子らしい頭へと戻されてしまった。

 

「まだ夏じゃねーんだし、明日からはちゃんとタイツ履いてこいよな」

「あっうん……」

 

 続けて相方の腰回りに手を添えた智子が、しゃがみこんでそのスカートの丈を伸ばしていく。琴美としては適度な長さに調節していたつもりであったが、校内ではあまりこれみよがしに素足を晒したがらない智子からすればこれもNGということらしい。

 

「あとさ、わざわざ入れ替わったとかなんとか、みんなに余計なこと言わなくていいからな?」

「いいのか?」

「いいんだよ。どーせ誰も信じねーだろうし、頭おかしくなったと思われるだけじゃん」

「ああ、うん……」

「おまえは私。んで、私はおまえ。とりあえず今日はそんな感じでやってくれたらいいから」

 

 智子のそうした提案は、おそらくは昨日の母親の態度に影響されたものなのだろう。何を言っても誰も信じてはくれない。今のところ元に戻る手段も見つかっていない。であるならば、下手に騒ぎ立てるよりもひとまず入れ替わったことを受け入れて無難に学校生活を送ってみようというのだ。

 

「そういやおまえのさ、ほら、いつもつるんでる友達、あれなんて名前だっけ?」

 

 琴美の身なりを整え終わった智子が預かっていたヘアゴムを差し出してくるが、ふいにそのようなことを質問してきた。

 

「えと、伊藤(いとう)さんだけど」

「あーそうそう、伊藤さんな。わかった」

 

 何故そんなことを聞くのだろうと思いつつもひとまず琴美が答えてやれば、智子は納得したように相槌を打つ。そうして琴美のそばから離れていった智子が、下駄箱を開けつつ話を続けていく。

 

「ま、おまえのほうも色んなやつに話しかけられると思うから、今から言う連中のこと覚えといてよ」

「あ、うん」

「おさげの子が田村(たむら)ゆりってやつ。んで、その友達のそばかすの子が真子(まこ)さん。おまえも前に会ったことあんだろ? このふたりとはよく一緒に昼メシ食ってるから。私の席の隣にいるのはネモってやつで、そいつのダチに岡田(おかだ)さんってのもいる。あとこないだおまえと揉めてたヤンキーみてーなやつもいるけど、まあこいつは別にいい。んで、私の前の席にいる綺麗な人は加藤(かとう)さんな。この人には特に気ぃ遣ってモノ言えよ? おおそうだ、私のこと知ってる一年の女子もいんだよ。まあもし声かけられたら適当に挨拶しといてくれ」

「あ、えーと、うん……」

 

 智子が交流を持っているらしい生徒達の名を矢継ぎ早に告げられる琴美であったが、ざっと聞かされてもいまいちピンと来ないので生返事をするばかり。最初に伝えられたふたりと、以前智貴に絡んできていたヤンキー娘以外は誰が誰やらという具合であった。

 

「別に無理して会話しようとしなくていいからな? 何言われても適当にああとかうんとか返事してりゃいいから。それで今日一日乗り切ってくれ」

「お、おう」

「おまえ、すぐドン引きされるようなこと言いそうだからなー。みんなから変態だと思われたら私の人生終わりだから、ガチで気ぃつけてくれよな」

「大丈夫だって。あんたのほうこそ変なことすんなよ?」

 

 智子としては、琴美が学校の中でおかしな振る舞いをしてしまわないかが気がかりで仕方がないようだ。しかしこのような一方的な物言いは琴美からすると心外であり、むしろ注意すべきは智子のほうだと言いたげだ。

 

「全裸で校内一周するとか? あっ、いいなそれ」

「ばかっ、やめろ!」

「うそうそ、やるわけねーじゃん」

 

 とんでもないことを言いだす智子に怒鳴る琴美であったが、ただからかっているだけなのだと分かり、ほっと息をつく。しかしながら智子がその気になれば小宮山琴美という人間を社会的に殺すことだって容易に出来てしまう訳であるから、このような冗談は心臓に悪いのだった。

 

「まあこんなふざけた生活はとっとと終わらせなきゃなんねーけどさ……そのあとのことも考えなきゃだし。こみさんに妙なことされたらマジで困るから。ほんと頼むぞ?」

「しつこいな……わかってるって」

 

 よほど黒木智子としての体面が気になるのか、念入りに釘を刺してくる智子。そんな相方のことがそろそろ鬱陶しくなってきた琴美であったが、同時にその態度が普段通りであることに安堵してもいた。

 

(どうなんだろ……元気そうに見えるけど)

 

 昨日は黒木家にて一騒動起こした末に、遅れて駆けつけた琴美の母に連れ帰された智子であったが、今の彼女の様子からはあの著しく取り乱していた時の気配は見受けられない。智子のことがずっと気がかりだった琴美ではあるが、元の調子を取り戻したらしい相方のその姿に、なんだか自分が少しだけ許されたような心持ちになってしまう。

 

「あっ、ちょ、ちょっと……!」

「あん?」

 

 ひと足先に教室へ向かおうとした智子を、琴美がその背後から呼び止める。

 

「あの、えとさ、その、き、昨日はごめんっていうか……」

「?」

「あんたが困ってたのに、あのとき私、なんにも言えなくて……」

 

 昨日の騒動の折、智子から応援を求められた際になんら応えてやれなかったことを琴美は少なからず気に病んでいた。故に、そのことを彼女は詫びたかったのだ。

 

「別にいいよ。こみさんにゃなんも期待してねーからさ」

「あっ、そ、そう……?」

 

 そうした琴美からの素直な謝罪に智子はぞんざいな返答をするが、それが却って琴美を安心させる。昨日はもの凄い剣幕で詰め寄られたりもした琴美であったが、今の智子には改めて自分を責めてくるような様子は少しも感じられなかったからだ。

 

(よかった……)

 

 智子はそれ以上なにか言うこともなく去っていったが、残された琴美はふぅと息を吐いて胸をなでおろす。どう謝ればいいものかと昨晩は寝床の中でずっと考えたりもしていた彼女であったから、あっけなく許してくれたように見える智子のその態度に救われたような気持ちになったのだ。

 ともあれこれからはもう二度と相方を裏切るような真似はすまいと琴美は決心する。時と場合によってはあえなく破られてしまうこの手の誓いであったが、それでもそう思わずにはいられなかった。

 

「ん? あれっ?」

 

 そうして自身も靴を履きかえるべく琴美が下駄箱を開いてみれば、そこには馴染みのある己の外履きが既に収められていたものだから混乱してしまう。

 

(あっ、そっか)

 

 琴美に本来割り当てられていたその下駄箱は、しかし今となっては智子のもの。であるからして、琴美が使うべきなのは元々智子のために用意されていた下駄箱のほうということになる。

 

(なんかややこしいなぁ……)

 

 琴美が改めて「黒木」と書かれた下駄箱を開けてみれば、そこには新調されて間もない三年生用の上履きだけが収納されていた。これこそは智子が日頃使っていた上履きであり、今となっては琴美の足に収まるべきものとなってしまった。

 こうした勘違いはまだ序の口かもしれない。今日一日学校生活を送る中で、あと何度この手のうっかりに出くわすのだろうか。この分では智子として振舞うのも一筋縄ではいかなそうだと、少しばかり先が思いやられる琴美なのだった。

 

 ◆

 

「おはよー」

「あっ……! えと、お、おはよ……」

 

 お互いの席を智子と案内し合った琴美は、教室の角に位置するその席にてひとまず本日の授業に向けた準備をしていた。すると後からやってきた女生徒が隣の席に座り込み、琴美に向けて親しげに挨拶をしてきた。

 

(ええと、確かこの子は……ね、ねも……? あ、でもなんか「ねもと」って呼ばれてたような……)

 

 目立つ色合いに染められた豊かな髪の一部を、高い位置で結んで両サイドに垂らした特徴的な髪型。アニメキャラさながらの個性的な見た目をしたそのクラスメイトのことを、琴美も一応は見知っていた。彼女とは最近なりゆきで一度だけ昼食を共にしたことがあったからだ。

 

「クロ、今日はジャージじゃないんだ?」

「えっ……? あー、うん」

「あれ凄く似合ってたよ? また着てみなよ」

「あーうん、そ、そうだね……」

 

 このクラスメイト、名は「根元陽菜(ねもとひな)」という。智子とは普段からよく話したりもする親しい間柄の陽菜であったから、彼女としてはいつも通りに友人と朝のお喋りを楽しみたいようだ。しかし対する琴美はそうもいかない。「クロ」という呼び名が自分に向けられたものだということは理解しているものの、しょっぱなからよく意味の分からない話題を出されたものだから、どう返答したものかと言葉に詰まってしまう。

 

(どうすんだこれ……? 話合わせときゃいいのか……?)

 

 困った琴美が教室の前のほうにいる智子へと視線を向けてみれば、丁度視線がかち合った。どうも智子は先程から琴美達の様子を窺っていたらしい。

 

「クロ?」

「あっ、な、なに?」

「話聞いてる?」

「あっうん、一応……」

「もー、ちゃんと聞いてよー」

「はは……」

 

 ただ何気ない会話をしているだけなのに、琴美は嫌な汗をかいてしまう。しかし普段の智子らしく振る舞うといった器用なことは出来る筈もないし、そんなことは当の智子本人からも期待されていない。故に琴美としてはボロを出さないよう、ひたすら曖昧な返答に終始するほか無いのだった。

 

「おはよ、黒木さん」

「……?」

 

 やがて新たに登校してきた女生徒が、琴美の前の席にやってくるとこちらも親しげに挨拶してきた。しかしそれを受けた琴美のほうは、挨拶を返すでもなく相手の顔をじっと見やってしまう。

 

「どうしたの?」

「……あっ!? お、おはよっ!」

 

 琴美のそうした様子に首を傾げたクラスメイトであったが、それを受けハッとした琴美が慌てて挨拶を返す。眼前に立つクラスメイトからの挨拶が他でもない自分に向けられたものだということをようやく察したからだ。普段「黒木さん」などと呼ばれる機会などあろう筈もない琴美であったから、このように反応が遅れてしまうのも無理ならぬことと言えた。

 

(なんか増えてきた……!)

 

 己の手前の席に座ったこのクラスメイトが、相方の言っていた「加藤さん」なのだろうかと琴美は見当をつける。智子の言葉通り際立った美貌を備えるその女生徒の存在を、琴美としても同じクラスの生徒として知らないではなかった。が、自分と関わりの無い相手に対してはとんと興味の薄い琴美であったから、これまで彼女のことを意識することは皆無と言ってよかった。

 

(大丈夫だ……普通にしてりゃバレない筈……)

 

 ともあれ本来交流のなかったクラスメイト達からこうも話しかけられてはどうにも落ち着かない。これが普段の琴美であれば別段緊張するという程でもなく、ともすれば無愛想とも受け取られかねない淡白な対応でもってやり過ごせば済む話だった。大して重要でもない人間のためにわざわざ心を砕いて、あれやこれやとコミュニケーションに気を配ってやる必要はなかったのだ。

 しかし今はそういう訳にもいかない。いくら生返事に終始するつもりであるとはいえ、智子としての体裁を保つためには多少なりとも愛想良く振る舞うことが求められていた。そうしなければ付き合いのある相手から不自然に思われてしまうに違いないのだから。故に色々と気配りせざるをえない琴美であったから、不慣れなことをして早くも根をあげてしまいそうな自分の心をどうにか奮い立たせようとする。

 

(ちゃんとしてやんないとダメだもんな……)

 

 昇降口にて度々念を押してきた智子の言葉を、琴美は今一度反芻(はんすう)する。智子は自分のイメージを崩されることを何よりも嫌がっていたし、琴美の振る舞いによって己の交友関係に影響が出るのではとしきりに心配してもいたから、琴美としては相方のそうした気持ちを出来るだけ尊重してやりたいのだった。

 

「クロったらまたダンマリしてる。どうしたの?」

「えっ? いや、別に……」

「もしかして怒ってる?」

「そ、そんなことないけど……」

「ほんとに? でも今日のクロ、ちょっと変だよ?」

 

 しかし琴美のそうした心がけも空しく、黙りがちでいた彼女は早くも陽菜から不自然に思われてしまったようだ。これといって妙な素振(そぶ)りなどしていない筈の琴美ではあったが、友人の様子がどこか普段と違うことをこのクラスメイトは感じ取ったらしい。

 

「へ、変って何が……?」

 

 その人懐っこいまなざしで自分を観察してきているようにも見える陽菜であったから、焦る琴美はひとまず相手の発言の真意を問うてみせる。

 

「んー……なんだろ、喋り方とか?」

 

 すると陽菜からはこのような答えが返ってきた。例え声色は同じでも、口調や間の置き方になにかしら普段と異なる違和感を見出したということらしい。

 

「き、気のせいだよ。いつもこんな感じだし……」

「ふーん……」

 

 もう自分のことは放っておいてほしいと思う琴美であったから、妙に鋭いクラスメイトの追求から逃れたくてたまらない。ひとまずとぼけてみせるものの、陽菜のほうはどうにも納得のいかない様子だ。

 

「ねぇ田村さん、どう思う? 今日のクロ、なんか違うよね?」

 

 すると陽菜はそのように言って、己の手前に座る女生徒へと声をかけた。いつの間に登校してきたのか、そこには琴美も知るクラスメイトの田村ゆりが背を向けて座っていたのだ。

 

「……なに?」

 

 両耳のイヤホンを外したゆりが振り返り、陽菜からの言葉を改めて聞き返す。

 

「クロだよクロ。ちょっと変じゃない?」

「……?」

 

 その言葉を受け、ゆりが琴美の顔をじっと見据えてきた。対する琴美は不審に思われないよう、ひきつった笑みを浮かべて相手の様子を窺う。

 

「別に。普通じゃない?」

「えー、そうかなー……」

 

 陽菜からの問いかけに一言そう答えると、やがてゆりはぷいと顔を背けてしまう。そうだそうだ、そういうことにしておいてくれと、興味なさげなゆりのそっけない態度が嬉しい琴美なのであった。

 

(これ以上話してたらやばいな……)

 

 ともあれ早く授業が始まってほしい琴美は、間を持たせるためにスマホを取り出して適当に操作するフリをしてみせる。陽菜に追求する隙を与えないよう、取り込み中だから話しかけてくるなと言外にアピールするためだ。

 

「なに見てるの?」

(うっせーな! ほっとけ!)

 

 そんな琴美のスマホを横から覗き込もうとする陽菜。遠慮のない彼女のそうした馴れ馴れしい行動は智子への好意の表れに他ならないのだが、今の琴美からすれば煩わしいことこの上ない。

 

「ちょっとクロ! なにそれっ!?」

「えっ?」

 

 すると急に声を張り上げた陽菜が、驚いた様子で画面を凝視してきた。一体なにをそんなに驚くことがあるのだろうかと思う琴美は、クラスメイトのそうした反応に面食らいつつも咄嗟にスマホを隠す。

 

「今さ、なんか男の子の写真が見えたんだけど」

「あーいや、うん……」

「うちの制服着てたよね? もしかして知り合い?」

「あっ、まあ、うん……」

 

 どうも陽菜は、琴美のスマホに壁紙として設定されていた写真のことが気になってしまったらしい。各種アイコンの裏に隠れてちらりと見えたその写真が智貴のものであることまでは気付かなかったようだが、男っ気のない智子が己のスマホに学内の男子の写真を仕込んでいるということが心底意外でならないといった様子だ。

 

「ね、もっかい見せてもらっていい?」

「いや、それはちょっと……」

 

 琴美のスマホには彼女がこれまで収集してきた智貴の写真が幾つも保存されており、特に気に入ったものなどは壁紙に用いたりもしていたのだが、それを他人に見られてしまうのは正直言って気分の良いものではなかった。

 

「いいじゃん、見せてよー。もしかしてクロの好きな人?」

「あー、いや、えーと……」

 

 こういう場合、どう答えるのが良いのか。今の自分が黒木智子であることを改めて思いだした琴美は、智子としての正しい返答をすべきだろうかと考えを巡らせる。

 

「お、弟の写真だよ! ちょっと試しに壁紙にしてみただけだから」

「ふーん、そっかそっかぁ」

 

 そうして琴美がひとまず無難な答えを提示してみたところ、それを聞いた陽菜は納得したような、していないような、思わせぶりな態度を見せる。

 

「黒木さん、弟いるんだ?」

 

 するとふたりのそうした会話を聞いていたのか、先程も挨拶してきたクラスメイト──「加藤明日香(かとうあすか)」という名の女生徒が、琴美のほうを振り返って興味深げに問いかけてきた。

 

「あっ、うん、まあ」

「ここに通ってるの?」

「うん……」

 

 智子からは特に気を遣って対応するよう言われていた相手であったから、琴美も必要以上に緊張しつつ彼女からの質問に答えてやる。

 

「いいなー、姉弟で一緒の高校に通うなんて。仲良しなのかな?」

「あっうん、そ、そりゃもう……!」

 

 人を安心させるような笑みを浮かべつつ話題を広げていく明日香のその言葉に、琴美は思わず食いついた。兼ねてより智貴が自分の実の弟であるかのような錯覚に酔いしれていた琴美であったから、この手の話題はまんざらでもなかったのだ。

 

「今日だってふたりで一緒に登校してきたからね。途中で沢山お喋りしながら学校に行くんだけど、その時間が凄く楽しいっていうか……幸せっていうか……。あっ、それとね、私が満員電車で押しつぶされそうになったんだけど、その時も……」

 

 そうして自慢の弟のことをあれやこれやと語り出した琴美の様子はなんとも誇らしげであり、同時に愛おしげでもあった。そのようにして弟への親愛を顔いっぱいに表すクラスメイトの姿が微笑ましく映るのか、とりとめのない琴美の話に耳を傾ける明日香は愉快そうに口元をほころばせている。

 

「黒木さんって、弟くんのこと大好きなんだね」

「うん……! す、好きっ……!」

 

 明日香からのそうした問いかけを、琴美は臆面もなく肯定してみせる。気付けば当初の明日香に対する緊張はどこへやら、すっかり心をほぐされてしまった琴美は随分本音を語ってしまったようだ。それは単に明日香が聞き上手であったからか。はたまた彼女には何かしら人の心を素直にさせる特別な才能があるからなのか。

 

「ええー、もしかしてクロってブラコンなの?」

「あっ、いや、そういうわけじゃ……」

 

 すると先程から話を聞いていた陽菜が目を丸くして問いかけてきた。しかし今になって自分の発言が気恥ずかしくなってしまった琴美であったから、陽菜の言葉をやんわりと否定しにかかる。そもそも一連の弟語りはあくまで琴美個人の想いの発露に過ぎないのであって、智子本人の考えという訳ではまったくない。にもかかわらず智子の体を借りた身であれこれ好き放題言ってしまうのは、彼女本来のイメージを勝手に崩してしまう所業に他ならなかった。

 

「ふ、普通だよ、普通! どこの家もこんな感じだって……!」

「でも大好きな弟の写真を壁紙にしてるんでしょ? それってやっぱり普通じゃないと思うけどなー」

「ぐ、ぬぬ……!」

 

 フォローにもなっていない苦しい言い訳をする琴美であったから、却って照れ隠しをしていると受け取られてしまったようだ。面白がっているらしい陽菜のそうした物言いに、琴美はいよいよ反論出来なくなってしまった。こうなってはもはや仕方がないと、心の中で智子に詫びた琴美はこれ以上下手なことを言ってしまわぬようにと口を閉ざし、ぷいと窓辺に顔を向けてしまう。

 

(なんか変に誤解されちゃったけど、どうなんだこれ……?)

 

 あとで智子からこの時のやりとりについて聞かれたら、なんて答えようか。下手に誤魔化すのも嫌なので、いっそ正直に言ってしまおうか。それに当の智子だって、身に覚えが全く無いとも言えない筈だ。彼女が時に自身の弟に対して過保護とも言える態度を見せていたのを何度か目にしたことだってある。智貴(とそのチンチン)に想いを寄せる女子に対して敵意を隠そうともしないあの智子は、やはりそれなりにブラコンの気があるのではないかと、そのように思う琴美なのだった。

 

(……あいつ、大丈夫かなぁ)

 

 ぼんやり窓の外を眺めていると、昨日の騒動の際に智子が見せた尋常でない様子が脳裏に浮かんでくる。弟の名を叫んで泣き崩れる智子の姿は痛ましいことこの上なく、それを間近で見ていた琴美を震えさせるほどであった。そんな智子はいまや弟と離れ離れの生活を強いられている訳であるから、その心中は察するに余りある。表面上は普段の調子を取り戻したかに見える智子も、実際は不安に揺れる己の心をどうにか奮い立たせているに違いないのだ。

 

(なんとかしてあげたいけど……あいつ、私のこと嫌ってるからなぁ)

 

 琴美がちらりと相方の席を横目で窺ってみれば、伊藤嬢と向かい合ってなにやら話し込んでいるようであり、智子も智子で自らの正体を偽ることに忙しいのかもしれない。ともあれ自分などがいくら励ましてみたとしても、きっと智子には何も響かないのだろうと分かってしまうだけに、琴美はなんとも歯がゆい気持ちになってしまう。

 しかし入れ替わりの真相をあの智貴が誤解なしに信じてくれたとしたら、そのことがどれだけ智子の支えになってくれるだろうか。であるならば、ここはひとつ自分が間に立ってふたりを引き合わせてみてもいいかもしれない。黒木家から追放された身分の智子も、学校であれば智貴と接点を持つことが出来る筈なのだから。

 

(よし、やってみるか……!)

 

 もしかしたら智子のほうも既に似たような腹づもりでいるのかもしれないが、いらぬお節介になったとしても構わない。だから本日頃合を見て智貴のことを呼び出してみようと、琴美はそう心に決めるのだった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(7)

小宮山琴美となかまたち(後篇)

「じゃあ次の段落までをっと……小宮山」

 

 教壇に立つ国語教師が、それまで読み上げていた教科書から視線を外して指名する。

 

「はい」

 

 それを受け、淀みなく返事をした琴美がすっと立ち上がり、教科書を構えて朗読しにかかる。

 

「おいおい、おまえじゃなくて小宮山だ、小宮山」

「えっ? あっ……!」

 

 すると教師が半笑いで指摘したものだから、ここに来て琴美は己の勘違いに気付いた。てっきり自分が選ばれたのだとばかり思ってしまったが、よくよく考えれば教師の指名した「小宮山」とは、いまや前列の席に座る智子のことなのだ。

 

「すっ、すみません!」

 

 慌てて座り直した琴美であったが、教室の中で生徒達の忍び笑いが起こった。隣の席の陽菜も、声こそ出さないもののその顔には含み笑いを浮かべている。

 

(ややこしいなぁもう……)

 

 こんなことは今日だけで何度あっただろうか。体育の時間ともなれば整列時に並び順を間違えるし、小テストではあやうく己本来の名前と出席番号を書いて提出してしまうところだった。

 

「よかった。おれ、一美(かずみ)を愛してる。あたしもよ。この世の中で誰よりも、一夫(かずお)くんが好きよ。よーし、おれ今から……」*1

 

 こうしたことは相方の智子だって多少なりともやらかしてはいるようなので、彼女もひょっとしたら今の自分と同じく気疲れを感じているのかもしれない。そう考えた琴美は、自分の代わりに席を立って朗読を始めた智子の後ろ姿をなんとはなしに見やる。

 

(ん?)

 

 と、前列の席に座るひとりの生徒がこちらを振り返り、そっと視線を向けてきていたことに琴美は気付く。

 

(伊藤さん?)

 

 それは琴美と普段から親友づきあいをしている女生徒、伊藤光(いとうひかり)だった。じっと観察するような目で見つめてきていた光であったが、対する琴美も見つめ返しているうち、やがて彼女は視線を外すとそのまま黒板に向き直ってしまう。

 

(どうしたんだろ……)

 

 単にヘマをやらかした自分にちょっとばかり興味が湧いただけなのかもしれないが、親友のそうした様子がなんとなく引っかかる琴美。

 

(ていうかあいつ、ちゃんと上手くやれてんのかなぁ)

 

 本日は智子として振舞うことで手一杯になっていた琴美であったから、相方の状況にはあまり気を配ることが出来ていなかった。「今日のところはお互いの振りをしてやり過ごそう」とは智子からの提案であったが、言い出しっぺの彼女自身がそうした芝居を満足にこなせているのかどうか、そこのところは分からない。うっかりクズでゲスな発言をしたりして、光から顰蹙(ひんしゅく)を買っていたりはしないだろうか。いつも自分に良くしてくれるあの親友が、いまや別人と化している小宮山琴美から下品なことを言われてショックを受けたりはしていないだろうか。それまで智子の友人達にばかり気を遣っていた琴美であったが、午前の授業も終わりに差しかかろうという頃になってようやく己自身の人間関係についても心配し始めるのだった。

 *

「ふぅ……」

 

 普段よりもやたらと長く感じられた午前の授業がようやく終わり、手洗いを済ませてきた琴美は一息ついて弁当箱を取り出した。ファンシーな色合いのランチクロスに包まれるそれは、母から今朝方持たされていたものだ。包みをほどいてフタを開けてみれば、白米とおかずの香りがほのかに立ちのぼる。中に入っている惣菜の種類やその盛り付け方も小宮山家のものとは随分違っていたが、これこそが智子の普段の弁当なのであった。

 

(お母さん、いただきます……)

 

 箸を手に心の中でそう呟いた琴美は、智子の母が自分の娘の為にと用意した弁当を早速頂くことにする。実際にそれを食べるのが、他所様の子供である自分だったとしてもだ。

 

「黒木さん、机」

「えっ?」

 

 すると待ったをかけるように、先ほどから琴美のそばでガタガタと机を移動させていたクラスメイトがふいに声をかけてきた。両肩からおさげ髪を垂らす彼女は智子の友人のひとり、田村ゆりだ。

 

「くっつけてよ、ほら」

「あっ、うん……」

 

 ゆりからの指図を受け、一旦箸を置いた琴美は自分の机を持ち上げる。そうして陽菜の机を基点に、琴美とゆりは自分達の机を互いにぴったりくっつけ合わせてから改めて着席した。しかし陽菜の席に本人の姿は無く、代わりに座っていたのは別の女生徒だった。

 

「いただきます」

 

 和やかな様子で食前の挨拶を口にしたその女生徒の名は、田中真子(たなかまこ)。頬にうっすら浮かぶソバカスが特徴的な彼女のことを、琴美は以前から見知っていた。まだ三年生になったばかりの頃にひょんなことから喫茶店で席を共にした彼女とは、お互い自己紹介をし合った仲なのだ。それは傍らのゆりについても同様であり、彼女らふたりは琴美にとって一応ながらもクラスの中における数少ない知り合いなのである。

 

(田村さんと田中さんか……。そういや、いつも一緒にメシ食ってるって言ってたな)

 

 このふたりについて智子から教えられていたことを琴美は思い出した。ならば普段の智子がそうであるように、己もまた彼女らと昼食を共にすべきだ。ボロが出ないよう言動に気をつけながらの食事というのは、ひとりぼっちの教室で弁当箱をつつく以上に落ち着かないものになりそうだと身を固くする琴美ではあるが、それも仕方の無いこととして受け入れる。

 

「あー、ちょっといい?」

 

 そうして琴美がようやく昼食にありつこうとした矢先、今度は別の誰かに声をかけられた。

 

「なんだよ?」

 

 見ればそれはランチトートを手にぶら下げた智子だった。そしてまた、彼女の隣には弁当一式を胸に抱えて佇む光の姿もあった。

 

「いや、どっかで一緒にメシでもって思って」

「えっ? でも……」

 

 廊下のほうを指差す智子のその様子からすると、どうやら彼女は琴美を誘って教室以外の場所で昼食を取るつもりでいるようだった。一体どういう風の吹き回しかと思う琴美だったが、そうなると机をつき合わせていたゆりと真子のことが気になってしまう。琴美としても別に智子からの誘いに乗ること自体はやぶさかではないが、先約のあるふたりがそれをどう思うかが問題なのだった。

 

「あっ、じゃあ皆で一緒に食べよっか。ゆりも行くよね?」

「別にいいけど……」

 

 そうした琴美の迷いを感じ取ったのか、さっと席を立った真子が気を利かせてそのように提案した。一方のゆりも特に嫌がる素振(そぶ)りは見られない。

 

「あっ、いやっ、そのっ……ふ、ふたりはいいからっ……!」

「えっ?」

 

 しかし慌てた様子の智子が、そのように言って真子からの申し出を断ろうとする。

 

「だからその、今日はこいつとだけっていうか……ちょっと話したいこととかあって……」

 

 どうも一緒に連れていくのは琴美ひとりだけで良いらしい。なにやら訳アリの様子で己の意向を訴える智子としては、ゆりと真子にまで付いてこられては困るようだった。

 

「そうなの? えーと、じゃあ……」

 

 ちらりとゆりの顔色を窺った真子が、どうしたものかと思案するように言葉を詰まらせる。彼女としては自分達の間に割って入るように現れた智子からの些か強引なその誘いが、ゆりの機嫌を損ねてしまわないかを心配しているようだった。

 

「いいよ。行ってきなよ」

 

 しかし当のゆりは何かしらゴネることもなく、逆に肩を押してやるようなことを言う。内心で何か思っていそうな様子ではあるものの、琴美を引き止めるつもりはないらしい。

 

「あっうん……えと、ごめんね?」

 

 案外物分かりのいい子なのかもしれないと、智貴絡みで少しばかり印象の悪かったこのクラスメイトのことを琴美はちょっぴり見直した。ともあれ面倒ごとにはならなそうだと見た琴美は一言すまなそうに詫びてみせると、広げられていた弁当箱を改めて包み直しにかかる。

 

「……根元さんが言ってた通りかも」

「えっ?」

「今日の黒木さん、なんかちょっと変」

 

 席を立ってその場を去らんとしていた琴美に向け、ゆりは最後にそのような言葉を投げかけてきたのだった。

 *

「ここで食べよう」

 

 智子に案内されて向かった先は、そこかしこに藤棚(ふじだな)が色付く中庭のベンチだった。ちょうど三人用としてしつらえられたそのベンチへ、琴美は相方達に挟まれる形で腰を下ろす。

 

(まあ、こっちのが気楽だな……)

 

 膝の上に乗せた弁当箱の包みをほどきながら、琴美はそのように思った。気心の知れたふたりとこうして昼食を取る分には、なんら気を配る必要がないからだ。もしかすると此度の智子からの誘いは、彼女なりに気を利かせてくれたが故のことなのだろうかと琴美は考える。

 

「ありがとな、ちょっと助かったよ」

「あ? なにが?」

 

 相方のナイスフォローにお礼がしたくて、琴美は素直に感謝の気持ちを口にする。対する智子はというと、身に覚えがないといった様子で眉をひそめた。

 

「あのふたりと一緒だと、なんか肩凝っちゃいそうだったから」

「ほう」

「だから、誘ってくれてよかったって……」

「あー違う違う。そっちの伊藤さんがおまえのこと誘ってくれって言うから」

 

 なにを誤解しているのかと言いたげな智子は、箸を持った手でベンチの端に座るクラスメイトを指差す。その言葉を受けた琴美が隣を振り返ってみれば、じっと見つめてきていた親友と目が合った。

 

「あ、そうなの……?」

「そうだよ。いきなりでごめんね?」

「あっ、ううん、大丈夫……!」

 

 意外なことに自分を昼食に誘いたがったのは光だったらしい。何故彼女が急にそのようなことを言い出したしたのか分からない琴美は、この親友と智子との接点について心当たりがないかと考えを巡らせる。

 

(そういやさっきも私のこと見てたな……)

 

 午前最後の授業中、ちょっとした失敗のせいでクラス中の注目を浴びる羽目になった際、光にじっと見られていたことを琴美は思い出す。もしやその時にでもこの黒木智子の姿をした自分に興味が湧いたとでもいうのだろうか。

 

「あのさ、変なこと聞くけどいい?」

「えっ? あ、うん」

 

 あれこれ考えを巡らせていた琴美に、光が改めて声をかけてきた。思わせぶりな前置きをする彼女のその言葉に、一体何を聞かれるのだろうかと琴美は居住まいを正す。

 

「あなた、もしかして(こと)?」

「ふぁっ!?」

 

 驚きのあまり、琴美は危うく弁当箱を取り落としてしまいそうになった。おまえは小宮山琴美なのかと、親友が単刀直入にそう尋ねてきたのだ。よもやいきなりこんなことを質問されるとはまるで予想していなかったから、琴美はもうすっかり慌てふためいてしまう。

 

「な、なんで分かったの!?」

「やっぱり……!」

 

 誤魔化そうとか、はぐらかそうとか、そうした気持ちは今の琴美の中には全く無かった。だから彼女は誰の目にも明らかなほどうろたえ、嘘偽りのない己の本心をストレートに表してしまう。黒木智子の正体見たり。他人を演じていた琴美はいまや光によってその化けの皮を剥がされてしまったも同然だった。

 

「どうしよう、なんかバレちゃったみたい……」

「へ? いやっ、えーっと」

 

 観念した様子の琴美が傍らの相方にそう尋ねるが、智子としても突然のことにどう答えていいか分からないようだった。

 

「おかしいなって思ってたんだ。今日の琴、ずっと変な感じだったし」そう語る光がじっと見つめる先では、

「そ、そうなの……?」智子が呆気に取られた顔をしている。

「うん、完全に別人だったからね」

「はは……」

 

 本日の親友の様子に違和感を覚えた光は、それ以降ずっと注意深く観察していたのだと言う。周囲に怪しまれないようにと琴美が苦労していた一方、智子のほうはどうであったか。彼女なりに自身の振るまいには気をつけていたのかもしれないが、それがこうもあっさり見破られた訳だから、智子としては最早苦笑いするしかないようだ。

 

「それにね、琴が黒木さんのほうばっかり見てたから……何かあるのかなって」

 

 琴美自身はあまり気付かなかったが、智子のほうは度々相方の様子を窺っていたらしい。そうした点も踏まえた結果、光は親友の異変に両者が関係しているのではないかと考えたという。

 

「一応聞くけど、そっちが黒木さんだよね?」

「あっうん」

「すごいね、こんなことって本当にあるんだ……」

 

 もう隠すつもりは無いのか、光からの確認に小さく頷く智子。ともあれ己の抱いていた疑惑が的中したことで、光自身も少なからず驚いているようだった。

 

「ふたりとも、なんでそんなことになっちゃったの?」

「いやまぁ、ちょっと色々あって……」

 

 事情の説明を求めてきた親友に、琴美はことのいきさつを語り始める。まさかここに来て思わぬところから理解者を得られるとは思わなかったから、その弁舌にも自然と熱が入ったものだ。

 

(よかった……さすが伊藤さんだ……!)

 

 にわかには信じがたい話を疑うことなく真面目に聞いてくれる親友の存在は、なにより琴美を安心させた。ツンと張りのある髪をさっぱりとふたつ結びにまとめ、前髪をバッテン型のヘアピンで飾る光。一年生の頃から今に至るまでずっと親しい付き合いを続けてきたこの同級生が、琴美は大好きなのだった。

 理由はさっぱり分からないが、自分はどうも人から嫌われがちな性分だということを琴美は幼い頃からうっすらと感じていた。大した付き合いも無い相手と接するぶんには問題ないが、いざ誰かと友達になろうとするとこれがてんでダメなのだ。最初のうちは仲良くしてくれた相手も、一体何が気に入らないのか段々と自分を避けるようになったり、あるいは絶交を言い渡してきたりするものだから、その度に琴美は理不尽な思いに駆られていた。

 自分のどこが悪かったのか、胸に手を当ててみても全く思い当たる節がない。何気なく言った軽い冗談が他人をひどく不機嫌にさせてしまうなんてことはしょっちゅうだったけれど、それにしたって何故相手が怒っているのか、まるで理解出来なかった。世の中はこんな風に訳の分からない連中だらけだ。勝手に怒り出しては、こちらを一方的に悪者扱いしてくる。どうにか許して欲しくてとりあえずぺこぺこ謝ったりもするのだけど、内心は惨めな気持ちでいっぱいなのだった。

 そんな琴美であったから、彼女はやがて他人に対し少なからず心の中で距離を置くことが常となってしまっていた。相手を選ばず迂闊に心を開きでもして、己の尊厳を傷つけられてはたまらないからだ。故に光と出会った当初も、愛想が悪いという程でもないがどちらかといえばそっけない態度で接することが多かった。

 しかし気が付けば、いつしか彼女と行動を共にすることが琴美の高校生活の中で当たり前になっていた。何を言っても機嫌を損ねたりしないし、自分の趣味の話にも毎度最後まで付き合ってくれる。ちょっと勇気を出して際どい話題なんかを出してみても、やはりふんふんと耳を傾けてくれた。この親友がどういう人間なのかいまだによく分かっていない琴美ではあったが、彼女の前でなら安心して自分をさらけ出すことが出来るという確かな信頼がそこにはあった。

 そしてまた今回も、光はよき理解者となってくれたのだ。それこそ体が入れ替わってしまってなおも見つけ出してしまう位には、自分のことを分かってくれている。彼女が友達でいてくれて本当によかったと、琴美は心からそう思わずにはいられなかった。

 

 ◆

 

「ふたりとも、困ったことがあったらなんでもすぐ相談しなさい。いいわね?」

「「あっはい」」

 

 放課後、その日の最後の授業が終わる際に琴美と智子は担任の荻野教諭に呼ばれて職員室へと連れて行かれた。どうも事前にふたりの母からそれぞれ連絡を受けていたようで、訳知り顔の担任は当人達と話し合いの場を持ちたかったようだ。そうして本日の学校での生活ぶりなんかを尋ねられたりしていた琴美と智子であったが、あれやこれやと適当に答えているうちに最後は肩をがっしり掴まれ、頼もしい限りのお言葉を頂戴したのであった。

 

「あいつはアテになんねーから、絶対頼りになんかすんなよ?」

「そうなのか?」

「ダメダメ、引っかき回されるだけだから。あの教師、マジ人の話聞かねーんだわ」

 

 教室へと戻る道中、智子は件の担任について早速貶すようなことを口にする。まだ彼女の教え子となって日の浅い琴美であったから、荻野教諭がどういう人間なのかをよく把握出来ていなかった。しかし自分よりも彼女との付き合いが長いらしい智子がこう断言するのだから、きっと余程のことなのだろうと琴美は考える。やはり今のところ自分達が頼れるのはあの光だけのようだが、肝心の彼女は部活に出かけてしまったものだからどうにも心許ない。

 

「んじゃまぁ、仕切り直しといくか」

 

 すっかり人の少なくなった放課後の教室で、置きっぱなしになっていた自分のリュックを背負った智子がそのように切り出す。これから彼女らふたりは、例の神社へと再び足を運ぶ予定だった。まだまだあの場で試せていないことが残っていたから、本日はそうした諸々を改めて再現するつもりでいたのだ。幸い琴美の図書委員としての受付当番は当分先のことであったから、本日は気兼ねなくこのまま神社へと直行することが可能だった。下校途中にこっそり寄り道するという(てい)であれば、家人からのいらぬ詮索を招く心配もないという訳だ。

 

「あっ……その前にちょっと、あの、あんたのスマホ貸して欲しいんだけど……」

「え、なんで?」

 

 しかしそれに待ったをかける琴美。突然妙なことを要求してきた相方に、智子は訝しげな表情で理由を尋ねる。

 

「いや、智貴くんにちょっと電話しようかなって……」

「はぁー?」

 

 これまでうっかり機を逃してしまっていたが、琴美は本日彼を学校の中で呼び出すつもりでいたのだ。そうして智子と引き合わせてみれば、智貴の心境にも変化が表れるかもしれないと、そう期待してのことだ。

 

「パンツの色でも聞きてーのか? マジやめてくれよそういうの」

「バカッ、違う……っ!」

 

 しかしそんな相方の思惑を知らぬ智子は、琴美がよからぬことを企んでいるのではないかと警戒心を滲ませる。そうしたあんまりな智子の誤解に、琴美は早くも呆れ返ってしまった。

 

「あんただよあんた。智貴くんといっぺん会って話し合ってみなよ」

「へっ?」

「智貴くん今日部活無いみたいだし、呼んだら多分来てくれると思う」

「あ……うん」

 

 ようやく琴美の真意が伝わったのか、ひとまず納得した様子を見せる智子。

 

「ほら、早くしないと智貴くん帰っちゃうかもしんないぞ」

「いや……まぁ」

 

 ひょっとしたらもう学校にいないのかもしれないが、ともあれ早々に連絡をしないと間に合うものも間に合わなくなってしまう。なので手を差し出して急かす琴美であったが、肝心の智子はなにやら煮え切らない態度だ。

 

「……今日はいいよ。また今度にする」

「えっ?」

 

 しかしようやく返事をしたかと思えば、そのような否定の言葉が返ってきたものだから琴美は驚いた。あれだけ会いたがっていた筈の弟に、今は会いたくないとでも言うのだろうか。「直々に説教してやる」と息巻いていたのが嘘のようだった。

 

「な、なんで?」

「だってほら……私、こんなだし……」

「ホントのこと教えてあげたらいいじゃんか。私も一緒に説明してやるからさ、大丈夫だって」

「うーん……」

 

 ここに来て急に弱気が顔を出してしまったのか、どうにも消極的な智子。そんな相方の肩を押してやりたい一心で、琴美はなおも粘ってみせる。そう都合よく理解を得られる筈が無いという智子の気持ちも分からないではないが、思いがけず自分達の正体を見破った光の出現を受け、琴美の中には楽観的な自信が芽生えていたのだ。

 

「じゃあ、ほら……」

 

 そうした相方の熱意が届いたのか、やがてスマホを取り出した智子がそれを琴美に渡してやる。これといってパスワードもかけられていないそれは、スリープモードを解除すれば琴美にもすぐさま使用することが出来た。

 

「これか?」

「うん、そう」

 

 そうしてアドレス帳を確認したところ、「弟」という名前で登録された番号が見つかった。念のため智子にも尋ねてみれば、確かにこれが智貴の連絡先ということで間違いないようだった。

 

「あっ、ともき? うん、えと、まだ学校にいる?」

 

 連絡のついた智貴と早速話し込む琴美。そうした様子を傍らの智子は不安まじりの表情で眺めていた。

 

「うん……ごめんね邪魔しちゃって。じゃあ待ってるから」

 

 やがて通話は終了し、用の済んだスマホを相方に返してやる琴美。その顔にはほっとしたような表情が浮かんでいたが、この分だと無事智貴との約束を取り付けることが出来たようだ。

 

「智貴くん、今から来てくれるって」

「あっうん……」

 

 色よい返事を貰えたと報告する琴美の言葉を聞いても、どうしてか智子は浮かない顔のままなのだった。

 *

(来たっ……!)

 

 既に学校を出てどこかで友人らとたむろしていたらしい智貴を待つことしばし。ふたりして適当な席に座り込んでいた琴美と智子であったが、ようやく教室を訪れた智貴を出迎えるように立ち上がる。

 

「話って何?」

「えーっと、あの……」

 

 教室の中に居た智子を一瞥しつつ、自分が呼び出された用件を尋ねてくる智貴。その言葉を受け、琴美は後ろのほうで控えていた相方を振り返った。

 

「私とあの子のことで、ちょっと話したいなーって思って……」

 

 緊張の面持ちで立ち尽くしたままスカートの裾をぎゅっと握り締める智子を指差し、琴美はそのように説明した。

 

「……姉ちゃん、あの人に近づくなって言われてたろ」

「あっうん、でも……」

 

 しかし困惑した様子の智貴は、琴美に顔をさっと寄せるとそのように囁いた。

 

「またなんか妙なこと言われたのか?」

「あっ、ち、(ちが)くて……」

 

 彼との距離の近さにドキリとさせられる琴美であったが、今はそのようなことを楽しんでいる場合ではない。どうも智貴としては、裏で糸を引いているのが智子ではないかと睨んでいるようだ。得体の知れないメガネ面の先輩に警戒を滲ませる彼は、ともすれば姉にちょっかいをかける智子のことを追い払わんとするつもりなのかもしれない。

 

「あ、あのねっ……! 今から言うこと、全部本当のことだから……! ホントのホントに、嘘じゃないから……!」

 

 これまで黒木家の人々に対してはずっと曖昧な態度を取り続けていた琴美であったが、意を決した彼女は今度こそ自分達の窮状を誤魔化すことなく訴え始めた。度々思わせぶりな態度を取ってしまっていたのも、結局は波風立てたくない一心でそのような振舞いをしてしまったに過ぎないのだと、そう説明してやる琴美。後ろのほうで控えている智子が一言も喋らないので、琴美は相方の分まで熱心に弁舌を振るうのだった。

 

「まあ、だからそういう訳で、その……」

「分かった……もういいよ。十分だ」

 

 琴美がある程度まで話し終えたところで、智貴がため息交じりに片手をあげて制してくる。

 あれこれ話し込んではみたものの、果たしてちゃんと理解してくれたのだろうかと心配する琴美は、どこか疲れているようにも見える智貴の出方を窺った。

 

「じゃあほんとの姉ちゃんはあっちのほうで、そっちは小宮山先輩ってことなんだな?」

「う、うんっ! そう、そうなの!」

「オーケー、分かった、了解だ」

 

 智子と琴美とを見比べた智貴がそのように尋ねてくるものだから、琴美は風向きが変わったことを感じ取る。それは智子も同様だったようで、それまでうつむいていた彼女はハッと顔を上げると自身の弟を見やった。

 

「あんだよおまえ、やっと分かったんか? ったくよー、もっと早く気付けよなー」

 

 ようやく安心したのか、弟に駆け寄った智子が彼の腹にぽすぽすと拳をぶつけたりする。どうやら頭が固いのは大人達だけだったようだ。まだまだ純朴な心を残す弟には、面と向かって真剣に説明しさえすれば事情を理解出来るだけの柔軟さがある。そのように考えたのか、智子の顔にはすっかり安堵の色が浮かんでいた。

 

「先輩さ……」琴美に顔を向ける智貴がそう切り出し、

「あっ、なに?」

「先帰っとけよ。俺、()()()ともうちょい話すことあっから」

 

 どうやら智貴としては、これから姉弟ふたりっきりで話してみたいということらしい。だからそろそろ琴美には席を外してほしいようだった。

 

「えーと……でも私、お姉さんとちょっと約束してて……」

「あー、いいよこみさん。先行ってろよ」

 

 いくら新たな理解者が現れたと言っても本日の智子との予定を反故にして帰宅する訳にはいかないから、琴美は己の事情を訴える。すると助け舟を出すように、智子が口を挟んできた。

 

「鳥居んとこで待っててくれたらいいから」

「あーうん、分かった」

 

 わざわざふたり一緒に神社へ行く必要も無い訳だから、特別に機転を利かせるまでもない。琴美は先に現地へ赴き、智子と智貴の話し合いが終わるまで待っていればいいだけのことだ。

 

「どこ行くんだ?」

浅間(せんげん)神社だよ。あっほら、ガキん頃、あそこでめっちゃセミの抜け殻とか集めたろ? 覚えてっか?」

「へぇ……」

 

 ふたりの交わした約束に興味でも湧いたのか、なにげない様子で智貴が尋ねてくる。それに答えてやった智子は、ついでに幼い頃の思い出なんかも口にしたりする。こんなことを知っているのはおまえの姉以外に居ないのだぞと、言外にそう含めたかったのかもしれない。

 

「あっじゃあ先行ってるから」

「おう、また電話するわ」

 

 ともあれ話は決まり、智子を残してひとり教室を出て行く琴美。

 

(やっぱり智貴くんに来てもらって正解だったな……)

 

 渋る智子の肩を押してまであの姉弟を引き合わせた甲斐があった。これできっと相方にも心の支えが出来るに違いない。これからまだあとどのくらい今のチグハグな生活を続けなくてはならないのか正直分からないが、少しばかり荷が下りたような心持ちの琴美は足取りも軽く学校を後にするのだった。

 

 ◆

 

(まだかなぁ……)

 

 石段に腰かけ、空の色を眺めていた琴美が心の中でそうボヤく。待ち合わせ場所に着いてから小一時間ほど経つというのに、智子がいまだやってこないからだ。元々茜色に染まり始めていた日差しも、いまやすっかりその色合いが濃くなってしまった。「電話する」と言っていた筈の智子から連絡が来る気配も一向に無いものだから、それ程までに姉弟の話し合いが長引いているのだろうかと琴美は考える。

 

(ダメだ、全然出ねぇ)

 

 様子を探ってみようと自分のほうから電話してみたりもするのだが、智子がそれを受けることは無かった。延々と続くそのコール音が、琴美にそこはかとない心細さを感じさせる。

 

(なんだよもう、私のこと忘れてんじゃねえのか?)

 

 ひょっとすると智子は自分の弟を引き連れて黒木家のほうへと向かってしまったのだろうか。一緒になってあの母を説得してほしいと、智子が彼に頼み込んだ可能性だってあり得る。待っているだけの時間がどうにも長く感じられてしまうからか、琴美はそのような突拍子もないことまで考え始めてしまうのだった。

 日が暮れてもまだ来ないようだったら、もう智子にメールで断りを入れでもして帰ってしまおう。別に予定が明日に延期されたとしても、さしあたって不都合は無いのだから。暇つぶしにスマホをいじる琴美がそんな風に思い始めた頃、

 

「姉ちゃん」

 

と、誰かに突然声をかけられた。驚いて顔を上げてみれば、目の前に立っていた相手の姿に琴美はまたもや驚いてしまう。

 

「えっ? あれ? なんで……?」

 

 琴美に呼びかけてきたのは、智貴だったのだ。もしや姉弟で連れ立ってここを訪れたのかと思う琴美だったが、周囲を探してみても智子の姿は見当たらない。

 

「あの、お、お姉さんは……?」

「いや、なんか迎えの人が来て一緒に帰ってったけど」

「えっ!? ど、どういうこと……?」

 

 聞けばどうも智子は学校まで迎えにやってきた琴美の母らしき人物に連れられて、そのまま自宅へと帰されてしまったらしい。まさかそんなことになっていたとは思いもよらなかった。それならそれで連絡のひとつぐらいくれれば良いものをと、ひとりでやきもきしていた自分が馬鹿を見たような気になってしまう琴美。

 

(あいつ、迎えがあるなんて言ってなかったけど……ド忘れしてたのか?)

 

 てっきり今日は智子のほうも自分の足で下校するものとばかり思っていた。だからこそ、学校帰りに神社へ寄ってみようという話になったのだ。智子が自分で迎えを呼んだとも思えないから、ひょっとすると事前に母娘の間でそういう約束が交わされていたのを智子が失念してしまっていたのかもしれないと、琴美はそのように推理する。

 

「あっ、そういえばお姉さんと何話してたの?」

「…………別に。大したことじゃねえ」

「そ、そうなんだ、へー……」

 

 ふと気になったことを、琴美はなんとはなしに智貴へ尋ねてみる。すると彼はしばらく間を置いてから、そのような答えを返してきた。智貴がそう言うのならきっと本当にそうだったのだろうと琴美は思ったが、その一方で何故だかいまいち納得しきれていない自分がいることをも自覚してしまう。

 

「ほら」

「?」

 

 と、そんな琴美に向けて智貴がそっと手を差し伸べてきた。相手の意図を掴みかねた琴美は、彼の手と顔とをせわしなく見比べる。

 

「寄り道してねぇでさ……もう帰ろうぜ?」

 

 どうやら智貴は、座り込んでいた琴美を立たせたいらしかった。そうして一緒に家へ帰ろうと言うのだ。

 

「う、うん……」

 

 相方が来ないことが分かった以上、最早この場に留まる必要はない。今日のところは大人しく帰って、また明日学校に行けば智子と会えるのだから。智貴にしたって、きっと自分が待ちぼうけをくらっているのではないかと心配して、わざわざここまで探しに来てくれたに違いないのだ。よって、差し伸べられた彼の手を取ることに躊躇する理由などある筈がなかった。そう、その筈だったのだが──

 

(智貴くん、さっき私のこと……「姉ちゃん」って呼んだような……)

 

 夕暮れ時の日差しがいよいよ赤みを帯びていくのにつれて、周囲の影も更に傾き加減を増していく。そんな中で改めて見上げた智貴の表情が、逆光の加減で黒く塗り潰されたように見えた。そのことにギョッとする琴美は自身でも信じられないことに、このとき生まれて初めて目の前の少年を()()と思ってしまったのだった。

*1
引用:山中恒 2012『おれがあいつであいつがおれで』角川つばさ文庫、p.204




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(8)

神様のいたずらはやめロッテ

「おねーちゃん、こっちにたくさんあるよー!」

 

 何かを見つけた様子のともくんが、はしゃいだ様子で手招きしながら呼びかけてくる。それに気づいた私は袋を握りしめて弟のもとに駆け寄った。

 

「わー、ほんとだぁ」

 

 ともくんが見上げていた木の幹には、お目当ての「抜け殻」たちがあちこちにひっついている。ミンミン、シュワシュワと、そこらじゅうからひっきりなしに聞こえてくるのはセミの鳴き声だ。

 

「じゃあともくん、上のやつ捕ってって」

「うん!」

 

 木に成るお宝たちに目を輝かせたともくんが、幹の高い所にいるそれらを虫捕りアミで慎重につついたりする。一方の私も、手近な位置にくっついている抜け殻を引き剥がしては袋の中へと放り込んでいく。私たちは今、うちの近所にある神社の中でセミの抜け殻を集めているのだ。

 

「ね、ね、ぜんぶで何円ぐらい?」

「んーっとねぇ……」

 

 そんなこんなであちこちの木々からあらかた収穫し終えた頃、一息ついたともくんがそう尋ねてくる。言われて抜け殻の詰まった袋の中身を確認してみれば、これはもう大漁と言っていい成果だった。

 

「千九百円ぐらいかな?」

「すごい!」

 

 私の答えを聞いたともくんが、興奮した様子で元気いっぱいの可愛い笑顔を見せる。こうして集めた抜け殻たちを、私はペットショップに持ち込むつもりでいたのだが、珍しいコオロギとかを捕まえたらいいお金で買い取ってくれるってテレビでも言ってたし、セミの抜け殻だってきっと一個百円ぐらいで売れそうな気がする。

 

「ともくん何がほしい?」

「カード!」

 

 最近になって私の影響でカードゲームをやり始めたともくんが、そんな風におねだりしてくる。まだまだこの子には難しい遊びなのに、初心者のうちからあれもこれもと新しいのを欲しがるから困ったものだ。

 

「じゃあジュース買って、お菓子買って、残りのお金でカード買おうね」

「うん!」

 

 でもいいんだ。今の私はお金持ちだから、ともくんのほしがるものは何でも買ってあげられるし。お金が無くなったら、またこの子と一緒に抜け殻を集めればいいだけの話だ。夏休みはまだまだ始まったばかり。その間に抜け殻をたくさん売って、すごいお金持ちになってやろう。そしたらゲームソフトだって好きなのを買えるし、お菓子も一日二回買いに行ったりなんていう贅沢が出来ちゃう筈だ。

 そうだ! 誰かにお金を払って宿題を代わりにやってもらうなんてのはどうだろうか。あ、いやいやこれはダメか。そんなズルしたら立派なおとなのひとになれないもんな。私はともくんのおねーちゃんなんだし、ちゃんとしないといけないんだ。

 

「おねーちゃん、あのひと……」

 

 ともあれちゃんとしたお金の使いみちについてあれこれ考えていた私だったけど、ふいに袖を引っ張ってきたともくんがそんなふうに言って誰かのことを指さした。

 

「ともだち?」

「えっ? あ、いや……」

 

 いつからそこにいたのか、私と同い年ぐらいの女の子が木の下で体育座りして少し離れた先からこちらをじっと見ていた。なんだか見覚えがあるような、無いような。メガネを掛けたその子はまるい感じの髪型で、ぴょこんと跳ねたクセ毛がちょっぴり左右に広がっていたりもする。

 

「しらないひと?」

「あっ、うん……えと……」

 

 誰なんだろう。でも知らない子じゃないような気がする。ちょっと邪魔なサンバイザーをずり上げて、私はその子に改めて目を凝らしてみた。

 

(あの子の名前……えっと……確か……)

 

 だんまりしたままのその子の名前を私は知ってるような気がしたから、それを思い出そうと考え込む。

 

「そうだっ、小宮山琴美!」

 

 つかえていたものが取れたように、私の口から女の子の名前が飛び出した。そうそう、あの子は我らが地元球団・千葉ロッテマリーンズが大好きで、憧れの人・智貴くんを愛してやまない「小宮山琴美」なのだった。

 

(あれ? じゃあ私って誰……?)

 

 すっきりしたのも束の間、今度は急にそんな疑問が湧いてきてしまった。あそこにいるのが小宮山琴美なのだから、今ここにいる私は「別の誰か」に違いないのだ。思い出せ、思い出せ、ええと、私は……

 

「おねーちゃん」

「ううん……」

 

 そうだ、ともくんだ。私はこの子のおねーちゃんなんだから、つまりあれだ。私はたぶん「黒木智子」なんだ。あれ? そうだったっけ? 違うんじゃないか? いや、でも小宮山琴美はあの子なんだし、やっぱり私のほうが黒木智子なのかもしれない。

 違う違う、そうだそうだ、やっぱり違う、やっぱりそうだ、私は誰だ、誰が私だ、あいつが私で、私があいつで……。

 

「おねーちゃん、おねーちゃん」

「ううん……ううん……」

「姉ちゃん、起きろって。遅刻すんぞ」

「ふああっ!?」

 

 誰かから揺さぶられていた琴美は、呼びかけてくるその声に反応して目を覚ました。直前まで見ていた夢の余韻に浸る間もなく、己の顔を覗き込んでいた智貴に心底驚いた彼女はボンヤリしていた意識を急速に覚醒させていく。

 

「あっ、ら、らいじょーぶっ、おきるから……!」

 

 慌てた様子の琴美が己の顔を布団で半分隠しつつ、ろれつの回っていない口調でそう答えると、智貴は小さくうなずいてそのまま部屋を出ていってしまった。それを見届けた琴美が、やがてむくりと起き上がって「ふぅー……」と深呼吸してみせる。

 

(朝からとんでもない目覚ましが……!)

 

 智貴からのモーニングコールは、琴美にとってこの世のどんな目覚まし時計よりも強力だった。はしゃぐような胸の鼓動が、寝起き特有の気だるさをあっという間に吹き飛ばしてしまう。寝起き直後にこのような刺激を与えられては本気で心臓に悪いと、彼女としてはもう身の危険すら感じてしまう程だ。

 枕元のスマホを確認してみれば、確かに急いで支度を済ませないと学校へ遅刻してしまいかねない時刻になっていた。スマホのスヌーズ機能はとっくに時間切れとなっていて、鳴動を再開させる気配は無い。少し前まで散々アラームを鳴り響かせていた筈なのに、琴美はそれにまるで気付かなかったようだ。昨晩は特に夜更かしした訳でもなかったから、ひょっとすると夢の中の出来事に余程夢中になっていたのかもしれない。ともあれこうしてはいられないと、彼女は布団を跳ねのけベッドから降りた。

 

「ほら、早くご飯食べちゃいなさい」

「はぁい」

 

 歯磨きや洗顔などをてっとり早く済ませていたら、脱衣所へ入ってきた母からそのように急かされる。それに対してしまりのない返事をした琴美がダイニングへ向かえば、そこにはすっかり身支度を済ませた智貴の姿があった。彼は琴美に先んじて朝食をとっていたようだ。

 

「あ、お、おはよ……!」

「ああ、おはよ」

 

 手馴れた様子で冷蔵庫から牛乳パックを取り出した琴美は、中身をコップに注ぎながら智貴とたどたどしくも朝の挨拶を交わす。黒木家での生活にもある程度慣れてきた琴美ではあったから、家人への態度にも多少は落ち着きが出てきていたが、それでもこの少年を前にした時だけは相も変わらずあがってしまうようだ。

 

「いただきまーす」

 

 ともあれすっかり指定席となった智貴の向かい側に座った琴美は、自分の分の朝食を早速いただくことにする。今朝の献立はこんがり焼けたトーストと、目玉焼きにウインナーのサラダ添え。卓上に配膳されたそれらが、寝坊してしまった今の自分にとっては何よりありがたいとしみじみ思う。忙しい母に代わって朝に夕にと家事を分担することの多い琴美であったから、本来の生活の中で万一寝坊でもしてしまおうものなら、その日の朝は非常に慌ただしいものとなる筈だったからだ。故に、みずから家事に奔走しなくても済む黒木家の朝はこの上なく気楽なものだった。そうでなくとも、智貴と席を共にしながらの朝食タイムは彼女にとって格別なのであるが。

 

(あいつ、ちゃんとメシ食ってんのかなぁ)

 

 ジャム塗りのトーストをかじっていた琴美は、ふいに智子のことを思いだす。一体どういう訳か、数日前から急に学校へ来なくなってしまった相方。そんな彼女のことが琴美はずっと気がかりだったのだ。食事の支度ぐらい必要とあらば己の手で行なうのが当たり前な自分と違い、これまで母に世話されるがまま育ってきたと思われる智子のほうは果たしてどうであろうかと、琴美はその現状について考えを巡らせる。ひょっとしたら今も自室でぐぅぐぅ眠っていて、起き出すのは昼以降になるのかもしれない。そうしてロクに料理もせず、ありあわせの偏った食事で適当に腹を満たしている様が、琴美にはなんとなくだが想像出来た。

 

(連絡ぐらいしてくりゃいいのに……)

 

 単に体調不良が理由で休んでいるだけならまだいいが、何かもっとよろしくない状況になっていはしまいか。こちらからの電話にも出ず、何度か送ったメールへの返信すらさっぱり無いものだから、琴美としてはいい加減心配になってきてしまう。出来れば智子の様子を確認すべく、学校帰りに懐かしき我が家へと寄り道してみたかった。事態の解決に向けて何かしら動きを取ろうにも、中途半端なままになっていた「あの日の再現」をひとまず続行してみる為には、肝心の相方が協力してくれなければ始まらないのだから。しかしそういう訳にもいかないひとつの理由が琴美を些か悩ませてもいた。

 

「いってきます」

 

 そんなことを考えているうち、先に食事を終えた智貴がショルダーバッグをひっさげて一足先に家を出ていってしまった。時計を確認してみればいよいよ電車に間に合うかどうかという時刻が差し迫っていたので、まだ着替えも済んでいない琴美は大急ぎで残りの食事をほおばり始めるのだった。

 *

「あっ!?」

 

 身支度を終えた琴美が出かけのあいさつもそこそこに玄関扉を開け放つ。そうして路上に飛び出そうとしたところで、しかしすぐさま足を止めてしまった。それは門扉(もんぴ)の手前に智貴が佇んでいたからだ。

 琴美よりも先に家を出た筈の智貴であったが、なぜかこの場で時間を潰していたらしい。彼の不可解な行動に驚きを隠せない琴美はその理由を尋ねようとして、

 

「ど、どうしたの?」

「姉ちゃんのこと待ってたんだよ」

「あ、そ、そーなんだー、はは……」

 

 しかし返ってきた答えは至極単純で、彼としては姉の支度が終わるのをこの場でただ待っていただけだという。自分のことなど放って先に行ってくれればよかったのにと思う琴美ではあるが、もちろん彼からそのように言ってもらえて嫌な筈もなかった。あの智貴と一緒に朝の通学路を歩くという、夢のようなシチュエーションにロマンを感じずにはいられないからだ。

 しかし一方で、彼からのこうした念入りなアプローチに琴美は少しばかり戸惑いをも覚えてしまう。智貴はひょっとすると自分からなるべく目を離さないようにしているのではないかと、そのように思えたからだ。

 

(これってやっぱり心配させちゃってるのかな?)

 

 近頃ようやく土地鑑のついてきた道を、琴美は早足気味に歩いていく。その視線の先には、前をゆく智貴の背があった。

 琴美が智貴と連れ立って登校するのは、これが初めてのことではない。入れ替わりが起きてから初めて学校へ行った日も、彼はなにかと不慣れな様子を見せる姉をエスコートする為に付き添っていた。しかしその翌日以降も智貴は姉と共に登校しようとするものだから、最早ふたり一緒に家を出ることが日課になってしまっていた。そしてまた、こうしたことは朝だけに留まらない。よほど姉のことが気がかりなのか、智貴は放課後になると決まって琴美のいる教室まで迎えにきて、共に下校しようと誘ってもくるのだった。

 もうじき千葉でも高校サッカーの大会予選が始まることを琴美は一応ながら知っていたから、部活のほうは大丈夫なのかと尋ねてみれば、今回自分の出番は無いから問題ないのだと返されてしまう。いまやチームのレギュラーを務めるまでに至っていた智貴であったから、そんな筈がないことは琴美にも明白であったが、本人にそう言い張られては最早返す言葉もない。

 そしてまた、このような彼の行動こそが下校時に智子のもとへと寄り道することを琴美にはばからせてしまってもいたのだった。智子のところへ行きたいのだと正直に意向を伝えたとて、今の智貴が素直にうなずくとはとても思えなかったからだ。一旦帰宅してからこっそり家を抜け出そうと試みた琴美が、姉の動向に油断なく目を向けていたらしい彼から早速咎められてしまったのはつい昨日の出来事であった。

 

(余計なことだったのかも……)

 

 自身の想い人が傍にいるというのに、なんだか口を開く気にもなれない琴美は先程からだんまりしたままだ。そんな彼女が智貴の背をぼんやり見やっていると、数日前のことに関する後悔がじわりじわりと胸中に湧きあがってくる。よかれという思いから姉弟のご対面を手引きしてみせたはいいが、却って状況を悪化させてしまったように思えてくるからだ。

 あの日、智子の代わりに待ち合わせ場所へと姿を現した智貴に面食らった琴美であったが、結局彼は琴美達の訴えなどまるで信用しておらず、入れ替わり説を頑なに否定したままなのだった。一時は智貴が事の真相を理解してくれたものとばかり思っていたのに、それがぬか喜びに過ぎなかったのだと判明したときの落胆が今もなお胸にわだかまりを残す。

 がっかりしたのは何も自分だけではない。弟が理解してくれたと見て無邪気に喜んでいたあの智子だって、きっと同じ気持ちを抱いただろうし、それどころか自分以上に強いショックを受けた筈だと、琴美にはそのように思えてしまう。だからこそ、渋る相方の背中を押して姉弟を無理に引き合わせてしまったことを琴美は今更ながらに悔やんでいたのだった。

 

(智貴くんのあんな顔、初めて見ちゃった)

 

 日のかげり具合で黒く塗りつぶされたように見えた智貴の顔を思い出すと、琴美は今もってぶるりと震えずにはいられない。いつも可愛い智貴の顔が、あの時ばかりは見知らぬ別の誰かに思えてしまったからだ。あるいはそれは、智貴が他の誰でもない自身の姉にだけ見せる特別な顔だったのかもしれない。であるのならば、それは本来であれば琴美のような他人が見てはいけないものである筈だった。

 ともあれあの日の一件が智貴をいたずらに不安がらせ、結果として自分への過度な干渉を招く羽目になってしまったのではないかと、琴美にはそう思えてならない。日々真剣に取り組んでいた部活をおろそかにしてまでこうしてつきっきりでいるのも、おそらくは智貴なりに考えあってのこと。一緒にいる時間をなるべく増やすことが姉の回復に少しでも役立つのではと、(わら)にもすがるような気持ちでいるのかもしれないし、彼の警戒する()()()()が姉と接触しないよう、可能な限り見張っておきたくもあるのだろう。智貴から干渉されるというのは本来なら大歓迎でとても嬉しいことだけれども、家族を心配するあまり極端な行動を取ってしまうその切実な胸の内を思うと素直に喜べない琴美なのだった。

 

 ◆

 

「ほら、こっち」

「あっ、う、うんっ……!」

 

 いよいよ混み具合がひどくなってきた電車の中で、琴美は智貴に促されてその懐へと引き寄せられる。小柄な姉が他の乗客に押し潰されてしまわないようにと気遣ってのことだ。つい数日前、智貴と初めて登校した際に朝の満員電車からの洗礼を受けた琴美はたまらずカエルのような悲鳴をあげてしまったものだが、見かねた智貴に助けられて以降は狭いながらも安全地帯を確保してもらえるようになったのである。

 

(あぁ~すきすきすき……溶けちゃいそぉ……)

 

 周囲に押されて密着してくる智貴のたくましい感触に、そして己を狂わせるその媚香(いいにおい)に、琴美は否応なくうっとりさせられる。揺れる車内にふらつき咄嗟にしがみついてみても、智貴は知らんぷりで何ら咎めたりはしない。それはさながら姉の為の吊り革代わりに徹するが如き様子であったから、合法的に許可を貰えたと見た琴美は遠慮なくその恩恵に与りたくなってしまう。

 近頃はあれやこれやと思案することの多い琴美ではあったが、こうしていると何も考えられなくなって、目的地につくまでの間は思う存分夢心地に浸ることが出来ていた。悩むのはもうやめて、このままずっとこうしていようかと、そうした甘い誘惑すら浮かんできてしまう。

 

(はっ!? ダメだダメだ! 気をしっかり持て、私……!)

 

 が、それでも彼女がどうにか踏みとどまれるのは、時折頭の中で智子の声が響いてくるからだ。返せ、返せと繰り返し涙ながらに訴える智子のその悲痛な叫びが、己の成すべきことを琴美に自覚させる。智貴との同居生活にうつつを抜かしていてはいけないと、自分が本当は誰なのかを思い出せと、そう戒められるのだ。

 

(なんとかしなきゃ……このままじゃ本当にヤバいぞー……)

 

 元に戻るための方法なんて今のところ皆目見当もつかない。そもそも一体自分たちは何が原因で入れ替わってしまったのだろうか。もし運命を司る神様がいるとしたら、何の意図でもってこのような異常極まる状況を自分たちに課したのだろうか。なんだか自分たちが面白半分にもて遊ばれているような気がして、理不尽な思いすら浮かんできてしまう。先日は神社にて必死にお祈りなんてしてみた琴美であったが、今は文句のひとつもつけてやりたい気分なのだった。

 

(そういや……)

 

 ふと、琴美は今朝方見たばかりの夢のことを思い出す。朝のドタバタの中ではゆっくり思い出す暇もなかったが、とても印象的な内容であったから、おぼろげながらもそれはいまだ記憶に留まっていた。

 

(なんか神社の中で遊んでたような?)

 

 確か自分は夢の中で見覚えのある境内をあちこち巡り、小さな男の子と一緒にセミの抜け殻集めに奔走していた筈だ。そうして集めた抜け殻たちをどこぞのペットショップに売りつけて小遣いを稼ごうと、全く現実性のない幼稚な企みをしていたことを琴美は思い出す。自分の傍をついて回っていたあの愛らしさいっぱいの可愛い男の子は一体誰だったのだろうかと、琴美はそこが気になってしまった。

 

()()()()……!?)

 

 はっとなった琴美が、智貴の顔を見上げる。ツンとした表情で窓の外に目を向けているその顔をまじまじと見やる琴美は、何故だか夢の中の男の子と、今目の前にいる少年とが同一人物であるように思えてしまったのだ。それは推理の上でたどり着いた気付きというよりも、元々自分の知っていたことを今ここで苦もなく思い出したに過ぎないという印象だった。幼い頃の智貴は確かにあのような姿であったことを、琴美は不思議と当たり前のように確信することが出来ていた。

 

「あっ、あのさっ」

「?」

 

 琴美からの突然の呼びかけに、智貴が視線を落として応える。密着し合った彼と図らずも間近で見つめ合う姿勢になった琴美はたまらず体を震わせ鼻息を荒くするが、とにもかくにも己の感じた疑問を投げかける。

 

「セミの抜け殻っ、あ、集めたことってある?」

「は?」

「その、ち、小さいときにさ、神社で一緒に集めたりしたよね?」

「ああ……うん、まあ……」

「一個百円で売れるからって、そのあとお店に持ってったりしたよね?」

「お、おう……」

 

 琴美からの急な質問に戸惑いつつも、ひとまず同意する智貴。それを見た琴美は、やはりと思わずにはいられなかった。ずっと昔に幼い智貴を連れて神社の中で抜け殻集めに興じたことを、琴美は何故か自身の遠い思い出として覚えていたのだ。つまり今朝見た夢は、かつて実際に体験した幼い頃の出来事に基づいたものだったということになる。確か智子自身も先日、智貴相手にこのような思い出話を語ってはいなかっただろうかと、琴美は今になって当時の相方の発言を思い出してもいた。

 

「ちょっと待て……おまえ、今の……!」

「へっ!?」

 

 すると何かに気付いた様子の智貴が、血相を変えて琴美の右肩をつかんできた。まったく突然のことであったから、目を白黒させた琴美は身をすくめてしまう。

 

「百円で売れるって、それ、あの人から聞いたのか……!?」

「あ、ち、ちがくて、な、なんか覚えてて……」

 

 琴美が姉弟の古い思い出をやけに具体的な形で口にしたことが、智貴にはひどく驚きだったらしい。智子から何か聞かされでもしたのかと確認してくる彼の様子にたじろぎながらも、琴美はその問いかけに首を振る。いきなり声を荒げた智貴に、周りの乗客たちも何事かと視線を向けていた。

 

「なあ……もっかい聞くけどさ」

「あっ、うん」

「こないだ俺が貸したジャージのこと、覚えてるか?」

「え? あ、えーっと……」

 

 周囲の目を気にも留めない智貴は、続けてそのような質問を投げかけてくる。以前にも彼から同じことを尋ねられて「覚えていない」と否定した琴美であったから、当然その答えは変わらない筈であった。

 

(えっ、なにこれ……!?)

 

 しかし琴美の脳裏に、まるで実際に見聞きしたが如き謎の記憶が浮かび上がってきた。渋る智貴に頼み込み、彼の持つ黒いジャージを借り受けた時のこと。それを着込んだ姿をあの根元という友人に褒めてもらった時のこと。智貴のジャージに関連するそうした諸々を、琴美は何故か鮮明に思い出せてしまうのだった。

 

「あっうん、えと、い、イメチェンしたくて、その、と、友達に見せてあげようって思って……借りたような……」

 

 何故。なぜ。ナゼ。どうしてこのようなことを覚えているのか。一体これは何の、誰の記憶なのだろうか。突如脳裏に浮かんだ得体の知れない思い出を前にして、琴美はただ混乱するばかりだ。

 

「じゃあ鍋はどうだ? 去年一緒に作ったろ」

「あっ、うん、そ、そういえば……!」

 

 智貴からの次なる質問に刺激され、当時の記憶がまたしても鮮明に蘇る。あれは確か去年の冬休み初日のこと。倒れた祖父のもとへ駆けつけるべく両親が急遽家を空けることになったため、自分は智貴とふたりきりの時間を過ごしたのだった。姉弟で手分けして作った夕食の鍋をコタツに入って仲良くつついたりしたし、そのあと風呂に入ろうとしていた智貴に待ったをかけて、そのままコンビニへの買い物に付き合ってもらったりもした。ワクワクするような楽しいひとときの思い出に、胸の奥がじんと熱くなってしまう。

 

「……声優の変なセリフのやつは?」

「あ、な、なんか覚えてるねー……あはは……」

 

 蒸し返されたくないようなひどい思い出までもがきっちり記憶の中に存在していた。人気声優・伊志嶺潤 (いしみねじゅん)のイベントにかつて参加した際、持参したレコーダーに自分好みの卑猥なセリフを彼から吹き込んでもらったまではいいが、録音した音声を元に恥ずかしいボイスドラマを自作したところ、それを母親に聞かれてしまうという恥辱極まる痛ましい事故があったのだ。あまつさえ、うっかり口をすべらせ智貴にまでその一件を知られてしまったものだから、これに関しては随分と苦い思いをさせられたのだった。

 

「なんだよ……ちゃんと覚えてんじゃねえか……」

「あっ、いや、こ、これは……!」

 

 ともあれ一通り質問し終えた智貴は、姉からの答えに満足したのか心底ほっとしたような声で語りかけてきた。変に誤解されてはいけないと、琴美は慌てて弁明しようとするのだが、

 

(あっ──)

 

 しかし視線の先で智貴の表情がふわっと変化した途端、それに魅入られ言葉を失ってしまった。自身にとってかけがえのないものを取り上げられてしまった幼い子供が仮にいたとして、無くした筈の宝物がその子の手に返ってきたとしたら、きっとこのような表情を作るに違いない。嬉しいとか、喜ぶとか、感極まっているとかいった言葉では到底表現することの出来ない、むきだしの柔らかい心がそのまま顔に表れたような、そうした稀有な表情を琴美は目にしてしまったのだ。

 

(ああっ……()()()()……)

 

 琴美の知らない智貴の顔、それは本来他人である筈の琴美では決して見ることの叶わないものだった。彼がたったひとりの姉の前でだけ見せる、あるいはかつて見せていた筈の、どこまでも純粋で特別な表情。ただひたすらに姉を慕い、信頼を寄せていた頃の顔。夢の中で垣間見たあの「ともくん」を確かに受け継ぐ少年が、琴美の目の前に存在していたのだった。そんな智貴から見つめられた琴美はもう愛おしさで胸がいっぱいになり、自分が彼の姉ではないということが何かの間違いなのではないかとさえ思えてきてしまう。

 

(でも違う……違うんだ……!)

 

 しかし琴美にはもうこれ以上彼と目を合わせることが出来なかった。彼からのまなざしが眩しすぎて、己の中に潜む嘘がどこまでも醜く感じられてしまったからだ。自分は今、智貴を間違いなく騙している。本来決して自分に向けるべきではない表情を彼にさせてしまった。このようなことは最早彼の心を踏みにじっているに等しい。急速に膨らみ始めた己の中の罪悪感に、琴美は押し潰されてしまいそうだった。

 

(こんなの私の記憶じゃない……!)

 

 幼い頃の夏の思い出も、そしてそれ以外の思い出も、いずれもが琴美にとってはまるで身に覚えのないことだった。にもかかわらず、それらは当然のように自分の過去の思い出として確かに存在していた。智貴からの質問と突き合わせてみれば、こうした記憶はつまり智子自身が本来持っていたものに違いないと思われる。

 

(どうなってんだ……? 私、どうなっちゃうんだ……?)

 

 何がどうなっているのかさっぱり分からないが、自身に明らかな異変が起き始めていることを琴美はまざまざと実感していた。果たして今の己の中にはどれだけの見知らぬ記憶が潜んでいるのだろうか。先程思い出させられたもの以外にも、まだまだ無数のそうした思い出が眠っているような気がしてならない。それらの記憶が自分を侵食し、やがて別の人間へと造り変えてしまうような気がしてくるものだから、琴美にはそれが恐ろしくてたまらないのだった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(9)

アイ・アム・トモコ

「あっ、あのさっ……」

「んー?」

 

 午前最初の授業が終わり、教室の空気が一気に緩む。思い思いに席を立つ者や、待ちかねていたようにおしゃべりする者たちで溢れかえるひととき。机に広げられていた教科書やノートをしまっていた陽菜に向け、琴美は焦り気味に声をかける。

 

「なに?」

「いや、ちょっと聞きたいんだけど……」

 

 ここ数日は陽菜に対してみずから話しかけるようなことはなく、もっぱら彼女から声をかけられた時に軽く受け答えする程度で済ませていた琴美であったが、それでも今ばかりは念の為に彼女へ確認しておきたいことがあった。

 

「私とネモってさ、一年のときからずっとおんなじクラスだっけ?」

「えっ?」

 

 いきなりそのようなことを聞かれるとは思っていなかったのか、陽菜は面食らったような顔になる。入学してからのこの三年間、偶然にも智子と同じ学級で学び続けた彼女からすれば、何を今更というような質問だったに違いない。

 

「そうだけど……」

「あ、や、やっぱり?」

「どうしたの急に?」

「ああ、まあ、なんか思い出しちゃって……」

 

 質問の意図を測りかねた陽菜が尋ねてくるが、特に深い意味はないのだと返す琴美。しかしその心の内は陽菜が今しがた答えた内容の如何を問わず、既に混乱状態であった。

 

(絶対おかしい……なんなんだこれ……?)

 

 琴美にとってこの根元陽菜という同級生は、三年生になってから初めて知り合ったに過ぎない相手だ。しかしどうにも不可解なことに、琴美にはいまや彼女と自分とが旧知の仲であるように思えてならなかった。例えそれがまるで実感の湧かないものであったとしてもだ。琴美が先程してみせた質問にしても、実のところ己の中で確信めいた認識として浮かび上がってきたものを、あえて陽菜に確認してみただけに過ぎなかった。

 

(根元さんのことなんて、なんにも知らない筈なのに……)

 

 己の心の不可解な働きに、琴美はうろたえるしかない。陽菜のことはこれまで殆ど話したこともない知り合い程度にしか思っていない一方で、何故だか彼女に関する様々な記憶が自分の中に存在してもいたからだ。

 陽菜が智子と毎年同じクラスであったというのは、よくよく思い返してみれば以前に当人達の口から直接聞かされたような気もするが、それを差し置いても毎年隣同士の席になることが妙に多いとか、かつて智子が陽菜のことを敵視したり妬んだりしたこともあったとか、お互いをニックネームで呼び合うようになったのはつい最近になってからだとか、そうしたあれこれが記憶を探ってみるごとに次々と思い浮かんで仕方がないのだった。

 

(こんなの、まるで私があいつみたいじゃないか……!)

 

 今朝がた電車の中で智貴と交わしたやりとりが、琴美をすっかり動揺させてしまっていた。それゆえ授業にもまるで身が入らないでいた彼女はひたすら物思いに耽っていたのだが、智子が自身の弟から件のジャージを借りるきっかけになったらしい陽菜のことを考えるに至り、前述したような彼女に関する諸々の記憶にも遭遇させられたのであった。

 自分の中に、おそらくは智子のものと思われる記憶が混在していることはもはや明らかだ。それらを思い出すことが恐ろしい。智子としての見知らぬ記憶を思い出してしまった分だけ、自分が自分でなくなっていく気がしてしまう。

 

「ねえクロ、なんかあったの?」

「へっ?」

「顔色、真っ青じゃん」

「あ、うん……いや、まあ……」

 

 どうも琴美はすっかり青ざめていたようで、友人の様子を心配したらしい陽菜がそのように声をかけてきた。昨日までは彼女から「クロ」などと呼ばれてしまうことに違和感しかなかった筈なのに、不思議と今ではその呼ばれ方こそがしっくり来てしまう。ともあれ内心の動揺を隠すべく、その場を取り繕う為の適当な言葉を探す琴美。

 

「ちょっと()()が重くて」

「あー、そっかぁ」

(なに言ってんだ私……!?)

 

 自分で言ったことにもかかわらず、琴美は己の口から飛び出したその適当な言い訳に驚いてしまった。誤魔化すにしても別の言い方がもっとありそうなものなのに、よりにもよってという感じだ。智子ならいざ知らず、何故自分がわざわざこうしたあけすけな物言いを選択してしまったのか。油断しているとなんだかその言葉選びまでもが智子に毒されてしまいそうな気がしてしまう。

 

「今日はいつものクロって感じするね」

「は?」

 

 どこかほっとした様子の陽菜が、ふいにそのようなことを口にした。しかし一方の琴美は突然そのようなことを言われたものだから、意表を突かれたような気持ちになる。

 

「最近のクロ、ずっと変だったからさー」

「あ、そ、そうなの……?」

 

 当初は琴美の様子を訝しんできていた陽菜であったが、近頃はそうした素振(そぶ)りも見られなくなっていた。それもあってひとまずは怪しまれなくなったものとばかり思っていた琴美であったが、実際はそうでもなかったようだ。単に内心を表に出さなくなっただけで、陽菜はその後もずっと琴美に対して違和感を抱き続けていたらしい。

 しかし一体どういう訳か、その陽菜自身がいまや琴美を指して「いつもの智子らしい」と評してみせたのだった。先程うっかり口走った言い訳がそのように感じさせてしまったのだろうかと、琴美は推測を巡らせる。

 

「みんなも心配してたんだよ? ねっ、田村さん」

 

 手前の席のゆりに向け、陽菜がそのように言って話題を振った。それに応じるように振り向いてみせたゆりだったが、彼女の視線は自分に声をかけてきた陽菜ではなく、琴美のほうへと向けられていた。確かこのクラスメイトも自分のことを怪しんではいなかっただろうかと、己をじっと見据えてくるゆりの視線に喉を鳴らす琴美。

 

「LINE送ってるのに全然見てくれてないよね。なんで?」

「へっ?」

 

 ゆりからのそうした突然の質問に、琴美はぎくりとしてしまう。痛いところを突かれたと、そのように思った。おそらく智子は琴美だけではなく、ゆりからの連絡をも無視していたのだろう。智子のスマホは智子自身が持っている訳だから、いくらゆりからこのように問い正されたとしても、琴美のほうではどうしようもないのだ。

 

「いや、なんかスマホの調子が悪いんだよ」

「そうなの?」

「うん、こないだちょっと落っことしちゃって……」

 

 だから琴美としては、それらしい理由をつけて言い逃れするしかない。実のところ、今しがたゆりが指摘してきたようなことは智貴からも言われていたのだった。もっとも彼の場合はメールや電話に関することであったりするのだが、いずれにしても智子の友人や家族からのこうした連絡に対しては、応じてあげたくとも出来ないというのが琴美の実情であった。

 

「お店に持ってけば?」

「あーうん、まあ……」

 

 ゆりからのそうした勧めに適当な相槌を打ってみせる琴美。ともあれ今後も黒木智子としての生活を続けていくのだとしたら、こうしたところでいつかそのうち言い逃れ出来ない事態に直面させられる時が訪れるに違いない。

 そのことがどうにも心配であったから、いっそ智子に預けておいたあの黒いスマホを()()()()()()というような気持ちが湧き上がってきてしまう。そもそも件のスマホの中には決して人に見られたくない類のいかがわしいデータなどがたんまりと保存されている訳なので、それを思うと正直なところ気が気でないのだった。

 

(えっ……あれ……!?)

 

 そこまで考えたところで、はたと気がついた琴美は呆気に取られたような顔をする。ゆりとの今しがたのやりとりや、それに続く自身の思考そのものに違和感を覚えたからだ。まだそれほど気心も知れていない筈のゆり相手に、自分でも驚くほど妙に馴れ馴れしい受け答えをしてしまったような気がする。

 それはまだよいとしても、スマホに関する今の思考は一体なんなのだろうか。まるで智子が現在所持しているものは本来自分こそが持つべきだと言わんばかりの奇妙な考え方。己の普段愛用している端末が手元にないことを不安に思ってしまうような、ありえない筈の錯覚。

 

(なんだこれ……なんで私、こんな風に考えてるんだ……?)

 

 まるで辻褄の合わない自らのそうした思考に困惑させられた琴美は、慌てて鞄の中からスマホを取り出す。そんな筈はないのだ。己の愛用のスマホは間違いなく今自分が所持しているほうであるのだから。そのように自分へと言い聞かせる琴美ではあったが、手に持つその白い端末に、今更ながら拭いきれない違和感を覚えずにはいられない。

 

「あれ? クロのスマホってそんなだっけ?」

 

 画面のひび割れた琴美のスマホをまじまじと見やる陽菜がそんなことを言ってきたが、もはや彼女の言葉は琴美の耳に届いていなかった。

 

 ◆

 

「伊藤さん、私って誰だと思う……?」

「えっ?」

 

 午前の授業もいち段落した昼休み、中庭のベンチに座る琴美が暖かな日差しのもとで弁当箱を広げていた。その隣には光の姿もあり、彼女らはふたり仲良く校舎の外で昼食を共にしているようだ。そうした休息のひとときにあって、ふと箸を止めた琴美が何やら真剣味の宿る顔で傍らの光にひとつの質問を投げかけた。

 

「誰って、琴でしょ?」

「どうかな、ちょっと自信ないかも」

 

 なにを今更と、光はあっさりした様子で答えてみせる。しかし一方の琴美は親友のそうした言葉を受けて、奥歯にものが挟まったような返しをしてしまう。

 

「ひょっとしたらさ、私ってほんとは黒木さんなんじゃないかなって、なんかそんな気がするんだけど」

「そんなこと……」

 

 どうも今朝から色々とおかしい。本来は到底知りえないような智子の内情を、誰に教えて貰った訳でもないのに何故だか当たり前に思い出すことが出来てしまう。智子の友人らへの対応にしても以前ほど苦労しなくなったというか、いつも肩肘張った思いで挑んでいた筈が、いつの間にか気安い感じで会話出来るようになっていたのだ。

 こうしたことは早速光にも相談し、ふたりでその原因を考えたりもしていた琴美ではあったが、一向に不安は拭えない。もしかすると自分はそもそも最初から黒木智子その人であり、入れ替わったというのは医師の見立て通り、単なる思い込みに過ぎなかったのではないかという考えすら浮かんできてしまうのだった。

 

「あいつっぽくするのが、なんか普通っていうか……気がついたらあいつみたいなこと考えちゃってるし……」

「うーん……」

 

 このような親友の主張には同意しかねるのか、少し困ったような声を出す光。しかしつい先程も、琴美は危うく彼女のことをないがしろにしてゆりや真子と昼食を取ろうとしていたのだった。まるでそうすることがいつも通りだと言わんばかりに、誰に言われるでもなく自ら席を動かすなどして三人で机を囲む準備をしていたものだ。

 今日も今日とて智子は登校していなかったものだから、琴美に放っておかれた光はひとりぼっちであった。そんな光が自分のほうを見やってきていることに気付き、ようやく我に返った琴美が「先約を思い出した」とゆり達に断りを入れ、親友のもとへ馳せ参じたのであった。

 

「伊藤さんさ……これ、覚えてる? こう、コブシつくって『うぇーい』ってやるの……」

「えっ、それって……!?」

 

 ひとつ確認しておきたいことがあった琴美は、片手でコブシを作るとそれを妙な仕草で光に向けて軽く突き出した。それを受け、僅かに表情を崩す光が驚いたような声を出す。彼女としても琴美の今しがたの行動に心当たりがあったのだ。

 

「ほら、入試の時の……」

「すごいね、そんなことまで分かるんだ」

 

 琴美が光に見せた仕草は、他でもない智子がかつて光に対して行なったことを再現してみせたものだった。まだこの学校に入学する前、入試会場にて隣の席同士となった見ず知らずの光に対し、当時の智子は砕けた調子でいきなりおどけてみせたりしていたのだ。光としてもそんな智子のことはある程度印象に残っていたようで、琴美の行動を受けてすぐさま思い出すことが出来たらしい。

 

「なんか伊藤さんと入試のときからずっと知り合いだったような気がしてきて……そんな筈ないのに、でもどっちが本当なのかよく分かんなくなってきちゃって……」

「うん、まあ、それはちょっとややこしいね」

 

 まさか己の親友がずっと以前から智子と顔見知りだったとは思いもよらない琴美ではあったが、本日何度目かの休憩時間の際、光と話していたらこのような記憶がふと心の中に浮かんできたのであった。本来彼女との縁は一年生の時に同じクラスになったことがそもそもの始まりだった筈だ。にもかかわらず、一方で全く異なった見解が意識の底から頭をもたげてきてしまい、琴美を惑わせて仕方がない。

 

「ちょっと色々考えてたんだけどさ……」

「?」

 

 そうした出口のない思考に捉われていたところ、なにやら話し始めた様子の光であったから、うなだれ気味だった琴美は顔を上げてそれに応じる。

 

「そういうのって、たぶん『ここ』のせいじゃない?」

「えっ……?」

 

 そのように言う光が、ふいに琴美の額を指でそっとつついた。柔らかなその指先に押されて少しばかりのけぞった琴美は、眼前に迫った親友の手に両目を寄せる。

 

「今の琴の体って黒木さんのでしょ? だったら頭の中身もやっぱり黒木さんのままなんじゃないかなって」

「う、うん……?」

「ほら、海馬とか、大脳皮質とか、そういうの。だから元々黒木さんの脳が覚えてたことを、琴が知ってたって別に不思議じゃないと思う」

 

 琴美を襲った異変の原因について納得出来そうな理由に思い至っていたのだろうか、光は自分なりの見解を披露した。琴美の悩みの正体が、智子の肉体に備わる記憶中枢にこそあるのだと、光はそのように考えているようだ。

 

「人間の性格とか仕草なんかも、ある程度はその人の記憶とかが元になってたりするのかも……。つい黒木さんみたいなことしちゃうってことは、琴が黒木さんの体に引っ張られてるんじゃないかな?」

「あ……うん、そっか、そうなのかも……!」

 

 一歩引いた場所から語られる光のそうした冷静な意見に、琴美はさもありなんといった気持ちにさせられた。確かに親友の言うようなことが自分に起きているのであれば、今朝から己を悩ませている諸々の奇妙な現象にも一応は説明がつくのだ。

 

「でも変だよね、昨日まではなんともなかったんでしょ?」

「うん、まあ……」

 

 とはいえ光の指摘通り、つい昨日までこのようなことは起きていなかったというのも事実だ。それが一体どういう訳か、今朝から急におかしなことになり始めたのだった。あるいはそれは、時間の経過と共に表れ始める類の厄介な現象なのかもしれない。

 

「他はどう? 何か変わったことってない?」

「いやまあ、特には……」

 

 どうも自分が智子っぽくなってしまったこと以外には、これといって思い当たる節はない。強いて言えば、己の中で時折浮かび上がってくる智子の記憶に対してえも言えぬ危機感を感じてしまうぐらいなものだった。思い出せば出すほどに、自分が元々持っていた筈の何かが損なわれていくような、そうした感覚があったのだ。

 

「……ねえ琴、ちょっといい?」

「あ、うん」

「二年の時、私たちがどこのクラスだったか言ってみて」

「えっ? あーっと……」

 

 なにやら緊張した様子の光が、そのように切り出す。何故そのように至極単純な質問をするのだろうと、親友の意図がいまいち分からない琴美ではあったがひとまず答えてやることにする。

 

「四組だけど」

 

 二年生の頃の自分達がいたクラスといえば、勿論「二年四組」だった。その記憶に基づいて答えてみせた琴美であったが、それを聞いた光は僅かに表情を硬くする。

 

「違うよ、六組でしょ?」

「えっ!? あっ、うそっ?」

 

 小さく被りを振った光からそのように否定され、琴美は驚いてしまった。己の口にした答えに疑いを持ってなどいなかったから、まさかそんな筈はないという思いが湧きあがる。しかし冗談を言っているようには見えない光からこうして間違いだと指摘されてしまうと、本当に彼女の言う通りであるような気もしてくる。

 

「じゃあ二年の時の担任は誰だった?」

「えと、お、荻野先生だけど……」

「それも違うね。全然別の先生だよ」

「えー、そんな筈……」

 

 光の言葉に思わず反論しようとした琴美であったが、言葉が出終わらぬうちに口をつぐんでしまう。てっきりあの荻野教諭こそが二年生の頃の担任で、進級した今も引き続き自分の担任になったものとばかり思っていたが、はて本当にそうだろうかという疑念が湧いてきたからだ。光から指摘されたことで浮き彫りになってきたその小さな違和感が、琴美の心に揺さぶりをかける。

 

「……琴、私が何部に入ってるか知ってる?」

「あっうん、吹奏楽部、だっけ……?」

「うん、そうだね」

 

 続けて投げかけられた親友からのこうした問いに、琴美は些か自信なさげに答えてみるが、こちらについては正解だったようなので胸を撫で下ろす。その思いは光のほうも同様だったらしく、今しがたの答えを受けてどこかほっとしたような顔をしていた。

 

「なんだろ、もしかして結構忘れちゃってることとかあるのかな?」

「わ、わかんないけど……」

 

 正解を知っていて当たり前の筈の、ごく簡単な質問に正しく答えられない。それは琴美にとってショックなことであった。幸い親友に関することであれば間違えたりはしないようだが、それ以外のことは果たしてどうであろうか。

 

「あっ、待って! 今年のロッテ開幕戦のスタメン、言ってみるから」

 

 ひとまず自分が今まで記憶してきたことを改めて検証してみようと、琴美は己の得意分野に関することで頭を捻ってみることにした。普段であれば覚えていて当然のことなので、流石にこの程度なら確実に思い出せるだろうと踏んでのことだ。

 

「一番荻野(おぎの)……二番藤岡(ふじおか)……三番は……中村(なかむら)で……四番が……」

 

 難しい顔をしてブツブツと誰かの名前を暗唱し始めた琴美であったが、おそらくは彼女の愛する地元球団に関連した何かしらの情報と思われる。これといって野球に興味の無い光には琴美の呟くスタメンとやらの内容が正解なのかどうか判断がつく筈もないのだろうが、順調に暗唱を続けていく親友をひとまずは見守るのだった。

 

「うん、ちゃんと覚えてる」

「覚えてるんだ……」

 

 今年度のものだけに飽き足らず、続けざまに去年や一昨年の分までをもそらんじてみせた琴美であったが、本人としては満足する結果に終わったようだ。ともあれこの手のことに関しては今のところ影響は出ていないようだと、己の愛する球団の記憶が無事であることに琴美は安堵した。

 

(他はどうだ……? なんか忘れてそうなことは……)

 

 しかしまだまだ安心は出来ない。思いもよらぬ形で何かしら記憶の齟齬が起きている可能性は十分考えられる。そのように考えた琴美は、自身に関する身近な事柄を思い出そうとしていく。

 

(誕生日は○月○日……ケータイの番号は×××-○○○○-××××……住所は千葉市稲毛区稲毛○丁目の○-○○……兄弟は弟がひとり……お父さんはサラリーマンで、お母さんは主婦……って、あれ?)

 

 ひとまずこうしたことについてはすんなりと思い出すことが出来た。いや、確かに思い出せはするのだが、それが果たして正解なのかと問われれば少しばかり疑わしくもあった。頭に浮かんだどれもこれもに妙な引っかかりを感じてしまうからだ。

 

(いやいやいや、弟なんかいないしっ……! なんだこれ、なんか変だぞ……?)

 

 はっとなった琴美が、いつの間にか己の中に根ざしていたその認識を慌てて打ち消す。何故か自分に弟がいるような気がしてしまったものの、そんな筈がないということに気付いたからだ。もし智貴が自分の弟だったらどんなに素敵だろうと、実際にそのような妄想に耽ったりしたことはこれまでにも何度かありはしたが、それも叶えようのない願望に過ぎないことは勿論分かっていた。にもかかわらず、ごく当たり前のように狂った認識が浮かび上がってきてしまったものだから、琴美は己の中に生じた違和感をますます深めていく。

 

(お母さん主婦じゃないし! フツーに働いてるし!)

 

 母親に対する認識もどこかおかしい。己の母は今も昔も外へ働きに出ている人の筈なのに、何故かそうした前提がすっぽり抜け落ちて、専業主婦をやっているように錯覚していたからだ。その上どうにも奇妙なことに、母のことを思い出そうとするとふたりの人物がどうしても目に浮かんできてしまうものだから、琴美はもう訳が分からない。一方は琴美自身の母が、そしてもう一方は智子の母が。一体どちらが己の本当の母親なのかは明白な筈なのに、ふたりの印象が混ざりに混ざってなんだか同一人物であるようにも思えてしまう。

 

(お父さんは……お父さんは……)

 

 そうして今度は自身の父親について考えたところで、琴美はぞっとさせられた。ずっと昔に帰らぬ人となった筈の父が、今も尚健在であるように感じられてしまったからだ。現在もごく普通に生活を共にしていて、帰りの遅い父におかえりの挨拶をしてあげたり、時折彼から言葉少なに近頃の調子なんかを尋ねられたりしていたものだと、そのような思いが湧き上がってきてしまう。

 いやいやそうじゃない。これらの記憶はあくまで智貴の父に関する事柄なのであって、自分本来の父親に関することなどではない。目に浮かんできた父の顔は釣りが趣味らしいあの黒木家のご主人なのであって、ロッテ狂いだった亡き父とは全くの別人なのだから。そのように自分へ言い聞かせる琴美は、遠い思い出の中に残るかつての父の姿を思い出そうとする。

 

(あれ……? な、なんで……?)

 

 しかし、見つからない。頑張って思い出そうとしても、何故かあの父の顔を目に浮かべることが出来ない。幼い頃に亡くなった父との記憶は元々ごく限られたものしか残っていない琴美ではあったが、それでも忘れがたい思い出なら確かにあった。にもかかわらず、そうした思い出の中に登場する父が、あの智貴の父へとすりかわってしまっているのだった。こんな筈はないとどれだけ頭を絞ってみても、やはり亡き父本来の顔を思い浮かべることが琴美にはどうしても出来なかった。

 

(どうしよう……どうしよう……お父さんの顔、もう思い出せないよ……!)

 

 年月だけでいえば僅かな間だったかもしれないが、それでも確かに幼少期の自分と共にあった身近な存在。そうした亡き父の記憶に決定的な綻びが生じていることを突きつけられ、琴美はもう泣きたくなってしまった。

 単純に忘れているというよりも、これはもはや「書き換えられている」といったほうが正確かもしれない。元々自分の中に記憶されていた筈の事柄が、強制的に別の何かへと上書きされてしまったような感覚。こうしたこともおそらくは智子の肉体に影響されてのことなのかもしれないが、それが大切な家族のことにまで及んでしまっていたものだから、琴美は取り返しのつかない喪失感を覚えずにはいられない。

 

(無くなる……消える……みんな……ぜんぶ……)

 

 一体いつからこんなことになっていたのか。自覚させられたのはつい今しがたであるものの、もっと以前から己の知らぬ間にこのような異変がじわりじわりと内部で進行していたのだろうか。今はまだ小宮山琴美として覚えていることもあるにはあるが、それも明日や明後日は分からない。もしかすると元々の自分が備えていた記憶のほとんど、あるいは全てが、やがて時間の経過と共に智子としての記憶へと無理やりすげ替えられてしまうのではないか。

 もしそうなってしまったとしたら、そこにいるのは一体誰なのだろうか。肉体のみならず記憶までもが智子のものへと入れ替わってしまった自分は、もうただの黒木智子本人でしかないのでは。小宮山琴美としての自分はもはやその時点で消滅したも同然なのだと、琴美の頭の中でそのように悲観的な考えがグルグルと巡って止まらない。

 

「どうしたの?」

 

 琴美が急に押し黙ってひどく深刻そうな顔をするので、心配した光が声をかけた。するとすっかり青ざめた様子の琴美が、ふるふると揺れるその瞳で傍らの親友にすがるような視線を向ける。

 

「いとうさんっ、私、やっぱりなんか変だよっ……!」

「わっ!?」

「このままじゃ私、く、黒木さんになっちゃう! 私が私じゃなくなっちゃうよぉ──!」

「ちょ、ちょっと琴……!」

 

 光へとすがりついた琴美が、取り乱した様子でそのようなことを訴え出した。突然のことに面食らう光であったが、琴美の膝の上から危うく落ちそうになった弁当箱をすかさず手で支えてやったりする。

 

「落ち着いて、大丈夫、大丈夫だから」

「大丈夫じゃないよぉ……もうおしまいだよぉ……」

 

 積もり積もった不安がここに来て限界に達してしまったのか、とうとう琴美は泣き出してしまった。ひとまずお互いの弁当箱をベンチの端に避難させてやった光は、しがみついてくる琴美のその肩をさすってやったりする。

 

「なにがどう変なの? ね、教えて?」

「おっ、お父さんのこと、思い出せなくって……ぐすっ……な、なんか他にも、色々おかしくって……」

 

 急に取り乱してしまった親友を前に少しばかりうろたえた様子の光ではあったが、優しく諭すように琴美の今感じている不安の理由を聞き出そうとする。そうして琴美は、肩を震わせながらも嗚咽混じりにその心情を吐露していくのだった。

 *

「ひょっとしたらだけど、黒木さんの体にだんだん馴染んできてるんじゃないかな」

「なじむ? 私が?」

「うん。だから琴が前から覚えてたこととかも、ちょっと変な感じになっちゃってるんだと思う」

 

 己の訴えを一通り聞き届けた光からの意見に、琴美はなんとなくだが心当たりがあるように思えてしまった。これまで身に覚えのない智子としての記憶を思い出す度、少しずつ自分が自分でなくなっていくような気分を味わわされていたものだが、ひょっとするとそのような感覚こそが親友の言う通り智子の肉体に馴染みつつある証拠なのかもしれないと、琴美はそのように考えた。

 

「琴の言う通りかもね。もしかしたらこのままだと琴、本当に黒木さんみたくなっちゃうのかも」

「え~、そんなぁ……」

 

 光が不安を煽るようなことを口にするものだから、琴美の中で焦りが募る。今起きているような異変が時間の経過と共に益々進行してしまうのだとするのなら、もはや悠長に構えてなどいられないのだ。まだ自分を保つことが出来ている今のうちに、どうにかして本来の体へと戻らなくては。そうしなければ、押し寄せる肉体からの侵食を前にやがては己の心が全て塗り替えられてしまいかねない。そしてそれは、きっと自分だけに限った話ではなく──

 

「あいつも、そうなのかな?」

「黒木さん?」

「うん。あいつも私みたく、おかしくなってきてるのかなって……」

「どうかな……黒木さんとまだ連絡つかないの?」

「全然ダメ。あいつ、電話もメールも全部無視してるみたいだから」

「そっか……」

 

 己と同じ境遇にある相方もまた、同様の異変に苛まれてはいないだろうか。もしそうなのだとしたら、一体今頃どうしているのだろうか。自分の中に生じた異変を前にしてパニックに陥ってはいまいか。そんな風に考える琴美としては、もうひとりの当事者である智子のことも心配なのだった。

 

(やっぱあいつんとこに行ってみるか……)

 

 これまでは智貴に遠慮したり、あるいは彼から咎められたりしたせいで相方と会えずにいた琴美であったが、もうそのようなことを言っている場合ではない。智子とひと目会わずにはいられなくなった琴美は、今日にでもかつての己の住まいへと足を運ぶ決意を固める。そうしてもし智子の体調が悪いのでなければ、会いに行ったついでにそのまま例の神社へも同行してもらって、元に戻る為の手立てを一緒に探してみるつもりでいたのだった。

 

「ちょっと、あんたたち」

「!?」

 

 しばく考え込んでいた琴美であったが、背後から誰かがいきなり呼びかけてきたものだから咄嗟にそちらを振り返る。するとそこには、自分たちの座るベンチのすぐ後ろに佇むひとりの女生徒の姿があった。

 

(誰……?)

 

 気配もなく突如出現したその相手に面食らう琴美であったが、それは傍らの光も同様だったようで、ややたじろいだ様子で件の不審者を見やっていた。

 

(あっ、この人……えっと、確か……)

 

 しかしすぐさま琴美の中で、彼女に対する既視感が湧き上がってきた。初対面の筈なのに、お互い見知った仲でもあるような気がしてしまうのだ。

 

「う、(うち)さん……?」

 

 己のことをじっと見据えてくる目の前の女生徒に妙な圧力を感じてしまう琴美ではあったが、ともあれ頭にぼんやりと浮かんできたその名を、相手への確認の意味も込めて口にしてみせるのであった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(10)

うっちーは見た!

 姓は(うち)、名は笑美莉(えみり)。どことなくさっぱりした、よく言えばシンプルに整った顔立ちをした女生徒はそのような名前であった。

 学年は同じながら、これまで琴美とは同じクラスになったこともなく、言葉を交わしたことすらない。それどころか琴美はこれまでの人生の中で一度たりとも彼女の存在を認識したことなどなかったから、本来であれば完全に赤の他人そのものだと言い切ってしまっても差し支えない。

 

「えーっと、話って何……?」

 

 そうした縁もゆかりもない筈の相手から突然声をかけられ、「話がある」と言われたのはつい先ほどのことだった。隣へと座り込んできて、そのまま押し黙ってしまった笑美莉からへばりつくようなむず痒い視線を向けられていた琴美は、妙な既視感を覚えながらもいい加減居心地が悪くなってきてそのように尋ねてみる。

 

「あんたたちさ、さっき変なこと言ってたよね? 黒木になっちゃうとか、そんな感じの」

「あっいや、それは……!」

 

 促されてようやく口を開いた笑美莉がそのようなことを言って話を切り出してきたのだが、少し前まで傍らの親友に内心の不安をあれやこれやと涙ながらに打ち明けていた琴美であったから、自分たちの秘密のやりとりを盗み聞きされていたのだろうかと、少しばかり身構えてしまう。

 

(とりあえずごまかしとくか……?)

 

 出くわしてからというもの、琴美はどうにもこのさっぱり顔な女生徒が以前からの知り合いであるように思えてならなかった。出会い頭に呼んでみたその名を本人が否定しなかったところを見るに、どうやら「内さん」という名前も間違ってはいないようだ。

 ということは、ひょっとすると智子の知り合いなのかもしれない。いまや智子の肉体にその心までもが侵食されつつある自分であったから、本来は面識のない筈の相手に多少の馴染みを感じたとしてもなんら不思議ではない。智子自身からは特に紹介されなかったものの、そうする必要もない程度の浅い付き合いの生徒がいて、そのひとりがこの笑美莉なのだろうと、琴美はそのように考える。

 

「えと、ほら、『黒木さん状態』っていうの? 私がなんか面白いことするとさ、男子とかが真似してきて『黒木さんになっちゃう』ってふざけたりするからさ、そういうのヤダなーって話してて……ハハ……」

 

 であるのならば、ここはいたずらに話をこじれさせてしまわぬよう、適当な説明をでっちあげてやり過ごすほかない。入れ替わり生活が始まってからというもの、智子の人間関係に極力影響を与えてしまわぬようにと気を配っていた琴美がこのような結論へ至るのは必然であった。

 

(なんだこれ……?)

 

 しかし思いつくままそれっぽいことを言ってはみたものの、琴美は自身の口から飛び出した内容に奇妙さを感じてしまう。笑美莉からの追求をかわすに足ると思われる言葉として心に浮かんだものをそのまま喋ってみたのであるが、(おの)がボキャブラリーの埒外(らちがい)から飛び出してきたかのようなその言説が、本来の小宮山琴美としての発想から来ているとは到底思えなかったのだ。故にこうしたこともやはり己の身に現在進行形で起きつつある異変の影響なのだろうかと考える。

 

「ふーん……」

 

 ともあれ第三者からすれば一応それらしく聞こえなくもない琴美からの説明を、笑美莉がどう受け取ったのかは分からない。納得したのかしないのか、彼女はいまいち感情の読み取り辛い表情のまま先ほどと同じく琴美を見据えるばかりだった。

 

「ハッキリ言うけどさ、あんた黒木じゃないでしょ?」

(げっ!?)

 

 それは思いもよらぬ突然の指摘であった。怪しまれるといった過程を飛び越えて、一体どういう訳か笑美莉は琴美の抱えていたその秘密へといきなり踏み込んできたのだ。突然のことに気を動転させる琴美であったが、こうした驚きは数日前にも親友から与えられたばかりであったから、己の傍らで静かに座る光に顔を寄せ、

 

(どうしようっ!? なんかバレてるんだけど!)

(うーん……)

 

 琴美からひそひそ声で耳打ちされた光は、ほんの少し唇を尖らせて思案するような表情を作る。彼女も彼女で少しばかり戸惑ってはいたようだが、混乱著しい相方からの期待へ応えるかのように声を潜めて言葉を返す。

 

(本当のこと言ってみたら?)

(いいのかな……?)

(大丈夫だよ。たぶんその子、もう色々分かってると思うから)

 

 この際真実を打ち明けてみてはと勧めてくる光であったから、思いきって琴美は先ほどの笑美莉からの指摘を認めてみせることにした。返事を待つ笑美莉へと振り返り、意を決した琴美は口を開く。

 

「まあ、その、内さんの言う通りっていうか……黒木さんじゃないってのは、半分当たってるというか……」

「半分って?」

「あっうん、体はまあ黒木さんのなんだけど……その、頭の中っていうか、心だけ入れ替わっちゃってるって感じで……」

 

 ひとまず琴美は今の自分の状態をかいつまんで説明していく。仮にもし同じようなことを他の誰かに打ち明けてみせたとしたら、その相手はきっと困惑するか、あるいは面白くもない冗談を言ってるだけなのだろうと呆れてしまうところだ。しかし笑美莉はというと、合間に軽い質問を挟んでくる以外は至って平静に、かつ興味深げな様子で琴美の語る内容に聞き入っているようだった。

 *

「じゃあ、今はその小宮山って子がホントの黒木ってこと?」

「あっそうそう、そんな感じかな」

 

 色々省きはしたものの今回の騒動における要旨を話し終わったところで、笑美莉がそのように尋ねてきた。妙に物分りのよい相手だと思いつつも琴美が同意してみせれば、笑美莉は「やっぱり」などと納得した様子で呟いたりする。

 

「私、最近ずっとあんたのこと見てたんだけど……」

「へっ?」

 

 と、今度は笑美莉がそのようなことを口にし始めた。「ずっと見ていた」とは一体どういうことなのかと、一転して琴美のほうが聞き入る体勢をとる。

 

「黒木のやつがさ、月曜からちょっとヘンだなって思ってたの。髪形とか制服の着こなしとか、いつもと全然違ってたし」

「あー、いやまあ、それは……」

 

 数日前に智子からそれらの点を「私らしくない」と改めさせられた琴美であったが、まさか笑美莉からも同じように思われていたとは予想だにしていなかった。

 

「髪の毛だってほら、こんなにサラサラ……どう考えてもおかしいでしょ?」

「えっ、あっ、う、うん?」

 

 ふいに手を伸ばした笑美莉が、琴美の豊かな髪をそっとすくいあげ、その感触を手で確かめてみせた。突然のことに驚いて身を引いてしまう琴美であったが、どこか遠い目をした笑美莉はそのまま言葉を続ける。

 

「あいつの髪はこう、もっとボサボサで、手入れとかあんまりしてない感じだもの。それに肌つやも……もっと血色が悪くなくっちゃ、あいつらしくないよ」

「ちょ、ちょ、ちょっと!」

 

 何を思ったのか、顔を近づけてきた笑美莉が今度はその掌を頬に沿わせてきたものだから、驚いた琴美は慌てて彼女を押しのける。

 

「す、凄いね……? そんなので見破っちゃうなんて」

 

 恐るべき観察力というべきか。琴美としては入れ替わってからのこの一週間、普段通り髪や肌の手入れをしたり、夜更かしを避けるなど至って健康的な生活をしていたに過ぎないのだが、その結果として起きた外見上のわずかな変化も笑美莉に違和感を覚えさせるには十分であったようだ。

 あるいは常に恋する乙女であり続ける琴美の影響で、女性ホルモンやらなんやらを肉体がふんだんに分泌した結果として思いがけない変化が生まれていたのかもしれない。

 

「いや、それだけじゃないし。話し方とか仕草も全然違うんだもん。まあ今日はちょっとだけあいつっぽいけど……でもやっぱり違う。黒木はそんなんじゃないから」

「へ、へー……?」

 

 どうやら笑美莉としては、外見に限らず他にも様々な点において不審がっていたようだ。それにしてもクラスメイトでもないらしいこの女生徒が一体いつのまに、そしてどこから自分のことをそこまでじっくり観察していたのだろうかと、逆に琴美のほうこそ不審がらずにはいられなかった。

 

「他の連中は騙せても、私の目はごまかせないよ。ほら、一目瞭然じゃん」

 

 やけにこだわりを感じさせる主張にひと区切りつけたところで、どこからどこまでが瞼か分からぬその目を見開いた笑美莉が琴美にずいと迫ってくる。

 

「なんか魂が別ものって感じするんだよね、あんた」

「う、うん……」

 

 そこまで断言されては、もはやどう反応してよいのか分からない琴美であった。しかしそれはそれとして、こうも力強く他人から智子との不一致を指摘されたことに琴美は少なからずほっとしてもいた。いくら記憶が侵食されようとも自分はやはり黒木智子などではないのだということを、目の前の女生徒がしつこいぐらいに保証してくれたからだ。

 光からは肯定の、そして笑美莉からは否定の、それぞれ異なる方向からの安堵を得られたからか、琴美は自分の心に幾分か落ち着きが戻ってきたことを感じていた。己の内面がじわじわと侵されていくかのような得体の知れぬ不安感も、今は心なしか鎮まってきたように思えてくるのだった。

 

 ◆

 

「で、どうなの? なんか手がかりとかないの?」

「いや~、それがまだ全然……」

 

 中途半端なところで止まっていた昼食を再開した琴美は、笑美莉も交えて今後のことを話し合っていた。自分も力になりたいと申し出てきた笑美莉であったから、一緒になって解決策を考えてもらうためだ。

 

「その神社に何かあるかもって、黒木が言ってたんでしょ?」

「まあ言ってたって訳じゃないんだけどさ……なんかあそこで私たちが変なことしちゃったんじゃないかなって話になって」

「じゃあもっと調べなきゃダメじゃん。今まで何してたの?」

 

 琴美の説明を受けて、笑美莉が些か非難めいたようなことを言う。笑美莉からすれば少しでも怪しいと思ったのなら速やかにそこを徹底調査するのが当然だという考えなのだが、当の琴美はといえば数日前に一度足を運んだきりで、それも碌に成果の出ないうちから途中で引き上げてしまったのだった。

 

「いやまあ、ひとりで調べに行ってもあんまり意味なさそうだし……」

「どうして?」

「その、黒木さんと一緒に行かないとダメっていうか……入れ替わる前にあそこで私たちが色々やってたことを、ふたりでもう一回再現してみたら何か分かるんじゃないかなって……」

 

 本当は琴美ひとりで調査に赴くことだって考えたりもしていたのだが、それも智貴の監視があって結局実行できずにいた。しかしそうしたところはひとまず伏せておいて、琴美は言葉を続ける。

 

「でも黒木さん、ここんとこずっと休んでるからさ。メールとか電話も全部無視してるっぽいし……。ほんと、どうしちゃったんだろあいつ」

 

 すべては智子と智貴を放課後の教室でふたりっきりにさせたあの日からだ。あれ以降、智子と全く連絡がつかなくなり、学校にもぱたりと来なくなってしまった。単に熱でも出して休んでいるのだろうかと思わなくもないが、ここ数日は智子のことを考える度に妙な胸騒ぎを覚えずにはいられない琴美であった。

 

「それってさ……もしかしたらだけど、黒木の弟が原因かも」

「えっ?」

 

 話を聞いていた笑美莉がふいにそのようなことを言ってきたので、琴美は驚かされた。智子としての記憶の中ですらやや印象の薄いらしいこの女生徒が、まさか智貴について言及してくるとは。

 

「と、智貴くんが? なんで……?」

「私、見ちゃったんだよね。ふたりが言い争ってたの」

 

 突然の告白に目を白黒させる琴美であったが、冗談や出まかせで言っているのではないということが笑美莉の真剣な表情からうかがえたので、息を呑みつつ次の言葉を待つ。

 

「ほら、月曜の放課後。あんたたち、あの弟くんとなんか話してたじゃん」

「ああうん、まあ」

「黒木のやつ、すっごい取り乱してたもん。普通じゃなかった……」

 

 どうも笑美莉が言うにはあの日の放課後、先に下校してしまった琴美のあずかり知らぬところでひと騒動あったということらしい。姉弟のあいだで交わされたやりとりについて少し気になっていた琴美は、神社へと迎えにやってきた智貴にそれとなく尋ねてみたりもしたのだが、「大したことじゃない」とはぐらかされていた。しかし彼のその言葉の裏側で、まさか尋常ならざる揉めごとが起きていたとは思いもよらないのであった──。

 *

「え……? な、なんで……? だっておまえ、さっきちゃんと分かったって……」

 

 顔を青ざめさせるメガネの子が、なんだかキモい感じのするその声を震わせていた。いや、震えていたのは声だけじゃない。体のほうも弱々しく揺れていたのが遠目にも分かる。スカートの裾をぎゅっと握り締めたその子は、自分の前に立つ男子に向かって何かを訴えているみたいだった。

 

「すんません、嘘つきました……。こういう話、姉には聞かせられないんで」

 

 対する男子のほうは至って落ち着いた様子で、というよりちょっと冷たい感じでそんなことを言う。あの男子は黒木の弟で、少し前までは黒木本人も交えてあれこれ話し合っていたみたいだけど、黒木だけ先に帰った途端に態度が変わったみたいでさっきから妙な雰囲気だ。

 

「先輩、この通りです。お願いですからウチの姉にしばらく近づかないでやってください」

「おいっ、やめろよっ! なんでそんなことすんだよっ!」

 

 物陰に隠れてこっそり事の推移を見守っていたら、今度は弟くんがメガネの子に深々と頭を下げてそんなことを頼み始める。そしたらメガネの子がもっと真っ青になっちゃって声を荒げたのだけど、よっぽど頭を下げられるのが嫌だったのか、どうにかそれをやめさせようと彼に掴みかかった。

 

「ウチの姉ってなんだよ!? 私だよ! 私がおまえのねーちゃんなんだよ! さっきあいつもそう言ってたろーが!?」

「違うんです……先輩は……あんたは俺の姉貴なんかじゃない。あいつも先輩も、まだ病気が治ってないからそんな風に思い込んでるだけなんです」

「バカヤロ──! このハゲっ! おまえ、あんだけ説明してやったってのに、まだ分かんねーのかよ──!」

 

 無理やり顔を上げさせられた弟くんだったけど、今度はメガネの子に胸ぐらを掴まれて凄い剣幕で怒鳴られていた。弟くんの顔はどうしてか疲れきっていたように見えたから、なんだか気の毒に思えてきてしまう。

 それにメガネの子が主張してることはどう考えてもおかしい。さっきは黒木までもが同じようなことを弟くんに訴えてたみたいだけど、一体何がどうなってるんだろう。あの弟くんは、黒木の弟のはずなのに。

 

「おまえのことなら、ねーちゃん何でも知ってんだぞ? ほらっ、おまえがこの学校に入れたのも、ねーちゃんのおかげだったろ? おまえ捻くれてっからさ、最初は他所に願書出そうとしてたじゃんか。私が止めてやったんだからな?」

 

 弟くんのげんなりした様子に気付いた風もなく、彼の「姉」を自称するメガネの子の言葉は止まらない。どうにかして自分のことを認めさせたいらしい必死さだけが、あの子を突き動かしてるようだった。

 

「おまえの恥ずかしい秘密だってなー、バレバレだっつーの。ホントはいっつも姉のタイツ姿に興奮してんだろ? この変態コゾーが!」

「勘弁してください……」

 

 もう罵倒にしか聞こえないようなことまで口にして、なおもメガネの子は弟くんに言いすがる。だけどそうするうちに弟くんの表情の中に疲れとはまた別の、不快そうな色が混じり始めたので私はひやひやしてしまう。

 

「お、おまえがねーちゃんのこと大好きなシスコンだってことも、へへ……お、お見通しだかんな!」

「やめてくれ」

 

 ついには剣呑な雰囲気を放ち始めた弟くんが露骨に嫌そうな顔をするのだけど、あの子はお構いなしに言葉を続けていく。

 

「おねーちゃんと結婚するするーって、ガキん頃はもーそればっかり。そんなの無理だよっていくら言っても」

「やめろっ!」

 

 たまりかねたらしい弟くんが急に怒鳴ったものだから、私のほうまでびっくりしてしまった。目の前でその怒りを直接受け止めたメガネのあの子はというと、さっきまで弟くんの胸ぐらを掴んでいたその両腕を、今度は逆に掴み返された状態で口をあんぐりと開けたまま絶句していた。

 

「……そういうのやめてくれませんか? 正直すっげー不愉快なんで」

 

 やがてそっとメガネの子から手を離してあげた弟くんが少しバツの悪そうな様子で、だけどもきっぱりとした口調でそんなことを言い放った。すっかり硬直したままのメガネの子だったから、その言葉がちゃんと聞こえていたのかどうか私には分からない。

 

「ウチの姉はあれでもちょっとずつ良くなりかけてるんです。でも、先輩と一緒にいるとせっかく治りかけてたのがまた元に戻っちまうみたいで……。だから、ホントお願いします。あいつのことはどうかそっとしておいてやってほしいんです」

 

 今改めて弟くんが、さっきと同じような頼みごとをして頭を下げる。覗き見してるだけの私までもがちょっぴり胸をしめつけられてしまいそうな、押し殺した辛い気持ちが滲み出ているかのような声色だった。

 

「あう……あう……」

 

 それに対して何か言おうと口をパクパクさせるメガネの子だったけど、さっきから胸全体で呼吸するかのようにその身をうわずらせているからか、満足に声も出せないでいるみたい。

 

「じゃあ、もう帰りますんで……。あいつは俺が迎えに行っときますから」

 

 そんな状態でいるメガネの子を尻目に弟くんが机の上に置いてあったショルダーバッグを肩にかけると、最後にそう言い残して教室を出ていってしまった。ひとり残されたあの子は何をするでもなく、ただずっとその場に立ち尽くしているだけだ。

 

「あ……だ、大丈夫……?」

 

 なんだか可哀想でたまらなくなった私は、教室に入っていってそっとメガネの子に話しかけてみた。そうしたらその子がはっとした様子で私のほうを見やってきたのだけど、いつのまにか泣いていたようで目元はすっかり涙でびしょびしょになっていた。何故だかその顔が、今この場にいない黒木の面影と一瞬被って見えたものだからドキッとしてしまう。なんだろう、目の錯覚だろうか。

 

「ケンカしてたみたいだけど……なんかあったの?」

 

 どうして見ず知らずの他人へこんな風に声をかけてしまうのだろうか。なんだか放っておけなくって、この子を慰めてあげたかったのかもしれない。いやまあ、完全に知らない相手って訳じゃないけども。今朝から黒木のやつと度々一緒にいたこの子のことが、私はどうにも気になっていた。

 てっきりあいつがまた新しい女の子に手を出したんだと思って腹を立てていたんだけど、どうも観察した限りではそうじゃないみたい。どちらかというとただの友達っていうか、むしろあんまり仲良くないのかなって感じだったし。この子は何故か黒木のことを「こみさん」と妙な名前で呼んだりしていたのだけど、一体どういう関係なんだろう。

 

「ほら、これ使って」

 

 ハンカチを取り出した私は、メガネの子にそれを差し出してあげる。黒木と同じクラスの生徒らしいこの子はあいつと一緒に職員室へ呼び出されたりしていたのだけど、不審に思ってふたりの後をつけていた時はまさかこんなことになるなんて思わなかった。

 

「いや、いいわ」

 

 だけどもメガネの子は涙をぬぐうこともしないで、私に一言そう断ってみせるとそのまま自分のリュックを背負って教室を出ていこうとする。

 

「あ、待って……!」

 

 ちょっと心配になった私は、一緒に教室を出てそのままついていくことにした。そうしたら、やがて職員室の近くを通りかかったあたりでメガネの子がぴたりと足を止めた。どうも視線の先にいる誰かをじっと見つめているようだった。

 

(あ……黒木の弟……)

 

 それは、さっき教室を出ていった弟くんだった。てっきりもう帰宅したものと思っていたけれど、荻野先生となにか話し込んでいたみたいだ。

 

「ともき……ともき……」

 

 そうしたら、メガネの子がぶつぶつと何かを呟き始めた。と同時に、ふらふらと弟くんのいる方向に向かって歩き出す。やがてあの子の歩調はどんどん速くなっていって、ついには走り出してしまった。

 

「うおっ!?」

 

 横腹から抱きつくような形で、メガネの子は勢いよくあの弟くんに飛びついていった。突然のことに声をあげて驚く弟くんだったけど、突っ込んできた相手がメガネの子だと分かって更にぎょっとしてるみたいだった。

 

「先輩、いい加減にしてくださいって……!」

「ちょっと小宮山! ほら、なにしてるの!?」

 

 ひどく迷惑そうな様子の弟くんが、小宮山と呼ばれたあの子の体を押しのけようとするのだけど、余程がっちりと組み付かれているのか引き剥がすのに難儀しているみたいだ。慌てた荻野先生もあの子を後ろから引っ張ったりするのだけど、「うぉぉん、うぉぉん」と妙な唸り声をあげるメガネの子は、狂ったようにしがみついたまま弟くんから離れようとしない。傍から見ても分かるぐらいにものすごい力だ。

 ついには騒ぎを聞きつけた他の先生までもが加勢したところで、ようやく弟くんの身は自由になった。ぜいぜいと息をつく彼だったから、メガネの子の拘束から逃れるのに余程体力を使ったのかもしれない。

 

「なんでだよ──! おまえっ、なんでねーちゃんのこと分かんないんだよ──!?」

 

 先生たちに取り押さえられたあの子が、遠くで見ている私ですら思わず耳を塞ぎたくなるほどの大声で叫ぶ。その絶叫は、目の前の弟くんに向けられているようだ。

 

「わたしがっ、おまえのっ、姉だろうが────ッ!!」

 

 廊下中に響き渡るあの子の叫び声は、まだ校内に残っていた生徒たちの関心をも引き寄せていく。通りすがった子たちが足を止めて、この騒動を見物しようとしているみたいだった。

 

「だからっ! 違うっつってんだろ! あんたは俺の姉ちゃんなんかじゃねぇっ!」

 

 いい加減目を覚ませと言わんばかりに、弟くんも声を荒げて負けじと反論する。そうしたら、彼の剣幕を前にしたあの子はまたさっきと同じように絶句すると、しばらくしてへなへなと膝をついてしまった。そうこうしているうちにふたりは先生たちに促されて、職員室の中へと連れていかれてしまう。

 

「ほら、なに見てるの。もう行きなさい」

 

 職員室から顔を覗かせた荻野先生がそう言って見物客たちを追い払っていくと、そのまま扉をぴっちり閉じてしまう。でも職員室から漏れ聞こえてくるあの子のすすり泣く声が、どうしてか私をいつまでもその場に縫い付けて離さなかった。

 *

「──でね、しばらくしたらお母さんみたいな人が迎えにきて、あいつを連れてったの。それからだよ、学校に来なくなっちゃったの」

「……」

 

 笑美莉が目撃したらしいその出来事を聞かされていた琴美は、己が持っていたその箸をいまや折れんばかりに握り締めていたことに気付く。何故だか手そのものまで震えてしまっていて軽いめまいすら覚えたのだが、それが一体どういう理由によるものなのか自覚することができないでいた。ただ、よく分からない感情の渦が己の腹の底で渦巻いているような、そうしたえもいわれぬ感覚だけがあった。

 

「黒木さん、かわいそう。休んでるのもきっとそのせいだよ……智貴くんに信じてもらえなくて、凄くショックだったんだろうね」

 

 同じく笑美莉の話に耳を傾けていた光が、そのような感想を口にする。聞くも涙、語るも涙というほどではないかもしれないが、智子の身を案じていた者たちや、いまや入れ替わりの真相を知った笑美莉にとっては心を揺さぶられずにはいられない事件であった。

 

「小宮山さ、もう直接黒木んとこに行ってみたら? このまんまじゃあいつ、ずっと学校来ないかもしれないじゃん」

「……えっ? あ、うん……それはまあ、ちょっと考えてて……」

 

 心ここにあらずの琴美であったが、笑美莉に話しかけられて我に返る。もとより本日放課後に智子のいるかつての自宅へと足を運ぶ気でいたから、誰に言われずともそうするつもりであった。きっと智貴から引きとめられはするだろうが、そこをどうにか説得して許しを得なければと琴美は考えている。

 

「じゃあ早く行かなきゃ」

「そうだね。学校終わったら、ちょっと行ってみるよ」

「じゃなくて、今から行きなよ。あんたたち、どんどん自分が自分じゃなくなってきてるんでしょ? だったら悠長なこと言ってらんないじゃん」

「あー、そ、そっか、じゃあ……うん!」

 

 事態は急を要するということを、この場にいる者の中で一番理解していたのは笑美莉だったのかもしれない。あるいは一刻も早い智子の回復を願う笑美莉だからこそ、他の者よりとりわけ気が急いていたのだろうか。

 ともあれ笑美莉の提案を受けた琴美はすぐさまそれに同意した。何より早退する形で学校をこっそり抜け出せば、智貴に遠慮する必要などないのだ。心配してくれている彼を出し抜く形になってしまう後ろめたさはあるものの、事が事なだけに仕方がないと割り切る他なかった。

 やがて昼休みの終了を告げるチャイムが鳴ったので、三者はそれぞれ腰をあげる。連絡先の交換を求めてきた笑美莉は、なにかあれば自分にもすぐ知らせてほしいと言い残し、そのまま自身の教室へと戻っていくのだった。

 

 ◆

 

「じゃあ琴……」

「うん、ちょっと黒木さんのとこに行ってくるよ」

 

 自身のかばんを取りに一旦教室へ戻った琴美は、それを背負うと親友に向けて出立の挨拶をする。本来であれば早退する旨を担任に伝えておくべきなのかもしれないが、何かしら足止めをくらいそうな気がしてしまったので、ひとまず内緒で学校を抜け出すことにした。早退のことはのちほど光のほうから担任へ伝えておいてくれるとのことだ。

 

「えっ、クロ帰っちゃうの?」

「そうだよ。ほら、なんたって()()が重いからね。アハハ……」

 

 午後の授業はこれからという時に、早くも帰り支度をしている琴美のことを妙に思ったらしい陽菜が声をかけてくる。それに対して琴美は爽やかな声で冗談っぽく返し、すみやかに教室を出ていった。そうした姿はいかにも()()()()()()()ものであったから、残された陽菜は首をかしげていたものだ。

 

(よし、これで行くか……)

 

 スマホを操作していた琴美が、用は済んだとばかりにそれを懐へ収める。彼女が見ていたのは普段自分が利用しているバスの時刻表であり、小宮山家へと赴くにあたって直近で便(びん)があるか確認していたのだ。近場の停留所にお目当てのバスがやってくるのはまだ十数分ほど先のこと。走らねばならぬほど急ぐ必要もなかったから、校門をくぐった琴美はこれからのことについて考えを巡らせつつ落ち着いた足どりで歩みを進めていく。

 

「ひえっ!?」

 

 するとふいに誰かが背後から腕を掴んできたので、驚いた琴美はそちらを振り返った。そうしたら、目の前にいた人物に仰天させられ悲鳴のような声をあげてしまう。

 

「姉ちゃん、どこ行くんだ?」

 

 琴美を引き止めたのは、智貴であった。つい先ほどまで走っていたのか少しばかり息があがっているようだが、体育の授業でもあったのか今は体操着を着用している。

 

「あー、あ、あ、あ、あの、えと、あの、えーっと……!」

 

 まさか智貴が現れるとは思いもよらない琴美であったから、咄嗟に言い訳しようと口を開くも慌てふためくあまり言葉にならない。意を決して行ったこの度のエスケープであったが、どうやら運悪く一番厄介な相手に見つかってしまったようだ。

 

「なんでもう帰ってんだ? 早退すんのか?」

「あっ、うん、そ、そうそう……!」

「具合でもわりぃのか?」

「う、うん……まあ……」

 

 どう頭を回転させてみても、うまい言い訳が思いつかない。だから琴美は智貴に質問されるまま、どうにか話を合わせようとその場しのぎの曖昧な返事を繰り返す。

 

「そんなら送ってくよ。俺も一緒に行くからちょっと待っててくれ」

「えーっ? いやっ、いいよそんな、悪いって!」

 

 これがもし一週間前の琴美であれば、智貴からのこうした申し出に白日夢を疑うほど浮かれていたに違いないが、今この時、この状況の中にあってはありがた迷惑でしかなかった。

 

「じゃあウチに電話して迎えに来てもらおう。ほら、一旦戻ろうぜ」

 

 同行の申し出を遠慮されたことで、今度はそのようなことを提案する智貴。どうやら何がなんでも今の琴美をひとりきりにするつもりはないようだった。そうして彼は掴んでいた琴美の腕を引っ張って、もと来た道を引き返させようとする。

 

「だ、ダメだよ……! 私、行かなくっちゃ……!」

 

 だが、琴美はそれに応じない。智貴の引っ張る力に抵抗して、どうにかその場で踏み留まろうとする。どのみち己の自由行動を智貴に咎められた場合は、なんとしてでも彼を説得するつもりでいたから、ここで大人しく従うという選択肢はそもそもなかったのだ。

 

「行くって……どこへ?」

 

 ひとまず引っ張るのを止めた智貴であったが、代わりにその顔色が一変していた。というよりも、薄々危惧していたことが的中してしまい、一気に警戒心を募らせたとでもいうような様子だった。

 

「く、黒木さんのとこ……。私、キミのお姉さんに会わないといけないから」

「あの人に呼び出されたのか?」

 

 琴美のその言葉に驚いた風もなく、むしろ予想通りの返答が来たという感じの智貴は間を置かずに尋ねる。もしも事情を知らぬ者──例えば智貴のクラスメイトで、その姉である智子とも一応の知り合いである井口(いぐち)という女生徒がこのやりとりを目の当たりにしたとしたら、当然ながら困惑せずにはいられないだろう。傍目には智子本人が発しているようにしか見えない琴美のその主張は、第三者からすればまるで意味不明なものだからだ。

 

「ううん、そうじゃないの。なんていうかその、説明すると長くなっちゃうんだけど……」

「ダメだ、行くな。絶対行かせねえから」

 

 しかし今この場において、琴美の言わんとすることを智貴は十分に理解していたようだ。自分の姉はどうやらあの厄介な先輩のもとへ向かうつもりらしい。このまま見過ごせば、せっかく回復の兆しを見せていた姉の心は再び逆戻りしてしまうに違いない。であるのならば、なんとしてもそれを阻まねばならない。そのような思いで強い意志を見せる智貴であったから、生半可な説得ではどうにもならなそうだと琴美は焦りを覚えてしまう。

 今改めて入れ替わりの事実を説明したとしても、それを智貴が受け入れるとは到底思えない。笑美莉の証言によれば、彼は智子からの涙ながらの訴えまでをも頑なに突っぱねたそうなのだから。

 

(あっ……やばっ……)

 

 そこまで考えたところで、琴美はいつの間にか己の腹の底で得体の知れぬ激しい感情が渦巻き始めていたことを自覚する。油断すれば今にも噴き出してしまいそうなそれは、笑美莉の話を聞いていた時にも発生していたのと同じものだ。これは何か危ない感じがするぞと思った琴美は、段々と勢いを増していくそれをどうにか押しとどめようと身をこわばらせる。

 

「あともうちょいで姉ちゃんは元通りになれるんだ。今朝だって色んなこと思い出せてただろ? 今が一番大事な時期なんだから、大人しくしてろって」

「いや、だから、その、違うって……」

 

 そんな琴美の心の内など露知らず、言葉を続けていく智貴。彼の見当違いな物言いに軽くめまいを覚えながらもどうにか反論してみせようとする琴美であったが、先ほどから己を苛んでいる感情に圧迫されて言葉がうまく出てこない。しかし目の前の智貴の顔を見ていてはたと気付いてしまう。この荒々しい感情の矛先は、智貴にこそ向けられているのではないかと。

 

「ウチに帰ったらさ、ビデオ観ようぜ。ほら、俺たちのガキん頃のやつ。母さんが見つけてきたのがあんだよ」

「そんなこと、してる場合じゃ、なくて……」

 

 琴美の掴んでいた腕を解放してやった智貴は、代わりにその両肩へと手を沿えて他愛ないことを提案する。ぎこちないながらも性に似合わぬ愛想笑いまで浮かべてみせる彼であったが、その様子は琴美に言い聞かせているようでもあり、それでいてどこか懇願しているかのようでもあった。

 

「何もしなくていいんだよ。おまえが本物の姉ちゃんなんだから」

「あ?」

 

 どうにか姉を落ち着かさんとする智貴のそうした何気ない物言いであったが、捨て置けないことを言われたような気がした琴美は聞き返さずにはいられなかった。

 

「私が本物? ()()私がか? ()()()私がか……!?」

「姉ちゃん……?」

 

 肩に乗せられていた智貴の手をすぱっと振り払い、まるで許しがたいものを前にしたかのような様子でそう言い放った琴美。さしもの智貴もこれには驚いたようで、姉の豹変を受けて息を呑んでいるようだ。

 

「おいコラ、智貴ッ!」

「うっ……!?」

 

 すると突如智貴の胸ぐらを荒々しく掴んだ琴美が、己の目線に近い高さまで引き下ろした彼の顔を鋭く睨みつける。

 

「おまえ今までねーちゃんの何を見てきたんだ!? ホンもんとニセもんの違いも分かんねーのか!?」

「待て、落ち着けって……!」

 

 姉の剣幕にたじろいだ智貴が困惑混じりになだめようとするが、その程度で収まる気配などない琴美は更に言葉を重ねていく。

 

「落ち着くのはおまえのほうだよ! 何をそんなびびってんだ!? 球蹴り休んでまでねーちゃんにつきまといやがって、私がいなくなっちまうのがそんなに怖いのか!?」

「それは……姉ちゃんがあぶなっかしーから……」

 

 ぎょろりと目を見開く琴美のその眼力に気圧されてか、わずかに目を逸した智貴が歯切れの悪そうな物言いで返す。

 

「あんなヤブ医者の言うこと真に受けてんじゃねえっ! おまえのねーちゃんはなー、今マジにやべーんだよ! ここでモタモタしてたら取り返しのつかねーことになっちまうんだぞ!? それなのにおまえ、邪魔ばっかしやがって……! 私の弟だったら、ねーちゃんの言うこと聞いて大人しく待ってるぐれーのことができねーのか!? 信じろよっ、自分の姉を!」

 

 その小さな体からは想像できないほどの気迫でまくし立てる琴美であったが、自分でも何故こんなことを言ってしまうのか分かっていなかった。智貴を前にしてとんでもないことを口走ってしまっているという自覚はあるものの、次から次へと溢れてくる言葉の奔流を前にしては最早抗う術がなかった。

 

「ハァ……ハァ……ハァ……」

 

 流石に息が続かなくなったのか、智貴にすがりつくような形でうなだれた琴美が、肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返す。そうした姉の様子を前にして、頭の処理が追いついていない様子の智貴は言葉も発さずただ見ているだけしかできないようだった。

 

「今のねーちゃん、まるでホンもんみてーだろ……? でもな、ちげーんだよ……『魂』っつーのかな、なんかそういう……一番大事なもんが欠けちまってんだよ……だから、今からそいつを取り戻しに行くんだ……行かせてくれよ……頼むよ……」

 

 改めて顔を上げた琴美であったが、いつの間にかすっかり泣いていたようだ。髪も呼吸も乱れに乱れ、その相貌も涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになっていた琴美は、これが今生限りの頼み事とでも言わんばかりの様子で智貴に理解を求めようとする。

 

「でないと私、ずっとニセもんのまんまだ……そうなったらおまえ、このニセもんのねーちゃんと死ぬまで一緒に生きてかなきゃなんねーんだぞ……? そんなのダメだ……絶対に許さねー……ぜったい……ぜったい……ゆるさん…………」

 

 勢いが落ちてなおも途切れ途切れに言葉を続ける琴美であったが、最後のほうは最早うわごとのような呟きになっていた。琴美本人としては大変なことを口にしてしまったという思いがある一方、言うだけ言ってやってすっきりしたような感じもしていた。己の中で渦巻いていた謎の感情も、いつの間にか消えてしまっていたことに気付く。

 

「あっ……! えと、あの、ご、ごめんね!? なんか変なこと言っちゃって……その、口が勝手にっていうか……!」

 

 呼吸の乱れが整ったあたりでようやく我に返った琴美は一旦鼻をすすってみせると、今まで散々掴んだり引っ張ったりしてしまった智貴の着衣の乱れを慌てて整えてあげようとする。

 

「いいって」

 

 しかし智貴はそれをやんわりと手で制した。代わりに彼は体操着のポケットからハンカチを取り出すと、それを琴美へ差し出す。

 

「姉ちゃん、ひでー顔してる」

「あ、うん、ありがと……」

 

 彼の親切を受け取った琴美は、ひとまずそれを使わせてもらうことにした。琴美の流した──というより智子の流したとでもいうべきその涙が、弟のハンカチによってぬぐわれていく。ほのかに感じられる智貴の香りがなんとも心地よいと琴美は思った。

 

「行っていいよ」

「へっ?」

 

 すると、琴美に向けて智貴がそのようなことを言ってきた。思わず聞き返す琴美であったが、これはもしかして許しが出たということなのだろうかと彼の顔をまじまじと見やる。

 

「先輩に会いに行くんだろ? もう止めねえから」

「あっ、ほ、ほんとっ?」

 

 どうやら智貴としては、もう琴美を引き止めるつもりはないようだった。先ほどの琴美の悲痛な訴えを前にして、心境の変化でもあったのだろうか。

 

「姉ちゃんの言ってること、正直全部は分かんねえけどさ……でも、姉ちゃんがもし元に戻れなくても俺、いつまでも待つから……」

 

 だから今は、姉ちゃんの好きにしたらいい。そんな感じのことを言った智貴の表情は、すっかりいつも通りの涼しげなものへと戻っていた。だけどもそこには、どこか諦めを感じさせる寂しげな様子がほんのわずかに浮かんでいたのを琴美は感じ取る。

 

「あっ、じゃ、じゃあこれ……」

 

 そんな智貴に何と返してよいのか分からない琴美であったから、ひとまず借りていたハンカチを取り込むことなく持ち主へ返そうとする。そうしたら、智貴は無言のままそれを受け取った。彼の気が変わらないうちにと、そのまま琴美は「もう行くね」と別れを告げて背を向ける。

 そろそろ出発時刻が迫っているだろうからと、バス停へ向かって急ぎめに駆け出した琴美であったが、何か思い出しでもしたのか少しもしないうちに足を止めて智貴のほうを振り返った。

 

「大丈夫だよ。お姉さんのこと、私が絶対連れ帰ってみせるから」

 

 それは、今の琴美に出来る智貴への精一杯の励ましだった。彼がどれだけ自身の姉を大切に思っているのかをいまや十分過ぎるほどに理解していた琴美であったから、その不安を少しでも解きほぐしてやりたかったのだ。

 その場に立ち尽くして静かに見送ろうとしていた智貴であったが、琴美のこうした言葉を受けてその表情が複雑に変化する。何と返してよいのか。今の言葉をどう受け止めればよいのか。そうした葛藤が彼の中によぎったのは少しの間だけのこと。

 

「お願いします……」

 

 それは誰に向けてのものだったのか。深々と頭を下げた智貴は他人行儀な言葉遣いでそのようなことを言った。ここに来て入れ替わりの事実を受け入れたようにも見えない彼であったから、その言葉が姉の中にある琴美本人を意識して投げかけられたものなのかは判然としない。あるいはそれは、神にも祈るような気持ちで思わず取ってしまった無自覚の行動だったのかもしれない。

 そんな彼にうなずき返した琴美は、それ以上何か言うこともなく今度こそ本当にバス停へ向かって強く駆け出していくのだった。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(11)

ともにあらんことを

 稲毛シーガルハイツ──。

 七〇年代頃、当時造成が盛んに行われていた千葉市内にて、新興住宅地の一角を成す区画上に建設された集合住宅である。土地をまたいで第一から第五までのエリアに分けられているが、それらをまとめた総面積はおよそ七万八千平方メートル。その広大な敷地内に建つ棟の数は、のちに増設されたものも含めれば三十以上にものぼるという大規模団地だ。このうち最も多くの棟が立ち並ぶ第二団地にて、琴美は生まれた時からずっと暮らし続けてきた。

 

(どこだっけ……どこだっけ……)

 

 その勝手知ったる我が家も同然の場所でしかし、琴美は行き先を見失っていた。いまだ残る土地鑑をアテにして最寄りの停留所から自宅付近までやってきたはいいものの、周囲はどこもかしこも似たりよったりの建物ばかりであったから、己の住んでいた棟が一体どれであったのかが曖昧になってしまったのだ。ご近所さんの姿でもあればそれとなく尋ねてみようと思ったのだが、その相手の顔すら思い出せない。今の琴美はもう、己がこの場所で暮らしていた頃の記憶を少なからず失ってしまっていたようだった。

 見立てが甘かったかと歯噛みする琴美ではあったが、以前に親友の光と自宅の住所を教えあっていたことに思い至り、丁度今の時間は授業を受けているであろう彼女に向けてLINEで連絡を取ろうとする。

 

(あっ……なんかあれっぽいかも)

 

 が、その前に少々気になるものが目に留まった。少し離れた先に、他と違って外壁にカモメたちの飛び交う様子が描かれたひとつの棟があったのだ。なんとなく見覚えのあるような気がするその棟であったから、もしやと思った琴美はそちらへ吸い寄せられるように歩みを進めていった。

 

(私の自転車!)

 

 琴美がその棟の付近をしばらくうろついていたところ、幾つかある出入り口のうちのひとつ、その手前に設けられた小さな駐輪用のスペースに自分の自転車が停められていたのを発見する。他の入居者たちの自転車と共に雑多に並べられていたそれは、黒木家の車庫に放置されていたものを琴美の母が引き取っていったものだ。

 

(ここだっ、間違いない!)

 

 扉もないエントランスで野ざらしになっている郵便受けを確認したところ、確かに「小宮山」と書かれたものがひとつ存在していたことで琴美は確信を得る。そこに併記されていた部屋番号を確認した上で、早速目当てのお宅を訪ねるべくその薄暗い階段をのぼっていくのだった。

 *

(出ねーな……)

 

「小宮山」と表札の掲げられた部屋の前で、琴美は先ほどから繰り返しドアホンのチャイムを鳴らしていた。しかし一向に家人の対応する気配がない。学校を休んでいる以上、てっきり智子は自宅で留守番をしているものと思っていた琴美は首をかしげる。

 

(寝てんのか……?)

 

 確認のために玄関扉のドアノブを捻ってみたりもするが、鍵はしっかりかけられているようだった。ひょっとしたら智子は仕事を休んだ母に連れられてどこかへ出かけてしまったか、あるいはどこぞの病院にでも入院させられてしまったのだろうかと考えもした琴美であったが、やがてひとつの可能性に思い至る。琴美が黒木家に迎え入れられた二日目の朝、脱衣所で身支度を整えていた際に智子の母から言われたことを思い出したのだ。それによると休日の智子は「いつも昼ごろに起きてくる」ということであったから、その生活リズムがいまもって健在なのだとしたら、この時間になってもベッドの上で布団にくるまっているのではないか。

 

(これならどうだっ……!)

 

 ものは試しにと、琴美はいくら鳴らしても効果のなかったチャイムのボタンに再度手をやる。そうして今度は、何かのリズムを刻むような調子でそれを軽快に連打し始めた。

 

(しょ・お・ご、しょ・お・ご、な・か・む・ら・しょ・お・ご……っと)

 

 歌のようなそのリズムを数回ほどループさせたところで、部屋の中から物音が聞こえてきたものだから琴美はようやく手を止める。まるでドアホンを使って遊ぶ子供のいたずらが如き行いであったが、効果は確かにあったようだ。

 

(私だったら絶対に反応するもんな、これ)

 

 琴美が演奏した曲、それは自身の応援する球団・千葉ロッテマリーンズで活躍する三番打者の応援歌であった。それをわざわざ今この場で披露したのは、ここ一番の快打を称えるその歌が、昼下がりの気だるげな眠りをも吹き飛ばしてくれるに違いないと信頼してのことだ。いまや借り物の肉体に引きずられ、智子としての癖や考え方が随分と表面化してきていた琴美であったから、自分と同じような異変がもしかすると相方の智子の身にも起きているのではないかと考えていたのだ。

 

『はい』

 

 ドアホンのマイクから、簡潔ながらも応答の声が発せられる。久しぶりに耳にするそれは己本来の──今は智子のものとなっている声色であるように思えたので、琴美は自身の来訪を知らせようと、来客確認用のカメラにしっかり映り込むべくそちらに顔を寄せる。

 

「あっ、わ、私だけど……!」

 

 マイク越しに相手へと呼びかける琴美は緊張の面持ちであったが、早く智子の顔が見たいのか、どこかそわそわしてもいるようだ。

 

「もしもーし? 聞こえてんの? おーい」

 

 しかしドアホンは最初の第一声以降だんまりしたままだった。ちゃんと自分の声が向こう側に届いているのか心配になった琴美はなおも智子へ呼びかけていく。

 

『……聞こえてるよ』

 

 するとようやくその呼びかけに応じたのか、遅れて返事が聞こえてきた。改めて耳にしたこの声はやはり智子のものに違いないと確信する琴美。自身の弟にこっぴどく拒絶されたことでひどく落ち込み、会話もままならない状態だったらどうしようと心配してもいたが、一応はこうしてやりとりが出来る状態にあるようなのでほっと胸をなでおろす。

 

「えっとじゃあ、鍵開けてほしいんだけど……」

『あんた、大丈夫なのかよ。私と会ったらマズいんだろ?』

「へっ?」

 

 ひとまず家の中にあげてほしいと頼む琴美であったが、智子からのそのような物言いに意表を突かれてしまう。

 

「あーうん、大丈夫。智貴くんもいいって言ってくれたし」

『それ、本当か?』

 

 さては智貴との数日前の一件を気にしているのだろうと察した琴美は、心配には及ばないことを教えてやる。しかしそれでも智子は納得しないようで、今度は疑うような言葉を投げかけてきた。

 

「本当だって。いいから開けてくれよ」

『さっきのチャイムのアレ、あんただよな?』

「え? あっうん、そうだけど」

『そんなロッテ好きだったっけ?』

「はあ……?」

 

 素直に玄関を開けに来てくれればいいものを、中々それに応じてくれない智子であったからいい加減もどかしくなってしまう。それに加えて今しがたの質問ときたらさっぱり意味が分からない。何を今更というようなその問いかけにどういう意図があるのか見出せず、琴美は困惑せずにはいられなかった。

 

「いや、そりゃ好きだけど」

『…………』

 

 ひとまず分かりきった答えを口にする琴美であったが、一方の智子はそれを受けて特に何か返すでもなく、むしろそのまま沈黙してしまった。

 

「おおい、何黙ってんだよ」

 

 どうもさっきから妙な様子だった。度々探りを入れてくるような智子であったから、ただ家の中へと招き入れてもらうだけのことが遅々として進まない。そのうえこうして黙りこくられては話すらもままならないが、ひょっとして寝起きで頭がぼんやりしてでもいるのだろうかと琴美が考えた矢先──

 

『あ、あのさ……帰ってくんないかな』

「なんで!?」

 

 智子から思わぬ言葉が返ってきた。せっかくこうして会いに来たというのに、それを拒絶するとは一体どういう了見なのだろうと、琴美はいよいよ困惑を深める。

 

『いや、ちょっと今忙しくて……』

「ウソつけっ、さっきまで寝てただろーが」

『つーかあんた、学校は? もしかして抜け出してきたのか?』

「ああそうだよ、あんたがずっと休んでばっかで連絡もつかねーから来てやったんだろーが」

『あー……そうだ、ちょっと待ってて』

 

 不毛なやりとりを二、三続けたあと、急に何かを思い出したらしい智子がそのように言って通話を切ってしまった。その妙な様子が気にかかりはするが、ともあれようやく顔を出すつもりになったのかと思った琴美が待つことしばし。やがて玄関の鍵が外されて、わずかに扉が開いた。

 

「ほら、これ」

「んん……?」

 

 そうしていよいよ智子とご対面というところで、しかしその扉が開け放たれることはなかった。代わりにそのわずかな隙間から、顔も見せずに智子の手だけがにゅっと伸びてきて、持っていた何かを琴美へと差し出してきた。

 

「えっ、なにそれ」

「いいから。ほら、受け取って」

「あっうん……」

 

 見覚えのあるそれは先週に智子と交換した筈の黒いスマホ、そしてその充電ケーブルであった。何がなんだかよく分からないまま、促された琴美はひとまずそれらを受け取ってみせる。

 

「それ、返すから」

「えっ、ちょ……!?」

 

 スマホの受け渡しが済んだと見るや、手を引っ込めた智子は何を思ったのかそのまますばやく扉を閉めてしまう。そうしてこれで話は終わりと言わんばかりに、がちゃりと鍵をかけなおすのだった。てっきり家の中にあげてくれるものとばかり思っていた琴美であったから、相方の唐突な行動に面食らって仕方がない。

 

「おいっ、何してんだよ! 開けろよ! おいっ!」

『私のはまた今度でいいからさ。とりあえずほら、今日はもう帰んなって』

 

 興奮気味の琴美は荒っぽくドアノブを引いたり回したりして抗議するが、それに取り合おうとしない智子は相も変わらず「帰れ」の一点張りであった。

 

「ふざけんなよオイッ! 私んちだぞっ!?」

 

 おかしい。どうにもおかしい。これまでの違和感の数々が、ここにきて明確な形を伴い琴美に絡みつく。智子のこうした対応は明らかにまともではなく、まるで話が通じていないのだった。焦る琴美は再度チャイムを鳴らしてみたり、扉越しに呼びかけてみたりはするものの、それきり智子からの反応は途絶えてしまった。

 

「オイッ! クソムシッ! 開けろったら! オイッ! オイッ!」

 

 己を無視する智子の態度に腹が立ち、益々もって興奮した琴美は鼻息も荒く玄関扉を乱暴に叩き始める。

 

「なに人んちに居座ってやがんだ! 開けろ──ッ! 出てこいクソムシッ! 変態ッ! コオロギッ! クソメガネェ──ッ!」

 

 もはや原始のドラムと化した扉を前にして、琴美は力の限りシャウトする。その罵倒混じりの絶叫は廊下中はもちろん付近一帯にまで響き渡るほどであったが、荒ぶる琴美はお構いなしである。そうした近所迷惑な演奏が智子に届いたのか、やがて慌ただしげな足音が玄関の向こう側から聞こえてきた。

 

「おいっ、なにしてんだ……!」

「わっ!?」

 

 そうして扉はあっさりと開け放たれたのだが、智子に腕を掴まれた琴美はそのまま部屋の中へと力づくで引きずり込まれてしまった。

 

「人の家の前で好き放題しやがって……!」

 

 勢いあまって前のめりに倒れ込んでしまった琴美ではあったが、顔をあげてみればそこには仁王立ちで睨みつけてくる智子の──久方ぶりに見る己本来の馴染み深い姿があった。寝巻きを着たままで、その髪にもあちこち寝癖が付いているところからして、やはり先ほどまでは眠りこけていたことがうかがえる。

 

「だってあんたが開けてくんないから……」

「バカ! 通報とかされたらどうすんだよ!」

 

 家にあげてもらうという目的を果たせたことで幾分か落ち着きを取り戻した琴美であったが、今度は相方のほうがお怒りであった。同じ建物の中で大勢の人々が共に暮らしている場所なだけに、今しがたのような騒ぎを起こそうものなら不安にかられた入居者の誰かしらが警察へと連絡する可能性は十分にある。故に智子としては琴美の乱痴気ぶりに随分と肝を冷やされたようだ。

 

「ったくよー……」

 

 外履き用のサンダルを脱いだ智子が、狭い玄関口の中でため息混じりに琴美をまたいでいった。小宮山家では玄関から入ってすぐがダイニングキッチンとなっているのだが、智子はそこに据えられていた食卓用の椅子を引いて腰を下ろす。

 

「で、なんか用か?」

 

 いまだ玄関口で座り込んだままの琴美を見やり、どこか迷惑そうな顔をした智子がそのように言った。目の前の招かれざる客には早く帰ってほしいが、これ以上騒ぎを起こされないよう一応話だけでも聞いてやらねばと思っているのかもしれない。

 

「あっうん、ちょっと待って……」

 

 そんな智子の言葉を受け、スカートに付いた砂を払いつつ立ち上がった琴美は、そのまま靴を脱いであがり込む。今現在は昼間であるが、採光用の窓が小さいせいでキッチンの中はやや薄暗い。だから()()()()()で、琴美は玄関脇にある照明スイッチを押さずにはいられなかった。そうして智子の向かいの席についた彼女は早速本題へと入っていく。

 

「えっと……とりあえずあんた、大丈夫か? 自分のこと、ちゃんと分かるよな?」

「あー、うん、まあ……」

 

 琴美の一番の気がかりはまずなによりもこのことであった。今朝からの自分と同様、智子のほうもいまや記憶の侵食、ひいては自意識の揺らぎに苛まれているのではないか。そのことを確認しておかずにはいられない琴美は、相方の顔を心配そうに見つめる。

 

「あんたは黒木智子。で、私は小宮山琴美。そうだよな?」

「はぁ──……」

 

 お互いにとって最も重要な真実を今一度口に出してみせる琴美であったが、それを聞かされた智子のほうはなにやら渋い反応であった。「どうしたものかな」とでも言いたげな態度でため息をつく智子であったから、そんな相方の様子に琴美は不安をよぎらせる。

 

「逆だ、逆。いいか? 私が小宮山で、そっちが黒木。こうなんだよ」

「っ!?」

 

 すると智子がお互いを指差しつつそのようなことを言って反論してきたものだから、琴美は一瞬言葉を失ってしまった。考えたくない嫌な予想が心に浮かんでしまうが、ともあれ相方のそうした物言いを慌てて否定しにかかる。

 

「違うって、その反対っ! ホントは私があんたで、あんたが私なんだってば! 入れ替わってんだよ、私たちは!」

「あーうん、分かるよ。あんたの言いたいこと」

 

 先ほどの智子よりもオーバーな動きでお互いを指差しながら主張する琴美であったが、何を思ったのか、対する智子はうんうんと頷いてその言い分をひとまず受け止めようとする姿勢を見せた。

 

「まあ私もちょっと前までそんな風に思い込んでたからね」

「いやいや、思い込んでるとかじゃなくてっ!」

 

 かと思えば、今度は訳知り顔でそのようなことを言う智子。ふざけているのでもなく、ましてや嘘をついているのでもない。本当にそう信じているかのような口ぶりであった。

 

「もしかして忘れちゃったのか……? 自分のこと……?」

「だから逆だって。思い出したんだよ、本当の私のこと」

 

 ここに来て、琴美は先ほど智子からスマホを押し付けられたことの意味をようやく理解する。あの行動こそは、智子の自意識がいまや小宮山琴美としてのそれへと変質してしまったことを示していたのだ。でもなければ、あの智子が己のスマホを一秒たりとも他人に預けようとする筈がない。なんといっても「人に絶対見られたくないもの」がたっぷり詰まった危険なシロモノなのだから。

 

(遅かったんだ……私がもたもたしてたから……こいつの頭ん中は……もう……)

 

 入れ替わった肉体との同化が進んだその先を、琴美は見せつけられていた。何かしらの理由により、智子は琴美よりもずっと早い速度でその心を侵食されてしまったらしい。もはや自分が本来何者であったのかすら忘れ去り、いまや完全に己を別人だと思い込むに至ってしまった相方の姿に琴美はただただ脱力し、同時に申し訳なさをも感じてしまう。

 

「心配すんなって。あんたも、もうちょっとしたら私みたく思い出せるようになるから」

 

 がっくりとうなだれた琴美に向けて、励ましているつもりなのか智子がそのようなことを口にしていく。いわく学校を休んで琴美と会わなくなってからというもの、本来の記憶が徐々に蘇り始めたとのことで、やがてすっかり元の自分を取り戻せたということらしい。

 

「智貴くんの言う通りだったよ。なんか私たち、症状が治まるまで一緒にいないほうがいいみたい」

 

 だからあんたもこんな風に私と会ってちゃダメだ。そう語りかけてくる智子の姿に、もはや以前までの面影はない。喋り方も、仕草も、何から何まで小宮山琴美その人であった。まるで自分が映ったビデオを見せつけられているようだと、そのような錯覚に陥る琴美はぞっとせずにはいられない。光と笑美莉の助力によって多少は息を吹き返した筈の己の自意識が、今また揺らぎ始めたことを琴美は感じる。

 

(……いや、まだだ!)

 

 しかしここで諦めるのはあまりに早い。というよりも、そもそも現時点ではまだ手を尽くしてなどおらず、自分たちが解決の糸口を掴んでいくのはこれからなのだ。智貴と交わした約束がある以上、どのような現実を見せつけられてもへこたれる訳にはいかないと、琴美は己を奮い立たせる。

 

「あんた、なんだよその頭は」

「えっ?」

「えらいボサボサだな。ちゃんと手入れしてんのかよ」

「んだよいきなり……」

 

 相方の髪について急にケチをつけ始めた琴美は、席を立ったかと思うと智子の背後へ回り込む。

 

「ほら、ギシギシしてる。ひでーなこれ」

「ちょ、やめろよっ……!」

 

 後頭部の髪を手櫛で()いてくる琴美がこれみよがしにダメ出しするものだから、驚いた智子は身をよじってその手を押しとどめる。警戒した様子の智子が椅子ごと向き直って背後を取られないようにと身構えるが、琴美の難癖は止まらない。

 

「ていうかあんた、風呂入ってんのか?」

「は、入ってるよ!」

「毎日?」

「お、おう」

「ブラッシングはしてる?」

「あ、いや別に……」

「いつもどうやって頭洗ってんだ?」

「えと、普通にシャンプーで……」

「トリートメント使ってる? オイルは?」

「う、うっさいな……んなモン私の勝手だろーが」

 

 見れば見るほど智子の髪は手入れが行き届いていなかった。いつなんどき智貴から触れられてもいいようにと、くせっ毛気味のその髪の手ざわりを少しでも良くすべく磨きをかけていたのに、それがいまや随分と台無しになっていたものだ。このようなことは本来の自分であればありえないことだと考える琴美は、椅子に座ったまま困惑気味に見上げてくるこの智子が、いまもって普段のものぐさ気味な生活習慣を引きずったままでいることを見抜く。

 

「全然ダメじゃねーか。私、いつもこんなんじゃねえぞ」

「はあ……?」

「こういうみっともねー姿で智貴くんの前に出るとかありえねーかんな。おかしいと思わねーのかよ、おいっ」

「んぶっ!?」

 

 この分ではスキンケアなどもおざなりに違いないと見た琴美が、確認のためにと両手で智子の頬をサンドイッチし、もみもみとマッサージしてみせた。突然のことに反応できず、フグのような表情で目を白黒させる智子。己の見立て通り、手のひらから伝わるその感触にはイマイチ潤いが足りず、お世辞にも瑞々しいとは言えないような有り様であることを琴美は確かに感じ取った。

 

「な、なにすんだバカっ! やめろ!」

 

 たまらず椅子から立ち上がった智子が、己を挟み込んだ琴美の手を振り払う。相手の真意が分からず不気味に思った智子は部屋の隅へと後ずさっていくが、琴美はそんな相方へと追い討ちをかけるように迫っていく。

 

「ほらこの爪っ。ちゃんと磨いてないだろ?」

「わっ!?」

「ムダ毛もほったらかしだな? こことかここも」

「ひゃっ!?」

「唇もダメ。こんなカサカサさせやがって」

「ンッ!?」

「匂いもほら、なんかくせーぞ。ちゃんと体洗ってんのか?」

「ちょ、おまっ……!」

「説明してみろよ。なんでこんなにだらしーねんだ? 自分で気付かねーのかよ、『私』の癖して」

「ん、んなこと言われても……」

 

 あれもダメ、これもダメ。何から何までなっちゃいない。小宮山琴美としての普段の身だしなみが、いまや何ひとつ守られていないことは明らかであった。「自分は小宮山琴美だ」と確信を持って主張するわりに、こういうところはきっちり元の智子としての性格を保ったままでいる。しかしそのことに当人はまるで気付いていないようであったから、琴美はそこを自覚させてやるべくこのような行動に出たのだった。

 

(こいつはただ思い込んじゃってるだけなんだ。そこんところをビシッと言い聞かせてやんねーと……)

 

 智子としての心はまだ生きている。であるのならば、こうして揺さぶりをかけてやればそれが正気に返るきっかけになるかもしれない。己を見失った相方の目を覚まさせるためならば、琴美はどんなことでもやるつもりであった。

 それはそれとして妙に智子の体へと触れてみたくなってしまう琴美でもあったが、こうしたことは久々に再会した己本来の肉体を無意識に恋しがった故なのかもしれない。あるいは「黒木智子」としての肉体のほうもまた、他者の体へと移ってしまったあるじの魂を求めてやまないのだろうか。

 

「説明もクソも、私は元々こうなんだよ。なんでって聞かれても知らんわ」

 

 が、ダメ。外見的特徴をあげつらった琴美の訴えも、今の智子にはなんら響かなかったようだ。彼女の意識の中では、今しがた琴美が指摘したような点は特に矛盾を感じるものではなかったらしい。

 

「つーか用事は? なんもねーんならもう帰れよ」

(ダメか……! なんか他の手は……)

 

 大した用事もないのであれば、このまま追い返してやろうという気配を漂わせる智子。しかし用があろうとなかろうと、ここまで来たら意地でも帰らないつもりの琴美は次なる一手を打つために考えを巡らせる。

 

「いい加減にしねーと、あんたんとこのお母さんに来てもらうからな」

「わ、私さ……!」

 

 自分で帰らないのなら、黒木家に連絡して迎えを呼ぶことも辞さないと脅す智子であったが、琴美はそれに取りあうことなく意を決したように口を開いた。

 

「智貴くんがあがったあとのお風呂、は、入っちゃったんだよね」

「あ?」

「す、すごかったなぁ、色々と」

「え……何の話?」

「お、お風呂ん中がさ、なんかこう、すっごくいい香りで満たされてるんだよ。なあ、あれってなんだと思う?」

「入浴剤の匂いだろ」

「やっぱり智貴くんの匂いなのかなー。あ~、また思い出してきちゃった」

「気持ちわりーなおまえ……」

 

 いきなり妙なことを話し始めた琴美であったから、対する智子も戸惑わずにはいられない。少々生々しい話の内容に顔をしかめたものであるが、一方の琴美もどこか無理をして言葉をつむいでいるようであり、自身の言葉に照れているのかその顔には赤みが差していた。

 

「あっ、そうだ。そんとき脱衣所でさ、その、と、とんでもないもの見つけちゃったんだけど……なんだと思う?」

「知らんわ、聞くな気持ちわりー」

「ほ、本当に分かんない? ほら、『パ』だよ、『パ』で始まるやつ。智貴くんの()()……」

「知らねーっつってんだろ! さっきから気持ちわりーんだよこの変態が!」

 

 一層顔を赤らめる琴美のそうした思わせぶりな話し方に、とうとう苛立ちを抑えきれなくなった智子があからさまな不快感を顔に出す。そしてそれこそが、琴美が今この場において智子から引き出したかったものだ。

 

(いいぞ……! あんたらしい顔になってきたじゃねーか……!)

 

 目を剥いて琴美を睨みつけてくる智子のその表情は、琴美にとって確かに見覚えのあるものだった。かねてより琴美が智貴のことを少しでも話題にあげようものなら、智子は決まってこのような顔つきで威嚇してくるのが常であったからだ。これは手応えありと見た琴美は、智子の関心を引くためにより過激なことを口にしていく。

 

「そういや智貴くんと抱きあったりもしたね」

「なっ……!?」

「私たち、最近毎日一緒に学校行ってるんだ。ほら、電車すげー混んでるだろ? そん時に智貴くんがさ、私が押し潰されないようにって、こんな風に守ってくれるんだ」

「おっ……おおっ!? テメーっ……!」

 

 そのようなことを自慢げに語り、にへら顔で何かを懐に包み込むような仕草もしてみせる琴美。それを受けた智子はというと、握り締めたその拳をわなわなと震えさせ始めた。

 

「なに怒ってんだよ、いいだろ別に。智貴くんは()()()なんだから」

「あ……で、でも……!」

 

 もっともっと挑発してやろうと、琴美はこのようなことまで言ってみせる。自身の弟に対して並々ならぬ執着を抱く智子であればこそ、きっと今のような発言は聞き捨てならない筈だ。

 

「智貴くんってすっごくお姉さん思いなんだ。放課後になったらさ、『姉ちゃん、一緒に帰ろうぜ』なーんて言って、ちゃんと私のこと迎えに来てくれたりするし……」

「う……う……うぐ……」

「あー、智貴くんみたいな子が弟でホントよかったなぁ。私ってなんて幸せなお姉ちゃんなんだろー」

「ウギギ……グッ……カッ……」

「もう一生結婚なんてしなくていいや。だって智貴くんがずっとそばにいてくれるんだもん」

「やめろ……やめろォ……ッ!」

「ひとつ屋根の下で愛しあって一緒に暮らしてる訳だから、それってもう夫婦みたいなものだよね」

「うおおぉぉ────ッ! テメェェェェ────ッ!」

 

 相手を黙らせようとしたのか、あるいは我を忘れて激情のままに行動したのか、絶叫する智子は琴美へと勢いよく飛びかかる。胸ぐらを乱暴に掴まれた琴美は「うげっ」と喉を鳴らすのだが、目を血走らせる智子は更にそのまま琴美のことを力任せに吊りあげてしまった。

 

「なに勘違いしてんだ! おまえはコオロギだろうがっ!」

「ぐ、ぐるじいっ……」

「あいつは私の弟なんだよ! ふざけたこと抜かしてっとぶち殺すぞっ!」

「ひぃぃぃ……っ」

 

 琴美を前後にカクカク揺さぶりながら、智子は声を張り上げ恫喝する。満足に声も出せない琴美はもう、宙ぶらりんになった足をじたばたさせるだけであった。

 

「いたっ!?」

 

 と、急に智子が手を放したものだから、そのまま琴美はどすんと地べたに尻もちをついてしまった。軽く咳き込みながらも顔をあげてみれば、そこにはなにやら呆然とした様子で固まっている智子の姿があった。

 

「そうだ……あいつ……私の弟なんだった……。私、あいつのねーちゃんなんだった……」

 

 そのような独り言を呟く智子であったから、これはもしやと思った琴美が慌てて立ち上がる。

 

「そ、そうっ! あんたは智貴くんのお姉さんなんだよ。それで合ってる、それがホントなんだ」

「なんで……なんで忘れてたんだろ……こんな大事なこと……」

「あんた、自分の名前言ってみな?」

「えと、こみ……じゃなくて……く、黒木智子」

「そうそれっ! あんたは黒木智子だ。ほら、もっかい言ってみて」

「く、黒木智子!」

「それがあんたの名前?」

「うん」

「じゃあ私の名前も言ってみてよ」

「あっうん。えと、こみ……こみ……なんだっけ?」

「ふふっ……小宮山だよ、小宮山琴美」

 

 智子のこうした反応を見届けた琴美は、いつも通りな智子の調子に思わず笑ってしまう。一時はどうなることかと大いに焦った彼女であったが、その尽力が実を結び、眠っていた相方の心を呼び覚ますことに成功したようだ。

 

「やっべー……今まで私、自分のことずっとこみさんだって思い込んでたわ。どうなってんだ……?」

 

 己が今まで如何に異常な状態に陥ってしまっていたかを思い知ったようで、智子は冷や汗を流す。事が事なだけに、琴美の挑発によって喚起された先程までの怒りはすっかり抜け落ちてしまったようだ。

 

「私もそんな感じなんだ。今んとこは大丈夫だけど……でも時々自分が黒木さんなんじゃないかって思いそうになるよ」

「マジかー……」

「とにかく早いとこ元に戻んねーとさ。このままだと私たち、そのうちヤバいことになるぞ」

「そりゃ分かってるけど……」

「とりあえず支度してくれ。出かけるから」

「えっ?」

 

 自分たちに残された時間は、おそらくそう長くはない。周囲からの助力によってある程度己を取り戻すことは可能かもしれないが、それでも失われたり、あるいは変異してしまうものは確実にある。己がそうであるように、おそらくは智子のほうも既に様々な記憶の齟齬をきたしてしまっているに違いないと琴美は考えていた。

 であるのなら、やるべきことはただひとつ。限られた時間の中で自分たちが元に戻るための手立てを、智子と力を合わせて見つけ出していくしかない。

 

「出かけるって……どこ行くんだ?」

「なんだよ、約束してただろ? ほら、あの神社だよ」

「あ……あーうん、そっか、そうだった」

 

 ここにきてようやく琴美は智子から何度も尋ねられていた本日の用件を伝えることができた。それを受け、智子のほうも中途半端なままになっていた例の試みのことを思い出したようだ。

 

「んじゃ、仕切り直しといくか。今度は智貴のヤローに横ヤリ入れさせんじゃねーぞ?」

「分かってるって、大丈夫だよ」

 

 今、止まっていたふたりの時間が動き出す。




つづく


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もここみチェンジ! 例のあの人やべー奴(12・完結)

さよならわたし

「ふぃー……」

 

 自転車のブレーキ音が鳴りやんだあと、ペダルから足を離した智子は一息つく。荷台へまたがり運転手にしがみついていた琴美のほうも、それを合図にさっと降りる。ふたりが今いる場所は浅間神社の北側、道路に面する場所へと据えられた鳥居の手前であった。

 

「あーしんど。こみさんだけ走ってくりゃよかったのに」

 

 なにやら愚痴りだした智子が、地面を蹴りつつ自転車を鳥居脇の奥まった場所へと移動させる。小宮山家のマンションからこの神社へは結構な距離があるため、警察の目を気にしつつもひとつの自転車に同乗する形でここまでやってきたふたりであったが、漕ぎ手はもっぱら智子が務めていたようだ。

 

「私の足ならこんな距離、余裕だっつーの。怠けやがってよー」

(やれやれ……)

 

 元より琴美としてはそのつもりでいたのだが、自転車を使うことにした智子のほうから「乗せてってやんよ」と得意げに誘われた結果がこれである。なんとも理不尽な気持ちになってしまう琴美であったが、このようなことは智子と付き合っていれば日常茶飯事であったから「またか」という気持ちにもなる。しかし今このときにおいては、そうした普段通りな智子の振る舞いにむしろほっとさせられるのだった。

 

「つーか腹減った。こっちはなんも食ってねーってのに急かしやがって」

 

 自転車に鍵をかけたあと、くたびれた様子の智子はよたよたとした足取りで鳥居下の石段へと腰かける。琴美の来訪を受けて急ぎ支度を整えた智子は食事もとらず家を出たのであったが、ここにきて少々エネルギー切れを起こしてしまったらしい。

 

「お茶くれよ。持ってんだろ?」

「あーうん、ちょっと待って……」

 

 琴美の背負うかばんには水筒が入っていたが、余程ガブ飲みでもしなければまだまだ中身は残っている筈と見て、それを欲しがる智子。相方の隣へと腰かけた琴美が「ほら」と水筒を差し出せば、対する智子も「おう」と一言応じてそれを受け取った。まだ十分に温もりを残すお茶をコップへ注いでみれば、ほかほかと湯気が立ちのぼる。

 

「なんかねーの? お菓子とか」

「いや、ないけど……」

 

 そうして一服した智子であったが、今度は別のものを要求してきた。お腹が空いているというのは本当のようで、なんでもいいから口に入れるものが欲しいようだ。しかしあいにく菓子類は持ち合わせていない琴美であったから、道すがら見かけた近場の駄菓子屋で何か適当なものを買ってきてやろうかと考える。

 

「あっ、じゃあこれ食うか?」

「おっ?」

 

 しかしそこであることを思い出した琴美が、かばんの中からタッパーを引っ張り出して智子へ差し出す。それは本日の昼休み、仲間たちとの語らいに没頭するあまり時間内に食べきれなかった弁当の残りであった。

 

「残りモンか? まあいいや」

 

 受け取ったタッパーのフタを開けてみれば、ラップに巻かれたおおぶりな握り飯がひとつだけ。醤油が塗られて焦げ目の付いたそれは手作りの焼きおにぎりだった。

 

「うん、うん……」

 

 おにぎりを口いっぱいにほおばった智子が、満足そうに頷きながらそれを味わっていく。そうしてあっという間に半分ほど食べきったところで、手を止め傍らの琴美を見やる。

 

「いいモン食ってんなーおまえ。こっちは昼も夜もカップ麺とかだぞ」

「あ、そうなの……?」

「つーかおまえのおばさん、帰ってくんのおせーな。いつもあんな感じなんか?」

「仕方ねーだろ、忙しいんだから」

 

 外へ働きに出ている琴美の母は、多忙であるからか智子の言うように帰宅時間が遅くなりがちだ。故にわが子へ持参させる弁当にしてもそう毎日作ってやれる訳ではなく、必要とあらば琴美が自分で用意してみせることも珍しくなかった。

 こうしたことは琴美にとって当たり前で、時には腕をふるって家族のために夕飯を用意したりもするのだが、なにかと親任せな環境で育ってきた智子ではそうもいかないようだ。その気になればありあわせの材料で食事を作ることだって出来るはずなのに、そうしたこともせずもっぱらコンビニ弁当や、そうでなければインスタント食品で済ませるばかりであったらしい。

 

「……きのうの晩メシ、なに食ったんだ?」

「えっ?」

 

 ふいに智子がそのようなことを聞いてきた。なにをやぶからぼうにと思う琴美ではあったが、ひとまずその質問へと応じるために記憶を探る。

 

「ハンバーグだけど」

「じゃあおとといは?」

「えーっと、たぶんすき焼き」

「ふーん……」

 

 琴美の答えをどう受けとめたのか、どこか物憂げな様子の智子は手に持つ食べかけのおにぎりへと目を落とす。

 

「うまかったか?」

「ああ、うん、まあ」

「ちゃんと残さねーで食ったか?」

「そりゃ、まあ」

 

 また口を開いたかと思えば、智子は先程と同じように他愛のないことを質問してくる。黒木家の食卓事情が気になるのか、あるいは今の琴美の食生活に関心があるのか、その真意は見えてこない。

 

「おまえ、お母さんになんか言われたりしてねーか? メシの食いかたが変とかさ、なんか行儀わりーとかさ」

 

 すると話を変え、今度は自身の母について尋ねてきた智子。先程から妙にとりとめのない会話ではあるが、食事中の雑談のつもりなのだろうと受け取った琴美は特に思うところもなくそれに応じていく。

 

「いや別に」

「なんにも?」

「うん」

「じゃあ私のことは? なんか言ってた?」

「いや、特には」

「ほんとに? ちょっぴりも……?」

「ああ、全然言わねーなそういや」

 

 琴美が知る限り、ここ最近は智子の母が「小宮山琴美」について言及することはほぼ無いと言ってよかった。せいぜいが「あの子に気をつけろ」と琴美に注意してきたぐらいで、それを除けばもはや存在自体を忘れ去ってしまったかのようであった。

 

「そうか……」

 

 それきり智子は何も言わなくなり、おもむろに食事を再開した。かぶりつくように食べていた先程とは打って変わって力ない様子で、手にしたおにぎりをもそもそと口にしていく。琴美はその唇がほんの少しだけ震えていたことに気付いたが、見て見ぬふりをしてやるのだった。

 *

「あの祠、覚えてっか?」

「ほこら?」

「ほら、おまえがなんか気持ちわりーお願いしてたじゃんか。あれだよ」

「ああ、うん」

 

 休憩も終わってさあこれから調査を始めようという段階になってから、智子がこのようなことを言ってきた。相方が話題に出してきたその祠のことを、琴美は覚えている。松林から神社のほうへと逃げた智子を半狂乱で追いかけていった際、その道すがら心願成就の御利益を謳う祠を見つけたのであるが、ものは試しにと興味本位で願掛けをしていたのだった。

 

「あそこが怪しい。なんかそんな気がする」

 

 智子としては、今回の異変に関する手がかりがその祠に隠されているのではないかと睨んでいるようだった。であればひとまず現場へ向かってみようということになり、鳥居をくぐったふたりは石段をのぼって境内へと足を踏み入れていく。それに合わせて周囲の木々が、ふたりの来訪を歓迎するかのようにさわさわと葉を鳴らした。

 

「どうすんだ? またおんなじことやってみりゃいいのか?」

「うんにゃ、とりあえずそれはもういいよ」

 

 祠のある場所まで向かう道中、これからすべきことについて琴美が確認してみれば、智子は首を振ってそれを否定する。

 

「それよりもさ、こみさんがあんときお願いしてたこと、思い出してみろよ」

「あ、えーと……」

 

 言われた琴美は記憶を探り、やがてそれに思い当たる。確か自分はみっつかよっつほど願いを口にしていて、その内容も中々に赤裸々なものであった筈だと。

 

「と、智貴くんと結婚したいなーとか、そんな感じだったかも……」

「そうそう、そーいう性欲剥き出しのロクでもねーやつ」

 

 照れ気味の琴美が当時の願いごとについて言及してみれば、すかさず智子が下品な物言いでそれをくさす。

 

「あと弟の奴と一生一緒に暮らしたいとか、最悪なお願いしてたでしょ?」

「あ、うん……」

「それだよ、それがダメだったんだよ」

「えっ?」

「たぶんだけど、願いごとがマジで叶っちまったかもしんねーってこと。だから私たち、入れ替わったんだ」

「そ、そうかぁ……?」

「だってほら、おまえが私になっちまえばずっとあいつと一緒にいられるだろ?」

「いや、でもなぁ……」

「絶対そうだって。あの祠、やべーぞ」

 

 自らのオカルトじみた推測を語るうちに益々確信を持ち始めた様子の智子であったが、いくらなんでも飛躍が過ぎるということで、相方のそうした主張には同意しかねる琴美。辻褄だけなら一応は合わないこともないが、はっきりとした根拠は何も無いのだった。

 稲毛の町で長年暮らしてきた琴美であったが、単なる謳い文句ではなく参拝者の願いを真実叶えてしまう祠がこの神社に存在しているなどと、そんな話は噂程度のものですら聞いたこともない。

 

「なんだっけなー、前も似たようなことあった気がすんだよな」

「なんだよそれ」

「祠の前でお願いして、それが叶っちゃったってやつ」

 

 しかし智子のほうは、どうもそうした事例に心当たりがあるようだった。腕を組みつつ頭を捻る智子はうんうん唸って記憶の中を探ろうとする。

 

「ほら、なんかおまえここに来たことなかったっけ? ガキん頃とか」

「あーうん、あるけど……よく知ってんな」

「お、やっぱり」

 

 すると智子がそのようなことを尋ねてきたのだが、確かに琴美は幼い頃にこの神社を訪れたことがあった。そのような過去の思い出を他人の智子が知っているということに驚かされる琴美であったが、同様の現象は既に自身においても経験済みであったから深くは追求しない。智子のほうもこうした記憶の交わりについてはもはや慣れているのか、特に気にする様子はなかった。

 

「そんときになんかお願いしてただろ」

「……あっ!?」

 

 そこまで話したところで、何かに気付いた様子の琴美が声をあげる。

 

「そ、そういえば……お父さんが……!」

「あーそうそう! おまえんとこのおじさんだよ! なにお願いしてたんだっけなー。えーと、ほら、あれ……!」

 

 琴美と智子はお互いに、ひとつの記憶を急速な勢いでたぐりよせていく。ある人物が件の祠に願掛けをした結果、その願いが神がかり的な力で叶ってしまった。そのように受け取れなくもない出来事が過去一度だけあったからだ。

 

「「ロッテ優勝!」」

 

 お互いを指差す琴美と智子の口から、同時に同じ言葉が飛び出した。それを皮切りとしてふたりの間で言葉の応酬が繰り広げられる。

 

「二〇〇五年ペナントレース!」「プレーオフでソフトバンク相手に優勝!」

「同年日本シリーズ第四戦!」「3-2で阪神を押さえて日本一!」

「第一回アジアシリーズ!」「全試合全勝で初代王者に!」

 

 息がぴったりな両者が語るその内容は、往時の千葉ロッテマリーンズが見せたその奇跡的な活躍ぶりについてであった。ロッテ狂いの琴美はもちろんのこと、智子のほうまでその手の情報を淀みなく口にするものだから、傍から見ればまるでロッテファン同士の熱い語らいのようである。

 

「ほら、してるじゃん優勝。ありえねーほど勝ちまくったろ、あんとき」

「う、うん……」

「偶然かもしんねーけどさ、あの祠ってやっぱなんかあるんじゃね?」

「いや、あのときのロッテは勝つべくして勝ったっていうか……選手も監督も凄かったし、みんなが頑張った結果だから……」

「まあ、私だってそう思う。なんでか知んねーけどそう思う」

 

 琴美としての肉体の影響か、いつの間にかすっかりロッテ通になっていた智子であったから、当時のロッテの大活躍が単なる一個人の神頼みによってもたらされたと考えることには抵抗があるようだ。あの栄光はあくまでロッテ自身の実力によって勝ち取ったもの。これはもう、ふたりにとっての共通認識でもあった。

 

「でも他に考えられる理由がねーんだよな、私とおまえが入れ替わったのって。それこそ神さま的なアレがなんかやらかしたって感じだろ」

「あっうん、そりゃまあ……」

 

 話は戻り、自分たちに起きた異変の原因について智子が再び己の考えを主張する。先程のロッテの話が効いたからか、琴美のほうも今度は少しばかり納得したような気持ちにさせられるのだった。ともあれそうこうしているうちに、ふたりは問題の祠の前へと到着する。

 

「よーし、んじゃいくぞ。ちゃんと死ぬ気で祈りまくれよ?」

「ああ」

 

 祠の手前に並び立ったふたりはいま、神妙な面持ちで合掌していた。これから祠に向かって一緒に祈願するためだ。こうしたことも智子の提案によるものだったのだが、これから何を願うかといえば、それは自分たちを悩ませている問題の解決についてであった。仮に祠の神さまが此度の入れ替わりを仕組んだとするのなら、それを取り消してもらうべく改めて願い出てみようということなのだ。

 

「「もとの体に戻れますよーに!」」

 

 パンパンと適当に手拍子を打ったあと、ふたりは声を張り上げそのようなことを口にし始める。

 

「私を黒木智子に戻してください!」

「私を小宮山琴美に戻してください!」

「こみさんを元に戻してやってください!」

「黒木さんを元に戻してあげてください!」

 

 合間に追加の手拍子を挟みつつ、琴美と智子は打ち合わせ通りその切実な願い事を祠に祭られた神さまへと高らかに訴えていく。

 

「こんな姿じゃ人生終わったも同然なんで、マジお願いします!」

「お、お願いします!」

「戻れなかったらもう自殺するしかないんで、ホントお願いします!」

「おいっ!? あっ、お、お願いします……!」

「こみなんとかさんに盗られた私の体、早いとこ返してください!」

「別に私が盗ったんじゃないけど! まあ返してやってください!」

「毎日鏡で自分の顔見るたび気が狂いそうだったんで! ホントっ、おねがいっ!」

「ク、クソムシもこう言ってるんでっ! まあそういうことなんでっ!」

 

 タイミングを合わせていたのは最初のうちだけで、あとはそれぞれが思い思いに祈願の言葉を発していく。そうしたことをしばらく続けたふたりであったが、やがてどちらともなく手をおろしたものだから、そこで祈りは中断された。息切れを起こしているのか、どちらもぜいぜいと肩で息をしているようだ。

 

「どうなんだ……? これ……?」

「分かんね……。つかおまえ、クソムシとか言うなって……。神社でそーいう汚ねー言葉使うのってダメなんだぞ……」

「は……? あんたが変なこと言うからだろ……」

「ふ──……あー、もういいよ、うん、分かった……」

 

 ちょっとした口論になりかけたところで、大きくため息をついた智子が片手を軽くあげてみせる。

 

「もう声に出さなくていいからさ……心ん中で祈ってみようぜ?」

「ああ、うん……」

 

 お互いへのあてこすりで気が散ってしまうのを避けるため、いっそ口を開かず静かに祈りを捧げてみようという智子からの提案だった。琴美としてもそのほうが落ち着いて祈念することができるだろうと思ったため、ふたつ返事でそれに同意する。

 

「んじゃ、もっかいやんぞ」

「おう」

 

 改めて合掌したふたりはすっと目を閉じて、神妙な面持ちのまま黙々と祈りをささげ始めた。先程までのかしましさは消え去って、辺りに静けさが戻る。チチチ、と小鳥たちの慎ましやかな鳴き声が時折近くから聞こえてきたりもするが、急にかしこまった奇妙な参拝者のことを見物しているのかもしれない。

 

(…………)

 

 そうしてしばらくは頭の中で願いごとを念じ続けていた琴美であったが、ふとその心中に遠い過去の記憶がおぼろげながら浮かび上がってきた。ずっとずっと昔、父と共にこの祠の前でお願いごとをしたときのことだ。思い出の中の父の顔は、最初のうちこそ黒木家のご主人のものへと置き換えられてしまっていたが、やがてそれもぼやかされたような印象へと転じてゆく。

 

(あんとき、違うことお願いしてたらどうなってたんだろ……)

 

 父を真似て同じことを祈願した当時の己を振り返る琴美は、それ以外の可能性についても思考の枝葉を伸ばしていく。仮にもしロッテの優勝以外のことを願っていたとしたら、果たしてそれは叶ったのだろうかと。もし、もしこの祠が時として本当にそのようなご利益を発揮してしまうのだとしたら、そしてそのことを当時の自分が知っていたのだとしたら、きっと地元球団の栄光を捨ててでも他の願いごとを一生懸命祈願したに違いない。

 

(お父さんの病気が治りますようにって……)

 

 ロッテが怒涛の快進撃を見せたその翌年、次のペナントレースの開幕を待たずして琴美の父はこの世を去った。かの御仁は自身の娘に物心がつくようになった頃から既に闘病生活を送っていたのだが、琴美の中ではいつも元気いっぱいにロッテを応援する姿ばかりが印象に残っている。

 ロッテの調子がいいとお父さんも調子がいい。そんな風に思っていた幼い琴美であったから、ルールは分からないながらも父の膝の上で試合を観戦しては、その結果に一喜一憂していたのであった。当時父から教わった球団歌は、琴美にとってお気に入りの歌だ。同年代の友だちの誰も興味を示さないその歌を、琴美は折あるごとに口ずさんだりしていたものだ。

 

「こみさん、もういいって」

 

 肩をゆすられ、はっとなった琴美は我にかえる。隣を見れば、そこには依然として小宮山琴美であり続けるジャージ姿の智子がいた。

 

「ああ、うん……えーっと」

 

 相方のそうした姿を目にした途端、琴美は「ああやっぱり」と落胆したような気持ちになる。気合を入れて挑んだせっかくの祈願も、どうやら無意味に終わったようだ。

 

「あー待て待て、分かってるって。全然ダメじゃんって言いたいんだろ?」

 

 そうした琴美の内心を、智子が言い当ててみせる。このアプローチは失敗であったと、そのように考えるのは早計だとでも言いたげだった。

 

「まあ、その、今のはさ……あれだよ、とりあえず第一ステップ完了って感じなんだよ。たぶんこっから、もうちょっとなんかやんないとダメなんだ」

 

 だから、先程までの行いも無駄ではなかった。こじつけのように聞こえなくもないが、提案者である智子はあくまでそう言い張るつもりのようだった。智子としても自分たちの祈念が無事に届いて、そのままあっさり元に戻れたらいいなと期待していたふしはあったようだが、それが叶わなかったからといってすぐ諦めるつもりはないようだ。

 

「なんかって、なんだよ。また階段から落っこちてみるとかか?」

「あーうん、そうだな……よっしゃ、そんじゃあそれだ、もいっちょやってみっか」

 

 もはやこうなれば、思いついたことを手当たり次第にやってみるしかない。石段からの転落は混乱のただ中にあった入れ替わり直後にも試してはいたのだが、今度は智子の言うように「第一ステップ」を経た上での試みだ。結局はあの日の出来事を再現するという当初の方針へと立ち戻ったようであったから、さしあたって入れ替わりが起きる直前のふたりにとってインパクトの大きかった件の転落事故を今改めて繰り返す運びとなった。

 *

「こみさん、ちょっとそこ立ってみて」

「あ?」

「ほら、階段ギリギリんとこ」

「なにすんだ?」

「いいから、とりあえず立って」

 

 もと来た道を引き返し、さっきのぼってきた石段のそばまでやってきたふたり。すると智子が急にそのようなことを言って琴美に指図してきた。

 

「このへんか?」

「そうそこ。んじゃ、ちゃんとよけろよー」

「えっ、ちょ……」

 

 そうして石段のちょうど下り口あたりに立たされた琴美であったが、それを確認した智子が何を思ったのか道の脇に落ちていた石ころを拾いあげる。

 

「そらっ」

「うわぁ!?」

 

 手にした石ころを、智子は躊躇することなく琴美へと投げつけた。それに驚いた琴美は思わず悲鳴をあげてしまうが、すんでのところでかわすことに成功した。

 

「なにしてんだバカっ! あぶねーだろ!」

「いいんだよ、これで」

「ああ?」

 

 身をひねった勢いで危うく石段から転げ落ちてしまいそうになったものだから、相方のこのような狼藉に声を荒げて抗議する琴美。しかし悪びれた様子もない智子は至って涼しい顔でそれを受け流す。

 

「おまえ、あんときここで私に空きカンぶつけようとしただろ? その再現をちょっと」

「いや、別にそこまでせんでも」

「つーか元はといやぁ、こみさんがあんなことすっからじゃねーの? そんなとこから落っこちなきゃ、私もおまえも変なことにならなかったのによー」

「それは……悪かったけど……」

 

 思い出したように過去を蒸し返す形で相方を責める智子であったが、一応は言いがかりとも言えないことであったから、琴美はムッとしつつもばつの悪い気持ちにさせられる。元々の原因はどう考えてもしつこくからかってきた智子にこそあるのだが、それはそれとしてもしあのとき手にした空きカンを怒りに任せて投げつけたりしなければ、今回のような厄介ごとは起きなかったかもしれない。後先考えない己の暴投が予期せぬ大失点を招いたと、そのような思いが心の片隅にあった琴美としては、そこを突かれてしまうと素直に謝ることしかできないのだった。

 

「こみさんすぐブチキレっからなー。そういうとこだぞ」

 

 自分のことを棚にあげる智子はなんとも上から目線な態度で話題を引きずりつつも、かけていた眼鏡を外してそれを参道脇にそっと置いた。そうして今度はポケットをまさぐり、そこから取り出した自宅の鍵も同じく地べたへと置いてみせる。

 

「そっちもかばんとか、どっかに除けとけよ」

「あ、うん」

 

 その言葉を受け、相方の言わんとすることを察した琴美は己の手荷物を退避させにかかった。これからふたりして石段を転げ落ちる訳であるから、そのせいで所持品が壊れたり、あるいはどこかに無くしてしまわないよう配慮しておくべきなのだ。

 そうして準備は整い、これから転落していくこととなる石段の手前へと並び立つふたり。これからここを転がり落ちていくのかと、眼下に広がるその急勾配に息を呑んでいた琴美であったが、

 

「んじゃ、やるか」

「えっ、な、なにっ?」

 

 ふいに傍らの智子からグイと抱き寄せられてしまったので、眼鏡を付けない素顔の相方と向かい合う形となった琴美は目をぱちぱちさせる。

 

「ほら、こみさんもちゃんと掴まって」

「お、おう……」

 

 指示に従った琴美が智子の腰へと両腕を回してみれば、ふたりはあたかも相撲取りのようにがっぷり四つで抱き合う形となった。その様子はお互い磁力でも働いているかのようにぴったりフィットしていて、ちょっとやそっとでは離れそうにない。

 

「よっしゃ、んじゃ回れ回れ」

「あっ、ちょっ」

 

 すると今度は智子がその場で器用に足踏みを始め、琴美をまきぞえに回転し始めた。それに合わせるべく、琴美のほうもよちよちした足取りで追従するが、こうなると益々相撲の取り組みが如き様相を呈し始める。

 

「こんな感じでさっ、あんときとおんなじふうに落っこちてみんだよ。かなり勢いついてたかんな、怪我しねーよう気合入れてけよっ」

「わ、分かった!」

 

 足をもつれさせることもなく、息を合わせたふたりがいよいよ回転速度をあげてみれば、それはもはや相撲というよりまるでワルツを踊っているようでもあった。だからといって優雅なひとときを楽しんでいるという訳ではなく、本人たちとしては心底必死なのであるが。

 

「よーし! い、いくぞっ! 大丈夫か!?」

「いいぞ! こいよ! ほらっ!」

「うらあぁぁ────!」

「ぬおあぁぁ────!」

 

 嗚呼、またしても南無三。仲良く抱き合ったふたりは、とうとう意を決して石段から転げ落ちていった。今再び、境内に少女たちの絶叫がこだまする。

 

 ◆

 

「いってぇー……」

「うう~ん……」

 

 少しばかりの間、琴美は意識が飛んでしまっていた。上半身を起こしてみれば途端に体のあちこちが痛み出し、ひどく目が回っているからか頭のほうもなんだかふらふらと安定しない。いつの間にか離れ離れになっていた相方を求めて琴美が辺りを見回してみれば、少し離れた先で寝転がっていたようだ。

 

「あっ……」

 

 その姿に、琴美は今度こそ本当に落胆してしまった。地に伏せる智子の姿には何も変化など起きておらず、相変わらずの状態であったからだ。 

 

「あいたた……」

 

 すると目を覚ました様子の智子が、その身をゆっくりと起こした。体の痛みに顔をしかめつつも琴美の存在に気付いた彼女は「どうだ? 戻ってるか?」と尋ねつつ、這い歩きで相方のそばへと歩み寄っていく。

 

「あーあ……ダメかぁ……」

 

 琴美の顔を間近で確認した智子が、途端にその表情を暗くする。言葉は軽いが、その声色には心底がっかりした感情が滲んでもいた。そうして上体を起こすと、気の抜けた様子でぺたんと尻餅をつくのだった。

 

「どうすっかなー……もうなーんも思いつかんわ」

 

 なりふり構わず身投げ同然の荒行を決行したふたりであったが、それがなんら結果を生み出さなかったことで智子はひどく消沈させられたらしい。「まだ次のステップがある」などと取り繕う気力もなく、当てが完全に外れてしまった彼女の顔には諦めの気配が漂っていた。

 

「いや、ほら、まだなんかあるって。諦めんなよ」

 

 一方の琴美としても徒労を感じてはいるのだが、だからといってここで終わりにしていい筈がないと、ひとまずそれらしい言葉で相方を励まそうとする。

 

「はぁ──、やれやれ……」

 

 するとおもむろに立ち上がった智子が、ため息をつきながらジャージについた砂埃を手で払う。そうしてそのまま何も言わず、痛む体を引きずりながら石段をのぼり始めた。そんな相方のあとを追うべく立ち上がった琴美もまた、自分たちが転がり落ちてきたその石段へと再び足をかけるのだった。

 

「なあこみさん。どうだった? ウチの住みごこち」

 

 道脇に預けておいた手荷物を回収した智子が、眼鏡をかけつつそのようなことを尋ねた。かばんの肩紐に腕を通していた琴美は、急にどうしたのだろうと思いつつもそれに答えようと口を開く。

 

「あーうん、まあ良かったよ」

「どのへんが?」

「んー……そりゃ家ん中が広いとか……あと、なんも家事しなくていいとか……かなぁ」

「弟の奴も一緒だから嬉しい?」

「そ、そりゃもちろん!」

「どうよあいつは。いつもスカした顔してっけど、ああ見えてウチん中じゃ甘ったれのシスコンなんだぞ」

「あー、う、うん、まあ、ちょっとそんな感じかもね。あはは……」

 

 あれやこれやと具体的な感想を聞きたがる智子であったが、琴美との会話中に自身の弟のことが話題にあがっても普段のように不機嫌になる様子は見られない。そうして智子の質問は更に続いていく。

 

「お母さんはどう? 優しかった?」

「そうだね、すごくいい人だと思う」

「つっても怒るとメッチャ怖いかんな? こみさんもそのうちシバかれるぜきっと」

「ええー……」

「お父さんは?」

「あっうん、カッコよかったかな。智貴くんとソックリなんだね」

「そうだっけ? なんかその辺、よく思い出せないんだよな」

 

 己の両親についても智子は知りたがった。今は立ち入りを禁じられている生家に思いを馳せるため、そのよすがとなるものを琴美越しに求めているからなのだろうか。いつしかふたりは道の脇へと腰をおろし、ここしばらくの「黒木智子」の暮らしぶりについて話り合う。

 話は学校生活にも及び、級友たちの今現在の様子などを智子が尋ねてみれば、面倒がることもなく琴美はそれにひとつひとつ答えてやった。内笑美莉という名の生徒がいたく心配していたことを伝えた際は、そのように気遣われるほどの仲でもないのか首をひねったりしていたのだが、それも含めてのこの一週間なのであった。

 *

「あのさ、こみさん。もしこのまんま元に戻れなかったら、どうするよ?」

 

 しばらくとりとめのない会話を続けていたふたりであったが、ふいに智子がそうしたことを口にした。

 

「もしって……いや、絶対戻んないとダメだろ」

「だからもしもの話。私がおまえのまんまで、おまえが私のまんま生きてったら、どうなんのかなーって」

「そんなの……」

 

 智子の問いに対するおよその答えを、琴美は既に得ていた。このまま自分たちが元に戻らなければどうなるかといえば、きっと近いうちに本来の己をすっかり喪失してしまい、偽りの自我がそれに取って代わるのだろう。そうなれば、もはや「自分たちが入れ替わっている」という認識すらくつがえされてしまうに違いないと、琴美はそのように危惧している。

 こうしたことは智子自身もうっすらと理解しているようで、呑気そうな語り口とは裏腹に、その表情にはどこか暗いものが浮かんでいた。

 

「あーあ、もうちょいでゴールデンウィークだってのにとんだ災難だわ」

 

 (きた)る大型連休を心待ちにしていたのか、それが台無しになってしまったとぼやく智子が天を仰いだ。

 

「勉強会どうするよ? こんな状態じゃやる気になれんのだが」

「そりゃまあ、んなことしてる場合じゃねーけど……」

「ゆうちゃん楽しみにしてたのになー。かわいそうだなー」

 

 智子が親友づきあいをしている「ゆうちゃん」こと「成瀬(なるせ)ゆう」は、琴美にとっての親友でもある。そんな彼女も交え、三人は連休中に智子の家へと集まり勉強会を開く約束をしていた。しかし今のような状況では、とてもではないが乗り気になれない琴美たちなのだった。

 

「つーか、ゆうちゃんびっくりするぞ。私とおまえが入れ替わってるなんて」

「あーうん、どうだろう……成瀬さん、信じてくれるかな?」

「そりゃ信じるよ。ゆうちゃんは私の言うことだったらなんでも真に受けるから」

 

 かの親友であれば、自分の口から事情を説明すれば疑うことなくすんなりと受け入れてくれるはず。そう自信ありげに語る智子ではあったが、己の肉体がいまや別人そのものであるという前提が抜け落ちている。であるからして、普段から琴美の奇怪な言動に戸惑うことの多いゆうが「またこみちゃんが変なこと言ってる」と考えて真に受けない可能性がなきにしもあらずなのであった。

 

「どうせならゆうちゃんと入れ替わりたかったなぁ。そしたらおっぱい揉み放題なのに」

「おいっ」

「こんなゼロの者じゃあ『胸に何もありませんよ?』ってレベルだし……」

(ほんっとコイツは……!)

 

 そのようなことを言って己の胸をこれみよがしに撫でさする智子であったから、もう呆れずにはいられない琴美。先程までは深刻そうにしていた智子が、こうした話題になった途端に調子づくのはもはや性分なのだろうかと考えてしまう。

 

「……なあ、ちょっといいか?」

「あん?」

 

 と、なにやら智子が琴美のほうをじっと見やり、もの言いたげに声をかけた。

 

「お、おっぱい見せてもらっていい?」

「え……は、はぁっ!?」

 

 あまりに突然過ぎる相方のそうした頼みに、琴美は絶句してしまった。もしや気でも触れたのだろうかと本気で思いかけたところで、智子が今しがたの発言を補足しようと言葉を続ける。

 

「ほら、このまま戻れなかったらそういうのも見納めになるかもしんないじゃん? だったら最後に自分の体のこと、ちょっとだけ見ておきたいなって……」

「いや、だからっておまえ、そんな……」

「なあ、頼むよ、見せてくれよ。私の体なんだぞ?」

「あ、う、でも……」

「おねがいっ! 見せて! おっぱい見せてください! この通り!」

 

 音が鳴るほど勢いよく手を合わせ、まるで神仏にでも祈るかのように頼み込んでくる智子。だからといってハイどうぞと見せてやる訳がない琴美ではあったが、遂には「見せてくんなきゃ自殺するぞ」と駄々をこねられてしまったものだから、まことに渋々ながら相方の求めに応じてやるのだった。

 

「じゃあ、ちょっとだけだぞ……?」

「あっうん、分かってる、ちょっとだけ……」

 

 参拝客に見られてしまわないよう参道から外れて茂みの奥へと移動した琴美たちは、そこに生えていた大きな樹木の裏側へと身を潜める。そうして向かい合ったふたりであるが、やがて意を決した琴美がまずはブレザーをはだけさせ、続いてシャツのボタンを上のほうから外していく。

 

「ほ、ほら……見ていいぞ」

「う、うん、じゃあ……!」

 

 そうして胸元がすっかりあらわになったあたりで手を止めた琴美は、最後の仕上げにとネクタイを肩にかけ、己のスポーツブラを控えめにたくしあげてみせた。先程から直立したまま緊張の面持ちで事の推移を見守っていた智子であったが、準備完了と見て早速中腰の姿勢で相方の胸元を覗き込む。

 

「あ、ち、ちっちゃいね、やっぱり……へへ……」

「はい、終わりな」

「バカっ、なにしてんだ!?」

「ちょっとだけっつったじゃねーか。いいだろもう」

「よくない! もっと見せてよぉーっ!」

 

 少しもしないうちに、琴美は胸を隠してしまった。元々ちょっとだけという約束なのだから、琴美としては条件通りにしただけなのであるが、それが智子にはずいぶんと不服であったようだ。

 

「人の体ブン盗りやがった癖して、なにもったいぶってんだ! 隠すほどのモンかよ! 見せろっ、見せろっ、見せろったら!」

「あーうるさいうるさい! 分かったよ、じゃあ好きにしろよ!」

 

 完全に駄々っ子と化した相方の剣幕にややウンザリした琴美であったから、当初の恥じらいも薄らいでしまう。智子の言うようにどうせ他人の体なのだからと、開き直った彼女はもはや躊躇することなくガバリと胸元を広げてみせた。

 

「ほうほう、ふむふむ」

(ったく……)

 

 改めて許可が出たことで、智子はじっくりとお目当てのものを観察し始めた。そんな相方の様子に心の中でため息をつきながら、琴美は元に戻るための次なる手を考える。といっても具体的な手がかりはもはや尽きてしまっていたから、正直言って琴美自身にもどうしていいか分からなくなりかけていたのだが。

 

「ひゃっ!?」

 

 突如胸に感じたその感触に、琴美は思わず飛び上がる。一体なにごとかと思えば、どうも智子がその手で胸を触ってきたようだ。

 

「なにしてんだっ!」

 

 予期せぬことに今再び恥じらいの戻ってきた琴美が、さっと己の胸元を隠してみせる。さすがにそこまでのことは許可できないと、手をおずおずさせる智子に向かって身構えずにはいられない。

 

「いや、せっかくだから揉んどこうかなーって……」

「バカっ! ダメだそんなの。変なこと考えてんじゃねーよ」

「違うって。やらしい気持ちとか、そういうんじゃないんだ。なんかこう、触ってみたいんだよ、単純に」

「はあ? なんだよそれ……」

 

 智子のよく分からぬ訴えを突っぱねようとした琴美であったが、「ただ単に触ってみたい」というその言葉に無視できないものを感じて一旦口をつぐむ。智子に対して似たような思いにかられたことが自分にもなかっただろうかと、心当たりのある琴美は己を振り返ったのだ。

 

「……ほら、触っていいぞ」

「いいの?」

「軽くだからな?」

「あっ、うん、そんじゃ……」

 

 琴美の許しを得た智子は、改めてその胸へと手を伸ばす。さわさわと撫でるようなその手つきがなんともくすぐったい琴美であったが、真剣な顔でお触りに集中している相方のため、どうにか耐えてやろうと口をへの字に曲げる。

 

「あっ、へへ……こみさんもしかして感じてる?」

(バカだ、こいつやっぱりバカだ)

 

 そんな琴美の気も知らず、智子が冗談めかしてそのようなことを言ってきた。余程その頭をはたいてやりたい琴美であったが、今は智子のものとなってしまった自らの肉体にそのようなことをするのも気が引けてしまうので結局はこらえるしかない。

 

「もういいか?」

「あー待って! もうちょい、もうちょいだけ……」

 

 智子のセクハラじみた態度へのお仕置きとして、このどうにも落ち着かない秘め事を切り上げようとする琴美。それを受け、焦る智子がもう少しだけ時間をくれと頼み込む。己本来の体と触れ合うことに余程興味があるのか、まだまだ物足りないようだった。

 

「こっちも恥ずいんだからな、早く終わらせてくれよ」

「うん……」

 

 ともあれそのように急かしつつも、智子が満足するまで付き合ってやることにした琴美。それを受け、智子がまた琴美の胸に触れていく。

 

「お、おい……!?」

 

 のみならず、今度はなにを思ったのか胸に顔をうずめてくる智子であった。熱っぽい智子の体温やら、眼鏡の硬い感触やらが肌に伝わってくる。突然のことに驚いた琴美は相方を押し返そうとしたのだが、智子はぴったりくっついたまま離れようとしない。

 

(まあいいか……)

 

 きっと智子は、己本来の肉体と触れ合う心地よさにうっとりしているのかもしれない。なんとなく琴美には相方の今の気持ちが分かったような気がした。

 そのままじっとして動かなくなった智子であったから、琴美はなんとはなしに片手を相方の頭へ置いてしまう。そうしているといよいよ密着の度合いが増したように感じられ、なんだか琴美のほうまで不思議な気持ちになってくるのだった。

 

「……あーあ、この体ともお別れかぁ」

 

 ふいに口を開いた智子がそのようなことを呟いた。ここに来て智子は古巣との離別がやがて決定的なものになることを予感し、それを名残惜しく思っているのだろうか。「お別れなんかじゃない」と琴美は返してやりたかったが、元に戻る手立てを見つけられなかった場合はそうした結果も避けられないのだった。

 

「ずっと一緒にいてくれたもんなぁ。生まれたときから、ずっと一緒……」

 

 智子がこの世に生を受けてから今日に至るまで、その肉体は長らく魂に寄り添い続けてきた。両者は本来不可分のもので、いわば家族や友人以上に親密な間柄の筈だった。故に智子にとっての一番のパートナーは、他の誰でもない自分自身であったのかもしれない。

 

「ごめんなぁ、今まであんまし大事にしてやれなくて……」

 

 いつも趣味にかまけて夜更かししたりと不摂生になりがちで、日頃から美容などにあまり気を使うようなこともなかった。それでも智子の肉体は、なんら不満に思わずあるじに従い続けてくれたに違いない。しかしそうした蜜月時代も、今となっては届かぬ過去だ。

 

「さよなら……わたし……っ」

 

 絞り出すような声でそう呟く智子は、琴美にギュッとしがみつく。そんな智子がいつの間にか涙していたことを、琴美は己の胸をつたうその熱い雫によって気付かされた。相方の姿がとても小さく、そして弱々しく見えてしまったからか、意識せず琴美はその背にもう片方の手を添え、自分のほうからも抱きしめてやるような格好になった。

 

(さよならなんかじゃない……さよならなんかにするもんか……!)

 

 もし、もしこのまま元に戻れなかったとしても、それで終わりになどしたくない。これから先も、心と体は共にあり続けなければならない。他の誰がなんと言おうと、予期せず借り受けてしまったこの体は本来その胸元ですすり泣く智子のものであり、そんな智子がゼロ呼ばわりしてはばからない体こそが、真の小宮山琴美である「私」の帰るべき場所なのだから。そのように考える琴美はすっと目を閉じて、智子を抱きしめる力をより一層強めていく。

 

(ずっと一緒にいるから……私たち、ずっとずっと一緒だから……)

 

 これから先、例え己の心が完全に変異してしまったとしてもこのことだけは覚えていてほしいと、琴美はそう自分自身に願わずにはいられない。

 どうかこの智子とこれからも、一緒にいてあげてほしい。好きになれない相手かもしれない。度々口論するかもしれないし、時にはとっくみあいの喧嘩になるかもしれない。でも、それでも決して手放してはいけない相手。だからどうか、これから先も智子に寄り添い続けてあげてほしいと、琴美は自身の胸へと刻み込むように強く願った。

 

(…………)

 

 フワフワと、体が浮き上がる不思議な感覚に琴美は包まれていた。天地が曖昧になって、抱きあう智子と一緒に宇宙を漂っているような、そうした感覚だった。それがとても心地よくて、琴美はいつまでもそうしていたい気持ちに駆られてしまう。智子の形がなくなって、琴美の形もなくなって、お互いの境界もなくなって。そうしてひとかたまりになったふたりは、ただただ幸せだった。

 よかった、これでもう寂しくない。それぞれに欠けていたものが、お互いを通じて満たされていく。我らはひとつ。私は小宮山琴美で、そして黒木智子。どっちがどっちか分からなくなったけど、なんにも困るようなことはない。このままずっと一緒にいられたら、ただそれだけでもう幸せ……。

 *

「ぐすっ……」

 

 意識せず鼻をすすった琴美は、己が何かに顔をくっつけていたことに気付く。なんだか今さっきまで時間の感覚が消し飛んでいたような気もするが、ともあれ一旦顔をあげてみる。

 

「へ? あれ?」

「お? ん?」

 

 するとそこには、あっけに取られた様子の智子の顔があった。正確には「黒木智子」そのものの姿がそこにあった。

 

「あれ? うそっ、えっ、なんで?」

「えっ、なにこれ、なにこれ」

 

 琴美も、そして琴美の前に立つ智子も一様にうろたえ始めた。状況の把握に努めようとするあまり、お互いの顔を間近で見やったり、あるいは試しにつねったりしてみるうち、彼女らの中で徐々に理解が追いついてきた。

 

「あ、あのさっ、私、誰に見える!?」

「こ、こみさん、こみさんだよっ! 私は!?」

「黒木さん! あんた、黒木さんだよ!」

 

 己の目で見ることの出来ぬ自身の姿を確認しあったふたりであったが、それを受けて両者の間で益々状況の把握が進んでいった。これはもう、きっと間違いない筈だと。

 

「じゃあこれ、もしかして……」

「もしかしなくても、たぶん絶対……」

「「元に戻ってる──!」」

 

 ふたりが同時に快哉の声をあげた。一体どういう訳なのか、気がついたら自分たちの念願が叶っていたのだ。はしゃぐあまり茂みから飛び出していった琴美たちが、改めて陽の光のもとでお互いの姿を確認しあう。

 

「ほら、やっぱどう見てもこみさんだろー! このメガネ! なんだよこのっ! こんなモンもーいらねーかんな!」

「あははっ、やめろって」

 

 琴美の眼鏡を手でつまみ、ふざけた様子でクイクイと動かしてみせる智子。それがくすぐったくて身をよじる琴美のほうもまた、こうしたじゃれあいが愉快で仕方がないという様子だ。

 

「これこれ、この髪だよなー。この暑っ苦しい、ボサボサの……ってなんだこりゃ、すっげーサラサラ!?」

 

 己の髪に手をやって確認した智子であったが、手入れの行き届いたその質感に思わず仰天したようだ。

 

「こみさんの仕業か? こいつめっ、こいつめっ」

「なんで怒ってんだよ、そこ喜ぶとこだろー?」

 

 ぺちぺちと琴美の肩を叩く智子と、それを半笑いになっていなす琴美。他の参拝客がこの様子を目にすれば、きっと友達同士のふたりが仲睦まじく遊んでいるように見えることだろう。

 

「あっほら、胸! 丸出しだぞ」

「おっと、いけね……!」

 

 と、智子が胸をさらけ出したままであったことにようやく気付いた琴美がそれを指摘してやる。すると智子は慌てて衣服の乱れを整えるのだった。

 *

「じゃあ私、ウチ帰るわ。お母さんにも教えてやらんといかんし」

「あ、悪いけど智貴くんにさ、ちょっと連絡しといてあげてよ。心配してると思うから」

「あー分かってるよ。あいつにゃあ、うんと説教してやらねーと気がすまねーかんな」

 

 鳥居の前で、琴美と智子はそれぞれの家路につく前に少しばかり話をしていた。紆余曲折ありはしたが、こうして無事本来の自分を取り戻せたことに心底安堵している様子が両者の顔には表れているようだ。

 

「ほら、これ忘れんなよ」

「あっうん、ありがと」

 

 するとなにかを思い出した様子の智子が、かばんの中から白いスマホとその充電ケーブルを引っ張り出して琴美へと手渡す。元々琴美の所有物であったそのスマホが、ようやく本来の持ち主の手に戻ったのだ。のちほど光や笑美莉にも連絡しておかねばと思う琴美は、渡された端末をひとまずポケットへ収める。

 

「じゃあな、こみさん」

「うん、また明日」

 

 道路のほうに出たふたりは、別れの挨拶を口にする。琴美は手で支えているその自転車で、そして智子は自身の足で、それぞれ己の家へと向かうのだ。気がはやるのか、そのまま智子のほうはそっけなく背を向けて走り出していったのだが、一方の琴美はなんとはなしにその姿を目で追ってしまう。

 

「…………」

 

 智子の背を見送るうち、琴美はそれを追いかけたい衝動にかられた。何故だか自分が置いていかれるような、そうした寂しさがこみあげてきたからだ。しかしそんなことをしてはならないと、琴美は己を押しとどめる。こうした気持ちは今このとき限りのもの。明日また会うときは、きっといつものふたり。だから決して後を追ってはいけないのだと。

 遠くなっていく智子のその背中が、どことなくこちらに向けて手を振っているようだと琴美には感じられた。

 

「さよなら……わたし……」

 

 だから琴美は、誰にも届かぬ呟きを口にする。そうして自身も背を向けて、そのまま自転車にまたがりペダルを漕ぎ始めた。我が家を目指してまっすぐ進む琴美は、もう振り返ったりしない。自転車は走り続ける、黒木智子としての日々へ別れを告げるかのように。

 

「しょおーりのー、よろこびはー、おーおーなーみーと、なーって……」

 

 お気に入りの曲を口ずさむ琴美の柔らかな歌声が、風に乗って町中へ広がっていく。初夏の訪れを一足先に知らせるその鈴虫の音色に、稲毛の町もどこか耳を澄ませているようだった。

 

END.



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【ホラー】原幕小の七不思議(1)

本作品は智子の小学生時代が舞台で、映画『学校の怪談』を意識させて頂いた内容となっています。また、わたモテ原作とは一部設定が異なります。
▼タイトルロゴ
【挿絵表示】


★イラスト
MoGa様が第一話序盤における智子と今江先生の会話シーンを素敵なイラストにしてくださいました。
作者様に快くご許可頂けましたので、この場を借りてご紹介させて頂きます。
https://twitter.com/MoGa_metalheart/status/1703349604950143165


ふしぎのはじまり

 運動場のすみっこのほうで、何人かの男子児童たちがバスケットボールをしていた。その日の授業が終わってからもすぐ帰らず、ランドセルを脇に置いたまま学校に残って友達と遊んでいるようだった。最終下校時刻も近づいてきたころで、運動場はすっかりひとけが少なくなっていた。

 

「よっちゃん、パスパス!」

「うしっ、そらっ」

 

 よっちゃんと呼ばれた男の子が、チームを組んでいる友達に促されてそちらへボールを放り投げる。だけどもボールは見当違いな方向へ勢いよく飛んでいってしまった。

 

「どこ投げてんだよー」

 

 さっきまでよっちゃんとボールを取り合っていた男の子がもんくを言う。ボールは少し離れた先のブロック塀に弾かれ、そのまま妙な軌道をえがいてうまい具合に校舎の裏側へと吸い込まれてしまった。

 

「あちゃー」

 

 これは面倒なことになったと、ボールを回収しにいったよっちゃんはため息をつく。彼が手をかけるフェンスの先には校舎の裏側と塀のあいだを通る狭い路地が伸びていて、ボールはそのずっと先に落ちていたからだ。

 

「先生呼んでくる……?」

 

 よっちゃんのあとを追ってきた男の子たちのなかで、さきほどパスを受け損ねた子がそう提案する。校舎裏への進入を阻むそのフェンスにはゲートが設けられていたのだけど、これには鍵がかかっていてあけることができない。おまけに「立入禁止」の看板まで取り付けられているものだから、ここは先生に相談するしかないと考えたようだ。

 

「いいっていいって」

 

 だけどもよっちゃんはどうってことないように言うと、おもむろにフェンスをよじのぼりはじめた。結構な高さがあったけれど身軽なよっちゃんはあっという問にてっぺんまでたどり着き、今度はそこから飛び降りるようにしてフェンスの向こう側へと着地する。

 

「ヨシ、おまえ呪われんぞー」

 

 さっきよっちゃんのミスを咎めていた男の子が冗談っぽくそんなことを言った。そうしたら、よっちゃんなのかヨシなのか、名前を呼ばれた男の子はちょっとズレてしまったメガネをかけなおしてから、みんなのほうへと向き直る。

 

「ちょ、おまえらぜってーどっか行くなよ? マジそこいとけよ?」

 

 友達のおどかすような言葉をどう思ったのか、どこにもいかないでほしいとみんなに頼み込むよっちゃん。日の差さないこの校舎裏は日中でも薄気味悪く、しかも安易な侵入を拒むように封鎖されていたので、それだけによっちゃんたちのクラスでも色んなことが噂されていた。この校舎裏はいわく付きの場所で、立ち入りが禁止されているのもそれが理由だからとか、フェンスを越えて侵入した者は祟られてしまうだとか、そんな感じの怪談じみた噂だった。

 

「絶対だぞぉ、絶対だかんなぁ?」

 

 少し歩いてはサッと振り返り、同じ言葉を繰り返すよっちゃんはだけどもおどけているようで、それを受けて男の子たちも笑ったりしている。誰かが「よっしゃみんな帰ろうぜ」と急に言い出してみせれば、「うぉおい!」と叫んでフェンスの手前までダッシュしてくるよっちゃんだったから、それが益々みんなの笑いを誘った。結局噂は噂で、よっちゃんを含めて誰も本気になんてしていないのだ。

 

「ボールボールっと……」

 

 そうしておふざけを終えたよっちゃんは、小走りで校舎裏の奥のほうまで進んでいく。路地の突き当たりにはひとつの古びた小屋が建っていて、ボールはその扉の手前に転がっていた。

 

「お……?」

 

 ボールを拾い上げたよっちゃんは、ふとあることに気が付いた。小屋の扉が少しだけあいていたのだ。以前この校舎裏に面白半分で侵入したことのあるクラスメイトから聞いた話では、その赤錆びた鉄製の扉には鍵がかけられていてあけることができないらしい。というより、そもそも今まで誰もこの小屋の扉があけられているところを一度だって見たことがないのだった。

 

「なあ、あいてるぜこれ」

「なにが?」

「いや、だから小屋が」

 

 少し離れた先で待っている友達を振り返って、よっちゃんは小屋を指さしながらその些細な異変を報告する。

 

「マジで!? なかどーなってんの?」

「待て待て、ちょっくら見てみっから……」

 

 あかずの扉があいていた。ただそれだけで男の子たちの好奇心はすっかり刺激されてしまったようだ。小屋の内部の様子について尋ねられたよっちゃんは、試しに確認してみようとその扉に手をかける。

 

「やめなよ、もう戻ってきなよ」

 

 しかしそうしたおこないを不安に思ったひとりの子がよっちゃんを引きとめた。妙なことをせず、ボールを回収して自分たちのもとへ帰ってくるよう促しているのだ。

 

「大丈夫だって」

 

 だけどもこんなチャンスは滅多にない。噂のあかずの小屋が一体どういう訳かあいているのだから、一度ぐらいはなかがどんな感じになっているのか目にしておきたいよっちゃんだった。そうしてみんなにも自分の見たものを教えてあげようと思っていた。

 

「うおっ、まっくら……!」

 

 薄暗い校舎裏にあるこの小屋だったから、その内部は輪をかけて暗かった。コンクリート造りの小屋には窓の類も一切設けられておらず、明かりがなければなかになにがあるのかよくわからない。それにしたって夜中でもないのだから多少は入り口から差し込む光によってなにかが見えそうなものだけど、まるでまっくろな煙が小屋のなかを満たしているかのようだった。ここは友達に頼んでランドセルのなかの携帯電話を取ってきてもらって、そのフォトライトを照明がわりにしてみよう。そうよっちゃんが思い立った矢先──

 

「こんにちわ」

 

 よっちゃんの視線の先に、顔があらわれた。それはまっしろな女の子の顔だった。暗い小屋の奥のほうで、その女の子の顔だけがぽっかりと浮かびあがっていた。そうして女の子はおもむろに口をニパァ……と大きくあけ広げ、よっちゃんに笑いかけてくる。よっちゃんは呆然として、女の子の真似でもするかのように口をあんぐりとあけたまま固まってしまった。

 

「遊ぼう?」

 

 女の子がそう言うと暗闇のなかから突然手が伸びてきて、よっちゃんは腕を掴まれてしまった。そうして小屋のなかに引きずりこもうとしてきたので、我に返ったよっちゃんは慌ててふんばる。取り落としたボールが足もとを跳ねていくなか、よっちゃんは友達のほうへ振り向いて声を張りあげた。

 

「なんか! なんかいたっ! めっちゃひっぱってくる!」

「どうした!?」

「なんかいるって! やばいって! マジで!」

 

 涙声で必死に訴えるよっちゃんだったから、ここでようやくみんなにもよっちゃんがただならぬ状態にあることがわかった。みんなが目を見張ってフェンスごしにその様子を確認してみれば、小屋のなかから伸びてきた白い手によっちゃんが掴まれているらしいことが確かに見てとれたものだから、揃いも揃って腰を抜かしてしまうのだった。

 

「うわああああ────っ!!」

 

 女の子のひっぱる力はものすごく強かったから、断末魔のごとき悲鳴をあげるよっちゃんは抵抗むなしく暗闇へとすっかり引きずりこまれてしまった。そうしたら、それを合図に小屋の扉がひとりでに勢いよく閉じてしまった。

 

「せ、せんせいっ、せんせい呼ぼうっ……!」

 

 あまりにも突然の出来事にしばらく言葉を失っていた男の子たちだったけれど、やがて彼らはほうほうのていで職員室に向かって走り出していった。そうして誰もいなくなったその場で、よっちゃんの取り落としたボールだけが小屋の前でぽつんと転がっていた。

 

原幕小の七不思議

HARAMAKUSYOU NO 7HUSIGI

 

「でね、そのあとすぐ先生が来て小屋のなかを探したんだけど、誰もいなかったんだって。結局よっちゃんはそのまま行方不明になっちゃったらしいよ」

「ふーん……」

「たぶんあの世に連れてかれちゃったんだろうね、【あかずの小屋の花子(はなこ)さん】に」

 

 赤白帽にランドセルを背負った子供たちの姿があちらこちらに見受けられる朝の通学路で、ふたりの子供が並んで歩いていた。ひとりはファンシーなデザインのキーホルダーをぶらさげた空色のランドセルの女の子で、もうひとりはサッカーチームのステッカーを貼ったりしている紺のランドセルの男の子。この子たちは今朝一緒に自宅の玄関から出てきたのだけど、それからずっと女の子のほうが連れあいにひとつの話を聞かせてあげていた。

 

(とも)くんも気をつけたほうがいいよ? あそこにはなにがあっても絶対はいっちゃダメだからね」

「その話、姉ちゃんが自分で考えたんだろ?」

「あーあ、信じてないんだぁ。知らないよぉ? そんなこと言ってたら、今日あたり花子さんにひっぱられちゃうかも……ほらっ!」

 

 姉ちゃんと呼ばれた女の子は、いまいち反応の薄い男の子におどかすようなことを言って、彼の腕を突然ぐいとひっぱった。そしたら男の子はちょっとだけ身を縮こまらせつつも、すぐさまその手をうっとうしそうに振り払った。

 

「あっ、今びくってなった? ねぇ、智くんびくってなったでしょ?」

 

 彼の様子を見た女の子は、これみよがしにはしゃいでみせる。自分がさっき聞かせてあげたその()()()に、男の子がすっかり震えあがっていると思ったようだ。智くんと呼ばれた男の子はそうした小馬鹿にするような相手の態度に嫌気がさしたのか、なにも言い返すことなく軽いため息をついた。

 

(我ながらケッサク怪談だねこれは。ゆうちゃんにも教えてあげよっと)

 

 智くんの反応に気をよくした女の子は、そんなことを考えながらてくてくと歩いていく。さっきの怖い話は智くんから指摘された通り、じつは彼女が自分なりに考えたものだ。正確に言うと、これはきのう教室でクラスメイトたちの会話に聞き耳を立てていた際に知った噂話がもとになっていて、そこへかなり脚色を加えたものだった。行方不明になったとされるよっちゃんなる男子も、実は彼女のクラスメイトのひとりだ。話のなかで勝手に被害者にされてしまった彼であるが、実際はもちろん元気なままで、きっと今ごろは登校中か、あるいはすでに学校で友達と遊んでいることだろう。

 ゆうちゃんというのは、彼女と仲のいい友達のことだ。そしてさっきから「彼女」とか「女の子」とばかり呼んでいるこの子の名前は智子(ともこ)という。智くんから「姉ちゃん」とも呼ばれていたけれど、これは実際に彼女が智くんのお姉さんだからだ。智子と、そしてその弟である智貴(ともき)くんはひとつ違いの姉弟なのだった。

 

「おい智貴、また姉ちゃんと一緒かよおまえ」

「ははっ、やっぱシスコンだな」

 

 別方向の道からやってきた二人組の男の子たちが、智子たちの姿を見るや急にそんなことを言って笑いものにしてきた。

 

「とーもくん! シースコン! とーもくん! シースコン!」

「うっせえ! ちげーっての!」

 

 合唱しながらはやしたててくる彼らに心のなかで「バカガキどもめ」と毒づいた智子だったけれど、一方の智貴は声を荒げて食ってかかる。

 

「ケッコン! ケッコン! おねーちゃんとケッコン!」

「ころすっ!」

 

 ついには彼らに向けて物騒な言葉を口にした智貴が、目をつりあげて猛ダッシュした。そうしたら、それを合図に男の子たちはわっとなって逃げていく。

 

「あっ、ちょっと……!」

 

 そうして智子が引きとめるのも聞かず、智貴はあっというまにその場からいなくなってしまった。さっきの男の子たちは智貴の友達で、彼らはたまにああして登校中にからかってくることがあるのだが、最近では智貴が目の色変えて相手するものだから、すっかり格好のからかいネタとしておもしろがられてしまっているのだった。それはまだいいとしても、智子としてはああして弟に去られてしまうとひとりぼっちになってしまうので、それがなんだかさみしかった。

 

「……智くんのばーか」

 

 姉弟が仲よしでなにが悪い。智くんもあんなにムキにならなくたっていいのに。シスコンなのも、お姉ちゃんと結婚したがってるのも、全部本当のことじゃないか。なにを今更恥ずかしがることがあるのやら。最近すっかり生意気になっちゃって。こないだまで自分のこと「ぼく」って呼んでた癖に。そんなふうにあれこれ考えているうち、さっきまでの楽しい気持ちもすっかり消えてしまう智子だった。

 こんなときゆうちゃんがいればなぁと思う智子は、ちょっと前まで毎朝自分の隣にいたはずの友達を懐かしむ。このゆうちゃんというのは以前まで智子と同じ学校にかよっていた同級生で、朝の登校はもちろん放課後になって下校するときだっていつも一緒だったのだけど、今年の春に家庭の事情で引っ越すことになり、それにともない転校してしまったのだった。といっても引っ越し先はそんなにも遠くなくて、自転車でもあればあまり苦労せずお互いの家を行き来できるぐらいの距離だ。メールや電話での交流は続いているし、駅前にある学習塾のほうでしょっちゅう顔を合わせたりもしている。なのだけど、それでもやはり以前と比べたら両者の付き合いはぐっと減ってしまった。ゆうちゃんとおしゃべりしていたら学校なんてあっというまなのになと、なんだか学校に着くまでの時間が今の智子には長く感じられてならない。

 他に友人らしい友人もいない智子に声をかけてくれる子はいそうになかった。以前はもっと友達がいたはずなのだけど、五年生に進級した今となってはクラスの誰とも遊ばないし話さないことが彼女の当たり前になってしまっていた。なぜそうなったのか、どうしてこうなったのか。智子としてもこうした自分の境遇についてはさっぱり原因がわからず首をひねっていたものだ。

 

「……」

 

 さっきよりもいくぶんかペースの落ちた智子の足どりが、いつもの通学ルートから外れた方向へと向かっていく。その先に、今の智子を少しだけなぐさめてくれそうな存在が待っているからだ。

 

(あっ、いるいる)

 

 智子の視線の先で通りすがりの子供たちからなでてもらったり、芸をさせられたりしているのは一匹の犬だった。とあるお宅で飼われているこの犬は、ときおりこうして玄関前に繋がれていることがある。とてもおとなしくて人懐っこい性格だったから、登校中にこのお宅の前を通る子供たちは彼のことをかわいがっていた。彼が飼い主からどんな名前で呼ばれているかなんて知らない智子だったが、耳がたれてちょっとマヌケそうな顔つきをしたこの犬のことが好きだった。

 ともあれそんな彼をひとなでしていこうと思った智子は走り寄ろうとしたのだが、それを阻むものがあったためにすぐさま足を止めてしまう。智子より先に犬の前でしゃがみこんだひとりの子供のせいだった。

 

(ヤンキーだ……!)

 

 それは智子が苦手としているクラスメイトの女子だった。智子としては特定の相手に限らずクラスメイト全員が苦手と言えたが、そのなかでもとりわけ目の前の相手は避けたい存在だった。智子が心のなかでヤンキー呼ばわりしたその女子は、背にかかるほど伸ばした乱れ気味の髪に金色のメッシュを入れていたのだけど、智子からするとこういった形でのオシャレは不良の証なのだ。

 不良は人に迷惑ばかりかけて、頭も悪くて、自分勝手で、気にいらないことがあるとすぐ怒鳴ったり暴力で解決しようとする。勉強しないでタバコばっかり吸うし、バイクに乗ってブンブンうるさいし、みんなの使う物をわざと壊してゲラゲラ笑ったりもする。そんな不良たちが智子は大嫌いだったから、視線の先にいるあのヤンキーみたいな身なりの子もきっとそうした類の人間に違いないと決めつけて警戒していた。事実、この女子児童は普段から他のクラスメイトや先生に対する態度もあまりよいほうとは言えず、むしろ粗暴な面が目立つきらいがあったから、それが益々智子の苦手意識を強めていた。

 

(今日はやめとこうかな……)

 

 くだんのヤンキー娘が耳たれ(いぬ)に何度かお手をさせたり、うんとなでてあげたりしているのが遠目にもうかがえる。あの調子だと当分はあそこに居座って犬と遊ぶつもりなのだろうと見た智子は、なぐさめ相手との接触を諦めた。もし自分も一緒に犬を触りにいったとして、それであのヤンキー娘から妙なインネンをつけられでもしたら嫌だったからだ。

 

(いいこと考えた!)

 

 そんな智子のなかに、あるひらめきが生まれた。たちまち顔を輝かせた智子がなにを思ったのか急に走りだす。そうしてヤンキー娘と耳たれ犬のそばを通り過ぎる際に「ちんちん!」と言い放ち、そのまま学校へと続く坂を一目散に駆けのぼっていくのだった。途端、智子の背後で女の子の悲鳴があがった。これがあのヤンキー娘のものであることを、智子は振り返らずともわかっていた。

 

(へへーんだ、ざまあヤンキー!)

 

 してやったり。もうおかしくてたまらないといった様子の智子は、顔いっぱいに笑みを浮かべた。智子はあの耳たれ犬に奇妙な癖があることを知っていて、それを利用したイタズラを仕掛けたのであった。彼は人から「ちんちん」と呼びかけられることで、その奇癖──というより一種の芸を披露してくれるのだ。それを目の当たりにさせられたあのヤンキー娘は今ごろみっともなくうろたえているに違いないと、このまま逃げ去る前に智子は彼女の様子をひと目見ておきたくなった。

 

「このクソ犬!」

 

 走りながらも背後を確認してみれば、ヤンキー娘が耳たれ犬を怒鳴りながら彼の顔に両のゲンコツをグリグリと押し当てていたようだ。これはちょっと気の毒なことをしたかもしれないと、なすがままの耳たれ犬にいささか申し訳なさを感じてしまう智子。

 

「あたっ!?」

 

 前をよく見ず走っていたせいで、智子は進行方向にいた人にぶつかってしまった。たまらず尻もちをついた智子が見上げてみれば、姿勢を崩しながらも誰かに支えられつつかろうじて立っていたひとりの女の子がそこにいた。うっすらと見覚えのあるその子はさっきのヤンキー娘と同じく智子のクラスメイトだったのだけど、これまで話したことなんて一度もない相手だった。

 

「……大丈夫?」

「あっ、うん、ごっ、ごめんなひゃい……!」

 

 女の子は耳につけていたイヤホンをさっと外し、智子へ手をさしのべた。その手を取った智子は引き起こしてもらいながら、おどおどした様子で素直にあやまってみせた。すると相手の女の子は「別にいいよ」とだけ言うと、そのまま歩みを再開しつつイヤホンをまた耳にはめようとする。

 

「ゆり、やっぱり歩いてるときぐらい外したほうがいいよそれ。先生にも言われたでしょ?」

「あー、うん……」

 

 ゆりと呼ばれた子は隣を歩く友達らしき別の女の子からそのような注意を受けたので、結局イヤホンを握ったまま上着のポケットに手をつっこんだ。ポケットのなかにはおそらく携帯音楽プレーヤーでもはいっているのかもしれない。そんなもの持ち歩いて登校中に聴いたりしてもいいんだろうかと思う智子だったけれど、すでに先生から注意を受けたことのあるらしいその子は、それでもあまり懲りてはいなかったようだ。だけどもさすがに今しがた智子と激突したばかりだったから、少しは危ないと思ったのか友人からの忠告を素直に受け入れるのだった。

 

「ふぅ……」

 

 一息ついた智子が改めてヤンキー娘を見やってみれば、今度は騒ぎを聞きつけたらしい耳たれ犬の飼い主となにやら口論しているようだった。どうもおおごとになってきているようだけれど、騒動の張本人である智子はそのまま知らんぷりして学校へと向かう。

 そうしているうち学校の正門が見えてきて、そちらからセミたちの鳴き声がミンミン、シュワシュワとさかんに聞こえてくる。七月もなかばを過ぎたこの時期になると学校の敷地にたくさん生えている木々はセミだらけになり、智子の自宅付近にある森にも負けないくらいの規模で彼らのやかましい大合唱が日中ずっと続くのだ。

 

(うわっ、「デリカシーゼロ」だ……!)

 

 だけどもセミなんかよりずっとやかましい存在が校門の前に立っていたので、智子は顔をしかめずにはいられなかった。「デリカシーゼロ」というのは智子が自分の担任の先生につけたアダ名のことで、この厄介な先生に智子はこれまで度々苦い思いをさせられていたのだった。

 

「おはよう!」

「あっ……お、おはょぅ、ござぃ……」

 

 ランニングシャツ姿で元気よくあいさつしてきたその女の先生に、智子はあまりにも控えめな声で応える。学校で誰かと話そうとするとうまくしゃべれない智子だったけど、この先生を前にすると一層その傾向が強まってしまうのだ。

 

「ほら聞こえない。もっと大きな声で」

「へ? ぁ、は、はぃ……」

 

 そのままうつむき加減で先生の前を通り過ぎようとした智子だったけど、そのように呼びとめられてしまったものだから「さあはじまったぞ」と身をこわばらせた。

 

「お、おひゃ、ごじゃまっしゅ……!」

「ちゃんと言えてないでしょ。もう一回」

 

 先生からあいさつのやりなおしを求められた智子はいっしょうけんめい声を絞り出そうとするのだけど、今度は舌がうまく回らず何度もかんでしまう。それが不満なのか、先生はなおもやりなおしを命じる。こうなったらこの先生が相当しつこいことを、智子はこれまでの経験からよくわかっていた。

 

「おはようっ! ございっ! ますっ!」

 

 カンベンしてよと思いつつ、智子はこのうんざりするやりとりを早く終わらせるべくヤケクソ気味に声を張り上げた。途端、登校してきている他の子供たちがクスクスと忍び笑いを漏らしながら校門を通り過ぎていくので、智子にはそれが恥ずかしくてたまらなかった。

 

「そう、いつもそんな感じでね」

「アッ、ハイ……」

 

 満足したらしい先生からようやく解放された智子は、ふらつきながら校門をくぐっていくのだった。

 *

(なんであんなのがわたしの先生なんだよ、もう……)

 

 昇降口へと向かうメタセコイアの並木道を歩く智子は、朝っぱらから嫌な目にあわされたと心のなかで繰り返し悪態をついていた。デリカシーゼロなる先生の本名は荻野(おぎの)といって、五年生となった智子の新しい担任だった。ずいぶん教育熱心で、自分の受け持った児童たちのことをなにかと気にかけてくれる立派な先生なのだけど、ややおせっかいが過ぎたり強引なところもあったりして、更には他人の気持ちの機微に少々疎かったりするのがよろしくなかった。なので智子のようにデリケートな神経の持ち主にとってはひたすら苦手でしかなかったのだ。

 四年生のときまではよかったなぁと、智子は親友のゆうちゃんと共に過ごした日々へと帰りたくなってしまう。今と違ってクラスメイトとも物怖じせず喋ることだってできたし、いつのまにか「()姉ちゃん」と呼んでくれなくなった弟の智貴も、このころはずっと素直で愛想がよかった。三年生のときから繰りあがりで受け持ってくれていた担任の先生はとても優しくて大好きだったし、みんなのお手本になるようないいことをして、帰りの会でうんとほめてもらったりしたこともよくあった。当時の自分はクラスメイトからきっと尊敬されていたし、好かれてもいたはずだ。乱暴者のヤンキーはそのころ他のクラスにいたから、これもよかった。

 今年はなんだかハズレかもしれないと、輝かしい過去とみじめな今とを比べてしまうのは今日に限ったことではない。しょうがなしに歩みを進める足どりとは裏腹に、その心は学校から遠のいていくばかりであった。

 

「は────……」

 

 下駄箱でうわばきにはきかえた智子は、被っていた赤白帽を脱ぐと長いため息をついた。今日もまた学校での同じ一日がはじまる。楽しみにしている夏休みまであともう少しだが、それまではこの憂うつな日々が続くことになると思うと授業がはじまる前から早くも帰りたくなってしまう。さっき荻野先生に絡まれた際の心労が尾を引いているせいか、ヘアゴムでピッグテールふうにまとめられたそのマリモのようなふたつの髪の房も心なしかしぼんでいるようだ。

 ここから先のことは、特に変わったことも起きなかったのであまり書くことはない。お昼まで授業を受けて、給食を食べて、昼休みになったら図書室で本を読んだりして、そのあと校内を掃除する。それからまた午後のぶんの授業がはじまって、最後に毎週恒例のクラブ活動を終えたら、あとは帰りの会であいさつをして下校するだけだ。そのあいだじゅう、校内にいる色んな種類のセミたちがずっと鳴きどおしだった。

 

 ◆

 

「ふ────……」

 

 またしても長いため息をついた智子が、だるそうに席を立った。今日の授業はひと通り終わったからもう帰ってもいいのだが、まだまだ友達と放課後のおしゃべりを楽しもうとする居残り組の子供たちも多い。しかし智子はそうした周囲に目もくれず、すぐさまランドセルを背負って教室を出ていく。今日一日、結局誰ともほぼ喋らずじまいだったのだけど、こんなことは彼女にとっていまや日常茶飯事だった。

 

(智くん、また先に帰ってる)

 

 他所の教室を覗きこんだ智子が、しばらくなかを見回したあとで少しがっかりしたような顔になる。自身がかよう五年一組の教室のすぐ隣には智貴がいる四年三組の教室があったから、帰りの会が終わってすぐそちらへ出向けば彼をさそって一緒に下校することができるのだけど、最近はその弟が中々つかまらない。智子がやってくることを見越した彼が、いち早く帰り支度を済ませて逃げるように教室を出ていってしまうからだ。ちょっと前までは毎日一緒に帰ることが当たり前で、当時は旧校舎のほうにある三年生の教室で姉の迎えが来るのを律儀に待ってすらいたというのに、それがずいぶんな変わりようである。学校で友達にシスコン云々とからかわれるのがよっぽど嫌なのかもしれないが、こうした弟の変化はただでさえ孤立気味な智子のことを益々ひとりぼっちな境遇へと追いこんでいった。

 

(ばーか! ばーか! 智くんのばーか!)

 

 そんな弟の薄情なふるまいにおこった智子は、もう知らないとばかりに教室からぷいと顔をそむける。そうして彼女は指に引っかけている手さげで壁をぺちぺち叩きながら放課後の廊下をのし歩いていく。トイレに立ち寄りがてら携帯電話の電源を入れた智子は、まだ気がおさまらないのか弟のメールアドレスあてに「なんで先に帰っちゃうの!?」と、いかりの絵文字込みでメッセージを送りつけたりするのだった。

 そうして自分も家に帰るのかと思いきや、智子は下駄箱に向かわず二階の渡り廊下を通って旧校舎──正式にはB棟とされている場所へと足を運んだ。旧校舎二階の入り口にある掲示板の前で立ちどまった彼女は、そこに貼り出されている小学生向けの購読新聞を黙々と立ち読みしはじめる。といって別に新聞記事そのものに興味があるという訳ではなく、これは紙上に載っているお気に入りの連載マンガの最新話を読みたかったからだ。『宇宙のワンワン』なるそのマンガは今年の一月から連載がはじまったのであるが、それ以前は同じ作者・谷本(たにもと)ニコルン先生による『モフマロタイムス』が連載されていて、智子は二年生ぐらいのときからずっとこれら一連の新聞マンガを愛読していたのだった。

 

(七不思議ねぇ……)

 

 今回のエピソードをすっかり読み終えた智子は、他になにかおもしろそうなことは書いていないかと紙面に目を走らせていた。そうしたら、〈キミの学校の七不思議〉なんていう見出しの、全国の小学生たちから寄せられた怪談の特集記事を見つけたようだ。

 

(はーん、いかにも子供だましって感じだね)

 

 だけどもそこに書かれていた内容は、いずれも智子の目からするといささか幼稚に映った。これなら自分が今朝がた弟に披露してあげた創作怪談のほうがよっぽど怖いし本格的だ。もしかすると怪談の内容を新聞社に送ってみたら、それがウケてこの手の記事に載せてもらえるかもしれないと、智子はそのように思った。もし実際にそうなったとしたら、きっとクラスのみんなにも自慢できることだろう。

 

(そうだ! もっとたくさん考えて、ウチの学校の七不思議ってことにすれば……!)

 

 ひとつふたつ送りつけるよりかは、いっそある程度まとまった量の怪談を考えた上で「七不思議」としてはどうか。これなら夏休みの自由研究としても格好の題材だから一石二鳥になると、智子は自分のこうしたひらめきに興奮をおぼえた。智子のかよう学校にはまとまった形で代々語りつがれるような怪談の類は存在していなかったので、もしその七不思議が新聞に載ってこの学校の児童たちのあいだで話題になれば、我が校はじまって以来の七不思議の語り部となった自分は「怪談に詳しい黒木(くろき)さん」として一目置かれるに違いないと考えた。「黒木」というのは智子の苗字なのだけど、この黒木智子という少女はなにかにつけて人から尊敬してもらいたがるところがあり、なおかつ妙なところで根拠のない自信を抱きがちな子供だったので、まだなにもはじまっていないうちからもうすっかり自分が偉くなったような気になってしまうのだった。

 

「黒木さん」

 

 未来への展望に思いを馳せていた智子は突然誰かから声をかけられたので、はっとなってそちらを振り返る。そうしたら、ひとりの女の人がいつのまにか智子のそばに立っていた。

 

「こんにちわ」

 

 やわらかな声と表情であいさつしてきたのは、智子が四年生のときまでお世話になっていたもと担任だった。この人は今江(いまえ)という名の先生で、現在は三年生の子供たちの面倒を見ている。本日の授業を終えて職員室に戻るところだったのか、プリントの束や書類なんかを抱えているようだった。

 そんな先生の姿を見た智子は、あいさつがわりに屈託のない笑みを顔いっぱいに浮かべる。

 

「智貴くんは?」

「帰っちゃった」

 

 今江先生は智子がいつも自分の弟と一緒に下校していたことをよく知っていたので、この場にいない智貴のことが気になったのか、そのようにたずねてきた。自分を置いて帰った弟に気を悪くしていた智子はしかし、もうそんな気持ちなど忘れてしまったかのようにあっけらかんと答えてみせる。

 

「ねえ先生、これ見てこれ!」

 

 そんなことよりも、と言わんばかりの勢いで、智子は今しがた読んでいた七不思議の記事を指さした。

 

「あっ、それ先生も読んだ。おもしろいよね」

「えー、そうかなぁ。こんなの全然つまんないよ。なんかガキっぽい話ばっかりだし、いかにもありきたりって感じするもん」

「うーん、でも先生はこういうの好きかなー」

 

 自分から話を振ったくせしていきなり否定からはいっていく智子だったけれど、今江先生のほうは特に気を悪くした様子もなく話題に乗っていく。

 

「わたしの知ってるやつのが絶対おもしろいよ。弟に話してあげたらメチャクチャ怖がってたし」

「どんな話なの?」

「ほら、C棟の裏になんかブキミな小屋があるでしょ? あそこってね、ホントはかなりヤバくて……」

 

 智貴を震えあがらせたというその話に今江先生が興味を示したので、智子はここぞとばかりに自信作の怪談を披露してあげる。クラスのなかではいつもだんまりしている智子だったけれど、それがウソのように今の彼女はすこぶる饒舌だった。心を許せる相手を前にしたときの智子は、かくもおしゃべりになってしまうのだ。一方の先生はというと、智子の口から語られる怪奇譚にすっかり聞き入っているようだった。

 

「すごい! そんな話、はじめて聞いたかも。もしかして黒木さんが考えたの?」

「へっ? あっ、いや、えーっと……」

 

 これはほんとにあった怖い話です、と言い張るつもりの智子だったけれど、よくよく考えずともひとりの児童が行方不明になるなんていう大事件が過去にあったことを教師たる者が把握していないはずはないので、話の内容が誰かの創作であるということはすぐさま見破られてしまったようだ。

 

「ま、まあ……きのうちょっと思いついちゃって……へへ……」

「わぁー、やっぱり。黒木さん、怪談づくりの才能あるかも」

「あっ、先生もそう思う?」

 

 今江先生にほめられて益々自信のついた智子は、さっき企んだ新聞社への投稿が必ずや自分に成功をもたらすであろうことを確信した。

 

「あのさ、いまちょっと考えてることがあって……」

 

 だから智子はこのように切り出し、くだんの七不思議作成計画について打ち明けることにしたのだった。そうして計画の内容を語ったところ、今江先生は「すごくおもしろそう」とたいへん好意的な反応を見せてくれた。もとよりこの先生ならきっとこんなふうに自分の言うことを肯定してくれるに違いないと思っていた智子だったから、期待通りの感触にすっかり気をよくする。

 

「先生もなんかそういうの知らない? この学校の怖い話とか」

「うーん、そうだねぇ……」

 

 せっかくだからここは先生にも少しばかり協力してもらおう。智子はそう考えて、なにかしら怪談の題材になりそうなネタの提供を求めた。あかずの小屋の花子さんの話がそうであったように、智子は他人から得た噂話の情報をもとに、それを自分の手でより怖く、よりおもしろい形へとアレンジしてあげるつもりでいたのだ。

 

「昔は【例のあの人】っていうのが流行ってたかな」

「なにそれ、どんな話?」

 

 ずっと昔の話だが、今江先生はもともとこの学校の卒業生だった。だから当時の児童たちのあいだでよく噂されていた怪談のことを口にしたのだけど、智子がそれに興味しんしんといった様子で食いついた。

 

「えっと……髪が長い女の人のおばけなんだけど、たとえば口から血を流して廊下をよつんばいで這い回ってるとか、『おまえらが悪い!』って叫びながら追いかけてくるとか、カッコいい男の子がいると恥ずかしがって出てこないとか、いつのまにか教室のすみっこのほうにいるとか……。あっ、あと出くわしちゃったときは『ブキショーニン』って唱えつづければ退散するっていうのもあったね」

「えー、ヘンなのぉ」

 

 怖いのか、珍妙なのか、よくわからないおばけだった。いまいちイメージがつかみづらい「例のあの人」だったけど、今江先生によれば当時の子供たちはこのおばけに対して数多くの設定を付け加えていたそうで、先生自身もすべては把握しきれていなかったらしい。実際にこのおばけを目撃したと証言する児童もそれなりにいたそうで、それが益々子供たちをおもしろがらせてかなりのブームになっていたのだとか。

 

「他にもなんかあった? 例のあの人じゃないやつ」

「あとは……そうだねー……」

 

 もっと色々聞かせてほしいとせがまれた今江先生は、口もとに手をやって思案する。そうしてしばらくすると「あっそうそう」と、なにかを思いだしたような顔になった。

 

裏幕(うらまく)っていうのもあったよ」

「ウラマク?」

「裏の原幕(はらまく)小学校って意味なの。だから略して()()って」

 

 この噂話も初耳だった。今江先生の話によれば、智子がかよっているこの学校──原幕小学校には秘密の場所が存在していて、そこから異次元に存在するもうひとつの原幕小学校へ行くことができるというのだ。

 

「もし間違って裏幕に行っちゃったら、もう二度と帰ってこれないんだって。怖いよねぇ」

「先生、それすごくいいよ。かなりおもしろいかも」

 

 この裏幕なる噂に強く興味をひかれた智子は、早速これを創作怪談のネタとして採用することに決めたのだった。

 

「ねえねえ、秘密の場所って、もしかしてあのあかずの小屋?」

「えっ? どうだろ……ちょっとわからないかな」

「たぶんそうだよ。そういうことにしたら、もっとおもしろくなるよ」

 

 そしたら花子さんに引きずりこまれてしまった者の行き先は裏幕だったということにできる。異なる怪談同士にこうしたつながりを与えればより一層深みを持たせることができそうなので、智子は自分なりに遠慮なく脚色していくつもりだった。それにしても意外や意外、この学校には中々に骨太な怪談がすでに存在していたのだ。それが語りつがれることなく自然消滅してしまったからこそ、いまや当時を知る大人たちの記憶にしか残っていなかった訳であるが、このようにすっかり埋もれてしまった過去の噂話を掘り出して、それにみずから新たな命を吹きこむことに智子はわくわくしたものを感じはじめていた。

 

「ねえ先生、そういうのもっとちょうだい! 知ってるやつぜんぶ」

「ごめんね。もっとあったはずなんだけど、先生が覚えてるやつはこれぐらいかな」

「え~」

 

 今江先生が言うには、本当はもっと色んな怪談がこの学校には存在していたらしい。だけども学校を卒業したのはもうずっと昔のことなので、さすがに忘れてしまったとのことだ。その返答に残念そうな声をあげる智子だったけど、別にそれならそれで構わないとも思っていた。今江先生ひとりに聞いただけですでにふたつもネタが手にはいったのだから、この調子で他の人たちにも色々聞いてみればもっとたくさんの情報が得られるに違いない。となれば次は誰をあたってみようかと候補者たちを思い浮かべていく智子。

 

(まず智くんと……あとゆうちゃんと……あとそれから……それから……)

 

 それから先は、もう続かなかった。智子が遠慮せずこの手の話題を振れそうな相手なんて、片手の指で数えてもおつりがくるほどだったからだ。以前までは守衛室にいるアニメ好きの警備員のお兄さんと仲よしだったりしたのだけど、残念ながら今年の春から別の人にかわってしまったし、クラスメイトたちのなかで候補者はいないかと考えてみたところで、そんなのひとりだっているはずがないのだった。

 

「はー……」

 

 そうした自分の境遇に改めて気づかされたからか、智子は無意識にため息をついてしまった。急に現実へ引き戻されてしまったような感じがして、さっきまでの熱意もすっとどこかへ抜けていってしまいそうだった。

 

「あっ、じゃあ黒木さんにいいモノ見せてあげよっか?」

「いいモノ?」

「うん、たぶん黒木さんの知りたいこととかいっぱい書いてあると思うから」

 

 そうしたもと教え子の気持ちをあるいは察したからなのか、今江先生は急にそのようなことを提案した。「いいモノ」とは一体なんなのか。そのことが気になった智子は、ひとまず自分をさいなみはじめたモヤモヤは横に置き、もと担任の言葉に耳を傾ける。

 先生いわく、この学校にはかつて「オカルト研究会」なるものが存在していたという。それは学校から正式に認められたものではなく、あくまで児童たちが放課後や昼休み、あるいはプライベートの時間を使って自主的に活動していた程度の同好会的な集まりに過ぎなかった。だけどもその活動は中々に本格的で、普段から怪奇性を帯びた話題の収集に余念がなく、噂の真相を究明するための取材活動も積極的におこなっていたらしい。研究会メンバーのアンテナは学校のなかだけにとどまらず、智子らの暮らすこの町一帯にも張られていたそうで、地元に伝わる古来からの奇怪な伝承などにもずいぶん詳しかったという。

 

「いいモノっていうのは、その研究会の子たちが書いた活動記録なの」

「すごい! 読みたい! 先生、それ見せて」

 

 今はなきオカルト研究会の存在を聞かされた智子は、がぜん興奮した。そんなにもおもしろそうな集まりがあっただなんて。もし今も研究会が存続していたとしたらぜひ自分も参加してみたかったと、憧れのような思いにかられた智子は彼らの残した活動記録なるシロモノにすっかり心うばわれてしまう。そうした智子の食いつきぶりを見てか、今江先生が早速その求めに応じてくれることとなった。

 智子を引き連れた先生は一旦職員室に立ち寄ってから、お目当ての活動記録が保管されている場所へと向かった。そこは職員室のあるD棟の、その二階部分の廊下のつきあたりにある資料室だった。施錠されていた扉をあけると、カーテンの閉じられたちょっぴり薄暗い室内からはまるで蒸し風呂のようにむわっとした熱気が伝わってきた。

 

「ちょっと待っててね」

 

 そう言って智子を廊下へ待たせておいてから、今江先生は熱気のこもる室内へとひとりはいっていき、なかに設置されているガラス扉の本棚を漁りはじめる。

 

「はい、これ」

「あ、うん……!」

 

 そうして数分ほどしたところで、少しばかり汗ばんだ様子の今江先生は一冊の大学ノートをたずさえて智子のもとに戻ってきた。差し出されたそのノートを受け取った智子が表紙を確認してみれば、そこにはサインペンで大きく〈原幕小学校オカルト研究会活動記録〉とタイトルが書かれていた。中々年季のはいったものなのか、子供の手にはずっしりと感じられるそのノートはところどころ汚れていてボロっちかったけど、それがかえって独特の雰囲気を感じさせたため、いやがうえにも期待の高まる智子だった。

 

「持って帰っちゃダメだけど、学校のなかで読むぶんには大丈夫だから。読み終わったらちゃんと先生のところまで持ってきてね」

「はぁい」

 

 このノートも学校の保有する貴重な資料のひとつということで、大事に扱うようにと今江先生から言い含められた智子は、調子よく返事してみせるとそのまま元気よく駆けだしていった。

 

「廊下は走っちゃダメだよー!」

「はーい!」

 

 うしろのほうから注意してきた今江先生に手を振りながら、歩調をゆるめた智子はそのまま下駄箱のほうへと向かう。そうして外履きに履きかえたのだけど、これはなにも早速言いつけを破った智子がノートを家に持ち帰ろうとしている訳ではなくて、校内のどこか涼める場所で腰を落ち着けようと思ってのことだ。

 

「ふぃー」

 

 智子がランドセルをおろしたのは、一本の大きな老木の下にあるベンチだった。背もたれのないそれは木の幹を取り囲むように円形状に配置されていて、木陰で休めるようになっている。昔からなぜかこの木にだけはセミたちが殆ど寄りつかないのだけど、その周囲も校舎によってコの字型に囲まれていたから、夏場の昆虫合唱団の騒々しさも遠巻きに聞こえてくるだけだった。

 

(おお……けっこうガチめのやつだこれ)

 

 早速ひらいたノートをパラパラと流し読みしただけでも、その内容がかなり本格的であることが見てとれた。会の活動記録は月イチペースで書かれていたのだけど、ことこまかなその記述は字もきれいで文章的にも読みやすく、図やイラストなどもふんだんに使われていて、ひとつの読み物としても中々に完成度の高いシロモノだった。

 

(これ、ホンモノの心霊写真!?)

 

 なかにはブキミな噂の出どころとなった校内の現場を写した写真なども貼り付けられたりしていたのだけど、どう見ても夜間の学校に侵入して撮影したとしか思えないそれには得体の知れない奇妙なものがうっすらと写りこんでいたものだから、智子は背筋が寒くなってしまった。

 

(すごいなぁこの人たち。ふつうここまでやらないでしょ)

 

 あるときは地元に古くから住む大正生まれのおばあさんをたずねて、大昔に原幕小で流行った古い怪談を教えてもらったりもしたそうだ。そのころの児童たちに恐れられていたのは【きこさん】という妖怪で、出くわしたが最後、その子供は首に縄をつけられてどこかへ引きずられていってしまうとのことだった。

 

(もしかして、ゆうちゃんとこのひいおばあちゃんだったりして)

 

 十数年も前に書かれたらしいこの活動記録だったけど、そのなかで紹介されている長生きばあちゃんに智子はなんとなく心当たりがあった。原幕小からまあまあ離れたところに「鳴畑(なるはた)」という地区があるのだけど、今はそちらにある古民家へと引っ越してしまった智子の親友は、そこでひいおばあちゃんと暮らしていたのだ。ゆうちゃんの両親がもともと住んでいたマンションを引き払って引っ越さざるを得なくなったのも、足腰が不自由になったそのひいおばあちゃんの面倒を見るためだった。

 

(こんど行ったら聞いてみよっと)

 

 オカルト研究会のメンバーが取材した人物と、自分の知る人物とが同じであるかはわからないけれど、確かめてみる価値はある。きこさんなる妖怪についても興味のわいた智子だったから、親友のところへ遊びに行きがてら、車椅子生活を送る御歳(おんとし)八十八のおばあちゃんに一度話を聞いてみようと決めたのだった。

 今江先生の言った通り、活動記録には実にさまざまな怪談や不思議な噂に関する情報が載っていた。先生が子供だったころに流行ったという例のあの人のことも書かれていたのだけど、なるほど確かに相当な数の設定が盛られていたようで、それらについての記述だけでも数ページが費やされていた。隠し持ったカマで背後からざっくり切りつけてくるとか、襲ってきても掃除機で撃退することができるとか、ものすごく香水臭いときがあるとか、トイレのなかで叫びながら自分のパンツを引き裂いたりもするそうだ。さすがに盛り過ぎなのではと思わせられるこの噂話だったけど、活動記録の執筆者が言うにはなんと例のあの人は確かに実在したそうで、研究会のメンバーが真相を調査していた際に遭遇したとのことだ。

 

(ホントなのかな……?)

 

 この手の怪談や噂話は言ってみればフィクションであるものが大半で、必ずしも実話にもとづいている必要はないと智子は考えている。だけども噂がひとり歩きしていっただけに見えるこのおばけに対して、執筆者は大真面目に「実在した」と言い張っているではないか。活動記録からうかがえる当時の研究会メンバーの熱心な活動ぶりについてはある程度ノートを読んでみた智子にも十分に伝わってきていたから、そうした人たちが適当なことを言うとも思えなかった。

 

「おおうっ!?」

 

 ランドセルからいきなり音が鳴りだした。それにおどろくあまり変な声をあげてしまう智子だったけれど、なんのことはない、単に携帯電話へ着信がはいっただけだった。ひとまずその呼びかけに応じようと、電話を取りだす智子。

 

「あっ、も、もしもし」

『ちょっと智子、今どこにいるの?』

「え? あっうん、学校だけど」

『友達と遊んでるの?』

「あっ……うん、ま、まあそんな感じ……」

『きょう塾でしょ? 早く帰ってらっしゃい』

「へっ? あっ、そ、そっか……!」

 

 電話をかけてきたのは智子のお母さんだった。ノートを読みふけるあまりすっかり忘れていたけれど、今日は塾のある日だったのだ。C棟のてっぺんにある時計台を見上げてみれば、いつの間にか塾の開始時刻が迫ってきているころだった。今すぐ帰る旨をお母さんに伝えた智子は慌ててランドセルを背負いなおし、ノートを手に職員室へと走っていく。校舎内はもちろん土足禁止だったから、上履きに履きかえる時間も惜しい智子は棟の出入り口の前で靴を脱ぎ捨てそのまま裸足で失礼する。そうして職員室にお邪魔し、自分の机で事務仕事をしていた今江先生にノートを返却した智子は、また明日も読ませてほしいとお願いしてからあわただしくその場をあとにしたのだった。

 

(わたしが遅刻しそうなのは、どう考えてもあのノートが悪い!)

 

 日も少し傾いてセミの鳴き手たちが交代しはじめたなかで、どこかのおばけにならってそんなことを思う智子が正門へと続く並木道を走る。

 

(……?)

 

 だけども急になにか気づいた様子で立ちどまったかと思うと、辺りをキョロキョロと見回しはじめた。今さっき自分のすぐそばで女の子の笑い声が聞こえたような気がしたからだ。だけどもそれらしい人影はなかったし、まばらな間隔で生えている木々の合間から第一運動場のほうを確認してみても、居残って遊んでいるわずかな児童たちの姿が遠目に見えるだけだった。並木道を挟んで反対側にある第二運動場のほうにもひとけはない。いつもはスポーツ少年団のサッカークラブなんかが練習に使っているのだけど、今日はお休みしているようだった。それでもなんだか誰かにじっと見られているような気がするし、すぐそばに人の気配が漂っているような、そんな感じがしてしまう。

 

(気のせい……たぶん気のせい……)

 

 そう自分に言い聞かせた智子はふぅとひと息ついてから、そのまま脇目もふらず逃げるような勢いで走り去っていった。




つづく


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【ホラー】原幕小の七不思議(2)

智子のなつやすみ

 千葉県のどこかに「茂子原(もこはら)市」という町がある。市の北西部には東京湾に面する沿岸が長く伸びていて、昔は小さな港がいくつかあったり、そのきれいな浜が海水浴場としても利用されていた。だけども今は沿岸部の埋め立て事業が進んだ結果、みんななくなってしまってかわりに工場だったり石油コンビナートなんかが沢山建っている。この埋立地は「茂子浜(もこはま)」なんていう新しい地名をつけられているのだけど、その茂子浜と隣接しているのが原幕小学校のある「原幕」で、さらにもうひとつ「姉弟崎(あねとさき)」というところだった。智子が住んでいるのはこの姉弟崎の北側のほうで、十一年ぐらい前に智子のお父さんがこの場所に家を建てて他所から引っ越してきた。

 智子がうんと小さかったころは外へ遊びに出かけても家の近所をうろつくばかりで、それ以上先は道がわからなくて迷子になるから行くことができなかった。だけど海辺のほうに見えるたくさんの煙突はときどきボワッと火を噴いたり、夜になると赤や白の光が灯ってチカチカ点滅したりしていたので、きっとそこに遊園地が建っているのだと期待した智子は一度だけ三輪車に乗って昼間にひとりで茂子浜のほうまで行ってみたことがある。だけどもあるのは工業施設ばかりで遊園地なんてどこにもなく、来た道もわからなくなってわんわん泣いていたところをランニング中のおじいさんに助けられて家の近くまで連れ帰ってもらったりした。それに懲りた智子だったから、もう少し大きくなっていろんな道がわかるようになるまでは、もっぱら家の近所にある公園や森なんかが主な遊び場だった。

 そんな智子が今いるのは、昔から慣れ親しんできた自宅近くの森だ。夏まっただなかの今、森のなかではどこもかしこもセミたちが必死に鳴き叫んでいたので、智子はそうした音の渦に自分がすっぽり体ごと飲み込まれてしまったような気分になる。

 

(ほんとだ、「希心(きこ)神社跡」って書いてる……!)

 

 智子は森のなかに建っているひとつの石碑の前に立ち、そこに彫られている文字を確かめていた。森の敷地内にはもともとなぜか石段や灯篭の残骸のようなものがあったのだけど、智子はこれまでそうしたものが存在する理由について特に考えたことはなかった。この古びた石碑にしたって今の今まで興味を抱くことなんて皆無だったから、そこになにが書いてあるかなんてじっくり確かめたことは一度もない。

 この森は地元の人たちから「希心ノ森(きこのもり)」と呼ばれている場所で、智子は普段から登校時の通学路として、あるいはどこかへ遊びに出かける際の通過点として、この森のなかを通る道を頻繁に行き来していた。ときには敷地内で友達や弟と一緒に昆虫を捕まえたり、ボール遊びをしたりもする。そうした生活の一部となっていた希心ノ森ではあったけれど、石碑が示すところによればどうもこの森にはかつて神社が存在していたということらしい。

 

(すごい、ノートに書いてあった通りだ!)

 

 事前に得ていた情報の裏付けが取れたと、まるで探偵にでもなった気分の智子は目を輝かせる。智子がこうして郷土史の一端に触れることになったきっかけは、今江先生に見せてもらった例の古びたノートの内容にあった。ノートの執筆者によれば、大昔に子供たちを震えあがらせた「きこさん」という妖怪はもともとこの神社に祀られていた神さまなのだとか。一学期最後を締めくくる本日の終業式が終わり、午後から暇になった智子はかねてより読み進めていた一〇〇ページ近くあるノートをようやく読破したのだが、希心ノ森のひみつを知った彼女は学校帰りに早速それを確認せずにはいられなかった。

 

(えーと、忌まわしい……の「()」。こっちはキツネ……じゃなくて、孤児とか孤独とかの「()」かな)

 

 石碑の下には平らな石板が置かれていて、そこには見慣れない難しい漢字がぐにゃぐにゃした書体でたくさん彫りこまれていた。しゃがみこんだ智子はそうした記述を目で追っていたのだけど、そのなかに気になる部分を発見したようで、同じ箇所を何度か読み返したりしている。そこには「()()()」と書かれていたので、智子が思うにたぶんこれが神社の神さまの名前のようだった。

 

(おお……なんかヤバそーな名前)

 

 字のたくさん書いてある本をよく読むし、塾でも勉強しているから、おないどしの子供よりもずっと漢字に詳しい(つもりの)智子だったので、石板に記された文章を前にしてチンプンカンプンということにはならずに済んだのだけど、どうして「希心」神社で祀られていた神さまの名前が「忌孤」なのかはわからなかった。ノートにはその辺のことが書かれていなかったし、それ以前にこの不吉な印象を受ける名前のことも特に触れられていなかった。もしかしたら活動記録には書かなかっただけで、当時のオカルト研究会メンバーはもっと詳しいことを知っていたのかもしれない。あるいは──

 

(書いたけどあんまりにもヤバい内容だったから、あとで塗りつぶしちゃったとか?)

 

 数日かけて読み終えたそのノートのなかには、ちょっとだけ気になる部分があった。後半のページを読んでいたときに感じたことなのだけど、たまに黒いマジックで大きく塗りつぶされている箇所がいくつかあったのだ。なかにはページごと破り取ったのではないかと思われる痕跡なども残っていた。

 不審な点はそれだけに限らない。研究会の活動スタイルは同時に色んなことをちょっとずつ気長に調べていくものだったみたいで、ひとつの噂や怪談の真相を究明するまでに数ヶ月かかるなんてことはざらにあったみたいだけど、それだけに月々の活動記録のほうも大抵は文末にて「わたしたちはこの件を引き続き調べていきます」と締めくくられることが多かった。そうした噂や怪談の調査が、ずっとあとになってからある程度の真相解明をもって終了したり、あるいは未解明のまま打ち切られたりしていったのだけど、どちらにしても一度調べようと手を出したものに対しては、必ずなにかしらの形で区切りがつけられていたはずだった。だけどきこさんの怪談についてはそういった区切りらしきものが記された部分は見つからなかったのだ。

 取材が続いていたこと自体は間違いないようだけど、結局真相についてはどうなったのか。大昔に流行ったという怪談だったから、あるいは殆どわからないことだらけだったのかもしれない。それにしたってあの緻密な活動記録を作成した執筆者が、調査を中途半端な形でうやむやにするだなんて智子にはどうにも思えなかった。もしかすると実際は真相にたどり着いていて、もともとはそこに至るまでの経緯もノートにしっかり記録されていたのかもしれないけれど、その後に神さまの祟り的なものが起きたりして恐ろしくなったので、研究会メンバー自身の手によって調査記録の大半が抹消されてしまったのではないか。

 

(おおっ、コレいけるかも!)

 

 例のノートに妙な形で手が加えられていたことはちょっぴり気がかりだったけれど、あくまで智子としては自身の創作怪談のヒントを得ることができればなにも問題はなかった。むしろこの妖怪の謎めいた部分こそが智子の創作意欲を強く刺激した。「きこさんのことをむやみに調べようとしてはいけない。かつて面白半分で調査に乗りだした児童たちが、祟りにあって全員不慮の死を遂げてしまった」とかなんとか、そんな感じの尾ひれを付け加えてやれば、きっと怖さが倍増しだ。家に帰ったら早速智くんにも神社のことを教えてあげよう。ウチの近くのこの森で、かつて恐るべき祟り神が祀られていたなんて!

 智子はさっと立ちあがると、学校から持ち帰ってきた諸々の荷物の重さをものともせずに我が家へ向かって風のように駆けだした。

 今日から夏休み、なにをして遊ぼうか──。

 

 ◆

 

 朝、智子が目を覚ますとまず庭の木にくっついているセミの控えめな鳴き声が、小鳥のさえずりと一緒になって耳へはいってくる。それがなんとも心地よくて、彼らの生みだす爽やかな音色にまどろむことしばし。寝返りをうつと枕元に転がる携帯ゲーム機が目にはいってきたが、これは昨晩布団のなかで眠気の限界が来るまで遊んでいたからだ。

 

「姉ちゃん、体操どうすんの?」

 

 がらりと部屋の戸をあけ、そう聞いてきたのは智貴だ。これは子供たちの朝の日課となっているラジオ体操に行くかどうかをたずねているのだけど、それに対して智子は寝そべったままふらふら手を振って「行かない」とろれつの回らない口調で答える。そうしたら、なにも言わず智貴が部屋のなかにはいってきて、勉強机の上に置いてあった智子のぶんのラジオ体操出席カードをさっと手に取りそのまま出ていった。これは体操に参加しない智子のぶんまでハンコを押してもらうためで、近ごろはもっぱらこんな感じでものぐさなお姉さんの偽装工作を手伝っている智貴なのだった。

 やがて庭のほうで智貴が「いってきます」と声をあげ、そのままサンダルを鳴らしながらどこかへ走り去っていく音が聞こえてくる。しばらくベッドの上でゴロゴロしていた智子だったけれど、そのうちすっかり目が冴えてきたものだから、足で布団を跳ねのけ勢いよく飛び起きた。

 

「おはよう、智貴行っちゃったわよ?」

「うん」

 

 キッチンでは早起きのお母さんが朝ごはんの用意をしていて、卵焼きを焼いているところだった。あいさつがてら弟が出かけてしまったことを知らされる智子だったけど、そのことはもうわかっていたので適当に返事するだけだ。そうしてリビングに置かれている足の短いテーブルの前に座り込んだ智子は、向かいにあるテレビの電源を入れてからリモコンを使ってなにかしらの画面へと切りかえる。

 

(今日はどれ見せてあげよっかなー)

 

 智子が見ているのはレコーダーの管理画面で、そこには彼女の好きなアニメ番組があれこれ録画されていた。去年黒木家が購入したばかりの新型レコーダーは、ビデオテープを使わなくても録画がおこなえるすぐれものだ。録った番組たちの管理もかんたんで、見たいものがあればすぐ呼び出すことができる。仲よしだった学校警備員のお兄さんに教えてもらったアニメなんかを、智子は以前からよくこんなふうに録画していた。どの番組もびっくりするぐらい夜遅くに放送されているものばかりだったけど、予約機能を使いこなす智子にとってはどうってことない。

 智子がさっきからリモコンをポチポチ操作して確認しているのは『涼宮(すずみや)ハルヒの憂鬱(ゆううつ)』というテレビアニメの、これまで録り溜めたぶんの一覧だ。今年の四月からはじまった智子お気に入りのこの作品は少し前に放送が終了してしまったのだけど、近ごろはこれを弟にもちょっとずつ見せてあげていた。

 

「智子、これ運んでちょうだい」

「はぁーい」

 

 適当なエピソードを選んだ智子はそのまま再生を開始して本編を早送りで確認しだしたのだけど、しばらくするとキッチンのほうからお母さんが用事を言いつけてきたので、ちょっと面倒くさそうにしながらも立ちあがって言う通りにする。お皿に盛られた卵焼きをテーブルに運んだあとは麦茶のはいったピッチャーと一緒に自分と弟のぶんのコップなんかも持ってきて卓上へと並べていく。そうしているうちお母さんが残りの支度もしてくれたので、智子は弟の帰りを待つことなくいただきますをする。

 開け放たれた窓から網戸ごしに入ってくる夏の音が智子の見ている早送りアニメのBGM代わりになっていたけれど、その中には近所の森から聞こえてくるラジオ体操のメロディなんかも混じっているのだった。

 

 智子の夏休みは順風満帆と言ってよかった。いつも通り朝ごはんを食べたら、まずは弟とリビングで夏休みの宿題を進める。そしたらあとは週に何度かある塾の時間を除いてずっと自由なので、智子は思うがままに遊ぶことができた。テレビゲームをやったり、アニメを見たり、弟やゆうちゃんを誘って海やプールでたくさん泳いだりもした。読書感想文の本を借りるために図書館へ行ったときは、事前に約束しておいたゆうちゃんとふたりで本を選んだりしたし、その帰りしな茂子浜のほうにあるイトーヨーカドーの大きなゲームセンターへ寄り道して、家じゃできないようなゲームにおこづかいを使ったりもした。他にも古本屋へ足を運んでマンガを延々と立ち読みしたり、学校のパソコン室が開放されている日はそこでネットサーフィンに没頭したりと、数えあげたらきりがないほどだ。

 もちろん例の創作怪談についても熱心に取り組んでいた。図書館でいくつか借りてきた怪談集の本なんかも参考にしながら手持ちのノートに色んなアイディアを書き込んだり、あるいは納得がいかなくて消しゴムでごしごしこすったり。そうしてある程度形になってきたいくつかの怪談を、登校日には今江先生へ聞かせてあげたりもした。

 すべては順調で、智子が日ごろ学校生活で感じてきたストレスも、セミたちの鳴き声と夏の青い空のなかにすっかり溶け去ってしまったようだ。

 *

「えー、なんで行かないの? 行こうよー」

「姉ちゃんだけで行ってこいよ」

 

 智子は今、弟の部屋でカーペットに座りこんであぐらをかいていた。日課である朝の宿題を終えたあと、こうして智貴とふたりっきりで相談したいことがあったからだ。今日は学校のなかで「あること」を実行するつもりだったので、それに付き合ってもらいたい智子なのだった。

 

「また変なことしに行くんだろ? そういうのもういいって」

「よくない! 智くんはわたしの助手でしょ? だったらお姉ちゃんの研究を手伝う義務があるよね?」

「助手じゃねーし、義務もねーよ」

 

 サッカーが得意な弟の智貴は地元のサッカークラブに所属していて、週に何回か練習へ参加したり、ときには試合なんかにも出たりしているのだが、こうした活動がお休みの日はここぞとばかりに智子の遊びに付き合わされていた。彼としても誰かの家に遊びにいったり、あるいは自分の家に友達を呼んだりしたいのだけど、智子に気をつかってか、あまりそういうことはしなかった。だけどもこの日は珍しく、お姉さんからの誘いに応じようとしない智貴なのだった。

 

「アイス買ってあげるからさ、ね?」

「いらない」

「あっ、わかった。智くん怖いんでしょ? 幽霊とかおばけとか、ホントに信じちゃってるんでしょ?」

「……」

 

 夏休みにはいってからというもの、智子は学校の七不思議をテーマとした自由研究を進めるにあたって弟に協力を要請することが度々あった。オカルト研究会は「なにごとも自分の目や耳で実際に感じてみることが大切」といったようなことをモットーにしていたし、以前読んだマンガに出てきたキャラも「体験はリアリティを作品に生む」とか「自分の見たことや体験したことをかいてこそおもしろくなる」と主張していたから、それらに感化された智子は原幕小学校にかつて存在したというその怪談たちを自分自身の肌で直接感じ取ろうと体当たり取材をおこなっていた。だけどもひとりではなんだか心細いので、智貴にも毎回ついてきてもらっていたのだ。とりわけ本日の試みはかなり本格的だったから、ここはぜひともお供がほしい智子なのだった。

 

「大丈夫だよ、ああいうのって実際は全部作り話だから。お姉ちゃんそういうの詳しいからわかるんだ」

 

 そうして現場──噂の出どころとなった原幕小学校──に出かけた智子たちがなにをするかといえば、怪談のなかで語られる「彼ら」があらわれたとされている出没場所を携帯電話のカメラ機能で撮影したり、あるいは彼らを引きつけてしまうとされるその行動をあえてやってみたりといったことだ。あるときは校内のどこかに潜んでいるという「六匹の人面猫たち」と出会うべく、持参した猫用の缶詰をスプーンでカンカン叩いて呼び寄せようとしたし、またあるときは負かした対戦相手の魂を吸い取っていくとされる「闇のプロゲーマー」の挑戦を誘うため、カードゲームや携帯ゲーム機、他にも対戦型のおもちゃなんかを学校に持ち込んで、それらで延々と遊んだりもした。

 

「友達と行けばいいだろ。なんで俺ばっか誘うんだよ」

「ゆうちゃんはダメだよ。こういうの苦手みたいだし、怖がらせちゃったらかわいそうでしょ?」

「じゃあ他の友達と行けば?」

 

 だけどもこうしたことはお姉さんが近ごろ入れ込んでいるらしいその自由研究に興味のない智貴としては中々に苦痛だったようで、とうとうこうして難色を示すようになってしまったのだった。

 

「あ、うん……そ、それもダメかな。一応声かけてみたんだけどさ、みんなこういうのあんまり興味ないみたい」

「俺も興味ないんだけど」

「智くんはいいの、わたしの弟なんだから」

「意味わかんねぇ」

 

 押し問答が続くけれど、智貴は決して首を縦に振ろうとしなかった。立ちあがった智子がアニメキャラの真似をして「お姉ちゃん命令よ!」だなんて弟をビシリと指さしながら迫ってみたり、宿題手伝ってあげるからと交換条件を提示してみたり、ついには「お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃったの?」と泣きおとしにかかってみたりと色々やったのだけどダメだった。しまいにはなにを言っても聞こえないふりをする智貴が、お姉さんのことを無視して本を読みはじめるのだった。

 

「智くんのばかっ! もしわたしがきこさんに連れてかれちゃったら、智くんのせいだからね!?」

 

 埒があかない弟にいい加減腹の立った智子が、思わず怒鳴ってしまう。そうしたら、今まで知らんぷりしていた智貴がぎょっとなって智子のほうを振り向いた。

 

「……なにおこってんの」

 

 智子が弟を面と向かってこんなふうにののしることはめったになかったから、お姉さんの剣幕におどろいた智貴は困惑した。それは智子のほうも同じだったようで、言ったそばからばつの悪さを覚えてしまう。最近は心のなかでよく弟のことをばかばかとののしっていた智子だったから、それがとうとう表にも出てきてしまったようだ。

 

「だって、智くんが悪いんだもん。わたしの弟なのに、言う通りにしてくんないから……」

「いい加減にしてくれよ姉ちゃん、なんべん行きゃ気が済むんだよ」

 

 キュロットスカートのすそをギュッとにぎりしめた智子が、あくまで自分は間違っていないと言い張る。しかし智貴からすればそうした言いぶんはとても自己中心的なものに聞こえた。弟だからってなんでもかんでも言うことを聞かないといけないなんて、あまりに横暴だ。それでも最初のうちは智子の奇妙な取り組みに付き合おうと、興味がないながらも素直に従っていた智貴だったけど、こう何度も振り回されてはさすがにうんざりしてしまう。

 

「今日はいつもと違うんだよ。特別なやつをやるんだよ。だから、ひとりだけだと危ないかもしんないし……」

「全部作り話だから大丈夫って、さっき自分で言ってたじゃんか」

「あっ、で、でも……!」

「なにするか知んないけど、そんなに怖いんならもうやめとけよ」

「別に怖くないし……やめないし……」

「じゃあひとりで行きゃいーじゃん」

 

 話はどこまでも平行線をたどるばかりだった。智貴のほうも意地になってしまったのか、お姉さんのいいなりになるのはもう嫌だと言わんばかりに、てこでも動かないつもりのようだ。

 

「もういいよ。智くんはそうやって、つまんない夏休みをムダに過ごしてればいいよ」

「うんそうする」

 

 こうして両者の話し合いは決裂に終わった。すっかりヘソを曲げた智子は悔しまぎれに捨てぜりふを残していくのだけど、智貴のほうは涼しい顔でそうした言葉を受け流す。

 

「フンッ!」

「いてっ!?」

 

 部屋を去りぎわ、智子はベッドにあった枕をとっさにつかむとそれを弟に投げつけた。そうしてすぐさま自分の部屋に飛び逃げた智子は戸に鍵をかけて廊下の様子をうかがうのだけど、しばらく待っても弟が追いかけてくる様子がないので、やがておもむろにベッドへと寝転がった。

 

「せっかく智くんのことも有名人にしてあげようと思ってたのに……」

 

 しょんぼりとした様子の智子が、力なくつぶやいた。智子としては自分の創作怪談が新聞に載って学校中から注目されるようになったら、みんなに弟のことも紹介してあげるつもりでいた。〈原幕小の失われし伝説の最恐七不思議〉を現代によみがえらせることができたのは自分だけの力じゃない、助手である弟の協力もあってこそだと、そう説明してあげようと思っていたのだ。そしたらシスコンだなんだとからかってきていた智貴のあの友達だって、一転して自分たち姉弟に尊敬のまなざしを向けてくることだろう。

 

(もしかしてわたしと一緒にいるのが嫌なのかな……?)

 

 ふと智子の心にそうした考えがわきあがってくる。なんとなく、うすぼんやりとだけど、前々からそんな感じの不安がちらりと頭をよぎったりしていた智子だったから、これはもしかすると本当にそうなのではないかと思えてきたのだった。気づかないうちになにか嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。進級してからというもの妙に付き合いが悪くなったのもそれが理由だろうか。おかしいな、いつも優しくしてあげているのになと考えたところで、さっきのケンカのことが思い起こされる。仲よしなはずの弟に普段なら言わないようなひどい嫌味を言ってしまったし、いじわるして枕までぶつけてしまった。かわいそうだからあやまってあげようかなと殊勝なことを思ったりもしたのだけど、姉である自分のほうが偉いのだから、わざわざ弟にそんなことをしなくてもいいという考えにやがて打ち消されてしまった。

 

「は────……」

 

 やがて体を起こした智子は、近ごろすっかり癖になった長いため息をつきながらベッドからおりる。弟がどうしても協力を拒むというのなら仕方がない、あとは自力でやっていくしかない。一応はそう考えなおした智子だったから、ひとまずこれから学校へ向かう準備をはじめた。もたもたしていたらお盆が終わってしまう。ここ数日は家族でお祭りに出かけたり、お墓まいりに行ったりして中々時間が取れなかったから、お盆期間は今日を残すのみとなってしまった。ちょっと前に智子が接触を図ったある情報筋によれば、本日学校で試してみるつもりの「儀式」はお盆中におこなわないといけないという決まりがあるらしい。あくまで参考としてやってみるだけなのだから別にこの辺りは適当にしてもよさそうなのだけど、本格派を気取る智子としてはこうした点をおろそかにしてはいけないという考えのようだ。

 お盆のあいだはあの世とこの世の境目がいつもより薄くなるから、不思議なことが起こりやすい。だから儀式もあえてそうした期間におこなうのだと、智子はしわくちゃ顔の長生きばあちゃんから聞かされていた。智子はこの夏休みを利用してゆうちゃんの家にお泊りさせてもらったりもしたのだけど、そこに住むひいおばあちゃんに前々から思っていたことを質問してみたところ、これがドンピシャだった。大昔に流行ったとされる「妖怪きこさん」の話は、地元に住むご老人から教えてもらったものであると例のノートに書かれていた。そして智子の思っていた通り、そのご老人こそがゆうちゃんの家のひいおばあちゃんなのだった。

 いわく、希心神社の祭神(さいじん)であるきこさんはもともと子供たちの守り神として知られていた存在だったそうで、お盆の時期になると希心ノ森のなかでお祭りがひらかれ、近隣の村や町から子供たちがおおぜい集まってきていたらしい。だけども大きな災害があって神社が倒壊してしまったあとは、建物の再建もなされずお祭りの風習もそのまま途絶えてしまったという。

 神社がなくなってから数年ほどして、原幕小学校の敷地内に小さな祠が新しく建立(こんりゅう)された。これはきこさんを祀るお(やしろ)で、希心神社の神主さんがせめてこうしたものだけでも残してほしいということで、当時の校長先生に働きかけて学校に置かせてもらったものだった。どうして希心ノ森の境内じゃなく学校のほうを選んだのかといえば、いつもおおぜいの子供たちのそばにいられるような場所であれば、子供好きのきこさんも喜んでくれるだろうという考えあってのことだ。

 学校のなかでひとつの事件が起きたのは、それからしばらくしてのことだった。

 *

「智子、なにしてるの?」

「あっ、な、なんでもないよ」

 

 人目を盗んで冷蔵庫の野菜室を漁っていた智子は、お母さんからその行動を見咎められると慌てた様子で取りつくろう。

 

「あっ、そ、そうそう! 今からちょっと学校行ってくるから」

「また? 智貴がもう行きたくないって嫌がってたわよ」

「大丈夫だよ、智くんは置いてくから」

「あらそう。お昼までにはちゃんと戻ってきなさいよ」

「あ、うん、わかってる」

 

 そんなこんなで準備を終えた智子が、いってきますのあいさつをしてから玄関を飛び出していく。車庫に置いてある補助輪付き自転車をひっぱり出して、手にしていたリュックをカゴに放り込み、道路に出たところでサドルにまたがりペダルをこいでいく。さっきまでクーラーの効いた部屋にいた智子だったけど、近ごろ日焼け気味な自分の肌が夏の強い日差しを受けて急にあっためられていくのを感じる。今は午前八時の半分をちょっと過ぎたぐらいだけど、段々と日が高くなってきたからサンバイザーがないと目もあけづらいほどだ。

 行きしなにお菓子やジュースを買っていこうと思った智子だったけど、なじみの駄菓子屋の前にさしかかっても自転車のブレーキをかけることはしなかった。店内をいちべつしたかと思うと、そのまま素通りしてしまうのだった。それはお店のなかに子供たちが何人もいて、奥のほうでカードゲームをしているのが見えたからだった。あの子たちに見つかって「()()()()クイーンがいたぞ!」だなんてからかわれてしまわないよう、早くこの場を離れたい智子はペダルをこぐ力を心もち強める。

 カードゲームが得意だった智子はもともとこの駄菓子屋でよく他のお客の子供たちに混じって遊んでいて、その腕前も中々のものだった。だけどもお店のなかに貼られた対戦ランキング表の一位のところに自分の名前を刻もうと企んで、みんなとの勝負に必ず勝つため度々ズルを、つまり「イカサマ」をしてしまったのだった。そうした智子のやましいおこないがバレたのは念願叶ってランキングのトップまでのぼりつめたころで、いつものようにイカサマをやろうとした際にうっかり手元が狂ってしまい、とうとうみんなの前で手の内をさらけだしてしまう羽目になったのだ。そばで応援してくれていた弟がそのときどんな顔をしていたのか、智子はもうおぼえていない。一刻も早くこの忌まわしい記憶を頭のなかから消そうと努力していたからだ。

 

 コンビニで買い物を済ませた智子はやがて学校に到着し、駐輪場に自転車を停めた。そうして守衛室にいる怖い顔つきのおじさん警備員──智子は以前この人にこっぴどく叱られたことがある──にしどろもどろあいさつをして、正門から続くその並木道をてくてく歩いていく。校内は夏休み前と変わらずセミたちの鳴き声で大盛況だったから、智子はまるで音の海をかきわけてつき進んでいるような錯覚におちいるのだけど、いかにも夏休みといったこの感じが嫌いではなかった。

 何年か前に弟と希心ノ森でセミのぬけがらを集めて売ろうとしたこともあったっけ。ペットショップに持ち込んだはいいものの、結局門前払いをくらってぬけがらたちはムダになってしまったけれど、それらは「なつのかけら」として箱のなかへだいじにしまってある。

 今はお盆期間中なので、いつもなら運動場で練習に励んでいるはずの野球チームやサッカークラブの姿がない。こう暑くては外を出歩く気にもなれないからか、わざわざ学校をおとずれて遊んでいるような子供たちもいなかった。それでも駐車場には車やバイクが少しだけ停まっていたので、学校の先生たちの何人かはお盆なのに休暇も取らず仕事をしに来ているのだろう。大人になって働くと、ちょっとだけしか夏休みをもらえなくなるからつらいだろうなと、今江先生のことがかわいそうに思えてくる。

 もしも先生が小学生で、しかもクラスメイトだったりしたらどうだろう。それはきっとすごく楽しいに違いないし、学校に行くのも嫌じゃなくなるかもしれない。先生も誘って新生オカルト研究会を立ち上げてみようかな。そしたら会長は誰がいいだろう。なってみたい気もするけど、先生が会長で、わたしは副会長なんて感じもアリかもしれない。智くんはなにかと非協力的な雑用係のポジションで、転校しなかったゆうちゃんにはメイド服を着せてお茶くみ係をやってもらおう。本が好きそうなメガネの子なんかもいたら完璧だけど、知り合いのなかにそれっぽい子はいないからまあいいや。前に同じクラスだった、今は図書委員をやってるらしいあの子(名前は忘れた)がちょっぴり頭に浮かんだのだけど、あれはなんだかいけ好かないので絶対入会なんかさせてやらない。

 

(よし、こんくらいでいいや)

 

 智子は農具置き場にあったスコップを使い、持参した大きめのポリ袋に地面から掘りだした土を詰め込んでいた。彼女がしゃがみ込んでいるのは体育館とプールの間にある学級農園で、儀式に使うからとここの土を少しばかり拝借していたのだった。

 立ちあがった智子がふとうしろを振り返り、なにかをうかがうような様子を見せた。視線の先にあるのは飼育小屋で、コッココッコ、グワッグワッと、チャボやアヒルたちの鳴き声が聞こえてくる。

 

(もう帰ったかな……?)

 

 飼育小屋に人の気配がないことを確認した智子が、安心した様子でそちらへ駆けていく。そうして小屋の前の日陰になっているところへしゃがみ込んだ智子が、リュックから取りだしたなにかを金網の隙間へと差し込んだ。

 

(おー食べてる食べてる)

 

 智子は飼育小屋のウサギたちに野菜を与えていたのだった。大根の葉っぱだったり、お母さんが料理に使うためにスライスした人参の余りものだったりと色々だ。智子の前に群がる白や黒のふわふわなウサギたちは一心不乱に口を動かして、あっというまにそれらをたいらげてしまう。その様子がおもしろくて、智子は次々に野菜を与えていった。

 

(飼育委員だったら好きなだけ抱っこできるのになぁ)

 

 もっともっとちょうだいと、ウサギたちが金網の前でものほしそうに鼻をひくひくさせていたのだけど、そんな彼らを見ているうちに智子はウサギたちとじかに触れ合ってみたくなる。五年生になりたてのころ、クラスのなかで誰がどの委員会に参加するかを決めることになったのだけど、その際に智子は飼育委員に立候補したことがあった。四年生のころは率先して代表委員をやりたがっていた智子であったが、動物全般がそれなりに好きでもあったので今学年からは彼らのお世話をしてみたかったのだ。だけども自分を含め希望者が六人もいて定員オーバーだったから、そのなかから二名だけを選出することになった。最初はふたりずつに別れてジャンケンし、さらにそこから勝ち残った三人でまたジャンケンする。ここでひとりが勝ち抜けていったので、智子は残ったもうひとりと改めて勝負することになった。

 この相手がよくなかった。智子はそのジャンケンに無事勝利したのだけど、負かした相手が誰の目にも明らかなほど不機嫌になり、あろうことか智子に詰め寄ってきたのだった。まるで獣のような恐ろしい目つきでにらみつけてくるその剣幕にすっかり怯えてしまった智子は、どうにか相手のいかりを鎮めたくて「じゃあもう一回やろう」と再勝負を提案したのだった。結果、あっさり負けてしまった智子はせっかくつかんだ飼育委員の座をみすみす手放し、枠余りの体育委員をやる羽目になってしまった。

 

「おいっ、なにしてんだてめー!」

 

 背後からいきなり怒鳴られたので、智子は飛びあがりそうになった。声のしたほうを振り返ってみれば、ひとりの女の子が肩をいからせながらずんずんと迫ってきていた。

 

「あっ、な、な、なに……!?」

「ヘンなモン食わしてんじゃねーよ、ハラ壊すだろーが」

 

 それは智子が普段から苦々しく思っていた、あのヤンキー娘だった。自由参加のプール実習はおろか、ちゃんと出席しないといけない普通の登校日までサボっていた彼女だったから、智子がこうしてその姿を目にするのは終業式以来だ。彼女の着ているだぶついた半そでと半ズボンは見事にまっくろで、なんて書いてあるかわからない金色のとげとげした刺繍文字なんかもあしらわれている。智子としてはこれだけでも身構えてしまいそうな格好なのだが、それを着ている本人こそがもっとも警戒を必要とする相手だったので、まるで野放しの猛獣に出くわしてしまったかのような反応をする。

 

(最悪だ! 帰ったと思ったのに!)

 

 智子が学校へやってきたとき、このヤンキー娘は飼育小屋でペアの子と一緒に動物たちの世話をしていた。だから智子は彼女がいなくなるまで待っていたのだ。日ごろからこの乱暴者とうっかり接点を持ってしまわないよう気をつけていた智子だけれど、ここに来てとうとうやらかしてしまったようだ。

 

「べっ、べつに、ヘ、ヘンなのじゃないよ」

「ああ?」

「ほ、ほら、これ、や、やさい、あげようかなって……」

 

 立ちあがっておどおどした態度で説明する智子は、手にもつ小さなポリ袋を差し出してみせる。それを見たヤンキー娘はさっと袋を取りあげると、まだ残っていたその中身を検分しはじめた。

 

「まさかタマネギとか食わせたりしてねーだろーな?」

「し、しないよ。毒だもん……」

 

 一応納得したらしいヤンキー娘は袋を突き返してきたのだけど、それでもまだ気になる点を問いただしてくるので、智子はそのように答えてやる。野菜だからってなんでもかんでも与えてはダメで、いま名前があがったような類のものをウサギが食べてしまうと中毒になることを、智子は事前にインターネットなどで調べて知っていた。

 

「こいつらのエサはわたしらがちゃんと食わせてやってんだから余計なことすんじゃねー。わかったか?」

「う、うん……」

 

 ともあれ飼育委員でもないのに動物たちへ勝手にエサを与えてはいけないと注意を受けてしまった智子だけれど、なんだかしゃくぜんとしない。「本当はわたしが飼育委員だったのに!」と、目の前のヤンキー娘に対する反感がふつふつとわいてくる。過去にジャンケン勝負でゴネた末、智子から飼育委員の座を奪っていったというのは他の誰でもない、このヤンキー娘だったからだ。

 

吉田(よしだ)さん」

 

 またひとり、別の誰かが智子たちのほうへ声をかけながら歩み寄ってきた。それは明るい栗色の髪をしたそばかす顔の女の子で、さっきまでヤンキー娘と一緒に小屋の掃除をしていたもうひとりの飼育委員だった。

 

「どう? とんすけちゃん、いた?」

「いや、まだ見つかんねー」

 

 心配そうに問いかける女の子に、やれやれといった様子で答えるヤンキー娘。どうもふたりはなにかを探しているようだった。

 

「今江先生がね、一緒に探してくれるって」

「おっ、そうか」

 

 智子がなんとはなしにふたりの会話を聞いていたところ、今江先生の名前が出たのでおや、と思う。一体なにが起きたというのだろうか。

 

「おい、おまえ」

「えっ? あ、はい」

「そのへんでウサギ見なかったか? 逃げやがったんだよ」

「あっ、し、知らないけど……」

 

 ヤンキー娘が急に話を振ってくるが、どうやら飼育小屋からウサギが一羽逃げだしてしまったということらしい。そんなの見てないと智子が答えれば、舌打ちしたヤンキー娘が「メンドくせーなぁ」と頭をかく。彼女の髪は以前にも増してメッシュの量が増えていたから、それに気づいた智子が眉をひそめた。

 

(さすがヤンキー、夏休みになるとすぐこれだもんなぁ……)

 

 それまで普通の髪色だったヤンキーが、夏休みになった途端に頭をド派手に染めあげたりする。そんな事例は世のなかにたくさんあるから、マッキンキンというほどではないにしてもそれなりに髪の毛をあれこれいじっているこのクラスメイトはやはりヤンキーに違いないのだと、智子はますます彼女に抱いていたその偏見を深めるのだった。

 

「あ、えと、じゃあわたし、帰るから……」

 

 このままだとウサギ探しを手伝えと言われそうな気がしたから、そうならないうちに智子はおいとますることにした。ヤンキー娘もそうした智子を特に引きとめることはせず、彼女は彼女でペアの飼育委員の子とともに、A棟の裏手に広がる雑木林へとはいっていくのだった。

 

「ふ────……」

 

 ひとまず猛獣から逃れることができたと、智子はありったけの空気を吐き出して胸をなでおろした。この夏休みのあいだ、学校に立ち寄った際はいつもウサギたちに野菜を与えていたし、飼育委員の子たちからも特にもんくは言われなかったが、今日は運悪くあのヤンキー娘が当番の日に来てしまったみたいだ。智子のなかでは厄介者扱いな彼女だったけれど、ちゃんと動物たちの面倒を見ているようで、彼らの体調管理にも神経をとがらせているらしい。

 ともあれ本来の目的を果たすため、気を取りなおした智子は目当ての場所に向かって歩みを進める。

 *

(誰かいる……?)

 

 智子の視線の先では、ひとりの女の子が大きな老木の下にあるベンチへと腰かけていた。これから儀式をおこなうつもりの智子であったが、人の目があるとなんとなく恥ずかしいので、できればどこかへ行ってくれないものかと思ってしまう。もし弟が一緒に来ていたら、恥ずかしさも半分こということで他人がいようとお構いなしでいられたのだけど、ひとりぼっちだとなにをするにも周囲の目が気になってしまう。

 

(よし、いっちょ追っぱらってやる)

 

 お昼までには家に帰らないといけない智子であったが、まだまだ時間には余裕がある。だから邪魔なあの子がそのうちどこかへ去っていくのを気長に待っていようかとも考えた。だけどもよくよく確認してみれば、遠目にもなんとなくだが見覚えのある相手であることがわかったので、智子は一計を案じる。

 

「あっ、あのっ、ちょ、ちょっといい……?」

「えっ?」

 

 智子が勇気を出して声をかけたのは、ふたつ結びの髪型が特徴的なクラスメイトの女子だった。いつだったか、前方不注意が祟った智子は登校中にこのクラスメイトとぶつかってしまったことがあったのだけど、彼女はあのときと同じようにイヤホンをつけていた。セミたちの鳴き声が届きにくいこの場所で音楽を聴いていたようだ。

 

「ごめん、なに?」

「あっうん、その、ちょ、ちょっといいかなって……」

 

 最初に智子のかけた声がよく聞き取れなかったのか、シャカシャカと音が漏れてくるそのイヤホンを外した女の子が改めて聞き返してきた。なのでまた同じ言葉を繰り返す智子だったけど、悪いことを企んでいるからか、ただそれだけのことで心臓が嫌な感じにどきどきしてしまう。

 

「えと、その、とっ、友達が……う、ウサギ、探してたけど」

「あー、うん」

「し、飼育委員だから、す、すごく困ってたみたいだよ?」

 

 これは智子の作戦だった。ヤンキー娘とペアで飼育委員をやっていたあのそばかす顔の女子は、たしか目の前にいるこのふたつ結びの子と友達同士ではなかったかと、智子はおぼろげながらもそう記憶していた。

 

「そうだね」

「い、行かないの? その、一緒に探してあげたりとか……」

 

 だから智子としては、友達が困っていると教えてやればきっとこの子はすぐさま助っ人に向かうだろうと踏んでいたのだ。

 

「大丈夫だよ」

「あ、そ、そうなの?」

「うん」

 

 だけどもふたりの会話はそこで終わってしまった。智子の問いかけに簡単な受け答えをしたあと、我関せずなその子は腰をあげる気配も見せず、再びイヤホンをつけて音楽を聴きはじめる。

 

(なんだよ! ちょっとぐらい手伝ってあげようとか思わないの!?)

 

 自分だって似たようなものなのに、それを棚にあげた智子は相手のマイペースぶりに腹が立ってしまう。ともあれせっかくがんばって声をかけてみたというのに、これではくたびれ損なのだった。

 

(あれだね、最近の小学生はきっとこんなふうにドライなやつばっかりなんだ。うわっつらだけの友情しかないんだ)

 

 ゆうちゃんと自分のように、特別な絆で結ばれた友情というのはそうそうあるものではない。自分がいまだにクラスへ溶け込めないでいるのも、ひょっとするとたまたま薄情な連中ばかりがクラスメイトになってしまった結果なのかもしれない。だとしたらわたしはなにも悪くないし、どう考えてもおまえらが悪いのだ!なんて、そんなふうにまたどこかのおばけみたいなことを智子は考えてしまう。

 五年生になりたてのころ、智子はクラスメイトの女子グループが自分たちの好きな少女マンガの話題で盛りあがっていたのを見かけた際にすかさず割ってはいったことがあった。まだ進級したばかりでクラスに女子の知り合いが少なかったから、新しい友達を作るためのきっかけがほしかったのだ。だけども結局、そのときの相手と仲よくなることはできなかった。ほどなくして向こうのほうから無視してくるようになったからだ。智子としてはそのようなことをされる理由がまるでわからなかったから、これにはまいった。彼女たちとのおしゃべりのなかで「あのマンガつまんないよね、わたしああいうの大嫌い」と率直な感想を口にしたような気もするけど、それが原因とも考えにくい──と、智子自身はあくまでそう思っている。

 

(もういい! 無視だ、無視。いないもの扱いしちゃおう……)

 

 策のやぶれた智子であったが、いっそひらきなおることにした。このロクに話したこともないクラスメイトにどう思われようと構わない。どうせこれから先も関わりなんて持たない相手なのだから、気にせずこっちはこっちで好きにやってやろう。そう考える智子は早速儀式の準備に取りかかった。さっきポリ袋に詰め込んでおいた土を用いて、智子は老木の根もとあたりに小さな山を作りはじめる。そうしてスコップや手で形を整えたら今度はリュックのなかからなにかを取りだしたのだけど、それは二本のナスビだった。一方は短めで丸々としていて、もう一方は細長い。これは今朝お母さんの目を盗んで冷蔵庫からくすねてきたもので、本当は二本のうち一本はキュウリがよかったのだけど、無かったので似たような形をしたナスビで代用することにした。

 

(これをこうしてと……)

 

 続いて取りだしたのは割り箸を細かく切断したもので、それをさっきのナスビたちへと次々に突き刺していく。そうしてできあがったのは、ナスビに四本足を生やした動物のような置き物だ。これは精霊馬(しょうりょううま)というもので、お盆の時期におそなえものとして使われたりする。

 

(あとはこいつを、このへんに……)

 

 その二匹の精霊馬を土で作られた小山(こやま)の前に飾った智子は、最後の仕上げにと新たにリュックから取りだした折り紙も添えてやる。その折り紙は鳥のような形をしていたのだけど、智子としてはタカのつもりだった。この日のためにと、折り方を調べて作っておいたものだ。もっと言うと智子のこしらえた土の山も、実は富士山を模していたりする。

 

「それ、なに?」

「へっ?」

「なんでそんなことしてるの?」

 

 それまでいないもの扱いしていたふたつ結びの子が突然話しかけてきたので、智子はびっくりした。彼女は智子がさっきから奇妙なシロモノをこしらえていたことに興味がわいたらしく、一体なにを、なんのために作っているのかとたずねてきたのだ。

 

「あっうん、えと、さ、『祭壇(さいだん)』だよ」

「さいだんって?」

「えーっと、ほら、儀式とかやるときに使うやつで……なんか神さまにお供えものとかするためのやつっていうか……」

 

 智子としても「祭壇」という言葉の意味は詳しく理解していなかったけれど、とりあえずそんな感じのものだろうという自分のざっくりとした認識をそのまま伝えてやった。そしたら納得したのかしないのか、まるで心のうちが読めない表情をしている相手の子は「そう」と一言返しただけで、そのまま黙り込んでしまった。

 

「あっ……き、きこさんって知ってる?」

「知らない」

 

 まだ「なんのために祭壇を作っているのか」のところを教えてあげていなかったから、改めて口をひらいた智子がそのように切りだしてみる。すると相手はそっけない口調で否定したのだけど、智子のように例のノートを読んだのでもなければ大昔にこの学校で噂されていた妖怪のことなど知っているはずがないので当然だ。

 

「ずっと昔にさ、ウチの学校になんか、そういう怪談があったみたいで……」

「トイレの花子さんみたいなの?」

「全然ちがうよ、もっとヤバいやつ。出くわすと首に縄とかつけられて連れ去られちゃうんだ」

「ふーん……」

「すごい昔の事件だからニュースとかになってないけど、実際にきこさんのせいで行方不明になっちゃった子が何人もいたんだって」

「そうなんだ」

 

 きこさんという妖怪に関するこうした逸話は、なにも智子が尾ひれをつけようとしてでっちあげたものではない。これは親友のひいおばあちゃんの口から直接語られたことなのだ。智子たちのかようこの茂子原市立原幕小学校が、今とは違って〈原幕町里崎(さとざき)尋常高等小学校〉という名前で呼ばれていたぐらいの大昔、おばあちゃんのいた学級ではとある年の夏休みが終わってからというもの、ひとつの話題で持ちきりになっていた。その内容は「夏休み中に学校へ出かけた児童たちがそのまま行方不明になってしまった」というものだった。実際にこの夏休みのあいだに数人の子供たちが行方をくらませており、地元の大人たちが警察と一緒になって校内はもちろん町中いたるところまで探しまわったりとずいぶんな騒ぎになっていたのだけど、結局彼らが見つかることはなかったらしい。そうした痛ましい集団失踪事件と、くだんのきこさんとがどう関係しているのかと言うと……

 

「あ、でね、ちょっとそのきこさんを呼びだす儀式をやろうかなって」

「大丈夫なの、それ」

 

 子供たちの消えた理由については様々な憶測が当時の児童たちのあいだで飛びかったのだけど、そのなかでもっとも信じられていたのが「きこさんによる神隠し」という説だった。いなくなった子供のうちのひとりと親しかった児童が言うには、どうも彼らはお盆のあいだに学校へと集まり、かつて健在だったころの希心神社にて毎年おこなわれていた「きこさん祭り」を自分たちだけでやろうと計画していたらしいのだ。事件当時、失踪した子供たちの姿を学校のなかで見かけたという先生もまたそれを裏付けるような証言をしており、話によれば子供たちは校内にあるご神木──今まさに智子たちの目の前にある老木がかつてそう呼ばれていた──のところへ集まって、そこに設けた即席の祭壇にお供えものをしたり、なにやら祭文(さいもん)のようなものをみんなで唱えたりしていたそうだ。それからほどなくして彼らの姿が見当たらなくなったので、てっきり家にでも帰ったのかと思った先生だったけれど、その日の夕方には各自の親御さんから学校へ相談があり、全員そろって行方をくらましてしまったことが明らかになったのだった。

 そうした背景があったものだから、当時の児童たちはすっかりこの「きこさん」の存在を信じてしまい、恐怖するとともにたちまち夢中になっていった。かつて子供たちの守り神として崇められていた【喪蠱原忌孤神(もこはらのきこのかみ)】が、数年前に起きた希心神社の崩壊とともに祟り神と化してしまったのではないか。少し前に校内へ設置されたあの奇妙な祠が、そうしたきこさんを学校のなかに引き入れてしまったのではないか。誰かが言いはじめたこのような説は、またたくまに受け入れられていくこととなる。

 自分たちの学校には、決しておこなってはならないことがある。それは「きこさん祭り」という禁断の儀式で、もしそれを学校のなかでやってしまうときこさんが子供たちをさらいに来るのだから。こうしたきこさんの怪談が誕生するのにそう時間はかからなかったし、その後も児童らの手によってどんどん尾ひれを付け加えられていった。きこさんは犬が好きなので、目をつけられた子供は犬の姿へと変えられて、首に縄をつけられ飼われてしまうだとか、飼われてしまったあとはどこまでも引きずられていって死ぬまで散歩させられるだとか、あるいは犬に限らず動物をいじめたりする者がいるとおこってお仕置きしに来るとか、とにかく子供たちの想像力の及ぶ限りのことが日々噂されていたのだった。

 そもそもきこさんとはなんなのかと、その正体についてもあれこれ真面目に考えられていたようで、例えばきこさんはもともとこの地方一帯をおさめていた原幕藩主・里崎なにがしの夭折(ようせつ)(若いうちに死んでしまうこと)したひとり娘の幽霊で、藩主の屋敷跡に建っているこの学校を自分の家のように思っているだとか、はたまた平安時代に茂子原の地──そのころは「()()原」と書いた──で恐れられた怨霊たちの首領であり、それを御霊(ごりょう)信仰にもとづいて祀ることで鎮めようとしたのが希心神社のはじまりであったとか、そのような意見が学識のある一部の児童のあいだでささやかれていたらしい。

 こういった小難しい話題を含む当時の噂をくだんのひいおばあちゃんは実に細かく覚えていたので、ひ孫のゆうちゃんと違って頭がいいんだなと、智子は実に失礼なことを考えたりしたものだ。

 

「どうかなー。もしかしたら本当にヤバいのが出てきちゃうかもよ。どう? 怖いでしょ、この話」

「ああ、うん、まあ」

 

 ビビってるビビってると、相手の反応を確認した智子はご満悦だった。この妖怪の話は智子が編纂(へんさん)(色んな話や資料をひとつの書物へまとめること)を進めている原幕小七不思議のなかでもとっておきなのだ。これまで蓄積してきた諸々の怪談や噂話の情報をもとにした自分流の七不思議を構想している智子だったが、幼いころから慣れ親しんできたなじみの森にゆかりのあるきこさんについては特に力を入れていた。噂が流行ったその当時を知るご老人の生の証言や、図書館所蔵の郷土資料から得た知識なんかも裏付け情報として話のなかに盛り込んでやれば、いよいよ「本物っぽさ」が増すというものだ。いま目の前の女の子に教えてあげたのはあくまで怪談のさわりの部分に過ぎない。だけどそのうちクラスで自由研究の内容を発表するときに完成バージョンの話を教室のみんなに聞かせてやればきっと震えあがるはずだし、うまく行けば原幕小のなかできこさんがブームになるかもしれないと、そのように思った智子は内心でほくそ笑む。

 

「ま、今からそいつを確かめてみるからさ。ちょっとそこで見ててもらっていい?」

「別にいいけど……」

 

 よくよく考えれば、目の前の女の子にはこの場で一緒にいてもらったほうがいい。そうしたら怖さも半分こだ。正直ひとりだけで儀式を実行するのは不安だったけど、誰かしらそばにいてくれるのなら安心感がわいてくる。だからせっかくなので、この名前もろくに知らないクラスメイトにちょっと付き合ってもらおうと智子は思った。いないもの扱いを解除して、存在を許可してあげるのだ。

 きこさんを呼び出す儀式である「きこさん祭り」の具体的な方法についてもかのご老人から聞き出していた智子だったけれど、これが最初のうちは中々教えてもらうことができなかった。あれはとても危ない儀式だから面白半分でやってはいけない。なので()()()()()には教えてやれないと、そう断られてしまったのだ。ずっと前、自分のもとをたずねてきたオカルト研究会のメンバーに一応警告はしつつもこの方法を教えてしまったおばあちゃんだったけど、のちに改めて会いに来た代表者の子から「今後もし誰かに同じことを聞かれたとしても、儀式のやりかたは絶対教えないようにしてほしい」と念入りに頼まれてしまったらしく、それもあって口を閉ざしているのだった。

 このいわくありげな逸話を前に、智子は怖がるどころかむしろおおいにワクワクさせられた。やはり研究会はきこさんの真相にある程度までたどりついていたのだと、自分のそうした推測がズバリ当たっていたことに喜びをおぼえたのだ。おばあちゃんから得られたきこさん情報の大半は例の活動記録ノートに書かれていなかったのだけど、それはやはり研究会があとになっていくつかの部分を意図的に伏せたからに他ならないと、智子はこのときそう確信した。

 

(大丈夫、きっとなにも起きない。あの人たちだってなんともなかったんだから)

 

 オカルト研究会が残したノートのいちばんうしろのほうには、主要メンバーの卒業をもって解散することとなった彼らによる最後の活動記録が載っていた。そこには会のこれまでの歩みや、仲間とともに積み重ねてきた数多くの思い出なんかが感慨をにじませる言葉でつづられていたのだけど、それを見る限り結局なんだかんだで研究会のメンバーは全員なにごともなく無事でいるらしいことがうかがえた。誰かが祟られて死んだとか、病気になったり頭がおかしくなったとか、そんなことは特に書かれていなかった。だからまあきっと大丈夫でしょうと、智子はあまり深刻に考えずこのたびの儀式に挑んだのだった。研究会のメンバーがなぜきこさんに関する調査記録の大半を抹消したのかはうかがい知れないが、なにごとも実践第一を貫いてきた彼らだったので、きっとこの儀式のことも自分たちで実際に試してみたに違いないと、智子はそうにらんでいる。

 

「えー、オホン。それではこれより『きこさん祭り』をはじめます」

 

 リュックのなかからノートを取り出しそれをひらいた智子が、なにやらわざとらしい様子でかしこまったようなことを言う。そばにいる女の子をちらりと横目でうかがってみれば、愛用のイヤホンも外したままですっかり智子の動向に注意を向けているようだ。表情らしい表情は浮かべていないけれど、実はこう見えて興味津々なのかもしれないと、智子にはなんとなくそう感じられたのでちょっぴり得意げな気持ちになる。

 

「きこさん、きこさん、いらっしゃい。わたしと一緒に遊びましょ。おててつないで、遊びましょ。お相撲とって、遊びましょ。なくしたものを、見つけあげる。犬もわんわん鳴いてるよ」

 

 祭壇の前に正座しなおした智子は、ノートに書かれたその内容をハッキリとした口調で唱えていく。これはきこさんを呼び出すための祭文だそうで、例のおばあちゃんが教えてくれたものだ。親友の家にお泊りしたその晩、飼われているぶち模様の猫を抱っこしながら寝ていた智子は、電気もつけず部屋へはいってきたおばあちゃんからそっと起こされた。足が不自由なはずのおばあちゃんがそのときばかりは自力で歩いてきたようだったからびっくりしたのだけど、ともあれそばで寝ているゆうちゃんに気をつかってか、おばあちゃんはひそひそ声で智子に儀式の具体的な方法を伝えてきたのだった。やがておばあちゃんは去っていき、智子もそのまま眠ってしまったのだけど、翌朝起きたあともいやにその記憶がはっきりとしていたので、忘れないうちにノートへ書きとどめておくことにした。あれだけ教えることを渋っていたはずなのにと、その急な心がわりが気になりはしたけれど、もしかするとちょっとボケかけているのかもしれないとひとまず納得した智子は、昨晩の奇妙な出来事をおばあちゃんにたずねることなくおいとましたのである。

 

「きぇーい! きぇーい! きこさん、きぇーい!」

 

 最後は丸めたノートをにぎりしめ、神社の神主さんっぽく振り回してみせる。智子のその珍妙な叫びは数回ほど繰り返され、やがて終息した。

 

「ふぅー……」

 

 肩の力を抜いた智子が小さく息を吐く。どうやらこれで儀式は終了のようだ。しばらくのあいだ不安げに周囲を見回していた智子であったが、やがてよいしょと立ちあがり、膝についた土を払っていく。

 

「あ、な、なにも起きないね……」

「そうだね」

 

 結局、智子が頭の片隅で心配していたようなことはなにも起こらなかったから、ひと安心だった。だけどもそばにいる見物客へもったいつけていたわりにこの味気ない結果だったので、なんだか少し恥ずかしい。これでは完成版の怪談を聞かせてやる機会がおとずれても、この子だけは怖がらないかもしれない。

 

(ま、いいや。他の話でうんと怖がらせてやろっと……)

 

 ネタは他にもまだまだある。そのうちのどれかで彼女をちびるぐらい怖がらせてやれるかもしれない。そのぼんやりした顔をいつか恐怖に歪めてやるぞと、智子はそんなふうに対抗意識を燃やすのだった。

 

(さて、帰るか)

 

 本日の用事はこれで済んだ訳だから、もう学校に留まる必要はなかった。パソコン室も今日はあいてないし、ウサギたちへのエサやりだって中途半端ながら一応は済ませてきた。だからそろそろ帰宅して、今日の出来事を弟に聞かせてあげよう。ひとりでも全然怖くなかったよ、助手失格の智くんはもう用済みだねと、そんなことも言ってやろう。などと考える智子が、ベンチの上に置いてあったリュックにノートを戻し入れる。

 

(あれ? どこいった……?)

 

 土の山はこのままほったらかしにするとして、ナスビはあとで冷蔵庫に戻しておかないとお母さんにバレてしまうかもだから、ちゃんと持って帰るつもりでいた。なので彼らを回収しようとしたのだけど、一本足りないことに智子は気づく。丸々としたナスビの隣に置いてあったはずの、細長いほうのナスビがなくなっていたのだ。よくよく見れば、風で飛ばされでもしたのかあのタカの折り紙も消えていた。

 

「どうしたの?」

「いや、ナスビがちょっと……」

 

 焦ったように地べたを見回す智子を見て、ふたつ結びの子も首をかしげている。ベンチの下を覗き込んだりする智子だったけど、やはり細長ナスビの精霊馬はどこにも見当たらない。

 

「お姉ちゃん!」

 

 もしやひとりでに走りだしていったのでは、だなんて突拍子もない考えが頭に浮かびはじめたころ、突然誰かに呼びかけられた智子はそちらを振り向く。

 

「あっ、智くん!」

 

 声をかけてきたのは弟の智貴だった。D棟の一階部分を貫くその通路の出入り口から、智貴がひょっこり顔を覗かせていたのだ。途端、智子はナスビのことも忘れてすぐさま立ちあがり、元気いっぱいに髪を揺らしながら彼のほうへと駆けていく。

 

「もー、遅いよー」

 

 すでに儀式は終わってしまったのだから、今更来たってしょうがない。だけどもなんだかんだで弟が自分のあとを追ってきてくれた訳なので、智子にはそれが嬉しかった。通路から顔を出している智貴がニコニコしていたので、それにつられて智子も笑顔になる。

 

「えっ、ちょ……?」

 

そうして彼のもとまでやってきた智子だったけれど、まるでそれを待ち構えていたかのように智貴がいきなり背を向けて、第一運動場へと通じる通路の奥に向かって走りだした。

 

「智くん、待ってよぉ」

 

 智貴を追って通路を抜けた先は、白くまぶしいかんかん照りの運動場だ。D棟の前に広がるその誰もいない運動場を、智貴はなおも駆けていく。たまに自分のあとをついてくるお姉さんのほうを振り返ったりするのだけど、足を止める気配は見られない。もしかしたら智くんは追いかけっこしているつもりなのかもしれないと、そう考えた智子だったから、彼をつかまえてやろうと息をきらして走り続ける。

 

(あれっ?)

 

 C棟の裏手のほうを目指してひた走る智貴だったけれど、やがて彼は校舎裏の通路をふさぐフェンスの前に到達した。すると今度はそこに設けられたゲートをひらき、そのなかへとはいっていってしまった。いつもあかないはずなのにと、その様子を見ていた智子はおどろいた。遅れてフェンスの前にやってきた智子は、呼吸を整えつつゲートの鍵を確認するのだけど、かんぬきはすっかり外れていて、それを固定していた南京錠も地べたに落っこちていたようだ。

 

「智くん、そこはいっちゃダメだよ」

 

 薄暗い通路のなかでたたずんでいた智貴はあいかわらずニコニコ顔だったけど、黙りこくって智子のほうをじっと見ている。いつも施錠されているはずのゲートがどうしてあいているのかわからなかったけど、それはそれとして立ち入り禁止の場所にはいってしまうのはよくない。先生や警備員の人に見つかりでもしたら、きっと叱られてしまうだろう。

 

「ほら、おいでよ」

 

 ゲートの先へちょっとだけ足を踏み入れて弟を手招きする智子は、「そんなとこにいたら花子さんに連れていかれちゃうよ?」とおどしてみせたりもする。だけども弟はそうした呼びかけにまるで答えようとせず、なにを思ったのか今度は通路の奥にある小屋のほうへと駆けていった。

 

「えっ、なんで!?」

 

 そんな弟に智子はまたしてもおどろかされたので、思わず声をあげる。智貴が小屋の扉のドアノブに手をかけたかと思うと、そのままそれをあけてしまったからだ。

 

(あかないんじゃなかったの!?)

 

 あかずの小屋のその扉が、いとも簡単にひらいてしまった。こんな光景を目にしたのは、もしかすると今のところ全校児童のなかで自分と弟のふたりだけかもしれない。あるいはクラスメイトたちが噂していた「あかずの扉」というのはただのデマだったのか。はたまた単に先生か誰かが用事のためにと今日に限って鍵を外しておいただけとも考えられる。

 

「あっ、ちょっと……!」

 

 そんなふうに智子が考えているうち、智貴はなにを思ってかそのまま小屋のなかへはいり、扉をそっと閉めてしまった。

 

「もー、ホントに連れてかれちゃっても知らないよー?」

 

 おそるおそるゲートをくぐって通路のなかへとはいっていった智子は、小屋のなかにいるであろう弟に向かって呼びかける。そうして小屋の前までやってきたのだけど、その扉は完全には閉じておらず、ちょっとだけひらいたままになっていた。

 

「かくれんぼしたいの? おーい」

 

 ちょっとばかり肌寒さを感じてきた智子であったが、そうした気持ちを表に出さず、軽い口調で扉ごしにまた呼びかけてみる。そしたら扉の隙間からクスクスと笑い声が漏れ聞こえてきたので、それが智子を少し安心させた。なんだかよくわからないけれど、この薄気味悪いところから早く弟を連れ出してあげなくては。それにいつ大人が様子を見にくるかわからない。あの警備員のおじさんがこようものならそれこそ最悪で、「どこにはいってるんだ!」とすごい剣幕で怒鳴られるに違いないのだ。

 

(うわ、まっくら……!)

 

 きしむ扉をあけてみれば、その内部は不自然なほど暗かった。小さい小屋なので弟がいたらすぐわかりそうなものだけど、なかになにがあるのかまるで見通せない。どこまでも暗闇が続いているように思えてくるこの小屋に、果たして本当に弟はいるのだろうかと不安になってしまうほどだ。これではまるで自分が作ったあの「あかずの小屋の花子さん」の怪談そのままではないか。「裏幕」への入り口がもし本当にあるとしたら、きっとこんな感じなのかもしれないと思った智子はゾッとした。

 

「お姉ちゃん、遊ぼうよ」

「へっ?」

 

 と、ふいに弟がそのようなことを言った。どこかに隠れているのか姿は見えないけれど、その声だけははっきりと聞こえてくる。お姉さんに甘えてくるような、今の智子にとってはすっかり懐かしくなってしまった三年生のころまでの智貴の口調だった。

 

「ああ、うん、いいよ。遊んであげる」

「ほんと?」

 

 まるで暗闇自体と会話しているような錯覚におちいる智子だけれど、ともあれこんなふうに智貴のほうから遊びたがるなんて久しぶりなので悪い気はしない。もしかしたら今朝のケンカを深く反省した弟が、ようやく自分の立場を理解したのかもしれないと、智子はそのように思った。

 

「ほんとだよ。だから早く出ておいでよ」

「うん、わかった」

「……ん?」

 

 いま女の子みたいな声がしたぞと、暗闇のなかから聞こえてきたその返事に智子が違和感をおぼえた瞬間、視線の先にまっしろな子供の顔が浮かびあがってきた。

 

()()()()()

 

 あいさつしてきたその顔がニパァ……と口をあけ広げるのだけど、突然のことに絶句した智子は声をあげることができない。そうしてどこからか伸びてきたいくつもの手が智子の体をつかんだかと思うと、あっというまに暗闇のなかへ引きずりこんでしまった。ちょっとしてからそのまっくらな空間のずっと奥のほうでようやく智子の悲鳴らしきものがかすかに響いてきたのだけど、いま学校のなかにいる大人や子供たちのなかでそれに気づけた者は誰ひとりとしていない。

 智子の考えた怪談によれば、あかずの小屋は児童を引きずり込んだあとでその扉がひとりでに閉じてしまうということだったけれど、そんなことはなかった。智子ひとりを飲み込んだだけではまだ物足りないのか、次の獲物を待ち構えているかのように、その後も扉はずっとあけ放たれたままなのだった。




つづく


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【ホラー】原幕小の七不思議(3)

★イラスト
アカフク様が作中に登場する「あかずの小屋の花子さん」のイメージアニメを作成してくださいました。
作者様に快くご許可頂けましたので、この場を借りてご紹介させて頂きます。
https://twitter.com/EBE15600807/status/1166711530483675139


あつまれ裏幕小学校

 智貴少年が学校へやってきたのは、昼ごはんもすっかり食べ終えた昼下がりのことだった。相変わらずギラギラとした太陽の光が町全体に降り注いでいたけれど、日ごろから炎天下のなかでサッカーの練習に励んでいる智貴だったからこのくらいはへっちゃらだ。そんな彼は乗ってきた自転車を駐輪場へ停めた際、そこに見慣れた一台の自転車があることに気づく。補助輪が装着されているその自転車は、自分のお姉さんが普段使っているものなのだった。周囲を見回す智貴であったが、特に人の姿は見受けられず、どこにいるともしれないセミたちのしっちゃかめっちゃかな鳴き声ばかりが耳に届く。

 

「ちわっす……」

 

 守衛室でお弁当をつついていた警備員さんに一言あいさつし、智貴は校門から続く並木道を歩いていく。今日はサッカーの練習がお休みだけれど、それでも学校をおとずれたのには理由がある。彼のお姉さんである智子が、昼ごはんの時間になっても帰ってこなかったからだ。これといって連絡もよこさず、電話してみても一向に出ない。そのせいでお母さんは心配まじりにぷりぷりおこっていたけれど、智貴も智貴でお姉さんのことがなんとなく気がかりだったので、こうして様子を見にやってきたという訳だ。

 ひょっとすると今もよくわからない「儀式」とやらに長々と取り組んでいる最中なのではないかと、智貴はそんなふうに考える。もしそうだとしたら、現場へのこのこ顔を出した自分はきっと智子につかまってしまうだろうし、また妙な試みに付き合わされてしまうかもしれない。そうなったら結局は智子の思うつぼなので、智貴にとってはなんとも面白くないことだ。

 

「はぁ……」

 

 やっぱり放っておこうかなと、ため息をついた智貴は足を止めてしばし考え込む。自転車が置かれたままになっているところからして、智子はおそらく今も学校のなかにいるのだろう。であれば気づかれないようその姿を一目確認しておいてから、そのままさっさと帰ってしまおうか。そんなふうに妥協点を見いだしたところで、はっとなった智貴が運動場のほうを見やった。

 

「……?」

 

 広々とした運動場のずっと先。C棟の校舎裏辺りから、小さな人影がこちらに向けて手を振っているのが木々の間から見えた。ひとけのない運動場だったけど、セミしぐれに混じって「おーい、おーい」と呼びかけてくるような声がかすかに聞こえてくる。もしかするとあれはお姉さんなのかもしれないと、もう少し近寄ってその姿をちゃんと確認してみようと思った矢先──

 

「智貴くん」誰かが智貴の背後から呼びかけてきた。「こんにちわ。また取材かな?」

 

 あいさつがてら智貴にそうたずねてきたのは、こぶりなバッグを肩にさげる今江先生だった。その様子からすると外出から戻ってきた帰りなのかもしれない。

 

「いえ、ちょっと」

 

 そんな先生にぺこりとおじぎした智貴は、言葉をにごしつつさっきの人影にもう一度目をやった。だけども手を振っていた誰かはいつのまにか消えていたようだ。

 

「先生、ウチの姉ちゃん見ませんでしたか?」妙に思いつつも、智貴はひとまずお姉さんについて聞いてみることにした。

「ううん、見てないけど……。なにかあったの?」

「なんか学校行くっつって、そっからずっと帰ってこないんで……」

 

 本日学校のなかで見かけた子供といえばせいぜいが飼育委員や園芸委員の当番の子たちぐらいなもので、先生としては心あたりがなかった。だけどもなにやら込み入った事情がありそうだと見た先生は、ひとまず智貴を連れて職員室へとおもむく。そうしてバッグから鍵を取りだした先生が施錠されていた扉をあけ放つが、職員室には誰もいなかった。ほんの数人ながらも朝から出勤していた他の先生たちはみんな午後から半休を取っていたので、もう学校に残っているのは今江先生ひとりだけなのだ。

 

「じゃあお姉さんのこと、一緒に探そっか?」

 

 ひと通り智貴から話を聞かされた先生が早速そのように提案する。本人の自転車がまだ駐輪場に停められたままなのだから、それを放ってどこかよそへ行ってしまったとも考えにくい。電話に出ないというのも気がかりだ。もしかすると夏の暑さにやられて気分が悪くなり、どこかで休んでいるのかもしれない。もしそうだとしたら一刻も早く見つけてあげないといけないので、こうしてはいられないと思い立った先生は智子を探すことにしたようだ。今朝も飼育小屋から逃げだしたウサギを一生懸命探したりしていた先生だったが、今日はやけに探してばかりの日になりそうだった。

 

「智貴くん、ケータイもってきてる?」

「あっ、はい」

「それでちょっとお姉さんに電話してみてくれるかな?」

「わかりました」

 

 靴を履き替えて戻ってきた先生が、智貴へそのようなことをお願いした。そんな先生の意図をなんとなく察した智貴は、言われた通りポケットから自分の携帯電話を取り出して、アドレス帳から智子の番号を探しはじめる。これは智子を探すにあたって手がかりにするためで、こうしておけば校内のどこかから着信音が聞こえてくるのではと考えてのことだ。マナーモードにされていた場合は無意味になってしまうけれど、もしそうでないのであれば有効と言える手段だった。

 コールを続けるその携帯電話をポケットにしまい込んだ智貴は、セミたちのやかましい鳴き声に妨害されつつも、聞き耳を立てながら先生と一緒に人っ子ひとりいない校内をうろつく。そうしているうち、彼は野生の音の渦にまぎれて電子音のようなものが聞こえてくることに気づいた。音のするほうに向かってやにわに駆けだした智貴は、やがてその出どころを特定する。問題の電子音はコの字型の校舎に囲まれた中庭の、そこに生える老木の足もとに設置されたベンチの辺りから鳴っているようだった。

 

「先生、これ姉ちゃんのです」

 

 遅れてやってきた先生に、智貴が自分のものではない携帯電話を掲げてみせる。それはベンチの上に放置されていたリュックのなかにはいっていたもので、このリュック自体も智子の私物であった。リュックのなかには他にもノートやお財布だったり、手のつけられていないジュースやお菓子なんかもはいっている。こうなるといよいよもって智子は学校のどこかに今現在もいると見て間違いないのだった。やはりさっき運動場のつきあたりで手を振ってきていたあの誰かはお姉さんだったのではないだろうかと、そのような考えが智貴の頭によぎる。

 

「そっかー……」

 

 ともあれ残念ながら智子自身は電話を直接携帯していなかったらしい。これでは音によって居場所をつきとめることができないので、やはり地道に校内全体をくまなく探してみるしかなさそうだと、先生はその手を口もとにやって思案する。

 

「お姉さん、なにか言ってなかった?」

「なにかって、なんですか?」

「ほら、今日はどこそこのおばけを調べよっかなーとか、そういうの」

 

 少しでも手がかりになるものがあればと思い、先生は智貴にそのようなことを質問する。先生はこの夏休み中に弟を引き連れた智子が度々学校へやってきては、取材と称して校内の至るところでなにかしらの活動をおこなっていたことを知っていたので、今日の智子のお目当てがなんだったのかわかれば、その居どころにある程度目星をつけられそうな気がしたのだ。

 

「あーはい、なんか言ってましたね。きこさんがどうのこうのって」

「きこさん……そう言ってたの?」

「はい。よくわかんないですけど、そいつを呼び出すんだって」

「えっ!?」

 

 智貴の答えを聞いた先生は、どういう訳かひどく驚いた。そうしてすぐさま老木に駆け寄ると、今度は慌てた様子でその複雑に隆起した根もとを調べはじめる。いきなりどうしたのだろうと智貴がいぶかしんでいると、なにかを見つけたらしい先生が小さく悲鳴をあげて口もとを手でおおった。

 

「そんな……ウソ……どうして……?」

 

 へたり込んでしまった先生が、うわごとのような言葉を口にする。一体なにを見つけたというのか。ただならぬ気配を感じた智貴は、震える先生がさきほどから凝視しているものを確認してみようとその背に回り込む。

 

(なんだこれ……?)

 

 そこにあるのは木の根もとに盛られた小さな土の山と、足を生やした一本のへんてこなナスビ。他には使ったままほったらかしにされたらしいスコップなんかも転がっている。傍目には取るに足らないそれらだったけれど、先生からすると大変にショッキングなものだったようだ。

 少し離れた先に落ちていたポリ袋が、吹いてくる風にあおられてふわりと浮きあがった。

 

 ◆

 

「うーん……」

 

 寝そべっていた智子が、小さくうなりながら目を覚ます。ぐわんぐわんとふらつくその頭をもたげてみれば、目にはいるのは砂利の敷かれた地べたを通る石畳の道と、そこに落ちていた自分のサンバイザーだ。一体ここはどこだろうと目をぱちぱちさせた智子であったが、おもむろに立ちあがってひとまず服についた土を払う。

 

「うわっ!?」

 

 ふと視線を感じて見上げてみれば、手前にあるこぶりな鳥居のてっぺんに一羽の立派な体格をした鳥が止まっていることに気づいた。茶色い毛並みに、するどいクチバシ。すらりと伸びた黄色い足からは、つかまれたら痛そうなカギ爪なんかも生えている。その鳥が威圧感のある目で智子をギロリと睨んでいたので、びっくりして声が出た。いわゆる猛禽類(もうきんるい)(肉食の鳥のこと)というやつで、動物園でもなければ間近でお目にかかることなど滅多にないいきものだ。タカなのかな、ワシなのかな、だなんてあれこれ推測してみる智子だったけど、本当はその鳥が今にも襲いかかってくるのではないかと思いびくびくしていた。だけども鳥はやがて大きく羽ばたいたかと思うと、そのまま智子の頭上を通り越して飛び去ってしまった。

 

(……?)

 

 怖い鳥から目を離さないようその動向をうかがっていた智子であったが、ひとまずなにごともなくどこかへ行ってくれたようなのでほっとした。そうして視線をさげたところで、智子は自分の目の前にひとつの祠のようなものがあったことに気づく。ちゃんとしめなわが垂らされていたり、そこにカミナリ形の紙なんかもぶらさがっていた。改めて周囲を見回してみれば、薄暗いその小さな敷地は柵で囲まれていて、灯篭の他によだれかけを付けた犬の石像なんかもあった。

 

(神社なのかな……ここ……)

 

 どうもそのようだった。いつのまにこんなところへ来てしまったのだろうと思う智子は、目覚めたばかりでまだはっきりしないその頭を働かせはじめる。確か自分はついさっき、とてつもなく恐ろしい目にあったはずだ。弟を追いかけて校舎裏のあかずの小屋にはいってみたら、不気味な白い顔があらわれて暗闇に引きずり込まれてしまった。なのに今は見知らぬ場所で気絶していたようだったから、そのことに首をひねる智子であったが、ひとまず落っこちていたサンバイザーを拾いあげ、そのまま鳥居をくぐって神社から出る。

 

(え? あれ? ここって学校!?)

 

 神社はなんとも妙な建てられかたをしていて、すぐそばにそびえる数階建ての建物に一部がめりこんでいた。建物の一階部分をごっそりくりぬいたトンネルのような空間に、境内の半分がもぐり込むような形になっているのだ。しかしそのトンネルをくぐり抜けた智子が辺りを見回してみたところで、はたと気がついた。自分が今いるのは、普段足しげくかよっている学校の敷地内に違いなかったからだ。コの字型の校舎に囲まれたそのひらけた場所には見覚えのあり過ぎる一本の大きな古木が生えていて、どこからか吹いてくる生ぬるい風に葉っぱを揺らされていた。これはもうどう見ても例のご神木なのであった。

 

(なにこれ、なにこれ!?)

 

 神社のほうを振り返ってみれば、校舎を貫通した通路の先にはさっき見た祠が鎮座している。おかしい、どう考えてもおかしい。いつのまにか校舎の一部がごっそりなくなって、その先に見知らぬ神社が建てられている。一体なにが起きたのだろうかと膝を震えさせる智子であったが、早く大人たちを呼んでこなくてはと、足をもつれさせながらもD棟に向かって駆けていく。そうしてスリッパに履きかえるのも忘れて土足のまま職員室に飛び込んだ智子だったけれど、あかりのついていないその薄暗い部屋には誰の姿もなかった。

 

「あ、あのー……す、すみませぇーん……」

 

 控えめな声で呼びかけてみるものの、先生たちの日々の営みが感じられるその雑然とした室内からはなんの反応もなかった。壁かけ時計を確認してみればまだまだ午前中で、お昼ごはんへ出かけたようにも思えない時間帯であったから、人が消えてしまったようなこの様子はどうにも変だ。

 

(まだ探してるのかな……?)

 

 ひょっとしたら本日出勤してきたのは今江先生ひとりだけだったのかもしれない。その先生はというと確か委員の子たちと協力して飼育小屋から脱走したというウサギを捜索していたはずなので、つまり職員室は丁度いま人が出払っている状態なのだろう。ともあれ職員室の扉を閉めた智子は今江先生の姿を求めて校舎の外を探してみることにした。

 

「せんせー! なんかヘンだよー!」

 

 並木道を走る智子は、どこかにいるであろう先生に向けて大声で呼びかける。あれだけ鳴き狂っていたはずのセミたちがなぜかすっかり大人しくなっていたので、静まり返った校内に自分のこの声はよく通るはずだ。だからそのうち先生も気づいてくれるかもしれない。そう思ってあちこち走り回ってはみたものの、先生は一向に出てきてくれなかった。

 変といえば、天気もなんだか妙だった。少し前までの晴天がウソのように空は曇りきっていて、肌を焼くあの強い日差しは分厚い雲にさえぎられて地面までおりてこず、少々肌寒いくらいであった。だから昼間だというのにどこもかしこも薄暗い感じが漂っていて、まるで嵐がやってくる前ぶれのようだった。

 そうしているうち正門の辺りまでやってきた智子は、守衛室の受付窓を覗き込んだ。先生がつかまらないのでひとまず手近な大人に頼ってみようと、顔の怖いあの警備員のおじさんに学校の異変をうったえるつもりなのだ。

 

(いない!? なんで……?)

 

 だが生憎そこに警備員さんの姿はなかった。持ち場を離れて一体どこに行ってしまったのだろうかと疑問に思う智子であったが、とにもかくにも守衛室はすっかり無人のようだった。

 

(もう帰っちゃおうかな……)

 

 どうもさっきから色々と気味が悪い。先生は見つからないし、何人かいたはずの同級生たちの姿もすっかり見当たらない。つい少し前までは弟が来てくれたことにはしゃいでいたけれど、あれは本当に智貴だったのだろうかと今更ながらに寒気がしてきた。

 なにより自分はあのあかずの小屋で本物のおばけに襲われたのだ。あれが夢や幻覚でないのならとんでもない話で、とうとう正真正銘の怪奇現象に出くわしてしまったことになる。あのとき目の当たりにした白い子供の声と顔、体をつかんできた無数の手の感触などが思い起こされ、智子は身震いせずにはいられなかった。あんな怖い思いはもうたくさんだと、一旦リュックを取りに戻ってから早いところ家に帰ってしまいたい智子なのだった。

 

(大丈夫……わたしのせいじゃないし……)

 

 C棟の校舎がものすごいことになっているようだったけれど、きこさんの儀式をやってしまったせいなのだろうか。あの奇妙な神社はひょっとすると校内のどこかにあるとされていたきこさんの祠で、それが校舎の一部を吹き飛ばす形で復活してしまったのかもしれない。あかずの小屋のコンクリートブロックのなかに、実は邪悪な祠が人知れず封印されていたという訳だ。

 ともあれあとのことは大人たちに任せてしまおう。今江先生があのありさまを見たら仰天して警察を呼んだりするかもしれないけれど、自分のせいじゃない、悪いのはきこさんだと、智子はそんなふうに考えて自分を納得させようとした。

 

「わっ!?」

 

 そうして何気なくうしろを振り返った智子が、おどろいた様子で声をあげる。自分の背後にいつのまにか誰かがたたずんでいたからだ。

 

(着ぐるみ……!?)

 

 これがいかにも気味の悪そうな白い顔の子供だったりしたら悲鳴をあげているところだったけれど、そこにいたのは温和そうな笑みを浮かべるふっくらとした着ぐるみだった。まるで遊園地やイベント会場にでもいそうな彼は、寝ぼけまなこの犬のような見た目をしている。

 

「へ?」

 

 そんな着ぐるみの手には風船がいくつか握られていたが、彼はおもむろにそのうちのひとつを智子に差し出してきた。一体なぜ着ぐるみがこんなところに。ひょっとして今日は学校でなにかお祭りでもあるのだろうか。頭のなかは疑問だらけの智子だったけれど、よくわからないままその風船を受け取ってみせる。

 

「えっ、なに? ちょっ……!」

 

 そうしたら、そのまま着ぐるみは智子のことを抱きしめてきた。頭を抱きすくめるような感じだったので、彼の白いお腹に顔が埋まってしまう智子。いきおいサンバイザーもひしゃげてしまい、そのまま足もとにずり落ちてしまった。

 

「く、苦し……やめ……!」

 

 なんだか妙に抱きしめる力が強い。こちらが嫌がっているというのに、どうも手放してくれそうにない。そのことに恐怖を感じた智子はじたばたしてみるのだけど、それを受けた着ぐるみは逃がすまいと腕の力を益々強くする。

 

「んん──!」

 

 このままでは息ができないと、慌てた智子は全力でもがいてやっとのことで腕のなかから抜けだした。その場に尻もちをついた智子をとらえようと、かがんだ着ぐるみが再び手を伸ばしてくる。

 

「ひぃぃ……!」

 

 つかまってなるものかと、智子は地面を這うようにして必死に逃れる。やがてよろめきながらも立ちあがった智子は、すかさず運動場に向かってダッシュした。

 

(なんなの!? 絞め殺すつもりなの!?)

 

 そうしてかなり距離があいたところで振り返ってみれば、着ぐるみがひょこひょこ歩いて智子のあとを追いかけてきているのが見えた。一体あれはなんなのか、もしや新手のおばけなのだろうかと、そう考えたところで智子のなかにひとつの推測が浮かんできた。

 

(もしかしてあれ、【フーセン太郎】……?)

 

 オカ研が残した活動記録には、そのような名前のおばけのことも書かれていた。むかしむかし、『オバケのQ太郎』という古いマンガが当時の子供たちの間で人気を博していたころ、原幕小でその存在が噂されていたおばけのひとつだ。その噂によれば、彼は放課後になると校門付近に出没し、子供たちに風船をプレゼントしてくるという。そして風船をうっかり受け取ってしまったが最後、その子供はフーセン太郎に抱きしめられて離してもらえなくなるというのだ。

 

(そんなら、これでどうだ!)

 

 さっき着ぐるみから渡された風船を気づかず握りしめたままでいた智子だったが、それをぱっと手放し宙に放つ。ふわりと浮きあがった風船は、そのままゆっくり空にのぼっていった。すると一体どうしたことか、着ぐるみはぴたりとその足を止めたかと思うと、やがて背を向け元いた場所へと引き返していくのだった。

 

(やっぱり! 書いてあった通りだ)

 

 活動記録には、フーセン太郎に出くわした際の対処法についても記されていた。いわく、もらった風船を手放してしまいさえすれば、フーセン太郎も自分のことを解放してくれるのだとか。であるのなら、こうして追いかけられている最中に風船とサヨナラしたらどうなるかといえば、およそ似たような結果になるのだった。どうも着ぐるみは、風船を持たない智子をわざわざ追いかけてまで抱きしめるつもりはないらしい。

 

(どうなってんの……? なんであんなのがいんの……?)

 

 あかずの小屋のおばけに続いて、またしても奇怪なものに襲われてしまった。心臓がバクバクと脈打って苦しいぐらいの智子はすっかりまいってしまって、油断するとそのままへたり込んでしまいそうだった。儀式をおこなってからというもの、明らかにこの世のものではない者たちが立て続けにあらわれるようになったけれど、このぶんだときこさんも学校のどこかに潜んでいて、自分のことをさらいに来るつもりなのかもしれない。きこさんに出くわした際の対処法なんて活動記録には全く書かれていなかったし、ゆうちゃんちのひいおばあちゃんからも聞かされていなかったから、もし遭遇してしまったら大変だ。もはやリュックを回収しに行く余裕はなく、一刻も早く学校から脱出しなくてはと思う智子が周囲に目を向ける。

 

(この辺じゃダメだ。違うとこ行かないと……)

 

 智子が今いる場所は、第一運動場のすみっこのほうにある砂場の手前だ。学校の敷地の南角に位置するその周囲は幅の広い用水路とブロック塀に囲われていたのだけど、塀のほうはずいぶんと背が高くて智子の身長的にこれを乗り越えて外へ逃れるというのは中々に難しかった。塀に沿って立ち並ぶトーテムポールをよじのぼればあるいはどうにかなったかもしれないけれど、古い木製の電柱をもとに作られたらしいそれらはいまやすっかり腐食が進んで形を保つのもやっとというありさまだったからとても足がかりにできるようなシロモノではなかった。

 かといって正門方面にはあの着ぐるみが待ち構えているに違いないので、もう近寄りたくはなかった。であるならば、どうにか乗り越えられそうなフェンスで囲われた第二運動場のほうや、非常用門のある裏庭方面から脱出するほかない。

 

「──、ミィ……ディグ、──……」

 

 これ以上校内をうろつきたくないけれど、勇気を出さねばどうにもならない。そう思って覚悟を決める智子はひとまず猛ダッシュで第二運動場に向かおうと決めたのだが、そこへ待ったをかけるように、どこからか人の声のようなものが聞こえてきた。

 

「──ルプ、ミィ……ヘルプミィィ……」

 

 誰かいるのだろうかとしばらく辺りを見回したところで、智子はようやく声の出どころに気がついた。どうもその奇妙なか細い声は、すぐそばの砂場のなかから聞こえてくるのだった。

 

「ヘルプミィィ……ディグミィィ……」

(なんかいる!?)

 

 砂場に足を踏み入れて声のする辺りへ耳をすませてみたところで、はっきりとわかった。その弱々しい声は明らかに地中から発せられていた。助けて、助けて、と、なぜか英語で砂のなかからうったえかけるそのくぐもった声はいかにも哀れで、誰かがこの場に生き埋めにされているのではないかと思わせるものだった。

 

「誰!? 先生なの!?」

 

 どうも声の質からすると地中にいるのは女の人のようだ。もしかすると今江先生が埋められているのかもしれないと、そう思った智子は足もとに向けて呼びかけてみた。すると声がピタリとやみ、辺りに静けさが戻る。どうしようかな。手で掘って確かめてみようかな。先生じゃなくてもあの無愛想なクラスメイトが埋められている可能性だってある。このままほうっておいたら息ができなくて死んじゃうかもしれない。得体の知れない地中の声を前にして、智子がそんなふうに迷っていると──

 

「ファックミィィィィッ!!」

「うわああ──!?」

 

 いきなり地中から手が飛び出してきて、智子の両足をガシッとつかんできた。突然のことに智子は絶叫せずにはいられない。

 

「ファック! ファック! ファックミ──ッ!!」

「わっ、わっ、ちょ、待って……!」

 

 さっきとはうってかわって毒々しいしゃがれ声になった地中の主は、いかり狂ったようにわめき散らす。決して手放すまいとつかんだ智子のその足を、グイグイと地中からさかんにひっぱってくるのだった。

 

「やめて、やめてよぉ──!」

 

 そうしているうちに体がどんどん地中へ埋まっていくものだから、智子は恐怖した。このままだと自分まで生き埋めにされてしまいかねない。足に絡みつく泥だらけの手をどうにか外そうとするのだけど、ものすごい力でがっちりとつかまれているのでどうにもならない。

 

(これあれだ、【砂場に埋められた女の子】ってやつだ!)

 

 今更ではあるが、智子は自分をひっぱる何者かの正体に見当がついた。地中にいるのは人間なんかじゃなくて、かつて原幕小で語られていたとある怪談に登場する恐ろしい幽霊だったのだ。その話はフーセン太郎が生まれたのと同じころに流行っていたもので、なんでも海外から転校してきた帰国子女の女の子が、他の児童たちにいじめられてこの砂場に生き埋めにされたらしい。そうして放置された彼女はずっと地中から助けを求めていたのだけれど、やがて息ができなくなり死んでしまったという。以来、砂場のなかからときおり彼女の声が聞こえてきたり、ときには他の誰かを地中へ引きずり込もうとしてくるようになったのだとか。

 

「うわああん、助けて──! 死ぬぅ──!」

 

 この幽霊への対処法が、智子にはわからなかった。オカ研のノートには、その辺りのことが書かれていなかったのだ。ゆえにひとたび足をつかまれたら一巻の終わり。他の誰かに力づくで引きあげてもらいでもしなければ、助かりようがなかった。だから智子は力いっぱい叫ぶ。他に誰もいなそうな運動場のなかで、それでも助けを求めて必死に声を張りあげる。

 

「おらっ、しっかりふんばれ!」

「っ!?」

 

 すると急に誰かから抱えられる形になった智子であったから、その体が宙に浮いた。そうしてそのまま地中の手とは逆方向にひっぱる力が働いて、砂に埋まりかけていた足も徐々に引きぬかれていく。

 

(ヤンキー!?)

 

 見れば智子をひっぱりあげていたのは、あのヤンキー娘だった。救助者は他にもひとりいて、飼育委員を務めるそばかす顔の女子が、智子の片足をつかんで一生懸命にひっぱっていた。そうしているうち、ようやく智子の体から幽霊の手を引き剥がすことができたのだけど、いきおい余ってみんなして砂場の外へと倒れ込む。

 

「ファキュファキュファキュ、ミィ……」

 

 智子のことを手放してしまったその真っ青な手は、するすると地中へと引っ込んでいった。そうして最後に口惜しそうな声が聞こえてきたっきり大人しくなり、あとにはぜいぜいと息をつく三人だけが残される。

 

「黒木さん、大丈夫?」

「えっ? あっ、う、うん……ぐすっ」

 

 最初に口をひらいたのは、そばかすの子だった。おかっぱ頭の乱れを手で整えつつ、その子はべそをかく智子を気遣ってくる。智子としては相当に印象が薄く、苗字すら知らない相手だったけれど、一応ながらもクラスメイトである彼女のほうは智子のことを知っているようだった。

 

「なんなんだよあれ……。シャレになんねーぞマジで……」ふらふらと立ちあがったヤンキー娘が、すっかりくたびれた様子で体の砂を払いながらぼやく。

「ゆ、幽霊だよ。こ、この砂場に『出る』って噂なんだ」智子はまだへたり込んでいたけれど、さきほどの怪異についてそう説明してやった。

「ユーレイだぁ……!?」するとヤンキー娘が声を裏返らせて眉をひそめる。

 

 ともあれそのうち足に力がはいるようになってきた智子は、そばかすの子に支えてもらいながらようやく立ちあがった。また手が伸びてきたら嫌なので、一行(いっこう)はひとまず砂場から距離を置く。

 なんにしても命びろいした。もしあそこでふたりが助けにきてくれなかったら、自分は今ごろ砂のなかに完全に埋まっていたに違いない。しかし彼女たちは一体どこから出てきたのだろうと、智子は突如姿を現したクラスメイトのことを疑問に思った。ついさっきまでは確かに影も形もなかったはずなのだから。

 

「おい、どうなってんだありゃ。なんであんなモンがあるんだ?」

「わたしたち、さっきあそこから出てきたよね……」

 

 ヤンキー娘とそばかすの子が、ある場所に目を向けて戸惑い気味にそう言った。彼女たちの視線の先にはコンクリートで塗り固められた背の低い台形の小屋があり、入り口らしき箇所にはぽっかり穴があいている。砂場にほど近いその場所には色とりどりの古タイヤを積み重ねて造られた築山(つきやま)のすべり台があったはずなのだけれど、いまや別物になってしまっているようだった。

 

防空壕(ぼうくうごう)だ! あれ、たぶん【十九番目の防空壕】だよ!」

 

 くだんの小屋を指さし、つばを飛ばしてそのようにうったえる智子。またしても彼女の知識のなかにある噂のひとつが目の前にあらわれたからだ。運動場の一角に突如出現した謎の施設は智子の考えが正しければ、空から降ってくる爆弾から逃れるために戦時中の日本各地で造られた避難場所の一種に違いなかった。「十九番目の防空壕」というのはそうした防空壕に関する不思議話のようなもので、終戦から十年ほど経ったころの原幕小で流行ったものだった。

 

「なんだよそれ」

「えと、なんていうか、ワープゾーンみたいなやつで……」

 

 ヤンキー娘にもわかるように、智子はその噂の詳細を語っていく。当時の校内にはまだ戦時中に造られたいくつもの防空壕が多数残されたままになっており、そこが子供たちの格好の遊び場となっていたのだが、噂によれば全部で十八箇所しかないはずの防空壕に加えて、本来は存在しないはずの十九番目がときおり出現するらしかった。そこはどこか別の場所へと通じているそうで、一旦なかにはいったあとで外へあがってみると、まるで見覚えのないところに出てきてしまうということだった。

 

「裏庭のほうにね、おんなじようなのがあったの。ウサギがそっちにはいっていっちゃったから、追いかけたんだけど……」

 

 智子の話を受けてもいまいちピンと来ていない様子のふたりであったが、そばかすの子の話によれば、裏庭に広がる雑木林のなかでウサギを探していた際に見慣れぬ建物を発見し、奇妙に思いつつも足を踏み入れたらしい。しかしその狭い地下空間に逃げこんだはずのウサギがどうしても見つからず、やむなく一旦外へ出てきたということのようだ。そしたら砂場のほうで悲鳴をあげている智子が目にはいったので、慌てて救助に向かったのだという。

 

(ヤバいなぁ……。これ、たぶん他にもヘンになってるところとかありそう)

 

 一階部分をぶち抜かれたC棟の校舎だけでなく、運動場のすべり台までもが変異していた。このぶんだとまだまだ儀式の影響が出ている場所がありそうだと、予想以上の被害の広がりに智子は改めて戦慄を覚える。

 

(もしかして……)

 

 ふと思い立った智子は、防空壕の裏にある水路のほうへと駆け寄って柵越しに覗き込む。これは運動場の東側に設けられたもので、ある程度北に進むと途中から地下へもぐり込む構造になっていた。そうした水路に対して、智子は確認しておきたいことがあった。

 

「うわー、やっぱり!」

 

 眼下に広がるその光景に、智子が声をあげる。普段は大雨の日でもなければチョロチョロと申し訳程度の水が流れているに過ぎないこの水路であったが、今はやたらと水かさが増えていて、強い流れが生まれているようだった。

 

「うおっ、きもちわり……!」

「なにこれ……?」

 

 智子の様子につられ、他のふたりも一緒になって水路を覗き込む。するとこぞってあっけにとられた反応を見せたのであるが、彼女らが目にしたのはなんとも形容しがたいものだった。水路を流れる水のなかでは鮮やかに光る極彩色の複雑な波紋が激しくうねっており、まるで生き物のようだ。あたかもコンピュータでえがき出されたアニメーションのような、規則的でありつつも変化に富んだその動きが作り出す目まぐるしい光景は、単なる水の流れというよりもなにかしらのエネルギーの奔流であると言ってよかった。

 

「【四次元水路】だよ! もしここに落ちたら時空の彼方に飛ばされちゃうんだ!」

 

 これもまた智子の知る不思議話のひとつであり、かつて日本で数多くの子供たちがオカルトの世界に魅了され、その手の怪しげな雑誌を愛読していた当時の原幕小で誕生した噂であった。大雨が降って増水した日に限り、四時四四分にこの水路を覗き込んだ者はその超常的な流れを目の当たりにするという。

 

「ねぇ、早いとこ逃げたほうがいいよ。このままだともっとヤバいのが来ちゃうよ」

 

 焦りをにじませる智子が、ふたりに向けてそのようにうったえる。自分の知っていた原幕小学校の怪談や不思議話が次々と目の前にあらわれはじめたこの異常事態に対し、並々ならぬ危機感を抱いたからだ。今まで遭遇してきたとんでもない出来事はおそらくまだ序の口で、このあとも数多くの怪奇が押し寄せてくるのではないかと、智子はそのように予感していた。

 どこにいるとも知れない今江先生が気がかりではあるけれど、今となっては自分たちのような子供だけで探しにいくのはどうにも恐ろしい。ここは大事件が起きたと警察に通報してお巡りさんやパトカーに大勢駆けつけてもらい、校内に潜むおばけたちを追い払ってもらうべきだろう。どうかそれまで先生が無事でいますようにと、智子はそう願うほかなかった。

 

「あ、あのね……その前に友達のこと、一緒に探してもらっていいかな?」

「へ? あー、えと……」

 

 しかしそこへ遠慮がちに待ったをかけたのは、そばかすの子だった。なんでも友達がひとり、まだこの学校のなかにいるはずだそうで、その子を置いていく訳にはいかないとのことだった。彼女としても一連のおかしな出来事を受けて不安を感じているようであったが、友達を見捨てていく気はさらさらないらしい。

 

(あのイヤホンの子かぁ。どうしようかな……)

 

 思い起こされるのは、自分のおこなう儀式を興味深げに観察していたふたつ結びの女子のことだった。ご神木のもとで音楽を聞いていたはずの彼女は、いつのまにかいなくなっていた。よくよく考えてみれば、C棟の校舎の一部が消え失せたことに驚くあまり、そのままそばかすの子を置いてひとり逃げ帰った可能性だってある。友達のウサギ探しも手伝ってあげない薄情な彼女だったから十分にありえると、智子はそのように考える。

 

「で、電話してみたら? もう帰っちゃってるかも」

「そんなことないと思うけど……」

 

 智子の憶測に同意こそしなかったが、ひとまずそばかすの子は肩から下げていた小さなポーチのなかをさぐる。そうして取りだした携帯電話で相方のことを早速呼び出すのだが、通話がはじまるのをしばらく待っていたそばかすの子はやがて首をかしげつつ電話をおろしてしまった。その液晶画面にちらりと目を向けた彼女が「あれっ、なんで?」と、意外そうな声をあげる。

 

「どうした?」

「なんかね、電波が全然来てないみたいで……」

 

 ほら、と言って彼女の差しだした携帯電話の画面を、智子はヤンキー娘と一緒になって確認してみた。すると確かに電波のつながり具合を示す目盛りが底をついてしまっているようだった。町なかの、それも野外でこんなふうになるなんてことは考えにくい。智子としても校内において携帯電話の電波状況がこのように悪化していたのを目にしたことは今まで一度もなかったから、どうにも奇妙だった。

 

「とりあえずそいつのこと探しゃいいんだろ? そんならさっさと行こうぜ」

「あっうん。ごめんね、ありがとう」

「えっ、ちょ、ちょっと待って……!」

 

 面倒そうに頭をかきかきするヤンキー娘だったけれど、そうした彼女のひと声であっさり話が決まってしまった。校内をこれ以上うろつけば、そのうちきこさん辺りがやってきて首に縄をつけられてしまうかもしれないというのに。いくら友達が心配だからといってもこの異常な状況下にあっては少々危機感が足りないのではないだろうかと、焦った智子は口を挟もうとする。

 

「おめーは先帰っとけよ。わたしはこいつのダチ見つけてからにすっから」

「あっ、で、でも……」

 

 無理に自分たちに付きあう必要はないと、智子の不安を見て取ったらしいヤンキー娘がそのように言う。だけどもそれはそれで智子にとっては遠慮したいところだった。この恐るべき空間と化した今の学校のなかでひとりぼっちになるというのは、どうにも不安でたまらないのだ。

 

「待ってよぉー!」

 

 せっかくあらわれた「仲間」と言えなくもない彼女たちと離ればなれになりたくない智子であったから、その場を去っていくふたりのあとを追って結局は自分も友達探しへと参加する。途中で今江先生のことも見つかったらいいなと、そうした願いを抱きながら。

 *

「ゆり──! どこにいるの──!?」

 

 ご神木の前に立つそばかすの子が、大きな声で友達に呼びかける。「ゆり」というのはふたつ結びの女子の名前らしい。だけども彼女からの返事はなくて、辺りは静かなままだ。

 

「どうしたのかな。ここで待ちあわせしてたんだけど……」

「あれにビビってどっか行ったんじゃねーか?」

 

 姿の見えない友達を心配するそばかすの子に、ヤンキー娘がひとつの場所を指さす。その先には智子も目の当たりにした例の神社が相変わらず威容を示していた。校舎の一部が丸々ごっそりなくなっているその光景は智子でなくともド肝を抜かれるものであったから、なおもこの場へ律儀に留まり続けるよりかは、一旦どこか別の場所へ移ったと考えるほうが自然だった。

 

(リュックがない!?)

 

 友達探しは仲間たちに任せるとして、智子はご神木の周囲のベンチへと放置したままになっていた自分のリュックを探していた。しかしなぜだかそれが見つからない。

 

(持っていっちゃったのかな……?)

 

 もしやゆりという名のあのクラスメイトが、この場を離れる際に持ち去ってしまったのだろうか。そうする理由はわからないけれど、とにかく智子の貴重品が詰まったあのリュックがどこにも見当たらないということだけは確かだった。

 

(あれ? 祭壇が……)

 

 なくなっていたのはどうもリュックだけではなかったらしい。智子がご神木の根もとに築いたあの小さな祭壇も、どういう訳かすっかり消えてしまっているようだった。確かに作ったはずなのにと、木の周囲をぐるぐる回って調べてみたがやはり影も形もない。とはいえ校舎の一部が大胆に消えてしまうぐらいだから、今更なにが消えたっておかしくはない。もしかするとリュックもそうやって超常の力が働いた結果、理不尽にもこの世から消し去られてしまったのかもしれない。

 

(わたしのノート……)

 

 この夏休みにうんとがんばって書き溜めた自由研究の成果が失われてしまうというのはなんとも悔しい。できれば取り戻したい智子であったが、今はこの学校から脱出するのが最優先なので、涙を呑んでことに当たるしかない。

 

「うろついてりゃそのうち見つかるって。ほら、次行くぞ」

 

 ひとまず他をあたってみようという流れになったので、探し人の行方を追う一行は場所を変えて捜索を続けることにした。途中、今江先生が戻ってきてはいないだろうかと思って職員室に再度立ち寄ってみたものの、さっき智子が確認したときと変わらず無人のままだ。本日出勤してきたのは今江先生だけだと考えていた智子だけれど、そばかすの子の話によれば他にも何人かの先生が確かにいたとのことだった。

 ともあれそうして次にやってきたのは下駄箱が立ち並ぶ昇降口のなかで、ここでもそばかすの子は友達に向かってさかんに呼びかけていく。

 

「おい、あれ」なにかが気になった様子のヤンキー娘がそちらを指さす。

「ヘンだね、もうしまっちゃったはずなのに」

 

 昇降口の通路には数本の笹が目立つ場所に飾られていた。笹の葉には短冊や折り紙細工がたくさんくくり付けられていたが、これはとっくに過ぎてしまった七夕祭りの時期限定で展示されていたはずのものだった。笹はあとで神社に運んでお焚き上げしてもらうことになっていたはずだから、それが今もこうして残されたままなのはなんだかおかしい。実際はまだ学校に保管されていて夏休みのあいだ飾りなおされた可能性もあったが、もしそうであれば飼育小屋の鍵を拝借するために今朝もこの場で靴を履きかえて職員室へとお邪魔した委員のふたりが気づかないはずもなく、彼女たちからするとくだんの笹が突如出現したようにしか見えないのだった。

 

「あっ! だ、ダメだよ! それ読んだら呪われるよ!」

 

 笹に近寄ったヤンキー娘がなんとはなしに短冊のうちのひとつを手に取ったところ、慌てた様子の智子がだしぬけに大きな声で叫ぶ。短冊に書かれた内容を決して読んではならないと、そのように警告したのだった。

 

「うっせーな、さっきからイチイチ声がデケーんだよてめーは」

「で、でも……」

「ビビってんじゃねーよ、ただの短冊だろーが」

 

 自分のことを引きとめる怒鳴り声が(かん)にさわったのか、むっとした様子のヤンキー娘は智子の言葉を無視し、その黒い短冊に目を向ける。

 

『みんなが死にますように』

 

 短冊には赤い字でそう書かれていた。不穏極まる内容におどろいたらしいヤンキー娘が「ひゃっ!?」と叫んで飛びのく。

 

「どうしたの?」

「わ、わかんねぇ。なんかやべーぞこれ……」

 

 態度を急変させたヤンキー娘の様子を見て、そばかすの子がそうたずねる。するとヤンキー娘は益々笹から距離を取り、昇降口にあらわれたこの不審な飾り物の異常性をうったえるのだった。

 

「ほらぁ、だから言ったじゃん。これ、【黒い短冊】ってやつだよ。読んだ人は呪われて死ぬんだよ」なんだかちょっと得意げになった智子が、これみよがしにそのような言葉を投げかけた。

「そうなのか……?」智子のおどすような言葉を真に受けたのか、ヤンキー娘は顔を青ざめさせる。

 

 智子の言った「黒い短冊」という名前の通り、その奇妙な笹にくっついている短冊はいずれも黒いものばかりだ。この黒短冊には呪いの言葉がしたためられていて、それを読んでしまった者に災いが降りかかるという怪談がかつての原幕小──当時は〈里崎国民学校〉と呼ばれていた──で流行ったのは、実に六〇年以上も前のことであった。もっとも実際の怪談の内容によれば、呪いの黒短冊は人の手が届かない笹のてっぺんに一枚だけ結ばれているという話なので、いま智子たちの目の前にある呪いまみれのまっくろな笹は一層タチの悪いシロモノに思えた。

 

「吉田さん、大丈夫だよ。黒木さんもそういうのやめようよ」

 

 本当に呪いをかけられてしまったのではないかと、すっかり怯えた様子のヤンキー娘であったが、彼女のその背にそばかすの子が気遣わしげに手を添えて慰めの言葉を口にする。

 いたずらに不安を煽るような真似は控えてほしいと注意を受けた智子であったが、いつも目の上のたんこぶのように思っているヤンキー娘がすっかり弱気になっているのを見て、正直なところちょっぴり愉快な気持ちなのであった。

 

「まあ大丈夫じゃない? ほら、七夕なんてとっくに過ぎちゃってるし、たぶん呪いも無効だよ」

「お、おう……」

 

 それでも一応はフォローしておこうと、ヤンキー娘を怖がらせた張本人である智子はさきほどの主張をひっくり返すように気やすめの言葉をかけてやる。そのもっともらしいこじつけに多少は救われたのか、ヤンキー娘も落ち着きを取り戻したようであった。

 

「なあ、もう行こうぜ。おまえのダチ、ここにゃいねーよ」

 

 早くこの場を立ち去りたいのか、ヤンキー娘がそばかすの子にそう言った。確かに彼女の言う通りのようだったので、次なる場所を捜索するため歩き出そうとする一行。

 

「あっ、ちょ、ちょっと待って」

 

 しかし昇降口に設置されていたものを目にしてあることを思い立った智子が、みんなを一旦引きとめてから小走りでそちらに駆け寄った。それはいささか年季のはいったピンク色の公衆電話であったが、受話器を手にした智子は慎重な手つきでボタンを押しはじめる。

 

「なにしてるの?」

「あっうん、警察に通報しとこうかなって……」

 

 その行動を不思議に思ったそばかすの子が歩み寄りながらたずねるのだが、智子は一一〇番にかけるつもりでいた。電波が届かない状況にあっても固定電話であれば問題ないはず。だからいまのうちに警察へ相談しておいて、学校を襲ったこの異常事態に少しでも早く気づいてもらえるようにしよう。「おばけが出た」なんていう理由だとイタズラ電話だと思われそうだったから、ここはひとつもっともらしい事件をでっちあげて信用してもらうしかない。さてどのように説明したものかと思案する智子が、受話器を耳に当てて通話の開始を待っていると──

 

『もしもし』

「あっ、あのっ、へへっ……す、すみません、あのちょっと、わたしあの、は、原幕小学校の、せ、生徒なんですけど……」

 

 早速電話がつながった。なんだか鼻にかかったような声の女性が応対に出たのだが、ひどく緊張する智子は度々噛みながらも予め考えておいた言葉を並べ立てていく。

 

『あっ、あのっ、すみません、あのちょっと、あのあのあの……』

(ん……?)

 

 しかし智子の言葉をさえぎるかのように、電話口の相手が急におかしなことを口走りはじめた。

 

「あの、も、もしもし?」

『は、原幕小学校のぉ……へへっ……せ、生徒なんですかぁ……?』

 

 改めて呼びかけてみた智子であったが、相手側の様子がどうにも奇妙だ。

 

「あ、あのっ、すみません、そ、そちらは警察でしょーか?」

『あ、あのっ、すみません、こ、こちらは警察でしょーか?』

 

 なぜかわざとらしい感じでオウム返しっぽいことをしてくる電話口の相手であったから、会話自体も微妙に成り立っていない。なんとも気持ちの悪いその電話相手に胸さわぎを覚えた智子は、そばにいたヤンキー娘におずおずと受話器を差しだした。

 

「ご、ごめん、その、ちょっとかわってもらっていい……?」

「あ? なんでだよ」

「な、なんかヘンな人が電話に出たみたいで……」

 

 そうした智子の言葉を受けて、ひとまず受話器を受け取ったヤンキー娘は電話口の相手と会話をはじめた。

 

「オイ、なに真似してやがんだコラ。おちょくってんのか?」

 

 しかしどうも雲行きが怪しい。電話の相手としばらく言葉を交わすうち、段々とヤンキー娘の表情が険しくなり、いまやすっかりケンカ腰のようだった。

 

「ああーっ? なに言ってんだてめー、ブッコロすぞ!」

 

 ついには声を荒げたヤンキー娘が、そのように口汚く相手をののしりだした。そうして最後は「チッ!」と舌打ちした彼女が、乱暴な手つきでその受話器を智子に突き返すのだった。

 

「こいつホントにオマワリか? ワケわかんねーぞ」

「ど、どうなんだろ……ヘンなとこにかけちゃったかも」

 

 ともあれ再び受話器を耳に当てた智子は、困惑しながらも改めて電話口の相手に「もしもし」と話しかけてみることにした。

 

『あにょっ、も、もしもし、こちら警察です……へへっ』

 

 そしたら今度は自分から「警察だ」と名乗ってくるではないか。だったらもう少しまともな対応をしてほしいところだったが、相も変わらずその口調を崩すことはないようだ。

 

(もしかしてわたしの真似してる……!?)

 

 どこか聞き覚えのある電話口の声の正体が、智子にもようやくわかった。この歳にもなると一応は自分の声質や喋り方がどのようなものなのか第三者視点である程度は把握していた智子であったが、そうして知り得た特徴と今の電話口の相手の特徴とがおおむね一致していたのであった。

 

(そうか! これ、【ピンクの番号】なんだ!)

 

 そう気づくやいなや、智子は慌てて電話を切った。途端、それが合図となったかのように電話機本体から「ウエーイ、ヤッタネ!」とノイズ混じりの能天気な声が発せられたものだから、その場にいた全員がびくりと肩を震わせてしまった。

 

「な、なあ、今のなんなんだ……?」

「た、たぶんおばけだよ。電話のおばけ」

 

 これもやはりかつての原幕小──ちょうど子供のころの今江先生がかよっていた当時に流れた噂の実演に違いなかった。話によれば昇降口にある公衆電話からとある番号にかけるともうひとりの自分が電話に出るのだそうで、本来は「6-9696」へかけることになっていたのだけど、いまや別の番号であってもおばけのところにつながってしまうらしい。

 

「あ、も、もういいや……行こっか」

 

 とにかくこうなってはもはやこの公衆電話は使いものにならないようだ。もう一度職員室に戻ってそこの電話を使わせてもらうという手もあるのだが、このぶんだとそちらのほうにもなにかしら妨害がはいりそうに思えてしまう。いまや携帯電話のみならず固定電話すらアテにならないこの状況。外部との連絡手段が断たれたに等しいわけであるから、いよいよこの学校を早いところ脱出せねばならないとの思いを強める智子であった。

 *

「まこ!」

 

一行が昇降口から伸びる渡り廊下を通ってA棟方面へと向かっていたところで、道すがらにある旧校舎の物陰から誰かが声をあげつつ飛び出してくる。どうもひとりの女の子のようだ。

 

「ゆり!」

 

 それに対して真っ先に反応したのはそばかすの子だ。彼女と、そして飛び出してきたほうの女子は互いに走り寄って手を取りあい、安堵のため息を漏らすのだった。

 

「よかったぁ、ずっと探してたんだよ?」

「あっうん……」

「すごいびしょ濡れだけど、なにかあったの?」

 

 ようやく探していた人物が見つかってひと安心だった。しかし「まこ」と呼ばれたそばかすの子の言う通り、ゆりという少女は確かに水を頭からひっかぶったようにびしょびしょの状態であった。衣服には水気を切るために絞ったような跡も残っている。

 

「いや、真子(まこ)のほうこそ大丈夫なの?」

「なにが?」

「池に飛び込んでったじゃない」

「えっ? そんなことしてないけど……」

「うそ。わたしのこと、池のほうまで連れていったの真子でしょ」

「ちょっと待ってゆり。わたし、本当に知らないよ?」

 

 ふたりのこうしたやりとりをそばで見ていた智子であったが、どうも両者の会話は噛みあっていないようだった。なにやら事情でもあるのか、さっきから池が池がと言い張るゆりであったが、身に覚えのないことを言われているらしく、真子のほうはただ困惑するばかりだ。

 

「あ、あのっ! そ、それたぶんニセモノだよ。わたしもなんか、似たようなことやられたから」

 

 なんとなく心当たりのあった智子は、ふたりの会話に口を挟んでみた。おそらくゆりが見た真子というのは、本人ではない別の誰かに違いない。自分もまた、弟になりすました何者かに誘導されてあのC棟裏の小屋のところまで連れていかれたのだから。

 同じことはきっとヤンキー娘や真子のほうにも起きていたはずだ。ウサギを追いかけていった先であの奇妙な防空壕に足を踏み入れたという彼女らであったから、本物とはまた別に偽のウサギがあらわれて、飼育委員のふたりを誘い込んだ可能性は十分にある。

 

「ニセモノって……なにそれ?」

「よ、よくわかんないけどさ、でもさっきからヘンなことばっかり起きてるんだ。ニセモノぐらい出てきたっておかしくないよ」

「真子、ホントなの?」

「う、うん……きっとそうだと思う。黒木さんの言う通りかも」

 

 友達のニセモノがあらわれたなどと、いきなりそのようなことを言われてもにわかには信じがたいようで、ゆりは少し困ったような顔になる。しかしながら当の真子自身までもがそのように肯定するものだから、一応は受け入れざるをえないのだった。

 

「あ、あのさ、その池って、もしかして裏門のとこにある池のこと?」

「そうだけど」

「も、もしかして池から手が出てきて引きずり込まれちゃったとか?」

「あっうん……そうだけど……」

 

 思い当たるふしのある智子が具体的な推測を口にしたところ、ゆりがそれを肯定した。どうやら智子が小屋のなかに潜むおばけに引きずり込まれたのと同じように、ゆりのほうも似たような目にあわされたらしい。結果、池にボッチャンコしてしまった彼女は水びたしになったという訳だ。それを知った智子は「あーやっぱりね」と訳知り顔でうなずいて、

 

「それたぶん、『黄泉ヶ池(よみがいけ)』だよ」

「なにそれ?」

「昔、この学校にそういう噂があったんだよ。池のなかから幽霊の手がいっぱい伸びてきて、あの世に連れてかれちゃうんだ」

「ふぅん……」

 

 戦時中の原幕小で流行った怪談のひとつに、【あの世へ通じる黄泉ヶ池】というものがあった。校内の一角にあるその池に腐敗した死魚(しぎょ)が漂うとき、池のなかを覗き込んでしまうと死者たちの霊に引きずり込まれてしまうというものだ。

 しかし本当にあの世へ連れていかれたという訳でもなかったから、ゆり本人としては単に何者かにひっぱられて水をかぶらされたぐらいの印象しかなかったようで、話を聞かされてもいまいちピンと来ていない様子だった。

 

「ちょっと待って黒木さん、あの池ってもう枯れてたでしょ?」

「そうなんだけど、きっと今だけ復活してるんだと思う。ヤバいところだらけだよホントに……」

 

 口を挟んできた真子の言う通り、もともと問題の池はとっくの昔に水が抜かれていて、落ち葉が溜まるばかりでろくに手入れもされていなかった。裏庭にある非常用門がまだ正門として扱われていた時代はそこでヘラブナなんかが飼われていたそうだけど、今となってはあまり人の寄りつかない寂れた場所となり果てていたのだった。

 しかしその池が当時の姿を取り戻し、あまつさえ怪談そのままの現象が起きる危険な場と化してしまうとは。このぶんだと非常用門付近へ足を運ぶのも避けたほうがいいかもしれないと、智子は警戒した。不用意に池を覗き込まなければ問題ないのかもしれないが、予期せず幽霊たちがその手をニョロニョロと長く伸ばしてきたらたまらないからだ。

 

(ヤンキーも嫌がりそうだし……)

 

 もしやと思いさきほどからだんまりしているヤンキー娘の顔色をうかがってみた智子であったが、案の定智子の話した怪談に反応してしまったようで、どこか不安げな表情を浮かべているのだった。このぶんだと彼女も池のあるほうへは行きたくないのかもしれない。

 

「あっ、あのさ、その、今江先生見なかった?」

「見てないけど」

「あ、そ、そか……」

 

 智子は気になっていたことをゆりに聞いてみた。探していたゆりとはこうして合流できたものの、いまだ行方のわからないでいる今江先生のことがやはりどうにも心配なのだった。大好きな先生にもしなにかあったら、とてもつらい。もしかしたらこのなかに閉じ込められてはいないだろうかと、他の棟と比べてだいぶ古めかしい造りをした半木造の旧校舎を見上げる智子。

 

(【旧校舎の怪】ってのもあったしなぁ……)

 

 八〇年代ごろの原幕小には、そうした類の怪談なんかもあった。深夜の旧校舎はおばけや幽霊たちの巣窟になっていると噂されており、ひとたび人間がそこに足を踏み入れようものなら防火扉やらなんやらがひとりでに閉じてしまい、そのまま出られなくなってしまうという話だ。活動記録に貼り付けられていた例の心霊写真なども、実はこの旧校舎にて真夜中に激写されたものなのであった。

 

「どうしよっか……先生たちのことも探してみる?」

 

 先にそう提案したのは真子で、無事に友人と再会できた今は先生方のことも心配になってきたらしい。今朝職員室に出向いた際は確かにいたはずなので、それがみんなして消えてしまったこの状況に不安を覚えてもいるようだった。

 

「や、やめといたほうがいいよ……。それより早いとこ警察呼びに行ったほうが絶対いいよ」

 

 警備員のおじさんまでもがいずこかへ消えた今の異様な状況であったから、これはもう学校にいた大人たち全員になにかあったと見ていいのかもしれない。智子だってできることなら今江先生を見つけ出してあげたかった。だがこの短いあいだだけでも様々な怪異に出くわし、ときに襲われたりもしたのだ。それらはいずれもこの学校に伝わる過去の様々な怪談や不思議話に由来するものであった訳だが、原幕小の長い歴史のなかにはまだまだ他にも沢山の奇怪な噂が存在していることを智子は知っていた。

 かつて様々な時代の子供たちのあいだで流行り、やがてすたれていった「歴代の七不思議」と呼べるものたち全てが、今もそこかしこで待ち構えているとしたらどうだろうか。もしそうだとしたら、とんでもないことであった。ゆえに今この学校に留まり続ける危険性を誰よりも理解する智子としては、例え先生たちを一時的に見捨てることになったとしても、あとで多くの助けを引き連れて戻ってくるほうがより賢明だと考えているのだった。

 

 結局、智子の提案に反対する者は誰もいなかった。次は一体なにがあらわれるのだろうと周囲を警戒しながらも、一行は脱出口を求めてしぃんとした学校のなかを歩いていく。途中、自分のリュックが見つからない件を思いだした智子はゆりにそのことをたずねてみたりもしたのだが、結局ゆりはなにも知らないようだった。

 やがて体育館の前へと差しかかった智子たちは、さらにその隣にある第二運動場のなかへとはいっていく。

 

「ほ、ほら、あの辺ならのぼっていけそうでしょ?」

 

 智子が指さした先には、運動場を取り囲むように植えられた木──カイヅカイブキという針葉樹──が隙間なく立ち並んでいる。目では確認できないが、その背後には乗り越えるのにそれほど苦労しなそうな高さのフェンスが隠れていた。

 

「きゃあ!?」

 

 しかしそうした生け垣をちらりと見回した真子が、突然悲鳴をあげた。他の者もそれに続いて似たりよったりの反応を見せたのであるが、どうも彼女たちはフェンスの向こう側にいる「なにか」を見つけたらしく、みな一様に恐怖したのだった。

 

「ちょっと、なんなの……!?」

 

 あまり驚いていないように見えて、それでもやっぱり驚いているらしいゆりがつぶやく。彼女らの視線の先には、針葉樹よりもさらに背の高い棒が立っていた。いや、それは棒などではなかった。まるでカカシのようにも見えるそれは、人に近い姿をした異形(いぎょう)の者なのだった。顔の半分がごっそり隠れるほどに伸ばされた乱れ気味の長い黒髪。季節にそぐわない厚手のコートを着込んだいでたち。なにより目立つのが、針葉樹を易々と追い越すほどに高いその異様な背丈。そうした不気味な存在が、フェンスを挟んで智子らのほうをじっと見据えていたのであった。

 

「ぽぽぽぽぽぽ……」

 

 その顔らしき部分の口もとにまるい穴がぽっかり空いていて、そこから気味の悪い鳴き声を発しているのが聞こえてくる。

 

「おいっ! なんだよあれ、なんなんだよあれ……っ!」

「あ、う、えと……あの……」

 

 智子の背に回り込んだヤンキー娘が、しきりにうったえかける。肩を揺さぶられる智子のほうはというと、目の前にあらわれた怪物を前に言葉を失っているようだった。

 

「ゆ、ゆり、どうしよう……! あのヘンなの、ずっと見てきてる……!」

「……とりあえず戻ろ?」

 

 友人の腕にすがって不安を口にするパニック気味の真子に対し、いち早く冷静さを取り戻した様子のゆりがそのようにうながした。そうしてじりじりとあとずさっていくふたりであったが、智子たちのほうも遅れてそれに続く。そうして体育館の陰に隠れて怪物の姿が見えなくなったところで、みんながほっと息をつく。よほど怖かったのかヤンキー娘は冷や汗までかいているようで、

 

「クソッ……ふざけやがって……!」

 

などともんくを言っている。

 

「ねぇ、きこさんってもしかしてあれのこと?」

「へ?」

「ほら、首に縄つけてくるとか言ってたやつ」

「あっ、いやっ、その、た、たぶん(ちが)くて……」

 

 ふいにゆりがそのようなことを質問してきたので、どもりながらも否定する智子。

 

「や、『山女(やまおんな)』ってやつだと思う。ぽぽぽって鳴いてたし、間違いないよ」

 

 そうして自分なりの見解を口にする智子であったが、さっき出くわしたのは【姉弟崎の山女】と呼ばれている存在なのではないかと、そう考えていた。これはもともと江戸時代ごろからこの地方に言い伝えられていた妖怪で、気にいった男児を連れ去って自分の弟として愛でるために農村の近くを徘徊するとされていた。そうした妖怪の存在をおもしろがったからなのか、戦前の原幕小の児童たちはこの人さらい妖怪が自分たちの学校へもやってくるなどと噂していたのであった。

 

「どうすんだよあれ、こっち来るんじゃねえのか……?」

「いや……ま、まあ、大丈夫だと思う……たぶん」

「なんでだよ?」

「さっきのヘンなの、ショタコンなんだよ。男の子しか狙わないんだ」

「ショタコンってなんだ?」

「あー、えーと……」

 

「ショタコン」などという俗語を使って説明を試みる智子であったが、ヤンキー娘からするとはじめて耳にする言葉であったからか、その点について質問を重ねてきた。智子としても最近インターネットで覚えたばかりだったので聞きかじりの知識しかなかったけれど、それを口にしてよいものかと少々迷う。

 

「そ、その……大人の女のひとが、小学生くらいの男の子とエッチなことするみたいなやつで……」

「え?」

 

 もったいぶるようなものでもないかと思いなおした智子が、微妙にズレてはいるが自分なりに解釈した意味を教えてあげることにした。その説明を聞かされたヤンキー娘はというと、これが呆気に取られた顔をするのだった。そうしてしばらく間を置いてから、今度はうつむき加減で押し黙ってしまった。見ればさきほどまで青ざめていたその顔が、いまやすっかり茹でダコになっているようだ。

 

(黒木さん、そういうのやめたげよう? あの子、恥ずかしがってるよ)

(あっ、でも、聞いてきたのはあっちだし……)

 

 その様子をどう思ったのか、智子に顔を寄せてきたゆりがそのように耳打ちしてきた。

 

「今の間違いだよね? 本当は『ショータくん、こんにちわ』ってあいさつの略なんだよね?」

「あ、うん、まあ、そうだったかも……」

 

 ゆりのそうした雑なフォローに「なんじゃそりゃ」と思いつつも、一応は話を合わせてやる智子。

 

「んだよ、だったら最初からそう言えよバカヤロー」

 

 赤いままの顔で智子をにらみつけるヤンキー娘が、照れ隠しのようにもんくを言った。ともあれヤブをつついたらヘビが出たとでも思ったのか、山女についてそれ以上追求してくることはなかった。

 

「まあ、む、無視しとけばいいのかも……。ほら、ただぼうっと立ってるだけみたいだし」

 

 物陰から改めて運動場のほうをそっと確認してみた智子であったが、山女は相変わらずさっきと同じ場所にたたずんでおり、動きだす気配はなかった。智子らのなかにお目当ての男の子がいなかったからか、あそこで静観を決め込むつもりなのかもしれない。智貴を連れてこなくてよかったと、怪我の功名とはいえ今になって今朝の弟とのケンカに感謝する智子であった。

 

(もう正門のほうからでいいや……)

 

 大人しくしているとはいえ、あの妖怪の見ている前でうろちょろするのは遠慮したい智子だったから、別のルートを選ぶことにした。そちらはそちらで例の着ぐるみおばけの出没エリアなのだが、見た目のインパクトで考えれば山女より遥かにマシだ。

 

「いい? ヘンな着ぐるみが風船を渡そうとしてくるけど、絶対に受け取っちゃダメだからね」

 

 正門へ向かって並木道を歩く途中、智子は仲間たちにフーセン太郎への対処法をレクチャーしてあげていた。彼の抱きつき攻撃を招く原因が風船を受け取るという行為にあるのなら、逆にその受け渡しに応じなければどうなるか。おそらく彼はこちら側に手出しすることができなくなるはずだと、智子はそうアタリをつけたのであった。

 

「ほらいたっ、あそこ……!」

 

 並木道の角を曲がったところで、智子たちは早速フーセン太郎に出くわした。彼はいくつもの風船をにぎりしめたまま、正門付近で誰かが来るのをぼんやりと待っているようだった。

 

「わっ、こっち来るよ!?」

「だ、大丈夫、落ち着いて行動しよう……」

 

 智子たちに気づいたフーセン太郎が、早速よちよち歩きで迫ってくる。そのことに驚いた真子が声をあげるのだけど、これが二度目の遭遇となる智子のほうはいくぶんか落ち着いているようだった。やがて目の前までやってきた彼が、例によって風船のひとつをおもむろに差し出してきた。

 

「だめだめ、受け取っちゃダメ……」

 

 緊張を走らせる智子たちは、息を呑んでじっとフーセン太郎の動向をうかがう。そのことをどう思ったのか、彼は差しだした手をふりふりと揺らしてみせたりもする。それでも無反応を保っていると、やがて諦めたのか残念そうに手をおろした彼は、そのまま智子たちをただじっと見つめるだけとなった。

 

「ふ────……」

 

 どうやら自分の見立ては間違っていなかったらしいと、ひとまず安心した智子が長いため息をついた。

 

「なんだこいつ? わりーやつじゃねーのか?」

 

 特になにかしてくるでもないフーセン太郎を興味深げにつついたりしていたヤンキー娘が、そんなことを口にする。見た目だけで言うなら普通にテーマパークなどで来場客に愛想を振りまいていてもおかしくない彼であったから、それもあっていくぶんか警戒心がやわらいでいるようだった。

 

「おっと! い、いらねえって」

 

 しかし油断するとまた風船を差し出してきたりするので、うっかり受け取ってしまわないよう注意だけは必要だった。

 

「こいつ名前あんのか?」

「あっうん、フーセン太郎」

「へー……」

 

 彼の白いお腹をなでさすりながら、このおばけのことを気に入ったらしいヤンキー娘が名をたずねてくる。風船を渡してくるから、フーセン太郎。なんとも安直なネーミングであるけれど、彼のことを噂していた当時の子供たちのあいだではそれなりに親しまれていた名前だったのかもしれない。

 ともかく自分たちの脱出を阻むことはなさそうだと、彼をほうって門へと向かう智子たち。しかし門の前に立つなにかに気づいたヤンキー娘が、たちまち悲鳴をあげた。

 

「くろきーっ! なんかいるぞおいっ!」

「あっ、う、うん……」

 

 フーセン太郎のもとへとんぼ返りしたヤンキー娘が、彼の陰に隠れつつわめき立てる。一体彼女がなにを見たのかといえば、それは校門の前に立つひとりの少年の姿であった。

 

「見て、ゆり。あの子ちょっと透けてるよ。幽霊なのかな……?」

「うーん……」

 

 ゆりに身を寄せる真子が、得体の知れない少年の出現を前に不安げな顔をする。彼女の言う通り、無言でたたずむその少年は半透明の体をしていて、肌や衣服もなんだか灰色がかっていた。

 

「黒木さん、なんなのあれ?」

「えっと、た、たぶんあれかな、【ひとりぼっちの先輩】ってやつ」

 

 ゆりがたずねたところ、やはりこの怪異についても心あたりのあった智子は手前にいる幽霊じみた少年の名を口にする。出くわした際はさすがに心臓を縮みあがらせた智子だったが、さっきの山女に比べればマシもマシなその男の子だったので、それほど動揺することはなかった。

 

「卒業式の日に死んじゃって、家に帰れなくなった幽霊なんだよ」

「そうなんだ」

 

 九〇年代のはじめごろに流行った噂のひとつに、そうしたものが存在していた。卒業式を終えたひとりの六年生の男子が帰りにこの校門の前で突然倒れ、そのまま亡くなってしまったらしい。以来、卒業シーズンになると校門の前に彼の幽霊があらわれるようになり、帰路につく他の卒業生たちのことをひとり寂しそうに見送っているというのだ。

 

「どうなの? ほっといて大丈夫なの?」

「あっうん、まあ一応は……」

 

 彼に関する噂の内容からして、特に害はないと智子は判断した。ちょっと気味が悪いけれど、ただ人々を見続けているだけの存在であるのなら問題はない。

 

「ま、真子さん、ちょっといい?」

「えっ?」

「け、ケータイのカメラでさ、あの人のこと、ちょっと撮ってあげてほしいんだけど……」

 

 しかし思うところあったのか、智子は真子に対してそのようなお願いごとをする。いまだ自分たちの後方で震えているヤンキー娘であったから、彼女のためにこの幽霊のことをどうにかしてやろうと思ったからだ。

 

「どうして?」

「そしたら満足して消えちゃうんだって」

「あ、そうなんだ……?」

 

 智子の説明を受けた真子は、よくわからないままにポーチから携帯電話を取りだした。そうしておそるおそる校門前の少年に近寄っていく。

 

「あの、じゃあ撮りますね……」

 

 ぽつんとたたずむ幽霊少年に一応ことわりを入れてから、カメラモードに切り替えた携帯電話を彼に向ける真子。そうしてボタンを押し込めば、シャッター音を模した電子音が鳴る。

 

「あっ……」写真を撮られた少年は静かに真子へほほえみかけると、そのまますうっと消えていった。

「すごいね、黒木さんの言った通りだよ」振り返った真子は、智子からのアドバイスに感心しているようだった。

「あっうん、へへ……」それに気をよくしたのか、智子がちょっぴり照れたように笑う。

「どうしてそんなに詳しいの?」度々発揮される智子の博識ぶりを指してか、真子がそのようにたずねる。

「あっ、まあ、ちょっと興味があって色々調べてて……」

 

 オカ研が残してくれた活動記録さまさまである。おかげで智子はいまやちょっとした怪談博士なのだ。この非常時にあっては智子のもたらすそうした知識がみんなの助けになっており、幽霊やおばけたちをやり過ごすのにおおいに役立っていた。

 

「あのさ、黒木さん」

「え?」

「さっきからおばけとか出てくるのって、あれのせいなんじゃないの?」

「な、なんのこと……?」

「ほら、黒木さんがやってた儀式だよ。きぇーいっての」

 

 ゆりのそうした指摘に、智子はぎくりとした。自分でも薄々思ってはいたものの、これまであえて黙っていたことだったからだ。

 

「なんだそれ。おまえ、なんかやったのか?」幽霊少年がいなくなったことで戻ってきたヤンキー娘が話にはいってくる。

「あ、う、うん……」

「なにしたんだ?」

「き、きこさん祭りってのを、ちょっと……」

 

 そう答えてしまったあとで、ここはとぼけるべきであったかと悔やむ智子。これではまるで一連の騒動の原因が自分にあるように受け取られてしまいかねないからだ。

 

「とっ、友達のおばあちゃんがさ、こないだ教えてくれたんだ!『おもしろいことが起きるからぜひやってみて』って、そう言われたから、それで……!」

 

 その場しのぎの言い訳にしてもひどいウソだった。むしろ絶対にやってはいけないと、そう警告されていたというのに。真相を知られていないのをいいことに、智子はこの場にいないあの長生きばあちゃんに責任をなすりつけようとしたのだった。

 

「全然おもしろくねーよ! なにしてくれてんだてめーはよー!」

「あっ、ご、ごめんなひゃいぃぃ!」

 

 しかしそうしたデタラメもあまり意味をなさなかったようだ。声を張りあげるヤンキー娘に胸ぐらをつかまれ、強い口調で責められた智子はすっかり縮こまってしまった。今まで散々怖がらされてしまった原因の一端が智子にあると思えば、知らぬうちに巻き込まれてしまった側のヤンキー娘としても腹が立ってしまうようだ。

 

「まあ、その……謝ってるんだから……ね?」

 

 おろおろするばかりの真子を尻目に、見かねたらしいゆりが不慣れそうなとりなし顔で智子たちのあいだに割ってはいる。例の儀式について智子へなにげなく話題を振ったためにいざこざが起きてしまった訳なので、彼女なりに責任を感じたのかもしれない。

 

「黒木さんも、こんなことになるなんて思わなかったんだよね?」

 

 ヤンキー娘をなだめつつ、ゆりが智子にそう確認する。そしたら智子は無言のままこくこくと何度もうなずいてみせた。

 

「ったくよー……」

 

 ヤンキー娘が舌打ちまじりの言葉を吐き捨てる。しかしそれなりに落ち着いてきたようで、もう智子のことをこれ以上責めるつもりはないようだ。

 

「ほら、とっとと行こうぜ」

 

 鉄格子の門を手前に引いてあけ広げ、ヤンキー娘は仲間たちにそう促した。色々ありはしたが無事に脱出を果たせそうなので、みんなもほっとしているようだった。

 

「うわっぷ……!」

 

 しかし一番最初に前へ進み出たヤンキー娘が、なにかに押し返されたようにあとずさった。

 

「……?」

 

 訳がわからず困惑気味のヤンキー娘は、両手を差し出しその正体を探ろうとする。試しに自分の目の前を手でぐいと押し込んでみたところ、なぜかそれに合わせて景色が大きく歪む。なんとも奇妙なその現象に面食らった彼女は、その手をあちこちに当ててまさぐってみた。

 

「なんだこれ! どうなってんだ!?」

 

 門から出たそのすぐ先に、どうも透明なフィルムのようなものが張り巡らされているようだった。しかしそれにしてはどうにも不自然で、フィルムを通して見えているはずの向こう側の景色がなにやらひどく平面的に見えた。

 

「くそっ……!」

 

 ともあれ通行の邪魔でしかないフィルムを除こうと、ヤンキー娘はそれをひっつかんで一気に大きく破いてみせた。途端、生ぬるい風が強く吹きつけてくるのと同時に()()()()がみんなの目に飛び込んでくる。

 

「えっ、うそ、なにこれ」

「ねえ、これどうなってるの……?」

 

 目の前の光景をよく理解できないでいるのか、ゆりと真子がやにわにうろたえだした。

 

「なあ……これってなんなんだ……?」

 

 呆然とした様子のヤンキー娘がゆっくりと振り返り、うしろに控える智子へたずねてきた。それを受けて彼女の隣まで慎重に進み出た智子が、首を伸ばして「外」の様子を確認した。

 門を出てすぐのところで地面は消え失せており、まるで切り立った崖のようになっている。消えているのは地面だけではない。学校の周囲に本来あったはずの町並みがどこにも見当たらないのだ。フィルムの向こう側にはなにもない暗黒の空間がひたすら広がっているだけであり、下のほうから吹きあげてくる風のうなりがずっと鳴り響いていた。

 

(ああ……そっか……そうだったんだ……)

 

 果てなき無の続く外界をしばらく眺めていた智子であったが、やがて力なくへたり込んだ。その胸中にひとつの理解がおとずれたためだ。先生たちの姿が見当たらないのも、大切なものがはいったリュックがないのも当然だった。あれだけやかましかったセミたちがすっかりおとなしくなったのだって当然だ。それらはみな、「表の世界」だけに存在しているのだから。

 

(わたしたち、連れてこられちゃったんだ……【裏幕】に……)

 

 裏の世界にあるというもうひとつの原幕小学校──裏幕。今江先生から聞かされていたその怪談こそが、いま智子たちのいる場所の正体なのであった。




つづく


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【ホラー】原幕小の七不思議(4)

◼設定資料
原幕小学校 間取り図(一階)
【挿絵表示】

原幕小学校 間取り図(二階、三階、屋上)
【挿絵表示】

作中の智子たちが住む町
【挿絵表示】



きょうふの裏幕運動会!(前篇)

(あ、ダメだこれ……)

 

 暗くて狭いその階段をのぼりきったあと、外の様子を確認した智子は肩を落とした。あたりには広々とした運動場があり、付近には砂場もある。空は相変わらず寒々しいくらいにどんよりしていて、今となっては恋しいセミたちの気配もまるで感じられない。

 

「どうなの? これ、戻ってこれたの?」

「あっいや、た、たぶん違うと思う」

 

 今さっき智子の出てきた穴ぐらから仲間たちも続々と姿を現すが、あたりを見回すゆりが智子へとたずねる。それに答える智子の顔には落胆の色がいくぶんか浮かんでいた。

 智子たちのいる場所からは運動場を挟んで正門の様子が少しばかり目にはいってくるのだけど、さっきヤンキー娘が力まかせに破いたフィルムの切れ端が、風に吹かれてひらひらとたなびいているのがちらりと見えた。

 

「じゃあどうすんだ? 他になんかねーのかよ」

「あっうん……! その……も、もっと探してみるから……!」

「ったりめーだ。ぜってーこんなとこ出てくからな、気合入れてけよ」

「う、うん……」

 

 自分たちの出てきた穴ぐら──防空壕のその煤けたコンクリートに背をもたれかからせるヤンキー娘が、腕組みしたまま不機嫌そうな顔で智子に話しかけてくる。それを受けた智子はオドオドしながらも、ヤンキー娘の機嫌を損ねないようにと言葉を選んで答えてみせた。

 

(まったく、人間相手だとすぐ態度がデカくなるんだもんなぁ。これだからヤンキーは……)

 

 裏幕にひとたび足を踏み入れてしまったら、二度と出ることは叶わない。自分たちが迷い込んでしまったこの奇怪な場所について仲間たちから説明を求められた智子はあれこれ話したあとで最後にそう締めくくったのであるが、これに腹を立てたヤンキー娘が「どうしてくれんだ!」と強い剣幕で智子のことを再び責めてきたものだから、慌てた智子は自分の主張をすぐさま引っ込めるに至った。

 裏幕には誰も知らない秘密の出口が隠されているので、みんなでそれを探してみよう。それさえ見つけることができたら、このおかしな世界から抜け出すことができる。咄嗟にでっちあげた智子のこうした言い分ではあったが、ひとまずヤンキー娘を落ち着かせることには成功したようだった。

 そういう訳で一行は改めて校内の探索を開始することになったのだが、手はじめにと選んだのがさっきまで智子たちが内部を調べていた防空壕だ。しかしその結果はというと、ここまでの経緯からわかるように思わしいものではなかった。もう一度なかにはいってから外へ出てみたら案外すんなり表の世界に帰ってこられるかもしれないという希望的観測が智子のみならず他の仲間たちのなかにもあったのだが、彼女らのそうした甘い考えは早々にへし折られてしまったのだった。

 

(大丈夫……オカ研の人たちだってちゃんと帰ってこれたんだ。絶対なんかあるに違いない)

 

 しかしそれしきのことで智子が諦めることはなかった。でまかせで口にしたとはいえ、「どこかに出口らしきものがある」という考え自体はあながち間違っていないのではないだろうかと、そのように思えてきたからだ。

 かつてのオカルト研究会が、自分たちの旺盛過ぎる研究意欲を満たすためにきこさん祭りをとりおこなったことを智子は疑っていなかった。深夜の旧校舎にすら忍び込むほどの度胸と行動力を持ちあわせた人々であったから、間違いなくきこさんの調査に関しても行きつくところまで行ったに違いない。

 裏幕の噂そのものに関しては一応ながら活動記録のなかで怪談のひとつとして取り上げられていたものの、結局真相を解明することができなかったとして最終的に調査の打ち切り宣言が出されていた。しかしきこさんの謎を追う過程で、彼らは図らずもその裏幕へと足を踏み入れることになったはずだ。そうした上でメンバー全員がなにごともなく卒業を果たしているのだから、これはもう自力でどうにかして表の世界へ帰還してみせたと考えるのが自然だ。

 

(せめて帰る方法ぐらい書いといてくれたらなぁ……)

 

 ゆうちゃんのひいおばあちゃんが警告していたように、きこさん祭りがあまりにも危険な儀式であるということは今更ながら智子にも嫌というほど理解できた。当時のオカ研もそのことを痛感したからこそ、あのように活動記録の一部を黒塗りにしてきこさんに関する調査内容をほぼ(いん)ぺいしてしまったのだろう。

 だが、なんの因果かこうして再び儀式はとりおこなわれた。まるでそうなることを誰かが望んでいたかのように。目に見えぬ力によって奇妙な導きを受けたかのように。ゆえに万が一こうなったときのことを想定して、裏幕から脱出するための手がかりぐらいは書き残しておいてほしかったと、智子はあのノートの記録担当者のことをちょっぴりうらめしく思った。

 

(うっかり四次元水路に落っこちたとか……ひょっとするとあのガケから飛びおりてみたとか……)

 

 オカ研メンバーがどのようにしてここ裏幕から逃れることができたのか、その方法に考えをめぐらせる智子。そうしてひとまず思い当たったところでは、なんらかの理由で彼らがあの奇妙な水路へとダイブしてしまったり、あるいは学校を取り囲む暗黒の谷底に身を投げたのではないか、といったものが候補にあがった。結果としてそうした自殺にも等しい行為が、予期せずして彼らを奇跡的にもとの世界へと帰したのではあるまいか。

 

(そうだ、「隠し穴」を見つけてそっから出てったのかも!)

 

 先にあげたものに加えて、より現実味の感じられるひとつの新たな推測が智子のなかに浮かんできた。これは【里崎屋敷の隠し穴】と呼ばれているもので、オカ研ノートの記すところによれば昭和のはじめごろに存在していた噂だった。原幕小が建つその土地にはもともと藩庁(はんちょう)(江戸時代における役所)としての役割も担っていた大名屋敷があったのだけど、なんでもそのある一室には妖術を用いて造られた目に見えない抜け穴が隠されていたとのことで、幕末期における動乱のなかで屋敷を襲われた里崎家の人々はこれを通ってひそかに難を逃れたとされていた。そうして屋敷がすっかり打ち壊されてしまったあとも抜け穴だけは形を変えて生きているそうで、校舎内のどこかの部屋にその入り口が残されているとのことだった。

 あらゆる怪談や不思議話によって構成されたこの裏幕において、「脱出」というキーワードにもっとも近い隠し穴の噂こそが自分たちを救う唯一の道になるかもしれない。オカ研メンバーにしても同様の考えに至ったからこそ生還できたのではないだろうか。確証はないけれど今はそれに望みをかけてみようと、智子はそのように思った。

 

「おい、なんか来たぞ」

「へっ?」

 

 しばしのあいだ思考の海に沈んでいた智子であったが、警戒した様子のヤンキー娘から声をかけられて我に返る。見れば他の仲間たちも緊張しているようで、みんなしてどこかに注意を向けているようだった。

 

(バイク……?)

 

 ブルゥン……ブルゥゥン……と、控えめにエンジンをふかしつつ、運動場のずっと向こうのほうから誰かの乗る一台の小型バイクがゆっくりとこちらに向かってきているのが見えた。

 

「誰か助けにきてくれたのかな……?」

 

 バイクに乗っているのが一応はちゃんとした人間であるらしいことを見て取ったからか、真子がついそのようなことを口にする。

 謎のバイク乗りはやけにスカート丈の長い紺色の学生服を着た女の人のようだった。高校生ぐらいにも見えるその女の人は髪を派手な色に染めあげており、遠くから見てもはっきりわかるほどに目立つ頭をしていた。だけども前髪のせいなのか、どうも距離が離れていてはその目もとがよく確認できず、それだけに得体の知れない印象があった。

 

(あいつ、もしかして……!)

 

 不審者の正体について智子が見当をつけたのと、アクセル全開となったバイクがけたたましい音を爆発させたのは同時だった。途端、それまでのノロノロスピードから一転して弾丸のように飛びだしたバイクが、智子たちめがけて一気に迫ってきた。

 

「ひえっ!?」

 

 突然のことに固まってしまった智子であったが、いつまでもそうしてはいられなかった。いきなり突進してきた暴走車から身をかわさなければならないからだ。それは仲間たちも同様であり、クモの子を散らすように彼女らは慌ててバイクの進行方向から飛びのいた。躊躇する様子のないバイクはそのまま智子たちのさっきまでいた場所にすごい勢いで突っ込んできたのだが、間髪入れずに急ブレーキをかけ、そのまま後輪を大きくスリップさせながら無理やり停車してみせた。

 

「なにすんだコラァ! 殺す気かてめー!」

 

 タイヤに削られた土埃が舞う中、ヤンキー娘がドスを利かせた声で怒鳴る。そしたらバイクに乗っていた女の人が、顔をあげてニタァーっと歯を見せた。

 

「うおっ!? な、なんだおまえ……?」

 

 女の人の顔をまのあたりにしたヤンキー娘が、思わず飛びあがってしまった。遠くにいたときは気づかなかったけれど、こうして近くで見てみるとはっきりわかる。このバイク女には「目」がなかった。いや、目がないというよりも、目もとにあたる顔面の一部が、まるで大怪我でもしたかのようにごっそりえぐられているようなありさまだった。生々しく変色したその痕跡はなんともグロテスクであり、頭に血をのぼらせていたヤンキー娘の勢いをそぐには十分だった。

 

「ス、スケバンだよ! これ、【目無(めな)しのスケバンライダー】だぁ!」

 

 バイク女を指さす智子が、うわずった声で叫んだ。すると女は自分の背中に手を伸ばし、そこからするりとなにかを抜きだした。それは一本の竹刀であり、片手に武器を構えたバイク女は再びエンジンをふかす。

 

「うわあ──っ!」

 

 自分を指さした相手に目をつけたのか、スケバンライダーと呼ばれた女がバイクを発進させて智子を追いかけてきたものだからたまらない。これはヤバいと背を向けた智子は大慌てで逃げ走る。

 

「あいだっ!?」

 

 だけどもまもなくその背中に衝撃が走った。スケバンライダーが追い抜きざまに智子の体を竹刀で強く打ちすえてきたからだ。倒れるように転んだ智子が、痛みにうめいてその場にうずくまる。

 

「黒木さんっ!」

 

 智子のそんな姿を見て、真子が声を震わせ叫んだ。するとそれに反応したのかスケバンライダーのバイクは大きくカーブすると、今度は真子に向かって突撃してきたのだった。

 

「真子、こっち!」

 

 それに気づいた真子があたふたするが、彼女に駆け寄ったゆりがその手をグイとひっぱり一緒に逃げていく。やがてふたりは手近な遊具の階段を駆けあがっていき、ひとまずその上に避難してみせた。そんな彼女らをブンブンブゥゥンと調子よく追いかけてきたバイクはしかし、激突を避けるためか遊具の手前で急停車してしまう。するとスケバンライダーはその支柱を竹刀でビシリと叩いたのち、身を寄せ合っていたゆりと真子に向けて「なめんなヨ!」と怒鳴ってから、再び発進させたバイクで別の方向へと向かっていった。

 そうしてスケバンライダーが次に目をつけたのは、さっきからことのなりゆきをただ見ているしかできなかったヤンキー娘だ。

 

「おいおいおい、くんなくんな……!」

 

 スケバンライダーの狙いを察したヤンキー娘が、水飲み場のあるほうに向かって走りだした。そんな彼女をじっくりと追い詰めるように、少しスピードを落としたバイクはエンジンをリズミカルに(から)ぶかしさせながらそのあとをついていく。

 

「ぐあっ……!?」

 

 またしても犠牲者がひとり。突如スピードをあげたバイクが、さっき智子にしたのと同じようにヤンキー娘の背中へ強烈な一撃をくらわせてきた。たまらずよろめいた彼女であったが、痛みに顔をしかめつつもどうにか倒れずその場に踏みとどまってみせた。その様子がおもしろかったのか、「ヒャハハハ」と意地悪そうな笑い声をあげたスケバンライダーが、一旦校庭を大きくカーブしてから再び突撃してくる。どうやらもう一発お見舞いするつもりらしい。

 

「んのヤロォ……ッ!」

 

 スケバンライダーの意図を察したヤンキー娘ではあったが、それに再び背を向けるようなことはしなかった。さっきまで追いかけられる一方だった彼女はしかし、ここにきて闘志に火がついたようだ。仁王立ちになったヤンキー娘が、その場から離れることなく暴走車を堂々迎えうつ──。

 と見せかけて、バイクをギリギリまで引きつけてからすばやく横に身をかわしてみせたヤンキー娘。目標に逃げられつつも勢いの止まらぬバイクはそのまま突っきっていったのだけど、まもなく車体をターンさせたスケバンライダーがみたび獲物に狙いをつける。

 

「おら────!!」

 

 しかしバイクが勢いをつけるより先に、猛ダッシュしたヤンキー娘がそれに急接近した。そうしてバイクの前輪カウルを踏み台に、真正面からスケバンライダーの顔を力まかせにブン殴ってやったのだった。ハンドルを手放したスケバンライダーはそのままうしろ向きにシートから転げ落ちていき、操縦者を失ったバイクもバランスを崩して横倒しになる。ヤンキー娘もまた同じように地面へ倒れ込んだのだけど、よろめきながらもすぐさま立ちあがってみせた。

 

「どうだっ……、なめてんじゃねえぞ……!」

 

 髪をかきあげたヤンキー娘は息を乱れさせつつも、あおむけになってのびているスケバンライダーに啖呵をきる。しばらくのあいだ相手が起きあがってくることを警戒していた彼女だったけれど、どうもその気配はなく、ピクリとも動かなくなったスケバンライダーはすっかりおとなしくなってしまったようだ。

 

「おっ……!? な、なんだぁ……?」

 

 それどころかその体が急に透けてきて、驚いたヤンキー娘がぱちぱちとまばたきしているうちにすっかり姿を消してしまうのだった。

 

「吉田さーん、だいじょうぶー!?」

 

 ひとまず事態が落ち着いたと見たのか、遊具のほうから真子が声をあげて呼びかけてきた。ヤンキー娘が追いかけられているあいだに避難したのか、その隣にはゆりだけでなく智子の姿もあった。

 

「おー、なんかイッパツくれてやったら消えちまったぞ」

 

 手をあげ応えてみせたヤンキー娘は、案外根性のないやつだったなと、さっきのスケバンライダーについてそんなことを考える。そうして服についた砂埃をせっせと払っていたところで、安心した仲間たちがやってきた。

 

「すごいね、やっつけちゃったの?」

「おう、あんなもんラクショーだ」

 

 一時はどうなることかと思われたが、ヤンキー娘の活躍によってひとまず危機は去った。なんとも奇妙な相手だったけれど、腕っぷしが通用するのならなにも怖いことなんてないと、襲撃者の撃退に成功したヤンキー娘はいくぶんか度胸をつけたようだ。

 

「あっ、よっ、吉田さんってやっぱりああいうの得意なんだね」おずおずと進み出た智子が、急にそんなことを口にする。

「あ? なにがだよ」言われたことの意味がわからず、ヤンキー娘が聞き返した。

「いつもあんなふうにヤンキー同士で殴りあいしてるんでしょ? ナワバリがどうのこうの言ってさ」

 

 智子としては、日ごろからヤンキー娘に対して抱いている印象をただ素直な気持ちで口にしただけだ。智子のなかのヤンキー観に照らしあわせれば、どこをどう見てもヤンキー娘はヤンキーそのものでしかなかったので、ただ白いものを白いと言ってみた程度のつもりだった。

 

「おまえバカにしてんのか?」

「えっ……?」

 

 しかしそうした物言いに腹が立ったらしいヤンキー娘が、半笑いになって鋭い目つきで智子にゆらりと迫ってくる。まさか自分の発言に原因があるとは思わない智子だったから、「いきなりキレだした!?」と怯えずにはいられない。

 

「しっ、してないよっ! ただ、ほら、毎日ケンカしてたらあんな感じに平気で人のこと殴り倒したりできるのかなって思っただけで……うひっ!?」

 

 こうしてヤンキー娘から胸ぐらをつかまれるのは何度目であろうか。智子が誤解を解こうとまくし立てるほど、むしろ火に油を注いだかのようにヤンキー娘の機嫌はどんどん悪くなっていった。彼女は「ケンカ売ってんのか?」「なめてんのか?」などなど、そんな感じのことをつぶやきながら智子の顔を間近でにらみつけていく。これぞまさしく「ガンをつける」という行為そのもので、智子でなくともヤンキー認定をくださずにはいられない振る舞いだ。

 

「ま、まあまあ……」

 

 そうしたヤンキー娘を止めにはいったのは、またしてもゆりだった。少し前にも似たようなシチュエーションで彼女に助けてもらった経験があったからか、青ざめた智子がゆりに向けて蚊の鳴くような声で救いを求めたのだ。

 

「黒木さん、次はどこ探しに行くの?」

「あっ、ちょ、ちょっと校舎のほうを……」

「じゃあ早く行こうよ。ここにいたらまたヘンなの来るかもしれないでしょ?」

 

 智子の不用意な発言で起きたイザコザも、「そんなことで揉めてる場合じゃない」とさとすようなゆりの仲裁によってひとまずは終了した。が、ヤンキー娘のほうは智子の偏見に満ちた言葉がよほど気にさわったのか、そっぽを向いてむすっとしている。ともあれ場所を変えようということで、一行は手はじめに運動場と隣接しているD棟へ向かうことにした。

 

(暴走族みたいなやつだったなぁ)

 

 叩かれた背中がまだじんじん痛む智子は、去りぎわにうしろをちらりと振り返る。横倒しになっていたはずのバイクも、持ち主と一緒に消えてしまっていた。

「目無しのスケバンライダー」は八〇年代ごろに生まれた怪談で、当時世間をにぎわせていたヤンキーブームなるものが子供たちにも少なからず浸透していた時期のものだった。地元で有名なワルが、ある日バイクで危険運転を繰り返した挙句に事故を起こして──目もとがえぐれているのもそのときの傷だ──死んでしまった。そうして幽霊となったスケバンライダーが、ときおり放課後や夜になると爆音を鳴らしつつ愛用のバイクで運動場を走り回っていることがあるのだという。

 スケバンライダーに遭遇したときの対処法はふたつあり、それについても智子はちゃんと覚えていた。ひとつめ、スケバンライダーはカツアゲ常習犯なので、財布の中身を全部差し出せば「ヤキ」を入れられずに済むとのこと。ふたつめ、スケバンライダー相手に「タイマン」を挑み、荒ぶるバイク相手になんとかして一撃くらわせてやること。ヤンキー娘はこのうちのふたつめを知らぬまま実践したという訳だ。

 

(まあ、あれくらいならどうにかなったけど……)

 

 だけども対処法がわかっているおばけや幽霊は、実のところあまり多くはない。出くわしたが最後、もうひたすら逃げるしかないという厄介な手合いが、歴代の七不思議のなかにはいくつも存在していた。できればそんなのと遭遇しないうちに早く隠し穴を見つけてこの世界を脱出したいところだが、これから校舎内のあちこちを調べていかねばならないのだからため息が出そうになる。とりあえず危険なものが出没するとされている場所の探索については避けるか、なるべくあと回しにしておこうと、智子はそのように思うのだった。

 

 ◆

 

「きゃあ────っ!」

 

 悲鳴をあげる真子が、ある部屋から血相を変えて飛び出す。智子や他のみんなも、ただならぬ様子でこぞってその部屋から出てきた。

 

「サイアクだ……くそっ……!」引き戸を勢いよく閉めたヤンキー娘が、なにかとてつもなく嫌なものを見てしまったときのように顔をしかめている。「黒木、今のありゃなんだ?」

「え? あ、うん、えーっと……」問われた智子のほうも胸の悪い思いをしたようで、その顔色はあまりよくない。「こ、【蠱毒(こどく)の壺】ってのかな……。ああやって虫をいっぱい集めて、ともぐいさせてるんだ」

「んだよそりゃ、気持ちわりぃ……」

 

 閉じられた引き戸の向こう側ではペキペキ、パキパキ、カサカサと奇妙な音がしきりに聞こえ、なにかたくさんのものが部屋のなかでうごめいている気配が伝わってくる。ひとたび戸をあけてしまおうものなら、それらが廊下のほうへとなだれ込んできそうに思えた。

 智子たちが一体なにを見たのかといえば、それは薄暗い部屋のなかにあってなお濃い陰のように広がっていく虫の大群だった。ムカデやらゴキブリやら、なかにはコオロギやカブトムシなんかも混じっていたり。そうしたものが、いくつもの大きな容器たち──原幕小の児童たちが普段給食のときに使っている大食缶だ──に紛れ込んでいた古めかしい大壺からウジャウジャとあふれだしたのだ。D棟までやってきた智子たちはまず一階部分の部屋を調べていたのだけれど、給食室を訪れた際にこのようなハプニングに出くわしてしまったらしい。

 智子の言う蠱毒の壺とは、戦前の原幕小に存在した怪談のひとつである。ずっとずっと昔の江戸時代、怪しげなまじないに手を染めていた里崎家が政敵に災いを与えるため、古代中国に伝わる呪術の一種である「蠱毒」をとりおこなっていたという逸話が元ネタになっていた。このまじないにおいてはひとつの壺のなかに多数の虫などを閉じ込めて、最後の一匹になるまでともぐいさせるということがおこなわれるのだが、そのおぞましい壺が今も封をされたままの状態で学校のどこかに保管されており、うっかり中をあけてしまった者は壺のなかに溜め込まれた呪いを受けてしまうとのことだった。

 

「もういい、次行くぞ次」

 

 そのように促すヤンキー娘であったが、それは他のみんなも同じ思いだ。とてもではないがこれ以上給食室のなかを調べる気にはなれなかった。「室内にもかかわらず風が不自然に吹いてきている場所があればそこが怪しい」というのは、抜け穴のありかに関して智子が活動記録から得ていた情報だ。それをたよりに少しのあいだ確認してみただけにせよ、それほど広くない給食室のなかからは特に風の気配を感じ取ることはできなかったので、きっとこのなかに抜け穴はないのだろうと彼女らは判断してもいた。

 どうか呪われていませんようにと、怪談の詳細をひとり知る智子だけが心のなかで祈りつつ、その場をあとにする。

 

 廊下を進む一行が、通りがかった校長室の前でふと足を止めた。このなかはまだ調べていなかったので、前を行くゆりがそれに気づいて立ちどまったからだ。そうして彼女はおもむろに扉のドアノブへ手をかけようとしたのだが──

 

「あっ、そ、そこはダメっ、やめとこう!」智子が慌てて待ったをかけた。

「えっ、なんで?」

「なかに殺人鬼の校長先生がいるんだよ。あけたら絶対ヤバいって」

「なにそれ?」

 

 くだんの部屋への警戒をあらわにする智子が言うには、校長室のなかに恐るべき存在が潜んでいるかもしれないとのことだった。これは【鬼校長】という怪談のことで、のちに高度経済成長期と呼ばれた時代の、そのはじまりごろに流行っていたものだ。

 なんでもさかのぼること十数年ほど前(智子たちからするとさらにもっと前)、当時在籍していた校長先生がとても厳しい人で、ちょっとした遅刻やあいさつのし忘れ程度のことであっても児童を校長室に呼びつけては激しい体罰を加えてくる性格であったために子供たちからひどく恐れられていたという。なかには校長愛用の湯飲みで殴打されて死んでしまい、そのまま事故死として片付けられてしまった子が何人もいたほどだったとか。この鬼のような先生はやがて病気で亡くなってしまったのだけど、今でも悪霊となって原幕小に居座り、なにか問題を起こした児童が校長室へと呼び出されてくるのを心待ちにしているという。

 

「なんかうそっぽい……ほんとにそんな先生いたの?」

「いや、まあ、ただの噂だけど……」

 

 智子の語るその話は、なんともおおげさで信ぴょう性の薄い内容だった。しかしあくまで噂なのだから、事実にもとづいていないものがあっても別におかしくはない。それより問題なのは、あからさまな作り話に思えるものですらもここ裏幕ではホントのこととして出現してしまう点にある。特にこの鬼校長についてはそれらしい対処法が皆無であったから、なおさら危険だった。

 

「と、とにかくやめといたほうがいいから。先に他のとこ探そうよ」

「あっうん……」

 

 智子のそうした警告を、誰も無視したりはしなかった。裏幕で出くわす数々の怪異に関して智子はずいぶんと物知りであったから、そんな彼女の言葉を今更軽んじるような者はもうこの場にいないのであった。

 言われてみるとなんとなく部屋のなかに人の気配らしきものが感じられる──ような気がする。もしかすると本当にかの殺人鬼が血のついた湯飲みを手に待ち構えているのではないか。そうした背筋の寒くなるようなイメージがゆりと真子、そしてヤンキー娘の頭のなかにそれぞれ浮かんできたものだから、一行は校長室の前を心もち足早に通り過ぎていった。

 

 続いて訪れたのは職員室だった。本日すでに何度か立ち寄ったことのあるこの場所だけれど、中々の広さがあるここを手分けして今一度調べてみようということになったのだ。そうしてみんなが思い思いに室内をうろついて、肌に感じる風の感触がないか探っていたところ──

 

『まーちに、まーちたる

 うん・どう・かい

 きたーれーりー きたぁ、れりぃ……』

 

 突如、スピーカーから音楽が流れはじめた。どこもかしこも静まり返っている今の学校だったから、その音は実際の音量以上によく響いた。

 

「ゆり、なんか歌が……!」

「あー……うん……」

 

 ゆりに歩み寄った真子が、その腕をそっとひっぱりつつ話しかける。一方のゆりも、困惑気味にスピーカーのほうを見上げていた。

 

『せいせい、どうどう

 いーざいで、しめさん

 まっさきかけて

 おーくれはとらじ……』

 

 おおぜいの子供たちの合唱によるその歌は、まるで古い時代のラジオかレコードのごとく音がやたらくぐもっていて、プチプチとしたノイズもたくさん混じっていた。

 

「んだよこりゃぁ……」

 

 ヤンキー娘のほうもこの現象を気味悪がったのか、みんなで固まろうとゆりたちのもとにやってきた。そうしてしばらく立ちつくしていた彼女らだったけれど、ピアノの演奏に乗って運ばれてくるその合唱がやむことはなく、元気いっぱいの子供たちは歌詞が一巡してなおも歌い続ける。

 

「み、みんな、こっちこっち……!」

 

 そうした中、部屋の奥のほうにいた智子がなにかに気づいた様子で仲間たちへと手招きする。

 

「ほら、放送室……。電気ついてるよ」

 

 呼ばれて集まってきた仲間たちが、智子の手前にあるその扉を見やった。智子の言うとおり、扉の小窓にかけられたカーテンの隙間からは確かに蛍光灯の光が漏れているようだ。夕暮れどきと見紛うほどに薄暗い職員室のなかにあっては、それがとりわけ目についた。

 

「たぶんこんなかで誰かが音楽流してるんだよ」いきなりスピーカーが鳴りだした理由について、智子がそのように推理する。

「なんていうおばけなの?」怪談に詳しい黒木さんならもちろん知っているだろうと思ってか、真子が質問してきた。

「あっ、わ、わかんない」しかし智子はこれに答えられない。今のところは心あたりがなく、なんとも言えなかったからだ。

「……あけるけどいい?」すると前に進み出たゆりが、ドアノブに手をかけつつ智子へ了解を求める。

「あっうん、い、いいけど」

 

 警戒する智子ではあったけれど、とりあえず同意してみせた。どのみち今あと回しにしたとしても、もし隠し穴が他の部屋で見つからなければ結局ここも調べなくてはならないのだ。校長室のような危険地帯へとはいるのは最後の最後にしておきたいところだが、ひとりぼっちの先輩のようになにも悪さをしないタイプの怪異も存在するので、放送室にいるのが何者なのか確かめてみるぐらいは必要かもしれないと智子は思った。

 

「誰もいないけど」

「あっ、そ、そうだね……」

 

 ゆりの言うとおり、放送室には誰の姿もなかった。狭い室内になにかが潜んでいるような気配もせず、ただ天井の照明がついているだけのようだった。

 

「なんだろうね、勝手に動いたのかな」

 

 放送室へと足を踏み入れたゆりが、おもむろに室内の機材を手慣れた感じで操作しはじめた。智子からすると細かいボタンやツマミだらけでわけがわからないその操作パネルだったけれど、ゆりのほうは多少ながらも心得があるらしい。

 

「なにこれ……?」

 

 さっきから鳴り響く子供たちの歌声を耳ざわりに感じていたのか、彼女はそれを止めようとしたようだ。しかし一向におさまる気配がなかったため、焦ったようにパネル上のスイッチを何度も切り替えたりする。

 

「ど、どしたの?」入り口から中を覗き込んでいた智子が、ゆりのただならぬ様子を見て声をかけた。

「あーうん……ちょっと」どうにもならないと諦めたのか、パネルから手を離すゆり。

 

 と、そのときスピーカーから流れる子供たちの歌声がにわかに乱れた。まるでラジオの周波数の調節がうまくいかないときのように歌が段々と遠ざかっていき、かわりにラジオ特有のザァ──……というノイズへと変わっていく。

 

「……?」

 

 他の者はてっきりゆりがこのような状態に切りかえてみせたのだと思ったようだが、そうでないことはゆりだけが知っていた。彼女はただ単にスピーカーの電源を落とそうとしただけで、余計なところは特にさわっていなかったのだ。

 

『みょうびぃ──い、びぃ──るぅ──しゃぁ──なぁ──……』

 

 スピーカーから流れる音が突如なんの前ぶれもなく変わった。なにを言っているのかよくわからない感じで、複数の男の人たちの低いうなり声があがりはじめたのだった。

 

『むうぅ──ぜ──え──ん……しょおぉぉ──じょおぉぉ──うぅぅ──……』

 

 独特の伸びをもって発せられるその奇妙な合唱は、まるでお寺のお坊さんが唱えるお経のようだった。場に似つかわしくない読経(どっきょう)の唐突なはじまりは、一同に不安を覚えさせるには十分であった。

 

「おい、これ早く止めてくれよ」たまりかねたヤンキー娘が、放送室のゆりに向けて声をかける。

「あっうん、やってるんだけど……」

 

 今度はラジオ関連の制御装置をあれこれ操作するゆりだったけれど、さっきと同じでなにをしても変化がない。それどころか、なんだか音量が徐々にあがってきているような感じだ。

 

『いっしー、ふぁーきゃーふぁん、せいしゅーしゅーしょう、いっせーじょーらい、きんこうかーちー……』

 

 明らかにさっきよりもお坊さんの数が増えてきた。ペースをあげてより大勢で一心不乱に唱えられるそのお経だったから、実際のボリューム以上に大きく聞こえてしまう。

 

「ダメ、全然止まんない。壊れてるのかも」お経に負けないよう、少しばかり声を張りあげたゆりが仲間たちへそのようにうったえた。

「あっ、こ、こっち来てきて……! も、もういいから……!」お手上げ状態のゆりに向け、ひとまず放送室を出るよう智子が言う。そうしてゆりが戻ってきたところで「これわかったよ、【国民学校放送の怪】ってのだよ」

「えっなに?」いまやすっかりうなり声で満たされた職員室であったから、よく聞き取れなかったらしいゆりが再度たずねる。

()()()()()()()()()()()()()()()! ラジオ聞いてたらいきなりお経が聞こえてくるんだって!」

 

 一連の怪奇現象についてようやくその正体を見抜いた智子が、大きな声で改めてその名前を教えてやった。しかし会話もままならない今の状況であったから、智子はそれ以上のことを説明してやらなかった。もうほうっておくしかないということを伝えると、気にせず室内の調査を続けるようみんなを促すだけだった。

 言葉足らずな智子のために補足すると、これは戦時下の学校にて全国で本格的に導入された授業形態にまつわる怪談のことだ。当時の原幕小では教育用のラジオ番組が授業のなかで利用されており、児童たちは教材用の冊子を手にしながらその内容へ熱心に耳を傾けていた。しかしウソかマコトか、ごくまれにその放送をさえぎるように謎のお経が突然聞こえてくることがあると噂されてもいたのだった。

 そんなこんなでお坊さんたちに邪魔されつつも、めいめい職員室を見回っていった智子たちは、やがてすっかり調べを終える。だけども結局めぼしい結果は得られなかったから、場所を変えることにした。そうして職員室を去りぎわ、智子は校内でもちいられているいくつかの鍵をまとめて拝借し、それを真子にあずける。施錠された部屋があっても大丈夫なようにと考えてのことだ。

 いつになったら止むのやら。あちこちのスピーカーから聞こえてくるそのお経をかきわけるように、次なる部屋を目指す智子たちは廊下をつき進んでいく。

 

 ◆

 

「あっ、な、なんか止まったね」

「お? ああ……」

 

 もういい加減みんなの耳が慣れてきたころ、スピーカーから延々と垂れ流されていたお経が急に聞こえなくなった。だけどもまだ耳のなかにはお坊さんたちのウニャムニャ声が残っているように感じられてしまう。

 

「黒木さん、こっち終わったよ」廊下のほうから顔を覗かせた真子が声をかけてきた。

「あっうん、ど、どうだった?」

「ううん、なんにもなかった。そっちは?」

「あ、こ、こっちもだね……」

 

 智子が今いるのはD棟と地続きになったC棟南側──本来L字型であったC棟は神社の出現により一階部分が西と南とに分断されている──の、そのはしっこにあるひとつの教室だった。といっても児童たちの机や椅子が並んでいる訳ではなく、折りたたみ式の卓球台が部屋のはしっこに寄せられている以外は特にものが置かれていなかった。もともと空き教室だったこの場所だったけれど、今は卓球クラブがその活動のためにときおり利用していたりする。

 あまり光のはいってこない場所にあるこの教室は、カーテンを開けてなおも陰で満たされていた。窓の外にはC棟裏側に沿って伸びる高い塀が迫るようにそびえており、あかずの小屋への接近を阻んでいた例のフェンスなんかも見える。

 

「ホントに穴なんてあんのかよ、全然見つかんねーじゃねーか」

「あっ、あるよっ! ぜったいどっかにあるはずだから……!」

 

 智子はさっきからヤンキー娘とペアになってこの部屋を調査しており、一方のゆりと真子は隣にあるもうひとつの空き教室を調べに行っていたのであった。しかし結果はどちらも芳しくなかったようで、いまだ智子の言う「隠し穴」の発見には至っていなかった。

 しかし学校は広い。探していないところならまだ他にいくらでもあるのだ。ゆえにせっかちなヤンキー娘が隠し穴の存在に疑いのまなざしを向けても智子の考えがゆらぐことはない。

 

「みんなもっと本気で探さなきゃダメだよ。遊びでやってるんじゃないんだから」

 

 これまでの仲間たちの様子を見てきたぶんには、どうもその探しかたに真剣味が足りないように思える。地べたをはいつくばって風の流れを積極的に感じ取ろうとか、棚のなかに頭をつっこんでみようとか、そうした積極性が感じられない。だからここはひとつ「リーダー」としてビシッと言っておかなくてはならないと、そのように考えた智子は厳しい口調でみんなに言って聞かせた。こうしていると学級委員をやっていたときみたいだなと、内心でそんなふうに思ったりもする。

 

「あぁ? ちゃんとやってんだろ」

「あっ、で、でもなんか、適当にぶらついてるだけだし……」

「そんくらいで十分だろーが。風なんか吹いてたらすぐわかるっつーの」

 

 しかし智子のそうした言い分は、「めんどくせー」と口ごたえするヤンキー娘によって一蹴された。黒木さんの言うことは正しいと、クラスのみんなが素直に言うことを聞いてくれていたころはもはや遠い過去だ。

 

「それより次どうすんだ? もうこの辺全部探したろ」

「あっうん、じゃあ……とりあえずもっかい下駄箱のとこに……」

 

 D棟およびC棟南側は、校長室を除いてその一階部分をひととおり調べ終えた。神社のせいで分断されていなければこのままC棟西側へと直行することができたのだけど、今となっては新たに出現したコンクリートの壁によってその通行路がふさがれてしまっているため、一旦昇降口のほうまで迂回しないとダメなようになっている。だから智子としてはひとまずそちらへ向かうつもりでいたのだった。

 ともあれもうこの部屋に用はないと、廊下で待つゆりや真子と合流すべく廊下に出ようとしたところ──

 

「えっ、ちょ……!?」

 

 智子の目の前で、唐突に出入り口の引き戸が閉じられた。これは一体どうしたことかと、智子は急ぎそれをあけようとする。

 

「ちょっと、なんで閉めちゃうの!?」

 

 しかしあかない。廊下のほうから誰かが引き戸をガッチリと押さえているのだろうか。慌てた智子はその戸を叩き、廊下にいるゆりと真子へうったえかける。

 

「な、なにもしてないよ!? いま、ドアが勝手に……!」

 

 しかし戸の小窓から顔を覗かせる真子が言うには、ひとりでに閉じてしまったとのことだ。智子が戸の内鍵を確認してみても、特に鍵がかかっているという訳ではないようだったので益々困惑する。

 

「どいてろ!」

 

 智子を押しのけたヤンキー娘が力を込めてその引き戸をどうにかこじあけようとするが、びくともしないようだった。

 と、誰が操作したでもなく天井の蛍光灯がひとりでにつき、部屋がぱっと明るくなった。

 

「ね、ねぇ、あ、あれっ!」慌てた様子の智子が、戸にかじりつくヤンキー娘の服をつかむ。

「あ?」

「なんかいるよぉっ!」智子が部屋のすみを指さし、そのように叫ぶ。

 

 そこにいたのは、明るくなった教室のなかで地べたに座り込むひとりの人間だった。いや、座り込んでいるというよりも、体育の授業でやるように両足を大きく左右に広げてなにやら柔軟体操をしているのだった。

 

「だ、誰だてめー!」

 

 その姿を目にしたヤンキー娘が、警戒心もあらわに声を張りあげる。すると柔軟運動人間がひょこっと顔をあげた。束ねられたその小さな髪の房がちょこんと頭の左右から生えていてるところは智子の髪型とよく似ている。目もとの上あたりできれいに切りそろえられたその前髪も、上品な感じでなんだかかわいらしかった。体操服を着ているこの人物はどうやら女の子だったようで、歳のころは智子たちと同じぐらいに見える。

 

「おい、あいつの目、なんかおかしいぞ」

「あっ、う、うん……」

 

 しかしこの裏幕において突如あらわれたその人物は、やはり普通ではなかった。彼女の両目はまるでオセロの石の片面を貼りつけたかのようにまっくろで、異様なほどにまんまるとしていた。どこに視線を向けているのかよくわからないその顔で、女の子は口をぽかんとあけたままにしている。

 

「んだてめぇ、やる気か!?」

 

 と、女の子がさっと立ちあがったので、すぐさまヤンキー娘が身構えた。だけども女の子はこれといって襲いかかってくる様子もなく、静かに智子たちへ歩み寄ってくる。

 

「ふたりとも、わたしと勝負しよう」女の子の三角定規みたいなおちょぼ口から、開口一番そのような言葉が出てきた。

「おう、上等だコラ。やってやんよ」ケンカを挑まれたと思ったヤンキー娘は、それに対して物怖じすることなく受けて立った。

「……死合(しあい)成立」しかしそんなヤンキー娘を制するようにスッと手をあげた女の子が、続けて指をパチンと鳴らしてみせた。

「うおっ!?」

 

 途端、部屋のはしにあった卓球台がズズッと鈍い音をあげてひとりでに移動してきた。咄嗟にそれから距離を取ったヤンキー娘であったが、折りたたまれていたはずのその台が今度は自力で展開しはじめた。

 すると今度は棚におさまっていたカゴがスポンと飛び出してきて、そのなかからにょろにょろとヘビのように這い出てきた金具付きのネットが机の足へとすばやく絡みついていく。まもなくネットは卓上へとのぼっていき、そこでピンと張りつめるように自分の端と端とを机に固定してみせた。そうしてネットできれいに仕切られた机の上に、ふたつぶんのコートがすっかりできあがったのだった。仕上げとばかりにスコアボードがパタパタと羽ばたいていき、棚の上にストンと着陸した。

 

「卓球で勝負する」

 

 カゴから自分のぶんのラケットを取りだした女の子が、片方のコートへ陣取ったのちに抑揚のないのっぺりとした口調で勝負方法を指定してきた。

 

「あ? 卓球だぁ……?」てっきり殴りあいになると思っていたらしいヤンキー娘であったから、いきなりスポーツ勝負を挑まれたために肩透かしをくらったような顔をする。「あー、まあいいけどよ……」

「ちょっ、ちょっ、い、いまのなし! 勝負しない! しないからっ!」すると血相を変えた智子が、声をあげて異議を唱えた。「わたし、勝負するって言ってないっ! だから取り消しっ! ()()()()()()()!」

 

 智子の様子はもう必死だった。あれやこれやとわめいて、とにかく勝負の申し出を受けないと言い張るのだった。しかしふるふると顔を振る女の子は、そんな智子に対して「もうゲームははじまった」とだけ言い返す。

 

「ああぁぁー……なにやってんのもぉぉっ……!」頭を抱える智子がいらだちと嘆きを声に出しつつその場へしゃがみ込んでしまった。

「なんだよ、どうしたんだよ」ただごとならぬ智子の様子に、ヤンキー娘が戸惑ったように声をかけた。

「も、もう終わりだよっ! 死ぬしかないよっ!」がばりと顔をあげ、猛然と言い返す智子。

「あぁ? たかが卓球だろ」

「勝負に負けたら魂抜かれちゃうんだよ! あいつ、そういうやつなんだよ!」

 

 コートの向こう側でじっとしている女の子を指さし、鼻声まじりにそう主張する智子。彼女のうろたえぶりは尋常ではなく、もはや自分たちの命運が尽きたとでも言わんばかりだ。挑まれた勝負を勢いで受けてしまったヤンキー娘だったけれど、どうもそれは智子にしてみると非常にマズい行動であったようだ。

 

「こっちが勝ったらどうなるんだ?」

「えっ? あ……えと、向こうのほうが死んじゃうらしいけど……」

「じゃあいいだろ、勝ちゃあいいんだよ」

「む、無理だよ……。あいつ、めっちゃ強いもん……」

「なにビビってんだ、気合入れてけっつったろーが。やる前からシッポ巻いてんじゃねーぞ」

 

 この勝負に負ければ、それは「死」を意味する。そのことについてイマイチ実感がわかないらしいヤンキー娘は強気なことばかり言うのだけど、一方の智子はこのたびの勝負に勝つことなど決してできないと悲観してしまっていた。いま対峙している相手が相当に厄介な存在であることを知っていたからだ。

 その名も【闇のプロゲーマー・死鬼(しき)】。あらゆる勝負ごとを極めたゲームの達人であり、その腕前は人間のレベルを超えているとされている。戦いがいのある相手を見つけると、ふいにあらわれては命がけの勝負を挑んでくるという謎の人物なのだった。九〇年代前半に流行ったこの怪人の噂によると、彼女はもっぱら地元のゲームセンターや、ゲームの筐体が設置された駄菓子屋などに出没するとされていた。しかしときとしてこんなふうに学校のなかにまでやってきては、自分と戦うに相応しい相手を物色しているのだという。

 

(出るならパソコン室だと思ってたのに……!)

 

 智子としてはてっきりくだんのゲーマーが、C棟西側の奥にあるパソコン室にて待ち構えているものとばかり考えていた。しかし実際はまるで違っていて、スポーツ勝負を挑むためにここ卓球室にて対戦相手のおとずれを待っていたのだった。

 

 ゴツンッ ゴツンッ

 

 廊下側の窓が強く叩かれた。見ればそのすりガラスの向こう側で、なにか大きなものを担いだ誰かがそれを窓に向かって力いっぱい叩きつけているようだ。だけども窓は揺れるばかりで、いくら叩かれようがヒビひとつはいる気配がない。

 

「ムダ。勝負がつくまでここから出られない」

 

 どうもこれは廊下のほうにいた仲間が、消火器かなにかを持ち出して教室の窓を割ろうとしているらしかった。しかしゲーマー少女の言うとおり、それは徒労でしかなかったようだ。やがてどうにもならないことを悟ったらしいガラスの向こう側の誰かが、その鉄壁ぶりを前にしてくたびれたように肩を落とすのが見えた。

 闇のプロゲーマーの挑戦を受けたが最後、その勝負からおりることはできない。だからこそ決して彼女からの申し入れに同意してはならない。最初にひとこと「乱入おことわり」と、そうつっぱねてやるだけで十分なのだ。そうすればこの恐るべきゲーム狂はおとなしく退散してくれるのだから。

 

(ヤンキーめ! いらんことしやがって……!)

 

 智子は心のなかでヤンキー娘のことをののしった。あまりに腹が立ったものだから、言葉づかいもつい乱暴になってしまう。智子としては、もしも死鬼に出くわしてしまったとしても前述の対処法で乗り切ってやろうと考えていた。しかしそうした算段も、ヤンキー娘の好戦的な態度によってあえなくご破算となった。

 だが当のヤンキー娘のほうはというと、早くもラケットを手にしてコートの前に立ち、やる気まんまんのようだった。

 

「形式は十一点先取制のスリーゲームズマッチにする」

 

 死鬼がゲームの細かな形式について説明してきた。これはワンゲームごとに定められた点数を相手よりも先に得るべく競いあっていくもので、全スリーゲーム中のツーゲームぶんをものにすることができれば智子たちの勝ちとなる。

 

「ハンデもつける。ふたり一緒にかかってきていい」

「あぁ? ハンデだぁ?」

 

 余裕のあらわれなのか、あるいは智子たちとの実力差を見抜いた上でなるべくその差を埋めるよう配慮したのか。この場においては本来コートを挟んで一対一の勝負をおこなうべきところを、死鬼が「二対一でも構わない」と言ってきたのだった。

 

「んなもんいらねーっての。ゴチャゴチャ言ってねーでさっさとやろうぜ」そうした死鬼の言葉をつっぱねようとするヤンキー娘だったけど、

「あっ、ちょっ、ちょっと待って……!」パッと立ちあがった智子がすかさず口を挟む。「いるよ、ハンデ! ぜっったいにいるから!」

「お、おお……?」このチャンスを逃すまいとする相方の勢いに押されてか、たじろぐヤンキー娘。

 

 死鬼はときおり、勝負に際してこのように「ハンデ」をつけてくれることがあるとされていた。その条件はゲームによって様々であり、また、ある程度であれば交渉にも応じてくれる余地があるとのことだった。それが例え本来のルールを崩したものであっても、死鬼本人が納得しさえすれば許されるのであった。

 死鬼はいわゆる「格下狩り」に興味がなく、あくまでも対等以上の相手との白熱した戦いを望んでいる。しかし誰とやっても殆どは自分以下の腕前の者ばかりなので、少しでも歯ごたえのある戦いを楽しむためにあえて不利な条件を己に課すのだ。オカ研ノートには、誰が考えたのか彼女のこうしたキャラクター設定じみた情報なども載っていた。

 

「あ、あのさ……それ、こっちはダブルスのルールでやれってこと?」敵から示されたハンデの内容について智子が詳細をたずねる。

「そういうことになる」それに対してコクリとうなずく死鬼であったが、

「じゃあダメじゃん、それ全然ハンデじゃないよ! そんなの、ただそっちが有利になるだけじゃんか!」智子が声をあげて反論した。「わたしたちのほうも、そっちとおんなじシングルスのルールでやらせてよ。でないと二対一でやってもハンデにならないよ」

「じゃあそれでいい」

 

 死鬼本人が気づいていたかは定かでないが、彼女から当初提案されていたおおざっぱなハンデの内容が、実はかえって自分たちを不利にすることが智子にはわかっていた。ふたりがかりが許されるといっても、ダブルスにはひとりで自由におこなうシングルスと比べてルール上の縛りがいくつかあったからだ。そうした縛りが、卓球においても達人級の腕前をもつであろう死鬼を前にしては致命的となる。ゆえに智子は機転を利かせ、自分たちに課せられるはずの縛りを口八丁であっさりと撤回させたのであった。

 

(卓球クラブはいっといてよかったー)

 

 原幕小では五年生になると、児童たちは授業の一環としてなにかしらのクラブに参加し、週に一度は活動する決まりになっていた。そうした中で智子が選んだのが卓球クラブなのであった。もともとパソコンクラブにはいるつもりでいたのだけど、活動内容を聞いているとなんだかめんどくさそうな感じがしたので、結局ラケットを手にすることにしたのだった。だからこそ卓球における有利・不利のなんたるかがある程度わかるようになっていたのだが、それがこんな形で生きることになるなんて、智子としては夢にも思わなかった。

 

(どうせなら目隠しとかしてくれたらなぁ……)

 

 それくらい極端なハンデをつけてもらわねば、プロゲーマー相手に勝てる気なんかしない。とはいえ多少なりとも相手側の譲歩を引き出すことはできた。これでちょっとはこちらが有利になっただろうと考えた智子は、一応ながら勝負に挑む気力ぐらいはわいてきた。そうしてひとまずカゴから自分のラケットと、ゲームに使うピンポン球とを拾いあげていく。

 

「サーブとレシーブ、好きなほうを選んでいい」

「あっ、じゃ、じゃあサーブで……」

 

 まずどちらが先に球を打つかについて、智子は選択権を与えられた。だから自分たちがゲーム開始のタイミングを握るためにと、サーブする側を選ぶ。

 

「あ、じゃあこれ……」

「おう、任せとけ」

「サ、サーブのやりかたわかる? いきなり相手のコートに入れちゃダメだからね」

「わーってるよ。やったことあるっつーの」

 

 智子が命運のかかったそのピンポン球をヤンキー娘に託す。いかにも運動神経のよさそうなヤンキー娘であったから、それを見込まれた彼女は「前衛」につくこととなった。そうして智子は後方に控え、ヤンキー娘の打ち漏らした球を拾う「後衛」として立ち回ることにしたようだ。こんなやりかたはふたりがそれぞれシングルスのルールで動くことを認められているからこそであり、ふたり並んでコートに立つとかえって動きにくいだろうと考えた智子の希望によってこのような配置になったのだった。

 智子が出入り口のほうにちらりと目をやれば、戸の小窓からゆりと真子が覗いてきているのが見えた。この勝負のゆくすえを見届ける、たったふたりの観客だ。

 

(とにかくもうやるしかないんだ……。どうにか攻略法を見つけてクリアしてやる……!)

 

 今こそ卓球クラブ経験者の意地を見せるときだと、カッと目を見開いた智子は覚悟を決める。そうしてヤンキー娘の放った初球を合図として、命をかけたデスゲームの火蓋が切られた──。

 *

(ダメだ! これ絶対負ける……!)

 

 ゲーム開始から数分後、智子たちは早くもピンチにおちいっていた。棚に置かれているスコアボード──ひとりでにめくれて得点を記録していた──によれば、その得点の割合は五対〇。死鬼が早くも五点を入れていて、一方の智子たちは無得点のままだった。しかもただゼロなのではなく、第二ゲームへと突入してからのことだった。

 

反則級(チート)すぎる……こんなのムリだよ!)

 

 ぜいぜいと肩で息をする智子の隣には、同じように息をきらせているヤンキー娘の姿があった。当初は前衛と後衛とに別れていたのだけど、そうして挑んだ第一ゲームがボロ負けに終わったのでやりかたを変えようということになり、結局このように並び立って戦うことにしたのだった。

 

「タイム……! ちょっと休憩……!」

 

 まだゲームの途中だったけど、手をあげた智子がここで一時中断を申し出た。相方と苦しまぎれの作戦会議をひらくためだ。

 

「くそっ……! ハンパねーなあいつ……」

「だ、だから言ったじゃんか、勝てっこないって……」

 

 智子とヤンキー娘の顔には焦りの色がありありと浮かんでいた。これまで死鬼の超人的なプレーを散々見せつけられていたふたりであったから、これ以上ゲームを続けたとしても勝てる見込みなどまるでないということを理解してしまったようだ。

 

「なあ……あいつに負けたらマジで死んじまうのか?」今一度、ヤンキー娘がそのように問う。

「うん、たぶんそう……」単なる噂ではあるけれど、それを事実と信じる智子はうなずいた。

「はぁー……」答えを聞いたヤンキー娘が、前髪をかきあげながらため息をつき、「……おまえさ、ネズミーランド行ったことあるか?」

「えっ? あっうん、まあ……」相方からの唐突な問いかけに戸惑いながらも、智子はとりあえず答えてみせた。

「じゃあ秋の遠足でどこ行くか知ってっか? ネズミーらしいぞ」

「へー……」

 

 一体どこから聞きつけたのか、まだおおまかな予定ぐらいしか知らされていないはずの遠足の行き先についてヤンキー娘が話を振ってきた。しかしいまやすっかりその手の学校行事に興味を持てなくなっていた智子であったから、薄い反応しかできない。

 

「まあ、その、一応はよ……楽しみにしてんだよ、それ」

「あ、そうなの」

「だからよー……だから……」

 

 そこまで言って、ヤンキー娘は智子に背を向けてしまった。なんだか鼻をスンとすする音が、彼女のほうから少しだけ聞こえてくる。

 

「あ、あのヤローをよー、その、ブン殴るとかじゃダメなのか? それでどーにかならねーのか?」

「や、やめといたほうがいいよ。反則負けになってすぐ魂抜かれちゃうみたいだから……」

 

 手のなかのピンポン球を握りしめ、ヤンキー娘が背中ごしに智子との会話を続ける。ゲームで勝ち目がないのなら実力行使にうったえてみてはどうかと、他の手立てを探るようなことを言うのだが、それこそ自殺行為のようなものだった。死鬼の前でそうした行為に走ったが最後、「勝負を放棄した」とみなされてすぐさま負け扱いにされてしまうのだという。

 

「じゃあどうすんだよ……どうすんだよこれ……」

「う、うん……」

 

 もはや望みはなかった。あと六点を先に取られてしまえば完全な負けが確定する。そうなったら死鬼のブラックホールのような両目がみるみる大きくなって、その空洞へと自分たちの魂が吸い込まれてしまう。そのような光景を想像してしまい、智子は思わずちびりそうになってしまった。

 

(ん……?)

 

 死ぬ前にせめてトイレぐらいは行っておきたいなと考えたところで、智子があることを思いつく。

 

「あっ、あのっ! ちょ、ちょっといい……?」急に声をあげた智子が、死鬼に向かっておうかがいを立てるような態度を見せた。「その、ト、トイレ行きたいんだけど……」

「許可しない。今は死合中」そうした智子の申し出を、死鬼がすげなく断る。

「そ、そんなのひどいよ! こっちは人間なんだから、そういうのちゃんと配慮してくれないと()()じゃないよ!」

 

 ノーと言われてハイそうですかと、そのようにおとなしく引きさがる気はまったくなかった。自分の言いぶんが通用するかどうか、智子はダメもとで勝負に出るつもりだったからだ。

 

「トイレなんかガマンしてたら、わたしたちゲームに全然集中できなくなっちゃうんだけど。それでもいいの?」

「……」

「あー、一回でいいからトイレに行けたらなー。そしたら全力で戦えるのになー。こっから大逆転しちゃうのになー」

 

 智子のこうした主張を受けてか、死鬼が思案するように黙り込んだ。それをチャンスと見た智子はたたみかけるように言葉を続ける。

 

「あっわかった。自分が負けたくないからトイレに行かせないようにしてるんでしょ。そんでズルしてこのまま勝とうとしてるんだ。ハンデつけてやるーなんて言ってたけど、大ウソじゃん」

「そんなことはない」

 

 智子が死鬼を指さしつつ引きつり気味のにへら顔で言いがかりをつけはじめたところで、ゲーマー少女が口をひらいて反論した。

 

「なにがそんなことないの? しようとしてるじゃん、ズル」

「してない」

「じゃあ実力勝負させてよ。トイレ休憩させてよ」

「……許可する」

 

 智子が散々ゴネてみせたところで、根負けしたらしい死鬼がようやくその要求を認めたようだ。途端、かたく閉じられていたはずの出入り口の戸がひとりでにガラリとひらいた。いきなりのことだったので、戸の前に立っていたゆりと真子があっと声をあげる。

 

「あ……い、いいの……?」

「いいと言っている」

(っしゃあー! きたこれ!)

 

 智子の目論見が成功した瞬間だった。取りつく島もないかに見えた相手から、ほらを吹きまくることでみごと譲歩を引き出してみせたのだ。実のところトイレに行きたいというのは単なる口実に過ぎず、智子としてはなんのかの理由をつけてこの部屋を脱出するためのチャンスを生み出そうとしていたのであった。もちろん休憩が終わったからといってこれ以上ゲームを続けるつもりなどない。

 

「こ、この子も一緒に行っていい?」ぽかんとしているヤンキー娘を指さしながら、智子がそのようにおうかがいを立てる。

「構わない」これについても特に異存はないのか、死鬼があっさりと許可した。

「あっ、だって。じゃ、じゃあ行こっか?」ラケットを卓上にあずけつつ、智子が相方を促してやる。

「お、おう……」ヤンキー娘はなにが起きたのかまだ飲み込めていないようだったが、智子につられて卓球用具を机の上に手放した。

「そ、そんじゃ、また……」

 

 智子が軽く手を振ってやると、死鬼が無言のままコクンとうなずいた。ともあれ相手の気が変わらないうちにと、智子はさもあとで戻ってくるふうをよそおいながら死合会場からそそくさと退散する。

 

「大丈夫? なんか大変そうだったね」

「あっうん、い、いいからっ、早く行こう……!」

 

 廊下に出ると蚊帳の外だったゆりたちが早速事情をたずねてきたのだが、智子がそれに答えてやることはなく、かわりに彼女らの背を押してすぐにこの場から離れるよう促すだけだった。先を急ぐ智子であったから、最初は小走りぐらいだった仲間たちもそれにつられて駆け足になっていく。

 

「黒木よー、おめーやんじゃねーか。なぁ?」

「へっ? あ、うん、へへ……」

 

 智子の隣を走るヤンキー娘が、声を弾ませ背中を軽く叩いてくる。それを褒められていると受け取った智子は、はにかむように笑ってみせた。

 ともあれドタバタと廊下に足音を響かせる子供たちの集団は、リーダー智子の引率のもと次なる調査へとおもむくのだった。




つづく


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【ホラー】原幕小の七不思議(5)

きょうふの裏幕運動会!(後篇)

「あとそう、家庭科室も要注意だよ。たぶん『魔女』がいるから」

 

 さっきから喋りっぱなしの智子が、またひとつ思いだしたように言葉を続けていく。

 

「こいつ、自分の作った料理を食べさせようとしてくるんだけど、でも絶対食べちゃダメなんだ。猛毒がはいってるから、もし食べたら死んじゃうんだって」

 

 仲間たちを前にいま智子が話しているのは、【家庭科室の魔女】なる怪談のことだ。これはオリンピックの開催や新幹線の開通が世間を賑わせていた六〇年代半ば、当時の原幕小で起きた集団食中毒事件にちなむもので、なんでも家庭科の調理実習にてある女子児童の作ったその料理をクラスメイトたちが口にしたところ、たちまち嘔吐したのち、こぞってひどい体調不良におちいったという。それは一体いかなる理由によるものなのか、事件を受けて市が調査にはいったものの、特にこれといった原因が見つからなかったため、真相のわからぬままに当分のあいだ原幕小では調理実習が取りやめになってしまった。

 しかし子供たちのあいだではあれやこれや憶測が巡らされていたようで、やがて妙な噂が流れはじめた。いわく、渦中の人物である女子児童が実は魔女の家系であり、科学では解明できない特殊な薬を料理にこっそり混ぜたのではないか、被害にあった者たちは彼女の魔術の実験台とされたのではないか、などと、このようなことがまことしやかにささやかれたのだった。大人から見ればデマとしか思えないそうした無責任な噂も子供たちにとっては真実味のあるものに感じられたらしく、くだんの女子児童に対する言いがかりに近いこの話は広く信じられ、当の本人が転校してしまったあともそれなりに流行り続けたとオカ研ノートには書かれていた。

 

「とにかくさ、ヤバそうなのがいたら相手しないですぐ逃げたほうがいいよ。ヘタに関わるとさっきみたいに閉じ込められちゃうかもしんないし」

 

 そうした智子の言葉を受け、傘立てに腰をおろすヤンキー娘が神妙な顔でうなずいている。彼女なりに智子のことを信頼するようになったのか、さきほどから続く長話にも素直に耳を傾けているようだった。

 智子がなにを話していたのかといえば、これはいまのところ遭遇していないながらもどこかにいるはずの、まだ見ぬ他のおばけたちについてであった。卓球室を離れて昇降口までやってきた一行はそこでひと息ついていたのであるが、魔境と化しているであろう校舎内を引き続き探索するにあたって、智子がいま一度仲間たちに怪異への対処法を説いていたのだ。

 

(ちゃんと聞いてんのかな……)

 

 しかしどうもひとりだけ、さっきからうわの空な者がいた。水滴のついた携帯音楽プレーヤーをあれこれいじっていたかと思えば、はぁとため息をついてそれをポケットに戻したのち、つまらなそうにうつむいたり、吹き抜けになっている天井を見上げたりしているのだった。

 

「うわ……」

 

 せっかく大事な話をしてやっているのだから真面目に聞けと、智子が少しばかりムッとしていたところ、うわの空だったその仲間が突然びくっと体を震わせた。

 

「真子、あれ……」

「えっ?」

 

 そうして上のほうを指差しながら隣の真子に声をかけたのは、ゆりだ。言われた真子がそちらを見上げてみれば、なにかを見つけたようで「ひっ」と小さく悲鳴をあげて口もとをおさえた。

 

「えっ、な、なに、どうしたの……?」すわなにごとかと、智子が慌ててゆりたちの見ているほうを確認する。

「あっ!?」そして智子もまた、おどろきのあまり声をあげた。視線の先にいる「なにか」を目にしたからだ。

「黒木さん、あれ、ナントカ人形ってのじゃないの?」頭上から目を離さず、ゆりが智子にそう語りかける。

「あっ、う、うん……そうかも」ゆりの言葉を肯定する智子も、「それ」から目をそらせず上を向いたままだ。

 

 目が離せないでいるのは、どうやら相手のほうも同じらしい。吹き抜けになっている昇降口の二階部分には別棟へと繋がる長い渡り廊下が通っているのだが、そこの手すりから何者かが身を乗り出し、眼下にいる智子たちのことを黙々と注視してきていたのだった。

 

(【光姫(みつひめ)人形】だ……!)

 

 二階から智子たちのことを見おろしていたのは、人形だった。前髪をバッテン型のヘアピンらしきもので留め、うしろ髪はギュッと縛ったおさげになっている。黒い髪に白い肌、おそらくは女の子と思われるその人形は赤い着物をまとっていて、いわゆる日本人形的な造りをしているようだった。

 

「おい、大丈夫なのかあいつ。こっち飛んでくんじゃねえか……?」

「あーいや、まあ……」

 

 智子の隣に立ったヤンキー娘が、警戒心もあらわにたずねてきた。事前にその存在だけは教えてもらっていたためか、うろたえる様子こそないものの、鋭い目つきで人形を睨みつけている。

 

「あ、ああやって誰かを見てるのが好きなんだよ。ほっといても害はないから……たぶん」

 

 すっかり臨戦態勢にはいったヤンキー娘を落ち着かせるように、智子がそのように答えてみせた。智子の言葉通り、おすまし顔の人形は特に頭上からおそいかかってくるふうでもなく、身じろぎひとつせずただそこにあるだけだった。

 この奇妙な人形──光姫人形の噂は、大正時代の終わりごろから子供たちに知られるようになったとされる。話は里崎小(当時の原幕小)が創立五〇周年を迎えたある年のこと、ひとつの日本人形が学校に寄贈されたところからはじまった。地元に住む小宮山(こみやま)ナントカさんのお宅の古い蔵に眠っていたものらしいが、ともあれ「光姫」という名で児童たちに紹介されたこの人形は昇降口に飾られることとなり、以来ガラスケース越しに子供たちの往来を見守る役目についたのであった。

 しかしそうしたことも長くは続かなかった。彼女が学校にやってきてから数ヵ月ほど経ったころ、千葉県一帯に大きな地震──かつて希心神社を倒壊させたときのもの──が起きたからだ。これによって当時の校舎は全壊し、光姫人形もそのがれきにすっかり埋もれてしまったのであるが、ここからがこの話の不思議なところである。あとになってから学校関係者が光姫をがれきのなかから掘り出してあげようとしたところ、ぺしゃんこになったガラスケースは見つかったものの、肝心の人形のほうがいくら探しても見当たらなかったそうだ。火事場泥棒がこっそり盗みだしたのか、はたまたそれ以外の理由があったのか、真相はわからずじまいだった。

 やがて仮設校舎が設けられ、子供たちはどうにか学業を再開できるようになったのであるが、あるときこんな噂が流れはじめた。それは「光姫が学校に帰ってきた」というもので、窓──といってもガラスははいっていない──から教室のなかをそっと覗いているだとか、校舎のかやぶき屋根の上から体育の授業を見物しているだとか、そうした神出鬼没の存在と化した光姫が、いつもどこかで児童たちのことを観察しているのだとささやかれるようになった。こうした噂はちゃんとした校舎が建て直されてからも続いたようで、やれ今日は講堂のほうで光姫を見ただの、昨日は下駄箱の上に突っ立っているのを見ただのと、冗談なのか本気なのかわからない目撃情報が当時の子供たちのあいだで交わされていたのだった。きこさんが学校中の話題をかっさらっていくまでのあいだは、光姫人形こそがこのころもっとも流行った怪談といってよかった。

 *

「あ、あのさ、トイレ寄ってかない?」

 

 打ち合わせを終えたあと、一行は昇降口と直接繋がっているC棟西側の一階部分へと向かった。その道すがら、トイレの前を通りかかった智子がそのように言って皆を引きとめた。「トイレ休憩させてくれ」といううったえは、さきの卓球勝負からおりるためのでまかせに過ぎなかったが、今になって本当にトイレへ行きたくなったのだ。

 

「またなんか出てくるんじゃないの?」

 

 智子の提案を受けて顔を見合わせる仲間たちであったが、ゆりがぽつりとそう言った。ここもずいぶんと日の差さないところであったから、廊下のほうからうかがえるトイレの様子はなんとも不気味だった。こんなときに不安をやわらげてくれるはずの電灯も、ここ裏幕に限ってはまともに機能していないようで、おばけが自分たちの出現を主張してくるとき以外はチカリともせず、いくらスイッチを操作してもまるきり反応しないのだった。

 

「トイレとかにもいるんでしょ? ヘンなのが」

「あっ、いやまあ、そうだけど……」

 

 さっきまでの智子の長話を、一応ながらゆりも聞いていたらしい。彼女が警戒しているのは、智子から教えられたある幽霊のことだった。

 

「あれはほら、A棟の三階のほうに出るんだよ。だから大丈夫だよ」トイレに行きたくて仕方がない智子は、そのように言ってみんなを説得しにかかった。

「だって。どうする?」真子に顔を向けたゆりがそのようにたずねる。

「そうだね、じゃあ……」怪談博士の智子を信頼してか、うなずく真子がその提案に同意した。

 

 そうと決まれば話が早い。みんなもみんなで本当はトイレに行きたかったらしく、言いだしっぺの智子を差しおき、我先にと個室へ駆け込んでいく仲間たちだった。

 

(うわっ、三番目だ……!)

 

 そうして四つある個室のうち、残されたのは手前から三番目のものだけとなってしまった。そのことに不吉なものを感じた智子は、躊躇せずにはいられなかった。「女子トイレの三番目の個室に出る」というのは、智子がさっきの打ち合わせのなかでみんなにも教えてあげた怪談のひとつなのであるが、それもあって仲間たちは三番目をあえて避けたため、結果的に出遅れた智子がそれをつかまされる羽目になってしまったようだ。

 

(どうしようかな……ちょっと待っとこうかな……)

 

 そうすれば、やがて他の個室があいてそちらを使えるのだから。しかしそう考える一方で、智子のなかにまた別の心配がわきあがる。個室にこもっているうち、先にトイレを出た仲間たちがそのまま自分のことを置いてどこかに行ってしまうのではないか。そんなことになればこの学校のなかでまたひとりぼっちにされてしまうので、智子としてはそちらのほうがよほど恐ろしかった。

 

(もういいや、たぶん大丈夫……!)

 

 このままぼやぼやしていてはやがてみんなが出てきてしまうので、智子は意を決して三番目の個室に飛び込んだ。さっき自分で主張した通り、くだんのおばけが出没するのはこことは別の場所にあるトイレのはずなのだから、むやみに恐れる必要はない。

 *

「ふぃ──……」

 

 扉を閉めればいよいよまっくらな個室のなかで、智子はこわごわながらもどうにか用を足し終えることができた。仲間たちはひと足先に水場のほうで手を洗っているようだが、このぶんならみんながいるうちに個室を出ていけそうだった。

 そんなふうに智子が安心していたところ、だしぬけに「ドン」と鈍い音がトイレに響く。

 

(いた)っ!? ちょっとゆり……!」

「えっ、なに?」

 

 真子がおどろいたような声でゆりに対してなにごとかをうったえる。おや、と思った智子が様子をうかがっていたところ、「なんで叩くの?」、「わたしじゃないけど」、「だっていま」などと、ふたりの戸惑ったようなやりとりが続く。

 

「おいっ、田中(たなか)っ、鏡っ!」

「え……きゃあっ!?」

 

 ヤンキー娘の叫びを受け、なにかに気づいたらしい真子が悲鳴をあげた。途端、彼女らは慌てた様子で靴音を鳴らし、あっというまにトイレから出ていってしまうのだった。

 

(なに、なんなの……!?)

 

 一体なにが起きたというのか、智子は大急ぎで個室を飛び出そうとする。が、扉をあけた途端、逆に誰かが個室のなかへふらりとはいってきた。その誰かは顔を合わせるやいなや、智子の頭を両手でガシィとつかみ、グイグイ詰め寄ってくるのだった。

 

「ひ、ひ、ひぃぃ……!」

 

 もう悲鳴もろくにあげられないほどに智子は縮みあがってしまう。いきなり個室のなかへはいってきて、その異様なまでに青ざめた顔をグッと近づけてきているのはひとりの女の子だった。智子と同い年ぐらいに見えるショートヘアのその子は、夏だというのに黒い長袖のセーターを着ているようだ。

 と、その女の子が智子の頭をふいに手放したかと思うと、今度は手のほうをつかんでグイと胸の前に引き寄せた。恐怖のあまりギュッと握り締められた智子の拳を、女の子は愛おしげにそのひんやりした手のひらで包み込む。

 

「ワタシト()()()()ニナッテ……」

 

 暗い個室のなかで目をらんらんと光らせる女の子が優しく、だけどもぞっとするような声色で智子にささやいた。それを受け、智子は目の前の相手が何者なのかをすぐさま理解させられた。

 

(【トイレの魔子(まこ)さん】だぁ──っ!)

 

 ゆりが出現を心配していた幽霊が、いま智子の目の前にいた。本来はA棟三階のトイレにいるはずだったそれが、そんなのお構いなしにあらわれたのだった。

 

「オネガイ……ナッテ……トモダチニナッテ……」

 

 うっすらと笑いながら、智子に再三そのようなことをお願いしてくる幽霊。仮に五年一組のクラスメイトたちがこのようなことを申し出てきたとしたら智子としてもまんざらではないし、実際にそうした都合のよいことが起きはしないだろうかと多少は期待していたころもあった。しかしよりによってこういう形で人間以外の存在から友人関係をせまられてしまうとは思いもよらないのだった。

 

(ことわっちゃダメだ……絶対にダメだ……!)

 

 魔子さんからの求めをもしことわったらどうなるか、それは誰も知らない。ただ「大変なことになる」と、そのようにだけ言われていた。彼女の噂が原幕小で流行りだしたのは八〇年代のはじめごろ。いまもなお全国的に知られる「トイレの花子さん」がもとになっているとおぼしいこの怪談によれば、生前の魔子さんは友達関係にひどく悩んでいたそうで、亡くなったあとも成仏できずにこうして化けて出るのだという。

 

「いっ、いいよっ、とと、友達、なるからっ……!」

 

 なんとか声を絞りだした智子が、そのように同意してみせた。途端、智子の手を握り締めていた力がふっとゆるみ、それに合わせて魔子さんの顔にも安堵の色が浮かんだ。

 

「アリガトウ……コレカラヨロシクネ」

 

 そう言い残すと、彼女はすうっと消えてしまった。どうやら満足して去っていったようだが、智子のほうは嫌な汗が止まらず、腰が抜けそうになっていた。

 

「ひぃ……ひぃ……」

 

 それでもどうにか個室から出てきた智子が、よろめきながら歩きだす。出入り口の手前にはスリッパが並べられていたのだけれど、慌てる仲間たちが蹴散らしていったため、すっかり散乱しているのが暗がりのなかにも見て取れた。

 

「黒木さん、大丈夫……?」廊下のほうからひょっこり顔を覗かせた真子が、智子に声をかけてきた。

「あっ、うん……」

「そこの鏡、気をつけてね。なかに誰かいるみたいだから……」そう言って、手洗い場の鏡を不安げに見る真子。

 

 言われて鏡へ視線を向ける智子だが、そこには青ざめた自分の顔がぼうっと浮かんでいるだけだった。こっちはそれどころじゃなかったんだぞと、早々に逃げていった仲間たちのことを智子はうらめしく思ってしまう。

 *

「あのさぁ、みんなちゃんと団体行動しなきゃダメでしょ。なんで勝手にいなくなっちゃうの?」

 

 トイレからやや離れた廊下の先で待っていたらしい他の仲間たちのもとへ、真子に支えられつつ智子がやってきた。そしたら開口一番、グチっぽいことを言いはじめたのだった。みんなで手分けして各教室を調べるにしても、誰かをひとりっきりにさせるようなことは避けねばならない。なのにあっさり自分のことを置きざりにした仲間たちであったから、智子としてはひとこと言ってやらねば気が済まないのだった。

 

「ごめんね。鏡のなかにおばけがいたから、びっくりしちゃって……」

「さっきのってあれじゃないの?」

 

 口を尖らせる智子に対して真子が申し訳なさそうにあやまったところ、ゆりが口を挟んできた。真子がおどろかされたというそのおばけについて、どうやら彼女なりに見当がついたようだ。

 

「ほら黒木さん、なんだっけ。グーで叩いてくるやつ」

「あ……【ねぇさんのげんこつ】?」

「そうそれ」

 

 拳をふりふりジェスチャーで示すゆりに、智子は思い当たるその名を口にした。ふたりが言っているのは、戦後の時期に流行ったひとつの怪談のことだ。校舎内に置かれたある鏡の前に立つと、突然誰かに肩を殴られることがある。おどろいて辺りを見回してみても、誰もいない。おかしいなと思って鏡のほうに向き直ると、そこには自分の代わりに不動明王(ふどうみょうおう)がごときいかりの形相を浮かべた女の子が映り込んでいて、拳を握りしめているのだという。

 この女の子の名前は「ねぇさん」というらしいが、それ以外のことはわかっておらず、出くわしてしまった際は早々に鏡の前から立ち退かねばならぬとされていた。もし逃げ遅れてしまった場合、今度は鏡から伸びてきたその手に腕をきゅううとつねりあげられて悶絶する羽目になるからだ。

 

(もうどこになにが出てくるかわかんないなこれ……)

 

 かつて校舎の階段の踊り場には大きな鏡が設置されていたらしく、ねぇさんはそこにあらわれるとされていた。しかしそのような備品は今の原幕小には存在しない。ゆえに代わりの出没先として鏡のあるトイレを選んだのだろうかと、智子はそんなふうに思った。さっきの魔子さんにしても本来別のところに出るとばかり思っていたのに、あっさりその前提がくつがえされた訳であるが、こうなると危なそうな場所を避けていこうという作戦が通用しなくなるのではないかと、そのような考えが智子のなかによぎる。

 例えばどこかの教室にはいっていったとしたら、包みを手にした家庭科室の魔女がそこにいて、「お弁当作ったから食べて」とせまってくるかもしれない。廊下を歩いていたら、例の恐るべき殺人校長がニコニコ顔で自分たちのことを呼びとめてくるかもしれない。いよいよ予測不能の様相を呈してきたここ裏幕ではもはやいっときの油断も許されないと、智子は改めて気を引き締めるのだった。

 *

「どうだ、なんかありそうか?」

「あっ、いや……ここもハズレかな」

 

 ヤンキー娘に声をかけられ、智子が教員用の机の下から顔を出した。四人一緒になって調べ回ったその部屋だったけれど、このように念入りに探してみても結局それらしいところはどこにもないようだった。ここは一年生たちが使っている教室のひとつで、窓からは中庭のビオトープ(自然観察のために設けられた植物園の一種)におい茂る草木が見えている。普段はそこに住む昆虫たちが飛び回っていたり、ときおり小鳥なんかも訪れたりするのだけど、今はそうしたいきものたちの気配もなく、ひっそりと静まりかえっているようだ。

 

「ふぅ……」

 

 のっそり立ちあがった智子が軽く息を吐き、改めて周囲を見回す。裏の世界の教室たちは、見ればみるほど表の世界とそっくりだった。壁にはプリントだったり絵だったりがそこかしこに貼られているし、棚のなかには誰かの忘れていったらしい手さげ袋なんかも残されている。つい数週間前までここで日々の授業がおこなわれていたような感じがして、これで空が晴れてセミたちの鳴き声が戻ってこようものなら表の世界に帰ってこれたと錯覚してしまいそうだった。

 

「おっ、こいつモーさんかいてんぞ」

 

 そうした表の世界のよすがに触れていたかったのか、教室内に貼られているものたちを眺めるヤンキー娘。すると興味をひくものがあったらしく、感心したような声をあげた。

 

(どうなってんだろこれ、表のほうからコピーしてきてる感じなのかな……?)

 

 ヤンキー娘に触発されたのか、彼女のそばまでやってきた智子は同じようにしてモーさんとやらに目を向ける。黒板の向かいにある掲示板には一年生たちの手による絵が貼られていたのだが、そのうちのひとつに牛のようなキャラクターのえがかれたものがあった。牛乳缶から顔をにょっきり出した白黒模様の牛が三匹並んでいて、それぞれ横から順に「コーヒー」「ミルク」「イチゴ」と文字が添えられている。絵そのものはうまくないけれど、細かい部分も丁寧にかき込まれていて、作者の思い入れが感じられるような力作だった。

 おそらくはこれと同じ絵が表の世界でも実際に展示されているのかもしれないが、一体どういうカラクリでこのレプリカのような裏幕世界は作られているのだろうと、智子は不思議に思う。おばけたちが当たり前のようにうろつくところなのだから深く考えても意味はないのかもしれないが、「裏」と名がつくだけあって実は表側とは表裏一体の関係だったりするのかもしれないと、そんなことをぼんやり考えるのだった。

 

「あれ? ねえ、これちょっと……」

「なに?」

「ほら、これ黒木さんじゃないの?」

「ほんとだ」

 

 ゆりや真子も掲示板の前に立ち、そこに飾られている作品たちを鑑賞していたようだったが、どうもなにかに気づいたらしい真子の指摘をきっかけに、ふたりが妙なことを口にしはじめた。

 

「黒木さん、ちょっといいかな? これなんだけど……」

「へっ?」

 

 手招きされた智子が、そちらへと歩み寄る。そうして真子の示す先に目を向けてみれば、そこには鉛筆だけでえがかれたモノクロの似顔絵があった。それを目にした途端、智子の背筋にぞわりとしたものが走る。

 

「えっ、な、なにこれ、わたし……!?」

 

 どう見ても智子の似顔絵なのだった。非常に達者な線でえがかれたそれは、とてもではないが一年生の手によるものとは思えない。諸々の特徴を完璧に写し取ってみせた似顔絵のなかの智子が、口をあんぐりとあけているモデルのことをじっと見つめてきていた。

 

「わっ! な、なに……!?」

 

 声をあげたのはまたしても真子だ。怯えるようにあとずさる彼女は、辺りの作品たちを見回しながらうろたえはじめた。飾られていた絵のうちの何枚かがいつのまにかすっかり白紙と化しており、代わりにそこへ新たな描線がものすごい速さで同時に引かれはじめたからだ。カリカリカリと、画用紙に鉛筆をこすりつけるような音がひっきりなしに聞こえてくる。

 

「あれ真子じゃないの……?」

「やだぁ!」

 

 そうしてどんどんかきあがっていく絵を前にして、ゆりがそんなことを口にする。途端、真子が今にも泣きそうな様子で声を震わせた。ゆりの言う通り、真子の似顔絵と思わしきものが完成しつつあったからだ。そしてそれはゆり自身についても同様であり、別の画用紙のほうには同時並行で彼女の似顔絵がかかれているようだった。

 

「んだよオイ……どういうつもりだ?」

 

 やがていくつかの絵がすっかりかき直されてしまったのだけど、それらに視線を注ぐヤンキー娘は顔を引きつらせずにはいられなかった。自分そっくりの似顔絵までもがあらわれたからだ。

 

(これあれだ、わたしたちをかいたんだ……)

 

 完成した四枚の似顔絵は、そのいずれもがこの場にいる全員をモデルにしたと見て間違いない。今まさに教室のなかであるひとつの怪談が出現したことを智子は悟った。

 

安藤(あんどう)っ、おまえか!)

 

 こうして絵でおどろかしてくるような存在について、智子には明確な心当たりがあった。【絵がかける安藤くん】という怪談がそれだ。ねぇさんや鬼校長と同じく戦後期に誕生した噂であるが、なんでもかつて原幕小には絵の才能に恵まれた男の子がいたそうで、大人顔負けのすぐれた作品をコンクールなどに出展しては世間を度々おどろかせていたらしい。だけども新作の製作中、彼は不慮の事故で亡くなってしまったのだとか。しかし未練を残した安藤くんはその後、幽霊となって学校にあらわれるようになり、放課後になるとどこかの部屋で未完成の作品を仕上げるために絵をかき続けているのだという。

 

(出るなら図工室かなって思ってたんだけど……)

 

 智子の予想がまたしても外れた。絵をかくということに関連した存在ならC棟三階の図工室辺りに潜んでいるのではと踏んでいたのだが、実際は絵の貼られている場所であればどこにでも出没するようだ。怪異を引き起こしている張本人の姿は見えずとも、教室に突如あらわれたその作品たちが彼の存在を強く主張していた。

 安藤くんについて具体的なことを智子はあまり知らなかった。オカ研ノートにはくだんの幽霊がどこに出るとも、どんなことをしてくるとも書かれていなかったからだ。しかしそれでもわかっていることがひとつあり──

 

「うおっ!? おいっ、なんかやべーぞ!」

 

 ヤンキー娘が思わず飛びのき、背後に並ぶ机にぶつかった。絵のなかにいる自分たちがいっせいに涙を流しはじめたからだ。それを受け、他の者たちも息を呑む。

 

「うあぁぁ──ん! あぁーん!」

 

 目の前の光景がよほど恐ろしかったのか、ゆりにギュッとしがみつく真子がとうとう声をあげて泣きだした。似顔絵のなかの自分たちが流すその涙が、血のように赤黒かったからだ。見るまに赤く塗りつぶされた両目からは涙がドボドボと溢れだし、白黒だった画用紙をグロテスクに染めていった。

 

「み、みんなっ、もう行こうっ! ここにいちゃダメだよ!」

 

 智子がそのように叫び、すぐさま仲間たちに退室を促した。それを受け、一行は足早に教室をあとにする。ひとまず廊下に逃れたみんなはそこでひと息ついていたのであるが、ひどく胸の悪いものを見せられたからか、いずれも顔色はよくなかった。真子などはさっきからずっとハンカチを手にスンスンと鼻を鳴らしている。

 

「さっきのってよー、あれじゃねえか? 安藤とかいうヤローの」

「あ、うん、そ、そうかも」

「そんならやべーんじゃねーか? あの絵、モロに見ちまったぞ」

「う、うん……」

 

 安藤くんのかいた絵を見てしまった者は呪われてしまう。これこそが彼についてはっきりしていることのひとつだった。智子から事前に話を聞いていたヤンキー娘は、どうやらそこのところを心配しているようだ。

 

「で、でもほら、どうもなってないし。たぶん大丈夫だよ。ねっ?」

 

 だからといって目に見えぬ呪いとやらに怯えたままでいる訳にはいかない。仲間たちは不安げな顔をしていたが、彼女らに向けて智子は気休めながらも安心させるような言葉を口にしてみせた。そもそも呪いのたぐいであれば、黒短冊だったり虫詰めの壺だったりとすでにいくつか出くわしてきている。それでも今のところなんら別状はないのだから、きっと実害はないのだろうと智子はタカをくくることにした。

 

「と、とりあえず次行こ、次。もとの世界に帰れたらさ、呪いとかそういうのもぜんぶ帳消しになるって」

 

 もし本当に呪いがあるのだとしても、逃げきってしまえばこちらのものだ。だから気にせず前に進んでいこうと、智子はみんなをはげました。おばけたちはあの手この手で恐怖を与えてくるけれど、そんなものに負けてはいられない、今こそリーダーである自分がしっかりしなくてはと、そうした責任感が彼女のなかでめばえはじめているようだ。

 

 ◆

 

 鍵のかかっていたパソコン室を真子にあけてもらい、そのなかを調べはじめたのは少し前のことだった。ずらりと並んだスチール製の机の椅子を引いて、その下のほうもちゃんと覗き込んだりしていた智子であったが、穴らしきものの気配は感じ取れなかった。隣接する準備室のほうも確認してみたけれど、背もたれを外された椅子や型落ちのブラウン管モニターだったり、ダンボール箱から溢れかえる周辺機器なんかががしまわれているその埃っぽい空間には、風の流れなんてまるでないようだった。

 

「そっちはどう?」

「あっうん、なんもないみたい……」

 

 殆ど光のはいってこないその準備室で、腰を上げたゆりが智子に声をかけてきた。お互いの顔もわからないほどの暗さだったから、そこかしこに置かれた備品に足をつまずかせないよう気をつけるだけでもひと苦労だ。しかしそうして調べた準備室のなかにも穴は隠されていないようだった。

 

「こ、ここもハズレだね。もういいや、行こう」智子がそのように言えば、

「そう」とだけ返したゆりが、さっさと準備室を出ていった。

「あっ、ま、待ってよ」リーダーを置いていくんじゃあないと、智子が慌て気味にそのあとを追おうとする。

「ぐえっ!?」しかし乱雑に置かれた備品にけつまずいてしまったため、智子はカエルのように鳴いて前のめりに転んでしまった。

「大丈夫?」そんな智子を気づかって、出入り口から顔を覗かせたゆりが声をかけてくる。と、そのゆりが「わっ……!」となにかにおどろいたようだ。

「えっ、な、なに……?」ゆりの様子に焦った智子が、声をうわずらせる。

「いや、いま黒木さんのうしろに誰かいたけど」

「うひっ……!?」

 

 どきりとさせられるゆりからの指摘に縮みあがった智子が、よつんばいになったままシャカシャカと床を這って出入り口までたどりついた。しかしようやく立ちあがった智子が改めて準備室の様子をうかがってみたものの、特にそれらしい気配はないようだった。

 

「だ、誰もいないけど……?」

「じゃあ気のせいかも」

 

 なんだそりゃ、と智子は脱力した。びびらせやがって!と、ちょっぴり腹も立ってしまう。ともあれこの部屋にもう用はないと、窓辺のほうで外の様子──旧正門前の池などが遠くに見える──をうかがっていた他の仲間たちにもその旨を伝えてやった。さて次はどこを調べに行こうかと、そうしたことを思案する智子はみんなと連れ立ってパソコン室を出ていく。

 

「黒木さん、やっぱりいま誰かいたよ」

「へっ?」

 

 そうして全員が廊下に出そろったところで、ふいに口を開いたゆりが智子のほう──というよりその背後に目を向けつつまた妙なことを言ってきた。ぎくりとした智子がさっとうしろを振り返るのだけど、目の前には廊下側から直接準備室へと出入りするための小さな扉があるだけだ。

 

「いや、だから誰もいないって……」

 

 そう返しつつ仲間たちへ向き直る智子であったが、なぜか彼女らの様子が一変していた。ヤンキー娘や真子はもちろん、やや表情に乏しいところのあったゆりまでもがあっとおどろいたような表情をしている。

 

「あ、ど、どうしたの……?」

 

 訳がわからない智子だったから、そのようにたずねてみる。しかし顔をこわばらせるみんなは返事をしてくれず、代わりにじりじりとあとずさった。そのことに不安を感じた智子が数歩前へと歩み出れば、仲間たちも同じぶんだけうしろにさがっていく。

 

「ちょっと、え、ねえ、なに……?」

 

 なにをそんなにうろたえているのか。智子がいくら歩み寄ろうとも、仲間たちがそのたびにどんどんうしろ歩きを繰り返すものだから両者の距離はひらく一方だった。そのことに焦った智子は「もぉー」と声をあげ、とにかくみんなのことを引きとめるべく一気に駆け寄ろうとした。

 

「うおっ!」「きゃあっ!」「……ッ!」

 

 途端、みんなが血相を変えて飛びあがり、そのまま智子に背を向けたかと思うと廊下を勢いよく走りはじめたのだった。

 

「な、なんで逃げるのぉ──!?」急に逃げだした仲間たちだったから、智子はそれを追いかける。

「おまえっ、なにくっつけてんだよ!」走りながらうしろを振り返るヤンキー娘が、智子に向けて叫んだ。

「黒木さん、うしろ!」同じくゆりもまた、息をきらせて智子になにごとか伝えてくる。

「えっ……?」そうした仲間たちの言葉に改めて背後を確認する智子だったが、

「なにもいないよぉ!」みんなを怖がらせるようなものはどこにも見当たらない。

 

 やがてトイレの前も通り過ぎていった仲間たちはその先にある昇降口エリアへと一直線にはいっていくかと思われたが、急に進路変更したようで右の角をすばやく曲がっていった。

 

「うぶえっ!?」

 

 自分も同じように廊下を曲がっていこうとした智子だったけれど、足をもつれさせてしまったせいで勢いよく転んでしまった。仲間たちはそのことに気づいていないのか、彼女らの足音が遠ざかっていく。

 

「くうぅ──……」

 

 顔面をしたたかに打ちすえてしまった智子であったから、痛みのせいでしかめっつらになる。鼻血がでたっておかしくないぐらいの感じだったから、頭の奥がじんじんする智子はつっぷしたまま立ちあがれなかった。

 

「おおうっ!?」

 

 やがて顔を上げた智子だったけれど、視界に飛び込んできたものにおどろいて声を出す。昇降口のところにあの光姫人形がそっと佇んでいたからだ。さっき見たときは二階にいたはずなのだが、どうもいつのまにか一階へとおりてきたらしい。仲間たちが進路変更したのも、ひょっとするとこの人形におどろかされたせいだったのかもしれない。みんながさっき曲がっていった角に目を向ければ、そこには階段があった。これはC棟二階へと移動するためのもので、彼女らはこれを駆けあがっていったらしい。

 

「ったくもー……」

 

 ようやく立ちあがった智子がぼそりとつぶやく。みんながなにに怯えていたかは知らないが、またしょうこりもなく人のことを置き去りにしてしまうとは。団体行動の基本を守れないなんて、一年生からやり直したほうがいいのではないか、などと考える智子は仲間たちの薄情さに落胆を覚えずにはいられなかった。

 いや、一応は仲間だと思っていたけれど、向こうはそのように感じていなかったのかもしれない。彼女らにとって自分は、ただなりゆきで行動を共にしただけの他人に過ぎなかったのではないか。そんなふうに思えてきた智子だったから、鼻がひとりでにスンと鳴った。なんだか涙がでてしまいそうなのは、さっき顔をぶつけたせいだろうか。

 

「ふぇっ!?」

 

 と、ふいに背中をつつかれたような感じがしたので、智子はびくりとなってしまう。おどろいて背後を振り返るも、そこには誰もいないようだった。

 

「……?」

 

 キョロキョロと辺りを見回す智子だったけど、ちょっと離れた先に光姫人形がいるぐらいで、他には誰の姿も見当たらない。するとまたしても背中をつつかれてしまったので、智子はエビぞりになってぴょんと飛び跳ねてしまった。

 

「だ、だ、だれ……っ!?」

 

 それでもやっぱり誰もいない。段々と怖くなってきた智子の脳裏に、さっきの仲間たちの言葉がよみがえる。くっつけてるだのなんだの色々言われたが、もしやなにかが自分につきまとっているのだろうかと、そのように思えてきた。

 

「あっ、ね、ねえ、わたしのうしろ、なんかくっついてる?」

 

 不安をうったえる相手がいないものだから、智子はさっきからじっと見つめてきている人形へとついたずねてしまった。そしたらどうだろうか、まるで智子の問いかけに答えるように光姫がコクコクと何度もうなずきはじめた。

 

「いだっ!?」

 

 すると今度はなにか硬い棒のようなもので突きをくらわされてしまった。それはまたしても背後からだったので、これはもうなにかが自分のすぐうしろにいると考えて間違いないようだった。

 

(くそっ、なんなんだよもう!)

 

 いい加減腹の立ってきた智子が、その正体を今度こそ見破ってやろうと壁に駆け寄る。そうして自分の背を壁にくっつけるようにしてうしろを振り返ってやった。

 

「うわああああ────!!」

 

 途端、智子は絶叫する。

 いた。真正面に。目の前に。誰かの顔が鼻の先にあり、こちらをじっと凝視していた。

 

(なんだこれ! なんだこれ!)

 

 みんなが怯えていたのは、これだったんだ。こんなものが今までずっと自分の背後につきまとっていたんだ。「それ」を目の当たりにした智子はもう震えるしかなかった。肌はひどくくすんでいて、もはや灰色に近い。伸ばし放題の髪はボサボサで、まるで竹ボウキのようだ。顔に垂らされた前髪の隙間からは大きな目玉がギョロリと覗いていて、上目づかいでにらみつけてくる。口などは三日月のように鋭く湾曲していて、ニタリと笑みを浮かべていた。おばけ、幽霊、妖怪、怪人、はたまた宇宙人か珍獣か。そのどれにも当てはまりそうな気がする目の前の奇怪な存在は、お線香のような、防虫剤のような、得体の知れない匂いを漂わせている。

 

「ワタシッテ、カワイイ?」

 

 と、おもむろに口をひらいたそれが質問してきた。おばあさんのしゃがれ声のような、舌ったらずな子供のような、なんとも形容しがたい不気味な声色だった。しかしその質問に答えようにも智子は「はひっ、はひっ」と荒い呼吸を繰り返すことしかできない。こいつは一体なんなのだろうか。こんなものが登場する噂があっただろうか。記憶のなかの怪談データベースを大急ぎで検索する智子であったが、頭が混乱しているせいか中々思い当たるものがでてこない。

 

「ドーナノ? カワイイ?」

 

 しつこく同じことをたずねる目の前の相手だったから、その機嫌を損ねないよう、智子はひとまず無言でコクコクとうなずいてみせた。

 

「カワイイッテ、ドレクライ?」

 

 すると続けてこのようなことを質問された。今度は内容的にうなずくだけでは済まされず、ちゃんと声に出して答えねばならないようだ。かわいいなんて全然思っていないし、むしろものすごく不気味だ。だけどここでもし本音を言ってしまったら、なにをされるかわからない。であればなんと答えるべきだろうか。「普通にかわいい」、「まあまあかわいい」、「キモさのなかにかわいさがある」、「このメスブタが、臭い体しやがって」、などと色んな言葉が智子のなかでグルグル回る。

 

(あっ、こいつ()()だ……!)

 

 智子の頭のなかで、ふいに答えがおとずれた。質問されたことに対するものではなく、相手の正体そのものについての答えだ。多少は混乱がおさまってきたからなのか、あるいはピンチを乗りきるための記憶を頭脳がひとりでに引きだしたからなのか、ともあれ目の前の存在についてようやく見当のついた智子は、「ふ────……」と息を吐いて一旦呼吸を整える。

 

「すっごいブス!」

 

 やがて口をひらいた智子は大きな声で答えをぶつけてやった。お世辞どころか、相手をいからせてしまうに違いないただの罵倒であった。

 

(よし、固まった!)

 

 しかし言われた相手はというと、おこるどころか口を一文字にきゅっと引き締めて、感情の抜け落ちた目で呆然と立ち尽くすのだった。それをチャンスと見た智子は急ぎ階段のほうへと駆けていく。そうして一気に二階まであがってきたところで、階下の様子をそっとうかがう。

 

(でたでた、でたよ!「例のあの人」が……!)

 

 原幕小怪談のなかでもとりわけ印象深かった存在が、ついにあらわれた。あれこそはかつて今江先生が子供のころ、児童たちのあいだでおおいに噂されていたという怪人だった。彼女に関する噂の充実ぶりには目をみはるものがあり、智子としても資料なしではすべてを思い出しきれないほどであるが、さっきの妙な問答もまた彼女の豊富な行動パターンのうちのひとつとされていた。自分のことをかわいいかどうかたずねてくる例のあの人に対して「すごいブス」と答えた場合、ショックのあまり放心状態になってしまうそうだ。ともかく彼女に関してはいくつかの撃退方法が存在していた訳なので、出会い頭のインパクトこそものすごいが、落ち着いて対処すればどうということはない相手なのであった。

 

「キエェェ────!!」

 

 階下から突然怪鳥音が響いてきた。それにびっくりした智子が身構えていると、誰かがどたばたと荒々しい足音で階段をのぼってくる。

 

「クソガキーッ、ブチコロスゾッ!」

「わっ!?」

 

 どうやらショックから立ち直ったらしい例のあの人が、髪を振り乱して追いかけてきたようだった。その手にカマのようなものを握る彼女は、階段のおり口のところに立っていた智子を見つけるや否や、踊り場からいかり狂ったように叫ぶ。その気迫に思わずあとずさる智子であったが、だからといって逃げたりはしない。この怪人に対する「とっておきの対処法」を知っているからだ。

 

「ブ、ブキショーニン!」

 

 退魔の呪文のように、智子がその言葉を力いっぱい叫んだ。すると階段を駆けあがって今にも飛びかからんとしていた例のあの人がピタリと動きをとめてしまった。これは効き目ありと見た智子が更にその言葉を繰り返してやれば、例のあの人は「グヌヌ……」と苦しそうに顔を歪め、一歩、また一歩と階段をうしろ向きにおりていく。

 

「ブキショーニン・ニ・ナルンダー・ヨネ!」

 

 とどめとばかりに智子がこのような呪文を言い放つ。途端、例のあの人の顔にポッと赤信号のような光がともった。そうしてカマを取り落とし、そのまま両手で自分の耳をふさいだかと思うと、「ヤメテー!」などとわめきつつ階下へと走り去ってしまうのだった。

 

(やったぁ、ざまーみろ!)

 

 恐るべき怪人を、自分だけの力でみごと撃退してやった。そのことに胸おどった智子はえいえいと宙に空振りパンチを放つ。そうしてしばらく階下の様子をうかがっていたのだけど、例のあの人が戻ってきそうな気配はなかった。

 

「は──……」

 

 こわばっていた体をほぐすように、智子が息を吐いた。だけども胸はまだどきどきしていて、例のあの人をやっつけた興奮が尾を引いていた。

 

「さてと……」

 

 ともあれ気を取り直した智子が辺りを見回す。今いる場所はちょうどC棟二階の階段手前になるが、ここは色んな場所につながっている交差点のようなところだった。このまま各教室が並ぶ廊下の奥まで進めば三階へと行くための階段があるし、目の前の短い渡り廊下を通ってD棟の二階部分に行くこともできる。そしてもうひとつの渡り廊下──光姫人形が上から覗き込んできていたところ──をしばらく歩けば、そこから旧校舎やA棟に行くことができた。

 

(しょうがない、探してやるか)

 

 一体仲間たちはどこへ行ってしまったのだろうか。裏幕で出くわす怪異への対処法について一応彼女らにも教えてあげてはいたものの、所詮はにわか仕込みなのでさっきの自分のように的確な行動ができるとも思えない。だからこのままほうっておいたら、そのうちおばけの餌食になってしまうかもしれない。そう考える智子は、はぐれてしまったみんなを早いところ見つけてやらねばならない気がした。手近な教室などに逃げ込んだのであれば、ここC棟二階のどこかに隠れている可能性もある。ということで、まずはその辺りを回ってみようと思う智子であった。

 *

(おっ、ここかな……?)

 

 二階の各教室を順々に巡っていた智子が、ついにそれらしいところへ行きついた。なかから人の話し声のする教室を見つけたのだ。それはL字型の棟の南側、そのつきあたりにある五年一組の教室だった。仲間たちにとっても普段から馴染みのある教室であったから、彼女らは無意識にここへ逃げ込んだのかもしれない。

 

(どれどれ……)

 

 その姿をちゃんと目にするまではまだ安心できないと、慎重さを見せる智子はいきなり教室に飛び込んだりせず、そっと入り口の戸を引いてなかを覗き込んだ。

 

「ねーふたりとも、例のあの人見た? ちょっとやばくないあれ」

「見た見た、あれ自分でやったのかな?」

「うっそー、ありえない。ああいうのマジ引くよね」

 

 いた。確かに三人の女の子が机に座っている。顔をつきあわせる彼女たちは、なにやらおしゃべりに興じているようだ。

 

(誰っ!?)

 

 が、それは見知らぬ子たちだった。智子の位置からはその顔がよく見えないものの、髪型や着ている服の違いなどから、自分の知るあの仲間たちとは別人であることがすぐにわかった。

 

「あっ……ほらあれ、さっき例のあの人に追いかけられてた子」

「うわっほんとだ、こっち見てる」

「ひとりでなにしてんだろうね。置いてかれたのかな」

「あはは、かわいそー。うちらの仲間に入れたげよっか?」

「えー、やめなよ。だってほら、あの子……ふふっ」

「ああーふふふ、ふふふははは……」

 

 やがて智子の存在に気づいたらしい女の子たちが、新たな話題を得た様子でおしゃべりを加速させていく。その光景にぞっとさせられた智子はすぐさま首を引っ込め、ぴしゃりと戸を閉めてしまった。

 

(のっぺらぼうだ!)

 

 智子のほうを振り返っておしゃべりを続けていた女の子たちには、顔がなかった。正確にはよくしゃべる口だけがついており、あとはもうのっぺりとした顔面なのだった。

 

(たぶん「サチノリマキ」ってやつらだな……)

 

 教室の入り口から距離を置いた智子が、今しがた目にした連中について考えを巡らせる。その見立てに間違いがなければ、教室のなかにいたのは【のっぺらぼうのサチ・ノリ・マキ】という三人組の妖怪だ。なんでも普段から人の悪口ばかり言っている子供に取りつくそうで、彼女らに目をつけられたが最後、それまでの友人関係をすべて失う羽目になるのだとか。しかし取りつかれた当の本人はそのことに気づいておらず、学校を卒業するまでずっとのっぺらぼうたちのことを仲良しのクラスメイトだと思い込んでしまうらしい。

 

 ひとまずこれでC棟二階の各部屋はあらかた確認したことになる。家庭科室だけは不吉な予感がしたため避けたのだが、あそこが危ない場所であるということは仲間たちにも教えてあげていたから、わざわざそこに隠れるようなことはないだろうと智子は考えていた。

 

(あっちに行ってみるか……)

 

 次の行き先を考える智子が、廊下の途中にある曲がり角を見やる。智子が今いるC棟の南側は、隣接するD棟となかば一体化しているのだが、くだんの曲がり角は両棟をつなぐ出入り口であった。さっき智子が目にした短い渡り廊下からも同じくD棟に行くことができるので、それも含めればふたつの棟の二階部分は回廊(かいろう)のようなものでつながれた形になっており、グルグルと行き来できるようになっている。この場所はかけっこ遊びをするのに都合がよかったので、先生にいくら注意されようとも全力で走り回る子供たちが後を絶たないハイウェイ・ルートとしても親しまれていたのだった。

 ともあれD棟側へとやってきた智子がまず向かい合ったのは、手近な視聴覚室の出入り口。またヘンなのがいたら嫌なので、まずは戸の小窓から室内をそっと確認してみる。

 視聴覚室にはあまりモノが置かれていない。各クラスの教室よりも大きな造りのその部屋はひどくがらんとしていて、大画面のテレビとプロジェクター機材のほかには、すみっこのほうに映像資料の収められた棚が置かれているぐらいだ。そこに仲間たちの姿はなく、おばけのたぐいもいないようだった。見たところ人が隠れられそうな場所はなさそうだけど、一応なかも調べておこう。そう考えた智子が戸をあけようとしたところ、それに合わせるかのようにうしろのほうで「すぅ──……」と、窓のあく気配がした。

 

「ひっ……!?」

 

 突然の気配に智子が背後を振り返ったところ、誰かが廊下の窓をよじのぼり、今まさに校舎のなかへはいってこようとしているところだった。そうして窓枠に足をかけ、よいしょと身を乗り出してきたのは果たして何者か。

 

「みーつけた」

 

 それは黒い髪に着物姿の小柄な女の子だった。智子と目が合うや、素朴な顔立ちの女の子がそのドングリまなこを不吉に輝かせる。そうして窓枠から軽やかに飛びおりて、廊下中にゲタの音を派手に鳴り響かせた。

 

(またヘンなのが出た!)

 

 裏幕のおばけたちは智子のことを中々休ませてくれない。新たな追っ手とでも言うべき女の子は人懐っこそうな笑みを浮かべているが、その様子にあやういものを感じた智子は、相手がなにか仕掛けてくる前に逃げるべく、大急ぎで回れ右をした。

 

「わんちゃんになぁれ」

「ぐえっ!?」

 

 そうしてロケットのごとく駆けだした智子であったが、女の子がなにごとか口にした途端、うしろ向きにずてんと転ばされてしまった。なにかが首に絡みついてきて、それに引っぱられてしまったからだ。

 

「おさんぽしよっか」

「んぐぅ──っ!?」

 

 女の子がそう言って、やにわに駆けだした。すると智子の首がすごい力でひっぱられてしまったので、尻もちをついたまま廊下を無理やりずるずるすべらされていく。

 

「ひぃっ、ひぃっ……!」

 

 首に絡みついてきたのは、どうも首輪のようだった。革製のそれはしっかりと巻きつけられているようで、智子が両手で必死に外そうとしてもどうにもならなかった。お尻が摩擦で痛くなってきたものだから、もがいた末にようやく立ちあがってみせた智子が自分の力で走りはじめる。

 

(最悪だ! これ、「きこさん」だ……!)

 

 今の自分の状態を理解した智子は、同時に目の前の女の子が何者であるのかを悟った。智子に巻かれたその首輪には丈夫そうな縄がついており、女の子が縄の先の輪っかを握って元気よく走っていた。それはあたかも人間が飼い犬を散歩に連れていくが如きであり、この場合の犬こそが今の智子なのであった。

 縄をつかんで力づくで止まろうとしてもムダだった。まるで大男のような怪力を発揮する女の子だったから、智子の抵抗は意味を成さない。

 

「た、たすけて──!」

 

 女の子のあとを追うようにして回廊の角を曲がった智子が、力いっぱい叫ぶ。これはもう誰かに助けてもらわなければどうしようもないと思ったからだ。きこさんにつかまったが最後、その子供は死ぬまで引きずられてしまう。そうした噂通りの出来事がいま自分の身に降りかからんとしている。ああ、そうなる前に誰か早くきてと、智子は砂場のときのように仲間たちがまた駆けつけてくれることを願って何度も声を張りあげる。

 

(なんで誰もきてくれないの……!?)

 

 だけども助けはこない。無尽蔵の体力でひた走るきこさんにつきあわされて、智子はゲタの音だけが響く回廊を何周もしていた。実はマラソンが得意だった智子でなければ、もうとっくに力尽きているところだ。しかしそろそろ限界が近づいてきたようで、その足もとがふらつきはじめた。このままでは本当にマズいと、いよいよ危機感を募らせる智子は、もう他人を頼らず自力でどうにかするほかないのではと考える。しかしきこさんへの対処法などオカ研ノートにはまるで記されていなかったから、結局はお手上げなのだった。

 

(きー坊! こんガキャーッ!)

 

 ただひたすら馬鹿みたく自分のことを連れ回すきこさんに、智子は無性に腹が立ってきた。これはもう、引きずり殺される前に一矢報いてやらねば気が済まない。そうして飼い犬に手を噛まれる屈辱をわずかでもいいから味わわせてやりたい。そもそも自分たちがこのおかしな世界へやってくる羽目になったのも、もとはといえば目の前のきこさんのせいだ。きこさんを呼びだそうとしたから、いま自分がこんなにもつらい目にあっている。だからどう考えてもきこさんが悪い!

 

(すっ転ばせてやる……!)

 

 意を決した智子が、残る力を振り絞って全力疾走を開始した。そうしてきこさんとの距離をグングン縮めた智子が、ついに彼女の隣へと立ってみせた。

 

(くらえっ! クソガキッ!)

 

 器用な足さばきで、猛犬智子はえいやと飼い主の走りを妨害してやった。途端、きこさんは見事なほどに前のめりで倒れていった。ガチコーン、とも、バッコーン、とも表現できるようなものすごい音が廊下に響く。これがもし人間であればそのままお陀仏になってもおかしくないぐらいの勢いで、きこさんは硬い床に頭をぶつけたのだった。そんな彼女をそのまま追い抜かしていった智子であったけれど、やがて立ちどまってうしろを振り返った。

 

(あっ、これ、縄が……!)

 

 ぜいぜいと肩で息をする智子が縄をたぐってみれば、地面に垂れるそれがするすると抵抗なく智子のほうへ引き寄せられる。どうやら転んだ弾みできこさんが縄を手放してしまったようだ。

 

(やった! 逃げれる!)

 

 地面につっぷしたままのきこさんだったから、縄をすっかり自分の手もとにおさめた智子はこのチャンスを逃すまいと再び走りだした。こんなにも簡単なことだったのかと、きこさんへの対処法を自力で発見してみせたことに興奮し、自然と笑みがこぼれる。

 

「わんちゃんが逃げたぁぁぁぁ──……」

 

 そうしてA棟や旧校舎につながる渡り廊下へと逃れた智子であったが、にわかに遠くのほうから雷鳴のような叫びが響いてきた。どうやらきこさんの声らしい。

 

(隠れなきゃ……!)

 

 ひょっとしたら追いかけてくるかもしれない。そう思った智子は、とっさに渡り廊下の途中にあった角を曲がる。そこは旧校舎への入り口であったが、そのまま手近な教室の戸をあけ、なかへと逃げ込んだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 きこさんがはいってこないよう、ふたつある戸の鍵──他の校舎と違ってネジで閉めるようになっている──を大急ぎでかけた智子は、やがて戸に寄りかかるようにして荒い息のままにへたり込んだ。そうしてしばらく廊下側に聞き耳を立てていたのだが、特にゲタの音は聞こえてこないようだったので、どうにか逃げのびることができたのだろうかと考える。

 

「はぁ────……」

 

 心底くたびれたという様子で、智子が大きな息を吐いた。あんなに必死で走ったのは生まれてはじめてかもしれないと、手のなかの縄をにぎりしめつつさっきの徒競走のことを振り返る。またきこさんが襲ってきたってへっちゃらだけど、それでも今は少し休ませてほしい気分だった。

 

(ヘンなもんつけてくれちゃって……)

 

 シミだらけの天井をぼんやり仰ぎ見ていた智子は、やがて首輪がうっとうしくなったのか、それを外しにかかる。しかし留め金のところが引っかかるのか、中々うまくいかない。鏡があればいいのだけど、生憎教室のなかにそのようなものは置いていないようだ。トイレのほうへ行けば鏡があるが、外になにがうろついているかわからないので、今はまだこの教室から出ていきたくなかった。

 

(これでいいや)

 

 なにか代わりになるものはないだろうかと教室の棚を漁っていたところ、役立ちそうなものを見つけた。それは折り紙のセットであり、智子はそのなかからまっさらな銀色の紙を取り出す。これを鏡の代用品にするつもりなのだ。映りは悪いがぜいたくは言ってられないと、早速その表面を覗き込むのだが──

 

「ん……?」

 

 なんだか、自分の顔がヘンだった。たわむ紙面に映った顔の、鼻のところに黒いものがついている。これはなんだろうと指でなでてみたところ、湿り気のあるそれにはふたつの穴があいているようで、そこからスピスピと鼻息が漏れている。

 

(えっなにこれ、なにがついてんの!?)

 

 まるで自分の鼻をさわっているような感覚がある。もしかすると逃げるみんなを追いかけていたときに強く打ちつけてしまったから、そのせいで別モノのように腫れてしまったのだろうかと心配になった。口もとのほうもこんもりと盛りあがって、ツンと突き出してしまっているような感じがする。

 色んな角度から顔の映りを確認していた智子が、ふと自分の頭に生えていたなにかに気がついた。片方はピンと立っていて、もう片方は垂れている。なんだか動物の耳のようだった。これは一体なんだろうとふれてみれば、毛むくじゃらのそれにも自分の体の一部のような感覚がかよっていた。そこまで確認したところで、智子のなかにあるひとつの考えが浮かびあがってきた。

 

(犬……?)

 

 これではまるで犬のようではないか。ぽかんとあけ広げてしまったその口から、異様に長い舌がぺろんと垂れてくる。それに気づいた智子は益々焦り、自分の体をあちこちさわりはじめた。なにかヘンだ。なにかがおかしい。

 

「あっ!?」

 

 ズボンのなかにいつのまにかこんもりしたものが詰まっていたのでひっぱり出してみると、それはフサフサのしっぽだった。

 

(なにこれ、なんでこんなのが生えてんの……?)

 

 うろたえる智子の心情を反映してか、その鼻がひとりでにピィピィと鳴るのだが、まるで犬が悲しんでいるときの仕草みたいだった。

 

(わたし、どうなっちゃってんのっ!?)

 

 指先の爪もまるで狼男のようにとがっていたし、よく見ればその腕には体毛がびっしり生えて長袖を着たみたいになっている。

 なんだか立っているのが難しくなってきた智子はよろめくように地面へ手をついてしまったのだけど、その体勢のほうがむしろしっくりくるように感じてしまう。手放した銀紙がひらひらと落ちてきたので改めてそれを覗き込んだところ、そこには腕と同じく毛におおわれた自分の顔が映っていた。犬のような感じでもあり、それでいてもとの自分のような感じもする。いまや智子の顔は犬と人間が合体したようなものへと変貌していたのだった。いや、その変化は顔だけに留まらない。智子はもう、その全身が犬に近い姿になってしまっていたのだった。

 

(きこさんのせいだ……きこさんがわたしをこんなふうにしたんだ……)

 

 自分を襲った異変の原因について、智子には十分過ぎるほどの心当たりがあった。こうしたことはきこさんが自分にかけた呪いのせいに違いないのだ。彼女には、目をつけた子供を犬の姿に変える力があるとされているのだから。

 

(これじゃあわたし、人面犬だよ……)

 

 原幕小にはかつて【人面犬・キモイーヌ】という噂が存在していたのだが、いまや智子自身がそのキモイーヌとなってしまった。こんな姿で仲間たちの前にでようものなら、仰天したみんなはまた逃げていってしまうに違いない。

 智子の目からぽろぽろと涙がこぼれるが、そのすすり泣く声にクゥンクゥンと犬のような鳴き声が混じる。

 

(もうダメだ……もうおしまいだ……)

 

 これから一体どうすればいいのかと、途方に暮れてしまう智子。みんなはどこかへ行ってしまったし、自分もこのような姿にされてしまった。大昔にきこさんを呼び出してしまったという子供たちも、きっとこんなふうにみんな犬にされてしまったのかもしれないとぼんやり考える。

 まだまだ犬の姿になってしまってもやれることはあるはずなのだけど、強いショックを受けてしまった今の智子には再び立ちあがる気力がもうなかった。さっきたくさん走ったから、すっかり疲れてしまったせいもある。だから智子はそのまま床に伏せ、現実逃避するかのように目を閉じてしまった。

 ウチに帰りたい。おなかがすいた。のどもかわいた。お菓子やジュースのはいったリュックを持ってくればよかった。弟にあとで渡してあげようと、あの子の好きなシールがついたお菓子なんかも買っておいたけれど、結局ムダになってしまった。図書館で借りた本たちはどうしよう。ちゃんと弟が返しに行ってくれるだろうか。お母さんは今ごろ帰りが遅いとおこっているかもしれない。お母さんに会いたい。智くんに会いたい。ゆうちゃんにも会いたいし、お父さんにだって会いたい。七不思議なんて調べなければよかった。そしたらこんなことにならずに済んだのに。今江先生は、わたしがいなくなったらとても悲しむだろうな。先生に会いたい。昔はよかった。いつも先生やゆうちゃんと一緒にいられて、毎日が楽しかった。学級委員をやっていたころはよかった。みんながちゃんと言うことを聞いてくれて、尊敬されていたのだから。あのころに帰りたい。今の学校なんてつまんない。昔はよかった。智くんも素直でかわいくてうんとよかった。智くんに会いたい。ウチに帰りたい。早く帰りたい。誰か助けて。誰か……誰か……──。

 

 ◆

 

 スンスンと、自分の鼻が無意識に匂いをかごうとしたところで智子が目を覚ました。とても懐かしい匂いを感じたからだ。気づかぬうちに眠ってしまっていた智子であったから、ねぼけまなこのままのっそりと顔を持ち上げる。

 

「キャイン!」

 

 すると目の前に誰かがしゃがんでいたことに気づいたものだから、おどろいた智子はひと鳴きして飛びのいた。そしたら相手のほうもびっくりしたらしく、「わっ!」と声をあげるのだった。

 

「大丈夫だよ、怖くないよ」

 

 怯える智子に配慮したらしい相手が、そう言って落ち着かせようとしてくる。

 

「えっ、だ、誰……!?」

 

 目の前にいたのは知らない女の子だったから、思わずそのような言葉がでてくる。つややかな黒髪を伸ばすその子は、スポーツシューズにジーンズと、動きやすそうな格好をしていた。

 

「えーっと……」すると相手の女の子は口もとに手をやり、しばし考え込むようなそぶりを見せる。

()()。わたし、花子っていうの。六年生だよ」自己紹介する女の子は、みずからを花子と名乗った。

「ハナコ?」それを受け、犬のように首をこてんとかしげる智子。

「もしかしてユーレイ……?」あるおばけをほうふつとさせる名前だったので、智子はおそるおそるたずねてしまう。

「ふふふ、人間だよ。ほら、さわってみて?」そう笑って、花子が手を差し出す。

 

 それに応じた智子が遠慮がちに歩み寄り、前足を彼女の手のひらへぽふっと乗せてみれば、確かに人間らしいぬくもりを感じた。ひとまず悪意はなさそうだと見て取った智子は、ふんすと鼻息を漏らす。

 

「これ、きこさんにやられたの……?」

「えっ……? あっ、う、うん!」

 

 花子がおもむろに手を伸ばし、智子の首のうしろをそっとなでてきた。おそらくは犬のような姿になってしまったこの姿を見てそう言っているのだろうと理解する智子。しかし今この子は「きこさん」と言った。仲間たちにしか教えてやっていないあの妖怪のことを、なぜこの子が知っているのだろうかと、智子は疑問に思ってしまう。

 

「オカルト研究会の活動記録って読んだことある? 学校に置いてあるやつなんだけど」

「あっうん、知ってる」

「それ、わたしも今江先生に読ませてもらったんだ。だからおばけのこととか結構詳しいの」

「へ、へぇー……」

 

 口にださない智子の疑問を察したからか、花子が聞いてもいないのにそうしたことを語りだす。しかし自分以外にも例のノートを読んでいる者がいたとは。こうしたことは智子にとって意外だった。

 

「は、花子さんもさ、連れてこられちゃったの? ここ、実は『裏幕』なんだけど……」

 

 ならば話が早いと、智子は自分たちの今いる場所が裏の世界であることを告げてやる。

 

「あ、うん、そうみたいだね」

 

 そしたら花子があっさりうなずいたので、彼女としてもすでにその辺りのことは理解しているようだ。

 

「もしかしてあのヘンな小屋からきたの? フェンスではいれなくしてるとこの」

「ううん、ちがうよ。穴を通ってきたの」

「穴って?」

「ほら、知らない? 里崎屋敷の隠し穴って」

「あーうん、あれね……」そこまで話したところで、智子の息が一瞬とまる。「あっ、そ、その穴、どこにあったの!?」

「えっと……あそこ、教壇の下」たずねられた花子が、やおら立ちあがり黒板の手前にある教壇を指さしそう答えた。

 

 途端、智子が爪を鳴らしてそちらへ走る。そうして教壇の辺りをクンクンかぎまわったり、地べたを手でひっかいたりしていたのだけど、やがて花子のほうを振り返り「なにもないけど!?」と怒鳴った。

 

「あの穴ってね、一回通ったら消えちゃうんだ」

「そんなぁー……」

「たぶんだけど、また別のところに新しいのができてるはずだよ」

「そうなの?」

「うん、そういうルールになってるんだって。おもしろいよね」

 

 おもしろくなんかないし、こっちは遊びじゃないんだよ!と智子が心のなかで毒づく。しかしくだんの穴がそうした仕組みになっているとは知らなかった。そんなことはオカ研ノートにも書かれていなかったのだから。ゆえに花子がでたらめを言っているのでなければ、そこにはまた別口の情報源があると思われた。

 

「そ、それ、誰から聞いたの……?」

 

 原幕小でいまやもっとも怪談に詳しい子供であると自負していた智子であったから、妙な対抗心がわいてしまう。だからそれとなく探りを入れずにはいられなかった。

 

「あ、えっと……」

 

 たずねられた花子のほうはというと、なんだか少し言葉に詰まっているようだ。だけどもやがて口をひらいた彼女は「今江先生から聞いた」と答えるのだった。それを聞いた智子は、なぜ先生がそんなことを知っているのかとおどろく。

 

「あ、あのね……あのノート書いたのって、先生らしいよ」目を剥く智子の戸惑いぶりを見て取ったらしい花子が、更にそのようなことをつけ加えてきた。

「ワフッ!?」智子が衝撃のあまり吠える。

「だから色々詳しいみたい……。子供のときに書いたやつだから結構忘れちゃってたこともあったみたいだけど、ノートを読み返してたら色々思い出してきたんだって」

 

 もじもじしながらそのように説明する花子であったが、智子のほうはぐわんぐわんとする頭にひっぱられて体をふらつかせる。よくよく考えてみれば、確かに納得できないこともない。いくらもと卒業生とはいえ、ずっと前に一時期だけ存在していた同好会の、その古ぼけた活動記録の所在を当たり前のように把握していたのだから。それに先生自身、ああ見えてオカルト的な話題を好きこのむ人物でもあるということがこれまでの付き合いのなかでわかっていたので、そうした点も踏まえてみれば、先生が当時のオカ研に参加していたとしても不思議ではないのであった。

 

(だったら教えてくれたらよかったのに……)

 

 先生としてはあまり深く考えず内緒にしていたのかもしれない。だけどもその一方で目の前の花子にはそうした事情を教えてあげていた訳なので、なんだか不公平に感じてしまう智子。あのノートにしたって、先生が自分にだけ特別に読ませてくれたのだとばかり思っていたので、なんとなくモヤモヤしてしまった智子はふくれっつらになる。でも犬の口だとうまく頬がふくれないので、パフパフと息が漏れるだけだった。

 

「とりあえずその体、もとに戻してみよっか」

「え……で、できるの?」

「うん、ちょっと待ってね」

 

 犬の姿のままでは困るだろうと、花子がそのように言い置いて背を向ける。そんなことが可能なのかと智子が思っていると、花子は先生の机の引き出しをあけてメモ用紙を手に取った。そうして今度はサインペンでなにかを紙に書き込みはじめたようだ。

 

「あっ……ねえ、名前は?」思いだしたように顔を上げた花子がたずねてきた。

「えっ、わたし?」

「そう、教えてもらっていいかな?」

「あっうん、黒木智子……」

「オッケー、じゃあ……ともこっと……」

 

 やがてすっかり書き終えたらしい花子は、紙を丁寧に折りたたんでから智子のところへ戻ってきた。そうしてその紙を「はい」と差し出してきた。

 

「な、なにこれ?」

「ちょっとくわえてもらっていい?」

「なんで?」

「人間に戻るためのおまじないだよ。これをくわえて、『わたしは黒木智子だ』って頭のなかで何度も念じてみて」

 

 そうすれば、やがてもとの姿に戻ることができる。花子が言うにはそういうことらしい。半信半疑ながらもひとまずその言葉に従うことにした智子は、差しだされた紙をパクリとくわえる。そうして目をぎゅっとつむり、心のなかで自分の名前を繰り返し唱えはじめた。

 

(わたしは黒木智子……わたしは黒木智子……。こんなんホントに効くのかな……?)

 

 智子の頭のなかで疑念がよぎるが、花子がそばで「いいよ、もっともっと」と促してくるので、しばらくのあいだ続けていく。

 

「あっ……」

 

 突然首輪がプチリとちぎれた感じがしたので、思わず声が出た。そしたらくわえていた紙がぽとりと落ちる。目をあけた智子がおもむろに首もとから伸びる縄をクイッとひっぱってみれば、固く巻かれていたはずの首輪はいとも簡単に外れてしまったのだった。

 

「もう大丈夫だよ。ほら、見て」

「え? おっ?」

 

 しゃがみ込んだ花子が、手にした銀紙を智子の目の前にかざしてきた。そこに映るぼやけた像を凝視しながら、智子が自分の耳や口もとをぺたぺたさわっていく。

 

「あっ、ない! しっぽなくなってる!」

 

 なんともジャマに感じていたあのしっぽも、すっかり消えうせているようだった。腕にはもう毛など生えておらず、もとの素肌をさらしているだけだった。

 

「やったぁ! もとに戻れたぁっ!」

 

 やったやったと、立ちあがった智子が子犬のように何度も飛び跳ねた。どうやらきこさんの呪いを解くことにみごと成功したようだ。

 

「すごい! ねえ、どうやったの?」魔法のような奇跡を起こしてみせた花子に、智子が尊敬のまなざしを向ける。

「わたしなにもしてないよ。智子ちゃんが自分の力でもとに戻っただけだから」そう言って床に落ちる紙を手に取り、花子のほうも立ちあがる。「ほらこれ」

「……?」広げた紙を見せられた智子が、それにまじまじと目を向ける。

 

 メモ用紙には和風の魔法陣らしき線がいくつか引かれていて、中央に大きく「人」という字も書かれていた。そしてその下には智子のフルネームが漢字で記されているようだった。

 

「これ、なに?」

護符(ごふ)っていうの。昔の人がね、なにかお願いごとするときとかに使ってたんだって」

「へぇー」

 

 こんな紙きれ一枚でねぇ、と思う智子ではあったけれど、それで実際に人の姿へと戻れたのだから案外すごいシロモノなのかもしれないと感心する。

 

「ねえ、ここにきたのは智子ちゃんだけ? 他に誰かいなかった?」

「あっ、うん、いるよ。さ、三人くらい」

「どこにいるの?」

「わかんない、みんなどっか行っちゃった」

「そっかぁ……」

 

 他にこの裏幕へやってきた者はいるのかとたずねられたので、智子が仲間たちの存在を伝えてやる。しかし今は生憎はぐれてしまっているから、彼女らのことを紹介してあげることもできない。

 

「じゃあ他の子たちも探してから、みんなで一緒に帰ろっか?」

「へっ? あー、うん……」

 

 それはもっともな話であったから、智子も同意するところだ。だけどもさっき隠し穴の厄介な仕組みについて聞かされていた智子であったから、このぶんではまたイチから調査のやり直しになるのかと思い、いささかおっくうな気持ちになってしまう。と、そこで智子のなかにひとつのひらめきが生まれた。

 

「あ、あのさ……! せ、先生、他になんか言ってなかった?」

「えっ?」

「ほら、裏幕からどうやったら帰ってこられるのかとか、そういうの」

 

 今江先生がかつてオカルト研究会のメンバーであったのならば、表の世界へと戻るための方法を知っているはずだった。その詳細について先生がこの六年生にこっそり教えてあげていたのではないかと、智子はそう考えたのだ。

 

「うん、言ってたよ」

「や、やっぱり隠し穴を探したりするの……?」

「ううん、違うの。『儀式』をやるんだって」

 

 さいわい花子は先生から色々と聞かされていたようだ。しかしその帰還方法については、どうも智子が考えていたものとは違っていたらしい。

 

「きこさんを帰す儀式ってのがあってね、それでもとの世界に戻れるみたい」

 

 なんでもないことのように言う花子の顔に、不安の色は少しも見られなかった。まるでそうしたことを実際に経験してきた者のように、その言葉には確かな自信が満ちていたのだった。「帰す儀式」とやらの具体的な手順についても彼女は心得ているそうなので、これなら危険を冒してまでどこにあるとも知れぬ隠し穴をしらみ潰しに探さなくても済みそうだと、智子はほっとした。

 

(あっ、ここって……)

 

 ともあれ早いところみんなを見つけてあげなくてはと、教室の鍵をあけた智子は花子と連れ立って廊下へとでた。そうしてなにげなく入り口の表札を見あげたところ、今までいた教室が三年三組のものであったことに気づく。かつて三年生だったころの智子もまたこのクラスに在籍しており、そこで優しい先生に見守られながら充実した日々を送っていたのであった。

 そういえば今江先生はまたこのクラスを担当してるんだっけ、などとかつての担任の現在について思いを馳せる智子であったが、花子に声をかけられたところで我に返り、そのまま思い出の教室をあとにするのだった。




つづく


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【ホラー】原幕小の七不思議(6)

◼設定資料(再掲)
原幕小学校 間取り図(一階)
【挿絵表示】

原幕小学校 間取り図(二階、三階、屋上)
【挿絵表示】

作中の智子たちが住む町
【挿絵表示】



黒木智子となかまたち(前篇)

「お、おぉーい……」

 

 引き戸をあけて教室を覗き込んだ智子が、なかに向かって呼びかける。だけども返事はないし、しばらく様子をうかがってみても物音ひとつ立たないようだった。そこはさっきまで智子たちのいた三年三組の隣にある空き教室で、普段はクラブ活動に利用されている場所だ。

 

「ま、真子さーん……!」

 

 心もち声を大きくした智子が改めて仲間の名を口にしてみるが、やはり結果は変わらない。ぴっちりと閉じられたカーテンのせいで殆どまっくらなその教室だったけれど、人の隠れていそうな気配はどうにも感じられないのだった。

 

「あ……いないんじゃないかな、これ」

「うん、じゃあ下に行こっか」

 

 真子の代わりにおばけが出てくるのではと不安のよぎる智子であったから、そばでおなじように教室を覗き込んでいた花子の服をギュッとつかむ。そうした智子の言葉にうなずいた花子が、場所を変えようと提案した。はぐれてしまった仲間と合流すべく、手はじめに旧校舎から探していくつもりの智子たちであったが、二階にある教室はこれでもう最後なので、今度は一階へと足を運ぶことにしたようだ。

 

「ねぇ智子ちゃん」

「あっハイ」

 

 ギシギシと鳴る木造の階段をおりきったところで、ふいに花子が口をひらいた。おばけの襲来に備えて辺りを警戒していた智子が、はっとなったように返事をする。

 

「はぐれちゃった子たちって、もしかして智子ちゃんの友達?」

「あー、うん……」

 

 どうも花子は本日ここ裏幕へとやってきている他の訪問者たちが、智子の友人ではないかと思っているようだ。しかしこのようにたずねられても、智子はすんなりと答えられない。

 

「いやまあ、ただのクラスメイトかな」

「仲よしじゃないの?」

「ぜんぜん。名前とかもよく知んないし」

 

 これまでいくつもの脅威を共に乗り切ってきた仲間たちであったが、まともに会話したのは本日がはじめてだ。だから正直なところ、フルネームもわからない彼女らを友達と呼んでいいのかどうか智子にはわからなかった。仮に自分のほうが友達だと思いはじめていたとしても、向こうはどうだか知れない。そんなふうに考える智子であったから、結局は首を横に振ってしまう。

 

「そっかぁ……」

 

 答えを聞いた花子が妙に残念そうな顔をするので、変なことでも言っちゃったかなと思う智子。だけども花子がそれきりなにも聞いてこなくなったので、結局はよくわからないままだった。

 ともあれ智子たちはひとつ、またひとつと一階のトイレや各教室を覗いていったのだけど、結局仲間たちは見つからなかった。みんなは一体どこへ行ってしまったのか。ひょっとするとあちらのほうも、置いてけぼりにしていったわたしのことを探して校内をうろついているのかもしれない。あるいはおばけたちに追いかけられて、どこかへ逃げ込んだままでいるのだろうか。そんなふうに考えを巡らせる智子が、なにげなしに廊下の窓から見える景色へと目を向けた。

 

「あっ!? だ、誰かいるよ!」慌てた様子の智子が、花子の服をひっぱってなにごとかをうったえる。

「えっ?」まだ教室を覗き込んでいた花子も、窓の外を指さす智子にうながされてそちらを見やった。

「ほらあそこ、池んところ……!」

 

 智子が指し示すのは、中庭のビオトープ内に設けられた浅い池だ。ここではメダカなんかが飼われているのだけど、例の不気味な自画像が貼られていた教室のちょうど対面に立つ智子たちからは、草木に隠れることなく池の様子がよく見えた。

 

「わぁ……」

 

 確かに智子の言う通り、池のほとりに誰かが立っていた。それに気づいた花子が感心した様子で窓辺へと歩み寄り、くもった古ガラス越しに見えるその姿を前にため息を漏らした。それは智子のほうも同じであり、窓にべったり張りつく少女の視線はもはや目の前の光景に釘付けとなっていた。

 

「ほへぇー……」

 

 ほうけた声をあげる智子であったが、その顔もずいぶんとゆるんでいた。あたかも地獄のなかで仏さまに出会ったかのような、あるいはおおいなる母のぬくもりに包まれたかのような、えもいわれぬ表情を浮かべているようだ。

 智子たちの視線の先になにがいたのかといえば、それはひとりの女性であった。明るい色合いのゆったりとしたローブに身を包む女性が、そっと静かに立ったまま、智子たちに柔らかい表情を向けていたのだった。ただそれだけであれば、智子としても新手のおばけが出たと警戒したかもしれない。しかし今の智子にそうした様子はみじんも見られず、ビオトープに佇む女性にひたすら見入っている。目の前の女性がおばけであるなどと、とてもそのようには思えなかったからだ。

 

(女神さま……?)

 

 智子の心のなかで、自然とそうした言葉が浮かんできた。それがくだんの女性に対する呼び名として、この上なく相応しいように感じられたからだ。彼女の体はその頭上からつま先に至るまであたたかな輝きを放っていて、日の光が弱いここ裏幕にあってはとりわけ目を引いた。頭に被ったベールからこぼれるその長い髪は、桜色ともピンクゴールドとも言えるきらびやかな色彩に満ちていて、離れた場所にいる智子にまでうっとりするような香りを錯覚させてしまうものがあった。

 

(きれい! かわいい! やさしい! すごい!)

 

 年若い智子にはまだ、目の前の存在がその身から放つ数々の鮮烈なイメージを適切に表現しうるだけのボキャブラリーがそなわっていなかった。あるいは、そもそもそんなことは大人たちにだって不可能なのかもしれない。人の身を超えた高貴な雰囲気をまとうその女性を正確に言いあらわそうと思ったら、天上の世界にのみ存在する特別な言語が必要であるはず。そう思わせるだけの神々しさが彼女にはあった。

 

「あ、えへへ……」

 

 女神さまがニッコリ笑って軽く手を振ってきたので、舞いあがった智子も思わず手を振り返してしまう。

 

『いらっしゃい』

 

 智子には、確かにそう聞こえた気がした。頭のなかで誰かが自分に語りかけてきたような感じがしたのだけど、それはあの女神さまから発せられているのだと、そのような確信があった。

 

(いかなきゃ!)

 

 智子のなかで、突如このような衝動がわきおこった。女神さまが呼んでいる。早くわたしのもとへいらっしゃいと、お招きしてくれている。あの人ならきっと今の自分を助けてくれるに違いない。彼女のふところへ飛び込んで、そのまま優しく抱きしめてもらったら、たちどころに全ての悩みや不安も消え去ってしまうだろう。近頃おもしろくない学校だって、もうどうでもよくなってしまうはずだ。目の上のたんこぶな担任も、イカサマのことでからかってくる男子も、理不尽に無視してくる女子も、みんな道端の小石に等しい存在と化すだろう。クラスの中心だった頃の権威を取り戻そうとあがいたりもしたけれど、その必要はもはやなくなった。だから自分が今すべきは、一刻も早く女神さまのもとへ駆けつけることだ。

 熱狂的な使命感に支配された智子であったから、意識せず体が動いてしまう。目の前のガラス戸の鍵を素早く外し、急いであけようとするのだった。

 

「あれ? んっしょ……!」

 

 が、戸はびくともしなかった。上下にスライドさせる古いタイプのそのガラス戸は、智子がいくら力を込めようとも一向にひらいてくれなかった。らちがあかないと、他の窓へ飛びついた智子がまた同じようにうんうん頑張るのだけど、錆だらけの窓枠がガタつくばかりで結果は変わらなかった。

 

「なんだよもぉぉ!」かんしゃくを起こした智子が、ガラス戸に向かって怒鳴りつける。

「待って智子ちゃん、落ち着いて!」

 

 興奮する智子をおさえようと、その肩をつかんだ花子が焦ったように呼びかけるのだが、効果はなかった。頭のなかが女神さまでいっぱいの智子は、花子の手を振り払うとそのまま階段手前にある出入り口の扉に向かって勢いよく駆けだした。窓があかないのなら、あそこから外へ出ていってやると、そう考えてのことだ。

 

「あっ、くそっ、このぉ……!」

 

 しかしどうやらそちらのほうもダメだったようで、鍵がかかっていないはずのドアノブをいくら回して押し引きしてみても、アルミ製のその扉は閉ざされたままだった。智子はもう、じれったさで気が狂いそうになってしまう。

 

「待って、待って……!」

 

 あとを追ってきた花子がそう叫ぶのだけど、それが耳にはいっていない智子は階段へと走り寄り、今度はそこを猛烈な勢いで駆けあがっていく。すばしっこいことこの上ない智子であったから、花子の足では中々つかまらないようだ。そうして二階に戻ってきた智子は、そのまま渡り廊下へと踊り出る。ここから一旦他の棟へと移り、外へ出るつもりだ。

 

「あっ!?」

 

 しかしそうした智子の突撃を阻むものがあった。A棟へと続くその渡り廊下が、途中から大きな防火扉によって塞がれていたのだ。うしろを振り返ってみれば、C棟につながっているほうの廊下も同じように閉ざされてしまっていた。

 

「ふんぐぬぬ……!」

 

 ともあれこのとおせんぼを突破せねばと、A棟側の扉に駆け寄った智子がめいっぱいそれを押し込んでみせた。鼻息荒く力をこめるたび、グワングワンと鉄板のきしむ音が廊下全体を包み込む。しかし一階の出入り口のときと同じように、その鋼鉄製の大扉はあきそうになかった。くぐり戸のほうもまるで溶接したかのように固定されていて、もはや外へ出ることは叶わないようだ。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 そのことを理解した智子が、諦めたように扉の前で膝をつく。と同時に、なんだか頭のなかがすっと冷めていくような感じがした。

 

「大丈夫?」

「あ、うん……」

 

 背後から気づかわしげな声でそうたずねてきたのは、花子だ。とっくに追いついてきていたようだが、智子が落ち着くのを待ってしばらく様子を見ていたらしい。

 

「ふ────……」

 

 やがて大きく息を吐いた智子が、扉に手をつきながらゆっくりと立ちあがる。

 

「さ、さっきの人、すごくきれいだったけど、やっぱおばけかな?」

「そうだね。わたしもはじめて見たけど、たぶんあれって……」

 

 さっきまでの自分の半狂乱ぶりが今になって恥ずかしくなってきた智子であったから、ごまかそうと話題を振ってみせた。それを受け、花子が思案するようにその指先を口もとへやる。

 

「まだいたりして……」

 

 せっかくだから確認してみようと、智子が旧校舎のほうへ戻ろうとする。二階の窓から見下ろしてみればビオトープの様子が一望できるので、智子はそこから女神さまのお姿をいま一度拝見したくなったようだ。

 

「あっ、ダメ!」自分の横を通っていこうとした智子の腕を、花子がガッチリつかんで引きとめる。「さっきのあの人、きっと『マリアさま』だと思う。智子ちゃん、あの人に連れてかれそうになってたから」

「そ、そうなの……?」

 

 花子が「マリアさま」なる人物の名を口にするが、その説明によれば、さっき智子の様子が急におかしくなったのも、池の前に佇むあの女性のしわざということらしい。どうやら彼女は智子の心に働きかけ、自分のもとまでおびき寄せようとしていたみたいだ。

 

(【きれいだったマリアさま】か、あっぶなー……!)

 

 花子の指摘を受け、女神の正体についてようやく察しのついた智子は冷や汗を流す。あれは女神さまなんかじゃなく、やっぱりただのおばけなのだった。もう完全に心奪われていた自分を振り返った智子は、もしさっきガラス戸がすんなりあいてしまっていたら、今ごろどうなっていただろうとゾッとせずにはいられなかった。マリアさまに魅入られてしまった者は身も心も赤ん坊へと変えられてしまい、彼女の子供にされてしまうと言われているからだ。

 このマリアさまというおばけの発祥は、戦争が終わって間もない四〇年代なかばまでさかのぼる。出征していた兵隊さんたちが続々と復員していた当時の日本では、ごくたまに人間じゃないものまで故郷に帰ってきたりした。それはなにかしらの銅像だったり、お寺の大きな鐘だったりしたのだけど、戦時中に貴重な金属資源として供出されていったうちの、溶かされずにいたものが終戦後にもとの持ち主へ返却されていったという訳だ。こうしたことは原幕小でも起きていて、例えば裏庭方面にある非常用門(かつての正門)の門扉(もんぴ)なんかが無事な状態で戻ってきたりしていたが、そうしたなかにあって当時の先生や児童たちは、一体の銅像の帰還を心待ちにしていた。それはキリスト教における聖母マリアを思わせる風貌の──学校側はあくまでただの母子像だと言い張っていた──美しい像で、みんなが「マリアさま」と呼び慕っていたものだった。なかにはこの銅像を神さまのように崇める者たちまでいたそうで、それはそれは大切にされていたという。誰が造ったのか、いつごろ学校に持ち込まれたのか、そうした諸々が謎に包まれているこの銅像は、ちょうど今のビオトープがあるあたりに設置されていたらしい。

 やがてくだんのマリアさまが幸いにも溶かされずに済んでいたことがわかり、ついに原幕小へと返却される日がやってきた。しかしトラックで学校に運ばれてきた銅像をお迎えをしようと集まっていた先生や子供たちは、そのマリアさまを見てギョッとせずにはいられなかった。魅力的なほほえみを浮かべていたはずの彼女が、なんとも険しい顔つきへと変貌していたからだ。下唇を噛み、眼光をするどくしたマリアさまの顔は、まるでおこっているようだった。

 そしてまた、マリアさまにはもうひとつ大きな変化があった。もともと彼女が大事そうに抱きかかえていたはずの赤ちゃん像がその腕のなかからもぎとられていたのだ。遠方の保管施設へとマリアさまを受け取りにいった者の話によると、倉庫のなかでほこりをかぶっていた彼女を見つけたときには既にこの状態だったらしい。赤ちゃんも一緒に持っていってあげようと探したのだけど、結局その像は見つからなかったので、仕方なしにお母さんだけを連れ帰ってきたのだという。

 ともあれ再び原幕小に設置されたマリアさまだったけれど、顔つきが変わってしまったせいか以前の慕われぶりがウソのようにすっかり気味悪がられるようになってしまった。彼女についての怪談が子供たちのあいだで流行りだしたのもそのころからで、いわく、いなくなった赤ちゃんを想ってときおりマリアさまが血の涙を流すだとか、赤ちゃんの代わりになりそうな子供──なにかしら悩みを抱える者は特に狙われやすいとされる──を見つけると、以前のような優しい顔に戻って話しかけてくるなどと噂されていたのだった。

 そうして年月が経って彼女に関する噂も忘れ去られたころ、結局このマリア像は誰にも惜しまれることなくどこかの教会へと引き取られていったそうな。

 

「て、ていうかこれさ、もしかして閉じ込められてない……?」

 

 正体のわかったマリアさまはさておいて、智子は他のことが気がかりになってきた。外へ出ようと躍起になっていたにもかかわらず、結局それが叶わなかったのは、つまり出口になりそうな場所がいずれも閉ざされていたからだ。

 

「さっきめっちゃ押してみたけど全然あかないんだ、ほら」

 

 防火扉に駆け寄った智子が改めてそれを両手で押してみるが、妖怪ぬりかべのように通行を妨げる扉はぐわんぐわんと鳴ってわずかにしなるばかりだった。これこそは旧校舎にまつわる怪談どおりの現象であったから、智子としては罠にかかったような気持ちだ。このぶんだと密室状態の旧校舎にやがて裏幕のおばけたちが集結してくる可能性もあったので、そうなる前にどうにか脱出しなくてはならない。

 

「こういうときどうしたらいいとか、今江先生なんか言ってなかった?」この先輩ならなにか対処法を知っているのではないかと思った智子がたずねてみたところ、

「あっうん、えっとね……」花子がおもむろに手を取ってきた。

「あ、な、なに?」

「あのね、ちょっと目をつぶっててほしいんだけど」

「へ?」

「試してみたいことがあるの。大丈夫だから、ねっ?」

「あ、うん……」

 

 急に妙なことを言いだす花子だったが、この先輩なりの考えがあるらしいと察した智子であったから、大人しくその指示に従った。

 

「今からグルグル回るけど、いいって言うまでぜったい目をあけないでね」

 

 花子が念を押すように言ってから、智子を軸にその周囲をすたすたと回りはじめた。なんだか運動会とかでやるフォークダンスみたいだなと、目を閉じたままの智子がぼんやり思う。やがて今度は逆方向に回りだしたので、すっかり方向感覚の狂った智子の足もとはおぼつかなくなってしまい、視界の利かない中で花子とつないだ両手の感覚だけを頼りとするほかなくなった。

 

「まだあけちゃダメだよ……じゃあほら、こっちに来て……」

 

 ふいに回転を止めた花子が、新たな指示を智子に出した。花子にそっとひっぱられる形で、よちよち歩きの智子が一歩一歩踏み出していく。自分がいまどこに向かって歩いているのかという感覚もすっかりあやふやになってしまった智子だったので、なんだかムズムズして仕方がない。まぶたがピクピク動いて反射的に目があいてしまいそうになるけれど、眉間にぎゅっと力を込めてどうにかがまんする。

 

「もういいよ」

 

 いつまでこうしているのだろうと智子が思いはじめたところで、ふと手を引くのをやめた花子がそのように言ってきた。ようやくお許しが出たと、智子は閉じっぱなしだったその目をひらく。

 

「あ……えっ?」

 

 最初、智子は自分がさっきまでと同じ場所にいると思っていた。でも違和感を感じてよくよく確認してみたところ、防火扉にさえぎられて見えなかったA棟二階の階段が目にはいったので面食らわずにはいられなかった。

 

「よかったぁ、うまく行ったみたい」

「あ、あのっ、これ、どうなってんの……!?」

 

 うしろを振り返ってみれば、通行をさえぎる例の防火扉が見えた。さっきまで確かにあの向こう側にいたはずなのに、まるでそれをすり抜ける形でA棟側へと移動してしまったものだから、なにが起きたのかわからない智子は説明を求める。

 

「えっと、ちょっとした思い込みの力っていうか……」

 

 花子が言うには、自分たちが扉の向こう側にいるのだと強く念じて歩き出すことで、障害物をすり抜けることができるそうだ。目をつぶらせた智子の手を引いてあげたのは置いてけぼりにしないためで、わざわざ妙な動きで方向感覚を狂わせたのも、「扉があるからこの先へは行けない」という智子の先入観に邪魔されないための工夫なのだとか。

 

「裏幕のなかにいるとね、思ったことが少しだけホントになるんだ。すっごく集中しないといけないから、結構難しいけど……」

 

 って、今江先生が言ってたよ。そう締めくくった花子の説明を聞かされて、智子は感心することしきりだった。さすが六年生は違うなと、今江先生直伝の秘術を駆使するこの先輩が頼もしく感じられるのだった。

 

「ここのおばけたちも、そうやって生まれたんじゃないかなって思うの」

「そうなの?」

「ほら、出てくるのってみんな七不思議のおばけばかりでしょ? 今までウチの学校で色んな子たちが七不思議をおもしろがったり、本気で信じちゃったりしたから、それがエネルギーになってホントのことになっちゃったんじゃないかな」

「へぇー……」

 

 花子のそうした仮説には中々の説得力があると、智子はそのように感じた。この理屈でいけば、作り話に過ぎなかった「あかずの小屋の花子さん」が実際にあらわれたことにも一応ながら説明がつくように思える。新世代七不思議の第一弾として考案したあの怪談はまだごく限られた者にしか知られていなかったけど、実体化するには十分だったのかもしれない。とはいえ、それが表の世界にまで出張ってきた原因として考えられるのは──

 

(やっぱきこさん祭りのせいだな……)

 

 仲間たちの証言によれば、まだ裏幕へと連れ込まれる前から手が伸びてくる池だったり、あるはずのない防空壕だったりが校内に出現していたそうだから、自分がくだんの儀式をおこなってしまった時点で表と裏の境界があやふやになって、一部の怪異が現実世界にも出現してしまったのだろうかと智子は推測する。人間を自分たちの住みかへと引きずり込むため、それに相応しい怪談たちが裏の世界からやってきたという訳だ。

 なぜ原幕小学校にこのようなおそろしい場所が存在するのか知るよしもないが、無事にここを脱出できたら、隠れオカルトマニアの今江先生にその辺りを質問してみようと思う智子だった。

 

 ◆

 

「なにあれ……?」

 

 渡り廊下から地続きとなっているA棟二階へとやってきた智子たちであったが、そこで目にした辺りの様子に目を剥いてしまった。このフロアには二年生と六年生の教室がひとつずつ、そして一番奥には理科室があるのだけど、その理科室前の廊下には、運動場に白線を引くときの粉のようなものがそこかしこにぶちまけられていたのだ。

 

「消火器かな。あれってこういう匂いするもの」

 

 すんすんと匂いを嗅いでみせた花子が、自分なりの見解を述べる。智子にとっては嗅ぎなれない奇妙な匂いであったが、それがA棟の廊下に漂っていた。あの白い粉が匂いの発生源だとすると、花子の言うように消火器の噴射がおこなわれた形跡と考えられる。

 

「あっ見て、なんか足あとみたいなの」

「ホントだ、いっぱいあるね」

 

 廊下の奥から智子たちが立っているところまで、肉球型の足あとがいくつも伸びてきていた。その行く先を目で追ってみれば、階段のほうへと続いているようだった。靴底のあとなんかは特に見当たらなかったけれど、動物らしき存在が足の裏に消火剤を付着させたまま、この辺りを通っていったことは確かなようだ。

 

「これあれかな、『化猫党(ばけねことう)』っての」足あとの正体について早速見当をつけた智子が、花子にそうたずねる。

「うん、たぶんね」智子の言葉に花子もうなずき、「はぐれちゃった子たちが消火器で追い払ったのかも」

 

 おそらくは廊下でおばけに襲われた仲間たちが、そうやって必死の抵抗を試みたのだろう。となると、彼女らはここA棟へ来ていたと見て間違いない。もしかすると今もどこかその辺の部屋に隠れているかもしれないので、まずは手前にある二年三組の教室から調べてみる。

 

「うわっ……!」

 

 教室に近づいてみて、智子はすぐさまその異変に気づいた。まず真っ先に目についたのは、廊下に面する採光用のすりガラス窓が一箇所、派手に割れていたこと。手前の出入り口のほうも、引き戸の下半分がまるで猫の爪とぎにでも使用されたかのようにズタボロになっていた。

 

「な、なんかすごいことになってるけど」

「ひどい……」

 

 内側から鍵がかけられているのか、智子が手をかけたその戸はひらかなった。なので戸の覗き窓から花子と一緒に教室の様子を確認してみたところ、内部はしっちゃかめっちゃかになっているようだった。元々はきれいに並んでいたはずの机や椅子が派手にひっくり返ったり、押しのけられたりしていて、まるで嵐が通り過ぎたかのようだ。

 

「ね、ねぇー、誰かいるー?」

 

 教室のもう一方の戸はあけっぱなしにされていたので、そこから改めて中を覗き込んだ智子が呼びかけてみる。しかし返事はないようだ。もしかしたら散乱している机などの陰に潜んでいるのではと思い、慎重な足どりで教室へとはいっていく。

 

「いないね。理科室のほうかな?」

「う、うん、そうかも……」

 

 足もとに注意しながら荒れた教室のなかを見て回った智子と花子だったけれど、結局仲間たちはここにもいないようだった。誰かがいたような感じはするけれど、この様子だとおばけが教室のなかにまではいってきて暴れたから、慌てて逃げだしたのかもしれない。なんだか猫臭い匂いもかすかに残っていたので、辺りに広がる教室内の惨状は、さっき話題にのぼった「化猫党」のしわざかもしれないと智子は思った。

上総(かずさ)の化猫党】と呼ばれるこのおばけは、学校に住みついているとされる六匹のバケネコグループだ。古い文献にもその名を残す化猫党の噂は、どちらかといえば学校の怪談というよりも、「姉弟崎の山女」のように古くからこの地方に伝わる妖怪伝説のたぐいであった。なんでもずっと昔、上総国(かずさのくに)(現在の千葉県中部辺り)の山中にはおそろしいバケネコの集団が住んでいたそうで、道行く者を騙しては自分たちの屋敷へと誘い込み、客人としてもてなしたあとでよってたかって食い殺していたのだとか。バケネコたちは人前にあらわれる際、あっさりした顔の貴人やその侍女に化けているが、正体は人間の頭をそなえた四つ足のモノノケであり、人面犬の猫版のような風貌であったと言われる。

 そんな彼女らの頭目は「内御前(うちごぜん)」と呼ばれる立派な猫又で、他の者とちがって尾が二本に別れている。その配下には「おみや」「おかよ」「おなつ」など、五匹の元気な猫がいて、これはもともと人の家で飼われていたところを、歳を重ねるうちに言葉をしゃべったり、二本足で歩けるようになったため、恐れをなした飼い主から追い出されてしまった者たちだ。

 山女といい、この化猫党といい、こうした民間伝承のなかの存在がどういう経緯で学校の怪談として定着したのかは定かでないが、ひょっとすると当時の生徒のなかにこの手の妖怪話を好きこのむ者がいて、噂の発信源になっていたのかもしれない。

 

(なんか落ちてる……)

 

 もうここに用はないなと智子が思ったところで、教室のすみっこの席近くに、大きな白い紙が落ちていたのを見つけた。いくえにも折り目のついたそれは、漫才などで使うハリセンを思わせるものだった。

 

「待って!」

「わっ!?」

 

 妙にひかれるものを感じた智子がそれを拾いあげようとしたところ、慌てた様子の花子に止められてしまった。

 

「それあぶないよ、【白紙の書状】だから」

「うぇぇっ、これが!?」

 

 花子の言葉を受け、智子がさっと飛びのく。今しがた拾おうとした紙が、危険なシロモノであるとわかったからだ。

 

(もう誰か読んじゃってたりして……)

 

 仲間たちは一時的にこの教室へと逃げ込んでいたようだが、そのとき目についた書状をうっかり手に取ってしまった可能性がある。その危険性については事前にみんなへレクチャーしてあげてはいたものの、当の自分自身ですらうかつにさわってしまいそうになったのだから、他の者たちがやらかしてしまってもおかしくはないと智子は思った。

 この書状はなにも書かれていない全くの白紙なのであるが、紙を広げてそれを目の辺りにしてしまった者は、ある奇妙な呪いにかかってしまう。その呪いとは「なにかにつけて笑わずにはいられなくなる」という厄介なもので、一度これにかかってしまうと、じわりじわりと笑い癖がついていき、やがて四六時中ゲラゲラ、クスクスと笑い声をあげる狂人と化してしまうのだ。ごはんを食べるときもしょっちゅう吹き出してしまってマトモに喉を通らないので、寝ているとき以外は延々と笑い続ける苦しさもあいまって、呪われた者はやがて衰弱死するという。

 

(ま、呪いの解きかたは教えてあるし……大丈夫かな)

 

 この奇妙な呪いを解除するのは、実は簡単だ。笑いをもって笑いを制するとでも言うべきか、誰かが本人の前でおもしろギャグを一発披露してやれば、たちどころに笑いがおさまり、元通りになるとされているのだった。本人にとってウケないギャグの場合は効果がないらしいが、よほど笑いのハードルが高い者でもなければこのやりかたでどうにかなるだろうと、智子はそう考えている。

 

 二年三組をあとにした智子たちは、理科室の前へとやってきた。途中、六年一組の教室も一応覗いてみたけれど、ここは特に荒らされた様子はなく、人の隠れている気配もなかったから、残る理科室にて仲間たちと再会できることを願いつつ、智子はその半びらきになっていた出入り口をそっとあけ放った。

 

「おおう……ここもメチャクチャ」

 

 たっぷり噴射された消火剤のせいで雪がつもったようになっていた理科室の前だったけど、内部はもっとひどかった。暗がりのなかでもハッキリわかるぐらい、どこもかしこも粉まみれのまっしろけ。まるで消火器が爆発したかのようなありさまだった。室内には消火剤のヘンな匂いが充満していて、なかにはいるのがためらわれてしまうほどだ。こんな状態の部屋に留まることなんてできそうになかったから、ひょっとするとここも既にもぬけの殻なのかもしれない。

 

「あ、あの、これ……使う?」智子がおもむろにポケットからハンカチを取り出し、

「その、粉とか吸い込んだら体に悪そうだし……」おずおずと花子へ差しだした。

 

 こんな状態の理科室とはいえど、明らかな異変が見て取れるこの場所はちゃんと調べておかないといけない。だけども粉っぽい空気のただよう理科室では息をするたびにむせてしまいそうなので、せめてハンカチでも口にあてておけば多少はマシだろうと考えて、智子は気を利かせたのだった。

 

「でも、智子ちゃんが」

「だ、大丈夫。ほら、こうすれば」

 

 わたしも持ってるから、と言いださないあたり、花子はあいにくハンカチなどは持ちあわせていないらしい。それでも遠慮する彼女であったから、心配にはおよばないと、智子は上着のえりをグイと引き上げ顔の下半分をすっぽりおおってみせる。おなかが丸出しになってスースーするけれど、風の子・智子はこれくらい別にどうってことないのだった。

 

「あ、うん……じゃあ、ありがとう」

 

 そうした智子の心意気を見て、花子は素直に厚意を受けることにしたようだ。ともあれ口もとをおおったふたりは、雪原と化した理科室へはいっていく。

 しかし結果から言うと、ここにも仲間の姿はなかった。声をかけつつ机の下などをひとつずつ覗き込んだり、準備室のほうも確認してみたのだけど、人っ子ひとり出てこない。目についたのは、底のひしゃげた消火器が一本、床に転がっているぐらいなものだった。

 

「なんか刺さってるよ。キバみたいなん」

「なんだろうね……猫が噛んだりしたのかな?」

「でもめっちゃデカいよこのキバ。こんなのもうドラキュラとかだよ」

 

 しゃがみ込んだ智子がなんとはなしに消火器を調べていたところ、妙なことに気がついた。消火器に二本の尖った歯のようなものが深々と突き刺さっていたのだ。さてはこれもバケネコ一味のしわざではないかと口にする花子だったけれど、智子のほうはそのように考えてはいないようだ。

 

「わかった、【(むらさき)キババア】だ。そいつのキバがひっこ抜けたんだ」キバの持ち主について心当たりの浮かんだ智子がそのように言えば、

「あーそっかぁ、確かにそうかも」花子のほうも納得顔だ。しゃがんだ花子が感心したようにキバを指先でつつき、「すごいね、やっつけちゃったんだ」

「たぶんこいつをキババアの口に突っ込んだんだよ」

 

 床に転がるその状況証拠から、この場でなにが起きたのかふたりとも理解したようだ。

 ここで説明しておくと、「紫キババア」とはもちろん歴代七不思議のひとつに登場するおばけだ。キババアは大きなキバをもった紫色の老婆で、好物は子供の生き血。そのため、彼女につかまえられた者はその大きなキバを首筋に突き立てられ、全身の血を抜き取られてしまうのだという。

 怪力で足も速く、ついでに意地も悪いとされるキババアだけど、一応ながら弱点がひとつだけあった。パワーのみなもとであるその大きなキバを失うと、たちまち白い灰となって消滅してしまうのだ。要はその自慢のキバをひっこ抜いたり砕いてやればいいのだけど、キババア相手にそのような対処を試みるのはあまりに危険であったから、「きんぴら甘い」と唱えながら逃げるのが無難とされていた。

 しかし実際にキババアと出くわした仲間たちは、無謀な反撃を見事成功させたらしい。自分の大きな口に消火器を突っ込まれてしまったキババアは、力任せにそれを噛み砕いてやろうとしたのかもしれない。だけどもたちまち消火器のボンベが爆発してしまい、勢いで一対のキバが抜けてしまったのではないかと思われる。だからこそ理科室のなかが消火剤まみれになってしまったのだろう。

 

(ホント、どこもかしこもヤバいのだらけっていうか……)

 

 ひとりぼっちの智子がおばけたちに苦しめられていたころ、仲間のほうでも色々あったらしい。右に行こうが左に行こうが高い確率で怪異に出くわしてしまうこの裏幕であったから、ある程度の予備知識があったとしても安全無事という訳にはいかないようだ。歴代七不思議のなかには場所を選ばずあらわれるような神出鬼没のおばけも多数存在していたから、ひとところに隠れていてもいつなんどき襲われるかわからない。だからどうにかなってしまう前に早くみんなと合流して、花子の言う「儀式」をおこなわねばと、智子は改めて危機感を募らせる。

 *

「あ、やっぱり……」

 

 あけ放った非常口から外を覗き込んだ花子が、すぐさまなにかを見つけたように声をあげた。

 

「智子ちゃん、ほら見て」

「……あっ!」

「あれ、みんなの足あとじゃないかな?」

 

 花子に手招きされて非常口から顔を出した智子は、コンクリートの地面につけられていた「痕跡」を目にする。三階へと続くその屋外階段には、数人分の靴あとらしきものが残されているようだった。

 

「行ってみる? 上のほう」

「う、うん」

 

 花子がそうたずねるので、靴あとの続く先を見やっていた智子はふたつ返事で同意した。

 バケネコたちに消火剤をたっぷりおみまいし、おそらくはキババアにも似たようなことをしたかもしれない仲間たちであったから、その騒動のなかで多少なりとも各自の靴底には消火剤がついていたはずだ。そんな彼女らが理科室を出たあと、すぐそばにあるこの非常口を通って上の階にのぼっていったのだとすれば、このような痕跡が残されていてもおかしくはない。

 なんだか段々と仲間たちに近づいてきたような感じがしたので、もうじき再会できるのではないかという期待が智子のなかで膨らんでくる。ともあれ早速行ってみようと、外に出た智子たちは非常階段をあがっていった。

 

「キュウ、キュウ、キュゥ~ン……」

 

 智子たちが三階の非常口前に到達したあたりで、ふいに下のほうから甲高い鳴き声のようなものが響いてきた。一体なにごとかと階下を見やった智子が身構えていたところ、ズリズリと重たいものの這うような音が下の階から近づいてくるのを耳にする。

 

「ね、ねえっ、なな、なんか来るよ!」

「はいって! 早く!」

 

 おびえた様子の智子が、ひきつった声で花子にうったえる。何者かの接近に気づいたのは花子も同じであったから、急ぎ非常口をあけた彼女はそのなかへと智子をひっぱりこんだ。

 

「ぅおうっ!?」

 

 扉が閉じられた途端、その「なにか」が飛びかかってきた。大きなものが扉にドシンとぶつかってきたので、たまらず悲鳴をあげる智子。

 

「クォン! クォン!」

 

 続いてその何者かが扉の小窓越しにぬっと顔を見せ、棟のなかにいる智子たちへ向かって吠えてきた。といって歯を剥き出しにしてくる感じでもなく、目をショボショボさせたそれはどこか切なそうな表情で、口をとがらせて鳴いているようだった。

 

(なんだよコイツ、びっくりさせやがって……!)

 

 どうも扉を破ってくる気配はなさそうだったので、少しばかり落ち着いてきた智子は改めて目の前の存在を観察する。くりくりのつぶらな瞳、ツンと伸びた細い鼻づら、先端が黒くなっている耳に、ふわふわのまっしろな体毛。窓の先にいるそれは犬かキツネのような顔つきの動物であり、ヤンキー娘であればきっと気に入るのではないかという愛嬌のある見た目をしていた。

 なかへ入れてほしそうに鼻をクンクン鳴らすその動物だったが、万が一にもドアノブをひねる知恵を持っていたらおそろしいので、智子は非常口の鍵をしめてやる。そうしたら、扉をあけてもらえると勘違いしたらしいキツネ(いぬ)が目を丸くして鼻先をペロリとなめるのだけど、結局望み通りにならなかったのでキャフゥン!とひと吠えした。

 

「黒木さん! 黒木さん!」

 

 すぐそばで誰かから名前を呼ばれたので、はっとなった智子がそちらを振り返る。するとちょうど智子たちが立っている場所の手前にある部屋のなかから、仲間のひとりである真子が出入り口の小窓より顔を覗かせているのが見えた。

 

「あ、いたみたい……」

「うん、よかったね」

 

 遠慮がちに真子へと手を振る智子は、ほっと胸をなでおろした。探していた仲間がついに見つかったのだ。花子のほうも安心した様子で、愛想よく真子に手を振ってみせた。

 

「このひと花子さん。六年生なんだって」

「あ、田中です……」

 

 はじめて見かける花子に戸惑ったような顔をしていた真子であったが、智子から紹介されたので、自己紹介を沿えて軽く一礼する。

 

「あのね黒木さん、ここ、全然あかなくなっちゃったの」

「そ、そうなの?」

 

 戸に両手を張りつかせた真子が、そのようなことをうったえてきた。試しに智子が出入り口の戸を引いてみたところ、ガタガタと揺れるばかりであきそうになかったが、真子が言うには鍵などかかっていないという。

 

(ははぁ……出たんだな、「U先生」が)

 

 真子が今いる場所は、A棟三階にある音楽室だ。ここには人間を部屋に閉じ込めてしまう幽霊が居座っているはずなので、足を踏み入れるのなら前もって対処法を心得ておく必要があるのだけど、智子の知識によればそれほど難儀な相手でもないはずだった。

 

「ちゃ、ちゃんと歌えばいいだけだよ。それで出られるから」

「そうなんだけど、でもゆりがおかしくなっちゃって……」

 

 なにを手こずっているのかと、智子が改めてその対処法を教えてやるのだが、真子のほうは困った様子でいるようだ。

 

「ふっ……! ふふっ、ふふふっ……!」

 

 音楽室から突然含み笑いのようなものが聞こえてきたので、智子が小窓越しに声のしたほうを見やってみれば、室内に並べられたピアノ兼用机に誰かが座っているようだった。顔を伏せているが、服装や髪型からそれがゆりであることは智子にもすぐわかった。

 

「なんかね、笑いが止まらないんだって。だからちゃんと歌えなくて」

「あー……」

 

 その説明だけで、智子はおおよその事情を察した。要するに例の「白紙の書状」をゆりが読んでしまったため、その影響で音楽室にいる幽霊から課せられる課題をクリアできず閉じ込められたままでいるのだ。

 

「なんかおもしろいことしてあげたら? それで治るから」

「それがダメなの。やってみたんだけど、なにしても笑っちゃうみたいで……」

 

 おもしろい芸を披露して、相手が笑ってくれる。本来ならギャグがウケて結構なのであるが、今この状況においては逆でなければならなかった。智子から前もってその辺りを教わっていた真子は、一応ながら呪いの解除を試みたらしい。しかし結果はよろしくなかったようで、真子が言うには自分のやることなすこと全てが今のゆりをひたすら笑わせてしまうだけだったようだ。

 あまりにゆりが笑い過ぎてかわいそうになったので、彼女を休ませてあげたい真子はそれきり呪いの解除を諦めてしまったらしい。といってゆりの症状が収まった訳ではなく、なにもしなくてもひとりでに笑いがこみあげてくるので、ああして顔を伏せたまま必死にこらえ続けているのだという。

 

(それ、真子さんのギャグがつまんないだけじゃ……)

 

 ゆりにとっておもしろいと感じられるほどのギャグセンスが、残念ながら真子にはそなわっていなかった。だから呪いを解除できず、今もゆりはあのままなのだ。そう考えた智子は、とびきりのおもしろネタをやってあげるからと、ゆりを連れてくるよう真子に頼んだ。親友のゆうちゃんをいつも笑わせてあげていた自分のギャグセンスなら、たちどころにゆりを治してやれるだろうと思ってのことだ。

 

(ヤンキーいないな……)

 

 改めて音楽室のなかを確認してみた智子であったが、ヤンキー娘の姿が見当たらないことに気づいた。さっきから真子と話しているというのに、彼女だけが姿を見せもしない。てっきり三人一緒に行動しているものとばかり思っていた智子だったけれど、ひょっとしたらヤンキー娘だけ違うところへ行ってしまったのかもしれない。

 

「真子ちゃんと、ゆりちゃんだね。もうひとりの子は?」

「あっ、な、なんかいないみたい」

 

 実際のところは真子に確認してみないとなんとも言えないが、花子からたずねられた智子はひとまず自分の思ったままを口にする。しかし推測通りヤンキー娘が単独行動をしているのだとしたら、面倒なことになりそうだと思った。

 もしかするとさっきの変な動物に食べられてしまったのでは。そのような不安のよぎる智子が非常口を振り返るのだけど、そこにはもう例のキツネ犬の姿はなかった。諦めて去ってしまったようだが、まだ階段のどこかに潜んでいるのかもしれない。そもそもあれは一体なんという名のおばけなのだろうと考えはじめたところで、真子に支えられたゆりがよろよろとした足どりでやってきた。

 

「ほらゆり、黒木さんがね、今からおもしろいことしてくれるって」

「……」

 

 顔を両手でおおったままのゆりは無言だった。だけども白い粉でよごれたその肩を小さく震わせているようなので、どうにか笑いをこらえている最中なのかもしれない。

 

「あーいいよいいよ、そのままで聞いてくれたらいいから」

 

 聞くだけでおもしろいとっておきの一発芸があるから、目を閉じていたって問題ない。という訳で早速ゆりの笑いのツボを刺激せんとする智子は、「でっかいおなら」と言ってから、自分の腕を口もとにくっつけた。

 

 ぷぷぅー

 

 智子がそのままプッと息を吹けば、間の抜けた音が辺りに響く。これぞ智子の持ちギャグ、おならの真似だ。去年の林間学校でクラスメイトに披露してやった際は、ゆうちゃんを含めておおいにウケたものだった。

 

「ふふふ、なにそれー?」花子が口もとに手をやり、クスクスと笑う。

「もー、黒木さん」扉の向こうの真子も、苦笑混じりに歯を見せる。

 

 狙い通りこのギャグは多少なりともウケたようであったから、智子はちょっぴり気分がよくなる。さて肝心のゆりはと言うと──

 

「ブふふふふふふ……! ブはっ……! ブほぉっ……!」

「ありゃー、ダメか……」

 

 バカウケであった。いや、ウケなかったようだ。今のゆりが笑っているのは、つまり彼女にとっておもしろくなかったということである。顔をおおっているため表情はうかがい知れないが、体をガタガタ震わせるゆりの様子からして、その心のなかでは偽りの笑いの衝動が渦巻いているのだろう。

 

「今の、おもしろかったと思うけど……」気の毒そうな顔をした花子が、はぁはぁと呼吸を乱すゆりを気づかわしげに見る。

「じゃ、じゃあ次のやつ!」

 

 なんだかかわいそうなので、智子のほうも早くゆりの呪いを解いてあげたくなってしまう。だから披露するつもりのなかった禁断のネタを特別に見せてあげることにした。

 

「あっゴメン、真子さんと花子さんと、ちょっとだけうしろ向いててくれる?」こっち見ちゃダメだからねとふたりに念を押した上で、

「あ、ゆ、ゆりさん……わたしの顔、ちょっと見てほしいんだけど……」智子がゆりに向かって話しかける。

 

 すると指を少しだけひらいたゆりが隙間から智子のことをじっと見つめてきたので、それを見逃さない智子がすぐさま表情筋へと力を込めた。

 

(どうだっ! これでウケなかったら、もう知らないぞ!)

 

 智子がその顔芸を見せてやったのは、ほんの数秒だけだった。それ以上はとてもではないが続けられなかった。表情をぐにゃぐにゃに歪め、まるで別人のようなものすごい顔つきになれる智子だったけれど、それはひとりの女の子として本来人前にさらしていいようなものではなかったから、すぐさま羞恥心の限界が来たのであった。

 だけどもさすがにこれなら効果てきめん。にらめっこなんかで使ってやれば必勝の手に違いない。そのように思う智子は、これでゆりの笑い癖が消えてくれるだろうと踏んでいたが──

 

「うおっ!?」

 

 なにを思ったのか、ゆりがいきなり拳を振りあげ、それを目の前の戸に向かって力任せに叩きつけてきた。仰天した智子が思わず叫んでしまうが、うしろを向いていた真子や花子もびっくりした様子で振り返った。

 

「~~~~ッ!」

 

 片手で顔をおおうゆりが声にならない声をあげつつ、もう片方の手で戸をドンドンドンと何度も激しくノックする。突然のことに心臓が縮みあがった智子だったけれど、手で隠しきれていないゆりの顔には満面の笑みが浮かんでいたので、どうやらまた大笑いしているだけなのを見て取る。

 

(どんだけハードル高いんだコイツ……!)

 

 禁断のネタまで見せてあげたというのに、それでもゆりの心には届かなかったようだ。一体どうすれば彼女を真に笑わせることができるのだろうと、智子はほとほと困ってしまった。

 

「やめて……もう、笑わせないで……」

 

 戸によりかかり、ぜいぜい、ひゅうひゅうと荒い呼吸を繰り返すゆりがそのようにうったえる。片手でおおわれたままの顔は真っ赤で、よく見れば目に涙を浮かべているようだ。

 

「ゆり苦しそう……」

 

 そんな友達の様子を心底あわれんでいる様子の真子はすっかり涙声であった。いまや見ているのも辛いゆりの状態であったから、代われるものなら代わってあげたいと、そのような思いにかられているのかもしれない。

 

「あ、真子さん」ゆりの背中をさすってあげていた真子に智子が声をかけ、

「あの、その子が好きそうなマンガとかって知ってる?」このような質問をする。

「マンガ?」

「ほらあの、そういうのわかってたほうが、なんか役に立つかもって……」

 

 ゆりの好みをある程度理解した上で、それに見合ったギャグを考えてやる。そうすれば、ゆりに本当の笑いを与えてやれるかもしれない。

 

「す、好きなゲームとか、アニメとかでもいいんだけど、知ってたら教えてほしいなって」

「えーと……」

 

 手がかりはできるだけ多いほうがいい。だからマンガに限らず、ゆりの興味がありそうなものを知っている限り教えてくれと、智子がそう頼む。

 

「ゆり、どう? なにかあったら、黒木さんに教えてあげて」

「……」

 

 だけども真子は自分なりに答えようとせず、困った様子でゆりに話を振った。しかしそれに反応してやる余裕がないのか、そっぽを向いたゆりはまた両手で顔をおおって、無言のまま肩を震わせるばかりだった。

 

「ごめんね。ゆりってマンガとかそういうの、あんまり興味なさそうだから……」

 

 真子の代弁によれば、どうもそういうことらしい。聞けばゆりは普段からその手の話をほとんどしないそうで、もっぱら音楽だったり、映画やテレビのバラエティ番組なんかが主な話題なのだとか。

 

(ここにパソコンがあればなぁ……)

 

 そうしたら、ネット上にあるおもしろいものをいくらでも見せてあげられるのに。通信回線がしかれているはずもない裏幕ではあったけれど、それを承知で智子はこのように現実逃避じみた考えを巡らせる。学校のパソコン室に入り浸りがちな智子は、そこで笑いを誘うようなコンテンツを探すのが趣味だったのだけど、お気に入りの厳選ネタをゆりに見せてやることができれば、さすがに彼女もおとなしくなるはずだと思った。

 ポケットに入れて持ち歩けるほどの小さいパソコンがあれば、きっとどこにいても楽しい。携帯電話でもインターネットを利用することはできるけれど、パソコンと比べればその使い勝手や、得られる情報の豊かさは段違いだ。だからパソコン並に便利な携帯電話があれば大ヒット間違いなしで、そんなものが発売されたら自分だって親にねだり倒してでも買ってもらいたいぐらいだ。──などとないものねだりをしても仕方がないので、智子はため息をつくしかなかった。

 

「ど、どうしよっか、これ」もはや自分だけでは手の施しようがないと思った智子は、隣の花子に意見を求める。

「えっと……あ、じゃあくすぐってあげたりとか。こしょこしょって」花子のほうもうまい解決策を思いつかないのか、微妙にズレた提案をするが、

「あの、それはさっきやってみたんですけど……」会話にはいってきた真子から「ダメでした」と結果を知らされるのだった。

 

 神さま、仏さま、マリアさま。笑いの死神に取りつかれた哀れな少女を救いたまえ。もはや智子たちにできるのは、天に祈ることぐらい。ひょっとしたらそのうちギャグの神さまが、祈りに応えて彼女らに素晴らしいひらめきを授けてくれるかもしれない。

 

「あっ……」みんなしてうんうんうなっていたところ、ふいに真子が小さく声をあげた。「ねぇゆり、覚えてる? (みなみ)さんちでクリスマスやったときの」

 

 なにかを思いだしたらしい真子が、ゆりの背に語りかけていく。「南さん」なる人物は、ふたりの共通の友達かなにかだろうか。

 

「ほら、シャンパンのフタが当たったから、南さん痛がってたでしょ? あのときゆり、ちょっと笑ってたよね」

「……笑って、ないよ」

 

 ふたりにしかわからない思い出話を続けていく真子に、ゆりがぎこちないながらも返事をする。

 

「えー、ゆり笑ってたよ。わたしちゃんと見てたもん」

「知らない……忘れた……」

 

 あくまでシラを切るゆりであったが、真子の話が本当であれば、ゆりの笑いを誘うような出来事が過去にあったらしい。このゆりがちょっとしたハプニング程度のことで笑ってしまったのは、ひょっとすると彼女にとって南さんが中々に特異な存在だったからなのかもしれない。

 ゆりに南さんは「効く」。もしそうだとしたら、これはゆりを救うための突破口となるのでは。そのように考えたからか、ゆりの前へと回り込んだ真子が「ちょっと見ててね」と前置きする。

 

「う、ウケルー、ウケルー」作り声で突然妙なことを口走った真子が、

「南さんの真似……」照れた様子でゆりの顔をうかがう。すると、

「ふふっ」ゆりが体をぶるりと震わせて、手のすきまから笑い声を漏らした。

 

 真子の狙い通り、南さんのモノマネがウケた──のではなく、当然ながらこの反応はアウトだ。そのことを真子もわかっているので、めげずに続けていく。まこっちまこっちー。おなかすいたー。やばいんだけどー。マジうざーい。マジきもーい。チョーねむーい。あははー。ふふふー。イーヒッヒッ。思いつく限りのモノマネ芸を、真子は手あたり次第に披露していくのだった。

 

(あー、南ってアイツかぁ……)

 

 それをガラス越しに見ていた智子にも、真子が誰の真似をしているのかが段々とわかってきた。自分のクラスにひとり、なんとなく思い当たる女子がいたからだ。今の今まで名前も知らなかったこのクラスメイトに、智子はまるでよい印象がなかった。それも仕方のないことで、この南さんは陰でときおり智子を馬鹿にするような子だったからだ。トイレでおしゃべりしていた彼女とその取り巻きが、自分への悪口で盛りあがっていたのを智子は聞いてしまったことがある。階段で転んで痛い思いをしたときだって、その場に居合わせた彼女は心配するどころか物笑いの種にしていた。だから担任の荻野先生ほどではないにしても、南さんは智子の学校生活において少なからずストレスを感じさせられる相手と言えた。

 誰かの悪口を言うとき、このクラスメイトは本当に楽しそうな顔をするのだけど、へらへらとあけ広げたその口からは立派な八重歯がちらりと見えたりする。だから智子は心のなかで、彼女のことを「キバ子」などと呼んでやっていたものだ。

 

「ふふっ、ふっ、ふふふっ……!」

「ダメ……もうどうしたらいいの……」

 

 努力もむなしく含み笑いのおさまらないゆりであったから、真子がとうとうくじけてしまったようだ。ひとりモノマネ劇場はおひらきとなり、あとにはどっと気疲れした様子の女の子だけが残された。

 

「あ、あのさ、ちょっといい?」

 

 と、そこで智子が覗き窓をコツコツと叩き、ゆりと真子に呼びかける。

 

「そ、その南さんってさ、あれだよね、こう、キバみたいなんが生えてる」ニカッと歯を見せた智子が、その口もとに自分の指で作ったキバを添えてみせる。

「あ、うん……」智子の質問にコクリとうなずいたのは、真子。

「あの子、なんかに似てない?」

「え?」

「ほら、理科室にでっかいキバのやつ、いたでしょ?」

 

 智子が言っているのは、理科室にてその残骸を残すのみとなっていた紫キババアのことだ。そうしてにへらと笑った智子が、続けてこう言った。

 

「あれ、実は南さんだったりして」

 

 智子が言い終えてから少しして、ゆりが突然その場に倒れた。

 

「ちょ、ゆり!?」しゃがみ込んだ真子が血相を変えてゆりの具合を確かめるが、

「……」体を横たえていたゆりがやがて顔をあげた。

「どうしたの? 大丈夫?」笑い過ぎたせいでついに体がどうにかなってしまったのかと、真子が心配そうに顔を覗き込む。

「うん、ちょっとふらついただけ」だけどもゆりはなんでもないように体を起こすと、

「……治ったかも」とつぶやくのだった。

 

 ◆

 

「あの、じゃあお願いします」

 

 ゆりと並んで教壇に立った真子が、部屋の隅にあるグランドピアノへ向かって声をかける。ピアノの前には誰も座っていなかったが、それでも彼女はそこに何者かがいることを知っているようだ。

 すると真子の言葉が合図になったのか、ピアノがひとりでにメロディーを奏でていく。そうして前奏が終わったところで、譜面台に向き合う歌い手たちが二重唱を開始した。

 

「きーよーしー、こーのよーるー……」

 

 すっかり落ち着きを取り戻したゆりは調子を外すこともなく、相方と息を合わせて歌いあげていく。

 いまふたりが歌っているのは〈きよしこの夜〉という有名なクリスマス・キャロル(キリスト教に関係する讃美歌のひとつ)で、昔は音楽の教科書に載っていたこともある。そうした曲を、ゆりと真子は手慣れた様子でよどみなく歌い上げていくのだが、とりわけ真子の歌い方は堂に入っており、さながら聖歌隊の一員がごとき清らかなソプラノを響かせていた。

 

(おおー、あれが……)

 

 扉の向こうの音楽会を見守っていた智子であったが、やがてその視線がピアノの前へと引きつけられる。さっきから曲を演奏していた何者かがふいに姿をあらわしたからだ。最初のうちは半透明だったその体が、徐々にやわらかな光を帯びて姿かたちをハッキリさせていく。

 ピアノの演奏者は、若い女の人だった。今江先生と同じぐらいの年頃に見えるその女性は、この場所に出没するとされている幽霊、【音楽室のU先生】だ。ふんわりしたショートボブの髪型で、頭にクリーム色のベレー帽を被るこの幽霊は、かつて原幕小で音楽の授業を担当していた先生であると言われている。「フーセン太郎」や「家庭科室の魔女」などと同じ時期の七不思議として学校に定着した彼女の噂は、かいつまんで話すと次のようなものだ。

 クリスマスの時期が近くなると、放課後に誰もいないはずの音楽室からピアノの演奏が聴こえてくる。気になってなかを覗いてみても、誰ひとりいない。不思議に思って音楽室へと足を踏み入れると、今度はどこからともなく「ねえ、歌って」と女の人の声がする。声の主は〈きよしこの夜〉を歌ってほしいとお願いしてくるのだけど、言う通りにしない場合は音楽室から出してもらえなくなり、途中で歌詞を間違えたりすると「だめ、もう一回」と言われて何度でもやり直させられてしまうのだという。

 

「メリー・クリスマス!」

 

 ミスをすることもなく、ゆりと真子が最後まで無事に歌いきったところで演奏も終わる。そうしたら、U先生がパチパチパチと拍手しながら嬉しそうに声をあげた。

 

(あっ……!)

 

 どうやら課題はクリアできたようだと智子が安心したところで、U先生が出入り口のほうを振り向き手を振ってきた。突然のことにドキリとした智子だったけれど、それに応じてあげなくてはと思い、同じように手を振り返してやる。するとU先生は人懐っこい笑みを浮かべ、やがてスゥと消えていった。

 

(悪いおばけとかじゃないのかな……?)

 

 子供を音楽室に閉じ込めてしまう性質を持ったU先生だけど、実際に目にしてみた限りはこれといって悪意を感じなかった。むしろ今江先生にも通じるやわらかい雰囲気があり、見ているとなぜだかほっとさせられるものがあったので、智子は気づかぬうちに彼女から目を離せなくなっていた。おっぱいが大きかったのも見逃せない点だったようだ。

 U先生の怪談のモデルとなった人物が本当にいたのかどうかは、活動記録にも書かれていなかったので智子にはわからない。だけどもあんな先生が今の原幕小にいたら、音楽の授業ぐらいは楽しかったかもしれないと、ぼんやり思うのだった。

 *

「あっほら、あくようになってるよ」

 

 出入り口に駆け寄ってきた真子が、戸に手をかけてそれを引く。すると抵抗もなくカラリとあけ放たれたので、真子がほっとしたようにうしろのゆりへ呼びかける。

 

「黒木さん、さっきはありがとう」

「え? あ、あー、うん」

 

 廊下に出た真子が、智子へ声をかけてきた。これはさっき智子がゆりの呪いを解いてやったことへのお礼のようだ。

 

「すごいね。わたしがやっても全然ダメだったのに」

「あ、いやまあ、真子さんのモノマネがヒントになったっていうか……」謙遜する智子が、少し照れたように頭へ手をやる。

「ふっ……! ふふっ、ふふふっ……!」すると真子に続いてやってきたゆりが、顔をそむけて含み笑いをはじめた。

「えっ!?」もしや笑い癖が再発したのではと、ゆりのそうした様子にギョッとする真子。

 

 だけどもゆりが笑っていたのは少しのあいだだけで、やがて落ち着いた彼女はすぅと息を吸うと、「大丈夫だから」と言ってみせた。ひょっとすると、呪いを解く決め手となった智子のギャグを思いだしたのかもしれない。

 

「あ、あのさ、ヤン……ょ、吉田さんは?」いまだ姿を見せぬ仲間のひとりについて気になっていた智子が、ゆりと真子にたずねる。

「あ、それがね……」すると様子を変えた真子が事情を語りはじめた。

 

 それによれば、ヤンキー娘とは途中ではぐれてしまったそうだ。というのも、例のあの人におどろきC棟の二階へと逃げていった三人は、そのあと別のおばけに出くわしたからだ。

 

「ヘンな猫がね、何匹も追いかけてきたの。だからわたしたち、こっちのほうに逃げてきたんだけど……」

 

 だけどもその際、どういう訳かヤンキー娘だけはついてこず、なにかへ引き寄せられるようにC棟の奥に向かってふらふら歩いていったのだとか。

 

(ヤンキーいなかったけど……)

 

 智子があとになってから調べた限りでは、C棟二階の教室にヤンキー娘の姿はなかった。まだ確認していなかったD棟二階の部屋に隠れていたことも考えられるのだが、智子としてはその可能性は低いだろうと思った。自分がきこさんに連れ回されていた際、廊下中に響き渡るほどの声で何度も助けを求めていたにもかかわらず、まるで反応してくれなかったではないかというのがその根拠だ。となると──

 

(三階に行ったのかな?)

 

 C棟の西側と南側のちょうど中間となる場所には、智子たちがのぼってきたのとはまた別の階段が存在していた。C棟は南側のほうにだけ三階が存在しているのだけど、ここへはくだんの階段からでないと行けない構造になっている。例の神社のせいで一階側の一部が大きく変異していた影響で、この階段は下へとおりる部分がコンクリートで埋められていたのを智子は目の当たりにしていたから、ヤンキー娘が行くとすれば上のほうだけということになる。

 そこまで考えたところで、智子は廊下の窓から見えるC棟のほうへとなにげなく目をやった。

 

「ん……?」

 

 誰か、いる。視線を向けた先、遠くC棟西側の屋上に、何者かがいる。そこは園芸委員の子たちによってたくさんの植物が育てられている場所で、屋上ガーデンと呼ばれているのだけど、遠いながらも人の姿があることに智子は気づいた。

 

「あっ、ねえ、あ、あれ、吉田さんじゃ……!?」

 

 もしかするとあのヤンキー娘かもしれない。慌てた智子が仲間たちにそのことを教えてやれば、みんなも智子の示した先に注目した。

 

「あっ、ホントだ! たぶん吉田さんだよ」服装からして、おそらくはヤンキー娘なのであろうと見た真子がそのように言い、

「吉田さ──ん!!」窓をガラリとあけて大きな声で呼びかける。

 

 だけどいくら真子が呼びかけても、遠くのヤンキー娘はまるっきり無視している。彼女はあらぬ方向を向いたまま、体をゆらゆら揺らして手拍子を打っているようだ。

 

「おぉーい、ヤーンキィ~~!」

 

 聞こえていないのかなと思った智子が、これみよがしにアダ名のほうで呼んでやる。だけどもやっぱり反応はなかったので、これはいよいよヤンキー娘の様子がおかしいと思えてきた。

 

「早く行ってあげたほうがいいんじゃない?」智子たちのうしろに控えるゆりがそのように言い、「黒木さん言ってたでしょ? あそこにもなにかいるって」

「あっうん、ど、どうだろ……」

 

 確かにそのような話もゆりたちにしてあげた智子ではあったけれど、正直なところなんとも言えなかった。見たところ屋上ガーデンにはヤンキー娘ひとりの姿があるだけで、他には誰もいなかったからだ。そのヤンキー娘自身もこれといって逃げまどう様子はなく、むしろあの場所に腰を落ちつかせて楽しそうにしている感じだった。一体なにをしているのだろう、どうしてこちらに気づかないのだろうと、そうした疑問が智子のなかに浮かぶ。

 

「と、とりあえずあそこ行ってみよっか?」

 

 C棟のほうを指さす智子が、みんなにそう提案する。この言葉に異存のある者はひとりもいなかったようで、みな一様にうなずいてみせた。

 

(非常階段はあのヘンなのがまだいるかもだし、二階は渡り廊下がふさがってるから……)

 

 であるならば、ひとまず一階のほうから棟の外へ出るしかない。そのあとはもう他の棟のなかへも足を踏み入れないほうが無難だろうと考えた智子は、まずご神木のある中庭にたどりつくことを目標とする。そうすれば、そのすぐそばにある非常階段をのぼって屋上ガーデンへと直接行けるからだ。

 

(よーし、行くか……!)

 

 頭のなかで一応のルートを組み立てた智子が、先陣を切って歩きだす。そのうしろにまずゆりが続き、それから真子と、そして最後に花子がついていけば、廊下を突き進むキレイな行列ができた。

 おばけだらけの横断歩道も、こうしてみんなで渡ればきっと怖くない。「きこさんを帰す儀式」とやらをおこなえば、みんなでここを脱出できる。だからヤンキー娘もちゃんと連れて帰ってあげなくっちゃいけない。どこもかしこも危険だらけな裏幕であるからして、屋上ガーデンへの道のりも楽なものではないはずだけど、それでも迎えにいってやらねばと、再びリーダー気分の戻ってきた智子は決意を固めるのだった。




つづく


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【ホラー】原幕小の七不思議(7)

黒木智子となかまたち(後篇)

「あ……だ、大丈夫だよ」

 

 階段の踊り場から顔を覗かせていたゆりと真子に向け、智子がそっと呼びかけ手招きをした。それを受け、ふたりが階段をおりてくる。

 

「ゆり、ほらあれ!」

「あー、うん……」

 

 途端、なにかに気づいた真子がおどろいた様子で廊下の窓を指さした。言われてそちらを見やるゆりも少しばかり面食らっているようだ。彼女らが注目したもの、それは窓の先に見える一軒の家だ。元々は緑のカーテンを栽培するためのつる棚があったはずの場所に、こぢんまりとした木造の平屋が建っていたのだった。その古風なかやぶき屋根はアサガオやヘチマでおおわれていて、どこか鬱蒼(うっそう)とした雰囲気を放っている。

 

「なんなのあれ?」事情通としての見解を求めてか、ゆりが智子にそうたずねると、

「な、なんかバケネコの家らしいよ」人づてに聞いたような物言いで答える智子。

 

 智子の口から出た言葉に、かたわらで聞いていた真子が「うそっ!?」と顔を青くする。人食い猫の集団に襲われたりもした彼女であったから、そのすみかが目の前にあると知っては平気でいられないようだ。

 

「しーっ」

 

 すると棟の出口から外の様子をうかがっていた花子が、人差し指を立てつつ会話に割ってはいる。

 

「ごめんね、ちょっとだけ静かに……ね?」声をひそめる花子が、おしゃべりをやめるようみんなに言い聞かせた。

「そ、そうそう……ほら、猫に聞かれるかもだし」智子もそれに同調し、ひそひそ声で注意をうながす。

 

 先に一階へおりて周囲を偵察していた智子と花子は、姿を見せないくだんのバケネコたちがまだ近くにいるのではと警戒していた。これからA棟を出ていくにあたっては、襲撃者に気取られないよう隠密行動が求められる。だからおしゃべり禁止で、なるべく足音も立てないようにして、こっそり目的地へ向かわないといけない。そこの辺りをゆりと真子も理解したのか、ふたりは口をつぐんでうなずいた。

 そうして一行は慎重な足どりで外に出ていく。辺りはしんと静まり返っていて、小さな物音ひとつでも響いてしまいそうだったから、智子としてはひやひやして仕方がない。

 

(あんなかにいたりして……)

 

 すぐそばのバケネコ屋敷に目を向ける智子が、ふとそんなことを考える。屋敷の縁側に並ぶ障子戸からはうっすらと光がもれていたので、ひょっとするとバケネコたちがあの家のなかでくつろいでいるのかもしれない。うっかりくしゃみでもすればたちまち障子をやぶって飛び出してくるのではないかと、いまだ見ぬ妖怪を警戒する智子はつばを飲みこむ音にすら気を使う。

 

(ヘビでも持ってくればよかったなぁ)

 

 もし出くわしてしまったとしても、それがあればなんとかなるかもしれない。なんでも化猫党はヘビの類をひどく恐れるとされていたので、上総国の人々は山を越える際のお守りとして、その辺でつかまえたヘビをカゴにいれて持ち歩くこともあったという。そんなものがここ裏幕にあるのかといえば、これが一応はあるのだった。理科準備室にはホルマリン漬けの生物標本がいくつか保管されているのだけど、このうちのひとつにヘビの標本があることを智子は知っていた。

 

(ま、いっか)

 

 念のため取りに戻ってもいいのだけど、ひょっとしたら薬液に浸されてぐったりしたヘビではバケネコたちをひるませるほどの効果はないのかもしれない。とりあえずこのまま連中に気取られなければ大丈夫だろうと思い直した智子は、やがて屋敷の前を通り過ぎていく。

 

「ひっ!」

「あたっ!?」

 

 一行のなかからだしぬけに悲鳴があがった。と同時に、智子の前を行く誰かがうしろへ飛びのいたので、智子はその背にどんとぶつかってしまう。背中の主は真子だった。

 

「あ……ああ……」

 

 しかしぶつかったことを謝るでもなく、真子はただなにかにうろたえている。他の仲間たちも息を呑んでいるようであり、ただならぬ様子であることが智子にもすぐわかった。

 

(うわっ!)

 

 みんながなにに対しておどろいているのか確認しようと、前方を覗き見た智子は思わず声をあげそうになった。一行が歩みを進めていた渡り廊下の先で、旧校舎の物陰から何者かが顔を覗かせていたからだ。それはひょっとすると例のあの人か、あるいは自力で移動してきたマリア像か、はたまた智子たちを連れ戻しにやってきたプロゲーマーなのか。

 

(なんだあいつ……?)

 

 そのどれでもなかった。物陰から顔だけ出していたのは、はじめて見かける女の子だった。ポニーテールスタイルのその子はメガネをかけていて、にったりとしたまなざしを智子たちに向けている。ただそれだけのことでも警戒するには十分であったが、なにより奇異に映ったのは顔を出す位置だ。それはおよそ人間が普通に立っているとは思えないぐらい低い位置にあり、よつんばいになった状態で首だけ伸ばせばあのようになるのではないかと思わせるものであった。

 

「あ、あれ、バケ、バケっ……!」

 

 声を絞りだそうとする真子が、震える指先を女の子へと突きつける。その様子からすると、どうも彼女にとっては見覚えのある相手だったのかもしれない。

 

「バケネコだよぉっ!」

「ミャーオ」

 

 かすれた悲鳴で真子がその正体を口にしたところ、それを待っていたかのように女の子が()()()をあげ、「ご紹介どうも」と言わんばかりにひょっこり歩み出る。

 

(うわーっ、ホントに人面猫……!)

 

 かつて猫缶持参で探し回ったりもしたその妖怪を、智子はついに目撃した。手足も太く、猫にしてはやけに大きいその体つきは、むしろ動物園にいるようなネコ科の肉食動物に近い。が、頭部はどう見ても人間であり、はなはだアンバランスなその組み合わせは、もと人面犬の智子をしても不安をかきたてられるものがあった。

 ぶるるっ、とバケネコが頭を振れば、髪に埋もれていた猫特有の三角耳がピンと立つ。

 

「慌てないで……みんな、そのままさがって……」

 

 仲間たちをかばうように進み出た花子が、そのように指示する。運悪く遭遇してしまったバケネコであったが、すぐに飛びかかってくる気配はないようだったので、花子はひとまず距離を取ろうと考えたらしい。そうしてゆっくりと後退していく一行が屋敷の手前辺りまで戻ってきたところで、背後に気配を感じた智子がうしろを振り返る。

 

「ね、ねぇっ、あれ、あれ!」

 

 途端、智子が取り乱した。もはや隠密行動なんてどうでもよくなったのか、声を張りあげなにごとかをうったえる。

 

(なんか増えてるー!?)

 

 いつのまにあらわれたのか、A棟の入り口手前に新手のバケネコが陣取っていた。首から上は髪の長い素朴な顔立ちの女の子であったが、体のほうは茶トラ柄の毛皮におおわれていたので、これもやはり化猫党の一味に違いないと智子はおののく。

 

「ンミャッ」

 

 あいさつのつもりなのか、茶トラが短く鳴いた。二本足で器用に立つ茶トラの姿はきぐるみを着た幼い子供のようでもあったが、ひと鳴きする瞬間、その口が大きく裂けたのを智子は見逃さなかった。

 

「これ、囲まれてるんじゃないの……?」

 

 と、今度は別方向からぼすっと物音が聞こえてくるが、そちらに目を向けたゆりが焦りをにじませる声色でつぶやいた。音のしたほう──学級農園のあたり──に、今度は黒い毛並みのバケネコが出現していたからだ。ぱっちりとした淡い色の瞳でこちらを捉えるその猫ニンゲンは姿勢を低くし、獲物を狙うかのようにそろりそろりと近寄ってくる。

 

(待ちぶせされてたんだ……!)

 

 どうもこれは化猫党が悪知恵を働かせた結果なのではないかと、智子はそう考えた。獲物がやがてA棟から出てくることを見越した襲撃者たちは、この周辺で身を潜めていたにちがいない。ともあれ屋敷を背に三方を囲まれた智子たちはもう、袋のネズミであった。見れば黒猫だけでなく、メガネと茶トラもじわじわと距離をつめてきているようだった。

 

「おねがい……猫ちゃん……やめて……」

 

 すっかり怯えきった真子が、バケネコたちに向かって涙声でお願いする。話が通じるとは到底思えないモノノケたちに、それでも命乞いせずにはいられないようだ。真子はゆりに、智子は花子に、それぞれが頼りにしている仲間へしがみつくが、頼られた側も身を固くするばかりだった。

 

 べべん

 

 と、一行のすぐそばで音が鳴り響いた。それに反応したバケネコたちが立ちどまり、耳をぴくりと動かす。

 

 べべべん

 

 また鳴った。輪ゴムをはじくようなその音は、バケネコ屋敷のなかから聞こえてくるようだった。一体なにごとかと、智子たちはこぞってそちらを注視する。途端、すぱぱんと小気味よい音を立て、縁側の障子戸が一斉にひらいた。そうして屋敷の内部がすっかりあらわになったところでみんなの目に飛び込んできたのは、着物姿の女の人だ。彼女は行灯(あんどん)に照らされた座敷のなかでひとり正座していて、その手には三味線と(ばち)(弦をはじくための道具)が握られている。

 

「いらっしゃいまし、旅のおかた」

 

 智子たちがあっけに取られていると、女の人があいさつしてきた。彼女の顔立ちはどこか簡素(シンプル)な印象を感じさせるものだったけれど、身なりのほうはその逆だ。豪華な刺繍がふんだんにあしらわれた着物はいかにも値打ちものといった感じで、ふわっと広がるヤマモモ色の髪はかんざしの類できらびやかに飾られている。

 

(こいつあれか、「内御前」とかいうの!)

 

 どこぞのお姫さまかと思わされる装いだったけれど、目の前の存在がそのようにかわいらしいものでないことは智子にもすぐわかった。耳もしっぽも生えていないようだが、バケネコ屋敷に潜んでいたということは、いま自分たちを取り囲んでいる連中の仲間と見て間違いない。であるならば、どこか大物のような気配をただよわせるこの女の人は、化猫党の頭目である猫又・内御前が人に化けた姿ではないかと思われた。

 

「みなさまお疲れでしょう、どうぞこちらでゆるりとなさいませ」

 

 そう言って、内御前が「べん」と手もとの三味線を鳴らす。彼女の口調は丁寧で、こちらに敵意なんてこれっぽっちもないように見えたが、それが表面上の態度に過ぎないことは明らかだった。こんなふうに旅人を騙して屋敷に誘い入れるというのが化猫党の手口なのだから。

 

(なんとかして逃げなきゃ……)

 

 しかし律儀にそうした行動パターンをなぞってくれるおかげで智子たちに多少の余裕が生まれたのは事実で、周囲のバケネコたちはさっきからその場に座り込んだまま、ことのなりゆきを見守っているようだった。この隙にどうにか突破口を見つけねばと、智子は頭を回転させる。

 

「……これ、どうしたらいいの?」

「あっ、そにょ、えーっと」

 

 リーダー智子の知恵を頼って、ゆりが智子にそっとたずねてくる。それをいま考えてるんだよ、ちょっと黙ってて、などと返したい智子であったが、遠慮が働いてしまうので結局は口ごもるだけだった。

 とにかくまずは自分たちを取り囲んでいるバケネコをどうにか蹴散らして、それからA棟へと逃げ込む。出入り口の扉を閉めきったとしても、連中はきっと窓ガラスを割って侵入してくるだろうから、そこで消火器を使って撃退してやればいい。これだ、このやり方でいこう。名づけて猫まっしろけ作戦。

 智子がそこまで考えたところで、「あの……」と花子がおもむろに内御前の前へ進み出た。

 

「それじゃあちょっと、お邪魔します」花子がそう言ってぺこりとおじぎした。

「は? えっ、ちょ……!?」いきなりなにを言いだすのかと絶句する智子。

「まあまあ、よろしいことでございます。ぜひぜひ、みなさま」花子の言葉に益々愛想をよくした内御前が三味線をみゃんみゃんかき鳴らす。

 

 そうして花子は縁側の手前にある踏み石を足がかりにし、土足のまま建物のなかへとはいってしまうのだった。その際、彼女は屋根から垂れさがる一本のつる草を引き抜いていったが、そのことを誰も気になどしない。それよりも罠としか思えない内御前の申し出をあっさりと受けた花子の行動の意味がわからず、智子たちはただ困惑するばかりだ。

 

「ほら、みんなおいで」

 

 そう言って、花子がみんなを手招きする。その様子があまりに堂々としていたので、残された者たちは互いに顔を見合わせたのち、やがて誰ともなしに座敷へあがっていく。

 

「大丈夫、作戦があるの」

「あ、そ、そうなの……?」

 

 智子がおそるおそるバケネコ屋敷へと足を踏み入れたあと、身を寄せてきた花子がそう耳打ちしてくる。もしやこの先輩はヤケを起こしているのではと心配していた智子なので、それを聞いてほっとした。どうやら花子にはこの状況を打開するための秘策があるらしい。

 

「これ、お客さまにお敷物(しきもの)を」

 

 ぴぃん、と弦をはじいた内御前がそのようなことを口にすれば、すぐしないうちに部屋の奥のふすまがすっとあいた。そこには着物姿の小さな子供がふたり正座していて、姿をあらわすなり深々と頭をさげる。

 

(また増えた!)

 

 ただでさえ緊張していた智子であったが、その子たちの登場を受けてますます体をこわばらせる。ひとりは一本の長い三つ編みを肩に垂らす女の子で、もうひとりは濃淡のある髪色をしたおかっぱ頭の女の子。一見すると旅館で働く仲居さんのような身なりだが、頭には外のバケネコたちと同様に大きな耳が生えていて、着物の袖からは毛むくじゃらの手が伸びていたから、これも妖怪の類に違いないのだった。

 ともあれ顔をあげたふたり──もとい二匹がうやうやしく部屋のなかへはいってきたのだけど、途端に妙な匂いが智子の鼻に届く。A棟の二階でたっぷりと嗅がされた覚えのあるその薬品臭は、どうやら仲居猫たちからただよってくるようだった。そうしたにおいに反応したのか、内御前が「ぷしゅっ」とくしゃみをして顔をぶるりと震わせる。

 

「さぁさ、楽になさってくださいな」

 

 座敷を整えた仲居猫たちがまたおじぎして退室したところで、内御前がそのようにすすめてくる。畳の上には四人分の座布団が敷かれていたので、そこに座れということらしい。ここでまた花子が率先して相手の言葉に従ったので、みんなもそれにならって思い思いに座り込む。

 楽にしろとは言われたが、猫の口のなかにいるも同然のこの状況ではひと息つけるはずもなかった。連中がいつ襲いかかってくるのかと気が気でないのは智子だけでなく、黙り込んだままのゆりと真子も部屋の内外へ視線をさまよわせている。

 

(作戦って、なにするんだろう……?)

 

 しかし花子だけは違っていた。さっき彼女が口にした「作戦」とやらについてこっそり聞いてみたい智子であったが、当人はうつむき加減で目を閉じており、服をつまんで呼びかけても反応してくれない。手もとのつる草をにぎりしめ、にょろにょろ……うねうね……くねくね……と、小さな声でなにごとかをつぶやいているようだった。

 

「お茶も用意できませんで、御免(ごめん)くださいまし」

「あっ、いえっ、い、いいでひゅっ」

 

 智子がそうした花子の様子を妙に思っていたところ、もてなしがじゅうぶんでないとして内御前が詫びてくる。彼女がちょうど自分の正面に座っていたこともあり、智子はひとまずそれに返事をしてやった。

 

「代わりと言ってはなんですが、わたくしどもの歌と踊りをご覧になっていかれては」

「あっ、そ、そっしゅね」

「きっと退屈はさせません。()()()まで楽しんでいかれますよう。ほほ……」

 

 自分の言葉に反応した相手へ目をつけたのか、内御前が智子を見すえてそんなことを言ってくる。部屋の隅でゆらめく行灯に照らされてか、彼女の目はギラギラと光っているようだった。

 

「みな、はじめ」

 

 びいぃん、とひときわ強く弦を鳴らした内御前が号令を飛ばす。途端、外でくつろいでいたバケネコたちが起きあがり、二本足で立ったまま屋敷の前に走り寄ってきた。加えてさっきの仲居猫たちも屋敷の玄関から飛び出し、そこに合流する。

 

(なに!? なんなの!?)

 

 なんか急にはじまったぞと、膝立ちになった智子がうろたえる。それはゆりと真子も同じで、バケネコたちの突然の行動におどろくふたりは手にした座布団を盾に身構える。

 

「ああ、お客さま、堪忍です。なんのこともありません、今からちょいとこの子らに踊ってもらうだけですから」

 

 そうした智子たちを尻目に、涼しい顔の内御前が、ぱらりん……と三味線を奏でる。てっきり一斉に襲いかかってくるのかと思った智子であったが、どうもそうではないらしい。見れば外の連中は、仲居猫のうちの一匹が持ってきた手ぬぐいをめいめい受け取っている最中だ。そうして手ぬぐいが各自の手に渡ったところで、今度はそれでほっかむりをするバケネコたち。

 

(あー、そういうことかぁ)

 

 その様子を見た智子はピンと来た。「バケネコ」と「手ぬぐい」、この組み合わせがなにを意味するかといえば、内御前の言うように「踊り」がはじまるということである。この夏休み中、智子は取材のためにバケネコや猫又といった妖怪のことを調べたりもしていたが、それによればバケネコというものは踊りが大好きだそうで、ひと踊りする際はあのように手ぬぐいをかぶったりするとされていた。だから目の前のバケネコたちも、そうした伝承にならってこれから踊りを披露するつもりなのだろうと智子は察した。

 

「では……」

 

 すっかり準備が整ったと見て、内御前が一礼してからおもむろに三味線を弾きはじめた。ぺけぺけ、ちゃんちゃかと、出だしの旋律に合わせて踊りだすバケネコたち。

 

「絵文字ぃ~山ぁのぉ~、御猫(おねこ)~さまぁ~、きょうも~(ふる)~えて~、鳴きどぉ~しぃ~」

 

 と、今度は内御前が高らかに歌いはじめる。芸達者な妖怪もいるもので、堂に入ったその歌いぶりと演奏は中々に見事なものといえた。

 

『きーも、きっも、き、も、い

 きーも、きっも、き、も、い』

 

 すると外のバケネコたちが合唱し、合いの手をいれてくる。しっぽをふりふり体をくねらせ、元気に跳ねる連中の踊りは、そこだけ切り取れば今の状況に似つかわしくないユーモラスな(おもむき)があった。だからなのか、智子たちはその動きについ見入ってしまう。

 

下総(しもうさ)~国ぃ~のぉ~、かわいや~(くろ)()~、御猫~さま~のぉ~、心はひと~つぅ~」

『キモビト、キモしき、このうえなし

 キモビト、キモしき、このうえなし』

「御猫~さま~のぉ~、言うこぉとニャ~オンっ、キモビトぉ(こい)~しやぁ~、いとキモぉ~しぃ~」

『きもきもキモい、はーキモい

 きもきもキモい、はーキモい』

 

 なんとも奇妙な歌詞だったけれど、こうして聴いているぶんにはおもしろい。化猫党の歌と踊りがあまりに見事だったので、気づけば智子たちはその場に座り直し、身の危険も忘れてすっかり観客と化してしまっていた。

 

「絵文字ぃ~山ぁ~を~、キモビト走~るぅ~、婿(むこ)入り~前~に~、逃げだし~たぁ~」

『なーんで、なんで、な、ん、で

 なーんで、なんで、な、ん、で

 なーんで、なんで、な、ん、で

 なーんで、なんで、な、ん、で……』

 

 なんで、なんで、と連呼するバケネコたちが、地べたにひっくり返ってうしろ足をジタバタさせる。その様子がよほどおかしかったのか、真子が「ふふっ」と笑いをこぼす。

 

『なんでじゃわからぬ、食ろうてしまえ

 なんでじゃわからぬ、食ろうてしまえ』

 

 が、楽しい宴のひとときはそこまでだった。ぴょんと飛び起きたバケネコたちの口から突然物騒な歌詞が飛びだしたからだ。

 

『かんでちぎって、食ろうてしまえ

 ひねってさばいて、食ろうてしまえ

 食うたらたまらぬ、うまかろう

 食うてみたしや、キモビトわらし』

 

 目をらんらんとさせ、智子たちを凝視しながら合唱を続ける踊り子たちであったから、その様子に身の危険を感じた智子は足をもつれさせつつ立ちあがる。さっき笑ったばかりの真子などは一転して顔をひきつらせ、うまく立てないでいるのをゆりが引き起こしてあげていた。

 

『ひい、ふう、みい、よ、うまそなわらし

 みんな食ろうてみたしや、わらし

 食ろうてしまうぞ、みなごろし

 食ろうてしまうぞ、みなごろし』

 

 案の定、バケネコたちがこちらにじわじわ歩み寄ってきた。みなごろし、みなごろし、とうわごとのように繰り返す連中の顔つきは、いまやすっかり捕食者のそれであった。気づけば三味線の演奏もずいぶん荒々しい曲調へと転じていたが、その()き手である内御前の顔を見た智子は腰を抜かしそうになる。

 

「カカカカッ、カカカッ」

 

 そこにさっぱりしていた顔立ちの面影はもはやなく、代わりにあるのは血走った巨大な白目玉と、そのなかのまるまるとした黒い瞳。肌は獣じみた剛毛にびっしりおおわれていて、頭からは立派な三角耳が角のように生えている。口は大きく裂けており、まるで猫のクラッキングのようにアゴをけいれんさせて不気味な笑い声をあげていた。ここへ来て内御前が猫又としての正体をあらわしたのだ。

 

「ね、ネコ来たよ! ねぇっ、ネコっ、ネコが──っ!」

 

 さっきからずっと我関せずでいた花子にすがりつき、智子がその背をゆさぶる。しかしいつのまにかずいぶんと前のめりになっていた花子は、仲居猫よろしく深々とおじぎするようなその姿勢を崩さない。

 作戦はどうしたの。秘策があるんじゃないの。なんで黙ってんの。もうすぐ食べられちゃうよ。早く逃げようよ。もしかして寝てるのんじゃないの。智子の頭のなかでたくさんの言葉が飛びかうが、そのどれもが口から出てこず、ただネコがネコがと言うばかり。智子はもはや完全にパニック状態となっていた。

 智子の背後ではさっきからゆりたちがふすまをあけようとしているが、それは糊で接着されたかのようにびくともしない。

 

「ヒャアァ────ッ!?」

 

 そうこうしているうちにとうとうバケネコたちが座敷へと乗り込んできたので、たまらず絶叫する智子。その様子がおもしろくてたまらないのか、口もとを益々けいれんさせる内御前が狂ったように三味線をかき鳴らす。

 そのとき、がばりと身を起こした花子が手に持つなにかを内御前へ放り投げた。

 

「ヘビっ!」

「フンギャ────ッ!?」

 

 今度は内御前が叫ぶ番だった。叫ぶだけでは済まず、たちまちロケットのように飛びあがった彼女は、ものすごい音を立てながら天井をナナメ上に突きぬけていく。あまりの勢いに、その足もとにあった畳が()ぜたようにめくれ返った。智子たちにせまっていたバケネコ連中も似たりよったりで、花子の投げたものを目にした瞬間、叫ぶことすらせず一斉に屋敷の外へ吹っ飛んでいった。

 もうもうとほこりの舞う座敷に残されたのは、呆然とする智子たちと、ややくたびれたように息をつく花子。一体なにが起きたのだろうとボンヤリした頭で考える智子であったが、その目に弦の切れた三味線が映る。内御前が置いていったらしいそれには、一匹のヘビが絡みついているようだった。

 

(おおっ……!)

 

 途端、智子が納得したような顔になる。花子の言っていた「作戦」が成功したことを悟ったのだ。どこに隠し持っていたのか、花子は化猫党が苦手としているヘビをもちいて連中を見事退散させたらしい。現実の猫がヘビを異様に怖がるだなんてあまり聞かない話だったけれど、少なくともここ裏幕のバケネコたちにはそういう習性があるようだ。

 

「みんな、大丈夫?」

「あっはい……」

 

 よいしょと立ちあがる花子が、仲間たちを見回して具合をたずねる。その問いかけにすぐ答えることができたのは、ゆりだけだ。

 

「真子は?」

「う、うん、へいき……」

 

 へたり込んでいた真子に向け、ゆりが手を差し出す。それを支えによろりと立った真子は屋敷の外へ目をやった。バケネコたちはどこかへ逃げ去ってしまったらしく、天井に風穴をあけていった内御前も戻ってくる気配はないようだ。

 

「立てる?」

「あっふぁい……」

 

 花子がやさしい手つきで智子のことをゆっくりと引き起こしてやる。どうもすっかり腰が抜けていたようで、足のおぼつかない智子はそのまま花子によりかかった。

 

「ねぇ、あれどうやったの?」

 

 放置された三味線を指さし、智子がそのように言う。花子がまるで手品のようにヘビを取り出してみせたことについてたずねてみたかったのだ。

 

「あっ!?」

 

 しかしどうしたことか、さっきまでいたはずのヘビが見当たらない。その代わり三味線には一本のつる草が絡みついているだけだった。目を凝らしてみてもやはり間違いなくただのつる草のようだ。

 

「あの、あれ、なんかヘビが……」

 

 ちょっと目を離したらヘビがつる草になっていた。目の錯覚なんかじゃないと思う智子はその不可解な現象の説明を求めて花子を見つめる。すると花子がふふっと笑って「時間切れみたい」と言った。

 

「さっきのヘビね、わたしが作ったの」

「そうなの?」

「ほら、前に言ったでしょ? 裏幕にいると思ったことがちょっとだけホントになるって。だからね、なにか手に持ったりして『これはヘビなんだー』っていっぱい念じたりするとその通りになっちゃうんだ」

「へえぇぇ~」

 

 説明を受けた智子が感心したように声をあげる。花子が言うにはどうもそうしたカラクリがあったらしい。

 

「できるだけイメージが近いのを材料にするといいみたい。ほら、あれとかヘビみたいでしょ?」

「あー、だから……」

 

 そう言って花子が屋敷の軒先から垂れるつる草たちを指さす。内御前の誘いを受けて座敷にあがる際、花子がつる草をさりげなく引きぬいていったのはそうした理由によるものだったらしい。なんとも抜け目のない人だと、この上級生のことが益々頼もしくなってしまう智子なのだった。

 

「ねぇ、そういのってわたしとかでもできる?」

「うん、もちろん。智子ちゃんがイメージできるものなら色々作れちゃうと思うよ」

 

 それはいいことを聞いた。だったらただの紙きれを一万円札に変えてしまうことだってできるかもしれない。裏幕から脱出する前にちょっと百枚分ほど作っていこうかなと、そんなことを考える智子。

 

「でも時間が経つとあんなふうにもとに戻っちゃうの」

「あ、そうなんだ……」

 

 だけどもそうした智子の目論見は、続く花子の言葉によってかき消される。花子が言っているのは、三味線に絡みついたままのつる草のことだ。本来あるべき姿からイメージの力で無理やり変化させているためか、その状態はあまり長く続かない。そうした事情があるからこそ、ヘビはもとのつる草へ戻ってしまったという訳だ。

 

「そろそろ行こっか?」

「あ、うん」

 

 ともあれ花子からそう促されたので、智子が自力で立ってみせる。他の仲間たちはすでに屋敷の外へ出ていたようで、智子らが来るのを待っているようだ。縁側から身軽に飛びおりた智子がゆりたちのもとへ駆け寄れば、あとからやってきた花子もそれに加わる。

 では改めて、いざ迎えにいかんヤンキー娘。怪猫(かいびょう)どもを蹴散らして、裏幕街道つき進め。頼れるみんなの花子がいれば、妖怪変化なんのその。知恵と勇気を兼ねそなえた先輩をすっかり信頼するようになった智子は、気が大きくなってきた。来てみろ裏幕おばけたち、そんときゃ(花子先輩が)お相手してやるぜと、そんなふうに思う智子が先頭に立って歩きだす。

 

「え、なに、どうしたの……?」

 

 が、すぐしないうちに一行の先頭が入れ替わった。智子の横を素通りし、花子が前へと進み出てきたからだ。気になった智子が呼びかけても花子は返事をせず、「アッ……、グッ……」とうめき声を漏らすばかりだった。なぜか妙な姿勢のまま硬直している彼女は自分の足で歩いてなどいなかったが、見えない力で引っぱられるかのように渡り廊下をずるずるとすべっていく。

 

「ニャオウゥゥ~ン……」

 

 どう見ても普通ではない花子の様子に慌てる智子であったが、とつじょ響いてきたその鳴き声に心臓が縮みあがる。

 

(また出たぁ──ッ!?)

 

 智子たちが立っている渡り廊下の突き当たり、昇降口の入り口があるその手前の柱から、てっきり退散したものと思っていたあの内御前がぬっと顔を覗かせた。彼女は歯を食いしばり、針のように引き絞られた細い瞳でこちらをにらみつけてくる。さっき頭から天井に突っ込んでいったからか、美しく整えられていたその髪はいまや見る影もなく乱れており、まっしろだった毛むくじゃらの顔もなんだかくすんでいるようだった。どれほどの執念深さなのか、あれだけぎゃふんと言わされた内御前はしかし、いまだ智子たちのことを諦めていなかったらしい。

 

「み、みんなっ、引っぱって! 引っぱって!」

 

 ともあれこのままにはしておけないと、花子のもとへ駆け寄った智子はその体にしがみつき、仲間たちにも協力を求める。そうして三人がかりで引っぱり返したことで、ようやく花子の進みが止まった。だけども目に見えぬ力は働き続けているようで、気を抜けばまた引きずられていきそうだった。

 

(あいつのせいか……!)

 

 内御前が柱に隠れつつ、片手を顔の前でクイクイと上下させていたのが智子の目に映る。それがあたかも狙った獲物を招き寄せる仕草のように思えたから、智子はピンと来た。猫又というものは妖術の類を身につけているそうで、それによって様々な怪異を引き起こしたりするとされている。だから花子が金縛りにあったように硬直し、そのまま向こう側へ引き寄せられているのも、きっと内御前のしわざに違いない。

 

「あっ、す、すぐ戻るから!」智子がそう叫び、花子のことを手放した。

「ちょ、黒木さん!?」

 

 真子が慌てたように呼びとめるが、それに応じてやることはできない。智子にはやらねばならぬことがあるからだ。脱兎のごとく駆けだした智子は、さっきまでいたバケネコ屋敷──いつのまにかただのつる棚に置きかわっていた──へ引き返す。

 

(見てろバケネコ、ヘビ百倍だかんな……!)

 

 そうして骨組みの一部が破損したそのつる棚から、智子が一本のつる草をぷちりと引き抜いた。ここはひとつ、うんとすごいヘビを作りだして、今度こそ本当にぎゃふんと言わせてやろう。ヘビヘビ、ヘビ来い。デカくてニョロニョロ、とぐろ巻きのヤバいやつ。毒ヘビマムシのガラガラコブラ。内御前も月まで吹っ飛んでいきそうなシロモノを生みだすべく、智子は手にしたつる草へ懸命に念を送る。

 

「黒木さぁん! 引っぱられちゃうよぉ!」

 

 真子の叫びにはっとさせられ、智子が目をあけた。仲間たちの様子を見に戻ってみれば、さっきよりもいくぶんか進んだところで、真子が助けを求めるような表情を向けてきていた。ゆりとふたりがかりで花子をつかんでいるものの力負けしてしまうのか、逆に全員まとめて引きずられてしまっているようだ。見れば柱に隠れるのをやめたらしい内御前が、鋭い爪の伸びるその両手でさかんに招く仕草を繰り返しているのだった。カカッ、カカカッ、と内御前のあの笑い声がまた聞こえてくる。

 

(ヘビっ、ヘビっ、早く来いよぉっ)

 

 手もとのつる草は、まだヘビに化けていない。だから智子は改めて目を閉じるが、焦る気持ちに邪魔されてどうにもイメージが固まらない。そもそも花子にしたってヘビを具現化させるまでに結構な時間がかかったのではないか。であれば果たしてこの短時間で同じことができるのだろうかと、そうした不安をよぎらせる智子。

 

()()……?)

 

 ふと智子の頭に、あるひらめきが生まれる。ヘビといえば()()ではないかと、ひとつ思い当たる存在のことを思いだしたからだ。

 それからの智子の行動は早かった。つる草を手放した智子は、つる棚のさらにその向こう側、黄泉ヶ池や非常用門のあるほうに向かって無我夢中で駆けだした。そうして智子がたどりついたのは、A棟非常階段の手前。

 

「おぉーい! ヘビ来いヘビ来い!」

 

 智子がパンパン手を叩き、そう叫んで呼びかける。途端、階段のほうからずりずりとなにかの這う音が聞こえてきた。

 

「うわぁっ!?」

 

 するとまもなく、頭上から巨大なものがどさりと落ちてくる。てっきりお目当てのものが階段を律儀におりてくると思っていた智子であったから、自分の手前に落ちてきた「それ」におどろいて声をあげた。

 

(やっぱヘビだった……!)

 

 慌てて飛びのいた智子が、目の前の存在をまじまじと見る。非常階段から落ちてきてむくりと顔をあげたのは、智子が以前見かけたあのキツネ犬だった。いや、それはキツネや犬の類などではない。それっぽく見えたのは頭の部分だけであり、彼の長々とした毛むくじゃらな胴体はまるで大蛇のようであった。

 これぞ【まぼろしのキツネヘビ】。かつて世間が「ツチノコ」なる未確認生物の話題でおおいに盛りあがっていたおり、当時の原幕小にて「校内のどこかにいる」と噂になっていた存在だ。最初にこのヘビと出くわしたあと、彼の正体が気になっていた智子はやがてある程度の見当をつけたのであるが、その全貌を目の当たりにしたことで確信を抱く。形容するならば「キツネの頭を持つヘビ」としか言いようがない目の前の白いニョロニョロは、確かに噂のキツネヘビに違いないのだった。

 

「お、おいで! こっちこっち!」

「キューッ!」

 

 キツネヘビを誘うように、智子が声をあげつつその場を離れる。するとキツネヘビはそれに応じて智子のことを追いかけてきた。大きいだけあり這うスピードも中々のものだったので、それに捕まってしまわないよう智子は全力で走る。

 

「ほらぁっ、ヘビだぞヘビ──っ!」

 

 やがて渡り廊下へと戻ってきた智子が、口もとに手を当て叫ぶ。一体なにごとかと振り返るゆりと真子であったが、鎌首をもたげる妙なものが智子のうしろから付いてきているのを見て体をすくませた。

 

「グミフゥ~~~~ッ」

 

 すっかり招き猫と化していた内御前もまた、せまり来るキツネヘビに気づいたらしい。彼女は独特のうなり声をあげ、手足をしっちゃかめっちゃか動かしあっというまに走り去ってしまうのだった。途端、花子が体の自由を取り戻したようで、脱力してゆりたちへもたれかかる。

 それを見届けた智子は、キツネヘビを誘導しつつ渡り廊下から外れていく。そうして体育館のそばにある回転遊具のもとへ走り寄り、大急ぎでよじのぼろうとした。

 

「うひぃっ!?」

 

 だけどもキツネヘビの追跡からは逃れられなかったようで、すぐしないうちにその長い胴体が智子へ絡みついていく。たまらず遊具から落っこちた智子は、そのまま地べたの上で全身くまなくキツネヘビに巻きつかれていった。それはあっというまの出来事で、離れた場所でそのさまを見ていた仲間たちも呆気に取られていた。

 

「うっぷ、ちょ、やめっ……」

 

 白ヘビ団子から首だけ生やした智子が、困惑気味に声をあげる。ぺちゃぺちゃ音を立て、キツネヘビが智子の顔面を一心不乱になめてきたからだ。

 

「たっ、たしゅけて~!」

 

 智子がそう叫んで救助を求めたので、我に返ったみんなはすぐさま智子のもとへ駆けつけた。しかしてっきり智子のことを丸呑みにでもするのかと思われたキツネヘビであったが、どうも様子が違っているようだ。智子のことをなめちぎるキツネヘビからは、害意のようなものは見受けられない。耳をギュッと折りたたみ、猫じゃらしのような尾をぶんぶん回すその姿はむしろ人なつっこい犬がうんと甘えているようでもあり、なごやかな印象すら感じさせた。

 

「結構大人しいね。悪い子じゃないのかも」

 

 しゃがみ込んだ花子が、おもむろにキツネヘビの頭をなでてみる。すると彼はなめるのを中断し、目を細めて心地よさそうにアゴを伸ばす。

 

「あの、これどうすれば……」

 

 しかし智子に巻きついて離れようとしないこと自体は問題だった。身動きできない智子を助けてやらねばならなかったから、そのことについてたずねる真子。すると花子がなでる手を止め、少しばかり思案する。

 

「じゃあちょっと手伝ってもらっていい? この子のこと、ちっちゃくしてみるから」

 

 それを聞いた真子たちは、意味がわからないといった顔をする。この人は突然なにを言いだすのだろうと、少し困惑しているようだった。

 

「ほら、ふたりともこの子にふれてみて」

「あっ、えと、はい……」

 

 よくわからないながらもしゃがみ込んだ真子が、キツネヘビの胴体へと手を当てる。ゆりもそれにならい、尾の辺りをギュッとつかんだ。

 

「キャーン!」力の加減を間違えたのか、ゆりにつかまれたキツネヘビが痛そうに悲鳴をあげた。

「あっごめん」それを受け、ゆりがぱっと手を放す。

 

 その様子を見た花子が「軽くさわるだけでいいよ」とアドバイスしてやったので、改めて腕を伸ばすゆりは胴の上に手を乗せるだけに留めた。

 

「じゃあ次は、この子の体がどんどん縮んでくぞーって念じてみてほしいの」と説明する花子は自身もまたキツネヘビの体へと手を添え、「智子ちゃんも一緒にやってみよ? みんなでしたほうが早いから」

「あっうん……」だから智子は目を閉じて、言われた通り意識を集中させていく。

 

 これはきっと、さっき花子が教えてくれたイメージの力の応用なのだろう。ただのつる草を本物のヘビに変えてしまえるのだから、同じ要領でいま花子がやろうとしているようなことも可能だったりするのかもしれないと、智子はそう思った。

 

「ちいさくなぁれ、ちいさくなぁれ……」

 

 イメージの助けとするためか、そう繰り返す花子のつぶやきが智子の耳へ届く。なんだかどこかで聞いたことのある声だなと、ここに来て智子はそんなことを思った。花子の声を聞くとほっとするような、懐かしいような、そんな気持ちになってしまう。きょう出会ったばかりの相手にこんなことを感じるのはなぜだろうと不思議がる智子だったけれど、ともあれ今は集中せねばと、気持ちを切り替えて想像に専念する。

 

(そうだ、お母さんのマフラーみたいに……)

 

 小さくなったキツネヘビの姿に近いものとして、これ以上ない品物のことを智子は思いだした。ちょうど智子のお母さんが似たような見た目の襟巻きを持っていたのだ。たまにお母さんの部屋からこっそり持ちだして、ぬいぐるみたちと遊ばせてやったりもするその襟巻きはキタキツネの姿を模した造りだったから、あんな感じのマフラーみたくなってしまえと智子は念を強めていく。

 

(おっ……おっ……?)

 

 すると全身をおおっていたモフモフの圧迫感が、徐々に弱まってきた。それに手応えを感じた智子が、まだまだもうちょいと、なおも念じ続けていく。そうしてすっかり拘束から解き放たれた辺りで、智子がむくりと身を起こす。

 

「へぇ~、こんなんなっちゃった」

 

 自分の首もとを手で確かめる智子が、おどろきの声をあげる。あれだけ大きかったキツネヘビが、いまやずいぶんと縮んでいたからだ。彼はそれでも離れたくないのか智子の首に巻きついたままであったが、そうしている姿はマフラーそのものだ。

 

「チュー」

 

 智子の顔を見あげてキョロキョロしているキツネヘビが、ネズミのような鳴き声をあげる。智子がいきなり巨人になってしまったように感じられて、彼自身びっくりしているのかもしれない。

 

「ふしぎ……なんかフェレットみたい」花子の言葉通りすっかり小さくなってしまったキツネヘビを真子が物珍しそうに見る。

「なんだろうね、ヘビじゃないのかな?」かたわらのゆりもヘビなんだかキツネなんだかよくわからないその奇妙な姿に興味がわいたようだ。

 

 ともあれ無事にキツネヘビの重たい愛情から解放された智子がふぅと息をついて立ちあがる。それにみんなもつられたのか思い思いに腰をあげていった。

 

「あっ、しょのっ、あ、ありゃがと……」

 

 上着で顔をぬぐっていた智子がやがて遠慮がちに口をひらく。キツネヘビ縮小作戦にはゆりと真子も協力してくれたので、そのお礼のつもりだった。なにも言わないままだとふたりに感じ悪く思われてしまうかも、なんていう心配からの行動であったが、近ごろはクラスメイト相手にこういうことを言う機会もすっかりなくなっていたから途中でかんだりしてしまう。

 

「ううん、こっちこそありがとう。この子が来てくれなかったら危なかったもの」

 

 そう返す真子がキツネヘビの鼻先をやさしくつつきながら「ね、ゆり?」と続ければ、話を振られたゆりも「うん」と返事してそれに同意する。

 

「あー、いや、へへ……」なんか逆に感謝されちゃったぞと、ふたりからの反応に照れる智子。

「智子ちゃん、ホントにありがとう。わたし、ちょっと油断しちゃってたかも……」続けて今度は花子が感謝の言葉を口にした上で、

「あぶないことさせちゃってごめんね」と、すまなそうにあやまった。

「あっうん、い、いいよ、大丈夫」

 

 結果オーライではあったものの、智子の首もとでマフラーをしている彼がもし狂暴な肉食ヘビだったとしたらいまごろ智子はその胃袋におさまっていたかもしれない。そうした可能性があった以上、智子はずいぶんと無茶をしたことになる。だから花子としてはそこのところを心苦しく思っているようだ。

 

「て、ていうかさ、あのバケネコほんと執念深いよね。あいつ絶対また出てくるよ」

 

 花子に気を遣わせてしまうとなんだか自分のほうまで申し訳なくなるので、とりあえず話題を変えてみる智子。それはそれとして、智子の指摘はもっともであった。よほど逃がしたくない獲物が一行のなかにいたからなのか、弱点のヘビに仰天させられ退散したかに見えた内御前はしかし、それでも懲りずに再び襲いかかってきた。このことを考慮するならばまだまだ安心はできず、引き続き用心せねばならない。

 

「そのヘビみたいなのがいるから大丈夫じゃない?」

「あ、そ、そうかな……?」

 

 こわいキツネヘビがいるうちは連中も襲ってはこないだろうという、ゆりのそうした意見もまた一理あるものだった。肝を冷やされたさっきの襲撃にしても、花子の具現化させたヘビが時間切れでつる草に戻ったあとの出来事だった。であれば、いつまで経ってもヘビなままでいるこのキツネヘビを同行させておけば、連中も手を出してこないのかもしれない。

 

(ま、そんなら別に……)

 

 自分の首もとでフワッとあくびするキツネヘビに智子が目を向ける。そろそろひっぺがしてやろうかな、なんて思っていた智子であったが、マフラーと化したキツネヘビはそのポジションが気に入ったようであったから、このままでもいいかと考えなおす。

 

「あっ、でもコイツ、そのうちもとに戻るんじゃ……?」

 

 イメージの力で変化させたものは時間切れを迎えると本来の姿へ戻る。そうした制限のことを思いだした智子が意見を求めて花子を見やる。すると花子は「そうだねー……」としばし考え込むような仕草をし、

 

「じゃあその子に名前付けてあげて。そしたら小さいままでいられるから」

「そんなんでいいの?」

「うん、あとできるだけ『小さい』ってイメージのわきやすい名前がいいかな。()()()()()とか」

「あっ、じゃあそれで……」

 

 そうしてキツネヘビの名前があっさり決まった。「名は体をあらわす」ということなのか、それっぽい名前を付けてやることがなにかしらの作用を生んで彼を小さな存在へと留めることになるらしい。

 

「おいチビ、おまえチビだかんな」智子がそう呼びかけて首もとのマフラーを指でなでてやれば、

「チュー」ありがたいお名前を頂戴したチビヘビの彼がひと鳴きするのだった。

 

 ◆

 

 そこから先はウソのように順調だった。ゆりの言ったようにキツネヘビがお守りになっているためか、内御前がまた仕掛けてくることはなく、他のおばけが襲ってくるような気配もなかった。そうして無事にご神木のもとへやってきたあと、智子たちは屋上ガーデンに向かうため、そばにある非常階段をのぼっていく。

 グワン、グワンと、みんなの歩調に合わせてスチール製の階段から鈍い音が鳴る。他のところのコンクリート造りの非常階段と違ってここの非常階段だけは金属製だったから、歩みを進めるたびに階段全体が微妙に揺れていた。昼休みともなれば屋上を行き来する児童たちがここを勢いよく駆けて盛大に音を鳴らしていくというのが日常風景であったが、今の智子たちの足どりはそれに比べるとあまりにも静かなものであった。

 

「おおーっ、すっげー!」

 

 そうして智子たちが屋上へ近づいてきた辺りで、ふいに上のほうからヤンキー娘のものと思われる声が聞こえてきた。なにやらテンションの高いその声色を妙に思いつつも、歩調を早めた一行はやがて階段をのぼりきって屋上ガーデンに到達する。

 

(なにしてんだヤンキー……?)

 

 智子が屋上の突きあたりに目をやれば、青々としたガーデンの先に立つヤンキー娘の姿が見えた。フェンスに寄りかかってなにかを仰ぎ見ているらしい彼女は、ぴょんぴょん跳ねたりして随分とはしゃいでいるようだった。

 

「吉田さん!」

 

 真子がヤンキー娘の背中に向かって呼びかける。が、それに対する反応はなかった。代わりに熱い視線を空へ向けたまま、うわぁーうわぁーと声をあげつつ体を揺さぶるだけだ。

 

(ヤンキーがバカになっちゃった!)

 

 なにがあるでもない空を見やったままこちらを無視し、人目をはばからず幼い子供のように振る舞うヤンキー娘のその姿に、智子はぞっとした。ここ裏幕で数々の怪異に遭遇するうち、ショックでとうとう気がヘンになってしまったのだろうかと、そのように思ってしまう。

 

「吉田さん、ねえっ、どうしたの?」

 

 そこかしこにあるプランターや花壇のあいだを縫って走り、急ぎヤンキー娘のもとへやってきた真子がさかんに肩を揺すってみるのだが、やはりこちらに気づく様子はない。

 

「大丈夫なの?」

「え?」

「吉田さん、どう見ても普通じゃないでしょ」

 

 真子にならって智子たちもヤンキー娘のもとへ歩みよっていくが、その道すがらゆりがヤンキー娘の容態についてたずねる。

 

「あれ、おばけとかのせいじゃないの?」

「ああ、いやまあ、ただの一時的なショックってやつかも……」

 

 ゆりと真子から離れてひとりふらふらどこかへ行ってしまったのも、そのせいだったのかもしれない。あの様子ではきっと正気を取り戻すのに時間がかかるだろうから、ここはひとまずみんなで引きずってでもご神木のところまで連れていってやるしかない。

 見ればヤンキー娘が今度はフェンス越しに地上へと目を向け、誰に向けてか手を振ったりしていた。キャッキャとはしゃぐ彼女のそうした様子に、これはもとの世界に帰ったあとも病院行きかな、などと考える智子。

 

「たぶん()()()のしわざかも」うしろを歩いていた花子が、智子たちの会話にはいってきた。

「へっ?」その言葉に足を止めた智子が、振り返って花子を見やる。

「あの子、【ワイハ星人】に会ったんだと思う」

「あ、そうなの……?」

 

 この「ワイハ星人」というのは原幕七不思議のひとつ、いわゆる地球外知的生命体に関する噂のなかで語られていた存在だ。智子としてもこの宇宙人の話は知っていたが、花子の見立てによればそれこそがヤンキー娘をおかしくした原因なのだという。

 

「ゆりーっ、来てー! 吉田さんがヘンなの!」

 

 明らかに普通ではないヤンキー娘のありさまに恐怖を覚えたのか、真子が友達の名を叫ぶ。それを受け、ゆりが小走りでそちらへと駆けていった。

 

(純粋な人間だけが会える宇宙人、かぁ……)

 

 ワイハ星人の噂を改めて思いだす智子が、心のなかでそうつぶやく。なんでもくだんの宇宙人はここ屋上ガーデンに出没するとのことだったが、彼は姿を見せる相手を選ぶとされていた。素直な心を持ち、俗世(ぞくせ)の価値観にも染まらず、形のない愛や幸せを信じて生きている者──そうした人間の前にだけあらわれるのだという。

 オカ研の活動記録、つまり今江先生のレポートによれば、七〇年代なかばに流行ったというこの噂は当時オカルト雑誌を賑わせていたUFO(ユーフォー)騒動──山梨県甲府市の小学生ふたりが、光る円盤やその乗員らしき人物に遭遇したという事件──に影響されて誕生したのではないかと見られている。

 

(でもこんなふうになるなんて書いてなかったけど……)

 

 ヤンキー娘のもとへとやってきた智子が改めてその姿に目を向ければ、フェンスから引き離そうとするゆりと真子に向け「うっせー」「割り込むんじゃねー」などと吠えているようだ。

 ワイハ星人に遭遇したらそのあとどうなってしまうのか。智子の記憶が確かなら、この辺りの詳細については活動記録に載っていなかったはずだ。正確に言うと彼に関する調査報告は中途半端なところで途切れていて、続きが書かれていたとおぼしきページは丸々破り取られていたのだった。それはオカ研がきこさん関連の情報を抹消した際の巻きぞえを食らったためなのかもしれないが、さっきの花子の口ぶりはあたかもこの話の続きを知っているかのようであった。

 

(今江先生に教えてもらったのかな?)

 

 あの活動記録の著者から色々聞いているらしい花子であれば、そこのところを知っていてもおかしくはない。ヤンキー娘になにごとか話しかける花子の横顔を見ながら、智子はそんなふうに考えて自分を納得させる。

 

「吉田さんって、ずっとこのままなんですか……?」

 

 いくら話しかけても取り合おうとしないヤンキー娘であったから、いい加減くたびれてしまった真子が不安げな顔で花子にたずねる。

 

「そんなことないと思うけど……ひょっとしたらよっぽど()()()見てるのかな? 目を覚ましたくないのかも」

「えと、じゃあ吉田さん、寝てるだけってことですか?」

「うん、そうみたい。だからそんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 

 花子が言うには、どうもヤンキー娘は夢遊病の状態にあるらしい。そのはしゃぎぶりからすると本人にとってさぞかし楽しい夢を見ていると思われるが、智子たちにとっては困った話だ。だからそろそろ眠りを覚まし、夢の国から帰ってきてもらわないといけない。

 

「どうしよっかな、ちょっとくすぐってみようか?」

 

 そうすれば起きてくれるかもと、花子が提案する。こんなとき、花子の発想はちょっと貧困だった。笑い病にかかったゆりへの対処を考えたときもやっぱり今と同じようなことを言っていたものだ。

 

「それっ、こちょこちょ……」

「ははっ、ははっ」

 

 ものは試しにと、眠り姫の首すじに手を伸ばした花子が早速くすぐりはじめる。途端、姫が笑い声をあげて身をよじる。

 

(なんか今江先生みたい……)

 

 そうしたくすぐり好きの花子に、もと担任の姿がなんとなく重なって見える智子。先生はおイタの過ぎる生徒に対してときおりあんなふうにくすぐり攻撃を仕掛けることがあったからだ。かくいう智子自身もそうした経験があったので、あのときはずいぶん笑わされたものだと少し懐かしくなったりする。

 ちなみに智子がどういう理由で先生からくすぐられる羽目になったのかと言えば、それはこういうことだった。普段からパソコン室をよく利用していた智子は、あるとき安全性や教育上の理由からアクセスできないようにされていたウェブサイトをどうしても見たくなってしまった。そこで智子は聞きかじりの知識を頼りに邪魔な監視ソフトを強制終了させたあと、思うままにネットサーフィンを楽しんだ。が、最終的にそれがどういう結果になったかと言えば、怪しいリンクをうっかり踏んでしまったせいでパソコンがウイルスに感染し──

 以降のことは長くなるので割愛するが、ともあれそんな()()()()も今となっては忘れられない思い出なのだった。

 

(先生、どうしてんのかなぁ)

 

 きこさん祭りをおこなってからもうどれだけ時間が経ったのだろう。こうして裏幕へ迷い込んでしまった生徒たちがいることに先生は気づいているのだろうか。少なくとも一緒にウサギ探しをしていた飼育委員のふたりが急にいなくなったことを妙に思ってはいるはずだし、もしかしたらご神木の根もとに築いた例の祭壇を見つけておどろいているかもしれない……などと考える智子は「わたしもここにいるよ」と先生に伝えたくなってしまう。

 

「うーん……起きないねぇ」

 

 花子が困ったように言ってくすぐる手を止める。見ればぜいぜい、はあはあと息を荒くするヤンキー姫は「ったくよー」などとボヤきつつもヘラヘラ笑みを浮かべている。その反応からすると彼女好みの小動物かなにかが首にじゃれついてきているだけだと思っているのかもしれない。

 

「もっと強くやってみたらいいんじゃないですか?」

「でも、あんまりやるとかわいそうだし……」

 

 死ぬほど笑わせてみれば流石に目を覚ますのではないかとゆりが荒っぽい提案をするのだが、今でさえ呼吸困難気味のヤンキー娘なのでこれ以上くすぐり続けることは花子としても気が引けるらしい。

 

「……」

 

 呼びかけてもダメ、くすぐってもダメ、さてどうしたものかと改めて思案する仲間たちであったが、そうしたなかで智子がふとなにかを思いついたように進みでる。そうしてヤンキー娘の背後に立った智子がおもむろにその手を伸ばしていく──。

 

 ここから先のことはとてもではないが──割愛などではなく本当に──書けはしない。詳細もまた、伏せられてしかるべきものであった。ただひとつ確かなのは、智子の思いつきが功を奏しヤンキー娘が無事正気を取り戻したということ。そしてその代償として智子は彼女から全力のビンタを食らう羽目になったということだ。

 

 ◆

 

「ったくよー……」

 

 ヤンキー娘が吐き捨てるようにそう言えば、智子がおどおどした様子で花子のうしろに隠れる。これはさきほど両者のあいだで一悶着あったためで、しかし今は仲間たちの仲裁もあってひとまず落ち着いたようだ。

 

「つーかよ、誰だてめーは」

 

 すると気持ちを切り替えたヤンキー娘が花子に向けてぞんざいな物言いで質問する。いつのまにかメンバーに加わっていた花子のことを不審に思っているようだ。

 

「花子さんっていうの。六年生だって」

「ふーん……」

 

 花子が自分で答える前に真子が横から説明してやれば「ま、いいけどよ」と一応は納得したらしいヤンキー娘が首のうしろをむずがゆそうにさする。

 

「んで、どうなんだ? 穴は見つかったのか?」まだ色々と事情を知らないヤンキー娘が智子にたずねる。

「う、うん……そ、それなんだけど、もういいっていうか……」

「なんで?」

「そ、その、こちらの花子さんが、もとの世界に連れてってくれるんだって」

「そうなのか?」

 

 智子の話を聞いたヤンキー娘がさきほどとはうってかわって期待を込めたまなざしを花子に向ける。

 

「うん、これから下のほうでね、帰るための儀式をするの」

「へぇー」

「みんなにもちょっと手伝ってほしいんだけど、いいかな? 簡単なお祈りをしてもらうだけだから」

「あ、おお。んじゃ早く行こうぜ」

 

 帰るために少しばかり協力してもらいたいという花子のそうしたお願いにヤンキー娘がふたつ返事で同意する。もう怖い思いをしてまで隠し穴を探さなくてもよくなったと知って彼女もほっとしているようだ。

 

「それ、なんだ?」

「あっうん、キツネヘビ……」

 

 そうしてみんなで非常階段に向かう途中、見慣れぬキツネ顔のマフラーにヤンキー娘が興味を示す。そこで智子がチビのことを教えてやるのだが、まばたきしたり鼻をひくひく動かす彼の姿を見たヤンキー娘は「こいつ生きてんぞ」と、たいそう目を丸くするのだった。

 *

(またヘンなのが出てくる前にさっさと帰んなきゃ……)

 

 ヤンキー娘も戻った今、これ以上裏幕に長居する必要はない。だからあとは早々にご神木のもとへ行き、帰るための儀式をおこなうだけだ。そういう訳で屋上ガーデンをあとにした智子たちは非常階段をおりていく。どんな儀式をするのかは知らないが、帰り道はもう目の前。もたもたしていたらきこさん辺りがまたあらわれそうだったので、どうにも智子は気が急いてしまう。

 

(ん……?)

 

 階段をある程度おりたところで智子の視界の端になにかがよぎった。つられるようにそちらへ目を向けた智子であったが、たちまちその歩みが止まる。

 

「おい、なに止まってんだよ」

「え、なんで……なんで……?」

 

 うしろがつかえているぞとヤンキー娘が声をかけるが、それが聞こえていないのか智子は非常階段と隣りあう校舎の窓を凝視したままだ。

 

(ゆうちゃん!? なんで!?)

 

 智子が目を向けた窓の先、そこはC棟二階の西側、四年生の教室が並んでいる辺りの廊下だった。智子はそこに、今はもう他所の学校へ行ってしまった親友の姿があることに気づいたのだ。

 

「ちょちょっ、ど、どいてっ……!」

 

 前を行く花子を押しのけ、派手に足音を鳴らす智子が二階部分の踊り場までおりていく。そうして非常階段の扉に張りつきさかんに手で叩く。

 

「ゆうちゃぁん! おーい! おおーい!」

 

 そうやって大声で呼びかけてみるものの、扉の小窓越しに見えるゆうちゃんはそれに気づく様子もなく、いつもかけている自分の黒縁メガネを外して目をこすっているようだった。扉をあけようとしてみたものの鍵がかかっていたためどうにもならない。そうこうしているうちにゆうちゃんはやがて近くの教室の引き戸をあけてそのなかにはいっていってしまった。

 

「智子ちゃん、どうしたの?」追いついてきた花子がただごとならぬ様子の智子に声をかける。

「あっ、あのっ、い、いま、ゆうちゃんがいてあの……!」しどろもどろになりながらも智子はいま自分が見た出来事をどうにか口にする。

「えっ……!?」それを聞いた途端、花子の顔色がさっと変わった。

「あっ、ま、真子さん! カギっ、カギちょうだいっ、ここの!」

 

 遅れて追いついてきた仲間たちに叫ぶ智子。真子には学校で使われている鍵束を一式預けておいたから、この非常階段をあけるための鍵を貸してほしいのだ。

 

(ゆうちゃん、なんで来ちゃうんだよもう……!)

 

 今日、自分が学校のなかで儀式をおこなうつもりであることを智子は昨晩ゆうちゃんにも電話で教えてあげていた。といってもおばけの類が苦手なゆうちゃんは付いてきてくれないだろうと思っていたし、実際ゆうちゃん自身も同行を遠慮する旨をすまなそうに伝えてきていた。だけどゆうちゃんは、きっと考えが変わってかつての母校へとやってきたに違いない。もしかすると事前になにも言わずひょっこり顔を出しておどろかせるつもりだったのかもしれない。

 そうしてまもなく扉がひらいたので智子がいの一番に廊下へ躍りでる。ゆうちゃんがはいっていったのは四年二組の教室だ。ここへは四年生だったころの智子がゆうちゃんと一緒に毎日楽しくかよっていたのだけど、今江先生とともに過ごした最後の教室でもあったから、智子はことさらこの場所に強い執着を持っていた。

 ともあれ気が動転していた智子は激突せんばかりの勢いで教室の引き戸に張りつき、そのままそこを勢いよくあけた。足を踏み入れる前になかの様子を確認したりもせず、踊り場のほうにいる仲間たちの存在も忘れた智子は、吸いよせられるようにして教室へ飛び込んでいく。

 

 瞬間、智子の世界が()()()()()




つづく


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【ホラー】原幕小の七不思議(8)

四年二組、ふたたび

 キーン コーン カーン コーン……

 

 智子が教室にはいった途端、スピーカーからチャイムの音が流れる。だけどもそちらを気にするどころじゃない智子は、教室内の様子を前にあぜんとしていた。

 

「え……?」智子は周囲を見回し、つぶやきを漏らす。「なにこれ……」

 

 辺りにはおおぜいの子供たちがいて、がやがやとしていた。チャイムが鳴ったからか、立っていた子たちが自分の席へと戻りはじめ、イスのガタガタ鳴る音があちこちから聞こえてくる。

 明るい──照明がついているわけでもないのにそう感じるのは、教室のなかに満ちる自然光のせいだ。どこもかしこも薄暗さが漂っていた裏幕だったのに、いまやすっかり日中らしい明るさを取り戻していたのだった。

 

「黒木さん」

 

 そうしてチャイムも鳴りおわり、すっかり子供たちが着席したなかで智子だけが立ち尽くしていたところ、誰かが背後から声をかけてきた。

 

「あっ!?」

「ほーら、席について」

 

 うしろにいたのは、なんと今江先生だった。教室へとはいってきて引き戸を閉じた先生はそのまま自分の机のほうに歩いていって、部屋のすみにあるガラス棚からプリントや冊子なんかを取り出しはじめた。

 

「もこっち、もこっちってば」

 

 突然あらわれた今江先生を凝視していた智子だったけれど、ざわつきの収まった教室からなじみのある声が聞こえてきたことに気づいてはっとなる。

 

「ゆうちゃん!」

 

 たくさんの子供たちのなかから、親友の姿を見つける智子。黒縁メガネのゆうちゃんが、少し離れた先で席に座ったまま智子に呼びかけていたのだった。

 

「ちょっとゆうちゃん、なにしてんの!?」

 

 みんなの机をすり抜けて、智子がゆうちゃんのもとへ駆け寄った。なにもかもが突然のことだらけで混乱している智子が親友の肩をゆさぶるが、ゆうちゃんのほうは目をぱちくりさせるばかりだ。

 

「授業はじまっちゃうよ? 座ろうよ」

「はぁ……?」

 

 智子の問いかけを受け、ゆうちゃんがおっとりした口調でそう返す。そんなゆうちゃんの言動がどうにもおかしいので、智子はますます困惑する。ついさっき廊下で見かけたゆうちゃんを追って教室へはいったら、なぜかそこに子供がたくさんいて、今江先生まであらわれた。ゆうちゃんの言う通り、教室のなかは今まさに授業がはじまらんとしているかのような雰囲気であったから、これはいよいよもっておかしいと思いはじめる智子。

 

「ねぇもこっち、()()()

「あ……」

 

 座って。座って。座って。

「もこっち」というのはゆうちゃんが智子につけたアダ名のことで、こんなふうに呼ぶのは世界でゆうちゃんただひとりだけだ。そのゆうちゃんが智子に向かって着席を求めてきたのだけど、妙に圧力を帯びた親友の言葉が智子の頭のなかで反響する。

 

「黒木さん、どうしたの?」

 

 教卓の前に立つ今江先生が声をかけてきた。ぼんやりする智子がそちらを振り返れば、先生が不思議そうに目を向けてきていた。

 

(あーそっか、そうだった)

 

 ふいにおとずれたその気づきを受け、たちまち頭のはっきりしてきた智子が、あいていた席へさっと座ってみせる。そこはゆうちゃんのすぐうしろで、いつも座っている()()()の席だった。

 

「きりーつ」

 

 智子がそう声を張りあげて、さっき座ったばかりの席を立つ。するとゆうちゃんを含めた教室の子供たち全員が、それに合わせていっせいに立ちあがる。

 

「これから、二時間目の授業をはじめます。れいっ」

 

 智子がそう言って頭をさげれば、周囲もならっておじぎをする。そうして最後に智子が「ちゃくせき」と締めくくったところで、みんなが腰をおろしていった。

 

「はい、じゃあみんな教科書ひらいてね。今日は二五ページから」

 

 にっこり笑った今江先生が、ほがらかな声でみんなに告げる。それを聞いた智子はさっそく机から国語の教科書を取り出して、ぺらぺらと目当てのページを探すのだった。

 

 智子はこの四年二組で学級委員をやっている。原幕小では授業ごとの号令を各クラスにいる男女ふたりの学級委員が担当する決まりになっているのだけど、今週は智子の当番だ。さっき智子におとずれた気づきというのはこのことで、自分の役割を思い出した彼女はそれをいつも通りこなしてみせたという訳だ。

 

「『キモビトと内猫(うちねこ)』。ある日、内猫のやしきに、キモビトから手紙がきました。それはこんなのです。おみやげ、ありがとう、ございます……」

 

 先生に指名されたゆうちゃんが、立って朗読をはじめる。そのうしろ姿をなんとなく見やるうち、智子は不思議な気持ちになる。

 

(なんかえらく久しぶりっていうか……)

 

 こうして塾以外でゆうちゃんと授業を受けるのは、いつ以来のことだろう。もう何ヵ月も学校のなかでゆうちゃんの姿を目にしていなかったような気がする。毎日一緒に登校してるはずのゆうちゃんにどうしてこんなことを思ってしまうのか、その理由はわからないけれど、とびきり大きなおさげ髪を垂らすゆうちゃんの背中を見ているとなんだかほっとする。

 ずいぶん長いあいだ、悪い夢を見ていたのかもしれない。ゆうちゃんが学校からいなくなって、嫌いな先生が担任になって、智くんもあまり言うことを聞いてくれなくなった。飼育委員になれるはずだったのに、乱暴なヤンキーが力づくでその座を奪っていった。わたしのかわりに学級委員になった女子は要領のいい奴で、先生が見てないところで掃除をサボったりするし、ヤンキーにはビビってなんにも言えないくせして、わたしのちょっとした居眠りなんかは目ざとく注意してくるのがずるくて嫌いだ。

 クラスの女子がわたしを無視する。かと思えば面白半分にちらちら見てくる子たちもいて、お母さんが選んでくれたわたしの服に対して「ガキっぽい」だの「ダサい」だのと陰口を叩いたりするからくやしい。

 男子のなかにイカサマのことでからかってくる連中がいるからつらい。せっかく王者(クイーン)になれたのに、うっかりイカサマがバレてしまったから、智くんの見ている前で死にたくなるほどの恥をかいてしまった。早く忘れたいことだったけど噂はすっかり広まって、もう誰もわたしと勝負してくれなくなったし、なじみの駄菓子屋にも近寄りづらくなってしまった。

 ああ、でも、こういうことはぜんぶ夢だったんだ。だから大丈夫だ。もう「はー」ってため息ついたりしなくていいんだ──。

 *

「きょう黒木さんがしてくれたこと、ちゃんと見てた人はいるかな?」

 

 帰りの会で智子がチョーク片手に司会をしていたところ、隣に立つ今江先生がそんなことを口にした。質問されたみんなはなんのことかよくわからなかったようで、そのまま先生の言葉を待つ。

 

「黒木さんが花瓶の水をかえてくれたの。最近みんなほったらかしだったんじゃないかなー」

 

 先生がそう説明すると、何人かの子が感心したように声をあげた。そのなかにはゆうちゃんもいて、教壇の上の智子へまろやかなまなざしを向けてくる。

 

「あ、でも今日だけだし……」

 

 チョークを置いた智子が、そう言ってはにかむ。花瓶の水がちょっとにおってきているようだったので、それに気づいた智子が入れかえておいたのだけど、先生はそうした智子のおこないにちゃんと気づいていたらしい。わざわざこうして褒められるとは思っていなかったので、智子としては照れるばかりだ。

 

「ううん、今日だけじゃないよ。黒木さんがいつもみんなのために色んなことしてくれてるの、先生ちゃんと知ってるもの」

「あっうん、学級委員だし、当たり前かなーって……」

 

 先生が言葉を重ねてまたほめてくるものだから、にへら顔の智子がますます顔を赤くする。

 学級委員たるもの、まわりのお手本とならねば。そのように考える智子は誰に言われるでもなく進んで人の手伝いをしたり、めんどうごとがあれば率先して自分が引き受けてあげたりしていた。たまには楽をしたりズルしたくなることもあるけれど、みんなよりもちょっと()()()な自分はクラスでいちもく置かれていると思っていたので、それにふさわしい働きを日々心がけていたのだった。

 

「その当たり前がすごいの。先生もむかし学級委員やったことあるけど、全然ちゃんとしてなかったなー」

「でも先生って児童会長だったんでしょ? それってすごいじゃん」

 

 先生がかつての自分を引きあいに出してまたほめる。だけどあまり持ちあげられてもいい加減むずがゆくなってしまうので、智子は話題を切りかえるべく、以前教えてもらった先生の子供時代について話を振った。

 

「そんなことないよ。お仕事そっちのけで他のことばっかりしてたもの」

「なにしてたの?」

「ちょっとね、色々」

「色々ってなに? どんなこと?」

「んー……ないしょ」

「え~」

 

 先生ったら、もったいつけちゃって。えくぼ顔の先生がはぐらかすので、智子だけじゃなくクラスのみんなも口々に教えて教えてと騒ぎたてる。こうなったらいっちょ先生の隠しごとを議題にあげてみよう。そうたくらむ智子が「はい教えてほしいひとー!」と、みんなに挙手を求めて先生を困らせたりするのだった。

 

 ◆

 

(おっと……)

 

 とある日の何時間目かのこと、先生から採点済みの答案用紙を受け取った智子は、花丸の書かれたそれを見てちょっと困ったように笑う。

 

「もしかしてまた一〇〇点?」

「ん、まあね」

「へー、すごいねぇ」

 

 席に戻ったところでゆうちゃんからそうたずねられたので、智子がなんでもないことのように結果をぺらっと見せてやる。実際、こうしたことは今の智子にとってはもう珍しいことではなく、ここ最近受けたテストの成績はいずれもすこぶる優秀なのであった。

 

(あれかな、やっぱりわたしって「上の領域」の人間なのかな)

 

 おそらくクラスのなかで自分の学力はトップだ。いや、学年全体で見ても一番かもしれない。智子がそう思うのは、なんだか授業でやることの全てがとっくの昔に習ったものであるような感じがして、たまのテストも悩むことなくスラスラ解けてしまえるからだ。だからもう、いまさら満点を取ったとしても特にはしゃいだりはしない智子だった。

 学級委員としてクラスを仕切るのも手慣れたもので、まだまだお子様なみんなをリードしてあげるうち、いまやすっかり大きな信頼を寄せられるようになった。黒木さんってすごい、黒木さんっておなじ人間じゃないみたい──こんなふうにクラスメイトから尊敬のまなざしを向けられるとき、智子は決まって「そんなことないよ、みんなのお手本になれるようがんばってるだけだよ」と謙虚に振るまってみせるが、実力の高さからクラスのなかでどうしたって注目を集めてしまう自分にいい加減「やれやれ」とため息をつきたくなってしまう。

 *

「はー、やれやれ」

 

 今日ぐらいはひとりきりでゆっくりしたいなと、智子は昼休みに周囲の目を盗んでA棟非常階段のなかほどまでやってきた。ここは普段からひとけが少ないので、こんなふうに隠れてくつろぐには持ってこいの場所なのだ。

 

「さて、と……」

 

 ポケットから携帯電話を取り出した智子が電源を入れる。誰かに連絡したりするためではなく、ここでこっそりモバイル端末用のゲームをするためだ。そうして智子がゲームアプリで遊びだしてからしばらく経ったころ──

 

「あっ、なんだよもう」

 

 突然誰かから着信がはいってきたのでゲームを中断せざるをえなくなった。そのことにムッとしつつ、智子は連絡してきた相手を確認する。

 

(なにこれ?)

 

 ディスプレイには「ハナコ」と表示されていたのだけど、こんな相手はアドレス帳に登録した覚えがない。

 

(きもちわるっ、無視だ無視……!)

 

 ひょっとしたら智くんがいたずらして勝手に登録したのかもしれないけれど、ともあれ得体の知れない着信は受けたくない。そう思った智子が終話ボタンをひと押しする。

 

『智子ちゃん』

「うわっ!?」

 

 切ったと思ったそばからいきなり声が漏れ聞こえてきたので、おどろいた智子が思わず電話を取り落としてしまう。

 

(だれ……?)

 

 もしや間違えて通話ボタンでも押してしまったのだろうかと思う智子だったけれど、相手から名前を呼ばれたようだったので、おそるおそる電話を拾いあげる。

 

「も、もしもしっ」胸をどきどきさせながら、智子が電話口の相手へと呼びかけると、

『戻ってきて、戻ってきて……』女の子の声でそうした言葉が返ってきた。

「あのっ、だ、だれ!?」

『智子ちゃん、戻ってきて……』

「えっ、なに? なんなの?」

 

 こちらの呼びかけに反応するでもなく、一方的にうわごとのような言葉を繰り返す電話口の相手だったから、智子は怖くなってきた。

 

『こっちに……こっちに来て……』

「ヒィッ!?」

 

 これは普通じゃない。相手の様子があきらかにおかしいと見た智子は、顔から電話を離して終話ボタンを連打する。そうこうするうちピッと音が鳴り、そこでようやく通話が途絶えた。智子の手が震えているから、電話に取り付けてある毛むくじゃらのストラップもヘビのようにクネクネと揺れている。

 

(ない、ない……!)

 

 混乱冷めやらぬうちにアドレス帳を確認していた智子だったけれど、さっき電話してきた「ハナコ」という登録はどこにも見当たらなかった。着信記録にすら痕跡が残っていないものだから、青ざめずにはいられない。

 

(幽霊だっ、幽霊がかけてきた!)

 

 突然の怪奇現象にすっかり心臓の縮みあがった智子が、足をもつれさせつつ大慌てで非常階段をおりていく。ひとりっきりでいたいなんてもう言ってられない。人恋しさを一気にふくれあがらせた智子は、その辺りで遊んでいた低学年の男の子たちにしがみついたりしたのだった。

 *

「あれぜったいガチだから。マジでガチの心霊現象だよ」

「そういうのってやっぱりホントにあるんだね」

 

 放課後、ゆうちゃんとおしゃべりしながら廊下を歩く智子が、改めてくだんの幽霊電話のことを話題にしていた。智子が本日遭遇した奇妙な出来事はとっくにクラス中に広まっていて、みんなしてキャーキャー騒いだりしたものだ。

 

「ほん(こわ)とかに送ったら絶対採用されるんじゃないかなー」

「あっ、それいいかも。もこっちやってみなよ」

 

 たまにテレビでやってる心霊番組宛てにこのたびの恐怖体験を投書してみたら、きっと取りあげてもらえるに違いない。でもそしたらますますクラスで注目されちゃうなー、たはは、まいったな、などと思ったりする智子。

 

「またかかってきたらどうしよっか。今度はゆうちゃんが出てみる?」智子が手のなかで遊ばせていた携帯電話を見せつけそのように言えば、

「えっ? いいよいいよ」ゆうちゃんが慌てて手を振る。

「ホラでんわ来たっ、ゆうちゃん出て!」

「もー、もこっちー」

 

 鳴ってもいない携帯電話を智子がぐいっと差し出したので、ゆうちゃんがクスクス笑って駆けだした。そんなゆうちゃんのあとを、智子がランドセルを揺らして愉快そうに追いかけていく。

 喉もと過ぎればなんとやら、最初こそ体の震えが止まらずにいた智子だったけれど、まれな体験をした自分の話にクラスメイトたちが目を輝かせて食いついてきたものだから、すっかり得意な気持ちになっているようだ。ここ最近はみんなから注目されるたびに「やれやれ」だなんて思ったりしていた智子だけれど、実際は満更でもないのだった。

 

「とーもくん」

 

 旧校舎のほうにある三年生の教室をのぞき込んだ智子が、そこにひとり居残って本を読んでいた男の子へ声をかける。そうしたら、ぱぁっと笑みを浮かべた男の子がランドセルをしょってすぐさま智子のもとへ走ってきた。

 

「帰ろっか?」

「うん!」

 

 手にした本を棚にきちんと戻し、智子の言葉に元気よくうなずいたのは智貴だった。彼はまだ三年生だから、週に三日は智子よりも早くその日の授業が終わる。だけどそうしたときも、迎えが来るのをこうして教室で待つことが日課となっていた。

 

「今日ね、すごいことがあったんだよ。幽霊から電話かかってきたんだ」

「マジで!?」

「ほんとほんと、ねぇゆうちゃん?」

 

 みんなと連れだって昇降口に向かっていた智子が、弟に今日の出来事を早速教えてあげる。隣を歩くゆうちゃんにも確認してみれば、肯定するようにうんうんうなずいた。

 

「いきなりハナコって子から電話かかってきてさ、なんか『戻ってきて~、戻ってきて~』ってブツブツ繰り返してるの。だれなの!?って聞いても全然答えてくんないんだけど、向こうはなんかお姉ちゃんの名前知ってたみたい」

「それで……?」

「そしたらね、今度は『こっちに来て~』とか言ってくるから、あわてて電話切っちゃったよ」

「うわ、それぜったいユーレイだよ。やばいやつじゃん」

「だよねぇ。だって着信記録になーんも残ってないんだよ? どう考えても人間わざじゃないね、あれは」

 

 幽霊電話の一件を聞かされた智貴は、それが作り話かどうかなんて少しも疑っていないようだった。もちろん実際にあったことなのだからウソなわけがないのだけど、彼の様子からは例えあからさまなホラ話を聞かされたとしても、お姉さんの言うことなら信じてしまいそうな素直さが見て取れる。

 

「智くんも気をつけたほうがいいよ? この話聞いちゃうと、ハナコさんから電話かかってくるかも」

「えぇー……」

 

 自分のクラスの下駄箱から靴を取りだしていた智子が、にやりと笑っておどかすようなことを言う。するとあとを付いてきていた智貴が、途端に不安げな表情となる。こんな尾ヒレはいまさっき智子が付け加えただけのものに過ぎないが、彼は真に受けてしまっているようだ。

 

「もこっち、やめようよ。智貴くんかわいそうだよ」見かねたゆうちゃんがそうたしなめれば、

「あーうんうん」なおもにやにやする智子が「ごめんごめん、今のはウソ」と訂正して、弟の頭に手をぽんぽん乗せる。

「もーっ!」ぷりぷりおこった智貴が、その手を払って三年生の下駄箱があるほうへ走っていった。

 

 智くんはいつも素直でかわいいから、ついからかいたくなってしまう。今のでスネちゃったかもしれないけれど、智くんの機嫌をなおすのなんて簡単だ。たまにケンカしちゃってそっぽ向かれるようなことがあっても「ちゅーしてあげよっか?」なんて言ってやればイチコロなんだから。

 智くんは世界で一番わたしのことが好きみたいだから、本当は結婚してあげたい。だけどわたしたちはキョーダイだからそれは無理だ。でもずっとずっとそばにいてあげることはできるから、なにも問題ない。大人になってもふたり一緒に暮らしていたら、それはもう結婚してるのとおんなじだ。

 智くんがわたしのことを嫌いになったりしなければ、きっとそうなれる。かわいい智くんのままでいてくれたら、これからも仲よしでいられる。どこへ行くにも、なにをするのも、いつだってふたり一緒。今までずっとそうしてきたし、これからだってそうなるはずだ。そうじゃないといけない。そうならない未来なんて、いらない。

 弟の去ったあとを見やるうち、こんなふうに智子のなかで色んな気持ちがわきおこってきた。

 

「もこっち、どうしたの?」

「あっ、ちょ、ちょっと花粉で」

 

 だからなのか、智子の目に涙がにじんできて、鼻がすんすんひとりでに鳴る。そのことに気づいたゆうちゃんが気づかってくるが、それには及ばないととりつくろう智子。

 

(ん? ハンカチが……)

 

 ポケットをまさぐる智子が、あれっと思う。いつも持ち歩いているはずのハンカチがない。どこへやったっけな。落としちゃったかな。いや違うな、誰かに貸してあげたような気がするぞ。誰だっけ、クラスの子じゃなかったような。誰だ、誰だ……。

 

「クォン! クォン!」

「おおうっ!?」

 

 ランドセルのなかから突然動物の鳴き声らしきものが聞こえてきたので、智子がびくっとなる。この鳴き声は智子の携帯電話に設定されている着信音だった。

 

「んしょ……っと」

 

 ともあれ目もとを手でぬぐった智子が、ランドセルの前ポケットから携帯電話を取り出してディスプレイを確認するが──

 

「わぁっ!?」

 

 そこにさっきまで自分たちが噂していた幽霊電話の(ぬし)・ハナコの名が表示されていたものだから、たまらず悲鳴をあげた。

 

「ゆゆゆ、ゆーちゃん! これっ、ハナコさんからっ!」

「えっ? えっ?」

 

 うろたえる智子に服をつかまれて、あわあわするゆうちゃん。さっきまで考えていたことも吹きとんで、今はただくだんの心霊現象を前に目を白黒させるしかない智子だった。

 

「智くん来てー! はやくー!」

 

 もうとっくに靴をはきかえているであろう弟に、智子が大声で呼びかける。今はひとりでも多く誰かそばにいてほしいのだ。

 

「ともくーん! ちょっとー!?」

 

 だけども智貴はやってこない。電話を鳴りっぱなしにさせたまま、智子は彼のクラスの下駄箱まで走っていく。しかしそこに智貴はいなかった。もしやどこかで待っているのだろうかと思い、昇降口の大きなガラス扉をあけた智子が外に出て改めて弟を探すが、

 

(いないっ!? なんで……?)やはりそこにも智貴の姿はない。

「帰っちゃったのかなぁ」あとを追ってきたゆうちゃんが、辺りを見回しながらそんなことを言う。

 

 まさかそんな。わたしを置いて先に帰っちゃうなんて。ひょっとするとおこらせてしまったのだろうか。さっきちょっとからかったのがいけなかったのかもと考える智子であったが、こうした弟の行動にいたくショックを受ける。

 

(くそっ、こいつのせいで……!)

 

 さっきからコンコン鳴きどおしの携帯電話をにらみつける智子。そもそも弟をからかうきっかけになったのは、この幽霊電話だ。わたしが智くんに置いてかれたのは、どう考えてもこいつが悪い!

 

「もしもーし!」

 

 ボタンひと押し、即怒鳴る。腹が立ってきた智子は、いかりに任せてハナコからの電話を受けてやった。

 

『智子ちゃん……』

「うっさいなぁー! もうかけてこないでよ!」

 

 電話の相手は、やっぱりあの女の子だ。開口一番こちらの名を呼んできたハナコに、智子がまた怒鳴り散らした。

 

『こっちに来て……こっちに……』

 

 智子の荒々しい態度を気にもとめていないのか、ハナコが例によっておなじ言葉を繰り返す。

 

「こっちってどっち!? 意味わかんないんだけど!」

 

 来て来てと連呼するわりに、どこそこに来てとは言ってこない。なのでいくらお願いされても、智子としてはどうしようもなかった。

 

『五年一組に来て……』

「えっ?」

「もこっち、ダメ!」

 

 ハナコがそう告げたところで、突然邪魔がはいった。ゆうちゃんが智子の携帯電話をつかみ、それを取りあげようとしてきたからだ。

 

「ちょ、ど、どしたの?」

「幽霊と話したら寿命が縮んじゃうんだよ。おばあちゃんが言ってた」そう説明するゆうちゃんが、「だから、ね?」と言って腕の力を強めてくる。

 

 さっき電話の相手が気になることを言ってきたから、智子としてはもう少しそこの辺りをたずねてみたくなった。だけど親友からこうも引きとめられては、耳を貸さないわけにはいかない。

 

「わかったから、ゆうちゃん。ほら、切る切る、切った」

 

 終話ボタンをぴぽぴぽ押して、電話を切ってみせる智子。するとゆうちゃんはほっとしたのか、つかんでいたその手を離す。

 

「クォン! クォン!」

 

 まただ。なんともしつこい幽霊は、切ったそばからまた電話をかけてきたらしい。ゆうちゃんが再び電話を取りあげようと身構えたので、「だいじょぶ、無視無視」と言って手で制してやる智子。

 

「クォン! クォン! キャフゥン!」

(んんん……?)

 

 智子がおやっとなる。こうして着信が来ているというのに、ディスプレイの表示が切りかわらない。LEDもぺかぺか点滅するはずなのに、それすらない。

 

「キャワワワン! キャフーッ!」

「うわぁっ!」

 

 智子はおどろきのあまり、携帯電話を放り投げた。電話から垂れるストラップのぬいぐるみが、まるでいきもののように口をパクパクさせて鳴きわめいていたことに気づいたからだ。

 

「ゆっ、ゆーちゃん! あれっ、あれっ!」

「……」

 

 うろたえる智子が、またゆうちゃんの服をつかむ。だけどゆうちゃんのほうはさっきと違ってあわあわするでもなく、地面に落ちた携帯電話をじっと見ている。

 

(わたしのケータイが!)

 

 そうこうしているうち、小さいヘビみたいな──あるいはモールのおもちゃみたいな──ぬいぐるみがにょろにょろ地面を這って昇降口へはいっていった。携帯電話を引きずっているにもかかわらず、ぬいぐるみの這うスピードはずいぶんと早い。このままだと見失って電話をなくしかねなかったから、智子はおそるおそる追いかけていく。もちろんひとりだけでは怖いので、ゆうちゃんと一緒にだ。智子がなにも言わずとも、彼女はだまってうしろをついてくる。

 ヘビはゆくゆく。昇降口を通過して、地続きになっているC棟の廊下をつき進んでいった。さっき外履きにはきかえた智子だったけれど、土足であることも忘れてそのあとを夢中で追う。そうするうち、やがてヘビは廊下の先にある階段をするするのぼっていく。カツンカツンと階段の段差に携帯電話が何度も打ちつけられて、いまにも壊れてしまいそうだ。

 

(つかまえなきゃ!)

 

 ランドセルであいつを上からおさえつけて、それからゆうちゃんにハサミを取ってきてもらおう。ストラップの紐を切ってやれば、あいつからケータイを取り戻せる。いやいや待った。よく考えたらあれはものすごいことだ。キャンキャン鳴いたりして、まるでいきものだ。なんであんなことになっちゃったのかわからないし、ひょっとしたらハナコさんのしわざなのかもしれないけれど、とにかくすごい。大人のひとにも見てもらったほうがいいから、にがさないようにしないと。

 希心ノ森で智くんとヘビ狩りをやったときみたいだなと、怖いながらもなんだか興奮してきた智子は不思議生物の捕獲に意欲を燃やす。

 

(よーし、行き止まり……)

 

 二階へとやってきたヘビはそのまま左に折れ、袋小路になっている廊下のほうへと進んでいった。するとヘビがある教室の前で止まり、入り口の戸に鼻先をくっつけて、なかへはいりたそうにもぞもぞしだす。

 

「ゆうちゃん、ちょっとあいつつかまえるから、ここで見張ってて」

 

 おろしたランドセルを構えつつ、智子がゆうちゃんに後詰(あとづ)めをたのむ。

 

「行っちゃダメ」

「おっ……?」

 

 そうして前に踏みだそうとした智子だったけれど、腕をつかんできたゆうちゃんに引きとめられてしまった。さっき電話を取りあげようとしたときと違い、その力はやけに弱々しい。

 

「心配ないって。あんなチビ、どうってことないよ」

「ちがうの、そっちに行っちゃダメなの」

「なんで?」

「そっち行ったら、もこっちいなくなっちゃうから」

「うん……?」

 

 ゆうちゃんがよくわからないことを言うので、智子はとまどった。見ればゆうちゃんは、なんだか泣きそうな顔をしているようだ。

 

『おいっ黒木、なにしてんだよ! 早く来いよ!』

 

 廊下に突然怒鳴り声が響いたので、自分の名前を呼ばれた智子がはっとなる。

 

『お願い黒木さん、こっちに来て!』

『そろそろ戻ってきたら? このままじゃわたしたち帰れないんだけど』

 

 と、今度はまた別の声が口々にそんなことを言ってくる。その声はあきらかにヘビのいるほうから聞こえてくるようだった。

 

(ケータイから……!?)

 

 ちょっとくぐもったような感じのする声は、もしやヘビの引きずるあの携帯電話から発せられているのではないか。謎の声の出どころについて智子がそう見当をつける。

 

(なんかだいじなこと忘れてるような……)

 

 一体誰なんだろう。これも幽霊のしわざだろうか。でも、なんだかすごく気になる。誰のものとも知れないその呼びかけを受け、智子のなかにモヤモヤした気持ちがわきおこった。

 

(五年一組……)

 

 廊下の先にある教室が、さっきハナコに指定された場所であることに智子は気づいた。普段近寄ることもない教室だけれど、あのなかにハナコがいるのだろうか。であれば、いましがた聞こえてきた声の主たちも一緒なのかもしれない。そう思った智子は、教室に誰がいるのか確認したくなってしまう。

 

「ゆうちゃん、ほら、だいじょうぶだから」ずっとつかんでくるゆうちゃんの手をぽんぽん叩き、智子がそう説得する。

「本当にいいの?」だけどゆうちゃんはなおも手をはなさず、

「そっちにわたしはいないよ?」と問いかけてきた。

「ど、どういう意味?」

「もう今江先生のクラスじゃなくなるよ。智貴くんだって、一緒に帰ってくれなくなるよ。それでもいいの? また()()()()()()に戻るの?」

「あ……」

 

 ゆうちゃんの言葉が、智子に突き刺さる。それは長いあいだ見ていた悪い夢のはずだ。これまでそう思っていた。思おうとしていた。だけどゆうちゃんが「ひとりぼっち」と口にしたことで、目を背けていた世界が急速に近づいてきたのを智子は感じる。

 

『みんな智子ちゃんのこと待ってるよ。だから一緒に帰ろう? 智貴くんも、成瀬さんも、みーんなあっちにいるよ。先生もいるから……ほら……』

 

 携帯電話からまた呼びかける声が聞こえてきた。それはハナコのようでもあり、だけどちょっと違う、大人のひとみたいな声だった。

 

「……わたし、行かなきゃ」自分をつかむゆうちゃんの手を智子がそっと振り払い「ごめんねゆうちゃん。わたし、みんなのリーダーだからさ」

 

 智子はここにきて、とてもだいじなことを思いだした。あの教室のなかにいるのは、きっと()()()()だ。そのように思う智子が、持っていたランドセルを地べたに落とす。

 

「じゃあね、ゆうちゃん」

 

 四年生のゆうちゃんに、さよならを告げる智子。そんな智子のことを、ゆうちゃんがなごり惜しそうに見つめる。けれど智子の決意を前にもう引きとめる気がなくなったのか、それ以上なにか言ってくることはなかった。

 

「チビ、おいで」

 

 引き戸の前でうろうろしていたミニヘビを、智子が携帯電話ごと拾いあげる。するとヘビと電話が一瞬光に包まれて、長いマフラーのようなものへと変化した。そうしてマフラーがいきもののごとく智子の腕をつたっていき、首にしゅるりと巻きつく。

 

(【学年マキ戻し】……ちょっといい夢見れたかも……でも、)

 

 ゆうちゃんはとっくに転校しているし、智くんだって四年生になっている。そして五年生になったわたしの担任は、もう今江先生じゃなくなったはずだ。今まで見ていたことは、みんな昔のこと。四年生だったころの思い出を都合よくねじまげて、そのなかをさまよっていただけなんだ。だから──

 

(帰ろう、みんなのところへ)

 

 入り口をあけて、智子がそのなかへと足を踏み入れた。途端、淡い光の満ちていた世界から急速に色が失われ、なんとも薄暗い教室が目にはいってきた。それは智子にとって日々の孤独と息苦しさを象徴する忌々しい場所であったが、しかし今だけはその光景が少しだけ違って見えた。智子にとってもはや赤の他人ではないといえる幾人もの見知った顔があったからだ。

 

「あ、えっと……へへっ」

 

 奥のほうでひとかたまりになっていた者たちからいっせいに視線を向けられ、智子が遠慮がちに手を振ってみせる。思った通り、教室で待っていたのはやはり仲間たちなのであった。彼女らはヒザをついて手を組み、お祈りでもするような恰好をしていたが、こぞって立ちあがったみんなが智子へと駆け寄っていく。

 

「よかったぁ……ホントに……」

「わっ」

 

 心底ほっとした様子の花子が、智子のことをぎゅっと抱きしめる。

 

「もう戻ってこないんじゃないかなって……」花子が声をふるわせそのように言うので、

「あっうん、で、でもみんなが呼んでくれたから……」おかげで戻ってこれたのだと、そう返してやる智子。

 

 あの幽霊電話の正体は花子たちだったようだ。一体どうやったのか、思い出の世界にこもっていた智子に向けて、彼女らは携帯電話ごしに連絡してきたのだった。

 

「ったく、手間かけさせやがってよー」

 

 頭をかくヤンキー娘が、やれやれといった様子で智子にもんくを言う。それを聞いた智子が「ヤンキー、おまえもだろ!」と口に出かけたが、ぐっとこらえてやる。

 

「黒木さんっ、わたしたちもう友達だからね?」真子が智子の手を取り、そんなことを言ってきた。

「へっ? な、なに?」

「今までなんにもしてあげられなくてごめんなさい。でも、もうだいじょうぶだから……」

「あっ、あのー……えと……」

 

 いきなりこのように迫られては、困惑せざるをえない智子。なんだか「トイレの魔子さん」みたいだぞと、ちょっとばかり体が引き気味になる。

 

「ゆりもそうだよね? 黒木さんと友達」

「あーうん、まあ」

 

 うしろのゆりに、真子がそう言って同意を求める。それに対して気のない返事をするゆりであったが、その表情はどことなくやわらいでいるようでもあった。

 

(なんだこれ)

 

 なんだかよくわからないけれど、ふたりから友達宣言されてしまった。そうしたやりとりを、花子がそばで見守っている。ひょっとしてこの人がなにか言ったのかなと、なんとなくそんなふうに勘ぐってしまう智子。

 

「あっ、じゃあ行こっか、そろそろ……」

 

 なんとなくむずがゆいものを感じたので、智子がそう言って流れを切りかえる。なんにしても、今後のことはまず無事にここを脱出できてからだ。ということで智子が先陣を切って教室をあとにし、そのまま廊下を進もうとする。

 

「──ッ!」

 

 途端、智子がバックで引き返してきたので、うしろに続こうとしていたみんなが教室へ押しやられてしまう。すると今度は、智子が教室の戸をいきおいよく閉めてしまった。

 

「なんだよ、なにしてんだよ」眉をひそめるヤンキー娘がそうたずねるが、

「あっ、あっ、あのアレっ、あのひっ……ひっ……!」智子はどこぞを指さして、声をうわずらせるばかり。

「あぁ? なんかいんのか?」

「いっ、いたいたっ、いる……!」

 

 ヤンキー娘の問いかけに、やっとそれらしい言葉を返せるようになった智子が続けてこう叫ぶ。

 

()()()()()()がいたぁ!!」




つづく


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【ホラー】原幕小の七不思議(9・完結)

◼設定資料(ネタバレ注意!)
各世代の七不思議一覧
【挿絵表示】



なつのかけら

 例のあの人──その名前がオカ研ノートにはじめて出てきたのは、一九九二年の十二月ごろ。当時五年生だった今江先生が、月の終わりに書いた活動記録のなかでのことだ。まだこのときは最近耳にした噂のひとつとして、くだんの怪人に少々ふれているだけだった。だけどひと月も経つと、その扱いが大きくかわってきた。「いま話題の例のあの人」として、オカ研が本格的な調査に乗り出したからだ。

 例のあの人に関する噂は、ひとつではない。誰かが彼女のことを話題にあげるたび、新たな設定がつけ足されていく。給食の時間でもないのに教室で食べものの匂いがしてきたら、それは例のあの人がカーテンの裏に隠れてお弁当を食べている証拠だ。教室のなかでゴキブリが踏みつぶされていたり、トイレの紙がやたら無駄づかいされていたら、これも例のあの人のしわざ。妙に早く散ってしまう桜があるのは、例のあの人が木に蹴りを入れているせい。図書室の前でぶつぶつとなにかしゃべっている人がいたら、例のあの人なので話しかけないほうがいい。放課後に誰もいない教室でぼんやりしているが、それを目撃してしまうとあとをつけてくる。ステルス人間なのでレーダーに映らず、のぼり棒を見るとのぼりたがり、犬並みに鼻が利くので物探しが得意。好きな楽器はカスタネットで、なんでも四角に切りそろえる癖があり、鏡を見ればゲロを吐く。傘立てには例のあの人の傘が置いてあるのだけど、これを持って帰ってしまうと殺されるので要注意だ(ただしプリンをあげると許してくれる)。

 学校以外の場所にも出没するそうで、下校中の中学生が河川敷を自転車で走っていたところ、うしろの荷台に例のあの人が飛び乗ってきてすんすん匂いをかいできただとか、パンツ丸出しで公園のベンチに寝ていたところ、お巡りさんに注意されてベソをかいていただとか、ウンチがしたくなって他所の家へトイレを借りにきただとか、みんなの遠足についてきた彼女が集合写真の右上にこっそり写り込んでいた、なんていう話もある。

 やれこんな悪さをするだの、あんなおふざけもするだの、これこれこういう性格で、こんな弱点だってあるだのと、この手の噂は数えあげたらキリがないほどだった。果ては〈例のあの人の歌〉なんてものまで考え出されていたらしい。初夏をむかえるころには、彼女に関する相当な量の噂がオカ研のもとに集まっていた。こうした成果をまとめた手づくり新聞を、オカ研はたまに校内の掲示板へ貼らせてもらっていたので、それが例のあの人ブームを後押ししてもいたようだ。

 目撃情報という()()の真偽不明な証言をもとにした想像図なんかも、この新聞のなかで度々紹介されていた。かなりの猫背で、髪は黒くボサボサ、緑色の目玉はギョロリとにごっていて、やせっぽちのうえ顔色もすこぶる悪い。どこかの学校の制服のようなものを着ているが、ひどく汚れていてボロボロ。これが噂の出まわりはじめたころにおける彼女の外見的な特徴だった。けれども日を追うごとに、その見た目について諸説が入り乱れていく。

 例のあの人は刑務所から脱獄してきたので、両手両足に(かせ)がついている。黒いジャージを着ていて、笑ってしまうぐらいの厚化粧だ。黒縁メガネのアヒル口。ゴーグルにマスク姿。頬のこけたブスおばさん。口裂け女の親戚。チビだ、いやノッポ。全身が銀色。実は一〇〇人もの彼氏とつきあってきたほどのモテモテ美人で、「黒の淑女(しゅくじょ)」の異名を持つ。情報収集のためにオカ研が用意したご意見箱──児童会室の前に設置されていた──に、うんとかわいくかかれた例のあの人の似顔絵がはいっていたこともある。

 オカ研も、そして学校のみんなも、例のあの人に夢中だった。彼女について考えるのは楽しいことで、それを友達と共有してワイワイするのはもっと楽しい。友達のいない子だって、オカ研新聞の「例のあの人コーナー」で取りあげられることを期待して、自分なりの新説をあれこれ考えてはご意見箱に投書していたものだ。かように全校規模で大きな広がりを見せていた例のあの人ブームなだけに、オカ研といえどもそのすべてを把握することはできなかった。ごく一部のクラス、あるいは特定のグループのなかでのみ語られていた知られざる噂がいくつか存在していたからだ。そう、例えばこんなふうに……。

 *

「ぶっ、ブキショーニン! ブキショーニン!」

 

 目の前にあらわれたおばけを追い払うため、智子がつばを飛ばして呪文を連呼する。

 

『ブキショーニン!』

 

 呪文を唱えているのは智子だけではない。そのまわりではゆり以外のみんなも口々に同じ言葉を繰り返していた。ヤンキー娘などは特に必死で、見ているだけでぞっとさせられる例のあの人の風貌に嫌気がさしているのか、彼女を一刻も早く追い払わんとしているようだ。

 

「ブキショーニン・ニ・ナルンダー・ヨネッ!」

 

 仕上げとばかりに、智子がちょっと長めの呪文を叫ぶ。さっき廊下で見かけた例のあの人はすぐしないうちに教室のほうまでやってきて、引き戸の鍵を閉める前に押し入ってきた。だけどもこうしてやれば簡単に退散させられるので心配ない。掃除機なんかなくっても、口先だけでヤメテヒエーの赤っ恥。この言葉のいったいなにがそんなに嫌なのかわからないけれど、ともあれ効果はてきめんのはずだった。

 

「グフフッ……ンフフッ……」

 

 だけども例のあの人は、そうしたみんなからの集中砲火をくらってもどこ吹く風。彼女は出口の手前に立ったまま、智子たちに意地悪そうな視線を向けてくぐもった笑い声をあげるばかりだった。

 

「ねぇっ、なんか効かないんだけど!」

「う、うん、そうみたい……」

 

 例のあの人を追い払うための呪文がまるで通用しないので、そのことに焦った智子が花子のそでをグイグイひっぱる。しかしさしもの花子もこれには面食らっているようで、すがる智子と一緒にあとずさるしかなかった。

 

「あれ聞こえてないんじゃない?」

「へ?」

「ほら、ヘッドホンしてるし」

「あっ……!」

 

 指摘を受けた智子が確かめてみれば、ゆりの言うとおりだった。よく見れば例のあの人は頭にヘッドホンをつけていて、彼女の耳もそのイヤパッドにすっぽりとおおわれているのだった。あれのせいで呪文が防がれているのだとしたら、対処法が通用しなくなるということなので実にまずい。

 

(なにそれ、そんなの知らない!)

 

 前回遭遇した際は、あのようなものはつけていなかったはずだ。こんな対策を取ってくるだなんて、オカ研ノートには書かれていなかった。こんなとき花子はどうするのだろうと思った智子が目を向けてみれば、彼女もゆりの推測を聞いてとまどっているようだった。

 

「さがってろ!」

 

 ヤンキー娘が及び腰ながらもみんなの前に出て、手にしたイスを例のあの人めがけて「うらぁっ!」と放り投げる。

 

「ブゲッ」

 

 イスは例のあの人の鼻づらを直撃した。顔をおさえた彼女が前かがみになってうめくので、智子たちはその隙にもうひとつの出口から迂回して逃げる。

 

「きゃあっ!」

 

 そうしてみんなが廊下を走り抜けていこうとしたところで、真子が悲鳴をあげて足を止めた。顔をおさえたままの例のあの人が、ゆく手をさえぎるようによたよた廊下へ出てきたからだ。

 

「こっちこっち! こっから出よう!」

 

 智子がそう言って廊下のつきあたりにある南非常口へと駆けより、そこをあけようとする。

 

「おっ、んっ?」

 

 が、たちまちつっかえてしまう智子。扉の外側からやんわり押し返す力が働いているようで、ちょっとひらいただけですぐに閉じてしまったのだ。

 

「あかないの?」

「いやっ、な、なんか詰まってて!」

 

 たずねてくる花子に、智子がそううったえる。扉の具合があきらかにおかしい。小窓がなにかにふさがれていて外の様子は見えないけれど、あたかも巨大なクッションが扉の前に居座っているような感じだ。全員で力を合わせてみるものの、どうにもならなかった。

 

「ネェ、ネェ」

 

 あたふたしていた智子たちへ、廊下の先にいる例のあの人がふいに話しかけてきた。途端、みんながいっせいに彼女のほうを見やる。

 

「ワタシッテ、カワイイ?」

 

 鼻からつうっと血を垂らす例のあの人が、うつろな表情でそうたずねてくる。智子にも投げかけてきた、例の質問だった。

 

「か、かわいいです!」問いかけにいち早く答えたのは、真子。

「あっ、ち、ちがうよ真子さん」だけども智子がそれを制してかぶせるように「すっごいブス! ブスブス!」

「おこらせちゃうよぉっ」智子のそうした発言に真子が声をひそめてうったえるが、

「いいのいいの、これ効くから!」心配には及ばないと説明してやる智子。

 

 が、一方の例のあの人はというと、別におこっているふうもなく、かといってショックを受けているようでもなかった。彼女は顔をこてんとかしげて、「ドーナノ? カワイイ?」と質問を繰り返す。

 

「だからあれ、聞こえてないって」

「あっ、そっか」

 

 ゆりが改めてそう指摘するので、智子がはっとなる。例のあの人はヘッドホンで音を遮断しているから、なにを言っても伝わらない。だからもう、彼女と問答するのは無意味なのだった。しかし当の本人はそんなことお構いなしに「ドーナノ? ネェ、ドーナノ?」としつこくたずねてくる。

 

「おまえら、ハラぁ決めろ……。全員であいつをブチのめすぞっ……!」

 

 ヤンキー娘が意を決したようにそう言った。さっきイスをぶつけてやったとき、例のあの人が多少なりともダメージを受けていたようであったから、腕っぷしの通用する相手と見て戦いを挑むつもりらしい。

 

「で、でもあいつ、カマとか持ってるかも」そのような心配を口にする智子であったが、

「やるしかねえんだ……ほら、これ使え!」ヤンキー娘が廊下の壁にぶらさげられていたホウキをいくつかかっさらい、それをみんなに押しつける。

 

 例のあの人が背負っている平たいカバンには、色んなものが詰め込まれているらしい。ノートに教科書、手鏡にヘアピン、お茶のはいった水筒に、しょうが焼きのお弁当、それからおやつ用の駄菓子。他にはゲームボーイやウォークマンなんかもあるそうな。そしてそれ以外にも、気に入らない相手の喉笛をかっきるための刃物──カマがはいっているとのことだった。

 実際に智子はいかり狂った彼女からそのカマを持って追いかけられそうになったりもした。だから智子が心配しているように、そんなものでざっくりとやられてしまったらケガだけでは済まないだろう。このカマは前に呪文で追い払ったときに落としていったようだが、拾いなおしたか、あるいは予備をカバンに隠し持っている可能性がある。今はまだ質問することに夢中な例のあの人だけど、いつ豹変して凶器を取り出し「ブチコロスゾ!」とおそいかかってくるかわからない。しかしヤンキー娘の言うとおり、こうなったらもう危険をおかしてでもなんとかするしかないのだった。

 

「あのヘッドホン、取りあげちゃえばいいんじゃない?」ふと思ったことを智子が口にすると、

「そうだね、やってみよっか」それはいい案かもしれないと、花子が同意する。

 

 耳をふさぐヘッドホンさえうばってしまえば、また呪文が効くようになるかもしれない。そんなふうに活路を見いだそうとする智子が、みんなと一緒にホウキをかまえて例のあの人との距離をじりじりと詰めていく。

 

「ムニャムニャムニャムニャッ」

 

 と、例のあの人が急に自分の顔面を手でくちゃくちゃにかきまわしはじめた。突然のことに目を剥くみんなが様子をうかがっていると、やがてピタリと止まった彼女が手を離す。

 

「ドウ? カワイイ?」

 

 そしたらいつのまにか、例のあの人がさっきまでとは少し違う見た目になっていた。うっとうしそうだった前髪をうしろに流し、両サイドの髪はリボンで雑にしばってふぞろいなツインテールにしてある。あらわになったおでこにしわを作る彼女は、どうもメガネをかけているようだった。そのレンズごしに目をうるうるさせる彼女が、口をアヒルのようにとがらせフガフガとたずねてくる。

 

「ムニャムニャムニャッ」

 

 あっけに取られた智子たちがなにも言わないでいると、例のあの人がふたたび自分の顔をさすりはじめた。少しするとぱっと手を離し、隠していた顔を見せてくる。まるで智子たちに向けていないいないばあをしているようだった。

 

「カワイイ?」

 

 そうして披露した顔は、また違うものになっていた。メガネが消えて髪型ももとに戻ったけれど、今度はその顔に口紅やらマスカラやらが塗りたくられて、ずいぶんとけばけばしくなっているようだ。

 

(なにしてんのコイツ……?)

 

 例のあの人の奇妙な早がわりを前にたじろいだからか、智子たちは意識せずあとずさりしてしまう。そんな彼女らを尻目に、例のあの人がムニャムニャッとやってその顔をさらに変化させていく。頬をギュッとすぼめたなんとも言えない表情のおばさんになったかと思えば、続けて別人のような美少女になったりもする。だけども鼻からうどんのようなものがちゅるんと出てきたので慌てたようにまたムニャり、今度はもとの顔に戻った彼女がアゴをぐいと前につきだしガッツポーズを取る。白目を剥いてあっかんべーをしたときなどは智子がびくっとなったので、それに気づいた例のあの人がニターッと笑い、からかうように指さしてきたりもした。

 こうした百面相の合間に繰り返し「カワイイ?」とたずねてくる例のあの人であったが、彼女の奇行ぶりにすっかり呑まれていた智子たちはそれに答えてあげられない。といっても仮に「カワイイです」とほめてやったとして、彼女の耳には結局届かないのであるが。

 

()()カヨ……!」

 

 チッと舌打ちする例のあの人が、両手をだらりとさげる。もう百面相をする気はなくなったようだが、今度は「クソガキ……クソガキ……」と憎々しげにつぶやきながら、幽霊じみた顔つきで智子たちをにらみつけてくる。

 

「なんかおこってるみたいだよ……?」その様子に真子が不安をうったえると、

「ワケわかんねーな、イカレてやがる」ホウキを構えなおしたヤンキー娘が、

「おらっ、突っ立ってねぇ行くぞ!」と、みんなに発破をかける。

 

 そうして例のあの人に挑みかかったのは、いの一番に駆けだしたヤンキー娘と、それに負けじとあとを追う花子だ。彼女らはえいやえいやとホウキを振り回し、隙だらけな例のあの人を叩きはじめる。

 

「まこ、やるよ」

「う、うん……!」

 

 先陣を切ったふたりに続けと、今度はゆりと真子が攻撃に加わっていった。彼女らはホウキをヤリのようにかまえ、前衛のふたりの合間を縫って突きを繰り出してみせる。おっかなびっくりな真子のほうはともかく、ゆりの放つ突きは一切加減のなされていないものだったので、例のあの人がたまらず「チョ、オマッ……!」と、うめいてあとずさる。

 

「あたまあたま! それだよっ、ヘッドホン!」

 

 勇ましくホウキを掲げてはいるものの、仲間たちのうしろでウロチョロするだけの智子が声を張りあげる。例のあの人はみんなから殴打されてつらいのか、前かがみでヒィヒィ言って頭を手でかばっている。それだけ見るとなんだかいじめられているようで哀れだったけれど、相手は刃物を隠し持つ狂人なので情けは無用だ。

 

「取りあげちゃって! 早く!」

 

 ひるんでいる隙にヤツの「盾」を奪うべしと、リーダー智子がみんなに指示を飛ばす。それは花子にとっても承知のことだったので、モノをうばいとってやろうとそのヘッドバンドをつかむ。

 

「ヤメテー! ヤメテー!」

 

 だけども例のあの人が、悲鳴をあげてそれにあらがう。ホウキを捨てて両手で引っぱる花子であったが、例のあの人はイヤパッドをがっちり手でおさえ、自分の盾をうばわれまいとしているようだ。

 

「おらっ、よこせ!」

「ギャ──ッ!!」

 

 ヤンキー娘もそれに加勢し、花子とふたりがかりでヘッドホンを引っぱる。絶叫する例のあの人であったが、結局力負けしたようで、ブチブチと妙な音を立てながらヘッドホンがその頭から剥がれていった。

 

「ブキショーニン! ブキショーニン!」

 

 ヘッドホンをうばわれた例のあの人が耳をおさえてうずくまったので、待ち構えていた智子が早速呪文を唱えだす。みんなも例のあの人と距離を取ってから──控え目ながら今度はゆりも──それに続いたので、廊下じゅうに合唱が響きわたる。

 

「ブキショー……ニ……」

 

 これでようやく退散してくれるはず。そう思っていた。だけど呪文を浴びせかけられる例のあの人は、なぜか逃げようとしない。やがてゆらりと立ちあがった彼女は耳をおさえることもやめ、猫背気味でみんなをうらめしそうにじっと見やっているだけだった。それを受け、誰ともなく呪文を止めてしまう智子たち。

 

「な、なんかヘンだよ、逃げないよ、アイツ」

「う、うん、なんでかな……?」

 

 どうも様子がおかしいと、智子が息も荒く花子にたずねる。一方の花子もとまどいを隠せないでいた。ヘッドホンを取りあげれば呪文が通じるようになると、そのように考えていたふたりであったが、あてが外れてしまったのだった。一体なぜと、手に持ったままのヘッドホンに花子が目をやる。

 

「きゃあっ!」

 

 途端、目を剥いた花子が悲鳴をあげてヘッドホンを手放してしまったので、足もとに落ちたそれがびちゃっと生々しい音を立てる。

 

「どっ、どしたの!?」おどろいた智子がたずねたところ、

「ヘッドホンに、なにかついてるのっ……!」あとずさる花子が地べたのヘッドホンを指さす。

 

 先輩のうろたえぶりを見た智子がヘッドホンを拾いあげてそれを確認してみるが、どうも両方のイヤパッドの裏から赤くぬらぬらしたヒモのようなものが垂れさがっているようだった。

 

「なにこれ?」

「た、たぶん……耳とか?」

「うえっ!?」

 

 花子の推測を聞かされた智子が、あわててヘッドホンを捨てる。そしたらまたべちゃっと気持ち悪い音がした。もしやと思い例のあの人を見てみれば、髪で隠れていてわかりにくいものの、耳の辺りから血を流しているようで、それがぽたぽたとアゴをつたって廊下に落ちていた。

 

(耳まで取れちゃった!)

 

 どうやら例のあの人は、ヘッドホンを「付けていた」のではなく「生やしていた」らしい。あれは彼女の耳と一体化していたようで、だからこそ無理やりひっぺがしたことにより、耳ごとその中身までもがずるりと引きずりだされてしまったのだと、智子がそう理解する。呪文が通じないのも当然で、もう耳がないのだからこちらがなにを言っても例のあの人には聞こえないことになる。結局ヘッドホンを取ろうが取るまいが、結果はかわらないのだった。

 

「田中、借せ……」

 

 目の前のグロテスクな光景に顔をしかめていたヤンキー娘であったが、真子が握りしめていたホウキをおもむろにぶんどる。自分用のものはヘッドホンを引っぱる際に手放してしまったようで、今は花子のぶんのホウキと一緒に例のあの人の足もとに転がっていた。

 

「おい六年、もっぺんやるぞ」

 

 ヤンキー娘が固い声でそう言って、花子に呼びかける。呪文が役に立たなくなったことを察したらしく、当初考えていたように例のあの人を力ずくでねじふせることにしたようだ。

 

「ちょっと借してね」

「あっうん……」

 

 もう策に頼ることはやめたのか、花子のほうも智子からホウキを拝借し、ヤンキー娘の隣に立って臨戦態勢を取る。

 

「ジャリドモ……マジコロス……ブチコロガス……」

 

 それに応じるように、目をらんらんとさせる例のあの人が口をひらいて物騒な言葉をぶつけてきた。肩をゴキゴキ鳴らして背中に手を回した彼女が、自分のカバンをまさぐりはじめる。そうしてにゅるりと抜き取ったのは、一本の黒い傘だった。折りたたみ式でもないそれを一体どうやってカバンに収めていたのかはわからないが、彼女はそれを刀のように構えてみせた。

 

(なにあれ……?)

 

 てっきりカマを取り出すものと思っていたら、そうじゃなかった。刃物を出されるよりかはマシだったけれど、あんなものを隠し持っているだなんて知らなかった智子は、またしても未知の個性を発揮した例のあの人におどろきを隠せない。

 

「気ぃつけろ……ヤローの目、ありゃマジだ」

 

 傘だって、扱いようによっては立派な凶器だ。例のあの人が自分たちに対抗して得物を手にしたので、警戒を強める前衛のふたり。特にヤンキー娘のほうは敵の目に本気の殺意が宿っていることを見て取ったのか、息を呑んでいるようだ。そうでなくとも例のあの人の悪霊じみた顔つきは、見る者の恐怖心をくすぐるなにかがあった。

 

「イマカラテメーラニ、ゼツボウヲアタエテヤル……」

 

 と、そんなことを言って身を低くした例のあの人が、ビリヤードでもするような姿勢で傘を構えなおした。

 

(なんかヤバい!)

 

 例のあの人が、仕掛けてくる。そのことを直感した智子がとっさに足もとのヘッドホンを拾いあげ、それを例のあの人めがけて投げつける。瞬間、廊下の先に立つ例のあの人がこちらに向かって勢いよく踏み込んできた。彼女の顔にヘッドホンが当たったところまでは見えた智子であったが、そこから先はもう目で追うことができなかった。例のあの人のほうからなにかがものすごい勢いでビシュンと飛んできたのと、すぐうしろのほうでコンクリートの砕け散る音がしたのはほとんど同時だった。

 

「マジか……」

 

 ぱらぱらと小石のようなものが降ってくるなか、ぼうぜんとした声をあげるのはヤンキー娘だ。背後を見あげる彼女につられてみんなもそちらを見やってみれば、廊下のつきあたり、その天井寄りの壁に棒のようなものが深々と突き刺さっているようだった。

 

(傘……!)

 

 それがなんであるのか気づいた智子は、血の気が引いてしまう。棒のように見えたそれは、さっき例のあの人が手にしていた傘なのだった。

 

「チッ!」

 

 例のあの人が、舌打ちしながら足もとのヘッドホンを蹴っとばす。いまや手ぶらとなった彼女が、先ほど投げ放った傘に納得いかないといった視線を向ける。まるで狙いが外れたことを残念がっているような感じだったから、智子たちにはもうなにが起きたのかがわかってしまった。例のあの人は、このなかの誰かを狙って猛烈なスピードで傘を投げつけたのだ。智子がとっさにヘッドホンをぶつけてやったから、コントロールが狂って狙いがそれたらしい。だけどもあれが直撃していたら、鉄砲で撃たれるよりひどいことになるのは間違いなかった。

 

「にげっ、逃げようっ、みんなっ……!」

 

 智子が声をうわずらせてそう叫ぶ。例のあの人がカバンから新しい傘──さっきと違ってビニール製の透明傘──を引き抜いて、口笛を吹きながら歩み寄ってきたからだ。

 さっきとは打ってかわって、例のあの人が強くなった。傘を装備した例のあの人は、ハンパなくヤバい。こんな個性があるだなんて聞いていない。切り札だった呪文はいまや無意味となってしまったし、このぶんでは数だのみの力押しに出るのも危険だ。だからひとまず退却すべしと、智子はみんなと一緒に教室のなかへ引き返す。

 

「ウェーイ!」

 

 一番最後に教室へと逃げ込んだ花子がすぐさま引き戸の鍵をかけるが、その小窓から例のあの人が顔をのぞかせ、陽気な声をあげながら乱暴にノックしてくる。おどろいた花子が飛びのくと、例のあの人もそれに合わせるように戸の前からさっと身を引いた。

 

「ヒューッ!」

「ひぃっ!?」

 

 もしやと思った智子が大急ぎでもう一方の出口へと走り寄って施錠したところ、間髪入れずに例のあの人が小窓から顔をにゅっと出し、戸をガタガタ揺らしてあけようとしてきた。尻もちをついた智子のことを、例のあの人がニタニタ笑って小窓ごしに眺めている。

 

「あ、あいつやばいよ、完全に殺しにきてるよぉ……!」

 

 おののく智子が鼻声まじりにうったえる。すぐさま起こしにきてくれた花子に引っぱられ、みんなのいるほうへとさがっていく智子であったが、ヒザはすっかり震えていて、誰かにしがみついていないと立っていられそうもなかった。出入り口の鍵はしめたけれど、そんなもの気やすめにしかならない。例のあの人が引き戸を力ずくで壊すか、あるいは窓ガラスを割ってそこからはいってくるのも時間の問題だ。

 ああ、今ここにイケメン男子がいてくれたら。そしたら例のあの人なんてきっと一目散に逃げていくだろうと、智子は以前親切にしてもらったことのある上級生、小坂(こさか)という名の少年を思い浮かべる。クラスの女子に見栄を張るため、「自分には年上の彼氏がいる」などとウソをついて彼を出しにしたことがバレたりもしたので、もう合わせる顔がないと思っていたが、いまこのときばかりは恥を忍んででもおいで願いたかった。

 

 ズガンッ

 

 出口のほうからすごい音がしたので、みんなが──主に智子だったり、真子だったり、あとヤンキー娘も──こぞって悲鳴をあげる。引き戸を突き破って傘が飛び出してきたからだ。そうして傘がズルッと引き抜かれたかと思うと、少し()を置いて別の位置からまた飛び出してくる。どうやら例のあの人が廊下側から強烈な突きをくらわせているようだ。

 教室から悲鳴があがるたび、例のあの人が怯えるみんなの様子を小窓から確認してはシシシと意地悪そうに歯を見せてくる。子供たちをじっくり怖がらせ、それを楽しんでいるような感じだった。

 

「かみさま……かみさま……っ」

 

 目をぎゅっとつむる真子が顔の前で手を組み、ぶるぶる震えながらなにごとかをつぶやく。わたしたちをどうかお救いくださいと、そう天に祈っているのかもしれない。

 

「おいっ、なんか他にねえのか!? あのヤローを追っぱらえそーなの!」

 

 教室のすみに固まって、戸が徐々に破壊されていくのを見ていることしかできない智子たちであったが、ヤンキー娘が焦りをつのらせる声で智子にたずねた。

 

「そ、掃除機があったら吸い取れるんだけど……」

 

 オカ研ノートには、例のあの人の撃退方法としてそんなことも書かれていた。その口を掃除機で吸ってやると、そのまま体ぜんぶがみるみる吸い込まれていってしまうのだという。

 

「こいつはどうだ? 代わりになんねーか?」

「ど、どうだろ……それ、動く?」

 

 原幕小にだって、もちろん掃除機くらいある。だけどもそれはパソコン室や図書室といった一部の場所に置いてあるだけで、各教室に備えられているわけじゃなかった。だからその代用品として、ヤンキー娘が黒板脇の床に置かれていた黒板消しクリーナーを手に取る。多少は吸引力を持つ装置なので、これでどうにかならないかと考えているようだ。

 

「……ダメだ、つかねぇ」

 

 ちゃんとコンセントはつながっているのに、カチカチとスイッチを入れてみてもクリーナーは作動してくれなかった。やはり裏幕には基本的に電気が通っていないらしい。これでは仮に掃除機が手もとにあったとしても、結局役に立たないだろう。

 

「あっ、ちょっと待って!」

 

 その様子を見ていた花子が、なにかひらめいたように声をあげる。彼女は教壇の上にあがると、チョークを手に黒板へなにかを大きく書きはじめた。

 

「モシモーシ、アケテクダサイヨー。ブチコロシマスヨー」

 

 風穴をあけることにも飽きてきたのか、小窓に顔を押しつける例のあの人が、敬語口調でそんなふうに言って引き戸をバンバン叩いてくる。その気になればいつでも押し入ってこれそうなのに、それじゃあつまらないとばかりにもったいつけているようだ。

 

「ネェェェ、ワタシト()()()シテェェェ……。サイキンダレトモ()()()シテナイノォォォ……」

 

 泣いているのか、笑っているのか、あるいはおこっているのか。なんともいえない奇妙な声を出す例のあの人が、ガラス越しにそんなことを求めてきた。真子などはその怨念めいた呼びかけにぞっとしているのか、首をしきりに振っている。

 しかし文字通り聞く耳を持っていないのに「会話して」とはこれ如何(いか)に。冗談のつもりなのか、あるいは無視されたなどと言って難癖をつけるつもりなのか、ともあれ一方的に話しかけてくる例のあの人に応えてやる者はひとりもいなかった。

 

「はいっ、これ見て!」

 

 いや、ひとりいた。花子が例のあの人に向かって呼びかけ、黒板上に書きあげた文字をさかんに指さしてみせる。耳のない例のあの人にも伝わるように筆談で……という訳ではなく、あることをたくらんでのことだった。

 

「ヘウッ!?」

 

 花子にうながされた例のあの人が黒板に目を向けたところ、その顔がたちまち歪んで悲鳴をあげる。そうしてすぐしないうちに顔を引っ込めてしまい、それきり姿を見せなくなった。

 *

「よかったぁ、こういうのでも効くみたいだね」

 

 しばらく様子をうかがっていた花子であったが、ひとまず例のあの人がおとなしくなったようなのでほっと息をつく。「こういうの」とは、さっき花子が黒板に書いた文字のことだ。

 

(なるほどねー、この手があったか)

 

 智子が「ブキショーニン」と大きく書かれた黒板をしげしげと見やる。呪文が聞こえないのなら、こうして視覚にうったえかけてやればいいという訳だ。オカ研ノートには書かれていない方法であったが、花子としても通用するかどうかはイチかバチかだったらしい。例のあの人はかの有名な都市伝説「口裂け女」の影響が色濃いおばけだったから、口裂け女とおなじく呪文を書いた紙を見せれば退散するという噂が、オカ研のあずかり知らぬところで存在していたのかもしれない。

 

(ほんと、みんな色々考えるもんだなぁ……)

 

 かつて原幕小に巻き起こったという例のあの人ブームの、その集大成とでも言うべきものを智子たちは体験させられた。当時の今江先生をして「把握しきれなかった」と言わせるだけあって、例のあの人に関する噂はバリエーション豊かだ。実に迷惑なことではあったが、ヘッドホンによる呪文封じや、傘によるパワーアップなども、きっと一部の児童が考え出したマイナーな設定だったのだろうと智子は考える。

 

「あのおばけ、もう行っちゃったんですか?」いまだ安心できないでいる真子が、すがるようにたずねてみれば、

「どうかなー、まだいたりして」用心深げに口もとをなでる花子は、すっかり穴だらけになった扉へ目を向ける。

 

 ひょっとすると例のあの人はただ教室にはいってこようとしなくなっただけで、みんなが外に出てくるのを息を潜めて待っているのかもしれない。だとしたらこうしてはいられないと、思い立った様子の花子が教室の棚へと足早に駆けていく。

 

「智子ちゃん、ちょっといい? これ……」

 

 そうして棚から取ってきた数枚のプリントを机に広げた花子が、色ぬりマジックを智子へ差し出した。

 

「一枚ずつ呪文をおっきく書いてほしいの。みんなの人数ぶんあればいいから」

「あっうん……!」

 

 お手本を示すべくプリントを手に取った花子が、早速自分のぶんのマジックを使って字を書きはじめた。頼まれた智子のほうも、おなじようにキュッキュとやっていく。ふたりがプリントに書き込んでいるのは「ブキショーニン」という言葉で、つまりは教室を出ていくにあたり、お守りとしてこれをみんなで持っておこうという考えだ。せっかくだからと、智子はより効果があるとされる長めの呪文を自分用の紙に書いたりもする。そうしてすっかり全員分の御札(おふだ)っぽいものができあがったところで、花子がみんなにそれを配ってやった。

 

「なくさないように持っててね。さっきのおばけが出たら、それを見せてあげたらいいから」

 

 花子がそう言って、御札の使い方をみんなに教えてやる。これさえあれば、例のあの人なんて恐れるに足りない。五人がかりでいっせいに見せつけようものなら、たちまち背を向け逃げていくか、そうでなければ両目をふさいでしゃがみ込むしかなくなるだろう。これで一応の備えはできたので、みんなは教室を出ていくためにそろりそろりと穴だらけの出口までやってきた。

 

「あれ……?」

 

 先頭に立つ花子が、出口の手前で立ち止まって急にうしろを振り返る。くもり空の窓をちらりと確認してからまた前を向き、今度は引き戸の小窓から廊下をのぞき込んでは首をかしげているようだ。

 

「な、なんかいるの?」気になった智子がたずねてみると、

「あっ、ううん、ちょっと廊下が暗いなって……」花子がそのようなことを言いだす。

 

 気になった智子がおなじように小窓をのぞいてみるが、ちょっとどころではなかった。ガラスの向こう側はもうまっくらで、なにも見えない。もともと薄暗い裏幕だったけど、これではまるで夜だ。だけど教室奥の窓からは一応ながら日中らしさを感じさせる光が届いているから、昼夜が逆転したという訳でもない。

 

「ひゃっ!?」引き戸に張りついていた智子が急に飛びのき、

「なんかさわってきた!」とヒザのあたりを手で払う。

 

 いま、なにかにくすぐられた。筆みたいなものでこちょこちょやられるような感じがあった。一体なんだろうと引き戸に目をやる智子であったが、わっと声をあげてまた飛びのく。戸のあちこちにあけられていた穴から、イソギンチャクのような黒いウネウネがたくさん生えていたからだ。穴から溢れ出てほうぼうを這っていくそれが神経のごとく張り巡らされ、みるみるうちに出口付近を飲み込んでいく。

 

「これ、髪の毛……?」ゆりが天井にまで伸びていくウネウネを見あげて、そのような推測を口にする。

「なんだってんだよぉっ、次から次にー!」一難去ってまた一難、いい加減にしてくれとばかりにヤンキー娘が泣き言を叫んだ。

 

 そうこうしているうちにウネウネが教室じゅうに広がって、辺りを黒く染めていく。足もとからもどんどん押し寄せてくるので、智子たちは教室の奥へ奥へと追いやられていき、ついには机の上へと避難するしかなくなった。しまいには壁という壁、そして教室に光を届けてきていた窓までもが完全におおわれてしまったので、たちまちみんなから悲鳴があがる。

 やがてざわめいていたウネウネがおとなしくなったので、まっくらな室内には智子たちの息づかいと、誰かのすすり泣く声が聞こえてくるだけとなった。

 

「もうやだぁー……」

 

 智子のうしろのほうで机がガタリと鳴って、真子の涙声が聞こえてきた。帰りたい、帰りたいと弱々しいつぶやきを繰り返す真子であったが、誰かがそんな彼女をそばでなぐさめてやっている気配もする。

 

「うおっ!?」

 

 突然おどろいたように声をあげたのは、声からするとヤンキー娘。途端、彼女がいると思わしき場所から机のひっくり返る音が派手に鳴る。

 

「どうしたの!?」

「クソッ、なんかいるぞ……っ!」

 

 どうもヤンキー娘は机の上から落ちてしまったようだ。花子が心配そうに話しかけるが、何者かがこの暗闇に潜んでいるようだと、うめくヤンキー娘がみんなに知らせてくる。

 

「キャッ!?」

 

 すると今度は花子までもがおどろきの声をあげるが、すぐしないうちに「みんな、机からおりて!」と焦った声で仲間たちに呼びかける。どうもこの教室のなかでなにかが自分たちを狙ってきているみたいだったから、身動きの取れない机の上にいるのは危ないと判断したようだ。

 

(なんだよもおぉぉ……っ!)

 

 それを受け、智子が慌てて机からおりる。足もとはすっかりくだんの髪の毛っぽいなにかで埋めつくされていたようで、靴底から伝わってくるフニフニした感触がなんとも気持ち悪い。すぐうしろで床におり立つ音がしたので、真子たちのほうも地に足をつけたらしい。

 

「ちょっと、なに!?」

 

 と、今度はゆりの不愉快そうな声が聞こえ、同時にビリッと紙のやぶれる音がする。

 

「きゃあーっ、もうっ」

 

 続けざまに真子が恐れおののくように悲鳴をあげ、机やイスを押しのけ逃げまどっているようだ。

 

(ヤバいヤバいヤバい!)

 

 みんながなにに反応しているのかはわからないが、このぶんだと次は自分が狙われそうだ。見えない存在に恐れをなした智子が、暗闇のなかでそろりそろりとあてもなくのがれようとする。

 

「うわっぷ……」

 

 が、すぐしないうちになにかとぶつかってしまった。手を伸ばし確認してみると、どうも誰かが目の前に立っているようだった。その相手に向かって「は、花子さん……?」とたずねたところ、安心させるように肩をぽんぽん叩いてきたので、智子は少しホッとした。そのまま花子と思わしき相手が智子のことをそっと抱きよせてきたので、智子も自然とその胸もとにしがみつく。

 

(ん……?)

 

 なんだろう、ちょっとにおうぞ。なんだかおじいちゃんちのような匂いがする。どこからにおってくるのだろうと、妙な香りを感じ取った智子がすんすん鼻を鳴らす。

 

「へっ?」

 

 智子は御札がわりのプリントをずっとにぎりしめていたのだが、花子がいきなりそれをむんずとつかんで取り上げようとしてきた。反射的に抵抗してしまう智子であったが、無言の花子がなおもプリントを引っぱってくるので、困惑せずにはいられない。すると天井の蛍光灯がふいにまたたき、教室内にあかりがともる。

 

「ふぁあアアああアああアァァァ──ッ!!」

 

 途端、智子がゴムまりを引き伸ばしたような顔になって、ノドも張りさけんばかりに絶叫した。自分の肩に手を回してきていた相手が、花子などではなかったからだ。息がかかりそうなほどの距離でニカッと歯を見せていたのは、なんと例のあの人なのだった。他の場所に散らばっていたみんなからもたちまち悲鳴があがるが、いつのまにか教室にはいり込んできていた例のあの人に仰天させられているようだ。

 

「ひゃっ、ひゃひぃぃぃっ」

 

 例のあの人をつきとばし、智子が前のめりになって机の合間を縫い走る。その先には花子が待っていたので、智子は今度こそ本当に彼女の胸のなかへと飛び込んだ。

 

「イエーイ、ヒッカカッター!」

 

 ぜいぜいと息をつく智子がうしろを振り返ってみれば、例のあの人と目が合った。途端、ドッキリ大成功と言わんばかりに彼女がからかうようなことを言ってくる。仲間のふりをして智子を騙したことがよほどおもしろかったのか、顔いっぱいによこしまな笑みを浮かべていた。

 それはそうといまや教室のなかは黒まみれ。床も壁も天井も、出入り口や窓なども、すべてが髪の毛のようなものでおおいつくされていた。明かりがついてはいるものの、あまりに室内が黒いせいで蛍光灯の光も吸収されてしまうのか、どんよりした感じの暗さが漂っている。

 

(もう、なんでもありじゃんか!)

 

 教室をこんなふうにしたのは、きっと例のあの人に違いない。いつのまにかずいぶんと髪が伸びていた例のあの人だったので、ひょっとすると辺りに張り巡らされているのは彼女がモリモリ生やした髪の毛で、自身もその一部となって教室へもぐり込んできたのかもしれないと、智子はそう思った。こうしたこともやっぱりオカ研ノートには書かれていなかったので、もはや自分の知識はあてにならないと、へたりこんでしまいそうになる。

 

「かみっ、紙見せて! ほらっ!」

 

 だけどもこちらには、花子の用意してくれた御札がある。そう思った智子がみんなに呼びかけつつ、自分の握りしめていたそれを例のあの人につきつけてやった。

 

「あっ!?」

 

 だけどもそれは、ほとんどやぶけた紙の切れはしになってしまっていた。見れば例のあの人の手には、智子からむしり取ったと思われる残りの部分が握られている。それだけでなく、他にも何枚かの御札がくしゃくしゃの状態で彼女の手のなかにあるようだった。

 

「みんな、紙は……?」

「ダメなの、さっき取られちゃったみたいで……」

 

 智子の問いに花子がかぶりを振って答えるが、他のみんなも手ぶらになっているようだった。どうもさきほどの闇にまぎれて、例のあの人が全員から御札を奪い取っていったらしい。呪文が大きく書かれていたはずの黒板も、すっかり髪のなかに埋もれてしまっている。

 まさかこんな手段に出るなんて。呪文を警戒した例のあの人は、あの手この手を使ってそれを封じる作戦に出たらしい。こうした念の入れように、彼女の執念を感じずにはいられない智子。

 

「キエェェェ──ッ!」

 

 やにわに奇声をあげた例のあの人が、手にした御札の束をものすごい形相でビリビリに破りすてる。それからカバンへ横刺しにしてあった傘を引き抜いたかと思うと、また口笛を吹きながら軽い歩調で智子たちに迫ってきた。

 

「ごっ、ごっ、ごめんなさぁぁい……っ!」

 

 教室のなかでゆっくり追い立てられていく智子が、ここにきて謝ってみせた。きっと例のあの人は耳をちぎられてものすごくおこっているのだと、そう思ったからだ。

 もうなにをしたってかなわない。本気を出した例のあの人をやっつける方法なんて、誰も知らない。智子の心はすっかりくじけてしまったようで、許しを乞うことしかできなくなっていた。だけども当然ながら、例のあの人にはなにも聞こえていない。仮に聞こえたとしても、あるいは目の前で土下座をしてやったとしても、彼女が智子たちを見逃してくれるとはとても思えなかったが。

 

「んのやらぁっ!」

 

 机をかつぎあげたヤンキー娘が、横あいからそれを例のあの人に向かって力いっぱい投げつけてやる。

 

「シッ!」

 

 だけどもそれは、例のあの人の手前でバラバラになってしまった。彼女が目にも止まらぬ速さで傘を振るって切り刻んだからだ。そうした電光石火の早技を目の当たりにし、ヤンキー娘が「やべぇ……」と青ざめる。

 

()()()()ニナリタイヤツカラカカッテキナ」

 

 例のあの人が余裕たっぷりに、自分の肩を傘でトントン叩きながらそんなことを言う。智子が思っていた通り、彼女の剣の腕前は恐ろしいほどのものだった。みんなからホウキで攻撃されたときにずいぶんとひるんでいた例のあの人なので、体のほうは案外ひ弱だったりするのかもしれないけれど、いまや傘剣法の達人と化してしまった彼女には、よほどの不意打ちでもなければ一撃くらわせてやることすら難しかった。

 

「キャァ──ッ!?」

 

 出口のほうから、真子の悲鳴があがる。教室から脱出するため引き戸をおおっていた髪の毛をみんなで引き剥がしたのはいいけれど、鍵を外して戸をあけた途端、廊下を埋めつくしていた無数の髪の毛が触手のように溢れ出し、真子をあっというまに絡め取ってしまったからだ。

 

「まこ──!」

 

 叫ぶゆりがみんなと協力して友達を助けようとするが、がんばりもむなしく真子はあっというまに廊下側へと飲み込まれてしまう。そんな真子を最後まで離すまいとしていたゆりも、一緒になって海苔佃煮のジャングルへと引きずり込まれていった。例のあの人は智子たちをどうあっても逃がしたくないのか、あらかじめこんな罠まで張っていたようだ。

 

「ちくしょうっ、ちくしょ──っ!」

 

 ヤンキー娘がヤケになってイスや机を次々とほうり投げていくが、ひとつとして例のあの人に命中することはなく、そのいずれもが見事な剣さばきによってなぎ払われていった。

 

「アッハッハッハ……」

 

 こうして自分の力を見せつけることが楽しいのか、高笑いする例のあの人がもっとやってみせろとばかり指先で挑発する。

 

「ひぐっ、ひっ、ひっ……」

 

 智子はもう、怖くて怖くてたまらなかった。自分をかばってくれる花子にしがみつき、鼻水を垂らす智子はもう立っているのもやっとだ。だけども例のあの人がなにかを切り刻むたびに(ざん)がいがあちこち飛び散ったり、その一部が天井の蛍光灯に当たって破片が降ってきたりするので、それらを避けるためにもじっとしてはいられなかった。ときには例のあの人が器用に受け流したイスや机が、まるごと流れ弾として智子たちのほうへ飛んできたりもするので危ないったらない。

 こうして捨て鉢に消えていく勉強道具たちのなかにはおのれが日頃使っていたもの(の複製品)が含まれていたかもしれないが、そんなことを考える余裕がいまの智子にあろうはずもなかった。

 

(くそーっ、好き勝手考えやがってー!)

 

 誰だか知らないが、例のあの人にこれほどの強さを与えてしまった者が恨めしくて仕方がない。きっとどこぞのバカな男子が後先考えず「ぼくの考えた最強の例のあの人」としておもしろ半分に強化していったのだろう。そんなふうに考える智子は、赤の他人の想像力に時代を超えて苦しめられる今の状況がとても理不尽に思えてしまった。なんでもかんでも強くすりゃいいってもんじゃないぞ、実際におそわれるこっちの身にもなれよと、今となっては大人になっているであろう当時の考案者をののしってやりたくなる。

 こんなふうにやたらと凶悪なおばけの話は歴代七不思議のなかにもいくつかあるけれど、例えばキババアなんかはただ逃げるだけなら難しくないとされているし、鬼校長だって校長室に引きこもっていてくれるぶんには怖くない。無敵と思われたきこさんだって、偶然ではあるけれど一応の撃退法を見つけることができた。予想をはるかに上回る手ごわさを見せた化猫党は別としても、みんなそれぞれ注意して対処すれば、特に用意がなくともその場の判断だけでやり過ごせるおばけだった。

 だけども例のあの人は違う。まず神出鬼没の存在だから、いつどこで出くわすかわからない。頼みの綱と思っていた呪文を防いできたし、そのほかの撃退法も条件がそろわず今の智子たちには縁遠い。おこらせると手がつけられなくなるのも恐ろしいところで、あげくこちらの作戦を無力化する工作まで仕掛けてくるのだからたまらない。

 

「ここっ、隠れて!」

 

 半狂乱のヤンキー娘がありったけものを投げ続けるので、例のあの人の演舞はまだまだ続く。そのうち本当にまきぞえをくらってしまいそうだったので、花子は智子をうながし教員机の下へ一緒にもぐり込む。

 

「ねぇどうしよぉ、どうしよぉ」どうにか助かる手立てはないかと、隣りあう花子に聞いてみる智子であったが、

「ごめんね、わたしもわからないの……あんなふうになっちゃうなんて知らなくて……」首を振る花子は沈痛なおももちで謝るだけだ。

 

 さっき使ったマジックで、机の上に呪文を書いて御札がわりにしてはどうか。それはまっさきに花子が考えたことであったが、この騒動のなかで地べたの髪に埋もれてしまったのか、ふたつあったマジックは見当たらなくなっていた。髪におおわれた棚を必死に掘り出してもみたが、例のあの人はそれすら見越していたのか、なかに毛がぎっしり詰まっていてものを取り出せなくされていた。教員机の上にはいくつかペンのはいった筆立てがあったはずなのだけど、これも見当たらなかったので、知らないうちに隠されてしまったのかもしれない。すべては例のあの人が智子たちに絶望を与えるための、念入りかつ几帳面な「仕込み」なのだった。

 

「チビッ、おまえ、あいつのことやっつけてくれよ!」

「ミャ──ッ!」

 

 ワラにもすがる思いの智子が、そんなことを言って首に巻きつくマフラーをひっぺがそうとする。だけどもチビはいやいやをして悲鳴をあげるだけだった。このキツネヘビが元のサイズまで戻って、例のあの人をパクリと飲み込んでくれたらいいのに。そうは思えどチビは小さいままで、おびえたようにまた智子の首へと巻きついていった。

 ああ、おばけでもなんでもいい。今ここに、例のあの人を圧倒するほどの存在があわられてくれたら。それで都合よく同士討ちしてくれる保証なんてないけれど、それでもこの場をひっかき回してくれるなにかがいたら、逃げるチャンスが生まれるかもしれない。内御前はどうだろう。ダメだ、今はチビがいるから寄りつくはずがない。それに彼女なら、まっさきに自分たちのほうへおそいかかってきそうだ。きこさんはどうだ。例のあの人を引きずっていってくれるかもしれない。いや、そもそもどうやって呼び出せばいいかがわからない。きこさん祭りなら知っているけれど、あれは結局裏幕への入り口をひらくためのものに過ぎなかった。ほかにいないだろうか、こちらから呼びつけてやれそうな、そんな都合のよいおばけは。

 

(──いたっ!)

 

 自身の怪談知識を必死に漁る智子が、ようやくそれらしい()()に思い至って顔をあげる。

 

(いや、でもヘタしたらみなごろしに……)

 

 だけどもそれはあまりに危険なおばけ──怪人だった。この怪人の性質たるや、超がつくほど狂暴かつパワフル。なぜか常に激怒していて、衝動のおもむくまま暴れ回るのだという。ここ裏幕でいまだ出くわさずに済んでいたのは、「それ」がある特別な呼びかけを通してのみ姿をあらわすとされている存在だからだ。そんなものをわざわざ呼び出すだなんて、自殺行為に等しかった。

 

「わあぁん、わぁぁ、もぉぉ……っ!」

 

 ヤンキー娘の泣き声じみた叫びとともに、流れ弾と思われるものが智子たちの頭上へ机越しに落ちてきた。智子が机の陰からのぞき込んでみれば、しっちゃかめっちゃかになった教室で、ぜーぜーと苦しそうなヤンキー娘がべそをかきつつへたりこむのが見えた。

 

「ふしー……ふしー……」

 

 息切れしているのは例のあの人も同じだった。数を減らした蛍光灯が、わき腹をおさえつつ肩を上下させる例のあの人のくたびれた姿をぼんやりと照らしだしている。おもしろ半分でヤンキー娘の抵抗につきあっていたようだが、最後のほうはいい加減疲れてきたらしい。だけどもふーっと大きくひと呼吸したあと、

 

「ドーシタノ? モーオワリナノ?」

 

 余裕ぶった態度に戻り、「ソロソロブッタギッチャオッカナー!」と、はしゃいだように言って奇妙な構えを取った。傘の持ち手と石突きをそれぞれ両手の指ではさみこみ、胸の前でぐっと引き伸ばすようなその構え。と同時に、キリキリキリ……となにかを引き絞るような音が例のあの人の体から鳴りはじめる。そうして構えを保ったままの彼女が、ひょいひょいと残がいを避けながらヤンキー娘に迫っていく。ヤンキー娘のほうはもう立ちあがる元気がないのか、床を蹴ってあとずさるだけだった。

 

「やめなさい!」

「ホゲッ!?」

 

 よくわからないけれど、()()はヤバい。智子がそう感じたとき、花子が動いた。机の下から飛び出していった彼女はその辺に転がっていたガラクタを拾いあげ、例のあの人めがけて背後から思いきり投げつけてやった。直撃をくらった例のあの人が構えを解いて前のめりになるが、その隙に花子が走り寄り、無防備な背中へおぶさるようにつかみかかっていく。

 

(あわわわ……!)

 

 その様子にハラハラさせられていた智子であったが、見れば花子は例のあの人の傘をつかみ、それを取りあげようとしているようだ。武器を手放すまいとする例のあの人がけんめいに振り払おうとするが、しがみつく花子はどうあっても離れようとしない。

 

「おら──っ!」

「ギャ──ッ!」

 

 と、そこにヤンキー娘までもが加わった。さっきまでへばっていたものの、花子の奮闘を見てどうにか気力を取り戻したらしい。例のあの人の両足をつかんだヤンキー娘が、えいやと持ちあげそのまま力任せに引っぱりはじめる。一方の花子も例のあの人がにぎりしめる傘を逆方向からめいっぱい引っぱってやるので、自然と綱引きのような形ができあがった。この場合の綱となるのはもちろん例のあの人の体だ。

 

「ヤメテー! チギレルー!」

「うっせー! さっさとよこしやがれ!」

 

 強力な武器を装備していたとしても、例のあの人自体はやっぱりひ弱らしい。かないっこないと思われていた凶悪怪人の、意外なほどにシンプルな弱点だった。えんえんと泣き声まであげはじめたから、なんだかいじめられているようでやっぱり哀れに見えてしまうけれど、さっきまでみんなのことをさんざん追いつめたずるがしこい悪者なので、容赦はしない子供たち。

 

(よしっ、いけっ、やっちゃえ!)

 

 ひょっとすると、これならなんとかなるんじゃないか。せっかくだから、あの色々隠し持っていそうなカバンも奪ってやるといいのでは。そしたらもう、例のあの人は丸腰だ。手ぶらのあいつなら、わたしでもみぞおちにヒザとか入れてやれば勝てるかもしれない。そんなふうに思いはじめる智子であったが──

 

「えっ、なに……?」

「うおっ!?」

 

 花子らが急に下を向いて、戸惑った声をあげる。自分たちの足に違和感を感じたからだ。

 

(髪!?)

 

 離れた場所でその様子を見ていた智子には、彼女らになにが起きたのかがはっきりとわかった。床からウネウネした髪の毛がたくさん伸びてきて、ふたりの足に巻きつきはじめたのだった。

 

「んだこりゃあ……!?」

 

 例のあの人をつかまえたままでは手が使えないから、つかんでむしり取ることができない。なのでヤンキー娘が足の力だけで振り払おうとするけれど、どうにもならなかった。それは花子のほうも同様で、泥沼へはまり込んでしまったかのようにもがくだけだ。

 そうこうしているうちに大量の髪がみるみる彼女らの下半身をおおいつくし、そこから更に上半身へと伸びていく。

 

「くそっ、くそぉーっ!」

 

 ついには例のあの人を手放して、体にまとわりつくものをむしりはじめるヤンキー娘であったが、その腕にまで髪がびっしりと巻きついていったのですぐさま身動きが取れなくなる。

 

「ああっ……!」

 

 一方の花子はなにがなんでもつかんだ傘を放そうとしないが、そんな彼女も傘ごと上半身をグルグル巻きにされていき、やがて首から上へと伸びていった髪に顔全体をおおいつくされてしまう。そうしてすっかり(まゆ)みたいになったふたりはごろんと床に転がって、もぞもぞ動くばかりとなった。

 

「ひ、ひ、ひぃぃ……!」

 

 すべてはあっというまの出来事で、陰に隠れる智子はただ見ているしかできなかった。もはやこの場で無事なのは自分ひとりだけ。そのことを理解するや、恐怖のあまり嘔吐感がこみあげてくる。

 

「クソガ……クソガ……」

 

 鼻をすんすん鳴らす例のあの人が、なにごとかをつぶやきながら上体を起こした。そうして花子のほうをキッとにらみつけると、よつんばいになってそちらへ這っていく。

 

「カエセヨッ、ドロボー!」

 

 苛立ったように叫ぶ例のあの人が、花子の前でなにかをうんしょうんしょと引っぱりはじめた。それは繭から突き出た傘の一部で、自分の武器を取り返そうとしているらしい。だけども花子がよほど強くにぎりしめているからか、例のあの人の力では中々引き抜くことができない。

 

(あ──っ!?)

 

 やがて例のあの人が自身のカバンへ手をつっこみ、そこからなにかを取り出したが、彼女の手ににぎられたものを目にした智子が一気に冷や汗を吹き出させる。ギラリと刃先を光らせるそれは、智子にも見覚えのある例のカマなのだった。

 業を煮やした例のあの人が、あのカマで花子のことをどうにかするつもりなのかもしれない。そう思った瞬間、智子もまた先の花子のように机の下から飛び出していった。

 

「やめろー! バカー!」

 

 イスの残がいを拾いあげ、智子が例のあの人めがけてぴゃいっと投げつける。だけども体が震えて力がはいらなかったせいで、それは目標にダメージを与えることもなく、ぺしっと当たるだけに終わった。

 

「……」

 

 しかし例のあの人の注意を引くにはそれで十分だったらしい。智子のほうを振り返った彼女が、無言のまま口をぽけっとあけている。

 

「んべぇー」

 

 もっと引きつけてやろうと、智子はできるかぎり憎らしい感じであっかんべーをしてやった。それから最近覚えた「ファックユー」のサインとか、「地獄へ落ちろ」のジェスチャーとか、あとはおしりペンペンなんかも交えてやって、できる限りバカにするような仕草を繰り返してやる。するとそうした挑発行為に反応したようで、例のあの人がゆらりと立ちあがった。

 例のあの人は、他人から()()()()()のがなによりも嫌い。人一倍プライドの高いらしい彼女は、自分をバカにした者へ激しい敵意を抱く。だからこそ「すごいブス」とけなされでもすると、しばらく固まったのちに我を忘れておそいかかってくるのだった。それはいま智子から受けた侮辱に対しても例外ではなく──

 

「ブ・チ・コ・ロ・ス」

 

 声を低くする例のあの人が、一文字ずつ噛みしめるように憎悪のこもった言葉を吐く。その表情はこれがもういかりにいかっているといった感じで、お母さんがおこったときより怖い顔だと、智子にそう感じさせるほどだった。

 興奮のあまり緑色の瞳を赤黒く転じさせた例のあの人が、足もとに散らばる机やイスの残がいを蹴飛ばしながら、刃物片手に智子のほうへ一歩一歩近寄ってくる。教室をおおう髪の毛も、彼女の荒ぶる感情を反映するようにざわめきはじめた。

 

(呼ぶしかない、アイツを……!)

 

 例のあの人のテリトリーと化したこの教室のなかではもう、智子ひとりではどうすることもできなかった。だからこそ、イチかバチかの賭けに出るしかない。毒をもって毒を制する──例のあの人を圧倒するほどの「猛毒」をこの場に召喚せんとして、智子が胸いっぱいに息を吸う。

 

「オ、オチンチ──ン!」

 

 口をひらいた智子が第一声、呪文のようなものを唱え、

 

「オイナリサ──ン! オミソシル──!」

 

と続けた。そうして最後にひときわ大きな声でこう叫ぶ。

 

「オチアイフクシ──ッ!!」

 

 瞬間、落雷が教室をおそった。例えではなく、実際に教室のまんなか辺りでピカッと光がほとばしり、激しい揺れとともに爆発音が響いたのだった。

 

(き、きたぁ──っ)

 

 目のくらみがおさまった智子は、視線の先にいる何者かをみつけて鳥肌を立てた。燃え焦げた髪の毛じゅうたんの上でしゃがむその誰かは黒いコートを羽織り、修道士のようにフードをかぶっている。少年のようでもあり、少女にも見える彼(あるいは彼女)は、服のあちこちに拘束具を付けているようだった。

 

(【やべー奴】だ!)

 

 これこそが智子の呼びつけた怪人だった。さっき唱えたへんてこな呪文はこの怪人──本来は「球魔界(きゅうまかい)」なる場所に封印されているという──を解き放つための()であり、命が惜しければ決して歌ってはならないとされているものであった。

 

(あ、やばっ……)

 

 やべー奴のかけていたメガネの奥で、閉じられていたまぶたがすっとひらく。そのことに気づいた智子が慌てて教員机の下へと身を隠すが、これは彼/彼女の視界へはいってしまわないようにするためだ。なにせこの怪人、目につく相手すべてに見境なくおそいかかるとされているのだから。

 

「コンガキャ──ッ!」

「わっ、ちょっ!」

 

 だけどもそんな智子の足をつかんでくる者がいた。それは例のあの人で、とつじょ現れた新怪人に目もくれない彼女は智子を机の下から引きずり出そうとする。

 

「おい」

「ヘブッ!?」

 

 しかし例のあの人はすぐさま智子を解放する。動きだしたらしいやべー奴に背後から脳天チョップをくらわされたからだ。その衝撃で手放してしまったカマが、床にぽとりと落ちる。

 

「さっきのクソみてーな歌、あんただろ? なぁ、そうだろ?」

「アバババババ……!」

 

 おどろいてうしろを振り向く例のあの人だったが、そんな彼女の胸ぐらをやべー奴がつかみあげ、ものすごいスピードで揺さぶりだした。これが人間ならばひどいむちうちになったり、頭の中身がどうにかなってしまいかねない所業だ。

 

(はじまったー!)

 

 怪人同士の戦いのゴングが鳴ったことを受け、智子はもう机の下で息を殺して縮こまるだけだった。新怪人のいかりの矛先は目論見どおり例のあの人に向けられたようだが、今はヘタに動いてはならない。やべー奴に気づかれようものなら、たちまちその手でヒキニクにされてしまいかねないからだ。

 やがて例のあの人はどこかに向かってに放り投げられていったようで、机やイスの倒れる音が派手に鳴り響く。やべー奴の暴力はまだまだ続くようで、背中に生える白い翼をわきわきさせてのし歩いていったのち、例のあの人の「ヌワ~ッ!」という絶叫が教室に響き渡る──。

 

「やべー奴」とは何者か。それどころではない智子に代わって説明させていただくと、これはあるテレビゲームが発祥となっていた。八〇年代後半、社会現象まで巻き起こしたという大人気ゲームソフト『ドラゴンクエストⅢ』に世の子供たちが夢中となっていたころ、その陰でひっそりと発売されたものがある。それこそがやべー奴の噂の出どころとなった『オリオンクエスト/ロッテの紋章』というロールプレイングゲームだ。

 故郷パシフィック・ワールドを救うため、主人公とその仲間たちは聖なる野球戦士として旅に出る。そしてゆく先々に立ちはだかる暗黒五球団を打ち破っていった彼らは、やがて最強の野球戦士・三冠王ヒロミツとの決戦に挑むべく、次元の向こう側に存在する球魔界へとワープする。

 この三冠王こそが最後のボスキャラであり、彼を倒せばゲームクリアということになっているが、オリオンクエストにはウソかマコトか、ある危険な()()()が存在すると言われていた。なんでもゲームクリア後にエンドマークが表示された際、コントローラーのマイク──当時はそんな仕様のゲーム機があった──に向かってある歌を歌うと、「真のラスボス」があらわれるというものだ。その歌の歌詞こそが、さっき智子の唱えた言葉なのだった

 この「真のラスボス」にはちゃんとした名前がないけれど、とにかくやばいので「やべー奴」と呼ばれている。そしてそんな彼/彼女と戦わされるのはゲームのなかの主人公たちではない。次元を超えて現実世界へとワープしてきたやべー奴が、プレイヤーに直接おそいかかってくるというのだ。やべー奴はおそろしく強いので、人間の力では決して勝てない。結果、プレイヤーはなすすべもなく殺されてしまう……。

 噂のあらましは、こんなものだった。呼び出してしまった子が本当に死体で発見されただとか、アカエイの毒針を持っていれば追い返すことができるだとか、そんなことも噂のなかに含まれていたけれど、実際に裏ワザを試してみた者はほぼいなかったとされている。これはくだんのゲームソフトがほとんど売れず所有者自体がまれであったことに加え、販売元のトラブルにより発売後しばらくして回収・出荷停止の憂き目にあったからだ。

 この回収騒ぎについて「あまりに危険なゲームだったから」などとそれらしい理由をつけていた当時の子供たちであったが、諸事情により幻のゲームソフトと化したオリオンクエストは彼らにとっていたく想像力を刺激されるかっこうの題材だったのかもしれない。果ては「どこであろうと歌を歌えば奴があらわれる」なんていう、もはやゲームとは関係のない内容にまで発展していったこの噂であったから、「真のラスボス」はその存在だけがなかばひとり歩きする形で、テレビゲームに興味のない子供たちをも巻き込んで広く知られていったようだ。

 

 生まれた時代を異にするふたりの怪人が、プロモーター智子のマッチメイクによって激突することとなった。といってそれはひどく一方的なものであり、やべー奴の猛攻を前に例のあの人はなすすべがない。教室がズシンと揺れるたび、痛ましい悲鳴をあげるばかりの例のあの人であったから、机の下で丸まっていた智子にも両者の勝敗のゆくえがなんとなくわかった。

 例のあの人は、もうおしまいだ。きっとあのまま毛むくじゃらの肉団子にでもされてしまうにちがいない。そう思わせるほどにやべー奴のパワーはものすごくて、まるで勝負になっていなかった。

 

(もうちょいがんばってくれないと……)

 

 そうなると今度は自分たちの身が心配になってくる智子。机の足の隙間からちらりと確認した限りでは、花子もヤンキー娘も教室の奥のほうで寝転がったままじっとしているようで、さいわいやべー奴が彼女らをおそう気配はまだない。しかしそれも時間の問題で、そのうち例のあの人を倒したやべー奴が次の獲物を求めるであろうことは想像にかたくなかった。だから智子としてはできれば両者共倒れになってほしかったし、それがダメでもふたりの力がせめぎあうことでこの教室から逃げだせるチャンスが生まれるのではと期待していたのだが、このぶんだとそれも望み薄だった。

 

(さっきまでめっちゃイキってたくせに……ちっとは反撃してみろよ!)

 

 か弱い子供が相手だと、例のあの人は強気だ。だけども今はすっかり形無しで、自分よりも強い相手に出てこられると泣き叫ぶことしかできないらしい。

 かろうじで生き残っている蛍光灯たちから死にかけのセミのような音がして、その緑がかった光を弱々しく点滅させている。

 

「んおっ!?」

 

 息をひそめていた智子が思わず声をあげた。床にしきつめられていた髪の毛がもぞもぞと動きだしたからだ。

 

(うわわわわ……!)

 

 それは床だけにとどまらない。壁や天井をおおっていた髪の毛までもがいっせいにうねりはじめたので、教室はザザザザ……と波のような音に満たされる。これら髪の毛は、どうもひとつの場所に向かって集合しているような感じであったから、気になった智子が机の陰からそっとのぞいてみると──

 

(おおーっ!)

 

 例のあの人に馬乗りになっていたやべー奴が、大量の髪の毛に絡みつかれてもがく姿が見えた。これはもしやと智子が思っているうち、髪の毛はあっというまにやべー奴をおおいつくしてしまう。それでも髪の毛たちのいきおいは止まらず、次から次へとあふれんばかりの毛量でしつこく巻き固めていった。

 

「モガ──ッ!」

 

 やべー奴がたまらずおたけびをあげるが、ぶ厚い髪の層にさえぎられてくぐもったものにしかならない。そうしてありったけの髪の毛が一か所に集中したことで、おおいのなくなった教室はすっかりもとの地肌を取り戻し、窓からはくもり空の頼りない光がふたたびはいってくる。ゆりと真子を飲みこんだあの廊下側のジャングルも、きれいさっぱりなくなっていた。唯一黒板だけは毛におおわれたままだが、ここについてはなにがなんでも隠しておきたいようだ。

 

(なんだよー、やればできるじゃんか)

 

 やがて教室のなかに、運動会で使う大玉のような球体ができあがっていた。どうやら毛むくじゃらのお団子になったのは、やべー奴のほうだったらしい。意外や意外、やられる一方だったかに見えた例のあの人の思わぬ反撃だった。

 

「ク、ソ、メガネェ……」

 

 ごふっと血を吐く例のあの人が、恨めしげにその黒い球体をにらみつけ、おぼつかない足取りで立ちあがる。髪は乱れに乱れ、顔もあちこち腫れあがっていてひどいものだったけれど、それでもまだ立つ力ぐらいは残っているようだ。

 

(今なら逃げられるか……?)

 

 例のあの人もずいぶん弱っているようだし、これはチャンスなのではないか。そのように考えた智子が様子をうかがうように机の下からそろりと出る。

 教室中を埋めつくす残がいの向こう側では、花子とヤンキー娘が身を起こして繭から抜け出そうともがいていた。彼女らを拘束していた髪の毛はその大半がやべー奴を封じるために動員されたようで、いまやわずかな毛量を残すのみとなっていたから、自力で抜け出すことも難しくないと思われた。

 

「あっ!」

 

 と、花子が急に声をあげる。例のあの人の頭からシュッと伸びてきた髪に不意をつかれ、持っていた傘を奪われてしまったからだ。あわてて取り返そうと手を伸ばすものの間にあわず、傘はそのまま例のあの人のもとへ飛んでいく。

 

「テメーノスベテヲ、ヒテイシテヤル……」

 

 傘を受け取った例のあの人が、すぐさまビリヤードの構えを取る。またあの強烈な技を放つつもりかと身構える智子であったが、傘が狙う標的は子供たちではなかった。

 

「ン──ッ!?」

 

 ズパァン、と破裂音が響き、同時に毛玉からうめき声があがる。例のあの人が繰り出した必殺の一撃は、やべー奴に対して放たれたのだった。コンクリートをもつらぬくマッハ突きであったから、それをまともに受けた毛玉は吹っ飛び、そのまま窓辺の柱にぶつかり教室を揺らす。

 

「ツギハテメーダ、クソガキ」

 

 ぷすぷすと煙をあげる毛玉に歩み寄って傘を抜きにかかる例のあの人が、目を血走らせて低く唸る。見事な早技でライバルにトドメを刺した例のあの人は、早くも次の獲物を見定めたらしい。彼女のそのまなざしが、気配を殺すように身をかがめていた智子をしかと捉える。

 

「は、はひゅっ……!」

 

 射貫くような殺気にあてられた智子の体はたちまち硬直し、呼吸もままならなくなる。今すぐこの場から逃げ出したいという思いに反し、手足がしびれて自由が利かなくなってしまった。

 

(まだ全然元気じゃんかっ!)

 

 どうも例のあの人は、見た目ほどには弱っていなかったようだ。あれだけ叩きのめされてなお、真のラスボスと恐れられたやべー奴を一撃で黙らせてしまうほどの力が残っている。いっときは例のあの人をちょっぴり応援したくもなった智子であるが、はやくもそのことを後悔していた。

 

「フンヌッ、フンヌッ……」

 

 しかしなんだか例のあの人の様子がおかしい。毛玉を足蹴にしつつ両手でうんうん力をこめる彼女であったが、深々と刺さっていた傘はびくともしない。

 

「ク・ソ・ム・シ」

 

 すると毛玉のなかからいきなり手がつきだして、例のあの人の腕をつかむ。おどろいた彼女がそれを引き剥がそうとするが、ものすごい力でつかまれているようで、どうにもならなかった。

 

「フガガッ……」

 

 そうして引っぱられるまま、例のあの人が毛玉に体をうずめていく。必死にもがく彼女であったが、ズッ、ズズズッ……と、見るまにその上半身が飲みこまれていった。

 

「智子ちゃん! 出て! 早くっ!」

 

 あっけに取られていた智子であったが、教室に散乱する残がいの向こう側からの呼びかけにハッとなる。見ればすっかり自由の身となった花子が、今のうちに教室を出るようにと合図を送ってきているようだった。

 

「ボケっとしてんな、とっととずらかるぞ!」

「ま、待って……!」

 

 花子の隣には、同じく智子に呼びかけるヤンキー娘の姿もあった。

 逃げるなら今のうち。智子の待ち望んでいた瞬間が、まさにいま訪れた。例のあの人を毛玉に引きずりこんだのは、やべー奴だ。あの強烈な突きをくらってなおも、いまだ闘志を失っていないらしい。二大怪人の戦いは、いまや一進一退のあらそいへともつれこんでいたのだった。

 例のあの人の殺気から解放された今、智子もまた自由の身だ。変わり果てた教室のなかで手近な出口を目指す智子が、辺りに散らばる勉強道具たちのなれの果てを次々にまたいでいった。

 *

「あっ……よ、よかった、いこいこっ」

 

 智子が出口をくぐると、廊下の先のほうで仲間たちが待っていた。そこには髪の毛地獄に呑まれていったゆりと真子の姿もあり、どうやらふたりとも無事であったらしいことが見て取れた。そのことにほっとした智子が、小さく手を上げながら駆け寄っていく。

 

「あれ、なに?」

「へっ?」

 

 あとはさっさと逃げるのみ。しかしその前に教えてほしいとばかりに、ゆりがやぶからぼうに智子へ質問してきた。ゆりが視線で示した先は窓辺のほうで、そこからは運動場が一望できる。その運動場の上空で、なにか巨大な白いかたまりがふよふよと浮いているようだった。

 

「さあ……?」

 

 謎の浮遊物体に智子が首をかしげていると、まるで全員がそろうのを待っていたかのようにそれが()()()()()。浮遊物体の表面には目や口を思わせる模様がえがかれていて、まるでラクガキじみた顔に見える。

 

「うわっ、ちょっ……」

 

 どこかしょんぼりした顔の浮遊物体がとつじょ校舎側に突進してきたので、智子たちは慌てて走りだす。するとたちまち一行のうしろで轟音とともにガラスが派手に砕け散り、校舎全体が大きく揺れた。浮遊物体が窓辺に激突したせいだ。

 訳もわからず廊下の先へとのがれていったみんなが、つきあたりの曲がり角に身を隠す。

 

「なにしてんだありゃ……?」

「こ、こっちにこようとしてるのかも」

 

 そうして智子がヤンキー娘と一緒に陰からのぞきこんでみれば、廊下の奥でさっきの浮遊物体が窓枠をひしゃげさせ、クッションのように柔軟なその体を校舎のなかへ潜りこませていたのが見えた。だけどもあまりに体が大きいせいでつかえてしまったのか、途中からすっかり身動きが取れなくなったようだ。

 

「あいつ、たぶん【怪球(かいきゅう)ショボーン】だよ。軍のひみつ兵器なんだ」

 

 浮遊物体の正体について、ようやく思い至ったらしい智子がその名前を口にする。この「ショボーン」というのは戦時中に流行った噂のなかに登場するおばけ──というより人工物であり、当時の子供たちのあいだでまことしやかにささやかれる存在であった。いわく、陸軍によって極秘に開発されたというこのショボーンは、陸に空にと戦場を選ばず活躍する万能性を持ち、敵戦車あらば上空からのしかかって圧壊せしめ、敵航空機あらば体当たりで撃墜するとされていた。

 そうした秘密兵器が、茂子原市の上空でときおり試験飛行をしている。空に大きな白いものが飛んでいれば、それは気球ではなくひょっとするとショボーンかもしれない……噂の内容としては、大体このようなものであった。他にもいくつか説があるようで、「兵器ではなく飛翔坊(ひしょうぼん)という妖怪だ」と主張する子がいたり、誰かがお寺の和尚さんに聞いたところでは、「将門公(まさかどこう)大首(おおくび)上総国分寺(かずさこくぶんじ)の供養塔を探しにきている」ということになっていた。

 

「ほっといていいのかな、あれ」

 

 なんにしても自分たちにおそいかかってきた以上は警戒せざるをえない。そこで智子が物知りな先輩へと意見を求めたところ、ショボーンの姿を見やっていた彼女はしばし考えて、

 

「動けないみたいだし、あのままにしとこ?」

 

 ショボーンの巨体が、隙間もないほど通路いっぱいに押しこめられている。あんなものと屋外で出くわそうものなら脅威でしかないが、都合のよいことに彼は自分で自分を動けなくしてしまったようだ。そうとわかればもう構うことはないと、ショボーンを無視することにした智子たちはそばにある西非常口から外へと出ていくのだった。

 

 ◆

 

「ほらっ、あっち行けー!」

 

 手に持つなにかを振りかざし、智子が駆けていく。するとご神木のまわりをうろついていた者たちが、クモの子を散らすように逃げていった。それは子犬ほどの大きさのおばけアリの群れで、ご神木のある広場はいつのまにか彼らによって占拠されていたようだ。

 

(こんなちっこくてもやっぱ天敵なんだな……)

 

 ひと息ついた智子の手のひらで、なにかがもぞもぞ動いている。それは一匹のヘンな虫で、ブヨブヨに太ったクワガタのような見た目をしていた。智子にとって馴染みの深い彼の名は、砂もぐりのアリ食べ虫──「アリジゴク」だ。

 

「準備するからちょっと待っててね」

「あっうん……」

 

 アリの群れがすっかりいなくなったのを見て、花子が声をかけてくる。言われた智子が返事をし、用は済んだとばかりにポケットへアリジゴクをしまいこんだ。本来のアリジゴクはかなり小さな虫なのだけど、智子が持っているものはピンポン球とおなじぐらいの大きさをしている。これは彼が本物のアリジゴクではなく、智子が自分の髪かざりをもとに想像力で生み出したものに過ぎないからだ。

 ここ裏幕にはいきものがまったく存在しない。騒がしいセミは一匹もいないし、飼育小屋もからっぽになっていた。ビオトープの人工池で飼われていたメダカたちだって、きっとおなじように消えてしまっていることだろう。だけどもそうしたなかにあって、智子はある虫を必要としていた。それこそがアリジゴクであり、さっきまでこの場にいた連中を追い払うことができたのも彼のおかげなのだった。

 ただのつる草をヘビに変えてしまえる花子直伝の術は、材料へ念をこめる際に明確なイメージを思い浮かべることがなにより重要だという。その点で言うと、智子はアリジゴクとある意味では仲よしだったので問題はなかった。この黒木智子という少女は日頃からアリをいじめて遊んだりしているのだが、そうしたときによく協力してもらっていたのがアリジゴクであったから、おかげでその姿かたちをよく覚えていた智子は苦労せず彼を生み出すことができたという訳だ。

 もう少し言うと、智子がアリの命を粗末にするような子でなければ、さっきの巨大アリを追い払う必要はなかった。彼らは【人食いアリの復讐】という怪談に出てくる存在で、人間をエサにするというおそるべき存在ではあったのだが、狙うのはあくまで「普段からおもしろ半分にアリを殺している者」に限られているからだ。最初、非常階段から広場へとおりていく前に花子はそう言ってみんなを安心させたのだが、智子だけがひとりうろたえていた。それはアリいじめに縁のない仲間たちと違って、あまりにも身におぼえがあり過ぎるからだった。だからこそ人食いアリ唯一の弱点であるとされるアリジゴクに頼らざるをえなかったのだけど、そのせいでアリいじめの常習犯だったことが花子にバレて、「ダメよ、そんなことしちゃ」と注意されたのが恥ずかしい智子であった。

 *

(おおー……なんか本格的)

 

 どこかで手に入れておいたらしいチョークを使って、花子がご神木のまわりに魔法陣のようなものをせっせとかきはじめた。その様子を、智子たちが少し離れたところで眺めている。どんなふうに儀式を進めていくのかということについては特に教えてもらっていない智子であったが、手順の大半は花子のほうでやってくれるということであったから、手伝うこともなくヒマをしているようだ。

 

『落ちちゃう……落ちちゃう……』

「んっ!?」

 

 背後から急に声が聞こえてきたので、それに反応した智子がびくっとなって振り返る。

 

『落ちちゃうぅぅぅ』

 

 仲間たちもいちように振り返り、息を呑んで声のするほうを見やっている。みんなの視線の先にあるのは保健室の窓で、白いカーテンに閉ざされたその向こう側から「落ちる、落ちる」と、誰かがしくしく泣きながらなにごとかをしきりにうったえてきているようだった。

 

「これってあれだよね? 保健室の女の子の話……」心当たりのある真子がたずねると、

「あ、あーうん、そうそう」智子がそれに同意する。

 

 保健室にまつわる怪談というものはどの学校にも大抵あったりするもので、それは原幕小においても例外ではなく、【保健室のしずくちゃん】という噂がずいぶん昔に流行ったことがある。このしずくちゃんというのは女の子の幽霊で、もともとは原幕小にかよう児童のひとりだったとされている。たいへんかわいらしいと学校中の評判で、男の子はみんな彼女に夢中だった。しかしその反面、女の子たちからはとても嫌われていたという。そんな彼女であったけれど、あるときテスト中に具合が悪くなって保健室で寝ていたところ、容体が急変してそのまま死んでしまったらしい。以来、誰もいない保健室からときおり彼女のすすり泣く声が聞こえてくるようになったのだとか。

 

(今ごろ出てきたのかぁ……)

 

 みんなで隠し穴を探していたとき、この保健室へも一度訪れていた。だけどもそのときは特におかしなことは起きなかったので、警戒していた智子はちょっと肩透かしをくったような気持ちになったりもしていた。

 

「うぅー、クソッ……!」

 

 苦虫を噛みつぶしたような表情で、ヤンキー娘が顔をそむけた。他のみんなも少なからず「それ」に嫌気がさしたようで、真子などは口もとを手でおおって押し殺したような声をあげている。

 

(まあ害はないらしいけど……)

 

 そう考える智子ではあったが、やはり気味が悪いことには変わりない。カーテンに突然真っ赤な血がにじみだし、白い生地を生々しく染めていく目の前の光景を目にすれば、誰だって似たような気持ちになるはずだ。

 

『落ちちゃう、落ちちゃうのぉぉぉ……』

「くろきぃ、これなんとかしてくれよぉ」

 

 保健室に背を向けて耳をふさぐヤンキー娘が、そんなことを智子にお願いしてくる。彼女にとって繰り返し響いてくる幽霊の声は耐えがたいものがあるようだ。

 

「あー、はいはい……」

 

 おばけ相手に殴りかかっていく度胸はあるのにヘンなところで怖がりだなぁと、ヤンキー娘のそうした様子がちょっとおもしろい智子。ともあれご要望に応じてあげるべく、保健室の窓へと寄っていく。

 

「だ、だいじょうぶだよー、だいじょうぶだからー」

 

 智子が窓越しにそう呼びかけてやったところ、泣き声がピタリと止む。それきり幽霊はうんともすんとも言わなくなり、あとには血の染みたカーテンだけが残された。いま智子が言ったのは、しずくちゃんをなぐさめてあげるための言葉で、こんなふうにしてあげるだけで彼女は泣きやむのだという。

 一体なにが「落ちちゃう」のか、そこのところはまるで謎だけど、しずくちゃんは悪さをするような幽霊ではないとされていたから、これまで様々な凶悪おばけたちに苦しめられてきた智子としては、なんともぬるい相手に思えてあまり怖さを感じないのだった。

 *

「みんなー、こっち来てー」

 

 すっかり魔法陣をかき終わった花子が、手招きしながらみんなを呼び寄せる。智子たちがそれに応じて集合したところで、「じゃあはじめるね」と言う花子が、ご神木のごつごつとした根っこに足をかけ、ぴょんとジャンプした。

 

「ほら、支えてやっから」

「あっうん、ありがとう」

 

 どうも花子は木にのぼりたいらしいが、なにぶん大きくて背の高い木なので、近くの枝にも中々手が届かない。それを察したヤンキー娘が声をかけ、木のぼりの手伝いをしてやるのだった。

 

(なにしてんだろ……?)

 

 太い枝の上に乗った花子が体重を乗せてそれを揺すり、葉をカサカサと鳴らしはじめた。これも儀式の手順のひとつなのだろうかと思う智子であったが、辺りをキョロキョロする花子がずっと同じことを繰り返すので、「へんなの」と思わずにはいられなかった。

 

(おっ……?)

 

 と、ふいに葉のこすれる音が花子がいるのとは別の位置から聞こえてきた。音のするほうを見やった智子は、枝のひとつがわずかに揺れているのを発見する。するとまもなくその枝がさかんにしなり、騒がしく葉を鳴らすのだった。花子もそれに気づいたようで、枝を揺するのをやめた彼女がしばらく様子をうかがったのち、うんしょと木からおりてくる。

 

「ねぇ、なにしてたの?」

「合図をね、ちょっと。もとの世界のほうに手伝ってくれる人がいるの。その人に『いまからはじめるよー』って伝えたかったから」

 

 今の行為になんの意味があるのだろうと気になった智子がたずねてみれば、花子からこうした答えが返ってきた。それは初耳だとおどろく智子であったが、続く花子の説明によれば、なんでもご神木は裏と表の世界のどちらにもつながっているそうで、それを利用してさっきのように簡単な合図ぐらいなら送りあうことができるのだという。

 

「あっ、手伝ってくれる人って、もしかして今江先生?」

「ううん。でも、智子ちゃんの知ってる人かも」

「えー……?」

 

 しかしその協力者が誰なのかについては教えてくれない花子。智子がしつこくたずねてみても「あとでわかるから」と言ってはぐらかすだけだった。一体誰なんだろうと、遅れて鳴りやんだその枝を見あげる智子は、ひょっとしてあの怖い警備員のおじさんなのかな、などと考える。

 いつぞやかの登校時間、荻野先生が正門前に立って子供たちへあいさつをしていたとき、それを避けようとした智子が非常用門のほうからこっそりはいったことがあった。だけどもここは普段通行禁止になっている場所で、扉には防犯センサーまで仕掛けられていたから、それを乗り越えようとした智子のせいで警報が鳴りだし、たちまち警備員のおじさんが飛んできた。そうして「どこからはいってるんだ!」と、こっぴどく叱られた智子であったから、この警備員さんにはまるでよい印象がないのだった。

 

(まあ、みんなもいるし……)

 

 ひょっとすると表の世界へ戻った途端にまたおこられるかもしれないと、智子は少し憂うつな気持ちになってしまうけれど、仲間たちが一緒ならきっと怖さも五分の一なので、まあいいやと思いなおす。

 

「じゃあみんな、ここに正座して」

 

 そう言って、花子がみんなをご神木の前に座らせる。そこはちょうど表の世界で智子が例の祭壇を築いた場所の手前であった。そうしてみんなの先頭へと座りこんだ花子がうしろを振り返り、

 

「これからわたしが()()を唱えてくから、一緒に真似していってね」

 

 ゆっくりやるからだいじょうぶだよと、そう前置きしてから、いよいよ儀式を開始した。

 

「きこさん、きこさん、さようなら」

 

 花子が唱えはじめたのは、きこさんを呼ぶときの祭文とよく似た言葉だった。みんなも言われた通り、あとに続いてその言葉を繰り返す。

 

「わたしと一緒に帰りましょ。お菓子を買って、帰りましょ」

 

 花子がそこまで唱えたところで、どこからともなく「ドン……ドン……」と太鼓のような音が響いてきた。それにおどろいた智子が「な、なに?」とうろたえたが、花子がシッと口先に指を立て、「だいじょうぶ、続けて」と小声で先をうながす。

 

「悲しくないよ、さみしくもないよ。そばにいるから、見てるから」

 

 智子たちが祭文を続けていくうち、太鼓のような音はどんどん大きく、激しくなっていく。もし智子が吹奏楽クラブにでもはいっていれば、その重い響きが「ティンパニ」と呼ばれる打楽器の音とそっくりであったことに気づいたかもしれない。

 

「さよならきこさん、またいつか。忘れたころに、またいつか」

 

 花子がここまで続けるころには肌をびりつかせるほどの重低音がひっきりなしに届いてやかましいぐらいだった。どうやら校内全てのスピーカーから流れてくるらしいそれはいまや巨大な旋律を帯び、広場のみならず学校中を包みこんでいく。

 

「きぇーい! きぇーい! ()()()()()()()()()()、きぇーい!」

 

 地鳴りにも似たティンパニの迫力に負けないよう、花子が大きな声でそう唱える。ここにきて「きこさん」ではなく長ったらしい呼び方へと変わったので言い間違えそうになってしまう智子であったが、ともあれ祭文の締めの部分にあたると思われるこの叫びを繰り返す花子と子供たち。

 と、そうするうちに目の前のご神木に変化があらわれた。そのゴツゴツした樹皮の隙間から光があふれだし、葉がいっせいに騒ぎだしたのだ。それに合わせて周囲の魔法陣も白く光を放っているのが見える。

 

「来たよ! さがって!」

 

 それまでのドンドコ音がとつぜんピタリと鳴りやんだのを合図に、花子が叫んで立ち上がる。それにつられてみんなが飛びのけば、巨木の幹のあちこちがメキメキ、パキパキと裂けていき、枝もぐにゃぐにゃによじれていった。辺りにまばゆい光がほとばしり、そのまぶしさが智子たちからいっとき視界を奪う。いまや広場全体を地震のような揺れがおそっていたので、誰もが互いに支えあわないと立っていられなかった。

 

「うわー、すごいっ!」

 

 やがて揺れがおさまったところで、目を開いた智子が興奮気味に声をあげた。目の前の巨木がいまやすっかりその形を変え、淡い光をまとった大きな鳥居へと変化していたからだ。

 

「ここから帰れるから! ちょっと長いけどがんばろうね!」

 

 たなびく髪をおさえつつ、花子がそう言って鳥居を指さす。前方からなまぬるい風が強い勢いでごうごうと吹きつけてくるが、これは鳥居の先にまっくらな空間が大きく広がっていたからだ。

 

「ほら、行こ?」

「あっうん……!」

 

 花子が伸ばした手に引かれ、鳥居をくぐっていく智子。まるでワープゲートみたいだなと、智子はちょっとワクワクした。それに続くように残るみんなもあとをついてくる。

 くぐった先の空間は果てしなく広がっていて、遥か先で星空のようなものがうっすらとちらついている以外は何も見えなかった。気圧の違いからか先ほどの強風もなりを潜め、今は足もとから立ちのぼってくる空気の流れがわずかに感じられる程度になっていた。

 

「クゥーン……」

 

 そうして少し進んだところで、智子に巻きついたままだったチビが急に鼻を鳴らす。おや、と思った智子が手であやしてみたところ、指先をペロッとひとなめしたチビが、ふいに首から離れて地面に落ちる。

 

「あっ、チビが逃げる!」

 

 智子がそう声をあげるが、チビはみんなの足もとをすばやく這っていき、そのまま入り口のほうへと一目散に引き戻っていった。

 

「巣に帰っていったのかもね」花子がそう言うと、

「えー、つれてこうと思ったのにぃ……」智子が残念そうに肩を落とす。

 

 あの不思議生物を大人のひとたちに見せてあげたら、ものすごくおどろくはずだ。世間からも注目されて、テレビの出演依頼が殺到して大金を稼げるようになるかもしれない。そんなふうに期待していた智子であったから、金づるに逃げられてしまったような気持ちだ。そうでなくとも智子はチビのことをペットとして飼ってあげるつもりでいたので、ガッカリせずにはいられない。なんだかスースーしてきたなと、自身の首をなごり惜しそうにさするのだった。

 *

「足もとに気をつけてね。落ちちゃったらもう戻れなくなるから」

 

 列を作ってまっくらな空間を歩いていくみんなに、花子が注意をうながす。この空間には大人が数人並んで通れそうな幅の石畳が先のほうまで続いていたが、うっかりしていると道脇に広がる奈落の底へと転落してしまいかねない。とはいえ辺りがまっくらであるにもかかわらず、智子たちの目にはこの石畳がなぜかはっきりと見えるようになっていた。それはみんなの体も同様であり、暗闇のなかにあってもお互いの姿をちゃんと確認することができていたから、よほどの不注意でもなければぶつかったりしたはずみで足をすべらせてしまう心配はないようだ。

 

「うわぁ、長いなぁ……」

 

 やがて一行は石畳のつきあたりまでやってきたけれど、その先に伸びる階段を見あげた智子がため息をつく。石造りの階段はさっきまでとちがって急に幅がせまくなっていたが、子供でもふたり並んで歩くぐらいがやっとのそれが、はるか上のほうまで無数の赤い鳥居とともに続いている。

 

「もう少しだよ、がんばろ? 疲れたらおんぶしてあげるから」

「あっ、い、いいよ、だいじょうぶ」

 

 花子にそう気遣われたので、手を振る智子が丁重にお断りする。なんともめんどうみのよい先輩であったけれど、そこまでお世話になるのは気が引けた。それにしてもこんな先輩がいただなんて、ウチの学校もまだ捨てたもんじゃないな。この人が同じ学年で、しかも同じクラスだったりしたらきっと楽しいだろうなと、智子はそんなふうに思う。

 

「あ、あのさ……!」

「なに?」

 

 階段をのぼっていた智子が、ふと思いついたように隣の花子へ話しかける。

 

「オカルト研究会ってあるじゃん? むかし今江先生がはいってたやつ……。それさ、もっかい作ってみない? その……わたしと、花子さんで」

 

 このふしぎな先輩と、これからも関わりを持てるようにしてみたい。そうしたら、学校にかようのが今より苦痛じゃなくなるかもしれない。だからふたりでかつてのオカルト研究会を復活させてみるのもいいかもしれないと、智子のなかにそのような考えが浮かんでいた。

 

「そうだねー……」

「あっ、い、嫌ならいいんだけど……! も、もしよかったら……」

 

 そうした智子からの遠慮がちなお誘いをどう受けとめたのか、花子がしばし考えこむ。

 

「じゃあ、智子ちゃんが会長やってみる?」

「へっ? あ、でも、それはちょっと……。ぜったい花子さんのほうがいいよ、『会長』って感じするじゃん」

「そんなことないよ。智子ちゃんが会長だったら、きっと他の子も参加してくれると思うなぁ」

「ええー、わたしじゃダメだよ、花子さんがなってよ」

「智子ちゃんが会長じゃないと、わたしもオカ研やらないよ?」

「んー、じゃあ、わかったぁ……」

 

 会長は智子にやってほしいと言って譲らない花子であったから、根負けした智子がうなずく。とはいえ、これは新生オカルト研究会の立ちあげに協力すると花子が約束してくれたようなものだ。そのことが智子にはうれしかったので、自然と笑みがこぼれてしまう。

 

「あっそうだ、これ返すね」

「あっ、ども……」

 

 思い出したように花子がポケットをまさぐり、そこから取り出したハンカチを智子に渡す。これは智子が貸してあげたままにしていたもので、ようやくもとの持ち主の手に戻ってきたのだった。

 

 そうこうしているうちに、やっと階段のてっぺんまでやってきた。みんな、ふぅふぅ息をついて疲れているようだけれど、目の前の光景──最後の鳥居の先に外の世界が映っている──を前にして、その顔に明るいものを浮かべている。

 

「あっ、智くん!」

 

 智子がはっとしたように声をあげた。鳥居の先で、ひとりの子供がひょいと顔を覗かせたからだ。それは智貴であり、お姉さんと目が合って彼自身もおどろいているようだった。

 がぜん走りだした智子が、その勢いのまま最後の鳥居をくぐり抜ける。するとたちまち様々なものが智子を出迎えた。むわっとした熱気が体をまるごと包みこみ、元気いっぱいの昆虫合唱団が夏の空気に演奏を乗せてくる。空からはギラギラとした日差しが降っていて、白く照り返す校舎や地面がまぶしいくらいだった。そしてなにより智子のことを出迎えてくれたのは──

 

「姉ちゃんさ、ホントなにやってんだよ……」

 

 安心したような、それでいてあきれたような顔の智貴が、開口一番お姉さんにもんくを言う。すると智子はそんな彼をまじまじと見やり、

 

「本物の智くん?」

「あたりまえだろ」

「ホントにホント? ウソじゃない?」

「なに言ってんの?」

「じゃあ『お姉ちゃん』って言ってみて」

「言わねぇ」

 

 智子の問いかけに、眉をひそめてそっけない返事をする智貴。するとそうした反応をどう思ったのか、智子の顔いっぱいに笑みが広がっていく。

 

「ともくーん、ただいまぁー! 帰ってきたよぉっ、お姉ちゃんだよぉっ」

「ちょっ、やめろって……!」

 

 弟をぎゅっと抱きしめる智子が、汗ばむ彼の体に顔をめいっぱいすりつけて、その確かな存在をたっぷりと感じ取る。そうしたお姉さんの行動におどろく智貴が抵抗するけれど、はしゃぐ智子は彼を放そうとしない。

 

「智くん、あれだけ行かないって言ってたのに。やっぱりお姉ちゃんのこと、心配になっちゃった?」

 

 首をこてんとかしげる智子からそのように言われた智貴が、ふてくされたように黙る。だけどもそうした態度が、今の智子にとっては嬉しい。目の前にいるこの不愛想な弟は、まちがいなく本物だ。あれだけ同行を渋っていたはずの弟が、結局はここへやってきた。なんだかんだ言っても最後はこんなふうにつきあってくれると心の片隅で信じていた智子だったので、その期待に応えてくれた弟のことがいとおしくてならない。無事に表の世界へと帰ってこられた喜びも相まって、智子はずいんぶんとテンションが高くなっているようだ。

 

「ねぇ、警備員の人は?」辺りを見回す智子がそうたずねると、

「知らない」智貴がそっけない返事をする。

「誰かがここでお姉ちゃんたちのこと手伝ってくれてたんだよ。智くん見てないの?」

 

 花子が言うには協力者がいるとのことだったが、それらしい者の姿は見当たらなかった。

 

「いや、それ俺だから」しかし智貴がこう答えたので、

「そうなの!?」と、おどろかずにはいられない智子。

 

 まさか自分の弟が協力者だったとは。確かに花子の言った通り、「知っている人」にちがいなかった。一体どういうなりゆきでふたりが協力しあうことになったのか、これは花子本人から教えてもらわねばと思った智子が、彼女の姿を求めて視線をさまよわせる。

 

「おい、あの六年、どこ行った?」

 

 ヤンキー娘が智子に声をかけてきた。姉弟がむつみあっているうち、仲間たちもすっかり帰ってきていたようだ。しかしみんなの様子がどうもおかしい。真子も、そしてゆりも、広場をうろつきながら誰かのことを探しているようだった。

 

「あ、ど、どうしたの?」

「いねーんだよ、あいつ。帰ってきてねーんじゃねえか?」

 

 ヤンキー娘の言葉を聞いて、智子がたちまち青ざめた。智子たちが通ってきた脱出路、その出口となっていたものは外から見るとご神木の幹にぽっかり穴があくような形になっていたのだけど、今はそれもお役目御免とばかりにすっかりふさがっているようだった。そもそも花子はみんなの先頭にいた智子の隣を歩いていて、そのうしろにはヤンキー娘たちが列になって続いていたから、おいてけぼりをくらったということも考えにくかった。

 

(なんで……!?)

 

 みんなと一緒になって花子のことを探してみる智子であったが、どこにも見当たらない。ついには大きな声で彼女の名を呼んでみるものの、やはり返事はなかった。智貴にも相談してみる智子であったが、花子の名前を出してみても彼は首をひねるばかりで、そもそもそんな人のことは知らないという。彼が学校にやってきた際に会ったのは今江先生と、警備員のおじさんだけだったそうだ。

 

「ちょっと先生呼んでくる」

 

 そう言って、智貴がどこかへ走っていった。

 花子は果たして、こちらの世界に戻ってこられたのだろうか。彼女ひとりだけが、なにかの間違いで異次元へと放り出されてしまったのではないか。仲間たちがベンチに座って途方に暮れているなか、同じくそこへ腰かけた智子の心にたくさんの不安がよぎっていく。

 

(せっかく約束したのに……)

 

 弟に再会することができて心底ほっとしていた智子であったが、そうした気持ちがいっぺんに吹き飛んでしまうほどのつらさにおそわれた。涙がじわっとにじみ、鼻水までもが垂れてくる。

 きこさん祭りなんて、するんじゃなかった。そしたらみんなのことも、あの先輩のことも巻きこまずにすんだのに。こんなことになってしまったのはどう考えても──わたしが悪い。

 大昔にこの学校で起きた失踪事件が今また繰り返されてしまったと、そのように考える智子。かつて行方不明となった子供たちのなかにとても仲のいい友達がいたのだと、ゆうちゃんのひいおばあちゃんから聞かされていたことを思い出す。その子がいなくなって本当に悲しかったと語るおばあちゃんだったけれど、今の智子にはその気持ちがよくわかった。とても大切ななにかを失った気がして、胸にぽっかり穴があいてしまったようだ。

 

「みんなー!」

 

 だしぬけに呼びかける声がした。はっとなった智子が顔をあげると、保健室の窓をあけた今江先生がそこから手を振ってきているようだった。その隣には、さっき広場を離れていった智貴の姿もある。

 

「せんせ──!」たちまち智子が叫び、先生のもとへ走り寄っていくが、

「あのっ、あのっ、はなっ、花子さんが、あの、うっ、うぇっ……」ノドがつかえてうまく言葉が出てこない。

「先生、あの、六年の先輩がいなくなっちゃって……。わたしたち、今まですごく怖いところにいたんですけど……」

 

 集まってきた仲間たちのなかで、真子が代わって今江先生に事情を説明しようとする。するとその言葉が終わらないうちに、

 

「あっ、待って田中さん。だいじょうぶ、わかってるから」

 

と、今江先生が待ったをかけた。

 

「智子ちゃん、ほら、顔ふいて」

「あっ……グスッ……う、うん……」

 

 今江先生がそう言って、ポケットから取り出した自分のハンカチを智子に渡してやる。智子の顔はいまや涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになっていたから、それを見かねてのことだった。

 

「ウソついちゃってごめんね」

「な、なにが?」

「先生が花子さんなの。こうしてちゃんと帰ってきてるから、だいじょうぶだよ」

「……へ?」

 

 鼻をずびっとすする智子は、今江先生がなにを言っているのか理解できなかった。だから智子は「い、言ってるけど……」と、ハンカチ片手に仲間たちへ混乱気味に話しかける。

 

「センコーよ、オメーなに言ってんだ?」

 

 本気で意味がわからないといった顔のヤンキー娘が、教師に対するものとは思えない口調で問いただす。

 

「ほんとだよ? みんなと一緒に裏幕のほうでおばけと戦ったりしたもの。ほら、例のあの人とかすごかったよね? 智子ちゃんがいきなりやべー奴を呼ぶから、びっくりしちゃった」

 

 それに対する今江先生の回答は、確かに彼女の主張を裏付けるものだった。あの裏側の世界に行った者でなければ知らないようなことを、先生は確かに知っていた。

 

「裏幕ってね、子供しかはいっていけないようになってるの。だからちょっと幽体離脱して、子供のころに戻ってみたんだ」

「そ、そうなの……?」

 

 さりげなくものすごいことを言ってくる今江先生であったから、もう目を回してしまいそうになる智子。今まで花子さんだと思っていた先輩が実は先生だったなんて、いきなりカミングアウトされても心の整理が追いつかない。だけども心当たりがあるかと言えば、これがずいぶんとあるのだった。智子以上に怪談や裏幕のことについて詳しかったし、まるで大人のように頼もしい人だった。声や癖なんかもどこか先生本人を思わせるものだったし、それに──

 

(あの匂い、今江先生だったんだ……)

 

 はじめて花子が姿を見せたとき、犬になっていた智子はその鼻で、とても懐かしい匂いをかぎとっていた。それはかつて今江先生のくすぐり攻撃を受けた際にもかいだことのある、ふんわり優しい匂いなのだった。幽体離脱していたという先生だったけれど、あのとき花子から自己紹介をされた際、もしや幽霊なのではとうたがったのはあながちまちがいでもなかったようだ。例え幽霊になったとしても、その人が本来持っている匂いというのは変わらないものなのだと、智子はこのときはじめて知った。

 

「い、言ってくれたらよかったのに。なんで隠してたの?」

「ごめんね、誰かに教えたり、見破られたりすると、すぐもとの姿に戻っちゃうから……」

 

 智子の質問に、今江先生が申し訳なさそうに答える。どうやら先生にはやむにやまれぬ事情があったようで、そのためにウソの名前を使ってまで別人のふりをしていたようだ。

 

「とんでもねーセンコーだな……」ヤンキー娘がそのはちゃめちゃぶりに苦笑し、

「はぁ、よかったぁ」真子もくたびれたように胸をなでおろす。

「ふぅ……」なんにも言わないゆりだって少しぐらいは安心したのか、軽くため息をついていた。

 

 智子はもう、力が抜けてへなへなと座りこんでしまいそうだった。心配して損したという気持ちと、無事でよかったという気持ちがないまぜになって、「もぉー、せんせぇー」と笑うしかない。

 

「智子ちゃん、オカルト研究会、やろうね。わたしが顧問で、智子ちゃんが会長だよ」

「あーうん……そだね……」

 

 今江先生は大人だから、同じ会員として智子に付きあうという訳にはいかない。だから代わりに顧問になってくれるということなのだけど、同年代のステキな先輩と一緒に活動するというプランがゆめまぼろしになったとわかって、ちょっとあてが外れたような気持ちの智子。先生が子供だったのはずっと昔のことで、初代オカ研メンバーであったころの「先輩」は、もういない。そのことが智子にはなんともさみしく感じられるのだった。

 

「みんなもどう? わたしたちと一緒にやらない? おばけのこととか、世の中のふしぎなことを調べたりするの」

 

 会員が智子ひとりだけというのはなんともふびんだ。そのように思ったからか、今江先生がみんなのことも会に誘う。

 

「カンベンしてくれよ。そーゆーのはもうこりごりだっての」

 

 また妙なことに巻きこまれてはたまらないと、すぐさま拒否するヤンキー娘。

 

「あの、それって危ないこともするんですか?」

 

 さっきまで危険だらけの世界にいた真子としても不安に思うのか、まずなによりも聞いておきたいことをたずねる。

 

「ううん、大丈夫、ちょっとした勉強会みたいなものだから。本やネットで調べものしたりとか、人から聞いた話をまとめたりとか、いつもそんな感じでやろうかなって」

 

 真子の心配をやわらげてあげようと、会の具体的な活動方針を説明する先生。するとふいに窓から身を乗り出し、

 

「と、顧問としては考えていますが……会長、いかがでしょうか?」

 

 にっと笑う先生が、そんなふうに智子へ意見を求めてきた。

 

「あっ、じゃあ、そ、そんな感じで」

 

 話を振られた智子がコクコクうなずき同意する。智子としてはクラスメイトを誘うだなんてことは頭になかったので、早くも顧問としての顔を見せる先生がさきほどからみんなを勧誘しはじめたことに戸惑っているようだった。

 

「それとね、もしみんなで色んなところに取材しに行きたいなって思ったら、そのときはまず先生に言ってほしいの。変わったおまじないなんかを試してみたいときもおんなじ。これは危ないなーっていうのがあったら、ちゃんと教えてあげるから」

 

 約束だよ、と念を押す先生が言いたいのは、つまり怪奇スポットの類へ不用意に足を運んだり、興味本位で怪しげな儀式に手を出さないようにということだ。今回のことにしたって智子が事前にひとこと相談でもしていれば、先生はなにがなんでも儀式の実行をやめさせただろうし、それがいかに危険な行為であるのかをきちんと教えてあげられたはずなので、顧問となったからにはそうしたところの面倒もしっかり見るつもりでいるらしい。

 

「ゆり、どうしよっか?」先生の言葉に納得したのか、参加への意欲を見せはじめた真子がたずねたところ、

「いいんじゃない?」ゆりが間を置かず答える。

 

 孤独なクラスメイトのことを気の毒に思っていた真子としては、友達のひとりとして智子につきあってあげたいという気持ちがあるのかもしれない。しかし一方のゆりはというと、傍目にはそのような同情心を抱いているようにも見えなかった。

 

「黒木さんのせいで大変な目にあったけど……」

 

 コードを巻き付けた指の先でイヤホンを遊ばせるゆりがひとりごとのようにつぶやくが、ふと顔をあげて智子を見やり「結構おもしろかったかも」と付け加えた。あまり感情を表に出さないゆりであるが、口もとにうっすらと浮かぶそのほほえみからして、あの裏幕での体験を彼女なりに楽しんでもいたようだ。

 そうしたゆりの気持ちを汲んだ真子が「じゃあわたしたちもやります」と、ふたり揃っての参加を表明するのだが、それを見たヤンキー娘はというと「おまえらマジか……」と、あきれ顔だった。

 

「一気にふたりも増えちゃったね」

「あっ、う、うんっ……!」

 

 声を弾ませる今江先生の姿に、智子はあの先輩の面影を見出す。大人の女の人はお化粧をするからすっぴんだった子供のころと違って見えたりするけれど、それでも先生はやっぱり花子さんだったのだなと、そうしたふしぎな感慨がわきあがってくる。

 ともあれ先生のはからいで早くも会の仲間が増えたから、智子にとっては思わぬ急展開だった。ここでちょっと苦手なヤンキー娘まではいりたがるようであればさすがにご遠慮願いたかったけれど、ゆりと真子だけなら問題はなかった。

 

「あっ、じゃあ智くんもやろうよ。ねっ?」

「いや、やんねーけど」

「会長命令よ! 智くんはわたしの助手をすること!」

「勝手に決めんなって……」

 

 わが弟に拒否権はないとばかりに、強引に勧誘する智子がアニメキャラの真似をして智貴をびしっと指さす。ともあれ今ここに、新生オカルト研究会が誕生したのだった。

 

 広場に涼しい風が吹いてきて、ご神木の枝をさわさわと揺らす。その根っこにある祭壇には誰が付け加えたのか小さな石が階段のようにしきつめられていたり、手前には鉛筆で作ったらしい鳥居が刺さっていたりしたけれど、ひとつ消えていたものがある。それは智子が用意してあったふたつのナスビのうち、まだ残っていたはずの片方だ。丸々としたそのナスもまた、智子たちの知らぬうちに歩きだし、いずこかへと去っていったのかもしれない──。

 

 ◆

 

 なまぬるい風の吹くなか、扉をあける音がする。C棟二階の南非常口から誰かが出てきたようだ。ひとり、そしてふたり。前を行くのはやべー奴で、そのうしろから例のあの人がついていき、階段をとぼとぼくだっていく。ふたりの体はこれがもう傷だらけといった感じで、ボロボロだった。上着をなくしてほとんど裸のやべー奴は翼のかたっぽを失い、残っているほうも羽根がすっかりむしられている。床屋で大失敗したような例のあの人の髪はくたびれた灰色になっていて、その手に持つ傘もグネグネに折れ曲がっていた。だんまりしているふたりはひどく疲れたような、むすっとしたような、そんな顔をしていた。

 と、階段をおりきったところで、そばにあったバスケ用のゴール台の手前でなにかがポンポンと跳ねていたのにふたりが気づく。それはひとつのバスケットボールで、誰もいないのにひとりでに跳ねているようだった。

 

「ンゴッ!?」

 

 そのボールが、とつじょ急加速してやべー奴の顔面にぶつかってきた。直撃をくらった彼/彼女がたちまち倒れるが、跳ね返っていったボールは次に例のあの人へと狙いを定めたようで、再び空中で不自然な加速を見せて突撃していった。

 

 グキッ

 

 それをとっさに撃退しようとした例のあの人が、ボールに向かってグーパンチを放つ。だけどもボールの勢いが強すぎたからか、彼女の手首から変な音が鳴って、ぐにゃりと折れ曲がってしまった。

 

「~~~~ッ!」

 

 声にならない悲鳴をあげ、例のあの人がたまらず運動場のほうへ逃げていく。起きあがったやべー奴もまた、それに置いていかれまいと慌てて駆けだした。そんなふたりをボールが──【加速するパスの怪(ヒナーボール)】がポンポン跳ねて追いかけていく。

 そうした追走劇を見物している者がいる。運動場に寝そべる彼が身じろぎするたび、辺りが地震のように揺れる。それもそのはずで、彼は広々とした運動場の半分を埋めつくすほどの巨大な存在だったからだ。手足があって、胴体があって、一応頭らしきものもある。巨人に見えなくもない彼は、だけどもぬいぐるみのような外見だった。平和そうな表情の彼──【喪蠱入道(もこにゅうどう)】が、ふわっとあくびをする。ただそれだけで、辺りにボエーッと拡声器で叫んだような大音響が広がっていった。

 

「……」

 

 運動場の様子を遠くからながめる人物もいた。それはC棟のてっぺん、この学校で一番高い場所となる時計塔の上に立っていた。その姿は全身黒ずくめの昔の軍人さんふうのかっこうで、マントを羽織って、頭には古い時代の学生帽のようなものをかぶっている。マンガのキャラクターらしきお面──『のらくろ』という作品の主人公に似ている──をかぶっているから顔はわからないけれど、うなじの辺りで結ばれた髪が風にたなびいているのが見える。

 誰に聞かせるでもなし、マント姿の人物──【蠱惑(こわく)マント】は、「なぜ来てしまったの?」とか「あなたはここに来るべきではない」などとつぶやいて、ふっと自嘲(じちょう)気味に笑ったりしている。その行動には意味がありそうに見えて、実はなさそうな、そういうカッコつけのスカスカな感じがした。

 *

 カラン コロン カラン……

 

 ゲタを鳴らして走る女の子の姿があった。それは智子を引きずりまわしたこともあるあのきこさんで、彼女の手にはなにかが握られているようだった。やがてきこさんはご神木の生える広場へとやってきたが、そこにいた誰かのもとへしずしずと歩み寄っていく。そうして手にしていたもの──智子の落としていったサンバイザーをその誰かへ差し出すと、受け取った相手はそれを頭にかぶってみせる。

 この誰かは、ひとりの見慣れぬ少女であった。肩に一羽のタカを乗せている彼女は赤いワンピースを着ており、顔立ちはきこさんと似通っていた。だけど髪はずっと長くて、背中まで届くほどだ。靴は履いておらず素足のようで、丸々と太った紫色の牛にまたがっている。その(くら)の上で、少女は手にしたスティックキャンディをなめていた。鞍にはあみかごが取り付けられていて、そのなかにもお菓子がいくつかはいっている。缶ジュースだったり、うまいと評判の棒型スナック菓子だったり、智子が弟のために買ってあげていたシール付きのチョコレートだったり……。

 と、ふいに少女が牛の背中をぽんと叩く。するとでぶの牛はのっそり歩きだし、ご神木の向こう側にある祠へと向かっていった。

 

 ふふっ ふふふっ

 

 くすくす笑う少女の声が、辺りに響いてこだまする。二〇〇六年八月十五日、智子と仲間たちが体験した、ふしぎなふしぎなひと夏のことであった。

 

おわり



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【ホラー】原幕小の七不思議(あとがき)

 このたびは『原幕小の七不思議』をお読みくださり、ありがとうございました。当作品は夏休み公開の子供向けホラー映画っぽさを意識しているのですが、とりわけ邦画『学校の怪談』シリーズの第一作目(一九九五年夏公開)に強く影響されています。作者がこの映画のことを知ったのは公開当時に流れていたテレビコマーシャルからで、そのキャッチーな音楽と、主演の野村宏伸氏の絶叫顔が印象的でした。実際に鑑賞したのはその翌年のことで、夏休みに地元の公共施設にてくだんの映画が子供を対象に無料上映されることを知って興味がわいた作者は、試しに観てみようと思い立って上映日に足を運びました。セミもギャン鳴き、日差しがギラつく真夏のことでした。そこで目の当たりにしたこの映画のおもしろさにいたく感動し、上映が終わったあともしばらく座席でぼんやりしていたのを覚えています。映画の終盤ではちょっと泣いていました。このときに映画から与えてもらった思い出が、『原幕小の七不思議』を書く上での大きな原動力になったことはまちがいありません。

『学校の怪談』シリーズは二作目、三作目、四作目と続いていくことになりますが、個人的には一作目がもっともお気に入りです。劇伴が素晴らしい作品でもあるのですが、特にエンドロールで流れる曲は最高の一言に尽きます。本当に素晴らしい映画なので、興味を持たれたかたはぜひご覧ください。

 蛇足ではありますが、当作品のあれこれについて以下に解説させて頂きます。とはいえこれはあくまで作者の個人的な見解に過ぎませんので、物語を受け取ってくださった読者の皆様それぞれの見解とはまた別にある解釈のひとつに過ぎないと思って頂ければ幸いです。

 

■登場人物について

*智子

 当作品の智子は中学時代のひねくれ期がやってくる前ということで、ネットのアングラ文化に傾倒しつつもまだまだ素直さがあって、弟への接し方もうんと柔らかい感じにさせて頂きました。しかし原作において「小四のころまでは普通に人と話せていた」と自身を振り返ってもいた智子でしたので、では五年生からはどのような心境の変化があったのか……というところから人物像を考えた結果、原作初期の智子を彷彿とさせる要素も加えさせて頂きました。今江先生は荻野先生から進級後の智子の孤立を聞き及んでいるため、密かに心配していたようです。

 智子が先生から改めてオカ研立ち上げを促された際に歯切れの悪い返事をしていたのは、大人と子供のあいだに存在するどうしようもない壁のようなものを表現できたら、という意図がありました。今江先生は生徒に深く寄り添うことのできる素敵な御仁ではありますが、やはり子供には子供だけの世界というものがあり、そのなかでともにあってくれる人として期待していた相手が実は大人だったというのは、智子としても一抹の寂しさを覚えずにはいられなかったようです。今江先生のことはもちろん大好きな智子ですが、それでも同年代の友達として花子先輩に抱いたときめきは、替えの利かないものでした。時代を超えたひとときの友情は、智子のふしぎな思い出としてこれからも胸のなかにそっとしまいこまれることでしょう。あるいは新たなオカ研がこれから活動していくなかで、また花子先輩の助けが必要となるときがやってくるのかもしれません。なんだか『地獄先生ぬ~べ~』の陽神明(ひのかみあきら)くんのようです。

 

*今江さん

 今江さんについてはもともと智子らと同じく原幕小の生徒として、身元を偽ることなく本名のままで登場させる予定だったのですが、この物語には子供たちを導く保護者的存在が必要だという考えに至り、先生として原幕小へ赴任して頂く事になりました。

 先生のオカルト好きは小学校を卒業したあとも留まるところを知らず、中学においてはオカ研を正式な部として立ち上げ、続く高校、大学でもグループの中心となってその手の活動に励んでいたようです。こうした過程で先生は幽体離脱法や数々のまじないを会得していったのですが、怖い話に関する知識も豊富ですので、林間学校の折、先生が生徒たちに話してあげたとびきりの怪談は智子やゆうちゃんを震えあがらせたにちがいありません。

 ちなみに今江先生が化けていた花子先輩は、映画『学校の怪談』の一作目に登場する、ある人物がモチーフになっています。映画のネタバレになるので詳細は伏せますが、もしご覧になる機会がありましたら、なるほどと思って頂けるかもしれません。最後に智子が花子先輩(の正体)と再会できる展開にしたり、だけどもやはり一抹の寂しさを覚えずにはいられないのも、くだんの登場人物に対してわたしが感じた色々の反映です。

 今江先生の描写は本作のなかでもとりわけ苦労した部分でして、作者の人間性に重なる部分、心理的なとっかかりとなる部分がほとんど見当たらない御仁ですので、人徳溢れる彼女の言動や生き方の根源がなんであるのか、といった部分が中々つかめず悩みました。そうした部分をうやむやにしたまま作者都合で動かしていくだけのうすっぺらい存在になってしまえば、それこそ今江さんという素晴らしいキャラクターに申し訳ないと思っていただけに、話数を重ねていくごとに彼女が段々と自然な感じで動き出してくれてほっとさせられました。

 

*ゆりまこ

 中盤から一時的に智子と離ればなれになっていたゆりまこ組ですが、舞台裏でふたりがピンチを乗り越えるために奮闘していたことを匂わせる形にしてみました。特に田村さんは消火器の噴射でバケネコたちをけん制したり、真子に噛みつかんとしていた紫キババアのクリーチャーじみた大口(口腔内にもキバが無数に生えている)にボンベをぶちこんだりと、勇敢に戦ったようです。死鬼との卓球勝負の際に窓ガラスを割ろうとしてくれていたのも実は彼女でした。

 音楽室でのゆりまこの合唱シーンは、そうしたふたりだけの冒険を締めくくるような感じにしてみました。当作品の真子はクリスチャンという裏設定があるのですが、教会にかよう彼女は小さいころから〈きよしこの夜〉を歌い慣れていて、それを度々聴く機会のあった幼馴染の田村さんも自然と歌い方を覚えていた、ということにしています。

 真子には度々おばけを怖がる役割を担って頂いたのですが、ただ怖がるのではなく、怪しいバイクに対して「助けが来たのでは」と希望的観測にすがろうとしてみたり、バケネコに慈悲を求めたり、例のあの人におべっかを使ったり、神さまへ救いを求めたり、限界が来て暗闇のなか恐慌状態に陥ったりと、なるべく一本調子にならないように配慮してみました。

 その対比として、田村さんは決して悲鳴をあげず、あまり動じない人としてえがくように意識していました。日常においては朴念仁的な形で表面化している彼女のパーソナリティが、非日常である裏幕のなかではおばけたちに負けない強さとして機能しているというふうに書かせて頂いた次第です。

 第八章における真子のあの唐突な友達宣言ですが、これは智子がマキ戻しの世界に取り込まれてしまった折、ちょうど原作における修学旅行編の荻野先生のように、花子先輩がみんなに智子の交友関係のことでなにかしらお願いした結果という感じだったりします。

 真子がポーチに入れてあった鍵束は裏幕脱出時に消えてしまったのですが、ぼっち先輩を撮影したときの写真データはバッチリ残っていたので、のちに智子はこれをプリントアウトし、「マジモンの心霊写真」としてクラスメイトに見せびらかしたりします。

 

*吉田さん

 作中では結局最後までヤンキー娘呼ばわりのままだった吉田さん。原作の謹慎エピソードによれば「小さいころは怖い話が苦手だった」とのことなので、それを取り入れた人物像にさせて頂きました。オカ研への誘いを断固拒否した彼女ですが、非会員ながら今後も智子たち新生オカ研の怪奇調査になんだかんだで巻き込まれていくポジションになりそうです。

 吉田さんは仲間たちのなかでもとりわけ裏幕脱出に気合を入れていましたが、彼女は秋に控えている遠足をものすごく楽しみにしていたので、第三章ラストのあとに智子から「脱出方法はない」と聞かされた際は、ネズミーランド行きがブチ壊しにされたとかなりおいかりだったと思われます。第四章冒頭の智子がややおどおどしていたのは、それもあってのことでした。

 ちなみに第二章にて言及されていたウサギの「とんすけ」という名前ですが、これは吉田さんが命名したもので、ディズニーアニメの『バンビ』に出てくるウサギのキャラクターにちなんでいます。吉田さんはこんなふうに飼育小屋の動物たち全員をそれぞれ愛称で呼んでいる模様。

 

*智貴

 三年生のころまでの智貴は周囲へ折あるごとにお姉ちゃん自慢をしていて、そのシスコンぶりはみんなの知るところだったので、第一章にあらわれた智貴の友達(中村くんたち)にとっては格好のからかいネタとなっています。姉のイカサマ事件は彼にとってもたいへんショックな出来事でしたので、この件で誰かに「おまえのねーちゃんイカサマクイーン」などとからかわれようものなら激怒してその相手と大喧嘩していたのかもしれません。

 第八章の智貴が姉の語る幽霊電話の話を素直に信じるところは、彼が第一章にてあかずの小屋の怪談を疑ってかかる場面との対比でもあるのですが、実際は四年生になってからもお姉ちゃんの話を真に受けやすいところを引き継いでいるのではないかと思います。もこっちにおどろかされた際に「びくっとなった」のも、そして儀式に挑む姉を心配して様子を見にいったのも、なんだかんだ今でもお姉ちゃんの言葉を無視できない性分の表れという感じですね。

 

*耳たれ犬

 原作ではキモイーヌ、クンニーヌ、そしてマロと、三つの名を持つ彼ですが、当作品では原幕小の子供たちに愛される存在として登場してもらいました。

 誰も名前を知らないけれど、学校近くの家の前におとなしく人懐っこい耳たれの犬が繋がれていて、みんなにかわいがられている。これは作者自身の子供時代の体験にもとづくものでして、通学路の途中にある古民家にて本当にこんな犬が飼われていたのです。普段は裏庭にいる彼が時々軒先に繋がれていることがあり、そんなときはわたしも含めた子供たちが彼としばらくじゃれあったりしていたのを覚えています。ただ、彼に意地悪をする子がいたらしく、そのせいであるときからすっかり表に出てこなくなりました。それでも一部の子供は裏庭に忍び込んで彼をなでに行っていたようですが……。

 

*警備員さんたち

 智子と仲良しだった前任のお兄さんには喪44に登場のサボリーマン氏を、智子が苦手としている後任のおじさんには喪23に登場した見回りおじさんをそれぞれ割り当てています。

 

■作品テーマ

 当作品にはふたつの核となる要素を持たせてあります。ひとつは作中に登場した多数の怪異たちで、これは「わたモテの原作要素を様々な形で怪談化する」というテーマに沿ったものです。そしてもうひとつは、挫折していた智子がもう一度立ちあがれるようになるまでをえがくというもの。

 原作初期における智子の孤独、そしてその日々の生きざまや考え方は本当に興味深く思っていまして、作者の過去作でも何度か題材にさせて頂いていましたが、今回はそうした初期智子と修学旅行編の世界とを接続するという考えのもとにやらせて頂いた次第です。初期智子としての奇行ぶりの大半は例のあの人が担い、内面的なものや人に嫌われがちな素行面をリトル智子が担う形でしたが、挽回を狙いながらも残りの小学校生活を諦めつつあった智子が、冒険を通して等身大の自分のままで生きていく道を見出せるようになるという、そうした物語をジュブナイル小説的な趣に乗せて書いていきたかったのです。

 また、『学校の怪談』シリーズは過去と現代との重なりあいという要素を持った作品でもありますので、当作品にもそうした要素を持たせたいと思っていました。成瀬家のひいおばあちゃんが大昔の思い出を智子に語って聞かせたり、子供時代の姿へと戻った今江先生が智子たちと行動をともにしたり、オカ研が残したノートに智子が様々な局面で導かれていったり、かつて原幕小にかよっていた子供たちの置き土産とも言える各世代の七不思議に智子らが出くわしたりするのも、時代を超えてそれらが交錯する感じを意識してのことです。

 

■文体について

 智子たちの年代に合わせて児童書的な雰囲気を出してみたいという思いがあったので、なるべくひらがなを多くして、堅苦しい言い回しや語句の使用を避けるよう意識していました。ただ、そうなると作者のボキャブラリーの乏しさから表現の手札が減って文章が単調になりがちでして、そこをどうクリアしていくかという点にだいぶ頭を悩まされもしました。そうしたこともあり、力不足から文体の徹底ができず中盤以降は普段の書き慣れたスタイルに戻っているところが多々出てきてしまっています。

 文体ひとつとっても(そしてそれ以外のあらゆる全ての部分も含め)本職の児童文学作家の先生方は偉大であると、今回のチャレンジを通し改めてそのように思わされた次第です。

 

■作中の時期について

 当作品はスマホがまだ世に出回る以前の二〇〇六年、幼い黒木姉弟が喪102にて仲よく『涼宮ハルヒの憂鬱』を観ていたあの夏を舞台としています。当時の子供たちへの携帯電話普及率については調べてみても実際のところどの程度だったのかはっきりしなかったのですが、当作品の智子の場合は四年生になって塾通いを始めた事がきっかけで親から持たされたとしています。喪119にてえがかれた例のお母さんとのツーショット写真は、このころ携帯電話のカメラ機能を用いて撮影したものなのかもしれません。

 

■原幕小学校について

 当作品では「原幕小」という原作にない架空の学校を用意し、そこに数々のわたモテ要素を盛り込ませて頂きました。学校の造りについては読者のみなさまの思い出のなかにある小学校と重ねて頂くのが一番という思いではあるのですが、一応ながら作者的にはこんなふうに考えていますという見取図(下記参照)を作らせて頂いた次第です。間取り的にはわたしのかよっていた小学校がモデルでして、それをあれこれ改変したものになっています。

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 校内に祠が隠されていたという設定の原幕小ですが、これもわたしの母校がもともと神社のあった敷地の上に建てられていたという話を参考にしています。在学中はこのことを全く耳にした事がなかったのですが、大人になって母校の歴史を調べてみた際にそうした成り立ちがある事を知り、不思議な気持ちになったものです。ちなみにこの神社、具体的にどのようなものであったのかといった具体的なことはわからずじまいでした。謎の神社……。

 あと見取図上には存在するものの作中には登場しなかった学童保育施設ですが、これは本来講堂として建設されたものであり、作中では光姫人形の目撃場所のひとつとしても噂されていたのですが、智子たちの時代ではもう講堂としては使われておらず、放課後に鍵っ子の生徒たちの一部が時間を過ごすための場所となっています。智子が名前を忘れてしまった図書委員の子──小宮山さんもかつてここにかよっていました。なお、光姫はもともとも小宮山さんのひいひいおじいちゃんの持ち物という設定。裏幕のおばけは表の世界にいる子供たちのことがうっすら見えているので、光姫も小宮山さんのいるクラスをよく見物しに行っているようです。

 ちなみに姉弟崎の山女が出没した第二運動場ですが、ここはモデルとなった学校では丸々農家さんの畑となっていて、学級農園もそちらを一部借りる形で存在しています。山女が第二運動場にいたのは普段からあそこでよく柵越しに智貴たちサッカー少年の練習を眺めていたからなのかもしれません。

「里崎屋敷」の設定についてですが、これは千葉県市原市に存在する、ある小学校の成り立ちにちなんでいます。この学校が建つ前はそこに大名屋敷があり、江戸時代は藩庁として使われていたそうなので、そこのところを参考にさせて頂きました。

 里崎家の人々は茂子原の地に古くから根をおろす忌孤神信仰に傾倒していて、原幕小の中庭に生えているあの大きな古木もそのころにご神体として祀られていたものだったりします。かつて里崎屋敷の敷地内には邸内社(その家の人だけが参拝するためのプライベートな神社)が存在していたのですが、幕末の混乱期に屋敷ごと打ち壊され、ご神木だけが残ったようです。

 

■地理について

 学校同様、智子たちの住む茂子原市もわたしの故郷の町がモデルになっていまして、だいぶ脚色してありますが作中の希心ノ森にあたる場所も実在していたりします。また、市の名称や立地、沿岸部の工業地帯については前述した市原市の北西部がモデルでして、「姉弟崎」という地名もこの辺りに存在する「姉崎(あねさき)」という場所から取ったものです。

 参考資料として智子たちの住む町の地図などもこのように作っていましたが、『夕闇通(ゆうやみどお)り探検隊』というゲームソフトに付属の地図みたくしたかったものの、あそこまで緻密なものはとても真似出来ませんでした。

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■エピローグ

 全九章となっている当作品ですが、もともとの予定だとそれに加えて後日談を書くつもりでした。結局、第九章ラストのホラーっぽいオチの余韻を大事にしたくてお蔵入りにした次第なのですが、この没エピローグでは一気に時間が跳んで秋になりまして、給食の時間に智子が隣の席の根元(ねもと)さん(昨年原幕小に転校してきた子で、実は四年のときから智子とは同じクラス)から近ごろのオカ研の活動ぶりについてあれこれ聞かれたり、少し前に遠足でネズミーランドに行ってきた智子が、仲間たちと一緒に撮影した記念写真(遠足当日に撮影されたたくさんの写真が二階の渡り廊下に貼り出されている)をみんなで見に行くという流れになります。そこで智子らは写真の中の自分たちの背後の右上辺りに妙なものが写っていることに気づくのですが、しばらくしてから田村さん以外がこぞってウワーッ!と絶叫。なんとそこにはアヘ顔ダブルピース姿の例のあの人が写り込んでいたのでした。めでたしめでたし……。こんなオチです。

 本来はこのエピローグにて、オカ研ノートに書かれていた「例のあの人は実在する」という記述に関する裏事情も具体的にえがく予定でした。先生がかよっていた当時の原幕小では例のあの人がブームになっていたというのは作中でも言及していたことですが、更に時が進んで夏休みも近くなったころ、「例のあの人を見た」と真剣にうったえる子供たちが続出するようになっていきます。それまでの面白半分のでまかせな目撃証言とは一線を画するもので、校内の各所で例のあの人が本当に目撃されるようになり、子供たちを心底恐怖たらしめるようになった結果、不登校になる子が出たり、集団下校騒ぎになったりと、段々と集団ヒステリーの様相を呈していきます。それを受けてオカ研のほうでも真相を確かめようと調査に乗り出したところ、例のあの人の姿を実際に目の当たりにしたのでおおいに驚かされたというのが、ノートに残されていたくだんの記述の真相でした。

 ともあれ事態を重く見た先生たちが例のあの人の噂をやめるようにと子供たちへお達しを出すようになったのですが、あるとき全校集会で校長が改めて子供たちに「例のあの人なんていません」と説いていたところ、C棟の屋上に例のあの人がとつじょ姿をあらわしてパフォーマンスをはじめたものだから、それを目撃した先生たちも大慌て。学校中が大騒ぎになり、パトカーまで出動する事件へと発展していきました。この辺りは例のあの人の元ネタでもある「口裂け女」の噂が実際に引き起こした社会現象と重ねています。

 こうしたことは当時の子供たちが例のあの人に過剰なまでの関心を寄せて大量のエネルギーを集中させたためで、このエネルギーを使って例のあの人は自身の姿をみんなの前に映し出せるようになったのです。といっても彼女自身が表の世界に直接やってきている訳ではないので、触れたりすることはできず幽霊のような状態でした。

 ともあれ大騒動になった結果、先生たちは例のあの人パニックの鎮静化に苦労させられるのですが、噂の拡大を手伝っていたオカ研が先生や保護者会の人たちから槍玉にあげられることに。一時は会の存続すらも危ぶまれたのですが、ひとまず例のあの人のことは金輪際取りあげないことを約束させられた当時の今江先生たちなのでした。先生が妙にオカ研と自分のつながりを秘密にしたがるのも、この辺りに理由があったというふうに考えていました。

 こうして思わぬ形で冷や水を浴びせられたオカ研メンバーはつまらない気持ちを引きずったまま夏休みを迎えますが、しかしこのころ今江先生は新たな興味深い情報をつかんでいました。それは長らく調査に進展のなかった「裏幕」の謎を解くカギ──「きこさん」というおばけに関する古い噂でした。夏休み中の研究テーマはこれで決まりと、早速調査に乗り出すオカ研でしたが、このなかで先生は「かつてきこさん祭りをおこなった子供たちは何故失踪してしまったのか」という部分も解明しようとします。そうして調査を進めていくうち、希心神社の神主だった人──集団失踪事件以降は毎年お盆の時期になると学校を見張っていた──の子孫を探し出し、当時の神主さんが持っていた色んな資料を見せてもらったりしていました。そこできこさん祭りの正しいやり方や、儀式をおこなう上での諸々の注意点を知ることになるのですが、かつて昭和初期に儀式をおこなった子たちは、中途半端な知識しかなかったために表の世界へ戻ってこれなかったのではないかと今江先生は考えます。裏幕におばけ軍団が待ち構えているなどとまだこの時点では知らない先生だったので、ゆうちゃんのひいおばあちゃんに止められていたにもかかわらず、抑えきれない好奇心からとうとう仲間たちとともに儀式を決行してしまい、そこで散々な目にあったという訳です。このときの先生はマリアさまやキツネヘビなどには遭遇しなかったものの、代わりにメシマズ魔女やブチキレ校長には殺意全開で追いかけられた模様。

 多くの子供たちにトラウマを刻んだ例のあの人ですが、この年の夏休みが明けるころになると彼女が蓄えていたエネルギーはすっかり散ってしまい、加えて子供たちからも「名前を呼んではいけない例のあの人」として腫れもの扱いされるようになってしまったため、人前に姿をあらわすこともなくなったという感じです。

 なお、今江先生がこんなにもオカルト好きになったのは、もともと小学校低学年の頃に高学年の先輩たちから七不思議について教えてもらったのがきっかけ。この七不思議というのは当時まだその内容を覚えている生徒がギリギリ残っていた八〇年代仕様のものだったのですが、先生が高学年になる頃にはすっかり忘れ去られていました。それが寂しい先生は「わたしたち自身で新しい七不思議を見つけよう」と思い立ち、当時参加していた児童会の一部メンバーを巻き込む形でオカ研を発足させるに至ったのですが、これがちょうど全国的な怪談ブーム到来の時期と重なったこともあり、彼女らの活動はおおいに充実したものとなりました。

 

■新聞マンガについて

 智子が愛読している新聞マンガですが、これは山本ルンルン先生の『宇宙のスワン』と『マシュマロ通信(タイムス)』が元ネタ。いずれも全編フルカラーの傑作で、西洋的であり絶妙にノスタルジックな雰囲気に満ちた作風が実に魅力的です。子供たちの日常を中心にした優しいお話が多く、可愛い小物などへのこだわりは谷川ニコ先生のセンスに通ずるものがあります。

 

■七不思議について

 作中に登場した歴代の七不思議たちですが、防空壕・旧校舎・あかずの小屋・隠し穴のよっつだけは別として、それ以外はいずれも原作から大なり小なりネタをひっぱってきたものとなっています。また、私見ではありますが中学高校において流行る怪談というのはグロさ・陰鬱さ・リアルさといった要素を帯びる傾向があり、逆に小学校では(怖い内容のものであっても)どこかしら幻想的な要素を帯びた怪談のほうが受け入れられやすいのではないかと考えていまして、そうした点を意識しつつ歴代の七不思議を考えていった次第です。

 各世代の七不思議の流行時期は基本的に地続きではなく、怪談の類が一時的に廃れる空白期間を挟んで、その後に次世代の噂が育っていくというサイクルを繰り返す傾向にあります(ただし九〇年代七不思議については初代オカ研の登場によって成立が促進された結果、あまり空白期間を経ずに誕生しています)。また、戦時中は怪談を楽しむどころではないという時勢であったため、噂の流行っていた年数自体が短く、次の世代の七不思議が生まれるまでの空白期間も長かったとしています。今江先生世代の七不思議は二〇〇〇年代初頭まではまだ少しだけ語り継がれていたのですが、智子が原幕小へ入学するころにはすっかり忘れ去られていたようです。

 

*隠し穴

 これは『学校の怪談』第一作目の映画版やそのノベライズ作品(集英社文庫版のほう)に登場する謎のワープホールに設定を盛って膨らませたものとなっています。ちゃんと表の世界へと戻るための脱出路としても機能するのですが、魑魅魍魎うごめく裏幕のなかで無事に探し当てるのは至難の業。

 今江先生はこれを通って裏幕へとやってきたのですが、このときは誘い込み役のタカ(先生の知っている誰かに化けていた)に誘導されるまま三年三組の教卓の前までやってきたということになっています。

 

*運動会の歌

 この古い歌の作者は不明らしく、地域によって歌詞も微妙に異なっているのだとか。主に戦後世代のかたがよく耳にしたそうなのですが、ひょっとしたら戦時中から既に存在していたのでは……などと考えてもいます。

 歌のあとに聞こえてきた砂嵐の、そのまた次に流れてきたのは「般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)」というお経でして、これは市原市内にある上総国分寺の宗派が真言宗豊山派であるということで、それにちなんでの選定。このお経を止めようとしていた田村さんですが、彼女は四年生のときに放送委員をやっていたという設定です。しかし五年生では真子とともに飼育委員をやろうとしたものの、結局ジャンケンに勝ち残れなかった為、枠が余っていた園芸委員をやる事に。事件当日は屋上ガーデンのシロツメクサなどに水をやりに来ていたようです。

 

*死鬼

 死鬼との卓球勝負ではもはや正攻法での勝ち目なしというところから、智子ならではの屁理屈を駆使した立ち回りをえがいてみた次第なのですが、お楽しみ頂けましたでしょうか。実は智子たちが卓球室を出ていく際の死鬼とのやりとりには本来もう少し続きがありました。死鬼が休憩時間に制限を設けてきたり、「戻ってこなかったら迎えにいく、必ず」と、智子に釘を刺してくるといったものです。ですがこれは後味が悪く爽快感を減じてしまうのでイカンということで、その辺りは思いきって削らせて頂いた次第です。

 

*蠱毒の壺、黒い短冊、安藤くん

 結局作中ではどのような災厄を引き起こすのか曖昧なままに終わったこれら呪い系の怪談たちですが、呪いの影響はそれぞれこのようになっています。安藤くんがかいたあの似顔絵は、そこにえがかれた人物の未来の死に顔を写したものであり、見てしまった者は数日以内に事故に遭って目が飛び出る。蠱毒の虫たちは呪った対象にまとわりつく習性があり、しかも壺から無限に湧いて出てくるので、やがてものすごい大群となった彼らが海嘯のごとき勢いで迫ってくる……といった具合ですが、黒い短冊についてだけはただ単に「短冊を読んだら死ぬ」というシンプルな脅し文句だけがついて回るタイプの怪談となっています(なお、この短冊は笹を片付けるころになるといつのまにか消えているそうな)。

 

*家庭科室の魔女

 作中では未登場だったこのお料理おばけですが、実は中々に厄介な存在。彼女は魔女の名に相応しく黒魔術の心得があり、それを駆使してターゲット(いけにえ)の足止めをしたり、無理やり毒弁当を食べさせることができるのです。魔女が「あーんして」と命令しつつ手元のかっくん人形の口を開け広げれば、魔術をかけられた者も同じくあんぐり口を開けてしまいます。そうして口のなかにしこたま料理をつめこまれるのですが、魔女の許しなしには吐き出すこともできず、いけにえとなった者はかっくん人形を通して操られるまま、完食を強要される羽目になります。

 魔女は食事中にたびたび味の感想を求めてきますが、彼女は自分の料理が相手に喜んでもらえるぐらいおいしいと思いこんでいるため、その認識を改めさせるためにはっきり「マズい」と伝えてやらないといけません。しかしいけにえは体の自由を奪われているためしゃべることができず、代わりにかっくん人形が「ウン、ウマイ」と勝手に答えてしまうため、気を良くした魔女から「たくさん食べてね」と、際限なくおかわりさせられるという悪循環。

 しかしこのかっくん人形というのはいけにえと体の感覚を共有しており、それは「食」の感覚についても同じこと。彼自身も本当は魔女のお弁当がマズいと感じているため、いけにえが死なずにがんばっておかわりを続けていけば、やがて限界を迎えたかっくん人形が激しくえずき始め、それにともない魔術も解けてしまいます。体の自由が戻ったいけにえのほうもたちまち今まで食べさせられたものを吐き戻すことになるのですが、魔女はこの光景にショックを受けて泣き出してしまうので、その隙に逃げてしまえばいい……というのが、このおばけに関する一応の対処法。鉄の胃袋を持つ風夏ならワンチャンありそう。

 

*サチ・ノリ・マキ

 顔なしフレンズなあの子たちですが、これは作者がずっと前に考えていた以下のわたモテ都市伝説が原型になっています。

『【則巻幸(のりまきさち)】二年四組に所属するひとりの女生徒で、南さんに「友達が沢山いる」という幻覚を見せている。本体は顔を持たないのっぺらぼうで、その名前も偽名と思われる。取りついた対象から友達力を吸い取り、ぼっちに追い込む能力を持つが、攻撃を受けた当人に真の友と呼べる相手ができればこれは解除される』

 彼女らに出くわすもただ笑われるだけで済んだ智子でしたが、これはサチ・ノチ・マキがターゲットの友達力を目当てに襲ってくるおばけだったから。たったひとりの友人に転校されてしまったぼっちの智子には取りつく面白みがないと考えた模様。

 

*きこさん

 これは原作の初期きーちゃんに相当するキャラクターで、おばけとしての性質は都市伝説の「ひきこさん」をモデルにしています。一見とぼけた感じながらも中々エグい事をしてくる上、逃げ出せたとしても犬化の呪いのせいで結局助からないという、ヤバさ高めな存在。かなりの力持ちなので、仮に智子が相撲を取ってきこさんを水田に封印しようとしても、みぞおちに膝を入れられ返り討ちにあいそうです。

 

*マリアさま

「動く二宮金次郎像」のように彫像を題材とした怪談を加藤(かとう)さんでやらせて頂いたのですが、戦後期の怪談には一体どのようなものがあったのだろうと考えたとき、戦時下における諸々の出来事のなごりを感じさせる話も存在していたのではということで、あのようないわくが付いた次第です。マリアさまのおばけとしての性質は初見殺しですが、智子は図らずも旧校舎にまつわる密室トラップに救われた形になりました。

 

*白紙の書状

 この怪異の被害を受けるキャラクターはぜひ田村さんでと思っていましたので、後半のゆりまこパートでは彼女をおおいにハジケさせてみたのですが、絵面的にキャラ崩壊寸前な感じになってしまったかもしれません。

 

*化猫党

 彼女らは場所を選ばずおそってくる神出鬼没のおばけで、全員が身体能力抜群な上に連携も上手、一度撃退しても学習してまた仕掛けてくるし、リーダーの内御前は厄介な妖術まで使う……といった具合に裏幕の中でもトップクラスに凶悪な存在という位置づけ。

 化猫党はもっと早くに智子の前へあらわれる予定だったのですが、花子先輩とキツネヘビが出揃わないうちに遭遇すると詰みかねない強敵なので、結果的にかなり遅めの登場と相成りました。あのバケネコ屋敷は原作における雌猫の間という位置付けで、内御前の部下であるバケネコファイブは青山大学見学組とそうでない組とで役割を分けてみました。

 当作品は原作の修学旅行編を意識した物語でもあるのですが、うっちーだけ仲間外れにしてしまったような感があり寂しかったので、そのぶん強敵としてハッスルして頂きました。今江先生が子供時代に遭遇したときはヘビを見せてやることでそれきり現れなくなったのですが、今回は内御前が智子のことを獲物としていたく気に入っていたため、予想外の執念深さを見せたようです。

 当初の案だと他にも「きもいきもい」という名の、うっちー単体のおばけを考えていまして、教室の壁や窓一面にうっちーの歯ぎしり顔がたくさん浮き出て「キモキモキモ……」と一斉に騒ぎ出すという感じでした(これは映画『学校の怪談2』に登場した、あるおばけがモデル)。ちなみに智子の創作怪談のひとつに「人面ゼミ」というものがあり、没となった「きもいきもい」の性質はそのままこのセミおばけに受け継がれているとしています。

 

*キツネヘビ

 UMA(未確認生物)枠で登場させたおばけ。キツネマフラーは原作でも智子を寒さから守ってくれるニクいやつなので、ぜひ智子と仲よしな存在として登場させてみたかったのです。

 キツネヘビのチビはA棟非常階段を巣にしているのですが、智子は普段から昼休みにひとけの少ないあの場所へ隠れてはこっそり携帯ゲームで遊んだりしていたので、そうするうちにキツネヘビから匂いを覚えられ、当人の気づかぬ内にすっかり懐かれていたようです。表の世界に帰ってきた智子はその後、母にねだって彼とそっくりなデザインのマフラーを買ってもらったのかもしれません。

 余談ながらキツネヘビに与えられたあの「チビ」という名前ですが、これは作者が子供のころに家で飼われていた犬につけていたものだったりします。彼は雑種でしたがキツネのようにとんがった鼻先をしており、よく地面を掘っていて穴ぐらっぽい場所にもぐるのが好きだったので、そんな彼のことを時折「キツネチビ」と呼んだりしていました。チビ~ッ!

 

*ワイハ星人

 初期案だとコワリィッチの姿で襲撃してくるチュパカブラ的モンスターとして考えていたのですが、吉田さんがショックを受けないよう、あのように夢の世界へといざなう平和な存在にしてみた次第です。彼女が目撃したのは銀色の円盤か、はたまた歌って踊るコアラだったのか……。

 作中では触れずじまいでしたが、かつてあの屋上ガーデンには天体観測用のドームが設置されており、ワイハ星人の噂も当時そこを利用していた地元青少年クラブの子たちのなかから出てきたとしています。

 

*マキ戻し

 初期案では「テストの名前欄に『マキ戻し』と書くことで過去に戻れる」という、「緑のペン」的なおまじないとして考えていましたが、最終的にあのような感じで能動的に襲ってくる脅威度の高い怪異にしてみました。智子が思い出の世界に行っていたあいだは精神的な次元にその身を隠していたので、仲間たちからはこつぜんと姿を消したように映ったことでしょう。

 智子の抱える孤独や行き詰まり感、そして過去への執着は本作のテーマのひとつでもあったのですが、そこへ迫っていくための仕掛けとして原作の留年エピソードを使わせて頂いた次第です。ラストバトルの相手として例のあの人をもってくる、というのも実はだいぶあとになってから決まったことでして、元々はこのマキ戻しエピソードを最後のヤマ場に据えるつもりでいました。強化型例のあの人との戦いはあくまで物理的なクライマックスなので、智子自身の心の決着はゆうちゃんに別れを告げて仲間たちのもとへ戻る気になったあのとき、すでについていたという次第です。

 はじめは智子から携帯を取りあげようとするほどの強引さを見せていたゆうちゃんでしたが、智子がキツネヘビに導かれていくうちに引き留める力が段々と弱くなっていっていく。これは意図的にえがいていた部分でして、マキ戻しは智子の心に取りつく怪異(個としてのおばけではなく、超常現象の一種に近い)でもありますので、ゆうちゃんの一連の行動は智子自身の深層心理下でのせめぎあいが反映されたものとしても見て頂けるよう意識していました。「現実に戻りたくない」という智子の思いがあるために、仲間たち=現実からの働きかけを智子に代わって遠ざけようとする一方で、いざ智子が戻る気になったら力づくで引き止めることも出来ずただ問いかけるだけで、智子の決意を受けて見送るしかなかったという感じです。

 花瓶のことで今江先生に褒められていた智子ですが、これは現実にあった思い出のひとつで、それがとりわけ智子の中で印象に残っていたので改めてあの精神世界のなかで再現された形です。原作における小四時代の智子が実際にどのような学校生活を送っていたのかは不明ですが、当作品においてはそれなりの優等生であり、そのことを本人も自負していたということになっています。色々と年相応のずるさやエゴが芽生えてきていると言えど、かわいい弟のためにもいいお姉ちゃんでありたいという思いが強く、幼い智貴の作文に書かれた「ぼくのおねえちゃん」としての姿をいまだ保てていた時期だったのかもしれません。

 ちなみに思い出の世界のなかでゆうちゃんが朗読していた『キモビトと内猫』ですが、あちらは宮沢賢治先生の『どんぐりと山猫』のパロディだったりします。

 

*例のあの人

 例のあの人は初期もこっちを擬人化(?)したかのごとき存在なんですが、例のあの人ブームの過熱ぶりに関するあらましは、わたモテという作品とそれを取り巻く二次創作界隈、とりわけ二〇一三年のアニメ版放映当時の盛況ぶりを意識している部分もあったりします。

 オカ研の活動時期は一九九二年から一九九四年にかけてだったのですが、これはちょうど九〇年代オカルトブームまっただなかであり、例のあの人もそうした時代の産物という位置付け。傘剣法の達人である例のあの人が繰り出すあの強烈な突きは原作の喪53から引っ張ってきたネタでありますが、拙作における彼女がこのような技を使えることになっているのは、噂の流行った当時の少年たちに大人気だった『るろうに剣心』の影響があったからとしています。作中で披露した「牙突(がとつ)」以外にも、『学校の怪談3』の作中ネタにちなんで「天翔龍閃(あまかけるりゅうのひらめき)」という奥の手のスゴ技を繰り出すという設定ですので、智子たちが教室を去ったあと、人知れずやべー奴と激闘を繰り広げていたと思われます。例のあの人がノリノリで吉田さんに放とうとして未遂に終わったアレは「流れ星」という技で、これも先に述べた喪53から引っ張ってきたネタですね。こちらはるろうに剣心ではなく『シグルイ』という剣劇漫画が元ネタですが、全身の筋繊維を限界まで張り詰めさせてから一気に斬撃を放つという即死級の強力な技なので、発動していたらヤバかった。

 例のあの人の作中における位置付けとしてのモデルについて。これは『学校の怪談』第一作目に登場したクマヒゲさん、およびその強化バージョンであるインフェルノを意識してもいます。このクマヒゲさんは最初のうちはヘンなおじさんぐらいの存在だったのが段々とバケモノじみてきて、最後は自分の体の一部を破壊されたショックでものすごい怪物と化すラスボス的存在なのですが、こうした部分を例のあの人にも反映してみました。ニカっと笑う例のあの人に智子がゴムまり顔で絶叫したのも、主演の野村宏伸氏がクマヒゲさんに絶叫させられた名シーンへのリスペクトだったりします。

 この映画では他にもテケテケという、コメディリリーフ的な役割を持ったイタズラ好きの妖怪が出てきますが、これも例のあの人の立ち振る舞いにおけるモデルのひとつになっています。ふわふわ浮いた例のあの人が智子の背中にくっついていて、それを見たみんなが逃げる。顔をくちゃくちゃにかき回して百面相をする。カマをもっている。こうした部分は、いずれも前述のテケテケが劇中で見せた特徴を踏襲させて頂いたものでした。

 このテケテケ自体は刃物で切りつけてくるといった手荒な真似はせず、いたずらばかりするだけのおばけなんですが、例のあの人の噂における「カマを手に襲ってくるひ弱な変質者」という危険人物的な設定は、『学校の怪談』第一作目と同時上映された『トイレの花子さん』に登場する殺人鬼のイメージなども取り入れてあります(花子さん映画は同じタイトルのものがいくつかありますが、ここでは豊川悦司出演のものを指しています)。余談ながらこの花子さん映画には挿入歌として『I Wish…』という曲が用いられているのですが、これがまた超名曲なんですよ。許されるならば智子が三年三組の教室で花子さんに助けられる一連の場面のイメージソングにさせて頂きたいなどと勝手に思ってたりします。

 

*やべー奴

 小宮山さんの化身であるこのおばけですが、例のあの人と対決させることを当初から考えていましたので、終盤でようやく登場する形となりました。ただ、彼女については実のところ最後のほうまで具体的な仕様を決めかねていたおばけでもあります。もともと決まっていたのは例のあの人への対抗馬であるということ、そして呼び出すには召喚の呪文が必要という二点のみ。いざ彼女のことを書くにあたってどうしたものかと頭をひねっていた際、『ノーライフキング』という八〇年代邦画(ドラクエⅢ的な超人気ゲームソフトとそれにまつわる子供たちの集団パニックをえがいた作品)を観る機会があり、そこから着想を得てあのようにゲームっ子の生み出したおばけが誕生した次第です。

 

*ヒナーボール

 これは怪球ショボーンの小型版ながらも中々凶悪なおばけで、自動追跡型の殺人ボールとして場所を選ばずどこまでも追いかけてきて執拗に攻撃してくる性質を持っています。どこかにぶつかってバウンドしない限りは無限に加速することができるので、十分な距離を飛ぶことができれば鉄の扉をもブチ抜くパワーを発揮します。

 結局智子らは遭遇せずに済みましたが、もしおそわれた場合はまだ加速がゆるいうちにダメージ覚悟でボールをキャッチし、そのまま四次元水路にダンクシュートしてやるというのが有効な対処法となります。こうしてやると「ヒナ──!」と叫びながら水流に飲み込まれていきます。実はこのボール、もともとはバスケットボールが得意だった子の生首だったという設定。

『学校の怪談』第一作目に出てきた、あのひとりでに跳ねるふしぎなサッカーボールも少し意識しています。

 

*蠱惑マント

 これは戦時中に流行ったという怪人・赤マントのパロディ的なおばけです。原作のどの部分を引用してきたかがわかりにくいかもしれませんが、中学時代の智子にちなんだものとなっています。イトーヨーカドー屋上に黒ずくめ姿で佇んでいたり、原作第七巻特装版の特典ディスクに収録の『モテないし謎めいてみる』にて、後輩の青松(あおまつ)くん相手に意味深ムーブをかましていたころの智子を怪談化したものです。

 いつも時計塔の上に立っていて、話しかけるとひとりごとのように自身の考えた中二設定を滔々と語って聞かせてくれます。本人曰く、自分は軍の特命を帯びて行動中なので関わってはいけない……、あなたを危険にさらしてしまう……、などとカッコつけて諭してきたりします。懐には古めかしい鉄砲玩具を忍ばせており、近寄るとこれでちくちく攻撃してくる模様。

 

*喪蠱入道

 昼間は寝ているが、夜になると地響きを立てながら校内を散歩しはじめるというおばけ。千葉や茨城に古くから伝わるダイダラボッチ伝説にゆかりのある存在で、幻の古文書である上総国風土記(かずさのくにふどき)にも独人法師(ひとりぼっち)という名でその伝承が記されているそうな。茂子原市一帯の土地は喪蠱入道が造成したとされていて、ゆうちゃんの学校の近くにある二子(にこ)ノ池は彼が座り込んだ際にできたくぼみであるという言い伝えがあるとか……。

 没案のひとつとして、眠りから覚めた喪蠱入道が暴れだしたので、智子がショボーンをけしかけるという展開などもありました。この場合のショボーンは「将門公の大首」という設定にしておき、智子が「おまえの胴体はあれだ!」と入道を指さし、それに騙されたショボーンが入道の頭上に乗っかろうとまとわりついて巨大おばけ同士のケンカが始まるという具合です。

 

*キコノカミ

 一連の事件の黒幕的存在で、外見は原作の現行きーちゃんのイメージ。最後の最後に登場したこの謎の少女は裏幕を作った存在で、そこに住むおばけたちの神さまという設定です。

 当作品は彼女の笑い声で締めくくられますが、これは『学校の怪談』第一作目のエンドロールにて女の子の怪しい笑い声が聞こえてくるという印象的な演出に強く影響されています。第一章の最後のほうで智子が聞いた誰かの笑い声も、これから起きるであろう「お祭り」への期待に胸をふくらませる彼女のものでした。作中では触れていませんでしたが、あのキコノカミきーちゃんは智子が祠の前で目を覚まして以降、不可視化した状態でずっとついて回っていたのです。

 キコノカミが使役するタカ(智子が用意したあの折り紙が化けたもの)には表の世界の子供たちを裏幕へと誘導する役目があり、智貴のことも当然狙っていたのですが、先生が彼に「大人」と書いたお守りの札を持たせた上で、「もし知り合いに呼びかけられても絶対ついていかないように」と言い含めておいたので、ことなきを得たもよう。

 あかずの小屋に隠されていた例の祠ですが、もともと小屋などはなく、祠の前に校舎も置かれていませんでした。希心神社の神主さんが存命だったころはちゃんとキレイに手入れされていたのですが、歳月を経るごとに扱いがぞんざいになっていき、やがて七〇年代になるとC棟が建設され、祠がすっかり隠れてしまう形になりました。しかし工事中はおかしなことが続発し、完成してからも一階南側の各教室で怪奇現象が起きるようになったので、それもあってあの辺りの教室はクラブ活動のときぐらいにしか使われなくなってしまったようです。祠自体が厳重に隔離され、そこへ至る道も封鎖されてしまったのには、なにかしらの理由があったのかもしれません。

 ちなみにこの祠、裏幕に関係のない外部の悪霊や妖怪などに取りつかれた子供が参拝するとたちどころに祓ってくれるようです。キコノカミは子供を連れ去る祟り神であると同時に守り神でもあるということで、昔の人々は忌孤神がなるべく悪さをしないようにという願いをこめて「希心」というもうひとつの名前を神社につけたのでした。

 かつて原幕の地で代々おこなわれてきたという「きこさん祭り」、これはお盆期間中に連日開催され、おおぜいの人で賑わう活気あるものだったのですが、初日だけは神社関係者と数人の子供のみで執りおこなう習わしとなっていました。そのあいだ希心ノ森は関係者以外立ち入ることの許されない場所となり、秘密裏に選ばれた子供たちは神主さんの見守る中で儀式をおこない、神さまのおわす世界へといざなわれていく……。

 そうして神域とも呼べる「裏の世界」で神さまとの交流を果たした子供たちはやがて神主さんの助力のもとで表の世界へと帰還することになるのですが、神域で見聞きしたことは口外してはならず、儀式の詳細についても誰かに漏らしてはならないという決まりになっていました。が、中には口をすべらせてしまう者もいたようで、昭和初期に失踪した「怪奇研究(かい)」のメンバーは独自の調査によってこうした儀式経験者のひとりをつきとめ、不完全ながらも儀式のおおまかな手順などについて聞き出すことに成功します。

 研究會にとって不運だったのは、神域から帰還するにあたっての正確な手順を把握しきれていなかったこと。彼らが知りえたのはあくまで裏の世界から祈祷する手順のみだったのですが、実際は本編で智貴がやったように、表の世界からの働きかけも加えないと出口はひらかないのでした。

 もうひとつの不運としては、七不思議の影響によってキコノカミの神域が大きく変質してしまっていたことでした。今江先生の言ったように裏幕では人の思いが形を成すという法則が働いているのですが、校内に祠を設置して以来、学校に渦巻く子供たちの想念を取り込み続けた結果、かつての神域は魑魅魍魎の跋扈(ばっこ)する魔境へと変貌してしまいました。本来なら子供たちから忘れ去られていくにつれてこうしたおばけたちもやがて消えていくはずだったのですが、キコノカミが彼らに力を与えて生かし続けているので、その後も裏幕に留まり続けている模様。

 キコノカミはお菓子が好きなので、帰りの儀式をおこなう際はこれを祭壇にお供えするのが習わし。でもひとつ注意しないといけないのは、お供えものに誰かの私物を混ぜてしまわないこと。そうしないとその私物の持ち主がキコノカミに()()()()()()()()から。神域にいるあいだ、うっかりその手のものを落としてしまうことも危険とされていて、儀式に参加する子供たちは私物を一切持たず、みな神社から借り受けた装束へと着替える決まりになっていました。

 智子が裏幕に残してきてしまったあのサンバイザーはお供えものとしてキコノカミの手に渡ったので、これ以降、智子はこの神さまと霊的なつながりを持つことになるのですが、それはまた別のお話……。もしも黒木会長率いる新生オカ研の今後の活動が『私たち原幕オカルト研究会!』というシリーズ作品(下記画像参照)としてつむがれていくとしたら、当作品はその第一作目という扱いへ転じることになりそうです。

【挿絵表示】

 

■色々な噂について

 新生オカ研を立ち上げた智子のもとにはやがて怪奇めいた噂話が続々と集まってくることになるのですが、そのなかにはこういうものもあったりするかもしれません。

 

*手すりでポン

 階段の手すりの先で、女の子がこっそりしゃがみこんでいることがある。これは人になでられたがっている幽霊で、誰かが自分の頭に手を置いてくれるのを待っているという。なでてあげると喜んで、お礼に教室の花瓶の水を新しくしてくれるらしい。

 

*ポイント制呪いのノート

 机のなかに見覚えのないノートが入っていて、そこには自分の毎日の行動が採点形式で記録されている。このノートは捨てても燃やしても翌朝には元通りになって戻ってくるが、減点が続いて合計ポイントがマイナス一〇〇になると死刑宣告され、ノートの本来の持ち主である「記録者」が裁きを下しに来るという。

 

*魔の日常クラブ

 放課後になると、使われていない筈の空き部屋で誰も知らない部活動が行われているらしい。あるときこのクラブに入部したKさんという子がいて毎日楽しそうにしていたけれど、気になった生徒が後をつけてみたところ、Kさんは誰もいない部室でくつろいでいただけだったという。

 

*ゲス乙女ササキF

 とてもまじめで運動の得意なFさんという子がいたけれど、あるとき誰かに酷い噂を流されて死んでしまった。Fさんは幽霊になった後も噂の出どころが気になって成仏できず、自身の名誉を傷つけた犯人をさがし回っているという。

 

*休みごろしの鏡

 学校のどこかに大きな鏡があって、これには学校が大好きだった子の怨念が宿っている。この鏡に映りこんでしまった者には休日がぜんぶ消える呪いがかかり、毎日学校へ通わなくてはならなくなるという。

 

*見せたるおじさん

 かつて千葉県全土を震撼させた変質者で、警官隊との戦いで死んだはずだったが、ウインナーの力で怪人となって復活した。女装しているけれど本当は男で、元々どこかの学校の先生だったらしい。

 

 長くなりましたが、『原幕小の七不思議』のこぼれ話は以上となります。



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【ホラー】原幕小の七不思議(エピローグ的おまけ)

原幕小の七不思議

五年一組 黒木智子  

【はじめに】わたしは自由研究のテーマとして、この学校の七不思議を調べました。原幕小学校は今年で創立一三三年目を迎えますが、その長い歴史のなかで実はこれまでに沢山の七不思議が流行ってきたことを、きっとみんなは知らないと思います。そして、幽霊や妖怪が本当にいることも信じていない子が多いと思います。

 わたしと、わたしが会長を務めるオカルト研究会(略してオカ研と呼びます)のメンバーは、この研究を命がけで進めていくうちに、この世のものではない者たちに何度も出くわしました。わたしたちが撮った本物の心霊写真があるので、見たい人はいってください。ずっと昔に旧校舎で撮られた心霊写真も見せてあげます。

 オカ研は三年三組の今江先生が顧問をしていて、会員はわたしを入れた五年生が三人、わたしの弟の四年生が一人です。もし入会したい人がいたら声をかけてください。怖いものやふしぎなものに興味のある人、歓迎です。

 それでは、これから色んな世代の七不思議を紹介していきます。お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんがウチの学校にかよっていたことがあるという子がいたら、ぜひこの七不思議を教えてあげてください。きっと懐かしがってくれると思います。

 

【戦前の七不思議】

 大正末期から昭和の最初期にかけて流行った噂たちで、原幕小の歴史のなかでもっとも古い時期に成立した七不思議です。明治後期におこった怪談ブームのなごりがうかがえ、江戸時代の妖怪伝説や、地方の民話を題材にした噂も多いようです。

▼1 上総の化猫党(かずさの ばけねことう)

 学校に住みついている六匹の人面猫たち。「内御前(うちごぜん)」という妖術使いの猫又(猫妖怪の一種)がリーダーで、狙った人間を校内に建てた自分たちの屋敷へ言葉巧みに誘い込み、よってたかって食い殺す。ヘビが大の苦手らしく、見せつけてやると追い払うことができる。江戸時代の民話においても上総国(かずさのくに)(現在の千葉県中部)の山中にあらわれる妖怪として語られ、歌と踊りが得意とされている。※四年生の国語の教科書に載っている『キモビトと内猫(うちねこ)』は、この化猫党をモデルにしたお話だそうです。

▼2 喪蠱入道(もこにゅうどう)

 ものすごく大きな巨人で、昼間は寝ているが夜になると地響きを立てながら校内を散歩しはじめる。ダイダラボッチの仲間らしい。奈良時代に書かれた〈上総国風土記(かずさのくにふどき)〉という幻の古文書に「独人法師(ひとりぼっち)」という呼び名でその伝説が載っていたとされ、茂子原市の土地は喪蠱入道が整えたといわれている。

▼3 光姫人形(みつひめにんぎょう)

 いつもどこかで生徒たちのことをそっと見ている日本人形。もとは学校の創立五〇周年を記念して地元の人から寄贈されたものだったけれど、関東大震災のあとに行方をくらましてしまい、それから何年かして学校のあちこちで目撃されるようになった。

▼4 姉弟崎の山女(あねとさきの やまおんな)

 白いコートを着た髪の長いノッポの妖怪で、「ポポポポポ」とブキミな鳴き声をあげる。死んでしまった弟の代わりを探していて、気に入った男の子を見つけると連れ去ろうとする。茂子原市に伝わる古い民話のなかでもその存在が語られていて、そこでは山女に狙われたときの対処法として、希心ノ森の神社(今はもうない)にお参りするのがよいとされていた。

▼5 蠱毒の壺(こどくの つぼ)

 虫をぎっしり詰めこんだ壺が校内のどこかに隠されていて、そのフタをあけてしまうと壺から湧き出た虫の大群におそわれる。「蠱毒」というのは呪術の一種で、たくさんの虫を壺に閉じ込め共食いさせることで強力な呪いの力を生み出すことができるという。

▼6 里崎屋敷の隠し穴(さとざきやしきの かくしあな)

 校内のどこかに隠されているワープホールで、これを通っていくと見知らぬ場所へ出てしまう。学校が建てられている土地にはかつて里崎家という武家の屋敷が存在していて、隠し穴もこの家の人々がもしものときの避難用に作り出したとされている。

▼7 きこさん

 ゲタをはいた小さな女の子で、子供に首輪をつけて死ぬまで引きずり回したり、犬の姿に変えたりするという。もとは希心ノ森の神社に祀られていた神さまだったとも、あるいはずっと昔にこの神社の巫女さんをしていた女の子の幽霊だともいわれている。「きこさん祭り」という禁断の儀式をおこなうと、きこさんがあらわれるらしい。※調査のためにオカ研がこの儀式を試してみましたが、たいへんな目にあいましたので絶対に真似をしないでください。

 

【戦時中の七不思議】

 第二次世界大戦のころに流行ったもので、戦時体制ならではの怪談が中心です。当時は自粛(じしゅく)ムードのせいで世間から怪奇性を帯びた話題がすっかり消えていましたが、それでも子供たちだけは大人に隠れて色んな噂をしあっていたようです。大戦がはじまる数年前に人気だったマンガや、そのころ世の中を騒がせた人さらい怪人の話を題材にしたものもあり、これらは戦前を懐かしむ上級生たちによって生み出されたのかもしれません。

▼1 国民学校放送の怪(こくみんがっこうほうそうの かい)

 授業中にラジオで学校放送を聴いていると、突然お経が流れてくることがある。これは茂子原市にある上総国分寺(かずさこくぶんじ)というお寺のお坊さんたちの唱えるお経が電波に紛れ込むせいだといわれている。

▼2 怪球ショボーン(かいきゅうしょぼーん)

 しょんぼり顔の模様がえがかれた白い巨大な物体がときおり空を飛んでいるが、これは陸軍にて開発中のひみつ兵器が試験飛行をしているのだという。たった一機で敵国の戦車や航空機を多数撃破する力を秘めているらしい。また、一説には兵器ではなく飛頭蛮(ひとうばん)という妖怪の亜種「飛翔坊(ひしょうぼん)」であるとも、あるいは怨霊となった平将門(たいらのまさかど)の生首であるともいわれている。

▼3 黒い短冊(くろい たんざく)

 七夕祭りのときに飾る笹のてっぺんに、一枚だけまっくろな短冊が飾られていることがある。これを読んでしまった者は呪われて死ぬらしい。七夕が終わるころになると、知らないうちにこの短冊は消えてしまっているという。

▼4 人食いアリの復讐(ひとくいありの ふくしゅう)

 巨大な軍隊アリの群れが学校を徘徊していて、これにつかまってしまうと巣に連れ去られてしまうという。このおばけアリは子供に殺されたアリたちの怨念が集まったもので、普段からアリをいじめて遊んでいるような子供を狙うとされる。アリジゴクを怖がる習性があり、それを見せてやると一目散に逃げていく。

▼5 白紙の書状(はくしの しょじょう)

 みんなからの笑いが取れずに死んでしまった子の怨念がこもった紙。なにも書かれていない書状が折り畳まれて地面に落ちていることがあるが、これをひらいてしまった者には笑いの止まらなくなる呪いがかかる。そのままでいるとやがて笑い死にしてしまうが、誰かに面白い冗談を聞かせてもらうことで症状がおさまるという。

▼6 あの世へ通じる黄泉ヶ池(あのよへ つうじる よみがいけ)

 校門前の池に腐った魚の死骸が浮いていたら、それは池があの世とつながっている証拠なので、このときは決して池を覗いてはいけない。もし覗いてしまうと池のなかから死者の手が無数に伸びてきて、あの世に引きずりこまれてしまう。もうひとつの噂では、池に向かって戦地で亡くなったお父さんの名を呼ぶと、その顔が水面に映って話をすることができるという。

▼7 蠱惑マント(こわくまんと)

 放課後になると、時計塔の上に黒いマント姿の軍人さんが立っている。この軍人さんは『のらくろ』(作・田河水泡(たがわすいほう))というマンガのキャラクターのお面で顔を隠しているが、軍の密命を受けて活動しているスパイだという。素顔を見せた相手を魅了して自分の虜にする能力があり、蠱惑マントに魅了されたものはそのままどこかへ連れ去られてしまうらしい。

 

【戦後復興期~高度経済成長期の七不思議】

 戦争が終わって復興事業が盛んとなり、日本が大きく経済発展していこうとする時期に流行った噂たちです。マンガ界では『鉄腕アトム』の連載がはじまり、映画界では『ローマの休日』や『ゴジラ』が公開されるなど、日本の娯楽文化が新たな幕開けを迎えていましたが、怪談のほうは戦争のなごりを感じさせるものが多いようです。

▼1 鬼校長(おにこうちょう)

 戦時中、この学校にはとても厳しい校長先生がいて、ささいなことで生徒を激しくせっかんしたり、ときにはやり過ぎて殺してしまっていたらしい。このおそろしい先生は病気で死んでしまったけれど、今でも幽霊となって校長室にあらわれ、血のついた湯飲みを手に生徒が来るのを待っているという。

▼2 紫キババア(むらさききばばあ)

 食糧難のころ、飢えのあまり妖怪になってしまったおばあさん。全身が紫色で、虎のように大きなキバが生えている。足が速くて力も強いこのおばあさんは子供の生き血、特に心の優しい子の血が好物で、かみついて血を吸おうとしてくる。出くわしてしまった場合は、「きんぴら甘い」と唱えながら逃げれば助かる。力の源となっているキバが折れたり抜けたりすると白い灰になってしまうらしい。

▼3 絵がかける安藤くん(えがかける あんどうくん)

 絵が得意だった男の子の幽霊。毎日学校に居残って展覧会に出すための絵をかいていたが、完成しないうちに交通事故で死んでしまった。それでも作品を完成させたい彼は幽霊になった今も学校のどこかで絵をかき続けているらしい。安藤くんのかいた絵を見てしまった者は、数日以内に彼と同じ死に方をするという。

▼4 きれいだったマリアさま

 学校に置いてある「マリアさま」という銅像が、ときおり血の涙を流す。本来は母子像として赤ちゃんとセットで造られたものだったけれど、抱っこしていた赤ちゃん像を失ってからは、おこったような怖い表情へと変わってしまった。ときおり本来の優しい顔に戻って子供に話しかけてくるが、このときに相手をしてしまうと赤ちゃんの代わりにされてしまうという。悩みを抱えている子供はマリアさまに「迷える子羊」と見なされて、特に狙われやすいとされる。

▼5 ねぇさんのげんこつ

 階段の踊り場にある大きな鏡(もうなくなった)の前に立つと、鏡のなかにげんこつをにぎりしめた女の子があらわれて肩を殴ってくる。他にも腕をつねってきたり、服の裾をつまんできたりするが、たまにものすごい力で頭を叩き割ろうとしてくることがある。この魔の鏡は戦時中に地元の人が学校へ寄贈したものらしい。

▼6 十九番目の防空壕(じゅうきゅうばんめの ぼうくうごう)

 学校のなかにある防空壕は本来十八個しかないけれど、たまにひとつ増えていることがある。この防空壕に一旦はいってから外に戻ると、見知らぬ場所に出てしまうという。

▼7 保健室のしずくちゃん(ほけんしつの しずくちゃん)

「死ズ苦ちゃん」ともいう。学校中の男の子たちから好かれていたかわいい女の子がいたけれど、あるとき保健室で死んでしまった。それ以来、保健室に彼女の幽霊が出るようになり、「落ちる、落ちる」といってしくしく泣いているという。なにが落ちるのかは謎で、爆弾が落ちてくるとか、髪の毛が抜け落ちるとか、色々いわれている。しずくちゃんがあらわれるとカーテンが赤く染まるが、これは彼女が血を沢山吐いて死んでいったから。「大丈夫だよ」と、なぐさめてあげると安心して泣き止む。

 

【六〇年代半ば~七〇年代半ばの七不思議】

 東京オリンピックが開催され、日本初の新幹線が開通したころに流行った噂たちです。特撮番組『ウルトラマン』や、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』が人気になるなど、子供たちのあいだで科学やオカルトへの関心が高まっていた時期で、その影響を感じさせる噂が多いようです。

▼1 まぼろしのキツネヘビ

 学校のどこかに生息しているという未確認生物。キツネの頭がついたヘビのような姿をしていて、体は白いふわふわの体毛におおわれている。

▼2 砂場に埋められた女の子(すなばに うめられた おんなのこ)

 砂場から英語で助けを求める声が聞こえてくるが、近寄ると地中から手がつきだしてきて足をつかみ、引きずりこもうとしてくる。これはこの砂場に生き埋めにされて死んでしまったいじめられっ子の幽霊のしわざで、自分を埋めたいじめっ子たちをずっと恨んでいるらしい。

▼3 家庭科室の魔女(かていかしつの まじょ)

 黒魔術に詳しい生徒がいて、魔女の家系の子供だという。魔法の毒薬の実験のため、調理実習のときに料理へ薬を混ぜ、クラスメイトをみなごろしにしようとしたらしい。この騒ぎは集団食中毒事件として実際にニュースにもなったことがある。

▼4 音楽室のU先生(おんがくしつの ゆーせんせい)

 音楽室でひとりでにピアノが鳴っていて、なかにはいると閉じ込められる。するとU先生があらわれて、〈きよしこの夜〉を歌うようにいってくるが、ちゃんと最後まで歌いきらないと外へ出してもらえない。U先生はむかしこの学校で音楽教師をしていたが、楽しみにしていたクリスマス会の前日に死んでしまったらしい。

▼5 ワイハ星人(わいはせいじん)

 UFO(ユーフォー)に乗ってC棟屋上の天文台(もうなくなった)にやってくる宇宙人。純粋な心の持ち主の前にだけあらわれるとされていて、遭遇した者は彼らの住む光の国に招待してもらえるという。

▼6 四次元水路(よじげんすいろ)

 大雨が降る日、学校にある水路を四時四四分に覗くと、四次元の世界へとつながった「ディメンジョン・ストリーム」を見ることができる。このとき水路に落ちてしまうと時空の彼方へ飛ばされてしまうが、番人のおじさんが助けてくれることもある。

▼7 フーセン太郎(ふーせんたろう)

 放課後になると、校門前で着ぐるみが風船を配っている。これを受け取ってしまうと、抱きしめられて離してもらえなくなる。

 

【八〇年代の七不思議】

 七〇年代オカルトブームを引きずっていたころに流行った噂たちです。校内暴力の深刻化や、テレビゲーム人気の過熱ぶりを背景に生まれた噂などもあり、当時話題になっていた事柄の影響がうかがえます。

▼1 のっぺらぼうのサチ・ノリ・マキ

 悪口ばかりいっている子供に取りつく三人組の顔なし妖怪で、とてもおしゃべり。取りつかれた子はそれまでの友達関係を全て失うが、代わりにサチ・ノリ・マキのことを親友だと思い込まされてしまうという。もとから友達がいない子には取りつかない。

▼2 学年マキ戻し(がくねんまきもどし)

 テスト用紙の名前欄に緑色のボールペンで「マキ戻し」と書くと、自分の学年をひとつぶん巻き戻すことができる。また、あまりにも過去に戻りたがっていると、知らないうちにこの巻き戻し現象が起きてしまうともいわれている。

▼3 目無しのスケバンライダー(めなしの すけばんらいだー)

 事故死した暴走族の幽霊が、バイクに乗って運動場を走り回っていることがある。通りかかった子供を追い立てたり、竹刀で叩いたりしてくるが、サイフの中身を全部差し出せば見逃してもらえるという。また、タイマン勝負を挑んで勝つことができれば消え去るらしい。

▼4 トイレの魔子さん(といれの まこさん)

 A棟三階の女子トイレに出る女の子の幽霊で、三番目の個室にはいるとあらわれる。友達になってほしいと頼んでくるが、もし断ってしまうと大変なことになるという。生前の魔子さんはとてもお人よしだったけれど、友達のことでものすごく悩んでいて、とうとうそのストレスで死んでしまったらしい。

▼5 加速するパスの怪(かそくする ぱすの かい)

 ゴール台の手前でボールがひとりでに跳ねていることがある。このボールには悪霊が取りついていて、どこまでも追いかけて攻撃してくる。「ヒナーボール」とも呼ばれていて、もとはバスケットボールが得意だった子の生首だという説がある。

▼6 旧校舎の怪(きゅうこうしゃの かい)

 午前零時に旧校舎へ足を踏み入れると、窓や扉がすべて閉ざされてなかにとじこめられてしまう。深夜の旧校舎は冥界とつながっていて、死者の霊魂がさまよっているという。

▼7 やべー奴(やべーやつ)

 発売後まもなく回収され、販売停止となった幻のゲームソフトがあった。このゲームをクリアしたあとに画面の前で禁断の歌を歌うと、真のラスボス「やべー奴」が現実世界にあらわれてプレイヤーを殺しにくるという。やべー奴はとても狂暴なので、プレイヤーの家族もまとめてみなごろしにされるらしい。

 

【九〇年代の七不思議】

 九〇年代初期に流行った噂たちで、このころは怪談や都市伝説が日本中の子供たちのあいだで大ブームになっていました。最後のところで紹介している神さまの話は少し変わっていて、これは今まで誰にも知られていなかった「七番目の七不思議」だそうです。

▼1 ひとりぼっちの先輩(ひとりぼっちの せんぱい)

 卒業式の帰りに心臓発作で死んでしまった六年生の男の子が、毎年卒業式の日になると校門前にあらわれるようになった。式を終えて家に帰っていくみんなのことをさみしそうに見ているが、記念写真を撮ってあげると満足して消えていくという。

▼2 ピンクの番号(ぴんくの ばんごう)

 昇降口にあるピンク色の公衆電話から6-9696へかけると、声色もしゃべり方も自分とそっくりの人間が電話に出てこちらの真似をしてくるという。これは電話機にとりついた幽霊のイタズラなのだけれど、()()()な言葉を真似させようとすると向こうのほうから電話を切ってくる。

▼3 人面犬・キモイーヌ(じんめんけん・きもいーぬ)

 人間のような顔をしたノラ犬が学校に迷い込んでくることがある。頭がよくて人なつっこいが、もとは人間だったといわれていて、呪いのせいで犬になってしまったらしい。

▼4 闇のプロゲーマー・死鬼(やみの ぷろげーまー・しき)

 ゲームやスポーツなどで誰かと対戦するのが大好きな女の子で、あらゆる勝負ごとにおいて達人級の腕前をもつ。普段はゲームセンターに入り浸っているが、たまに学校へもやってきて、目をつけた相手に対戦をもちかけてくる。もしこの申し出を受けて試合に負けてしまうと、魂を吸い取られて死んでしまうという。死鬼が挑戦してきたとき、それに応じず「乱入おことわり」といってやればおとなしく去っていく。

▼5 例のあの人(れいの あのひと)

 学校に出没するブキミな女の人で、口裂け女に似ている。モテたくて仕方がなく、いつも自分が人からどう見られているかを気にしているため、誰彼かまわずつかまえて「わたしってカワイイ?」としつこくたずねてくる。しかし結局どう答えても最後には機嫌が悪くなり、「わたしがモテないのはどう考えてもおまえらが悪い!」と叫びながら、カマをふりかざして追いかけてくるという。例のあの人についてはたくさんの噂があって書ききれないが、彼女のせいで学校中が大騒ぎになったことがある。

▼6 裏幕(うらまく)

「裏の原幕小学校」の略で、この学校の裏側に存在するもうひとつの学校のこと。校内のどこかにひみつの入り口が隠されていて、そこから裏幕へと行くことができるが、一度はいったら二度と帰ってこられないとされている。昔は希心ノ森にも似たような場所があったらしい。

▼7 喪蠱原忌孤神(もこはらのきこのかみ)

 C棟裏の小屋のなかにある祠(昭和のはじめごろに設置された)の神さまで、もとは子供をさらっていく怨霊として平安時代の人たちにおそれられていたらしい。昔は希心ノ森にあった神社のほうで祀られていたけれど、この神社は関東大震災のときに倒壊してしまって、今はもうない。祠の前へC棟を建てようとしたときに怪奇現象が多発し、完成したあとも一階南側の教室で女の子の笑い声が聞こえるようになったので、今は空き教室になっている。※祠が小屋のなかに隠されている理由についてはオカ研にて調査中です。

 

【二〇〇〇年代の七不思議】

 ここ最近になって生まれた噂たちです。まだあまりみんなに知られていませんが、もう少ししたら原幕小学校の七不思議として新聞で紹介されるかもしれないので、そのうちきっと有名になります。

▼1 あかずの小屋の花子さん(あかずの こやの はなこさん)

 C棟裏の小屋に潜む幽霊。この小屋の入り口はいつも鍵がかかっているけれど、時々あいていることがある。そのときになかを覗いてしまうと花子さんに引きずりこまれ、異次元に存在するもうひとつの学校へと連れ去られてしまう。

▼2 鬼体育教師(おにたいいくきょうし)

 とてもデリカシーのない先生がいて、朝になると校門の前に立って生徒にあいさつをするよう命令してくる。とにかく無神経で余計なお世話ばかりしてくるので、被害にあった生徒はみんなストレスで死んでしまったらしい。片目をパチンとつむるのが癖。

▼3 人面ゼミ(じんめんぜみ)

 背中に人の顔が浮き出ているセミが学校の木にへばりついていて、「キモキモ」とか「きもいきもい」と鳴きわめいている。この鳴き声を発しているのは背中の顔で、歯をくいしばった悔しそうな表情をしているという。人面ゼミの抜け殻はとても貴重なので、ペットショップに持っていくと一個一〇〇円で買い取ってくれる。

▼4 マリア先生のエンジェルメイク(まりあせんせいの えんじぇるめいく)

 人にメイクしてあげるのが得意な、ものすごい美人の先生がいる。マリア先生にメイクしてもらった子は天使のようにかわいくなれるけれど、その代わり数日後に死んでしまうという。それは先生のしてくれるメイクがお葬式のときに故人へ施すための「死化粧(エンジェルメイク)」だから。この先生のことを他の先生たちは誰も知らない。

▼5 ちんちん姉妹(ちんちんしまい)

 ふたりの女子の変態が、男子のちんちんを狙っているという。ちんちん型の手作りチョコを渡してくるのが姉で、ちんちんを見てみたいなとねだってくるのが妹。この姉妹はいつも仲よしだけれど、たまにちんちんを巡って争うこともあるらしい。

▼6 消えた兄弟校・原幕狂育学園(きえた きょうだいこう・はらまくきょういくがくえん)

 原幕小との戦いに敗れた結果、先生や生徒ごと異次元に封印されてしまった兄弟校がある。ここに足を踏み入れてしまうと、二度ともとの世界に帰れなくなる。七不思議のひとつ「あかずの小屋の花子さん」は、この学校にかよう生徒の一人らしい。

▼7 Kちゃんからのメール

 Kちゃんという子からとつぜんメールが送られてくる。このメールのなかでKちゃんがクイズをひとつずつ出してくるが、もし全問正解できなかったり、クイズ自体を無視してしまうと、Kちゃんがやってきて犬の姿に変えられてしまう。クイズの問題は全部でみっつあって、順に「わたしが好きなのは?」「わたしが嫌いなのは?」「わたしのホントの名前は?」となっている。ひとつめの答えは「お姉ちゃん」で、ふたつめの答えは「ウソをつく人」だけど、みっつめの答えは誰も知らない。

 

【おわりに】原幕小の七不思議は、これで全部です。でも、ここに書いていないようなことが他にも沢山あります。そういうのも、いつかちゃんとまとめて発表したいです。みんなも怪奇現象に遭遇したり、幽霊を見てしまったりしたら、そのことを教えてください。わたしたちオカルト研究会が真相を調査してあげます。



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【クロス】かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く(あとがき)

こちらは『かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く』のあとがきとなります。
≫本編を読む。


 完結からかなり間が空いてしまいましたが、以前投稿した拙作『かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く』に関するアレコレやif展開、続編案などを書いてみようと思います。クロスオーバー先のゲームのネタバレなども含まれますのでご注意ください。

 

■クロスオーバー先のゲームについて

 本作のクロス先はかつてスーパーファミコンにて発売されたチュンソフト様の名作サウンドノベル『かまいたちの夜』となります。作者が子供の頃に夢中でプレイした思い出深い作品なのですが、発売当時に『弟切草』みたいなゲームがまた出たと聞いてすぐ購入したところ、格段に進歩したグラフィックとサウンド(BGMは名曲揃い!)、展開が支離滅裂になりがちだった弟切草よりも整合性の高いシナリオの造りに感動したものです。

 バリエーション豊かなサブシナリオが各種取り揃えられているのも好きで、心霊ホラー感満載の「悪霊編」とアクション映画のような「スパイ編」が特にお気に入りでした。「不思議のペンション編」はシナリオの出現条件がかなり厳しかったのでスーファミ版では結局未プレイでしたが、もしあの頃にこれをプレイ出来ていたら楽しかっただろうなと思わされます。

 

■執筆のきっかけ

 元々「夏休み中の黒木姉弟がキャンプしに行った先で事件が起こる」という話を書くつもりであれこれ考えていました。結局本格的に書き始めることもないまま時間が過ぎてしまった訳なのですが、ふと「寒い季節で似たようなシチュエーションの話をやるなら……」と考えたことでこの小説が生まれた感じです。

 

■猫好き香山さん

 香山さんが猫好きというのは、かまいたちの夜ファンの有志が制作した同人ゲーム『煉獄(れんごく)』の設定をお借りさせて頂いてます。ジェニーの出番をもっと増やしたいなということで、智子以外にも猫に興味を持つ人を増やしてみた次第です。

 

■香山さんちの猫

 人妻さんが言ってた飼い猫「ナツミ」ですが、これはクロス先のゲームの続編『かまいたちの夜2』にて登場する香山さんの後妻の夏美(なつみ)さんが元ネタ。香山さんにとても懐いていて、福を呼び込み邪を払う浪速の凄い猫。ナツミを飼い始めてから香山さんの会社の業績もグングン伸びてる、という感じです。本来の夏美さんは犯人の手にかかってしまい、その後の香山さんの心に深い傷を負わせることになるんですが、本作の中では香山家の猫として天寿を全う出来る筈。

 かま2の続編『かまいたちの夜3』における夏美さんの霊と香山さんのお別れシーンや、エンディングの「夏美がわろうとる」のシーンは泣けます。

 

■「どや、うち()んか?」

 本作の中では描写しませんでしたが香山さんはこうした決まり文句を持っており、有望な若者がいると自社に誘いをかけたりします。この後に「ウチはええで~」と続くのが定番。智子が見てない所で智貴もしつこく誘われた模様。なお誘いを受けるともれなく大阪へ引っ越すことに……。

 

■人妻さん

 皆がお茶の淹れ具合を絶賛してましたが料理の腕前も相当で、精進料理とかも作れます。かまいたちシリーズでは主人公が度々人妻さんの魅力にクラッと来ていたので、智子が彼女のことを少し意識しているのはその辺りを踏まえてのこと。おじさんとは料理の腕前を互いに認め合う仲なのですが、香山さんはそれにヤキモチを焼いたりします。

 

■メガネさん

 原作ゲームではヒステリックで思いこみが強くはあるものの特に探偵の真似をすることはないのですが、本作では原作主人公である(とおる)君の要素と一部融合させた感じに。黒木姉弟の推理は二人の独力という訳ではなく、その下地をメガネさん(に宿った原作ゲーム主人公)が作ってくれたという形にしています。元々ビッチさん以上に怖がりな面を抱えているのですが、本作では推理に傾倒することでその恐怖をまぎらわそうとしていたふしがあります。

 田中氏の部屋におじさんが踏み込む前、メガネさんがとある小説家のお名前を口にしますが、これは初代かまいたちの夜のシナリオを全面的に担当なされた作家先生のことです。かま2ではメガネさんがこの方の名を冠する謎の人物の娘として遺影になった姿で登場したりします。

 

■川本さん

 彼女のキャラについては初代かまいたちのリメイク作となる『輪廻彩声(りんねさいせい)』や、かま3でのお菓子食べ食べウーマンな印象も参考にさせて頂いてます。のんびりしているように見えて実は結構頭の回転が速い人という感じで、ビッチさんのことが密かに好きなようです。懐にはお菓子を沢山忍ばせていて、悲しい時に食べる激辛ポテトチップスなんかもある模様。

 智子は彼女をずっと川本さん呼びしてましたが、実際の名前は「北野啓子(きたのけいこ)」。メガネさんのことは呼び捨てだったり「あんた」呼ばわりするのに、何故かビッチさんのことだけ「カナちゃん」呼びするなど扱いにわずかな差があることが伺えます。

 

■ビッチさん

 勝気そうでいて結構臆病な人。犯人を捕まえられないルートだと場合によっては恐怖のあまり発狂して襲いかかってくる作中屈指のバッドエンドがあったりします。原作ゲームのサブシナリオ「スパイ編」では彼女に誘惑された主人公がメロメロになったりするので、ビッチさんが智子に好意的なのはその辺を意識しています。

 怖がりな所のある性格ですが守るべきものがあると強さを発揮する面も持っているので、もし本作が非常に後味の悪いルート「サバイバルゲーム編」に進んでいた場合は、惨劇の舞台と化したペンションの中で震える智子に寄り添う保護者になってくれたのかもしれません。

 

■小林のおじさん

 原作ゲームではヒロインの母親の兄という位置づけなので本作もそれに準じて智子の母の実兄ということにしています。大地主だった父からその土地を引き継いでいるそうですが、シュプールを開業するにあたっては随分苦労して香山さんにも(おそらく資金面で)援助して貰ったということなので、お金持ちという訳ではないのかも。

 夫婦の絆は強く、かま2のメインシナリオ終盤にて妻と添い遂げた最期は泣けます。

 

■今日子おばさん

 とても平和主義の優しい性格。智子も言ってたように料理の腕前がエクストリーム級に壊滅的で、時折夕食に自前の料理を混ぜて客を仰天させるのがおじさんの悩みの種。

 かま2では岸猿(きしざる)家というかつての名家の出身であることが明かされますが、これが因縁だらけの恐ろしい家系で……。

 

■俊夫さん

 みどりさんと密かに付き合ってるスキー大好きな自称大学六年生。関節が柔らかく縄抜けが出来たり、銃の扱いも詳しかったりする少し謎な人。

 かま3のサブシナリオでは重度のポニテ萌えらしいことが明かされるので、スキー中の智子のポニテ姿に蠱惑されていたのかもしれません。

 

■みどりさん

「おばさんにも女子高生にも見える」と評される年齢不詳の人。原作ゲームだとルートによっては第二の犠牲者になってしまう運命……。ジェニーがやたらと田中氏の部屋に興味津々だったのは、亡くなった彼女が押し込められていた物置の前で同様の反応を見せていた点を参考にしてます。

 かま3では訳あって刑務所に入ってましたが、エンディングにて釈放され、子宝にも恵まれ俊夫さんと幸せに暮らしたようです。出所したての彼女をシュプールメンバー全員が出迎えてあげるシーンは泣けます。

 

■美樹本さん

 作中では触れませんでしたがフリーのカメラマンを自称してます。原作ゲームのメインシナリオ「ミステリー編」では極悪人ですが、サブシナリオの「悪霊編」では一転して頼れる兄貴に(ヒゲも本物)。ヒゲありミッキが善人、偽ひげミッキが悪人という感じです。

 かま3のサブシナリオではなんと主人公の透君に密かな恋心を抱いていたことが判明。

 

■食後のケーキ

 智子が食べていたミシシッピマッドケーキはシュプールのモデルになったペンションでも実際に注文出来るそうです。子供の頃、初代かまいたちの夜をプレイした際にその名を知って早数十年、機会があれば食べてみたいと思いつつもいまだ口に出来ていません。

 

■夕食の美味しいスープ

 これはミネストローネです。前述のケーキ同様、子供心に「凄く美味しそう」と憧れた思い出があります。変装中のミッキもうまうまと味わっていた模様。

 

■一〇一体目の複製人間

 谷川ニコ先生の漫画『ナンバーガール』がドラマ化されたような番組で、川本さんのお気に入り。主題歌はきっとチャゲアスが担当してそう。

 

■智子の牙突

 シュプールのストックやモップは不思議と一般の物よりも遥かに攻撃力が高くなってるので、智子でも全力で急所を突けば一撃必殺になりうる筈。原作ゲームだとルートによっては犯人だと決め付けられた主人公がヒロインの繰り出す牙突で仕留められる非常に後味の悪いバッドエンドがあります。

 

■天井裏の抜け道

 これは原作ゲームのサブシナリオ「スパイ編」にて、浴室に閉じ込められたメガネさん&川本さん組が脱出時に使った抜け道が元ネタ。この二人がコンビで挑んでくると手強いというのもスパイ編での彼女らの強敵ぶりを意識しています。

 

■縄を切る

 おじさんは拘束を解いて犯人に飛びかかってましたが元々これは原作ゲーム主人公の役目。本来は俊夫さんの隠し持つナイフで主人公が自分一人だけ切って貰ってたのですが、本作では智子が時間稼ぎをしてくれたので、おじさんと俊夫さんの二人がかりで不意打ちを仕掛けることが出来た次第です。

 

■智子の撃った銃

 こちらはベレッタM92Fという銃を想定しています。智子は元々中学時代に銃器趣味をかじったことがあるようですが、M92Fはバイオハザードシリーズでもハンドガンとしてよく出てくるので、それもあってこの銃の仕組みをある程度知っていた感じです。

 

■鎌井達の夜

 第二章で智子が名前をあげていたこの作品は、原作ゲームのバッドエンドの内の一つが元ネタ。例のスーファミを談話室でプレイする際、選ぶカセットによってはこの『鎌井達の夜』を延々とプレイすることになり、無限ループの世界にひきずりこまれる感じになります。

 また、併せて言及していた作品『Oの喜劇』は、原作ゲームのサブシナリオが元ネタ。このシナリオは小林夫妻の密かなアブノーマル趣味を匂わせる描写があったりと、かなりおふざけ色の強い内容となっています。小林オーナーが智貴に強く縛られても平気だったのは、日頃から今日子さんに鍛えられていて耐性があったからというふうに考えていました。夫婦の愛(と趣味)が犯人に打ち勝つ!

 

■不思議のペンション

 智子が部屋で遊んでいたこのスーファミソフトは原作ゲームのサブシナリオ「不思議のペンション編」が元ネタ。ペンションの地下に発生した危険がいっぱいのダンジョンを探索するというカオスな内容です。モンスターから強そうな武器(妖刀村正(むらまさ))を奪うと主人公が刀に取り憑かれバッドエンドに。

 

■浪速のど根性焼き

 原作ゲームの続編で香山さんが経営していることが明らかになるお好み焼きチェーン店。かま3のエンディングでは本当に海外進出を果たし一万店舗を達成してしまいます。ちなみに記念すべき一万店舗目の場所は南極。

 作中では「そんな店知らん」と言ってた智子でしたがそのうち千葉にも出店しそうなので、いつか幕張店に友達を連れていった智子が「私、ここの社長と知り合いなんだ」と自慢する一幕なんかもあったりするかもしれません。

 

■スノーモービル

 原作ゲームの「スパイ編」にて登場する乗り物。シュプールにはこれが二台置いてあって、主人公&ヒロイン組がマシンガン装備のみどりさんと雪原にてデッドヒートを繰り広げます。

 

■階段

 実はシュプールの階段というのはもの凄い危険地帯だったりします。原作ゲームでもヒロインがここから転落してあっさりお亡くなりになってしまうバッドエンドがあったりします。体力のあるミッキだからこそなんとか死なずに済んだのかもしれません。

 

小林久左衛門(こばやしきゅうざえもん)

 かまいたちの夜公式ファンブック用に書き下ろされた短編『a novel』にて名前の出てくる小林家の先祖で、権力をかさに狼藉を働く人物だった模様。

 

■その他

 犯人が大人しく地下室へ行こうとしてた時、智子が弟に言いかけた言葉は「ごほうびにチューしてやろうか?」でした。「ちょっとカッコよかったぞ、おまえ」と褒めてあげるつもりだったようです。

 事件はわたモテ二年生編の冬休み中に起きたこととしているので、正月に会ったきーちゃんには盛りに盛った自慢話を披露したり、三学期になると「修羅場をくぐった私にゃヤンキーなんか目じゃないぜ」と強気な態度を取ったりしそうです。田村さん達にも飽きられるまでは当分昼食時のトークネタにしてそう。

 

■エピローグ的なお話

 無事警察が来て犯人を逮捕していった後の出来事についても書き連ねてみます。

 智子は犯人に啖呵を切ってましたが、ビッチさんから「あの時の智子ちゃん、凄くカッコよかった」と褒めて貰ったりします。メガネさんは犯人扱いした非を姉弟に詫び倒すんですが、それを尻目に川本さんが他人事みたいな態度だったので「あんたも謝んなさい!」とビッチさんに怒られたりします。

 血生臭い事件が起きたペンションの今後の風評が気になる智子だったけど、これを逆手に取った香山さんはおじさんにプロモーションの話を持ちかけます。どうもテレビ業界に伝手があるようで、事件を映画化してはどうかと提案する香山さんは「わしも本人役で出演するで~」とノリノリなご様子。「勿論主役はお二人さんや」と姉弟にまで絡んでいくので人妻さんにたしなめられる一幕も……。

 そして警察がペンションに詰めかける中、宅配業者が一つのダンボール箱を届けにきた。荷物は犯人宛てであったから、立ち会った警察官が中を開けてみるとそこには札束がギッシリ。その様子を見ていた智子は自分の憶測が的中していたことを悟る。やはりあの犯人は銀行強盗犯の片割れに違いなかったのだと。

 ともあれ事件は無事解決したかと思いきや、何故か智子までもが警察の取り調べを受ける羽目に。どうやら智子が銃を発砲してしまったことを犯人が悔しまぎれにチクっていった模様。このせいで結局すぐには千葉に帰れず、その後しばらくはおじさんの所で姉弟仲良くお世話になったという感じです。

 事件後、智子の部屋にはスキー中に弟と一緒に撮ってもらったツーショット写真なんかがしばらく飾られていた模様。

 

■色々なルートについて

 本作では黒木姉弟の活躍によって犯人の正体を暴くことに成功し、新たな犠牲者を出すこともなく無事に朝を迎えることができましたが、ふたりの行動如何によってはまったく異なる結末へと至っていた可能性があります。そしてそういう可能性の広がりこそが「サウンドノベル」というジャンルの醍醐味でもありますし、作者自身も本作執筆中にそうしたifについてあれこれ考えていましたので、それらを以下に書いてみます。

 

*スピード解決!と思いきや……

 メガネさんによる黒木姉弟追及イベントへと進むよりも前の段階で智子が犯人の正体をつきとめた場合のルート。ここでは智貴が田中=犯人同一人物説を裏付けるため、みんなの前で付けヒゲによる犯人の変装を暴き、その正体を白日のもとにさらします。原作ゲームでは「そんなに疑うんだったらやってみろよ、ほら」と犯人に促されるまま、遠慮がちにその付けヒゲをひっぺがそうとしていた透君ですが、智貴の場合は犯人がものを言い終わらないうちに容赦なく一瞬でひっぺがしてしまいます。

「無いな、ヒゲ」と呟く智貴が剥ぎ取った付けヒゲを投げ捨てるのですが、「おー痛い……いきなりはやめてくれよな」と、頬をさする犯人がゆっくりと向き直ります。彼の顔にはもうヒゲなんて生えていなかったから、それを目の当たりにしたみんなからおどろきの声があがります。犯人の正体が暴かれた瞬間でした。

 突如、本性をあらわした犯人が目の前の智貴を人質にしようとつかみかかるんですが、そこは智貴もさるもので、犯人の逆上を予想していた彼はすかさず反撃し、見事相手をノックアウトさせます。すべては一瞬の出来事で、智子が恐怖を感じるヒマもないほどのあっけない決着でした。

 ともあれ犯人は縄で縛られ、地下室へ閉じ込められることに。平和の戻ったロビーでは、みんなが姉弟の活躍を称えます。まるで推理小説に出てくる名探偵のようだったと、メガネさんが興奮気味にあれこれ質問してきたり、香山さんが「ふたりで探偵事務所でもひらいたらどうや?」なんて提案してきたりします。こうした反応にまんざらでもない智子がちょっぴり調子に乗ったりしているうち、夜は更けていきます。

 

 そうして翌朝、警察の到着を待つみんなが朝食をとっていたころ、食堂を抜け出した智子がひとりトイレに向かいます。するとペンションの裏口があいていて、そこに誰かがいることに気付きます。なんとそれは、いつのまにか地下室から脱出していた犯人でした。犯人は智子の姿を見るや、叫ぶヒマも与えずその口をふさぎ、そのまま強引に外へ連れ出してしまいます。そうして引きずられていった先は、ペンションの裏にあるガレージでした。ここには二台のスノーモービルが格納されていたんですが、キーをくすねていた犯人はこれを始動させ、智子を乗せたまま発進しました。

 なまじ姉弟が事件を早々に解決したことでみんなが犯人を甘く見てしまったせいなのか、結局犯人は監視の隙を突いて警察の到着前に逃げ出してしまい、あまつさえ智子が対警察用の人質に取られてしまったのでした。

 スノーモービルのエンジン音に気付いた小林オーナー達が窓から外を見やれば、いままさに智子が犯人に連れ去られていくところでしたから、大慌てで追いかけようとします。そうして残されたもう一台のスノーモービルで追跡に出たのはろくに身支度もしていない俊夫さんと、彼の腰につかまる智貴。出だしこそ遅れたものの、スノーモービルの運転にまるで不慣れな犯人へと追いつくのは俊夫さんにとって難しくありませんでした。

 するとうしろを振り返った犯人が、懐から取り出した拳銃を智貴達に向けて発砲してきました。しかし車両の運転と智子の拘束にも手を割いている犯人にとってはかなり無理があったのか、揺れる座席の上でまともな狙いもつけられないそれは、巧みな運転で射線をかわす俊夫さんにとって威嚇射撃程度にしかなりませんでした。

 

「智貴くん、今だ!」

 

 そうして一気に距離を詰めた俊夫さんの呼びかけを受け、智貴が犯人のスノーモービルへと飛び移ります。背後からつかみかかられた犯人の運転がたちまち乱れますが、悪あがきとばかりに俊夫さんの車両に向けてハンドルを大きく切り、そのまま衝突させてきました。二台のスノーモービルはいずれも横転してしまい、智子達は雪原へ放り出されることに。

 薄着のまま外に連れ出されていたせいですっかり凍えてしまい、雪に叩きつけられた衝撃で体中が痛い智子でしたが、埋もれた雪の中からどうにか力を振り絞って這い出します。そんな智子の目に映ったのは、離れた先でもみあう犯人と智貴の姿でした。さしもの智貴も雪の上では持前のフットワークが活かせなかったようで、やがて腕力に勝る犯人にとうとう抑えこまれてしまいます。

 

(あ──っ!? コノヤロォ──ッ!)

 

 馬乗りになった犯人が智貴の首を両手で締め上げだしたので、智子はもういてもたってもいられなくなりました。しかし深く積もった雪の上でしたから、中々前に進むことができません。スリッパなんてとっくの昔に脱げてしまっていたので、じかに触れる雪の冷たさのせいで足先がひどく痛みます。

 

「やめて、やめてよぉ──っ!!」

 

 犯人がふんぐぬふんぐぬと鼻息も荒く力をこめるたび、智貴の喉の奥から聞いたこともないようなうめき声が絞り出されます。これはヤバい。これはマズい。あれはマジに死ぬやつだ。やめろやめろ、その手を離せ。犯人てめぇ、ぶち殺すぞ。いくら智子が頭の中で吼えてみても、その震える口から出てくるのは、どうかやめてください、お願いしますと、涙ながらに犯人へと懇願するような言葉ばかりでした。

 そこへ突如として耳をつんざく銃声が鳴り響きます。瞬間、犯人がびくんと大きく飛び跳ね、そのまま手足をじたばたさせて雪の上を転がっていきます。しかしそれも束の間のこと、すぐしないうちに犯人はぐったりし、そのまま動かくなってしまったのですが、そんな犯人の周囲には血が飛び散っていたようです。

 これは一体どういうことかと、激しく咳き込む智貴を尻目に智子が辺りを見回します。すると離れたところに立っていた俊夫さんと目が合います。彼はひょいと手を上げると、そのまま雪をかきわけ智子達のもとへとやってきます。

 

「智貴君、大丈夫かい?」

 

 俊夫さんの呼びかけに、喉をひどく傷めた智貴が無言のままうなずきます。それを受け、俊夫さんがふーっと大きくため息をつき、自身の短いポニーテールをなでつけます。

 

「あっ、あのっ、あれっ、も、もしかして……?」

 

 智子にはもう、なにが起きたのかがわかってしまいました。それでも確認せずにいられない智子が、物言わぬ犯人を指さしながら俊夫さんにたずねます。すると彼は「ああ、俺がこいつで撃った。ああするしかなかった」と、苦々しい顔で手に持つ拳銃を掲げ、そのセーフティレバーを下げます。渡米経験のあるという彼は銃器の扱いにも慣れていたらしく、犯人が落とした拳銃を使って智貴の窮地を救ったのでした。

 裸足で雪を踏みしめるさまを見かねた俊夫さんが、智子のことをおんぶしてあげます。そうして見下ろした雪原の先には、血をまき散らしてつっぷした犯人の姿。赤黒く染まった雪に埋もれる彼の姿を智子が茫然と眺めていると、どこからかエンジン音が聞こえてきました。音のするほうへ目をやれば、誰かの運転するワゴン車がこちらへ走ってきます。やがて近くに停まったその車から出てきたのは、小林オーナーとみどりさんでした。ふたりは智子達の後を追ってここまでやってきたようです。

 ともあれ俊夫さんから事情を聞いた小林オーナーは、ひとまず姉弟を連れ帰るため、ふたりを車に乗せてあげます。俊夫さんは車に載せてあった防寒着を着込んだあと、ひっくり返ったスノーモービルを立て直したりしていたのですが、彼は警察が来るまでのあいだ、みどりさんと現場に残って犯人を見張ることに。

 

「あのさ、おじさん……俊夫さんのことなんだけど……」

 

 ペンションへの帰路の途中、後部座席でぐったりする弟の顔をタオルでぬぐってやっていた智子が口を開きます。俊夫さんが銃を撃った瞬間、犯人の胸元が弾け、組み伏せていた智貴に血しぶきを浴びせたのを智子は目撃していましたので、おそらく犯人は死んでしまったのだろうという確信がありました。だからこそ、俊夫さんがこれから警察にどう扱われてしまうのかが心配になったようです。正当防衛とはいえ彼は拳銃を使って人を殺してしまった。それはきっとこの日本においてそれなりの刑罰が科せられる行為なのではないか、と。

 

「大丈夫だ、絶対に悪いようにはさせないとも……。すまないが君達にも少し協力してもらうことになりそうだが」

 

 元弁護士の小林オーナーでしたから、彼なりのツテを使ってなんとしても俊夫さんへのお咎めをなくしたいと考えているようです。それを聞き、胸をなでおろした智子が「ふ──……」と長いため息をついてシートに体を預けます。途端、疲労感にどっと襲われた智子は目を閉じるのですが、そうしているうちに凍傷の苦痛もどこか遠くに感じられていきます。

 ひとまずもう、これ以上はなにも考えたくない。今はただあったかい車の中で、こうして弟に寄り添っていよう。お互いすっかり冷え切った体に、少しでもぬくもりを取り戻すために……【完】

 という感じの、原作ゲームの「ミステリー編」早期解決ルートをベースに、「スパイ編」の終盤の展開を取り入れたようなifのお話でした。

 

*夢ならどうか覚めないで……(暴力&死にネタ注意!)

 小林オーナーの擁護によってメガネさんの追及を逃れることのできた姉弟が、しかし結局真犯人の正体を暴こうとしなかった場合は、多くの犠牲者が出る恐ろしいルートへと進むことに。

 みんなが寝静まったころ、ふと目の覚めた智子は一階へおりていくのですが、オーナールームにて小林夫妻が殺害されているのを発見してしまいます。ショックのあまり叫ぶことすらできず、嘔吐を繰り返しつつほうほうのていでロビーまで逃げてきた智子でしたが、そこには姉の不在に気付いて様子を見に来た智貴の姿がありました。

 弟にすがりつき、舌を激しくもつれさせながらもおじさん達が死んでいたことをどうにか伝える智子でしたが、ここでようやく涙と鼻水が溢れてきて止まらなくなってしまいます。とめどなく泣き続ける姉を促す智貴が、自分の目でも確かめてみようとオーナールームへ足を運びますが、そこには依然として目を覆いたくなるような光景が広がっていました。

 一体なにが起きたというのか。他のみんなはどうしているのか。姉弟はそれから武器を手に一階部分の探索を始めるのですが、しかしそこでまたしても犠牲者を発見することに。スタッフルームのベッドにはみどりさんが横たわっていたのですが、彼女の首はおかしな方向にねじ曲げられ、あっとおどろいたような表情のまま絶命していたのです。おなじくスタッフルームで寝泊りしているはずの俊夫さんはいないようでしたが、ともあれ大変な事態が起きていることは間違いありません。

 田中さんを殺害した犯人がみんなの寝静まった頃を見計らってペンションへ戻ってきたに違いない。そう主張する智子でしたが、智貴のほうは姉の考えに同意せず、別の可能性を口にします。仮に部外者の犯行だとしたら、多少なりとも争う音が聞こえてきたり、被害者の抵抗によって室内が荒れていたりしそうなものなのに、そんな様子は少しも見られなかった。あたかも顔見知りから不意打ちをくらったかのように、三人もの人間があっけなく殺されてしまっていた。どこか不自然なこの状況に、彼はペンションの従業員か宿泊客の中に犯人が潜んでいると考えたようです。

 やがてふたりがロビーへと戻ってきたところで、今度は地下室のほうから猫の悲しげな鳴き声が聞こえてきました。気になった智子が扉をそっとあけてやると、足の裏に血をべったり付けたジェニーがぬるりと出てきます。そして同時に、地下室に充満していた異臭が智子の鼻に届きます。

 これはもう絶対に中で誰かが殺されているはずだと、そう確信した智子の言葉を受け、智貴が地下室へと入っていきます。そうしてしばらくしたのち、ロビーへと戻ってきた智貴が自分の見たものを智子に語って聞かせるのですが、どうやら地下室に連れ込まれたらしい香山さんが殺害されていたようです。

 他の宿泊客の様子を確認するべく、姉弟は続いて二階へとあがっていきます。そうしてまずは人妻さんのいる部屋を何度かノックするのですが、しばらく待っても返事はありません。試しにドアノブをひねってみると鍵がかかっていないようでしたので、姉を下がらせ室内を覗き込む智貴。しかし彼はすぐさま扉を閉めてしまいました。「どうだった……?」とおそるおそるたずねる智子に対し、首を振る智貴は「ダメだ、春子さんも殺されてる……」と答えるのが精いっぱいでした。あんなにきれいだった人が殺されてしまうなんて。もう涙も出尽くしてしまった智子は、まるで悪夢を見ているような気分になります。これが夢なら早く覚めてほしいと、そう強く願わずにはいられませんでした。

 続いて美樹本さんの部屋をたずねる姉弟でしたが、ここでちょっと奇妙なことが。部屋に美樹本さんの姿はないようでしたが、代わりに彼が使っていたと思わしきベッドには、おびただしい量の血に染まったシーツがかけられているようでした。これはもしや、美樹本さんの血なのでは? そう考えるふたりは、彼もまた犯人の手にかかってしまったのだろうかと考えます。しかし彼の死体らしきものはどこにも見当たりません。ですがその代わり、壁には血で書いたと思われる「としお」という文字が残されていました。

 これは美樹本さんの残したダイイングメッセージかもしれない。いまだ姿を見せない俊夫さんに疑いを抱く智貴でしたが、果たして本当にそうなのだろうかと、智子のほうは釈然としません。ゲレンデで懇切丁寧に滑り方を指導してくれていた彼の姿を思い浮かべる智子には、あの人のよさそうな青年がおじさん達を殺しただなんて、どうにも信じられないのでした。

 私達がメガネのやつに苦しめられていたときだって、あの人は率先してかばってくれていたじゃないかと、そのように言って智子が俊夫さんのことを弁護してみるものの、いまやペンションの中で生き残っていそうなのはOLさん達を除けば彼ひとりでしたから、智貴のほうも姉の言葉に納得することはできませんでした。このペンションのどこかに俊夫さんが潜んでいて、今も自分達のことを狙っているかもしれない。なにがあっても姉を守らねばと思う智貴でしたから、あらゆる可能性に目を向けずにはいられないようです。

 そうして残るOLさん達の部屋の前にやってきた姉弟は、そっと扉をノックします。もしや彼女らも既に犯人の手にかかってしまったのではと思う智子でしたが、幸いにもすぐさま反応がありました。「誰?」と呼びかける声が扉の向こう側から聞こえてきたのですが、応対に出たのはメガネさんのようです。しかしたずねてきたのが智子達であると知るや、ひっと小さく悲鳴をあげた彼女は、こんな時間に一体なんの用かと警戒心をあらわにします。そこで智貴がペンションの惨状を説明し、ひとまず部屋の中へ入れてほしいと頼むのですが、それでもメガネさんは鍵をあけてくれません。

 

「や、やっぱり、あ、あなた達が犯人なんでしょっ……!?」

 

 どうやらメガネさんはいまだに姉弟への疑いを抱いたままでいる様子。しかしそこへ、別の誰かの声が割って入ります。

 

「智子ちゃんもいるの? なにがあったの?」

 

 それはメガネさんと相部屋になっているビッチさんの声でした。ひとまず姉弟を招き入れてあげてはどうかと言う彼女は、メガネさんの反対を押し切って扉を開けてくれました。姉弟が部屋の中に入ると、そこには武器を構えて臨戦態勢を取るメガネさんと、寝ぼけまなこでベッドから身を起こす川本さんの姿がありました。

 

(さすがビッチ、寝るときもドスケベな格好してやがる……)

 

 ビッチさんのスケスケネグリジェ姿に現実逃避じみた場違いな興味を抱いてしまう智子でしたが、そうしたいつも通りな自分の思考にひどくむなしさを覚えます。

 おじさんも、おばさんも、みどりさんも、香山さん達も、そしておそらくは美樹本さんまでもが、何者かによって殺害されてしまった。いまやペンションの中で生き残っているのは、この場にいる五人を除けば、あとは姿を見せない俊夫さんただひとり。そこまで話を聞かされたビッチさんはすっかり青ざめてしまいますが、疑心暗鬼に陥っているメガネさんと違い、智子達へ疑いを向けるようなことはしませんでした。

 

「とにかく絶対にひとりにならないでください。朝になるまで待って、もし吹雪が止んでいたら、みんなでここを出ましょう」

 

 そう提案する智貴は、OLさん達の部屋にみんなで立てこもり、この恐怖の一夜をどうにかしてしのぎきろうと考えます。

 

「あなた達……おかしな真似したらこれで刺すからね……!」

 

 しかし姉弟を信用しきれないメガネさんは、先の尖ったストックをにぎりしめて物騒なことを言います。そんな彼女にため息をついた智貴は「どうぞ好きにしてください」と呆れまじりに言うだけでした。寝ていたところを起こされたばかりの川本さんはというと、眠気覚ましにすっぱいグミを口にしている模様。

 ともあれ風の吹きすさぶ中、黙りこくったみんなは硬い表情で各々の時間を過ごします。しかし一分一秒が異様に長く感じられてならないこの状況でしたから、不安は膨らむ一方でした。そんな中、階下からいきなり鳩時計の鳴き声が聞こえてきたので、智子はびくっと身を縮こまらせます。

 

「大丈夫よ、智子ちゃん。みんながついてるから……」

 

 ベッドの上で智子と隣り合っていたビッチさんが、そう言って智子の肩に手を回し、ぎゅっと抱き寄せます。このようにして智子を安心させようとするビッチさんではありましたが、彼女もまた不安に押しつぶされそうになっていることを、智子はその体のこわばり具合から察するのでした。

 

 ──ピィィン、ポォォォォーン……

 

 階下から突然チャイムの音が聞こえてきたものだから、智貴以外のみんなが押し殺したような悲鳴をあげます。

 

 ──ピィィン、ポォォォォーン……

 

 ひと呼吸おいてまたも鳴らされるそのチャイムに、智子達はたちまち恐怖に包まれます。あれは玄関の呼び鈴だろうか。だとしたら、一体誰が鳴らしているのだろうか。それはもう、犯人以外に考えられない。

 

「誰っ、誰なのよっ……!」

「たぶん、俊夫さんだと思います」

「うそ……じゃあ、じゃあ、本当に……?」

 

 声を震わせるメガネさんがたまらず声をあげますが、智貴の指摘を受け、その態度に変化があらわれました。どうやらここに来て、彼女はようやく姉弟への嫌疑を取り下げたようです。

 なおも断続的に鳴らされるチャイムでしたから、そこに何者かがいることは間違いありません。そしてそれはおそらく犯人で、部屋にたてこもった智子達のことを誘い出しているように思えました。ならばこのまま無視してやろうと、迂闊な行動を避けることにしたみんなは、繰り返される不気味なチャイム音に耐え続けます。川本さんなどはもはやお菓子を食べる余裕すらなくなったのか、ベッド脇の小棚から取り出した十字架をにぎりしめ、震える声で祈りの言葉をささやきはじめました。

 と、それからしばらくして、今度は突然ガラスの割れる音が聞こえてきました。それを受け、またしてもみんなの中から悲鳴のあがりますが、すぐしないうちに智貴が顔色を変えます。

 

「入れてくれぇ──……中に、入れてくれぇ──……」

 

 階下から確かにそのような声が聞こえてきたのです。男性のものと思われるその断末魔のような叫びに、とうとう泣き始めるビッチさん。誰かが一階にいる。そしてさっきガラスが割れたのも、その人の仕業なのかもしれない。中に入れてくれとしきりに訴えていることから、ひょっとするとその人は玄関の手前にいるのかもしれない。声の感じからして、ひどく弱っているようにも思える。

 てっきり犯人の罠かと考えていたけれど、これはもしかすると重症を負わされた上にペンションの外へと締め出されてしまった美樹本さんが助けを求めているのではないか。そう考えた智貴は彼を助けに行くと言い出します。そうした弟の言葉に反対する智子でしたが、見殺しにすることのできない智貴はすぐ戻るからと言い、武器を手に部屋を出ていってしまいます。誰かひとりぐらいは同行者を募ればよかったのですが、怯えきっているみんなに対して無理強いはできないと考えた模様。しかし智子は、このとき弟をひとりきりにしてしまったことを激しく後悔することになります。

 

 智貴が玄関の様子を見に行ったところ、風除室を挟んだ向こう側、屋外に面するほうの玄関扉のガラスが割れていることに気付きます。そしてその割れたところから、外にいる誰かが寄りかかるようにして血まみれの手をだらりと引っかけているようでした。智貴が玄関の鍵を外して扉をあけたところ、その誰かが風除室に倒れ込んできます。

 

「俊夫さん……?」

 

 それは誰であろう、智貴が疑いを向けていたあの俊夫さんなのでした。彼はひどいケガを負っていたようで、その青ざめた顔には頭から流れ出たらしい血の跡がいくつも残っていました。そんな彼をひとまずロビーのほうへと引っ張っていった智貴でしたが、そこで俊夫さんが息も絶え絶えに意外なことを口にします。

 

「智貴君……気をつけろ……犯人はあいつだ……あいつが……()()()が……オーナー達を……」

 

 もう目も見えていないらしい俊夫さんには、そのとき智貴の背後から誰かが忍び寄っていたことを指摘してやることができませんでした。智貴が彼の言葉を聞き終えたところで、いきなり脳天に強烈な痛みが走ります。頭の中身が弾けてしまいそうなほどの一撃を受け、たまらず床につっぷした智貴でしたが、その背後に立っていたのは鈍器を手にした美樹本さんでした。

 俊夫さんの言う通り、美樹本さんこそが真犯人であり、ペンションのみんなを殺して回った恐るべき殺人鬼なのでした。彼は人妻さんを殺害したとき、彼女のベッドから血に染まったシーツを奪い、それを用いてあたかも自分が犯人に襲われたかのように偽装工作をしたのですが、智貴はまんまとその罠にはまってしまったようです。

 そうして犯人が智貴へもう一撃くらわそうと鈍器を振り上げたとき、誰かが二階の吹き抜けを飛びおりてきて、犯人の頭上からつかみかかります。

 

「テメェ──ッ! 死ねぇっ、このぉっ!」

 

 そう狂ったように叫びながら、手にしたストックの先で犯人の顔を力いっぱいメッタ刺しにするのは智子でした。結局智貴のことが心配でたまらなくなった智子は他のみんなと一緒に様子を見に来たのですが、ちょうど階下で智貴が襲われているのを目にしてしまったため、頭に血がのぼってこのような咄嗟の行動に出たのでした。

 

「ゲフッ……!」

 

 しかし智子の攻撃に犯人がひるんだのは最初のうちだけで、彼はすぐしないうちに智子の腕をつかむと、そのまま力任せに放り投げてしまいました。それを目の当たりにしたOLさん達から悲鳴があがりますが、彼女らは智子へ加勢しようと一階までおりてきたはいいものの、その智子があっさり撃退されてしまったので、たちまち戦意を失ってしまったようです。

 

「おー痛い……ひょろっちいくせに、意外と凶暴なやつだな」顔面のあちこちから血をにじませる犯人が、それでもなんてことない様子で、

「やれやれ。ひとりずつ、じっくり()るつもりだったのに……」ぼやきつつ懐から取り出したもの、それは拳銃でした。

 

 犯人はOLさん達へ銃口を向け、「動くなよ、逃げようとしたやつから殺す」とおどします。床に叩きつけらた智子は全身がしびれたようになってしまい、呼吸もままらない状態でしたから、己の無力さを悔やんでただただ涙を流すしかありません。やがて犯人に命じられるまま、メガネさんがロビーに放置されていた底板の仕掛けから紐を外し、それを使ってビッチさんと川本さんをひとつなぎに縛っていきます。

 

「おいガキ、代わってやれ。今度はおまえがそいつを縛るんだ」

 

 ようやく立ち上がれるようになった智子に、犯人がそう命令してきます。どれだけ自分のほうが有利な立場にあっても念を入れた用心深さを見せる犯人は、最後に残るのはできるだけ非力な人間がいいとして、智子にメガネさんを縛らせるつもりのようです。

 

「……テメーだけは絶対にブチ殺す」

 

 しかし犯人をにらみつける智子は、誰がおまえの言う通りになどしてやるものかと、毅然とした態度で要求をつっぱねます。床に倒れ伏していた俊夫さんの顔からはもはや完全に生気が消え失せていましたが、うつぶせになっている弟のほうはまだ息があるようです。しかしそんな彼の頭からは、血がとめどなく流れていました。弟がこんな目にあわされた怒りでどうにかなりそうだった智子には、もはや犯人に対する恐怖心は存在しませんでした。

 

「ずいぶん威勢がいいな。だったらおまえから先に死んでみるか?」

 

 智子のこうした態度を単なる虚勢に過ぎない見た犯人が、銃を突きつけおどします。しかし智子はこれにひるむどころか、物言わぬままスッと前へ進み出ます。あまりにも迷いがなく、それでいて気配の全てを置き去りにしていったかのようなそのステルスめいた動きは、智子のことを甘く見ていた犯人の意表を突いてやるには十分でした。

 

「貴様っ!?」

 

 犯人が反応する頃には智子はもう彼の目の前まで迫っていました。直後、耳をつんざく破裂音とOLさん達の弾けるような悲鳴。智子に向けて引き金を引いたつもりの犯人でしたが、しかしその弾丸は見当違いな方向へと飛んでいきました。それもそのはずで、彼の持つ拳銃の銃身部分はすでに智子の両手によってがっちりとつかみ取られ、銃口を逸らされていたからです。拳銃で武装した相手に素手でどう立ち向かえばいいのか、中学時代はそんなことも熱心に調べたりしていた智子でしたので、にわか知識ながらもここにきてそれが活かされた模様。

 

「このっ、このぉっ…‥!」

 

 ですが反撃はそこまででした。銃を抑え込んだ智子が続けざまに犯人の股間を蹴りあげてやったのですが、いかんせん非力な智子でしたから犯人はちっともこたえていないようでした。

 

「ギャッ、ウグッ……!」

 

 銃にしがみついたままの智子を引きはがそうと、犯人がその大きな拳を智子に容赦なく浴びせます。殴りつけられるたび、智子の体からバキボキと嫌な音が鳴るのですが、しかしそれでも手を放そうとはしません。

 

「~~~~ッ!?」

 

 するとどうしたことか、犯人が突然雷に打たれたようにのけぞります。そうして勢いよく後ろ向きに倒れ込んだあと、顔をおさえてヒィヒィと悲鳴をあげながらもがき苦しみだしたのですが、彼の片方の目からは血と体液の混ざったようなものが流れ出ていました。

 

「とっ、智子ちゃん! う、撃って! そいつ撃って! 早くぅ!」

 

 うわずった声でそう叫ぶのは、手にしたストックをぶるぶる震わせるメガネさんでした。どうやら彼女は智子が犯人ともみあっている隙に、拾い上げた武器で犯人の目玉を突いてやった模様。

 メガネさんの言葉にハッとなった智子でしたが、その手には犯人の手放していった銃がにぎられたままになっていました。今こそヤローをブチ殺すチャンスと、よろめきつつも銃を構える智子。大柄な犯人から激しく殴打されたのだからよろめく程度では済まないはずですが、断固戦い抜くという決意がその体に力をみなぎらせているようです。

 

「やめろぉッ! こいつに当たるぞぉッ!」

 

 銃を奪われたことに気付いた犯人が、大慌てでよつんばいになって飛びのきます。そうして転がっていった先で身を起こした彼が吼えるように叫びました。

 

「素人が俺だけ狙って撃てるもんか……弟くんも一緒に殺しちまうなぁ……?」

 

 ぜいぜいと息を荒げる犯人が、無理やり引き起こした誰かの背に隠れるようにして、そのようなことを言ってきます。犯人は床に倒れ伏していた智貴を自分の盾代わりにしたのでした。

 

「ほら、彼はまだ生きてるぞ……それを早く返せ、でないとこいつの首をへし折る……どうだ?」

 

 智子をそうおどしつつ、片目の犯人がじりじりと距離を詰めてきます。銃を構える智子はしかし、ぐったりしたままでいる智貴を盾にして迫る犯人を前に、ただ後ずさることしかできませんでした。

 

「撃ってよぉっ! でないとみんな殺されちゃうよぉっ!」

 

 さっきの一撃でもうすっかり気力を使い果たしてしまったのか、腰を抜かしてへたり込んでいたメガネさんがそんなことを叫びます。弟を犠牲にしてでも犯人を撃つようにと、そのように言っているのです。

 

「うっせぇ黙ってろクソメガネがッ!」

 

 そうしたメガネさんを、智子が一喝します。例え他のみんなが殺されてしまったとしても、弟だけは助けてやりたい。自分の命と引きかえになってもいい。そのような思いに駆られる智子でしたから、メガネさんの言葉に耳を貸すつもりなどあろうはずがないのでした。

 

「そうだよなぁ、大切な弟くんだもんなぁ……だからほら、どうすればいいかわかるだろ? 彼だけは助けてやるさ、約束する。これ以上彼にはなにもしないと誓うよ。本当だ、信じてくれ……」

 

 自分などもうどうなってもいいが、なんとかして弟を助け出し、鉛玉を犯人の脳天へ撃ち込んでやるまでは死んでも死にきれない。だけれども、ヘタに動けば今すぐにでも智貴が殺されてしまいかねない。一歩一歩近づいてくる犯人を前に、解決策を見いだせない智子は強い焦りに襲われます。

 

「そう、そのままじっとしてるんだ……なにもしやしない……それを返してくれるだけでいいんだ……俺も悪かった、本当はみんなを傷つけるつもりなんてなかったんだ……亜希ちゃんが妙な詮索をするからこんなことになっちまったんだ。彼女がしつこく犯人捜しなんてしなかったら、俺も君達も、今頃ぐっすり眠れていたってのに……。おっと亜希ちゃん、これ以上余計なことはしないでくれよ? 今、そこのふたりの縄を解いてやろうと考えただろう? そんなことしたら、俺はこいつをすぐにでも殺すからな」

 

 メガネさんの動向にも目を光らせつつ、このように会話を長引かせて時間稼ぎをする犯人でしたから、気付けば智子は壁際まで追い詰められてしまいます。銃を握る手は震え、照準もろくに定まりません。こんな調子で撃とうものなら犯人の言う通り、弟に弾が当たりかねないのでした。

 

「ぐほっ」

 

 智貴越しにそっと手を伸ばしてきた犯人が今にも銃をつかみ取らんとしたところで、なにかを強く蹴り上げるような音がしました。と同時に、犯人の顔が苦悶に歪みます。

 

「貸して」

「へっ?」

 

 智子の手からひょいと拳銃がつかみ取られていきましたが、それは犯人に奪われたからではありません。それまで犯人の腕の中でぐったりしていたはずの智貴が、突然そのような行動に出たのです。

 そこから先は流れるような展開でした。智貴は自分を拘束する犯人に対して背中越しに銃口を押し当て、ひと思いに引き金を引きます。一体どの辺りを撃たれたのか、犯人がただごとならぬ様子で悲鳴をあげるのですが、そうして拘束から解かれた智貴は、膝をつく犯人に向けて続けざまに発砲します。一発、二発、三発四発──どれほど撃ち続けたのか、智貴が銃をおろす頃には、うずくまっていた犯人の体はすっかり穴だらけ。頭の辺りを念入りに撃たれた彼は、すでに絶命していました。

 と、犯人の死を見届けたからなのか、智貴は拳銃を取り落とすと、そのまま崩れるように倒れてしまいました。

 

 一応の手当てを受けた智貴がソファーにぐったりと背を預け、天を仰いでいます。智子はそのかたわらで、寄り添うように座っていました。

 

「じゃあもう行くけど……なにかあったらすぐ呼んでね?」

「あっ、はい……」

 

 今まで智子に付き添ってくれていたビッチさんが、そう言い残して階段をあがっていきます。夜が明けたら彼女はスノーモービルを使って近くの町まで助けを求めにいく予定だったのですが、それまでに少し休むことにしたようです。メガネさんと川本さんは先んじて自室に戻っていたので、ロビーに残ったのは智子と智貴、そして智子の膝の上で丸くなっているジェニーだけ。いまわのきわに犯人の名を告げた俊夫さんのほうはというと、結局助からなかったようで、もう息をしていませんでした。

 視界の端に映る俊夫さんや犯人の死体からなるべく目を逸らし、智子は気を紛らわせるように弟へ話しかけたりします。しかし智貴のほうは会話をする余裕はないようで、生返事をするばかりでした。

 

「あっそうだ、ゲームやろうよ。ちょっと待ってて」

 

 智子がジェニーを脇にどかしておもむろに立ち上がり、痛む体を引きずりながら階段をあがっていきました。そうしてしばらくしてから、スーパーファミコンとゲームソフト一式を抱えた智子が戻ってきます。元々智子はペンションでカンヅメになっているあいだ、弟とゲームでもして暇つぶししようと考えていたので、そのことを思い出したようです。

 

「ほらこれ、おまえがジャマしやがったやつ。もっかいやるから、今度は大人しく見とけよな」

 

 そうして遊び始めたのは、智子が妙な名前を主人公につけて弟をからかっていたあの『弟切草』というゲームでした。

 

「ち・ん・ち・ん・智・貴……っと」

 

 例によってまた同じ名前を設定した智子が、今度は智貴に邪魔されることもなく順調にゲームを進めていきます。智子の予想に反してその内容は、弟をズバズバ斬ってやっつけたりするアクションゲームなどではなく、音と絵で小説を楽しむノベルゲームでした。

 ゲームの中の物語を追いつつ、智子は度々かたわらの弟へ話しかけていきます。画面上にミイラの顔が突然あらわれて智子をおどろかせたときはブツクサ文句を言って同意を求めたり、話がちょっとエッチな展開になったときは卑猥なジョークを投げかけてみたり。それに対して最初のうちは一応ながらもあいづちを打っていた智貴でしたが、やがて時間が経つと共にろくな返事をすることもできなくなり、小さな呼吸を繰り返すばかりとなってしまいます。

 隣り合う弟の体が段々と冷たくなっていくのを、智子はその肌で感じていました。急にテレビ画面がぼやけて見えなくなったのは、涙がにじんできたから。ぬぐっても、ぬぐっても、とめどなく涙が溢れてきます。それでも智子はゲームをやめず、弟に話しかけることもやめないのでした。そうやって、いつ訪れるともしれない夜明けを待ち続けて──。

 

 智子が元気よく雪の上を滑り、そのあとをノロノロと滑る智貴が追っていきます。麓におりてきた智貴が、もういい加減帰ろうと智子に言うのですが、まだまだ遊び足りない智子は新たなコースを求めて場所を移します。そうして向かった先は、超上級者専用とされるウルトラ・エキスパート・スペシャル・サンダー・ドラゴン・ウオリャー!・トリャー!・ソリャー!・コースでした。断崖絶壁同然の斜面に加えて数々の自然災害が待ち受けるその危険なコースを、しかし智子は見事に突破してみせます。

 

「すげーな、ねーちゃん。あんなんよく滑れたな」

「ま、智くんにはこのコースはまだ早いかなぁ。おねえちゃんぐらいのレベルじゃなきゃ自殺行為だもんね」

 

 麓のほうで姉が滑りおりてくるのを待っていた智貴が、無事戻ってきた智子を賞賛します。それを受けてほこらしげに胸を張る智子は、自画自賛の言葉を恥ずかしげもなく口にします。

 

「智くんにもちゃんとした滑りかた、教えてあげるよ。ヘナヘナ滑りのまんまじゃつまんないでしょ?」

 

 すっかりコーチ気取りの智子が、そんなことを言って智貴を誘います。今日はとことん弟と一緒にスキーを楽しもうと、そう考えているようです。

 

『智子ちゃん……智子ちゃん……』

 

 ふと智子の耳に誰かの声が聞こえてきました。自分の名を呼ぶその誰かは、女性のようでした。一体どこから聞こえてくるのだろうと辺りを見回す智子でしたが、周囲には自分達以外のスキー客の姿はありません。

 

「ねーちゃん、行こうぜ。滑りかた教えてくれよ」

「あっうん……!」

 

 初心者コースに戻って姉の指導を受けたいらしい智貴がそう誘ってくるので、彼のあとをついていく智子。

 

『智子ちゃん……起きて……起きて……』

 

 しかしまたしても誰かが智子の名を呼びます。起きて、起きてと、遠くのほうから呼びかけてくるその声は智子にも聞き覚えのあるものでした。

 

(たぶんビッチさんだな……)

 

 智子にはもう、声の主が誰なのかがわかってしまいました。きっとあの人は寝ている自分を起こしにきたのだろうと、そのように理解します。

 ああ、もう少しだけそっとしておいてほしい。お願いだから、私をこのまま起こさないで。あとちょっと、あともうちょっとだけ……。これが夢なら、どうかこのまま覚めないで……【完】

 という感じの、原作ゲームのメインシナリオから派生するバッドエンドルート「サバイバルゲーム編」をベースにし、ラストにサブシナリオ「Oの喜劇編」の一幕を加えたifのお話でした。

 

■そして『かまいたちの夜2』へ

 わたモテをプレイステーション2のサウンドノベル『かまいたちの夜2』とクロスオーバーさせたら……ということで、クロス先のゲームに収録されている「陰陽編」というサブシナリオを下敷きにした続編案『黒木姉弟の新婚旅行(ハネムーン)』について書き連ねてみます。当該案のイメージ画像として、下記のようなものも作ってみました。

【挿絵表示】

 

『黒木姉弟シュプールへ行く』より月日は流れ、智子が三年生の夏休みを目前に控えたある日。黒木家に今日子おばさんから連絡が来た。なんでもシュプールでの姉弟の活躍を耳にした自身の祖父・岸猿伊右衛門(きしざるいえもん)が勇敢な二人に一目会いたがっているのだとか。相手は会ったこともない遠縁の親戚にあたる人物なだけに面倒臭がる智子。しかしおばさんの実家である岸猿家の保有する四国地方のリゾート地「三日月島(みかづきじま)」に招待して貰えると聞いて考えを改める。せっかくなので弟を連れてバカンスを楽しもうと思う智子だったけど、当の弟は「絶対行かねぇ」と首を縦に振ってくれない。しかし招待主である岸猿のじっさま曰く「来るなら必ず二人一緒で」とのことだったので、弟が来てくれないと自分も行けなくなってしまう。また、じっさまは二人を招待するにあたって次の条件をも課していた。それは「お前達に縁のある人間も一緒に九人連れてこい」というものだった。この条件を利用して智子は消極的な弟を連れ出す算段を立てる。先に九人の同行者に約束を取り付けて後戻り出来ない状況にしておけば、それを口実に弟へ同行を迫ることが出来る筈だ。かくして智子による「ねーちゃんに恥かかせんなよ作戦」が始まった。

 親友の水着姿が見たい智子はまずゆうちゃんへと連絡。首尾よく約束を取り付けたものの、その際「こみちゃんも誘おう」と言われてしまったものだから、翌日学校にて渋々小宮山さんにも声をかける羽目に。島のビーチで智貴の水着姿が見れると思った小宮山さんは一も二もなくその話に飛びついた。

 お次は田村さんと真子を誘ってみた所、ふたりともすぐさまこれに同意。ついでにそばで聞き耳を立てていたらしい南さんまでもが真子にくっつく形で参加することに。吉田さんにも声をかけるべきか迷っていた智子だったけど、真子に促されるまま結局彼女のことも誘って了解を取り付ける。

 さてあとまだ三人足りないぞと思っていた所、噂を聞きつけたネモが首をつっこんでくる。そんなおもしろそうなことに何故誘ってくれないんだと少し怒ってもいるようだったのでネモにも参加して貰うことに。

 残るはあと二人。だけども加藤さんと岡田さんは生憎予定が会わず、これ以上相談するアテも無いのでどうしたものかと考えあぐねる智子。そうして自宅へ帰ってみれば、きーちゃんが夏休みに黒木家へ泊まりに来たいと連絡があったそうなので丁度いいやと島へ同行して貰うことに。まだ一人足りないものの、その程度は大目に見て貰えるだろうと踏んだ智子はここで弟に再びアプローチをかける。

「大勢の人間がバカンスを楽しみにしてるんだ。もうお前一人の勝手は許されんぞ」と迫ったものだから、姉の執念深さにゲンナリしつつも智貴はとうとう降参。智貴の本心としては「また何かよからぬことが起きるんじゃ」と嫌な予感があったために姉弟共々招待に応じない方向へと持っていきたかったのだけど、保護者として小林夫妻も同行してくれると聞いてそれならばと参加を決意。

 そうして出発日。黒木家にやってきたきーちゃんを同伴して集合場所の駅に向かった姉弟は、小林夫妻と落ち合い久方ぶりの再会を喜び合う。昨年の事件によるシュプールへの風評被害を心配していた智子だったが、香山さんの仕掛けたプロモーションの成果もあって前以上に繁盛しているらしい。

 やがて集合場所には続々と他の参加者達も集まってくるのだが、そんな彼女らに智子は妙に上から目線。「今日は皆をウチの別荘に連れてってあげるからね」とうそぶいてみせたりする。気分はもうすっかりお金持ちで、妙な優越感に浸っている模様。ともあれグループとなった智子らはまず新幹線で関西方面へと赴き、下車した先で更に目的地の島へと渡るための船が待つ港へと向かった。すると港には呼んでない筈のうっちーの姿まであり、「誰か誘ってくれないかなー」とこれみよがしに思わせぶりな態度を取る彼女は旅行鞄を背負い準備万端といった様子。一度はスルーされてしまうものの諦めない彼女は結局迎えの船に無理やり乗り込んできたため、(まあ一人足りなかったし……)と智子はこれを見逃してやる。

 かくして一行を乗せた船は目的地の島を目指し海原を進んでいく。バカンスに期待を膨らませる智子だったが、彼女は三日月島がかつて「監獄島(かんごくじま)」と呼ばれる呪われた地であったことを知らないでいた……という感じで、新たな恐怖と謎が待つ展開になったらいいなという話でした。

 

 この続編案では岸猿伊右衛門という百歳超えの老人が、遠縁ながらも一族に連なる智貴を「当家を継ぐに相応しい者」と見込んで岸猿家に代々伝わる儀式を受けさせようと画策したことが話の発端になるという感じです。内容的には『かまいたちの夜2』と『かまいたちの夜3』をミックスしたような形に。伊右衛門としては儀式を通じて元々の候補者だった孫のつとむ氏(今日子おばさんの弟)にもの凄い強運を授ける予定だったのですが、この呪われた儀式を忌み嫌う彼に拒否されてしまったため、ずっとその代わりになる人間を探していました。そこに遠縁の黒木姉弟の噂が耳に入り、二人に目をつけたという訳です。この儀式を行うには島内に五十年間蓄積された莫大な〈気〉が必要なのですが、智子達が島を訪れたのは丁度その〈気〉の蓄積量が最高潮に達する日だったりします。同時にこの日の晩は五十年に一度、島を襲う局地的な大嵐の到来と重なっています。原作ゲームではこの嵐が過ぎ去った後は島の〈気〉が散ってしまうとされているのですが、当パロネタではそれに加えて嵐がピークを迎えてからの十数時間だけ島に強力な力場を形成する役割を果たすということにします。

 五十年前にも今日子おばさんの父が儀式を受けないまま家を飛び出してしまったため、栄華を誇った岸猿家は後継者不在に陥ってしまい今やすっかり落ち目。病床に伏せる伊右衛門自身も満足に外出することが出来ない体となっています。一族が代々崇めてきた守り神は定期的に儀式を行わないと力が弱まってしまうのですが、前回の儀式失敗を受けてその命脈は風前の灯火。己の存命中に儀式を行うチャンスは最早今回限りと焦った伊右衛門が、自身の見舞いにと無理に呼びつけた今日子おばさんを陰陽術で操り姉弟を島へと連れてこさせます。

 ちなみにこの守り神は邪神であり、儀式には九人分の生贄をも必要とするので、縁のある人間を連れてくるよう言ったのはそのためでした。元々は当主候補自身が独特の手順で生贄達を手にかける習わしで、伊右衛門もかつて少年時代に儀式をやり遂げた経験がありますが、ここは別に第三者が代行しても一応は問題ない模様。

「必ず姉弟一緒に」と念押しして招いたのにも理由があり、これは転生の術を心得る伊右衛門が二人を無理やり結婚させて、その子供として生まれ変わるつもりでいたから。この姉弟が互いを補強し合った時は逆境を生き抜く強い力を発揮すると睨んでいた伊右衛門でしたから、転生後の己の父母とするには申し分ないと考えたようです。そうして岸猿姓に改姓させた智貴を新たな当主として迎え、妻の智子と共に岸猿家を再興させるための駒にするというのが伊右衛門じいちゃんの計画。儀式を受けると邪神に魅入られ一生岸猿家に縛り付けられたも同然の状態になってしまうので、二人が自主的に黒木家へ戻るということもしなくなってしまいます。

 そんなこんなでかの御老公の思惑が渦巻く島へと向かう智子一行でしたが、船の上でこれから向かう場所についてあれやこれやと話に華を咲かせます。その折、自分達の招待主が岸猿伊右衛門であることを聞かされた南さんはびっくり。親がそれなりの資産家である彼女は、かつて財界にその名を轟かせていた伊右衛門氏の名をお父さん(パパ)から教えて貰っていたようです。ですが南さんは不思議がります。何十年も前に跡継ぎに逃げられてしまってからというものすっかり表舞台に出てこなくなった氏は、病床に伏せって以降ずっとどこかの病院に入院していて外出もままならなくなっているというのが通説だったからです。

 

「うぅ……緊張するなぁ……」

 

 おじさんも伊右衛門に会うのは実は今回が初めて。元々は今日子おばさん一人が姉弟を島まで連れていく筈だったのですが、日頃から実家の祖父との付き合いを避けてきた妻が急に氏の招待に応じると言い出したことを心配してシュプールを臨時休業にしてまで付いてきた感じです。ともあれ智子とおじさんが船酔いでまいってしまったりもしたけれど、本日の宿泊地である三日月館へと向かう道中、風光明媚な島を皆でのんびり散策するうちにすっかり調子を取り戻します。道中見つけた大きな湖を前におじさんが「今日は釣り三昧だ」とはしゃぐ一幕も。

 この三日月館というのは巨大な外壁に囲まれた大変不気味な建物なのですが、これは元々岸猿家に反抗した人々を幽閉したり処刑するための私設監獄として明治頃から昭和初期にかけて代々使われていたものだったりします。また、建物そのものが儀式用の祭壇となる構造をしています。かつてはドSな伊右衛門がここでよく囚人を虐め倒して遊んでいたりもしたお気に入りの場所だったようです。二年夏休みの昆虫採集の一件以来、蠱毒を含めたその手の怪しい儀式に詳しくなっていた小宮山さんは、島の地形や館の構造が〈気〉を集めるのに最適な形になっていることに気付きます(本来この辺りはクロス先の原作ゲームに登場する夏美さんの役割)。

 ともあれ別荘というにはあまりにも不吉な建物でしたから、館を目の当たりにして戸惑う皆を前に智子は大慌て。今日子おばさんからは「とっても豪華で楽しい素敵な別荘」と聞かされていたので皆にもそう自慢していたのに、これでは話が違うという感じです。(料理と一緒でおばさんのセンスってやっぱおかしいんだな)と考える智子でしたが実際に館の中に入ってみるとまさに監獄の中といったその重苦しい雰囲気に益々ゲンナリ。各自の部屋は元々一人用の牢獄として使われていた場所で採光用の小窓すらありません。「サイアク! こんなとこ泊まりたくない!」と憤慨する南さんに「じゃあ帰れば?」と塩対応の田村さん。ともあれ迎えの船は明日の夕方にならないとやってこないことを聞かされ、南さんは渋々納得します。

 館の管理を任されているキヨさんという老婆は今日子おばさんと旧知の仲で岸猿家の遠縁にあたる人。普段は島に近い本土の村に住んでいるのですが、伊右衛門の指示で少し前から島に滞在し、来客の準備をしていたようです。キヨさんのもてなしを受ける一行でしたが肝心の招待主である伊右衛門が何故か姿を現しません。おじさんがキヨさんに尋ねてみれば「島への到着が遅れているだけなのでそのうち来る」とのこと。

 島の中にはビーチの他にも廃村跡(底蟲村(そこむしむら))なんかがあるそうなので、ひとまず辺りを観光して時間を潰すことになった一行は幾つかのグループに分かれて行動することに。ここで智子がどのグループに付いていくかで行き先も変わる感じになってます。智貴はおじさんに誘われ湖畔へ釣りに出掛けるつもりなのですが、この辺りは智子の意向に左右されるので彼に決定権は無さそうです。ちなみに今日子おばさんはキヨさんを手伝うとかでそのまま館へ留まる形に。

 そうして宿泊一日目の前半はバカンスを満喫する智子。夕暮れ時に館へ帰ってきてみれば、他のメンバー達も各々の観光を終えて戻ってきていた模様。食堂にてキヨさんの用意した晩餐にありつく一行だったけど、なぜかいまだに伊右衛門の姿はその席にありません。と、突然食堂内のスピーカーから声が響いてきます。男とも女ともつかない年齢不詳のその加工されたような声は伊右衛門を自称するのですが、訳あって姿を見せられないけれど各自存分にくつろいでいってほしいということを伝えてきます。そもそも伊右衛門は自分達姉弟と会うべくここへ招いた筈なのに顔を見せないのはどういうことだと訝しむ智子でしたが、「大丈夫、おじい様はちゃんとあなた達を見ていらっしゃるわ」と今日子おばさんに言われてしまい納得させられます。

 夕食後、夜釣りに出掛けようとしたおじさんをキヨさんが引き止めます。それどころか閉鎖的な造りの館の中で唯一の出入り口となる玄関を厳重に封鎖し始めてしまいました。

 

「かまいたちの夜が始まりました……」

 

 いつの間にか外からは風切音がひっきりになしに聞こえてくるようになっています。どうも今晩は五十年に一度の周期で発生するこの地方特有の特大暴風雨〈かまいたちの夜〉が島を直撃するそうで、嵐が過ぎるまで誰も外へ出ないようにとキヨさんは忠告するのでした。ともあれその後も館の中をあちこち探検したりして遊んでいた一行でしたが、やがて夜も更けて各自眠りにつくことに。

 その日の晩、悪夢にうなされた智子はふと目が覚めてしまいます。そうしてトイレに行った帰り道、突如館の中に悲鳴が響き渡ったものだから仰天。一体何事かと慌てて弟やおじさんを起こして回る智子でしたが、騒ぎを聞きつけた他のメンバーも部屋から出てきます。しかし部屋から出てこない者が一人だけいました。それは小宮山さんです。部屋の扉をノックしても呼びかけに応えないので不審に思いキヨさんを呼んできて鍵を開けて貰ったところ、そこには頭から血を流し倒れていた彼女の姿が……。そしてその傍らには、呪文のようなものが書かれた紙が一枚落ちていました。

 という感じで、島に伝わるわらべ唄(歌詞が九番まである)になぞらえた第一の事件が起こってしまいます。ここで姉弟が第二の事件が起きる前に真犯人を特定することが出来ればのちに続く惨劇を一旦は回避出来るのですが、推理に失敗した場合は超絶バッドエンドに直行する感じです。ちなみにその際はキヨさんが犯人扱いされることになるのですが、実際に彼女は真犯人の仲間でもあり、自ら進んでスケープゴートになるという役目も与えられていたりします。なのであえて疑わしい行動を取ったりもするキヨさんなだけに、姉弟がそれに引っかかって犯人追及イベントへと進んでしまうとアウト。小宮山さんを殺害した犯人に違いないと決め付けられ、周囲から非難されて怯えるキヨさんでしたが、この人の良さそうな老婆が犯人だとはどうしても思えない吉田さんが一旦皆を制して「ばーさん、本当にアンタがやったのか?」と真剣な目で問う一幕も。だけどキヨさんは目を逸らしながら「その……わ、わたくしめが犯人で……ございます」と狼狽しながらもハッキリと肯定するので結局納得せざるを得ない吉田さん。

 ちなみにこのバッドエンドルートの終盤では、今日子おばさんが姉弟を館の地下深くに隠された儀式の間に連れ込んで二人に婚姻の儀式を受けさせたりします。また、館の邪気にあてられて凶悪化したきーちゃんがおばさんの犯行を手伝う見返りとして岸猿家の一員に迎えて貰ったりもします(その際、自分の代わりの生贄とすべくきーちゃんが手始めに小林のおじさんを襲います)。

 ともあれ犯人の正体を早期に暴くことに成功したルートでは、そもそも伊右衛門氏がこの島に来ておらず全てはおばさんの自作自演であったことなども明らかになります。本当に犯人なのかとすがるような思いで今日子さんに尋ねるおじさんでしたが、彼女はくつくつと笑い始め「ようやった、よくぞ見破った……益々気に入ったわい」と姉弟を称えます。何故こんな真似をしたのかと、わたモテメンバー達から非難されるおばさんでしたが「黙れい!」と一喝。

 

「小娘どもが生意気な……お前らは生贄ぞ……その血肉を我らの神に捧げるのだ……」

 

 やがておばさんはうつろな顔でブツブツと祭文(さいもん)を唱え始めるのですが、おじさんは明らかに別人としか思えない妻の様子に戦慄します。ともあれそんな彼女は牢屋にひとまず閉じ込められることに。そうして一夜明けた島ではすっかり嵐が過ぎ去ったのですが、目覚めたおじさんが妻の様子を確かめに行ってみれば牢屋の中におばさんの姿がありませんでした。一体どこへ行ったのだろうと玄関の封鎖を解いて館の周囲も探してみれば、館の敷地内に高くそびえる監視塔のてっぺんからおばさんらしき格好をした人物が縄で首をくくられ吊るされているのを発見してしまいます。果たしてそれは罪を悔いて自ら命を絶ったが故なのか。「自分達がおばさんを追い詰めてしまったせいだ」と考えた智子は悲しみと後悔に押し潰されそうになってしまい、傍らで立ち尽くしていた弟にすがりついてむせび泣きます。

 

「こんな島に来るんじゃなかった! 今日子がここに行くと言った時、何がなんでも引き止めるべきだった……」

 

 妻の変わり果てた姿を目の当たりにしたおじさんは慟哭します。元々おじさんは此度の招待にも懐疑的だったようで、伊右衛門の見舞いから帰ってきて以降少し様子のおかしい妻を心配していたようです。おばさんのことが可哀想でならない智子は彼女を塔から下ろしてあげたいと思うものの、塔の出入り口の扉はその鍵が見つからず開けることが出来ません。それどころか外壁の閉ざされた門の鍵すら見当たらないものだから、一行はどう脱出したものかと思案します。三日月館は元々監獄なので、内側からであっても鍵がないと門を開けられないようになっているからです。ひとまずこのまま夕方まで待てばやがて迎えの船がやってくる訳ですから、それまでにハシゴでも探してどうにか外壁を乗り越えられるようにしておこうと考えます。

 ともあれ事件は終わったと誰もがそう思っていたのですが、一人納得出来ない様子の智貴。智子が尋ねてみれば、一体誰がおばさんを牢屋から出してあげたのかと考えているようです。そこでマスターキーを持つ筈のキヨさんがその容疑者として浮上するのですが、どうもキーはいつの間にか誰かに持ち去られたようでキヨさん自身は持ってないとのこと。ここでまた上手い具合に謎を解決しないと再びバッドエンドルートへと引き戻されてしまいます。

 ともあれ仲間達の助力も受けつつ色んな調査の末に真相へと辿り着いた姉弟。改めて皆に集合をかけようとするのですが、館の中に仲間の一人の姿が見当たらないものだから慌てて捜索します。わらべ唄になぞらえて事件が起きるのだとしたらあそこにいるに違いないと、犯行の再発を予見していた姉弟は唄の二番目の歌詞から推理しうる現場へいち早く駆けつけます。その甲斐あって厨房の冷凍庫に縛られて押し込まれ、凍える寸前だったゆうちゃんを救出することに成功。ここでゆうちゃんは自分を襲った犯人が今日子おばさんに間違いなかったと証言します。そんなまさかと驚く仲間達とおじさんでしたが、既に真相を見抜いていた姉弟は皆に自分達の推理を説明。塔の上に吊るされていたおばさんの遺体が偽者であり、実際は館の所蔵品のミイラを用いたトリックであったことを明かします。おばさんを牢屋からこっそり出してあげたのはやはりキヨさんに間違いないということも暴いてみせる姉弟。白状したキヨさんによれば、彼女は岸猿家再興のためにどうしても協力してほしいと今日子さんに前もって頼まれていたので、仕方なく今までちょこちょこその手伝いをしていた模様。食堂のスピーカーから聞こえた例の伊右衛門の声もキヨさんが変声機を使ってなりすましたものだったらしい。

 

「すんません……すんません……」

 

 可哀想なぐらい平謝りするキヨさんでしたが、どうも岸猿家の人間に逆らえない弱みがあるようです。ともあれ今日子おばさんは死んでなどおらず、今もこの館のどこかに潜んでいるという智貴。この館には隠し部屋があるのだと主張する彼に案内されて問題の場所まで赴いた一行は、そこに潜んでいた何者かを確かに発見します。呼びかけに応じて隠し部屋から大人しく出てきたのはやはりおばさんでした。姉弟の推理通りの結果に戦慄する一同は思わず身をすくめますが、姉を己の背で守るように進み出た智貴がそれに対峙します。

 

「邪魔はさせんぞォォォォッ!!」

 

 まるで神主のような格好をしていたおばさんでしたが、急に老人のような声で絶叫したかと思うと猛ダッシュで逃げてしまいました。智貴や吉田さんが全力で追いかけるのですが、おばさんの人外じみたその足の速さに付いていけません。まるで館の構造を熟知しているかのように逃げ回る彼女でしたから、とうとう見失ってしまいます。

 と思っていたら、やがて館のあちこちから水が噴出し始めました。おばさんが向かった先は地下水門を制御するための部屋だったのですが、それを用いて館の内外を水でいっぱいにして皆を一網打尽にしようと考えた模様。どうも智貴を跡継ぎにするのは諦めたようですが、ひとまず不本意ながら自分自身でその恩恵を受け取ろうと考え儀式を強行するつもりのようです。本来は手順通りに生贄を一人づつ手にかける必要があったのですが、単純に館の中やその周囲で必要な数だけ死者が出れば不完全ながらも儀式の遂行は可能っぽい。

 ともあれ慌てて外へ逃げ出した一行でしたが外壁の門は閉ざされていたことを思い出します。庭内でも水がそこかしこから勢いよく噴出していたものだから、このままでは辺り一帯がすぐさま水に満たされてしまいます。あわや全員ここで溺れてしまうのではとなるのですが、急に水の勢いが衰え出したかと思うと遂にはどこかで排水されているかのように水が引いていきました。一体何事かと思う一行でしたが、すっかり水の引いた後で館の中から気絶したおばさんを背負って誰かが出てきます。なんとそれは死んだと思われていた小宮山さんだったのです。本当に色々あったのだとくたびれた様子で語る小宮山さんでしたが、やがて目を覚ましたおばさんはすっかり憑き物が落ちたようになっていました。

 

「今日子か? 本当に今日子なんだな?」

 

 その様子から彼女が本来の妻に戻っていることを理解したおじさんは、何度も何度も問いかけます。その度に「ええそうよ」と肯定するおばさんでしたが、おじさんが繰り返し同じことを聞いてくるものだから、ならばと二人だけの恥ずかしい秘密を言ってみせようとして慌てて口止めされてしまいます。

 一体なんでお前は生きてるんだと小宮山さんを問い詰める智子でしたが、おばさんが代わって説明してあげます。それによれば小宮山さんは自身の溢れる生命力のおかげで辛くも死に至らず仮死状態のまま幽体離脱するだけで済んでいたとのこと。そうして岸猿家の秘術に多少の心得があったおばさんの助けを借りて最終的には蘇生を果たしたのだとか(幽霊になってる最中、智貴の部屋を覗きにいったりもしていた小宮山さんでした)。

 伊右衛門の仕掛けた術のせいで自分の体の中から追い出されてしまったおばさんは、その体を長らく伊右衛門の生霊に乗っ取られていたようです。そこで同じく幽霊となった小宮山さんと協力し、館の地下深くに隠された儀式の要となるご神体の鎌を破壊しに行っていたことを明かします。途中、ご神体の危機を察知して肉体を抜け出してきた伊右衛門に襲われたりもしたけれど小宮山さんのド根性+にわか仕込みの陰陽術で撃退した感じです。

 まるで嘘のような話でしたが、おばさんも小宮山さんも大真面目な様子。ともあれ親友が生き返ったことにゆうちゃんは涙を流して喜びます。智子は内心で(ゴキブリ並みの生命力だな……)なんて思ったりしますが、その顔には他のみんなとおなじく安堵の色が浮かんでいました。その時、庭の噴水から甲高い鳴き声が聞こえてきたので皆はそちらを振り向いたのですが、そこから飛び出してきた一匹の巨大な黄金の龍が逃げるように空へと昇っていくのを目の当たりにします(この噴水の奥底の、さらにその底にある儀式の間に潜んでいた存在です)。

 龍は空の上で苦しそうにうねると、やがてバラバラに裂けて消えてしまいました。目の錯覚かと疑う智子でしたが、もしかするとあれこそが岸猿家のかつての繁栄を支えてきた邪神の成れの果てだったのかもしれないと考えます。それを契機にどんよりとしていた曇り空が晴れ、辺りに陽光が降り注ぎます。心なしか館の不気味な雰囲気も消えてしまったように感じられるのでした。ともあれその日の夕方、迎えにやってきた船に乗って皆はようやく呪われた島からの脱出を果たすことになりました。「智子のせいでひどい目にあった」と田村さんがぼんやり愚痴ったりもしますが、互いの無事を喜びあわずにはいられない一行。

 事件の真犯人である伊右衛門氏の本体はおそらく今もどこかの病院で寝たきりになっている筈と考えた智子は、氏が今後またよからぬ企みをするのではと気になってしまい、帰りの船上にておばさんに尋ねてみます。それに対しておばさんは「大丈夫。もう何も出来ないただのおじいちゃんになってしまったから」と答えます。どうしてそう言いきれるのかと少し疑問に思う智子でしたが、きっと岸猿家の人間だけが分かる事情のようなものがあるのかもしれないと己を納得させます。そこでふと去年の冬に倒れた自身の祖父のことを思い出してしまう智子。

 

(結局見舞いにも行かなかったが……もしかすっと会いたがってたりすんのかな……?)

 

 そんな風に考えた智子は、この夏休み中に弟を連れて祖父母の家に泊まりにいこうかなと思うのでした。

 

『かまいたちの夜 黒木姉弟シュプールへ行く』のこぼれ話については以上となります。



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【ホラー・パロディ】弟切草 カエッテキタトモクン(あとがき)

こちらは『弟切草 カエッテキタトモクン』のあとがきとなります。
≫本編を読む。


 完結から非常に間が空いてしまいましたが、ずっと前に投稿した拙作『弟切草 カエッテキタトモクン』に関するアレコレやif展開を書いてみようと思います。クロスオーバー先のゲームのネタバレなども含まれますのでご注意ください。

 

■クロスオーバー先のゲームについて

 本作のクロス先は表題にもある『弟切草』というゲームソフトでして、こちらは〈サウンドノベル〉というジャンルにおける草分け的存在として一九九二年にチュンソフト様より発売されました。

 いつだったか、私はこのゲームのことを雑誌にて知り、以来とても気になっていました。ゲームで小説を楽しむという、一風変わったそのシステムにおおいに興味を惹かれたのです。そうしてしばらくしたころ、遠方に住む伯母のもとへ会いに行く機会があったのですが、そこで立ち寄ったデパートのゲーム売り場にて伯母さんがなにかゲームを買ってくれると言うので、私はガラスケースに展示されていた弟切草を見て、すぐさまそれをねだらせて頂きました。ちなみに一緒にいた私の兄のほうは、当時発売されたばかりの『ドラゴンクエストⅤ』を買ってもらっていたような気がします。

 そうして自宅に帰ってきた私は、兄とゲーム機を取り合いながらも弟切草のプレイを開始することになったのですが、これは当時の私にとってなんとも恐ろしく、そして楽しい作品でした。おどろおどろしいグラフィック、ドキッとさせられる効果音の使い方、そして秀逸な楽曲の数々が、当時の私をすっかりゲームの中の世界へと引きずり込んでしまいました。ミイラが登場するシーンに初めて遭遇したときは、驚きのあまりゲーム機に足が当たってバグらせてしまったものです。ちなみにあのミイラ、ゲームの中では顔の半分だけしか表示されていませんでしたが、開発当時にスタッフのひとりとしてあそこのシーンを担当なさっていたグラフィッカーさんの話によると、元々ちゃんと顔の全体を描いていたものの、容量の都合で半分に削ってしまわれたのだとか。

 このゲームはスタートからクリアまで大体一、二時間ほどで済む内容なんですが、主人公が自身の行動を選択肢の中から選ぶ機会がいくつも設けられており、そこから分岐して色んなシナリオへと進んでいくというユニークなシステムになっていましたので、このゲームを熱心に遊んでいた当時の私は、まだ見ぬシナリオを求めて繰り返しプレイしていたものです。そうしたこともあり、本作第一話のラストは分岐を意識した締めくくりかたにしてみました。CやDの選択肢を選んでしまった場合、果たして何が起きるのか……。

 

■配役について

 元ネタゲーム『弟切草』の各登場人物に対しそれぞれ以下のようにわたモテ側のキャラを割り当ててます。

 主人公の青年/小宮山さん、ヒロインの奈美/智貴、奈美の姉のナオミ/智子、姉妹の母/もこママ、鎧/もこパパ、主人公の亡き父/こみパパ

 

■構成について

 本作は弟切草の数あるシナリオの内、超能力をテーマにした「シャドウ編」を主軸にしてるのですが、以下のような感じで他の各シナリオ固有の要素なんかもゴチャ混ぜにしてたりします。

 

*火傷編

 扉の隙間からこっそり覗く智子/電気ショックの罠/動けず天井を仰ぐ小宮山さんを尻目に弟を連れていこうとする智子/花の声を聞くことができるエピローグの智子

 

*ライラック編

 姉が幽霊/ひんやり冷たい幽霊智子の肌/智子が恋をし、想い人を幽霊にしてでも共に暮らしたいと願う/想い人と結婚しようとするミイラ/主人公の亡き父の存在

 

*ぼくの海編

 水槽の智貴(ゲームでもヒロインがドボンされて生死の境を彷徨うハメに)/水槽の動物(ゲームのほうだとワンコが一匹沈んでるだけですが、本作では智子が森のフレンズ達をペットにしたくて片っ端から手に掛けていった結果あのような悲惨な事に)/弟に病的な執着をみせるお姉ちゃん

 

*怪魚編

 描写は省きましたが生前の智子が怪しい儀式に手を染めたのは、このシナリオに出てくる〈悪魔の書〉をパパの書斎で見つけた事が発端という事にしています。ゲームでもナオミがこれを用いて弟の直樹(なおき)くん(シナリオによって登場したりしなかったり)に儀式を行って失敗したりしていました。

 

*モンスター一家編

 終盤にてひとりでに鞘から抜けて智子にトドメを刺した剣はこのシナリオに登場する切り札的存在で、モンスター達を瞬殺出来るリーサルウェポン。

 

*食欲の権化編

 鎧にされたもこパパ

 

*ピンクのしおり編

 小宮山さんの存在そのものがピンクのしおり状態なんですが、ホテルやベッドネーム・コミィ等のネタはここから拝借してます。ちなみにベッドネーム云々は元ネタだと〈ナミィ〉となってます。あと些細な事ですがホテル名はスーパーファミコン版が〈弟切草館〉、プレイステーション版が〈弟切荘〉となってるようです。

 

■智子達のお墓

 原作ゲームにおけるどっきり悪戯エンドのラストシーンに出てくるヒロインの家族達のお墓をちょっと意識してます。

 

■小宮山さんの後輩の女子

 ちょこちょこ存在を匂わせてた子で、これはわたモテ本編に登場する小宮山さんの後輩にして恋のライバルである美少女・井口さんの事です。本作ではたった一夜でライバルである小宮山先輩に途方もない差をつけられてしまった井口さんですが、その心中や如何に……。

 

■ウェディングドレス

 もこママのお古という扱いです。弟との結婚に憧れる智子は、これを自身の遺体(であると同時に、分離してしまった己の良心を宿す器)のミイラに着せてあげていた模様。

 

■水槽

 本来は玄関ホールに設置されているもので、シナリオによっては中身がガソリンだったり硫酸だったりします。本作では智子が開かずの間に転移させた事にしてあるのですが、終盤になってようやく登場するので、読んでる人が途中で「弟切草パロなのに水槽出てこんのか! やりなおし!」と思ってしまわないかと心配してます。

 

■車

 一九七二年に当時三十歳のもこパパが妻の初出産記念に購入した思い出の品としています。ナンバーの由来は千葉ロッテの鉄腕投手・小宮山悟選手の背番号〈14〉から。ゲームではスーファミ版だと謎の赤いクラシックカーだったんですが、せっかくなので映画『シャイニング』にちょこっと出てた赤色のビートルにしてみました。原作版だとホントはあっちがジャックの車だったらしい。

 

■ゴンゲ

 エピローグに出てくる小宮山さん一家の愛車の名前はゲームに出てくる〈怪魚〉というキャラの「ゴンゲ~」という鳴き声が元ネタ。本作では怪魚くんの出番が無かったのでせめて声だけでもと盛り込んでみました。

 

■ヘビ・オオカミ・スズメバチ

 弟切草における三大屋外エンカウントエネミー達。ゲームでは序盤で屋敷に入ろうかどうか迷う主人公達を追い込む為に登場。ヘビは屋敷の中でも時折出現する事があるので、小宮山さんが電撃でダウンした際、智子が去り際に部屋の中に群れを放つ展開も考えていました。

 

■流星群

 作中の一九九二年の夏は実際にペルセウス座流星群が例年に無い程の大きな規模で観測されたそうなので、それを話に取り入れています。

 

■お風呂で絶叫する小宮山さん

 もちろん千葉ロッテの八木沢監督の事。ちょっと浦安鉄筋家族風味。

 

■小宮山さん達が観戦した試合

 実際に一九九二年の八月八日にマリンスタジアムで行われた西武対ロッテ戦。動員三万九千人の大盛況な試合だったそうな。ちなみにロッテ側の先発は小宮山投手。なお試合結果は……。そしてこの年のペナントレースにおける最終的な成績は……。

 

■モツ煮

 小宮山さんがモツ煮を買いがてら天気予報名人の店のおやじさん(曽根会長)に今晩の天気を予想して貰っていて、ラストシーンで「おじさんの天気予報、当たったなぁ」と感心するくだりをどこかに仕込みたかったのですが、結局出来ず終いでした。

 

■映画

 小宮山さんが裏口にてチェーンソー云々のくだりで思い出したのは『悪魔のいけにえ』。また、幼少期の彼女がお父さんと夏休みに見たホラー映画は邦画『HOUSE』の事。

 

■漫画

 もこママの能力を知った小宮山さんが引き合いに出したのは、『ジョジョの奇妙な冒険』第四部の主人公が持つ超能力の事。作中の一九九二年は丁度第四部の連載が始まってしばらくした頃なので、小宮山さんはこれのリアルタイム読者であるとしてます。

 

■作中の時間帯

 些事ですが、二人が屋敷の中に足を踏み入れた時刻はゲームの方よりも一時間程遅らせた午後七時四十五分としてます。

 

■二人の智子の出生

 本編では触れられない設定となりますが、もこママとエピローグの小宮山さんがそれぞれ娘を産んだのは共に彼女らが二十四歳の時としています。

 

■もこママについて

 智子の母(以下、ママ)についてもある程度設定を考えていまして、それはこんな感じです。

 本物の超能力少女として新聞に載った事もあるママはしかし、人々から奇異の目で見られたり、他人の心の中が読めるせいですっかり人間嫌いになっていました。ですが高校生の時に駆け出しの超能力研究家であった青年(以下、パパ)と出会い、彼の研究に協力するうち、そのまっすぐな人柄にいつしか惹かれるようになり、やがてふたりは結ばれます。

 暴走気味だったヤングママの超能力も、パパが考案した制御訓練のおかげですっかり落ち着き、意図せず他人の心の声が聞こえてしまう苦しみからも解放されます。おかげで苦痛だった人ごみが平気になり、パパと一緒に東京オリンピックを見に行ったりもしました。

 パパが鎧の中に封じ込められてしまうような事がなければ、智子は適切な制御訓練を受けることができ、結果として力の暴走も抑えられ、大好きな弟と暮らせていた筈なので、パパの実質的な死こそがファミリー崩壊の原因という事になります。研究者ではないママでは、娘を訓練しようにも付け焼き刃な事しかしてあげられなかったようです。

 

■悪魔の書について

 生前の智子が弟を呼び寄せるために用いた儀式は、父の遺した〈悪魔の書〉という本に載っていたものであるというのは前に述べた通りですが、こちらについてもう少し説明をば。

 学校にも行かず、日がな自宅にこもりっきりの智子は暇で暇で仕方がない。そんな彼女はやがて父の蔵書に手を伸ばし、有り余る時間を使って片っ端から読み漁っていました。

 父の書斎には蔵書に限らず研究資料の類も沢山ありましたので、これらにも一通り目を通していった智子はやがて知識だけなら一端の研究家に匹敵するほどとなったのですが、さりとてその知識を、母の望み通り己の超能力の封印に役立てようという気はさらさらありません。それどころか、この力をもっともっと伸ばしてやろうと考えているほどでした。

 そんな智子はあるとき、父の手記の中でほんの少し言及されていた〈悪魔の書〉なるものに興味を抱きます。父曰く、古今東西の魔術・妖術の中でもとりわけ危険なものが記されたそれは、邪教や悪魔崇拝、土着の呪術文化といった分野に関する自身の研究成果を取りまとめたものだという。

 こんな本があるとは初耳だ。一体どこにあるのか。いまやすっかり父の蔵書の内訳を知る智子でしたが、くだんの私家版は見かけたことがありません。もしや屋敷のどこかに隠されているのではと、そう睨んだ智子は捜索を開始します。

 だからといってほうぼう駆けずり回るような真似はせず、智子が選んだのは自らの直感力を用いたもの探し。複数枚のカードを屋敷の間取りに見立て、そのひとつひとつに対して己の勘を働かせていくという調べ方でした。これによって本らしきものがあるかどうかを各部屋ごとに探っていくつもりだったのですが、しかし結局、この方法は空振りに終わります。調査の結果、屋敷の中で本の類が置かれているのは自分の部屋と父の書斎、そして母の寝室のみであると判明したのですが、このうちあまり出入りすることのなかった母の寝室へとこっそり忍び込み、直接その目で確かめててはみたものの、あるのは日記帳やアルバム、趣味の書籍に私用のノートといったものぐらいなのでした。

 が、しかし、もしかして……と考えた智子は、天井に目を向けます。この屋敷には屋根裏部屋が存在していたのですが、先のカード占いで反応しなかったはずのそこが、やけに気になってきたのです。そうしてすっと浮き上がった智子は、そのまま壁をすり抜けて天井裏へ移動します。

 お母さんがなにか仕掛けをしている。屋根裏へと入っていく際、妙な抵抗を感じた智子はそこに母の思惑があることを見て取りました。これはひょっとしてひょっとするかもしれないと、力を強めた智子が室内全体に感覚を張り巡らせます。

 これに違いない。部屋の隅へ隠すようにして置かれていた小さな金庫を見つけた智子は、この中にこそ目当ての本が隠されているのだと確信します。果たしてそれは、そこにありました。智子がアポート能力によって金庫の中身を取り出してみたところ、いくつかの資料とともに、ほこりをかぶった〈悪魔の書〉が見つかったのです。

 そしてこれこそが、のちに智子を死に至らしめる原因となるのですが、智子の父は生前、この恐るべき本が誰の手にも渡らないようにと、自身の妻に託していたのでした。

 

■if展開について

 構想していたものの没にした展開の一つに、智子と智貴の結婚式というものがありまして、これは作中で結局出せなかった一階のダンスホール(若りし頃のパパママが描かれた大きな絵画が飾ってある)にて挙式の真似事をするというものでした。

 立会人代わりのミイラが見守る中、花嫁衣装の智子が椅子に縛られた弟に「ほら、姉ちゃんきれいだろ……? これ、お母さんのドレスなんだ」と語る場面がありまして、そのまま死の接吻(魂を抜く即死技)をしようと迫った所、車に乗った小宮山さんがホールの窓を突き破って乱入し、カチコミをかけるという流れになります。

 車はママの力で超強化されていて、智子の直接的な攻撃にもなんとか耐えうるスーパーカーと化しているんですが、最終的に大破させられることに。しかしパパの無敵剣を装備した小宮山さんによって智子はようやく退治され、智貴も無事救出されるという流れになります。

 ここから先の展開もあらすじ形式にて書いてみます。

 

 燃え盛る屋敷の中でどうにか脱出口を見つけた琴美たち。しかし智貴は姉の遺体であるミイラだけでもこの館から持ち出したい一心で、先に脱出を果たした琴美の制止を振り切り、「必ず戻ってきますから」と言い残して再び屋敷の中へと姿を消してしまう。智貴はここに来てようやく幼い頃の記憶を全て取り戻したものだから、いても立ってもいられなくなったようだ。

 しかし待てども一向に避難場所へ戻ってこない彼に不安を募らせる琴美。降りしきる大雨をものともせず激しく燃え続ける屋敷であったから、とうとう建物全てが炎に包まれ、そして焼け落ちていくその光景に、智貴の生存が絶望的であると悟った琴美は慟哭する。

 そうしてどれだけの時間が経ったのか、極度の疲労と精神的ショックで気絶していた琴美はふと目を覚ます。時刻は明け方で、遠くの空に明るみが見られる。いつの間にか雨はすっかりあがっていた。鎮火したものの、すっかり黒焦げになっていた屋敷の残骸の上をふらふらと歩く琴美。

 いる筈のない生存者を放心状態で探し続ける彼女はしかし、残骸の中に何か人間のような黒焦げの塊が、同じく黒焦げの車椅子に座っていたのを発見する。もしやと思い近寄ってみれば、それはどうやら智子のミイラのようだった。だけどもミイラは、自身の膝元にある塊のようなものを抱き込むようにしてうずくまっていた。焦げた毛布に包まれたやけに大きなその塊が気になって、琴美は毛布を剥ぎ取ってみる。するとそこには智貴の無事な姿があったものだから、仰天せずにはいられなかった。

 炎上する屋敷の中でやっと姉の遺体の所までたどりついたものの、力尽きてミイラの膝元にすがりつくような姿勢のまま気絶してしまった智貴。そんな彼をどうやらミイラが不思議な力で守ってやっていたらしい。彼の無事を見届けたように、炭となったミイラはボロボロと崩れ落ちてしまった。

 やがて琴美の膝の上で目を覚ました智貴は、夢を見ていた事を語る。それは幼い姉が彼に別れを告げるという内容だった。幼い姉は自身の気持ちを打ち明けていく。弟が家を出ていってから今までずっと苦しかった事。いつしか自分の中に制御出来ない怪物のような心が芽生え、それに支配されてしまった事。そして今、それからようやく解き放たれた事を。お嫁さんになってあげられなくてごめんねと、お姉ちゃんがいなくても泣いちゃダメだよと、最後にそう言い残して姉は去っていったという。そう淡々と語る智貴ではあったけれど、彼の声はもはや震えを隠しきれなくなっていた。とうとう嗚咽を漏らして泣いてしまった彼の頭をそっと優しく撫でてあげる琴美。家を出てからずっとずっと泣くのを我慢していた彼だったから、今だけはこれまでの分までうんと泣いていいんだよと慰めてやる。

 やがて朝日が山の稜線から差し込み、琴美達のいる辺り一帯を照らす。そこで二人は気付いた。庭に広がっていた花々がいつの間にか弟切草ではなくなっていた事を。その代わりに紫のライラックの花が辺り一面に広がっていた事を。

 

「ライラックの花言葉……」

 

 花々を見た琴美がふと呟く。その言葉の続きを口にすべきかためらったものの、知りたがった智貴の為に再び口を開いた。

 

「花言葉はね……初恋の、痛み…………」【終】

 

 という感じの、原作ゲームにおける「ライラック編」をもとにした結末なんかも考えたりしていました。

 

■没になったエンディング案について

 小宮山さんと智貴の物語はあのような形で結末を迎えましたが、あちらとはまた異なる結末もいくつか考えていました。

 ひとつは、もこママの介抱によって一命を取りとめた小宮山さんが、そのまま恐れをなして車でひとり逃げ帰ってしまった場合の結末。智貴は殺されてしまい、成仏できぬ霊となってあの館で智子とずっと暮らし続けることになるんですが、智貴を見捨ててしまったことを激しく後悔する小宮山さんが屋敷近くの丘の上(原作ゲームにもちょこっと出てきます)に智貴のお墓を作り、以後毎年夏に必ずお参りしにいくようになったというもの。ずっと独身を貫く小宮山さんが、丘の上から見える屋敷を眺めつつ、「きっとあの家族は今もあそこで一緒に暮らしているのだ」的な感じで物思いに耽るという寂しい終わり方です。

 もうひとつは、幽体の殆どを失いつつもどうにか現世に留まった智子が、目鼻口の付いた人魂のような姿で弟につきまとうようになり、なんだかんだで穏便な関係を築いて生活を共にするようになるという結末。この人魂智子は基本的に小宮山さんと智貴にしか見えないんですが、その理由は「当人たちの間に強い縁があるから」としています。実の弟である智貴はともかく、なぜ元々赤の他人に過ぎなかった小宮山さんとの間にそこまでの縁があるのかといえば、このとき既に小宮山さんは智子がいつの日かまた人間として生まれ変わる際、その母となることが運命によって決められていたから。ここからエピローグに出てきたあの黒木家の誕生に繋がっていくという感じです。

 

■エスパー琴美

 前述のエンディング案に登場する人魂智子は、持前の超能力はすっかり弱体化したものの、それでも悪戯的なことをするぐらいはできるため、智貴が小宮山さんと会うたび、その力で度々ふたりの仲を邪魔したりします。そんな智子を疎ましく思いつつも妙に憎めないでいる小宮山さんでしたが、ひょんなことからふたりの距離が大きく縮まることに。

 幽霊らしく、一応は人に憑依できなくもない人魂智子でしたが、よほど条件が揃わなければ実現できないはずのそれが、なぜか小宮山さん相手だと労せずして出来そうだということに気付きます。「魂がよごれる!」などとほざき、大嫌いな小宮山さんの体に憑依するだなんて頼まれても嫌だと思う智子ではありましたが、肉体があるからこそ出来る諸々の楽しみ(特にハンバーガーとテレビゲームと性行為に興味津々)を味わいたくて、結局なんのかの言い訳しつつ、その体を乗っ取ろうと試みます。しかし憑依自体は出来るものの、小宮山さんの心が非常に強いために体や意識の主導権を奪うことが出来ず、その結果は中途半端なものにしかなりませんでした。

 しかしここで不思議なことが。すっかり弱体化していたはずの智子の超能力が、小宮山さんの体に宿っているときに限り、ある程度のレベルまで復活したのです。それがどういう理由によるものなのか知る由もないふたりでしたが、ともあれ智子をその身に憑依させたときのみ、小宮山さんは自分の意思で数々の超能力を扱えるようになりました。

 密かに憧れていた超能力者になれたことを喜ぶ一方、力に溺れて智子のようになってしまってはいけないと己を戒める小宮山さんでしたが、そんな彼女を智子がそそのかします。我慢なんてしなくていい、好き放題やっちゃえばいい、選ばれた人間である超能力者にはその権利があるのだと、そう言って異能の力を存分に振るうよう勧めます。智子自身、幼少期からずっと母親にそこの辺りを抑圧されてきたので、せっかくの力をわざわざ自制するような考え方には我慢がならないようです。

 そうした智子の誘いにあっさり乗せられてしまった小宮山さんは、「じゃ、じゃあちょっとだけ……」と、諸々の能力の扱い方についてレクチャーして貰うことに。智子の補助を受けつつ数々の超常現象を発現させていく自分に、小宮山さんはすっかり興奮してしまいます。

 いまや彼女はエスパー琴美。テレキネシスなぞ朝飯前で、空を飛ぶのも自由自在。壁のすり抜けは勿論のこと、瞬間移動すらも出来てしまう。全盛期の智子の力とは比ぶべくもないけれど、それでも小宮山さんにしてみればものすごいことでした。

 透視は出来るのか、と小宮山さんが問えば、そんなの簡単だ、と答える智子が早速そのやり方を教えます。すると小宮山さん、何を思ったのか急にテレポーテーションをおこないます。転移した先は、大学の体育館のそば。そこには、これから始まる部活の準備をしていたユニフォーム姿の智貴がいました。そうして小宮山さんは何食わぬ顔で彼に声をかけるのですが、そこで彼女は何かを見通そうと目を凝らし始めます。

 

「やめろ──! このド変態がッ!」

 

 叫ぶ智子が、咄嗟に憑依を解いてしまいました。小宮山さんが透視能力を悪用し、智貴のナニナニを見ようとしていたことを察したからです。コイツに力を好き放題使わせるとロクなことにならないと、智子はこの一件以降すっかり警戒するように。

 それでも時折あれこれ交換条件を付けては小宮山さんの要請に応じてあげることもあり、以後はふたりでひとつの凸凹エスパーコンビとして色んな事件に首を突っ込んでいくのですが、智子としてもこうした活動を通して世の中を見て回るのは楽しかったようで、相方とのエスパー稼業がまんざらでもなくなっていきます。超能力に限らず、時には智子の生前培ってきた父親ゆずりの知識が小宮山さんの役に立つこともあり、それは常識では考えられない不可能犯罪や怪事件に遭遇した際に発揮されることとなります。

 ともあれかつての仇敵と奇妙な協力関係を築いた小宮山さんは、お義母さんの形見でもあるスーパーおんぼろマシン・ゴンゲカーを乗り回す超能力お姉さんとして、一部の人々の間で有名になっていったのかもしれません。

 ちなみに小宮山さんがエスパー稼業を始める気になったのは、大学で起きたある事件を解決したことがきっかけ。この事件を起こしたのは井口さんだったのですが、長年恋焦がれてきた智貴がいつのまにかメガネの変な先輩と親密になってしまったことを悲観しての犯行でした。この事件は早々にかたがついたこともあっておおごとにならずに済んだのですが、以降、小宮山さんは井口さんとも接点を持つようになっていきます。

 

 この『エスパー琴美』の最終回的なものも考えていました。小宮山さんが大学卒業を間近に控えた時期の話になるのですが、この頃の智子はややもすると意識がぼんやりしがちに。近頃やたらと眠気に襲われるものだから、幽霊だから睡眠なんて必要ないはずなのにと妙に思っているのでした。

 そうした中でいつものように一仕事終えたエスパー琴美が憑依を解こうとしたのですが、どういうわけか智子が体内から出ていかなくなってしまいます。心の中で呼びかけてみても返事はなく、それどころかそのまま自分の中で智子の気配が消えてしまったような感覚が小宮山さんにはありました。

 いつもケンカしてばかりいた智子だったけれど、いなくなるとなんだか寂しい小宮山さん。姉の霊と一緒にいられて内心は嬉しかった智貴のほうも、顔には出さないけれど胸にぽっかり穴が空いたよう。突然訪れた智子との別れを惜しむふたりでしたが、そんなこんなでエスパー稼業を引退した小宮山さんは大学を卒業していきます。

 そうして数年後、最愛の人と結婚した小宮山さんは一人の女の子を産むことになるのですが……という感じで、本編のエピローグに繋がっていくというお話でした。

 

■本作品の成り立ちについて

 この作品を書き始める少し前の話ですが、『スウィートホーム』という、かつてファミコンにて発売されたハウスホラーもののゲームがありまして、これとわたモテとを組み合わせた二次創作小説を投稿したことがありました。しかしこの作品は、舞台となる呪いの館へと主人公たちがやってくるまでの導入部のみを描いた短篇であり、ハウスホラーものとしてはなんとも中途半端な感が否めませんでした。そのため、改めて同じ方向性でわたモテ小説を書いてみたいということで、子供の頃に出会った印象深いハウスホラー作品である『弟切草』のパロディをやろうと思い立ち、執筆に至った次第です。

 ちなみに本作はその昔に作者が暖めていたものの結局没になった『帰ってきた智くん』という、別にホラーでも何でもない作品案が下敷きになってたりします。この没案の概要としては、小三の頃に他所の家に預けられていた智貴が、中三になってまた黒木家で暮らす事になったので、嬉しいながらもおっかなびっくりな智子が弟に幻滅されないよう奔走するというもの。

 姉弟は長らく手紙や写真を送り合って交流してきたのですが、成長していく弟の姿を写真で見る内いつしか智子は彼を異性として意識するようになってしまっていたという感じなので、弟が実際に帰ってきた当初はめちゃんこ緊張する事に。ただ、それまでの文通の中で智子は自分を良く見せたいあまりホラ話を度々披露してしまっていたので、現実の姉と会ってその虚飾が次々と剥がれ落ちていくのを目の当たりにした智貴が度々困惑。

 兼ねてからゆうちゃんに弟の写真を見せては「これ私の彼氏」とホラを吹いていた智子でしたが、弟を連れて久方ぶりの故郷を色々案内してやっていた際にゆうちゃんと出くわし、すったもんだの末に結局その事が弟にバレてしまい、益々二人の間に微妙な空気が流れます。智子の方も弟が幼い頃のように自分を無条件に慕ってくれるものと都合良く期待していたフシがあったので、それに沿わない智貴の無愛想な態度に段々と苛立ち始め……。

 そんなこんなで同居を始めた二人はやがて衝突するようになっていくんですが、そうした軋轢の末に智子が「お前なんか弟じゃねえ、出てけ!」と暴言を吐いたため、そんな姉に失望した弟が同居を取り止めにすると言い出し、荷物をまとめて育ての親のところへ戻る事に。せいせいしたぜと毒づく智子だったけど、そのうち幼い頃の智貴が家を出て行った時の悲しみが蘇ってきたものだから、大急ぎで弟を追いかけていって胸の内を全部曝け出し、涙ながらに「一緒に暮らしたい」と本心を訴えます。

 そんな智子の懇願を受けた智貴は前途多難を予感しながらもこの難儀な姉と一緒に暮らす事を再び決意し、いつまでもベソをかいてる姉を促して一緒に黒木家へと引き返していくんですが、本当は智貴もお姉ちゃんと一緒に暮らせる日を夢見ていて、だけどもそれは言葉に出さなかった、という感じで終わるお話でした。

 結局小宮山さんを交え、弟切草の世界と融合させていく過程でほぼ別物になりましたが、こんな感じのお話を下敷きに本作を書かせて頂いた次第です。

 

『カエッテキタトモクン』のこぼれ話については以上となります。



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【クロス】ガールズ&パンツァー 智子の戦車道

この作品は『ガールズ&パンツァー』とわたモテのクロスオーバーで、葉夢堂様の小説アンソロジー『クロはモテない文学少女(偽)2』に寄稿させて頂いたものです。
主催者様よりご許可を頂けましたので、加筆修正を加えた上でハーメルンに投稿させて頂きます。

スーパーファミコン風動画(若干のネタバレあり)
https://www.youtube.com/watch?v=yAz3R0ISCaE
おまけ動画
https://www.youtube.com/watch?v=3heTAEHueUQ

上記動画には登場しませんが、今江さんと風夏のぶんの戦車もドット絵にしてみました。
【挿絵表示】



モテないし戦車道、始めます!

戦車道(せんしゃどう)〉をやればモテる。そんな風に考えていた時期が私にはあった。モテるだのモテないだの、今となっちゃその辺りはどうでもよくなってきたけれど、それでも以前の私にとっては中々に大きな関心ごとだった。

 学園モノの漫画とかアニメに出てくるような、戦車道を嗜むお嬢様キャラってのは結構読者から人気だったりするもんだし、昔の戦車道で活躍した人の大河ドラマなんかがそこそこヒットしたこともある。「強くて頼りになる戦乙女(いくさおとめ)」ってのは世間受けがよかったから、私みたいなのでも戦車道をやったりしたら、男子からちやほやされて女子からも尊敬されたりするのかな、なんて思ったりしていた。戦車に乗って戦ってる女の人たちってのはいかにも華やかで凛々しくて、きらきらしているように見えたのだ。

 だから私は、中学ぐらいのときからこの戦車道ってやつに興味を抱くようになった。東西の色んな戦車が載った図鑑を買ったり、大戦時の世界史や、昔の軍人が書いた戦術論なんかをかじってみたり。プラモデルだって、弟に作らせたやつが私の部屋にいくつか飾ってあったりする。中学の頃のクラスメイトだったゆうちゃんにも、戦車についてのあれこれをよく教えてあげていたもんだ。

 もうやらなくなったけど、ネット対戦の戦車ゲームにも手を出してたっけ。ゲームと現実(リアル)とじゃ全然勝手が違うってのは、実際に戦車道をやるようになってみて嫌ってほど思い知らされたぞ。

 

 まあそんなこんなで、私は高校生になったら試しに戦車道をやってみてもいいかなと思っていた。私の通ってる高等部限定ではあるけれど、ここでは数年前から選択科目のひとつとして戦車道が導入されていたからだ。

 たまに街なかで戦車がエンジンと履帯(りたい)の音を轟かせて走ってるのを見かけたりしたこともあったけど、そのうちあれに触れる機会がやってくるのだと思うと妙にわくわくして、早く高校生になりたいなぁなんて思ったりしていたのを覚えてる。

 でも、そうして実際に高等部へ進んだ私がすぐさま戦車道の授業を履修するようなことはなかった。入学したての頃、担任に引き連れられてクラスの連中と学内の色んな選択授業の様子を見て回ったとき、実際に戦車へ乗せてもらう機会があったのだけれど、これがいけなかった。

 上級生たちの操縦で校庭を走り回る戦車の中は、あの頃の私にとっては随分と過酷な環境だった。ガタガタと容赦なく揺れまくる車内、内臓まで響いてくるようなエンジンの振動とそれに伴う騒音。おまけに車内は狭苦しい上に排気ガスやオイルの匂いが漂っていたから、それが私の具合をどんどん悪くしてしまった。

 結果、戦車から降ろしてもらった途端に私はみんなの見ている前で盛大にゲロってしまったのだ。あの場には私んとこのクラスだけじゃなく他所のクラスの連中も大勢詰めかけてたから、もう殆ど公開処刑みたいなもんだった。ぶっちぎりで人生ワーストワンにはいるぐらい最悪な思い出だけど、ネモのやつなんかはいまだに冗談めかしてこのときのことを蒸し返しやがるから敵わない。

 ともあれそんな感じで大恥をかいたもんだから、せっかく履修するつもりでいた戦車道に私が背を向けてしまったのは仕方のないことだった。もしあのとき恥を忍んで最初から戦車道を履修しておけば、もっと早くに先輩と出会えていたのだろうけど、本当に今更な話ではある。

 そうして以後の私は、他の生徒が戦車を動かしたりしているのを教室の窓から眺めるばかりになってしまった。訓練のたびにドロドロと重低音を辺りに鳴り響かせる戦車たちがやかましく感じられて、この頃の私は戦車道のことが嫌いになってしまっていたものだ。

 

 開始早々つまずいてしまった私の高校生活は、もうすっかり灰色だった。戦車に乗ってあんなことをしてみたい、こんなことをしてみたいと期待を膨らませていた私だったけど、そのあてが外れてしまったことは随分とショックだったらしい。しばらくの間はなんだか授業にも身が入らなくて、ひたすらぼんやりしていたように思う。

九六(クロ)式ゲロ戦車さん〉だなんて最低なアダ名をつけられてしまってないかが心配で、自分のほうからクラスメイトたちの間にはいっていくのも怖かった。だからつい誰とも話さないでいたら、友達ゼロのままあっという間に二ヶ月近く経ってしまった。

 この頃になるとクラスの連中はお互い打ち解けていたみたいだけど、その一方で置いてけぼりをくらった私は教室のすみっこのほうでおとなしくするばかりだった。そのうち気の利く誰かが声をかけてくれるだろうと期待していたものの、一向にその機会は訪れなかったからいい加減むかっ腹が立ってきたりもした。

 

 久しぶりに会ったゆうちゃんから「戦車道をやってるのか」と尋ねられたときは、どう答えたものかと慌ててしまった。高校生になったら戦車道を始めるのだと、私はゆうちゃんによく言っていたからだ。

 やってないことの言い訳として「もう戦車道なんて今どき古臭いから」とかなんとかそれっぽい理由をつけてしまったのだけど、自分でそう口にしておきながら(むな)しいことこの上なかった。古臭かろうが、嫌な印象が根付いてしまっていようが、戦車に乗って戦う女子はそれでもやっぱり私にとって憧れで、眩しいものだったからだ。

 

 もしゆうちゃんも私と同じ〈一高(イッコー)〉に入学できたら一緒に戦車道やろうねと約束していたのだけど、残念ながら試験に落ちてしまったゆうちゃんは、内部進学生として無試験ではいれる〈二高(ニコー)〉のほうに行かざるをえなかった。

 私たちの通う高等部は名前こそ同じだけど実際はふたつに別れていて、私のほうは原幕(はらまく)第一、ゆうちゃんのほうは原幕第二と呼ばれていたりする。元々はそれぞれ別の学校だったらしいけど、合併ついでにお互い老朽化していたそれまでの〈学園艦(がくえんかん)〉を捨てて、新造された双胴型の学園艦へと移ったんだとか。とはいえ合併したあとも元々の校風を維持したいとかで校舎や制服を統一しなかったもんだから、同じ艦上にありながらまるで別の学校同士みたいな関係が今でも続いてるって訳だ。学園艦の運営を担ってる生徒会だってそれぞれ別個に存在していたりするのがまたややこしくて、予算の取り決めなんかで両者の意見が合わずトラブルに発展してしまった事例すらあるぐらいだ。

 戦車道にしたって、方針の違いから二高のほうではやっていなかった。金食い虫の戦車道だったから、一高が選択科目としての導入に向けて同調を呼びかけたときもあっちは頑なに拒否したらしい。だからこそ戦車道をやってる一高狙いでわざわざ受験勉強を頑張ったりもした私だったけど、結局入学早々にやらかしてしまったせいで台無しになってしまった。一高なんか受けず、ゆうちゃんと一緒に二高へ行っておけばよかったと、この頃はことあるごとにそうした後悔が押し寄せてきていたように思う。

 

 ◆

 

 ともあれ私の戦車道に向ける気持ちはすっかりしおれてしまったのだけど、夏休みが明けた頃からある変化に気が付いた。以前までは校庭で大小様々な戦車がウロウロ走行してたってのに、いつの間にか随分と数が減ってたった一両のちっこい軽戦車だけしか走らなくなっていたのだ。

 戦車道は一般人が思ってるほど甘くないから、実際に訓練を体験してそのしんどさを思い知った新入生どもが()を上げて逃げ出したというのも理由のひとつだったのかもしれない。でも、それにしたって結構な数の上級生たちが戦車道の授業を履修していた筈だった。あの人たちは車両の扱いも随分と堂に()っていたから、練習のキツさについていけず脱落したとも考えにくい。

 だからひょっとするとみんな三年生で、大学受験に向けて戦車道を引退してしまったのかもとこのときは推理していたのだけど、実際はそれだけじゃなくてちょっとした揉め事なんかもあったらしい。

 

 そうこうしているうちに文化祭の開催が目前に迫った。この頃になってもまともに会話できる相手がクラスにいなかったから、出し物の準備でごったがえす教室に居辛くなった私は体育館(数千人もいる普通科の生徒たち全員を収容できるくらいに馬鹿デカい)のほうでパイプ椅子を並べてく仕事なんかを適当にやったりしていた。

 そのときたまたま声をかけてきたのが、当時文化祭の実行委員長をやっていた私の先輩──今江(いまえ)さんだった。単なる時間つぶしで手伝っていたに過ぎない私のことをねぎらってくれた先輩は、別れ際にあることを勧めてきた。それは文化祭の二日目限定で自分たちのクラスが戦車の展示会をするから、よければ見にきてほしいというお誘いなのだった。

 先輩の言葉にすぐ返答できなかった私は曖昧な態度でその場を取り繕ったのだけど、あとになってからさてどうしたものかと思案してしまった。展示会をするというその日は、ゆうちゃんがウチの学校へ遊びにくる日だったからだ。当日はゆうちゃんを連れてあちこち案内してあげるつもりだったのだけど、「戦車道なんて古臭い」と言った手前、まだ戦車に未練があるような素振(そぶ)りを見せてしまっては格好がつかないと、当時の私はつまらない意地を張っていたのだ。だから結局、私は先輩からのせっかくのお誘いをスルーしてしまった。

 

 ゆうちゃんと一緒に見て回った文化祭はまあ、悪いもんじゃなかった。中等部以上に膨大な数の生徒を抱える高等部だったから、各クラス一斉に出し物をやるという訳にはいかなくて、一日目と二日目とで参加クラスがはんぶんこに割り振られちゃうんだけど、それにしたってものスゴい規模だった。あまりに出し物が多すぎて十分の一も回りきれなかったけど、時間を忘れるほど夢中になってあちこち巡り歩いたもんだ。

 友達がそばにいるだけでこんなにも違うものかと、普段の学校での生活がひたすら無味乾燥だったから余計に安らぎを感じられたのだった。でも、それもゆうちゃんの帰る時間が訪れるまでのことだった。たったひとりの親友に別れの挨拶をしたあと、私は灯の消えたような寂しさに襲われてしまった。

 ウチの生徒たち、二高から遊びにきているらしい連中、この学園艦に住んでる一般人たち、それに加えて立ち入りを許可された観光客の団体と、学校の中はどこもかしこもめまいがしそうなほど大勢の人で賑わっていた。にもかかわらず、私は世界の中でひとりぼっちになったような感覚を覚えた。こんだけ人がうじゃうじゃいても誰ひとり私のことなんか気にも留めないんだろうと、諦めたような、悔しいような、不安でたまらないような、色んな感情が胸の中で渦巻いたりしたもんだ。

 

 そうして適当な植え込みのところに座り込んで、私はひとり黙々とケータイをいじったりしていた。だけど日が傾き始めた頃になって、ふいに誰かが声をかけてきた。それはまたしても今江先輩で、このときはパンツァージャケット(戦車に乗るときの制服みたいなもんだ)に身を包んでいた。

「ヤバい」と、そう思った。ひょっとしたら展示会に顔を出さないでいたことがバレてるのかもしれないと、このときはそんな心配をしてしまったのだ。でも先輩は別にそんなことは気にしていないようだった。あるいは、大勢の見物客が詰めかけてきていた中で私が来ているかどうかなんて分からなかったのかもしれない。

 私の隣に腰を下ろした先輩は、その日の展示会であった出来事を持ち出して他愛のない話をしてきた。どこからかやってきたシッポの短いブチ猫が戦車の中にもぐりこんでいただとか、それに驚いた車内の客がうっかり天井に頭をぶつけただとか、話の内容自体は取るに足らないものだったけど、自分たちが開催した展示会の模様を楽しげに語る先輩の姿に、気付けば私は見入ってしまっていた。ああ、これが〈戦う乙女〉の姿なんだなと、ジャケット姿の先輩から目が離せなくなっていたのだ。

 

 そしたら、やがて立ち上がった先輩が「ちょっと戦車を見ていかないか」と誘ってきた。実際はもっと優しい物言いで誘われたのだけど、要するに展示してある戦車を片付けてしまう前に、せっかくだから私にも一度見せておきたいということだった。

 まあこう言われては変に遠慮するのも気が引けたし、ゆうちゃんだってとっくに帰ってしまっていたから断る理由なんてなかった。そうして展示会場へと足を運んだ私は、間近に見る戦車たちの威容を前にして感嘆の声を上げずにはいられなかった。いつもは遠くから眺めているだけの戦車だったから、手の届く範囲まで近づいて(じか)に触れたりするのは入学当初に戦車道の授業の様子を見学させてもらったとき以来だった。

 

 一際ちっこかったのは【カルロ・アルマートL6/40】っていうイタリア軍の二人乗り軽戦車で、夏休み以降にひとりぼっちで校庭を寂しく走ってたやつだ。

 その次ぐらいに大きいのは【ソミュアS35】というフランス軍の中戦車。戦車にしちゃ中々に優美な形をしたこいつは三人乗りなんだけど、本当はあともうひとりぶんぐらいの人手がないと実戦運用がしんどいという扱い辛い車両だ。余程テキパキと複数の役割をこなせる優秀な戦車長(コマンダー)が乗ればまた話は違ってくるのだけれども。ご丁寧に車長(しゃちょう)用のキューポラがドイツ軍鹵獲仕様の便利なやつに置き換えられていたから、元々この戦車を使っていた上級生たちはなるべく使い勝手をよくしようと工夫していたのかもしれない。

 このソミュアをもっと無骨にした感じのやつもあって、これはアメリカ軍の五人乗り中戦車【M4A1(75)Wシャーマン】だ。誰が言ったか「バカでも乗れるくらい操縦が簡単」という評価があるけれど、実際に操縦してみた限りでは言うほど簡単でもなかった。変速がまあまあ楽なぐらいで、それ以外は他の車両と似たりよったりだ。この頃はまだどこも手を加えられてなくて、主砲も七十五ミリだし足回りも旧式のまんまだったけど、今じゃあ私の乗る隊長車としてあちこちに手を加えてある。虎殺しの重たい17ポンド砲を載っけてファイアフライ化させる火力偏重案もあったんだが、私は隊長として作戦指揮のために戦場を駆け回って臨機応変に対応しなきゃなんなかったので、基本性能を偏りなく底上げするためにイージーエイト化させる道を選んだ。だから今は【M4A1E8】って呼んでやんないとな。

 そして展示場の中で一番目立っていたのは、なんといってもソ連軍の多砲塔重戦車、六~七人という大所帯の乗員を必要とする【T-100】だった。中学のときに路上でこいつが走行してるのを見かけたときは随分たまげたもんだ。そのバカでかい車体が放つ威圧感たるや、実際に目の当たりにしてみないと言葉じゃ伝わらないと思う。でも、当時の私が驚いたのにはもっと別の理由もあった。趣味のような感じで戦車に関する雑学を蓄えたりもしていた私だったから、こいつが戦車博物館にでも展示されていたらそれなりに注目される珍しい試作戦車だということを知っていたのだ。自分とこの戦車道チームをソ連軍の車両で固めている北国の強豪校、プラウダ高校ですら保有してるかどうか怪しいこの戦車だったから、国内外問わずどこぞのソ連戦車好きな学校に声をかけりゃ、懐事情に余裕のあるやつが物珍しがって悪くない値段で買い取ってくれるかもしれない。勿論そんなこと絶対しないけどな。ちなみにこいつ、てっきり復刻生産されたレプリカだとばかり思っていたのだけれど、整備するときにあちこち調べたところ、大戦当時に造られたオリジナルだってことがわかった。もちろん連盟規定とか経年劣化なんかに対応するための処置が後追いで至る所に施されていたけれど、車両自体は当時品であると見て間違いない。ロシアのほうでちゃんと管理されてなかったものが戦後になって日本へ流出してしまったのかもしれないが、一体どういう経緯でウチの学校がこれを入手したのかは謎だ。戦時中の鹵獲車って訳でもないから、本来の持ち主であるロシア軍が今でもこいつの所有権を放棄してないんだとしたらまずいことになりそうな気もするけれど、あちらさんが何か言ってくるまではこのまま使わせてもらおう。

 

 とまあこんな感じで各車両を興味深げにじっくり観察していた私は、きっと(はた)から見たら随分な戦車好きに見えたのだろう。だからなのか、うしろのほうで控えていた先輩が「乗ってみる?」と提案してきた。

 その言葉を受けて私の中で苦い記憶が蘇った。入学早々みんなの見ている前でゲロってしまったのは、勧められるまま迂闊に戦車へ試乗してしまったからだ。乗り合わせた他の新入生たちと一緒に薄暗い戦闘室の中で押し合いへし合い縮こまって、お尻の痛みに耐えながらも初めての戦車乗り体験をした訳なのだけど、はっきり言って乗り心地のほうはたいへんよろしくなかった。戦車とはそもそもそういうもので、一般人が普段乗ってるような乗用車とは根本的に違うのだ。それが戦車という乗り物の醍醐味でもあり、同時に難儀なところでもある。

 それはともかくとして、私としては戦車にまた乗らされるなんて正直ごめんこうむりたかった。だから私は言葉を濁してもじもじするばかりだったのだけど、先輩はそこで引き下がったりはしなかった。車長席に乗ってキューポラから体を出してみれば狭苦しいなんてこともないし、あまり揺らさないようにゆっくり走ってみせるからと、なおも乗車を勧めてきたのだった。

 

 本来の先輩は決してこんな風にグイグイ押してくるような人じゃない。とても細やかな気遣いのできる先輩は、相手が僅かでも嫌がる素振りを見せたらそれを察してすぐに引き下がる人だった。にもかかわらず先輩が随分と粘りを見せたのは、私に対して思うところがあったからだ。

 あとで教えてもらったことだけど、先輩は新入生の私が戦車道の授業風景を教室の窓からよく眺めていたことに気付いていたそうだ。のみならず、放課後も練習に励む先輩たちを物陰に隠れて度々覗き見していたことまでバレていたんだとか。それは先輩の持つ高い観察力がなせる(わざ)でもあったし、元々私のことを意識していたからこそでもあった。先輩は授業見学のときに無様な姿を晒してしまった私のことを見かけてからずっと心配していたらしいのだけど、その後の私がさっき言ったような調子だったから、もしかすると戦車道に興味を持っているんじゃないかと、そう考えたのだという。

 どいつもこいつも私を無視しやがってと、一年生の頃は周りをひがんでばかりいたけれど、でも先輩はそんな私のことをちゃんと見てくれていたのだった。文化祭のこの日、あの場所でひとり寂しくケータイをいじっていた私のことを先輩が見つけてくれなかったら、たぶん今でも戦車道をやっていなかっただろう。今にして思えば本当に不思議な縁だった。私には先輩のような人が必要で、そしてあの頃の先輩もまた、きっと私のような後輩を必要としていたのだ。

 

 先輩の勧めで乗せてもらったソミュアの乗り心地は、それまでの悪い印象を払拭するぐらいにはよいものだった。相変わらずゆらゆら揺れるし、エンジンの音もうるさかったけれど、キューポラから見渡せる学校の景色がとても新鮮に感じられて、私はすっかりこの眺めが気にいってしまった。うしろを振り返ってみれば、砲塔側面から身を乗り出して乗車ハッチに腰かける先輩が私のことを見守っていた。夕日に照らされ髪をなびかせる先輩の姿がとてもきれいで、妙にドキドキしてしまったのを覚えてる。

 ソミュアを走らせていたのは先輩の友達で、この人からも操縦のいろはや車両整備のことなんかを教わったものだけど、やっぱり私としては操縦席とかよりも車長席に座ってるほうが一番しっくり来る。それはきっと、このときの経験が私の中に焼き付いていたからかもしれない。

 

 ◆

 

 文化祭が終わってすぐ、次の生徒会長の選挙があった。配布された立候補者たちの資料になんとなく目を通していたのだけど、そこに今江先輩の顔があったので私は驚いてしまう。先輩は生徒会にはいっていたのだ。ひとまず他に知ってるような立候補者もいないし、学校の運営方針とかそういうのにもあまり興味のない私だったから、一応知り合いだからという単純な理由で迷うことなく先輩へ投票することにしたのだった。そうして集計結果が発表され、先輩は無事選挙に受かった。なにかと働き者で有能だった先輩は人望も厚かったので、票が集まったのは当然の結果だったのかもしれない。

 就任演説の中で先輩は、戦車道を奨励するようなことを度々口にしていた。近頃は文科省が戦車道の振興に力を入れているらしく、一高もそれに乗る形でいくつかの優遇措置を講じていくとのことだった。その一環として戦車道の授業に限り学期の区切りに関係なく履修の申請を随時受け付けるし、よしんば性に合わなくて途中でやめてしまっても単位自体はちゃんと与えるようにするので、遠慮せず気軽に参加してみてほしいということだった。当時ウチの学校は諸事情あって〈戦車道連盟〉に加盟したくてもそれが叶わないでいたから、そこんところを解決して全国大会へも出場できるようにしてみせると、先輩は強い意志の感じられる言葉で力説していた。

 まもなく私が戦車道の授業を履修したのは、先輩のそうした熱意に触発されてのことだったのかもしれない。きっと私なんかでも先輩は歓迎してくれるだろうし、それまですっかり擱座(かくざ)していた高校生活を改めて発進させる大きなチャンスだと思ったのだ。

 

 思っていた通り、先輩は私の参加をもの凄く喜んでくれた。あまりにも嬉しそうにするもんだから「この人、私のことが好きなのかな」なんて勘違いしそうにもなったけど、そんなこんなで先輩たちとお揃いのパンツァージャケットに袖を通して戦車道をやることになった。あれだけ先輩が熱弁をふるっていたにもかかわらず、新たに参加した生徒は私だけという寂しい結果ではあったけれど、当時の私にとってはそのほうが気楽だったから却ってよかったのかもしれない。

 やっぱり元からいた上級生メンバーたちは軒並(のきな)み引退していたようで、このときには先輩と、先輩の(とも)さんのふたりだけしか残っていなかったようだ。ふたりは授業だけじゃなく部活としての戦車道へも参加していて私にも入部を勧めてきたのだけど、放課後の自主練に付き合わされるのはちょっとしんどそうだったから、つい私は遠慮してしまったのだった。結局ずっとあとになってからゆりとガチレズさんを誘って入部することになったのだけど、なんであのとき先輩からの誘いを断ってしまったのかと、思い出すたびに自分の判断を残念に思ってしまう。

 

 ともあれ先輩とその友さんから色んなことを教わる日々が始まった。ウチの学校には大中小それぞれのサイズの車両が揃っていたから、先輩たちの指導のもと一通りそれらに乗せてもらって操縦やら主砲の発射やらを経験したものだ。人一倍非力な私にとって力仕事となる砲弾の装填はすこぶる苦手で、がんばっても小口径の砲に装填するのがやっとだったから、これについては他人任せにせざるをえなかった。通信手としての手ほどきも受けたのだけど、コミュ力が結構求められるポジションだったから、こんな私に適正がある筈もないのだった。

 でも車長をやるのはとりわけ楽しく感じられた。車長席から指示を出すと戦車がその通りに動いてくれるってのが面白いんだ。狭くて息苦しい車内でこもりっきりにならず、必要とあらばキューポラから体を出して外の風に当たれるところも気が楽でいいんだよな。先輩は新入りの私にときたま隊長役をやらせてくれたりもした。といってもいきなり実戦に参加させられる訳じゃなくて、学園艦の敷地内にある山岳地帯とかで機動訓練や砲撃訓練をやったりするときに、随伴する車両に指示を飛ばす真似事をさせてもらったのだ。当時は隊員が殆どいなくて同時に動かせる車両もわずかだったけど、こうした経験も中々にわくわくさせられたものだ。

 そうして毎度の訓練を終えたあとは汚れた車体の手入れをしてあげないといけないのだけど、これが面倒臭いことこの上なかった。でも洗車の際に水しぶきで濡れた先輩の姿を拝めるのは実に役得だったと言わざるをえない。日の長い季節や、赤道付近をうろついてる時期の洗車タイムは先輩が卒業してしまった今でも楽しみな時間のひとつだ。

 

 こうして思い返してみると、戦車道の活動では大人の出番が殆どなくて、いつも私たち生徒が中心だった。学園艦文化華やかなりし今の時代、学生が自分たちだけの力でなんでもやるって風潮が当たり前になっているけれど、本来は戦争でドンパチやるための危険なシロモノを扱う戦車道においても例外はなかったようだ。

 一応はあの体育教師(デリカシーゼロ)が教官役として戦車道の授業を担当していたのだけど、最初のうちだけあれこれ指図してきたあとは余程のことがない限りあまり口を出してこなくなって、もっぱら乗員不足のときの補充要員として戦車の運用を手伝うのみとなった。実際、そのほうが私としてもおおいに助かっている。あんにゃろーに師事して手とり足とり教わるなんて嫌過ぎるっつーの。学生の頃はボンボン高校だかボンプル高校だか、そんな感じの学校で戦車道チームの隊長をやってたこともあるみたいだけど、別に興味ないから詳しくは知らん。

 

 ◆

 

 二年生になってからも相変わらずクラスの中でぼっちのままだった。私が戦車道をやり始めたことを知らないのか、あるいはどうでもいいのか、誰もそのことを話題にしてきたりはしなかった。幸い先輩たちがいるから学校で会話する相手がゼロだなんていうみじめなことにはならなかったけど、戦車道をやればみんなから一目置かれてモテるんじゃないかと思っていた私にとっては肩透かしをくらったような気持ちだった。

 だけども戦車道の授業自体はなにかと刺激的だったから、退屈せずに済んだのはよかったと思う。先輩から教わった戦車酔い対策のおかげで戦闘室内の揺れや臭さにもちょっとばかし慣れてくる頃になると、戦車に乗ることを楽しむ余裕が出てくる。主砲をブッ放すのだって最初のうちは結構ビビったりもしたけれど、絶対に暴発なんかしないってのが実感として分かってくると、ちょっと高度な射撃ゲームって感じでどんどん面白くなってきた。

 持ち前の戦車の知識や付け焼き刃の戦術論なんかをひけらかしてみたら、よく勉強してるねと先輩が褒めてくれたりするのでこれも気分がよかったっけ。戦車に乗ってる最中ってのはなにかと無防備になりやすいもんだから、先輩のパンツをこっそりチラ見するチャンスにも恵まれたもんだ。

 

 この頃、中等部で同じクラスだったコオロギのやつと偶然再会するなんてこともあった。学園艦の高校ってのは生徒数がもの凄く多いから、同中(おなちゅう)のやつともあんまし鉢合わせなんてしないもんなんだが、たまたま図書館の受付けをやってたこいつとバッタリ出くわしてしまったのだ。今じゃあウチの主力になってる【ヤークトパンター】を任せたりしてるこいつだけど、このときはまだまだチンコと野球のことしか頭になかったんだろうな。

 戦車道関連の本についてはあまり充実してなかったウチの図書館だったから、コオロギに言ってあれこれ揃えさせたりしたもんだ。戦車道をやってる乙女としては、基礎的な教養のためにやっぱり戦記モノなんかにも触れておくのがいい。ドイツ軍の戦車乗りだったオットー・カリウスの回顧録なんかは、歩兵抜きで戦う戦車道の参考書としてはアテにならない部分も多いかもだけど、ソ連軍の猛攻を超人的な粘り強さで味方の歩兵たちと耐え抜いた戦車乗りの苦労が偲ばれる名著だと思う。

 カリウスは本の中で、強い戦車に求められる点として「装甲と機動性、最終的には火力」という三つの要素を挙げていたのだけど、これら全ての条件を満たすヤークトパンターはウチの切り札だ。こいつはドイツ軍が大戦後半に駆逐戦車として投入したものなんだけど、守ってよし、走ってよし、撃ってよし、と三拍子揃った優秀な車両だ。砲塔を持たないせいで正面しか狙えないことが弱点と言えば弱点だけど、運用方法を間違わなければ実にいい働きをしてくれるんだ。

 そんな大事な車両を私じゃなくコオロギのチームに割り当ててやったのは本意ではないのだけど、あいつんとこにいる砲手がハンパなく優秀だから仕方なしに使わせてやっている。この砲手──二木(ふたき)さんは元々戦車道には興味なんて持ってなかったそうだけど、三年になった頃にふらりと戦車道の授業にやってきて、そのまま訓練に参加するようになったのだ。有効射程の範囲なら、どこからでも、どんな相手でも大体は砲弾を当ててしまう。停車中はもちろんのこと、車体が揺れまくってまともに照準を付けられない筈の走行中であってもそこそこの命中率を叩き出していた。「そんなやついる訳ない」と誰もが思うかもしれないけれど、実際マジでそんなやつがいたんだから仕方がない。なに考えてるのかイマイチ分かんないやつだけど、コオロギやその友とはそれなりに意思疎通を図れてるみたいだからたぶん大丈夫だろう。

 

 ちょっと脱線しちゃったから二年の頃の話に戻るけど、新しく入学してきた一年坊たちの中で戦車道を履修した連中はさっぱり居着かなかった。授業見学のときは大勢の新入生たちが入れ替わり立ち替わり詰めかけてきて、その対応にてんてこまいだったのだけど、そうして戦車道の授業へ参加するようになった新入りたちの中でモノになりそうなやつは結局ひとりもいなかった。先輩が折角一生懸命教えてやってたのに、体が汚れるだのケツが痛いだの文句ばかり言い、授業のほうも欠席しがちになってきて、最終的には一学期の終了を待たずして全員が履修そのものをやめてしまったのだった。

 チンチン妹とその友はずっとあとになってからコオロギのやつが伝手を頼って自分とこのチームの助っ人として連れてきたのだけど、こいつらのほうがよっぽど見込みがあるぜ。

 

 六月にはいると、毎年恒例となってる高校戦車道の全国大会が始まった。勉強になるからと、私は先輩たちに連れられて試合を何度か観戦しにいったりもした。先輩は毎年こうして試合会場へ足を運んでいたそうだけど、私はテレビ中継されてた決勝戦を観るぐらいだったから、序盤もいいところの一回戦を目の当たりにするのはこれが初めての経験だった。

 私が最初に観たのは、強豪校で有名な熊本の黒森峰(くろもりみね)女学園と、ウチと同じ千葉発の知波単(ちはたん)学園との戦いだった。先輩は昔この知波単の中等部にいたみたいだけど、進学時にわざわざ外部生としてウチの学校を受験してきたのだった。戦車道に相当力を()れてて履修者も大勢いるらしい知波単だったから、そこの高等部に行けば思う存分戦車道をやれた筈なのだけど、なにかしら思うところがあって中学の頃の母校とおさらばしたのかもしれない。そういやネモのやつもなんか他所の学園艦から来たらしいけど、その辺のことはあいつ自身があまり口にしたがらないからよく分からない。

 ともあれ開始された試合の()く末を見守っていた私たちだったけど、勝敗の結果はすぐさま出た。これがもう黒森峰の圧勝という感じで、知波単のほうは貧弱な装甲の戦車でアホみたいに無謀な突撃ばっかするもんだから、黒森峰の誇る屈強な重戦車たちからはいい的でしかなかった。試合後に知波単のデコっぱちな隊長が仲間たちと一緒に万歳三唱してたのが観客席から遠目にも(うかが)えたけれど、それを見る先輩の顔はなんだか悲しそうだった。

 

 知波単の戦いぶりがあまりにワンパターンだったので、あんな連中が相手ならちゃんとした戦力さえあれば私が隊長でも勝てそうだな、なんてつい思ったりしてしまったのだけど、結局このような考えは思い上がりも甚だしかった。実際に私が隊長になってから殲滅(せんめつ)戦ルールで連中との親善試合を組んだ際は、ぐうの音も出ないほどに惨敗させられたからだ。

 車両自体の性能差で見ればむしろ私たちのほうが有利ですらあったのに、圧倒的な練度の差とでもいうべきものを見せつけられて、私たちはひたすら翻弄されるしかなかった。突撃バカだと舐めてかかっていたのも敗因のひとつで、代替わりした知波単の新しい隊長(ニシさんだかヒガシさんだか、そんな感じの名前だった)は思うところあってかこの学校の伝統となっていた突撃戦法をむやみやたらに行わない方針へと改めたらしい。そうなると中々隙を見せない相手に対してこちらも攻撃のチャンスを掴み辛くなってしまう。のみならず、向こうの隊長は私の立てた作戦をことごとく先読みしてくるもんだから、焦るあまり悪手につぐ悪手を連発してしまった私の車両はどんどん追い詰められていって、結局他の仲間たちを残して真っ先に白旗を上げてしまったのだった。こんときの試合ではいいところを見せようと思って従妹をわざわざ招待してあげてたってのに、とんだ醜態だ。

 

 知波単側の火力からすれば重装甲といえるT-100(乗ってるのは副隊長の絵文字(えもじ)んとこのチームだ)は敵からの攻撃にもそこそこ耐えてたのだけれど、挑発に乗せられて足場の悪いところに誘い込まれた挙げ句、横倒しになって行動不能になってしまった。このときのT-100は絵文字の友達も含めて六人の乗員で運用していたのだけど、それでもちょっとばかし人数が足りてなかったから、いまいち性能をフルに発揮できないでいることも浮き彫りになった。

 知波単との試合が終わったのち、T-100を強化するために砲塔を新型のもの(絵文字のやつが単身ロシアへ飛んで、どこぞの博物館と交渉して直接借りてきた超レアもんだ)へと換装することになったのだけど、その段階になって乗員不足の件はいよいよ問題視せざるをえなくなってきた。新型の砲塔に積まれている主砲はドデカい榴弾砲なのだけど、これの砲弾はすこぶる重かったから、装填手の仕事はとてもじゃないがひとりだけでは務まらなかったのだ。

 もっと言うと副砲の装填も専任の乗員がいなくてそれまでは砲手の人に兼任してもらってたから、これを機にウチの戦車道メンバーの人脈を頼ってふたりほど臨時の助っ人を探すことになったのだけど、ここでひとつアクシデントがあった。加藤(かとう)さんが自分の伝手で友達をひとり連れてきてくれたことはなにも問題なかったのだけど、キバ子のヤローがよりによってあのメシマズさんを誘ってしまったのはよくなかった。なにも知らない絵文字たちはメシマズさんが気を利かせたつもりで差し入れしてきた生ゴミを食わされたもんだから、そりゃもうひどい結果になったのだった。私は一応止めたんだからな。人の忠告を聞かないで勝手に食ったやつが悪いんだから自己責任だぞ。

 

 ええと、なんの話だっけ。そうだ、知波単との試合の続きだ。L6/40に乗せてたヤンキー二人組は初めのうちこそ調子よく敵の部隊を引っかき回してたんだけど、操縦手があまりに乱暴運転するもんだから、そのうち履帯がちぎれてダメになりやがったんだ。

 このふたりは元々一年生の頃に戦車道を履修してたみたいで、中々見込みのあるやつらだと体育教師も目をかけてたらしいんだが、勝手に戦車を持ち出して後輩のチューボーどもへ見せびらかしにいったことが問題になっちゃって、色々揉めた末に履修者から除名されてしまったんだとか。まったくヤンキーってやつはこれだからいかん。戦車道は乙女の嗜みであって、礼儀を弁えない輩が火遊び気分でしゃしゃり出ていいもんじゃないんだぞ。

 まあおっぱいが大きいほうのヤンキー……車長をやってる杏奈(あんな)さんは結構優しいし別に悪い人じゃなさそうだけど、目が隠れてるほうのヤンキーはありゃヤバいかもしれん。頭のネジが一本とんだタチの悪いヤンキー臭がプンプンしやがるもんな。ポジションは操縦手なんだが、運転にも性格が表れてるから荒っぽいのなんの。あんなんでも試験に受かって一高にはいれたってんだから人は見かけによらないもんだけれど、停学上等な素行のせいでストレスが溜まる隊長の身にもなってほしいぜ。でもまあ、どこで覚えたんだか整備の腕は中々のもんだから、まともな整備班を持たないウチにとっちゃ重宝する存在ではあるんだが。ある程度の破損や故障ぐらいなら、わざわざ(おか)にあがって工房に頼まなくても自力でどうにかできるようになったんだから、そこんとこは正直ありがたい。

 私の車両にも装填手としてプリン頭のヤンキー(ややこしいから名前を出すけど、この人は吉田(よしだ)さんだ)を乗せているのだけど、戦闘中はヤンキーらしく気が立っているのか、オラつき加減が普段よりもひどくなってさすがに辟易とさせられる。砲手をやってもらってるゆりとは上手いこと連携が取れてるみたいだからまあいいんだが、被弾するたびに狭い戦闘室内で物騒な言葉を叫ぶのはカンベンしてほしい。怖い先輩が乗ってるせいで新米操縦手の(しずく)が萎縮してしまわないかちょっと心配だけど、隣の席で通信手をやってるガチレズさんとは上手くやってるみたいだから今んとこは大丈夫そうだ。

 

 話が逸れちゃった。そういう訳で一両、また一両と敵に仕留められていったんだけど、意外にもキバ子のヤローはしつこく逃げ回ってどうにか生き延びていた。キバ子のチームが使ってるのは【10TP】っていうポーランド軍の軽戦車なのだけど、こいつは元々体育教師の私物で、あいつがいつも通勤用に使ってたやつだったりする。大戦中にたった一両しか製造されなかったという10TPだけど、ウチにあるやつは他所から借りてきたオリジナルの車両をどこぞの工房に持ち込んで、そいつをもとに大枚はたいてわざわざ複製させたものらしい。性能的に目立ったところもないこの戦車のどこにそこまでさせる魅力があるのかは分からんが、体育教師にとっては憧れの戦車だったのだろう。

 キバ子の話に戻ると、当初あいつは加藤さんたちの車両に無理やり定員オーバー気味に同乗していた。だけどもなんか遠足のときに揉め事を起こしたみたいで、結局あのチームに居辛くなったらしい。その後はしばらく授業にも顔を出さなかったから、もしかすっとこのまま戦車道からフェードアウトしてくのかなと思っていたのだけど、あるとき他のクラスのダチ連中を連れて戻ってきやがった。そんで自分たち専用の戦車が欲しいというキバ子の主張を聞き入れた体育教師が、自分の戦車を気前よく貸してやったって訳だ。でもキバ子たちはあんまし真面目に練習をやらないから、正直言って練度はウチの学校の中じゃ最低レベルだったりする。だからまあ、知波単を相手に割と粘れたのは、ひょっとすると車長をやってるキバ子の悪運が強かったからなのかもしれない。

 

 加藤さんたちの話はしたっけか。ああ、まだしてなかったな。あの人のチームが使ってるのはソミュアだ。昔はよく先輩たちと三人一緒に乗り込んだりしていたこの車両だったけど、今は加藤さんを車長として通信手にネモ、操縦手に(デコ)という配置で運用している。

 この車両は加藤さんの負担がかなり大きくて、車長をやる傍ら砲手と装填手も兼任しないといけないのだけど、それらを実戦レベルで全部そつなくこなしてるから本当に大したもんだ。先輩だって同じことを当たり前のようにやってのけていたけれど、私では仕事が追いつかなくてとてもじゃないが無理そうだな。

 ともあれソミュアは試合中に10TPと組んでいたのだけど、ろくに練習してないキバ子たちとではうまく連携できなかったみたいで、迂闊にも突出してしまった10TPをフォローすべく追いかけてった先で敵に包囲されちゃったらしい。そうして結局キバ子たちもろとも撃破されてしまったようだ。

 

 最後までしぶとく生き残った頼みの綱のヤークトパンターも、最後はここぞとばかりに発動された敵部隊の一斉突撃に対処することができなかった。履帯をやられて身動きできなくなったところで背後に回りこまれ、ひたすら至近距離で弾を撃ち込まれてあえなく撃破されてしまったのだった。

 操縦手をやってるコオロギの友の腕前は新米にしちゃ中々のものだけど、なにぶん放課後の練習に参加できてなくて練習量が足りてないからか、持ち前のセンスだけで補ってる感じはある。大会が終わるまで図書委員の仕事を免除されたコオロギと違ってなにかしらの部活に参加してるみたいだったから、戦車道にかまけてそちらをおろそかにする訳にはいかないようだ。

 

 そういやヤークトパンターを手に入れた経緯についてまだ話してなかったっけ。これは元々ウチになかった車両だったのだけど、私たちが一回戦でぶつかった相手でもある伯爵(はくしゃく)高校ってとこから、今年の春に購入させてもらったものだったりする。

 常識的に考えていくら金を積まれようが虎の子のヤークトパンターを手放すところなんてある筈がないのだけど、有無を言わさず無理やりにでもそれを買い上げる手段がウチにはあったんだ。それは先輩が私たちのためにと残してくれた置き土産みたいなもので、何年か前に購入する権利を()()()()()()()()()()らしかった。この〈購入権〉を証明してくれる権利書の存在を知ったのは、先輩が卒業したあとからだった。大会参加を決めた私は予算の許す範囲で戦力の拡充を計画していたのだけど、その際に選択肢のひとつとして体育教師から権利書の存在を明かされたのだ。

 権利書に記載されていたヤークトパンターの購入価格は相場に近いものだったのだけど、それにしたって結構な出費には違いない。これを買ってしまうとそれまで先輩たちの代からコツコツ貯めてきた予算の大半を使い切ってしまうレベルだったからおおいに迷った。だけどウチに一番必要な戦力はなんなのかというのを考え抜いた末、私は意を決して購入に踏み切ったのだった。

 途中、取引先の戦車道チームがゴネたりして一悶着あったのだけど、どうにか売買を成立させることができた。相手側からは随分恨まれてしまったけれど、文句があるならウチのT-100を無料(タダ)でゲットしようと欲張って、先輩との勝負に負けた当人たちにでも言ってほしいもんだ。件の契約書が有効になるのは発行から一年と九ヵ月後、なんて具合にたっぷりと猶予期間まで設けてあげていたからすっかり当事者意識が薄れてしまっていたんだろうが、約束は約束だ。

 つーかあいつら、こないだの試合ではどこで調達したのか〈ヤークトティーガー〉なんていう怪物じみたもんを新戦力として投入してきたんだよな。意趣返しのつもりなのか、まずこっちのヤークトパンターを速攻で仕留めてきやがったから、あんときはマジにヤバかったぜ。頼りにしてた打撃力を早々に失ったぐらいで瓦解しそうになったのは大きな反省点だったけれど、あちらの隊長──こひなんとかさんの采配ぶりは敵ながら見事なもんだった。占い好きのオカルト狂いなチームだとなめてかかってた訳じゃないが、大会に出てくるような学校はどこも指折りの実力を持っているんだってことを改めて思い知らされたよ。

 

 ◆

 

 あーと、どこまで話したっけ。そうだ、先輩たちと一緒に大会を観戦したところまでだ。大会初参加の無名校だった大洗(おおあらい)女子学園ってとこが優勝したこのときの大会は、番狂わせが起きまくったからかなり面白かった。強豪校の黒森峰やプラウダ相手に、大した戦力もない大洗が縦横無尽に立ち回って状況をひっくり返していくさまは、まるで映画かアニメでも見せられてる気分だった。まさかまさかと思っていたら、とうとう優勝までしてしまったものだから、一緒に試合を観ていた先輩と興奮のあまり思わず抱き合ったりしてしまったのを覚えてる。

 でも今じゃ、私自身が初参加の無名校を率いて大会で実際に試合をする立場だ。どうにか勝ってみせた一回戦の試合のときだって、先輩はきっと観客席のどこかで私たちの戦いぶりを観てくれていたに違いない。だからこそ無様に負ける姿は見せたくないと思ってしまう。先輩が楽しんでくれて、胸をときめかせてくれるような、そんな戦い方ができたらいいな。スポ根的なものなんて嫌いだった筈の私が、まさかこんな気持ちになるなんて夢にも思わなかった。

 

 本当は、先輩の卒業に合わせて私は戦車道をやめるつもりだった。新しい隊長として先輩のいないウチの戦車道チームを率いていくのは荷が重いと思ったのだ。でもやめようと思った一番の理由は、卒業した先輩がこの学園艦からも去ってしまうという事実を前にどうしようもないほどの喪失感にうちのめされていたからだ。今までずっと一緒にやってきた先輩がいなくなる。それはどんな砲弾よりも強烈に私の心を貫通したのだった。

 先輩と一緒にやる最後の試合となった戦場で、私は初めて実戦における隊長役を任された。それまでは先輩の指示のもとで副隊長みたいなことをやっていたのだけど、ここに来て先輩はいよいよ私を後釜に据えるためにお膳立てするつもりだったのだ。

智子(ともこ)ちゃんならきっとできる」と、今まで私に色んなことを教えてきてくれた先輩はそう励ましてくれた。それが気休めなんかじゃなく、ちゃんと私のそのときの実力を踏まえた上での言葉だと分かってもいた。それまで先輩から教えてもらったことは山程あって、戦車の運用方法や実戦での戦い方は勿論のこと、作戦指揮のいろはや部隊の運営にかかる予算のやりくりなどなど、隊長をやるにあたって必要な諸々は殆ど全て先輩から伝授してもらっていた。

 そんな私だったから、いざ試合の中で各車両に指示を出す立場に立ってもうろたえるようなことはなかった。この頃はまだまだ履修者不足のせいでウチから試合に出せる車両は限られていて、頭数を揃えるべく似たような境遇の他校と組んで即席の連合チームとして試合に出るのが常だったのだけど、馴染みのない他校の人たちとのやりとりも一応は臆さず行うことができた。

 結果、試合にはどうにか勝てた。先輩ともこれで最後なんだと思うと気持ちがはいって、全力を尽くそうと必死でがんばったのも大きい。でも、なんだかちっとも嬉しくなかった。

 

 試合が終わったあと、学園艦に戻ってひとりで格納庫の戸締まりをしていたら先輩がやってきて、試合での私の活躍をうんと褒めてくれた。試合があった日は決まって先輩はこんなふうに私の働きぶりをねぎらったりしてくれるのだ。

 先輩に褒めてもらえるのは嬉しい。だから私はそれをいつも楽しみにしていたのだけど、こうしたことも今日限りなんだと思うと目尻に涙がじわっと滲んできて、ついにはそれが溢れ出してしまった。

 先輩がいてくれるなら、隊長でもなんでもやってみせる。でも、先輩のいない戦車道なんて意味がない。だからもう戦車道なんてやめてやるんだと、私はずっと胸に押し込めていた自分の本音を、絞り出すような声でとうとう先輩に告白してしまった。

 あのときの先輩は、きっともの凄くショックを受けたに違いない。だって、いつもにこやかな様子を崩さないでいた先輩が、顔に手をやって泣き出してしまう程だったのだから。去年の卒業式で先輩が在校生代表として送辞を述べたときにちょっと涙ぐんだりしていたけれど、そういうのとは全然違っていた。あそこまで先輩が感情をあらわにしたのはあとにも先にもこのときだけだった。

 

 このあとのことはどうか聞かないでほしい。すまんが先輩と私だけの秘密なんだ。ただ、他の人たちに覚えておいてもらいたいのは、ウチの戦車道チームにはちょっと前まで凄い先輩がいたってことだ。

 いくら初参加校だからって一回戦突破した程度で「大洗の再来だ」なんてこっ恥ずかしいことを言ってくれる人が私のことを持ち上げようとしてるみたいだけど、私なんて全然大したことはない。本当に凄いのは、かつてこの学校にいた今江恵美(いまえめぐみ)って人なんだ。その人が、なにからなにまで今の下地を全部作ってくれたんだ。ウチの学校が大会に参加できるように根回ししてくれたのも先輩で、そのためにわざわざ生徒会長にまでなってくれたんだからな。

 あの人はそのうち大学戦車道のほうでもめきめきと名をあげてくに違いないから、ウチの卒業生の活躍ぶりにぜひ注目しといてくれ。先輩は自分とこの家に秘蔵されてた【チト】っていう日本軍の戦車に乗ってるって話なんで、そこんとこよろしくな。

 

 そうそう、次の試合では二高の戦車道チームと合流して一緒に戦うことになったんだ。これまでずっと戦車道にそっぽ向いてた二高だったけど、今年から戦車道の授業が始まったんだよ。といってもあっちの生徒会が必要最低限の予算しか()いてないせいで保有車両はたったの一両なんだけども。

 まあ同調圧力に屈して自分とこの方針を変えるなんて誰だって嫌だろうから、別にどうこう言うつもりはない。先輩が二高の生徒会へ粘り強くかけ合った甲斐あって、一応は戦車道連盟からも認められるぐらいには体制を整えてくれたんだからありがたいってもんだ。だけどもっと早くに二高が戦車道を始めてくれていたら、連盟への参加もすんなりと許可されて先輩が当時の上級生たちと一緒に大会へ出ることだってできたのにとは思う。

 

 と、それは置いといて、二高のチームが持ってきたのは【テトラーク】っていうイギリス軍の軽戦車だ。見た目はちょっとまるっこくて可愛らしいんだが、正直言って戦力的にはなんとも頼りない。だからフラッグ車にしてみんなで守ってあげる戦術を取ってみるのもいいかもしれないな。小柄で結構スピードの出る車両だから、いざってときは単独で森ん中とかに逃げさせて追手をまいたりもできそうだし。

 まあそれよりなにより大事なことは、これに乗ってるのが私の親友、あのゆうちゃんだったってことだ。この戦車は合同練習に参加するために二高からウチの格納庫の前まで自力でやってきたのだけど、砲塔の天板を開けてひょっこり顔を出したゆうちゃんを見たときはたまげたもんだ。まさか戦車道を始めただなんてそれまで全然知らなかった。ゆうちゃんには私が戦車道を始めたことをもう随分前に明かしていたのだけど、ゆうちゃんなりに思うところがあったのかもしれない。ゆりとガチレズさんなんかは前から知ってたみたいだけど、ゆうちゃんに口止めされていたようだ。ともあれ驚く私の顔を見られて満足したらしいゆうちゃんが「これで一緒に戦車道やれるね」と嬉しそうにしていたから、私のほうもなんだか百人力を得たような気持ちになれた。

 ゆうちゃんからは他にも気になる話を聞かせてもらったりした。どうやら二高のほうでは戦車のメンテナンスを整備科の生徒たちに引き受けてもらっているというのだ。こんなことはウチと違って工業系の学科を多く持つ二高だからこそできることなんだが、あっちの生徒会は戦車道に対して消極的なぶん、外部の技師に委託するといった金のかかりそうなことは避け、できるだけ学内のリソースを使って対応できるようにしているみたいだな。どうせならゆうちゃんのだけじゃなく私たちの車両の面倒もまとめて見てくれたらものすごく助かるんだが、どうにかならないもんだろうか。

 

 それはそうと次の対戦相手は以前私たちをこてんぱんにのしたあの知波単だ。あいつら、一回戦のときには見せなかったとんでもねー戦力を持ち出してきやがった。一時期は実在そのものが疑われたりもしていた幻の日本軍超重戦車・通称〈オイ車〉を学園艦の奥深くで発見したって話だ。たぶん私らのT-100──新型砲塔に換装してからは【T-100-Z】になったけど、それに対抗してのことなのだろう。最近の大会では目立った戦績のない知波単だったけど、今年はマジに上位入賞か、もしかすると優勝自体を狙ってきているのかもしれん。

 ウチの学園艦にも都合よくそんな秘密兵器がどっかに隠されていてほしいんだが、あるのは歴代の先輩たちが溜め込んできたスクラップの山だけ。一応そんなかから使えそうな部品をある程度見つくろったりはしているが、まともに動く再生車両を造ろうと思ったらまだまだ足りないもんがたくさんあんだよ。だけどもうちょい予算をもらえれば、必要なものを買いそろえてちょっとした車両を組み上げられそうではあるんだ。スウェーデン軍が開発した【Sav m/43】っていう小ぶりな突撃砲なんだけど、こんなんでもそれなりに貴重な戦力となってくれるだろう。

 しかし保有する車両が増えたら増えたで、そのぶんの乗員も必要になってくるんだから悩ましい。ただでさえウチは人手不足気味なんだから、一緒に戦車道をやってくれそうな人の勧誘は今後の課題にしていかないとな。前に自習室でご一緒した佐々木(ささき)さんと成田(なりた)さんって人がいたけど、なんか加藤さんと仲よさそうだし、お願いしたら助っ人に来てもらえんだろうかと思ってる。

 

 ああ、まあ話すこととしてはこんなもんかな。今まで本当に色んなことがあったから、細かいことを挙げたらキリがないんだ。次の試合は正直勝てるかどうか分かんないけど、一応はいけるとこまでいってみるよ。もし負けてもボロカスに書いたりしないでくれよ? 新聞ってのはすぐそういうことしやがるからな。まあ私はいいんだが、ウチのヤンキーどもは気が短いからなにするか分からんし。

 エヘンエヘン。普段あんま喋らんから、いい加減ノドが痛くなってきた。もうこの辺でいい? あ、そう、んじゃ。

 

 ◆

 

「は────……」

 

 報道部からのインタビューがやっと終わったので、私は長いため息をついてしまう。でもさっきの記者に長々と話してやったことは、これまであった出来事のほんのごく一部に過ぎない。私が元々ぼっちだったとか、みんなの前でゲロっちまったことなんかは、頭の中で思い出しはしたけれど恥でしかないから当然教えてやる訳がない。体育教師への本音だって、正直に言ったらどうなるか分かったもんじゃないしな。

 けれど、先輩との思い出だけはできるだけ包み隠さず話してあげた。どうしても教えたくないことやパンツ覗きの件とかは勿論言わないけれど、それ以外は正確に伝えてみたつもりだ。外の世界から原幕にやってきたあの戦乙女のことを、私だけじゃなく学校のみんなやココに住んでる人たちにも覚えておいてほしかったのだ。そうしたら、目まぐるしい日々の中で先輩との思い出が段々と薄れていってしまうのを少しでも遅らせることができそうな気がするからだ。

 

 さて、メシ食ったら気を取り直して次の試合の準備を進めるとすっかな。勝てるかどうか分からんって報道部には言ったけど、私の本音としてはガチで勝たせてもらいに行くつもりだ。先輩が私に仕込んだ戦車道ってのはそんなにヤワなもんじゃあないぞ。直接観戦したって訳じゃないんだが、何年か前に非公式の野良試合〈強襲戦車競技(タンカスロン)〉でブイブイ言わせてた頃の先輩の戦いぶりは、もうマジに震えが来たもんな。公式試合だと完璧にレギュレーション違反モノの魔改造L6/40を駆って、先輩とその友さんは大会に出られない鬱憤(うっぷん)をルール無用の戦場でおおいに晴らしてたって訳だ。あの体育教師も軽量化しまくった上にあれこれ仕掛けを加えた10TPを持ち出して先輩の助っ人をしていたみたいだけど、当時の観客が撮影したらしい映像にはお古のパンツァージャケット姿でマントをはためかせるあいつが映っていたので笑ってしまった。身元を隠したいんだろうけど、変な熊のマスクをすっぽり被って〈ヴォイテク仮面〉とかいう愉快なリングネームを名乗ってやがったぞ。見ればあのヤンキー二人組まで自分の戦車の乗員として連れてきてたようで、ほんと教師の癖になにやってんだって感じだな。

 そういや試合中に10TPがいきなり履帯をパージして、ギアの交換もなしに装輪走行モードでかっとばしてたけど、あれいいな。なんとかして同じ機構を改めてキバ子の車両に組み込んでやれないもんだろうか。せっかくのクリスティー式戦車なんだし、長所を活かさない手はない。去年やってた大洗と大学選抜チームの交流戦でも参加車両のひとつ(こいつもクリスティー式だった)が似たようなことをしてたし、案外レギュレーション違反にならない形でうまいことやれる方法があるのかもしれないな。相手チームの無線を傍受するための装置を積んでたとか、車両の駆動系に超馬力のモーターを仕込んで急加速できるようにしたやつらがいたって噂もあるし、どこの学校もルールブックとにらめっこしながら穴を突こうと考えを巡らせているのだろう。

 

 ああ、それにしても血が騒ぐ。次の試合が待ち遠しいな。血気盛んなウチのプリン頭の気持ちがちょっとだけ分かるような気がする。元々リアルで人となにかを懸けて必死で争うだなんてことは苦手な筈だったのだけど、戦車道はそうした私の心をすっかり変えてしまったようだ。

 知波単の各車両の動きを頭の中で何度もシミュレートして、それを自軍の戦力でもっていかに撃破していくかを考えていく。こう来たらこうしてやって、もしこう来たら次はこういう手でいってやろう。ひょっとすると意表を突かれてウチの主力が片っ端からやられちゃうかもだけど、大会はフラッグ戦ルールなんだからどうということはない。例え自分のところの戦力が残り一両だけになってしまったとしても、最終的に相手のフラッグ車だけを潰してやりさえすればなにも問題ないのだ。

 もし件の超重戦車がフラッグ車だったらどうしてやろうか。定石で考えりゃウチのヤークトパンターで装甲の薄いところを突いてやるのがベストなんだろうけど、相手だってそこんところは警戒してるだろうから、逆に先手を打ってこちらの打撃力を真っ先に潰そうとしてくるかもしれない。だから正攻法での撃破が無理そうなら、去年の大会の決勝で大洗が黒森峰の超重戦車・マウスに対して仕掛けたようにエンジングリルを狙った奇襲戦法で仕留めてやろうかな。

 いやいや、あんな曲芸は真似しようたってそうそうできるもんじゃないか。だったらどうにか履帯を潰して一旦足を止めておいてから、修理される前にT-100の榴弾砲で丘の裏や森の中から観測射撃をやってもらうって手もある。砲の精度がすこぶる悪いあれで狙い撃ちすんのは骨が折れるが、運よく当たりゃオイ車といえどひとたまりもないだろうから、手段のひとつに数えておくのはいいかもしれん。

 修理しに車外へ出てる奴らが爆発に巻き込まれるんじゃないかって? でぇじょうぶだ、試合に使う砲弾って実はものすげーハイテクなんだよ。人が近くにいたら炸裂しないようになってんの。弾頭自体もセンサーがあぶないって判断したら一瞬で分解されちゃうみたいだし、安心安全の無殺傷兵器ってのがウリなんだぜ。

 まあでも故障中の車両は狙わないっつー、戦車道精神にのっとった暗黙の了解があるにはあるんだが……。だけどしょっちゅう同じ手を使うでもなし、ここぞというときぐらいは大目に見てほしい。いつぞやかのプラウダなんて人命救助中で身動きが取れんかった敵のフラッグ車を堂々と狙い撃って優勝したぐらいだもんな、あれくらいのなりふり構わん戦い方も場合によっちゃ必要だ。知波単の連中だって前にウチのヤークトパンターの足を潰した上で袋叩きにしやがったし、あんときのお返しにもなるだろう。

 という訳でちょっくら今日あたり作戦会議を開いて、オイ車にどう対応するかみんなと話し合ってみっかな。

 

 大会が終わったら、試しにタンカスロンのほうに参加してみてもいいかもしんないな。負けたら大損こくリスキーな戦いだけど、かつて先輩が夢中になったらしい戦場を私もいっちょ体験してみたい気がする。

 なんだか先輩のあとを追ってばかりだなと自分でも思うけど、これが私の〈戦車道〉ってやつなのだから仕方がない。私の中での理想的な戦車道女子ってのは、ずっとずっとこれからも先輩のことに他ならないのだから。

 果たして私は、かつての先輩と同じ場所へ立てるようになれるだろうか。雫みたいに私を慕って戦車道を始めてくれたような子に、多少なりとも〈道〉のようなものを示してあげることはできるんだろうか。なにかちょっとでもいいから与えてあげられたらいいな。私が先輩から与えてもらったのと同じように。

 

 さあ、ドンパチやるぞ。礼節守ってたくましく、凛々しく可憐に戦争だ。そんな戦争ある筈ないが、戦車道にはそれがある。根性とか気合とか基本嫌いなんだが、そんなもんなくったって戦車道はやれる。私がいい見本だ。こんな陰キャだって戦車道を楽しんでるんだぜ。だから青春してみたいって思ったら、戦車道がオススメだ。ひょっとしたらモテるかもしんないぞ。

 え? 私? モテてるかって? うっせーなぁーっ、八十八ミリ砲(アハト・アハト)ぶちこむぞコノヤロー! ほらほら走れ、一時半の方角に向かって戦車前進(パンツァー・フォー)だ! あ……〈一時半の方角〉ってのは要するに〈昼メシどき〉って意味で、だから今言ったのは「メシ食うから食堂行くぞ」って意味なんだけど……ちょっとしたシャレっていうか、こう、分かる人にだけ分かるジョークみたいな……えーっと、まあ、そのー……。

 

おしまい✿



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