月の魔物の伝説 (愛崩兎)
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プロローグ
プロローグ


 不気味に灰色な世界で、僕はゆったりと死んでゆく。

 アスファルトに倒れ伏した僕は、もはや立ち上がる事すらできず、ただただ緩慢に死すべき時を待つのみだった。

 

 過労によりぼろぼろになった身体は、とうに限界を越していた。それに気づいていながらも、しかし僕は働き続けた。そうしなければ生き残れないからだ。

 

 汚染された世界、果てなき空さえも分厚い雲に常に覆われ、自然という自然が失われたこの世界で生きるには、高額な人工臓器を購入する必要があり、それも定期的に取り替えなければならない。故にこそ金が必要で、金のためには、死ぬほど働かなければならない。

 

 下層階級が、寿命で死ぬのは難しい。皆、過労やそれに伴う病気、あるいは貧困により死んでゆく。

 そして僕も、そんな下層階級に位置する人間の一人だ。故に僕が過労で死ぬのも、当然の事と言える。

 

 道行く人々は、僕を見ては目をそらす。誰も僕を助けようとしない。当然だ。僕を助ける事に時間を割けば、上司からの心証が悪くなり職を失う。職を失えば、待つのは死だ。自分の命よりも重いものはない。僕を見捨てるのは、生物として正しい。

 

 それでも僕は諦めがつかず、助けを求めるため声を出そうとする。

 しかし、口の端から漏れ出るのは、喘ぎ声にも似た呼吸音だけ。

 僕の身体はもはや、満足に声を出す事すらできないらしい。

 

 誰か助けてくれ、と祈るものの、祈りは届かず。人々は僕を避けて歩き続ける。その姿は機械的でもあり、奇妙に人間的でもあった。

 

 死への坂を転がり落ちる僕の心に浮かぶのは、一つの後悔。

 

 DMMOのひとつ、YGGDRASIL、高い知名度を誇り、高すぎる自由度とクリエイト要素によって爆発的な人気を博したゲーム。

 僕はそのゲームにはまり込んでいた。

 不自由に縛られた僕の人生の中で、唯一自由を得られた場所だったが故に。

 

 いつの間にか友人と呼べる人間も得て、その友人たちのいるギルドに参加し、得られなかった青春の時をゲームの中で過ごした。

 

 もっと遊んでいたかった。

 

 それこそが僕の後悔。

 

 ユグドラシルが始まって八年。ユグドラシルは他の新たなゲームに押されてなお、未だ人気を誇り、活気があった。

 

 せめてユグドラシルがサービス終了するまでは生きていたかった。

 

 もっと冒険がしたかった。四十の仲間とともに、九つのワールドを隅々まで踏破したかった。まだ見ぬダンジョンを攻略したかった。もっと馬鹿をやりたかった。阿呆をやって笑いあいたかった。

 

 それはもはや叶わぬ夢。

 

 僕は今、黄泉比良坂を越えようとしている。

 

 じわじわと寒さを感じる。血流が滞る。心臓の鼓動が弱くなっている。

 ああ、寒い。魂が体から剥がれていく。

 心臓が杭を打たれたように痛い。頭がぼんやりする。視界が霞み、走馬灯が駆け巡る。

 体が鉛の様に重い。それに反して意識はふわふわと軽く、今にも飛び立ちそうだ。

 

 ひときわ強い激痛が全身に走り、僕の心臓の鼓動が止まったのを感じる。

 血流が止まり、脳が軋み、そして、僕の命は失われた。

 

 ああ、これで自由になれるのだ。

 

***

 

 僕が思い出すのは、数日前の最後のユグドラシルの記憶。

 

 ギルドの拠点である大墳墓の奥。僕の自室。

 ゴシック風の、どこか奇妙な角度によって構成された、家具や調度品に彩られた、幻想的なその部屋にて。

 

 暖炉の前にあるテーブルと、それを挟む様に置かれたソファに、僕と、向かい合う様にもう一人が腰かけていた。

 

 部屋の家具たちは、僕のアバターの大きさに合わせてどれも巨大であるがためにソファも相応に大きい。それに腰掛けているもう一人は人間サイズであり、故に子供が大きな椅子に座る様な、奇妙なアンバランスさを醸し出していた。

 

 僕の対面に座るもう一人の姿は骸骨。

 豪華な紫と金に縁取られたローブと巨大な赤い宝玉のついた肩当を身につけ、十指に九つの指輪をはめた姿はまさに万物に死を与える死の支配者。

 魔法詠唱者の最高峰に位置するオーバーロードたるその骸骨は、しかし恐ろしい見た目に似合わず、明るく丁寧な口調で僕に喋りかけた。

 

「クルーシュチャさん、明日からログインできないとのことでしたが、何かあったんですか?」

「いや、単純に現実世界での仕事が忙しくなりすぎるというだけだ。全く嫌になる」

 

 骸骨の丁寧な口調に対し、僕の口調はやや乱暴だ。しかしそれが僕のロールプレイの一環であると知っている彼は、それに機嫌を悪くすることもない。

 

 ちなみにクルーシュチャというのは僕のユグドラシルにおいての名前だ。適当につけた名前ではあるが、今では結構気に入っていた。

 

「ああ、お仕事でしたか。大変ですよね。ヘロヘロさんなんかも今デスマーチでログインできないみたいですし」

「ああ、彼もまた現世のしがらみが強い者だからな。……すべてを投げ出してこの幸福な夢にすべてを委ねたくなるよ」

「それができたら一番いいんですけどね」

 

 僕は机の上に置かれた紅茶の入ったカップを口元へ運んだ。仮想世界の食物に味はなく、紅茶を飲む意味など全くないのだが、しかし気分を味わうために、僕は紅茶を一口飲んだ。

 予想通り紅茶には味も何もなく、虚しさだけが僕の心に広がった。

 

「こんな話はやめよう。この夢の中でくらい、現実のことは忘れたい。……今日は何を狩るんだ?」

 

 僕はロールプレイの一環で、ゲームの世界のことを夢と呼んでいた。

 

「今日はムスペルヘイムで炎の巨人狩りですよ。先週から決まってましたからね」

「ああ、先週の会議で決まったんだったな。我がギルドの誇る最高戦力たるワールドチャンピオンとワールドディザスターが喧嘩をして大変だった」

 

 皮肉気に「ははは」と笑う僕に、骸骨も笑顔アイコンを連打する。

 

「さて、そろそろ狩りに出向くとしよう」

「そうですね、みんなももう準備が終わる頃でしょうし」

 

 僕たちはそう言って立ち上がり、部屋を出て歩き出した。

 

「ナザリック最高峰のDPS、期待してますよ」

「僕は炎が弱点なんだがな」

 

 僕たちは笑いながら、狩りへと向かった。

 

 ああ、たった数日前のことなのに、酷く昔のことに感じる。

 

 これはもはや叶わぬ夢。あそこにはもう戻れない。なぜなら僕は死んだのだから。

 

 現実の僕は死に、夢は叶わない。

 

 だがしかし、許されるならば。

 

 夢と現実が入れ替わればいいのに。

 

 そう願わずにはいられなかった。

 

 そして僕の意識はその願いを最後にして失われ、溶けてどろどろ。闇へと消えた。

 



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百年前編
第一話 異世界転移とそれに伴う歓喜について


 

 暗闇に揺蕩う意識が、徐々に浮上する。それは眠りから覚める様な心地よさと、わずかな億劫さがあった。

 

 意識が完全に浮上し、ぼんやりとながら覚醒した。意識の覚醒とともに、目が開く。

 開かれた目に映るのは、満天の星空。幾億の星々が浮かぶ、無限の宇宙。底知れぬ広がりを見せる空は、現実では決して見ることができない絶景であり、名状し難い感動を僕に与えた。

 

 僕は仰向けに寝転んでいた様で、体を起こせば、目に映る景色も変わった。

 周囲に広がるのは、雄大な草原。名も知らぬ草たちの絨毯。遮るものなく広がる草原は、風に靡いて不規則な文様を描いていた。

 これもまた現実では見られぬ、失われた光景であり、僕の心を震わせた。

 

 まるで天国の様な景色に包まれ、感動に打ち震える僕は、しかし唐突に一つの現実を思い出した。

 

 耐え難い苦悶。心臓に走る激痛。鉛のように重くなる体。

 そして、心臓が止まる瞬間。

 それらの記憶が脳を駆け巡る。

 

 僕は死んだはずではなかったか?

 

 急速に、感動に打ち震えていた心が冷えて行く。

 

 僕はつい先ほど、耐え難い苦痛とともに命を手放したはずだ。心臓が止まった瞬間というものをしっかりと体験したし、僕の命は確かに失われた。

 だというのに僕は今こうして意識がある。

 わけがわからない。自分はなぜ生きている?

 

 次に、ここはどこか?

 

 アーコロジーのなかでさえ、満天の星空と雄大に広がる草原なんてものはない。ましてや僕の様な下層階級に位置する人間が、自然に触れられるわけがない。

 ならばここはどこか? 地球上にはもはや、この様な自然など存在しないはずだ。まさか死後の世界などとでもいうつもりなのだろうか?

 

 意味不明な現在の状況についていけない。僕は一体どうなったのだ?

 

 思考に行き詰まり、頭を掻くために手を持ち上げて、今度こそ僕は凍りついた。

 

 僕の手であるはずのそれは、異形の手だった。

 奇怪に節榑立った細長い五本の指と、骨張った手のひらは黒い皮膚に覆われ、指先からは異様な角度によって構成された鋭い鉤爪が生えていた。

 五指にはそれぞれ豪奢な指輪がはまっている。

 

『なんだこれは!?』

 

 喉の奥より出る声もまた異形。おぞましき外宇宙の声。僕の声は万物を嘲笑するような異形の怪異の声だった。

 その声に驚き、思わず口を押さえる。

 

 筆舌に尽くし難い不安に襲われた僕は、雨が降っていたのか近くにあった大きな水たまりに自分を映す。

 

 そこにあったのは異形の怪物だった。

 

 万物を嘲笑する様な、歪に捻じくれた穴だらけの仮面の様な貌。頭部から無数に生える、ぬらめく黒に赤いラインの入った奇妙な触手。四肢は狂った人骨じみて、歪な獣の様に細長い。えぐれた様な胸は、鋭い肋骨がむき出しになり、冒涜的な恐怖を醸し出していた。腹は完全に肉がこそげ落ち、わずかな血肉と、皮膚がこびりついた背骨のみによって構成されている。尾のように揺れるのは、腰から生えた触手。

 その姿はまさに偉大なる上位者。這い寄る混沌。無貌の神。大いなる使者。月に吠ゆるもの。

 

 その姿は、僕のユグドラシルにおいてのアバター、〈クルーシュチャ〉のものだった。

 

***

 

 僕の姿は今クルーシュチャのものになっている。ということはつまりここはユグドラシルの中なのか? という疑問が、僕の脳裏によぎる。

 

 それが事実であるとして、僕はログアウトするために、コンソールを呼び出そうとする。しかし、コンソールは一向に呼び出されず、ログアウトもできない。

 システムの強制終了や、GMコールなどを試してみるものの、どれも効果はなく、ただ虚しさのみが広がった。

 

 ここがユグドラシルの中と仮定して、それが事実ならばアイテムボックスを使用できるか試してみることにした。

 アイテムボックスを開くように虚空に手を伸ばすと、水面に沈むように手が消えた。驚きつつもその手を横にスライドすると、ユグドラシルのアイテムボックスに限りなく近いものが空中に浮かび上がった。

 

 仕様変更、というには少し過ぎたものを感じる。まるでゲームが現実になったようだ。

 

 考えつつもアイテムボックスから、店売りの串焼きを取り出してみる。肉と玉ねぎ、パプリカが交互に刺してある美味しそうな見た目だ。鼻腔をくすぐる焼けた肉の香りが食欲を刺激する。

 

 香り?

 

 そう、香りである。DMMOにおいて、五感のうち、味覚と嗅覚は厳しく制限される。それは技術的な問題はもちろん、例えば現実においての空腹をDMMO内での食事によって紛らわせてしまい、現実での食事をとったと脳が勘違いして餓死するといったことを防ぐために法律でも厳しく制限されている。

 

 であるというのに、右手に持つ串焼きからはいい香りが漂ってくる。

 

 これは絶対にありえないことだ。

 

 恐る恐る口に含めば、肉の程よい歯ごたえと、野菜のしゃきしゃきした食感。溢れる肉汁と塩味の調和が口の中に広がった。

 

 嗅覚に続いて、味覚までもが。

 

 ここは現実なのだろうか?

 

 だが、だとすればアイテムボックスや自分の容姿はどうなる?

 

 言い知れぬ恐怖から逃げるように、僕は検証を続ける。

 

 ここがユグドラシル、あるいはそれに類する何かならば、スキルが使えなくては困る。

 ここは見た所街でもなんでもない。つまり、非安全地帯ということだ。それはモンスターが襲ってくる可能性があることを示す。

 

 モンスターに襲われた際に、スキルが使えなくては困る。何もできずに死亡する可能性がある。

 ここがユグドラシルの中ならば拠点に復活できるが、しかしここがユグドラシルでないとすれば、復活できる確証はない。

 

 周囲にどの程度の危険があるかわからない以上スキルが発動できるかどうかは死活問題だ。

 

 僕のビルドは近距離火力兼遊撃型。転移と時間操作を使い、大火力を確実にヒットさせていくスタイルだ。サイオニクスによる小技も使えるが、基本は転移して火力をぶちかまして逃げるのが僕の戦法。アインズ・ウール・ゴウンでも、最上位に近いDPSを誇った自慢のビルドだ。

 特に転移と時間操作が使えなくなっていると痛い。それらこそが僕の戦法の要になっているからだ。

 

 僕は実験のため、一つのスキルを発動する。

 まず最初に転移系スキルや時間操作系スキルを発動しようかとも思ったがそれらに致命的な変化が起こっていた場合、下手をすれば転移して「いしのなかにいる」なんてことになりかねないため、別のスキルから使うことにした。

 

『〈武装血刀〉』

 

 スキルを発動した瞬間、手のひらから血が抜ける感覚と共に鮮血が沸き立つ。

 それは流れ落ちることなく手のひらの上で奇怪に蠢いて、徐々に何かを形作る。

 冒涜的な血液の蠢きがおさまれば、そこには一本の、鮮血によって形作られたナイフが創造されていた。

 

 その結果に、僕は驚愕に目を開く。

 

 武装血刀は、その名の通り血によって武装を作るスキルだ。僕の修める職業、〈鮮血の狩人/ブラッドハンター〉のスキルであり少量のHPを対価に、派手なエフェクトと共に瞬間的に鮮血でできた武器が出現する。本来ならば低レベルの武器しか作ることはできないが、僕の修める職業、〈死血喰らい/ブラッドイーター〉や〈流血の主/ロード・オブ・ブラッド〉などのスキルによって強化されたこのスキルでは、なんと伝説級(レジェンド)に匹敵する武器を作ることができる。

 

 ともかくそんなスキルだったのだが、しかしたった今発動したところ、まるで違う結果になった。

 

 血の抜けていくリアルな感覚と、血が蠢くありえざるエフェクト。

 それらはどちらもユグドラシルでは存在しなかった要素だ。

 

 特に、血が抜けていく感覚についてはありえないと断言できる。

 

 DMMOに置いては、痛みやそれに類する感覚に厳しい制限がつけられている。

 これは技術的な問題はもちろん、法的にも痛みについては厳しい制限がある。

 現実の痛みや肉体の異常を、ゲーム内の異常であると勘違いさせないためだ。

 

 そこまで考えて、まさかと思い自分の触手を引っ掻いてみた。

 その結果、ピリピリとした痛みが走る。

 

 自分の触手にまで感覚がある。

 

 試しに動かそうとしてみれば、名状しがたい感覚と共に、触手が自由自在に動いた。

 

 これもまたありえないことだ。

 

 DMMOで、本来の人間にはない器官、つまり、僕の触手などを自由に動かすのは、非常に難しい。一部のエスパーなんて呼ばれるような人間が、自由自在に動かすことができるらしいと聞いたことはある。そのエスパーも、その本来の人間にはない器官で感覚まで感じることはできない。

 

 ここがDMMOの中という線はいよいよなくなりつつあり、ここが現実世界に近いなんらかの世界であるのではないかという不安が押し寄せる。

 

 ここが現実に近い世界だとして、僕はどうなる?

 

 ふと、死の恐怖がぶり返す。

 恐ろしい、自らの命がこぼれ落ちていく感覚。

 

 死ぬことだけは避けなくてはならない。

 この世界で死んで、生き返れる保証などどこにもないのだから。

 

 情報が必要だ。

 

 ここがいかなる世界であるにせよ、情報がなければなにもできない。

 

 まずは戦闘能力、つまり自分についての情報確認。

 

 武器を作るスキルは正常に作動したが、戦闘系スキルはどうか?

 

 僕は虚空に向けて、ナイフを持っていない方の手を伸ばし、〈上位者の先触れ〉というスキルを発動した。

 

 伸ばした手の先から、ごく小規模な宇宙へのつながりが開く。

 開かれた繋がりから、偉大なる上位者、狂おしき旧支配者の欠片が出現する。

 それは太く、うねる無数の触手。

 勢いよく飛び出した無数の触手は、絡みつくように虚空を穿ち、そして再び宇宙への繋がりを通して戻っていった。

 

 こちらのスキルも正常に使えたようだ。

 宇宙への小規模なつながりの感覚や、触手のリアルさが大幅に変わっていたが、スキルの根本的な部分は変わっていない。

 

 上位者の先触れは、僕の種族、〈星界からの使者〉のスキルであり、敵対者にダメージと共に強力な吹き飛ばし、確率で朦朧化を与えるスキルだ。ダメージは高いが、朦朧化の成功率はそこまででもない。

 

 今、発動した感覚によれば、正常に敵を吹き飛ばすことができる威力を感じた。朦朧化もおそらくは大丈夫だろう。

 

 ナイフを持って軽く体を動かしてみるが、なんの問題もない。むしろ以前より触手などを自由に使える分戦闘の幅が広がったかもしれない。

 

 次に転移系のスキルを発動したが、これも感覚が変わっている以外に、特に問題はなかった。

 

 検証したのは一部のスキルだけだが、とりあえずどのスキルも問題なく使えそうだ。

 この調子ならば、すべてのスキルが問題なく使えると仮定してもいいだろう。

 

 さて、問題は周辺についてである。この近辺が一体どういう場所でどんな脅威があるのかを知らねばならない。

 

 しかしそれを自分で調べるのはあまりにリスクが高い。

 

 ゆえにこそ僕は一つのスキルを発動させる。

 

『〈眷属招来/菌甲虫(ミ=ゴ)〉』

 

 このスキルは自らの眷属たるモンスターを呼び出すスキル。これによって呼び出した眷属に周囲を探索させようという作戦だ。

 

 そのスキルが発動した瞬間、虚空より何者かが出現する。

 

 それは外宇宙に揺蕩うおぞましき怪異の招来。狂おしきユゴスより呼び出されたそれは、時空を超え、這いずるように出現した。

 

 ユグドラシル時代には、あまり洒落ているとは言い難いエフェクトともに一瞬で出現していた。虚空から這い出るように出現するなんてことはなかった。これはやはり現実化によって変異している可能性が高い。

 

 出現したそれは草原を踏むことなく宙に浮く。

 その姿はおぞましき怪物。

 それは1.5メートルほどの体高で、その体は気味が悪い薄赤色のキチン質の甲殻に包まれている。それは鉤爪のついた足を多数持ち、一対の鋏状の手を揺らしながら、蝙蝠のような不快な翼で宙に浮いている。そしてそれの顔は、ありえざる超常の菌類のよう。渦巻く文様と奇怪な触覚によって構成された常に色を変える冒涜的なその顔はまさに怪異。

 不気味に佇むその姿は、ユグドラシル時代を鼻で笑うほどに現実的な恐怖であり、おぞましく発狂するリアリティがそこにあった。

 

 そんな凄まじい光景を見て、僕の心に浮かぶのは歓喜だった。

 

 僕はクトゥルフ神話が大好きだった。愛してると言ってもいい。僕がユグドラシルを始めたのも、三次元世界でクトゥルフのモンスターたちを見たかったからに他ならない。

 しかし僕はユグドラシルのクトゥルフ系モンスターたちを実際に見て、わずかな落胆があった。

 それはリアルであるからこそのリアルさの欠如。

 しかし、もちろんユグドラシルは当時最新のゲームであり、グラフィックは最高峰。僕が良くプレイする、百年前のゲームなんかとは比べ物にならないほどにリアルだ。

 けれども、僕にとってユグドラシルのクトゥルフ系モンスターたちは、リアルには映らなかった。

 

 クトゥルフの怪異は、もっとおぞましいはずだ! もっと恐ろしいはずだ! もっともっと! 狂気的であるはずだ!!

 目の前に現実のクトゥルフ的な怪異がいるのに、僕は発狂しない。本来なら、正気を保つことはできず、その意識は混沌にとらわれ永劫を彷徨うことになるはずなのに!

 

 そんな感情が、僕の心を支配した。リアルであるからこそのリアルさの欠如は、僕にどうしようもないもどかしさを感じさせた。

 

 だからこそ僕はユグドラシルにのめり込んだ。完璧なクトゥルフの世界、完璧な狂気を再現するために。

 

 仲間たちと手に入れた、地下大墳墓。莫大な課金と、時間を費やして作った、全十階層の墳墓。その第六階層の一部を借りて作った領域『悪夢』。

 古今東西のありとあらゆるホラー作品。現代に至るまでのクトゥルフ神話やそれにあやかる作品群。それらを徹底的に調べ尽くして参考にした、クトゥルフ神話とゴシックホラーを融合させた、新たなる発狂する外宇宙。

 そここそが僕の理想の地。仲間たちとともに築いた、クトゥルフ神話の世界。

 しかしそれも、完璧に納得のいくものではなかった。

 

 だが、今ならば?

 

 目の前のミ=ゴは、ありえざる超常の狂気を発している。

 これならば、この現実となった世界ならば!

 あの遠き理想郷は現実のものとなり、真のクトゥルフの世界がそこにあるのではないか!?

 

 ああ! 叶うならばあそこに帰りたい! 仲間たちと、アインズ・ウール・ゴウンとともに作り上げた、ナザリック地下大墳墓に!!



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第二話 情報収集と人助けについて

 至高の芸術へのトリップからしばらく。

 

 臨界に達した興奮がなぜか唐突に落ち着いた僕は、とりあえず情報収集の続きをすることにした。

 

 まず、召喚したモンスターとはなんらかの精神的繋がりがあるようで、その精神的な繋がりを通して、名状しがたい忠誠心とも信仰心とも思える感情が送られてきている。

 

 そして、僕はこの世界がユグドラシルではないことをほぼ確信した。ここはおそらくユグドラシルに近く、しかし限りなく遠い現実の世界なのだろう。

 そもそも、一度死んだ僕がユグドラシルにログインできるわけがないのだ。

 それに、このおぞましき幻想の具現たるミ=ゴをみれば、ここが電子の世界でないことは一目瞭然だ。

 

 とりあえずここがユグドラシルでないことは確定として、しかし僕という存在、そしてミ=ゴという召喚モンスターの存在から、ユグドラシルの法則がある程度通用する世界であることは確かであり、故に周囲に危険がある可能性は高い。

 

 ユグドラシルの法則を自由に使えるのが、僕だけの特権と思わないほうがいいだろう。

 

 野生動物の代わりに、レベル90を超すモンスターが闊歩しているという可能性もある。

 

 僕は続けざまにミ=ゴを数体召喚し、さらに別種のモンスターも召喚する。

 

『〈眷属招来/星の精(スターヴァンパイア)〉』

 

 スターヴァンパイア。それは不可視の吸血鬼。外宇宙の彼方より来たる怪異。

 それは声帯を持たぬというのに、どこからかクスクスという鈴の音のような笑い声をあげながら、虚空より出現した。

 本来ならば不可視のはずのその姿は、僕の看破技能によって看破され、その姿を僕の目だけに晒していた。

 それはゼリー状の球体のような奇妙な体から、地球上の生物にはありえない無数の触手のような吸入口が生える、巨大な鳥のような凶暴な鉤爪を持った神話的生物。

 

 出現したスターヴァンパイアとも、なんらかの精神的繋がりがあり、そこから忠誠心にも似た何かを感じる。

 

 僕はスターヴァンパイアにもしっかりと忠誠心が確認出来たことに安堵した。

 

 ミ=ゴから忠誠心を感じた時点で不安視していたのが、召喚モンスターの反逆だ。

 ユグドラシル時代にはありえなかったことだが、しかしここは現実と化した世界。何があるかはわからない。

 

 召喚モンスターにも意思らしきものがある以上、叛逆してくるモンスターもいる可能性があるかもしれないとも思ったが、ミ=ゴ、スターヴァンパイア共に絶対的な忠誠心と、僕からの支配力を感じる。それは召喚モンスターが絶対に裏切らないと確信できるほどの絶対的な主従関係であるがために、僕に安心をもたらした。

 

 この調子なら、召喚したモンスターとは全てこのような主従関係があるとみていいだろう。

 

 僕は早速召喚したモンスター達に命令を下す。

 この周辺を調べ、周囲の地形、脅威の有無、知的存在の有無を確かめよ、と。

 

 僕の命令を受けて、ミ=ゴとスターヴァンパイアはすぐさま飛び立つ。

 

 ミ=ゴもスターヴァンパイアも飛行能力を持つ点では共通だが、しかしその実態はまるで異なる。

 

 ミ=ゴがレベル28程度なのに対して、スターヴァンパイアは42レベル。

 

 これは僕からは弱すぎて、どちらもそう変わらない程度のレベル差だが、スターヴァンパイアのとある特殊能力がミ=ゴとの決定的な差異を作る。

 

 その特殊能力とは不可視化。

 

 ミ=ゴがその姿をいかなる存在に対しても晒すのに対し、スターヴァンパイアは不可視化を看破できる相手にしか姿を見せることはない。

 

 故に、攻撃的なモンスターがいた場合、ミ=ゴのみを襲うか、スターヴァンパイアをも襲うかによって、相手の看破技能のレベルをある程度はかることができる。

 

 故にこその人選。否、モンスター選だった。

 

***

 

 長時間にわたる調査の結果、少なくともこの周囲には脅威らしい脅威が存在しないことが判明し、召喚したモンスターたちは召喚時間が過ぎて消えていった。

 

 スターヴァンパイアの調査技能はそれなりに高く、精度はそれなりに信用できるレベルだと思われる。

 

 そして周囲の地形についてもある程度わかった。

 

 まず大まかに、北の方角に巨大な山脈があり、その終わりあたりから大きな森林が広がっている。そして南に下ると僕がいる草原へとつながる。さらに南に行けばやや西よりに人間の都市らしき場所があり、その先には西側に山脈、東側に霧に覆われた平原があった。

 

 東西にはそれぞれ人間の国らしきものがあり、南にあった都市及び人間の国ではミ=ゴが低レベルの攻撃を受けた(なんのエンチャントもついていない弓矢で射られるなど)が、スターヴァンパイアに気づいた様子はなかった。

 

 脅威らしい脅威は、森林の中に眠っていたレベル80程度のトレント系モンスターのみであり、それ以外に僕を脅かす存在はいなかった。

 

 総じて脅威度は低く、とりあえずのところは安全と言っていいだろう。

 

 さて、これからどうするべきか。

 

 とりあえず一番近い南西に見つけた人間の都市に身を寄せたいところである。

 

 僕は今は怪物の姿をしているが、立派な人間だ。人の都市で暮らしたい。

 

 しかし僕の姿は異形の怪物であり、ユグドラシルでは人間の都市の多くは異業種の侵入は不可だった。

 パッと見たところ人間の都市には人間種しかいなかったように思える。

 ユグドラシルの法則が生きているにせよ生きていないにせよ人間しかいない街に異業種が入ることは難しいだろう。

 ユグドラシルの法則が生きていたとすればそもそも入れないし、生きていなかったとしても化け物として討伐対象になる可能性がある。

 

 ならば人間の都市に身を寄せるのは不可能なのかといえば、それは否だ。

 

 僕は一つのスキルを発動させる。

 

『〈千の貌/第三の貌・人間〉』

 

 その瞬間、僕の全身が変容する。

 細胞の一つ一つが変質していく。

 ぶくぶくと、僕の全身が泡立つ。どろどろと肉が溶け、ぎしぎしと骨が変形する。それは混沌の発露。互いに喰らいあう肉塊。醜悪な変異。

 全身が収縮する。巨大な体はずるずると内へ内へ縮み、人間に近い大きさへ圧縮される。

 歪な獣のような細長い四肢は、華奢で美しいすらりとした人間の少年の四肢へ。むき出しの肋骨や、骨だけの腹は、美麗な滑らかな肌に覆われ、適度に筋肉がつき、スレンダーで扇情的な少年の体を作る。腰や頭の触手は体内に収納され、代わりに頭部からは絹糸のようになめらかな烏の濡れ羽色の腰まで届く長髪が生える。赤と黒に彩られたおぞましい皮は、絹のように艶かしい白磁の肌へ。そして最後にねじくれた仮面のようだった顔面は、絶世のという言葉すら足りないほどの美少年の貌になり、その顔は妖艶な笑みを形作る。

 

「うまくいったようだな」

 

 僕は満足気に頷く。

 

 〈千の貌〉は、職業である〈アヴァター・オブ・ナイアルラトホテップ〉のスキルだ。

 このスキルは、能力値に対する絶大なペナルティを負うことと、強力なスキルが封印される代わりに、自分を別の種族へと変身させることができるスキル。

 この変身では、一時的にだが種族が完全に変身対象——今回の場合は人間になるため、たとえ鑑定技能や看破技能によって観察されようと、人間としか判定されない。それどころか、人間種限定しか入れない街に堂々と侵入できたり、人間種限定の武器を装備することができたりする究極的な偽装スキルだ。

 このスキルで変身できるのは千の貌という名前に反して六種類まで。その六種類は、自分で選択することができるが、自分が倒したことのある種族にしか変身できない。

 反則的なスキルではあるが、能力値ペナルティが重すぎること、スキルが封印されてしまうことなどから、80レベルの人間種程度まで能力が落ち込んでしまう。

 うまい話には裏があるということだ。

 

 しかしそれでも便利さにおいては破格であり、このスキルを利用して仲間とともに一つの小さなギルドを崩壊させたこともあるほどだった。

 

 そんなスキルを発動させ、人間種になった僕は、しかし全裸である。

 身につけているのは指輪だけ。このままでは紛うことなき変態である。

 

 僕はアイテムボックスから装備を取り出す。それは仲間とともに作り出した思い出のアイテムだ。

 血を払う短いマントと、長いコート、いくつものベルトのついたインナーがセットになった装束、朽ちた飾り羽のついた帽子、手甲のついた手袋、丈夫なズボン、鉄甲のついたブーツによって構成された闇夜に紛れる暗色の装備である。

 それらは地味な見た目ではあるが、濃厚な魔力のオーラをまとっていた。

 それも当然だ。地味な見た目に反して、これらの装備は全て神器級(ゴッズ)アイテムである。

 

 仲間からはもっと派手にしろと言われたが、しかし僕の場合はこれらの装備を装備するのは潜入時のみであり、故に闇夜に紛れるこの見た目こそがふさわしいと思う。

 

 そして武器を取り出そうとして、ふと気づく。これでは目立ちすぎるのではないか?

 

 ミ=ゴに攻撃を仕掛けてきたのは低レベルすぎる存在だった。

 魔力も何もこもっていない単なる弓矢や、低位階の魔法などが主な攻撃であったことを鑑みれば、ゴッズアイテムは少し上質過ぎているかもしれない。

 

 僕はしばし悩んで、しかし防御面をおろそかにするのは嫌だったので、防具の魔力を秘匿するネックレスを首から下げることにした。

 

 これで僕の防具は余程の看破技能がない限り、ゴッズアイテムとはバレないはずだ。

 

 僕は本来の武器、仲間とともに作り上げた最強の武器では無く聖遺物級(レリック)の獣肉断ちという武器を装備することにした。

 

 本来ならば武器もゴッズである最強装備がいいのだが、武器の魔力を秘匿する装備は持っていない。仕方がないのでとりあえずはレリックを装備しておくことにする。

 

 獣肉断ちは仕掛け武器と呼ばれる武器種であり、変形機構を持つ。変形前は重い鉈として使用でき、変形後は、刃がいくつかの節に分かれ、鎖で繋がれた鞭か蛇腹剣のような、異質な形態へと変化する武器だ。

 

 僕はそれを握って、数度振り回し感触を確かめた。

 使い慣れてはいない武器だが、以外としっくりくる。

 

 僕は満足して、都市へ向けて歩き始めた。

 

***

 

「誰かぁ! 助けて!」

 

 しばらく都市へ向けて歩いていると、どこからか助けを呼ぶ声が聞こえた。

 

 それはかなり切羽詰まった声であり、今まさに危機的状況にあることを予測させる声だった。

 

 僕はその声を聞いて、反射的に助けに走ろうとして、立ち止まる。

 

 ここで助けに行けばどうなる?

 

 戦闘になる可能性は高いだろう。

 戦闘になったとすれば、無論死ぬ可能性がある。

 

 都市でのミ=ゴへの攻撃を鑑みれば、敵が弱い可能性は十分ある。しかし、都市の水準だけを見てこの世界すべての戦闘力を知った気になるのは馬鹿のすることだ。

 

 敵が100レベルである可能性も十分に考えられる。

 あるいは、100レベルを超す強者が、この世界にいる可能性もある。

 

 僕は100レベルプレイヤーの中では、それなりに強い方であると自負しているが、しかしそれでもガチビルド中のガチビルドには勝てないだろう。

 負ければ死ぬ。

 そして死んで、復活できる確証はないのだ。この世界はユグドラシルとは違う。

 

 助けを呼ぶ声は近い。

 相手が100レベルであるとしたら、広範囲攻撃に巻き込まれる可能性もある。

 逃げるのならば早い方がいいだろう。

 

 僕は一瞬悩んで、しかし声のする方へと向き直った。

 

 僕の、現実世界での糞以下の人生によって擦り切れたはずの人間性の残留が叫ぶのだ。

 誰かを見捨てたくない、と。

 

 それはかつての記憶に由来する人間性の発露。

 かつて、異業種であるというだけでリスポーンキルまで受けていた僕に差し伸べられた、骨だけの手の記憶が、僕の人間性を呼び覚ました。

 

 かつて救ってくれたモモンガさんに顔向けできるようにしなければ。

 

 それに万が一、僕が敵いそうにない相手だった場合は、逃げてくればいい。

 

 そう考え、僕はスキルを使用する。

 

「〈空間圧縮〉」

 

 このスキルは、空間それそのものを圧縮することにより、擬似的な短距離転移を行うスキルだ。このスキルの優れた点は、目視できる範囲の直線上に最大100メートルしか転移できないが、効果時間内ならば何度でも転移できる点である。

 

 僕はそのスキルを使い、数度擬似的な転移をして、現場に駆けつけた。

 

***

 

 ローランド・オックスは焦っていた。

 

 ローランドは竜王国の金級の冒険者チーム〈灰の狼〉のリーダーであり、依頼を受けて、別のチームとともに商人の護衛をしていた。

 護衛対象である商人の馬車たちとともに、帝国を通って、王国まであと一歩というところで盗賊に襲われた。

 

 盗賊たちは汚らしい装備に身を包んでおり、しかし下賤な見た目に反して手練れのようで、罠で馬を停止させると、瞬く間に十数人で馬車を包囲した。

 ローランドは逃げるのは無理だと判断し、戦闘に持ち込んだ。

 しかし、戦闘に持ち込んだはいいが、戦闘面においても彼らはかなりやるようで、数の差もあってかローランド含め八人いた護衛は四人にまで減っていた。

 相手の数もそれなりに減らすことはできたが、四人の死と釣り合うほどかといえばそうではない。

 

 轟音とともに振るわれる、盗賊の一人が持つ斧がローランドを襲う。

 ローランドはそれを手に持った剣でいなし、反撃の一撃を加えようとするが、横合いから別の盗賊が剣で切り掛かってくる。

 ローランドはそれをすんでのところでかわし、一息つく。

 

 敵は未だ多く、こちらの戦力はかなり減った。馬車を守るのも限界に近い。

 

 これは死んだか?

 

 ローランドの心に諦めの念が浮かびかける。

 このままではジリ貧だ。八人で勝てなかったのに、四人にまで減って未だ数多い盗賊を倒すことなどできない。

 

 しかし諦めるわけにはいかない。死んでいった四人の中には、〈灰の狼〉のメンバーもいる。彼らのためにも、生き延びねばならない。

 

「はあっ!」

 

 掛け声とともに盗賊の一人へ切り掛かる。盗賊はそれを剣で受け、横から別の盗賊が斧で襲いかかってくる。ローランドは鍔迫り合いの相手である剣を持った盗賊を蹴り飛ばし、斧を持った盗賊に鋭い突きを放つが、横合いから突っ込んできたさらに別の盗賊に邪魔され、相手に怪我一つ追わせることができない。

 

 そしてローランドは突っ込んできた盗賊にバランスを崩され、地面に倒れた。

 

「ひひ、てこずらせやがって。死にやがれ!」

 

 地面に倒れたところを見逃す盗賊たちではなく、盗賊は口汚ない罵りとともに、ローランドに剣を振り下ろそうとして——

 

 ずんっ、という低い音とともに、今まさにローランドに剣を振り下ろそうとした盗賊の頭が消失した。

 

 頭を失った盗賊の体が崩れ落ちる。

 そして崩れ落ちた盗賊の後ろには、絶世の美少年がいた。

 

 すらりとした肢体を夜に紛れる質のいい装束に包んだ、この世のものとは思えぬ美しい少年だった。

 あるいはそれは少女かもしれないほどに美しかったが、しかしローランドはなんとなく少年であると思った。

 

 彼は風に靡く長い黒髪を軽く払い、口を開いた。

 

「手こずっているようだな、手を貸そう」

 

 麗しい声が夜に響く。その声は自身に満ち溢れており、確かな実力を感じさせた。

 

 声の主たる彼の手には、無骨な鉈が握られており、それには血糊が付着していた。おそらくそれによって盗賊の頭を消しとばしたのだろう。

 

「誰だ!? いや、誰でもいい! 助けてくれ!」

 

 ローランドは叫び、自らも立ち上がる。その間にローランドを殺そうとしていた盗賊たち数人は距離をとった。

 鉈を持つ少年は軽く頷き、鉈を軽く操作した後、全身を使い大きく振るう。それは盗賊たちへの攻撃としてはいささか距離が離れており、ローランドは目測を見誤ったのかと思いかけた。しかしその思考は即座に驚愕に塗りつぶされる。如何なる業か、鉈はいくつもの節に分かれ、その間が鎖で繋がれた、巨大で重い鞭のような姿に変形し、リーチを大きく伸ばして、離れた位置にいた数人の盗賊たちに襲いかかった。

 唸りを上げて振るわれる変形した鉈。重たい、視認することすらできぬ、暴風のごとく残虐な一撃。それは盗賊たちに吸い込まれるように命中し、そして盗賊たちを強かに打ち据え、叩き潰した。

 水の入った袋を破裂させたような音が辺りに響き、盗賊たちが爆散して醜い肉片へ変わる。

 地面に肉片が散らばり、流れ落ちた血が血溜まりを形成した。

 残った盗賊たちは唐突に無残な肉片へと変わった仲間たちを見て呆然とする。盗賊たちにとってその惨状はあまりにも非現実的で、受け入れ難かったのだろう。

 

「やはりレベル……低……」

 

 惨劇を生み出した少年は、何事かをつぶやく。その声は小さすぎて聞き取れず、しかしその声色からは、安堵と落胆がうかがえた。

 

 この少年は強い。

 

 ローランドは思う。

 しかもそれは武器の扱いが上手いとか、体さばきが巧みであるとか、そういった人間的な技術を超越したもっと単純な強さ。

 見たこともない武器であるが、金属製の重たい武器であることがわかる。

 そんな武器を軽々と振るい、盗賊たちを爆散させるなど、尋常な筋力ではない。

 人間が破裂するほどの威力を出すのに、どれほどの力がいるのか。ローランドはそれを考え、少年に対しわずかな恐怖を抱いた。

 

「な、何者なんだお前は!」

 

 盗賊の一人が声を荒げる。その声は焦りと恐怖に満ちており、ようやっと仲間が尋常ではない死に方をしたことを理解したようだった。

 

「僕の名前はクルーシュチャ。……しかし覚える必要はないとも。君たちはすぐに死ぬのだから」

 

 少年、クルーシュチャはそういうと、神速の踏み込みで持って別の冒険者と戦っていた盗賊たちに近づき、数人まとめて右手に持つ異質な武器によってなぎ払った。

 

 盗賊たちは慌てて各々の武器や盾で受けようとするが、受けたそばから武器や盾が紙屑のようにひしゃげる。防御はまるで意味をなさず、盗賊たちは地面をグロテスクに彩る肉片のデコレーションへと変わった。

 

 残り人数を大きく減らした盗賊たちは、ぶるりと身震いする。もしクルーシュチャがたった今肉片に変わった彼らではなく自分を選んでいれば、死んでいたのだ。

 そして盗賊たちは敵わぬと見たのか撤退を選ぶ。

 

「てめぇら! 逃げるぞ!」

 

 リーダーらしき汚らしい大男がそう叫ぶと、盗賊たちは一斉に走り出した。

 しかし、それを見逃すクルーシュチャではない。

 

 クルーシュチャは疾風のごとき速さで逃げる盗賊たちを追い越し、眼前に立ちはだかった。

 

「残念だが君たちを逃すわけにはいかない」

 

 クルーシュチャはそう言って、右手の武器を振るう。邪魔な虫を踏み潰すような冷たい感情を伴った、音速すら超える必殺の一撃は、盗賊たちを一人残らず叩き潰した。

 分け隔てなく与えられる圧倒的な暴力は、盗賊たちを冥府へと送り、その肉体を完膚なきまでに破壊する。

 地面に血肉が散らばり、クルーシュチャは満足げに頷いた。

 

「これで盗賊はいなくなった。安心してくれていい」

 

 再び変形し、鉈へと戻った右手の武器を軽く振るって血糊を落としながらクルーシュチャは言う。

 

「あ、ああ、感謝する」

 

 ローランドはわずかに声が震えた。クルーシュチャへの恐怖が抑えきれなかったのだ。

 しかし、恐怖の感情を向けられたクルーシュチャは気にした風もなく、頷く。

 

「気にするな、当然のことをしたまでだ。君、名前は?」

「ああ、ローランド・オックスだ。ローランドと呼んでくれ」

「そうか、ローランド。僕はクルーシュチャという。……ところで、すこし聞きたいことが——」

 

 言いかけたクルーシュチャを遮るように、馬車の一つの扉が開き、中から一人の女性が現れた。

 

「ローランドさん、盗賊たちは去ったのですか?」

 

 中から現れた女性は、二十代後半から三十代前半らしき年齢の、美しい女性だった。

 おそらく彼女こそが助けを求めた張本人なのだろう。

 

「はい、ヒッテリカさん。この方が助太刀してくれたおかげで、盗賊たちは皆死にました」

 

 ローランドがそう言ってクルーシュチャを指すと、女性はクルーシュチャの方を向いた。

 

「そうなのですか。この度は助けていただいてあがとうございます。私はアリア・ヒッテリカ。ヒッテリカ商会のオーナーをしているものです。このお礼は必ずさせていただきます」

 

 ローランドの雇い主たるアリアは、そう言って深々と頭を下げる。

 

「当然のことをしたまでだ。頭を上げてくれ」

 

 クルーシュチャがそういうと、アリアは頭をあげた。

 頭を上げたアリアに、クルーシュチャは自己紹介をしたあと、問う。

 

「……ヒッテリカさん、少し聞きたいことがあるのだが、いいかな?」

「構いませんが、何ですか?」

「『ユグドラシル』『プレイヤー』『NPC』『アーコロジー』この中でどれか一つにでも聞き覚えがある単語はあるか?」

「申し訳ありません。どれも聞いたことがないです」

「そうか。変なことを聞いて悪かったな……」

 

 クルーシュチャは申し訳なさそうにそう言った後、アリアに向き直り、再び口を開いた。

 

「これから君たちはどうするのかな?」

「当初の目的どおりエ・ランテルに向かいます。そのあとは再び護衛を雇って竜王国に帰ろうと思っています。私どもの本拠地は竜王国なので」

「僕も同行して構わないだろうか? エ・ランテルまでの臨時護衛として同行させてほしい」

「もちろん構いません。盗賊たちを倒してくれたあなたが護衛ならば安心できます。謝礼はどうしましょうか……」

「ああ、金銭ならば結構だ。その代わり欲しいものがある。謝礼としてならそれをいただけないか?」

「何がご入用なのですか?」

「大したものじゃない、ただ、この辺りの地域についての情報が欲しい。僕は旅人でね。遠方……そう、恐ろしく遠方から来たんだ。故にこの辺りの情報については疎い」

「そんなものでいいのなら喜んでお話しさせていただきます。移動しながらでも構いませんか?」

「ああ、構わない。よろしく頼む」

 

***

 

 悲鳴を聞きつけて現場にたどり着いた僕は拍子抜けした。

 

 現場では馬車を守る戦士たちと、それを襲う盗賊らしき汚らしい身なりの連中の戦闘が行われていた。

 ただ、その戦闘はあまりにお粗末なものだった。

 あまりにも遅い動きに加え、ほとんどアクティブなスキルが使われていない。

 

 さらに、戦闘している人間たちのレベルもあまりにも低い。

 僕の持つとあるスキルは、対象のレベルを漠然とだが把握できる。

 そのスキルによれば戦闘を繰り広げる人間たちは全員がレベル15以下。はっきり言って、雑魚以下だ。

 

 僕は即座に逃げるという選択肢を破棄し、戦士たちを助けるために盗賊を皆殺しにした。

 

 その後、馬車の主たるアリア・ヒッテリカという女性にユグドラシルなどについて聞いてみたが、答えは知らない。

 高度すぎる受け答えからしてAIもあり得ず、ここが異世界なのは確定した。

 

 そして僕は今からそのヒッテリカさんに、エ・ランテルへと移動しながら、この異世界の常識を教わる。エ・ランテルというのは僕が向かおうとしていた都市の名前なのだろうか。

 

 ともかく、ここは一体どんな世界なのだろう。

 



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第三話 冒険者登録と初仕事について

 馬車で移動しながら、ヒッテリカさんからこの辺りの常識を大方聞いた。

 

 得られた情報はかなり有用だった。

 

 まずは周辺地理。向かおうとしていた西の国がリ・エステーゼ王国。東の国がバハルス帝国。南の国がスレイン法国というらしい。特にスレイン法国は人間至上主義を掲げる宗教国家であるらしい。僕は一応スキルで人間にはなっているが、念のため行くのはやめておいたほうがいいだろう。

 そして、他には西の端にローブル聖王国。西北にアーグランド評議国。南東に竜王国があるという。

 特徴的なのは、スレイン法国以外のほとんどの国が、百年以下の歴史しか持たないらしい。百年前に魔神とやらが暴れたせいで、ほとんどの国が滅びたとか。今ある国のほとんどが新興国である。

 

 現在位置は、リ・エステーゼ王国の東端。国境付近である。

 現在位置的に、一番近いのは例のエ・ランテル都市であるらしい。

 この都市は城塞都市だ。ミ=ゴたちに観察させた際も、その防壁が目立っていた。国境の要らしく、それ故だろう。

 

 さらに、基本的な法や常識、金銭の価値や物価の相場など。抽象的な価値観であるためか、細かい齟齬はあったが、前の世界とかけ離れたような常識があったりはしなかった。

 しかし興味深いのが、どうやらこちらの世界には、少なくとも表立っては強者がいないらしいということ。魔法などは、第三位階が使えれば超一流らしい。ただ、百年近く前に活躍したと言われる十三英雄とやらは第七位階以上の魔法を使用したとも言われている。これは真偽が不明らしいが、一応警戒には値するだろう。他にも、帝国のフールーダ・パラダインという魔法使いは、第五位階魔法を使うらしい。これは第五位階程度なので、一応警戒はするがある程度無視しても良いだろう。

 他にも、武技とタレントについて。武技というのは、この世界独特の概念で、スキルとも魔法とも違う何からしい。戦士の使う技であり、身体能力をあげたり、技の威力をあげたり、一度に複数回攻撃したりなんてことを可能とするらしい。

 タレントも、この世界独自の概念。これは武技とは違い、完全にランダムなものらしい。生まれた時から持っている人は持っているし、持っていない人は持っていない。タレントには様々な能力があり、水に浮きやすい、嘘を見破る、魔法の習得が早くなる、など多岐にわたる。

 これらは確実に警戒するべきだろう。

 

 それと、特筆すべき職業として冒険者について。僕がその存在を聞かされた瞬間に脳裏をよぎったような冒険者、つまり遺跡探索や未知の冒険を生業とするものではなく、モンスター退治専門の傭兵のようなものらしい。

 しかし僕が職に就くとすれば、この冒険者が手っ取り早いだろう。

 冒険者ギルドに登録すれば、身分証明にもなるそうだ。

 

 そしてポーション。こっちの世界では色は青で、劣化するのが普通らしい。僕の持っている赤いポーションはおいそれと使わないように気をつけるべきだろう。

 

 また、宗教と伝説について。まずは六大神。王国や帝国では四大神らしいが、法国では六大神らしく、とりあえず多い方で考える。

 彼らは火水土風生死をそれぞれ司る神で、五百年前に滅亡の危機にあった人類を救った偉大な神らしい。だが、強大な力を持っていたというからには、ユグドラシルプレイヤーである可能性もある。もちろん本物のこの世界特有の神だったという可能性も高いが。

 この世界の主要宗教らしく、先ほども言ったように王国帝国は四大神を、法国は六大神を信仰しているようだ。

 そして次に先ほども出てきた十三英雄。百年近く前の出来事である彼らは、未だ一部が存命で、伝説と歴史の中間といったところか。

 六大神の配下だった魔神を何体も倒し、神竜と呼ばれる存在に戦いを挑んで負けたとも相打ちになったとも言われている。

 

 そんなことを聞きながら、休み休み馬車は走り、朝になる頃にエ・ランテルへたどり着いた。

 

***

 

 エ・ランテルは城塞都市であり、三重の防壁に囲まれている堅牢な都市だった。さすがは隣国との境目にある防衛の要となる都市であると言ったところか。

 

 外周部、一番目の防壁の内は、軍事設備。そのさらに内、二番目の防壁の内が市街。三番目の防壁の内が行政区。といった区分になっている。

 

 僕は市街まで来てから、ヒッテリカさんと別れた。

 その別れ際に、ヒッテリカさんから紹介状を渡された。もし自分の店に来た時は、これを渡してくれればすぐに会うとのことだった。

 それと一緒に、断りきれずに金銭も受け取ってしまった。中身を確かめてみたが、結構な額だった。

 

 そして、僕は冒険者として活動することにした。

 ヒッテリカさんから謝礼だと言ってある程度まとまった金銭を渡されたので、しばらく働かなくても十分生きていけそうだったが、しかし収入がないというのはなんだか落ち着かないのため、冒険者になるつもりだった。

 

 そんなわけで僕はエ・ランテルの冒険者組合で登録を済ませた。

 

 組合においては、一つ困ったのが文字が読めないことだ。言葉が自動翻訳されていたため、文字も当然そうなるだろうと思っていたが、文字に自動翻訳はかからないらしい。

 翻訳のモノクルを持っていて助かった。あれがなければ文盲として多大なハンデを負わざるをえなかっただろう。

 

 そして僕は晴れて銅のプレートの冒険者となった。が、しかしこのプレートは一番下の階級であることを表すプレートだ。

 早く上位のプレートを得たいものだ。

 そんな風に考えながら、僕はエ・ランテルの街を歩く。

 目的地の場所は頭に入っているが、何となくいろいろなものが見たくて街を見て回る。

 

 料理の屋台や、マジックアイテムの販売施設など、いろいろな場所を見て回る。

 特にマジックアイテムの類は込められた魔法は大したことはないが、大したことがないなりに工夫がしてあり面白い。

 

 書店に寄ったところ、十三英雄に関しての本が売っていたのでそれを買ってみたり、露店でちょっとした軽食をつまんだり。

 

 そんな風にあっちへふらふらこっちへふらふらしながら多大な時間をかけて目的地に着いた。

 

 目的地は宿。今夜の宿泊地である。

 古びた雰囲気のウェスタンドアを開け、僕は中に入った。

 

***

 

 ドアを開けて宿屋に入ってきたのは若い女だった。いや、女なのだろうか? 体格は華奢ではあるが、女性らしい起伏はない。長い髪をバッサリと切れば、中性的な男と言えそうだ。そんな性別不詳な彼女(?)ではあるが、しかし宿屋の中にいた人間は全員が女と思い込んでいたため、ここでは女と記す。

 彼女の顔は口布に覆われてなお美しく、この世のものならざる超常の美を感じさせた。

 

 ふわりと、何かの香りが漂う。それが何かはわからない。ただ、そう。強いて言うならば、月の香りがした。

 

 宿の中にいた全員が、その女に目を向ける。彼女は気にした風もなく、無愛想にカウンターの奥にいた宿屋の主人へと声をかける。

 

「部屋を借りたい。一泊だ。いくらだ?」

 

 惚けたように女に魅入っていた宿の主人が、はっと気を取り戻す。

 

「……相部屋で、一泊銅貨五枚。飯はパンと野菜。肉が欲しけりゃ追加で銅貨一枚だ」

「相部屋? ……一人部屋はないのか?」

 

 その言葉に宿の主人はわずかに不機嫌になる。

 

「個室なら一泊銅貨七枚。……だが、一つ教えてやろう。組合が今御用達にしている宿は四軒ある。その中でここは一番下だ。そしてここにいるのはお前のような駆け出しばかり。この意味がわかるな?」

「……僕に仲間を探せ、と?」

 

 その言葉に満足げに頷く宿の主人。

 

「そうだ、わかってるじゃねえか。相部屋だな。銅貨五枚だ」

 

 だが女はカウンターに銅貨を七枚おいて、冷たく返した。

 

「いや、個室で頼む。仲間は必要ない」

「お前、人の親切をなんだと……。まあいい。お前が早死にするのに俺は関係ない。好きにしろ。部屋は二階だ。上がってすぐの左手。しまうものがあるなら部屋に備え付けの宝箱を使え」

 

 そう言って店主は店の奥の左側を指した。そこには粗雑な階段があり、二階へと続いていた。

 

 女が階段に向かって歩を進めようとすると、それを邪魔するように一本の足が突き出された。

 その足の持ち主は、いかにも小物そうな、しかし体格はいい男だった。彼は黒い革の防具に身を包み、頭をスキンヘッドにしている。

 女は周囲を見渡すが、誰も、それこそ宿の主人すらも止めようとしない。その代わりに、何かを楽しむような、これから起こることへの期待がこもった視線が向けられる。

 

 女は一つため息をついて、その足を軽く蹴り払った。

 

 それを待っていたかのように、男が立ち上がる。その首には、鉄のプレートが揺れていた。

 スキンヘッドの男は、女の行く手を阻むように立った。

 

「おいおい、いてえじゃねぇかよ。人様の足に何してくれてるんだ?」

 

 男は威圧するように女を睨みながら、ドスをきかせた声を上げる。

 

 女は再び、今度は深くため息をついて、口を開いた。

 

「一つ忠告しよう。怖い目にあいたくなければそこをどけ」

 

 男はその言葉を無視して、女に下卑た目を向ける。

 

「はっ! 怖い目にあいたくなけりゃ? どんな怖い目にあわせてくれるのか楽しみだな!」

 

 肩をすくめる男。

 周囲から笑い声が沸き立つ。酔っ払いたち特有の下品な笑い声だった。

 男は続けて口を開く。

 

「こっちも一つ忠告だ。怖い目にあいたくなけりゃ今すぐ地面に這いつくばって「ごめんなさい」をするんだな。今ならあんたが一晩俺の相手をするだけで許してやるぜ?」

 

 ひひっ、と小さく笑い声をあげながら、地面を指す男。それに呼応するように、周囲から再び笑い声が響く。

 これからどうなるのかという期待に満ちた目が、二人に集中する。

 

 女はそれらを完全に無視して言った。

 

「忠告は、したぞ」

 

 女はそう言うと男の胸倉を掴み、ぐいと引き寄せた。額が触れそうになるほどに顔を近づけた女は、大きく口を開ける。

 

「なんだ、怖い目ってのはそれか? 威嚇のつもりならもうちょっと上手く——」

 

 男は最後まで言葉を続けることができなかった。

 その理由は——

 

 轟音。

 

 それは雷鳴のごとき爆音。深淵より響く、恐怖を呼び覚ます音色。

 女の喉の奥から、おぞましき獣の咆哮が放たれる。それは黒き獣の悲鳴。狂おしき背教者イジーに連なる業。

 

 つんざくような恐怖そのものである叫びが、人々を貫く。

 圧を持った爆音があたり一面に叩きつけられて、机や椅子が倒れ、人間が吹き飛ばされる。

 それは小規模な災害、現実に人間が起こしたとは疑わしい超常の現象。

 

 カウンターの中にいた主人のみが風圧から逃れて吹き飛ばず、だがその音波は耳に響いたのか、耳を押さえて脂汗をかきうずくまっている。

 

 小規模な爆発が起こったかのような爆心地で、しかしスキンヘッドの男は胸ぐらを掴まれていたため吹き飛ぶことができず、爆音をもろに浴びた。

 当然のように泡を吹いて気絶し、手足がだらりと垂れていた。

 

 女が胸ぐらを掴んでいた手を離すと、白目をむいている男は重力に引かれて床にどさりと落ちた。

 女はそれを一瞥すると、宿の主人のほうを向く。

 

「店主、これは迷惑料だ」

 

 数枚の金貨が、宿の主人に投げ渡される。それを慌てて受け取った主人は、しかし信じられないものを見るような目で女を見た。

 

 奴は本当に人間なのか? それこそは、その場にいた人間全員の偽らざる本音である。彼らには今や、女が人の形をした恐ろしき獣に見えていた。

 

 女はぐるりと周囲を見渡し、誰も何も言わないのを確認すると、足取り軽く階段を上っていった。

 

 女の体が見えなくなったその瞬間、吹き飛ばされた幾人かの股間から湯気がたった。

 彼らは恐怖からか、失禁していた。

 

***

 

 やってしまった。

 少し脅かしてやるだけのつもりが大惨事になった。

 

 宿の主人に教えてもらった部屋に入った僕は、頭を抱えていた。

 

 ユグドラシルにおいて、スキル〈獣の咆哮〉は、敵対者のみを吹き飛ばす、オブジェクトには判定のないスキルだった。

 

 相手にノックバックを与え、よほどレベル差があれば朦朧化も付与するスキルだったのだが、この世界では色々と法則が変わったらしく、オブジェクトにまで効果が及んでいた。その上、絡んできた男に至っては朦朧化どころか気絶していた。

 

 それだけでなく、効果範囲も広がっていたように思う。本来なら範囲外にいた宿の主人まで、耳を押さえてうずくまっていた。

 おそらく現実化したために、ノックバックの効果はなくとも轟音だけは響いてしまったのだろう。あれほどの音だ、多少離れていたとはいえ、耳が痛んだだろう。宿屋の主人には申し訳ないことをしてしまった。

 

 ああ、資金を大判振る舞いする羽目になった。というか迷惑料は金貨数枚でたりただろうか? 後で謝りに行くべきか? いや、それをすれば舐められるかもしれない。請求しに来られたら素直に支払うことにしよう。

 

 はあ、とにかく疲れた。肉体的な疲労は一切ないが、精神的にだ。

 

 僕は粗雑なベッドに倒れこんで眠ろうとして、しばらくして眠れないことに気づいた。

 僕のビルドはガチガチの攻撃型である故、属性に対する耐性は目覆うものだ。しかし、状態異常への耐性は強い。僕はほとんどの状態異常に完全耐性を持っていた。そのほとんどの中には、もちろん睡眠や疲労の耐性も含まれている。それゆえだろう、寝ようとしても眠気は一切襲ってこず、しかし肉体的疲労はない。自分が人外になったことを意識させられる。

 

 仕方なく僕は身を起こして、アイテムボックスから今日買った本を取り出した。

 

***

 

 翌日。

 

 僕は再び冒険者組合へとやってきた。

 昨日の散財があってなおしばらくは暮らしていける程度の金はあるが、しかし何もしないというのも落ち着かない。

 昨日のようなトラブルを減らすためにも、さっさと上位のプレートが欲しいところであるし、色々と仕事をこなしていこうと思う。

 

 僕はモノクルをかけ、張り出された羊皮紙に書かれている依頼を見ていく。

 

 銅のプレートが受けられるものは少ない。というかろくなものがない。仕方なく僕はトブの大森林にいき、モンスターを討伐することにした。

 

 トブの大森林というのは、転移早々の探索で見つけた、山脈の端から始まる大森林のことだ。

 ちなみにあの山脈の名前はアゼルリシア山脈。王国と帝国の自然国境である。

 

 そして、冒険者組合には、モンスターを討伐すると、その強さに応じて報奨金が入るというシステムがある。

 今回はそれを利用するつもりだ。基本は初心者らしくゴブリンを狙うが、見つけることができれば大物も倒したい。そちらの方が昇格もはやまるだろう。

 

 それから僕は一応ギルドの受付嬢に注意事項を聞いておこうと思い、受付に向かった。

 

「トブの大森林まで行って、モンスターを狩ってこようと思う。何か気をつけることはあるか?」

「そうですね、トブの大森林ですか。あなたは銅のプレートですし、森の中には入らないほうがよろしいかと。主な獲物はゴブリンになるでしょう。討伐証明部位は耳です。亜人系は基本的に耳ですね。報酬は一匹につき銀貨一枚です」

「わかった。ありがとう」

 

 僕は受付嬢に軽く頭を下げてから、組合を出た。

 

 

***

 

 そんなわけでやってきたのはトブの大森林。その西方。最初は転移で移動しようとしたのだが、それでは怪しまれる可能性があったので徒歩で来た。人の気配がなくなってからは80レベルに近い身体能力でちょっと早く走ったため、おそらく常人よりは早くついただろう。

 

 トブの大森林は天高く樹木が生い茂り、広がる枝が日を蝕んでいた。視界は悪く、ともすれば闇に飲み込まれているかのよう。

 

 しかしそれは人間にとっての話。僕の持つパッシブスキルにかかれば、その視界はいかなるものにも遮られず、世界の真実をありのままに受け入れることができる。

 暗闇など僕の視界を遮るには足らない。自慢ではないが、僕の看破技能は前衛職にすればかなり高い方だ。

 

 というわけで、暗闇を見通す目を持ってサクサクと森の奥へ入っていく。受付嬢に森に入るなと言われたが、そんなものは無視だ。とりあえずのところ、このトブの大森林には強者がいないことはわかっている。

 

 しばらく森を進んでいると、わらわらと人の子供くらいの大きさの、醜い人型の生き物の群れが現れた。

 

 それは土色の肌をしており、潰れた顔に平たい鼻を持つ。大きく裂けた口からは二本の牙が上向きに生え、頭からはボサボサの黒い髪が生えている。後げ茶色のぼろきれを服のようにまといなめした革を防具に、両手には棍棒と小盾をそれぞれ持っていた。

 

 その醜い生物の名はゴブリン。今回の狩の主な獲物である。

 

 僕の方を指差し、何事かを叫んだゴブリンたちは、一斉に襲いかかってくる。

 飛びかかってくるゴブリンの姿は一層醜く、僕に不快感を抱かせた。

 僕はそれを見て、獣肉断ちを変形させる。分厚い鉈としての形状から、広範囲を薙ぎはらうに適した重い鞭、あるいは蛇腹剣のような、複数に分かたれた刃を鎖で繋いだ異形の武器へと。

 

 ゴブリンたちが間合いに入ったのを確認した瞬間、轟音を立てて獣肉断ちを振るう。足を踏み込み、腰をひねって、全身を使い振るわれたそれは、音速を超えた超級の速度で獲物に飛びかかる獣のようにゴブリンたちへ食らいついた。

 ゴブリンたちにジャストミートする伸びきった獣肉断ちの刃たちは、与えられたエネルギーを余すところなくゴブリンに伝え——醜い小鬼たちを、さらに醜い肉塊へと変えた。

 

 爆発四散するゴブリンを見て、僕はあっけにとられた。ミンチになって仕舞えば、討伐証明部位も何もあったものではない。

 

 僕は近接火力寄りのビルドなだけあって筋力値などの物理ステータスはそれなりに高い。それが80レベルに弱体化したとはいえ、80レベルでも上位に入るだろう。そんな筋力によって全力で振るわれた獣肉断ちに、レベル10以下の雑魚が耐えろという方が無理だったようだ。念のため死体を探ってみたが、耳すら原型をとどめていない。

 そういえばあの時の盗賊たちも爆散してたな、なんて考えながら、耳を探すために死体に突っ込んでいた手を振って血を軽く落とした。

 

 つまり、今回の殺生は完全に無駄骨である。

 

 何やら申し訳ない気持ちになった僕は、元ゴブリンの肉塊をその場に放置して、とぼとぼと歩き去った。



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第四話 スキルの検証と初仕事の終了について

 しばし森をさまよっていると、再びゴブリンの集団が現れる。今度は先ほどの集団よりも数が多い。

 先ほどと同じように飛びかかってくるゴブリンたちに、今度は優しく、撫でるように獣肉断ちを数回振るう。

 

 それでもなお獣肉断ちの威力は凄まじく、ゴブリンたちは全員がずたずたの肉片となり、ぼとぼとと地面に落ちた。

 

 しかし先ほどとは違いゴブリンの死体は原型をとどめていた。

 死体に近づいて確認すると、耳もしっかりと原型をとどめている。

 

 僕はなんだか複雑な気分だった。これでは狩りというよりは作業。それも繊細な作業に近い。神経を使う割に、面白さも何もあったものではない。

 獣肉断ちはどちらかといえば、重さで叩き潰す力に任せた武器だ。この作業には向いてないかもしれない。

 しかし今更武器を変えるのもなんだか負けた気がするので、このままでいこうと思う。

 

 僕はゴブリンの耳を武装血刀で作り出したナイフで切り取り、次々と袋に詰めていく。鮮血のナイフの切れ味は目を見張るものがあり、耳をまるで熱したナイフでバターを切るように切り取ることができた。

 

 耳を集め終え、再び歩いていると、今度は数体の巨大な生物を遠くに発見する。

 それは3メートルほどの大きさのモンスターであり、筋肉の隆起した体を持つ。巨木のような腕は猫背なせいか地面に着く寸前であり、その手の先には生木からむしり取ってきたかのような棍棒が握られている。焦げ茶色の肌を隠すのは腰に巻かれたなめしていない毛皮のみであり、その姿は控えめに言って汚らしい。

 

 そのモンスターの名はオーガ。それなりに強いモンスターで昇格の手助けになるかもしれない大物だ。狩っていくことにしよう。

 

 僕は神速の踏み込みでもって一足でオーガに近づき、獣肉断ちを数回振るう。

 それはいたわるように優しい速度で振るわれ、オーガを肉塊に変えた。

 ゴブリンよりも頑丈なオーガだったが、僕からすれば誤差だ。

 切り裂かれ、叩き潰されたオーガだった肉塊が、地面に無様に散らばる。

 

 オーガもゴブリンも、結局のところ作業にしかならない。僕は早々に飽き始めていた。

 

 僕は散らばった肉片の中から、討伐証明部位を探す。確か亜人系は基本的に討伐証明部位は耳であると習った覚えがある。

 僕は無事にオーガの頭から耳を切り取り、袋に入れた。

 

***

 

 しばらくゴブリン、オーガ、時折ウルフなどを見つけては肉片に変えるだけの簡単なお仕事を続けていると、やはり飽きがきた。

 見つけたらただ殺すだけの狩りでもなんでもない作業は、いくら人外となった僕にも苦痛だ。肉体的な疲労は無効でも精神的な疲労は溜まる。

 

 仕方なく僕はスキルの検証も同時にすることにした。

 効率だけを追い求めた作業はもうたくさんだ。移動はやろうと思えば転移で一瞬なわけであるし、時間は潤沢に使える。それに、耳の入った袋はずっしりと十分な重さを持っていた。耳一つが銀貨一枚だとしても、結構な稼ぎになるだろう。

 

 それはともかくスキルの検証である。例えば、眷属招来のスキルは試したが、眷属創造のスキルは試していない。

 

 眷属創造のスキルは元の姿でしか発動できないため、僕はスキルを発動し、元の、月の魔物としての姿に戻った。

 

 そして僕はたった今殺し、耳を切り取ったオーガの死体に、〈中位眷属創造/クトゥルフの落とし子〉のスキルをかけてみる。

 

 するとどうしたことか、虚空よりにじみ出るように虹色の、いや、虹色とも違う、あらゆる色を混ぜたかのような、しかしこの世に存在しない色、あえて言うならば宇宙色のシャボン玉のようなものが出現する。それはオーガの死体に向かって行き、すうっと吸収された。

 その瞬間、変貌が始まる。

 それはありえざる冒涜の儀式。外宇宙の芸術。混沌の宴。月光の散乱。

 ずるり、ずるり。オーガの死体の頭部から、いくつもの触手が伸びる。ブクブクと体が膨らみ、一回り大きく、肥えた人間のような、あるいは水死体のような体へと変貌する。皮膚がぬらぬらと薄気味悪い粘液に覆われ、怪しく光りだす。手足には水かきがつき、まるで水中で生きる両生類のように。宇宙色の光がどこからか煌めくと、それはやがてフードの付いた衣服と巨大な斧へと変わる。白色のローブが特徴的な衣装は、巨体にしっかりとフィットしており、巨大な斧は目立った装飾こそないが頑強な作りであり、その破壊力を感じさせた。

 

 僕はその光景に目が離せない。それはこの世のどんな芸術よりも美しかった。

 ユグドラシルの時とはまるで違うリアルがそこにある。

 オーガの醜い死体が、狂おしき変貌を遂げるその光景は、僕の心を掻き立てる名状しがたい衝動を呼び起こした。

 神話的生物への変貌を生で見ている! それは僕の心をいかなるものよりも興奮させた。否応なく心が躍り、口の端から感嘆の声が漏れる。

 

 僕の目を釘付けにするその変貌はやがて終わり、外宇宙の異形が完成する。

 

 それは蛸のような烏賊のような、あるいは外宇宙に御座すおぞましき神性のような、いくつもの触手が口元に生えた頭をフードに隠し、醜く肥え太った丸い腹が特徴的な体と太い手足を衣服に包み、水かきのある吐き気を催すような手で身の丈ほどもある大斧を持っていた。

 

 それは偉大なる神の落とし子。ありえざる神性の種。狂いきった赤子。上位者の卵。真実への恐怖。

 名を〈クトゥルフの落とし子〉。

 37レベルの、肉体的なタフさに定評のあるモンスターだ。

 

 それは王に忠誠を捧げる騎士のように恭しく僕に傅いた。

 

 相変わらずこの世界でのクトゥルフ系モンスターは素晴らしい。僕の心に常に新しい感動を運んでくれる。

 

 僕がクトゥルフの落とし子を存分に鑑賞しようとしたところに、ちょうど巨大な熊が遠くに通りかかった。立派な体格を持つ、ヒグマをさらに巨大化させたかのような熊だ。

 

 ちょうどいい、実戦のテストだ。

 

 僕はクトゥルフの落とし子に指示を出す。あそこにいる熊を狩り殺せ、と。

 

 クトゥルフの落とし子は名状しがたい叫びをあげて熊へと突進していく。その速度は、愚鈍そうな見た目に反して早い。それはもちろん僕と比べてではないが。

 鈍色の斧を、突進の勢いそのままに熊の首をめがけて振り下ろすクトゥルフの落とし子。

 豪腕によって振り下ろされる斧の速度は僕からすればあまりにも遅いが、しかし熊にしてみれば認識できないほどの超速だった。暴風のごとく振るわれる斧が、熊の首に食い込み、そして熊の首を切り落とした。

 ごとり、と熊の首が地面に落ちる。

 首が地面に触れた瞬間、思い出したかのように体も崩れ落ちる。首の切断面からは、勢いよく鮮血が噴き出していた。

 

 これならば実戦でも問題なく使えるだろう。

 僕は満足して、次のスキルの検証に移る。

 

 次に使うスキルは時間操作系スキル。

 僕は〈シャドウ・オブ・ヨグ=ソトース/門にして鍵の影〉というクラスについている。このクラスは転移及び時間操作系のスキルのみを習得でき、それ以外のスキルは一切習得できないピーキーなクラスだ。

 僕はこのクラスを最大の10レベルまでとっているため、多様な転移、時間操作スキルを持っている。

 今回使うのはその中でも特異なスキル。〈アフォーゴモンの夢〉と言うスキル。

 このスキルの効果は、使用者を通常の時間軸とは異なるありえざる時間へと導く。その時間軸に身を置く間は、周囲の時間は経過しない。

 擬似的な時間停止ではあるが、時間停止とは違い、対象が自分のみであるので通常の時間対策では対策できない。僕の切り札に近いスキルであり、非常に強力なスキルだ。

 

 僕はそのスキルを発動させ、ありえざる時間へと身を滑らせる。周囲の時間が擬似的に止まり、舞い落ちる葉や、降る露が停止する。

 通常の時間軸とは違う発狂する外宇宙の神秘的な時間軸へ潜行した僕は、驚きに満ちていた。

 ユグドラシル時代では考えられぬ、超常の時間軸の奇怪さに圧倒される。僕がもし月の魔物でなければ、認識に気が狂い発狂していたかもしれない。それほどに奇妙な時間だった。

 

 しばらく、その奇妙な時間軸の感覚に浸っていると、スキルの効果時間が切れ、葉が舞い落ち、露が地面に弾ける。

 

 まさに超常の感覚だった。筆舌に尽くしがたい感動が僕の心を埋め尽くした。

 

 この調子でいろいろなスキルを検証していこう。

 

 僕は当初の目的を忘れ、スキルの検証に熱中した。

 

***

 

 しばらくスキルを検証していて、時刻はすっかり夜も遅い。

 収穫はそれなりであり、わかったことがいくつか。

 クトゥルフ系職業のスキルについてなのだが、全体的に感覚が変異しているようだ。血が抜けるような感覚や、えも言われる奇妙な感覚、名状しがたい第六の感覚などが感じられ、しかしそれは不快ではなく、戦闘中にも問題なく使えそうだった。

 他にわかったこととしては、創造したモンスターについて。どうやら召喚とは違い、死体を触媒にしたモンスターは、召喚時間が過ぎても消滅せず、現世に残ったままなようだ。

 現に、今も召喚時間は過ぎたにもかかわらず、クトゥルフの落とし子が僕の横に佇んでいる。

 ちらりとその顔を見やるが、触手だらけの蛸のようなその顔が何を考えているかはわからない。

 

 そして森を破壊するような派手なスキル類は試せなかったが、大まかに使う頻度が高いスキルは試した。どのスキルも全て問題なく発動し、自由自在に使いこなせるだろうことが確認できた。

 最初に平原に転移した時に、幾つかスキルを確認し、どれも問題なく使えることはわかっていたが、しかしだからと言って全てのスキルが自由に問題なく使えるとは限らなかった。今回色々と確認できたのは僥倖だ。おそらくこの調子なら、今使わなかった派手なスキルも問題なく使えるだろう。

 

 そして逆に、持っていないスキルについて。例えば、ユグドラシルでは料理を作るためには料理スキルが必要だった。

 僕は料理スキルを持っていない。が、肉を焼く程度なら現実世界と化した今ならできそうな気がする。

 そう思って、倒した大猪の肉を焼いて見たのだが、見事に失敗した。それも単なる失敗ではなく、肉を焼いている間の記憶が一切なく、気がつけば目の前に黒焦げの炭が出来上がっていた。おそらく現実世界になった今でも、ユグドラシル時代のシステム的に、スキルにある行動はそのスキルを持っていないとできないのだろう。

 

 スキルの検証が終わり、〈千の貌〉で人間へと擬態してしばらく休憩していたところ、不意に、後ろから粘つくようないやらしい視線を感じる。それにはわずかな殺気が混じり、ゆえに不快だった。

 

 気づかれぬようにちらりと後ろを見やると、そこにいたのは一匹のナーガ。

 

 枯れた老人のような上半身と、それにつながる巨大な蛇のような下半身を持つ、醜悪なモンスターだ。

 

 ナーガは不可視化を行えるようで、僕の看破技能が作動していた。看破技能がある故か気づかれぬと信じるように、ナーガは堂々とそこに佇み、こちらを見定めるような目で見つめていた。

 

 目的は不明だが、奴もモンスター。狩れば昇格の助けにはなるだろうが、すぐに襲いかかってはこなかったし、何をしにきたのかを聞いてからでもいいだろう。

 

 僕はスキルを発動させ、相手のレベルを確認する。結果はレベル30前後。多少強いが、雑魚だ。僕にとっては取るに足らない相手。

 

 僕は神速の踏み込みでもって反転し、背後にいるナーガめがけて高速で接近。間合いに入った瞬間に腕を振り上げ首を掴み上げた。

 

「ぐはっ!?」

 

 ナーガは苦しげなうめき声を上げる。勢いを殺したとはいえ、首を掴み上げられたのだ。当然と言える。

 

「何が目的だ?」

「ぐっ、馬鹿な人間め。このまま絞め殺してくれる!」

 

 ナーガは質問には答えず、蛇の下半身でもって僕に巻きつき、そのまま絞めようとしてくる。が、僕には全くもって効果がない。僕は拘束に対して完全耐性を持っているし、物理攻撃に対しても一定以下の攻撃を無効にするスキルを持っている。

 僕は巻きついてくる蛇の感触がただ不快であるのみで、苦痛は一切感じない。しかしこのままでは埒があかないのもたしかなので、暴力に訴えることにする。

 ぷにっと萌えさんも言っていた。『言うことを聞かせるために一発殴るのは悪くない』。

 

 僕はナーガの首を掴む手の力を強める。うめき声が上がり、拘束の力が一瞬緩む。その瞬間を見逃さず蛇のような下半身を振りほどき、そのままナーガの体を地面に叩きつけた。

 

「がはぁっ!?」

 

 苦悶の声が上がる。当然だ。首をつかんだまま地面に叩き伏せたゆえに、衝撃を逃がそうにも逃がせない。加減しているとはいえ80レベル相当の筋力で叩きつけたのだ。その衝撃は推して知るべし。

 

「もう一度言おう、何が目的だ?」

「言う! 言うからわしを殺すのは止めろ! おぬしは人間じゃろう! 森のバランスが壊れたら困ると思わないのか!」

「森のバランス? ふむ、それにも興味があるな。が、まずは最初の質問だ。目的はなんだ?」

「森を荒らし回っている何かがいるらしいというのがわかったゆえ、それの調査だ! おぬしがその原因かもしれんと思って観察しようとしていただけだ! お前に対する害意はない!」

「嘘だな。お前の視線にはわずかな殺気があった。残念だが、お前には死んでもらう」

 

 僕は首を持つ手に力を入れ、ギリギリとナーガの首を絞めた。

 ナーガは苦痛に喘ぎながら、必死に言葉を紡ぐ。

 

「まて、やめろ! 確かにわしはお前を殺そうとした! じゃがわしを殺すのは悪手じゃ! 今この森は三つの勢力によって維持されている。一つはこのわし、リュラリュース・スペニア・アイ・インダルンの勢力。もう一つは東の巨人、グの勢力。三つめは南の大魔獣の勢力じゃ! このバランスが崩れれば森は荒れる! 人間にも悪影響が出るぞ! じゃからわしを殺すな!」

 

 ナーガの命乞いは確かに理にかなっているが、しかし僕を殺そうとした罪は重い。

 たとえ結果的に僕を殺せなかったとはいえ、僕を殺そうとしたのだ。

 僕は死にたくない。一度死んだのだから、当然だ。あんなに辛く苦しい思いは二度としたくない。意識が闇へと消え、ボロボロと生命が剥離していくような感覚。

 死。

 何事よりも恐ろしい、死。

 この世界に僕を殺せるものはおそらくいないのだろう。だがそれでも、僕は死への恐怖を忘れられないのだ。

 

 故に、僕を殺そうとしたこいつは殺す。絶対に殺す。

 

 それに——

 僕はちらりとクトゥルフの落とし子を見る。

 森のバランスなら、クトゥルフの落とし子に維持させればいい。

 強さもナーガと近いし、ちょうどいいだろう。

 

 僕はナーガの首をへし折った。

 

***

 

 冒険者組合の大きな扉を開けて入ってきたのは一人の女だ。闇夜に紛れるような装束に包まれた体は女性らしい起伏に乏しいため、あるいは男なのかもしれなかったが。

 

 女のことを見つめる目は多い。多くの人間が彼女に釘付けだった。いや、正確には彼女の背負うものに、だが。

 それは老人のような上半身と、蛇のごとき下半身を持つ、異形の怪異だった。死してなおその姿は恐ろしく、いまにも動き出して自分たちを咬み殺すのではないかと錯覚させるほどだった。

 そしてその怪物を見た後に、多くの者は首からかけられている銅のプレートに目が行き、驚愕の声を漏らす。

 

「あいつは何者だ?」

「ほら、数日前の初心者宿での……」

「あの咆哮女か?」

「あの化け物か。とすればなんだか当然な気がしてくる」

「間違いなくオリハルコン、いやアダマンタイトまで上り詰めるかもな」

「しかしあの化け物はなんだ? 蛇人間?」

「とんでもない化け物だってことはわかる」

 

 畏怖と恐怖の入り混じった視線が、女に注がれる。

 ひそひそと話す冒険者たちを無視して、女は受付に向かう。

 彼女は懐から袋を取り出し、カウンターに置いた。

 受付嬢が恐る恐る袋の口を開くと、その中身は耳。パンパンになった袋には、ぎっしりと亜人系モンスターの耳が詰まっていた。

 

「ひぃっ」

 

 あふれんばかりに詰まった耳の量を見て、受付嬢はわずかに悲鳴をあげる。彼女にとって、女の背負う巨大な怪物よりも、大量の耳の方が恐ろしかった。彼女にとって怪物は見慣れぬ、ともすれば現実感のないものだが、普段見慣れている耳がぎっしり詰まった袋は恐怖を呼び起こすに足る現実感を携えていた。

 

「モンスターを殺してきた。清算を頼む。こっちの袋には亜人系の討伐証明部位が入っている。こっちのでかいのについては、どこが証明になるかわからなかったからまるまる持ってきた」

 

 そう言って、彼女は背負っている怪物を指す。

 受付嬢は慌てたように口を開く。そうしなければ殺されてしまうのではないかと思うほどに彼女は焦っていた。

 

「は、はい。ええと。こちらの袋には……うえっ。い、いえ、ええと、そうですね。数えるのに時間がかかりますので少々お待ちください。そちらの、その、大き方は査定にも時間がかかると思いますので、しばらくお時間をいただけますか?」

「構わない」

 

 女がそう言うと、受付嬢は奥に引っ込み、ゴブリンやオーガの耳を数えだす。「うそ、オーガの耳がこんなに!?」などの驚きの声が定期的に聞こえてくる。

 代わりに奥から従業員が数人出てきて、怪物の死体を回収する。ボソボソと、そのモンスターに対する恐怖をつぶやく従業員たち。

 

 しばらくすると、受付嬢が戻ってきて、組合の端で待っていた女に声をかけた。

 

「申し訳ありません。ゴブリンやオーガなどの清算は終わったのですが、大物の方の査定が終わらず……。明日まで待っていただけませんか?」

「査定というのはそんなに時間がかかるものなのか?」

「なにぶんあんな大物が持ち込まれたのは久しぶりのことで、こちらも報酬を決めかねているんです」

 

 困ったようにいう受付嬢。彼女は明らかに女に怯えていた。

 その怯えを無視したのか気づかなかったのか、女はぶっきらぼうに返答する。

 

「そうか、ならば仕方ない。おとなしく明日まで待つとしよう」

 

 女がそう言うと、受付嬢はほっとしたように息を吐いた。

 

 女は再び大きな扉を開けて、組合を出て行った。

 

***

 

 僕が街へ帰還し、ナーガとその他もろもろを組合へと持って行った翌日。ナーガの分の報酬をもらいに行った僕は、帰るときにはなぜか白金のプレートを下げていた。

 

 組合の人間曰く、本来ならあのナーガを狩った実力を鑑みればミスリル、もしかすればそれ以上にも匹敵するが、なにぶん今までの実績と信用がないため、急にそこまでのプレートを渡すことはできないとのことだった。

 

 うまくいけば鉄を飛ばして銀くらいにはなれるかな? くらいに思っていた僕からすれば、はっきり言って白金ですら少しもらいすぎな気がする。しかし、もらえるものはありがたくもらっておくことにした。

 

 都市で生活するにしても、銅のプレートをかけるのと白金のプレートをかけるのでは過ごしやすさが段違いだ。

 というわけで、首元に輝く白金に気分を良くしつつ、街を散策する。

 さて、今日は何をしようか。



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第五話 竜王国と獣狩りについて

第五話 竜王国と獣狩りについて

 

 ナーガを倒してから数ヶ月たち、僕の首からはミスリルのプレートが下がっている。

 数ヶ月間多種多様な依頼をこなし、ついには伝説級と謳われる——最も僕からすれば雑魚だが——ギガントバジリスクを倒したことで、昇格が認められた。

 

 ミスリルへと昇格し、依頼が減って暇をしていた頃に、僕の耳に一つの噂が入ってきた。

 

 なんでも竜王国がビーストマンの国と戦争をしているらしい。

 その戦争は現在絶望的な戦況であり、すでに三、四つの都市を落とされたとか。

 今この瞬間も、多くの人々がビーストマンに食われているという。

 王国に伝わってきた情報は断片的だが、一貫しているのは状況が絶望的で、戦力が足りていないということ。

 

 その噂を聞いて、一つの心配が浮かぶ。それはこの世界にきた直後に助けたヒッテリカさんやローランドたちについてだ。

 

 もしかすれば、今も竜王国で増え続けている死者の内に、ヒッテリカさんやローランドが入ってしまうかもしれない。

 一度助けた相手が死んでしまっては寝覚めが悪い。

 

 助けに行くべきなのだろうか。

 

 ビーストマンは一般的に難度三十、強くても難度六十から七十らしい。難度とは冒険者の間で使われるモンスターたちの強さの尺度のことで、体感した限りではその数字はレベルの三倍くらいだ。つまりビーストマンは強くても23レベル程度ということ。僕にとっては雑魚だ。

 

 僕ならば、ビーストマンを殲滅することなど容易いのでは?

 

 しかし油断は禁物だ。どこに強者が潜んでいるかわからない。

 死にたくなければ、戦わなければ良い。金なら十分にあるし、今から隠居しても良いだろう。

 

 でも僕は竜王国の話を聞いて、少しでも助けになるのなら行くべきではないかと思ってしまったのだ。

 

 ヒッテリカさんやローランドの顔が思い浮かぶ。彼女たちを見殺しにして、本当に良いのだろうか?

 

 罪悪感が僕を苛む。

 

 助けられる力があるのに助けない、それは怠慢を通り越して、加害者と同一ではないか?

 もちろんそんなことはない。力があるからといって、義務が発生するわけではないのだ。

 けれど僕の心に巣食う人間性が叫ぶ。助けられるならば、助けるべきだ、と。

 

 僕は結局、竜王国に来た。

 人間性を捨てれば、そこには亡者が生まれる。僕はまだ、生者でありたかった。

 

***

 

 その日は竜王国にとって絶望の日であった。

 

 ビーストマンとはこれまで小競り合いが続くのみであった。しかし、それはビーストマンの国に、真なる王などという存在が生じるまでのことだった。

 真なる王とやらを頂点にいただいたビーストマンは、これまでの小競り合いのみですませる姿勢から一転、本格侵攻を開始した。

 ビーストマンたちは、真なる王とやらに率いられ、今までより格段に強くなり、竜王国を蹂躙した。破竹の勢いで四つの都市を落とし、竜王国の王都を目指し侵攻を繰り返している。

 

 そんなビーストマンとの戦争、その最前線。本来ならば国境からは程遠い内地と呼べる場所にあるはずの都市。

 その都市は簡易的に城塞化されており、簡単な防壁によって囲まれていた。

 そしてその防壁の向こう、地平の彼方に、夕焼けに照らされる黒い絨毯がある。

 否、それは絨毯ではない。それをよく見れば、それが異常に蠢き、都市めがけて移動していることがわかるだろう。

 

 簡易城塞都市の見張り番、オットー・フレンデルは、その光景を信じたくなかった。

 彼の望遠鏡に映る光景、それは終末。七つのラッパがなったかのごとき地獄の顕現。

 

 地平に浮かぶ黒い絨毯の正体は、幾百幾千幾万のビーストマンの大群。

 

 かつてない大侵攻であり、それは竜王国にとっての絶望を表す。

 この都市が落とされなかったのは、籠城という戦法と、攻撃が散発的であったからだ。防壁の門を固く閉ざし、散発的にくる数千ほどの攻撃を、冒険者たちと協力して退けるだけでよかった。

 

 それすらも少なくない犠牲を伴ってのことであったというのに、今回は十万近い大群である。まず間違いなく、この都市は落ちる。

 十万での攻勢など本格侵攻が始まって初であり、ともすれば王都が落ちることも、否、竜王国が地図から消えてなくなることも予想された。

 数千による侵攻は、おそらく戦力を図るための小手調。この十万の侵攻を成功させるための、単なる調査だったのだ。

 

 真なる王とやらによって強化されたビーストマン一体を倒すのに、熟練の兵士が二人はいる。冒険者で言えば銀から金級が二人だ。ならば十万のビーストマンを倒すには、いったい何人の熟練の兵士を用意すればいいというのか。

 しかも、ビーストマンの強さも一律ではない。戦士級と呼ばれる存在は、倒すのにミスリル級がいる。戦士級の数は多くはないが、しかし十万の大群の中で戦士級が十人二十人しかいないというのは楽観が過ぎるだろう。

 

 まさに絶望。もはや竜王国がビーストマンの津波に飲み込まれるのは必至。滅亡は避けられない。

 

 オットーは崩れ落ちそうになる膝を必死に抑え、報告に走る。この絶望を打ち砕く何かがあることを、天に祈りながら。

 

***

 

 口ひげを蓄え、首から下をフルプレートメイルに身を包んだ大男、フェルグロイ・マックールは、防壁の上でビーストマンの大群を見ていた。ビーストマンの大群はもはや都市の眼前に迫っており、十万の足音が聞こえてくる。

 

 フェルグロイ率いるアダマンタイト級冒険者チーム〈虹彩の剣〉を筆頭に、大勢の冒険者や、兵士。とにかく戦力になるであろう全員が集まり、決戦に備えていた。

 

 日はすでに暮れ、地平の彼方から月が顔を出している。

 

「こいつぁやべぇな」

 

 思わず、というふうに、フェルグロイの口から声が漏れる。

 その言葉に反応したのは、虹彩の剣の魔法詠唱者、コルケイン・ケルナッハ。第四階位魔法に手が届いた、人類の希望の一人だ。

 

「あまり戦闘の前に弱腰になるんじゃない。お前が弱気になれば軍全体に影響が出る」

「弱気になったんじゃないさ。こいつらを全員ぶち殺した後の褒賞を考えるとよだれが止まんなくってやばかったんだよ」

 

 フェルグロイの軽口も、空元気であることをコルケインは見抜いていたが、しかし何も言わなかった。

 虹彩の剣ならば、十体のビーストマンを屠ることは難しくない。百体も、なんとかなるだろう。だがそれが千なら? 万なら? ましてそれが、十万なら?

 

 虹彩の剣のメンバーは、皆ここで死ぬことを覚悟していた。

 

 本来ならば国家の戦いに介入する義理などない冒険者という立場にありながら、しかし彼らは祖国のために立ち上がった。

 蹂躙される自分たちの祖国を、陵辱される民を見て、居ても立っても居られなかったのだ。

 

 民衆のため、祖国のために、戦いに身を投じる彼らはまさに英雄。

 しかしそんな英雄たちも、十万のビーストマンには、絶望を感じずにはいられなかった。この力でも優れたビーストマンが、数の力を使い攻めてくる。これを絶望と言わずなんというのか。

 

「くるぞ」

 

 フェルグロイがいう。ビーストマンと都市の距離は、100メートルもなかった。

 

 ビーストマンの咆哮が聞こえる。獣の聲。ああ、なんと恐ろしいのか。奴らは皆、人間の血肉に飢えているのだ!

 

 弓兵が矢を射かけるが、それで死んだビーストマンはほとんどいない。強靭な毛皮が、矢を弾いているのだ。

 

 十万の大群が唸りを上げなだれのように都市の防壁に激突する。

 

 都市の防壁へ張り付くビーストマンたちが壁を登ってこようとするのを兵士たちが必死に叩きおとす。

 

 ビーストマンの弓兵や投石兵が、火矢を射かけ、石を都市の内部へと放る。

 

 フェルグロイ率いる虹彩の剣の前衛と、その他冒険者チームの前衛は、城壁を飛び降り、ビーストマンたちを切り伏せる。

 魔法詠唱者のコルケインは、城壁の上から〈ファイアボール/火球〉を連射する。範囲攻撃であるファイアボールは直撃したビーストマンを丸焦げにし、近くにいたビーストマンをも焼いた。

 他の冒険者チームや魔術組合の魔法詠唱者たちも、自分が使える範囲で最高の魔法をビーストマンに打ち込み、ビーストマンの数を少しでも減らそうとする。

 

 フェルグロイはアダマンタイトによって作られ、魔化を施された魔法の剣。虹彩の剣というチーム名の元となった剣を引き抜いた。これはとある遺跡にて見つけた剣であり、特筆する魔法効果として、三つの効果をランダムで発揮するというものがある。その三つとは炎、雷撃、酸。剣を振るえば、そのどれかの属性の追加ダメージを相手に与えるのだ。

 

 その剣を振るい、ビーストマンの首をはねる。ビーストマンの首の断面に炎が迸り、断面が焼け焦げる。今回は炎の追加ダメージを与えたようだ。

 虹彩の剣のメンバーは一騎当千の実力を発揮し、ビーストマンたちを殺し始める。

 

 それを見て、あらかじめ外に待機していた一般の兵士たちが横合いからビーストマンに突撃する。

 ビーストマンは突然の横合いからの襲撃に驚き、一時的に混乱する。

 

 それを見逃す虹彩の剣ではない。

 虹彩の剣の槍兵、クークルト・フルーリンは自慢の槍を振り回して一回転させ、周囲にいたビーストマンを吹き飛ばす。

 ウォープリーストのクルフーア・マックネサが巨大な戦鎚を振り下ろし、ビーストマンの頭を砕く。

 アサシンのイーフェア・コンラが、切れ味の良い短剣でもってビーストマンの頸動脈を切断する。

 そしてフェルグロイの剣が、数体のビーストマンをまとめて引き裂く。酸や電流が迸り、ビーストマンを確実に絶命させる。

 

 しかしそれでも、ビーストマンの数は減らない。獅子奮迅の活躍を見せる虹彩の剣が削ったビーストマンの数は、十万からすればあまりにも少ない数だ。

 

 一般の兵士たちが横合いから殴りつけたことによって発生した混乱から、ビーストマンは立ち直る。

 

 一般兵はほとんどがビーストマンに食い殺され、その命を散らした。ビーストマンの全軍が、再び城壁を突破することに全力を出し始める。

 

 冒険者たちは、兵士たちは必死に戦っている。ビーストマンを都市に侵入させぬため。自らの祖国を守るため。

 槍が貫き、戦鎚が叩き潰し、短剣が切り裂き、魔法が降り注ぎ、剣が両断する。

 

 虹彩の剣は絶望の群れに押しつぶされながらも、それを必死に押し返す。周囲にいたはずの冒険者たちは、随分と少なくなり、その分虹彩の剣にビーストマンの攻撃が集中する。

 

 開戦からわずかな時間で、竜王国軍は、限界を迎えようとしていた。

 

***

 

 ごう、と唸りを上げて振るわれたアダマンタイトの剣が、ビーストマンの頭を守る腕をへし切り、そのまま頭蓋を真っ二つにする。

 フェルグロイは軽く息を吐き、続けざまにクークルトの背後に迫るビーストマンを叩き切る。

 

「すまない」

「気をつけろよ」

 

 クークルトに軽く返答し、次のビーストマンを唐竹割りに。

 アダマンタイトの剣は血糊でベタベタだ。魔法効果により切れ味が落ちることはないが、軽く振って血糊を落とす。

 

 息が荒くなる。気を抜けば倒れてしまいそうだった。フェルグロイは深呼吸をして、カッと目を見開く。

 もう何体のビーストマンを殺したかわからない。それでもなお、ビーストマンの数は多い。目に見えて減っているようには感じられない。未だビーストマンは四方八方から迫り来る。それを必死にいなし、かわし、叩き切るが、いくら殺しても次のビーストマンが襲いかかってくる。

 許されるなら今すぐ気を失いたい。フェルグロイの体はとっくに限界を超え、喉から手が出るほどに休息を欲していた。

 しかし休むことは許されない。休むのはこの戦いが終わってからだ。フェルグロイは竜王国の国民すべての命を背負っている。ここで休むわけにはいかない。

 

「おおおおおおおおお!」

 

 自らに喝を入れるように雄叫びをあげながら、フェルグロイは剣を振るう。体重の乗った一撃が自らに迫るビーストマンを叩き切った。

 

 そしてほんの一瞬。ほんの一瞬だけ、フェルグロイは気を休めた。それは意図したものではなく、限界を通り越した体がそうさせた。

 

 それがいけなかったのだろう。

 

「ぐっ、あ……!?」

 

 フェルグロイの体から、鮮血が噴き出す。

 見れば、その胸部は鎧ごとえぐれ、血肉と肋骨を外気にさらしていた。

 

 その原因となったのは、ひときわ大柄なビーストマン。おそらくは戦士級だろう。右手の鉤爪には、フェルグロイの血肉がこびりついていた。

 

 そのビーストマンはフェルグロイが気を休めた一瞬に、閃光のごとくフェルグロイの胸をえぐったのだ。

 

 フェルグロイはゆっくりとその場に倒れこむ。立てと体に念じるが、わずかに首が動くだけで、体はまるで動かない。

 

 このままではいけない。フェルグロイは思う。自分が倒れれば誰が都市を守るのか、と。援軍はない。すでに全軍がこの都市に集結していた。先ほどの横殴りが唯一の援軍と言える。

 

 状況は絶望的、ここで立たねば、待つのは都市の陥落。

 しかし体は一向に言うことを聞かず、大地に伏したままだ。フェルグロイは己の不甲斐なさに憤慨する。

 フェルグロイの意識が遠くなる。血を流しすぎたのだ。

 

 ああ、自分は死ぬ。

 

 フェルグロイは自分の死を予感した。

 

 目の前には、自分の胸を抉り取ったビーストマン。それは舌なめずりをしながらフェルグロイの方に一歩ずつ近づいてくる。その目は自らの同胞の仇をとれる喜悦に輝いていた。

 

(すまねぇ。俺はここで終わりみたいだ。後は頼む)

 

 フェルグロイは、襲いくる死の苦痛に覚悟を決めてゆっくりと瞳を閉じ——

 

***

 

 僕が竜王国の最前線の街に着くと、そこはすでに戦場だった。

 今僕がいる防壁の上から見える光景は地獄。地平の彼方より迫る幾万のビーストマンの軍勢。それを必死に押し返そうとするも、まるで敵わぬ人間たち。

 絶望という絶望を超えた、眼前に迫る滅びの風景。僕はその光景に、帰って冷静になってしまったのか、何の感情も抱けない。

 

 ただ、擦り切れた人間性が叫ぶ。あの人を脅かす醜悪な怪異を、忌々しき獣を、人類の怨敵たるビーストマンを、殺さねばならないのだと。

 刻一刻と人が喰い殺されていく。僕は死にゆく彼らを助ける力がある。ならばあとはやることは一つだった。

 

 僕は一振りの剣を引き抜いた。

 それは、淡い銀色の美しい大剣だった。

 その大剣は仲間とともに作り上げた傑作の一振り。特異な仕掛け武器にして神器級(ゴッズ)アイテムたる僕の最強装備。この世界で初めて取り出した、『本気』の装備だ。

 魔力の秘匿もされておらず、濃密な魔力を感じさせる最高峰のマジックアイテムであるそれを、僕は右手に握り、目を閉じて深呼吸を一つ。

 

 僕は目を見開く。眼前の戦場では、今まさに一騎当千の活躍を見せていた剣士がビーストマンの攻撃を受け、倒れ伏していた。

 

 僕は勢いをつけ、防壁から飛び降りた。

 

***

 

 ふ、とフェルグロイの鼻腔を何かの香りがくすぐる。それはこの世のものならざる香り。強いて言うならばそれは、そう、月の香りだった。

 

 フェルグロイは閉じかけていた瞳を開ける。なぜかはわからない。しかし、瞳を閉じていてはいけない気がした。

 

 瞳を開ければそこには一人の男が立っていた。夜色の装束に身を包む彼は非常に美しく、ともすれば女性のようだったが、しかしフェルグロイの相手の性別を見抜くタレントにかかれば性別を見分けるのは容易だった。

 

「そこの君。死ぬにはまだ早いだろう」

 

 彼はそう言うと、フェルグロイに赤い、血のように赤い液体をかける。フェルグロイが何ごとかと思う暇もなく赤い液体はフェルグロイに染み込み、そしてフェルグロイの全身の傷が瞬く間に塞がった。

 フェルグロイは驚愕する。あれはポーションだったのか!? と。

 フェルグロイは常人よりも頑丈で、それ故か深い傷を直そうとすれば常人よりも多く、または質の良いポーションを使う必要があった。そんなフェルグロイの、胸をえぐられた大怪我を一瞬で直すとは、どれほど効果の高いポーションなのか。

 

「ありがたい。これでまだ戦える……!」

 

 言って、立ち上がろうとするフェルグロイを、彼は手で制した。

 

「君はもう十分に戦ったのだろう。そこで休んでいるといい。ここから先は、僕が引き継ぐ」

 

 彼はそう言った後、右手に持つ大剣を掲げた。

 銀色の、美しい大剣だった。

 そして彼はその銀色の大剣に手をかざす。

 

 するとどうしたことか。銀色だった大剣は、暗い宇宙の深淵をその刀身に宿し、荘厳な青緑色の、否、青き月の光を纏う。

 

 いかなる剣にも勝る清浄な波動を放つ聖なる剣。その剣は銘を、『月光の聖剣』と言った。光り輝くその剣は、まさに導きの月光。青き月の力を宿す、神秘の剣である。

 

 その刀身を軽く振るえば、蛍のように月光の破片が漂い、夜に閉ざされた世界を暗緑色に照らす。

 その光景は何よりも神秘的で、この世のありとあらゆるすべてより美しかった。

 

 そして彼がその月夜の燐光を迸らせる月光の聖剣を、意思を込めて振るえば——!

 

「ああ……!」

 

 そこにあったのは救いの光景であった。

 

 天に爛々と輝く青き月の光、その奔流が巨大な半月状の刃となって飛翔し、百を優に超えるビーストマンを切り裂いていた。

 

 ビーストマンたちはその光景に恐れをなしたかのように距離をとる。

 それはビーストマンの、初めての後退だった。

 

 それは希望の光景。人類の切望した救い。

 

「さあ、クルーシュチャの狩りを知るがいい」

 

 彼、否、クルーシュチャはそう言って、月光の聖剣を煌めかせた。

 

 月光の刃が一閃二閃三閃と飛翔し、ビーストマンを削り殺していく。

 先ほどまでの苦労が嘘のように、ビーストマンの数が減っていった。

 

 フェルグロイはその光景を信じられなかった。あれほど恐ろしかったビーストマンたちが、塵のように払われていくのだ。

 

 ビーストマンたちがクルーシュチャに四方八方から襲いかかる。ビーストマンは、数の暴力で彼を押しつぶそうとしたのだ。

 しかし、それに素直にやられる彼ではない。

 

「ふんっ!」

 

 クルーシュチャは月光の聖剣を暗く輝かせると、その刀身を地面に勢いよく突き立てた。

 すると、地面から沸き立つように月光の散乱が放たれた。拡散する月光の波動は、ビーストマンたちを吹き飛ばし、肉片へと変える。

 

 そしてクルーシュチャは月光の聖剣を地面から引き抜くと、汚れを払うように一振りし、再びビーストマンたちへ光刃を飛ばす。

 月光が煌めくたびに血肉が舞い散り、無数のビーストマンが死んでゆく。

 

 状況に焦ったのか、戦士級のビーストマンの中でも有数の強者、すなわち人類にとっての恐怖、30レベルに近いそれらが徒党を組みクルーシュチャに襲いかかる。

 ビーストマンの切り札たる精鋭部隊であるそれは、月光に恐れをなしながらも、しかし勇敢にクルーシュチャに向かっていく。

 クルーシュチャはそれを見て、月光の聖剣に力を溜め、神速の突きを繰り出した。

 

「はあっ!」

 

 その掛け声に合わせるように、刀身から暗緑色の光の爆発が巻き起こり、月光が瞬く。神秘的で美しい月光の散乱は、しかしその見た目に似合わぬ破壊力を持って精鋭部隊を無様な肉塊へと変えた。

 

 破竹の勢いでビーストマンの数を減らすクルーシュチャは、ビーストマンの数が未だ多いのを見て、何事かを決意したように息を吐く。

 そしてクルーシュチャは月光の聖剣を自分の正面に、天に突き立てるかのように掲げた。

 月光の聖剣はひときわ強く輝き、暗い宇宙の深淵に舞い散る月光を収縮させる。

 それは月光の集結。拡散する月光の奔流が、刀身に蓄えられていく。

 

 クルーシュチャは月光の聖剣の輝きが極限に達し、光の破片が火の粉のように大気に撒き散らされると、月光の聖剣を勢いよく振り下ろした——!

 

 その瞬間、収縮した月光の奔流、ありえざる宇宙の深淵が封印から解き放たれる。極大の閃光が濁流のごとくビーストマンに襲いかかり、その光に触れた者から塵へと変える。

 それは撃滅の聖光。ありえざる青き月の神秘。

 地平の彼方まで届かんばかりの、絶対的な破壊力を宿す青き月の真なる力は、ビーストマンの軍勢の大半を飲み込み、喰らい尽くした。

 

 その光景はあまりに美しかった。切望した救いの光景に、フェルグロイは一筋の涙を流す。

 

 フェルグロイが感動の涙を流す一方で、ビーストマンはこの世に顕現した破滅の光景に絶望していた。

 

「あれはなんだ! あれはなんだ!! あんな化け物がいるなど聞いていない! 聞いていないぞ!」

 

 ビーストマンの部隊長らしきオスが吠えたてる。

 

「わかりません! わからないのです! 報告ではあんな輝く剣を操る化け物はいなかったはずです!」

 

 補佐官らしきオスが応える。それは部隊長が望む言葉ではなかった。

 

 その間にも、次々とビーストマンは死んでゆく。人類は希望の涙を流し、ビーストマンは絶望の声を上げる。

 

 拡散する青き月の輝きは、ビーストマンの尽くを潰し、砕き、切り裂き、焼き尽くし、灰燼に帰す。

 ビーストマンにわずかな抵抗すら許さず、狂おしき月の波動がビーストマンを地獄へ叩き込んだ。

 

 それは皆知らぬことだが、その月の奔流は、種族、月の魔物のスキルだった。日に一度のみ使うことができる、極大の範囲攻撃。そのスキルの名は〈青き月の奔流〉。ユグドラシルのGVGにおいても恐れられた、究極の一である。

 

***

 

「逃げろ! 撤退だ!」

 

 恐怖に駆られたビーストマンの指揮官たるワーウルフ、リュカオーンが叫ぶ。

 その声は獣の遠吠えにも似て、周囲によく響いた。

 リュカオーンは叫びながら自らも走り、月光を操る人間から逃げていた。

 

「やはりいた! いたのだ! 隠していたな! 隠していたのだ! 我が主の言う通りだ!」

 

 リュカオーンは狂ったように何事かを叫ぶ。それは大勢のビーストマンにとって意味のわからぬこと。

 

「いたぞ! 見たぞ! 見つけたぞ!」

 

 かつて十万を誇ったビーストマンの軍勢は、五分の一以下までに数を減らしていた。

 壊滅。その言葉がよく似合う、絶望的な状況だった。

 

 ビーストマンたちは月光に恐れ戦き、散り散りににげまどう。

 転んだビーストマンが、他のビーストマンに踏み潰されて肉塊に変わっていく。

 勇猛を尊ぶビーストマンとは思えぬ、無様な姿だった。

 

「指揮官殿! 指揮官殿は、あれが何か知っているのですか!?」

 

 副官らしきオスが吠えるように言う。

 それは攻め立てるような口調であった。知っていたのならば、なぜ何もしなかったのか。

 

「知っているが、知らない! あれ自体のことは知らなかった! だが俺はあれと同じ存在を知っている!」

「それはなんだというのですか!? あの化け物と同質の存在とは!」

 

 副官の問いに、しばし目をつぶり沈黙するリュカオーン。その顔には焦りと、畏怖と、恐怖が入り混じって浮かんでいた。

 

 やがてリュカオーンはゆっくりと口を開く。

 

「あれは、あの恐ろしき、畏怖すべき存在は!」

 

 リュカオーンは目を見開く。

 

「ぷれいやー! 我が絶対なる主と存在を同じくする、ぷれいやーだ!」

 

***

 

 ビーストマンは地平の彼方へと消えていき、後には無数の死体のみが残った。

 

 戦いは終わった。人類は、ビーストマンに勝利したのだ。

 

 フェルグロイは立ち上がり、歓声を上げた。

 

 その日は竜王国にとって絶望の日()()()

 今では、希望の日だ。



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第六話 再会と女王との謁見について

 防壁から飛び降りた僕は現時点で出せる全力を持ってビーストマンを撃退した。

 月光の聖剣を引き抜き、光の刃を瞬かせ、月の奔流で押し流した。

 

 人間の姿のまま十万を撃退するのはきつかったが、しかし切り札の一つを切ることによってなんとかなった。

 

 〈青き月の奔流〉という、僕の持つ最大の範囲攻撃はビーストマンたちを殺し尽くし、ビーストマンたちを潰走させた。

 都市は無事救われ、人類の脅威は去ったのだ。

 

 地平の彼方へと消えていくビーストマンたちを感慨深く眺めていると、僕に後ろから声がかかった。

 

「ありがとう、英雄(ヒーロー)。お前のおかげで、この都市は救われた。いくら感謝してもし足りない。本当にありがとう」

 

 その声の主は先ほど助けた髭の大男。胸の巨大な傷は、出し惜しみせずに使ったちょっと良いポーションのおかげかすっかり治っていたが、鎧には未だその傷跡が刻まれていた。

 髭の大男は涙を流しており、都市を守りきれたことを心から喜んでいるようだった。

 

 僕は命を賭して都市を守っていた大男に、そんな風に言われ、少し気恥ずかしくなる。

 所詮僕の力はゲーム由来の不純な力。結果的にそれによって都市を守れたとはいえ、僕よりも大男の行為の方が尊く思える。

 

「やめてくれ。僕は英雄(ヒーロー)なんて柄じゃない」

「じゃあなんと呼べば?」

「クルーシュチャ。僕の名前だ」

「オーケー。クルーシュチャ。俺の名前はフェルグロイ。フェルグロイ・マックールだ。フェルグロイと呼んでくれ。そして改めてお前に、最大の感謝を」

 

 そう言って深々と頭をさげるフェルグロイ。僕のようなまがい物とは違う本物の英雄に頭を下げられると、なんだか心苦しい。

 

 しかし僕は素直に感謝を受け取ることにした。

 

「受け取ろう。フェルグロイ」

 

 僕がそう言うと、フェルグロイは頭を上げる。

 フェルグロイが頭を上げたタイミングで、兵士たちや、冒険者たちが駆け寄ってきた。

 

「お前は竜王国の救世主だ!」

「あの光はなんだったんだ!? とにかくすげぇ!」

「ありがとう! 本当にありがとう!」

「竜王国は救われた!」

「人類の勝利だ!」

 

 彼らは口々に喜びと感謝の言葉を発しながら、僕を取り囲んだ。

 その顔は皆一様に喜びと感動に染まっており、僕の不純な力からくるものでも救いになったことを教えてくれた。

 

 ああ、この顔が見れたなら、人助けも悪くない。

 

***

 

 あの後、都市ではありったけの物資を集めて宴が開かれた。十万のビーストマンという絶望をはねのけた喜びはとどまるところを知らず、昼夜問わずの大騒ぎだった。

 

 当然僕もその宴には参加、というか主役に祭り上げられた。

 僕は毒無効を持ち酒には酔わないのだが、それゆえか大酒飲みと勘違いされ、しこたま酒を飲まされたのだった。

 

 戦時中に大宴会など大丈夫なのかと思ったが、十万のほとんどを削られたのは流石に堪えたらしく、斥候が調べたところによれば、ビーストマンたちは近隣にあった拠点すら放棄して本国に撤退していったようだった。

 故にしばらくは安全と考えられ、宴が行われた。

 

 そして宴が終わって一週間後の今日。僕は冒険者組合へと呼ばれた。冒険者登録は竜王国にきてからし直したため、今の僕は竜王国の冒険者だ。

 理由は予想通り昇格と、もう一つ。昇格については、驚くべきことにオリハルコンを飛ばしてアダマンタイトにだった。

 

 今、僕の首からは、アダマンタイトのプレートがかかっている。

 僕からすれば柔らかく、希少価値もそれほどではない金属だが、最高位の証明というものはやはり嬉しい。

 

 もらった時のことを思い出しながら、プレートを眺めてにまにましていると、背後からフェルグロイがやってきて、一方的に僕の方に腕を回し、肩を組むような姿勢になった。

 フェルグロイはフルプレートを脱いでおり、服の上からチェインシャツを着ているのみだ。

 あの時のポーションで傷は治ったが、鎧までは当然のこと治らなかった。それゆえフェルグロイのフルプレートは現在修理に出されている。

 

「よう。クルーシュチャ。元気にやってるか……って、お前もアダマンタイトになったのか。まあ当然だな。というかお前の功績を思えばアダマンタイトでも足らないくらいだぜ」

 

 フェルグロイとはここ数日で随分と仲良くなり、気安く喋れる間柄になった。こっちに来て初めての友人だ。

 

「ああ、僕もこれで最高位の冒険者だ。なんだかんだ言っても嬉しいものだな」

 

 僕はそう言ってふわりと笑う。

 フェルグロイはわずかに顔を赤くした後、顔をしかめて大きく舌打ちをした。

 

「ああ、それでお前が女だったらな……。いや、なんでもない。それと、今度の女王陛下との謁見。お前にも連絡は行ったか?」

「ああ、いま組合長から聞いたよ」

 

 先ほどまでいた冒険者組合で、僕は組合長から一つの話をされた。それこそが先程言ったもう一つ。

 それはビーストマン撃退の功績を称えて、この国の女王、ファールイロン・オーリウクルス直々に褒賞を与えられる、という話だった。

 しかも、我々が王宮に出向くのではなく、女王の方がわざわざこの都市までやってくるという。なんでも、重大な戦力を前線から引かせることはできないかららしい。

 

「……正直、公権力にはあまりいいイメージがないんだがな」

 

 脳内には、腐り果てた僕が元いた世界の国家権力が浮かぶ。

 僕が思わず顔をしかめながらそう漏らすと、フェルグロイが少し慌てたように僕に言う。

 

「そう言うなって。……俺も何度か会ったことがあるが、女王陛下は決して悪人じゃあない。善政を敷いてらっしゃるし、俺個人として尊敬できる人だ。ここは俺を信じると思って、女王陛下と会ってみてくれないか?」

「……フェルグロイがそう言うなら、信じよう。それに第一、俺が嫌な思いをしたのはこの国の女王様とは関係ないしな。知らない相手のことを勝手なイメージで批判するのは良くなかった。先入観を捨てて女王様と謁見しようと思う」

「おう、良い心がけだと思うぜ」

 

 そう言って僕の肩を叩くフェルグロイ。肩を叩く力は僕以外の人間が受ければ軽く吹き飛ぶほどだ。豪快なのは良いことだが、僕以外の人間にする時は少し手加減したほうが良いのではないだろうか。

 

「そういえば僕は宮廷作法なんかには疎いのだが、どうすれば良いのだろうか?」

「ああ、そうだな。……女王陛下が来るまでに、基本的なマナーについては俺が説明しよう。細かい作法なんかは、今からやっても身につかないだろうしな。お前は十万のビーストマンを撃退した竜王国の救世主なわけだし、多少の無作法は問題ないだろ。むしろ救国の英雄がペコペコしすぎるほうが問題かもな。敬語さえ使って、よっぽど無礼なことをしなきゃ大丈夫さ」

「そうか? ならまあ、大丈夫かな」

 

 僕は謁見への憂が減り、少し肩の荷が降りたような気分になった。

 

「それで、お前は今日これからどうするんだ?」

「ああ、ちょっとした知り合いがこの街にいてな。挨拶をしておこうと思ったんだ」

「そうか、俺は謁見への準備もあるし、ここでお別れだな。お前も謁見への準備はしておけよ」

 

 しておけよ、と言われたものの、正装は必要ないとのことだったし(冒険者は鎧が正装、ということだろう。最も僕が着るのは鎧ではないが)、必要なものの大半はアイテムボックスに全て入っているから、準備の必要などほとんどないのだが。

 

 フェルグロイと軽く手を振って別れた後、僕は街道を進む。昨日街の住民から聞いた案内によれば、もうすぐ着くはずだ。

 

 幾つかの角を曲がり、目的地の前へ。

 

 僕の目的地である、年季の入った、しかし決して古びてはいない三階建ての建物には、ヒッテリカ商会と書かれた看板が下がっている。

 

 僕の目的地とは、ヒッテリカさんの店だった。

 

 扉を開けて中に入ると、幾つかの棚が並んでいて、奥にカウンターがあり、中には従業員らしき人間が立っている。

 従業員は、僕に気がつくと笑顔を浮かべ「いらっしゃいませ」と言ってお辞儀した。

 

  僕はそのカウンターまで行くと従業員に話しかける。

 

「すまない、ここのオーナーに会いたいのだが」

「失礼ですが、何かお約束などがおありでしょうか?」

 

 そう聞いてくる従業員に、僕はヒッテリカさんと別れたときにもらっていた紹介状を手渡す。

 

 中にいた従業員は紹介状を確認し、僕に少し待つように言って、奥に入っていった。

 

 しばらくすると、ヒッテリカさんが奥からやってきた。

 

「お久しぶりです、クルーシュチャ様。あの時はお世話になりました。そして今回も、竜王国を救ってくださって本当にありがとうございます」

「自分にできることをしたまでのことだ。あなたが無事なうちに、駆けつけることができてよかった」

 

 僕がそう言って笑顔を浮かべるとヒッテリカさんも微笑んで口を開いた。

 

「お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます」

 

 僕が竜王国にきた理由はヒッテリカさんやローランドを助けるためだったりするのでお世辞でもなんでもないのだが、それを言うのは押し付けがましいだろうと思い、僕は口をつぐんだ。

 

「それで今日はどういったご用件で?」

「あなたの無事を確認したかったんだ。それと、旅用の細々したものを買いに。忙しいところを邪魔して申し訳ない」

「まあ、ありがとうございます。せっかくですし、奥でもう少しお話ししませんか?」

 

 ヒッテリカさんに案内され、僕は二階へ上がり、一つの部屋に案内される。

 

 部屋の戸をくぐると、上品な調度品たちに彩られた、落ち着いた雰囲気かつ見窄らしくは決して感じさせない部屋が僕を出迎えた。どうやらここが応接室らしい。

 

 部屋の中央には机とそれを挟むようにソファが置いてあり、僕はそのソファに案内され、それに腰掛けた。

 

 僕が腰かけてすぐに、ヒッテリカさんもソファに座る。

 

 召使がグラスを二人分用意し、それにデキャンターから果実水を注いだ。

 僕はそれを一口飲んで、口を開く。

 

「さて、何から話そうか」

 

***

 

 ヒッテリカさんとは今までしてきたモンスター退治の話をしたりなどして談笑を楽しんだ。

 基本的な話の流れとしては、モンスターが出てきてそれを僕が一撃で殺すだけなのだが、それを相手のモンスターの強さや生態なんかに話の重きをおいて、倒した方法についてはぼかすことで、最低限冒険譚らしく聞こえるような話にできたと思う。

 そんな風に自分のモンスター虐殺記をそれっぽい冒険譚風に語った後、旅用の細々したものや、ユグドラシルには存在しなかったマジックアイテムなんかを購入し、店を後にした。

 

 その後数日間、フェルグロイから基本的なマナーレッスンを受けつつ待っていたところ、ついに女王がこの街に到着した。

 女王とは領主館で会うことになっており、僕はフェルグロイたちとともに領主館へ向かった。

 

 領主館は上品な、しかし見窄らしくはない作りの、大きな建物だった。百年以下の歴史しか持たない国にしては古い建物のようで、歴史を感じさせる趣があった。

 

 そして僕は今領主館の中、謁見の間へと続く廊下を歩いている。その廊下には上質な赤い絨毯が敷かれており、魔法の明かりによって明るく照らされていた。

 

 正装は必要ないとのことだったので、装備は狩人装束のまま。帽子と口布だけは外してある。

 

 従者と衛兵に案内されながら、僕は右耳につけてあるイヤーカフスに意識を向けた。

 正常に作動してくれという願いを込めてイヤーカフスを軽く触る。

 小鳥の羽を模し、無数の宝石に彩られたイヤーカフスだ。

 夜に紛れる狩人装備に合わせるにはいささか不似合いだが、秘めたる魔法効果を思えば多少の問題は無視できる。

 

 そんな風に考えていると、やがて僕は巨大な扉の前に着いた。

 この扉の向こうにこそ、この国の女王がいる。はてさて、一体どんな人物なのか。

 

 扉を守る衛兵により、扉がゆっくりと開いていく。

 

 僕は扉をくぐった。

 

***

 

 片膝をついて跪く、国を救った英雄であるクルーシュチャを簡易玉座から見下ろすのは、竜王国の女王、ファールイロン・オーリウクルス。

 

 ファールイロンは女性らしい起伏に富んだ体を王座に沈めながら、可憐な顔を引き締めて思考する。

 

 一人の人間が十万のビーストマンの大半を殺し尽くしたという、どう考えてもアブナイクスリでもキメているとしか思えない報告が上がってきたのがつい先日。

 最初はビーストマンに襲われる恐怖に、報告者の頭がおかしくなったのかとも思ったが、同じ報告が別々の者からいくつも、それもかなり具体的に伝わってきたがために、どうやらそれが真実であるとわかった。

 

 真実であると判断してすぐに、ファールイロンは慌てて使者を立て、功労を讃えるという名目で、最前線の街へと向かった。

 

 王都に来てもらうというのも考えたが、十万のビーストマンの大半を殺し尽くした光の濁流を、機嫌を損ねて王都で炸裂させられたりでもしたら竜王国は終わる。

 もっとも、そんなに強力な力ならばなにかしらの代償があってしかるべきであるゆえ、そうほいほい撃てるものでもないだろうが。

 

 そして王都に呼びつけてそれで機嫌を損ねて国外に出て行かれても竜王国は終わる。

 十万のビーストマンを倒したとはいえ、未だビーストマンの本国にはおびただしい数のビーストマンがいるのだ。それらが攻めてきたときに、竜王国が頼れるのはもはや目の前に跪く男のみである。

 

 つまり、何が逆鱗ともわからぬ竜王相手に、手探りでこの国のために戦ってくれるように頼まねばならないようなものだ。しかも、相手の求めるものもわからない。

 とりあえず報酬になりそうな金品の類は大量に持ってきたが、それもどこまでで満足してもらえるか、だ。

 実のところ、竜王国に金銭的な余裕は殆どない。税収の殆どが防衛費に消え、王族ですら贅沢のぜの字もままならぬほどに困窮していた。今回持ってきた報酬になりそうなものも、一部は国宝だったものが混じっている。それすら持ってこねばならぬほど、金銭に余裕がないのだ。

 

 それでもファールイロンは、払えぬほどの重税だけは課さなかった。それは国の状態として、産業が死ねば国が終わるというのもあったが、しかしファールイロンが国民の飢える姿が見たくなかったというのがある。

 

 国民の笑顔が見れなくなったら、それはもう国として終わったも同然ではないか。

 

 ファールイロンはそう思い、公費を限界まで削って、真摯に国防に努めた。

 しかしそれでも四つの都市を落とされ、口さがないものは女王は無能であると批判した。

 

 ビーストマンの進行は勢いを増し、国が崩壊するのが早いか、ビーストマンに蹂躙されるのが早いか、といった段階になって、英雄が現れた。

 

 それはしかし英雄というにはあまりに強すぎた。

 たった一人で、人の身には余る光の濁流を放ち、ビーストマン十万を壊滅させるなど、もはや人間ではない。

 

 しかしファールイロンは決して恐怖はしていなかった。むしろ、ファールイロンは希望に満ち溢れていた。

 今までは、ビーストマンに対抗できる手段などなく、ただひたすら滅びを待つのみであったが、しかし今は手段ができた。

 後は捧げられるものをすべて捧げ、真摯に言葉を尽くし、彼を味方に引き入れればいいだけだ。

 失敗すれば滅びるのは今までも同じ。今回は成功の先に希望がある。

 

 それに相手はこちらに膝をつき頭を下げている。ということは少なくとも最低限の礼儀を守る気はあるはずだ。ならばこの場で何か機嫌を損ねたからと言って、殺されることはないだろう。

 

 ファールイロンは意を決して口を開いた。

 

「面を上げよ」

 

 その言葉に、クルーシュチャは頭を上げた。それはぎこちなく、臣従するという行為に慣れていないような動作だった。

 

 クルーシュチャが頭を上げた瞬間、ファールイロンはわずかに惚けた。なぜならクルーシュチャの顔が、あまりにも美しかったからだ。

 白磁のような肌。夜空のような瞳と、すらりとのびる鼻筋。妖艶な唇と、美しい輪郭。

 おそらくこの国のどんな美男美女を集めても、この男には敵うまいと感じさせる。

 

 まるで作り物のような、絶世という言葉すら程遠い美を放つクルーシュチャに、どきりと胸が跳ねるものの、ファールイロンはすぐに立て直す。

 

「此度のビーストマン撃退。まことに大儀であった。聞けば我が国のため、遠方より駆けつけてくれたという。心より感謝する」

「ありがたき幸せ」

 

 この調子ならばあちらは礼儀を守る気はあると見ていいだろう。ファールイロンはそう考えながら、次の言葉を紡ぐ。

 

「十万ものビーストマンが攻めてくるという時に、そなたという比類なき英雄がこの国に駆けつけてくれたのはまさに幸運だった」

 

 ファールイロンは王族にふさわしい威厳に満ちた、しかしどことなく可憐な声でクルーシュチャを讃える。

 

「そなたの功労は並ぶものなく、素晴らしいものであった。故に此度の功績を称え、報奨金及び国宝であるインガの角笛、そして大竜王蒼星最高勲章を授与する。報奨金の方は量が量なため、インガの角笛とともに後に渡す」

「ありがたき幸せ」

 

 召使が箱に入った勲章を銀の盆にのせて持ってくる。

 

 捧げられた勲章の入った小箱を受け取ったファールイロンはゆっくりと段を降り、クルーシュチャに小箱を差し出した。

 クルーシュチャは立ち上がってそれを受け取り、深々と頭を下げる。

 

 ファールイロンが再び玉座に戻り、クルーシュチャは勲章を懐に入れて跪く。

 

 元の配置に戻ったファールイロンは、しばし口をつぐみ、やがて意を決して口を開いた。

 

「そして最後に、クルーシュチャよ。我が国の誇るべき英雄よ」

 

 ファールイロンは一度そこで言葉を切り、僅かに顔を赤らめて言った。

 

「我と結婚せぬか?」

「は?」

 

 まるで意味がわからないといった風に首をかしげるクルーシュチャ。その顔は惚けたような表情を浮かべていた。

 

「本気ですか?」

「我の言葉を疑うか?」

「いえ、そのようなことは……」

 

 クルーシュチャは混乱から立ち直ったようで冷静な表情に戻っていた。

 

「して、返答はいかに」

 

 ファールイロンがそう急かすとクルーシュチャは僅かに間を空けた後口を開く。

 

「……私程度では女王陛下とは釣り合わぬかと」

「そなたで釣り合わぬというのならば我は永遠に独り身のままであろうよ」

 

 ころころと笑うファールイロン。

 彼女は続けて言葉を紡ぐ。

 

「これでも我はそれなりに魅力的な姿をしていると思う。詩人なんかはこの国一の美女などと謳ってくれるものもいる。どうじゃ? そそられぬか?」

 

 娼婦のように艶やかな笑みを浮かべ、誘惑するファールイロンに、しかしクルーシュチャは困惑の表情を浮かべる。

 

「私になにをお求めなのですか?」

「この国の守護を。滅び行く運命にあるこの国を、救って欲しいのだ」

 

 それはファールイロンの、心の底からの願いだった。

 

「あの光は連発できるものではありません」

「月に一度、年に一度、十年に一度かはわからぬが、あれほどの力ならば当然とも言えるな。しかし十年に一度でも、撃てるというのが重要なのだ。凄まじい力は抑止力となる。ビーストマンに対する、和睦交渉もできる可能性が出てくる」

「私は臆病ものです。私が勝てない相手からは、逃げますよ」

「そなたが勝てぬ相手が来れば、人類は終わりよな。どのみち変わらぬよ」

 

 しばしだまりこむクルーシュチャ。ファールイロンはそれをゆったりと待つ。

 

「女王陛下は、なぜ私と結婚しようと?」

「ひどい話だがな、おぬしを縛り付けたいのだ。この国に伴侶がいれば、この国を離れずらくなろう。ビーストマンと戦ってくれる気にもなりやすかろう」

「なぜそこまでして、私を求めるので?」

「そなたが人類の希望であるからだ」

 

 ファールイロンは立ち上がって、言う。

 

「この国は絶望的な状況にあった。もはやビーストマンの侵攻は止めることができず。この国は滅びを待つのみであった。そんな中現れた希望の光がそなただ」

 

 ファールイロンはゆっくりと段を降り、クルーシュチャに近づく。

 ファールイロンはクルーシュチャの手を取り、立ち上がらせた。

 

「この国は絶望的な状況下にある。それはそなたが十万を撃退してくれてなお変わらぬ。ビーストマンの数は未だ多く、そして奴らは一時侵攻を取りやめようと、再び攻めてくるであろう」

 

 ファールイロンはクルーシュチャと目を合わせ、言った。

 

「その時に、そなたが必要だ」

 

 力強い瞳が、クルーシュチャの瞳に浮かぶ。

 ファールイロンは少し間を開けて続けた。

 

「我は、我にできることならばなんでもしよう。全てをおぬしに捧げよう。故に、頼む」

 

 ファールイロンは深々と頭を下げた。それは王族にあるまじき姿勢であり、周囲に控えていた家臣たちがざわつく。

 

「この国を守ってくれ」

 

 懇願するファールイロン。その目からは涙がこぼれ落ちていた。

 

 クルーシュチャの顔が、赤く染まる。

 非人間的な白磁の肌が紅潮し、彼が人間であることを証明した。

 

「惚れました」

「え?」

「一心に国を思う、あなたのその姿に、惚れました」

 

 クルーシュチャは再び跪き、まっすぐにファールイロンを見つめた。

 

「今この時より私はあなたの剣となります。故に、女王陛下、ファールイロン・オーリウクルス様、私、いや、僕と結婚していただけませんか?」

 

 そう言って手を差し出すクルーシュチャ。

 

 クルーシュチャの求婚に、ファールイロンは驚きに目を見開く。

 じきに顔が紅潮し、ファールイロンは思わずといった風に聞き返す。

 

「ま、まことか?」

「僕の言葉を疑われるので?」

 

 皮肉気に笑うクルーシュチャに、ファールイロンは軽くたじろぐ。

 

「いや、それは……うむ。では、そなたを我の伴侶として迎えよう」

 

 微笑むファールイロンは、クルーシュチャの手を取った。

 

「よろしくな、旦那様よ」

「はい、よろしくおねがいします、ファールイロン様」

「様はもう要らぬ。敬語も良い。そなたは我の伴侶なのだから」

「そうかな? じゃあよろしく。ファールイロン」

 

 ふわりと微笑むクルーシュチャ。その顔は幸福に染まっていた。

 

***

 

 僕はたった今プロポーズした相手であるファールイロンの手を握りながら、自分の耳につけてあるカフスに意識を向けた。

 カフスの持つ魔法効果、それは真意看破。

 このカフスを身につけたものは、相手がその言葉を、心の底から言っているかどうかを確認することができる。

 一種の直感、あるいは擬似的な読心である。

 

 その能力によって、僕はファールイロンの言っていることが、心の底からの叫びであることを看破した。

 

 真摯に国民を思うその姿勢が真実であると看破できたからこそ、僕は彼女に惚れ込んでしまったのだ。

 身を捧げても国民を守ろうとする姿勢は、あまりにも美しく、輝かしかったから。

 

 交渉事に対する対策のはずが、それによってとどめを刺されるとは。

 

 なんとも言いがたい話である。



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第七話 つかの間の平穏ともう一人のプレイヤーについて

 

 ビーストマンの国の首都、その中心には、これまで存在しなかった巨大な城が立っていた。

 その城は荘厳にして華麗な装飾が施され、ビーストマンの国にはふさわしくないほどまでに美しかった。

 事実、それはビーストマンが作ったものではなかった。

 

 その城の最奥、玉座の間にて。

 

「此度の敗北、まことに申し訳ございません。斯くなる上は自害してお詫びしとうございます」

 

 この城に唯一残られた至高の方、慈悲深き絶対の主が腰掛ける玉座に向けて跪きながら、リュカオーンは自らの鋭い鉤爪を喉元に当てた。

 

 リュカオーンの心は絶望に満ちていた。

 それは死に対する絶望ではない。死は恐れるものではない。敬愛すべき主のためならば、リュカオーンは喜んで死ねる。

 しかし、今の自分に与えられるのは、主のために死ぬ名誉ではなく、恥辱にまみれた償いの死だ。

 

 無論、リュカオーンは此度の失態を自分の死によって償えるとは考えていない。しかし、リュカオーンはこれほどまでの失態を償う方法が、死以外に思いつかなかった。

 

 リュカオーンは指に力を込める。徐々に爪が皮膚に食い込み、喉が爪を突き破ろうとしたその瞬間、玉座から威厳と覇気に満ちた声が響く。

 

「やめろ。貴様が自害したところで何の意味がある。私の手駒が減るだけだ」

「はっ、申し訳ありません、我が主」

 

 リュカオーンは即座に手を引っ込め、再び完璧な姿勢で跪いた。

 死を迎えられず、リュカオーンの絶望はさらに深まる。

 あれほどの失態を犯した上に、死すら許されず主に失望されたまま生き恥を晒さねばならないのはリュカオーンにとって苦痛だった。

 

「ですが此度の敗北、私程度の死では償えぬことはわかっておりますが、私の思いつける償いはもはや死しかなく——」

「よい。許す。償う必要もない」

「は? い、今何とおっしゃられたので?」

 

 思わず、といった風にリュカオーンは主の言葉を聞き返す。

 

「許すといったのだ。聞こえなかったか?」

「も、申し訳ありません!」

 

 リュカオーンはさらに頭を深く下げ、謝罪した。

 リュカオーンの絶対にして至高なる主は無駄を嫌う。同じことを二度言わせるという大きな無駄を主にさせたという罪の意識が、リュカオーンを攻め立てる。

 

「そもそも、貴様の此度の敗北を失態とは考えていない。此度の戦いの目的を考えれば、戦争の勝ち負けなどどうでもよかったのだ」

「しかし……」

 

 負けは負けだ。

 目的は勝利ではなくとも、負けるよりは勝つ方が良いに決まっている。

 そんな風なことを言おうとしたリュカオーンを遮って、主人は口を開く。

 

「目的を達成した、という点に注目すれば、此度の戦は大成功だ。私は貴様に褒美を与えていいとすら思っている」

「そんな! 褒美など! 我が主に最上の結果をもたらせなかった私には罰を受ける責あれど、褒美を受けとる権利などありません!」

 

 リュカオーンは慌てて頭を上げ、悲鳴のような声をあげて拒否する。戦に負けた自分が褒美を受け取るなど恐れ多いことこの上ない。

 

 焦るリュカオーンに、主はゆったりと言葉を紡ぐ。

 

「ふむ、此度の作戦目標がなんだったか、覚えているか?」

「は、はい。確と心に刻んでおりました。主人より与えられたビーストマンどもを率いて都市を攻め、『ぷれいやー』が出てくればその情報をなんとしてでも持ち帰り、出て来なければ都市を攻め落とせとの命を受けました」

「そうだ」

 

 リュカオーンの主は、手に持つ上質なワイングラスに入ったワインを飲み干した。即座に給仕によって、グラスにワインが注がれる。

 

 リュカオーンの主はワインによって潤った喉で声を発する。

 

「そもそも、なぜお前にこの世界にきてから得た兵力のみをもたせてあの都市を攻めさせたのだと思う? いや、さらにいうならば、これまでの戦で一度もスコルとハティを使わなかったのはなぜだと思う?」

 

 スコルとハティというのは、この城の最高戦力たる『えぬぴいしい』だ。『えぬぴいしい』というのは、至高の方々が直々に創造されたしもべのことを言う。リュカオーン自身も『えぬぴいしい』だ。『えぬぴいしい』がどう言う意味かは知らないが、主たちがそう呼ぶのだから、そう言うものなのだろう。

 スコルとハティは共にレベル100であり、この城で最強たる主を除けばただ二人のみのレベル100だった。

 そんな二人を使わなかった理由、と聞かれて思いつくのはただ一つ。

 

「ふさわしくない、と思われたのでしょうか?」

 

 この世界の存在は弱すぎる。この城に存在するのは全部で七十人。そのうち戦闘員は二十人だ。

 この世界で最高レベルの強者ですら、その二十の戦闘員のうち最下位に位置するリュカオーンとほぼ同レベルである。

 

 そんな世界でスコルとハティを使うには、相手の格が足りていないと主が判断したのではないか。リュカオーンはそう考えた。

 

「残念だが、違うな」

 

 主の否定に、リュカオーンは自らが主の期待に応えられなかったことを知り、恥じた。

 

 リュカオーンは主の副官ならば理解できるのであろうと、この場にいない主の副官に想いを馳せ、自らの非才を嘆こうとし、しかしそれが「そうあれ」と自らを生み出した創造主への不敬につながると思い直し、やめた。

 

「では、何故なのでしょうか?」

 

 リュカオーンの問いかけに、主人はワインで口を濡らしてから答える。

 

「我々に匹敵する敵に我らの戦力を知らせぬ為。まずそれが第一だ」

 

 敵。そう聞いて思い浮かぶのは、忌々しき月の光を操る人間。

 

 リュカオーンはあの時の敗走を思い出し、思わず歯噛みする。

 

「敵、……『ぷれいやー』ですか」

「そうだ」

 

 主はワイングラスを給仕が持つ銀の盆に置き、手を組んで口を開く。

 

「私がこの世界に来てから、最も警戒しているのが私と同等の存在であるプレイヤーだ。幸いビーストマンの国にはプレイヤーはいなかったが、しかしだからと言ってこの世界のどこにもプレイヤーがいないと判断するのは愚劣極まりない」

 

 ぷれいやー。リュカオーンらえぬぴいしいとは違う、偉大なる世界の開拓者たち。

 彼らは皆強力な力を持つ。

 

「この世界にプレイヤーが来訪していたとして、人間に味方するプレイヤーは多いだろう。私はそう見越して、人間の国を攻める際、極力こちらの手の内を晒さぬように気をつけた。プレイヤーと敵対する際、情報がどれだけ漏れているかで勝率が決まると言ってもいいほどに、情報というのは大切なものだ。故にこそ私はスコルとハティを使わなかったのだ」

「ご慧眼、感服いたしました」

 

 リュカオーンの心の底からの賛辞を受けつつ、リュカオーンの主は玉座の背もたれに体重を預け、口を開く。

 

「プレイヤーの多くはおそらく私と敵対するだろう。そして私に匹敵するプレイヤーも少なくはない。戦いになった時は、もちろん負けるつもりはないが、勝利への布石は大いに越したことはない。事前に情報を集め、相手に情報を渡さず、奇襲によって一気に叩く。プレイヤーという敵を排除するためには万全を期さねばならぬ」

 

 リュカオーンの主は組んでいた手を外し、肘掛に手を置いた。

 

「さて、私がどれだけ他のプレイヤーを警戒しているかはわかったな? 確かに貴様は負けた。だがしかし今私が望んで止まない情報を生きて持ち帰ったのだ。それは十分に褒美に値する」

「我が主……!」

 

 なんと慈悲深い方なのか。

 リュカオーンはより一層忠誠を強め、頭を下げた。

 

「貴様が持ち帰った情報は非常に有用だった。あとは貴様の情報以外にプレイヤーがいないかさえ確かめれば、奴をスコルとハティに殺させるだけだ」

「では再び威力偵察を?」

「そうだな、貴様と、誰かもう一人に二つの離れた都市を同時に攻めさせよう。それでどうなるかによってまた策を練る」

「はっ!」

 

 リュカオーンは敬意を、畏怖を、忠誠を込めて深く頭を下げる。

 

「御命令、確と賜りました。我が敬愛すべき主。ヴァナルガンド様」

 

***

 

 僕の情熱的なプロポーズから数週間。

 転移によっていつでも安全に最前線の街へと転移できるため、婚姻についての手続きや、色々と政務をこなすために、王都へ移動した。

 諸々の手続きを終えた後、形式的に必要とのことで王族としては質素な、しかし国民からは大いに祝福された婚姻のパレードを開催した。

 王都に多くの人が集まり、ささやかながら露店なども開かれ、王都は活気付いた。

 

 パレードが終わってからは、基本を王都で過ごして、敵が来たという知らせを〈伝言/メッセージ〉の魔法で受け取ったら転移によって戦場へ出向くという方式で政務と国防を両立した。

 

 そして今、僕は休憩時間を利用して、対面にいる僕の伴侶となった女性、ファールイロン・オーリウクルスとともに、午後のティータイムを楽しんでいた。

 

「ようやくいろいろと落ち着いてきたな」

 

 そう言いながら僕はソーサーの上に置かれた品のあるティーカップを持ち上げて、口へ運んだ。

 ティーカップの中のミルクティーを一口飲むと、まろやかな味わいとともに芳醇な香りとほのかな魔力を感じる。

 このミルクティーに使われている茶葉はただの茶葉ではない。この茶葉はユグドラシルの九つのワールドの一つ、極寒の世界、ヨトゥンヘイムのとある山で取れる霜の茶葉。名を「フロスト・ドロップ」という。

 フロスト・ドロップは魔力を持った植物であり、紅茶として加工することで、飲んだものに冷気に対する耐性を一定時間与える。

 最も、それほど上質な素材ではないため、与えられる耐性は100レベルに達したプレイヤーからすればそこまでのものではないが。

 

 そしてユグドラシル由来であるこの茶葉は、当然この世界で取れたものではなく、僕の私物である。

 

「そうだな。ビーストマンの攻撃も、先日の二つの都市への同時攻撃を最後に、しばらく止まっているしな」

 

 そう言いながらファールイロンも紅茶を手に取ろうとして、ピタリと止まる。

 

「どうかしたか?」

 

 僕が声をかけるとファールイロンは顔をしかめ口を開く。

 

「いや、なんというかな。これを飲むということはつまり液体のミスリルを飲んでいるようなものと思うと、恐れ多くてな」

 

 フロスト・ドロップはユグドラシルではそこまで価値のあるものでもないが、しかしこの世界においては伝説級の素材だ。

 煮出して飲むだけで強力(この世界基準)な冷気への耐性を一定時間得ることができるなど破格の魔法植物である。

 

 当然、売ればとてつもない値段がつく。それこそ、一杯が同量のミスリルに匹敵するほどの。

 

「まあ、このくらいの贅沢はいいのではないか? 僕の提供したユグドラシル金貨で、財政は持ち直したのだろう?」

 

 ビーストマンへの防衛費などで、かなり限界に近づいていた竜王国の国庫を見て、僕はアイテムボックスに眠っていた1G(10億)近い大量の金貨を、ファールイロンがもうやめてくれと叫ぶまで放出した。

 結果として国庫には黄金が満ち、財政難は解消され、逆に唐突に増えた金の使い道に困るという現象さえ起こった。

 

「そなたには感謝しておる。しておるが、なんというか……このままではこの国がお主に依存してしまいそうでな……。そなたとは持ちつ持たれつというか、健全な関係でいたいのだが……」

「しかし今は緊急事態。金はいくらあっても困らんだろう。使えるものは使うべきだし、健全不健全で民衆に不自由を強いるわけにもいくまい」

「まあ、そう言われればどうしようもないのだが、妻として夫に頼りきりというのはダメだろう。何かお主に報いたいと思うのだが、お主に捧げられるものが何もないからな」

 

 顔を赤らめて言うファールイロンに、微笑みかけながら僕は口を開く。

 

「報い、というのならばすでにもらっている。君が隣にいてくれれば僕はもう十分だ」

「なっ!」

 

 思わず声をあげ、顔を真っ赤にするファールイロン。

 

「そう言うのは、ずるいぞ」

 

 俯いて言うファールイロンが、あまりにも可愛くて、僕はくすりと笑う。

 

 ファールイロンは俯いてしばらく唸った後、落ち着いたようで、顔を上げミルクティーを飲んだ。

 

「ふう。……しかしそなたはデタラメよな。莫大な財を持ち、並ぶものなき武を誇る」

「僕よりも財を持つものは多いし、僕よりも強いものも多いのだがね」

「それはユグドラシルという場所での話であろう?」

「まあ、そうだな」

「ユグドラシルとはどんなデタラメな場所なのだ……」

 

 ファールイロンの呆れたような、驚愕したような、あるいは諦めたようなため息交じりの言葉に、僕は思わずユグドラシル時代の仲間たちへと思いをはせる。

 

 モモンガさんは、仲間たちはどうしているだろうか。あるいは彼らもこの世界に来ているのだろうか。

 

 大量の金貨の対価として、国の情報機関でナザリック、あるいはそれへの手がかりを探してもらっているが、今のところそれらしい情報は見つかっていない。

 仲間たちが異形種であるというのはぼかして話したため、それが災いしている可能性もあった。

 あるいは人間の生存圏以外に来ている可能性もあるが、しかし来ていないという可能性が最も高いだろう。

 

 思わずため息が出る。仲間たちとはもう二度と会えないのだろうか?

 

「どうした?」

 

 ファールイロンが僕の顔を覗き込む。どうやら深刻な顔をしてしまっていたらしい。

 

「いや、少しかつての仲間について考えてしまってな」

「ああ、アインズ・ウール・ゴウンか。……すまぬ、何も手がかりを見つけられなくて……」

 

 落ち込むファールイロンに、慌てて声をかける。

 

「いや、気にすることじゃない。仲間たちはきっと元気でやっているだろうからな。それに、今はかつての仲間より大切なものもできた。僕は今幸せだよ」

「そう、か?」

「ああ、そうだとも」

 

 僕はファールイロンの手を握りながら、笑いかける。

 

 ファールイロンは僕の目を見つめ、決心したように口を開いた。

 

「そうか。……だが、いつかはきっと、そなたの仲間たちを探し出してみせるぞ!」

「ああ、よろしく頼む」

 

 笑顔が戻ったファールイロンに、僕も微笑み、握っていた手を若干名残惜しく思いながらはなした。

 

「ファールイロン」

「なんだ?」

「愛してる」

「我もだ」

 

***

 

「ふむ、それでは二正面作戦の際も、出て来たのは一人だけだったのだな」

 

 王座の間に、覇気に満ちた声が響く。

 

「はっ、かの月光を操る人間は、片方をあの光の津波で殲滅した後、もう片方へと移動し、今度は光の津波を使うことなく万夫不当の大立ち回りを演じ、我々を撃退しました」

 

 リュカオーンはヴァナルガンドへと戦の結果を報告した。

 それはヴァナルガンドを満足させるに足る情報だったようで、ヴァナルガンドは微笑んでいた。

 

「そうか。ならばあのスキル、あるいは魔法はクールタイムが長い、あるいは回数制限が厳しいと見るべきであろう」

「おっしゃる通りかと思われます」

「よく情報を持ち帰った。よくやったな、リュカオーン」

「恐悦至極……!」

 

 ヴァナルガンドから直接与えられた賞賛に、絶頂しそうなほどの喜悦がリュカオーンの全身を駆け巡った。

 リュカオーンは深く頭を下げ、感謝の言葉を紡いだ。

 

「相手は一人であるとみていいな。これならばスコルとハティを出撃させれば終わる」

「では今すぐにでも?」

 

 ヴァナルガンドはしばし悩み、答えた。

 

「二ヶ月後だ。捨て駒とはいえ、戦力が減ったのは痛い。二ヶ月かけてビーストマンどもを再編し、スコルとハティとともに同時に攻めさせる」

「はっ!」

「そのプレイヤーの位置はわかるな?」

「はい。占術を使い把握しています。奴は基本的に竜王国の王都におり、戦の時のみ前線に出ているようです」

「ならば二ヶ月後、王都へ転移門を開き、スコルとハティ及びビーストマンどもを送る」

「承りました」

 

 ヴァナルガンドは、大きく裂けた口を歪め、低く、威厳のある、王のような声を出した。

 

「決戦は二ヶ月後だ、待っていろよヒューマン」



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第八話 竜王国王都の崩壊と赤き月の夜について

 それはある晴れた日のことだった。

 偉大な英雄によって、ビーストマンに怯えずに済むようになった竜王国。その王都に巨大な黒い半球が浮かび上がった。

 

 それがなんなのか、人々は一瞬理解しかねた。呆けたように、人々は巨大な黒い穴を見る。その反応は様々だったが、皆総じてなんとなく、その穴に恐怖を抱いた。

 

 半球が浮かび上がった数瞬後、半球から獣の叫び声が聞こえた。

 それは低く、重く、何よりも恐ろしい獣の鳴き声。

 

 その鳴き声が消える頃に、半球から、それは現れた。

 

***

 

 巨大な咆哮が聞こえた。それはおぞましき獣の咆哮。王都において聞こえてはならない、おそろしき咆哮。

 

 王城の自室にてくつろいでいた僕は、その咆哮を聞いてすぐさま外へ出た。

 

 外では、絶望の光景が広がっていた。

 

 それはあり得てはならない光景。

 破壊され、火の手が上がる街、民衆を襲うビーストマン、助けを求め逃げ惑う民衆。

 そして、暴れ回る天を衝く二頭の巨躯の狼。

 

 燃えるような赤い瞳を持つ、神々しいほどに美しく、覇気に満ち溢れた、十階建てのマンションほどの体高をもつ二頭の巨狼が、その巨体を惜しみなく使い、王都を破壊していた。

 

「何が、起こった……!?」

 

 思わず驚愕の声が漏れ出る。その声を聞きつけたのか、同じく外に出ていた衛兵が答えた。

 

「巨大な黒い半球が突如出現し、そこからあの怪物どもが出てきて、街を破壊し出したようです!」

 

 その言葉を聞いて僕は原因を直感する。

 

「なんだと!? 黒い半球、〈転移門/ゲート〉か? ということはプレイヤー!?」

 

 〈転移門/ゲート〉は、魔法の一種であり、第十位階魔法に当たる。超位魔法を除けば最高位の魔法であり、それが使われたということは相手に高レベルの魔法詠唱者がいるということだ。

 そしてそんな高レベルな魔法を使える存在といえばプレイヤー、あるいはそれに類する存在しか思いつかない。

 

「あれを知っているのですか?」

「わからない。だが僕の予想した存在だとすれば君たちが戦うのは無理だろう」

「ではどうされるので!?」

「僕が行く。おそらく戦闘になるだろう。民衆の避難を急げ」

「はっ! ……ご武運を」

「ああ、ありがとう」

 

 僕は衛兵との話を終わらせると、全速力で移動し、今尚街を破壊している二頭の巨狼の前に躍り出た。

 僕のスキルによれば、二頭のレベルは100。一体だけならまだしも、二体のレベル100相手に戦うとなればきつい。しかし、僕は戦わなければならない。

 

 僕が二頭の前に立つと、二頭は動きを止め、僕を赤い眼球で見つめた。

 僕は二頭を見つめ返し、口を開いた。

 

「プレイヤーか?」

「否、我らは『えぬぴいしい』だ」

 

 狼の片割れがそう答えた。NPCが自我を持って動いているというのはいささか驚きだった。しかし今はそんなことを考えている余裕はない。

 

「何が目的だ?」

「その問いに答える前に聞こう。ビーストマンどもの軍勢を光の津波で滅ぼした人間は貴様か?」

 

 狼の片割れが問いかける。その問いに一瞬悩むが、正直に答えた。

 

「……そうだ」

 

 僕がそう答えると、二頭の巨狼は裂けた口を大きく歪めて笑った。それは嘲るような不遜な笑みであり、故に不快だった。

 

「ならば最初の問いに答えよう! 我らの目的、それは!」

 

 狼の片割れはそこで一度区切ると、声を荒げた。

 

「貴様の命だ!!」

 

 ビリビリと叩きつけるような声量で発せられたその声は、おそらく王都中に響いただろう。

 半ば予想していた答えだったこともあり、僕は平静を保つ。

 

「交渉の余地は?」

「貴様が我らに味方するのならば」

「それは……!」

 

 到底飲める条件ではない。彼らに味方するということは竜王国を滅ぼすということだ。以前ならば命惜しさに頷いた可能性もあるが、今はあり得ない。

 

 最愛の伴侶の顔が脳裏をよぎる。

 

 僕はアイテムボックスから月光の聖剣を取り出した。

 

「交渉決裂だな」

 

 狼の片割れが言う。

 

「そのようだ」

 

 僕がそう返すと、二頭の巨狼はにたりと笑った。

 

「我は偉大なるヴァナルガンド様のしもべ、スコル」

「我は偉大なるヴァナルガンド様のしもべ、ハティ」

「これより」

「蹂躙を」

「「開始する」」

 

 二頭の巨狼——スコルとハティは前口上を終えると、スコルは業火の鎧を、ハティは冷気の鎧を身にまとった。

 燃え盛る巨狼と凍てつく巨狼となって絶妙のコンビネーションで突進してくるスコルとハティ。

 魔法的な炎と冷気は、中和することなくあたりを破壊する。

 属性に対する耐性に乏しい僕には荷が重い敵だ、が。

 

「負けるつもりはない!」

 

 僕は叫び、その突進をスキルによって転移し、避け——ようとして。

 

「がっあぁ!?」

 

 転移することができずその突進をもろに食らった。

 爆炎と冷気が僕を襲う。焼き尽くされる痛みと体が氷結する痛みが僕を襲い、たまらず呻き声をあげる。

 HPが大幅に削られたのがわかる。

 転がるようにスコルとハティから距離を取った。

 

「何が……!?」

 

 僕の思わず漏れ出た疑問に、スコルが答える。

 

「不思議か? 人間よ」

「何をした?」

「なに、簡単なことよ」

 

 スコルとハティが嘲るように笑う。面白くてたまらないと言うふうに。弱者をいたぶる強者のように。

 

「——転移封じ。主より賜ったマジックアイテム。かつて主たち至高の方々が滅ぼしたギルドより奪った『デッドロック』なるそれは、範囲内のありとあらゆる転移を封じる!」

「なっ——!」

 

 それは。

 それはとてつもなく『やばい』。

 僕の戦闘は転移と時間操作に主軸を置いている。

 雑魚との戦闘なら基礎能力と攻撃スキルでごり押しできるが、同格相手ならばそれは通じない。

 転移は僕の戦闘の主軸の一つであり、それを封じられたと言うことは、片手を封じられた状態で戦うようなものだ。

 転移阻害対策のスキルは持っている。しかし、それは本来の姿でしか作動しないスキルだ。

 その上僕のステータスは今、80レベルにまで落ち込んでいる。

 

「さて、命乞いでもしてみるか?」

「残念だが、僕の転移を封じた程度で勝った気になってもらっては困る」

 

 ハティの挑発にハッタリを返しつつ、戦略を練る。転移ができないとなればいつもの戦法は通じない。

 

 しかし戦略を練る時間をくれる相手ではなく、ハティの冷気のブレスが僕を襲い、それをすんでのところでかわしたところにスコルの牙が迫る。

 僕は月光の聖剣でスコルの顎をかち上げ、牙をかわす。

 凄まじい衝撃に手が痺れ、危うく月光の聖剣を取り落としそうになる。

 そして、牙自体をかわしても、余波の炎が僕を焼く。

 

 息をつく間も無くハティの冷気を纏った爪が繰り出され、それを慌ててかわしたところにスコルの炎のブレスが吐き出される。僕はそれを月光の聖剣から光波を飛ばすことで、それを一瞬の盾として使い、わずかな時間を稼いで転がるようにブレスをかわした。

 

 スコルとハティの絶妙のコンビネーションで繰り出される怒涛の連続攻撃をなんとかしのぐものの、余波として与えられる属性ダメージが痛い。

 

 HPがじりじりと削られて行く。

 このままではジリ貧だと思うものの、打開策は見当たらない。

 

 僕は襲いくるハティの巨大な爪を避け、お返しとばかりに月光の聖剣から光波を放つ。それはハティに直撃するものの、冷気の鎧に減衰され、有効打とはならない。

 

 強力な時間操作スキルは使えない。あれは本来の姿でなければ使えないのだ。

 元の姿に戻ることはできない。僕は人間であらねばならない。

 

 時間加速などの下位の時間操作スキルは使っているが、焼け石に水だ。

 

 さらに僕は青き月の奔流を放てない。あれは広範囲にわたるスキルであり、今使えば国民が巻き込まれるからだ。

 

 僕はスコルの爪をかわし、ハティのブレスを避け、スキルを発動させる。

 

「〈炎血濁流〉!」

 

 炎を伴った鋭い鮮血の奔流がハティを貫く。螺旋を描く血の奔流はハティの血肉を抉った。HPを対価にした強力なスキルだけあって、ハティのダメージはそれなりに大きかったようで、ハティはたたらを踏んだ。

 

 僕は勢いに乗って月光の刃を何度も飛ばし、スコルとハティを牽制する。

 牽制によってわずかにできた隙を見て、炎で焼かれるのも気にせずスコルに肉薄し、スコルの右前足に勢いよく剣を突き立てた。

 そして炎の鎧に焼かれながらも、突き立てた剣から月光の散乱を解き放つ。収束した月の光が爆発し、スコルの肉を大きく削った。

 あたりに飛び散るスコルの血は、地面に落ちることなく僕に吸収される。これは僕のパッシブスキル、〈血液回収/リゲイン〉の効果だった。

 このスキルは攻撃した際、返り血を浴びることでHPを回復することができるスキルだ。

 強力なスキルだが欠点もあり、血液を持たない種族に倒しては効果がない。

 

 スコルは足を振り僕を振り払おうとするが、僕は剣を楔にスコルにしがみつく。

 そしてもう一度、月光の散乱を解き放った。

 

「ぐぉおっ!」

 

 たまらずスコルが声をあげる。

 スコルの肉が大きくえぐれ、骨が見えていた。

 僕はスコルの声に笑みを漏らし、その隙を突かれ振り払われた。

 

 振り払われた勢いに乗って僕は一気に距離を取り、一つのスキルを発動する。

 

「〈彼方への呼びかけ〉!」

 

 それは高次元暗黒への接触。星界への接触の失敗作。もたらされるのは星々の欠片。

 天へと掲げた手の内で小規模な宇宙を発生させ、それを爆破することで無数の光弾を放つスキルである。

 それは対象を追尾し、大きなダメージを与える。

 

 無数の光弾がスコルとハティへと叩き込まれ、しかしスコルとハティは痛みを無視しているかのように平然とこちらへ突っ込んできた。

 

「〈噛み砕く大顎〉!」

 

 スコルがスキルを発動する。その後ろではハティが冷気のブレスを発射しようとしている。どちらを避けてもどちらかに当たる。

 ならばせめて耐性のある物理攻撃を受ける——!

 

 僕はスコル側に体をそらし、そして——

 

「がっぁああぁああああ!」

 

 全身に激痛が走る。今僕はどうなっているのか?

 とにかくひどいことになっているのは間違いない。

 

 僕はスコルに咀嚼された。巨大な牙を体に突き立てられ、全身をズタズタにされた。

 僕の耐性を強引に突破する圧倒的な暴力は、僕の体を完膚なきまでに破壊し、HPを死亡寸前まで減らした。

 

 僕は激痛をこらえながら引きずるように全身を使って距離を取り、自己再生のスキルを使った。

 巻き戻すように全身の傷が治っていき、HPが全回復する。

 

 荒い息をつく。自己再生系のスキルは日に三度しか使えない。

 貴重な一回がこれで消えた。

 

「ふむ、なかなかにしぶとい」

 

 スコルが言う。そう言うスコルも自己再生系スキルを持っているようで、抉った前足が徐々に治っていた。

 

 僕はスコルの言葉に返答せず、月光の聖剣を構えなおし、二頭へと走り出した。

 

***

 

「……一体何が起こった?」

 

 落ち着いた調度品に彩られた執務室にて、ファールイロンは伝令に問いかける。

 伝令の男は表情を硬くし、その問いに答えた。

 

「今日正午ごろに黒い半球が突如として出現し、そこからあの怪物とビーストマンが出現しました。現在王都ではおびただしい数のビーストマンが市民を襲っています。憲兵や騎士たち総出で対処しておりますが、おそらく壊滅的な被害になっているかと」

 

 伝令の報告に思わず手で顔を覆う。一体なぜそんなことになってしまったのか。

 ファールイロンは歯噛みする。

 ビーストマンたちがこんな隠し球を持っていたとは予想すらできなかった。

 否、そもそもただの転移ですらクルーシュチャが実演するまでは伝説だと思っていたと言うのに、あんなに大規模な転移など、予想できるわけもない。

 

 ファールイロンはなんとか気を落ち着けて、次の質問をする。

 

「あの巨狼はなんだ?」

「わかりません。……あの巨狼については、現在クルーシュチャ様が一人で戦われています」

 

 その言葉にファールイロンは目を見開く。

 

「なっ! 兵たちは何をしている!」

「クルーシュチャ様の指示で市民の避難に全力を尽くしています。クルーシュチャ様は、通常の兵ではあれと戦うのは無理だと判断されたようで、あれとの戦いは一人でする故に兵たちは市民の避難に全力を尽くせとの指示をされたようです」

「クルーシュチャがそう判断したのか……」

 

 ファールイロンは気を落ち着ける。そもそも、戦いにおいて圧倒的な個は群に勝る。あの超級のクルーシュチャが兵の助けはいらないと言ったのならば、あの戦いに群が入り込む余地はないのだろう。

 

「クルーシュチャの勝利を祈りながら、民をビーストマンから守ることに専念するしかないようだな」

 

 ファールイロンはそう判断する。

 

「引き続き民を一人でも多く救えるように行動しろ」

「はっ!」

 

 伝令が退室し、執務室の中はファールイロン一人になった。

 

「頼むぞ、旦那様よ」

 

 ファールイロンは静かに、夫の勝利を神に祈った。

 

***

 

「がっあぁあああぁあ!」

 

 雄叫びをあげながら、ハティの牙を刃で受け止める。

 戦いからしばらく経ったが、未だスコルとハティは健在で、僕は徐々に追い詰められている。

 

 牙から立ち上る冷気のダメージがじりじりとHPを削り、僕を死の淵へと追いやろうとする。

 僕はそれを拒絶する。なんとかハティの顎を弾き、距離を取った。

 

 肩で息をする。疲労無効により疲労はないが、しかし体が酸素を求めていた。

 

 息を吸い、月光の聖剣を横薙ぎに振るう。すると光波が飛び出し、青き月の光を撒き散らしながらハティへと突き進む。

 ハティに直撃するが、しかしハティはそれを無視して僕に飛びかかってくる。

 

 僕はあえて避けることはせず、時間加速などのスキルを使い、タイミングを必死に合わせハティの目に〈武装血刀〉で作り出した刺突剣を投擲する。

 

 空気を咲いて突き進む刺突剣。ハティは慌てて目を閉じ、顔を捻る。そして僕はその隙をついて、すれ違うようにハティの腹の近くへと移動し、ハティへとスキルを放つ。

 

「〈瀉血激流〉」

 

 伸ばした手の先から、膨大な血液が無数の刃の激流となって射出された。血液によって形作られた冒涜的な刃たちは、ハティへと全弾直撃し、ハティの腹を穿った。

 飛び散るハティの血が降りかかり、僕の傷を癒す。

 

 しかしハティの傷はすぐさま癒えはじめる。弱体化した僕では、有効打と言い切れるダメージを与えることができない。

 

 僕は追撃を加えるために月光の聖剣を振り上げて——その剣を背後から迫る爪への盾にした。

 

 巨大な金属音が響き、僕は吹き飛ばされる。爪の主はスコル。スコルは唸り声をあげ、僕に追撃の炎のブレスを吐く。

 

 僕はそれを建物の陰を転々とすることでやり過ごした。

 

 スコルのブレスを浴びた建物は皆溶解し、跡形もなく消えた。

 僕はその威力に顔を引きつらせながら、建物の陰から躍り出て、再び回復中のハティへと狙いを定める。

 しかしそこにスコルが間に割って入り雄叫びをあげる。

 

「おおおおおお! 〈爆炎灰燼〉!」

 

 掛け声とともに、スコルは全身から爆炎を解き放った。地を舐め尽くすように広がった、太陽のごとき灼熱が、周囲一帯を灰燼に帰す。

 

 今まで一度も使われなかったその大技を、僕は予測することができず、もろにくらい、吹き飛ばされた。

 

 全身が焼けている。苦痛に顔が歪み、うめき声が漏れる。細胞の一つに至るまでが痛みを訴え、僕を苦痛で満たそうとする。

 

 僕は必死に自己再生のスキルを使う。

 

 自己再生のスキルを使うのはこれが三度目だ。

 これで打ち止め。あとは隙が多く、しかし回復量はさほどではないポーションを使うか、〈血液回収/リゲイン〉しかない。

 僕は距離を取り、再び〈彼方への呼びかけ〉を使う。

 

 無数の光弾が飛翔し、星々の欠片が強かにスコルとハティを打ち据えた。

 

 スコルとハティを牽制してる隙に、僕は今使える大技を準備する。

 

「〈黒きハリ湖の風〉よ!」

 

 それは狂おしき神性、超常の神秘たる名状しがたいものの祝福。職業、〈這いよる混沌よりの使者/アポストル・オブ・ナイアルラトホテップ〉のスキルであり、おぞましき神性の力を借受ける狂気の業だ。

 

 黒く、冒涜的な凍てつく狂気の暴風が吹いた。それはスコルとハティを襲い、その生命力を大きく奪う——!

 

「ぐぬぅうう!」

 

 たまらず声を上げるハティ。先ほどのダメージからも完全には回復していないのだろう。そこにこのスキルをもろに食らったのだ。そのダメージは結構なものになるはずだ。

 

 いまが好機と見て僕はハティへと飛びかかる。

 

「〈極氷全凍〉」

 

 しかし僕がハティへと飛びついた瞬間、ハティの全身から凄まじい冷気が噴出した。

 

 周囲一帯を完全に凍結する極寒の波濤が僕を襲う。

 僕は時間加速などのスキルをフルで使い、全速力で範囲内から逃れ——!

 

「ぐっぁあ!?」

 

 腹に激痛が走った。僕はスコルの牙に囚われたのだ。僕はスコルの牙に腹を貫かれ、その口に咥えられた。

 

 まずい、このままではまた噛み砕かれる!

 僕は剣を振り上げ、スコルの目に突き刺した。

 血飛沫が吹き出し、スコルは痛みに顔をしかめた。

 

 しかしスコルはそれでも僕を離さず、スキルを発動させ——

 

「〈獄炎牙牢〉」

 

 灼熱が僕を焼いた。

 

「がっぁあぁぁああぁああぁああああ!!!!」

 

 全身が灰になる。灼熱が僕を舐め尽くす。熱という熱が僕の体を焼き尽くし、炎という炎が僕を焼き焦がす。

 苦痛という苦痛を煮詰めた純粋な苦痛が僕の脳髄を支配した。

 

 噛み付かれたまま、炎のブレスを吐かれたのだ。

 ブレスは外に逃げることなく、口内で圧縮され、僕のみを焼いた。

 

 全身の感覚が徐々になくなって行き、僕という個人が現世から剥離していく。

 HPがガリガリと削れ、死への坂を転がり落ちて行く。

 

 死。

 

 脳裏によぎる言葉。

 

 そんなバカな。何を言っている。僕は死ぬはずがない。僕は死んでない。死ぬはずがないのだ。なぜ痛みがあるのか? 僕は死なないのに。死なない。僕は死なない。でも痛いんだ。体が焼けてる。誰か助けてくれ! 自己再生自己再生自己再生! ああ! できない! 再生スキルは使い切った! 嘘だ! 僕は死ぬのか? 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!

 

 嫌だ!

 

 嫌だ!

 

 嫌だ!

 

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!

 

 

 

 そして、

 

 僕は、

 

 スキルを、

 

 発動した。

 

 

 

「〈赤き月の夜〉」

 

***

 

 それまで柔らかい太陽の日差しが眩しかった王都は、一瞬にして夜に閉ざされた。

 

 人々は時空を超越した現象に名状し難い恐怖を抱いた。

 それはあり得てはならぬ光景。見てはならぬもの。禁忌。タブー。狂おしき混沌の儀式。下劣な奇跡。

 

 子供が泣き出す。犬が吠える。鼠は必死に逃げ、鳥は飛び立とうとする。

 

 しかしそれは、もう、遅い。

 

 そして王都にいた全ての人は、ビーストマンは、犬は、猫は、牛は、豚は、鶏は、雀は、烏は、鼠は、虫は、おおよそありとあらゆる生命体は。

 

 赤き月を、見た。

 

***

 

「うえぇ、うえぇ」

 

 赤子の泣き声が聞こえる。

 鈴を転がすような、赤子の泣き声が。

 

「うえぇ、うえぇ」

 

 しかしそれはどこか恐ろしく、名状しがたい狂気に満ちているように感じた。

 

 ああ、気づいてはいけない。

 

 そう、これは赤子の声なのだ。可愛らしい、柔らかい、暖かい赤子の、寂しがる声なのだ。

 

「うえぇ、うえぇ」

 

 それは決して、目の前の、狂った虫と歪んだ蛸を混ぜ合わせたような、奇怪で破滅したありえざる怪異から発せられている声ではないのだ。

 

***

 

 脳髄の奥から、水音が聞こえる。

 

 ぴちゃり、ぴちゃり。

 

 それは呼び声だ。底なしの呪いに似た、久遠に狂おしき海からやってくる、呼び声なのだ。

 

 私は知っている。それに答えてはならないと。

 知っている。知っているのだ。

 

 だというのに、ああ!

 私は答えたくてたまらないのだ。

 あの優しい呼び声に、母なるハイ■ラの声に!

 

『私の可愛い赤子。こちらにおいで』

 

 ああ! 私には理解できる。できてしまう! あの水音を、脳髄の奥から響く声を!

 

 あの月を見たのが全ての間違いだったのだ。あの赤き月を! 愛しき狂気の象徴を!

 

 そして私は顔を覆うために、手を持ち上げて気づいた。

 

 私の手は、青黒く変色し、水かきがついていた。

 

 なあんだ。

 

 私はもうとっくに、声に答えていたのだ。

 

***

 

 狩らねばならない。おぞましき(ビーストマン)を。人喰いの化け物どもを。

 私は歩く。獣を探して。狩るべき獲物を探して。

 右手に握られた剣は、無数の獣を殺し、血糊に塗れていた。

 

「ああ、獣はどこだ。獣がいては、息子が安心して寝られないだろう」

 

 喉の奥から出た声は、嗄れて、耳障りな声になっていた。それは獣の声に似て、ひどく下劣だった。

 

 ギョロギョロと眼球を動かし、獣を探す。歩けど歩けど、獣はいない。

 

 ああ、ひどく体が熱い。弾けてしまいそうだ。

 ふと右手を見れば、その手は随分と毛深かった。

 

 不意に唸り声が聞こえた。まるで喉の奥から発せられていると勘違いしそうなほどに近くから。

 

「獣の声だ。どこにいる! 出てこい!」

 

 嗄れた声で叫ぶものの、獣は唸り声を上げるばかりで、姿を見せぬ。

 

 ああ、獣はどこだ。獣を狩らなくては……。

 

***

 

 とある男の手記

 

 この街は狂った。狂ってしまった。

 この手記を見るものがいたら、どうか何にも気づくことなく、すぐにこの場から離れなさい。

 それがもう無理なら、せめて人のままに死になさい。

 赤い月があなたを捉えないうちに。

 

 私はダメだった。赤い月を見てしまった。今も、私の体は変質している。脳髄の奥を蜘蛛が走り回っている。白い、ぶよぶよとした体と無数の青い目、歪な足を持つ蜘蛛が。

 彼らはいずれ私を食い破り、地に広がるだろう。

 

 ああ、娘の声が聞こえる。可愛らしい呼び声だ。

 娘は先に蜘蛛になってしまった。

 私の目の前で、ぐずぐずと崩れて蜘蛛になった。

 

 ああ、私もすぐそちらに行くとも。

 

 愛してるよ、メアリー。

 

***

 

 赤き月の夜。

 

 それはアヴァター・オブ・ナイアルラトホテップの切り札たるスキル。

 クールタイム百六十八時間という規格外のクールタイムを誇る、超級のスキルである。

 

 その効果は、フィールドエフェクトの改変。

 超位魔法たる〈天地改変/ザ・クリエイション〉と似て非なるスキル。

 ザ・クリエイションがフィールドエフェクトを別のフィールドエフェクトへと変更するのに対し、赤き月の夜はそれ専用の特別なフィールドエフェクトへと変更する。

 そのフィールドエフェクトこそは赤き月。一定時間世界を塗り替え、フィールドを強制的に夜にし、赤き月を登らせる。そして赤き月の光が差し込むエリア内において、使用者には攻撃力や耐性に絶大なバフが与えられ、さらに一秒ごとに回復が与えられる。それ以外の存在には、抵抗に失敗したとき、ランダムなレベルのクトゥルフ系モンスターへと変異させる特別なダメージを毎秒与える。

 

 クールタイム七日に等しい、絶大な効果だ。

 

 そしてその効果は王都全域に及び、王都は地獄と化した。

 

 なんの耐性もない王都の住人たちは与えられる狂気のダメージに耐えることができるはずもなくクトゥルフ系モンスターへと変貌した。

 それは人間もビーストマンも動物も昆虫も植物も例外ではなかった。

 

 ああ、世界は狂った。狂ってしまった。神話に語られるおぞましき生物たちが地を這い回り、空を飛び、水路で蠢いている。

 

 狂気的な月の光が世界を照らし、どこからか獣の鳴き声と、冒涜的な魔の呼び声が聞こえてくる。

 

 その惨状を作り出したクルーシュチャは、人間の姿からおぞましき神性の姿へと戻っていた。

 

「貴様、人間ではなかったのか!」

 

 ボロボロになったスコルは叫ぶ。

 真の姿を取り戻し、赤き月の夜によって絶大なバフを受けたクルーシュチャは、スコルを一方的にいたぶっていた。そしてその左手には、引きちぎられたハティの首が握られている。

 

 引きちぎられたハティの首は、虚ろな表情を浮かべている。クルーシュチャはそれを投げ捨てた。

 するといかなる業か、ハティの首は地面に落ちることなく宙に浮く。

 そしてその首からずるずると無数の触手が生え、首を覆い尽くした。その光景はあまりにも冒涜的で、スコルは思わず身をすくませた。

 そしてそれはやがてコールタールのようにどろりととけ、そしてその中からずるりと、巨大な、狂った白色の蛆虫のような存在が生まれた。それは悍ましい円盤のような顔面に青白い裂けた口を持ち、寄った眼孔から眼球のような赤い球体をこぼれ落としていた。

 

 それはスキル、〈上位眷属創造〉を三回分消費することで作ることができる、レベル90の下僕。

 氷結の魔狼ハティの死体を材料とした、おぞましき神性、〈ルリム・シャイコース〉。

 

「貴様!」

 

 スコルは怒りをあらわにする。しかしルリム・シャイコースはそれを無視して、主たるクルーシュチャの思念に従い、スコルに青白い光線を浴びせた。

 炎の鎧に減衰されつつも、青白い光線はスコルに確かなダメージを与える。

 

 スコルはもはや抵抗することすらできず、その場に崩れ落ちた。青白い光線によりHPを削られすぎたスコルは、立ち上がる力すらないようだった。

 

「愚か者め。命惜しさに自らが守る都市を滅ぼすか。貴様は畜生以下の愚者だ」

 

 スコルの言葉に、クルーシュチャは何も言わない。

 

「ここで我らを殺そうと、我らは偉大なる主によって復活させられる。貴様が行ったことは無駄だ」

 

 スコルの言葉にわずかな反応も示さず、クルーシュチャはゆったりとスコルに近づいて行く。

 そしてへたばっているスコルの頭を持ち上げ、その首を捩じ切った。

 恨みがましい視線を向けるスコルの生首を持ったまま、クルーシュチャは立ち竦んだ。

 

 空には、赤い月が爛々と輝いていた。



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第九話 竜王国王都の終焉と最終決戦について

 スコルの首を片手に持ち、ルリム・シャイコースを引き連れながら、僕は王城へと戻ってきた。

 どうやら王城は戦火に巻き込まれなかったようで、元通りの威容を誇っていた。

 しかし王城自体は変わらずとも、王城の周りは随分と変わり果てていた。

 

 地面には、牙が覗く口や下劣な眼球が無数についたコールタールのような醜い肉塊と、血を吸って膨れた巨大な腹を持つ人と虫を掛け合わせたような怪異が這い回っている。

 空には蟻とハゲタカを掛け合わせたような狂った怪異や、黒い蛇か醜い芋虫に一枚の羽をつけたような怪異が飛び回っている。

 王城には、巨大な蜘蛛のような、あるいは痩せた人間のような、七本の腕を持つ奇怪な頭の巨人が何体もへばりついている。

 

 天国のように美しく、地獄のように救い難い光景だった。

 それでも僕は帰らねばならない。愛しい伴侶が待っているのだ。

 

 僕はルリム・シャイコースを外で待たせ、人間へと戻った後、王城へと入った。

 王城の中も、狂った虫や枯れた人間に似た何かが徘徊していた。僕はそれを無視して謁見の間に向かう。僕の探知系スキルによれば、ファールイロンはそこにいるはずだ。

 

 ああ、ファールイロンは褒めてくれるだろうか? あの二頭の巨狼を倒したのだ。きっと褒めてくれるに違いない。

 

 僕は謁見の間の扉を開け、中に入った。

 

 玉座には最愛の妻が座っていた。しかしファールイロンはひどく苦しそうで、泣いていた。

 

 ファールイロンは外の肉塊どもとは違い、美しい人間の姿を保っていた。しかし、彼女はもはや人間ではないだろう。

 なぜなら彼女は人間の姿を保ってはいたが、少し余分があった。

 彼女の背中から、翼が生えているのだ。それは美しい、触手とその間の皮膜によって形成された翼だった。

 

 僕は泣いているファールイロンを安心させようとし、声をかける。

 

「ああ、ファールイロン。もう大丈夫だ。あの悍ましい巨狼たちは倒したよ。安心してくれ」

 

 僕は引きずってきたスコルの首を掲げた。ファールイロンは俯いていた顔をこちらに向け、まずスコルの首を見て、次いで僕を見た。

 

「そなた、本当にクルーシュチャか?」

 

 ファールイロンの問いかけに僕は答える。

 

「ああ、そうだとも。僕はクルーシュチャだ」

「そうか、そなたがそうなのだな」

 

 ファールイロンはより一層悲しそうな顔をした後、その表情を憤怒に染めた。

 

「そなたが、この国を滅ぼしたのだな」

 

 ファールイロンが何かを言っている。

 何を言っているのだろう。

 

 僕が、この国を、滅ぼした?

 

 そんなことはしていない。あれはスコルとハティたちがやったことだ。

 僕はただあの忌々しい巨狼たちを殺しただけだ。

 僕は何もしていない。していないのだ。

 

 思考する僕を無視して、ファールイロンは口を開いた。

 

「そなたがあの赤い月を登らせた時、我はある力に目覚めた」

 

 彼女は触手の翼をくねらせながら語る。

 

「その力は遠視と過去視。遠くの物事を眼前にあるかのように見つめ、過去の出来事を今起こったことのように見る、上位者の下劣な瞳よ」

 

 彼女はうつむき、絞り出すような声で語る。

 

「この力を得て最初に、そなたの身を案じた。そなたの姿を映し出そうとした。しかし映されたのは怪物だった」

 

 彼女は涙をこぼしながら、吐き捨てるように語る。

 

「最初はそなたも怪物になってしまったのかと思った。しかしそれは違った。……お主は、最初から怪物だったのだな」

 

 彼女は顔を上げ、恨みがましく僕を見つめながら語る。

 

「見たよ。そなたが命惜しさに世界を壊すのを。下劣な本性を現すのを。……我は間違っていた。英雄など信じるのではなかった。貴様を我が国に招き入れるのではなかった。貴様など愛するのではなかった」

 

 聞きたくない。耳を塞ぎたい。目をそらしたい。

 なのに身がすくんで動けない。

 心が寒い。息が切れる。膝が震え、今にも崩れ落ちそうだった。

 

 ファールイロンはそんな僕に、冷たい目線とともに言葉を投げかける。

 

「我の民を戻せよ。化け物……!」

 

 ああ。

 

 ああ。

 

 そうだ。僕は化け物なのだ。

 狂って、歪んだ、愚かな化け物なのだ。

 

 自分の命が惜しいだけの、醜い化け物。それこそが僕の正体。弱くてみっともない、英雄とは真逆の、愚劣極まりない化け物なのだ。

 王都を滅ぼした最悪の怪異。それこそが僕。罪にまみれた、裁かれるべき怪物。

 

 僕は震える声で声を紡ぐ。

 

「……すまない」

 

 その言葉に、ファールイロンは赫怒した。

 

「今更……! 今更何を言うのだ!」

 

 その顔は激発する感情に歪み、まるでこの世の全てへの怒りがこもっているかのようだった。

 

「化け物め! お前が死ねばよかったのだ! これで満足か!? 我が民を異形へと変えて! 化け物め! 我が民を戻せ! 戻せよ!」

 

 僕は何も言えない。ただ立ち竦み、ファールイロンの言葉に耐えていた。

 

「戻してくれ……。頼む。頼むから、元に戻してくれ。王都を、あの柔らかい陽が差し込む、人の笑顔が絶えぬ王都に戻してくれ……。頼むよ……!」

 

 怒りを越え、懇願となったファールイロンの声に、僕は何も返せない。

 

 僕は、玉座に背を向けた。それは逃げだった。この後に及んで、僕は逃げたのだ。あまりにも愚かで、笑えてくる。

 

 何事かを言うファールイロン。しかしそれを聞き取ることはできなかった。

 

 僕は玉座の間を後にした。

 

 王城を出て、ルリム・シャイコースに合流する。そして僕は人間の姿を捨て、化け物としての本性を現した。

 僕は〈門の創造〉と言う、〈転移門/ゲート〉に近い転移スキルを使い、ルリム・シャイコースとともに僕が知る限りでビーストマンの国に最も近い場所へと転移する。

 本来の姿に戻っているため、転移阻害はもう無意味だ。そもそも、デッドロックらしきマジックアイテムはすでに見つけ出して破壊してある。

 

 僕はルリム・シャイコースとともにビーストマンの国へと進軍する。たった一人と一体の軍勢だが、しかし無敵であるような錯覚さえする。

 

 僕の胸にある思いは一つ。

 

 スコルとハティの主、ヴァナルガンドを、滅ぼす。

 

 これは、あるいは八つ当たりなのかもしれない。けれども、僕はもはや奴を滅ぼさずにはいられない。

 

 僕は決意を胸に、一歩足を進めた。

 

***

 

 僕はビーストマンの国へとたどり着いた。そして群がるビーストマンたちを蹴散らし、ビーストマンの都市を完膚なきまでに破壊しながら、首都を目指す。

 途中でビーストマンたちから聞き出した情報によれば、ヴァナルガンドが住むという『城』は首都の中心にあるという。

 教えてくれた親切なビーストマンの首をねじ切り、僕は歩を進めた。

 

 僕が首都へたどり着いたのは、十五日後のことだった。

 途中にある都市を滅ぼしながらだったためか、到着が思いの外遅れてしまった。

 

 僕は今、ヴァナルガンドが住む城の前にいる。城は巨大かつ絢爛華麗な作りであり、威厳を感じさせた。しかしその威厳も、今日、地に堕ちる。

 

 僕は城門を〈上位者の先触れ〉で吹き飛ばし、内部へと侵入した。

 

「この場所をなんと心得る! 神聖なる至高の方々の居城であるぞ!」

 

 同時に、当然のように警備兵らしきワーウルフたちがやってくる。

 彼らは皆ユグドラシルらしい、統一された派手なマジックアイテムで武装していた。

 

 しかしレベルを確認したところ、彼らはレベル30の雑魚だ。足止めにすらならない。

 ルリム・シャイコースが青白い光線を放ち、ワーウルフたちを凍らせる。僕は凍ったワーウルフたちを腰から生える触手で砕き、先を急いだ。

 

 その後も下はレベル30、上はレベル70のワーウルフたちを蹴散らしながら、城の奥へと向かう。

 NPCたちは凄まじい忠誠心を持っているようで、手足を折ろうともヴァナルガンドの居場所を吐くことはなかった。故にヴァナルガンドがどこにいるのかはわからないが、探知系スキルによればスコルとハティは玉座の間にいるようだった。僕の探知系スキルは、一度出会った存在をある程度感知できるのだ。

 僕はスコルとハティがいる場所に、ヴァナルガンドがいる可能性も高いと踏んで、玉座の間に向かった。

 

 兵どもをなぎ倒し、罠を食い破り、玉座の間の前へとたどり着いた。荘厳な装飾が彫られた扉が、侵入者を拒むように閉じられている。

 そして僕は、その扉を開ける。

 低い音を立て、ゆっくりと開いていく扉。そして扉が開ききり、中に入った瞬間、玉座に腰掛ける人影から、声がかけられた。

 

「よく来たな。愚かなるプレイヤー。私はヴァナルガンド。この城の主だ」

 

 その声は威厳と覇気に満ち溢れていた。

 声の主——ヴァナルガンドが座る玉座の両脇には、あの時より随分と小さくなったスコルとハティが玉座を守るように配置されていた。

 NPCは金貨によって復活させることができる。故に彼らがここにいるのは不思議ではない。そして小型化のタネは、スキルかアイテムだろう。

 

 ヴァナルガンド自身は、厳しい狼の顔を持つワーウルフであった。彼は魔法詠唱者なのか、豪奢な紅のローブに身を包み、王笏のような杖を持っていた。

 その杖は豪奢かつ美麗で、洗練されたデザインであり、一目でわかるほどに上質なものだった。

 

 ヴァナルガンドは続けて口を開く。

 

「もはや語ることもないだろう。我々は敵だ。私は貴様の守る都市を攻めた。貴様はスコルとハティを殺しこの城に攻め込んだ」

『ああ、貴様は敵だ』

 

 冒涜的な怪物の声で答える。

 ヴァナルガンドはその答えに満足したように一つ頷くと、王笏を振った。

 

「行くぞ。スコル、ハティ」

 

 その言葉に続くように、スコルとハティがそれぞれ炎と冷気の鎧を纏い、僕に飛びかかってくる。

 飛びかかるスコルとハティは無数のバフによって強化されているようで、先日の戦闘の時より段違いに早かった。

 僕はスコルとハティを転移して避け、ヴァナルガンドの背後へと移動した。どうやらデッドロックは品切れのようで、問題なく転移スキルが発動できる。

 背後へと回り込んだ僕はヴァナルガンドに触手で攻撃しようとするが、しかしヴァナルガンドもそれを読んでいたようで、僕が転移した瞬間に自分も転移し、難を逃れた。

 僕は逃げるヴァナルガンドを追おうとするが、スコルとハティに阻まれる。

 

 僕はハティを〈上位者の先触れ〉で吹き飛ばし、スコルにルリム・シャイコースの青白い光線を浴びさせることで牽制した。

 

 そして一瞬できた隙に僕はスキルを発動させる。

 

『〈赤き月の夜〉』

 

 とたんにビーストマンの首都に夜の帳が下り、赤き月が登った。僕の体に強力なバフがかかり、毎秒の回復を実感する。

 

 狂気の象徴たる赤い月は化け物である僕の味方だ。僕は強化された身体能力でスコルへと迫る——と見せかけ、転移によりハティの後ろへと移動した。

 ハティが振り返るよりも先に、スキルを発動する。

 

『〈瀉血激流〉』

 

 鮮血によって構成された無数の刃がほぼゼロ距離からハティを襲う。身を裂き、骨を削る一撃は、ハティに多大なダメージを与え、吹き飛ばした。

 

 にたりと笑う僕に、噛みつこうと迫るのはスコル。しかしそうやすやすと噛みつかせてやる僕ではない。僕はあえて判断が一瞬遅れたふりをして、スコルを至近距離まで潜り込ませた。

 

 そして。

 

『〈星辰の激発〉』

 

 僕の全身から、小宇宙の爆発が巻き起こる。星々のきらめきが拡散し、室内を宇宙色に照らす。

 そこしれぬ狂気を宿す宇宙の神秘が、スコルに絶大なダメージを与えた。

 

 スコルは吹き飛ばされ、玉座の間の端の丁度ルリム・シャイコースが控えていた場所に落ちた。

 当然、ルリム・シャイコースが冷気の光線を浴びせ、スコルを弱らせる。

 

 僕は改めてヴァナルガンドへと迫ろうとするが、ヴァナルガンドはハティを盾にして転移し、スコルのそばへ駆けつけた。

 

「〈朱の新星/ヴァーミリオンノヴァ〉」

 

 ヴァナルガンドは灼熱の一撃をルリム・シャイコースに浴びせ、その隙にスコルを逃す、逃げたスコルは僕へと飛びかかってくる。

 僕はスコルに向けて〈上位者の先触れ〉を発動するが、しかしスコルはそれを華麗に避けて見せた。

 

 ヴァナルガンドはルリム・シャイコースに二、三度〈朱の新星/ヴァーミリオンノヴァ〉を浴びせた後、スコルの近くへやってきて、スコルに回復魔法をかけた。

 

「〈太陽の光の癒し/スージング・サンライト〉」

 

 太陽の光に由来する、暖かい癒しの魔力がスコルと、使用者であるヴァナルガンドを回復させる。

 

 それをただ見ている僕ではない。僕はその隙にルリム・シャイコースと協力し、ハティを追い詰める。

 

 ルリム・シャイコースの青白い光線は冷気を操るハティには効果がないと見て、僕はルリム・シャイコースに別の魔法を使わせる。

 ルリム・シャイコースから青い雷撃が放たれ、ハティに直撃する。

 

 僕はハティが雷撃に苦しむ一瞬の隙をついて大技を放つ。

 

『〈トゥールスチャの篝火〉』

 

 ハティの真下から、緑色の火柱が噴出する。それはあまりにも禁忌的な炎。触れるものを燃え腐らせる冒涜の火柱。

 アザトースの踊り子たるトゥールスチャの欠片を借受ける、超常の業である。

 

「ぐっぁあぁあああ!」

 

 全身が腐り落ち、焼け爛れたハティは、しかし倒れることなくこちらをきつく睨んだ。

 僕はルリム・シャイコースをこちらに向かってきたヴァナルガンドとスコルへの足止めにし、ハティに追撃する。

 

 鮮血を纏う触手でハティを串刺しにし、なんども〈瀉血激流〉を浴びせる。

 全身がズダボロになっていくハティ。焼けただれ、切り裂かれ、腐り落ちたハティの肉体は醜く、元が美しい狼とはわからぬほどだった。

 

 そして僕は、そんなハティにとどめの一撃を叩き込んだ。

 

『〈狂血強化・死血大顎〉』

 

 僕の右腕から流れ出た血液が、巨大な獣の大顎を形作る。それは大きく口を開け、ハティの首に噛み付いた。

 狂った神の血で強化された牙は、ハティに深々と食い込む。

 

 肉のちぎれる音と、骨の砕ける音が響き、ハティの首からおびただしい血が噴出した。ハティはしばらくもがいていたものの、やがて完全に沈黙する。

 

 ハティの死を確認した後、振り向けばルリム・シャイコースはかなり追い詰められていた。

 ルリム・シャイコースは全身に傷を負っており、おそらく死亡寸前だと思われた。

 

 僕はルリム・シャイコースを回復させるのは無意味と判断し、ルリムシャイコースを盾にとあるスキルを発動させる。

 

『〈クトゥルフの呼び声〉』

 

 僕の背後に、母なる海への扉が開く。深海の底、暗いルルイエにつながる扉の奥から、超次元の神性、偉大なるクトゥルフが顔をのぞかせた。

 

 そして偉大なるクトゥルフは、その喉の奥底から、聞いたものを深淵へと引きずり込む狂気の呼び声を発した。

 

『————————!!』

 

 その声はこの世のいかなる音よりも奇妙で、発狂していた。

 

 脳髄をかき乱す、究極の狂気を呼ぶ声を聞いた僕以外の三体は、絶大なダメージを受けたようだった。

 ヴァナルガンドとスコルはひどく疲弊し、ルリム・シャイコースに至っては声がとどめとなって死んだようだ。

 ルリム・シャイコースは醜い死体となって玉座の間に崩れ落ちた。

 

「なかなか効いたぞ」

 

 ヴァナルガンドは言い、軽く杖を振った。しかし僕がそれに応えることはない。僕はただヴァナルガンドに殺意のみを向けた。

 

 ヴァナルガンドは〈太陽の光の癒し/スージング・サンライト〉を使い、自らとスコルを癒す。

 

 僕は〈アフォーゴモンの夢〉を使用し、ありえざる時間へと侵入した。

 ありえざる時間軸を移動する僕は、ヴァナルガンドの背後へと移動し、隙が大きく威力が高いスキルを発動させた。

 

『〈クァチル・ウタウスの光〉』

 

 触れるもの全てを塵へと変える、時を揺るがす破滅の光がヴァナルガンドに照射されると同時に、〈アフォーゴモンの夢〉の効果が切れ通常の時間軸へと帰還する。

 空間を塵へと変えながら突き進む破滅の光は、ヴァナルガンドに過たず命中し、ヴァナルガンドを焼き尽くした。

 

「ぐぉおおお!」

 

 悲鳴をあげるヴァナルガンド。すぐさまスコルが反転し、僕へと襲いかかる。

 

 僕は転移によってそれを避け——失敗したことに気づいた。

 

 おそらく無詠唱化された〈転移遅延/ディレイ・テレポーテーション〉をどこかのタイミングで発動されていたのだろう、転移に数秒ほどのタイムラグができていた。

 

 そして転移した先には、閃光と灼熱があった。

 

 全身が炭化し、焼き尽くされて行く。いくら〈赤き月の夜〉で耐性が強化されているとはいえ、もともと弱点である炎に耐えることはできない。

 ましてその炎が、超位魔法によるものであれば。

 

 おそらくこの炎は超位魔法たる〈失墜する天空/フォールンダウン〉。ヴァナルガンドは課金アイテムを使用して、詠唱時間を短縮したのだろう。

 

 地獄のような灼熱によって焼き尽くされる痛みが僕の全身を襲う中、僕は冷静に〈失墜する天空/フォールンダウン〉の終わりを待ち、終わると同時に自己再生のスキルを発動した。

 

「自己再生か。卑怯な」

 

 ヴァナルガンドが言う。戦闘に卑怯も何もあったものではないと思うのだが、それを口に出すことはない。

 

 圧倒的な熱量により、王座の間はわずかな構造物を残し吹き飛んでいた。屋根も完膚なきまでに破壊され、赤き月の光が差し込んでいる。

 

 僕は足止め用の眷属を招来する。

 

『〈眷属招来/不浄粘体の王(ショゴスロード)〉』

 

 ショゴスロードはレベル70のモンスターではあるが、防御力に限っていえばレベル90のモンスターにも匹敵する。反面攻撃力はあまりないが。

 僕はそのショゴスロードを、続けてもう一体召喚し、合計二体召喚した。

 

『行け』

 

 僕が短く命令すると、ショゴスロードたちはスコルへと向かっていく。

 僕はスコルがショゴスロードたちに手間取っているうちにヴァナルガンドと一騎打ちをする。

 

 時間加速スキル〈古狩人の遺骨〉を使い、姿が消えるほどの高速でステップを踏み移動する。

 ヴァナルガンドは無詠唱化した〈聖者の壁/ウォール・オブ・セイント〉を発動し、僕が近寄るのを妨害した。

 

 カルマ値が極善のもののみ通過できる聖なる壁を、カルマ値がマイナスである僕は当然通過できず、一瞬停止する。

 その隙を突くように、ヴァナルガンドは魔法を発動する。

 

「〈追う者たち/パースーアー〉」

 

 黒い人影のようなものが五つ、僕を追尾するように飛んできた。それは〈追う者たち/パースーアー〉と呼ばれる魔法。人を羨望、あるいは愛する闇は、その結末が悲劇であるとしても人を追い求める。故にこそそれは獲物を執拗に追い詰め、回避不可の必中攻撃となる。

 僕はそれを加速しても振り切ることはできないと知っていた。故にあえて避けることはせず、全弾を食らった。

 

 僕は〈追う者たち/パースーアー〉を食らいながらも〈彼方への呼びかけ〉を使用し、星々のかけらをヴァナルガンドへと飛翔させた。

 

「〈鏡の盾/ミラーシールド〉」

 

 しかしヴァナルガンドは一定時間非物理攻撃を反射する盾を作り出し、〈彼方への呼びかけ〉を反射した。

 僕は反射された彼方への呼びかけを、近くにあった崩れていない柱を盾にやり過ごす。柱は星々のかけらによって削られ、崩れ去った。

 

 ヴァナルガンドは〈鏡の盾/ミラーシールド〉の効果が切れると同時に〈朱の新星/ヴァーミリオンノヴァ〉を放つ。

 爆炎が僕の体を包み、動きが一瞬鈍る。

 その瞬間。

 

「〈太陽の光の槍/サンライトスピア〉ァァァアア!!」

 

 天の裁きの象徴たる黄金の雷槍が、ヴァナルガンドの手元に出現する。

 彼は全身を捻り、大きく振りかぶってその雷槍を投擲した。

 音を超え空間を裂いて飛来する雷は、僕の体に深々と突き刺さり、その秘めたる威力を解き放ち、僕の体を蹂躙した。

 

 雷撃による痛みに、しかし僕はうめき声一つ漏らさずに、すぐさま体制を立て直し、スキルを発動する。

 

『〈壊血飛沫〉』

 

 地面から、白い靄に包まれた血の塊が出現する。それは上空へ登ると破裂して、あたりに血が降り注いだ。

 

 ようやっとショゴスロード二体を完全に殺し尽くしたスコルと、投擲後の硬直でわずかに対応が遅れたヴァナルガンドは、降り注ぐ血液をもろに浴びた。

 

 僕は再び〈古狩人の遺骨〉を使用し、スコルへ高速で接近する。血液を浴び、怯んだスコルは僕への対応が遅れ、僕の接近を許した。

 

『〈星辰の激発〉』

 

 狂おしき宇宙の爆発が、僕に全身から巻き起こる。恐怖を巻き起こす底知れぬ宇宙の輝きが迸り、スコルの全身に強烈なダメージを与えた。

 と同時に二発目の〈太陽の光の槍/サンライトスピア〉が飛来する。雷速で飛来する苛烈なる太陽の怒りを、僕は這うように移動して回避した。

 

 僕がスコルから距離を取ると、ヴァナルガンドはスコルに近寄り、僕を牽制するように三発目の〈太陽の光の槍/サンライトスピア〉を投擲した。

 僕はそれを回避するためにさらに距離を取る。

 

「〈太陽の光の癒し/スージング・サンライト〉」

 

 ヴァナルガンドは回復魔法を発動させる、が。

 

「回復しない——!?」

 

 ヴァナルガンドたちが回復することはない。

 それは先ほど発動したスキル〈壊血飛沫〉の効果だった。このスキルによって生じた血液が付着した存在は、HPの回復を一定時間禁じられる。

 

 僕は、驚いて隙を晒すヴァナルガンドへと、神速で迫る。そしてそのヴァナルガンドを当然のようにかばうスコルへ、スキルを発動した。

 

『〈トゥールスチャの篝火〉』

 

 ハティを焼き腐らせた、外宇宙の炎がスコルを襲う。

 緑色の火はスコルの全身を腐敗させ、焼き焦がした。

 美しかった毛並みはみるみるうちに腐り落ち、皮膚さえも溶けて醜い肉を外気に晒した。

 

「ぐがぁぁああああああああ!!」

 

 そんな腐乱死体にも似た姿になってなお、スコルは倒れることなく僕の前に立ちふさがる。

 僕はそのスコルへとどめを刺そうとし——

 

「〈魂継承/ソウル・インヘリタンス〉」

 

 ヴァナルガンドがその右手をスコルの首に当てた。

 

 その瞬間、スコルから緑色の靄のようなものが立ち上り、ヴァナルガンドに吸収されていく。

 そしてスコルの体は急速に萎え、ミイラのようになり、死んだ。

 急速に萎えて死亡したスコルとは逆に、ヴァナルガンドの体は軋み、肥大化する。人間サイズだったヴァナルガンドは、今や10メートルを越していた。

 

「さあ、後半戦と行こう」

 

 ヴァナルガンドは、余裕たっぷりにそういった。



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第十話 最終決戦と意識の消失について

 スレイン法国の特殊部隊、その中でもかつての降臨された神の力を受け継ぐ神人が多く在籍する漆黒聖典。その第七席次、〈千眼星読〉の占術によりもたらされた、竜王国王都崩壊の報。その真偽確認のため、そしてそれが真であった時の対策のため、漆黒聖典は竜王国の首都へとやってきた。

 

 メンバー全員が透明化し、竜王国の首都に潜入すれば、そこは地獄だった。

 

 狂った肉塊が地を這いずり、嫌悪感を掻き立てる魚と人間を掛け合わせたような存在が足を引きずって歩く。

 幾つもの目を持つ冒涜的な豚が闊歩し、人とコウモリを掛け合わせたような、灰色の奇怪な怪異が空を飛ぶ。

 建物には、殻のついた扁桃の種を歪めたような頭を持つ、七本腕の痩せた巨人がへばりついている。

 それはまさに狂気の光景。ありえざる上位者の夢。

 

 啓蒙的真実にまみれた、発狂する外宇宙と成り果てた都市の惨状に、隊員の一人が耐えきれずその場で嘔吐する。彼はそのまま叫び声をあげ、自らの両目を抉ろうとした。

 他の隊員が慌てて彼を止め、〈獅子のごとき心/ライオンズ・ハート〉の魔法をかける。

 

「落ち着いたか?」

「……ええ、なんとか。迷惑をおかけしてすいません」

「構わん。この惨状を見れば、誰でもな……」

 

 なんとか落ち着いた隊員を見て、リーダーである男が口を開く。

 

「〈千眼星読〉の占術によれば、王城にまだ『話せる』ものがいるらしい。王城へ向かうぞ」

 

 男のその言葉に、その場の全員が了解を示し、漆黒聖典は王城へ移動した。

 

 かつて竜王国の象徴だった王城は異形にまみれ、おぞましい城へと変貌していた。

 

 漆黒聖典は透明化したまま王城に侵入し、そして謁見の間の前へとたどり着いた。

 

「開けるぞ」

 

 リーダーの男が言う。彼はメンバーが了承を示すと、扉を開いた。

 音を立てて扉が開き、漆黒聖典は内部に侵入した。

 

「ああ、誰か来たのか?」

 

 泣き疲れ、かすれたような声が謁見の間に響いた。

 その声の主は美しい女性だった。しかし彼女が人間ではないことは一目でわかる。背中から生える触手の翼は、彼女が人間でないことの証明だった。

 漆黒聖典のリーダーはその女性がこの国の女王、ファールイロン・オーリウクルスであることに気づき、その異形と化した肉体に啓蒙的真実の影を感じて、わずかに脳髄が痛んだ。

 

 彼女は、相当な強さを得ているようだった。自分の直感によれば、難度二百四十はあるだろう。

 戦闘になれば、神人としての血を覚醒させた自分と副官がいるため倒せるだろうが、全員が生きて帰るのは難しいかもしれない。

 

 リーダーはしばし悩み、自分のみ透明化を解いて、姿を晒した。

 

「私はスレイン法国よりの使者です。竜王国王都崩壊の報を聞き、状況を把握するために参りました」

「ああ、そうか……。法国の者か……。後ろの者たちは?」

 

 その言葉に、リーダーは一瞬身を硬くした。しかし、すぐに硬直を和らげ、口を開いた。

 

「私の部下です。この状況ゆえ、身を隠させていたことをお許しください」

 

 その言葉に、ファールイロンは自嘲するように笑った。

 

「ははっ、そうよな……。この状況ではな。我が民が、あのような怪物たちに成り果てていればな……」

 

 ファールイロンの言葉にありえざる冒涜の気配を感じ、リーダーが口を開く。

 

「お待ちください。あの怪物たちは、なんなのですか?」

 

 ファールイロンは俯いて、答える。

 

「——人間だ。……元、という言葉がつくがな」

 

 その場にいる全ての人間は戦慄した。

 吐き気を催す超次元的な真実が、脳を揺るがす。

 

 あれが、あの怪物が、人間だった?

 

 人智を超えた、ありえてはならない狂気に、体の震えが止まらない。

 

「そんな……!」

 

 リーダーが絞り出した声は、ひどく震えていた。

 

「——クルーシュチャだ。貴国にも報告したであろう。あの英雄が全ての元凶だ。あやつは化け物だった。あやつは赤い月をもたらし、我が民を怪物に変えた」

「そやつは、今、どこに?」

 

 リーダーの問いかけに、ファールイロンは一瞬戸惑った。しかしすぐに表情を取り繕い、答えた。

 

「遠視によれば、ビーストマンの国にいるようだ。……この体になってから、色々と良く見えるようになってな。精度は確かであると思う」

「ありがとうございます。我々はビーストマンの国に向かいます。ご協力感謝します」

 

 漆黒聖典のメンバーには、真意を看破する技能を持っているものもいる。それが何も言わないのだから、ファールイロンの言うことは本当なのだろうとリーダーは判断した。

 

「まて、これから貴国は、この王都をどうするつもりだ?」

「それは……」

「良い、言わずともわかる。滅ぼすのであろう?」

 

 ファールイロンの悲観的な言葉は、しかし真実だった。

 漆黒聖典に与えられた任務は三つ。竜王国王都崩壊の原因究明。そして原因の排除。最後に、王都に溢れる怪物の殲滅。

 

「交渉がしたい。化け物となった我が民を、王都から一歩も出さぬと約束する。故に、見逃してはくれぬか? ああなっても、我の民は我の民なのだ……」

「……どうやって怪物となった民を統制されるので?」

 

 まさか怪物となった民が、法に従うとは思えない。

 ファールイロンは、それに答えるようににこりと笑う。

 

『ひれ伏せ』

 

 突如として脳内にファールイロンの声が響き、リーダーと副官を除いたメンバー全員が、強制的に地にひれ伏した。

 体の自由はきかず、動けと念じても体はピクリとも動かない。

 名状しがたい恐怖が走り、理解不能な現象に困惑する。

 

「これは一体!?」

『自由にせよ』

 

 再び脳裏に音が響いて、ひれ伏していたメンバーの体に自由が戻る。

 全員が立ち上がり、ファールイロンを見つめた。

 

「我が獲得した下劣な奇跡。人ならざる力だ。これは怪物となった我が民にも良く効くようでな。すでにこれで王都から出ぬようにと命令している」

「……なるほど」

 

 リーダーは頷き、ここで戦闘になった際のデメリットを痛感した。

 まず自分と副官以外のメンバーに自害を命じられれば、それだけで人類の希望が大幅に減る。

 そして外の化け物どもを呼び寄せられれば、ここで仕留めることは難しくなるかもしれない。

 

 そして今は王都にとどまっている怪物たちに、外に出て暴れろと言う命令が下されれば——

 

「本国に報告し、検討します。おそらく、王都から出た怪物は殲滅すると言う条件で了承されるでしょう」

「そうであろうな。この街の怪異となった我が民を全て殲滅するのは、骨が折れるであろうしな」

「では私たちはビーストマンの国に向かいます」

「気をつけろよ。クルーシュチャは、あの狂った化け物は……強いぞ」

 

 ファールイロンの警告に、リーダーは答える。

 

「ご安心ください」

 

 リーダーが手を動かすと、妖艶な美女が前に出る。

 その美女は、詰襟の、深いスリットが入ったワンピースを着ていた。白銀のワンピースには、黄金の糸で、空へ飛び立つ五本爪の龍が描かれていた。

 

「我々には、神が残したる宝物がありますので」

 

 そう言って、リーダーは安心させるように、にっこりと笑った。

 

***

 

 巨大化したヴァナルガンドは、それまでと打って変わって、苛烈に僕を攻め立てる。

 

「〈太陽の光の槍/サンライトスピア〉」

 

 黄金の雷が僕を貫いた。電撃が僕を痺れさせ、秘めたる破壊力が僕を蹂躙する。

 

 巨大化する前よりも、明らかにヴァナルガンドの魔法威力が上がっている。それだけでなく、身体能力も上昇しているようだった。先ほどに至っては、〈古狩人の遺骨〉で加速した僕の攻撃に反応し、最良の防御をしてみせた。

 

「〈太陽の光の嵐/サンライトストーム〉」

 

 ヴァナルガンドは〈太陽の光の槍/サンライトスピア〉に酷似した、しかしそれよりも巨大な雷の槍を、天へと投げつける。

 数瞬後、それは無数の〈太陽の光の槍/サンライトスピア〉となって、僕に降り注いだ。

 

 僕はそれを避け切ることができずに、無数の光の槍が体に突き刺さる。

 雷電が迸り、僕の体を焼く。痛みが脳髄を支配し、ともすれば意識を失いそうだった。

 

「〈太陽の爆発/ソーラーフレア〉」

 

 雷撃によって動きが止まった僕に接近したヴァナルガンドは、魔法によって自分の周囲一帯に、極大の爆発を起こした。

 それは太陽の爆発を借受ける、空に由来する光の業。究極的な熱量は僕に絶大なダメージを与える。

 

 周囲一帯を焼き尽くした爆熱によって生じた煙の奥から、ヴァナルガンドの魔法詠唱が聞こえる。

 

「〈第十位階怪物召喚/サモン・モンスター・10th〉」

 

 僕が太陽の灼熱に苦しむうちに、ヴァナルガンドは壁を召喚した。

 最上位の魔法によって召喚されたのは地獄の番犬。三つ首の魔犬ケルベロス。

 

 燃え上がるような目を持つ巨大な魔犬は、唸り声をあげ僕へと襲いかかる。

 魔犬の影では、ヴァナルガンドが巨大な、立体的な魔法陣を展開した。

 

 僕は焦り、ケルベロスに血の刃の濁流たる〈瀉血激流〉を浴びせつつ、ヴァナルガンドへと接近しようとする。

 しかしヴァナルガンドは僕の攻撃がとどくよりも一瞬早く、手元にあるガラス製の砂時計を砕いた。

 

 瞬間、灼熱が世界を満たす。

 

 再び発動した〈失墜する天空/フォールンダウン〉はケルベロスもろとも僕を焼き尽くした。

 空気すら灰燼と帰して、世界そのものが熱源となったかのような灼熱に焼き尽くされる僕。

 

 その灼熱が消えると同時に、〈太陽の光の嵐/サンライトストーム〉が僕を襲う。

 僕はそれを転がるように移動して、なんとか回避する。

 HPはかなり減っている。自己再生スキルは使えない。今日使える自己再生スキルは全て使ってしまっていた。

 さらに赤き月の夜は効果時間が終わっている。僕には今ろくな回復手段がない。

 

 僕は意を決し、〈古狩人の遺骨〉でヴァナルガンドに迫りながら、スキルを使用する。

 

『〈夜空の瞳〉』

 

 僕のねじくれた仮面のような顔面の奥から、彗星のかけらが飛び出す。それは高速でヴァナルガンドへと飛翔し、そして回避された。

 

 しかし回避されることは織り込み済み、本命は別——!

 

『〈流血貫通〉』

 

 僕の長く伸びた腰から生える触手が、地面を通り、〈夜空の瞳〉を避けたヴァナルガンドの下から飛び出す。その触手は先端に血液でできた巨大な突撃槍を纏っており、その血の槍は過たずヴァナルガンドを貫いた。

 

「——!」

 

 声にならない叫びをあげるヴァナルガンド。僕はそんな彼にくみつき、スキルを発動した。

 

『〈吸血棘牢〉』

 

 僕の全身から、血によって構成された鋭い棘が無数に伸びる。

 それはほぼ全てがヴァナルガンドに突き刺さり、ヴァナルガンドの血を啜った。

 

 HPを大きく失ったヴァナルガンドに対して、僕は大きく回復する。

 

 今使ったスキルは、敵に与えたダメージ分のHPを回復できるスキルだ。

 欠点としては、リーチが短く、至近距離でしか使えないことがあげられる。

 

 そして吸血が終わった後、組みついたままもう一度スキルを発動する。

 

『〈星辰の激発〉』

 

 宇宙色の閃光が迸り、凄まじい衝撃がヴァナルガンドを吹き飛ばす。

 

 僕は吹き飛んだヴァナルガンドへと転移によって再び迫り、〈瀉血激流〉を使用する。

 無数の血の刃がヴァナルガンドを切り刻み、噴出した血が僕を癒す。

 

 さらに追撃を加えようとした瞬間ヴァナルガンドが消える。どうやら転移したようだった。

 

 僕が振り返ると、そこには〈太陽の光の嵐/サンライトストーム〉を投擲し終えたヴァナルガンドがいた。

 

 無数の雷撃が降り注ぎ、僕を強かにうちすえる。

 

 僕が雷撃に苦しむ間に、ヴァナルガンドは自己の魔法で回復する。〈壊血飛沫〉の効果はすでに切れている。

 

 泥沼の戦いは、まだ終わりそうにない。

 

***

 

 漆黒聖典はビーストマンの国に侵入した。しかしビーストマンの国は、もはや国という体裁を保っていなかった。

 

 破壊され尽くした街には、ビーストマンではなく、名状しがたい巨大な生物が闊歩している。

 それは魚と人を掛け合わせた、狂気的な外見の異形だった。

 それは広範囲に衝撃を与える叫びをあげながら、街を破壊して回っている。

 

 街のそこら中には、ビーストマンの死体が散乱し、腐敗し、巨大な異形から漂う潮の香りとあいまってひどい匂いがしていた。

 

「難度で言えば二百十といったところか」

 

 漆黒聖典のリーダーたる男が、死体を食らっていた虫を踏み潰しながら言う。

 

「勝てますか?」

 

 メンバーの一人が、わずかに不安をにじませながら言った。

 その言葉に、リーダーは余裕を持って答える。

 

「当然だ」

 

 その言葉にメンバーは安堵したような表情を見せる。

 

「だがお前達では無理だろうな。私と副官の二人でやる。お前たちは見ていろ」

 

 そう言ってリーダーと副官は醜い半魚人へ向かう。

 

 その背中は雄々しく、人類の希望というにふさわしかった。

 

 しばしたって、当然のように勝利を持ち帰った二人をメンバーは讃え、次の都市へと向かった。

 

***

 

「〈太陽の光の槍/サンライトスピア〉」

『〈狂血強化・流血葬爪〉』

 

 太陽の光に由来する雷の槍と、発狂する外宇宙の神性の血によって構成された巨大な爪が交差する。

 黄金の雷撃が僕を吹き飛ばし、爪がヴァナルガンドをえぐる。

 

 僕は戦いによって雑念が削ぎ落とされた純粋な殺意をヴァナルガンドに向ける。

 

 ヴァナルガンドはそんな僕を冷たい瞳で見つめ、次なる魔法を発動させる。

 

「〈太陽の息吹/サンライトブレス〉」

 

 極大の雷が迫る。竜のブレスにも似た、極太のレーザーのごとき雷を、僕は転移して回避する。

 転移する先はヴァナルガンドの真横。そこから鮮血を纏う触手を突き出し、ヴァナルガンドを串刺しにする。

 

 しかしそれを待っていたかのようにヴァナルガンドは魔法を発動する。

 

「〈太陽の爆発/ソーラーフレア〉」

 

 僕は炎に焼かれながらも、しかしヴァナルガンドに突き刺さる触手を楔に吹き飛ばず、勢いをつけてヴァナルガンドの腹部に手を突き刺した。

 

『〈内臓攻撃〉』

「ぐぁぁああああああ!」

 

 ヴァナルガンドの臓物が引き摺り出され、外気にさらされる。ヴァナルガンドの顔は苦悶に歪み、口から血を吐いた。

 

 内臓攻撃は文字通りあいての内臓を直接攻撃するスキルだ。隙が大きく、至近距離でなければ使えないなどの制約はあるが、非常に強力なスキルである。

 

 僕は引きずり出した臓物を投げ捨てる。

 

 致命の一撃を食らったヴァナルガンドは転移によって距離を取り、自己を回復させようとする。

 

 それを見逃す僕ではない。

 

 僕は〈アフォーゴモンの夢〉によってありえざる時間に身を滑らせ、ヴァナルガンドに近づく。

 

 そして長時間の溜めを必要とする、僕の中で最強の攻撃力を誇るスキルを発動する。

 

「〈アザトースの欠片〉」

 

 通常の時間軸に帰還すると同時に、スキルが発動する。

 発動した瞬間、あたりは白痴のごとき閃光に包まれた。

 それは無限の中核に棲む原初の混沌。沸騰する混沌の核。狂い切った盲目白痴の神性の欠片。

 圧倒的なエネルギーによる暴力が、辺り一帯に撒き散らされる。

 それは空間それそのものを破壊していると見紛うほどの破壊をもたらした。

 

「あああああああああああああああああ!!!」

 

 ヴァナルガンドは絶叫をあげる。

 ヴァナルガンドはゴミのように吹き飛び、地面に叩きつけられた。

 

 そしてヴァナルガンドの持っていた杖が砕け散り、同時に城の崩壊が始まる。

 

 すでに崩れていた玉座の間の床がひび割れ、砕けて行く。

 おそらくあの杖はギルド武器だったのだろう。

 ギルドの象徴たるギルド武器が破壊され、ギルド拠点の崩壊が始まる。

 

 一方暴力的な光に貫かれたヴァナルガンドは、全身からおびただしい血を流しつつも、しかし未だ生きていた。

 

「……よくもやってくれたな」

 

 うめき声にも似た声を出すヴァナルガンド。その顔は苦痛に歪み、流れ落ちた血も相まって、恐ろしい形相になっていた。

 

 僕は彼にとどめを刺すべく接近する。

 しかし——

 

「死なば諸共、だ」

 

 僕は逆にヴァナルガンドにくみつかれ、拘束される。

 僕は嫌な予感がし、〈星辰の激発〉を使用するが、それよりもヴァナルガンドの動きの方が早かった。

 

「〈魂の暴走/ソウル・オーバーロード〉」

 

 僕はその魔法の効果を知っていた。それは魂に過剰負荷をかけ、魂を燃料に全てを破壊する、デスペナルティが重くなる代わりに絶大な威力を誇る自爆魔法——!

 

 僕はもがき、脱出しようとして——

 

 世界は閃光に包まれる。

 

***

 

 僕が目を覚ますと、あたりは瓦礫の山だった。崩れ去った城に埋もれていた僕は、瓦礫を退けることはしない。

 転移によって少し離れた位置に出現し、辺りを警戒した。

 ヴァナルガンドが復活している可能性がある。今僕が無事ということは未だ復活していないのかもしれないが

 

 青白い月の光が瓦礫の隙間から差し込んでくる。

 

 城があった位置を見渡せば、理解できぬ光景が広がっていた。倒れ伏したヴァナルガンドに、まるでユグドラシルにあるような装備に身を包んだ人間が剣を向けていた。

 その周囲には、同じくユグドラシル風の装備に身を包んだ人間の集団がおり、油断なくヴァナルガンドを見つめていた。

 

 しかし、あれは本当にヴァナルガンドなのだろうか?

 今のヴァナルガンドは、僕が知るような強さはなく、哀れで、弱々しかった。レベルを確認してみれば、そのレベルは5以下だった。

 

 そして、剣を持った男が、その剣をヴァナルガンドに振り下ろした。

 血飛沫が飛び、ヴァナルガンドが死亡する。

 そしてヴァナルガンドは光の粒子となって風にさらわれ、消えた。

 

 その光景に恐ろしいものを感じた僕はゆっくりと逃走しようとし——

 

「起きたか」

 

 剣を持った人間が、僕を見つめた。

 僕はそのまま転移して逃げようかとも思ったが、しかし何かを仕掛けられていればまずいと考え、交渉をする。

 

『……僕に君たちを傷つける意思はない。すぐにここからも立ち去ろう。人の世には近づかぬと約束する。故に見逃してくれないか?』

 

 僕はそう言って——

 

「……使え」

 

 男が、短く命令する。

 その瞬間、一人の妖艶な美女が前に出た。その美女は五本爪の龍が刺繍された、白銀のチャイナドレスを着ていた。

 

 僕はそれに言い知れぬ恐怖を感じ——

 

 思考が剥離する。脳髄の一部がかけたような感覚。精神に空白が生まれ、魂が白く塗りつぶされる。

 

 僕は、それがとても恐ろしいことだと知っていた。

 

 だというのに、僕の体は一部も動かず——

 

 僕の意識は、白く消えた。




これにて百年前編は終了です。
次回から百年後、原作編が始まります。

しかし、ストックがなくなったので、書き溜めを作るためにしばらく更新を停止します。


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