ぐれほわSHARK・T (GREATWHITE)
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ルートA 1~5

はじめに

基本的にストーリーは原作を踏襲するつもりですが、キャラ改変、キャラ改悪、後付け設定はかなり多いと思います。独自ストーリー展開も多いので耐性無い方は容赦なく切ってください。さらに原作であるソフトが既に手元に無いので今さら設定、イベント詳細、細かい台詞の確認ができません。「あれ?原作の設定と違うぞ・・。」となってしまってもご了承ください。そして長い。無駄に長い。

主人公が該当ヒロイン一人一人に個別に存在します。
アマガミ原作の主人公、デフォルトの「橘 純一」ではありません。全く個別のキャラクターが主人公になります。つまりヒロインの数だけ主人公が存在します。
「橘純一」とは性格もイメージ外観も家族構成も全く異なります。
今のところ用意しているのは五人分。(森島篇は用意してません。何度考えてもストーリーが浮かばない・・。)
アニメの様なオムニバス形式ではなく、時間軸の同じストーリーをそれぞれの主人公とヒロインの視点から話を進めます。どちらかというと少女漫画に近いのかな?よって原作の恋愛ゲームという感じはかなり薄れます。
大体ルールはこんな感じです。
「無い」という方は容赦なく戻るボタンをどうぞ。

ルートAの主人公設定
名前 杉内 広大 すぎうち こうだい
身長 170
やや細身
血液型 О
家族構成 両親 兄(既婚)
一人称  主に「俺」

同じ吉備東高校で三年の「塚原 響」の幼馴染であり、それ以上の感情を彼女に抱いている。同じ高校に入ったのもその経緯があってのことらしい。基本草食系で奥手であり、塚原に会えないかと室内プール倉庫裏を徘徊していた際、黒猫のプーに遭遇。それを追った結果階段下で階段上にいるヒロインと出会う。

成績 中の中 数学に強く、文系はとことん弱い。




1 邂逅

 

不思議なもので人間大した目的も確固たる意志も持たないまでも足はとりあえず動く。

帰り道と一緒だ。過程はすっとんでいつの間にか目的地には辿りついているんだろう。

 

目指すは放課後の室内水泳練習場。

 

―でも俺がそこに行って今何になる?

 

言葉は浮かばない。きっかけも無い。度胸も無い。

ただ先輩と自分を繋ぐのは、保育所、小、中そして高と同じ空間で同じ時を過ごしたと言うだけだ。

その特権でお互いに下の名前で呼び合うくらいの間柄ではある。しかし年月が経つにつれその些細で誇るべき繋がりのみを盾にしている自分を鑑みると、足はさらに重くなる。

 

塚原 響

 

少年―杉内広大の一個上の先輩であり、十年来の想い人でもある。

彼の両親が塚原響の両親と古い知り合いであり、何かと帰りの遅い共働きの両親と当時グレていた歳の離れた広大の兄の代わりに専業主婦であった塚原の母に付き添い、保育所から即直行でよく家に遊びに来てくれた。

塚原 響は生来物静かで大人しい女の子であったが面倒見がよく、「自分は年上のおねぇちゃん」という自覚からかホントの姉のように気丈に振舞って一つ下の広大の面倒を見てくれた。そんな彼女に広大はべったりだった。

いくら感謝しても足りない。ぐれた兄が「お前がぐれなかったのは響ちゃんのおかげだな。」と、冗談交じりに言っていたがまさしくその通りだと思う。

けどそんな面倒見のいい彼女故に彼女の人生は徐々に慌ただしくなる。元々真面目で何事にも手を抜かない性格。よって周りの同級生、教師含め、誰にも頼りにされた。

成績優秀。さらに吉備東高校水泳部女子の主将であり、県大会でも上位。「自分は強面」と謙遜するが時折見せる優しい表情に同性、異性共に隠れファンは多い。ただ常に横に居るのが同級生の森島 はるか―吉備東校を代表する美人なので貧乏くじを引いているだけだ。美人だがとにかく危なっかしい森島先輩のフォローに走る時の彼女は好いている広大にとってちょっと切ない光景であった。だがその彼女を見て誇らしくもあった。同時寂しさもあった。

 

何とも平凡で特に取り柄のない自身のチンケさを否応なしに自覚するからだ。

 

少なくなったとはいえすれ違えば笑ってくれたり軽く声をかけたりしてくれる。

でも弟以上恋愛対象未満。これ程まで彼と彼女の関係でしっくりくる言葉はそうないだろう。

傍から見ればそれなりに「オイシイ立場」であるが当の本人にとってはとってもデリシャスではない。

 

「あーやっぱ帰ろ・・」

 

どうせ会ったとしても今更何を話せばいいのか解らない。あぁ何も考えず犬猫のようにすり寄れた小さい頃が懐かしい・・。

 

―・・・・・ん?

 

チリンチリン・・・。

 

―鈴の音?

 

その音色に辺りを見回す。既に水泳部更衣室前に来ていた。

 

―放心状態で女子更衣室前って重症だなこりゃ。

 

前科者の烙印から彼を救った鈴の音色に感謝しつつ、短く刈りあげた揉み上げの後ろで大きく開く耳をさらに象みたいに広げる。音の発生元を見つけるのにさほど時間はかからなかった。

 

「お」

 

更衣室の裏への曲がり角で雨水を吐き出す黒いパイプの向こうからさらに黒い物体が顔を出し広大と目があった。

 

・・猫だ。

 

毛並みは歳をとっているようだが、栄養状態はいいらしく、艶と光沢のある黒い毛と長い尻尾と手足を持った十二分に魅力的な猫だった。

人間というものは単純で目の前にとりあえずの鬱憤の捌け口を見つけたら手を出さずにはいられない。広大もさっきまで己を支配していた重い気持ちが消え去り、頭は「どのようにしてあの猫に触れてやろうか」としか考えていない。

 

 

その意図に気付いたのか猫は広大を見ながら踏み出しかけた左前足を何処に着けるか模索している。広大の出方を窺っているのだ。

生憎広大には現時点でその猫が自ら寄ってくるように仕向けられる魅力を持つ物を持っていない。

 

あれだけ母に口酸っぱく「入れるな」と言った昼の弁当の残りのアスパラガスではこの猫の警戒を解くことは難しいだろう。せめてアスパラを巻いていた豚肉があれば可能性はあったが既に彼の胃の中で消化されている。

 

じりっ

 

! ととととっ!

 

仕方なく足を踏み出したと同時に猫は倉庫裏に姿を消した。手強い。

だが後を追って角を曲がると猫は距離を保ちつつも広大を待っていたかのように振り向いていた。まだ広大という人間を判別できていないのだ。

虐めようとしているのか、追い払おうとしているのか、餌をくれようとしているのか、それともただ撫でたいだけか。何にしても猫にとって餌以外はお断りであり、広大にこの猫を御指名する権利は現状無かった。

 

ただ生来の猫好きには猫の事情など関係ない。この少年かなり猫好きなのである。

 

また広大は距離を詰めた。近付くとさらにわかる。本当に綺麗な黒猫だ。

また猫が距離を広大から放すと首輪に光る趣味のいい銀色の花の房の様な鈴が心地いい音色を立て、更衣室裏の階段下に猫は隠れた。薄暗い階段下を四つん這いで覗き込む。きらりと緑色の目が光った。黒猫はそこにいる。手も届きそうだ。

 

―お。やったね。触らしてくれるかな・・?

 

広大はゆっくりと手を伸ばす。ネコの鼻に手が届きそうになったその時だった。

「・・・何しているんですか?」

 

「え?」

 

唐突に上から声が聞こえた。明らかに不審と不快と敵意の混じった不機嫌そうな声だった。

反射的に伸ばした腕は引っ込み、視線が上を向く。

 

それがまずかった。

 

「え・・!?黒・・!?」

 

―チャレンジャーだな・・勝負パンツか?

 

「いやそこじゃない!」と広大の頭の冷静な部分が突っ込む。だがすでに時遅し。

スカートの奥をまざまざと凝視した彼に浴びせられる声の主の視線が冷極に達する。

ようやく声の主の全体像がはっきりとする。

 

「・・・」

 

細く小柄な体格の少女。健康的で飾り気のないショートカットの黒髪。見下ろされているこの状況もあるがきつく見据えるようなやや吊りあがった漆黒の瞳。口は完全にへの字に結ばれ、不快感を一切隠さない。まだ「きゃあああ!!」と叫ばれた方がましである。

 

―・・それも困るか。

 

申し訳なさと恥ずかしさと混乱で少女をまともに見れず階段下の猫の方に目をやった。

 

―お、おい・・お前も何とか言ってやってくれ。「誤解」だって。

 

そんな出来るはずもない助け船をあろうことか猫に求めた。

 

―ってあ、あれ!?

 

だが既に黒猫はそこにはいなかった。まるであの黒猫が今階段の上から自分を見下ろしているあの少女に化けてしまったかの様な感覚を広大は覚えた。

 

これが広大と彼女との出会いだった。

 

 

 

2 俺は杉内、君、七咲

 

翌日

クラス 2―B 一時限目休み時間

 

「おはようっす!」

 

いつもと変わらない相変わらずの能天気さで梅原正吉は席でうなだれる広大の頭を手刀で薙いだ。

 

「おはよう・・。」

 

―あーうっとおし。

 

「おーおーおー?どしたの?朝っぱらからすぎっちは。棚町!国枝!コイツなんかあったの?」

 

「さぁ?」

 

「知んなーい。」

 

広大の左後ろの窓際に座る「国枝」と呼ばれた少年とその少年の机に惜しげもなく座っている「棚町」と呼ばれた癖毛の少女が気の無い返事を帰す。

基本棚町という少女はテンションとノリが低いのが苦手なので今朝から机に突っ伏し、テンションどん底の広大をスルーしていた。

国枝と呼ばれた少年は血圧がどん底のためスルーしていた。

広大はこの状況でうざくじゃれついてくる能天気な梅原をスルーしたかった。

 

昨日の放課後の出来事は今になっても肝が冷える。

かといって僥倖もあった。・・別にパンツを見れた事ではない。

 

時は少し遡る。

 

あの進退極まるあの場所あの時間へと。

 

「覗き・・ですか?」

 

「いや・・その、別に・・」

 

「では何を?ここで・しゃがんで・上を見て。・・何を?」

 

つり目の少女は一言一句抉るようにゆっくりと言った。

冷静になれば後々意外に言い訳や真っ当な反論ぐらいはコロコロ出てくるものだが些かこの時広大はテンパリ過ぎていた。

 

「黒猫がこの階段下にいたので撫でようとしたところに君が来ました。不可抗力です。殺さないでください」

 

何故これが言えなかったのか。反省点は尽きない。

広大の泳ぐ視線を尻目に少女はコンコンと階段をゆっくり下りてきた。相も変わらず最大級の警戒をひっさげて。このまま黙っていれば生徒指導室に直行。叱責、罵倒、侮蔑、詰問→下手すりゃ停学か?

 

―・・母に殺される。

 

「何をしていたんですか・・?」

 

痺れを切らした少女が今度は上目づかいで睨む。近くにいると更に小柄である事に気付く。

 

「いや・・その・・うんと。その、ね?あ、猫。そう!猫!」

 

ここは猫だ。

 

「猫?」

 

「そう黒・・!!・・猫」

 

「やっぱり見たんですね・・・」

 

「そう!見た!」

 

「覗いた・・と。認めましたね。」

 

「・・・」

 

―くっ・・!逃げ出したい・・!!

 

「誰かいるの?」

 

「!」

 

「あ・・」

 

唐突にまた声が聞こえた。だがその声の主は瞬時に解った。今最も聞きたい声であり、また逆にこの場に来てほしくない声でもある。更衣室裏への曲がり角から無造作に頭頂部で結った髪を揺らしてひょっこりと顔を出した。

 

「あ・・ここに居たんだなな・・あれ?広大君!?」

 

「ひび・・・塚原先輩」

 

広大は嬉しさがこみあげてきた。

塚原の乱入で大きく流れは変わる。塚原は申し開きの場を設けずに一方的に「黒」と決めつけるような事は絶対にしない。面倒だとは百も承知でもじっくりと話を聞いてくれる。こんな人が裁判官なら痴漢冤罪は無くなるのかもしれない。

 

「どうしたのこんなところで?七咲まで・・?」

 

―・・ななさき?

 

「先輩のお知り合いですか?」

 

全く同じ言葉を出そうとした広大の言葉を遮って「ななさき」と呼ばれた少女は尋ねる。

口調は穏やかだが何となく「この変な生き物知っているんですか?」という感じに聞こえる。

 

―・・耐えろ俺。

 

「うん。でも・・どうしたの?こんな所で二人とも・・知り合いだったの?」

 

「いえ。さっき会ったばかりです。では失礼します」

 

予想以上にあっさりと「ななさき」と呼ばれた少女は矛を収めてスタスタと歩き出した。その背中を見送り、塚原は広大に向き直って尋ねる。

 

「何か在った?」

 

「いえ。何も」

 

見つけてくれたのが塚原だったのが不幸中の幸いだった。実際なところやましいところは広大には無い。不可抗力だったのは確かでも。もし他の誰かがこの場を見たらもっとひどい事になっていたかもしれない。塚原だったからこそ落ち着けた。

 

―この人だったらきっと俺を信じてくれる。

 

そういう確信があった。

 

塚原はまだ訝しげだが特に勘繰ることなく話を再開した。少し彼女の表情が変わり、細く切れ長の目が優しい光を帯びる。

 

「・・・。久しぶりね。広大君」

 

「はい。」

 

「おばさん達は元気?お母さんも最近会えないから心配していたわ」

 

「元気ですよ。そちらは?」

 

「太った以外は元気よ」

 

「え。太ったんですか?おばさんが?」

 

「お母さんじゃないの・・お父さんの方。この半年で十キロ・・ホント勘弁してほしいわ」

 

「あ。いたた」

 

「ふふっ・・あ、ごめんそろそろ時間だから行くね?」

 

「まだ部活に出ているんですか?三年生はもう引退じゃ・・」

 

「そうなんだけどね・・、実ははるかが急に『泳ぎたい』とか言いだしてね?下級生じゃ断れないからあたしが部室で待ち構える事にしてるの。ひきずってでも連れて帰るわ」

 

「はるか」とは塚原と同じ三年生で彼女の親友であり、フルネームは「森島 はるか」である。単純に言えばこの学校のマドンナ、アイドル的存在であり、それに見合った容姿とプロポーション、そして男女分け隔てなく気さくに接する事ができる徳を持ち、また結構な変わり者で思い立ったら即行動の脳筋でもあり、周りの人間を巻き込む暴れメス馬と化すなかなかに掴めないヒトである。

彼女の暴走を止められる人間はこの学校にそういない。そのうちの一人が塚原である。

 

「別にいいんじゃ・・同じ女の子同士なんだし」

 

「甘いね。あの子がいると男子がうじゃうじゃ寄ってくるのよ。部員の気が散って仕方ないの」

 

「あ。納得ぅ」

 

「じゃまたね・・。・・コウ君」

 

「・・・!うん。ひびき姉・・」

 

幼い頃からの呼び名を互いに呼びあった。

 

―案外変わってないのか?俺達。

 

広大はあれこれ悩む前にまず話してみるべきだったと今更後悔する。

結果論とはいえあの黒猫とあの・・「ななさき」という少女に感謝すべきかもしれない。彼女達に出会わなければこの瞬間もおそらく存在しなかった。恐らく先輩が来る前に帰っていただろう。

この程度で満たされているようじゃ話にならないのは解ってはいるが、思いがけず手に入った懐かしい感覚に広大の胸は躍った。

 

だがそれも一瞬だった。

 

「~♪・・・!?」

 

鼻歌交じりに曲がり角を曲がった時広大は再び凍りつく。先程とは打って変わった悪戯っぽい笑みを浮かべた「ななさき」がさっきの黒猫をあやしながらちらりとこっちを見てすぐ目を切った。

恐らく・・何かと色々と「解った」のだろう。

 

確かにいい日だった。だが同時に何かと疲れた一日でもあった。

 

ぐでぇ・・

 

その疲れを広大は翌日現在も引きずっている状態だった。

 

気付けば既に四時限目が終わり昼食の時間。疲れてはいようと食欲はある事から自分が健康であることが理解できる。ただ昨日アスパラガスを残した母の腹いせか弁当は野菜と魚がメインである。まぁ「あれ」さえなければ嫌いな食い物は特にないので一向に構わないのだが・・

 

―ん?魚?

 

「おい。すぎっち!うまそうなサバ美ちゃんを残してんじゃねぇ」

 

実家が寿司屋を営む梅原は商売道具、いや、パートナーを侮辱された事に抗議した。

 

「大丈夫だっつの。ちゃんと『有効』活用するって」

 

何時もより昼食は早めに済ませ、その分残りの昼休みを眠るのに回す。

 

声をかけに来た国枝が「・・お前何時も眠ってンな」と呆れていたがどこ吹く風だった。

 

しかし、その彼が実は次の時間の英語の今回広大に順番が回ってくる英文翻訳を見せてくれようとしていた事を知ったのは後の事である。

 

―放課後

 

「うわっさっみっ。う・・・・ぃきしっ・・!」

 

午後からふきだした風によって更衣室裏は過酷な環境に在った。

その中、ほぼ空の弁当箱を小脇に抱え、広大は小刻みに震えながら待っていた。

昨日のトラブルの発端であり、また逆に殊勲の逆転劇のきっかけを作った功労者を労うべくこの寒空の下、広大は待っていた。あの音色を求めて。

 

―・・・! 来た。

 

チリィン・・。

 

方向を確かめる。・・・あそこだ。昨日と同じ階段下。そこにふたつ緑色に光る目がある。

 

―うーん。血が沸くねぇ。

 

脇からゆっくりと弁当箱を抜く。某凄腕スナイパーに依頼の資料を渡す依頼人のように・・そう・・ゆっくり、ゆっくりとだ・・。

傍から見れば何とも間抜けな絵面だがやっている本人達・・少なくとも広大は真面目だった。

パカリと弁当箱が開く・・猫も意図を察し、今日は警戒しつつも低姿勢でゆっくりと近付く。

梅原命名の「サバ美ちゃん」とやらの切り身を白い床に置く。

 

人間の食べ物は猫にとっては高カロリー、塩分濃度が高すぎる。そのためちゃんと塩気、そして細かい骨は抜き、老齢の猫でも健康を害しないように調整済みである。

 

変なところプロフェッショナルな男―杉内 広大。

 

くんくん、あぐ・・

 

置いた切り身に黒猫は二、三度鼻をつけ、すぐに食べ始める。

 

―隙あり。

 

無防備になった額をわしゃわしゃするチャンス!

 

―くぅ~・・このために生きてるな!

 

「何やってるんですか!」

 

一喝。

背後から声が響く。

 

「おおっ!?」

 

完全な無防備状態の背中に突き付けられた怒声に否応なしに広大の体はビクつき、恐る恐る振り返る。

 

「・・・また貴方ですか・・・。」

 

―それはこっちの台詞だ。

 

昨日「ななさき」と呼ばれた少女が今回は警戒と言うよりも呆れ顔で溜息をつく。

黒猫はその声に驚き、我に帰ると気付かぬ間に目の前にあった広大の指を反射的に軽く噛み、切り身を持って逃げだした。おめでとう。初「アマガミ」は猫から頂きました。

 

―あ痛!あ。あらら・・くぅう・・。

 

声にならない叫びが喉元まで来て引き返しつつ、広大は一目散に逃げていく黒猫を敢え無く見送った。

 

「ななさき」と呼ばれた少女はまたすぐに大体の事を理解した。

 

なんて解りやすい状況なのだろうか?なんて解りやすい人なのだろうか?と。

 

また「ななさき」は呆れた。

 

「駄目ですよ・・。このコ人見知りしますから」

 

そういって彼女はまたスタスタと歩き中腰で猫を呼ぶ。

 

「プー。プー?おいで?」

 

「プー?」

 

「あの子の名前ですよ」

 

そう言って手慣れた手つきで白い床にさらに白い人差指と中指の爪でカチカチと音を鳴らした。

その音に反応し、サバ美を・・食事を終えた黒猫―プーはゆっくりと、しかしリラックスした動作で近付く。歩きながらぐぐぐと伸びをするくらいだ。

そうしてプーは「ななさき」の指に顎を乗せ、気持ちよさそうに喉を鳴らす。

 

―バカな。俺の苦労は一体。

 

「・・何あげたんですか?あんまり変な物食べさせないでくださいね?」

 

「ん。ああ・・弁当のサバの切り身だよ。塩気も骨も抜いたから大丈夫だと思う・・」

 

不機嫌さと嫉妬心を隠さず広大はぶっきらぼうに呟いた。

 

「そうですか」

 

少し意外そうに明るい声を出した。

 

そう言えばこの少女と広大はまともに話すのはこれが初めてかもしれない。昨日の会話はまるで成立していなかったも同然だった。

 

「・・で。また覗きに来たんですか?」

 

「・・・」

 

振り出しに戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数分後・・

ゴール前に無数に「振り出しに戻る」マスが張り巡らされているような双六ゲームを抜け、ようやく納得してくれた。

 

「はぁ・・はい。解りました」

 

溜息の絶えない少女である。こちらに非があるのは確かだが。

 

「よかった。解ってくれた?」

 

「正直どうでもいいです。ではここから早く帰ってください」

 

「う・・」

 

名残惜しそうに広大は彼女の足にすり寄るプーを見る。

 

「無理ですよ。プーは。男の子にはあまり懐きません。何企んだり、考えてるか解んないからでしょうね」

 

何となくそれはプーだけではなく、彼女自身の主観も少なからず混ざっているようだ。

全男代表としてここは言い返したいところである。

 

「そういう君はここで何してるの?えっと・・『ななさき』・・だっけ・・?」

 

「あ。・・はい」

 

そう言えば昨日ちゃんと自己紹介をしていない。昨日から色んなことがあったがとりあえず知り合った以上名前を名乗るのは礼儀と判断する。塚原の知り合いでもあるのだし。

 

「ゴメン。色々あって結局自己紹介して無かった。俺は杉内です。2-A杉内広大。初めまして」

 

「『コウ君』ですね?」

 

「う・・」

 

―やっぱり聞いてたな・・?

 

「ふふ。すいません。あの時塚原先輩に私も用があったのであちらで待たせてもらっていたんです。したらお二人の会話がたまたま耳にはいちゃって」

 

相変わらず悪戯そうな笑みは絶やさないものの、ちゃんと彼女は非礼を詫びた。元々印象にはあったがきっちりしている子なのだろう。

 

「・・あー。ん。そういうことか。いいよ。別に」

 

「はい。初めまして。私は1-B七咲です。先輩だったんですね。初めまして杉内先輩」

 

―1-B・・あぁ橘の妹と同じクラスか。

 

「下の名前は?」

 

「・・逢(あい)です」

 

少し間があったが七咲はハッキリとした口調で答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 二つのアコガレ

 

「「アイ」・・ね。漢字で書くとあの「愛」?」

 

広大は指を虚空で「愛」となぞりつつ聞いた。

 

「いえ。違います。出逢いの「逢」です。難しい方の」

 

「あ~~・・ん・・・?」

 

杉内広大 現代文成績 2

 

「・・解らなければ良いです。ちなみに「ななさき」は数字の七に「咲く」です」

 

「ふーん」

 

―ま。確かに「愛」って感じじゃあ無いな・・。

 

「・・変わっていてすいません」

 

「あ、いや・・ゴメン。良い名前じゃない?俺も大概だし」

 

「「こうだい」・・ですよね?」

 

「そ。広大。「広い」に「大きい」って書いて」

 

「成程」

 

―名前負けですね。

 

―ほっとけ。

 

二人は目でそう会話した。

 

 

 

「・・もういいですか?そろそろ帰ってくれません?」

 

「ぬ・・そんなに帰んなきゃダメ?」

 

ちらりとプーを見る。縋る様に。しかし眼を逸らされる。

 

「はい。困ります」

 

プーの気持ちを代弁するように七咲が割り込んだ。

 

「・・・」

 

しかし尚もプーを見る。このまま引き下がれない。だが広大の視線を感じて更にプーは引き、下がる。七咲がふぅと溜息をつき、次に見据えるような目で笑顔を崩さぬまま言った。

 

「先輩」

 

「ん?」

 

「えい」

 

「あ!?」

 

七咲はあろうことか自らの手でスカートをまくりあげた。

 

「え、ちょちょちょちょ・・七咲!?・・いきなり何!?」

 

さすがに直視はできそうにない。ガン見したら何を言われるか解ったもんじゃない。だがちらりと見えたスカートの中は昨日と同じ確実に漆黒だった。

 

「何ですか・・?見たかったんでしょう?」

 

「だから・・!違うって・・!!」

 

「良いんですよ?見たからってアタシは何とも思いませんから」

 

「そういう問題じゃないって・・?え・・・?」

 

「冗談じゃなくちゃんと見てください?先輩」

 

「・・水着・・?」

 

「そゆことです」

 

そう言ってすぐにばさりとしゃくりあげたスカートを下ろし、ぱたぱたと両手で払う。

それなりに恥ずかしくはあったらしい。はたきながら顔を広大にしばらく向けなかった。

まぁ笑いをこらえていたというものもあるだろう。

 

「私、水泳部なんです。だからあんまりこの周辺に知らない男子がうろうろするのは・・・解りますよね・・?お互いにあんまり良い事無いと思いますよ?」

 

次に広大に視線を向けた時にはもう彼女は何時もの調子に戻っていた。

 

「あ~はは・・。」

 

成程ようやく何かと合点がいった。一気に力が抜ける。

 

「・・じゃあ昨日も?」

 

「はい。残念でしたね。ただの水着です」

 

「はぁ~~」

 

さすがに広大は内心頭を抱えた。

「んふふふ。単純ですね。先輩って。すぐ表情に出ちゃいますから。ちょっと可愛かったですよ」

 

そういって七咲はからかったつもりであろうが今回ばっかりは悪ふざけが過ぎる。はっきりいってとても褒められた行為ではない。増して知りあったばかりでおまけに年上の異性に対して。

礼儀云々以前の問題だ。

 

「七咲」

 

すこし意識して広大は口調を冷えさせた。説教というガラでも無いが塚原の大事な後輩である。

 

「・・何ですか?」

 

「とりあえずゴメン。事情は解った。でも流石に今のは余計。あんまり男をからかわない方がいいよ」

 

「・・はぁ」

 

「今までそんな意識をあんまりした事無いんだろうと思うけどさ。やっていいこと、悪いことの境は付けるべきだと思う」

 

「・・すいません。悪ふざけが過ぎました」

 

「そういう意味じゃ無くて・・ほら・・一応相手が男だってことを意識した方がいいっていうのかな・・男にも色んな奴が居るし、軽率すぎたんじゃない?って事」

 

「・・。肝に銘じます。・・先輩案外ちゃんとした人なんですね」

 

「・・どうも」

 

「あ。今のは別にからかったわけじゃないですよ。でも・・なんとなく先輩なら大丈夫かな~って思って」

 

「大丈夫?どういう意味?」

 

「杉内先輩、塚原先輩のお知り合いなんですよね?結構昔からの」

 

「まぁ・・。それが?」

 

「塚原先輩の知り合いなら大丈夫だと思ったんです。あの塚原先輩が警戒していない人ならある程度は信用できるかなって楽観的に考えちゃいました」

 

―成程一理ある。俺を信用していた、無警戒だったと言うよりも塚原先輩との接点から俺という人間を判断したのか。

 

「実際私の勘は当たっていましたからね。事実杉内先輩は私を襲うどころか、むしろ今忠告までしてくれましたから」

 

―くそ。情報戦で先を行かれていたか。不愉快な娘だ。

 

「塚原先輩の事尊敬してるんだな」

 

「それはもう。春先の入部の勧誘の時、声をかけてもらってからずっとお世話になってるんです。優しくて賢くて強くて頼りになって綺麗で。本当に自慢の憧れの先輩です」

 

不愉快には違いない。けど同感だった。異性としてと同性としての感情の違いはあるものの根っこに存在するものは彼女と広大も大差はない。

 

恩と情愛、親愛、憧憬。そしてちょっとした美化と依存。

 

―羨ましいな。

 

広大は七咲に対してほんの微かな嫉妬の様な感情を覚えた。

抱えている物は近いのに「今現在」と言う時間で言えば圧倒的にこの少女の方が塚原の近くにいる。また、居ても問題は無い。自由に教えを請う事も出来、甘える事が出来る。極自然に。

自分が成長するにつれ、そしてチンケな男のプライドが故に失っていった権利を塚原に出会って一年もたたない目の前の少女が持っている。少しその事が羨ましく思えた。

「嫉妬」というより「羨ましい」と言う方が似合っている。

 

―あーやだやだ。恋敵が女の子だなんて考えたくもない。

 

「先輩?」

 

「あ、悪い」

 

「ごめんなさい。私そろそろ行かないと。今日のお詫びにプーともう少し遊んで行ったらどうですか?懐いてくれないでしょうけど」

 

皮肉を込めた余計な一言をさらりとイタズラに言い放ちつつ少女は首を傾ける。

 

「いやそのリベンジはまた今度。俺帰るわ。悪かったな七咲」

何となく今の自分がこのコの前に居るのが嫌な気がした。この場にいるのも。

 

「・・?はい。では」

 

怪訝そうな少女に背を向けて歩き出す。違う意味で今日の彼の足は重い。

その後ろ姿を七咲は見送った。表情を変えて少し冷えた目で。その表情は少し大人びて見える。

七咲もまたお互いに関して近い印象を持っていた。同じ一人の人―つまるところ塚原 響を似たような感情で想い、慕っている・・。

 

しかし相手は男の子だった。

 

今の七咲では理解できない男としてのちょっとした劣情を抱えているのがハッキリと感じ取れる。だが男の子というのはそういうものだということも七咲も大体は理解している。

けど極論、尊敬、敬愛する先輩の傍にいて欲しいかと言われれば・・NOだ。

ちょっとした対立をバカらしいと決めつけ、完全に背を向けた広大に対して、七咲は必要とあれば衝突も辞さない覚悟もあった。

 

確かに彼は悪い人間ではないだろう。塚原先輩の知り合いで幼馴染。でも何となくアンバランス感は否めない。

そしてあの人は多分・・いやきっと持っている。塚原先輩への「思い」を。

同性同士では通常持ちえないそれを。それがちょっと癪に障る。それが例え理不尽なことだとしても不愉快な物は仕方が無い。理屈じゃないのだから。

自分は女なのだからあの人の思いを完全に推し量り、理解する事は出来ない。

けど共通するものを持つ同族として気に入らない。そんな感じである。

 

似ていても決して交わる事は無い。

 

二つのアコガレ。

 

お互いのアコガレを双方が守るためにとった決心は皮肉にも全く真逆だった。

 

 

 

 

 

 

4 「ズルイ」

 

初めてだった。

あそこまで激昂したのは。

それは他でもない。

彼女の言っている事が正しかったからだ。

彼女は俺に興味が無かった。そしてある意味で子供だったから。

つまり俺の事はどうでもよかったから。

容赦なく俺の心を抉った。

もう一度言う。

彼女の言う事は正しかった。

けどそれをハッキリと受け止めて背負い、笑うのは俺には無理だった。

詰まる所・・俺は子供だった。

 

「解ってるけどどうしようもないんだって言ってんだ!ああ!君は正論を言ってる!正しいよ?けど相手の気持ちなんかどうでもいいから自分の気持ちを伝えたい、それが無理ならせめて持ち続けたいっていう気持ちは七咲には解んないだろうな?多分人を本当に好きになった事なんて無いんだろ?この人だけには嫌われたくないって思った事が無いんだろ?相手の都合?つり合い?そんなもん全て計算に入れて感情をコントロールできるほど俺は器用じゃないんでね!」

 

・・言ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めてだった。

確かに言い方は良くなかった。

私が行った行動も大概だ。

でも私は間違えた事を言ったつもりはない。

だからこそあの人は怒った。

逆上もいいとこだ。怒るなんてズルイ。

でも、

だからこそ、

私は泣いた。

相手に正論を言って、現実を直視させて、非難して・・

・・そして己の現状も知った。

だから・・涙が止まらなかった。

 

あの二人が出会ってまだ二週間のある日のことだった。

 

 

時間はまたそれより少し前。広大は相変わらず放課後度々ここ部室裏に訪れていた。

彼はプーに会いに来た。例え頭を撫でさせてくれなくても、弁当のおかずを食い逃げされようとも辛抱強く彼はここに来た。

かといって長々と居座る事は無い。ちゃんと水泳部の部活が始まる前には居なくなっていた。

相変わらずプーは振り向いてくれないがそれでも懲りずにこれを続けていれば「ある幸運」に巡り合うことも多い。

確かに彼にとってプーに懐いてもらうのは大きな目標の一つではあるが「ある幸運」に比べれば、それは適度で刺激的な暇つぶし程度のものだった。

 

それが根本的にプーに懐かれない遠因なのかもしれない。

 

「コウ君?また来てたの?」

 

・・今日は当たり日だったようだ。

 

「うーん」

 

「なんだ・・また駄目だったの?」

 

「もう少しなんだけどね・・ぬ・・・」

待ち人が来たかのようにプーは最早一切広大など目に入っていないかのように一直線に塚原のもとへ向かった。

 

「ふふふ・・おいで」

 

プーは尚も広大に全く目もくれず塚原の膝もとを狙い、ローファーに前足をちょこんと乗せ、塚原に座るようにアピールする。塚原は要求を聞き入れ、膝を下ろし長いスカートの上に簡易のハンモックを作り、そこにプーを抱き上げ、仰向けにさせた。プーは拒む様子も無く首元とお腹をさらし、塚原がお腹と顎をさすると気持ちよさそうに目を細める。

 

「さすが」

 

「ん・・ノミはいなさそうね。首元は集まりやすいんだけど・・また念のため今度薬を差してあげた方がいいかな」

 

「薬を差す?ああ・・ノミとかダニ用の奴?」

 

「そう。猫の首の裏、・・ここ。前足の肩のこのくぼみにね?薬液を垂らすの。結構効果あるわ」

 

「へぇ・・。ん?またって事は前もあるの?」

 

「ええ。プーはね?我が水泳部員の一人もとい一匹なの。歴代の水泳部員が世話してきた私の先輩、まぁお局さんみたいなものね。だからちゃんとトイレも用意しているし、定期的に動物病院にも行かせるの。水泳部が全面的にちゃんと面倒を見るという原則付きで学校から特例を貰ってるわ。すごいでしょ?」

 

「えー・・」

 

―知らなかった。お前物凄いVIP待遇だったんだな・・真面目にうらやましいぞ?

 

広大の形相変化。

 

―水着の女の子にそれに響姉にも囲まれて至れり尽くせりだとぉ・・!?けしからん!!・・あ、メスか。

 

 

「一体何年くらい前からいるのさ?」

 

「さぁ・・?詳しい経緯は私も聞かされてないわ。私が此処の水泳部に入部した時当り前のように既に此処にいたし、何の疑問も感じずに世話する人間が年々変わっていったんでしょうね。今いるあたし達よりもずっと長くこの水泳部を見続けている存在だってことは確かよ」

 

「お前・・すごい奴だったんだな・・」

 

「そう。あたし達が会った事もない水泳部の歴代の先輩たちをこの子は向かい入れては送りだしているの」

 

プーは相変わらず広大に一瞥もくれないが広大の心からの賛辞の言葉に機嫌を良くしたように毛づくろいをしている。

 

「『そうだ。もっと敬え~。』だって・・ふふふ」

 

塚原はそうおどけて言ってプーの心情を代理した。

 

「・・昔はノミは手でとってたっけ」

 

「そうね。懐かしいわ。コウ君の家のクロも立派なノミ屋敷だったものね」

 

「飛んだり、跳ねたり、引っ掻いたりする動くノミ屋敷だったね」

 

 

広大の猫好きは幼少に遡る。

広大の家には広大よりも三歳年上の雄の黒猫がいた。このプーみたいに綺麗な猫ではなかった。どちらかというと醜猫の部類だろう。しかし杉内家、そしてよく杉内家に遊びに来た塚原にとって大きな存在だった。

実際のところ飼い猫と言うのは素質的な可愛さも大事だが、長年共に過ごすことで生まれる「愛着」も大きな要素である。

大概の猫好きの人間は自分の家の猫が一番可愛いと思うように出来ている。親バカならぬ飼い主バカだ。

 

ただそれ故に避ける事が出来ない瞬間は訪れる。

彼らは人間の四倍から五倍の速さの「生」を歩んでいるのだから。

「コウ君のおばさん・・まだ新しい猫を飼う事許して無いの?」

 

「うん。というよりもう一生飼わない気かもね」

 

「少し寂しいね。気持ちは解るけど」

 

優しい目で気遣うように塚原は言う。

 

ふと時計を見ると四時を過ぎている。

だが塚原は未だに気持ちよさそうに目を細めるプーの頬を人差指で優しくこすり続けていた。

 

「・・。部活始まるよ?いいの?」

 

「ん。大丈夫。新キャプテンも決まったし。今日はちょっと顔出そうかなって思って覗いたんだけど何となく顔を出し辛い雰囲気だったの。皆これからは自分達でやっていかなきゃならないって自覚が出てきたみたい。だから今日はここでゆっくりしようかな」

 

「ひびき姉」

 

「ん?」

 

「少し寂しいね」

 

「うん。嬉しい反面ほんの少し」

 

塚原は両手を上に一杯に伸ばし、のびをした。未だスカートの上で横たわるプーもつられて伸びをする。

 

「ん~~!」

 

広大も足を延ばす。

・・どさくさにまぎれてリラックスしているプーの額を狙う。

だが殺気を感じ取ったプーはすぐに身を起こし警戒の姿勢を見せた。

 

「・・いい加減慣れてくんないか?終いにゃ俺も凹むぞ・・」

 

「あはははは。残念でした!コウ君」

 

 

うとうと・・

 

小春日和も手伝って塚原の瞼が落ち始め、ゆっくりと肩が上下する。

 

疲れているのだろう。

 

当然だ。高2のこの時期と高3のこの時期は全く以て異次元に近い。肉体的にも精神的にも否が応にも疲れは蓄積していく。それでも自らを慕う人たちの為に彼女は体を張っている。

ちゃんと比べると比較的細みの男子である広大と比較しても今目の前でまどろんでいる彼女は華奢だった。

 

「よっと」

 

静かに広大は自分のブレザーを塚原の肩にかける。

陳腐な、ありふれた言葉だが―

 

「幸せ」だった。

 

今の彼には自分を表すのにそれ以上の表現が思い浮かばなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後―

 

2-A 教室

 

「広大」

 

「ん?」

 

今日も弁当のおかずのどれをプー皇后に献上しようかと素材を吟味しているところに人懐っこそうな笑顔の少年が広大に声をかける。

色素の薄い茶色の髪を箒のようにあげ、やや面長の顔にぱっちりとした眼もと、口角が常に上がり親しみやすい表情。友達が多そうな好青年だ。

 

「ゲン。何?」

 

「お客さん」

 

そういって「ゲン」と呼ばれた少年は自分の左胸の上部分を人差指で指す。どうやら彼の後ろの教室のドア前に客人がいるらしい。

 

「俺に?・・・誰?茅ヶ崎?」

 

「違う。あの子だよ。知り合い?見ない顔だな」

 

「ゲン」が半身になったその先に「客」が見える。

 

―成程・・本当に意外なお客さんだ。

 

広大からの視線に気付き、「意外なお客さん」はペコリと頭を下げる。「ゲン」に対する礼の意味も兼ねて、しっかりと礼儀正しく頭を下げた後、広大を見据えた。

 

「・・七咲?ありがとゲン」

 

「うん」

 

「ゲン」と呼ばれた少年は広大の背中を見送った。その後ろ姿が何気なく合点が行っていないように感じる。戸惑いを隠せない感じだった。

 

―あんまり見ない顔だけどこの学年の子じゃないな。広大の知り合いにあんな子いたんだ。それにしても・・。

 

―まぁ、詮索しても仕方ないか。

 

「あの子・・この前創設祭の水泳部の書類を出しに来た女の子ね」

 

唐突にロングヘアーの女の子なら誰もがうらやむ様な理想の髪質と整った顔立ちを持つ少女が「ゲン」に話しかける。胸の前で腕を交差させて学級日誌を持つ仕草はいかにも清楚な優等生イメージだ。

 

「絢辻さん。知ってるの?」

 

絢辻 詩 あやつじ つかさ。この2-Aクラスの委員長であり、二学年代表の創設祭の実行委員長であり、学年トップクラスの成績と信頼を保持する優等生である。

 

「うん。確か一年生だったと思う」

 

「『ななさき」・・とか広大が言ってたかな。あってる?」

 

「あ、そうそう七咲さん。数字の七に咲くって書いて。素敵な名前よね?一年生なのにしっかりした子で話が早くて助かったわ。だから記憶に残ってるの。是非委員会に欲しい逸材ね」

 

「ふーん。水泳部・・・?」

 

「うん・・?そうだけど?それがどうかした?源(みなもと)君?」

 

ゲン―本名 源 有人 (みなもと ゆうと)。

彼は広大の「事情」をある程度把握している中学時代からの付き合いだった。

 

「あ。ひょっとして杉内君の彼女か何か・・?可愛い子だし」

 

絢辻は他聞を憚って小声で、しかし明るく言った。

 

「いや。違うと思うな」

 

その言葉に明確に源は否定した。それはない。有り得ない。「あのこと」がとりあえずの決着を見せていない以上は。

 

「・・そーなの?」

 

「・・何となくなんだけど・・嫌な雰囲気だった」

 

 

「・・・?」

 

杉内、七咲とすれ違いで今度はやや長身の少年、国枝が二人が出ていった扉から入ってくる。何処となく彼も雰囲気がおかしい。長めの前髪から覗く瞳が怪訝そうにドアの方・・いやドアの先の見えない空間を見ているように感じた。そして、源と国枝は目があう。源はすぐさま聞いた。

 

「見た?直衛(なおえ)」

 

「ん・・。一緒にいた子誰?」

 

「解んない」

誰かは「知ってる」。今聞いた。でも「何者か」は知らない。

 

「・・・そっか」

その意図を古くからの親友同士である源と国枝は理解し合っていた。

 

国枝 直衛 (くにえだ なおえ)

 

彼もそれなりに杉内の「事情」に関しては精通しているため戸惑いを隠しきれなかったようだ。

 

「ちょっとぅ・・・私を置いてけぼりにしないでよう・・」

 

「あ。絢辻さん。ゴメン・・また今度で・・・・」

 

源は再び表情を崩して特有のへらへら顔で笑った。

 

「・・・ふーん」

 

何時になく絢辻は低い声で目を細めるように言った。

 

「あ・・・」

 

「ん?どーした有人?」

 

「い、い、いや。何でも無いよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「七咲?」

 

「・・・」

 

七咲はずっと黙ったままだった。いつもの更衣室裏に着くまで何度も話しかけても一向に反応が無かった。別段怒っている様子でも無い。だが楽しい事情でない事も確かのようだ。ただ凛とどこか喜怒哀楽を捨てて感情を抑えているような不思議な佇まいをする。

遠くを見据えるようなただ澄んだ瞳で。

 

「何か?」

 

改めて聞く。そろそろ反応があるはず。そう確信していた。

 

「言わなければわかりませんか?」

 

「いや?いきなり言われてもなぁ」

 

「そんな考え込まなくても大丈夫な事ですよ。私が先輩を呼びだす理由はそうないと思うんですけど」

 

相変わらず遠まわしの言い方。「ひょっとしてプーのこと?いやぁ相変わらず懐いてくれなくて・・。」と、砕けたかったが幾分此処を覆う空気はそれを許さないだろう。

 

―仕方ない。本題に入ろう。

 

「・・先輩の事?」

 

「解ってるじゃないですか?昨日も一緒でしたね。」

 

「見てた?」

 

―だろうね。

 

「あんまり時間もないし、率直に聞きますね?杉内先輩ってどうしたいんです?」

 

「・・何を?」

その問いかけに彼女は反応しなかった。変わりにまた「言わせる気ですか?」と、言うような表情に変わる。いや表情は相変わらず全く変わっていないのだがそう言っていた。

 

「・・どうしたいんだろうな。これでいいかなと思う時もあるんだけど」

 

「成程。それは・・塚原先輩の選ぶ権利と機会を与えない事になりますよね?」

 

「・・・」

 

「それってズルくないですか?」

 

「ズルイ?」

 

「ええそうです。答えを出させない。ハッキリしない事でズルズルと塚原先輩の傍にいる事だけ!塚原先輩の迷惑も考えずに!」

 

七咲は初めて感情を露わにした。

 

塚原は広大を無碍には出来ない。元々の彼女の性質ではあるしそもそも塚原には恋愛感情は別として幼少からの弟の様な広大に対しての思慕はある。同じ時間と思い出を共有した存在としてきっちりと広大はその役目を担ってはいる。

ただ広大は少し違う。と言うより、成長の過程でもう一つの感情が余分に付けたされている。

明らかに彼自身は勿論、彼の周りにいる人物、そして恐らく塚原 響本人すらも気付いているだろう。その枠に収まりきらない感情を持っている事を。しかし彼は踏み出しはしない。

その距離こそが彼の間合い。これ以上離れたくないが逆に言えば近付きたくもない。

この距離が一線を置いていると言えば聞こえはいいが「塚原響にとっての杉内広大」という存在を疎ましく思っている人間にとってこの行為は看過し辛いものがある。

理不尽であるかもしれないが本人同士が構わないと思っている事を全くの第三者が許容出来ない事は存在する。

 

彼の目の前の七咲という少女がそれだ。

 

確かにそれは勝手だと笑う人間もいる事だろう。

ただその思考に至った経緯を考えないままに笑い飛ばすのもまた第三者の勝手な行動だとも言える。

 

七咲 逢

 

彼女は仕事の忙しい共働きの両親の家庭に生まれた長女であった。下に弟が一人いる。

彼女はいつも気を張っていた。少し歳の離れた弟を仕事が忙しい両親に変わって良く世話をし、家事全般もうけ持つ。それを誇りにも思っていた。

ただ逆を言えばそれ故の理不尽を抱えたのは一度や二度ではない。

別に言い訳をするつもりはない。けどやりたい事が出来なかった事もある。

時折感じる周りの女の子達と自分の隔たりが疎ましく思う時もあった。

もともと勉強は好きではなかったけど成績もあまり上がらなかった。

それを自分は何処かで「自分はこんな環境に身を置いているからだ。仕方ないんだ。」と、無意識に思っている事に気付き、自分に厳しい彼女は落胆した。

弟は可愛い。家事も楽しい。両親もその彼女の献身に感謝を隠さずに褒章してくれる。

充実した時間である事は解る。でもある意味「それのせい」にして自分の心身の均衡を保とうとしている事を自覚した。

「逢は本当にイイ子だね。」

その言葉は誇りであり、重荷でもあった。

 

そんな時出会った。

塚原 響に。

春、入学式を終えた帰り道。

 

中学生の時には考えられないほど大人びた女生徒がしきりにまだ此処に訪れて間もない、幼さの抜けきらない自分と同学年のコ達に話しかけている。それが森島はるかだと聞かされたのは随分と後のことだった。

水泳部員ではなく部外者の彼女が勧誘していた事を知った時の主に男子達の落胆といったらなかった。

七咲は当然そちら組には入らず、人だかりの出来た森島の勧誘の脇をすり抜け、水泳部の資料だけをそっと頂いてその場を去るつもりだった。

しかし運命的な出逢いは待っていた。

 

「入学おめでとう。今度体験入部があるから是非顔を出してね?」

 

森島とはまた対称的に落ち着いて凛とした大人びた女性がややすると鋭く見える目を此処まで見事に柔和に見せる事が出来るのかと驚くほど優しい瞳でほほ笑んでくれた。

第一印象と言うものは初見の人間を判断する上で、意外にも重要な部分を占める決定要素の一つであるというのはなかなかに有名な話である。

七咲は咄嗟に声を出せずに照れた。しかし何故かその場をすぐに去ろうとは思えなかった。

履きなれないローファーが鉛のように重い。

緊張を感じ取ってか塚原はまた微笑んで近くにあったパイプ椅子を彼女に勧めた。

 

「ちょっとお話していこうか。時間あるかな?」

 

そう言って机越しに向かいのパイプ椅子に塚原も腰掛ける。

 

「は、はい!」

 

「・・ゴメンね。緊張してるみたい」

 

「いえ・・そんなことは・・」

 

忙しそうに現在より少し短い髪を掻き上げる動作をした七咲はすぐその行為を後悔した。

 

―私のバカ。余計緊張しているように見えるじゃない。

 

実際緊張しているのだから取り繕っても最早意味は無い。だが、ただひたすらその時は自分のふがいなさを責め、取り繕うのに必死だった。

「・・よし、と。私は塚原 響。三年です。貴方も名前を聞かせてくれるかな」

 

塚原は主将という自分の立場を敢えて隠した。

 

「1-B七咲・・逢です」

 

「七咲 逢さんね。綺麗な名前」

 

嬉しい言葉だった。自分の名前を気に入ってる彼女には。

だが何を話せばいいのかは相変わらず解らなかった。

 

「何か聞きたい事はある?」

 

との塚原の質問に脳をフル回転させるがそれはフル回転と言う名の空回り。よっぽど何も考えていない時の方がましな質問が浮かびそうな状態だった。

見かねた塚原はまず自分の質問から始める。

最初はありきたりな質問だ。

出身中学、七咲の水泳の経験、中学の所属クラブ、得意種目など。

じっくりとゆったりと、しどろもどろの七咲の返答を静かに聞いてくれる。

その仕草と落ち着きに徐々に自分も気持ちが落ち着いてきた時に七咲の足元にするりと何かが通り過ぎる感触がした。

 

「・・・ひゃっ!・・?」

 

「・・?あ!この子ったら・・御免ね」

 

「え・・な、何ですか?」

 

「よいしょ・・重いわプー。もう少しダイエットしないとね」

 

塚原はかがんでそう呟いた。七咲も右肩側に体を傾け、机の下を覗く。すると黒い物体が塚原に引きずりだされていく。

 

「・・猫?」

 

「そ。猫。そしてあたし達水泳部の一員。プーっていうの」

 

「プーさん・・ですか」

 

「ちゃん、ね。女の子だから。でも初対面の子にはあんまり懐かないから珍しいね。プーは七咲さんを気に入ったみたいだよ」

 

「触ってみても・・噛まないですか?」

 

その言葉に塚原は躊躇いもせず大きく頷いた。

 

「本気で嫌ならこの子は近寄ってもこないわ。保証する。大丈夫よ」

 

「・・・」

 

塚原の言うとおりだった。

塚原に抱えられた黒い大きな猫は差しだされた七咲の右手の人差し指の匂いを少し嗅いだ後、ぺロリとほんの少し舌の先で触れる。気に入らない人間に対して猫が行う行為ではない。

七咲の背中から後光が差すように笑みがこぼれる。それを見て何処か内心安心したような顔で塚原も微笑む。

 

「ほら、ね?七咲さんの事をプーが気に入った証拠。抱いてみる?」

 

「え、はい!よいしょ・・重い・・ですね」

 

「ほら見なさいプー。七咲さんも重いって」

 

塚原が少し意地悪そうにそう言ってプーを見るが、プーは七咲の肩に両前足を預け、ゴロゴロとのどを鳴らし、明後日の方向を向いて目をつぶっている。完全なリラックスモード。

そのふてぶてしさに塚原は苦笑いし、七咲も笑った。

日向ぼっこをして暖かく良い匂いを放つ猫の毛はとても心地よい。プーを抱いたまま七咲は塚原と話す。もう緊張は無い。もうこの手にある資料も必要ないだろう。

七咲はその日、その時に水泳部への入部、そして何と言ってもこれからお世話になるであろう水泳部の大先輩の一人と一匹に付いていくことを決めた。

 

これが半年程前の出来事である。

時間に換算すればそれは一応に短いものであるかもしれない。ただでさえ七咲は他人と打ち解けるのが特別うまいという少女ではないし本人もそれは大いに自覚している。

しかしこのプーと同じように彼女は人によっては第一印象だけで極端にあっさりと受け入れてしまう自分の一面もまた自覚している。そしてその判断力は中々に良質。勘がいいのだろう。

この一年で言えば該当するのはクラスメイトの橘 美也、同じく先日転校してきたクラスメイト中多 紗江。そして塚原 響。といったところだろうか。人を見る目は確かなのである。

特に塚原 響。

彼女が七咲という少女のかけがえのない憧れの存在になるまでさほど時間はかからない。

 

七咲にとって学業、部活、リーダーシップ、これ程スキの少ない女性は初めてだった。

凛と厳しく皆を諭す父性、そして包容力、母性、校内トップクラスの学業成績、またその他諸々に関する知性。

だが、だからといって近寄り難いわけではない。冷静な指摘役をこなす中でもどこかとぼけた一面をもち、時には後輩や同輩たちに親しみやすい笑いをも提供し和ませる。

「笑わせる」のではなく「笑わせてくれる」のだ。

本人は真剣であるため、そこが・・まぁ憧れの先輩に対してちょっと不適切な言葉かもしれないけど「可愛い」一面も持った先輩である。

この春の水泳部の勧誘で自分は結局七咲一人しか勧誘できず、ちょっと真剣に悩む先輩をからかう事も出来た。それをふくれっ面で聞きつつも最後には優しく微笑んでくれる。

そんな先輩。

ああこの人なのだ。自分が求めていた存在は。

幼少期より自らが我慢の対象であった自分が一切気兼ねなく自分を預ける事が出来、さらに甘え、頼るだけでなく、その行動自体を参考に、見本にして自らを成長させてくれる存在。

 

・・・それ故に。

 

七咲はその短さを。

塚原と自分にある時の短さを嘆いた。過去もそしてこの先も。

この季節になって三年生が引退し、日々日の短さを実感できる今日この頃。

忙しい塚原の時間は七咲だけのものではない。

それは解っていても彼女から得られるものを得る時間は否応なしに日に日に減っていく。その現実は少し七咲を落ち込ませ、焦りにすらなった。これ程時の短さというものを嘆いたのは今まで無い。

 

そんな時だった。

 

この人が現れたのは。

 

杉内 広大。 塚原先輩の幼馴染だという一学年上の男子。

 

ハッキリ言うと気に入らない。

 

別にそんなに嫌な人でも無い。塚原先輩の知り合いなのだからきっと悪い人じゃない。

少し抜けているところもあれば、変なところで年上の安心感を見せるヘンな人。

でも・・気に入らない。

自分よりも遥かに多い時間を共に先輩と過ごし、またこれからもその時間は立場上与えられていくであろう存在。

その与えてもらった時間を持ちながらにしては頼りない面、印象が目立つ。

 

―一体先輩から何を学んできたの?

 

そして先輩につかず離れず、ふわふわと一定の距離を保っている。

私には・・あたしにはそんな時間は無い。余裕もない。繋がりもない。

だから必死。今は必死。

少しでも先輩の傍にいたい。

けど何故何もしないこの目の前の存在が私では手に入れられない、手に入らない積み重ねを持ち、これからも持ち続けていくのか・・それが理不尽でたまらない。こう考えること自体私の方が理不尽なこと言っているのは解る。

仕方ないのは解っている。

 

けど・・やっぱりズルイ。

ズルイよ。

何もしていない側に傾き続ける天秤なんて。

 

 

時は再び今に戻る。

 

「ズルイです」

 

もう一度絞り出すように七咲は言った。

しかし、だからと言ってここでこの目の前にいるこの頼りない少年が七咲の言葉に感化され、塚原のもとへ行き、ハッキリとその思いを伝えれば・・そして万が一塚原がそれを受け入れたとしたら・・今の自分の行動は全くの逆行もいいとこだ。

 

でもどこかで確信もあった。きっとこの目の前にいる存在は私以上に自分に自信が無い。

そして積み重ねの長さゆえに逆にそれが突然損なわれてしまうのを恐れている。

自分が積み重ねの短さを嘆き、また恐れているのと同じように。

だからきっと動く事は無い。でも自分は動ける。何せ残された時間が少ないのだから動くしかないのだ。

 

と、すると今の七咲の彼女の行為は?何の意味が?

 

至極単純である。

大別してしまうと一言で済む。ただの「嫉妬」

ただの嫉妬による嫌がらせだ。

玩具を買ってもらえない家に生まれた子供が恵まれた環境に生まれた子供の持っている玩具に嫉妬して嫌がらせをするのと大差ない。

さらにその相手が反論できない事も充分知っての上での攻撃である。

 

となると一体誰が本当に「ズルイ」のだろうか?

 

―はは。私、だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめは受け入れた。

 

確かにズルイ。俺はズルイ。

 

確かに七咲もズルイ。ただ自分のやりきれない気持ちをただ発散するためだけに俺を抉ったのは・・ズルイ。

でも君は知らない。

君がうらやむ。俺と響姉の積み重ね。

そこには「ある者」にしか解らない、持つ事が出来ない感情がある。

「無い者」にしか解らない、持つ事が出来ない感情もあるように。

そんな仕方のない事をただお互いに「ズルイ、ズルイ」と言いあっていただけの事なんだ。

でもそんな下らない事でも俺には踏み込まれたくない領域だった事は確か。

 

力無く笑ってまずは受け入れた。

 

七咲?大正解。

 

君の言う事は正しい。

 

ん?

 

釣り合いが取れてない?

 

んーそうだな。

 

けど塚原先輩と釣り合いがとれる人って中々大変だと思うぞ。

 

それを全く気にしないチャラ男に到底なびきそうにないしなぁ。響姉は。

 

あ、ごめんこれ昔からの癖なんだ?

 

―へへん。いいだろ?

 

・・・・・。

 

・・・!

 

・・。・・・!

・・・・?・・。

 

・・!!

 

・・!!!

 

 

 

押し問答は単純だ。

書き連ねる必要もない。

ただ意味もない言葉の応酬が続いた。お互いの感情が徐々に・・徐々に上気していくだけの。

 

話し始めてからお互いに最終的にこうなるのは解っていたのかもしれない。

「そうでもしなければ止まらない。」

というのがお互いに解っていたのかもしれない。

誰もが想像の通り、お互いの感情の堰は崩壊。

見るも無残な子供の喧嘩だ。

 

そういえば・・最後に女の子を泣かしたのっていつだったっけ?

その瞬間やたらと肝が冷えて血の気がひいていた感覚を思い出す。

ああ・・こんなの、こんなのだった。

気分最悪。

怒りと罪悪感がない交ぜになる。

ズルイ・・ズルイって。泣くのは・・ホントに。

いや違うな。

 

―はは。俺最低。

 

 

 

 

 

 

 

5 ☓(ばつ) ゲーム

 

「す、杉内君大丈夫!?保健室行った方がいいんじゃない?」

 

「あ・・ゴメン絢辻さん。次移動教室だったよね・・。悪いけど先生に言っといてもらえるかな?『杉内は死にました』って」

 

「ホントシャレにならない冗談は止めて。今の自分の顔色解る?結構リアリティがあるのよ。今の杉内君」

 

「あ。そう?あはは」

 

 

 

「・・絢辻さん。俺が広大保健室に送るんで久代先生にそう伝えてくれるかな?俺も送り終わったら向かうから」

 

流石に絢辻でも男子一人を抱えて保健室に運ぶのは無理がある。源が見かねて助け船を出した。

 

「・・そう?でも一人じゃ・・」

 

「大丈夫♪」

 

ひょろっとした決して太くない腕を見せて源はニッカリと笑う。

 

「・・。そう。じゃあお願いするね。先生にはちゃんと言っておくから。源君。有難う」

 

「こっちも一緒に資料運べなくてゴメン。あ。そだ。マサ辺りに頼んでみて?きっと引き受けると思う。アイツ今先生に呼び出しくらって職員室にいると思うから、助け舟と同時にこき使ってやって?」

 

「ふふ。了解です。そうするわ。杉内君・・お大事に」

 

そう言って絢辻はにっこりと笑って教室を後にした。

 

「さてと・・。保健室行く?こー大?」

 

「ただの寝不足なんで大丈夫。一人で行けるよゲン」

 

「無理無理。絢辻さんも言ってたけど君自分の今の顔解ってないでしょ?生き倒れになりそうでマジ怖いんだって」

 

「そんなにひどい?」

 

「うん。・・やっぱり昨日何かあった?俺が聞く事でも無い事かも知んないけどさ」

 

「・・・」

 

答えない広大をじっと見る源の後ろから声がした。

 

「有人。次移動教室だぞ」

 

国枝だった。その後ろには棚町もいる。

 

「わーってる。先行ってて」

 

「何―?どうかしたの?ってうっわ! 何?杉内君どしたの?未だかつて無い表情に戦慄を覚えるアタシがいるわ」

 

あわわと言った表情で棚町は何かエグイものでも見るような眼で広大を見下ろす。

 

「棚町さんも何か言ったげて?なっかなか保険室に行ってくんないの。用もない時とか結構行くタイプなのに」

 

「直衛―?アンタが背負ってやったら?いくらなんでもこれはヤバいと思うわよ?」

 

「・・本気でそうする?」

 

「みっともないからいいデス」

 

「いや~そのままの方が中々にみっともないと私思うんですケド」

 

「・・何?保健室に行きたくない訳でもあんの?」

 

「・・・」

 

―・・というより今はちょっと一階「は」遠慮したいんだ。万が一でも会いたくない。

 

あの子に。

 

保健室のある一階は一年生の教室と同じ階にある。

 

「・・。じゃあ授業が始まってからにする?廊下に人もいなくなるし、それだったらみっともなくないだろ?広大?」

 

「・・・そうする」

 

―ホントいい奴だなゲンは。

 

「決まり。直、俺ももう少し遅れそうって伝えてくれる?一応絢辻さんには伝えちゃいるんだけど」

 

「いいよ。本当に背負わなくて大丈夫か?」

 

「・・・だいじょぶ」

 

「む。行こう。薫」

 

「・・うん。ホント・・・だいじょぶ?」

 

「おー」

 

「解った。無理しないでね。コイツは何時でも貸すから。有料だけど」

 

「ありがと。棚町さん」

 

 

 

数分後チャイムが鳴る。他に人がいなくなった教室はひんやりし、さっきまで外から聞こえていたグラウンドの歓声がピタリとやみ、代わりに打って変わって作業的な体育の体操の号令が聞こえる。

「そろそろ行こう。広大」

 

「ゴメン。行こう。ゲン」

 

聞きたい事を飲み込んでくれた親切なクラスメイトに感謝しつつ、ゆっくりと体を起こす。

寝不足だけではこの体の重さは生じないだろう。昨日の自らの行為の後ろめたさはそれを超える足枷を足首に巻きつかせる。

 

―泣いていた。泣かせてしまった。

 

彼女は声を上げる事は無かった。

ただ唇をかみしめワナワナと震えながら俺の激昂にも視線をそらさずに見据えていた。

「泣いている。」という言葉で表現するのに適当な彼女の所作はわずかな震えと澄んだ眼にやや浮かぶ涙ぐらいだ。

だが相当に恐かっただろう。

やはり彼女も所詮女の子なのだ。それもまだ高一の。

自分より大きく声の野太い男子の激昂の声、恐怖が無いはずがない。

怒りに身を任せた俺は良かったかもしれない。

 

 

「怒る」。また「泣き喚く」と言う行為は自分をある意味現実逃避という自己防御のセーフティの役割もこなす。感情の奔流を一気に発散することで自己の過大なストレスを流し、結果精神の安定の一助となる。これをこらえる事は中々に難しい。

しかし、彼女はそれを自分の意思で止め、恐怖に震えながらも自己を保ち、見据えたのだ。

恐怖の対象を。つまり広大を。

 

 

―確かに別に反論したわけでも、反撃してきたわけでもない。

ただ見据えて、目をそらさず、じっとしていただけだ。

それがどれほどすごい事かは相対した俺しか解らない。

俺は完全に負けていたのだ。

目の前の小さな少女に。

その証拠にあろうことかその場を先に去ったのも俺だった。

あーあ。もうホントに。完膚なきまでに。全く以て・・

 

「・・・負けだ」

 

「え?何?いきなり」

 

親切なクラスメイトの心配をよそにもう言葉が出なかった。

 

―言葉に発してこれ以上発散しようとするな。

抱えて、噛み砕いて、少しでも。あの時あの子が抱えたもののほんの一部でも残しておくんだ。恥の上塗りはもう・・嫌だ。

 

 

「すいません。彼を寝かしてやってくださーい」

 

源は「誰かいますか?」「失礼します」ではなく、友人をあくまでも案じる第一声を保健室に放つ。しかし応答はない。保険の先生は外出中だった。

 

「うー相変わらず仕事しない先生だよなぁ。保険の来崎先生。広大?先生来たら事情説明できる?それとも来るまでここにいようか?」

 

「・・大丈夫。ホントあんがとゲン。しばらく一人で寝てるから。横になるだけだしここでいいよ」

 

「・・そうか?大丈夫?」

 

「いけって。大丈夫」

 

「ん。解った」

心配そうな表情は崩さないものの、幾分源はいつものにへらとした笑顔を見せ、静かに戸を閉めてくれた。

「うー・・よっこらせぇ。はあ・・あぁ・・・」

 

落ち着いた。やっぱり横になると違う。白い清潔なシーツの肌触りは何とも言えない。

足元にある上布団を掛ける事も億劫なほどの倦怠感だが取りもあえず落ち着いた。

ただゲンが去り、部屋が静寂に包まれると勝手な話だが何処となくさみしい感情を覚える。

人間サボった時は案外気楽にこの状況を楽しめるのだが、いざ本当に体調を崩してこの保健室という場所に正当な理由で来ると何故か変に居心地の悪さを感じてしまう時がある。

今日はその時だった。

授業に戻り、皆のもとに帰っていったゲンを本当に勝手ながらも羨ましく感じた。

授業をサボりたい、仮病を使って保健室に行きたい、それを達成した時の満足感は自分の心身が健常だからこそ意味があり、本当に体調を崩していざこの場所に来ると大概この場所は・・何というか心の牢獄になる。何せ心身が参っているところに寂しさと静寂が訪れるからだ。

わずかに聞こえるグラウンドからの音、普段聞こえにくい時計の秒針の音が響く。

 

やたらと時間が重く、長い。

 

「じゃ・・・し・・す。」

 

不意に保健室の扉が開く音がする。その音に掻き消されたのか声はよく聞き取れなかった。

いつもサボっている時ならこの音にビクつく。何故なら本当に体調の悪い人間が来た場合確実にこの場を譲らなければならない。それはサボリ魔―「サボりマー」として最底限のモラルとマナーだ。しかし今日はそれもできそうにない。さすがに幾分の睡眠は必要そうだった。

 

―すまない。今日は譲ってやれそうにない。名も知らぬ同志よ。

 

だが部屋に入ってきた気配は気遣うような小さな足音でベッド側には近寄る気配は無い。

薬か何かでも貰いに来たのだろうか?

 

「相変わらず先生居ないな・・ここ」

 

―ん?んんん!?げ・・・・!??この・・声?

 

「・・・なな・・さき?」

 

―あ。

おいおいおいおいおいおいおいおい。

なんで?

なんで!?

なんで声出しちゃうよ?俺!?

 

「えっ?」

 

慌てて口を塞ぐ。

とりあえず「えっ」という声の反応で推察は気のせいではないという結論が生まれた。

「あの子」だ。まず間違いなく。

 

―あっちは気のせいだと思ってくれ・・。

 

そう思ったが事前策が甘すぎた。

丁寧かつ几帳面な彼の友人、源は「Ⅱ-Aすぎうち」と書かれた上靴を丁寧にそろえ、ベッドの横の人目になるべく触れやすい位置に移動させてくれていた。

 

「ここに病人がいます。静かにね。by源」

 

―すばらしいアピールプレイ。シミュレーションはまずとられまい。さぁ審判!!俺を退場させてくれ。この場から今すぐに!

 

「すぎうち・・杉内・・先輩?」

 

―あーあ・・。もうどうにでもして。

 

「こんにちは・・七咲。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・風邪でも引いたんですか?」

 

「いや・・別に。サボりかな・・?」

 

―・・なぜ強がっているんだろう。「風邪伝染るからさっさと出た方がいいよ。」とでも言えばいいのに。この子もこの子だ。昨日のあんな出来事の翌日にわざわざ何でまた?

 

「そうには見えないですけど・・?」

 

「寝不足だからサボってるだけだよ。それよりも七咲はいいの?一応授業中なんだけど」

 

少なくともサボっている設定の人間が言っていい台詞ではない。

 

「私は氷をとりに来たんですけど先生がいないみたいなんで・・」

 

「・・怪我?」

 

「いえ。まぁ・・」

 

「・・湿布ならそこにあるよ。持って行ったら?」

 

「先生がいないのでまた今度にします」

 

「そ」

 

「・・では」

 

「うん」

 

「・・・。足・・上げてもらえます?」

 

「え?は?」

 

「上布団。被った方がいいですよ。本当に体調悪いんでしょう?」

 

「・・いいって」

―しまった・・否定を忘れた。

 

「・・やっぱり」

 

小さく少しいつもの悪戯っぽい口調でそう囁いた。聞こえるか聞こえないぐらいの声。広大は聞こえないふりを選んだ。

 

「・・」

 

「いいんですよ。体調が悪い時はどうしても人恋しくなりますもんね」

 

―・・・!こいつ・・。

 

そういって七咲は広大の足先からゆっくりと上布団をかける。やけに手慣れた動作だ。誰かを介抱する事に慣れているのだろうか?その答えは現時点の広大では出なかった。

 

何にしろ広大は全く彼女の事を知らないのだ。

傍から見ればなんとも奇妙な関係である。お互いに何も知らないのだ。この二人は。

接点が塚原 響、プーと言うだけで。

 

「失礼しました。お大事に」

 

「・・ありがと」

 

広大のようやくの精一杯の言葉だった。

 

「いえ」

 

「・・」

 

「先輩・・」

 

「・・何?」

 

―まだ何か?

 

「あの・・何時でもいいんですけど先輩に付いてきてほしいところがあるんです。放課後でいいんですが」

 

―は?

 

「勿論体調が良くなってからで・・嫌じゃなければ・・なんですけど」

 

「・・・」

 

「・・じゃあ・・」

 

「別に今日で良いんじゃないの?俺今サボってるだけだし。俺が暇なの君知ってるでしょ?」

 

―あぁ何とも我ながら小さい。さっきうっかり体調が悪い事を暗に認めたばっかりじゃん。

なのに何?今更意地を張るこの小ささ。

 

「そうですか。解りました」

 

「・・水泳部は?」

 

「中間テスト前休みです」

 

「あれ?まだ中間までに二週間近くあると思うんだけど?」

 

「うちの部は二週間前からテスト休みをとるか、自主練習に参加するか決められるんです。個人の意思に任せてどちらを優先するか判断しろという事です。一週間前は問答無用で休みですけどね。だから大丈夫です」

 

「ふぅん・・。で。放課後にクラスに迎えに行けばいいの?」

 

「あ・・出来れば校門で」

 

「・・了解。もういい?」

 

「はい。お大事に」

 

七咲はそう言ってまたゆっくりとした歩調で来たとき以上にゆっくりと戸を閉める。

とりあえず体調を戻さなければ。意地を張った以上「やっぱりいけません」は何が何でも避けねばならない。

 

―何処へ行くかは不明だが失態続きの汚名挽回・・いや名誉返上・・いや・・汚名返上・・ん?名誉挽回?んあ!とにかくそういうニュアンスで!

 

・・現代文勉強しないとな。

 

とりあえず正解は。

 

○汚名返上 ☓汚名挽回

○名誉挽回 ☓名誉返上

 

数時間後・・昼休み。

 

同じクラスの面々がどっと見舞いに保健室へなだれ込んできた。

 

「おーっす。大将!倒れたんだって?しっかたねぇなぁ?サバ美をくわねぇからそうなるんだぞ?ほれ今日は俺の弁当にシャケ代(よ)が入ってるから遠慮なく食え!」

 

「はい。広大。お弁当。お腹すいてる?少しは食べた方がいいよ」

 

「おーっす。杉内君。おっ大分顔色よくなったねぇ?さて!今日は保健室にて皆で昼食としますか!ちょうど先生も他の患者さんもいないみたいだし?」

 

「薫・・騒ぎすぎ。ホントに誰か来るぞ。杉内?お前ウーロン茶でよかった?一応飲み物買って来たんだけど」

 

「失礼します・・って薫!何これ!保健室で昼食なんて大丈夫なの!?しかも大人数!」

 

「あ、けーこ。いらっしゃーい。ま、ここ座れや?」

 

「田中さんを巻き込んだな・・」

 

田中恵子 たなか けいこ

2-Aのクラスメイトで棚町薫の親友であり、主に振り回されているがそれを楽しくも思っている少し内気だが気のいい少女である。どうやらちょっとマゾ気が強いらしい。

 

「だってむさくるしい男共がいる密室の中にこんなセクシーでプリチ―な女の子がいたら何があるか解らないでしょ?その時は恵子を盾にして逃げればいいと思って」

 

「ええええええ!?薫!ひどいよ!」

 

「何!?棚町!そいつは聞き捨てならねぇな?俺達がそんな奴だと?」

 

「んーみなもっちはともかく梅原君と直衛は危ないかもね。病人の杉内君からも逃げられるとして・・後は恵子を犠牲にすれば完璧。何のために運動音痴を連れて来たと思ってんの?」

 

「あ。俺許された。ラッキー」

 

「・・田中さん。お疲れ様。はい座って。この痛い子の相手で毎回大変だよね・・」

 

「あ、うん・・お邪魔しまっす・・国枝君」

 

「ちょっと直衛!するっと流すな!恵子もあっさり受け入れちゃダメ!」

 

「ずるいぞ!大将!自分だけフォローに入って結局俺だけ危ない奴じゃないか!」

 

「早いもん勝ち。コイツも言ってたろうが。俺の盾になれ。ウメハラよ。俺は前科者になるのはゴメンだ」

 

「回転はやっ!流した振りしてのっかってるし!」

 

本当に持つべきものは友だと広大は思った。体調を崩して保健室で眠っている時に気付くなんてなんか間抜けな話だが心が晴れる気がした。

 

―午後からちゃんと授業出よう。その後の事は・・。うん。

 

あ、けど五限目現文だっけ?

むぅもう一時間・・・・。

 

―放課後

 

「ふぅ・・よしっと」

 

体から重みは消え去り、逆に頭がふわふわするような眠気を覚えたが、初冬の外気に触れると意識はより鮮明になった。

校門前にはHRを終えて足早に行った。世話になった友人達とのあいさつもそこそこに。感謝と埋め合わせはまた今度させてもらおう。

今はただ自分の体調と気持ちを回復させてくれた彼らに心で礼を言うしかない。

校門前にはまだ他の下校者も、校門前掃除担当の生徒も来ていない。

確実に一番乗りであった。本当にちゃんと授業が終わって帰っていい時間なのか疑わしくなる程に。その心配はすぐに払拭された。二番目の下校生徒が現れたからだ。

 

「あ」

 

「よう・・」

 

七咲だった。

着ているクリーム色のダウンジャケットはお洒落と言うよりも完全な防寒着として機能を重視させているところが彼女らしい。

 

「あ。すいません。御待たせしましたか?」

 

広大を見つけるとやや小走りで七咲は走り寄る。

 

「いいよ。それよりも行きたいところって?」

 

「・・この分だと次のに乗れそうですね・・。急ぎましょう先輩」

 

「・・『次の』?『乗る』?」

 

「後です。付いてきて下さい」

 

万年徒歩登校が可能な広大にとってあんまりバスというものは利用した事がない。最寄り駅に行くのも自転車で事は足りるし、遠出は車好きな父や兄のおかげで事足りている。

久しぶりに乗ると感心するものだ。よくもまぁこれだけでかい車をコスらずに時間通りに目的地に着けるものかと。

 

「結局何処行くの?」

 

「吉備東海浜公園です」

 

「・・海?」

 

「行った事無いですか?」

 

「いやあるけど・・シーパークに小学生のころ行った以来かな・・?」

 

―なんでまたあんなクソ寒い所に・・。俺を沈めるつもりかな・・?

 

「あ、寒いですよ?覚悟してくださいね?」

 

「・・・」

 

―知ってるよ。

 

「でもよかったです。保健室でいたのはサボっていただけと仰ってったので。体調の悪い日にはとてもお勧めできませんから」

 

「・・・」

 

―強がり、見栄っ張りな人間ってホント損するな・・。大人になろう。もう少し。

 

バスから降りた瞬間に潮風がツーンと鼻を突く。だが思っていた以上に寒さは感じない。

その辺はちゃんと七咲も計算していたようだ。ブレザーでもある程度は過ごせる状況ではある。

恐らく何か話す分には問題は無い。七咲の用向きはきっとそれだろうから。

それに他でもない広大自身の用向きもそれだったのだから。

だが・・広大はなぜ「わざわざここなのか」という疑問をもっと強く持つべきだった。

 

「はい。どうぞ」

 

「はい?」

 

―え。何これ?

 

「見たら解りませんか?」

 

「・・・」

 

―いや解るけど・・でも何・・これ?

 

「え。本当に解りません?」

 

「・・ゴミ袋。そして・・軍手。火バサミ」

 

「正解です」

 

「・・やったぁ」

 

彼の人生でこれほど空虚な「やったぁ」は今まで無い。

 

「ではいきましょう。私はあちらから始めます」

 

「オッケイ。俺こっちからね。・・って、待て」

 

「まだ何か?」

 

「・・とりあえず説明をくれないかな?」

 

「はい。うちの水泳部はボランティア活動で吉備東町の景観維持のための慈善事業に参加しています。要するにゴミ拾いです。以上です。では開始。あ。缶とペットボトルはちゃんと分けてくださいね」

 

―・・これ以上ツッコんでも何も出まい。

 

広大は諦めた。

 

時刻は四時前・・日が傾き、波の音とかけあわさってここ近辺の有名なデートスポットになるのがうなずけるほど景色は良いのだが、いかんせん切ないほど色気が無い。

下を向き、火バサミでゴミをほじくり出す憮然とした少年が一人。

最初はそこまで寒さを感じないものの、時折吹く強い風は徐々に体温を奪う程の冷たさは持ち合わせている。

 

しかし中々に重労働だ。ゴミというのは案外に重い。

ゴミ袋半分ほど埋まった程度の量でも海水を吸った雑誌や缶類を入れるとその重さは簡単に増す。

おまけに泥の中にあったゴミもそれを増長させる。

人間不思議なもので自分が悪い事をしているとめんどくさい事にその悪事をせめてもの虚栄心で隠そうとする。わざわざ埋めるのである。それならなぜ帰り道にある公衆便所前のゴミ箱に捨てないのか・・疑問は尽きない。

 

「どうですか?あ、結構採れていますね」

 

三十分程後、七咲が様子を見に来た。そう言った当の彼女のビニール袋は既に満杯になり、納まりきらない分を仕方なく片手一杯に持っている。

それを広大はまだ余裕のある自分の袋に入れるよう促し、彼女は無言で頷いて入れた。

 

「ひどいね。何考えてこの場所にゴミ捨てるんだか?せっかくいい景色なのに」

 

「景色だけを見て足元を見てないんでしょうね。いい思い出だけ自分の中に残して、それによって生じる些細な責任や義務は置いていく・・そんな感じじゃないでしょうか」

 

そう言った後、彼女は少しハッとした表情をした。

というのもその言葉が図らずも偶然に広大と塚原の状況に重なる部分が大きかったからだ。

ただ前日と違って彼女は別にそんな含みをもたせて言ったわけではない。全くの過失。

それ故に少し表情を翳らせ、視線を横に逸らした。

思わず少し広大は笑った。作り笑いでも何でもなく。

 

「・・綺麗な言い回しだと思うよ。七咲。まぁ国語苦手な俺に言われても・・だけど」

 

それを聞いて少し安心したように顔を伏せながらも七咲も笑った。

二人は気付いていないが本当にこの二人がちゃんと笑いあったのはこれが最初である。

 

・・些細な・・二人の記憶にも残らない瞬間ではあるが。

それからまた三十分後。

結構な量になった二つのゴミ袋をそれぞれで抱えていたが広大はそれを七咲の手から取り上げるように掴んだ。

「七咲?俺このゴミ捨ててくるから先に手を洗ってきていいよ」

 

「え?いえ。私も行きますよ」

 

「・・軍手俺に貸しただろ。やけにちっちゃいと思ったら君用の軍手だったわけだ」

 

「あ・・・」

 

「だからいいよ。先に行って」

 

「はい・・ありがとうございます」

 

「じゃあ後で鞄置いたベンチで」

 

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・はい。コーンポタージュでいい?熱いから気をつけて」

 

広大はそう言って缶を渡した。洗ったばかりなのと寒さで赤白く変色した七咲の指が通常のジュース缶より小さめなコーンポタージュの缶をからめ捕る。

 

「あ。ありがとうございます。お金後で払いますね」

 

「いいから」

 

「あ。でも」

 

「いいから」

 

「・・解りました。では頂きますね。はぁ・・あったかい」

 

―君にはいろいろと貸しがある。

結局のところここまで来たのは全て君の主導によるものだ。

これ位なんでも無い。

きっかけを与えてくれた相手には安すぎる礼というものだ。

 

「・・!?あ、七咲振らないと!」

 

「え?あ。あ!?」

 

すでに缶の口は小気味のいい音と共に見た目にも温まる湯気をあげていた。

 

 

―この後二人が結局昨日の出来事に触れる事は一切なかった。

言葉は少なめ、ただ淡々とゆっくりした時は流れた。

 

恐らくは昨日の二人の間で起こった出来事は・・お互いの幼さ、未熟さ、そして無理解の上に陥った思考の袋小路だったのだろう。

引き返して冷静に見渡せば違う道はすぐに見つかる程度の。

ただお互いに塚原 響という一人の人物を想った結果、お互いの視野は狭まり、結果到達してしまった場所だったのだ。

 

そしてその二人が翌日のこの日選んだのは・・というより、七咲が提案し、広大が受け入れた今日この日この場所の出来事は無言の、暗黙の了解の「☓ゲーム」だったのだろう。

 

お互いのお互いに対する謝罪を自分への戒めと共に。

 

 

見ての通り「☓」という記号は二つの線が重なり合った結果その先が全て別の方向のベクトルに向かって走っている。

二つの線が一度交差し、交差した事によって別の場所、別の答えに向かっていく。

「☓」の意味とは「ダメ」「不正解」ではない。

別の方向へ向かうための通過点なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートR 1~5

二幕 はじめに
桜井 梨穂子編
主人公
茅ヶ崎 智也
174
がっしり系だが筋肉太りというよりも準細マッチョ。ただ着やせはせず、制服の上からでもある程度の体格の良さが把握できる程度。
B型
家族構成 両親 祖父 姉
一人称 俺
他の主人公と異なり元体育会系の少年。高校に入ってからは帰宅部。気難しい一面を持ち、かなり硬派。体格の良さもあり、黙っていると威圧的な第一印象を与える。その上口数が少ないので誤解を招きやすい性格だが基本的に常識的な人間で真面目、人を思いやる事が出来る。腕っ節も強いが決して悪用しない。
桜井梨穂子とは幼馴染ではあるが、高校に入ってからはクラスも離れ、距離が離れていたようである。
ひょんなことをきっかけに再会し、変わった幼馴染と関係をどうにかしようと桜井は奮闘する。
ジャストサイズの黒Tが似合う素敵な日本男児です。
黙々と物事を片づけるタイプであり、積み重ねる事の意味を元体育会系のため知っている結果、成績は中の上、もしくは上の下である。ただし音楽と美術はダメ。保健体育も怪我の種類、治療法やらの話になると想像してしまい、結構嫌がる。元体育会系としてそれはどうかと。
高校に入ってからはその風貌から何処の学校にもある所謂「不良グループ」に属していた事もある。ただ成り行きであり、あまり自分から強く言う事をしないためズルズルと吸収されたきらいがある。ただし真面目である事の条件がある事と同じように、不良である事にもまず条件が存在し、それは頑と拒否したために自然とその集団から距離は離れていった。
結果一般学生と不良の両挟で孤立している。
中学時代はこんな性格ではなかったがある事件をきっかけにこうなった。




1 復興

 

「おまえ何やってんだ・・?」

 

五分前。

 

「うわぁー遅刻するぅ。」

 

親友の伊藤香苗の迎えの誘いを断るほどに桜井 梨穂子の今朝はめまぐるしいものだった。

梨穂子の母はのんびり屋だ。朝、娘を一度起こしに行って起きないと「再度時間をおいて起こしに行ってあげる」という概念がそもそも無い。うっかり一度寝過ごすと八時以降になっても放置プレイである。どうやら慌てふためく娘を見るのが好きらしい。趣味のいい事で。

 

今日はその日だ。

 

父から借りた目覚ましは心が通わず、性に合わない梨穂子にとって唯一の頼みが一回きりの母の声では遅刻もしたくなる。と、梨穂子は思っている。

 

―ああ~私自分に情けない言い訳してるなぁ~。

 

と梨穂子は苦笑いした。

吉備東高校の正門は拷問と言えるほど遠い。校舎が見えてから大きく迂回し、長い坂を登りきった先にある。

 

―遅刻者をそんなに苛めて楽しいのかな?くっそ~~。

 

「今日は奥の手を使うしかない!ふっふっふ~。」

 

そうあれだ。遅刻者の最後の手段。究極のショートカットルート!

正門までの道の坂を無視し、林を駆け上り、穴のあいたフェンスを潜った先には人目の付かないポンプ小屋の前に出る。

リアルに五分ほどは短縮できる夢のルートである。少なくとも何故か時間ぎりぎりにしか行動できない人間にとっては。常習者は結構多いようで、定期的に穴も「補修」されている。

「補修」と言っても逆の意味だが。獣道のようにフェンスの穴の大きさが学生が通れる大きさに維持されているのである。

 

―あぁ・・ホントにあそこ私が卒業するまで見つかりませんように。

 

そう思いながら挙動不審な動きで周りを窺い、林に突っ込む。ここを教師に見られたらアウトだ。遅刻確定の上に勘繰られてあの場所が見つかれば他の常習者に迷惑がかかる。本当の意味であのフェンスが「補修」されてしまう。

今日も無事成功。梨穂子ちゃん絶好調!そして見えた!希望の光がさすフェンスの穴!

味気ない緑色のフェンスに空いた穴がぽっかり口を開けて梨穂子を優しく迎え入れる。

 

―受け止めてくれー!!うが~~!

 

ずぼっ

 

―・・ん?あれ?

 

抜けない。

 

 

―おかしいな?

えい!えい!

 

―うそ・・。

口を開けたフェンスの容量をおそるおそる振り返って見る。・・洩れなくマックス。

飲み込む事も吐きだす事も出来ない。この梨穂子という物体を。完全につっかえている。

押しても引いてもダメだ。浪花節も通用しない。しかしさーっと血の気は引いていく。

もしこのまま抜けなかったら?遅刻は元より無断欠席・・って、明日日曜日だし・・。下手すれば・・月曜まで放置?それに時々ここを利用する遅刻者が来週開眼して遅刻をしなくなったら・・

 

―・・ひぃぃぃぃぃぃ・・・!

 

フェンスに挟まれた状態で発見される少女の遺体。

 

―・・あ。結構普通に怖いかも。怪談認定だね。あはは。

 

笑いながらも少し涙が出てくる。なんて情けない死に方だ!嫌だ!絶対嫌だ!

 

「うわーん・・誰かぁ・・・。」

 

「・・・・?梨穂子?」

 

「えっ・・。」

 

ザッザッと後ろから音がする。

カッポカッポじゃ無いのか?白馬の王子様なら。まぁ肝心のお姫様がこの状況では・・。

 

「・・おまえ何やってんだ・・?」

 

精一杯首をひねって梨穂子は振り返る。そこには梨穂子とは違う意味で首をかしげている少年の姿があった。

 

「智也ぁ・・。」

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、頑張ってな。俺遅刻するから。」

 

何とも酷薄な言葉が王子から発せられる。

 

「えぇぇぇぇ!?助けてくれないの?」

 

第一肝心の抜け穴は自分自身が塞いでいるのだ。どうやって・・。

 

「よっと・・。」

 

がしゃがしゃと少し耳障りな音がすぐに消え、タシッという着地音が響き、今梨穂子が羨望する自由を謳歌する智也の姿があった。そんな手があったのか・・。

まるで留置場の高い壁を悠々と越えていく鳥のように雄々しい。

※あくまでこれは梨穂子のイメージです。

 

「そんなぁ・・。」

 

「・・・。腹ひっこめろ。」

 

「え?」

 

「フェンスの穴少し大きくすっから。」

 

「助けてくれるの!?」

 

「別にほっといても面白いんだけど。絵的に。」

 

智也は両手の人差し指と親指を使って四角い窓を作り、今の梨穂子の惨状を片目で覗きこんでそう言った。

 

「面白くない~!!!助けて~!」

 

「はいはい。ほら!腹ひっこめろ。」

 

「ふひゅぅ~。」

 

「腹式呼吸がなってない!」

 

「うぅ・・歌の練習じゃないんだから。ふひゅううううう~~~」

 

「・・・。」

 

「あ・・動く!」

 

「まだ出るな・・。制服に傷付くぞ。」

 

「あ。うん。」

 

―はぁ・・久しぶりだなぁ・・智也にこんなに近づくの。

 

地にへばりついたままの限られた視界だが俯瞰で見える智也を梨穂子はじっと見ていた。

 

「よし。よ・・・!。」

 

「え。わっ!!」

 

ブレザーの肩を掴み、強引に智也は梨穂子をひきずりだす。

 

「・・でたぁ・・・やったー!!!」

 

「・・そして時間切れ。」

 

キーンコーンカーンコーン

 

御姫様を助けた王子様に与えられたのは遅刻の確定を告げる非情なチャイムだった。

凹む智也をよそに梨穂子は幼馴染との予想もしなかった再会に心躍った。

 

パタパタと梨穂子が体に付いた土埃を払い取る間に智也は歩きだす。

 

「あ。待ってよ。まだ・・お礼も言ってないのに。」

 

「んー?後にしようぜ。」

 

「ぶ~~」

 

―そんな事言わずに。お話・・しようよう・・。

 

 

 

 

 

「あッりがとうございました!智也は命の恩人ですよ!」

 

「まぁいいよ。面白いもん見れたし。」

 

「だから面白くないですぅ!」

 

「あーあ。梨穂子がいなければ俺悠々間に合ってたのになぁ。」

 

「う。ごめん。智也。」

 

「だから面白いもん見れたからいいって言ってんの。」

 

「・・うーん。ま。いいや。ありがとね。」

 

「おう。じゃ。」

 

―くぅ・・ここまで?クラスが遠いのって嫌だなぁ・・。

 

梨穂子は2-B 智也は2-E。校舎も逆方面である。

 

「うん・・。」

 

「あ、梨穂子。一つ言っておきたいんだけど?」

 

「ん!?何なに!?」

 

―何何!?

 

「お前また太った?甘いものは控え目にしろよ。」

 

「・・・。」

 

うら若き乙女の押し隠していた心配をえぐるなぁ。

 

―うぅ・・ダイエットしなきゃ・・。

 

少し智也はくくっと笑った。

梨穂子も膨れ面を戻し、笑い、そして思う。

 

―どうやら・・私はまだこの人の事を好きみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さくらいー。提出物終わったぁ?」

 

2-Bの梨穂子の親友、伊藤香苗が声をかける。コンピュータ部の部長を務め、溌剌とした爽やかな少女である。おまけに面倒見も良く、ツッコミどころ満載の梨穂子を世話焼きつつ、楽しみつつ、からかいつつ傍に居ている。

 

「あー香苗ちゃーん今朝迎えに来てくれたのにゴメンねぇ?」

 

「いいよ別に。遅刻怒られなかった?」

 

「うん。特に。」

 

「桜井は得な性格だからね~。先生も怒りづらい雰囲気してるのよ・・。」

 

「そうかな~?」

 

「まぁ特にうちの担任甘いから。おまけに桜井はコレだし。2-Eの多野先生なんか今日遅れた生徒にHRそっちのけでカンカンだったらしいしね。あんまりうるさいんで隣の2-Fの部活の同期の奴がうんざりしたって。」

 

「ふーん。ん?・・2-E・・?」

 

「うん。らしいよ。」

 

「男の子・・・?」

 

「だと思う」

 

「智也・・?」

 

「えっ・・・。」

 

たたっ

 

親友を置いて梨穂子は駈け出していた。

 

「あっちゃ・・心当たりあったのか・・。私マズイ事言っちゃったかな。」

 

自分の軽率さに生真面目な伊藤は申し訳なさそうな顔で駆けていく親友を見送った。

 

場所変わり、校舎は2-A,B,Cの前半クラスの向かいにある校舎に梨穂子は向かった。

そこにD,E、Fのクラスが存在している。

そして教室2-Eには・・智也は居なかった。

 

―あれ?職員室かな。

 

即刻クラスから目を切り、再び廊下を戻ろうとした時、遠くの方から歩いてくる人影があった。智也だった。

 

「・・?梨穂・・桜井?」

 

基本的に二人で居る時以外、彼は名字で梨穂子を呼ぶ。その距離感が昔からもどかしい。それは高校生になった今でも変わらない。気持ちが変わって無いのだから当然だ。

 

「智也・・。大丈夫?」

 

「何が。」

 

「その・・。」

 

「お・・噂にでもなってたか・・。流石に多野さん騒ぎ過ぎだからな。」

 

彼は先生を時折「さん」付けで呼ぶ。

 

「その・・。」

 

「梨穂子。」

 

「・・・何?」

 

「多野さんをどう思ってる?」

 

「え?」

 

「いい先生だぞ。あの先生。」

 

「え。でも凄い声で怒ったって。」

 

「ああ・・ここんとこ全く俺が遅刻しなかったんで安心しきってた時に唐突に遅刻しちまったからな。ついカッとなっちまったんだろうよ。心配してくれてるからこそだ。」

 

「・・・。」

 

「今日はさすがに事情を話すわけにもいかなかったからな・・。実際ズルしてたわけだし。」

 

「でも・・結局私のせいだよね。」

 

「うん。お前のせい。」

 

「え。」

 

「お前がひっかかってさえいなければ、お前が太って無ければ、お前にフェンスを超す運動能力があれば・・。俺が遅刻する事も、多野さんも怒る必要も無かった。ぜーんぶお前のせいだね。」

 

「あ・・う・・。」

 

「・・フェンスの越し方教えてやる。運動力も付いてダイエットも出来る。遅刻も無くなる。一石三鳥だぞ。」

 

「・・うん!」

 

梨穂子にとっては一石四鳥だった。

 

運動力が付く。

 

ダイエットも出来る。

 

遅刻も無くなる。

 

・・この人とまた昔みたいに話せる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 吉備東のお局

 

「あいつか・・。」

 

「・・どうやらそのようだ。」

 

昼食時間のテラス。

一人黙々と昼食を口に運んでいる少年を刺すような瞳で二人の少女が物影より目を光らせていた。

一人は光の加減で瞳の奥底が見えない妖しい眼鏡の少女。

一人は長い髪をセンターでわけ、横からは全く表情を窺い知ることの出来ない・・悪く言えば不気味な少女である。話し方も独特だ。

 

「ほうほう・・なかなかにいい体格しているじゃあないか・・。」

 

「梨穂っちもなかなか・・筋肉ふぇちとは知らなかったが。」

 

―・・見られてる。

視線を感じる。近寄りがたい智也を遠くからじろじろと不安そうに見る視線ではない。まとわりつくような好奇の視線だ。

 

「・・気付いているようだ。」

 

「そのようだね。よし。行くぞ。」

 

 

「・・」

 

―いや・・そりゃ後ろのテーブルでじっと睨んでいたら普通気付くって。

 

「おいそこの奴。」

 

眼鏡の少女が不遜な態度で智也に話しかける。おまけに腕組みしながらだ。

 

「・・何か?」

 

「・・・。」

片割れの少女は無言だった。変わりに眼鏡の少女が答える。

 

「ちょっと付き合え。」

 

「どちらさまですか・・?」

 

雰囲気からして後輩、同輩ではない。いやむしろ女子高生の貫録ではない。

智也が敬語になるのも無理は無かった。しかし初めて口を開いた片割れの少女の答えは・・。

 

「・・桜井梨穂子・・。」

 

ずる・・。

 

―なんだそりゃ。

 

「・・桜井のお知り合いですか?」

 

「Shut Up!!」

 

どうやら日本語が通じないようだ。というより智也の言葉を聞く気が基本無いらしい。

 

「いいから付き合うのか、付き合わないのか?」

 

「さぁ・・どっち。」

 

「お断りします。」

 

「ほう・・気持ちいいぐらいに言い切ったな。」

 

「いい度胸だ・・。」

 

「素状のしれない方々にホイホイついていけるほど自分に自信ないので。」

 

元々絡まれることの多い彼にとって火種に自ら突っ込んでいくのは愚の骨頂である。ただ違う意味でこの二人は・・距離を置きたいと智也は思った。

 

「素状が解ればいいのか。」

 

「そういう訳でもないですけど。」

 

「私は夕月 瑠璃子だ。」

 

眼鏡の少女はこう言う。

 

「飛羽 愛歌・・。」

 

髪の長い少女も続く。

 

 

「・・あ、ハイ」

 

―あ・・そっか・・日本語通じないんだ・・。

 

唐突な思いつきで海外の旅行に飛び出した青年のような現実を智也は再認識する。

 

「ちなみに私は茶道部部長だ。」

 

「私はひょっとしたら副部長だ・・。」

 

「あ~・・うん。そうすか・・。」

 

なんとまぁ・・勿体つけた会話だろう。最初の二分はこの世で最も無駄な会話の一種だった事は確かである。

 

「素状は解ったよな?それじゃあ行こうか。」

 

「・・はい。もういいです。何をすれば?」

 

「・・コレだ・・。」

 

「・・コレは・・!」

 

「何に見える?巨大なはんぺんか?アオザメは今貴重だ。ウチにそんなに部費はない

ぞ。」

 

「こたつの天版ですね。」

 

智也素無視。彼のスルー力は中々の物である。

 

「・・正解。」

 

ちょっと寂しそうに眼鏡の少女は頷きつつ

 

「うん。ちょっとこれ運ぶの手伝って。部室まで。」

 

こう続けた。

 

「え。それだけ?」

 

―・・この会話本来なら十分の一以下の時間で終わるウッスィ~会話だよな・・。

 

「そうだよ。」

 

「いぐざくとりー。」

 

「・・解りました。でも一つ聞きたい事があります。」

 

「何だ?」

 

「言ってみろ・・。」

 

「テラスにわざわざよくこれ持ってきましたね。」

 

「・・・。」

 

「・・・。」

 

 

 

 

 

 

 

 

茶道部部室―

 

 

「これで・・終わりすね。」

 

「ははは。さっすがに男の子だねぇ!こんなに早く終わるなんてさ。」

 

「ぐっじょぶ。」

 

「それじゃ・・。俺はここで」

 

「あ!待ちな!忙しい男だね。のんびりしていきな。茶ぐらい出すからさ。」

 

「でも・・俺作法とか知らないし。」

 

「そんなもん素人に強要するか。」

 

「・・」

 

―手伝い強要したくせに。

 

「瑠璃子・・少し反抗的な目をしたようだぞ。」

 

目ざとい女だ。

 

「ま。そうしたくなる訳もワカンネぇこたぁねぇべよ。ま、いいからゆっくりしていきな?アンタとは話してみたかったんだよ。アタシもこの愛歌もね。」

 

「ふん・・それは確かだ。」

 

「・・・。じゃ・・御馳走になります。」

 

 

 

 

 

「ん・・・。あぁ。おいしい。」

 

智也は何げなく出された茶道部部室の備品の冷蔵庫から出された冷えた煎茶を飲むと驚きの声を出した。

 

「淹れたてとホットならさらにまだ香りが増すよ。それにしても・・「おいしい」か・・。なかなか殊勝で控え目ないい言葉を吐くじゃないか。」

 

「・・確かに。」

 

「素直な感想ですよ。それにしても・・色んなものがありますねこの部室。冷蔵庫やら、コタツやら・・あとあの・・デカイ茶色い棚何です?すごい中気になるんですが。」

 

「おっと・・そいつは教えてやれねぇなぁ。」

 

「そこは企業秘密だ・・。見たければ・・。」

 

「あ。結構です。特に見たくも無いのに気になるとか言ってすいません。」

 

「・・残念だ。」

 

「あんた・・茅ヶ崎智也・・だっけ?」

 

「はい。あ。俺結局お二人の名前だけ聞いて自分の自己紹介していませんでしたね。失礼しました。2-E 茅ヶ崎 智也です。」

 

「知ってるよ。梨穂っちから色々聞いてるから。」

 

「耳タコ・・。」

 

「あいつが?俺の何の話を?」

 

「私らの口からはちょっと・・ねぇ・・?」

 

「・・・。ねぇ・・。」

 

「・・。お二人とも三年生ですよね。でも今の時期って・・。」

 

「ああ。本来なら次期部長に引き継いで引退ってとこなんだが・・いろいろ事情もあるし、アタシらも受験勉強の傍ら癒されたい事もあるのさ。」

 

「梨穂っちも癒してくれるしな・・。」

 

「そうだね・・あの子は次期部長を任すにはちぃと頼りないしアタシらも心配なんだけど居るだけで場が和むからねぇ。御もてなしが身上の茶道では垂涎な才能だよ。アタシらが・・というか大抵の人間が望んでも持てない物持ってるねあの子は。」

 

「成程・・解る気がします。ほっとけないという点については。」

 

「それだけかい?」

 

「?」

 

「ま、いいか。」

 

「ふ。」

 

「・・?」

 

「まぁ時々でいいから顔だしな。お茶も美味しそうに飲んでくれるし、あたしゃアンタを気に入った。」

 

「今度は茶菓子も出してやる・・。」

 

「・・有難うございます。次は何をすればいいんでしょうかね?」

 

「ははは。いい勘してるよ。タダより高い物は無いってね。ま。その都度何かあったら声をかけて見るさ。」

 

「解りました。では・・失礼します。」

 

「ふむ。」

 

「成程・・梨穂っちのお気に入りだけのことはある・・。」

 

「『見た目で誤解されやすいけどとってもいい人なんです!!』か・・。少し皮肉屋なところが玉にキズだけどねぇ。」

 

「責任感もありそうだ・・。だが・・。」

 

「ん・・なんだい?」

 

「帰宅部である事が不思議な男だな・・。体格といい性格といい・・。」

 

「確かにね。梨穂っちの話じゃ高校入ってからは部活動に一切属して無いって話だから。」

 

「解せんな・・。」

 

「ま。アタシらと一緒でそこは深い事情があるんだろうさ。でも逆に考えればアタシらにとっては好都合!」

 

「だな・・。我らが茶道部の為にも。」

 

「我らが梨穂っちの為にも!」

 

吉備東高校茶道部。

11月半ばの時点で正式部員数三名。内二人が三年生。文句なしの存続の危機。

 

 

 

 

 

 

 

3 ひとり

 

・・またあの夢か。

 

まるで録画した映像を繰り返してみるようなあの夢。

まだ夜中の三時だと言うのに智也の眼は冴えていた。こんな中途半端な眠気ではまたあの夢を見てしまうかもしれない。

例えうたた寝であろうとほんの十五分のうちに夢を見る事は可能なのである。

そして智也の言う「あの夢」が「再生」し、終えるまでには十分な時間である。

それ程に短い時間だったのだ。

現実に起こったあの出来事とフラッシュバックのように繰り返される「あの夢」は。

 

「茅ヶ崎。」

 

「はい。」

 

「・・よし。」

 

小声でそう付け加え、2-E担任の多野は出席確認を続けた。

メガネの奥に一見陰湿な鋭い光を持つ目があまり好かれない教師ではあるが生徒指導の一貫性と生真面目さが結構に智也は気に入っている。

 

「鷲田。」

 

「はい。」

 

「よし・・HRを終わる。日直は黒板を消しておきたまえ。」

 

事務的で威圧的な態度を崩さず、多野は教室を出た。

途端教室中が「はぁ~。」と、息が漏れる。

 

「相変わらずあの先生いつも機嫌悪いよなぁ・・。」

 

「ちったぁ愛想見せればいいのによ。あの見た目であの態度じゃ・・。」

 

―そうでもないぞ。

 

と、智也はそう思う。

 

多野のあの「よし・・。」と言う言葉には隠しきれない安堵のような感情がこめられていることが智也には解る。

いつも誰かの欠席、または遅刻等があると何らかの反応を示すのも多野の特徴だった。

ほんのわずかな沈黙の時間であるが考え込むような「間」が存在するのである。

それは担任であれば当然のことなのかもしれないがそこに抱く感情が多野は真っ直ぐなのである。無責任でも諦めでも無関心でもない。純粋な心配と不安と責任感が混じった様な沈黙なのである。いつもスキがないように心がけている人間同士。それがはっきりと知覚できる。

 

 

 

 

 

 

 

昼休み。中庭にて。

 

「ねぇねぇ桜井。」

 

「んー?」

 

お弁当のフォークをくわえたまま力の抜けるような鼻声でそう言いながら理穂子は真ん丸い目で彼女の親友の伊藤を見る。

 

「ちょっと聞きたいんだけどいいかな?」

 

「んー?」

 

「茅ヶ崎君のこと。」

 

「ん~?」

 

「付き合ってるの?」

 

「ん~!!????」

 

「ははは~何言ってっか解んねぇけど色々解った~~」

 

―フォークを口から出せばよかろうに・・。何ゆえわざわざそんなめんどくさい反応をするのか・・。首を必死で横に振っているから否定をしているのは解るがその態度は余計な情報まで垂れ流しにしてしまうぞよ?親友よ。

 

「ま。桜井のことだからそんなこったろうと思ったけどさ。なんやかんや長くない?」

 

「ん~~~。んぁん!ん~ん!」

 

「わからん!とりあえず口からフォークを出せ!」

 

 

 

 

 

「最近また話せるようになったとか、この前は血相変えて飛び出していったとかあったし、ちょっとは何かあったのかな~とか思ったけど相変わらずか。」

 

「何かあるって・・何?」

 

梨穂子は少し顔を紅潮させて上目遣いで親友を睨む。

 

「それを私の口から言わせるな。こっ恥ずかしい。要するに桜井がどうしたいかってことよ。」

 

「・・。」

 

「はいはい・・わかんないってことね。」

 

「そりゃあ・・どうにかしたいって気持ちはあるよ?でもこのままでもいいかな~って思うときもあるし・・。」

 

「う。なまじ共感できるだけになんにも言えない。」

 

「・・そっちも?」

 

「そ。相変わらずよ。桜井よりかは暗躍しているつもりなんだけどな・・。」

 

「あんやく?」

 

「密かに手を打ってるってこと。でもダメだあいつぁ~!子どもだ!」

 

ガンガンと伊藤は座っているベンチを握りこぶしでたたく。

 

 

 

 

「でも・・茅ヶ崎君って・・ちょっと印象変わったって言うか・・中学から見てるけど・・なんていうか掴めない人よね。」

 

「うーん。香苗ちゃんでもそう思っちゃうんだ・・。」

 

「・・?そうでもないの?」

 

「うん!変わってないよ!智也はあの人のまま。変わってない!」

 

「そこまで言い切れるんだ・・。愛だねぇ・・。けど私みたいな第三者から言わせればホント茅ヶ崎君の印象ってコロコロ変わるんだよね。」

 

「やっぱりそうなのかな・・。」

 

「うん・・桜井には悪いけど高校入ってからびっくりしたもんね」

 

智也は高校入学当初、何処の学校にもある所謂不良グループに入っていた。

もともと体格が良く、腕っ節が強い。表情も豊富とは言えない為、威圧感がある。

乱暴者ではないが必要以上に自ら自分というものを大きく出さないため、彼の印象は完全に周りの評価によって決定づけられる。

そのような状態になるとまず彼に近づく人間は限られてくる。

事無かれの遠巻きから見る人間よりも「そういう人間」に需要がある人間。

自然とそのようなグループに吸収された。

結果彼のイメージは確固たるものになる。

「近づいたら何をされるか解らない人物。」

しかし・・智也はそのような周りの評判、印象に合わせた行動をする事は最後まで無かった。「不良」も「不良」である以上やらなければいけない行為というものがある。

それが彼らの「誇り」であるからだ。

反社会的と言われようとも通さなければならない筋がある。彼らの言い分を。

 

しかしそれを受け入れる事は智也には出来なかった。受身で投げやり的な立ち位置により自然とグループに入った彼であるが、ある種の不動の線引きが彼の中には敷かれていた。揺るがない強固な境界が。

結果グループと智也の間柄は特に大きなトラブルも無く自然消滅する。しかし残ったのは彼の孤立と宙ぶらりんな立ち位置だけだった。

ただ・・それでいいと彼は思ったのだろう。

その状況を変えようと足掻く事もまた特に他の誰かと接しようともしなかった。

不良との線引きも確固たるものなら堅気の側に対しても越え難い線引きも彼は行っていた。

 

そしてその原因を梨穂子は解っていた。

 

「中学の始めの時と高校の初めと今の茅ヶ崎君・・アタシにとっちゃあ目まぐるしすぎるぐらい印象が変わってどーにもなんないんだよね・・。」

 

「・・・。」

 

「でも・・仕方ないよね。」

 

「ん?」

 

「好きになっちゃったもんは・・。私も楽な方に行こうとな~んど思ったか知んないけどサ。仕方ないのよね・・。好きだもん。」

 

疲れたように伊藤は苦笑した。自分への呆れと気付かない相手への呆れと消しきれない好意をにじませた親友の手を梨穂子は握った。

 

「・・・ちょっと桜井?」

 

「えへへ・・。」

 

温かった。同じ「温度」だった。

普通同じ温度の物同士であるならばそう大した感覚は働かない。自分の掌と掌を合わせたようなものだ。しかしこれの意味あいは少し違う。

彼女たちは「同じ」だった。

同じ温かさを以て誰かを想っている。その温かさは同じだから。

 

それを親友と共有している事が梨穂子は嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よーっす。茅ヶ崎!」

 

「・・梅。久しぶり。」

 

「梅ゆーな。」

 

「梅原。久しぶり。」

 

「・・・。やっぱ梅でいい。どーよ最近。」

 

「お前こそどうよ最近。剣道部には顔出してんのか?」

 

「いや・・ちと幽霊部員気味・・先輩引退してからなーんかモチベーション上がんなくてよ・・。」

 

「実家の寿司屋が忙しいんだろ?仕方ないよな。」

 

茅ヶ崎は単に梅原が「憧れの先輩が居なくなった」、ただそれだけの理由で幽霊部員気味になった訳ではない事を知っている。

この梅原が軽そうに見えて実家の稼業に対して真摯で真面目に、かつ貪欲に知識を吸収している事を良く解っていた。

彼は三人兄弟だがその全員が家業を継ぐ事に抵抗を持ってないかなり稀有なブラザーズである。梅原は兄弟仲が悪いように振舞っているが、実は兄弟三人で安くて美味くて誰でも食いに来れる寿司屋をこれからも守っていくことが夢だと時々茅ヶ崎に語ってくれた。いい意味でも悪い意味でも真っ直ぐな奴だった。

 

「そんな風に言ってくれんなよ。ただ行き辛いだけだって。」

 

「ふん。」

 

「で、茅ヶ崎。オメ-はどうなのよ。・・正直お前が入部してくれりゃ俺なんかより遥かに即戦力だと思うんだけど?」

 

―・・・。

 

茅ヶ崎の中の何かがずるりと重く揺れ動くのを感じながらも梅原は訂正しなかった。

実は軽い気持ちなら「冗談だよ。」とおどけなければいけない程、この梅原の一言は茅ヶ崎に重い意味を持っている。つまり梅原は本気だということである。

 

「・・。遠慮しとくよ。何だかんだで俺らも直に高3だしな。第一こんな時期に入部してきた奴に色々部内引っかき回されんのも迷惑だろ?おまけに「俺」だし。」

 

「・・・」

 

―何言ってんでぇ。お前がもっと自分出していたらそんな事にはならなかっただろうに。

・・自分からそういう風に仕向けた癖によ。

 

梅原は頭の中で苦言を言ったが、苦言を頭の中に留めた。彼が茅ヶ崎の事をよく知っている人間であるからだ。

 

紛れもない二人は親友同士である。

 

「そっか。残念。ま。気ぃ向いたら何時でも来いや!」

 

梅原はいつもの軽い調子に戻ってそう言った。

 

「・・・それはちゃんと部活動に出ている人間が言う台詞だな。」

 

「はは。違ぇねぇ。」

 

「俺行くわ。次多野さんの授業だ。」

 

「お。そりゃやべぇな。チャイム鳴ったら席座ってねぇと怒られるらしいじゃん。」

 

「そうなんだよ。じゃ。」

 

「おお!」

 

 

 

 

 

―はぁ・・今日も今日とて勧誘失敗、と。部活勧誘上手で通っている俺もあいつにかかっちゃ型なしだわ。

 

茅ヶ崎と梅原は中学時代、同じ剣道部に所属していた。

二人の中学校の剣道部は当時非常に厳しい部活動として知られていた。が、茅ヶ崎は幼少のころから剣道を習っていたため、全く躊躇なく入部を決める。退部率の高い規律の厳しいその部活動に対しても比較的自然に溶け込んでいき、口数は決して多い方ではないが明るさも向上心も持ち、その姿勢を周りも評価していた。

梅原はその茅ヶ崎の姿に惚れこんで途中入部した部員である。

 

初心者の梅原にとって中々に辛い下積み時代だったが茅ヶ崎の協力も在って何とかやっていけ、実力はそこまで無くとも生来の底抜けに明るい性格とノリで二年進級後、いつしか部内のムードメーカーの立場を射止めた。正直天職だろう。

その立場が彼は嬉しかった。

これから恐らく部の先頭に立っていくだろう友人、茅ヶ崎を支えられる立場になれる。

そう思っていた。

・・だが二年の冬。

その茅ヶ崎は突然部を辞める。梅原に何の相談も無く。

積み重なった事情を鑑みれば納得出来る、納得しなければならないものなのかもしれない。が、梅原はそれでも納得できなかった。

茅ヶ崎の事も、ムードメーカーの役割を果たせなかった自分も含めて。

 

―何故よりによってあんな時に俺はあの場に居なかったんだろうな?

 

自責の念が梅原にはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・皆で話しあったんだけど。茅ヶ崎。お前は主将として不適格であるっていう結果が出た。お前が出張ってたんで欠席裁判みたいになって申し訳ないけど了承してくれると在り難い。次期主将は俺が任されたから何か引き継ぎがあったら教えてくれ。

 

―・・解った。頼む。

 

 

 

 

「・・。またか。」

全く何度も何度もよく見せてくれる。目を開けるといつもの味気ない天井が智也の眼に映る。深く息を吸って逞しい右腕で両眼を覆い、記憶を反芻する。

 

 

 

中学二年の夏。

 

智也が所属する剣道部の顧問が急逝した。

 

国公立でありながら剣道の強豪校だった智也の中学を支えていた重鎮の顧問。

厳しく、愛想が無く、無口。自分を出そうとしない男で自分の評価を完全に周りに委ねていた。・・そういうところが今の担任の多野によく似ていた。

さらに共通しているのは生徒に対する指導の一貫性。

誰わけ隔てなく厳しく接する昔堅気の人間であり、良くも悪くも好みの分かれる人間だったと思う。

智也は言うまでも無く前者だった。

もともと彼の父も祖父も厳しい人間であるため、彼にとってはさしたる気にはならず、他一部の部員の様に顧問の厳しさに萎縮し、距離を置いたり、避けたりする必要も無かった彼はその顧問の厳しさの中の人間臭さや優しさに触れる事が多かった。

やたらと食い物や茶に煩い人だった。

部活動を終え、ノンレギュラーの先輩にパシリにされて度々職員室の彼に練習内容の報告に行くのを楽しみにしていた。

茶と菓子を美味そうに一人頬張っている場面を何度か目撃し、口封じの為、何度か馳走になったりしたものである。

「今日の茶葉は○○だ。高いんだぞこれは。」とか。「友人の茶畑で採れた茶葉だ。感想をくれ。」とか。「今日の和菓子は和三盆を使ってる。一味違うぞ。」などなどやたら濃い、そして人間臭い一面を見せてくれた。

さすがに

 

「実は俺は茶道部の顧問になりたかったんだ。校長に直談判して苦笑いされたよ。」

 

と言いだした時は笑いをこらえる事は出来なかった。

このキャラクターをもっと多くの人間に見せていれば彼の評価はまた違っていただろうにと、何度も思った。

煙たがられる事も無かったはずだ。

結局端々に人間臭さを見せてくれ、尊敬していた顧問は智也を次期主将に任命した二週間後、急逝した。脳溢血だったと聞いている。

顧問の厳格さという支柱を以てバランスを保っていた剣道部の瓦解は自然だった。

張り合いを失った部には空気の弛緩が顕著に表れ、また、三年生が部を卒業した直後ということも相まって統率をとることに難しさが生じる。

やはり中学生。

足を止めてみると周りが見え、ストイックだった自分らの学校生活から少し離れた場所に行くと色んな誘惑がある。目移りしてしまうのも仕方ない。

(それは決して悪い事ばかりと一概には言えないのだが。)

その非常に難しい時期の主将を任された茅ヶ崎はその煽りをもろに受ける形になる。

尊敬していた顧問の遺志を継いで部を鼓舞しようとした智也と、鬱積し、内包されていた不満を顧問の死を機に顕在化し始めた部員との摩擦が起きる。

 

智也は少数派に回った。

急逝した顧問の本質を知っていた人間と知る事が出来なかった人間にくっきりと分かれる形になる。それが辛かった。

恩師のしていた事は伝わりにくくとも確実に自分達に対する「善導」。

それが伝わっていない事が悲しかった。

恐らくもう一年卒業まで顧問と共に居ればこんな事にはならなかっただろう。

智也が尊敬していた彼の本質に出会う事が出来た部員は少なくなかったはずだ。

しかし・・「間」が悪すぎた。

 

本来の主将の発言権は望むべくも無く、そして彼が他の雑事で出張っている時、そして梅原が私情で休みだった時を狙われる。多数派は少数派を丸めこみ、智也の主将不信任を決定づけ、後日、本人には結果だけを宣告した。

智也はそれを受け入れ、翌日ひとり退部した。

主将を後任に引き継ぐ際、「少数派に回った部員を決して蔑にしない事」を条件につけて。

 

その出来事以降、

 

彼は変わった。

 

 

 

 

 

4 智也 安らぎの日々

 

「よ」

 

「・・・」

 

夕月と飛羽のそれぞれの手が下校直前の智也の両肩を捉えた。

 

「暇かい?ちょっとツラかしな」

 

「・・悪い様にはしない」

 

「構いませんけど・・先輩方・・俺なんかに構ってていいんですか?」

 

『今は三年生の大事な時期だ。今の彼らを今のうちに見ておけ。自分が一年後どういう状態か、そして今どうすればいいか少し見えてくるだろう』と、最近担任の多野が言っていた。今を楽しんでいるまだ気楽な二年生にとっては鬱陶しい言葉かもしれないが多野らしい中弛みをしている二年生の生徒にはとてもいい言葉である。この言葉が一年後になって自分も含めて骨身にしみる連中も多いはずだと智也は思った。だが・・

 

「安心しろ。こー見えてアタシ達は成績と外面はいいんだ」

 

「無問題・・」

 

「ほら、いくよ」

 

この二人は例外のようである。もともと高校生離れした雰囲気の二人だ。例外であっても不思議ではないのかもしれない。

 

茶道部部室

部室に踏み入ると先日、智也が運んだコタツの天版の上に上半身を預け、恐らく「ふー・・やっぱり冬はコタツに限るねぇ」などとジジ臭く供述していただろうと思われる梨穂子がいた。

 

「邪魔するよー?梨穂っちぃ?」

 

「・・失礼」

 

「あ、るっこ先輩、愛歌先輩いらっしゃ・・・・・・い???」

 

コタツによって骨を抜かれた梨穂子がふにゃふにゃと脱力した声で出迎えようとしたが、二人の先輩に連れられた客人を直視して徐々に声がフリーズしていく。

 

「・・お邪魔です」

 

「と、ととととと・・」

 

「おー梨穂っち。今日は新入部員を連れて来たぞー喜べ」

 

「・・生きがいいぞ」

 

「勝手な事言ってないで今日は何すればいいんですか?先輩方」

 

「智也―っ!?」

 

八秒ほど遅れて梨穂子の時は動き出した。

 

「・・おそ」

 

「ハエが止まる・・」

 

「と、ととと智也。ええと手を洗って、歯を磨いて・・よし!いいよ!お休み!!」

 

「「「落ち着け」」」

 

 

三分後

 

 

「と、いう訳でこの前コイツにこのコタツを運んでもらってな。そしてお礼に茶で餌付けをしたらすっかり懐かれてしまったわけだよ。いやぁまいったまいった!もてる女は辛いねぇ」

 

「・・照れる」

 

「また適当な事を・・人をパシっておいて」

 

「・・・智也」

 

「あ?」

 

「・・ホントなの?」

 

「りほっち・・」

 

―うわ・・本気にしてるよ。この子。

 

「コタツ運んだのはホントだけど他は本気にすんな。まぁお茶は美味しかった事は確かだけどな」

 

「素直でよろしいね。・・ほら、お望みの茶だよ。今日は淹れたてホットだ。香りが違うよ~~?香りが」

 

急須で丁寧に注がれた緑茶の色は綺麗な淡い緑色。見事である。

 

「りほっち?たしか羊羹あったよな?コイツに出してやんな」

 

「あ、は~い」

 

梨穂子はこたつから出て部室の冷蔵庫をがさがさと漁り始めた。

 

「本当に今日はお茶菓子付きですか」

 

「あの仙石堂の栗羊羹だよ。高いだけあって美味いぞー?ホントならアタシ一人で丸っかぶりしたいところだったんだが・・」

 

「そんなことはさせません!」

 

栗羊羹を両手でひしっと抱き、何時になく強い口調で梨穂子は言った。親を守る子供のような強い眼差しである。

 

「聞いてたのかい・・。食いもんがかかるとこの子は何時もコレだ・・」

 

「地獄耳・・」

 

「はい。ちゃんと切り分けましょう。仲良くね」

 

 

 

 

「・・・そんな見比べたって一緒だって」

 

包丁でうすーく切り分けられ、皿に二切れずつ綺麗にそえられた美術品のような美しい羊羹を鑑定士のように梨穂子は眺める。もっともその鑑定基準は至ってシンプルである。

「どっちが大きいか、量が多いか」これに尽きる。

 

「こっち・・・うーんやっぱりこっち!」

 

「ようやく決まったか」

 

「んー・・あー・・でも見直すとそっちの方が大きいかも・・」

 

未練がましそうに選ばなかった方をじっとりと眺める。食いにくいったらありゃしない。痺れを切らした智也は梨穂子に選ばれなかった方の皿の羊羹の一切れをひょいと取り上げ、一飲みにした。

 

「・・うまい」

 

「ああ・・・うう」

 

手元に二切れが残っているのに梨穂子は自分の子供の双子の内一人が連れて行かれた母親のような悲しい顔をした。

 

「・・ほら。もう一切れやる」

 

「え?」

 

「これだったら大きさどうのこうのじゃないだろ?」

 

「いいの・・?」

 

「ああ・・ただし・・だ」

 

「え?」

 

「羊羹のカロリーは和菓子とはいえ高い。平均約300カロリーだ。一切れ増すごとにそのカロリーを消費するには反復横とび往復、腕立て、腹筋、スクワットも50回ずつ必要となる・・お前にその覚悟があるか?」

 

「ひ、ひぃぃぃぃ!」

 

全く以てでたらめの数字なのだが当然梨穂子は真に受ける。彼女にとって「カロリー」という横文字を出すだけで発狂ものなのだ。

 

「ほー・・ということは三切れで合計全ての運動を150ずつする必要があるワケだ?」

 

「ふむ・・解りやすくて梨穂っちには丁度いいな・・」

 

「いや~?百から数える事が梨穂子に出来たらいいですね」

 

「あわわわ・・」

 

思いがけない羊羹達の親不孝に母親の梨穂子は戦慄を覚える。

 

―ふふふ・・。やっぱいいわぁこの子。リアクションが可愛くてぇ・・。

 

―まさに愛玩動物・・。

 

―・・。この羊羹マジでうまいな・・うん。今度買ってこよう。

 

梨穂子を除く三者三様、思い思いの身勝手な感想を述べて同時にお茶をすする。

 

 

 

 

三十分後

お茶会の後、智也が変わりに押しつけられた仕事が茶道部部室の備品管理だった。

以前、智也が気になっていた茶色い棚の中身を整理し、申請を行う作業との事。

腹ごなしには物足りない作業だと智也は思ったが・・甘かった。

智也はこの作業で茶道部の本質の一旦を垣間見る事になる。

 

「よっし・・梨穂子、チェックの用意いいな?いくぞ~」

 

「うん。どうぞ~」

 

「まず茶の陶器が三個、紅茶用のカップが三脚、茶の<略>、茶の<略>」

 

「ふむふむ」

 

「・・・・む?」

 

「どうしたの?」

 

「・・サッカーボール?」

 

「ふんふんサッカーボールね」

 

「ピンポン玉に・・ペンラケット二つ・・おまけにシェイクハンドラケットまで・・」

 

「ふんふん」

 

「将棋盤に囲碁セット・・?」

 

―何部だよ?ここ?

 

「ふんふん」

 

「・・・!!??釣り竿!?スピニングリールとベイトリールの一式・・ルアー多数・・」

 

「ふんふん」

 

「懐かしい!旧型携帯ゲーム『キッズ』!ソフトも・・なんか入ってる。点くかな・・?ダメだ・・電池が無い」

 

「ふんふん」

 

「・・恐竜の模型。多分トリケラトプス」

 

「ふんふん」

 

「・・ダンベル二個」

 

「ふんふん」

 

「・・ミニカー二つ」

 

「ふんふん」

 

―もう何が来ても驚かねぇ・・。

 

智也がそう思ったその矢先。

 

「ん・・・?うわっ!びっくりしたぁ・・・」

 

「どうしたの智也?」

 

「・・じ、人体模型」

 

「ふんふん」

 

「・・・なぁ梨穂子?」

 

「ん?なぁに?」

 

「お前・・驚かないの?」

 

「何が・・・?」

 

「いや・・この棚に入っていたモン見てさ・・」

 

「・・・智也」

 

「あ?」

 

「気にしたら負けだよ」

 

「・・」

 

―・・俺の知らない梨穂子がいる。可哀そうに・・。洗脳されてやがる。

 

「・・・。でもこれ申請して通るのかよ?」

 

「大丈夫。都合悪いものは省くって、るっ子先輩が」

 

「政府か」

 

 

 

 

「どうだい?終わったかい?」

 

「・・もたもたしてんじゃねぇぞー」

 

そうしているうちに三年生コンビ―梨穂子の洗脳の下手人は意気揚々と帰ってきた。

 

「はい。るっこ先輩」

 

「ふんふん・・コレとこれとこれは省いてと・・よし・・コレでOK。これで提出してきな梨穂っち?」

 

「は~い」

 

 

―不穏なセリフが所々聞こえた気がするが・・。

 

 

「茅ヶ崎・・」

 

智也のそんな疑問を見透かしたかのように飛羽が話しかける。相変わらず目ざとい。

 

「何でしょうか」

 

「何か変わった事は無かったか・・?」

 

「・・何の事です?」

 

「・・よろしい」

 

「して・・先輩方はどこで何を?」

 

「何・・他にも茶道部用の倉庫があってな・・そこも同じように整理をしていた所だ・・」

 

とことん業の深い部活・・茶道部。

 

 

 

 

 

 

「・・参りました」

 

数分の思慮の後、智也は両手を胡坐で座った両太股に乗せ、恭しく頭を下げてそう言った。

 

「ふむ。有難うございました・・」

 

応じて飛羽も少し頭を下げる。

 

「え?え?どうなったんですか?」

 

そのやり取りを見ながら梨穂子は目線を双方に右、左する。今日の小学生に横断歩道を渡る際是非見習ってもらいたい。

 

「・・俺の完敗」

 

「何・・お前もよく戦った・・」

 

そう飛羽は言ってくれたが所詮、飛羽側の飛車、角落ちのハンデ付きの勝負での負けである。棋力の差は歴然だった。

 

「ま。愛歌は将棋の腕はプロ級だからね。ウチの学校の将棋部でもこの子に勝てる奴はいないんだよ」

 

「・・この将棋盤も将棋部に勝負を挑んで勝った際に戦利品として奪ったものだ・・懐かしい・・あれももう二年前の事か・・」

 

しみじみと思い出を反芻するように恐ろしい事実を淡々と飛羽は語る。ツッコむべきか流すべきか・・。智也の苦悩は続く。

 

「あの時は大会前だと言うのに将棋部の副将と大将を破ってしまってな・・今考えると気の毒な事をした・・」

 

「・・・」

 

―勝てそうもない訳だ。

 

「さてと・・勝負も終わった所でぼちぼち帰るとするかねぇ?」

 

「・・そうですね」

 

「茅ヶ崎。今日もおかげで助かったよ。・・それにしても・・あんたが部室に居るのは既に違和感がないね。どうだい?このまま茶道部へ入部するのは・・?」

 

横目できらりと薄く閉じた目を光らせ、夕月はそう言ったが・・。

 

「・・・?どうした梨穂子」

 

「・・お~い。無視かい」

 

「ん~っ・・・」

 

梨穂子は対局が終わった後にまだ駒が残された将棋盤を凝視している。

 

「・・どうかしたか?梨穂っち・・?」

 

「・・智也?ちょっと確認していい?この・・お馬さんってこう動けるんだよね?」

 

―お馬さん?桂馬の事か。

 

「・・ああ」

 

「で、この銀さんが・・こう、で、こうだよね?」

 

「そいつは斜め後ろにも二つ動けるよ。こことここ」

 

「あ、そっか・・んーでも・・」

 

「・・・?」

 

「智也がこうしたらどうだったかな・・?愛歌先輩が次こうするとして・・」

 

「え?」

 

「・・・!」

 

普段滅多に表情の変わらない飛羽の双眸が少し見開いた。

 

「ほう・・いなされたな・・梨穂っち・・将棋をした事は?」

 

「え?無いですけど・・」

 

「ほう・・梨穂っちには将棋の才能があるのやもしれんな・・」

 

「またまた~そんなの無いですって~」

 

謙遜では無く本当にそう思っているようである。照れながら梨穂子は折角道が生きた対局の将棋盤の駒を片づけてしまった。

 

「あーあ・・勿体ない」

 

「・・問題ない。駒の配置と持ち駒は既に記憶してある・・帰ってゆっくりと続きを楽しむとしよう・・ふふふふ」

 

どこぞの漫画のような台詞を吐いて飛羽は嬉しそうに自分のカバンを持ちあげた。

やはり雰囲気が女子高生じゃない。

 

「? ? ?」

 

梨穂子はまだどういう状況か掴めないようで頭の周りから?マークが消えようとしなかった。

 

「・・梨穂子。帰ろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼しました」

 

職員室に茶道部部室の鍵を返した梨穂子が扉を出てキョロキョロあたりを見回す。すると吉備東校の各部活が現在所持しているトロフィーやら賞状の入ったガラスケースを見ている智也の姿を見つけると少し笑顔を見せて駆けよった。

 

「御待たせ。智也」

 

「・・おう」

 

「ん~・・?どうかした?」

 

「・・将棋部・・地区で三位じゃん・・」

 

「あぁ・・助っ人で愛歌先輩が参加したらしくって・・凄いよね~愛歌先輩」

 

それでも団体戦で三位である。一人がずば抜けて強かろうと全体のレベルが高くなければここまでの成績は残せまい。その副将と大将を破ったと言うのだから・・。

 

「あ。そうそう。ちなみにこの書道部の地方大会優勝はるっこ先輩がこれまた助っ人で入ったんだよー」

 

無邪気に笑ってそう言った。

 

―梨穂子には言えないが人材の墓場かよ。茶道部・・。スペックが高すぎるぞあの二人。

 

そして何と言ってもその二人にこれ以上なく気に入られ、二人が驚く潜在性を持ち合わせ、その二人が羨む独特の雰囲気を持つこの梨穂子という自分の幼馴染の少女を見る。

思った以上に梨穂子は凄い奴なのかもしれない。と。

 

「・・智也」

 

「・・ん?」

 

「・・お腹すいた・・何か食べて帰ろ?」

 

「・・」

 

ホッとすると同時にこの脱力感は何だろう?

背負ったリュックの肩ひもがずるりと垂れ下がり、呆れ顔の智也を見て昔と変わらない屈託の無い笑顔を見せて梨穂子は笑った。

彼女の茶色い髪が沈みかけの太陽の最後の抵抗を受け取って紅く光る。

それに応えるように薄く笑って智也は先に駆けだした梨穂子を見送った。

 

そしてまたちらりとガラスケースを見る。

そこには

 

「新人戦 優勝 吉備東高校 剣道部」

 

と彫られたトロフィーがあった。

 

「・・・・」

 

時間にして二秒に満たない時間だった。智也は歩きだす。

 

 

 

 

 

その夜―桜井家 梨穂子の自室

 

「やっぱりあの人と一緒に居ると楽しいよ。シュナイダー」

 

梨穂子は両手で抱え上げたぬいぐるみを前に寝間着姿でそう言った。

微笑ましい光景であると文章で感じるかもしれないが彼女が抱え上げている「シュナイダー」と呼ばれたぬいぐるみは・・ワニである。カラーリングも緑と結構リアルだ。

しかし、梨穂子という少女にとって何よりもそれは可愛い宝物だった。

もっともこれを貰った当時、流石に梨穂子も「ワニ」という悪く言うならゲテモノ動物の縫いぐるみに少し戸惑いはしたものの、くれたのが他でも無い智也だったのでその日から小さい頃に両親がくれたクマノミの縫いぐるみに変わり、それは彼女の宝物になった。

 

小学生低学年の時に貰ったプレゼントを宝物として高校二年生まで持ち続ける。その歴史は彼女の片想いの歴史と共に在り続ける。

 

「ワニは子供思いなんだぞ。産卵した瞬間に放っておく魚なんかよりずっといい奴らなんだからな!」

 

図鑑で聞きかじった知識を自信満々でふんぞり返って話す意地っ張りな智也を思い出す。

(「クマノミも子供を育てるんだよ」とは言えなかったが)

変わってしまったと皆が口を揃えて言う彼を梨穂子は真っ直ぐ捉えて確信する。

 

そりゃあ彼は変わったかもしれない、でもそれは男の子が成長する上での当然の変化、根っこの所は変わって無い。あの人はあの人。優しくて、あったかくて、少し意地悪で、静かだけど私の話をじっとゆっくり聞いてくれる。

そして・・・とっても意地っ張り。

 

見てたよ。

そんなに寂しそうな顔をしないで。

そんなに悲しい目をしないで。

貴方は気付かれていないと思っているのかもしれないけど。

ちゃんと気付いているんだから。

 

その日、シュナイダーを抱きしめたまま梨穂子は眠った。

 

 

 

 



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ルートA 6、7

6 日常はやや足早に残酷な速度で

 

暦は十一月の半ばを過ぎる。

広大が七咲、プーと出会い、そして塚原響との古い縁を取り戻した日から約一カ月が経過した。

相変わらず広大はあのプール裏へ行き、懲りずに気難しいプーを何とか手なずけようと躍起になっていた。

 

「おい。すぎうっちー」

 

梅原がこの寒くなった気候のもとでも全く春先、真夏の時から変わらないテンションで話しかけてきた。季節限定のアンニュイさとか、慎ましさという言葉は彼の辞書には無い。

 

「何?」

 

「昼飯は早弁ですましたな?では大将図書室に行くぞ?」

 

「ん?お前が図書室に行こうだなんて・・何だ・・また際どい美術雑誌でも見つけたのか?借りたら見せてね?」

 

「ちっがーう!そんな不純な動機で文学少年である私が図書室に行くと思うのかね?」

 

「ほぉ・・?」

 

「・・・」

 

―彼は自分の言葉に自覚がちゃんとあるのだろうか?いや、自分のキャラに自覚があるのだろうか?

 

と、いう目で広大がじっと梅原を見つめると根負けしたように

 

「・・。まぁそれもある。だが他にもちゃんと事情がある」

 

「図書委員がめちゃ可愛いとか?」

 

「な、何故それを・・!?」

 

「いや・・ウメハラ君。君何時もその手の情報垂れ流してるでしょ?何処までの情報を誰に出したか自分でちゃんと覚えておこうね?」

 

「ふ、不覚だぜ。善処する。ってぇ違うんだっての!確かにそういうのは無きにしも非ずだが俺が言いたいのは全く別の事なんだって」

 

「いろいろ抱え込んでる十七歳少年なんだなウメハラ。お疲れっす」

 

「ふふ。この俺に対してそんな強気な態度を続けていいのかね?これを見てもそんな事が言えるか!?」

 

そう言って梅原は上着のブレザーの下から一冊の本を取り出した。

 

「・・。ん・・!・・こ、これは・・!『ネコのおもい。』!」

 

―日本全国の猫とその飼い主ご用達の国民的月刊雑誌!まさか図書室が定期購入しているというのか!?

 

「そーだよ。杉内君!君が夜な夜なプール裏に忍び込み、勤しんでいる事を私は既に知っているのだ!これが欲しかろう!」

 

「人聞き悪い!」

 

―でも決して間違ってない。くそ。

 

「ふふふ。よさぬ~よさぬ~」

 

即刻名誉棄損とプライバシー侵害、今にも痴漢でもしそうな犯罪者の目になっている梅原を訴えたいところだがこの状況では到仕方あるまい。

 

「・・解った。俺は何をすればいいの」

 

「・・。付いてきてくれるだけでいいんだよ。大将」

 

「図書委員を見に行くのが一人じゃ不安、心細いんだって言いたいのか・・」

 

「ま。そういうこと?」

 

「・・」

 

―変なとこ小心なんだよなぁ・・コイツ。

 

「橘呼べよ・・」

 

「いや・・あいつ最近例の人にお熱だし。今日も速攻で二人で姿を消した」

 

「マジか。・・それは・・さすがにうらやましい」

 

「全くだ。く、悔しくなんかないんだからな!」

 

「言うな。ウメハラ。解った。とりあえずお前が借りてきた『猫のおもい』を見せてくれ」

 

「お~~っとぉ~~ちっちっちっ・・・これは図書室に行くまでの担保だ。ここでうっかり見せて見終わった瞬間にバックレられても困るんでな」

 

「・・」

 

―ちっ。読まれてたか。

 

 

―図書室

 

「おお・・確かに可愛い・・」

 

「だろ?大将」

 

清楚・・クラスメイトの絢辻詩とはまた異なる優等生タイプというのがぴったりだ。明朗で社交的で完璧な優等生タイプの彼女とはまた異なり、大人しいが自分の仕事は一生懸命で手を抜く事が出来ない少し不器用さを感じさせる優等生タイプである。

評判を聞きつけて集まった先客の男共の間に合わせの貸出依頼を懸命に捌いていた。

眼鏡の奥の少し小さめな瞳がくりくりとせわしなく動き、長い髪はオールバックにして後ろ髪はかなり手間がかかりそうな編み込みをしている。

「大変そうだな。可哀そうに」

 

「ああ。なんつーの?守ってあげたいタイプつーか」

 

「さて・・お前の持っている『ねこのおもい』はどこだ?」

 

今は色気より猫。塚原の事を除けば、「花より団子」的な所がこの広大という少年にはある。

 

「ん。こっち」

 

 

「おお・・・!毎月分あるじゃん!洒落たモン買ってくれてるな!吉備東高!うほ~~」

 

「お前・・本気で喜んでんだな。さすがにちょっと引くぜ。ただ雑誌系は一回一冊しか借りられないからな?」

 

「そうなの?じゃあ吟味しないとな。むぅ~」

 

―ふむ・・六月号かな。

 

「・・・」

 

―うわー本気だな・・コイツ。

 

 

『特集!懐いてくれないあの猫も貴方の虜に!』

いろいろと問題のあるキャッチフレーズだが、謀ったかのように広大の需要を満たしている事は間違いない。決まりだ。

 

「お。貸出の列も空いてる。丁度良かった。じゃ言ってくるわ!ありがとな!ウメハラ!」

 

何時にないハイテンションで列に並ぼうとする広大を

 

「待てぃ!大将!」

 

梅原ががっしと腕を掴み、引き止める。

「何?」

 

「お前・・よくよく考えてみるとその雑誌・・女受けがよさそうだよな・・?」

 

「ん・・?ああそういえば我ながら奇特な物を借りようとしてるかも。でも相撲の技全集借りてきた橘よりは幾分マシだと思うけどな?」

 

「お前・・まさかっ!この雑誌をきっかけにあの図書委員の子にお近づきになろうってんじゃないだろうな!」

 

「いやいやいや・・ここに無理やり連れてきたの貴方でしょ?」

 

「黙れ、黙れぃ!あぁ~~っ見える・・俺には見えるぞ!」

 

↓以下梅原の妄想

 

杉内「貸出お願いします。」

 

図書委員の女の子(以下女の子)「はい。学生証と本の提示お願いします。・・あら?」

 

杉内「うん?」

 

女の子「『ねこのおもい』・・猫お好きなんですか!?私も大好きです!」

 

杉内「そうなの?光栄だな」

 

女の子「私ん家二匹飼ってるんです。アメリカンショートとミックスです!最近寒くなってきたから時々二匹抱きあって眠ってるんですよ!もうかわいくてかわいくて!」

 

杉内「それは見てみたいな。・・君の家にいずれ行ってみたいな」

 

女の子「是非!喜んで!」

 

 

「・・ってことに!」

 

「・・行ってくる」

 

「待て。許さん。許さんぞ!」

 

「ぐ。そんな展開の早いラブロマンス無いわ!第一最後らへん俺のキャラじゃない!お前そんなんでよく『ねこのおもい』最新号借りれたな!」

 

「実は・・勇気がなくて隣の列に並んだんだよ・・」

 

「かぁ~~・・」

 

「と、いうわけだ。とりあえず俺を差し置いてあの女の子にお近づきになるのは許さないぞ『広大将』!」

 

「俺もう何も言えない。じゃあな。借りてくる」

 

「待て!俺の決心が済むまでここに一緒に居るんだ!」

 

「昼休み終わるがな!」

 

 

 

「あの・・うるさいです。図書室では静かにして下さい・・」

 

 

 

「はっ!」

 

「ん?」

 

「・・?杉内先輩?」

 

「ご、ゴメン。七咲・・。こんにちは」

 

「・・おい。大将誰?この子」

 

 

こっち側に女の子がいると何ともスムーズに話が進むものだと感心した。

図書委員の例の女の子は一年生で偶然にも七咲の中学からの知り合いであり、時折一緒に登校した事もある仲だったそうだ。高校入学してクラスと校舎が離れ、お互いにクラスに友人が出来てからは少し距離が離れたらしい。

事情を説明し、いつものあきれ顔を崩さないながらも七咲は図書委員の女の子に梅原と広大を紹介してくれた。

女の子は主に連れてこられた男衆の二人には戸惑ってはいたものの、少し距離が離れ気味だった友人と久しぶりに会話できたのが嬉しそうでまた同様に七咲も嬉しそうだった。

それを見ていると広大も梅原も嬉しくなった。梅原も落ち着きを取り戻して上機嫌そうに帰っていった。

不純な理由で先に並んでいた男衆より絶大なアドバンテージを得たというのも大きいだろうが。「棚から牡丹餅」すぎる。いや「図書棚から七咲」というべきか。

 

何にしても七咲がいてくれて本当に助かった。無事に借りてきた「ねこのおもい六月号」を図書室の机の脇に置いて、ふぅっと溜息をつく。

 

「全く・・何事かと思いましたよ。」

 

向かいに座った七咲はそう言って手に持ったシャープペンで頭をコンコンと叩く。

 

「改めてありがとう。面倒な事になってたから」

 

「男の人って単純ですよね。先輩も含めて」

 

「いや・・今日は俺巻き込まれただけだぞ」

 

「今日『は』と・・」

 

「・・・」

 

「ま、そういうことにしておきましょう」

 

 

「・・で・・七咲は勉強?」

 

「あ。はい」

 

「ホントゴメンね。邪魔して」

 

「いいですよ別に。もともとなかなか捗って無くて・・」

 

「ん・・数学?ちょっと、見せてくれる?」

 

「先輩・・解るんですか?」

 

「む・・数学は少なくとも割と付いていけてると思う。現代文と世界史は壊滅的だけど」

 

「へぇ・・」

 

「ん・・?んんっ・・!?うわっ・・マジで?」

 

七咲のノートを目にした広大の目が曇る。眉が思いっきり内側に曲がり、まるで惨殺死体を見るような眼である。

 

「え?」

 

「七咲・・・なんで・・こうなるの・・?」

 

「え。何でって言われましても」

 

「うわ。ないわコレ」

 

「先輩・・酷い」

 

数学というのは不思議な物で解る人間は本当に解らない人間を理解できないらしい。

 

「・・OK。教科書かして」

 

「え。はい」

 

「公式丸覚えしてる?ひょっとして」

 

「解るんですか!?」

 

「次の期末用の勉強?コレ」

 

「あ。はい。でもその前に小テストがあるんです」

 

「いつ?」

 

「四日後です」

 

「・・それでも基礎からやり直した方が確実かな。七咲?時間ある?」

 

「はい・・昼休み一杯やるつもりでしたから」

 

 

 

 

 

「ん・・よし正解!」

 

「やたっ!」

 

「基盤から躓いてたわけだ。よかった。早めに修正できて。でも復習忘れないようにね」

 

「うわぁ~~先輩からそんなまともな台詞が聞けるなんて・・意外です」

 

「う~ん。想像を超えない失礼な反応だね。でも正直否定できない。ま。でも折角覚えた事忘れたくは無いだろ?」

 

「・・。そうですね。仰る通りです。有難うございました」

 

「いやこちらこそ。七咲いなかったらまだ今も梅原と無為な時間過ごしてただろーし。じゃ、そろそろ俺は。頑張ってね」

 

「・・・はい。では。あ、あの!」

 

「はい?」

 

「また解らない事があったら教えてくれますか?」

「塚原先輩に頼んだら?俺よりさらに出来るよ?」と、一瞬広大は言いかけたが止めた。この忙

しい時期に無闇に塚原の負担を増やすのは無しだ。

第一この七咲が受け入れるわけがない。

彼女は塚原にある程度の依存はあるがそこの線分けは広大以上にしっかりしている事を広大は理解している。

 

「どーぞ」

 

「ありがとうございます。」

 

 

 

 

 

「『無為な時間過ごしてただろーし』・・か。」

 

 

 

 

 

去る広大の背中に向けてぽつりとそう呟いて七咲は教材をカバンの中にしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二日後―

 

広大は走っていた。

 

早耳な事情通のクラスメイトの話の真偽を確かめるために。そしていつもの場所―水泳部の更衣室前に着いた。そこに見えた光景は広大の予想通り。噂の真偽は火を見るより明らかだ。

 

「ぜいぜい・・」

 

大勢の女子、一部男子水泳部員、そして最強の部外者、森島はるかをはじめ顧問、教員の幾人かも集まっていた。当然七咲もいて、広大の遅い到着に悪戯な笑みを以て迎える。

 

―もう・・何してたんですか?

 

―悪い。

 

広大は思わず右手を顔の前に添えて陳謝する。

 

―全くだ。こんな目出たい日に。

 

その集団の中心にいる一人の少女が新しく馳せ参じた来客に気付き、いつもの笑顔を見せてくれた。

 

その集団の中心にいる少女は塚原 響だった。

 

今日晴れて彼女は一つの学生の山場を越えた。

指定国公立大学からの推薦合格通知がいち早く彼女のもとに届いたのである。

最も早く卒業後の進路の先駆を切った彼女を称えるため、これ程多くの人間が集まったのだ。

これ程「おめでとう」という言葉が空間に満たされるのは正月ぐらいじゃないのかと思うぐらいに口々にその言葉が発せられた。

 

「つ、つかはらせんぱ~~い。お、おめでとござ、ござい、う、うえ~~ん」

 

一部の水泳女子部員は感極まって泣き出し、それを宥めるのが塚原という奇妙な構図になった。どうやら塚原の卒業後の進路決定=彼女の卒業と結び付けてしまったようだ。

四か月ほど気が早い。が、その気持ちは広大には良く解る。心から。

 

片や森島 はるかは

 

「うらやましいなぁ。これで響ちゃんは卒業まで遊びたい放題じゃない」

 

という空気の読めない言葉を発し、ちょっと湿りそうな空気をいい意味でぶち壊した。

天然でこれが出来るのだからやはりこの少女は侮れない。

 

「ちょっと・・あたしは別にそんな遊ぶつもりなんて無いわよ。はるかみたいに暇人じゃないのあたしは。貴方もちゃんと進路の事考えなさい!」

 

「うぅ響ちゃんがいじめるよぅ」

 

 

広大は一旦その場を後にした。

塚原は一通りの挨拶回りを済ました後、きっと「あの場所」に行くだろう。水泳部の「大先輩」への報告に。恐らく一人で。

 

「待って下さい。先輩」

 

その場を去る広大の後ろ姿に声をかけたのは七咲だった。

 

「ん?」

 

「抜け駆けは良くありませんね?」

 

「バレてた?」

 

「バレバレです」

 

「じゃあ七咲の数学の勉強でもして待ちますか」

 

「えぇ~それは勘弁して下さい。折角の目出たい日に公式とにらめっこなんて」

 

「冗談。ってか俺も嫌。・・テラスでゆっくりしますか」

 

「いいですね。先輩の奢りなら」

 

「響姉に奢る分で精一杯」

 

「冗談です。塚原先輩の飲み物代の半分出させて下さい」

 

「了解。何が良いと思う?」

 

「ん~~コーンポタージュで」

 

 

 

 

 

 

半時間後。更衣室裏―

 

「逢ちゃん~~!!いらっしゃ~い。相変わらずキュートな子猫ちゃんねぇ」

 

「も、森島先輩!?こんにちは」

 

―・・計算外の生き物がいる。

 

「ん?そっちの彼はどなたかしら?初めまして、かな?」

 

「あ、俺は杉内です。杉内広大。Ⅱ-Aです」

 

「・・!!君が噂の『コウ君』!?きゃあー初めまして!響からいろいろ話聞いてるわ。前から会いたいと思ってたの!」

 

「ちょっ・・はるか!」

 

「え」

 

―おお。真面目に嬉しい!計算外の生物とか言っちゃってすいません。森島先輩!

 

「ふむ」

 

森島はいきなり広大に急接近。彼の顎を惜しげもなく細い右手の指でくいと上にあげる。

 

「え」

 

「むぅ」

 

そして広大の左右の顔面をまじまじと見る。真剣な上目づかい。

 

―うおおお・・さすが天然男子キラー。物凄い破壊力だ。こ、こりゃ・・たまらん。

 

「ん!!さっすが響ちゃんね!見る目があるわ!」

 

「・・」

 

―・・勘弁して下さい。惚れてしまいます。

 

「なんて可愛いお猿さんなの!子猫ちゃんにお猿さん。今日は良い日だわ!」

 

「・・」

 

―・・・。あー・・動物占い的判断だったわけね。

 

基本本能に忠実な森島らしい野性的かつ理不尽なスキンシップに露骨に広大はがっかりした。

 

「ホントゴメンね」

 

そういう顔をして塚原は森島の耳を引っ張り、広大から引き離してくれた。

 

「いった~い。やめて響ちゃん。お耳がネザーランドドワーフちゃんみたいになっちゃう~」

 

―頼む。日本語で喋って下さい。

 

「はるか・・貴方は盛りのついたメス犬で十分よ」

 

―・・俺の知らない響姉がいる。

 

一方七咲。

 

―・・私の知らない塚原先輩がいる。

 

 

 

 

 

「改めて・・推薦合格おめでとうございます。塚原先輩」

 

「おめでとうございます」

 

「おっめでとー響ちゃん」

 

今日は主役の塚原に変わって七咲の膝の上に座ったプーもどことなく雰囲気を感じ取っているのだろう。顔をあげて「何かいい事あったね?」的な顔つきでキョロキョロと周りを見回していた。

 

今四つの缶と一つの猫缶が各々の前に置かれている。四人と一匹の些細な何とも高校生らしい健全な宴会であった。

 

「みんな本当にありがとう。正直私もホッとしています。じゃ・・とりあえず一番早い乾杯を有難う。七咲、コウ君。そしてはるかにプー。じゃ、乾杯」

 

中身がホットのコーンポタージュであるから何とも控え目な音が響くが、一人の人間を祝う場の空気としては申し分ない。

 

「響ちゃんはこれかどうするの?片道切符とって放浪の旅にでるの?」

 

「はるか・・貴方案外古風ね。ちゃんと学校は行くわよ。創設祭のおでん屋の手伝いもしなきゃならないしね。」

 

「WAO!今年もまたあのおいしい響ちゃんが作った水泳部秘伝のおでんが食べられるのね!」

 

「残念。今年私は味付けを行いません。ここにいる七咲に伝授するつもりだから」

 

隣に居る七咲の肩にポンと塚原は手を置き、微笑んだ。

 

「え。先輩!私なんかにそんな・・」

 

「大丈夫。今の一年生の水泳部員から一人を選ぶとしたら貴方しかいないと思ってたの。自分のお弁当もあれだけのものを作れて、覚えの良い貴方ならきっと出来るわ」

 

「え。・・七咲って自分の弁当自分で作ってるの!?」

 

「え・・あ、はい。でも大したものでは・・」

 

「いいえ。本当に大したものよ。おいしいし、彩りも華やか、おまけに栄養バランスもちゃんと考えてられているし。一朝一夕で出来るものじゃないわ」

 

「・・恐縮です」

 

「大丈夫。自信をもって。貴方なら出来るわ」

 

「じゃあ今年は俺も食べに行こうかな。去年は響姉のおすそ分けを後日に貰っただけだったし・・でもホントおいしかった」

 

「今から楽しみねぇ。ちくわにはんぺんにさつまあげ・・。ごぼう天も捨て難いわね」

 

「森島先輩・・練り物好きですね」

 

「うん!特にちくわはおいしいのなんのって!噛むと溢れ出る出汁がたまんないわ~」

 

「・・去年この子開店前にちくわを平らげちゃったからね・・。何故こんな子が恨まれないのか解らないわ。得な子よね」

 

「響ちゃんにすっごい怒られちゃって泣きながらちくわを買い出しに行ったわ~。今になっては良い思い出ね」

 

「良い思い出にしないの!貴方には反省って言葉が無いの!?」

 

「え~~?だって響ちゃん以外の部員の子は怒って無かったよ~?」

 

「呆気にとられてただけよ!!」

 

―凄いな・・この二人。

 

次から次へと発される森島トークに鋭いツッコミを入れる塚原。だが話が前に進まない。

 

「とにかく!七咲・・貴方なら水泳部の味を引き継いでくれると思うの。だから私は貴方に教えたい。・・ダメかしら」

 

「・・光栄ですけどすごい・・プレッシャーです」

 

「そうね。でも私はいつも言っているでしょ?何時も緊張感を持って何事も挑みなさいって。水泳でも同じこと。水泳では余計な力が入ってしまうとダメだけど全くの緊張の無い状態で挑むのも愚の骨頂。プレッシャーの先にあるリラックスの状態に持って行くのが大事。それが気負い過ぎでも楽天的でもないベストの状態よ。貴方が積み重ねてきたものを最も理想的な形で出せる状態。これと、おでんの事も一緒の事よ」

 

「・・・」

 

「ふふっ・・えらそうな事言って最後に「おでん」が入るんだから間抜けな響きになるね」

 

「そんなこと・・ありません!」

 

「ありがとう七咲。それに気負う事は無いの。私は何も『一人でやれ』とは一切言ってない。貴方には他の水泳部員達も去年私の手伝いをしてくれた川端さんもいる。皆貴方に協力してくれる」

 

「・・七咲。俺も味見ぐらいなら出来るよ?一応去年のも食べてるし」

 

「味見!?わお。今年の年末はおでんだらけかしら!?マ、・・お母さんにおでんを献立にしないように言っとかなくちゃ!」

 

「・・はるか。食べるのは良いけど・・ちゃんと批評もしなさいよ。・・もちろんあたしだって伝えられる限りのことは全部伝えるつもり。どう?引き受けてくれないかな?」

 

「・・わかりました。御指導御鞭撻のほどをよろしくお願いします」

 

・・何とも堅い言い回しだが今の七咲にとってあまり言葉を選ぶ余裕は無かったのだろう。

嬉しいはずなのだ。自分が最も敬愛する存在の激励なのだから。

広大は本当に七咲を羨ましく思った。だが前の時の嫉妬などではない。

広大も嬉しかったのだ。自分と似たような境遇を持つ存在が選ばれ、励まされ、称えられ、信じられている事を他人事ではなく喜べる事が嬉しかった。

今の七咲だけの事ではない。今日の塚原のことだってそうだ。本当にうれしい。心から嬉しい。一点の曇りなくそう言える。でもだからこそ―

 

「・・私達も頑張んないとね」

 

「・・!?」

 

「私の事を忘れるな」とプーが愚図り、不機嫌そうに腹を見せながら転がりだしたのを笑いながら塚原と七咲があやしているほんの一瞬のスキだった。

今までとは打って変わった口調の森島が不意に広大にそう囁いた。

 

―・・成程。この人は一見考え足らずで、向こう見ずで空気の読めないタイプかと思いきや予想以上に「人」を見てるんだ・・。

 

学園のアイドルの名は伊達じゃない。容姿、普段の気さくな性格、そしてこの隠れた何処か一本通った芯のギャップ。塚原とはまた違った誰にでも好かれる要素を彼女もまた兼ね備えている。

 

「・・全く。そうですね」

 

「ふふっ♪」

 

横目で広大を見る森島の視線は大人っぽい女の子というより、「女性」だった。

すこし微笑むとあっさりそれは影をひそめるのだが。

 

「By the way・・(ところで・・)」

 

急に森島が急に改まった口調でそういった。

 

「・・?」

 

「ちょっと響ちゃんに聞かなければならない事があるわね・・」

 

「何?はるか・・?急に畏まって」

 

「逢ちゃんとコウ君。響ちゃんはどっちを選ぶつもりなの!?さぁはっきりなさい!」

 

「・・・」

 

「・・・!?・・・!!」

 

「?????」

 

―いや、べつに的を射ていないようで実は射ているようで、実は案外にも射ていなかったりしてないような気もしないでもない気がする・・よそう。

 

広大は考えるのを止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・響姉。そろそろ今日は帰ろう」

 

「え?コウ君?」

 

「だっていっぱい捕まっちゃうよ。響姉を祝いたい人なんて沢山いるんだから。それに今すぐ報告したい相手がいるでしょ?」

 

「・・・うん。でも・・いざとなったら・・ほら、電話でもできるし」

 

「ダメ。響姉。面と面を向かって報告しなきゃ。おばさんの事だもん。きっと心配してたはず。いちはやく教えてあげようよ。だから送る。響姉」

 

広大にしては珍しく有無を言わせない強い口調に七咲も森島も面を喰らった。

しかしそれは的を射ていた。やはり塚原は何よりも早く報告したかったのだ。近々発表されるであろう娘の合否に神経を最も擦り減らす存在は当人と何といってもその親族なのだから。

 

広大は塚原の母を知っている。

 

響香(きょうか)おばさん。

 

塚原響がまるで本当の弟の様に広大を可愛がってくれたように彼女もまた彼を本当の息子のように可愛がってくれた。何せ母の出張時は必ずと言っていいほど娘を連れて広大の自宅に訪れてくれるほどに。

彼女は病弱で娘の響一人が限界だったらしく二人目を諦めており、妹か弟を響に与えてやれなかった事を本当にすまなく思っていたらしい。どうやらその影響で娘より一つ下の広大を娘に与えられなかった弟として、そして彼女自身も欲しいと思っていた息子の変わりとして広大に接していた背景があるようだ。

そしてそれに関して広大に対して申し訳なく感じている事も広大は感じ取っていた。だがそんな背景があったにしろ広大本人にはどうでもいいことだった。彼女は十二分すぎるほど広大に尽くしてくれた。それこそが最も大事なこと。

 

彼の母親は二人いたのだ。

 

放任主義でどこか肝っ玉の据わっている広大の母とは異なり、塚原の母は心配性だった。広大が体調を崩した時、実の母より心配してくれたぐらいだ。

 

―全く何でこんな人が母の友人をやっているのか・・。

 

そんなおばさんが大事な大事な一人娘の人生の過渡期、胃に穴が空くような思いをしていた事は想像に難くない。

 

確かに電話一本で済む。言葉ワンフレーズで事足りる。

 

「ありがとう」の言葉。

 

けど行くべきだ。可能であるならば。面と面を向かって報告を。そして何よりも感謝とお礼を。最も身近な存在へ。

 

「うん・・。コウ君有難う。帰るね今日は。エスコートお願い」

 

「うん。喜んで」

 

「んふふ。本っっ当に良い子ねー。コウ君?グッド!ベリーグッドよ!責任を持って響ちゃんを送るのよ?」

 

「・・杉内先輩だけじゃ心配ですね。私も加わります!何せ大事な先輩のお体ですから。」

 

「七咲・・?ふふ・・七咲みたいなちっちゃい子に言われると何となく不思議な感じで・・ふふふ」

 

「ちっちゃいコ・・塚原先輩それは酷いです」

 

「はははは。ごめんね。冗談よ。頼りにしてるわ」

 

「そうです。頼りにして下さい」

 

「そう言われては私も一肌脱がないとダメね。よっし私も一緒に帰ろっと!」

 

「いざという時ははるかが変質者の囮になってくれるって。安心ね」

 

広大はその日他の男子の羨望の目を浴びながら帰路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

塚原の母―響香に会うのは久しぶりだった。

 

庭の草花や木に水をあげながら少し伏せ目がちで微笑んでいる姿は広大の記憶のままだった。

彼女は思いがけない娘の友人三人の来客に目をぱちくりさせ、「あらやだ」といそいそと来客を出迎えようとする。少しプチパニックの彼女の頭は今突然の来客の御もてなしが出来る物が丁度よくあったかしらとフル回転しているに違いない。

しかし、その客人の中に広大の顔を認めると―

 

「コウ・・君?」

 

「・・お久しぶりです。おばさん」

 

広大が中二の時の響の卒業式以来だろうか、考えてみると三年近くになる。

中二と高二の少年の差はさすがに大きい。

広大自身にはあまり自覚は無いが、周りで見守ってきた大人にとって近しい子供の二年、三年後という時間はかなり大きい。増してや中学から高校となると別人に感じてしまう場合だって少なくない。

 

「・・・立派な男の子になったね」

 

戸惑いと緊張と・・そして隠しきれない喜びを含ませて響より笑い皺が目立つ目を細め、記憶を反芻するような表情で広大を見る。

 

「いや~それもどうかと思いますけど」

 

それだけで広大は話を打ち切り、響に本題に入ってもらうように早々とその場を去る事にした。響香は早々と去ってしまう広大に少し残念そうな顔をしてくれた。

しかし今はいい。それよりも今はもっと大事なニュースがあるのだから。それを早く二人で分かち合ってもらいたい。

 

「折角来てくれたのに・・ゆっくりしてってよ」

 

「また今度お邪魔させてね?おばさん」

 

「・・。うん」

 

「・・じゃあね。今日は有難う。コウ君」

 

「うん。また」

 

 

森島と七咲を引き連れ、広大は帰る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森島を駅まで送った後、広大は七咲と歩いていた。

 

「塚原先輩のお母さん初めて見ました。塚原先輩思いっきりお母さん似ですね」

 

「七咲。それ禁句なんだよ。おじさんが盛大に凹むからね。ま。響姉がお母さん似なのは間違いないけどね」

 

「そうなんですか?」

 

「おじさんは結構愉快でツッコミどころのある人だからさ。顔も性格もどちらかというと確実に響香おばさんよりだろうね響姉は。落ち着いていて優しくて・・あと心配性なところとかもね」

 

「成程。でも時折ツッコミどころがあるところはお父さん似なところなんじゃないんでしょうか?」

 

「・・言えてるかも」

 

「・・素敵な一家ですね」

 

「違いない」

 

「羨ましいな」

 

「全く」

 

「杉内先輩が」

 

「・・・俺?」

 

「はい・・羨ましいです」

 

「何故そう思うか解らないけど・・でも七咲に言われるとちょっと嫌味に聞こえるかな・・・」

 

「嫌味?何故です?」

 

「教えね」

 

「・・ま。大体想像付きますけど」

 

「・・」

 

「ふふ。じゃ先輩私はここで・・・。失礼しますね。また明日」

 

「うん。気をつけて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7 サヨナラ。またイツカ

 

―チリンチリン。

 

この音は嫌いだった。

 

この音のおかげで何度獲物に逃げられたか解ったもんじゃない。

この首輪をつけてからスズメを2度と捕れなくなっちまった。

その代わりこれを付けた日から特に食い物に困ることが無くなったのが皮肉な話だけどね。

もうアタシゃ顔も覚えちゃいない。けどあの子の匂いは覚えてる。

まだ小さかったアタシを軽々と抱き上げてこの首輪をプレゼントしてくれたあの子。

アタシがここに住み着くきっかけとなった女の子。

もうどれくらい前の事になるのかねぇ。

 

それから匂いが異なる色んな子達にアタシは囲まれてこの首輪の鈴の音と一緒に過ごしてきた。

「色んな子がいた。」

アタシの記憶力じゃそう言う事しか出来ない。

何せ本気で覚えていないんだよ。悪いけどね。

良い子もいれば嫌な子だっていた。

でもそんな子たちも誰一人例外なくここを去っていった。

人間てェのはさぞかし忙しい生物なんだろうね?ホント忙しない生き物だよ。

でも忙しなく動いて疲れている癖になぜかアタシの首に付いたこの鈴の音色を聞くとアタシを探し出すんだよね。そして見つけたアタシを抱き上げて何が楽しいのか笑ってるんだよ。

けどアタシには解るんだ。

その笑顔にどこかしらの不安やら後ろ暗い何かがみーんな多かれ少なかれある事にさ。

・・ほっとけないんだよねぇ・・。

ま、世話になってるのは確かだしね。食べ物も寝床もトイレだって用意してくれてる子たちだよ?何となく力になってあげたいじゃないかい?義理が廃れば世も末ってね。

とりあえず不安は隠せないにしろアタシを抱き上げた時は笑ってくれているみたいだしね?

 

だからさ。

トコトン付きあってやろうと思ったわけ。

この場所で。日々変わるこの子達とさ。

・・居心地は悪く無かった。

嘘じゃないよ?

ホントさ。

アタしゃね。人を見る目はあるんだよ。

そもそも猫ってのは人を見る目がないとうまく生きて行けっこないのさ。

近付いて良い人間と良くない人間を敏感に感じ取らないとダメさね。

まず何と言っても・・男は大概の場合近付いちゃだめだね。うん。

中には管理人のおっちゃんみたいに気のいい男もいるっちゃいるがやっぱり駄目だね。

自分より小さい存在を虐めたくなる性分を持った奴がいるんだよ。

要するにガキさね。

そうゆう奴は大体一目で解る。

アタシを見る目に独特の光が帯びるからね。

こういう連中からは一目散に逃げる。なーんの得もないからね。

餌は持ってないし、扱いも雑。中には悪戯をしてくる奴もいる。

そんなんでアタシに触ろうなんて百年早いんだよ!

アタシを見かけると騒ぐ連中も問題外さね。

「キャー可愛い!」

そういう連中は騒ぐ事によって周りの連中の気を惹きたいだけなのさ。

つまるところは話のタネ。実は私らなど眼中にはないのさ。

「私は猫を見つけた。可愛いと思ってる。スゴイ?スゴイでしょ?」ってね。

知識もその気もないくせにやたらと騒いで注目させる。これが猫にとってどれだけ迷惑か全く解ってないさね。

ただ無神経に可愛がるだけの連中には絶対に近づかないのは基本。

若い猫に教鞭をとりたいくらいさ。

大事なこといってるよ!アタシゃ!

 

・・大分話がそれちゃったわさ。

まぁ要するに、ちゃんと「吾輩は人を見る目がある猫である」このアタシとここに集まる子たちの相性は抜群だったわけさね。

ホント楽しい、良い場所だったわさ。

責任をもってアタシの世話をしてくれると同時にちゃーんとどっか強い志持って前見てる。

そんな子達ばっかりだったよ。このでかい水溜りに集まる子達はね。

でもそれ故に躓く事がある。落ち込んでる時もあるさね。そこでアタシの出番だったわけさ!

 

・・・そういやこの前のあの子良い顔してたね。

最近どことなく不安そうな顔してたもんだからアタシもホッとしたもんだよ。

人間は誤魔化す事が出来てもアタシにはお見通しさね。

・・・まぁ何と言うか・・ああいう子をリーダーっていうんだろうね。

まぁ猫でいうアタシみたいな存在さ。

周りに人が集まって慕われている。そういう子。

結構長い付き合いになると思うけどアタシの長年の勘からしてあの子はそろそろ「居なくなっちゃう子」だね。

・・本当に残念さね。アタシの長いここでの生活の中でもあれ程いい匂いの子は中々いなかったと思うわさ。すごく安心するのさ。あの子の匂いは。

いや、順番が逆かね?

あの子という人間があってこそあの匂いが心地いいって言うのが正解だろうね。

猫のあたしがそう思うんだ。

人間同士でもそう思う他の子は多いんだろうさね。

 

そしてあの子。

アタシは初めて会った時に確信したよ。

「ああ。この子はきっとアタシにとって新しい「いい匂い」になってくれる。」ってね。

ちっさな体で少々ぽっちゃりなアタシをしっかりと優しく抱いてくれたあの時からね。

そしてアタシの見る目にやっぱり狂いはなかった。

バカみたいに責任感が強い一生懸命な良い子だった。

何事にも手を抜かない。

水溜りを泳ぐ事だって。

アタシの世話だって。

性格・・なんだろうね。すこし危なっかしさを感じる子でもあったけど。

何度も繰り返すけどアタシは人を見る目はあるんだよ。

きっとこの子もいずれはあの「居なくなっちゃう子」みたいに、そしてアタシみたいに他の子達から慕われて皆の中心になる子なんだろう。

大先輩のアタシからひとつ言わせてもらえばもっと肩の力を抜くようにしたらもっといいと思うわさ。

はぁ・・この子も残念だね。

もっと見守っていきたかったんだけども。

 

え?

 

何でって?

 

・・野暮な事は聞くもんじゃないさね。

 

―チリン・・。

 

 

 

 

 

 

「何読んでるの?」

 

この2-Aのクラスで最も小柄なクラスメイト男子が先日借りた「ねこのおもい 六月号」を読む広大に声をかける。

身長は「160ある」と本人は言い張るがじつは159.2という少し切ない逸話を持つ。

声もどこか幼く、見かけはまだ中学生にしか見えない。

 

「ミサキ、おまえんち猫飼ってたっけ。」

 

「うーうん。犬がいるだけ。母さんがあんまり猫好きじゃないんだよね」

 

御崎 太一 みさき たいち

ベビーフェイスでルックスは比較的良く、性格もいじりやすい愛い奴なのだがそのあまりの可愛さから女子に人気はある反面恋愛対象とされないのが悩みの種らしい。

物凄い年上キラーで一年時からかなりの数の上級生に声をかけられた。

それも男女問わずだ。といっても男の方はどうやら自分達の学年の女子が気まぐれを起こして御崎にモーションをかけたやっかみでからんできたらしい。

彼にとっては飛んだとばっちりをうけた形である。

 

「杉内君、ちょっとそれ見せてくれる?」

 

「ん?なんだ興味あるの?」

 

「・・・。『懐いてくれないあの猫もこれであなたの虜に』・・?」

 

「声出して読むな。恥ずかしい」

 

「え。でもこれ堂々と教室で見てる杉内君も相当恥ずかしくない?」

 

「ぐ」

 

「何か・・女の子の口説き方を必死で調べてる的な必死さを感じるんだけど・・そういう努力は隠れてした方がいいと思うよ。それに返却日もそろそろだね。・・上手くいってないんだ?」

 

「痛いところを突くな・・嫌味を含んでない分質が悪い。だが俺は本気なんだ。絶対あの猫をワシャワシャして見せるっ!」

 

「わぁ何か・・本気なんだね。梅原君すら引くのも解る気がする」

 

「・・梅原クンは何処までのことミサキ君に話したのかな~~?」

 

「ん?えっと幼馴染の先輩と猫にぞっこん・・図書委員の女の子が可愛いってのと・・杉内君の知り合いに可愛い水泳部の後輩の子がいるって事。ぐらい・・?」

 

「殆ど全てじゃねぇか・・!あいつ殺してやろうかな」

 

「七咲・・さんって言ってたっけ。1-Bの」

 

「うん。そして断じてそういう関係ではない」

 

「解ってるよ。梅原君の情報を完全鵜呑みにはしてないって」

 

「ミサキ・・有難う。それにいつも思うがチミは意外にしたたかだね」

 

「そうかな?」

 

「自覚ないんだったらいいや。で、それが何?」

 

「知り合いの子がお世話になってるみたいだからさ。とっても良くしてくれる友達です。って。個人的にお礼言っときたくて」

 

「成程。ミサキの知り合いで七咲の友達ってことは・・ああ、あの子か」

 

「うん」

 

「で、最近どうなの?」

 

「頑張ってるよ。大変みたいだけどね」

 

「そっか。で、お前の方はどうなの」

 

「ん?別に・・今度家に遊びに行く程度」

 

「んん?」

 

ぴく・・。

 

―・・程度?成程・・ミサキ君は一般高校生男子が持つ価値観が麻痺しているようだね。これは施術が必要だ。

 

「よし解った」

 

「ん?」

 

「お前死ね」

 

そして半分冗談、半分本気でぎりぎりとチョーキングバイスをかまし、御崎がギブアップのタップを始めたころ、突然教室のドアががばりと乱暴に開く。

 

!!?

 

クラスの中に残った全員がそのドアを凝視する。

そこには視線を床に落として咳き込む小柄の少女の姿があった。顔は見えない。

そのシルエットに広大は見覚えがあったがすぐにはそれと理解出来なかった。

彼女が行う行為としてはとても認識できなかったからだ。いきなり上級生のクラスの扉を頻雑に開け、上級生のいるクラスで礼儀を欠くなど今までの彼女のイメージにはかけ離れ過ぎている。

 

「なな―」

 

 

「七咲さん!?」

 

戸惑う広大を尻目に即その少女―七咲に声をかけたのが既に面識があった絢辻だった。

 

「ちょっと・・大丈夫?」

 

「あ・・はい。すいませ・・お騒がせして」

 

息が上がり、髪を整える余裕がない少女の顔を見据え、絢辻は左手を七咲の肩に乗せ、右手で目の前の少女の前髪を整えてあげながら力強く穏やかな口調で言う。

 

「いいの!ゆっくり息を吸って」

 

「・・・・。はい。大丈夫です。あの・・杉・・」

 

「どうした?七咲?」

 

今度は広大が七咲の言葉を遮った。その言葉に反応して七咲は顎をあげる。いつも独特の強く、凛とした形の黒いつり目が今日は痛々しいほどに不安と焦燥で塗り固められている。

 

「先輩・・。あの」

 

何時もしっかりとしている受け答えさえ曖昧になっている。

 

「・・?・・ここじゃ何だから別のとこで聞くよ。絢辻さん有難う。後は俺が引き受けるんで」

 

「杉内君。大丈夫なの?」

 

「俺に用があるみたいだし。・・何か話し辛そうだから」

 

後半部分はややトーンを広大は下げる。

 

「・・・。みたいね」

 

少し絢辻は七咲に視線を送ると七咲は視線をそらした。それで絢辻は納得する。自分の出る幕は無いと。

 

「絢辻先輩・・すいません。御親切に有難うございました」

 

「良いのよ。気にしないで」

 

「絢辻さん。有難う。よし行こう七咲。立てる?」

 

「はい」

 

広大に向けた目を今度は七咲はそらさなかった。

程無くして二人は教室を後にした。広大の後ろを付いていく七咲の後ろ姿はやや体勢を立て直したように背筋が伸ばされている。絢辻はその光景を見守っていた。

 

―これでも・・「それは無い」の?源君・・・。

 

 

 

「ぐぇほ・・あれ?僕放置?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「プーが居ない?いつから?」

 

「昨日の放課後から・・です」

 

「最後見たのは何処で何時?誰が見たの?」

 

「一昨日の晩・・部活の練習が終わって私が餌をあげたときです。それ以降誰もあの子を見ていないそうです」

 

「まだそんなに時間は経ってない訳だ。これ他の誰かに知らせた?」

 

―どうやらただ事じゃない。と、いうことを誰かに伝えた?

 

という意味である。

 

「・・知らせていません」

 

「?何で?」

 

「最後に世話したのがあたしなんです。ひょっとしたらあたしのせいでプーが何か・・」

 

何時にない不安な表情を浮かべた。以前も七咲はこのような表情はした事があるが何せ顔色が何時もと違う。冷静な判断能力も失われているようだ。

 

「探す人間が多い方が良いのは確かなんだけど・・嫌なんだね?」

 

「・・・」

 

「七咲」

 

「・・すいません」

 

「・・了解。さて五時限目サボりますか。俺この前サボったから知ってるんだよね。休み時間より授業中の方が遥かに静かだってこと。だから「あの音」も聞きとりやすいはず」

 

「・・・!はい!」

 

 

 

しかし寒い。この寒さが七咲の焦りを増長させた事は確かだろう。

小さい頃広大も何度も思った。

こんな寒い日に街中で見かける野良猫たちが何処で過ごし、何処でこの寒さをやり過ごすのだろうか。今日見かけたあの小さな子猫はひょっとして今頃震えながら過ごしているかもしれない。考えても仕方のない事をどうしても悪い方向悪い方向に向いてしまうあの感覚。

少し混乱気味の七咲には倉庫裏のいつもの場所で餌を持ちながら待機してもらった。

プーが戻ってくる可能性もあるし、今の彼女に授業中の校舎をうろつかせるには些かの抵抗がある。

午後に入って吹き始めた風の強さが体感温度をさらに大きく下げ、おまけに「あの音」を捉える事を風がかなり困難にしている。

 

「うーん・・」

 

だめだ。授業中だと言うのに雑音が多すぎる。仕方ない。目で探そう。

倉庫裏、裏庭、茂み。なんだかんだ言いながらプーとの付き合いも一ヵ月半以上たち、だいたいあの猫がいる場所を広大は掴んでいる。

それでもイエネコの行動範囲というものは性別、年齢等、個体差はあるが案外人間の予想を超えている場合が多い。よってもっと広範囲を調べたいところだがあくまで現在は授業中である。教師に見つかっては元も子もない。慎重に探す場所を選んで行動する必要がある。

 

グラウンドで生徒を指導する体育教師の目をかいくぐりつつ探すが「あの音」そしてあの姿は見当たらない。

 

―もともと賢い猫だし・・公に居る事が認められてる水泳部の場所からあんまり遠くに行くとも考え辛いんだよな。

 

 

確かに学校という場は野良猫がうろつくには危険すぎる場所である。衛生の観点から考えれば学校側は当然それに対処せざるをえないからだ。良くて追っ払われるか最悪の場合とっ捕まえられて保健所行きである。

それを特例として水泳部が全面的に面倒をみる事で存在を許されているというのがあのプーという猫だ。恐らく特例を設ける以上、広大に詳しく知る由は無いが最低限ルールが敷かれているはず。

排せつ物の処理や近隣住居への進入禁止、寄生虫の排除などがあるだろう。

プーが長年水泳部の重鎮として存在していた以上、プーはそのルールを最低限守れる程度の行動範囲を順守していたはず。だがそこに居ないと言う事は・・。

 

「・・・」

 

悪いイメージが浮かぶ。

 

―・・とりあえず戻ろう。戻ってきているかもしれないし、・・七咲もあれだし。

 

七咲にはとりあえず一度教室に戻ってもらった方がいいだろうか。まだ授業に遅れた言い訳は効くぐらいの時間。倉庫裏では十分前と位置も様子も変わらず、ただ不安そうに座り込んでいる七咲がいた。広大に気付き七咲はすぐに立ち上がる。

 

「先輩・・」

 

「いない・・。その様子だと戻ってきても無いみたいだけど」

 

「そんな・・私のせいだ・・。皆に何て言ったら・・」

 

「それは無いだろ」

 

「でも!私が最後に世話をしてその後居なくなっちゃったんですよ!?」

 

「七咲は後ろめたいことでもしたの?違うだろ?いつも通りちゃんと世話をしたはずだ。っていうか七咲がそういうことも手を抜かない子だってことはみんな知ってるんじゃないの?」

 

猫が人間の行動をきっかけにしてどういう行動を起こすかを知る指標など無い。

猫にとっては合点がいく事でも人間にとってはいかない事もあるはずだ。勿論その逆もあるだろう。でもそれでもこの目の前の少女の何らかの過失がこの事態を招いたとは広大には到底思えない。自分とは異なり、確実にプーは七咲には懐いていたからだ。

 

「そう考えるなら俺がその原因って考えた方が自然なくらいじゃない?何せ俺は懐かれてないうえに結構しつこくここに来てるんだからさ?とうとう嫌気がさして・・っていう考えの方がまだ説得力があると思うんだけど」

 

「そんなことは・・」

 

「無い・・とも言い切れないだろ?要するに結論なんて出ないんだよ。だから今は探すか帰ってくるまで待つかしかない。ほらしっかり!七咲」

 

「先輩・・あ・・」

 

「ん・・あ・・」

 

―マジか。

 

天気予報を覆す雨が降る。七咲はおろか広大自身も払拭しきれない不安を煽る雨が降る。雨脚はそこまで強くないがさすがにこの中でプーを探すのには無理がある。

二人は部室裏・・彼らが出会った階段横の屋根で雨宿りをしながら座りこむ。

風が幾分収まったのが救いか雨は入ってこない。

 

「やっべぇ俺傘持ってきてないや」

 

「・・」

 

七咲は答えない。

負う必要もない、少なくとも広大はそう感じている責任を彼女は背負いこもうとしていた。この雨によってプーが慌ててこの住処に戻る可能性も無かったわけではないのだが十分程の時間が過ぎ、未だその気配は無い。

かける言葉は見つからない。こんな時塚原なら何と声をかけるだろうか。

しかし今の七咲にとって彼女に会う事もまた気が重くなる一因なのだ。最初に相談してきたのが広大であるのがいい証拠である。責任を感じている七咲にとって、プーを長年可愛がってきた塚原をはじめとするプーの関係者にどう説明すればいいのか解らないのだろう。

恐らく責められる可能性はゼロに近い。七咲をよく知る人間ならば意見的には広大とほぼ変わらないだろう。だがどちらにしても彼女たちがプーを心配し、同時に七咲に何らかの気を遣うのが目に見えている。それが七咲にとって何よりも我慢ならないのだろう。自分を責めない事が解っている人達の慰めが何よりも辛くなる。申し訳なくなる。

七咲はそういう子だ。

 

―はぁ・・どうにか・・どうにかならないか・・。

 

「先輩」

 

七咲が唐突に口を開く。

「いきなり呼びだして本当にすいませんでした。あとは私が一人で探します。結局は私達の事ですし・・先輩には何の責任もありません。それなのに・・ここまで付き合ってくれて本当に感謝してます」

 

「・・・」

 

「もともと先輩にこんなこと強いる事がおかしいんです。私どうかしてました。それなのに・・」

 

「・・七咲」

 

「先輩は・・」

 

「少し黙って」

 

「はい?」

 

「・・・」

 

「先輩・・?」

 

「しっ!」

 

「・・・!・・・」

 

後代の有無を言わせぬ反応に七咲は少しビクッとしたのち、少ししゅんと肩を落とした。

 

―そうですよね。そりゃ怒ってますよね。

 

肩と共に目線も落とす。

 

「・・いた」

 

「・・え?」

 

七咲の声に反応せず、広大は歩きだした。

 

「先輩!?」

 

「七咲はそこにいて。来ちゃダメだよ?」

 

「????」

 

 

聞こえた。確かに聞こえた。いや・・今も聞こえる。断続的で心臓の音のような音色が聞こえる。

 

 

リン、リン、リン・・

 

 

近い。広大は息切れした自分の心臓の音がうるさくていらついた。自然の営みの雨の音も風の音も今はただただ踈ましかった。

 

「・・・!?・・・!!!・・?」

 

―いた・・!!

 

というより音の出所を見つけた。あの茂み。更に近付くと確かに聞こえる。断続的に響く「あの音」が。

 

―雨宿りでもしてんのか?プー?さぁ・・帰ろう。今日は引っ掻こうが、噛もうが連れてくからな。

 

広大は覗きこんだ。雨水を含んだ土の匂いと草の香りがつんと鼻を突く。五感の中で耳のみを研ぎ澄ましていた状態から解放された他の五感が徐々に追随していく。今度は目の番だ。

 

「・・・」

 

その光景を見た広大の目はすぐさま機能を停止させ、変わりに口の中で汗と泥にまみれた雨水が妙な苦みと酸味を残してすぐに消えた。

 

 

三分後・・

 

 

「・・・」

 

手ぶらの広大が七咲のもとに戻っていく。表情が無い。

 

「先輩・・!?・・ちょっと!待ってて下さい!」

 

七咲は一目散に駈け出し、姿を消したと思うと一分もかからず其の場所に戻ってきた。

手には白いタオルを・・いや違う。戦隊モノのキャラクターグッズだろうか?それを広大が手で受け取る前に七咲は少し背伸びしつつ広大の頭にかける。ふわりとした感触と洗剤の香りが顔に充満する。他人の家の匂いだ。

 

「ぶ。ありがと。・・あ。俺これ見てた」

 

「あ、はは。すいません。弟の物なんです」

 

「そっか。でも・・これどうしたの?」

 

「部室の更衣室に置いてあった物です。部活用ですね」

 

「・・空いてるの?」

 

「くすっ。以前顧問の先生が部室の鍵を家に忘れて部活の開始が遅れた事があるんです。それから合鍵を作って部室の扉の横の割れ目にこっそり隠して緊急の際、部員だけで開けられるようにしたんですよ」

 

「へぇ・・って・・俺に言っていいの?」

 

「あ。内緒ですよ」

 

「・・いや。俺は?」

 

「塚原先輩に言いつけますよ」

 

「・・・」

 

「冗談です。・・・――」

 

「・・?」

 

お茶を濁したような七咲の後の言葉は広大には聞こえなかった。

 

し ん じ て ま す よ

 

音のないその声は七咲の口がそう象っただけで誰にも伝わる事は無い。

 

・・一度落ち着くと広大が少し肩を落とす。表情がさっき濡れていた時の広大に戻る。頭にかけたバスタオルから覗く瞳は冷ややかだった。

 

「先輩・・?」

 

「・・・」

 

「・・・プーは?」

 

「・・・・・。ゴメン」

 

「・・」

 

―それはどういう意味での「ゴメン」なのですか?

 

そう聞き返したかった七咲の言葉は出る事は無かった。

しかし二人の中でその言葉は実際には顕実化しなくても最早存在した言葉であるかのように会話は進んだ。

 

「プーは・・」

 

「プーは?」

 

「・・いなかった」

 

「・・そうですか」

 

「・・在ったのはコレだけ・・」

 

広大はそう言って掲げたまだ濡れたままの右手の握り拳を頑なに開けようとしなかった。しかし、七咲の視線によってまるで太陽に向かって蕾が花開くように閉じた手は開いていく。

 

しかしそこに現れたのはまた・・蕾。銀色の・・決して開く事は無い蕾。

 

 

―チリン・・

 

広大の掌でやや濡れたプーの鈴はいつもと同じ音を響かせた。

 

先程茂みの奥でまるで心臓の鼓動の様な周期で響いていたそれを広大は回収したのである。

 

 

・・何故かはわからない。だがそれを見た瞬間に七咲は悟った。

広大がつい五分ほど前にそれを眼にした際の心境に七咲も踏み入った。

 

 

―ああ。

 

 

―もう。

 

 

―プーには会えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―ねぇ七咲?君が最後に会った時プーはどんな顔をしてたの?

 

―どんな顔をしてたって言われても・・いつもと変わらずに・・ただじっと私を見てました。遠目からじっと・・。

 

―・・・!そっか。同じだ。

 

―・・同じ?

 

―うん。俺も猫を飼ってたんだけどね。俺よりも三歳年上の雄の黒猫。名前はそのまんまでクロ。

 

―そうなんですか。

 

―俺が八歳の時居なくなっちゃったんだ。死んだとかじゃなくて居なくなっちゃった。

 

―・・それ・・。

 

―で、そのクロの最後の姿を見たのが俺だったわけ。屋根の上から見下ろすようにじっとこっちを見てた。で、ぷいっと素っ気なく目を切った。それが最後。

 

―偶然・・?

 

―どうなんだろうな。でも猫は自分の「最期」の姿を自分の飼い主に見せてくれないってよくいうけど単なる迷信じゃないと思う。おかげでウチの母親は未だに受け入れられなくて「いずれクロは帰ってくる」って言って未だに猫が飼えない状態だよ。

 

―・・。・・プーは私を「飼い主」として認めてくれていたんでしょうか。

 

―それも解らない。けどプーは残してくれた。この鈴。多分七咲に、響姉に。そして水泳部の皆にね。だからそれ受け取ってくれる?

 

―・・でも見つけたのは先輩ですよ?

 

―世話もせずに無責任に可愛がろうとした人間は「飼い主」とは言わないの。

 

―へぇ・・。

 

―・・ゴメン。これ響姉の受け売り。

 

―そんな感じはしました。

 

―きっと皆も響姉も納得してくれるだろ。

 

チリン・・

 

―はい。

 

 

 

 

猫が飼い主に自分の最期の姿を見せないと言うのは決してただの迷信とも言い切れない。

科学的根拠に基づいた説もある。

ネコ科の動物は何らかの怪我、もしくは病気になった際、誰にも邪魔されない静かな場所でゆっくりと体力の回復を図るという習性がある。

しかし、全ての猫が回復するわけではない。当然その間餌も調達できないのだからそのまま動けなくなり、ひっそりと死んでしまう場合だってある。

結果人間には猫の死がはっきりと自覚できず、忽然と居なくなってしまったように感じるのだ。それを勝手にセンチなヒューマニズムに置き換えて人間のいいように解釈しているだけなのかもしれない。

 

だがそれでも人間はそう思いたいのだ。

自分が愛し、また愛してくれた彼らが自分の死によって悲しませたくないがための行為だと。

もしくは広大の母親のように何処かで生きていると信じたいというのもあるだろう。

今は

 

サヨナラ

 

また

 

イツカ

 

と。

 

 

 

 

 

 

―じゃ俺行くわ。・・一人でも大丈夫?七咲。

 

―・・大丈夫です。これでも先輩よりもしっかりしてるつもりですから。

 

―違いねぇ。その調子。でわ。

 

―先輩?

 

―ん?

 

唐突な話の変化だった。あまりにも不自然すぎる会話の変容。

 

―私・・応援しますよ。

 

―・・・?何を?

 

 

 

 

―先輩と・・塚原先輩とのこと。まぁ私が何かできるってワケでもなさそうですけど―

 

・・応援しますよ。

 

 

 

そう言って少女は黒く短い髪を軽く掻き分ける。広大から受け取ったプーの鈴を握りながら。

 

 

 

チリン・・

 

 

 

その音は何故か呼応するみたいに七咲の体の奥底に在る「何か」をチクリと引っ掻く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートK 

三幕 はじめに
棚町薫編
主人公
国枝 直衛
176
A型
家族構成
両親 妹
一応主人公ズの中では一番背が高い。が、ずば抜けて高いわけではない。体格はやや細身。登場キャラの中では絢辻に次ぐぐらい成績がいい。上の下~中ぐらい。髪は長めのイメージだがロングまでは行かない。低血圧で寝起きが死ぬほど悪く、基本朝のホームルームは死んでいる。
頭の回転もそこそこ速く、陰でクラスを支える縁の下の力持ち。表だって引っ張ると同時に時に暴走も起こすヒロイン棚町薫をやんわりといなしつつ、振り回されつつ手助けする相棒。
源 有人とはとても仲が良く、幼少からの親友。
他者を助けたり、補助したりする事には持ち前の器用さを発し、要領もいい。が、いざ「自分の事」となると萎縮し、いざという時に結果を出せないと言う最大の欠点がある。
本番に強い実践派のヒロイン棚町薫とは真逆にあたる。この性格が災いし、高校受験の際私立の第一志望校に落ち、ランクを下げて吉備東高に入学した経緯がある。
さらにそんな性格が災いし、中学時代に手痛い失恋を経験しているため基本的にそっち方面は奥手である。女性に対し紳士的であるが一定の距離を置く。感覚が男友達に近い棚町薫を除いて。
独特の飄々とした、しかし意外にしたたかな一面を持つキャラをイメージしています

口癖が「ぐう・・。」というのは流石にヒーローとしてどうなのか。




 

1 相棒

 

「くあ・・」

 

国枝直衛の一日は早い。

と、言うのも朝起きた時点でどん底状態の彼の血圧をあげるのにかなりの時間を要するからだ。国枝一家総出で起こし、絶妙な連携でまずはリビングに連れて行き、コーヒーかカフェオレ、ココアなどで血糖値を上昇させ、意識を覚醒させる。

そうでもしないと朝のトイレ内でもし彼が気を失ったりすると彼の家族全員が盛大なとばっちりを食うからだ。

 

このような家族の愛に支えられ、国枝の遅刻は低血圧という最大の重荷を背負っているにも拘らずとても少ない。それどころかクラス委員長絢辻を抜いて2-A教室一番乗りもざらにある。が、その代償は大きい。

教室に付いた途端、HRまでの十分から二十分程の彼の時間は完全に睡眠に割り当てられる。こうでもしないと授業どころではないのだ。さらに寝起きが悪いと普段の彼では考えられない程のかなりの悪態、暴言を吐く。

 

「煩い!死ね!」

 

これでも彼の寝起き暴言ランクの中では下から数えた方が早い。

 

「ぐう・・」

 

そして今日も直衛は日課を遂行中。

 

「おっはよぅー・・んーまた寝てんのね」

 

「ぐう・・」

 

「相っ変わらず良く寝るわね・・。だからデカくなんのかしら?」

 

「ぐう・・」

 

「なんか・・ムカついてきた・・。っていうより弄りたくなってきた・・」

 

「かぁ・・」

 

「・・・。よっし。おーーい!おっはよう!」

 

「すぅ・・」

 

「おーい?起きてる?あっさですよ~~」

 

「ぐう・・」

 

「もっしもーしっ?」

 

「・・・。」

 

「なーおーえー?」

 

「・・」

 

「・・・ふふふ?直ちゃん?起きる時間よ?」

 

「すぅ・・」

 

「・・ちょっと恥ずかしかったのに。乙女に恥かかしやがって・・」

 

「すん・・」

 

「こいつ・・寝ながら鼻で笑ったわね・・?」

 

「ぐぅ・・」

 

「・・・」

 

・・・カぷ・・・。

 

―・・・・!!!!????

 

「ぬぁっ!!??」

 

「んあっ?おひは?(あ?起きた?)」

 

「!!!おい・・薫。君は・・何を・・やっているのかな~??」

 

「いへわはんはい?(見て解んない?)」

 

「解らない」

 

「ひひはんへんほ。(耳噛んでんの。)」

 

「・・意味が解らない」

 

「いひはんへはひはほ~♪(意味なんて無いわよ~♪)」

 

一分後―

 

「・・・」

 

「おはろー♪」

 

「はい。おはよう。そしておやすみ」

 

事務的に済まし、直衛は再び机にダイブした。

 

「ほぉお?いい度胸ね・・」

 

少女―棚町 薫の闘争心に火が付いた。パキパキと腕が鳴る音がしたさらにその二分後―

 

「目ぇ覚めた?」

 

「・・あっちいけ。ウェイトレスの癖に変な髪形しやがって。うっかり皿の中に落として『おい!ここの店は客に陰毛だすのか!』とでも言われろ」

 

・・この通りこの少年寝起き最悪である。

 

「あんた案外鬼よね・・。私も鬼になろうかしら」

 

さらに二分後。

 

「で?何?薫の用件は」

 

「おう♪目ざとくて助かるわ。今日の英語の和訳見・せ・て?今日アタシに回ってくんのよ」

 

いつもは遅刻上等な彼女が随分早く登校しているわけはコレである。

直衛の後ろの席の他の学生の席に薫はなんの躊躇いも無く座り、和訳されたノートだけでなく、筆記用具まで全て直衛に借りて和訳を写し始めた。

 

「・・自分の席でやれ」

 

頬杖をつきながら直衛はトロンと下がった瞼で精一杯薫を睨んでそう言ったが彼女はお構いなく続けている。

 

「冷ったいわねぇ。憂鬱な朝に潤いを与えてくれる女の子に向かって」

 

「・・・ぐぅ・・」

 

頬杖をついたままふたたび直衛はお休みの扉の向こうへ。

 

「器用ねぇ・・。」

 

うつらうつらと直衛の顔が上下し、前髪が男性にしては長めの睫毛にかかる。

 

「・・・。ふふ」

 

更に二分後

 

「・・・はっ!?」

 

うつらうつらと上下していた顔の重さに耐えきれず直衛はバランスを崩して再び目を開ける。

 

「ぐっもーにん。」

 

「あ。薫。おはよう。ん?お前何で俺のノート取ってんだよ!」

 

「・・話が通じないわね。いつもながら寝起きのアンタはなんか多重人格の人間と話しているみたいだわ。『とぅるるるるる』ってか?」

 

十分後

「よっし!まる写し完了!てんきゅね」

 

「くあ。おはよう・・」

 

「ようやくホントに目が覚めたみたいね。今度こそおはよ!直衛♪」

 

本来の覚醒を果たした直衛が今だしぱしぱした眼をしながらも漸く本来の彼の口調に戻る。

 

「あー・・すっきりした」

 

「相変わらず予備校で遅いの?」

 

「うん、まぁ」

 

「そ。全く高二で予備校通うなんてつまんない奴ね。たまにはサボりなさいよ」

 

「薫もちゃんと考えた方がいいぞ」

 

「大丈夫よ。ホラ。あたしって実践派だし?本番に弱いアンタとは違うの。それに今はバイトが楽しくて仕方無いからね」

 

「ん・・そっか」

 

「直衛もバイト、やってみたら?で、ちょっとお金溜まったら遊びに行こうよ」

 

「流石にアルバイトまでは無理かな・・。ただ遊びに行くのは賛成。有人やウメハラ誘ってまた行くか。久しぶりにビリヤードでもしたいし」

 

「うん!久しぶりね。高校入ってから結構御無沙汰だからなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―俺とコイツの付き合いはそれなりに長い。

 

初めて出会ったのが中学二年の頃。何ともショッキングな出会いだった事は確かだ。

二年の一学期早々クラスの喧嘩の仲裁に入った俺がとばっちりを受けてあろうことかグーで殴られた。しかも女の子に。その女の子とは言うまでも無くコイツである。

女の子にグーでぶたれ、あろうことか保健室送りにされるとは男としての自我が目覚める年ごろにはつらい事件だった。

 

おまけにそれを引き起こした張本人―つまるところ終始薫が笑っていたのもいたいけな少年の心をさんざ抉ってくれたものだ。

ただそれ以来気にいられたのか、それとも自分に恥をかかせた相手に俺が一矢を報いたかったのか・・それなりに仲良くなってしまったまま現在に至る。

まぁ他にも紆余曲折はあったのだが奇妙な事に付かず離れず、今もこうやって駄弁る事の出来る仲ではある。一緒に居ると楽だ。・・基本的には。

 

 

直衛のその感覚は女友達と言うよりも男友達の感覚に近い。

彼女自身が控え目な女性像などふっとばす強烈なキャラクターだからだ。世話焼き、お節介、そして愉快犯、トラブルはサメのような嗅覚でかぎ分け突っ込んでいく。

 

吉備東校の核弾頭と呼ばれる所以である。

 

そしてやる行動が「・・お前それどうなの?」というすれすれを通過していく。

反面困っている人をほっとけないという一面もある。問題を先送りにすることも結構に嫌う良く言えば行動力のある好かれる人間である。それ故男女問わず友人は多い。

ただどうも近くに居ると生傷が絶えない。薫自身ではない。それを仲介、補佐する直衛自身がだ。

友達までなら許せる人間は多かろうが、親友、そして直衛と薫のいわば「悪友」関係となると本当に苦労する。

 

「こいつホンマどついたろか」

 

と、直衛がなる事も多いがそうなるとそこは女の子だ。流石に手をあげる訳にもいかないし、情けない話だが下手をすれば返り討ちにあう危険性すら持つ武闘派の少女である。

 

―コイツが男だったらな・・。

 

ふと直衛はそう思う事がある。

 

一緒にバカやれる間柄としてはお互いにちょっと時が経った。

彼女も行動や性格こそ男勝りだが見た目は結構に女の子。さすがに危なっかしさを感じるのである。ただでさえ彼女が起こすトラブルをフォローするのに四苦八苦するのに、年々積み重なる不可避のツケにハラハラさせられる。

 

「・・・・。なぁ薫」

 

「ん?何?」

 

「モロッコに行くのってさ、幾らすると思う?」

 

「・・もろっこ?聞いた事はあるような気がするけどモロッコって・・そもそも何処にあんのそれ?」

 

「アフリカ」

 

「へぇ、そ、そうなんだ?さぁ・・考えた事無いからわかんないけど。結構するんじゃない?イメージだけど」

 

「でさぁ・・性転換手術って幾らすると思う?」

 

「え。は、はい?さっきからアンタ何の話してんの?」

 

「お前の貯金で賄えるかな」

 

「ちょっ!私の貯金アテにしてんの!?さ、さぁどうだか。な、直衛?ひょっとしてアンタ・・実はこっち・・なの?」

 

薫は他聞をはばかり、こそこそと内緒話の際の口に添える右手 → 俗に言う「オネェ」を表すジェスチャーにコンビネーションする。

 

「いや俺じゃないんだけどね」

 

薫は思わずほっという溜息がこぼれる。

 

―いきなり何言いだすのよコイツ。本気で焦った・・。

 

「びっくりさせないでよ・・。でもまさか・・・アンタの知り合いに手術したいって人でもいる、の?」

 

「まぁ・・」

 

「・・。ちょーーっとぐらいなら私にも役に立てるかもしれないわよ?・・思いとどまらせるとか、せめて話を聞くぐらいは・・」

 

何だかんだでデリケートな相談には乗ってくれる優しい少女―棚町 薫。

 

「そいつ女の子なんだけどね」

 

「え。成程。想像の斜め上だわ。私の知ってる子?」

 

「うん」

 

「マジ?名前聞いていいの?」

 

「別にいいよ。薫と無関係ではないし」

 

「え?私が知ってる子?」

 

「うん」

 

「・・誰?」

 

「お前」

 

「え?」

 

「だからお前」

 

秋の暮に近いやや肌寒い朝の教室の時間が凍りついた。

 

「・・んーーー直衛?」

 

満面の笑みで薫は微笑み―

 

「ん?」

 

「まだ寝てるの?もぅ・・ワタシが起こしてあげるね❤

 

さもなきゃ・・

 

一生寝てろ!!!!」

 

っパァン!

 

聞いている人間が手の平に痛みを覚えそうな炸裂音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そ、そりゃあ直・・君が悪いよ」

 

ゲームセンターの対戦通信台で黙々とレバーを操る直衛に源はそう言った。

その右頬にはくっきりと赤い紅葉が描かれている。「あれ」から半日以上経っているが未だに腫れが引かないのだ。

 

「うーん。秋の風物詩だねぇ。まさかゲーセンでみられるとは」

 

梅原は楽しそうに独特の江戸前口調でそう言いながら直衛の右頬の紅葉をつんつんつつく。

はっきり言って操作を誤るぐらい痛い。

 

「いだっ!!あ。あ、あ、あ、あ、あ、あ~~!・・死んだ」

 

「?国枝君らしくないミスだね?」

 

対戦台の向こう側で国枝と対戦していた少年がひょっこりまだ幼い顔を出す。

御崎だった。国枝の操作ミスにつけ込んで浮かせ始動の残り体力をキッチリ掻っ攫う美しくも容赦ない空中コンボであった。

 

「すまん。大将・・」

 

 

対戦が一段落し、源、梅原、御崎と直衛の四人はファストフード店に入り浸って駄弁りを開始する。

 

「そりゃあ国枝君が悪いよ」

 

事の詳細をくわしく聞いた御崎もまたそう断言した。

 

「有人からもう聞いたからそれぐらいで勘弁してくれ。御崎」

 

「まーな・・女の子相手に『性転換手術しろ』って・・冗談にしてもデリカシーが無さ過ぎるってもんよ。」

 

「え・・梅原君が言うの・・それ」

 

「ははっ。でもよくその程度で済んだよね?棚町さんが本気で怒ったらデンプシー位はくると思ってたけどビンタだけだし。直には遠慮しないっていうイメージがあったんだけどな」

 

「有人甘い」

 

「え?」

 

そう言って直衛は上半身のシャツをめくった。

 

「・・!」

 

「こ、これは・・!大将・・!」

 

「・・『顔をあんまり殴ると先公が煩い。だからボディにしといてあげる』だそうだ」

 

「何その典型的ないじめっ子的な発言・・」

 

「国枝君が昼食を残していたのはそのせいか・・」

 

「ああ・・内臓をやられてしまってな・・」

 

 

 

 

 

 

 

「でも・・棚町さんは乱暴だけどいじめは絶対しないよね。女の子は結構そういう所男より影でドロドロしてるけど棚町さんにはそれを感じないっていうか」

 

「そうだな。棚町は昔からコソコソした事が大っ嫌いだったからな」

 

「おい・・ちょっと待て。俺の体に刻まれたこの陰湿な暴行の痕はいじめとは呼ばないのか?虐待レベルだぞ」

 

「んーそれはちょっと違うんじゃないかなー?国枝君」

 

「ま。痴話げんか、夫婦喧嘩の類じゃねーの?」

 

「今回に限っては直が全面的に悪いよ」

 

満場一致でボロクソである。

 

―いや・・解ってんだけど俺に味方はいないのか。

 

 

「ん・・・」

 

帰り間際、いつもより妙に厚みの無い学生鞄に違和感を覚え、直衛は中を覗く。

 

「あ」

 

「どした?直?」

 

「・・俺弁当箱教室に忘れてるわ」

 

「まじかよ。しまらねぇなぁ」

 

「本当?取りに行く?」

 

「うーん・・いいや。俺一人で行ってくる。三人は先帰って」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・あれ?」

 

一人学校の2-A教室に戻り、直衛は自分の席の中を調べたが完全に空だった。

 

「あれ?やばい・・何処置いたっけ?」

 

何せ今日の弁当は今朝の諸事情の結果、中身がそれなりに残っている。昨今気温が下がってきたとはいえ流石に日を跨げば何らかの突然変異を起こす可能性も捨てきれない。

 

 

 

「お探しはこれかしら~?」

 

カラカラという音の方を向くと一人の癖毛の少女が右手で直衛の空の弁当の包みをつまんで軽く振っていた。

 

「薫」

 

「にひ♪」

 

 

 

 

「何でお前が俺の弁当持ってんの?」

 

「あら御挨拶ねぇ。アンタが残っているかどうか机漁ってたらこれがあって、しょうがないから家にでも渡しに行ったげようとすら思ってたのに。はい!」

 

「あぁ。ゴメン。有難う薫」

 

そう言ってあっさりと弁当箱は返してくれたが妙に素直だと思った。・・裏があるコレは。

 

「俺探してたっつってたけど・・何か用?」

 

「ちょっとね。ま、いいや今日暇でしょ。付き合いなさいよ」

 

「・・ひょっとしてまだ怒ってる?」

 

「は?なんのこと?」

 

直衛は何も言わず今だ赤い自分の右頬を指差した。

 

「ん?ああ!まだ殴られ足りない?あいかわらず直衛ってMなのね~。・・別に気にして無いよ。それより早く。待たせてるんだから」

 

「『待たせてる』?誰を?」

 

「つべこべ言わないで付いてくるの!」

 

「引っ張んなって。行くから」

 

 

直衛は第一校舎と第二校舎を挟んだ裏庭に拉致された。この場所は植木などが多く、俗に言う死角が多い。それ故ここを訪れる生徒たちの用途は幅広い。

密談、密会、告白、相談、詰問そしていじめなど良くも悪くも生徒の使用率が高い曰くつきの場所である。

 

「薫。・・優しくしてね」

 

小刻みに震えながら直衛はそう言った。せめて五体満足で帰してくれと。

 

「だからそんなんじゃ無いっつってんでしょうが!案外しつこいわねあんたも」

 

「全く説明なしに拉致られたらこうなりますって~」

 

「チキンねぇ・・ほらいたわよ。おーい!」

 

女子生徒達がよく昼食の際、座っているベンチに心もとなく鎮座した少女を薫は指差し、手を振ると向こうもこちらに気付き手を振った。薫に比べるとかなり控えめな動作だ。

 

「・・田中さん?」

 

「おまたせ。けーこ。全くこのボンクラがチンタラしてるから!おいボンタラ!恵子に謝りなさい!」

 

「・・略すな。ごめん田中さん。詳しい事薫が教えてくれなくて。待たせたかな?」

 

「いいよ。そんなに待ってないから」

 

栗毛で肩までの髪を少し手で整えながら少女―田中 恵子は不器用そうに笑った。

 

「お互い大変だね」

 

「もう慣れちゃった。へへへ」

 

「そこでイチャイチャしない!恵子本題入りなさい!」

 

「うん・・ねぇ国枝君。早速なんだけど・・田村君・・ってどう思う?」

 

「え・・田村ってウチのクラスの?」

 

「うん。田村 孝之君」

 

「どうって・・正直あんまり話した事無い。別に俺からしたら普通だとは思うけど。そいつがどうかした?」

 

「私ね。・・彼に告白したの」

 

「え・・あ~そう言う話?」

 

「ゴメンね。ヘンな話で。いきなり混乱しちゃうよね」

 

「いえいえ。もともとちゃんと詳細言わないコイツが悪い」

 

「むっ!」

 

「それで・・?」

 

「私ね『返事は少し待ってくれ。』って言われたの。で、しばらく待ってたんだけど・・」

 

「ふん。返事が無いって所?」

 

「そ。それも一カ月」

 

不機嫌そうに薫が口をはさんだ。サラっと言われた割には中々重大な事実である。

 

「・・!一カ月!?」

 

よくもまぁ同じクラスに居ながらそれ程デリケートな話題を先延ばしに出来たものである。

 

「うん・・」

 

「恵子・・普通そんなに待たないって・・そんなことしてたらあっという間にバアサンよ?」

 

「あはは・・」

 

「あははじゃ無いって・・。で、直衛・・話はこっからなのよ」

 

「ほお」

 

「さすがに私も待ちきれなくなってもう一度直接会って返事を聞きに行ったんだ」

 

「・・・(健気だね)」

 

―告白したら一旦保留されるわ、返事をもらえないまま待ちぼうけにされるわ、挙句返事が無いので恥を承知でもう一度話を聞きに行く・・か。女の子に何させてんだか。田村の奴。

 

「で・・そいつ恵子に何て言ったと思う?」

 

「え・・もしかして『もうちょっと待ってくれ』とか?」

 

「甘い。『キスさせろ』だってさ。いきなり、それだけ」

 

「え」

 

―・・・!?

 

「バカにするのもいい加減にしろっての!ろくに返事もしないでぬぁにが『キス』よ!」

 

「う・・う~む。で、その後は・・?」

 

若干聞くのが怖い質問だ。「やらせたの?」って聞いているようなもんである。

 

「さすがに断りました。なんか・・違う意味で少し怖かったし」

 

「で、今に至るワケ。どうしたらいいと思う?」

 

「成程。話はだいたい解った」

 

「ごめんね・・国枝君。いきなり呼びだしてこれじゃ・・」

 

「気にしないでいいって。素人的に聞いても非があるのはどうやら男(こちら)側みたいだし」

 

「国枝君・・」

 

「そういう訳で男子代表。手っ取り早く意見を述べなさい」

 

「明らかにハズレくじだよ。切ったらいいんじゃないこの際?」と、いうのが直衛の本音だが田中がどれくらい田村のことを想ってきたかが詳細に解らないだけに下手な事も言えない。とにかく田村の気持ちをハッキリさせることが大事だ。

 

―田中さんもそれでどっちに転がろうと納得できるはず。・・そんな単純な事でも無いかもしれないけど・・。こうするしかないわな~。

 

「ま。私に言わせれば恵子が泣かされる羽目になるってとこなんだけど。この際そんな奴こちらから願い下げにしてやれば?」

 

「・・・」

 

―成程、俺は薫と同程度の思考レヴェルだった訳だ。

 

膝をつきたい気分になった。

 

 

「・・。ま。とりあえず田村の言い分が全く解らんだけにもう一度話を聞く必要がありそうだね。この様子だとあっちから返事が来るっていうのは期待できそうにないし」

 

「やっぱりそうよね」

 

「・・」

 

「けど直接田中さんが行くのは・・また『キスさせろ』じゃ話にならん」

 

「じゃあ恵子の変わりにアンタが聞きに行くってのはどう?」

 

「ダメだな。いきなり俺が言っても」

 

―『男呼んだのかよ面倒くせぇ女』とか言い出しそうだからな。

 

「仕方ない。じゃ、私が行こうかしらね。ふふふ」

 

「お前は謹慎してろ。頼むから」

 

「なにおう!?」

 

「じゃ、じゃあどうすればいいかな・・?」

 

「電話か・・手紙かな。田中さん。田村の家に電話した事は?」

 

「ううん。無いよ」

 

―成程。あっちにとっちゃ結構意外で唐突な告白だった可能性が高いな。田中さんガンガン行く方には見えないし。

 

「それだと手紙かな・・。いきなり電話じゃキツそうだね。留守で捕まらない可能性もあるし。それに手紙ならじっくり内容を考えて見直しも出来るから失言して誤解させる可能性もある程度防げるし」

 

「う、うん・・なるほど」

 

「それに田中さんアガリ症だからね。面と向かうより手紙だったらもう少し冷静になってちゃんと言いたい事も伝えられるかも」

 

「あ。はははは・・」

 

「ふむ。一理あるわね。どう恵子?やってみる?」

 

「うん!早速やってみようかな。日記とか時々書くから話すより楽かも」

 

「田中さん字綺麗だしね」

 

「あ、ありがとう。きょ、今日は二人ともいろいろ有難うね。相談に乗ってくれて・・」

 

「どういたしまして」

 

「じゃあ私はこれで。本当に有難う」

 

「恵子!なんかあったら遠慮なく言いなさいよ!いつでも聞くから」

 

「ふふふ。頼りにしてるよ!薫!」

 

初めここに来た時より明るい表情になって去っていった彼女に残された二人は安堵した。

 

「ふう。可愛い子なのに。何で男って奴ぁ・・」

 

「すいませんね」

 

―男(ウチ)の子が。

 

「全くよ」

 

「ま。今日はてんきゅね。思ったよりちゃんと相談に乗ってくれて助かったわ」

 

「役に立てるかはかなり微妙だけどな。所詮素人の意見だし」

 

「・・素人の意見か」

 

「?」

 

「さて・・アタシもバイトだ。そろそろ帰んないと。じゃあね直衛」

 

「おう。弁当箱ありがとな」

 

「直衛」

 

「ん?」

 

薫は何も言わず右の握りこぶしを出した。

 

「・・・」

 

直衛も何も言わず左手の握りこぶしを薫の拳にコツンとぶつけた。

 

 

 

 

 

 

 

それより数日が経過した。

 

田中の田村への手紙作りは当初思ったより難航したらしい。田中に色々聞いてみると

 

「やっぱり色々と考えて書くとなると恥ずかしくて・・書いては消しての繰り返しなの」

 

とのこと。

彼女らしい真面目さだ。その間にも何らかの返答が田村から来るのではないかとひそかに期待もしたが相変わらずその気配は無い。

クラスメイトとして傍から見ればいつもと変わらない態度に直衛には見えた。

でも案外傍目には普通に振舞いながらも真剣に考えるあまり結論を先延ばしにしてるんじゃないかと好意的に考えたくもなる。そうじゃないと一生懸命な田中が、そしてそんな親友の事を思って暴走しながらも奔走している薫が気の毒だ。

 

だがさらにその数日後、その思いは裏切られる事になる。

 

2-A教室

 

昼休み

 

「ぐう・・」

 

腹は埋まり、天気もいい。席はもう金輪際席替えをしなくていいとも思える窓際のベストポジション。これは寝ずにいられない。

向かいに座った友人の源は本を読みながら日光浴をしている。

一緒に居るからと言って気を置かず、お互いが好きな事をしていても苦痛じゃないのがこの二人の間柄である。幼稚園の年少の頃からの長い付き合いだ。

 

「ん・・?」

 

一定のペースで直衛に聞こえる友人の本のページをめくる心地よい紙の音が止まり、怪訝そうな声が聞こえた。

 

―ん・・?

 

 

ガァァンッ!

 

 

「あんたっっっ・・!!!ふざけてんじゃないわよっ!!!」

 

口火を切ったその声の後罵倒し合う声が教室中に響く。

 

―・・・・!!!!・・・!?・・・・!!!

 

声だけではない。椅子や机が床にすれ合う耳障りな重い、耳に引きずるような不快な音も響く。いくら寝起きが悪いとはいえさすがにこれでは直衛は眠れない。

 

「・・・薫か」

 

―誰に向かってキレてるんだ?・・。げ。

 

机に足を乗りあげた薫に胸ぐらを掴まれ、気圧されている相手が一人、その取り巻きに一人。当の薫に胸倉をあろうことか掴まれているのが・・

 

―た、田村じゃん・・おいおい。田中さんは!?・・・。ほ。とりあえず居ないか。

 

ほんの少しの安堵も現状の惨状と比較すると何とも気が重い感情が直衛に覆いかぶさる。

 

―・・くそ。絢辻さんが居ない。

 

信頼と実績と要領のいいクラス委員長の彼女が居れば丸く収められるだろうに。

まぁ居ないものに縋っても仕方ない。直衛は重い腰を上げる。

 

「おいどうした。落ち着け薫」

 

「おぉ国枝!何とか言ってくれよ!棚町がいきなり突っかかってきて迷惑してんだけど?」

 

これお前の責任だろ?どうにかしろよとでも言わんばかりに田村はそう言った。

 

「・・だってさ。薫。まず離せ」

 

「うっさいわね!事情も知らずに口出ししてんじゃないわよ!」

 

「空気読め。離せっつってんの」

 

「・・・ふん!!」

 

薫は掴んだ田村の胸倉を引きちぎらんばかりに振りほどき、いきなり解放された反動に田村は後方によろける。その時その手からひらりと何かが落ちた。が、全く意に介していない様子だった。

そして当の薫は制止した直衛に目も合わさず、怒りを交えた歩調で教室を後にし、乱雑に戸を閉めた。近くに居た女子生徒が「ひっ」と萎縮するぐらいに。

 

「大丈夫か?」

 

直衛はとりあえずそう田村に聞いた。

 

「あぁ助かったよ。ちっ・・何だよあいついきなり」

 

「大丈夫かよタカ」

 

隣で唖然と見ているだけだった田村の連れである花野もようやく気を取り直して友人に語りかける。

 

「襟伸びてない?ったく・・」

 

「う~~ん・・大丈夫じゃね?」

 

「おーおーどうしたのよ。一体」

 

ウメハラもいつの間にか場に現れ、不穏な空気が抜けきらないこの場に相応しく無いテンションで一向に話しかける。

 

「聞いてくれよ~ウメハラ~棚町がさ~~」

 

田村は被害者としての態度は崩さない。

 

「・・これ落としたよ。田村の?」

 

源も騒ぎの中に入り、ついさっき田村の右腕からこぼれた綺麗に折りたたまれた紙を渡す。

 

「おぅ。サンキュ」

 

直衛は嫌な気分がした。その飾り気ない、でも適度に整えられた白い紙。田村という少年から連想されるイメージからは到底かけ離れた物体だ。その紙には裏面からでも解る綺麗な、整えられた文字が映し出されていた。

位置からして最後の文だろうか。

 

「ずっとお返事待っています。 田中 恵子」

 

―・・・。

 

その直衛の視線に気付いたのか田村はこう言った。

 

「あ。コレ?ちょっと面白いからコイツと一緒に見てたんだけどさ。そしたら棚町がさ・・いきなり血相変えて・・」

 

「あぁ成程。大体解った」

 

―・・マジか?こいつ?

 

「まぁ薫の事は怒んないでやってくれ。あいつもついカッとなったんだろうさ」

 

―例え自分の意に沿わなかろうと相手の気持ち汲んでそれなりの誠意ってもんを見せる必要があるだろうが・・。

 

「アイツにはきつく言っとくから」

 

―それをはっきり答えも示しもせず相手の行動だけ笑うだと?

 

「薫の事は許してやってくれ」

 

―・・・!!

 

 

 

「・・・俺の事は許さなくていいから」

 

 

 

「直!」

 

源がそう制止した瞬間だった。

直衛はさっきまで薫が身を乗り出していた田村の席を蹴り飛ばし、なるべく他の席に全く迷惑をかける事の無い位置へ縫うようにひっくり返した。田村の机の中の教材が散乱する。

 

「あぁ!??」

 

あまりの直衛の豹変に唖然としている田村たちを尻目に薫とは対称的にゆっくりと直衛は教室を後にした。

 

「な、なんだよアイツ!ちょっわけわかんねぇ・・・!!!」

 

混乱と羞恥、そしてちょっとした恐怖の中、田村は自分の席を直しながらそう言うのが精一杯だった。

 

「ほんとに解んねぇの?」

 

何時もは陽気な梅原の口調が完全に冷え切っていた。

 

「え?」

 

「いやはや・・厄介だねぇ」

 

やれやれと梅原は首を振り―

 

「そりゃあ田村、花野・・君達が悪いよ」

 

源が最後に言い切った。

 

 

 

 

屋上―

 

「やっぱここに居たか」

 

「アンタ・・何しに来たのよ。説教なら願い下げよ」

 

「・・・やっちゃった」

 

「は?」

 

「梅原と有人が居るからつい・・田村が徹底的に悪者になる方法を選んでしまった・・。穏便に済ましたかったのに・・」

 

「何の話???アンタ一体何したのよ?」

 

 

 

 

 

 

「ぷ・・あははははは!!やるじゃない!!直衛!」

 

自分が去った後、教室内で起こった事の顛末を聞いてさぞ痛快そうに薫は笑い、落ち込む直衛の背中をバンバンと叩いた。

 

「当分教室に帰りたくね」

 

「ふふっ。久しぶりにサボるか!」

 

「あーあ・・たまにはいいか」

 

「やりぃ!恵子も誘いますか」

 

「やめて・・会わす顔無いって俺」

 

「女々しい事言ってんじゃないわよ。はい。まずは座る!」

 

薫は屋上の地面に、どっかと座りこみ、足を広げて真っ直ぐ空を見上げながら隣に座った直衛にこう呟いた。

 

「お互いガキねぇ・・私達。あ~~上手く行かないもんね」

 

「・・そだな」

 

その後二人は一時間サボり、六時限目前に粛々と教室に戻った。

 

だが意外にもクラスの人間に二人に対して非難やよそよそしい態度はなく、

 

「普段滅多に怒らないあの国枝が怒ったんだからなんかワケがある」

 

「棚町さんは怒りやすいけど意味無く怒る子じゃ無い。何か理由ある」

 

と、いう感じには治まっていた。

自業自得だがその雰囲気の中で田村と花野は小さくなっていた。

思ったとおり梅原、源、そして後に彼らから事情を聞いたクラス委員長絢辻がフォローに動いてくれたらしい。そして教室に戻った二人を友人達が向かい入れてくれた。

 

「お帰り。直」

 

「大将お帰りぃ」

 

「・・・ただ今」

 

そしてそこにはもう一人

 

「お帰り、薫」

 

「・・・けーこ」

 

「ふふふ」

 

ふっきれたような陰りの無い笑顔を田中は戻ってきた薫に見せた。

 

 

 

 

放課後―

大所帯で久方振りのビリヤード大会が開かれた。

試合結果次第で対戦相手のプレイ代、ジュース代を負担するガチバトル。非常に熱い大会である。ルールはナインボール。

飛び入り参加の絢辻を含めた八人を二人四チームに分け、2vs2の仁義なき勝負が繰り広げられる。

くじ引きで選ばれた直衛のパートナーは田中だった。どうやらビリヤードは初めてらしく緊張している。対戦前少し時間があった。

 

「ゴメン・・あたし足引っ張っちゃうかもぉ・・」

 

「気にしないでいいって。・・俺らも久しぶりだから大差ないと思うよ。ハンデもあるし」

 

「そっか、そうだよね」

 

「・・」

 

「国枝君」

 

「ん?」

 

「私・・振られちゃったみたいなものだけど、これでよかった気がするんだ」

 

「・・」

 

「少なくとも今の私には薫が本当に私の事を考えて、私の事で本気で怒ってくれた事が何よりも嬉しいって思えたから。今の私には薫の方が・・親友の方が遥かに大事だって心から思えるから。だからこれでいいの」

 

「・・そう」

 

「あ。勿論国枝君にも感謝してる。源君から聞いた。二人共本気で怒ってくれてたって・・聞いただけだけど本当に本当に嬉しかったんだよ。ありがとう」

 

「勿体ないお言葉で。・・役に立つどころか田中さんに嫌な気分にさせちゃったし」

 

「そんなことない」

 

「・・・」

 

「そんなことないよ」

 

「ありがとう」

 

「・・。国枝君?」

 

「ん?」

 

「あのね、薫はね、凄く・・いい子だよ」

 

「え?あ、うん。知ってる」

 

「だよね。中学からの付き合いだっけ」

 

「まぁ・・腐れ縁って奴ですか」

 

「羨ましいな。国枝君と薫の関係って・・実は私の理想なの」

 

「・・低い理想だね」

 

「そうかな?うーんやっぱり本人同士だと解らない事なのかなぁ・・。言いたい事を言い合える。それも面と面を向かい合って。一見簡単な様でとっても難しい事だと思う」

 

「・・言いたい事を言い合えるんだったら薫よりむしろ有人や梅原とかの方が話しやすい面が多いんだけどな・・」

 

「・・国枝君にしては珍しく凄く的外れな事を言うんだね」

 

「え」

 

「簡単だよ」

 

「・・?」

 

 

 

 

 

「それは薫が『女の子』だから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




断章 調理実習

私は田中 恵子
吉備東高校2-Aの自分で言うのも何だけどぶきっちょで冴えない普通の女の子だ。
・・自分で言っていて悲しくなってきた。
まぁそれはともかくそんな私にも友人が居る。大事で大好きな親友が。

棚町 薫

私と全く違う性格。あんまり何事も真剣にやる事は珍しいけど器用でコツをつかむのが上手。強気で行動力もある。度が過ぎる事もあるけど。・・かなり。今日もそれが遺憾なく発揮されるのだろう。

三時間目、家庭科の調理実習。

今日の料理は鮭のホイル焼きだ。

吉備東高校では調理実習をクラスの男女に分けて行う。
女子が調理実習の日、男子は教室で授業をやっている。今日は英語の補填授業をする日だそうだ。

つまり・・

―薫を止める子が居ないの。

国枝君、源君、この際梅原君でもいい。私を助けて。
2-Aで唯一薫を止める事の出来るタレントを持つ女の子、絢辻さんが先日倒れて今日はお休み。今日倒れるのは私かなぁ・・。遠い目。

今朝の出来事を思い出すと溜息が出ます。今日の調理実習の材料で決して欠かすことの出来ない材料―鮭。コレの調達は私が担当でした。

「これを私が忘れれば今日の調理実習は中止になって生き残れるかもしれない」

そんな悪魔のささやきが私を包みました。
しかし―

「恵子、今日コレ必要なんでしょ?」

・・お母さんありがとう。先立つ不孝をお許しください。


三時間目―

「はぁぁ~~。血が湧くわね」

薫がそう言った。この子は調理実習を格闘技か何かと勘違いしているのかもしれない。

「か、薫?薫は普通に料理出来るんだから鮭のホイル焼きなんて楽勝よね」

早めにおだてて外堀を埋めに掛る友人K子。涙ぐましい。

「ま、楽勝なんだけどね。伊達に母子家庭じゃありません。ただ・・普通に作っても面白くないでしょ?折角の調理実習なんだしドカンと一発・・」

―助けてぇ!国枝君!


一方2-A 男子は英語の補填授業。

「国枝。次の英文訳せ」

「はい。『その可哀そうな女の子を救う術はありませんでした。従って・・』」


再び家庭科室

息も絶え絶えの状態で田中恵子は材料を切り、調味料、野菜、レモン、そして鮭をアルミホイルに包み、残すはフライパンでじっくり蒸して仕上げと言う段階まで漕ぎつけた。

「ねぇねぇ包丁を使って空中で野菜切れるかな?ホラ?漫画じゃ良くあるじゃ無い?」

とか薫が言い出した時、田中恵子は寿命が縮む思いだった。
田中恵子は決して料理が得意な方ではないのだがその一言を聞いていつもの倍ほどの記録を叩きだして野菜を切り分けた。
幸い実習指導の先生が薫と田中恵子の班の様子を見に来たタイミングに合わせ、薫がヘタに動けないうちに野菜を切り分けた。おまけにその手際は先生にも褒めてもらえた。

「恵子やるじゃない」

と薫は彼女を褒めながらも顔に「残念」と書いてあった。

「残念」で結構。
人生時には何も起こらない方が幸せなことだってある。

しかし問題はここからだ。

原始の時代。
人は獣から身を守るため火を駆使した。獣は本能的に火を避けるものである。
しかし今田中恵子の目の前に居る獣は火によって興奮する可能性が非常に高い。
二十一世紀を控え、獣はここまで進化したのだ。

「バイトでは店長が調理場に入れてくんないから我慢してたのよね。」

と薫。田中はその言葉に内心刻々と頷きながらこう思う。

―店長さん。貴方の判断は間違っていません。尊重します。

鮭のホイル焼きという料理はじっくりと弱火で時間をかけ蒸す必要がある。材料を切る時とは違う。必然的にある程度の時間は生じてしまう。この獣―薫に付け入るスキを与える時間が増えるという事だ。いっそのこと「生焼けにして食中毒で済ました方が被害少ないんじゃない?」と再び田中の中に潜む悪魔―魔中が囁く。

しかし、ここで思いがけない助け船が登場する。

実習の時間が押し、フライパンの火加減を見る調理役と使用した器具、道具を洗い、片づける役目を分担して行うようにとの指示が出た。

―これだ!

田中恵子は内心そう思った。
そして提案する。班は六名。二人ずつでペアになってじゃんけんを行い、勝った方が調理を、負けた方が片付けと実食の用意をするという提案だ。

当然田中恵子は

「薫」

バチチッ

「あら。ヤル気?」

薫を潰しにかかった。

薫もこの申し出を断らない。これで勝てば晴れて田中恵子と言う対立勢力を正式に排除でき、火と共に踊り狂う事が可能になるのだ。

「いくわよ恵子!最初はグー。じゃんけーん・・」

「負けないよ薫!最初はグー。じゃんけーん・・」

少し過去の記憶に戻る。国枝の話だ。

「薫は基本的に「最初はグー」を使った時の本番の手はそのままグーをだす事が多い。裏を掻いてるつもりらしいけど。百パーセントとは言わないけどね」

―信じるよ!薫と国枝君の過去を!

田中恵子の決心は決まった。


「「ぽいっ!!」」


「・・・」


「・・・。くっ・・負けたわ恵子」

―はぁ・・はぁ・・やった。やった!!ありがとう国枝君。ああ・・私は今猛烈に感動している。


「じゃあ私達が洗い物をしている間、勝った三人は寛いでて?仕方ない・・負けた方が全部やるのがこの世の常だもんね?」


―は?

「え?ホント?棚町さん」

「ありがとう。私火扱った事無くて」

班員のずれた反応に田中は呆気にとられる。は、話が違うじゃないか。

―まってまってまって!だからこその調理実習でしょ!?

「任せといて!うーん。でも洗い物しながら調理となるとさすがに骨よね。よし!ホイル焼きはフライパンでやらずに電子レンジでやっちゃおう!」

「あ。あったまいいね!棚町さん!」

「それでいこう!」

―いやいやいや!?

もう田中は呆気にとられて頭の中で突っ込むことしかできない。行動に移せない。

その躊躇が命取りになった。既に鮭を包んだアルミホイルは電子レンジの中。運命のスイッチが押される。

「うわ~なんか放電してる~!かっこいい。『バッ○・トゥ・ザ・○ューチャー』みたい」

「・・・」

―ははは。いいね。鮭のホイル焼きは未来にいくんだ?

「あれ~?何か焦げくさいね」

「凄い!何か一層放電が強くなったよ~」

―だめ!ここは私が!

止め、無きゃ・・・。




カッ




昼休み―2-A教室

「直衛見て見て~」

「あ?」

「頭チリチリ!」

「元からだろ・・ん?なんか今日は一段と・・」

「・・・。国枝く~ん」

「ああ田中さ、ん・・・え!?田中さんまで何か凄いパーマかかってる!?」

「あ、はははは、う、う、うええええ~~ん国枝く~~~ん!!」

「え・・へ!?え!?」

「あ~~!!恵子何直衛に抱きついてんの!!離れなさいコラ!!って・・・アンタもかたまってんじゃないわ・・よっ!!!」

「ぐえっ!!」



「はぁ~~~っ平常運転だね。梅原」

「だな。みなもっち」

「有人・・梅原・・お、お前ら俺嫌いだろ・・」





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ルートS 1~4

第四幕はじめに

中多 紗江編

主人公

御崎 太一 みさき たいち

B型

家族構成

両親、姉三人 一子(長女)、 二子(つぎこ)双子(そうこ)の双子の三姉妹

159.2cmの設定上で最も小さな主人公であり、唯一主な一人称で橘 純一を除き「僕」を使うキャラクター。

ベビーフェイス。声も声変わりしてまだ間もない中学時代まで女の子に見えるぐらいだった少年。中学時代癖の無い髪質を垂らすだけで女の子に間違われたため高校に入り髪形を変え、ようやく間違えられることは無くなった。しかし未だに「カワイイ男の子」という印象をぬぐえず本人も苦労している。

基本的に清潔感のある小さな男の子のため、母性本能をくすぐるのか昔から年上の女性に好かれる。

しかし、散々もてはやされながらも本気になってくれる娘はおらず、そしてやっかみからか近い年齢の男子には嫌われやすい不遇な立場に置かれるという他人には解りづらい苦悩を背負って生きている。男友達が増えない寂しさからか勝手に寄ってくる女の子と打ち解けるのが異常に速いため、余計にやっかみを買って男友達ができにくいと言う悪循環に陥り、この歳になるまでほぼ同年代の同性の友人がこれと言って居なかった。

 

主人公の中で何の苦労も無く生まれた適当なキャラクター。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 小動物、 小動物に出会う。

 

来年には最高学年になる。正直ほっとする。

これでもう無責任にもてはやす年上の女の子達から逃れられる。

 

「なんてうらやましい悩みをもっているんだ!!死ね!」

 

と、思われるかもしれないけどこれが僕の本音だ。

本気で好きになっても、散々好意があるようにみえてもやっぱり女の子は背が高くて頼りがいがある男らしい男の子が好きなんだろう。

ことごとく言われた。

 

「太一君は『好き。』でもそういう『好き。』じゃないの。」

 

・・なんだよ。それ。

確かに目線が同じだし、ってか時々下だし、手もおっきくないし、たくましい喉仏も無い。

声も高いし、体毛も薄い。男らしさが欠けているのは解る。

だが他に好きな人がいるのに道端でカワイイペットや小動物を見つけて寄っていくような気軽さで来ないでほしい。こっちだって本気になるのだ。期待するのだ。

 

「この人こそは」

 

って。

けどこっちが本気になったら大概の人は引いていなくなる。その人たちの心情を解りやすく言いかえると「ゴメン私貴方の事は~にしか思えない。」

~の部分には「犬」「ハムスター」「ペット」「小動物」が入る。つまり・・「ゴメン。私普通の人間が好きだから。」と、言われているのも同然なんだ。

酷い。

これは酷い。

早く人間になりたい。

 

 

「ぐび・・うぅ・・寒くなると牛乳が辛いなぁ・・」

 

無駄な抵抗だと知りつつも太一は今日もランチのお供に牛乳を欠かさない。この年代の低身長男子にとっては牛乳という存在は宗教に近い。

「せめてあと~センチ欲しいです。」さぁ青少年の君・・「~」←ここに好きな数字を入れたまえ。悲願が叶うか腹痛でのた打ち回るかは君の運次第だ。

 

 

「ん?」

 

ランチタイムの学食は戦場だ。

特にメニューのラインナップが強力なこの吉備東高ではそれが顕著に出る。

ごったがえすカウンターの前でどのように立ち回るかが重要である。

それをある女生徒から太一は教わった。隣のクラスの桜井梨穂子だ。

太一の知り合いの女の子にしては珍しく興味本位で太一に寄ってこない側の少女である。とても優しく、食に関して真面目で・・そして好きな人に対して一途な女の子である。

要するに凄くいい子だということだ。

 

この学校の学食の全メニューを網羅した彼女の話によるとメニューの中でも味がハイレベルで売り切れしやすいスペシャルセットをか弱い女の子が食べるには何よりもスピード、タイミング、知識、最後には運が必要だと言う。

男には縁のない話ではないかと思うかもしれないが、太一自身の体格のハンデは如何ともしがたいので彼女の話はとても参考になった。

実際に今日も狙っていたスペシャルランチを混雑状況から早々に見切り、安定した味の良さを誇る日替わりに切り替えた事が功を奏し、大した時間も手間もかからず未だ戦争状態にあるカウンターを見ながら最後のデザートを牛乳と共に舌鼓を打っていた。

 

混雑状況を見越して妥協案も検討しないと本当にロクなものを食べられない場合もある。

その場合妙な敗北感を感じてしまう。昼休みというかけがえのない幸福な時間にそのような気分を感じるのはある意味不幸だ。しかし・・そこに弾かれ、敗北する人間が出るのは世の常。さながら学食は椅子取りゲーム。社会の縮図ともとれる。

 

その荒波に今宵も飲まれる一人の少女がいた。

 

学生たちがごった返すカウンターの後ろでぴょんこぴょんこと跳ねながらも確実にその存在はカウンターにいるおばちゃんに気付かれていないだろう。無駄な努力である。

その位置に居ては何時まで経っても注文を取ることなど出来ない。

案の上後から来た連中に悉く先を行かれている。

 

―あれじゃ・・ダメだね。あの子がたどりつく頃には売り切れかな。

 

そう思いながら太一はデザートの最後の一口を味わうと食器を片づける。

しかし太一が食器を片づけた後も未だにその少女はその場所から動けずにいた。

しかし跳ねる事の無意味さに気付いたのか動きにキレは無くなり、代わりに頭の両サイドに誂えたツインテールがまるで落ち込んだ子犬の耳のようにしゅんと垂れ下がっている。

 

―・・・。んー。

 

流石に気の毒に感じた太一は声をかける事にした。

彼にとっては初対面の女の子に話しかけるほうが初対面の男より楽という一見羨ましい、が、少し悲しい性質を持っている。

 

「あの・・。君?」

 

「え・・わ。」

 

太一が話しかけ、少女が振り向いた瞬間ごった返す群集によって押され少女がバランスを崩した。

 

「わ!・・と。」

 

太一の左手が反射的に出た。

決して長くない手だがその小さな少女の狭い肩幅には十分だった。

右肩から左肩へ手を回す。少女は体重も軽いため彼女の上体を支えるだけなら御崎の細腕でも問題無かった。ちゃんと支えられた事に太一は安堵すると改めて少女を見た。

 

―ちっさ・・。

 

「お前が言うな」と内心自分で突っ込みを入れるがその後に対称的な言葉が思わず口から出た。自分の左腕の線上にある少女の右肩と左肩の間に二つある物体が妙に・・

 

「・・おっき・・」

 

「はい・・?」

 

太一の腕の中で固まったままの少女は太一のその言葉の本意を理解できずに大きな目を見開いたままそう言った。

 

「と、とりあえず立てるかな・・?」

 

「あ!す、すいません」

 

かすれそうな声でそう言った少女はいそいそと立ち上がり、その勢いのままぺこぺこと頭を下げた。その動作が元々小柄な少女を一層小柄に見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの・・すいませんでした。」

 

「いや、いきなり僕が話しかけちゃったから。」

 

「いえ・・。」

 

少女はまともに会話しない。謝罪と応答だけでその場を乗り切りたい、離れたいと思っているようだ。というよりそれ以外の言葉が出ないらしい。

「それじゃ失礼します。」と、言うタイミングを窺っている。そんな感じだった。

別にそれはそれで構わないのだがこの場を離れるという事は恐らく彼女は学食を諦める事だ。さすがにそれは話しかけた身として本末転倒。手助けするつもりが彼女に昼飯抜きを強要してしまった。それもこんな小さな女の子にだ。それは避けた方がいい。だから太一は切り出す。

 

「さっきから何か頼もうとしていたみたいだけど・・よかったら僕が買ってこようか?」

 

「え・・。」

相変わらず不安そうな表情で反応も鈍く声も小さい。目も肩を抱えた時以来合わせてくれなかった。警戒というより脅えの方が強いらしい。

ここはもう下手に遠まわしに会話しようとするより単純な質問に応答してもらうだけでいいだろう。

 

「何がいい?」

 

「あ・・あの・・。」

 

「パン類ならまだ残ってるよ。すぐ買えると思うけど?」

 

次に選択肢を狭める。体格からして恐らく大食いではないだろう。さらに見ていた方向からして定食セットはない。・・まぁ栄養が全て彼女についているとある二つの物体に全て回されているのだとしたら意外に大食いかも知れないが。

 

「それじゃあ・・サラダサンドと・・牛乳をお願いします。」

 

とりあえず少女はひとまず目の前から太一がいなくなって頭の中を整理する時間が欲しいのだろう。相手の善意を綺麗に断る事は案外難しかったりするものだ。

 

「解った。ちょっと待ってて。」

 

「あ。お金・・。」

 

少女は手に握られた五百円玉を渡そうとした。

 

「ん?あぁそれじゃ遅くなるから。とりあえず待ってて。」

 

―行きますか。

 

要するに思い切りだ。

体格が小さい者の利点は人の合間を縫う事。密集している中でも無意識に人が空ける距離感を利用すればいい。そこに入りこむ。そしてそこにあまり長居はしない事。駆け抜ける事。

そしてカウンターにたどり着いた時にお釣りのない金を先に置き、簡潔に欲しい物を言う。

セットはともかく、サンドイッチ、おにぎりなどの固形物はすぐに渡すことが可能だ。

セット物のように調理や配膳のタイミングを合わせる手間を食堂のおばさんに強要させないため他の料理の片手間に早めに対応してくれる。

札を出すと後回しにされやすい。受け入れられても他の並んでいる人間やおばちゃんに余計なイライラを伝達させてしまう。出来るだけ金は細かくしておくのがコツだ。かといって出来る限り一円玉、五円玉は無し。自動販売機等で十円、五十円単位に割っておくのが理想である。学校の食堂は安い分十円単位の勘定の物が多い。

 

「よっと・・。御待たせ。」

 

「あ。ありがとうございます。あの・・お金です。」

 

サンドイッチと牛乳と交換の五百円玉。まだ妙に温かい。握りしめていたのだろう。

 

「はい。お釣り。」

 

「あ・・。はい。」

 

小さな手に渡す。比べると自分の手が妙に大きく見えたのが太一は少し嬉しく感じた。

 

「・・じゃあね。」

 

「あの・・本当に有難うございます。」

 

「どういたしまして・・。牛乳かぁ。僕もよく飲むんだよね。」

 

少し雑談。

 

「あ・・。そうなんです。私背が低いから・・。」

 

「はは。おんなじかぁ。お互い背が伸びるといいね?」

 

「・・あ。・・ふふ。」

 

―ようやく笑ってくれた。もういいか。解放してあげないと。

 

小動物を優しく逃がすように太一はこちらから離れるような動作をすると安心したのか、少女は一礼しゆっくりと踵を返した。

2 再会

 

噂1

「そういやこの前さ・・校門前の坂の通りにデカイ黒塗りの車止まったの知ってる?」

 

「ああ。俺もびっくりした。てっきりヤーさんか何かかな?と思ってビビった。思わず見ないようにしたっけ。」

 

「お前すげぇもん見逃してるよ。実はその車から出てきたのがさ・・。」

 

「何?やっぱり顔に筋がある筋モノとか?」

 

「女の子だよ・・。」

 

「え・・。」

 

「それもすっげぇ可愛いの。転校生らしい。」

 

「お嬢様系?キツイ感じか!?踏まれてぇ・・。」

 

「・・・。逆。お嬢様系には違いないんだけど・・小柄で・・なんつーか箱入り娘って感じ。」

 

「黒塗りの車に小さな可憐な女の子・・素晴らしいギャップ・・鼻血が出そう。」

 

「・・出てるよ。」

 

「え。うそ。鼻血出てる?」

 

「違う。その子。小柄に違いないんだけど・・出るとこ出ちゃってるのよ・・。」

 

「・・マジ?」

 

「・・・あ。今度こそ本気で出てるわ。お前。」

 

噂2

「ちょっとさ・・最近落ち込む事があって。」

 

「どうしたの玲子?」

 

「いやね?あの・・休み時間に校庭で大縄で遊んでる一年生の女の子達がいてね?」

 

「あ。解る。なんかいいよね。アタシら三年はもうあんな風になれないからね。あの若さが羨ましいと思うの解るよすっごく。まだ二年前なのにさ。」

 

「・・違うの。」

 

「?」

 

「その一年生の一人がね・・。大惨事なの。」

 

「大惨事?怪我でもしたの!?」

 

「違う!その一年生の小さな女の子がカワイク飛び跳ねるだけでもう・・!跳ねる跳ねる!!揺れる揺れる!!それでもう私の心が大惨事なの!」

 

「???意味解んない。」

 

「なんで私は何時まで経ってもまな板なんだろう・・。トントントン!!トントントントントン!!ほーら今日も綺麗にお葱が切れましたよ~~おほほほほほほ~~」

 

「・・。玲子・・病み過ぎよ。受験勉強のしすぎじゃない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2-A

 

「ようやく名前が解ったぞ。噂の一年生の転校生・・中多 紗江って言うらしい!お嬢様でありながらロリ顔に控えめな性格!のわりにナイスバディ。バストは希望的観測込みの87!家族構成は両親と祖母の四人かぞ~く!」

 

梅原は得意げにそう言った。

 

「ふーん。噂になってるらしいね。」

 

「何にしろ『転校生で可愛い』って時点でブランドが付くからな。おまけにお嬢様と来てる。話題には事欠かないだろうよ。」

 

「本人にとってはさぞ迷惑な話だろうね。」

 

「御崎・・お前は相変わらずそういう所ドライだよな。」

 

「勝手に盛り上がられるって大変だと思うよ。それを嬉しいと思うんなら話は別だけどさ。」

 

「何分怒りすら含まれているような気がするんだが・・俺の気のせいか?大将。」

 

「・・・。」

 

太一はまだ幼い顔で少し口を尖らせる。

知らぬ間に自分の毒っ気を何の罪もない友人の梅原にぶつけている事に太一は気付く。

同性の友達が出来にくい彼にとって梅原は高校で出会った貴重な友人だった。

顔の広さも相まって他にも色んな人を紹介してくれる気のいい少年。おかげで他にも色んな友人が出来た。少し噂好きでおしゃべりでお調子者なところもあるがちゃんとした一線を守る得難い友人である。

 

「そ~んな腐っててもしゃあねぇべ?今日暇か?久しぶりに棚町んトコ邪魔しねっか?あそこのレストラン週刊誌全部そろってるし。」

 

「・・そうだね。いこっか。」

 

 

放課後―

 

棚町が勤めるレストラン―JOESTERにて

 

「お。来たね。暇人ども」

 

「おーっす棚町。お邪魔~。」

 

「棚町さんお邪魔するよ~。」

 

「あら。御崎君久しぶり。ま、ゆっくりしてって?ハイご注文は?」

 

「僕ドリンクバー。」

 

「俺も。」

 

「かしこまり。あ。丁度良かった。後でさ・・よかったら新メニューの味見してってくんない?パフェなんだけど・・勿論タダでいいからさ。」

 

「マジで!?タダ!?」

 

「しーっ声が大きい。」

 

「すまん。でも・・俺達だけでいいのか?試食なんだしもっといた方が良くない?源っちとか国枝とかいるときの方が・・。」

 

「あ・・それは・・ちょっと勘弁・・ホラあんまり多いと一人分の量少なくなっちゃうし。」

 

「そういうもんか?」

 

「そういうもんなの!」

 

「・・成程。僕たちは毒見役だね。」

 

「あっははは・・人聞き悪いな御崎君・・。」

 

―絶対バレてるねこりゃ。

 

「ま。それじゃあゴチになりや~す。」

 

「はーい少々お待ちを。ん?・・あ・・また来てくれてる。」

 

「・・。何が?」

 

「ほらあの子。ウチの学校の制服着てるでしょ。」

 

「ん・・?」

 

指を差さない代わりに棚町は目で合図した。彼女の視線の先にはこちらに背を向けている肩から上だけ見える少女の後ろ姿があった。色合いで吉備東校の女生徒の制服だと解る。

 

「最近よく来てくれてね・・。しっかり注文もしてくれるから嬉しいっちゃ嬉しいんだけど・・あんなにお金使っても大丈夫なのかしら・・。」

 

「え。そんなに食べるの?」

 

「うーうん。でもかなり短い周期で度々来てくれるから結構いくと思うのよね。」

 

「ま。金を持ってる子は持ってんかんなぁ・・。」

 

「あとそれだけじゃ無くて・・私の考えすぎなのかも知んないけどじっと私を見てる気がすんのよね・・。こっちが見たらさっと身を隠して見てない振りするの。ちょっとそこが・・小動物っぽくて可愛いのよね。」

 

「だったら声をかけてあげれば?」

 

「うん。ジッサイ何度か話しかけてるんだけどすっごく恥ずかしがっちゃって・・折角来てくれてるんだし、あんまり突っ込むのもね。何せお客さんだしゆっくりしてもらいたいしさ?」

 

「ふーん・・?」

 

その棚町の言動から太一は何処となく不思議な既視感に近い感覚を覚えたがその源泉はその時点では解らなかった。

 

「おっとそろそろ行くね。てんちょに怒られちゃう。」

 

「棚町・・お前本当にわかんねぇのか?」

 

「え?」

 

「ふふん。それはな・・『恋』、さ!じす・いず・らっぶゅっっっ!!いやぁ棚町!おめぇも隅に置けないねぇ!!」

 

思いっきり巻き舌で梅原はそうのたまった。が―

 

「・・。ではごゆっくり。」

 

「うん。ありがと。棚町さん」

 

「は~い棚町、御崎コンビの梅原 正吉の生殺しはいりま~~す」

 

 

 

「あ。待って棚町さん。」

 

「ん・・何?御崎君」

 

「試食・・もう一人分・・三人前は無理かな?」

 

「?別に・・三人前ぐらいなら。なんで?」

 

「あの子・・僕らよりずっと常連さんなんだよね?だったら試食してもらったら?」

 

「お。それ俺も賛成。女の子の意見もとれるし一石二鳥じゃね?」

 

「・・そうね。ひょっとしたらもう少し心開いてくれるかも知んないし。よっし!かしこまりぃ~♪」

 

数分後・・

 

「御・待・た・せ。」

 

「おぉ・・。綺麗。」

 

ブルーハワイ色に染まったきれいなパフェが二人の席に二つ置かれる。

 

「ホントだぜ。クリスマスに向けてのメニューか?」

 

「いいえ。来年のバレンタインに向けての新メニューに御座いますお客様。」

 

「偉く早めにとりかかるものなんだね。」

 

「ま、まぁね。」

 

―・・言えない。店長に頼み込んで二カ月もフライングしたなんて。

 

「じゃごゆっくり。もう一個はあの子に渡してくるわ。喜んでくれるといいけど。」

 

「うん。いってらっしゃい。」

 

「じゃ俺らもいっただっきます。」

 

早速二人はがっついてみる。金の無い学生時分、タダより美味いものは無い。

 

「お・・甘いけど美味いじゃん。」

 

「そうだね・・けどバレンタインって言ってたからこれ基本男の人に食べてもらうんだよね・・もう少し甘さ控えめの方がいいかも・・。」

 

「ま。国枝は甘党だからこれでもいいだろうさ。」

 

事も無げに梅原はそう言った。

 

「なんだ。気付いてたんだ?」

 

「おめぇよりあの二人との付き合いはなげぇの。」

 

そのやり取りの中、棚町は奥の席に座った最近の常連という女の子の席に行き説明していた。声は聞こえない。最初、中々棚町は新メニューのパフェを机に置こうとしなかった。

恐らく女の子が恐縮しているのだろう。しかし棚町は笑ってお構いなしに置いた。

そうすると後ろ姿の少女の頭が少し下がる。どうやらぺこりとお辞儀をしたようだ。

押し切られたのであろう。しかし後ろ姿であったが嫌々ではないことぐらいは解った。

そして棚町がこちらに戻ってくると同時にその姿を見送りながらお礼を少女がした結果・・

 

太一と梅原から少女の顔が見えた。

 

「あ。」

 

思わず声のトーンの調節を忘れた場違いな声が出た。

 

少女と目があう。あちらも口の形が「あ」の形になっていた。両サイドで結わえたツインテイルが小動物の両耳が立ったときのように上下に揺れる。

 

「おいおい・・あれ噂の転校生・・中多 紗江・・ちゃん、だぜ。」

 

梅原の唐突に付け足した「ちゃん」がどうにも不自然な響きを隠さなかった。

 

 

 

 

 

「はい。中多さんって言ったのね。初めまして2-Aの棚町です。いっつも利用してくれてありがとね?当店を今後とも御贔屓に。」

 

棚町はドリンクバーのおかわりのアイスティーを中多の前に置き、空になった試食のパフェの容器を満足そうに回収した。

 

「あの・・ごちそうさまでした。美味しかったです。」

 

「そ?ありがとう。ゆっくりしていってね。」

 

いつもの棚町には無い独特の優しい雰囲気が中多の表情を少し熔かしていた。

 

―うーん。さすが棚町さん。プロフェショナル。

 

「はぁ・・可愛いねぇ。」

 

小声で梅原がそう漏らす。

 

「・・。梅原君・・中多さんが緊張するからあんまりそういうのは出さない方がいいって。」

 

いつの間にか席を移動して中多の向かいに座りに向かった梅原を積極的と褒めるべきなのか、図々しいととるべきなのか。ただ散々に棚町に「可愛い常連さんに手ぇだしたら許さないからね。」と釘を刺された。

 

・・あの目はマジだった。

 

白衣装に包まれ、五寸釘と金鎚を持った棚町の手には梅原に似た藁人形。そんな絵が太一の中に思い浮かんだ。

 

「あ、あの・・先日は・・。」

 

御代りのアイスティーを一口飲んで気を落ち着かせたのだろうか。意外にも彼女から話を切り出してきた。しかし冷たいグラスから両手を話さないあたりまだ彼女の緊張がほぐれていない事が解る。

 

「お礼はこの前にしてもらったよ?それより今日は棚町さんの試食に付き合ってくれてありがとうね。」

 

「と、とんでもないです!御馳走になっちゃったのに・・。」

 

「棚町も女の子の意見聞けて嬉しかったみたいだからな。お互い様って事にしとこうぜ?」

 

「はい・・そうですね。」

 

「あ。僕ら自己紹介がまだだった。」

 

「お。そういやぁ。」

 

「僕は御崎 太一です。棚町さんと同じ2-Aです。」

 

「俺は梅原 正吉。俺達三人全員2-Aなのよ。」

 

「梅原先輩に・・・御崎先輩ですね。初めまして・・私は1-Bの中多紗江です。一カ月

ほど前に吉備東に転入しました。その・・よろしくお願いします・・。」

 

「あぁ知ってる。すっっげぇ噂に―」と、呑気に言いかけた梅原をすんでのところで太一は止めた。

 

「・・な、何か?」

 

「いやぁ何も。ね?梅原君?(ダメだって・・)」

 

「お、おう。(わ、わりぃ・・)」

 

「あの・・棚町先輩の下のお名前は何と仰るのですか?」

 

「棚町の・・下の名前?」

 

「『薫』だよ。」

 

「棚町・・薫さんですね。解りました。」

 

「うん。」

 

「・・・。やっぱり凄く素敵・・。とっても可愛いし・・。いいなぁ。」

 

「・・・お?」

 

「・・え?」

 

戯れで先刻棚町に言った梅原の冗談が妙に現実味を帯びる台詞だった。ややうっとりと甲斐甲斐しくホールで働く棚町の姿に見とれている中多の目を盗み、太一と梅原はひそひそと会話をする。

 

―お、おい・・マジか。

 

―・・詳しくは聞いてみない事には何とも。

 

―どうやって聞いたらいいんだ!?それにもしそうだったとしたら・・どういう言葉をかけてやりゃいいんだ!?コレ!?

 

―解んないよ。棚町さんには国枝君がいるし・・いや・・自分を好きになってくれる人に案外なびいちゃうタイプかも・・棚町さん。例えそれが女の子だったとしても。

 

―マジか~~!?棚町は男っぽいトコあるもんな・・。昔さ、遊園地のイベントで男装したらやたらカッコ良かったし。

 

―・・・。そうなの?

 

―そして御崎・・お前にまだ言ってなかったんだが信頼できる情報の筋によると・・。

 

―・・・?何?

 

―彼女の転入前の学校・・女子校らしい。おまけに小、中、高一貫の超お嬢様学校。男禁制の花園だよ。漫画だよ。

 

―うわ~~! リアリティ帯びてきたぁ~~~。

 

太一、梅原プチパニック。

 

「・・先輩方?」

 

「はっ!」

 

「あ。ごめん。」

 

「あの・・すいません。私の話なんて面白くないですよね・・。」

 

―不覚だ。気を遣っているつもりが遣われていたらしい。

 

「いや。ちょっとびっくりしちゃって。へ、へぇ~~棚町さんに憧れてるの?」

 

―と、とりあえずやんわりと・・。

 

「憧れ・・そうかもしれませんね。」

 

「ま、まぁ実際に棚町に憧れてる女の子って居ない訳じゃねぇからな。適当に見えて行動力があるし、物事はっきり言うし、根は優しいし。」

 

「そうなんです。それに今日近くでお話しして再認識しました。本当に綺麗で可愛い!」

 

まだ出会って一緒に居た時間は合計一時間も経っていないがこれ程まで強く言い切った彼女を見た事が無い。やけに熱がこもっている。

 

―・・この子はどうやら真性かもしれない。

 

―多くの「可愛い転校生」に憧れた少年よ。哀れ・・。俺もだが・・チクショウ!

 

男性陣の勝手極まりない落胆をよそに少女は更にヒートアップ。うるうるの瞳をキラキラさせて―

 

こう言い放った

 

 

「あのエプロンが似合ってて本当に可愛い!!羨ましいんです!私も着てみたいんです!!」

 

 

 

 

 

 

三十分後―

 

三人はJOESTERを後にし、梅原は先に帰った。実家の手伝いがあるのと「今回の件での余計な気苦労で疲れた」とのことだ。

中多は初日こそ自家用車で送ってもらったがそれ以降は電車通学であるらしく、共に電車通学の御崎は彼女を途中まで送る事にした。

 

「・・成程ね。転校初日たまたま入ったあの店で棚町さんのエプロン姿と働く姿に憧れたってわけか。」

 

「・・はい。外から可愛いエプロンが見えて思わず入ってみたんです。そしたら棚町先輩も他の店員さんも良くしてくれて・・すごく居心地が良くて・・おまけに私の好きなマンガも置いてあるし、ケーキもパフェも紅茶も美味しくて・・」

 

JOESTERは漫画の品ぞろえがいい。お洒落なカフェでは景観を損ねる可能性のある漫画雑誌、単行本を惜しげもなく置いている。棚町の話によると「店長の趣味」だそうだ。

 

太一はホッとした。どうやら普通の女の子のようだ。可愛いものが好きで、落ち着くところが好きで、甘いものも好き、そして漫画も好き。そして・・自分と異なるタイプ、自分が持たない物を持つ人間に憧れる真っ当な年頃の女の子の持つ感情がある。

 

「・・。あの店のエプロン着てみたいんだよね?」

 

「・・はい。」

 

「アルバイト・・考えてみた事は?あそこは常募集してると思うよ。」

 

「・・当然ありました。でも・・。」

 

恐らく通い詰めただけに知っているのだろう。飲食店は戦争だ。それこそ学校の食堂の比にならない位に。そう考えると棚町の性格は本当にあのバイトに向いている。

身だしなみに気を遣えて、センスもあって物事をはきはきと言えて、気が強くて、責任感もある。そして何と言っても働く確固たる理由もある。・・時々暴走するのが玉にキズだが。

そんな棚町の毎日の仕事ぶりを見ていれば憧れると同時に中多自身自ずと解るのだろう。

自分の性格がどれ程向いていないかを。まだ知りあって間もない太一にすらココまで解る。

 

―確かに・・エプロンを着たいだけっていうだけじゃ理由としては弱いかな・・。

 

結果的にアルバイトというのは自分がした行動、かけた時間を金に換えるシンプルな行動である。最終目的はそこだ。それによって生じる責任や最低限の義務を受け入れる。つまるところ代償を払い、代償を得る行為。

ただ彼女が得る物としての「金銭」はどうにも彼女の払う代償に見合うと思えない。

少なくとも太一はそう思った。

彼女からは育ちの良さを感じさせるが見た目はそこまで華美ではない。高いブランド志向というよりも自分にあった物を選んでいる感じがする。親から最低限与えられるもので足りない訳ではなさそうだ。そこの遣り繰りはちゃんとしているのだろう。

好きなファミレスでゆっくり時間を過ごすというのもそこまで大きなお金はかからない。

確かに普通の高校生にしては贅沢とも言えるが、普通より明らかに上流の家庭に生まれた女の子なら捻出できない額ではない。

むしろ意外に大きな出費になる定期雑誌、コミック本などをJOESTERで賄えるのだとしたら倹約しているとさえ言えるのかもしれない。

 

「お金に執着が無い」というのは聞こえはいい。が、逆に言うならお金の為、言い換えるなら自分の為に少々の理不尽を被るリスクを受け入れる原動力にはなってくれる。

それが無いとなると・・彼女に残るのは可愛らしい「あの店のエプロンを着てみたい。」という理由だけになる。

それは流石に・・。

 

「うーん。」

 

おいそれと「受けてみるだけ受けてみれば?」と、軽々しい言葉を言えないのは事実。

もし本当にエプロンを着たいだけなら棚町に本当に頼んでみればいいだろうか?案外面白がってOKするかもしれない。そう太一が考えた始めたころ・・

 

「・・理由なら他にもあります。」

 

「え?」

 

突然中多はそう言った。

どうやら太一が考えている事の大体を彼女は理解していたらしい。

ちゃんと自覚がある。そして確固たる理由も。それを確信させる強い口調だった。

 

「パ・・お父さんに・・今年のクリスマスにプレゼントをしてあげたいんです。それだけじゃ無くバレンタインも。それには自分で稼いだお金じゃないとダメなんです・・。」

 

「あ・・。」

 

太一は彼女を見くびっていた。

原動力は金などではない。彼女にあるのは金の先にある金には絶対にたどり着けない境地である。それは「気持ち」そのものだ。

 

「・・棚町さんに何か聞きたいことある?」

 

「はい?」

 

「協力するよ。僕に出来る事なら。」

 

「・・はい!!!よろしくお願いします。御崎先輩!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 話をしよう

 

「え?正直顔パスよ?あの子なら。歓迎」

 

「はい?」

 

なんとも冷淡なテンションの下がる棚町の言動が太一の熱を下げる。

 

「そんなもんなの?」

 

「そんなもんよ?」

 

「薫・・。身も蓋もない言い方をしてやるなよ・・相談にのってくれって言ってるんだし。」

 

二人の会話を聞いていた国枝が寝ぼけ眼でそう言った。

 

「だって・・ウチ実際人足りてないし・・?」

 

如実に昨今の飲食店の現状を物語る冷めた意見が発される。夢の無い事だ。

 

「むしろあんな女の子が来てくれたらお客も増えるんじゃないかしら・・色んな意味で。あ、安心して?ちゃんとアタシがフォローするから。」

 

頼りがいがあるのか適当なのか解らない。

 

「そうなんだ・・。」

 

「うん。だから歓迎よ?昨日改めてほんの少し話してみたけどイイ子だっていうのは充分解ったしね。」

 

「・・・。有難う棚町さん。とりあえず伝えてみるよ。」

 

「うん。『待ってる』って中多さんに伝えたげて?」

 

肩透かしを食らって戸惑い気味に太一は教室を出る。それを棚町、国枝の二人は見送った。

 

「・・薫・・お前実はその子をバイト先に来させる気無いな?」

 

「・・バレてた?」

 

「ホントに入れたいならお前は脅すだろ?『ある程度腹くくって来い』って。」

 

「ふふん。さっすがね~直衛」

 

「常連を失わないため・・ってワケじゃないみたいだけど?」

 

「まーね。確かにその子、きっとイイ子なんだけど・・やっぱり向かないんじゃないかなってのは思うの。飲食店ってやっぱり長続きしない子が多いから、楽しいのは確かなんだけどやっぱりキツイ時もあるし、理不尽なことも腹立つ事もあるしさ?ま、飲食店に限った事じゃないと思うけど」

 

「ふうん・・。」

 

「それにその・・中多 紗江ちゃんって言うんだけどね。結構芯はしっかりしてると思う。だから御崎君にはああ言ったけど多分それを伝え聞いたとしても鵜呑みにしないと思うの。だって実際短い間だけど私達の仕事場見てるから。それも結構混む時間にも来てくれてたりしたからさ。『案外楽に入れる』ってなると逆に現実味が帯びてくるからね?自分があの中で本当にやっていけるのかっていう現実味が。」

 

「・・成程。」

 

「聞こえが悪いかも知んないけどやっぱりお嬢様のちょっとした暇つぶしだって言うんなら勘弁してほしいな。たかがバイト。でもされどバイトだからね。」

 

「ま。それは恐らく御崎も解っているだろうけどな。」

 

「うん・・そうかな。」

 

「あいつ肩透かしくらったような表情はしたけど安心した表情は一切して無かったから。」

 

 

 

「それにしても御崎の奴・・相変わらず女の子と打ち解けるの速いよな・・まだ転校してきて間ぁないんだろ?その一年生の子。」

 

「・・・ってか昨日話したのも二回目とか言ってたような気がすんだけど・・。」

 

「・・。」

 

「・・。(アンタにもこれぐらいの手の早さがあればね~~)」

 

「・・・?」

 

「なんでもないっす」

 

 

 

 

テラス―

 

「そうですか・・。」

 

太一から棚町の話を伝え聞かされた話を聞いて棚町の予想通り中多は少し複雑な面持ちになった。

 

「うん。実際入る事はそこまで難しくないかもね。ただ・・。」

 

「・・向いてないのは確かだと思います。・・正直・・自分があの場に居るのを想像すると・・。」

 

憧れていたファミレスの制服に袖を通した華やかな見た目の裏で直面する現実。客に対しても同僚に対しても必須、不可欠な対人スキル。コミュニケーション力。

それが中多には圧倒的に欠如している。特に異性に対しては。

実際太一に対してはそれなりに会話を出来ているように見えているが基本まだ視線は宙を泳ぎ、落ち着かない所作が消えない。

胸の前で合わせた両手の指を忙しなく動かしつつ視線を合わす事は極端に避けている。

太一、棚町など比較的好意的な人間に対してこうなのだからひっきりなしに初対面の人間が訪れるファミレスでは硬直して動けなくなるのではないか。言い過ぎでも何でもなく。

 

「中多さん・・。」

 

「・・はい。」

 

「簡単なことだね。要するに今の自分では到底出来ないって事は自分でも解ってるわけだ。」

 

「・・はい。」

 

シンプルで直結的な言葉に中多は視線を落とした。

 

「・・自覚が無いよりよっぽどいいと思うよ。はっきり課題が見えてるってことはそれだけそれに対して向かい合わなければならないって自覚もあるわけだ。」

 

「・・でもどうすればいいのか・・。」

 

「・・何せコミュニケーション力だからね。一人じゃあどうしようもない事だから。多くの人間と話してみるぐらいしかないと思う。」

 

「・・そうですね。」

 

「・・・よし。やってみるか。」

 

「御崎先輩?」

 

「・・『教官』と呼びなさい。」

 

「・・え。」

 

「中多さんをびしばし鍛えます!僕心を鬼にするんでヨロシク!」

 

「え。ええ!?先輩?」

 

「先輩じゃない!教官と呼べ。」

 

「は、・・はい教官。」

 

「よし。ヨロシク!」

 

中多は太一のキャラが掴めなくなっていた。

 

 

しかし余程現実的だろう。

伸びる保証の全くない身長の為にあれこれ考えて努力するよりも人の中で生きていけば確実に上昇するスキルである対人意思伝達能力。そしてそれの方がきっと財産になる。

もともと同性の友人が少なかった御崎はそれをよく知っていた。

やっかまれる相手として、微妙に距離をもたれる相手と認識していた同性のイメージを変えてくれたのは梅原達のおかげだからだ。

もともと双方男性に対して距離感を持っていた者同士、太一は中多という少女に今までにない親近感を覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・俺?」

 

「うん。まずは入門コースで源君に頼みたいんだ。源君なら安心して任せられるよ。」

 

「・・。(入門コース?)別にいいけど・・。でも俺も初対面の女の子にそこまで話出来るかって言われたら微妙だと思うんだけど・・その子年下だって言うし。」

 

「大丈夫。」

 

太一は自分の友人達―つまり中多にとって面識がほぼない男子メンツとの会話訓練から入る事に決めた。

決戦場はテラス。第一ラウンド。相手は源 有人。彼に関しては「任せていい」との判断から太一は二人の会話を聞いていない。

 

「こんにちは。初めまして。俺は源 有人って言います。」

 

「は、初めまして。中多紗江といいます。」

 

「うーん。・・いざいきなり『何か話してみて』って言われると困っちゃうよね。とりあえず2-Aで太一君と棚町さん、梅原とは同じクラスです。よろしくね」

 

「よ、よろしくお願いします。そ、その。皆さんには・・その・・。今回は変なお願いをしてその・・ごにょごにょごにょ」

 

ふしゅふしゅしゅ~と末尾が不明瞭な言葉を発して中多は視線を落としてしまった。クスクスと源は笑いながら―

 

「・・大変お世話になります。・・かな?」

 

中多の続けたかった言葉をフォローする。

 

「は、はい。」

 

「ありがとう。伝えとくよ。」

 

生来の習性で終始笑顔を絶やさない源の雰囲気は相手の警戒を生まない独特の安心感がある。

 

「転校して間もないって話だけどどう?この学校には馴れた?」

 

「・・わかりません。私ずっと女子校に居ましたから・・大きな男の人がたくさんいる場所って言うのが初めてで・・やっぱり正直言っちゃうと・・。」

 

「少し怖い・・よね。当然だ」

 

「はい・・。」

 

「でもいい奴多いから。中多さんも怖がらず色々話してほしいと思う。焦らなくていいと思うけど。」

 

 

「成程・・それで太一君に会ったわけか。」

 

「はい・・初対面の時からとっても良くしてくれて・・そこまでおっきくないから落ち着いて話せるんです。」

 

話しやすいとは言えまだまだ動揺を抑えきれない彼女は失言に近い言葉を発する。

 

「は、はは・・。」

 

―言えないな。これは太一君には。案外気にしいだし。

 

 

「おっと・・そろそろ時間だね。いろいろ話が出来て楽しかったよ。中多さん。」

 

「はい・・。こちらこそ。」

 

「じゃ、頑張って。応援してるから。」

 

「はい。ありがとうございました。源先輩」

 

好感触。

常に源が当たり障りのない質問に終始する事によってそれに中多が応答するという形。

話題の提起は中多には無かったが滞りなく会話が進む。初歩的だが滞りなく進むのは源の雰囲気のおかげだろう。ファミレスに来る人間が常に彼のように紳士的ならいいのだが。

 

 

第二ラウンド

 

「初対面の年下と何の脈絡も無くいきなり話せって!?無茶言うなよ!」

 

杉内 広大。

ここからは太一は二人の会話を傍らで聞く。初対面同士としてお互いにリスクがあるだろう。

 

「初めまして・・。」

 

緊張。

 

「初めまして・・。」

 

緊張。

 

「えっと・・『中多さん』でよかったよね。俺は杉内 広大って言います。ミサキとはクラスメイトです・・。」

 

「・・はい。・・私は1-Bの中多紗江です。」

 

「そ、そう。」

 

「・・はい。」

 

―やべぇ・・会話終わっちまったよ・・こういう時はどうすりゃあいいんだ?こういう場合は親密度を深めるために敢えて下の名前で呼んでみる・・とかどっかで見た様な・・いや!馬鹿言え!現状はそれ以前の問題だ!あ~どうしよう・・ん・・?

 

「・・1-B?・・なんだ?ひょっとして七咲と同じクラス?」

 

「あ。そうです。・・杉内先輩は逢ちゃんを知っているんですか?」

 

「うん。・・『あいちゃん』?」

 

「あ、はい。転校初日朝から私緊張してましてその・・筆箱を家に忘れてしまって・・誰にも言えず困ってたのを隣の席の美也ちゃんと一緒に助けてくれたんです。わざわざ自分の消しゴムを切って貸してくれたりして・・。」

 

「・・七咲らしいや。仲いいんだね。」

 

「・・とっても良くしてもらってます。えっと・・杉内先輩は逢ちゃんとはどこで?杉内先輩も水泳部なんですか?」

 

「ん?いや俺は別に。七咲とは・・あ・・あ~その~。」

 

「?」

 

流石に「憧れの先輩に会いに行って、猫に遭遇して、夢中で追っかけたらその子のスカートの中を覗いてしまった」とは言えない。

 

「・・・いや水泳部の更衣室裏にさ・・黒猫が住み着いてるのって知ってる?」

 

「あ・・知ってます!プーちゃんのことですね?」

 

「知ってるんだ?恥ずかしい話・・俺猫好きで。触ろうとおっかけてたら偶々水泳部員の七咲と知り会っちゃったわけ。」

 

その裏にあるさらに恥ずかしい話は演出上カット。出そうものならこの話はココで終わりだ。初対面の少女の軽蔑の眼が目に浮かぶ。

 

「ふふ。そんなことがあったんですね。でも気持ち解ります。プーちゃん可愛いですもん

ね。」

 

「うん・・。」

 

「プーちゃん毛並みが凄く綺麗でふわふわしてて触ると気持ちいいですもんね。日向ぼっこをした後に抱かせて貰うととってもいい匂いがして・・」

 

「な・・・に!?」

 

杉内の雰囲気が変わる。

 

「ひ・・す、杉内・・先輩?」

 

「・・中多さんプー抱っこしたことあるの?」

 

「は、はい・・。」

 

「・・お腹触った事は?」

 

「はい・・。あります、よ・・?」

 

「そう・・なんだ。」

 

―何故だ。何故なんだ。

 

「せ、先輩・・?」

 

「あ、ごめん・・実は・・一向に懐いてくれないんだよプーが・・。お腹触るとか抱っことかもってのほか。撫で撫でもさせてくれない・・俺さ・・どうしたらいいと思う?」

 

「え・・。」

 

意外や意外。まさか相談事をされるとは。

 

太一が杉内を源の次に選んだのはこういう理由である。シンプルだ。七咲という共通の知り合い。そして杉内の嘘偽りない影のオトメン属性。共通の話題を持って同じ目線で語れるという点だ。男にもいろんな奴が居る。何がきっかけで話がはずむか解らない。

 

「うおお・・!いろいろと参考になる話を有難う。俺頑張ってみるよ中多さん。」

 

「はい!・・プーちゃんを抱っこできる日が来たらいいですね。」

 

「ありがとう!!・・中多さん良かったら図書室今度行ってみて?ここ『ねこのおもい』置いてあるよ。」

 

「え、ホントですか!?」

 

「やっぱり中多さん解るんだ!?いいねぇ!気が向いたら行ってみて。じゃ。七咲によろしく。」

 

―・・元気づけるどころか元気づけられてるじゃん。杉内君。嬉しい誤算だ。

 

 

第三ラウンド

 

国枝 直衛。

 

「え。俺もやるの・・?」

 

 

 

「・・初めまして。」

 

「・・は、はい。初めまして。」

 

今までのメンツの中では最高身長。低血圧族のためテンションはやや低め。声もずんと低い。言い換えるならば男臭い面が光る。さぁなかなかの強敵だ。どうでる?

 

「薫・・棚町のお店の常連だそうで・・。」

 

「は、はいぃ・・。」

 

―・・ビビらせちゃってるよ。

 

「・・どう?あいつちゃんと働いてる?」

 

「え。はい。とっても・・スゴイと思います。」

 

「そう・・。最近あんまり行ってなかったからさ。元気にやってるんだアイツ。」

 

その言葉と口調に思いやりを感じ、中多の脅えは少し和らいだ。

 

「先輩はその・・棚町先輩とは仲がよろしいんですか?」

 

「ん・・まぁ腐れ縁かな。中学からの。俺だけじゃ無く有人・・あ。さっき君と話した源のことね?梅原、杉内もおんなじ。たまたま高二で全員同じクラスになってね。御崎は今年の春に梅原に紹介してもらったんだ」

 

「そうだったんですか・・皆さんとっても仲がよろしいんですね。羨ましいなぁ・・」

 

 

 

「もともと棚町先輩はあんなにしっかりされている方なんですか?」

 

「・・『しっかり』?まぁそう見えるかも知んないけど。一見仕事もできるし・・でも違和感あるな・・アイツのその評価。」

 

「違うんですか?」

 

「間違っては無いんだけどね。決める所はちゃんと決めるし。ま、良く言えば切り替えが早い奴。悪く言えば気分屋。普段のアイツ知ったら中多さん幻滅するかも。」

 

「・・。多分しません。」

 

「?そう?」

 

「私が・・その・・こんな風ですし。例え普段と違う棚町先輩を見ても私の前で見せる働く棚町先輩を知っているから・・逆に嬉しくなってしまうかもしれません。あぁ棚町先輩もこんな所があるんだって。」

 

「・・ふーん。」

 

―薫さすがだな。お前の言うとおりイイ子だわ。間違いなく。

 

 

「・・もうこんな時間か。」

 

「国枝先輩。どうもありがとうございました。」

 

「・・もし面接に受かったら言ってね。俺もまた遊びに行くから。」

 

「・・恥ずかしいので馴れてからだと嬉しいです。気長に・・期待せず待ってて下さい」

 

いい傾向だ。自分の意見もキッチリ出てくるようになっている。

 

第四ラウンド

 

「俺にぃ・・任せとけ・・!」

 

梅原正吉初めての面識ありの人物。だが当然傍らに太一はつく。不安だ。任せられん。

 

「中多さん・・俺一つ聞きたい事が・・。」

 

「はい・・?何でしょうか?」

 

「・・スリーサイズを教えて下さい!!上だけでも結構です!!」

 

「・・・・~~~・・・!」

 

―タイム・・。梅原君。ちょっと表出ようか・・・。

 

 

「何聞いてるんだよ・・梅原君!!中多さん真っ赤じゃないか!」

 

「ちっちっち。甘いな~太一君は。」

 

「ん!?」

 

「イレギュラーな状況が発生する事は珍しくないんだぜ?不意の質問に対する即座の切り返し!いなし方を覚えるのもまた大事だ・・。今まで良心的な三人が偶々相手だったからよかったようなものを・・時にはこんな事もある可能性がある・・。何せ彼女はアレだからな!!」

 

彼女を指差す梅原の視線の先がどこかおかしい。彼女というより彼女のどこか一部を・・。

 

―・・。確かに・・はっいかん!

 

「俺は敢えて偽善を捨てて必要悪になっているんだぜ?心を鬼にしてだな・・。」

 

「・・。」

 

猜疑心の塊のような目で太一は梅原を睨む。その立場を利用して純粋悪の塊のような邪な下心を隠さない梅原のその表情を見て。

 

「げへへ。」とその顔には書いていた。

 

―・・もしもの時は僕が責任を持ってこの純粋悪を始末しよう。

 

太一はそう決心した。

だが意外にもそれ以降梅原は真摯かつ紳士に中多の予行演習の相手になってくれていた。元々実家が寿司屋である彼は客商売に関してのキャリアは棚町以上である。意外にも礼儀作法や幅広い客層に対しての接客スキルを持っている。それにプラスして生来の愛嬌のよさがある彼は隠れたダークホースだった。

 

―初めからそうしてよ・・。でもやっぱり梅原君はすごいや。

 

第五ラウンド

 

茅ヶ崎 智也

杉内 広大の紹介により参戦。

 

「・・黙っているだけでいいんだな。」

 

 

「・・・。」

「・・・。」

 

「・・・。」

 

「・・・。」

 

「・・・。」

時には沈黙に耐える。沈黙は金なり。見た目の威圧感最高峰の茅ヶ崎の沈黙にひたすら耐える。針の筵の様な沈黙の中にも平静を失わない事。これもまた立派なスキルだ。

 

ぷるぷるぷる・・

 

チワワのように震える中多。

 

―おお?破壊力高そうだな・・。あれを利用すればひょっとしたら・・。

 

だが・・災厄が近付く事を太一も茅ヶ崎も気付いていなかった。テラスは「彼女」が頻繁に現れる出没地域だということを二人は失念していた。

 

―智也・・はは・・一緒に居る子可愛い子だね。智也も隅に置けないなぁ・・。

 

切ない表情をしてテラスを飛び出す「彼女」を見て太一は大いに焦った。そして彼女―桜井梨穂子を追いかけ、土下座して謝り説明した。桜井の親友である伊藤かなえに「紛らわしい事すんじゃないわよ。」と怒られた。

 

・・教官は辛い。

 

中間管理職のストレスを一身にその身に浴びながら部下の為にその身を犠牲にする。

世の大人の苦行の一旦を垣間見て太一はそう思った。とりあえず一通りの訓練終了・・。

 

「中多さんお疲れ様。」

 

「はい・・お疲れ様でした。」

 

「どう・・?」

 

「・・やっぱり大変でした。でも皆さんとてもいい方で・・御崎先輩はいいお友達がたくさんおられるんですね。」

 

―・・それは違いないと思うな。中多さん。

 

「・・何か失礼な事を言ってたとしたら謝りたいです・・。」

 

「大丈夫。思ったよりずっと喋れていたと思うよ。」

 

これは励ましでもおべっかでもなく正直な話である。実際会話した連中は・・

 

「思ったよりずっとお話が出来る子だったよ。」

 

―まぁ失言は御愛嬌で。太一君に話せないのが辛いな。これは。

 

「ちょっと声が小さいけど心地いい声。・・またプーのことで相談したい。セッティングよろしく」

 

「・・いい子だな。案外大丈夫なんじゃないか?後はアイツがフォローするだろ。」

 

「全然いけるぜ!金払ってでも会いに行きたくなる資質があるよ。」

 

梅原は中多をキャバ嬢か何かと勘違いしている感がある。

 

「・・怖がってたけど目は逸らさなかった。芯は案外強そうだ。・・謝っといて。『怖がらせて御免』って。」

 

不評点も無くは無いが、軒並み高評価。

 

「うん。よく頑張りました。中多さん!」

 

「はい!有難うございました!」

 

堅い言い回しも無く、ただ純粋な笑顔を中多は太一に見せてくれた。また見たくなる。そんな笑顔だ。

 

「・・御崎先輩・・。」

 

「ん?」

 

「よかったら・・私とお話して下さいませんか・・?」

 

「え?まだ続ける?練習熱心だね。」

 

「いえ・・違うんです。練習とかじゃなくて・・御崎先輩と・・お話したいです。」

 

「・・・。うん。喜んで。」

 

僕も今は

 

君と話がしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4 受難

 

 

御崎家宅にて

 

「太一~?明日買い物行くんだけど付き合ってよ。どーせ暇でしょ?」

 

太一の二つ上の姉であり、双子(そうこ)の双子の姉である二子(つぎこ)は大学一年のこの冬に何かを賭けているらしい。太一からこの姉を言わせると「見た目はそこそこに可愛い」が、「少々性格がキツメ」といったところだ。おまけに少しがつがつしている所も、そこを上手く隠せない所もある。言い方は悪いが男にとってそこが「重い」のだろう。

 

「ゴメン。明日はちょっと・・。」

 

「ん?何?」

 

「友達の家に遊びに行くんだ。」

 

「・・。ひょっとしてこの前遊びに来てくれた梅原君と源君と国枝君!?ちょっと!私も連れてってもう一回ちゃんと紹介しなさいよ!」

 

・・この通りである。節操がないのだ。

 

「・・違うよ。女の子の家だよ。」

 

・・おっとろしい台詞を惜しげも無く吐くこの弟もどうかと思うが・・。

 

「・・またなの!どこの女!?太一ばっかずるい!」

 

「く、首を絞めないでよ。二姉ちゃん・・。」

 

ちょっとヒス気味なのも付け加えておく。

 

「もう・・二子・・また太一虐めてるの?」

 

「双子(そうこ)!おかえり。」

 

「双子姉ちゃん・・助けて。」

 

双子が大学から帰宅する。三姉妹の末妹にあたり、二子とは双子の間柄であるが性格は良くも悪くも対称的である。完全な体育会系でありながら、性格はどちらかと言うとドライであまり感情を強く表す事は無いストイックな性格だ。彼氏がいた事も数度あるが、恋愛方面に関しては重きを置かない為、長続きせず、また本人も全く気にしていない。

しかし、派手で着飾るのが好きな双子(ふたご)の姉の二子の私服を時々拝借するなどのしたたかな面も持つ。

 

「ほどほどにすんのよ?二子。太一も生き物なんだから。」

 

そう言っただけでさっさと二階に上がってしまった。

 

―・・助けて・・くれないの?う・・意識が・・薄れていく。

 

 

「こーら。二子。太一離してあげなさい。」

 

 

―この声は・・!

 

「一姉・・ううう。太一がぁ・・。」

 

「はいはい。明日は私が買い物付き合ってあげるから・・まずは太一を離すの。」

 

「ホント!やった!」

 

「パパに言って車も使えるようにしとくからね。」

 

「ありがとう!一姉!」

 

一子(いちこ)

御崎家三姉妹の長女であり、末っ子の太一と何と九つ違いの26歳の御崎家の長女である。

 

「・・・大丈夫?太一?」

 

甘い両親に変わって双子の妹、そして末の弟に対して時には厳しく、時には優しく接する御崎家の精神的支柱でもある。頭もよくて、仕事が出来て、綺麗で、正直太一にとって自慢の姉だ。もし彼女が結婚したら太一は自分は泣くと思っている。

 

「・・うん。今日は早かったんだね。一姉ちゃん。」

 

「先月からの仕事にようやく目途がついてね。しばらくゆっくり出来そうだわ。」

 

「そうなんだ。」

 

「明日は何か在るの?よかったら太一も久しぶりに一緒に買い物行かない?」

 

「いや・・明日ちょっと遊びに行くんだ。」

 

「梅原君達と?」

 

「ううん。最近知り合った一年生の女の子だよ。」

 

「へえ・・。」

 

一子は意外そうに弟を見た。

太一が女の子の家に呼ばれたり、遊びに行く事は珍しい事ではない。むしろ今までは同性の友達と遊びに行く方が珍しかった。一子が驚いたのは「年下」という言葉だった。

先刻の対処こそアレであるが、長女の一子はもとより次女の二子も三女の双子も弟の太一が大好きである。小さく、気が弱かった幼少時の太一は彼女たちにとって弟と言うよりも「妹」に近い感覚だった。自然と太一もそんな姉達と付き合ううちに年長の女の子との付き合い方が自然と身についてしまった。異性として意識することなく、簡単に友達になれた。結果同性の友達が出来にくいのは皮肉なことでもあるが。

 

その中で不思議なほどに「年下」の女の子との接点がない。周りに居るのはいつも姉も含めた彼より少し年上の、彼をもてはやし、可愛がり、・・そして太一自身が本気になってしまうと少し距離を開ける様な子達だった。

 

「姉ちゃん?」

 

「ん?あ、ごめんね。そっかじゃあ明日は無理ね。」

 

「うん。また今度。」

 

「・・ちょっと待ってて太一」

 

「ん・・?」

 

「・・ほら。今日仕事先のお得意様から頂いたの。最近話題になってる風味堂のロールケーキ。私甘いもの苦手だから太一、持って行ったら?」

 

「え?いいの」

 

「早く隠すことね。二子と双子に見つかったらどうなるか解んないわよ?」

 

「うん!ありがとう!」

 

高校二年生になっても幼さが抜けきらない少年、いやむしろ少女に近い様な太一の笑顔をとても可愛く、愛しく思う反面、弟思いのこの長女は少し申し訳なく感じていた。

自分達が遠因となって太一を取り巻く環境を今のようにしてしまったのは恐らく間違いは無いのだから。

だから先日、この弟が家に梅原達三人の同性の友達を連れて来てくれた時本当に嬉しかったのだ。

そして今日、唐突に現れた「年下の女の子の友達」

太一は進んでる。変化している。きっと素敵な男の子になる。

そう願って心配性で、過保護で、ある意味依存しているこの女性は優しい目で再び向かいに座った小さな弟を見た。

 

―しっかりね。太一。

 

 

 

 

 

 

 

―・・ここ?

 

数十分前

中多に手渡された地図を頼りに最寄り駅を降りた太一は景気よく晴れた日曜日の陽気を楽しみながらサイズ24のレディースのスニーカーを履き、てくてく歩いていた。

 

―ここ曲がって・・次・・の信号左ね・・。

 

内心でそう呟きながらキョロキョロと周りも見る。

思ったとおり中多はそれなりに上流の住宅街に住んでいるようだ。綺麗に整えられた公園や道路、近くを散歩する犬も高級なプードルやらヨークシャーテリア、庭が広くなければ飼えないような大型犬、グレートデン、アイリッシュウルフハウンド、ボルゾイなどの犬が飼い主と一緒に広い公園で走り回っている。

良く躾けられているのか太一が近くを通っても全く吠えるとか粗相をする気配が無かった。

太一の飼っている柴の雑種の「新べえ」には到底真似の出来ない落ち着きようである。

 

地図の目印だった公園を通り抜け、更に住宅街に入ると・・

 

―ん・・?

 

徐々に太一は違和感を覚えた。

 

―また一つ家のランクが上がった様な・・・庶民の気のせいならばいいんだけど・・。

 

しかし気のせいでは無かった。

在る家の車庫を何気なく覗いてみる。この不景気の中でもここら辺の住民は車を数台持つのが常識らしい。そのうちの一台に目を凝らす。

 

―こ、これは!?

 

動物は詳しいが車は全く詳しくない太一である。しかし・・流石にそれは知っていた。

 

―躍動する馬のエンブレム・・そして目にも鮮やかな黄色・・洗練された尖ったデザイン・・。

 

そこまで考えると目をそらし思考を止めた。

 

俄かに汗ばむ自分を諌めながら地図を頼りに歩く。

公園にいた数分前の自分に戻りたい。何も知らずニコニコと公園に遊びに来ていた犬達を眺めていた自分に。そしてつと足が止まる。

地図は明らかにこの場所を差していた。

 

「え~・・・・?」

 

おそるおそる太一が見上げると・・。

 

―・・こ、ここ?

 

太一の常識では「家の庭」というものは一目で一望出来るぐらいの面積だと考えられていた。しかし・・今の太一の目の前の光景は違う。

彼の小さな首を百八十度近く目いっぱいねじらないとその庭は一望できず、また入口から正面玄関までの距離は軽く運動が出来そうなくらいの距離があった。そして其処までの侵入を遮る入口の物々しいグレイの門。その近くには呼び鈴、そして地図が間違いなくこの場所を差している事を裏付ける表札が在った。住所の隣に明朝体とローマ字で彫られた「中多 NAKATA」の文字。

間違いない。今まで自覚は薄かったが彼女は間違いなく「お嬢様」だ。太一の予想を遥か上回るほどの。

 

―とりあえず・・中多さんに会わないと。知り合いと顔を合わせればきっと落ち着く・・はず。

 

呼び鈴を押そうとする指が少し震える。そのせいで呼び鈴が二回反応した。

 

ピポピポ~ン。

 

―ああ!御免なさい!すいません!

 

と、太一は声にならない卑屈な程の謝罪をして一歩退いた。

 

『・・・はい?』

 

しかし遠のいた呼び鈴から思ったよりも早く反応が在った。「金持ちは客を待たすもの」という庶民の偏見を植え付けられていた太一は予想外の素早い反応に慌てて一歩退いた呼び鈴に近付く。中々挙動不審な動作である。

 

「あ、あの・・中多紗江さんはおられますか?」

 

―しまった・・先に名乗るのを忘れてた。ああ!この哀れな庶民をお許しください・・。

 

そんな後悔の念が太一を襲う。もはや彼は庶民としての劣等感の塊だ。しかし・・

 

『あ。先輩?』

 

「あ、中多さん?」

 

恐らく玄関用のカメラも設置されているであろう呼び鈴に向かい、かなり情けない顔でホッとしている自分の顔が映っているに違いない、と思いつつも太一はようやく聴けた普段の日常の声に安堵した。杉内が「安心する心地よい声」と彼女の声を評していたが改めてその通りだと太一は思う。

 

『ちょっと・・待っててね・・。はい!どうぞ先輩!』

 

電子音が響き、ガチャリと重い音を立てて扉は開いた。ようやく太一は敷居を跨ぐ。そして入口の門を閉めた。と、同時に入り口のドアが自動で施錠される。

 

―と、閉じ込められた!

 

という間抜けな反応をし、相変わらず重い足取りで遠い玄関に向かった。

しかしその遠い玄関のドアが開く。

 

―ん?

 

「せんぱーい」

 

そこには中多が笑顔で手を振る姿があった。

 

「お邪魔します・・・」

 

玄関から入った先は確かに高級住宅地の家の玄関としてふさわしい広さがあったが思ったより着飾った高級感は無かった。高そうな壺やら、絵画も無く、いい香りのする花が控え目に飾られていた程度である。おまけに使用人等は居ないようだ。玄関先でいきなり「ようこそいらっしゃいませ」などと応対されたらどうしようと思っていたが幾分気が楽になる。

 

「遠いところから足を運んでいただいて・・有難うございます先輩」

 

そう言って普段着姿の中多はぺこりと恭しく頭を下げた。

ベージュのパンツとフリルが付いた白のブラウスを着た清潔感重視の飾らない彼女のスタイルがさらに太一の安心感を手助けする。派手すぎず華美すぎない。庶民にも優しい気後れしない良スタイルだ。華奢でスリムな彼女のイメージにも合っている。

 

「ううん。全然。あ。これ・・つまらないものだけど」

 

姉に持たされたお土産を手渡す。中身をよく知らない太一は内心びくびくしていた。

 

「わぁ・・有難う。御丁寧に。じゃあ案内しますね。こっちよ・・先輩」

 

そう言って太一に来賓用のスリッパを差し出し、少し前に出て中多は歩きだす。

 

―・・・ん?

 

太一は少し違和感がして足を止めた。

 

―「有難う」・・?「こっちよ」・・?

 

「・・?どうかした?先輩?」

 

そう言って中多は振り返って怪訝そうに上目遣いで太一を見た。

 

―・・んん!?

 

そんな中多を更に太一は凝視する。

 

「そんなに見ないでください・・。恥ずかしい」

 

そう言って照れ、中多は顔を逸らす。両手で少し顔を隠すように。

「あの・・」

 

「はい・・先輩?」

 

「すいません・・今更なんですけど。あの・・どなたでしょうか?」

 

その太一の言葉を聞いて目の前の中多の表情が一切消えた。そして一呼吸置いた後・・控え目な何時もの中多の笑顔からは想像もつかない形容の笑顔に変わる。いつもの不器用な「ニコ・・」では無く「ニィッ」という感じの笑顔だ。

その瞬間・・

 

バタン!

 

「ママぁ~~~・・・」

 

派手な何か崩れる様な音を立て、半泣きの気の弱そうな女の子の声が先の廊下の向こうで響いた。

 

「あらら・・ダメよ紗江ちゃん。もう少し隠れてないと・・」

 

「???中多さん?」

 

声のする方へトタトタ太一は駆けていく。完璧に清掃された滑るフローリングの床に手こずりながら曲がり角を曲がると物置らしい部屋から散乱したいくつもの荷物とそこに倒れ込む少女の姿を認めた。何故か手は後ろに回された上に手首は縛られ、口にはずれた布、足にタオルと身動きの取れない状況で芋虫のようにもぞもぞともがいている。

 

―ゆ、誘拐!?拘束!?監禁!?一体何が起きてんだこの家!?

 

「な、中多さん!?」

 

「ふぇ・・先輩ぃ・・くすん」

 

いつもの小奇麗な彼女からは想像もつかないボロ雑巾のような姿に太一は戸惑いながらも駆けより、拘束を解いてやる。

中多は恥ずかしそうだった。招いた客にこんな醜態をさらす羽目になるなんて・・どんな羞恥プレイだ。

 

「あ~あばれちゃったか。途中までは上手くいってたのに・・」

 

さっきまで中多だと思い込んでいた女が太一の後ろに立っていた。

姿こそ中多だがさっきまでの幼い声は薄れ、やや低めの落ち着いた声色になっている。

 

「ダメよ紗江ちゃん騒いだら・・もう少し楽しめそうだったのに・・『実は紗江ちゃんはこんな本性の女の子でした設定』であと十分くらいは・・」

 

物騒な事を言いながら女は中多の拘束をほどいていく。

 

―手慣れているように見えるのは・・気のせいだな、うん。そう思いたい。

 

「ひどいよ・・ママぁ・・」

 

―・・・ママ?

 

太一硬直。

 

「では改めて・・初めまして。私は中多 紗江の母親の中多 紗希と申します。娘がいつもお世話になっております。御崎さん。」

 

大人の女性の落ち着きと高級感を漂わせる品格を垣間見せながら中多母は改めて背筋を伸ばし、太一に挨拶した。

 

「こ、こちらこそ初めまして。僕は御崎太一と申します・・。」

 

自動的に言わされた様に反射的に太一は返事をした。

 

「中多さん・・マジですか?」

 

「・・はい。そうです。御免なさい先輩・・初対面早々・・」

 

自分の残念な状況と初対面の太一に対するあんまりな母の仕打ちを健気な娘は心底詫びた。

 



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ルートA 8,9、10

この説話10の話。


似たようなイベントが実は本当に原作にあったりする。









8 咲く響く

 

「杉内」

 

「ん」

 

「待たせた。桜井からアンケート預かってきたぞ」

 

「お。サンキュ!茅ヶ崎!!どうだった?」

 

「・・俺は美味いと思ったけどな。桜井の友達からも軒並み好評。ただ茶道部先輩方二人は『納得してない』とのことだ」

 

「桜井さんは?」

 

「・・相変わらず幸せそうに食ってた」

 

「だろうなぁ・・。食わせがいがあるよ」

 

広大はそういって茅ヶ崎から渡された端をホチキスで止められた資料を封筒から出し、開く。

 

「うーん。『大根に出汁が染みていない。そもそも出汁の味付け云々より大根の仕入れ先を変えた方がいい。大根自体が苦い。飛羽 愛歌』・・?・・ハイレベルな意見だな」

 

「まーな。あと野菜はなんかこの店で仕入れろってさ。『あたしの名を出せば安くしてくれるはずだ』って飛羽先輩が言ってた。」

 

「・・。あの人何者なんだ?」

 

「さぁ・・ナゾすぎる。将棋やらなんやら有り得ないぐらい強いし。飛車角落ちでこの前負けた」

 

「・・俺思うんだけどあの人さぁ・・高校生じゃないんじゃね?」

 

「確かに。何か少なくとも40年は生きてそう・・」

 

「本人には言うなよ・・その台詞。で。夕月先輩は?」

 

「『歯応えが欲しい。牛スジを入れろ。出汁も深みが増す』・・らしい」

 

「これまた渋いチョイスを・・高校生の女の子の意見とは思えん。・・解った。参考にしてみるわ。ありがと。茅ヶ崎」

 

「ん・・。また何時でも言え」

 

普段は口数が少なく愛想は無いが根はかなりいい奴である。最後に「茶道部の甘酒を飲みに来てやってくれ」と言い残し、ゆっくりと静かに茅ヶ崎は去っていった。

 

広大の知り合いの大体の人間に試食は済ませた。しかし、さすが個性的なあの二人を擁する茶道部である。大概の奴は「美味い」、「良いんじゃないか」的な評価を下してくれた前回の試作おでん。それも有難い事は確かなのだがそれとは真逆にはっきりとダメだししてくれて尚且つ改善案も出してくれているあの茶道部二人の先輩がたの意見は貴重だ。七咲と塚原の二人もさぞ喜ぶだろう。

手に持った資料を大事そうに鞄に入れ、調理実習室へと広大は向かう。

十二月まで一週間を切り、創設祭の準備のピークのこの時期に放課後に残る生徒は多い。

それも三年生から全てを引き継いだ二年生とまだまだ要領の掴めてないハッキリと戸惑いと迷いが見える一年生たちが今回の主役である。

このイベントによってこの吉備東高校の世代交代がすすむ。それは最初で最後の・・ある意味儀式のような行事である。広大は去年顔を出す程度しかしなかったが、今年周りの幾人かが積極的にこの行事に関わり、自分も少しながら手を貸すことで少しながらもその実感を感じ取る。

 

吉備東高校創設祭

 

クリスマス・イブというふざけた日程にも拘らず、この行事は非常に生徒参加率が高い。

地域密着で町がこのイベントを大いに盛り上げ、大いに出資も行うために大学の学祭並みに人が集まる。学校祭というよりは地域総出で行う地方の祭に近い。

生徒の親戚、親類、他校生徒、OBは元より、地域住民、そして近郊の市町村、遠方からもかなり人が来る。その自覚からか生徒側の力の入れようも半端ないものがある。

かなり他の高校に誇れる、いや、他の市町村に大いに誇れる好行事だ。

 

その中でも水泳部がこの学校の創設以来、この行事に出し続け、水泳部伝統の味として引き継いでいる味がある。それがこのおでんなのだ。

この事から七咲がその役目に任されることがどれ程重責であるかを改めて再認識した時、広大は部外者ながら率先して手伝うことを決め、塚原にも許可を取った。

 

「失礼します」

 

調理実習室の扉を開けた瞬間にむわりと出し汁の香りと湯気が目に付き、その向こうのシルエットが二つ動く。

「コウ君。いらっしゃい」

 

「先輩」

 

「はい。茶道部その他アンケート回収してきました~。斬新な意見満・載です」

 

「ありがとう。改善意見が欲しかったのよ。」

 

水泳部のおでんは確かに伝統にこだわる。が、このような柔軟性も兼ね備えている。それに互いに凝り性な塚原と七咲の性格も合わさって今年はすごいのが出来る気がする。そんな予感が広大はした。

 

「そもそもの材料―大根を変えろ・・か。考えた事も無かったわ。」

 

「あ。この店がいいって。はい。」

 

茅ヶ崎が一緒に渡してくれたコピーの写しを広大は塚原に渡す。

 

「「かおる青果店」・・聞いたことある?七咲?」

 

―ぷ・・。棚町さんと同じ名前だ。

 

「いえ・・。買い物は距離的に近所のスーパーで済ませる事が多いですから。」

 

「成程ね。素材を変えるか・・なんか本格的で楽しくなって来たわね。七咲?今日はこれ位で終わりにしましょう。出汁はこれで特に問題ないと思うから今度はこの助言通り入れる素材を変えて試してみましょう。そこで・・今日時間があるなら帰りに早速このお店に行って数本この店の大根を買ってきてほしいの。試せる事は早めに全部試しておきたいしね」

 

「了解です。」

 

そう言った七咲はすぐにテキパキ片づけに取り掛かる。どうやら出汁の改良は終わったらしい。

 

「コウ君?・・悪いけど七咲に付いていってあげてくれないかしら?他の部員も創設祭の委員会や部活で出張ってて頼めるのが・・。」

 

「暇人だもの。喜んで。」

 

「くすっ。ありがとう。」

 

「けど・・部外者がここまで関わっていいのかな?」

 

「はるかはどうなるの?」

 

はるか―森島 はるかは部外者でありながら何と水泳部の部員勧誘を春に行っている。その成果は塚原を遥か凌ぐ。

 

「あー納得。」

 

―ヘンなとこでフリーランスだよな。この部活。

 

「響姉はどうするの?」

 

「それがね・・。」

 

 

「あ~わっかんないぃぃぃ!!!」

 

 

突如調理実習室後方から悩ましい奇声が上がる。

 

「のわっ!?あ・・。」

 

―・・・森島先輩・・いたんですか。

 

「ちょっとぉひびきちゃん!私の変わりにS大の試験受けてきてくんない!?このとおり!一生のお願いだから!」

 

無茶なおねだりをする女子高生もいたものである。

 

「はるか・・貴方『一生のお願い』を一生の内に何回使う気なの。第一替え玉受験なんてバレたら私の推薦入学まで間違いなく取り消しじゃない。何ら私に利点ないわ」

 

無理と端っから解っている事を敢えて話だけは乗ってあげる優しい塚原。本当に森島と相対するときの塚原は広大や七咲とは異なっている。

 

「ひっど~~い~。いいじゃない!ばれたらばれたで私と大人しく楽しい浪人生活しよっ!?ねっ?ねっ?」

 

「と・・いう訳よ。コウ君。七咲。本当にゴメンね・・。」

 

「・・了解。がんばってね響姉。・・いこか・・。七咲。」

 

「・・ふふふっ。はい。森島先輩?ファイトです♪」

 

ぐっと片手を握って七咲は森島を鼓舞する。その仕草に「ありがとう!逢ちゃん。私頑張るわ!!」と森島はやる気を復活させるが―

 

「むむむ~~~っ!!・・・むむむ~~」

 

教科書に眼を通した瞬間、見る見るうちに森島の瞳が死んだ魚の様に曇っていく。

「ダメ。もう一度『逢ちゃんラブ成分』を補給させて下さい」と森島はねだるが、「ダメです。一日一食限定です」と七咲はおどけて舌を出しながら笑った。

 

「・・・」

 

七咲は最近少し丸くなったと広大は思う。というよりも元々こういう子なのだろう。

 

「あ。コウ君!?こんにちは~。」

 

七咲にふられた森島は今度は広大に縋る。が―

 

「あ。こんにちは~。そしてさようなら~。」

 

広大は視聴者参加型番組のようなわざとらしい返事を森島に返しつつ調理室を出る。七咲も森島に対してクスクスと笑いながら手を振る。

 

「あん。もう行っちゃうの?コウ君~~。逢ちゃ~~~ん」

 

「コラ。はるか。貴方は集中するの。大学生になりたくないの?」

 

「ひ~~~ん。ずっと高校生がいいよぉ。」

 

 

森島の断末魔を背に広大と七咲は帰路につく。

 

 

「ここか・・。」

 

―どう見てもシャッターが閉まってるけど・・開いているのか?ここは。

 

「確かに『かおる青果』とは書かれていますけど・・誰もいませんね・・?野菜らしきものも無いみたいですけど。定休日とか・・?」

 

「いや。定休は月曜だから今日は開いてるはず。地図的にも・・ここだよなぁ・・。スイマセン誰かいませんか?」

 

意外にもすぐに反応があった。

 

「はいはい。」

 

人のよさそうなパーマのかかったおばさんが顔を出した。楕円の丸眼鏡がいかにも「今帳簿付けてて手が離せなかったのよ。」的な印象を与えるレンズの小さいものだった。

 

「あら。学生さんがお二人・・珍しいお客さんねぇ。」

 

「あ。いきなり失礼します。実はここでお野菜が買えるって聞いて伺ったんですけど・・。」

 

「そうよ。でも・・学生さんが買いに来るなんて本当に珍しいわね。」

 

おばさんはそう繰り返した。この手の人種は時々呪文のように何故か同じ言葉を繰り返す事がある。中々ナゾな生態である。

 

かおる青果店―

 

どうやらここは店頭販売を行っているのではなく、懇意の料理店や飲み屋に直接野菜を卸す業者であるらしい。しかし

 

―何故話を通せば誰でも直接購入出来る事を一女子高校生が知っている?飛羽 愛華先輩よ。

 

さらに

 

「誰かに紹介されたの?」というおばさんの問いに広大が飛羽の名を出すと

 

「は!あのお方が!?学生さん!貴方あのお方のご学友なのね!?」

 

―・・・「お方」だァ!??

 

 

数分後―

これが俗にいう有機栽培という奴なのだろうか。スーパーの物とは一線を画す奇妙な形でまだ土の匂いの香る大根をかなり格安で譲ってくれた。さらにおばさんは丁寧にも生のまま試食させてくれる。二人が口に入れた瞬間、正直これは驚きの一言だった。

 

「うおっ甘っ!」

 

「すごい!みずみずしい!」

 

「でしょう。おろさなくても、調理しなくても大根は食べられるのよ?そのままでもね。」

 

―かっこいい・・。

 

自分の作る野菜に自信と自負があるのだろう。得意気に微笑むおばさんのカオは純粋にプロッフェショナルな気概に溢れ、かっこいい。

 

「すいません先輩。私の家の分も買って行っていいですか!?コレ、もう、ホント、すごい!」

 

流石の七咲も幾分興奮気味。明日の筋肉痛を確信するほどの両手にいっぱいの大根やおまけの野菜を詰め込まれた袋を広大は抱えて帰路に着く。今両手にこれ程の大根を抱えている奇特な男子高校生は世界に居まいて。

 

「・・すごいお店でしたね。」

 

七咲は驚きと興奮が冷めやらない、未だ眼を丸くしながら広大の顔を覗きこんでそう言った。

 

「・・飛羽先輩が益々わからなくなったけどね。」

 

「同感です」

 

 

 

 

「・・。先輩?今日はもう帰ります?」

 

「ん?別に・・ひょっとして何か買い足すものでもある?」

 

「・・。ちょっと行きたい所があるんです。ここからだと近いんですよ。」

 

「ん?ここらへん他にお店あったけ?」

 

「いえ。そういう訳じゃないんです。まぁ・・付いてきて下さい。」

 

「?」

 

訝しげな広大を尻目に彼が両手に抱えた買い物袋の片方を七咲は一つ受け取り、

 

「さぁ行きますよっ。」

 

小柄な彼女は重そうな買い物袋を両手に抱え、やや後ろ寄りに傾いた重心で振り返り、そう言った。短めの肩ぐらいまでの髪が凛と揺れる。

 

五分後―

 

―確かに近い。確かに近い・・が。ここ?

 

「・・水泳部のトレーニングの一環ですか?七咲さん。」

 

「あ。そういう考え方もありますね。」

 

広大の目の前にそびえたつのは鬱蒼とした森に囲まれた長い階段だった。傾斜もなかなかにきつい。階段の右の草むらにはいくつかの地蔵と仰々しい漢字で描かれた石碑が建っている。今から起こる惨劇を前にしては圧迫感が半端では無い。

 

「・・七咲が行きたい所って吉備東神社だったんだ。しかし久しぶりだな。昔は兄貴や父さんと一緒に蝉捕りとかに来たりしたけど。」

 

「私ここ好きなんです。鳥居をくぐるまでのこの階段を小さい頃から夢中で登ってました。私・・小さい頃体が弱かったから両親が『体力をつけるために』って何度か連れてきてくれたんです。水泳を始めてから行く回数も減りましたけど、今でも時々ここに遊びに来るんですよ。」

 

「へぇ・・一人で?」

 

「はい。大抵は。」

 

「変わってるね。七咲は。」

 

「先輩に言われたくありません。さぁ登りますよ。」

 

「え。そんなに急がなくても。」

 

―荷物が重いんだって。ゆっくり行こうぜ・・。

 

「日が暮れると見えにくくなりますから。」

 

「見えにくく?何が?」

 

「んふふ。内緒です。さぁ!今は口より足を動かして下さい。」

 

その会話から五分と経たぬうちに広大はその口を聞けなくなった。

 

 

―やば。きつい。

 

「ぜ~~ぜ~~ぜ~~」

 

「はっ・・はっ・・はっ・・」

 

広大とは対称的に七咲は登れば登るほど溌剌と、いつもより表情が柔らかくなっていった。

広大が視線を足元の階段にしか集中できない息も絶え絶えな状態に対し、七咲の呼吸感覚は常に一定、鬱蒼と囲まれた木々を懐かしむように見つつ視線は常に上向いていた。これが運動部と帰宅部の差。後者には現在景色を楽しむ余裕すらない。

 

―くそ。大根が恨めしいほど重い。む。今見たら南瓜も入ってんじゃん。有難う。かおる青果店のおばちゃん。その心遣いが今は・・何よりも切ない。

 

「むぅ・・先輩は今まで連れてきた人たちの中で一番ひ弱ですね。」

 

「無茶、・・言、うなって・・荷物、も、あるんだし。・・結構他の・・誰かとも来るの?」

 

「はい。大抵は弟とですけどね。時々友達とか部員達とも来ますけど。ほら・・図書室で紹介した一葉ちゃんとか。美也ちゃんとかも。」

 

「あぁ一之瀬さんね。・・。美也?・・あぁ橘の・・。」

 

「あ。知ってるんですね。」

 

「まぁ珍しいしね。歳一個違いで同じ高校に通う兄妹だし。」

 

「そう言われると確かに珍しいですね。ウチなんか八つ違いですし。」

 

「え。そんなに歳離れてんの?」

 

広大は七歳上の兄と離れているが上には上がいた。

 

「はい。両親も忙しいのでちょっと・・何て言うか。私に・・。」

 

「べったりか・・。」

 

「はい・・。」

 

―まぁ一つ違いで血も繋がってない俺が響姉にアレだからな・・。それに比べたら自然かね?

 

「けど皆今の先輩程ばてていませんよ?私を置いてっちゃうぐらい先々行っちゃいますし。」

 

「くぅ・・。辛辣なダメだしですナ」

 

「ほら。落ち込んでないで・・着きましたよ。」

 

鳥居をくぐり、ようやく拓けた視界にはあまり見た事がない初冬の吉備東神社が映る。

ひんやりとした雰囲気と紅葉が終わり、葉が落ちている木々のせいで記憶の中にある吉備東神社とはやや違いがある。参拝客もいない。・・これは好都合だ。

 

「ぷ・・はぁ~。」

 

大根と南瓜が所狭しと入った買い物袋と鞄を置き、誰もいない事をこれ幸いと広大は仰向けに大の字で寝転がった。良い子は真似しないでね。

 

「はい。お疲れさまでした。・・丁度いいところですね。先輩。」

 

「あぁ・・誰もいなくてホント良かった。あー、ぜいぜい・・きつ。」

 

「いえ・・。そうじゃ無いんです。先輩のその位置・・視線の先が丁度いいんです。計ったんじゃないかって位いい位置に居ます。」

 

「いい位置・・?」

 

「・・見えませんか?」

 

七咲はそう言って荷物を下ろし、広大の前に歩み寄ると膝を曲げて座り、顔を近付ける。柔和な笑みと共に―

 

「くすっ・・先輩?動かないでくださいね・・?」

 

―え?・・・!

 

・・その近づいてくる顔は途中で踵を返し、広大に出来るだけ近い目線で彼女は空を見ていた。

振り向きざまに揺れた髪の香りがする。同時に彼女は指をさす。細く白い指が真っ直ぐと乾いた初冬の虚空をなぞる。

 

「・・よかった・・。」

 

小さな声で七咲はそう囁いた。

 

―・・・。

 

広大は訳が解らなかった。

七咲にも。

今の広大(じぶん)自身にも。

何となく七咲の顔がまっすぐ見れず、言い訳のように七咲の指の先を目で追った。その時はその指先が何とも丁度よく都合のいい視線のやり場に感じてしまった。

 

―指差してるんだから・・その先を見なきゃダメだよな・・うん。

 

しかしそこにこそ主役がいた。それこそが七咲が最も広大に見せたかったものだった。

 

「・・あ。」

 

「・・よかった。・・咲いてる。」

 

二人の視線の先には枝。ただの枝。虚空に張り出した茶色いただの枝。

けどその先に光る「とある」物は広大の疲れも、ついさっきまでの妙な動揺もしばし忘れるほどの存在感があった。小さいがとても大きな生命力を持ったその枝はソメイヨシノの木の枝。

つまり・・。一見冬枯れにしか見えないその枝から息吹くものは

 

・・ほんの数房しか無いにしろ確かに・・桜の花びらだった。

 

「・・何で?」

 

広大の何の計算も調整も無く自然に出た言葉である。

 

「・・・綺麗でしょう?『二期桜』っていうらしいですよ。」

 

大の字で寝転がっていた上半身だけを起こし、ただ広大は上手く言葉を選べず、今は見とれた。

 

「くすっ・・この時期にみる桜も風流でしょう?・・私のとっておきの秘密の場所です。」

 

「・・毎年咲くの?」

 

「解りません。けど・・この時期にいつもここに来たら咲いていたのを覚えてます。初めて見つけたのもいつだったか・・。」

 

「・・・凄いな。七咲は。」

 

「え?」

 

「普通絶対気付かない。気付いてあげられない。」

 

「・・・。」

 

「だからホントに凄い。ただ単に通り過ぎてしまう人間は絶対に気付かないし、この価値も解んないと思う。」

 

「・・。見せた甲斐があります。嬉しいです。そんな風に言ってくれて。」

 

「いや。俺こそ。見せてくれて嬉しい。」

 

広大の素直すぎる立て続けの賛辞に流石に七咲も照れ、やや頬が赤く染まる。

 

「・・。実は・・ちょっと見せるの不安だったんですよ?こんな普通誰も気付かないような物に気付くなんて変な奴だって思われるかもしれないって。」

 

「それは無いって。七咲らしいとは思うけどね。」

 

「・・それはちょっと・・けなしてません?」

 

「え?そんなつもりホント無いんだけど。うーん。褒めたいんだけど褒め方が解らないのって案外もどかしいのな。何て言うのかな・・。」

 

「いいですよ。先輩が私をバカにしてないってことは解りますから。」

 

「いや。面目ない。」

 

「ふふふふっ、何で謝るんですか。」

 

 

―・・嬉しい。

 

自分が抱き続けてきた価値観を目の前の「この人」が曇りなく共有してくれた事がただ純粋に。

 

驚いてくれた。

感動してくれた。

喜んでくれた。

 

そしてそれを必死で伝えようとしてくれた―それがただただ純粋に嬉しい。

 

「よ、と。」

 

広大は少し起こした上体を再び倒し、腕を後頭部で交差させ、また見入った。

 

「いつまで見られるのかな・・。」

 

「・・春の桜と一緒です。咲いたと思ったら・・すぐに・・。」

 

「そっか。」

 

「あの・・・。」

 

「ん?」

 

―・・ああ。まただ。なんで?

不自然で。唐突で。不意に襲いかかるこの感情。

でも別にいいよね。自分から言い出したことなんだから。

だって私言ったよね?「この人」に協力するって。応援するって。

 

「塚原先輩に・・いずれこれを見せてあげてくれませんか?勿論私が教えたことは内緒で。」

 

「え?」

 

「塚原先輩ならきっと喜んでくれると思うんです。今日先輩に見てもらって確信したました。」

 

「あー成程。今日は下見がしておきたかったわけだ。」

 

「・・まぁそういう事ですね。」

 

「響姉なら確実に喜んでくれるだろうな。そんな不安がる事無いと思うのに。」

 

「でも咲いてなかったりしても困りますからね。」

 

「え~~・・俺実験台かよ。」

 

「そうです。おでんの毒見を兼ねてる先輩です。今更ですね?さ、咲いている事も解ったし帰りましょうか。本当に今日はお付き合い有難う御座いました!」

 

自分の中にある何処かもどかしい、形容しがたい「何か」を振り切るように七咲は勢いよく立ちあがった。

 

・・軽率である。

 

「あ!ちょっ!!立つな!七咲!」

 

 

「え?あ!!?ひゃっ!!」

 

 

・・・!!

 

・・・!~~~・・・。

 

 

「見え・・ました?」

 

「あ~~事故事故。うん。これは事故。ノーカン、ノーカン・・」

 

「・・・色は・・?」

 

「今回は黒じゃなかったね。・・はっ!!」

 

「う~・・・!」

 

ぎりぎりと悔しそうに歯を喰いしばり顔を紅潮させた七咲が広大を見下ろす。

 

「ちょっ・・ちょっと待て・・落ち着け・・俺の体勢をよく見るんだ七咲・・俺まだ寝転がってるからね?いま手ェ出すの反則だよ?」

 

「!」

 

げしっ!

 

「・・足かよ!」

 

良い子は真似しないでね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七咲は最初、何故自分がこのあまりにも短い期間のこの風物詩を広大と「共有」しようとしたのか理解出来なかった。

 

少なくとも。

 

この場所に共に来るまでは。

 

だが知ってどうなるのだろう。

 

―先輩の子供みたいな瞳に映っているのは多分・・私にとっても大事な塚原先輩。

なのに相変わらず私は先輩を見ている。目を離せないで居る。

その初めての感覚が今は何と心地いい事か。

 

同時

 

・・何と残酷なことか。

 

でも、所詮私を映す先輩の瞳には私は映ってはいないだろう。

先輩の中には色濃く残っているのだ。私が憧れる塚原先輩との思い出が。

ついこの前までは全く異なる意味でそれが疎ましかった。妬ましかった。

 

でも、それが変わっていっている。音を立てて。何かが崩れ去っている様な感覚と同時、何かが自分の中で急速に積み上がっていく感覚を最近覚える。そしてその感覚は如実に私にこう囁く。

 

 

 

「貴方は所詮、新参者」。

 

「結局の所、貴方と彼と塚原先輩の間に横たわる物は深遠の海。深く、届かない隔たりがある」。

 

 

 

 

 

「七咲?」

 

「・・はい!?」

 

「う・・まだ怒ってる?」

 

「あ。いえ・・。」

 

「そう?帰ろっか。送ります。今日は有難う。・・七咲」

 

広大の無言の謝罪なのか何も言わず七咲の家用の野菜も広大は持ち、少し半身で七咲を見た後、背を向けた。

 

 

―七咲

 

―七咲?

 

―七咲!

 

 

―響くなぁ・・。この声。いつからだろう?

 

そう思って七咲はジャケットのポケットの奥にある物体を握りしめる。

決して開かない蕾。あの日広大から受け取り、後日正式に塚原、水泳部の皆が託してくれたプーの鈴。あの日以来ずっと持ち歩いている。それを握りしめる。七咲の心とは裏腹に、響かないように。強く握りしめる。

 

咲く事が無いのに咲かないように。

強く握りしめる。

 

桜は咲いて、

 

「この人」の声は私の心に響いて。

 

咲く、響く。

 

でも。

この鈴は咲かない。

咲かせてはならない。決して。

なら、

響かせない。

 

・・決して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9 今いるこの場所がいつか懐かしくなればいい 

 

「コウ君。」

 

「あ・・ひび・・塚原先輩。何か用ですか?」

 

「くす・・何で言い直すの?・・はい。ようやく改良おでんが昨日完成したの。」

 

そう言って塚原は大きな水筒のような物体を広大に手渡す。

魔法瓶型の大容量の弁当箱。中身を冷やさず、密閉されているため汁物も問題無く入れる事が出来る優れ物である。それ故如何せん重い。

 

「響姉・・こんな重い物持ってきたの?言ってくれれば俺自分で取りに行くのに!」

 

「気にしないで。色々とコウ君には七咲や創設際の件でお世話になってるんだし。それよりも今回のは七咲の自信作よ。食べてあげて。」

 

「完成したんだ」

 

「出来は・・うんホント私も驚いたわ。・・っと、後は食べてからのお楽しみ・・ね?味わって食べて。そして感想をちゃんとしてあげてね。」

 

「うん。」

 

「じゃあね。コウ君。」

 

「あ。待って。」

 

「ん?」

 

「良かったら今日一緒にお昼食べない?」

 

「・・私となんかでいいの?」

 

 

「勿論。」

 

「・・そうね。久しぶりに一緒にご飯食べようか。場所はどこにする?」

 

「折角あったかいおべんとだし・・逆に寒いトコで。屋上はどう?」

 

「くすっ。いい案ね。解ったわ。じゃ、お昼に。」

 

―おっしゃい!

 

内心軽くガッツポーズ。

 

「うん。あ、ゴメン。後・・。」

 

「うん?・・あぁ。七咲ならいないわよ。今日は一年生全員校外学習で出張ってるはずだから。」

 

「あ!そんな時期か・・。むぅ・・。」

 

「どうかした?」

 

「呼びたい奴が居るんだけど・・いいかな?」

 

 

 

 

昼休み―

 

 

「お邪魔します。」

 

「失礼します~。」

 

「あ。来た。」

 

ランチタイムの屋上は中々ににぎやかである。

しかし、今日は一学年まるごといないため、いつもよりはいい場所が空いている。

座ってもズボンが汚れない場所が結構に限られているところがこの場所のネックだ。

広大が下っぱサラリーマンの花見の席とり並みの気の入れようでべスポジを確保し、塚原を向かい入れたその場所に今回お招きした二人が顔を出す。

 

茅ヶ崎 智也、桜井 梨穂子の二人である。

 

今回会心の案を出してくれた茶道部から二名。といっても茅ヶ崎は部外者だが広大も広大なので気にしない。

 

「久しぶり~杉内君。今回はお招きありがとうございまっす!えへへ~。」

 

中学の時から変わらないほんわかとした笑顔に似つかわしく無い敬礼のようなポーズを現れた少女―桜井 梨穂子はとる。今回は「おでん」という食い物が関わっているためいつもより一層に表情が締まらないようだ。

 

「桜井さんも久しぶり~。」

 

つられて広大も口調が締まらなくなる。彼女は存在自体が癒してくれる。

 

「桜井さんに、茅ヶ崎君。今回の件の協力本当に有難うね。」

 

塚原も礼を言う。今回試食会にこの二人を誘う事に塚原は大賛成してくれた。直接お礼を言いたかったらしい。

 

「いえ。・・俺らは何も。意見だって殆ど夕月先輩と飛羽先輩の案ですし。」

 

桜井とは対照的に落ち着いた、低い口調で茅ヶ崎は返す。別に不機嫌なわけではない。

あくまで彼はこれが素なのだ。

 

「ううん。そんなこと無い。本当にアンケートを出してくれた皆には感謝してるの。お礼と言っては何だけど・・食べていってね。代表として。」

 

そう言って塚原は柔らかく微笑んだ。

 

「・・いただきます。」

 

茅ヶ崎を見るときは表情よりも耳だ。彼の耳は顔よりもはるかに彼を語る。

現在色がやや紅潮気味。少し照れているらしい。隣の桜井もそれに気が付いているのか横目で少し妖しく笑いながら見ている。どうやら少し不機嫌さも隠せないようだ。

ここは茅ヶ崎のために彼女に食い物に集中させてやらねば。

 

「あ。・・・いい匂い。」

 

「んへへ~溜まりませんなぁ・・。」

 

魔法瓶から出しただけなのだが既に充満する暖かい湯気と香りに既に二人ともほんわかしている。

 

「辛子もあるぞよ。」

 

「あ、ありがと。杉内。」

 

「あ~!!あたし辛いのダメ~!!!」

 

大げさな手振りで桜井、必死に必死にアピール。これはブリではない。素だ。

 

「か、可愛い・・。」

 

思わず塚原からも言葉が漏れた。

 

 

 

 

二十分後―

 

「食べた~。うー。御馳走さま~。」

 

「・・わりと幸せ」

 

茶道部二人の味の感想はこの台詞から察してほしい。

 

食後に桜井は茶道部で用意したという水筒に入れた緑茶を振舞ってくれた。即席で用意した紙コップで「味気なくてゴメン」と苦笑いして言っていたが、綺麗な色をしたお茶を均等に振り分け、勧めてくれたお茶は・・

 

「さすが茶道部・・。桜井さん。ぜひこのお茶葉と淹れかたを教えてくれないかしら?」

 

と、塚原に言わしめる程のものだった。

 

「ふふふ。企業秘密です~。教えるには我が茶道部への入部が必須条件です!」

 

―おお。桜井さんも交渉術を身につけたのだな。

 

ただ卒業直前の三年生を前にして言う言葉としては何分ズレすぎている感は否めないが。

 

「今から入部?いいわね。新入生になった気分だわ。」

 

「あはは!」

 

さすが桜井である。彼女の周りを流れているゆっくり、ゆったりとした時間は周りに居る人間を巻き込んで、惹きこんでしまう。初対面の人間には案外近寄りがたいといわれる塚原でさえあっさりと打ち解けている。本当にこの二人を連れてきてよかった。楽しそうな塚原を見て広大はそう思った。

 

―案外いいペアかも知れないな?この二人。

 

 

暫くの四人の歓談の後―

 

 

「・・梨穂子。戻ろう。」

 

小さく、しかしハッキリと桜井だけに聞こえる声で力強く茅ヶ崎はそう切りだす。

 

「へ。まだ時間あるよ?」

 

「俺達が居ちゃ邪魔なの。」

 

「ん?そうなの?解った・・。」

 

「じゃ。俺達はこれで。御馳走様。杉内。塚原先輩も有難うございました。」

 

「ん。もう行くの?」

 

「桜井がう○こだって。」

 

「はい。そうなんです~~~。・・・って何それ!??私言ってない~!」

 

「じゃ・・う○ち?」

 

「言ってなぁ~い。智也のばかぁ!」

 

パッチーン。

 

―あ。桜井さん割とマジでぶった。

 

そそくさと去る茅ヶ崎を追っかけるようにして桜井は屋上を後にした。最後に広大と塚原の紙コップに改めて綺麗なお茶を一杯注いで。

 

「はぁ・・ホントおいしい・・。お茶の奥深さを改めて感じたわ。」

 

塚原は桜井が去った後も相変わらず彼女のお茶をべた褒めしていた。

 

「冗談抜きで今からでも入部したいぐらいね。それに桜井さんすごいわ・・私もあれほど勧誘上手なら・・。お茶と一緒にあのスキルも学びたいものね。」

 

さりげなく彼女は今年七咲以外の新入生への水泳部勧誘が悉く失敗に終わった事を心底気にしている。

 

「まぁ桜井さんの場合は天然であれだからね。響姉には無理だよ。」

 

「・・ひどいコウ君。そんなの解ってますぅ・・」

 

珍しく拗ねた様な塚原の声が可愛い。思わず広大は―

 

口がするりと滑った。

 

「響姉の良さはすぐにはわかんないって。」

 

「・・!そう言う事は簡単に言わないの・・。」

 

「う・・。」

 

塚原は少し気不味そうに紙コップを口に運んで口元を隠す。

 

「びっくりするじゃない・・」。恐らくそんな類の言葉を塚原は小さな紙コップの中に閉じ込めたのだろう。それは声にならず、変わりに心地よい香りと湯気が隙間から洩れ、塚原の顔をなぞる。

 

「・・」

 

口走った当の広大の顔も上気を止められない。何となく広大も口に茶を運ぶが桜井に改めて入れてもらった熱いお茶も火照り上がる自分の動悸に比べると妙に温く感じる―が、それは気のせいだった。事実茶はまだ熱かった。

 

「あっチっ。つ。えっほ!げぇっほ!」

 

「ちょっとコウ君!大丈夫!?」

 

「大・・じょ・・ぶぇっ!こっ!」

 

―じゃねぇ。

 

涙は出るわ、鼻は出るわ。

 

「ぷ・・ほら。鼻かんで。」

 

そこにはいつもと変わらない塚原が居る。昔から変わらない、記憶のままの。広大は悔やむ。

折角塚原が自分でも思いがけず口走ってしまった発言に驚き、些細な動揺、綻びを見せてくれたのに自分がいつもの綻びを見せたせいであっさりと形を潜めてしまった。まだまだ広大は修行不足。笑いながら介抱してくれる塚原の笑顔を見るだけで満たされていく自分が何とももどかしい。

 

 

 

 

「ああ・・楽しいなぁ。」

 

不意に塚原はそう言った。

 

「・・・?」

 

「ホントにホントに楽しい。」

 

「響姉・・?」

 

「コウ君が居て、七咲が居て、はるかが居て、皆が居て・・また今日の茅ヶ崎君や桜井さんみたいに会った事はなくても私の傍に居た人たちがこの場所には居る。」

 

「・・プーも。」

 

「うん。」

 

塚原が何を言いたいのかが広大にははっきりとは解らない。けど解る。感じ取る事が出来る。広大の粗末な語彙では言語化できそうにないが―それでも自分が「理解している」という根拠のない確信が広大を包んでいた。

 

「コウ君。こっち、来て・・」

 

塚原は珍しく、親を促す幼子のように軽い足取りで屋上の柵に手をかけ、広大を呼ぶ。

彼女のいつもは大人びた笑顔もこの時は別物に感じた。いつもは安心感のある彼女の笑顔がその時はどうしてもほっとけない小さく、頼りない笑顔に感じて広大は足早に塚原の隣に行く。

 

「・・・」

 

そこから見える景色はいつもの、なんの変哲も無い退屈な吉備東の町並み。ありふれた。何処にでもあるような町。でも本当はこの世に一つしかない場所。

 

「一緒に見てくれないかな?この『場所』好きなんだ。大好きなんだ」

 

塚原が言ったのは「この場所から見える景色が好き」ではなく、この場所を構成する全ての事象、構造物、そこを構成する人、場所を全肯定しての言葉だった。

 

慈愛、敬愛、感謝、そして少しの悲哀。

 

そんな感情の割り振りだったと広大は思う。

 

 

 

 

 

 

少し先の話になる。

 

 

四ヶ月後の彼女の卒業式の話だ。

 

塚原は泣かなかった。

 

涙と嗚咽で包まれたその場を彼女は笑いながら歩いていた。彼女を送り出す皆を一人一人丁寧にじっと見据え、笑いながら歩く。広大にはそれが舞うように歩いているようにも見えた。滑稽なほどのしっかりとした歩み。

 

彼女は泣かなかった。

 

去りゆく場所を想い、涙を流さなかった。残される者、いや、全てを託していく者達の為に笑っていた。

 

彼女が泣いたのは・・四か月前のこの日この場所。それを唯一見たのが広大だった。否「見た」というのは語弊があるだろうか。

何せ―

 

 

「・・!・・響姉?」

 

「・・」

 

隣に立った広大の肩に塚原は寄り添い、軽く頭を乗せる。ふわりと充満する清潔な香り。飛び上がりそうなほどの衝撃のはずだが何故か・・

 

―・・・。

 

広大の心根は落ち着いていく。普段は大人で隙のない塚原が小さく消え入りそうな程年相応なまだ十代の少女としての儚さを感じたからだ。

広大は無言のまま、寄り添う塚原が無粋なチャイムによっていつもの彼女に戻ってしまうまで眼下に広がる塚原の大切な光景を目に焼き付ける。塚原の表情を決して覗き込むことなく。

 

「見ないようにした」か?「見て見ないふりをした」か?

 

「それとも見たような気がしただけ」か?

 

それではホントに泣いていたのかなんてわからない。確かにそうだ。でも広大は確信している。隣に居る広大の肩に寄り添う彼女の表情を広大は見ていないが恐らく塚原は

 

・・泣いていたのだ。

 

広大はこの時の事だけは自信を持って言える。見る勇気が無かったわけじゃない。

広大は自分を誇らしいと思った。塚原が涙を流す唯一の場として広大を選んでくれた事実。これが何よりも広大にとって誇らしかった。

 

何の取り柄も無い自分を。何時まで経っても幼い自分を他でもない彼女が選んでくれた事が―

 

 

何よりも。

 

 

 

 

 

 

 

10 今いるこの場所がいつか懐かしくなればいい。2

 

「くわっ!負けたぁ。」

 

広大のハサミに他の梅原、棚町、国枝、源の全員の握りこぶしが炸裂する。

 

「よっしゃ!大将!俺チキンサンド!」

 

「私はエッグサンドとスノーボール!頼んだ杉内君!」

 

「俺は・・じゃ、レーズンパンで。」

 

「炭酸系なら何でもいいや。俺は飲み物だけでいいよ。広大。」

 

「うー・・了解。」

 

「あ。炭酸か・・そう言われちゃうと私も飲みたくなってきた・・。杉内君?スノーボールキャンセルであたしも炭酸系の飮みもの買ってきて!ただコーラは気分じゃないからそれ以外でよろしく!」

 

「くぅ・・質の悪いお客さんだ・・。」

 

「私はそんなのと日夜闘っているのよ!」

 

「あ。大将!やっぱ俺メンチカツサンド追加!」

 

「はいはい・・追加ね。・・くそ。解らなくなった」

 

「杉内君!そういう時はね。『オーダー繰り返します』って言って聞き直すの。」

 

「いつから俺の職業訓練になったのさ・・おーだーくりかえしま~す・・。」

 

そのやり取りの中・・顔を青くした少女が棚町に向かって話しかけてきた。

 

「うー薫ぅ・・。」

 

田中恵子だった。

 

「恵子?どしたの?またフラれた?」

 

「ぐさ。ひどい薫・・。違うよ・・おべんと忘れちゃった・・。」

 

きゅるる~~

 

彼女のその言葉に触発されるように彼女のお腹が鳴る。その憐憫さは先程までワイワイガヤガヤやっていた五人を閉口させる程だ。

 

「あらら~・・お気の毒。それは振られるよりある意味深刻かもね・・。」

 

「お腹すいたよぅ・・。」

 

「あぁ・・あ!じゃあ丁度いいじゃない。これから杉内君が私らの昼食買い出し行くからついでに恵子も何か買ってきてもらったら?」

 

「え・・いいの?杉内君。」

 

「うん。もうこの際一人分増えようと特に大差ないと思うし気にしないで。ではご注文は?」

 

投げやりな言葉だった。しかしこれをすぐに広大は後悔する事になる。

 

「・・ありがとう。お言葉に甘えちゃうね。」

 

「どうぞどうぞ。オーダーは?」

 

「えーーと、ハムエッグとサラダサンド。それと・・。」

 

―・・ん?

 

俄かにその場の全員に緊張が走る。

 

「ロールパン二個、チョコパン、クリームパンにアンパン、全部一つずつで今日は良いや。飮みものは牛乳、一リットルのパックでお願いね。あと食堂のおばさんの隠れメニューの裏おにぎりメニュー、通称「うらぎり」のBセットで。これだけ。」

 

「・・・。」

 

―「今日は?」「これだけ?」

 

一同絶句。彼女の親友の棚町すら絶句だった。

 

「杉内・・俺がメモとるわ。」

 

「・・有難う。国枝。」

 

数分後―

 

メモを片手に教室を去る広大を田中恵子を除く四人はまるで戦地に向かう親友を見送るように幾分どこかせつない表情で送り出す。

 

 

杉内広大君 万歳!ばんざ~~い!

 

 

広大が見えなくなった後、田中を除く三人に国枝がすまなさそうに言った。

 

「あいつ(広大)・・じゃんけんの時に絶対最初はチョキ出すって言ったけど・・お前らあれ忘れてやってくんないかな・・。」

 

「うん。善処するわ・・私も。」

 

「中々難しいと思うけど・・俺も努力するよ。」

 

「すまねぇ・・すぎうっち・・。」

 

―重い。

さっすがに重い。

パンは十個でもさしたる重さは無いが、液体はどうしようもない。炭酸飲料複数、おまけに田中 恵子ご注文の牛乳大パックがあるのだ。幸いにも食堂のおばちゃんが気を利かせて紙の袋を用意してくれた。

だがそれに所狭しと買い出し品が詰め込まれている。そのてっぺんにたった一つ広大の昼飯―チョコチップメロンパンがちょこんと乗っている。

 

「おととと・・。」

 

ここでこれに落ちられたら大惨事だ。両手の塞がっている彼には到底取る事はできない。一度床に置いて立て直す必要が出来る。果てしなく面倒くさい。

しかしこういう時はえてして・・

 

「あ・ああ~~。うわっ・・やっちった。」

 

広大のメロンパンはてっぺんからドロップアウトした。

 

てんてんてん・・

 

さらに悪い事に一階から二階への階段の中間地点から、広大のメロンパンは一階に向かって彼から逃げるように転がり落ちていく。

 

―うっわ最悪。

 

「杉内君・・?」

 

―!その声は・・!

 

二階から声がしたと振り返ると後光の差す美しい少女が一人。なんと神々しい。

 

「あ、絢辻さん・・!」

 

 

 

 

絢辻は一階下に転げ落ちた広大のメロンパンを拾い上げ、わざわざ階段を上がってきてくれた。地獄で仏。いや天使か。

 

「どうしたの?その・・パン・・?」

 

だがさすがにその天使もこの広大の状況には訝しげだった。

 

「昼飯です。」

 

「え・・杉内君コレ全部食べるの?」

 

「まさか。連れの分まで昼飯の買い出し中・・俺じゃんけんすっげー弱いんだよね・・。ぶっちゃけ俺の昼飯は今絢辻さんが持ってるのだけ。」

 

「ああ~。買い出しだったのね。・・それにしても・・多すぎない?」

 

「いやぁ・・今回思わぬ伏兵が参戦して来まして・・。」

 

「・・?そ、そうなんだ。あ、はい。杉内君が落としたのよね。」

 

絢辻は広大の抱えている荷物のてっぺんにその手のゲームか何かの様に慎重にパンを置こうとするが・・

 

「う、わ。わ。ちょっと・・怖い。」

 

崩れると解っている積み木を置くのは絢辻のプライドが許さないようだ。

 

「やっぱ無理っぽいかな・・。」

 

「んー・・。杉内君?」

 

「ん?」

 

「今日は・・カゼとか花粉で鼻詰まってたりとかしてない?」

 

「ん?別に・・?」

 

「よし!じゃあ・・。」

 

ぱりっ・・

 

絢辻は何を考えたか広大のメロンパンの封を突然開けた。

 

「え。」

 

そして少量を細く白い指でちぎり・・

 

「はい。あーん。」

 

「ええっ!?」

 

「ほら。あーん。」

 

―おおおおお!?ま、マジか!?

 

「杉内君?みんな教室で待ってるんでしょ?ほら早く。あーん。」

 

「は、はい!では・・。」

 

 

 

二分後―

 

「・・御馳走様でした。絢辻さん大変美味しゅうございました」

 

―何時もと違って今日は極上の味だったぜ・・チョコチップメロンパン!!

 

はらぁ・・いっぱいだぁ・・。

 

「はい。お粗末さまでした。じゃ。また次の授業で。遅れないように。」

 

そう言って絢辻は去っていった。

 

―ふぅ・・なっかなかに濃密な時間であった。

 

 

 

じりっ・・

 

 

 

「・・?・・!」

 

 

背後に気配。広大が振り返るとそこには―

 

「先輩・・楽しそうでしたね・・。」

 

「え?はっ!!七咲!」

 

「美味しかったですか・・?メロンパン・・。」

 

「いや・・学食のパンだし。でもまぁ・・そこそこ。」

 

―うわ~~あれを見られたのか!!マジ立ち直れない!マジ恥ずかしい!

 

「塚原先輩というものがありながら・・!!!先輩って人は・・!!」

 

「あ・・ぅ。」

 

「デレデレしちゃって・・もう!」

 

「いや・・でもね。その。」

 

「先輩なんて・・!もう・・!もう・・・!―」

 

 

「・・・」

 

―ダメだ。聞く耳持ってない。

 

 

広大は精神的にも物理的にも完全に手詰まりな自分の状態を嘆く。が―

 

次に七咲が発した不思議なセリフに時まで止まる事になる

 

 

 

 

 

「先輩なんてメロンパンになってしまえばいいんです!!!」

 

 

 

 

 

―!!!

 

「・・・。」

 

「はぁ・・はぁ・・。」

 

「・・七咲。」

 

「はい!?」

 

「ゴメン。ちょっと・・これ持っててくれるかな。」

 

「え!?ちょっと・・なんで?」

 

「いいから。」

 

有無を言わせず広大は七咲に荷物を押しつける。小柄な彼女が持つとその荷物はさらに大荷物に見えた。

 

「ちょ・・何ですかコレ!?」

 

「乱暴に扱わないでね・・それ俺の分じゃないから。」

 

「う・・!」

 

こういう所は真面目で責任感のある少女な七咲らしい。しっかりと紙袋を預かった。

 

 

 

 

―・・・。もう・・ダメ。ぷっ・・・

 

びくっびくくっ!

 

広大の笑いの堰は崩壊。当分は止められまい。口を押さえ、小刻みに痙攣しながら広大は悶絶した。

 

「ええっ!?ちょっと・・何がおかしいんですか!!っていうかキモイですよ!!中途半端に笑わないでください」

 

「む、むりぃ・・・ん、くふふ・・なはは・・」

 

「怒りますよ!先輩!!」

 

「お、怒ってるじゃん!既に。くっ・・ふふ、あははははは!!」

 

今は七咲の言葉全てが広大の笑いのツボだ。そういう状態に入っている。

 

「~~~!!」

 

それが解っているのか七咲は悔しそうにしながらも声を出せなかった。今は耐えるしかない。これ以上言うと広大に更なる笑いのネタを提供し続けるだけだ。

 

 

一分後―

 

「はぁ・・はぁ・・はぁ・・!!ゴメン七咲・・落ち着いた・・!!」

 

この前、吉備東神社に登り切った時よりも余程整った呼吸で清々しそうに広大はそう言った。

 

「先輩!!」

 

怒りんぼ七咲、反撃開始。しかし―

 

「いやぁ~ゴメンゴメン・・何で・・何で俺はメロンパンになれないんだろうな・・。」

 

「なっ・・・!!~~~~っ!!」

 

「くくっ・・。ダメだ・・もっかいくる・・。」

 

振り出しへ。

 

 

 

 

もう一分ほどたつと七咲は怒る気力も失せてきた。なんか凄く疲れた。

興奮が冷めてくると徐々に先程発した自分の発言も大概恥ずかしいし、広大は笑い止まないしで、もう穴があれば入りたい気分だった。

 

―ううぅ・・もう・・帰りたい。

 

「七咲。」

 

「はぁ・・何ですか。」

 

「はい。」

 

「むぐ!?」

 

七咲の口に何か甘いにおいが充満し、それに続いて味覚も反応した。

 

ロールパンだった。

 

 

「・・。大丈夫。俺は絢辻さんとは何でも無いよ。・・こう見えて結構長い時間片思いしてんだから。」

 

 

そういって広大は七咲の頭にポンと左手を乗せ、軽く撫でる。今度は下卑た笑いじゃない。

 

いつもの・・優しい笑顔だった。

 

「笑わせてくれた御褒美と慰謝料変わり。安いけど貰ってね。じゃ、また。七咲。」

 

「あ。わっとと・・むぐ」

 

広大を呼びとめようと開いた口からロールパンが転げ落ちる。慌てて七咲は小動物のように両手でそれを支えた。口に銜えたままで―

 

「う。う~~~。」

 

そういう風に唸るのが精いっぱいだった。

 

「は~笑った笑った。」そんな様な事を言いながら上がっていく広大を七咲は見送る。

 

 

 

「・・(おいし・・)」

 

 

何の変哲もないロールパンが今日は何故か殊更に甘い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





「あれ?杉内君。私のロールパンが一つ足りないみたいなんだけど?」

「あ。あ~ゴメン田中さん。買い忘れちゃってたみたい。」

―・・覚えてる?やっぱり・・。



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ルートR 5,6

5 少しずつ光の射す方へ

 

2-F 教室

 

今日も憮然とした表情で智也は自らの席に座り、特に何をするでもなく窓の外を眺めていた。

基本的に彼に話しかける人間はこのクラスには居ない。二学年に入って間もない一学期ごろは時折一年時につるんでいた少しヤンチャな連中が教室に顔を出していたが、時が経つにつれ、それすらも居なくなっている。

ここ数カ月彼に自らまともに話しかけた人間は別のクラスから来た古くからの知り合い梅原、杉内、そして幼馴染の梨穂子位だろう。

しかし・・今日は意外にも彼に話しかける一人の勇気ある少年がいた。

 

「あの・・茅ヶ崎君・・」

 

「ん・・?」

 

小さな目に小さな体、小さな声と三拍子そろったおおよそ智也に話しかけるとは思えない少年が緊張で目をぱちくりさせながら智也を見る。ちらりと見た智也に萎縮し、さらにその眼の瞬きが大きくなった。

 

「今・・ちょっと大丈夫かな」

 

「・・?いいけど。何?」

 

智也は最近どうにも初対面や良く知らない人間に対しての反応が我ながら褒められたものではないなと内心感じる。智也の素っ気ない反応に小さな少年の緊張は少し増したようだった。小さな少年は成瀬というこのクラスの創設祭の実行委員のメンバーである。

といっても自ら立候補した訳でなく、候補者の居ないクラスで断れない性格の彼が持ち上げられた形で着任することになった。

だがそれで腐ることなく彼なりに真面目に取り組んでいる。

このクラスに協力者が少ないのが少し悲しい所だが・・。

 

「この前さ・・創設祭の準備を手伝える人を募集したよね?」

 

「・・・ああ」

 

「それで・・その・・立候補者がいなかったからくじで手伝える人を選ぶ事にしたよね・・?」

 

くじで選ぶのは正直どうかと思ったが彼も苦肉の策だったのだろう。

クラスの一部から非難が上がっても「クラスの為だから手伝ってくれると嬉しい」と気丈に言いきった。この少年気は弱いが中々に芯はある。

 

「・・ひょっとして俺当たったか?」

 

「あ・・うん」

 

「・・そうか」

 

「勿論都合がついたらでいいんだけど・・」

 

成瀬の尻すぼみなお願いの言葉が続く。

 

「・・解った。今日か?」

 

「・・うん。いきなりでごめんね」

 

「何人ぐらいでやるんだ?」

 

「僕と茅ヶ崎君と・・実行委員の一年生で女子のあき・・京野さんっていう子の三人だよ」

 

「・・・」

 

―人材不足も甚だしいな・・・。

 

それ程の作業量を要求されない仕事ならいいんだが・・と内心智也は思ったがそうはいかないのが世間というものである。

 

放課後・・資材置き場。

「資材置き場」と聞けば聞こえはいいが要するに物置である。置かれた物は既にほぼ使えない状態の物ばかり。破損、大破した木材やら、劣化した廃材がほとんどである。

 

「・・ここをどうすればいいって?」

 

「・・。創設祭の当日にこのスペースを使って来賓の荷物の一時預かり所にしたいらしいいんだ。そこでここにある廃材を素材ごとに業者が回収に来る前に分けて欲しいって」

 

「要するにお片付けか・・」

 

―創設祭の準備と言うより都合のいい雑用係を任された感じだな・・。

 

まぁ愚痴っていても仕方ない。二人は作業を開始する。

 

「・・。ところで来るって言ってたもう一人はいつ来るんだ?」

 

「そろそろ来ると思うんだけど・・遅いなアイツ・・」

 

「・・・」

 

「あ、だ、大丈夫だよ。サボるタイプの子じゃないから」

 

「いや・・そういう意味じゃないんだが・・」

 

 

 

「すいませ~ん遅れました!幹夫先輩!」

 

 

元気のいい声と共に廊下を走ることなど屁とも思っていないであろう元気な女の子が資材置き場の扉を前にしている二人の前で急ブレーキをかける。

小柄な男子の成瀬を遥か下回る更に小柄な少女だが内包している活発さは智也、成瀬の二人を足しても到底賄いきれないだろう。

 

「・・この子?」

 

これまたお元気そうな子で。と、でも言いたげな眼で智也は成瀬に尋ねる。

 

「あ、うん!ア・・き・・京野いきなり呼びだしてゴメン。部活大丈夫?」

 

「いいんすよぉ!・・幹夫先輩のためなら!!」

 

遅れてきたちいさな少女はご機嫌そうに満面の笑みで成瀬に微笑みかける。・・・どうやら智也はまだそのきらきら光る眼中に入って無いらしい。京野と呼ばれた少女のみ違う世界に居る様だ。

 

「あ、えと・・今日手伝ってくれるクラスメイトの茅ヶ崎君」

 

「え・・は!すいません!よろしくお願いします!」

 

智也に気付き、背筋を伸ばして非礼を詫びる。彼女は根っからの体育会系だなと、内心智也は笑った。

 

「成瀬」

 

「はい?」

 

「二人は知り合いか?」

 

「あ・・」

 

ばれたかと言うように成瀬は少し気不味そうな顔をした。顔は逸らさないものの小さな目は少し泳ぐ。

 

「あ、幹夫先輩と私はウチが近所なんです・・先輩には昔からよく面倒を見てもらってその時から私・・って!きゃあああ・・って何言わすんですかぁ!!茅ヶ崎パイセン!?」

 

「・・」

 

―なんかもう・・色々解った。さぁもういいから作業を始めよう。

 

正直心地よい子だ。智也に対して何ら色眼鏡、警戒を抱いていない。愛情表現も真っ直ぐで素直な良い子なのだろう。

 

大きな少年、すこし小柄な少年、ちんまいが元気一杯の少女三人の作業が始まる。

 

「・・段ボールが無い?」

 

片付け、収納作業、回収業者に廃材を受け渡す際に必須の段ボール箱が無い。

 

「・・在るにはあるんだけど」

 

「結構残っていたんすが『嵩張る』って言うんで先日解体しちゃったんすよ・・で、今日急遽必要になったのにこの有様でして・・」

 

解体され、コンパクトにされた段ボールの束が資材置き場に最早ゴミの様に乱雑に置かれていた。

 

「・・まずそこからか・・」

 

「ごめん・・色々面倒が多くて」

 

「幹夫先輩が謝ることないっすよ。第一解体したのは幹夫先輩にここ片づけるように言った当の実行委員の連中っしょ?めんどくさいトコだけ人任せって都合がいいにも程があるっす!」

 

彼女は怒らない成瀬の変わりにプンスカ怒る。

 

「京野。いいから・・とりあえずまずは段ボールを組み立てることから始めよう」

 

少女を宥めながら成瀬は段ボールの組み立てに取り掛かる。しかし手元がおぼつかない。

 

「成瀬・・ガムテープの上からガムテープを貼っても貼りつかねぇぞ」

 

智也はそう言った。

 

「え・・」

 

「まず前使ってたガムテープを外せ。少々破れてもいい」

 

「う、うん」

 

「・・。役割を分けよう。えっと・・京野さんだったよな」

 

「はい!京野でいいすよ。茅ヶ崎先輩!」

 

「解った。君は成瀬が分けた処分するものとしないものを素材別に分けて作った段ボールの箱につめていってくれ。成瀬、彼女にその指示頼んだ。俺も出来る限り早く適当な数の段ボールの空箱作ってそっちの作業に回るから」

 

「・・うん!解った。じゃあまず捨てる物からいくよ。業者に処分してもらう分だけ先に作ろう」

 

「解った」

 

「了解っす!」

 

三人の共同作業は徐々に軌道に乗る。

 

「幹夫先輩!これって可燃物ですかぁ?」

 

「あ、それはダメ。こっちの段ボールに入れといて」

 

「あいよ!」

 

「成瀬・・段ボール足りてるか?」

 

「あ・・こっちにもう二箱欲しいかな」

 

「了解」

 

三人の作業は続く。その中で成瀬は思った。

 

―茅ヶ崎君って思ってた人と全然違うなぁ。凄く・・頼りになる人だ。僕なんかより。

 

そう思った瞬間二箱の段ボールが成瀬の足もとに転がり込む。早い。

 

「これで足りるか?」

 

「・・うん!」

 

 

 

 

 

 

「ん・・?」

 

2-Fで智也の担任を務める多野はその光景に訝しげにつぶやいた。

 

―茅ヶ崎?

 

智也がいかにも重そうな段ボール箱を片手間に乱雑にひょいひょいと廊下に叩きだしていた。

 

「・・おい」

 

「・・!あぁ・・。多野さ・・・、先生」

 

智也は汗を拭って目をそらす。

 

「茅ヶ崎・・お前何している」

 

一見すると不良生徒が何かをしでかしていると疑っている教師がその生徒を詰問でもしているように見える。が、多野にとってコレはあくまで自然な生徒に対する問いかけなのである。

 

「あ・・その」

 

「多野先生」

 

扉の前でバツが悪そうに立っていた智也の異変に気付いて成瀬が顔を出す。

 

「成瀬・・?」

 

「あ、すいません騒がしくて・・」

 

「・・ああ。資材置き場の整理を頼まれたのはウチのクラスの実行委員だったか・・」

 

多野も合点が言ったかのように頷きながら視線を智也に「なんだ・・堂々としていればいいだろう」と、でも言いたげに向けた。

 

「はい・・そこで茅ヶ崎君に手伝って貰っていて・・凄く助かってます」

 

「そうだったのか・・ご苦労だったな。怪我には気を付けたまえ」

 

「はい」

 

「・・」

 

少し多野は黙り込んだ。そして口を開く。

 

「・・この段ボールは何だ?」

 

「あ・・はい。これは今日処分する廃品です」

 

「・・。じゃあ中にあるそれは?」

 

「こっちは処分せずに保管するまだ使える備品ですが・・」

 

「・・君」

 

「は、はいっ!」

 

多野は教師の登場で作業の手を止めていた京野に突然声をかけた。さっき初めて智也に会った時の彼女と同じように背スジを不自然なほど延ばして返事をする。

 

「適当な紙とペンは在るかね?」

 

「へ?は、はい」

 

「内容物と個数を記入した紙を張っておいた方がいい。保管の際整理がしやすくなる。蓋を閉めてからでは後の祭りだぞ」

 

「あ・・はい!」

 

「で・・茅ヶ崎。この処分する廃品は何処で回収してくれる手筈になっているのかね?」

 

「・・来賓用の駐車場でですけど・・」

 

「・・台車がいるな。管理人室から借りてくる。待っていたまえ。それにあんまり乱暴に作業するな。私じゃ無くても何事かと思って他の先生の誰かが見に来るぞ」

 

「あ、有難うございます」

 

その感謝の言葉に反応せず、多野はさっさと行ってしまったと思うと二台の台車を用意してすぐに戻り、作業に必要な最低限の言葉しか発しないながらも手伝ってくれた。

そして台車を使い、半分程の処分する廃品を来賓用駐車場に運び出した時だった。

 

「む・・すまない。会議の時間だ」

 

多野は腕時計を覗きこみながら相変わらず事務的にそう言った。

 

「助かりました・・」

 

「多野先生有難うございました」

 

「どうも有難うございました!」

 

「・・台車は管理人室の前に置いておきたまえ。明日も三人とも遅れんようにな。創設祭の作業も大事だが本業の学業をおろそかにしては本末転倒だ」

 

素っ気なく事務的に多野は去っていった。相変わらず厳しさも交えた捨て台詞を残す所が彼らしい。そして彼と入れ替わるように回収業者の軽トラックが駐車場に姿を現した。

最後にこれに三十箱はある段ボールを積み込むのである。

 

「よっし!先輩方!後ひと踏ん張りです!やっちまいましょう!」

 

そう言って小柄ながら元気な少女は意気揚々と段ボールを持ちあげようとするが・・

 

「ストップ」

 

智也は彼女を静止する。

 

「・・はい?」

 

「ここはいい。成瀬、京野と一緒に資材置き場の整理しといてくれ」

 

「え、でも・・」

 

「あそこに残す物把握してるのお前だけだしこの荷物女の子じゃキツイよ。だからいい」

 

「・・」

 

「早くしろ。終わんない」

 

「解った。いこうアキ」

 

「はい・・」

 

―さてと・・。久しぶりに明日は筋肉痛かな。

 

そう思いながらYシャツを脱ぎ半袖クロTシャツ一枚に智也はなった。部活動に属していないとは思えない体つきに

 

「兄ちゃん・・何か部活動でもしてんのかい・・?」

 

軽トラから降りて積み込みを手伝おうとする若い男が思わず声をかける。

 

「いえ帰宅部です」

 

そう淡々と答え、一つ軽く十キロを超える資材を満載した段ボール箱を苦も無く智也は軽トラの荷台へ積み重ねていった。その作業中実に三回も「俺らントコでバイトしねぇか」と業者から勧誘をされ、その度丁重に智也は断る。

 

 

 

―ちょっと気になっている部活動があって・・入部迷ってるんすよね。また落ち着いたら考えてみようと思います。

 

 

 

翌日・・2-EHR

 

「出席をとる・・赤谷」

 

「はい」

 

「上元」

 

「はい」

 

「風間」

 

「はい」

 

「椎堂」

 

「はい」

 

「・・茅ヶ崎」

 

「・・・」

 

「茅ヶ崎」

 

「・・・はい・・」

 

「・・。よし」

そう付け加えて多野は出席確認を続けた。

威圧的な多野の出席確認によって張り詰めている教室がざわつかないまでも独特の狐につままれたような沈黙に包まれる。何故なら明らかに返事をした人間が智也では無かったからだ。

「代返」した成瀬は少しドキドキしながらも席に寝そべって反応しない智也を見て少し笑った。そして思う。今朝京野から貰った疲れの癒えるはちみつ漬けレモンを後で御馳走しようと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日以来、智也は度々成瀬の創設祭の作業を手伝っていた。意外な人物の参加に当初、2-Eの実行委員達は戸惑っていたが予想以上に真面目で要領もよく、頼もしい智也の姿におそるおそるながらも話しかける人間が増えて言った。

そして大概の人間は智也の印象を変えていく。

思った以上に真面目でかつ常識的な人間なのではないかと。

目に見えて周りを誰かが取り囲むようには流石にならないものの、彼らも智也の印象を改めつつある。智也もさすがに悪い気はしなかった。

これを機に人気者に、などとは彼は性格上全く考えない。が、少なくとも脅えと好奇の目が和らぐのはやはり気が楽だ。

登校するのが億劫で一時期少し遅刻が増えたこの2-Eの教室も悪くないと思えてきた。二学年に入り、梅原や杉内、源、そして梨穂子とも離れ、元から特に思い入れも無く過ごしてきたこのクラスがほんの少し居心地を変えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6 鶴の一声

 

 

「よ~っす。茅ヶ崎居るか~?」

 

「失礼します」

 

「梅。杉。」

 

「茅ヶ崎 智也言語」を翻訳すると梅原、杉内の二人が遊びに来たという事である。

 

「やめい。・・・何かそれ丼物のサイズで呼ばれているみたいで・・」

 

杉内はその呼び名に少し複雑そうな顔をしてそう言ったが―

 

「「杉」は無いぞ。「松」はあるが」

 

真顔で智也に返される

 

「・・・・」

 

「はっはは!的確なツッコミだな大将!」

 

2-Eを訪ねてきた二人の友人を智也は彼らしく向かい入れた。ただ彼を訪ねてきた珍しい来客に向かいで智也と雑談していた成瀬は少し立ち位置を見失った。

 

「僕・・席を外した方がいいかな?」

 

「ん~?いんや?気にすんなって俺は2-Aの梅原、んで、こいつは杉内ってんだ。よろしくな」

 

「成瀬。こいつが絢辻さんに話通してくれたヤツ」

 

「あ。そうなんだ!この前はありがとう!」

 

もともと頼まれごとを断れないタイプの少年の成瀬は実行委員の一部の連中から面倒な雑用を押し付けられる事が多かった。

それ故その不満からか2-Eの実行委員メンツの足並みがそろいにくく、人数が安定しない悪循環に陥っていた。それを文句も言わず淡々とこなしていたのは評価に値するが流石に貧乏くじが過ぎる。そこで智也は梅原に相談したところ、彼の同じクラスで実行委員長を務めている少女、絢辻 詞を紹介してくれた。

 

智也は彼女に会って驚いた。まぁ大した女の子だと。

 

片手間程度に聞いてはぐらかされると思いきや積極的かつ、真摯に受け止めてくれ、仕事を振るだけであまり動かない一部の委員会連中の風紀と風潮をすぐに諌めてくれた。

結果2-Eの仕事量、質ともに改善されつつあり、まともな活動が行えるようになってきたのである。

 

「いいってことよ!」

 

気のいい少年梅原は相変わらず江戸っ子のノリで返す。

 

「成瀬君だったっけ・・コイツ案外何もしてないよ?」

 

杉内は戯れで茶々を入れ、

 

「・・そうだよな。絢辻さんのおかげが九割五分ってところか?」

 

それに智也も乗る。

 

「おい!俺の粋な計らいは一割にも満たない貢献だってのか!」

 

「そんなこと無いよ。本当に有難う梅原君。実行委員長の絢辻さんにもまたお礼言わないとね」

 

―・・。ああ~成瀬君・・。真面目だな~~コレはいい奴だな~。良い人すぎて損するタイプだわ~。気苦労が多そうだな~。

 

そう思いながら梅原はちらりと茅ヶ崎を見る。

 

―出来るだけフォローするよ。ありがとな。

 

少しだけ頷いて智也は少し笑った。内心智也に尊敬に近い友情の感情を抱いている梅原は久しぶりの智也の前向きな笑顔が嬉しかった。

 

「ところで・・今日は何でまた杉内が梅原と一緒に・・?」

 

「あ、そうそう。最近茅ヶ崎ってさ、茶道部に出入りしてるらしいよね?通い婚?」

 

「・・張り倒すぞ。で・・それが?」

 

「コレなんだけどさ・・茶道部の皆と食べてみてくんない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チーン

 

―・・本当に何でもあるなぁ。茶道部。

 

多機能型レンジまであるとは。まぁ先日の備品整理で判明した数々のいわくつきの備品達に比べたら、比較的あっても不思議ではない物のようにすら思える。馴れというものは恐ろしい。

 

「さて!今日は茅ヶ崎の差し入れとのことだが・・」

 

「せいぜい期待させて貰おうか・・」

 

そして相も変わらず三年のこの大事な時期にこの部室に堂々と居座る重鎮二人が智也にプレッシャーをかけてくる。

 

「わーい♪出来た出来た」

 

その二人とは対称的に呑気でほんわかとした声をあげ、梨穂子はレンジに駆けよっていく。

 

「梨穂子。熱いから気をつけろよ」

 

「平気平気~。・・・だあぁぁぁ熱い!」

 

「・・。だから言ってんのに」

 

「う~~ん飽きんわ~~梨穂っち。一生やってて?」

 

「・・あんこ~る。あんこ~る」

 

 

「や・り・ま・せ・ん!!あああん!!あっつ~~い!」

 

 

やれやれと思いながら智也は炊事場に梨穂子を連れて行き、暫く火傷した指先を冷水につけさせた。

 

指は冷えた。確かに腫れは引いた。

 

でもおかげで今度は梨穂子は顔の火照りを抑える事に少々難儀する羽目になった。

 

 

 

 

梨穂子の手当てを終えた後、一行は改めて試食会を開催。

 

 

 

「ほう!おでんか。いいね」

 

「ふむ・・」

 

「わーい。いい匂い!おいしそう」

 

コタツに入ったままおでんを囲むこの光景。学校の一室の光景とは思えない。

 

「・・・」

 

―・・一体何なんだこの部活は。

 

「・・?どうしたの智也?」

 

「いや何でも・・」

 

「ふむ・・市販の物ではなさそうだが茅ヶ崎・・お前が作ったのか?」

 

相変わらず独特のテンポの口調で飛羽は尋ねる。未だに箸をとらない所から見てどこか警戒している様にも見える。

 

―え。俺そんなヤバいもん持ってきました?

 

「いえ。俺の連れが『水泳部の創設祭にだすおでんの試作品だ。食ってみてくれ』って渡してくれたんす。感想が欲しいらしいですね」

 

そう言いつつ智也はファイルに挟まれたアンケート用紙を鞄から出す。書かれた質問要項も結構細かく、本格的な市場調査をしていることが窺える。

 

「ああ!『あの』水泳部のかい!それじゃあ期待できそうだね!」

 

「・・そうなんですか?」

 

創設祭に全く縁のない、興味も無い茅ヶ崎には縁のない話である。

 

「え。智也知らないの!?水泳部のおでんはすっごく美味しいんだよ。吉備東の伝統の味なんだから。その大根は天を裂き、竹輪は地を割り、卵は・・」

 

梨穂子は別の世界の住人になった。日本の伝統料理はいつ神話の存在になったのか。

 

「・・で」

 

「むぐ?」

 

語りに落ちる梨穂子の口をふさぎ、とりあえずはぎりぎり現実には居るはずの茶道部の先輩二人の話を智也は続けさせる。

 

「ああ。確かに美味いね。そんじょそこらの屋台に真似できるもんじゃないよ」

 

「確かに・・。去年出していたおでんも非常に美味であった・・」

 

「へぇ・・そうなんですか」

 

「・・しかしだ・・」

 

「はい?」

 

「コレは去年の物とは違うな・・塚原が作ったものではないのか?」

 

「すいません。作った人の名前までは・・塚原って人なんですか」

 

見ただけで「去年と違うもの」という事が飛羽に解る事に疑問や驚きを抱かない理解ある少年に智也も既に洗脳されている。

 

「塚原ってのはアタイらと同学年の女子水泳部の主将さ。・・『元主将』って言ってもいいかもね。まぁとにかく去年のおでんの味付けした子だよ。いや~あれは美味かったね!」

 

「・・先輩方と同学年ってことなら三年生ですよね?いえ・・俺の連れの話だと『後輩の子が作った』とか言ってましたから・・多分違いますね」

 

「何と・・後輩とな?」

 

「あんたと同級生の後輩って事は・・一年生かい!?はぁ~っ塚原も思い切った人選したもんだねぇ!」

 

「そう考えてみるとそうですね。一年生の子がこのおでんを・・大したもんだ。って・・え!?」

 

一通りの話が済み、視線を他の三人がおでんに視線を戻した時だった。

 

「もぐもぐ。んぐんぐ・・」

 

すでに梨穂子は一つ目の大根を平らげ、ゴボウ天に食指を伸ばしている。箸で掴まずぶっ刺している所に彼女の精神状態が如実に表れている。

 

「おいおい!ちょっと待ちな梨穂っち!・・もう食ってんのかい!?」

 

「ふらいんぐ・・」

 

「・・っくん!だって・・私そっちのけで皆楽しそうに話してますし・・?」

 

食い意地三割。嫉妬七割。

 

「あっははは・・悪かったよ梨穂っち。ほら、お茶ついでやるから機嫌直せ?」

 

「ほら・・竹輪だ・・あーんしろ・・」

 

「・・じゃあ頂きましょうか。ほら、梨穂子~卵だぞ~。美味いぞ~」

 

「・・ぶぅ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うん!おいしい!すごいなぁ・・コレ作ったっていう一年生の子!羨ましいなぁ。お料理上手なんだねぇ~」

 

梨穂子もようやく機嫌が直り、いつものように周りをホッとさせる幸せそうな笑みを見せる。梅原によるとそこが彼女のチャームポイントの一つらしい。いつもはいちいち梅原の嗜好にケチを付ける智也もそこは妙に納得がいく。

 

「・・うん。美味い。創設祭の日は寒いだろうし売れるだろうな?これだったら」

 

「そうだね~えへへ~最後の大根頂いちゃいま~す」

 

さっきの不機嫌は何処へやら。有難う。名も知らぬ杉内の知り合いの後輩に智也は内心感謝。

 

―おかげで梨穂子はこんなに機嫌よくなりましたとさ。

 

「・・お二方はどうですか?」

 

「・・・ふむ」

 

「・・・」

 

夕月と飛羽は黙りこくったままだった。

 

「・・先輩方?」

 

「む?ああ、そうだね。うん、美味い。確かに」

 

「・・」

 

含みのある言い方だ。

 

「だけどさ・・う~~んやっぱ塚原の作ったのと比べるとなんか違うんだよな~もうひと味ってゆうかさ?」

 

「・・そうなんですか?」

 

「ああ。まぁ試作品だから入れてる品目も少ないせいってのもあるんだろうけどね。出汁にもう一つアクセントが無いんだよ。牛スジとかいれたら出汁に深みが増すし、食感も他と違うもんだから入れても面白いと私は思うけどね」

 

「はぁ・・」

 

予想外だ。学園祭の出し物の料理にこれほど意見を出す女子高生が存在しているとは。

 

「・・まな先輩はどうですか?」

 

「・・瑠璃子と同意見だ。確かに美味い。良く出来ている。しかしこれは味付け云々よりもむしろ素材の問題かもしれんな・・肝心の大根の味がな・・。材料の仕入れ先は知らないが恐らく吉備東スーパーのものであろうな。惜しい・・」

 

「ふーん。そうなんですかぁ・・・?」

 

「・・・」

 

―凄い。凄いけどこの二人・・何か・・もう―

 

怖い。

 

 

「ん!?あぁすまないね。文句ばっかり言っちったみたいだけどこう見えて私ら水泳部のおでんは期待してんのさ。期待を込めての駄目だしって事にしといてくんな?」

 

夕月はニッと笑いながら先輩らしい気の遣い方をしてそう言った。

 

「解りました。伝えてみます。お二人の意見直接ここに書いていいですか?」

 

「いいのかい?悪いが伝えとくれよ」

 

「それで少しでも美味いおでん作りの役に立つのなら願っても無い事だ・・」

 

カリカリと智也が夕月と飛羽から貰ったアドバイスを書き込む中、梨穂子はじっと黙りながらも最後の大根を一口ずつ食べ、首をかしげていた。

 

「・・梨穂子。あんまり考え込まなくていいぞ。思った事言ってくれ」

 

「うん。大丈夫だよ。ふーん。先輩たちがそう言うんだからきっと正しいんだろうなぁ」

 

「『美味しかった』だけの率直な意見でもいいんだぞ」

 

「・・うん。そだね。じゃ!私の感想言うね」

 

「うん聞かせて?」

 

「このおでんね・・「優しい」味がした」

 

「ん?」

 

「へ?」

 

「・・ほう」

 

梨穂子を除く三人は眼を丸くした。

 

「それって味の感想?って言われたら困っちゃうんだけど・・そんな感じがしたんだよね。『美味しいものを作ろう!』っていうよりまず『食べてもらって喜んでもらおう』と思って作ってる感じがする。きっと作った子には食べさせたい人がいるんだと思うな~」

 

何とも梨穂子らしい感想だった。他の三人が暫く呆気にとられる。完全に梨穂子の時間の流れがこの空間を支配した。

 

「ぷ・・あっはははは!!そうだね!梨穂っち!アタイらの穿った知識や先入観よりもよっぽど大事だよそりゃ!うん!どんだけ味付けが上手かろうと、素材が良かろうとそれが無きゃ意味無いね!そりゃそーだ!なははは!」

 

夕月は心底楽しそうにそう言って笑った。飛羽もその意見に頷くように少し微笑みながら

 

「ふふふ。結論を出されてしまったな・・梨穂っちにはいつも恐れ入る・・」

 

「え?え?馬鹿にしてないですか~?ひどいです~」

 

「本気で褒めてんだって!あははは」

 

「ふ・・」

 

「じゃあ何で笑うんですか~二人共」

 

「・・ゴメン梨穂子。俺も笑った・・」

 

「む~・・・」

 

「・・。『鉄は熱いうちに打て』という・・梨穂っちの今感じたままの意見を今のうちに冷めないまま書いてやれ・・きっと参考にしてくれる」

 

飛羽はそう言って梨穂子の前にアンケート紙を出す。

暫くの間梨穂子は書くのを渋り、ふくれっ面をしていたが智也に無言で促されると渋々ペンを手にした。

 

数日後・・

 

 

そのおでんを作った水泳部の少女―

 

「・・ふふっ♪」

 

七咲 逢は就寝前に月明かりで茶道部が出してくれたアンケートを楽しそうに読み返していた。厳しい意見を受け止め、改善点を思案しつつも、その内の異彩を放つ一枚を見て手を止める。そこには丸く整った可愛い字が並んでいた。その文を書いた人間の性質を良く表している。

 

―すっごくいい人だろうな。

 

大人びた笑顔で少女は少しクスリと笑った。そしてその文に目を通す。

 

『とっても美味しくて優しい味がしました。きっと食べさせたい人がいるんだろうなぁと思いました。(私の勝手な思い込みだったらゴメンナサイ)創設祭も絶対食べに行きます。さらに美味しくなるとイイですね!応援しています。・・御免なさい。役に立たない感想で』

 

匿名のアンケートには名前は無い。しかし少女―七咲にはおでんを作る、そして更に美味しく作るための理由がまた出来た。この名も知れない誰かが喜んで貰う為に頑張らなければ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートS 5 

む。いかんいかん。冒頭が抜け落ちとる・・。

12月14日改訂





中多 紗希

年齢何と35。娘は何と19の時の子供である。
太一が一瞬騙されたように見た目、声色など多くの点で娘にそっくりな点が多く、並んで歩いても姉妹、もしくは双子と間違われる程である。

「ウフフ。でもある意味よかったわ。思ったよりあっさり気付かれちゃいましたね。紗江ちゃんが選んだ子だけあるわ~」

「ママ!」

「は、はは・・」

「気付いた理由は?是非聞かせて下さいな」

「・・え?」

「時々主人に悪戯してどっちが私でどっちが紗江ちゃんか当てっこゲームで遊んだりするのよ。当てられなかったら夕飯抜きとかの罰ゲームありで」

―・・あ、あ、あ、悪趣味だな!

もしこのまま騙され続ければ自分はどうなったのかと考えると太一は少し怖くなった。

「でも主人にはいっつも当てられちゃうのよね・・つまんない。おまけに御崎さんにも当てられちゃうし・・御崎さん・・何でだと思う?私老けて見えるかしら?」

これまた答えにくい質問である。

「ママ!先輩困ってるよ~」

「紗江ちゃん!コレは大事な事よ!」

母、娘を一喝。しかし理由は結構大人げない。

「あぁ・・やっぱり喋り方・・ですかね?中多さんはいつも僕に対して敬語で喋ってくれていますので・・所々で違和感のある言葉遣いが隠せてなかったみたいですから・・」

「あら・・そうなの。理想の可愛い後輩を演じたつもりだったのに・・もう!・・紗江ちゃん!?いつまでも敬語じゃダメよ?親密になれないわよ!?」

「え、えぇ~!?」

理不尽な怒りを娘にぶつける母。

「でも・・それだったら言葉づかいを変えればまだ騙せる可能性は在るわけね・・よーっし頑張っちゃおう・・」

嬉しそうに次回の対策を練る中多母。まだやる気満々らしい。

「・・勘弁して下さい」

そう言いつつも・・太一は中多紗希が中多紗江で無い事を結論付けた本当の理由を打ち明けなかった。色んな意味で問題があるからだ。

―体の「とある」部分にだけ妙に明確な格差あるな・・この親娘。

ぶっちゃけると中多母は中多娘に比べるととある部分―胸が無さ過ぎるのである。スタイルや見た目は真似できてもそこだけは中々真似できる物ではない。
流石にこれを真っ正直に告白するのは気が引けるし、何よりもこれをバラして、鎧を着られたり、豊胸手術等の対策をされた場合、本気で見分ける自信は太一には無い。
経済的に双方可能そうな家だけに尚更だ。せめて他の決定的なこの親子の違いを見出すまでにはこれを悟られる訳にはいかない。

それ程に似ているという事だ。

「さて・・ここで立ち話もなんだし、そろそろ移動しましょうか。居間に御案内するわ。折角お土産も頂いた事だし」

「そうですね」

「あ、有難うございます先輩・・気を遣っていただいて・・。・・・。」

改めて太一からの差し入れに礼を言った中多娘は何故かバツが悪そうに塞ぎこんでしまった。

「ううん。・・・?中多さん?どうかした?」

「あ、いえ・・その・・先輩・・そ、その、その、ですね・・?」

「?」

最近バイトの面接訓練の成果か話をするのが流暢になってきた彼女がまた転校直後の彼女に逆戻りしている。

「話ならまた後で聞くよ?」

とりあえず色んな気疲れがあったから太一はまずは座って落ち着きたかった。

「そうよ。紗江ちゃん。お客様を寛がせなきゃいけないんだから」

「・・とりあえず行こう?」

「・・・」

「それにお父さんもお待ちかねよ」

「そうそう・・おとうさんも待っている事だし・・」

「・・・」

「・・ん?」

「主人も御崎さんが遊びに来るって言ったら急に仕事をキャンセルしてね?それ以降何も言わずに応接間に座って御崎さんが来るのを待ってるのよ。子供みたいでしょ?」

「・・・・!!!!????」

「先輩・・その・・ゴメンなさい・・」

最早泣きそうな声で中多はそう言った。

「は・・はは。お父さん・・お父さんね」

・・・太一。危うし。



5 娘大好き 中多さん 登場

 

太一が中多家から帰宅した後、長女と次女の姉二人が帰ってきたのが三十分後だった。

満足のいく買い物が出来たのか終始ご満悦な妹とは違い、心配性な長女は真っ先にリビングで無心に無言のまま、TVゲームのコントローラーの攻撃ボタンを叩く弟に駆け寄った。

 

「どうだった?太一」

 

「・・・」

 

「太一?」

 

「うう・・姉ちゃん・・」

 

そう言った瞬間、太一の操作キャラが死んだ。間抜けな音と共にGAMEOVERのテロップがでる。塞ぎこんだ太一のバックを飾るにふさわしい。

 

「?一体どうしたの?」

 

塞ぎこんで下を向く弟を母親の様な慈愛あふれる目で見る長女、一子。

 

「どうしたの?話してみなさい?」

 

「・・。お父さんにね・・」

 

「うんうん・・お父さんに?」

 

―・・ん?おかしいわね・・ウチのお父さんは出張中で二日後まで帰ってこないはずだけど・・?

 

「・・その年下の女の子のお父さんに会ってね・・」

 

「・・へ?」

 

流石に素っ頓狂な声が姉一子から出る。

 

―初めて遊びに行ってその子の父親と対面!?うわ!それはキツイわね・・。

 

「・・・」

 

「それで・・何か在ったの・・?」

 

「うう!『俺はお前が嫌いだ!娘に近付くな!』って言われた!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時は再びその日の午前中の中多家に戻る・・。

 

「じゃあ私は頂いたお土産と一緒にお茶を用意するわ。主人の紅茶も待っている間に冷めちゃってるでしょうし。紗江ちゃん?御崎君にちゃんとお父さんを紹介するのよ?」

 

「う、うん・・」

 

「はぁ~嬉しいわ。紗江ちゃんのボーイフレンドをお家にお迎えするの・・私の夢だったのよね~♪」

 

この中多母の言動で自分がこの家に初めて「娘の友人である少年」として踏み入った人間だという事を太一は痛感する。

 

「ママ!」

 

「あら。照れなくていいのに」

 

「先輩は・・その・・とっても親切にして下さるお友達です!」

 

―・・まだ!

 

そんな健気な少女の精一杯の言葉も耳に入るが頭に入らないほど太一はテンパっていた。

思わずその少女の言葉に相槌を打ってしまう。

 

「そ、そうですよ」

 

「え」

 

ガーン。

 

中多を太一は図らずも潰してしまった。

 

―そうですよね。そうですよね?

 

自分に言い聞かせるように反芻するその言葉を繰り返し、中多は小さい体をさらに小さくして塞ぎこんだ。

自分に言い聞かせる言葉は吟味、厳選しないと繰り返せば繰り返すほど自分をネガティブな方向へ持って行きかねない。気を付けよう。

 

―まぁ何とも微笑ましい。他人事ならこれ程楽しい光景は中々無いわね~。ホント。

 

ウブな娘と小さくて可愛い少年の二人の光景を天使の微笑みとお世辞にも趣味がいいとは言えない下衆な想いで名残惜しく見送りながら中多母は一旦台所に姿を消した。

 

 

―中多さん・・何か応接間の扉の先からその・・・禍々しい気配がするんだけど。

 

 

その原因は予想が付いている。

太一と中多が出逢い、色んな会話をした中で端々に中多の話の中に現れた存在。中多は必死で出来る限り覆い隠そうとしていたが太一に言わせればほぼ情報がだだもれの状態であった。

 

十六になる娘が「パ・・お父さんは~」と何度も言い直して繕う辺りにこの中多家の父と娘の関係性が解る。

 

「この歳で父親をパパと呼ぶなんて・・」、「でもいつもそう呼んでるから今更言い直すの難しいなぁ・・」―そんな娘の感情が見え隠れする。

言い換えるなら

「この歳で『パパ』って呼んでいるなんてちっちゃい子だって思われる。でも私はいつも

こう呼んでるしこれが一番自然だし・・」という少し悩ましい娘の心理がある。

だがそれは裏づける。

娘はこの年齢にしても「パパが大好き」。ということ。そしてこの歳の娘に「パパ」と呼ぶ事を許容している父親。

即ちパパも「娘が大好き」。と、考えるのが至極当然である。

 

そして娘の友人の「男の子」が来ると聞いた時点で仕事をキャンセルし、無言になって応接間で待ち構えるその潔さ。そんな完全なる「両想い」の父娘の間に入りこもうとする「馬の骨」―それが太一である。

 

―・・今日が僕の命日になるかもしれない。

 

「ここです・・。開けますね?先輩」

 

少女は少年に覚悟を促すように半泣きの目を崩さぬままドアのノブに手をかける。正直思いがけない初対面を控えてテンパっている少年を気遣い、気丈に振舞って欲しい所だが今の中多にそれを要求するのは酷だった。

母による拉致→拘束→監禁→羞恥プレイ→トドメに太一からの「友達です!」→「そうですよ」→ガーン!のコンボが綺麗に入っているのだからピヨるのも頷ける。

 

「うん・・」

 

太一は頷いた。

 

「パパ・・失礼します」

 

最早中多娘は「パ・・お父さん」等と言い直す事はしなかった。何時ものように、彼女が言い馴れた、そして中多父が聞きなれているだろう呼び名で声をかけた。実はこれ無意識であったとしても中々隠れたファインプレイである。

「さ、紗江・・何故パパを何時ものように『パパ』と呼んでくれないんだ・・うおおおん!そいつか・・そいつのせいなのか!」等と我を無くした父の悲しみの矛先が「馬の骨」―太一に向けられる可能性がある。

 

「あ・・」

 

空いたドアの先で太一が目にしたのは天気のいい外の光が降り注ぐ、明るく開放感のある居間だった。日光を程良く反射する美しい白い壁、適度に調和し配置された茶色のソファ、中央の硝子テーブルには恐らく中多母が設えた花が嫌味にならない程度に置かれ、控え目な香りと主張しすぎないながらも落ち着いた部屋の中で映える薄いピンクで文字通り「華」を添えていた。

 

「・・・」

 

しかしそれらに背を向け、中心にある巨大なラックに置かれたこれまた大画面のテレビに目を向け、意外にもTVゲームに興じている後ろ姿を確認する。

 

―え。

 

そのギャップに少し面を喰らって一瞬挨拶が遅れた太一に先駆けてその後ろ姿から声が漏れた。

 

「む・・」

 

家で寛いでいながらも唐突に仕事をキャンセルした男性らしく、後ろ姿でもはっきりと解る正装をしている。やや仕事着にしては明るすぎるチョッキベストを着用している以外は襟元もノリが効いて皺ひとつない真っ白なYシャツ、整髪され、清潔感の漂う黒髪、妻のイメージとは異なり、高校生の娘の居る父親として相応しい「年季」が漂っている。どうやら中多母とは結構歳が離れていそうな雰囲気だ。

興じているゲームをポーズボタンで止め、ゆっくりと中多父は振り返り、太一を両眼に映した。ゲーム用なのか普段もしているのかは知れないが銀フレームの横に長いレンズを持つ眼鏡が光る。

 

―・・若い。

 

唐突に太一の心の中でそんな単語が出た。しかし、それは実年齢の若さを意味してはいない。恐らく少なくとも年齢は四十台半ば過ぎ、26の長女がいる50代の太一の父と比べれば確かに若いのだがそれ以上にやり手らしい独特のオーラをまとう男性だった。

頬や目じりに皺が寄っているものの厳格かつ、強く引き締まった口、通った鼻筋に遊びなく整えられ、オールバックにした額はやや広いが清潔感がある整え方と未だ精力衰えぬ艶と黒色を保っているため、実年齢より確実に若く見えているだろう。恐らく高校生の娘の友人がこの男を見れば「さ、紗江ちゃんのお父さんってカッコイイ・・」と、なるに違いない。また、んな父親が娘の入学式やら卒業式に出席でもしたら、周りの他の児童の母親が自分の隣に居るイケてない夫と見比べて

 

「・・・はっ」

 

・・こうなるのがオチになりそうなぐらいの大人の男性である。

 

 

「・・。遠い所よくいらしてくれた。ここは駅からも遠いし迷わなかったかね?早めに紗江が知らせてくれれば車を出したのだが・・」

 

 

その見た目に違わず、紳士的で落ち着いた、しかし威圧感も伴う低い声が太一の体を包む。

 

「・・・!とんでもないです!お招きしていただいたのに・・あ。紹介が遅れました。僕は中多紗江さんの一緒の学校に通っています。2年の御崎 太一といいます。今日はお誘いいただいて有難うございます・・」

 

「なに・・紗江が誘ったのだろう?そこまで堅くならなくていい。・・ほら紗江?何時までもお客人を立たせておくものではない。座ってもらって寛いでもらいなさい」

 

「は、はい!せ、先輩・・ど、どぞう・・」

 

「あ、うん」

 

「堅い、堅いよ。二人共・・」

 

そう言って息を吐くように失笑した中多父は再び大画面のテレビに目を向け、ゲームのポーズを解いた。ポーズ解除と同時にゲームサウンドが大画面テレビの横双方に置かれたスピーカーから響く。

 

―あ・・これ・・?え!?

 

そこから響くBGM、テンポ、キャラクターの声に太一は聞き覚えがあった。

 

「すまない。すこし待ちたまえ。一応キリのいい所で終わっておきたいのでね」

 

その言葉に何時も自分たちが親や兄弟、友人達に言い馴れている高校生らしいありふれた言動である事に少し親近感を感じて太一の緊張は幾分和らいだ。

 

―こんなかっこいいおじさんがこんなセリフ吐くなんて・・ちょっと。面白いな・・。

 

やたら座り心地のいいソファにまだ背を預ける事は出来なくとも一息はどうにかつける。

少し気が落ち着いた所で隣の落ち着かない少女を見やり、心配そうながらも思った以上に穏便な父の出迎えにホッとしたお互いの心境を図りあうように少し笑いあった。

漸く何時もの笑顔に戻った少女にどうにか日常に戻れそうな気配を感じた太一であった。

 

しかし・・まだ始まったばかりであった。

 

 

―・・うん。やっぱり。

大画面に映る中多父が行っているゲームを見ながら太一は確信した。ややアーケードのもの・・つまりゲームセンターのものと比べると画面の明るさ、サウンドの微妙な違い、キャラの動作がラグなどでやや異なるものの、これは太一が梅原、源、国枝達と帰り際近所のゲームセンターで時折対戦する人気格闘ゲームである。しかし、家庭用はまだ発売されていないはずのものだ。

「何故それが今ここにあるのかな・・?」と、普段なら疑問を抱えたかもしれない。が、太一にとって今日は今までに体験した事の無い事のオンパレードである。それに比べれば

「今まだ発売されてないはずのゲームがなぜかこの家にはある」

という疑問もなんらチャチなものに思えてくる。むしろ非日常の中にちょっとした日常の名残の様なものを感じて嬉しくさえある。たった半日足らずの出来事だが太一は調教されつつあった。

 

しかしそれにしても―

 

「中多さんのお父さん・・上手いね」

 

「そうなんですか・・?」

 

「うん。かなりやりこんでる感じ。ゲーム好きなんだね」

 

「はい・・お知り合いにその・・ゲーム関係の仕事をしている方がたくさんいるそうで、そういう方達から発売前のゲームを遊んでみて欲しいってソフトからハードまで・・色々貰ってきてくれるんです・・」

 

―は~それは羨ましい!

 

「成程ね・・」

 

「私は・・格闘ゲームはしないんですけど・・落ち物が大好きでよく一緒に遊んでます・・」

 

「へぇ・・そうなんだ!意外」

 

「連鎖合戦が楽しくて・・1ラウンド十五分ぐらいかかっちゃった時もあります・・」

 

「・・・中々やりこんでるね?中多さんも」

 

なんともススんだ親娘交流である。

もし太一の両親にゲームをさせようものならコントローラーを持たせてもボタンを押す前に体の方が動いているだろう。彼らにゲームというものを押し付けるのはなかなか酷だ。

体を動かして出来る直感的なゲームハードが出るのを祈るばかりである。

姉三人もそこそこゲームをするが回数の割に上達しない。結果御崎家では太一のみゲームの腕が突出しすぎ、姉たちからつまはじきを喰らっている。

「太一とやると負けるから嫌」とは三女の双子の談。

おまけに悲しいかな最近まで男友達のいなかった太一は一人悲しく黙々と家でゲームをしていた。そのせいで自分のゲームの腕が他の人間と比べても、かなり強い部類に入る事を最近まで太一は知らなかった。

 

「いいなぁ。家族と一緒にゲームをやれて」

 

太一は心底うらやましそうに言った。

 

「はい・・。せ、先輩あの・・・」

 

「ん?」

 

―よかったら一緒にやりませんか。

 

そう言いかけた中多の言葉を覆い隠すように

 

「御待たせ~紗江ちゃん、御崎く~ん」

 

お茶の用意を済ませた中多母が入ってきた。

 

「~~~」

 

―ママぁ・・。

 

娘の心の奥底で響く母へのクレームは届かない。

 

「ん!?貴方・・まだゲームしてるの?せっかくお客さんが来てるのに・・ほらお土産も頂いてるのよ。」

 

「む・・。そうだったのか。それは申し訳ない」

 

「いえ・・そんな」

 

「じゃあまずはお茶にしましょう。乾杯しなきゃね?『紗江ちゃんが彼氏を連れてきた』ことを祝って♪」

 

「マ、ママ!」

 

「はは・・・は!」

 

ぴく・・。

 

そんな音が中多父から聞こえてきそうだった。中多母が戯れで無邪気に言ったその言葉が消えかけていた中多父の殺気を覚醒させる。絶妙な光の角度の関係で中多父の眼鏡が白く光り、瞳が覆い隠される。

ぞ・・。

太一は震える手でティーカップを一脚受け取り、

「そこは口じゃ無い、そこは口じゃないぞ」と、内心自分に言い聞かせながらも口元に運ばれず、目元周辺でうろつくティーカップからいい香りのする紅茶をこぼさないようにするのに必死だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「む・・ほう・・」

 

「あら・・」

 

「わ・・♪」

 

「お、お口に合いましたか?」

 

太一は恐る恐るそう聞いた。先日姉から貰ったお土産のロールケーキが中多一家に振舞われているのだ。太一よりよっぽどイイもん食ってそうな家族に振舞われる庶民の食べ物の土産。正直太一は生きた心地がしない。が・・

 

「・・悪くない。今まで食べた事のない食感だ・・」

 

「ホント。おいしいわ~コレ」

 

「すっごく美味しいです。先輩!」

 

「・・。よかった・・」

 

―よかった。ほんっとによかった。有難う姉ちゃん・・。

 

「今度買ってこようかしら・・御崎さん?素敵なお土産ありがとう」

 

中多母は柔らかく笑った。顔はよく似ていても娘にはまだまだ真似が出来そうもない、大人びて自然な表情、口調である。

 

「いえ。実は・・これは僕が選んだものでなく姉が用意してくれた物なんです。初めて行くお家に手ぶらじゃあねってことで・・」

 

「あら・・御崎さんの所にはお姉さんがいるの?」

 

「はい。僕にこれを持たせてくれた一番上の姉を含めて三人、僕は三姉妹の後に生まれた末っ子なんです」

 

「まぁ!お姉さんが三人も!賑やかで良さそうね。いいわねぇ・・。お姉さんとは仲いいのかしら」

 

「・・そうですね。悪くは無いと思います。今でも時々一緒に買い物行くぐらいはするので。」

 

「姉弟四人で?」

 

「はい・・。まぁ足並みそろわない事も多いですけど」

 

太一の話を聞いて演技ではなく本当に羨ましそうな顔をした後、中多母は少し黙りこくった。心配そうに娘が声をかける。

 

「・・ママ?」

 

「・・。私の所も後三人生めば御崎さんのところと一緒になれるのね!紗江ちゃんの妹の女の子二人、そして最後に男の子!ねぇ貴方。ウチも頑張りましょうよ!」

 

「ぶっ・・・!」

 

流石のポーカーフェイスの中多の父も中多母の暴言にむせた。案外この夫婦、厳格そうな夫はこの跳ねっ返りの妻に苦労し、同時主導権を握られているのかもしれない。

 

「・・。止しなさい。お客さんの前で・・」

 

平静を取り戻すように中多父は眼鏡を直しつつ妻を諌めた。

 

「マ、ママぁ・・」

 

「でもひょっとしたら新しい娘よりも先に案外『孫』が来ちゃったりしてね!?うふふ♪」

 

楽しそうに笑う中多母を除き、他の三人には何とも気不味い空気が流れる。孫が出来る=最愛の娘はつまるところ・・・という避けられない、逃れられない方程式が中多父の中でシュミレーションされているのだ。

 

―マズイ!まずいぞこのヒト!勝手に喋らしとくと恐ろしい事になる!

 

中多父の戦闘力を増大させ続ける中多母。このドーピング薬みたいな女性の処遇に只管太一は困り果てていた。

 

「んっんっ!!」

 

改めて咳払いし、中多父は

 

「いい加減にしなさい。お客さんが困っているだろう。紅茶も切れたようだ・・淹れなおしてさしあげなさい。」

 

一家の大黒柱らしく、戯れの過ぎる妻を諌めた。

 

「はいはい。わかりました。御崎さん?どうだったかしら?この紅茶のお味は?もし他に飲みたい物があればお持ちしますわよ?」

 

「あ・・とっても美味しかったです。すっごくいい香りでした。色も凄く綺麗で。もう少し御馳走になっていいですか?」

 

「まぁ・・有難う。この日の為に新茶を仕入れといてよかったわ。ゆっくり堪能していってくださいな。」

 

中多母の気遣いに感謝する一方、「この日の為に」という言葉のワンフレーズに妙な引っかかりとプレッシャーも感じた。

 

―え。僕ってそんなVIP待遇なの・・?

 

そんな太一の複雑な感情もいざ知らず、中多母は上機嫌そうに食器を回収し、

 

「紗江ちゃん?ちょっとママを手伝ってくれるかしら?花瓶のお花のお水も変えたいから手を貸してほしいの」

 

「え?でも・・」

 

中多はちらりと太一を不安げに見る。口下手で上手くフォローは出来ないにせよ、せめて傍に居てあげたいといういじらしさがその所作には感じられる。

 

「大丈夫よ。食器を運んでほしいだけだから。すぐにここに戻ってきて大丈夫よ?」

 

こう言われると仕方が無い。お客人の前で「家族のお手伝いが出来る女の子」をアピールしなければならない変な意地と見栄を中多も持っていた。実際に中多家では使用人を雇っていないので何時もの事と言えば何時もの事なのだが、流石にこの場に太一だけを残しておくのは抵抗がある。

 

「・・。大丈夫だよ。じゃあ僕らはお留守番ですね?」

 

少し落ち着いた太一は中多に、そして中多父にそう笑いかけてそう言った。むしろトラブルメーカー臭い中多母が一時的にここからいなくなる事が太一にとって都合が良かったのかもしれない。

 

「・・。うむ。そうだな」

 

「先輩・・すぐに戻ってきますから」

 

「ううん。急がなくて大丈夫だよ」

 

「・・はい」

 

尚も不安げな顔を見せながらも中多は食器とティーポッドを抱えて一旦部屋を出た。

 

「・・・。本当に美味しい紅茶ですね。」

 

「うむ。あれの淹れる紅茶は客人には評判がいい。御崎君にも気に入ってもらえてよかった。ひょっとして紅茶に詳しいのかね?」

 

「いえ。全く。でも美味しいって言うのが正直な感想です」

 

「同感だ。私も実はからっきしでね。いざ紅茶の詳しい話などされたらどうしようかと思っていた」

 

「ははは」

 

取り残された男二人の会話はそんな和やかなムードから始まった。トラブルメーカーの中多母が去った事により、幾分この部屋の空気は和らいだ。

 

が。

 

五分後・・十分後・・。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

流石に物事には限界があるなと痛感した。残っていた紅茶も飲みつくし、中多母がいた時以上の気まずい空気が流れる。五分前ほどなら「アイツは何をしているんだ・・」、「遅いですね」等という会話のキャッチボールも成立したがもはや限界だ。

 

―中多さん。急いで!めっちゃ急いで!!

 

しかしその五分前のことであった―

 

「う・・」

 

どさ。

 

「紗江ちゃん?暫くの間眠っていてね・・?」

 

金持ちの嗜みとして護身術を身につけている中多母は隙だらけの娘に一撃をくわえた。

失敗した。母を信用するんじゃなかった。そんな思いが娘の薄れゆく意識の中で浮かぶ。

 

―せん・・ぱい。すみません・・。

 

バトル漫画の「援護にはいけそうにない・・すまん」的な台詞をのこして中多娘は意識を失う。

 

「・・。さぁて・・あっちはどうなってるかしら?ふふふ・・じ~っくり時間をかけて、心をこめてお茶を淹れないとね・・。電気ポッドで淹れたぬる不味いお茶なんて大切なお客様にだせないですもの・・おほほほ」

 

中多母はそういって薬缶にかけたコンロの火を最弱にした。・・あの場に居無かろうと中多母は中多母だった。何処に居ようとトラブルと面倒事は残す。それも解っている上での事だから質が悪い。

 

再び応接間。

 

―限っっっ界だ!!何か!何か無いか!・・あ!

 

「・・・。あ・・そういえばゲームなさるんですよね?」

 

「・・む。ひょっとして君もするのかね?」

 

「はい・・その今おじさんがされていたのもやった事があります。家庭版がまだ出てないはずなんでびっくりしましたけど。開発段階の試作品ですか・・?」

 

「うむ。そうだ」

 

「やっぱり。すごいや・・」

 

「・・やってみるかね?是非経験者には試してもらいたいと言っていたからこちらとしても意見を聞かせてもらいたいのだが」

 

「いいんですか!?・・あ。でも僕格闘ゲームはコントローラーでしたこと無いんですけど・・」

 

「心配無い」

 

そう言って中多父はテレビのラックの両開きの扉を開くとそこには各社の家庭用の格闘ゲーム用のスティックタイプのコントローラーが所狭しと並んでいた。

 

「・・・」

 

―すげぇ。

 

何にしろ太一は有り難かった。共通の話題も無い状態でこれ以上の時間を共に過ごすのは限界である。なら少しのとっかかりがあれば容赦なくそこに乗るしかない。

 

「じゃあ・・これをお借りします」

 

「よし。じゃあやってみよう」

 

心なしか中多父の声のトーンが上がった気がした。彼も心の荷が下りたと同時に相当な「好き物」なのだろう。そこには純粋に、意外な共通の趣味の遊び相手を見つけた少年のような感情が見え隠れした。それが少し太一には嬉しかった。中多父の存在が少し身近に感じた瞬間だった。

 

―強い。

 

一朝一夕でなれる強さじゃない。通常のコントローラーでここまで出来るのかと感心する。そして相当対戦相手に飢えていたのだろう。結構に容赦ない連携を仕掛けてくる。設定された難易度のコンピューターの敵ではいなせまい。

その中多父の操作を見ていると何故か太一は懐かしく感じた。

 

基本的に男友達がいなかった彼は対戦格闘をする共通の友人もいなかった。かといって見知らぬ人間と格闘ゲームを通信台でするのも気が引ける気の弱さもあって専ら乱入の無い練習台で遊んでいた。

しかし高二になって一年のクラスメイトである梅原の紹介で幾人もの友達が出来、その中には彼が遊んでいた格闘ゲームに通じている人間も多くおり、特に梅原、国枝、源、そして何故か棚町薫は文句なしに強かった。

コンピューターを相手にしていては絶対に出来ない駆け引きが出来、そして勝利した時の快感、負けた時の悔しさもコンピューターの比ではなかった。

要するにゲームの総合的な「楽しさ」は一人でやる比では無かった。

友人達は彼の一人遊びで培った執拗な攻撃に「楽しそうに攻めてくるな」と苦笑いしてくれた。実際に楽しかったのだ。コンピューターではいなしきれない彼の攻撃を学習し、いなして反撃してくる彼らを上回るために工夫をすることが尚も楽しかった。

 

そんな経験をしてきた太一には今の中多父の気持ちがほんの少しだけ解った。

そして自分の実力の方がまだまだ上だと言う事も。

 

「・・・。む!」

 

「あ。スキありです」

 

不用意な相手の飛び道具を起点に劣勢を一気に跳ね返して太一は一息ついた。

 

「強いな・・君は」

 

「いえ。友達に僕より強い子がいるんですよ。今の攻め方もその子に教えてもらったんです」

 

まさかその子が女の子である棚町薫とは中多父も思うまいて。

数戦して太一が思う所はどうやら中多父は劣勢か均衡状態にたたされると信用性の高い、判定の強い技を無意識に頼る傾向にあるようだ。しかし攻め手が解っていれば太一側としては対処しやすい。

信用性が高い技とは言え、万能な技は中々存在しない。出すと解っているその技のスキを突く事は決して難しくは無いのだ。ほんの少しフェイントを混ぜれば自然と頼る傾向のある技を乱発する。対人戦に慣れてない証拠である。おまけに―

 

「・・。その技・・アーケードのものより性能が悪くなってますね」

 

中多父が乱発するとある技を何度か受けてみて太一はそう確信した。

 

「ほう」

 

「流石に強すぎたと判断したんでしょうね。目に見えて調整されてます」

 

「・・成程。攻略本には「万能」「乱発してもリスクは少ない」と書かれていたのだがな」

 

「アーケードを元にした出版物ですからね」

 

「ふむ・・では家庭版とは別のキャラクターと考えた方がいいワケだ・・」

 

「もともとそのキャラ強すぎましたから。良い調整だと思います」

 

「そうか。伝えておこう」

 

 

 

 

「・・紗江・・娘をどう思うかね・・?」

 

「え!?」

 

「スキあり・・」

 

「え!?あら・・」

 

「ふふん。油断はいけないな?」

 

「やられた・・」

中多父の唐突な質問に面を喰らった太一が画面から一瞬目を離したスキにごっそりと体力を持って行き、久しぶりに中多父が勝利した。

 

「ひどい・・」

 

「・・。最近娘は学校でどうしている?元気にやっているかね?」

 

「え・・。」

 

画面を見、次の対戦プレイキャラクターを選びながらも中多父はそう言った。

 

「そうですね。僕の見た限りではお元気にされてると思いますよ」

 

「そうだな。私もそう思う」

 

「・・。いい女の子の友達がクラスに居るみたいです。僕もほんの少しその子達を知っているんですけど・・本当にいい子達ですよ」

 

その点は嘘偽りなかった。殆どその子達を知る彼の友人達、または中多本人から伝え聞いた話だがそれを聞いただけでも中多の交友関係は良好である様に思えた。また太一の友人でもある棚町 薫も普段自分達と関わる時とは違い、とても親切で優しい姉のように彼女に接していた。もともと一人っ子である棚町は昔から兄弟姉妹の居る家庭が少し羨ましかったのもあるらしい。

 

「・・最近君に紹介された君の友達の男の子と沢山お話ししたとも言っていた・・」

 

―うわ。あのアホみたいな教官ごっこの話をしちゃったんだ・・。それはちょっと困るよ中多さん!

 

どこまでこの父親に話したのだろうか?

もし梅原のセクハラまがいの講習を暴露されていたとしたら、最悪の場合太一と梅原は社会的に殺される可能性がある。

 

「『最初は怖かったけど、話してみるととても親切な方たちだった』そうだ・・」

 

「そ、そうですか」

 

―どっちともとれるなぁ・・その台詞。怖いなぁ怖いなぁ。

 

「今日君を見た限りではどうやら信用できる子達の様だな」

 

「あ・・有難うございます・・。・・はい。僕もそう思います。」

 

意外に嬉しい言葉が中多父の口から出た事に太一は感動した。「自分」を見てその友人達が信用できると判断してくれた事も嬉しいが、心底その友人達をいい友人だと思っている太一にとって純粋に友達を評価してくれた事もまた嬉しかった。

そう。彼らは太一にとって初めてまともに出来た同性の友人達なのだ。それ故に太一の彼らに対する想いは人一倍強い物がある。

 

「娘が小、中。そして高校の前期まで一貫して女子校に通っていた事は知っているかね?」

 

「あ、本人から聞きました」

 

実は早耳で事情通の同級生から聞いたとは言えない。

 

「そうか。なら話が早い・・。娘はおっとりした真面目が取り柄な子だからね、正直な話いきなり共学の学校に入って上手くやれるか心配で仕方なかったのだ。ま。未だにその不安は完全に払拭できてはいないがね。だが今日君に会って、話を聞いて少し安心したよ」

 

「あの・・聞いていいでしょうか?」

 

「何かね?」

 

「あの・・今回共学の吉備東に転校したのは何故・・?」

 

「・・・」

 

「あ。すいません。差し出がましい事を聞いて。でも・・電車通学をさせるなら吉備東よりここから近い女子校があったんじゃないかと思って・・」

 

「・・共学の学校に転入させたのは私ではなく妻の方でな。私は最後まで反対したのだが・・」

 

 

『いつまでも紗江が男の子を苦手じゃ困ります!私は絶対に吉備東に転校させますからね!もしそれでも反対するならこの離婚届に判を押して下さいまし!私。紗江を連れて出て行きます!!』

 

ビシィッ!!

 

「・・だそうだ。私も流石に折れるしかなかった。ビジネスの場でもあれ程の進退きわまる状況は体験したことが無かったよ・・」

 

「・・・」

 

―・・マジで尻にしかれているな?中多父。

 

 

中多 紗江が吉備東高校に転校当初、常々不安な顔で毎朝登校していく娘の紗江を中多父はこっそりと車で尾行していたものだった。ある日、妻の紗希にその行為がバレ、愛車を彼女の自転車で追突されたりもした。

それでも懲りずに彼は日を変え、車を変え、策を変え、何度も娘の登校風景を見るたびに気付く事がある。

最初の時は俯き加減で不安そうに眉をしかめていた娘の表情が日増しに前を向き、踏み出す歩幅も足取りも日に日にしっかりしていった事だ。

まるで脅えた小動物の耳の様に下がったお下げの髪も徐々に彼女の足取りに感化され、元気に揺れるようになった。

娘が自宅から駅に着くまでのほんのわずかな時間、そんな僅かな時間でも娘の成長を感じ取ることが出来ることに喜びと寂しさを感じる中多父の日課は今も続いている。

・・車の修理費がかさむのが痛いが。

 

「貴方・・過保護もいい加減にして下さいな」

 

高級車を妻の高級ロードバイクで追突される日課も未だ続いている。双方の安くない修理費はオカマされている側の中多父が百ゼロの完全負担である。

 

 

それでも彼は懲りない。

 

だって娘が大好きだから。

 

 

「娘は今とても楽しそうに学校に行けている。これは確かだ。お礼を言わせてほしい。・・有難う」

 

「いえ、そんな。僕よりよくしてくれている子はきっといますよ。そもそも僕は学年が違いますし。それに・・中多さんは元々しっかりしている女の子だと思います」

 

「・・・」

 

「確かに気が弱くて大人しい・・優しい女の子だと思います。口下手でアガリ症で、でもちゃんと自分で考えて自分がどうしたいかを伝える、伝えなきゃならない事はちゃんと伝えてくれます。だからこそ周りにいい友達が集まるんだと思いますし、応援したくなるんです」

 

太一は知っている。彼女がこの今目の前に居る彼女の父親の為に奮戦している事を。自分の弱さと向き合い、克服しようと努力している事を。そしてその結果が如実に出始めている事を。

残念ながらそれを今、目の前に居る中多父に詳しく伝える事が太一には出来ない。

当の本人に口止めされている状況であるからだ。

 

―きっと中多さんが今必死でおじさんのために努力している事を言ったらどうなるかな?泣いて喜ぶんじゃないかな?

太一はそう思う。

その姿を想像すると太一は笑いを禁じえなかった。

 

「だから・・きっと大丈夫です。」

 

「・・成程。娘が今までにない表情をしている訳だ」

 

「はい?」

 

「御崎 太一君と言ったね・・良ければこれからも娘と仲良くしてやってくれ。君の友人達と一緒にね」

 

「・・はい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・。ところで一つ君に言いたい事があるのだが・・」

 

「言いたい事ですか?僕に?」

 

「言おうか言わまいか迷っていたのだが・・今日の君を見て決心がついたよ」

 

「何でしょうか?何か頼みたい事ですか?僕に出来る事なら・・」

 

「そういう訳ではないのだが・・うむ・・」

 

そう言って中多父は少し黙りこくった。考え込んでいるように見えた。

 

「・・おじさん?」

 

「・・くぅう・・ダメだ!やっぱり我慢できん!!!」

 

「えっ?」

 

「俺はお前がだいっ嫌いだ!!!娘に近付くな!!!コンチクショー!!!!」

 

「ええええええっ!!!????」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間は戻り、現在―御崎家

 

「・・だってさ・・・」

 

泣きそうな弟の話を一言一句聞き逃さず、うんうんと頷きながら一子は事情を綺麗に飲み込んだ。

 

「・・・。う、う~ん・・・太一・・?よく聞いて、ね?」

 

「・・・何?」

 

「それ・・きっと気に入られたのよ。太一が。その子のお父さんに」

 

「え・・・。ウソ。だって『近付くな』って言われたんだよ・・・?」

 

「『気に入った』からこそ『気に入らない』ってこともあるのよ。いっそのこと胸がすくぐらい嫌いになれればいいのにって思う事もあるわ。きっとその子のお父さんにとって太一を気に入っちゃったことが嬉しい反面、憎らしくもあったのよ。娘さんの事がよっぽど大好きなのね?そのお父さん」

 

「・・・」

 

「いずれ解る日が来るわ」

 

―何だ。太一ったら良くやったじゃない。ま、私の自慢の弟ですものね♪

 

姉―一子は微笑み、ちいさな自分の弟が心なし大きくなって帰ってきた事を一抹の寂しさと共に、でも純粋に心から喜んだ。

 

 

 

 

 



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ルートK 2,3









2 ダメな奴

 

―何で?

 

声を無くしたまま立ち尽くした。

多分ここで私が一時間立ち尽くしてもあの人は私に気付かないだろう。

どれだけ心で念じようとも、バカみたいにその言葉を繰り返しても。

 

―何で。お母さん。

 

二人で生きていこうって言ったじゃない。

私はあの人だけしか認めないって、あの人しか父親として認めないって言った日に。

 

・・落ち着け私。勘違いかもしれないじゃない。仕事上の付き合いかもしれないじゃない。

 

でも私の心の根の部分はいたって冷静だ。疎ましくなるほどに。ここ数年浮かべた事の無い表情をあの人が浮かべているからだ。

裏切られた気持ち、嫉妬、羞恥。

感情だけは波立って行くのに論理的に理解は出来た。彼女の人生において「あの人」を喪った日から彼女の人生において完全な「欠損」自体が生じていた事を。

そしてそれを埋める事を彼女が放棄することを強要したのが他でもない娘である自分であった事。

 

私の存在が。私の意思が。私の全てが彼女を束縛していた事を。それを確信させる「笑顔」だった。

 

暦が晩秋から冬に入って木枯らしが初めて吹いたとても・・とても寒い日の歓楽街での出来事だった。

 

薫は唖然と自分が見た事もない表情を浮かべて、実の娘にも気付かず、煌びやかな街の中へ消えていく母を一人立ちつくしながら見送った。

 

 

 

 

 

「―薫。」

 

「―ん?」

 

「薫!おい!?」

 

「あ。直衛・・。何・・?」

 

「・・・?」

 

「どうします?降りますか?」

 

「あ、有難うございます。すぐ降りますんで。・・薫。とりあえず整理券貸せ」

 

直衛はバスの運転手に礼を言って二人分の小銭を手際よく入れ、下車した。

バスの運転手は薫の制服を鑑みると確実に下車するはずであるバス停で降りようとしない半ば放心状態の薫を見てやや長めの停車時間を用意してくれたのだ。

それでもたまたま直衛が同じバスに乗り合わせなければ発車もやむを得ない時間まで薫はそのままだっただろう。

 

「・・おはよ。直衛」

 

「おはよう」

 

「教室行こうか・・。あ。ごめんね。立て替えてくれたんだよね。後でバス代ちゃんと払うからさ・・」

 

「・・珍しいな?お前がバス使って登校するなんて」

 

「そう?たまにはね」

 

薫は言葉少なに話を切る。

「自分がバスに乗った」という実感すらこの時の薫には無かった。基本跳んだり、跳ねたり、走ったりすることが大好きな彼女がその日は歩く事も億劫でほぼ無意識に家の近くのバス停留所で足が止まり、それ以上彼女の足は頑なに動こうとしなかった。

そして目的地の停留所でも直衛がいなければバスを降りるきっかけも生じないほどに彼女はその朝、完全に我を見失っていた。

 

「ねぇ・・直衛?」

 

「・・・」

 

「?」

 

「ぐう・・」

 

「・・ある意味スゴイわ・・コイツ・・死ねばいいのに」

 

薫はシリアス顔を一気にしかめっ面に変えた。

 

―そういえばコイツがバスを使う事も大概珍しいじゃない。

 

目覚めたら恐らくバス代を立て替えたことでさえ覚えてないに違いない。・・癪だからこのまま踏み倒してやる。乙女の純情を踏みにじりやがって。

 

でも・・

 

コイツとのこういう時間が案外私は好きだ。

 

「・・ふふっ。相変わらず平常運転ねぇ・・」

 

―コイツが「起きた」時には私も平常運転に戻らなければ。

 

薫は自分にそう言い聞かせた。

 

―けど・・それも難しいかも。

すこし弱気になる。いつもの校門までの坂道を登る。少し寒いけど天気もいい。そして隣にはコイツが居る。

いつも通りの風景。

 

だからこそ「いつも通りに振舞わなければ」・・そう思う時点で既にいつも通りじゃない。

それでも・・奮い立たせなきゃ。

 

 

・・確かにコイツに相談すれば。話せば楽になるのかもしれない。コイツが優しい言葉をかけてくれる可能性は高い。

 

でもこればっかりは無理。

 

これはアタシの問題。アタシとお母さんと・・「あの人」―お父さんの。

 

コイツはあくまで他人。もし相談すればきっと小器用な事を言って慰めてくれるだろうけど。それはつまり私の事と自分の事を完全に切り離したうえでの他人の意見。

 

冷静で的確な・・寂しい意見。

 

私の身になって物事を考えてくれる事は無い。

 

自分の事だけ器用に出来ないコイツは他人と自分を一緒にして物事を判断しない。

過去の「とある」出来事以来、そして他にもいろいろな出来事から私はコイツの事をよく知っている。

物事が自分に近ければ近いほどダメな奴になるのだ。こいつは。不思議なほどに。

だからこそ異常なほどに他人と自分を切り離す。そうしないと自分が客観的に冷静な判断が出来ない事を知っているからだ。

 

・・でも冷静な判断が何だって言うの?

 

そんなもの・・私は要らない。

 

私は・・コイツに焦ってほしいんだ。ダメな奴になってほしいんだ。

 

・・私の事で。

 

あ~アタシぐちゃぐちゃだ。お母さんのこと考えて鬱ってたのに、結局コイツの愚痴になっちゃった。

 

 

 

 

 

一時限後の休憩時間―

 

「おい。薫。朝のバス代返してくれ」

 

「は?・・な、何の話?」

 

「何故か日付が同じバスの整理券が財布に二つ入ってたから思い出したわ。お前今朝バス乗ってたろ?」

 

「あ。」

 

「お前が乗るとしたら小坂台からだな。占めて140円になります」

 

―くぅ~~詰めが甘かったぁ。

 

「ケチくさい・・。根性ねじ曲がってる・・」

 

薫は財布から羽を出して飛び立とうとしている百四十円を恨めしそうに見ながら恨み節を言うが、直衛はどこ吹く風で

 

「お金の事はきっちりしなさい」

 

こう言った。

 

「うっさいわね。ほら」

 

―ちえっ昼食の飲み物代浮いたと思ったのに。

 

「よし。確かに。あ、あと絢辻さんにもちゃんと返しとけよ?この前ビリヤード負けて立替えてもらったんだろ?」

 

―ぐっ・・。

 

ええ。そうですよ。余裕かましてファウルしてその直後絢辻さんがビギナーズラックで9をサイドポケットに入れましたよ。そうですよ。私は負けました!

 

「話はそれだけ!?」

 

「ん?おお」

 

「そ。じゃ、アタシ行くね。ばいばい」

 

「おい・・?薫?」

 

「解んないの?アタシ暗にあっち行ってって言ってんの」

 

「・・何怒ってんの?」

 

「怒って無い!もういい。アタシがどっか行く!」

 

休み時間ももう終わると言うのに薫は教室をでていってしまい、直衛は怪訝な顔のまま取り残された。その様子を見ていた梅原、源の二人が直衛に声をかける。

 

「おいおい・・棚町どしたの?お前また何か怒らせようなことしたのか?」

 

「常に俺があいつの事怒らせてるみたいに言うなよ・・」

 

「心当たりないの?珍しいね。棚町さんが」

 

「・・あの日か?」

 

「直?それ面と向かって彼女に言える?」

 

源の冷えた一言だった。

 

「・・言えません。すいませんでした」

 

 

 

 

 

 

放課後―

結局その後直衛と全く口も利かぬまま薫はそそくさと教室を後にした。とっととバイトに行って体を動かして色んな事を考えないようにしたかった。目が回る程忙しい時間を過ごせ、その結果がお金になって戻ってくる。今の薫にとってこれ程都合のよい空間は無い。

 

彼女のバイト先は吉備東の繁華街外れにあるファミリーレストラン「JOESTER」である。

 

この地方にちらほら見かける程度の中堅チェーン店だが値段の割に味は良く、デザート類の種類、量共に多めなことから甘味好きな女学生をはじめ、家族連れにも評判がいい。

また制服が可愛い事から一部の可愛い物好きな女の子、不純な理由で訪れる男性など様々な理由で需要に応えている一面もある。

 

ピンクのトップスにひらひらリボン、タイトスカート。

 

・・さすがにこれはやり過ぎじゃないかと勤め始めた時薫も思ったものだ。おまけに徐々に「大きく」なってるせいか最近少しキツくなってきた。何か・・違う意味でお金が取れそうな感じがする。

 

まぁ何にしろ制服というものはやはりいいものだ。薫は鏡の中に映る着替えた自分を見てそう思う。学校の制服とはまた違った良さがある。

自分の行動如何でこの店の評価が変わり、その評価で得た一定の褒賞を給与として貰う以上、「学生」と言う囲みで守られた学校では味わえない緊張感がある。それが彼女にとって心地よい。

けっして金銭的に余裕があるとは言えない母子家庭である以上、「自分で勝手する分は自分で稼ぐ」という自立意識が彼女は非常に強い。

 

「最低限の金は自分で稼ぐ。」

 

高校に入ってバイトが出来るようになる前に既に決めていた事だ。彼女は運動神経がメチャクチャいいが高校では部活に入る気はさらさらなかった。

動いた結果がお金と言う解りやすい形で出るバイトは彼女にとって自分の成長の場であると同時に決して楽ではない自分達の状況を緩和する一石二鳥の場である。

よってモチベーションは非常に高い。

集中してテキパキと仕事をこなし、本来は「労働」という鬱屈なはずの時間が思っていた以上に楽しく、早く時間がすぎると何処か得した気分にもなった。

しかし・・今日のような日に限っては気分が沈んだ。早く時間が過ぎるという事は家に帰らなければいけない時間が迫るのもまた早い。

あんな出来事があったのだ。どうにも家は居心地が悪い。あの光景をまさか娘が見たとは思っていない現在やや浮かれ気味の母と長い時間一緒に居る事が苦痛だ。

おまけに期末のテストもそろそろ期間に入り、テスト休みを取らざるを得なくなる。

考えないようにする手段が好きでも無い勉強では何分荷が重い。

 

進退は極まるもの。何事においても逃げ道というのは限られているのが世の常だ。

 

「おっし。お疲れ。薫ちゃん?今日はもういいよ。」

 

最後の客を見送り、店内の清掃をしていた薫にオールバックの長い髪を後ろで括り、ひげを蓄えた一見やる気なさげなやさぐれた男が見た目の通り決して丁寧とは言えない口調で労う。しかし親しみが無いワケではない。

 

「りょーかいです。店長」

 

薫も店長とアルバイトという感じではなく、少しフランクにそう言った。

 

 

「てんちょお。ちょっと・・相談があるんですけど」

 

「んー?」

 

皿を拭きながら片手間に少し垂れた横目で店長は薫を見る。

 

「今回・・テスト期間中も私のシフトいれてほしいんですけど・・」

 

「ダメ」

 

一切のローディングなしで清々しいほど簡単に薫の要請を却下する。

 

「何でですかぁ・・?役に立ちますよ?私。人手も足りてないんだし・・」

 

「知ってるけどダメなもんはダメ。学生の本分は学業」

 

典型的な言い分だが「それを遵守しないと周りがうるさい」的な外面を気にしてのニュアンスは持たせていない。あくまで本当にそう思っている口ぶりだった。

 

「うー・・」

 

「そんなに金がいるのか薫ちゃん?」

 

「・・別にそういう訳じゃ・・欲しいのは確かですけど」

 

「どうせ年末は忙しくなって遠慮なく入れさせてもらう気だから今は我慢して勉強しな」

 

「む~。勉強したくないなぁ」

 

「・・。話変わるけど薫ちゃんの通ってる高校―吉備東高ってそれなりの進学校だよな。薫ちゃんは何で無理してそこいったんだ?」

 

「え。『無理して』って失礼ですね!アタシだって・・ほら・・やれば、できる子だから?」

 

「『やればできる』ってことは知ってる。でも君はそこまで勉強にこだわりがないだろ?」

 

「・・」

 

―適当な振りして案外部下を見てるわね・・ウチの店長。

 

「へっ、ひょっとして男か?」

 

「・・おつかれさまでした!」

 

「何だ。図星かよ」

 

「・・・」

 

「・・。どんな男だ?興味あるね」

 

相変わらず口調は変わらないが、仲のいい妹の相談に耳を傾ける兄のような思いやりのような感情が感じられる。その証拠に彼は一旦作業の手を止める。「話を聞く体勢を作る、示す」というのは大切なものである。

 

「・・。頭はいいです。アタシなんかより。流石に大学まで追っかけるのは無理じゃないかな。きっと」

 

「へぇ」

 

「顔も・・睫毛が長くて眠っている顔が綺麗なんです。お堅いようで意外とノリもいいし」

 

「ほーいい奴にツバ付けてるじゃないか薫ちゃんも」

 

「でも色んな意味でダメな奴ですよ?いざという時ほんっっとダメだし。鈍感だし」

 

「いいじゃねぇか。いいとこだけ見せてくるより百倍ましだ」

 

「ただ・・ダメなトコあんまり直接見せてくんないです。・・本気で好きになったコにしか」

 

「・・そいつ・・好きな子が他に居るって事か?」

 

「『居た』っていうのが正しいですね。振られちゃったんです。アイツ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学二年の終わりの話である。

直衛はある女の子と付き合う事になった。ずっと好きだったその女の子から告白されると言う最高の形で。さすがに直衛本人も夢見心地だったらしくキャラに合わないはしゃぎっぷりだったのを薫はよく覚えている。直衛の男友達が彼を祝福する中に混じって一人複雑な気持ちでからかっていたのも。

 

でも結論を言うと上手く行かなかった。

直衛という男の子の本質を知らずに外からの彼のみを見ていた当時の彼の彼女は交際後に違和感を禁じえなかったようだ。彼は本当に自分の事になると一気に要領が悪くなり、消極的で平静で居られなくなるのである。これは生まれ持った性分だった。

他人事には客観的に冷静に判断し、行動できる事がいざ自分が主体になって行動するときになると全てにおいて何故か自信が持てなくなっていく。

肝心な時に体調を崩したり、肝心な時に言葉が出なくなったりもする。

 

この出来事の後の話だが模試の結果から「まず安全圏」と言われていた第一志望私立高校にも落ちた。結果公立のランクも一つ落とし、吉備東に入学している。

 

要するにこのように普段の彼からは考えられないような事象が次々と発生する。

簡単に言うと物凄く本番に、そして勝負の日に弱いのだ。

 

一見秀才で特に非の打ちどころのない様に見える国枝 直衛だが、その本質は実は完全に努力型。目の前の壁を完全に努力、前以て対策を張り巡らせて講じることによって漸く彼の評価は現在に落ち着くのである。

 

実際の彼は非常に想定外に弱く、脆い繊細な少年である。それを完全な努力の成果によって必死で覆い隠しているのがまた彼という人間だ。

 

それこそが彼の本質だと気付き、それを受け入れたうえで支え合いながら長い目で見て付き合っていくことがその当時、直衛と付き合っていた彼女にはどうしても出来なかった。

 

残念ながら国枝の初恋の少女は結構質の悪いタイプであった。端的に言うと彼女は「直衛」を見ていなかった。

 

「成績がよく、背も高めで、顔もまぁまぁ、要領も良くて、評判もいい。そんな彼氏とワタシ。誰もが羨ましがるお似合いのカップルの出来上がり」

 

そんな「形」が欲しかった。

 

「形」の、「外面」を求めて付き合ってみたところ顕在化した直衛の持つ意外な本質、副産物を受け入れることなどそんな人間に出来るはずが無い。

早めに「ボロ」をだした直衛の状況を彼女は自分の友人を通して密かに触れまわり、別れても仕方のない状況に持って行った。虚と実を混ぜて。いや虚が八、実が二と言った割合か。

 

「付き合ってみたら愛の無い男だった」

 

「普段あんまり喋らないイメージだけど付き合ってみても一緒だった」

 

「本当に私の事が好きなのか解らない」

 

「猫かぶりすぎ」

 

「浮気してるんじゃないか」

 

・・云々。

 

結果最終的には彼女の友人を通して直衛は一方的に別れを告げられた。「直接話したい」という直衛の訴えも棄却される。事実上の「用済み」だった。彼女にとって直衛はアクセサリーの様な感覚だったのだろう。

 

確かに直衛自身に至らない点は多かった。しかし勝手な理想を押し付けられ、それが満たされないと解ると一方的に捨てられ、更に悪評まで触れ回られる謂れは無い。

 

その噂は直衛を良く知る人物にも否応なく届く。当然友人の源も怒った。梅原も杉内も。

彼の本質を知る人間は当然のごとく怒った。だがもっと怒っていたのは薫だった。

後にも先にも最後だ。薫が本気で女の子を殴ったのは。

その事件は直衛の悪評が完全に塗りつぶされるほどショッキングな事件だった。

衝動的だったのか、計画的だったのかは解らない。薫自身にも解って無いのかもしれない。

何の脈絡も無く、突然殴られた直衛の元彼女は当然報復に移る。と言っても直接的な報復行動に移すわけではない。まずは間接的に。御得意の手だ。友人をツテに悪評で外堀をまず埋めようとした。

 

が、

 

次第に自分の身から出た錆で逆に自分の評判を落としていくことになる。

彼女の友人にも彼女に付き合いきれない人間が元々多かったらしく、情報操作に使っていたつもりの友人達に自分の本質を暴露されたのが原因だった。

他人の本質を見ない人間は他人にとっての自分の本質を自覚できないいい例だった。

 

彼女が薫に殴られた瞬間、彼女の友人達は憤るどころかあまりの薫の思い切りの良さに逆に痛快さを覚えていたものだ。皮肉な事にその点では全く以て直衛と逆であった。

 

結果、直衛の悪評は薫によって塗りつぶされ、薫の悪評はさらにその上から彼女自身の悪評を顕在化する事になったおかげで放免される。

 

しかし、どちらにせよ直衛には辛い事件だった事には違いない。

好きだった人間に振られるだけならまだマシである。悪評はともかく幻滅させた相手に振られる事はもともと覚悟にあったからだ。しかし結果として自分が元々想いを寄せていた彼女を貶しめる事になったとも言える。

 

―自業自得だ。気にすんな。

 

そんなようなニュアンスで友人たちは庇ってくれた。

でもその想いを直衛は払拭できないでいる。中学を卒業し、高校に入って全く新しい人間関係が築かれても彼は出来る限り自分をそのような状況に追い込む事を拒んだ。それが自分だけでなく意図せずして他人にまた何らかの弊害を与えてしまう可能性を捨て切れなかったからだ。

 

 

「・・ダメな奴なんです。本当に」

 

「・・今度連れてこい。品定めしてやる」

 

―幸せモンじゃねぇか。その男。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 僕と悪友と校庭で

 

翌日

 

今日は週に一度しかない美術の授業がある。天候は晴れ。少し肌寒いものの中庭は気持ちのいい風が吹いている。

 

そこを直衛は一人さくさくと草を踏みしめながら写生の題材を求め歩いていた。この季節の乾いた水気の無い地面を歩く音が心地いい。

だがあくまでこの季節に写生である。場所選びを間違えれば正直写生どころではない。先程も風のきつい寒い場所で無謀な写生をしていた梅原が自称・力作を風に飛ばされた。

 

「ま、まてぃ~~~」

 

まるでハゲ親父が飛ばされた鬘を追いかける様な必死さで飛ばされた画用紙に追いすがる切ない梅原を見ていた友人たちは悉く抱腹して悶絶した。

だが源はこれを

 

「ベストショットだ!」

 

と言っていきなり取り憑かれたように書き始め、見事にこの光景を絵にして完成させた。颯爽と野を駆ける友人を爽やかに描いた力作だった。ただその疾走の本当の意味を知っているその場にいた友人達にとってその絵は下手な四コマのオチのコマ以上に破壊力があった。しかし―

 

源以外はその後散々たるものだった。御崎は自分の画用紙を全員で落書きされるプチいじめを受けたり、杉内は更衣室裏に現れる黒猫を書いて美術教師に苦い顔をされるなどなかなかに写生(?)は難航している。

 

―ダメだ。コイツらに付き合っていたら提出が遅れる。

 

週一しかない授業で作業が遅れるのは致命的だ。補習でも設けられたら溜まらない。だから敢えて直衛は一人になった。

 

「ん・・?」

 

中庭の奥まった場所にある池垣に来た時だった。池垣の前にある小高い日当たりのいい草むらに腰かけている知己―一人の癖っ毛の少女を見つけた。彼女の手は忙しなく動き、順調に作業が進んでいる事が遠目にも解る。

 

―薫・・こんなとこで書いてたのか。

 

無意識に直衛の歩は進んだ。

 

「・・いいとこ居るな。ちょっと場所ワケろ」

 

「・・」

 

「おい」

 

「ん?あ~直衛?」

 

突如意識が回復したようなゆるーい返事が帰ってくる。結構集中していたようだ。

 

「悪い。隣いいか?」

 

「うん。どうぞ~」

 

「よっこいしょ・・」

 

「おいこら・・おっさん」

 

「何か言ったか?」

 

「い~え」

 

座った瞬間笑い疲れなのかどっと眠気が直衛を襲い始めた。予想以上に薫が陣取っていたこの場所が快適な場所だということも相まって。

 

「うわ・・ここやばいな。眠くなってきた」

 

「でしょ」

 

「危険な場所だなここ。写生どころじゃねーぞ」

 

「あははっ」

 

 

薫は屈託なく笑う。それを見て

 

―・・どうやら昨日のあれはよく在る気まぐれだったみたいだな。

 

直衛はそう思った。もうすっかりあんな悪態付いた事も忘れきっているだろうと。彼女のことだから。と。

 

だが―

 

「直衛~?」

 

「ん~?」

 

「昨日はゴメンね~」

 

淡々と画用紙に目線を向け、絵を書きこみながら脱力したまま薫はそう言った。口調は軽いものの反省と羞恥が感じられる不思議な口調である。

 

「・・・。おぉ」

 

「やっぱり最近変だなお前。・・何か在ったの?」―喉元まできたそんな台詞を直衛は噛み殺し、欠伸に変えて虚空に発散した。

 

「あー退屈ねぇ・・」

 

唐突に薫がそう呟いた。

 

「何か気の利いた事言えないの?アタシに聞きたい事とか」

 

「・・・。別に」

 

「いーわよ。別に。相変わらず素っ気ないんだから」

 

「お前にはこれでいいと思ってね」

 

その時直衛はその言葉が地雷を踏んだ事に気付いていなかった。

 

「・・。その言葉さ、アタシどうとったらいいのかな・・?」

 

「?」

 

「いい方にとるよ?直衛?」

 

「・・いい方?」

 

「そ。アタシの事でアンタが焦ったり、普段みたいに振舞えなくなったりしないようにワザと素っ気無くしてるって。私の事を他人事じゃ思えなくならないようにって。そうしないといざという時アンタまともに行動できないから。ダメな奴になっちゃうから」

 

「はぁ?」

 

「そうじゃないの?」

 

「・・考えた事も無い」

 

「ちぇっ・・残念。もういいよ。あー退屈」

 

「・・お前さ・・絶対俺からかってるだろ」

 

「からかってないよぉ?バカにはしてるけど」

 

「それをからかってるって言うんだよ・・」

 

「あーらばれました?あはははは!でもちょっとはドキドキした?どう?こんな薫ちゃんもたまには悪くないでしょ?」

 

「もう寝る」

 

「そんな照れなくても・・」

 

「起こすなよ」

 

「へいへい」

 

そうしてまたこの場所は少しの風と薫の鉛筆の音だけが規則正しく響く空間に戻った。

その一定のリズムは心地よい眠気を誘う。直衛自身の提出物の進捗度などどうでもよくなるぐらいに。

そしてその合間に聞こえてくるかすかな声も。

「むー」とか「んー」とか「あれ?」など思考錯誤を繰り返す薫の独り言がきこえる。

中学から三年。直衛にとって当り前になったこの声も目を閉じ、耳を澄まして聴くとなかなか面白い。

独特の引っかかりや抑揚、合間にわずかに聞き取れる息継ぎなどが聞こえて不思議と飽きず心地よかった。

―絶対本人には言ってやらないけどな。

直衛はそう思った。

 

「・・・ねぇ・・直衛?」

 

「ん・・?」

 

「・・キスしよっか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やだ」

 

「即答!?ちょっと・・ひどくない?」

 

「さっきまでからかって警戒されている相手にいきなり無いね。それは。」

 

「全く・・アンタってひねくれすぎ」

 

「そうかもね」

 

「あはっひねくれ肯定・・」

 

「・・やかましい」

 

「ふーんだ。もう言ってやんない。後悔しても遅いわよ?」

 

「そう願う」

 

「かっち~ん・・あったまきた。そのうち絶対どうにかしてやるわ!」

 

「・・・・」

 

「ねぇ!?聞いてるの!?」

 

「ぐう・・」

 

「ちょっ寝たふり・・?じゃない・・本気で寝てんのコイツ?」

 

「ぐう・・」

 

「信じらんない・・。放置してやる」

 

そう言って薫はモチベーションの下がったまま写生を続ける事をよしとせず、打ち切ってその場を後にする。薄れた意識の中で離れていく足音を直衛は聞いていた。

 

「・・・」

 

不思議と怒っている歩調に感じなかったところに違和感があったが浸蝕する眠気に完全に直衛は意識を奪われる。

 

 

 

 

 

 

 

よって直衛は気付かなかった。

もう一度その足音が響いていたのを。・・・近づいてくる事を。

 

 

 

 

 

「・・・」

 

 

薫は一言も発しなかった。普段の賑やかな彼女からは連想が不可能なほどの沈黙。邪推な茶目っ気も一切含まず、ただ少女は眠る直衛の寝顔を真顔でじっと見ていた。

 

・・わずかな衣擦れの音も吹く風の音にかき消された瞬間だった。

 

「・・」

 

躊躇いも戸惑いも無く無言のまま彼女は屈み、両腕を衝立にして向かい合わせの直衛の寝顔をじっと見る。ほぼ距離はゼロ。直衛の頬に彼女の癖の強い髪が風に揺れながら触れる程だ。それでも直衛は起きない。

 

深い眠りの底でも何故か安心する、いつも傍に在る「薫り」に違和感を覚えなかったからだ。それを彼女は計算済みだった。

 

 

―我ながら邪だ。

 

卑怯だ。

 

あざとい女だ。

 

 

でも―

 

絶対止めてやんない。

 

 

今は―

 

 

 

アンタしか見えない。

 

 

 

 

 

「・・ん」

 

 

薫は直衛の頬に唇でそっと触れる。長く。こめかみから香る男子独特の―彼の匂いでむせそうだ。

 

 

 

 

でも手離す気はない。絶対にこのまま―「最後」まで。

 

 

 

 

唇を頬に沿ってゆっくりと伝わせる。刻み込むように。そして・・

 

 

 

「ん―――」

 

 

完全に有言を実行した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三度足音が響き、再び離れていく。が、先程に比べると足早で不規則な音が響く。足がもつれてつまずきそうなぐらいの。

実際に躓いたのか

 

 

「あたっ!もうっ!!・・っ・・う~~~~~~っ!」

 

 

そんな苛立たしげな声も響き―

 

スタスタすたすた!!

 

そしてどことなく不機嫌な・・怒っているともとれる様な足音が直衛から離れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写生で黒猫のスケッチを書いた杉内 広大は「スケッチ」を「写生」にするため、背景を探していた。

 

―写「生」でしょう!?生きている物を書き取って何が悪いんですか!?猫は「生」きているんですよ!?

 

という持論は既に美術教師に却下されている。

 

よって黒猫が座っていても違和感の無い場所を求めて両手の人さし指と親指で窓を作り、方々を歩きまわっていた。ただ今日は時間切れのようだ。

 

最後に裏庭を視察中に丘で横たわるやや長身の見知ったシルエットを見つけた。

 

―・・あ。国枝だ。あんなとこで寝てる。相変わらずよく寝るなあいつ。

 

この二人、お互いがお互いに相手に関して似たような印象を持っている。

 

「国枝?授業終わるよ?帰ろ?」

 

歩いて近づきながら杉内はそう言うが当の直衛に反応は無い。

 

「国枝。お~い?」

 

画用紙と筆記用具を小脇に抱え屈伸して杉内は再度声をかけるが―

 

「・・・!?」

 

戦慄する。

 

「どーした?すぎうっちー?」

 

「・・?直衛また寝てる?さっさと起こして昼飯にしようよ」

 

「はっ!」

 

いつの間にか後ろから来ていた2-Aクラスメイト梅原、源二人の声に杉内はビクついた。

 

「・・どした?大将」

 

「広大?」

 

「ち、ち、違うんだこれは・・」

 

―違う。俺じゃない。俺じゃないよ!!

 

「「?」」

 

源と梅原は顔を見合わせる。元々猫好きで、サボり癖があって、姉属性で、アスパラ嫌いで、妙に数学は強くて、だけど他は壊滅的で、おまけに猫好きなヘンなヤツだが今は輪をかけておかしい。

 

「ど、どうしよう・・梅原・・ゲン・・」

 

「?」

 

「は?」

 

 

「く、国枝が息して無いんだよぅ・・・」

 

 

「・・・広大・・君が殺ったの?」

 

「ゲン!!違うんだ~~本当に俺は!!ウメハラ~~信じてくれ!!俺は殺ってねぇ~~」

 

「すぎうっち・・いくら自分の絵が認められないからって人殺しはよくねぇな・・さぁ・・警察に行こう・・」

 

誤解が無いように言っておくが一応直衛は死んではいない。だが・・。

 

―・・・。何しやがんだ。・・薫。

 

暫く呼吸を忘れるぐらいの脳天を突きぬけた衝動に直衛の体は完全にマヒしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートA 11.12








11 ゲスの極み母子

 

 

最近七咲は不意に叫びたくなる事がある。こんな事今まで全く経験が無かった。

別にストレスがたまっているわけでも自分が満たされない毎日を送っているわけでもない。

部活にも身は入っていると自負しているし、創設祭の準備も順調、最近は勉強だって・・。

でも時折襲うこの発作のような感情。

 

その七咲の感情の源泉とは・・羞恥心である。以下に興味深い証言がある。是非一読してほしい。

 

私は橘 美也。(以下みゃー)

最近どーにもおかしい。すごくおかしい。いやむしろコワイ。

・・逢ちゃんが。

逢ちゃんは高校で知り合った女の子では初めてみゃーのお友達になった女の子。

しっかりして、落ち着いて、優しいガンバリ屋さん。

暴走しがちなみゃーを諌めつつも時にはノッテくれるやんわらかい思考の子だ。

まだ出会って一年経ってないけど時間なんて関係ない!みゃーと逢ちゃんはマブダチなのだ!

でも私は最近逢ちゃんの奇行にちょっと悩まされている。

凄く集中しているかと思えばいきなり上の空になっていたりする。

この前の体育のバスケットボールの試合中、逢ちゃんは大活躍していた。あたしはドリブルは大好きですいすい皆を抜いちゃうけど壊滅的にシュートが下手なので最後はいっつも逢ちゃんにパスしてたんだ。(要するにアタシはこまっけぇことは苦手なのだ。)

その期待にいっつも逢ちゃんは応えてくれた。だから安心してパスしてたんだけど試合終了間際、

あたしのこの試合最高のパスが逢ちゃんに通った―

時だった。

 

「ごっ!???」

 

おおよそ逢ちゃんのようなカワイイ女の子が吐くとは思えない台詞を残して逢ちゃんは崩れ落ち、保健室に直行したの。いっつも有事の際は皆を率先して介抱する母性の塊のような逢ちゃんが初めてみゃーとクラスメイトのお友達の中多 紗江ちゃんに連れられる形で。

それはそれで嬉しいのだけど・・問題はあの時の逢ちゃんだ。あの時逢ちゃんはコートの中には居なかった。居たけど居ないの。どっかイっちゃってたの。

 

みゃーの言ってる事解る?

 

え。解んない?引っ掻くよ?

 

でもね、それだけじゃ無いの。この前の授業中だってそう。みゃーのクラスの現代文を担当している先生はね。すっごく厳しいの。だからね、その授業の時だけはにぎやかなみゃーのクラスもシーンとなっちゃうの。流石のみゃーもその時は借りてきた猫みたいに大人しくしてるんだけどね。

もともと逢ちゃんは騒いで授業の進行を妨げるような事は絶対にしない子だからこういう話には無縁なんだけど・・その時は違ったの。

 

「ああっもう!!」

 

クラスのみんなもハッとしたの。先生もびっくりしたの。

逢ちゃんがいきなり頭抱えて顔真っ赤にしてハッズカシソーに叫んだの。

頭抱えたまま机に顔ごとダイブ。おもわずみゃーは逢ちゃんを保健室に連れていくのを立候補したの。いつもは怖い先生も戸惑いの中あっさりOKしてくれた。

まさか逢ちゃんがこうなるとは思ってなかったみたい。それ以来先生は自分の授業の締め付けがきつすぎたのじゃないかって反省して次の授業から幾分マイルドになってくれたの。

それもこれも逢ちゃんのおかげなのだ!あれ?私何の話してたっけ?

 

ま、いいや。

 

橘 美也  交換日記 12月某日より抜粋

 

こんな感じである。

 

何・・。・・解らない?

 

 

 

七咲は苦悩していた。今までの自分の行為に対して。

よくよく考えてみると何とも恐ろしく、何とも失礼な事をしていたのだろうか。

そして何よりも・・恥ずかしい・・。

 

このたった二ヶ月の間にして自分の中の自分が大きく変化した事を痛感し、その反動に七咲は苦悩していた。それが時より不意に顔を出しては更なる奇行に七咲を走らせる。

何という悪循環か。

 

―痴漢と疑ったり、

得意気にスカートめくって見せたり、

喧嘩売ったり、

海まで連れて行ってパシリにしたり、

パンツ見られたり、

蹴っ飛ばしたり、

「メロンパンになっちゃえ。」とか言っちゃうし。

 

―あの頃と最近の自分って一体何!??別生物!?

 

とか思ってしまうらしい。気を抜くと恥ずかしさのあまり声も出てしまう。

 

―それもこれも・・先輩のせいだ。どうしてくれるのだ・・。

・・・。ごめんなさい・・・。先輩。

 

「お。おはよ。七咲。」

 

「ごめんなさいっ!!」

 

「はっ?」

 

―・・・しまった。

 

完全に謝罪モードの精神状態で当の本人―広大に不意に話しかけられた瞬間に反射的にその言葉が出た。はい、ようこそおいでませ。新たな恥。

 

「あ・・。」

 

「あ?」

 

「う・・。」

 

「ん・・?」

 

「・・。」

 

「今何か都合悪かった?ゴメンいきなり話しかけて。」

 

「あ。すいません・・。」

 

―・・ダメだ。こりゃ。

 

「いや・・じゃあね。・・ごめんね。」

 

「あ・・え、えと」

 

―行ってしまう。ちょっと、ちょっと・・待って先輩。

 

「・・先輩。」

 

「ん?」

 

「先輩ってその―」

 

「・・?」

 

 

「何か私にしてほしいことないですか?」

 

 

ド直球。何だかんだで結構この子危なっかしい子である。今も昔も。

 

「・・!?してほしい事?」

 

「何でもいいんです!言ってください!」

 

「はぁ・・!?何で?そんないきなり・・。うーん・・・。」

 

広大思考中 ・・

 

―・・・!!うっわ。我ながら最低な案を思いついてしまった。いや・・まぁ七咲もこう言っている事だし・・?

 

「七咲・・今日はお弁当?」

 

「・・・?はい。」

 

「じゃあ昼にお弁当を俺の奴と交換してくれないかな?」

 

「え?」

 

「嫌じゃ無ければなんですけど。」

 

「解りました!そんなことでよければ喜んで!」

 

先程までの不安な顔がけし飛ぶような笑顔で七咲はそう答え、七咲は意気揚々と去っていった。

あまりの唐突な出来事に放心状態だった広大も気を取り直して歩き出す。そして徐々にどす黒い罪悪感に包まれた。

 

―ごめんな・・七咲。

 

 

昼休み―

 

いつもの更衣室裏にて

 

「先輩のお弁当は・・チャーハンですね。おかずはお肉の野菜巻き・・おいしそうですね。」

 

「七咲のは・・。」

 

「あ。すいません・・今日のはあまり豪華じゃないです。」

 

「・・?七咲今日謝ってばっかりだな。どうしたの?」

 

「いえ!何でも無いです。」

 

「・・そ?んでと・・。・・え。これで豪華じゃないの?唐揚げにごぼうサラダにかやく御飯。塚原先輩も言っていたけど・・ホント凄いな七咲?普通に美味しそう。」

 

「あ、有難うございます・・。昨日の残り物なんです。お口に合えばいいんですけど。」

 

「・・・。」

 

「どうかしましたか?」

 

「・・・。」

 

「先輩?」

 

「よかった・・。」

 

広大は少し笑ってそう呟いた。

 

「え?え。え。」

 

―え。これってひょっとして・・喜んでくれてる?

 

嬉しい。

 

「では。いただきます。」

 

「はい!どうぞ!召し上がれ」

 

しばし沈黙に包まれる。

 

「あ・・おいしい。」

 

「ホントですか!」

 

「うん。ホントに。」

 

「そうですか!有難うございます!」

 

「いや、こちらこそ。」

 

―・・。いや。ホントに。マジで。

 

「先輩のおべんとも美味しいです。先輩のお母さんお料理お上手なんですね。」

 

「そうなのかな・・?やっぱり毎日食べてると実感しづらいんだけど。」

 

「そうです。感謝しなきゃだめですよ?」

 

「うん。そうだね。」

 

「このお肉の野菜巻きも美味しい!中のニンジンと『アスパラ』も味がちゃんと沁みてるし。」

 

「・・・。」

 

「チャーハンもお米がパラパラだし、コーンとか『アスパラ』とかの具にもちゃんと下味付けて

ますね。」

 

「・・・。」

 

「最後にサラダ。ブロッコリー、カリフラワー、『アスパラ』とハムをマヨネーズと和えて栄養バランスと色どりもOK!ですね。」

 

七咲洩れなくいい笑顔。パクパク食べる女の子の姿は中々に微笑ましい。

だが今の広大は笑えない。とてもとても笑えない。

 

「・・・。」

 

「先輩。いいお母さんなんですね。私の変わりにお礼を言っといてください!」

 

―はっ。気付けば「先輩のお母さん」を連呼してる・・。は、恥ずかしい。

 

「・・伝えるよ。」

 

「・・は、はい。」

 

妙な沈黙に包まれる。だが意図するところはお互いに全く違う。

 

―ゴメンな七咲。本っ当に・・・・ゴメン。

 

 

 

 

 

昨夜の晩の出来事である。時間は九時半。

広大の実家、居間にてその事件は起こっていた。

 

「広大。一体何回言ったら解るの!?」

 

「解んない人だな・・母さんも。」

 

広大の母と広大は不穏な空気に包まれていた。

 

「全く・・ホントにあんた私の子?情けなくなってくるわ・・。」

 

広大の母は頭に手を当てやれやれと首を振りながら「子供には言っていけない台詞のワースト5」に入りそうな言葉を簡単に言い放つ。

広大の母親はこういうタイプだ。叩き上げのキャリアウーマンで基本旦那より稼ぎがあり、当然仕事も出来る。杉内家でも権力の頂点に立つ。それ故実の息子に対しての罵倒は相当辛辣だ。

 

―は~・・・この母親は・・!

 

この母子の会話から「相当の修羅場だ」。と、普通は思うであろう。しかし―

 

「犯人はあの家政婦に決まってるでしょ?「あの」稲村高一が演じてるあのカッコイイ敏腕弁護士が犯人なわけ無いじゃない!何考えてるの!」

 

「稲村 高一」は広大母が十年来ファンを続けている俳優であり、数年前ゲス不倫騒動を起こして以来ハッキリ言って落ち目だ。だが胡散臭いイメージが付いた故か最近こういうテレビサスペンスものではいい小物感をだしている。

 

しかし広大母はそれを認めたがらない。当の役者本人は開き直って自分のイメージを仕事のタネにし、同時飯のタネにしているにもかかわらず、一ファンが過去の栄光に縋っている。滑稽な話だ。

 

「ちゃんと見ろよコイツ、台詞からして胡散臭いじゃん!主人公に対して『一見味方っぽいように振舞いつつ実は暗躍してたけど、その中で下手打って結局犯人とばれる典型的タイプ』だろ!どう見ても!」

 

まぁ・・こういうわけである。

 

三十分後。再びテレビを指差しながら得意気に広大母はこう言った。

 

「ほら見なさい!家政婦が捕まったわよ。これで事件解決よ。」

 

「んなわけねぇだろ!まだ十時にもなってないんだぞ。」

 

更に十分

 

「この家政婦・・まだとぼけるつもり?『私はやって無いんです。』で罪から逃れられたら警察要らないわよ!てかサスペンスドラマいらないわよ!」

 

「こういうのは『証拠を出せ』と言いださない限り犯人じゃないって・・。」

 

 

『刑事さん・・私を疑うからには証拠はあるんでしょうね?』

 

 

三十分後・・ブラウン管の中の取調室にてそう言いだしたのは「あの」稲村高一演じる弁護士だった。

 

「・・・。」

 

「いや・・母さん?まだ解んないよ?裏があるのかも・・。」

 

二分後・・

刑事『ネタは上がっているんだ。覚悟するんだな。』

 

弁護士もとい犯人もとい稲村高一『・・・アイツが悪いんだ!!』

 

「・・・。」

 

「・・・。」

 

―落ちんのはえぇな!!

 

「・・・」

 

無言で広大の母はそっとその場を去った。そして台所から料理をする音がする。広大の家では母が朝早いため、前日に弁当を調理しておくのが通例となっている。

 

その翌日―

二時限目の休み時間。2-A

 

いつものように早弁のため広大は弁当のふたを開けた。

 

「な・・・にぃ・・!!???」

 

カポ・・。即蓋閉じる。

 

「食べられるもんが一つもない・・。やりやがったな。」

 

広大早弁を即断念。

 

その三分後である。・・年下の女の子の弱みに付け込んで広大が弁当を交換要求したのは。あの母親在ってこの子供ありである。

 

杉内・・いや「ゲス内」母子の策略の最大の被害者―七咲 逢。

 

「解りました!そんなことでよければ喜んで!」

 

・・可決。

 

―・・。痛むな良心が。

 

そして現在。

 

「御馳走様でした。先輩。」

 

―・・やった!全部食べてくれた。

 

「こちらこそ御馳走様。七咲。」

 

―・・やった。全部食べてくれた。

 

自分の弁当箱の空箱を前に思った事は全く同じ文体でも意味合いが全く違う。

そして全く対照的な心象で二人は小春日和の中、日光浴をした。

 

「いい天気ですねぇ。先輩。」

 

「・・そうだねぇ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10 そうだよ

 

「あんた今年のクリスマス空いてる?」

 

広大の母はコタツに入りながら剥いたミカンの皮をつまんでスプレーのように果汁を広大に飛ばしながらそう言った。普通に聞けないのか。

 

「ん?創設祭に顔出すって言ったはずだけど?」

 

「じゃなくて!イブじゃ無くてクリスマス!25よ。夜。空いてる?」

 

「うん・・空いてるけど。」

 

「なっさけ無いわねぇ。彼女ぐらいいないの?」

 

「空いてるか」と聞いて「空いてる」と答えたらけなされる。異次元の会話だ。

これで「空いてない」と答えたら、どう答えられるのか試したいところだが生憎その予定は無いところがまた悔しい。

 

「ま。いいわ。ちょっと付き合いなさい。たまには家族でごはんも悪くないでしょ。」

 

「えぇ!?なんでまたいきなり。やだよ。」

 

「ほほおうう?そんな事を言っていいのかしら?今年はスペシャルゲストを呼んでいるのに。」

 

「うわぁ・・胡散臭い。」

 

「聞いて驚け。塚原家よ。」

 

「ふ~~ん・・。・・!何ですと?」

 

「悪いのは頭だけにしなさい広大。」

 

 

「たまにはいいでしょ。久しぶりに響香とアタシの日程があったし春樹さんもお父さんも仕事で遅れるけど参加するって。」

 

「春樹」は塚原の父親の名前である。

 

「おじさんも!うわ久しぶり。」

 

「勿論響ちゃんも来るわよ。」

 

「・・ふーん。」

 

「アンタは喜ぶと昔から瞬きが増える癖がある。」

 

「!」

 

「嘘よ。あっつかいやすいわねぇアンタは。ヘンな女にひっかかるんじゃあ無いわよ?」

 

「・・」

 

―ぐ・・くっそー。父さん、何故こんな女を選んだんだ。

 

「ま。響ちゃんの大学合格祝いも兼ねてのクリスマス会になるでしょうよ。」

 

そう言った広大の母の眼は実の息子を見る目より澄んだ母親の目になっていた。

 

響香が広大を本当の息子のように思ってくれていたように広大の母もまた塚原を娘のように思っていた。お互いに女の子のみ、男の子のみの家庭を築いた互いの境遇のちょっとした「不満」というにはあまりにも些細な綻びを親友同士で埋めあったのがこの二人だ。

 

「お互いの子供を実の子供のように愛し、育てられる間柄。」

 

この点に関しては、広大は自分の母を尊敬している。一時期広大の母と衝突し、ぐれた広大の実兄も結局は更生した。共働きで基本キャリアウーマンな母は多忙ゆえに少し不器用な愛情を兄に注ぎ過ぎた。放任し、

 

「自らが納得いかなければそれを訴えろ、ぶつかって来い、努力しろ。・・すべて受け止めてやる。」

 

母の愛情は何とも男前だった。

ただ思春期に入る前の甘える事を本能的に欲する男児にそれを課したのは幾分酷だった様だ。

幼さゆえにその母の遠回しの愛情に苛立ちを覚えた兄の非行は不可避だったのかもしれない。

しかし―

そこで実の母とは対称的に塚原の母は辛抱強く面と向かって兄に接した。

まだ幼い次男の広大の面倒を見つつ、遅くに帰る親友の長男に決して怒ったり、侮蔑の色を浮かべたりせず、帰宅を歓迎し、温かく向かい入れる。

兄にもプライドがある。あのうっとうしい程たくましい母とは異なり、繊細で不器用な愛情を向けてくる響香を突き放す事を決してしなかった。

 

形は違えどどちらも紛れもなく愛情。自然と兄は歪みかけた方向を修正し始める。

不平不満はある。でも双方ともに確実に存在する愛情を自覚し、受け取った人間が道を踏み外す事は中々に難しい。この二人の母は強敵だった。

 

二人で「母」だった。

 

「何よ?」

 

「何でも無い。」

 

「・・・?ま、いいわ。で、アンタ。着ていく服はあるの?ちょっといい店行きたいからいつものカッコじゃやぁよ?恥ずかしい。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日2-A

 

「やったじゃん広大!おばさんも粋なイベント開いてくれたね。」

 

「・・それでちょっといいカッコしたい訳か。」

 

広大の「事情」に精通している国枝、源の両名は心底その朗報を喜んでくれた。

 

「と、いう訳でどっかいい店知らないかな?俺全くそっちの方解らないから。」

 

「ん~ちょっといい店でおまけに塚原先輩が来るのか・・確かに下手なカッコじゃいけないな。」

 

「おまけにウチの母の判定が入る。パスできなければ罰としてこの日の俺の食事代は俺の今年のお年玉から引かれる。」

 

「・・嘘だろ?」

 

「いや、やるね。」

 

「広大・・君のおばさんおっかないね・・。」

 

心底同情する源。

 

「ま。そういうことなら薫が詳しいか。」

 

マイペース国枝。

 

「んー?そうねぇ・・隣町の集合モールまで行けば一つはいい店あると思うわよ?吉備東デパートはウィメンズはそれなりだけどメンズの入ってる店舗は数も質も今一つだからね。女の子のリング、イヤリング、ネックレス、バングル、アンクル、レギンス、ソックス、カチューシャ、果てはチョーカーまで・・女の子の小物に関しちゃ他の追随を許さないだけに惜しい所だわ」

 

国枝に召集された棚町薫は腕組みしながら、流石のファッションリーダーさを披露。広大は基本頷くだけである。

 

「へぇ・・。」

 

「古着屋ならちょくちょくここら辺はあるんだけどね。ただ・・ちょっと『良いお店行く為にキレイに正装』と、なると荷が重いかな・・。状態も微妙でサイズも揃わない場合が多いし。」

 

「んー・・難しそう。」

 

「ま。サイジングは大事だとアタシは思うワケ。服を「着る」か服に「着られる」かを決める上で大事な要素よ。」

 

「着るか着られるか・・なんか侍みたい。」

 

「そう!いつも真剣勝負よ!限られた予算の中でどれだけ自分を満たしてくれるイイ物をお得に買うか!ショッピングは戦争よ!」

 

「・・薫。プロパガンダはそれぐらいにして、本題に入ってやってくれ。」

 

横道に逸れそうな棚町を何時ものように国枝は諌めてくれた。

 

「ん!?うーん。でもこればっかりは一緒にお買い物行かないとね。口で『これがいいと思うよ』って伝えるの案外難しいの。杉内君の体形とか似合う色とか着て、見て初めて解るから。」

 

「・・成程。薫にしてはまともな意見だ。ごふっ!」

 

「・・何か言った?直衛?」

 

「うひ~。直~・・失言は程ほどに~」

 

―人間って本気で殴られたらこんな音がするんだね・・。

 

源が苦い顔をして笑う。

 

「・・流石だね。棚町さん。」

 

―色んな意味で。

 

「ふふふん。伊達に苦労人していません。うーん・・一緒にお買い物いけたらいいんだけどね・・。あたしもバイトあるし、源君と直衛は?」

 

「ごほっ・・わ、悪い。俺予備校。」

 

「ゴメン広大。俺も創設祭の用意が大詰めに入ってるから厳しいかな。」

 

「いや・・こっちこそゴメン。こんな忙しい時期に相談して。」

 

三人とも真っ当な理由で忙しい。万年暇人広大が無理を言う訳にも行くまい。

 

「叶う事なら女の子の意見が欲しいところね。いざとなったら女性の店員さんに聞くのも手だと思うわよ?ただ同年代じゃないからな~。」

 

「・・だったらいっその事一緒に行く塚原先輩に相談するっていう手もあるけど。広大?一石二鳥じゃん。」

 

「あ。それもアリね。」

 

「うーん。それはちょっと・・・。」

 

意外にも当の広大が渋った。

 

「そうなの?うーん。」

 

「・・ま。本命の相手に変身する姿を決めてもらっても、か・・確かに本末転倒かも知んネ」

 

「・・う~~ん女の子ねぇ・・一緒に行けるような子他にいそう?杉内君」

 

「う~~ん?ん?・・あ。・・でもな~~どうだろな~~」

 

「「「・・?」」」

 

 

 

 

「・・放課後、ですか?」

 

体育の授業を終え、水道の蛇口を空に向け口をゆすいでいた七咲を見つけ、広大はダメ元で聞いてみた。恐らく七咲は性格からして塚原の感覚に近そうだと言う判断である。

 

「別に・・構いませんよ?」

 

「あ・・でも七咲部活は?。」

 

「大丈夫ですよ。一日ぐらい。」

 

「ホントに?」

 

「ええ大丈夫です。・・それに水泳部は創設祭の件で先輩には実際いろいろお世話になっているんだし・・それぐらいの頼まれごとぐらいさせて下さい。ただ『お役に立てるか』、は解りませんけど。」

 

「・・ゴメンな。急で。」

 

広大の謝罪にもう七咲は反応しなかった。ほっとけばまた謝りだしそうだからだ。

 

「隣町のショッピングモールかぁ・・私行った事ないです。先輩は行ったことあるんですか?」

 

「・・正直俺も行く道が解る程度。でもクラスメイトの女の子がいくつかおススメのお店リストアップしてくれたからとりあえずそこに行ってみるつもり。」

 

「・・クラスメイトの女の子・・絢辻先輩ですか?」

 

先日のメロンパン事件以降―なぜか七咲は絢辻関連の事になると妙に落ち着かない気分になる。

 

「ん?いや、違うけど。」

 

「そうですか。」

 

「・・?とにかくありがとう。じゃ放課後に。」

 

「では放課後校門で。」

 

「いや。教室で待ってて?迎えに行くから。」

 

「・・。はい。」

 

意外そうに眼を丸くした後、嬉しそうに笑って七咲は頷いた。

 

 

放課後 1-B。

 

七咲のクラスでの出来事である。

 

「だ、誰だあの男は!」

 

「美、美也ちゃん・・?」

 

「あ・た・し・の逢チャンを連れて行ったあの馬の骨は誰だ!」

 

「美也ちゃん・・怖いよう。」

 

ちょっとしたクラスメイトの修羅場も知らず、教室に現れた名も知らぬ恐らく年上の男子にあまりに自然に七咲はついていった。それがどうも橘 美也は面白くないらしい。

そのクラスメイトで同時友人であり、また七咲とも仲がいい中多 紗江は猛烈なとばっちりを受けている。

 

「失礼します。中多さんいますか~?」

 

「あ。御崎先輩。」

 

あぁ助け舟。

 

「ああ!元祖馬の骨!!!しゃあああああ!!」

 

威嚇。

 

「ええ~~ひどい~」

 

沈没。

 

「美、美也ちゃ~ん。」

 

「・・。嫌われてるなぁ・・僕。」

 

「逢チャンだけじゃなく紗江ちゃんまで私から奪おうというのか~!うにゃあああああ!!」

 

「・・棚町さんが今日バイトでてるから色々教えてくれるよって言いたかっただけなのに。」

 

「ホントですか!」

 

「うん。それで新メニューのパフェの試食もまたして欲しいからぜひ連れてきて欲しいって。」

 

「え。パフェ!?わーい!美也も行く~。」

 

「・・・ふぅ。」

 

「・・・ほっ。」

 

中多と御崎は漸くホッと一息ついて苦々しそうにお互いの顔を見合って笑った。

 

 

 

一方隣町の海央(みおう)市のショッピングモールに着いた広大は棚町の渡してくれたメンズショップの名簿とモールの案内図と格闘していた。その広大を尻目に七咲はクリスマス用にイルミネーションされたモール街を楽しそうに見回している。

 

木々には色とりどりの電飾とクリスマスらしい星や靴下などの飾り物、流れる音楽もこの季節にジャストフィットする往年のクリスマスソングである。

 

「わぁ・・クリスマス一色ですね。先輩。」

 

「ん~???」

 

「もう・・地図見せてください!・・。先輩・・これ向き逆です・・。」

 

「え・・あ。」

 

「くすっ。」

 

正しい向きに変えた地図は容易に広大たちを目的地に運んでくれた。

 

「『・・お値段はリーズナブルでサイズも豊富、高級感は無いが素朴でスタンダードな綺麗めの服が多いのでおススメ。試着もできるのでこの店で自分のサイズをある程度把握して他の店を回ると吉。』と、書いてある・・」

 

最初に訪れた大手大衆アパレルショップの事を棚町メモはそう書いてある。・・おみくじの様な文面だが解りやすくて有難い。

 

「親切で丁寧なヒトですね。先輩のお知り合い。」

 

「全く。」

 

店内で適当に見繕った商品を手に取り、とりあえずはまず着てみる。

 

Vネックセーター、ケーブルセーター、カラーパンツ、ネルシャツ。長袖シャツ。サイズはМ。

 

「うーん。普通ですね。」

 

「七咲・・その意見が一番辛いかもしれない。」

 

「そういえば先輩って普段私服はどんなの着ているんですか?」

 

「ん・・?ん~基本楽な格好。普通のジーンズにパーカとか。」

 

「成程。普通ですね。」

 

発展性。ゼロ。

 

「・・。」

 

恐らくその格好で出たならば自腹を切る事は確実になるだろう。広大の母ならやる。お年玉没収など何の抵抗も無く。

 

「・・ちょっと店員さんに色々聞いてみますね。先輩はちょっとここで待っていて下さい。」

 

「うん・・。」

 

その間広大は試着室で脱いだ服を黙々と畳みながら七咲の帰りを待っていた。

 

―自分に似合う服なんてあんまり考えた事無いからなぁ・・。

 

頭をカリカリと掻きながら制服のブレザーを羽織ろうとした時に七咲が戻ってきた。

 

「あ、先輩。ん・・?」

 

「ん?」

 

「あ・・!」

 

「ん・・?どうかした?」

 

「先輩って何時も思うんですけど・・制服が似合ってますよね・・?」

 

「・・?そう?」

 

「はい。髪も短めで首元もすっきりしてるし手足が細長いから身長も高く見えます。そっか・・制服って良く考えてみると『正装』だからそれが似合うってことは・・。」

 

「事は・・?」

 

「特にいつもと違う格好をしない方が先輩らしいし、似合うんじゃないかと思うんですけど・・どうでしょう?」

 

「・・ふーん。解った。一回それで見てみようかな。」

 

―・・先輩って本当にМサイズですか?

 

―・・うーんまぁいつも着てるサイズだから適当に選んでみたんだけどね。

 

―ちなみに制服は?

 

―それはS。入学当初の奴だし。

 

―でも今でも問題無く着れているんですよね?

 

―うん。確かに不自由さは感じてないけど。

 

―だったらきっとSの方がいいと思いますよ。小さいサイズ持ってきますね。

 

 

 

―あ。先輩?ちょっと野暮ったさが消えたかも・・。きつくはないですか?

 

―うん・・特に問題なし。

 

―でしょう?こちらの方がすっきりしていていいと思いますよ。

 

―そういや棚町さんも言ってたかな。「サイジングは大事だ」って。

 

―じゃあ下も上に合わせていつもより小さめの方がよさそうですね。

 

七咲ボトムス調達。

 

―色はどうします?

 

―カーキと茶色と黒×緑のチェックか・・。ピンとこないから全部試してみるよ。

 

―帽子は?

 

―被った事無い。

 

―これもいい機会です。試してみましょう。

 

―おう・・ってハンチングキャップ!?これ被れって?

 

―適当にとってきました。何となくですけどきっと似合います!

 

―ホントかよ・・。

 

 

 

コーディネート終了―

 

広大は恐る恐るカーテンを開けた。と言っても最初は不安そうに顔を出すだけで、七咲に急かされて漸くであった。とことんチキンな男である。

 

「・・・どう?」

 

「・・・あ。」

 

「・・やっぱダメかな。」

 

―いや・・これは意外。先輩―

 

かっこ、いいよ?

 

白のカッターシャツにネイビーのPコートを羽織り、下は黒と濃い緑のチェックパンツ。靴がまだスニーカーなので浮いているがそれさえ変えれば十分だ。おまけにハンチングが予想以上にあたった。もともと広大は頭も小さいため小ぶりのハンチングがバランスを壊さずにのっかっている。

そこが・・なんか

 

―先輩・・カワイイ。ふふっ・・。

 

くすっ・・いけない。自然と笑ってしまう。こりゃ大変身だ。先輩。

 

「・・七咲?」

 

「あっ・・は、はい?」

 

「な、何か違う?やっぱり。」

 

「あ。すいません!いえ大丈夫ですよ先輩。・・・素敵だと。」

 

「・・ホント~?」

 

「ホントにホントです!」

 

「・・そっか・・七咲がそう言うなら・・コイツにしようかな。」

 

 

 

 

 

 

一旦買い物が一段落し、二人はフードコートにて一息ついていた。

広大の足元には左右に二つ巨大な買い物袋が席巻しており、せまっ苦しい。

 

「・・なんか七咲と居る時って俺いつも両手に何か抱えてる気がする・・。」

 

「え・・?ああ~そう言えば・・。」

 

ゴミ拾いの時も。おでんの材料の時も。今日も買い物袋で両手が一杯である。あと・・

 

「森島先輩と響姉と七咲と帰った時・・あれも後々「両手に花」とか言われちゃったし。」

 

「ま。あ・の・塚原先輩と森島先輩ですからね~~。」

 

少し七咲は口をとがらせた。先輩二人の名前をわざとらしく強調して。

 

「あ。別にそういう訳で言ったわけじゃないって。」

 

「知ってます。」

 

「う~~・・。ま、いっか。七咲?どっか行きたいところある?」

 

「え?私ですか?」

 

「うん。俺の買い物は最初の店でほぼ終わったしね。見たい店とかない?」

 

「私はここ初めてなのでどういうお店があるか解らないし・・それにあんまり持ち合わせも無いですから結構ですよ。」

 

「思ったより安くついたから少しなら出せるよ?一緒に来てもらったお礼はしたいし・・。」

 

「いいですよ。電車代も頂いているのにおねだりなんて出来ません。まだ先輩の靴も買わなきゃいけないんだし・・ところで、どれくらい予算残ってるんです?」

 

「・・上下一式買ったさっきので半分いってない。」

 

「え・・?そんなにくれたんですか?先輩のお母さん。」

 

「そうなんだよ・・。気味悪いぐらい大奮発でさ・・。」

 

「へぇ・・でも偉いですね先輩。出来る限り安くすませようなんて、お母さん想いなんですね。」

 

「・・甘いな七咲。」

 

「え?」

 

「もし今回の服選びをミスった場合、俺はクリスマスの外食代をお年玉で自腹を切る事になる。これはさっきも言ったよね?」

 

「はい・・。そういえばそんな事を。」

 

「詰まるところそのミスった服に払った代金まで俺は負担させられる可能性が高い。よって無駄金は使えない。お年玉が年始早々枯渇するハメになる」

 

「え・・?はは・・冗談・・です、よね?っていうか私・・クリスマスの外食代云々のお話の方も冗談だと思っていたんですけど・・?」

 

「・・現実は非情である。」

 

「はい!?私責任重大じゃないですか!あんなに簡単に決めちゃって良かったんですか!?」

 

「・・俺一人で考えてもしょうがなかった。結局俺が選んでも爆死は免れないだろうし。自分のセンスの無さは重々承知しているから。」

 

「な、なんなんですか?その悲壮な諦めは・・。」

 

「七咲・・君はきっといい家庭に生まれたんだね。・・いいんだ。もう・・。」

 

「よくないです!先輩がもしそんなことになったら半分私のせいになるじゃないですか!」

 

「不運と思って諦めてくれ。」

 

「最っ低です!」

 

「運命共同体ってことで。」

 

「えっ・・・!」

 

―・・ええい!ときめくな!私!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一時間後―

 

「大分暗くなっちゃったな。帰ろうか。」

 

「はい。」

 

「とりあえずお年玉没収云々は全部冗談だ」と広大は言っておいた。まぁ現実は本気で変わらないのであるがさすがに七咲が気の毒だった。

しかし・・出会ったころに比べると随分とからかいがいのある子に七咲はなった。

表情も豊富。楽しそうに暗くなったモール街のイルミネーションを見回している。

 

―・・成程。なかなか可愛いんだなこの子。

 

第一印象はお世辞にもいいとは言えなかったが変わるものだ。

しかし根のところは何も変わっていない。真面目で一生懸命で少し皮肉屋なのが玉にキズだ。

いつの間にか塚原に次いで信頼できる女の子になっている。本当に不思議なものだ。

 

「先輩?」

 

「・・ん?」

 

「どうかしましたか?」

 

「今日は本当にありがとう。七咲。」

 

「・・・。」

 

その広大の言葉から七咲は何かを感じ取った様に押し黙った。

 

「俺頑張るからさ。どっちに転がってももう納得できると思うんだ。」

 

「・・・。」

 

七咲は広大から目をそらさなかった。一見傍から見れば無表情に見えるがきっちりと笑っている。

人間口で笑っていても目が笑っていなければ他人に与える印象は全く違う。

彼女の場合は真逆だった。口は笑っていなくても目は優しく微笑んでいた。

両手はいつものようにクリーム色のジャケットのポケットにしまいこんで。

 

「先輩、響姉に伝えてみる。あれだけ傍に居て全く使った事が無い言葉だけど・・今なら言えると思う。」

 

信頼、感謝、敬愛よりももっと根本的で直情的な言葉。感情をこめた言葉。

 

「・・そうですか。」

 

七咲がようやく口を開いたと同時に彼女の表情が変容した。一切の妥協の無い笑顔だった。包み隠さず全力の笑顔で最後に―

 

 

「・・頑張って下さい!」

 

―・・言えた。・・良かった。

 

 

「・・うん。じゃ帰ろう?遅くなってゴメン。送るよ。」

 

「はい。」

 

 

 

 

―これでいい。これで。

 

良く頑張った。私。

 

もしこれでこの人とあの人が離れていこうとも、自分には手の届かない二人になろうともきっと祝福できる。何の事は無い。もともとこうなるはずだった。

この人が現れていようと現れなかったとしてもいずれは訪れる時だったのだから。

ただ―

現れたせいで失うものが少し多くなっただけだ。

手に入れたものが多い分、失うものも増えただけ。当然の事じゃない。

 

 

 

・・だからお願い。

 

 

 

鳴らないで。響かないで。

 

 

ポケットの中の右手に光るプーの鈴を七咲は強く握りしめる。

握りつぶしそうになるくらい、しかし暖かく包み込むような矛盾した力で。

 

表情は完璧だった。仕草もいつも通り。

 

すべての「もの」はこの右手の中にしまい込んだ。

ポケットと手に覆い隠されて広大には絶対に見えない。

 

鳴らなければ。響かなければ。

 

七咲が覆い隠した「もの」もまた―

 

信頼、感謝、敬愛よりももっと根本的で直情的な言葉。感情。

 

今更ながら七咲は思い出す。感情の堰が崩壊し、言いたい事をただ言いあったあの時。

まだ二か月程前の遠い遠い日に広大に言われた言葉。

 

―人を本当に好きになった事なんてないんだろ!?

 

 

―・・そうだよ。

 

 

ありふれた陳腐な言葉。使い古された何処にでもあるような言葉。

ちょっと探せば何処にでもあるような言葉。

でも今は解る。

 

そうだよ。

 

そう「だった。」

 

今私は初めて先輩に言われたこの言葉の本当の意味を理解して。

 

今私は初めてこの言葉を喪った。

 

私の中から・・永久に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「ふむ・・。」
帰宅後さっそく広大の母による厳正なチェックが開始される。既にレシートは取り上げられ、パスされなければ今日の会計から年始早々身も懐も凍るお年玉の徴収が始まる。

「・・どう?」

「うーん。」

そう唸りながら広大の母はリビングから出ていく。行動の主旨が相変わらず分かりにくい。

「・・・?」
二分後―リビングに再び広大の母は戻ってきた。

「コレ巻きなさい。色目が少し暗いわ。それ以外はOK。」

そう言って広大の母は赤地の幾何学模様のマフラーを広大の首元にまく。意外なほど繊細な優しい手つきで。

「・・。」

―あれ・・?俺何で照れてんだろ・・?

「うん!悪く無いわ。」

鏡に映った息子の姿を見て広大の母は何時に無く上機嫌でほほ笑んだ。

「それじゃ・・。」

「・・正直に言いなさい。アンタが自分で選んだんじゃないでしょ。」

「う・・。」

鋭い・・というより解るだろう。明らかに広大のセンスで選ばれた物ではない。

「響ちゃん?」

「ううん。」

「でしょうね。アンタにそんな勇気ないでしょうよ。じゃあ店員さん?」

「それも違う。・・一緒に行った友達だよ。」

「ふーん。」

「・・ひょっとしてダメ?」

「ふっ、ま、いいでしょ。パスにしといてあげるわ。なかなか似合ってる。」

素直な母の一言だった。

「マジで?」

―・・やったぁぁぁ・・。

「やれやれあんたって子は・・。自腹を避けれた事が嬉しいの?」

「あ・・。」

―あ・・。

「全く・・アンタは自分の事を喜ぶ前に感謝するべき人が居るでしょう?一緒に行った子が誰だか知らないけど一生懸命考えてくれたはずよ。ちゃんとお礼言っときなさい。」

「あ。うん!」

「・・。嬉しいわね。」

「え?」

「響ちゃん以外にもちゃあんとアンタを見てくれている人が居るってことよ。・・大事にしなさい。」

「ちゃんと見てくれて・・・る・・?」

―・・七咲が?

「はい!私の気が変わらないうちにさっさと着替えてきなさい。・・当日までにそれ汚したら殺すわよ?そのマフラーも安く無いからね。」

物理的にまで具現化された殺気に広大の身は縮む。

「・・。はい。」

やや恐怖で硬直したまま広大は自分の部屋に去り、広大の母は一人リビングで物思いにふけった。
出会った事の無い、名も顔も知らない広大の「友達」を思う。
源、国枝、梅原、茅ヶ崎、棚町等の息子の友人達とは彼女は面識がある。

ただ「今日の」はちょっと違いそうだ。その証拠に広大は無意識に名前を出さなかった。
広大の母に面識のある彼らなら何の気兼ねもなく広大は言うはずである。恐らくその子達の誰かではない。全く別の子だろう。
名前も知らず、顔も解らない、しかし広大に今回の服を選んでくれた「友達」。
恐らく一生懸命に。
与えられた断片にすぎない情報。そこに含まれる僅かな、その広大の言う「友達」の感情を感じ取って広大の母は笑った。
何の確証もない。
だが根拠のない確信が何故か彼女を包み込んでいた。

―広大もなかなか捨てたもんじゃないじゃない♪

そして唐突に落ち込んだ。

「・・ひょっとして男・・・?だったらどうしよう・・。」

久しぶりに息子の事に関して真剣に広大母は悩んだ。








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ルートA 13 踏み出せ 鳴らせ 咲け 響け

長い。


くっ・・馬鹿な・・この俺が・・この俺がまさか・・



「逃げ恥」ロスに罹るなんて!!



ヒラマサ~~俺だ~~結婚してくれ~~。








「七咲。どう?」

 

塚原響は湯気に包まれて見えない七咲が居るであろう方向に向けて声をかけた。

だが七咲の表情は見えない。変わりに

 

「・・・。塚原先輩。」

 

何時になく神妙そうな声で湯気の中から七咲の声がする。断っておくが「湯かげんいかがですか?」ではない。

 

「何?」

 

「・・すごいの出来ちゃったかもしれないです。」

 

「・・そう。良く頑張ったわね。」

 

「はい!!」

 

湯気を切り裂いて現れた七咲の満面の笑みを見て塚原も笑った。

 

「「やった~~」」

 

と同時に歓声と拍手が上がった。

 

七咲と塚原を取り囲む水泳部の面々が七咲に喝采を浴びせる。同輩も、一個上の先輩も、塚原達三年生+なぜか森島はるかも例外なく。

 

「逢ちゃんお疲れ。」

 

「七咲さんやったね。」

 

「皆のおかげです。でもまだこれからです。出来ただけですから。頑張ってこの吉備東高名物水泳部特製おでんを完売させましょう。お手伝いお願いします!」

 

七咲がそう言ってぺこりと頭を下げる。と、同時に口々に水泳部の面々から賛同と頼もしい声が上がる。

 

「任しといて!」

 

「これで売れ残ったら私らのせいだわ!」

 

その中で―

 

「逢ちゃん!任しといて!この私が売れ残りなんて絶対させないんだから~~~!だから―。」

 

「皆!はるかを押さえて!」

 

がししっ!!

 

そう言った塚原の声と同時に水泳部員の腕利き五人が森島を取り押さえた。右手、右足、左手、左足、腰を押さえられ身動きのとれなくなった森島は叫ぶ。

 

「え、え~~!?ちょっちょっとぉ響ちゃんどういうことぉ!?」

 

そして取り押さえられた森島の前に塚原は腕を組み、ずいっと仁王立ちした。

 

「今年こそ竹輪とはんぺんは渡さないわ。開店前の七咲の努力の結晶・・何が何でも守って見せる・・!」

 

何とダサカッコいい間抜けで男前なセリフなのだろうか。

 

「ひっどぉーい!ひびきちゃん私を信用して無いの?」

 

「してない。みんな!橘君がこの子迎えに来るまでしっかり拘束しておいて!!」

 

「「「はい!」」」

 

「響ちゃんひど~~~い!お腹すいたぁ~~!!」

 

そんな森島の断末魔を開幕の合図に

199X年 12月24日 第57回吉備東高創設祭 開幕

 

今日吉備東高の校門は訪れる人を迎える煌びやかなイルミネーションを設けており、非常に明るい。待ち合わせ場所として好都合な場所である。

 

「そろそろ来るころかな・・」

 

そこに塚原は立ち、腕時計を覗きこみながらそう呟いた。

 

ゲートに現れた塚原を幾人かの生徒、主に男子生徒が彼女は一体誰と待ち合わせしているのかを興味深そうに見ていたが大体の人間は連れの女の子に促され、渋々付いていった。

クリスマス・イブに違う女の子に注目されては彼女達にとって溜まらないだろう。

だがヤロー同士で来た連中は虎視眈々と塚原に声をかけるタイミングを狙っていた。

しかし一人の男子に駆け寄る彼女を見て「あいつかよ・・。」という表情をしてぞろぞろと散会していった。

 

「コウ君・・ありがとう。本当に来てくれたの。」

 

「当然。暇人を舐めないで響姉。」

 

鼻を赤く染めながら子供の頃と同じ笑顔で広大は塚原にほほ笑んだ。ただあの頃より目線は大分上だ。身長が女子にしては高めな塚原も少し見上げるぐらいに。二人は平行して歩き出す。

歩股まで今は広大が合わせている。この前自宅まで送ってもらった時に塚原は改めて感じたものだ。男の子は本当に大きくなるということを。

 

「今日は寒いのに・・本当にありがとね。」

 

「はは。絶好のおでん日和じゃ無い?売上に貢献してくれそうだね。響姉。」

 

「そうね。そうなると嬉しいわ。」

 

「で・・俺は前に聞いていた通りの手伝いをすればいいの?」

 

「そうよ。でも、その前に屋台の台の板が破損していてね?その補強をお願いしたいのがまず一つ。後は前言った通り店番と呼びこみのチラシ配りを交互に水泳部の皆でローテーションするからその一角にコウ君を入れるつもり。やっぱり時折お酒の入った人とか来るから店番に男の子が居ると凄く助かるの。」

 

「了解。でも・・部外者で男の俺だし他の女子部員に余計な気を遣わせないかな?今更だけど。」

 

「安心して。常に七咲か私がコウ君の傍に居るから。それに今のコウ君は水泳部にとって一番信頼できる部外者の男子の一人なのよ?大丈夫。」

 

「ならいいんだけど・・。とりあえずやってみるよ。」

 

「勿論休み時間もあるから安心してね。」

 

「あ。あとこちらからも一つ提案があるんだけど・・。」

 

「何?」

 

「コレ。」

 

そう言って広大は脇に抱えていた輪ゴムに巻かれたポスターを塚原に渡した。

 

「ん?これは・・。ああ・・茶道部のポスターね。」

 

筆文字で茶道部の創設祭の出し物のスケジュールが事細かに書かれている。

達筆で読むのに全く苦労しない。文字と文字の程良い間隔も見事だ。

恐らく夕月瑠璃子か飛羽愛歌の字だろう。

 

「八時ぐらいから甘酒配るんだって。だからこのポスターを水泳部の屋台に貼って宣伝してくれると嬉しいって茅ヶ崎から頼まれたんだけど・・。ダメ?」

 

「問題なしよ。むしろ茶道部の人達には凄くお世話になったんだから、これぐらいはさせてもらえたら嬉しいわ。・・私も桜井さんに会いに行きたいし。この前のお茶本当に美味しかったから。」

 

「じゃあ・・休み時間に行かない?俺も茅ヶ崎見に行きたいしね。これ持ってきたから。」

 

「え?・・カメラ?」

 

「茶道部は着物でやるんだってさ。あいつ袴着るんだよ。茶化しに行こうと思って。」

 

「へぇ素敵じゃない!茅ヶ崎君体格いいから似合いそう。あ、じゃあ桜井さんも着物?」

 

「そ。楽しみじゃない?」

 

「いいわね・・。うんそうね。行きましょう。」

 

―・・計算通り。ありがとう・・茅ヶ崎。

 

二日前―

 

広大は茅ヶ崎の元を訪れていた。

 

「塚原先輩は梨穂子を気に入ってた。梨穂子も先輩を気に入ってた。ここまではいいな?杉内」

 

「うん。」

 

「そして当日・・コレを使え。」

 

「・・んだコレ・・茶道部のポスター?」

 

「そうだ。これを塚原先輩と一緒に行くように仕向けろ。『梨穂子が茶を点てる』って聞いたらきっと来てくれる。お前は俺の『袴姿を茶化しに行きたいから一緒に行こう』とでも言え。後・・ほれ。カメラもあれば信憑性が高まる。そのかわり撮った写真焼き増ししてくれよ?」

 

「・・・。茅ヶ崎!!」

 

何と言う至れり尽くせりの配慮!感動のあまり広大は茅ヶ崎に抱きつこうとしたがいなされた。

 

「寄るな・・気色悪い。」

 

実は茅ヶ崎の本音は案外黒い。

 

―これで茶道部の宣伝をしてくれる人間が増える。カメラ小僧の調達。塚原先輩が来る事で・・梨穂子が喜ぶ。うん・・。悪くない取引だ。

 

「コウ君?七咲が待ってるわ。行きましょう。」

 

 

 

 

 

 

「・・・!先輩!来てくれたんですね!」

 

おでんの屋台の向こう側でエプロンをかけた七咲は最後の備品のチェックに余念が無かったが塚原と広大の到着に両親が迎えに来た幼子のように微笑んで作業の手を止めた。

 

「はは。七咲機嫌よさそうじゃん。どう?出来は。」

 

「・・凄いの出来ちゃったかもしれません。」

 

悪戯そうに笑った。いつもは謙遜気味の七咲がハッキリと自信を示す。

 

「お疲れ様。七咲。頑張ったね。」

 

「・・・。先輩?まだこれからですよ?創設祭はまだ始まったばかりなんですから。」

 

・・本当はその言葉と共に頭でも撫でて貰いたいぐらいだった。

 

「そっか。」

 

「さて・・そろそろ開店しましょうか。七咲?そろそろ蓋を開いて。湯気と匂いでお客さんを呼ばないと。」

 

「はい!開けます!」

 

木の蓋を一気に外すと物凄い湯気が上がり、小柄な七咲の姿は一瞬で覆い隠された。丁度風が巻き、湯気が全て七咲の方に向かい七咲は直撃を喰らった。

 

「おおい七咲~~?大丈夫かぁ?」

 

「ぷわぁ~。」

 

もうもうと包まれた湯気の中から七咲が這いでる。

 

「『ぷわぁ~』って・・七咲・・可愛いわね全く。」

 

そんなやり取りの中、色とりどりのおでんの具材がとてもいい狐色のだし汁の上に所狭しと敷き詰められている光景が露わになる。

 

 

「よし・・コウ君。早速で悪いけど台の補強を早いうちにやっといてもらいたいの。だから店番は七咲、川端さんは呼びこみの皆の指示をお願いするわね?」

 

「はい!」

 

「はい!」

 

「了解響姉。でもちょっと・・待ってくれるかな。お客さんだ。」

 

「ん・・あ。」

 

 

「開いたかい?邪魔するよ。」

 

「今年はずいぶん遅かったな・・・。」

 

 

その姿には見覚えがあった。

 

「・・夕月さんに飛羽さん。いらっしゃい。今回は貴重な意見をくれてありがとうね。」

 

同学年の塚原がまず声をかける。広大も主に茅ヶ崎を通してこの二人を知っているが直接話をした事は無い。ただインパクトが非常に強い二人だと言う事を茅ヶ崎から聞いており、実際近くで見てみるとその姿は噂と違わない独特の雰囲気があった。

 

「あ・・茶道部の方は大丈夫なの?」

 

「今年も水泳部の味をイの一番に味わいたくてね。下準備は終わったから後は後輩に任せてきた。」

 

「中々生きのいい肉体労働役を最近仕入れてな・・。大助かりだ。」

 

「・・」

 

―茅ヶ崎だな。

 

「さぁ塚原。今年もあんたの味は健在かね?水泳部のおでんのアンケートを頼まれた時は期待を込めて辛口の意見を言わせてもらったけど・・。」

 

「・・あの味・・少し塚原の味付けと違ったが何かを試していたのか?」

 

「・・ええ。流石ね。試していたわ。でも試していたのは味付けじゃない。水泳部の次代を担う子達よ。」

 

そう言った塚原は誇るように屋台を見た。七咲をはじめ、水泳部の面々が手際よく作業を続けている。三年生三人のやり取りを見ていた七咲は作業を続けながら彼女たちに一礼した。

 

「だから今年味付けしたのは私じゃないの。今年主に味付けを担当したのはあの子よ。」

 

「ふーん・・。」

 

「ふむ・・。」

 

無表情にそう呟いた茶道部の二人は直後、不敵な笑みを浮かべて七咲を見た。

 

「じゃ・・早速貰おうかな。」

 

「一品百円だったな・・。」

 

「あ。二人には意見とかでお世話になったんだしサービスするわよ?」

 

「嬉しい申し出だけどね。塚原?アタシ達は客だよ?今度は試食しに来たんじゃない。それに最初の客に奢っていては他のお客さんに示しが付かないよ。だから受け取りな。」

 

「それに・・お客からお金を貰った時こそ自分が作ったものに対する責任が生ずる・・。後輩を育てるにはその方がいいのではないか・・?」

 

「そういうことだ。今度は客として評価したいからな。」

 

この二人、アクは強いが何だかんだ中々気持ちのいい連中である。厳しさの中に配慮と気遣い、配慮の中にも明確な線引きがある。

 

 

「成程ね。そう言ってくれて有難う。」

 

そう言って塚原は笑った。その二人の意見が純粋に嬉しかったのだ。

 

―・・。後輩を気遣う不安そうな顔をして無いな・・。期待させて貰おうか。

 

夕月 瑠璃子はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お邪魔するよ。」

 

「いらっしゃいませ。夕月先輩に飛羽先輩。今回は―」

 

「塚原から一通り聞いている・・。そんなに畏まらなくていいぞ。飽くまで私達は客だ。」

 

「そうですか。失礼しました。何にしますか。」

 

ややもすると突き放すように聞こえる飛羽の言葉をすんなり受け流し、七咲は調理用の長い箸を手にそう言った。

 

「そうだな・・・私は昆布を。後は大根だな。」

 

「アタシも大根。あと牛スジを頼むよ。」

 

「了解しました。辛子はどうします?」

 

「結構だ。」

 

「アタシも。」

 

―落ち着いてるなぁ七咲。あの二人相手に。

 

―緊張をちゃんと糧に出来るタイプよ。あの子は。

 

広大と塚原は二人に対する七咲のやり取りを見ながらそう漏らす。

 

いつの間にか他に作業をしていた他の水泳部の部員達も固唾をのんで見守っていた。

発砲スチロールで出来た容器に具を乗せ、二人の前に出す。器用に箸でつかんだ大根は崩れるどころかキズ一つ付けてない。

 

「はい。お代。じゃあ頂きます。」

 

「海の恵みに感謝・・頂きます。」

 

周りは徐々に創設祭の本格的な各イベントの開始で賑やかになっていくが奇妙なほど水泳部の屋台は静まり返っていた。おでんを目的に買いに来た他の客が何となく場に入りにくいぐらいに。

 

「・・・」

 

―ある種の営業妨害だよ。これは。

 

 

 

 

「・・・あんた・・名前は?」

 

大根に二、三口を付けた後、夕月が唐突に口を開いた。

 

「私ですか・・・?七咲 逢です。」

 

「七咲か・・う・・・。」

 

「・・『う』・・?」

 

―な、なんか何処となく苦しそう。おかしいな。毒を入れたつもりはないのに・・。

 

 

「うぉいっし~~~ん!!!!コレ!!」

 

 

「・・・。」

 

「あら反応なし?」

 

「あ、いえ!有難うございます!!!」

 

一瞬、予想の斜目を行く夕月の反応にあっけにとられたが持ち直し、ようやく七咲は実感を得られた。

 

―やった!!!

 

「愛歌はどうよ。」

 

「ふむ・・。見事だ。七咲・・ありがとう。」

 

飛羽も夕月に遅れて深く頷いて、珍しく微笑んだ。笑うと飛羽は何だかんだ美人である。

 

「はい!!こちらこそ。」

 

「ほぇ~~。愛歌まで絶賛じゃないか。なかなか人褒めないんだよこの子は。大したもんだ七咲。」

 

まるで数年来の知り合いのように二人はさっき知り合ったばかりの七咲の名前を呼んだ。

 

「やはり・・嬉しいな。『かおる』さんの作った野菜をここまで大事に調理してくれて。紹介した甲斐があるというものだ・・」

 

「はい・・とってもおいしい大根を提供してくれました・・。これも飛羽先輩のおかげです。」

 

「ん。・・持ち帰りでいくつかくれないか?『かおる』さんにも食べさせてあげたい・・。貴方の大根をこんなに上手く調理してくれた、とな。」

 

「はい!」

 

「・・早くした方がいいぞ。」

 

「はい?」

 

「・・見ろ。」

 

彼女たちの後ろには「散々焦らしやがって早く俺達にも売ってくれ。」というオーラを持った複数の客が七咲を見ていた。

 

「・・コウ君作戦変更。おでんをよそうのを手伝ってあげて。後で水泳部の呼びこみから一人七咲のフォローに回すからその時に改めて板の補強お願い。」

 

最初の客の大絶賛に一行は喜びあう暇は無かった。予想以上にタフな夜になりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし・・七咲どう?」

 

「・・・・。大丈夫そうです!先輩有難うございます!!」

 

破損した台板を広大が補強すると先程まで傾いていた器に入ったおでんの出汁は七咲の目線と同じ水平になった。

 

「かなりの応急処置だけど・・今夜ぐらいは持つといいな。」

 

「大丈夫ですよ。おかげで具材の補充が楽になりました。」

 

「はぁ・・嵐のような・・げ・・まだ二時間経ってないのね・・。」

 

ぐったりと腰を落とし、腕時計を覗いた広大がうなだれる。

 

「ふふ・・時間の感覚無くなりますね。」

 

「けど・・ここまで繁盛すると楽しいね。七咲。これも七咲特製のおでんのおかげか。」

 

「褒めても出しませんよ。おでんは。仕事が終わってからです。」

 

「・・良く解ったな。」

 

「顔に書いてあります。『お腹すいた』って。」

 

「・・お腹が空いているのに他人に美味しそうな食べ物を配るなんてなかなか拷問だよね。」

 

苦笑しながら広大はそう言った。

 

「じゃあ・・おでんは食べるわけにはいきませんがちょっと休憩しましょうか。丁度舞台の方で何かのイベント中でしばらくは落ち着きそうですし。」

 

嵐の様な二時間に疲弊しながらも満足そうな七咲は一息ついて、持参した自分のバックから水筒を取り出す。

 

 

「うっしゃあ!親父ぃ~熱燗くれ~。」

 

広大は二次会後のダメサラリーマンの様に屋台にずっかと座り込んでそう言った。

 

「・・はい?」

 

その広大の行為に冷極の視線を少女は向けた。

 

「・・あ、熱燗・・。」

 

―あ・・ヤバい。

 

「・・はい?」

 

抉るように少女は尚も聞き返す。その言葉と視線に一気に広大は酔いが冷めた。元々酔ってなどいないが。

 

「・・いや、なんか、おでんの屋台といったらこう・・酔いつぶれてこういう台詞が似合うかなぁ・・って。・・ゴメンなさい。」

 

「・・高校一年の女の子が『親父』って呼ばれて喜ぶと思ってるんですか。」

 

あくまで真顔で返す七咲。どうやらそれなりに怒っているらしい。空腹から来る投げやり感から出た戯れを心底広大は後悔した。

 

初めて七咲と出会った時以来だ。こんなに彼女に恐怖を感じるのは。

 

「・・・。」

 

 

「親父ぃ~熱燗私もくれ~。ってか?ひゃはははは。」

 

 

「!!!」

 

「!!!」

 

「ひくっ・・。」

 

そこには信じられない光景があった。

普段は厳しく少し固いところがあるが真面目で優しく、男女問わず生徒に人気がある彼女が何という有様だ。おでんの屋台の柱で体をようやく支え、トロンとした目をこちらに向け酒臭い息を振りまく。状態は完全に親父だが、辛うじて見た目は麗しい年頃の女性であるため、色気があるのが幸いか。

 

だが一教師としては正視に耐えない。

 

―誰だコイツは・・。高橋先生の姿をしたこの親父は。・・いいね!俺のアホな戯れが霞むぐらいのどえらいインパクトだ!

 

高橋麻耶

 

職業 現代文教師 2-A担任

 

独身

 

広大のピンチに颯爽・・颯爽?・・とにかく登場。

 

「ちょっとぉ~。出すの出さないのぉ・・?熱燗?」

 

「あ・・あの・・。高橋先生、その・・。」

 

七咲は違う意味で素面(しらふ)に戻る。怒りで+に入っていたものが一気に-になったような感じだ。さすがに少し脅えがある。

 

「高橋先生・・ある訳無いでしょう。」

 

広大が割り込む。一応万が一酔っ払いが現れた時の対策としても彼は呼ばれたのだ。

だが、まさかこのような変わり果てた担任を介抱する事になろうとは。切なすぎる。

見た目は綺麗な良い歳の女性が芸人になって笑えないギャグをしているのを見るような居た堪れなさがある。

 

「何よぉつまんないわねぇ。じゃあおでんでいいわ。」

 

「おでんしかないですって・・。何がいいですか?」

 

「そうねぇ・・。任すわ。」

 

「だって七咲。美味しそうなの選んであげて?」

 

「あ・・はいっ。」

 

その一言で七咲は落ち着きを取り戻した。

 

「はい・・先生座って?色気の無いパイプ椅子だけどね。」

 

「う・・ありがと・・杉内君。」

 

ちゃんと自分の教え子位は判別できるぐらいの意識はあるようだ。

 

「・・あ。先輩。あったかいお茶ありますよ。」

 

「あ。いいね。」

 

七咲は休憩時用に用意していたお茶を水筒のコップに入れ、広大に手渡す。

 

「ありがと。はい・・先生。飲んで。」

 

「酔い醒めちゃうじゃないのぉ・・。」

 

「七咲のおでん美味しいんですから。ちゃんと酔い醒まして味わったげてください。」

 

「・・くすっ」

 

―先生ちっちゃい子みたいだ。

 

そう思って七咲は思わず笑った。

 

 

 

「・・悔しいけどおいしい。」

 

高橋はそう言って割り箸をくわえながらよく出汁が染みた大根を味わった。

 

「何が悔しいのかよく解らないけど・・美味しいってさ。よかったね七咲。」

 

広大の言葉に七咲は嬉しそうにこくりと頷く。するとやや正気を取り戻したのか落ち着いた声色で高橋は喋り出す。

 

「七咲さんはね?町で買い物している時に時々会ってご一緒するの。」

 

「え・・そうだったんですか。そうなの?七咲。」

 

「ええまぁ・・。」

 

「・・・」

 

―成程・・いつもの高橋先生を知ってるだけに余計にビビったんだろうな・・さっき。ま。ビビるわな。

 

「いつも感心してたの。まだ若いのに家族の事をちゃんと考えて献立とか食材とか選んで、お得なセールの情報とか時間帯もちゃんと頭に入れてお買い物してるし・・。私も何度七咲さんの夕食の献立を参考にしたか知れないわ。」

 

広大が「そんなに凄いの?七咲って。」と言うような最早呆れ顔のような顔を七咲に向けると七咲は苦笑いしながら微笑み返した。「何時もの事ですから」とでも言いたげに。

 

「で、今日ハッキリした。やっぱり料理の腕も大したものだって。」

 

そこまで言った後、高橋の箸がピタリと止まり、その不動とは裏腹に彼女の中で何かがマグマの様に流動しているのが解る。

 

ゴゴゴゴゴ・・

 

―お。どうした先生?

 

 

「ちっくしょおおお!!!」

 

「うわっ!?」

 

「『味付けが濃い、好みじゃ無い』?ふざけんな!なら自分で作れや!」

 

高橋大噴火。

 

「気合い込めて作ったんだぞ?労働でしこたま疲れてる体に鞭打って!公務員の仕事、教師の仕事なめんなよ?それをなんだあのガキャ!『これは出来損いだ。食べられないよ。』だと?どっかで聞いたような台詞吐きやがって!」

 

彼女の台詞自体もどっかで聞いた事がある台詞ばかりだがこれが偽りざる本音なのだろう。

よくある話なのだ。これが。

 

「ううっぐすっ。」

 

「先生ほら鼻かんで。」

 

「ヴ・・ヴぁ・・ありがとう。七咲ざん。」

 

「・・」

 

―新しい何かの剣術の技ですか。先生。

 

何とも正視に耐えない良くない担任の暴露話が始まってしまった。加えてさらに予想外の事態が広大を襲う。

 

「ぐすっ。」

 

「え。な、七咲まで・・?ど、どしたの!?」

 

「だっで・・だってとても他人事だと思えなぐて。あたしだって上手く出来なかった時そんな風に言われたことありますしぃ・・。弟に。」

 

「・・」

 

―ええ!?い、嗚呼・・君までもらい泣き?

 

片や一人は酔い。片や一人は場酔い。

 

―じ、地獄絵図になってきた・・。戯れで吐いた暴言のツケかな・・仕方ない。

 

広大は諦めてもらい泣きした七咲をもう一つ用意したパイプ椅子に座らせ、替わりに自分が店頭に立った。

 

「はい七咲座る」

 

「すいません先輩・・ううっ、ぐすっ・・」

 

「よし!七咲さんに杉内君、私がおでん奢るから貴方達二人も食べなさい!買ったのを食べさせるなら文句ないでしょ。誰に何食わせようと私の勝手よ!」

 

「そうです!」

 

「・・・。」

 

思いがけなく広大の空腹は埋まりそうだが余計な気苦労が生まれそうだ。

 

 

 

三十分後―

 

「よ。ほ。」

 

「・・どうしたのコウ君・・?」

 

店頭でいつの間にか店番を主にしている広大に訝しげに塚原は声をかけた。

 

「あ。おかえり。響姉。長い箸でおでんの具すくうのって結構難しいね・・。お客さん何人かハラハラさせちゃった。」

 

「そ、そう・・。そろそろ交代で休憩時間いれるから。お疲れ様。茶道部に顔出しに行きましょう。」

 

「やった。あ。茅ヶ崎と桜井さんにおでんの差し入れ持って行きたいから響姉よそってくれる?お金持ってくるから。」

 

「うんいいよ。ところで・・七咲は大丈夫かしら?」

 

託された仕事を思わずほっぽり出して何かに夢中になっている七咲という少女の光景が塚原にとっては意外な光景だった。

 

「高橋先生と意気投合しちゃったみたい。お互いの境遇に。響姉・・怒らないであげて。」

 

「・・怒らないわ。あんな七咲初めて見る。コウ君には見せるのね?ああいうトコ。」

 

眼を丸くしながら塚原は広大の顔を見つめる。

 

「?」

 

「中々隙を見せてくれない子だから頼もしい反面寂しくなる事もあるのよ。悪い言い方をすれば結構必死で自分を取り繕うタイプだから。あの子。そこが猫っぽくて可愛いんだけど。」

 

「まぁ・・そう、かな?」

 

「・・意外?」

 

意外というよりも広大にとって違和感に近かった。

 

「確かにそうなんだけどそうとも言いきれないっていうか?」

 

「ふ~~ん・・・ちょっとカチンときたかな?今の言葉。」

 

「えぇ!?なんか俺悪い事言った?」

 

「くすっ・・。ふふふっ・・当人同士じゃ気付かない事か・・。・・!あ、高橋先生が・・。」

 

「ん・・。」

 

七咲にぐったりと高橋は寄り添っていた。高橋の手から取り落としそうになったおでんの容器を七咲は手際よく取り上げて下に置く。その中にはもう出汁しか残っていない。綺麗に完食してくれたようだ。

 

「ふふっ・・先輩?・・高橋先生寝ちゃいまし・・・あ。」

 

広大の傍らで微笑む塚原に気付く。夢中で高橋と話し込んでいた自分の不手際を誰よりも尊敬する人間にみられた事が気不味かった。

 

「・・お疲れ様七咲。丁度そろそろ二人の休憩時間だから高橋先生を保健室まで送ってあげて。仮眠スペースとして使えるはずだから。その足で休憩時間に入って大丈夫。交代の子ももう呼んであるから直に来るはずよ。」

 

嫌味も怒気も無く淡々と、しかし親しみとほんの少し悪戯っけを秘めた優しい表情で塚原は七咲にそう言った。

 

「すいません・・。」

 

―ああ。私とした事が・・。

 

恥ずかしそうに七咲は目線を逸らしたが、塚原は後輩の意外な一面が見れた事に本当に嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後―

 

店番交替の水泳部員が着くと同時に七咲は高橋をとりあえず少し起こし、肩を貸しながら保健室に向かった。広大と塚原の手伝いを断って。

 

そしてその際ちらりと広大を睨んで少し微笑んだ。

 

 

 

―・・いってらっしゃい。先輩。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おわっ・・結構混んでる・・。」

 

こんな事なら水泳部まで協力して宣伝する必要も無かったんじゃないか?と思えるほど茶道部の野点(のだて)の会場は盛況だった。

 

甘酒の配布と野点の体験会を兼ねているため双方の客がごった返している状況なのだ。

 

「わ、っとと。」

 

「あ。すいません!」

 

「いいのよ。気にしないで。」

 

甘酒を友人の分だろうか両手に無理に抱えた生徒に塚原らしい気遣いをしながらゆっくりと広大と塚原の二人は人の間をぬって進んだ。

 

「あ。響姉こっち。」

 

見知った顔を見つけた広大は塚原の手首を掴んで引き寄せた。

 

「あ。・・・」

 

―力も強くなったね・・コウ君。

 

「いたよ。桜井さん。ほら」

 

「・・!あ、ああ」

 

茶道部の先輩二人は野点の体験会の進行役をしている傍らで桜井は体験会を終えた者、甘酒を貰いに来た双方に甘酒を配っていた。とても忙しそうだ。

 

「・・?茅ヶ崎がいない。」

 

「そう言えば・・どうしたのかしらね。」

 

列が途切れたところを見計らって広大は声をかける。

「桜井さんお疲れ様。大盛況じゃん。」

 

「あー杉内君!塚原先輩も来てくれたんだぁ。あ、でもごめんね。今丁度甘酒が無くなっちゃって・・智也が補充用の甘酒を取りに言ってくれてるからちょっと待ってね。」

 

「いいよ気にしないで。」

 

「・・桜井さん着物・・すごく似合ってる。」

 

「そ・・そうですか?うわぁ~・・嬉しいです。塚原先輩にそう言って頂けるとは~~」

 

本当に似合っているのだ。これが。

桜色に仕立てられた振袖がやや寒さで上気し、桃色がかった彼女の白い肌によく合う。掻き上げてまとめた栗色の髪の毛が忙しさの為か所々散逸しているが妙にそれが色気を助長している。

 

―・・なるほどね。茅ヶ崎がカメラを俺に渡すわけだ。「これを撮っとけ」ってことね。

 

友人の裏の企みを看破して広大は早速・・

 

―最初の一枚・・これしかない。

 

 

「響姉、桜井さん寄って?一枚撮るよ?」

 

 

 

「・・。おー杉内・・休憩入ったか。」

 

そう言って重そうな甘酒が詰まった巨大な寸胴鍋を茅ヶ崎は片手間に台の上に乗せ、業務用コンロに火を付ける。成程、コレは確かに貴重な『肉体労働役』だ。

 

―どうです?貴方の一家に一台?ってか・・。

 

「ふむ。」

 

「ん。」

「ほっほう・・。」

 

広大は何とも奇妙な笑い方をしてにやにやと茅ヶ崎を見た。

 

「んだよ・・。」

 

「似合ってんじゃん・・袴。」

 

広い肩幅、胸板、そして硬いが厳格で意思の強そうな茅ヶ崎の表情に袴がよくマッチしている。

絶滅危惧種の日本男児の古き良き姿がそこにある。茶化そうにも粗が見当たらない。ここはとりあえず褒めておこう。それが一番面白い反応が見れそうだ。

 

「でしょ!?杉内君もそう思うでしょ。」

 

「・・梨穂子」

 

「うん。響姉もそう思うよね?」

 

「うん。本当に二人共良く似合ってるわ。茅ヶ崎君?とっても素敵だと思うわよ」

 

「・・そうすか。有難うございます」

 

塚原の賛辞に茅ヶ崎の耳は少しずつ赤く染まる。

 

「・・ほれ照れてないで寄れ二人共。撮るよ?茅ヶ崎、桜井さん。」

 

「あ?」

 

「え?」

 

「早くしろって。甘酒あったまったらまた配るんだろ?今のうち。」

 

業務用コンロの上で少しずつ煮立ち始めた甘酒が急かすようにふつふつと湯気を上げていた。

 

「・・おお。」

 

「へへ・・ありがとう。杉内君。」

 

「いいって。・・あ。茅ヶ崎。撮る前に一言聞いておきたい事があるんだけど。」

 

「ん?何?」

 

「今日の桜井さんの着物姿どう思う?」

 

「・・早く撮れやヴォケ。」

 

「・・・。」

 

「あはははは。」

 

塚原もそんな三人のやり取りに口に手を当て白い息を指の隙間から吐きながら笑った。

 

この広大の一言で今日のベストショットは決まった。茅ヶ崎の耳は極限まで赤く染まり、片や桜井も自らの着物の桜色に匹敵するほどの顔色で照れながらも満面の笑みでほほ笑んだ。茅ヶ崎の反応がただただ嬉しかったのだろう。

 

―この写真は焼き増し出来ないな。一枚で十分。・・この二人だけのもんだ。

 

カチカチとインスタントカメラのフィルムを巻き直す音がどうにも広大は心地よかった。

 

 

広大と塚原があったまった甘酒を飲みながら談笑している傍ら―

 

「梨穂子。」

 

「ん。何?智也」

 

「・・確か『アレ』まだ他にあったよな?部室に。」

 

「?アレ・・?」

 

「耳貸せ。」

「ん~?ふんふん、ふんふん。っ・・!」

 

ひそひそ・・

 

「わ。智也!それ賛成。賛成!わかった~。やってみるね」

 

「見てろや・・杉内のヤロー。目に物見せてやる。」

 

茅ヶ崎反撃に転ずる。恥欠かしやがってあのやろー。

 

「・・・。ねぇ智也。」

 

「ん?」

 

「・・どう?」

 

彼女にしては珍しく少し真剣な目つきで着物の手首の袖を両手でつまみ腕を広げながら智也に少し不安そうに・・はんなりとそう聞いた。

 

「・・似合ってる。」

 

「えへへ~ありがとう。智也も似合ってるよ。」

 

にぱりと桜井は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

茶道部部室

 

そこに来ているのは桜井と・・何故か塚原だった。

 

「すいません。塚原先輩。休憩時間中だっていうのに変な頼み事しちゃって・・。夜の学校に入るのって一人じゃ怖くて・・。」

 

「いいのよ。で・・部室のどこにお茶とお茶菓子があるのかしら?」

 

「・・それが・・。」

 

「?」

 

「すいません!先輩!こっちへ!」

 

「え?な、何!?さ、桜井さん!?」

 

・・暫くお待ち下さい。

 

 

「遅いな。桜井さんと響姉。」

 

「折角おでん持ってきてくれたのになー。何やってんだろなー梨穂子の奴。」

 

―まだか。梨穂子。

 

「・・?」

 

何時になく棒読みな茅ヶ崎の言葉を訝しげに思いながらも広大は二杯目の甘酒をこくりと口に付けようとした時だった。

 

「御待たせ~。」

 

「あ、お帰り・・ふ、た・・りと・・も?」

 

「・・おお!おかえり。二人共」

 

―・・すっげ、塚原先輩・・・でかした梨穂子。・・杉内。俺の屈辱の半分でも味わいやがれ。

 

「あはは・・着せられちゃった。」

 

見事な漆黒の着物に袖を通した塚原がそこに立っていた。

着物を着た女性としての美しさだけでなく、華美になりすぎない落ち着いたイメージと彼女の雰囲気にこれもまた桜井と違った意味で良く合っている。

 

「・・私の身長に合うのがこの黒いのしか無いらしくって・・なんかカラスみたい・・じゃない?もっとも明るい色なんて私に似合いそうにないけどね。」

 

口々にネガティブな発言で恥ずかしさを押し殺そうとする彼女の言葉を聞きながらも広大は返す言葉を失った。

 

その姿のまま塚原は校庭に出る。

 

・・・・!!??

 

周りの反響がすさまじく、制服に戻るタイミングを逸してしまったのだ。

 

「茅ヶ崎、これじゃフィルムが足らねぇ!」

 

広大が叫ぶ。カメラ小僧は自分を見失っている。

 

「知るか。とりあえず早くお前も一緒に撮っとかないと知らん間に・・あ。もうダメだ・・ホレ。」

 

「え?あ!!」

 

塚原はすでに多数の女子に取り囲まれ、さながらアイドルのように注目されている。

男子の連中はその姿に硬直し、遠巻きにその中心の主役に見とれていた。

 

茅ヶ崎、復讐完遂。

 

「さって・・俺は仕事に戻るわ。精々頑張れ『コウ君』。」

 

「ファイトだよ~。杉内君~。」

 

水泳部の差し入れのおでんを美味しそうに頬張りながら楽しそうに桜井は言った。

 

「おい食うのは後にしろ・・。仕事終わって無いんだから・・。」

 

「ダメだよー。おでんは熱いうちに食べないと。うーん。やっぱりおいし~。幸せだよ~。」

 

「ダメだって梨穂子・・。そんな。・・おい・・食べすぎだって。」

 

 

「・・・」

 

―夫婦か。・・式には呼んでくれよ。

 

仲睦まじい二人の背を呆れ顔で見送り、振り返ると相変わらず恥ずかしそうな塚原が目で広大に助け船を求めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方―保健室

 

相変わらず存在を疑われる保健室の先生はいない。

ずっしりと眠気で重くなった高橋の体をようやく白いベッドの上に横たわらせる。

 

―う・・先生スタイルいい。

 

そんな些細な嫉妬の炎を打ち消すように掛け布団をかける。最近になるまであまり気にもしなかった事だ。自分の女性としての魅力を誰かと天秤にかけ、嫉妬を覚えるなど。

 

「くす・・。」

 

そう言えば広大もココで介抱したことがあっただろうか。意地を張って強がる広大を軽くいなして放課後の約束をしたあの日。・・何となくあの時の自分の方が勇ましかった印象すらある。

 

いや・・違う。何も知らなかっただけだ。

 

「おやすみなさい・・高橋先生。」

 

静かに保健室を七咲は後にする。

 

校内はとても静かだ。いつもの部活の帰り際の静けさに比べたら騒がしい事は確かなのに。

ここを抜ければすぐにあの騒がしさと煌びやかな光が自分を包み込むだろう。

しかし・・何となく七咲は今のこの静けさを失うのに抵抗があった。

変わりにいつもポケットに忍ばせたプーの鈴を久しぶりに七咲は解放してあげた。

 

リィン・・

 

何とも心地よい、そしてクリスマスという日にあった音色だろうか。

喧騒に入ってしまってはこの小さな音色を味わう事は出来ない。だから少しいつもより機嫌よく七咲は歩く。その七咲のテンポが鈴にも伝わり一定の間隔で響く鈴の音は七咲と共に一個の楽器のようになった。

 

「ふふっ・・。~~♪」

 

いつになく七咲は上機嫌になった。

しかし唐突に

 

「っ!」

 

人の気配を感じた。気付けば七咲はいつもの場所―水泳部更衣室前に足が及んでいた事を悟る。

 

そこに誰かいる。

 

―こんな時間に?しかもこんな所で?

 

近くにそれらしいイベントをしている気配は無い。

 

「・・。誰?」

 

ここは水泳部の大切な場所。七咲にとっても大事な場所だ。思い出の場所なのだから。

そこに居る何者かをせめて知らなければ納得できない。ハッキリ言うと危なっかしいことこの上ない。さっきまでの妙な高揚感があったからこそ勢いで行った行動だった。普段ならこんな事があったら怖くて近寄りもしなかっただろう。

 

先程まで今までの鬱憤を晴らすかのように鳴っていた鈴を再び黙らせ、いつもの更衣室裏を角から覗きこむ。その時鳴らないように握りしめていたはずの鈴が音をたてた。

 

リン・・

 

―・・・!?あ!?しまった!!

 

「え・・。」

 

倉庫裏に居た人影から声が漏れる。確実に今のは聞かれた。「え・・。」と書くには書いたが不明瞭な言葉であり、敢えて字で表すとしたら一番この字がしっくりくるだろう。

 

―・・まずい。

 

思わず七咲は眉を歪めた。

 

「・・プー?」

 

「え・・?」

 

「その音は・・プー?プーでしょ。おいで。」

 

恐怖、焦り、そのような感情がその言葉によって一気に七咲の中から消え去り、歪めた眉を目と共に丸くして。しかし尚も動作は恐る恐るでゆっくりと角から顔を出す。

 

 

「・・っ!あ・・生徒さん・・?」

 

 

そこに居たのは一人の女性だった。手には缶詰を持っている。猫用の。

 

「・・・こんばんはっ。」

 

彼女は自分の状況が他の人間にとって誤解を招いても仕方のない状況であった事を自覚しながらも七咲にまず笑いかけてそう言った。二十代後半ぐらいの女性だろうか。

耳の少し下くらいまでの髪をセンターで分け、清潔感を感じさせながらも分けた前髪の先に独特のエッジをきかせている所に深いこだわりと女性としての強さを感じさせる。大人っぽいダークグレイのコートでハイネックの黒いセーターを包み込む。暗い中で少し光る光一点の瞳、優しげで落ちつきのある声。そして何よりも・・彼女から発せられた「プー」という言葉。

その時点で七咲はその女性に対する警戒を解き、相手に挨拶を返す。

 

「こ、こんばんは・・。」

 

「ははっ驚かしちゃってごめんね。待ち人・・もとい待ち猫がいてね。鈴の音がしたからてっきり・・。」

 

チリン・・

 

「・・・!」

 

また七咲の意図を反して鈴が鳴る。まるでプーの鈴がひとりでにこの女性を呼んでいるようだった。

 

「!・・また・・。なんか貴方から聞こえるような気がするんだけど・・ひょっとして貴方がプーだったりして!?」

 

笑って冗談気味に言って女性は続けた。

 

「は~~~可愛い子になっちゃったね。」

 

その言葉に照れて微笑みながらも七咲は少し複雑な笑顔をした。

もう色々解ってしまったからだ。この目の前の女性がプーにとってどういう人間か。

そしてこの人には確実に伝えなければいけない事がある。他の誰でもない自分自身が。

それがこの鈴を託された自分の責任なのだから。

 

―・・・っ!

 

覚悟を決めた。七咲はポケットから手を出し、そして手を開く。

 

「・・・。これ・・。」

 

リィン・・

 

小さな手の平で「蕾」は転がり、かつての知己に挨拶した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そっか・・居なくなっちゃったのか。」

 

その女性は十年近く前の元在校生。水泳部OBだった。吉備東高の創設祭の間口は広く、毎年来るOBは数知れない。既婚だろうと四十代以上になろうと来る人は来る。別段珍しくもなかった。

 

「はい・・。」

 

「私ね。卒業以来毎年じゃないけどちょくちょくプーに会いにここに来てたんだ。プーは覚えているんだか忘れているんだか解んない顔してたけど。」

 

「でも寄ってくるって事はきっと覚えていたんですよ。」

 

「ならいいんだけどね。」

 

「・・・その鈴を取り外したトコ見たの久しぶり。私の記憶じゃ買った時にお店で包んでもらった光景が最後じゃないかな。あとはずっとあの子につけたままだったから。」

 

「え・・それじゃあ。」

 

「うん。修学旅行だったかな?神戸に行った時に骨董屋で買ったの。・・震災前にね。御店被災しちゃったからおんなじのは多分もう他にないよ。」

 

彼女は長い間知られてなかったプーのルーツそのものを知っていた。塚原も水泳部の部員達も、七咲の大先輩たちが知らなったあの猫のルーツを。

 

女性は色々と話してくれた。

 

プーとどのようにして出会い、部員皆で学校の規則や規範を重んじる生徒会、風紀委員と闘ってプーの権利を勝ち取り、プーをしつけ、後輩たちにもプーの世話を引き継ぎ、卒業と共に後輩たちに託していった事を。

そして自分達の名前を知る人間がこの学校にほとんどいなくなろうとも彼女達が残した規律、そしてプーという一匹の猫は確実に残り、受け継がれた。

 

そして今年、七咲の代で終わりを告げた。

 

 

「ごめんなさい・・先輩。」

 

十年も上の「先輩」を相手に七咲は謝る。しかし女性はあっけらかんと笑い、

 

「?なんで謝るの?もともといつかは終わるものだったの。それが貴方の代だっただけ。アイツは生きていたんだから当然よ。生きている以上どんな形であろうとも違う場所に行く日は来るわ」

 

「・・・。」

 

「むしろ私が謝らせてほしいわ。別に負う義務も無い何処の誰かも知らない先輩が作った決まりと残された我儘な黒猫の世話を後輩たちに押しつけ続けたって言っても間違いじゃ無いでしょ?」

 

「・・正直私もそう考えた時期もありました。」

 

「正直な子ね。」

 

「これぐらい言ってもバチはあたらないかと。」

 

「そうそう。不満はちゃんと口にしなきゃね?」

 

「不満の種を撒いた方が言う言葉ですか?」

 

「あ・・言うわね・・それが本来の貴方なの?」

 

「どうでしょう。」

 

くっくと二人はまるで姉妹のように笑った。

 

 

「でも・・プーは私達にとって大事な『先輩』でした。」

 

「うん。ここに来て毎回いつもと変わらず我儘で元気なプーを見るたびに解ってた。沢山の後輩達があの子を大事にしてくれているんだって。・・たくさんの後輩達を代表してお礼を受け取ってくれる?」

 

「・・はい。」

 

「・・ありがとね。本当に。」

 

「こちらこそ。」

 

正直恐縮だった。他の先輩達と比べると七咲とプーの時間はたった一年足らずの短い時間。

なのに、今まで自分より長くあの猫の世話をしてきた先輩達に変わって自分がお礼を受け取っていいものかと。真面目な七咲らしいことである。

 

考えてみると本当にこの一年足らずの間の七咲の大切な出会いの場にはプーがいた。

 

塚原と出会った時も。

 

・・広大に出会った時も。

 

プーが居なければ今の自分も、今のこの気持ちさえも存在しえなかったかもしれない。

そう考えればこの目の前の女性は本当に―

 

七咲にとって大恩人だ。

 

 

「・・こちらこそ本当に有難うございました。」

 

 

静かに、しかし強くそう七咲は繰り返した。

それが目の前の女性に対しての言葉なのか、それとももっと他の多くの対象に対しての言葉なのか七咲自身にも解らなかった。でも―

 

―どうでもいい。

例え今は伝わらなかろうと。

これから伝えていけばいいんだ。

これがまず第一歩。

 

 

 

「あーすっきりした・・これでもう心残り無いわ。」

 

「え?」

 

「何となくこのまま消えちゃったりしないかな」なんてバカな心配を七咲はした。

それほど予想外の、そして素敵な出会いだったからだ。

 

「いや・・成仏とか自殺とかしないよ?ほら・・足もあるし」

 

安心したような七咲の顔を見て女性は優しい笑顔で笑ってこう言った。

 

「私ね・・結婚するの。それでこの町を離れるから・・多分ここへ来るのも最後じゃないかな。」

 

「・・そうなんですか。」

 

「あーあ。まさかあの人と結婚するとは思わなかったけどね。屋台で朝まで一緒に飲み明かすような色気のない間柄だったのに。」

 

彼女はそう言うが幸せそうだった。今気付けば左薬指には綺麗な指輪。

良く似合っている。その男性がこの女性の事をよく見ている証拠だと勝手に七咲は思う。

 

「おめでとうございます。・・それじゃあ結婚祝いと言っては何ですが・・これを受け取ってくれませんか?」

 

「え・・?」

 

七咲は鈴を差しだす。既に決めていたことだった。元の持ち主だと解った時点で。

やはり自分がこれを持ち続けているのに違和感と負い目があったのを拭いきれていなかったのだ。でもこれですっきりする。

「元の持ち主に返す」。そんな叶いそうに無かった願いが思いがけず叶いそうだ。

少し寂しい気はするがこれが自然だ。きっと。

 

「よかったら・・・貴方が持っていてくれない?」

 

「・・はい?」

 

「貴方がこれを見つけてくれたんでしょ?無くなった物を見つけたのは貴方。だったら持つ権利は貴方にある。それに・・貴方はまだこの学校にいる。プーがもしひょっこり帰って来た時にプーに返してあげて?」

 

「あ・・。」

 

「こう見えて私まだアイツが死んだなんて思ってないのよ?」

 

彼女はこう言ったが何処かで確信はあった。

広大と七咲が残されたこの鈴を見つけたあの時、何故かもう会えない事を確信してしまったように。同様に彼女も七咲の手にのった鈴を見て「気付いて」しまっていた。

虫の知らせに近い独特の感覚。

その時点で鈴は誰のものでもなく、順当にいけば元の持ち主である彼女の物だ。

 

しかし彼女はそう言った。

 

「だから貴方が持っていて?勿論捨てるも何も貴方の自由。それを戻ってきたプーに返すのも自由。見つけた貴方の物なんだから。」

 

七咲は少し驚いた。広大とこれを見つけた翌日に塚原に言われた言葉によく似ていたからだ。

 

 

 

―心配して、懸命に探して見つけたのが貴方ならそれは貴方の物。それを重荷に思うなら戸惑う事は無い。捨てなさい。貴方にはその資格がある。最後まで責任を持って動いた七咲だからこそ、ね。

 

そして笑って塚原は付け加える。

 

―コウ君もそう言っていたんでしょう?

 

―そんな器用な言い回しは杉内先輩には無理でしたけど。

 

―あははは。そうでしょうね。でも私が言いたい事はきっとコウ君と同じ。受け取ってくれる?七咲?

 

 

「あは。そういえばまだ名前も知らなかったね?貴方のお名前は?」

 

「・・?七咲・・逢です。」

 

「逢さんね。綺麗な名前。」

 

「あ・・。」

 

「じゃあ。逢さん。改めて。その鈴の事をお願いできませんか?」

 

「でも・・最初に見つけたのは私じゃないんです。一緒に捜してくれた人が。」

 

「・・。じゃあ何故貴方が持っているの?」

 

「それは・・その人が預けてくれたんです。」

 

「それはつまり貴方が預けるに相応しいとその人が判断したからじゃあないの?」

 

「・・。」

 

「そしてそれが嫌なら・・重荷なら貴方は断る事も出来た。捨てる事も出来た。でも実際今も手に持って大事にしてくれていた。私に見せてくれた。もし今日私が貴方に出会わなくても貴方はそれをいずれ捨てていたかしら?」

 

それはない。絶対に。捨てるものか。七咲は言葉には出せなかった。思いが強すぎれば逆に言葉など出ない。

 

「そうじゃなければ・・お願いできませんか?逢さん。勝手な先輩の我儘で本当に申し訳ないけど。」

 

返事はしない。七咲は戻しただけだ。いつもの場所に。ポケットの中に。

 

―・・おかえり。

 

そう心の中で呟いて。

「・・もう一度言わせて。今度は貴方だけに。七咲 逢さん?・・本当に。本当にありがとう。」

 

女性はそう言った後、微笑んでその場を後にし、その聖夜の夜を最後に永遠に七咲の前から姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いた!七咲!」

 

「・・杉内先輩。」

 

「帰ってくんの遅いから迎えに来た。見つけて良かった。」

 

「コウ君。いた?七咲?」

 

「いたいた。」

 

「塚原先輩まで・・え?その格好。凄い・・綺麗。」

 

「あ。はははは・・。」

 

「茶道部の陰謀でね・・。響姉が浚われて戻ってきたらこんな風になってた」

 

―だが正直ナイスだった。茅ヶ崎と桜井さんには今度何か精のつくもの送っときま~す。

 

広大は内心上機嫌だった。

 

「いいなぁ・・。」

 

「ありがとう七咲。なんなら七咲も茶道部に頼んでみる?」

 

「・・来年の楽しみにしときます。」

 

―だって比べられたらさすがに塚原先輩には負けそうだもん。

 

「フィルム残しといてよかった・・。七咲?塚原先輩と映れよ。」

 

「え?いいんですか?」

 

「そのためにフィルム残しておいたんだって。」

 

「でも・・お二人は撮ったんですか?」

 

「うん。はるかが何枚か撮ってくれたわ。・・変わりにその三倍ぐらいははるかと一緒に映ったんだけどね・・。」

 

ミスコンサンタ姿の森島と着物姿の塚原。焼き増しして販売したらいい商売になりそうなぐらいのツーショットである。今茅ヶ崎からもらったこの冴えないインスタントカメラはお宝写真の宝庫だ。

 

―現像屋・・万が一現像ミスったら俺は貴方を一生許さないだろう。

 

「よし!撮ったよ。」

 

「有難うございます!」

 

「有難うコウ君。・・七咲もコウ君と一緒に写ったら?」

 

「え。」

 

「・・先輩と?」

 

「だって?どうする?」

 

「先輩が良ければ・・是非。」

 

「・・マジ?あ・・じゃあ喜んで。」

 

「・・はい!OK!」

 

「ありがと。」

 

「有難うございます。先輩!」

 

「どういたしまして・・・フィルム後一枚残ってるけど・・何か撮りたいものある?」

 

「・・どうせならこの三人全員で撮りたいよね。」

 

「・・そうですね。賛成です。」

 

「私も賛成。・・おでんの屋台で撮りましょうか。コウ君が直してくれた台座に座って。」

 

「何気にプレッシャーかけてる?響姉。」

 

「信じてるわよ?」

 

「信じてますからね?」

 

「七咲まで・・。」

 

 

最後に彼らが撮った数枚を七咲が後日見ると笑ってしまった。

何故なら最後の一枚の直前に広大と二人で撮った写真と見比べると最後の三人で撮った一枚は何とも落ち着いた、リラックスした顔を浮かべているものだと。

広大も何気にカタイ。あまり予想もしていなかったのだろう。少し目線が泳いでいる。

七咲は少し残念に思いながらも今回のベストショットはやっぱり最後の一枚だったなぁ、と苦笑いした。

 

三人で撮った初めての写真。屋台の台座に並んだ三人の笑顔は格段にいい。

塚原を真ん中に右に広大、左に自分の写真。

どちらも彼女にとってこの一年間に出会った沢山の人達の中でも最も大切な二人。

そう言っても過言じゃ無い。

 

それを改めて気付かせてくれた・・思えば名前も教えてくれなかったあの女性。

 

でも

 

本当に会えてよかった。

 

二人にも。

 

プーにも。

 

名も知らぬ貴女にも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の創設祭も大詰めに入る。

この乾燥した時期に非常に危険だがキャンプファイヤーをやるのである。しかし肝心な締めくくり行事はそれではない。

 

それを囲む・・男女混合フォークダンスだ。

 

修羅場の匂いがぷんぷんする。広大も本気だ。今日の着物姿の塚原を絶対に盗られるわけにはいかない。

 

だが・・ダークホースというものは現れるものだ。

 

 

「響ちゃん!私が男の子側に入るわ!一緒に踊ろ!」

 

「え。はるか・・。」

 

究極のKY。本領発揮。

 

KYの「K」とは森島 はるかのK!!KYの「Y」とは森島 はるかのY!!

 

・・どちらも入っていない!!苦しい!!

 

 

 

「!!!!!!!!!!」

 

 

 

全吉備東高男子生徒に戦慄走る。

 

―寄りによってミスコン制覇者のパートナーが女の子!!!???

 

―それも相手が塚原先輩だとぉ!!!!????

 

全男子生徒が泣いた。

 

広大は違う意味で泣いた。

 

塚原は森島に強引に引っ張られながらキャンプファイアーへ向かっていく。

呆気にとられている男子メンツと塚原がまだ状況を飲み込めてない混乱状態を縫うように森島は塚原をさらった。空気が読めない癖に異常な程虚を突くのは上手い。相変わらず不思議な少女―森島 はるかである。

 

―うっぞ・・。はっ・・!!!ちょっと・・橘!お前何やってんだ!!これでいいと思ってんのか!!森島先輩はお前が責任持って・・。

 

広大は正気に戻り、怒り心頭でクラスメイトの橘を探した。そしてその姿を校庭の横の舞台前で確認する。しかしその肝心の橘は・・。

 

 

―いた!って、ああ!!

 

 

―森島先輩と一緒に踊れないのは残念だけど、喜ぶ顔が見れたからそれでいいや。相手が塚原先輩じゃ仕方ないよ。うん。ニコニコ。

 

 

―って顔してやがる!ダメだ。もうダメだ。

 

殺せー!いっそ殺せーーー!!

 

「・・残念だったな。杉内・・。」

 

広大の肩に茅ヶ崎は優しく手を置く。

 

「あ、あはは・・気を落とさないでね・・杉内君。」

 

桜井もそれに続く。最早公認と言っても過言じゃない二人はごく自然に列に参入。

 

「いっそ殺せ・・。」

 

がっくりと広大は膝をつく。多分今日創設祭が始まって以来のローテンションに今吉備東校は包まれているであろう。主に男子メンツが。

 

「残念でしたね。先輩。」

 

「七咲・・。」

 

「くすっ・・森島先輩の手にかかっちゃったら仕方ないですね。」

 

「あ~そうだね。」

 

「ふぅ・・仕方ないですね・・。」

 

七咲は息を整える。一瞬我を見失っていた男連中と異なり、彼女は冷静だった。

まさしく千載一遇である。

しかし、状況を見極めれば見極めるほど上気していく心臓の音が彼女を落ち着かせなくしていた。

 

―落ち着け。私。よし!

 

「行きますよ?先輩。」

 

「え?」

 

「ほら早く。」

 

自分の動揺を悟られぬように勢いに任せて七咲は広大を連れだした。

 

「七咲!?」

 

広大のその言葉に応じず、七咲はフォークダンスの列に加わる。・・森島、塚原ペアの隣に陣取って。

 

「森島先輩?塚原先輩とは私も踊りたいです。負けませんよ?」

 

・・なんとも可愛い言い訳である。

 

「OH!!逢ちゃん!いつになく過激ねぇ~?GOOOD!!」

 

「七咲・・。」

 

幾分不安そうだった塚原も参戦した二人の姿を見て少し安心した表情を見せた。

 

「んふふふ。あたしは逢ちゃんとも踊りたかったからね。嬉しい誤算だわ♪」

 

―結局相手は女の子ですか!?

 

広大を含め、男子生徒達が一同に森島 はるか内心突っ込みを入れる。

と、同時に音楽が鳴り始める。

 

「あ。始まるよ。」

 

「・・。あ。」

 

―勢いで来ちゃったけど先輩・・ごめんなさい。私よく知りません。フォークダンス・・。

 

基本的に運動神経のいい七咲であるが効率的で機能的な動きをする「運動」と異なり、見た目、華やかさ、イメージ力を必要とする「体操」は少し苦手だった。音楽が鳴っても戸惑い気味だった七咲の様子を見て広大も気付く。

 

「あ、わかんない?」

 

「すいません・・。」

 

「ん・・ま、いいや。ほら周り見て。」

 

「周りって・・。・・」

 

―・・隣の親友コンビ以外は何か・・・誰しもカップルに見えます・・。先輩。

 

考えてみればとんでもない所に来たもんだ。

 

「だいたい皆のと動き合わせれば後はノリ。手ぇかして。」

 

「・・はい・・。」

 

広大の開いたその掌は案外に大きい。それに控え目にのせる。

 

「コウ君!ちゃんと逢ちゃんに手ほどきしてあげてね?逢ちゃん。焦らなくていいよ!」

 

森島は満面の笑みで踊りながらそう言った。その可憐な姿に一時絶望した男子達は幾分癒されたようだった。トラブルの発端になりながらもなんやかんや最後は丸くまとめる手腕。

 

森島はるかは想像を超えたやり手だった。案外良い会社の女上司になるタイプかも知れない。

 

「あいてっ。」

 

「あ、す、すみません。」

 

「っ・・大丈夫。」

 

「ほら、七咲。リズムリズム。1、2、3、2、2、3.」

 

横から塚原も応援する。女子側に回った塚原は森島のリードもあって見事な動き。

着物姿のフォークダンス。これまた風情があっていい。おまけに着物が似合っているので尚更である。とことん目を引く二人だ。

 

「はい。ここで回る。」

 

「はいっ。」

 

「いや・・これだと俺が回る事になるんだけど・・七咲が女の子側だからね・・?ま、いいや。」

 

「あ・・・。」

 

身長差があるのに広大側が七咲の片手を軸に無理に回る。小柄な七咲相手だとその不格好さに拍車がかかる。

 

「・・すみません。先輩。」

 

「あはは。どんまい。楽しけりゃOK。」

 

「逢ちゃん・・なんてカワイイの・・。」

 

「ふふふっ。全くね。」

 

「・・・。」

 

七咲は恥ずかしいが楽しかった。

自分より年長の三人に同時にあれこれ世話を焼いてもらう様な経験は彼女の記憶には無い。

そういうものを何処か自分の中で「恥」だと勝手に決めつけていたのだろう。

大別すると「恥」には違いなくともその感覚は存外気持ちよくて、心地よくて、優しかった。

 

そう思うと自然な笑顔が出た。

表情を常日頃からある程度自在に調整できる方の彼女がどうしても戻すことができない。

無力だった。

包み込まれたその空間の力に。

そして何よりも握られた手の暖かさに。

無意味だった。

虚勢も。演技も。強がりも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁ~もう可愛いなぁ逢ちゃん!コウ君交代!」

 

 

 

 

 

 

・・今回ばかりは森島の空気の読め無さは流石にボーンヘッドじゃなかっただろうか。

 

少なくとも七咲にとっては。

 

森島に後ろから抱きつかれ、七咲は大きく後ろにバランスを崩す。

 

その瞬間、広大の掌から解き放たれた自分の小さな手が、指先が虚空を泳ぐ。

 

 

離したくない。離れたくない。

 

 

しかしその掌には自分とは違う手が真っ直ぐに向かっていた。

美しく綺麗に整えられた細く長い塚原の指先が何の抵抗もなく広大の掌にたどり着く。

 

 

その光景の何と美しい事か。

 

 

 

何と残酷な事か。

 

 

 

そして少女の瞳に映るのは最も尊敬する女性と・・

 

 

 

 

 

 

 

大好きな人の笑顔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第57期吉備東高創設祭終了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートA 14 夜を駆ける

「え・・。先輩、先に帰っちゃったんですか?」

 

創設祭終了後―めでたく大盛況、おでん完売の祝賀ムードに包まれる水泳部員達の中であまりにも意外な事実を塚原から伝え聞き、素っ頓狂な声を上げたのち、七咲は眼を丸くした。

 

広大が水泳部のおでん屋台の片付けを終えた後、足早に帰ってしまったらしい。

 

「うん。『ごめんね。七咲によろしく。』だって。」

 

「そんな・・ちゃんとお礼も言えてないのに。」

 

「ごめん。私も引きとめたんだけど。何せ・・」

 

「私・・先輩にお礼を言ってきます!まだそんな遠くには行ってないですよね!?いってきます!!」

 

その言葉を言い終える前に既に七咲は駈け出していた。

 

「え。ちょっと!!待って!七咲!コウ君は―」

 

塚原の制止も聞かず、完売したおでん屋台の成功を祝う軽い打ち上げで最大の功労者の一人が場を去ってしまった。

 

「あちゃ・・行っちゃった。」

 

「あれぇ?ナナちゃんどこにいったんですか~~?塚原先輩?」

 

祝賀ムードの水泳部員の一人が一向に現れない今回の最大の功労者を探しに来た。

 

「あ・・七咲は・・・何か、お手洗い?みたいよ?」

 

「あ。そうだったんですか。寒いから近くもなりますよね~~あはは!」

 

「そ、そうね」

 

「塚原先輩!次何飲みます?」

 

塚原はそう言ってその場をごまかした。

 

「ふぅ・・長い長いお手洗いになりそうね。」

 

一目散に走り、あっという間に見えなくなってしまった可愛い後輩が消えた方向を苦々しい表情で見送ると塚原は頭を抱えた。

 

―さて、と。どうしようか、な。

 

 

 

 

―どうせ疲れてるに決まってるんだから。

 

私と比べてひ弱な先輩の事だから。

 

ゆっくりのろのろ帰ってるに決まってる。

 

きっと追いつける。

 

私の足を舐めないでください。先輩。

 

 

 

七咲。夜を駈ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・でも。

 

「・・あ。」

 

五分ほど走った彼女の足がつと止まる。

 

「はっ、はっ、はっ・・。・・・。」

 

考えてみれば自分は正確な広大の家の道は知らない。いつも一定の場所まで行くと別れていた。

その場所はだいたい七咲自身の家に近い方にある。内心広大が少しでも七咲の家に近い場所まで安全に見送る為に気を遣っていた証拠でもある。彼と一緒に帰った記憶はあるのに彼女は未だ詳しい彼の家の場所を知らない。

この道だとこの住宅街の次の曲がり角で打ち止めだ。そこで広大とは何時も別れている。

 

あとは広大がどのような道を辿って帰っているのかはまるで未知。七咲にとってどこにでもある変哲のないその道は異国の道を彷徨うに等しい。地名や番地を知っていてもそこからある特定個人の家を探し当てるには時間が悪すぎる。

 

七咲の上がる息とは反比例に頭の中は今日の冷気に冷やされてどんどんクリアになっていく。

 

「ははっ・・はぁ――」

 

少し苦笑して視線を落とし、顔にかかった髪をパサリと乱雑に頭を振って整える。

あまりに乱雑すぎたその整髪は大した効果をもたず、何本かの細い髪は未だ七咲の視線の前を離れようとしない。だが七咲は気にも留めなかった。

 

全てが意味のない行為に感じた。

 

勢いのままの急激な情動の急速冷却は七咲を極端な思考へ誘導する。表情はいつもと変わらないが目の前の物をちゃんと見据えるためにいつもしっかりと開ける視界を髪で覆い隠したまま七咲はとぼとぼと学校に戻ろうとした。

 

 

・・思えば広大の家に行こうとした事は無い。「行く理由が無い」と言えばそれまでになる。

塚原のように広大の幼馴染ではないし、いきなり行っても、もしくは行きたいと言ってもさぞ困った顔をされるに違いない。もし言ったとしても冗談ととられるかもしれない。

 

―七咲。また俺からかってる?

 

―あ。ばれちゃいました?先輩も少しは成長しましたね。

 

そんなやり取りをしている自分達の姿が目に浮かぶ。それはそれで幸福な時間ではあるのかもしれないが。

そんなことを考えながらさっきまで快調だった重い脚を引きずりながら七咲は戻ろうとする。住宅街に時間外、且つクリスマス・イヴの夜に住宅街に現れた珍客に容赦なくある家の番犬が吠える。

 

―ごめんね。騒がせて。・・すぐ居なくなるから。

 

そう思いながら彼女は前髪に隠された澄んだ瞳を番犬に向ける。この時間に現れた場違いな少女に吠えかかった一匹の小さなコリー犬はその少女の表情にすぐその鎚を振り下ろす先を無くし、逆にその優しい気性を発揮して鼻を鳴らし、何処か儚げなその少女を慰めるように見つめた。

 

―・・いいコ。

 

少女はその健気な番犬に微笑み返し、また歩き出す。

 

そしてそこから七咲が十歩ほど歩いた時だった。

 

・・・!!・・!・・!

 

再び背後でその小さなコリー犬がいきなり吠えはじめた。

 

探るような吠え方ではない。明らかに異常を察知した威嚇に近い吠え方だった。

犬というのは不穏な状況や相手の状態を察知する能力が非常に高い。それにしてもこの吠え方はおかしい。純粋な警戒と共に少し脅えが入っている。

逆に言うなら吠える対象者の精神状態を如実に物語っているとも言えるのである。

 

端的に言うと怯えているのだ。番犬が。近付いてくる何者かに。そしてそれが間違いなくあまり穏やかな状態ではない事に。

 

 

―・・・誰?

 

 

警戒しつつも急激に今日の疲れが身を包み始めた七咲は足早に去ろうとしなかった。

いつもなら走って逃げていただろう。だが足は一歩も動いてくれない。

冷静に考えても良くない状況にある事は間違いない。しかし、今の七咲は冷静を通り越した冷極に落ちていた。

徐々に気配はハッキリとした人間のシルエットに変わる。息が上がっているのがはっきりわかる。大げさな肩の上下動をした黒い影は七咲の前に立った。

 

 

 

「ぜ~~ぜい・・。なな・・さ・・・七咲ぃ・・。」

 

 

 

苦虫を噛み潰したような顔で突如現れた闖入者―杉内 広大は七咲を思いっきり睨んだ。気の弱い小型犬には少々荷の重いおっかなさである。

 

「え・・先輩・・!?」

 

「何やってんの!!全くもう・・。」

 

「どうして・・」

 

 

七咲の心に温かい灯がともる。七咲は目の前の信じられない光景を覆い隠す乱れた前髪を整えた。

 

しかしその光景は変わらない。幻じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え。先輩車で送ってもらってたんですか?」

 

「・・響姉に聞かなかった?」

 

「・・。」

 

―そう言えば・・私が飛びだす前に塚原先輩最後に何か言いかけていたような・・。

 

 

「って事は・・。」

 

「そ。後から追っかけても俺は既に家に着いていてもおかしくない状況ってわけだよ。それとも七咲は俺んちの車に追い付けるほど俊足なの?」

 

「あ・・。」

 

「響姉から事情を知らない『七咲が心配だから迎えに行ってやって欲しい』って連絡が家に来てさ。おかげで俺は肝心の漫才のオチ見逃したんだぞコンチクショー!」

 

「す、すいません。」

 

 

十分前。

杉内家居間にて

 

極寒の外から生還し、早速こたつに入ってクリスマスのお笑い番組に広大含めた杉内家全員が見入っている中であった。

 

トゥルルルル・・

 

廊下の電話が鳴る。

 

「む。何よ・・良い所なのに。こ~~だ~~い?電話出て~~?」

 

「やだよ。さみぃ~~」

 

「つべこべ・・言うな!」

 

「ぎゃん!」

 

大好きな漫才コンビの漫才中の突然の電話に広大は母の足蹴り一発でコタツを追い出され、寒い廊下の受話器を「さむさむさむさむ・・」と言いながら取りに行く羽目になった。

そして電話の相手である塚原から事情を聞く。断る事など当然出来ず、泣く泣く少年は家を飛び出し、七咲を探しに出かけたのである。

 

『あはははは!!』

 

 

―・・ちくしょう。

 

去る広大の背後、杉内家内部から響く主に母の笑い声が疎ましい。広大はマッチ売りの少女にでもなった気分だった。

 

 

「七咲!!」

 

「は、はい!」

 

「『クリスマスどうで笑』録ってる!?」

 

「あ、はい。弟も大好きなので・・。」

 

「よかった!!貸してよ!?今度絶対!」

 

「は、はい・・。」

 

「はぁ・・何にしろ七咲に何もなくてよかった・・。」

 

ようやく広大はしかめっ面を戻し、ほっとした表情でそう言った。

 

「心配してたんだから。響姉も、・・俺も」

 

「本当にすいません・・。」

 

「意外なところでおっちょこちょいだよね七咲は。」

 

「お、おっちょこちょい・・・。」

 

彼女の人生であまり言われた事のない言葉である。まぁ・・今日に限っては―

 

―・・悔しいな。言い返せない。

 

ぼろが次々ボロボロと出た日だ。今までの人生で一、二を争うぐらい。だが―

 

 

「・・七咲?」

 

 

「え・・?あ・・」

 

 

・・どうやらまだ今日の「ぼろ」を七咲は全部は出し切ってはいなかったらしい。

 

無意識に七咲の両眼から一粒、また一粒と次々に―

 

 

涙が零れおちていた。

 

 

「ボロボロ」、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・大丈夫?七咲?」

 

さっきまでの怒りは何処へやら。

よくよく考えると自分が七咲に対して一言挨拶をすませていれば起きなかったトラブルの責任の一端が広大にはある。それを自覚し、冷静になった広大はすまなそうにそう言った。

別に広大が怒っていた事に対して七咲は涙を流したわけではない。実は七咲自身も良く解っていない。当の本人も流れた自覚すら無かったのだから。

 

―何で?

 

これが嘘偽りない七咲の自分の涙に対する本音である。

 

「・・はい。本当にすみませんでした。先輩。」

 

「いや・・そもそもお礼言うためにわざわざ追っかけてくれたんだよね・・悪いの俺の方だわ。ホントにゴメンなさい。七咲・・。」

 

「・・・。折角お礼に来たのにお互いに謝るなんてヘンですよね・・。うん。やめましょう。」

 

「・・そだね。」

 

「では。先輩。今日は改めて本当に有難うございました・・。」

 

ぺこりと頭を下げて七咲はそう言った。

 

「こちらこそ。おかげで楽しい創設祭だった。本当にお疲れ様七咲。」

 

そう言って七咲の下げた頭を広大は軽く右手で触れ、撫でる。

 

「頑張ったね。七咲。」

 

 

 

「・・・」

 

―・・やめて下さい。

 

また七咲は唐突に訪れる情動に今度はハッキリと瞳の奥が熱くなるのを知覚した。思わず反射的にその広大の手首を掴むくらいに。

 

 

しかしその時同時に。

 

 

 

七咲の中で何かが吹っ切れた。

 

 

 

 

「あ・・ごめ・・。え・・?」

 

広大は馴れ馴れしすぎたかと自分の行動を後悔し、その手を反射的に離そうとしたが掴んだ腕を七咲が離してくれない。強い拒絶を感じさせた七咲の最初の行動とは裏腹な後の行動に広大は七咲の真意が掴めない。

力は決して強いわけではない。

所詮本気で振りほどけば簡単に解放されるような小さな女の子の握力である。

だが広大の利き腕であるはずの右手が痺れたように動かない。

 

広大の右手首を左手で掴んだまま七咲はゆっくりと掴んだ手首の先にある広大の右掌を彼女の左側の横髪に伝わせる。広大の右手の指に七咲の耳が触れる。外気で冷やされた彼女の耳は極端に温度が低い。

 

「・・っ!?」

 

思わず広大は背筋がぞくりとした。右掌の降下は七咲の頭頂、左耳を伝って華奢な肩の上、首元で止まる。細く白い首元が暗闇でも光る。艶めかしいほど彼女の白い首は細い。簡単に壊れて、否。壊してしまいそうな危うさ。

 

「・・・」

 

言葉が出ない。

完全に固定された広大の腕を確認し、七咲は左の掌の握力を緩め、広大の右手甲を細く白い指で伝わせてまたしっかりと握る。振りほどくには最大のチャンスの瞬間を呆気なく広大は見送ってしまった。全く以て未知の「力」である。

同時にいつの間にか広大の左手も七咲の右手に掴まれ、既に宙を泳いでいた。利き手が振りほどけないその「力」に逆手で対抗できるはずもない。

双方そろった広大の掌は七咲の顔両側面の髪に触れる。そして七咲の両掌の外から内への圧力が徐々に強くなる。

 

触れているのが頬なのか、顎なのか、首筋なのか解らない。ただ黒い絹の様な髪ごしに触れる少女の素肌の感触は柔らかく、温かく・・心地いい。

 

広大の断続的だった背筋を伝う感触は最早途切れることなく続いている。

白く、華奢で細い首を広大の両掌がすっぽりと周りを覆う。それ程に細い首。

だが尚も広大の両手の甲にある七咲の両掌の圧力がゆっくりと内側へ向かう。

 

 

 

―やばい。これは・・本当に―

 

 

・・ヤバい。

 

 

「すぅ・・っ・・はぁ・・はぁ・・」

 

さっきまでも段階的にあがっていた七咲の吐息のグラフも顕著な振り幅を示して上昇していた。

しかしそれでもお構いなしに彼女は両手の圧力を強める。当然圧迫された頸部によって呼吸は更に浅くなり、一方で空気を取り入れようとする間隔は狭まる。熱っぽい白の吐息が彼女の小さな口から艶めかしく漏れる。

 

普段の彼女からはうかがい知れない大胆な行為。そして想像だにしない色香だった。

 

 

 

 

「・・・・!!!」

 

 

 

ごつ。

 

 

 

 

 

 

「つツッッッ・・!」

 

「痛た・・。」

 

役に立たない両腕を捨て、頭を文字通り使って、意識の束縛から解放された広大は深海から急浮上した様にようやく肺に酸素を取り入れた。痺れて動かなくなっていた両腕は運ばれた酸素によってようやく制御を取り戻す。

 

「はぁっ・・・。七咲!」

 

「・・はぁ・・はぁ・・はい?何ですか・・?先輩?」

 

息が上がりながらも嬉しそうにくっくと笑う様な声で七咲はそう返す。

 

「悪ふざけが過ぎるって・・。」

 

「ふふ・・先輩が悪いんです。子供扱いしないでください。この前は両手が塞がっていたから反撃できませんでしたけど今回は・・リベンジ成功ですね。」

 

無呼吸状態の運動に慣れている七咲らしく呼吸の乱れは少ない。不敵に笑ってそう言った。しかし未だ瞳の焦点はややぶれ、揺らいでいる。

 

互いにぶつけた額の衝撃で意識がはっきりしたのだろう。記憶も回転もしっかりしてきた。

数週間前のメロンパン事件を反芻できるほどに。

 

「根に持ってたのか・・アレ。」

 

「当然です。クスっ・・ふふふ・・。」

 

「おい・・。・・はっ・・はぁ・・。ははっ」

 

笑い事じゃない。しかし笑い事じゃない時ほど案外に人は笑ってしまう。

笑い事じゃない出来事とは何せ全く予想だにしない事象に出会っている事なのだから。

今の二人には十数秒前の出来事が最早夢を見た後のような非現実的な時間と化している。

あまりに衝撃の強い夢はその反動で急激に覚醒した途端忘れてしまう事が多い。

それに似た感覚だ。

 

「・・アホ七咲。」

 

「・・アホ先輩。」

 

「・・・。もういい。戻ろう。送るよ」

 

「・・クスッ。」

 

 

打ち消すように七咲から背を向けた広大であった。が―

 

残る。留まる。滞る。

 

彼の両掌には。

 

 

 

―なんだ・・?なんだよ?これ・・?

 

 

 

「・・どうかしましたか?」

 

悪戯な声が背後より響く。広大には久しぶりに七咲が戻ったようであった。

 

まるで出会った頃の様に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここでいいですよ。先輩。」

 

吉備東高の正門に繋がる坂の入り口で立ち止まり、七咲はそう言った。

創設祭が閉会して帰宅者がごった返すピークを過ぎたこの場所は非常に静かだった。

この場所は正門のように派手な装飾をしておらず、クリスマスイヴの夜にしてはムードの無い場所だが静かで落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 

「・・正門まで送るけど?」

 

「大丈夫です。ここからなら。先輩。本当に有難うございました。」

 

「うん。帰る時も気をつけてね。くれぐれも!・・今度は一人で帰っちゃダメだよ。」

 

「はい。」

 

「それじゃ・・。」

 

「・・先輩?」

 

「・・ん?」

 

「とうとう明日ですね。」

 

「・・・。そう、だね。」

 

踵を返しかけた広大は再び七咲と向かい合った。

 

「・・粗相のないように。」

 

「・・それだけ言うために呼びとめたの?」

 

「忠告ですよ。有り難い後輩からの、です」

 

 

 

 

「先輩とその家族とお食事かぁ・・きっと楽しいんだろうなぁ。」

 

「うん。俺も久しぶりに響姉のおじさん、おばさんに会えるからすごく楽しみにしてるんだ。」

 

広大はそう言って笑った。

 

「・・・。鈍感。」

 

―「先輩」と言ったでしょ?先輩?

 

「え?」

 

「い~え別に。気にしないでください」

 

「・・キャラ変わってない?」

 

「そんな事在りませんよ。あーあ。私も付いていきたいなぁ・・。」

 

「・・。じゃあ来る?」

 

悪戯そうに広大は言った。冗談を滲ませて。その言葉の意図を七咲は百も承知だった。

 

「いえ。結構です。遠慮しときます」

 

「そ。」

 

 

 

 

「そのかわり―

 

 

 

 

・・私『あの場所』で待ってますから。」

 

 

 

 

「・・。え?」

 

「・・待ってますから。」

 

「七咲?」

 

「・・・。」

 

先程までと全く異なり、少女はニコリともしなかった。ただ光一点の瞳は真っ直ぐと広大を見据えている。

 

―冗談ですよ。

 

―本気にしたんですか?

 

―単純ですね。先輩。

 

いつもなら直ぐに表情を緩め、広大が何度も聞いたそんな言葉達が続くはずだった。まだ出会って三カ月も経っていないその少女が幾度となく彼に言った言葉達を。

 

微笑んで。

 

悪戯そうに。

 

少し見下したような目で。

 

短い付き合い。でも、この短い期間で広大に心を開き、色んな表情を広大に見せてくれた目の前のその少女の表情が今は頑なに動かない。

 

 

「待っている」「あの場所で」

 

 

ただそれだけの言葉を広大に残して彼女は背を向ける。

 

一瞬ハッとするほど美しい横顔を見せて。

 

そのほんの僅かな瞬間、無表情に翳りが見えたような気がしたが確かめる術は無い。

今の広大には彼女を呼びとめることも、彼女に追いすがる事も出来なかった。

 

場所も空間も全く意味を持たない。

この広大という少年が今この七咲という少女の後を追うという行為は今この世界に完全に欠如している―そんな感じだ。

 

正確な場所も正確な時間も全てを投げ出して成立しない、最早「約束」とも呼べない何もかも足りないその言葉達だけを残して七咲は消えた。

 

この日、この時。

 

吉備東の町の空に降りだした雪も何もかもが今の二人には無意味だった。

 

広大には全てが夢のように感じた。今いるこの場所も今までの事も全ては幻だと。

 

 

この感覚は広大が翌朝目覚めるまで続く。もっともこの夜は自分が眠ったのかずっと起きていたのか解らない曖昧な時間を過ごした・・というのが正直な表現だ。

 

現実感がマヒしていた。

 

そもそも―

 

 

―「あの子」はなんだったんだろう?

 

 

茅ヶ崎から渡されたカメラで撮った写真達に「あの子」は映っているのだろうか?

 

 

自分と塚原の間に突然ひょっこりと現れた猫の様な少女―「あの子」は本当に―

 

 

居たのか?

 

 

疲れているのにまともに眠ることを許してくれない広大のバカな脳みそは迷走を繰り返し、一晩中そんなことをずっと考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・いっつまで寝てんのよ!おい!」

 

彼を現実に引き戻したのは彼の母のこの言葉だった。言葉だけでなく足蹴りが飛んできたのだが。あまりにも現実的で日常的なその出来事は彼の意識を引き起こす。

 

「いってぇ・・。」

 

「もう昼よ!広大!そろそろ用意し始めなさい!」

 

ぶつぶつと文句を言いながら広大の部屋を去っていく母の姿を見送り、やや筋肉痛の体をコキコキ鳴らして時計を見る。どうやらそれなりに睡眠はとれたようだ。

 

時刻は14時。

 

―オッケー流石にコレだけ寝れば・・。

 

 

「・・?14時?」

 

 

確か三時には一旦集まるって・・。

 

「早く起こせよ!チクショウ!」

 

待ち焦がれた日の朝(もう昼過ぎだが)にしては何とも現実的で日常的な光景だった。

 

 



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ルートA 15、16

15 家族の風景

 

「おはよう。コウ君。」

 

玄関で座り、脱いだ靴の方向を揃えながら後ろ向きで広大をみて塚原は微笑んだ。

上着のブラウンのコートを脱ぎ、小脇に抱えて。

 

「・・・響姉・・俺が言うのもなんだけど今の時間言う言葉かなそれ?」

 

うんざりしたような口調で広大がそう言うと塚原はくくっと笑い、

 

「行儀悪いよコウ君。家の中ではその帽子をとりなさい。似合ってるけどね」

 

「・・・。」

 

無言で広大はこの日の為に買ったハンチングキャップを取る。すると明後日の方向に向かったアホ毛が広大に遠慮もせずうねった。無理に整えたと丸解りな今日この日の為の正装もアホ毛と相まって滑稽である。

 

「・・・ぷ。」

 

「・・時間をください。」

 

「ふふふ・・大丈夫。お母さんもおばさんも久しぶりに会って話しこんでるみたいだから・・ね?ゆっくり整えてきなよ。・・折角似合っているんだからちゃんと着てあげないと服が可哀そうよ?」

 

「似合ってる?」

 

「うん。その寝ぼけ眼と寝ぐせと穴のあいた靴下さえ着てなければ、ね?」

 

「う・・。了解・・。」

 

「ま、昨日は色々大変だったから疲れていて当然だよね。」

 

そう言う本人は広大よりもさらに遅い時間に帰った人間である。その慰めは逆に広大を情けなくさせる。この差は何なのか。結構長い時間一緒に居るのになかなか見せてくれない。

見せっぱなしの広大と。

あくまで隙のない塚原。

そんな状況に苦虫を噛みながらも今広大の目に映る塚原は相変わらず美しい。

こげ茶色の革の手袋から出てきた細く形のいい両手の指が床でしなる。

両手を後ろについたてにして杉内家の玄関を懐かしそうに塚原は見まわした。

 

―変わらないなぁ。

 

と、今にも言いだしそうだった。

この場所は昔と変わらない。今はただ大きくなった二人がいるだけだ。

あと・・足りないものがあるとするなら塚原の膝の上に寝そべる杉内家の愛猫―クロがいないくらいだろうか。広大は記憶を反芻しつつ今の塚原を見る。

 

「・・・。はい!ぼ~っとしてないでそろそろ身支度に行く!おばさんが怒っちゃうよ?コウ君?」

 

「・・は~い。」

 

 

 

 

 

同時刻―

 

吉備東高校、来賓用駐車場にて

 

「よし・・大体の作業は終わったみたいだな。ご苦労さん!」

 

「おー!守衛さんも今日は早く奥さんとこ帰ってやれよ?クリスマスなんだからな?」

 

「いやいや・・もうクリスマスを祝う様な歳柄じゃねぇよ。」

 

創設祭の資材搬入、搬出を行った業者の若い男は白い軽トラから顔を出しながら毎年創設祭で顔を合わせている旧知の間柄である守衛をからかった。

 

「そういや・・毎年ここで搬入作業してる時にいっつもいたあの猫はどうしたよ。守衛さんにすげぇ懐いてたあの黒猫。今年は見なかったからよ。」

 

「あぁ・・プーな・・。居なくなっちまったよ。ついこの前な。」

 

「・・お。そうだったんか。・・すまねぇ。」

 

「気にすんな。それよりお前も気をつけて帰れよ?クリスマスを祝うガラだったらよっぽどお前の方じゃねぇのかい。娘さんまだ小学生なんだろ?」

 

「いんや・・もう十歳にもなるとな・・難しい年頃でよう。女房の話だと好きな奴が出来たんだとさ~」

 

「そっか、そりゃ父親として切ねぇなぁ・・まぁ今日ぐらい父親してやんな。」

 

「・・おお。また来年な。」

 

守衛は資材トラックの最後の一台を見送り、鍵の束をチャラチャラ鳴らしながら守衛室に戻ろうとした。

 

彼こそが唯一プーが気を許していた男性―吉備東高校の守衛をプーが来る前から務めあげている大ベテランの守衛だ。長期休暇中や臨時休校の際に生徒が見れないプーの面倒を主に見ていたのが彼である。

もともとそこまで彼自身は猫は好きではなかったが過去、「あの」卒業生に押し切られ、渋々プーの面倒を見始めてからは家でも猫を飼うぐらいの猫好きになっている。

立場上特に大きな異動もない彼はプーの面倒を見る人間としては都合が良かった。それでも彼は別に血の通わない機械を相手にしていたわけではない。

長く世話すれば情も湧く。考えている事、してもらいたいことぐらいは解るようになる。

そして最低限守ってほしい事を躾けるぐらいは出来る。あの猫とは心も通っていた。心からそう思っている。実質的に言うならばプーの「飼い主」として最も相応しい人間は彼だろう。

でも

 

―はぁ・・今年でそれも終わりだ。色々な節目の時だったな。この年末は。

 

・・「あの」卒業生も来た。何と結婚するとか。物好きな男もいるものだ。苦労するぜ恐らくその男は。

プーが居なくなった事は先に「誰か」から聞いていたらしい。落ち込んでいるのかと思ったら意外にも何処かすっきりした顔をしてやがった。

「これからも後輩たちの事をよろしくお願いします」と、深々と頭を下げてさっさと行っちまった。相変わらず図々しい。

プーが居なくなったと思ったら今度は後輩の事を頼むってか?そんなのはな?言われるまでもねぇんだよ。俺は守衛だ。

 

なぁ?・・・プーよ?

 

 

チリン・・

 

 

「・・ん?」

 

―まさか・・。

 

 

・・・

 

 

「・・・。へっ。」

 

―老年に差しかかって耳がボケてきたのかねぇ・・。

 

そう思うとへらへらと笑いがでる。守衛室の鍵を閉め、鍵の束をチャラチャラと鳴らす。

長年この音に混じって聞こえていたあの鈴の音はもう聞こえない。

 

―多分さっき聞いたあの幻聴が最後だろうな。もう聞く事はねぇだろうがよ・・。

 

老いた守衛はその場を後にする。

 

 

 

 

・・チリン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チリンチリン・・

 

上品な鈴の音色が響き、扉が開いた先にはその音色に相応しい身なりの整った男性ウェイターが深々と頭を下げて一行を迎いいれる。

 

「・・いらっしゃいませ。」

 

「予約していた杉内です。」

 

「お待ちしておりました。お連れ様お二人が後ほど来られるとお伺いしておりますが御変りはないでしょうか。」

 

「うん。私達四人で先に飲んどくわ。」

 

「かしこまりました。ご案内いたします。」

 

―恐ろしい。

 

広大は心底こう思った。こんな所自腹だったら一体どれ程持って行かれたのだろうか。避けられた最悪の結末を想像し、安堵と共に冷や汗が背中を伝う。

やれやれとハンチングを脱いで顔を仰ぐ。そして不意にそのハンチングを見つめた。

 

 

―・・・?

 

 

 

「広大、響ちゃん?二人共ビールでいいわね。」

 

「うん。」

 

「はい。」

 

「・・・。」

 

「・・・。」

 

はっ!?

 

 

「おばさん!?」

 

「ちょっと待て!」

 

―やばい。あまりにも自然な状況誘導に思わず相槌うっちまった。

 

「・・・何よ?」

 

一瞬かなり小さい舌打ちが聞こえた。本人は上手く隠したつもりだろうがバレバレである。

 

「『何よ?』じゃねぇよ。未成年だから。俺ら二人。」

 

息子の真っ当な主張に殊更母親は嫌な顔をし―

 

「えぇ~!?あんたら飲まない気なの?折角の響ちゃんの合格記念なのに・・。どう響ちゃん?どーせ大学入ったら飲む事も増えるんだからさ?だから・・一杯いっとく?」

 

と、一気にのたまった。

 

「おばさん・・ダメですよ。そこはちゃんとしないと。と、いうより万が一ばれたら私の合格取り消しものです。」

 

「えーいいじゃん。カタイこといいっこなしでさぁ。」

 

何が「いい」と言うのか。

 

「ダメです。ソフトドリンクをお願いします。」

 

合格記念の場でハメ外し過ぎて飲酒→結果合格取り消し。有り得ない話じゃないからマジ注意しよう。受験生の諸君。

 

―・・何となく響姉が森島先輩の対処に優れている訳が解った気がする。その要因がよりによってウチの母とは・・。鮮やかな土下座をしてぇ。父さんが来たら一緒にしようかな本当に。

 

「ぶー。私がアンタ達ぐらいの頃は・・普通にくぴくぴ飲んでたけどな・・。」

 

―ひえ。さらっと怖い事を言う。「キャリア」が聞いてあきれるぜ。

 

「響香おばさん・・。おばさんもウチのバカ母に何とか言ってあげて下さいよ・・。」

 

「・・ごめんなさい・・。コウ君・・」

 

「え?」

 

「・・私も飲んでたの。博(ヒロ)と一緒に。むしろあの頃は私の方が量飲んでたかも・・」

 

「う・・嘘だろ?響香おばさん?嘘と言って?」

 

「お、お母さん?」

 

塚原母―響香は今塚原娘―響を見られない。「こんな母さんを許して・・許しとくれ!」的に眼を逸らしている。

 

広大は母―博子(ひろこ)を見た。

そこには

 

―ふふん。

 

してやったりの広大母の顔が。塚原家の親娘はどうやら博子や森島 はるかのようなトラブルメーカーに縁のある血筋らしい。

 

 

 

「では・・旦那どもが来る前に一足先に、と―」

 

二人の母はグラスに注がれたビールを。子供二人はノンアルコールのシャンパン二つを傾かせる。

カチンと心地よい音が鳴る。

 

「響ちゃん。大学合格改めておめでとう。おばさん鼻が高いわ。ウチのどら息子二人には期待できない偉業だもんね。」

 

「ひどいですよ。おばさん。」

 

「・・今からでも取り換えっこしたいぐらいだもの。どう?響香?ウチの広大と響ちゃんしばらく交換しない?」

 

・・交換も何かの貸し借りも一切したくないタイプの人間だと広大は自分の母を評価している。借りパクぐらい平気でやらかすタイプだ。

 

「・・。私はいいわよ?コウ君がいいなら。」

 

「え」

 

―・・相変わらず大ボケだなぁ。響香おばさん。・・ちょっと嬉しいけど。

 

「ついでにダンナもとりかえましょうか。あははは♪」

 

―腐ってやがる・・酒で上がりすぎたんだ。

 

 

 

 

 

「ペース早いわよ博・・まだお父さん達来てないのに。」

 

「やい!響香!アタシはね、ほ~んとに嬉しいんだから?」

 

母博子、既に出来上がる。「今年のクリスマスは妙に酔っ払いに縁があるな」と広大は思った。

 

「アタシも欲しかったのよ!女の子が!ホントに!でもぽこぽこ生まれたのはヤンチャな兄とこのぽーっとした弟!結局オス二匹!これが飲まずに居られるかってよ!!」

 

「ひ、博!」

 

「そらぁ・・こいつらも可愛いわよ?頼りなくて頭悪くて、顔もイマイチだけど!こいつら私の子供の割にはちょっと顔があっさりしすぎてんのよね~~好みじゃないわ~~」

 

―・・ひでぇ。「可愛い」が全くフォローになってねぇ。

 

ここまではいつもの広大母だった。・・あくまでここまでは。

 

「・・それでも成長していくたびに思うワケよ。うちの旦那に似てきたなー、とか、ああ、コイツこういうトコあるんだーとかそれこそ恋する乙女が気になう(る)男子の一挙手一投足をガン見したり、ストーカーしたいぐらいのわくわくした気持ちでね。・・楽しかったわよそれは?・・正直。」

 

―・・・。母さん?

 

「だけどやっぱり欲しくなるのよ~。ヒトってないものねだりしちゃうのよ。目に入れても痛くない可愛いお人形さんみたいな娘が日々成長して、少しずつ女の子になって、綺麗な大人のオンナに変わるとこがね~。今の響ちゃんみたいに・・だからホント嬉しいのよ~。・・ごめんねなんか滅茶苦茶で・・響ぢゃ~ん。」

 

「・・おばさん。」

 

「・・博子。貴方も大概贅沢だと思うわよ。こんな立派で健康な男の子二人も生めたんだから。私に言わせれば正直嫌味に聞こえるぐらいなんだから・・。」

 

「・・響香ぁ・・。」

 

「ま。・・羨ましい者同士乾杯しましょ。どちらも満たされながらも満たされなかった所を嫌味にして言い合って、自慢して・・これって最っ高の贅沢だと思わない?」

 

「・・ヴん。」

 

傍で聞いているそれぞれの息子、娘には何ともむずがゆくて、こそばゆい、居心地の悪くなるような・・親バカのノロケ話。二人の母のホンネ。全く異なる「家族の風景」を描いた二人の母の本音。

 

「・・私達お邪魔かしらね。コウ君」

 

「・・話のネタにされるのは癪だけど・・今日は気分いいや。好きにさせとこうか。」

 

「そうね。じゃ・・私達は私達で・・。」

 

「うん。」

 

「乾杯」とも言わず無言でグラスを傾ける。照れて紅潮した響の表情が久しぶりに幼く見えて広大は嬉しかった。

 

―そうだよな。俺達子供だもんな。この二人の。今日は「子供」で居よう。

そうすれば次々出てくるはずだ。深く考えなくても、計算も打算も一切なしの混じりッ気なしの家族の会話が。

 

クリスマスの夜が更けていく。

 

一時間後には両家の父親二人も登場し、場はさらに盛り上がった。

 

懐かしい感触。懐かしい匂い。取り戻した。

 

「あの頃」を。

 

変わっていった。進む時の中で。自らも離れていった。

この「場所」を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも

 

「取り戻した」・・?

 

それはおかしい。あり得ない。

時間が戻ることなど、無い。「取り戻した」、「あの頃に戻った」。それは錯覚である。

 

変わっている。流れている。あまりにも多くの時間。そして積み重ねた物が多すぎる。

 

その中でどうしても無くなっていく物も、取り戻せない物も生まれる。広大の思いとは裏腹に。

 

しかしそれは嘆くべきことではない。人は前を見るのだ。先を見るのだ。

 

彼の目の前の広大の母も響香も前を見る。

 

どちらも本当の子供のように可愛がったお互いの親友の子供を時に笑い、泣きながら見送って。

塚原も前を見る。残す者、残される場所を巣立って前へ。

なら今のこの場所はあくまで過去を思い出し、懐かしむ場であり、戻る場所では決してない。

 

・・タイムマシーンというものはない。

 

その中で一人広大は過去を見る。「戻れない」とは解りつつも。

 

戻りたくないから。このどこでもあるこの家族の風景から。

 

大きくなった体を精一杯小さくして、この日の為に買ったおろしたての服がぶかぶかになるように。座った椅子の足が届かなくなるように。足をぶらつかせられるぐらいに。

 

「大きくなったな広大君。」

 

響の父、春樹の言葉もあの頃に置き換える。

 

―そうでしょ。おじさん。ぼくもっともっと大きくなるよ。

 

と。

 

前が見えないほどオーバーサイズな帽子。ぶかぶかの服を着た手。

まともにフォークも握れない。

 

だから時々落としてしまう・・

 

 

 

キィイイイン・・

 

 

 

高い音を放って落ちたフォークはしばし床で鳴動したのち止まる。そのショックにその場に居た全員がハッとする。

 

「コウ君!?」

 

「大丈夫?コウ君?」

 

「何やってんのアンタ?」

 

「あ・・れ・・?」

 

戻っている。手も。声も。

足もちゃんと床に着く。

 

「・・大丈夫コウ君?」

 

迎いに座った響も心配そうに広大を見た。

 

「あ。うん。」

 

「そう?びっくりした・・。」

 

「ゴメン。」

 

「ううん。気にしないで。店員さん呼ぶね。フォーク変えてもらわないと・・。」

 

「ありがとう。」

 

そう言って広大は床に落ちたフォークに手を伸ばす。悠々と届く。

当然だ。そんなに背は高いほうで無くてもこれぐらいの事は出来る。

 

広大は苦笑する。とり落としたフォークに触れた途端感じる。その冷たさに。

 

 

あぁ目が覚めた。完全に。

 

 

12月25日。クリスマスの日。

 

 

遅まきながらようやく広大は目が覚めた。ハッキリと。

今最も新しい「時」に漸く広大は目覚めた。今の自分に。ここまで来た自分に。ようやく。顔を下げると今度は被っていた帽子が落ちる。

 

―・・・。

 

今この時に追いついた広大の心の中にはそれを見てはっきりと思い浮かぶ記憶があった。

前日から切り離したように消えていた記憶。

 

新しすぎて、

まぶしすぎて、

 

小さな頃の自分にはない記憶。小さな体のままでは背負いきれない記憶。最も新しくも、何故かさっきまで失われていた記憶達。

 

 

そこに一人の少女がいた。微笑んでいた。

 

 

―・・七咲。

 

 

広大は拾いあげた帽子を深くかぶり直す。

 

「・・コウ君?」

 

―ありがとう七咲。

 

謝罪と感謝を含ませて心の中でそう呟いて広大は響を見る。

 

「なんか昔思い出すね。いつもこんな粗相した記憶が・・。」

 

―はは。「粗相すんな」って言われてたのにな・・。

 

広大が思い出を振り返る際のいつもの表情とは違った。今は青年の顔をしていた。少し気恥ずかしそうに笑っている。失敗を誤魔化すような悪戯な笑みではなく、「過去」の自分をほんの少しだけ恥じているような・・そんな表情。

 

「・・・。」

 

塚原が言葉を失うほどだった。

 

そして広大はそろそろ二十四時間が経過しようとしている昨夜の七咲とのやり取りを振り返る。

いや、初めて「向きあった」と言った方がいいだろうか。だが打ち消すように自嘲した笑みを浮かべた。

 

―まさか。ね・・。

 

そう思いながらも消えてくれない喉の奥に刺さったトゲのような感触を払拭できずにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

断章 二つのコウイ

 

―クロが居なくなっちゃたよう・・。

 

―大丈夫よ。コウ君。

 

―そんな事言ってさっきからずっと見つからないじゃないか!ひびき姉の嘘つき!

 

―コウ君・・。

 

―ひびき姉はいっつもそうだ!どうしようもない事になると「大丈夫」としかいわないもん!

 

―・・。

 

―それで兄ちゃんに泣きついて俺を叱ってもらう気なんだろ?わかってるんだからな!

 

―・・。

 

そう。

私は何時もそうだった。

 

塚原 響

 

広大より一つ年上の女の子。

「年上のおねぇちゃんという自覚から広大を本当の姉のように面倒をよく見た」

「世話好きでしっかりしていて年の割に大人びている」

そう・・「思わせた」。そう「思ってもらいたかった」。

 

 

杉内 広軌 すぎうち こうき

広大の七つ離れた実の兄であり、去年結婚して実家を既にでている。

 

・・塚原 響の十年来の想い人。

 

 

 

女の子というものは男の子より基本的に精神的に早熟である。

 

―お。今日も来てくれたんだな。広大の事色々ありがとな。ひびきちゃん。

 

―ん!?広大がそんなことひびきちゃんに言ったのか!?解った!俺が叱っとく!

 

幼少時より時々現れては本当の兄のように振舞ってくれる杉内家の少年―杉内 広大の兄である広軌―彼が気になって仕方なかった。

積み重なった想いは・・現在の広大の塚原への想いと同じように成長と同時に変化する。彼女が小4前後の時には既に広軌に対する自分の気持ちを完全に理解していた。

 

紛れもなく恋心だ。

 

幼い女の子の可愛いちょっとした恋に対する憧れの結果の産物ではない。

 

六つの歳の差。

「何だ大したことは無い差だ」。と、思うかもしれないがそれは大人の感覚である。

例えば26歳と20歳とするならば全くと言っていいほど違和感が無いように思える。

 

だがこれが16歳と10歳なら?これは遠い。

10歳の女の子側は自分の成長にかなりやきもきする筈だ。悲しい事だが釣り合いというものは色んな意味で最低限必要不可欠であると言える。

 

性的対象として16歳の少年が10歳の少女を見る事は中々に厳しい。それよりも同年代の少女と女性の過渡期にある身近な少女に目が行く方が自然である。

 

さらに残念な事に塚原は気がそこまで強い子ではない。芯はあるが大胆さは無い。

歳の差を気にせず、立場を考えず、相手の戸惑いや都合も考えない告白が出来る度胸は無い。

伝えれば「待ってくれる」可能性は広軌の性格からして全くの零では無かっただけに。

 

彼女にはひたすら自分の成長が広軌に釣り合うまで祈ることしか出来なかった。

そうしてようやく彼女が自分なりに「追いついた」と考えた時に知らせは来た。

高卒後、就職した先の職場の女性と広軌が婚約したという知らせである。

 

広軌23歳、響17歳。

 

少なくとも一人の「女性」として見てもらう事が出来る可能性は大いにあった。

その矢先の出来事である。彼の結婚式の二次会に呼ばれたが響は虚偽の体調不良を訴えて辞退した。生まれて初めてのズル休み。あまりにも悲しい初恋の終わり。

生まれて初めて好きになった人の幸福を「おめでとう」と祝う事も出来なかった。

 

失意の中でもそんな塚原の人生は続く。自分が積み重ねた「塚原 響」は紛れもない自分。

「しっかりして頼れるおねぇさん的存在」。例えそこの根本にあるものがどういう理由だったとしても。埋めようのない幼さと立場を自分なりに曲げようとあがいた末の自分が到達した存在。

 

そこで彼女は再会する。成長した初恋の相手の弟―広大に。

 

大きくなった。いつの間にか。

 

広大の自分に対する好意に彼女は気付いていた。

ずっと昔から。

だが応える事は難しかった。

何せ負い目があった。本当に申し訳なく思っている。

 

―私はコウ君を利用していた。

 

歳の離れた「あの人」に、広軌さんに近付きたかった。埋めようのない距離と時間の差のある彼に。歳の差を埋めるために必死で背伸びした。

 

「年の割に大人びてて面倒見が良い」。

彼の弟をかいがいしく世話をすることで彼女なりの必死の背伸びを広軌に見せつけようとした。

子供らしいが彼女なりに本気だった。でも全て無駄だった。無駄になった。

もともと意味など無かったのかもしれない。彼女の中で生きてきた情動を誰にもさらすことなく彼女は自分の中で自己完結した。彼女に残ったのは彼の弟の自分に対する好意と自分がしでかした行為に対する拭いがたい罪悪感だった。広大の自分に対する好意、感謝、憧憬が辛かった。

 

そして何よりもこの事実が塚原を苦しめる。

 

日に日に兄―広軌との共通点を弟である広大から認め、無意識に探し、そして惹かれているという事実に。

決して似ていない兄弟ではない。もともと兄弟だけあって表情や背格好はよく似ている。

性格も一時期荒れた兄に比べて弟は大人しい、一見全く異なるように見えるが塚原には解っている。やはり広大にも忙しい両親に対しての押し隠した不満があった。兄に比べておっとりしているように見えていざ激昂した時の広大は兄と同じように攻撃的な一面も垣間見える時もあった。

そこを埋めた一端が塚原だった。皮肉にも広大と年の近い塚原の、価値観の近い彼女のおかげで結果兄とは真逆ともとれるような性格に弟広大は落ち着いた。

 

塚原はこう思ってしまう時がある。

 

塚原は広大を自分の都合のいいように矯正してしまったのではないかと。いざという時の「変わり」にしたのではないか?

 

歳も近く、自分を好きになってくれるうえ、好きだった人の姿に良く似た代替え品として―

 

広大に惹かれていくうちにそう考えてしまうようになった。

 

客観的に見れば傲慢な考え方ともとれるだろう。一人の人間が一人の人間に与える影響がその人間の全てを左右するのではないかと考えるのは傲慢に等しい。

影響力が強かったのは確か。でもそれでも塚原を想い人にしたのは広大の紛れもない彼の意志である。しかし、それでも塚原は自分の行為を許容する事が出来なかった。そしてハッキリと新しく生まれた広大に対する好意を表す事も出来ず、彼の好意に真正面から受け止める事も出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―完全な静寂だった。賑やかだった前日―創設祭の時とは打って変わって。

 

私は静かな場所が好きだ。だからここはお気に入り。誰にも邪魔されず、プーや塚原先輩と過ごしたこの場所。悩み、不安、その他の私の負の感情を洗い流してくれる場所だ。

おまけに辛い事を洗い流すだけでなく、時に受け入れ、自分の考えを冷静にまとめる事の出来る場でもある。

 

「ここ」は紛れもない私の居場所だった。

 

でも・・あの日から。

 

ヘンな人がココに居座った。

 

最初は不愉快で不快だった。

私からこの場所だけでなく塚原先輩やプーも奪おうとしている天敵。まるで外来種みたいな人だった。その場に存在する価値観を別の場所から来て根底から変えてしまうような。

と、

 

言っても別に大したことはしてないんだけどね。大げさかな?

 

でも・・そのヘンな人は私を変えてしまった。紛れもなく根底から。確実に。

ここに居座ったヘンな人は私の心の中にも居座ってしまった。

何もかもが新しくて感じた事のない感情達をあの人は私にくれた。

ほんの少し前の自分なら何処かバカにして笑い飛ばしていたような事達が今はただただ愛おしい。

 

「ふぅ・・」

 

冷たく白い床の上で暗くなった空と星を眺めながらクスリと笑う。

壁に背中を預け、足を投げ出し、力ない呼吸が白く光る。

 

もう何時間この場所にいただろうか?

もともと約束など無いようなもの。

実は誰も待っていないようなもの。

 

何を期待しているの?

 

何を欲しがっているの?

 

あの人は塚原先輩が好きなのだ。

 

私なんかよりずっと長く傍に居て、今も、そしてこれからもずっと塚原先輩を想っていくはずなんだ。

 

・・それが嫌なの?

「欲しい」と思ってしまったの?

なら伝えればよかったじゃない。

あの時に。あんなにハッキリしない言葉でごまかして、意地を張らずに。

結局のところ・・私は先輩の事なんて全く理解ってなかったんだ。

 

でも今なら少し解る。

 

想いを断ち切れない事が、想いを伝えられない事が、想いが届かない事が、受け入れられない事がどれだけ怖くて、切なくて苦しいかを。

 

―「これが」怖かったんですね?先輩。

 

ポケットに仕舞い込んだ左手を胸の前に置き、目を閉じる。

 

痛い。苦しい。切ない。

 

―本当にどうしようもない感情なんですね・・。「コレ」。

 

左手だけでは抑えきれない感情を抑えるため七咲は膝を抱え、自らを全て抱くようにギュッと握りしめた。

 

数時間後―

積もり始めた根雪に小さな足跡を残し、少女はその場所から消えていた。

 

「音も無く」。

 

 

16 さよなら はじめまして

 

「降ってきたね・・。」

 

「うん。予報じゃあ積もるみたいだって・・。」

 

マフラーで口元を覆い隠したまま塚原はそう言った。

街路樹は見事なほどライトアップされ、今年最後の晴れ舞台を彩っている。

その下を広大と塚原は歩く。飮み直しに向かった両親たちと別れ、広大は塚原を家に送る役目を担った。

 

「・・・。」

 

別れる手前、母は無言で広大の膝を蹴り、酔った赤い顔を少し真面目な顔にして見送ってくれた。

 

―チャンスやるからアンタなりのケジメをつけなさい。

 

と、いうことなのだろう。

 

「響姉。」

 

「うん?」

 

「ちょっと座らない?」

 

「・・うん。いいよ。」

 

街路樹のレストスペースに丁度よく空いたプラットフォームベンチに腰掛ける。

やはりイヴに比べると人が少ない。日をまたげば26日、クリスマスという年に一度の非日常が日常に変わる直前の魔法が解けるようなこの時間にこのような場所で過ごすのはイヴに比べるとやはり抵抗があるのだろうか。

 

「用意いいのね。コウ君。」

 

広大の広げた傘の大きさを見渡して塚原はそう言った。

 

「父さんが渡してくれた。万が一雪で電車が止まるような事があったらこれ使って歩いてでも帰るつもりだったって。」

 

「・・・おじさん楽しみにしてくれてたんだね。」

 

「うん。響姉に会うの凄く楽しみにしてた。母さんと違ってあんまり口数が多い方じゃないから解りにくいけどね。」

 

「そうなの?嬉しいな。私も今日は会えて嬉しかった。」

 

「伝えとくよ。多分飛び上がって喜ぶんじゃないかな。」

 

 

「うん。でね?私・・・コウ君にも伝えたい事があるの。」

 

 

「え・・。」

 

「うん。」

 

「俺に・・?響姉が・・?」

 

「今から多分・・私は変な事を言うと思う・・。でもしっかり聞いてね?」

 

「・・うん」

 

「今日・・『広大君』に会えて嬉しかった。そして・・さよならコウ君。」

 

「・・!?」

 

塚原が前もって言った通り、正直意味が解らなかった。

しかし塚原は笑っていた。自分が伝えた言葉の意味不明さもすべて承知の上での優しい微笑み。

 

「響姉・・・?」

 

「・・・。」

 

「俺・・響姉が何を言いたいか解らないよ。」

 

「クスッ。」

 

 

 

 

 

・・約十一年前―

 

吉備東公園にて

 

―コウ君。

 

―響姉・・いい加減「コウ君」って止めてよ。俺の名前は「コウダイ」なんだぞ?

 

―え?なんで?カワイイ呼び方じゃない?

 

―だからそれが嫌なんだって・・何か・・カワイイって言われるのが・・。

 

―うーん・・でもなぁ・・「コウ君」に馴れちゃってるし、「コウ君」は「コウ君」だし・・。皆もこう呼んでるでしょ?

 

「こうこうこうこう」・・。嫌がらせか。

 

―~~・・。響姉にそう言われるのが嫌なんだよ・・。

 

―・・・。ねぇコウ君。コウ君の名前の「こう大」ってどんな字だと思う?

 

―・・じ?

 

―うん。私ね?今年から学校に行ってるから一杯字を教えてもらってるんだ。

 

―ぢ???

 

―そ。『漢字』っていうのも最近習ってるんだ。それでね?最近コウ君の字も習ったの。

 

―???

 

―見てて。

 

塚原は小さな木の棒を取り、小学一年生にしては整った綺麗な字を書いた。

 

「こう大」

 

「広」は通常小二の学習漢字のため解らず、ひらがなで書かれている。

 

―コウ・・何これ?

 

当時の広大はひらがなは一部を除き、どうにか読める。

 

―『こうだい』って読むの。これがコウ君の名前を字にしたものよ。

 

―・・ふーん。

 

―この「大」って言う字はね?「大きい」って言う意味なの。テレビのロボットとか・・怪獣とかの「大きい」。解るよね

 

―うん・・。

 

―コウ君立って?

 

―え?

 

―・・ほら。コウ君どう?

 

―・・響姉よりちっちゃい・・。

 

小学生、幼稚園児の時点での平均身長は女の子の方が高い。

 

―そう!だからねコウ君?コウ君はおっきくならないといけないの。私よりもお母さんよりも。

 

小さく甘えん坊の末っ子の広大に自分の小ささを自覚させるために広大の母は敢えて「コウ君」と呼び続けていた。どうしても男の子がカッコイイとは感じにくい軽い響きのその呼び方を。

それを父、兄、そして交流の深い塚原家にまで完全に浸透、徹底させた。

もともと反骨心をもって向かってくるように仕向けるのが広大の母の子育ての基本方針である。

いずれこの呼び方をされるのが嫌になる日が来る。

嫌なら早く大きくなって、男らしくなって広「大」に相応しい男になりな?と、いう愛情だった。

(広大の母の性格上、実の息子に対するからかいとおちょくりを含んでいたのも恐らくまた事実ではある。)

 

―・・。コウ君はまだまだちっさいし、「コウ君」でいいんじゃないかな。やっぱり可愛い呼び方だと思うし。

 

―やだ・・。

 

―うーん。じゃあ今のコウ君に合った名前は何かなぁ・・?あ!

 

―・・?

 

―そう言えば・・この「大」っていう漢字と一緒にこんな漢字も習ったんだよ。

 

そういって再び響は木の枝でガリガリと地面を掻いた。

 

―小と。

 

―これは・・?

 

―「ショウ」。「コ」とも読めるよ。

 

―しょう・・?こ?

 

―うん。「ちいさい」っていう意味。鼠とか、子猫とか、ハムスターとかのね・・。

 

片やロボット、怪獣。片や鼠、ハムスター。何とも分かりやすい対比。

 

―・・・。

 

―今のコウ君にはこっちのがピッタシだね。

 

―・・。

 

―だから・・コウショウ君、もしくはコウコ君・・になるかな?ふふ・・コウコ君だったらむしろ「コウちゃん」の方がいいかな・・?

 

片や調味料、片や女の子。選択の幅が無い上、選択肢が酷過ぎる。

 

―・・・もうコウ君でいいよぉ・・。

 

―そう?カワイイ名前なのに。コウ子ちゃん?

 

―あーもう!今はコウ君でイイって言ってるの!

 

―ふふふ・・コウ君・・早く大きくなってね?早く私を追いぬいてカッコイイ男の子になって?そしたらコウ君を「こう大君」って呼んであげるから・・。

 

 

 

 

 

「・・そんなことあったっけ?」

 

「うん今でも鮮明に思い出せるよ。」

 

「・・という事は・・喜んでいいのかな。」

 

「うん。広大君。」

 

何処となく恥ずかしい瞬間だった。止めがたい喜びもあった。

だけど・・それをはるかに凌駕する寂しさが急に広大の背筋を駆け抜ける。うすら寒いほどの。

その正体に広大はまだ気付けない。

 

「・・・。広大君・・?」

 

「ん・・?」

 

「・・率直に聞くね。」

 

「!」

 

一気に不安が駆け抜ける。

 

「私の事・・好き?」

 

 

―・・・!!

 

眉間に大きな皺が寄る。さぞかし今自分は沈痛な顔をしているだろうと広大は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広大は頷くしか出来なかった。

 

「そう。」

 

「・・・。」

 

言葉が出ない。

 

「広大君・・私の名前を呼んでくれる?」

 

「・・・?」

 

「いいから・・呼んでみて・・。」

 

「・・・響―」

 

「・・・。」

 

「・・・姉。」

 

「・・ありがとう。」

 

一瞬両眼を深く閉じ、少し広大を見上げながら響は満面の笑みでほほ笑んだ。

広大以外の人間が見たなら大抵の人間はこの笑顔の意味を履き違えるだろう。

 

―・・そう私は「響姉」。コウ君の・・おねぇさんだった女の子。

 

「私も広大君が好きです。心から。」

 

「響姉。」

 

―もう・・言わないで。お願いだから。

 

「本当に、本当に大きくなったね。広大君。」

 

その言葉と同時に塚原は広大の両頬に両掌を添え、コツンと額をぶつける。

その表情を広大は見る事が出来ない。

 

「・・。」

 

「カッコよくなって・・・。大きくなって・・」

 

「やめて・・。」

 

―嫌だ。嫌だ!

 

「・・泣かないの。」

 

「響姉・・。」

 

「もう大丈夫なの。ね?広大君?」

 

―嫌だよ。俺は・・・。まだ・・。

 

「・・もう私がいなくても貴方は大丈夫。それはあなた自身が解ってるはず。・・いつも私の前で見せていた『コウ君』はもう私の手の届かない所に居るの。」

 

「違う・・。」

 

―「コウ君」でも「コウ子」でも何でもいい。だから・・。

 

「・・ゴメンね。」

 

「響姉・・お願いだから・・。」

 

―・・もう一度だけ・・。

 

「・・。仕方ないなぁ・・。」

 

―最後だよ?

 

聞こえるか聞こえないかで囁くように呟いた塚原の言葉は少し湿っていた。

 

「・・っ・・・。」

 

「・・・コウ君。」

 

「・・・。」

 

 

三か月前の再会。広大が初めてプーと七咲と出会った日でもある。再会した当初・・塚原は広大を「広大君」と呼んでいた。しかし・・少し会話を挟んだ後、昔の呼び名で呼んだ。「コウ君」と。

 

これには訳がある。

あの時塚原は水泳部の後輩の手前、必死で態度を取り繕っていたが内心は心臓がはちきれんばかりに緊張していた。それはなぜか?

塚原の叶う事の無かった初恋の相手、広大の兄―広軌の面影を持つ存在が目の前にいたからだ。

 

そして一方で拒んでもいた。

 

少なくない「あの人」の面影があるその目の前の存在をどうしても直接に受け取る事が不可能だったからだ。必死で言い聞かせた。目の前の男の子は「広大」であって「あの人」じゃないと。

昔からの広大の自分に対する好意を知っている彼女にとって、広大をそのように見る事はこれ以上ない無礼と解っていた。

 

でも・・理屈じゃない。大好きだった人の面影を残し、尚且つ自分に対して好意を強く持っている人間。甘えたくなるのは・・凄く悪意のある言葉で言い替えるならば「都合がいい」と考えるのは・・不自然なことだろうか?

 

その相反する感情の中で塚原が選んだ行為は・・広大を「コウ君」に「戻す」ことだった。

無邪気で、幼く、自分を頼って後ろから付いてくる可愛い可愛い弟の様な―

 

「コウ君」。

 

単純にそう昔の呼び名を呼ばれて純粋にほほ笑み、自分を「ひびき姉」と呼んだ広大の笑顔を見て塚原の衝動は和らいだ。

 

さらにその「戻す」という行為は塚原自身にも大きく影響があった。切なくも幸福だった時間を広大と共に共有できるのである。

語弊があるかもしれないので追記するが塚原は今の自分が不幸などとは決して思っていない。

ただ十年来の初恋に先日ハッキリとした終結が訪れたことで、どうしても懐古の情を抑えきれない側面があった。思い出も共有し、「あの人」の面影も共有している広大と共に。

彼女は過去を見た。広大を見ながら初恋の「あの人」―広大の兄広軌を見ていた。

 

―なんて・・なんて嫌な女なんだろう?

 

自分に対する嫌悪感はひっきりなしに訪れた。

 

―でも

 

もう頼ってばかりもいられないね。三か月も貴方に寄り添ってしまった。

存在する筈の無い「あの人」―広軌さんとの「同じ時間」。存在する筈の無かった時間をコウ君はほんの少しの時間与えてくれた。隣に並んで、歩いて、眠って、笑って、・・泣いている時は肩を貸してもらったりもしたっけ。

 

手に入らないはずだった広軌さんとの時間を貴方は「疑似的に」とはいえくれた。夢の様な時間だった。

 

でも・・もうおしまい。おしまいにしなきゃね。

ここに居るのはもう「コウ君」じゃない。そして私が都合のいいように重ねた広軌さんの幻なんかじゃない。自分で選んで、成長して、自分の道を歩んだ一人の男の子。

 

広大君なのだ。

 

そして

 

その彼を真っ直ぐ見続けた人がいる。直視できずにただズルズルと答えを出さぬまま彼の傍にいた私とは違う。私が「コウ君」を見ている時に、れっきとして間違いなく成長した「広大君」を見続けていた子が居る。

 

 

・・七咲?

 

 

私はある意味貴方より遥かに子供だけど、・・気付いていたんだから。

見ている私が切なくなるくらいにね。

私が「あの人」を見ていた時もこんなカオしていたのかな?って重ねるぐらい。

広大君に見られないように必死で彼の目を盗んでいたみたいだけど他が疎かになってたよ。

その点はまだまだね。私の方が子供でも経験は私の方が上なんだよ。・・威張れる事じゃないけどね。最初の頃はやっかんでいたみたいだけど、それ以降はどんどん私が知らない貴方を広大君がひきだし、逆に私が知らない広大君を貴方が引きだすものだから逆にこっちがやっかんじゃったわよ?

 

「時間を戻した私」と「進めた貴方」

 

 

これからの「広大君」と一緒に居るべきなのは・・きっと貴方。

 

 

 

「・・さよならコウ君。そしてはじめまして広大君。」

 

 

歩きだして。広大君。貴方は。

 

 

 

 

 

私なんかの手の届かない所へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




手の届かない所へ行こうとしている彼を見送る、背中を押す。それが塚原の意地。
考えてみれば過ごした年月の差はあっても塚原と七咲の「スタート」は一緒だった。
七咲が広大と出会った日、塚原が広大と再開した日として考えるのであれば。

だがそこで進んだ道はあまりにも対称的。

片や時間を戻し、片や時間を進めた。

「・・きっと待ってるよ。あの子」

何の確証もない。そんな塚原の言葉を軸にして広大の足は動いた。
まるで予知能力者みたいに塚原は七咲の行動を見透かしていた。
するすると誘導尋問のように広大は昨夜の出来事を抵抗なく話す事が出来た。

「遠まわしね・・不器用なあのコらしい。」

そう言ってほほ笑んだ塚原の笑顔が嬉しかった。



振られたのか。
いいように言いくるめられたのか。
そんな経験が無いから広大には解らない。でもそれでよかった。
そんな事を考える余裕も与えられないぐらい奇妙な充足感で満たされていた。

悲しさはない。

切なさもない。

足は動いた。

曖昧で確固たる矛盾した目的と意思を滲ませて。



今―



君に「逢い」に行こう。

















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ルートA 終章 アイのために












終章 アイのために

 

 

 

 

 

 

 

 

根雪の上に新雪が積み重なる。

ホワイトクリスマスがただの「雪の降った日」に変わる三時間前、広大は彷徨っていた。

頭の中で選択と排除の積み重ね。

意外にもこの短い期間に「あの子」と積み重ねた日々の厚さを知る。

 

それでも絞るのは容易だった。いくつかの選択肢はすぐに排除され、綺麗に一つだけ残った。

 

創設祭の翌日―生徒は基本的に午後以降校内立ち入り禁止である。

創設祭のステージなどの大型の物資を運び出す際の危険性を踏まえ、立ち入りを許可された幾人かの実行委員の生徒、引率する教師が資料の整理を行うのみである。

そう考えれば「あの子」の性格上、「あの場所」は即刻選択肢から除外されそうなものだが今の広大には「あの場所」意外に考えられなかった。「あの子」が「あの場所」を大切にしているのが人目にも解ったからだ。

塚原が待ち、プーが待ち、広大が待っていた場所。

別に広大は「あの子」の全てを知っていると言えるほど自惚れている訳でもない。正直解らない所の方がまだまだ多いはずだ。でも何処か「あの子」の習性のようなものがまるで猫が自分の安住場所に帰ってくるのと同じように「あの場所」に帰結させる―そんな奇妙な確信が広大にはあった。

 

閉じられた吉備東高校門をひょいと飛び越える。見つかったら反省文どころではすまない。ただ

 

―クリスマスなんだ。見逃してくれ。

 

サクリという音をたて、新雪に着地した広大が見たのは―

 

「・・・。」

 

雪化粧をした夜中の真っ暗な誰もいない学校。何ともレアな光景だ。

 

いざ来てはみたもののその光景は一抹の不安を拭えない。まるで世界から孤立した廃墟のようにすら見える。昨夜が創設祭と言うあまりにも人間味ある賑やかな光景だっただけに余計に際立つ。

一日経っただけとは思えないほどの変容ぶりだ。人間が居た気配すらまるで感じない。

揺らぎそうになる相変わらず小心なメンタルを寒さで震える体と共に広大は奮い立たせた。

 

普通に考えれば居るワケがない。元々場所も時間も指定していない。ハッキリとした約束をしたわけでもない。何もかもが宙ぶらりんだ。

そして当の「あの子」がもっとも理解していたはずのことでもあるのだ。

 

「今日、この日、この時間に、広大がこの場所に来る訳が無い。」

 

そして広大側から見て逆に言うなら

 

「今日、この日、この時間に『あの子』がこの場所に来る訳が無い。」

 

来ても意味が無いのだから。来る訳が無いのだから。

 

 

「・・・」

 

―その通りだ。何を一人で盛り上がっていたんだろうか?

 

やっぱりいいように言いくるめられたのかな?俺・・。

 

いつの間にか着いていた「あの場所」はあまりにも予想に違わない光景が映し出される。

近くにある街灯でようやく映し出される見た目にも肌寒い白いコンクリートの床に座り、微笑む「あの子」の姿は―

 

望むべくもなかった。

 

あの悪戯そうな微笑みも。

少し皮肉めいた言葉も。

 

・・何も無い。

 

まるで空気まで無くなったんじゃないかと思う様な息苦しさは広大の視界までぐにゃりと曲がらせる。

 

ど、すん・・

 

気付けば広大は仰向けで降り積もった新雪を背に大の字で横たわり、力無く虚空を見上げた。

徐々にしみ込む溶けた雪の冷気が背中を侵食していく。冷えた頭が意識を回復させていく。

 

「・・・」

 

空しさを覆い隠すように両手で顔を覆った。形容しがたい虚脱感と共に何も残っていない自分の両手を見る。必死で自分を奮い立たせようと自問自答する。

 

―・・元々手に入るかどうか微妙だったものが手に入らなかっただけじゃないか。

 

覚悟はしていただろ?

「あの子」にも言ったじゃないか。「どちらに転がろうと納得できると思う」って。

アレは結局強がりだったのか?虚勢だったのか?

 

いや―

 

確かにそうだった。自分でも驚くほどすんなりと受け入れる事が出来たと思う。

「俺案外大人だな」って自分で自分に感心した。

 

・・でも。

 

受け入れていた「それ」とは全く別の場所からの何かが俺を浸蝕していく。

 

 

 

「覚悟する」

 

 

という事は案外楽だ。そもそも選択肢が限られているという状況において選んだ選択肢による結果がどう転がるかは在る程度想像もつく。予想される中で最悪の結末にも考えが及ぶ分、対策は練りやすく、心構えもしやすい。

 

だが覚悟も自覚も全く何もない所から突然現れた「何か」に対して人間はあまりにも無防備だ。

自覚することも出来ぬ間に過ぎ去ってしまっていたという後悔は恐らく「それ」の比ではない。

 

それ程いつの間にか身近だったのだ。常に傍に在ったのだ。近すぎて気付かなかっただけで。

広大は思い知る。

 

二人は知らない。

 

「あの子」が事実ここに来た、そして居たという事実を彼は知らない。

 

また

 

彼が事実ここに来たという事実を「あの子」は知らない。

 

「・・七咲。」

 

今はただひたすら逢いたい少女の名前を虚空に放つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同時刻―

 

ぱたん・・

 

自宅に着いた七咲は玄関先で靴も脱がずにうつ伏せに音もなく寝転がった。

 

―もう何も感じない。

 

寒さも痛みも。

 

けど何故涙が出るのだろう。

 

「・・くっ・・っふ・・。」

 

―声をあげて泣いたのは何年振りだろうな・・。

 

短い付き合いで「あの人」には結構泣かされたけど流石に声をあげた事は無かったっけ。

ホント・・最低ですね。でも事実私と「あの人」の間には最早何もない。責める資格など無い。

・・すいません。でも・・これぐらいの愚痴は言わせて下さい。

 

耐えきれそうにないんです。

何せ・・全て「失くしちゃった」から。

もう・・「見つからない」だろうから。

そんな気がするんです。

 

でもこれが・・一番いいような気がするんです。

 

もう忘れられる。諦め切れる。

 

その七咲の思いとは裏腹にまただらしなく涙が出る。

自分を騙せない嘘は流れた涙で打ち消され、また違う意味の涙がこめかみを伝った。

 

―ごめんなさい・・。

 

「先輩・・。」

 

今誰よりも逢いたい人を呼ぶ。

 

少女の足はまるでこの一夜で何十年も彷徨い歩いたかのように泥だらけに汚れていた。

 

 

 

 

 

 

 

再び吉備東校。

未だに寝そべったまま広大は両手を再び大の字に投げ出した。

掌がまだ柔らかい新雪を掴み、軽く握っただけで茶色に変色した根雪に触れる事が出来る。雪達が積もるためにその礎になった根雪は広大の掌であっさりと冷たい水と茶色い泥になる。

 

その時であった。

 

―・・・・ん?

 

唐突に広大の瞳に光が戻る。すっかり冷え切った掌を凝視する。

 

「・・・!!」

 

広大の瞳が大きく見開かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝―七咲家宅

 

相変わらず自分は健康優良児だと七咲は思う。あれ程昨夜、鉛のように重かった頭と体がすっきりしている。

 

―まぁ頭の中の水分を出しきっちゃったからなぁ。

 

と、苦笑いする。

 

―・・・。あーあひどいカオ。

 

洗面台の鏡を前に自分の顔を前に七咲はそう思う。苦笑いにしてもひどい顔だ。とても人前に出れそうな顔じゃない。

 

時刻は七時半。規則正しい生活の賜物か、無意識に目が覚める。といってもいつもよりやや遅い時間ではあるが冬季休暇中の水泳部の活動に間に合わせるには支障の無い時間帯である。

 

―なんだかんだ言ってあと一時間半後位にはちゃんと学校に行ってるんだろうなぁ。・・不思議。

 

一時間半後がまるで遥か未来の事のように感じながら彼女は朝のルーティンを淡々とこなす。

恐らく弟はまだ夢の中だろう。起こさないように朝食を作り、弟に書置きを残す。

 

―漢字が苦手だからひらがなを多めに、と。

 

いつも通り朝の雑事をこなし、家を発つ頃に鏡を覗くとカオはいつものように戻って見えた。

 

―若さってスバラシイ♪

 

そう思って玄関に立つとなぜか床の一部分が染みになっていた。

 

―誰がこんなとこに・・って私か。

 

昨晩の横たわる自分の姿が見える様な気がして少し悲しい顔で苦笑いし、少女―七咲は家を発った。弟を起こさないように

 

「音も無く」。

吉備東高校門前―

 

「あ、ナナちゃんおはよう。」

 

「おはようございます。先輩。」

 

「積もっちゃったねぇ。朝までには止んだのが幸いだったけど。」

 

電車通学の一コ上のその先輩は電車が止まらないか、朝のうちヒヤヒヤしていたらしい。

 

「でも天気予報によると・・今日中には溶けちゃうみたいですけどね。」

 

「クリスマスに降るのまぁロマンティックで歓迎にしても・・それ以外の日に降られるとアタシにとって迷惑極まりないからよかったよかった♪」

 

「あはは。そうですね。」

 

先輩に賛同はしたがやっぱり雪の日はいいと思う。弟も喜ぶし、何と言っても四季の中で冬が一番好きな七咲には明確な他の季節との差別化があるこの雪景色という光景は特別だ。

 

―・・もっともそれも今年までかもしれないけど。

 

来年またこの季節が来たらズキッと来るのかもしれないな。・・昨日を思い出して。

 

「・・?ナナちゃん?」

 

「はい?」

 

「どうかした?」

 

「いえ。別に。あの・・先に行っていてもらえますか?私ちょっと寄る所があるので。」

 

「そう?じゃあ後でね。」

 

「はいっ」

 

 

「無駄だろうな」と思っていても何故か体が動く。足が向く。

 

「あの場所」へ。

 

自分に「女々しいな」と思いつつもそうせずには居られない。また昨日に逆戻りしたいのかと冷静な自分が言い聞かせても根っこの自分は正直だった。

 

―これが最後。最後だからね?

 

冷静な自分が根負けして最後のチャンスを与えてくれた。

 

「・・・。」

 

振り返る。

 

広大との時間を。

塚原との時間を。

プーとの時間を。

 

色んな光景が浮かぶ。そしてその時々に浮かんだ色んな感情も。

短くもそれはどれも新鮮でかけがえのない時間。

 

―もう終わり!

 

と、急かす自分を無視して七咲は目を閉じ、耳を澄ます。

寒いけれど何て心地いい朝。風の音、匂い、鳥の声。徐々に目覚め出す街の音が僅かに聞こえる。

 

―いい加減にしなさい!

 

ゴメン。もう少しだけ。

 

―・・。行こうよ・・。

 

・・うん・・行こう。

 

 

 

 

チリン・・。

 

 

 

 

―え?

 

 

 

チリン

 

 

 

―・・?

 

冷静な自分はしゅぼぼと吸い込まれていく。

 

―嘘。

 

 

 

チリン

 

 

 

 

「・・・プー!?」

 

冷静な自分が管理していた最低限の自分を保つリミッタ―を振り切って七咲は駈け出した。

 

―・・あの場所だ。あそこしかない。

 

いつものあの場所へ向かう曲がり角で足を止める。

「すぅっ・・」

 

曲がり角の先を見るのが怖かった。壁を背にして呼吸を整える。波打つ心臓も同時に落ち着かせて。期待しすぎるのはよくない。それは散々思い知った。

 

再び耳を澄ますがあの音は聞こえなくなった。

 

―・・幻聴?・・いや違う!違うもん!絶対!

 

その言葉の勢いで弱気な自分を振り払うように角を曲がる。

 

「・・・。」

 

視力両眼共に1.0以上。当分「君は眼鏡やコンタクトレンズは必要ないだろう」と眼科に太鼓判を押された自慢の光一点の瞳で七咲はその先の空間を凝視する。

 

「・・・。はは・・。」

 

―はぁ・・重症かなこれ・・。

 

今日一体何回目の苦笑いと溜息だろう。今朝は弟がまだ寝ていて本当に良かった。こんな表情を何度も何度も繰り返していたら心配されたに違いない。

 

―幻聴が聞こえるぐらいなら、ついでに幻ぐらい見せてくれたっていいんじゃない?

 

そんなクレームを瞳に言ってその場を去ろうと七咲は背中を向けた。

 

 

チリン・・。

 

 

―もう騙されない。

 

 

チリン

 

 

―いい加減にして。

 

 

チリン

 

 

―もうこれ以上・・。私を惑わせないで。

 

 

チリン

 

 

―もう!一体・・何・・

 

 

 

 

「七咲。」

 

 

 

 

「・・・え。」

 

声の方向に七咲は反射的に振りかえり、視線を追随させる。やや斜め上。更衣室裏の階段の最上段。

 

そこは紛れもない。

 

 

「あの人」と初めて出会った場所で互いの真逆の位置。

 

 

 

 

 

すれ違い、交差した二人の「☓」の先は―

 

 

この場所に繋がっていた。

 

 

 

 

「・・・」

 

 

 

そこには階段に座りながら七咲を無言で見下ろす一人の少年の姿が在った。

初めて出会った時と全くの逆位置。足を開いて両手を軽く合わせやや重心を前寄りにして座っている。

 

そして緩めに握られた両掌から出たその音源が広大の人差指と親指に掴まれ、ようやく七咲の瞳はそれを捉える。

 

 

それは決して咲かないはずの―銀色の蕾。

 

 

 

「・・・やっと来た。いや・・いつも通り遅刻は俺か」

 

 

 

―「あの人」は膝で頬杖つき、そう言って微笑んだ。他でも無い―

 

 

 

私だけに。

 

 

 

「・・・先輩。」

 

 

 

「・・う・・ぃくしっ!」

 

「・・・くすっ。」

 

いつものように肝心なところで決まらない広大の姿を見て、七咲は心底嬉しそうにくすりと笑う。

 

 

 

チリン・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい」

 

広大は七咲に鈴を渡す。七咲は優しい目でひとしきりそれを愛でたのち、いつものようにポケットに仕舞う。同時にそれまたいつもの澄ました顔を作り、広大を見上げた。

 

「有難うございます。・・何処で拾ったんですか?」

 

「・・ここだけど?」

 

「あれ~~?いつ落としたんでしょうね。」

 

「・・覚えてないの?七咲?」

 

「はい。『結構前』に失くしてそのままだったんです。諦めていたんですけど・・見つかって本当に良かった・・。」

 

「・・。そ。」

 

七咲は嘘をついた。

 

七咲はこの鈴を受け取って以来、広大には一度も見せていないし、音も聞かせていない。

普通に考えると広大側には落とした日時を特定できるはずが無い。・・つまり―

 

「昨日とは限らない。昨日自分がここに来たとは限らない。」と、いうこと・

 

しかし七咲側には一方的に、確実に解る事がある。

 

来てくれたのだ。

 

広大はここに。

 

一方的で不確かで無茶な自分の賭けに・・応えてくれたのだ。

 

正直・・

 

泣きそうだ。

 

でもこの数日で七咲は泣く事にかなり馴れた。どうにか抑えるコツは掴んでいる。

 

―押さえて私。

 

下唇をわずかにきゅっと噛みしめ、躍り上がる様に跳ね上がる心と呼吸を押さえつつ、七咲は平静を装ったまま広大を見上げる。・・貴方には聞きたい事がたくさんあるんだ、と。

 

 

「先輩・・。」

 

「ん・・?」

 

「・・どうだったんですか?昨日」

 

「・・。楽しかった。」

 

広大は微笑む。嘘偽りない笑顔で。子供のように。

 

「・・ふふ・・そうでしょうね。」

 

敢えて七咲はその言葉に同調した。彼女が意図した質問の回答ではないが偽りざる広大の本音なのだろうと理解出来た。そしてその笑顔に含まれる何処となく物寂しい表情を七咲は感じ取る。

それでおおよその結果の察しは付いた。もう七咲は聞かない。

 

と、言うよりもう聞けない。

 

・・怖くて。

 

広大が昨夜ここに来てくれたという事実。これが何を意味するのか。自分の一方的な約束に対して何を想い、何を考え、来てくれたのか。そこが知りたい。

 

けど怖い。

 

気まぐれ?確認?義務?責任?それともまた別の・・?

 

「七咲。」

 

「・・はい?」

 

「君は・・ひょっとして昨日ここに来たの?」

 

次は広大側の一手。

 

「来る訳ないじゃないですか・・あの時の言葉、本気にしたんですか?」

 

「うん。」

 

「・・はっきり言うんですね。」

 

「俺だけじゃないからね。本気にしたのは。」

 

「・・?どういう意味です?」

 

「・・響姉も解ってた。七咲はきっと待ってるって。」

 

「おしゃべり・・。卑怯です。塚原先輩に聞くなんて。でも流石に今回は二人共ハズレです。」

 

残念でした、と言いたげにちょっとぺろっと舌を出す。

 

「ホントに?」

 

「ええ。」

 

「・・嘘つき。」

 

「む・・!嘘じゃ・・ありません。」

 

「雪の上にあったのに?」

 

「・・。雪の、上?」

 

「鈴。昨日降った雪の上にそれは落ちてた。昨日雪が降り始めたのは夕方ぐらい。その時間から積もったはずの雪の上にそれが落ちていたのはなんで?君の言うように随分前に失くしたとしたら普通在ったとしても雪の下・・だよね?」

 

「雪の上」・・というのは広大の方便だが確かに根雪と新雪の間には鈴があったように感じた。

それなら「雪が降る前に既にそこに鈴が在った」と言うよりは「雪が積もったその上に鈴が落ちた」と仮定するのが納得できる。

さらに鈴のようなものを落としたとするならば、転がって鳴る鈴の音によって大抵落とした事に気付くはずである。だが、柔らかい雪がクッションになり、音がいつものように響かなかったとすれば、聞き逃し、そのまま放置してしまった可能性は高い。

 

鈴というのはなかなか落として失くすには難しいものでもあるのだ。それこそ捨てようとでもしない限り。

 

ただ、それも先程無い事が解った。鈴を返した直後の七咲の表情から容易に読み取れる。

必死で覆い隠していたようだが隠しきれない安堵の表情。それぐらい広大には解る。

 

「申し開きは在る?」

 

「・・・想像力はご立派です。でも・・先輩の何かの勘違いじゃないかと。」

 

「勘違いか・・まぁ・・それでもいいや。」

 

特に言い返す言葉を失ったような七咲を見て正直に広大は「可愛い」と思った。

 

「・・先輩。」

 

「ん?」

 

「そんな風に出まかせ言って私を困らせてどうしたいんですか?」

 

「俺は出まかせを言ったつもりないんだけど。」

 

「じゃあそう思っていればいいです。」

 

「うん。そうする。それだったらそもそも先に出まかせ言ったのは七咲の方じゃないの。前の日『あの場所で待ってます。』なんて言っといてさ・・。」

 

「う・・。」

 

「・・くくっ。」

 

結局のところ真実ははっきりしない。それでも別にかまわない。

 

七咲が可愛い。今はそれだけでいい。

 

 

 

 

 

 

「・・先輩。」

 

「ん?」

 

「先輩って私の事好きなんですか?」

 

―ぶぉごは。

 

鋭いカウンター。

優位に立ったつもりでふわふわしていた広大の立ち位置が簡単に揺らぐ。

やられた。昨日の塚原の時と同じ過ちを犯した。進歩の無い自分に広大は呆れる。

 

―ま、また返事だけか・・。

 

楽には楽だが自己嫌悪が半端無い。

 

「・・。七咲の事は好きだよ。」

 

「むっ・・!」

 

その言葉にすこし咎めるような顔を七咲はした。そういう「風に」聞いているんじゃありません、と。

 

「・・そんな顔で見ないでよ。俺だって色々混乱してるんだからさ。」

 

「・・」

 

―相変わらずはっきりしないヒト。

 

返事の変わりに七咲はじっと睨んでやる。

 

「・・・。解んないんだよ。」

 

「解らない?」

 

「うん・・。」

 

「・・。そう言われた私の方がさらに解らないって言うのが解りませんか?」

 

七咲は悉く意地悪な反応をしてやった。

 

―先輩には悪いけどこっちもそんなに余裕が無い。こうでもしないと・・。

 

「・・そもそもさ・・七咲はいいの?」

 

「え?」

 

「他の誰かを『好き』と言っていた男に『好きだ』って言われて・・。信じられるの?俺れっきとして振られた(ようなもん)後だぜ?」

 

「それは・・。」

 

―どうだろう・・?

 

はっきりと「大丈夫です!先輩信頼しています!」と、言うには色んな意味で経験不足だ。お互いに。正直言おう。七咲に自信は無い。

 

「元々本気じゃないかもしれないし、振られた直後で精神的に参っている男が言った口先だけの言葉だったとしても・・いいの?」

 

「う~~ん・・考えてみればそれに関してはなさそうですね。そもそも先輩にそんな度胸は無いです。元々本気で好きでも中々言えない人なのに。塚原先輩にも先越されたんでしょ?ど~せ」

 

「・・。見ていたのかな~~?七咲君」

 

「やっぱり・・いつも先を越されているのがいい証拠ですよ?」

 

「・・耳が痛くてもげそう。」

 

「くすくす・・」

 

―くすっ・・相変わらず・・ホントに―

 

・・可愛い人。

 

 

「・・本気だよ。」

 

「・・・え?」

 

「七咲の事は本気で。大好き」

 

―・・・!!

 

七咲は思わず両目を見開き、後方に僅かに上半身を仰け反るくらいの一撃を見舞われた。

 

「・・。し、信じられませんね。『解らない』って言ったばかりじゃないですか。」

 

「『解らない』って言ったのはそういう意味じゃないよ。」

 

「・・?」

 

「さっき言っただろ?・・他の女の子をずっと追いかけていた男がいきなり『実は君の事を好きでした』って言ってみた所で信じてもらえるのか?。っていうのが解らないって意味。」

 

反吐が出そうなほど身勝手で都合のいい言い分である。

 

「・・その『言葉自体』信じていいんですかね・・?」

 

本当に「そう思ってそう考えてくれている」のかすら疑ってしまう。こうなると納得のいく理由やら何やらが必要になる。今の広大に強制するにはちと・・。

 

「ほらぁ・・そうなるだろ?だよね?だよね?ど~すりゃいいんだか」

 

「はぁ・・。」

 

大きな溜息と共に改めて七咲は広大を見る。さっきから顔は上気しっぱなし、瞳には涙が溜まるわでてんやわんやだ。こらえるこっちの身にもなって欲しい。

 

―・・仕方ない。

こうなってしまってはどちらかが歩み寄るしかない。そして歩み寄るべきなのは・・恐らく先に好きになった私の方だ。・・確かに私も色々至らない面が多少・・いやかなりあったと思いますが人を好きになったの初めてなんです・・それぐらいは勘弁して下さい。そこは男でしょ?先輩。

 

「先輩・・。」

 

「ん?」

 

「・・。構いませんよ。先輩の気持ち、はっきり聞かせてくれませんか?」

 

「・・。」

 

「かと言ってどうなるかは・・知りませんけどね。」

 

「ぐ。」

 

ほんの少し口をとがらせていつもの嫌味を言う。そう

 

―私たちはこれぐらいが丁度いい。

 

「・・ふぅ。」

 

 

―ほら・・頑張れ。先輩。・・広大先輩?

 

「まず謝らせて。ゴメン。しょっぱな都合良い事言います。」

 

「・・。」

 

「俺は響姉が好きでした。っていうか今も好きです。俺にとって滅茶苦茶大事な人です。多分これからもずっと。」

 

「・・。」

 

「でも昨日気付いた。響姉とその家族と俺の家族の風景見て気付いた。俺は・・ただ戻りたかったんだって。小さい頃に大好きな人とそのおじさんやおばさんと父さん、母さんがいる場所に囲まれた自分の居場所に戻りたかった。・・戻れる訳ないのにさ。響姉と居る時でも今自分が、そして響姉がどうしたいのか、とか何を感じて何を考えてるか、とか殆ど知らないし、考えもせずにただ昔の思い出とかに浸って・・甘えて・・響姉に近付いていこうとしなかった。七咲に散々偉そうなこと言っといて・・。俺は進むんじゃ無くて実は戻りたかったんじゃなかったのかって・・思った。」

 

「けど・・そんな俺に七咲はずっとそばに居てくれた。一緒にいろんなところに行ってお互いに頼って、頼られて・・色んなところを見せてくれた。そして俺の色んな所見て嫌味言ったり、けなしたり、指摘したり、でも時には褒めたり、笑ってくれたりしてくれた。」

 

「響姉の前では甘えるだけだった自分を見直させてくれたのも七咲。君だろ?俺が内心気付いて、でも見ない様にしていたところを初めて正直に怒ってくれたのも七咲だろ。」

 

―初めて喧嘩したあの日のこと。

 

「初めて響姉に対して誇れる行動が出来たきっかけも結局は君だったと思う。俺もほんの少し自分を好きになれた。捨てたもんじゃ無いなって思わせてくれた。」

 

塚原の合格の日、そして屋上で恐らく泣いていた塚原に肩を貸したあの日。

 

そして昨日。

 

「俺を先に進ませてくれたのは七咲、君のおかげ。君がいなければ俺は響姉と再会してまた昔のように話す事も出来なかったと思うし・・『あの頃』に戻る事は出来なかった。そして同時に『あの頃』にもう居続けちゃいけないってのにも気付けなかった、抜けだす事も出来なかったと思うんだ。ずっと抱えたままケリも付けずにまだ悶々と日々を過ごしてたと思う。七咲?君が俺と出逢ってくれなかったらね。」

 

 

 

「本当にありがとう七咲・・良かったら・・こんな俺で本当に良かったらこれからも傍に居て?」

 

「・・・。」

 

「・・好きです。七咲。本気で。」

 

 

―信じて。

 

ただひたすら祈った。この目の前の小さな少女に真っ直ぐと想いが届く事を。

 

愛の為に。

 

Iの為に。

 

逢の為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ホント・・勝手ですね。」

 

「・・そうだね。」

 

「私は『待ってなかった』って言っているのに・・。」

 

「・・うん。」

 

―強情っぱりだな・・。

 

「散々塚原先輩の事『好きだ』って、結構長い時間片思いしたから気持ちは簡単に変わらないとかカッコイイ事言っておいて・・。」

 

―言ったか・・?言ったような気がするな・・。いや言ったな・・。

 

「勝手に盛り上がっちゃって・・。」

 

―う。やっぱりそうかな。

 

「で、実は『私が好き』。と?」

 

―そこは間違いないと思う。一番自信があるところ。

 

「何ですかそれ。結局先輩は私か塚原先輩に頼りっぱなしって事じゃないですか。私は塚原先輩の『代わり』ですか?」

 

―うう・・。

 

「先輩にとって『好きな人』は自分より頼れる女の子ですか?度し難いですね」

 

七咲ハンマーがコツコツと「短小」広大釘を打つ。広大は打たれるままに沈んでいく。

 

―やっぱり・・ダメかな。昨日の今日だもんな・・。いやそれ以前の問題か。

 

「ホント先輩なんて・・。」

 

―ホント私なんて・・。

 

 

ふわり

 

 

直立不動の広大にまるで木を抱くようにに両手で七咲は彼を包み込んだ。

 

 

 

「・・私が居ないとダメなんですから。」

 

―・・先輩が居ないとダメなんですから。

 

 

 

広大の顎に七咲の髪がふわりと漂い、くすぐったい感触と心地いい香りが充満する。

両腕ごと強靭なひもで縛られて身動きが取れないみたいに体が硬直していく。

波打つ広大の胸の近くに丁度七咲の顔があった。吐息と涙を押しつけるようにして少し震えていた。

 

「ちょ・・ちょっと七咲・・。」

 

「・・・?」

 

七咲は右耳を広大の胸に押しつけてやや赤みがかった上目遣いで広大の顔を見る。

 

「・・・!」

 

―うわ。やばい。この子こんなに可愛かったのか。

 

「・・ゴメン・・手少し緩めて。」

 

「・・。」

 

彼女は少し残念そうな顔をして力を緩める。

 

「・・ありがと。」

 

「・・・」

 

その言葉に合わせて七咲は無言のままぶんぶんと首を振る。自分の脇目を振らずの衝動の行動にやや後悔と申し訳なさを感じているらしい。

広大の両手が解放される。ただそれを放置する精神力など今の広大には無かった。

少女の細い腰と小さな頭にぐるりと手をまわす。小さな彼女を包み込むには十分だった。

 

「・・・!」

 

自分の小さな体が浮くぐらいに強く抱きしめられ、七咲は上気した瞳を見開く。どうにかなってしまいそうだった。

 

そんな彼女の頭に頬をのせ、広大は深く息を吸い込む。

 

・・有り得ないほど愛おしかった。

 

広大の背中にまわされた七咲の右手がゆっくりと広大の腰に近付く。何故か背中にまわされたその右手が拳を握っていた訳が解る。七咲の掌の上に握りしめていた鈴が見えた。

その七咲の掌を広大の左手の掌を貝つなぎ状に指を絡ませ、握りしめる。

 

 

 

鈴が鳴る。二人の掌の中で。

 

 

 

チリン・・

 

 

 

 

 

 

どん!

 

五分ほどして広大はいきなり七咲に突き飛ばされた。

 

「・・・!・・・どわっ!?」

 

「・・・。」

 

双方言うまでも無く顔が真っ赤だった。広大はいいかもしれないが七咲は部活でこれから人前に出る。こんなカオで言ったら確実に、滅茶苦茶心配される。お互い眼を見開いて金魚のように口をパクパクさせてどうにか言葉を紡ぐ。

 

「あ・・の。七咲?」

 

「だ、大丈夫です。す、すみません。私、そろ、っそろ行かないと。このままだとその・・心臓、が、壊れ、壊れま、る、まする・・」

 

少し乱れた髪を整えながら真っ赤な顔でようやく七咲はそう言った。

 

「そ、そっか部活だよね・・」

 

「は、はい。あの・・その・・今日私部活がお昼までなので・・先輩待っていてくれます?」

 

「・・おぉ。待ってる」

 

「では・・し、失礼します!」

 

全速力で七咲は消えた。プーですらここまで広大から一目散に逃げた事は無い。唖然として広大は力無く左手を振って見送った。

 

チリン・・

 

「・・あ!」

 

七咲の掌と絡ませていた広大の左手に彼女の鈴が残っていた。

 

「七咲・・忘れ物」

 

届くはずもない声を出す。一目散に走っていった彼女に届く訳も、当然戻ってくる訳も無い。

 

「・・。一緒にお留守番だな。・・・。」

 

まるでプーに話しかけているようだった。・・反応も同じく素無視だが。

 

「・・・。・・・!」

 

だっ!

 

広大はじっと鈴を見て何かを思案したような表情をしたと思うと前言をあっさり撤回し、その場を去った。逃げたというよりもいち早くその場に戻ってこようとする足取りで。

 

―棚町さん!サンクス!

 

噂によるとその日、市内を高速で梅原から借りたチャリを飛ばす広大が吉備東デパートに直行している姿が目撃されたとかされてないとか。

 

一方室内水泳場。

 

「あ!ナナちゃん。やっと来たね。そろそろ始めよっか・・ってナナちゃん!?」

 

入水前の入念なストレッチを行っている先輩や同輩たちの中、更衣室から飛び出した七咲は一気にプールに飛び込んだ。

 

「逢ちゃん!しっかり準備運動しないと怪我するよ・・って・・でも・・うわ、速い。」

 

あまりに予想だにしない真面目な優良部員―七咲の奇行に部員全員が目を疑い言葉を失った。

噂によるとそのタイムは彼女のベストを大幅に更新したとかしていないとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                         




眺めていた。

冬の高い空と藍色に染まった真冬の澄んだ海を。
二つの影がこの浜辺に在った。数か月前に二人が和解した場所、初めてお互いに笑いあった場所でもある。

「始まりの場所」と言えるのかもしれない。

「・・・。先輩?」

「・・・。」

「先輩?起きて下さい。」

「・・ん?」

「午後から・・梅原さん達が呼んでいたんでしょう?行かなくていいんですか?」

「・・もう少しこのままで。膝枕気持ちいい。」

―自分に正直になると・・これ別世界だな。

「・・ダメですよ。皆さん待たせちゃ。学校に戻りましょう。」

「・・。」

「・・そんな哀しい顔しないでください。これ位私いつでも・・してあげますから」

そう言う彼女も哀しそうな顔をして遠くを見た。彼女も口ではこう言うがこのままで居たいのだ。
だから広大はこう言う。

「もう少し話させて。このままで。」

「・・仕方ないですね。」

少女が断らない事を広大は解っていた。

「なぁ・・七咲。」

「何ですか?先輩。」

「今更聞いていいのか解んないんだけど・・いいかな?」

「・・何をですか?」

「七咲の名前の『アイ』ってさ。結局どういう字?」

―え。そこ?

「・・。知らなかったんですか?未だに。」

「ほら・・俺現代文2だし・・。」

「そういう問題じゃないと思うんですが・・。」

―曲がりなりにも彼女の名前の漢字を知らないなんて・・。はっ!「彼女」・・!

ぼんっ!

「・・時々七咲は考えている事が顔に出るね。そういうとこすっげぇ可愛い・・。」

「~~~・・・!!!」

「あれ・・でも・・七咲の事、改めて『彼女』って言われると何かな~~・・。」

「先輩・・流石の私も泣き喚きますよ。」

「あ!!いや、そういう意味じゃ無くて!いざ言われると実感湧かないって言うか・・。その・・ゴメん・・。」

大して変わらない。

「うぅ・・・。」

流石にこれには七咲凹む。早くも思う。「何でこんなヒト好きになっちゃったんだろう」。
しかし―次の広大の一言のあまりの衝動に七咲のその想いはかき消された。



「・・。・・『アイ』?」



「・・・!!」

「・・流石に正しい漢字も知らずにこの名前呼びにくいからさ。この機会に教えて?本当に・・悪い・・」

「・・・。解りました。」

―反則です。まぁ・・嬉しいからいいですけど。ぐす。

七咲は砂浜の地面に人さし指でゆっくりとなぞる。書き順まで徹底した。一つの字が完成していく。彼女らしい綺麗な字だ。

「「逢」」

完成と同時に二人同時にそう言った。

「ああ・・。こんな字なんだ」

「・・言われてみるとって感じでしょう?」

「うん。」

「・・・本当ですか?」

完全に彼女は疑心暗鬼に陥っている。

「いやいやいや・・俺舐めすぎてない?」

「・・。」

じと。そんな音が聞こえてきそうな七咲の視線だった。

「さっきは俺が悪かったって・・だからそんな目で見ないで・・。」

―・・これぐらいでいいか。こんな他愛のない事で相手に失望でき、焦らせたり、謝らせたりできるという事が今はただ愛おしい。これからも彼女は広大を知って行く事になるのだ。こんな出だしも悪くない。

自分達らしい。

「・・。ふふっ。いいでしょう。許します。・・この字は『出逢い』の『逢』とかに使います。もっとも『出会い』(こっち)の方が主流で解りやすいですけどね。」

そう言いながら片手間で「出会い」も書いた。

「ふ~ん。」

「・・せめて相手の名前ぐらいはちゃんと礼儀として覚えておくべきですよ?先輩。」

「・・面目ない。」

「くすっ。ふふふっ」

「・・いい名前だね。・・逢。」

「・・。はい。」

昔から自分の名前は大好きだった。その名を褒められるたびに嬉しかった。
その度に初めて名前を付けてもらったようなくすぐったい感じになる。



「・・本当にそろそろ行かないと。」

「うん・・。その前に・・逢?瞳閉じてくれないかな・・?」

「・・先輩?何でですか?」

「いいから。」

七咲が目を閉じたのを確認したと同時に仰向けの広大はゆっくりと七咲の首元に両手を這わせた。一昨日のあの夜と同じように今度は広大自らの意志で。

―・・・・・?

伝う指の感触と共に少しの圧迫感がある。それが首の周囲に拡がっていき・・項の周辺でわずかに冷たい金具の感触がした。

―・・先輩?

「よかった・・サイズ合ってた。」

―・・サイズ・・?

「・・目開けていいよ。逢。」

チリン・・

「・・!!」

細い彼女の首元に収まっていたのは藍色のチョーカーだった。蒼い色が良く似合う七咲によく合っている。

中心にはあの・・銀色の蕾―プーの鈴がついていた。

「・・さすがに・・重いかな。」

―色んな意味で。

広大は自分の行為を恥じているようだった。
勢いのまま、梅原の家に行き、自転車を借り、開店間も無い吉備東デパートの雑貨店に侵入し、へそくりにしていた先日の衣装代の残りをはたいて購入した。

『女の子のリング、イヤリング、ネックレス、バングル、アンクル、レギンス、ソックス、カチューシャ、果てはチョーカーまで・・女の子の小物に関しちゃ他の追随を許さないだけに惜しい所だわ』―

棚町の先日の言葉を頼りに突撃したのは良いが勝手が解らなさすぎる。七咲の部活の終わり時間との格闘だった。

頭が沸騰していたとは言え・・いや・・事実今もカンカンに沸いているのだろう。
当の七咲も再びぱくぱく空気の足りない金魚になった。顔色も金魚に負けてない。

「先輩・・凄く嬉しいんですけど・・その・・すっごく恥ずかしいです・・。これは人前じゃちょっと・・無理っぽい、です・・」

「・・。そう言うと思って一応バングルにもなるように穴開けといたから・・。いつでも鈴だけ取り外せるし。用途は七咲に任せます・・ハイ・・」

「そ、そうですか。」

「・・要するに・・!」

「・・はい?」

「もう失くさないでね!・・ってこと。」

「・・・。」

「ずっと・・見てるから。何処に居ても見つけてみせるから」

「・・・はい。くすっ。」

「・・何?」

「私も・・見てますよ。いつも・・」

そう言って微笑んだ。




少し顔を傾けて微笑んだ七咲に呼応するように首の鈴が鳴る。






・・チリン










ルートA                                FIN


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ルートK 4,5,6

4 切り札⇔>ゴミ手

 

数日後

 

「!あ、ごめん」

 

2-A教室のドアから顔を出そうとした小柄な少女は同時に教室を後にしようとした背の高い男子生徒と軽くぶつかった。

 

「あ、いえ。いいんです。こちらこそすみません」

 

かなり見上げなければいけないほどの背の高めの男子生徒に少女は一瞬不安になったがその男子生徒の軽い謝罪の言葉に落ち着きを感じ警戒をほどく。

何よりもよく見るとこの男子生徒を彼女は幾度か見た事があった。

 

「ん?君は・・」

 

そしてどうやら彼もこの少女を見た事があるらしい。少しの印象と共に。

 

「あ。一年の七咲と言います。・・その・・」

 

「あぁ・・杉内に用?呼ぶよ」

 

「あ。有難うございます。あと・・申し訳ないのですが絢辻先輩も呼んでいただけませんか?創設祭の件でお聞きしたい事があると・・」

 

「解った。ちょっと待ってて」

 

「はい。有難うございます」

 

何か用があって教室をでようとしたのかもしれないのにその男子生徒はわざわざ教室に戻って二人を呼んでくれた。

しかし・・親切な男子生徒は教室で他の生徒の勉強を見てあげていた絢辻、早弁していた杉内に話しかけると・・

 

―あれ?席に座った?さっきまで教室でようとしていたけどいいのかな?

 

「七咲さん?御待たせしちゃったかな?」

 

「もぐもぐ・・何か用七咲?」

 

「あ。すいません。絢辻先輩に杉内先輩・・先日の水泳部の備品の件で聞きたい事がありまして・・今お時間大丈夫でしたか?」

 

「ええ。勿論よ。ちょっと待っていてね?」

 

「・・・?」

 

「いいのかな?」という些細な疑問を抱え、横目で直衛を見ながらも七咲は本題に入る。その視線に杉内が気付いた。

 

「・・。ああ、アイツは国枝。そういや七咲には紹介してなかったね」

 

礼儀正しい七咲という少女をよく知っている杉内は恩を受けた相手の名前ぐらいは知っておきたい彼女の意図を察した。

 

「国枝先輩・・ですね。先輩?よければ後で親切にして頂いたお礼をお伝え願えますか?」

 

「うん。伝えとく」

 

「それに私・・ひょっとしたら何か国枝先輩が他に用事があったのを邪魔しちゃったんじゃないかと思ったんですが・・」

 

「ああ・・気にしないでいいよ。七咲。アイツはあんな感じだから」

 

―・・特に最近はね。

 

そう思って杉内は座った直衛から視線を動かし、最近休み時間は決まってすぐにどこかへいなくなる薫の席を見る。

 

―様子がおかしいよな・・最近あの二人。

 

放課後

薫はテラスを訪れていた。テラスの椅子に腰かけ、ただぼうっと冬の夕暮れがかった空を眺めている。今日はバイトが無い。ゆっくりとした午後を過ごせる。

 

―最近私には居場所が無い。家はもちろん例の件で。

「あの人」がいなくなってしまってから長年二人が過ごしてきた場所であり、そして長年二人でやってきた間柄だからこそ・・母は徐々に娘の異変には薄々感づいているらしい。

さすがは私の母。でもまぁ気付くだろうね。

最近家に帰った途端自分の部屋に駆けこんで外部からの情報をシャットアウトして逃げていたから。

だって・・怖かったから。

母の口から真実を、そして母にとっての自分という存在の真実と現実を突き付けられるのがひたすら怖かったから。

 

 

バイト先の店長が作ってくれる美味しいバランス賄い料理のおかげで最近薫は家ではひたすら風呂と自分の部屋を往復する毎日だった。だがバイトの無い今日はそれも無理だ。

「外食は出来る限り避けるべし。そして出来る限り二人で食べる事。」

棚町家の親娘二人の長年の習慣が。他人に誇れる習慣が今の薫には億劫で仕方が無い。

そして

 

―学校では教室という心地よい居場所を自分自ら居心地悪くしてしまった。

いや、教室というよりもクラスの皆と・・

 

そしてアイツと居る場所を自らの手で気不味くしてしまった。

 

・・何やってんだろ私。

 

「はぁ・・わ・・・っあっ!!」

 

無理にもたれかかったテラスの椅子は薫の体重を支えきれずバランスを崩し、それを支えた両足でうっかりテラスのテーブルを蹴りあげてしまった結果、置いていた紙コップの飲み物が足にかかってしまった。

炭酸の抜けたもう飲む気もしなかったカップのジュースがとても・・

 

「冷た・・・。はぁ・・何やってんだろ私」

 

つい先ほど脳裡を掠めた言葉が自然と発され、溜息と共に白い息になって瞬時に消えた。

もうほぼ残っていない紙コップの中身を近くの花壇に捨て、食堂のおばちゃんに雑巾でも借りに行こうと思い席を立った時だった。

 

「あ・・」

 

「薫・・隣・・空いて・・いや、もう行くのか?」

 

「・・直衛」

 

 

 

 

 

「今日もバイト?」

 

「・・んーん。今日はまだいるつもり。・・って言うか今日は休み」

 

「そっか・・ん?零した?」

 

直衛も流石にテーブルの上の惨状に気付いたようだ。

 

「へへ・・やっちった」

 

薫は苦笑いでその場を濁した後、その場を―直衛から逃れようと食堂に入ろうとしたが時間切れだったようだ。既に食堂入り口は閉まり、テラスから中に行くことは不可能だった。

 

「・・」

 

―はは・・逃げ場なしっと・・。

 

「ティッシュならあるぞ?」

 

「・・てんきゅ」

 

 

 

 

 

 

「近くに水道があってよかったな。ティッシュだけじゃべとついただろうし」

 

水とジュースで汚れたティッシュ何枚かのうち一枚を少し離れた場所にある屑入に投げいれながら直衛はそう言った。だが・・屑入の枠に嫌われた。

 

「・・・外した」

 

「ヘっタクソ。よしっ!先に入れられなかった方が外したのと残りを捨てに行く事。い~い?」

 

次の一投を既に投じる気満々で薫は二つ目のティッシュを握っていた。

 

「いーよ。じゃ、次お前」

 

「うん!ほっ!・・あら」

 

「どショートじゃん・・」

 

「あはは・・。」

 

いつもの大胆さに似合わない消極的な結果が薫の精神状態をよく表していた。

結局二人共最後まで入ることなく、お互いにバカにしあいながら二人で外したティッシュを屑入に入れた。

 

「で・・薫はここで何してたんだ?」

 

「んー?別にぼーっとしてただけ。私・・寒いの嫌いだけど冬の空だけは好きなんだ~。澄みきってて高く見えるなぁ~って」

 

「お前・・また適当な事言ってるだろ?」

 

「え~なんで?」

 

「言っちゃ悪いが柄じゃ無いよね」

 

「アタシもそう思う」

 

「否定しろよ」

 

「・・ゴメン。そんな余裕ないから」

 

薫は初めてハッキリと弱気を口にした。

 

「・・・何か考え事でもあんのか?」

 

あの時飲み込んだ言葉を直衛は開く。

 

「・・・」

 

だが薫は口を開かない。

 

「じゃあはっきり聞くわ。何か在ったんだな?」

 

「・・詮索?」

 

「ん?」

 

「興味ある?惚れた?抱きしめたい?心苦しい?」

 

「・・まともに答える気ねぇってか」

 

「そうじゃないなら放っておいて」

 

薫は直衛と目も合わさずそう言った。

結構に二人の長い付き合いの中でここまで薫が直衛に対して冷淡になった事は無かった。

「アンタは関係ないの」―言葉では直接言わないがその言葉を突き刺すように言い放ったのも同然の口調。ここは突き放す。

 

「・・・。」

 

―ゴメンね。直衛。これはあくまで私の問題。私が・・

 

「・・もし『そうだったら』どうすんの?」

 

「・・・え?」

 

「『そうじゃないなら放っておいて』って言ったよな?」

 

「・・本気?」

 

「少し俺は変わったかもしれない。・・寝込み襲われたせいで」

 

「寝込み・・?・・な・・・!!!???アンタ・・起きてたの!?」

 

「・・口塞がれてそのまま寝てられる程図太くないつもりなんですがね。俺も一応いきものなんで」

 

「ちょっと・・そこはスルーしときなさいよ!男の子でしょ!?」

 

「意味が解らん・・」

 

「あ・・ぅ・・はぁぁ・・・」

 

頭を抱えると同時、唸るような喉の奥から声が出る。そしてそれと同時に喉の奥からこみ上げるような何かが気付いた時に・・

 

「ぷ・・・ふふ・・はははは」

 

笑いに変化していた。

 

「・・・?」

 

「ゴメンね。アンタには本当に色々迷惑かけちゃったね」

 

「・・そう素直に言われると何も言い返せなくなるのが悔しい」

 

「ううん・・『ゴメンね』じゃ無いね。ありがとう・・直衛。そう言ってくれて」

 

「ぬ・・」

 

「ホント嬉しいと思ってんのよ?こう見えて。でも言えないの。コレはアタシの問題。だから言わない方が正解。きっと弱気になるから。でもいつか・・耐えられなくなったらアンタに言う・・。だからお願い直衛。今は何も・・・聞かないで?」

 

何時になく真摯に、おふざけを交えないで真っ直ぐ薫は直衛を見据える。口調も声色も声量も適正。しっかりとした女の子の表情だ。

 

―なんだ・・ちゃんとそんな顔出来るんじゃないか。普段もしとけよ・・。

 

直衛はコリコリとまぶたの上を掻いた。

了解はしたが納得はしていないのが丸わかりだったが見た目だけ落ち着いた薫に対してほんの少しの安堵の表情が混じっていた。ほんの一割ほどだが薫には解った。

 

「そーんなカオしないの。言わないって決まったわけじゃないんだし・・かといって言うって決まったわけじゃないケドね」

 

「・・・」

 

「じゃ・・ね。話せて嬉しかった。直衛・・まったね」

 

背を向けた自分の背中に直衛の視線が相変わらず集中しているのに気付きながらも決して彼女は振り向かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・アンタは私の切り札なの。

アンタがいてくれれば私は頑張れそうな気がする。今回の事だって乗り越えられる気がする。アンタは本当に頼りになる相棒だから。

 

優しくて。賢くて。

でも同時に怖い。凄く怖い。

アンタに助けてもらう事が。

 

何故ならアンタが私を救ってくれるという事は。

そつなく、粛々と事態を治めてくれたとしたら。

いつものように冷静に。沈着に治めてくれたとしたら。

それは即ち・・アンタの答え。

アンタの私に対する答え。

アンタ自身と私自身の事の明確な線引きの証明。

 

前にも言ったと思うけど。

私は本当に想像できないの。

アンタが私の事で焦って、テンパって、何もできなくなる事が。

この前の恵子の時みたいにすっきりと恵子を立ち直らせるぐらいにしてしまいそう。

私が逆に恵子に慰められるぐらいあの子を立ち直らせたあの時と同じように。

 

矛盾だらけ。

救ってほしいのに。助けて欲しいのに。

一方では完全に否定している。拒否している。

だから嫌。

だから私はこれを自分で治めて見せる。一人で乗り切って見せる。

 

答えなんていらない。結果なんて知りたくない。

 

切り札は使ってこそのもの。

でも使ってしまったら・・無くなるかもしれない。

もう二度とこの手に戻らないかもしれない。

 

握りしめた切り札がゴミ手になる事を想像できない故に場に出す事が出来ない。

カードゲームでは決して存在しない局面で薫は板挟みになっていた。

 

 

 

 

 

5 切なさ

 

 

 

「薫が?」

 

「うーん・・俺もそれとなくつついてみたんだけど尻尾出さない。田中さんはどう?」

 

「うん・・私も様子がおかしいなっていうのは思ってた。元々薫気分屋だけどここまで浮き沈みが激しいのは初めてかも」

 

「何か詳しく聞いてない?」

 

「・・ごめん」

 

「そっか。昔からバカなトラブル引き起こしたりする癖に肝心な事あんまり表に出さない、話さない奴だから」

 

「うん。ヘンなトコで気ぃ遣うんだよね」

 

田中は直衛から奢ってもらった紙パックのジュースを両手に持ってへへへと笑う。

 

「とにかくありがと。田中さん」

 

「ううん。私もごちそうさま。また何か解ったら教えるね」

 

「うん」

 

―・・私は少し演技が上手くなったと思う。

 

去っていく直衛の後ろ姿を見ながら田中はそう思った。

 

「空振り」。

 

―そう思ってくれたと思う。これでいいんだよね?薫。

 

直衛から奢ってもらえた紙パックのジュースの封を開けながら一切口を付けることなく田中はただ握りしめるだけだった。

 

―田中さんも何も喋ってくれそうにないか。手回しが早い。徹底してンな。あのめんどくさがりの薫が。

 

残念ながら田中の演技はまだまだである。

 

 

 

 

 

 

 

「どう?」

 

頬杖をついて源は教室に戻った直衛を迎える。傍らに御崎もいた。

その二人にただ直衛は首を振る。ただそれだけ。

「何か知ってそう、でも話してくれそうにない」とは言わない。田中の立場も考えなければ。

 

「ふぅん・・ここまで棚町さんが休むのって初めてだね・・。遅刻は結構するけど二日も休むなんて・・あーあ棚町さんに色々聞きたい事があったのに」

 

御崎はそう言って残念そうに肩を落とした。直衛から引き出せない情報となると宛てが彼にはもう無いのだ。事実上、手づまりである。

 

「御崎、バイト先には?」

 

「ここ数日来てないよ。一応テスト期間中だし来なくても不思議ではないんだけどね」

 

薫のバイト先のJOESTERは御崎ご用達の店であり、薫にとってお得意さんでもある。

さらに彼は「とある理由」であの場所に通う理由がさらに増えた。だがこれはまた別のお話。

 

「・・そっか」

 

「・・流石に心配だね。昨日は欠席連絡があったみたいだけど今日なんか無断欠席らしいし」

 

今日は珍しくコンタクトをせずに眼鏡で登校してきた源の薄茶色の瞳がレンズの中で歪む。

 

「・・今日帰ったら俺アイツん家に電話してみる」

 

「・・そーだね。国枝君がかけた方がよさそう」

 

「直?じゃあもし棚町さんに会ったら・・この二日分のノート取ったの絢辻さんが貸してくれたから渡しといて」

 

「ありがと」

 

―いい土産、且ついい口実だ。有難う有人。

 

考えてみれば直衛自身もこの二日間、まともにノートを取っていなかった。

絢辻の整えられた字が解り易く並び、細かくチェックされたノートの取り方の見本のような一冊をぱらぱらとめくりながらほんの少しの自嘲の笑顔をする。

 

―大丈夫かな国枝君・・。

 

―・・・。

 

それを見た直衛の向かいに座った親友の源、そして御崎の二人を不安にさせる事を全く気にすることもなく直衛はその表情を浮かべている。

最近授業中や登校時、居眠りもすることなく、ただ漫然とどこか心あらずに佇むだけの直衛の姿は友人の彼らには少し痛々しく感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の下校時―

雨が降り出した。今日は変な日だ。

直衛のクラスの友人達は全員何らかの用があって散り散りに別れていった。皆下校時にすぐである。

 

ある友人に至っては昼休み以降教室に戻ってもこなかった。

 

一人として仲間内で都合がつかない珍しい日。暇人の帰宅部の自分達がここまで足並み揃わない日も珍しい。

 

昨今、直衛は自分達の「高二の冬」という受験を来年に控えた立場として「そろそろ真剣に考えるべき」との何となく空気の読めない考えを友人たちに振りまき、ちょっとしたヒンシュクを買っていた。

が、今日に限っては真に勝手ながら直衛自身がそういう現実から逃れたい気分に陥っている。

 

実は現実から一番逃れたいと思っているのは他でもない自分自身なのではないかと。

他の人間にそう言う事で他でもない自分自身に言い聞かせているのではないかと。

取り残されているのは案外自分だけではないかと。

皆は気付かぬ間に先に行ってしまっているのではないかと。

 

たった一人―自分だけを取り残して。

久々の孤独は直衛をそんな暗い、沈んだ気分にさせた。

 

傘から覗くいつもより狭い視界から覗く直衛の世界は現在灰色だった。

 

―・・まさか「アイツ」が居ないだけでこんなに世界が違って見えるなんてな。

 

差した傘も意味が無いほどの冷気が体にまとわりつくような寒い日。

 

 

だが・・

 

 

その日見た光景を直衛は生涯忘れる事はないだろう。

 

 

「・・・!」

 

 

ふと河川敷前の橋の前で足を止め、直衛はその灰色の世界に目を凝らした。

目の前に居た存在に。

 

・・・薫だった。

 

「あら・・お兄さん」

 

いつものように直衛に減らず口をたたく。いつものようにニヤニヤと。

 

―傘もささずに濡れているくせに。お気に入りだという自慢のフライトジャケットもお構いなしに濡らしているほどテンパッているくせに。

 

濡れた癖のある髪が乾燥後に焼きそばのようにもじゃる事を解っているくせに。

 

学校を休んだのに何故か制服を着ているくせに。

 

・・・痛々しいほど平静を装っているのがバレバレなくせに。

 

なんで・・

 

笑ってんだよ。

 

「ふふっ。直衛。一緒に帰ろ?」

 

「・・意味が解らんっていつも言ってんだろ?」

 

「・・ふふっ」

 

「・・はっ」

 

基本無表情な彼にしては珍しく、心底嬉しそうに直衛は笑った。その表情に安心したように薫もまた微笑み、直衛の差した傘の中へ自然と入って行くと彼の胸に額を合わせる。

 

「・・少しはドキドキしなさいよ」

 

「・・してるよ」

 

 

ふわりと薫る少女の髪の匂い。

 

見上げた彼の視界―鉛色の空に、世界に・・再び色が戻る。

 

 

 

 

 

「ここ・・私好きなんだ」

 

「・・ここが?」

 

何の変哲もない。

決して特別水が澄んでいる訳でもない。いつもこの河川敷を照らす夕日も今日は生憎の雨である。それを差っ引いても言い換えるならば何処にでもある風景だ。

そんな場所に濡れて冷えた体のままで居続ける少女を何故か直衛はすぐに連れて帰ろうと思えなかった。

 

「ここはお前にとってなんなの?」

 

「私にとって・・か。そうだなぁ・・私にとってだけじゃなく『私達』にとって大事な場所ってところかな」

 

「私達?」

 

「そ。私とお母さんと・・お父さんと」

 

「おばさんと・・おじさんの?」

 

「うん。よく遊びに来てたんだ。ここ」

 

直衛は薫の母親とは一応面識がある。

お互いに顔と名前が認識できる程度の仲ではある。娘に近しい直衛とその友人を歓迎してくれる気のいい母親という印象だ。

 

だが・・自分の父親の事は薫は一切話そうとしなかった。

元々この年代の少女が自分の父親を語る事自体珍しいのだが、それでも彼女は異常過ぎた。母子家庭であるという事はオープンに知られているが、父親がどういう人間だったのか彼女自身が語った事は無い。意図的に隠しているとしか思えないのだ。

 

世間一般的によくあるただただ無関心なだけか。徹底的に父親というものが嫌いだったか。

 

はたまたその真逆か。

 

「お前の親父さんって・・」

 

「死んだよ」

 

薫はあっさり軽く言い放った。

結構に長い付き合いである直衛がこういう風にちゃんと確認しないと解らないぐらい彼女の父親の印象は薄い。

 

「・・そうだったか」

 

「ふふん。アタシの家を母子家庭ってことでからかってアタシの制裁を喰らった事さえあるアンタがねぇ」

 

「え。そんなことあったっけ?」

 

「ちょっと・・覚えてないの?」

 

「・・すまん」

 

「アンタねぇ・・ま。いいけどサ」

 

 

 

 

 

「・・アタシのお父さんってさ、すっごくカッコよかったんだよ」

 

「・・」

 

「若い頃は勉強もスポーツも・・何でも出来たんだって」

 

「へぇ・・お前の運動能力は親父さん譲りか」

 

「みたい」

 

「顔は思いっきりおばさんだけどな。お前は」

 

「・・オバサン?」

 

「あ、ワリ。おばさん『似』ってこと」

 

「そう?ありがと」

 

「・・珍しいね薫は」

 

「え。なんで?」

 

「自分の両親に凄く似てるねって人から言われたら『え。嘘?本当?』とか言って微妙な顔する子多いから。少なくとも俺の周りじゃそうだった。けど似てるって言われてはっきり嬉しそうな顔する子はあんまりいない。ま、照れ隠しの場合も結構あるけど」

 

「アタシは・・隠す必要なんて無いと思ってるから?お母さんは好きだし。尊敬もしてる。だからその人に似てるって言われて単純に・・正直に嬉しかったからそう言っただけ」

 

「そっか」

 

「それに私・・お父さんの事も大好きだった。お母さんと比べられない位二人共大好きだった」

 

「・・ふーん」

 

「私のお父さんね・・本当にカッコよかったんだから。もし生きてたらアンタにも会わせたかったなぁ」

 

「・・遠慮しとく。自分より遥かにカッコイイ男と会うのって結構複雑な心境になるもんなの」

 

「そうなの?結構ヘンなトコ気にするんだね?」

 

「男の子ですから」

 

「そうだよね。直衛も男の子だもんね」

 

「・・薫も女の子なんだよな」

 

「・・反応に困る発言止めてくんない?」

 

「お前が言い出したんだろが」

 

 

 

 

 

「私さ・・気付いちゃったんだ」

 

「・・何を?」

 

「お母さんにとっての私」

 

「どういう意味?」

 

「・・聞いてくれる?直衛・・」

 

「・・・。俺でいいなら」

 

「・・アンタだから話せるの」

 

―いいの?

 

薫の中で誰かがそう囁きかける。

 

―うん。

 

―知らないよ?

 

―うん。でももう耐えきれないの。

 

―・・解った。

 

 

 

 

 

 

「この前ね。バイト帰りに街で母さんを見たの」

 

「・・?」

 

「『見た』って言うのは・・色んな意味で。『見ちゃった』」

 

「・・。」

 

「・・知らない男と一緒だった」

 

「・・・!」

 

薫は絞り出すように言った。直衛はただ無言で目を見開く他ない。

 

自分が母子家庭で在る事に負い目を感じず、むしろ誇りを持っている事が常日頃の言動、行動、態度から感じられる薫と言う少女にとってその光景がどれほど彼女の心を複雑に揺り動かしたかを推し量ると中々言葉等出る物ではない。

 

「直衛・・?」

 

「・・・!?あ、悪い」

 

「ううん。はは。私相変わらず唐突でゴメンね」

 

誤魔化すように笑うが薫にいつもの元気さ、力は無い。儚げなほほ笑みだった。

 

 

 

「・・何か聞きたいことある?」

 

「・・特に。お前がそれを見て『そういう風』に判断したって事は解った。だから『まだそうと決まったわけじゃないだろ』って言葉は間抜けだってことだな?」

 

「・・うん」

 

「薫の事だし直接聞いて確認したろ?おばさんに」

 

元々何事もはっきり白黒つけたい性格だ。無言の冷戦状態を長々と続けられるほど我慢強い性格では無い。

 

「うん」

 

「おばさん・・何て言っていたか聞いていいの?」

 

「うん・・」

 

「有難う薫」

 

「ううん。ひとしきり口喧嘩したら・・『再婚・・考えてる』って言われた」

 

「・・・そうか」

 

「そう。仕事仲間だとか。同僚だとか、私も最初色々考えた。勘違いだって。考えすぎだってね・・」

 

そう言って視線を足元に落とした事により、癖のある髪は直衛から彼女の横顔すら見えなくした。全てを語りたくともせめて少しでも羞恥心を押し隠すように。それ程今回の出来事は娘である薫にとって屈辱的であったのであろう。

 

「でもね。違うの。確認しなくても一発で解ってた。だって私もあの人の娘だもん。ずっと一緒に居たんだからそれぐらい解んの。今まで見た事のない笑顔してくれちゃって・・正直ムカついた」

 

「・・ムカついた」

 

「だってそうでしょ?私はあの人の負担にならないようにバイトもして、家事もしてる。そうやって協力してやってきたの!二人で生きていけるって、二人で生きていこうって約束したの!お父さんが死んだあの時に!」

 

感情が徐々に高ぶると同時に薫の語気も強まっていく。

 

「・・」

 

「この裏切られた気持ち解る?ねぇ!解る!?」

 

「・・」

 

「で、同時思い知るの・・・自分がやってきた事が・・自分があの人に強要していた事がどれ程あの人を縛り付けていたのか」

 

くしゃりとくせがかった髪を顔の半分を覆い隠すように無造作に掴み、今度は明らかに涙声が混じり始める。

 

「強要・・?」

 

「そう・・お父さんが死んで少し経った時・・私お母さんに言ったの。『死んだお父さん以外私は誰も父親として絶対に認めないよ』って。・・お母さん受け入れてくれた。あの日からずっと二人で生きてきたの。でも・・」

 

 

「・・・」

 

「あの日全てを否定されたの・・私とお母さん二人の日々が・・。私がお母さんとした約束は実は私が一方的な『契約』だったって。あの時・・知らない男と一緒に居たお母さんの笑顔が全て教えてくれた。私がお母さんを縛っていたって!重荷だったって!!!」

 

「重荷・・!?待て。薫。違うだろ」

 

「違わない・・違わないよう・・。娘の私が・・お母さんがお父さんの『替わり』を見つけることを諦めさせて、結局はお母さんの笑顔奪ってたってことよ・・?」

 

最早完全に涙声である。直衛の言葉も意味を持たない。

少し直衛のこめかみが痛々しく歪んだが今の薫にはそれを気遣う余裕は無かった。

 

「お母さんホントはお父さんが居なくなって寂しくて仕方なかったって・・不安で仕方なかったって・・!じゃあ私が懸命に頑張ってきたのは何?私と一緒に過ごしたお母さんとの時間は何だったのよ!もう・・ワケ解んない・・」

 

そこまで言って濁流のように流れていた薫の時は止まり・・嗚咽しか聞こえなくなった。

その言葉を直衛は無言で聞く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ・・直衛・・?これって我儘かな・・?」

 

「ん?」

 

「私はお父さんが大好きだから・・だから再婚には絶対反対っていうのは我儘なのかなぁ・・?」

 

「・・悪い。俺には掛ける言葉が無い」

 

「そうだよね・・」

 

「でもな薫・・コレだけは言える。ってぇか言うぞ。・・止めんなよ」

 

「・・え?」

 

 

直衛は薫の潤んだ瞳をしっかりと見据えた。

 

このままこの健気な少女を自責に押しつぶさせる事を目の前で許せるほど自分は大人ではない。言うべきだ。

 

例え自分が彼女、そして彼女の家族の事に関して他人であっても、部外者であっても。

 

・・言うべきだ。

 

 

「それぐらいの我儘は言うべきだし・・お前はそれを言える資格があると思う。本当に頑張ってきたんだから。お前のお母さんと比べたら俺なんか全然短い付き合いだし・・俺も自分の事に精一杯だから常に薫の事を見ることは出来なかったと思うけど・・それでもこれだけは言える」

 

「直衛・・?」

 

「お前・・裏切られた・・ムカついたとか言っておばさん責めてるように見えるけど実は自分を一番責めてるんだよな。でも責めるって事は大切に思ってるってことだろ?おばさんの事も・・おじさんの事も」

 

「・・・」

 

「だから反対したくなるのは当然。それはきっと我儘なんかじゃなくてお前が相手を―おばさんを大事に思うからこそ行きつく当然の・・相手に対する思いやりだと思う」

 

「・・でもそれが・・お母さんの重荷になったら・・?」

 

「・・そこが難しい所だよな。でもおばさんもそこは解ってると思う。だからこそおばさんも苦しいんだよ。おばさんはお前が反対した時、一方的に話も聞かず、自分の意見だけを通そうとしたか?」

 

「・・ううん」

 

「だろ?お前の思いやりが嬉しいからこそ辛いんだよ。お前もおばさんもな。意見は正反対だけど・・お前とおばさんにある想いは共通してる。すれ違ってるだけで」

 

「でもすれ違ってたら意味無いよ・・」

 

「そう。そこから先は本っ当に俺が入れる世界じゃないんだよ。お前とおばさんの世界なんだ。歯痒いけどね。でもこれが現実だ」

 

「直衛・・」

 

 

歯痒そうに唇を噛みしめながら部外者が立ち入れない部分に関しては一線を引く。

悔しいがそうするしかない。でもせめて少しだけでもこの少女の気持ちを楽にしてやりたい―そう思いながら直衛は頭をフル回転させる

 

 

「っ・・!俺が言えるのは薫とおばさんの今までの事を否定する必要は絶対に無いって事。お前がおばさんとの時間を大切にしてきたようにおばさんも薫といた時間を絶対大事にしてる。

もちろんその前のおじさんといた時間もね。もしそうじゃなかったら例え薫に反対されようとおばさんはお構いなしだったろうな」

 

「・・・」

 

「さっきも言った様にお前が言うその『我儘』はお前がおばさんを・・おじさんとの思い出を大事に想っている事の証明だろ?もしどうでもいい事なら『再婚なんて勝手にすりゃいいじゃん』ってなるはずだ」

 

「うん・・。『勝手にしろ』なんて言えるワケない・・」

 

「薫。お願いだから自分の責任だなんて思うな。おばさんが寂しかったのは確かだろうし不安だったのも確かだろう。当然だと思うよ?大事な人を失って・・そして残された大事な人のこれからを不安に思う事だって。大事な人って当然お前の事だよ?薫」

 

「お前が力不足、ましてお荷物だったんじゃ無い。それは絶対ない。おばさんにとって当たり前のように存在していたおじさんっていう大事な人の一人があまりにも早く居なくなってしまっただけだ。それは『不足』じゃない。『欠損』なんだよ」

 

 

 

「思い出は確かに大事。でもこの先の事を考える事もまた大事。人は前に進まなくちゃいけない。でもこの先自分一人で本当に薫を幸せに出来る力があるのか?不安だ、とても不安だ―そう思い続けて生きていくのは大変だ。誰だって自分は可愛いし、それ以上に自分の娘は可愛い。一人じゃ怖いんだ。ならこの先を進むには誰か信頼できる人が傍に居てくれるならそりゃいい。そんな人が現れてくれたら誰だってそりゃあ表情にでる」

 

「・・・」

 

「なぁ薫・・お前おばさんが見た事もない笑顔してたって言ったよな?じゃあお前に見せた今までのおばさんの笑顔は全部偽物だと思うのか?そこまで疑ってるのか?」

 

「・・違う」

 

「そうだよな。娘だもんな」

 

「うん・・」

 

「それぐらい解るよな。大好きなおばさんの事なんだから」

 

「うん」

 

「全部真実なんだ。嘘は何もない。・・帰ろう・・薫」

 

「・・ヴん・・」

 

 

泣きじゃくる少女が歩きだしたのを見て、その自分と比べれば小さな歩幅を合わせ、直衛は少女の頭上に降り注ぐ冷たい雨の傘になる。

 

 

 

「薫・・今日は有難う」

 

「・・なんでアンタがお礼言うの?」

 

「・・こう見えて凹んでたんだ。今日は。こう見えて色々思う所があって」

 

「あは。そうなの?」

 

「うん。話しててちょっと不安だったから・・『あんたに何がわかんのよ!!』とか言われたら正直立ち直れなかったかも」

 

「・・言わないよ。そんなこと。言いたかったのは確かなんだけどね」

 

「・・地味に凹む言葉を有難う」

 

「あははは♪」

 

 

 

 

 

「・・直衛。アンタは優しいね」

 

「・・たまにはね」

 

「・・いつもだよ」

 

「・・・」

 

「照れてるの?」

 

 

 

 

 

 

 

切った。

切っちゃった。

切り札を。

 

あんたはやっぱり・・優しいよ。

本当に嬉しかった。

あんたと居るとやっぱり笑っていられる。

優しくて・・。

暖かい。

もう濡れた髪もジャケットも気にならない。

 

一つの難題・・これは切り札を切ってどうやら突破できそう・・。

あんたのおかげで。

でも

 

次の難題

・・ハイどうぞ。

 

私にはもう残って無い。

というより元々無かったのかもしれないね。

 

こんなにそばに居るのに。

こんなに暖かいのに。

 

―遠い。アンタが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6 日常か非日常か

 

 

 

源 有人は一階下足場で自分のロッカーに学用のマウントシューズの泥を落として入れ、上靴に履き替える。すると近くに気配を感じた。

 

「ん?あっ・・!」

 

「あ・・」

 

そこには二日間音信不通だった少女―棚町 薫がいた。少女の何時に無くどこか憂いと躊躇いがある表情に―

 

「棚町さん。おはよ」

 

源はいつもと変わらぬ微笑みを携えてそう言った。何とも心根が和らぐ普通さである。

 

「おっはよ!みなもっち!」

 

「久しぶり」

 

二日ぶりの登校の薫に心配も戸惑いの表情も見せない。その笑顔は薫にいつもの何気ない日常に引き戻そうとする力がある。

 

「・・心配した?」

 

たが薫は源の気遣いを敢えて空気の読めない・・読まないようにした発言を返す。

「無かったこと」として振舞う事は、恐らく色々気を遣ってくれたであろう源達に逆に申し訳ない様に彼女は感じたのである。

 

「・・それはもう」

 

その意図を感じ取ったのか源はすぐ切り替える。薫が正直に真っ直ぐにお礼を言って楽になれる様に。

 

「そう?色々と・・てんきゅね。あ、あとこれ・・絢辻さんから借りたノート・・返すね?しっかし『さすが』って感じだわ・・テスト前だったらお金とれるぐらいの代物ね。これ・・」

 

―・・・。

 

ほんの少し源は押し黙る。が、直ぐ表情を何時ものように緩めて微笑んだ。

 

「はは。同感。見やすく、解りやすく、短く簡潔。俺も初めて見たとき驚いたもん。無駄を省いて要点がピンポイントで解るからね。これさえあれば本人の努力次第だけど定期試験なら一教科+20点マジで夢じゃないかもなぁ」

 

「あはは。それなら赤点無しで補習も無しかぁ・・。悪くないね」

 

「そだね」

 

 

 

「・・・直に昨日会ったんだ?」

 

「うん。ま、ね」

 

「しばらくは預かっといて貰っていいよ」と、絢辻が源にそう言って渡してくれ、直接薫への渡し手として直衛に貸したノートは思いがけず翌日には帰ってきた。

予想外のノートの帰還の早さに直衛と薫の・・何というか「縁」というか「絆」というのか・・そういうものを感じずに源は居られなかった。

 

「ありがとう。確かに受け取ったんで俺が絢辻さんに責任もって返しとくよ」

 

「うん。私も直接お礼したいんだけど・・ほら?絢辻さんに借金もあるしさ。貸しが多すぎてカッコつかないからもう少し・・待ってもらいたいんだよね・・」

 

「はは。ダメだよ。お金の事はちゃんとしなきゃ」

 

「うう。みなもっちまで直衛みたいに言わないで」

 

―やっぱり親友同士だなこの二人。

 

薫はそう思いながら一瞬苦い顔をしたものの、相棒の親友の優しさに触れた翌日の清々しい朝を堪能して微笑んだ。

 

 

 

―有難うね。ほんとに。みんな・・。

 

 

 

 

 

 

 

―・・・。

 

 

 

 

「ん?」

 

 

 

源と一緒に教室へ向かった途端、妙な違和感を感じて薫は周りを伺ったがすぐに「気のせい」と判断し、源と雑談しながら教室へ向かう。

 

 

 

 

 

その日の昼休み屋上―

 

「お。いたいた。発見。おーいこっちこっち~」

 

 

「ぬ・・?」

 

 

「デカイ図体の癖に気配消すのは一流ね。一体いつの間に教室出てたのよアンタ」

 

そう言った当の彼女―薫は校舎屋上の給水塔―この学校で一番高い所に陣取り、直衛を待ち伏せていた。

足をぷらぷらさせながら何時ものように口を悪戯そうに釣りあげて直衛を見下ろしていた。彼女のやや短めのスカートが悩ましげなほどに舞う。

 

「ん・・。・・上見たら殺すわよ」

 

「・・相変わらず理不尽なコトを。人をそっから呼んどいて」

 

「いいからあっち向いてなさいよ。アンタがそこにいると降りられないんだけど」

 

「じゃ、なんで登るの。何で呼ぶの」

 

「いいから!」

 

「・・」

 

粛々と直衛は背を向けた。

 

「それでよし。よ!」

 

タン、と直衛が背を向けた後ろで音がする。

 

―おしとやかさが相変わらず足りない。何のためらいも無くあの高さを飛ぶのか。

 

少しパタパタと衣類を整える音が直衛の背後で数秒続いたのち、消える。

 

「・・もういい?」

 

「うん!どーぞー」

 

「・・・。っと・・!」

 

「・・にっ」

 

振り返った途端、直衛の目の前には薫の悪戯な笑顔が直前にある。思わず直衛の上半身が後ろに仰け反り、それによって二人の距離は少し離れる。

 

「あら。失礼な人・・」

 

「どっちがだ・・」

 

「全く・・休憩時間に入ったら入ったであんまりウロウロしないでくれる?探すのに苦労するじゃない」

 

「・・どっからツッコんだらいいのか解らないので敢えて省略しますね」

 

「省略しない!伝えるべき事はちゃんと伝える!」

 

「んーじゃあ、何で俺探してたの」

 

「・・私にお礼ぐらいは言わせてくれないの?」

 

「・・」

 

「これでもほんの少し、ミリ単位ぐらい感謝してんの」

 

「そんな安い感謝なら俺はいらない」

 

「受け取って!私にしてはレア物の感謝なんだから」

 

「お前、よくそれで人間界に生息できるな・・」

 

「全く・・ホントにひねくれ者ね。素直に感謝を受け取ることが出来ないの?ま、いいや。感謝終わり」

 

「・・今の会話のどこに感謝があったのかな~?」

 

「だからミリ単位って言ったでしょ」

 

「・・物凄い説得力だわ」

 

知覚できないほどの大きさ。知覚できないほどの感謝。

 

―果たしてそれは「感謝」って本当に呼べるのか?薫。

 

 

 

「それよりも!・・大事な話があるの」

 

「また厄介事?」

 

 

「何で私避けてンの?」

 

 

「・・・」

 

図星。

 

「当たりか。柔軟性がまだまだ足りないわねアンタも」

 

「・・別に避けてたつもりないけど」

 

「しなやかさはないわ、取り繕うわ、おまけにハッキリしないわ、トドメに本番に弱いわ。人間として終わってるわよ。あんた・・。お母さん心配だわ。貴方の将来が・・。くうっ・・」

 

わざとらしい嘘泣きをする。

 

「・・言いたい放題言ってくれるな」

 

「だからアンタも言いたい事言えって言ってんの」

 

泣き真似をけろっと止め、びしっと人差指を立てて直衛を見据えながら簡単に言い放ったこの薫の一言は実は結構彼女に勇気を要求した。

避けられていた理由がもし昨日の一件で「薫はもう大丈夫だ。後は薫の問題。出来るだけ関わらないでおこう。」とか直衛が考えていたとしたら?

 

もしくは「厄介事一つ完了・・はぁもうめんどくさい。当分薫には関わらないでおこう。」

とでも思われていたとしたら?

直衛の事を薫は信じてはいるが、そういう不安を払拭しきれない事もまた確かだった。

 

しかし・・帰ってきた直衛の返答は薫にとって全くの予想外のものであった。

 

 

「有人と・・何話してた?」

 

 

「・・へ?」

 

「・・今朝」

 

「え・・へ?へ!?・・おお!?」

 

薫は自分でも意味不明な言葉が口から出る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え・・何って別に」

 

「・・。有人にまた無茶なこと言ったんじゃ無いだろな・・」

 

何となく直衛のこの言葉は間に合わせで取り繕った印象があった。そんな些細で稚拙な牽制を―

 

「ううん全然」

 

薫はハッキリと否定してやった。疑問の余地が出ない位に。

迷惑をかけたのは本当だが、その上にまた無理難題吹っ掛けるようなどうのこうのは実際一切してない。

 

―伊達に私、人間界生きてないよ?直衛。

 

その返答に直衛は尚更困った顔をした。

 

「・・。じゃあ・・」

 

「あ~昨日アンタが帰り際に渡してくれた絢辻さんのノート、借りてくれたの源君だったんでしょ?だから・・何か絢辻さんに直接返しに行くのも気がひけたし、ほら、私絢辻さんに借金もしてるし?だから源君に頼んで返してもらおうと思って、たまたま今朝話しかけて・・それに心配もしてくれていたみたいだから、ちゃんとお礼もしたかったし・・」

 

―・・自分でも驚くぐらい必死に詳細を語っていると思う。あのめんどくさがりな私が。

ただ・・真実なのに言い訳みたいなのは何故だろう?

 

だけど、これ、何?

 

何か、・・すっごい気分イイ。

 

え。趣味悪い?上等よ!

 

「それだけ?」

 

「うん。・・で・・アンタこそ、それだけ?」

 

「ん・・おお」

 

「直衛さ・・ひょっとしてアンタ・・妬いてんの?」

 

直球で言った。勢いに任せて。

 

―いや、アタシが勢いで行動しないってこと自体珍しいんだけど。

 

ただそれ以外の選択肢は今の彼女には浮かばなかった。

だが・・直衛の返答は。

 

「妬いてなんかないよ」

 

何とも素っ気ないものだった。

 

「え・・」

 

―なにそれ・・。あーあ期待してソンした・・。あー白けた。もう帰ろっかな・・。

 

 

「・・。と、言いたいんだけど・・そう・・なのかな」

 

 

「え。え・・・!!」

 

―~~・・・!!!!ちょっ・・後だし反則!

 

一瞬薫は言葉にならなかった。

これは嬉しい。少なくとも気になっている相手にいきなりこんな事を言われたら。女冥利に尽きると言うものだ。

 

「ぷ・・・あははははは!何?アンタ?可愛い所あるじゃない!!」

 

―まず笑って全てをふっきれさせる。頑張って我を保たないと!私の感謝より遥かにレアな瞬間なんだから・・。・・せいぜい噛みしめなくちゃ。

 

・・ああ~~。なんか妙に~~―

 

 

幸せ。

 

 

「んぎ・・」

 

悔しそうな直衛の歯ぎしりがこっちまで聞こえてきそうだった。

 

「んふふふ。正直でよろしい♪」

 

「・・ふん」

 

―やだこいつ。何~?本当に可愛い・・。

 

「・・・。正直な子にはご褒美上げないとね」

 

癖のかかった髪を何時ものように乱雑に手櫛でほぐし、少し妖しい笑顔で薫は直衛を見た。

 

「怖いぞ・・お前」

 

「さぁ直衛・・?何か・・したいこと・・ある?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・したい事?」

 

「・・うん。やってみたい事とか」

 

「うーん・・」

 

「相変わらずいざという時に男らしくない奴ねぇ?またびびってんの?」

 

「じゃあ・・・キスとかでいいの?」

 

「・・はぁ?」

 

「え・・結構勇気振りしぼったんだけど」

 

「それなら・・『した』じゃない。」

 

―押しが弱い。ここまで女の子に言わせといて。ま、まぁそれもいいけど。

 

「男らしいとはとても言えないわね。女の私が出来る様な事を焼き直す程度じゃ、ね」

 

―ふぅっ・・貴方にはがっかりだわ・・。

 

ドラマで大人の女性が見せる様な落胆と失望の色を演じて見せる。

 

―初めてにしては上手くいったんじゃない?・・うん。

 

「・・!あ。それじゃあ・・」

 

「・・んふふ。何をしてくれんのよ」

 

「指の股にキスをするのは・・?」

 

「・・・。」

 

―ふーむ・・。また微妙なところを・・。そういう趣味だっけ?コイツ。

 

「何で指・・?」

 

「・・紳士の嗜み・・?」

 

「アタシに聞かないでよ」

 

「・・ダメ?」

 

「う・・別にいいけど。じゃあ、はい」

 

「また随分とあっさり・・・ってか位置低いんだけど」

 

「・・せめて跪くぐらいしてよ。ふいんき出ないし」

 

「『雰囲気』、ね」

 

「いいの。細かい事は・・」

 

 

「・・何だかんだ言って・・これ結構恥ずかしいわね・・」

 

「・・跪いてるこっちの身にもなれって。これ誰かに見られたら俺は登校拒否になるやもしれん」

 

「大丈夫。誰もいないよ。・・多分」

 

「・・そ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「痛。何で指開くのよ」

 

「指の股って言ったろ」

 

「そうだけどさ・・。痛い。痛いって!」

 

「・・。案外開かないもんだな。じゃあこっちは?」

 

人差指と中指の間隔が直衛はお気に召さなかったらしい。

 

「え?そっち?そっちは尚更・・痛!」

 

「はい。最初は我慢我慢」

 

「そんなに開かないって!ちょっ・・バカ!なにしてんのよ!」

 

「む~」

 

「裂けちゃう」

 

「・・・」

 

「痛い!」

 

「ま、こんなもんでいいか・・。」

 

「は?」

 

「いや、別に」

 

「?」

 

薫から痛みが唐突に止んだ。その直後・・

 

「・・・」

 

「ん・・・!!」

 

―・・くすぐったい・・。

 

3分後・・。

「どうだった・・?」

 

「・・まぁまぁ・・思ったより・・悪くなかった。」

 

―ほんのちょっと・・征服感あったしね。英国淑女・・悪くないじゃない。

 

「・・そ。よかった」

 

「ぷ・・くくく」

 

「・・これはなかなか・・恥ずかしいな・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その3分前―

屋上入り口での出来事である

 

―ココが最後・・多分いると思うんだけど・・。

 

薫の親友田中恵子は昼休み開始早々に消えた薫を探して校内を彷徨い、候補地の最後のこの屋上に来た。そして屋上へのドアノブに手をかけた瞬間だった。

 

「・・だけどさ・・痛い。痛いって!」

 

―あ。薫だ!やっぱりいた。

 

「・・。案外開かないもんだな。じゃあこっちは?」

 

―え。国枝君もいる?っていうか「開かない」って?「こっち」って?

 

「え?そっち?そっちは尚更・・痛!」

 

―え。まさか。

 

田中はびったりと屋上へのドアへ耳を押しあてた。

 

「はい。最初は我慢我慢」

 

―が、我慢しなきゃならない痛み!!??そ、それってどう考えても!!

 

「そんなに開かないって!ちょっ・・バカ!なにしてんのよ!」

 

―ええええええ!???

 

「む~」

 

―ひゃ~~~!!

 

「裂けちゃう。」

 

―!!!

 

「・・・」

 

―!!!!

 

「痛い!」

 

―!!!!!

 

「ま、こんなもんでいいか・・。」

 

―準備完了!!!???ダメ!もうここには居れない!

 

脱兎のごとく田中は真っ赤な顔をして屋上から逃げ出した。

 

 

翌日―

 

「薫」

 

「ん?どした直衛?」

 

「何か今度は田中さんがよそよそしい・・」

 

「・・え?アンタにも?どうしちゃったんだろ~?恵子の奴・・」

 

世の中には知らない方がいい事だってある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この前の会議でオーナメントの件こうなったけど・・正直綾辻さんどう思う?」

 

「う~~ん。ちょっと性急過ぎる気がするけど・・坂上さんはどう言ってた?」

 

「それが―」

 

創設祭の準備に勤しむクリスマス実行委員二人に薫は話しかける。

 

「お~~~い。みなもっちー?」

 

「ん?ああ棚町さん。何?」

 

「はい。差し入れ。はい。絢辻さんにも」

 

二つの缶の炭酸飲料を惜しげも無く薫は二人のそれぞれの席に置く。

 

「? あ、有難う。棚町さん」

 

「い~のいいのっ。いつもありがとね。二人共」

 

「・・?棚町さん?」

 

「絢辻さんにはまだビリヤード代返して無かったわね。はい。お待たせしました♪」

 

「あ、なんだ・・何時でもよかったのに・・」

 

「いいの、じゃまったねお二人さん。~~~♪」

 

鼻歌交じりに意気揚々と去っていく薫を源、絢辻両名は怪訝な顔で見送る。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「源君・・どう思う?棚町さん絶対に変よね」

 

「・・。そう・・?いつも通りだと思うけど?」

 

―何かいい事は在ったみたいだけどね。

 

事情に通じている彼には何となく薫の感情の機微が理解出来た。

 

「でも・・ちょっと不気味よね」

 

奢ってもらった缶ジュースにただならぬオーラのようなものを感じ、絢辻はまじまじと見つめた。

 

「・・毒入り?」

 

「いや・・さすがにそれは『無い』、と思うよ。・・色んな意味で」

 

そう言った絢辻は後方で絢辻が出した創設祭の資料を見て、何かと検討をしている杉内の姿を見て話しかけた。

 

「・・。杉内君。ちょっといいかしら」

 

「何?絢辻さん」

 

「いきなりで申し訳ないんだけど・・確か黒猫がいたわよね?確か水泳部の部室裏に」

 

「プーの事?」

 

「・・炭酸飲めるかしら・・?その猫?」

 

「・・は?多分・・飲まないと思うけど・・」

 

「ふーん、そっか。あ、ありがとう。ゴメンなさいね。いきなりヘンな事聞いて」

 

「?」

 

「・・・」

 

「源君?あらやだ冗談よ。うふふ」

 

「・・・」

 

「飲まないの?」

 

「いや・・飲むよ?」

 

―やっぱり俺だよね。

 

「そ。じゃあ私が栓開けてあげるね」

 

・・片手の指だけで簡単に開ける。意外に腕力がある。この子。

 

「はい。源君。御先に召し上がれ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日常か、非日常か。

それでも同じ時間に変わりは無い。

でもあの日を境に何か変わっていけているのかな?

私達進んでいるのかな?

 

直衛。

 

いつもと同じようで、いつもと違う時間を過ごせていますか?

 

・・私。

 

たとえそれが私の思い過ごしでも。

実は全く何にも進んでいない何時もの何気ないアンタとのバカな時間だったとしても。

 

・・大切にしたいんだ

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートA 裏話

他のルートが一段落してから出すつもりだったんですがとりあえず載せます。






裏話 喧嘩は止めて。二人を止めて。

 

 

「一体・・どういう事ですか!!」

 

放課後、水泳部更衣室裏、何時ものあの場所で少女の声が響き渡る。溜息と諦めと恥辱がない交ぜになった何とも切ない声であった。

 

「す、すまん。本当に申し訳ない・・」

 

対称的に少年―広大の声は心底申し訳なさそうに、目の前でいきり立つ自分より遥かに小さな少女に手を合わせながら許しを請う。

 

「は~~全くもう・・私クラスのみんなに今度からどう接すればいいんですか・・」

 

その一時間前の出来事である。

昼休み恒例の大かくれんぼ(鬼ごっこ)祭りが2-A男子、梅原主催によって開催されていた。

校内の広大な敷地面積を利用して開催されるその一大イベントは非常に盛り上がる。校内の数々の備品を使用し、ステルス作戦を仕掛けたり、建物の構造を利用して鬼を撒いたり、時には味方を囮に使って逃げのびたりと中々シビアでエキサイティングなイベントだ。

勝利したと言っても景品も褒賞もない。名誉だけの戦いであるが、終了のチャイムが鳴り響いた後には爽やかな解放感に満面の笑顔でお互いの健闘を讃え合う彼らの姿が見られる。

 

「何て言えばいいのか・・少し暑苦しい・・です」

 

とは2-A田中恵子の談。

 

そして今日、何時ものようにじゃんけんに負け、追われる側となった広大は本日の隠れる場所をここ体育館倉庫に選んだ。

ここは隠れる場所としてはメジャーである。備品が所狭しと置かれているためだ。隠れる場所はいくらでもある。逆を言えば鬼側もここを探す候補地の一つとして当然マークしている。ここの心理的駆け引きが面白いのだ。

かくれんぼは言いかえるならば「見つけられる」ことも楽しむ要素の一つである。あまりに隠れるのが上手で毎回誰にも見つけられないとなると、その優越感の先に訪れるどうしようもない空しさが訪れる。

「参加している」という実感すら薄れるのだ。

そのために敢えて見つかる可能性のある所に潜伏するのが面白いのである。

「見つかるかもしれない」という緊張感を押さえながら鬼をやり過ごし、逃げ切る事こそかくれんぼの醍醐味の一つと言えるのだ。

 

「お前さーあの時ここ探しに来ただろ。俺あそこにいたんだぜ?気付かなかっただろ。けへへ」

 

このような瞬間の為に男はかくれんぼをするのだ。

 

しかし・・

 

悲しいかなこの日、鬼はこの場所をマークしていなかったようだ。

広大は盛大な放置プレイをくらい、汗臭い倉庫の跳び箱の中で眠りについた。

 

「はっ!」

 

何分経っただろうか?広大は目覚め、辺りの状況を窺う。

静かだ。

これは・・確実に寝過ごした。サボリマーの本能がそう告げている。

 

「やっちゃった・・。まぁいいか」

 

基本的に参加者の中で広大は学業に対する意識がとりわけ低い。

おまけにこの時間は広大が苦手な現代文だ。

こうなってしまったら「サボるか」という結論に至るまでのスピードだけは遥かに友人達を凌駕する。

跳び箱の一段目を中から持ちあげ、丁度、某国民的家族アニメのオープニングのタ○のようになった瞬間だった。

 

「うっひひ・・紗江ちゃんは相変わらずないすばでーだね。体育倉庫は人気も無いし思う存分・・そのワガママなぼでーを・・」

 

「美、美也ちゃ~ん・・」

 

「美也ちゃん・・。今は私が居るんだからそんなことさせないよ?」

 

「逢ちゃんのケチ。・・。どうせなら逢ちゃんのも触らせて貰おうかな。どこぞの馬の骨に触られる前に」

 

「美、美也ちゃん?」

 

ガラリ。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・ひっ」

 

 

・・とりあえず七咲は気付いた。

結構付き合いは長い。そして悲しいかなこの人は・・彼女にとって大事な人だ。

この日、この時間にこの場所で一体何の目的でこういう状況なのかは一向に判断は付かないが、とりあえずまぁ・・この人の性格上変な目的を遂行するつもりでこうなっている訳ではないだろう。

うん。そう思いたい。

 

「・・おー七咲」

 

・・。お願いだからその名前で今は呼ばないでほしい。とりあえず今は何も言わず無言のままもう一度跳び箱の中に戻って欲しかった。

自分が冷静にこの場に居る他の二人を説得して穏便に済ましたかった。

何よりも今は・・他人のふりをしたかった。

 

―なにこの人。って言うかコレ・・逢ちゃんの知り合い?

 

―叫びたいけど怖くて声でない・・それにこの人逢ちゃんの名前知ってる。・・怖い!!

 

連れの二人から声にならない呆気にとられた視線が七咲に突き刺さる。

 

「二人共・・ここは私が全て上手くやるから大丈夫。先行ってて?」

怒りでひくつく口の端を必死で取り繕いながらようやく七咲はそう言った。

 

そして二人が去った後、再び跳び箱の中に戻った「コレ」を見下ろす。跳び箱の隙間の穴を睨みながら七咲は先日弟とやったゲームを思い出す。

樽に空いたいくつかの穴の何処かに一つずつナイフを刺していくあのゲーム。

確か・・全敗したっけ?でも今日に限ってはこう思う。

 

―・・何処にナイフ刺せば中身が飛び出すかなぁ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私がかばわなかったら一体どうなってた事やら・・」

 

「・・そうだね。停学くらいにはなってたかも・・いや~逢がいてよかった」

 

「よくないです!んああ~本当にどうしてくれるんですか~あの後紗江ちゃんと美也ちゃんが心なし距離を離して可哀そうな物を見る目で私を見ていたんですよ?本当にどうしてくれるんですか!」

 

「だって眠かったんだよ。仕方ないし」

 

結構悪びれもせず広大は愉快そうにそう言った。どうやら取り乱す七咲に少し快感を覚え始めたらしい。

 

―やばい。ちょっと可愛い。

 

 

 

「全く・・ほんと先輩ったら・・親の顔が見てみたいもんです!」

 

 

 

「・・・。見に来る?」

 

 

 

「・・・。はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・。やぁーねぇ年とるって。耳が悪くなって幻聴が聞こえるようになるから」

 

「・・・。幻聴じゃねぇって・・」

 

全てを諦め、遠くを見るような眼をした広大の母、博子の言葉をうんざりとしながら息子、広大は否定した。

 

「そう!よかったわ!これは幻聴じゃなくてアンタの妄想ってわけね!よかった~息子がおかしくなっただけで私は正常ってことね。ホント・・ホントに良かった!」

 

「その場合は嘆こうよ・・。母親だろーが・・」

 

通年こんな親子会話をする故に自分はこんな性格になったんだろうなと広大は自己分析をしている。

いちいちこんな暴言を吐く母をまともに相手し続けたら身が保たないのだ。

 

「とにかく!今度連れてくるからさ・・会ってみてくんない?」

 

「・・。ふーん。アンタに彼女がねぇ・・」

 

漸く博子は真面目に取り合った。もとより彼女は自分の息子がこの手の話題で冗談やウソをつくタイプで無い事は重々承知である。

 

「響ちゃんじゃないわよね?とてもそんな風には見えなかったし」

 

去年のクリスマスのあの日、無言で帰宅した息子、広大の表情を見ただけで博子は「結果」を理解していた。それぐらいは解る。

しかし同時にその表情には違和感もおぼえたのだ。

十年越しの、恐らく実らなかった想いを嘆いたり後悔するような表情をしていなかった。確かに泥だらけの服と冷え切った体で憔悴はしていたものの、目と表情には何かを悟り、決心したような力があった。そして次の朝何も言わずその表情のまま家を出ていったあの広大の姿。

 

恐らくあの時には既に・・息子は「選んでいた」のだろう。

 

「ひょっとしてアンタのクリスマスの時の服。選んでくれた子じゃないの?」

 

「え」

 

「やっぱり・・当たりね。やっぱり女の子だったんだ」

 

「何で解ったの?ひょっとして響姉から聞いた?」

 

「聞いてる訳ないでしょ。響ちゃんとアンタの事話してどーなんのよ。そんなつまんない話しないわよ」

 

「そっか」

 

「流石に長く生きてるだけある」。広大はそう思った。

 

「いいわ。日曜ね?連れて来なさい。ちゃんと迎えに行ってちゃんと家まで案内する事。いいわね?帰りも同様よ。責任もってちゃんと送りなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・・この子なの?

 

日曜―玄関前に立った変わり映えのしない息子の隣に立つ小さな少女を凝視して広大母は思う。

 

「こんにちは」

 

凛とした立ち姿。飾り気は無いものの整えられた服装。清潔感のある肩までの髪。少し緊張はしているが柔和な笑みとしっかりとした焦点をもった光一点の黒い瞳がその少女の性格を表すように真っ直ぐ自分を見つめている。

 

―世紀末ねぇ。

 

こんな・・こんな馬鹿な。

きっとこの子は広大に頼まれて来たその手のお仕事をしている人に違いない。広大?一体アンタこの子にいくら払ったの?もしそうでないとしたらきっとこの子は・・。

 

「あの・・初めまして。私は七咲 逢と申します。吉備東高校の杉内先輩の後輩です。先輩にはいつもお世話になっています」

 

―こ、後輩なの?

 

広大母の暴走をよそに七咲はいつもどおり礼儀正しく挨拶した。

 

「で、吉備東の水泳部期待の一年生。つまり響姉の後輩だよ」

 

広大がそう付け足した。「期待の」に少し照れたように広大をちらりと見た後、再び七咲はまだ呆気にとられている広大母を見る。

 

「・・。はっ!よ、よく来てくれたわね。遠い所から。コイツちゃんと案内した?ちょっと遅かったから心配してたのよ」

 

「いえ。そんな・・」

 

そう言いながら七咲はついさっきまでの事を思い出す。学校の帰り際、いつも別れるはずの場所に差しかかっても広大に案内され、知らない道をどんどん進むうちにどんどん胸の動悸も挙がって言った自分を。それを押さえながら必死で道も覚えた。今度は一人でここまで来るために。

 

 

「ほら。広大。早くあがってもらいなさい」

 

「うん。はいスリッパ・・ゆっくりしていって七咲」

 

「有難うございます。じゃあ・・お邪魔します」

 

「はい。どうぞ。あ・・七咲さん」

 

「・・はい?」

 

「ちょっと一つ聞きたいんだけどいいかしら?」

 

「・・はい?どうぞ」

 

「玄関で聞かなくてもいいじゃん・・」

 

「いや。大事な事なのよ」

 

「大丈夫ですよ。何か・・?」

 

「七咲さん。貴方何かボランティアか何かしているかしら?」

 

「・・?はい・・」

 

とりあえず水泳部の活動の一環として海岸のごみ拾い等をしている七咲はそう答えた。広大の母のその質問の本当の真意に気付く事は無い。

 

「やっぱり・・やっぱりね~うんうん。なんかおかしいと思ってたわ~~」

 

「ヴぉい・・何聞いてんだいきなり・・」

 

流石に広大も半ギレだった。流石に十七年この母に付き合っている息子である。広大には母の真意がありありと読みとれた。

 

「はぁ~・・それでもおかしいわ。ホント世紀末ね~・・」

 

息子の怒りなど歯牙にかけず、広大母はそう呟きながら居間の方向へ消えていく。

 

「????」

 

親子会話に全く付いていけずに七咲の頭に?マークがどんどんついていく。

 

「・・気にしなくていいよ。本気で」

 

「そう、ですか・・?じゃあ改めて・・お邪魔します」

 

「はい。いらっしゃい。七咲」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―しっかし・・やっぱりおかしいわね。警察に通報した方がいいレベルじゃない?これ。

 

用意したお茶を居間の机に用意しながら、隣で広大の横に座った可憐な少女を改めて広大母は眺めてみる。

 

―なぜこんな子がウチの広大なんかに・・?

 

基本的に彼女は自分の息子に対する信用はゼロである。

正直彼女の視点から言えば塚原 響も広大の相手としては相当のオーバーハングだと考えていた。それ故に今回広大が結果的に塚原とは上手く行かなかったこともまた仕方のないものと考えていた。

 

その矢先に予想だにしない息子の彼女のいきなりの来訪。

流石に塚原を超える逸材、少なくとも彼女に並ぶ逸材を期待するのは「この息子」には酷だと思っていた矢先のことであった。

 

―それでも初めて息子が家に連れてくる女の子だ。どんな子でも温かく迎えてあげよう。

少なくとも広大に選んでくれた服を見る限り広大をちゃんと好きでいてくれそうだし。

 

正直ひっじょうに失礼な話だが、息子の彼女に過度の期待を抱いていなかった広大母が今日目にする現実は完全に虚を突かれた。

 

―わっかんないわ~・・。意外と女運あるのかしら・・この子。響ちゃんといい、この娘といい・・。

 

「・・んだよ。折角七咲が来てんのに俺ばっか見て」

 

「ふふふ・・仲よろしいんですね」

 

「それ嫌味?七咲の所と比べたら酷いもんだよ。ウチは」

 

「そうなんですか?」

 

「・・そうね。少なくとも犯罪臭がするぐらいの釣り合わない彼女を連れてくる息子が今はとても信用できないわ」

 

「俺になんか恨みでもあんのか・・」

 

 

 

色々聞きたい事はあるのだが、とりあえず今は二人のやりとりを広大母は見守っていた。

とりあえず見ている方が腹いっぱいになる様なベタベタイチャイチャはしていない。

それどころか七咲という少女に接する息子は少し大人びて見える。

礼儀、礼節を心得た少女だがやはり緊張を拭いきれていない。その少女にきちんと目を配り、表情で安心させている。

今までの日常と全く関わりの無かった場所に来た少女の唯一の日常との接点がこの広大という少年なのだ。無意識に広大を頼ろうとするのは当然の事。それを広大はちゃんと理解している節がある。

 

彼の仲間内では自分以上に頼れる少年が多くいるのであまり表には出ないが、元々中々包容力のある少年なのである。

 

「七咲・・あれあれ」

 

広大が指をさす。居間のテレビの上に置かれたいくつもの写真立て。そこには不機嫌そうに撮り手から目をそらした黒いデブねこの姿があった。

 

「はい?あ・・ひょっとして先輩が何時も話してくれた黒猫のクロちゃんの写真ですか?」

 

「そうそう。・・ぶっさいくだろ?プーがどれだけ可愛かったか解ると思わない?」

 

「そんなこと無いですよ。愛嬌のある顔してます。プーは結構素っ気ない所もありましたから」

 

―ふむ・・どうやらボランティアではなさそうね。サバを読んだキャバクラのお姉さんって訳でもなさそうだし・・。

 

・・とんでもない事を考える母親もいるものである。しかしこの母親コレだけでは止まらない。

 

―さて・・自己紹介も済んだ所で作戦の第二段階に入りましょうか・・。

 

 

 

 

 

 

 

「・・。あ、そうだ。広大?ちょっと二階のトイレットペーパーを切らしちゃって・・私じゃ上の戸棚に身長届かないから補充しといてくんない?」

 

「えぇ!?今から?七咲迎えに行く前に言ってよ・・」

 

「仕方ないでしょ。今思い出したんだから。お客様と一緒のお手洗いを使う訳にはいかないでしょ。ほら!いってらっしゃい。どうせすぐでしょ!」

 

「・・ゴメン七咲。すぐ戻ってくるから」

 

「はい。大丈夫ですよ先輩」

 

 

 

 

 

そこのキミ。「どこかで見た様な展開だ」とか言わない。

 

 

 

 

2F

手洗い場

 

「全く・・何でこんな貧乏なウチの二階にわざわざトイレ設置するかね・・」

 

ぶつくさ長年住んだ家の間取りに文句を言いながら広大はトイレットロールをセットする。

 

「これでよしっと・・」

 

ガチャリ

 

―・・・!?

 

背後で鳴った異音に広大は目を見開くと同時にドアノブを回そうとした。が、回らない。

 

―・・・!?あれ?何だよコレ!?

 

 

 

「すまん広大・・」

 

 

 

消え入りそうな声でドアの向こうから声が聞こえた。

 

「・・?と、父さん!?今日休日出勤って・・」

 

「母さんにパチンコでの使いこみがばれてな・・従うしか無かったんだ・・広大お前をここから出す訳にはいかない」

 

「ふ、ふふふふざけんな!友達来てんだぞ!!」

 

「出来心だったんだ・・でも気付いたら二万も負けてて・・」

 

「そんなこと聞いてねぇ!だせ!クソ親父!」

 

「クソ・・?トイレならそこにあるだろう」

 

「おー!なら入ってこいや!流したるわ!」

 

 

 

 

 

 

居間

広大母にとって好都合な事にこの場所から広大の叫びは聞こえない。

 

「さてと・・」

 

「・・はい?」

 

「邪魔者も居なくなった所で・・沢山お話しましょうか♪七咲さん」

 

「あ、あの先輩は・・?」

 

「大丈夫。とって食ったりしないわよ。一応アレでも我が子だし」

 

「・・・」

 

―・・。先輩って本当にここの子供なのかな。

 

 

 

「塚原・・響ちゃんの水泳部の後輩なんだって?」

 

「あ、はいっ。先輩は水泳部のキャプテンをされていましたのでとてもお世話になりました」

 

「そうよね~『広大にお世話になった』ってのは疑問だけど響ちゃんなら信用できるわ」

 

「そ、そんなこと無いですよ。先輩にも凄くお世話になってるんです!」

 

「ふぅん。そうなんだ・・?でも・・」

 

「・・・?」

 

「貴方が広大の面倒を見ている時の方が多そう。でしょ?」

 

「・・・」

 

それに関して七咲は否定できない。

 

「ねぇねぇ七咲さん。広大とはどこでどういう風に知り合ったの?響ちゃんからの紹介かしら?あの子が学年も違う女の子に自分から声をかけるなんて想像がつかないし・・」

 

「あ~ああ・・えっと・・」

 

とりあえず言葉を選ぶ。他人に開けっぴろげに話すには色々と問題のある二人の出会い方だ。七咲はこの先も自分達の出会い方を誰かに説明するのに苦労するに違いない。

 

「・・・?言いにくいことなの?」

 

「あ。いえ、そんなことは」

 

「響ちゃんをストーカーしていた広大を見つけて怪しんで注意した・・とか?」

 

「・・・!!」

 

―すごい!先輩のお母さん!殆どあってる!

 

七咲は内心感心したが少し切ない気持ちになる。広大のストーキングの対象が塚原ではなく猫のプーだったという違いがあるが、その先に広大が塚原に会いに行く目的があったのは明白である。自分はそのとばっちりを受けてスカートの中を覗かれた・・というのが広大と彼女の出会いである。

 

出逢いとしては通信簿で言えば五段階中、二と言ったところだろう。去年の春先の塚原とプーとの素敵な出逢いとは比ぶるべくもない。

 

「あ、いえ、その・・なんて言いますか・・」

 

複雑な気持ちは結果、曖昧な返事となる。その心象を広大母は汲み取った。

 

「ゴメンなさい・・当たらずとも遠からずってところね。あんまり聞いちゃいけない事だったかしら。広大のヤツは後で殺しておくから」

 

「・・。お手柔らかにしてあげて下さい」

 

 

 

 

 

 

「ふ~解ってはいたけどアイツは七咲さんにも苦労させているみたいね~」

 

「『にも』ですか・・やっぱり塚原先輩『にも』?」

 

「そよ。あいつには兄貴もいるんだけど少しヤンチャなやつでね。ま、決して仲は悪くないんだけど。それでも血の繋がって無い響ちゃんに比べると・・響ちゃんとの方がよっぽど姉弟していたかな」

 

広大母はさっき広大が教えてくれたプーの写真の隣にある別の写真を見ながらそう言った。そこには塚原と広大が猫のクロと写った写真が立てかけられている。

広大にぎこちなく抱きかかえられた黒猫が隣に居る塚原の膝に移ろうともがいている一コマの様だ。

 

―昔から猫好きだけど猫には懐かれない人なんだなぁ。

 

七咲はクスリと笑った。今の自分の弟と比べても遥かに小さかった頃の二人。七咲自身が立ちいる事の出来ない事をかつて嘆いた広大と塚原との時間のほんの一部を垣間見る。

 

ついこの前まではこれを悔しく感じることも出来たであろうが今はそうでもない。自分は知りたいのだ。自分が最も大事にしている人達がどんな人生を歩んできたのか。そしてもっともっと知ってもらいたい。自分の事、自分の家族の事も。

 

 

「あの・・」

 

「何かしら?」

 

「先輩って昔・・塚原先輩に辛く当たったと思ったら急に甘えたりする事って無かったですか?」

 

「あるわよ~。ちょっと早い反抗期って奴かしら。母親である私には今一つだったけど響ちゃんにはその反動なのか頻繁にコロコロ態度を変えていたわね。響ちゃんだけでなく響香・・あ。響ちゃんのお母さんで私の親友なんだけどね?」

 

「存じてます。お会いした事もありますから」

 

「そう?なら話が早いわ。その響香にも度々そんな風に振舞っていたらしいの」

 

「やっぱり・・」

 

「やっぱり?」

 

「あ。その・・私には弟がいるんですけど。九つ離れた弟が」

 

 

―九つ・・小学校低学年くらいかしら。

 

「あ。もしかして・・今そんな年頃なの?」

 

「ええ、まぁ。・・私が作った料理をついこの前まで『美味しい美味しい』って言ってたのに最近いきなり『いらない』とか言われたり、お風呂に一緒に入る事を拒否したかと思えば翌日には『一緒に入ろう』って言いだすしで・・」

 

「成程。難しい年頃って奴ね。ウチはさ?一人ヤンチャなクソ兄貴とアイツで男二匹居たからそれが普通だったんだけど、響ちゃんの所は女の子一人だったからやっぱり最初は戸惑ったみたいなのよね。ひょっとして『私達・・嫌われてるのかな』とか言ってたわ。でも・・私が『気にするな。男の子はそういうもの。まともに相手しなくていいのよ。ドンと構えて自信もって!少なくとも私よりは貴方達親娘は広大に好かれていると思うわよ?』って言ったの」

 

豪快な広大母の言葉である。

 

「・・・」

 

「そしたら今度は広大が『おばさんや響姉が母さんみたいになっちゃった。僕のせいだ!』なんて言いだして反省してるもんだからもう笑って笑って!!」

 

さりげなくディスられているはずなのだが、かかかと心底愉快そうに広大母は嗤う。

 

「あはは・・・」

 

「―ま。気にする事は無いって事よ。多分七咲さんの弟さんもそんなもんだと思うわ。何かよく解んない見栄張って心にもない突き放した言葉を口走っちゃって、後で反省してひょっこり甘えに来てるのよ。そうやって自分への相手の愛情が失われてないか確認しているの。要するに好かれている証拠だわ。な~んにも心配ないわよ」

 

「・・やっぱり。塚原先輩は知っていたんだ・・」

 

「・・何の話?」

 

「あ。すいません。実は・・私塚原先輩にも昔この事を相談した事があって・・その時丁度・・今おばさんに言われたような事をそのままアドバイスとしてもらったんです。その時は『塚原先輩ってやっぱり凄いなぁ。何でも出来るのにこんな私の質問にもちゃんと答えてくれる』って。でも同時に『何で兄弟がいないはずなのにそんな事が解るんだろう?』って疑問に思っていたんです。今ハッキリしました」

 

「あ・・ははは。多分響ちゃんは私みたいに乱暴で適当そうな言葉は遣わなかったでしょうね?」

 

「いえ。それがびっくりするぐらいおんなじで・・だから確信したんです」

 

「うわ~お恥ずかしい。響ちゃんに申し訳ないなぁ」

 

―貴方の可愛い後輩を幻滅させちゃったかも。ごめ~ん響ちゃん。

 

広大母は居心地悪そうに苦笑いしながら頭を掻いたが、七咲はそんな彼女を真っ直ぐ見据えてふるふると首を振り、こう続けた。

 

「いえ。嬉しいんです。あの塚原先輩が実は得意げにおばさんからの受け売りを話してくれていたって思うとちょっと安心したって言うのか・・塚原先輩は知らない事も全て解っちゃうような凄い人じゃない、ちゃんと過程を経た上で自分が経験したこと、または誰かに教えられた事を参考にして得た経験談を私に教えてくれているんだって。ちゃんと自分で考えて、悩んで、信頼できる誰かと相談して得た経験を私に共有してくれる事・・それって何よりも私を大事にしてくれている事じゃないかって思えて嬉しいんです」

 

七咲は一気にそう言った。曇りない笑顔を込めて。

 

―・・・。いい娘を選んだわね。広大。

 

頬杖をついて無言のまま広大の母は、嬉しそうに自分の娘同然の響の事を語ってくれる今日会ったばかりの少女をマジマジと見た。

その視線に気付いて七咲は微笑んだ顔を少し赤らめて視線を逸らした。

 

―やっぱり・・先輩のお母さんだなぁ。目が・・良く似てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―よかった。私は先輩のお母さんを好きになれそうだ。

 

大事な人がまた増える。

それが何よりも七咲は嬉しかった。

一通りの話を終えた後、急に広大母が悶絶したように下を向いて苦しそうに唸り始めた。面倒見のいい七咲という少女は当然心配した声で話しかける。

 

「ど、どうかしたんですか・・?おばさん!・・お母さん!?」

 

「・・・。いい」

 

「え?」

 

「うん!凄くいい!七咲さん!貴方すごくいいわ!」

 

顔を大きく上げ、広大母は溜めていた物を一気に吐き出すようにそう言い放った。

 

「???」

 

「そんな貴方を見込んでお願いがあるの!」

 

ひしっと広大母は七咲の両腕をしっかり握った。

 

「は、はい・・何でしょうか?」

 

「・・広大は捨てても構わないわ。だけどお願い!私を捨てないで!」

 

「・・・はい!?」

 

流石に困った表情をして七咲は気圧され、机を介して一歩踏み出してきた広大母からのけぞった。と、同時だった。

 

バタン!!!!がたたたたたたっ!!!

 

二階から物凄い音がしたかと思うと何か重い物が転がり落ちる様な音がして地響きが二人の居る居間に近付いてくる。

同時に広大母は舌打ちした。

 

「ちっ・・相っ変わらず使えない・・」

 

「え。え。えぇっ!?」

 

その穏やかじゃない広大母の言葉を聞いた七咲が反応すると同時に居間の扉が開く。

 

 

「てんめークソババァ!クソ親父に何吹きこんでやがんだ!!!」

 

 

「全く・・ホント使えないわねぇ。時間稼ぎも出来ないのかしらあのクソ亭主は・・」

 

たった二フレーズの会話の中で連呼された「クソ」「クソ」「クソ」・・。その「クソ」の三分の二を占める広大父に七咲は心底同情した。

 

―・・。先輩のお父さん・・可哀そう・・。

 

「・・・!七咲!!」

 

「は、はいっ!?」

 

何時になく激昂した広大の言葉に一喝されたかのように七咲は背筋を伸ばした。

 

「大丈夫か!?何かされた?ゴメン。ほんとゴメンな!」

 

「え・・いえ・・その」

 

すぐに自分の元に駆け寄り、ぺたぺた自分の肩や頭を触りながらあたふたする広大に七咲もあたふたした。上手く言葉が出ない。

 

「ってぇか七咲に何した!!!クソババァ!!」

 

「別に何もしないわよぉ。クソ息子。お話してた・だ・け。よね?」

 

これで晴れて杉内一家全員が「クソ」の認定。ゲス内一家に相応しい称号を得た。

 

「は、はい・・」

 

「怯えてるだろーが!」

 

「それは今のアンタに怯えてんの。少しは落ち着きなさい。別にとって喰おうとした訳じゃないんだし・・」

 

「ぐっ・・!」

 

「すみません・・先輩大丈夫です」

 

「・・・。そう?」

 

「はい・・」

 

くすっ・・

 

心底ほっとした表情をした広大の顔を見て七咲は少し嬉しかった。

自分の事を本気で心配してくれた。無事だと知って心底安心してくれた。それが何よりも嬉しい。

 

 

「・・。ま。とって喰いたいぐらい可愛い子だって事は解ったけどね~」

 

 

・・。どうやらこの「姑さん」は息子に茶々入れないと気が済まない性分らしい。

 

怒り狂った息子によって再び場は振り出しに戻る。

 

しかし・・七咲は二人を宥めながらも不謹慎ながら其のひとときがとても楽しかった。

 

 

 

 

―わったしの為に

 

 

争わないで~~♪

 

 

 

 

 

 

 



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ルートK 7 分岐点

7 分岐点

 

 

2-A教室―

 

「お~い大将!聞いたか!?」

 

梅原が机に突っ伏している直衛にやや興奮を隠さない語気で語りかけるが・・

 

「んあ?天皇陛下が変わるって?次の年号何になんだろな~」

 

「・・ちょいと寝ぼけ気味だな・・。また後で話しかけるわ~」

 

相変わらず気を遣える友人梅原である。今の状態の直衛に話しかけても後にはすっかり記憶が喪失している可能性が高いのだ。そんな梅原に苦笑いを浮かべながら「ドンマイ」と源が声をかける。

 

「折角いいニュースなのによ・・。当の国枝っちがあれじゃあな・・」

 

「ま、仕方ないよ。テスト明けの直はいっつもこうだし。・・頑張り過ぎなんだよね直は」

 

理解ある二人の友人、梅原、源の二人は苦笑いながら席に突っ伏している直衛を見てそう言った。その中、その二人に向かって教室に戻ったばかりの一人の癖っ毛の少女が駆けよってきた。その姿を見て「噂をすれば、だね」と源は微笑む。

 

「たっだいま~」

 

「お帰りぃ!棚マッティ!」

 

「お帰り。棚町さん。・・どう?感想は」

 

「いや・・はは・・何か実感湧かないってゆーか・・。なんかちょっと複雑かな」

 

「謙遜するねぇ」

 

「二人とも・・ひょっとしてもう直衛には話しちゃったり・・?」

 

「ううん。っていうか今はちょとキツイかな。さっき梅原が話しかけてみたんだけど反応が著しく鈍いから」

 

まるで冬眠中の生物の事を話しているみたいな友人達である。

 

実際、現在の直衛は「冬眠中」と言って過言ではない。テスト期間中の彼の勉強量はかなりの物であり、その反動がテスト終了直後に一気に彼に押し寄せる。起こしても先程の様に会話にならない。今はそっとしておくしかないのだ。

 

中々手ごわいルーティンを持つ少年である。

 

「・・そっか」

 

いつもの事とはいえ少し残念そうに薫はそう呟く。

 

「ま。キリがいいと判断したら、また話しかけてみるぜ」

 

「てんきゅ。梅原君。でも・・私が直衛に直接話したいから」

 

「・・そうか?ま、棚町がそう言うならしゃあねぇな」

 

「ふふふん。自慢は、面と向かってしたいからね!じゃ、まずは恵子に自慢してくるわ!」

 

いつもの調子を取り戻して薫は元気そうに敬礼しながらその場を去っていく。

 

「おう!」

 

「いってらっしゃい」

 

 

 

 

 

「くあ・・」

 

十分後―

 

直衛、冬眠から覚醒。早速エネルギー補給。寝覚め用に確保しておいた半分ほど残っていた紙パックの珈琲牛乳は瞬く間に飲み干された。

 

「げぷ」

 

・・汚い。

 

 

「はい。もいっちょ~。」

 

 

机にもう一つ紙パックの珈琲牛乳が置かれ、その方向を直衛は見た。

 

「ん・・?お。薫・・。奢り?」

 

「んなワケないでしょ。ほらさっさと飲んで、頭。起こしなさい?」

 

「・・。頂きます」

 

「・・飲みながらでいいから聞いてくれる?」

 

「何?」

 

「私の自慢」

 

「お前が自慢?」

 

「うん」

 

「・・何時もの事じゃ無いの。特に何が来ても驚く自信がねぇ・・」

 

そう言いながら直衛がストローに口を付けた瞬間、「むっ」と不機嫌そうに口を尖らせながら直衛が飲んでいる珈琲牛乳のパックの両側面を薫はぎゅっと押す。中身が急激に直衛の喉に流れ込み、気管が入口を間違える。

 

「げぇっほ!おっほ!!えっへ!」

 

「女の子の話はちゃんと聞きなさい!全く!」

 

「・・なに?なんだよ・・?真面目な話?」

 

「・・。んー何て言うか、『そのまま受け取っちゃっていいのかな?喜んでいいのかな?』って言うお話」

 

「はぁ・・?何か重そうだから今度にして?寝起きにはキツそう・・」

 

「聞いて!」

 

「はい・・」

 

―最初からそう言えや・・もう・・。

 

直衛は残りの珈琲牛乳をすすりながらうんざりとした顔をする。正直彼の将来の成人病が心配になるぐらいの糖分の過剰摂取である。

 

 

 

「この前さ・・その・・アタシが美術の授業中裏庭で描いてた絵あったでしょ」

 

薫はそう切り出した。当たり障りのない滑り出しに聞こえるが、「当人同士」のみやや気まずい話題からの導入である。

 

「・・・。ああ。『あの時』、ね」

 

「う・・『あの事』はどうでもいいの!」

 

―いや、まぁどうでもよくされても困るんですケド。一応、その・・初めてなワケでして・・。

 

「はいはい。それで?」

 

「・・・」

 

―かといってこんな風に流されるのも傷付くなぁ・・。寝込み襲ったのは流石に拙かったかな?

 

 

 

 

「その時アタシが描いてた絵なんだけど・・覚えてる?」

 

「ん・・ああ。横目で見てたけど上手かった様な気がする。お前がブツブツ言いながら描いてたっけ」

 

「・・ブツブツゆ~な」

 

「で、それで?」

 

「あれが完成した翌日さ・・実は美術の先生に呼ばれてたの。『私また何かしたのかな』って思ってびくびくして行ったらさ・・」

 

「・・・」

 

―日頃の行いだな・・。

 

 

 

「で、したら?」

 

「こう言われたの。いきなり『君の絵をちょっと然るべきとこに出したいんだけどいいかな?』って言われてさ、私もよく解んなかったから曖昧に『はぁ別にいいですよ。』って言っちゃったの」

 

「お前はまた・・『適当な生返事は止せ』といつもあれ程・・!」

 

「はーい。反省してまーす」

 

その態度。反省のかけらも拾えやしない。

 

「・・まぁいいや。それが?」

 

 

「・・賞とっちた」

 

 

「・・へ?」

 

「何か『審査員特別なんたらかんたらしょ~~っ!』・・っていう偉そうな賞だって」

 

「え・・?凄いじゃん」

 

余りに意外な事実に流石に直衛も目を丸める。

 

「あっはは・・」

 

「いや・・ホントに・・普通に驚いた。何だ・・めでたい事じゃん。おめでとう薫」

 

「ありがと・・」

 

薫は照れくさそうに笑うものの、どこか憂いを含んだ微笑である。おまけに眉も内側に曲がっている。嬉しくはある。が何処か戸惑い、迷いがある事が一目に解る。

 

「・・。喜べないの?」

 

「いや・・嬉しいは嬉しいけど・・ほら、一生懸命に描いてる人だっているわけでしょ?それなのに成り行きで出したアタシのなんかが受賞しちゃっていいのかな~~って。」

 

「・・」

 

―まぁ・・成り行きっちゃ成り行きだな。お前の気のない生返事のせいで本来賞を採れた人が見送られたとなると少し気の毒っちゃ気の毒かも。

 

・・でもな、薫?よく聞け?

 

「・・お前ヘンなとこ真面目だよな」

 

「ひどっ!」

 

「お前適当にあの絵描いたの?」

 

「え?」

 

「お前だって一生懸命描いたんだろ?」

 

「それは・・そうだけど。」

 

「だったらいいじゃないか。むしろ賞を採った人間が『自分なんかでいいのかな』って言うのはある意味嫌味かもしんないぞ」

 

「そう・・かな」

 

「第一自分が賞を取れなかったのを賞を採った人間のせいにするような奴なら元々見込みないだろ」

 

彼が生粋の努力派の人間だからこそ言える中々的確な台詞である。

 

「あ・・」

 

「だから素直に喜んで受け取んなよ」

 

「・・うん。そうする」

 

「では改めて。おめでと。薫」

 

「ありがとう。直衛。アンタのおかげでやっとまともに喜べそうな気がする」

 

―励ましもそうだけどアンタが私の事で笑ってくれるのも嬉しい。

 

いつからだろうか。薫が無意識にその笑顔を求めるようになったのは。

 

「ん。そうか」

 

「・・。直衛。それでね・・」

 

「ん?」

 

紡ぎかけた言葉を薫が言いかけた瞬間、非情なチャイムが鳴る。

 

「あん。もう終わり?」

 

「ま。また今度な」

 

「・・直衛・・。今日の放課後って空いてる?」

 

「・・・。ごめん予・・」

 

「ごめん。予備校」―これはこの数カ月で直衛が言い放つ事が多くなった言葉である。

 

「・・・」

 

この先もどんどん増えていくであろうその言葉を発しかけた直衛をやや悲しそうな目で薫は見た。その顔をいつもながらにズルイと感じながら直衛は溜息をつく。

 

「・・・。別にいいよ。お前、バイトは?」

 

「・・大丈夫。少し遅らせて貰えばいいと思うから」

 

「わかった」

 

「てんきゅね。直衛。じゃ」

 

「あ。おい。コーヒー代」

 

「いーよ。私のおごり」

 

「・・・。せっかく薫が偉い賞貰ったのにその薫に奢ってもらうなんて寝覚めが悪い」

 

「ぷ。あんたを起こすために買った珈琲なのに『寝覚めが悪い』ってヘンな話ね」

 

「・・」

 

「・・ホントにいいよ。じゃ、また放課後に。まったね・・」

 

 

 

 

「・・」

 

励ましたと言うのに。そして幾分気が楽になった様な表情をしたのに、尚も何か引っかかる様な薫の立ち去り方に直衛は無表情、無言のまままた珈琲牛乳をすする。

 

 

 

 

 

 

 

放課後―

 

校門前

 

「遅い!」

 

予備校をサボらしときながら意気揚々といつものように遅れてくる薫に悪態つきながら直衛は説教モードに入るが―

 

「ごっめーん恵子に捕まってた!」

 

「・・田中さんに?」

 

「・・恵子ったら私が賞取ったのまるで自分の事みたいに喜んでくれちゃってね?あんまり嬉しそうにしてくれるからつい・・」

 

「・・・あー了解。仕方ないな」

 

「そそそ。仕方ない仕方ない♪」

 

悪びれもせず、心地よさそうに白い息を吐きながら笑う薫に直衛は毒気を抜かれる。どうやったら直衛が怒りにくくなるかを熟知している彼女らしい誤魔化し方だった。

 

「・・・もういい。で、何処行くの?」

 

「・・あの河川敷に行きたいな」

 

 

 

 

今日は天気がいい。

薫が無断欠席したあの雨の日の帰り道に比べると、赤い夕日に染まったその景色の温かみと色の豊富さは段違いだった。薫がここを大事な思い出の場所にしているのも頷ける光景である。

 

「ほっ・・!」

 

平べったい石を探しては女子にしては綺麗なサイドスローで石を投げ、水切りを楽しんでいる薫に直衛は痺れを切らした。

 

「水切り勝負がしたかったのか?」

 

「せっかち。折角人が思い出に浸ってる時に」

 

「お前もバイトあるんだろ」

 

「あ・・それもそうだね。遅らせるっつっても時間制限在るんだった・・」

 

「・・忘れてたのか?」

 

「う~うん。じゃ、話の続き」

 

薫はスカートを整えつつ、彼女の座る場所に持参したタオルを敷こうとする直衛に「ありがと。ヘーキ♪」と言いながら座る。

 

 

「私の絵が受賞したって美術の先生に聞かされた時、一緒にこんな風な話をしてくれたの。『これからきっと君を推薦入学させたい美大から次々オファーが来ると思うけどよければ考えてみないか?』って」

 

「・・マジで?」

 

「あはは。私も最初『冗談ですよね?』って言った。でも違うみたい。それぐらいの賞なんだってさ?私の採った賞って」

 

「へぇ・・」

 

「はは・・いきなり言われて混乱した。だって全く今までそんな風な道進むなんて考えた事無かったからさ?元々大学行く気無かったし、推薦で大学行くなんて私の成績じゃ夢のまた夢だったしね」

 

「・・」

 

「でもひょっとしたら『学費とか入学金殆ど免除で入れる可能性もある』って言われたからさ?さすがにちょっと私もぐらっと来ちゃったっていうか。これならお母さんにも在る程度負担かかんないし・・」

 

「『遠くの大学なら下宿してお母さんが再婚した際、新婚生活の邪魔にならないかも知れない』か?」

 

「・・お見通しなんだね。直衛?アンタのそーゆうとこホント凄いと思う」

 

「・・」

 

―・・お見通しならもっと気の利いた言葉言えるはずだけどな。

 

お前は解りにくいんだよ。

 

・・薫。

 

 

「まぁ・・まだ先の話だけどね。一応『まだ時間はあるからゆっくり考えて欲しい、心積もりだけはしといてほしい。何かあれば相談乗るから』って段階の話だから」

 

「そっか・・」

 

「聞いてほしかったのはコレだけ。うん。すっきりした」

 

「・・」

 

「ま、困るよね。最初恵子に話しても喜んでくれる反面ちょっと切なそうな顔してた」

 

「・・そうだろな。周りの人間は元より現状本人が一番パニクってる状態だかんな」

 

「そうなのよ。ははは。もう・・最近色んな事在りすぎて・・勘弁してほしいわホント」

 

今考えても仕方ない事なのかもしれない。十七年生きてきた中でこんな急激で意外な事象がポンポンと自分の身の回りに起こる事なんて今まで無かった。

漠然だったとしても、どうにか可視の道が今まで続いていて、その道を渡るために彼女は努力してきた。

 

しかし今、図らずもいきなり全く別の道が明確な形を成し、その道が彼女の現在の境遇に見合った確固たる地盤を築く可能性が高い事が示唆された。だが手放しに喜ぶにはあまりにも性急すぎる。実感が無さ過ぎる。

 

でも―

 

「でもね?直衛。私もそろそろアンタが何時も言うように本気で色々ちゃんと考えてみようと思うんだ。だからちょっと進んでみるよ。絵を描くってなんか楽しいかもって・・元々好きだったけどね。それに今回こんな形で認められてやっぱり嬉しかったし、皆も褒めてくれて気分良かったから」

 

「そうか」

 

「色々な選択肢の中でどれがいいかキッチリ自分で考えて、何が、そしてどれが自分に合うのかな、とか、都合がいいかな、とかちゃんと考えて進んでみたいと思う。その結果どこに行くことになろうともね」

 

「うん・・そうだな」

 

「うん。そう」

 

―もう。相変わらず素っ気ない奴。

 

 

 

「・・ねぇ直衛?」

 

「ん?」

 

「来年以降もこの場所を見れるかな?また来れるかな?」

 

―アンタと。

 

 

今から約二年前―

アンタと私の道はまず最初の分岐に差し掛かった。中学から高校への進学だ。

細い命綱はアンタの弱さと私の強さも相まって道は続いた。

 

アンタは「堅い」と言われていた私学の志望校の入試に落ち、私は微妙だった吉備東高に無事合格。

 

アンタには悪いけどほっとしたんだ。嬉しかったんだ。

 

まだアンタと歩いていけるんだ。後三年間も。

 

・・嬉しいな。

 

そう思ったのが今から約一年と半年前。しかし約一年と半年後の今、もうこの時点で私達は完全に分岐点に立とうとしている。

 

時の流れって早いなってホント思う。楽しい事だとなおさら。

 

分かたれようとしている。

 

コイツは道を何時も通りコツコツ進んでいた。そーゆうヤツだ。相変わらず先々、コツコツ行くアンタにいつも通りやや置いてけぼりだった私。でもそんな私にもいきなり目の前に道が出来た。

 

これからはアンタと私、各々違う道を歩んでいく事になるんだろうね?

 

でも「よかったね。お互いに道が見つかって。頑張ろうね」とはとても思えない、言えない、考えられない。

 

だから・・

 

繋いで置きたい。ほどきたくない。

もともと繋いだ事も。絡まったこともないのかもしれないけど、そのかわりに私たちは背中預けて、隣を歩いて、はしゃいで、騒いで、怒って、泣いて、笑ってきた。

 

楽しかったよ。心からそう思う。

 

それを失う事に私は耐えられるのかな?この場所から逃げて、お母さんからも逃げて、

とどめに目の前のコイツを見失う事に。

 

きっと無理。例えまだ先の事だとしても・・無理なものは無理。

 

でも―きっとその日までの「時間」が結局は私を諦めさせちゃうんだろうな。

例え耐えられなかったとしても。寂しくて、辛くて、遣る瀬なくてもそれを受け入れて前に私が進む日が来るんだろうな。

 

ほら。だって曲がりなりにも私って強いから?

 

さばさばしてて。

 

勝気な。

 

アンタの「悪友」だから。

 

乗り切れなくても、割りきれなくても前に進んでいる私がきっといる。

 

だからアンタはお構いなしにアンタの道を進んで?

いずれ本当にまた人を好きになって、その人の事で本気でテンパって、私にその話を懐かしむようにまた聞かせてよ?笑わせてよ?

 

・・馬鹿にさせてよ!?

 

そうじゃないと怒るから。

 

 

 

アンタを好きだった・・私が怒るから。

 

 

 

 

「・・見られるよ」

 

 

「・・」

 

 

「お前が見たいと思えば、来年も再来年もずっと見れるだろ。お前が見たいと思ってこの場所に来たとしたらな。当り前の事言うな」

 

 

「・・そうだね」

 

 

―アンタらしい。

 

 

 

 

「・・俺もお前も来ればいいだろ」

 

 

 

 

「・・。え・・」

 

 

すぅっと直衛は大きく息を吸った。

 

彼の中でも―

 

「答え」は決まっていたのだ。

 

 

 

 

「・・・。薫。ごめんな」

 

「え?何が・・?」

 

「俺頼りなくて。いざという時ダメで。でもこれでも精一杯気ぃ張ってんだ」

 

また大きく直衛は息を吸う。そして続ける。

 

 

「・・お前の事で」

 

 

 

「俺も嫌だったからさ。いざという時に本当に頼りなくって力になってやれない自分の事。自分が大事に思う相手に、大事にしないと自分がおかしくなりそうな相手に本気で力になりたくて頑張ってたつもりなんだけど・・全然ダメだった。でも・・本気で・・大事な奴―薫、お前に本当に力になってやりたい、それがダメならせめて傍に居てやりたいって思ってたのは本当だから」

 

 

「俺は薫の事を本当に大事に思ってる。そうじゃないと俺、俺が保てなくなるから」

 

目線を下に向け、言葉と共に吐く自分の白い息を見ながら直衛はそう言った。

 

「・・・」

 

「・・もし、『要らない』って言うんなら、『必要無い』ってんなら言ってくれ。『勝手な事言わないで。アンタなんていなくても私は大丈夫』って言うんなら・・」

 

 

 

 

「や・・だ」

 

 

 

 

「・・!」

 

 

 

 

「アンタが・・傍に居てくれないと・・ホント・・やだよ」

 

 

 

 

「・・・」

 

 

 

 

「お願い・・。傍に居てよ」

 

 

 

 

目線を下げたまま、勝手に詰まる喉を必死で堪えながらようやく薫は直衛の右手首、ブレザーの裾をきゅっと親指と人差し指でつまむ。

 

 

 

 

「・・ありがとう。薫」

 

 

 

「分岐点」

 

二つに枝分かれしようとする道の手前でようやく二人の道は初めて交わった。

 

 

―何処にも行かないで。

 

 

ううん。違う。

 

 

何処までも一緒に行く。

 

 

アンタなら・・いいよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




二時間後―
JOESTERにて。

「店長・・」

薫の同僚であり、ホール長を務める世間的にはエリート大学生の生真面目な女の子が事務的に店長に話しかける。

「あん?」

「棚町さんが変です」

「変?」

「何て言えばいいのか。おかしいです。テンションが高いのか低いのか解りません」

「君に言うのも何だけど・・女の子って言うのはそんなもんじゃねぇのか?ただでさえ『あの』薫ちゃんだし」

「度が過ぎています。変にテンション高かったり、いつも通りだったり、唐突に物思いにふけったり、へらへらしたり、照れたり、哀愁漂ったり、かと思ったらいきなり毅然とプロッフェショナルな対応したり・・正直手がつけられません。褒めればいいのか、諌めればいいのか・・」

「・・。とりあえず最低限の仕事は出来ているみたいだから様子見しよう」

「了解です。あ、あと・・化粧室の鏡の前でニヤニヤしていたのは彼女の為に言わないで置きます」

「・・今言ったね・・確実に言ったね」





―地に足がつかないとはこの事だろうか。
全く苦労させてくれる。女の子をここまで浮き沈みさせてくれるのだから。アイツったら・・うふ♪

いつもより倍疲れたわ。

「~♪」

閉店後、いつものように店内のモップがけをする薫は、心地よい疲れに鼻歌交じりで上機嫌だった。

「ご機嫌だな・・」

「あ、てんちょ。お疲れ様です」

「・・。何かいいことあったのか?」

「あ。わかっちゃいます?さっすがてんちょ!」

「・・」

―うわぁ・・ハイギアだな。


「・・ひょっとして例の奴がらみか?薫ちゃん?」

「・・うふ♪」

薫からの明確な返事は無い。その代わりにモップがけのペースがやたらと上がった。
どうやらさっさと仕事を終わらせて落ち着いて話し・・というかノロケさせてほしいらしい。

「・・・」

暗黙の了解をして店長は経理作業に戻った。




「・・って言ってくれたんです!!」

事の顛末をそのように締めくくり、
「言っちゃった。ハッズカシー」というような彼女らしくないキャラ崩壊の表情をして薫はノロケ終えた。

「よかったじゃねぇか・・」

「はい!」

ただ次の店長の一言に薫は凍りつく事になる


「ところで・・付き合う事にはなったのか?」


「・・え」

「え・・。ってそこまでいったんなら当然言質はとったんだろ?」

「げ、・・げんち?」

「・・ああ。ようするに口約束さ」

「何ですか?・・それ」

万札詰まった財布を置き忘れてきた様な顔で見る見るうちに薫の顔色がさ~~っっと変容していく。

「・・いや、平ったく言うと・・その・・『付き合おう』とか、『好きだ』とか?言われたんだろ?」

―中年の既婚のオッサンにこんなセリフ言わせんな。

「あ・・」

「・・・」

―藪蛇か。有頂天のあまり詰め損ったな?薫ちゃん・・。

藪蛇つつかれ、自分の姿を見て石になったメデューサのように押し黙る薫を見て、店長は面倒くさい事になったと思った。

「で、でも、ですね?さっきも言った通り!そ、の、そのっ!」

「そ、そうだな!ま、まぁ~~そこまで言わせたんだから大丈夫だとは思うけどな?多分。恐らく、な」

そうは言ったが全く面識のない男の保証など赤の他人の店長に出来るわけがない。
彼女達の倍は生きている店長の人生には、ヤる事ヤって「え。俺(私)達友達でしょ?」、と言い放つ人間が全くいなかった訳ではない。そして薫の話からしてその男、その手の才覚が全くないとは言い切れない印象があった。
「昔、女で痛い目に合ってその反動で」・・と、いう可能性も無きにしも非ず。
おまけにそれなりに頭良くて、睫毛の長いそれなりのイケメン?

・・ダメだ。店長が薫から伝えられた直衛情報だけを整理すると不安がさらに膨れ上がってリアリティが増していく。

「てんちょ!何で眼をそらすんですか!」

店長の首根っこを掴み、がくがくと揺らすバイト少女。

「いや~その~はは~」

店長はその行為にさして突っ込むこと無く、目を泳がせて棒読みでそう言った。

―無茶言うな。俺まで固まらせる気か。


―だ、「大事な人」ってそういう意味なの・・?直衛・・?


ハイギアからLOWに一気に叩き落された薫は一気に疑心暗鬼に陥った。

「・・薫ちゃん。まぁ大丈夫だとは思うんだが一応言質は取って来い」

「・・・」

―まぁ薫ちゃんには気の毒だが・・正直面白いな。

店長は昨今自分の奥底に押し隠されていた外道性がむっくりと顔を起こしたことを自認した。

―だが・・もしそれが本当だとしたらその男は俺が責任もって―



・・〆てやる。




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ルートK 8








8 みっしょん いんぽっしぼー

 

 

 

「とりあえず言質をとれ」

 

 

・・いえっさー。

 

店長から下されたこのミッションをこなすために、後日、再度薫は直衛と接触する必要がある。

・・ただ話す事が話す事なのでタイミングと場所を選ばなければならない。

ただでさえ国枝 直衛という少年は周期的に会話が全く意味のない状態に入ってしまう特異体質である。意識のはっきりした覚醒時、つまり「正気時」を狙い撃ちするしかないのだ。

さらに悪い事に、この年末の忙しい時期に差し掛かるとそのバイオリズムが不定かつ、不規則に変化するものだから溜まらない。

それを踏まえ、自分の状態と、相手の状態、お互いの体が空いた時、都合のいい場所、そして・・女の子としては出来る事ならムードぐらいは欲しい。

 

―はぁ・・。よくよく考えれば物っ凄くめんどくさい男よね。直衛って。

 

そう思いながら薫は思いっきり溜息を吐く。

 

さらに悪い事に、創設祭の準備が佳境に入っている彼の親友の創設祭実行委員―源 有人の手伝いを率先して直衛は行い始めた。結果直衛の貴重な覚醒時間、正気時間は削りに削られる。

当の薫も決して行事ごとに関しては我関せず、というタイプでもない。

面倒くさい事は苦手でも、やはり皆と一緒に一つの目標に向かって作業を行う行為はいいものだし、楽しいし、大好きだ。

それに彼女はクラスの女子勢の中でも行動力とそれなりの統率力もある。気まぐれで飽きっぽい所は彼女をよく見知った連中がそこはかとなくフォローすれば問題ない。

適当なところで他の作業を振ってやれば、新鮮味を感じてモチベーションはある程度保ったままクオリティの高い仕事をしてくれる事を知っている理解ある友人たちの手によって・・

 

―あれ?私いいように使われてる?

 

 

と、なるが楽しいのだから仕方ない。

 

そして・・何よりも。

 

仲のいい友人達と協力し、連携し、集中して何かの作業に没頭、粛々とこなす男の子の姿というのは否応なしに・・かっこいいのだ。

 

使うのは彼女にとって癪な言葉だが、これが「惚れ直す」ということなのだろう。

 

―他人事ならカッコいいのになぁ・・あいつ。

 

源やクラス委員―絢辻 詞と直接対話して作業の方向性、仕事の優先順位を的確に掴んで梅原、そして薫の男女のムードメーカーと協調し、他のクラスメイトに的確に指示を出す直衛の姿は薫にそう感じさせるには十分だった。

 

 

と、呑気に構えてもいられない。

今年の創設祭の準備は例年に比べると遅れているとのことだ。

このままでは創設祭、・・つまりクリスマスイブまでうやむやにしてしまう可能性だってある。

 

―流石にあの日までには・・。

 

どどどどうにかした~~い!

 

 

・・さすがに彼女も女の子である。今年は特別な、いつもとは違う日にしたいのだ。ケリをつける意味でも。

人員の足りないバイト先―JOESTERのシフトも「あの日」だけは休日にしている。

母親との確執も完全に拭いきれては居らず、家に居づらい状況は今も続いているため、他の新しいバイトも始めた。が、そちらも同様だ。シフトに完全な穴をあけている。

 

完全「どフリー」だ。さぁ「パス」よ。来い。

 

この季節もあってか最近妙に彼女は告白される事が多い。しかし、その全てを完全にスルーし、ただ一人からの「パス」をひたすら待っている。

 

しかしその勝負の日以外は・・よくよく考えてみると何とも恐ろしい状況に自分を追い込んだものだと薫はくるくるパーマの頭を抱えたくなる。自分が撒いた種とはいえ、先日課された店長からのミッションを達するには日に日に状況が悪化している。

 

○-サン・ハ○トもびっくりの鬼のような年末だ。

 

おまけに課されたミッションはいつものように彼女の持ち味―「気力、体力、負けん気」だけでは乗り切れない特殊なミッションである。何せ当然一人で出来る事では無いからだ。タイミング、時と場所、自分と相手のモチベーション、コンディション、そして最後には何よりも「運」が高次元にバランスよく配されなければ達成できない。

 

―私流石に死ぬかも知んないな・・。

 

殺人的スケジュールをこなしつつ、タイミングを見計らうが中々に時は訪れない。

運良く時間がかちあってもお互いへとへとだったり、充実している時は大概創設祭の仕事を振られた。特に直衛は創設際の実行委員でもないのにその要領のよさと熱心さを買われて他のクラスへのヘルプに出される場合もあった。

 

「茅ヶ崎のとこが遅れてるんだってさ。ちょっと手伝ってくる」

 

 

―え~~?ちょっと!!直衛!あんたいいように使われてるんじゃないの!?

 

と、のたまりたいところだが、作業している直衛はカッコイイから文句を言えない。

 

「いてらっしゃい・・」

 

健気に癖毛の少女は少年を見送る。

 

 

放課後は放課後でさらに絶望的である。

当の薫は労働基準法ギリギリ、週五ペースのバイト。片や直衛は予備校、フリーの日は放課後の創設祭準備。時間など取れそうもない。

 

 

―ええい!こんな状況に誰がした!・・私か。こーなったら日曜だ。それしかない!

 

 

中々いい判断で在ったが当の直衛が・・

 

 

「あ・・悪い。妹が『クリスマス用の服買いたいからついてきて』って言われてさ・・」

 

とか言いだした。

 

「・・」

 

―衛奈(えいな)ちゃん・・!!!お兄ちゃん好きなの解るけど空気呼んで・・。

 

 

そしてその後もいくつかのトラブルや紆余曲折を経て日に日に時間は無くなっていった。課されたミッションは宙ぶらりんのままうっとおしい程、学校も街も「グロテスク」なクリスマス色に染まっていく。焦る少女にはこの季節の町の変容は中々スプラッタームービーものだ。

 

 

―・・嫌がらせ?これって?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな今日も薫は放課後はバイトである。

といっても今日はJOESTERではない。短期募集の野外バイトである。

現在彼女はバイトを三つかけ持ち中。・・大丈夫なのか。校則的にコレ。

 

 

そして今日は街と共に彼女自身も今日はクリスマス色に染まっている。

 

「ん~~・・」

 

―私ってこういうキワドイのに結構縁があるわね・・可愛いのは良いけど複雑だわ。

 

流石の彼女も出された今回の仕事着に唖然とした。ひらひらリボンにタイトスカートのJOESTERもJORSTERだが、今日の物と比べると随分マシに思えてくる。

 

―そもそも高校生にこれ着せて大丈夫なの?これ?風営法流石に仕事するんじゃ・・。いか~ん。そうなったら報酬が出ない!仕事しないでよ~?

 

出されたのはタイトでミニスカのサンタ衣装。可愛い耳付きの帽子付き。

この格好で冬の寒空の中、ケーキを売るのだ。拷問以外の何物でもない。時給が安ければ見向きもしない所だが悲しいかな、体を張った仕事故に報酬はそれなりの魅力がある。貧しさに負けた。いいえ。時給に負けた。

 

―・・このまま創設祭のミスサンタコンテスト出れるんじゃ?結構いいトコいくかも。

だがさささ寒い。さ、さすがに上着は用意してほしかったぜ。

 

おまけに視線が痛い。ケーキを買った記念に写真撮影を頼まれた事もあった。わざわざカメラを持ってくるあたり用意がいい事だ。

 

 

―・・不純な連中に面白い様に売れるわコレ・・。商売解ってるなぁ。これ企画した経営者・・。

 

 

 

 

 

「あの・・すいません」

 

 

背後で男の声。・・ほらまた「釣れた」。営業スマイル、営業スマイル。

 

 

「あ、いらっしゃい!・・ま・・せ」

 

 

 

薫の営業スマイルは尻すぼみに凍りつく。

 

 

 

―・・う、嘘。

 

 

 

 

「・・・。よう」

 

 

「うあっちゃ~・・直衛」

 

 

少し愉快そうに悪戯に微笑みながらやや寝ぼけ眼の直衛が薫を優しく見ていた。鼻が少し赤みがかり、首元まで覆ったマフラー越しに白い吐息が漏れた。ちょっとした男性的な色気が在る。

 

 

―・・・。

 

 

「・・薫?」

 

 

「・・!あ~~いらっしゃいませ~」

 

 

 

 

 

 

「かけもちしてんの?」

 

「まーね。相も変わらず家に居場所が無い可哀そうな女の子ですから。・・ま。マッチ売りの少女に比べたら遥かに世間のニーズ捉えたもん売ってる自負はあるけどね♪」

 

「・・。マッチ売りの少女の霊に祟られてしまえ」

 

「祟りが怖くてケーキが売れますか!・・と、いうわけで何か買ってけ。寄付のつもりでね。マッチの替わりにケーキをやるわよ」

 

「もう少し値段を下げてくれ。だったら買う」

 

「短期バイトの売り子に値段交渉すんじゃないわよ。冷やかしなら帰っておくんなまし!見世もんじゃないよ!」

 

しっしっと邪見に薫はあしらう動作をする。

 

「そっか。邪魔したな」

 

「って・・ホントに帰んの!?タダで私の美脚を見るなんて人生そんなあまかないわよ!」

 

「あれ・・?見世物じゃないって・・今」

 

「煩い!せめて・・この私の格好の感想ぐらい言って行きなさい」

 

「・・・ふむ。いいと思うよ?」

 

「ホント!?」

 

「うん。目の保養になった。おかげで視力が上がりそうだわ」

 

とろんとした眼を指で差しながら直衛はそう言った。結構眼に痛い赤色なはずだが。

 

「・・どういう褒め方よそれ」

 

「今度有人連れてきていい?視力が改善されて喜びそう」

 

彼の仲間内では唯一近眼の親友の召還を検討し始める。「や、やめれー」と、内心薫は想う。

 

「やめんか。知り合いにこれ以上コレ知られたら流石にこの私でも・・無理」

 

「そう。じゃ、梅原は?」

 

 

「噂になっちゃうでしょ!!尚・更・無理!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、そろそろ行くわ」

 

「予備校?」

 

「・・今日は無い。創設際の手伝いも有人が休みにしてくれた。だから今日は適当に街ぶらついてるだけ」

 

「そう・・」

 

疲れてるんだね、と今の直衛の姿を見て薫はそう思う。源もそこを気遣ったのだろう。

 

―・・はぁ。今日も今日とてすれ違い、か。

 

折角直衛が休みなのに仕事を離れられない自分に内心ガックリする。そんな薫を余所に直衛が少し驚いた様に眼を見開いた。

 

 

「ん?・・何だ。クリスマスのケーキの予約も受け付けてんのか」

 

「ああ・・今日から予約始まったの」

 

「・・。どーせ必要になるし、売り子さん。頼めるかな?」

 

「え?いいの?」

 

「俺が金出すんじゃないし。必要なもんだから」

 

「相変わらず黒っ・・。ま、いいや。じゃあ・・ここの必要事項に記入して?苺のショートでいい?」

 

「うん。一番オーソドックスなので。流石に許可なく予約する以上無難なのにしときたい」

 

「了解。毎度ありぃ~♪」

 

 

予約した後、直衛は足早に帰っていった。

 

―気を遣ってくれているんだろうけど・・帰んないでよ・・。

 

と言うのが本音。でも薫は控え目に見送る。今は売り子として一人のお客に贔屓をする事は主義に反する。形式通りのお礼を言って小さく左手で無言のまま手を振った。

少し小さく笑ってすぐに直衛は前を向いてもう振り返らず、ごった返す人混みに埋もれて消えていった。

 

―当日には直衛が予約したケーキを取りに来るのだろうか?それを誰と一緒に食べるのかな?順当にいけば家族となんだろうけど。

 

そんなことをついつい考えてみる。・・何の気なしに薫は仕事を終えた後、その店のショートケーキを二つ買ってみた。あまり最近口も聞いてない母にも一つお土産にして。

 

一人部屋で食べるケーキは・・甘い。

 

でも少し時期の早い苺はとても酸っぱかった。

 

 

 

 

 

 

 

言いしれない期待と不安の中でも日々は進んで行く。イヴまでにも色々な事が在った。

とても忙しくでも充実した時間だったと思う。それ故にあっという間に過ぎた。

 

でも結局ミッションは達成できなかった。

 

―「それどころじゃなかった」ってのは言い訳・・かな?

不可能だったんじゃない。物事を不可能にするのって実は結局自分の気持ち次第なんじゃないかと思う。

 

明確な形を成さないまま結局私はあいつの「薫が大事」という言葉を信じてみるほか無くなった。

 

自分がここまで臆病で消極的だったなんて考えた事も無かった。

 

でも・・私だって生活が在るし、頭抱えて悩む家庭の事情だってある。

アイツの事ばっか考えてられないっての。

 

・・そう思いながらも大半アイツの事を考えている自分が悔しい。

 

でもどこかで「分の悪い賭けじゃない」と何処か思っていた。

アイツにあそこまで言わせたんだから、私も私なりに頑張ってきたんだからって。

そう言い聞かせた。

 

でも結局、時は動かなかった。一日、一日。指折り数えたその日まで。

私達はそのままで時が過ぎた。

 

イヴの前日、私はJOESTERの店長に連絡した。重い重い受話器をようやく上げて。

 

「明日・・入れる事になりました。よければ呼んでください。」

 

『・・そっか。助かるよ。薫ちゃん。じゃあお願いしようかな』

 

 

 

―てんちょ。ミッション・・フェイルド(任務失敗)。・・です。

 

 

23日にも最後にアイツと顔を合わせた。

・・「顔を合わせた」と言っても遠目からアイツを見ていただけだったけど。

アイツは気付いてもくれなかった。どうしようもない寂しさが襲った。

 

 

 

直衛。私ホントに帰っちゃうよ?

 

―私。ホントに帰っちゃっていいの?

 

いいの?

 

―いいの?

 

ホントに?

 

―ホントに?

 

・・ばか。

 

―私の。

 

 

 

 

まるで・・中学二年の時、アイツがかつての彼女と付き合い始めた頃、あの子と帰るアイツの後ろ姿を見送った時と似たような感覚だった。

何時ものように冷やかす事も、からかうこともできずに自分らしくない見送り方をしたあの日と。

 

 

 

やっぱり私は何も変わって無いのかな。

 

やっぱり私達は何も変わって無いのかな。

 

 

 

ねぇ・・直衛?

 

 

 

 

 

答えてよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートK 9 Love fool











 

 

 

12月24日 

 

11時 JOESTER

 

やはり今日は何時にも増して忙しい。

店長は男のくせに何ともあらゆる世代の甘味のニーズを悉く捉えているなと感心する。

冬休みが始まった小学生の子達と付き添いで来る親や、祖父母達の需要にも応えたメニューは彼らでさえ一度口にしてみたい、と思うのに十分過ぎるほどの魅力を併せ持っていた。

配膳する際にもなぜあの野暮ったく、男臭い店長からこんなカラフルで魅力的なデコレーションをされたスィーツ達が生まれるのかしら?

・・警察に通報した方がいいんじゃない?

あのルックスにこのセンスはちょっと・・。怪しすぎるって。

 

そう思いながら苦笑する薫の表情は複雑だった。

眼と口が笑っていても、今朝細く整えた眉は少し痛々しく内側に曲がっている。

 

「・・・」

 

「・・棚町さん三番テーブルお願いします」

 

「あ、はーい」

 

いつも通り真面目な勤務態度で、しかしいつもの派手さに欠け、反応がやや遅い薫をホール長の女子大生は的確な指示を与え、動かす。何時もなら言わなくても出来る事が、何時もならしでかす余計な特有のお節介なところが一切顔を出さない薫をじっと見ながら。

 

「・・・」

 

今の薫は事務的だった。

いい意味でも悪い意味でも平均水準かそれよりやや上程度のパフォーマンスである。

正直な話、ホール長の彼女からすれば、「部下」としては好ましいと思うレベルではある。

薫がこのバイトに入ってきた当初、何かと我が強い薫に対してホール長は手を焼いていた。

有能だが、暴走気味の彼女を何とかして落ち着かせたいと何度も思ったものである。

抜きんでたものは無くても、落ち着いた、行きすぎの無い節度を弁えた「部下」になってもらいたかった。

今目の前にかつてのホール長が望んでいた理想の薫の姿があった。

・・それのなんとつまらないことか。

 

「・・理想は現実になると空しいものですね」

 

「・・あん?」

 

「いえ。何でも」

 

怪訝そうな店長の言葉をホール長ははぐらかしたが、何となく店長は意図を察した。

薫の落胆は彼女を堕とさず、何処にでもいる平凡な少女に変えた。

いや、平凡で在るべきなのだ。たまには自分の事で頭が一杯で、らしくない表情を見せる少女らしい一面を他人に見せるべきだ。少なくとも彼女は他人にそれをもう少し見せるべきである。

今彼女の中の大半を埋め尽くしているであろう罪作りな顔も知らない男子だけにではなく。

 

「薫ちゃん。バック入れ」

 

「・・・はい?」

 

「・・たまにはいいだろ」

 

「え。でも」

 

いつもの店長には有り得ない言葉だった。厨房に彼女を入れるリスクは過去の経験から店長は痛感している。早い仕事は褒めれる点だが、備品の消耗がやたらと早い、火に過剰な反応と、テンションの増加という危険が伴う。

 

だが・・今の彼女にはそれこそ「有り得ない」。

 

「・・んっ・・」

 

「ほれ。行って来い」とでも言うように気だるそうに店長は首を横に一回振って薫をバックに入る事を促した。

 

「・・はい」

 

彼女の張り詰めていた糸が切れそうな寸前だということは解っていた。

それでも時間が経てば、この場に、店内に居るならば薫は恐らく乗り切って発散する事は無く、何事も無かったかのようにしてしまうだろう。

 

それではダメだ。ならばほんの少しでも場所と時間を与えてみよう。

見せるのが嫌なら、声を聞かせたくないのなら。

 

―せめてそれぐらいはさせてくれ。

 

「あんまり今の薫をこれ以上見たくない」―いつもの彼女を知っている彼達にとっては。

それが店長、ホール長の本音である。

 

「・・・。はい。棚町バックに入ります。」

 

相も変わらず眉は曲がったまま、それでも現時点で出来る精一杯の笑顔を二人に見せて薫は下がる。二人の気遣いが痛いほどに解っているからだ。

そしてドアを閉めた。と、同時にドスンとドアに背中を預ける。

その音だけはホールに、厨房にいる二人には聞こえた。

 

―だめ・・。声に出しちゃ。

 

「・・・っく」

 

―ほら。頑張って。私。

 

「・・・・・」

 

何がいけなかった?

 

違う・・いけなかったところなんて沢山ありすぎて逆によくわからない。

それでもあえて挙げるなら。

「きっと」

「ひょっとしたら」

そんな根拠のない自信に縋っていたつもりで実は何も動いてなかったってことかな。

 

いっつも傍にいたから、これからも傍にいてくれるって言ってくれたから。

 

バカだな・・私。

 

その本当の意味にも気付いていなかったのかなぁ?

 

「うぇ・・っく・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・『仕事』は終わった?」

 

バックから出てきた薫にホール長はいつものように事務的にそう言った。

 

「はい・・。でもやっぱり私には裏方は向いてないですね。やっぱりホールで暴れ回る方が性に合ってます」

 

「・・『暴れる』は余計だけど。まぁいいわ。忙しい時間帯になるからみんなをフォローしてあげて?いつもどおりにね」

 

「はい!」

 

薫は駈け出した。

 

「棚町さん。いい所に戻ってきてくれた!」

 

薫の同僚であり、バイトでは後輩に当たる違う学校に通う女の子が戻ってきた薫に早速ヘルプを要請する。

 

「ん?何何?」

 

「さっき来た一番テーブルのお客さんなんだけどね・・。なんかちょっと・・」

 

「んん!?ひょっとしてまた何か気持ち悪い事言いだす客?」

 

「・・。そういうワケじゃないんだけど、店来て即、入口に近い一番テーブルに一瞬でもの言わず座ってから全く音沙汰が無くて・・怖くて注文も採りに行けないの」

 

「うーん・・このくっそ忙しい日に迷惑な客ね・・わかった!私が行ってくるわ」

 

「うん。お願い」

 

「任せなさい!」

 

―うーやっぱ棚町さん頼れるぅ・・今日棚町さん来れないって聞いてて不安だったんだ。

同僚の女の子は心中で安心した。

 

「今日棚町さん来れないって聞いてた」。・・これを言葉として直接口に出さなかったのは同僚の彼女の見えないファインプレイだろう。復活したにはしたが薫の結構危険な綱渡り状態は続く。そのような罠がこの日にはそこここに張り巡らされているのだ。何せ街中押しも押されぬクリスマスムード。念願叶わず一人でバイトの傷心の女の子には辛すぎる日である。それでも彼女はこの日を乗り切らねばならない。

 

折れそうな心を奮い立たせて。

 

「失礼します。お客様」

 

薫は一番テーブルに居座る客を見据え、言い放った。

 

それにしてもこの客・・寒いのは解るがいくら何でも着こみ過ぎだ。体のラインすら解らない。強盗でもする気なのか?言っとくがこの店にはそれ程の金は無いぞ。

ニット帽に軍モノジャンパー、その下には一体何枚着こんでいるのだろうか?異常なほど着膨れしている。クリスマスにこの有様だ。さぞモテない男に違いない。

 

「あのーお客様?」

 

その客は彼女の再三の言葉に反応せず、上半身をテーブルに投げ出し、尚も両腕で顔を覆っている。な、なんとふてぶてしい。これは強敵だ。

 

―最近の私の授業態度と比べてもこれよりかは随分とマシだわ。

 

比較するのもどうかと思うが薫はそう思った。

 

「・・。御注文はいかがなさいますか」

 

怒りで顔をややひくひくさせながらも、あくまで冷静な態度を崩さないようにする。

 

「・・・う」

 

―・・う?

 

ようやく反応があった。

 

「ん・・?」

 

「うぇ・・」

 

「・・!?」

 

―ちょっとコイツ・・なにかキメてない?

 

「ちょっとアンタ!?」

 

痺れを切らす。

 

―もともと気の長い方じゃないのだ。あたしゃ。

 

ただ彼女のその言葉が幸いしたのか俄かに反応があった。もぞもぞとその客は芋虫のように動き始める。中々正視に堪えない動きだ。

 

「う~~」

 

―うぃ・・もう嫌・・厄日だわ今日は・・。

 

一年に一回の記念日を何とも重苦しい雰囲気にしてくれるものだ。この客。

タダでさえ気が重い、凹んで塞ぎこみたい日だと言うのに。追い打ちをかけないでほしい。

 

「・・ご注文が決まり次第お呼びください・・」

 

ようやくそう言った。反応しない客に背を向け、沸々と薫は怒りが込み上がってくるのを感じた。

 

―それもこれもアイツのせいだ!何で誘ってくれないのよ!バカ!直衛のバカ!

 

しおらしく泣いてたのもバカらしくなってきた。

 

―何で私がこんな思いしなきゃなんないのよ!よくよく考えてみるとアイツの方が悪いじゃん!あんな事言って散々期待させといてさ?何が「傍に居る」よ!何が「大事」よ!

あーむかつく!この苛立ちはどうすればいいのよ!

 

「・・おる・・」

 

―あ~~~ちくしょーーっ!

 

「・・・かおる」

 

―うるさい!名前で呼ばないで!

 

「・・薫ってば・・」

 

―あんたなんかに名前で呼ばれると虫唾が走るのよ!

 

「薫・・」

 

―・・ふふふ。もう全部いいじゃない。私はもう我慢の限界だよ・・いいじゃないか。コイツを殺そう・・。うん、そうしよう。

 

「薫」

 

「もう!うっさい!何よ!直・・え・・。・・?」

 

記憶がフラッシュバックする。時は―中学二年。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・殴っちゃった。

グーで思いっきり。

 

教室でいきなりマジギレの喧嘩をし出した男子生徒がもみ合って一人の女の子が巻き添えを喰らう形で床に椅子ごと押しのけられ、倒される。

怪我こそないがショックのあまり、半ベソをかいているその子を介抱した後、きっ、と、薫は周りが全く見えていない喧嘩をしている二人とそれを取り押さえようとしている他の男子が密集状態になっている修羅場を睨む。

修羅場を構成する彼らには新たに発生した背後から迫る強烈な殺気を察知する事は出来なかった。

パンチの助走としてあまりにも長い距離を彼女は駆ける。

渾身の右ストレート。拳の中には威力増強、拳保護の為の百円玉。

それは途中まではマジギレ喧嘩中の二人を的確に捉えた軌道だった。

ただ如何せん助走が長すぎた。その間に揉み合ったままマジギレコンビは寝技に移行。それを在る男子生徒がやや腰を屈めて引きはがそうとする。

 

そう。彼のこの位置がまずかった。

 

そこが丁度爆心地である。

 

―あ、やばい。止まれ、ない。ま、いいや。アンタに恨みはないし罪はないけど運が悪かったと諦めて。

 

SEI・・

 

BAI!

 

綺麗に入った。拳が伸びきる前の衝突エネルギーが最も高い地点で炸裂。

マジギレコンビがその威力に冷静に我に帰るほどだった。吹っ飛んだ男子生徒は動かない。

 

―死んだ。今の死んだって絶対。

 

その光景を見ていた周りの人間は皆そう思い、血の気がサッと引いていく。

対称的に薫はじんじんする右拳と興奮の中でやや夢見心地になっていた。

 

―あはは・・。気持ちイイ・・。

 

くたりとのびた男子生徒に向かって、半笑いの顔を崩さないながらも、「ごっめ~ん。わざとじゃないのよ?」と心の中で謝罪だけはした。これ以降この事件に関しての謝罪はこの男子生徒には一切行われていない。

要するに謝っていないも同然という事だが彼女は「自分の中だけでも謝罪したのならそれは謝罪したという事」という彼女独自の超理論で解釈、自己完結したのである。

その彼女なりの謝罪後、不謹慎にもくたりとのびたその男子生徒の顔をちゃんと見て、

 

―あ。・・コイツ綺麗なカオ。

 

と、思った。

 

・・一目惚れの形も人それぞれである。

正直謝罪どころでは無かった。その日から彼女はその男子生徒に夢中になったのだから。

 

その男子生徒の名前は

 

―・・コイツ確か・・しまった。クラスの最初の自己紹介の日私遅刻したっけ?え、えーっとぉ~・・確か・・その・・ダメ。カンニング。名札名札。・・国・・「くに」・・「わざ」?・・くにわざ君・・?

 

「おいおいおい!国枝!大丈夫かおい!」

 

親切な彼の友人梅原が謀ったかのように叫び、走り寄る。

 

―あ、そうそう「くにえだ」君!「くにえだ」君!

 

続いて彼の親友―源 有人が叫ぶ。

 

「しっかりして直!なお―

 

 

 

 

 

 

「直・・衛・・?」

 

 

「・・よお」

 

あの日と同じようにくたりとのびながらも彼は自分の名を呼ばれて返事をした。

顔を覆い隠していた両腕を解き、ニット帽を外すと長めの癖の無い髪が解放され、長い睫毛に前髪がかかる。

 

―相も変わらず。

 

中々綺麗なカオよね。アンタは。

 

 

その顔。

 

ホントに。

 

・・・大好き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一時間前。国枝宅―

 

「・・ホントに行くの?」

 

玄関先で小学生高学年くらいの少女はそう言った。その表情は誰がどう見ても「心配、不安」としか書かれていない。

 

「・・うん。衛奈(えいな)・・留守番頼むな?・・出かける時は戸締りもしっかりしておくんだぞ」

 

「・・アニキこそ安静にしててよう、その顔色でよく他人心配出来るね」

 

「・・ゴメンな。母さん達には上手く言っといて」

 

「そんな体で・・生き倒れになっちゃうよ」

 

「・・・」

 

無言のまま直衛は玄関を出た。同じく衛奈―直衛の五つ違いの妹もまた無言で見送った。

その直後、家の電話が鳴る。衛奈は不安な表情のまま、かったるそうに受話器を取る。

 

「はい・・。もしもし国枝です」

 

『あ。国枝?俺。・・皆と今日クリスマス会すんだけど・・よかったら君もどう?』

 

「いかない。じゃね」

 

ガチャ。

 

一蹴。相当の覚悟で電話を掛けたであろう少年のいたいけなお誘い。一蹴。

 

―ん・な・こ・と・よ・り・も。

 

今日の予想最高気温二度を、三十七度二分上回る兄の事が気がかりで仕方のない妹だった。

 

―はぁ・・アニキってなんでいざという時あんなんなんだろう・・。情けない・・。

現在JOESTER―

 

「あんた・・ここで何してんのよ」

 

「いや・・多分薫ここにいるかなって思って」

 

「・・・!?ちょっ、あんた動かないで、・・げ。あんた熱何℃よ!?」

 

長い前髪ごと彼の額に手で触れるが常軌を逸した温度差を感じる。多分今の薫の手は程良いアイスノンだろう。

 

「家でる時は37度7分・・」

 

「・・嘘おっしゃい」

 

「・・プラス1.5」

 

「よし!帰れ!」

 

そう言いながらもこんな状態の直衛を一人で帰すわけにもいかない。薫は少し途方に暮れた。彼女の労働時間はまだ後三時間ほど残っている。

 

「とりあえず何か注文できる?一応客として扱った方が話しやすいんだけど」

 

「・・ドリンクバー一つ」

 

「お客様。追加でビフテキは?」

 

「うっ・・」

 

「・・食欲は無い、と。重症ね・・じゃあちょっとお待ちを」

 

さりげない、ただし同時食欲など極限にない病人に対して洒落にならない嫌がらせをして薫はその場を去った。離れた場所で見守っていた同僚が薫に話しかける。

 

「・・・何かあのお客さんと色々話していたみたいだけど・・大丈夫?」

 

「・・大丈夫は大丈夫だけど・・新たな問題が・・」

 

「え・・?」

 

「と、とりあえずあの客は私が対応するから、近付かないで。危険だから」

 

「え!?」

 

―危険!?

 

 

 

 

 

 

「はい。直衛。スポーツ飲料が無いから水で薄めたコーラ。少しは気分マシになると思うけど・・」

 

「ありがと。・・?お前?」

 

薫は店の制服姿にいつものフライトジャケットを羽織り、直衛の向かいに座る。

 

「店長に言って休憩貰った」

 

「・・すまん」

 

「いいよ・・で・・何しに来たのよ。あんた・・」

 

「・・・」

 

 

 

 

 

 

「私を・・?誘いに?」

 

「・・うん。バイトでていても・・終わるまで待つつもりだった」

 

色々聞きたい事はあったが在りすぎて纏まらない。はぁっと溜息をついて呆れ顔で癖の強い髪をしゃくりあげる。

 

「何で・・何で『今日』なのよ?」

 

「・・」

 

「何であらかじめ誘ってくれないのよ」

 

―待ってたのに。

 

一日千秋の思いで。

 

「・・言わなきゃダメ?」

 

「それが一番大事なトコでしょうが!いきなりこんな状態で『誘いに来た』って言われても混乱するばっかよ!全く・・」

 

「・・ですよね」

 

しばしの沈黙の後、直衛は口を開けるのすら重そうにもそもそと話し始める。

 

「・・・俺なりの・・サプライズのつもりだったんだけど・・」

 

―・・はぁ!?

 

「さ・ぷ・ら・い・ず・ぅ?」

 

―これが!?これがか!?違う意味でサプライズだわ。

 

「だけど・・この有様です」

 

「はぁ・・あんったって・・バカだよね?」

 

「はい・・・」

 

「ホント・・バカ」

 

呆れを通り越した後、急激な情動が薫を襲った。

 

悔しい。

 

相手に対する怒りも、恥ずかしさも、呆れも、幻滅も全てあるのに。

例えようも無く喜んでいる、嬉しいと思っている自分が確実に自分の中に居る事を。

 

 

―要するに私も・・バカね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートK 終章 私のダメな奴


12月24日

夕刻―吉備東高校

第57回吉備東高校創設祭開幕中―

「・・・♪」

売れ行き好調の自分の屋台―おでん屋の前に散らばったゴミを一人の黒髪ショートの少女―七咲 逢は鼻歌交じりに箒で片づけていた。

「・・・♪ん・・?あ!」

じりっという足音に気が付いた七咲は彼女特有の夜間の猫の様に大きな黒い瞳を持ちあげる。


―・・・。


「・・こんばんは」


七咲はこの「人」の名前と顔は知っている。「先輩」にこの前教えてもらった人だ。
近い将来、間接的にではあるがちょっとした「恩人」になる目の前のその少女の来訪を心から七咲は歓待し、


「先輩!先輩!?お客さんですよ?」


嬉しそうな声でおでん屋台の中でごそごそと雑務をこなしている少年に語りかける。しかし周囲の喧騒故か中々気付いてくれない。

「もう!先輩!?杉内先輩!?」

苛立たしそうに七咲は声をやや荒げると「ん~?」と言う声をあげて少年―杉内 広大はようやく振りむいた。


「先輩にお客さんですよっ」

「ん・・誰?って!ああ!たな・・・え・・?」

―・・・。

杉内は一瞬驚きで言葉を喪い、眼を見開いた。そして―


「・・わお」


短く軽くそう言うことしか出来なかった。


「先輩?おしごと、おしごと。です」


そんな彼に七咲が悪戯そうにやや放心状態の杉内に向かってそう促す。それで漸く杉内は調子を取り戻してこう言った。



「・・ご注文は?」
















終章 私のダメな奴

 

 

12月24日

 

 

昼―

 

 

「ぐう・・」

 

何時もとは異なる意味の「ぐう・・」を吐く直衛。顔色がさらに悪化。どうやらランチタイムの周りから香る様々な料理の匂いが彼の胃の腑を悉くヤバイ方に刺激するらしい。

 

「ちょっと・・ホント大丈夫?」

 

「・・安心して下さい」

 

「は?」

 

「は、吐いてませんよ・・?」

 

「吐いてみさらせ!一生ココ出禁にしてやるわ!!!」

 

色んな意味で涙声の声が出る。流石に店内で××されたら溜まらない。おまけに知り合い。・・さらにおまけに「コレ」が実際の所今の少女―薫にとって、最も大事な奴なのだから泣ける話だ。

 

―ホントどうしよう・・休憩終わっちゃうし・・。

 

「あの~~棚町さん」

 

そんな薫に同僚の子が話しかける。薫とこの不審者の大体の関係性はもう彼女にも解っていた。

 

「え・・。はい?」

 

「休憩中ゴメンね。ホール長と店長が棚町さん呼んでるよ」

 

「あ、はい。すぐ・・いきます」

 

 

 

 

 

「・・ほれ」

 

「・・はい?」

 

休憩中の着の身着のまま厨房に顔を出した薫に店長は千円札を二枚渡した。

 

「知りあいなんだろ?どーやら難儀しているみたいだからタクシーで送ってやんな」

 

「え・・」

 

「勿論君もついてけ、責任もって家まで送れ」

 

「は、はい!すぐ戻ります!本当に申し訳ありません!!」

 

「いいよ。戻ってくんな。その状態で仕事に集中できないんなら逆に迷惑だから」

 

「あ。う・・大丈夫ですよ!」

 

薫は今の自分の現状に改めて気付く。既に顔は上気して赤く、目は少し潤んでいる。よくよく自分の今の表情はとても仕事どころではないが強がった。しかし店長は首を横に振る。

 

「いいから。今日は。急なシフトイン頼んで悪かったな。薫ちゃんご苦労さん」

 

あくまで素っ気なく言い放った。

 

「てんちょ・・」

 

「何だ」

 

「ちょっとカッコつけすぎです」

 

「・・じゃあ変わりに一つ教えろ。アイツが・・薫ちゃんが言ってた例の奴?」

 

「・・はい・・」

 

「・・『アレ』でいいのか?」

 

テーブルに突っ伏しているお世辞にもエレガントとは言えない状態の直衛を見ながら店長はそう言った。店長は先日の自分の推測が完全な的外れだという事を理解した。人間一度は会う、もしくはせめて見てはみないと全く解らない物だ。そしてこう結論付けた。

 

―予想外の『アレ』な奴だ。

 

と。

 

しかし―

 

「はい」

 

何の躊躇いも無く当の薫は真っ直ぐ言い切って尚も付け加える。

 

 

「アイツじゃなきゃ・・ダメ・・みたいです。くやしいですけど」

 

 

「・・ん。そうか。ならいい」

 

「・・店長、オーダー入ります。・・棚町さんも行くなら早く行きなさい。忙しくなるんだから」

 

唐突に話に割り込み、相変わらず事務的にホール長はそう言った。

 

「はい!」

 

薫はこの店でバイトが出来て良かったと思った。

 

心の底からそう思った。

 

 

 

 

 

一方国枝宅にて―

 

―連絡が無い。大丈夫なのか。やっぱり・・せめて私もついていった方が良かったんじゃないのかな?

 

野暮だとも知りつつも。例え妹同伴でもあんな残念な病人をクリスマスの世間様に一人で寒空の中放り出すよりはマシだったのではないか。

 

国枝 直衛の妹―国枝 衛奈(えいな)はトントンとダイニングテーブルを人差指で叩きながら、左利きの手で鉛筆を握り、メモ帳に良く解らない円柱や立方体を描く。

それなりにイケてないが、それなりにガンバリ屋で努力家な自分の兄を結構気に入っている方の妹であるため、その心配もひとしおである。

 

―・・それでもアニキは一人で行くと言った。

そこは私にとって少し切ないトコだったけど、少し嬉しくもあった。

 

それは証拠だったから。

 

アニキがまた誰かと正面から向き合っているという、そしてその誰かもきっとアニキと向き合ってくれている事の何よりの証明だったから。

源さんや梅原さん達、男友達とはまた違う「誰」かと。その人と向き合って、自分と向き合っていることの。

久しぶりに見た。アニキの徹底的にダメなところ。あんな姿は本当に頑張って、悩んで、それでもどうにかしようと足掻いている時になるアニキ特有の欠点。・・情けない限りだけど。

 

でもそれはその事の証明なんだから。喜ぶ事はあっても悲しむ事は無い。

 

 

 

 

と、まだ小学生ながら極端に大人びた少女は心配しながらも、兄からの朗報を待つ。

 

その時、家の電話が鳴った。

 

―アニキかな!?

 

慌てて受話器を取る。

 

「アニキ!?」

 

『・・あ・・。国枝。俺。前田だけど。やっぱりクリスマス会来ない?林も来てるんだぜ?』

 

ゴゴゴ・・

 

少女の中で何かが燃え上がっていく。

 

―前田ァ!林ィ!あんっましつけぇと殺すぞ!?

 

発すれば青少年の心を確実にへし折り、トラウマクラスに発展する暴言を飲み込み、少女は必死に平静を保って

 

「・・ごめん。私、クリスマスは家族と過ごしたいから」

 

ようやくそれだけ言って握りつぶしそうになる受話器をなるべくゆっくりと妹は置く。

幸いにも犠牲になったのは握りしめていた鉛筆の芯の先だけだった。

その時―

 

どんどんどんどん!!

 

扉を叩く音がした。少女の体がびくっと痙攣する。呼び鈴を鳴らさず、なぜか玄関の扉を乱暴に叩く音がするのだ。

 

―え?

 

流石に不安になる。施錠しているのが幸いだったが、何とも気味が悪い。とりあえず玄関へ。

 

「どなたですか・・?」

 

恐る恐る玄関の扉に話しかける。そこはさすがに歳相応の怯えがあった。

 

「はあっ・・はっ・・開けて・・!」

 

息の上がった声で明らかに兄とは異なる声が扉の向こうから聞こえる。

 

―怖い。息が上がってるぅ・・!?変態!?

 

「・・お願い・・開けて。・・死ぬ」

 

「・・・!」

 

―「死ぬ」!?怖いよぉ。アニキ・・。

 

「・・ちょっと・・!アンタも何か言いなさい・・よっ!」

 

「ぐえっ。ちょっと・・薫。お前。今、それは!・・やばい!!・・うぶ・・やば・・」

 

「え・・・」

 

「吐く」

 

「え!?ちょっとぉぉぉ!!」

 

 

 

・・安心して下さい。

 

吐いていますよ?

 

 

玄関の扉の向こうの少女―薫の断末魔が聞こえた後、衛奈はようやくドアを開けた。

 

「おかえり・・お兄ちゃん・・。・・あ・・の・・こんにちは」

 

控え目に開いたドアの隙間から衛奈は顔を出し、残念な状態の兄を肩で支えたまま、半泣きの薫に一応形式通り挨拶をした。

 

「こんにちは・・こいつ運びたいからお願い・・手伝って。後・・まず何か口ゆすぐもの持ってきたげて・・?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とりあえず二階にデカイ「荷物」をお届けした配送員―棚町 薫を直衛の妹―衛奈は労うために居間に案内し、温かい紅茶を出す。何とまァ出来た妹さんだこと。

 

―私が小六の頃って・・どうだったかな・・?

 

昔のこととはいえ唐突に薫は不安になる。

 

「ゴメンね・・いきなり押しかけてバタバタしちゃって」

 

「ううん。あんな状態のお兄ちゃん連れてきてくれてありがとうございます。・・お世話に、そして大変なご迷惑を・・」

 

ぶるぶると大げさに首を振ってそう言い、さらに少女は続ける。

 

「あの・・・ちゃんとお兄ちゃんにはタクシー代払わせますから」

 

「あ。いーのいーの。気にしない気にしない」

 

さすがに金にはきっちりしている。兄の影響か。

 

「あの・・」

 

「・・『衛奈』ちゃん、よね?直え・・ううん。『国枝君』から色々聞いてるよ。私は・・」

 

「知ってる。・・棚町さん。『棚町 薫』さんですよね?何度かお兄ちゃん遊びに誘いに来てくれたよね」

 

「ん?そっか。覚えていてくれたんだ。嬉しいな」

 

「・・ううん。時々話してくれるし。お兄ちゃん」

 

「・・そうなの?」

 

―へぇ意外。

 

「結構楽しそうに話してくれる。学校の事とか源さんとか梅原さん、最近だと御崎さん、杉内さんとかのことも。薫も騒がしいけど面白い奴なんだって」

 

「・・そうなんだ」

 

何時もなら「騒がしいって何よ失礼ね」とか言いながら適当に直衛を殴るのだが、全くの第三者から直衛が話した自分の事を伝え聞くのは少し新鮮で照れくさく感じる。

同時に「案外ちゃんと『お兄ちゃん』してるんだな」って薫は感心した。

 

「・・・あ。そろそろ私帰るね。アイツも眠っちゃったし、折角のクリスマスの家族水入らずの日にこれ以上お邪魔する訳にもいかないしさ」

 

「え・・そんな折角来てくれたのに・・お邪魔なんて」

 

「いいのいいの♪紅茶御馳走様でした」

 

確かに直衛の失敗、肝心の日にこの有様で総スカンを喰らったのは間違いなくとも、薫は今満足だった。幸せだった。

結果は盛大に失敗とは言え実際に直衛なりに薫に何かしてくれようとしてくれた事。

それこそが一番大事。

 

「・・良ければお兄ちゃんの傍に居たげて下さい」

 

健気に妹は面目なく、さらに申し訳なさそうに言った。

 

「え・・」

 

 

「お兄ちゃんあの有様だけど、私も呆れたけど、嫌いになんないであげて・・ほしいです」

 

 

「・・うーん・・それは無理かな」

 

 

「・・」

 

 

 

「・・私がアイツを嫌いになる事は多分無理」

 

 

 

「え・・」

 

「・・でも!一回帰るね。あのバカ多分結構な『忘れ物』してるからさ」

 

「・・・?忘れ物、ですか?」

 

―あの馬鹿アニキ。また他にもトチってたのか。

 

「そそそ。大事な物。・・ふふん、話変わるんだけどさ。さっきの直衛が着てた上着何処かな?」

 

「上着・・?」

 

「うん。やたらサイズでかい軍モノのジャケット・・着てたでしょ?」

 

「それならそこに・・」

 

既にハンガーにかけられたそれを衛奈は指差す。それにご機嫌そうにトコトコ薫は歩いていく。

 

「ちょ~~っと失敬・・ふむ・・ぬー・・・・ん?あった!」

 

両手で直衛が着膨れさせていた少しオーバーサイズのアーミージャケットの両サイドのポケットを薫は両手で調べるとすぐ右側のポケットに手を入れ、中から黒い物体を取り出す。

 

「???」

 

―アニキの財布?

 

「大丈夫。何も盗らないから。借りるだけ」

 

そう言った薫はおもむろに何の戸惑いも無く直衛の財布の中を漁り始める。あまり褒められた行為ではないが彼女はその行為に全くの抵抗を感じていない。

 

いつもの薫であった。

 

「・・!・・や~っぱりね」

 

暫くするとそう呟いてニヤリと薫は衛奈に微笑みかけ、そして徐に取り出した「それ」を

衛奈にも見せる。

 

「・・!あ・・それ・・!」

 

「全く・・本当に肝心な時ダメダメな奴よね。これ忘れちゃったら更に台無しじゃ無い。・・ねぇ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕刻―

 

「う―」

 

直衛はようやく目覚める。気分は良くなったが相変わらず体はあまりいう事を聞いてくれそうにない。

 

時計の時刻は既に七時半過ぎ。外はもう真っ暗だ。ここに戻ってから既に五時間以上経過している。その五時間前がまるで遥か遠い昔の記憶のように感じる。自分以外誰もいない部屋の天井を見上げ、上半身だけを起してベッド越しの壁にもたれかかる。反動で強烈なめまいが襲う。

 

「あー・・なっさけねぇ・・」

 

これじゃあ創設祭にも顔を出せそうにない。源にも杉内にも茅ヶ崎にも顔出す事を伝えていたのに。自己嫌悪ここに極まれり、である。

 

・・何故寄りにも寄って「この日」に体調を崩すのか、いや「この日」だからこそなんだろう。これが自分だ。いっつもこうだ。

何時もはスカして、何でも出来るように冷静に振舞っといて肝心な時はこの有様。

いざという時に何も出来ない、頼りにならないチキン野郎。

・・さぞ呆れられたに違いない。中学の時と同じだ。何も変わって無い。

 

「薫は・・帰ってるよな」

 

そう言葉に出すとさらに投げやりな気持ちになった。

その反動で思いっきり体を乱雑に寝かす。

 

がつん!

 

と、ベッドの角で派手に後頭部を打ち、直衛は悶絶する。

 

「~~~・・・!!!」

 

直衛が見てて飽きないドジを繰り返している時、部屋のドアをノックする音がした。

隣の部屋で物音に感づいた妹が心配そうに声をかける。

 

「・・・?アニ・・お兄ちゃん?起きた?」

 

「・・ぐぎっ・・・寝てるよ~。」

 

「起きてんじゃん。お邪魔するよ~」

 

その言葉と同時妹はドアを開け、平静を装う兄に首を傾げながら問いかける。

 

「・・・大丈夫?凄い音したけど・・」

 

「・・大丈夫」

 

「・・頭打ったでしょ」

 

「・・・」

 

「・・ふふふ」

 

どうやら何時もよりスキの多い兄を大いに楽しんでいるらしい悪戯な笑みで妹は微笑んだ。

 

「・・母さんは・・?」

 

―話題をそらそう。うん。

 

「まだ帰って無いよ?さっき電話があってもう少し遅くなるって。お店がやっぱり忙しいみたい」

 

「ま、クリスマスだからな・・・あ!」

 

時間は七時半を既に周り、自分はこの有様。と、いうことは・・!

 

「あ。ケーキ・・!しまった・・!ゴメン・・衛奈」

 

流石にこの時間に小学生の妹を街にまで予約したケーキを取りに行かせる事はできまい。

 

「ああ。そのこと?」

 

「・・・」

 

「あるよ。もう既に。一階に。食べる?」

 

「え?」

 

 

 

「・・・あ、衛奈ちゃん。直衛起きた?」

 

 

 

「え・・・」

 

その声に応えず、ただこくんと頷いて衛奈はやや後ろに下がる。開けられた直衛の部屋のドアの空いた空間に衛奈はその人物を招き入れた。

 

―ハイ兄貴?今日の主役お披露目ですよ~~♪

 

 

 

「・・・。ぐっもーにんって・・もう夜か。全く!こんな日にもよく寝るヤツ」

 

 

 

やや薄めの化粧、膝までの長く綺麗なブルーのロングコート、白く清潔感のあるシャツ、綺麗に先端まで整えられた指先。癖は強いが独特のウェーブを持つ髪にそれらが程良くマッチしている。いつもと変わらない口調で直衛に悪態をつきながらも、瞳を薄く閉じて微笑んだドレスアップされた彼女は・・・別人だった。

 

「・・・!!」

 

対して寝間着姿のまま、じんじんと痛む後頭部をさすりながらも、目を離せずにいる自分がやたらと滑稽に感じる直衛だった。

 

 

 

 

五時間前―国枝家玄関にて。

 

「・・衛奈ちゃん。私にちょっと時間を頂戴ね」

 

靴を履き、玄関に片手をかけたまま薫は見送りに来た衛奈にそう言った。

 

「・・うん」

 

 

「女の子にはね。時間が必要なの・・特にこんな大事な日には」

 

 

「・・・」

 

 

「・・衛奈ちゃんもいずれすぐに解るようになると思う。願うようになると思うよ?」

 

 

 

―「大好きなヤツの傍に居る自分が一番綺麗な私でありますように」

 

・・ってね。

 

 

 

玄関の前で自分に背を向けながらも、ちらりと横顔を向けて微笑んだ薫の姿を見送った衛奈は心底カッコイイと思った。

 

 

綺麗だと思った。

 

 

 

 

 

―・・アニキには勿体ない人だね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前・・何処に居たの?」

 

「んー?とりあえずアンタの財布漁って、ケーキの引換券盗って、例の店でケーキ引き取って、一旦家に帰ってそんで・・・気合い入れて・・戻ってきた」

 

「・・・」

 

「その後・・アンタの様子見ながら・・って感じかな」

 

「何から何まで本当に悪い・・」

 

「・・・別にいいけど。衛奈ちゃんと交代だったし・・色々お話出来たし。やっぱいい子ね?アンタの妹。なんつっても可愛いし。あれじゃ男もほっとか無いんじゃない?これから大変ね、お兄ちゃん?」

 

「・・かもね。今日のお前ほどじゃないけど」

 

「・・アンタ熱でもあんの?・・あるか」

 

「・・ちゃんと本心だぞ。嘘偽りない」

 

「そ。てんきゅ」

 

漸く言った直衛のその言葉も軽く受け流しながら薫は微笑み、直衛のベッドの側面に背中を預けて座り、後頭部を白いシーツに預けながら上目越しに直衛を見る。

 

「どう?気分は?」

 

「・・だいぶまし。吐き気も楽になった。・・ありがとな」

 

「そ。よかった。食欲は?」

 

「・・軽いものなら」

 

「ケーキは?」

 

「・・苺多めにね」

 

「創設祭の水泳部のおでんは?杉内君のとこ顔出して買って来たんだけど」

 

「うっ・・それは・・無理かな・・」

 

「外はカリカリ、中はジューシーな七面鳥は?」

 

「ぐっ・・」

 

「肉汁滴るレアのローストビーフは?」

 

「・・・うぶ」

 

「・・・。クリスマスメニューはほぼ無理、か・・寂しいクリスマスねぇ・・」

 

「ごめん・・」

 

口を押さえ、顔色を青くしながら直衛は謝るしかなかった。

 

「いいよ。別に」

 

「・・・薫はどうする?俺の事はもういいよ。おばさんが心配するだろ」

 

「大丈夫。元々あんまり『帰る気は無い』って言ってたから、明日の朝にでもこっそり帰ってずっと居たように振舞うつもり」

 

「え!・・流石にそれは・・!まずいだろ・・」

 

「いいの!ここにいる」

 

「・・だからまずいって・・それ」

 

『今日の自分』に自覚があるのか、と直衛は言いたかった。が、次の薫の一言は説得力があった。

 

「ん!?すると何?アンタそんななりでアタシ襲えンの!?」

 

「・・無理です。返り討ちです。はい」

 

純然たる事実である。

 

「そ!だったらつべこべ言わず病人は寝てなさい。ほら額のタオルよこして」

 

「・・・」

 

押し切られ、直衛は渋々ながら額の白いタオルを渡す。「降伏」の合図だ。

 

 

「一人の女の子のクリスマス台無しにするんだもん・・これぐらい多めに見てよ。・・少しはいい夢見させてあげるからさ・・」

 

 

タオルを洗面器に張った水につけ、絞りながら視線を直衛に合わさず、流石に気恥ずかしそうに薫はそう言った。

 

―・・・。

 

ここまで言わせておいて、尚この有様の自分に腹立たしさだけが募ったが・・同時直衛の腹は決まった。

 

「薫」

 

「・・やっぱダメ・・?」

 

「衛奈呼んで来てくれるか」

 

「え?」

 

「俺の変わりにアイツに色々させるから。何でも言って?ちゃんとクリスマスしよう」

 

「え・・それは流石に悪いよ。ホントにダメなら・・ちゃんと私」

 

そう言いかけた薫の言葉を強引に直衛は遮った。

 

「悪いのは俺だけ。衛奈には今度ちゃんと埋め合わせしとくから・・ここに居ろ」

 

「・・」

 

「・・ここに居てくれ。お願いだから」

 

「・・いいの?」

 

「うん」

 

 

 

 

 

 

―果たしてこの借りはどれくらいのリターンがあるのかな?

 

そう思うと衛奈はわくわくした。

生まれる手間の割には相当の見返りが期待できそうな確信がある。

家の手伝いに、買い物に、食事に、勉強に、冬休みの宿題に、テレビのチャンネル権だって当分直衛は衛奈の思いのままだろう。

 

―だからいいよ。兄貴。今日はいくらでもこき使っても。

 

だからその変わり・・

 

決めてきてね?アニキ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二時間後―

 

 

「有難うね。衛奈ちゃん・・食事から何まで・・」

 

「いいです。おやすみなさい」

 

衛奈が直衛の部屋の扉をゆっくりと閉めた後、トタトタと階段を下りる音がした。

 

「ホント・・いい妹よね。貸し出ししてないの?割と本気で羨ましいんだけど」

 

「高くつくよ。アイツ金にきっちりしてるから。お前のバイト代で賄い切れるかね?」

 

「ふふん。私の稼ぎなめんじゃないわよ?」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

一通りのジャブの応酬後、両者膠着状態に陥る。一応さっきまで衛奈がここに居た為、空気が持っていた感が在ったのだがいざ二人きりになるとやたら緊張する。

 

「なぁ・・」

 

「・・ん?」

 

「何かこうしてると思いださない?俺がお前に殴られて保健室送りにされた日」

 

「ん?ああ~!」

 

―意外・・覚えてんのね。封印したい嫌な記憶だと思ってたのに。

 

「あんまり覚えときたくない記憶だけどね」

 

「・・」

 

―んがくっ。やっぱり覚えときたくないんかい。

 

「だってお前一言も謝んなかっただろ。それどころかずっと笑ってたし」

 

「だって笑うしかないじゃない。それともシリアスな顔してひたすら謝られた方が良かった?」

 

「・・悪いけど今思えばそんな薫が想像できない」

 

「ふふん。でしょうね・・って何威張ってんのよ!」

 

「威張ったのはお前だ。おい」

 

「ぷ。くくっ」

 

「・・・くくっ」

 

「楽しかったね」

 

「あー全く」

 

「それからはアンタを連れだして、引っ張り回して、引っ掻きまわして、その繰り返し。飽きるヒマなんて無かったな」

 

「・・そうかい」

 

「・・ただね?飽きなかったのはただ楽しいからだけじゃなかったよ?」

 

「・・ん?」

 

「・・それなりにイロイロ複雑なことだってあったんだからね。私にもサ」

 

「・・」

 

「ムカつく事も、腹立つことも、悲しい事もあった。そんなことも繰り返して・・それも全部ひっくるめてるからこそ『楽しい』って思えるんだろうね」

 

「・・悪い。それだったら今日は『ムカつく、腹立つ日』だよな・・」

 

「違うよ」

 

癖毛を左右に大きく振って明確に薫は否定する。

 

「・・」

 

「言ったでしょ。全部ひっくるめてこそ『楽しい』って。今日はそんな日よ。たった一日の事とは思えないほど色んな事があった・・アンタがダメな奴なおかげでね」

 

その言葉に直衛は応えられず痛そうに両耳を塞いだ。

 

「あははははは!!コラ!ちゃ~んと聞くの!・・・。でもね?今は楽しいし、嬉しいし・・」

 

「嘘ぉ・・そんな優しくしないで」

 

「・・ホントだって・・概ね最高の一日だったわよ?凄く欲張りな日・・かな?」

 

「・・・」

 

「直衛。私やっぱりアンタといると楽しい」

 

何時もは何でも無いように皆の前で振舞って、頼られて、認められて・・でも本当は内心いっつも気を張って、気を遣って、陰で頑張って、失敗する不器用で、でも堅意地張ってるガキンチョ。

 

それがアンタ。本当のアンタ。それを見せるのは私にだけ、私の事だけにして?

 

それこそが私の・・・ダメな奴。

 

 

 

「私ね・・アンタの事が好きよ」

 

 

 

―もう悪友、相棒、腐れ縁。そんな立ち位置じゃ我慢できないの。

「・・・」

 

「・・うつむいてないで何か言ってよ・・」

 

「悉くカッコ悪いな・・俺」

 

「・・今頃気づいたか」

 

「肝心な時にコレだわ、薫に似合わない事言わせるわ・・」

 

「うん、うん」

 

―全くよ。

 

「・・先越されるわ」

 

「・・・」

 

―・・・。

 

相手は気持ちを伝えた。ならそれに誠意を以て応えるのは当たり前。

しかし、当り前にしろそれは中々に難しい事。単純にして複雑。複雑にして単純。明確にして不明瞭。不明瞭であって明確。でも選択の余地は無い。

 

失いたくない。手に入れたい。傍に居たいのであれば伝えるしかない。

 

そもそももとより既に選択はしていたはず。それを伝えるだけだ。その程度なら今の自分でも出来るはず。

 

 

「・・『傍に居て欲しい』ってのは前に言ったけど肝心なトコが抜けてた・・考えてみるとあん時も今日と一緒で俺まともじゃ無かったんだな・・『上手く言えた、俺変われた』って勝手に思い込んでた・・でも全くの見当違いだったワケだ・・。ごめん」

 

「うん・・」

 

「あれは悪友とか相棒とか腐れ縁とか・・そんな枠で・・今のままで居たいからとかで言ったんじゃない。俺なりに変えたいと思って・・前に進みたいと思って言った言葉だから。何時でも薫と一緒に居たいって」

 

「・・アンタ結局肝心なところ抜けちゃうんだね。それじゃ一言足りない」

 

つ~んと口を尖らせ、薫は一旦突き放す。

 

「・・分かってるよ」

 

「・・ホント?」

 

「ホントだって」

 

「ホントにホント?」

 

「・・・」

 

信用ゼロ。しかしそう言われても仕方ない不手際続きの自分故に信用されなくても仕方が無いのかと直衛は塞ぎこむ。そんな直衛に

 

「ふふっ・・信じたげる」

 

薫は微笑んだ。

 

 

「俺も・・薫が好きだ。誰にも渡したくない・・

 

 

んで・・その・・よろしく」

 

 

―・・・いちいち語尾がよろしくない。

 

でも合格点。

 

・・ギリギリだけどね。

 

「うん・・・!!」

 

こつんと一瞬額を当てた後、彼女は両腕いっぱいに直衛に抱きつく。

 

「・・イテ」

 

「・・情けない言葉吐かないの」

 

「いきなり抱きつく・・てっ」

 

直衛の右肩に顎を乗せたまま、頭を直衛の後頭部に傾かせ、こちんと頭を当てる。

直衛の肩を枕にうつ伏せで眠るように眼を閉じ、大きく息を吸い込む。

病人でもやっぱり男の子だ。しっかりとした安心感のある頑丈な肩に頬を預け、右の瞳から潤んだ涙は直衛の冴えない寝間着の布に吸い取られていく。直前まで彼女を包み込んでいた期待と不安を象徴する涙の感触に自然、直衛の両腕は拘束を強くする。

 

「・・・!ちょっと痛いよ・・」

 

「あっ・・ごめん・・」

 

「・・・ううん」

 

「・・・?薫・・泣いてる?」

 

「泣いてない!」

 

「・・そ。・・・・。あ、薫」

 

「・・・ん?」

 

「雪。外」

 

「え・・ホント・・?」

 

肩に頬をのせたままほんの少し顔を動かして窓の外を見る。正直言うと今はあんまり窓の外などには興味が無い。

 

「ん・・・?よく見えないけど・・」

 

「そりゃこの体勢のままじゃ・・よく見てみろよ」

 

「・・やーよ。絶対離さないよーだ」

 

「・・いいからとりあえず見てみろよ。折角のホワイトクリスマスなのに」

 

「・・んもう。ムード無いなぁ・・」

 

渋々顔をようやく直衛の肩から離し、やや不機嫌そうな顔で薫は窓の外を見た。

 

―クリスマスに降る雪にムードを感じない女の子って一体・・。

 

そんな風に思いながら直衛は―「計画」の遂行を図る。

 

 

「ん・・・?ちょっとぉ・・よく見えないけど。ホントに降ってる?」

 

―・・・。は~~・・ようやく隙を見つける余裕が出てきた。

 

直衛はそう思った。器用に、素早く両手を薫の左の手に滑らせる。

 

「ん?何?ちょっ!・・・え・・?」

 

「・・・」

 

―・・ようやく一矢報いた感じかな。

 

真ん丸と見開いた薫の目線の先の薬指には銀色の一筋の線が入っていた。

 

「あ・・?え・・?なん、で・・?」

 

「・・『何で』と言われましても」

 

「嘘・・何これ」

 

「・・嫌?」

 

「どして・・?」

 

・・・ここは変に言葉を交わさず、呆気にとられている薫の反応を楽しむべきだと直衛は判断した。無言で少し微笑む。

 

「・・・」

 

―む・・中々可愛いかも。よかった・・。

 

二週間前―日曜 

 

某デパートにて。

 

「ダメ!アニキ遅い!」

 

「・・そう言うなって。そもそも・・妹の指にリングはめるのに抵抗ない兄なんていんのかよ」

 

妙な視線を感じる。まぁ仕方ないだろう。明らかにまだ年端のゆかない子供の指にリングをはめる高校生の男の姿など危険な匂いしかしない。好奇の視線を前に

 

「俺ら兄妹で~~す」。「リハ中で~~す」。「決してそんな関係ではありませ~~ん」的な引きつった笑いを周りに振り撒きながら直衛は悪戦苦闘していた。

 

「・・リングのデザイン選んでくれただけで十分だって・・衛奈」

 

「何言ってんの!!!肝心な時にとちっちゃうチキンハート持ちの癖に!体に覚え込ませるしかないじゃない!はいもっかい!!」

 

「リハーサル」とはいえ妹のあまりに早すぎる左薬指に指輪がはまった光景は中々に兄にとって切なすぎる光景だった。

 

 

 

 

現在―

 

「なんか・・してやったり感がムカつく・・」

 

「結構涙ぐましい練習したんだぞ・・でも・・流石に狙いすぎたか・・?」

 

「・・・。何でサイズがぴったりなの」

 

薫は左薬指にはめられたリングを右手の人差指と親指で大事そうに撫でた後、直衛から目を逸らしながらようやくそう聞いた。

 

「・・・。屋上で指の間にキスしたろ。あの時にこっそり測らせて貰ってた」

 

結構前の事である。

 

「うっわ・・・変態。策士。むしろ詐欺師。な~にが『紳士の嗜み』よ。キモチワル~~イ」

 

「ぐ」

 

ぐさり

 

「え・・でもさ・・じゃ、じゃあ・・・?」

 

―「あの時」から?

 

疑問の言葉は形を成さず、歯切れ悪く続く言葉を失うが、直衛はその薫の意図を把握した。

 

「・・・。俺は・・少なくとも薫の事をここ一日、二日で好きになったつもりは無い」

 

「・・・!・・・」

 

直衛の意外な言葉に大きく目を見開いた後、上気した顔を覚ますように目を逸らしながら癖毛をくしゃりと薫は掻き上げる。先日までの様々な葛藤が馬鹿らしくなるような色んな疑問、不満点が湧いてくるが浮かされた頭の熱でそれも蒸発していく。

 

「アンタさ・・やっぱり熱あんじゃないの?」

 

―今の私もそうだけれども。

 

「いや。在るかも知んないけど一応は正気・・だと思うぞ?」

 

「これさ・・夢とかだったりしない?

 

 

―12時になったら・・シンデレラの魔法で・・解けちゃったりしない?」

 

「・・!!うっわ・・お前がそんなセリフ吐くなんて・・キモチワル~~イ」

 

「な、何よ!!私だってそんな気分に浸りたい時だってあんのよ!?第一ね!アンタがいつもハッキリしないから私がこんな似合わない、ハッズカシい台詞言うハメになってるんでしょうがっ!!解ってンの!?」

 

「・・すんませんでした」

 

本気で直衛は心から謝罪した。卑屈なほど凹んで。

 

「ちょちょちょっ!そこまで露骨に凹まないでよ!!」

 

流石に行きすぎの直衛の凹み具合に薫も慌てる。そして呆れた顔で深呼吸。上気した顔を覚ましてこう言った。

 

 

「・・いいよ。別に・・。アンタのそう言うとこ含めて私は好きになったんだし」

 

 

 

相棒、悪友、腐れ縁。

二人の関係性を表す言葉は今までも数多かった。それに関して二人はそれなりにベテランではある。が、今しがたお互いの気持ちを確認し、生まれたばかりの新たな自分達の関係性に関しては互いに素人もいいトコである。お互いの額についた「初心者マーク」を確認し合うように無言で額を寄せ、瞳を閉じる。

 

「これからよろしくお願いします」

 

そう言いたげに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―あのさ?直衛。

 

―?

 

―私今更になって解った気がする。聞いてくれる?

 

―・・。

 

―そして・・忘れて・・?いつもみたいに。

 

―・・・。

 

―ひとり言だから。

 

―・・・。

 

―解った事って言うのは・・お母さんの再婚の事。・・そして誰かが人を好きになる気持ちってヤツ・・。

 

―・・・。

 

―アタシにはアンタがいてくれた・・そしてお母さんにはあの・・あの・・

 

言葉に詰まった薫を直衛は当てた額をぐりんと首を動かす。励ますように彼女の言葉を促す。

 

―・・・うん。お母さんにも新しいあの人がいるんだよね・・。大好きな人がいるから頑張れたり、落ち込んだり、・・あの時のお母さんみたいに笑えたりするんだよね・・。

 

―・・・。

 

―まぁそれはそれ、これはこれ、だけどね。所詮私から言わせればあの人は他人だし。そんな簡単に割り切れるほど私は大人じゃないっての。でも・・解った以上は・・もう少し私・・大人にならなきゃなんないと思う。

 

―・・・。

 

―もともと逃げるために真剣に考え始めた私の進路も、この事にちゃんと決着付けてから考えるから。もう言い訳や逃げ道になんかしないから。

 

―・・。

 

―色々迷惑かけちゃった・・ごめんね。・・ありがとう直衛。

 

―・・・。

 

―直衛?

 

―・・・。

 

―・・寝ちゃったか。

 

深く寄りかかった直衛の上半身をゆっくりと倒し、そっと顔に触れる。熱もだいぶ下がった。多分明日にはすっかり治っているだろう。小さく「おやすみなさい」と言って、薫は掛け布団に潜り込んだ。

 

―ちょ~っと失敬。アタシ床はヤダかんね♪

 

体中に包まれた大好きな人間の匂いと緊張に最初は戸惑ったが、直に疲れもあってか心地よい睡魔に襲われ、薫は意識を失った。

 

 

 

「・・・」

 

一方直衛の眼は冴えていた。

薫の先程の一言一句を耳に、心に留め、深く刻みたいと思った。これぐらいの事しか今は出来ない。残念ながら「忘れろ」という約束は破る。守れない約束だ。

かといって自分に出来る事は無きに等しい。所詮自分はまだまだ半人前。改めて世界で最も大事になった少女に今出来る事など高が知れている。

 

ただ。

 

ひたすらに「傍に居る」というこの約束は絶対守って見せる。

 

そう誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




―数ヵ月後・・

「・・なぁ薫」

「・・なによ」

「今日・・急な用事を思い出したんだけどお暇していいかな」

「・・却下します」

繁華街外れの小料理亭個室。清掃の行き届いた個室には直衛と薫の二人。
「高校生にしては贅沢な会食だな。」と、勿論そんなわけはない。その証拠に二人は向かい合わせにならず、なぜか横に並び、座布団に正座をしている。その表情はひっじょ~にカタい。そして二人の向かいには机を挟んでこれまた二つの横に並んだ座布団が敷かれている。

「・・薫」

「ん」


「何で俺がお前のお母さんの再婚相手との初顔合わせの会食に参加しなきゃならないんだ・・?」


「おお直衛!!ぴったしカンカン~~!!」

驚く事にこれを薫は直前まで直衛にオフレコにしていた。

「マジか!やはりか!!勘弁してくれ!!」

「ちょっと!!逃げないでよ!!私だってすっごい気まずいのよ!!」

「抜き打ちでホンットこれは無いって!!胃が!胃がやばいんだけど!?」

「だって絶対断るでしょ!?アンタ!?」

「ちょっと保健室に・・」

「現実を見なさい!!ここは学校じゃない!そして最早小洒落た小料理亭でもない」

いや・・小料理亭だが。それでも薫はこう言い切った。

「ここは既に戦場よ!!」


「戦場ならせめて召集令状は送ってくれ!『ウフフ。直衛?ご飯食べにいこ❤』みたいな軽い感じで誘いやがって!」

「つべこべ言わず座るの!もう遅い!」

「うう・・」



規格外の抜き打ち行事に頭をフル回転せざるを得ない直衛の姿にくすりと微笑んで薫はこう言った。



「・・いいじゃない。ほら私達って恋人同士でしょ?


楽しい事も辛い事も半分こよ!!」



「・・おっしゃ。『気不味い事』は含まれてないんだな?あ~~残念だな~~契約外だわ~~」


「屁理屈ぬかしてんじゃないわよ!!」



そんな二人のいつものやり取りの中、背後から人の気配と衣擦れの音がしたかと思うとカラリと障子の扉が空く。

―あ~~あ来ちゃったよ。

―いい加減覚悟を決めなさい。

そんなヒソヒソ話を終えた後、直衛は背筋を正した。臨戦体勢。何だかんだ言いながらも気持ちは切り替える。眼の眼に現れたのは自分にとって大事な人間を生れた時から支え続けてくれた恩人、そして片や新たな家族になってくれる人だ。これからも自分が彼女の傍にいるならばいつか訪れる当然の時―それが思いがけず早く来ただけの話だ。



―・・そうそう。アンタはそうしている時が一番カッコいい。



薫はそう頼もしげに直衛を見た後、自らもきっちりと背筋を正し、しっかりと前を向いた。


「こんにちは。初めまして・・私が娘の薫です。母がお世話になってます。で・・隣のコイツが私の・・









―ダメな奴です。











                           ルートK      終


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ルートK 裏話

今回の話の最初の説話。原作でも似たようなイベントが本当に―






・・在る。










ルートK裏話 1 喧嘩は止めて 二人を止めて 2

 

 

放課後

 

吉備東高校屋上―

 

既に辺りは夕暮れに包まれ、部活動の威勢の良い掛け声、吹奏楽部の楽器の音色が僅かに響くのみ。とても静かな場所だ。

 

ここに二人の少女が立って居た。

 

 

ここでは彼女等のプライベートを考慮に入れ、名前は双方の名前のイニシャルを取り、一人を「K」、もう一人を「K子」と呼称する。

 

 

K「何よぉK子?いきなりこんな所に呼び出して・・」

 

K子「ごめんねK・・いきなり呼びだしちゃったりして・・ちょっとはっきりさせたい事があったんだ」

 

K「・・?はっきりさせたい事ぉ?それも妙にアンタには似合わない神妙そうなカオしちゃってまぁ・・。いいよ。親友の私に何でも話して御覧なさい!」

 

 

 

K子「ねぇ・・私・・国枝君のこと本気になっていいかなぁ?」

 

 

 

K「・・・!・・本気?」

 

K子「うん。私、彼が好きだよ。Kに負けないぐらいにね」

 

K「・・。どうやら冗談とかそう言う事じゃないみたいね」

 

K子「うん。私はこういう事冗談で言わないよ。・・Kなら解ってるでしょ?」

 

K「ええ。『一応』親友ですから。それにこう見えて私敵意には敏感なの」

 

K子「ふふっ。よかった・・『冗談でしょ?』って笑い飛ばす程、Kがおニブさんじゃなくて・・」

 

K「っ・・!へえぇ・・?まさかK子に挑発されるなんて思っても見なかったわね。それ・・『宣戦布告』って意味でいいのよね?」

 

K子「わぁ。正しい意味でとってもらえるなんて嬉しいなぁ」

 

K「何度も言わせないで?『敵意には敏感だ』って言ったでショ?二度言わないと解らないぐらい脳味噌お花畑なのかしら?相変わらずK子は」

 

K子「ふふっそんなにムキにならなくても・・。あんまりカッカしてると私に盗られる前に肝心の国枝君に嫌われちゃうよ?そうなったらつまらないじゃない?」

 

K「・・それもそうね。でも安心して?そんなドジ踏まない。今まで通りアンタとは表向き態度を変えたりしないから。その方がアイツに心配かけなくて済むし」

 

K子「あ。それ賛成。そうしてくれると助かるか、な・・」

 

K「・・アンタも真面目ね。わざわざ宣戦布告なんかせず水面下で色々やった方がアンタにとって得だったんじゃないの?正直私、K子が私からアイツを盗ろうとするなんて考えもしなかっただろうし」

 

K子「・・言葉にしなきゃわからないことってあると思う。相手は当然として、他でもない自分自身の覚悟や決心を自覚するのにね。それに・・Kこそ案外脳味噌お花畑じゃないの?」

 

K「・・?どう言う意味?」

 

K子「『敵意には敏感』って繰り返す割には国枝君にモーションかける私の意図を読み切れないまま、国枝君をいつの間にか盗られる事が怖かったの?だとしたら拍子抜けだな~」

 

K「・・。ま。遅かれ早かれ気付いただろうけど・・でもアンタが本当に『本気』だと私が自覚する前に色々やれたかもしれないのにね?それを放棄したその余裕・・アンタ後悔するわよ?それとも・・案外考えが及ばなかったとか?あ!だったら御免ね~~K子~~?」

 

K子「・・・。うん。敵として本当にKを嫌いになれそう。嬉しいなぁ。これでエンリョしないで済む」

 

K「奇遇ね。私もよ。でもそもそも・・アンタ遠慮できるほどアイツとの距離近くなくない?アイツ・・アンタの事なんて多分何とも思ってないわよ?」

 

K子「・・・。『今は』そうかもしれないね。でも・・相手がKなら私にもチャンスはある―そう思ってる。第一これでもし私が国枝君をKから奪えたらKは屈辱だね?死んだ方がいいんじゃない?」

 

K「・・。はっ。いいわよ?・・もしアンタに、万が一、億が一アンタに直衛が盗られたとしたら・・」

 

K子「・・したら?」

 

 

 

K「――――アイツ殺して私も死ぬわ」

 

 

 

K子「あっは!?それはズルイよ、クズだよ~~K~~~でも・・」

 

K「・・?」

 

 

 

 

K子「・・奇遇だね。私もそのつもりだった。もしKから国枝君を盗れなかったら私も生きてる意味ないし」

 

 

 

 

 

K「あっはははは!!!!私達さすがに『元』親友ね・・気が合うじゃない」

 

K子「正直今のKと『気が合う』なんて吐き気しかしないけど・・事実だから認めるしかないかな・・」

 

K「そんなに照れなくてもいいじゃない。・・でも同感よ。正直吐きそう」

 

K子「うふっ・・・」

 

K「あはっ・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

―うふふふふふ・・・あはははははははは!!!

 

 

 

 

―あはっ・・・あはははははははは!!

 

 

 

 

 

ルート「K」の真実―

 

 

 

ここに―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごあっ!!!!!????」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

がばっ!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

「はぁっ!はぁ・・・・っ!!はぁっ!!はぁっ!!!」

 

 

 

 

―な、なんて・・

 

 

 

 

 

 

夢だ。

 

 

 

 

 

三時限目、休憩時間の2-A教室の自席にて国枝 直衛・・覚醒。

全身から吹き出す脂汗、煩いほど波打つ心臓、顔面蒼白のまま直衛は肩で息をしながら

頭を抱える。

 

 

―お、恐ろしい・・。どちらにしろ俺の死は確定事項だった・・。

 

 

 

「女子二人に取り合われる」と言う男冥利に尽きるも「自意識過剰な夢だ」と割り切るにはヘンな所突飛で、ヘンな所リアル過ぎる夢だった。

いつもは完全覚醒まで時間のかかる直衛の睡眠状態を一気に振り切ってしまうほど衝撃的な夢であった。

これをもし朝の目覚まし時計の「機能」にでも出来る技術が開発されたら恐らく日本から「寝坊」と言う言葉が消える。

 

 

―しょ、商品化しようか?多分一生食っていける。

 

 

直衛がそんな風に考えつつほっと胸を撫でおろしていると―

 

 

 

「おっす直衛~~おっはよ~」

 

 

 

 

「――――!!!」

 

 

(ぎゃああああああああああ!!!!)

 

 

声にならない声が直衛の中で木霊する。

少女け・・い、いや、薫が直衛の背後より声をかけ、声にならない叫び声をあげている直衛に

 

 

「わっ!?な、なに!?」

 

 

一歩退いて怪訝な顔をする。

 

 

「少女け・・、い、いや、なんだ・・薫か」

 

「・・・『少女毛』・・・?いや、それよりも『何だ』とは失礼ね。って、げ・・!?アンタ『また』何よ!?」

 

振りむいた顔面蒼白、脂汗を掻いている直衛を見て更に薫は一歩後ずさり、慄きながらこう言い捨てた。

 

「あ、アンタ・・か、顔が、顔が微妙に悪いわよ!!!?」

 

「・・」

 

「・・『色』を諸事情で省いたんだけど」

 

「・・その『色』が物凄く大事なんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

「―で、どうしたのよホント。また体調崩したの?相変わらずひ弱なガリ勉君ねぇ」

 

「・・」

 

「『半分』お前のせいだ」。と、直衛はのたまりたいが流石にそれは理不尽が過ぎる。

 

 

そう「半分」は。

 

 

 

 

「あ。国枝君!・・さっきの時間のノートありがと―」

 

 

 

「あら、いらっしゃい恵―」

 

 

「―――!!!」

 

 

(ぎゃああああああ!!!!!!)

 

 

 

もう「半分」。襲来。

 

 

 

「う、うわぁ!?国枝君!?」

 

栗毛、ショートカットの髪を揺らしながら跳ね上がる少女けいk・・い、いや田中 恵子が国枝から一歩遠ざかる。

 

「あ。あ、あぁ・・・少女けい・・・い、いや田中さん・・」

 

「・・?う、うん。別にいいけど・・大丈夫?本当に。国枝君・・」

 

「ちょっ・・恵子の言う通りよ・・アンタ本当に大丈夫・・?」

 

「・・・」

 

 

 

 

 

―・・・・例え「自惚れ」とは解っていても。

 

敢えて言わせてもらう。願わせてもらう。

 

 

 

・・歌わせてもらう。

 

 

 

 

わ、私の為に。

 

 

あ、争わないで~~~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルートK 裏話 2 朝日を見に行こうよ

 

 

 

 

「・・・?」

 

 

過去問題集を自宅の自室の机の上で三問ほど解いた後、少年―国枝 直衛は窓の方を見る。

 

―何か窓に当たった、か・・?

 

季節が夏であれば直衛の部屋の明かりに吸い寄せられた虫か何かが窓にぶつかってしまう事など良くあることだがまだ季節は冬。おまけに時刻は最早二時半を回っている。冬でもある程度活動できる鳥か何かでもないだろう。「・・気のせいか」と考え、再び直衛はペンを走らせる。が―

 

 

こん・・

 

 

「!」

 

 

やはりなにかが窓に当たっている。「何者か」の意図で。これまた季節が怪談に向く季節であるのならば不気味な現象に違い無いのだが繰り返すがまだ季節は冬である。特に恐怖とか好奇心とか大したそんな情動も無く、淡々と直衛はペンを置いて窓に歩み寄り、からりと開け、周囲を見回す。

 

 

「・・・!」

 

 

そして目を見開いた。

 

 

 

―お~~~~い。気付いちくり~~~。

 

あ。気付いた!お~~~~い。直衛~~~?

 

 

 

そんな声を上げたくともこの真夜中の時間帯故に張り上げられない声にもどかしさを感じながらも精一杯健気に自分の存在をアピールするように両腕を挙げ、ぶんぶんと振りまわしつつ飛び跳ねる一人の癖っ毛の少女が国枝家の前に立っていた。

 

 

―薫?何でこんな時か・・。・・!

 

 

直衛は白いセーターの上に壁にかけている細身のモッズコートを羽織り、寝ている家族を起こさないようにゆっくりと階段を降り、音が出ないようにこれまたゆっくりと玄関を開ける。

その隙間から徐々に姿が見えた少女の眉は申し訳なさそうに内側に曲がり、口の形は「ごめ~~ん」の言葉を象っている。

 

自宅の玄関を締めきり、屋内への音の侵入の心配をしないでいい段階になった時に直衛は足早にこんな時間に訪ねて来た癖毛の少女のもとに駆け寄る。相も変わらず少女は申し訳なさそうな顔をしており、直衛を眼の前に迎え入れた瞬間に言う言葉を既に心に構えて待っていた。

 

「直衛。ごめん!」

 

そんな彼女の用意していた言葉を―

 

 

「薫!ワリ!」

 

 

意外すぎる少年―直衛の言葉が遮った。少年は既に頭すら下げている。長い髪が揺れ、風呂に入った後の特有の清潔な香りがする。

 

「へ?」

 

眼をまん丸と開いて薫は目の前の光景に言葉を喪う。「なんで?」という言葉を顕在化させるのにやや時間を要した。

 

 

「なんで・・アンタが謝るの?」

 

 

「・・。確か今日からお袋さんと新しい旦那さんの婚前旅行だろ?・・悪い。寂しかったろ?・・・俺から電話するべきだった」

 

 

「・・・!!」

 

 

―・・ああ。直衛。

 

そんな事言われたら私泣きそうになっちゃうよ。・・嬉しくて。

気持ちが通じて嬉しい。・・さっきまで不安だったんだから。こんな時間に突然押しかけて勉強してるだろうアンタに嫌な顔されるんじゃないかってサ?

 

なのに。

 

―こんな優しい言葉言われたら。

 

 

 

 

「・・うヴ~~」

 

 

いつの間にか口を震わせ、涙と鼻水だらけになっている顔を隠す事もせずに薫は直衛の前に立ちつくした。

 

 

「薫・・その・・涙は拭いてやりたいんだけど・・」

 

「・・びまぶく(今拭く)」

 

「え」

 

 

ずびびびびびびび!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は~~すっきりした!!鼻が通るってすんばらしい~~~」

 

薫は意気揚々と綺麗な冬の星空を仰いで大きく鼻で息を吸う。

 

「・・よかったね」

 

対照的ににゅとりと自分の首元にかかった大量の涙交じりの鼻水を拭きながら直衛は仏頂面で呟いた。

 

―うう・・高かったんだぞ・・このコート。おまけに買わせたのお前なのに・・。

 

 

「てんきゅ!!直衛のおかげで鼻も、もやもやしたのも全部スッキリした!!」

 

「・・。元気が出て何より。さて・・どうする?・・俺の部屋に入ってもいいけど・・」

 

「・・う~ん。・・・正直結構さっきのアンタのお陰で私受け入れ態勢万全になりかけてるし。その・・色んな意味で」

 

「・・結構グイグイくるね・・」

 

「・・アンタのご家族も居るし流石にマズイでしょ?だから・・どうしよか?取り敢えず温かい個室は色んな意味でヤバイって事でして・・私んちも、カラオケもヤバイかな・・」

 

「・・だったらファミレスかどっかっで時間潰すか」

 

「うん。いいよ!って・・あ!!」

 

「・・?どした」

 

「駅前の24時間のファミレス三月のリニューアルオープンの為に改装中だ・・」

 

「あ~そうだったか・・」

 

「・・ああ・・JORSTERを24時間営業にする様にてんちょと掛合あえばよかった・・」

 

「・・店長さん過労死するぞ」

 

 

 

 

「・・歩くか」

 

 

取りあえずの直衛のその一言に薫は頷き、

 

 

「うん!」

 

 

二人は真夜中を歩きだす。

 

 

 

雑談を交えつつ歩き、コンビニに入って薫の好きなファッション雑誌を手に取り、今季の狙いの春物商品を見据え、温かくなったらこれを着て何処に行こうかと今度は旅雑誌や情報誌にシフトする。

 

「あ~でもないこ~でもない」「あ。これ、いい!」「いや、・・ない」「ならこれ」「・・う~ん」「これでどうだ!」「・・ありかな」「よし決まり。次」

 

こんな感じの話で二人の時間は結構早く進む。少し大学生っぽい夜間のバイト店員に迷惑そうにされて会話のトーンを落としたりして時間は過ぎ、最後にお詫びの意味を込めてホット飲料と軽食を買って後にする。

 

金のかからない有意義で、有効なコンビニの利用方法であった。

 

 

吉備東公園―ベンチにて

 

「はい。私の奢り」

 

ホットコーヒー缶を直衛に手渡し、「私はこれ~♪」とコンビニの袋からスパゲッティの容器と肉まんを取りだす少女―棚町 薫。

 

「こんな時間に・・太るぞ」

 

「大丈夫。私動くし」

 

そう言って満面の笑みで麺を啜り出した。

 

「ん~~。んまい♪」

 

「・・ちょっとくんない?」

 

「断る!私のディブレっくふぁーすと(「ディナー」と「ブレックファースト」を混ぜた薫言語)は渡さん!」

 

「・・・」

 

―スパゲッティみたいな髪型しやがって・・共食いしてんじゃねぇ。

 

げしっ!

 

「いて!」

 

「今なんか頭の中で私の悪口言った!!絶対言った!!」

 

 

―・・スパゲッティ頭ながら勘が良いな。

 

 

 

五分後―

 

「ふ~~喰った喰った♪で、今何時?」

 

「・・五時前。何だかんだでだいぶ時間潰せたな」

 

「でも・・まだ暗いね・・」

 

「後一時間後ぐらいかな。夜明けは」

 

「一時間か。・・アンタは眠くない?」

 

「大丈夫。今日は休日だし、一回帰って寝ればいいしな。・・今度はちゃんと俺から連絡するから」

 

「ん・・。ホントありがと」

 

この二人はお互い休日とはいえ忙しい身である。直衛は予備校、薫はバイトである。

バイトで疲れて帰った家に誰も居ない事に居たたまれないまま一人飛び出した薫を優しく迎え入れてくれた少年に薫はそっと寄り添う。

 

「・・。例え避けてても。気まずくても。会話なんてなくても・・それでも『家に誰かが居る』って事と『本当に誰も居ない』ってのは全然違うね?・・サミシイ」

 

「・・そうだな」

 

「・・またアンタに迷惑かけちゃった。この埋め合わせはちゃんとするからさ・・」

 

「・・ならスパゲッティくれよ」

 

「や~だ」

 

「・・」

 

「ふふ」

 

 

夜が明けたら取りあえずは一旦お別れだ。

一人きりの夜の静かさに寂しくて、嫌気がさして飛び出しておきながら今は夜明けの訪れを億劫に感じる、なんて勝手な話だ。いつもながらの自分の気分屋具合に今日に限って薫は嫌になる。

 

 

「・・行くか」

 

「・・」

 

―もう行くんだ。夜明けはまだ先なのに。

 

でもその方がいいのかもね。

 

 

夜が明けて陽の光が射す―それが離れる合図になるぐらいなら、むしろその時間が訪れる前―暗い内に別れてしまった方がいいのかもしれない。そう薫も考え、

 

「りょ~~かい」

 

しっかり立ち上がる。

 

 

しかし―

 

「・・。今から出掛けたら丁度いい時間にあそこに着けるかな」

 

「・・・え?」

 

「薫。お前の好きなあの場所―河川敷に行こう」

 

 

 

―・・あ。

 

 

 

「薫―

 

 

 

朝日を見に行こうよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・・私はきっと。


ううん、絶対。


この日見た光景を忘れないだろう。そして隣にアンタが居た事を。
そしてアンタが私にかけてくれた言葉、一言一句たりとも忘れない。



―・・。今日みたいな朝日でもこの前みたいに夕日でも・・雨の日だって良いや。

・・また来よう?薫?・・一緒に。




何の変哲もない。決して特別水が澄んでいる訳でもない。何処にでもある風景。



でもここにしかない私の、私達だけの世界で一つだけの風景。

お父さん、お母さんとの家族との思い出の場所。

そして大切なアンタとの場所。


「・・・」

思わず私が言葉を失い、顔を伏せたのは綺麗に差し込んだ陽の光が川の水面に反射して眩しかっただけじゃない。とても目を開けていられなかったからだ。



嬉し過ぎて。

幸せすぎて。

涙が止まらなかったから。



でも。

顔は上げるよ。決して今の私は綺麗とは言えない顔だと思うけど。

・・しっかり目に焼き付けておくから。この風景も。アンタも。全て。






―また見たい。アンタと見たい。

そう思う為に。


そして今度はアンタの言葉をそのままそっくり私が言うの。



・・直衛?







「朝日を見に行こうよ」




って。














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ルートS & R 6,7





ルートS 6 中多と愉快な仲間達

 

「うん!上達したね~」

 

ほんわかとした桜井 梨穂子の笑顔が中多紗江を包み込む。

 

「あ、有難うございます・・桜井センパイ」

 

その笑顔を前に中多は何故か顔が赤くなってしまう。

先日、太一が桜井を紹介してくれた。食に並々ならぬこだわりを持つこの女性教官は中多がバイトの面接を予定しているJOESTERの人気メニューを網羅したツワモノである。彼女から中多はそれらの発音を教わっていた。中には結構噛みかねん複雑な名前もある。

 

オーダーを客に聞き直す、オーダーを調理担当に詳しく伝えるなど、商品名をちゃんと把握しておく事は結構重要だ。元々声が小さい中多にさらに普段滅多に言葉にすることのない料理名をいくつも連呼する事になるのだからコツは掴んでおいて損は無い。

そして桜井は聞いてもいないのに季節によって出やすいメニューやおススメも丁寧に教えてくれた。それに関しては現店員である棚町以上の知識である。彼女曰く「もうお前が勤めたらいいのではないか?」というツッコミは無しで、との事だ。

 

「ふっふっふ~私から教える事はもう何もない。自信をもっていきたまえ~・・ってね~」

 

「桜井先輩・・いろいろと有難うございました・・」

 

ぺこりと小さな頭を下げ、中多は改めて桜井を見る。

ぷくぷくとふくよかであったかい雰囲気を持った優しい、反面茶目っ気やつっこみどころもあって、一緒に居るとこっちまであったかくなる、包み込むような不思議な女の人だと中多は思う。

元々女子校に通っていた中多は何十人もの女生徒と関わってきたがこういう人には出会った事が無い。確かに自分に優しく、頼れる包容力のある女性は居ない訳ではなかったのだがそういう先輩の幾人かが決まって自分に独特のモーションをかけてくる。

 

どこか・・少し恐怖を覚える様な「その手」の独特の。中多を一人の女の子ではなく、何か可愛い小動物を見つけた時の様な・・どこか好奇に満ちた目をして。

最初の頃はマイルドだったスキンシップも日に日に過剰になり、耳に息を吹きかけられたり、唇に触れられたり、胸をまさぐったりと結構過激な場合もある。

 

しかし、桜井には全くと言っていいほどそういう物を感じない。自分に全く見返りが無くとも、自然に人を想い、考え、助ける事が出来る。

「なんで人を助けるの?気にかけるの?」とでも聞かれたら、「ん~その人が困っているからかな」と本心で言える少女だ。男性に対してはともかく、「その手」の女性に対しての嗅覚は鋭い中多の鼻も全く危険を認識しない少女―それが桜井 梨穂子である。

 

―・・御崎先輩と仲いいのが解るなぁ。

 

不思議な事に中多の中に嫉妬心は全く生まれない。有無を言わせず信じさせるような菩薩のような桜井の笑顔を見て中多は癒される。

・・同時自分の母親には一生期待できない違った愛情を注いでくれそうだ。とも。

 

この先輩には好きな人がいるそうだ。

 

それは先日自分の訓練に付き合ってくれたあの大きな体をして一見怖いけど、静かな男の人―茅ヶ崎 智也先輩だ。

訓練とは言え、怖がらせた事を後でこっそり謝ってくるような多分・・いやきっと優しい人。改めて話してみるとなぜか童謡の「森のくまさん」のフレーズが頭に浮かんできた。きっとあの歌と自分達が同じ状況になったら寸分たがわぬ同じ展開になるだろうな、と。

・・流石にお礼で一緒に歌う事はないだろうが。

 

―音痴だしなぁ。私。

 

 

二人の関係は幼馴染と聞いた。中多が大好きな少女漫画の数々でよく聞く言葉だが、そういうものに全く縁の無かった中多は不謹慎ながらも羨ましいと思った。が、現実はやっぱり色々な苦悩があるらしい。「余りに近すぎて踏み出すのも怖い、引くのも怖い」だ、そうだ。あまりにも昔から側に居たせいで。単純に失う事が怖いらしいのだ。

 

それでも桜井は頑張っているらしい。誰よりも気心の知った相手を信じ続け、愛し続けることで自分をいつか「幼馴染」でなく、「一人の女の子」として見てもらえるように。

気が長く、ゆったりとした時間が流れている桜井らしい。

しかし反面一途で一本気、大胆さや派手さは無くても根本に流れる想いは限りなく熱く、冷める事は無い。人を「想う」行為で誰もが真似できる物ではない。例えその「想い」が叶わぬとしてもそれでもきっと彼女は「想う」のだろう。想い続けるのだろう。

 

「・・・」

 

優しい笑顔と、純粋な心の奥に秘めた強い意志、覚悟を感じ取って中多は心から彼女の恋の成就を祈った。

 

 

 

「それで・・中多さんは太一君とはどうなのかな・・」

 

「・・・へっ?」

 

桜井の唐突で意外な質問を前に中多は目を一瞬丸くすると同時にぼんっ!と沸騰した。サイドで結わえた髪が跳ね上がる。その反応を見て桜井は

 

「な、なんて聞いちゃったりして。あ~~・・そ、その、ほら、私っていつも聞いてない事もついつい喋っちゃってその・・智也との事も中多さんにうっかり喋っちゃったし・・?だからその、良かったら中多さんの事も話してくれるとうれしいなぁ・・って思って・・あ~ごめん!私なんかに話しても~だよねっ!」

 

胸の前でバッテンをして、目も×マークにして恥ずかしそうに「今の無し!忘れて!」と必死でアピールする桜井の姿は同性で、年下である中多すらも「か、可愛い」と自然に口に出るほどのあたふたぶりだった。そしてその姿を見て中多はふぅっと息を吐き、微笑んだ。

 

―はぁ・・・何でだろう、桜井センパイには何でも話したくなっちゃうなぁ・・。

 

ただその笑顔は少々桜井を誤解させてしまったようだ。

 

「うぅ・・その顔は馬鹿にしてる顔ですよ~!!ひどい、ひどいよ~」

 

「え!そ、そんなことないです!ご、誤解ですよ~」

 

結局は二人してあたふたした。そんなやり取りが三分ほど続き、「とりあえず落ち着こう」とお互いに深呼吸をした時だった。

 

周りに居る人間は最初はひたすら食い物の名前をお互いに連呼していた状況から打って変わり、二人真っ赤な顔で音に反応してクネクネ動くダンシングフラワーの如くお互いの言葉に反応して忙しくあたふたしている光景に変わり、そして最終的にスーハ―スーハ―一緒に深呼吸している一連のやりとりを見て

 

―この二人は何をやってるんだろう。知りてー・・。

 

と、そんな目をして注目をしている事に二人は気付き、真っ赤な顔でそそくさと二人はテラスから場所を移す。

 

 

 

裏庭・・ベンチにて。

 

「そりゃあ居たたまれなくなって出ていくワケだわ・・」

 

一連の事情を聞いた桜井の同級生で親友の伊藤 かなえは中多、桜井の二人を呆れた仕草を交えながらこうバッサリ断罪した。

 

「メンボクないです・・かなえちゃん・・」

 

「お騒がせしました・・」

 

「・・ふぅ・・ところでさ・・お二人さん?」

 

「・・?」

 

 

「・・私も混ぜなさいよその話!ここなら見てる人もいないし思う存分あたふた出来るわよ!?」

 

 

同じく全員片思い同士、感ずるところがあったらしい、伊藤も先輩としての威厳を崩壊させ、中多に迫った。そして片思いの相手に対するノロケ、愚痴、不満を肴に三人は昼休みの尺一杯費やすこととなる。

 

 

―・・・「片思い」?

 

そっか・・やっぱり私は・・御崎先輩が好きなんだ。

 

小さくて、かわいいけど優しくて、でも意外に度胸があって・・私の・・王子様なのかな?

 

茅ヶ崎は「くまさん」。御崎を「王子様」。中多 紗江の思考は基本、メルヘンと少女趣味で彩られている。

 

 

 

そんな物思いにふける中多の肩に突然がっしと掌が置かれ、ひゃっと中多の喉が汽笛を上げる。伊藤の右掌が中多の左肩を捉えている。

 

「む!」

 

その言葉と同時に伊藤は今度は中多の右肩を左手で掴み、ぐいと引き寄せる。少し恐怖で顔をひきつらせる後輩の少女にさらに伊藤は顔を寄せ、

 

「いい!!中多さん!?」

 

と、まず一喝。

 

「はいっ!?」

 

「自分に自信を持ちなさい!!大丈夫!!貴方なら!!」

 

「・・。そう・・でしょうか・・?」

 

「ん!!!何せ貴方は顔も可愛いし、小さくて、もう男がどうしようもなく『守ってやりてぇ~』と、思う様な雰囲気してるの!!少し頼りない所も逆にプラスポイントだわ!その脅えた目もいい!!」

 

「か、かなえちゃ~ん。中多さんが脅えてますよ~っ」

 

「桜井は黙ってる!!」

 

くわっ!!

 

「・・はい」

 

しゅん・・。

 

「それに中多さん?貴方はね・・・」

 

「・・?わ、私は?」

 

「貴方はね・・」

 

そう繰り返した後、伊藤は黙りこくって視線を下げる。そして伊藤の言葉を真剣な表情でうるうるおめめで待っている目の前の少女の首よりやや下の二対の「モノ」を見る。

 

「・・・」

 

そして自分の「モノ」を見た後、今度は親友―桜井の方を振り返る。その視線も「モノ」の位置だ。その行為の真意に気付かない後輩、そして親友の少女は

 

「・・?」

 

「ほえ?」

 

目を真ん丸にしながら?マークを頭から出す。その能天気な反応、そして「非情な現実」から目を逸らすように伊藤はがっくりと視線を落とした。

 

「・・・」

 

―だ、ダメだ。口に出すと私が凹みそう・・・。

 

「い、伊藤先輩?」

 

「と、とにかく!な、中多さん貴方はいい『モノ』を持ってる!大丈夫!」

 

伊藤は「モノ」が何かは具体的には言わない。と、言うより言えない。

 

「は、はい!!」

 

「打倒御崎よ!御崎が何よ!」

 

「は、はい!御崎先輩がナニですかっ!?」

 

 

―ぎ、疑問形?

 

桜井は混乱する後輩の少女と親友の暴走を敢え無く見守っていた。完全に蚊帳の外である。

 

「ダメダメ!いつまでも『御崎先輩』じゃ!!名前の『太一』で呼ぶの!!ほら、『太一!首洗って待ってろよ!』はい!復唱!」

 

「た、たたった、たひっ・・ひち・・ム、むむむ無理です!!!」

 

 

「・・・」

 

―ああ・・難しい料理の名前とか簡単に言えるようになったのに・・。

 

桜井はさっきまでの二人の特訓の成果が無駄になった様な物悲しさを感じる。

 

「ええい!仕方ない!!せめて『太一先輩』と呼びなさい!!」

 

「た・・たい・・たひちせん・・ぷぁい・・」

 

「よろしい!!」

 

 

―え・・今のでいいの?かなえちゃん厳しいけどやっぱり優しいんだなぁ・・ははは。

 

桜井も妙な所で何時ものように暴走し始める。基本常識人の伊藤が暴走した結果、現状この場はツッコミ役の人材不足に陥っている。

 

「桜井!アンタもぼけ~っっとしてないで来るの!!」

 

「ええぇ~っ私もやるの?」

 

普段ボケ専門の桜井が急遽伊藤のツッコミに回るレアな光景が展開される。はいはい、と困った顔で桜井は頷きながら

 

―たぶんかなえちゃん・・「彼」とのことで何か嫌な事在ったんだろうなぁ・「彼」・・智也より鈍感だからなぁ・・。

 

親友の複雑な心情を読み取って苦笑いした。

 

そんな場に―

 

 

 

「あの~盛り上がっているとこ悪いんだけどさ・・」

 

 

 

「「「へっ?」」」

 

 

「ちょっと~いいかな~?」

 

 

そんな声が三人の向こうから響く。そこにはやや遠慮がちに三人のやり取りを見守っていたらしい癖毛の少女が立っていた。

 

「・・あ。棚町さん!?」

 

「ち~っっす・・今、忙しいかな・・ちょっと中多さんに話したい事があるんだけれども」

 

語尾の「あるんだけれども」をわざと棒読みにして、少し緊急性の高い用事である事を現れた少女―棚町 薫は匂わせる。

 

「ど、どうぞお、お構いなく~棚町さん。ってかアタシらも席外そうか?」

 

伊藤は気まずそうだった。親友の桜井、学年の違う中多はともかく、隣のクラスでなにかと顔を合わす事も多いが友人と言うほどの関係では無い棚町 薫にあの光景を見られたのが少し気不味い。

 

「あ、ありがとう。でもお構いなく。中多さん・・?ウチのバイトの面接の日程が決まってね?三日後の放課後・・急で悪いんだけど予定は大丈夫かしら?」

 

「三日後・・ですね。はい!お願いします!!」

 

「解った。店長にそう伝えとくね。じゃ頑張ってね!応援してるから!ぐっどらっく!」

 

親指を立てて彼女らしく爽やかに締めくくった。

 

 

 

「ところでさ・・」

 

「?」

 

「今色々御三方話してた事色々聞こえちゃって・・その~・・ゴメン」

 

「あ、そだったの~?いや~お恥ずかしい~~」

 

伊藤は本当に恥ずかしそうだった。

 

「で、さ?・・そ、その言いにくいんだけど・・」

 

「な、何かしら?」

 

「・・・ぜて」

 

「え?」

 

 

 

 

「混ぜて!!私もぶちまけたい!今日恵子が逃げ出して発散の相手がいないのよ!!」

 

 

 

 

「・・・!」

 

「・・・!」

 

中多、桜井絶句。

 

「・・・!!よおおっし!来いや!」

 

棚町参戦。中多が憧れ、尊敬していた先輩―棚町もこの連中の「同族」だったのだ。

 

「本当もう・・直衛が何よ・・いっつも肝心な時に寝くさって・・それにいっつも無愛想で!こっちがどんな想いで・・あ~ちくしょ~~!!」

 

「そうよそうよ。男なんて・・ホント優しくないよね!!ね!そう思うでしょ!桜井!?」

 

「え?そう?智也はいっつも優しいよ?」

 

「空気読め!今の話の流れの空気を!あんたは『そうだよね』って頷いていればいいの!」

 

 

 

 

 

 

―・・素敵な先輩たち。

 

 

中多は三人のやりとりを見ながらほんわかと笑い、そう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7 硝子の王子様

 

 

 

 

「・・紗江ちゃん」

 

「・・はい」

 

「僕弱いね」

 

「そ、そんなことありません!た、太一先輩は・・太一先輩は・・」

 

「・・・ううん。いいんだ。何よりも僕がそう思いたいんだ・・今は」

 

 

―・・!

 

目を伏せたままの太一に中多は声をかける事が出来ない。

もどかしい。

落ち込んでいる大好きな人にまともな声をかけられず、いつものようにただもじもじと手をこまねく事しか出来ない今の自分が。

 

―何で私はこうなのだろう。口下手で他人の優しさにいっつも甘えて、助けてもらって震えるだけ・・。

 

沈痛な面持ちでしゅんと目を伏せた中多の心と次に太一が泣きながら発した言葉が完全にシンクロする。

 

 

「紗江ちゃん・・僕ね?昔から『弱くて良い』と思ってた。『弱さは罪じゃない。力の無さは罪じゃない』って・・言い聞かせてた。例え僕が弱くても・・僕の替わりに強い人がいつも最後は守ってくれる・・そんな風に考えてた」

 

 

―・・私と一緒ですね。私もいっつもパパと・・ママに助けられて、守ってもらってます。

 

 

「でも!!こんなに・・!こんなに弱い事が辛いって思わなかった!!悔しいって思わなかった!!僕を思って頑張ってくれた強い人に対して何にも出来ないのがこんなに辛い事だって僕・・思わなかった!!!!」

 

 

歯を喰いしばり、泣きじゃくる太一を見ながら、中多もまた涙を流す。

 

 

 

 

 

 

 

数週間前―

 

 

 

「はぁ~~い!太一君。お久しぶり!・・・最近その子よく連れてるね?ひょっとして・・・彼女?」

 

少し派手目の蛍光ピンクのインナーをこの初冬のこの寒空の中でも胸元の開いたシャツの隙間から覗かせる茶髪の少女が太一にひらひらと指先だけで手を振り、声をかける。

 

形よく盛り上がった胸、健康そうなやや浅黒い肌、高校生にしては少し濃いめの化粧にやや厚めの唇と肉惑的な魅力を持った少女であった。太一を見る長く毛先まで整えられた睫毛の下に光る瞳もやや艶を帯びている。

 

「ああ。由亜(ゆあ)先輩。お久しぶりです」

 

太一はそのベイビーフェイスを崩すことなく、その視線を受け流す。

「この手」の人間に彼は馴れていた。普通に友達として付き合う分には問題ない。しかし、決して恋愛対象にしてはいけないタイプと理解している。

 

「太一君は『好き』。でもそういう『好き』じゃないの」

 

この「由亜」と呼ばれた少女―こういうタイプである。興味本位から距離は比較的簡単に近づけてはくれるが太一のようなタイプには一線は越えさせてくれない典型的タイプだ。常に二、三人は付き合う、若しくはそれに近い間柄の男友達は居るがその枠に太一は決して入る事はない。

 

「・・・」

 

太一が色んな同学年、そして一つ上の三年生の女子からよく声をかけられる光景を中多は見てきた。が、その中でもこの少女は結構異色なタイプだ。

 

敢えて言うなれば中多がエスカレータ制の女子中、高校時代に居た、中多に「過剰なスキンシップ、モーションをかけてくるタイプ」によく似ている。故に少々中多はこの先輩が苦手だ。すっと脅えたように中多は太一の背に隠れる。

 

「あららら。隠れちゃった~か~わいっ。よかったらさ?今度三人で遊びに行かない?その子ちゃんと紹介してよね」

 

「はい。先輩が本気なら是非」

 

「あらららら。可愛くなくなっちゃたね~太一クン?ま。いいや。じゃあねぇ~~~♪」

 

この少女は非常にさばさばした性格だ。人間関係は出来るだけドライ。本気にされると距離を離したがる故に意外にも行動にしつこさは無くあっさりしている。但しその分ちょっと気に入った相手に接触してくる割合と回数は多め。最近は太一+その彼とよく一緒に居る中多に興味を示しているようだ。「面白そうだ」と感じた子ならこの手のタイプは同姓で在ろうと異性であろうと見境は無い。ある意味得な人柄である。その度に中多は脅える羽目になっている。

 

「行こう紗江ちゃん。七咲さん待ってるんだよね?」

 

太一はその度に軽く、手早いやり取りで彼女をあしらい、話を打ち切ってすぐ中多を見てくれた。その姿に不安げながらも上目遣いで不器用そうに微笑む彼女を太一が笑う―そんなルーティンを最近繰り返している。

 

 

そんな光景を由亜―本名 堂元 由亜は横目で見ながら

 

 

―・・ふ~~ん。どうやら今回はそれなりに本気みたいね太一君。「年下の女の子」ってのは意外だわ~・・な~~んかお気に入りのコ盗られちゃった気分だケド。ま、いいわ。せいぜいお幸せにね~~♪

 

嫌味も負け惜しみも無く、それが堂元の本音で在った。良くも悪くもこの堂元と言う少女は「去る者は追わない」。盗られたからと言って奪いに行くほどの執着が無いのがある意味美点ではある。

 

 

しかし―

 

彼女にも「好き嫌い」はある。この性格、そしてルックス故に言い寄ってくる男子には不自由しないがそれでも誰かれ構わず常に愛想を振りまくほど彼女はボランティア精神に溢れてはいない。彼女なりの「一定の水準」を超えたメンツを数撃ち、その過程で「コイツはちょっとな」と思った相手にはそれなりに冷たくあしらって関係を切る。

その点を考えれば自分の性格が時折メンド臭い事態を招くことが在る事にちょっと彼女は反省している。自分だけがその被害の対象になればまぁまだいいのだが時にそれが特に罪の無い他人に類が及ぶ点だ。

 

そして「特に罪の無い他人」―それが今回の御崎 太一、中多 紗江、そして彼の友人たちであった。

 

 

 

この堂元と言う少女―この独特の魅力故にファンは多い。中には思い込みの激しい奴も居る。自分が彼女にあしらわれた原因を「自分自身」とは思わずに全く関係の無い他者にその矛先を向けてしまう奴もいる。

 

 

堂元 由亜―あの子といつも親しそうに話す二年生のいけ好かないチビ―御崎 太一。

 

 

 

 

―アイツ。気に入らねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

その数日後であった。

 

 

「・・・!?」

 

正直最初はワケが解らなかった。昼休み、一人太一が廊下を歩いている時、後ろから羽交い絞めにされた。梅原や杉内等クラスメイトの友人にこれに近い事をされた事が無いわけではない。が、太一はすぐさま彼等のそれとは違う不穏さに気付く。

 

「・・・」

 

乱暴で陰湿。冗談と本気の間に存在する一線―加減がない。微塵も友好性は感じられない細い腕に巻きつかれ、声も上げられないままずるずると太一は中庭に引き摺られていった。そこに連れて行かれる過程だけでも解る。「これは何かやばい」、と。明らかに人目につかない場所に連行されている。

 

「う・・!げっほ!!・・・あ、な、一体何・・」

 

ようやく解放され、振り返りつつ下手人を双眸に映す。しかし、

 

―・・・!誰だろう・・?

 

下手人は背の高い男子生徒であった。背は高いが同時に首から脚に至るまで細い。細くて奇妙に白い首は蛇みたいに横筋が走っており、おまけに猜疑心と妬みに溢れた上目遣いの細い眼を持っている。人相からはお世辞にもいい印象は持てない。

 

おまけに太一にはその男子生徒は一切見覚えが無かった。

当然である。その男子は先述した堂元 由亜のクラスメイト。つまり三年の男子だ。接点はない。面識もない。

 

「・・・『誰だ』って顔してンな?」

 

太一の疑問を見透かしたように男子生徒が口を開いた。嘲るような口調で冷たく太一を見下ろす。

 

「あの・・どなたですか?」

 

やや脅えを含んだ目、そしてなるべく相手を刺激しないようにここまでの乱暴にされた経緯に対する当然の非難の感情をなるべく込めないように太一は努力した。が、無駄だった。

 

みしり…

 

返事の替わりに顔に飛んできた骨ばった拳の感触に太一の眼の中にちかちかと星が舞い、気付いた時には地面が目の前に在る。吐息で巻きあがった土の香り、それが口の周りに呼気の湿気によってべたべたと張り付く。

 

 

「あ・・!だだっ・・ぶっ・・ぷっ!」

 

 

「・・知る必要ねぇよ。とりあえず・・まぁ殴られてくれや?うぜぇから。お前」

 

 

「くひっ」という笑い声と共に言葉とは裏腹な汚れたスニーカーの靴底が太一の黒いブレザーにくっきり靴痕をつける。

 

しかし―

 

 

―・・・。なんだ。

 

 

 

殴られた事によって意外にも太一は安心していた。この男子生徒の浅く、薄っぺらな感情と彼の目的がはっきりしたからだ。

 

 

 

 

 

―・・別に。

 

 

 

「初めて」じゃないし。ちょっと・・「ご無沙汰」だっただけだ。

 

 

 

でも・・やっぱ痛いや。

 

 

 

 

確かに太一は中多にとっては「王子様」かも知れない。が、残念ながらハンサムで背も高く、頭脳明晰で、そして悪い魔女をやっつけるような腕っぷしも強い童話に出てくる白馬の王子様など居る訳がない。

 

小さくて弱い。それ故に理不尽な目に遭ってもそれを耐え忍ぶ他ない王子様も中には居る。

 

 

 

 

 

 

 

 

蹲ったままどのくらい時間が経っただろうか。唐突に太一の体から衝撃が止んだ。

 

「・・?」

 

顔を守っていた両手のガードを太一はおずおずと開けると同時―

 

 

 

「・・何やってんすか」

 

 

 

低い、しかし力強さと意志の強さを根拠もなく確信してしまうような声が聞こえた。

 

 

 

 

―・・ち、

 

 

 

 

 

ちが、・・崎・・くん?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルートR 6 硝子の王子様 2

 

 

 

 

 

2-E教室にて―

 

「ど、どう・・かな?茅ヶ崎君・・」

 

自席に座りながら相変わらず少々おっかない雰囲気を纏いながら両手に持ったノートを無言で少年―茅ヶ崎 智也は「ん・・」という訝しげな声を出した後にノートを机の上に開き、右手に持ったペン先でノートの一節をなぞる。

 

「・・ここ。代入する所で間違えてる。こっちは・・途中の掛け算をミスってるだけ」

 

「わわわーとんでもない初歩的ミスじゃん!お騒がせしました・・」

 

「・・ケアレスミスで混乱しただけじゃねぇかな。冷静に見直せば大丈夫だと思う」

 

「・・。うん。ありがと!茅ヶ崎君」

 

―す、すごい。茅ヶ崎君って頭いいんだ・・・。教え方も静かで少し怖いけど・・上手だし。

 

最近雰囲気が少し変わった智也からダメ元で数学を教えてもらったその2-Eの女生徒はその指導の的確さと丁寧さに舌を巻いた。

意外にも成績は学年中60番台をキープしている智也。だが普段のイメージ故「カンニング等の不正をしているのではないか」という根拠のない噂もあったがそれが全くのデマである事が女生徒には解った。

 

高校入学後、とりこまれた不良グループの連中の勉強を見てやったこともあるため、教えることも実は上手かったりする。

 

智也のイメージは遅まきながらも徐々に彼の本質に追随しつつあった。

静かすぎて少し近寄り難い。が、実は人格者で一見ぶっきらぼうな言動や行動の端々にどこか温かみと思いやりをもつ少年という本質。梅原、杉内、そして梨穂子等、一部の友人達が知る「彼」を回りもまた理解しつつある。

 

「智也~。失礼します・・あ」

 

ただそうなると少し切ない思いをするとある少女が出てくる。彼女にとっては嬉しいこと―とはいえ彼女にとって同時少し複雑だ。

 

「お。・・桜井」

 

「・・・。あ、・・ごめん智也。お邪魔かな」

 

智也と現在向かい合わせで勉強を教えてもらっていた女生徒の姿を見て梨穂子は一歩後ずさる。

 

「あ。アタシの方がお邪魔かな?気にすること無いって~」

 

時折、このクラスにやってきては声をかけ辛い智也に度々親しそうに話しかける別クラスの少女―梨穂子は後半クラスでは結構な有名人だったため、勉強を教えてもらっていた少女は気を遣って向かいの席をたつ。

 

「あ・・俺の説明で解ったかな・・?」

 

「うん!ありがとね。茅ヶ崎君!また・・解らない所あったら教えてくれる?」

 

「ああ・・どうぞ」

 

「うん!じゃね。ごゆっくり・・」

 

喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。相当に複雑そうな表情をしながら梨穂子は女生徒を見送り、直ぐに振りかえって大きな真ん丸い目で「じと~~っ」という音が出そうなくらいまじまじと智也を見た。

 

「どした?」

 

そんな少女の情動を知ってか知らずか相も変わらずいつもの鉄面皮を貫く少年。

 

―くそ~~。茶道部に連れ込んで美味しいお茶とお菓子、そして温かいコタツでまどろめばスキを見せてくれるのに~~。

 

「おい?梨穂子」

 

「は!はい?」

 

「桜井」からいつも通りの名前に呼び名を変えてくれたのが嬉しい。同時自らの単純さに内心梨穂子は呆れる。

 

「いや・・何か用か?」

 

「あ~いや~その~えっと~・・・あはは」

 

「用を忘れたとか?」

 

「ち、違いますよぅ~・・その~」

 

「何?」

 

「・・智也。もう十一月だね・・」

 

「・・?そうだな?それが・・どうかしたか?」

 

「へへへ・・」

 

梨穂子は苦笑いしながら頭を掻いて誤魔化す他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二時間前―

 

2-A教室にて

 

「そうなんだ・・」

 

梨穂子はしゅんと肩を落とした。そんな梨穂子を向かい合わせになった梅原がすまなさそうに見る。

 

「わりぃな・・桜井さん。俺も何度かアイツを剣道部に誘ったんだけど悉く断られてこの前とうとうタイムリミットになっちまった・・」

 

吉備東高校剣道部の決まりで、入部を受け入れる上限は「二学年の十月末日」までとなっている。十一月に入り、智也が剣道部に入部する道は完全に断たれた。

 

「ううん・・何度も誘ってくれていたの知ってるから・・・有難う梅原君」

 

「アンタの権力でどーにかなんないの?梅原君?」

 

腰に手を添えて不機嫌そうに眉をしかめる話に混じっていた梨穂子の親友―伊藤の言葉に困った顔で梅原は

 

「無茶言うねぇ香苗さん。ただでさえ最近幽霊部員気味の俺にその要求は酷ってもんよ。それに何と言っても選ぶのはアイツ自身だし?・・頑なに拒否し続けられた以上、俺にはどーする事も出来ねぇよ」

 

お手上げポーズで梅原は首を振る。

 

「そこは男の子なんだし・・叩き伏せて引きずってでも連れて行ったら良かったんじゃない?『馬鹿―っ!!!お前はそれでいいのか!喰らえ友情パ~ンチ!』的な?」

 

物騒な事を言う少女―伊藤 香苗。こういう気の強い所はクラスメイトの棚町 薫と同じ気配を梅原に感じさせる。余談だが先日の一件でこの二人が結構マブダチになったことを梅原は知らない。

 

「・・それこそ無茶だぁ・・腕っ節強いんだよアイツぁ・・帰宅部最強じゃねぇかな?」

 

 

 

 

 

 

―現在

 

 

 

「大丈夫か・・御崎」

 

「あ、はははは。茅ヶ崎君・・ありがと・・・あ。イタ!」

 

「口切れてるな・・」

 

「あは。大丈夫。ハンカチあるから・・あれ?ゴメンやっぱ無いや・・ははは」

 

小さく、華奢な少女のような細い手で御崎はハンカチを智也から受け取る。彼の左頬には痛々しい浅黒い痣が出来ている。本人は大したこと無いようにアピールしているが未だ足元がおぼつかない事を証明するように尻餅をついたまま茅ヶ崎を見上げていた。

 

校舎横、裏庭

 

五分前―

 

「・・何やってんすか」

 

「あぁ!?お前には関係ねぇだろ?あっち行けよ」

 

御崎に更なる追い打ちを入れようとした痩せぎすで目付きの悪い男子生徒はその風貌に全く沿いすぎな程の粗暴な口調で智也の制止を一蹴しようとした。が―

 

「でも・・俺そいつに呼ばれてたんすよ。一向に現れないんで探していたんです」

 

智也に特に逡巡は無い。

 

「嘘言ってんじゃねぇよ。ここが人目につくわけねぇだろが。第一俺がこのチビここに連れてきたんだよ」

 

「成程。わざわざこんな所まで連れ込んだんすね・・人目避けてまで何していたんですか?」

 

「関係ねぇって言ってんだろが!!失せろ!」

 

凄んだようにやや上から智也を見下ろす恐らく三年生であろうこの男子生徒に智也は全く怯まなかった。

「小物臭い」と智也は決定づけた。チャチな台詞回しが虚勢を張っている証拠である。

これで大抵の人間が怯むと思っているらしい。

 

「・・・」

 

智也は敢えて無言で応対した。眉一つ動かさずに。気圧されて言葉がでないのではない事を圧倒的に相手に知らしめる沈黙だった。

 

「ちっ・・」

 

―コイツ・・面倒癖ぇ・・。

 

徐々にその男子生徒は智也の後ろをチラチラと見始めた。この場を去るタイミングを窺っているのである。

彼には大した決心も覚悟も無い。ただの鬱憤晴らしに多大なリスクを払う度胸は無い。

そして智也の前を堂々と通り過ぎる器量すらない。智也の予想を遥か上回る小物だった。

 

「・・・」

 

「・・っ!!あにすんだよ!!」

 

埒が明かないので智也はその男子生徒の手首を掴む。握ったほそっこい手首から大した力は感じられない。見えるのは弱々しい決意と何の研鑽や努力の証拠すらない「棒きれ」のような腕だった。払うように後ろにその生徒を腕と一緒に追いやる

 

―さっさと行って下さい。これが望みっしょ?

 

そう言いたげに男子生徒から智也は背中を向けた。と、同時急速に背後の気配は足音と共に離れていく。最早興味は無かった。

智也にとって関心事とは気のいい彼の友人の梅原、杉内の2-Aクラスメイト、御崎の事だけだった。

 

 

 

 

 

再び現在―

 

 

「大丈夫か・・御崎」

 

「はは・・ホント情けないよね。まだ膝が笑ってる。殴られたのが効いてるのか、未だビビってるのかどっちか解んないや・・いや・・どっちも・・かな?」

 

小さな少年、御崎は切れた口を痛そうにひきつらせながらも助けてくれた智也に笑顔を向ける。

あの上級生の態度からして明らかにこの少年に非は無いだろう。だが「その手の理不尽な被害」を被る資質が彼にもあるのかもしれない。そこの所は性格も、見た目も全く正反対と言っていい智也と御崎の共通点でもあった。

 

「特に話は・・聞かないでおこうと思うけど、このままで大丈夫なのか?」

 

「うん。大丈夫!ありがと。茅ヶ崎君」

 

そう言って小さな少年は微笑む。長い「経験」の中で彼はこの手の被害が一時的なものか、それとも暫くは継続する厄介なものかを判断する基準は出来ている。

さっきの上級生は完全な前者タイプだ。一時的な鬱憤を晴らしに現れた暇人にすぎない。

 

智也はまだ心配そうに溜息をつくと御崎に渡したハンカチを受け取る。ハンカチを受け取りながらも御崎は口に付いた血を拭かなかったため、ハンカチはまだ白いままだ。

そして汚れた制服を払う御崎を待っていた。

 

―とりあえずあの変な奴が戻ってくるかも知んねぇし、暫く俺もここで待つか・・。

 

この智也の判断が少々拙かった。

 

いつ「来た」のか解らない。智也も全く気づかなかった。

気付いたのは制服の汚れを払い終わった御崎が智也の方を見て、「あっ」と声を上げたと同時に自分の右手の制服の袖にかかる僅かな重みがきっかけだった。

 

―え?

 

思わず振り向くと少し柔らかい香りがした。

 

「・・・!」

 

そこには御崎よりもさらに小さい背をした栗色の髪を両サイドで纏めた少女がいた。余りに小柄な上にうつむき加減のせいで智也からは表情が見えない。しかし、彼の袖を掴む少女の小さな手がぶるぶる、がったがた震えている事から容易にその少女の精神状態を推し量ることが出来る。・・怖いのだ。それでも少女はその小さな手を袖から離そうとしない。

 

「・・っ!」

 

流石の智也も驚いて絶句した。

そして掛ける言葉が見当たらない智也を尻目に小さな少女は声を絞り出すように吐く。

その声は手と同じ周期で震えていた。が、気丈にも袖を掴む力は少し増す。

といっても智也が簡単に払いのけた先程の男の上級生に比べても、遥かにひ弱で小さな力である。だが智也が振り払う事は不可能だった。

 

「そ・・の・・た、太一先輩をいい、苛めないで、く、くだ、下さい!!」

 

御崎 太一の後輩―中多 紗江が瞳を恐怖と不安で塗り固め、最早半泣きになりながらも気丈に智也をしっかりと見上げる。その姿は物理的な力を遥か超えた拘束力、強制力が備わっていた。

 

 

「な、中多さん!茅ヶ崎君は僕を―」

 

御崎は必死で弁明した。自分の声が言い訳に聞こえないように必死で真実を少女―中多紗江に伝えようとする。疑念が生まれないように。少女がねじ曲がった真実を受け入れないように。

 

智也の名誉を守らなければならない。自分をついさっき救ってくれた少年の恩を誤解という仇で返すなど御崎が受け入れようはずも無い。

 

「え・・、そ、その、だって・・センパイ・・その・・血・・ううぅ」

 

少女は智也の手から目を離し、駆け寄った御崎の話を俯いていた顔と背筋をちゃんとあげ、不安そうな表情をしながらもきちんと聞いていた。

 

 

その後、御崎の懸命な弁解もあり、少女は落ち着いて自分の誤解を認識。そして誤解が解けた後に

 

「すいません!本当に、すみませんでした!!茅ヶ崎先輩、わ、私・・てっきり・・」

 

その小さな体をさらに小さくして何度も何度もぺこぺこ智也に頭を下げた。

謝罪の言葉と頭を下げた回数は最早数えても仕方が無い程に。

 

「大丈夫・・僕は大丈夫だよ?・・紗江ちゃん?・・ね?」

 

御崎も誤解が解け、ようやくホッとした顔をして彼もまた智也に謝った。

終始立ちつくすことしかできなかった智也も安心し、去っていく小さな二人を少し微笑みながら見送る。

 

そして智也は思った。

 

もし御崎が必死で弁明してくれなかったら俺はそのままその少女の誤解を受け入れていたのではないのだろうかと。自分の正当性を強く訴えもせず、黙ったまま相手の誤解と言い分を受け入れて成り行きに任したのではないのだろうかと。

 

―誤解されるのも馴れている。避けられるのも馴れている。だから・・別にいい。

 

そんな風に意地を張って。

最近徐々に周りの自分に対する印象が変わり始めているのを彼は自覚している。徐々に積み上げた彼の本質に対して周りの理解が得られている感覚―それは彼にとっても決して悪い物ではなかった。それを失い、また元に戻る事に僅かながら不安を覚えているのも今の自分だ。

 

でも、しかし。それでも―

 

それでも自分はそのような境遇を受け入れてしまうのではないか、物事の流れに任せ、その流れ着く先に留まる事になるかもしれない。川の流れの先でぐるぐると滞留する地点、淀みやゴミと共に甘んじて留まる枯れ葉のように。

 

今回は御崎の必死の弁護によって幸いな事にそのような状況には至らなかった。

でも、いざそのような状況が訪れた時自分は足掻くのだろうか?いや、多分、きっと・・。

 

―まぁ・・考えても仕方ないか。

 

ある種の諦観。無関心ともとれる言葉で彼は状況を締めくくった。

妥当とも言える。実際にそのような状況は訪れなかったのだから。

 

・・あくまで「この時点」では。

 

些細な「悪意」は存在する。その発生の理由がどれ程理不尽で身勝手なものだとしても。

 

それは存在する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あいつ・・ぜってぇゆるさねぇ・・確かあのチビ・・あの野郎の事を『ちがさき』っつってたな・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





智也が異変に気付いたのは数日後のことだった。

―ん・・・?

少し懐かしい感覚。しかし、この学校に智也が入学して以来、大抵の月日がこんな感覚だった。どこかよそよそしく、少しの距離感を保つクラスメイト達。これが智也の高校生活での大半を占める日常であったこともまた事実である。
否、それともまた違う。と、言うよりもう少し何かが加味されている感覚。どこか・・敵意の様な物さえ感じ取れた。

その原因はすぐに解った。


こんな「噂」が流れていた。


「智也が裏庭でとある男子生徒を殴っていた」

「泣いて制止しようとする一年生の女子生徒を振り切って殴っていた」

「どうやらその女子生徒を巡ってのトラブルらしい」

「その女子生徒をテラスで向かい合わせになって無言で睨んでいた事もあったらしい」

「その女生徒に半ば強引に交際を迫っていたようだ」

「そして最近その女子生徒に近付いていた男子生徒に腹を立てて、今回の事件が起きたのではないか」


智也はある意味感心した。

―成程。確かに見えなくもない。

と。苦笑して。









彼は確かに御崎に比べると力は強いし、意志もメンタルも強い。
しかし―






確実に彼もまた危ういガラスの王子様。












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ルートS & R 8

(注※)この話はあくまでフィクションであり、実際にこの様な行為をすれば周囲に多大な迷惑、命の危険もあり、確実に厳重注意、処罰の対象となります。決して模倣などされないようにお願いたします。


ルートS 8  小動物 吠える

 

 

―・・・何も。

 

言葉が出ませんでした。会話になりませんでした。あれだけ練習したのに、あれ程皆さんに協力してもらったのに。

 

棚町先輩、桜井先輩、伊藤先輩、逢ちゃんに美也ちゃん。そして御崎先輩とそのお友達の人達にあれ程協力してもらったのに。励ましてもらったのに。

 

やっぱり私・・ダメです。本当に本当にごめんなさい。

 

 

「・・・。今日は日が悪かったかい?面接の日を改めようか?よかったら紅茶でも飲んでいって行ってくれ。いつも来てくれた常連さんだし、一杯ぐらい今日は奢るよ」

 

 

面接に折角時間を割いてくれたファミレス―JORSTERの店長さんはそう言って私を励ましてくれました。でも私はただ謝る事しか出来ませんでした。

 

 

私は―

 

一番皆さんががっかりする事をしてしまいました。

 

 

 

 

 

「くすん・・・くすん・・」

 

JORSTERのいつもの席で鼻をぐずぐずと啜りながら中多 紗江はいつも通り一人の「お客」として席についていた。

「面接に落ちる」では無く、そのスタートラインにすら立てなかった自分が恥ずかしくて悔しくて溜まらない。

 

 

「・・・さ~~えちゃんっ?」

 

その彼女に優しい声をかけながら向かいに座る癖毛の少女の姿がある。棚町 薫であった。

 

 

「・・棚町先輩」

 

「『残念だったね』って言うのも変だけど。ま。とりあえず日を改めよっか?・・色々あったもんねここ数日」

 

ここ数日―確かに「色々」あった。でも同時にその事はJORSTERにとって全く関係の無い事と言うのも事実である。それは言い訳にならないと中多は解っている。

 

「・・すみません。くすん・・」

 

「ただ店長によるとちょっとシフトと他の人の面接の関係でだいぶ期間は開けるかもって話よ。悪いんだけどそれでいいかな?」

 

「はい・・何から何まで本当に・・」

 

「う~~うん。・・正直さ?私も謝んなきゃって思ってたからこれぐらいさせて?」

 

「・・・?『謝る』・・ですか?なんで棚町先輩が・・?悪いのは全部私なのに・・」

 

涙目を思いっきりまぁるく見開く後輩の少女にまるで実の妹を見る様な優しい眼で棚町は微笑みこう言った。

 

「実は・・私ね?『お金持ちの子のちょっとしたヒマつぶしとかなら遠慮してほしいな』って最初考えてたの。でもね・・今日の日の為に紗江ちゃんが御崎君や他の皆と一緒にたくさん努力して頑張ってる姿見てたらさ?なんて失礼なこと考えてちゃったんだろうって思ってたの・・謝らせてね。ホント・・・ゴメンね・・この通り」

 

棚町は頭を下げる。

 

「~~~っ!」

 

その棚町の言葉への嬉しさ、そして同時自分に対する悔しさ、情けなさを振り切るように中多は唸り、ぽろぽろと流れる大粒の涙を拭い、掃ってポケットの中に手を突っ込む。そこから何とも可愛い彼女愛用のガマ口の財布を取り出し、「今日は俺の奢りでいい」と、店長が言ってくれたドリンクバー代を机の上に置く。

百円玉三枚、五十円玉一枚。その内の五十円玉がからから、くるくると覚束なく机の上を舞い、転がる。最後に共鳴を残しながらようやく裏面を天井に向けた。

 

まるで今の中多の様であった。

 

心許なく、覚束ないままふらふら、何もかも手探りでがむしゃらに足掻き、彷徨いながらココに来た。しかし、成果を見せられず見事盛大に失敗して打ちのめされ、倒れ込んだ今の自分の姿と机の上の硬貨を重ねる。

 

「・・・」

 

転がる四つの硬貨を中多はじっと見つめた。

たった350円。高校生どころか小学生ですらさして大した印象を持てない額だ。「使おう」と思えばほんの一瞬で跡形も無くなってしまう額である。

ただでさえ恵まれた家庭に生まれた中多にとってはほんの些細な出費。

しかし―実際はその内のほんの一円すらも自分の力によって手に入れた物では無いのだ。

彼女が心より尊敬し、大好きな父がいつも朝早く出かけ、夜に疲れて帰ってくる―そんな日々の中でその成果を抽出、凝縮して生まれた謂わば結晶なのだ。

 

確かに金額としてはとても少額。でも今の中多にはとても遠く儚い至宝の如きお金である。

 

だから焼き付けておこう。瞳に。

 

・・今は仕方ない。今はこのお金を使わないことには前に進めない。店長さんの厚意は正直とても嬉しいが今はそこに甘えるわけにはいかない。中多は強く瞳を見開いて棚町の顔を見て頷いた。棚町も彼女の意図を察し、大事にそのお金を掌に納める。一つ一つ丁寧に。

 

「・・・。・・うん。確かに丁度頂きました。有難うございます。・・・またのお越しをお待ちしております。出来るなら今度は一緒に戦う・・同僚として、ね」

 

「はい・・!」

 

 

 

エントランスのドアを開け、中多を見送る棚町はもう一度励ますようにこう言った。

 

 

「私も貴方もやる事は色々在るけど・・お互いいっこいっこ片付けないとね。私らも出来る限り協力するから」

 

「・・はい」

 

「でもね・・今の御崎君を支えるのは紗江ちゃんだけだよ?・・頑張ってね」

 

 

「もう少し・・大人になってココに戻ってきます。その時はまだお客さんとして・・。太一先輩を連れて・・また美味しいケーキを食べに来ます」

 

 

「・・お待ちしておりますお客様。有難うございました。またのお越しを」

 

 

カランカランとJORSTERのドアのベルが鳴る。しっかりとした足取りの中多の背を棚町は優しい笑顔で見送り、

 

「棚町さん!」

 

店内より響く彼女を頼りにしている同僚達の声に

 

「はい!!今いきま~~す!」

 

と、力強く答え、中多から彼女もまた背を向け歩きだそう―と、思った矢先のことであった。

 

―・・・っと。

 

棚町は押し黙って中多の居なくなったエントランス周辺をじっと見る。JORSTERの外部には煙草の自動販売機がある。が、当然棚町は煙草は吸わない。棚町はそれ以外のJORSTERの外部に設置されているとある「物」を見ていた。そして―

 

「すみません!もうちょ~~っとだけお時間貰っていいですかぁ?」

 

 

 

 

 

 

この中多のJORSTERでの出来事が起こる前―

 

太一は直接例の三年生男子の元へ赴いていた。まず間違いなくあの出鱈目な「噂」の出所であろうあの上級生の元へ。しかし―当然認めるはずもない。

 

「知るかよ」

 

の一点張り。しかし、同時にあからさまに「俺がやりました」と認めているも同然な下卑た笑いで太一を見下ろしていた。さらにわざとらしく「ってかお前誰だっけ?会った事無いだろ俺達」と言い出す始末である。それでも尚追い縋ろうとする太一を突き飛ばし、「人違いの上に力も頭もよえ~の?」と吐き捨てて去っていった。

 

茅ヶ崎が御崎を殴った証拠は無いし、増して中多に横恋慕している等事実無根なのだが同時に御崎を殴ったのが本当はこの三年生の男子生徒だという証拠もまた無い。そもそもこの男子生徒は御崎と本当に面識も接点も何も無い。完全に個人的で手前勝手な理由故に逆に御崎を殴る根拠に乏しいのである。

 

そう。御崎にはあの男子生徒に殴られた事の原因すら解っていないのだ。

 

対して茅ヶ崎は本質は違えどイメージは一応「不良」に近い物がある。そして実際中多の男性恐怖症克服訓練で幾度か彼女を睨んでいた事は確かだ。その光景が非常に奇妙な構図で在ったことから目撃して居る人間はゼロでは無いのである。在る程度「噂」は現実味を帯びる。

 

また悪い事に茅ヶ崎がそういう物に対して強く言うタイプではない事も状況の悪化に拍車をかけた。現に御崎があの男子生徒に直接会いに行く前に茅ヶ崎の元へ顔を出しても「あんな奴ほっとけ」「お前も当分はここ来ない方がいいぞ」とあしらわれ、御崎は仕方なく2-Eを去る他無かった。そして非常に気が重く、躊躇われるのだがあの男子生徒に一人直接会って話をする事に決めた。

 

しかし―

 

状況は結局こうなった。ここで御崎を再び殴ってしまっては逆効果の可能性もでるので只管すっとぼけ、心底の嘲りと突き飛ばす程度に男子生徒は納める。

取り残された太一には拭いがたい屈辱と悔しさが滲み、思わず涙が出てしまうほどだった。

 

 

その光景を中多 紗江はこっそり見ていたのだ。

 

 

 

「・・・!紗、江・・・ちゃ、ん」

 

 

「・・・」

 

 

太一を庇うつもりだった。守るつもりだった。でも出来なかった。怖くて。怖くて。怖くて。陰でただ一人震える事しか出来なかった。

 

「ごめんなさい・・ごめんなさい・・」

 

「・・紗江ちゃん」

 

「・・はい」

 

「僕弱いね」

 

「そ、そんなことありません!た、太一先輩は・・太一先輩は・・」

 

「・・・ううん。いいんだ。何よりも僕がそう思いたいんだ・・今は」

 

 

 

 

「紗江ちゃん・・僕ね?昔から『弱くて良い』と思ってた。『弱さは罪じゃない。力の無さは罪じゃない』って・・言い聞かせてた。例え僕が弱くても・・僕の替わりに強い人がいつも最後は守ってくれる・・そんな風に考えてた」

 

 

―・・私と一緒ですね。私もいっつもパパと・・ママに助けられて、守ってもらってます。

 

 

「でも!!こんなに・・!こんなに弱い事が辛いって思わなかった!!悔しいって思わなかった!!僕を思って頑張ってくれた強い人に対して何にも出来ないのがこんなに辛い事だって僕・・思わなかった!!!!」

 

 

歯を喰いしばり、泣きじゃくる太一を見ながら、中多もまた涙を流す。

 

 

 

この時は中多は言えなかった。

 

 

 

でも。

 

 

「今」なら言える。

 

 

 

 

何もかもダメだった。

皆に支えられ、助けられて努力してきた、積み上げてきた折角の物をすべて自分の脆さ、弱さゆえに台無しにしてしまった直後の「今」だからこそ―

 

 

―私。太一先輩に言える。伝えなきゃいけない事がある。明日それを伝えに行こう。

 

・・ああ。それでも明日まで待たなければいけないんですね。今すぐにでも伝えたいのに。今のこのままの気持ちを太一先輩に。臆病で弱気ないつもの私が顔を出す前に。

 

 

駅について改札を通り、いつもなら腰掛けるベンチにも座らず中多は立っていた。向かいのホームに電車が到着し、その窓にいつもとは見違えたような自分が映る。常に整列の時は最前列クラスの小さな自分の身長も心なしか今は大きく見えた。

 

「・・・」

 

そんなナチュラルハイの状態の中多は何気なく周りを見渡してみた。「合間」の時間帯なのかほぼ無人だ。おまけに向かいの電車が動き出した事によってある程度喧騒もある。今ならば・・出来るかもしれない。言えるかもしれない。

普段の自分であれば絶対に言えないような言葉が。絶対出来ない様な行動が出来るかもしれない。

 

―・・・!うん!勇気を出す!!頑張れ私。

 

 

すぅっ・・・

 

 

―伊藤先輩!私やります!言って見せます!!

 

 

 

 

ダメダメ!いつまでも『御崎先輩』じゃ!!名前の『太一』で呼ぶの!!ほら、『太一!首洗って待ってろよ!』はい!復唱!

 

 

 

 

 

「た、たたた太一~~~~く、くくく首洗って待ってろよ~~~!!!??」

 

 

 

 

 

中多 紗江 16歳。花の高校一年生。

 

 

今羞恥を振り払い、精一杯の声を張り上げ、「妖怪く〇お〇て〇」になる。

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ・・・!」

 

 

―やった。やったよ。言えましたよ!!伊藤先輩!やっ―

 

 

 

 

「さ、紗江・・・ちゃん?」

 

 

 

 

 

「へっ?」

 

 

 

 

向かいのホームでやや脅えた顔で首ねっこを抑えつつ、小柄の少年が今までの人生で一番思い切った直後の息も絶え絶えの少女を唖然と見ていた。

 

 

 

 

十分前―

 

御崎家に一本の電話があった。電話の相手は・・・棚町 薫であった。

 

 

『御崎くん?アンタどうせヒマ人でしょ?紗江ちゃん・・迎えに来たげてよ。今から直ぐ出たら間に合うと思うから』

 

『・・自分の事で大変なのは解るけど・・もう少し気にかけたげてよ。紗江ちゃんの事・・』

 

『じゃ、まったね』

 

 

素晴らしく気の利いた、そしていらない気遣いであった。一瞬でさ~~っと血の気の引いた中多の唖然とした顔が向かいの太一と完全にシンクロする。

 

 

―た、たいひ先輩?こ、っこれは、で、ですね?ふ、ふ、深い訳がありましてですね・・。

 

 

「せ、先輩・・違うんです。こ、これはその、本当に本当に―

 

 

 

 

 

違うんです~~~~~!!!!」

 

 

 

 

 

完全に我を失った中多の次の行動に

 

 

 

「い~~~~~っ!!?????」

 

 

太一は目が飛び出さんほどに前のめりになった。(注※)向かいのホームから中多が飛び降り、線路をまたいでこちらに一直線に走って来たのだ。

 

「さ、紗江ちゃん!?ダメダメダメダメダメ!!それホントダメ!!!」

 

無我夢中のまま太一は足元まで来た中多に縋り寄り、

 

―あれ。あれ!?上が、上がれない。せせせ先輩~~!?

 

背が小さ過ぎる上に運動音痴故、上手く向かいのホームへ上がれず、ぴょんこぴょんこ跳ねる小動物の様な中多の手を掴み、抱き寄せて引き摺り上げる。

折角のその少女の二つの「モノ」による「素晴らしい」感触もあまりの混乱、焦燥故にロクに味わう余裕も太一には無かった。

引き摺り上げた後は後でようやく追い付いてきた現実感に太一の頭に血が上り、初めて中多を太一は叱った。

 

「ご、ごめんなさい~~~くすん・・」

 

中多は再びいつもの臆病で弱気な少女に戻ってしまった。

 

「・・・」

 

そんな少女の頭を小さな少年は軽く撫でる。本当にほっとけない、守ってあげたい子だ。

 

でも自分も小さく弱い。弱過ぎる。この先この子を自分が守ってやれるのか、苦しい時、悲しい時に庇ってあげられるのか本当に不安になる。そんな太一の不安を―

 

次の少女の一言が掻き消した。

 

確かに中多はいつもの彼女に戻っていた。でも―ただ脅え、庇われていただけのかつての少女では無い。失敗、挫折、自責の念はほんの少しでは在るが彼女を本当に大きくしていた。

 

 

「太一先輩・・?私達弱くてもいいんです。小さくても、力が無くても・・失敗してもいいんです。・・大切なのはそこからどうするかなんです・・。だから―」

 

 

「・・だから?」

 

 

「一緒に悩ませて下さい!一緒に考えてさせて下さい!私達だけで足りなければ・・私達以外の誰かを頼っちゃって良いんです。だって私達と同じ思いの人達は・・一緒に戦ってくれる人が絶対にいるはずですから!!」

 

 

―私や太一先輩が一人で無かったのと同じように。

 

今理不尽の矢面に立たされている茅ヶ崎先輩だって・・一人じゃないはずです。

 

 

だから行きましょう。今は小さくても、弱くてもいい。力も無くて良い。ただ・・

 

 

強くなりましょう。一緒に。

 

 

 

・・太一先輩。

 

 

 

 

 

 

 

 

ルートR 8 鶴の一声 2

 

 

 

 

「落ち着いて!桜井!桜井ってば!」

 

「・・・」

 

親友―伊藤 香苗の制止も聞かず、ずんずんと桜井 梨穂子は廊下を歩く。ややいかり肩で。こういう時、伊藤は思い知る。この友人が色んな意味でずっしりと腰が坐っている重量級タイプである事を。そしてそこに彼女には似つかわしくない「怒り」という感情が含まれていれば彼女の進撃を防げる者はいない。彼女の目的はハッキリしている。

 

あの噂の真実―まず間違いなく無実の智也の濡れ衣を晴らす事だ。

智也から話を聞く必要すらない。智也がそんなことをする訳がない。彼女には確信がある。

 

 

 

 

「桜井さん!」

 

そこに男子にしては明るく、高い声が梨穂子の耳に届いた。ようやくそこで梨穂子の進撃は止まる。そして彼女に追いすがり、息を切らせて走りよる小さな少年の姿を認めた。

 

「・・御崎君?」

 

「・・・。その様子だと・・『噂』知っているみたいだね・・」

 

「・・・」

 

御崎の言葉に頷きも返事もしない。ただ梨穂子はふるふると首を振った。

 

―違う。そんなはずないもん。

 

「うん。そうだよ。茅ヶ崎君は悪くない。・・全て僕のせいだ。本当にごめん・・」

 

「ううん。・・うん。全部わかってるよ」

 

―・・解る。解るよ。御崎君も智也も二人とも悪くないことなんてはじめっから。

 

沈痛な面持ちで頭を下げる御崎に梨穂子はまたふるふる首を振り、御崎の肩に手をやる。

智也は当然、そして御崎にも何ら責任が無い事も理解している。その二人のやり取りを見て、伊藤が口を開いた。

 

「・・・。大体解った。今回の『噂』が全くのでたらめって事がとりあえず。・・ちゃんと話聞かせてくれるよね?御崎君」

 

「・・うん!もちろん!」

 

御崎は大きく頷き、屋上を指差し、二人も同意した時、御崎の後ろからまた声がした。

 

 

 

「おい大将」

 

 

 

梅原だった。

 

「梅原君・・杉内君も」

 

「や」

 

「俺達も混ぜろや」

 

 

自分の後ろに居る杉内 広大を指差しながら梅原は笑った。しかしいつもの飄々さは無く、本気で怒っている事を隠さない表情でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何それ・・噂と全く真逆じゃん。って言うか噂流したの確実にその三年生の男子じゃないの?」

 

伊藤は心底気分が悪そうに顔を歪めた。御崎も事の顛末を伝えきった後、ばつが悪そうな顔をした。その隣にはしゅんと落ち込んだ顔をした小さな少女の顔もある。

 

「本当にご、ごめんなさい。私のせいで・・」

 

最早泣きそうな声で視線を落としながら少女―中多 紗江はさっきから何度も謝り続けている。

 

「いーのいーの。紗江ちゃんは全く悪くないって!」

 

むしろあの茅ヶ崎をこんな小さな体で止めようとした少女の度胸を伊藤は買っていた。

・・が、誤解なのが頭の痛いところではある。止めたのが茅ヶ崎で無く、せめてその三年生の男子生徒なら・・と、伊藤は思い、憤懣やるかたない表情をした。

 

「とりあえずその三年生の男子に話聞かないとね。正直ぶっ飛ばしてやりたい所だけど・・」

 

「いや。それが・・すぐに聞きに行ったんだよ。僕」

 

「え?そうなの」

 

「うん、でも・・『知らねぇ』の一点張りだった。話もまともに聞いてくれなかった」

 

「勿論誤解を解く気も無しってこと?・・ムっカつくなー・・そいつ」

 

杉内もあまりの胸糞悪い仕打ちに苦虫を噛む。

 

「・・だよな。御崎殴った上に茅ヶ崎にその罪なすりつけてトンズラかよ・・最低だぜ」

 

「あ~~も~~そんな奴の事どうでもいいよ!気分悪くなるだけだって~~。で。当の茅ヶ崎君はどうなってんの?なんか言ってんの?」

 

「勿論会いに行ったよ。でも、あんまり『俺に近寄るとまた変な噂立てられるぞ』って・・」

 

「・・あ~あいつらしい」

 

杉内は悔しそうに唇を尖らせた。

 

―アイツの美点でもあり欠点でもあるな・・。

 

「大将・・」

 

納得したように梅原、杉内は腕を組む。

 

「え。え?どういうこと?殴られてた当の本人が会いに行って仲良くしてんのよ?フツー『噂』がデマだって解るんじゃ?」

 

「いや・・。僕たちが茅ヶ崎君に脅されて『無理矢理仲良く振舞うようにさせてる』って思う人間もいる可能性があるって事だよ・・」

 

「だったら・・いつもの様に『噂が納まるまで、ほとぼり冷めるまで俺が我慢すりゃイイだけの話』って言いてぇのよ。大将は」

 

「・・・あ~~成程。ん・・・?ちょっと桜井?あんた肝心な時に黙ってんじゃないわよ!」

 

憤慨する一向をよそに全くその会話に入りこもうとしない一人の少女に伊藤は呆れた声をかける。

 

「・・ん?ああ。ごめんねぇ」

 

しかし―何時もの梨穂子らしいゆる~~い返事が返ってくる。それに伊藤は大げさに溜息をついて

 

「全く・・愛しの幼馴染がこんな理不尽な目に遭っているっていうのにこの子ときたら・・」

 

「い、『愛し』って・・香苗ちゃん・・う~~~」

 

「・・・だったらちゃんとアンタも考えなさいよ!」

 

 

 

「え?もう私がやる事は決まってるよ?」

 

 

 

「「「「へっ?」」」」

 

梨穂子を除く一同は狐につままれたような顔をした。たった一言でその場を一瞬で支配した梨穂子はその場に集まった全員の顔を澄んだ瞳で一望。・・成程。もう既に彼女の中で今やるべき事の結論は出ている事を周囲に確信させる光を帯びている。

 

 

「御崎君や紗江ちゃんだけじゃダメなんですよ。皆で行くんだよ~~?智也の所に。・・・絶対に一人になんかさせないもん」

 

 

と言って頼もしく微笑んだ。

 

 

―気付かせるんだ。

 

智也は誰も脅したり、強制したりすることなんてない。そういう人。

智也の周りには勝手に人が集まっているんだって。打算、計算なんて何もない、智也の傍には人が集まるんだ。

 

智也はそういう人なんだって他の皆に気付かせるんだ。

 

そして何よりも智也自身に自分が「一人じゃ無い」って気付かせるんだ。

例え呆れられようと、煙たがられようとも。

 

 

ただ私は貴方の元へ行く。

 

 

 

 

真っ直ぐとそこに居る全員の顔を見据え、曇りのない瞳を見せ、梨穂子は微笑んだ。

そう。桜井 梨穂子とはこういう子だ。

他の人間が迷い、一歩立ち止まっている所にあっさりとそれを打ち破る結論を出してしまう。

 

至極単純、明快。それ故に異論をはさむ者はいない。

 

「・・・♪」

 

「桜井さん・・」

 

「・・・」

 

―桜井センパイ・・素敵です。

 

「よおーーっしゃ!!!俺にメンツ集めは任せとけぇえ!!!!!」

 

「えっと・・ゲンに国枝に棚町さん、田中さん、・・絢辻さんもつれて来れるかな・・めちゃくちゃ心強いし。あ。いっそ七咲も呼ぶか。紗江ちゃんよろしく~~」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・」

 

―何だ?・・こりゃ。

 

智也は自分の席で心底煙たそうに、呆れた様な顔で頬杖をついていた。

彼の半径5メートル、ぽっかりと空いていたはずの2-Eの空間にヘンな連中が突然一斉にたむろしてきたのだから。彼らは意識的に2-Eのクラスの連中が引いたその領域をあっさりと破り、所狭しと智也の周りに居つく。その数何と十人を超える。

 

「・・ははっ」

 

唯一あの噂以降も時折2-Eで智也にちょくちょく声をかけ、御崎と同じように智也に追い払われてすぐその領域から外に閉め出されていた2-Eクラス委員、成瀬 幹夫も意気揚々とその輪の中へ入っていく。

 

―・・おい成瀬。

 

少しその成瀬に咎める様な顔を一瞬智也は向けたが、最早成瀬はどこ吹く風だった。

 

―創設際の実行委員会長の絢辻さんと源君まで来てくれているんだから・・僕が先日のお礼言わない訳にもいかないよね?茅ヶ崎君?

 

そんな言葉を笑顔にこめ、成瀬は茅ヶ崎を見た。

 

そして―

 

「邪魔するよ~はぁ~・・二年の教室は久しぶりだねぇ?自分が若返った気がするよ!ねぇ愛歌!」

 

「ふむ・・十年ほど若返った気がするな・・瑠璃子」

 

 

異様な・・女子高生とは思えない雰囲気を纏った三年茶道部コンビ―夕月 瑠璃子、飛羽 愛歌も参戦。

 

「お~~っす。茅ヶ崎?あっそびにきったぞ~~?だから何かくれ」

 

「ぷりーず・ぎぶ・みー・・とりっく・おあ・とりーと・・・」

 

「げ。せ、先輩方まで・・」

 

追っ払うには流石の智也にも厳しい。人選に手心が無さ過ぎる。そして恨めしそうに「この騒ぎ」を引き起こした張本人を見る。

 

―・・!ふっふっふ~~智也~?追い返せる物なら追い返してみろ~~?

 

それは隣に居た。遠く幼いころから常に隣に在った。

 

一見抜けて、ぽ~っとしている癖にいざ動くとなると一転大胆にこんな事を仕掛けてくる。正直智也はお手上げである。

 

梨穂子はそんな智也を見て、少し悪戯そうにいししと笑う。

 

 

 

 

 

「・・・。む!?何だこれは?おい!お前らさっさと自分の教室に帰れ!」

 

「あ、は~い」

 

予鈴後、2-Eに担任の多野が教室に入ってきた後、波が引くように一斉にその集団は撤収を開始。もみくちゃにされた智也は心底疲れた顔をして、密集状態の中まともに吸えなかった空気を肺に流し込む。それを多野はじっと見ていた。

 

「ぷはぁ・・」

 

「・・・」

 

―あの連中はあいつのか。・・驚いた。絢辻君までいたぞ。

 

流石の多野も困惑気味である。

 

「・・日直!号令」

 

連中が去った後、多野も少しの混乱から気を取り直していつもの調子を取り戻すようにぴしりと教室の空気を一言で張り詰めさせる。

 

―多野さん・・おかげで落ち着きました。有難うございます。

 

智也は内心多野にお礼を言って何気なく連中が去っていった教室の後ろのドアを見た。

 

その時だった。

 

「・・・!」

 

そこにはまだ梨穂子がいた。ひょっこりとドアのガラス越しに斜目に顔を出し、智也と目があった瞬間、もう一度にこにこ微笑んで手を振った。

 

―バイバイ。また来るね。

 

そう言いたげに。

 

「・・・ぷっ!」

 

―もうくんな。

 

思わず智也はもう授業中だと言うのに人目憚らず吹きだした。吹きだすなんて何年振りだろうか。しかもこんな張り詰めた緊張感のある場でこの場違いすぎる笑いを智也は禁じえなかった。

 

「・・。茅ヶ崎」

 

多野は珍しく呆れた様な声を出して智也を窘める。

 

「・・すいません」

 

ようやく智也が言ったこの言葉も少し笑いが噛み殺せず、ふざけた様な口調になったが多野はそれ以上咎めず、授業を始めた。

 

智也と多野、この似た者同士の二人の見た事も無い口調を2-Eのクラスの連中は垣間見た。そこには何の疑念も生まれない。あの全員が「茅ヶ崎の脅しによって集まったのではないか」などと勘繰る人間は最早一人もいなかった。

 

 

 

 

 

―どうやら「噂は嘘」、だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートR 9  少女 R の献身






「う~~ん。面識も接点も無いっていう御崎君を殴ったそもそもの原因がなかなか見えてこないわねぇ?」

「・・確かに」

2-Aクラス委員―絢辻 詞が腕組みしながら、眉をしかめる。そんな彼女を色素の薄い茶色の瞳をこれまた少し曇らせながら少年―源 有人も彼女に同調し唸る。

「例の太一君を殴った三年生の男子の名前は『小沢 雄平』・・周りの評判は普通・・ただし『男子には評判は良いが女子の評判がすこぶる悪い』・・だっけ?梅原」

「おう。信頼できる情報筋だぜ。『梅原ネットワーク』をフルに使った確かな報告でぃ。付け加えると『普段は積極的に女子に話しかけるタイプでは無いが、こちら側から話しかけると途端饒舌になるタイプ』・・らしい。『極端すぎて何となく不気味』とか・・」

吉備東高の事情通―梅原はメモを片手にいつもの口調でこう言った。

「う・・。正直・・女の子としてはちょっと嫌なタイプかしら・・」

立場上様々な人間に接触する絢辻故に複雑そうな笑顔をしながら、絢辻はそう感想を言った。

「・・。とりあえず太一君・・?」

「うん?」

一連の梅原の報告を聞いて源が太一に確認を取る。

「その小沢 雄平って人が君を殴った理由に繋がるような接点はホントに無いんだよね?」

「うん・・それに関しては本当に。だって殴ってくる直前『誰だって顔してんな?』って聞いてきたからね。殴った後も『知る必要ねぇ』って言ったし。それって僕と面識無いって暗に認めてるようなもんじゃない?」

「・・確かに」

「そうなると・・当事者以外の関係者洗うしかないかしら・・学年違いの三年生って所がネックだけど。その人の友人とか関係者以外の色眼鏡なしで中立な目線で話してくれる人・・顔が広くて信頼できて口も固そうな・・」

「『洗う』ねぇ・・なんからしくなってきましたねぇ」

「う~ん正直言って・・あ。褒める訳では決してないんだけどね?私・・中々自分の立場を弁えた陰湿だけど狡猾な手法取って来てると思うの?反面よく知らない、面識すらもない御崎君を躊躇い無く殴っておまけにそれを庇った茅ヶ崎君も逆恨みしてる事からして思い込みが強く、執念深い性格も垣間見える・・」

絢辻は彼女独自のプロファイリングを腕組みしながら語る。源も再び同調しながら頷き

「・・そして後はひたすらすっとぼける。相手が自分に『近過ぎない』存在だからこそ出来る。良心の呵責もないってことか」

「正直・・『楽しんでる』面あんだろな・・あ~~胸糞ワリィ」

「・・・」

彼等の反応に御崎は黙りこむしかなかった。

「あ。ごめ。太一君?弱気なことばかり言って。・・よし!考えて行こう!・・・まずは中立で関係者以外の目線で語ってくれる人・・おまけに信頼できる三年生・・かぁ」

源が切り替えたように微笑んでそう呟く。

「・・誰か心当たりが?源君」

「・・うん。その人は俺の直接の知り合いじゃないけどね。居るじゃない?何人か。まずは―



広大辺りに頼んでみるかな?」







「塚原せんぱ・・いや・・響姉に?」




「迷惑にならない程度で」と、源は杉内にそう付け加えた。杉内 広大の幼馴染であり、吉備東高三年生―塚原 響の交友関係は広い。おまけに実直で品行方正な性格からして同学年の女生徒にも人気がある。よく相談事とかもされるタイプだ。
(彼女の友人―森島 はるかも非常に顔は広いが幾分目立ち過ぎ、そして案外特定の人間以外は浅くて広い交友関係の為、割愛)

後日―

「・・成程ね。うん・・。そういう事なら手伝わせて?」

「有難う響姉・・でもさ・・」

「大丈夫よ?・・それにコウ君からの頼みごとなんて久しぶり・・。断れないわ。おまけにそういう情報をコウ君やコウ君の友達は悪用しない事は解ってるもの」

杉内からの頼みを塚原は快諾してくれた。


再び2-Aの有識者会議―


「うん。賛成。塚原先輩ならいいトコだと思う。で、それなら後は・・色々とナゾが多いけど・・茅ヶ崎君のことなら協力してくれそうな『あのお二人』・・ってとこ?」


絢辻の案にその場の三人も同調。

吉備東高のお局の『あのお二人』だ。彼女等に関しては頼みこむ事は容易である。何せこちら側には彼女等にとって目に入れても痛くない可愛い茶道部後輩―桜井 梨穂子が居るのだ。


「・・そういうことかい。良いよ。喜んでやってやる」

「ふふふ・・我の女子ねっとわーくの広さに恐れ、慄くがいい・・」


茶道部三年生コンビ―夕月 瑠璃子、飛羽 愛歌も参戦。

梅原の情報ネットワーク源は基本ちょっと「尖った」独特の男子視点故に結構偏っている面が強い点がある。立ち入った女子ネットワークに関しては少々不向きだ。




数日後、各々快諾してくれた三年生の彼女達からの情報を収集、整理する。


すると見えて来る。ようやくあの男子―小沢 雄平と御崎 太一との接点が。


―正直。・・何でもっと早く気付かなかったんだろう?




御崎はそう思った。

絢辻のプロファイリング、『思い込み、そして執念深い性格』。そして梅原の情報『話しかけられると途端饒舌になるタイプ』―この時点で気付くべきだったのだと。

繋がってくる。

そして今回塚原、そして三年生お局コンビから届いた情報から確信に至る。その男子生徒の横恋慕を。

よくよく考えてみるとその横恋慕の「相手」はその男子の性格、印象からしていかにも惹きつけられそうなタイプだ。

だが正直その女生徒と彼との相性は最悪だろう。自分から行くのは好きだが相手に必要以上にグイグイ迫られるとあっさりと飽きて距離を開ける「魔性」を持った少女。極端から極端に走る性格の相手は彼女は苦手だ。
まさしくこの男子生徒を彼女に言わせれば「・・コイツはちょっとな」と思うタイプである。当然彼女はその男子生徒と距離を開けた。

しかし思い込みの激しさ、そして執念深さゆえにその事実をその男子生徒は受け入れられない。

そんな彼の彼女に受け入れられない鬱憤を晴らすには丁度良い相手が居た。
小さく弱い癖に彼女にいつも話しかけられている相手。しかし面識はない。接点も無い。


―なんと「丁度良い」相手なんだよ。御崎 太一。


しかし―

そんな悦楽な彼の時間を邪魔してくれたアイツ。「茅ヶ崎 智也」。

しかし、調べてみると・・こりゃ面白い。何とも評判が微妙な奴じゃないか。こうなったらコイツも巻き込んでやろう。怒って殴り返してきたら尚好都合だ。


―が。


コイツ・・思った以上に反撃してこない。まぁこれはこれでいい。こりゃあいいサンドバッグだ。





御崎 太一の中で全ての線と線が繋がった。そして小さな少年は動きだす。



「彼女」のもとへ―



「・・・。そろそろ来るころだと思ってたよ?太一くん」


「・・由亜先輩」




少女―堂元 由亜は屋上の柵に背中を預けながらこの季節に寒々しいほどの軽装で悪戯に、しかしどこか申し訳なさそうに苦笑いした。








 

 

 

 

 

 

梨穂子達の活躍により、智也の悪評は改善されつつあった。

「無理矢理智也に交際を迫られている」という「設定」の中多紗江や「その少女にモーションをかけ、結果智也の怒りを買って殴られた」設定の御崎も欠かさず智也の前に現れたのだから噂自体の信憑性が著しく頼りないものである事が誰の目にも明らかだった。

 

ただし・・それはあくまで智也のクラスでの話である。

 

相も変わらず彼の見た目の威圧感に不安を覚える人間は皆無では無かったし、当の本人も同様に相変わらず誤解を解こうともせず、あくまでも周りの人間の判断にゆだねていた。

 

実際にやましい事などしてはいないのだから何時ものように直に鎮静化する。

達観、楽観というよりは諦観・・智也という少年は見た目に反してあくまでも受け身な男だった。

 

彼が周りに対して行う事は変わらない。ただ言葉を発さず、訴える事も無くただ黙々と日々を送ることである。

 

「それで全てがいずれ元通りになる」―正直あのうっとうしい三年生の男子にも興味は無い。幾度も根も葉もない噂を流して周りが信じてくれるほど、人望はあの男には無いだろう。

 

―要するに少々の時間俺が我慢さえすればいい。

 

水面の波紋と一緒だ。石を投じられた一瞬だけ大きく波打った後、それに続く石が投じられなければやがて水面は凪ぐ。全ては元通りだ。それでいい。そこが俺の―日常だ。

 

 

が、智也の考えは少々甘い。

 

人というものは「何もない」という事に非常におびえる。自らの作りだした幻想に不安を覚えやすい生物でもあるという事だ。

 

波風のない水面を全く不安に感じない時もあれば、逆に根拠のない不安を時に覚える事がある。「嵐の前の静けさ」という言葉がいい例だ。

全く何の不安も無い状態が不思議と続いた時、反動でより大きなトラブルが起こるのではないか―と、考えるのもまた人である。

 

智也の場合。

 

―今は大人しくしてるけど・・ひょっとしたら・・。

 

と、いう不安である。

こうなると、特に神経質な人間は無駄に智也を意識してしまう。

有りもしない不安を自らに作り上げ、それに無駄におびえるという悪循環である。

実質的には例え何も起こっていないとしても。この日起きた事件がそのいい例だった。

 

 

 

「ちょっと!!!」

 

 

「ん・・?」

 

唐突に智也は声をかけられ、振り返るとそこには五人の女生徒が立っていた。

智也が振り返った瞬間に女生徒たちは押されるように身を少し引いたが気を取り直すようにして一歩前に進み、智也を見た。「見た」というより「睨んだ」。明らかに敵意が存在している。

 

「・・!・・。・・」

 

ただその五人の少女の内一人は心なしか他の女生徒とは一歩引いた所に立ち、他の女生徒に守られるようにして不安げに、それでも咎める様な目で智也を見ていた。

 

「・・何?」

 

智也は努めて冷静な口調で聞いた。

 

「・・何って?とぼける気?」

 

女生徒の・・恐らくリーダー格だろう。最初に智也に声をかけたであろう真ん中に立つ鋭い目をした少女が相変わらず非難の目を向けたままそう言い放った。

 

―・・・?

 

智也の疑問は直接彼のこめかみに大きな皺を作った。智也に心当たりは無い。そもそも彼をずらりと囲んだ連中は誰ひとり顔も名前も知らない女生徒たちだ。一向に話が見えてこない智也の当然の反応が彼女達の気に障ったらしい。

 

「・・最っ低ね」

 

「・・・。とりあえず説明してくれないかな?本当に解らないんだ」

 

「ちっ・・何よコイツ・・やっぱり『噂』の通りじゃん」

 

「・・。どういう『噂』か知らないけど、それでもちゃんと筋道立てて話すのが筋だと思うけどね。相手が自分の言いたい事全て解っていると思うのは勝手だけど、相手が君と『話す』こと自体『無意味だ』と話を打ち切られる前にそうした方がいいと思うよ?」

 

「なっ・・!」

 

鋭い目が少し見開いた。自分の追求に即相手が白旗を挙げて懺悔する所までイメージしていた彼女が予想外の智也の反撃に面食らい、言葉を失った。

 

「・・変わりに君が話してくれる?俺が何をしたのか」

 

明らかに一人庇われている少女―見覚えも話した事も無い少女に智也は話しかける。低く、冷静な口調で話しかけたつもりだが少女は口を精一杯横にひきつらせ、怯えた顔でさらに一歩退いた。

 

―・・ダメか。

 

こういう時は普段からもう少し表情を調節する技術を自分は持つべきだと智也は後悔する。

 

「ちょっと!マキちゃん脅してるんじゃないわよ!・・あー・・被害者直接脅して自分のやった事黙らせる気なんだ?そうはいかないわよ?」

 

「・・『被害者』?」

 

「すっとぼけてんじゃんないわよ!!アンタさっき階段でマキちゃんのスカート覗こうとしてたでしょ!?」

 

「・・は?」

 

鋭い目の少女のその一言をきっかけに庇われていた少女―どうやら「マキ」という名前らしいがその少女が堰を切ったように泣き出した。その姿を女生徒たちはちらりと横目で一瞬見た後、更にその少女を後ろに追いやり、

 

―悲しかったね?怖かったね?でも大丈夫。後は私達がやるから。

 

とでも言うように智也を睨んだ。

 

別に怖くも何でも無かったが智也は内心大きな溜息をついた。何故かテレビでよくある正義の味方の集団が悪役を追い詰めて仁王立ちしている姿を思い出す。

 

しかし、ここまでの見当外れの誤解となるといささかその光景は滑稽以外の何物でも無かった。

しかし―

 

―困った。

 

のは確かだ。何せ誤解された、誤解させたそのもののシーンすら智也には浮かんでこない。

「あの時、俺はこうした。そして・・こうしていた、あの時のあの行動が誤解させたんだろうか?」と、言う様な漠然としたイメージすら浮かんでこない。

 

恐らくその時点の自分は「何も考えずに階段を上っていた」だろう。

その時にこの女生徒がたまたま近くに居た、自分がスカートを覗けるような角度、位置にいた―など、覚えているはずが無い。それこそ覗くつもりでその位置に意識的にいない限りは。つまり―

 

「・・。覚えが無い」

 

と、言うしかないのだ。

しかし到底連中は納得できるはずが無い。

この智也の言葉は拙い犯人の見苦しい言い逃れに聞こえるはずだ。それこそ刑事ドラマの物語上、間違いなく犯人であろう人間の鼻につくような苛立たしい否認に。

 

「ここまで来てしらを切る気?」

 

―・・「ここまで」?何処まで来たと言うんだ?

 

内心智也は皮肉を込めて笑った。

 

「こうなったら埒あかないわ。先生呼びましょ郁恵・・」

 

取り巻きの内、一回も言葉を発さなかった少女が鋭い目の少女に対して助言を挟んだ。どうやら鋭い目の少女の名前は郁恵(いくえ)と言うらしい。

 

「さんせー」

 

「そうしましょ」

 

出番の無かった取り巻きが一斉参加し、リーダー格の少女を鼓舞する。その後押しに応えるように鋭い目の少女が智也をまた見る。

 

―どう?今認めないと先生が来るよ?それでもいいの?

 

と。その目は語っていた。

 

―どうぞ。どうぞ。

 

智也は態度でそう返した。

実質彼女達は智也を追い詰めてなどいない。このチンケな脅しがいい証拠だ。ちょっと肝の据わった人間がじっと彼女達を見てれば解る。

智也を追い詰める確実な手段も無ければ証拠も無い。そこからして恐らくこの「被害者」だと言う少女の話もちゃんと聞いてないはずだ。

 

おそらく「あの人に覗かれたかも」程度の話を完全に鵜呑みにしたのだろう。そして智也が「噂の通り」というこのリーダー格の女生徒の言葉からして智也の最近出回った悪評のイメージをそのまま通過して正義感というにはあまりにもチャチな妙な使命感を持って今この場に臨んでいるのだ。

「こんな奴を野放しなんていけない!私がやらなくちゃ!!」

・・何とも御苦労な事である。

 

―・・「年下の女の子に横恋慕して無理矢理交際迫って、その女の子に近付く男を殴って、さらに他の女の子のスカートを覗く趣味のある男」か・・

 

ははっ・・どういう人物像だよ俺・・。

 

と、智也は内心自虐気味にまた笑った。

 

一方通行過ぎる善意の押しつけ、自分の正当性に疑いを持つこと無く、自分の正当性を疑うもの自体を悪とみなし、相手の言い分等聞く気は無い。

 

彼女は智也と闘っているのではない。ただ自分の中にある勝手に生まれた、勝手に作った敵を彼女が作ったシナリオ通りに攻撃して勝利し、優越感に浸っているだけなのだ。

自分の両手でじゃんけんをしているのと変わりがない。滑稽を通り越して哀れみさえ覚えた。

 

が、

 

 

―・・・!!!

 

 

同時に智也は感じた。強烈なデジャヴを。それは拙い少女の追求より遥かに応えた。

 

 

―ちょっと待て・・俺はあの時、「こう」じゃ無かったって言い切れるのか?中学の・・あの時・・。

 

 

 

 

 

 

―何でコイツら解んないんだよ。

 

―先生の気持ちが解んなかったのか?

 

―ただ厳しい、無愛想なだけの先生だと思ってたのか?ちゃんと見ろよ!

 

―どれだけ俺達の事考えてくれていたか!

 

―そんな事も解んないお前らなんかとやってられるか・・。

 

 

言葉には直接出しては無い。しかしこの言葉達は確かに智也の心の中に確実に存在していた言葉達だ。中学二年、剣道部顧問が死んで以来、統制がとれなかった剣道部を立て直すため、智也は必死になって行動した。

 

先生ならこうしたはずだ。

先生ならこう怒る。

先生なら。

先生なら。

先生なら・・・

 

「剣道部はこのままじゃいけない。俺がやらなくちゃ」

 

聞こえはいいかもしれない。この決心は。しかし、この言葉の裏で自分がやってきた事は何だ?そう考えると・・

 

―正直俺はこの目の前の俺を無責任に攻め立てるこの子―郁恵という子と変わりないんじゃないか?

 

俺は聞いただろうか。部員達とちゃんと話しあっただろうか?

所詮その時の俺はまだ中学生だ。一生徒にいきなり顧問の先生の替わりなど務まるはずが無い。本職の教師の仕事をこなしながら、弱小だった剣道部を県大会常連にするまで成長させた手腕を持つ先生だ。

 

・・でも先生だって最初から上手く言ったはずはない。

何年、十数年、ひょっとしたら何十年の努力の積み重ねできっと先生はあそこまで積み上げたのだ。さらに元々先生は剣道部の顧問を希望していたのではない。実は茶道部を作りたかったと言っていた。先生はこれを笑い話にしていたが不満が無かった訳ではないのだろう。それでも自分の与えられた仕事を手抜きもせず、何年も努力を積み重ね、実際に結果も出していた。

 

そして俺はそんな先生を尊敬していた。その先生の遺志を継ごうとしていた。

 

「完璧」に。

 

完璧?・・どだい無理な話だ。

俺と先生では積み上げた時間が違いすぎる。見てきたものも全く違う。先生は俺の人生と同じぐらいかそれ以上の時間悩んで、苦しんだ結果の先生が俺の目の前にいたんだ。

 

不本意、不満が無いわけではない道を受け入れ、長い時間進んだ先の先生が。

 

なのに、俺と言ったらどうだ?大好きな剣道の事、それに一本気に集中できる身でありながら自分の考えを持とうとしていなかった。先生と違って自分の一番やりたい事に真正面から向き合える事も出来たのにそれができなかったんだ。

 

ただ思考停止していた。

 

先生のしていた事を必死でなぞっていただけだ。これを「付け焼き刃」と言う以外に何になるだろうか?出来もしないのに。なれもしないのに。

自分と顧問の先生がいた時間は確かに大切な時間だった。でも時間にして非常に短い時間だった。先生の人生の恐らく五十分の一程度だ。

なのに自分は顧問の事を知っていたつもりだったのだ。彼のノウハウも全て吸収したつもりだったのだ。

でも・・そんなはずは無いのだ。

 

結果―俺の出来た事はなんだ?その付け焼き刃を文字通りふるっていただけじゃないか。

そしてその切っ先で部を分裂させた。真っ二つに。

 

 

元々部活動の「キャプテン」という立場は集団を瓦解させないため、またはそれを修正するために一人の生徒に他の部員を統制する権限を与えるシステムでもある。

それを与えられた当のキャプテン―智也自身が部を真っ二つにしていたのも事実なのだ。

そしてある意味それを受け入れていたのだ。

 

―解らない奴は解らないままでいいさ。

 

と、内心智也はどこかで思っていたのだ。放置していたのだ。見下していたのだ。

 

―悪いのは俺じゃない。解らないお前らだ。

 

と。

 

対立する相手の言い分を聞かず、自分に賛同する者だけ従えて自分の言い分だけを一方的に押し付ける。

相手に理解させようとも、説得しようとも、相手を理解しようともしていない。ただ「自分は間違っていない」と大した根拠も無しに思いこんで黙っていただけだった。

 

そんな俺と今目の前にいる少女・・何の違いがあるのだろうか。一緒じゃないか。

 

今目の前にいる少女に対する嫌悪感。

 

それはそのまま直接自分への嫌悪感に変わる。俺にこの目の前の少女を責める資格があるのか?

 

・・恐らくない。

 

 

「何よ・・いきなり黙りこくって。あ。認めるのね?だったらさっさと来なさいよ。そして自分の非を認めて詫びなさい。悪いことしたんだから当然よね」

 

 

―ああ。詫びたいね。でも君達にじゃない。

 

かつての部員達に。

 

梅原に。

 

そして先生に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・智也?

 

明らかに雰囲気が不穏な集団―到底関わりたくない空気を惜しげもなくさらけ出しているその場を何人もの生徒が素通りする中、その少女は足を止め、凝視する。

知らない女の子達に囲まれている智也の姿。普段なら嫉妬―というには少し大げさな表現だとしても似たような感情を少なからず抱いてしまう彼女だが今目の前にある光景は到底許容できるものではない。

 

「・・・」

 

ゆっくりと落ち着いて、地に根を張る様に立ち、じっと見据える。

 

―・・智也の表情。

何時もと変わらない。でもどこか寂しそう。ううん。きっと寂しいんだ。悲しいんだ。

私じゃないと解らない。私は・・おっちょこちょいで頭もよくないけど・・だけど自信はある。

 

彼の事に関しては。

 

智也をこれ以上見る必要はない。あの人には非は無い。あるとすればまたいつものように自分の身にかかった火の粉をはらわず、何時もの様に甘んじて受けている事くらいだ。

それより今見るべきはあの子達。攻撃的な目つき、表情。そして彼女達の立ち、振舞い、姿勢。

 

・・感情的だ。きっと何か大きな誤解をしている。

 

解った。了解したよ。解った。なら私が今やれることは・・

 

先生を呼ぶこと?

 

智也だけ引っ張って逃げようとする事?

 

智也をかばって応戦すること?

 

違う。

 

「庇う」んじゃない。対抗するんじゃない。智也は無実。それは間違いない真実。私は貴方を信じている。誰よりも。だけど・・それが解るのは私だけ。ならば・・私の出来る事は、たった一つ。

 

 

少女―桜井 梨穂子は喧嘩は弱い。そもそも喧嘩なんて大っ嫌いだ。

だから・・

 

 

「あの・・・・何やってるの・・?」

 

 

―私の出来る事―それはまず聞くこと。智也を誤解し弾こうとするもの・・つまりは「彼の世界の話」を聞くことだ。そして理不尽に生まれた智也へ向けられた負の感情を一つ一つ、丁寧に拭う事だ。

 

梨穂子には「敵」はいない。智也を責めている目の前の子達にすら敵意は無い。

あるのは・・

 

―智也を解って欲しい。理解してほしい。

 

その想いのみ。ただそれだけ。

 

「・・梨穂子」

 

何時もと変わらない大好きな人の声。

 

―優しく、気遣う様な。そしてこんな状況に現れた私に対して申し訳なさそうに、そして少し恥ずかしそうな表情。

 

それで充分。それだけで私は嬉しい。

 

 

 

 

 

口々に

「横から割り込むな」「アンタには関係ない」「ってかアンタ誰よ」という声が飛ぶ。

後から来た人間―そして智也を責めている今の彼女達にとっては梨穂子の様な中立派ですら排除すべき「敵」だ。

しかし、その敵意に驚いてちょっと身をすくませながらも、梨穂子の空気は揺るがない。

 

「う~ん。そうなんだけど・・よかったら詳しく私に話してみてくれないかな~?」

 

一つ一つ、順を追って聞きだしていく。ゆったりと・・少し困った顔をしながらも相変わらず表情は柔らかい。智也が犯したという罪状、被害者、その時の状況、目撃者など。

それをひも解いていくうちにどれだけ彼女達が当の被害者である「マキ」という少女からまともに話を聞いていなかったことが解る。

マキという少女は智也の体が大きく、少し低い声からしてどうしても生まれてしまう彼の意図しない威圧感と雰囲気に呑まれ、彼の「俺が何をしたか」という質問にまともに応える事が出来なかったが、ほんわかふわふわ梨穂子なら話は別だ。

 

「その・・私が直接見た訳じゃないんだけど・・」

 

漸く真意を自らの口でおずおず語りだした。

 

「ふんふん」

 

それに梨穂子は頷く。

 

「え、どういうことよ!マキ!」と騒ぎだし、彼女を問い詰めようとした彼女の友人達を梨穂子は手で諌め、「ごめん。ちょっと待ってね」というやわらかい表情で引き続きマキという少女の話をじっくり聞く。まあるい瞳を見開いて優しそうな微笑みを絶やさずに。

 

マキという少女には下着を見られていた「らしい」時間の記憶自体が智也の下着を見ていた「らしい」時間の記憶同様存在していないことが解った。

それを「知らない誰か」に指摘され、元々神経質で臆病な彼女は元々ありもしなかった不安が発生し、「覗かれたかもしれない」という未知の恐怖によって増幅され、怯え、それを思わずここにいるやや正義感が過ぎる友人達に相談したのである。

正義感が過ぎる人間の集団である以上、悪評には敏感だ。智也の最近の噂を知っている人間がこの集団に居る事は既に分かっていたことである。

後はその後の顛末通り。怯えた「被害者」を後ろに置いて庇いつつ、彼を問い詰めるだけ。

至極単純な過程だ。後は感情によって拡大解釈された彼女達の誤解を

 

「そこが罠なんですよ~」

 

と、ある意味間の抜けた明るい声で優しく、しかし鼻にかけない能天気さでその子達の感情を逆なでしないように努めて答え、丁寧に誤解を拭っていく。物事の悪の本質はあくまでその誤解によるものだと。

 

悪いのは誰でも無いのだ、と。その誤解こそが不毛な現状を作りだしたのだ、と。

そして最後に誤解によって立つ瀬を無くした彼女達の居心地の悪そうな雰囲気を見て、

 

「う~ん誤解だと解ってくれたならちょっとは智也に謝ってあげて欲しいなぁ」

 

ほんの少し口を尖らせ、何とも薄味な毒を梨穂子は吐く。偽らざる梨穂子本人の最後に出た本音である。中立の50:50が僅かに智也側に傾く。それを苦笑しながらその子達を代表し、「郁恵」と呼ばれていた少女が―

 

「その・・悪かったわね。早とちりだったわ」

 

素直に詫びた。今は居心地悪いままでこのまま散会になるよりも自分の至らなさを認め、謝る方が何倍も気持ちも楽になる。それを誘導してくれた梨穂子のほんの少しの毒を心地よく彼女は受け取った。

 

「・・いや。俺もひょっとしたら誤解するような行動したのかもしれないし、申し訳ない」

 

「・・そうよ。少しは釈明しなさいよ」

 

「え~それならもう少し落ち着いて智也の話をちゃんと聞いたげてほしかったよう・・」

 

梨穂子が苦言をまた嫌味無く言った。最早中立の立場は何処かへ吹っ飛んでしまったようだがそれも落ち着いた相手の少女は聞き入れ、

 

「そうね・・御免なさい。・・。梨穂子って言うの貴方・・名字は?」

 

「・・?桜井だけど・・」

 

「そう。桜井 梨穂子ね?うん・・貴方気に行っちゃった。また今度お話ししましょ。じゃ・・ホントにゴメンね。マキ。行こう」

 

去っていた彼女達を梨穂子が笑顔で手を振って見送った後、智也が大きく息を吐いた。

 

「・・・凄いな。お前」

 

「・・・」

 

「あの子達言いくるめて・・いや、御免。言い方悪いな。あの子達・・説得するだけじゃ無くおまけに友達になっちゃうなんて」

 

「・・・智也」

 

「ん」

 

「・・バカ」

 

「・・え」

 

あまりの梨穂子の意外な言葉に絶句した。というより以前何時言われたか、覚えていない単語である。そしてその言葉を発しているのが「あの」梨穂子なのだ。耳を疑いたくもなる。

 

「智也は本当にバカです」

 

それを梨穂子は連呼する。「言い間違えじゃないよ」と言いたげに。

 

「智也なら・・ちゃんと解っていたでしょ?あの子達が感情的になっているって・・誤解しているって・・少し話を聞けば簡単に智也なら・・でしょう?」

 

「・・かもね。でも今の梨穂子みたいに心から納得させて綺麗に和解する事なんて出来なかったと思うな」

 

「出来なくてもいいの!」

 

梨穂子は珍しく声を荒げた。

 

「出来なくてもいいよ。それは私がやればいい事なんだから」

 

「・・」

 

「でも・・ちゃんと否定しようよ」

 

「いや。否定はしたよ」

 

「今さっきの事だけじゃないの!今のだって・・智也がそういう風に受け入れてきたから起きちゃったことじゃないかな・・」

 

「・・」

 

「私だってひょっとしたら・・何も知らない人の事でそういう噂が立ったら怖いなぁ、とか近寄りたくないなぁって思っちゃうかも知れないから偉そうなことは言えないよ?でも・・智也が、その人が悪くないって解ってるのに明らかなのに、その人がそれを受け入れてる事は悲しいよ・・やっぱり」

 

「・・」

 

「でも解るんだ。智也は悲しかったんだって。辛かったんだって。自分を責めてるんだって・・それが解っていたから何も言えなかった」

 

「・・梨穂子?何言ってんだ?」

 

「中学の剣道部の事だよ・・ずっとずっと・・智也は自分責めてた」

 

「・・・!」

 

「解るよ。ずう~っっと見ていたんだから」

 

梨穂子は微笑んだ。

 

「頑張っても理解されなくて、悲しくて、辛くて、でもそのうちきっとみんな分かってくれるって信じてたんだよね?」

 

「違う。そんなカッコイイもんじゃない。馬鹿にしていたし、見下していたし、諦めてたんだよ」

 

「言ったでしょ~?『私も何も知らなかったらそういう風に考えちゃうかも』って。でも~智也は思っていたんだよ。『知ってもらいたい、解って欲しい』って。人の考えなんて一つじゃないよ。本音と建前があるって言うけど・・建前が本音になる事も本音が建前になることも・・それどころか何が本音で何が建前なんかも解らなくなっちゃう時もある」

 

「・・」

 

「でも共通している事があるよ。変わらない真実が。智也が本当は『良くしていきたい。仲良くしていきたい』って。今まで通り同じ目標に向けて頑張って行きたいって願っていた事だよ」

 

「・・」

 

「でもね。智也は意地っ張りだから。不器用だから、そして優しいから言いだせなかったんだよね」

 

 

 

剣道部は確かに瓦解していた。二つに分かれていた。厳しい規律と秩序を保たせていた顧問の先生を失った事で。でも・・それでも存在はしていた。

 

確かに規律と秩序は失った。

 

でもその結果、それなりの脱線―良く言えば独自性が生まれていたのもまた確かなのだ。自由な時間の増加、練習の方針、部員同士での会話の増加。

厳粛故に欠けていた、厳しさゆえの無意識の心理的圧迫によって言いだせない改善案、自主性が生まれていた事も確かだったのだ。

 

確かに部は暫くは弱くなるかもしれない。剣道という一競技に置いてはひょっとしたら致命的な事なのかもしれないがそれでもこれからの行動指針を取捨選択し、新しい秩序の中でいい物は取り入れ、行き過ぎな物を取り締まる。それぐらいは出来たはずだ。

でも結果智也にはそれが出来なかった。彼がした事は失った今までの秩序をトレースする事だけ。維持しようとした事だけだ。

確かに一つの集団の将としてこう書けば「無能」の烙印で済まされるのかもしれない。

でも実は案外智也はそれを受け入れる柔軟性も全く持っていなかった訳ではない。

事実、部内が真っ二つに分かれた時も相手側を一方的に潰そうとは考えなかった。

そこには嘲りも見下しも諦めもあったのかもしれない。しかし何処かで相手側を認める、理解しようとする感情もあったのだ。行動や態度に示さないだけで。

智也が辛かったのは、何よりも辛かった、許せなかったのは部員の死んだ顧問に対する理解の差だ。

 

顧問の厳しさの中の優しさ、人間臭さ、部員達に対する想い。その認識の差だ。

でも・・それは仕方が無い事でもある。顧問が意図的に隠していた物をその時点で理解していたのが智也を含めたほんの数人だけだったのだ。

そしてその不器用さを死んだ顧問の替わりに伝え、死んだ顧問の意図や想いを全て伝える事も同じような不器用さを持つ智也には無理な話だったのだ。

それでも智也は続けた。顧問が居た日々を。居なくなってしまった戻らぬ日々を続けようとした。亡くなった顧問の思いや意図を知ることがこれからもない、智也から伝えられる事もない他の部員達に向けて。

 

欠けたものは決して戻らない。欠けて漏れた穴から水が出るのを防ぐ事は出来ない。

それが自然なのだ。しかし違うもので塞ぐ事は出来る。その選択を智也は誤った。

 

敢えて智也の失敗を上げるとしたそれぐらいのものだ。

 

欠けた欠片になるべく近い物を。しかし決して同じにはなれない物を。少し小さく歪なかけらで塞いだ穴からは隙間から水が勢いよく漏れだし、詰めた新しいかけらを徐々に崩していってしまった。

 

 

―俺じゃダメなのか。俺じゃ先生の替わりは出来ないのか。俺じゃ先生の思いを伝える事が出来ないのか・・?じゃあ・・先生が居た意味は・・何だったんだよ・・そんなの・・

 

 

悲しすぎるだろうが・・!

 

 

 

 

 

「優しすぎて優しさが伝わらないなんて・・そんなの悲しすぎるよ」

 

 

梨穂子は栗色の髪を僅かに揺らして眉を曲げ、少年に微笑みかける。

 

―そんなんじゃない。

 

「そんなんじゃない」

 

―だからそんな真っ直ぐな瞳で見ないでくれ。

迷いなく今の俺を見ないでくれ。

 

俺は

 

そんな上等な人間じゃない。

 

眼を伏せる。

 

少年は大きな・・成長した体をこれ以上なく小さくして背を曲げ、肩を震わせた。

中学時代、尊敬する顧問が死んだ時もこんな風にはならなかった。

 

 

「おいで」

 

その大きく、しかし小さな体を抱きとめる。両手で。

大きな木の幹を抱くように。しかし、泣きじゃくる幼子をよしよし、と抱きしめる優しい母親の様に。

 

震えが強くなる。それを押さえこむほどに、強く、しかし優しく。

 

 

―大きくて強くて優しい、でもどこか弱いこの人をこれからも絶対私が守るんだ。

 

何があろうと、私は貴方の味方です。

 

・・・智也?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートR 終章  花の様で 星の様で









―さて。あいつは今頃こってりしぼられてる頃だろうな。

 

と、御崎 太一を大した理由も無く殴り、それを智也に擦り付け、嵌めた三年生男子―小沢 雄平はほくそ笑んでいた。

 

―あの気の弱い神経質そうな女子生徒にちょっと「あいつキミのスカート覗いてたぜ」って煽ってやったら即真っ蒼な顔してあの通りだ。それの取り巻きの独善的で、頭の足りていない女子共も合わせて何と動かしやすいったらない。自意識過剰もいいとこだ。

 

「きひっ」

 

口の端をこれ以上なく嫌味に吊りあげてその男子生徒は気持ちよさそうに細身な体を機嫌よさそうに振っていた。

 

「おい」

 

その背中に低い声がかかる。

 

「ん・・。うぇ・・」

 

正直「嫌な奴に出会ったな」と男子生徒は悪態を隠さなかった。

智也のクラス2-Eの担任―多野だ。

違う学年の教師とはいえ規律に対する厳格さは学年問わず有名な教師である。

真っ向から異なる決して理解しあえるタイプの人種じゃないとこの男子生徒は多野を理解している。

 

「・・何すか?俺忙しいんですけど」

 

「さっき黒田 郁恵って女生徒から話を聞いたんだが・・キミはある男子生徒が細川 マキという少女のスカートの中を覗いていたという事を目撃した生徒だと聞いてね・・少し話を聞きたいんだが・・君でよかったかな・・?」

 

「ああ!?俺っす。俺っす。見てましたよ。この眼で」

 

待ってましたと目を輝かせた。

 

―へえ・・規律に厳しい先公にまで話が伝わったか・・。ナイスだ。馬鹿女子ども。こりゃあ良い感じじゃないか。こりゃあ下手すりゃアイツ・・停学処分位になんじゃないか?

 

「何ならくわしく説明しましょうか・・?何でも聞いて下さいよ!センセイ?」

 

「いや・・覗かれた本人から私自身がじっくり話を聞いてみた所・・『最初の内、気が動転していたから解らなかったけど落ち着いて考えてみると、覗かれた事に関して全く実感が無かった』という事だ」

 

「え・・」

 

―ちっ・・!使えねぇ。

 

内心舌打ちしながらも男子生徒はニヤニヤと笑いながら気を取り直し、尚も空樽が鳴る様にペラペラ喋り出す。

 

「へぇ・・上手くやってたんじゃないですか?ガタイでかい癖にコソコソしてましたから・・アイツ」

 

「と、言う事で君しか現場を目撃した人間が居ないという事でな・・詳しく話を聞いておきたい所なのだが・・」

 

 

「・・」

 

―そうそうイイ感じ。

 

「・・もういいか」

 

「・・え?どういうことすか?」

 

「どうやら『お互いに勘違いだった』ということで話が収まりそうだ」

 

「は!?なんすかそれ?俺確かに見たんすよ!?この眼で!?ほっといていいんすか」

 

「その覗いていたかもしれない生徒というのは実は私のクラスの生徒でな・・どう考えてもそんな事をするような生徒じゃないんだ」

 

「はぁ!?先生聞いてないんすか!?アイツの『噂』!?」

 

「・・『噂』?」

 

「聞いたこと無いんスカ!?」

 

「よく知らないが・・所詮噂は噂。私が確かめたいのは噂に関わった生徒の話を面と向かって聞く事だけだ。その噂の当人がわざわざ俺に会いに来てくれた。『二人共』な」

 

「と、当人!?」

 

―あのチビか・・!?

 

「その私の生徒の潔白を必死に訴えてくれた。女の子の方は泣きながら、だが・・それでもその態度を見て信頼できると私は判断した」

 

「どうせ二人共脅してたんすよ!やりそうじゃないすかアイツ。・・・何すか?自分の持ちクラスの生徒だからって庇いたいの解りますけど・・それ公私混同だと思いますけど?センセイ!?」

 

「・・そうかもしれないな」

 

やや自重気味に多野は眼を伏せ、小沢の言い分を否定しなかった。

 

「そうすよ」

 

「だが・・ハッキリ言って私の目の前に居る生徒に比べれば、私はその生徒を遥かに信用している。信ずるに値する人間だと思っている」

 

「・・はぁ!?」

 

「小沢 雄平」

 

「・・!?」

 

自分の名前を唐突に突き付けられ、萎縮する。

 

「実は・・『とある』三年生の女生徒に相談されていてな。その女生徒の話によると自分の親しい年下の男子生徒を殴った事を自分からはっきり白状した生徒が居たらしい。その名前が君だったのだが・・申し開きはあるかね・・?」

 

「・・・!!」

 

 

先日。その『とある』女子生徒と男子生徒・・小沢の会話。

 

「ねぇ・・御崎君殴ったの・・小沢君でしょ・・?」

 

「え・・いや・・ちが・・」

 

基本最近は適当にあしらわれていたはずの堂元 由亜から急に話しかけられた事によって舞い上がった小沢は明確にキョドり出す。そんな彼を見て堂元は大げさに首を振って小声で「内緒」とでも言いたげに厚く魅惑的な唇に人差指を添えて軽く片目を閉じながら小沢に笑いかけ、こう言った。

 

「あ。勘違いしないで?攻めたいワケじゃないの・・・。なんつぅか・・お礼・・?私最近あのコ―御崎君にさ~~・・・懐かれて付きまとわれてホント・・困ってたのよね~?正直・・・ありがとね?」

 

「・・・!あはっそっか!!やっぱそうだったんだ!!!」

 

その言葉に男子生徒―小沢は思わず有頂天になった。舞い上がった。お決まりの饒舌さがあっさりと顔を出す。そしてペラペラと中身の無いカラ樽の様にあっさりと肯定してしまった。

 

彼にとって夢の様な時間だった。甘い甘い

 

・・ハニートラップ。

 

 

嵌められたのだ。他でも無い彼女に。

有頂天故に・・いや例え彼が正気でも気付かなかっただろう。元々彼は彼女と目など合わせた事など無い。よって彼と話す堂元の瞳が冷え切っており、全く笑って居ないのに気付くはずが無かった。

 

 

―・・ゴメン。太一君・・私がしっかりしてればこんな事にならなかったのに。

太一君の友達にもメーワクかけなくて済んだのに。・・ちゃんと責任取るね。

 

これで逆恨みされてまたつき纏われてもサ?これも「身から出た錆だ」と思って私自身で何とかするよ・・。

 

 

 

 

 

「それで全てが繋がった。・・」

 

「・・・」

 

「噂の下手人がどうやら私の生徒じゃない以上、今回の件で私の生徒が女生徒のスカートを覗いていたという場所に『たまたま』居合わせ、『たまたま』目撃したキミに話を聞かない道理はないだろう?何せ最終的に私の生徒が愚行を犯した、ハッキリ見たと言っている生徒は最終的に君だけだ」

 

「・・」

 

「だけ」―この言葉が何よりもこの男子生徒の中にごんごんと重苦しい音を立てて響き渡って行く。

 

男子生徒―小沢はもう何もしゃべらない。こっから先に出る言葉にボロが出るのは自分でも確信している。「あの子」に嵌められたショック、間抜けなミスだけを残した滑稽な自分が出来るのは最早だんまりを決め込むことぐらいだ。

 

その小沢の首根っこにいきなり強烈な衝撃が伝わる。多野の両手であった。

 

「・・・!な、何すんだよ・・」

 

「・・。今回の事は見逃してやる。協力してくれた生徒たちを逆恨みされても困るんでな。でもな・・二度と彼らに手を出すな。もし今度舐めた真似をしてみろ。絶対に私が許さん。人を真摯に想って前を向いて歩く生徒達の足を引っ張る事など許さん。教師として生徒に吐く事としては許されん言葉だが・・・繰り返すぞ」

 

「・・ひっ」

 

「俺の大事な『生徒』に二度と手を出すな。まぁ最早お前の言葉を信じるような奴などもう居ないと思うがな」

 

多野は最後にそう付け加えて小沢の首から手を振り払う。最早言葉を失った小沢は項垂れたまま無言で立ち尽くす他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数日後の放課後であった―

 

智也は意外な人物に屋上に呼び出される事となる。

 

 

「・・来たか。茅ヶ崎」

 

 

担任の多野だった。

 

「・・お前は本当に厄介な揉め事を起こす奴だな」

 

ため息交じりに腕を組んで多野はいきなり智也にそう切り出す。何の話かは既に想像が付いている為、

 

「・・すいません」

 

智也は淡々と謝る。そんな彼を多野は

 

「・・それだ」

 

指差しながらこう言った。

 

「え?」

 

「・・何故そんなに堂々と自分の現状を受け入れる?何故自らで変えようとしない?否定しようとしない?本当にやきもきさせるなお前という生徒は・・おかげで私も今回柄にも無い事をしてしまったぞ。教師失格と言って過言ではない事をしてしまった・・」

 

「・・・?」

 

「・・とりあえず安心しろ。お前の容疑は晴れた。いい友達と後輩達に感謝するんだな」

 

「多野さん・・」

 

「多野『先生』だ。バカたれ」

 

「・・ははっ」

 

ここ数日で梨穂子と多野の二人に二回もバカと言われた。「違いない」と言いたげに智也は微笑む。その自嘲の笑顔に向けてやや呆れた様な珍しい表情を多野は見せてこう呟く。

 

「・・また何を悟った様に笑っとるんだお前は・・被害者ぶるのもいい加減にしろ」

 

「被害者ぶってる・・?俺が?」

 

「そうだ。被った理不尽を全て自分だけが我慢すれば全ての事が丸く収まると思うな。ちっとは自分で足掻け。お前が理不尽にさらされる事を我慢できない、気の良いお前の友人達こそ今回の件の被害者だ」

 

多野は智也につかつかと歩み寄る。こう続ける。

 

「茅ヶ崎・・お前のまだその歳で我慢なんかするな。自分の身の回りにある解らない事、納得のいかない事に対して抵抗しろ、疑問に思え。『何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ』と、考えろ。お前にはその力も積み重ねた知識もある。それを無駄にするな。・・嫌われ役なんぞ百年早いぞ」

 

「・・じゃあ言わせてもらいますけど何で先生は、先生の言うその『嫌われ役』を自ら買ってでてるんです?」

 

「ん?」

 

「先生だってそうじゃないですか?自分の評判ぐらい解っているはずです。生徒に『厳しい、鬱陶しい』って言われる小言を繰り返して嫌われ役をいっつもいっつも買って出てる。相手にどう思われようがお構いなしだ。それ俺と一緒でしょ?」

 

まるで―

 

智也は亡くした中学の剣道部の顧問に時を超えて語りかけている気分だった。

 

いつもそうだった。

 

多野と話していると智也はどうしても尊敬していた彼を思い出す。だからこそ内心智也は多野を慕っていた。そして同時に距離を置きたかった。

でも今なら面と向かって聞きたい事を言える。ただ真っ直ぐに。その智也の言葉に多野も真っ直ぐこう応えた。

 

「・・ふん。教師なんぞ鬱陶しがられて当り前の職業だ。何せ『教える』という事はいつも良い事ばかりを教える訳ではない。元々鬱陶しい社会の秩序やルール、理不尽さ、そして実際の所、社会に出て役に立つかはわからない事をただでさえ大量に子供―生徒に詰め込ませるんだ。そう考えると嫌われない方がおかしい」

 

 

「だが・・それでいいと私は思っている。所詮人生など望む事、本当にしたい事を出来る時間は限られている。対してそれを享受するためには嫌でもやらなければならない事の方が多い。それからある程度目を逸らし、逃げる事は出来るが結果、それを乗り越えることで得るチャンスや本当に己が望む、実現したい事をただ諦めるだけの人生を生徒に歩ませたくない―その為に私は言い続けるだけだ。それぐらいしか出来ないからな。私には」

 

 

「ちょっと性格が悪い言い方かもしれないが、私がさんざん言った小言が近い将来妙に身に沁み、生徒が思いだしながら後悔する瞬間―それこそ私の教師冥利に尽きる時だ。教師をやっていて最も報われる瞬間の一つだろう。何せ気付いたその時まだ本人は『生徒』だ。まだ何も決まっていない。・・いくらでも取り返しは利く。本人にその気があれば、の話だがな」

 

「・・・」

 

「茅ヶ崎」

 

「・・はい」

 

「お前も同じだ。お前にも色々と後悔、失敗があったんだろう。だがその経験に懲りて、物事から距離を置いたり、必要以上に我慢したり諦観等する必要など無い。その経験、失敗を糧に今やりたい事、信じた事をやれ。それを助けてくれる、応援してくれる奴はお前にはどうやらちゃんと居るようだ。だからお前はまだ大人になる必要など無い」

 

多野がそう言って初めてふっと笑いこう続けた。

 

「・・茅ヶ崎。お前は俺の大事な優秀な生徒だ。自信を持て。そして今度はお前の仲間達の力になってやれ。・・お前なら出来る」

 

 

茅ヶ崎―お前なら出来る。

 

 

今の多野の姿がかつて彼に剣道部の主将を任命した際の顧問の姿と重なった。

 

「・・」

 

放心し、じっと自分を見つめる智也の視線に少々照れくさそうに視線を逸らし、多野はポンと茅ヶ崎の肩を叩いた後、背を向けて屋上を後にしようとする。

 

「・・先生」

 

その背中を智也は呼びとめる。

 

「ん・・?」

 

「凄くカッコイイ事を言ってもらった後でなんなんすけど・・」

 

「・・何だ?」

 

「凄く言いだしづらい事だったんですけど・・やっぱり言いますね」

 

「なんだ・・?勿体つけるな」

 

 

 

 

「・・チャック空いてますよ」

 

 

 

 

「・・・!??ぬあっ!!!バカたれ!!早く言わんか!!」

 

基本暴力は振るわない多野であるが余りの意外さと恥ずかしさに赤面し、思わず手がでる。

 

「っと・・」

 

それを智也は片手間にひょいと躱す。かつての剣道部の顧問の鋭い鉄拳制裁と比べると智也を仕留めるには鋭さが少々足りない。

 

 

 

「避けるなぁ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全く・・」

 

身だしなみを今度こそ整え、多野は小声で「まぁ・・正直助かった・・礼を言うぞ」と律儀に礼を言う事も忘れなかった。

 

「・・先生」

 

「・・何だ茅ヶ崎。また言いそびれた事があってみろ。今度こそ本当にゲンコツを直撃させるぞ」

 

「いえ。言いそびれた事じゃ無くて今度は自分のことで先生に言いたい、伝えたい事が在って・・。っていうか今先生の話を聞いて俺が今決めた事があるんです。本当に突然すけど・・聞いてくれます?」

 

「ん・・一体なんだ・・?」

 

 

 

「俺・・教師になりたいです。先生みたいな」

 

 

 

「・・!これまた唐突だな・・」

 

「ええ。唐突に今思いましたから」

 

「ふん・・あまりお勧めはしないがな。想像を絶する激務の割に案外給料は安いぞ」

 

「決めましたから」

 

「・・ふん。好きにしろ」

 

踵を返してもう多野は振り返らなかった。しかし、その後ろ姿がどこか嬉しそうだったのを見て智也もまた嬉しくなる。

 

お互いの表情は見えない。しかし双方確信していた。似た者同士の二人、同じようなカオで笑っているであろうことを。

 

 

「はぁ・・」

 

 

深く息を吐いて多野が去った後の屋上から校舎を智也は見下ろす。

 

清々しかった。今まで無いぐらいに。

 

そして唐突に。無性に。・・「彼女」に会いたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ。智也!いらっしゃいだよ~~えへへ~~」

 

「・・お邪魔します」

 

何時もの茶道部部室で智也を向かい入れる栗毛の少女がふんわりとした髪を靡かせ、いそいそと御出迎え、おもてなしの用意を開始する。

 

「~♪」

 

薬缶の中の水をコンロでカンカンに沸かし、適量の茶葉を測り入れ、ゆっくりと湯を注ぐ。温かな湯気と香りが部室内にふんわり薫り立つ。普段はドジ方面に針が振れるタイプの彼女も先輩二人の的確な指導と回数をこなせば成程、その手つき、手際共に「流麗」と言って差し支えない風流さが在る。

 

「はい。智也?召し上がれ♪」

 

「・・頂きます」

 

「・・」

 

梨穂子は頬杖をつきながらお茶を飲んでいる智也の姿をみてニコニコ微笑みながら

 

―本当に。・・るっこ先輩の言うとおり最早智也がここに居るのは違和感が無いね・・。

 

と、梨穂子は言いたくなる。言葉にだしたらまた「よしてくれ」みたいな顔をされてお茶を濁されるのかなぁと梨穂子は苦笑いをする。暫くそんな感じで無言のまま二人の時が過ぎた後―

 

「梨穂子」

 

「ん~~?」

 

「とりあえず・・例の件は落ち着いたよ。・・有難うな。今回の件だけじゃない。今までの事全て・・まるっと全部ひっくるめて」

 

「・・智也」

 

「俺はこれから色々と恩を返していかなくちゃなんないと思う。梨穂子だけじゃない。正直本当に色んな人に世話になっちまった・・これから一つずつ返していくよ」

 

「・・うん。そうだね。ホントだよ。一杯一杯助けて貰ったね?御崎君に梅原君達、かなえちゃんに紗江ちゃん、絢辻さんまで・・そしてるっ子先輩、まな先輩・・他にもホント色んな人に助けてもらっちゃったね・・」

 

「ああ」

 

「・・智也は・・幸せ者だぁ」

 

「うん。違いないな。おかげでなんだか今日はすっげぇ気分がいいんだ。なんか・・憑きものが落ちた・・解放されたって言うかさ・・だから敢えてこういう日こそこれから俺がどうすべきなのか、どうしたいのかってはっきりと言葉に出して置きたいってガラにもなく思った。だから・・その証人になってくんないか?梨穂子がさ」

 

「私が・・!?うん・・!うん!!喜んで~。な~~んでも話して?」

 

―うわは!嬉しいなぁ。嬉しいなぁ。

 

この桜井 梨穂子という少女は内心の感情と表情に殆ど差が出ない。その愚直なほどの正直さこそ彼女の美徳である。さらにそれが幸せな表情であればもう言う事無し。敵無し。対峙した人間の黙秘、偽証は不可能レベルだ。それは少々意地っ張りな智也とはいえ例外ではない。

 

「実はな?・・俺・・今日いきなり『夢』なんか見ちまったんだよ・・?あ・・。寝る時の夢じゃないぞ?将来何になりたいかっていうあの『夢』さ。俺にだぞ?」

 

第三者から言わせれば「・・ちょっと梨穂子を馬鹿にし過ぎなんじゃネ?」とつっ込みたくなる言葉だが―

 

「え・・え・・?そ、そうなんだ!!うわぁ・・あっはははは?ホント、ホントいきなりだねぇ?」

 

梨穂子はほんの少しまん丸い眼を見開いた戸惑いの後、満面の笑みでするすると受け取り、ほんの些細な突っ込み所を完全にスルーする。

 

この少女の包容力―絶大。

 

「・・だろ?俺もびっくりした」

 

「あっはははは・・でもなんか・・なんでだろ?私・・なんか自分の事みたいに嬉しいよぉ。・・・ん。あれ、あれ、何で?何か涙でちゃってくる・・あはは、その、ゴメン・・ぐすっ・・」

 

「・・・何かお前・・」

 

「え?」

 

「母さんみたいだな」

 

「・・。あははっ・・」

 

―何か嬉しい様な悲しい様な微妙な判定だね。でもね?しょうがないじゃん?・・止まらないんだよぉ~~。

 

両目からあふれ出る涙をまさしくオカンのように「あんたもおおきくなってぇ~~」的な仕草でハンカチで梨穂子は拭く。

そして鼻をぐずりながらも取りあえず一口お茶をすすり、あったかい湯気と茶葉の薫りで梨穂子は心根を調え、深呼吸と同時に智也に尋ねる。

 

「ほふうぅ・・ふぅ~~~。・・で。で。で?なに?智也の夢って。すんご~~~い気になるよ!では・・おほん!智也殿~~?そちの夢とは何ぞや?私が聞いてしんぜよう。ふっふっふっ~~」

 

気取ったお代官口調で梨穂子は愉快そうに笑ってそう語りかけた。しかし何と汚職も地上げもしそうにないクリーンなお代官もいるものである。

 

そんなお代官様に越後屋―茅ヶ崎 智也もやや口調を畏まらせ、こう言った。

 

「教師・・先生になりたいと思うております」

 

「・・・!?智也が教師!!うわぁ!!うん・・うん!!すっっっごくいいと思う!!智也良い先生になりそうだぁ~~うん、うん!私が保証するよ!」

 

「・・梨穂子が『保証』?」

 

「なぬ?不満かコラ~~?うが~~~!」

 

両腕を振りあげて「失礼な~~」とでも言いたげにプンスカ梨穂子は怒ったが残念ながら全く怖くない。むしろ可愛く、そして智也にとっては―

 

「・・いや。心強い」

 

「・・!」

 

―うわぁ・・!

 

照れ隠しも臆面もなく言い切った智也の顔に逆に梨穂子が言葉を失う構図になる。なんかほんの少しの間見ないうちに一気に大人びて先に行ってしまった様なやや寂しい感覚を覚えた梨穂子は必死で心の中でこう祈る。

 

―智也がすっごいカッコイイ大人の男の子になっちゃったのはと~~っても嬉しいんだけど・・反面すこし悲しいよ~~。・・ほんの少し、ほんの少しでいいから戻って来てよぉ~~。

 

でも―

 

真っ直ぐ前に進み出したこの幼馴染の少年の歩みを止める事など梨穂子には出来ない。少し悲しくも、そして切なくも彼の歩みを前に自分ができる事、まずすべき事は何だろうかと「う~ん」と梨穂子は腕を組んで考え込み、唸る。

 

―智也・・お願いだからいきなり置いてかないで~~。私もも少し頑張るからさ~~。

 

ただ・・その、・・私は智也が知っての通り足遅いし、ドンくさいので・・・少し・・いや、だいぶ。気長に。待っていて欲しい、デス・・。

 

 

・・なんて情けない要望だろう。言えないこんな事。

 

そんな弱気な自分を奮い立たせて少し前に行ってしまった目の前を智也をしっかりと見据えて梨穂子はこう言い放つ。

 

「・・うん。決めた。智也!」

 

「うん?」

 

「私も智也に負けないように頑張るね。頼りなくて・・ドンくさいけど私も頑張るからさ・・だから―」

 

「・・だから?」

 

「・・・だからぁ」

 

 

 

―・・ずっと傍に居て・・?

 

 

 

・・言えない。

 

智也を助けるためならば。力になる為ならば私は何でも出来る。

 

豚もおだてりゃ木に登るのです!ぶ~ぶ~。

 

けど・・私。コレは出来ない。コレ「が」出来ない。昔から。

 

言えない。言えないよぉ~~うぅ~~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・そのままでいいよ」

 

 

 

 

 

「・・・え?」

 

 

 

 

 

「梨穂子はそのままでいい。・・そのままがいい。そのままで・・俺の傍に居てくれ」

 

 

 

 

 

 

―ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   ルートR               完



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ルートS 8 小動物 人間になる












時はクリスマスまで丁度一週間前―日曜日のお昼の事。

 

 

 

「紗希・・」

 

「何でしょうか?ア・ナ・タ?」

 

「いきなり『貴方。久しぶりにデートしましょう!』と、言うからいつもの店を予約しようとしていたのに・・それを断ってなんでまたその・・」

 

「はいな」

 

「・・『ココ』でいいのかね?」

 

「はい。私はアナタとデートできるだけで結構幸せなので」

 

「そ、そうか」

 

「ええ。例え肝心のクリスマスとイヴの日に仕事の予定が入って大切な家族と一緒に過ごせない事になった甲斐性なしでド畜生のダメ亭主であっても」

 

「・・『すまない』と何度も言ったではないか・・まだ根に持っているのか?」

 

「い~~え。あ~~あ。あの時の紗江の悲しそうなカオったら・・本当に可哀そうでしたわ」

 

「・・」

 

「だからせめてクリスマスまでの最後の休暇のこの日ぐらいは貴方とデートさせて下さいな」

 

「・・。それならせめて紗江も一緒に来たらよかったのではないか」

 

「仕方ないでしょう?今日は日曜日よ?紗江だってヒマじゃ無いの。・・一人の男の子に夢中になった以上、女の子の人生は一気に様変わりします!・・それに比べて大事な日に居ない、デートしてくれない父親よりも傍にいてくれる優しい男の子・・ダメな父親より普通そっち選ぶと思いません?」

 

「・・ぐぬぬぬ」

 

「・・御崎君の話をすると貴方、一気に子供っぽくなりますわね。まだ引き摺ってるの?心にもない言葉言って御崎君突き放しちゃったこと」

 

「・・自分でも驚いたよ。初対面早々彼には本当にすまない事をしたと思っている・・」

 

「ま。貴方はビジネスに関しては百戦錬磨でも『一人娘のボーイフレンド』に関しては全く以ての初心者、ズブの素人ですからね」

 

「耳が痛い。だが・・それは紗希。君も同じではないのか?」

 

「私はアナタとは歩んできた人生が違います。学生時代は勉強漬け、エリート、社会で成功するための道を歩んできた貴方とごくごく一般的な家庭で育った私。友人、人間関係の種類、経験値がそもそも異なりますわ。・・お気に入りのカワイイ後輩や、先輩の女の子が目の前で次々どこの馬の骨か知れない糞男子に盗られていく屈辱・・それに関してはワタクシ。百戦錬磨でございますの」

 

「・・」

 

「でもそれは仕方ない事ですの。私も現に貴方と言う人に惹かれた。好きになってしまった。紗江だってそうよ。初めて好きになった人の傍に居たいと思うのは当たり前です。その気持ち、貴方も少しずつ汲んで受け入れていって下さいな。少なくとも・・御崎君は中々芯がありそうな子で私は好きよ」

 

「・・」

 

―勝てんな。この女には。

 

 

 

 

 

「さて・・一足早いクリスマスパーティーと行きましょうか。気の早いサンタクロースよりも気の早いバカ夫婦を―

 

 

 

・・祝ってくれるお店らしいの。ここは」

 

 

 

ぱっ

 

 

「ん・・?照明が?停電かな」

 

 

「・・・」

 

 

 

 

 

―「JORSTER」か・・。

 

 

ひょっとしたら私達夫婦の行きつけのお店になるかもね♪良いお店だわ。

・・私達の可愛い紗江ちゃんが選んだ所なだけはある。

 

 

 

「パ・・パパ?」

 

 

 

「ん・・?・・・!!!」

 

 

 

その声に中多父は驚愕の眼を見開いて振り返り、更に眼玉が飛びだすかと思うほどその光景に釘づけになった。

 

 

「・・・」

 

いつものようにうるうるおめめを揺らめかせ、プルプルと震える細い両手でバチバチと線香花火のように光る蝋燭が灯された可愛らしいクリスマス用のデコレーションケーキを少しずつ一歩、また一歩ゆっくりと大好きな父親に向かって歩いてくる一人娘―

 

 

中多 紗江の姿が在った。

 

 

「そ、その・・め、メリー『ちょっと早い』クリスマス・・ですっ!!」

 

 

 

 

 

時は少し遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

例の事件が最後に智也の担任教師―多野によって完全収拾されてから少し時間が経った時の事だ。

 

 

中多と太一はそもそも本来の計画―「クリスマス、そしてバレンタインと中多の父にプレゼントをする為」のアルバイトの訓練をしてきたのであるが先日の事件、それに端を発したごたごたによる混乱から中多がJORSTERの面接に落ちる以前にそのスタートラインにすら立てなかった事により、二人の計画は一時頓挫していた。

 

JORSTERの再面接も年末年始の多忙さから「年明け、繁忙期が落ち着いてから」という結論に落ち着いている。

 

つまり年内・・今年のクリスマスまでに「いくらかお金を稼いで父に何かをプレゼントする」という中多の計画はかなり厳しくなってしまったのだ。

 

「・・・うぅ」

 

小さな少女一人、クリスマスの世間の冷たい寒風にさらされながらとぼとぼ歩く。いつもの愛用のガマ口財布、「ガマちゃん」の中身を覗く。・・8000円程はある。別にお金に困っているわけではない。でも今の彼女にとってはその中身は空っぽ同然に見えた。

 

―うう・・ガマちゃんゴメンね?お腹すいてるよね・・。

 

「いや空いて無いけど・・なんで泣いてんの?」とでもガマちゃんは大口を虚空に向かって開けながら言いたげである。中多はそっとその彼女にとって「空の財布」をそっとしまいこむ。

 

 

―お金・・欲しいなぁ。自分の力で・・。

 

 

 

 

「紗江ちゃん」

 

 

「・・!太一せん・・・。・・ひゃっ!」

 

「・・あ。ゴメン」

 

中多は思わず太一の「惨状」に一歩退いた。彼の左頬が痛々しくぽっかり赤く膨らんで人相がやや変わっているもんだから当然臆病な小動物少女―中多は脅えたくもなる。太一は左頬を抑えながら申し訳そうに笑って謝る。

 

「どどどどど、どうしたんですか!?先輩!?ま、まさかまた・・!?」

 

瞬時に脅えてしまった自分を諫め、中多は心配そうに眉を歪めて太一を見上げる。

 

「あ。心配しないで・・っつっても無理だよね?でも・・ホントに、ホントにこれが『最後』だから」

 

 

 

 

 

太一は堂元 由亜の所へ行った。

 

太一には解っていた。あの三年生男子生徒―小沢が由亜の下に行く事を。せめて問い質したい筈だ。自分を天国から一気に地獄まで叩き落とした少女の真意を。

 

そして由亜は彼のその問いかけを全てに於いて肯定し、彼を嵌めた事を一切否定しなかった。決して彼に対する嘲り、侮蔑等無く淡々と。真摯に彼女は彼と向き合った。トラブルの責任の一端が「自分の生来の性格」と言う事は否定できない事実である故に。彼を責めたとすれば無関係の太一達を巻き込んだことぐらいだ。

 

最後に「自分はどれだけ責めてもいい、殴ってもいい。だから太一君達はもう放っておいて」と付け加え、頭まで下げた。

 

そんな彼女の行動すらもまともに小沢は見る事は出来なかった。眼を、心を逸らしたままだった。ただ彼女の「責めてもいい、殴ってもいい」という言葉に機械的に細く、何も持っていない空っぽの自分の拳を振り上げる。

 

その矛先は結局彼女と彼の間に割って入った太一の左頬に突き刺さった。

 

 

 

その直前―

 

予想された男子生徒―小沢 雄平の逆恨みの行動を警戒していた茅ヶ崎のクラスの担任教師―多野に太一は接触。

「僕なりに決着をつけたい。よって手出しをしないで欲しい」という要望を多野は当初はあまり肯定的では無かったが必死で更に太一が頼み込んだ結果、最後には尊重してくれた。「決して暴力は振るわない事、そして再び暴力に晒された際は遠慮することなく自分を頼って欲しい事」を条件に付け加えて。

 

―・・また教師失格の行動だな。君といい茅ヶ崎といい・・。手のかかる生徒だ。

 

と、苦笑いしながらも送り出してくれた多野の言葉が少し太一には嬉しかった

 

 

 

 

 

「太一君!!・・そんな・・太一君!!?」

 

殴り飛ばされた太一が堂元に声をかけ続けられる光景を眼にし、小沢はその「初めての感覚」に立ちつくす他無い。殴った自分の拳が痛いのだ。まるで自分が殴られたみたいだった。

 

彼は今まで人に殴られた経験はない。今回の件でも智也も、多野も彼を殴らなかった。「自分は運が良い」と思っていた。しかし悟る。

 

「自分は殴られる価値もない」のだと。

 

―・・つまんね。

 

他でもない自分自身に語りかける様に小沢は目の前の光景に興味を無くし、もう彼等と二度と関わらない事を決め踵を返した。

 

泣きじゃくる由亜を笑いながら慰めた太一はすっきりした表情で彼女の元を去る。その小さな背中は今の由亜には大きく見えた。素敵に見えた。

 

 

 

―・・ホント。

 

太一君可愛くなくなっちゃった。

 

・・カッコよくなっちゃった。

 

残念。

 

初めて由亜は「去る者」を追いたくなった。形良く盛り上がった胸の中心に片手を添え、僅かに跳ねる心を生まれた「何か」と共に抑え込む。

 

 

 

 

 

彼はもう小動物ではない。れっきとした一人の人間、男の子だ。

 

そしてそんな彼はもう自分には振り向いてくれない。遠い所に行く。

 

 

あの子の元へ―

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな人間―太一の名誉の負傷の左頬を。

 

「・・・」

 

中多は今は外気の寒さと寂しい懐事情で凍えていた冷たい小さな掌をそっと添え、冷やしてあげた。

・・たまには「冷たい」ということも良い事だ。

気持ち良さそうに添えられた冷たく小さな手に太一は眼を細めて微笑む。その笑顔に中多は手とは対照的に心に温かな灯が宿るのを感じて彼女もまた微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし―

 

 

一つの壁を乗り越えた少年少女達に否が応なしに現実が降りかかる。

 

 

「・・僕のせいで・・ホントにゴメンね・・紗江ちゃん」

 

「そんな・・先輩のせいじゃありません・・皆さんの折角のご協力に応えられなかった私が悪いんですから・・くすん」

 

中多の月のお小遣いは一万円。それに太一の寄付があればそれなりの物は買えるだろう。でもそれはやっぱり何かが違う。

 

「でも・・仕方ないよね。うん!気持ち切り替えて紗江ちゃんのお父さんに『どうやったら喜んでもらえるか』から一緒に考えて行こうか」

 

「はい。そうですね」

 

情けないけど仕方ないよね、と言いたげな二人はお互いの微妙な困り顔を向け、笑いあった。そんな二人に―

 

「・・二人してシケた面して歩いてるわね~~」

 

中々失礼な言葉がかけられた。一瞬太一はムッとしながら振り返ったが、その声をかけた当人の表情も相当に「シケた」面をしている為、すぐに太一の衝動は和らぐ。そして気の毒そうに、現れた「彼女」に心底同情した声で

 

「・・大丈夫?棚町さんこそ・・」

 

「・・大丈夫じゃないわよう・・」

 

鬼の様な多忙な年末、そして過酷なプライベートな問題を多数抱えた苦労人―棚町 薫が突っ立っていた。

 

「棚町先輩もお疲れなんですね・・」

 

 

中多も同調してそう言った後、「はぁ」という白い溜息が三人同時に虚空に巻き上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・う~~ん。お父さんにクリスマスプレゼントを、ね」

 

中多から事情を聞いた棚町はしみじみとそう言った。

 

「はい・・だから自分の力で稼いだお金でパパを喜ばせたいなぁって思って皆さんに色々協力してもらったのに・・ご期待に添えなくて・・情けないです。くすん」

 

「・・自分で稼いだお金かぁ。うん。私も高校入ってバイト初めてやった時に貰った最初のお給料でお母さんと食事したの覚えてる。・・格別だった。貰ったお小遣いと自分で稼いだお金で大切な誰かに何かを贈るのってまったく別モノだから」

 

「・・」

 

「で」

 

「・・?」

 

「もう諦めちゃうの?紗江ちゃんは」

 

「・・諦めたくないです!でも・・JORSTERで働いて年内でお金を貰うことはできなくなりましたし・・」

 

最初にきっぱりと否定した後は徐々に尻すぼみになってしまう少女の言葉に太一は助け船を出す。

 

「だからとりあえずクリスマスに関しては今の手持ちで何か中多さんのお父さんに喜ぶ事をしてあげたいなぁ、と、考えていた所なんだよ」

 

「成程ね。なら結構・・お二人とも手段は選ばない感じなんだ・・?」

 

顎に手を添え、やや強い表情をして「ふぅむ」と棚町は考え込みつつ中多、太一の二人を見る。最近公私ともに激務続きでややお疲れの棚町の睨みはやや怖い。

 

「棚町さん・・?」

 

「・・私もね?家での気まずさから逃れる為に手段選ばなかったの。逃げ道漁って漁って方々手を延ばしたお陰で色んな世界知ったわ・・。JORSTER以外にね。・・お金って案外稼げるもんなのよ?うふふふふ・・」

 

棚町はにやりと笑って中多をじっと見る。小動物のように中多は竦み、背筋を伸ばす。

 

「短期バイト・・やってみる?短い期間で直ぐに在る程度のお金が手に入る。ただし当然そんな条件と都合のいい物にはその分リスクがある。・・覚悟は良い?紗江ちゃん?」

 

「ひっ・・」

 

脅える小動物少女の前に少年が割り込む。

 

「棚町さん!?・・君の事だから程度は分けまえているとは思うけど・・」

 

「安心してよ。私だって分別くらいあるわ。それにヘンなとこ紹介して御崎君に直衛にチクられたら私怒られちゃうし。とりあえず話だけは聞いて?それで判断してくれて一向に構わないから」

 

「・・どうする?紗江ちゃん」

 

「お話だけ聞く位なら・・」

 

「ふふん。おっけー。じゃあまずはね・・」

 

 

 

「ごく」

 

 

 

「・・・これを着るのよ!紗江ちゃん!!!」

 

 

そういってもったいつけながら棚町が彼女の通学用のカバンから出したのは

 

 

「ひゃあ~~真っ赤っか!もう~~火事かと思ったわ~~~」とでも言いたくなるような眼に痛い赤い赤い衣装。明らかにサンタクロースをモチーフにしたデザインの衣装である。

 

そして明らかに・・布地面積が狭い。

 

 

「なななななな!!???」

 

―こ、これはマズイ!!マズイって!!

 

 

「これでこの寒空の中!劣情と下卑た下心を持っている魑魅魍魎の野郎どもからケーキを売り、お金を巻き上げるのよ!!紗江ちゃん!!うわはははははは!!」

 

 

そうのたまって笑う壊れたノリの棚町を見て太一は心底同情を禁じえない。「ああ。彼女は既に壊れているのだ」と。しかしそれはそれ、これはこれ。

 

「さ、紗江ちゃん・・さ、さすがにコレは・・」

 

「・・アリです」

 

「へ?」

 

 

 

「すすすすっごい可愛い!!着てみたいです!!棚町先輩!ぜひやらせて下さい!」

 

 

 

―・・しまった!このコ、こういうコだった・・・!!!

 

 

太一は今更に思い知る。一応この子は「あの」母親の娘なのだ。

 

 

 

 

「よっし!!そうと決まれば私についておいで!!」

 

―はっきり言ってこの子なら顔パス!!

 

 

「はい!!」

 

 

「・・・」

 

―と、とりあえず心配だから付いて行こう・・。

 

 

 

 

棚町の予想通り、中多はその日に顔パスでケーキ屋の短期バイトを勝ち取る。未成年者である以上、保護者の承認が必要なので流石にその日に働く事は出来なかったがあっさりと「可愛い衣装を着る」という中多の目的が達される。結構な「上玉」の緊急参戦に気を良くした採用担当が貸衣装の試着を早速許してくれたのだ。

 

棚町と中多は店の裏にある更衣室へ消える。流石にそこに太一は立ち入る事は出来ない為、店内でそわそわ待つ他無かった。

 

―・・心配だぁ。中多さん大丈夫かなぁ・・棚町さんだから大丈夫だとは思うけど・・。

 

 

 

んが。

 

 

 

更衣室では別の予想外の事象が起きていた。

 

 

「・・・あ、あああ」

 

―ば、馬鹿な。

 

「た、棚町先輩。そ、そのどうで、しょうか・・?」

 

 

棚町は唖然、愕然。そして戦慄する。予想以上のポテンシャルを秘めていた目の前の小動物少女を前に。

 

 

―サ、サイズが合わない!?「こぼれ」ちゃう!?

 

 

 

・・何が「こぼれる」かは想像にお任せする。

 

 

 

 

数日後―

 

 

 

この店の開店以来最高クラスの売り上げを叩きだした約三日間―その間に働いていた短期アルバイターの少女は―

 

 

 

伝説となった。

 

 

 

彼女を採用した担当の話によると

 

 

―彼女だけ「特別」仕様のサンタ衣装を発注するのに迷いが全く生まれなかった。

 

その衣装は彼女にしか着れないので記念にその少女に贈ったらしい。

 

少女は感激し、何度も頭をペコペコ下げた。・・可愛かった。

 

また短期バイトを募集する事があれば是非来てほしい。切に願う。

 

 

・・あの衣装を着て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして「あの衣装」は。

 

 

 

 

 

現在―このクリスマス一週間前のJORSTERにて初披露目された。

彼女の大好きな大好きな父親の前で。・・些か刺激が強過ぎたようだが。

 

 

「さ、ささささ紗江!!な、ななななんて恰好を!!!か、風邪をひいてしまうではないか!!!?」

 

 

中多父が眼に毒なほど可愛い娘のホントに可愛いが、同時にあられもない姿に混乱して暴走している頃、その姿を愉快そうに見ながら彼の妻―紗希はJORSTERの向こうの客席でガタガタ震えているであろう太一の方向を見据えていた。

 

言うまでもなく、娘のこの色々問題ありそうな短期バイトを許したのはこの母親である。

 

正直娘の紗江は既に相当に乗り気で在り、太一の制止も利かなかった為、最後の手段としてこの母親に娘を止めてもらおうと太一は考えていた。このバイトをするために必要な保護者の捺印さえ取れなければ流石に中多娘も諦める他ない。よって最後の砦であったのだ。

 

サプライズの標的なのでこれは中多父には頼めない。よってこの予測不能、トリックスターな母親に縋るしかないのだが・・

 

・・トン。

 

あっさりと太一の眼の前で中多母は躊躇い無く印を押した。まるで太一を嘲笑うかのような爽やかな笑顔で。

 

 

 

―ぬっふふ~~♪

 

 

 

そう。今現在太一の方向を見据えているこの笑顔だ。さわやかで美しいが同時に邪悪だ。その中多母の視線の先に

 

「ん・・・!?まさか・・!!」

 

中多父は気付き、視線を向ける。

 

 

―そこか!そこなのか!!

 

 

脅えながらも太一はひょっこり頭を出して面目なさそうに頭を下げる。狙撃でも警戒してるみたいな挙動不審な動作だ。

 

「・・やはり私は君が嫌いだ」

 

あまりに理不尽なヘイトが太一に突き刺さる。が―

 

 

「パ、パパ・・?」

 

 

そんな父親に不安そうに娘が語りかけると父親のボルテージは一変。

 

 

「ん!?あ、ああ・・紗江・・その、」

 

「お、怒ってる・・?ご、ごめんなさ・・・」

 

「い、いや!・・その、怒ってる、ような、その怒ってな、い、ような?」

 

「全く・・親娘してはっきりして下さいな?もどかしい・・・」

 

策士の母、全く悪びれず。

 

 

 

 

 

 

「ほ・・」

 

落ち込みながらも親子交流を再開した中多家の光景に少し落ち着いた太一の前に

 

「・・ま、まぁ。気を落とすな。大将。俺らもついてる」

 

「・・色々在ったんだね。及ばずながら出来る事はするよ。・・絢辻さんも『顔出すくらいはするかも』ってさ」

 

「・・・。紗江ちゃんのお母さん・・なんか『ウチの』に似てるわ・・」

 

「・・・」

 

―・・一見厳しそうだけど凄い娘さん大事にする親父さんなんだろな。・・なんかウチの親父や先生、・・・多野さんに似てるや。

 

 

梅原、源、杉内。そして意外にも茅ヶ崎の四人が召集されていた。国枝は「妹のクリスマス衣装の買い出しの為」とか言って逃げた。棚町はその事に心底憤っており、それを宥めるのがこの五人でまた大変だった。そして―

 

 

「あれが・・紗江ちゃんのお父さん?うわぁカッコイイね・・」

 

「う~~んそだね~~『デキル男』って感じ」

 

「・・そうですね。ホントにお若いですよね」

 

「・・」

 

―・・いいなぁ紗江ちゃん。私もお父さん生きてたらプレゼントとかしてあげたかったなぁ・・。一見怒っているように見えるけど・・あれはある意味照れ隠しでしょ。

 

凄い喜んでくれてると思うよ紗江ちゃん?・・私には解るよ。

 

よかったね・・。

 

 

 

別の席でお客として座る桜井 梨穂子、その親友伊藤 香苗、そして中多のクラスメイトの七咲 逢、そしてその席にドリンクバーのお代わりを配るウェイトレス姿の棚町 薫は自分は実現できなかった大好きな父親への恩返しをする一人の少女の姿を心から祝福する。

 

 

 

 

 

「薫。パフェおかわり」

 

「・・・恵子。アンタって子は」

 

「へ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「パパ・・ママ。そ、そして今日集まって下さった皆さん・・す、少し早いですけど・・楽しんでいってくだひゃい!」

 

 

 

中多 紗江は今まで、そして今回の事件でお世話になった人を呼んで今回の一足早いささやかなクリスマスパーティーを開いた。

 

おかげで短期バイトで稼いだお金、そして今月のお小遣いはすっからかん。

色々と入り様な年末を前にして早々赤字決定だ。

 

 

でも―

 

初めて自分で稼いだお金の初めての使い道としてこれ以上の物はないと中多は確信している。

 

 

 

 

 

 

中多は大好きな父の隣で微笑む。そしてちらりと太一の顔を見た。

 

 

「・・・ふふっ♪」

 

感謝と好意を一欠片も隠さない見とれるほどの無垢な微笑み。

 

 

「・・・」

 

かつて小さく、気弱でぶるぶると震えていたかつての少女のその微笑みは・・大人びて見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太一も彼女に今月のお小遣いを全額カンパしたお陰で彼もすっからかんだ。

 

 

―・・すっからかん同士丁度良いや。

 

 

 

 

今年のクリスマスは何処にも行かずどこか二人で。まったりしよう。

 

 

 

 

 

 

・・今日の出来事を。

 

 

 

 

皆の笑顔を最高の話の種にして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートR 裏話






ルートR 裏話 喧嘩はやめて 二人を止めて 3

 

 

 

 

「全く・・お前も解らない奴だな・・。瑠璃子」

 

「その台詞そっくりそのままお返しするよ!愛歌!!」

 

茶道部三年生コンビ、夕月 瑠璃子と飛羽 愛歌―この二人はお互い毛色こそ全く違うが不思議な事に滅多に喧嘩する事は無い。が、年末を控えた今日、珍しく大変な剣幕でいがみ合っていた。

 

「どうしたんスカ・・?」

 

「るっ子先輩?愛歌先輩まで・・どうしたんですか?」

 

先日の創設祭で使用した庭の草むしりを終え、寒さで凍えた体をコタツに滑り込ませた二年生幼馴染コンビ、茅ヶ崎 智也、桜井 梨穂子の問いかけにも―

 

「ああん!?どうしたもこうしたもないよ!!愛歌がこんな解らず屋だとは思いもよらなかったもんでね!!」

 

「ふん・・貴様にそんな事を言われる筋合いはない。その言葉自分でそっくりそのまま咀嚼し・・噛み砕いてはどうだ?貴様も少しは自分の愚かさが解るであろうよ」

 

と、この通り取りつくシマが無い。智也は不謹慎ながらある意味レアな光景を前にして奇妙な好奇心の中、いがみ合う二人に声をかける。

 

「ホント、珍しいですね?お二人がいがみ合うなんて・・」

 

―これからの茶道部の方針で揉めてんのかな?まぁ・・梨穂子を部長にするのに不安なのは理解できるけど・・。

 

そんな智也の失礼な心象も露知らず、いつものように梨穂子はふんわか、ほんわりと二人を大袈裟な手ぶりを交えて宥める。

 

「まぁ~まぁ~お二人共~?まずは落ち着いて下さいよぉ~?とりあえず私達に話してくれませんか?その~・・何でそんなにお二人が真剣に喧嘩しているのか・・」

 

「・・とても大事な話だ・・茶道部のな」

 

「ああ・・譲れない話さ。私らの・・もちろんアンタ達二年生茶道部バカップルの為でもある!」

 

「うう・・・。酷い言われようだぁ~」

 

「・・・ずず」

 

少し落ち込む梨穂子をよそに智也は「もう馴れた」とでも言うようにお構いなしに茶をすする。

 

「まぁ丁度いい・・瑠璃子?・・こうなってはこの二人の意見も聞こうではないか・・。ふっ・・これで白黒がはっきりするであろうよ・・」

 

「はん!いいだろ愛歌!!望む所さ」

 

―・・漸く本題か。

 

智也はゆっくりと湯呑を置き、やや真剣なまなざしで先輩女子二人に向きあう。

 

「はい。して・・何があったんですかお二方?出来るだけ簡潔に・・『この』梨穂子にも解るように説明して下さい。政治家が幼稚園のまだ読み書きもできない子供に演説する時の様に。日本語がまだまだ苦手な移民系外国人居住者にも解る様な簡潔な日本語でお願いしますよ!!?」

 

「ふん。言われるまでも無い・・」

 

「小学生かそれ以下の知能レベルに合わせて解りやすく説明すりゃあいいんだろ?任せときな。伊達に私ら十八年生きちゃいないよ!」

 

「・・・・」

 

―うう酷い。誰か否定してよ。

 

フルぼっこの梨穂子がずんと落ち込む中で茶道部三年生コンビは二年生コンビに向きあい、喧嘩している割には絶妙なコンビネーションで迫ってくる。

 

「梨穂っち!」

 

「そして茅ヶ崎!」

 

「・・・ご、ごくり・・」

 

「・・・」

 

 

「「来る三十日!茶道部の忘年会の鍋パーティ!喰いたいのは」」

 

「カニ鍋!」

 

↑夕月。

 

「カモ鍋・・」

 

↑飛羽。

 

 

 

「「さあ!どっちがいい!?」」

 

 

 

「・・・へ?」

 

「・・・ずず」

 

―・・・。まぁこんなこったろうと思ったさ。

 

放心状態で目を真ん丸に見開いたままイマイチ現状を把握できていない梨穂子を尻目に、茶道部入部を「早まったかな・・」とでも言いたげな投げやりな態度で智也は再びお茶をすする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうですねぇ・・・カニ鍋にカモ鍋・・・どっちも捨てがたいですねぇ・・う~ん難しい問題ですよぉこいつはぁ・・ぐれーとですよぉ~~こいつはぁ・・」

 

数分後、徐々に梨穂子は状況を把握しつつあり、すでに二つの天秤は彼女の体内で胃袋と一緒にぐらぐらと揺れ動いている。

 

「何を迷ってるんだい梨穂っち!冬と言ったらカニ鍋に決まっているだろう!?」

 

「騙されるな梨穂っち・・カニ鍋など所詮邪道・・本当の通はこの季節にカモ鍋を食べるものなのだ・・」

 

梨穂子を間に挟み、三年生コンビは独自の忘年会の鍋プレゼンを開始し始めた。

食通の二人らしく内容が濃い。梨穂子の食欲を極限まで上昇させるのは想像に難くない。

 

「・・ふんふん。・・ほうほう」、「いいですね~ナイスですね~。」、「・・・え?凄い!るっ子先輩素敵!」、「え!?愛歌先輩!?カモにそ、そんな食べ方があるんですか!?」

 

二人の話を双方共に何時もの様な大げさなリアクションで八方美人に節操無く頷く梨穂子を尻目に―

 

「・・・」

 

智也は無言のまま、一人その場を離れ、茶道部の「四次元〇ケット」の如き謎の物体満載の棚を調べる。

 

―よー久しぶりー。「もっくん」。

 

無機質な人体模型―梨穂子命名の「もっくん」の顔が覗く。智也の友人、もしくは梨穂子の友人がこの茶道室に遊びに来た際、決まってここを調べさせ、ビビるリアクションを智也達は楽しんだものだった。

しかし・・唯一先日招いた2-A委員長―絢辻 詞があまり驚いていたように見えなかったのはなぜだろうか・・?

 

回想―

 

「・・・。きゃっ!?な、なにこれ?びっくりしたぁ」

 

―何処となく反応が一拍置いている様な気がしたのだが・・そして驚き方が何処となくわざとらしかったような・・?

 

そんな思いに智也がふけっていると

 

「あ、あの~この際両方ってのはダメですか・・?」

 

「あら・・」

 

―・・いかん。梨穂子がこう言い始めたという事は話し合いが末期に来ている証拠だ。

急がねば。えっと・・確かここらへんに・・。あった!借りるぜ・・もっくん。

 

 

 

数々の使途不明の茶道部備品の数々からおもむろに「かなりまともな方」である電卓を取り出し、無心に智也は叩き始めた。そんな中―

 

「・・ええい!だめだ!やはり梨穂っちでは埒が明かない!食に関して優柔不断すぎらい!」

 

「ちっ・・つかえないやろーだぁ・・・」

 

どちらにもイイ顔しようとしやがる奴は信用ならねぇ!と、でも言いたげに夕月、飛羽の二人は梨穂子に匙を投げた。

 

「二人共酷い!そもそも私がすぐにそんなの選べるわけ無いじゃないですかぁ~んああ~~」

 

かも~かに~。

 

頭を抱えた梨穂子が頭の中をぐるぐると駆け巡るカニとカモを追いかけまわしている中、彼女を見捨てた三年生コンビは標的を智也に変える。

 

「こうなったら茅ヶ崎!アンタが決めるんだよ。・・・。って、さっきからアンタ何してんだい!?こんな大事な話し合いをしている時に!」

 

「茶道部としての自覚が足らんぞ・・茅ヶ崎」

 

「・・え~~」

 

―いや・・茶道部で鍋をどうするかで揉めている貴方がたに比べれば。

 

 

 

 

「・・はいはい。解りました解りましたよ。今終わりましたっ。で・・・俺も決心が固まりましたよ先輩方」

 

「ぐっど!い~い決断力だ茅ヶ崎ィ~~~んで、で、で、で?よぉ~しお姉さんたちに恥ずかしがらずに言ってみな?・・カニ鍋だろ?」

 

「いつから瑠璃子は『二』を『モ』と勘違いするようになったのだ・・?カモ鍋に決まっているだろう・・?なぁ・・茅ヶ崎ぃ・・?」

 

「えーっと結論から言いますと・・」

 

「・・」

 

「・・」

 

「智也・・・」

 

 

だららららららら・・・・

 

何処からともなく聞こえてきそうな太鼓を刻む音・・そしてそれが一泊だけ止む。

 

他三人は固唾をのんだ。しかし次の智也の意外すぎる言葉に三人とも例外なく面を喰らう事になる。

 

 

 

「・・・。二つともダメです。却下」

 

 

 

「え?」

 

「・・何?」

 

「へ?」

 

「どういう事だ・・?返答次第ではお前の退部勧告も考えねばならん・・」

 

「えぇ!?ちょっと愛先輩・・そんな事したら来年待たずに茶道部は廃部ですよ!?」

 

「・・そうであった」

 

何時もは努めて冷静沈着な飛羽が動揺のあまり口走ったセリフを「何時もはボケ役」の梨穂子が諌めるという珍しい構図となる。

 

「な、何故なんだい?納得いく意見を言ってもらわないとアタイらは納得しないよ?」

 

夕月も同様に戸惑いを隠せないながらも、努めて冷静に智也の真意を聞きだそうとする。

 

「そ、そうだよ。智也?」

 

梨穂子も既に彼女の胃袋が「カニかカモの受け入れ態勢」を整えていた状態であった為、「どちらもお預け」という智也の結論は理由を聞かなければ流石に納得行かない。そんな彼女達から全く目を逸らさず―

 

「安心して下さい。確固たる理由があります」

 

智也はそう言いきった。

 

それは・・

 

「い、一体何・・?」

 

 

「ズバリ言いましょう。お金です。部費では到底賄えません。今の茶道部に贅沢は敵です」

 

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

ずがががががががが~~ん!!

 

三人絶句。そんな彼女らに構うこと無く更なる言葉を智也は紡ぐ。

 

 

「そもそも茶道部・・部員があまりに少ないんで今年度の部費・・・相当減らされたでしょ?」

 

「・・・!!そ、そうだな・・今年の部活の予算編成会議は思わず背筋が寒くなった・・」

 

「あ・・アタイもだよ。う・・今思い出すだけでもにょ・・」

 

「るっ子先輩!ダメです!女の子がそれ以上言っちゃいけません!」

 

パニック状態の三人を前に智也の畳みかけるような演説は続いていく。

 

「・・おまけにごくツブシの梨穂子がいる状態で連日お菓子やらお茶やらの大盤振る舞い・・貴方がたこそ茶道部としての自覚があるんですか?」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「ご、ごくツブシ・・」

 

「おまけに部活の備品の内容まで改ざんしている始末・・『気付かれなければいいんだよ』とか思ってるかもしれないですけど、『あの』来年の生徒委員会の間違いなく重鎮になるであろう、『あの』絢辻さんが遊びに来てるんですよ?・・見逃すはず無いじゃないですか。今茶道部は文化部の中で断トツ心象悪いと思います。・・来年の文化部の予算編成が思いやられますね」

 

「だ、だからな?・・茅ヶ崎。この前アタシらその絢辻さんを呼んで、色々おもてなしをしたんじゃないか・・」

 

「・・おもてなし?接待の間違いでしょ?菓子やらお茶やら見境なしに次々に出して・・『質素倹約』を信条にしている人にあれ逆効果ですよ。梨穂子はともかくお二人は目が\になってましたから。・・下心丸見えです」

 

「「「・・・」」」

 

オリジナル茶道部メンバー三人完全沈黙。押し黙ってず~~んと頭を垂れたまま、数十秒後―夕月→飛羽の順で徐に二人は口を開いた。

 

 

「茅ヶ崎・・・」

 

「いや・・!『部長』!」

 

 

 

 

 

「「茶道部をよろしくお願いいたします!!」」

 

 

 

 

 

 

「ええ~!?先輩方~~!?次の茶道部部長は私のはずですよ~!?」

 

「これ!茅ヶ崎部長に対して梨穂っち!頭が高いゾ!弁えい!!」

 

「ひかえおろ~ひかえおろ~・・」

 

かつて無いほどあの吉備東高校の重鎮、お局の二人が小物臭い。

 

 

 

「うわ~~ん。智也に茶道部を乗っ取られるよ~~」

 

 

 

「・・ずず」

 

 

 

―・・喧嘩は止めた。二人を止めた。

 

しかし部長の次の座を巡っての醜い争いが茶道部オリジナルメンバーの中で勃発している。

 

・・これこれ。三人とも。止しなされ。

 

 

 

 

 

 

 

わったしのために♪

 

争わないで~~♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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断章 





ざわざわ・・・

・・?


吉備東神社前―

それに続く空に続く長い階段―更にそれに面した道路に横付けされた一台の異質な黒塗りの高級車を前にして、いつもより妙に多い参拝客の数人かが何事かと怪訝な顔をして足を止める。凝視するべきなのかそれともそそくさと通り過ぎるべきか・・非常に対応に困る。

「・・」

はっきり言ってその横付けされた車を目の前にした少年―杉内 広大にとっては特に特筆すべき状況では無い。高級車に興味もなければ、そんな車に乗る様なイメージの暴力団組織との接点もない。関わらず視線も向けずに素通りにすれば良いだけの車を前にして―


「・・ふふっ」

広大は笑った。「何とも場違いな車だね」、とでも言いたげに。その広大の笑顔を契機にしたかのように徐に黒塗りの高級車の後部座席のウィンドウが機械音を立てながらスライドする。そこには―

「・・・杉内先輩っ。おはようございます」

頭の両サイドに可愛らしいリボンを誂え、小動物の耳のようにしたやや明るい茶色の髪を揺らしながらその黒塗りの高級車からは到底連想しえないカワイイ少女の顔がひょっこり覗く。
彼の通う吉備東高校の後輩―この四月から高校二年生になる中多 紗江だ。

「おはよう。紗江ちゃん。・・あ。今日はリボンの色変えてるんだね?似合ってるよ」

「や、やだ。杉内先輩ったら!うふふ・・ありがとうございます・・」

桜色に頬を染めた中多は気恥ずかしそうに上目遣いで広大を見る。




先日―

杉内 広大は中多 紗江に「乗り換えた」。


異性の他人の恋愛相談に乗っている内にその相手を好きになってしまい、結果付き合うこになった―よくある話である。
広大と中多の場合は二人が友人を介して出会った当初、広大に一向に懐いてくれない吉備東高校、女子更衣室裏に住み着いた黒猫―プーに対する恋愛(?)相談を中多が広大に指南する内に知らぬ間に仲良くなっており、プーが居なくなって以降も影ながら交流が続いた結果二人の心は徐々に接近、先日とうとうゴールインしてしまったという―






「杉内君・・?キミ・・度が過ぎるよ?・・・死ぬ?」


「・・ミサキ。なんだ居たのか」

「そりゃ居るよ。・・『しんべぇ』・・コイツ襲え」


わん!!


殺気の籠った不機嫌な声が中多の背後から響き、後部座席の窓から中多の側面を縫って勢いよく小型の、可愛いが少々頭の足りてなさそうなまぬけ顔をした柴犬が広大に飛びついて来た。

御崎家の愛犬―しんべぇ。

中多家の黒塗りの高級車の中でド緊張し、さっきまでプルプルと借りて来た猫の如く震えていたこのマメ柴はようやくこの緊張空間から解放される瞬間を待ちわびていた。
正直、この高級車内でビビって「あの手の粗相」をしでかさないかと先程まで戦々恐々だった飼い主の少年―御崎 太一も解放された気分であった。

「ふん!寄るな!この駄犬が!!」

生来の生粋の猫派である広大故に邪見にこの「幼獣〇め〇ば」をあしらうが、

はっ、はっ、はっ、はっ!

あしらわれればあしらわれるほどテンションをアゲるストーカー気質のこの駄犬は広大の足の周りを構わず跳ね回る。そしてガシガシ靴を噛む。この駄犬。噛み癖、悪し。

「・・・!!や、やめれ~」

「その調子だ。しんべぇ。もっとやれ」

真顔で満足そうに飼い主―御崎は飼い犬―しんべぇの健闘を称える。普段は怒られる粗相を褒められ、更にしんべぇはピッチをあげた。

「うふふ。杉内先輩?折角懐いているしんべぇちゃんにそんな冷たい事言うからですよ?『お仕置きです』って」

中多は既に御崎家の愛犬―「しんべぇ」に会った事がある。同じ「系統」である為に彼女達は出会ったその日に仲良くなった。元々中多自体がプーを初め、動物に好かれやすいタイプである事も影響したかもしれない。ある意味御崎 太一の「弟」とも言える「甥っ子」のようなこの犬は既に彼女のお気に入りであった。





「・・・へぇ。先輩にしては珍しくモテてるんですね?良かったじゃないですか」





後部座席―広大の手前から中多、御崎、そして膝に豆柴―しんべぇと並んだ順の最後尾、その席から中多より少し低く、落ち着いた、でもイタズラな少女の声が響く。同時に向こう側のドアがばたりと開いた。そのシルエットに向けて広大はこう言う。




「・・・ま。『本命』以外にモテてもね」





「・・そうですか」



車の後部トランクをぐるりと回って一人の少女―短めの黒髪を揺らし、悪戯な笑みを携えた綺麗な光一点の黒い瞳をした黒猫の様な少女はひょいと広大の足元に纏わりつく幼獣―しんべぇを抱え上げ、片腕でしっかり抱く。

「・・・」

広大はその彼女に向けて右手を延ばす。


「・・ミサキ。さんきゅ。・・確かに受け取りました」


「うん。確かに送り届けたよ」


「むっ・・お二人とも?人をモノみたいに扱わないでくださいっ・・・」



少女―七咲 逢がやや不満気に口を尖らせた後、ふふっと背後の中多と顔を見合わせて笑いながら広大の手を取る。



―・・受け取られちゃいました。



やや冷たくも心地よい春風が四人と一匹の間をすり抜ける。その擦り抜けた風に混じって幾房かの薄い桃色の花弁が浚っていった。



吉備東―春。



桜舞う。












 

 

 

断章1 桜の森

 

 

 

「・・・」

 

 

ひたりと手に添えられた少女―七咲 逢の一回り小さな指先の冷たい感触に反して広大の動悸が跳ね上がる。つい数ヶ月前、何の気なしに触れる事が出来た自分の正気を疑う。

 

 

「・・先輩?どうか・・、しましたか?」

 

「・・!あ。いや。行こうか」

 

「・・はい!」

 

健気に、しかし、しっかりと少女は顔を傾けながら微笑み、頷いてくれた。純粋で一本気で健気な心意気が突き刺さる。

日増しにどんどん可愛くなっていく、愛しくなっていく少女が現に、「自分を好きでいてくれている」事。これ程の幸福があろうか。

 

 

―・・・。今日ココに来て良かった。

 

だから七咲?もう初めに言っておく。心ん中でだけど。絶対今日は楽しくなるから。

だからありがとな七咲。いや、・・・逢。

 

 

 

・・・ただし―

 

 

 

 

 

 

 

「逢ちゃ~~ん!!良く来たわね~~~~?」

 

 

 

「先輩のおばさん。お久しぶりです!!」

 

 

「何時までも広大の手なんかに触ってないで私と握手握手~~」

 

 

げしっ

 

 

いつものケリ技で息子を蹴飛ばし、更に自分の息子の手を扱うとは思えない、虫を掃う様な動作で広大の手を掃って七咲の手を握る。

 

「はいはい。おばさんったら・・相変わらずですね・・?」

 

「ん?私何かした?っていうか『何か』居たっけ?最近物忘れがひどくてね~~?」

 

 

 

「・・・」

 

―コイツさえいなければ。

 

 

 

 

先日―

 

「花見に行く」

 

と、簡潔に広大が今日の予定を言った瞬間、

 

「逢ちゃん居るわね。私もいく」

 

と、即時広大母は同行を申し出た。

 

「無理」

 

広大は速攻で断固拒否したがその日の夜に広大にノンアポで彼女は七咲に連絡して泣きつき、広大母を気に入っていた七咲は快諾。外堀を埋められた。

おまけに

 

「飲食費は全てもってやる」

 

とか言いだしたから万年金欠の広大は断る事も出来やしなかった。

 

 

 

「・・この子が中多 紗江ちゃんと、その彼の御崎 太一君ね?逢ちゃんと広大から話は聞いてるわ。・・いつもお世話になっております。不肖の息子だけど仲良くしてやってね?」

 

「は、はい。あ。改めて初めまして。僕は御崎 太一です。広大君とは去年からクラスメイトをさせて貰ってます」

 

「杉内君が言っていた通りのお母さんだな・・」と、内心御崎は苦笑いしながらさらにこう続ける。

 

「で、こっちは―」

 

「は、はい!な、中多 紗江です・・よ、よろしくお願いします」

 

―か、「彼」・・うふふふ~~。

 

中多は中多でヘンな所で妙に一人密かにハイテンションになっていた。

 

 

「は~~い♪こっちこそよろしくね~~♪お二人さん♪」

 

 

基本広大の母―杉内 博子は息子の友人に非常に優しい。

その反動なのか実子、自分の旦那に対しては本当に容赦なし、ボロクソであるが。

 

ぎりり・・

 

七咲を奪われ、友人には猫かぶって良いカオしやがる母を忌々しそうに見る広大の傍ら、四人のやり取りを見守っていた黒い高級車の前方座席のウィンドウが開く。そこには―

 

 

「・・こんにちは。とても良い日和ですね?」

 

娘とよく似た声ながら口調と声量を適度に整えた淑女が助手席から下車しつつ、広大母―博子に声をかける。

 

「初めまして・・わたくし中多 紗江の母の紗希と申します。今日は紗江ちゃん達をよろしくお願い致しますわ」

 

今日は娘と自分を「判別」してもらう為に後頭部で髪を誂え、ポニーテールにした中多母―紗希の姿があった。

 

「あら!お恥ずかしい。・・先にご挨拶もしませんで失礼いたしました。こちらこそ初めまして。わたくしこの杉内の母、博子と申します。いきなりはしたない所をお見せして・・あはは」

 

「いえいえ。・・『逢ちゃんに会えた事が嬉しい』って私には気持ちが痛いほど解りますわ。正直私も逢ちゃんはウチに持って帰ってウチの子にしたいぐらい可愛い子ですものね~~?うふふ~~」

 

中多母は心底娘―紗江に兄弟、姉妹をあげたい。・・例えさらってでも。

 

「まぁ!中多さんも!?お気持ちわかりますわ!おほほ~~」

 

広大母は心底可愛い娘がかつて欲しかった。・・例えさらってでも。

 

 

「うふふ・・・」

 

「おほほ・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・ねぇ杉内さん?」

 

「何ですか中多さん・・?」

 

 

 

 

「私たち・・仲良くなれると思いません?杉内さん・・いえ!ヒロコさん!」

 

「・・!ええ!私も!なんか初めて会った気がしませんわ!!お友達になりましょう!!サキさん!!」

 

 

 

母二人はがっしと両手を繋ぎ、既にまだ詳しい漢字も知らない名前で呼び合って見つめあう。そんな二人のやり取りを少年二人、広大と御崎は微妙な表情で見送っていた。

 

 

―・・やっぱり紗江ちゃんのおばさん・・母さんと「同族」か・・。

 

―・・どうやら同類項みたいだね。扱い息子同様気をつけよっと・・。

 

 

「外道」同士、気があったらしい。

 

 

 

「紗希・・いい加減にしないか」

 

 

右座席―黒塗りの高級車の持ち主である運転手の男性―中多父がえへんとせきばらいをした後、妻を諫めつつ、広大母に会釈する。壮年の男性として威厳も落ち着きもある佇まいだが―

 

「あら何?紗江ちゃんと折角のお花見の日にウチに会社の同僚をお呼びしやがったダメ亭主、ダメパパのあ・な・た?お陰で私もお花見に行けず、家にいなければならないんですよ?解ってますそれ?」

 

中多母は中多父の致命傷の傷口に練り辛子と塩縫って、さらにククリの先端あたりで抉るような冷たい口調でこう言った。

 

「・・・。んんっ!では・・皆をよろしくお願いいたします。杉内さん。杉内君、七咲君も・・紗江をよろしくお願いします。・・太一君もな」

 

一瞬心底、泣きそうな位、沈痛な表情を見せた後、それを振り払うようにした男性―中多父は広大母、そして広大、七咲に律儀に頭を下げ、車窓から顔を出して皆に笑顔で手を振る妻―ポニーテールを軽快に揺らしながら去っていく紗希とは対照的に明らかに「後ろ髪を引かれる思い」で高級車を走らせる。無言の男の背中は確実に泣いていた。

 

 

おいたわしや、紗江ちゃんパパ。

 

 

中多夫婦が去った後、残された五人と一匹は吉備東神社の境内に向かう階段を前にぼちぼち動き始める。

 

「さ。逢ちゃん?紗江ちゃん?そろそろ行きましょ。久しぶりの運動だわ。一杯お腹すかしてお昼の美味しいご飯食べに行きましょう?」

 

「その前にお花見ですよ。おばさん?」

 

「あら。お恥ずかしい。まぁ何を隠そう実は・・花より団子派なのよね、私」

 

「知ってます」

 

「逢ちゃんひど~~い」

 

「・・うふふ。・・杉内先輩のお母さんって・・とっても面白いんですね?」

 

 

既に広大母は中多とも溶け込んでいた。こういう所は流石広大の母である。

 

 

 

 

 

 

 

「・・」

 

 

歩きだしたその四人の背を見送りつつ、広大は掌を見た。七咲の冷たい指先に触れられた掌が熱い、熱もっている。最近彼は彼女に触れる度、いつもコレだ。

 

 

 

 

―・・後から逢に聞いてみると

 

「結構前から・・先輩に惹かれてたんだと思います。『純粋にいつから?』って聞かれちゃうと正直・・困っちゃいますけど」

 

彼女は照れながらも正直にこう語ってくれた。

 

と、言う事は俺が何の気なしに逢に触れていた時、彼女もこうなってしまっていたんだろうか?

 

 

 

そう考えると広大は何ともやるせない気持ちになった。

 

 

 

 

 

「・・ほい!」

 

 

背中をポンと叩かれる。御崎だった。広大が振り返るとニコニコ笑っている。しかし冷やかすような笑いでは無い。ただ「解るよ」と、言いたげだった。

 

 

「僕らものぼろっか。・・置いてかれちゃうよ?」

 

「・・そだな」

 

 

少年たち、そしてよちよちと幼獣も歩きだす。

 

 

 

 

しかし、五分後―

 

 

 

 

ぜ~ぜ~ぜ~ぜ~。

 

 

ひ~~ひ~~ひ~~ひ~~。

 

 

 

「だ、大丈夫ですか・・太一先輩・・・」

 

 

・・くぅ~~ん

 

 

↑しんべぇ

 

 

「あ、相変わらずひ弱なんですね・・・先輩」

 

 

「我が息子ながら・・情けない」

 

 

男衆二人は既にガス欠を起こしており、それぞれ介抱されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

この春から彼女―七咲 逢もまた中多 紗江と同様、吉備東高校二年生となる。

一つ学年が上がり、吉備等の新入生、部活の新入部員を迎える準備にあたってその自覚から七咲は一層大人びた。

出会った当初は「周囲の印象」こそは「大人びている」であったが実際の所は中学生っぽい、どこか排他的な幼さや危なっかしい一面もあった。が、それも形を潜めつつある。

 

広大的に言えば彼の幼馴染―「塚原 響に似てきた」と言えばいいだろうか。よって最近広大にとって塚原に感じていた妙なコンプレックスの様な物に似た何かを七咲に感じるようになってしまっていた。

 

 

それでも。

 

 

彼女と現在の広大の関係は以前の塚原と広大との関係とは異なる。既に彼女は一応「広大のもの」と言う事にはなっている。あくまで形式上は。

 

しかし「前まで」の様にただ無責任に「想う」、「憧れる」、「焦がれる」だけではいけない段階ではある。そうなってくると広大は否が応なしに自分の現状を思い知らされた。

彼の母は先日「釣り合わない彼女を持つ息子が信用できない」と冗談気味に言っていたがよくよく考えてみると否定できない言葉だと広大は思う。

 

 

・・それ程に。

 

 

七咲と言う少女は可愛くなった。綺麗になった。真面目で健気でガンバリ屋と言う彼女の本質をそのままに。

 

広大は彼女の事をはっきり好きなのだと自覚した当初、彼女に対しての想いに「これ以上、上があるんだろうか」と、思っていた。それ程に体験した事もない地から足が浮くような幸福で、彼の貧相な語彙では上手く形容しようがない程、新鮮で温かな気持ちを彼女はくれた。

 

小さな体、華奢な割に柔らかい抱き心地、嫌みなく香る清潔な香り、耳をくすぐる心地いい声。でも―それもこれから先、徐々に落ち着いていってしまうのではないかとも考えた。

 

 

 

が、それはとんだ杞憂だった。

 

 

 

―ありえない。

 

可愛い。

 

何なんだ、この子は。

 

 

 

七咲 逢という少女は広大、周囲の予想以上に天井知らずの延びしろを持った子だった。広大だけでないだろう。周りにいるメンツも確実に予期している。ココに居る御崎も中多も他の彼の友人達も口をそろえて言うだろう。

 

 

―・・あの子。これから絶対まだまだ可愛くなるな。正直、大丈夫か・・?お前。

 

 

現にはっきりと国枝、茅ヶ崎あたりにそう言われている。

 

 

 

 

―そう。

 

間違いない。

 

事実、俺はこの子の事をどんどん好きになっている。・・大丈夫じゃないよ。

 

今のガス欠の自分の状態と一緒。息も絶え絶え、ついていくのがやっとだ。傍にいるのがやっとだ。これから自分がどうしていけば、彼女の為に何が出来るか、なんて全く、何も、解らない。

 

ただ単に好きで、恋焦がれていれば。

 

ただ響姉についていけばよかったあの時とはもう違う。

 

例え息絶え絶えで在ろうと、先は見え無かろうと歩いていく他ないんだ。じゃないと響姉に笑われる。

 

・・七咲も遠くに行ってしまう。

 

 

 

 

 

ざあっ・・

 

 

 

 

「・・・」

 

 

 

 

息も絶え絶えの中ようやく鳥居をくぐり、広大の拓けた視界に神社の社が見える。

 

 

「うわぁ・・」

 

「綺麗ですね」

 

 

その周囲はまさに満開の、「桜の森」と呼ぶにふさわしい光景がそこに在った。

同時広大の火照った体を冷やす心地よい冷たい春風と共に舞う桜色の花弁がやや甘い香りとともに彼等を包み込んでいる。しかし―

 

ふわり・・

 

 

―・・え?

 

桜の控えめで儚い香りとは異なる、かといって決して強い香りでは無い、嫌味の無い心地のいい清潔な香りがした。

 

「んしょ・・」

 

その香りの正体は息も絶え絶えの広大の体を傍で支えた少女―七咲の香りであった。

 

「・・逢?」

 

「・・『着きましたよ』。先輩。・・丁度『あの子』がいた場所です」

 

「『あの子』・・?」

 

「・・ほら。ここです。覚えていませんか?」

 

「・・!・・ああ」

 

 

「あの時」と同じように広大は七咲の指先を目で追う。あの時は都合の良い視線のやり場であったが、今は違う。他の何よりも目で追いたい綺麗な指先だ。その先には―

 

「『あの子』の仲間が・・今はたくさん咲いていますね」

 

嬉しそうに七咲はくすくすと笑う。

 

数ヶ月前、七咲が『あの子』と呼ぶ季節外れの冬に咲く桜―「二期桜」を広大に見せてくれたあの地点の枝には現在、あの時とは比べ物にならない程の薄紅色の花弁が所狭しと咲いている。

 

あの時は「個」。今は「群」という差があるにせよどちらにせよそれはただ只管美しい。余りに美しいコントラスト。

 

しかし、今この場に居る誰も恐らくはそれを理解する事が出来ないであろう。広大と七咲二人にしか解らない境地、秘密である。今も、そしてこれからも二人は誰にも話す事はない。二人だけの秘め事。叶うなれば・・・一生の。

 

 

「・・!七咲?」

 

「・・はい・・?」

 

「・・・しんべぇ呼んでる。・・行っておいで。紗江ちゃん誘ってさ。・・俺はも少し休むよ・・俺と一緒でバテバテのあそこの御崎の面倒は俺が見とくからさ」

 

「え・・・?あ。御崎先輩・・大丈夫かな」

 

二人の視線の先にはバテバテで桜の木の幹に腰掛け、中多にハンカチでぱたぱたと煽られている御崎の姿があった。足元には愛犬しんべぇが心配そうにうろついている。

 

―・・?ウチの母は・・いつの間にか姿消してやがる。

 

こういう所は流石、博子である。気の遣い方、気の遣い所の要所は心得ている。

 

 

「・・いいよ逢。紗江ちゃん達と行ってきな。折角のお花見なんだし」

 

「あ・・でも・・先輩は」

 

「大丈夫。俺も休んだらちゃんと御崎と一緒に行くから・・・―

 

 

 

『先に行ってて』・・」

 

 

 

 

「・・解りました。ちゃんと付いてきて下さいね」

 

「ん」

 

 

くすりと微笑んでクラスメイトの友人の元へ少女は走り出す。香るだけで体が浮いてしまいそうになるほどの心地よい残り香と、多分一生見ていても飽きないであろう美しい笑顔を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミサキ・・だいじょぶか?」

 

「す、杉内君こそ・・さっきまでバテバテだったのに」

 

「一応・・『経験者』だからな。回復は早いさ。・・ただ一向に体力不足が改善されんのが悲しいとこだが」

 

「そなんだ。・・それって意味あるの?」

 

「・・・だな。よっと」

 

どっかと広大は御崎の隣の桜の幹に腰掛ける。

 

 

「・・何が悲しくて野郎と桜を見ねばならんのか」

 

「杉内君。同感です・・」

 

 

でも下から見上げる桜の木は壮観だ。暫し二人は無言になった。

 

 

「・・・」

 

「・・・」

 

 

 

「・・杉内君さ~~?」

 

 

 

「・・ん?」

 

 

 

 

「・・確かに釣り合う、釣り合わないかで言ったら僕たちきっとお互い釣り合ってないかもね。正直言ってさ」

 

 

 

「・・!ミサキ・・」

 

「でもね・・仕方ないじゃん?好きになっちゃったんだから。そして『好きだ』って言ってくれたんだからさ。一番近くに居る事を許してもらえたんだから・・はっきし言ってこれ以上の事ってないよ」

 

「でもな・・ミサキ・・」

 

「うん。解る。解るよ。でも焦っても仕方ない。・・取りあえず・・それだけで今の僕たちはいいんじゃないかな。好きな人の為にこれから何が出来るのか、これからも傍に居るなら何をすべきか・・僕等はさ?『他の人』と違って明確に彼女達に何が出来るかってまだ決まって無いんだよ。出会って間もないからね。多分・・それは今から決めるべき事なんだ。だから・・これから考えて行こうよ。探して行こうよ。・・お互いさ」

 

「・・」

 

 

 

「だから今は・・見つめていようよ。・・僕はさ?・・今の紗江ちゃんを見逃したくないから。目を逸らしたくないからさ。杉内君も・・それは解ってるんでしょ?」

 

 

 

「・・そだな」

 

 

迷いを断ち切ってくれた友人―御崎の言葉に少し気が楽になる。

広大の視線が前を向く。彼にとって見逃したくない物、目を逸らしたくない物をただ今は見据える為に。

 

 

 

 

 

「・・・」

 

 

―どうやら。

 

 

去年俺が「咲かせた」らしい少女は満開に向けて咲き誇ろうとしている。

 

信じられない話だが、そのきっかけは俺らしい。不真面目で、ずるくて、サボり癖のある彼女とはあまりに対照的なこの俺らしい。

でも正直「お前が彼女に何をしたか」と、誰かに問われたら俺は何も答える事が出来ないだろう。

 

でも気が付けばいつの間にか好きになってた。大事になってた。誰よりも・・愛おしくなっていた。

 

そして・・何よりも彼女に愛されていた。彼女は愛してくれた。

 

・・信じられない話だ。これを至福と言わず何と言おう。でもだから同時に怖くなる。失う事が怖くなる。

 

 

 

 

その少女は今、春風の中、無数の桃色の花弁が舞い散る中で、友人の少女、しんべぇと共に満面の笑みを浮かべながら駆けまわっている。

 

 

舞い散る桃色の花弁をその身に纏いながら舞い踊る様に。

 

 

 

 

少年にとって何者にも誰にも変えられない。

 

 

 

たった一人の至宝の少女をこれ以上なく美しく照らしだす。

 

 

 

 

まるで去年、季節外れに咲いていた七咲の言う『あの子』が自分を見つけてくれた彼女に恩返しをしているみたいに広大には見えた。

 

広大は「咲き」を越された。何とも粋な恩返し。

 

 

 

 

―でも

 

 

今は有り難い友人ミサキの忠告通りに。

 

有り難い『あの子』の恩返しに甘えよう。

 

 

ただ今は―

 

 

 

咲き誇り、

 

 

咲き乱れる。

 

 

君をただ。

 

 

 

今はただ見てる。

 

今はただ見つめている。

 

 

 

花びらに替わる。

 

 

君をただ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・?くすっ・・先輩?」

 

 

 

 

 

 

 

―私も・・見てますよ。いつも・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―俺も・・君をただ見つめているよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花びらが流れるこの「桜の森」で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 














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断章 2












断章 2 桜会

 

 

 

 

 

―・・・時が経つのは早いもので。

 

 

先日―

 

茶道部の重鎮であり、吉備東のお局であった二人、夕月 瑠璃子、飛羽 愛歌が卒業した。

まるで「何十年もこの学校に居るみたい」「四十年くらい生きているんじゃないか」などと失礼な彼女等に関する印象、感想が周囲の連中にあったがやはり彼女らもれっきとした正真正銘の女子校生であったのである。それ故に当り前の事なのだ。

 

しかし、この学校でそんな二人と二年間共にし、二人の卒業後、残された茶道部の少女―桜井 梨穂子にとっても彼女達もまた、当り前の事、存在だったのだ。

そんなな当たり前の存在が当り前の様に居なくなってしまった事に梨穂子は物悲しく、寂しく感じながらも、そんな彼女を「そんな暇はないぞ」とどこか急かすように時は移ろうとしていた。

 

ざっざっざっ

 

「ふんふんふ~~~ん♪」

 

去年のクリスマスの創設祭の際、茶道部の出し物である「野点」の会場となった茶道部の庭園を梨穂子は箒で掃きながら一息つき、空を見上げる。

 

「う~~~ん。絶景かな、絶景かな~~♪」

 

ご機嫌にふわりとウェーブがかった栗色の髪をくすぐったそうに掻き分けて心地よい風、そして―

 

―綺麗だな~~。・・去年の春も思ったけど・・茶道部に入ってよかったと改めてこの光景を見る度思いますよ~~~♪

 

 

そう。

 

吉備東高校春―茶道部の庭園は一年に一度のとっておきの桃色の化粧に身を包んで、訪れる人を魅了する。元々茶道部の「和」を基調とした庭園に桜の木々と花びらが舞っているのだ。はっきり言って誰もが足を止める十二分な魅力に溢れている。

 

春は桜、夏は緑や虫の声、秋は紅葉、冬は雪、日本の四季の風物詩をそれぞれの季節に身に纏ってこの庭園は魅力的に変容する。小さな「日本」そのものと言って過言ではない。

 

茶道部自体現在、非常に部員数が少ない文化部にも関わらず、こんな年中魅せ場のあるオールマイティな優良物件の茶道部専用の庭園、茶室が用意されている辺り、何者かの裏からの手まわしを疑うほどの妙な優遇がされている。しかし―

 

―・・呑気にもしてられないんですね~~これが。あはあは・・。

 

梨穂子は竹箒を衝立にしてやや困った顔で苦笑いする。何せ茶道部は部員数が枯渇しかけている。おまけに先述の重鎮の二人が今年卒業した事により、残された梨穂子―現茶道部部長の双肩に部の存続が委ねられているのだ。・・流石に部員が居なければこんな優良物件もまさしく「宝の持ち腐れ」である。

この吉備東高の遺産を引き継ぐ未来の部員達を梨穂子は今年確保せねばならない。

 

―んっ・・!負けるもんかぁ~~。

 

よって本日、後日の新入生歓迎のお茶会の用意に梨穂子は余念がない。気合い入れて庭園の周囲の掃除、草むしりを彼女は開始している。美しい桜の花びらも大量に降り積もれば滑る要因にもなりかねない。「おもてなし」として安全に新入生たちを迎え入れる為、梨穂子は奮闘している。

 

―よしっ後はちりとりで掬って・・終了っと・・。

 

 

びゅおお。

 

 

「うわぁわわわわ・・・わぷっ!」

 

春の心地よい風も世間の冷たい風の如く、梨穂子に立ちふさがる。折角綺麗に纏めていた桜の花びらがちりとりから勢いよく舞い上がり、砂嵐の如く梨穂子に襲いかかってきた。桜の花びらにも遊ばれる少女―桜井 梨穂子。

 

「うわぁ・・・わっ、と!!」

 

風と花びらに煽られたやや太ましい彼女の下半身は少々バランスが悪い。もつれた足はバランスを崩し、尻もちをつくような形で梨穂子は両腕を上げてバンザイしながら倒れそうになる。

 

「・・・!おい!」

 

「わぁ」

 

そんな彼女の背後から低い声をかけ、たくましい両腕で彼女を支えた一人の少年が居る。

 

「わ!あ・・」

 

「・・・」

 

 

 

「智也・・」

 

 

 

「危ないだろが・・」

 

 

「おかえり・・」

 

 

茶道部期待の新入部員(三年生だが)であり、入部即副部長を任命された少年―茅ヶ崎 智也が梨穂子の脇を両腕で支えながら、呆れた顔をしていた。仰向けの梨穂子の視線からは逆様であるがその見慣れた顔にホッとする。

正直―彼の存在がなければこんな春の快晴の中でのこの美しい桜の景色も先行き不透明の茶道部への心配ごとで色あせて見えてしまっていただろう。梨穂子は謝罪と感謝を包み隠さずににぱりと微笑んだ。

 

 

が―

 

 

パこ~~ん

 

「あてっ!」

 

ぱらぱらぱら・・・

 

 

梨穂子が後ろ向けに転んだ拍子に宙高く舞ったちりとりと、それに満載されていた桜の花びらが時間差で智也の頭を金ダライの如く直撃。

さらに「おめでとうございます」とでも言いたげに紙吹雪の如く桜の花びらが少年の頭上を舞う。

 

 

「「・・・」」

 

漫画の様な絶妙なタイミングと光景に暫し二人は唖然とするが―

 

「ぷっ・・あはははは!!」

 

梨穂子が噴き出した。

 

しかし対照的に少年は不機嫌さを一切隠さない憮然とした表情でこう言った。

 

「・・俺が買い出ししている間にお庭のお掃除も満足にできませんか・・・?部長・・?」

 

「はっ・・!・・いえこれは・・深い理由がございましてな・・ふ、ふくぶちょ~~~っ!?」

 

 

梨穂子ははっと違和感に気付き、。自分を支えた少年のたくましい両腕の両掌が徐に彼女の両脇に接近し、わきわきとやや挙動不審な動きをしている事に梨穂子は焦ってキョドリだす。

 

 

「そ、それだけは!!や、やめっ!

 

 

 

 

あひゃ、あっは!!あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!!」

 

 

 

・・これでどさくさにまぎれて胸あたりを揉まないあたり、健全かつかなりの鋼の理性を持った少年である。

 

 

 

 

「いやぁ、や、やめて~~~あっははひゃひゃひゃひゃ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全く・・」

 

「・・スイマセンでした」

 

 

結局掃除を手伝う事になった買い出し係の智也がちりとりの直撃した周辺を抑えながら茶室の軒下に腰掛けて憮然としていた。そんな彼に心配そうに梨穂子は話しかける。

 

「こぶになってなぁい・・?ごめんねぇ」

 

「ん・・ああ。だいじょぶ。・・とりあえず少し休憩すっか。掃除も一段落したし、歓迎会の茶会用にいろいろ買ってきた奴もあるしな」

 

「うん♪あ、でも・・」

 

「ん?」

 

「その~~、いいの?」

 

茶道部の予算管理は既に副部長である智也の役目である。無駄な出費は極力最近抑えられてきたため、梨穂子はやや不安げに上目遣いで智也を見る。

 

「・・確かに無駄な浪費はダメ。でも・・少しは贅沢する『緩み』って言うか『余裕』は大事だろ。人をもてなすんだったらこっちにもある程度心の余裕がないと、もてなす相手に余計な気を使わせるんじゃないのか?」

 

「おぉ・・!それもそうだね。じゃあ~遠慮なく~~♪」

 

 

目移りしそうなほど色々魅力的なお菓子やらなんやらが詰まった買い物袋にご機嫌そうに梨穂子は頭を突っ込む。そして―

 

 

ぱくぱく

 

もぐもぐ

 

ずず~~

 

 

「むふ~~❤」

 

 

食う食う、呑む。食う食う、飲む。ぷは~~~っ。

 

 

「・・・」

 

「♪」

 

幸せそうに茶菓子をついばみ、お茶を啜る梨穂子の姿に智也は頬杖をつきながら微笑み、彼自身もほうっと息をついてお茶を啜る。

 

「・・・」

 

満開の桜の下で綺麗になった庭園を臨み、茶室の軒下でお茶と菓子をついばみながら隣には幸せそうな梨穂子の姿。

 

 

 

―・・・む。まずい・・。これ・・なんかめちゃくちゃ幸せじゃないか?・・言う事無いぞ。

 

 

 

 

 

 

「ふ~~食べた!食べちゃいました~~。さて・・休憩終わりっと!」

 

梨穂子は意気揚々と立ち上がり、パタパタとスカートをはたいた後、「腹ごなしにもうひと頑張りしますか♪」と、微笑んだ。そんな彼女に

 

 

「・・・。あ。梨穂子・・忘れてたわ」

 

「ん・・?なぁに」

 

「そういや、もう一個食うもんあったんだ・・危ない危ない」

 

「へっ?」

 

「・・。『なまもん』なんだよ。置いといて悪くなっても勿体ないからさ。今食って?」

 

そう言って智也は白いケーキ屋が包んでくれる様な可愛らしい小さな一軒家みたいな箱から綺麗に包装された掌大の狐色の物体を取り出した。

 

 

「こ、これは!!?ま、まさか!?」

 

喰い入る様に梨穂子が乗り出してくる。

 

「・・お前行きたがってたろ。この前駅前に出来たあの店・・。この前は定休日でムダ足だったけどさ」

 

「うぅ・・智也・・それをもう言わないでおくれやすぅ・・」

 

「・・ま、いいや。そこのシュークリーム」

 

「おおおお~~?しゅ~~くり~~む!!!かつて欧州のイジワルな王様に虐げられた人々が税金逃れの為にその中に金銀財宝を詰めたと言われたスウィーツだね~~~っ!?」

 

「・・。それ夕月先輩の嘘だから。本気にするな。・・で、どうする?流石に今は腹いっぱいか?」

 

本当の意味は「クリーム入りのキャベツ」という意味である。もちろん王様も所得隠しも税金対策も全く関係ない。

 

「まっさか~~甘い物は別腹ですよ~~ふっふっふっ~~」

 

「・・・」

 

―いや・・さっきまで散々甘い物食ってたがな。

 

「うふ~~♪有難う智也~~♪いっただきま~~~す」

 

意気揚々と梨穂子は丁寧に包装されたシュークリームを生まれたばかりの子犬でも箱から取りだすみたいに両手に置いて幸せそうなカオをしながら、まずは愛でる。

バリバリ、むしゃむしゃ、もぐもぐ、ゴクンする前の梨穂子なりの儀式である。しかしその最中―

 

「・・・むっ!!むむっ!?」

 

梨穂子の顔が険しくなる。そしてじとりと智也を睨んだ。梨穂子にしては珍しい警戒姿勢である。

 

「・・・お、おい。どした?」

 

「・・妖しい」

 

「あ?」

 

「なんか妖しいな~~?いつも優しいけど基本、時々、たま~~にイジワルな智也がなんか今日変だよ~!?」

 

「・・意外だ。俺って梨穂子の中でそういう評価だったのか・・」

 

「智也に『ごく潰し』と呼ばれ、茶道部の予算管理を握られ、食生活の節制を徹底されて早三ヶ月・・。なのにこのいきなりの智也の突然の大盤振る舞い、それも大事な新入生の歓迎会の直前のこのタイミングに・・・まさか・・智也!?」

 

 

「・・・な、なんだよ」

 

 

―・・。な、なんだよ。まさか・・ば、「バレて」んのか・・!?「あの」梨穂子に!?

 

 

 

 

 

 

「私を太らせて食べる気なんじゃ!!!ひぃ~~、わ、私は美味しくないよ~~!?」

 

 

 

 

 

「・・・」

 

 

―いや、まぁ・・その・・

 

 

・・「いずれ」、は?

 

 

って、い、いやいやいや!違う違う!!

 

 

「そして、私を食べた後・・晴れて智也は部長の座につくってわけだね!?ひどい!!」

 

 

「・・・」

 

―ダメだ。埒が空かん。こうなったら・・「あの言葉」を言うしかないか。

 

 

梨穂子の「食」への原始的本能を最大限刺激するあの魔法の言葉だ。それは―

 

 

 

 

「梨穂子・・あんま馬鹿言ってると俺が食うぞ?」

 

 

 

 

 

「はむっ!・・・!!美味しい~~美味い~~じゅうしぃ~~でリしゃあぁす~~♪」

 

 

一口、二口、三口。

 

 

 

「・・・」

 

―ふっ・・チョロすぎる。

 

 

内心智也はふっと邪悪に笑い、相も変わらず幸せそうな梨穂子の食事姿を飽きることなく眺めはじめる。

 

 

 

 

 

 

―・・さて。

 

 

 

 

 

「どうなる」、・・かな?・・柄にもなく緊張する。

 

 

 

 

 

 

 

「おいし~~♪」

 

「・・」

 

「じゅうし~~♪」

 

「・・」

 

「でリしゃあす~~♪」

 

「・・」

 

―語彙のバリエーションに乏しい奴だな・・。

 

「くり~~み~~♪」

 

「・・」

 

―お。新語。

 

 

 

「もぐもぐ」

 

「・・」

 

「むしゃむしゃ」

 

「・・・」

 

「んぐんぐ」

 

「・・・・?」

 

 

 

 

 

 

「・・ゴクン」

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・!?????」

 

 

 

 

 

 

 

「美味しかったぁ~~もうこれで思い残すことはないです。さぁ!智也~~?梨穂子ちゃんをご賞味あれ~~?あははは~~♪」

 

何とも色んな意味で問題のある梨穂子の申し出だが正直―

 

「・・・!?り、梨穂子!?」

 

智也は今それどころでは無い。基本動じないタイプの智也の表情がかつて無いほど青ざめている。

 

「ふぇ?」

 

「な、何ともないのか?」

 

「へ?別に大量のわさびとか、辛子とか入って無かったよ~~?大変美味しゅうございました♪智也?ごちそうさまでしたっ♪」

 

とかく食っている間の梨穂子は「♪」←これが多い。ただ繰り返すが今の智也はそれどころでは無い。

 

「梨穂子」

 

「はい?」

 

「口開けろ」

 

「へ?なんで?」

 

「いいから!」

 

「ぐぇっ?! ほ、ほもや~~~(智也~~)」?

 

智也は梨穂子の口の中に両手の指を突っ込み、大きな口を開けさせる。彼女は歯医者が大嫌い故に毎朝、毎晩の歯磨きは念入りである。その賜物か歯並びもいいし、虫歯もない。そんな彼女の健康そうなピンク色の口内を不躾にまさぐる。「梨穂子の中・・あったかいな」とか、変態チックな感想は現在浮かばない。

今智也はただ―

 

 

ひたすら―

 

 

「・・・えぇ~~~っ!?」

 

 

・・必死!

 

 

 

「ほもや~~?ほふじそくごほおふはほほほふひひへほふっほぶばびべ、ほふびはぶひほ~~~~?」

 

 

・・翻訳しよう。(智也~~?食事直後の女の子の口に手を突っ込むなんて、行儀悪いよ~~?)である。残念ながら事前だろうと事後だろうと失礼で行儀悪い行為です。

 

 

十秒後―

 

落胆した表情で智也は蒼く乾いた春の虚空を見上げる。

 

 

「だ、だめだ・・」

 

 

―無い。

 

 

 

ない。

 

 

 

・・・・無ぇよ!嘘だろ!?

 

 

 

ど、どうする?今から吐かせるか!?それか若しくは「下」から出るまで待つのか?・・どっちにせよ・・。最っ悪だ!?梨穂子の食い意地を甘く見ていた!!

 

あぁ・・気絶しそう。

 

 

 

ここ数カ月の日々を智也は放心状態で澄んだ春の青空を仰いで反芻する。「あれ」にはそれなりの「投資」がなされている。それが水の泡、いや梨穂子の胃の藻屑だ。あわよくば「出て来ても」どうすりゃいいんだか。

 

 

 

―嗚呼・・良い春風だ。このままどこかへ飛んでいってしまいたい気分だ。嗚呼・・舞うサクラの花びらよ。俺を一緒にどこかに連れていってくれ・・。

 

 

彼にしては珍しくセンチな心象状態である。

 

 

 

「智也・・大丈夫・・?ゴメン・・半分、欲しかった?」

 

 

 

いつもの梨穂子のほんわかとした間の抜けた、そして的外れな声が澄んで乾いた春の空に響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




―・・もう―








いい、かな?


















「・・。智也・・?」










「ん・・?」













「・・べっ」
















「っ・・・!??」













「あんまり・・美味し過ぎて食べちゃいそうになっちゃった・・・でも、やっぱり勿体ないから・・







ここに・・はめとくね?」







梨穂子は綺麗なピンク色の舌の上に悪戯に微笑みながらも、照れくさそうに乗せていた白銀色の無駄な飾り気は無くも流麗な線をした一つの「輪」―それを惜しげもなく左手の薬指にはめる。


「ふふっ・・ちょっと・・大きい、かな?」


そしてやや桜色に紅潮した満面の笑みで放心状態の智也に微笑む。そして未だ絶句の智也を相手に尚も言葉を紡ぐ。

先程こそは彼女を悪戯に翻弄した春風、桜の花びらも今は同じ名を持つ少女をこれ以上なく引き立て、お膳たてをする。




・・最高の「おもてなし」。




彼等が迎える、もてなすは智也、梨穂子、そして今日その二人の間に生れた一つの「輪」。








「・・・るっこ先輩はやっぱり嘘なんてついて無い」







「え・・?」







「甘い甘いシュークリームの中には・・大事な大事な宝物がやっぱり入ってた・・





ありがとう・・智也。最高の贈り物です。・・やっぱり私は貴方が―」









―・・大好きだよ。









最高の笑顔で薄紅の、彼女の名の如く桜色に頬を染めた少女の栗色の髪がふわりと花びらと共に舞い上がる。





「・・・」


智也は今、

本当に全てが報われた気がした。

意地を張り、カッコつけ、被害者ぶって色んな物を見失い、諦め、また見ないようにしてきたここ数年間―ずっと回り道。迷い道。遠回りしてきた。


それが全く・・、全てに於いて他でもないたったひとりの、いつもずっと傍に居た、ずっと自分を見てくれていた少女の力によって。

智也は今この日こそ、この日の為に自分が生まれて来たのだと確信する。






「・・梨穂子?」











「うん・・?なぁに・・?」












「負けた・・。お前には」











遠回りしたけど。やっと・・会えた。













薄紅の花。




二人の肩に落ちて。












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ルートT 序章 始まりの場所から








・・この胸の中。


温めている物はなぁに?


温めた物はなぁに?



温めた人は・・だぁれ?




私を見つけた人は・・・だぁれ?





全てが素敵な事だった。幸せだった。





そしてその人が今も目の前に居る。傍に在る。







―君は・・・



「あの時」のままだね。







いつものように、あの時のように微笑んで・・彼はそう言った。


彼も変わらない。・・「あの時」からずっと。






誰もが恋に落ちるでしょう。



貴方の微笑みに。









 

 

「―・・人・・有人?」

 

 

 

 

 

 

「ん・・・?あ・・直・・・?」

 

 

 

 

 

 

「・・お前も2-Aか・・中二以来だな。クラス一緒になんの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉備東高校 

 

源 有人そしてその親友である国枝 直衛の高校二年の春―

 

 

 

四月。

 

 

 

 

2-A教室―

 

 

高校一学年時は有人は1-A、彼の幼馴染で親友の国枝は1-Eであった。

二年生のクラス分けの際、二年生の校舎で一旦は一学年の時のクラス分けと同様の教室にそれぞれ集まり、旧クラスの名簿整理や諸作業、そしてかつてのクラスメイト達との別れを惜しんだ後、新学年の新クラスへ各人教室移動―と、いう形をとっている。

有人は一年の時と同じく二学年もA組だったため、教室を移動する必要無く、そのまま教室に残り、新しい面々がぞろぞろと揃い始めた新クラスの独特の雰囲気を楽しんでいた。小学生から何度繰り返そうともこの感覚は新鮮だ。ある程度見知った他クラスだった生徒達との対面に少しの緊張と距離感、そしてほんのりと期待と高揚が混ざる。

 

「そっか・・。直と一緒の時となると・・もうそんな前になるんだね?」

 

な~んか・・懐かしい感じだね?と、有人はそう言って微笑みながら晴天の窓の外にひらひら舞い散る桜を見やり、国枝もその光景を眺めながら頷く。

 

「・・今回のクラス分け、2-Aは中学メンツ多そうだな・・・んが!」

 

国枝の言葉を裏付けるように国枝の後頭部をエルボーが捉える。こんな事が出来る人間は限られている。

 

 

 

「・・はぁ~い♪みなもっち、おひさしぶりぃ~んふふ~~♪」

 

 

 

自分の暴力行為を全く悪びれもせず、中学からの知己の少年を惜しげも無く背後から奇襲、昏倒させ、前かがみになった被害者―国枝の背中に堂々と左ひじをのせ、ひらひらと右手の指を振る。どうやら上機嫌なご様子で。

 

「棚町さん久しぶり。今年一年間よろしくね」

 

「こっちこそ!それにしても・・うーん!・・・なっかなっか今回ナイスなクラス分けよねぇ。・・アタシの魅惑のカラダをつかってクラス分けを操作した甲斐があったってもんよ♪」

 

癖毛の少女―棚町 薫は腰に手を当てながらクラスを見回し、しみじみとそう言った。

 

「あはは。このクラス分けにする為に体張ってくれたんだ?感謝しなきゃね」

 

「そそそ♪みなもっち・・私の汚れた体を慰めて・・よよよ・・」

 

「有人乗るな。・・また調子こくぞコイツ」

 

「直衛うっさい。んっ・・・!」

 

「ぐえ!」

 

「そういや・・クラス名簿に梅原君の名前もあったわよね・・?まだ来てないのかしら?」

 

癖毛の少女はとりあえず左ひじのエルボーで国枝の背中を射抜き、呼吸困難にさせた後、まだ現れない騒がしいムードメーカーの姿を探す。

 

「いや・・来たみたいだぞ?」

 

・・噂をすれば何とやら。教室の後ろの扉ががらりと開いたと思うとすぐに三人の姿を確認し、ニヤニヤと笑いながら歩み寄る短髪で人懐っこそうな男子生徒の姿がある。

彼も今回のクラス分けのナイスさに上機嫌のようだ。

 

 

「ふふん。・・待たせたな?諸君!」

 

 

「お~梅原君!はっきし言って待ってないぞ!?」

 

「・・キツイ!相変わらずきついぜ!棚マッティは!」

 

「あっはは~~」

 

クラス分けでこれ程騒がしくなれる二人も珍しいだろう。

 

「それにしても・・遅かったね。梅原」

 

「おぅ!みなもっち!実はさ・・ちょ~~っと紹介したい奴がいてな?御崎ぃ!こっち来いよ!」

 

 

「・・うん」

 

 

少し緊張した面持ちでハイテンションなその場に梅原正吉の後方三メートルで入りづらそうにしている小柄な少年が梅原に促され入ってきた。小柄な体にやや幼さが抜けきらない声、長めの髪と相まって女の子にも見える。

一行と初対面のこの時、小柄な少年―御崎 太一の髪は肩ほどまであり、より女の子に見えた。

 

 

「コイツはさ、御崎 太一ってんだ。俺の一年ん時のクラスメイトよ。まーよくしてやってくれよ!いい奴だから!」

 

「よ、よろしく・・」

 

「・・これまた可愛い子で・・梅原君?ひょっとしてアンタ、そっちの方向に?・・高校生の時分で早々と女を諦めるなんて悲しすぎるわよ・・?」

 

初対面の人間に対して有り得ないほど失礼な棚町の発言である。今度は流石に国枝も度が過ぎると思ったのか軽く棚町を小突く。

 

「あいた☆」

 

「いきなり失礼・・俺は国枝 直衛。で、このくるくるパーマが棚町 薫。よろしく」

 

「俺は源です。源 有人。よろしく御崎君」

 

結構見た目も言動も突飛な棚町を諫めた常識を弁えていそうな少年二人の自己紹介に小さな少年もややホッとした表情で応える。

 

「う、うん!よろしく!」

 

「いった~い。って!誰が『くるくるパーマ』よ!」

 

小突かれた「くるくるパーマ」の頭を手で押さえ、不服そうに国枝のネーミングにクレームをつけるくるくるパーの少女に

 

「『くるくるパーマ』じゃ不服か・・なら『焼きそばもじゃ子』でいいのか」

 

「言ったわね!このムッツリガリ勉!!」

 

「誰がガリ勉だ!?」

 

「いや~~・・大将?あながち間違ってねぇかと思いますぜ・・?正直・・お前俺らがヒクぐらい勉強するし」

 

「・・直、『ムッツリ』は否定しないんだね」

 

「・・オイお前ら」

 

意外かもしれないが国枝はツッコミ兼、いじられ役な所が在る。

 

「あ、あの喧嘩しないで?僕、気にしてないからさ」

 

御崎は困り顔でまあまあと両手で場を宥める。「気にしない」というより彼には結構その手の経験があるらしい。自分に対してのそういう反応を受け流す体制が既に出来ていた。小さな少年―御崎 太一の大人な対応に流石に居心地を悪くしたのか棚町はテンションを改める。

 

「あ・・ごめんね。じゃ、改めて・・アタシは棚町。棚町 薫よ。一年間よろしくね♪御崎クン」

 

「うん。よろしく、棚町さん」

 

そう言って少年は少女のように微笑んだ。

 

―う。私より可愛いんじゃない?この子。

 

この頃の御崎 太一は今よりも更に髪が長く、童顔も相まってより女の子に見えてしまう少年であった。

 

「新学年早々騒がしくてすまん・・。とりあえずよろしく御崎君・・じゃあ『御崎』でいいかな?俺のことも『国枝』って呼んでくれていいからさ」

 

「う、うん。よろしく国枝・・やっぱ・・国枝『君』のほうがいいかな」

 

「そうか。好きに呼んでくれ」

 

「じゃあ俺は・・『太一君』でいい?」

 

有人は笑ってそう言った。

 

「・・。うん!どうぞ」

 

小さな少年は嬉しそうにそう言った。「御崎(ミサキ)」のある種、女性的な響きよりもいかにも男の子っぽく響く自分のその「太一」という名前を呼ばれる事が嬉しかったらしい。その表情の変化に源はこの少年の大体の「事情」を把握する。

梅原が横目で源をちらりと見て「ありがとな、気を遣ってくれて」と合図する。

 

―色々苦労してる奴でな・・仲良くしてやってくれ。

 

―了解。梅原。

 

―・・了解。

 

―任せといて。

 

四人はそうアイコンタクトする。お互い何だかんだ言いつつも、全員それなりに人間出来た連中ではある。

 

「・・・?そういや杉内どうした?確かアイツも2-Aなはずだろ?」

 

「あ、そうね。アタシもクラス名簿に名前のってたの覚えてる。遅刻?」

 

「あ~それがな・・大将は・・」

 

「杉内君は・・2-Bの桜井さんと伊藤さんに捕まってるんだよ」

 

 

 

 

2-B―

 

そのクラスには桜井 梨穂子。その親友の伊藤 香苗。そして何故か2-Aのはずの杉内広大がいた。

 

 

「はぁ・・・」

 

 

桜井 梨穂子は落ち込んでいる。

 

 

「・・さくらい~。そんなに凹まないでよ。クラス替え如きで・・」

 

 

「・・・だってぇ」

 

今回彼女が入る事になった2-Bというクラスが特に問題なのではない。むしろ今回のクラス替えは一年時に比べればよっぽどいい。

親友の伊藤 香苗他、何人かの元クラスメイトはいるし、隣のクラスにも数人の知り合い、男友達なら梅原、御崎、そしてここに何故か居る杉内と決して悪くは無い。ただ一点を除けば。

 

 

彼女の幼馴染で想い人―茅ヶ崎 智也が全くの反対側。向かい校舎の2-Eなのである。

最果ての距離の校内遠距離恋愛、もとい片思いである。

 

 

「・・・時々茅ヶ崎には遊びに来るよう言っとくからさ。ほら、元気出して?桜井さん」

 

 

少年―杉内 広大も桜井を慰める為に、とばっちりを受けた形で未だに一年時のクラスである2-Bの教室から離れられない。

 

数分前―杉内×伊藤のやりとり

 

「杉内君。アンタ茅ヶ崎君の友達でしょ?何とか言って桜井宥めてあげてよ・・あたしゃもう不憫で不憫で・・」

 

アラサーに差し掛かっても結婚できない娘を慮る母親のように伊藤は杉内に助け船を頼む。

 

「ええ?伊藤さぁん・・そんな無茶な。何言え、って~のよ」

 

伊藤の予想外の緊急招集に応じる形で杉内は桜井を慰める。が、桜井のローテンションは止まらない。

 

「せめて・・せめて違うクラスにしても隣のクラスとかさ~~気を遣って欲しかったですよ~~ああ~~うう~~」

 

机に突っ伏しながら暗い影を背負い、彼女にしては珍しい呪詛のようにクラス分けに関する恨み節が止まらない。

 

「桜井~~・・凹みたいのはアタシも一緒だっての。また『あいつ』とおんなじクラスになれなかったし・・うう~~」

 

桜井、伊藤の両名が沈んだ。その惨状に杉内も

 

―・・勘弁してよ。俺なんか響姉が留年でもしなきゃおんなじクラスになる事なんて無いのに・・。

 

成績優秀な吉備東高校三年生、杉内の幼馴染で同時想い人でもある少女―塚原 響が留年する可能性などはっきり言って1パーセントも無いだろう。

 

ず~ん。

 

最後に杉内も沈んで一行は無言になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

同時刻―

 

水泳部部室裏にて―

 

 

「・・・よしよし」

 

 

チリン・・

 

 

ふにゃ~

 

 

一人の体格の良い少年が一匹の黒猫を膝に乗せ、指先で器用にあやしていた。

先述の2-Bのトラブルの発端である件の少年―茅ヶ崎 智也である。

 

この少年は一年生時、不良グループに属していた際、彼等の溜まり場をテリトリーの一部にしていたこの黒猫―プーに唯一懐かれ、気を許されていた少年である。

そんな彼の下に

 

 

「プー、プー?どこ?・・・あ」

 

 

一人の黒髪の猫の様な少女が部室の裏の曲がり角から顔を出し、部室裏で一人座り、プーをあやしていた茅ヶ崎を戸惑いながら見る。

 

「・・!悪い。もう行くから気にしないでくれ」

 

茅ヶ崎はそう言って優しく膝に乗った黒猫プーを下ろす。

 

・・な~

 

下ろされたプーは少し名残惜しそうに茅ヶ崎を見上げ、彼の靴の上にちょこんと右手を置き、「もう少しここに居なさいな」と催促する。が、茅ヶ崎は笑って軽くプーの頭を撫でると「・・ツレないねぇ」とでも言いたげに渋々彼の靴から賢く手を離す。

 

「あ。いえ。お気になさらずに」

 

少女は「あのプーが懐いている」という時点で少年への警戒を解いた。

 

「君、一年生・・?」

 

「あ。はいっ」

 

低い少年の声にちょっとびっくりしたように背筋を正し、少女は頷いた。

 

「・・そ。コイツ共々よろしく・・じゃ」

 

「は、はい。よろしくお願いします」

 

言葉少なに茅ヶ崎はゆったりと帰っていく。その背中を少女―七咲 逢はすり寄ってきたプーを抱き上げ、去っていく少年の姿を不思議そうに見送る。

 

「・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それぞれの想いを抱えたまま彼らの新学年は始まった。

 

新しいこのスタートの場にも少年―源 有人の周りには不思議なほど見知った顔達が揃い、新しいながらも同じような、平和な日常が始まる事を有人は予期した。

 

が、どうせいずれは時間に追われ、それぞれの道が分かたれていくことを最も思い知りやすいのがこの高二という学年でもある。ならばせめてその時までゆっくりと。安穏と時が過ぎる事を願う。

 

この場所で今目の前の事に一喜一憂し、ただひたすらに無駄な時間を過ごすこと。

それが許される残り少ない時間でもあるのだ。

 

・・その終りに近い始まりの場所で。

 

 

 

物語は始まる。

 

 

 

 

 

「あの・・・ちょっとお邪魔していいかしら・・・?」

 

 

まだ新しい始まりの場所の興奮、緊張が冷めやらないやや浮ついた2-A教室内で、既に落ち着き、地に足つけた声でその少女は有人に話しかける。

 

 

 

「・・ん?あ・・」

 

 

 

「お話し中ゴメンなさいね」

 

 

 

 

さらりと長く、絹のようにしなやかで光沢のある黒い髪がまだ冷たくも心地よい春風を受けてしなり、血色のいい白桃色の素肌の上に誂えら、形、長い睫毛共に美しく整った丸い大きな黒い水晶のような瞳が対称的に薄茶色の有人の瞳と重なる。

 

 

 

「・・・」

 

 

その黒い水晶の様な瞳に映るやや放心した顔の自分を見ながら、暫し彼は見惚れた。

 

開いた教室の窓から春風。教室の窓の外に舞う桃色の花びらを背に長い黒髪の少女は首をかしげる。

 

 

 

「・・?」

 

 

 

―・・っと。

 

 

気を取り直した一瞬、有人は息を飲むような感覚に陥ったが一旦目線のみをそらし、次にその少女の瞳を見据えた時には有人は何時もの調子に戻っていた。

 

「ごめん・・何?」

 

「・・あ。あの・・これ、ね・・自己紹介の用紙なんですけど・・よければ配ってくれませんか?貴方はどうやらこのクラスにお知り合いが多いみたいだから・・」

 

「あ・・うん。いいよ。勿論」

 

「ありがとう」

 

そう言ってその場に居る有人の友人数分の用紙を少女は有人に渡す。新しいクラスの雰囲気に水を差さないように周りの目を気遣って静かに。しかし手際よく人数分の用紙を細く白く細い指先を器用に絡ませ、定規で測ったみたいに綺麗に整える。

 

「・・良ければ手伝おうか?」

 

そんな有人の申し出を

 

「あ。いいの。別にこの用紙も提出任意だし。皆これに自分の自己紹介を書いて後ろの掲示板にでも貼りだしたりしたら皆すぐ馴染めるかな~って思っただけですから」

 

少女は長い髪をふるふると揺らし、しっかりとした受け答えで断る。有人は「そっか」と頷いた後、手渡された手元の資料を見る。

 

「・・。ひょっとしてこれ君が作ったの?」

 

それを一通り眺めると手書きで一文字、一文字、丁寧に書かれた自己紹介用紙である事が解る。誤字脱字も一切見当たらない。内容も簡潔で当たり障りのない質問が多いながらも、一部ちょっと踏み込んだ所まで聞く茶目っ気もある。気軽に適当に書いても他の人間が見たら自然と一通り読ませたくなる内容に纏まっている。

 

「えぇ・・まぁ・・どう?ダメ、かな?」

 

紹介用紙の質問内容が適切なのか?この企画自体が適切なのか?を双方の意味で聞いた少女の質問だった。

 

「・・。ううん。・・アイツらには絶対書かせて提出させるから」

 

有人は少し離れた場所で談笑している友人たちを見ながらそう言った。相手の意図を完全に把握した有人は戸惑いの無い笑顔で応える。すると向かい合った少女も安心したのか少し笑い、

 

「・・・。ありがとう」

 

そう言った。

 

「こちらこそ。・・・えっと・・」

 

「・・?」

 

 

「俺は源 有人っていいます。初めまして。一年間よろしくね」

 

 

もともとやや垂れ眼気味の目じりをさらに極限まで下がらせ、いつもの彼らしく柔らかく微笑む。無理矢理音をつけるなら「にへら」か「にぱぁ」か。

 

 

「・・・。・・ふふ。一足早い自己紹介ね」

 

 

少し照れたようにその女子生徒も微笑んだ。大きな瞳が少し薄く閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は・・絢辻。絢辻 詞っていいます。これから一年間よろしくね。源君」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後日、その紹介用紙は2-Aクラス全員、一人の漏れも無く教室の後ろに掲示される事になる。

 

「・・・」

 

それを眺めながら有人は振り返り、功労者である彼女に目をやった。

 

「・・・」

 

その時には早くも既にクラスの中心人物になっていた絢辻は周りに多くのクラスメイトに囲まれながらも有人の視線に気付き、「ご協力有難うございました」と言いたげに少し頭を下げた後、微笑んだ。

 

 

 

 

二人の出会いは最初の有人の衝動を除けば、些細で当たり障りのないもの、言ってしまえば大きな印象は無い。積み重なる日常の刺激に埋もれていく程度のものである。やがて消えてしまうはずの・・その程度のものだった。

 

 

 

・・が。

 

 

 

 

 

 

その日から半年以上が経過した晩秋のある日のことだった。

 

 

 

 

 

 

夕方下校時刻、2-A

 

有人はかつて一学期に自己紹介用紙が貼られていたことすら忘れられた教室の後ろの味気ない掲示板の下の床で何かを見つけた。

 

「・・・・ん?」

 

黒く小さな長方形の物体。頻繁に使えば中古感がぬぐえなくなるその物体は未だ新品のように黒光りしている。かなり年季が入って独特の高貴さすらある。持ち主が相当丁寧に扱っているのだろう。

 

―・・手帳?

 

人物によっては手帳とは時にタダの飾りでもある。だが落とされていたその物体の佇まいからして落とし主にとってのそれの重要性はすぐに理解出来た。「確実に困っているはずだ」、と。

 

「よっと・・・」

 

有人はそれを拾い上げる。落とし主はほぼ間違いなくこのクラスの人間。どこかに個人を特定するものさえ載ってればどうにかなるだろう。後は担任にでも渡しておけばいい。知り合いなら電話で知らせてやればいいだろう

 

正直軽い気持ちだった。その物体の意味も、重みも何も知らない無知ゆえの行動。

とりあえずプライバシーもあるのでぱらぱらと内容は頭にいれようとせずに適当にめくる。

 

―・・恐ろしく字が綺麗だ。どうやら女の子のだ。コレは。

 

担任に渡す事決定。が、つと思考が待ったをかけ、足が止まる。

 

―・・・?「この字」どっかで・・・?

 

有人がそう思った瞬間だった。

 

からり・・

 

背後で教室の前方の扉が開き、反射的に有人は両手で覆うように手帳を閉じると同時に振りかえる。掲示板の方向に体を向けたまま振り返るとあの春の日の記憶が都合を図ったように繋がり蘇る。その「字」の既視感とその眼に映った光景で有人は全てを理解した

 

しかし・・合点がいったと同時に彼の中に生まれたのは―

 

 

 

 

違和感だった。

 

 

 

 

―あれ・・・?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




SHARK・T「本編」開始。


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ルートT 一章 絢辻 詞とは














有人が夕方の教室で黒い手帳を拾う数週間前の朝のHR―

 

「・・・というわけで・・創設祭の実行委員に立候補する・・してくれる人、いる?」

 

2-A担任高橋麻耶は吉備東高創設祭の一通りの簡潔な説明を述べた後、教室を無言で見回しながら徐々に表情が曇る。

 

「・・・いないの?」

 

残念そうな顔をしながらもどこか「まぁそうよね」というような諦めに近い笑顔で眉をしかめていた。気まずい沈黙が苦手であり、そして厳しいが生徒受けは良い人気教師―高橋の困り顔につられた少女―棚町 薫が手をあげようとするが絶妙のタイミングで国枝が目で制止する。

 

「・・!」

 

「何よ・・誰もいないんじゃ仕方ないじゃない」

 

挙げかけた手を下ろしながら棚町は小声で国枝に文句を言う。しかし切り返した国枝の言い分はもっともだった。

 

「・・お前もそんな暇じゃないだろが。第一安請け合いして半端にしたら苦労すんのは結局センセーだぞ」

 

「う~・・解ってるけどさぁ」

 

窘められて棚町は両腕を組み、どうにか手をあげる衝動を抑えようとしたが、足をぶらつかせてイライラした。

 

「・・」

 

国枝はほっとする。バイトと学校と実行委員のかけもちではさすがの体力バカの彼女でもキツイ。それと同時にそのフォローに走る自分の苦労を回避できた安堵もある。

 

・・実はそれこそが国枝の本音だったりするが。

 

「・・」

 

そんな国枝をじとりと棚町は見て・・

 

「ねぇ・・あんたサ?ひょっとしてアタシを締め出して自分がラクになりたいだけなんじゃあ・・」

 

「ぎっくぅう!ま、まっさかぁ!!」

 

「黒」枝 直衛、棚町 薫の盤外の一手に明確にキョドる。

 

「・・わっかりやすいキョドり方してんじゃないわよ」

 

その時間以降、国枝は授業中ひたすら背後から消しゴムのカスを「何者か」から、投げ続けられるという虐めを受けた。投げつけられた消しカスを集めて休憩時間中に律儀に捨てに行く彼の後ろ姿はクラスメイトの哀愁を誘ったという。

 

無数の消しカス一粒一粒をつまんで回収しながら国枝は自分の席の斜め前、箒頭の親友に話しかける。

 

「・・有人。お前は?」

 

「・・・俺?」

 

「うん。お前なら皆ついていくと思うけど?」

 

「・・・うーん。ゴメン。俺は遠慮したいな。自信が無いよ」

 

「・・そ」

 

「直も忙しいしね・・」

 

 

 

「あの・・もし、誰もやらないのでしたら、私がやりましょうか?」

 

 

 

「・・・!?」

 

 

 

有人と国枝のやり取りの中、唐突に声が上がる。当初クラス全員が耳を疑った。何故なら彼女をクラスの全員が内心実行委員の候補から「外して」いたからだ。

その声をあげたのは「現」クラス委員長の少女―絢辻 詞である。

 

「いいの・・絢辻さん?実質クラス委員長とのかけもちになるんだけど・・」

 

「クラス委員の仕事自体は馴れましたし、これからどんどん少なくなると思うので大丈夫です。高橋先生。やらせて下さい」

 

「すまないわね・・助かるわ。でも・・無理しないようにね?他の皆も絢辻さんをフォローしてあげてね。いい?」

 

「・・至らぬ点も多いと思いますが、一生懸命頑張ります。よろしくお願いします」

 

恭しく少女は頭を下げる。

 

ここまで優等生然としているとある意味、要らぬやっかみや「調子に乗ってんじゃない?」などの理不尽な感情を持つ輩が出てきてもおかしくないのだが、彼女の日頃の行いと積み重ねてきた信頼と実績が勝っていた。

 

さらにそんな妙な対抗意識が芽生えないほどこの学校の創設祭の実行委員の仕事を引き受けるという事は生易しいものではない。学校だけでなく地域総出で行うこの行事は校内の生徒、そしてその家族、教師は元より、地元住民、企業との連携、はたまた出資を行う吉備東市との交渉など多くのタスクが課せられる。体力、度胸、器量、人望も必要な大役である。それを知るとなかなか手など挙がるものじゃない。

 

クラス委員が絢辻の時点でこのクラスには最早立候補する者など居ないのではないかと踏んでいた彼らには驚きと安堵、そして共に少し申し訳なさが残った。

それ故に理不尽な感情はおろか、クラスの幾人かが「自分の出来る事をしなければ」という協力意識が芽生えたことも事実である。意外な人物の立候補はクラスの連帯感を高めた。

 

「よっし!皆?絢辻さんに拍手~!」

 

梅原がその音頭をとる。皆異論は無い。拍手は上がる。自分を取り囲む嘘偽りのない拍手に流石の絢辻も照れ臭そうだった。そんなクラス内のやり取りを有人たちは眺めながら―

 

「流石だね。絢辻さん」

 

「ああ・・安心だわ。・・俺達も手伝わないとな」

 

「あーあ・・残念ねぇ~。私も創設祭の実行委員に一回はなってみたかったのに」

 

「あー絢辻さんが実行委員になってくれて本っっっ当に嬉しいなー?ゆーと?」

 

「うん。全くだね。直」

 

「この幼馴染コンビ・・・!!アタシの話を聞きなさいよ・・!」

 

その日、棚町薫の筆記用具からは完全に消しゴムという物体が消えたと言う。そして何故か彼女の親友K子も隣の席の子から消しゴムを借りる光景が目撃された。

 

放課後購買にて。

 

「すいませーん。これ下さい」

 

「はいはい。あらK子ちゃん。お買い物?」

 

「うん・・これお願いします」

 

「はいはい。ん・・消しゴム・・?」

 

吉備東高購買のおばちゃんは怪訝な顔になった。購買のおばちゃん、律子さんは生徒の顔や名前をちゃんと覚える気のいいおばちゃん。生徒が無駄な物を買おうとしたりするとさりげなく注意とかもしてくれる購買のおばちゃんの鑑と言える存在だ。

彼女の記憶が確かならばこの少女K子、田中 K子は先日まだ消しゴムを買ったばかり。そして・・おばちゃんの見立てからするとこの田中 K子という少女は今時の子にしては物もちのいい「自分の持ち物を大切にするコ」という印象を持っている。

 

「あっはは。消しゴム無くしちゃって・・」

 

眉をひそめて田中はテヘへと笑う。

 

「あら・・そう?・・珍しい。はい!50円ね」

 

「ありがとう。じゃあさよなら」

 

「はい!さよなら。気をつけてね。いつもありがとね」

 

そう言って気のいいおばちゃんは何時ものように田中を見送る。

 

―あの子・・ひょっとして虐められてるのかしら・・。ああ心配だわ、しんぱい、シンパイ。

 

・・おばさんにその要らぬ心配をかけさせた張本人も三分後、能天気に消しゴムを買いに来た。

 

「あら薫ちゃん。久しぶり」

 

「はぁ~い!ひっさしぶりぃ!おばさん。消しゴムちょーだい♪」

 

「はい。50円ね」

 

「てーんきゅ!」

 

「相変わらずよく買いに来るわね。薫ちゃんは。また無くしたの?」

 

「違うわよ!今日は・・『真っ当な理由』で無くなったんだから!」

 

「ほう。そうかね」

 

「・・・二個もね」

 

「・・え?なんだい?最近耳が遠くてね」

 

「何でも無い。じゃまったね♪律子さん」

 

 

 

 

 

数日後―

 

 

「ごめんね~源君」

 

「いいですよこれぐらい。高橋先生」

 

1F 職員室前廊下―

 

有人は大量の書類を両手に抱えたままそう言った。2-A担任教師である高橋 麻耶は日誌と教材一式を小脇に抱えながらすまなさそうに笑った。

 

「はぁ・・」

 

ここ最近彼女は有人の前でこういう表情をすることが多い。一生徒の有人が言うのもなんだが「悩み多きお年頃」なのだろう。

 

「・・先生最近お疲れです?」

 

「う・・生徒に心配されていちゃあザマ無いわねぇ」

 

「やっぱり・・創設祭の用意大変なんですか?」

 

「うーん。まぁね・・。一見華やかなイベントなんだけどやっぱり市とか、地元業者とか関わる範囲が広いと自然面倒も多くなるのよ。・・ま。そのおかげでこのイベントって他の学校じゃ考えられない位大規模なものになっているから必ずしも悪い事ばかりじゃないんだけどね」

 

「・・はぁ」

 

「あ~~ごっめん。生徒にグチっちゃった・・」

 

「はは。いいですよ。聞かなかった事にしますんで」

 

「ふふ。ありがと」

 

「次の中間の現代文の出題範囲さえ俺にこっそり教えてくれれば・・」

 

高橋の出す現代文の試験問題は中々に意表を突いてくる場合が多い。平均点のコントロールは中々絶妙だ。ちゃんと勉強をした人間としなかった人間との差が大いに出る良い問題が多い。

 

「・・黒いわよ。源君。・・・ところで、話は変わるんだけどね源君?」

 

「はい?」

 

「源君は・・創設祭の実行委員とかしようとか思わないの?」

 

「俺が、ですか?いえ・・特には」

 

「そう?正直・・源君とか国枝君、梅原君達が手伝ってくれると私は嬉しいんだけどな。目立たない所でいつも2-Aのクラスを支えてくれている感じがするから。貴方達」

 

「・・買いかぶりです」

 

「正直これ以上、絢辻さんだけに負担かけるのも悪い気がしてね・・国枝君は予備校、梅原君はご実家のお寿司屋のお手伝いがあるし・・源君ならひょっとしたらって私は思っているのだけど」

 

「俺は・・」

 

その有人の言葉の続きを新しく現れた声が遮った。

 

 

「あ、高橋先生!」

 

 

「ん?ああ・・絢辻さん?」

 

「ようやく見つけましたよ。先生」

 

長く美しい髪を揺らしつつ、トタトタと絢辻は二人に駆け寄った。その両手には何か資料らしきものを抱えている。現在の有人には劣るが結構な大荷物だ。

 

「探してくれていたの?ごめんなさいね。次の時間の配布資料が多くて困ってる所にたまたますれ違った源君に手伝ってもらっていたのよ」

 

「そうだったんですか。源君?御苦労さま」

 

「ううん」

 

―・・こちらこそいいタイミングで現れてくれました。

 

「で、・・・絢辻さんは私に何か御用かしら?」

 

「はい。先日の各部活の備品申請の資料と、委員会の活動記録と予定表、後こっちは業者名簿と連絡先をまとめた資料の件で報告と相談、確認事項が二、三あります。ここに纏めましたのでお手すきの際に確認をお願いします」

 

どすん、と音が鳴りそうなほどの大量の手元の資料を惜しげもなく絢辻は高橋に手渡す。

 

「????」

 

有人は目を丸くした。

 

「・・え?まさか『もう』終ったの!?」

 

高橋も目を丸くした。

 

「はい」

 

事も無げに絢辻は言った。彼女は元々目が丸い。

 

「そ、そう・・解ったわ。ありがとう絢辻さん。いずれ手伝いに行こうと思っていたのに結局手伝えなくて御免なさい・・」

 

「いえ・・先生が事前に纏めてくれてなかったらここまでスムーズには行かなかったと思いますよ?」

 

大人のカオをちゃんと立てる女子高生。オトナだ。

 

「そ、そうかしら・・」

 

「そうですよ。こんな事で自信無くさないで下さい。・・・・あ、じゃあ、すいません。確かにお渡ししましたので私はこれで・・源君もまたね?」

 

「うん・・」

 

「ええ。確かに受け取りました。・・本当に有難うね?御苦労様でした。絢辻さん」

 

「いえ。どういたしまして。・・では失礼します」

 

伏せ目がちにぺこりとお辞儀して彼女は去っていった。明らかに「まだやる事がある」という歩調で軽快に。残された高橋と有人の時はやや放心状態で止まっていた。

数秒後、未だに絢辻が去って言った方向を二人は向いたまま―

 

「・・・。で。高橋先生、それは・・?」

 

絢辻から高橋に手渡された資料について、とりあえずやや放心状態の隣の高橋に有人は尋ねてみる。自分が理解できるかは別として大いに気にはなった。

 

「・・正直私も内容完全に把握出来ているとは言い難いんだけど・・とにかく『うざった~い』『めんどくさ~い』作業を『延え~ん』要求される資料・・と、だけ言っておくわ・・」

 

「解りやすい説明です。流石現代文教師・・」

 

「・・ありがとう。でもねコレ・・はっきり言ってこの仕事振られた時、振って来た教頭に殺意を持ったぐらいなの・・」

 

人を二、三人は殺した眼で高橋はどんよりと手元の資料を見る。ほんの少し目を通した程度で高橋はまるで目の前の現実を認めたくないように瞳を閉じ、小さな声で「ふぅ・・完璧くさいわ」と、呟いた。

 

「・・げ」

 

「少なくとも一週間。いえ・・十日はかかると踏んでいたわ・・絢辻さんに渡した―

 

・・あの四日前までは」

 

「・・・!はい!?」

 

「ふふ・・なんかもう疲れちゃったな~~?私って何なの?生きてるって何・・?はぁ・・田舎に帰ろうかしら・・って、ここが私の地元だっけ・・?生まれも育ちも生粋の吉備東ッ子だっけ私?あらやだ・・・うふっ・・うふふふふ」

 

高橋の眼は先程までの殺人者の目から打って変わって、死んでいる。

 

「・・・。あの~高橋先生?」

 

「ん・・?」

 

「俺・・『要ります』?」

 

「・・正直・・私も『要る』のかな?って感じだわ」

 

「・・行きましょう先生。次の授業に遅れます」

 

少し気の毒そうな苦笑いで有人は担任高橋に微笑んだ。

 

「そうね。ごめんなさい。・・私も頑張らないとね」

 

 

十歳以上年上で教師という職業に就き、社会的に自立した大人の女性をこれ程までに自信喪失させる女子高生も珍しい。有人は十歳以上年上の落ち込む女性を宥めながら絢辻が去っていった方向をもう一度見る。

 

「・・・」

 

絢辻 詞

 

今でも十分過ぎる程の信頼と実績を保持しながらも、それに驕ることなく常に前を見据えて進んでいる少女。彼女の行く先に何があるのか、彼女が聡明なあの頭脳で何を考え、あの澄んだ水晶のような瞳で何を求め、見据えているのか―?

 

有人は純粋に気になった。

 

 

 

 

放課後―

 

 

 

2-A教室にて

 

 

「それじゃあ私はこれで。・・ごめんなさい。急かすような形になっちゃって」

 

「いーのいーの。絢辻さん。こちらこそ提出遅れちゃってすまねっす」

 

「うん。じゃあまた明日ね梅原君。さようなら」

 

梅原は何時にも増して表情を緩め、鼻の下を伸ばしたまま上機嫌で去っていく絢辻を見送る。提出が遅れていた進路希望用紙を放課後にわざわざ回収しに来てくれた絢辻の気遣いに彼は終始ご満悦な様子だった。

 

「・・はぁ~絢辻さんはやっぱいいねぇ♪優しいし、可愛いし、気が利くし。成績優秀、容姿端麗、品行方正、長くサラサラな黒髪に、透き通るような眼と白い肌!くぅ~っ!!あれぞ今は絶滅危惧種とされている『大和撫子』と呼ばずに何と言おうか!ねぇ?杉内君!御崎君!!君達もそう思うだろう!?んっ?んんっ!?」

 

「・・なげーよ。ウメハラ。もうちょっと纏めて」

 

「ダメだよ!梅原君。あんまり絢辻さんに迷惑かけちゃ。ただでさえ忙しそうなのに」

 

うんざりする杉内とあくまで見た目に反した大人な反応をする御崎。

 

「いいじゃねっかよ~今時あんな子いないぜ~?可愛くて頭いいのに全然嫌味や皮肉なトコが無くて評判もいいしよ?」

 

「まぁそれに関しては解る。・・見習わせたい相手がいるね」

 

先日、杉内君は水泳部更衣室裏で嫌な出来事がありました。嫌味と皮肉の塊のような「あの」少女を思い出すのです。

 

「おまけに浮いた噂も無いと来てる。あんだけ可愛けりゃ一つや二つそういう話があるもんだけど絢辻さんにはそれがねぇからな」

 

「へぇ・・梅原君の情報網でも掴めないんだ?絢辻さんのそういう話」

 

「つまり、だ・・!誰にでもチャンスはあるってこった・・・!」

 

「・・そこが罠だと思うな。手を出しにくい―つまり盗られる心配が無いからこそ『高嶺の花』として神格化しちゃう人が多そう・・」

 

「・・・。そうなんだよな。いざ自分が絢辻さんと付き合っているトコ想像すると・・う~~ん」

 

「まったく・・志の低い野郎どもだな!そんな弱気でど~すん・・、・・う~~ん」

 

絢辻 詞―華麗なるスペック。(当社比)

 

賢い。

吉備東高校二年生、試験成績ベスト10常連。恐らく全国でもトップクラスに入る。成績は確実に上。

 

可愛い。

華奢だが丸みが全くない訳ではない女の子らしい体形。顔立ちもアクなく整った美人。艶と光沢のある長い黒髪はまさしく梅原が言う「大和撫子」と呼ぶに相応しい高貴さを誇る。

 

優しい。

教え上手。世話上手。包容力もある。つまり全てにおいて劣っている自分(男側)を責めない=男共はさらに空しくなる。

 

以上、劣等感の塊になる事は否めない。

 

「・・・」

 

三者は無言になった。

 

 

「・・・で、でもさ?絢辻さんって結構謎が多いよね。普段何しているか、とか・・学校じゃ何時も皆が周りに居るけど・・特定の友達と一緒に居るっていうイメージ無いし」

 

気を取り直して御崎が話題を切りかえる。

 

「そういやそだな。家族とかも・・一体どんな人達なんだろ?絢辻さんの家族か・・さぞかし凄い一家なんだろうな」

 

「ふむ・・家族構成は俺の『梅原メモ』によりやすと・・両親に・・姉一人、だ、そうだ」

 

「あ、そうなんだ。お姉さんいるんだ?ふ~~ん♪」

 

三人の姉がいる御崎は嬉しそうに言った。高嶺の花の少女に対するちょっとした親近感♪うふ~♪

 

「・・ふーん。ん・・!?ちょっと待てやウメハラ。おっ前・・絢辻さんの家族構成まで知ってんのか?・・うわ怖っ。一体どうやって・・」

 

「ちっちっちっ・・みなまで言うな。そこを知るにはペイが発生するぜ杉内君?ま。独自のルートがあるんだよ。んふふふふふふふ・・」

 

「・・成程。ストーカーだね」

 

「だな」

 

「・・・俺じゃねぇからな?」

 

「消されないように注意しなよ?梅原君。何事も知りすぎた人間って目障りだから」

 

「月夜ばかりと思うなよ?」

 

「・・・」

 

―人のネタを散々話のタネにしておきながらなんて言い草でぇコイツら・・。

 

 

 

 

「でも絢辻さんのお姉さんかぁ・・」

 

― 一姉より綺麗かな?

 

「何せ『あの』絢辻さんのお姉さんだからな・・さぞ美人で出来る人だろうなぁ・・」

 

―ふ。かといって俺は響姉一筋だけどな!

 

杉内、御崎両名は「姉属性」である。この手の話には敏感に反応する。

ただ杉内に関しては数ヵ月後の「彼の状況」を鑑みてこの台詞と考えると、今の内に存在を抹消しておきたい奴もでかねんレベルではある。

 

「まぁ・・絢辻さんは徒歩通学で家はそんなに遠くないはずだから・・ひょっとしたら案外俺達もすれ違っていたりするかもなぁ・・」

 

―・・「在る日、俺は街角でとある美女と知り合い仲良くなる・・が、その人は何と絢辻さんの姉だった!妹と姉の間で揺れる俺・・次回。衝撃の展開!!!!」。ってか~~?

く~っなんて展開だよ!!!滾るぜ!!

 

三人は無言で絢辻の姉の姿を想像、妄想、暴走する。

国枝、そして有人両名の貴重なツッコミ役不在時の彼らを止めるものは現状無い。

 

 

 

 

 

 

 

―ツッコミてぇ・・・。

 

唐突に有人はそう思った。目の前の奇妙な光景に異を唱えずにはいられない。

夕刻―

 

吉備東の河川敷は中々に景色がいい。

 

その日は彼のお気に入りの自転車で走るには季節も、光景も、時間帯も、天気も申し分のない日のはずだった。快適で風流な「サイクリングやっほ~♪」のはずであった。しかし、今日目に映ったあまりにも奇異な光景に彼の気分は台無しにされた。

 

河川敷高架下周辺の草むら―

 

わんわん!きゃんきゃん!

 

そこに居るのはどうやら中型犬、ゴールデンレトリーバーと戯れている一人の姿。字面から見れば、どこにでも在る様なありふれた、しかしとても微笑ましい光景のはず。

だが・・有人の眼に映った光景は絶賛ツッコミ受付中だった。

 

―なんでだよ。

 

ただ本当にツッコんでいいものなのか・・明らかに犬の挙動がおかしい。そしてその飼い主らしき人間も・・。

 

・・・!・・・♪・・!?・・・・!!!

 

子供が幼さゆえに犬に対して間違った行為を行っているのであれば注意して方向を修正してやるのは容易だし、それぐらいは年長の人間がやるべき義務だとは思っている。

 

しかし、今目の前で犬を羽交い絞めにしているのは明らかに大人の女性であり、その足元には苦しそうにもがく犬、さらに何故か大量のペットボトル。と、この世のものとは思えない奇妙な光景である。

万が一何らかの「儀式」であるのならば有人には完全な専門外、範疇外、別世界である。下手に注意でもして

 

・・邪魔したわね?・・アナタを呪うわ―

 

と、でも言われたら怖い。

 

見て見ぬふりをして去ってもよかったのだがうっかり一瞬犬に目を合わしてしまった。

「たたた助けて~」と、その眼は言っている。

 

―どうする?どうするよ俺?→「続く」・・って、ドラマとかじゃなるとこだけど・・、ダメだな。次話まであの犬が生きている保証が無いや。・・仕方ない。

 

有人は意を決する。

 

「あのう・・」

 

「よーしよし。イイ飲みっぷりね!もっと飲んでいいわよ?」

 

有人の声は届かず、未だ犬に対する女性の謎のパワハラは続く。だが思った以上に無邪気な声。どうやら怪しい黒魔術やら儀式の類とかでは無さそうだ。

 

―っていうか・・どういう安心だ。コレ。

 

「すいません」

 

「ごーごー!どんどん飲んでね~っ」

 

「・・」

 

―よ、よしなさい。いずれ貴方の犬は違う所に「GO」してしまうぞ?

 

「すごいすごい!じゃあもう一本!」

 

無邪気なその台詞からは殺意をまるで感じないが、彼女の行動は間違いなく犬を殺しにかかっている。次の一本がトドメになるやもしれん。

 

「あの!」

 

語気を強めた有人の言葉は漸く彼女の耳に届いたようだ。

 

「え?」

 

女性は振り返った。行動と口調のギャップがあまりにも激しいその女性の顔を見るのはさすがに勇気がいった。更に予想を上回るルックス・・もしくは実は「ホントは男でした!」的などんでん返しでもあれば即逃げ出すレベルだろう。

・・だがその衝撃によって恐らくはさすがに一瞬は固まる。その隙をつかれて捕まえられでもしたら・・「『アッ!』の世」逝きである。

 

しかし・・有人は別の意味で固まった。

 

―・・あ。

 

 

「・・ん?ああ。こんにちは」

 

 

振りかえった女性は髭どころかニキビ、シミ一つ、そして化粧っ気すらない。

 

「んん~~?」

 

怪訝そうに覗きこむような顔で未だ固まった有人を見る。

 

・・分類するなら間違いなく美人の部類だ。それも・・とびっきりの。

 

女性の伸びきった長い手足は季節柄、露出は無い。だが全体的に細みの服はスタイルの良さを隠さない。腰まである長い黒髪は毛先までちゃんとケアが行き届き、美しい艶がある。

顔立ちも端正だ。美しいが同時、華美すぎない柔らかい印象をまあるい瞳とまあるく曲がった眉から感じる。

 

「え~っと・・もしもし?」

 

「・・あ。す、すいません!」

 

―すっごい綺麗な人だな・・。

 

思ったより衝撃は大きかったらしい。「ホントは男」だった場合よりも恐らく有人の総硬直時間は長かっただろう。こんな美人がお相手なら是非とも「『アッ!』の世」逝きにして貰いたい物である。

 

「もっしも~~しっ?君・・私に何か用なのかな?」

 

「あ。はい。その・・・ん・・?」

 

く~~ん

 

有人が女性に用向きを伝える前にサッと犬が有人側に避難した。

 

「あら?」

 

「おっと」

 

キューンと鼻をすりよせ、不安そうな上目遣いで犬は有人を見る。この行動で犬の本意が解らない人間はいない―

 

「あら・・?何か君の事を怖がっているみたいね?」

 

・・いたようだ。何故にそう見えるのだろうか。最早現実逃避レベルのポジティブシンキングである。

 

「いや・・これ恐らく飼い主さんを怖がっているんじゃないかと」

 

「『飼い主さん』?私の事?この子はウチの子じゃないわよ?」

 

「えぇ~~!?そ、そうなんですか!?」

 

衝撃的事実。この犬種、人懐っこさ、今有人にぴったりと寄り添ってうるうる見つめてくる犬のこの人慣れしている感じ・・この犬は恐らく野良では無いだろう。

 

―どこの家の犬か解らない犬にこの仕打ち・・!?

 

ツッコミたかったのは確かだがこの女性、彼が叩けば叩くほどツッコミどころが出てくる。

逆に犯罪臭はどんどん薄れていって肩透かしになっていった。

とりあえず本題に入る。このままでは話が進まないと有人は判断した。

 

「あんまり水を飲まされたもんで怖がってるんですよ。このペットボトルの中身・・全部飲ませたとしたらそりゃあ脅えたくなるのも解ります・・」

 

「あ、そうなの?ハァハァ言ってるから喉が渇いてるのかと思っちゃった。色々飲ませてあげても未だに収まらないから相当喉渇いてるんだろうな~って思って。だからいっぱい買ってきて飲ませちゃった・・」

 

―・・「飲ませちゃった」じゃない。貴方が無理矢理「飲ませてた」んですよ。

 

「・・犬が舌を出してるのは・・確か体温調節の為ですからね」

 

脅えの抜けきらない足元に寄り添った犬の喉を有人が両手でゆっくりと撫でてやる。すると徐々に犬は目を細めてリラックスし始めた。その犬の様子に女性は感動したように「お~っ」と目を輝かせ―

 

「へぇ・・!そうなんだ」

 

と、微笑んだ。

 

「それに・・あんまり甘い飲み物は飲ませない方がいいらしいですよ。犬や猫も虫歯になるらしいですから」

 

そう。この女性、犬に「水分を採らせる」というお題目のもとに多種多様なジュースを持ってきていたのだ。飲ませる予定だった予備群には糖分が多量に入った清涼飲料水は元より、なんと炭酸飲料もあった。・・危なかった。犬には少々刺激が強すぎるだろう。

 

「ふーん。詳しいんだね!何か犬博士・・いえ、通訳さんみたい!じゃあ通訳さん?この子が何を飲みたがっているか聞いてみてくれない?」

 

有人の話を聞いていたのかこの女は。

 

「・・もう飲ませちゃだめですよ」

 

明らかに年上の女性に困った顔をして子供を諭すような苦笑いで有人はその女性を見た。

これはもう「ダメな物はダメ」とはっきり言った方がいい。シンプルイズベストだ。

―物事とは出来る限り単純にすべきである―

ありがとう。アインシュタイン先生。貴方はいい言葉を後世に残してくれました。

 

「ん~?そうなんだ・・やっぱりちゃんと喋ってくれないと、良く解らないわよね。ありがとうね!さっすが犬の通訳さん!」

 

そう言って女性は予想される年齢と見た目に不相応なほど幼く微笑む。

 

「・・ははは。じゃ、俺はこれで・・。ほら・・もうお前もお帰り」

 

お座りをしたまま犬は有人を見上げて上機嫌そうに舌を出す。その額に一瞬手をポンとのせて有人が女性に背を向けた時だった。

 

 

「・・何してるの?」

 

 

背を向けた女性の方向から声がした。ただその声は「女性」では無い。まだ「女の子」の声だった。それも有人が何処かで確実に聞いた事のある声である。

 

「え・・?」

 

「ん・・・?あら!『つかさ』ちゃんおかえり~」

 

「・・?」

 

―『つかさ』?

 

有人には聞きなれない名前である。当然だ。彼女を名前で呼ぶ人間は彼の交友関係の中では現状存在しない。その名前に反射的に彼女を表す記号として即直結する人間は中々居ないだろう。

だが彼女の声に機械的、反射的に反応はできる。その聞き覚えのある声を耳ではっきりと聞き取り、脳に直結して情報を伝達、記憶のファイルを開いて先に有人の中で結論を出していた。

しかし、聞こえてきた異質な「つかさ」という単語に邪魔をされる。理不尽なセリフで有人の心象を言い換えるなら

 

―「つかさ」?おいおい違うだろ。彼女は・・・

 

 

「絢辻さん」

 

 

だろ?

 

 

 

 

 

 

「・・あ、絢辻さん?」

 

「え・・・みなも、と君?」

 

女性の後ろに少女―絢辻 詞が立っていた。河川敷の砂利を踏みわけ、絢辻が女性の横に並ぶと今更に気付く。雰囲気が全く異なるので連想する事も難しかったが今なら解る。

この女性があまりにも有人には聞きなれない固有名詞を発した訳も全て納得、合点がいった。艶やかな髪質、血色のいい肌、端正な顔立ち、そして水晶のような透き通った漆黒の瞳―誰もがうらやむそれを共有した二人の女性の姿が在った。

 

「つかさちゃん?丁度いい所に!紹介するわ。この人は通訳さんです!」

 

・・説明としては色々と足りない物が多すぎる女性の台詞が沈黙していた二人の空気を破った。

 

「・・通訳?」

 

「貴方は黙ってなさい。話がややこしくなるから。」と言いたそうな表情をして絢辻は女性をちらりと一瞬だけ見、すぐ目を切って今度は有人を見る。

 

「あの・・源君・・その」

 

「あ・・ひょっとして絢辻さんのお姉さん?」

 

「あ・・うん」

 

絢辻にしては珍しく、ハッキリとしない返事である。「・・解っちゃったか」とでも言いたげな少し残念そうな表情を浮かべて。隣でニコニコしている姉とは対称的な複雑な妹の表情であった。

 

「ん~もしかしてつかさちゃんと通訳さんって・・お知り合いなの?」

 

絢辻の姉である事が判明した女性が、妹と判明した絢辻の無言の圧力を全く以て無視し、会話に割り込んできた。森島はるか並みの空気ブレイカ―である。

 

「・・うん」

 

「ええそうなんです」

 

何処となく歯切れと、居心地が悪そうな絢辻に変わって有人は自分から話を進め、さっさと切り上げようとした。絢辻はいきなり自分の姉が自分のクラスメイトに何かやらかしたのではないかと不安になっているのだろう。タダでさえあんなフリーダムな事をしている姉なのだ。絢辻の不安も解らないではない。

 

「なーんだ。そうだったのね。早く言ってくれたらよかったのに」

 

「・・・」

 

―ははは・・。・・ま。いいや。

 

 

 

「じゃあ改めて・・俺は源っていいます。妹さんとはクラスメイトで、ほんっとうに色々お世話になっているんです」

 

これは本当の事だ。親切でもおべっかでもない本音である。

 

「へ~そうなんだぁ。み、なもと君・・、ね?私はつかさちゃんの姉の縁(ゆかり)です。こちらこそ改めてはじめまして~♪」

 

「はい。・・絢辻さん?」

 

形式通り絢辻の姉―縁に挨拶を済ませた後、有人は未だ言葉に窮している妹―絢辻に語りかける。

 

「・・何?」

 

姉とクラスメイトの自己紹介をやや不安げに見守っていた妹に有人は何時もの笑顔で笑いかける。

 

「絢辻さんのお姉さんがコイツと遊んでるのを見ててさ。すごく楽しそうだったから一緒に混ぜてもらってたってワケだよ」

 

未だ有人の足もとで行儀よく座っていた犬が微笑むように舌を出して今度は絢辻妹を見る。

 

―いいぞ。ナイスフォローだ。

 

どうやら犬は姉とは違い、妹は雰囲気からして「常識が通用しそうな人間だ」と、判断したらしい。

 

「・・・そうだったの?」

 

「そうなの!甘いものを食べると虫歯になるとか、体温調節がどうとか!」

 

「????・・そうなんだ」

 

「・・あら~」

 

―うわぃ。俺と犬のフォローが色々と台無しだ。

 

苦笑いしながら「適当に聞き流してほしい」と絢辻にアイコンタクトした。もともと絢辻もそこまで詮索する気は無かったようである。というより詮索の無駄さをここ一連の会話から感じ取ったらしい。

 

「あ・・あの源君・・ごめんね。私ちょっと急いでいるから・・もう行くね」

 

「ん?ああ気にしないでいいよ。俺もそろそろ帰るつもりだったし」

 

「忙しくてゴメンね。ほら・・高橋先生に頼まれてた事とか色々あるから・・」

 

「あ・・うん、そうだったね。引き止めてゴメン。じゃあ・・頑張ってね?」

 

―・・うん?「終わった」って言っていたあの資料の事か?

 

どうやら絢辻は相当この場から離れたいようである。

 

「うん。有難う源君。じゃあまた明日、ね・・。・・お姉ちゃん。ほら今日炊事当番でしょ?行きましょ」

 

そう言って足早に歩を進める。

 

「あら。つかさちゃ~ん。まってぇ。一緒に帰ろうよ。・・えーっと・・通訳さん。またね」

 

「・・源です」

 

「あはは。御免なさい。でも何か覚えにくいなぁ?歴史の人物みたいで」

 

―歴史の人物の中でも最も覚えやすい連中の名字と同じなのに・・。それを覚えにくいって・・。

 

本当に変わった人だと有人はまた苦笑いした。

 

「うーん・・。あ。じゃあじゃあ・・。通訳さんの下のお名前は何て言うのかな・・?」

 

「・・・?有人・・ですけど」

 

「なんだ!とっても覚えやすい可愛い名前じゃない♪またね?ゆうと君」

 

「あ、はい・・」

 

まるでしっかり者の娘を、愉快でぽやんとした母親が笑いながらじゃれつくように縁は妹の元へ駆けていった。

 

―随分と雰囲気の違う姉妹だな。

 

そう思って有人が帰ろうと背を向けた時だった。

 

「あ~!ちょっと待って~!」

 

縁がやや遠目から声を張り上げるようにして有人を呼びとめた。

 

「何ですか~?」

 

有人もやや声を大きめにして返礼する。

 

「君さ~『誰かに似てる』って言われたことな~い?」

 

「はい~?」

 

「ん~・・ま~いいや~まったね~?」

 

ぶんぶんと手を大げさに振って不思議な女性はまた少女のように無邪気に走り去っていった。

 

「?????」

 

 

最後までよく解らない印象を残した絢辻 詞の姉―縁の後姿に怪訝な顔をして有人もまた立ちさろうとしたが―

 

 

―あ!!

 

そう思って振り返ったがもう後の祭りだった。絢辻姉妹は既に見えなくなり、残されたのは有人と犬。そして・・大量の空のペットボトルと一部未開封のジュースが残された。

 

恐らく持ち主は取りに来ない。確実に。最早記憶にすら残って無いんじゃないだろか。

 

「・・・」

 

―・・ゴミは持ち帰ろう。・・。それに・・

 

 

その日、有人は縁の残した空のペットボトルを始末した後に、まだ中身の入った大量のジュースを重さでふらつく自転車に乗せながら帰った。

ふらつく自転車のすぐ後ろからしばらくトコトコと犬が付いてきたがある程度の場所に来るとピタリと座って有人を見送った。「これ以上は付いて行ったらダメ」な境をちゃんと作っているのだ。

 

―うん。賢いぞ。

 

有人は頷いて微笑み、もう振りかえらなかった。

 

「・・・」

 

その様子を遠くより見ている人間がいた。実はその河川敷から自宅まで僅かな距離しかない所に少女―絢辻 詞は住んでいる。彼女の部屋の窓から見える河川敷にはふらふらとふらつく自転車を運転しているクラスメイト―有人とそれにトコトコついていく姉に虐待された犬の姿が見える。

 

「・・・」

 

無言かつ無表情でその光景を彼女は見据えた後、シャッと窓のカーテンを閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートT 二章 友人未満の最終日










3 友人未満の最終日

 

 

 

 

 

...SWISH!!

 

 

 

 

 

美しく宙に弧を描き、オレンジ色のボールはリングに一切触れることなく、軽快なネットの音だけを残した。そしてそのボールが体育館の床でターンと派手に跳ねる前に高く、興奮した女生徒達の歓声が上がる。

 

「はっ・・!はっ・・!・・♪」

 

ぐっ♪

 

少し息を切らしながらもその光景を満足そうに見ながら僅かに嬉しそうに両こぶしを握ったかと思うと少女はすぐにチームメイトたちに取り囲まれ、見えなくなった。

 

バスケットボールというものは中々重い。

 

腕だけでなく下半身を利用し、膝から体全体を連動させてリリースしないと遠くへ、そしてリングに吸い込まれる軌道になかなかボールは入らない。増してスリーポイントラインの外からのシュートとなるとそれなりの慣れが必要になり、プロの人間でもディフェンスが付けば成功率は良くて三割と言われている。

 

増してバスケ部員のいない女子達の体育の授業ではそうそう拝める物ではない。

だがその少女はその授業中にスリーポイントを決めた。ビギナーズラックでは無い。明らかに狙っていた。それも終了のブザーが鳴る直前を。

 

終了間際のバスケットボールのワンゴール差ビハインド―つまり二点差でとにかく「入れよう」、「止めよう」と、ゴール下に敵味方入り乱れて密集した女の子達から離れ、フリーで確実に打てる状況を完全に少女―絢辻 詞は狙っていた。相手チーム、そして絢辻の味方チーム共に単純に「あんなに遠くから打つ」という発想がそもそも無かった。

 

見事な逆転勝ちである。

 

「おおお。すげぇ・・」

 

その光景を見ていた梅原は思わず感嘆の声をあげた。審判役を務めていた女子バスケ部員の女生徒も眼を見開いて驚きながら、

 

「絢辻さんはね?この・・線の後ろから打って入れたから今のは三点なの。だからBチームの勝ちです。逆転です」

 

ラインを指差しながら懇切丁寧かつ簡潔に両チームの女の子達に説明し終わると、絢辻率いるBチームからさらに黄色い声が上がった。

 

「おい見たか今の!」

 

「そういうオメーはどこ見てんだよ」

 

梅原の隣に座っている杉内がうんざりしたように言った。

 

「あ~?負けてるウチのクラスの試合何ぞどーでもいいんだよ!それよりも見たか?今の絢辻さんのシュート!スリーポイントだぜ?スリーポイント!」

 

梅原は自分達の体育の授業そっちのけで隣のコートの女子のバスケに夢中だった。馴れない球技動作でキャッキャしている女の子達をなまあったかい目で見るのが相当に楽しいらしい。

片や大勢の決まってしまった自分達の試合よりも確実に面白く、眼の保養になる事は確かなので、事実、梅原以外の休憩中の男子もその誘惑に逆らえてはいなかった。

 

「とある男子」に至っては自分の試合中にその光景を凝視したため、味方からのパスが顔面を直撃し、鼻血を出すトラブルが発生している。

 

少年の名は花園 聖司。

 

通称「鼻血王子」の面目躍如だった。

 

―・・ああ。僕らの「鼻血王子」が帰ってきた。

 

ボールの直撃を顔面に喰らって倒れた彼の顔は何とも幸せそうだった。一片の悔いも無かったのだろう。鼻血を出しながら仰向けの状態でずるずるとコート脇に運ばれる彼の姿を見て男子達は心の中で口々に「・・お帰り」と呟いたらしい。

さらに一説によると彼の鼻血は「ボールが当たる前に既に流れていたのではないか?」という噂がまことしやかに囁かれている。・・まぁそんな事はどうでもいいとして・・。

 

「・・絢辻さん勝ったって?」

 

「おう。大将お帰り。こっちは派手に負けたね~」

 

「無理だって・・あっちバスケ部員三人いるのに・・」

 

汗だくの有人がどっかりと梅原の隣に座り、「あーきつ」と言いながら呼吸を整えていた。

 

「絢辻さんは逆転勝ちだぜ~。最後の最後でスリーポイント決めた時にゃあ声を潜めてこそこそ見ていた野郎連中も思わず声挙げちまってたよ」

 

「ふーん・・。成績優秀・・おまけに運動神経も抜群なんだ・・」

 

「ああ・・下手な部員より即戦力クラスだな。正直棚町並みの運動力だぜ」

 

「棚町さんレベル!?それは凄いな・・」

 

「全く・・非の打ちどころがないねぇ・・絢辻さんは。そして最近掴んだ情報なんだが・・彼女創設祭の実行委員の代表にも任命されたらしいぞ」

 

「え・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

体育時間終了後、体育館横 水道場―

 

「ふうっ・・」

 

絢辻は大きく息を吐いて清潔な白いタオルで顔を拭う。彼女は休日の外出時等以外は基本ノーメイクだが地肌が非常にきめ細かく、白い。普段から生活リズム、食生活、睡眠に気を配っている紛れもない証拠だった。そんな些細な所からも一分のスキの無さを感じて何とも声をかけ辛い雰囲気だと有人は思った。有体に言えば見惚れていたとも言える。

 

「絢辻さん」

 

「えっ・・わっ、み、源君?もう・・驚かせないで」

 

一瞬びくっと痙攣したもののすぐに少し困ったような笑顔で有人を絢辻は見た。

 

「あ、ごめん」

 

「いいよ。ところで・・私に何か御用?」

 

「うん。・・はい」

 

「・・え?」

 

有人はペットボトル専用の保冷袋に入れられたスポーツドリンクを手渡した。運動後の乾いた体をそれだけで潤しそうな綺麗な青いラベルが光っている。

 

「どうしたの・・これ?」

 

「どーぞ」

 

「・・いいの?あ、ありがとう・・」

 

絢辻は戸惑いながらも受け取った。

 

「それじゃ」

 

有人はそれだけ手渡してとっとと帰ろうとした。

 

「???ちょっ・・ちょっと源君?・・それだけ?」

 

「うん」

 

垂れた横目で少し悪戯そうに有人は絢辻を見る。何時もの彼らしく微笑みは絶やさない。

元々丸い目を限界まで丸くして絢辻は怪訝そうに佇んだままだった。

 

「・・?ひょっとして奢ってくれるの?」

 

「うーうん」

 

有人は首を振った。

 

「え・・。それじゃあお金・・あ・・私お財布まだ更衣室・・」

 

「お金も要らないよ。もともと『絢辻さんの』だし。それ」

 

「え・・?私の?」

 

その絢辻の反応を見てそろそろ種明かしする時間だと有人は判断した。

 

「正確に言うと『絢辻さんのお姉さんが置いていった奴』だけどね」

 

そう。犬にトドメを差しかけた予備軍の残党である。

 

「あ・・・」

 

昨日ふらつきながら自転車で帰っていった有人の姿を絢辻は遅まきながら思い出す。

 

「絢辻さんのお姉さんのモノ。つまりは絢辻さんの物だよ。・・流石に全部持ってくる訳にも行かなかったけど」

 

嫌がる犬に無理矢理飲ませるくらいなら今のように運動後の乾いた体に吸収させた方がよっぽど生産的で価値があるだろう。

 

「あ・・ありがと」

 

「うん。それじゃ。お邪魔しました」

 

「あ。ちょっと待って・・源君」

 

「うん?」

 

「・・・少しお話しない?」

 

「・・俺なんかでいいの?」

 

「いいから誘ってるんだけど?」

 

「ホント?じゃあ喜んで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・昨日は本当にゴメンね。びっくりさせちゃったよね?」

 

「何が?遊んでもらったのは俺の方だし・・むしろお姉さん何か言ってなかったか俺不安なんだけど・・馴れ馴れしいヤツとか・・」

 

「・・。あーそう言えばそんな事を言っていたような・・軽そうとかチャラそうとか・・」

 

「え・・本当?」

 

「・・嘘♪」

 

顔を横に傾かせて悪戯そうに絢辻は笑った。どうやらさっきの有人のちょっとした悪戯に対する些細な返礼らしい。一切嫌みや毒っ気のない彼女なりの冗談のようだ。

 

「・・結構心臓に悪い冗談言うんだね。絢辻さんも」

 

「ふふ・・ごめんなさい。だって源君が嘘言うんだもん」

 

「嘘?」

 

「・・ホントは源君があの人に付き合ってあげてたんでしょう?あの人すぐ他人を巻き込んだり振り回したりしちゃうから・・。おまけにこんな後始末なんかさせちゃって・・」

 

さっき有人から手渡されたスポーツドリンクを絢辻は少し傾けながらそう言った。未だ栓は開けていない。絢辻は改めて隣の有人を見て苦々しそうに笑って続ける。

 

「あの人にはちゃんと言い聞かせておくから・・後、残った他の飲み物は適当に処分しちゃっていいからね。飲むも捨てるも源君の自由よ。あ、もしそれも迷惑だったら直接私が取りに行くから」

 

「・・それいいね。絢辻さんがウチに取りに来てくれるの?」

 

「え・・」

 

絢辻の笑顔が少し曇る。どう反応していいか解らないようだ。嫌なのか、良いのか自分でも曖昧なのだろう。そんな彼女に有人は

 

「冗談です♪・・俺んちさ?三人兄弟だから消費するには事欠かないよ。むしろ凄くあり難い。昨日散々弟に『兄ちゃん。これ飲んでいいの?』って何度も聞かれたからさ?」

 

「・・もう。言っていい冗談と悪い冗談が在るわよ?」

 

絢辻は少し口を尖らせた。怒っているというより今度は少し安心し、同時に照れている口調ではあった。

 

「ごめん。・・それじゃあ在り難く頂きます。でも、さすがにあんなに貰っちゃっていいのかな?・・正直まだ結構あるよ?代金は返せると思うし受け取ってくれないかな?」

 

その有人の申し出に絢辻はふるふると首を振り、漸く調子を取り戻したかのように何時もの笑顔を向ける。

 

「ううん。気にしないで。もともと私もジュースあんまり飲まない方だし、多分あの人も完全に忘れているだろうしね?・・第一、あの人に返してまたロクでもないことに使いでもしたらそれこそ勿体ないわ」

 

折角戻った絢辻の綺麗なカオがまた複雑に曇る。その複雑な心中を有人も察し―

 

「うん。・・それは・・違いねぇ」

 

有人は苦笑いしながら前日のあの光景を反芻する。

まさに「ロクでもない事」だった。さらに本人に自覚が無い、最早恐らく記憶にもないだろう所がまた恐ろしい。

 

「でしょ?」

 

「それでもなぁ・・うーん。じゃあ・・こういうのはどう?」

 

「うん?」

 

「俺が毎日こういう風にして少しずつ学校に持ってくるからさ?絢辻さんも処分・・ゴメン言い方悪いな・・飲むのを手伝ってくれないかな?」

 

「え?毎日?でも重いでしょ?・・悪いわ」

 

「ううん。毎日の飲み物代が浮くんなら大したことないって。毎日買うと結構な出費になるしね?飲み物って」

 

「でも・・」

 

「・・これぐらいはさせてよ。絢辻さんクラスの事で色々頑張ってくれてるんだし、それに聞いたよ?実行委員長も引き受けたんだって」

 

「・・あら。源君って結構耳が早いのね」

 

「事情通が知り合いに居ましてね」

 

「梅原君ね」

 

「うん。・・無理、しないでね?」

 

「ありがとう」

 

「それに・・運動後のスポーツ飲料程美味しいものって中々無いでしょ」

 

「・・。うんそれは・・言えてるかも」

 

絢辻は遠慮がちに栓を開け、少し口に含んだスポーツ飲料をゆっくりと体に染み込ませ、吸い込ませていく。その感覚は確かに絢辻にとっても悪くない爽快感、快感だった。

 

「源君?・・お茶か紅茶はまだ残ってたかな?」

 

それを聞いて有人はにいっと笑った。

 

「・・絢辻さんが選びそうなんで優先的に保護するつもりだよ~。弟に許可出ても『これだけは飲んだら殺す』って、釘さしといたから」

 

「・・」

 

―思い付きじゃ無く、もともとこの提案をするつもりだったのね。

 

絢辻は「してやられた」的なカオをし、それを見てクスクスと笑う目の前の少年にまた困り顔をしてこう言った。

 

「・・案外イジワルね。源君って」

 

「そう?」

 

「ふふっおまけに案外タチ悪いヒトだわ。・・じゃあ・・お願いしようかしら。・・何から何までありがとう」

 

「気にしないで。こっちとしては絢辻さんに毎日話しかける口実が出来たわけだし」

 

・・中々口の減らない少年である。

 

「・・・!もう・・心にもない事を」

 

「え。な、何故バレた?」

 

「あっ、ひっど~い。ホントにタチ悪いわね!!・・くすくす」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ・・。そろそろ俺はこれで。・・ゴメンね?絢辻さんが着替える時間大分削っちゃった」

 

「ううん。お話出来て楽しかった」

 

「あ、凄く嬉しい。その言葉」

 

「・・・源君。最後に・・ちょっと、いいかな?」

 

「・・何?」

 

明らかに絢辻の雰囲気が変わった。何気ない今までの会話の中で恐らく絢辻が最も話す機会を窺っていた話題だ。今までの会話は残念ながら軽いジャブの応酬の様な全て前置きだった事は有人は解っていた。

 

「『あの人』の事なんだけど・・」

 

「・・うん」

 

「あの人って?」とは有人は聞かなかった。散々さっきから自分の姉の事を「あの人」と連呼している彼女の言葉から有人は何処となく絢辻の複雑な感情が読み取れた。恐らく絢辻も意図して言い続けたのだろう。

 

「自分から昨日の事持ち出しといて何なんだけど・・出来れば『あの人』の事・・お姉ちゃんの事とか、起きた事とか・・誰にも話さないでもらえると嬉しいかな」

 

何となく予想は出来た絢辻の頼みごとだった。理由は解らないが色々あるのだろう。

 

「分かった」

 

ただ有人は愚直に頷いて了承する。「何で?」と、ふざけて困らせるには最早明らかに空気と、そして有人の性格が許さなかった。

 

「・・ごめんなさい」

 

「こっちこそごめん」

 

「・・『何が』?」

 

「・・う~ん。『話さないでもらえると嬉しい』って言われたばっかなので答えるわけにはいかねぇな?『口は災いのもと』ってもんよ」

 

わざと梅原風の江戸っ子口調で有人は砕けた。絢辻のちょっとした悪戯な誘導尋問を茶目っ気でかわす。

 

「くすっ・・そう。・・よかった。源君で」

 

「・・う~~ん。悉く嬉しい言葉を言ってくれるよね。言葉のチョイスがいちいち上手」

 

「だってそれが狙いですもの」

 

「うわお・・」

 

「ふふっ・・ね。源君ってちょっと面白いね」

 

「え・・。そう?その手の感想は頂いた事は御座いませんが・・」

 

「私の考え汲み取ってくれたし・・昨日の事だって・・。普通は放置された面倒なゴミやら空いてない忘れられたジュースなんて絶対に面倒生まれるから放っておくわよ?」

 

「・・そうか、なぁ」

 

「そうよ。普通は」

 

「だってゴミは良くないしね。それに未開封のジュースやらがあんなに置いてあったら変な騒ぎになる可能性だってあるし。それなら事情をある程度知ってる俺が後始末すれば何の問題もないでしょ?」

 

「・・ふーん」

 

「でもホントのとこどうなんだろ?正直あんまり深く考えなかったから良く覚えてない・・」

 

「そっか・・ふふっ」

 

「?」

 

「あたし、貴方に興味が湧いたかもしれない」

 

今度は絢辻の言葉に有人が虚を突かれた形になった。

 

「・・・!もう・・心にもない事を」

 

「ふふふっ♪・・それじゃあね」

 

冗談なのか、からかったのか、それとも本気だったのか。どれともとりづらい微妙で悪戯な微笑みが有人の茶色い瞳に焼き付く。

 

何時もの優等生然とした彼女とは違う。まるで絢辻が違う生き物のような片鱗を感じる。

「女の子というのはそういうものだ」と言うのは漠然と彼の知識や世間の共通認識程度として存在したが、実際に実感するのとは全く別ものだと有人は認識した。

 

 

 

 

 

 

しかし後日―

 

 

それ自体も見当はずれであった事が解る。

 

 

彼女は全く特殊だった。

 

彼女は美しく、優秀で知的で。

そして・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絢辻と共に縁が残していった飲み物を処分する日が始まってから一週間が経ち、順調に有人の家の在庫は減っていった。

 

「これでカンバン・・かぁ」

 

そして8日目のその日、残った最後の絢辻用のミルクティーと自分用の炭酸飲料を鞄に詰め込んで有人は登校する。

 

流石に教室で絢辻に堂々と手渡すのは何かと問題があったので、一週間、人目を忍んで絢辻にそれを配り続けた。

教室移動の際、体育の授業、放課後が狙い目である。毎日人目を避け、校内の何処かに居る絢辻を探していると気付く事がある。何時も皆から頼られ、周りに常に囲まれているような印象がある彼女だが、意外にも一人の時間をとても大切にしているという事だ。

人から何かを頼まれたり、頼られると決して断らず、丁寧に時間をかけて面倒を見るのだが、それらが一切ない時、彼女はいつの間にか消えるように姿を消し、静かな場所で一人何かに集中している事が多い。

 

屋上でリラックスしていたり、テラスで本を読んでいたり、放課後の図書室で勉強をしていたりと何と言えばいいのかメリハリがキッチリとしていた。

助けが必要な誰かには必ず手を差し伸べ、それが無い時は打って変わって自分の事を、気分転換や勉強などの自分に奉仕する事も忘れていない。自分のモチベーションの保ち方をよく知っているのだろう。何と無駄のない時間の遣い方だろうと有人は感心する。

他人に傾倒しすぎる事、逆に自分の事に傾倒しすぎる事で発生する歪み、ズレを生まない生活サイクルだ。

 

そこに一人割り込むのは少し申し訳のない事で最初は憚られたが、絢辻はその度いつも温かく有人を向かい入れてくれた。

 

「密会」のような感じがして正直妙な高揚感もあった。年頃の男の子はそんなもんだ。

 

―・・居た。

 

「最終日」は屋上だった。

 

 

 

らららら・・ららら・・ラララ・・♪ラン、ラン、ラン、ランララ・・。

 

 

 

絢辻は今日、どうやら屋上でカンぺを使って英熟語を覚えた後、何か小説を呼んでいたらしい。

 

―・・・。

 

好天の風の気持ちいい日に長く、綺麗な黒髪を押さえながら足を崩して座り、一人小説を読む優等生の美しい少女。口ずさむは最近紅茶のCMの挿入歌になった曲―

中々絵になる光景である。

 

「・・こんにちは」

 

有人は屋上に吹く風に箒頭を押さえる必要もなく話しかける。彼の生まれつきの剛毛はこの程度ではへこたれない。

 

「・・源君。こんにちは」

 

「はい・・コイツでラスト。お手伝い有難うございました」

 

笑って絢辻がお気に入りだと言うミルクティーのペットボトルを渡す。

 

「お手伝いだなんて・・とんでもない。こちらこそ有難うございました」

 

「あーあ。リッチな毎日ジュースも今日でおしまいか・・明日からまた家のお茶持参だよ・・」

 

「あら。それが一番よ。健康の為とお財布の為には・・ね!」

 

そう言って絢辻は最後の紅茶の封を開け、ほんの少し口をつける。すると少し残念そうに笑ってこう言った。

 

「ん~・・でもこれが味わえないのはやっぱり少し残念かな・・悔しいけど美味しい」

 

「タダだから尚更なんだよね。じゃあ・・俺はこれで。お邪魔しました」

 

「・・え。もう行っちゃうの?」

 

「折角の休み時間だし、ゆっくり休んでね。色々忙しいんでしょ?」

 

創設祭の用意の本格化と中間試験期間、彼女一人、自分の事だけなら問題は無いが、彼女に縋りつきたい人間はゴマンといる。今日も休み時間の彼女の席の周りは満員御礼。

今、昼休みに彼女はようやく解放されて休んでいる状況を有人なりに気遣ったつもりだったが、当の絢辻が有人を呼びとめた。

 

「・・。待って?お祝いしましょうよ。そうね・・めでたく『ジュース達が無くなりました』会とか?」

 

「それめでたくないなぁ。・・むしろ『無くなっちゃった残念会』じゃない?」

 

「んふふっ♪・・そうかもね。まぁとりあえず・・乾杯」

 

「・・乾杯。御馳走様でした」

 

「お粗末さまでした」

 

軽く傾けた味気のないペットボトルが触れ合う音、そして有人の炭酸飲料の炭酸の抜ける音が好天の蒼白い空へ吸い込まれていく。

 

 

 

 

「じゃあ『be supposed to do』は?」

 

「~する事になっている」

 

「正解。じゃあ『do away with』は?」

 

「~を取り除く」

 

「・・正解」

 

絢辻特製の熟語カンぺをランダムに五〇程尋ねてみたが全く絢辻は言い淀むことなく全て言い当てた。

 

「お見事」

 

「ううん。そのカンぺは基本中の基本のカンぺだから・・」

 

「基本中の基本」とは言うものの・・恐らく今有人が持つ絢辻の五つのカンぺで軽く700~800問はある。そこから全くのランダムで50を選んだが絢辻は全く考え込む事は無かった。恐らく残り750問を聞いても絢辻は一問も間違えず、ノータイムで答えるだろう。そんな確信があった。

 

「俺も勉強しないとね・・」

 

「でも・・源君は成績決して悪くないって印象があるけど・・」

 

「定期テストはね。在る程度担当の先生の傾向さえ解ればヤマはそれなりに当たるよ。読みやすい人多いし」

 

「へぇ・・器用ね」

 

「ありがと。でも、だから地力は全然。直に勝った事無いしね」

 

「『直』って・・国枝君のこと?」

 

「うん」

 

有人は50位から60位、国枝は校内で定期試験20~30位の間を行き来している。

片や絢辻は1ケタ代。ベスト5もザラである。地力は雲泥の差だろう。50と1ケタ、数字には表れないそれ以上の差があるはず。

 

「・・でも」

 

「ん?」

 

「源君なんか全然悔しく無さそう」

 

「うん・・むしろ嬉しいかな。俺の自慢の幼馴染だもん」

 

翳りのない笑顔でそう言った。有人の本心だった。

 

「・・・」

 

その笑顔を何故か絢辻は真顔でじいっと見て少し黙っていた。有人が初めて彼女の姉―縁と出逢った日、自宅の絢辻の部屋の窓から河川敷に居る有人を見ていた時と同じような何かをシャットアウトしたような表情である。

 

「・・絢辻さん?」

 

「・・・うん?」

 

その表情を一瞬有人が知覚した後、あまりに自然に絢辻は「いつもの」絢辻に戻った。

 

「・・・」

 

―あれ?

 

「どうかしたの?源君」

 

絢辻の異変に対して先に疑問を持った有人の方が逆に「どうしたの」と聞かれるという奇妙な構図になった。

 

「・・いや、何でも」

 

―・・・?気のせいかな。

 

「そう?さて・・そろそろ教室に戻りましょうか」

 

そう言って立ち上がった絢辻の僅かな衣擦れの音と共にふぁさりと髪の毛が揺れる。体のほぼ全てのパーツに置いて有人より一回り小さい絢辻が唯一上回る箇所だ。それがさらさらと心地よい風でなびく。一本一本がまるで統率された生き物の群れのように乱れることなく順に流れていった。

 

―・・・。

 

今度はそれを見ていた有人が無表情になった。無表情になって何か推し量れぬような思考を張り巡らしていたような絢辻とは異なり、彼は完全に思考が止まり、枷が外れていた。ただバカみたいにその時の情動をあまりにも直情の過ぎる次の言葉にして発してしまった。

 

 

「・・・綺麗」

 

 

「え・・・?」

 

流石の絢辻もそのいきなりの言葉に戸惑ったようだった。その絢辻の反応に有人も気を取り戻して思わず口を塞いだ。

 

「うわっ、とととと・・ご、ごめん・・」

 

「・・!あ、あははっ」

 

自分の意思に反して他人の目を奪った自分の髪の毛を諌めるように絢辻は自分の髪の毛をあくせくと整えていた。「か、髪、髪の毛ね。ご、ごめんね。ウチの子が。ははっ!」と、でも言いたげに

 

「あ、ありがとう」

 

「・・前から思ってたんだけど絢辻さんの髪ってすっごい綺麗だよね」

 

「そ、そうかな?たまにケアしている程度よ?」

 

「へぇ・・そうなんだ」

 

そういえば先日出会った彼女の姉―縁も誰もが羨む美しい黒髪を持っていた。本人達自身のケア、努力もあるだろうが、正直素質の面が大きいだろう。男なら「凄い姉妹」だと喜び、女なら「血筋」って理不尽よねぇと愚痴の一言になってやっかみや嫉妬より諦めが先行する。そんな髪の毛だ。

 

「あのさ・・絢辻さん?怒らないで、・・聞いてくれる?」

 

「え?」

 

「・・触らせてもらっても・・・いいかな?」

 

「・・・髪を?」

 

「うん」

 

「・・・どうぞ。すこしだけなら」

 

女の子にとって大事な大事な髪の毛である。それを異性に触らせるという事は彼女にとってそれなりに有人という少年は信用が在る、という事だ。しかし勢いに任せて言った言葉がいざあっさりと通されると有人の中で現実味が失われていった。

 

―うわっ。凄い緊張する・・。

 

ゆっくりと延ばす手もまるで自分の手じゃ無いみたいだった。だが自分の手であって自分の手じゃ無いような現在の有人の指先から感じた感触は想像を超えていた。

 

―・・・!何、これ!?

 

有人は正直この言葉を口から出さないようにするのに苦労した。あまりに失礼なその単語が真っ先に浮かんだ自分の語彙力を呪う。あまりにいきなりの無茶な要求の上、さらに内心とは言えその稚拙な感想をした自分に罪悪感すら覚えた。

 

「・・どう・・かな?」

 

長い髪を伝って彼女の僅かな鼓動の乱れが届いてきそうだ。が、それにも増して自分の鼓動が有人は煩くて仕方なかった。

 

「・・」

 

―・・「どう」と言われましても。・・お願いだから言葉を取り繕う時間をください。

 

手櫛でも全く指に絡みつきそうもないまるで絹のような髪の毛である。彼女の体の一部であるにもかかわらず、温度は初冬の外気温に合わせてひんやりとしていたため、まるで澄んだ冷たい清流の川の水みたいに有人の掌を伝う。

 

 

「・・正直」

 

「・・?」

 

 

「・・ずっと触っていたいくらい」

 

 

漸く言った有人のその言葉は「取り繕えた」とはお世辞にも言えない独特の湿り気があった。

 

「え!?は、はい!おしまい!!」

 

「もうお預け!」とでも言いたげに絢辻は一歩後ずさって有人の掌から毛先をするりと解放する。

 

「・・あら」

 

「・・『あら』じゃないです。そんな風に言われると恥ずかしいわ」

 

「う・・ごめん」

 

「ふふ・・褒めちぎるのは程ほどにね?『褒める』っていうのは適度だからこそ意味があるんだから」

 

「・・ふーん。じゃあ今のが『適度』かな」

 

少し調子を取り戻して有人は何時ものように笑った。

 

「こーら。いい加減にしなさい。さ。教室に戻りましょ」

 

恥ずかしさを押し殺すように絢辻は足早に先を行く。一瞬取り残された有人もすぐにそれに続く。お互いの手には残り少なくなった紅茶、炭酸飲料が残っていた。

 

その日以降、当然ながら有人は彼女を探す口実も話す口実も無くなった。

 

でも同時必要も無くなっていた。

 

 

 

ただ少年と少女、お互いに一つの新しく生まれた「想い」を持って。

 

 

 

 

 

 

―君と。

 

 

 

 

 

―貴方と。

 

 

 

 

 

 

 

話がしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




















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ルートT 三章 有人やります 前











4 有人やります 前

 

 

「最終日」から数日後のことである。

 

「今日もすまないわね~源君」

 

「いいえ」

 

担任の高橋のパシリを快く引き受けた源は今日も無給で彼女の愚痴を聞く。

 

と、言っても流石に高橋もただでこき使う様子は無かった。最近、現代文の授業中の中間試験問題の出題範囲、問題の傾向のヒントを小出しながらもいつも以上にしてくれている。

どうやら今回は漢字、読みの配分、配点を増やすつもりらしい。

 

「『読める』、『書ける』、両方出来ないと漢字は『知っている』とは言えないわ。そして欲を言えば漢字の正しい意味もちゃんと辞書で調べて理解しておくこと!文章読解の助けになってくれるはず」

 

恐らく今回は最初か最後の二十問ぐらい漢字の読み、書きに回すんじゃないだろうか。

要するに知ってさえすれば時間も手間もかからず、配点が一問一点とすれば20点以上も稼げるということである。

テストを「作る」側として作るのも採点も楽ということから手抜きしたい感情も読み取れたのだが創設祭と日々の教師の務めの間で板挟みに合って疲れている彼女を責めるのは酷である。

 

「どうですか?創設祭の用意の進捗状況は?」

 

有人の問いかけにう~んと高橋は眉をしかめ、顎に手を添える。まだまだ懸念点は尽きないようだ。

 

「ん~・・・正直言っちゃうと芳しくないわね。実行委員の中でも意見が分かれてきてるのよ。生徒主導で本格的にするのか、それとも時間の都合に合わせて外注するのか、とかのね」

 

「その決定で時間喰っちゃいますね・・」

 

「ただそれも絢辻さんのおかげで何とかなりそう。昨日準備作業のスケジュールプランを大幅に見直した修正版を用意してくれてね?外注派も納得の内容で今年も生徒主導で何とかやっていけそうな感じにしてくれたわ」

 

「相変わらず凄いな・・絢辻さん」

 

ええ、全く頭が下がる思いだわ、と高橋は自嘲気味に苦笑いした後、

 

「でも・・少し心配だわ。ここまで絢辻さんにおんぶに抱っこじゃいくら絢辻さんでもね・・」

 

こう言った。その高橋の予想は当たっていた。

 

 

 

 

絢辻が倒れ、早退したのをクラスメイトの棚町 薫から有人が聞いたのはその日の昼休みのことだった。

 

 

「やっぱり無理してたのね~。こう過密スケジュールじゃ倒れたくもなるって」

 

「中間試験前の上に創設祭の実行委員長、クラス委員長の仕事、おまけに他人の勉強の相談もしてたからな・・絢辻さん」

 

「プラス朝一の体育だったしね。倒れたくなるのも解るわ・・私も・・ふぁ・・眠い」

 

「お前はまだ余裕があるね・・」

 

棚町と国枝は心配そうにぽっかりと空いた絢辻の席を見てそう言った。

 

無遅刻、無早退、無欠席。

 

彼女に何一つ欠けていなかったものが年末を控えたこの時期にとうとう途絶える。

 

「本人は『軽い貧血』だって大したことなさそうに言ってたけど・・強がってんのがみえみえだったぜ。あれぜってぇ熱ある。・・大事をとって明日は休むだろうな。まず間違いなく」

 

絢辻が倒れたその場にたまたま居合わせたらしい梅原も心配そうにそう呟く。

 

「自分の足で帰ったらしいけど・・大丈夫なの?絢辻さん」

 

「女子の何人か家にまで送ろうとしたらしいんだけどよ。断ったらしいわ。水臭ぇよな・・」

 

「・・・」

 

「有人?」

 

珍しく終始無言だった有人に彼の親友―国枝が話しかける。この手の話題に反応しない彼が不思議だったようだ。

 

―・・・。

 

有人には何となく原因は解った。恐らく絢辻は誰かに送ってもらう事で「あの姉」にその誰かを会わせることを避けたかったのだろう。

 

有人の予想は正解である。

 

大学生である縁の生活サイクルはやや特殊だ。

そしてこの日は絢辻にとってタイミングが悪い事に彼女の大学の午前中の講義が終わった時点で姉の縁は下校できる日であった。彼女が帰宅しており、またあの河川敷周辺でうろついていれば先日の有人のように鉢合わせする可能性はある。姉が何処かで道草、サークル活動でもしていれば話は別だが確証は存在しない。そして事実、

 

「おかえり~つかさちゃん。今日は随分早いのね~?」

 

「・・ただいま」

 

いつも通り能天気に縁は早退した絢辻を午後一時ごろに自宅で出迎えている。絢辻は「大事をとって良かった」と内心ホッと胸をなでおろしていた。

 

 

再び2-A教室―

 

「・・梅原?」

 

「おお。なんでぇ大将?」

 

「・・絢辻さんの自宅ってどこか解らないかな?」

 

「・・・!・・任せとけ。調べてみらぁ」

 

「うん。ありがと」

 

「有人・・」

 

「ん?」

 

「行くからにゃあ差し入れが必要だな・・少ないけど持ってけ」

 

国枝の机の上に一枚の五百円玉がピシリと置かれた。普段はポーカーフェイスの国枝がややクスリと笑う。

 

「・・うん、ま。しゃーないわね」

 

国枝の意図を察し、棚町もそう答え、再び同じ音が机の上に響く。

 

「よっし!けーこにも出させるか!」

 

「無理強いはやめろよ」と、国枝が棚町を諌めたが田中は話を聞くと喜んで出資してくれた。おまけに字が達筆な彼女は授業のノートをまとめたものまで後日貸してくれた。

 

「絢辻さんのノートに比べたらお粗末なものだけどね」

 

そして

 

「くっ・・なけなしの五百円、ゲン持ってけぇ!」

 

杉内。

 

「このクラスで絢辻さんのお世話になっていない人って居ないから」

 

御崎。

 

・・3500円。充分だ。

簡素な花に、果物か栄養ドリンクでも付けて少しお釣りがくるだろう。

 

そして翌日、予想通り絢辻は学校を休んだ。その日の下校時間―

 

「よし!最後に激励の意味で私のパンチを『お見舞い』してやろうかな!」

 

出陣の有人を前にして棚町は愉快そうに意味不明な発言をして拳にはぁっと息を吹きかける。何時も思うがこの動作って何の意味があるのか、と有人は思う。しかし要点はそこではない。

 

「え・・?棚町さん・・『それ』俺にするの?」

 

「だって病人の絢辻さんにするわけにはいかないでしょ?なら今からお見舞いに行くみなもっちに『お見舞い』しておくしか無いんじゃない?」

 

も、もう意味が解らない。

 

有人の混乱をよそに棚町は意気揚々と右肩をぐるぐる回しだす。

 

「いくわよ?みなもっち~目ぇつぶれ~~歯ぁ~~食いしばれ~~ん~・・・」

 

ぶおっ!

 

「・・やっぱり俺か」

 

「チッ」

 

すんでのところで切れのいい右ストレートをかわした国枝に本気の舌打ちをかまして悔しそうに棚町は眉を歪めた。

 

「お、お後がよろしい様で」

 

梅原がとりあえず場を収める。最後に夫婦漫才を披露して友人達は有人を温かく見送ってくれた。

 

「・・いってきます」

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・この住所?」

 

有人は先日、大量のジュース、そして今日はお見舞いの品でふらつく愛車を止め、梅原か

ら手渡された絢辻の現住所を書いた地図を手に周りを見回した。

中々詳細な地図であり、梅原がこの情報を何処で入手したのかが気になる所である。

 

地図で判断する限り吉備東の河川敷付近だということは解っていた。そもそもあの場所で絢辻姉妹の二人に同時に遭遇する以上、家は近所と考えるのが自然。だったが・・

 

―この前の場所とモロ被りじゃん。

 

電信柱に書かれた現住所を見る。すると先日絢辻の姉、縁と遭遇した場所付近に躍り出た。

思った以上にこの近所に二人は住んでいたようだ。

 

―また今日もいたりして・・。

 

そんな些細な不安と期待を持って丘を越えると何時もの吉備東の河川敷の姿が見える。

今日はそこには縁の姿は無かった。

 

「ま、そうだよね」

 

ワン!

 

「うおっ!」

 

背後からやや太めの大きな犬の吠える声が響いたと思うと元気いっぱいの見覚えのあるゴールデンレトリーバーがはっはと機嫌よさそうに有人の周りを駆けていく。

 

「おお。お前か」

 

 

「あー。あなた・・つうや君?」

 

 

「え・・」

 

―???通訳?

 

 

犬の登場のインパクトを一瞬でかき消す更に印象深い声が背後より響いた。振り返ると相変わらず年齢不相応なほどの幼ない笑顔でこちらに歩いてくる美しい女性が居た。

 

「やっぱりつうや君だ。こんにちは」

 

―・・「つうや君」?

 

名前は覚えてもらえてない様だ。絢辻の姉は有人を「犬の通訳役」とインプットし、結果彼の名前を「つうや君」に改竄したらしい。だが何とも「らしい」超理論である。

 

―まぁ・・「ゆうと」の「う」と名前の響きが徐々に近くなっているので良しとしよう。

 

独特の妥協案を展開して有人は話を進めようとする。何にしてもありがたい。当人の家族に会えたなら話が早いからだ。

 

「どうしたの?今日は・・?ひょっとして遊びに来てくれたのかな?」

 

「あ、いえ。今日はその・・」

 

有人はちらりと自分の愛車を見る。古いが手入れの行き届いた彼の愛車のロードバイクに綺麗な花束と・・何故かでんとドでかい果物籠がある。前日までの彼らの友人のカンパ予算ではこれ程の物は買えないはずであるが実は今日、「絢辻の家に見舞いに行くつもりなんです」と担任の高橋に言った所、思いがけない副収入があった。彼女はそっと有人のポケットに五千円札を忍ばせたのである。

 

「・・・バレたら問題だからサ。黙っていてね?」

 

気は良いが少々一生徒に借りを作りすぎではないか?と、内心有人は眼前の愛すべき担任に苦笑いした。教師としては褒められた行為ではない。が、その予想外のワイロのおかげで見舞いの品の劇的なクオリティの向上につながった。お金ってほ~んとうにイイもんですねぇ。

 

 

「綺麗な花束・・ひょっとしてつかさちゃんに用事かな?」

 

「はい。今日お休みだったので絢辻さんの様子を見にきたんですけど・・どうですか?」

 

「うーん・・どうなんだろ?つかさちゃんってあんまり喋らないからなぁ」

 

「・・はぁ」

 

「やっぱり喋ってくれないとやっぱり良く解らないわよねぇ?そう思わない?」

 

そう言って無邪気に笑う縁の顔が有人には初めて少し酷薄なように見えた。

 

「・・・。あの・・それじゃあ縁さん。これ・・花束とちょっとしたつまらない物なんですがお見舞いの品です。絢辻さんに渡してもらえませんか?」

 

とりあえず詳しい症状が解らない上、アポを取って無い以上直接会うのも気が引けた。余計な気を遣わせてしまって無理をする絢辻の姿が目に浮かぶ。快方に向かっているなら少しだけ顔を見せてもよかったかもしれないが流石に闘病真っ最中の顔は絢辻も見せたくないだろう。

 

「あれ?もう言っちゃうの?折角来てくれたんだし、つかさちゃんに会ってあげてよ」

 

「え。でも寝ていたら悪いですし・・」

 

「大丈夫。それに具合は本人に聞くのが一番でしょ?」

 

「それは・・そうですけど」

 

「ほら、こっちよ。ついてきて!」

 

強引な人である。もともと有人はこのどデカイ果物籠は自ら玄関先にまでは運ぶつもりだったので同じ事なのだが。

 

「ほらほら早く!つうや君!」

 

「・・『ゆうと』です」

 

「あれ・・?御免なさい。ゆうや君」

 

「・・」

 

―やった・・!後一文字だ!頑張れオレ!

 

有人の妥協は続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

・・二分後。

 

「・・う~ん」

 

「・・?どうかしました?」

 

「・・ここ何処?・・ゆうじ君」

 

「・・え?」

 

 

 

 

 

 

 

「ゆうた君ここよ。このお部屋」

 

―・・おしい。だが「タ行」まで来た。もう少しだ。

 

「・・お二人はマンション住まいだったんですね」

 

河川敷横に立ち並んだマンション群の中では一番新しい棟の一室に絢辻の部屋はあった。セキュリティの整ったオートロック仕様の高級マンションである。訪問客は該当する部屋番号の呼び鈴を鳴らし、居住者が応答して承認しないとエントランスにも入れない仕様である。

 

「あら・・つかさちゃんから聞いてなかったかしら?」

 

「・・ええ。まぁ」

 

―・・コレは流石に本人から聞かされないと解んないよな。

 

恐らく梅原の情報源である何者か(ひょっとしたら梅原本人)も流石に情報入手の限界があったようだ。

 

「え~~と。はい。どうぞ!」

 

鍵を開け、縁は微笑みながら有人を招き入れてくれた。

 

「お邪魔します・・」

 

清潔で最低限の物しかない玄関からは嫌みのない芳香剤の香りがした。細部にも清掃が行き届いており、いかにも「絢辻の家」という感じがする。

 

「はい♪いらっしゃい」

 

「・・すいません。すぐお暇しますから」

 

「気にしないで。ごゆっくり~。二人じゃこの部屋広くて淋しいからお客さんなんて新鮮で嬉しいの」

 

「そうですか。・・・ん?・・二人?」

 

 

「ええ。私とつかさちゃんここで二人暮らししてるの」

 

 

「え!?」

 

「あれぇ・・?つかさちゃんからそれも聞いてな~い?ここね?私の大学から近い下宿先なの。つかさちゃんの通う吉備東高校にも近いからつかさちゃんも高校一年生の時からこっちに来てるんだよ」

 

「えー・・」

 

―・・な、尚更入ったらヤバくないか?・・ん?ちょっと待てよ?このマンションから近い大学?

 

「あの・・ひょっとして縁さんって・・陽泉大学の学生さんですか?」

 

「ええ!そうよ!知っていてくれて嬉しいな」

 

―・・嘘。

 

 

陽泉大学。

吉備東駅から電車で二つの所にある大学で平均偏差値63以上。倍率は毎年7倍を超える難関私立校である。人は見かけによらない。いや見かけと言うかキャラと言うか。

 

絢辻の姉→意外なフリーダムな姉→その姉の下宿先で妹と同居→実は高学歴のエリート女子大学生。

 

その衝撃的事実コンボに有人は流石に辟易した。もう何を信じたらいいのだろうか?

 

「どうしたの?ゆうき君?遠慮しないで入った入った♪」

 

「・・・」

 

―また遠ざかった・・。色んな意味で貴方が遠いです。縁さん。

 

 

 

しかしこの姉。コレだけではとまらない。有人に絢辻の自室の手前まで案内した所でとんでもない事を言いだした。

 

「じゃあね~ごゆっくり~」

 

「え・・ゆ、縁さんどこへ?」

 

「何処へって・・ウルのとこ戻るのよ?」

 

「ウル・・?」

 

「そう!あの子の名前よ。この前お水飲ませた時おめめがうるうるしてたからウル。いい名前でしょ?」

 

―わー・・名前つけちゃったよこの人。

 

「遠慮なんてしなくていいのよ」

 

「いや・・そういう意味じゃ無くて・・女の子の部屋に本人に無断で男が入るのは、ですね・・?せめて一言縁さんから予め一声・・断って頂ければ・・」

 

「だってつかさちゃん寝ちゃってるし・・起こしちゃ悪いわ」

 

「そ、それはそうなんですけどね!?」

 

―いやいや・・起こしちゃ悪いって先言ったの俺ですよ。だからお土産だけ渡そうとしたのに・・。

 

―ダメだ。コレを言ったところで彼女が覚えている可能性は著しく低い。何故陽泉に受かれたのだろうこの人。さては裏口か?

 

「じゃあ大丈夫!それじゃあ改めてごゆっくり~」

 

有人は静まり返った絢辻の部屋の前に本当に一人取り残された。

目の前の「つかさちゃんのお部屋❤」と書かれたネームプレートから確実にこの部屋はあの「絢辻 詞」の部屋だと言う事を再認識する。

 

「・・・」

 

これはエラいことになりましたよ。

 

―と、とりあえず。深呼吸・・んで・・。

 

コンコン・・

 

有人は絢辻の部屋のドアのノックを叩く。女性の部屋のドアの前に男が無言で仁王立ちしてハァハァしてるのは流石に何かと問題がある。まずはせめて自分の存在を相手に知って貰わないといけない。

 

「あの・・俺です。源です。いきなり押しかけてごめん・・具合が心配でちょっと顔出しに来たんですけど・・」

 

 

―え!?み、源君?な、なんで!?ちょっ・・ちょっと待ってね!まだ入っちゃだめよ!?

 

 

正直こんな反応を有人は期待した。だが・・

 

し~ん

 

―ひぃ。

 

無言。静寂は途切れない。内心呻くような思いで有人は

 

「す、すいません。ちょ~っっと失礼しますね」

 

セリフに合わせ、ゆ~っっくりドアを開ける。

相変わらず返事、物音は無いものの、ドアを開けた瞬間に人の気配を感じ、耳を澄ませば

微かな寝息が聞こえた。改めて人がいる気配を感じると妙に自分の現状が現実感を伴って顕れてくる。緊張と罪悪感と・・ほんの少しの高揚感。

 

事実、校内でもトップクラスの美人で、反面ある意味最も謎が多い少女の部屋に有人は潜伏しているのである。しかも無断で。

 

「・・」

 

しかし・・そのドアの先に広がった空間は何時もの彼女のイメージ通り隙のない印象だ。

空調も適度に効き、清潔な香りで満たされた室内に定規で整えたかのような棚の教材や本の整頓。あらかじめ自分で置く場所を常に統一しているのだろう。機能的で邪魔にならない配置の家具。女の子らしさを感じるぬいぐるみの位置さえ計算されているかのように感じた。

これを見ると有人は緊張を通り越して、最早感心した。同時呆れた様な小さな溜息をつくと更に感情が落ち着く。自分の部屋すらここまで「調律」できる少女。普段学校で感じさせる印象を自室でも損わない彼女の「らしさ」に舌を巻いた。

その部屋の主本人の姿は未だ確認できない。ベッドの上の掛け布団の少し丸みを帯びた膨らみがやや控えめに上下するだけである。

 

・・すと

 

衣擦れの音も気遣いながらゆっくりと座り、有人は楽な姿勢に変えた。自分がここまで冷静に居られるとは思っていなかった。

 

「・・・帰るか」

 

冷えた感情は合理的な思考に有人を導く。少し周りを見回すと小さなメモ用紙と鉛筆が勉強机の上に光っていた。鉛筆とメモ用紙一枚を拝借し、部屋の中心の曇りのない硝子テーブルの上にお土産の果物籠と花束を置いてサラサラと有人は書置きを残す。

図抜けて達筆とは言えないが味のある字を彼は書く。

 

―驚かせて御免なさい。起こすのも悪いのでお見舞いの品だけおいていきます。無理をせずゆっくり休んで体調を戻して下さいね。 高橋先生もクラスの皆も待っています。勿論俺もです。    源

 

―・・こんなもんかな?

 

他人に書置きなどした事のない有人は自分の文章に少し首をかしげながらもこれ以上考えてもいい文章など出るまいと割り切り、メモ用紙を二つ折りにして見舞いの品の横に添えようと左手を伸ばし・・た時だった。

 

 

「う・・・ん」

 

 

「!!」

 

―げ。

 

控え目な寝返りと共に僅かに上布団から絢辻の顔がのぞく。途端に有人を取り囲む状況は混沌とした。

そうだ。絢辻はいるのだ。ここに。間抜けな実感が遅まきながら有人の体を襲う。

 

「・・すぅ・・」

 

―うっ、わ!やばいやばい、・・ヤバイって!!

 

そして何と言ってもその無防備な絢辻の寝顔が有人の硬直を増長した。流石の彼女も寝顔を「調律」する事は困難だったか。体調がすぐれない故にやや苦しそうに曲がる眉、やや上気した頬は色白の彼女にしては赤い。

 

端的に言うと色気がヤバい。苛めたくなるような色香だ。

 

「・・・!!」

 

普段の彼女と同じように一分の隙を見せない彼女の部屋とは対称的な無垢な表情をした状態の絢辻に有人は絶句し、先程までとは比にならない罪悪感が襲ってきた。

全身の毛が逆立つような感覚と手を伸ばしたまま硬直した有人の腕は痺れを伴いだしたが一向に動こうとしない。今何の行動をしようとも絢辻を起こしてしまうきっかけを与えてしまいそうだからだ。

 

「・・・」

 

とりあえず絢辻の様子を注意深く見る。目は閉じているものの絢辻の視線の方向は確実に有人を捉える角度だ。目を開けられたら文字通り目も当てられない。この状況で見つめられて眼を逸らさない自信は無い。

 

とりあえずそのまま数秒ほど眺めて何の反応もないので絢辻の意識は依然無い事が解る。まずはメモを置こうと痺れた腕の先をもうひと頑張りさせる。杞憂だとしても置き手紙を置く際の物音にも細心の注意を払った。

 

カサリ

 

「っと・・!」

 

自分が思っていた以上に高い音を置き手紙が出したため、有人は一瞬ひやっとしたが幸いにも絢辻には何の反応もない。事実この音程度で起きるなら起こさないようにすること自体ほぼ無意味。それを実感して開き直った有人は足早に去る事にした。むしろ時間をかけてここに長く居座る方が遥かにリスキーに感じたのである。

 

「じゃあ・・お大事に~」

 

手紙を置く音に比べたらよっぽどに危険なその言葉をかけても絢辻は反応しなかった。

それに安心とちょっとした残念さを感じて苦笑いしながら有人は最早気兼ねなく部屋を後にしようとドアを開けた―

 

瞬間だった。

 

 

 

ばたん!!

 

 

玄関のドアが勢いよく空き、

 

「言い忘れてた!『ゆうと』くーん?鍵は閉めなくていいからね?それじゃ!」

 

良く通る澄んだ無邪気な声が秒速360mで廊下を伝い、有人が開けたドアの隙間をくぐって密室状態の絢辻の部屋で行き先を失い、共鳴する。

 

 

―・・あ。やった。縁さんやっと俺の名前覚えてくれた・・。

 

 

・・悲しい少年の

 

 

現実逃避だった。

 

 

 

「う、うん・・・?」

 

 

掛け布団から覗く絢辻の瞳が伏せ目がちに薄く開き、

 

 

「・・・?・・・!?」

 

 

次の瞬間には爛々と輝き、

 

 

「・・・!!??」

 

 

次の瞬間にはカッと見開いて、瞳孔が収縮していた。

 

 

 

 

 



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ルートT 三章 有人やります 後








―あ・・、あ、あ、あ・・見られた・・。あたしの寝顔・・。

 

爽やかな絢辻のお目覚めからしばしの時間が経ち、有人は銃口を突き付けられた人質の様に両手をあげて眼を閉じ、すまなさそうに正座をしながら―

 

「本当にすいません・・」

 

さっきから繰り返しそう言うばかりだった。

 

「あ、いや・・その、私・・とりあえず顔洗ってくるから・・ちょ、ちょっと・・ごめんねっ!!」

 

大体の事情は有人と部屋の状況、直前の乱入した姉の発した言葉から聡明な絢辻妹はすぐ察しはした。が、不覚にも即整理、順応が出来なかった。まぁ寝起きプラス体調不良の体には酷すぎるサプライズである。だが、それをさっぴいても

 

―うう・・。痴漢にでも在っちゃったかのように喚き、騒ぎたてたのは流石に気の毒だったかな・・。

 

洗面所でとりあえずぱしゃりと顔を洗い、更に意識の覚醒と頭の中で状況の整理が済ませる。

 

―よ、よし。とりあえず落ち着いた・・戻りましょう。

 

絢辻はとりあえず自分の部屋に戻り、部屋を出た時と変わらず反省状態で眼を閉じた有人に向けて

 

「・・御待たせ・・目ぇ開けていいよ」

 

最後にもう一度「すいませんでした」と小声で呟きながら、おずおずと有人は眼を開ける、が―

 

「うん・・あ、あれ?」

 

「うん・・?どうかした?」

 

「右目が見えない・・」

 

「ええ!?」

 

―ぬ、ぬいぐるみぶつけた所!?し、失明させちゃった!?

 

先程、絢辻は反射的に枕元にあったぬいぐるみを惜しげもなく有人の顔面に全弾投げつけ、その内の二つのウサギとカメは有人の顔面を的確に捉えていた。この少女、運動神経が良い上に球技も強い。始球式にノーバン、ストライク投球をして「おお~っ」と観客をざわつかせるタイプの女性である。しかし、それが災いして有人を「死視球」させたとしたらホントに笑えない。

 

 

 

「右目のコンタクト・・ずれてるや」

 

 

 

―あ、・・あ、あ、あ。

 

・・・ずる。

 

拍子抜けするオチに流石の絢辻も安心の反面、内心少しずっこける。

 

―そう言えば源君、コンタクトだっけ・・。

 

 

 

 

 

「・・よっし。大丈夫!もう見えるよ」

 

「・・・」

 

―「見える」・・。・・私着の身着のままだし喜んでいいのか正直微妙なとこだけど・・とりあえずよかったわ・・。

 

そう思いながら早々に再び絢辻は布団にもぐりこみ、恥ずかしそうに鼻から上だけひょっこり出した。

 

「本当にゴメン・・その何て言うか・・」

 

「どうせ・・あの人でしょ」

 

絢辻は掛け布団の上から目線だけじろりと玄関の方向を恨めしそうに見る。有人は否定も肯定もせず黙りこむ。

 

「・・」

 

―まぁそうなんだけど・・。

 

正直、冷静に考えてみると色々とやり様があったのは事実なので縁だけを責められない、と言うのが有人の本音である。はっきり言うと有人は好奇心に負けた面が強い。

 

絢辻もそれを理解した上、こちら側もぬいぐるみを初速100キロ近い鉄砲肩で射出し、有人を撃墜させる以外にも他にやり様があったのではないかと取りあえず反省する。

 

 

「・・こっちも大声出したり取り乱して・・こちらこそ御免なさい」

 

「いや・・仕方ないって・・普通そうなるよね」

 

「・・うん。流石に驚いた。正直中々ありえません・・」

 

確かに。

 

「・・・」

 

ハッキリとした絢辻の物言いに露骨に有人またがっくり。

 

「・・あ。でもそういう意味だけじゃ無くて・・まさか源君がお見舞いに来てくれるなんて思っても無かったから・・」

 

これはフォローの意味を込めた絢辻の言葉でもあるのだが、一方で有人と、その周りの状況を考慮に入れればどこか、「嬉しい」という気持ちも徐々に湧きあがっている事も確かではあった。

 

「・・源君?ご用件は?・・っていうのは野暮かな?」

 

絢辻は漸く少しイタズラに笑って顔を傾ける。もうこれぐらいにしたげよう、と。

 

「・・あ。はい。つまらないものだけどお見舞いです。気を取り直してお見舞いします。っていうか・・させて下さい」

 

有人は言葉の通り、気を取り直した。ここまできたらちゃんとお見舞いしましょう。

 

 

「ふふっ・・どうぞ?」

 

 

―・・ありがとう。

 

絢辻は心の中、そして掛け布団の中で唇だけでそう象り、礼を言った。驚いたのは確かだ。でも本当に・・悪くない気分だ。

 

 

 

 

 

「絢辻さん。どう?体調は」

 

「うん。峠は越したみたいで今は随分楽かな・・心配してくれてありがとう」

 

流石に発熱による体力の消耗の結果、何時もの語気に柔らかさのなかにも彼女特有の自信、力強さに満ちた感は無い。が、それでも受け答えはキッチリしており、体長が快方に向かっている事は嘘ではない事が解る。

まぁ今までのようにすぐに普段通りの彼女のパフォーマンスがだせるほど無理が出来る状態ではなさそうだが・・とりあえずそんな懸念を押し隠して有人は頷く。

 

「・・よかった。先生もクラスのみんなも心配してたから。その証拠にほら・・すごいでしょ?この果物籠」

 

「・・・。本当にね」

 

絢辻も硝子テーブルにでんと置かれたその異様な果物籠の巨大さに流石に慄いていた。

 

「いいパトロンがいてね。予想を遥かに超えた豪勢な見舞い品になりました・・」

 

「・・高橋先生でしょ?もう・・先生ったら」

 

「・・・。絢辻さん」

 

「ん?」

 

「台所の道具・・少し借りていい?」

 

 

 

 

 

「・・。器用なのね」

 

「兄貴が受験勉強中で。部屋に差し入れとか時々してるから」

 

果物籠から一つ林檎を取り出し、手慣れた手つきで源は台所から拝借した包丁と小さなまな板の上で器用に林檎を剥いている。中々手際がいい。普段頻繁に料理をするわけでは無いが彼自身少し興味があるらしい。

 

「・・よし!やった!成功~~♪」

 

「・・?どうしたの?」

 

「ほら。リンゴの皮。途切れることなく最後まで皮を剥ききると・・ほ~ら不思議。何故かS字になった」

 

子供のような事で無邪気に有人は微笑んだ。

 

「ぷ。ふふっ・・」

 

 

 

 

 

 

「源君ってお兄さんいるんだね?受験中ってことは・・一つ年上なのかしら?」

 

「あー・・ううん。兄貴一浪してるから二つ上。ちなみに話したと思うけど弟もいて、そいつは中二」

 

「ふうん・・そうなんだ・・源君って人懐っこいから何となく最初は一人っ子っていう印象あったんだけどな・・」

 

「・・よく言われる。・・よっし。出来た。召し上がれ」

 

掌で器用に割った林檎。そのやや歪な方を少し女性的なほど整えられた指先で手に取り、「貰っていいかな?」と有人は微笑んだ。こくりと頷いた絢辻に蜜の詰まった綺麗な林檎の半分を更に一口サイズにして台所から拝借した白い皿の上に乗せて手渡す。掌の体温が移らない様に手早く剥かれた林檎は中々綺麗だ。

 

―・・うん、中々綺麗ね。でもちょっと皮を厚く剥き過ぎかな?源君。八十点!

 

絢辻は内心、有人の林檎に及第点を与えると同時、彼女らしく延びしろを含めたやや辛目の採点を行う。それを察したのか自覚があったのか有人も苦笑いで応える。

 

「・・頂きます」

 

静かな空間に林檎を食べるときのサクサクとした音が響く。

 

「あ・・すりおろした方がよかった?」

 

「ううん。おいしいです」

 

 

 

十分後―

 

綺麗に完食された林檎の残った皮と芯をまな板の上に載せ、有人は立ち上がる。

風邪の峠は過ぎ、快方寄り。本人は食欲もあり、血色も戻りつつある。お見舞いとしては「十二分に目的を満たした」と有人は判断した。

 

 

「じゃあ・・そろそろ俺はこれで。いきなり押しかけて本当にゴメンね?びっくりさせちゃって・・」

 

「ううん。こちらこそ。こんななりの上、満足にお茶も出せないで・・」

 

「とんでもない。あ・・包丁とまな板ありがと。洗って・・何で拭いとけばいいかな?」

 

「あ、そこまでしなくてもいいわよ?適当に置いていってくれたら・・」

 

「包丁とまな板はいつも清潔にね」

 

「・・・。じゃあ・・クッキングシートが近くにあると思うからそれで拭いてくれるかな?」

 

「うん。じゃあ拝借するね。了解。それじゃあこれで。・・お大事に」

 

「あ・・せめて玄関まで」

 

「いいよ。気にしないで寝てて。・・鍵は閉められないけど大丈夫?」

 

「あ、うん。大丈夫。オートロックだから」

 

「あ。そっか?・・つかぬ事を聞くけどお姉さん・・閉め出されちゃったこと無い・・?」

 

「・・うん。何度も。数えきれないぐらいわんわんぴ~ぴ~泣きつかれたわ」

 

 

 

 

―つかさちゃ~~ん。またやっちゃた~~。入れて~~(>_<)

 

 

ドンドンドンドンドン!

 

 

―・・・。

 

 

 

 

「―ってな感じで」

 

「やっぱり・・」

 

「ええ。ふふっ・・」

 

「ははっ」

 

 

最後にそんな軽口を交わして有人は部屋を出ていった。残された絢辻は

 

「・・ふぅっ・・」

 

と、大きな溜息をつく。お見舞いに来てくれたと言う喜びはあった。が、流石に今回に関しては絢辻にとって気苦労、戸惑いの割合の方が多かったらしい。

 

―良かった・・洗い物干してなくて・・。

 

リアルな生活感を他人に見られなくて本当に良かったと絢辻は胸を撫で下ろした。気まずさに拍車がかかったに違いない。そしてこの状況を引き起こした姉―縁へのクレームを絢辻は熟考し始めた時―

 

「・・あ!絢辻さん」

 

唐突に部屋のドアをノックする音とともに廊下からくぐもった声がする。有人の声だ。

 

「は、はい!?どうしたの?」

 

「ゴメン。もう一回お邪魔していいかな?」

 

「???・・・・。どうぞ?」

 

 

 

 

「・・はいコレ。綺麗に洗ったのだから」

 

有人は水で冷やしたタオルを改めてぴとりと絢辻の額に置いてくれた。枕元で暖房によってすっかり温くなった洗面器の水を放置し、それと一緒に置きっぱなしだったタオルがいつの間にか消えていたのに絢辻は気付かなかった。

 

「あ、ありがとう・・」

 

「ホントなら氷とかで脇を冷やした方がいいんだけど・・流石に冷蔵庫を開ける気にはなれませんでした・・」

 

「・・。ふふ」

 

額をタオル。口元を掛け布団で覆い隠した絢辻から唯一覗く瞳が少し愉快そうに光る。

 

「・・。思ったより元気そうで良かった。じゃあ絢辻さん。また明日」

 

「・・うん。また明日」

 

絢辻の体調の回復をお互いに確信したかのように二人はそう言って別れる。

 

「・・・」

 

今度は少し名残惜しそうに絢辻は有人の去ったドアの方向を暫く見ていた。気苦労、戸惑いの割合より僅かに喜びの割合が今上回る。

 

 

 

 

 

―・・行っちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

「あれー?ゆうと君もう帰っちゃうの?」

 

一階のマンションのエントランスで部屋に戻ろうとしていたオートロック閉め出され常習犯―縁は有人とばったり顔を合わせた。

 

彼女の頭には葉っぱやら、草やらが所々につき、衣服も少し汚れている。正直、パトロール中の巡査辺りが今の彼女を見たら心配して話しかける位の状態ではないだろうか。

 

―ら、乱暴でもされたんですか!?

 

という感じに。だが、本人は自分の状態などどこ吹く風で相変わらずニコニコと笑っている。応えて有人も笑った。有人もこの縁という女性に大分馴れてしまったのだろう。

 

―「ゆうと」の名も定着したようだし万々歳だ。・・ちくしょう。・・苦労したぜ。

 

「・・ええ。とっても元気そうだったので一安心です。お邪魔しました。絢辻さんのこと・・よろしくお願いします」

 

「いえいえ。大したお構いも出来ませんで♪またお見舞いに来てあげてね?つかさちゃんもウルもきっと喜ぶから」

 

「・・いえ。多分今日が最後だと思いますよ?」

 

「そうなんだ・・残念」

 

「それじゃあさようなら。縁さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・やっぱり似てるわ」

 

去っていく有人の背中を見送りながら縁はそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日―

 

「おはよう。心配かけてゴメンね」

 

絢辻はまるで何事も無かったかのように登校し、お礼とお詫びの挨拶回りを済ませた後、二日休んだ分を取り返すような目覚ましい動きを見せる。その姿に誰もが安心した。

 

―・・・。

 

・・一部の人間を除いて。当然有人もそのうちの一人だった。

何時もと変わらない絢辻の姿は逆に有人を不安にさせる。前日、確かに彼女は元気なように振舞っていたがあくまで体調がどん底の状態から少し回復しただけのことだった。それからたった一日で絢辻が今まで通りの彼女に完全復活したと周りがそう思う事―

 

「絢辻さんだから大丈夫」

 

それが何よりも不安に感じた。正直昨日の彼女を直に見に行ったのは正解だと思い、強引ながらも部屋に自分を招き入れてくれた姉の縁に有人は感謝する。直接病床の彼女を見ていなければ有人自身も周りに居る人間と同じく、そのように感じてしまったに違いなかったからだ。

 

そしてその確信は有人を今在る行動に移させる。

 

戻ってきた絢辻に不安を感じていた人間のこれまた一人である担任の高橋の帰りのHRでの立案―「2-Aの創設祭実行委員の増員」の提案―しかし、クラスの人間の大半は戻ってきた今日の絢辻の何時もと変わらないパフォーマンスに安心し、「大丈夫だろう」という空気が漂っており、立候補者は皆無に思われた。

 

が―

 

 

「・・・」

 

 

 

「・・!大将」

 

「・・有人」

 

「源君?」

 

「ゲン・・!」

 

「みなもっち・・」

 

「・・源君」

 

担任高橋、そして梅原、国枝を筆頭とした絢辻の見舞金出資者達が驚きの声をあげる。控え目にゆっくりと、しかし手を高く掲げたその少年を見て。当の絢辻も目を丸くしていた。

 

 

 

「・・源君」

 

 

 

 

「先生。俺・・やります。創設祭実行委員・・」

 

 

 

 

 

―源 有人17歳。やります。

 

 

 

 














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ルートT 四章 仮面舞踏・解















 

 

 

 

 

 

5 仮面舞踏・解

 

 

 

「う~ん・・」

 

有人は唸っていた。

 

「お疲れ・・有人」

 

「お疲れだねぇ大将」

 

そう言って梅原、国枝の友人二人は差し入れを持って放課後の教室で唸る有人に話しかける。

 

「で、どうよ?実行委員の方は・・」

 

「・・。正直既に後悔してるよ・・自分の安直さが身に染みました・・」

 

実行委員になって早3週間。早くも有人は挫折を味わっている―と、梅原、国枝の有人の友人二人はそう判断し、彼が今凝視している実行委員会の活動予定表をひょいと国枝は取り上げた。

 

「失敬・・」

 

「あ」

 

「ま~見せてみろって。どれどれ~?」

 

同時に梅原も覗きこむ。

 

「・・・。ん?なんだ。噂ほど遅れてないじゃん。市との連携以外は順調そのものって感じだけど?」

 

「・・お~そーだな?これなら充分間に合うんじゃねーの?他の予定がほぼ計画通りで余裕があるなら市だって譲歩してくれんじゃね?あくまで『創設祭は生徒主体で行う行事』っていういつもの大義名分振りかざせばさ~?」

 

「・・・。まぁそれなりにこき使われましたからね・・」

 

「・・絢辻さんにか?まぁ彼女もいろいろ大変だったからな・・お前を頼ってくれてよかったよ。大分楽になったんじゃないか?お前がいて」

 

「・・ありがと」

 

勇気づけるようにそう言ってくれた国枝に有人は微笑んだ。そんな彼の背中を続いて梅原が

 

「源っちえらい!えらいぜぇ?引き続き頼まぁ!」

 

鼓舞するようにぽんぽん叩く。

 

「・・・」

 

しかし、微笑みながらも口数少なく、どこか憂いの在る有人の表情に

 

「・・・?」

 

幼馴染である国枝は首を傾げる。

 

「なぁその・・直・・?」

 

「・・何?」

 

 

 

「・・源君?」

 

 

 

「お」

 

―噂をすれば。

 

「おお!絢辻さん!お疲れっす!」

 

「!」

 

有人はビクッと体を痙攣させる。

 

「あら・・梅原君に国枝君・・」

 

「お疲れ様絢辻さん。有人から予定表見させてもらったけど・・順調そだね。安心した」

 

「さっすが絢辻さん!で、この予定表の修正案出したの絢辻さんなんだろ?高橋先生が偉い誉めてたぜ!」

 

梅原の心からの賛辞に現れた少女―絢辻 詞は照れくさそうに被りを振って

 

「そんな・・買いかぶりよ。それにこの予定が上手く行っているのは実行委員の皆が一人一人頑張ってくれているからこそ、よ。私一人じゃ何にも出来ないわ」

 

優等生の鑑と言える発言。

 

「・・そっか。俺らも何か手伝おうか?今日は梅原も俺もヒマだし」

 

「おう!何でも言ってくれ!」

 

「ふふ・・気持ちだけ受け取っておくわ。けど・・いざという時の為二人には作業の進み具合とかどんな状況かを知っておいてくれると嬉しいな」

 

「・・解った」

 

「了解!」

 

軌道に乗り始めた実行委員達の中にさらに新しい人員を入れるのは一見有効な手のように感じる。が、逆に人手が増えるということは個々に与えられていた自分の仕事を分担乃至奪われてしまう危険性がある。それはようやく纏まってきた実行委員達のモチベーションの低下に繋がりかねないのを絢辻は懸念しており、梅原も国枝も彼女の意図を汲みとる。

 

「・・いざという時は本当に二人に頼らせて貰う事になるかもしれないから・・せめて今はクラス内で行う創設祭の用意の事に集中して?でも・・有難うございます。・・二人共」

 

率先して手伝いを申し出てくれた二人の厚意を無碍にせず、絢辻はキッチリと礼を言った。

 

「おう!ま、その時までは大将をこき使ってやってくれ。こう見えて頼れる奴だからよ!」

 

「うん・・。じゃあ、俺らは帰るわ。・・頑張れよ有人」

 

「・・・うん」

 

「・・?有人?」

 

「有難う!じゃあ・・私達も頑張らないとね?源君!さぁ行きましょう」

 

「・・・」

 

絢辻に連れられ、有人は教室を去っていった。それを親友の二人は見送る。

だが・・その見送りの二人を見る当の有人の目を見て何故か二人の脳裡に浮かんだのが何故か「ドナドナ」のテーマだった。

 

『悲しそうな瞳で見ているよ』

 

やっぱり大変なんだろうな、と、二人は解釈した。

 

が。

 

その本当の意味を知る由は無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

その日より二週間前・・

 

「う~ん・・」

 

有人はその時も唸っていた。

 

絢辻の先日調整した実行委員の新しい活動予定表を見て。確かに調整された予定表の日程に関して問題は特にない。むしろ良く出来ていると感心するほどである。

 

しかし・・時間的制約は緩和されても先日の絢辻の体調不良による欠席は予定云々より実行委員全員に与えた精神的影響は大きかったようだ。

もともと「生徒主導」の方針が「外注で済ませる」方針に傾きだしていたのを修正した実行委員の活動予定表を提案する事により、方向性を再び「生徒主導」に戻させたのは当の絢辻である。その彼女が体調不良によって先日倒れた事は少なからず他の実行委員を動揺させたらしい。

 

彼女のいないたった二日程の混乱で方向性の軸が再び揺らいでいたのである。

2-Aもそうなのだが創設祭の実行委員会でも彼女への依存度は低くない。

 

「どうかな・・?源君」

 

絢辻も不安そうに有人に尋ねる。

 

「・・『絢辻さんの負担が大きすぎる』って言ってた高橋先生の気持ちがよ~く解ったよ・・」

 

「あ、は、はは・・そうでも無い・・けど」

 

謙遜しながらも絢辻もやや複雑そうに眉を歪めてそう言った。

 

「・・・。基本実行委員で常に作業を行える人の割合が少なすぎるね・・特に二年生は部活と委員会活動と掛け持ちしてる主力メンツが多いし・・常に動けるのは一年生が殆どか・・」

 

そして女性陣が多いのも特徴である。もともと今年入学した一年生は女子の割合が例年より高く、必然的に実行委員も部活をしていない線の細い女の子たちが多い。繊細でち密、丁寧な作業は彼女達の美点だが、勢いと力で例え粗削りでも物事を一気に進める行動力、破壊力には乏しい。

そもそも創設祭の準備は力作業が少なくないのだ。それを手間無く、かつ安全に進めるのであれば外注して全てプロに任せたくなるのも解らないでも無い。

 

「今からでも力作業を推し進める人員が欲しいな・・とりあえず形だけでもいいから一旦在る程度の水準までのっけて・・あとは実行委員で丁寧に修正すれば・・」

 

「それに関しては・・今も新しい実行委員の勧誘を続けちゃいるんだけどね・・」

 

「芳しくない」と、いうことか。

 

「・・『飴』が必要かな」

 

「・・『飴』?」

 

「絢辻さん・・出来る限り実行委員で成績のいい子を集めてくれない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中間テスト期間・・部活動は一切活動を停止し、部活動をしている屈強な生徒達は馴れない鉛筆を握り、何処から手をつけていいか解らない苦渋の時間が始まる。

 

そして後日、返却された答案用紙を前に絶望するのである。

 

彼らに日々の積み重ねで得る堅実な学習力を期待するのは酷だ。稀に双方をソツなくこなせる人間はいるもののごく一部である。彼らに必要なのはテスト期間中の拷問のような短期集中、詰め込み学習である。

 

そこで・・だ。有人は考えた。

 

成績優秀、かつ教師に全幅の信頼を持っている生徒を実行委員の中から探してみると―

 

これがいるいる。

 

腕っ節は草野球でも頭脳と信頼ではメジャークラスの生徒達が。その子達に今回の中間試験範囲の問題を予想させる。

 

その子達は解らない所をちゃんと教師たちにこまめに聞きに行く習慣がある。つまるところ教師との接触回数が多いという事は試験に出題される問題の傾向を推し量れる可能性が高くなるのである。それらのデータ、また、授業の内容も情報として集めさせ、提出させた。

 

そしてそれをもとに絢辻が内容を吟味、抽出させると・・何ともコンパクトで要点の解りやすいテスト対策用紙が出来上がった。

 

はっきり言って「短期集中、詰め込み型」の人間が喉から手が出るほど欲しい特製出題予想用紙である。作った当の絢辻も集めたデータをほんの二日でまとめ、

 

「ついでに一年生の時の学習内容が復習出来て丁度良かったわ♪」

 

・・などと喜んでいた。彼女のあまりの勉強家ぶりに頭が下がるばかりである。そして・・部活動と実行委員を掛け持ちしている二年生―時期的に三年生が引退、部活でも最早重鎮になっているメンツに以下の様な悪魔の囁きを行うのだ。

 

「部活動は精力的だが少し成績が不安な同輩、後輩生徒はいないか・・?」と。

 

・・そして集まる。頭は草野球でも腕っ節はメジャークラスの生徒達が。

その子達に漏れなく絢辻、精鋭実行委員達特製のテスト範囲予想問題集が配られる。

その見返りとして貴重な力作業要員が手に入るというワケだ。

 

それにこのようにすれば彼らが勉強についてもし解らない事があっても絢辻を含めた直接成績優秀な実行委員に作業の合間を縫って聞く事も出来る。単に詰め込みをするだけでなく純粋に成績優秀者の学習法を学ぶ機会を得る事が出来るのだ。悪い事では無い。

作業を共にする事によって普段は特に関わりあいの無い生徒同士が仲良くなるという利点もある。

 

同性同士はもちろん、異性同士でもだ。

 

事実、今年の実行委員には女の子が多い事もあり、中間テスト期間が終わった後も下心があるのか手伝いに来てくれる部活の男子生徒も少なくなかった。

 

そして運命の中間テスト後―

 

―・・・?

 

妙に平均点の高かった部活生徒達に教師達は喜ぶ半面首を傾げる。力作業を全般的に任す事によって現実行委員の負担が減る。心配されていたクオリティ低下も予想範囲内かそれ以下である。

 

もともと部活動を真面目に出来る人間は目の前の事に手を抜かない性分である子が多い。そこに実行委員のフォロー、絢辻の的確な指示もあって作業は思いの外順調だった。

テスト期間という作業の鈍化が起こりやすい期間中に多くの作業量をこなせたのは幸いである。

そして帰ってきたテストの結果にホッと胸を撫で下ろして嬉しそうに報告してくれる後輩の子達に絢辻もホッとした。絢辻が監修した特製のテスト予想問題集は中々的確だったらしい。

 

実行委員の子達も大抵の子が何時もと同様、もしくは成績をあげてくれたのも絢辻を喜ばせた。成績が下がった事を理由に実行委員会の行動の自粛を迫られる生徒が出る心配も抑えられ、既存の人員を確保出来たまま、創設祭の準備は後半に入れることになった。

 

「成程ね・・」

 

絢辻はテスト予想問題集に関してお礼を言ってくれた一年生の後輩を見送ると傍らで作業をしていた有人を見てそう言った。

 

「・・基本俺もテスト前に詰め込む方のダメな人間ですから・・」

 

「ダメなんかじゃありません。それは頑張ってくれた皆を否定する言葉よ?」

 

「・・そだね。ゴメン」

 

「・・『積み重ねることが大事』ってのは解るけど・・時には例え短い時間でも目の前の事に本気で集中できれば凄い事が出来るし、新しい事にも気付く事が出来るってことよね・・」

 

「そこまで計算した訳じゃないよ。自分が望んでいない、もしくは特に興味がない事をやる、やらせる以上、何か動機や、見返りがあれば楽しくやれるんじゃないかなって思っただけ・・その見返りを作ったのは絢辻さんと実行委員の皆だよ」

 

「ふふっ・・そうね?だったら嬉しいわ」

 

作業と学業を両立させ、少し自信が付き、頼もしくなった後輩たちの姿を見て絢辻は大きく深呼吸し、何かを決心したように有人を見た。

 

 

「ねぇ・・源君?」

 

「はい?」

 

「い、何時でもいいんだけど・・しょの・・」

 

「え・・」

 

―噛んだ?「あの」絢辻さんが?

 

「噛んだ・・」と小声でやや恥ずかしそうに絢辻はバツが悪そうに目線を逸らした。

 

「・・?」

 

 

「・・!その・・ちょっと待ってね?すぅ~~~っ・・はぁ・・」

 

また深呼吸。相当に珍しい。

 

「・・よしっ。源君?」

 

「はい?」

 

 

「・・何時でもいいんだけど・・私と・・お出かけしてくれませんか?」

 

 

胸の前で掌を合わせ、懇願するように絢辻はそう言った。

 

「・・・え」

 

意外すぎる絢辻の申し出に有人は言葉を失う。

 

「その・・ダメ、かな?」

 

「・・マジ?」

 

「・・まじ」

 

似合わない、絢辻らしくない台詞だがそこが妙に可愛い。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「全っ然OKだけど・・俺なんかでいいの?」

 

「・・またそう言う風に聞く・・自分を卑下するのもほどほどにね?源君」

 

「あ・・ゴメン。・・それじゃあ明後日の木曜は?確か高橋先生にこの日は『絢辻さん休養日』って言われて絢辻さん委員会お休みだよね?」

 

「うん!その日なら・・源君は?」

 

「俺もじゃあ・・笹部あたりに作業引き継いでその日変わってもらうよ」

 

「そっか・・急で御免なさいね?」

 

「ううん。絢辻さんの貴重な休みに使ってもらえるのなら幸いです」

 

「・・」

 

「う・・今のもダメ?」

 

「『使う』ってのはちょっと・・私が源君を振り回しているみたいじゃない」

 

「・・あながち間違ってないんじゃ?」

 

「・・言うわね~源君って。・・ふふっ」

 

「・・ふふっ」

 

「ありがと・・じゃあ明後日に」

 

 

この二人の幸せなやり取りが有人にとって本当にシャレで済まなくなる事件が起きるXデーまで―

 

 

・・あと二日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木曜―

 

・・X DAY

 

 

放課後2-A教室にて

 

「有人・・今日笹部に委員会引き継いだんだって?」

 

「うん。まぁ。ちょっとお休みもらおうかな~~って」

 

「って事はゲン久しぶりにヒマなんだな?なら・・俺と一緒にプーを手懐ける協力をしてくれ!ゲンと一緒ならあの気難しい黒猫も何か今日いける気がする~~」

 

国枝と共に居た少年―杉内は懇願するように言った。彼がかける多種多様のモーションを全て袖にする強敵の黒猫―プー相手に彼は最近手詰まり状態であったのだ。

 

「・・無いと思います」

 

「ゲ~~ン・・俺達友達だろう~~?」

 

「いりません・・猫を手懐ける為に利用されるような友情なんて・・。広大ゴメン。今日は他にちょっと予定があるんだ」

 

「・・ほら杉内。帰るぞ。有人は諦めろ。じゃなー」

 

国枝はそれ以上有人を詮索することなく、ずるずると杉内を引っ張っていってくれた。

 

「じゃあね。広大、直」

 

友人達を見送り、夕暮れの教室でぽつんと有人は一人になった。

絢辻は先に2-Aクラス委員の仕事、そしてやっぱり気になった実行委員の後輩達の様子をほんの少しだけ見に行く、とのことである。

「自分から誘っておいて御免なさい。やっぱり少し心配で・・・」と、彼女は謝っていた。

有人は気にすることなく「適当に教室でゴロゴロしておくよ」と、絢辻に言った通り、机の上に上半身を預け、傾いた陽で日向ぼっこする猫のようにゴロゴロした。

 

―~~♪お出かけ日和のいいお天気~♪

 

そんな「毛づくろい」の様な事を終え、本当にやることが無くなった有人は席を立ち、少しうろうろする。実際彼も落ち着かないのだ。

一体絢辻はどこに出かけるつもりなのだろう?それも有人と二人で、だ。

 

―・・・。

 

何気なく有人はかつて一学期の春―絢辻が作った自己紹介用紙がクラスの全員分貼られていたことすら忘れられた教室の後ろの味気ない掲示板を見る。そこには今は生徒会の報告書や高卒後の就職先への斡旋を行う学校側の企業案内などが貼られている。

今の有人には何とも味気なく、人間味を感じない事務的な内容だ。暇つぶしには少々荷が重い。

 

せめてここにあの時の自己紹介用紙があったらどんなに在り難い事だろう。

新学年が始まって半年以上が経ち、クラスメイト達がどんな人間か大体理解した今だからこそ敢えて見たくなるものだ。当時それを見た彼らの印象と、在る程度解ってきた今の彼らの印象と見比べたら中々面白いに違いない。

そうすれば彼女―絢辻が来るまでの時間などあっという間だろう。

ひょっとしたら絢辻が来ても逆に有人自身が「ちょっと待って」と言ってしまうかもしれない。

 

―・・しょうがないわね。少しだけ、よ?

 

そんな事を言いながら少し困ったカオで有人を見る絢辻の顔が脳裡に浮かぶ。

しかしそれは決して実現しない。何時外されたかもしれない自己紹介用紙達は外された後何処に行ったのだろうか。多分クラスメイトの今更誰に聞いても明確な答えは返ってこないだろう。「そういや、いつの間にか無くなっていたな」ぐらいの感想しかないだろう。

 

―ん?・・でもひょっとしたら絢辻さんなら・・?

 

絢辻なら何かを知っているかもしれない。記憶力のいい彼女なら?そして元々彼女が提案したものだ。それがいざ取り外される時は何らかの相談が彼女にされていてもおかしくないのではないか?

 

―・・いい話題が出来たな?絢辻さんに聞いてみようっと・・。

 

有人がそう思い、少し上機嫌で席に戻ろうとした時、

 

コツ・・

 

彼の左足に何かが当たった。

 

 

「・・・・ん?」

 

黒く小さな長方形の物体が有人の足に寄り添うようにくっついていた。

違和感ですぐ足を止めたのが幸いだった。蹴り飛ばさなくて良かったと内心有人はほっとする。

 

―・・手帳?

 

通常、一年のこの時期になれば大抵の人物の物はくたびれた、中古感がぬぐえなくなるその物体は未だ新品のように黒光りしている。相当丁寧に扱っているのだろう。

人物によっては手帳とは時にタダの飾りでもある。

だが落とされていたその物体の佇まいからして落とし主にとってのそれの重要性はすぐに理解出来た。「確実に困っているはずだ」、と。

 

「よっと・・・」

 

有人はそれを拾い上げる。落とし主はほぼ間違いなくこのクラスの人間。どこかに個人を特定するものさえ載っていればどうにかなる。後は担任にでも渡しておけばいい。知り合いなら電話で知らせてやればいいだろう

 

・・正直軽い気持ちだった。その物体の意味も、重みも何も知らない無知ゆえの行動。

 

―ちょっと失礼します。持ち主さん。

 

とりあえずプライバシーもあるのでぱらぱらと内容は頭にいれようとせずに適当にめくる。

 

―・・恐ろしく字が綺麗だ。どうやら女の子だなコレは。

 

おまけに予定もびっしりくさい。担任に渡す事決定。帰り際に職員室でも寄ればいいだろうと席に戻りかけたが、つと思考が待ったをかけ、足が止まる。

 

―・・・?この字どっかで・・・?

 

有人がそう思った瞬間だった。背後で教室の前方の扉が開き、反射的に有人は両手で覆うように手帳を閉じると同時に振りかえる。その字の既視感とその眼に映った光景で有人は全てを理解した

 

しかし・・合点がいったと同時に生まれたのは違和感だった。

 

―あれ・・・?

 

 

 

 

 

 

 

「絢辻さん」

 

有人は確かにそう言った。だが・・その言葉はまるで確認するかのような疑問形の響きを隠さなかった。

 

「絢辻さん?」

 

「・・・」

 

絢辻は黙ったままだった。

 

―・・「また」、だ・・。

 

彼女は時折このような表情をする。

全ての接続を「断った」かのような顔をして、しかしその内部は何か有人では感じ取ることも出来ない「何か」が動いている。蠢いている―そんな感じだった。

しかし、何時もは一瞬のはずのその現象が妙に長い。今までは有人自身がその「現象」がひょっとしたら自分の気のせい、ただの勘違いの産物であると思っていたが今日、今この時にそれがその類の物では無い事を実感した。

 

「・・源君?」

 

少し首を傾かせ、長い髪がほんの少し揺れたかと思うと絢辻はいつもの表情に戻り、そう言った。

 

「・・・!あ、はい?」

 

「ゴメンね・・御待たせしました」

 

「いや・・大丈夫だよ」

 

「・・それ・・」

 

絢辻はそう言って人差指を伸ばし、有人が両手で挟んでいる手帳を指差す。

 

「あ、これ?ここに落ちてて今丁度拾ったとこなんだけど・・」

 

有人は既に気付いていた。手帳の持ち主が誰であるかを。それが裏付けられるのも一瞬だった。

 

「それ・・私の手帳なの」

 

「そうなの?丁度良かった。誰のか解らないから職員室にでも持っていこうかと思ってたんだ」

 

「・・そう。ありがとう。・・返してくれるかな?」

 

「あ、うん。はいどうぞ」

 

正直現時点では内容は頭に入っていなくとも手帳を覗き見した事は紛れもない事実だったため、その手の罪悪感が徐々に有人の体を覆い始める。

―そりゃあ他人に、それも異性に自分の予定やらなんやらをひょっとしたら覗かれていたとしたら戸惑ったり、複雑な気分になるのも頷ける・・そう考えていた。

が―

 

「現実」を有人が認識するのにさほど時間はかからない。自分がどれ程のアンタッチャブルに触れたか理解するまで。

 

「あ、ありがとう」

 

絢辻は恥ずかしさのあまりしゃくって取るとか、逆に畏まって賞状でも受け取る時みたいに両手で受け取る事も無く、極自然に片手で手帳を受け取った。

ただ有人の手から手帳が離れる際、絢辻の手帳を掴む力と有人の手から引き離すような力が妙に強いと感じた。普段の絢辻からは連想が難しい見た目には表れない違和感がある。

 

何か・・何かがおかしい。

 

「・・・?」

 

「ほ・・。そ、その・・じゃあ行きましょうか。本当に御待たせしてゴメンねっ」

 

安堵した絢辻がほんの少し背を向けて有人を誘導しようとした。

 

「あ、うん」

 

見ている方が逆に安堵する様な絢辻の安堵の表情に有人が落ち着き、気を取り直してそれに続こうとすると・・

 

「・・・源君」

 

「・・ん?何?」

 

「ひょっとして・・もしかして中を見ちゃったりした?」

 

背を向けたまま・・絢辻はそう言った。それを聞いて有人はどうやら自分が思った以上に絢辻は相当恥ずかしかったんだろうなと解釈し、下手に嘘を言うのも申し訳なく感じた。

誤解に誤解が積み重なっていた事をその時の有人は知る由もない。

 

「・・・ゴメン。どこかに名前があれば持ち主に直接返せるかなって思って・・すこしだけ」

 

「・・そう」

 

「正直言っちゃうと・・字を見た時点で絢辻さんのじゃないか?ってのは思っていたんだけどね・・あっはは・・」

 

少し有人は照れてそう言った。この時の自分を有人は過去に戻って後ろから張り倒したくなる。そしてこう言うのだ。

 

―・・ここは俺に任せて先に行け。

 

これ程人生でこの台詞を言うチャンスは無かったろう。まぁタイムリープが出来る前提での話だが。

 

 

 

 

「・・」

 

絢辻は背を向けたまま尚も押し黙る。これも有人の誤解を煽った。

 

「はは・・」

 

「・・・見ちゃったんだ」

 

「・・ごめんね」

 

「・・よりによって貴方・・か」

 

「え?」

 

絢辻は有人から背を向けたままいつものように女の子らしい右手で髪を掻き上げる動作をした。相変わらず優雅で美しい動作だ。後ろ姿でも独特の色香がある。

 

・・だが・・右手が絹のような髪を撫でて首筋に達したと同時に―

 

 

「考えられない」所作が行われる。

 

―え。

 

 

 

こきっ

 

 

 

絢辻は気だるそうに左手を腰にあて、右手をうなじに回して首をコキッと回し、こう言った。

 

 

 

 

「あ~あ・・マズッたなぁ。手間が省けたって言えばそうなのかもしんないけど・・」

 

 

 

 

「・・・!!!???」

 

 

 

「不本意だ・・わ!」

 

 

 

 

背を向けながらも「彼女」は明らかに有人の位置を把握していた。ズレの無い軌道で絢辻の腕が有人の胸元のタイを捉える。次の瞬間、有人の視線から絢辻が急に消えた。

そのかわりに有人に与えられたのは何時もの優しい「あの子」の髪の香りと顎から下の気配、そして・・違う意味で意識が遠のくほどの強靭な力で締め付けられる首への圧力である。

 

ぎりぎり

 

彼女は有人のネクタイで彼を引き寄せ、完全に懐に入った。格闘技的に言うなら完全有利な状況である。

さらに戦意がある相手ならともかく、完全な不意打ちである。混乱する頭の上に、酸素の供給減をシャットアウトされては成すすべがない。苦痛と妙な恥辱と高揚感が混ざった形容しがたい意識の中で有人はその名前を呼んだ。

 

―絢辻・・さん!?

 

「見たわね・・?はっきり答えなさい・・?」

 

さっきまでと比べると優しい口調だが明らかに危険な香りがする。

声は確かにあの絢辻 詞の声。だが、違う。

 

違うのだ。

 

混乱した頭の中で有人は便宜上、今この自分の首を絞めている彼女を絢辻(?)と呼称した。

 

「・・・!!??」

 

「・・答えなさい?見たのね?」

 

「答えろ」と言う割には解答者にその余裕を与えていない。しかし、全く声が出せない状態でも無い。拷問の基本を心得ている。苦痛から逃れたい故の間に合わせの相手の自供を聞きだすのではなく、確実に真意を問いただすための詰問もとい拷問だ。

それ故、有人は真意を話す。もとい彼は真実を知られようともやましい事など一つもない。

・・無い事も無いかもしれないが。

 

「な、何が・・?」

 

「・・こ~~ら。質問を質問で返さないの・・」

 

真実を述べたとしてもこの解答は絢辻(?)のお気に召さなかったらしい。少し首への圧力が増した。ぐぇと情けない声が有人の喉から洩れる。

 

「『見た』?『見てない』?で、答えなさい。ま。どっちを答えようと結果は同じなんだけどね・・酷い事になるの。解る?」

 

―・・!どっちにしても絶望じゃないか。

 

どうやら絢辻(?)は「見た」と確信しているらしい。確かに手帳の中身は見た。絢辻の字だという事は解った。確かにそういう意味では有人は「見た」。しかし、それで死ぬのか?死ななければならないのか?

 

「・・・俺は何を『見た』のさ・・?」

 

「・・・。意味不明ね。よくこの状況でそんな台詞吐けるわねぇ?」

 

そんな反応を絢辻(?)はしたが、ひょっとしたら力加減を間違えて有人が必要以上に正気を失っていると思ったのか幾分締め付けは和らいだ。やや発言が楽になる。

 

「・・こっちも意味不明なんだって」

 

「・・・意味不明か・・。まぁこんな状況になってそう思っちゃうのも解る気がするけどね・・うんうん」

 

理解は示しているようだが歩み寄りは全くない。

 

「そうじゃ無くて・・!」

 

「ん~~?・・何がそうじゃないって言うの~~?」

 

「その・・なんていうか・・」

 

「・・嘘がヘタね。正直者は馬鹿を見るって奴かしら?」

 

―ダメだ・・埒が明かない。

 

 

・・ぱっ

 

その状況が長く続く事を絢辻(?)もよしとしなかったのか急に有人は解放された。

 

「待って。・・ここじゃいずれ人目についちゃう可能性が高いわね。場所変えるわよ?ついてきて」

 

顔は有人から逸らさず目線だけで鋭く周囲を窺い、絢辻(?)はそう切り出した。

 

「・・・!?」

 

「言っとくけど逃げないでね」

 

ただそれだけの言葉だったが有無を言わせない迫力があった。逃げるという一時的な見返りを得て生じる割に合わないリスクを確信するような語気である。

 

「それと人のいない場所に出るまでは何時ものように振舞って。実行委員の子達に会って余計な心配かけたくないから」

 

絢辻は有人の知る限り命令した事が無い。

いつも「~してほしい。」やら、「~してくれるかな?」などの少し迂回する表現を使う。

それ故断りやすい。(ある意味断りにくいが)だがこの絢辻(?)のセリフは対称的である。

断る事を強制的に阻止する凄味が備わっている命令、厳命である。有人はYESマンになるしかなかった。

 

「・・・」

 

しかし・・実行委員の後輩に対する配慮に少し何時もの絢辻の名残を感じ、戸惑いながらも有人は彼女についていく。

 

 

―一体・・

 

 

何が起こってるんだ・・?

 

 

 

 

 

「絢辻先輩。源先輩さようなら」

 

「はい!さようなら。後はよろしくね」

 

「あ、絢辻先輩、お疲れ様です。源先輩もさようなら」

 

「お疲れ様。頑張ってね」

 

「はい!」

 

「・・うん。安全第一で頑張ってね」

 

今は何よりも自分の安全が欲しい有人は絞り出すような笑顔でそう言った。

 

「はい!」

 

 

「おお!?先輩達デートっすか!?うらやましいな~」

 

一年の男子、実行委員の中ではムードメーカーだが少し口の軽いヤンチャな後輩がからかうように二人に声をかける。

 

「・・もう。口より手を動かしなさい久野君」

 

ヤンチャな少年は冷やかすように少しひひひと無邪気に笑い、「これはお邪魔しました」というような素振りをする。何処の学校にも何人かは存在する所謂「不良」の生徒も絢辻には頭が上がらない。少し照れながらも凛と諌める何時もの絢辻である。

しかし・・確実にこの少女は先程教室から共に出た絢辻(?)と同一人物である。

 

「じゃあお気をつけて~。源先輩!絢辻先輩ちゃんと送るんすよ~?送り狼になっちゃダメっすよ~。そんな事になったら俺先輩でもボコりますから~」

 

「もう!久野君ったら!!」

 

「・・」

 

―・・狼?あの赤ずきんちゃんを食べたって言うイヌ科の草原や森林に棲む猛獣のことか?

・・俺が?いや、むしろ・・

 

「源君?行きましょうか?」

 

振り返った目の前の可憐な、どちらかと言えば確実に「赤ずきんちゃん」に該当する部類の少女の笑顔に有人は戦慄を覚え、今は校内で余計な事を考えるべきではないと気持ちを切り替えた。

 

 

 

・・絢辻(?)に連れられ、随分と歩いた。

 

未だに絢辻(?)は口を開かない。そして有人も話しかけるタイミングを逸していた。そもそも自分から話しかける事を絢辻の後ろ姿から禁止されているように感じたため、有人はひたすら足だけ動かした。

そして在る場所にさしかかると絢辻の歩みに変化が生じた。

 

―え?ここ・・。

 

吉備東神社の入り口への階段である。そこの階段の一段目に絢辻(?)は足を置いた。どうやら行くつもりらしい。人目の無さにはかなり高ランクな静かな場所である。

 

・・断末魔もさぞかし聞こえにくいに違いない。犯行後その場で即死体を埋めることも可能だ。在りがちなサスペンスドラマの展開を妄想しつつ有人は階段を上る。

 

 

―・・・。

 

 

少し寒いがまだまだ森林浴を楽しめる気候である。風が奏でる森の音は心地よい。

普段初詣や縁日など人がごった返す時以外は有人には特に縁の無い場所であるが、有人にとって「季節外れ」の神社は存外退屈には程遠い場所だった。旅行で神社や寺を回る人間の気持ちが良く解る。風流の言葉の意味を垣間見たような気がした。

 

 

 

「・・・こっち」

 

絢辻が唐突に口を開いた。両手を後ろに回したまま有人の一歩前を進み、帰り道終始無言だった彼女が初めて口を開いた。目的地が近いのだろう。だがその方向は・・

 

「・・『こっち』って?え?えぇ・・?」

 

神社の裏手への入り口を絢辻は進む。むしろ入り口とは言えない。普通に参拝に訪れた人間は決して踏み入る事は無いであろう場所に絢辻(?)は惜しげもなく侵入していく。

 

―「そこ」・・入って大丈夫なの?

 

と、有人が正直思った程である。しかし絢辻(?)は馴れているかのように何の躊躇いも無く歩を進めた。対称的に有人は周りを思わず窺って誰もいない事を再確認し、少し出遅れた足をそそくさと挙動不審さ全開で入っていった。

 

「・・・わ」

 

この社の裏に今まで彼は足を踏み入れた事は無かった。思った以上にその空間は広い。

生い茂った深い緑の樹林が風に吹かれざぁざぁと音を立てる。それらをバックに石碑、灯篭が整然と並ぶ。社の軒下には座れるスペースもあり、成程。何か考え事をする際には丁度いい、絢辻らしい「隠れ家」かもしれない。正直心地いい場所だ。

 

出遅れた有人が裏手への曲がり角を曲がってその光景に僅かな驚きと、そこに足を止めていた絢辻(?)を見、ここが目的地だと理解する。

 

「こんな所あったんだね・・」

 

ちょっとした触りの言葉。その言葉に続けて「ここって入って大丈夫なの?」と有人は続けようとする。が・・

 

「・・・。本題に入りましょうか・・」

 

絢辻が遮る。一息つくつもりは無いらしい。景色を愛でるヒマはないようだ。

 

―・・・?「絢辻」さん?

 

意外にも有人が今知覚した絢辻は「絢辻」だった。だが・・厳密に言うといつもの絢辻に限りなく近い「絢辻」という表現が一番近い。その証拠に語気は何時もと変わらないものの異常なほど表情を押し隠していた。その表情は何時ものように美しい彼女の顔だったがどこかCGのような危うい作られた完璧さを持った表情に感じる。その「絢辻」が尚も言葉を紡ぐ。

 

「お願い・・正直に答えて下さい」

 

「嘘をつく事は何よりも誠意を損じる行為だよ」と、感じさせる語調で「絢辻」はそう言う。境内、社の軒下、神の御許での虚偽の解答は許されない。

 

ザァッ・・

 

風に「絢辻」の長い髪が舞う。その様は神々しさすら感じられるが、同時にどこか寂しく、物悲しい。

 

「・・うん」

 

「貴方は手帳を『見た』?」

 

「・・見ました」

 

「どこを?」

 

「予定とメモ欄の所を少し・・」

 

「そう・・・メモ欄をね」

 

どうやらそこが「絢辻」の懸念点だった「らしい」。しかし―

 

「でも本当に詳しい内容までは・・元々手帳を覗く以上、内容は頭に入れないようにしようと思ってたし・・それに字体さえ見れば誰かはともかく男女の予想は付くと思ったからそれさえ解れば対処も楽になるかなって思って・・。・・教室に落ちていたって事はまずウチのクラスの誰かだし・・正直軽い気持ちで。それに関しては軽率だったって思ってる・・。その、ゴメン・・」

 

「・・確かに手帳は『見た』。でも内容は『見てない』。そういうこと?」

 

「うん。・・信じてもらえないかもしれないけど事実です」

 

「本当に?」

 

尚も「絢辻」は聞き直す。

 

「・・字ですぐにまず女の子だと解ったし・・それにあの字に見覚えが全く無かった訳じゃ無かったから内容が頭に入る前に見る事は止めたと思うんだけど・・」

 

「・・本当に?」

 

「うん・・それは信じて欲しいかな」

 

「・・・・。ふぅ・・」

 

そう言い切った有人を見て「絢辻」は大きな溜息をついた。そして有人から瞳だけをそらし、右手の人差指で右目の下をコリコリと掻く。人間がよくする動作ではあるが「絢辻」のその動作には異質な印象を受けた。もともとそのような所作をするイメージは無い上に彼女の場合はどこか・・自分の肌に合わない着衣を着た結果、生じた形容しがたい「痒み」に仕方なしに片手間に対応している・・そんな風に感じる。

 

しばしの沈黙が場を包む。再び口を開いたのは「絢辻」だった。

 

「・・今日ね。もともと私は貴方を『ここ』に誘うつもりだったの」

 

「・・?」

 

「順を追って話をするつもりだったんだけど・・思うように行かないものね」

 

少し溜息をついて「絢辻」は苦笑いした。表情が戻った。「絢辻」はいつもの絢辻に戻る。

 

「話・・?」

 

「さて・・源君には二つの選択肢があります!」

 

有人の言葉には反応せず、絢辻は右手の指を二本立てる。何処か事務的ながらも楽しそうに戯れるような茶目っ気を込めた声であった。

 

「今から私はこの場を少し離れます。ここに残るも帰るも貴方の自由です」

 

「え?」

 

「ただし!『帰る』を選ぶには条件があります。『今日起きた事を一切忘れて絶対誰にも話さずここを去る事』・・です」

 

「・・・???」

 

頭から混乱と疑問が抜けない怪訝な表情の有人にくすりと笑って

 

「・・・嫌だったら本当に帰ってもいいから・・そのかわり誰にも言わないで」

 

努めて明るく振舞っていたが語尾がやや物悲しそうに感じたのは有人の気のせいだろうか。今日起きた事を「全てを無かった事にする」申し出、それがどこか寂しいのかもしれない。

 

「・・」

 

「多分それが源君の為でもあるから・・お勧めはこっちだけどね」

 

「・・ここに残れば・・?」

 

「・・ネタを少しばらしちゃったから大体想像はつくかもしれないけど・・お勧めはしないかな?けど・・」

 

「けど・・?」

 

「『今日起きた事を一切忘れず、誰かに話してしまう』よりかはマシかな?」

 

そう言って本当に絢辻は有人から背を向けた。そして有人の視界から消える社の曲がり角の直前で立ち止まり、

 

 

「じゃあ・・気が向いたらまた会いましょ?気が向かなかったら・・また明日、ね?・・源君?」

 

 

そう言って絢辻は微笑む。少し困ったように眉をひそめながら。

 

明日また会う事前提の言葉。でもどこか今生の別れの様な去り際の絢辻の言葉であった。

 

「・・・」

 

その場にポツンと有人は残される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
















―・・・んあ~あ・・。




・・・やっちゃった。






あたしとした事がこんなポカをするなんて・・よりにもよってこんな日に・・。全く・・何をやっているんだか。

ちゃんと段取り踏んで、相手の受け答えも反応も予想して、出来る限り引かれないように徐々に、徐々に振舞っていこうとしてたのにぃ・・。

元々あの手帳が誰かに見られた際に考えていた対策・・いくら焦っていたとはいえ実行しちゃダメでしょあたし・・。
それにあの人・・実は大して内容を見てなかったっていうオマケ付き。忘れてた・・あの人が結構なお人好しでかつ変な人だったこと・・。全く・・程ほどにしときなさいよね?むしろ弱み握って嬉々として迫ってくるなら対応のし様もツブシ甲斐もあるのに・・。


・・・。

・・びっくりしただろうな。

・・引いてるだろうな。

事実血の気も引いていたみたいだったし・・。そしてあろうことか意味不明な数々の言葉を残して去るあたし・・。

あんなんじゃ残ってくれるわけ無いじゃない。とっくに逃げ帰ってるに違いないわ・・。


・・ふぅ。そろそろ戻りましょうか・・とりあえず確認はしとかないと・・ね。


少女は少年の居る・・かもしれない、居なくなったかもしれない神社の裏口をひょっこりと覗きこむ。






「・・・」






―・・・。「忘れてた」。

少女はそう思った。

さっきそう思ったばかりなのに。忘れていた。全く本当に今日の自分はどうかしている。

自分が触れて欲しく無い、ひた隠しにしてきた自分の「領域」に意図せず迷い込んでしまった少年がお人好しでかつ変な人だという事を。


「あ・・っ!・・はは」


戻ってくる自分に気を遣おうとでもしているのか、それとも混乱の中全く足が動かず、ただ立ち尽くしていただけなのか、それとも見た目に似合わず大胆な好奇心を持った少年なのか―

それは解らない。

先程とほぼ立ち位置が変わらないまま少年は少女を待っていた。
目のやり場に困っていたらしいが戻ってきた絢辻の姿を認め、少し安心したのか不安が隠しきれないながらもとりあえず笑って見せてきた。
引き攣っていると言えばそれまでだが今できる最大限の努力で笑って見せている。
その姿に絢辻はまた深い溜息をつく。そして思う。

―嘘をつかないって・・楽しくないけどラクね。

そして溜息と同時に伏せた目が薄く開き、口の端が緩む。ただし何時もの柔和で包み込む彼女の笑顔ではなく、不敵で強気。「緩む」というより「歪む」といった形容の方がしっくりする。
少なくとも今の彼女にそのどちらかの表現が適当か本人自身に判断してもらっても恐らく彼女自身も後者を選ぶであろう。
挑戦的で攻撃的な「歪み」。
さらに水晶のような瞳も何時もとは異なる光を帯びる。見た目の変化は無きに等しいのに青が赤に変わったような真逆の変化が引き起こされているかのような瞳の輝き。と、それにさらに拍車をかけるように整えられた眉は鈍角な緩いカーブから鋭角にこちらは顕著に変化している。



「・・・御待たせ。気持ち切り替えて来たわよ」



今彼女の人生で些細な、しかし一大決心を抱えた大きな変化の渦が始まる。




今―




仮面舞踏・解。











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ルートT 五章 二人だけの秘め事











6 二人だけの秘め事

 

 

「・・・」

 

「・・何?リアクション無しなの?」

 

現れた「新たな」絢辻 詞という少女をじっと眼を見開き、暫く眺めていた有人の反応に絢辻(?)は眼を薄く細め、ややじとりとした視線を向ける。それも両腕を組みながらだ。

「文句ある?」と、でも言いたげに。

 

―まァ文句はございませぬが。しかし・・これは。

 

自分を尊大に見せる腕を組むポーズは何時もの絢辻は絶対に見せない。何時も控えめに掌を行儀よく合わせたり、後ろに手を回したり、目上の人間には自然ながらも礼儀を失わない立ち姿勢を維持している。

それが騙し絵だったと解る。一つの絵に二つの意味が宿るトリックアート。騙し絵だ。

 

―若い女が向こう側を見る絵を一度魔女のような老婆に見えてしまった後、もはや老婆にしか見えなくなるのと同じだ・・。

 

・・例えが悪いと有人はすぐ自分の思考を自粛した。この例えがもし読みとられたら何をされるか解らない。

 

「はぁ~イライラするわねぇ」

 

おっと絢辻(?)が御機嫌斜めになっていく。これはいかん。

 

「・・ごめん。まだちょっと混乱してる」

 

「ふん・・御免なさいね?猫かぶってて」

 

「へぇへぇ私が悪ぅござんした」というような少し拗ねたように絢辻(?)が目をそらす。

 

「ふーん。猫かぶっていたんだ?」

 

「・・。源君もう薄々解っていた癖にいちいちそんな事聞くんだ・・・?ふーん。そう」

 

「漠然と『理解している』と思う事と『確信を得る』のとでは全く違うよ」

 

有人はやや落ち着いた口調で薄く笑う。今まで感じてきた絢辻という少女に対する違和感の出所、正体をある程度把握出来た事によって困惑は薄れつつある。この少年、適応力は在る。

 

「・・。ま。それは同感ね」

 

「でしょ?」

 

「・・でも癪だから凍りつかせてあげるね?源君がこれを誰かにばらしたり、もしくは私に接する貴方の行動で勘繰られたりしたら私は容赦なく貴方を潰すから」

 

くるりと絢辻の表情が悪戯な色を宿し、「邪悪」に近い微笑みで結構にきつく、攻撃的な言葉を吐く。それなりに直前まで「初対面」の有人に気を遣っていた事が解る絢辻(?)の突然の豹変であった。いつもの有人の「らしさ」に気兼ねをする必要はないと判断したらしい。

 

「・・・」

 

「・・そう言えばさっき帰り際に一年生の久野君、『絢辻先輩を襲ったら俺源先輩でもボコりますから』って言ってくれてたわね・・丁度いいわ?・・まずそこから行きましょうか?」

 

「え。早速濡れ衣!?」

 

「むしろ襲ったのは絢辻(?)さんの方なんじゃ・・」と、言いかけたが止めた。絢辻が有人を襲うというイメージの具象化が出来るわけがない。それこそ周りにとっては「赤ずきんが狼を襲う」様なイメージだろう。

有人も決して自らの評判が悪い人間ではない。が、それも一般人クラスと比べてである。

結局この世は信頼、地位、権力、人望の問題である。信頼、立場の強い者が勝つ。

有人を信じてくれる人もいるだろうが少数派に回る事は必至だ。彼らに「少数悪」のレッテルを張らせる訳にはいかない。泣き寝入りだ。このようにして真実は覆い隠されていくのであろう。現状の信頼と実績、地位、権力、人気を兼ね備えたこの「女」傑にかなうワケが無い。

 

「・・察しがよくて助かるわ~み・な・も・と・クン?」

 

有人の思考を読み切ったかのように絢辻(?)はにっこりと笑みを浮かべる。

 

 

「・・ま。それは冗談として・・いや・・冗談でも無いけど」

 

絢辻(?)は真顔に戻ってフォローの様などっちつかずの様な曖昧な表現を使う。

 

「どっちなの!?」

 

「私としても敵を作るのは本意じゃないしね。特に貴方の友達は私から見てもいい子が多いと思うし。梅原君、国枝君、御崎君に杉内君、女の子なら棚町さんに田中さん、・・私のお見舞いも手助けしてくれたあの子達を敵に回すなんて心苦しいわ」

 

「あ、案外義理堅いんだね・・」

 

「ふん。借りを作りたくないだけよ。(ひょっとしたら何かに使えるかもしれないし・・)」

 

「絢辻(?)さん!?今不穏なセリフが聞こえたような気がしたけど!?」

 

「気のせいよ。要するに!源君?・・貴方次第って事よ?せいぜい上手く立ち回ることね。さっきも言ったと思うけど貴方が誰かに『この事』を話したり、貴方がヘマして明るみに出るような事があったら・・」

 

「言わずとも解るわよね?」と絢辻(?)は再び不敵に笑って有人を見据えた。

 

「ひー」

 

「創設祭実行委員・・途中で投げ出すなんて事はしないわよね・・?貴方は既にあの歯車の中に入ってしまっているんだから・・クルクル、きりきり回りなさい?私も本性さらけ出した以上、貴方には気を遣う必要も無くなったから嬉しいわ~♪」

 

絢辻(?)の恍惚の表情と対称的に抜け殻のような表情をした歯車―有人。小林 多喜二著―「蟹工船」の乗員はこんな気分だったのだろうか。捕えたカニの中身をほじくり出して殻だけにしながら自分も空っぽになっていく気分を味わいながら。

そんな有人を見て少し絢辻(?)はクスリと笑い、

 

「ま。悪い様にはしないから・・私についてきて?」

 

悪魔のような表情で天使の様な声色をして有人に囁く。

 

「・・既に悪いようになっている事は置いといて?」

 

・・もう騙されねぇぞ、とでも言いたげに有人は恨めしそうに絢辻(?)を見るが、

 

「源君?貴方何時も一言多いわ?身を滅ぼすわよその癖?」

 

今度は天使の様な表情で悪魔の声色をさせ、反撃してきた。一を返すと二にも三にもなって返ってくる。有人は流石にもう諦めた。

 

「・・途中で投げ出したりなんてしないよ。ばらすことだって上手く伝えられる自信無いし・・そもそもそんなリスクを払ってまで広めたい物でも無いしね・・」

 

「そうそう。自分で言うのもなんだけど結構グロテスクな真実だしね♪これ♪」

 

「良い調子よ。続けて?」と、言いたげに絢辻(?)はうんうん頷きながらご機嫌そうに笑った。

 

 

―しかし対称的に

 

「そう・・リスクしかないからね。俺なんかより絢辻さんは実行委員の遥かに中枢だし?その絢辻さんに余計な噂が立ったり、俺が元でトラブルを起こしたらそれこそ問題」

 

有人は珍しく笑わなかった。今度は絢辻が有人の発する違和感に目を丸くする形になる。

 

「・・?」

 

「現に二日絢辻さんが居なくなっただけであんだけ実行委員内で動揺があったんだから尚更だよ。だから絢辻(?)さんの不利になる様な事はしない」

 

「・・・」

 

「・・だから無理しないでね。前みたいに。一応それが俺が絢辻(?)さんの事を黙っておく事の交換条件って感じかな」

 

「・・・へぇ・・一方的不利な状況で相手の要求を受け入れながらもちゃんと自分の条件も付け加えるのね?それも何とも断りにくい綺麗事・・、でも実際実利も兼ねてる。確かに今の状況で私自身や私の評判を失う事は今の実行委員会には不利益しかない・・」

 

うぬぼれでも過信でもない。事実を淡々と、しかし傲慢に聞こえるほどに彼女はそう言い放った。物凄い自信である。

 

「ふふ・・解ったわ。でも覚悟して居てね?そこまで言ったんだから私、源君を当然こき使うわよ?・・今の言葉、後悔するぐらいにね」

 

有人の解答、出してきた条件を中々上機嫌そうに絢辻(?)は受け入れる。有人がただ漠然と受け入れたのではなく、少々ながらも張り合いをもって今の自分に接してくれたのが嬉しいらしい。

「貴方に本性を現した甲斐がある♪」と言った表情を浮かべた。普段の絢辻も今の絢辻(?)も人を認めたり、褒めることを表情でハッキリと示す事が出来るのは彼女の美点だ。

 

「・・・」

 

―・・少し安心した。例え全く雰囲気が変わっても「絢辻さんらしい」や。

 

「・・何よ」

 

「いや何でも」

 

「・・そ?まぁ・・いいわ。じゃあ・・帰りましょうか?折角の休養日、ゆっくりしないとね?貴方の言うとおり」

 

「そうだね」

 

「あ、はい」

 

何時もの絢辻にはないぞんざいな口調で絢辻(?)は自分の肩にかかった鞄を有人の前に掲げた。

 

「ん?え?」

 

「ほら~~鞄持つぅ。折角の私の休養日なんだからね~せめて荷物持ちぐらいはやりなさい?」

 

「・・既に始まっているんだね・・はいは―

 

 

どずん!

 

 

―いっ!?・・な、何入ってるのコレ?」

 

華奢な少女が持つ割に異常なほど重い鞄だった。

 

「砂袋」

 

「え!?」

 

「嘘。教材一式と辞書が入っているわよ?『自宅用、学校用』と分ければいいじゃないかと思うかもしれないけど普段から体力をつける目的で重めにしているの。登下校中も鍛えないとね?」

 

こきこきと肩を鳴らし、「あ~~肩かっる~」と言いながら絢辻は先々、スタスタと歩きだした。

 

「・・。もう脱帽です」

 

それに有人も続き、二人は吉備東神社を後にする。

 

 

―帰り道

 

絢辻(?)は既に有人から鞄を受け取っていた。万が一知り合いに目撃された際の手まで打っている所が抜け目ない。傍目にはただ仲良く下校している学生に見える。

 

「はぁ・・う~ん・・・たまにはぼ~っとするのもいいわね」

 

「天気もいいしね」

 

「そうね。ま、色々すっきりしたってこともあるけど」

 

「それって・・俺に絢辻(?)さんの本音を見せたからってこと?」

 

「ま、そういうことね。これ、結構回転勝負なのよ?猫かぶるって」

 

自分のこめかみを右手人さし指で差し、挑戦的な上目遣いをして絢辻(?)はそう言った。

 

「・・結構疲れるのよね。中には鋭い相手もいるし・・相手を過小評価して油断するとあっさり見抜かれちゃう可能性もあるから要らぬ心配も多いわ」

 

「そこまで・・するの?」

 

「そうしないと完璧な信頼と実績は維持できないって事よ」

 

 

「・・でも・・『完璧』ってそれ自体欠点だらけじゃ無い?」

 

 

有人のその返答、普段の絢辻の否定ともとれるその言葉に絢辻(?)は気分を害した様子もなくただ淡々と―

 

「・・・良く解ってるわね?」

 

受け入れた。そしてこう続ける。

 

「当然全く支障が生まれない訳が無いわ。大抵の人には目に見えないけど確かにやっかみは存在する。自分が物事の中心、先頭に立たないと気が済まない子っているから私を気に入らないって子は全く居ない訳じゃない。でも結果、評価次第で簡単に黙らす事は出来る。周りに居る人間の反感を買ってでも結果を出した相手の粗を突くって事がその子達には出来ないの。何せ自分が褒められたいからね。自分の評判を必要以上に悪くするリスクを望まないの」

 

「・・・」

 

「本当に物事の中心、先頭に立ちたいなら・・自分が認められるためにまず何をすればいいのか、何を犠牲にすればいいのか―それが解って無いのよね・・その子達。自分の無能を棚に上げて他人の足を引っ張っているんだから・・迷惑な連中よ」

 

「・・」

 

一見平和で呑気そうに見えるあの吉備東校にも裏では色々あるということらしい。

 

「って・・あんまりこういう話させないでよ。折角の休養日なのに」

 

「ごめん」

 

「はははっ・・謝るの?ほとんどあたしが勝手に喋った事なのに?」

 

「・・聞きたいと思ったのはホントの事だしね」

 

「・・調子狂うわね」

 

 

 

「あのさ・・」

 

「何?」

 

「絢辻さんが俺に今日伝えたかった事って全てこの事なの?」

 

「・・・まぁね。手帳を拾われた事で順番があべこべになっちゃったのは確かだけど・・まさかよりによって拾うのが貴方とはね・・まぁ教室で落とした可能性が高かったから教室で待たせていた貴方が拾う確率が高かったのは確かだけど・・流石のあたしも焦ったわ。貴方があたしの手帳を持ってた時は・・」

 

「・・そっかぁ」

 

「・・何よ?」

 

「絢辻(?)さん焦ったんだ・・ちょっと、嬉しいかな」

 

「う・・」

 

―ちっ、しまった。今度はあたしが一言多かったか。

 

本当に調子が狂う。・・でも腹が立つ事にあんまり悪い気がしない。腹が立つのに悪い気がしない、ある意味矛盾している表現だが今の絢辻(?)にはしっくりきた。

 

「呆れるほど素直ね貴方。・・危なっかしい」

 

「そうかな・・?でもこれで今までどうにかなってきたから今更変えにくいけどね」

 

そう言って笑った有人の顔に猜疑心、闘争心、敵愾心の感情が一切感じられない。

そのような感情を抱いても表に出すことなく、ただその場は内包し、別のエネルギー方向に効率よく転換していた絢辻(?)とは決定的に違う所である。

 

だからここは自分も素直になっておこうと絢辻(?)は思った。何せ―

 

 

・・癪だから。

 

 

「ねぇ・・源君」

 

「ん?」

 

「私が何故貴方に『あたし』を見せようと思ったか解る?」

 

「え?」

 

「・・聞きたい?」

 

「うん・・まぁ」

 

 

「よろしい、それでは問題です。私絢辻 詞は何故貴方に本性を見せようと思ったでしょーかっ?」

 

「え、結局問題形式?」

 

「時間制限ありです」

 

「え・・ちょっちょっと待って・・え~っと・・」

 

「チッチッチッチッ・・・・・」

 

「うわぁ・・止めて!その音ひたすら焦るから!」

 

「チッチッチッチッ・・・・・」

 

「えっと・・『楽だから?気を遣わずこき使えるから』?」

 

「ピンポーン」

 

「え・・。そう・・正解なんだ?けど・・少し悲しい」

 

「不正解です」

 

「・・絶対俺の精神殺しにかかってるよね」

 

「正解は・・・

 

 

『これ以上はもう騙しているみたいで嫌だったから』

 

 

でした・・」

 

「・・え」

 

「そして・・

 

 

『もっと仲良くなりたかったから』

 

 

・・でした」

 

 

 

「・・」

 

―ずるいや。・・正解は二つなんて解るわけない。

 

 

相手に正解を答えさせる気は無いイジワル問題としての常套手段。だが―

 

答えなんて大概の場合一つじゃない。

 

そして―

 

「二つだけ」とも限らない。時に答えというものは無数に在る。生まれていくものだ。

 

 

 

「正解を知った後どうするのか・・後は貴方次第です。それじゃあ今日はここまで。また明日」

 

「・・。あ。送るよ」

 

「いいわよ。ここで・・じゃ・・またね源君」

 

そう言ってととっと駈け出し、有人の前に出た彼女は最後にもう一度、有人にくるりと振り向き、右手の白く細長い人差指を立て、

 

「・・ふふっ♪」

 

それをそっと唇に添え、悪戯そうに笑った。

 

 

し~~っ

 

 

有人には初めて彼女が幼く見えた瞬間である。子供のような約束事。

 

 

 

二人だけの秘め事。

 

 

 

「・・うん。また明日、絢辻さん」

 

 

 

 

 

 

 

 

大人だけじゃない。

 

 

子供もまた―

 

 

秘密を守る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




あ~~・・ようやくコレで面倒な(?)や「」を省けるぜ・・。溜息が出ちゃう。










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ルートT 六章 仮面舞踏会










 

7 仮面舞踏会

 

 

 

 

 

 

 

 

2-A教室―昼休み

 

「有人・・ん?本読んでんのか?面白い?その本」

 

やや寝ぼけ眼の国枝が、自席に座って本を読む有人の向かいに座り、頬杖突きながらそう尋ねる。

 

「うん・・面白いよ。読む手が止まらないレベル」

 

「マジか。読み終わったら貸してくれよ」

 

「これ絢辻さんのなんだ。だから一応聞いてみるね。大丈夫だと思うけど」

 

「そうか。解った。くぁ・・・俺眠いから少し寝るわ・・俺が読み終わるまでネタばらしすんなよー・・。・・ぐう」

 

「・・」

 

―「ネタばらし」かぁ・・。・・羨ましいよ。直衛。この小説のオチを知らない君が・・。

 

 

 

 

二日前―放課後

 

絢辻にひたすらこき使われ、満身創痍の有人にいつものように絢辻が話しかける。

 

「お疲れ様。源君」

 

にやり・・

 

そう言った絢辻は既に「あの」絢辻だった。絢辻が有人に本性を晒したあの日から二週間、「彼女」は度々顔を出した。周りに人の居ない頃合いを見計らって有人に肉体労働、嫌がらせ、愚痴とバラエティ豊かな精神的、肉体的暴行を加えている。

 

「お疲れ様・・まだ何か在る?」

 

「ううん。今日はこれで終わり。ノルマは達成できています。お疲れ様」

 

「絢辻さんこそお疲れ様・・元気そうで良かった。今日大変だったでしょ?」

 

そう言った有人自身の惨状を見る。元々体格は細身でどちらかと言えば女性的な有人な上、絢辻から課された肉体労働で現在へにゃへなであるが、それでも尚へらへら笑っており、おまけに彼女を気遣う事を忘れない有人を見、絢辻は呆れながらこう言った。

 

「・・いい奴ね貴方。正直ラクさせて貰ってるわ」

 

「そう。よかった」

 

「・・だんだん腹立ってきた~♪」

 

その台詞に似つかわしくない満面の・・しかし悪戯な笑みで絢辻は有人の顔を上目遣いで覗き込む。仕草は女の子らしく、可愛らしいが彼女の場合、少々危険な状態だ。

 

「ホント今日は勘弁して下さい・・もう体ガタガタです」

 

「ダーメ。・・はい♪」

 

「・・。え?」

 

絢辻は背中に隠し持っていたらしい一冊の本をとりだした。まだ買ったばかりなのだろう。帯がまだついている。近未来的な町を背景に一人の少女が自分の足元から長くのびた黒い影を振り返りながら見ている表紙の絵が印象的だ。書店に平積みされていれば恐らく思わず足を止めてしまうインパクトが在る。

 

「あ・・・コレって・・」

 

「あ、知ってる?」

 

「うん。それなりに話題になってる小説だし・・」

 

「そ。評判がいいだけあって中々面白かったわよ?映画化したらいいなって思っちゃった。こんな良質な作品がもっと出てくれればいいんだけど・・」

 

大抵の人間は絢辻の「表向き優等生」の彼女が小説を見ている絵面の良さだけ切り取り、彼女が普段からどんなジャンル、内容の本を見ているのかまで知ろうとした者は少ない。分厚いブックカバーに包まれた本を読む絢辻の優雅な姿を傍目で見ながら―

 

「はたして彼女は一体どんなジャンルの本を呼んでいるのだろうか?」―

 

それを話のネタにしている者は多い。

 

「ふん。恋愛もの一択だろ。あの優雅な読書姿で切ない、きゅんきゅんする小説を見ているに違いねぇ」

 

「いや、推理物だね。頭のいい彼女の事だ。最後の最後でひっくり返されるような読み応えのある物を読んでいるに違いないよ」

 

「違うね。きっとSFだよ。ボーイ・ミーツ・ガールから始まる壮大な物語に胸をときめかせているに違いないサ」

 

「若いなお前らは・・世相、時代に鋭く切りこんだ硬派なノンフィクションものに決まってんだろうが・・」

 

「い、いいい意外に官能小説とか、たたた耽美物とか?・・げへっげへっ」

 

「・・やっぱキモイなお前・・だが・・」

 

 

 

「「「「・・悪くない」」」」

 

 

・・云々。

 

「あの」絢辻なのだからさぞかし読む小説にも拘りがあるだろうと勝手に思い込んでいる連中は多い。

 

だが実際の所は本人はいたって強い拘りは無く、結構節操無く推理物、ドキュメンタリー、ノンフィクション、純文学、ジャンル問わず気になったものは片っ端から手をつけるらしい。特に「話題作や人気作家の注目されすぎた物には手をつけない」とかの妙な拘りもなく、実際の所、有人の前に出した小説も最近の小説売り上げのTOP3に入るような物であった。

 

「・・ひょっとして俺に貸してくれるの?」

 

「まさか。自慢したかっただけよ。貴方に貸す位なら古本屋にでも売りに行ってさっさとお金に変えた方が百倍マシ」

 

・・きっつ~~。

 

「・・」

 

・・しゅん。

 

流石に有人。露骨に凹む。

 

「・・嘘よ。どうぞ」

 

「ありがと。嬉しい」

 

「・・そう。・・・」

 

―・・ふふっ♪

 

少し落ち込ませて、飴を与えると有人はどうやら絢辻の心の「何か」に触れる表情をするようだ。今まで感じた事の無い動悸と愉快さ、そして少しの苛立ちを彼女に与える。

これを乙女的な「ときめき」ととらえるのは絢辻のプライドが許さなかった。それによってより苛立ちが増幅される。バランスを保つために愉快さが必要になるため、そのための行動が必要になる。

 

まぁ要するに・・再び虐めたくなるのである。

 

「・・あぁそうそう。源君?」

 

「ん?」

 

「犯人は主人公自身で実は主人公が住んでいる世界は仮想現実なの。んで、その表紙に書かれている少女は主人公が作り出したもう一つの人格で主人公は彼女を追っているつもりで実は自分の犯行を証明して行くことになるわけ。298ページにそれらしき伏線があるから。ラストは悲惨よ~~?覚悟しといてね?」

 

簡潔かつ丁寧、そして慈悲も容赦もないネタばらしをかます。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

「んふふ・・」

 

―この表情・・たまらないわね。

 

自分に芽生えた心地よい純粋な気持ちとどす黒い外道さがせめぎ合う感覚を彼女は楽しんでいた。

 

これは本当に世の人間には真似してほしくない行為である。何せ後ほどその小説を楽しんでいた人間は↓こうなるからだ。

 

二日後―現在。眠る国枝の前で「件の298ページ目」を見る有人。

 

―・・・成程・・この博士の一言がヒントになっているわけだね・・絢辻さん・・。

面白い・・面白いけど・・。誰か・・誰か俺のこの小説のオチの記憶を消してください。

 

眠る親友の前で本を読む少年。二人の仲のよさ、気の置けなさを物語る光景であるが、有人の心象は見た目に反して少々悲しかった。

 

 

その時であった。

 

 

 

 

 

 

 

ガァァンッ!

 

「あんたっっっ・・!!ふざけてんじゃないわよっ!!!」

 

「ん・・!?あ・・!」

 

突如クラス内に響いた怒号に有人は本を読む手を止め、反動で本を閉じてしまった。うっかりしおりを挟む事も忘れて一瞬有人は後悔したが、絢辻がご丁寧に何ページかまで教えてくれた大事な伏線のページ周辺を先程まで見ていた事を思い出し、少し悲しい事無きをえた。

 

―298・・略して「にゃんきゅっぱ」。は、はは・・。悲しいほど覚えやすいよ絢辻さん・・。

 

杉内 広大も一発で覚えるであろう語呂の良さ、響き、そして萌え度である。

 

―・・おっとそんな場合じゃない。あの声は・・。

 

「・・・薫か」

 

有人の目の前で寝ていた国枝がのそりと起き上がり、そう呟く。

そして彼が向かう先には既に修羅場と化し、周りの人間が一定距離を開けた空間がぽっかりと空いていた。

その中心に棚町 薫、そして「田村 孝之」というクラスメイトの少年が取っ組み合い・・というか棚町が一方的に田村の胸倉を掴んで制圧しているように見えた。先に手を出したのはほぼ間違いなく棚町の方だろう。

流石に他人から借りた大事な本を持ってあの修羅場に入っていくのは抵抗があるため、有人はまずは国枝に任す。それが今のところ間違いなく最善手だという確信があった。

 

―棚町さんは直に任せておけば大丈夫・・。

 

有人の予想通り、国枝を仲介にした一行の少しの会話の後、怒りを隠せないものの少し落ち着いて教室を去っていく棚町の姿を認め、有人は本を安全な場所に置くと改めて国枝のもとへ行く。

 

「お~お~どうしたのよ。一体」

 

陽気な雰囲気で場を収めようと梅原もそこに馳せ参じた。場はさらに落ち着きを取り戻そうとしている。その中で―

 

―ん?

 

有人と言う少年は拾い物に縁があるらしい。

 

床に明らかに今落ちたばかりであろう綺麗に整えられた紙が目に入った。裏面から見ても綺麗な字が描かれている。手紙だ。有人はそれを拾い上げる。

 

 

絢辻の手帳の一件で懲りていた。「中身は見るべきではない。即持ち主に返すべき」―

 

・・しかし、これを「今の」持ち主―田村に返す事が有人は何とも気が重かった。

先日彼が拾った絢辻の手帳は彼女にとって間違いなく大切なものだった。自分の根幹にかかわる秘密を誰かに握られる事を恐れ、聡明な彼女があそこまで自分を見失うほどに。

 

しかし・・

 

今有人が拾ったこの手紙は「今」のこの手紙の持ち主にとって何なのだろうか?

返す事に何の意味も意義も見出せそうにない。落とした一円玉を親切に拾って持ち主に返すようなものに感じた。

でも・・返さなければならない。これはあくまで有人―部外者である彼の所有物ではないのだから。間違いなく今回の事件の発端になったであろうこの一枚の手紙をどんなに心苦しくても当事者に返さなくてはならない。

 

「・・これ落としたよ。田村の?」

 

拾ったことへの感謝なんか別に欲しくない。ただコレが今の持ち主に返す事にほんの少しでも意味のある事を感じさせる反応をしてくれる事を有人は内心願った。が・・

 

「お。サンキュ」

 

何とも予想を裏切らない空気よりも軽い田村の言葉が有人の耳に突き刺さる。

 

―まぁ・・こんなところだろうね。

 

そして、ふと有人は国枝を見る。

 

―あ。やばい。

 

二、三、田村と言葉を交わし、表向き平静に見える親友―国枝の湧きあがる激昂を感じ取っていたのは現時点で彼の幼馴染の有人だけであった。

そう。この幼馴染の親友、冷静に見えて根は結構熱い。

 

「直!」

 

出来る限り簡潔に、手短に制止を促したつもりだったが無駄だった。

再び派手な音を立て、ひっくり返された多村の机と足早に静かに去っていく幼馴染の友人―国枝の後ろ姿を有人は敢え無く見送った。

 

「・・・」

 

再び混迷気味の教室で有人、そして梅原は早々に落ち着きを取り戻し、ひっくり返された自分の席をあくせく直そうとするが作業が一向に捗っていない田村を手伝う。

派手に散乱した教材、ペンケースから飛び出した筆記具を一つ一つ丁寧に揃えてやる。

 

 

「な、なんだよアイツ!ちょっ、わけわかんねぇ・・・!!!」

 

 

「・・・」

 

その田村の言葉に有人を手伝い、ペンを直していた梅原の手がピタリと止まる。普段は表情豊かな彼にしては珍しく仏頂面をして多村にこう言い放った。

 

「ほんとに解んねぇの?」

 

「え?」

 

「・・いやはや・・厄介だねぇ」

 

呆れたように被りを振る。

 

「そりゃあ田村、花野・・君達が悪いよ」

 

一方作業の手を止めないまま、有人も梅原に同調し、多村をやや哀れむような瞳で見る。

 

「・・は?何が?俺?俺が悪いの?」

 

「おい・・タカ・・」

 

被害の少なかったもう一人の当事者の花野はまだ冷静だった分、空気が読めた。これ以上の恥の上塗りは彼らを四面楚歌に巻き込みかねない事を悟っていた。が、肝心の彼の「相棒」―多村は最早、傍から見ると理不尽で思慮の浅い怒りに支配されていた。

 

「俺の何が悪い」・・この心理状態に陥った人間の耳は基本、人の話は右から左である。

 

ガチャン!

 

有人と梅原が折角直したペンケースを再び自ら床に投げつけ、田村は教室を去っていった。

直前、手紙も叩きつけようとしたが勢いよく振った腕とは裏腹にひらひらと舞い、音なく床に落ちる。

 

「・・・・」

 

「やれやれ・・」

 

梅原がそう言って、バカらしくなったのだろう。首をコキコキと気だるそうに鳴らした。

 

「悪いな梅原。あんまり状況解らないだろ」

 

「まーな。でも今ので大体解りました・・さて、とっとと片付けますか」

 

「やり直しだけどね」

 

「それを言うねぇ・・悲しくなる」

 

「ん?・・・。うわ・・最悪。田村のペンケースに墨汁入ってたみたい・・」

 

にちゃあと黒い粘り気のある墨汁が糸を引いてペンケースから漏れだした。有人、梅原と共に「うひ~」と言う苦笑いの表情をしてお互い顔を見合わせる。

 

「おろ~・・大将・・俺雑巾持ってくるわ・・ちょっと待ってろや」

 

「うん。ごめんな梅原」

 

「・・何で大将が謝ってんだか」

 

困ったように眉毛をしかめてお互いに苦笑いをして梅原が去ったほんの三十秒後の事―

 

 

「・・どうかしたの?源君」

 

 

「・・絢辻さん」

 

中腰で有人の顔を心配そうに覗きこむ少女―絢辻の顔を見て有人はまた笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「成程ね・・」

 

場所を移し、クラスでの事の顛末を有人から聞いた絢辻は頷きながら理解する。既に彼女は素に戻っている。

 

「・・直衛から詳しい話聞いてないけど多分そういう事だと思う。そうじゃないとあんなに直は怒らないし。棚町さんもそう」

 

「・・・で、貴方と梅原君は尻拭いしてたワケ、と。・・で、得があるの?貴方達に」

 

そう質問しながらも既に「無い」前提で絢辻は有人に尋ねていた。しかし当の有人は

 

「あるよ♪」

 

事も無げに微笑んでそう言った。

 

「・・・とりあえず聞いておくわ」

 

「直と棚町さんが気持ちよく教室に帰ってこられるように、迎えてあげるために。・・せめて、ね」

 

今回の件、どう転がろうと後味が良い物にはなりそうにない。ならばせめて自分達だけは普通に振舞って国枝達を迎え入れてあげたかった。

 

「・・天然記念物級のお人好しね」

 

「あはは」

 

「へらへらしてんじゃないわよ。絶滅したいの?」

 

「ゴメン・・」

 

「・・ま、いいわ。手伝ったげる。・・丁度借りがあるあの三人の事だしね。先生への口添えと・・壊れた席の言い訳と・・あとちょっと脅えている子達のケアでもすればいいかしら?」

 

眉を顰め、困った笑顔を絢辻は有人に向け、彼女は自分が立場上やるべき事を既に見据え、簡潔に言葉に出した。

 

「ありがとう」

 

有人もまた愚直に返す。素直な笑顔で。

 

「・・・!・・。・・で、当のその『バカ二人』は何してんの?」

 

だがどうやら絢辻は直前に向けた有人の屈託のない笑顔にちょっとムッと来たらしい。やや口調を低くして棘のある言葉を絢辻は吐く。今回の件の「悪い意味での発端」という丁度いい鬱憤の矛先に絢辻は毒づいた。

 

「・・花野は梅原と一緒に掃除してるよ。田村は・・ゴメンちょっと解んない。どっか行っちゃったから」

 

「・・・」

 

絢辻の組んだ腕の細く白い指先がまるでご機嫌斜めの猫の尾の様に二の腕をトントンと叩く。

 

「その・・」

 

「ぁん?」

 

絢辻は呆れを通り越したせいでやや口調が粗い。多村達はともかく、目の前の少年の貧乏クジさ加減にも呆れているのだ。口調と共に彼女の整った顔立ちも今からカツアゲでもするヤンキーみたいに歪んでいる。有人は財布でも差しだしてとっとと逃げたい気分だが―

 

「・・お手柔らかにね」

 

恐る恐るながらもとりあえず有人はそう言い切った。

 

「チッ・・イライラするわねぇ・・貴方・・悔しくないの?怒っていいんじゃないの?」

 

「直衛も棚町さんももう散々怒ってくれたから。これ以上部外者の俺達が怒ってもね」

 

「・・甘いのね」

 

「はは」

 

「笑わない!イっライっっラするでしょ!」

 

「すいません!」

 

「はぁ・・とりあえず・・一通り用がすんだら田村君は私が探すわ・・」

 

「ど、どうするつもり?」

 

「安心して。どーもしないわよ。上手く言いくるめてとりあえず教室に帰させるだけ。当然、国枝君や棚町さん達を逆恨みしないようにちゃんと反省させた上でね」

 

「うん・・ありがとう」

 

「・・ふふん。冷静にさせてクラスの冷たい雰囲気に晒すの。良いお灸の据え方でしょ?頭に血が上ってる状態では人間反省なんてしないからね。徹底的に冷やして自分がした事をはっきりと自覚させてやるのが一番よ」

 

「まぁ・・そうかな」

 

「それに・・なにかと必要悪を作った方がクラスっていうものは纏まる場合が多いしね・・バカ二人と他のクラスメイト全員の一体化なら良い取引だと思わない?」

 

心底愉快そうに悪戯な有人にだけ見せる表情をし、カラカラと絢辻は笑う。「らしい」とは言え―

 

「悪い顔だなぁ・・」

 

有人はそう言わざるを得ない。

 

「冗談に決まってるでしょ。・・じゃ、行ってくるわ」

 

「あ、絢辻さん!後一つ頼みたい事が・・・」

 

「・・何?」

 

「これ・・」

 

有人は多村が投げ捨てた事の発端になった手紙をかさりと絢辻の目の前に掲げる。差出人は2-Aのクラスメイトであり、棚町 薫の親友である田中 恵子だ。

 

「ん・・手紙?ああ・・これがトラブルの発端になったって奴ね。・・全く・・気の毒ね?こんな扱いをされたばっかりに・・」

 

綺麗に整えられた白い手紙、真摯な思いが伝わってくる綺麗な字が整然と並び、何度も失敗しながら、懸命に書いたであろう田中の手紙を前に流石の絢辻も同情を禁じ得ない表情をする。

 

「絢辻さん。これを・・田中さんに返してあげて欲しいんだ。男の俺が返しに行くのも気が引けるし・・中見ちゃった?って聞かれるのもう嫌だし・・」

 

「貴方・・とことんこういう拾い物に縁があるわね・・」

 

この手紙といい、先日の絢辻の手帳といい、絢辻の姉の残した大量のジュースといい・・有人が拾ってしまうものは何かといわくつきの物が多い。

 

「うん。俺もそう思う。は~~。・・たまには景気よく札束の入った財布でも拾いたい・・」

 

有人がこうぼやきたくなる気持ちも解らなくはない。だが少々・・・軽率だ。

 

「・・へ~~・・アタシの手帳は源君にとって不景気で迷惑な代物なんだ~~。・・ふ~ん。そう・・」

 

有人の失言に絢辻は腐った魚を見る目をし、氷点下の口調で有人にこう言い放つ。

 

「だぁあ~!決してそんな意味では!」

 

自分の失言に気付き、有人は取り繕おうとするがもう遅い。

 

「あ~傷付いた。とっても傷付いた!あ~あ私の手帳、もっと素敵な人に拾ってもらえていたらな~・・しくしく」

 

「俺でスイマセン・・生まれてきてスイマセン・・」

 

腐った魚を見る目で絢辻に睥睨された有人の目が腐った魚の目になる。

 

 

「ぷ。ふふふっ・・・もう、あんまり時間が無いのにいちいちからかいたくなるようにさせないで?・・楽しいから」

 

「・・・」

 

「それじゃ行ってくるわ」

 

「あ・・、絢辻さん手紙!」

 

「それは源君が田中さんに返してあげて?他の事は私が全部上手くやっとくから。それに・・それだけはきっと私より貴方が適任だと思う。国枝君、棚町さん、そして田中さんを私よりよく知っている貴方の方がね。・・任せたわよ?」

 

自信に満ちた眼差しと綺麗に整えられた人差し指で有人を指差し、彼を鼓舞するように絢辻はそう言った。

 

「・・・」

 

絢辻 詞と言う少女―その本性は頭は良いが、同時口も悪い。意地も悪い。客観的に見れば「いい性格をしている」と言えるだろう。それでも彼女はこの様に在る程度正義の味方ではある。いや、有人的にもっと簡単に言い換えるならば―

 

―・・優しい少女(コ)。

 

 

である。

 

 

「・・何よ」

 

「ううん何でも・・・了解。・・本当に有難う絢辻さん」

 

「ううん。・・じゃあ」

 

 

最後にそう言って絢辻はくるりと有人から背を向ける。振り返った彼女の視線は既に「いつもの絢辻」に戻っているのだろう。

 

 

清く、正しく、美しく。皆の知る「絢辻 詞」だ。

 

 

しかし、それはまさに仮面。

有人だけが知る本当の彼女は言わば「ダークヒーロー」といったところだろうか。清濁両方持ち合わせ、どちらも必要とあれば行使する。それ故純粋な「正義」とは言えない存在。

 

 

でも、それでもいい。彼女が周りに及ぼす好影響は本質的には何も変わらない。

 

 

今、有人にはただたた彼女が仮面を装着し、変身したカッコいい仮面ヒーロー・・

 

 

 

・・いや、失礼。

 

 

 

「仮面ヒロイン」に感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・うん。大体の事は解りました。源君ありがとう・・」

 

田中 恵子は有人から手渡された手紙と事の顛末を彼から聞き、複雑な表情をしながらも嬉しそうに笑っていた。

もちろん「嬉しい」と表現するのには疑問は残る。想いが受け入れられないばかりかこんな手酷い仕打ちを受けたのだ。

 

が、

 

それでも今の彼女には今回酷い失恋をした事実よりも、彼女の隣や背後で自分達を支えてくれた人達がはっきりと見え、「その人達の方が遥かに自分にとって大事である」という事が解った事が「嬉しい」と笑ったのだろう

 

「へへっ♪」

 

特に言えることも無かった有人がその田中の笑顔とお礼にどれだけ救われたか、解らない。そして・・田中の笑顔に応えて笑った源の笑顔に少なからず田中も救われていた事も。

 

「源君?・・直と棚町さん、いつ帰ってくるかな?」

 

「盛大に・・いや何時もみたいに普通に迎えてあげないとね」

 

「・・そだね」

 

絢辻に綺麗に言いくるめられ、冷静になって戻ってきた田村が正気を保ったまま落ち着いた教室内で無言の針のムシロにさらされたのとは対称的に

 

 

―お帰り。

 

 

有人、梅原、そして田中を初めとする友人達は国枝と棚町の二人を温かく迎え入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




その日の放課後―

「絢辻さん」

「ん・・?源君?何かしら?」

「今日は色々有難う」

「ううん。気にしないで」

本性の彼女であれば、この台詞に「フン。借りを返しただけだから。確かに返したわよ?」と、でも付け加えるのだろうが教室では無理だった。



「それで話は変わるんだけどさ・・絢辻さん?」

「ん?」

「今日・・皆でビリヤード行く事になったんだけど・・良ければ絢辻さんもどう?」

「ビリヤード・・?私も行っていいの?」

「勿論」

「そうね・・。あ。・・でもダメだ・・。今日私実行委員の休養日じゃないし・・」

「・・実は高橋先生に先に話通してみたんだ・・一応了解してもらえたんだけど」

「え・・」

意外な源の強引さに驚きの表情を見せて絢辻は目を丸くした。

「ちょっと・・何て言うか・・さっき高橋先生をヨイショして・・持ち上げたら『解ったわ!今日は皆で遊んでらっしゃい!』だって・・・」

「何時の間にそこまで手を・・。案外黒いのね?・・・源君って」

「絢辻さんに言われたくない」―有人は危うく言いかけたその言葉を飲み込んだ。今の絢辻側に言えない台詞があるならば、有人側にも決して言えない台詞がある。



「・・ふふ。解った。高橋先生に確認が取れたら・・お邪魔させて貰おうかしら」






二時間後―


校内をかけずり回っている2-A担当教諭―高橋は息も絶え絶えで呟いていた。

「しまった・・せ、生徒にノセられるなんて。・・し、知らなかった!絢辻さんがいないとこんなに大変だなんて・・。う、恨むわ~・・源君」














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ルートT 六章 仮面舞踏会 2










吉備東の町はずれ、倉庫街にて―

 

 

 

「ここ入るのって初めてだな・・」

 

有人はそう言った。少しその口調には緊張がある。人通りの少ない裏路地に有人達一行の目的地であるその店は在った。

 

この周辺は元々妙な店が多い。ここは海外を含め、各地からの物資を海路より迎え入れる船着き場が近くに在り、船の乗組員等がつかの間の憩いの場として訪れる場所である為、バーや飲み屋、レトロなゲームセンターやスロット、マージャン等のちょっとした娯楽施設を併設している店が多い。

 

今日彼らが訪れたこの店もその一つだった。夜間は完全にバーとしてアルコールもだしているが、一応この時間帯であればソフトドリンク飲みで学生も込みで一般開放している。とはいえその店構えはあくまで酒を飲まない、飲んではいけない高校生では流石に入店を躊躇いそうになるバーである。

 

「・・中学の時よく行ってたビリヤード場が潰れてたから仕方ないとはいえ・・御崎?・・ホントに大丈夫なのか?ここ・・?」

 

「た、多分ね?」

 

どうやらここを紹介したらしい小さな少年―御崎 太一がやや心許無さそうにやや長身の少年―国枝 直衛の質問に答える。

 

「・・ここさ~怪しい外人がいつも出入りしてるって噂を聞いた事があんだけど・・」

 

「オイオイ!・・こっち女の子三人いるんだぞ。大丈夫かよ・・」

 

今日も黒猫プーに振られ、傷心のまま一行に参加した杉内 広大の不安そうな問いに江戸っ子弁の少年―梅原も流石に動揺を隠せない。2-A男子、有人を初めとした彼ら五人の少年は彼らの背後にて談笑している少女達―絢辻 詞、棚町 薫、そして田中 恵子の三人に目配せしながらこのバーを紹介した御崎を不安そうに詰問していた。

しかし、御崎はその梅原の質問に関しては明確に―

 

「それは大丈夫」

 

そう否定した。

 

「そうなのか?」

 

「その人噂によると男専門らしいから」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

具体的すぎる御崎のその言葉に他の男性陣四人は閉口した。

 

「違う意味で安心できねぇじゃねぇか・・」―そう言いたげに御崎を恨めしそうにじっと見る。

 

「ちょっと!そんな目で見ないで!?こ、これはあくまで噂だよ~?」

 

と、御崎は笑顔で取り繕った。が、四人の御崎に対する疑念と猜疑心に溢れた視線が消えない。

 

 

 

「どーしたのよ?で・・?入るの?入らないの?」

 

痺れを切らしたように癖毛の少女―棚町が男性一向を促し、。それに田中と絢辻の二人も続いた。女性陣の方がこういう所は度胸が据わっているようだ。

 

「・・。まぁ昼間はお酒を出さないお店らしいし、ウチのガッコの生徒が出入りするのを見たって人もいるしね・・この時間帯であれば学生さんも受け入れてるって事は確かだよ。ほら。周り見ても結構学生さんが入ってる店在ったじゃない?アンティークショップとか小洒落た雑貨屋さんとか・・」

 

「・・まァ確かに。でも雑貨屋とかとバーはまた違う気がすんだよな。・・そもそもその『出入りしてた生徒』ってどういうタイプの人だよ?不良とかじゃないだろうな」

 

「ふ、普通の人だよ・・皆もよく知ってるあの・・・・その・・」

 

「・・。その・・?」

 

 

「・・森島先輩」

 

 

・・でた。「森島 はるか」。

 

「よ、よりによってフリーダムな人だね・・太一君・・」

 

「ん~~そもそもさ?ミサキ?・・俺聞きたいんだけどお前何でこんな店知ってるの?・・おまけに噂の怪しい外人がその・・『男専門』だってことを知ってるし・・」

 

「・・!!」

 

―・・広大ぃ!しっ!!

 

「そこは聞いちゃダメだろ・・大事なとこだけど」と、御崎を除く他三名は杉内を内心責めた。しかし、それに対する御崎の返答に三人は再び戦慄することとなる。

 

「・・姉ちゃんがよく行ってる店でさ・・」

 

「どのお姉さんだ」

 

御崎の不安そうな解答に間髪入れずに国枝がそう問い詰める。空気が急激に張り詰めた。御崎家三姉妹の三択―開始。

 

「双子の・・」

 

・・二択。残念ながら御崎家三姉妹で一番まともな長女が早々に脱落。

 

「二子(つぎこ)さんか!?それとも双子(そうこ)さんか!?答えろ!御崎!?」

 

「・・二子姉ちゃんです・・・」

 

―かぁ~~・・・。

 

梅原、源、国枝は内心頭を抱えた。森島 はるかよりさらに悪い。初めて三人が今年の夏、御崎の自宅に遊びに行った際、たまたま居合わせ早々に三人に電話番号を聞いてきた「あの」節操なしである。

もともと同性の友人が少なかった弟の御崎 太一が珍しく三人もの同性の友人を家に連れてきた事の喜びと同時、年中彼氏募集中の興奮した彼女の絶・倫理状態には梅原すらも引いた。

見た目は結構美人な女子大生であり、訪れた三人にとって嬉しい事には違いは無いのだが流石に「物事には順序と許容範囲というものがあるな」と三人は思い知った。

 

 

御崎のフォローの言葉は悉くアレな方向に行っている。フォローの役目を果たせないまま、友人達の更なる不安を煽っていた。

 

 

「何?何の話?」

 

ただ一人この場の男性陣で唯一、御崎の家に遊びに行った事がない杉内は事情が解らない。

 

「・・知らなくてもいい事だよ広大・・」

 

―「知らない」って幸せなことなの・・。ビュ・・い、いや広大・・。

 

「えぇ~?!俺だけ仲間はずれ!?」

 

 

「あの~話が立て込んでいる所悪いんだけど・・」

 

一向に実りの無い会話に終始している男性陣に申し訳なさそうに絢辻が話に割り込んだ。

 

「あ、絢辻さん・・何かな?」

 

「棚町さんが田中さんをひっぱって入っていっちゃったんだけど・・大丈夫かな」

 

「「「「「・・・」」」」」

 

男子一同、沈黙。

 

 

「・・・あのバカ!!!」

 

「あ。直、待って!」

 

「み、源君、待って!!この割引チケット持っていくと安くなるらしいから、はい」

 

・・御崎はどこかマイペースだ。何だかんだ結構余裕があるのかもしれない。

 

「おい、大将達!!俺を置いてかないでくれ!!」

 

「ちょっと!結局何の話だったんだよ!?御崎のお姉さんってどんな人だってんだよ!!待てってお前ら!おい!!」

 

 

 

「・・男の子って馬鹿ね~」

 

 

くっくと笑って絢辻も彼らに続く。その足取りはとてもご機嫌そうであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっはは~面白いね!それってアメリカンジョークってやつ?」

 

「でショ?HAHAHA」

 

「ふふふ・・」

 

 

 

その光景に後追いの男性陣五人は閉口する。暫くしてようやく国枝がツッコミを入れた。

 

 

「おい・・薫」

 

「ん?あ、やっと来たわね。遅いわよ?」

 

既に週3位のペースでここを訪れる常連客のようにバーカウンターに座りながら寛ぎ、一人の正真正銘の常連客くさい男と雑談していた少女―棚町の姿が一行の目に映る。

その隣で田中も意外にその場に和気藹々と溶け込んでいた。彼女は引っ込み思案に見えて案外度胸が在る。まぁそうでもないと棚町タイプの少女とは親友で居られないのだろうが。

 

―・・田中さん。薫に毒されてるな・・。

 

国枝は内心そう呟いた。性格が対照的な為、いいコンビと言えるかもしれないが、このまま棚町と付き合っていればいずれ田中をシャレにならないトラブルにいつか巻き込んでしまうのではないか、という危なっかしさに国枝は内心へなへなと膝を突く。

 

「う・・」

 

キリキリ胃が痛み、倒れ込みそうな国枝を両サイドで有人、梅原が支えた。

 

「・・直。しっかり」

 

「大将。俺達が付いてる・・気をしっかり持て」

 

「ありがとよ・・」

 

 

 

 

「あ。この人はマイクさん」

 

いつそんな暇があったのか解らないがカウンターに座った三人は既にお互い自己紹介済みらしい。棚町の紹介に合わせて隣に座っていたフェミニンなピンクのシャツをさらりと羽織った長身の男が棚町よりさらに癖の強いヘアスタイルの頭を振り、ぴっとご機嫌そうに手を上げ、にこやかに一行に話しかける。

 

「HI!こんにちは!GUYS!ワタシはマイケル・ギャラガーと申シマス。CALL ME マイク!HAHA(→)HA(↑)HA(↓)!!」

 

その男はいかにも日本人の考えそうな「間違ったアメリカ人のイメージ」を憎いほどに彷彿させる男だった。

 

 

「・・胡散くせぇ」―男性陣のマイクの第一印象は完全にその一言で一致していた。

 

 

「マイクさん留学生なんだって。でもすっごく日本語上手で最初びっくりしちゃった。すっごくお話も面白いんだよ」

 

 

どちらかと言うと人見知りするタイプの田中が珍しく異常なほど溶け込むのが早いのが更なる男性陣の疑問を煽る。「そういう」タイプの女の子に警戒、または異性を感じさせないほど瞬時に場に溶け込ませる妖しい男。つまり・・

 

―・・「本命」は違う。そう言う事にならないか?

 

そんな男性陣の一歩引いた警戒をよそに肝の据わった棚町はずいずいと話を進め始める。

 

「あ、そうそう。マイクさん?アタシらちょっとビリヤードをしに来たんだけどさ・・大丈夫かな?」

 

「OH!ビリヤード!?ナァイスなチョイスね!!OK!OK!ワタシ、ここにマスターにカオ利くから話を通してみるネ。高校生ウェルカムよ」

 

マイクがこの店の常連客で在る事は決定。さぁいよいよ・・本当の意味は世間の認識とは少々異なる言葉らしいが・・

 

「煮詰まってきた」ぞ・・。ぞぞぞ。

 

「やったぁ!有難うマイクさん!ウチの男どもと違って話が早くて助かるわ」

 

棚町は男性陣の内心の葛藤などお構いなく、騒ぎ立てる。マイクとはお互い「くるくるパーマ」同士だけに気が合ったのだろうか。

 

「プレイ人数は何人デスか?テルミーハウ、メニー♪」

 

「エ~~イとっ♪八人よ。台は・・二台は貸してほしいんだけど・・大丈夫?」

 

「ダイジョブね。ハチニン・・Wellwell・・オンナノコ三人に・・・。オトコノコ・・五人、ネ・・?」

 

その台詞の最後の方がまるで吐息を吹きかける様な熱く静かな語気を感じる。そして―

 

「カオルサンのおトモダチ・・とってもナイスガイ多いネ・・Huhuhu・・」

 

「そう?だってアンタ達!よかったわね!」

 

能天気に笑う棚町とは対称的に彼らを見る男―マイクの笑顔は妙に熱っぽく、そして瞳は蜃気楼でぼやけるような情熱的なゆがみが感じられる。

 

~~♪Ah..ha...♪

 

ご機嫌よく口笛を鳴らした後、トドメにその瞳が熱っぽく生温かいゆっくりとしたウィンクを「バチィ・・・!」と、した瞬間、「ナイスガイズ」を金縛りにした。

 

 

―コイツだ!

 

 

「男専門の怪しい外人」―そのデマであってほしい噂のあまりにも早い残酷な実在の裏付けに心の中で涙が止まらない男子陣を尻目に棚町、田中の二人はマイクに連れられて店内へ。

 

・・行くのか。イカされてしまうのか。・・新次元に。

 

 

「「「「「・・・・」」」」」

 

ずるずる・・

 

男性陣全員の足取りは鉛の如く重い。

 

 

ジュークボックス、スロット、ダーツなどを取りそろえた店内にカウンター、そこには身なりのいいバーテン、程良く薄暗い照明の明かりなど正直この店の雰囲気は悪くない。高校生にとっては入店するのに少々躊躇われる店構え、そしてイメージだが入ってみると意外に落ち着く。アルコール類の提供も時間指定であり、今の時間帯の客層は比較的よさそうだ。が―

 

店内の奥の階段の向こうに今回の目的地―五台ほどのビリヤード台が設置されていた。

・・寄りにも寄って店内の奥の奥。RPGのダンジョンで「逃げる」コマンドが無い様なものだ。

 

・・知らなかったのか?〇〇からは逃げられない・・・!!!

 

 

 

「あ、あのマイクさん?」

 

そんな中、唐突に意外な人物がマイクに声をかける。絢辻だった。

 

「ワッツアップ?My lady?」

 

少しスカした仰々しい動作でお辞儀をしつつ、マイクは今度は「パチッ☆」程度の軽い適度なウィンクをする。女性に対してはマイクは非常に紳士的だ。

 

「ふふっ・・あの・・化粧室どこにありますか?」

 

「OH・・・ワッツ・ざ・ミ~ン?『ケショウシツ』?」

 

「あ。『restroom』のことです」

 

「OH!アイシーアイシー。アソコね・・見えマスか?」

 

マイクは合点がいったように微笑んで指差す。指した先にはトイレの札が見えた。

 

「あぁ!札が見えました。有難うございます!」

 

「どういたしマシテ!さぁヤロウども!フォローミーね!HAHA(→)HA(↑)HA(↓」」

 

「「「「「・・・」」」」」

 

敗残兵のように「ナイスガイズ」はぞろぞろと重い足取りで店内に入っていく。その最後尾を歩く、他の男性陣のご多分に漏れず足取りの重い有人に絢辻がひそりと声をかけた。

 

「・・聞いた?・・あそこがおトイレですって?源君?」

 

「・・・?ああ・・。ありがとう」

 

今は「萎え過ぎて」とても尿意どころでは無いのだが有人はとりあえず絢辻に礼を言う。しかし、絢辻の本意は違った。

 

「・・源君?」

 

「何?」

 

 

「・・今日源君がもしマイクさんと一緒におトイレに行ったら・・私達、・・その・・・少し距離を置きましょうか・・出来るならば永遠に」

 

 

「・・・」

 

「あ、いいえ!別に源君が手を洗わないなんて私は思ってないのよ!?それに私は『そういうの』に理解が無いわけじゃないから。愛の形って人それぞれだって思うから・・ね?」

 

「・・絢辻さん?」

 

「でもね?ごめんなさい・・その・・やっぱり汚いから・・不潔だから・・」

 

見た目、口調は何時もの絢辻でも完全に有人だけが知る彼女だった。一見神妙で気遣う様な表情だ。が、彼女の瞳は完全に笑っている。そしてその目はこう言っていた。

 

 

 

―んぷぷぷ~~♪愉快過ぎて死にそうよ♪源君❤

 

 

 

 

「・・・・」

 

 

―・・・・。

 

 

 

 

 
















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ルートT 六章 仮面舞踏会 3








「では・・気を取り直しまして・・第一回、ビリヤード大会を行います」

 

一同―いぇ~~~♪

 

ルールはナインボール。白玉でブレイク後、台上に残った玉を数字の低い順から落としていき、最終的に九番ボールを落とした側が勝利となる初心者でも解りやすいオーソドックスなビリヤードのルールである。

 

絢辻、田中の二人はビリヤード未経験者の為、ファールなし。一ターンに二回打てるハンデを設ける。

有人、梅原、国枝、杉内、御崎、田中、棚町、そして絢辻の八人を二人一組の四チームに分け、二つの台で二チームが勝負し、負けた側が勝った側のプレイ代とジュース代負担とする。

 

負けられない戦いがそこにはある。

 

「ルール説明は以上。じゃあ・・チーム分けするからくじ引いて。同じ番号の奴がペアだからよろしく」

 

八人が手下げ袋に入れたノートの切れ端に番号を書いた簡易のくじを引いていく。

 

「よっっっし!!!俺がNO1!みんな!俺の言う事をお聞き~~!」

 

梅原がくじの時点で勝負が決まってしまったかのように高々と片手をあげて「1」と書かれたくじを啓示した。

 

「王様ゲームじゃねぇ。・・ってことは俺も一番だから梅原と俺がペアって事か」

 

杉内が自分の番号を見ながらそう言った。

 

「な、何ぃ!?・・よりによって野郎とペアとか・・どこまで女運がねぇんだ俺って奴ぁ!」

 

「失礼な・・」

 

チーム1 梅原×杉内ペア

 

 

「えっと・・二番って誰かな・・?」

 

先程の梅原とは対照的に控え目におずおずと少女―田中が「2」と書かれたクジを上げる。

 

「お。俺だ。田中さんよろしく・・」

 

「く、国枝君。よ、よろしくね?あ、足引っ張らないように頑張りマス・・ふふ・・」

 

正直初々しくていい。

・・これだよこれ。くじによって思いがけずペアになった男女の健全な反応。微笑ましいったらありゃしない。

結構高い確率で女性陣とペアになれるこの大会で野郎ペアという文字通り「貧乏クジ」を引いた梅原はちょっとした嫉妬のあまり「ひゅ~ひゅ~」とでも二人を冷やかそうとしたが直前、御崎と杉内が肘を梅原の鳩尾(みぞおち)にいれ、それを制止する。

 

「おうっ・・・!あ、あああ・・。な、なにすんでぇ・・おめーら」

 

一時的に呼吸困難に陥った梅原は、まるで手塩にかけて育てた子供に突然刺された親のような困惑を込めた息も絶え絶えに二人にそう言った。

 

「ダメだって・・梅原君」

 

「ウメハラ・・ここは押さえろ」

 

「うう・・だって、だって!私、悔しいんですもの・・」

 

「・・ハンカチ噛むな。気色悪い」

 

「梅原君・・あれ。棚町さん見て・・」

 

「・・目ぇ笑ってないだろ」

 

これこそ本当の。混じりッ気なしの「嫉妬」なのだろうと少年三人は学んだ。

 

チーム2 国枝×田中ペア

 

 

「ふぅ・・お次は僕だね。えっと僕は三番・・ってことは・・」

 

気を取り直して御崎は自分のクジを見た後、残ったペア候補達を見る。残るは三人、有人、絢辻、そして・・怒れる棚町。

 

―源君が来ますように・・!源君が来ますように・・!!源君が来ますように!!!最悪・・せめてあや・・―

 

 

「アタシが三番!よっし・・御崎君・・やっるわよぉ!!・・。仇なす者全て叩きつぶしたげるわ・・」

 

 

「・・」

 

―ファー・・・。

 

打倒国枝×田中ペアに燃える鬼―棚町 薫と御崎 太一がチーム3です!

しかし・・「鬼に金棒」と言うには萎縮した御崎では適当でないでしょう。

「鬼に爪楊枝」あたりが適当でしょうか!

 

チーム3 棚町×御崎ペア

 

 

「・・と、いうことは残るは・・」

 

「チーム4は自動的に源×絢辻ペアに決定だな。・・畜生・・残り物には福があるなオイ!それに比べて俺ときたら・・ははっ・・ミジンコだ・・。プランクトンだ・・。ミドリムシだ・・。大腸菌だ・・」

 

「・・お前時々すんげぇ嫌な卑屈さ出すのなウメハラ。・・それに終わった事をネチネチと・・女々しい野郎だ」

 

勝手に凹む梅原に流石に杉内もゲンナリしてきた。

 

チーム4 有人×絢辻ペア

 

以上、4チームが決定。後に更なるくじ引きで対戦カードを決める。それまで各チームは暫しの練習タイムに入る。経験者は勘を取り戻しつつ、未経験者はビリヤードのルールや基本スタンスをペアの相手から習う時間が設けられた。

田中は国枝、絢辻には有人と綺麗に経験者、未経験者がペアになったのは幸いだった。

 

 

「実行委員ペアかぁ・・平和そうで羨ましいよ・・」

 

絢辻、有人の二人に向かって悲しそうに御崎はそう言った。相棒が「吉備東の核弾頭」そして既にやや発火気味の棚町となってしまっては彼の気持ちは解る。

 

「ふふ・・負けて元々だしね。楽しくやりましょ。御崎君?ね。源君?」

 

「そうだね」

 

 

 

「御崎君~~!?なにくっちゃべってんの!?練習するわよ!勘取り戻さなくっちゃ!」

 

 

一喝するように御崎を呼ぶ棚町の声が響く。かなり彼女は本気モードである。全てはあのペア―国枝×恵子のKKコンビを潰す為。

 

「は、はいぃいぃ・・今いきますよぅ~」

 

「ガンバ・・太一君」

 

「お互い頑張りましょう。御崎君」

 

御崎が去っていくとチーム4の二人、絢辻と有人の二人が残された。

 

 

「さてと・・源君はビリヤードの経験はあるのね?」

 

「うん一応ね。中学の頃直衛とか梅原とか・・あと棚町さんとはよく行ったから」

 

「そうなんだ・・」

 

「遊びだけどね」

 

「・・ってことは皆の実力在る程度知ってるのね?」

 

「うん・・皆どっこいどっこいだと思うけど・・少なくとも直と棚町さんは俺より上手いと思う」

 

「へぇ・・そう」

 

「ま、気楽に行こうよ。太一君が渡してくれた割引券とマイクさんの口利きでかなり安くしてもらえたし例え負けて奢ってもそんなに・・」

 

 

「・・・は?なに言ってんの?」

 

 

有人の「温い」言葉に絢辻の顔色がくわっと変わる。

 

「当~然勝ちに行くわよ?最初から負けに行くなんて私のプライドが許さないわ」

 

まるで今からバットを持ってどこかカチコミに行く不良学生のように、手に持ったキューの中心部分を掌の上でトントンさせている本性の絢辻があらわれた。

 

「・・・」

 

―・・げ。出た~~。

 

有人は思い知る。自分の今の立場が御崎と大差ない事を。彼も祈るべきだったのだ。

―太一君が来ますように。太一君が来ますように。太一君が来ますように。

と。

 

「ほら・・源君?さっさと私にビリヤードの基本とルールを手短に教えなさい。適当な事を教えたって私が後で調べれば・・私が言いたい事は解るわね?」

 

「・・俺の知りうる出来る限りのことは伝えます。だからお手柔らかに・・」

 

「よろしい」

 

「・・ほ」

 

「・・勝ったらね?勝てばどうだっていいわ。負けたら・・例え貴方が正しい事を私に教えていようがいまいが・・これも後は解るわよね?」

 

―ファー・・・。

 

この時、有人は理解する。三人の女性陣のくじで当たりは田中一人であった事が。

女性陣の誰かとペアになれなかった事を嘆いていた梅原を有人は今、本当に羨ましく思った。

 

 

 

 

数分後・・

 

 

「成程・・大体解ったわ」

 

「理解が早くて助かります。俺もそんなに大して知ってるわけでもないけどね」

 

「性別、年齢、体力差関係なく出来るスポーツで、ハンデをしけば初心者でも経験者に勝つ事が出来る・・おまけにボールの軌道を計算し、無理をするのか、それとも安全に行くのか等のテクニック以外の判断力、思考力、想像力も必要になる・・程良く単純で程良く複雑な奥深くていいゲーム性ね」

 

「うん・・それは同感かな・・」

 

いち女子高生の感想としてどうかと思うが。

 

「・・でも経験者に勝つ事は可能でもやっぱり難しい事は確かね・・やっぱり得物を扱うスポーツってどうしても馴れは必要になるから・・」

 

絢辻はキューを手に馴染ませ、フォームを細かく確認し、感覚を掴もうとする。

有人が今日中に自分なんか追い抜かれてしまうんじゃないかと思うほど絢辻は真剣だった。

 

「でもちょっと苦手な所もあるかな・・」

 

「『苦手』・・・?絢辻さんが?」

 

「・・私にだって苦手なことぐらいあるわよう・・」

 

珍しく絢辻が口を尖らせ、有人の心外な反応に拗ねたようにそう言った。

 

「・・ゴメン。でもやっぱり意外かな?例えば・・どんな所が?」

 

「この体勢よ。前屈みになって的玉とキューの先端を見据えながら集中して構えると背後が全く疎かになってスキだらけになることよ」

 

「え?そんなこと?まさか・・」

 

「馴れないのよね・・その『そんなこと』が」

 

「俺には解んないな・・」

 

「でしょうね・・。・・。ねぇ?私が構えてる時・・源君が後ろに立っていてくれないかな?」

 

「・・え?」

 

「それなら真後ろから私のフォームも確認出来るでしょ。一石二鳥よ」

 

「え・・でも・・」

 

「貴方なら・・その・・安心だし・・」

 

「え・・」

 

「・・もう!!解ったら私の後ろに居て!」

 

「う、うん」

 

有人はやや複雑な心境ながらも少し嬉しかった。普段から本性を隠して振舞っている彼女にとって意図しない場所、知覚できない場所に誰かの目線がある事、またはその可能性がある事が本能的に我慢できないという事なのだろう。その領域にあえて自分を置く事を選んでくれた絢辻の言葉が有人は少し嬉しかった。

 

 

「・・どう?」

 

「え」

 

―う~~ん何て言えばいいのか・・

 

・・いい眺めかと。

 

「・・・?」

 

「あ、ごめん」

 

―あぶね。・・今の言葉にしたらヤバかった。

 

「・・・」

 

 

 

 

「・・どう。こんなもんかしら?」

 

「うん・・そんなもんだと思う」

 

「そう。・・あ・・!」

 

「・・!?どうかした?」

 

「あ・・っ!・・!私ったら・・!!いたた・・!」

 

ビリヤードの基本フォーム―前かがみの姿勢のまま絢辻はいかにも「やっちゃった」的な苦しそうな声を上げる。

 

「あ、絢辻さん!?」

 

―何処か怪我でも・・・!?

 

そう想って有人が絢辻に背後から更に近付いた時だった。

 

「・・・♪」

 

―かかった・・。甘いわね・・源君?

 

有人は「射程」に入った。

 

 

ずむ・・・!

 

 

勢いよく引いた絢辻のキューのグリップの先端が有人のみぞおち・・否。それよりやや「下」の「とある部位」に深々と突き刺さった。

 

「・・・!!!!!?????」

 

有人は悶絶。崩れ落ちる。

 

「きゃあ!!みみみ源君!?源君大丈夫!?ごめんなさい!ごめんなさい!」

 

「ぐぐぐっぐっ・・・」

 

泡でも吹きかねないレベルの激痛である。マジで有人は起き上がれない。

 

「どうしたの・・?」

 

「おーいゲン!大丈夫か!?」

 

「大将!しっかりしろ」

 

「有人・・おい・・」

 

友人四人が駆け寄ってきてくれたがその励ましに応える事が有人は出来ない。

 

―・・かか、か「片方」潰れた・・。

 

 

「ご、ごめんなさい・・私が練習していたら源君がたまたま後ろに居たみたいで・・ああ!ごめんなさい!!」

 

 

「・・・!????」

 

―いや・・「後ろに居て」って・・・。言ったよね?

 

「おいおい・・気をつけろよゲン・・」

 

友人達の温かい励ましの言葉に少しの

 

―自業自得かよお前・・。

 

―それは不注意だったね。

 

―お前らしくないな・・。

 

―そりゃあ・・可愛い子の後ろに居たいっていう気持ちは解るけどな?大将。

 

・・以上の様なニュアンスの呆れが混じる。視線も心なしか違う意味の哀れみが混ざりだした様な気がする。

 

―ひ、ひどい・・。ひどいよ・・。

 

 

「本当にごめんなさい!源君」

 

絢辻はひたすら有人に謝り続けていた。

 

・・・そう。

 

声量、響き、発音。全てにおいてその「声」は謝罪の声として完璧だった。

 

そう。

 

・・・あくまで「声」としては。

 

 

 

 

 

・・にやり。

 

 

 

―♪

 

 

有人を取り囲んだ友人達の合間から悪魔のような笑みで脆く有人を見下ろし、天使のような声を出している絢辻の姿がそこにあった。そして―

 

カタン・・

 

何気なく、そしてさりげなくキューを新しいのに取りかえる所業もまた悪魔だった。

 

 

 

―これもうダメ。汚いから。えんがちょ~~♪

 

 

 

―・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートT 六章 仮面舞踏会 4





















 

 

 

 

 

 

 

 

一通りのルール説明と初心者二人の練習を終えた後、四チームが二台に分かれていざ対戦が始める。前回先述したとおり、負けたチームは対戦相手にジュース代とマイクの口添えで異常に安くなったとはいえ今回のビリヤードプレイ代を負担しなければならない。

絢辻と前回・・「負傷」した有人のチームの対戦相手は―

 

「よっし頑張ろう棚町さん!!ほら~~ははは~~」

 

「・・・む~~」

 

「・・棚町さんってば・・」

 

―僕が何したってんだよう・・。

 

・・テンションダダ下がりの棚町と御崎のチームとの対戦である。自ら直々に田中、国枝ペアを潰したかったらしい棚町はやや恨めしそうに癖っ毛を指先でくるくるとこねる仕草をしつつ、もう一つ借りたビリヤード台で対戦を開始した田中×国枝ペア対梅原×杉内ペアの様子を見ていた。

 

とは言ってもこの棚町×御崎ペアは二人はどちらもビリヤード経験者。ハンデがあるとはいえビリヤード初心者の絢辻と対戦前に「負傷」した有人の二人には不利な面は多い。

 

「じゃあ・・先攻は絢辻さんのチームでいいよ。ね?棚町さん」

 

「いいっすよ~」

 

御崎の申し出に棚町は少し投げやりにそう言った。

 

「じゃあ・・源君お願いね」

 

「・・・頑張ります」

 

ズキズキするこか・・もといみぞおちを抱えながら有人はビリヤードのスタート―「ファーストブレイク」の為に構える。台の中央に三角形に並べられた九つの的玉のやや右よりを狙って集中したが・・背後が妙に気になる。

 

「・・・」

 

死角から「絢辻がまた何かをしてくるのではないか?」、と不安になっているのだ。絢辻は「背後をとられるのが苦手」だと言っていたが現在、有人はその気持ちが良く解った。

 

―知らなかった。バックをとられる事がこんなに落ち着かない事だったなんて・・。

 

しかしその有人の疑心暗鬼・・それも絢辻の策略の範疇だった。

 

カンッ

 

「・・・あぁあああああ~~~~~!!!????」

 

有人は自分でも驚くぐらいの奇声を発した。

 

疑心暗鬼に陥っていた有人は最早絢辻が自ら手を下すまでも無かった。有人のファーストショットはブレイクエースどころか的玉達に一切触れることもなく明後日の方向へ飛んでいき、台の外へ逃避行。そして有人の放った白玉は―

 

コツン・・

 

「・・・ぁん?んんっ・・?」

 

もう一つの台で既にゲームを開始していた友人―国枝 直衛の靴に触れる。

 

「あれ。白のボール・・え?え?こっちの台にはちゃんとあるよね・・?なんで?」

 

隣の田中 恵子と一緒に怪訝そうに顔を見合わせる幼馴染の親友の顔が何とも居たたまれない。

 

「ごめ・・っ。直。田中さん・・」

 

「・・え?有人?お前?」

 

有人、「玉」を突かれて「玉」を突き損なう。・・笑えない洒落だ。

 

「・・・」

 

―不覚・・!

 

「え・・・源君?」

 

「みなもっち・・いくら久しぶりとはいえ・・っていうかファウルになるの?コレって・・。予想外すぎて・・どうしたらいいの?」

 

相手チーム御崎、棚町の二人からすら困惑した反応が出る。その視線に

 

―・・穴があったら入りたいです。

 

状態の有人に絢辻が近付き・・

 

「ドンマイ・・源君。気楽にやりましょ」

 

何時もの絢辻が何時ものように彼女らしい励ましを有人に行う。

 

「そ、そだね。・・じゃあブレイクは僕らがやるよ。棚町さんから行く?」

 

「そうね!じゃあアタシからいくわ!・・・さ~~って気を取り直しまして・・せいっ!!」

 

気持ちを切り替えて棚町は軽快な音を立てて鮮やかなブレイクを決める。五番に次いで二番も入る見事なショットだった。

 

「よっし!出だし好調!」

 

「いいね!」

 

「棚町さん・・すごーい」

 

ぱちぱちと手を合わせつつ控え目な仕草で絢辻は素直に棚町の手際を賞賛。成程。ココに居るメンツで流石にトップクラスな実力者だけは在る。

 

「へっへ~絢辻さんに褒められると嬉しいわね!どんっどんっ行くわよ~~?」

 

そう言って棚町は上機嫌そうに次の一番も片手間に沈める。運動神経のいい彼女らしく勘を取り戻すのがとりわけ早い。

 

「すごい・・ね?源君」

 

未だに塞ぎこむ有人に絢辻が頻繁に話しかける。相手チームの棚町、御崎の二人にはあまりにも不甲斐ないオープニングショットで落ち込んでいる有人をチームメイトの絢辻が慰めている構図に見えるだろう。

 

・・実際には絢辻は棚町、御崎ペアが次の的玉を沈める為の相談をしている隙を縫い・・

 

(ひそひそ・・源君?今貴方さ~『穴があったら入りたい気分』でしょ・・?でも残念ね~・・ビリヤード台のポケットは流石に小さすぎて源君『でも』←(ここ強調)入れないわ~)

 

・・などの辛辣な言葉攻めが続いている。

 

「・・奴はもうダメだな」

スポーツでは何らかのミスで完全に気落ちし、立ち直れない状態になった選手に対して諦めの感情を以て周りの人間がこんな風に言い放つ場面がままある。

この状態に陥った場合、まずいいパフォーマンスは期待できない。

有人は今この状態である。絢辻は自らの悦楽の為に自らのチームメイト―有人を潰した。ビリヤードの勝負などどうでもいい。ただ自分が楽しめればプレイ代位構わない・・。そう考えたのだ―

 

と。「有人は」そう思っていた。だが・・有人は理解していなかった。絢辻があくまで「勝ちに行く」と言っていた事を。

 

―さぁてと・・。

 

 

相手はビリヤード経験者で実力ははまればこの中では一、二を争う棚町。と、これまた経験者で棚町とは対称的に控えめだが堅実な御崎のペアである。お互いに個性を邪魔しない良ペアだ。よくよく考えれば有人・絢辻ペアには相当に勝ち目は薄い。

十回やって有人のペアが二回勝てばいい方だろう。それも有人が万全であればの話である。

経験者の有人を在ろうことかチームメイトであり、今日初めてキューに触れた初心者の絢辻が自ら潰した時点で勝敗は火を見るよりも明らかだった。もとより低い勝率を絢辻は自らさらに低くしたのである。

 

しかし・・

 

この一見全くの悪手に見える絢辻の行動こそ布石だった。絢辻は小声で有人の耳元に囁くようにこう言った。

 

「ふふふ・・まぁ黙って見てて・・?」

 

彼女は口で有人を責めながらもその瞳だけはビリヤード台から一切目を離していなかった。

突き、弾かれ、転がる手玉、的玉の軌道をじっと見続けていた。

 

 

絢辻は今、急速にこの「ビリヤード」と言う競技を吸収している。

 

 

一方―

もう一つの台―梅原、杉内ペア対田中、国枝ペアは白熱していた。

 

「・・よしっ。そんなもん田中さん。上手上手・・」

 

「うんありがと!・・解った」

 

国枝はパートナーの初心者田中に設けられたハンデを利用し、実に嫌らしい戦法を行っていた。二回白玉を突けるハンデを利用した巧みな白玉の位置のコントロールである。

ターンが相手ペア―杉内、梅原に回ってもまともに打てる状況にしないのだ。二回打てる田中の立場を利用すればそんな位置に白玉を配する戦法は不可能ではない。

その結果、梅原、杉内ペアはファウルが立て込んでくる。そこにターンが回ってきた国枝が攻勢を仕掛ける、という算段だ。

 

「うわっ・・またファウルだ・・」

 

梅原、杉内が自らのファウルによって悲鳴を上げる声が響く中、最後はなんとズブの素人田中が・・

 

「よし・・その方向で白玉の中心をそっとつくだけでいいよ。力まなくていいから」

 

「う、うん・・!」

 

緊張しながらも真面目で素直な田中は傍らで目線を合わせつつ、的確なアドバイスを送ってくれる国枝の言いつけどおり、触れるようにして白玉をぎこちない手つきで押し出した。

 

「あっ!だ、ダメだぁ、ああぁぁあああ・・ごめんなさ~~~い!」

 

「・・・!ん!?いや!」

 

「・・え?

 

お世辞にも完璧とは言えないショットだったが田中の素直さ、真面目さにビリヤードの女神も応える。ラッキーなクッションが起き、狙いの九番は無事ポケットへ、しかし打った白玉も九番が入ったポケットに共に入ってしまうかとその場に居る全員が息を飲んだ直後―

 

ピタリ・・

 

幸いにもその動きをピタリと止めた。

 

「・・やったね」

 

「や・・・やったああぁぁ・・!」

 

田中が珍しく嬉しそうに大きな声をあげた。

 

「いや~~やられたぜ・・」

 

「あぁ・・ま、いっか。田中さん全然凹んでなくて良かった良かった」

 

梅原、杉内の負け犬両名も嬉しそうな田中を見て苦笑いした。

 

 

 

「あっちは勝負付いたみたいね・・へー・・けーこ勝ったんだ?」

 

チョークでキューの先端を手慣れた動作で磨きながら棚町は少し嬉しそうに、はしゃぐ親友を見ていた。自分達の方の対戦が開始時点で在る程度勝敗が解りきっていた事が少し棚町のモチベーションを落ち着かせており、いつもの棚町特有のがつがつした勝負へのこだわり、負けず嫌いの精神を彼女から奪っている。

 

「よっし!!こちらもそろそろ勝負付けないとね・・」

 

そう言って残る棚町は台上に残された八番、九番を取りにかかる。さぁ、仕上げだ。

 

「・・・ていっ!・・・あ!あ・・あちゃ・・」

 

完全なイージーミスだった。残り玉が少なくなり、ほぼ勝負が決まったかに見えた中でまさかの棚町のファール。彼女の放った白玉は的玉の八番に触れることなく台上を転がった。

 

「あっちゃ~・・失敗、失敗」

 

何時もの軽いノリで苦笑いする。

 

「じゃあターン交代だね・・そっちのチームは・・絢辻さんの番だよね」

 

「・・私?」

 

「頑張って~。残るは八番、九番!連続で落としたらそっちの勝ちよ~」

 

棚町は他人事のようにそう言った。

 

「・・・」

 

―計算通り。

 

そんな事は百も承知だった。絢辻はこの時を待っていた。元より彼女は勝利以外のものはすべて棚町にくれてやるつもりだった。

 

ビリヤードを楽しむ事、自分のテクニックやプレイに酔う事、そして九番を除く全ての的玉も・・。

 

要するに彼女は九番を沈める事、即ち勝利以外眼中になかった。

 

技術、経験、勘の良さで勝負すれば絢辻がビリヤードで棚町にかなうワケが無い。例えハンデがあろうとも勝算は高が知れている。それは棚町の練習風景、そしてここまでの棚町のプレイを見た上で絢辻は百も承知だった。所詮自分は今日が初めての完全ビギナー。経験者と実力を比べること自体どうかしている。

 

おまけに土壇場の、追い込まれた時の棚町 薫という少女の勝負強さは侮れない。ことスポーツや芸術分野では絢辻を喰う潜在能力、センスを彼女は持っている。

しかし―

その中で絢辻は棚町のある種の勝負事の「甘さ」を認識していた。

 

実力の拮抗した相手、もしくは自分以上の相手、追い込まれないと彼女は独特の「手抜き」を犯してしまうという点だ。棚町は負けず嫌いではある。しかし、逆に「勝ちすぎている」という状況もまた殊更嫌う。

そうなると・・彼女は相手に恐らく無意識にチャンスを与えている。

高い基礎能力を持ち合わせながらも普段運動部に所属しておらず、勝利の為に非情に徹する事が無い故だ。それが今のファール、つまりイージーミスに当たるのだ。

 

実力が拮抗していたり、不利な状況であれば勝ち切る事を前提に彼女は闘う。この状態の彼女に勝てる人間はそういない。だが自分より明らかな格下、在る程度自分が合わせてやらなければ勝負を楽しめない相手には相手が勝つチャンス―即ち自分が負ける僅かな可能性を無意識に作りだし、与えてしまう事。コレが棚町の最大の弱点である。

 

絢辻はそれを見抜いていた。

勝率として低かった物が思いがけず高確率での勝機が手元に転がり込む。まともにやるより遥かに高い勝機が現に今、生まれているのである。

 

このビリヤードの「ナインボール」というゲームの特異性がそれを可能にする。

過程がどうあれ最後の九番を沈めればいいというルール。

 

まさしく「終わりよければ全て良し」。

 

実力、経験、途中経過、全て相手に劣ろうとも最後の九番さえ掠め取ればいいというこの特殊なゲーム性が。

 

この状況を作り出すために絢辻は有人を潰し、自分のターンの際の集中力よりまずは他人のプレイ、ビリヤードという競技を見ていた。

的玉が台上に無数に乱立する前半戦の様相より終盤の的玉が少なくなった状況の後半戦の方が遥かに初心者に優しいし、複雑なテクニックも要求されない。

 

台上にはたった二つの的玉、片方は正真正銘のウィニングボール。つまり今この時、一日千秋の思いで待った絢辻の絶好の勝機の時だった。

 

―ファールは嬉しい誤算だったわ・・棚町さん?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そっちはどうな感じよ・・お・・大詰めで絢辻さんか」

 

国枝がまだ勝負中のチーム3とチーム4の台をひょっこり覗き込み、集中している絢辻の姿を見て声を徐々に低くしながら絢辻のターンを見守っている他三人に声をかける。

 

「勝ったみたいだね・・直」

 

「やるじゃない。恵子と一緒で勝つなんて・・」

 

目をうっすら開けて悪戯そうに微笑みながら棚町はそう言った。少し冷やかすようなじっとりとした雰囲気はあるが、冗談の範囲内ではある。

 

「何にしても田中さんが元気そうで良かったね」

 

御崎がそう言って幼く笑う。

 

「・・そうね」

 

向こうの台では既に奢ってもらえたジュースを両手に持ち、屈託なく笑って杉内、梅原の二人と談笑している田中の姿があった。それを見る棚町の目は優しくなる。

そう。あんな胸糞悪い事なんて笑い飛ばして忘れてしまえばいい。

 

「・・。で、御崎、薫。お前らのチーム結構ピンチなんじゃねぇの?」

 

棚町の無意識の手加減を見抜いている国枝はそう言った。

 

「うーん・・そうなのよね。勝負所でうっかり私がミスしちゃってさ~」

 

そう言ったものの棚町はこの勝負に負ける気がしていなかった。

このゲーム、今のところ沈んだ的玉の七つの内、六つ沈めたのが棚町・御崎ペアであり、今のところ源、絢辻ペアが沈めたのは玉を突かれ、玉が一時的不能になった有人が痛みをこらえ根性で沈めた五ターン目の六番のみである。

絢辻は今のところ一つも決めていない。まだまだ感触や感覚を確かめる様なたどたどしい初心者らしい手付きだった。その初心者の絢辻がいきなり勝負どころで連続で八、九番を沈める事は到底棚町、そして御崎には想像出来なかった。

 

 

―が、

 

 

コトン・・

 

 

 

「へ・・?」

 

「・・・お?」

 

「あ」

 

控え目で低い音が響き、四人が会話していた目の前の玉の排出口に八番が転がり込む。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

 

「やった!初めて入った!入ったよ!源君!きゃ~~~っ♪」

 

 

絢辻はきゃっきゃっと喜び、飛び跳ねながらチームメイトの源に駆け寄っていく。あまりにも意外な「逆王手」に流石に棚町、御崎も微妙な顔をしつつ―

 

「へぇ~・・」

 

「あらら・・すごいや。さすが絢辻さん」

 

記念すべき絢辻初ゲットをとりあえず複雑な表情で祝う。

 

「やったよ!源君!入った!」

 

無邪気な彼女らしくないはしゃぎ様に有人も反応に困った。

 

「や、やったね~」

 

―・・ん?・・はっ!?

 

有人ははっと我に帰る。有人の目の前に居る絢辻の目が、有人のイマイチな反応に今でも「ちっ・・・」とでも舌打ちしそうな色を浮かべ、他三人の目を盗んでこう語っていた。

 

 

―もっと喜びなさいよ。わざとらしいでしょ。

 

 

と。

 

有人は今ようやく解った。理解した。絢辻がこの瞬間を完っ全に狙っていた事が。

つまり、この絢辻の「あざとさ」を他の人間から見れば完全なビギナーズラックに見えるようにするために有人は今、完全にフォローを要求されているのである。・・失敗すれば当然身の安全は保障されない。

 

後から考えても有人はこの時の自分の演技力は大したものだったと思う。

見守っていた彼の友人達を騙している様で罪悪感は募ったものの・・

 

―ゴメンな皆・・俺、・・まだ生きたいんだ。あいどんわなだい。

 

 

一通り喜び終えた後、「良いでしょう。・・中々鬼気迫る迫真の演技だったわ。貴方もワルね❤」と言いたげに絢辻は満足げに有人を悪戯な視線で讃えた。

 

―いや・・実際に「危機迫って」ましたし・・。

 

未だそこに在る危機―絢辻 詞を前に有人はそう思う。

 

 

 

 

「それ沈めたら勝ちだよ。絢辻さん」

 

最後の的玉―黄色に輝く9番ボールを前に、ゴルフのパットラインを慎重に読む、「勝てるタイプ」の女子プロゴルファー顔負けの集中力を発揮する絢辻に一旦呼吸を促すように有人は一声かける。

 

「・・っと!・・ふぅ・・。・・ありがと」

 

中々タイミングは絶妙だったらしい。絢辻は唐突に空気を吸う事を思い出したように一息吐き、珍しく素直に有人に礼を言う。

 

「いや」

 

「・・そっか。・・この九番沈めたら勝ちなんだよね?・・ようし。

 

・・頑張ろう」

 

―・・・ん?

 

そう言って構えた絢辻の言葉に有人はいつもの取り繕った感じを受けなかった。

自分に言い聞かせる様な絢辻の小さくも力強い言葉。自分を何時も偽る彼女だが、そこに在る根底の気持ちに嘘偽りは無い。

 

「・・源君。狙いどころを教えて」

 

・・こういう所がこの少女のしなやかさ、柔軟性を表している。自分に絶対の自信を持っていても決して経験者や格上の人間の意見を蔑にしない。現状の自分のキャパを超えたと判断したならば素直に相手の意見を聞き入れる。

 

こんな風に頼られたら応えたくもなる。有人は構えた絢辻の視線に合わせて上体を屈め、

 

「・・そうだね。サイドポケットに流し込むなら薄めに右にやや緩めに当てる。向こうのコーナーポケットなら左斜めに厚く、やや強めに打ち抜くのがベストだと思う」

 

「・・後ろから見てて。微調整のアドバイスをお願い」

 

「・・え」

 

少し有人は戸惑った。その有人に絢辻は小声で返す。

 

「大丈夫。もうふざける気は毛頭ないから。・・決めるわよ?」

 

不敵に横目で笑ってそう言った。嘘偽りはない。

 

「うん。・・それにまだハンデもあるし。気負わないで大丈夫だよ」

 

「ダメよ」

 

「・・そう?」

 

「うん。『ハンデが在る。次が在る』。・・そんな半端な気持ちじゃダメ。常に『後がない、チャンスは一度きり』・・それぐらいのつもりで行かなきゃ失敗するわ。少なくとも得るものはない」

 

「・・絢辻さんならそう言うと思った」

 

「ふふん♪」

 

 

二人のやり取りを見ていた対戦相手の御崎は

 

「・・・。何かあの二人・・カッコイイね?」

 

そう隣に居るパートナー―棚町に一声かける。しかし―

 

「・・・」

 

棚町からの返答がない。

 

「ん・・?どうかした?」

 

「ゴメン・・御崎君。やっば・・私そういや今日持ち合わせないわ・・・」

 

結構意外な衝撃的事実を棚町は彼女の財布を覗きこみながらぼそりとそう言った。

 

「え・・!?この中で最も高所得のはずの棚町さんがいきなり何言いだすの!?」

 

「いや~~あっははは・・この前さ?・・御崎君と相談して見に行ったあの店の新作の可愛いコート・・遥かに予算オーバーだから保留してたんだけど余りにも忘れられなくってさ・・後日」

 

「え!?あの『今年はコレ着てちょっと勝負したいな~』とか言ってたアレ!?ひえ~~」

 

女性物の服は時々マジで目玉が飛び出るくらい値段がおかしい物が在る。それもフツーにお手頃商品に混じって爆弾が紛れ込んでいるモンだから質が悪い。

 

「結果この有様ですわ・・」

 

棚町の財布がチャリンと軽い音をたてる。御崎が覗きこむと驚く事になんとさ、札が無い!?そして音からして小銭も相当軽量級だ。

 

「どうすんの!?多分、何か雰囲気的に絢辻さん決めちゃいそうだよ!?」

 

「・・じと~~」

 

「え?え?コレ僕が立て替える流れ!?」

 

「極端に申し訳ない」

 

「うそ~!?もう!・・せめて国枝君との事ケリ付けてから買ってよ!!早とちりもいいトコだ・・下手すりゃ企画倒れの無駄な巨額先行投資だよ!?( ̄Д ̄#)ぷんすか」

 

流石の御崎も毒を吐く。

 

「うっさいわね!!」

 

棚町のフライング行為に御崎ペア崩壊。

 

 

 

 

 

 

 

「・・どう?」

 

「・・サイドポケット狙いだね。いい判断だと思う」

 

「角度は・・?」

 

「もう少し右・・かな」

 

「・・どう?」

 

「・・うん。いいと思う」

 

「・・。解った。・・有難う」

 

そういえば「この」絢辻にお礼を言われたのはこの時が初めてではないだろうか。後ろ姿での素っ気ない礼であったが何となく有人は嬉しかった。

 

コツン・・

 

有人が少し距離を離したと同時に絢辻が白玉を弾く音が響く。結果は見るまでも無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 








帰り道―

有人は絢辻の一歩後ろ、距離を保ったまま彼女と歩数を合わせる。

「ん~・・・遊んだ♪遊んだ♪正直楽しかったわ。ビリヤード」

夕暮れの空を仰いで何とも心地よさそうに絢辻はぐ~~っと伸びをする。

「そう?喜んでもらえてよかった」

「おまけにあんなに楽しんだのに無料なんてね?棚町さんには悪いけど・・」

「・・。なんだ。気付いてるんだ?」

棚町の持ち合わせが足らず、今日の所は勝った絢辻は自分のプレイ代をとりあえず支払っていた。「楽しかったからいいのよ」と表向き絢辻は棚町に言っていたが・・。

「多分返してくれると思うわ。負けた上に罰を見逃してもらうなんて棚町さんのプライドが許さないだろうしね」

本性の絢辻は結果的に今日のプレイ代が戻ってくるだろう事を半ば確信して、悪戯そうに笑った。

「・・ね。源君?ビリヤードって人間関係に似ていると思わない?」

「・・・?そうかな?」

「うん。方向性や、角度、強弱を考えて接触してその手玉、的玉を弾いてどの方向へ向かわせるか、どの位置に収めるのか計算する事・・少ない手数で無駄なく最大限の効果や成果が得られるように模索する事・・人間関係に通じるところがあると思うわ」

「ははは」

源は細い眉をしかめ、苦い顔で笑った。

「何よ・・文句ある?」

「どちらかと言うとそれは『人間関係』どうこうと言うより一歩か二歩踏み込んだ『人心掌握やコントロール』って感じかな。まぁ、絢辻さんらしいけど」

「あ、絢辻さんらしい!?ひ、ひどい・・・!まるで人が他人を手駒にして操るのを楽しんでいるみたいに・・ひどいわ!」

有人の言葉に絢辻は両手で口を覆っておもいっきり悲しそうに眉を歪めた。

「え、そんな悪意に満ちた解釈止めてよ!そんな意味で言ったわけじゃ・・」

「私・・、私そんな、そんな子じゃないもん!!うぇ~~ん!源君なんて死ねばいいのに!!」

「・・!?絢辻さん!?」


「・・そのとおりよ」


「へ?」

けろっとした顔に一瞬で戻って絢辻は有人にそう言った。自分の胸に手を当てて言葉を続ける。

「対象者が私の言葉、態度、仕草に触れてどう動き、また何を思い、考え、汲み取り、私の思い通りに動いて結果を出す。それが回り回って私のもとにちゃんと私への賛辞と評価がついてくる算段をする事・・。これを楽しく思えない、快感だと思えない様じゃこんなボランティアみたいな事やってられるもんですか」

「あはは・・・」

「一見私は何の見返りも無く周りの人間の為に働いているように見えるかもしれないけど、お生憎様・・私は貰うものはちゃんと頂いています。御馳走様~♪」

絢辻は合わせた両手を傾かせ、有人を覗きこむように上目遣いで見ながら愉快で悪戯そうに笑う。美しいが有人が今まで見た事の無い絢辻の一面だった。

繊細で儚い華奢な女の子の微笑みでは無く、しなやかでしたたかな少女の微笑みだ。
だが話の内容、表現は幾分過激であるが有人は不思議と悪い気はしない。
彼女が自分達の為にしてくれる行動は例え裏にそのような彼女の些細な悪意や打算があるにしても許されるべき範囲にきっとある。
彼女は間違いなく気丈に前を向いて懸命に歩いている人間の一人。そんな彼女のような人間のちょっとした悪戯心や悪意が許されない世界に何の意味があるのだろう。
そしてそんな人間にほんの少しかもしれないにしろ、ちょっとした寄り道と普段彼女が押し隠している茶目っ気、悪戯っ気、可愛い悪意の拠り所を与える事が自分に出来るならそれもまたいいと有人は考える。

「絢辻さん」

「ん?」

「鞄貸して」

「え・・?いいわよ。今日のは重いから」

「はいはい。早く」

「・・・。強引ね」

重しのとれた絢辻は急に身軽になった体を持て余すような戸惑いを一瞬見せて、少し疑い深そうに有人を無言で見た。対称的に絢辻の想い鞄によって体の重心を傾かせながら有人は絢辻を見て

「・・本当に重いや」

そう言って笑った。その鞄の重みと共に絢辻が普段抱えている物―その「重み」の断片を僅かに感じ取って。

「・・何かその台詞私が体重重くなったみたいに聞こえるんですけど・・」

少し口を尖らせて絢辻はやや照れくさそうに文句を言った。

「え?絢辻さん太ったの?それは確かめてみないと・・」

「セクハラ発言禁止!」

「あたっ!」

軽量級ながらキレのある絢辻のローキックに膝が折れて一瞬下を向いた有人の目に次に映ったのは愉快そうに笑いながら舞う夕日を背にした絢辻の姿だった。






絢辻 詞。




仮面の少女。舞う。




















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ルートT 七章 源 有人という少年

源 有人

身長174

体形は細め。スタイルと表情と独特の雰囲気から似合う服が多そうなイメージ。
垂れ目で左眼の下にほくろがあり、主人公ズで唯一の近眼。普段はコンタクトで時折眼鏡をかける。

AB型

家族構成 両親 兄 弟

一人称 俺 自分

常に口角をあげ、優しく笑っているような少年。垂れ目に相まって独特の不思議な魅力を持つ中々の美少年だが、パンキッシュに髪を箒のように掻き上げて一見ひょうきんなキャラクターをしているため、気付く人間は少ない。
薄茶色の瞳はとても優しい光を帯びており、相手に無意識の安心感を与える。
成績は中の上から上の下、絢辻、国枝に継ぎ、茅ヶ崎とどっこいどっこいといったところ。が、副教科は安定している。音楽、美術、家庭科は強い。
目立つ事は無いが一定の信頼は確保している優等生。かといって嫉妬ややっかみを買うほどずば抜けて優れている所も無いので嫌われる方が難しいキャラクターをしている。そこがヒロインの絢辻の複雑なイライラのもとらしい。
ひょんなことで絢辻の「アレ」を知り、戸惑い、気圧されながらも彼女を公私でフォローする優しいサブ男。

実は結構な隠しごとを絢辻にしていたりする。





8 源 有人という少年

 

 

 

 

―・・本当に変わった男の子だと思う。「情けは人の為ならず」を地で行く男の子だ。

それを言うなれば普段の自分自身も決して違いは無いのだけど・・決定的に自分と彼が違うのは最悪「得るものが無くても別に構わない」と思っている事だろう。

 

いや・・それは違うかな。・・「得るものが無い」と言うより「得たい物が全く私と異なっている」という事かな?

その点が私と彼の類似点であり、また逆に相違点でもあるだろう。出来る限り広範囲の人間に自分の評判、評価をあげておき、自分を有利な立場に置きたい私、一方些細で、狭い範囲で殆どの人間が知覚しなくともそれを認識してくれるのは親しい、近しい人達の中だけで構わないと思っている彼。

 

そして最近、その中に私を置いてくれた彼。

 

・・優しい彼。

 

私の本質を唯一知りながらも未だあのへらへらした笑顔で傍に居てくれる。

・・本当に変わった男の子だと思う。

 

居心地は悔しいけど悪くない。それ故に少し最近私は彼に甘え過ぎている様な気がする。

 

散々虐めた。苛めた。・・楽しいから仕方ないじゃない。

 

全く・・自分を知ってもらいたいから悪戯で自分をアピールする子供みたいじゃない?自分のことながら呆れるわ。でも、楽しいから仕方ないじゃない?

 

・・だから不安になる。「このまま」は楽しい。悪くない。別に「このまま」でも構わない。

 

でも。

 

「このまま」はこの世界でもっとも持続が難しいものの一つ。

この時期の自分達の立場なのだから尚更だ。多くの分岐点がこの先訪れる学生の立場なのだから。

 

ただでさえ私は・・。私には・・。

 

・・。

 

 

なら!少しでも進んでみようか。踏み出してみようか。知ってみようか。

 

踏み出さないまま望まない変化が訪れてそれを後悔するぐらいなら、自分から踏み出してその結果後悔した方がきっとはるかにマシよね?

 

 

・・・。

 

・・私の嘘つき。

 

ホントは後悔なんてしたくない癖に。うんざり。

 

 

「後悔が美しい」なんて所詮綺麗事よ。「後になったら笑い話に変わる」って人は言うけれどそれは結局傍観者の意見。

その場、その時々に存在するのは紛れもない当事者である「自分自身」なんだから。・・実際苦しいし、辛いに決まってる。

 

 

・・・。それが何?まったく何を戸惑っているんだか?

散々苦しい、辛い事なんて体験してきたじゃない?一見優雅に振舞っていても「優等生」は辛いのよ?裏では地味でキツイ作業の積み重ねなんだから。

白鳥は優雅に水面に浮かびながらも水面下では必死に足をばたつかせてるの。

別に着飾る必要も、誰かに巻いてもらった餌を群がってついばむだけのハトとは違う!

そんな事を繰り返して乗り越えてきた百戦錬磨の私が今更こんな事で・・。例えもし「結果」が思わしくなかったとしてもそれなりの仕返しをして鬱憤を晴らせばいいだけの話じゃない。

 

いつものように堂々と!自信を持って行けばいいのよ!うん!!

 

 

・・・。

 

・・・!!

 

 

 

コレ苦しさと辛さの種類が全く違う!!

 

 

 

 

ゴン!!

 

 

 

「あいたたたた・・あ~アホらしい」

 

学校では彼女のイメージ上絶対聞かれてはいけない、発してはいけない発言をして絢辻は勉強机に自ら叩きつけた額をさする。漫画風に例えるなら「しゅうう・・」と額から湯気が出ている様な光景である

 

残り後一問―絢辻が今夜、自分自身に課した数学の設問のノルマをようやく済ませそうだった安堵が余計な思考に絢辻を導いた。

 

―・・ええいペナルティよ。あと二問追加。

 

彼女の本性は他人に厳しい。が、自分にもこれまた厳しい。気を取り直すようにぐるぐると腕を回し、絢辻は―

 

―ふぁいとぉ~いっぱ~つ・・・(棒)。

 

・・吉備東校で恐らく男女合わせて五十は下らない彼女のファンを一発で幻滅させる様なノリで眠気が差し込み始めた自分を彼女は鼓舞する。そして自嘲気味にふっと笑い―

 

―・・・。こんな私の一面を知っても笑い飛ばしてくれるのは源君だけかな・・。

 

 

「ふふっ・・・。・・・。はっ・・・!!!~~~っ!!!」

 

 

 

ゴン!!

 

 

 

その夜、さらにその上二問追加して絢辻はいつもの就寝時間からかなりの時間を経過してからようやく眠った。結果翌日、彼女は何時もよりかなり遅い登校時間と赤くなった額を有人やその友人達に少し心配された。

 

 

 

 

 

 

 

源 有人

 

19XX年 4月19日生まれ

 

血液型AB型

 

家族構成 両親、兄、弟の五人家族の二男。性格は温厚で淡泊。友達は同性が多く、他のクラスの人間にも顔が広く、大抵の人間と仲良くなれる。というより嫌うのが難しい。ある程度気も遣える事から生徒、一部教師とも仲がいい。

成績は中の上位、特に得意教科も無ければ逆に苦手教科も無い。副教科は体育を除けば得意な方。総合的に「優等生」と言えるだろう。

視力は0.2以下で常にコンタクトレンズ、眼鏡もかける事があるらしい。

所属部活なし。高校では特定の課外活動に参加するのは創設祭実行委員会が初めて。

 

周りの評価

 

「いい奴」

「目立たないけど居ると安心する」

「クラス内の活動でもちょくちょくいい意見とか的を射た意見を言ってくれる」

「普段おとなしい奴程怒ると怖いって言うけどアイツに関しては例外だと思う」

「・・意外に美形かも」

「あんまり男の子達と一緒に居ないでたまには私達とお話してほしいよねー♪」

「・・って~か源君もそうだけどさ~国枝君とか梅原君とかといつも一緒に居るあの棚町って女?・・あいつマジ目障り」

 

 

「・・・ふーむ・・」

 

―掴みどころの無い人ね・・。

 

もっと自分を出せば十分化ける立場に居る。もっと甘い蜜を吸うことだってできるはずの立場だわこれは・・。惜しい。

 

おでこに貼った保冷用のシートをさすりながら絢辻は自分の頭の中に既にインプットした有人のデータを反芻する。

 

―とりあえず私の周りに居るべき人間としては及第点。とりわけ図抜けて優れた所が無い、我もあまり強くないから衝突を出来る限り避ける傾向があるところも私の主義に合う。

・・反面結構頑固なところもある。譲れない所はちゃんと言葉に出して時に私ですら納得させる。

 

ふぅっ・・。

 

・・まぁいいでしょう。何もかも思い通りになる事は楽しい。でも時には思い通りにならない人間がいる事の楽しさを彼は実感させてくれる。敵では無く、味方の中に居る思い通りにならない存在というのもオツだ。

 

・・合格よ。

 

 

そんな言い訳をしながら絢辻は自分の中の「決心」を固めた。上から目線のようで下から目線。相反する二つの複雑な感情を抱えながら絢辻は席を立つ。

 

 

 

有人は教室の自分の席で彼の友人―国枝と一緒に居た。・・丁度いい。国枝ならいきなり絢辻が有人を連れだしても特に騒いだりしないだろう。

 

「源君・・?」

 

「ん・・?ああ絢辻さん」

 

「ちょっといいかな?」

 

「うん。どうぞ?」

 

いつものように垂れ下がった薄い茶色の優しい目で絢辻を招き入れる有人―その目に映った緊張している面持ちの自分の姿を絢辻は確認する。

 

「その・・ここじゃ何だから」

 

「・・・俺席外そうか?」

 

国枝が気を利かせて席を外そうと既に半身を起こしかけた所を絢辻が手で制した。

 

「あ。大丈夫よ。創設祭の件の話でここじゃ説明が難しい話ってだけだから・・ごめんなさいね国枝君。源君をちょっとお借りして・・いいかな?」

 

「お構いなく」

 

予想通り何の抵抗も邪推な勘繰りも無く、国枝は有人を絢辻に渡してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何しているの・・?」

 

「ん・・?」

 

教室を出た後、絢辻の後ろに続く有人がストレッチやら何やら忙しなく落ち着かない動作をしているので絢辻は少し鬱陶しそうに有人を本性の方の目で睨んだ。

 

「ちょっと落ち着きなさいよ・・鬱陶しいわね」

 

「ごめん・・絢辻さんが創設祭の件で俺を連れだすとなればどんな肉体労働を強いられるかと思ったら・・何か落ち着かなくて・・あは」

 

「・・・」

 

「普段の私はそんな印象なのか」と考えると絢辻は少し気分が沈んだ。

いつもなら「あーそんなこと言っちゃうんだ?そんな事言うならお仕置きね」と言わんばかりに倍返ししてやる所なのだが今日の絢辻の気分はそれを許さなかった。

曲がりなりにも前日、自分の有人に対するいつもの行為に対して反省とも後悔とも取れる様な申し訳なさを感じ、今も引きずっている彼女に有人のその言葉は少し酷だった。そんな彼女の違和感を有人も感じ取る。

 

「・・?絢辻さん今日どうかした?」

 

「・・何が?」

 

むっとした表情で有人を睨みつつ絢辻はこう言い返す。すると有人は少し困った顔で目を逸らした。

 

「いや・・何時もならもっとこう・・その・・あ、やっぱりいいです」

 

「言・い・な・さ・い」

 

「・・。反撃が来なくて逆に怖いです」

 

「・・・。ハッキリ言うのねン・・」

 

普段彼を萎縮させている事実、絢辻の行為に在る程度の恐怖を感じている有人の事実、

その裏付けが取れたことによって少ししゅんと肩を落として絢辻はそう言った。

 

「ごめん・・」

 

「嘘よ」

 

「へ?」

 

事実内心は少し凹んでいたのだがそれが全くの演技だったかのように絢辻は振舞った。

元々その程度の評価をされる覚悟はできている。自分の本性を客観的に冷静に見れば自分の事ながら相当に悪い意味で「いい性格をしている」と思う。予想を裏切らない結果が出たことを過剰に嘆いても始まるまい。自分は事実こういう人間なのだから。

それでもチクリと刺さった何かを覆い隠して絢辻は悪戯そうに笑い、有人をいつものようにからかって笑った。

 

「ふふふ・・ちょっと趣向を変えてみたのよ。たまにはこういうちょっとした変化球も必要でしょ?」

 

「え・・遊ばれたの?・・俺」

 

「そゆことね」

 

「・・・ん?『趣向を変える』?それって・・」

 

「ん・・?何よ?」

 

「趣向を変える・・つまり今のままじゃいけない・・つまり飽きないようにする工夫、つまり・・」

 

「・・キんモイプラス思考は止めなさい。今からでも容赦なくいつものようにイジリ倒す・・いえ・・イジリ嬲り殺してもいいのよ?私はそれでも一向に構わないんだけど?」

 

「じょ・・冗談です。すいません調子に乗りました」

 

「全く・・」

 

「ところでさ・・絢辻さん・・」

 

「・・今度は何よ」

 

「結局俺って何すればいいの?さっきここ通ったと思うんだけど・・」

 

「・・・!」

 

―・・・。あ!

 

やっぱり我ながら今日の自分はおかしいと絢辻は思う。有人を誘い出したのは良いのだが肝心の何を話すか、何から切り出すかを全く考えていなかった。大工が家を建てる際、一室を作りながらもそこから出入りするドアを作らなかったようなものだ。入口もなければ出口もない。その中を絢辻はぐるぐる回る。

 

―やば。どうしよ。

 

・・どうしよ。

 

収まる所の無い身のやり場をどうする事も出来ず、結局チャイムが鳴るまでただブラブラと有人の一歩先を絢辻は歩いた。

 

「・・・」

 

「・・?ん?」

 

「・・・!・・」

 

時折、横目でちらりと後ろを見ると視線に気付いたのか無言で微笑む有人から目をそらす。

そんな意味も無い、非生産的な時間がゆっくりと、しかし妙に早く過ぎていく。

いつもの頭の回転、機転が利かない自分に苛立ちを覚えながら歯痒い「足踏み」をしたこの時間をいつもの彼女ならば「無駄な、意味も無い時間を過ごした・・」と嘆いただろう。しかしこの時ばかりは何故か奇妙な充足した感覚が絢辻を包んでいた。

 

 

「足踏み」は無駄なんかでは無い。その「足踏み」からこそ人は己の中々気付きえない自分の状態を思い知り、また図り知る事が出来る。

 

まだ迷いの在る自分。現状のまま留まろうとしている自分と。

 

その一方、足場を固め、地を固め、次の場所へ踏み出そうとしている足掻いている自分のせめぎ合い―それこそが「足踏み」の正体である。

 

 

 

「・・チャイムね。戻りましょうか」

 

「そうだね♪」

 

 

 

 

―まぁいい。

 

・・何となく気分がぽかぽかする。今はそれだけでいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

放課後―

 

「・・へ?帰った?」

 

自分でも驚くほどの素っ頓狂な声をあげ、丸い目を更に丸くして絢辻はクラスメイトの杉内を見た。

 

「うん。ゲンならとっくに帰ったよ絢辻さん。な?御崎」

 

「何か急いでいるみたいだったよ」

 

杉内と一緒に居た御崎も鞄に教材を収めながら幼い顔を不思議そうにしてそう言った。

 

―おろおろ?いくら今日は委員会が休みの日とは言え、自分に何の一言も無しに速攻で帰るとはいい度胸をしてんじゃないの源君?

 

表向きは杉内と御崎に営業スマイルを向けながらも絢辻は時折彼らの視線を盗んで「フッ」と、邪悪な笑みを浮かべた。

 

「え・・ゲンの奴、ひょっとして委員会サボったの!?なんて奴だ!!」

 

「あ、ううん、そういうワケじゃないの。源君、今日はやす・・」

 

「何だよ・・サボるなら俺に一言ぐらいかけてけよゲン・・それがマナーってもんだろ」

 

絢辻の返答を聞かぬまま、一人独自の「サボ理論」を語る杉内。

 

―・・。ちょっと杉内君は無視しよう。

 

その絢辻の心象を汲みとったのか御崎も杉内を無視し、絢辻にこう情報提供してくれた。

 

「多分梅原君か国枝君なら何か知ってるんじゃない?あの二人ならまだ帰って無いと思うよ?」

 

 

 

正面玄関、下足ロッカールーム前。

 

―・・いた。あの二人を放って帰るなんてそんなに急いでたのね。

 

高二男子の平均身長よりやや高めの二人の姿をロッカールーム前で確認する。

梅原と国枝だ。御崎の言った通りまだ二人は帰っていなかったらしい。

 

―・・さて、と。

 

極自然に居合わせたように振舞わねば。まさか優等生でおしとやかな「絢辻 詞」が教室からここまでの最短距離を最高速度で駆け抜けた事を気取られてはなるまい。

そろりそろりと近付き、偶然を装って声をかけるには丁度いい距離まであと二、三歩の所で・・

 

 

「アイツんトコも長いよな?」

 

「・・そだな今年で・・もう付き合って二年か」

 

 

梅原の良く通る大きい声、次にやや低めの国枝の声が響いた。同時絢辻の足がひたりと前進を止め、無駄の無い動きで聞き耳を立てるのに程良い距離に居座り、息を殺す。

不意にくらった動悸をゆっくりと沈めながら絢辻は耳を澄ます。

 

 

「・・!?」

 

―「長い」?・・「二年」?「付き合って」・・?

 

心の中でその言葉を反芻する毎に折角抑えた動悸が再び徐々に跳ね上がるのを絢辻は必死でこらえた。

 

 

「あー中学の卒業式ン時思い出すわ~。まっさかアイツがあんなに積極的だとは思わなかったよな・・いきなり俺達の目の前でみなもっちに声かけたと思ったら・・いきなりあの告白・・俺達全員唖然として固まってたよな~~あはは」

 

「・・・まぁ良かったけどな。告白が結果的に上手く行って・・ただあの子とは学校違うから何かある度にいきなり呼びだされてヒィヒィ言って少し可哀そうだけどな?有人の奴は」

 

「しょうがねぇだろ。タダでさえ最近アイツんトコあんなだし。大将が行くしかねぇだろ」

 

「まぁな。・・じゃあ俺予備校なんで・・先帰るわ」

 

「おう!また明日な!国枝っち!」

 

二つの足音が全く違う方向に離れていく。そしてその足音が全くその場から聞こえなくなった時ずるりと音がした。

下足ロッカーに預けた背中を伝い、その前に敷かれた板の上でペタンと座りこんだ絢辻の姿がある。

 

 

その目には少し涙が浮かんでいた・・・

 

 

 

・・などというタイプでは彼女は無い。

 

 

 

ゴすン!

 

 

 

 

―・・あっんの・・・野郎っ・・!・・本っ当にいい度胸してるじゃないのっ・・・!??

 

本日、絢辻は額の替わりに右肘をスチール製のどこの誰のものか知れない下足ロッカーの扉に叩きつけ、四センチ四方程のクレーターを残した。

右肘を伝ってくる特有の「びぃ~~~ん」という痺れと激痛が脳髄を刺激する。右肘から指の先端までびりびりと震え、普段の彼女から考えられないほど手先が挙動不審に、しかし攻撃的に歪む。

 

後日、このロッカーの破損事件に関して校長から直々の厳重注意が全校集会で開かれたがまさか「あの」絢辻がその下手人で在る事に気付く者は皆無だった。絢辻の立場はこのような完全犯罪も可能にするのである。

 

 

 

それゆえ・・

 

 

 

源 有人という少年の明日は知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・・よくよく考えてみれば有り得ない話では無かった。
成績も悪く無く、見た目も図抜けて良くは無くとも親しみやすい表情を持つ少年。性格も温和。高校在学以降、二桁を超す男子の告白を袖にしている絢辻の視点から冷静に思えば、自分の様な特殊な立場、特殊な隠し事をしている人間はともかく、有人はそれなりの「機会」とそれなりの「接点」が有ってもおかしくない少年なのである。

要するに「需要」が全くない可能性は限りなく低いということだ。そしてそれから生まれる有人に対しての「供給」を有人自身が年頃の男子の本能に身を任せ、「消費」する可能性は全くないとは言い切れなかった。
しかし、少なくとも学校生活では絢辻の見る限り、それが垣間見えた事は今まで無い。
女生徒の証言に「たまには自分達ともお話してほしい」等の証言があるように彼は交友関係の広さに反比例して、親密な間柄に限れば比較的狭い人間関係の中で過ごしている。特に二学年になってから中学、それか更にそれ以前の昔馴染みの人間がクラスに多く集まった事でそれが顕著に出ている。
その昔馴染みの中に棚町 薫という女の子はいるものの、昔馴染みの範囲を飛び出さないだろう。ただでさえ彼女が見ている人は彼では無く、彼の幼馴染である国枝の可能性が高い。「親友つながりの親しい女友達」といったワンクッションが入っている。除外していい。

彼女を除いた場合、彼の周りに特に・・凄く嫌な言い方になるが「女の影」は無いように見える。

―むしろ・・あるとしたら「私」じゃない?・・って違うでしょ私。



それがこういう事だったとは・・盲点だった。まさか彼が中学からの「コブつき」だったとは・・。

確かに有人と絢辻は自分達の過去について深く話しあった事は無い。そして「その手」の話題もした事も無い。と、言うより本音を言えば何を話せばいいのか解らない。

絢辻の多くの男の告白を袖にした話を聞かせてもこれは恋愛話には程遠い内容だろう。
「相手を傷つけずにバッサリ振る」講座になる事は目に見えている。

「切られた事に気付かず、幸せそうに事切れる男共の表情が滑稽で笑いが毎回止まらなかった。」などと、のたまって有人に「ははは・・」と微妙な失笑を買う程度の話だ。

それに元々有人自身、自分の事をあんまり話す少年では無い。話ベタではないが。
むしろ相手の話をうんうんと相槌を打ってにこやかに聞き、時折返答を行う方が彼の性に合っているらしい。これがホント愚痴の捌け口に丁度いい。本性を出してから絢辻が重宝している所でもある。

結果有人自らの口から色んな事を聞く機会は失われていた。こう考えてみると有人と居る時、結構自分は自分の事、自分の話ばかり話していたんだなと反省する。
なので「実は中学から付き合っている彼女がいる」と聞かされていなくても彼を強く非難できる立場ではない。


―・・とは言っても「ハイそうですか」と許容はできねぇですぜダンナ・・。

てめぇはやっちゃいけねぇ事をしちまった。

それ相応の報いを受けてもらいまさぁ・・。



絢辻の自室―

二日連続の深夜、「戒めと罰の設問追加」をこなし、寝不足の眼で前日以上にキャラ崩壊した絢辻が発する思わず口から漏れた


「ふふふっ・・うふっふふう・・」


という奇声に気付いた姉、絢辻 縁はこっそりと妹の部屋のドアを小さく開け、何時もよりスキだらけの妹の背後をとり


「うふふ・・つかさちゃんったら楽しそう・・♪」


と呟いた。





















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ルートT 七章 源 有人という少年 2









翌日―

 

 早朝2-A教室にて

 

「な!?」

 

「どうした大将・・げ!?」

 

「く、くそ・・何てこった・・・」

 

がっくりと有人は膝をついた。梅原もその惨状に言葉が出ない。彼の席の変わり果てた姿を見て。と、言うより机に施された悪意の塊のような文章を見て。

そこには有人が愛読している週刊誌、今週号の「少年ジャンキ」の人気麻雀漫画の盛大なネタばれが描かれていた。

 

「『・・オーラスで鷹巣がまさかのチョンボ・・?それで八千点分の血を抜かれ、掲載十年以上にわたる激戦に幕・・?』」

 

ネタばれもネタばれならオチもオチである。

しかし、これを自らの目で読んだ後の後味の悪い衝撃の結末の読後感を楽しむのもまた漫画の面白さである。しかし今日の有人にはそれすら与えられなかった。

 

「そういや・・先週の作者コメント・・なんか『疲れた』『もうワケ解んね~よ』って感じの文章だったっけ・・アハハ・・」

 

そう言った張本人の有人のほうがよっぽどに疲れた表情に見える。血を1900cc位抜かれたかのようだ。フラフラの状態である。

 

「しっかりしろぉ!大将」

 

梅原が鼓舞するが有人の表情は頑なに乾いた笑みから戻らない。

 

二時限目―

 

「有人・・」

 

「・・ん?」

 

「俺見終わったけど・・見る?」

 

「週刊少年ジャンキ」を片手に持ち、幼馴染の親友は毎週と同じようにちょっと無愛想ながらもそう言ってくれる。しかし、その有人が座る席にはそれの肝心のネタばれが未だ所狭しと描かれているのが親友の彼にも見えており、流石のいつもの国枝のポーカーフェイスもやや複雑そうな表情になっている。

 

―・・・。気の毒に。

 

「・・・うん。有難う。見るよ」

 

「三時間目美術だから・・シンナーでも借りてこような・・」

 

彼の幼馴染の少し無愛想ながらも優しい少年はそう言うのが精一杯だった。

 

「うん・・」

 

そう言いながら有人はパラパラとページをめくりはじめた。しかし―

 

「・・ん?・・・!!!」

 

俄かに有人の表情が曇る。

 

「?どうした」

 

「直・・今日のこのジャンキの・・『出何処』は誰・・?」

 

「・・・。さぁ?」

 

高校生男子は出何処が誰か解らない週刊誌を校内で律儀に回す習性があったりする。購入した人間が読み終わった週刊誌を「嵩張る」等の理由ですぐに処分するタイプの人間だと返却も要求しないため、別クラス、時には学年すらも跨いで一冊の週刊誌が有効活用される。何とも漫画作者、編集者、その手の業者泣かせの素晴らしいリサイクル精神である。

有人が今持っているそれも其の類のもの―のはずであった。

 

「俺が仮眠から覚めたら・・机の上に既に置いてあった」

 

国枝がそう応える。○津 ○ずおの・・「恐○新聞」か。

 

「・・そう」

 

「・・それがどうかしたか?」

 

「そっか・・直は俺の読んでるこの連載漫画見ないんだよね・・」

 

「見ない・・?あぁ。お前が何時も読んでるやつ?確かに。俺が見てんのは今週号の巻頭カラーのだけだわ」

 

「だよね。はは・・コレ見て」

 

「ん・・?・・げ!?」

 

他の連載ものには一切手をつけてないがただ一つ、有人がここ数年欠かさずチェックし、愛読していた人気漫画のページが―

 

「は、はは見てコレ・・斬新だろ?」

 

ヒゲ、ナルト、鼻血、リーゼント、サングラス、吹き出しの改ざん。落書きの大御所のオンパレード。これでは内容もよく解らない。シリアスな場面も主人公の決め台詞も台無しである。有人は最早泣き笑いの表情だ。

 

「す、すまん・・俺が先に確認しとくべきだった・・」

 

「はは・・良いよ別に。これはこれで・・あ。この落書き面白い。それにしても麻雀の用語ってちょっといじくったら結構卑猥な響きになること多いよね。アハハあはあは」

 

有人は何時ものように笑っているがやや壊れた笑い。相も変わらず爽やかな所が同時ブキミだ。

 

「・・直?」

 

「ん?」

 

「シンナーさ~・・『別の用途』で使うってのは無し?」

 

「・・しっかりしろ。有人」

 

変わり果てた親友の表情に国枝はそう言うのが精いっぱいだった。

 

 

 

 

さらに昼休み― 中庭

 

 

「ごぶ!?」

 

 

有人は奇声を上げて倒れこむ。

 

「わー!しっかりして源君!」

 

「ゲン大丈夫か!?・・・!?サ、サッカーボール?いいい、一体どっから・・」

 

御崎が有人を介抱する中、まるで護衛対象が狙撃されたSPみたいに杉内は周囲の様子を窺うが「狙撃者」の姿は一行に確認出来なかった。ご丁寧に殺傷能力が最大にされるように空気がはちきれんばかりに入れられ、パンパンに膨れ上がったサッカーボールを手に杉内は下手人の悪意に戦慄する。

 

「ど・・どうだミサキ?ゲンの様子・・」

 

「・・ダメだ。完全にダウンだよ」

 

「・・仕方ない。このボールもう一回ぶつけてみるか。だったら目を覚ますかもしれねぇ」

 

「それ記憶喪失の対処!それも悪質な理論も根拠も何もない民間療法だよ!も~いい!!僕が保健室連れてく!!」

 

有人ダウン。保健室へ。

 

 

 

 

保健室 仮眠ベッドにて―

 

「う・・・」

 

安住の地―保健室のベッドにて回復を待っていた有人は違和感に唸る。

 

―ん・・・?何か重い・・?金縛り?・・って!

 

「・・・!!!うわぁ!!」

 

ぎょろっ

 

無機質で不気味な生気の宿らない目が仰向けで眠っていた有人の目に映る。しかしその物体はある意味生きている生物以上に生々しいながらも完全な「物」である。それ故の不気味さがその物体にはある。

 

―・・はぁ、はぁ・・ショックだぁ・・「人体模型」とベットインなんて・・。

 

意識を取り戻して冷静になり、有人はようやく落ち着いてホッとした。覆いかぶさっていた人体模型を手に。

 

・・んが。まだ災難は去っていなかった。

 

 

「・・・!?あ、あのぉ・・どうかしましたか?・・・って!きゃあああ!!」

 

 

有人の驚いた声を聞いて心配したのであろう。面倒見のいい恐らく一年生の黒髪ショートの猫みたいな小柄な少女がどうみても「メイク・ラブ」中に見える有人と人体模型が絡み合う仮眠ベッドを見、悲鳴をあげた。

 

「ししし、失礼しました!」

 

「あああ!!ちょちょちょ、ちょっと待って!」

 

「こ、コレは誤解なんだ!」と、有人は「浮気中の現場を彼女に目撃された浮気男」の様に追いすがろうとしたが、少女はその姿を見て動転し、とにかく一刻も早くその場を去ろうとするタイプの様だ。一目散に駆け抜け、有人が一歩も動けないまま保険室のドアが開く音がする。

しかし、一瞬後、廊下で聞きなれた声が響く。

 

 

―わっ!な、七咲?

 

―はっ!杉内先輩!?す、すみません!

 

―・・?どうかした?そんなに慌てて・・。

 

―は、いえ、そ、その、すみません!急いでいるのでし、失礼します!

 

―え、おい!七咲!?・・・?

 

―・・?七咲さんどうしたんだろうね?

 

―保健室から出て来たわね・・。は!まさかこの神聖な保健室であんなことやこんなことをしていたんじゃ・・見た目に似合わずやるわね・・あの子。

 

―いや・・棚町さん。七咲はそういうタイプじゃないと思うな・・まぁ御崎はするかもしんないけど。・・紗江ちゃん辺り連れ込んで。

 

―しないよ!それに『辺り』ってなにさ!?人聞き悪い!

 

―ひひひ。・・お~いゲン?大丈夫か~?そろそろ五時間目だけ・・ど・・?

 

 

 

がらっ

 

「え・・・?」

 

「へ・・・?」

 

「・・あら」

 

有人のクラスメイトの三人組―杉内、御崎、そして棚町の三人が有人のベッドのその光景を直視し、硬直した。「成程。七咲はこれを見たのか」と三人の中で合点がいった。

 

「・・・。お楽しみ中だったかしら~?」

 

「・・み、源君」

 

「ゲン・・」

 

三人は目が泳いでいた。

 

「「「「・・・」」」」

 

一同しばし沈黙。この緊縛の状況に終止符を打つべく最初に発言した棚町の言葉は―

 

 

「・・は、はは。みなもっちって意外に露出が多いコが好みなのね~?でも内臓まで露出してるコが好みなんて意外だわ・・」

 

 

「ほんっっとに怒るよ棚町さん!」

 

 

 

場所と時変わって放課後― 茶道部部室にて

 

 

 

「あれーるっ子先輩ー?この棚に入ってた人体模型のもっくんがいなくなっちゃってますよぉ?どこいったの~~?もっくーん?」

 

 

茶道部の「禁断の備品保管庫」の棚に顔を突っ込みながらごそごそしつつ、栗毛の太ましい少女―桜井 梨穂子は怪訝な声を上げる。そんな桜井相手に茶道部の重鎮、三年生の夕月 瑠璃子と飛羽 愛歌は―

 

 

「あー、あいつなら今朝廊下で歩いているのを見たぞー」

 

 

「時折部室を抜けだして廊下を走りたくなるそうだ・・全く・・『昼間はよせ』と何度も言っているのだが・・」

 

 

「なるほどぉ~~~そうなんですか~~。・・って・・えぇ!?ひっ、ひぃぃぃぃ・・・」

 

 

「はい。お茶が出来ましたよ・・。ん・・?・・お二人また梨穂子に何か言ったんスか?」

 

 

エプロン姿が妙に似合う体格のいい少年―茅ヶ崎 智也がキッチンから居間へ顔を出しながら戦慄してムンクの「叫び」状態の桜井に呆れ顔で先輩二人を窘め、湯呑を置く。

 

「ど、どうしよう智也・・もっくんが・・もっくんが~~~」

 

「・・?『もっくん』?」

 

―本○雅○が・・何?

 

恐慌状態の桜井を「・・話にならん」と切り捨て、したり顔の茶道部の先輩二人を茅ヶ崎は見る。まるで「変な餌をこの珍獣に与えないでください」的な「飼育員」の目をして。

 

「ふふふ・・いつもながら可愛いだろう?」

 

「止められない止まらない・・」

 

しかし、重鎮二人はあくまで平常運転だった。

 

 

同時刻―

 

・・2-A教室

 

「絢辻さん・・」

 

ぴくぴくと珍しく怒りを隠せない笑顔をした有人が絢辻の席ににじり寄る。

 

「ん・・何か私に御用?源君?」

 

しかし、そんな有人にもどこ吹く風、いつもの絢辻である。しかし彼女の本性を知る有人には今の絢辻の反応は何とも意地悪な「不知の素振り」に見えた。

 

「ちょっといいかな・・?」

 

「いいわよ。どうかした?」

 

「ここじゃ何だから・・」

 

―・・・その、今の「君」はとりあえず「チェンジ」で。

 

と言いたげに有人は絢辻を連れだした。

 

 

 

屋上―

 

「さてさて・・源君。私に何の御用かしら?」

 

絢辻「チェンジ」完了。「御指名有難うございま~す♪」と、でも言いたげに尊大に腕を組む。楽しげだ。

 

「・・今日の俺の身に起こった事・・まるっと全て絢辻さんの仕業だよね・・?」

 

「んん?何の事か私ちょっと解んないんだけどな~~?」

 

絢辻は平気でうそぶいた。だが表向き認めないとは言え今は周りの目が無い。だから先程までの彼女のように隠すつもりはそもそも無いらしい。わざとらしく嘘をついている演技をする。完全に「私がやりました」と言っている様なものである。

 

「・・やっぱり」

 

「あら?勝手に納得しているみたいだけど証拠でもあるの?」

 

「・・その『証拠が無い』からむしろ絢辻さんしかいないって思ったんだよ」

 

「ふ・・・ん。『証拠が無い』事が証拠ってこと?・・それ証拠になって無いけど・・まぁいいでしょう」

 

「認めるの?」

 

「別に私の源君への嫌がらせなんて今に始まった事じゃないでしょう?」

 

絢辻はあっさり認めた。

 

「それでも今日のは度が過ぎるよ・・」

 

「・・怒った?」

 

「・・ううん。そうでもないけど・・ちょっと辛いかな」

 

「・・『辛い』?」

 

「・・絢辻さんは俺に悪戯はするけど今までそこに他の皆を巻き込まなかったから。それに非の無い人や頑張ってる人を蔑にする事は無かったし、口では悪く言ってもそこは守ってたように感じたから・・。だから今日の悪戯は度が過ぎると思ったんだ」

 

「・・・」

 

確かに今日の悪戯に巻き込んだ国枝、そして一年生の少女―七咲 逢の二人は少し気の毒だったかもしれない。国枝は自分の不注意で有人の気を悪くしたかもしれない、と思い、そして一年生の七咲は悪戯に巻き込まれ、混乱させられたのに後で自分の早とちりを必要も無いのに反省し、

 

 

「ほ、本当にすいませんでした!!」

 

 

わざわざ杉内を介して謝りに来てくれた。結果的に何も悪くない少女に嫌な思いと罪悪感も与えてしまったのである。

絢辻が有人に対して行う悪戯に今までこれほど他の人間に対する二次的被害が生じたのは初めてだった。今まではむしろ彼女の嘘や悪戯、悪意は他人を巻き込むよりも結果として他者の為になるように機能していたものが多かったのだ。それ故に有人はそれが辛かった。

 

 

「俺・・絢辻さんに何かしたかな?」

 

 

「・・・」

 

―・・そうなるの?

 

理不尽で一方的な自分、そして自分の周りの人間に降りかかった災難とそれを引き起こした人間に対しての憤りでは無く、この絢辻の目の前のお人好しの少年は自分の事をまず顧みてそう尋ねた。

 

―・・そうよ。そうよ!!それは・・!あなた、・・・が・・!

 

絢辻のその後の言葉は続かない。確かに告げられてはいなかったとはいえ自分がそれを責めること自体がおかしいからだ。

 

「源 有人という少年には中学から付き合っている彼女がいる。それを私には話してくれていなかった」―

 

改めて反芻すると妙にチクリと何かが絢辻の中で痛んだ。それを知らなかった、また直接有人の口からそれを聞く事が無かった事を責める事自体が的外れなのだという事はそもそも解っていた。

 

でも「楽しいから仕方ない」のと一緒。・・「不愉快だから仕方ない」。

 

「・・『何かした』と思うんなら・・心当たりでも在るの?源君は」

 

「う・・・」

 

そう言われると困るな、という表情をして有人は押し黙った。

 

「・・ふふっ・・源君って私っていう人間を少し美化しすぎじゃないかな?私だってたまにはうっかりターゲット以外の人間を誤って巻き込んだり、傷つけちゃう事だって在るかもしれないじゃない。いえ・・むしろそれが普通じゃない?」

 

「・・。でも・・絢辻さんがそうだとは思えないんだよね」

 

「・・何でそう思うの?」

 

「絢辻さんは口も悪いし、意地悪だし、陰口大好きだし、簡単に『潰す』とか、『嘘』とか物騒な言葉をつかうけど本当は絶対に人を傷つけたくないと思っている人だから。・・優しい人だから」

 

「・・・!・・本当に愚かなぐらいにお人好しね。危なっかしいったらないわ」

 

―知ってはいたけど。

 

「・・でも俺にだって譲れない事だってあるよ」

 

「ふん・・」

 

―ここもそう。変な所で頑固。

 

そんな有人を鼻で笑った絢辻の一言から少しの沈黙が続く。

表情が曇ったままの有人の視線を受け流しながら、有人とは対称的に余裕の表情で絢辻は佇んでいた。完全な優位に立っているように見える絢辻だが―

 

実は内心彼女は焦っていた。

 

 

―あれ・・?「謝る」ってどうやるの?

 

 

間抜けな言葉に思えるだろうがこれが今の絢辻の本音であり、真実である。

 

彼女の人生プラン上、「謝る」事は常に行ってきた。

まず一つに相手に何らかのタスクを背負わせる時、この手の謝罪は非常によく効き、重宝している。

 

「急で御免なさい。○○な事になっちゃったんだけど・・手伝ってくれるかな?」

 

この場合の謝罪は自分の至らなさや不手際を相手に許してもらうというよりも「こういうタスクがあります。辛いですけど一緒に頑張ろう」という激励の意味が強い。

言葉の上では謝罪に違いない。しかし本質は自分の行為に対して非に感じている側面は薄い。あくまで円滑な人間関係、意思疎通の上で必要なスキルとして彼女は使っている。

 

そして自分が意図せず他人に何らかの気遣いをさせてしまった場合。

例えば先日の欠席の際の有人やその友人、担任達の気遣いに対しての謝罪である。

この場合、彼女はそれを「借り」として受け取り、それを何らかの形で返す事を謝罪として自分のルールに課している。

ただ自分の非や至らなさを嘆いて謝るだけでなく、受け取った厚意に見合った見返りを相手に返した方がいい―これが彼女の理念である。これらを「謝罪」と言うなれば彼女はプロフェッショナルである。

 

しかし今回に関しては解らない。そもそも100%自分が全面的に非が在り、それを償う謝罪を必要とするほど間の抜けた行為や非道をすること自体、あまり経験が無い。

実際に今回は実害が出ている。人によっては「些細なこと」と笑うかもしれないが、確実に一方的で度が過ぎる悪意を有人、そしてその二次被害を周りの人間に振りまいてしまった。この行為には確実に、「そういう意味」での謝罪が必要である。

 

しかし・・どうすればいいのか解らない。

 

神妙な顔をしてちょっと嘘の泣き顔でも作って謝罪の言葉を言えばいいのだろうか?

 

相手を逆に同情させるぐらいに悲しげな表情をし、言葉の上でだけ何処かの小説で見聞きしたようなものを並べればいいのだろうか?

 

何時ものように、表情を、声色を、立ち振舞いを優雅に、器用に操って完璧に「謝れば」いいのだろうか?

 

―それなら・・造作も無い事よ?

 

・・でも違う。それは違う気がする。でも・・間違いに気付いても、正解が見えてこない。この「あたし」が・・。

 

 

立ち居振る舞いは着飾れても心の中は無理だった。堂々とした沈黙そのものが今の絢辻には精一杯の虚勢だった。

 

 

「いた!おい!みなもっち!」

 

 

―!

 

その二人の沈黙を破ったのが梅原だった。屋上のドアを開けて響いたその声に反射的に絢辻は何時もの表情に返る。

 

「・・梅原?」

 

有人もすぐに切り替わっていた。

 

「あ。すまねぇ絢辻さん。ちょっと大事な用があるんで源借りていいかな」

 

「・・ええ。いいわよ。ちょっと時間があって少しお喋りしていただけだから」

 

絢辻は「全く構わない」と、いつもの明るい声でそう梅原に言った。

 

「で、どうしたの?何か急な用事?」

 

「・・来てるぞ沢木。校門のとこだ。早く行ってやれ」

 

梅原は校門側を指差す。

 

「え・・」

 

そう聞いた有人はいきなり屋上から見える校門付近を確認する。絢辻もちらりと見るとそこには明らかに制服の違う他校生の女子の姿が在った。心許なく校門の前でそわそわし、おまけに他校の制服故に目立つので、下校する生徒達にちらちら見られている。

 

「・・」

 

―・・「沢木」?

 

「女の子またすんじゃねぇぞ~~」

 

即時その名前をインプットした絢辻が一瞬本性にふっと戻り、黙り込む傍らで、急かし、冷やかすような口調で何時ものノリの梅原が有人の背中を押す。

 

「ありがと梅原。・・ゴメン絢辻さん。ちょっと大事な用があるから行ってくるね。実行委員会行くの遅れるかも知んない・・」

 

「・・。ええ。大丈夫よ。いってらっしゃい」

 

―「大事な用」・・。そうね。今日私がやった「数々のバカ」より大事な事、よね・・?

 

我ながら返答が遅れたなと絢辻は思う。絢辻の見送りの言葉もそこそこに既に有人は駆けだしていた。梅原もゆっくりとそれに続く。

どうやら間違いない。昨日梅原と国枝が話していた件の子だろう。その子がこの学校にわざわざ有人に会いに来たということだ。

 

―・・・。

 

その子の登場が自分にとって丁度いい助け舟なのかそれとも無粋な横槍なのかはっきりしない曖昧な感情が絢辻を包みながらいつもより妙に重い屋上の扉を閉め、絢辻は屋上を後にし、一足先に委員会室に向かった。

 

自分でも何処か落ち着いていたと絢辻は思う。「何だ案外大したこと無いじゃない」―そう自分に言い聞かせるように平静を保って絢辻は歩いていた。

 

が―

 

「・・・!」

 

その道中の渡り廊下。見晴らしのいいその場所からは校門が屋上からよりハッキリ見えた。

 

―・・・。

 

―・・・!

 

―・・・!!・・・?・・・!

 

この距離では流石に二人の会話までは内容は聞こえない。でも解る。

 

・・とても仲睦まじい。

 

有人も。その傍らに居る彼女の表情も見える。何時ものように有人は笑っていた。

対称的に顔を両手で覆い、泣いているのか恥ずかしがっているのか解らない小柄な少女が見える。

 

―・・・。

 

「見たくない」と思いつつもついつい顔が行ってしまう。

 

「・・ふん」

 

不機嫌そうに目をそらす。

 

「・・・」

 

しかし絢辻はもう一度つつつ、っと視線を泳がせ、ゆっくりちらりと見る。

 

やっぱり有人は笑っていた。

 

―・・・へらへらしてんじゃないわよ。

 

小さな溜息と共に少し笑いながら絢辻はそう思った。絢辻は歩きだす。足取りは軽くなり、どこかふっきれた様な感覚を覚えた。

 

 

絢辻は源 有人という少年のデータを書き換える。

 

 

源有人という少年―

 

家族構成 両親、兄、弟の五人家族の二男。性格は温厚で単純と言うよりは淡泊。友達は同性が多く、他のクラスの人間にも顔が広く大抵の人間と仲良くなれる。というより嫌うのが難しい。気も遣える事から生徒、一部教師とも仲がいい。

成績は中の上位、特に得意教科も無ければ苦手教科も無い。副教科は体育を除けば得意な方。優等生と言えるだろう。

視力は0.2以下で常にコンタクトレンズ、眼鏡もかける事があるらしい。

所属部活なし。高校では特定の課外活動に参加するのは創設祭実行委員会が初めて。

 

追加要項・・中学のころから付き合っている彼女持ち。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・きゃっ」

 

「ぎゃっ!」

 

絢辻は誰かとぶつかる。何とも色気の無い、蛙を潰した様な声がした。

 

「あ、ご、ごめんなさい。よそ見していて・・」

 

「ん・・いててて、こっちこそごめん・・」

 

蛙の潰れた声をだした絢辻がぶつかった相手はそれなりに良識のある気持ちのいい少女の様だ。

 

「ん・・?貴方は・・?」

 

「あ。・・絢辻さん?」

 

「・・伊藤さん?」

 

「わぁ覚えててくれて嬉しいな~」

 

そう言って微笑む。少し尊大に見えなくもない立ち姿だが悪気が一切感じられないからっとした得なオーラをもつ好青年もとい好少女であった。

隣のクラスの2-B伊藤 香苗。違うクラスだが絢辻のいる2-Aは2-Bとは合同で体育をやるため、彼女との接点が全くないわけではない。知り合い程度ではあるが、絢辻も隣のクラスの気のいい、そして成績も優秀なこの伊藤 香苗という少女に一目置いていた。

だからこそその子が今、両手に抱えている「異質な物体」に絢辻は戦慄を覚えた。

 

「あの・・伊藤さん。『それ』って・・」

 

「あ、はははコレ?そりゃあビビるよね・・」

 

確かにビビる。

 

しかし絢辻は「それ」を知っている。無機質で生気の無い、しかしどこか生々しい目が「今朝」と同じく無言で絢辻をじっと見ていた。

 

「じ、人体模型?」

 

絢辻はそう言った。が内心

 

―・・お久しぶりです。・・・そしてお疲れ様でした。

 

絢辻の「依頼」を十二分に果たしてくれた功労者を前に礼を言った。

 

「は、はは・・絢辻さんにこんなとこ見られるなんて・・お恥ずかしい」

 

「ど、どうしたのかな?それ・・?」

 

「張本人」故に事の顛末は大体解るが、絢辻は伊藤にこう聞かざるをえない。

 

「いや・・知り合いの子がこれの持ち主・・ってかその子の部活の備品でね?な~んでか解んないけど保健室にあったらしいからさ?一応その・・保護(?)して返してあげようかな~って」

 

「普通保健室に在ってこそ違和感ないものじゃないのか」、というツッコミを押し殺しながら今朝、茶道部室から保健室へこっそりそれを運んだ「張本人」―絢辻。その被害者が目の前にいた。思わず絢辻は

 

「ごめんなさい・・」

 

―色んな意味で。

 

こう呟いた。当然目の前の気のいい少女も今自分がこんな目に遭っているのが目の前のこの学校きっての優等生である絢辻のせい、などとは毛ほども気付いていないだろう。今回の自分の下らないイタズラに巻き込んだ被害者がここにもいた。流石の絢辻も予想以上の被害者の伝染具合に閉口する。そして大概それが何も知らない気のいい子達に迷惑をかけている事を知ると更に申し訳なくなった。

 

「いやいや、いいって!アタシだってこんなもん抱えて不注意だったんだからさ」

 

何も知らない気のいい少女はそう言って「ははは。気にしない気にしない」と笑い、再び不気味な人体模型を「よっこいしょ」と抱えた。

 

―多分こんなワケ解んない物体であろうと、私の親友は居なくなったら心配するタイプだ・・。

 

親友―茶道部部室で学校中を走り回っている設定の「もっくん」こと人体模型―彼の身を案じる茶道部部員―桜井 梨穂子を思って。友人思いの少女である。

 

「・・本当にごめんなさい」

 

「・・?いや、大丈夫だって。じゃあまたね!絢辻さん」

 

流石にぶつかっただけの謝罪にしては過剰なほど神妙そうに謝る絢辻の姿に伊藤は訝しげだ。その絢辻の謝罪の本当の意味に彼女は決して気付く事は無いだろう。

 

 

―ん?・・あ。あたし「謝ること」出来てる・・?

 

 

絢辻はハッとした。

 

こんな下らないことで迷惑をかけてしまっては最早心からひたすら詫びるしかない。考え込む事など必要なかった。ただ心に浮かんだ言葉を吐き出せばいいのだ。何時もみたいに取り繕おうと考えたこと自体愚問だった。元々それ程に下らないことで相手に迷惑をかけ、困らせたのだから。

 

 

―謝らなければ。

 

彼に。

 

・・面と向かって!

 

 

例え苦しくても、辛くてもそうするべきだ。そうしなければならない。絢辻は視線を上げる。

 

 

 

「ん?あ~~!?あれ沢木じゃない!うっわ~~っなっつかしい!!」

 

「え・・?」

 

「んあ、ごめん。今校門で源君と一緒にいる子よ。ほら・・西高の制服着ている子・・見えるでしょ?」

 

両手がふさがっているので伊藤は視線と顎を使って絢辻に有人達の居る方向を差す。

 

「・・・。あ・・」

 

―・・。そっか。伊藤さんは源君と同じ中学出身だっけ・・。

 

どうやら「沢木」と呼ばれた少女は伊藤とも知己の中であるらしい。

 

「うわーホント久しぶり。・・・お~い・・あはは~~」

 

伊藤は心底懐かしげに楽しそうに、そして嬉しそうにかつての同級生に手を振ろうとする。が、当の両手には残念ながら・・

 

「・・って、こんな人体模型抱えた知り合いに話しかけられてもねって感じかな・・」

 

「・・そうかもね」

 

「・・。ふ~ん源君にわざわざ会いに来てるって事は最近上手く行ってないのかな~~・・?」

 

「・・。そうなの?会いに来るぐらいだから上手くいってるんじゃないのかしら」

 

 

 

 

 

「ん~~~でも、現に今わざわざ彼氏の弟に仲介頼みにきてるってとこっしょ。アレ。・・弟に乗り換えるってタイプじゃ絶対ないしね。沢木」

 

「へぇ。そうなんだ・・色々あるんでしょうね・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・・!!!!????

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ私そろそろ。絢辻さん。またね!」

 

 

 

がっし

 

 

「うわっ!・・え!?な、何・・・!!!?」

 

人体模型を抱えたまま去ろうとする伊藤の肩をがっしと絢辻は掴んだ。春のスポーツテストの際、彼女は意外な握力の強さを見せ、周囲を沸かせたものだった。そのホールド力はその華奢な体からは想像がつかない。

 

「・・よかったら私も運ぶの手伝うわ?ぶつかっちゃったお詫びに」

 

流石にいきなりの絢辻の強力なホールド力に面食らった伊藤をフォローする満面の笑みで絢辻は顔を傾ける。

 

「え!?そ、そんないいよ!?私も不注意だったし」

 

「ううん。私がよそ見してなかったらちゃんと私から避けられたと思うし・・それに・・

 

伊藤さんとは前からお話してみたかったの~」

 

満面の笑みで絢辻はそう言った。

 

「・・ホント?アハハ。てれるなぁー」

 

気のいい少女は思いがけない絢辻の言葉を額面通り受け取った。・・ちょろいもんよ。

 

「うん。だからその模型の半分貸してくれるかな?上半身と下半身に分かれると思うから」

 

「じゃあ・・お言葉に甘えちゃおっかな」

 

真っ二つの内臓むき出しの人体をそれぞれ抱えた少女二人が並んで歩く異様な光景が何ともシュールである。そんな状態でもその少女二人は終始和やかなムードで歩いていた。

だが唐突に伊藤の頭の中に些細な疑問が浮かぶ。

 

―あれ?何で絢辻さんこの模型が上下二つに分かれるなんて事知ってんだろ?

 

「・・どうかした?伊藤さん?」

 

「あ、ううん。別に」

 

「そう?ところで・・」

 

当然の疑問が浮かんだ伊藤の意図を察した絢辻は目ざとく、そしてあざとく絶妙な話題の転換を行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 










真実はこうである―


有人といる「沢木」という少女は彼が中学三年生の時のクラスメイトである。
中学の卒業式、特に接点の無かった有人にその沢木という少女が突然接近、こう告白した。


「源君!!お願い!!貴方のお兄さんを紹介して下さい!!!好きなんです!!!」


周りは当然騒然である。卒業を目前にして別の高校に行く有人に対する告白ととられても仕方なかった。

歳が二つ離れた有人の兄と有人はそれぞれ中三と中一時、一年だけ同じ中学を共にしている。そして同じく当時一年生だった沢木がその時、中学三年だった有人の兄にすごく良くしてもらい、好きになったらしい。が、告白する勇気が無く、有人の兄の卒業を敢え無く見送った彼女だが諦めきれなかった。
そして三年生の時、奇しくもその弟の有人と同じクラスになった彼女は「最後のチャンス」と覚悟を決め、最後の最後、土壇場も土壇場の卒業式、有人を介して彼の兄に接触。

・・結果押し切って寄りきって見事三年越しの恋を実らせたのである。


「イイ話でしょ~~?」と、話してくれた伊藤に絢辻はとりあえずにこやかな相槌を打ったが内心物凄い嫌な汗が噴き出た。同時―


・・・さ~~~~っ


と、血の気も引いた。

先日の有人のお見舞いの際、絢辻が有人から聞いた話では彼の兄は一浪して受験生。色んな理由で高校二年生である沢木と距離が開いてもおかしくない。そこで「緩衝材」として利用されるのはまず間違いなく二人の仲人を兼ね、かつお人好しな「あの」弟になるはずなのだ。

あのへらへら、ふわふわ危なっかしい・・源 有人という少年に。






結論が出る。自分が彼にした行為は全くのお門違い。勘違いと早計を積み重ねた結果、絢辻が自らが作り出した源 有人という少年の幻想。




そこに本当の彼は存在しない。





「ここまで有難う!絢辻さん。ばいばい♪」


絢辻は伊藤を茶道部部室に送り届けた後、職員室に向かった。


「・・すいません高橋先生。ちょっと今日急用が出来て・・誠に勝手なのですが帰らせて貰っていいでしょうか?」

「え?絢辻さん・・体調でも悪いの?」

「いいえ、そうじゃないんです。ちょっと家の事情で」

「でも・・少し顔色がよくないみたいだけど」

「大丈夫です。・・ではすいません。あとをお願いします・・」

「解ったわ。な~に大丈夫よ?最近は皆も自信が出来てきたのか目付きも変わってきたしね?」

「有難うございます。では・・失礼します」




―・・正門側から帰るのは止さないと。


そう思った絢辻は校舎裏の遅刻常習者御用達のフェンスの穴を利用する事にした。登校時はともかく下校時であれば人目につく可能性も低いだろう。今日はそこから帰ろう。
おまけに穴に入りたい気分だった彼女にとっては何ともニーズに応える脱出路であった。



―・・逃げよう。今は。

近付いたようでいて。

実はとても遠くて。

私が何も知らない彼から。

・・目をそらして。



最近なぜか「妙に広くなった」「横綱でも通り過ぎたんじゃないか」という噂のフェンスの穴を潜り抜け、舞い散る落ち葉の中、校門へと続く林道を駆け抜ける。

今はただ少しでも遠くへ。一気に駆け抜けて出た先はもう正門に続く坂の下。


―・・。ここまでくればもう安心。校門にいた彼に会う事はもう・・無―




「絢辻さん・・?」





―・・い?





「やっぱり・・絢辻さんだ」





「・・・!」


―何で・・何で貴方がここにいるの?



「・・源君」






「・・ゆ、有人君?・・この人は?」


有人は目を丸くしつつ、唐突に手品のように現れた絢辻へのいくつかの疑問が頭の中を駆け巡りながらも、まずは隣にいる他校の制服を着た少女―沢木に事情を説明する。

「あ・・。紹介しとくね?クラスメイトの絢辻 詞さん。ウチの創設祭の実行委員長もやってる人だよ。・・で、絢辻さん?この子は沢木 茜(あかね)さんって言って俺の中学時代の友達で・・俺の兄貴の彼女なんだ」

「・・そう。こんにちは。私は絢辻 詞といいます。初めまして」

伊藤から全ては聞いていた。しかし知らない振りをせねばならない。現在ぐちゃぐちゃの混乱状態である脳回路、思考回路に鞭打ち、気を奮い立たせて何時もの平静さを絢辻は見事に演じきる。


「は、初めましてっ。私は沢木 茜といいますっ。有人君にはいつも、めちゃめちゃ、ホントに・・迷惑ばっかかけてます・・」


少女―本名 沢木 茜も自虐的な言葉を口々に吐きながらもぺこりと挨拶をする。
飾り気のない肩までのショートカットをヘアピンで七三に留め、化粧も薄く、派手さ、華美さのない印象。先程伊藤 香苗から聞いた卒業式での大胆な告白、行動の印象とは異なる控え目そうな子だ。だが印象は悪くない、気の良そうな女の子だ。
その小さくも可愛らしい目をぱちぱちしばたかせ、やや上目線で見上げるように絢辻を見ている。

「・・・(はわ~~)」

彼女は突然現れた絢辻に見とれていた。


―うっわ!すっごい綺麗な人・・。・・・有人君やるぅ~・・。


初対面の同性であっても目を奪うくらいのポテンシャルが「表向き」の絢辻にはある。
長い艶やかな黒髪、整った顔立ち、白い肌、それに調律されたかのような美しくも過剰に華美になる事は無い制服の着こなし。そして礼儀を保ちながらも堂々とした立ち振舞い。
気の弱い大人しい女子にとってはある意味絢辻は女子の理想形の姿なのかもしれない。

だが現在―その「理想形の少女」の頭に・・



―ん?あれ・・?葉っぱ?




林内を夢中で駆け抜けた際に付いてしまった落ち葉の一枚がのっかっていた。


―くすっ・・


尻尾を隠す事に注力しすぎ、化けるために頭にのせた葉っぱを隠す事を失念してしまった少々間抜けな狐の姿は気弱な少女の緊張を少しほどく。





















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ルートT 七章 源 有人という少年 3













下校路にて―

 

「じゃあ有人君・・ごめんね?色々また相談に乗ってもらっちゃって・・」

 

沢木は遠目に見えた自分が乗車する予定のバスを確認すると、バス亭のベンチからすっと立ち上がり、早めのお礼を有人に行った。

 

有人が下校路で逃げたつもりの絢辻に遭遇した訳はコレである。バス停までの沢木への見送りの為だ。結果絢辻の大脱出は悲しいかな逆に有人の進行方向に回り込む形になってしたのである。「逃げた」のは絢辻だが、「回り込んでいた」のもまた絢辻という皮肉な構図である。

 

「ううん。また兄貴に連絡してやってよ。何だかんだ言っても淋しそうだったから」

 

「あは・・いいのかな?勉強の邪魔にならないかな?」

 

困ったように笑いながらも明るい表情をして沢木と呼ばれる少女は笑う。

 

「大丈夫。浪人生のくせに意外に淋しそうにヒマしてる時あるから。たまには・・どっかに連れ出したげてよ」

 

「・・うん!解った!ありがとう有人君!・・あ、あの!」

 

有人の励ましにハッキリと力強く頷いて沢木は今度こそ満面の笑みでほほ笑み、次に絢辻にやや申し訳なさそうな視線を向けた。

 

「・・はい?」

 

「絢辻さん・・、でしたよね?すいません・・創設祭の準備がお忙しいのに有人君をお借りして・・」

 

「いいえ。そんな。・・よかったら彼氏とお二人で創設祭、いらして下さいね?私達吉備東高校創設祭実行委員一同!御来校をお待ちしております」

 

ちらりと「私達」―創設祭実行委員のメンバー同士である有人の方を一瞬ちらりと見、すぐ沢木の方に向きなおって、絢辻は礼儀正しく小さなお辞儀をした。

 

「はい!是非!」

 

沢木の返事と同時、バスのドアが閉まる。ふっきれた様な明るい表情の少女が控え目にドアの前で手を振る姿が見えた。相変わらず控え目だが、彼氏が居るだけあってその仕草は中々可愛らしい。

 

―・・。

 

その姿が今の絢辻にとってとても眩しく感じられた。

 

 

バスは動き出し、彼女の姿はすぐに見えなくなる。残された有人と絢辻の二人は視線を次第に遠くなっていくバスに向けたまま

 

「・・沢木さんと貴方のお兄さん・・・上手く行くといいわね?」

 

「・・うん」

 

ぽつりとこう呟いた。

 

 

 

「・・ごめんね?絢辻さん。御待たせしました。実行委員の仕事に戻ります」

 

突如目の前に現れた絢辻への色々浮かんでくる疑問を少年は飲み込み、何時ものように微笑んで絢辻を促す。しかし、絢辻は気付いていた。その態度、そして感じられる感情図のどこかに何時もの彼とは違った「逃げ」、「戸惑い」の姿勢が少なからず混ざっている事を。

 

原因はいわずもがな、である。

 

「・・・。戻らなくていいわ」

 

「え?」

 

「今日私サボったから。貴方もサボりなさい」

 

「でも」

 

「・・。源君」

 

「はい?」

 

 

「・・。ゴメンナサイ。モウ、コンナコトシマセンカラユルシテクダサイ」

 

 

「・・・?」

 

―・・・棒読み?

 

一見すると全く以てふざけた、心の籠っていない謝罪に見えるかもしれない。が、これこそが今絢辻が行える最大限の謝罪だった。

今回の事件―絢辻の複雑な心情と誤解と事情が重なり、結果現在、取り繕う事も彼女お得意の仮面で覆い隠す事も出来ずに表面に現れてしまった剥き出しの言葉である。

「本音」というものは必ずしも一般イメージ的な態度と行動と共にはっきり現れるわけではない。

自分がこういう時、心から本心を伝えたい時、相手に理解してもらいたい時、どんな表情をすればいいのか?どんな声色で話せばいいのか?という正解を常に人間は解るわけではない。だからこそ他人に自分の本音を理解させることは難しい。

自分は本音を吐露しているつもりでも相手に伝わらず、意図に反した相手の曲解、誤解を生む事だってある。

 

それを避けるために絢辻は今まで自分の表情を調律する事を、本音―本当の自分を押し隠して自分の意図を通しつつ相手が「納得する」謝罪を繰り返してきた。

矛盾がはらむ言葉を承知で言い換えるならば、「嘘」を通して自分の「本音」を伝えてきた。

 

それは完璧だった。今の今まで。この瞬間までは。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

絢辻は押し黙る有人を見て考え込む。

 

今の彼の感情図に含まれるのは憤りだろうか?

 

失望だろうか?

 

呆れだろうか?

 

絢辻のどこか冷静な部分が今の失態に両手を腰に当て、目を泳がしながら大きな溜息を突く。

 

 

―何やっているんだか・・私。ホントに。

今の彼と目を合わすのがおっかない。後ろめたい。逃げ出したい。

 

・・怖いよ。

 

 

 

 

「・・ううん。いいよ」

 

 

 

 

ふるふると首を振って有人はそう言った。本日の絢辻の数々の暴挙の理由を問い質そうともせず、ただ絢辻の精一杯の謝意を読み取って受け入れた。内側に眉を精一杯曲げて痛々しそうにしかし、何時ものように・・優しく。

 

「・・・・!」

 

簡単で短い、ただ返事をしただけの有人の言葉だが絢辻にとってそれで十分だった。

 

「・・そう。・・よかった」

 

有人の返事に絢辻もほんの少しの返事を返す。最低限の。しかし心の底からの安堵は覆い隠せない。目を閉じ、はぁっと深く息を吐く。

そしてそこからすぅっっと一呼吸する。するとまるで生まれて初めて空気を吸ったみたいに新鮮で冷たい空気によって肺が、体が、そして心が満たされていく。冷たい感触に感情が冷え、意識がはっきりしてくる。

 

これが本当の「謝る」。そして「許してもらう」という事か。・・何て素敵な感覚だろう。

冷えた心とは対照的に目頭が熱くなるのを感じる。

 

―ああ良かった。

 

よかった。

 

ヨカッタ・・!

 

 

「じゃ・・帰りましょうか」

 

「うん」

 

潤んだ瞳を見られない様に踵を返し、今日も絢辻は有人の一歩先を歩く。何時ものように。だが何時もと違って絢辻は歩みをすぐにピタリと止めた。後ろ姿を有人に向けながらぴんと人差指を立てる。

 

「あ。言い忘れてた。源君?」

 

「何?」

 

 

「決めた。貴方を私の物にします」

 

 

「・・・はい?」

 

 

くるりと振り返ったかと思えばいきなりのその絢辻の言葉。傍から見れば「告白」とも捉えられかねないその言葉だが、その言葉を聞いた有人の捉え方は全く異なる。明らかに「所有権」。「者」では無く「物」と扱われた事に疑う余地は無い。何故なら振り返った絢辻は既に何時もの絢辻に戻っていたからだ。

 

 

「・・・」

 

「・・何かリアクションを所望します」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

―おい。コラ。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

―いい加減に・・。

 

「ていっ!」

 

的確に絢辻のトゥキックは有人の脛の、さらに痛みのスィートスポットを捉えていた。

 

「いってぇっ!」

 

「・・・聞いてる?」

 

絢辻は患部を両手で押さえた有人を見下ろし、冷たい声と視線で言い放つ。

 

―は、はい。「きいて」ます。色んな意味で。でも・・

 

「絢辻さん・・ここ通学路だよ。見られたら・・」

 

「あ。いけない。場所移すわよ」

 

「あ、ちょっと!!待って!!」

 

大して動じもせず、絢辻はさっさと駆けだした。脛を負傷した有人を全く気遣う事の無い歩みで絢辻は先々進んで行った。

 

 

 

 

数分後―

 

二人は絢辻の希望でコンビニに入店していた。

 

「・・御待たせ」

 

コンビニの雑誌コーナーを見ていた有人に絢辻は後ろから声をかける。改めて絢辻に今朝盛大にネタばれされた漫画を見るべきか、見ざるべきかを考えていたらしい。

 

「もういいの?早かったね」

 

「うん・・あ。よかったら源君もう少し立ち読みする?」

 

「いいよ。何時でも見られるし」

 

―今週号に関しては内容もほぼ解ってるしね・・。

 

「・・そう。解った」

 

そう言って絢辻は店を先に出ようと再び有人に背を向けてゆっくり歩き出した。それに続こうとした有人が違和感につと足を止める。

 

―・・あれ?絢辻さん手ぶらだ。何か買っていたみたいだったのに・・。鞄にもう入れたのかな?

 

手に取った雑誌を棚にしまいながら疑問に思いつつも有人は背を向けた絢辻に続いた。

 

「何処に行くの?」

 

「・・。そうね・・人が居なくて静かに話せる所・・吉備東神社でいいかしら?」

 

 

 

吉備東神社―社の裏庭

 

ザァアアアアッ・・

 

―綺麗な所だよな・・ココ。

 

有人があの日、正式に絢辻の本性と初めて向き合った其の場所を見回す。あの日は景色を楽しむ余裕も無かったがいざ改めて落ち着いて眺めると、緑の竹林に囲まれたまさしく「和」の景観は美しく、耳を通り抜ける風とすれ合う葉の音が非常に心地いい場所である事に気付く。絢辻がここを気に入っている理由が解る気がする。

 

尤も別に彼女はこの場所を「気に入っている」とはっきりと有人に言ったわけではない。聞いた所で本人は「静かで一人で考え事するのに都合がいいのよ。別にそんなんじゃないわ」―などとはぐらかしそうだが。

 

「・・?何よ」

 

「いや、別に。絢辻さんはこの場所を気に入ってるんだなって思っただけ」

 

「そういうワケじゃないわよ。ただ静かで都合がいいから利用してるだけ」

 

「・・ぷ!」

 

予想以上に思った通りの絢辻らしい返答が即時帰ってきたため、有人は堪え切れずに少し吹きだした。当然絢辻はじとりと不機嫌なカオをする。

 

「・・・。へぇ~~・・女の子の話を聞いていきなり吹きだすなんて失礼ね・・」

 

「あ、ごめん。でも何ていうのか・・」

 

「ん?」

 

「絢辻さんの事・・少しは俺も解ってきたのかな~・・って。あっはは~~」

 

イラッ・・

 

そんな音が絢辻から聞こえてきそうだった。

 

「・・。その口何か詰めて欲しいみたいね?ここには砂・・笹の葉色々あるけどまずは何がいいかしら?あ?昆虫は・・もうそろそろ冬だから居ないか~残念・・」

 

「・・ごめんなさい」

 

「よろしい。・・本題入るわよ?いい?」

 

「・・。うん・・。」

 

 

「貴方を私の物にします。以上」

 

 

「・・」

 

「・・」

 

「終わり!?」

 

「ええ」

 

「・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

ぶちん。

 

「また黙るの!?ちょっとは理由とか意図を聞こうとか、本気なのか冗談なのかって聞きだそうとかするでしょう?普通!」

 

とーとー絢辻の堪忍袋の緒が切れた。

 

「・・。あ。そう言えばそうだね」

 

「全く・・ここに来るまでにどう答えようかとかちゃんと考えとくぐらいしなさいよ」

 

「・・あんまりにも急すぎて現実味無くて・・あの言葉がホントの出来事だったのかな~って思ってさ・・その・・ごめん」

 

「・・」

 

まぁ仕方のない所もある。絢辻の都合上、公衆の面前では公にじっくりと話しあう事も出来ず、一旦落ち着けて話せる場所に向かう故に時間差がどうしても発生する。その上あの唐突な脈絡も無い、そして普段の絢辻のイメージからは連想の難しいあの台詞である。何かの間違い、聞き間違いじゃ無かったのか、もしくは気まぐれな冗談か何かと考えてしまっても無理は無い。

 

―自分と言う人間が・・非常にメンドクサイ・・。

 

絢辻は自分に課したルールで生じる弊害をここまで歯痒く思う事は無く、この時初めて知った。言ってしまった後、徐々にじりじりと心臓の音が跳ね上がる様な台詞をちゃんと真正面から受け取ってもらえない事の歯痒さを。

 

「では・・不本意ですが、一から説明します」

 

「不本意なんだ・・」

 

「はい黙る。口に直接投げ入れてもいいのよ」

 

いつの間にか絢辻の手には小石。それを右手に握り直し、絢辻は振りかぶった。

・・ワインドアップがこれ程様になる女子高生も珍しい。コレはそれなりの球が来るで。

 

「・・」

 

「よろしい」

 

仕切り直し。

 

「・・。源君は危なっかしいです。素直でお人好しで放っておくとハラハラします。だから私が管理します。おわり」

 

「いや大してかわんねぇって!シンプルすぎるよ!」

 

「大まかな事は端折ったわ。文句ある?」

 

「文句?うぅぅ・・あってもあるなんて言えないようにしてるくせに・・」

 

既に絢辻はぶわさっと、振りかぶっていた。絢辻にとって不都合な発言を即感知し、高速で石が射出される事は想像に難くない。

 

「お返事は?」

 

「・・解りました」

 

「イイ子ね♪」

 

絢辻は上機嫌そうに微笑みながら右手に持った小石を空中で弄んだ。

 

 

「・・でも何でまたいきなり?」

 

「・・・そうね。『観察』かな?」

 

「観察?」

 

「そ。私には無い価値観と環境、そして人間関係を持つ貴方の事、・・本当の貴方をもっと知りたくなった・・って感じかな」

 

「・・・」

 

「だから・・『管理する』って言っても別に貴方を束縛する訳じゃないわ。束縛しちゃったらそれこそ本末転倒だしね。それこそ『本当の貴方を知る』ことへの最大の障壁、阻害になりかねないから。要するに・・私が少し貴方に対する考え方、見方を変えて接するだけ。特段貴方は何もする必要ないわ」

 

「絢辻さんが俺の事をもっと知りたい・・?」

 

「そう。今までより、・・・ほっと!」

 

そう言って言葉の通り、一歩絢辻はぴょこんと飛び上がり、有人の前へ出る。

 

「・・・少し近い場所でね」

 

一歩近付いてみると彼女の生き方、普段の堂々とした佇まいからは考えられないほど小柄な少女がそこにはいた。

 

仮面少女―一歩前へ。そこで悪戯にふふっと微笑んで上目遣いで有人をじっと見る。

 

「問題ないかな・・?」

 

不安そうに聞く割には、自分のルックスにちゃんと自信が在る少女特有の詰め寄り方である。これは年頃の少年には少々辛い。

 

―う。反則。今まで話してきた中で最も反則的なお願いだよ。絢辻さん。

 

「・・問題ないです」

 

「そう。よかった♪」

 

有人の返事に満足そうに素直に絢辻は微笑んだ。同時、彼女の白い肌がやや紅潮するも有人に比べるとまだまだ余裕が在りそうだ。

 

 

「さて!めでたく源君からのOKが出た所で・・」

 

絢辻はおもむろに上着ポケットに右手を突っ込んだ。

 

「ん・・・?」

 

「じゃん」

 

「・・!・・あ。手帳?」

 

「そう。手帳よ。貴方がこの前拾ってくれて、そして私の不覚の一端を担った物体です」

 

そう言って絢辻は手帳の表紙と裏表紙を交互に有人に見せながら少し微笑む。しかし、現在その表情に何処か淋し気な色が混ざっている様な感じが有人はした。

 

「・・。ちょっと白状するとね?これは私の『心の中』なの」

 

「こころ?」

 

「うん。私が思った事、考えた事、予定や約束を文章にして書き留めておく場所、自分が『これは大事だ、忘れちゃいけない、留めておかなければいけない』と思った情報を保存、保護する手帳の本来の役目。そして同時に私が『人には見せない、見せちゃいけない、見せたくない思い』もここに書き記すの」

 

「見せたくない物がその中に在る・・・だから俺に『見られた』と思ったあの時、あんなに?」

 

「そうよ。中にはこれを見られたら私がとても学校に居られなくなる様な事も書いてあるわ」

 

「・・・」

 

―うわ・・怖いけど少し気になるな。一体何を―

 

「ま、見ちゃった人間もその時は道連れにしてやるけどね」

 

―・・・はいダメ!好奇心は人を殺すね!うん!

 

 

「・・・。中には源君の事も書いてあるよ」

 

「え・・俺の事も?」

 

「どんな罵倒や不満が書かれているんだろう」と有人は一瞬空恐ろしくなった。これ程観察眼と洞察力の鋭い少女だ。さぞ手厳しい、辛辣な事が書かれているに違いない。

 

「・・知りたい?」

 

「・・遠慮しときます」

 

「ふふっ♪良い選択だと思うわ」

 

 

 

 

「・・源君の事だけじゃないよ。他の皆の事も書いてある。源君が話した事も無いような人の事もたくさんたくさん載ってる」

 

「・・・」

 

「源君?・・一学期の初め・・私が作った『自己紹介用紙』覚えてる?ホラ・・後ろに張りだしたヤツ」

 

「あぁ・・うん。覚えてるよ?」

 

「あれはね?実は当たり障りのない質問の中でその人の性格、思考の傾向、本音を無意識にだしてしまう・・言い換えるなら心理テストみたいな内容なの。それを素に新しいクラスメイト一人一人の個人の情報を纏めて・・それに加えて日々の学校生活の中でその都度情報をくわえたり、また逆に省いたりもして纏めたものがこの手帳の中には記されてるわ」

 

「・・・!」

 

有人は思いがけない所であの春の日―出逢ったばかりの絢辻から手渡された自己紹介用紙の目的、末路を知る事になった。やはりあれを回収、処分したのは絢辻だった。あの始まりの日から既に絢辻の暗躍は始まっていたのだ。

 

「どう?私の『心』だっていうのも納得でしょ?綺麗事や都合のいい事だけを纏めただけじゃなく普段は表に出せない私の嘘偽りない言葉がこの中には詰まってるの。・・そんなもの人に見せられたものじゃないでしょ?これを誰かに見られるって事は、陰で情報を集め、ひっそりと他人を丸裸にしている私が逆に丸裸にされ兼ねない代物・・おかしいでしょ?こんな物を常に持ち歩いているなんて」

 

そう言って彼女はまた笑った。しかし今度は微笑みながらも眉がはっきりと少し内側に曲がっている。

 

「これを使って私は今までやってきた。そしてこれからも・・そうしていくつもり・・」

 

絢辻はそう言って再び右手でポケットの中を探った。そしてこう付け加えた。

 

 

「・・『だった』でも・・もうオシマイ」

 

 

ポケットからでてきた絢辻の右腕に握られていたのはまだ真新しい、先程寄ったコンビニのシールが貼られた小さなオイルライターだった。

 

 

この手帳は彼女にとって役に立った。ここに書かれた情報を整理、修正した情報を活用すればいざという時その情報に合わせ、目標の人間をどう動かせばいいのか、何をすればいいのかをある程度理解出来た。

 

そして時には言い表せない、彼女の立場上、表に出すわけにはいかない、積み重なった鬱憤、憤り、理不尽に対する不満を受け止めてくれる場所もまたこの手帳だった。

 

 

でも所詮、「情報は情報」だ。「情報」は確かにそこら中に転がっているが所詮「情報」=「真実」ではない。今日起きた有人の出来事がいい例だ。

一人の人間を知る、理解しきる、纏めきるにはこの手帳はあまりにも小さく、薄すぎる。人はそれほど複雑で多岐の分類に枝分かれした「個」だ。それを一冊の手帳にデータとして取りまとめたぐらいでその人間を理解することなどおごがましいのだ。

人を知り、調べ、この手帳に纏める事で自分はその人を「知った」と絢辻は勘違いしていた。その手帳は情報を素に一見客観的な事実を羅列したようで実は他でも無い絢辻自身を写す鏡だったのだ。そこに描かれている人物は絢辻の中で作りだした物。本当の姿では決して無い。

 

今日その事に気付いた。

 

 

 

源 有人という少年を絢辻 詞という少女が理解しようとした事によって。

 

 

 

「絢辻さん・・?・・・えっ!」

 

カチッ・・カチッ!

 

絢辻はオイルライターのスイッチを二、三度押す。四回目で赤い炎が出た。そしてそれを惜しげもなく手帳の下部の角に当てる。ジジジと音を立て、徐々に黒い煙が上がった。

紙の部分と革で出来た部分の燃焼の具合が大きく違う。紙は赤い炎を上げすぐに燃え尽きて灰になり、黒い革地の部分は黒い煙と嫌な臭いをぶすぶすと出しながら徐々に炭化していく。もうここで炎を慌てて消したとしても、その物体は手帳としての体を成さない。

 

「・・・いいの?」

 

「・・うん。もうこれは私には必要ないものなの。こんな物よりも大事なものがあるって気付いたから。先に進むならこれを何処かにしまうとか、誰かに渡すとかみたいに中途半端な事をするよりいっそ無くしてしまった方がいい、シンプルだから―今はそう思うの。そしてぽっかり其処に空いた場所に新しいものを入れていく。・・私、今度は間違えない」

 

「・・・」

 

「・・源君。見ててくれるかな?私を」

 

「・・・俺で・・」

 

「『俺でよければ』はなし」

 

「・・うん。わかった」

 

「・・ありがとう。覚えておいて。ここが私の再出発点」

 

絢辻は足元に燃えた手帳を落とし、有人と向かい合った。手帳から今だ燻ぶる煙がお互いの顔を少し見えなくする。しかしそれもすぐに消え、有人の目には表情のない絢辻の顔が映ったと思うとすぐに絢辻は瞳を閉じて微笑んだ。彼女が自分の「心」と呼んだ手帳の中身を燃やすことで舞い上がった煙をまるで絢辻自らに染み込ませたように有人には見えた。

 

完全に燻ぶる煙が消えた後、伏せ目がちに瞳を開き、絢辻がこう口を開いた。やや悲しげな口調で。

 

 

「・・・。凄く正直に言うと貴方が居て楽しかった。嬉しかった。それでよかった。そこに不安を覚えるまでは」

 

 

「不安・・?」

 

「そう。・・貴方が居なくなる。遠くに行ってしまう可能性」

 

絢辻は今回の件で誤解とは言え思い知った。自分がまだまだ何処か彼に距離を置こうと、楽にしようと思っていた事を。

「自分自身には自信がある」、「生まれ持ったこの頭、そして体は伊達じゃない」、「身も心もやわな鍛え方はしていない」、「だから一人の人間を繋ぎとめておく位造作も無い事だ」―と思っていた。

 

しかし思い知った。それは思いあがり。その証拠があんな愚行達だ。

事実関係もろくすっぽ調べもせず勢いのまま自分の中で「源 有人という少年」を勝手に作り上げ、一方的な悪意を以て私怨に走った。それがどれ程に危険で理不尽な感情である事を頭のどこかで理解しながら理性で止める事が出来なかった。

 

不覚も不覚。自分に厳しい彼女にとって屈辱的な出来事だった。

 

しかし、それは紛れもない事実をも表し、絢辻に自覚させる。予想以上に、自分が考えていた以上に「源 有人という少年」の存在が彼女の中で大きくなっている、影響を及ぼしている純然たる事実。それは最早受け入れるしかなかった。

そしてこの先を行くには今のままの自分ではダメだという事を思い知った。

 

 

「・・・。一応今のところ引っ越しとか転校する予定は俺には無いんだけどな」

 

 

「・・・」

 

 

「あはっ・・ごめん」

 

有人はおどけたが絢辻は反応しなかった。今の絢辻の言葉にはいつものからかいや悪戯は無い。真剣そのもの。それに気付きつつもどこか砕けずに有人は居られなかった。でも、彼もまた向き合うほかない。有人もまた心根を少し入れ変える。

 

 

「・・俺はそう簡単に居なくならないよ。俺だって絢辻さんと一緒に入れて楽しかったし、嬉しかった」

 

 

「・・ホント?」

 

「うん」

 

「でも・・証明できるものは何もない。違う?」

 

「・・証明?」

 

「そう。だって・・貴方と私には何もないんだもの?過去も、どういう風に生きてきたかもお互いに全く知らない。ただ今は同じ時間と場所を共有しているだけ。それがこれからも続く保証も全くない」

 

「それは・・そうかもしれないけど」

 

「だからって私はずっと貴方に側にいてとは言えない。束縛も強制も出来ない」

 

「・・そうなの?」

 

その言葉の本当の意味を有人は推し量りかねた。

 

 

 

 

「だから・・私は貴方を私の物とすると同時に私は貴方に私をあげる。・・そのかわり・・貴方が居る今の日常を私に頂戴」

 

 

 

 

―源 有人という少年と絢辻 詞という少女が共に居る時間を私に・・下さい。

 

 

 

「・・これは契約・・」

 

 

 

「・・え?」

 

「これは恫喝でも強制でも何でもないわ。お互いの同意が無いと成立しない・・契約よ」

 

 

そう言いつつ絢辻はゆっくりと有人の目の前に右手を差し出した。

 

 

 

 

 

 

 

「・・手をとってくれますか?」

 

 

 

 

 

 

 

細く、小さく、真っ白な手。そして・・ほんの少し震えていた。

 

「・・・」

 

有人はまるでその小さな掌から流れ落ちているものをとりこぼさないようにゆっくりと下から掬う様に絢辻の手に触れる。

 

とても冷たい。けど有人が触れたことで心なしか震えが治まった様な気がする。

 

普段、彼女の何時もの行動を支える右手。この小さな手が成してきた、またこれから成す事はきっと添えられた一回り大きい有人の右手よりも遥かに多いはず。

 

―しかし、

 

今その白く、小さな絢辻の手は有人の手に簡単に収まるほど小さく、不安気な白い小鳥の様だった。

 

握りつぶさないように。包み込むように。有人は細心の注意を払った。少女の小さな手に納まっていた手帳に変わり、少年の手が変わりにすっぽりと少女の手を包み込む。

 

「・・・ありがとう」

 

「・・・ううん」

 

 

 

 

「・・・おまけ!」

 

 

 

 

「え?」

 

唐突に白い小さな手にいつもの活力が戻り、有人はぐいと引き寄せられた。

 

 

―んっ・・・

 

 

一瞬でフレームインしてきた絢辻の瞳が妖しく光った一瞬を有人は忘れる事が出来ないだろう。その水晶の様な黒い瞳がほぼゼロ距離で唐突に閉じられたと思うと柔らかく、温かい感触が有人の唇を覆った。

 

 

 

 

「・・・・!!」

 

 

 

 

―嘘。

 

 

 

 

対称的に有人の目は大きく見開かれた。閉じられた絢辻の瞳の長い睫毛が有人の見開かれた目の前にある。逸らしようがない。正直失神寸前の衝動である。

 

 

 

「・・・・・・ふぅ。契約成立ね」

 

 

 

やや上気した顔をゆっくりと離しながら絢辻は微笑んだ。長い髪も整える。

顔と同時に上気して跳ねあがった心臓を必死で押さえこむようにして。

 

 

「心臓が壊れるかと思ったわ・・」

 

 

珍しく本音も出す。とりあえず吐きだす物吐き出さないと流石の絢辻でも押さえきれないようだ。

 

「・・・・・」

 

しかし、片や不意を喰らった有人は完全にマグロ状態である。見開かれた目なんぞいいDHAを含んでいそうだ。

 

 

「・・・!!じゃ、じゃあまた明日ね源君!」

 

 

絢辻、そんな有人を放置。絢辻にも余裕が無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・ここで火遊びをしていたのは君かね」

 

 

 

 

三十分後、有人は神主に詰問されていた。放火未遂の疑いで書類送検、身柄確保・・までは流石に彼の人徳、善人のオーラによって行かなかった。

 

 

色んな意味で濃密な源 有人という少年の一日がようやく終わりを告げる。

 

 

 

 

 

 

 













「つっ・・絢辻さん・・歯、当たってるよ・・」

唇に指先で触れながらそう呟き、現実感がないふわふわとした足取りで有人は帰路に就く。




一方絢辻も




―もう少し・・優しく触れた方が良かった・・・カナ・・?




全速力で走りながら両の掌で未だ鈍い痛み、そして熱を持つ唇を覆う。


痛みの箇所を押さえているのか。


上気した顔を隠したいのか。


もしくは今の自分の唇を誰にも見せたくないのか。








もうワケが解らなかった。

















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断章 3






断章 女の子は誰でも

 

 

 

 

 

「・・早くしてくれる?この前源君『達』がサボったせいで作業が遅れているんだから」

 

 

 

 

「うん。ごめんね」

 

作業している有人を見下ろしながら毒を吐く少女に有人は全く逡巡することなく受け流し、手を動かしていた。そんな有人を少女は腕を組み、見下ろしつつも、その彼の一挙手一投足に目を配っていた。

 

―・・。源君・・。

 

少女の厳しい目付きが徐々に和らぐ。キツイ言葉をかけつつも、やや伏せ目がちのその眼に憂いや切なさの入り混じった色が浮かぶ。「長年」この少女はこの「眼」を彼に見えるように直接向けた事は無い。プライドの高い少女の性格がこれを許さなかった。

「自分が求める男性の理想はもっと高い」と高をくくっている少女は自分の中にある本当の気持ちの源泉を抑え込み、無視し続けていた。

 

「私の理想の相手は彼なんかよりもっと背が高くて、ハンサムで、決断力があって、勉強ももっと出来て、スポーツも万能な人だ。私の理想はもっと高い所にあるんだ」、と。

 

しかし、実際は所々こういう風に表に漏れだす感情を彼女は抑えきれずにいる。それを当人―有人に見られないようにするだけで精一杯だった。

背を向けて作業をしている有人の背中を腕組みしながら少女は見つめ、肩までの髪を軽く首を振って整え、何時もの厳しい表情に戻る。有人がそろそろ振り向く気配を感じ取ったのだ。それが解るくらい少女と有人の付き合いは実は長い。

 

当の有人はそんな事知る由もないだろうが。

 

有人にとって少女は「特に接点は無いが同級生として意外にも結構長い付き合いのある間柄」程度だろう。この少女の気持ちに気付く事はあるまい。

 

 

 

「・・黒沢さん?」

 

 

 

「・・何かしら?」

 

少女―「黒沢」と呼ばれた彼女の予想通り、有人が振り返りつつ尋ねる。

 

「市との連携はどうなの?上手くいきそう?この前出した委員会の活動報告書の返事は?」

 

「・・それ貴方が気にする事じゃないわ。余計な事考えてないで手だけ動かしてくれます?」

 

「ごめん・・」

 

「・・!」

 

―あ、謝らせちゃった・・そ、そんなつもりないのに・・。

 

見た目の強気な態度とは裏腹に少女―黒沢 典子 (くろさわ のりこ) の内部はくず折れるようにへなへなと頭を抱えた。

 

 

―それに、それにしても最近腹が立つことがある!

 

ただでさえ気に入らないのに源君に近付く「あの」女!

 

ほんの少し前までは噂程度の事だったけど、最近では常にあの女が彼の隣にいる事が普通になってきている!周囲も徐々に「そんな気配」を感じ始めてる在り様。

 

・・・・ああ!!気に入らない!ほんっと気に入らない!!寄りにもよって「あの」女なの?源君!

 

ちょっと頭が良くて、ちょっと顔が良くて、ちょっと人気があって、ちょっと・・etc・・ちょっと・・etc・・・だからって!

 

 

「・・沢さん・・黒沢さん・・?」

 

「ん!何よ!?・・・!」

 

―・・・っあ!

 

「う・・ごめん」

 

少し脅えたように笑う有人の笑顔にあわてて黒沢は―

 

「・・何かしら」

 

気を取り直して優しく言い直そうとしする。が、黒沢の尊大な高飛車感は抜けない。そんな自分に内心頭を抱える。

 

―はぁ・・私ってなんでこうなんだろうか。

 

 

「一応半分位終わったから・・一旦休憩しようか?もうそろそろお昼だし・・」

 

今日は第二土曜日。休日返上の委員会活動は八時から休みなしぶっ続けの作業に流石に少し疲れた顔をして有人はそう言った。

 

「・・そうね。じゃあお昼の休憩にしましょうか」

 

「今日中には終わらすから。色々ゴメンね。黒沢さん」

 

「フン。ホント頼むわね?」

 

―・・・ん?お昼?休憩?今二人・・?

 

尊大な態度を崩さないながらも黒沢の思考が目まぐるしく駆け廻った。この千載一遇のチャンスに。

 

簡単な事だ。

 

「・・一緒にお昼でもどう?」と一言言えばいいだけの話。先程はぞんざいに扱ってしまったが、有人から聞かれた「市に提出した報告書の返事がどうだったか詳しく話したいから」と、でも言えばいいだろう。

 

「・・源君」

 

「ん?」

 

手元の資料をトントンと纏め、整理しながら有人は横目で黒沢を見る。薄茶色の瞳が垂れた目じりを沿ってくる。・・昔から彼のこの眼に彼女は弱い。

 

―・・う。

 

「・・・?」

 

この一瞬の怯みを彼女は後悔する事になった。

 

 

「・・失礼します」

 

 

がらりとドアが開いて今黒沢が最も会いたくない、この場に現れて欲しくない人物が現れる。嫌味なほどに艶やかで整えられた黒髪が光る。内心黒沢はまるで汚いものを見るように「うっ」と呻いた。

 

「・・源君、黒沢さん。二人共休日の作業本当にお疲れ様です。源君・・御免なさいね?」

 

その人物―絢辻 詞が室内に居た二人に目を配りつつ、二人を申し訳なさそうに労った。

 

「いいよ。この前サボったのは俺だし」

 

「でも・・私を家に送るためだったのに」

 

「・・・!!」

 

黒沢を一人置いてお互いを気遣う様な会話をし始める二人を前に、黒沢は双方を目配せしながら

 

―・・何だ?何なんだこの状況は?死ねばいいのに!

 

などと内心憤るが、哀しいかな黒沢を抜きにして二人の話はどんどん進む。

 

 

「どう?源君?午前中の作業の進捗具合は?」

 

「え~~っと・・リストのまとめがようやく半分くらい済んだトコだ・・。あは・・要領悪くてゴメン」

 

「あ!じゃあ丁度良かった!私、源君の作業を自分の手が空いたから逆からやってみたの。だったら丁度半分ちょっと終わったから・・」

 

「え・・ホント?」

 

「ちょっと見せてみて・・あ!うん!!ここまでやってくれたら充分。もうさほど時間がかからず終わりそうね。良かった」

 

「ごめん・・フォロー有難う絢辻さん」

 

「そんな・・謝らないで。元々は私のせいなんだし・・」

 

阿吽の呼吸、トントン拍子で二人の作業の遅れは解消されているようだ。一行に解消されない、それどころか秒刻みで増していくのは黒沢のフラストレーションである。

 

 

―っきぃ~~~っ!!もしもし!?

 

 

「お陰さまでとりあえず目途はつきそうだし・・お昼にしようか。絢辻さんはお弁当?」

 

「ううん。今日は学食にするつもりだけど・・」

 

「じゃあ行こっか。俺流石にお腹すいたや。・・。・・あ!?黒沢さんゴメン!さっき俺に何か言いかけてたみたいだけど・・?」

 

何も知らない酷な少年からの一言。コレは少々辛い。

 

「・・。作業がさっさと終わってくれるんならどうでもいいわ」

 

絞り出すように平静を保って黒沢はつっけんどんにそう言った。ここ数十秒で黒沢は何度苦虫を噛んだか解らない。おかげで今は口の中がジャリつきそうなぐらい不快だ。

 

「・・本当にごめん」

 

「私からも・・本当にごめんなさい黒沢さん・・」

 

「(ぎりっ)・・」

 

―きぃぃっ・・貴方が謝るな!なんか「違う意味」で謝られている気がすんのよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時と場所が移り食堂にて―

 

 

「相変わらず作業が遅いのね・・あれくらい午前中に終わらしときなさいよ。だったらご飯食べてすぐ帰れたのに・・」

 

 

絢辻は何時もの絢辻に戻り、B定食の味噌汁をすすりながらそう言った。

 

「ごめん・・」

 

嫌みに聞こえるようにワザと言った絢辻に有人は何時も通り素直で愚直な返答を返す。そんな彼に「相変わらずね」と絢辻は微笑んだ。

 

「ふふ・・何で謝るの?『半分は絢辻さんのせいじゃないか』とでも言えばいいのに。貴方大概非は無いわよ?」

 

「まぁ・・実際俺の作業が遅いのは確かだと思うし・・」

 

「・・むふん。殊勝な心がけね。嫌いじゃないわそういうの。おっと・・私もちゃんと源君にはお礼言わないとね。・・どうも有難うございました」

 

両手をきっちりテーブルの上に添え、ぺこりと絢辻は頭を下げる。

・・先日の一件以来、絢辻は有人だけに見せる本性の時も少し素直になった。

 

「いえいえ。結局は半分絢辻さんに振っちゃったワケだし」

 

少し溜息を吐きつつ、このスペックが悲しいほど自分より高い向かいに座った少女の礼に有人は応えた。

 

 

 

「・・ねっ。ちょっと聞きたいんだけど・・・黒沢さんと源君って知り合いなの?」

 

「ん?んん~・・あ~考えてみれば小学校の、五年生くらい、だった・・かな?それぐらいの時からの知り合いだと思う。結構長い付き合いだよね。でもさっき見て貰った通り・・嫌われてるみたい。何か何時も怒られるんだよね」

 

「・・」

 

―あらら・・なぜ・・そう言った結論になるのかしらね?

 

悪戯そうに頬杖つき、昼食のパスタを啜る神妙そうな有人のカオを上目づかいで絢辻は見上げる。そしてこう付け加えた。

 

 

 

「ふぅん・・あの子・・源君の事好きなのね?」

 

 

 

「そうなんだよ・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

 

「え」

 

 

「ステゴサウルス並みの神経伝達速度ね・・」

 

 

こくんと定食の味噌汁を啜りつつ、目を丸くする有人の視線を平然と絢辻は受け流す。

 

 

 

「多分貴方の事追いかけてこの学校に来たわよ。黒沢さん」

 

確信し切った口調で絢辻はそう言うが有人は俄かに信じられない様子だった。

 

「えー・・それは流石に無いんじゃないかな?だって黒沢さん中学からずっと俺より成績良かったはずだよ?現に今もいいはず」

 

「・・貴方達どれくらい差あった?例えば中学の試験の順位とか、模試の判定とか」

 

「ん・・?あんまり覚えてないけど・・大体・・少し上ってイメージかな・・?」

 

「貴方の志望の高校・・さりげなく聞いてきたりしなかった?」

 

「・・・ん?あ。『貴方も吉備東なの?大丈夫なの?受かるの?』とか嫌味で言われた気がする・・そういや吉備東の模試の判定も・・聞かれた、かな・・?」

 

「やっぱりね・・彼女凡人だけど同時結構努力家よ。きっと貴方の少し上を行くために相当努力したはずだわ。ずっと貴方の下にぴったり付くんじゃ気付かれる可能性が高いし、彼女のプライドが許さなかったんでしょうね」

 

「『気付かれる』って・・」

 

「そのままの意味。勿論貴方と周りによ。少なくとも上の順位に居れば貴方につかず離れず、ぴったり『追走』しているなんて誰も考えないでしょ?」

 

「まさか・・」

 

「・・自分の生まれ持った器量だけで物事を諦めない。才能という言葉で片付けない。目標―『せめて同じ高校に行く』為に出来る事をする。・・その点は私も彼女を認めてるわ」

 

「・・」

 

「源君?貴方・・変に小器用な所あるから。それについていくのは中々大変だったと思うわよ。彼女・・自分の適性も省みず貴方を追っかける為に相当努力したんでしょうね」

 

「実感湧かないな・・昔から・・今の委員会でも嫌味ばっかりだし」

 

「興味の裏返しよ」

 

「・・そんなもんなの?」

 

「そんなもんよ。(さて・・帰りの下足室はちょっと気を付けないと・・)」

 

「ん・・何か言った?」

 

「ううん。何でも。・・・。ねぇ」

 

「うん?」

 

「パスタ用のスプーン・・使わないなら私に貸してもらえる?」

 

「・・?別にいいけど」

 

絢辻が頼んだB定食は和食のセットである。付属で割りばしが付く上、献立もスプーン等必要ない品目が並んでいる。なのに有人が頼んだパスタ用のスプーンとテラスの机の予備のスプーンを絢辻は両手に持った。

 

・・?何をする気だ?

 

 

 

「・・・ウ○ト○マン。・・シュワッチ!!」

 

 

 

「・・・ぶぐっ!!!????」

 

パスタが有人の気道に詰まる。絢辻が二つのスプーンを使って両眼を隠し、遥か遠い宇宙から地球を救う為にやって来た国民的巨大ヒーローとなっていた。

 

―馬鹿な。誰なんだ!この絢辻さん!

 

むせる有人を絢辻は少し冷めた目で見下ろし、

 

「そんな面白い事したつもりないんだけどね・・」

 

二つのスプーンを顔の外にスライドさせ、悶絶する有人を見ながら絢辻は不思議そうに首をかしげる。

 

「ごっほ!!!げぇっほ!!い、いや・・無理だってこれ!!」

 

―まさかあの絢辻さんがそんな脈絡なくこんな事するなんて・・!意外すぎる!!

 

「くすっ・・いつまでも笑ってないでさっさとご飯食べちゃいなさい。さっさと終わらせて帰るわよ?貴方はともかく私は暇じゃないんだから」

 

 

「解った・・解りましたから今みたいな不意打ちは止めてね。本当に・・反則だから」

 

「・・・」

 

絢辻、腕を組んで有人から眼を逸らす。

 

 

「・・・!!次のネタ考える様な顔は止めて!!」

 

 

 

 

 

 

―・・あー楽し。

 

源君をからかうのも、彼の笑顔を見るのも。それを引き出すために考え込む自分も。

そして・・遠目で私達のやり取りを親の仇を見るような眼でにらむこの視線も心地いいわ~~。

 

・・殺気は私だけに向けているらしいから源君は気付く事は無いでしょうね。勿体ない・・こんな楽しい事なのに。ぎりぎりと歯ぎしりがここまで聞こえてきそうなこの視線。

 

まぁ・・普段散々私にしょうもない嫌がらせや言いがかりをつけてくるんだもの。それをいちいち毎回付き合ってやっているのだからこれくらい我慢しなさい。

さぞかし悔しいでしょう?羨ましいでしょう?

自分が中々引きだす事の出来ない、空回りして、逆走して彼に嫌味を言うことぐらいしか出来ない貴方には見せない彼の笑顔がこんな近くにある私が?

 

 

 

絢辻は純粋に有人との会話を楽しみつつも一方で、どす黒く自分に向く他人の敵意と嫉妬心を浴びて生じる優越感を楽しみながら気持ちよくB定食を完食したと同時―

 

 

・・絢辻に戦慄走る。絢辻の適性摂取カロリーの目安を既に振り切っていたからだ。

 

 

 

―・・・やば。・・夕食抜こ。

 

 

 

 

 

黒沢 典子

 

2-Bのクラス委員長と創設祭実行委員会を掛け持ちする女生徒できつい眼差しと物言いが特徴の絢辻とはまた違ったクラス委員長の典型的タイプである。

彼女の父親は吉備東市の市議会議員を務める男性で、名誉心と功名心の強い父親の影響を受けてか彼女自身も「集団の先頭に立ち、集団を牽引する事が上に立つ自分の義務、責務」と心がけるある意味感心できる少女だ。

 

だが「適性」というものはやはり存在する。

 

生来物言いがきつく、自分の感情がハッキリと顔にでるタイプ故に周りの人間を萎縮させやすい。決して立場にかこつけた無能では無く、絢辻の考察通り努力家な一面もあるのだがそのような性格が災いしてか彼女の下に付く人間は自然、彼女に従順なYESマンになりやすい。それが彼女の成長を妨げているとも言えた。

 

そして彼女にとって不幸な事にこの学校には絢辻 詞という存在が居た。

全てのスペックにおいて彼女を一回りか二回り上回る絢辻を意識し過ぎるあまり、彼女は自分のいい所を殺している。「努力し、成果を出して彼女を正々堂々出し抜く」よりも「嫉妬し、妬んで彼女の足を引っ張る」ことに傾倒してしまったのだ。

皮肉にも彼女の「市議会議員の娘」という立場がそれを可能にするのだから質が悪い。それが現在の創設祭の「市と学校側の連携の停滞」にも繋がっているのだから迷惑な話である。

 

彼女は絢辻が推す創設祭の「生徒主導派」に真っ向から対立する「外注派」である。ただし、それは外注の方が効率性、安全性、クオリティにおいて前述を上回るなどの比較的真っ当な理由から来る物ではない。彼女自身の酷く個人的な理由ゆえだ。

 

それは単純に「生徒主導派が絢辻の派閥だから」と言う理由だけである。

 

元々彼女自身の本音はむしろ「生徒主導派」だ。自分の優秀さ、リーダーシップを披露するこの学校最大の目玉イベント、アピールの場を奪われる等、本意ではない。

 

しかし、結局どちらにせよ自分がその主役に立つことは困難だ。絢辻に創設祭実行委員長の座を既に奪われた彼女の屈辱はより苛烈な絢辻への嫌悪感を強める。自分の思い通りにならないならさんざ邪魔してやろうというのが彼女の行動指針になった。

 

しかし、さらにさらに悪い事に今度は小学生の頃からずっと気になっていた少年―有人があろうことかその絢辻と過ごす時間が増えている点だ。

創設祭の実行委員に意外にも有人が入って来たという噂を聞いた時、小躍りするような彼女を絶望の奈落にたたき落とすには十分過ぎる厄(妬く)ネタである。

 

 

まぁここまで私事で頭が一杯な時点で彼女が「人の上に立つ器では無い」と言ってしまえばそれまで。だが、不運が積み重なっている事も事実である。

かといって私事で頭が一杯なのは絢辻とて例外では無い。が、持て余した感情を上手くコントロールする術に関しても絢辻は全く以て黒沢を上回っていた。その点は潜り抜けた修羅場の数が絢辻と黒沢には歴然の差がある。

感情と自分を殺し、コントロールした回数の差がケタ違いなのだ。凄く悪意のある言い方をするなれば自分を騙し、律し、それによって他者を騙した回数に差がありすぎるのだ。

黒沢の場合、自分の感情を支配し、制御しているつもりでも相手に押し隠した感情を簡単に気取られてしまう。表情や態度、口調にあっさり出てしまうからだ。

そして逆に自分が本当に伝えたいこと、自分のいい所は器用に覆い隠して肝心の人物達に伝わっていない点が気の毒ではある。

 

しかし―

 

周りの評価には現状差があっても絢辻と黒沢は実際よく似ている。

 

他人に自分を認めさせたいという渇望も。

その為に努力を惜しまない本来の性質も。

とことん素直じゃない所も。

 

同じ人間に惹かれている所も。

 

本人たちにとっては「同志」と割り切るのは絶対不可能だが客観的に見れば類似点の多い二人ではある。

 

 

女の子は誰でも砂糖とスパイスで出来ている。

 

 

それによって生じる結果の差は結局少女たちのそれの匙加減に委ねられている。

素直になれない長い付き合いの少女は片や最近少し素直になった少女に大きく差をつけられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




↓元没ネタ







おまけ


「ね。源君」

「・・・ん・・・?」

「この前、ね・・?その、色々私・・源君に悪いことしちゃったじゃ、ない?だから・・何かお詫びって言うか?」

「あぁ別にいいよ。何かどこかムシの居所が悪かったんでしょ?誰でもそう言う時はあると思うし」

「・・。それじゃ私の気が済まないから言ってるんだけど・・。ん~~、・・あ!!じゃたまにはこんなのどうかしら?」

「ん・・?」



「源君。今日は私にありったけの悪口言ってもいいわよ?今日は何言われても絶対私怒らないし、反撃もしない。こんなのどう?」



絢辻は腕を組みつつ綺麗な右手の人差し指をピンと立て、得意げにそう言った。しかし―


「そう。じゃあ俺『何も言わない』。それじゃ」


有人は素っ気なくそう言って絢辻からくるりと背を向けた。


「ちょ、ちょっと!?源君!?」

絢辻はそんな有人に追い縋り、がっしと肩を掴む。「わっと」と、言いつつ有人は後方に重心を乗せたまま、背後の絢辻に視線をやる。絢辻の顔は「怒らない」と言った割にややぷんすかと不満そうだ。

「いや・・だって特に俺、絢辻さんに言いたい悪口なんて無いし・・」

「ええ!?ほら、在るでしょう!?その、色々と積り積もった・・その・・」

絢辻はそう言いかけて口籠る。数々の「仕出かし」を自らで赤裸々に大公開する様な物である。

「・・・。絢辻さんって何だかんだで本性の自分には自信ないんだね・・」

「ああ言ったらこう言うヒトね。・・あぁ腹立ってきた」

「・・・『怒んない』って言ったのに」

「ぐ。・・・も~~!つべこべ言わないの!!ほら!何でも言って御覧なさい?いつもの『裏表の無い素敵なヒト―絢辻さん』で優雅に受け流してあげるわよ」

手の甲を有人の方向に向け、くいくいと有人を挑発する。

「・・ホントに怒んないんだね?うん解った。でももし怒ったら・・そうだね・・」

「・・・」

「・・・意外に嫌な条件をこのヒトは出してきそう」と、絢辻は今回、自分の短絡さを内心後悔する。


―ま、まさか・・なんか「〇〇〇―ちゅど~~ん」←(「例」のロケットの発射音)な事要求してこないわよね・・?



しかし―

「帰りに例のお店でメロンパン奢ってくれる?」

「え・・?・・安いベッドね・・そんなので良いの?」

肩透かしな軽い条件に絢辻はホッとすると同時にどこかがっかりしている自分に驚く、

が。

有人の次の一言に―

「うん。だってこれぐらいのリスクなら絢辻さん『怒ってもいいか』って思えるレベルだと思うし」

流石に絢辻、「イっラァッ!」とくる。

「ほぉ・・・私が『怒る』前提で話をしてるのね?良い度胸ね~~」

青筋をぴくぴく立てつつ、絢辻は怒りの籠った満面の笑みを向ける。「怒らない」と言った手前、一応表情は取り繕うが最早怒っているも同然である。色々と忙しい絢辻に「中々見ていて飽きない人だ」と有人は内心思う。


「よっし・・じゃあ行っくよ~~」

「・・・」

絢辻、身構える。

―・・取りあえず今日さえ乗り切れば私の勝ち。後日罰ゲームとして盛大な反撃をしてやるわ・・。


その為には絢辻は負けるわけにはいかない。今日怒ってしまえば後日有人に仕返しする権利すら失ってしまう。それでは踏んだり蹴ったりである。


そう!

怒りとは!溜めるものでは無い!!「何か」に向けるものなのだ!!!


この!

へらへら腹立つ少年に向けて!!



「すぅっ・・」


「・・・」



↓以下ヒッティングマーチに乗せて




天使の様な微笑みに♪

邪悪な笑みを押し隠し♪

欺き♪騙して♪ほくそ笑む♪黒い~~ぞあっやつじ~~♪



黒いぞ!あざといぞ!あっやつじ!!

併せて!略して!「あっざとじ」!!!











「・・・・」










・・ぶちん






「うあぁ~~~~~!!もう!!許さない!!」




絢辻は高々と両腕をあげて吠えた。「殺す!!もう殺す!!」とでも言いたげに。しかし―



「・・・!?・・ちょっ・・!!源君!!!?源君・・どこ!!??」


絢辻が激高した頃にはすでに有人は「♪」と言いたげに絢辻に背を向けてすたこら逃げていた。


「・・・!!逃げないでよ~~~卑怯者~~!!」


絢辻がぷんすか追いかける中で有人は逃げながら振り返り、間延びした口調で―

「はは~~怒らないって言ったじゃない~~?」


「貴方がまさかここまで煽りのポテンシャルをもってるなんて予想だにしなかったのよっ!!」


「絢辻さんってさ~~?貶(けな)され慣れてないでしょ~~?ムリは体に良くないよ~・・『あざとじ』さん?」


「っきぃいいいいいい・・・!」





その日の夕方―



口に死ぬほどメロンパンを詰め込まれた有人がぷんすかしている絢辻を宥めながら下校していた。













―・・やばい。



私。なんか―




・・・・死ぬほど楽しい。






















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ルートT 八章 不協和音












9 不協和音

 

 

 

「ん・・あれ?え?」

 

創設祭の会計資料の見直しを行っていた有人が不思議そうな声をあげて目を丸くした。彼の傍らには今回助っ人として呼ばれた国枝、杉内の両名がその声に気付いて振り返る。

 

「ゲン?」

 

「・・どした?有人」

 

「あ、ゴメン。ちょっと確認するから・・電卓とってくれる?」

 

国枝から無言で手渡された電卓を受け取ると有人はしばらく黙りこんで電卓のキーを叩く。その音が資料室に響いた。そんな有人を見ながら国枝、杉内の両名は?マークが消えないままのお互いの顔を見合わせる。

 

「・・・やっぱり」

 

集計した数字と手元の資料を見比べながら有人はそう呟いた。

 

「・・ミスか?」

 

「うん」

 

「ひょっとして結構致命的なミス・・?」

 

杉内が少し不安そうにそう聞いたが有人は顔色を変えることなく、

 

「いや・・そうでもないんだけどね?ただでさえ見直し中の今に見つかったから不幸中の幸いって言ったらそうなんだけど」

 

些細で許容範囲なミスであることを不安そうな杉内に少し笑いかけながらそう言った。

 

「ほ。そうなのね」

 

「・・。その割にはお前か~なりびっくりしてたな?」

 

杉内の安心をよそに、幼馴染の友人の複雑な心情を鋭く読み取った国枝がそう有人に尋ねる。

 

「まぁ・・お金に関することだからこのままもしミスが見過ごされていたら・・って考えるとちょっと怖いのは確かなんだけどさ」

 

「・・。他に何か在んの?」

 

「うん・・これ絢辻さんが纏めた資料なんだ」

 

「・・。珍しい」

 

「へぇ・・でも絢辻さんでもたまにはミスぐらいすんじゃね?あ。OKこっち終わったから国枝、チェック頼むわ」

 

そう言って不安が解消された杉内は自分が纏めた資料を国枝の分と合わせる。

 

「・・・」

 

そして未だに不思議そうに手元の資料を前にして首を傾げ続ける有人を少し見た後、国枝は杉内と二人で纏めた資料に目線を移してこちらも確認作業に入る。

 

「・・。おい杉内。ここ、早速間違ってんぞ・・」

 

「え」

 

作業を再開した助っ人の二人の傍らで尚も有人は黙ったままだった。

 

 

どんな人間だろうとたまにはミスをする―

 

確かにそうだ。でも絢辻の「この手の作業に関してのミス」は今までにない。少なくとも有人は今まで見た事がない。

会計上の計算で間違いが生じた際のリスクを重々承知している彼女が。そして暗算が恐ろしく早く、また正確な彼女が。

 

それ程の計算力を持ちながらそれに驕ることなく見直しを毎回し、また口を酸っぱくしながら有人にも再点検を行うように徹底していた彼女がこのミスを犯した事に「たまにはミスぐらいするんじゃない?」と軽く言い放った杉内の言葉を額面通り素直に受け取る事が有人には出来そうになかった。

 

一方―

 

「おい・・ここも間違ってんぞ杉内ィ・・」

 

「うわ・・すんません。・・え。誤字脱字くらい勘弁して下さいよ~国枝さ~ん」

 

同い年なのにまるで会社の上司とダメ部下の様な友人二人のやりとりを前に有人はクスリと笑うも、どこかしこりが残るような不安感を拭いきる事が出来なかった。

 

 

 

―翌日。放課後

 

 

「・・・君は予定通り舞台上の照明の点検。念のためにライトの電球を新しく発注した新品に変えといて。創設祭当日、本番中に切れちゃったら目も当てられないからね」

 

「うっす」

 

「・・次に朱里さんは保健室の来崎先生に創設祭中の保健室を臨時の仮眠室にする際、ベッドの増設についてこの資料を参考に相談してきてほしいの」

 

「解りました。でも絢辻先輩・・保険の来崎先生捕まりますかね・・?何っ時もいないですし」

 

「・・ふふ大丈夫。然るべき人に頼んで今日は確実に三時から五時の間、来崎先生は保健室に缶詰めにしてるから。今日に関しては絶対に捕まるわよ?安心して?」

 

ぱちりと自信気に軽いウィンクをしながら後輩生徒の不安を拭う。

あの雲の様に掴めない保健室の幽霊部員―もとい幽霊先生を捕捉できるとは―

 

「わかりました。(・・さすが絢辻先輩だなぁ)」

 

朱里と呼ばれた少女は感心しつつ、その場を後にする。その後ろ姿を見送った後、間髪いれずに絢辻は次の指示に入る。

 

「・・結城君と美作さんは当初の予定通り備品の買い出し。・・こっそり多めに予算取ってあるから今日作業が終わった皆のために飲み物とちょっとしたお菓子でも買ってきてあげて・・」

 

「はい了解です♪」

 

「お菓子の選定は任したわよ・・?結城君・・?」

 

「へへ・・期待しといてください。今、期間限定で美味いのがあるんですよ。絢辻先輩もびっくりすると思います」

 

ちょっと太ましい男子生徒―勇気と呼ばれた少年が愉快そうに目を細ませ、「俺に任せといて下さい」と言いたげに不敵に笑う。

 

「期待してるわ♪・・・じゃあ皆今日も安全第一で!!よろしくお願いします!!」

 

「「「「はい!」」」」

 

絢辻の号令の下、一行は一斉に散会、各自持ち場に迷い無い足取りで向かっていく。

 

 

―・・ふ~む。

 

昨日の有人の些細な心配などどこ吹く風。相変わらず絢辻は滞りなく厳粛で的確に、しかしどこかに茶目っ気と労いを混ぜて創設委員達に指示を行っていた。おかげで実行委員達の士気は相変わらず高い。

 

―・・杞憂、かな?

 

先日発覚した絢辻のミスを結局有人は絢辻本人に報告することなく、様子を見る事にした。ひょっとしたら絢辻がワザとあの会計ミスを残し、それを点検した有人がちゃんとそれを発見するか試しでもしたのかもしれない―そんな風にも考えられる。

 

―・・絢辻さんならやりそうな事かも知んないな。うん、大丈夫。考え過ぎ考え過ぎ・・。

 

そんな思いにふけっている有人に創設実行委員各自に指示を終えた絢辻がくるりと向き直ってきた。両手を胸の前でパンと叩く。とても気力体力ともに充実して元気そうな所作である。

 

「はい!源君は昨日と同様に資料室で業者さんに連絡して諸作業の再確認!」

 

「・・了解」

 

 

「・・。源君・・?今日は結構こっち系の業者さんにお電話するから粗相のない様にね。万が一機嫌を損ねたら・・あ~~恐ろしいわ・・源君消されちゃうかも」

 

 

絢辻は他の委員に聞こえないぐらいの声量で自分の頬に一本線を引きながら怪しい笑顔で有人にそう言った。恐ろしい程の替わり身の早さに―

 

―・・恐ろしいぐらい平常運転だよ。この子。心配してソンしたかな。

 

有人は何時もながらに慄いた。

 

 

 

 

三十分後―

 

「―はい。はい。ではそれでよろしくお願いいたしいます。はい!お忙しい所大変失礼しました―」

 

ゆっくりと余韻が残るように有人は受話器を置く。

 

「ふぅっ・・よしっ!これで終わり・・」

 

ぎしりと音をたててゴム張りの作業椅子の背もたれに背中を預け、ぷはぁと有人は天井を仰いだ。数週間前、絢辻に叩きこまれた「電話対応マニュアル」漬けの日々を思い出す。・・「卑屈な貴方には丁度いいでしょ」と酷い事を言われながら。

 

そして先程まで共に同じ作業を行っていた当の絢辻は既に自分の分を終え、その場を後にしていた。

 

―・・あいっかわらずはえぇな~~絢辻さん。

 

有人自身もそれなりに創設祭の作業がこなれてきた自信があるのだが、それでも一向に作業量が絢辻に追いつかない。かといって彼女の仕事は作業効率を重視しすぎて丁寧さが損なわれている印象もない。電話対応している相手に対する感謝もおざなりのようには見えなかった。

 

 

―こんにちは。

 

―今日もお疲れ様です。

 

―御無沙汰しております。お元気でしたか?

 

―先日はお世話になりました!

 

 

そんな風に街中でも創設祭に関係、協力してくれている地元企業、店舗などに下校時に丁寧に挨拶回りをしている彼女の姿を有人は見てきている。終わった後に「社交辞令よ」などと言って誤魔化すのだがそれが「彼女なりの照れ隠し」なのだと最近分かるようになってきた。

卓越な高校生離れした処理能力と指揮能力を持ちながらも同時、彼女は自分一人で出来る事の限界を良く知っている。知らず知らずにまだ自分は子供で周りの大人に支えられている事もまた良く知っている。

学校の内外問わずこれ程広い範囲の賞賛を受けながらもその自惚れの無さには頭が下がる。

「完璧な優等生」と彼女の事を評価する人間は多い。が、彼女自身は自分の「完璧さ」に対する疑問を常に持ち続け、自分の至らない点を補ってくれる人間に対する感謝を常に忘れていない。

 

一見傲慢な彼女の本性の「本質」を垣間見てこそ彼女の凄さが有人には解った。

 

が、しかし―

 

―何でそこまで頑張るのかな・・?

 

そんな疑問が最近有人を包む事が多くなった。

 

「・・・」

 

静かな資料室で天井を見上げながら一人、有人はそんな風に思いふけっていると唐突に資料室のドアをノックする音が聞こえた。絢辻が戻って来たのかもしれない。

 

「あ・・はい!」

 

―いかん。こんな姿絢辻さんに見せたらまたどやされる。

 

慌てて有人は姿勢を正し、わたわたと「仕事してましたよ」姿勢をとる。しかし―

 

『あ。源先輩?お電話・・終わっていますか?』

 

「・・・!あ。坂上さん?・・大丈夫!どうぞ!」

 

ドアの向こうから聞こえてきたのは絢辻の声では無く、後輩の一年生の実行委員の代表の女の子の声だった。坂上という真面目で優秀な少女である。

絢辻を尊敬しているらしく、同時ほのかな後輩らしい友好的な対抗意識をもっている。根が負けず嫌いなのだろう。大人しい創設祭実行委員の多い一年生の中で図抜けて行動力があり、リーダーシップを執れるタイプだ。

 

「・・失礼します。あれ?源先輩おひとりですか?絢辻先輩は・・?」

 

「いや?今居ないよ。業者への電話を済ませた後はこっちに戻ってきてないけど・・あれ?終わった後そっちの作業を手伝いに行くって俺に言い残してたんだけどな?」

 

「はい。確かにそうです。来て下さってさっきまで色々指示を頂いていたんですが・・突然居なくなられて・・源先輩の所に戻ったのかな?と思っていたんですが」

 

「いんや、戻って無いな・・?解った。心当たり探してみるよ。絢辻さんに何か伝えることある?」

 

「すいません源先輩、お願いしますね。私から質問が少しあるというのと・・先程絢辻先輩から頂いた実行委員会の行動予定表の資料が・・その、・・あの、・・ですね・・」

 

少し後輩の少女の表情が曇る。その仕草にこれは「言う必要無い事なのかな・・?」という不安感が漂っている。

 

「ん?遠慮なく言ってみて」

 

「・・違うんです。先日終わったはずの作業の資料の方で・・コピーする前に内容確認していたら何か見た事があるなと・・」

 

「え・・?」

 

少女の言葉と同時に有人は手渡された資料を流し読みする。・・確かに一週間程前に終了した作業内容だ。・・絢辻に散々こき使われた記憶がありありとよみがえる。

 

「確かに。・・解った。伝えとくよ」

 

「・・・」

 

坂上は不安げな顔をした。「昨日の自分はこんな表情をしていたんだろうな」と有人は思う。昨日の絢辻のミスはひょっとすれば「絢辻の悪戯心による産物」という可能性が少なからずあったのだが流石に今回のはおかしい。どうやら完全、正真正銘絢辻のミスである。

 

「あっちゃあ・・こりゃ昨日の俺のミスが響いてるかな?」

 

「へ?」

 

「いやね・・。昨日任された会計資料まとめで散々俺ミスしちゃってさ。計算間違い、誤字脱字のオンパレードで?見直ししてくれた絢辻さんもさすがに苦笑いだったから。で、当初の予定から大幅に遅れて・・」

 

本当は手伝ってくれた杉内の些細ないくつかのミスを国枝が嫌味と戯れも兼ね、かなり細かく指摘し、終いには小学生以来全く気にした事の無い漢字の「跳ね、払い」まで言及した笑い話を有人はそのようにすり替えた。

 

「・・そうだったんですか?」

 

「ゴメン。きっと半分俺のせいだよ」

 

「ふふふ・・解りました。もう・・源先輩ったらお願いしますね?」

 

鋭く、聡明でも在る少女―坂上はどことなく有人の話に絢辻への気遣い、フォローの側面を感じ取ってはいるのだろう。しかし、「ま、そういうことにしときましょう」という柔軟性もこの少女は持ち合わせていた。

 

「ごめんね。いらない心配かけて」

 

「いいえ。では私は作業に戻ります」

 

「・・で、今そっちは何やろうとしてるの?この資料無かったら・・」

 

「ええ・・だから時間が勿体ないので舞台裏の補強作業とクリスマスツリーの装飾に関する作業をしようと思っています」

 

「・・え?ちょっと待って。危ない作業じゃん」

 

「え?はい・・」

 

「今そっちに居るの女の子だけだよね。ダメダメ。すぐ終わらせて?危ない危ない」

 

有人は珍しく真顔で首を振って坂上を制止する。

 

「大丈夫ですよ。皆随分力作業に馴れましたから♪」

 

実行委員の男子生徒が現在も慢性的に少ない中、その作業に在る程度携わる他なかった女子達にも慣れと自信が芽生えていた。が、流石に少々危なっかしい。

 

「ダメだって。絢辻さんも言ってたろ?『安全第一』だって。それに連日の作業で疲れが在る分何あるか解んないよ。俺がすぐ絢辻さん探してくるから。それまで待機。いい?」

 

「あ・・はい」

 

そう言い残して有人は足早に資料室をでる。

 

 

 

 

絢辻の些細なミス。それの連鎖。

それが不運にも更なる負の連鎖を招く事を有人は何処か感じ取っていたのかもしれない。しかし・・それを即座に予測して全てを器用に対応しきるのは有人一人には不可能だった。

 

 

 

―う~~~ん。源先輩はああ言うけど・・やっぱり少しは手をつけときたいな・・絢辻先輩も頑張ってるんだし・・。

 

 

少しだけなら・・。ね・・?

 

 

 

坂上には見栄も過信も功名心も無かった。ただいつも完璧な絢辻のパフォーマンスのほんの少しの陰りを前に、ただ役に立ちたい、出来る事をして負担を減らしてあげたいと言う純粋なものであった。

 

 

 

 

 

 

 

―・・居ないな。

 

創設祭の作業に関する場で心当たりの場所には絢辻は存在しなかった。創設祭の作業中―つまりはある程度居場所に想像が付くこの時間に、まさかここまで彼女の居場所が判然としないとは有人にも予想外である。

何時も何処かで、然る場所にて常に実行委員達の輪の中心にいる彼女を見てきたのだから。これでは、まるで・・

 

―・・ん?そうだ。「創設祭の作業に関する場所」という先入観を捨てればいいんだ。

 

絢辻の居そうな所―そう前提条件を替えれば今の場所とは全く異なる居場所の案が次々出てくる。普段彼女が皆の輪の中に居る場所を排し、絢辻が人の輪から外れ、一人で何かしている所となると―

 

―・・何だ。自ずと見えてくるじゃないか。

 

今は何で「今この時に絢辻がその場所に居ると思うのか」という疑問は捨てる。

この時間に今日の天候からして・・

 

 

「図書室、かな・・?」

 

 

有人は歩きだす。

 

 

 

図書室―

 

防音のカーペットが敷き詰められた図書室に足を踏み入れる。放課後のこの時間、この場所を利用している人間は少ない。自習している三年生もこの時期では追い込みで予備校に行っている人間の方が多いのだろう。無人と言っていいほど利用者の気配が感じられない。

 

「・・すいません」

 

図書室の司書の女の子に有人は話しかける。

 

「はい・・?」

 

眼鏡をかけ、腰まである長い髪を編んだ女の子。例の梅原と杉内が「可愛い」と言っていた子だろうか?確かに真面目で少し堅そうだが人気が出るのも頷ける少女だった。

 

「あの・・ここに女の人が来なかったかな?ちょっと大事な用が在って人探しをしているんだけど」

 

その有人の申し出に少女は少し考え事をするように目線を一瞬そらす。いきなり意外な質問をしてくるこの男子生徒を少し警戒しているようだ。しかし、視線を有人に戻すとえへ、と苦笑いをする善人オーラ満開の有人の表情にそれなりに真っ当な緊急性を感じ取ったらしい。

 

「・・。はい、幾人か・・どんな方ですか?」

 

彼女の中で既に幾人かの候補が挙がっていたらしい。気配はなくとも利用者は居る様だ。まぁ入り口で人の気配がガンガンする様な図書室も困りものではあるのだけれど。

 

「えっと・・髪が長くて・・」

 

「・・あ。黒髪の・・凄く綺麗な方ですか・・?」

 

「・・そう!その人!!」

 

有人は自分の予想の的中に思わず身を乗り出した。

 

 

 

・・が、二分後―

 

 

「・・・」

 

―くっそ~~~・・そういうオチか。「黒髪」、「凄く綺麗な方」・・確かにそうだけどさぁ・・。

 

 

自分が「言葉足らずだった」と、内心有人は反省する。

 

 

 

「信りんがね~~?ほんのうじっていうお寺でね?みっちーに・・むほん・・?だっけ?とにかくそういうのを起こされて死んじゃうの。怒ったぷんぷん秀ぴょんは・・」

 

 

有人は自習机の並んだ通路を後にする。三年生女子の森島 はるかの受験生とは思えない能天気な声が徐々に遠ざかっていった。

 

―うーん・・くそ。結構自信あったのに・・。

 

有人は少し落ち込んだ。

 

よくよく考えてみれば図書委員の女の子が生徒会役員で代表格ともいえる絢辻の名前を知らず、「綺麗な方」という表現を使った時点でおかしかったのだ。対する森島はるかも大した有名人だが真面目一徹の子であれば知らない可能性も無くは無い。

 

 

有人は知る由も無いが実は森島 はるかは件の可愛い図書委員の少女の噂を既に聞きつけ、何度も仕事中の図書委員の少女にモーションをかけている。だが毎回口説く事に夢中になって名乗ることを忘れている。非常に彼女らしい。

よって戸惑い、押され気味の図書委員の少女にとって森島は「黒髪の凄く綺麗な人、でも変わった人」とインプットされるしかないのである。有人は今回ちょっとしたそれのとばっちりを受けたわけだ。

 

 

―・・参った。絢辻さんホント何処行ったんだろう?

 

 

・・・ん?

 

 

有人がとりあえず図書室を後にしようとした時、ふと図書室のトイレ横に大きな両開きのドアがある事に気付く。そこは「生徒立ち入り禁止」の札が立てかけている。

「禁止と書かれたら入りたくなるのが人のサガ」とよく言うがそういうものに全く興味が無い人間だっている。有人もその一人だ

 

「・・・」

 

しかし、何故かその日は勝手が違った。両開きのドアの片方が僅かに開き、どこからか隙間風でも吹きこんでいるのか僅かに揺れている―そんな光景が妙に気になった。

どことなくそれが自分を「呼んでいる」様な不思議な感覚を有人は覚える。

 

―・・行って、みるか・・。

 

もともと今日は変な事続きだ。絢辻のミスが立て続けに起こるし、無断で居なくなるしで何が起きてもおかしくない。確かめるだけ・・確かめるだけだ。

 

 

 

 

しぃっ・・

 

 

有人が一歩立ち入り禁止のドアの先へ足を踏み入れた瞬間、微かにそんな音が聞こえた。空耳にも聞こえるその音。

 

―・・ん?

 

足を止める。もう一度聞こえなかったら空耳と判断してこの場を去るつもりであったが・・

 

 

 

しぃっ、しぃ~っ

 

 

 

空耳ではない。そしてその音は一定では無かった。音の高低や間隔が微妙に一回一回違う。音の方向に足を向ける。足音でその音を聞き逃さないようにそろりと。

近付くほどに音は大きくなり、徐々に軽さが薄れ、何処となく人を落ち着かせなくさせる濁音が混じり始める。

 

 

じぃっ!!、じじっ~~~!

 

 

その音の正体が判明する。明らかに「紙を破る音」だ。

 

「紙を破る」という行為は自然に起こる物では無い。人の「作為」というものがほぼ必ず存在する。紙を破る行為自体が人の精神状態を物語っている事も多い。

不要な物をコンパクトにして捨てる完全な無関心からくる感情。

人から見られたくないモノ、形式的にそのままにしておくことが憚られる場合。

 

そして隠しきれない、己の中に留めておけない鬱憤を僅かながらでも発散させる行為として選ばれる場合もままある。紙と言う手近で手頃な物体、破った時の手応え、耳を通る快感なのか不快なのかが曖昧な音―とそれなりの「反応」も在る。

だがその光景は他者から見れば往々に異様、不穏である。

 

 

―え・・?

 

 

音の所在を突き止めた有人の目に映ったのは一般生徒が入室を禁じられている書庫であった。そこにはおおよそ高校生が見るとは思えない膨大な蔵書が敷き詰められている。殆ど動かされる事が無いそれらが部屋中に所狭しと敷き詰められた故、必然的にその書庫は埃っぽく、かび臭い。書庫のドアを開け、有人が中に踏み入るとより一層その音の異質さが耳をつく。

 

「・・・!」

 

そしてその不穏な音に今度は別の「音」が混じりだす。それは小さく絞り出すようなか細い不明瞭な声。しかし、それは同時悲鳴にも聞こえた。

 

 

 

「・・・どう・れば・・いいの?あた・・・どこまでが・・・ばればいいの・・?」

 

 

 

―・・?

 

 

「なん・・で。寄りに・・って・・・・なの?」

 

 

―・・。

 

 

「嫌だよ・・もう一人は・・いや・・」

 

 

 

声の主の姿が有人の目に映る。そしてその足元には散逸した何冊もの破られた白いノートの切れ端が茶色を基調とした書庫の中で白く光っていた。その白く光る紙きれ一枚一枚には何時もと同じ、整えられた完璧な文字が羅列されている。その全てを無意味に破り捨て、その中心に声の主―一人の少女が肩を震わせ、立ちつくしている。

 

 

「は、やく・・大人になりたいよ・・・なら・・・・のに・・」

 

 

・・・紛れもなく絢辻 詞だった。

 

 

 

「・・・!」

 

 

色々と有人には疑問点はある。

 

何故自らに課された仕事を忘れ、「あの」彼女がここに居るのか。

何故図書委員の少女に気付かれず、立ち入りを禁じられたこの場所に彼女は居るのか。

何故彼女がこれからの自分の道しるべとも呼べるノート達を破り捨てているのか。

 

 

そして―

 

何故彼女が人知れず、ここでただひとり・・・泣いているのか。

 

 

 

 

 

その光景を前にしてただ有人は今、愚直に彼女の名を呼ぶ。

 

 

 

「・・絢辻さん?」

 

 

 

「・・・!!!」

 

 

 

「・・ようやく見つけた」

 

 

 

足元にバラバラに散逸した白いノートの切れ端。それがまるで天使の羽のように埃、そしてカビ臭い書庫の中で舞い上がる。

 

 

 

「・・・っ!・・・ぁ・・・あ・・あぁ・・・」

 

 

 

その中心でむしり取られた羽が舞い上がる中、今は翼を喪って飛べない天使の少女が一人心許なく不安げに佇み、驚きと戸惑いで見開いた水晶の様な黒い瞳に文字通り「目一杯」の涙を浮かべていた。

 

 

 

 

―・・。泣いてるカオも綺麗なんだね。・・君は。

 

 

 

 

不謹慎ながらも有人はそう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 














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ルートT 九章 ここに居る














 

 

 

 

 

 

10 ここに居る

 

 

 

 

 

「ようやく見つけた。こんな所あるんだね。この図書室・・っていうかこの学校にこんな所あるなんて思わなかった」

 

「・・・」

 

「・・何て言うのか・・なんか凄く、・・・素敵な場所だね」

 

驚いて振り返った絢辻の反応をよそに有人はとことこと歩き、書庫を見回した。絢辻は未だどうしたらいいか解らないらしく、無言のまま目線で有人を追う事しか出来ない。

 

「うわっ・・すげぇ分厚い本・・よ。・・重い、な・・・げ・・手ぇ真っ白になっちった」

 

適当に取り上げた分厚い本を手に持ち、埃で汚れた掌を一瞬だけ絢辻に見せて苦笑いし、ぱんぱんとすぐに手を掃う。

 

 

「・・・・」

 

 

絢辻は涙目を目一杯見開いたまま、尚も視線を有人から離さずにただ佇んでいた。

最早隠し様の無い、足元に散逸するバラバラにされた白いノートの切れ端―その「不穏」と言う他ない光景、そして今の自分の表情、惨状を上手く説明する事も、言い訳も出来ぬまま、ただ少し赤く潤んだ目元を現状の絢辻が出来る精一杯の強がりの如く、有人から逸らそうとしなかった。

 

―・・強いよな。俺ならすぐにでも逃げ出しそう。

 

内心有人は笑ったが、それは直接有人の顔に何時ものように張り付く。少し困ったような笑顔になってしまったと思う。

と、いうより実際困っていた。今有人は本当に何をすればいいのか解らない。

 

とにかくこの状態の彼女を外に連れだすのは問題がある。自分はともかく絢辻はしばらくここに居るしかないだろう。何よりもきっとそれこそ今の絢辻が最も望む事。

 

「あの・・さ」

 

「とりあえず外で待ってるから」―そう言おうとして少し足を踏みだした瞬間だった。

 

「・・ないで」

 

「え?」

 

「・・来ないで。見ないで」

 

そう呟き、そして「ようやく」と言うべきか、初めて絢辻は恥ずかしそうに有人から目線を逸らす。

 

「・・・」

 

―・・実際来たし、見ちゃいました。本当に・・すいません。

 

そして今の彼女の一言で足が何故だか解らないが動かなくなった。言う事を聞かなくなった足を諦めて有人は彼女と向かい合う。

足が動かないのならせめて向き合おう。背中を見せる自信が無いのなら馬鹿みたいに笑っていよう。

 

それで少しでも彼女のぐらついた足元が何時もの日常に戻るきっかけになるのなら。

何の根拠も無い方法だが今有人に出来る事はそれぐらいだった。

 

 

 

 

 

 

 

「何で?・・なんで源君・・?・・なんで貴方がここに居るの?」

 

―・・・いっつもいつもそう。何で貴方は私の前に現れるの?見せたくないモノ、見せたくない自分。誰にも見せてないそれを全て上手に何で貴方は「持って行く」の?

 

攫っていくの?

 

 

自分の言葉の矛盾に気付きながらも絢辻はそう聞かずに居られなかった。

彼は自分の立場、仕事をかなぐり捨てて居なくなった自分を探していたのだ。そりゃあ探すだろう。突然何も言わず居なくなったのだ。それは容易に予想が付いた。

でもまさか見つけられるとは、そうなれば全く話は別だ。

 

「ここ」まで来るのを正直誰にも見られていない。絢辻にはその自信がある。

ここに来るまで目撃者に細心の注意を払い、委員会活動中、責任ある立場の絢辻がまず来るはずの無い図書室に来た上に、一般生徒立ち入り禁止の札のある書庫まで来た。生徒どころか教師すらほぼ無用の場所である「ここ」に、である。保険の上に更に保険をかけたようなものだ。この学校で恐らく最も孤立した、ぽっかりと空いた「空洞」「僻地」と言っても過言ではない。

 

ここには誰も来るはずが無いのだ。ただ一人絢辻を除いて。一人ぼっちの彼女だけのはずなのだ。

 

しかし―

 

彼は来た。

 

そして困ったような笑顔から解る。心配してくれていたのだ。何ともお節介で何とも有難迷惑。そのおかげでまた「余計な物」を見る、知るはめになるのに。

彼女の弱みを知ると同時に自分の弱みも、面倒事も増えていくのに。

 

でも・・彼はここに居る。

 

 

それの何と・・・嬉しい事か。

・・でも、ダメだ。今は。今だけは。今絢辻の目の前に居るのが彼であってはいけない。

 

 

「お願い・・今はこっち来ないで・・見ないで?私にも見せたくない顔ってあるから・・」

 

 

目線を逸らし、俯き加減で腫れた瞳を隠して絢辻は手だけで有人の歩み寄りを制する。

 

―漸くちゃんと言えた・・よし・・OK!これで・・受け入れてくれるはず。だって

 

・・彼は私に従順だもの。そして・・少なくとも今の私を気遣う彼は自分を一人にしてくれるはず。それが自分にとっても、私にとっても最善だとも解っているはず。だから、・・だから―

 

 

 

「・・嫌だよ」

 

 

 

「・・はい?」

 

 

愚直に絢辻は聞き返す。生気が抜けてぼやけた瞳を有人に向けた。

余りに意外すぎる単語が頭の中に共鳴、木霊し、それは一瞬絢辻から一切の情動を奪い、同時強固な彼女の防御壁とも言うべき仮面が剥がれる。それは絢辻が必死で覆い隠そうとしていた彼女の現状をハッキリと物語った。

 

消え入るような「空白」(ブランク)。危うすぎる表情。どう考えても―

 

 

「・・放っておけないよ?だから俺は・・・ここに居る」

 

 

言葉少なく、端的、かつ明確に有人は自分の意思と要求を突き付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・実は足が動かないんだよね。

 

こんな情けない言葉は呑み込んだままの有人の精一杯の強がりだった。

しかし、一方で自分の足は怖さや戸惑いが理由だけで動かない訳ではない―彼はそう確信していた。

実際、確かにしばらく外で待つつもりだった。そういう意味ではさっきの絢辻からの要求は有人にとってまさしく「渡りに船」。問題なく、無抵抗にこの埃の舞うかび臭い部屋から一旦は有人を運びだしてくれるはずだった。

 

しかし、有人はその船に乗る事を拒否した。

 

有人に助け船を用意し、港から見送ろうとする当の絢辻がこんな不安げで、哀しげな表情をしているのに乗れるはずがあるものか―そんな感情が有人にハッキリとした強い否定の言葉を使わせる結果となった。

 

 

「・・もう一度言うよ?・・嫌だよ」

 

 

―「嫌だ」・・一体いつ以来使っていない言葉かな?確か・・

 

 

「い、やだよ・・」

 

 

そんなちょっとした有人の現実逃避に割り込む声がある。皮肉にも先程発した有人と全く同じ言葉。言うまでも無く絢辻の言葉である。目線を下に向けながら困惑と恥辱。そして他の「何か」が入り混じったような声で。

 

 

「おね、がいよ・・・・もう・・ひと、り・・は・・いや、だ、よ・・」

 

 

「・・絢辻さん?」

 

不明瞭な言葉に首を傾げ、絢辻の名前を呼んで一歩だけ近づく。それが絢辻の行動の引き金になった。

 

 

「・・・!」

 

 

「わっ!と・・・」

 

絢辻は有人に向かって一直線に走り寄り、有人のブレザーの両襟を両手で掴み、額を有人の胸に当て、表情を見えなくした。

 

「『来ないで』って・・言ったのに・・」

 

小刻みに震えながらも今度はハッキリとした口調でそう言った。

 

 

「こんな顔見せたくないよ・・見ないでよ・・どっか行ってよ・・放っておいてよ」

 

 

そう言いながらも今の彼女は有人の両襟をしっかりと掴み、離そうとしない。

 

 

「・・大丈夫。今は・・見えてないよ」

 

 

「・・。じゃあしばらく・・このままにしといて・・。お願い・・」

 

これも「馴れ」なのだろうか?絢辻が有人にこれほど接近するのも何回目になるだろう。不思議と落ち着けるようになっている自分に有人は驚く。

しかしやはり心臓はバクつく。有人の胸に額を触れている彼女にはこの鼓動がダイレクトに届いているはず。

 

―抑えろ・・。今は。

 

結果有人の選んだ姿勢は自然体。直立で両手をだらりとおろし、目線は今の絢辻を映さないように前を見据える。

有人から感じるのは真下にある絢辻の髪の香りと貸した胸の僅かな重み、そして徐々に落ち着いていく首元にかかる震える絢辻の嗚咽と熱い吐息だけだった。

 

 

 

 

まるで天使の羽みたいに床に無数に散らばった白いノートの切れ端達の中心で少年と少女の静かな時間はゆっくりと過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数分後―

 

「っ・・・・・ふぅ・・・」

 

唐突に絢辻は額を有人の胸から離し、順にブレザーの襟袖をゆっくりと解放して息を一つ吐くと、すぐに伏せていた目を有人に見据えた。まだ少し赤く、腫れぼったいが不安げでぐらぐらぼやけていた瞳の焦点が落ち着き、綺麗な光が宿っている。いつもの彼女に戻りつつあるのが解った。

 

両眼をぐずぐずと交互に指先で拭い、有人を見据えた彼女を前に有人は微笑み、

 

「落ち着いた?」

 

「・・ええ。ごめんなさい。・・んんっ!!はい!!・・御迷惑おかけしましたっ!!」

 

敬礼でもしそうな歯切れのよい彼女らしくない言葉だが、自分が落ち着いた事を必死で有人に伝えようとしてくれた事が有人には少し嬉しかった。(同時にあまり今は強がらなくてもいいとも思ったが)

 

「そう。よかった」

 

―薄い胸板で申し訳ないけどね。

 

そう心の中で苦笑した。ただ彼の心の中の苦笑はすぐに表情に張り付く所が困りものだ。

そんな有人を見、絢辻は可愛くふくれっ面をして

 

「うう・・そんなに笑わないでよ」

 

咎める様にぶぅ、と口先をとんがらせる。

 

「あ・・そういう意味じゃ無くて」

 

「解ってるわ。せいぜい『粗末な胸板でゴメン』とか自虐に走ったんでしょ?貴方の事だから」

 

ふふっ、と一転今度はやや不敵な笑みを浮かべ、有人の思考を見透かしてそう言った。

 

「・・・ははっ」

 

―わぁ・・大したもんだ。このコ。

 

肯定の変わりに更に苦笑いがまた有人の顔に張り付く。絢辻もいつもの少し困った笑顔で一つ溜息を吐きつつ有人から一歩後退、姿勢を正して正直にこう吐露した。

 

 

「・・私ね?稀に情緒不安定になる時があるの」

 

 

「・・そうなんだ」

 

「いつもなら・・『あ。今日危ないな』って前もって解って覚悟するから時間とタイミングもある程度コントロール出来るんだけど・・今日のはどうしてか・・、ね」

 

「・・ふうん」

 

男性にはなかなかピンと来ない女性の独特のサイクルである。個人差はあるにせよこういう話を聞くと女性に比べると大概の男というものは比較的シンプルに作られている事が良く解る。ムラやサイクルのある所が女性と異なっているだけなのかもしれないが。

 

「・・大丈夫?」

 

「うん。大丈夫。一時的なものだから」

 

「・・無理しないでね。何か皆に指示する事があったら俺が伝えるから、もうしばらくここで休んでていいよ?何か欲しい物とかある?」

 

「・・ありがとう。でもへーき。治まってしまったら大丈夫。それにやる事はまだまだあるんだからこれぐらいでは休んでられないわ」

 

「解った。でもホントに無理しないでね。絢辻さんに何かあったらそれこそ・・」

 

「うん。貴方も立場がないもんね♪」

 

「そういう意味じゃ無くてですね・・」

 

「・・解ってる。・・でも・・・有難う」

 

「・・うん。じゃあ行こっか。っと・・まずはここの片付けからだね。・・」

 

有人は取りあえず落ち着いた絢辻から目を離し、しゃがみこんで、床に散乱したノートの惨状を検分する。

 

―この破り捨てられたノートの事・・果たして詳しく聞くべきか聞かざるべきか・・。

 

かなり微妙な所である。

 

「あ。大丈夫。ただの暇つぶしだから」

 

そんな有人の複雑な心境を慮り、絢辻は事も無げにそう言った。「ヒマ潰し」で破られるノートが気の毒と言えば気の毒だが。

 

―・・「暇つぶし」、ね。まぁそういう事に・・ん?・・・!!!!

 

有人に電撃走る。

 

「絢辻さん・・『これ』って・・ひょっとしたり、ひょっとしたりなんかして・・」

 

「ん?ああコレ?先日終わった作業の行動予定表よ。もともと処分して大丈夫なやつ。いざという時はコピーもとってあるし・・」

 

この絢辻の言葉―「先日終わった作業の行動予定表」

 

有人はこの単語を何処かで聞いた気がする。しかもごく最近、否。「極々」最近だ。

 

「・・。いや絢辻さん。これ多分、今日、からの・・作業予定表だよ・・」

 

無残なノートのバラバラ遺体を検分しながら有人はそう言った。

 

「・・へっ?」

 

絢辻は目を丸くして素っ頓狂な声をあげる。

 

「さっき坂上さんが俺の所来てね・・『絢辻さんに渡された』って言って一つ前の行動予定表の原本を見せてもらったんだ。・・あれがまだイキってことはつまりバラバラのコイツは・・」

 

 

「・・・」

 

 

流石の絢辻も黙りこくった。この原本の創設祭実行委員会の予定表作成に少なくとも彼女は一週間以上費やしてきているのだ。何かの間違いであってほしいと絢辻は今直立不動で思っている、が―

 

「・・・あ。ホラ見てココ・・この切れ端。今日の日付書いてある・・」

 

・・終わった。余りに非情すぎる現実が有人の口より突き付けられる。

 

「・・・」

 

 

恐る恐る事実を語った有人を前に、尚も直立不動のまま絢辻は黙ったままだった。しかし冷や汗がだくだくと流れているのが解る。表情は笑っているが最早違う意味で泣きそうになっているのも解る。

 

「・・ぷっ。仕方ないね・・テープで貼り付けよう。図書室の秘書の子・・良いコそうだったから多分貸してくれる。後それと・・」

 

「え・・」

 

「まず絢辻さんは水分補給!・・何か飲む物買ってくるよ。干からびちゃう」

 

「・・・ヴん・・」

 

内心「これ以上水分を出させないでよ」と思った。自分の失敗に対する情けなさと有人の気遣いが合わさって背筋に走り、泣きそうになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

埃まみれの足元に散らばった無数の白く光る切れ端を二人でかき集め、一つ一つパズルのようにつなぎ合わせ、ツギハギだらけの原本がようやく体を成したのが下校前であった。

その最中の事―

 

 

「これは・・ココ・・これは・・ココだ!あ!違う!!」

 

 

「・・・」

 

―・・・。

 

 

一つ一つの白いノートの切れ端を丁寧にかき集め、繋ぎあわせていく有人の指先を見ながら絢辻はまるで自分のバラバラになった心が一つ一つ丁寧に繋ぎあわされていく感覚を覚えた。

 

 

―ありがとう。

 

ありがとう。

 

 

ただひたすらに拙く、一つ一つ温かい糸と針でちくりちくりと紡がれていく様な痛痒い心の中で繰り返し絢辻はそう呟く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何で・・私が居る所が解ったの?」

 

つぎはぎだらけの原本を胸に大事そうに抱えながら隣を歩く有人に絢辻はそう聞いた。

 

「う~~ん消去法・・かな。作業場には居ないって解った後は絢辻さんの何時もいる場所を探そうと思って。ほら・・絢辻さんと一緒に縁さんの残したジュースこっそり飲んでた時あったじゃん?その要領で。この時期だし・・まず図書室だなって」

 

「・・そう」

 

「・・。でもそれだと一つ疑問が残るんだよね。あの書庫に行くには図書室の入り口を通るはずだから司書の女の子に見られるはずなんだけど・・絢辻さんを見ていなかったみたいだし・・どうやったの?」

 

「・・さぁ・・?それは教えられないわね」

 

絢辻はすっかり要領を取り戻し、いつものように悪戯そうに笑う。

 

「気になるなぁ・・」

 

「・・。大した事はしてないわ。あの部屋の隣の部屋は立ち入り禁止じゃないの。そこから窓と窓を伝って入るだけよ。書庫の窓のドアのカギを常に開けておいて私だけこっそり入れる様にしてるいだけ。絢辻特製の秘密基地よ」

 

「え!?ここ三階・・」

 

「ふふ~~中々痛快よ~~?下を生徒やら教師が横行する中、その真上をまさか『この』私が校舎三階の外の壁をウォールクライミングしているなんて誰も考えないでしょうから」

 

「冗談・・だよね?」

 

「ホントよ」

 

「・・危ないって」

 

「ええ。下からは多分色々丸見えでしょうしね?」

 

ひらりとスカートの裾をつまみ、挑発的な目で絢辻は有人を見る。

 

「・・いや、そういう問題じゃねぇって」

 

「じゃあどういう問題なのかしら?ふふっ♪」

 

「・・・」

 

絶句する有人をよそに絢辻はまた悪戯に笑い、凛と長い髪を揺らす。そして―

 

 

「・・それほど私は『あれ』を誰にも見せたくなかったの」

 

 

憂いを含んだ真面目な口調でそう言い直す。

 

「・・!」

 

「・・貴方には色々見られちゃうわね」

 

眉をしかめ、からかいも茶目っ気も無く、本当に恥ずかしそうに、困ったような表情で絢辻は微笑んだ。そう言われると有人は何も答える事が出来なくなる。

やっぱり探すこと自体が野暮なことだったのだろうか?絢辻の事だからと深く考えずにただ彼女がいつも通りの姿で戻ってくるのを待ってれば良かったのだろうか?―そんな風に有人は考えてしまう。しかし、絢辻は―

 

 

「・・勘違いしないで?源君」

 

 

首を振って有人を真っ直ぐ見る。

 

「え?」

 

 

「嬉しいのよ?自分でも驚くくらい。『誰にも見せたくない』と思っていたのに・・それなのに貴方が、他でも無い貴方が私を見つけてくれた事が・・私嬉しい・・んだと思う」

 

 

有人が辿った細い糸。絢辻が残した些細なサイン。違和感。

そこから僅かな経験を頼りに最後には偶然も重なって、有人は絢辻の元に辿り着いた。

 

・・辿り着いてくれた

 

―天然の癖にこんな時だけ・・全く心身が参ってる時に反則だなぁ・・。

 

と、絢辻はまた心の中で苦笑いする。

 

―あはは・・ここで畳み込まれたらちょっと私―

 

・・やばいかも。

 

 

でも・・

 

 

つけ込ませてあげよっか・・?源 有人君?

 

 

「・・嘘だろ」

 

「え?」

 

―嘘?そんなつもりは・・・

 

「見て!あれ!」

 

有人のかつてないほどの動揺の声が聞こえ、有人の表情を確認する。その表情も何時になく凍りついていた。茶色い目にも焦燥の色がはっきり映し出されている。

その視線の先には創設祭のメイン舞台の裏が映っている。そこには・・

 

「・・誰か倒れてる!」

 

倒れた一人を取り囲むように周りを数人の生徒が立ちつくしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい!」

 

「何があったの!?」

 

 

 

「あ。絢辻先輩に源先輩。お帰りなさいですぅ~」

 

 

 

焦燥の色が隠せないまま息を切らし、駈けつけた二人とは対称的に倒れた一人を取り囲んでいた内の女子の一人―買い出しに行っていた美作が能天気な出迎えをした。

 

「・・?」

 

「へ・・?」

 

 

「見て下さ~いアレ・・久野君が『死体ごっこ』やっているんですよぉ。『余った時間が勿体ないから』って。正直・・ぷぷっ・・・ホント傑作ですっ!・・今はサスペンスVerらしいですね~。『犯行現場を目撃して犯人を強請った結果、返り討ちに遭う被害者』だとか・・ほんっと芸がこまかぁい・・!!あっはははははぁ~」

 

 

「「・・・」」

 

―は?「時間が勿体ない」から死体ごっこ?小学生?幼稚園児ですか?

 

そう二人はツッコミたかった。

 

 

「はい~!絢辻先輩!ほらぁ源先輩も!」

 

 

備品を買いだしに行っていた二人、結城と美作の二人が段ボールの箱から大手メーカーでは無く、無名のメーカーで恐らく単価が恐ろしく安いお茶を取り出し、二人に手渡す。

 

「これ箱買いすると一本単価18円なんですよ。やっすいでしょ?」

 

太ましい少年―買い出し部隊の内一人の結城は少し得意げにそう言ってもう一つの袋を漁りだす。

 

「そんかわし・・こっちはちょっといいやつですよ。季節限定の」

 

放心状態のまま絢辻、有人の二人は機械的に受け取る。そんな二人に―

 

「たまには一服しましょう~~。先輩方♪お疲れ様です♪」

 

美作がおっとり微笑んでそう言った。

 

「・・・」

 

「・・・あは」

 

目線をお互いの方向に滑らせ、目が合うと安心したのか、気が抜けたのかお互いに苦笑いして二人は後輩達に促されるまま座り、久野の見事な隠し芸を肴に委員会メンバーと共に二人は一服をついた。

 

 

―数分後

 

「それにしてもぉ・・お二人は何処に居たんですか?あんまり遅いので皆心配していたんですよ?」

 

ゆっくり、おっとりとした口調で美作は二人にそう聞いた。

 

「・・。これ・・今日からの作業予定表なの。私が間違って処分しようとしていた所に源君が来てくれて・・」

 

つぎはぎだらけの原本を申し訳なさそうに後輩の女の子に見せながら絢辻はそう言った。

こう聞かれた際の対処は既に決定済みである。

 

「・・でも一足遅かったて感じでね」

 

「あははぁ。何か安心しましたぁ。絢辻先輩もそんな失敗するんですね~」

 

処分するとはいえわざわざノートをバラバラに破る事の不穏さをおっとりとした少女は感じ取ること無く、ただの失敗談として受け取った。そもそも絢辻が「あんな」理由でノートを破るなどと連想し難いが。

 

「ごめんなさいね。私のミスで作業を止めさせちゃって・・」

 

「と~んでもないです。それに・・やる事なんていくらでもありますぅ。休んでいる暇なんてありませんよぉ」

 

自主的に自ら仕事を探し、動けるほどにモチベーションと作業に対する責任感が絢辻の予想以上に同輩、後輩達に根付き、浸透しつつある事が絢辻は嬉しく、少し胸が詰まるような感覚を覚えた。

 

「・・有難う」

 

「い~え。・・絢辻先輩は頑張りすぎなんです。もっと私達を頼って下さぁい」

 

「・・ええ。本当に頼りにしているわ。皆」

 

「えっへへ~~♪」

 

 

「・・」

 

嬉しそうな絢辻を見て有人も微笑む。

 

来年、二年生になった彼女達が引き続き創設祭準備を主導に行ったらこれは物凄く期待できるだろう。来年も顔を出して彼らの創設祭を見守りたいと思った。受験シーズン真っただ中であろう時期に一息をつく来年の年末の楽しみが有人には出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「久野君はぁあまりにお二人の帰りが遅いのでぇ~『あの二人・・さては逢引でもしてるんじゃねぇか~~?』って訝しがってましたけど~先輩方がそんなことするわけありませんよねぇ~~?あっははぁ~」

 

 

「・・!」

 

―久野・・!

 

「・・」

 

―・・久野君。一発芸でムードを良くしてくれたのは評価に値するけど頂けない発言ね?中途半端に勘がいい所も癪に障るわ。これはお仕置きが必要ね・・。

 

 

絢辻が黒いオーラを発して同時悪いカオに変わる。その変貌を有人は横目で見ながら気の毒そうに体張った一発芸披露中の久野を見てこう思う。

 

 

―久野・・明日から絢辻さんから暫く物凄い仕事量をさりげな~~く、違和感な~~く振られるだろうな・・そして夜に気付くんだろう。「・・あれ?何で俺今日こんなに疲れてんだろ?」って。・・気の毒に。

 

 

 

気の毒に思いつつも有人は全く助けるつもりが無い。たまには絢辻の悪意の矛先が他人に向くのを傍目で見つつ、嗜むのもまた一興とすら考えている。

 

 

だいぶとこの少年、絢辻に「仕込まれ」つつある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






間章 不協和音 2





忙しい創設祭の作業の合間の一服のひとときの中。その輪に加わらず、一人離れた所でそれを見守る一人の少女が居た。
一年生実行委員代表、坂上だった


―うう・・痛い・・。


痛みがどんどん酷くなっている。



十数分前―

「ここが最後、ホントに最後」・・そう思って舞台裏の補強作業を脚立で補助なし、こっそり一人で行っている作業中―

「・・・あっ!!きゃぁっ!!」

バランスを崩して彼女は落下した。幸い運動神経がいい彼女はちゃんと腕で支え、頭や腰などに痛手は受けなかったものの、全体重を一瞬支えた右手首は流石に負荷が大きすぎた。

先程結城から手渡された差し入れのお茶の缶を持っただけで鋭い痛みが走り、慌てて逆手に持ちかえた。おかげで折角貰った缶の蓋を開ける事が今も一向に出来ない。

有人から制止された作業を無視する形になった上に、普段実行委員の決まり事として「危険な作業をする際、教師、または絢辻や二年の男子を二人以上最低でも補助に付けて行わなければならない」という決まりを破った形になる。そしてその決まりを作ったのは・・当の絢辻だ。それを破って怪我をしたとなると自分は当然として彼女の監督責任も問われかねない。そこに―



「坂上さん・・?」


一人の少女が歩み寄る。

「えっ・・?」

「・・どうしたの?」

「え?何がですか?」

「こんな所で一人で・・」

「何でも無いですよ」

坂上は一年生の実行委員代表に選ばれるだけあって強がる事はなかなか上手い。しかし、残念ながら今彼女の目の前に現れた少女の「見分ける」目の方が上手だった。
人の後ろめたさ、人の弱みを見抜く力が「彼女」はここ数年で皮肉な事にかなり増している。

「・・・」

創設祭実行副委員長・・黒沢 典子は腕を組み、薄く微笑んで強がる少女を見下ろす。

「・・・!」

その所作を眼の前にして少女はつい自分の後ろめたさを隠す所作を無意識に起こしてしまった。患部の右手首に触れてしまったのだ。

「・・・っ!?」

びりっと走った患部の痛みに思わず坂上はカオを歪める。その表情を見てさらに黒沢は薄く笑い―


「右手首・・見せて?」


こう言った。




数秒後、プシュッと小気味良い音を立て缶の口が開かれる。




しかし、それはこれから始まる不和の狼煙―


不協和音。
























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ルートT 十章 仮面舞踏・解・改














11 仮面舞踏・解・改

 

 

 

吉備東高、創設際メイン舞台前にて―

 

 

「プロの仕事」がこれほど早いものなのかと感心する。自分たち学生が多くの時間と手間をかけて行う作業をあっさりと、そして恐ろしいほどの精度で行い、作り上げていく。自分らがどれ程気を張り、時間をかけても今目の前で出来上がっているモノと比べれば手抜き工事の様なものなのだろう。しかし例えそれでもこう思う。

 

―・・どれ程時間がかかろうとも、どんなに拙くても自分たちだけでやり通したかったな・・。

 

先日急遽市の要請で呼ばれた新しく来た業者の名簿リストを手元で纏め、どんどんと効率よく、事務的に出来上がっていくことが解る創設祭のメイン舞台の骨組みを見ながら有人は溜息をつき、歩きだす。その時―

 

「ん・・・?」

 

何処となく視線を感じた様な気がして有人は振り返るがそこには誰も居なかった。辺りにはドリルや溶接の際の甲高く響く作業音が木霊するだけである。

 

―・・・?

 

 

 

 

 

数日前

 

 

放課後2-A教室にて―

 

 

「委員で発注した備品をキャンセルしてほしいって・・どういう事ですか!?高橋先生」

 

 

珍しく2-A担任教諭である高橋につっかかる絢辻の強い語調が響く。絢辻の傍らで荷物持ち担当をしていた有人が驚きで目を見開くほどだった。

 

「・・!すいません・・」

 

それを自分自身ですぐに諌め、思わず振り乱した髪を綺麗な動作で掻きわける。次に発した言葉は何時ものように落ち着いた・・しかし何処かざわつくような焦りを含んだ口調で絢辻は付け加えた。彼女自身にもその原因は解っていたからだ。

 

その日の更に先日―創設祭の作業中に実行委員の一人が女子一人では禁止されている作業を行って怪我をした。

幸い彼女の症状は軽かったが禁止されていた危険な作業を定められた規則を無視して行い、その結果更に大きな怪我、大事になった可能性も否定できないため、学校側は肝を冷やしている。

「やはり生徒主導で行う限界が日程的、体力的にも難しくなってきている時期なのではないか?」―という懸念は当然あるし、実際に創設祭の実行委員の人員の不足からそういった懸念は間違ってもいないのだ。

そしてそんな微妙な状況、時期に差し掛かってタイミングが悪い事に怪我人が出てしまったことは学校側としては簡単に看過出来るものではない。当然監督責任は問われる。

実行担当の教員、高橋と実行委員代表の絢辻が槍玉に挙げられるのもまた当然である。

 

 

「市からのお達しなのよ・・『学校側で行う舞台設置とクリスマスツリーの設置をこちらで行うからそちらの作業を即刻中止してほしい』、『怪我人が出るようなそんな危ない作業は生徒に任せられない』って意見がでて学校側もそれに対しては強く反論できないの」

 

 

高橋も沈痛、そして同時申し訳なさそうに眉を歪め、絢辻を見る。

 

「・・」

 

「それに例年より作業が遅れていることもあちらは気になってるみたい・・」

 

「・・・!」

 

―それは当の市(そっち)の余計な横槍のせいでしょ!?

 

絢辻はそう言いかけたが止めた。高橋もそれは重々承知しているからだ。しかし客観的事実として横槍が入っている事とは関係なしに例年より作業は確かに遅れている。

昨年と比較すると今年は人員がかなり少ない。ここにも市が介入するスキを与えている。それを実行委員の結束と一人一人の頑張り、絢辻のリーダーシップで強引に牽引してきたのだからひずみも生まれるし、疲れもある。

 

しかし、ここまで絢辻だけでなく実行委員全員が必死で頑張ってきたのに、今更散々邪魔をしてきた連中の甘い助け船に乗らなければいけない事が腹立たしい。

絢辻がそう思いながら沈痛な面持ちで居ると高橋が口を開いた。

 

「・・私は作業スケジュールの内容を把握しているし、皆の頑張りも知ってる。楽観でも何でもなく『間に合う』って信じてるわ。でも市の方はそう思ってないみたい。だから引き続き出来るだけ説得して見る・・貴方達が今までどんなに頑張ってきてどんなに凄い子たちかを解らせてね」

 

強い口調でそう言った。

 

「・・はい」

 

「皆は作業の自粛は避けられないと思うけど腐らずにその中で出来る事を尽くして。当然いつも通り無理はしない事。安全第一でね!」

 

「・・・先生」

 

「じゃあね。状況は追って知らせるから。なーに校長は絢辻さん派よ。味方につけてこき使ってやるわ!」

 

―ふふっ・・高橋先生頼もしいな・・。

 

最近素の絢辻に高橋は似て逞しくなってきたなと有人はそう思いつつクスリと笑った。

軽快に高橋は去っていく。

 

そう言った高橋も授業と実行担当教員の激務に日々耐えている。そんな中で市と生徒、学校側と異なる三つの立場からの板挟みを受けているのだ。非常に苦しい立場なのは間違いない。しかし、この事態を招いたのは自分でもあるのだと絢辻は理解している。もっと徹底して規則を守らせねばならなかったのだ。

 

・・自分が「あんな状態」にならなければ避けられる事態だったのだ。

 

―私が。私が・・・!

 

自責の念に絢辻は拳を握りしめ、奥歯を噛みしめる。

 

「・・絢辻さん」

 

「!」

 

首を傾げるようにして絢辻を見る有人の薄い茶色の目が心配そうに絢辻を映した。

 

「・・大丈夫よ」

 

ふぅっと息を吐く。体から余計な力が抜け、深く呼吸が出来る。

そうだ。今は自分の至らなさを責めるときじゃない。高橋もこう言っていたじゃないか。

 

―腐らずにその中で出来る事を尽くして。

 

いい言葉だ。腐ってふてくされても何も手元に残らない。意味も無い空虚な発散感が残るだけだ。ただ発散するだけなら勿体ない。この憤りを全て今出来る事にぶつけてやろう。簡単じゃないか。今までしてきた事だ。

 

 

 

 

 

 

しかし―

 

事態は絢辻が思った以上に深刻だった。

 

「出来る事をしよう」と思った矢先に与えられた・・いや制限され、彼女達に残された仕事はあまりにも少なかった。

ツリーの装飾、危険を伴う作業は元より、市が介入する範囲が思った以上に多すぎる。

辛抱強く連絡を取り、信頼を築いた業者への連絡も禁止された。発注のキャンセルも勝手に行われているらしい。今まで協力やアドバイスをしてくれた人達に創設祭メンバーは謝る事も出来ない。「自粛」と言う言葉を盾にしたあまりに横暴すぎる仕打ちである。

 

生じた不手際に対して「晩回のチャンスを与える」、もしくは「ペナルティを課してタスクを増やす」のではなく、逆に「何も与えない」事。

これは自主的で意欲の高い者達のモチベーションを一気に奪うのに的確な手である。

彼らが今まで自分たちが必死で自分たちなりに考え、自分たちなりに行動を起こし、工夫して形作ってきたものを一方的に打ち切らせること―人が最も嫌がる事の一つである。

 

ここまでされるともはや悪意さえ感じられた。

 

何よりも今まで自分たちが長い話しあいの中で少しずつ少しずつ形を成してきたものがその手のプロたちの手によってあまりにあっさり、短い期間で効率的に行われる事に空しさを感じてしまうのだ。

 

強行された市が要請した新しい業者に対して引き継ぎを丁寧に、にこやかに説明しながらも時折悔しさがにじむ絢辻の表情が有人の印象に残った。

 

このままではダメだ。創設祭が完全に吉備東高生の手から離れてしまう。ただの市のメンツの為の行事になってしまう。

 

 

「このままでいいんすか!」

「でも・・実際危険な作業はやってくれているんですし・・安全は安全・・」

「でも今まで私達だけで頑張ってきたんだし・・最後までやり通したいよ」

「専門的な事とかある程度業者の人にお願いするのは仕方ない、ってのは解ってましたけど・・ここまでやってもらったら意味無いですよ!」

 

こんな創設祭実行委員の中でも不満が募りだした。

 

「人が足りない」。「作業量が多い」。「キツイ」。

これらの事は上に立つ人間が有能であり、一人一人の目的意思と意欲が高ければある程度のカバーは可能である。結果、そのような厳しい状況下での目標の達成、成功はこれ以上ない喜びと自信につながる。

しかし、碌にやる事が無く、工夫も何も必要も無い状況下では決してそれらは生まれない。

そのような状況に馴れている連中ならともかく、彼らは今まで決して楽ではない自分達の状況をお互い支え合い、工夫し、真摯に取り組み、結果を出してきた子達である。

そういう子達程この状況に我慢ならない。

 

絢辻にとって上に立つ人間としてこれ程嬉しく、頼もしい事は無い。が、今現在に於いてはそれを立場上宥めなければいけない絢辻の心労は募った。

 

 

「みんなの気持ちは解ります。・・私が頼りないばっかりに本当にごめんなさい!・・でも、まだ全て市に任せるって決まった訳じゃないの!高橋先生も校長先生も頑張って市を説得してくれてます」

 

 

 

「自粛が解除されたらきっとまた私達は忙しくなるわ。だからそれまではその中で出来る事をしつつ、いざ解除された時、自分達が何をしたらいいか解らなくならないように常に一人一人が次に出来る事、しなければならない事を今は考える時よ。そして今までの作業で疲れた体を休める時と思いましょう。辛いと思うけど・・今は我慢してもらいたいの・・皆・・。お願い、します・・」

 

 

「・・・」

 

絞り出すようにそう言い切り、深々と頭を下げた絢辻のその言葉に実行委員メンバー一同は落ち着きを取り戻す。喋り口調こそ「表向き」の絢辻だがこれは決して演技などでは無い。間違いなく絢辻の本音だ。

それを理解出来ないほど絢辻に鍛えられた実行委員のメンバーは成長していないはずは無かった。

 

不満もある。憤りも。しかしそれを受け入れ、受け止める器を彼らは持っている。

絢辻がそれを彼らに与えた・・いや伝染させたと言った方が適当だろうか。

委員たちは無言のまま受け入れ、文句一つ言わずにある者は帰り、ある者は僅かに自分達に残された今出来るルーチンワークを黙々と片づけた。

 

 

「お疲れ様・・」

 

 

自粛前よりかなり速い創設祭の実行委員会解散後に有人は作業机の資料を整理している絢辻に声をかける。しかし絢辻は黙ったままだった。

 

「・・。やる事が無いってこんなに辛い事だって思わなかったね」

 

「・・そうね」

 

あくまで事務的、最低限の返事で絢辻はトントンと机の上で資料を纏め、ファイルに閉まっていく。が、普段より幾分作業が粗い。口調は穏やかだが内心は当然穏やかではないのだろう。

 

―御機嫌斜めだね。ま、仕方ないか。

 

少し淋しそうな笑顔で絢辻のその背中を見る。

 

「おかしい・・」

 

「え?」

 

「・・。ここまでやる必要があるの・・?ここまで・・」

 

「本性」の彼女の声だ。一人ごちているのか有人に話しかけているのかが曖昧な口調で絢辻はそう呟いている。

 

「・・・?・・絢辻さん?」

 

「おかしいと思わない?源君?」

 

はっきりとここまでのそれが有人に対しての問いであった事は判明する。

 

「・・いや。話が見えてこないんだけど・・」

 

「にぶいのね」

 

「・・すいません」

 

 

 

 

「今回の件・・何でここまで市が出しゃばってくるのか・・今までも妙な横槍やら嫌がらせはあったけど・・ここまで本格的にしてくる事は無かったわ」

 

「・・。確かにそうだけどね。怪我人が出たとはいえここまで市が神経質って言うか過保護になる必要ってあるのかな?坂上さんの怪我も大したこと無かったし」

 

「・・」

 

「・・。ゴメン。怪我の大小なんて関係ないよね。不謹慎だった」

 

「・・。そもそもそこがおかしいのよね。学校側がその『事態を把握する前に市から先にお達しがあったこと自体が変』、なのよ」

 

「・・?」

 

「源君・・貴方坂上さんが怪我したのって何時頃知った?」

 

「え・・そんなの教室で高橋先生から聞いた時だよ。っていうか其の時絢辻さんも一緒だったでしょ?・・・?・・・あ!?」

 

合点が行った様に有人が目を見開くと同時、絢辻はぴっと彼に人差指を向けた。

 

「そう。そうゆうこと。その時点で怪我人が出た事を『市から』高橋先生は聞いたって私達に言った。同時に『危険な作業を市が直接要請した新しい業者』に引き継ぐ形にした―っていう一方的な結果のみを私達はいきなり知らされた」

 

「・・」

 

「そして私達は起こった事故を早急に把握する事も出来なかった―その事から監督責任も問われ、おまけに『事故を隠蔽した可能性もあるかもしれない』とあらぬ疑いで心象も悪くなり、今回の市の過剰ともいえる介入を受け入れざるをえなくなった・・」

 

「確かに早すぎるね・・」

 

「・・正直ね。この事態を招いた張本人は既に目星は付いてるの」

 

「・・?え?」

 

何か話がおかしくなってきた。絢辻によるとこの一連の事態は「不幸な事故等の積み重ね」の結果生じたものでは無く、この状況に陥る様に仕組んだ人間が居るということらしいのだ。

 

「まさか・・」

 

「あのねぇ・・こんな偶然が都合よくポンポン起きる訳ないでしょ?」

 

「・・」

 

―一体どういう世界で生きて来たんだ・・?このコ。

 

 

「・・でもおかしいの、何よりも『ここ』がおかしいの。私でも合点がいかない所なの」

 

「・・何が?」

 

「『その子がここまでするはずが無い』、の。有り得ないの」

 

「・・・?」

 

「・・言ったでしょ?前に。『自分の評判を必要以上に悪くすることを望まない人間』。・・それは同時に自分が必要以上に罪悪感を覚える事も望まないってことよ。今その子は多分・・どうしてここまで事が大きくなってしまったか解らずにパニクってるでしょうね」

 

「・・」

 

流石に有人は頭が回らなくなっていた。無言で返す他ない。一体今この少女の中でどんなサイクルが働いているのかが解らない。そんな彼に一息ついて絢辻は微笑んだ。

 

「・・良いわよ。別に今は解らなくて・・。まだこれも完全に確証を得たってわけでもないし解らないのは私も同じだし。でも・・何故その子がこんな事をしようと思ったのかは・・私解るの」

 

「動機は解ってるの・・?」

 

「うん。とても単純な事だから。馬鹿みたいにね」

 

「何なのそれ?創設祭に恨みでもあるの?」

 

「それは・・」

 

絢辻はじっと有人を見てそれから先の言葉を濁した。

 

「・・・?」

 

「・・帰りましょうか」

 

「え。絢辻さん?」

 

「帰るの今日は。さぁ!」

 

話を打ち切る様に絢辻は席を立つ。疑問を残されたままの有人は?マークが抜けないまま、背を向けてトコトコ歩きだした絢辻の背に続いた。

 

 

 

・・少々お灸を据えるべきだろう。自分が犯した些細な悪戯が思いもよらない騒動になっている事に暫く居心地の悪い時間を過ごすがいい。

・・それにこっちとしても今は時間が欲しい。一向に解らないのだ。何故話がここまで大きくなったのか・いや、「ここまで大きくする必要があった」のか?安くない金と煩わしい手まわしが必要な筈だ。

 

・・とりあえず今は高橋と校長からの経過報告を待とう。それまでは何とか実行委員の子達を暴走、無理させないようにしなければ。この自粛を言い渡されている時期にまた余計なトラブルを起こしてしまっては今度こそ本格的に創設祭の生徒主導の道は絶たれる。

 

―・・今は我慢。こらえなさい私・・。

 

自分にそう言い聞かせるようにして絢辻はまたぐっと固く拳を握る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
















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ルートT 十一章 激昂仮面

「我慢にも限度がある」―

その点を有人は重々承知しているつもりだ。でも我慢の限界に陥った人間がどういう行動にでるかはその人間の本質によって異なる。それは予測できない。

喚くか。

嘆くか。

逃げるか。

憤るか。









 

 

 

 

「忍耐力」に関しては正直言わせると彼女は図抜けたものを持っている。

それこそが彼女―絢辻 詞という少女の本質を最も単純に表した言葉といっても間違いは無いだろう。自分を忍びて本質を隠し、自分を律し研鑽を続け、時に生ずる軋轢にも目をそらさず向き合い、時が熟さぬならば機会を待とうとする姿勢。

 

彼女の、誰もがまず目が行く図抜けた数々のスキルについつい目が行きがちだがその根本を支えるているのは結局の所、その忍耐力に基づいた「持続力」、「継続力」である。それらが無ければそもそも図抜けた処理能力とやらが身につくのかどうかも怪しい。

 

地道で地味ながらもベストの行動と選択肢の連続。積み重ね。

 

時には自分を殺してまでも積み上げた土台を元に今の「絢辻 詞」という少女はいる。

それが壊れることなど絢辻にとって在ってはならない事だろう。

 

しかし、それは「その日」を限りに崩壊する。

崩壊させた下手人は・・他でも無い絢辻本人だった。

 

 

 

 

 

創設際実行委員会が作業の凍結を強行されてからちょうど一週間後の2-A教室―

 

 

「その日」は訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっと絢辻さん・・聞きたい事があるんだけど」

 

「・・何かしら?」

 

教室の席に座り、次の時間の教材を纏めていた絢辻の席の前で田口という背の高い少女が腕を組んで仁王立ちし、やや見下ろしがちな目で絢辻を見る。その傍には二人の少女が居る。これまた疑い深そうに絢辻を見ている。

 

―・・。穏やかじゃないわね?

 

絢辻を見下ろす彼女達はこの姿勢を見せつける事で絢辻に対してのある程度の先制、牽制攻撃を仕掛けているようだった。不穏な空気だ。

ただ当の絢辻は何時ものように宿題や次の授業で解らない事がある生徒に対して接する時のようににこやかに話し、その空気を受け流していた。

その態度に毒っ気が抜かれる事を諌めるように不穏な空気そのままの不機嫌そうな声で三人の内一人の少女―恐らく三人の中のリーダー格である田口は絢辻にこう続ける。

 

「さっき・・『クリスマスツリーが中止』って話を聞いたんだけど、それってホント?」

 

「・・中止?まさか?誰がそんな事を?」

 

「他のクラスの子よ。実行委員の子が言ってたって。だから最近実行委員は仕事が減って下校する時間が早くなってるとか何とか」

 

「・・」

 

事実に混ざった質の悪い拡大解釈が行われている。絢辻は無言でそれを聞いた。ひょっとしたら噂の情報源の情報を彼女が口を滑らす可能性がある。黒幕、もしくはそれに近しい人間あたりの。しかし―

 

「作業がきつくて楽したいってのは解るけどそれって酷くない?実行委員会の為だけの創設祭じゃないんだよ?」

 

畳みかけるようにそう田口は続けた。

 

―・・・。

 

「ちっ」、と絢辻は内心舌打ちする。嫌味に対してでは無い。この田口という少女が知っている情報が「所詮その程度」ということにだ。気持ちよく知っている事全て喋らせ、最後に嫌みの一つでも聞いてすっきりさせてやろうと思ったがもうこの時点で早々に嫌味がでてくるようでは望み薄だ。正直今の絢辻にとってはもっとも相手をしたくないタイプの相手である。まさに―

 

―・・時間の無駄。

 

噂に踊らされた末端の構成員もいいとこだ。ただ立場上、無下に扱う訳にもいかないのが面倒な所だが。

 

「・・それは誤解よ。確かにツリーの事は問題になっているけど、中止なんて話は出てないもの。実行委員の活動が縮小しているのもちょっとした事故があって作業を自粛しているだけ。何せ今まで実行委員の皆が頑張りすぎていた矢先に起きた事だから市の方が気を遣って一部の作業を一任しているからなの」

 

「ホントかな~?案外その事故を口実に市に面倒な作業を引き継がせたんじゃない?ツリーとかの遅れていた作業を任せた、とか?」

 

言っていい嫌味と悪い嫌味がある。規律を乱したとはいえ懸命に作業をしていた一年生の女の子が負った怪我を、これ幸い口実にして楽をしようとした―だと?

 

「・・・」

 

内心呆れて絢辻が閉口したのを田口は誤解し、「痛い所をつけた」と思ったらしい。彼女の舌が更に滑らかになる。

 

「さっきも言ったけど実行委員会の為だけの創設祭じゃないんだよ?『皆の創設祭』なんだから。市に勝手にさせていていいの?」

 

大義名分―「皆の創設祭」を強調して田口は気持ちよさそうに言い放った。それに呼応してか田口の周りにいた取り巻き二人も閉じていた口を開く。

 

「それ・・絢辻さん酷いと思う・・」

 

「そうよ。『皆の創設祭』なんだから」

 

磯前、山崎という二人の田口の取り巻きの少女が順に言葉を発した。後押しを受けて更に田口は有頂天になる。

 

「・・意外に今回こんな不祥事があって丁度良かったとか?遅れていた作業をプロに任せることで予定は間に合うし、作業の遅れを責められる事も無くなった上に自分の負担も減る。・・ふふっ・・そうだとしたら絢辻さんって相当頭いいね。狡賢いって言うか」

 

「・・・」

 

―頭がいい?・・頼むからその頭の悪い解釈を止めてくれない?

 

呆れを通り越しながら未だ黙る絢辻は内心そう思いながら苦笑した。

まぁ・・でもとりあえず相手はしてやらなければいけない。上に立つ者の辛い所だ。

 

「・・心配してくれてありがとう。でも生徒主導で行うっていう基本方針はちっとも揺らいで無いわ。委員会は委員会でちゃんと用意を進めてるの。市に一任した作業がひと段落ついてからまた作業を再開するつもりよ」

 

「それってさぁ・・信用できると思う?」

 

・・自分が勝手に想像した全く根拠のない予想をさも真実かの様に仮定し、田口は自分が勝手に作り上げた猜疑心の中で絢辻を疑った。

 

「出来ない出来ない」

 

取り巻きの山崎が同調する。自分が同調した事象の内容をちゃんと把握しているのか?この子は?ただ「音」だけ「で」と「き」と「な」と「い」を並べただけじゃないのか?

 

―・・さてと。言いたい事はそれだけ?はぁ・・何とも無駄な時間を過ごしたわ。さて適当に茶を濁して話を打ち切りますか・・。

 

絢辻は全く揺らぐこと無く、いつものようにやんわり、粛々と今自分のカバンの中にある事実と根拠に基づいた資料を彼女達に見せ、この下らない話を一刻も早く打ち切ろうとして鞄に手を伸ばそうとした。

 

が―

 

 

 

 

「・・絢辻さんにとっては源君とイチャイチャすることの方が大切だもんね」

 

 

 

 

―・・・!

 

 

ピタリと絢辻の手が止まる。

 

「だって聞いたよ?創設祭の実行委員の子が怪我した肝心な時、絢辻さんと源君って二人で居なくなってたんだってね?一体どこで何していたんだかね~?」

 

 

「・・・」

 

―・・・成程ね。いい情報有難う田口さん?今確信が持てたわ。・・どうやら相当あの時私と「源君」が居なくなった事が腹にすえかねたみたいね?

 

本人自体は何の自覚、考えも無しであろうが、田口の発言は絢辻にとって重要な意味を持っていた。あの日、絢辻と有人二人が戻ってくるのが遅れた理由をあの場に居た実行委員の子達はちゃんと知っている。ツギハギだらけの予定表を見て彼らは納得してくれた。これじゃあ戻ってくるのは遅くなるワケだ、と。しかし・・「納得しても我慢ならない」人間はいる。それが唯一「あの子」だ。自分達が居なくなった事を知っていて、尚且つそれを不快に思い、捻じ曲げて悪用したくなるような情動を持つ人間は。

絢辻は確信を得た上で思考を整理した。もうこれ以上この子達から聞く事は無い、と。

だが―

・・何故だ?この湧きあがってくるものは?こんなの経験した事が無い。

踊らされた揚句、こんな下衆な勘繰りをしてくる相手を一笑に付してやればいいだけなのに。・・なぜ?

 

 

 

―私は・・怒っているんだろう?

 

 

 

「・・あの人は手伝ってくれていたのよ?」

 

―・・十点満点中、二点。・・いいえ。百点満点中・・二点・・かな。

 

絢辻が今、自分が発したその言葉に即下した得点である。内容も語気も全く以て及第点とは言い難い。

 

「何の『手伝い』していたんだかね~」

 

じっとりと粘つく様な視線と語気で田口は背後の取り巻き二人と目を合わせる。「ああいやらしい、いやらしい」とでも言いたげに。

 

―・・ほら。付け入る隙だらけじゃない。

 

「・・・」

 

「ちょっと・・黙ってないで何とか言ったら?あ!ごめん・・ひょっとして・・図星?」

 

過ぎた悪意と悪戯心と勢いを頼り、田口達の攻勢は続いた。

と、言っても「攻勢」と言うにはあまりにも稚拙すぎる最早「本題」などそっちのけなただの嫌みだけの言葉である。空気よりも軽く、ただ口臭みたいな嫌な匂いがする程度のものだ。が、今の絢辻にはそれがなぜか妙に―

 

―・・・。

 

応えた。

 

 

「ちょ・・ちょっと待ってくれる?」

 

 

遠目からその不穏さを見守っていたクラスメイト達を掻きわけ、その場に一人踏み込んだ少年が居た。その正体は言うまでも無い。有人だ。

 

「ちょっと・・源君?話に入ってこないでくれる?大事な話しているんだから」

 

「そうよ。絢辻さん助けに来たの?」

 

「・・え?」

 

―「大事な話」?あれが?会話も成立していない、成立させる気も無いあれが?

 

有人もやや内心呆れて苦笑した。ただ彼の場合は絢辻と異なり、表情に張り付いてしまう。表向き真剣を「気取りたい」田口達にその笑顔は「馬鹿にされた」ものに映った。

・・実際「馬鹿にしていた」と言えば有人は否定できないのであるが。昨今あんまり経験をした事が無い久々の感覚だった。

 

「ちょっと!何がおかしいのよ?」

 

「あ、ごめん」

 

一応彼のキャラクターを曲がりなりにも彼女達は一年近く見てきたクラスメイトなだけにいつものこととし、幸いにもその表情はそれ以上彼女達を煽る事は無かった。

 

「でもさ・・助けるとかじゃそんなんじゃ無くて事情もろくに知らないで決め付けで言うのは良くないと思うよ?」

 

「事情があったら許されるわけ?」

 

「あぁ。じゃあ事情があっても絶対許されるべきではない事なのかな?事情が無い人間なんて居ないよね。事実田口さんは『皆の創設祭がダメになるかもしれない』って心配してくれている事情があって絢辻さんに今質問しているワケだから」

 

「う・・」

 

本題はそっちのけ。絢辻に嫌味を言う事を目的にしている事が丸解りな少女にそもそもの本題を再び突き付ける。

 

「・・・ん!じゃあそっちはどんな事情があったって言うのよ!言ってみなさいよ!なんで二人は肝心な時に二人で居なくなっていたんデスか~?」

 

本題に誘導される事を嫌った田口は話をまた戻す。この事から彼女にはそもそもの目的が「本題」に関する心配を解消するのではなく、ただ噂を元に「お高く止まった優等生に人生たまには上手くいかない事を陰険に、ねちねちと知らしめよう」程度の目的なのである。

 

「それは・・」

 

そう言いかけて有人の脳裡に浮かんだのは表向きの事情としてはまぁ納得できる話の「予定表が絢辻のミスでバラバラになった」事では無く、一人書庫で佇み、泣いていた絢辻の真実の「事情」である。

 

彼女自身が「誰にも見られたくない。知られたくない」と言っていた真実。

それを図らずも自分が知ってしまった以上、有人には責任がある。流石に思案しない訳にはいかない。しかし、その逡巡をせっかちで人の話を聞かない少女は焦ってついてきた。

 

「ほら見なさい!言えないんでしょう?」

 

「・・。そうだね」

 

有人はそう言った。あの「事情」を告げる事は決して許されない。

誰にも話してはならない。増して嫌味を言う為だけに上げ足をとる事にしか注力していないこの目の前の少女に話せる事では無い。

有人は黙って暫し一考・・取りあえず「他の事情を話して穏便に納得してもらおう」と、少し思考を巡らせる。この時有人には余裕が在った。何せ周りを見ると・・

 

 

「・・・」

 

―手ぇかすぜ。大将。

 

「・・・」

 

―あったく・・!!言いたい事言わせとけば・・!みなもっち!私も行く!!

 

「・・・」

 

―はいどうどう薫。・・お前が感情のまま行ったら更にややこしくなるんで。

 

有人の友人達―梅原、棚町、国枝の三人が既に待機していてくれていた。田口の取り巻きたちに比べれば万倍頼りになりそうなメンツである。

 

 

しかし―

 

その三人の参戦を前に思いがけない「声」が教室内の沈黙を破る。

 

 

・・否。

 

 

・・・・切り裂いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うふふ・・あははは!!はははははははっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え・・」

 

 

―・・・・え?

 

そのひきつったような笑い声と共に寒空の中、窓も空けていないはずの教室が絢辻を中心に一陣の風が吹いた。ややうつむき加減の彼女の後頭部をきめ細かく、美しい黒髪が逆立つように宙に舞う。

有人はその絢辻の語調に戦慄を覚えた。いつもは彼にしか聞こえないそれは今、確実にこの教室に響き渡っている。

その声はあまりにも理不尽な田口の言い分にいらつきを覚え、参戦を身構えていた棚町 薫の足を止め、その向かいに座って仮眠をとっていた国枝 直衛の目を見開かせ、いつも通り、軽いノリで場に入ろうとした梅原 正吉の能天気な言葉を喉元で留め、凍りつかせる。その凍りついた時の中で現状動けるのは有人だけだ。

 

 

「絢辻さ~~~~ん!ストーップ!!!まだ先があるんだから!!」

 

―マズイ、まずい、拙い!!

 

 

「・・だーめ。もう許さない。源君・・黙っていてくれる?コレは私の問題・・」

 

 

鋭角に曲がった眉。丸みを失った三角の攻撃的な瞳。何時もと全く異なる挙動で長く美しい黒髪をふぁさりと払う。

 

別に大きな声を出したわけではない。騒いでいる訳でも無い。しかし、普段と異なる全く異質な「存在」そのもののみで彼女はクラス中の視線を釘づけ、氷漬けにした。

 

 

「・・・は!?何がおかしいのよ!意味解んないんですけど!?」

 

田口の顔が醜く歪んだ。その表情にはいきなりの絢辻の豹変に対する当然の戸惑いとハッキリとした恐怖が混ざっており、この時点で既に勝負は決している。

が、今の絢辻には元々「勝負」などするつもりは無い。これから行われるのは一方的な・・

 

「だって今の田口さんにはどんな事情を伝えても自分の都合で捻じ曲げて解釈しそうですもの。そんな人に話しても・・意味無いわよね。違う?」

 

「んなっ・・・!どういう意味―」

 

「さて・・そんな貴方にも解るように私が懇切丁寧にこれから説明してあげるわ?いいかしら?」

 

田口の言葉を遮る。

 

「・・・せ、説明?」

 

実はジンマシンが出る程「説明」されるのが嫌いな田口と言う少女。

 

「あ。くれぐれもヒステリック起こして私の話をうやむやにしようとして叫んだり、騒いだりするのは止してね?何せ・・私は今から貴方が『知りたい』、『心配してくれている』事を全てちゃ~~んとはっきり説明するんですもの」

 

ワザとその状況を氷漬けにされながら見守る周囲のギャラリーにも聞こえる様にした絢辻のその言葉は完全に田口の退路を絶った。田口に周囲から無言の圧力が集中。絢辻の申し出を了解したも同然である。田口は「開き直り」という選択肢を奪われた。

 

―・・・!アンタ達!

 

思わず生物の習性として田口は自分の逃げ場を確認するようにちらりと後ろを見る。が、

 

「・・・」

 

「・・・」

 

そこには何とも頼りない既に自分と同じように豹変した絢辻に圧倒されている取り巻きの山崎、磯前の青ざめた顔があった。

 

―・・・!!!つっかえない!!

 

人間自分に残された手札の弱さの再認識をするとそれが全くない時よりも絶望をする。

まさに「無い方がまだマシ」である。その田口の感情をも絢辻は鋭く見抜く。

 

―・・無駄よ?人に頼りすぎの磯前さん、勝ち馬に乗ろうとするだけの山崎さんには貴方を救う器量も度胸も無いわ。

 

三人の少女は馬券を買い間違えた。しかしレースは既に開始している。払い戻しはもはやできない。

 

「まずはこれ・・」

 

絢辻は自分のカバンから大きなグレーのファイルをとりだす。コンパクトな鞄から取り出される割には重厚な重みがありそうな、一目で「重要な資料」と解る存在感がある。

 

「クリスマスパーティーに関する全ての情報が書いてあるわ、委員の選んだツリーの備品の搬入予定から飾り付け日程までの全て・・つまり先日から一時凍結しているまでの作業状況、そして凍結が解除された際に行う作業予定表も同封してあるわ。校長も内容に納得してくれてね?凍結が解除された際、即その作業に移る許可も貰ったし、後はGOサインを待つだけなの」

 

「・・・」

 

「で。その凍結解除後の作業の為の用意も実行委員の皆が終わらしてくれたから結果、解散の時間が早まってるだけなの。言っとくけどあくまで『実行委員の解散』の時間よ?その後の実行委員の子達が各自何をしているか・・貴方達知っていて?」

 

知る由も無い。公的な活動が終わった時点で噂を流す大抵の人間は興味が失せる。その後の実行委員の一人一人が何を心がけているかなどをわざわざ調べることなどしない。

例え知っていたとしても噂を面白おかしくするには「不都合」な点は排除しなければならない。「実行委員の士気の低下」の印象を植え付けるには相応しくないものは。

「噂」というものを面白くなくさせるのは大抵の場合、真っ当な「真実」、「現実」である。

 

「その子達は今まで出来なかった自分のクラスの創設祭の活動、ううん、それだけじゃ無いわ。他のクラスへのヘルプ。学年すら跨いで手の足りないクラスに手伝いに行っているのよ」

 

―・・指示も出して無いのに。

 

絢辻は内心唇を噛みしめる。嬉しく、そして何処か申し訳ない―そんな複雑な感情を押し殺すようにして。しかし尚も言葉を紡ぐ。

 

「・・。もし疑ってるならそうね・・三年生のクラスの人にでも聞いてみたら?三年生の大概のクラスにはヘルプに行ってるはずだから」

 

「そんなの・・」

 

「聞ける訳ないでしょ」、と言いかけた言葉を絢辻は次の言葉で遮った。田口の受け答えは予想の範疇だ。

 

「ええ?憧れの先輩位いないの?」

 

「・・!!」

 

絢辻はこの三人が三年生の何人かの男子生徒に憧れてちょくちょく会いに行ったり、迫ったり媚びたりしているのを知っている。聞ける相手がいないはずが無い。

 

「いないわよ・・確認する方法はない、・・わね」

 

田口はようやくうそぶくことぐらいしか出来なかった。

 

「じゃあ・・仕方ないわね。私達の授業を担当している三年生の担任にでも聞けばいいじゃない。全く・・少しは頭を使いなさいよね?いつも感心するぐらい質問しに行ってるじゃない?貴方達」

 

―ま、質問と言うよりテスト範囲を猫かぶって聞きだそうとしている事が丸わかりだけどね。

 

コレに関して田口達は言い訳出来ない。このクラスの全生徒が知っている事実である。その状況を静観していた何人かは「あ。成程」と合点がいった顔をした。

 

「・・・!!こっの・・っ!!」

 

もう何振り構わず喚きだそうとする田口の言葉を―

 

「ごめんなさい。話それたわね。とにかく校長が話を快諾してくれている以上、私達は市と学校側の話し合いの折り合いがつくまで出来る限りの事はしているの。そしてこうなった以上、市もそろそろ譲歩する筈だわ。市としても貴方が気にしてくれている『皆の創設祭』っていう言葉を気にするしね。生徒がやる気と結果を示している以上、それを全く無視して事を進める度胸は市には無い筈よ」

 

再び田口の望まない「本題」に戻して、矢継ぎ早にまくしたてて絢辻は遮る。

 

市が件の事故をきっかけに過剰なほどの反応を示し、新たな業者を呼んで作業を強行している裏で、発注を断られた業者やその関係者からの不満の声が挙がるのは自然だった。

直接ことわりと謝罪の電話を入れる事を表向き禁止された絢辻自身が直接休日に一つ一つの業者を回って確認をとっている。密接かつ定期的に連絡を取り合っていただけに大抵の業者は不満があるだろうにもわざわざ休日返上で訪れ、熱心に謝罪を行う絢辻に理解を示してくれた。

 

市としては地元と揉める事はあまり良しとしないだろう。何せ「選挙」があるのだから。

 

「・・・。でも、校長が納得したってのは本当なの!?絢辻さんがそう思ってるだけなんじゃないの!?」

 

「じゃあ校長に直接聞きに行ったらいいじゃない?・・この資料を持っていけば大抵の事は答えてくれるわ。ついでに聞きたい事あれば聞けば?私は全部把握しているから持って行ってもらっても一向に構わないわよ。校長は今日三時半から会議だからそれまでに行けばすぐ確認取れるわ。もともと校長先生は生徒と話すのが好きな方なの。きっと歓迎してくれるわよ?何なら私が直接話通しましょうか?ほら、今からでもいいのよ?どうせ時間あるでしょ?貴方達って」

 

「・・・」

 

完全に閉口する田口ら三人を前にいかにも張り合いなさそうに絢辻は溜息をつく。

 

―・・雑魚が図に乗らないで。

 

 

 

「要するに・・ツリーは中止になって無いし、市に全てを一任した訳でも無いの。今は学校側がやれるかどうかの瀬戸際ってところなのよ。要するにこのバカ騒ぎは無意味なの。どう?そろそろ分かってくれた?」

 

「ぐっ・・・」

 

予想以上にスケールの大きな話に真っ向から向かい合っている少女と噂に流されただけの少女。

 

「・・・」

 

―あぁ・・・。絢辻さん完全に怒っちゃってる。

 

「結果」のみ見ればこうなる事は有人には解っていた。

 

しかし何時もの彼女らを論理的に納得させ、穏便にその場を収める事など造作も無かったはずだ。なにせ先ほど述べたように人伝の噂に流されただけの人間と今回の事象に根本から終始関わっている人間を比べれば後者に分が在るのは当り前なのだ。

だがここまで攻撃的に断罪する事になるとは。何時もの冷静な彼女ならもっと厳かに、粛々と事態を収められたはずなのに。

 

しかし状況はそれでは終わらない。

 

「・・ああそうだ。ツリーの件のついでに貴方達の欠点も教えてあげる」

 

「・・!絢辻さん!!」

 

―ダ、ダメだってもうこれ以上は!

 

「次からは気を付けた方がいいわよ?足元すくわれちゃうから」

 

有人の必死の制止を振り払うように絢辻は尚も言葉を紡ぐ。今の絢辻には有人の声は届きそうにない。更なる追い打ちを畳みこむ様に続けた。

 

 

「まず山崎さんは―」

 

「次に田口さん。あなたは―」

 

「それと人に頼りすぎの磯前さん?―」

 

まるで罪状を読み上げるように一人一人の内心抱えた、そして何処かで彼女達の中で自分自身でも押し隠していた淀みを丁寧に絢辻は抉っていった。まるで見てきたかのように。

その証拠に三人の顔色は恐怖に青ざめていた顔から徐々に上気した怒りと、図星を突かれた羞恥がない交ぜになった真っ赤な表情になり、目も潤みだした。

 

田口が次の瞬間、絢辻に掴みかかるような行動と共に発した言葉、「も、もう、許さない!」という言葉は―

 

―もうやめて。

 

そんな痛々しい懇願に有人には聞こえた。

 

それをひらりとかわし、御丁寧にそこに「うっかり」置いてきた絢辻の右足のつま先にひっかかった田口は机を抱え込むように倒れた。

 

自分は何一つ目の前の少女に勝てる物がない―

 

田口の中に新しく生まれた恥辱、屈辱のやり場を探すようにその姿勢のままきっと絢辻を睨む。しかし、睨んだ当の相手はまるで何時ものように本気で心配しているかのような哀れむ目を向けてくる。

 

「大丈夫?机とじゃれたりしたら危ないわよ」

 

そして―

 

「貴方達も来る?何なら三人一片にどうぞ?」と言うような眼で他の二人、山崎と磯前をけん制する。ここで三人一緒に思いきれない所やこの状況の田口を心配して駆けよってやれない所に彼女達は自分達三人の関係の本質を知る。何とも浅く、薄い友情だ。

 

「あらあら・・もしかして友情にひびが入ったりした?そうだったらごめんなさいね~」

 

目ざとく見抜いた絢辻は止せばいいのに更にそこもじくりと抉る。今の彼女には容赦、手加減というものが存在していない。

返す刀も言葉も失った三人は無言のままただ絢辻を睨む事しか出来ない。平然とその視線が受け流されることも解っていながらもそうせずには居られなかった。その三人が止まったことで教室の時も止まる。

 

「・・・あ、絢辻さん。すげぇ・・」

 

「・・・私出る幕なし・・」

 

「・・・!」

 

梅原、棚町、国枝も予想だにしない絢辻の強烈な反撃の光景に面を喰らい、固まっていた。今この教室の中で時が動いているのは平然と佇んでいる絢辻と―

 

―・・やっちゃった・・。

 

と、内心頭を抱える有人だけだった。

 

「・・・。絢辻さん・・・!」

 

「・・・!」

 

有人の咎める様な、そして少し落胆が入り混じったようなその言葉に絢辻は反応し、一瞬有人には絢辻が睨んだように見えたが直後、昼休みの終了を告げる予令が鳴り響くと絢辻は再び表情を余裕の表情に戻し、

 

「・・はい。タイムリミット。お疲れ様。机はちゃんと元の位置に戻してあげてね?」

 

終始落ち着いた口調と表情を崩さず、まるで何事も無かったかのように絢辻は自分の席に座り、五時限目の授業は始まった。

 

この2-Aというクラスは決して授業中騒がしいクラスでは無い。騒がしい奴は梅原、棚町含め幾人かいるが、ある程度の節度は守っている。だが今回の五時限目の静けさが異質なものである事をクラスの全員が感じ取っていた。

問題を当てられた絢辻の見事な解答も、規則的に鳴り響く執筆の音も全ては平常通り。

 

その「平常通り」が今の彼らにとっては何とも異質だった。

現実味のないさっきまでの出来事と今の何ら変哲もない日常の光景。しかし一方、確実に爪痕残る田口ら三人の少女の席で項垂れた姿。

 

彼らは何時もの平常の光景とそれら異質な現実を交互に見ながら日常と非日常を行ったり来たりした。

 

 

・・ただ有人一人を除いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・うん。いつも通り完璧な英訳だな絢辻君。座って結構」

 

 

「有難うございます。恐縮です」

 

 

 

 

英語教師の労いの言葉に何時もの澄まし顔で微笑み、悠々と席に着く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











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ルートT 十二章 反撃の仮面












11 反撃の仮面

 

 

 

放課後―

 

「何・・?」

 

絢辻は有人に呼びだされた屋上でつい二時間前、クラスメイトの女子である田口達三人を徹底的に叩き潰した絢辻を窘めた有人を一瞬、突き刺すように強く睨んだあの時の表情の「続き」を見せた。

 

「・・・」

 

「・・呼び出しといてダンマリ?何か言ってよ。・・あ、いいわ。当ててあげるから。そうね・・差し詰め『これからどうするつもり?』・・といった所かしら?」

 

まるでクイズ、ゲーム感覚の様な軽く、しかし一方で全く愉快そうには見えない自嘲の笑顔で絢辻は有人を見た。

 

「・・確かにそれは最後の質問になるんだけど・・それまでにまず聞きたい事が二つあるんだよね。いい?」

 

有人は頷きつつ、努めて冷静に絢辻を薄い色素の茶色の瞳で見据え、指を二つ立ててそう言った。

 

―・・・!・・ズルい。

 

あの絢辻が吸い込まれそうな感覚を覚える程今の有人の瞳は暖色系の薄い茶色にも関わらず、冷めた瞳をしていた。

 

「・・ふっ・・ど~ぞっ?」

 

珍しく絢辻が白旗を上げる。その瞳は先程までの攻撃的な鋭利な角度を潜め、丸く優しい光を帯びた。

 

 

「あそこまでする必要があったの?ただの言いがかりにあそこまで過剰に・・」

 

「・・」

 

「絢辻さんなら・・もっと上手くやれたよね?」

 

「・・ええ。出来たわ」

 

瞳を閉じ、薄く微笑んで事も無げに絢辻はそう言った。「言うは易し、行うは難し」とよく言うが絢辻の放つ言葉には本当に容易くそれが出来た事を確信させる自信、語気があった。

 

「なら、なんで・・?」

 

絢辻が瞳を開き、顔を上げる。有人の二つの質問の内一つの答えを示す人差指を一本立てて顔を傾かせてこう答えた。

 

「まず一つ。相手が噂の情報源の手掛かりを持っている可能性があったから泳がせた。もう一つはあの子達の不満はあの子達だけでは無く、表には出さないけど少なからず他の皆が持っている心配事、不安であった事も確かだった。・・それをあの子達だけでなく、その周りに居る皆にも説明して心配を解消、もしくは発散させる目的があったの」

 

 

「え・・」

 

「あの子達三人の言い分は過剰で偏見と誤解のオンパレード、おまけに妄想と幻想も重なって聞けたものじゃなかったけどね?でも考えてみて?創設祭云々が『建前』とは言え、根本だけをすくい取ると案外疑問としては自然なのよ。・・例えば・・そうね。貴方が国枝君、もしくは梅原君あたりに『クリスマスツリーが中止っていう噂を聞いたんだけど大丈夫か』って、聞かれたら貴方・・どう答える?」

 

「あ・・」

 

「・・。表だって文句や嫌味を言わないとしても誰でも当然疑問はあるでしょうからね。そういう部分だけすくい取ればあの子達の言い分も決して間違ってはいないの」

 

冷静な意見だった。

相手の意見の根本の部分を捉え、断片的な情報に踊らされた彼女達に今自分達が確実に持つ確固たる証拠を突き付ければ、やはり丸く収まる話だったのだ。

それをうまく伝えきれず、状況を悪戯に悪化させる様な絢辻では無い。

 

しかし、今確実に状況は悪化している。

 

否。それだけでは無い。

 

絢辻が最も恐れ、ひた隠しにしていた自分の本性を多くの人間に垣間見られてしまった事実がある。

 

はっきり言うと最悪の状況なのである。絢辻にとっては。

自分の足場が崩れ、築き上げたものに亀裂が生じることを何よりも恐れていた彼女の。

存在しない。しかしそれでも「完璧」を求めて積み上げた今までの彼女の努力を「無」にしかねないあそこまでの暴挙を。

 

「何で・・そこまで・・?」

 

有人はそう繰り返した。

 

 

「・・貴方のせいかな?」

 

 

「・・え?」

 

「・・・冗談よ」

 

クスリと笑って絢辻は眉をしかめ、改めて有人を見た。

しかし、笑っていてコレだけ苦しそうな絢辻を見たのは初めてだった。

 

 

「はぁ・・何でこうなっちゃったのかな?」

 

 

そう言いながら絢辻は有人に背を向け、何もかもがやりきれないような口調で喋る。表情を取り繕う事も面倒くさくなったのだろう。だが気丈な彼女はその中でも自分のその表情を見せる事を拒み、一旦背を向けた。

 

「・・・」

 

「皆・・皆頑張ってくれてるのよ?我慢してくれてるのよ?なのに・・どうしてこうなるのよ・・」

 

「絢辻さん・・」

 

「・・もう・・許さない。直接たたくわ」

 

「え」

 

―た た く ?

 

 

「そう・・直接対決よ。本当ならもっと確固たる証拠を見つけて完膚なきまでに潰したかったけど・・そんな時間も無いし―」

 

 

「時間も無いし・・?」

 

「・・我慢も出来そうもないから」

 

そう言ってくるりと振り返って有人を見た絢辻は何時もの自信にあふれた表情に戻り、不敵に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

五日後―

 

 

「~~~♪~~♪」

 

少女―黒沢典子はうきうきしていた。自分でも柄にもないと思いながらもそれを止められなかった。

 

「・・・。ま。気が向いたら行ってあげるわ」

 

何時ものようにツンケンな態度で曖昧な返事をしながらも内心は―

 

―やった!やった!やった~~~!

 

と、はしゃぐ自分を止められない。

 

先日の噂に聞いた2-Aで起こった絢辻の事件の結果、「絢辻が2-Aクラス内で孤立した」という朗報が入った。そのタイミングに「この」出来事。悪い事は重なるとよく言うが良い事もまた重なるものだと彼女は思う。

 

―まさか・・あの源君から私に声をかけてくれるなんて!「話をしたい」って言ってくれるなんて!相談したい事があるからって!

 

2-Aのクラスでは最近有人すら絢辻にあまり関わっていない。それどころか有人が声をかけても絢辻に無視されているという情報も入った。

コレを鑑みると本格的に孤立した絢辻に愛想をつかし、またこれからの創設祭の委員会活動を懸念し副委員長である自分に有人が相談を持ちかけてきたのでは?という期待が黒沢典子の中にある。

これをきっかけに「あの女から源君を引き離すチャンスだ」と黒沢典子はうきうき息巻いていた。

 

しかし―

 

彼女は失念していた。あまりにも有頂天過ぎて自分を見失っていた。あまりにも自分の都合のいい様に考えてしまった。

普段の冷静な彼女ならば解っていたはずなのだ。自分が実際はそれ程有人に近い存在ではない事を。

それが解りつつも「いつかは」と、常に考え続けてきた、想い続けてきたことが彼女を盲目にさせた。重なる吉事、吉報に身を任せた結果、彼女もまた叩き落される事になる。

己の現実、現状に。

 

校舎裏、裏庭にて―

 

 

「あ。黒沢さん・・ここ、です・・」

 

 

―・・・源君!御待たせ!!あはは!なんかデートの待ち合わせみたい!!

 

そう言って精一杯の笑顔で駆けよりたくなる自分の衝動を抑え、腕を組んだいつもの尊大な態度を保ちつつ、校舎裏で不安げにそわそわしながら黒沢を待っていた有人に歩み寄った。

 

「・・で、話って?私忙しいんだけど?」

 

この時間の為に全ての雑事と友人の誘いを全て悉く蹴った少女の最初の台詞がコレである。

・・やれやれ。高ビーも大概にしないとね。

 

「ご、ごめんね?黒沢さん。来てくれて有難う・・まさか本当に来てくれるとは・・」

 

「な、何よ。貴方が呼んだんじゃない」

 

―「来てくれて有難う」だって!~~~っっ!何コレほんっとにデートみたいじゃない!!~~~~~っ!!!

 

まるで数カ月ぶりに禁酒から解放されたアル中のおっさんのような言葉にならない声が少女の心の中でこだまする。

 

「・・・」

 

「・・で、私になんの相談なのかしら?源君?」

 

「来ちゃった・・来ちゃったか・・ホントに・・」

 

「はい・・?」

 

「うう・・ご、ゴメン・・ごめんなさい・・・黒沢さん。その、本当に・・」

 

有人は心底申し訳なさそうに掌を顔の前で合わせ、謝った。まるで「成仏しとくれ~~」とでも言いたげだ。何なのだコレは?

 

「・・??」

 

 

 

 

 

「はい御苦労さま・・源君?」

 

 

 

 

 

「え・・。っ・・・!!!」

 

今から散々こきおろし、有人の傍から引き離す、引っぺがすつもりだった「あの」声がする。吐き気を催すほど大っ嫌いで同時、黒沢にとってもっとも今「ここに存在してはならない」声が。

 

―・・・!!ま、まさか・・「つけられた」!?いや・・違う・・これ、まさか・・・!?

 

うそ・・嘘よ!!!

 

黒沢にとって最悪の答えが脳内に導き出される。ハッキリ言って一番彼女にとってされたくない行為だろう。

自分が「一番想っている人」と自分が「一番気に入らない人間」が結託し、自分を陥れる事―恋する乙女に果たしてこれ程残酷な行為がこの世にどれ程あるだろうか?

でも・・

 

 

―・・貴方はそれ程の事をした。やってはいけない事をした。

 

 

申し訳なさそうに顔を歪める有人の後ろから腕を後ろに組み、心地よい曲を聞いている様な涼しい表情の少女が歩み出る。そして驚愕と焦りで目を見開いたままの表情の黒沢 典子の目の前で歩みを止め―

 

「・・ふふっ」

 

閉じた目を開いて攻撃的に、しかし同時美しく笑った。

 

 

五日前の再び屋上に時間は遡る―

 

 

「いやいやいや無理だって!」

 

 

首と両手を必死で振り、有人は絢辻の翻意を願った。が・・

 

「やりなさい」

 

彼女は軽く一蹴する。怒りも笑いもせず表情が固まっているのが非常に恐ろしい。

 

「・・第一!黒沢さんが本当に来るかどうかも解らないじゃないか!?だって黒沢さんがその・・俺に対して、そ、『そういうこと』!?だってことは、絢辻さんが言ってるだけだし!?」

 

「『彼女が貴方を好き』だってこと?間違いないわよ?」

 

「・・・」

 

「何でアンタが当の本人差し置いてそこまで確信してるの!?」と言いたげに有人は閉口する。それ程事も無げに無表情で絢辻は返してきた。

 

―これは確定事項です。

 

覆りません。

 

間違いないです。

 

 

 

「ふふ・・痛快だと思わない?そんな彼女がその貴方に騙されてぬか喜びさせられるなんて?こ~の色オトコぉお♪女殺しぃ~~♪」

 

絢辻は思いっきり楽しそうに悪戯に笑って両手の人差し指を有人に向け、つんつん、つくつく差す。・・チャラい。

 

「思いません!」

 

有人のつっけんどんな反応に絢辻は少しぶぅと頬を膨らませ、「チェッ、ここまで私やったのに」的な拗ねた顔をした後、表情を再び真剣に戻す。

 

「貴方の意見はどうでもいいわ。とにかくやりなさい。準備期間は三日・・ってところね。行動は四日後の金曜日にしましょう」

 

「俺の意向は完全無視ですか!?それに・・・何。準備期間って・・?」

 

「まずは『仕込み』よ。明日から三日間、何時も通り私に時々話しかける事。それだけでいいわ。簡単な仕事でしょ?」

 

「へ・・?」

 

「で。私はそれを一から十ことごとく無視。さも貴方なんか存在しないようにするから、ね。いい?」

 

「・・俺の心労はどうなるの?」

 

「知らないわよ。適当な所で吐きだしなさい。私の与かり知らぬ所で自己責任で。あー・・でも強姦と麻薬はお勧めしないわよ?どっちも癖になるらしいから。せめて万引きか殺人程度にしときなさい。あ。これも癖になるか・・なら・・」

 

「・・・」

 

―社会的に殺したいのかな・・俺を。

 

「で・・四日目あたりに黒沢さんを呼び出して。『相談があるから』とでも言って。多分曖昧な態度ではぐらかすと思うけど『黒沢さんと話がしたいんだ・・』と壁ドン(この時代に存在している言語かは不明)してそう付け加えでもしたらほいほい尻尾振って網にかかるはず」

 

―彼女を騙すことに罪悪感で苦しむ貴方の顔が直接思い悩んでいるように見えて一石二鳥・・。弱っている貴方を見て黒沢さんはそこを突こうとするはずだわ。ふふふ・・。

 

「良からぬ想像をしている顔だね・・」

 

「気のせいよ。私そんな子じゃないもん」

 

 

 

 

「本気。なんだね・・・」

 

「・・当然。言ったでしょ。『もう我慢できない』って。・・お願い。協力して」

 

一方的な命令口調から一転、絢辻は真っ直ぐな瞳を有人に向け、真剣なお願いに移行。断る事は困難である。

 

「・・了解」

 

「・・・ありがとう。で、それともう一つ。・・源君に頼みたい事があるの」

 

 

 

 

再び五日後―

 

「来てくれて有難う・・ようやくちゃんとお話が出来るわね?黒沢さん?」

 

「・・。私には貴方に別に用は無いですけど・・?実行委員長?」

 

嵌められたダメージが未だに内心癒えない状態ながらも黒沢は必死で平静を取り繕うとした。一瞬咎める様な視線をきっ、と有人に向けた時は反動で少し泣きそうになりながらも必死でこらえる。

 

 

―ひどい・・ひどいよ源君。

 

 

「・・本当に酷いのは誰かしらね?」

 

その一瞬の視線を見透かしていたように絢辻はそう言った。

黒沢には自覚が足りなかった。今自分の一挙手一投足が絢辻の完全な監視下に置かれていると言う事に。

 

「・・何の話ですか?」

 

「・・言っとくけど貴方に源君を責める権利は無いわよ。・・第一彼を使って貴方を呼びだそうと立案したのは私。源君は最後まで反対してくれた。コレだけは言っておくわ。彼の名誉の為にもね」

 

ちらりと有人を見て絢辻は端的かつ単純に有人をフォローしてくれた。

 

「・・・」

 

その言葉で表情は変わらないながらも黒沢の心には少しながらも光が射す。

ほんの少しとはいえ「この女に源君は利用されたんだ。本意でやった訳じゃないんだ」という自分を立て直すための材料が手に入ったからだ。例えぬか喜びだとしても無いよりはましである。気休めにはなる。

 

どっちにしろ有人がその作戦を受け入れた、結果的に絢辻の意見を尊重した―ことには全く変わりないのだが。その事実をすぐにありのままに受け入れるのは今の黒沢には無理だった。

 

「・・そんな事よりも私は黒沢さんに聞きたい事があるの」

 

ほんの少し黒沢が正気を取り戻しかけたのを見計らって絢辻は本筋を切り出す。

そう。今は黒沢のどうでもいい横恋慕などどうでもいいのだ。きっかけに過ぎない。これはほんの少しの嫌がらせ、ペナルティのようなもの。

 

「・・何でしょうか。委員長?」

 

「黒沢さん貴方どうする気なの?」

 

「・・?はい?」

 

「『こんな事』になって、一体どうするつもりなのって聞いてるのよ?」

 

「・・・・!?な、何の話ですか?いきなり!?」

 

―な、何言ってるのよ。この女・・。意味解んない。

 

「まだ解らないの?はぁ・・困ったものね?」

 

「はっ?本当に困ってるのはどっちだと思ってんの?」

 

口調が目に見えて尖りだす。一応委員長と副委員長という立場から一歩引いた敬語を使っていた黒沢の語気が荒々しくなっていく。

 

―怖いなぁ・・怖いなぁ。

 

有人は心の中で某怪談噺の語り手みたいにただバカみたいに連呼するその言葉を必死で押さえつつ、彼女達の腹の探り合いから漏れる殺気を一身に浴びていた。正直寿命が縮む思いだ。

 

「まぁ・・焦る気持ちも・・貴方が『自分は悪くない。自分のせいじゃない』と逃避したくなるのも解るけどね・・?こんな状況になっちゃったらね」

 

「はぁ!?さっきから何言ってんの!?あんたおかしいんじゃないの?」

 

「黒沢さん・・?コレは貴方が本当に望んだ事なの?今の創設祭の状況・・こうなって本当によかったと思っているのかしら?」

 

「・・。よかったも何も・・もともと貴方が撒いたタネじゃないの。それを私に言われても困るわ。責任転嫁しないでくれます!?」

 

「・・。そうね。確かにそうだわ。私の至らなさ、失態でこの事態を招いたのは確かよ。それについては・・御免なさい・・」

 

「え・・絢つ―」

 

「絢辻さんが謝る事じゃない。仕方なかったんだ。だってあの日は・・」と、有人が割り込みかけるが先に黒沢が割り込む。あの絢辻が素直に自分の非を認め、詫びたのだ。これを見逃せるほど黒沢は今冷静になれない。

 

「・・はっ。なんだ?ちゃんと解ってるんじゃないですか?じゃ、何コレ?茶番?源君まで使って私を呼びだして?ご苦労なことですね。私帰っていいですか!?忙しいんで!じゃ!!」

 

くるっと振り返って黒沢は背を向ける。しかしその背中に―

 

「・・でも。その種を貴方は利用した。些細な悪戯に、些細な悪意を注いだ。しかし育てた苗は貴方の思う以上に大きくなってしまった。貴方の手に負えなくなってしまった・・貴方はそれが怖いんでしょう?違う?」

 

絢辻の言葉が直接黒沢の背筋に直撃する。

 

「・・・はあ?」

 

振り返って絢辻の顔を見た黒沢の顔がゆがんでいた。その顔は彼女が意図した「相手の全くの見当外れの言葉に呆れかえる表情」、には出来なかった。核心を突かれ、背筋に走った拭えない、抑えがたい恐怖と不安が混じった表情である。その証拠に逃げようとした黒沢の足が動かない。僅かながら震えすら見てとれた。残念、そして気の毒ながらやはりこの黒沢という少女、内面が少々表情、態度に出易過ぎる。その表情から絢辻は今回の件で黒沢の抱える様々な感情を読み取った。

 

「・・・。ま。どっちにしても・・」

 

絢辻の語気から先程までの謝罪の為、そして穏便に優しく言い聞かせる為に用いていた柔らかさが消えた。表情も再び攻撃的に転換する。

 

 

「貴方が嬉々として自分の行為の結果と快感にほくそ笑んでいようが、罪悪感で押しつぶされそうでいようが構わない。どっちにしても私は貴方を許さないから。

 

 

・・覚悟しなさい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 













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ルートT 十三章 二つの終わりの風景











ルートT 十三章 二つの終わりの風景

 

 

 

 

 

12 終わりの風景

 

 

 

「・・貴方には耐えられるのかしらね?貴方が行った行為をきっかけにどれ程の人達が混乱し、どれ程の人達に迷惑をかけたのかを知ったら」

 

「・・」

 

「貴方解ってるの?貴方は別にいいわよ?ただ些細な嫌がらせを実行してそれが思った以上に効果がありすぎてほんの少しの罪悪感に苦しめばいいだけなんだから。・・そう。貴方だけの話なら」

 

「・・・」

 

「・・私は見てきたわ。一人一人に触れてきた。・・いきなり発注をキャンセルされ、関係各所に頭を下げる鉄工所のおじさんやその取引先の会社の人、不安げなおじさんの工場の従業員の人達の表情・・」

 

「・・」

 

「寝耳に水のウチの学校関係者も必死でその人達に謝っていたわ、そしてこの年末の忙しい時期に貴重な時間を割いて市との話し合いをしてくれているの。私達がまた委員会活動が出来るようにね。・・貴方・・最近の高橋先生とお話しした?私達の前では気丈に振舞ってくれているけど相当疲れているはずだわ。・・私には解る」

 

「・・っ」

 

「私は所詮『副委員長』ですもの!?それを気にかけるのは『委員長サマ』のお仕事じゃ無くて!?」と、言いたげな視線のみ黒沢は絢辻に返す。言葉は介さぬまま。しかし絢辻はそれを読み取っていた。

 

「・・そうね。確かに貴方が見る必要は無いのかもしれない」

 

「・・!!」

 

その絢辻の言葉に黒沢は心底気味悪そうに後退りする。思考を全て読み取られている気分だ。

 

―なんなの、

 

コイツ。

 

・・マジ気持ち悪い。

 

 

「それは私の仕事だから。私が自分で引き受けた仕事だから。それを貴方に言うのは間違いなのかもしれない。でも・・貴方がちゃんと目を見開いて見なければならない人達はいる!」

 

「・・・実行委員の子達?」

 

無言のまま沈痛な面持ちの黒沢の内心を代弁するように今度は有人が口を挟んだ瞬間、

 

「・・源君。口を挟まないで」

 

きっ、と絢辻が有人を睨みつける。

 

―コレは黒沢さん自身が自分で実際言葉に、声に出して噛み砕いて理解させなければ意味無いの、いけない事なの。

 

と、言いたげに。

 

「・・ごめん」

 

再び有人は一歩引く。

 

「・・」

 

「黒沢さん?貴方ちゃんと見てきた?自分のした行為が予想以上に悪い方向に行ってしまった結果を感じ取るだけで現実を直視するのを怠ったでしょ?」

 

「・・・」

 

そう。黒沢は見て見ない振りをしていた。

市が強行した「実行委員の作業の過剰な制限」が決定してからの委員の同輩や後輩達の混乱、落胆、そして失意の色を。

その色が黒沢自身にも浸蝕、じわじわと広がって自分の背筋に冷たい感覚が広がるのを身に感じていながらも彼女は直視する物を間違えていた。

自分が最も嫌う人間、認めたくない人間が自分の目の前で初めて屈辱に、失態による悔恨に耐えている姿を見せた事、そしてその忍耐が先日崩壊し、彼女の足場が大きく揺らいだ事から目を離せなかった。

 

気分が良かった。・・「最悪」の気分の良さだった。

 

黒沢自身、自分でも何処かで解っている。「私は何をしているんだ」と。でも、自分の弱い部分がこう言い訳する。

「確かに私がやった。でも私はここまで望んだつもりは無い。私のせいじゃない。悪いのは・・悪いのは・・」―そんな無意味な自問自答を繰り返し、その罪の意識に耐えきれなくなる度にそれから目を逸らし、彼女は再び目の前の快感に縋ってしまった。

大嫌いないけすかない女が初めて目の前で苦しみ、もがく様。

この目の前に横たわる下卑ながらも甘美な快感と背中を伝う罪の意識、この板挟みの際、目を向けるなら大概の人間はどっちを選んでしまうだろうか?

 

しかし、一方で今目の前に居る大嫌いな少女―絢辻は向き合っていた。黒沢 典子と言う人間を確実に直視していた。黒沢自身が切り離していた彼女自身を。

 

絢辻は黒沢の事が解っていた。誰よりも理解していた。

 

屈辱に身を震わし、自分の落ち度を嘆き、悔みながらも立ち続けた上で全てを受け入れ、自分の出来る事全てに目を背けず向かい合った上で今、黒沢の目の前に立っている。

 

そんな絢辻がまぶしかった。それ故に・・黒沢は直視できなかった。

 

―っ!!

 

目をそむける。また。また繰り返す。

 

 

 

 

 

 

 

絢辻はその黒沢の姿を見て「頃合い」と判断した。

 

「・・・。坂上さんが全部喋ってくれたわ。怪我の事を最初に話したのは貴方だってこと・・そしてそれを貴方が誰にも言わず黙っておく事を約束してくれたこともね。坂上さんはそれを信じて貴方に話したの。私に・・ううん、皆に迷惑をかけたくない一心でね」

 

「・・・!!」

 

当然、当事者である坂上も怖かったのだ。故意では無いとはいえ自分の過失が招いたトラブル。それを信用して話した相手―黒沢がそれを在ろうことか悪用した事。しかし、それを直接問いただす事は出来ない。十中八九黒沢の仕業だとしても証拠はない。

もう誰も信用できない。いや、自分の信じる人達にこんな自分の話を聞かせたくない。

 

事件以降、実行委員会に顔を出す事なく、ひたすら人を避けていたそんな彼女を直接捕まえ、辛抱強く話を聞き出したのは有人だった。

 

先日の絢辻の有人へのもう一つの頼まれ事とはこれである。

 

数日前―絢辻の計画で絢辻に悉く無視される光景を噂になるほど周囲に見せつける合間を縫って有人は探していた。この数カ月で随分有人は探し物が得意になっている。おまけに何人かの「協力者」も居た。

 

 

「・・そこまで私も坂上さんの事を知っているわけでは無いのでお役にたてるかどうかは解りませんが・・是非お手伝いさせて下さい。絢辻先輩には大変お世話になっているんですから」

 

「わ、私も・・源先輩にこの前お話に付き合ってくれた御礼がしたいですし・・しょ、その・・出来る限りの事はします・・」

 

先日ひょんなことで知り合いになった一年生の少女―七咲 逢とその友人―中多 紗江も協力してくれた。結果、彼女とコンタクトをとる事は容易であった。

 

 

「見つけた・・坂上さん?」

 

「・・・!源先輩・・」

 

奇しくも坂上が居た場所は彼女が有人の言いつけを破って作業を行っていた場所。つまりは事故が起きた場所だ。彼女は怪我をしながらもその直前、立派に自分の作業をやり通していた。

 

 

―ホラ出来るじゃない。私にだってこれぐらい―あ!!

 

 

そう思った直後の落下、失敗だった。

 

 

痛かった。悔しかった。悲しかった。怖かった。・・情けなかった。

 

 

「・・先輩ぃ。ごめんなさい・・・皆・・ホントごめんなさいぃ・・」

 

目の前で泣きじゃくり、うずくまる後輩の少女を有人は笑って宥め続けた。ゆっくりと一つずつ彼女の話をそのゆったりとした時間の流れの中、聞きだした。

 

 

そして現在―

 

その姿を目の当たりにした上で有人はこう懇願する。黒沢に。

 

「黒沢さん・・お願い。これ以上あの子を裏切らないであげて?」

 

有人はこう言葉を絞り出す。

 

「・・源君・・」

 

 

 

 

 

 

 

前述の通り、確かに確固たる証拠は無い。黒沢が絢辻、有人、教師、学校側に事故の話を通さず、直接悪意を込めて市―つまり市議会議員である自分の父親にリークした事など。

 

坂上が怪我をしたあの事件の際、初めに彼女に接触した黒沢の「立場」から考えれば、直接市に生徒の規律違反による負傷の情報が行った事から考えても限りなく彼女は「クロ」であることは間違いない。が、黒沢本人が否定すれば特に提示できる証拠も無いのもまた事実である。他の「何者か」が彼女達が口に出さずとも異変に気付いて「わざわざ」市に直接訴えに行った可能性も全く無いと言うわけではないのだから。

 

黒沢が今回の追求を素知らぬ顔で単純に否定すれば絢辻達にはコレと言って決定打はなかった。

 

しかし、もう既に勝負は付いていた。もともと勝負にもなっていない。そもそも黒沢ももう限界だったのだ。

 

・・ここで一つ訂正が入る。黒沢は確かに見て見ぬふりをしていた。自分の行為の結果で生じた様々な負の面を徹底的に。しかし、完全に見ていなかった訳ではない。今、黒沢の脳裡には一つ浮かぶ光景がある。

 

それは先日、作業を禁止され、新しく雇われた業者の手によってどんどん出来上がっていくメイン舞台の前に立ち、その光景を少し物寂しそうに見ている少年―

 

有人の姿だった。

 

彼が先日感じていた視線の正体は黒沢 典子の視線。彼女の物であった。

 

―あ・・、みな、も、と・・君。

 

彼女は声をかけようとした、でも出来なかった。

何時もと一緒。でも今回は何時もと全く違う意味で。

 

何時もは彼の向ける優しい瞳に鼓動が抑えられずに。でも、その時は・・彼の悲しい瞳にかける言葉を失う。

 

―私が彼にかけられる言葉など・・ない、んだ。

 

その時の有人の目は現在、今まさに黒沢を見る有人の目そのものであった。

 

 

「・・私だって・・私だってこんな事になるなんて思ってなかったのよ・・・!」

 

 

黒沢もまた絞り出すようにそう言った。

 

 

絢辻、そして有人。

黒沢が最も嫌い、片や最も想う全く相反する二人の存在によって頑なに凍りついていた黒沢の心が本音を吐露し始める。

 

 

 

13 もう一つの終わりの風景

 

 

校長室―

 

「これで今週の創設祭活動報告は以上です。作業の引き継ぎもスムーズに進みましたので明日から私が居なくても滞りなく彼らがやってくれるはずです。校長先生、高橋先生。今回の件では大変なご迷惑をおかけしました。それでも私・・いえ私達の我儘や無理を聞いて下さって本当に有難うございました。実行委員が活動を再開できたのもお二人のご協力のおかげです!」

 

絢辻はそう言って恭しく頭を下げる。相も変わらずにこやかで礼儀を失わない彼女の凛とした姿を絢辻の前で学長席に座る校長、傍らに立つ実行委員監督教諭、高橋の二人は頼もしく思いつつも何処かやりきれない、複雑な表情をした。

 

数日前―

 

絢辻は一人市議会議員、つまりは黒沢典子の実の父親である黒沢代議士に創設祭作業の再開を求め、直談判を行った。

そしてその翌日、校長、高橋他、吉備東高の教員の大半の作業の再開を求める要請を頑なに却下し続けていた市から正式に作業再開のGOサインが出た。

 

一体絢辻がどんなマジックを使ったのかが校長、高橋両名は大いに気になった所だがそんな事よりも更に気になる事が彼らにはある。その替わりに市の提示してきた「交換条件」だ。

 

 

「創設祭の実行担当教員高橋、そして生徒側最高責任者、絢辻 詞の解任」

 

 

それだけが今まで頑なに学校側の作業の再開を拒んできた市が要求してきた条件である。

これを受け入れれば今まで自粛を迫られてきた学校側が行える作業がほぼ事故前の状態に戻せるというものである。

 

この条件を絢辻は喜んで受け入れた。

 

「誰かが責任を取るのは当然です。元々あの事故は紛れもなく私の監督不行き届き、失態ですので当然でしょう。むしろ私一人で済むのならこれ以上望みません。市の寛大な処置に感謝いたします」

 

と笑ってそう言ったのが数日前のことである。

後任への引き継ぎの為の日数を貰い、それも今日、大した遅れも無く完遂した後絢辻は最後の挨拶にとここ校長室を訪れていたのだ。

 

「・・。絢辻君。本当にすまない。校長である私が君を大して庇う事も出来ずに・・」

 

「とんでもないです。私達だけではとても今回の作業の再開は実現しませんでした。校長先生、そして高橋先生・・・忙しい中、私達の意見もきちんと汲み取って下さって本当に・・本当に有難うございます。市との直接の交渉の仲立ちもして頂いたのに・・謝らないでください」

 

「・・そんな事しか出来なくて済まない。私ももう少し頑張らなくてはな。絢辻君を見ていると負けていられないとこの歳でも思うようになった」

 

「ふふふ。頼もしいお言葉ですね。あの・・校長先生?また・・校長室にお邪魔していいですか?今度はゆっくりとお話したいです」

 

「・・いいとも。おいしいお茶を用意しておこう」

 

―そんなことで君の頑張りに報いる事も出来ないだろうが。

 

校長は内に抱える絢辻への申し訳なさと自分への不甲斐なさに対する自責の念を表情には出さずににこやかにそう答えた。この点はやはり「年の功」というべきか。

 

―・・・。

 

彼の隣に居るまだ二十代の女性教師、絢辻の2-A担当教員、無言の高橋の顔は誰が見ても解るぐらい校長の抱えた感情をはっきりと表情に出していた。

絢辻は自分の解任が決まってここ数日、高橋に何度謝られたか解らない。

高橋は自分が解任された事よりも遥かに絢辻の解任を止められなかった事を嘆いた。そして同時憤っていた。

 

 

 

 

五分後―

 

「全く・・君は生徒の時から変わらんな。いつまで生徒の前でそんな顔をしているつもりかね?」

 

絢辻の去った校長室で未だ顔色を曇らせたままの十年来の教え子―高橋を諭す。高橋はこの学校の出身であり、現在の校長がまだ教諭時代だった頃からの付き合いである。

 

「・・だって・・だってあまりにも理不尽じゃありませんか・・・!絢辻さんには何も悪い所はありません!」

 

「教師が生徒の様な事を言っていては困るな・・確かに彼女には落ち度は無いよ。君の言うとおりだ」

 

「なら・・なら・・!」

 

「あるとすれば生徒達が幼さ、若さゆえにどうしても生じてしまう綻びを我々大人がフォローしきれなかった事だ。そこが最大の落ち度だろう」

 

「・・・!はい・・」

 

「まぁそれにしても・・今回の件で市が一生徒の責任をあそこまで過剰に追求したがる意図が見えてこないがね」

 

「・・そうですよ!絢辻さんは生徒なんですよ!まだ高校二年生の女の子なんですよ!?何で・・一つの失敗であそこまで責められなければいけないんですか!?今まで彼女は生徒の代表としての責任を十二分・・いえ!それ以上に果たしてきました!それなのに・・」

 

「うむ・・。全くの同意見だ。君の言葉は稚拙で感情的だが簡潔で本質をよく捉えてる」

 

「・・」

 

「・・。『まだ高校二年生』の、『女の子』、か・・。その『子供』があれ程までに立派に自分の立場を受け入れ、責任を重んじ、我々に気を遣って気丈に振舞っているというのに片や我々大人が、はっきりしない、不透明かつ曖昧なまま一方的な処置を彼女らに突き付けているのだからな・・」

 

「校長・・」

 

「・・・。これではどっちが子供なのだか・・」

 

何時もは飄々として掴みどころのない、高橋にとっては所謂「タヌキじじぃ」の校長だがその校長がここまで沈痛な表情を浮かべているのを高橋は初めて見た。

 

 

 

 

 

 

「・・・これで私の作業はお終い。後のことはよろしくね?源君」

 

日が傾き始めた生徒会役員の一室にて、絢辻は実行委員会で使用していたコンパクトな私物達を抱え、有人に微笑んだ。

彼女がこの場に残さなければならないものは多い。絢辻が今まで必死に積み上げてきた功績は彼女がこの場を去る事が決定した今でも実行委員会にとって有用な物が多すぎる。

その全てを残して彼女は今日委員会を去る事になるのだ。

 

「うん」

 

有人は何時も通り明るい顔で頷いた。その笑顔に絢辻は少しクスリと笑い、まだ日が射している窓の外を見る。

 

「・・。はぁ。今日はこんなにまだ日が出ているのに帰っちゃってもいいんだ・・」

 

「なら・・少し手伝ってくれる?実行委員の長としてじゃなく一生徒の一人としてさ」

 

その有人の提案に絢辻は腰に手を当て、悪戯な笑みを浮かべて横目で有人を見る。

 

「馬鹿ね。そんなことしたらあの子の立場なくしちゃうじゃない?折角念願の実行委員長サマになれたのに」

 

あの子―黒沢典子。

 

絢辻の退任後、次期実行委員長を引き継いだのは彼女だった。

あの騒動をややこしくした張本人が後任を引き継ぐ形を絢辻はすんなり受け入れた。

 

「安いものよ。これで皆がまた頑張れるならね。自分の娘が代表になることであの議員サマも満足するでしょ。当然これでこれからは市の横槍、嫌がらせも減るでしょうし一石二鳥よ」

 

退任が決まった事を有人に告げた時、絢辻は皮肉そうに笑ってそう言っていた。

 

そもそも黒沢 典子同様、市もまた限界だったのだ。創設祭の実行委員の諸活動によって地元企業と密接に結びついた絢辻の方が、一方的な作業を強行して推し進めた市議会よりも遥かに信頼関係が上である。

そこで地元企業の横の連携を利用すれば市を取り巻く包囲網が広がっていく。地元企業の繋がりを手繰っていけば市議会に対する発言権が強い人間にも行きつく。その人間が今回の件のどう考えてもおかしい市の強行に疑問を覚えて抗議すれば市はそれを無視できない。

 

そもそも市の要請により、先に発注を受けていた業者を差し置いて創設祭の作業を受け継いだ後任の業者自身も今回の市のあまりにも強引な手法に疑問符を持っていたのだ。

思いがけない受注は確かに嬉しい。が、前任と後任の業者同士、「仕事を奪った」、また「奪われた」などで生ずる無駄な軋轢は嬉しくないということである。

唯一味方であるはずの後任業者からもあまりいい印象を持たれていない結果、更に市は孤立を深めていた。

 

これ以上は市と地元企業、引いては市民との間に自ら楔を打ち込む愚行だ。ハッキリ言って誰も得しない。そこを徹底的に利用すれば絢辻は彼女自身の解任命令すら握りつぶせる可能性はあった。絢辻には味方の方が多い。

もう少し両者の対立を焚きつけたならば。言い換えれば絢辻に信を置いた地元企業の人間に絢辻がほんの少し得意の「おねだり」でもすれば、まだまだ闘ってくれたに違いなかった。

しかし、結局絢辻はそれを望まなかった。これ以上悪戯に孤立した市を責め立てることもまた益にはならない。ならばこれ以上溝が深まる前に自分が譲歩すれば市もメンツが立つ。

元々吉備東高の創設祭というものは市と地元が一体となって成功させる行事である。

子供の稚拙で些細な悪戯、失敗が原因で予想以上に、そして無駄に大きくなってしまったこの下らない事態をさっさと終結させる事―絢辻はそちらを選んだのである。

 

「ま。私は今の状態をさして悪い物ではない・・そう思っているわよ?」

 

自分の功績を殆どここに残し、身軽になった少女は軽快そうに有人にそう言った。

無理をしてそう言っている事は確かだろう。しかし少なからず本音も混ざっているのではないか、ということも有人は認識する。

 

―・・・。案外元気そうで良かった。

 

それは少し彼の気分を軽くする。それを理解したのか絢辻は有人に向かってもう一度小さく微笑み、

 

「・・。これから大変だと思うけど頑張って。ごめんなさいね?私が貴方を巻き込んだも同然なのに」

 

本性の彼女にしては優しく、そして本当に心からすまなさそうにそう言った。

 

「ううん。任しといて」

 

「・・・。そ」

 

「っと・・俺そろそろ行くね?笹部が待ってると思うから」

 

「・・うん。いってらっしゃい」

 

有人は今、身軽になった絢辻とは対称的に色んな創設祭関連資料、そして目に見えない色んなものを抱えて部屋を後にした。

絢辻が抱えていた物を全て彼が受け取る事は出来ないだろう。しかし、絢辻にとっては有人が今抱えているものが例え自分が今まで抱えていたモノと比べてまだまだ軽いものだとしても、それはとても羨ましいものだった。

 

絢辻は去っていく有人が遠い存在に感じる。一人立ちした子を見送る母親はこんな思いをするのだろうか。そんなことも考えた。・・悪くない。むしろ心地よい感覚。

 

・・でも。

 

絢辻の中から全く別の感情が徐々にずるりと浸蝕し始める。拭いがたい「ナニカ」が。

 

 

―・・ウソツキ。「くれる」って言ったじゃない。「貴方と私がいる日々」。日常を。

 

 

絢辻自身が理解し、納得し、受け入れたはずの今の状況。予想外の落とし穴の先で自分が選んだこの道。これが最善の道だったという自負はある。

 

殆ど全ては元通り。ただ・・そこに自分がいないだけ。

 

―・・・。

 

絢辻はあの日の自分の言葉を思い出す。神社の社の裏で有人が自分の手をとってくれた日。

 

 

―ただ今は同じ時間と場所を共有しているだけ。それがこれからも続く保証も全くない。

 

 

 

・・解っていた。確かに。

 

でもあまりにも・・・早すぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

















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ルートT 十四章 二つの「コウフク」の先に












14 降伏の先に

 

 

「黒沢先輩!ミツワ工業さんからお電話貰っています!先日送った書類の修正案を出したいとか・・折り返し電話欲しいそうです」

 

「・・え。ちょっちょっと待ってね」

 

「先輩!先日発注した備品なんですけど発注ミスで数足りてません!ど、どうしましょう!?」

 

黒沢 典子は多忙だった。絢辻から後任を引き継いで一週間、絢辻が残した恩恵を出しつくした感がある実行委員会。ある程度の余裕があった日程が徐々に逼迫した状況になっている。実行委員はまるで貯金を日に日に食いつぶしている様な感覚を覚え始めていた。

ここで黒沢は新しいリーダーシップを発揮して混乱を収めたいところだが前任が「アレ」なので少々彼女には荷が重い。

 

「・・・。悪い笹部。ここ任していいかな?ちょっと黒沢さんのヘルプ入る」

 

「了解」

 

見かねた有人は自分の作業を一旦預け、黒沢に駆け寄った。

 

「・・・!・・?・・・・~~~!」

 

ミツワ工業との連絡先を連絡簿で検索している苛立たしげな黒沢の手は若干おぼつかない。明らかに表情には焦燥の色があり、駆け寄った有人にすら気付いていない。新リーダーがこれでは周囲の焦燥を煽ってしまっても無理はない。

 

「黒沢さん。ここだよミツワ工業さん。多分この前破損した備品の納入の期日変更の事だと思う。来週の木曜ぐらいに変更になるかもって言っていたと思うから『それで大丈夫』って伝えて」

 

「え!?ええ・・」

 

「えっと・・松川?発注ミスって何が?」

 

「あ。えっとこれです。注文書には『1』って書いていたんですけど・・複数個入りの『1ケース』頼んだつもりがこれ・・その中の一個しか入って無かったみたいで・・全然数が・・」

 

「ああ。これ『一ダース』単位で頼まなきゃならないの。確認の電話してくれたと思うんだけど・・業者さんから『ホントにこれ一個でいいの?』とか、確認の類の電話・・無かったかな?」

 

有人がそう言ったその瞬間、黒沢は「あっ・・」という顔をした。

 

―・・成程。電話に出たのは彼女だな。

 

察した有人はしばらく考え込むものの、大して動揺した様子もなく「松川」と呼ばれた後輩生徒に笑いかけてこう言った。

 

「・・オッケ。過剰発注じゃ無くて良かった。ごめん松川?今から『カナぶん具』に買いだしいける?ちょっと割高になるけど仕方ないや」

 

「あ、はい。大丈夫です」

 

「領収書貰うの忘れないでね」

 

「大丈夫です。そこなら毎回勝手に切ってくれますから。・・じゃあいってきますね!有難うございました源先輩!」

 

「気を付けて。そんなに急がなくていいから」

 

 

絢辻に鍛えられた有人はそれなりに成長している。もともと創設祭に最も密接に関係した生徒である絢辻によって散々こき使われてきた彼は今や実行委員のそれなりの中心人物だった。

 

「(あ、ありがと)」

 

黒沢は他の実行委員に聞かれない様な小声で気恥かしそうに有人に礼を言った。羞恥と功名心、見栄がせめぎ合った目に見えて解る解りやすい表情である。

 

「どういたしまして」

 

有人はいつもどおり笑ってそう言った。が、

 

―でも・・流石にきついだろうな。黒沢さん。

 

吉備東高の創設祭の実行委員長の双肩にかかる負担は重い。

おまけに「前任」がそれをほぼ完璧にこなしてきた人間の後を引き継ぐのは更にキツイ。

思いがけず手に入った黒沢が望んでいた自分の立場はその椅子に座った優越感と満足感を味わうには過酷すぎる職務、激務であった。

「王は民の奴隷になれ」とよく言うがその覚悟が黒沢には圧倒的に足りていなかった。

 

その元「民の奴隷である王」にこき使われていた奴隷―有人は新しく王になった少女が他の委員の解散、下校後も終わらぬ作業に追われている姿を見て自分のカバンを再び床に置いて黒沢に語りかける。

 

「どう?終わりそう?」

 

「も、もうじき終わるわよ。・・帰っていいわよ?」

 

この期に及んで相も変わらず見栄を張る少女である。絢辻も相当の意地っ張りであったがこの黒沢という少女もまた相当のものだ。が、彼女の見栄は正直彼女の為には成りそうにない。「無茶」だけでなく「無理」である。意地、見栄の張りどころを間違えれば結局その余波は周りに影響するのだ。

ならその「余波」の煽りを受けるのは自分だけでいいかと有人はどっかと腰をおろし、黒沢の目の前に在る膨大な資料に手を延ばし、目を通し始める。

 

「よいしょ・・あとひと頑張りしますか」

 

「・・・勝手にしたら?」

 

反応だけはよく似ている二人だ。

 

二十分後・・有人は黒沢より一足早く作業を終える。絢辻が言っていた通り、この少年は結構小器用な所があるのだ。黒沢もそれを知っている。「一方的」としても結構お互い長い付き合いなのだから。

 

「・・・」

 

有人は特段何も言わなかったが、有人が作業を終えた気配を傍らで黒沢は感じ取っていた。

少女は終始無言であったがその内部では色んな感情が目まぐるしく渦巻き、流動している。

その中に占めるものの大半は自分に対する羞恥、そして自責の念である。

 

―・・私は一体今まで何をしてきたんだろう?

 

彼女は今まで自分自身の向上を願ってきた。努力してきた。―と、自分で思っていた。

しかしそれは違った。全くのお門違いもいいとこであった。少なくともここ最近の自分は一体何をしてきたのやら。

 

自分の上を行く人間―絢辻を妬み、嫉み、結果悪戯に足を引っ張り、妨害し、終いには絢辻だけでなく多くの人を困らせ、混乱させて傷付けもした。さらには自分の上に居た優秀な人間を追い出し、いざ自分がかつて望んだ場所、立場に就いた今、間抜けながらも何をすればいいのか解らない。

 

ならここまで来た意味は?一体今までの自分は何を望んでいたのか?何をしたかったのか?

 

そう。絢辻を追い出したかったのだ。困らせたかったのだ。散々建前を並べようとも結局は黒沢にはそれだけだった。それが達成された後の今の自分に残されるものは何だ?

 

何もない。

 

有るとすれば本当にただ無意味な空虚。未熟な自分に打ちひしがれるだけの現実だった。

 

 

「・・ねぇ。源君?」

 

「ん・・?」

 

「あの人・・絢辻さんは毎日毎日いっつもこんな事をこなしてきたの?あんな涼しい顔で・・」

 

―あのムカつく顔で。何でも知ったような顔をして。

 

「・・そだね」

 

―前半の部分は正解。でも後半は少し違うかな?・・「涼しい顔」・・か。まぁそう見えたかもね。

 

他の人間には表に出さないものの、散々絢辻は影で悪態やら文句やら愚痴の数々を有人にはあけっぴろげにさらけ出していたため、その黒沢の言葉に苦笑する事を禁じえなかった。

 

 

―あの教師マジ無能すぎ。ざっけんじゃないわよ。それが仕事でしょ!?それで給料貰ってんでしょ!?

 

―手伝ってくれんのは嬉しいんだけどやる事なす事雑なのよね。あの子。・・しゃあ~ない。「締め出す」か・・。

 

―ああ~~~もう!!イライラするわね~~!?ちょっと源君肩貸して!!この憤りは何かにぶつけないと気が済まないわ!グーパンさせて!!・・ていっ!せいっ!!

 

―でしょ!?源君!?貴方もそう思わない!?

 

―源君?

 

―源君!?

 

 

ついこの前まで日常であったそんな絢辻の光景が有人には不思議と少し懐かしく感じられた。

 

「信じらんない・・」

 

「何かの間違いでしょ?」―有人の返答に対して続けてそう黒沢は言いたかった。

 

―所詮あの女は猫を被っているだけだ。実は案外陰で楽しているに違いない。それに皆・・源君も騙されているだけだ。

 

何に置いても彼女の上にいけない自分の現状に対する不満を今までそんな風な感情で慰め続けていた。

 

「私にだってあれぐらい出来る」―そんな言葉を繰り返して黒沢は絢辻を全く見ようとしていなかった。何もしてこなかった。彼女がした事と言えば漠然と絢辻がだす「結果」に陰湿に仲間内のみで密かにいちゃもんをつける事だけだった。絢辻を直視しない事で何よりも黒沢は自分を直視しないですんだのだ。自分自身が実質は何もしていない、全く前に進めていない事を。

 

しかし、それも終わりだ。

 

絢辻が辿っていた道。黒沢が「実は陰で案外楽しているに違いない」や、「自分だってあのくらい」と思い込んできた絢辻の道。それをほんの少し、ほんの一週間程度自分でなぞっただけで黒沢は痛感する。

 

生まれ持った要領の良さ、頭脳、能力等関係ない。まず必要なのは「人の上に立つ」という覚悟だ。黒沢 典子の中にあった「自分が上に立ちたい」という欲望は極論「人の上に立つ優越感に浸りたい」である。

これはある意味大事なモチベーションである。(絢辻も全くそれを望んでいなかった訳では決してない)が、それだけでは直面する現実に対応できない。

日々山積する課題、ノルマを消化できていない現状がその証拠だ。その状況は黒沢の思い描いた理想の自分とはあまりにも隔たりがあった。

思い描いた「人の上に立つ自分」を現実に顕在化させたいのであれば何よりも工夫、努力が必要である。優雅な表向きの華やかさとはかけ離れた地味で地道な、小さなベストの行動の積み重ねの先に漸くうっすら見えてくるものだ。

 

黒沢 典子は元々努力家な少女だった。しかし絢辻 詞という少女の出現によって自分がすべきこと、やるべきことを捻じ曲げてきた。しかし皮肉にも今日、その彼女を変えてしまった絢辻によって彼女は本来の彼女に戻りつつある。

 

思い出す。中学時代、有人の後を追って必死に好きでも無い勉強をがむしゃらにしていた自分を。結果、彼と同じ高校に入学でき、達成感に満ちた自分を。

 

そして高校一年生の春、吉備東高に晴れて入学したあの日―

 

「・・。あら」

 

「・・。あ。黒沢さん?黒沢さんも合格したんだね。よかった!」

 

「・・貴方も合格したんだ。運が良かったわね」

 

相変わらず逆走しがちな自分な舌の根を、黒沢は内心噛み潰しながら何時もの無愛想さを取り繕う。

 

「ははは・・そうだね。また三年間よろしくね」

 

「・・ええ」

 

自然と柔らかい笑顔が出た。

 

人の努力が報われる、報われたと思う瞬間とはこんな些細な時間であったりもする。

努力の結果、多くの人間からの羨望、憧憬の眼差しを受ける事よりも小さく、短く、儚くも遥かに大事な瞬間があったりもする。

 

黒沢にとってその時は間違いなく至福の瞬間だった。

 

 

そして現在―相変わらず彼との距離は遠い。しかしながら彼はその春の日と同じように微笑んで近くにいた。

 

「・・。私。なーんにも解ってなかったんだ・・・」

 

諦めたような声を大きな溜息と共にだし、黒沢はふっきれたように天井を仰いだ。

 

「・・。知っていこうよ」

 

「・・正直ね。今日で実行委員長を辞退しようかと思っていたの。私には正直力不足もいいとこだわって・・」

 

「・・。ダメだよ」

 

「え?」

 

「それはダメ。許さないよ」

 

そう。有人はこういう所がある。一見ふわふわと柔らかい柳の様な少年だが言いたい事は、言わなければならない事は案外ハッキリと言う。

それは黒沢にとって酷で非情な言葉である。でも彼女は受け入れなければならない。自分が撒いたタネによって生じた責任を必死で取り返し、償う必要があることを。

 

そして認識しなければならない。有人自身も今回の件に少なからず自責の念を感じている事を。

そもそもあの事故が起きた日、坂上の些細な暴走を止める事が唯一出来たのが他でも無い有人自身だった。確かに彼は最低限の制止はした。しかし結果としてそれは意味を成さず、彼の制止を坂上は無視した形になった。

しかし、その根底にあるのは有人の指示に対する坂上の軽視ではない。少しでも作業を進ませたい故の一途な少女の些細な暴走である。だが逆に有人はこうも考える。

「あの時制止したのが自分でなく絢辻だったらあの事故は起きなかったのではないか」と。

元々有人は自分が絢辻ほどの信頼を置いてもらえる器量も実力もまだまだ備えていないことは承知している。

しかし、あの日の絢辻の些細なミスに少なからず動揺している後輩の少女の焦燥をもう少し和らげやることは可能だったはずとも言える。

「大丈夫だ」と。「ちゃんとフォローするから心配するな」と。「だから無理するな」と。

些細なトラブルの芽を完全に摘む事が出来たのがあの日、あの瞬間の有人だったこともまた確かなのだ。

「考えすぎ」、所詮「たら、れば」の話。と言ってしまえばそこまでだ。これを責めるのも酷な話である。しかし結果として実行委員は絢辻、そして自分達を影で支えてくれた実行担当教諭の高橋を失い、多くの時間と信用も失った。些細なミスで生じたあまりにも大きな損失である。

 

それを黒沢も認識しなければならない。結局は自分の些細な悪意によって自分が最も想う人間すら間接的に傷付けた事を。

 

そして黒沢は「怖い」と思った。これ以上なく。小さく、そして一時的で場当たり的に生まれた些細なその悪意が時にこんなに多くの人間を傷つけてしまう事を。

 

そして最後に脱帽する。その自分の理不尽で一方的な悪意にちゃんと向かい合い、最後まで己の責任を果たした絢辻 詞と言う少女に。

 

そして今目の前に居る志半ばで退場する事を余儀なくされた仲間の意思を継ぎ、前を向こうとする目の前の少年に。

 

「源君・・」

 

「ん?」

 

「・・・お願い。手伝って?」

 

最早泣きそうな声で黒沢はそう言った。

 

「うん。喜んで」

 

有人は笑ってそう言った。

 

 

そう。自分には嘆く事も投げ出すことも許されない。正直辛く、苦しく、情けない。

しかし・・黒沢は漸くほんの少し前に進めた気がした。

完膚無き程に敗北し、打ちのめされ、「降伏」したその先で。

 

 

 

 

 

 

 

 

15 幸福の先に

 

 

解っていた。こうなる事は。

 

心身ともに充実。余計な気苦労も無い。自分の時間も増えた。

しかし、あの多忙な日々が今は少し懐かしい。

 

「悪くない」―それは確かだ。でもやはり自分には心身の安定に伴う充実感より今までの慌ただしい、気苦労の多い、しかし違う意味で充実していたあの日々が性に合っているのだろう。

 

―・・。よし。これで終わり。・・・もう帰れるんだ。私。

 

絢辻はクラス委員長としての自分の責務と授業の課題、予習、復習を終え、尚も余る時間に内心そう呟いた。静かな図書室にはまだ日が射している。創設祭の準備が佳境に入り、それに合わせて授業もやや早い時間に終わるため、放課後の時間が長いのだ。

そして実行委員長という日々の激務を失った絢辻には更にその時間が長く感じた。

 

別にその替わりに時間を何かに使おうとすれば何でも出来る。高校生がやる事は意外に多い。こと勉強に関して言えば中々に膨大なタスクが高校生にはある。さらに時間をかけるのは元より、持続、復習しないと折角定着させた学力は自然に落ちていくものだからだ。そういう意味では勉強という行為に終わりは無い。

絢辻の性格からして普段であればまず間違いなく、時間の使い方として最も有効、かつ有意義なものとして容赦なく勉学に励んでいただろう。

 

しかし、今の絢辻はどうしてもそんな気分になれなかった。教材の一切を鞄にしまい、変わりに小さな小説の文庫本をだし、しおりを挟んだページをめくって目を通す。しかし、文字が頭に入ってこない。変わりに彼女の頭の中に浮かぶのは自分で決断し、自ら身を引いた創設祭の実行委員会の事だった。

 

絢辻を失った当初、創設祭実行委員会には目に見えて動揺と混乱があった。絢辻が傍目で見てもハラハラしたぐらいである。

 

しかし、それも落ち着きつつあった。

有人を初め、絢辻に鍛えられていた実行委員の子達は優秀なブレインを失いながらも体制を整え、また、後任を引き継いだ黒沢もお世辞にも実行委員会を纏めあげているとは言えないものの、周りの献身的なフォローの中で徐々に結果を出し始める。

絢辻に比べれば多くの点で小粒だが、それでも絢辻の当初の予想に比べれば奮闘、健闘していると言えるだろう。

それは恐らく・・あの有人が少なからず助力になっているに違いない。

 

短い付き合いだが彼のフォロー力は中々のものである。対立の生まれやすい上と下をとり持つ中間管理に置くのは適任だろう。不器用で口ベタな委員長の黒沢の本意をすくい取って上手くオブラートに包み、下の人間に共有させる事が可能なはずだ。

 

更に彼の交友関係は侮れない人間がいる。つい先日の事である。

彼の友人である梅原、国枝が正式に臨時の実行委員会の助力に回った。この二人は侮れない。

 

まずその内の一人―クラスメイトの梅原の交友関係の広さは絢辻の予想以上であった。実家が寿司屋を営んでいる梅原には絢辻が関わった今までの業者のお偉いさんと殆ど面識があるらしい。

業者との連絡の際、まるで旧知の友人の様にフレンドリーに会話する梅原が度々目撃されている。

 

「あートメさん?俺、俺。『しょーきち』でぃ!だははは!!って・・いい加減名前覚えろっての。俺の名前は『しょうきち』じゃなくて、『まさよし』だっての!あ~~それでさ。例の件なんだけど・・悪いんだけど納期早めてくんね?緊急に必要になってさ。な?頼むよ~~!今度いいカン☆パチ夫を御馳走するからさ!な?うん・・うん。そっか!恩に着るぜ!ありがとな!じゃあ改めてそれでお願いします。また店きてくれよな!親父もトメさんに会いたがってますんで!はい!はい!それじゃ失礼します!」

 

納期を早めさせ、さらに実家の商売まで成立させるとは・・。

 

 

そしてもう一人。有人の親友である少年―国枝。

元より何事も計算が早く、冷静で無駄な動きが少ない。派手さは少ないが集団には一人は絶対に居て欲しいタイプである。

理解力の早さで次に自分がするべき事、またしなければならない事を理解し、その中で的確な優先順位をつけ、効率よく物事を行える建設的な思考が備わっている。さらに彼独特の静かな物言いで後から入ってきた人間の割に彼よりも長い時間実行委員に関わっている後輩達も自然と素直に指示に従っていた。

有人と次の行動指針を確認しながら相談している二人の姿は不思議と絵になった。

 

「有人。日程的にこれは無理があると思うから・・」

 

「直もそう思う?・・・。やっぱりここは業者さんに任せた方がいいかな?」

 

「いや。だから人員を探してみた。2-Eの成瀬と茅ヶ崎がクラスの数人引き連れて手伝ってくれるってさ」

 

「ホント?」

 

「『絢辻さんに借りがあるから』だと」

 

「ははは。茅ヶ崎君相変わらず義理堅いなぁ。助かるよ。有難う」

 

「じゃあ俺がこの日2-E組の指揮に回るよ。多分ついでに2-Eのクラスの出し物の作業も手伝う事になると思うからその日は頼む」

 

「了解。・・。あ、待って直」

 

「・・何?」

 

「そっちに棚町さんも付けるよ」

 

「・・。有り難いやら、有り難く無いやら。それなら御崎も付けてくれ」

 

「あ。それは困る」

 

「・・・。いーけど」

 

軽口を交えつつ、忙しい時期に和やかで落ち着いた二人の空気は後輩、同僚たちの不安を払拭する力があった。

 

国枝達の参戦は恥も外聞も捨て、がむしゃらに突き進むようになった黒沢をフォローする事に注力する有人の大きな助けになった。

 

・・・このように物事は進んで行く。

 

絢辻を失った後も実行委員の時間も、創設祭に向かう時間も止まるはずが無い。

変わっていくのだ。何か大きなものを無くしたとしても。

 

否。絢辻はこう思う。

 

当初自分を失った創設祭実行委員会は目も当てられない位に瓦解し、体を成さなくなって多くの物を諦める事になるだろうと。後輩達の残りの作業の安全と創設祭の成功を祈りつつも、自分の居ないあの場所は「ダメになってしまうだろう」と考えていた。

酷く悪い言い方をするなれば「駄目になってしまえ」と、思う気持ちを否定しつつもどこかで期待する自分。それでこそ「自分がいたら」と残された者達が思わざる得ないような状況になる事を内心何処かで期待していた。

 

でも気付く。

 

大丈夫なのだ。自分を失おうとも世界は続いていく。彼らは進む事が出来るのだ。

例え何かを失おうとも彼らには前に進む力と必要に応じてまた新たな力を得る、または「得よう」とする意思が存在するのだ。

 

簡単な言葉で言い換えるならば「案外どうにかなる」のである。絶大な権力と能力を持った「個」を失ったとしても残された集団に「意思」と「遺志」さえあれば。

 

自惚れていた。所詮自分一人で出来ていたことなど高が知れている事を。それを充分理解していたつもりでもまだまだ不足していた事を絢辻は理解する。

集団の中でテキパキと仕事をこなしていた時には実感出来ない事が現在、多くの責から解放された絢辻の中に今、一歩離れた事でどんどん見えてくる。

 

そしてこう思う。「何故私はあそこに居ないのだろう」と。

 

―今ならもっと彼らの気持ちを理解できるのに。もっと彼らの為に出来る事があるのに。

 

前も言った通り自分が受け入れた道は悪くない。そういう自負はある。そもそも離れてみなければこんな感情を覚える事すら無かっただろう。

 

絢辻は一度離れたこの立場からしか見えない「何か」を受け取ったにも関わらず、それを活かす事が出来ない、戻れない場所を想うしかない今の自分にこれ以上ない歯痒さを感じた。

 

そして「戻れない場所」にある現実の理不尽さにも憤りを覚えざるを得ない。

 

この状況に自分を追い込んだ張本人であるあの黒沢が今、あろうことか「彼」の傍に居る。

これも受け入れていた、こうなる事は予測できた結果。

 

・・でもあまりにも皮肉で理不尽だ。

 

結果的にあの子―黒沢典子の目的は達成されたと言っても過言じゃないのだ。ここまで彼女が計算していたはずは無いだろうが、最終的に絢辻は実行委員長としての立場だけでなく、会の席すら失った。そしてその「空席」に治まったのはあろうことか騒ぎを大きくしたあの黒沢なのである。

 

それは同時詰まる所―有人の隣という居場所だ。

 

 

きゅっと唇をかみしめ、沈痛な表情をして絢辻は理不尽から生ずる衝動を抑える。眉も内側に曲がり、相当に自分が痛々しい表情をしている事が解る。

 

―くぅ・・。

 

声にならない気持ちが共鳴する。そして徐々にそれははっきりとした言の葉の形を成していく。

 

 

―返してよ。返して。

 

 

・・私の居場所。

 

 

 

 

「幸福」の先に訪れたあまりに理不尽な現実―孤独。

 

絢辻は静かな夕陽の差しこむ図書室で一人、机に突っ伏して目を伏せることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 










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ルートT 十五章 走れ〇〇〇

16 走れ〇〇〇

 

 

 

 

絢辻は辟易した。

 

 

今朝はとても気持ちのいい朝だった。

早起きが得意な彼女だが、実は意外にも冬の朝の寒さはあまり好きではない。

 

表向きの彼女なら

 

「冬の朝の寒さは身がきゅっと引き締まるような気分がして好きなの~」

 

と、でも言えば周りは「流石絢辻さん。冬の朝の寒さが辛くて起きられない私達とは違うわ~」の、ようなやり取りをしてきたものだが、本音は

 

「・・寒いもんは寒いし、眠いもんは眠いっつーの」

 

なのだ。

 

しかし、何だかんだ言っても冬の早朝の空気の澄み具合は格別だ。白い息を空に拭きかけながら見上げつつ今日の天気を想像する。

乾いた蒼く高い空を見上げ、深呼吸と共に薫る季節の匂いを吸い込み、徐々に動き出す人々の音に耳を傾け、全ての感覚を以て今日一日の始まりを「感じ取る」。

そうすれば「早起きは三文の得」というのはあながち間違いではないと言い切れる。

今日の様にすっきりと乾き、雲ひとつない晴れを予感させる様な冬の朝なら尚更だ。

 

・・それなのに。

 

・・こんな「下らない事」になるなら思いっきり季節外れの台風でも来てくれればよかったのに・・。折角の気持ちいい朝、穏やかな陽気の晴れやかな気持ちを台無しにされるくらいなら。

 

 

「絢辻さん。どうしたの?ぼ~っとしていると危ないわよ?」

 

 

一見相手を心配している言葉に見える。が、その言葉に宿るイントネーションは晴れやかで爽やかな陽気には似つかわしくない粘り気を含んでいた。

 

ターン!

 

その声と共に乾いた地面に空気がはち切れんばかりに入れられたバレーボールが勢いよくバウンドした音が響き、しばし物思いにふけっていた絢辻も否応なしにそちらの方向を見ざるをえなくなる。

でも見なくても正直解る。さぞかし「そういう」顔をしているだろうと。その絢辻の確信の裏付けはものの数秒後だった。

 

―・・・。ふふっ・・まぁ何とも「お約束」のカオね。

 

あまりにも想像の域を超えない絶妙な相手の表情。自らの絶対的優位を疑わず、勝利を確信した表情。思わず絢辻は薄く笑ってしまう。

 

「・・・ちっ」

 

どうやらその絢辻の態度は「お約束」のカオの持ち主のお気に召さなかったらしい。

先程までニヤついていた表情を一気に般若みたいな不機嫌そうな「あんた・・今の自分の『状況』が解ってんの・・?」とでも言いたげな表情に変わる。

 

 

その「状況」とは、何ともあからさまで、単純。誰しもが一目で解る。これまた「あまりにも想像の域を超えない」構図だった。

 

 

4時限目。科目は体育。野外。

 

吉備東高校のグラウンドに誂えられた長方形のコートの中心に線が一つ。その境界を隔てて一方は所狭しと人であふれかえり、片や半面のコートにはたった一人の少女がポツンと立っている。

 

たった一人の少女とは言うまでも無く絢辻だ。その中心で絢辻は大した動揺の様子もなく腕組みしながら周囲を目線のみで窺っていた。しかし、流石に内心溜息をついていた。

 

―・・・ふぅ。・・体育の自習をさせるのは結構にしてももう少し明確な授業内容を提示してほしいわね、あの新任の体育教師・・。例えば・・「ボール競技は平等にチーム分けをすること」・・とか?

 

 

現在ここグラウンドの中心にて自習を言い渡された2-A女子達の多数決によってドッジボールが開かれようとしていた。誰しもが知っており、ルールも単純明快な球技である。何と言ってもこの競技の素晴らしい所は「あからさまな人数差、戦力差が有っても在る程度競技として体を成してくれる」という点だ。

 

ドッジボールのルール上、絢辻に外野の味方は用意してくれている。が―

 

「う、うう・・」

 

この状況にがっちがっちで震える栗毛の運動音痴な少女―田中 恵子一人では焼け石に水だ。

 

「んー・・何なら絢辻さんは三回当たっても大丈夫位にしておく?一瞬で終わってしまったら面白くないでしょ?」

 

彼女なりのハンデのつもりなのだろう。彼女―先日クラスの取り巻き二人と共に完全に絢辻に凹まされた少女―田口は自分が出来る限りの優しい声でそう言った。この絶対的数的優位を作りだした張本人が「ハンデをあげる」とは笑わせるが。

 

絢辻はまた笑う。

 

「いらないわ。チーム分けも平等だと思うし。なんなら最初のボールの権利もあげるわよ?どうぞ♪」

 

「平等」の所をやたら強調してあくまで平静に絢辻は返す。

 

「・・ははっ。相変わらず口減らないのね」

 

 

自分の絶対的優位を頼りに田口もまだ冷静を保っているが、明らかに先程より口調に棘がある。加えてバウンドさせているボールに内心の隠しきれない苛立ちをぶつけるようにしてペースが上がっていた。「落ち着け。負けるはずは無い」と自分に言い聞かせるように。

 

実質絢辻の「相手」は田口、磯前、山崎の先日絢辻に完膚なきまで打ちのめされた連中とそれに同調したほんの数人の相手チームの様な物であり、他は状況に流された連中に過ぎない。が、一部はお飾りとはいえ合計一クラス二十人以上いる女子がほぼ全員自陣に居るのだから強気にもなる。

 

「・・。じゃ、お言葉に甘えて。何処に当てようかな~?」

 

ちなみに今回のドッジボールのルール―通称「田口ルール」には「顔面セーフ」はある。だが田口としては何回か顔面セーフを狙いたい所だ。

田口としてはこの「状況」を作りあげたのだ。勝つことは最低条件。しかしそれではこの前完膚無きまでに打ち砕かれた彼女の復讐心はその程度では癒されない。

理想は絢辻の顔面にぶつけて痛みとショックで悶絶させた所を「寄ってたかって集中砲火を浴びせて泣かす」―といった所だろう。

 

逸る気持ちを抑えた余裕の表情でまたバウンドを繰り返しながら田口、そしてその取り巻きは徐々に前に出る。

その後ろで一応田口の味方であるその他大勢は不安な表情をしつつ、「早く終わって欲しい」と内心思いながらその状況を見ていた。

 

彼女達は絢辻を苛めたい訳ではない。しかし先日、あまりの絢辻の普段と全く異なる豹変を見た彼女達は萎縮し、得体のしれない不安感を絢辻に覚えた結果、あの日以来距離を離す他なかった。

「解らない」ではなく、「解らなくなった」ことの不安は時に「解らない」ことを上回る。信じていた相手が解らなくなったという事はそれを信じていた自分自身すらも疑う事になるからだ。

 

しかし反面、先日完全に絢辻に叩きのめされたあの三人の解りやすさと言ったらない。受けた恥辱を返すために目に見えた布教活動―「アンチ絢辻」を謳う分、非常にマニフェストが解りやすい。おまけにそれに反する者には目に見えた恐怖政治を敷く。

暴力は流石に使わないが、アンチ派に属さない人間を徹底的に無視し、疎外感を与えることで危機感を与え、結果、心ならずも入信させる。何とも分かりやすい。

 

絢辻もそれは百も承知だった。形式上アンチ派についた彼女達を責める気は毛頭ない。そもそもやり方はかなり雑だが、自分が今までやってきた事も実はこの三人と大差ないと絢辻は考える。

 

虚構の自分を信じさせ、虚構のコミュニティを作り上げてきたツケは払うべきだ、とも思う。

 

 

絢辻と田口達との違いを最も単純な言葉で言い換えるなら「騙す、欺く」と「脅す、強要する」の差であろうか。どちらにしろ他者に対して礼儀と誠意を著しく欠く行為であることは間違いない。それ故に絢辻は彼女達を責めない。責める資格も無いと本気で考えている。だから絢辻は今、こう願う。

 

―・・大丈夫。貴方達に非は無いわ。だから・・大人しくしていて。

 

今目の前に迫るアンチ派を無視して絢辻はその背後に居る少女たちを見た。睨んだのではなく、「本当に気にしないで」と語りかけるように。

それと同時に、試合は開始―

 

 

 

パンっ!!

 

 

 

―・・・え?

 

絢辻は身構えた体を起こし、驚きの中、目を真ん丸にして自分の足元にてんてんと転がってきたボールを片手で止めた。

 

 

「・・・!?はぁっ!?」

 

 

先程まで手元でバウンドさせていたボールが何故あんな所で跳ねているのか解らず、田口は不機嫌さと不愉快さを一切隠さない声を上げた。とりあえず絢辻を見る。その視線には現在田口など目に入っていなかった。それも田口の不快感を煽る。

 

―ちょっ・・!私を見なさいよ!!

 

絢辻の視線の先はそんな田口の不快感をよそにさらに離れていく。と、同時に田口の視線に自分の不快感を引き起こした「張本人」が今、絶対に超えてはならないはずの白線の境界を悠々と踏み越え、絢辻の陣地内に入って行った。

 

 

「・・。いんたーせぷとっ♪」

 

 

「張本人」―肩までのくるくる癖っ毛を揺らしながら一人の少女―棚町 薫は絢辻の足もとに転がっていたボールを

 

「よっ」

 

慣れた足さばきで浮かせ、左手の掌にふわりとのせた。そして田口達の居る「敵」陣を横目で見据え、ぴっと細長い右手人差指を向けて一言。

 

 

「そっちつまんない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・棚町さん。バレーボールを足で蹴ったらダメよ」

 

絢辻はクスリと笑って棚町を迎え入れ、同時「責任持たないわよ?」と言いたげにほぼ四面楚歌の状況をぐるりと目線のみで見回す。が当の棚町は―

 

「堅い事言いっこなしで。スルーしてよ♪」

 

「ま、これからの働き次第でスルーしてもいいわ」

 

「上等!さてと・・おお~い!!外野の田中 恵子ぉ!!!!」

 

棚町は大きな口を開け、大声を張り上げて目の前の田口達を通り抜けて外野の「三人目」の味方に声をかける。

 

「は、はいぃい!!!!」

 

「私が入ったんだからやる気出しなさいよ!!!」

 

「う、うん!!」

 

決して闘争本能、競争心が強い少女ではない。が、やはり「これは何かおかしい」と思いつつ、状況に流されていた田中 恵子が親友の「らしさ」と激励にホッとし、なけなしの戦意を絞り出すようにぐっと両拳を握って力強く返事する。

 

トントン拍子に展開が進んで行くが、棚町の離反に当然到底納得できない連中がいる。

 

「・・・ちょっと!!棚町さん!!何やって・・・キャっ!」

 

「あ、ゴメン。顔面セーフね」

 

棚町は手首のスナップだけで投げたボールを田口の額にポコンと「うっかり」当てた。痛みはほぼ無いが違う意味で痛い。

 

「ちょっ・・!!何やってんのよ!棚町さんはこっちのチームでしょ!」

 

「言ったでしょ?『そっちつまんない』って。こっちの方が面白そうだし。でもそっちがもし私と絢辻さんたった二人・・・あ。プラスその他一名に勝てないって言うんだったら仕方ないわね・・そっちに戻ってあげてもいいわ」

 

「なぁっ・・!!」

 

「うぅ・・『その他一名』・・?酷いよ薫ぅ・・」

 

田中は結構地獄耳である。外野で一人ぽつんと凹んでいた。

 

「アンタは細かい事気にしないの!禿げるわよ!・・で、どうする?やんの?やんないの?」

 

「・・いいわよ。別に」

 

田口は「覚悟しなさいよ」という意思をその言葉に秘めた。つまりこの出来レースのドッジボールの事だけでなくこれからの「事」を含めた脅しである。が、暖簾に腕押しだった。

 

「おっけおっけ♪」

 

パキパキと腕を鳴らして上機嫌そうに棚町は笑う。元々棚町薫はこの程度の脅しに屈する様なタマでは無い。もともと絢辻派だろうがアンチ派だろうがどーでもいい彼女にとってはこの絶対的不利を楽しみたい意図もある。

 

―そういえばそういう性格だったわね棚町さん。

 

「負けるのは嫌いだが逆に勝ちすぎるのも嫌う性格」―絢辻の幾人もの個人データの中でもこの「棚町 薫」という少女に関してのこの性格データの精度はとりわけ高いと自負している。

 

えてして絢辻は棚町の助力を得ることとなった。しかし絶対的な戦力差、人数差はさして埋まっていない。敵陣内を見据えて絢辻、棚町の二人は横目で互いに二、三声をかける。

 

「さってと・・色々ハードル上げちゃったけど・・そろそろ始めましょうかね。絢辻さん」

 

「バレーボールを蹴った事を帳消しにするぐらいの活躍お願いするわね?棚町さん」

 

「案外粘着質ねぇ~・・気に入った!」

 

 

 

そんな軽口を交わし、試合開始。

 

 

それからの二分、怒涛の攻めで絢辻、棚町二人は敵の内、アンチ派三名、その他八名を一気に外野に追いやった。

 

 

 

 

 

「・・すすすすごい。あの二人・・・」

 

こうなってくると外野の田中 恵子のプレッシャーはやばい。内野の二人の獅子奮迅の働きを見ると基本運動音痴の彼女は本当にヤバい。

 

―・・いつもよりボールが重いよぅ。

 

戦意のない幾人かが「早く当てて欲しい」との意思表示を示したのでその何人かを外野送りにしたが戦意満タンのアンチ派にはちと厳しい。彼女のハエの止まる山なりチェンジアップでは彼女らを仕留めるのは無理だ。

要するに田中が当て損なう回数が増えれば内野の守備機会の増大、つまりは味方二人絢辻、棚町両名の危機の増大に即直結しているのである。

 

―ひ~ん。私が足引っ張って負けたらどうしよう・・・。

 

内心泣きそうになりながら田中は二人についていくのがやっとだった。そんな彼女に―

 

 

「・・田中さん。無理して当てにいかなくていいよ」

 

 

意外な声が届く。

 

―えっ・・?

 

「キャーキャー」甲高い声が入り乱れる中、そこに似つかわしくない低い声が響いた。いつの間にかコートの傍らで胡坐をかいて寒さで震えている長身の男子の姿があった。

 

国枝 直衛だった。

 

男子はマラソンであり、前半走者だった国枝は既にノルマを終え、ジャージ姿でがたがた震えていたところ、女子側の不穏な異変に気付き、コートの近くで戦況を見守っていた。

しばし眺めるとすぐに状況を国枝は把握した。

 

―・・あからさま。

 

田中が、そして棚町が「これはおかしい」と思うのであれば当然、彼女らに近しい国枝も「おかしい」と思う状況である。よって当然国枝も「付く側」はこうなる。

 

 

「外野から当てるのが無理そうなら田中さんは確実に内野の二人にパスを渡して。・・後は薫が何とかするだろ」

 

「・・あんたねぇ。結構・・こっちも必死よ?」

 

少し息を切らした棚町は無責任な国枝の助言に苦言を吐く。

しかし戦略としては至極真っ当だ。田中の投力は元より、ドッジボールのコートの構造上、田中の居る外野から敵の内野の端にいる敵を狙うと的を外した場合、即、敵の外野にまでボールが流れ、結果相手にボールの権利を渡してしまうことになる。外野に複数味方が居ればこぼれ球のフォローも出来ようが残念ながら外野は現状田中一人。リスクを避け、おまけに投力も高い内野に居る二人の攻撃機会を増やす方がよっぽど合理的である。

しかし、この国枝の助言乱入にも納得いかない者がまたまたいる。

 

「ちょっと!!国枝君!貴方絢辻さんの味方なの!?」

 

「いや・・味方ってワケじゃないんだけど。ほら・・俺甲子園とか高校サッカーとか負けている方応援しちゃうタイプで・・」

 

「知らないわよ・・」

 

よく解らない国枝の理論に田口も上手い言い返しが浮かばない。

 

「悪い。じゃあ応援だけならいい?」

 

「・・・」

 

「・・よそ見してたら当てるわよ。再開してもいい?」

 

棚町が痺れを切らしたように田口と国枝の会話に割り込む。棚町としては田口の「国枝君は絢辻さんの味方なの?」発言がちょっと気に障ったらしい。

 

―・・コイツはアタシの味方だもん。

 

そんな怒りの結果、体力回復と共に少し戦闘力が増大している。

 

「頑張って・・田中さん」

 

「う、うん!」

 

国枝の助言と応援によって田中のやる気も増す。

・・少し切ない話だが田中は国枝の事が割と真面目に好きである。

 

「それと・・絢辻さん」

 

「・・何?」

 

「ちょっと待っててね?ふふっ・・」

 

「・・・?」

 

何処か意味深な珍しい国枝の笑顔と同時のその言葉に絢辻は首を傾げるが―

 

「絢辻さん!ぼ~っとしてないで!再会するわよ」

 

棚町の一喝に気を取り直す。

 

「あ・・うん!」

 

再開後の一投目で棚町は即アンチ派一人を沈め、そのこぼれ球を拾った絢辻も確実にもう一人を外野送りにした。流石に運動能力ではこのクラスの一、二を争う二人である。

みるみるうちにビハインド(ハンデ分)は詰められ、徐々に「こんな馬鹿な」という田口達の焦りの色が濃くなっていく。

 

―・・「負けている方につく」とは言ったけどこれは・・付く方間違えたかな?

 

国枝は胡坐をかいたまま頬杖を突き、

 

「・・・。ぐう」

 

寝た。

 

 

 

スパコーン!

 

 

「てっ!!」

 

「あ。ごめ~~ん。直衛♪間違って当てちゃった~♪」

 

 

棚町はそう言ったが確実に「・・ワザとね」と、絢辻は確信していた。国枝に当たったリバウンドのボールがキッチリ棚町の手元に帰って来た所、そして明らかに棚町の表情が

「寝るな。私見ろ」と語っていたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数分後―

 

「・・・・っと!あっちゃ・・」

 

棚町 薫は顔を歪める。敵側の不用意な外野へのパスをカットしようとしたが、こちらも不用意だった。片手で器用に止めたまではよかったものの、少し目を切るのが早かった。

片手からするりと、とりこぼす様な感じでボールが滑り落ち、反応が遅れた絢辻もフォローに回ったが無情にもボールはすとんと地面に落ちる。

 

「・・・あ」

 

肩で息をした絢辻の喉の奥から空気が抜けた様なか細い声が洩れる。

 

「・・。ごっめ~ん。当たっちゃった・・」

 

棚町は不用意な自分の失態に下唇を噛みしめる。そんな棚町にふるふると首を振って

 

「・・うん!気にしないで棚町さん。後は私がやるから」

 

相も変わらず申し訳なさそうな棚町からボールを受け取る。

 

 

「・・!」

 

―お。薫の奴当たったか・・ま~た油断したな?アイツ。悪い癖だ。・・ん~まずいかも。いくら絢辻さんでもな・・。

 

 

 

「・・薫」

 

外野で田中は奮闘した親友―棚町を迎い入れる。当てられはしたものの、彼女が外野送りにした敵の数は絢辻すら上回った。しかし、その親友―棚町は渋い顔をしていた。

 

「くっそ~散々ハードル上げときながらしくったわ~。ここで負けちゃ意味無いのに!」

 

棚町は自分に腹が立っている様子だった。確かに負けたら立場はない。絶対的不利な状況下で完全に打ち負かすこと、これが棚町にとって散々不快だったアンチ派の活動を収束させるために必要なことだった。

実際の所、棚町はそこまで絢辻とは親しくはない。しかし、有人から伝え聞いた絢辻の今までの数々の頑張りを知っている棚町にはその人間に対する余りに過ぎたバッシングにはこれ以上の我慢がならなかった。それ故に志半ばで矢面に立たされている人間を肝心な所で孤立させてしまった事に歯痒さを感じている。

 

「はっ!・・・はっ!はぁっ」

 

たった一人内野に残され、息を切らしている絢辻の姿を悔しそうに見据えながら棚町は苛立たしそうに腰に両手を据えた。そんな性格の親友を良く知っている田中は少し笑い、そして鼓舞するように表情を引き締め、親友を見据える。

 

「薫!」

 

「わ!?な、なに?けーこ!?」

 

「まだ終わってないよ。ドッジボールは外野でも出来る事があるんだから!」

 

「・・。そね!アンタもたまにはいい事言うじゃない♪恵子♪」

 

棚町が気を取り直した直後、歓声が上がる。当てられた棚町から受け取ったボールで絢辻が一人を仕留めたのだ。相手は田口を筆頭にとうとう残り三人まで減った。

しかし、ボールの権利は再びアンチ派に戻り、消耗した絢辻は膝に手を突く時間もそこそこに身構えるしかなかった。

 

 

 

―・・。案外手堅いな。薫を当てたとしても外野にいるって事が良く解ってら。

 

アンチ派の堅実な内、外野へのパス回しを見て国枝は内心感心した。

疲れが見え始めた絢辻は相手のパス回しのたびにひっきりなしに内、外、また内、また外と移動する事になる。休む暇も無く、だ。

かといって運動量を落とせば、即狙われる。相手のミスを待つのも手だが正直ジリ貧である。リスクを払って相手の強攻をあわよくば受け止めてもまだ相手は三人残っている。これを最低でも三回は繰り返さなければいけない事を考えれば正直勝ち目は薄い。

 

―・・・!

 

彼女お得意の奇策を思いつこうにもハードワークを課された体に流石に頭が働かない。

そして疲労の際、最も先に異常が現れる場所がとうとう音を上げた。

 

「あっ・・と!!」

 

崩れるとは行かないが少しストンと絢辻の腰が落ちる。

 

「寄越して!!」

 

ここを見逃さない手は無い。田口はパスを受け取った味方から強引にボールを毟り取ると同時に強攻に出る。タイミングも悪くない。国枝は目を見開く。

 

 

―ヤバい。やられ―・・・・!?

 

 

 

スコーン!

 

 

 

「えっ」

 

「あっ!」

 

「へっ?」

 

「おー・・」

 

高く舞い上がったボールは絢辻に触れること無く、絢辻の陣地内に落ちる。しかしそのボールに目もくれる事も無く絢辻は瞳を見開いてただ一点を見つめていた。

コート外から突如現れた黒い「影」が田口と絢辻を結ぶボールの軌道上に割り込み、それに当たったかと思うと「影」はよろよろふらふらと舞い、ぱたりと倒れた。

 

 

「・・・・!源君!?」

 

 

自陣に転がったボールに一瞥もくれず「影」―源 有人に絢辻は一目散に駆けよった。

 

 

「すんませ~ん!ちょっとタイムで!」

 

 

「????」

 

まるでグラウンドで違うグループの所に転がってしまったボールを追っかけるようにして一人の少年―梅原 正吉が女子のコートに流れ込んできた。そしていち早く有人に駆け寄った絢辻の傍らに座る。

 

「ちょっ!!何やってくれてんのよ!!!」

 

千載一遇のチャンスを逃した田口が心底憤った声を上げる。

 

「わりぃわりぃ・・コイツマラソンを走り終えた瞬間に意識が飛んだみたいでさー。ゴールした後もふらふら走り出したと思ったら・・こういうワケ・・」

 

 

「源君?源君!しっかりして!」

 

絢辻が声をかけつつ揺さぶるとわずかに有人から反応があった。ぜーはーぜーはー息を切らす有人の口が不明瞭な言葉を発する。

 

「え!?何?何て言ったの?」

 

絢辻は彼の口に耳を近付ける。

 

「・・・。・・。・・、・・・・・」

 

「・・・!・・ばか・・」

 

 

 

「本当に失礼しました~~!国枝!オメ-も寝てねーで手伝え!大将を引っ張りだすぞ!」

 

「・・ん」

 

のっそりと立ち上がり、ゆ~~っくり時間をかけて梅原の元に向かった国枝はゆ~~~っくり、の~~っそりと有人にモタモタ肩を貸しながらひ~~っそりとこう呟いた。

 

「・・『早かった』じゃねーの」

 

「・・・」

 

その親友の声に力無く有人は顔をあげて白い顔で少し微笑んだ。いや「白い顔」というのは語弊があるか。もろに田口の渾身の一撃を顔面に喰らった有人の顔は少し赤く腫れている。顔色が悪いのに顔が赤いという矛盾に有人の親友二人は顔を見合わせてくくっと笑った。

 

「おう!陸上部の奴がタイム見て腰抜かしてたぜ」

 

梅原も小声でひひひと笑いながら頷いた。そして、コート脇に寝かせ、

 

「・・源君にこれ使ったげて」

 

その場に居たクラスメイトの女子一人に借してくれたタオルでばっさばさと有人を仰ぐ。そして仰向けの有人にひそひそと梅原が話しかける。

 

「・・。おい。みなもっち。絢辻さんに何て言ったんだ・・?」

 

「・・・。・・・・」

 

その相も変わらず息も絶え絶え、不明瞭な有人の声だが側に居た友人二人には聞こえた。

 

「・・まともに声をあげられない状態で言った言葉がそれかよ。むしろお前がしろって~~の」

 

その有人の言葉とは―

 

 

(・・絢辻さん。今の内に深呼吸)

 

 

絢辻はその言葉を聞き取り、深呼吸の様な溜息の様な曖昧などっちつかずの呼吸をして笑った。委員会で散々「無理をしないで」と口を酸っぱく彼女に言って来た有人らしい言葉に絢辻は心からの笑顔を禁じえなかった。

 

 

 

 

「さて・・余計な邪魔が入ったけど再開ね。ボール貰うわよ」

 

「・・どうぞ」

 

絢辻から田口はボールを受け取る。自分の陣地の真ん中より少し前で最前列に居る田口に向けて絢辻は軽くボールを投げて渡し、そして―

 

「・・・」

 

無言のまま、その場から動かなかった。明らかに危険な、充分に「狙える」位置で絢辻は立ちつくしたままだった。

 

「・・・?何?ひょっとして諦めた?」

 

田口のその言葉に絢辻は無言で笑った。そしてこう答えた。

 

「私・・解っちゃったの」

 

「・・・?何言ってるか解んないけどまぁいいわ。・・よく頑張ったんじゃない?」

 

田口は身構える。

 

「・・。ふむ・・。相変わらず解ってないのね?」

 

満面の笑みから一点、絢辻は哀れむような、しかしどこか蔑むような表情をして少し首を振り、妖しく笑った。

 

―・・・!ぜっっったい泣かしてやる!!!

 

それを契機に田口が渾身の力でバレーボールを投じた。

 

 

 

・・ガっ!

 

 

 

 

そのボールはあまりにも近距離に居た絢辻を難なく捉え、そして確かに地に落ちた。

 

アウトだ。

 

負けだ。

 

 

しかし―

 

田口の顔に張り付いたのは勝利の笑顔ではなく、驚嘆の表情だった。

 

「・・・・!!!???」

 

絢辻の足もとで跳ねたボールを絢辻は右手でボールをとる。負けたのなら。勝負が終わったのならば全く意味はない行為だ。

しかし事実、まだ勝負は終わっていなかった。その証拠が田口の表情によく表れている。その眼に映った絢辻の姿を未だ田口は信じられない。信じられない光景だった。

 

 

 

 

ばさあっ

 

 

 

 

いつも定規で整えられたような長い髪は乱れ、絢辻の顔を覆い隠していた。それを片手間に首を振って払い、絢辻は田口を見据えた。

 

 

 

 

 

 

「顔面・・・セーフよね?」

 

 

 

 

 

乱れた前髪の下でボールが直撃して赤く腫れあがった右目をやや痛々しそうに閉じながらも絢辻は不敵な笑みを田口に向け、凍りつかせた。

 

一瞬時が止まったそのコート上で動き出したのはただ一人、絢辻だけだった。田口、そして残された彼女の味方他二名も目の前の光景―絢辻の気迫を前に後退する事を忘れた。

 

 

「・・ふっ!!」

 

 

一人、二人と田口の残された取り巻き二人が逃げる暇も無く立て続けに絢辻は捉える。更に跳ね返ったリバウンドボールを味方陣地内で素早く拾い、残すはただ一人、田口を見据えた。

 

「・・・・はっ!!!」

 

味方を全て失って漸く平静を手に入れた田口は全速力で下がった。最早反撃など考えていない。完全な回避だけの行動。「逃げ」といってしまってもいい。

 

しかし絢辻はそれすらも見透かしていた。ニッと微笑む。

 

勝負は確かにまだ決まっていない。しかし今決まった。それを確信させる表情だった。絢辻が放ったボールは完全に田口という的を―

 

・・逸れていた。

 

 

 

―・・・・え!!???

 

 

 

絢辻の「的」は田口ではなく、その後ろの影であった。

 

 

 

 

 

―・・・馬鹿ね?ビビって下がりまくってる貴方を私がわざわざ狙う必要ないじゃない?

 

 

 

 

 

「・・そゆことね♪」

 

 

場を支配した絢辻の「時」をいち早く理解し、動いていたのは対戦相手の田口ではなく、外野にいた絢辻の味方―棚町 薫であった。

絢辻からのピンポイントのパスを難なく受け止め、至近距離ながら未だ背を向け、呆けたままの田口に向けて棚町は腕を振り下ろす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ」

 

「あ・・・」

 

体育の授業終了後、ばったりと顔を合わせた二人は赤く腫れたお互いの顔を見合って、

 

「ぷっ・・」

 

「ふふっ・・」

 

笑いあった。

 

「・・・はい」

 

「・・・?」

 

有人は右手の上にのせた袋に詰められた氷を絢辻に手渡した。

 

「広大と太一君が用意してくれた。仕事しない保健室の来崎先生を叩き起こしてね」

 

「・・貴方の方が必要でしょ。もう少し冷やしときなさいよ」

 

「・・・もう一つあるから大丈夫」

 

有人は項に回していた左手を絢辻に見せる。その手の上にもう一つの氷袋がタオルに包まれた状態であった。それを見せた後、再び左手を項に戻し、有人は何時も通り微笑む。

 

「・・・。有り難く受け取るわ」

 

受け取ると絢辻はすぐに右目周辺の患部にそれを当てる。ほぼ直撃だった有人に比べ、絢辻は右前頭部を深めに掠めた程度であり、腫れた範囲は有人に比べると狭い。

しかし、右目を覆い隠すように氷袋をゆっくりと押し付けると、患部の少しの沁み入る様な痛みと相まって冷えた頭に突き刺すような感情が思わず絢辻に刺しこむ。

 

「・・・」

 

絢辻の表情に目に見えて翳りが生まれる。その点は絢辻も女の子だ。ボールをぶつけられ、髪はボサボサ。軽いとはいえ顔も傷付けられてショックを受けないはずはないだろう。

 

「・・無茶したね」―そう言いかけた言葉を有人は飲み込む。暗く射しこんだ絢辻の感情が直に伝わってくるような感じがした。

 

「・・。『無茶したね。絢辻さん』かしら?」

 

「・・・」

 

―察しが良すぎるよ。

 

無言で頷きもせず、有人は少し目を翳らせて尚も微笑んだ。

 

「・・別に悪い事ばかりじゃないのよ?これでもうこれ以上田口さんが私にどうこうする事は無いと思うわ。ここまで完膚無きまでの負けをクラス全員に晒したんだもの、あの圧倒的有利な状況でね。・・少なくとも私ならもうこれ以上恥をさらそうとしないわ」

 

それは真実であった。そもそも強制的に「クラスの女子ほぼ全員対絢辻」という対立構造をあれ程あからさまに突き付けた時点で田口自身認め、幅広く公言しているも同然なのである。「絢辻にまともに行って勝てるはずが無い」という事を。

 

その時点で物凄い屈辱なのだ。それを認めながらも手に入れようとした意味も無い勝利の優越感すら絢辻に真っ向から阻まれた。それどころか絢辻の壮絶な覚悟と行為を目の当たりにし、更に自分との差を痛感してしまった。

そして感じ取っていた。クラスのほぼ全員が絢辻の覚悟の前に圧倒され、完全に流れが変わった事も。

 

「・・だから、ね?もう、・・大丈、夫なの。有難うね。私は・・・だいっじょ、うぶ・・」

 

そう言って絢辻は有人から見える左目を語尾を詰まらせながらも精一杯緩ませて笑った。しかし、緩ませたと同時、僅かに自分の残された左目の視界がゆらゆらぼやけている事を絢辻が認識した直後であった。

 

「・・・えっ?」

 

次の瞬間、何も見えなくなる。変わりに左目にも目が透き通るような冷たさに覆われた。

 

何をされたかはすぐに解った。咄嗟に離そうとした右目の氷を支えていた手も冷たい少し大きな手に覆われて引きはがせない。有人の両手が力強いが優しく柔らかく絢辻の両眼を氷袋を通して包み込んでいた。

 

「何・・?」

 

「・・吐きだそ?全部・・」

 

「・・・っ」

 

その今は見えない有人の言葉に絢辻の口が歪む。冷やされているのに目頭が熱くなる。何も言うつもりは無いのに喉から何か汽笛の様な物がこみあげてくる。

 

「ふ・・・くっ・・・な、によっ!な、んなんだって、のよぉ・・?」

 

「・・・」

 

「なんっ・・・でこうなるのよぉ・・?」

 

「うん」

 

「私・・・な、んにも悪くないわよぅ?何も手を抜いた事も無い、し、らく、をしようと思った事も無い、わよ?積みっ上げて積みっ上げて・・・」

 

「うん。そだね。間違いない」

 

「でも・・なんっにも残って無い。居場所も無くして・・。それ、も私のせい、な、の?全っ、部・・?」

 

「・・ううん。それは違う」

 

「嘘・・。それっが、違うなっら・・何っで、こんな目に、あ、遭うのよ?・・私が自分の頑張、りの見返りに望んだもの、ってそんなに許っされないものだったかしっら・・・?」

 

「・・ううん」

 

氷が解けた水なのか。伝っていく。何筋も絢辻の頬を透明の滴が。

 

両手がふさがっているため、有人はそれを拭ってあげる事は出来ない。

ただ、今目を塞いで何も見えない絢辻にも見えるように、解るように、

 

・・微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 













2-A教室―


何時ものメンツが集まっていた。ただし―




「・・・。有人と絢辻さんが戻ってこない?」

「そうなんだよ。昼休み以降誰もあの二人見てないって・・先生も早退するとは聞いてないらしいしさ・・鞄も残っているから校内には居ると思うんだけど・・」

「・・・。そうか」

御崎からの報告を聞いて国枝は腕を組み少し考え込む。

「あ~あ・・私と恵子と三人で祝勝会したかったのにぃ~ね~~?け~~こぉ?」

「いや薫。その、私は・・別に」

「なに~~け~~こぉ?私の出す酒が飲めね~~ってのか?」

「あっははは・・で、どうする?・・国枝君」

「心配ない。・・梅原、今日の委員会の有人の不在の言い訳考えとくぞ」

「おう!任しとけ」

「サボりの理由なら俺達に任しとけよ。なぁミサキ?」

「・・え?僕?杉内君とは流石に一緒にされたくないんだけど・・」

「サボりの年季なら私も負けてないわよ~~?う~んそうねぇ・・もうこの際『逢引』の為、位でいいんじゃな~~い?」

「「それだ!」」

「・・国枝く~ん、田中さ~ん・・この三人止めて・・」

「あ、ははは・・」

「その案は却下・・結構その・・・リアル、すぎる」










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ルートT 十六章 雨天決行











 

 

 

 

 

 

 

 

 

17 雨天決行

 

 

 

「落ち着いた?」

 

「うん」

 

言葉少なに社に腰かけた絢辻に有人は話しかける。

 

初めてのズル休み。いや、初めてのズル早退。こっそりと裏庭のフェンスから一緒に逃げだし、人目につかないように走った。「何処に行くの」と聞く有人の問いには答えず、無言で、しかし時々振り返って悪戯な横顔を有人に向けながら絢辻は走った。

「何処に行く」ではない。今自分の足が「行った」場所こそ今自分が行きたい場所だと絢辻は思い、あても無くただ走った。そしてここにたどり着いた。

 

 

吉備東神社―

 

 

この前は否定した。「ここが好きなんだね」という有人の言葉を。

何時ものように「都合がいいから利用しているだけよ」等と言って。

 

でも、頭ごなしにどんなに否定しても、結局は奥底で絢辻はこの場所が好きなんだろう。

何よりも有人といる付加価値を得たこの場所は、彼女の未だ狭く、限られた世界観の中でも、これから見つける未知の居場所と比べても決して色あせる事は無いだろう。

 

―そう。私はここが好きだ。「貴方と二人でいる」ここが好きだ。

 

「・・・」

 

すっきりとした顔をして鬱蒼と茂る竹林から覗く空を見上げ、目を閉じる絢辻を見て、有人も安心したように横顔で微笑んだ。その笑顔を絢辻はじっと見る。

 

―・・・。

 

この少年は笑うと幼い。が、微笑むと不思議と大人びて見える。

こと「笑う」という行為において、絢辻は自分がこの少年に劣ることを自覚している。

この笑顔に癒されている人間は多いだろう。

 

―・・私もその一人だ。・・絶対に言ってやんないけど。

 

「・・・ん?」

 

隣に座った有人の横顔を見ていた絢辻は突然怪訝そうな声を上げる。

 

「・・?どうかした?」

 

「・・・。私の予感が外れるとは・・日本の気候はこれからどうなっちゃうのかしらね」

 

「・・?」

 

「そ・ら。見て」

 

つんつんと絢辻は空を指差した。同時有人も空を見上げる。

 

「え?」

 

「・・。ほら、また一粒」

 

「・・・雨」

 

いつの間にか曇天模様の空の下、二人はぐずつきだした吉備東の空を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社の屋根からぴちょぴちょと定期的に滴が零れ落ちてくるぐらい本降りになりつつある中、二人は境内に腰掛けながら空を見上げていた。

 

―・・本格的に降ってきたね。

 

―そうね。当分帰れそうにないわね。

 

―・・ここならいいか・・。絢辻さん・・?

 

―・・うん?

 

 

―・・君が欲しい。

 

 

―・・・え!!!???ちょっといきなり何言って・・。

 

―嫌かな?

 

―ほ、本気?

 

―嘘でこんな事言えるもんか。・・やっぱり嫌かな?

 

―そんな・・嫌じゃないけど。心の準備が・・それに私達まだ高校生よ?いけないわ・・。

 

―違うよ。僕たちは「もう」高校生だよ。大人さ。

 

―ちょっ・・ちょっとまって!近い、近いよ・・!

 

 

 

 

「・・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

 

「ちょっと!!!さっさと止めなさいよ!止め時を見失うじゃない!結構恥ずかしいのよこれ!!!??」

 

 

「・・・。今のはハードル高いよ・・正直怖いです・・」

 

率直で尤もな有人の意見である。心なしかずりり、と有人は座りながら絢辻から距離を離す。

いきなりあの「有りがちな展開」を一人ぼそぼそ一人ごち始めた絢辻を前に「何を言っているんだこの人は・・」と、恐怖の顔で暫く有人は硬直していた。

唐突過ぎる絢辻のぶっとんだ暴走に流石の有人も閉口するしかない。笑顔も凍りついている。

 

「あ~あ!・・ほら!サブイボたってきた!貴方のせいよ!責任とりなさい!!」

 

右腕を差し出し、ぴよぴよとさえずる鳥肌を有人に顕示しつつ、絢辻の暴走はなお続く。

 

「えぇー・・今までで最も理不尽な展開になってきた・・」

 

「うるさい!」

 

 

 

 

「でも意外だね。絢辻さんがそんな妄想狂だとは思わなかった。正直本の見すぎじゃないかな?」

 

「あ・・!がっ・・!!」

 

知的で聡明な少女を、まるで漫画の見過ぎでイタイ影響を受けている男子みたいに言い放ち、微笑む有人に絢辻は顔を真っ赤にしてあんぐりと口を開いた。

 

―・・生まれて初めてかもしれない。こんな殺意は。

 

これまでと全く異なる恥辱に絢辻は顔を真っ赤にしながら頭を掻く。尚もへらへら笑う有人の顔が憎らしい。

 

「・・・」

 

―・・鞄は学校に置いてきた。武器は無い。なら仕方ない・・。

 

「・・・源君?」

 

「はい?」

 

「そい♪」

 

「ぐふっ!?・・・・。う~ん・・う~ん」

 

絢辻の鍛え上げたエルボーは的確に隣に座った有人の鳩尾を捉えた。腹を抱えて悶絶し、うんうん唸る有人を見下ろしつつ、

 

「さっきの事は全て記憶から抹消なさい。それが出来なければ『もう少し』手伝ってあげる事も出来るけど・・どうする?」

 

手頃な石を持ちあげて構え、人を殺しかねない目をしてそう言った。

 

「は・・はい」

 

「よろしい。・・全く。貴方が話さないからこっちから話を振ってあげたのに・・」

 

「え?そうだったの?それが・・アレ?」

 

「あら?『アレ』?って事は源君・・まだ記憶から抹消しきれてないみたいね?ごめんなさ~い。今度は確実に・・」

 

「げっ!」

 

―ゆ、誘導尋問かよ!死ぬ!殺される!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結構・・降るわね」

 

「うん。けど・・意外に寒くないのが救いかな」

 

再び季節外れ、「絢辻天気予報」泣かせの雨を神社裏に腰かけ、二人は見上げていた。

 

「いや、寒いんですけど。あっためてくれないかしら?」

 

「・・護身術を一切使いませんと誓ってくれるなら是非」

 

「あ~ら残念。色々と試したい技があったのに」

 

腕を組み、ニタリと悪い顔で隣の有人を見ながらちっとも残念そうじゃない口調でそう言った。

 

 

 

―・・。冗談半分・・本気半分だったんだけどな。

 

 

 

いつものような物騒な会話の応酬の中でも、絢辻は実は内心少し残念そうにそう思っていた。「・・少しは大胆に来てもいいのに」という乙女心の複雑な心境である。

 

でも有人はそういう少年だ。人の弱みにつけ込むとか、精神的に脆くなっている人間に過剰な要求をするような少年ではない。聡い故に普通の少年なら無視して突っ走る所を、一旦止まって相手が落ち着くのを待つ。相手の勢いのままの行動を助長して相手が結果、後悔してしまう事を彼は良しとしないのだろう。

慎重と冷静、臆病と奥手。その境界線は曖昧だがその線引きに関して有人はとことん真面目な性分らしい。

 

そもそも・・

 

―私達・・そういえばここで・・キ・・スしてるのよね・・?

 

しかしそこまでの行為に至ったにも関わらず、相変わらず二人の距離は一定だ。付かず離れず、あの日から急激に近付く事も無ければ、決して離れてもいない。

「少しも」。絢辻はそう思いたい。

 

 

正直彼と自分はお互いに距離を図り損ねているのだろう。あまりに唐突、衝動的過ぎたあの日の自分の行為に絢辻ですら未だに現実味が薄いのだ。当の絢辻ですらこうなのだから、こういう性格の有人があの意味を図りかねるのも無理ないだろう。

その後お互いに特にその事で気不味くなったりする事も無く、創設祭準備等の日々の忙しさもあってかお互いにその真意が宙ぶらりんになって現在に至っていたのだ。

 

だが、しかし。今なら・・聞けるかもしれない。

 

「・・・」

 

絢辻は黙りこくった。心臓が跳ね上がる。最早ちっとも寒さなど感じない。

絢辻の細く、真白い指の先端も冬の雨のひんやりとした外気などどこ吹く風。ちりちりと上気して落ち着かない。有人側に置いた左手の指先は意味も無くもじもじする。

 

―ちょっと!アンタ「何が欲しい」のよ!私の手のくせに!

 

自分の意思で止められない自分の一部に内心必死でクレームを言う。

 

―動くな~動くな~気付かれる~またからかわれる~。

 

そうやって「落ち着け」「自分を諌めろ」という絢辻の脳からの神経伝達がようやく指先に届いた。

 

―ふ~・・納まった。

 

絢辻は内心・・のつもりだったが、現実でも大きく息を吐いた。

 

しかし次の瞬間呼吸が止まる。

 

「ひゃっ!?」

 

と、まるで猫が飛び上がるように、つい先程一息をついた時に情けなくへにゃりと曲がった背筋がピンと立つようにして大きく絢辻は目を見開いた。

冷たい感触が絢辻の手に伝わっていたからだ。

 

―・・え・・!え・・!?

 

おそるおそるその方向―自分の左手に絢辻は目を向ける。そこには一回り大きい有人の手が再び挙動不審に震えだした絢辻の小さな指先に軽く絡むように覆いかぶさっていた。思わず絢辻は目をそらす。

 

―ちょっ!・・・ちょっと待って!

 

先程恥ずかしくなる様な自分の過激な妄想を垂れ流しにしておきながら、それとは比べ物にならない衝撃が絢辻の頭を貫く。

 

―・・まてまて~手に触れているだけよ・・触れてるだけ・・。この前は握られたでしょうが・・。何そんな舞い上がってんのよ私は・・!

 

だが前回の「自らが促した時」と今回の「不意」では大分と意味合いが違う。

くりくりと忙しなく右往左往する視線、いつもと違う意味でぐるぐる回転する頭を必死で抑えつけながら、ようやく絢辻は触れられた指先の感触を推し量る。

 

・・冷たい。そして些細に触れられている指先。痛くも痒くも無い。ほんの少しくすぐったいだけ。・・色んな意味で。

 

男性の割に有人の指先にはごつごつとした節くれが無く、部活などで酷使されてない指先はどちらかというと女性的に整えられており、妙な圧迫感は少ない。

 

・・正直絢辻は心地よい。

 

でも

 

―・・。ちょっとムカつく。なんで?なんで震えてないの!?何でこんな冷たいの?ひょっとして・・余裕!?有り得ない・・「この」私がこうなのに!・・・。

 

指先から伝わる感覚に徐々に不機嫌そうに絢辻の口がへの字に曲がる。今隣に居る有人を直視は出来ない。もしからかわれるように優しく笑われたら正直、ハッキリ言って・・「どうにもならない」。

 

怒るべきなのか、喜ぶべきなのか、泣くべきなのか、笑うべきなのか、

表情を選ぶ事も出来ないだろう。突発的で反射的な今の絢辻には想像できない自分のリアクションが垣間見られるだろう。自分の一秒先がどうなっているのかも見当もつかない。こんな先行きの解らない事は彼女の主義に合わない。だから―

 

―・・・。

 

覆いかぶさられた有人の指から一旦自分の白い指を出す、一瞬宙を舞って痺れを伴った指先をほぐすように逡巡しながらも指先をゆっくりと有人の甲に触れ、伝わせ―

 

―・・・んっ!!

 

意を決して握りしめた。

 

今までの有人との短いながらも沢山の記憶と記録をなぞる様にして伝わせ、最後に忘れないように、刻むように―

 

 

・・握りしめて。

 

 

 

―・・時間が止まればいいのに。

 

 

 

使い古された言葉だ。絢辻の好きな小説でも何度も見た事がある。普段はとことん現実主義の絢辻には鼻で笑う様な、そして鼻に突く表現だ。

「時が止まる事なんて無い」。「同じ時間なんて続かない」。だからこそ「立ち止まるなんて無駄」。「時間が止まればいいなんて思う事自体無駄」。

 

そう絢辻は思っていた。

 

早く大人になりたかった、生き急いでいた彼女が今、生まれて初めて「本当に時が止まればいい」と思った。この時が一生続けばいいと思った。

 

きっと今まで彼女が見てきた小説の作者は誰もがきっとこんな思いを一度はした事があるのだろう。だから敢えて陳腐でも使い古された言葉達でもこの表現を使う事を選んだんだ―そう思った。

 

例え本当に時間は止まる事は無い、現実にはあり得ないとしても、「時間が止まればいい」と思った瞬間が現実に存在した事は紛うこと無き事実なのだから。

そういう意味では今二人の時間は確実に止まっている。

 

きっと今降っている雨は時が止まった事によって宙に浮いたまま止まっているのだろう。

そして実は雨というものは降っている時、「滴の形」で降ってくるのではなく、実は「逆さにしたお椀の様な形」で落ちてきている事が解るのだろう。

それを二人で眺めて「へぇ意外だね」等と言って笑うのだろう。そんな事を絢辻は思っていた。

 

が―

 

当然時は止まっていない。この時も動き続けている。

 

 

 

「・・・ん?へっ・・!?」

 

 

 

―・・・!・・・!!・・・!!!きゃああああああ!!!!

 

 

声にならない声が絢辻の中で共鳴する。

絢辻の口から絢辻の形をした魂が出、その魂の口からも次々と同じ形の魂がでて、ようやくその四番目くらいが発した位の声である。それ程声にならない叫びの原因は・・

 

 

―ちょっちょっ・・ちょっと待って!源君!本気でちょっと待って!!!

 

 

ずるり・・

 

有人の頭が絢辻の左肩にかかり、尚も絢辻の肩甲骨あたりまでずれ込もうとしていた。

 

 

―お願いホンっト!ほっっっんと待って!?私達高校生!高校生よ!?

 

 

やはり先程の絢辻の妄想はあくまで妄想だった。妄想の時は「私達まだ高校生よ・・早すぎるわ」なんて落ち着いたカッコイイ台詞を言えたものだが現実は所詮こんなもんだ。

 

 

「み、みなも・・と・・君・・?えっ・・?へっ・・・?」

 

 

「・・・す~っ」

 

 

「・・マジで?」

 

「す~っ」

 

「嘘」

 

「すん・・・」

 

絢辻は左手で目を閉じてぐったりと自分にもたれかかって来た有人を支えつつ、全身全霊を込めて溜息をつき、右手でこりこり頭を掻いた。

 

―そう言えば・・最近「あんまり寝てない」って言ってたっけ・・。

 

「すぅ・・・」

 

「・・・」

 

「くぅ・・・」

 

「・・・」

 

 

 

「・・絢辻さん」

 

「!」

 

「俺頑張るから・・」

 

「・・・♪」

 

「だから・・」

 

「・・?」

 

「・・ぶたないで・・」

 

「・・・・」

 

「す~・・・」

 

「・・・」

 

「くぅ・・」

 

 

「・・・くすっ。・・よっと」

 

 

起こさないように、寝言を邪魔しないように、ゆっくりと絢辻は傾いた有人の頭を自分の腿に乗せる。閉じた瞳の先にある泣きぼくろ、形のいい耳、そして意外に長く、少し癖の強い有人の髪が自分の膝をさらさら伝っていく感触を感じながら絢辻は瞬きもせず、眠る有人の横顔を眺めた。

 

「・・・」

 

そういえばここまでまじまじと彼の顔を見るのは初めてかもしれない。微笑まれると結構「きつい」から直視はしてなかったのだが・・「いい機会だ」と絢辻はクスリと笑い、眠る有人の生来色素の薄い茶色の髪をさくさく撫でる。

 

―・・ふーむ。・・少し肌のお手入れと髪のトリートメントは甘いわね。こういう所はやっぱり男の子というべきかしら・・?・・でも流石に何時もへらへら笑っているだけあって笑い皺は良い感じについてる・・。

 

絢辻、今度は自分の目じりの笑い皺を手で触れて確認する。

 

―こうかしら・・。あっ・・でもよくよく考えてみれば女の子の笑い皺ってあんまり歓迎すべきものじゃないかも・・よそ。

 

そして次はほんのすこし彼の左目の下の泣きぼくろに触れてみる。

 

―いい位置についているわね・・。・・こう見ると結構美系なんだ。もう少しガツガツしてれば言い寄る女も増えるでしょうに・・。

 

 

「・・・・」

 

―・・それも困るか。

 

最後に謝罪のつもりで有人の顔を軽く撫でる。

 

風に吹かれたと勘違いするように優しく、出来るだけ繊細な手つきで。まるで母親が眠る幼子の顔に触れるように。

 

 

 

 

―・・・。あぁやっぱり・・「そう」なんだ。私・・・

 

 

 

 

「・・・え?」

 

 

 

―雨・・?・・違う。・・また一つ。ほら、また一つ

 

眠る有人の冷たい頬に一滴、また一滴透明な滴が落ちる。そして一秒後にはもう絢辻はそれを数える事を止めた。数える余地もないぐらい立て続けに

 

 

 

―・・な み だ ・・?

 

 

混じり気なし。絢辻の瞳から直接有人の頬へ。

 

・・・止まらない。次々に落ちる。

有人の左目の泣きぼくろにも落ちる。有人の目が反射的にピクリと反応した時、

 

―・・!っと!

 

絢辻は慌ててごしごし涙を拭いた。有人の頬に落ちた涙も綺麗に拭う。

 

―・・起こさなくて良かった。

 

もし彼を起こしてしまったら今の自分の状態を上手く有人に説明できそうもないからだ。目頭を指先で拭い、ぐすぐすぐずりながら深呼吸、暫くして漸く涙は止まった。

 

 

―「こんな時」に涙って出ちゃうんだ・・。

 

 

実は悔し泣きなら絢辻は人生で何度もしてきた。誰にも見せず、隠れてこっそりとひっそりと一人で憤懣やる片ない憤りと空しさを糧にして。

 

でも・・こんな涙は初めてだ。

 

 

恥ずかしくて、情けなくて。

 

 

でも嬉しくて・・凄く幸せで。

 

そして、

 

 

 

・・切なくて悲しくて。

 

 

 

数分後、雨は更に強くなった。しかし、絢辻はその頃合いを敢えて見計らって傘も差さず、有人を静かに寝かせたまま、自分の上着のブレザーを彼にかけ、その場を去った。

 

 

 

 

 

鞄も傘も何も無い。また隣に誰もいない。

 

何も持たず、また、何も得ようとせず、ただ自分の中に生まれ、今日ようやく認めたその感情だけを心に携えて。

 

 

絢辻は更に強くなった雨の中を一人飛び出す。

 

 

 

 

 

雨天決行―

 

 

 

 

土砂降りでも、ずぶぬれでもいい。

 

 

 

 

この気持ちを持っていられるのなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数十分後―

 

社の屋根からこぼれた雨の滴の音で有人は目覚めた。

 

「・・・?絢辻さん・・?」

 

自分の乾いた頬に何か張り付くような、突っ張る様な独特の感触に違和感を覚えながらも有人はその「真実」に気付くこと無く、不思議そうに絢辻のブレザーを大事に抱え、家路についた。

 

 

 

もう雨は上がっていた。社の屋根から滴り落ちる透明な滴が夕陽の光を吸って淡く光る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




翌日―


2-A教室にて

「絢辻さん」

「ん?何かしら?」

「はいコレ・・昨日は有難うね。俺眠っちゃったみたいで申し訳ない・・」

「いいのよ。疲れていたみたいだから気にしないで。私も途中で帰っちゃってごめんね?起こすのも悪かったし、丁度雨が止んだ頃だったから今の内にと思って・・」

「ううん。いきなり寝ちゃって困っちゃったでしょ?送りもせずにホントにゴメン・・」

「いいのよ。ふふ・・寝顔可愛かったし」

「うわ・・・お恥ずかしい」

「じゃ、また後でね。私寄る所があるから」

「うん」



そんなやり取りで二人は自然に別れた。しかし―



「有人・・?」

「大将・・」

「ゲン・・」

「源君・・」

「みなもっち・・」

「・・不潔」

「仲間達」は到底二人のその光景、やり取りを看過できなかった。


「えっ?な、何?皆して」

有人はじとりと自分に突き刺さる一行の視線に逡巡気味だった。

「今の・・どういうことだ・・大将?」

「え、い、『今の』って?」

「・・・ゲン・・一線越えちゃった!?・・んがっ!!」

「杉内ぃ・・声がでかい・・」

「い、『一線』・・?ちょ・・ちょっと待って?皆何か面白い誤解・・してるよね・・?」

そんな有人の返答にやれやれと首を振って梅原はこう言った。ぎりりと悔しそうに奥歯を噛みしめて。

「・・大将?・・・『二人してズル早退』→『絢辻さんブレザーの忘れ物』→『俺眠っちゃった』→『いいのよ。疲れていたみたい』→『寝顔可愛い』→『お恥ずかしい』・・と、まで来て言い訳が通用すると思ってんのかああぁ大将!!?あ、・・ありえねぇ・・二人して早退して心配していたのに・・、俺らお前が実行委員来ない言い訳まで考えてたのに・・当のお前はちゃっかり『抜け駆け』していたなんて・・!!何てけしからうらやまし・・ぬ、おおお!!!見損ったぞ!?大将!」

「でぇ!?じ、実行委員のそれに関しては本当に申し訳ないと思ってるよ!?けどそれ以外の解釈はホント誤解だから!?・・・頼むよ・・信じて」

「うん・・。悪い有人。今回ばかりは俺もお前を擁護できない」

親友から目を逸らされる。

「直まで!うそ!誤解だって!」

「うぅ・・源君、不潔だよ・・」

田中も眉を歪めていた。そんな田中の肩に「よしよし」と言いたげにぽんと手を置き、彼女の親友の棚町は―

「そうね・・流石に今回に関しては言い訳が通用するレベルじゃないわ。・・私は源君はもっと『露出が多い子』が好みだと思っていたのに・・」

「まだそれ言うの!?棚町さん!?」

「え!?薫!それ本当なの!?源君・・・最低だよ。趣味にもドン引きだよ!」

「ちょ!ちょっと!!あ、あぁ・・また新たな誤解が・・た、太一君・・助けて」

ただ一人神妙な面持ちで黙っていた御崎は伏せ目がちにしたまま、自分に縋ってくる有人から視線を逸らしながらこう言った。

「・・源君?」

「な、何?」


「せめてその・・『事後』は男が女の子を送るべきだと思うんだよね?僕。・・ヤることヤッた後で一人寝ちゃうのは・・やっぱり男として最低だよ」

―ほら・・その、なんて言うのかな?「フィーリング」って言うか?「お互いの気持ちや愛を確かめた以上、それを再確認する意味でも別れ際は重要」・・的な?

・・的なウザイ手振りをくわえつつ、御崎は哀れむような眼で有人を見た。


「た、太一君まで!ずれたところで誤解している分、更に質が悪い!」







「・・・ふふふっ♪」

そんなやり取りが起こっているのを、そんな「やり取りになる様に仕向けた」絢辻が有人とその友人達の会話を片耳で聞きながら心底楽しそうにクスリと笑った。




















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ルートT 十七章 絢辻と国枝 






18 絢辻と国枝

 

 

 

 

絢辻の予想通り、クラス内で行われた異常なほどの「絢辻バッシング」は収束した。先日のドッジボールでの絶対的不利からの完膚無きまでの圧勝、そしてその時見せつけた絢辻の圧倒的な「覚悟」の行動はアンチ派の恐怖政治等比べ物にならないインパクトを与えていた。

 

更に先日―

 

行われた全国模試で何と絢辻はトップ百に入ると言う快挙を成し遂げ、大いに称賛された。

「自分のクラスに日本で最も頭のいい高校生百人の内、一人がいる」―ここまでの明確な結果を知らされては最早妬み、嫉みというような身近な感覚を覚えるよりも、まるでテレビの中に居る売れっ子のアイドルやら、将来有望のアスリートに対して抱く様な距離感を覚えてしまうだろう。

 

創設祭のトラブル、クラス内での数々のトラブルを抱えながらもそれを捌ききり、尚も止まること無く、誰もが驚嘆する様な実績を上げた絢辻を最早責める人間など居なかった。

だが逆境の中、全てを黙らす様な彼女の圧倒的な功績は結果、皮肉にも絢辻の孤立を更に深める事となる。

しかし、周りの自分に対する感情などどこ吹く風、絢辻は何時ものように振舞い、以前に比べると随分減ったとは言え他生徒の勉強や相談などの頼みを断る事はしなかった。

 

要するに絢辻は変わっていないのだ。変わったのは彼女に対する周りの接し方だけである。

先日から立て続けに起きた絢辻に関する事件はまるで現実味のない夢のような印象を周りの生徒たちに与え、いつしかその話題に触れる物も少なくなった。

それよりも徐々に近づく年末に際し、各々色々と考える事も多いこの時期に何となくこの触れがたい、理解しがたい事象にこれ以上余計に関わるのを良しとし難いのだろう。

 

 

棚町的に言うと「誰も喋らない=喋ると村八分」、「君子危うきに近寄らず」だ、そうだ。梅原、国枝、有人との四人ポーカー勝負で驚異の「フルハウス、Aのスリーカード、ストレート、ダイヤのフラッシュ」の鬼手で彼らを虐殺しながら彼女にしては神妙そうにそう呟いた。

 

そんな中で有人達の日常は続いていく。しかし今年は例年に比べると遥かに慌ただしい年末を彼らは過ごしていた。

創設祭を二週間後に控え、準備作業が佳境に入った創設祭委員会の連日のハードワークに今まで情熱と体力を持て余していた帰宅部の彼らもややガス欠が否めない状態にある。

 

「ふぃ~・・一息つくねぇ・・」

 

放課後2-A教室にて―

 

梅原はジジ臭い一言を発しながらヘッドスライディング着席した。それにぞろぞろと水泳部を手伝いに行っている杉内を除く何時もの2-Aメンツが続く。

 

「・・・」

 

国枝もいつも通り音も無く、無言で座り次の瞬間には既に寝息が聞こえた。当分「冬眠」だろう。その姿を見、何故か棚町薫は大きな溜息をついて

 

「私・・ちょっと恵子に用あるから・・んでその足でバイト行くんで、ほなバイバイ」

 

と、言って憮然とした顔をしながらその場を去った。

 

「棚町・・なんかあったのかね・・?」

 

「・・・う~ん。ま、」

 

「?」

 

「色々あるんでしょ」

 

有人は眠りこける親友―国枝を見た後、棚町の去っていった方向をちらりと苦笑い、何となく梅原、そして御崎も察し、有人と無言でお互い困った顔をして笑った。

 

 

「梅原・・太一君、連日お疲れ様。助かってるよホント」

 

「おう。大将もお疲れ。いや~しっかし創設祭の準備がこんなにキツイとは思ってもみなかったぜ・・毎年毎年なかなかすげぇコトしてたんだな~ウチの学校って」

 

「・・同感。僕も結構昔からここの創設祭は親に連れてきてもらったりしていたけど・・ただ楽しむだけの側だったからね」

 

御崎も幼い顔を少し引きつらせて笑いながらそう言った。

 

「裏方に回らなければ解らない事ってあるよな・・ホント。ただでさえ学校ってそういう行事の多い場所じゃん?やれ修学旅行だ、やれ体育祭だ、やれ林間学校だ。ただ漠然と参加してるだけじゃ気付かねぇわな」

 

「ホントそうだよね」

 

「・・で。二人共休憩もそこそこに各所の作業報告をお願いします。お疲れの所悪いけどね」

 

「了解。大将・・え~~~っと大体大筋は問題なし。舞台照明と音響機器のテストも問題なし。んで保健室の仮眠控室のベッド数も確保。了承済み」

 

「ふん。了解」

 

「・・それにしてもあの『幽霊保健室の先生』―来崎先生をみなもっち・・よく毎度毎度捕まえられるよな・・」

 

「あはは。『確実に居る時間』ってあるんだよ。その時を狙い撃ってるだけ」

 

「へぇ・・すげぇな大将」

 

「保健室に滅多に生徒が来る事のない時は大概いるよ」

 

「・・。それは『保健室の先生』として意味があるのかよ・・」

 

「ある意味怪談だね・・『見える人にしか見えない』霊感、的な?」

 

御崎がやや慄いた表情でそう呟くと有人は苦笑いする。その「霊感」とやらを有人に与えたのは他でも無い絢辻だが。

 

「委員会の作業は殆ど予定通り・・後は・・」

 

「冬眠」していた国枝が有人のその声に僅かに反応し、机に顔を突っ伏したまま資料を渡してきた。寝起きの悪い彼、そしてそれを自覚もしている彼なりの反射的行動らしい。それを何の気なし自然に有人は受け取る。

 

「ありがと直」

 

「・・国枝君・・。この人も大概不思議だよね。それに驚かない源君達にも驚くけど・・」

 

「俺たちゃ慣れてっからな」

 

「そだね」

 

「・・・そっか」

 

御崎はそう言って笑う「旧知の間柄」の彼らの姿を垣間見て少し複雑そうな表情をして笑う。

 

「太一君?」

 

「・・・ん?何?」

 

「・・・いずれ解るって。案外直は解りやすいヤツだから」

 

「・・うん」

 

 

有人の言葉に御崎は表情を少し緩ませる。

 

 

 

 

「・・。う~んやっぱりウチのクラスの作業は遅れ気味か・・」

 

国枝から手渡された資料を閲覧しながら有人の表情が曇る。

 

「まーここ一週間はほぼ委員会の主要な作業にウチの人員割いたからな~。遅れが出るのは解っちゃ居たけど・・」

 

「先週は急に寒くなったせいで病欠も結構出たしね。これで無理をする人が増えて入れ替わり立ち替わりで体調崩す人とかでたら・・ちょっとマズイよね」

 

「かくゆう俺も・・ゲフンゲフン!持病の、エイズが・・ごおふっ・・」

 

「まだ余裕があるね。頼りにしてるよ梅原。こことこことここ・・あ。ここも梅原に任しちゃおう」

 

さらっと有人はそう返し、手元の資料の「梅原に押し付ける箇所」に機嫌よさそうにくるくる○を入れる。最近の有人は度重なる絢辻の調教によって辛辣なスルー力、仕事の押し付け力が向上している。

 

「労わってェ・・お願い。ワタクシ結構ナイ~ブな少年なのよ~~?」

 

「梅原君・・自分に似合わな過ぎる表現は止そうよ。自己評価が下手だねぇ」

 

「御崎ぃ・・オメも案外辛辣だな」

 

 

 

「ふー・・それでも幾分マイナス・・かといって創設委員会のメンバーをこっちに回すわけにもいかんしな~頭が痛い・・」

 

「・・有人」

 

突っ伏したまま僅かに国枝が顔をあげた。国枝という少年は本当の意味で「睡眠学習」が出来る稀有な人間である。寝ながらもある程度周囲の話題に反応が出来る特技がある。

 

「ん?何」

 

「それに関しては俺に『アテ』があるからさ。任せてくんね?委員会の方は任せるけど」

 

「・・え?そうなの?」

 

「おぉ~国枝っち素っ敵ぃ~~!」

 

「でも国枝君ホント大丈夫?結構・・遅れてるよ?コレ」

 

「大丈夫」

 

「・・」

 

普段とは異なり、冬眠中、寝ぼけ眼の国枝はお世辞にも頼り甲斐があるとは言い難い。

ただしあくまで「他人にとっては」だが。

 

「解った。直衛に任せるよ」

 

「親友」の有人は微笑んだ。梅原も頷く。

 

「おう。じゃあ・・早速ちょっと行ってくる」

 

のそりと国枝は立ちあがってのろのろ教室を後にする。が―

 

ごちん

 

「あたっ・・」

 

「・・・!?国枝君!?」

 

教室の柱に顔をぶつけ、奇声を上げる国枝を心配そうに御崎駆けより、声をかけるが「・・大丈夫」と呟いて再びのろのろ歩き出す。

 

「だ、大丈夫かな~?」

 

御崎はその後ろ姿にハラハラしながら有人達にそう尋ねるが既に有人と梅原の二人は作業を再開していた。

 

 

 

 

 

 

図書室―

 

 

「・・絢辻さん」

 

 

「!」

 

 

今日の勉強のノルマを既に終え、一人息抜きの小説をいつもの図書室の机で読んでいた絢辻は突然、唐突に声をかけられた。振り返るといつの間にかそこには有人よりやや高めの長身のシルエットが佇んでいる。

 

―え・・。

 

意外な人物から声をかけられた事に絢辻もやや意外そうに瞳を見開きながら頷くように頭を少し下げる。

 

「・・国枝、君・・?」

 

「今大丈夫?」

 

「・・ええ。何か私に御用かしら?」

 

 

 

「その・・、よければ手を貸してくんないかな。ちょっと・・クラスの作業がまずそうなんだよね。日程的にも人員的にも。だから絢辻さんがいれば大助かりなんだけど」

 

意外な国枝の申し出に絢辻は目を丸くし、暫し考え込むように口を手でつぐんだ。

 

「う~~ん私は別にいいんだけど・・でも私が行ったら皆もやりにくいんじゃないかな?それに私、実行委員会干されちゃった身だし」

 

「・・俺は絢辻さんが『創設祭に関わる全ての事に関わる事を禁止された』って聞いた覚えは無いよ。ま、連中はそのつもりだったかも知んないけど。そんなの俺は知らない」

 

「・・くすっ。・・でも本当に大丈夫かな?」

 

あのドッジボール以来、和らいだとはいえ相も変わらず絢辻とクラスメイト達との微妙な空気と距離感は存在している。特に一部のクラスメイトの女子との間の溝は根深い。

 

状況を鑑みれば絢辻が国枝の要請を断る事は妥当だ。

 

ただし、一方で絢辻がそんな事も「瑣末なこと」として受け流し、クラスの作業を指揮し、滞りなく行う事が出来る事も事実ではある。今まで勤め上げた実行委員の山積していた課題をキレッキレに捌いていた絢辻のキャパからして山のようにお釣りがくる。

 

だが、ここまで多くの理不尽にさらされ、立場を潰され、尚も些細であっても理不尽な衝突や軋轢のリスクが生じる可能性のある場へ自ら踏み込む事にはなる。そう考えると「そこまでして手伝ってやる義理はない」と彼女が突っぱねても何ら問題は無い。国枝もそこは承知であろう。しかし・・

 

「・・いいわよ。喜んでやらせて貰うわ」

 

絢辻は笑って国枝の申し出を快諾する。

 

「・・有難う。本当に助かるよ」

 

国枝自身も恐らくは気を遣って絢辻をヘルプに回しても問題ない、比較的中立的な集団に自分を派遣してくれるだろう、という予測が彼女にはあった。

 

「じゃあ・・何をすればいいのかしら?今日からどこか手伝いに行けばいいの?」

 

「あ。今日の所は大丈夫。明日から梅原の所へ行ってくれるかな。ちょっと遅れている箇所がいくつかあるんだってさ」

 

「了解しました♪よろしく頼むわね?国枝君」

 

「こっちも了解。・・本当に有難う」

 

「・・ううん。気にしないで。」

 

「それじゃあ・・勉強中お邪魔して申し訳ない」

 

そう言って国枝が踵を返しかけた時だった。

 

 

「・・。国枝君?」

 

 

「・・・ん?」

 

「ちょっと・・時間ある?ちょっとお話したい事があるんだけど」

 

「・・俺に?絢辻さんが?」

 

 

「ええ。・・その、源君・・。・・・・有人君の事で」

 

 

絢辻は何時もとは違い、有人の事をそのまま名前で呼んだ。これは国枝が何時も彼の事を『有人』と呼んでいる事を意識してのことである。

 

「・・・。いーけど」

 

国枝はその意図を理解した。多くの人間にとっての「源 有人」ではなく、限られた人間、親友にとっての「有人」を知る人物。

 

それが国枝だ。

 

この学校に居る人間の中で最も有人を知る人物であろう。絢辻どころかひょっとすれば本人の有人以上に「彼」を知っている可能性すらある。そんな印象を絢辻は国枝に持っていた。

 

国枝は絢辻の向かいの席に座り、改めて目の前の少女の表情を見る。薄く微笑んだまま少女の表情は動かない。それは取引の代償を求める様であり、先に条件をだし、承諾をしてもらった国枝にとってその場をそのまま立ち去り難い空気を纏っていた。

 

「・・。申し出を引き受ける代わりの『交換条件』ってところ?」

 

国枝はいつの間にか進退極まった自分の状況に少し薄くニガそうに笑ってそう言った。

 

―察しが良くて助かるわ。

 

そう言いたげに絢辻もまた、国枝の質問に無言のまま今度はハッキリと顔を傾かせて微笑む。

 

 

揺れた長い漆黒の絢辻の髪が夕日に照らされて赤く光った。

 

 

 

 

 

 

翌日―

 

 

「・・・え。あ、絢辻さん?」

 

 

「・・。こんにちわ。今日からクラスの作業を手伝う事になりました絢辻 詞です。至らない点も多々あると思いますがよろしくお願いします」

 

 

目が点状態の有人を尻目に絢辻は少しわざとらしいとも言える様なまるで「初めまして。ふつつか者ですがよろしくお願いします」とでも言いたげな初々しい挨拶をした。

 

「足を引っ張らないように頑張るわ。源君よろしくね♪」

 

「は、はい・・・」

 

一通りのあいさつを終え、絢辻がその場を去ると有人は国枝のもとに詰め寄った。

 

「な、直・・ひょっとして君が言ってた『アテ』って・・」

 

「・・。最強の助っ人だろ?」

 

国枝は事も無げにそう言った。

 

「でも・・絢辻さんは・・」

 

「・・。そこはお前がフォローすんだよ」

 

国枝は「俺達」ではなくあえて「お前」と言った。流石の有人も少し顔をゆがませて

 

「・・。直衛ってさ~時折すっごく強引だよね」

 

国枝はその言葉にふんと鼻を鳴らし、無言で腕を組んだ。こうなるとこの親友は頑として動かない。

 

「・・その強引さを少し棚町さんに出してあげたら?喜ぶと思うよ」

 

「うっせ!!」

 

「ははっ」

 

有人は少し意地悪してやった。そして同時覚悟する。今度は自分達の番だ、と。

 

彼女は今まで自分達、そして他の多くの人間の為に自分を費やしてきた。自分の立場も積み重ねた実績も犠牲にし、自分たちを守ってくれた。

 

絢辻が再びクラスの中へ溶け込んで行く。周りの生徒は困惑の表情が隠せていない。目に見えた敵意を出す人間など最早いないが、絢辻に対する無意識の「怯え」に似た感情は当然残っている。

今度は有人達が彼女を守る番だ。彼女のしてきた事にほんの少しでも自分達が報いるためにはそれしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・なぁ・・有人?」

 

「何?」

 

「お前さ・・」

 

「ん?」

 

「・・いや。何でもねぇ」

 

「・・・?そう?」

 

「・・」

 

「・・・じゃ!行きますか。後ひと頑張り・・」

 

有人は息を吐くようにそう言った。

 

 

「・・おお」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「・・。やっぱすげぇわ。絢辻さん」

「全く」



「はい!猪瀬くんはそっち側持って!・・・。ダメ。少しずれてる。少し戻して・・。・・よし!大丈夫よ」


数週間創設祭の作業から一切離れていたにも関わらず、クラス内作業でも全く以て衰えを見せないリーダーシップを発揮する絢辻に梅原と御崎の二人は驚嘆する。



「あ、あの~~絢辻さん?」

蒼い顔をしたとある女生徒が怯えながらも絢辻に勇気を持って話しかけてきた。

「ん?どうかした?」

「ど、どうしよう・・備品をきらしちゃって・・あれが無いと作業が出来ないの・・」

「備品って・・ああ。コレ?大丈夫。実行委員会で発注しすぎた分があると思うわ。国枝君?悪いけど『彼』に話を通してくれないかしら?多分分けてくれると思うから・・」

「あ、りょ、了解です」

国枝。思わず敬語で返す。


「あ、ありがとう。絢辻さん」

絢辻に意を決して相談して良かったと安堵の表情で女生徒は絢辻に礼を言う。

「大丈夫よ。お金と一緒で『ある所にはある』んだからそこから有難く頂戴すれば♪・・さて・・棚町さ~ん?」

一つの課題を難なく捌いた絢辻は時計を確認した後、向こう側で作業をしている棚町に声をかける。


「ん~何?」


「そっちはどうかしら?」

「あらかた片付いた所~。大変な作業だったけど馴れれば結構楽しくて思ったより早くすんだわ」

「流石に仕事が早くて助かるわ。やっぱり頼りになるわね。棚町さんは」

「そ、そう?照れるなぁ」

「そこで折り入って棚町さんに次の頼みごとがあるのだけど・・でも忙しいかしら?そして疲れてるわよね?そうよね・・そうよね・・」

「いやいやいやいや!!大丈夫!大丈夫!のーぷろぶれむ!」

「そう!?実は―」



「・・・上手い。絢辻さん薫の扱い方をよく知ってら・・」

国枝が見事なまでに籠絡されている棚町のその光景を見ながら傍らに居る御崎、梅原二人にそう呟く。

「『棚町さんの扱い方』か・・確かに」

御崎も頷く。「ああ、恐ろしい、恐ろしい」と。

「・・解るか御崎。『キツイがやりがいのある仕事』を絶妙のスパンで切り替えて薫に与えているんだ・・。『典型的飽き性B型女子』―薫のモチベーションが落ち出すギリギリのところ、絶妙なタイミングで声かけ→次の作業への的確な指示と適度なおだて・・結果『ノンストップかおるちゃん』が出来るっていう寸法だ・・」

「い、嫌な『寸法』だな。オイ・・」




「・・梅原君?御崎君?」


「「!はっはいっ!?」」

びっくぅうううう!!??

傍観者だった三人の視線に絢辻は気付いていた。いかにも「ヒマそうね?」とでも言いたげな微笑みで三人に近付き、両手を合わせ―さぁ、「おねだり」開始だ。

「・・お二人にも頼みたい事があるんだけど~・・良いかしら?女の子だけじゃとても出来ない力作業で・・国枝君?悪いんだけどお二人をお借りしていいかしら~~?」

「・・・。ど、どうぞ」

―す、すまん。二人共・・。

ここまで行くと軍事国家の徴兵令並みに拒否は困難である。国枝は「召集令状」を突き付けられた二人に目で詫びた。二人は覚悟した顔で無言でこう言った。


―・・逝ってきます。

―・・梅原正吉十七歳。勇ましく死んで参ります・・。


絢辻。「ノンストップうめはらくん」「ノンストップみさきくん」―確保完了。





二時間後―

その二人の下に創設祭委員会の作業を一段落させ、クラスの様子を見に来た有人が現れる。

「・・はい!頼まれてた備品持って来たよ~~。・・ん?梅原?太一君?棚町さんまで・・どうかした?」

「いや・・まぁ」

「何でも、無いよ・・」

「バ、バイトより疲れたわ・・」

三人は座りこみ、ぐでぇと教室の壁にもたれかかったまま教室の天井を生気の失せた目で見上げていた。それを見て有人は瞬時に察する。

「・・・。あ。ひょっとして絢辻さん?どう?凄いだろ?」

元「ノンストップゆうとくん」は懐かしむように、目の前の友人達三人のくたびれた姿についこの前までの過去の自分の姿を重ねて微笑んだ。






















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ルートT 十八章 自由










「・・・。委員長」

 

「・・うん」

 

創設祭委員長―黒沢 典子は促され、大きく息を吸って

 

「・・・。お、お、お疲れ様でした!!!」

 

折角した深呼吸はあまり意味がなかったらしい。結局たどたどしく、あんまり閉まらない黒沢の「閉めの言葉」に委員達は苦笑しながらもお互いの顔を見合って口々にこう呟いた。

 

「お疲れ!」

「・・やった!終わった~・・」

「ホント・・良かった・・」

「ちょっと泣かないでよ・・吊られちゃうじゃない」

 

感極まって泣き出す子も出る始末である。

 

本日創設祭二日前、12月22日。吉備東高校創設祭の実行委員会は創設祭準備の全作業日程を満了した。細部に限れば遅れはあるものの許容範囲内であり、大筋は妥協のない結果に満足そうに、そして心底安心した姿が見てとれる。感極まるのも無理のない程苦難の道だったのだ。その気持ちは有人には良く解った。

 

「おいおい~本番はまだなんだぜ~?泣くなら創設祭終わってからにしよ~や~・・」

 

実行委員のムードメーカーを務めた一年男子、ヤンチャそうな久野がおどけるようにそう言ったが、

 

「何よ。久野君だって泣きそうなくせに~鼻声よ」

 

と、反撃を喰らって

 

「な、泣いてねーって」

 

と返すのが精いっぱいだった。しかし一番泣いていたのは黒沢典子だった。

 

「うっ、ひっく・・ぐすっ」

 

一番泣いてはいけない立場だと自分に言い聞かせ、絶対に泣くまいと気を張っていたようだがやはり無理だったらしい。紆余曲折あった。全ては自分の撒いたタネだった。結果自分の未熟さ、幼さ、目をそむけたくなるような自分の嫌な部分と初めて向き合った。

そして沢山の人に助けられ、多くの貸しを作り、また多くの人を傷つけた。そしてまだそれをこれから先もまだまだ黒沢自身、色んな事を償う必要がある事も百も承知だった。

それを鑑みれば到底自分は泣ける立場にないとは百も承知。でも黒沢の涙が止まらなかった。

 

「・・はい!も~~黒沢委員長!いつまでも泣いてないで!」

 

「え、ええ・・皆さん・・ぐすっ御苦労さまでじた。ぞ・・じてまだまだこれからですぃ。

創設祭本番を成功さぜるために・・ひくっ・・最後までごぎょう力おねがいじばふ・・」

 

正直、聞くも見るも堪えないトップの激励の言葉だが有人以下、創設祭委員、国枝、梅原達を初めとする臨時委員も込みでその気持ちが良く解る分、士気は幸いにも上昇気味である。有人は泣きじゃくる黒沢を宥めた後、創設祭委員の皆とハイタッチした後、何時ものメンツ―梅原、国枝の元へ行き、

 

「おつかれっ!」

 

満面の笑みでそう言った。

 

「ああお疲れ。・・後は任す」

 

「大将お疲れっ!俺らも本番も適当に参加して盛り上げっからよ?頼んだぜぃ?」

 

「うん。本当に有難う」

 

「何。楽しかったぜ。なぁ?国枝?」

 

「・・・」

 

国枝は無言で頷き、彼にしては珍しく素直に微笑んだ。

 

「太一君や棚町さん達にもまたお礼しないと・・ちゃんと創設祭本番には連れて来たげてね?・・直」

 

「にひひ~何時もみたいにトチんなよ?」

 

有人と梅原は少し悪戯そうに国枝を見た。

 

「・・・」

 

そして彼ら臨時の実行委員との労いの場もそこそこに

 

「ぐずっ!・・・さて!・・これから正規の実行委員だけで当日の手順の確認を行います!明日のリハーサルが本番だと思って取り組みましょう。つまり今からの作業がリハーサルだと思って気を引き締めてください!」

 

ようやく落ち着いた黒沢が今度は中々に委員長として威厳を保ったしっかりとした指示を行って場を引き締めた後、最後に臨時の実行委員―梅原や国枝達に向け背筋をちゃんと伸ばし―

 

「臨時の実行委員の皆さん。・・本当にお疲れ様でした!皆さんの協力なくしてはここまで来られなかったでしょう。本当にお疲れ様、そして有難うございました!!本番を楽しみにしていてください。・・実は正規の実行委員にしか知らされていないいくつかのサプライズも用意してありますのでお楽しみに!出は改めて本当に・・本当に有難うございましたっ!!」

 

そう締めくくって深々と頭を下げる。

 

ある意味彼女はこの実行委員会を通して最も成長した人間の一人である。高飛車感を改め、心からの感謝をまだまだたどたどしいながらも少しは伝えられるようになってきた。そんな彼女に自然と拍手と彼女を元気づける様な声も飛ぶ。

 

「へへ・・っ」

 

それを素直に受け入れ、はにかみ、照れた顔で微かに黒沢は笑った。有人は黒沢の成長を見届けた様な顔で満足そうに彼もまた微笑む。

 

「・・。と、言う訳で二人共・・本番お楽しみに・・」

 

「何だよ~みなもっちまだ隠し事かよ~隅に置けないねぇ~このこの~」

 

「まぁね・・」

 

「・・・。多分会計に載ってたあの使途不明金の使い道だな。備品の内容的に巨大ロボットとか何かか?」

 

「・・・勘が良すぎるのも大概にした方がいいね。直」

 

「うわ~くにえだっち・・つまんねぇ男だわ・・・ホント空気読めよ。例え気付いたとしても敢えて口にしないっていう優しさ見せろよな・・」

 

「え・・・当たりかよ」

 

「ほら!帰るぞ国枝っち!そしてオメはこれ以上なんにも喋るな!全く・・サプライズネタ全部見抜きそうでこえぇんだよお前さんは!俺は驚きて~のに」

 

「・・・。すまん」

 

珍しく梅原に針の莚にされた国枝は居心地悪そうに黙るしかなかった。そして親友二人を見送った後、有人は改めて元祖創設祭の実行委員の最終会議に出席するために視聴覚室へ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

視聴覚室にて―

 

「え?」

 

・・何かがおかしい。有人は首を傾げながら何度も手渡された資料を見直した。

 

「・・んん?」

 

今度は反応まで変えた。しかし内容は変わらない。明日のリハーサル手順、そして本番当日のスケジュールとそれに合わせた各実行委員達の身の振り方、配置、人員、休憩時間のローテーション等が細かく記載された手元の資料を穴があくまで見る。

 

「???」

 

しかしその資料の何処にも、どう探っても「源 有人」の名前が無い。出てこない。

 

「・・では、このプランにしたがって明日のリハーサルは動いてもらいます。明日、そして本番はくれぐれも遅刻しないように。あと体調には気を付けて!本番のイヴの日は結構寒いみたいだし各自体調を整えておく事!以上、解散です」

 

黒沢はそう締めくくった。他の実行委員も呆ける有人の疑問などどこ吹く風。一部の委員が資料片手に黒沢と二、三確認するぐらいで大半の委員はぞろぞろと帰り支度を始める。

 

―いやいや・・「以上」じゃなくて「異常」があるんですけど・・。

 

「あ、あの黒沢さん・・」

 

「了解。お疲れ様。明日も頑張りましょう」と、確認しにきた委員に柔らかい声を掛けながら見送った黒沢は歩み寄って来た有人に―

 

「・・。何かしら?」

 

自らの表情を憮然としたものに変えて腕を組んだ。

 

「僕は当日・・というか明日からどうすればいいのかな?何処にも・・名前のってないみたいなんだけど・・」

 

「ええ?・・。あ~~らホント」

 

作業資料にほんの少し目を付け、ほぼ間髪いれずに黒沢はそう呟いた。大した確認はしていない。明らかに知っていた節が在る。

 

「『ここ』に載って無いんじゃ仕方ないわね。お疲れ様。源君。明日も当日も好きにしたら?」

 

いつの間にか「変わった」と思っていた黒沢が以前までの有人に対するつっけんどんな黒沢に戻っていた。

 

「えぇ~~!!ちょ、ちょっとまって!」

 

「だ、だって仕方がないじゃない!?役割割り振っていったら源君だけ何故か余っちゃったんだから」

 

「そ、そんな・・」

 

「ねぇ・・みんな?仕方ないよね?」

 

 

「そーそー」

「仕方ないです」

「源センパイ居なくても大丈夫っすよ俺達」

 

口々に帰り支度をしながらも黒沢の問いに適当なざーとらしい生返事が有人に帰ってくる。有人に同情票を上げる人間が一人もいない。

 

―・・いじめ?

 

その仕打ちに閉口している有人を見ながら黒沢は大きくため息をつき、そして少し心なしか瞳を曇らせてこう言った。

 

 

「・・明日も当日も『好きにしたら』?『誰と来ようと』、『何処に行こうと』源君の・・・

 

 

『自由』、よ?」

 

 

どこか自虐的に笑った黒沢は少し大人びて見えた。その彼女をフォローするように実行委員の同輩、後輩達が口々に続いた。

 

「お疲れ源。本番は見に来いよな」

「そうっすよ。源先輩」

「・・。『誰と来ようと』自由ですよ」

「・・出来るなら私達の『成果』を『見せるべき人』に見せて欲しいなぁ」

 

 

「・・仕方ないですね。ヒマになっちゃった以上、せいぜい本番の日は有意義に過ごしてください。源センパイ・・」

 

 

最後に実行委員会一年生代表の真面目な「あの」少女―坂上が珍しく悪戯そうにそう言い放った。有人は気まずそうに苦笑いしながら頭を掻き、

 

「解った。解りましたよ・・少しさびしいけどそうするよ」

 

 

 

 

「自由」―

 

この言葉を皮肉にもこんなに不便に感じるのは人生で初めてである。

自由―「何をしても許される事、自己の本性に従う事」であるが、コミュニティの中で定義された「自由」の意味は必ずしもそうとは限らない。

 

確かに有人は「自由」だ。先程まで彼を拘束していた場から一締め出された以上、これから彼が何をしようと何処に行こうと「自由」だ。しかし、その今回の「自由」には逆らい難い「陰の強制力」の様な物が働いていた。自由を行使する上での避けられない「義務」を重く背負わされた感じがした。

しかし、不愉快な訳ではない。そして自由の定義である「自己の本性に従う事」にその「義務」は必ずしも有人にとってかけ離れている訳ではない。

 

「自分達の成果を、結果を見せたい、楽しんでもらいたい人が居る」―それを今有人、そして目の前に居る彼ら達も大いに理解し、共有している。だからこそこの有人へのある意味理不尽な「不自由な自由の強制」に踏み切っているのだ。

 

有人はここ数カ月離れること無く一緒だった創設祭実行委員の面々に見送られ、視聴覚室―

 

否。

 

「創設祭実行委員会」を後にした。

 

 

 

「・・・」

 

―・・う~~~ん。

 

部屋から出た途端、大きく有人は伸びをする。解放感と共に何処か寂しい空虚感がない交ぜになった不思議な感覚を味わった。今考えてみると数か月前は彼の日常はこれが普通だった事を考えると奇妙な物である。

 

今は「これをしなければ」「あれをしなければ」ではなく、「何をしようか」を考える時間だ。

 

―・・絢辻さんもこうだったのかな?

 

ふと有人はそう思った。「当り前の日常から外れた彼女と当り前の日常に戻った自分」―そのような差はあれどきっと抱えた今の感情には大差は無いのではないかと思う。

 

悪くは無い。でも少し淋しい。

 

そうなると今自分はまず何をすべきかなと考える。とりあえず今は―

 

―直と梅原に追いつくか。まだそんなに遠くへは・・

 

 

「誰がお探しかい?大将」

 

「・・随分早いお帰りで」

 

・・どうやら「彼ら」は有人を除く実行委員会の策略、魂胆に加担していたらしい。悪戯そうな笑顔で「彼ら」―国枝と梅原は有人に歩み寄る。

 

「・・。さて『明日から』どうすんだ~~?大将」

 

「・・・。とりあえず出かけるよ」

 

「・・そうかい♪」

 

ニヤついた梅原の表情にそう返す有人を国枝はじっと無言のまま見ていた。

 

 

「自由」の代償に背負わされた「義務」を携えた友人―有人の背中を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





「・・・」

ドアの向こう、何時もの友人三人に囲まれ、帰っていく有人達の声、足音に黒沢は耳を傾けていた。そして足音も気配もしなくなった後、黒沢は自分のカバンからおもむろに「それ」を取り出す。

―やっぱり・・必要無くなっちゃったわね。これ。

有人がもしそれでも「ここまで来たんだから最後まで実行委員としての役目を全うしたいよ」―とでも言ってくれたなら黒沢はこれを有人に手渡すつもりだった。
「それ」はもう一つの実行委員への当日の役割分担の配布資料。コピーもしていないオリジナルである。これにはちゃんとリハーサル、そして創設祭当日にちゃんと「有人を含めた」実行委員各自の行動の割り振りが載っている。

「・・・んっ!」

黒沢はそれを両手でくしゃりっと丸め、ゴミ箱に詰め込んだ。もう誰の目にも触れる事は無いだろう。



・・彼女の有人への想いと共に。




―あ~~すっきり・・・・・した。







・・ぐすっ。








少し泣いたらまた・・






頑張ろ・・。










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ルートT 十九章 純愛ラプソディ






12月23日―

絢辻は眠っていた。

「・・・・・」

毛布にくるまりながらまるでこの部屋から外の・・いや、この布団の外の世界から隠れるようにして眠っていた。
部屋の窓から僅かに射しこむ日の光は明らかに本日、小春日和の良い陽気の日である事を示している。それがまた絢辻の憂鬱感を増長させる。全くの変哲の無いいつもの休日であるならば、図書館にでも行って勉強やら読書をし、帰りに喫茶店にでも入って美味しいお茶を嗜んで・・と、「優等生 絢辻 詞の華麗で優雅なる休日」を送るには絶好の日和なのだが・・この23日とは世間は俗に言う「イヴイヴ」である。よって―

―・・。明日は・・いやここ数日は家でじっとしておこう・・。

絢辻はそう呟き、決心して昨夜床に着いた。しかし、現実はそううまくは行かない。
潜り込んだ絢辻の上布団―固有結界をやすやすと貫通し、響き渡る能天気な声が絢辻の耳に飛び込んで来たからだ。言うまでも無く「あの」声。あの「ワンワンピーピー」煩いあの声だ。


「つかさちゃ~ん」


「・・・」

―・・。うるさいなぁ・・。


「つかさちゃ~んってばぁ」


「・・・!」

しつこい姉―縁の声が玄関からキンキン響き続ける。それが繰り返されるたび徐々に絢辻にじりじりとフラストレーションが溜まっていく。

―あ~~うるさい!!私、今年はずっと寝ているんだから!

・・どーせ「あの人」は創設祭に出っぱなしだろうし?ど~せ行くとこなんて無いもん。

ふ~~んだ!

この時期に好きこのんで一人身で外に出る人なんているもんですか!
下心丸見えの連中に行く先々でナンパされるのが目に見えてるっつーのっ!だったら家で寝てるか勉強してたほうが百倍マシっ!

・・創設祭は・・ちょっと行きたいけどっ!・・でも私から引き継いだあの女が主催している創設祭なんて不愉快だからやっぱりイヤっっ!

「つかさちゃ~ん何時まで寝てるの~?」

「・・・!!」

―この私が気の済むまでよ!



「もぉ・・せっかくゆうと君が来てくれているのに・・」



―うっさい!貴方が彼を名前で呼ぶな!私だってまだ正式には彼の事名前で呼んだこと無いのに!あいっかわらず馴れ馴れしい女!

「ゆうとくん・・つかさちゃんまだ寝てるみたい。ごめんね。折角来てくれたのに・・」


「縁さん・・『だから起こさなくていい』ですって。寝ているならそっとしといてあげて下さい・・」


「でも折角来てくれたのに・・うん!!もうちょっと待っててね!私負けないから!」

「勝たなくていいですってば・・っていうか何と闘っているんですか縁さんは・・」



―そうそう!諦めが肝じんよ。いい事言うわねみなも―

みなも、・・


「・・ん?・・え?は?」


がばっ!


「え、え、えええ・・?」


一気に覚醒した頭と寝起き状態のパッパラパーの自分の状態、そしてここに居るはずのない声を総合的に判断し、絢辻は寝起き即のオーバーワークな脳のフル回転を開始する。

―え?・・え!?どういうこと?

跳ね上がった心臓と跳ね上がった何時もの美麗さ、清廉さの欠片もない頭を両手で抱えて脳と目玉を絢辻はぐるぐる回転させる。











 

 

 

 

 

 

 

20 純愛ラプソディ

 

 

 

 

 

十分前、絢辻姉妹のマンション前の河川敷にて―

 

「こんにちは・・」

 

「ん・・・あ~~っキミは・・・」

 

絢辻の姉―縁が河川敷の草むらに惜しげもなく大の字で寝っ転がっている所を控え目に覗きこんだ有人の顔を上目遣いで見、大人びた物腰を目一杯幼くして微笑んだ。

 

「お久しぶりです縁さん」

 

その笑顔ににっこりと有人も微笑みで返す。

 

「・・・。わぁ!!また来てくれたんだ!嬉しいなぁ。ん?でもつかさちゃんは今元気だよ?お見舞いなんていらないと思うけど・・」

 

ひょこっ、と上半身だけこの年代の女性にしては随分可愛い起き上がり方をし、とぼけた表情で有人をまぁるい上目遣いで見つつ、縁は相変わらずずれた発言をする。

 

「いや、今日はお見舞いじゃないですよ・・」

 

「そうなの?へんなの」

 

「『へん』・・?」

 

―・・・。縁さんには言われたくないんですが・・まぁいいや。

 

有人は思い知る。世の中には深く考えちゃいけない事が確実に存在する事を。

 

 

「あの・・絢辻さんは居ますか?」

 

「え?『絢辻』ならここにいるよ」

 

縁は自分の顔を人さし指でさして、またまた不思議そうな顔をする。

 

「・・え~っと・・『つかさ』さんです・・」

 

「あぁ!つかさちゃん?・・なら今日はまだ寝てるよ~。今朝何度か起こしに行ったんだけど『うるさい!』、『眠い!』、『寝かして!』でとりつくシマも無く追い出されちゃったわ~。寝相が悪いのを注意しようとして近付いたら蹴り飛ばされちゃったし~~・・つかさちゃんったら酷いと思わな~~い?」

 

「・・・」

 

普段と違って優雅さも、品性のかけらも無い生活感丸出しの絢辻の話を嬉々として聞かされる。

 

―・・。「居るか」って聞いただけなのに・・。

 

しかし拙い情報を色々聞かされた。妹としてフリーダムな姉の言動に常日頃、心底気を遣っているはずの絢辻に後で「・・あの人と何を話していたの?答えなさい・・?」とでも聞かれたらどう答えればいいのやら。内心「まずいなぁ」と有人が苦笑いで縁の話に適当に相槌を打ったところで

 

「よっ!」

 

縁はぱんぱんとお尻を払いながら立ち上がる。背は妹より随分と高い。

 

「待っていてね。つかさちゃん呼んでくるわ♪」

 

「・・あ。まだ寝ているなら大丈夫です。これを渡しといてもらえれば・・それと一つ伝言をお願いしたいです」

 

そう言って創設祭の案内、スケジュール、事付けを書いた資料を有人は手渡そうとしたが・・

 

「会ってあげて。つかさちゃんも喜ぶと思うから。それに・・」

 

遮る様に縁は微笑んで有人の袖を掴み、年端の行かぬ女の子の様に無邪気にぐいぐいと引っ張る。元々目を奪われるくらいの美人、その上天然魔性を備えた特有の可愛らしい仕草、

おまけに何処か言い淀むような言葉―吸い込まれるように

 

「それに・・何ですか?」

 

 

有人は言葉の続きを促してしまった。・・正直「私も貴方が来てくれて嬉しいから」とでも言ってくれたら嬉しい。

 

 

が―

 

 

「よかったら私を私の部屋まで案内して送ってくれるかな~~♪いっつも自分のお部屋の場所を忘れちゃうの。私」

 

 

「・・・。解りました。行きましょう」

 

露骨ながっかり感と脱力感に有人は断る気力すら失った。

 

 

 

十分後―現在

 

「ゆ、縁さ~~ん!?」

 

―どうどうどうどうどう!!

 

マンションの部屋に着いた後、妹を強制的に起こそうとずんずん進撃する縁の制止をしながら有人が絢辻の部屋までの廊下を縁に引きずられるようにしていると―

 

バガン!!!

 

いきなり絢辻の部屋のドアが廊下を遮る様に勢いよく開いた。

ドアの前にかかった「つかさちゃんのお部屋❤」と明らかに姉の縁が書いたであろう手作りくさい立て札が振り落とされんばかりに勢い良く揺れ、有人は思わず「おおっ!?」と、ビクッとする。

 

 

 

「来ないで!!!」

 

 

 

廊下を塞ぐように開けられたドアの向こう側から鋭い制止の声がし、同時にドアの横からにょっきりと人形劇みたいに絢辻の左手が人差指を立て、今すぐにここから立ち去る様にしきりに激しい動作で有人と縁を制止、牽制する。が―

 

「や~っと起きた!つかさちゃん!ゆうと君が来てくれたわよ~」

 

「~~~~~!!!・・!・・!・・!!!」

 

その姉の能天気な声に苛立たしさが極限になったのであろう。絢辻の左手が見事に中指を天に向けた「F○CK!!」の形になった。

 

「ま!つかさちゃんたらはしたない。お客さんに対して失礼よ~?」

 

「いや、アンタにだよ」と、思わず言いかけながらも有人は泣きそうな口調で必死に縁に退陣要求する。「殿!お願いですからここはお引き下され!!」的な。

 

「ゆ、縁さん。戻りましょう!ほんと!ほんっっっっとお願い!」

 

ぶぅ、と唇を尖らせて尚渋る縁の背を玄関の方向へ押しながら有人は振り返り、

 

「お、お邪魔しました!絢辻さん!ホント、ほんっっとごめん!!」

 

絢辻の手に向かって泣き笑いに近い心持でそう言った。が―

 

――!あ・・。

 

 

「・・・。・・・!・・・!」

 

 

有人の目に映った今度の絢辻の手は掌を一杯に広げ、何かを軽く叩くような動作で小刻みに上下に振っている。彼女の意図する答えは有人にすぐに解った。

 

 

 

―待ってて。すぐ行くから。

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・~~~~~っ!!」

 

いらいらいらいらっ・・・!

 

三十分後、身なりを整えた絢辻はなかなか自分の階まで来てくれないマンションのエレベーターを放棄し、階段で駈け下りた。苛立たしげにマンションのエントランスの自動ドアをこじ開ける様にしてすり抜け、河川敷へ駆けだす。

河川敷に絢辻が躍り出た瞬間、冷たい風がぶわっと強く吹き、絢辻の長い髪を浚う。

 

「・・・っ!・・・。」

 

一瞬目を塞いで髪を右手で支え、整えながらゆっくりと瞳を開ける。本当にいい陽気だ。

 

 

―・・・?―!・・・!?

 

そして探す。

 

まだ今日は正式には顔を合わしていない。顔を合わさないどころか、まともに会話もしていない。指だけで必死に会話した「つもり」だ。実はまだ絢辻には「実感」が無い。

 

ひょっとしたらさっきの部屋の前でのやり取りは自分の願望が引き起こした勘違いの産物だったんじゃないか?―そう思った。

 

―・・・だって仕方ないじゃない。

今日ここに来るはずのない、居る筈のない、・・会いに来てくれるはずもない「あの人」がまさか・・・。

 

でも―

 

「・・・・!」

 

―――あ。

 

あ。

 

あ・・。

 

 

彼女の瞳はキッチリととらえてくれた。目の前の嬉しい現実そのものを。

 

 

―ほら。大丈夫よ。よく見なさい?・・良かったわね。・・・私。

 

 

そう優しく語りかけるように。

 

 

 

 

犬と戯れる姉の前に、何時もの茶色い跳ねた頭を風になびかせながら微笑む何時もと違う普段着の少年―源 有人の姿を絢辻の見開かれた丸く大きな水晶の様な瞳が水面の様に映す。

 

それが不意に中心から水面に「波紋」が立つ。「波紋」は中心から円形に拡がっていく。

ゆっくりと・・外へ、外へ。

 

そして次第に重力に従い、落ちていこうとする。絢辻の瞳から「何か」が零れそうに、溢れそうになる。

 

―・・・。ふふっ。

 

其の「何か」を絢辻は瞳を閉じ、瞼で蓋をする。「何をしているんだか」と自嘲の笑いを浮かべて腕を組み、歩み出す。

 

 

「・・。こんな所で何やっているのかしら?天下の創設祭実行委員サマともあろうものが」

 

 

呆れたように両手を腰に当て、座っている少年に向かって今日初めて少女はそう呟いた。

その声に少年―有人は視線だけ背後の絢辻に向け何時ものような苦笑いをして

 

 

「・・。委員会クビになっちゃいました・・」

 

 

こう言った。

 

「・・何ソレ。何かやっちゃったの?」

 

「みたい」

 

「・・・。ははっ」

 

「と、いう訳で・・俺ヒマですので・・その・・何て言うのか・・」

 

「・・何かしら?」

 

 

「遊んで?」

 

 

「・・・。仕方ないわね」

 

呆れた顔を一度自分の視線の足もとへ移し、一瞬くくっと笑った後、絢辻は美しい顔に満面の笑みを浮かべてそう言った。他でも無い彼の笑顔に向けて。

 

 

 

―・・貴方は気付きもしないでしょう。今や貴方のその表情が、微笑みが私の世界にどれ程の影響を及ぼしているか。

 

今日が何月何日なのか。

 

今日が世間にとってどういう日なのか。

 

今日がどんな日和であるか。

 

 

・・もうそんなことはどうでもいいの。

 

貴方がいれば全て埋まる事だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふむ・・確かに載ってないわね」

 

絢辻は先日、有人が手渡された実行委員の創設祭当日の作業分担の資料とスケジュールを確認しつつそう言った。確かに有人の名前が無い。

 

「・・。『戦力外通告』か・・。貴方も大概大したこと無いわね~」

 

「・・・」

 

「でも確かに見事な役割分担だわ。黒沢さんのこと正直ちょっと見なおしたかも。特に源君を外したとこなんかホントファインプレイだと思うわ」

 

「・・・」

 

「うん!これなら多分本番も大丈夫ね!源君なんか居なくてもきっと大丈夫!あ~あ・・これで私がいればさぞかし完璧な創設祭になったでしょうね・・」

 

絢辻は太鼓判を押して資料を「戦力外通告」された有人につっ返す。ニヤニヤと悪戯な笑みは相変わらずである。

 

「絢辻さんに太鼓判を押してもらえて俺も安心だよ・・・」

 

複雑そうな顔で資料をしまいながら有人はそう言った。その彼の顔を見て絢辻はまたくくっと笑い、座りながら「う~ん!ぷはぁっ!」と大きな伸びをして気持ちよさそうに蒼い空を仰いだ。

 

「・・・。やっぱり絢辻さんは心配してくれていたんだね」

 

「・・え?」

 

「創設祭・・っていうか実行委員の皆の事」

 

「・・・」

 

―・・・。相変わらず目ざといわね。貴方は。

 

隣に立っている少年の質問に少し諦めたような表情で絢辻は薄く笑ってあっさりと

 

「うん。当然でしょ。・・よかった。それを見る限り大きな妥協点もなさそうだし」

 

そう言って素直に認めた。同時何処か心もとなさそうに絢辻は両足を抱えて神妙そうに隣の有人に向けてこう呟く。

 

 

 

「・・。ねぇ源君?」

 

「ん~~?」

 

「皆さ・・後悔すること無くやり通せたと思う?」

 

―私が・・私が創設祭の実行委員にいた意味はあったかな?

 

絢辻は言外にそう言い含め、珍しく不安げに聞いた。

 

「うん!きっと!」

 

ふっ切る様に曇りなく、有人はきっぱりそう応えた。

 

―それを君に伝えるために俺は多分ここにいると思うから。

 

「・・。そ」

 

―ありがとう。

 

その言葉を絢辻は飲み込み、変わりに少し照れくさそうに笑った。

 

 

 

「・・絢辻さん?」

 

「ん?」

 

「よかったら・・俺と一緒に明日・・行かない?」

 

「・・・!」

 

絢辻は丸い目を更に大きく見開いた。

 

「い、『行く』って?」

 

「え・・!?あ、い、いやその?」

 

「ちゃ、ちゃんと主語入れなさいよ・・が、学校でしょ?創設祭でしょ?」

 

「そ、そうそう、『学校の創設祭一緒に見に行こう』ってこと!」

 

「・・・」

 

何だろう。安心したと同時に何だ?この苛立ちは。内心舌打ちしたい気分だ。ま、かといって創設祭以外に明日一体どこに連れてかれるのか、と考えると絢辻は思わず閉口、思考停止してしまう。

 

「あ、絢辻さん?」

 

「・・・!?な、何よ!?」

 

「う・・」

 

「あ・・」

 

有人の怯えた様な顔に絢辻は顔を真っ赤にして視線を逸らし、必死に心根を仕切り直す。そしてようやくこう言えた。

 

「いいわよ・・別に」

 

「ほ、ホント?」

 

「嘘は言わないわ。・・はい!!それ以上言わない!『俺となんかでいいの?』とか言いだしたら私の気が変わっちゃうかもしれないんだから」

 

「あ」

 

「・・・」

 

―・・。言うつもりだったわね・・。このヘタレが。

 

 

 

 

「ふぅ・・大事な日あげるんだからちゃんとエスコートしてよね」

 

大きくため息を吐いてそう言いながら絢辻は立ちあがり、パタパタと長いコートを掃う。そして思わずパタパタと顔を無意識に手で仰いでふぅふぅ息を吐いた。。

 

―・・。何?・・なんでこんな今日暑いのよ?異常気象?

 

「12月23日の本日の日中の最高気温は上がっても7度程度でしょう。厚手のコートを手放さないでくださいね♪」と、お天気キャスターのお姉さんは言っていたが。

でも絢辻は暑い。熱い。

 

原因は解っている。解りきっている。異常なのは気候じゃない。異常なのは確実に―

 

―・・あたしだ。

 

 

「~~~~!!ウル!おいで!!」

 

 

絢辻は突然叫んだ。

 

・・・?・・・!ワン!!

 

姉、縁と戯れていたゴールデンレトリバー―どこの家の子か解らない為に便宜上、縁に「ウル」と名付けられた犬は思いがけない絢辻妹のお誘いに全開で尻尾を振って走り寄って来た。そんな彼を前にして絢辻は軍隊の様に規律正しくビッビッと指示を出す。

 

「はい!お座り!お手!おかわり!!」

 

高圧的、威圧的な絢辻の号令にも呼んでもらった嬉しさが勝るのか「ウル」はきびきびとそれに従った。

 

「あらら。お利口さんね~?頑固で口応えばっかするどっかの誰かさんとは大違いだわ~良いコ良いコ♪」

 

「え!?」

 

―・・。え!?それひょっとして俺?

 

「あ~んずるい!つかさちゃん!?ウルは私の子よ?」

 

妹とウルのやり取りにずれたクレームを縁が出してくる。

 

「・・!?」

 

―いいえ違います!「ウル」は貴方の知らない何処かの家の子です!そもそも名前自体「ウル」じゃないはずです!

 

絢辻姉妹の双方に有人は心の中で即突っ込みを入れた。

 

「ほら!いくわよウル!着いてきなさい!」

 

「あ。ちょっと待ってよ。ウル!つかさちゃ~ん!」

 

駈け出した絢辻に続き、ウルは尻尾振りながら全く逡巡すること無く駆けていく。それを口を尖らせて見送りながら縁は

 

「むー・・何でぇ?ウル?酷いわぁ・・」

 

と文句を言う。

 

「・・・」

 

―多分妹の方が「まだ常識が通じそうだ」と思ったんだろうな、あの犬。

 

有人は内心一人納得した。ま、「どっちにしろ」姉も妹も一癖も二癖もある姉妹であるが。それをあの犬が知る日もそう遠い将来ではないだろう。

 

 

 

数分後―

 

「あっと・・、・・絢辻さん!」

 

ひとしきりウルと遊ぶ絢辻姉妹の姿を眺めた後、有人は思い出したように本題―明日の予定確認の捕捉の為に絢辻に声をかけた。が―

 

 

「「何?」」

 

 

有人の呼びとめに何故かその「絢辻」の返答はエコーする。

 

「・・え?」

 

「・・え!?」

 

―ちょっと何で貴方が反応してるのよ!?

 

という顔を絢辻は姉―縁に向ける。しかしそんな妹の内心のクレームにも姉―縁は構わず

 

「ん~?私もつかさちゃんも『絢辻』なんだけど・・ゆうと君・・今一体どっちを呼んだのかしら~~?」

 

と、また不思議そうに顔を傾けて有人に語りかける。

 

「え?そりゃあ・・」

 

 

「駄目よ~ゆうと君。私達は姉妹なんだから同じ名字なのよ~?解るように名前で呼ばなきゃ~」

 

 

「・・・・!???」

 

―こ、この女!一体何を!?

 

ボンっという音が聞こえてきそうなほど沸騰し、唖然と立ちつくした絢辻妹を尻目に能天気に姉―縁は尚も続ける。

 

 

「さ~て~?ゆうとく~~~ん?どっちかしら~?私~?それともつかさちゃん~?」

 

 

「・・・」

 

―・・意外だ。結構イジワルなんだな。縁さん・・。さすが絢辻さんのお姉さん・・。

 

今回は彼女お得意の天然ボケで無く、確実に意図していた言葉である事が縁の満面の笑みから解る。少しの間言葉を失っている有人はちらりと妹の方を見る。

 

「・・・」

 

―・・・。

 

流石の絢辻も顔を真っ赤にして絶句していた。心配そうに足元のウルが絢辻を見上げている。

 

「・・・。その」

 

「・・・」

 

 

 

 

「・・詞・・さん?」

 

 

 

 

「・・はい?」

 

「明日の集合場所は校門前の桜坂でいいか・・な?時間は六時でいい・・?」

 

「う、うん!」

 

「うん♪良く言えました!ざんね~ん。ゆうとくん私を誘ってくれたわけじゃないんだ~」

 

二人のやりとりを見届けて心底残念そうじゃない、してやったりな声で縁は嬉しそうに笑った。そしてこう付け加える。

 

 

「ゆうと君。・・・つかさちゃんの事をお願いしますね?」

 

 

 

「・・・・っ!~~~~~!!」

 

縁のその言葉に有人が応える前に絢辻・・詞は駆けだした。ウルもそれに続く。

 

 

「つかさちゃ~んあんまり焦って走ると転ぶわよ~」

 

その姉の言葉にも振り向きもせず走っていく。

 

「は、ははは・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「有人君・・貴方はよく笑うコね」

 

河原に腰をおろし、何時もより楽しそうにはしゃぐ妹の姿を眺めながら縁は隣にいる有人にそう語りかけた。

 

「あ~多分、・・そういう性分なんじゃないかと」

 

「『性分』か・・詞ちゃんもそうだったな。よく笑う子だった」

 

「・・。そうなんですか?」

 

「ええ。私よりもね」

 

「へぇ・・」

 

失礼ながら意外さを隠す事が有人には出来なかった。

 

「・・。近くにいる人の笑顔が自分にも張り付いちゃう子なのよ。詞ちゃんは。素っ気ないように見えて人が笑ったり、嬉しそうにしていたり、微笑むのを見るのが何だかんだ言っても好きなんでしょうね。きっと」

 

「・・・」

 

「だから・・あんなにたくさん頑張る事が出来るんだと思う。詞ちゃんはきっと否定するだろうし怒ると思うけど。・・『詞ちゃんは人の幸せを見る事が何よりも好きなのよね~?』・・なんて言っちゃうと」

 

「・・」

 

―確かに。裏ではボロクソ言うけど絶対についてきてくれた仲間を見捨てないもんな・・絢辻さん。

 

それは創設祭委員会の皆の事を心から想っていた事をさっきの絢辻の言葉からも容易に読みとれた。そう考えると昨日創設祭の準備が終わったあの瞬間の創設会やその関係者の多くの皆の安堵や喜ぶ表情が見られていたら相当絢辻は嬉しかっただろうなと考えると有人は思わず少し胸がつまる。そんな僅かに曇った有人の表情を見て縁は切りかえる様に明るくこう言った。

 

「・・おっと~~!あんまり喋りすぎちゃうとまた詞ちゃんに怒られちゃうわ。有人君にも迷惑かかるわよね。いっつも聞かれるでしょ~?『あの人と何を喋ったのって』」

 

―・・「あの人」

 

姉である縁自身も自分が血を分けた妹に他人行儀にそう呼ばれている事を知っているのだ。

 

「お姉ちゃん」でも「姉」でもなく「あの人」。

 

世間的に他人に自分の家族の事を敢えて他人行儀にそのように呼ぶ事が全くない訳ではないにしろ、絢辻のここまでの徹底ぶりに有人も流石に感じ入る事はあった。が、

 

「・・ええ。正直結構毎回解答に困ってます」

 

有人は聞きたい事を全て飲み込んで笑い、そう言った。

 

「・・ふふ♪・・でしょうね」

 

 

 

その時であった。

 

 

「いやぁあああ~!!!」

 

 

二人の少しシリアスな会話を吹き飛ばすような悲鳴が辺りに響き渡った。

 

「・・・!?絢辻さん!?」

 

「つかさちゃん!?」

 

 

有人、縁の二人が駆け寄るとまるで足に根が張った様に不自然に立ちつくす絢辻がそこにいた。ぎりぎりと奥歯を噛みしめる様な悔しさと恥辱が入り混じった顔が何ともいたたまれない。対称的に足元を跳ねまわる犬―ウルはきゃんきゃんご満悦の表情だ。

 

「こんの駄犬っっっ・・!!」

 

絢辻は何処の犬か解らないウルを殺しかねない目で見ていたが、ウルはそんな絢辻を見てさらに嬉しそうに尻尾を振って跳ね回る。

 

ボクを見てる。ボクをじっと見てる。嬉しいな♪嬉しいな♪

 

とでも言いたげに。Mっ気が非常に強い犬だ。ただ絢辻と一緒にいる上では少し参考にしたい所もあるぐらいの図太さではある。縁に調教されたのだろうか?

 

―・・ああ~~なるほど~~。

 

何にしろ有人は状況を瞬時に理解した。何せ絢辻の足元をうろつくウルの様子と不自然に固まったままの絢辻の右足の真っ白なソックスに不自然な黄色がかった液体がかかっていたのだから。

ここら一体の河川の水質は市の地道な努力によって年々改善傾向にある。まかり間違ってもこんな色で靴下を染める程の有機物は含まれてないだろう。

つまりこれはウルの「アレ」である。

 

「やられたね・・」

 

―お気の毒です。絢辻さん。

 

「・・・く~~っっっ!!」

 

有人のその言葉に悔しそうに絢辻はさらに歯を噛みしめた。

 

「一体どうしたの・・?つかさちゃん?」

 

「・・おしっこ引っ掛けられたんですよ」

 

この馬鹿丁寧に端的に主語を省いた有人の台詞が仇になった。

 

「ええ!?誰に!?何処にいるのその人!?トイレに案内してあげなくちゃ!」

 

天然絢辻姉―縁。本領発揮。

 

「あ、あ、あ・・!!」

 

絢辻妹は顔を真っ赤にして目を見開き、有人の失言を全身全霊で咎めた。

 

―あぁああ、しまったぁ!

 

有人は内心、「某探偵風」に頭を抱える。

 

一連の修羅場の後、絢辻を宥め、縁に懇切丁寧に説明し、誤解を解く。常識人の絢辻がいるのに何故ここまで自分だけが苦心しなければならないのだろうか?その貧乏クジさを有人は改めて嘆いた。が―

 

「ふーん。『うれション』かぁ・・ウル・・私にはそんな事してくれたこと無いのに・・羨ましいなぁ・・つかさちゃん」

 

「・・」

 

―お願い。ホント黙って。

 

「・・」

 

―お願い。ホント黙って。

 

流石にその縁の一言には有人も絢辻も一言一句間違いなく、言葉にならない苦言を内心呈した。

 

 

 

 

 

 

 

「・・・それじゃあ俺はそろそろ帰ります。休みの日に起こしちゃってごめんね」

 

「いえいえ~♪大してお構いも出来ませんで~~」

 

「・・・」

 

―貴方には言ってない・・。

 

うんざりとした表情をしながら絢辻は能天気な姉をぶぎゅると片手で押しのけるようにして一歩前に出た。相変わらず姉との会話は極力避ける傾向にある妹である。ここまで性格が違えば中々会話も成り立つ物ではないのだろうか。それともある意味で似通いすぎているのだろうか?この姉妹は。

 

「とりあえず・・源君?わざわざ来てくれて有難う。そして明日のお誘いに関しても・・。・・ありがと」

 

有人に向き直り、正式に絢辻はお礼をちゃんと有人に言ってくれた。・・語尾はやや尻すぼみであったが。

 

「うん。・・俺らも来年は受験生だしね。今年ぐらいはゆっくり楽しもうよ」

 

「・・そうね。ま、私にかかれば来年のこの時期だろうと一日二日ぐらい休んでもどうって事は無いでしょうけど」

 

「・・確かに。今の一年生の実行委員の子達が来年の創設祭を主催するって考えたら行ってみたくなるよね。正直数も質も今年の俺らの代の比じゃないよ」

 

「・・・」

 

「下が優秀だと上は気楽でいいよね♪」

 

「・・・」

 

―時折嫌な所を見透かすのよね。このヒト。

 

少し溜息と困った顔をして絢辻は「かなわないわね」と珍しく白旗を挙げた表情をして笑った。有人も珍しく悪戯そうにつられて笑う。

 

「・・じゃ、明日はせいぜい遅れない事ね?私そんなに長々と待つつもりないから。もし遅れたら・・そうね・・行く先々の人達に泣きつこうかしら。確か・・梅原君、国枝君、水泳部の手伝いで杉内君、茶道部で茅ヶ崎君に桜井さん辺りは来る事決定しているはずよね?あ、貴方のお兄さんとその彼女の沢木さんも来るかもね~?」

 

「・・恐ろしく的確にメンツを知っているね・・」

 

「悲しい顔をして私その人達に叫ぶの~~。『源君にすっぽかされた!もう誰も信じられない!』って。うわ~貴方友達無くすわよ?」

 

「・・。俺を学校に居られなくする気満々だね」

 

「そ。それほど私を誘うという行為は見返りが大きい分リスキーなの。ザ・ハイリスクハイリターン!!」

 

「ははは・・そうだね。・・・ん・・リターン?見返り?」

 

「・・!!!ほおぉ~?そこを疑うなんていい度胸しているわね~~?」

 

「いや、そういう意味じゃ・・痛い!」

 

有人はまるで女の子の様な声で悲痛な叫びをあげ、蹴られた自分の脛をさすった。相変わらず絢辻は人体の急所を心得ている。

 

「あイタタタ・・」

 

「・・・はぁはぁ」

 

―ふー危なかった。いけないいけない。どーもこの人を前にすると喋りすぎちゃうわ。

 

絢辻は内心、自分のつけ込まれかねない失言を強引に握りつぶして安堵した。同時一瞬少し顔を赤らめながら視線を逸らす。

 

 

 

―・・ま。それなりに「リターン」はしてあげるつもりではあるけれど。

 

・・「ご褒美」はあげないと、ね?

 

 

 

 

「・・絢辻さん?どうかした?」

 

「何でも無いわよ」

 

 

 

 

 

「ま、来年も源君が滞りなく平和に学校生活を送りたいのであれば明日は必死に頑張ることね」

 

「・・。そのつもりだよ。来年もまた来たくなるぐらい楽しもうとは思っているつもりだから」

 

「・・・。来年も・・誘ってくれるの?」

 

「絢辻さんが望むなら。それも明日次第でしょ?」

 

「・・そうね。来年も、・・ね」

 

その時心なしか絢辻、そして後ろでその話を聞いていた縁の表情が曇った様に感じたのを有人は覚えている。

 

「・・・?どうかした?」

 

「え」

 

「やっぱり何だかんだ言っても受験シーズンは迷惑かな・・?」

 

「・・。さぁ?そんな先の事は私にも解らないし?こっぴどく断られる事も覚悟しといてほしいかもね」

 

「そっかぁ・・」

 

有人は頭を掻いた。

 

「とりあえず・・明日は楽しみにしているんだからちゃんとエスコートしてよね」

 

 

 

―・・・。

 

なんだかんだ言ったけど・・今は先の事なんてどうでもいいの。貴方はともかく「私は」ね。

 

・・今この時が大事なの。

 

貴方がくれたこの「貴方がいる日常」

 

今はそれを

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

覚えていたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

握りしめて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「じゃ・・また明日ね」

「うん。縁さん、ウルも。また」

「ええ、また遊びに来てね~待ってるわ」

わん!

有人の瞳の中―二人と一匹。その中心で絢辻は微笑んでいた。

気が強く、意地悪で、意地っぱりで、しかし誇り高く、知的で、優秀で、努力家で、
反面繊細で、人情に厚い。

そして何よりも、誰よりも優しい少女。


絢辻 詞―

有人にだけ心を開いてくれた、心根を見せてくれた少女。

微笑んでいた。冬の澄んだ蒼い空の下、心地よい風に吹かれ、長く美しい黒髪をなびかせながら。













その姿が。










有人が見た最後の「絢辻 詞」だった。














「やっぱり・・似てるわ・・有人君」

「・・・」

「詞ちゃん・・?」

「・・がう・・・」

「詞ちゃ―」




「違う!」




「詞ちゃん・・」





この日初めてこの姉妹がまともに会話した瞬間だった。
とても短く、


とても悲しい会話だった。



























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ルートT 二十章 落日



12月24日 吉備東高創設祭当日―



PM7:45 水泳部おでん屋台前にて

「う~さむさむ」

「先輩もどうですか?温かいお茶です」

少女―七咲 逢はパイプ椅子に座りながら既に酔いつぶれ、泣き上戸で口々に日々の教師という職業への愚痴、そして絢辻に対する「うえぇぇ~~ん絢辻さ~~んごべんなさ~~い。駄目なセンセイをゆるじて~~」・・・等の懺悔を七咲に赤裸々に吐露している2-A担任、高橋 麻耶の面倒を見ながら替わりに水泳部のおでんの屋台の店番をし、寒そうにしている水泳部助っ人少年―杉内 広大に注いだお茶を手渡す。

「ありがと七咲・・。・・。ふーあったまる」

「・・ふふ」

―・・楽しいなぁ。この人を塚原先輩に預けるまでは・・・どうかこのままで。

そんな切ない感情を七咲という少女は抱えたまま、ホッと冬の空に息を吐き、「楽しいな。七咲♪」と何も知らずに無邪気に笑う杉内の横顔を見ていた。その杉内の視線が―

「・・・。ん?」

突如前方に怪訝に見開かれたのを七咲は認め、彼と同じ視線の先に焦点を絞る。

「・・?どうかしましたか先輩?・・・あ」

―あれ・・?あれは・・




その約一時間前―

吉備東高校門桜坂にて


「~♪」

鼻歌交じりで桜坂を下りながら癖毛の少女―棚町 薫は水泳部のおでんが入った袋を満足そうに見つめ、微笑んだ。

「・・ふふん~~♪」

―さ~て、そろそろ戻ってやるか・・衛奈ちゃんも待ちくたびれてるだろうし。アイツも・・そろそろ起きた頃かな。

この日の為のとっておきの一張羅、気合いの入りまくった彼女の姿を見て、水泳部のおでん屋台を手伝っている杉内は冷やかすような、そしてその隣に居た少女―七咲は勇気づける様な笑顔で見送ってくれた。そして・・親友の田中恵子にも励ましてもらった。
もう怖いものなんて無い。後は全力でぶつかるだけだ。

―大丈夫!今のアタシなら・・。

左手におでん。右手にはケーキを抱えた両手を一旦全開放してパンパンと両頬を叩く。
乱雑にしたことでクリスマスケーキの苺の位置がほんの少しずれた事など今の彼女は知る由も無い。

―う~それでも緊張するなぁ・・。

両頬を抱えたまま箱の内部でずれた苺と同じように、ぶれる心根と赤く染まった顔と暫く格闘していた時だった。

―ん~・・?あれ・・?


その一時間半後

茶道部お茶会の会場にて―

「ぬ・・?」

「わととととと・・・智也~・・いきなり止まらないで~」

「あ、悪い」

茅ヶ崎 智也は大荷物を抱えたまま、急に立ち止まり、怪訝そうな声を出した。その後ろに続き、その半分くらいの荷物を抱えた少女―桜井 梨穂子は前に立つ大きな背中を持った幼馴染を見ながら首を傾げた。

「・・・?どうしたの?」

「いや・・すまん。何でも無い。・・・?」

「む~そんなカオで『何でも無い』はないですよ~智也~~?」

少し口をとがらせて桜井は拗ねるように言うと

「・・。あれ・・」

その桜井の態度には相変わらず素っ気なく何ら反応せず、荷物で埋まった両手の替わりに軽く首を振って茅ヶ崎は自分の目線の先を桜井に伝えた。

「ん~?・・あ。あれって・・?」





「「「絢辻・・・さん?」」」









 

 

 

 

 

 

 

 

 

21 落日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「五時・・か。でももう随分暗いな」

 

腕時計を見、有人は自転車を押しながら繁華街を歩いていた。クリスマス用にイルミネーションを施された街路樹を見に来る人間は数多い。この時間この通りで自転車を漕ぐのは少々危険な事から有人は愛車から降り、しばしこの風景を周りに居る人間と共に楽しんでいた。その時―

 

 

「わっ!!」

 

 

「っと!・・大丈夫?」

 

キュッと愛車のロードバイクのブレーキを止め、前輪の近くを有人は覗きこむ。

そこにはきっとはしゃいでいたのだろう。前を見ずに危なっかしく走っていた五、六歳くらいの兄妹らしき子供二人が背後の有人のブレーキ音に驚いたのかびっくりしてしばらく固まっていた。

 

「こら!す、すいませんお兄さん」

 

人混みを掻きわけるようにしてその二人の母親らしき人が走りより、兄妹を一瞬諭した後、有人に謝罪の目を向けた。

 

「いえ・・こちらこそ」

 

「すいませんホントに。コラ!お兄さんに謝りなさい!」

 

「ご、ごごめんなさい」

 

あわあわして言葉が出ない妹を前に、兄としての自尊心ゆえか男の子は怯えながらも上目遣いで有人を見、きちんと謝ってくれた。

 

「ううん。こちらこそ。怪我が無い?・・はしゃいじゃう気持ちは解るけど前はちゃんと見たほうがいいゾ」

 

その言葉に素直にこくんと頷いてくれた兄妹二人共に有人は何時も通りに微笑んだ。

 

 

そして一通りの謝罪の後、子供の母親が広大の自転車を少し見て

 

「あの・・吉備東高の学生さんかしら・・?」

 

有人のロードバイクに貼られた吉備東高通学許可のシールで判断したようだ。一応自転車通学の許可登録はしているが有人は基本通学では自転車を利用しない。知り合いのほとんどが徒歩通学でそれに合わせて最近はもっぱら徒歩で登校している。

 

「・・?ええそうです」

 

「やっぱり!あ、ごめんなさい。今日の吉備東の創設祭・・私達も主人とこの子達との食事が終わったら皆でお邪魔させて貰おうと思っているの」

 

「そうなんですか?是非来て下さい!」

 

「じゃあ貴方もやっぱり・・?ふふ・・会場でまたお会いできるかもしれませんね・・よかったね?このお兄さんと後でまた会えるかもしれないわよ」

 

母親は子供達に向かって嬉しそうにそう呟いた。

 

 

 

 

「・・今年は色々あったみたいだけど・・無事に開催できる事になって本当に良かったです。この子達も楽しみにしていましたから」

 

その言葉に母の右手、左手それぞれに兄妹はぶら下がりながら頷いた。

 

「それも生徒の皆さんが頑張ってくれたおかげね。有難う」

 

「いえ・・そんな。俺はその・・『帰宅部』・・ですし。大したことはしてませんよ」

 

流石に「クビになった」とは言えない。少しもどかしい所だがでもそれでも今年は自分なりに頑張った自負が有人にはある。だから兄妹の母親の言葉は純粋に嬉しかった。

自分達のやってきたこと、そして絢辻のしてきた事が間違いでない―その証拠が目の前に、そして今から会場でもきっと見る事が出来る。沢山の人がきっと今年も来ているはず。

それを想うと嬉しかった。

 

親子に別れを告げる。兄妹は有人に向かってぶんぶん手を振りながら

 

「お兄ちゃん・・また後でね!」

 

と言ってくれた。

 

―会場で落ち着いたらこの親子を絢辻さんと二人で探そうかな?

 

有人はそう思って笑い、再び愛車を引いて歩きだす。

 

 

 

こんな穏やかな時間であった。

 

 

 

・・全てが急激に動き出す瞬間を直前に控えたその時は。

 

 

 

 

優しい母親とその子供たちとのささやかな出会い。この出来事が有人の脳裡に永遠に焼きついた。

 

 

 

・・・「落とし穴」などどこにでも口を広げている。そしてそれは時に何の兆候も予兆も無く訪れる。人の都合など、その日がどれ程大事な日であろうとも全く関係なしの理不尽な不可避のものとして。

 

 

 

「ちょっと!ちゃんと前見て!ほら!赤!赤だって!?」

 

「あ!?聞こえねーって?」

 

「危ないって言ってんの!!」

 

 

爆音が迫っていた。

 

 

別に信号が青に変わるのを待ち焦がれるほどはしゃいでいた訳でも無い。

正直有人は落ち着いていた。周りがこの師走の、そしてクリスマスという年に一度の祭典故に浮かれ、足早に動いている中でも自分のペースを変えず、信号が青に変わっても一拍待って歩きだせるほどに。

そんな彼の何気ない日常に異質で不躾、そしてあまりに理不尽な非日常がずるりと浸蝕しようとしていた。

 

 

 

「・・・きゃあああああああああ!!!????」

 

 

 

爆音と唐突なヒステリックな頭の悪そうな女の悲鳴がどんどん近付いてくると思ったとほぼ同時の時間―

 

 

 

――――!!!!?????

 

 

 

有人の視界は空転。

 

 

―・・・・え?

 

 

彼の愛車のロードバイクの部品が煌びやかに装飾された街の光を纏ってキラキラと舞いながら粉々に砕け散る瞬間を有り得ない角度のままスローモーションで眺める自分の目がまるで他人事のように感じられた。

 

 

・・・・どさぁっ!!

 

 

しかし宙から叩きつけられた衝撃は決して他人事の「痛そう」ではなかった。

何も考えられなくなるほどの実感を伴った「痛い」であった。

 

「うぃっつ・・・!!!!!てっ・・・・つぁっ・・!!!あっ、かはっ・・・!」

 

吹き飛ばされて四メートル以上宙に舞い、背中から勢いよく叩きつけられた呼吸困難は容易に彼の背中から胸を貫通しかねんばかりの激痛を放つ。閉じた目を薄く開こうとしたが目が開かない。否、目は実際開いていた。でも有人自身が「目が開いた」と実感出来なかった。何故なら何も見えなかったからだ。

 

 

 

 

パァアアアアアッ!!!!!

 

 

 

 

彼の目にフロントのハイビーム、そして耳を劈くけたたましいクラクションの音が情け容赦なく突き刺さっていた。

 

もう一つの衝撃と摩擦で炎が出そうなブレーキ音と共にまた有人の目の前は―

 

 

 

 

 

暗転。

 

 

 

 

 

 

 

―・・・?

 

それからどれくらい時間が経ったのか。一時間か・・いや実は一秒も経ってない時間かもしれない。有人の時間の感覚はマヒしていた。

有人はうつ伏せの自分の顔を伝う「妙な液体」に意識を起こされた。

 

 

―え・・?冷た・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・赤い。

 

 

 

 

 

 

 

 

それが有人の全身を浸すぐらいの範囲に広がり、その広さはまだゆっくりと、しかし確実に広がっている。それにどんどんと彼の体温が奪われていく。まるでその液体に体温が吸い込まれていくように。

 

 

 

一目で解る。

 

 

 

 

 

 

致死量だ。

 

 

 

 

 

 

―っ・・・・。

 

それをまるで他人事のように、取るに足らない事のように。有人は笑った。

そして眠る様に―

 

 

 

 

― あ や つじ さ、ん  

 

 

ご、 めん。

 

 

 

 

意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉備東高正門に続く道―桜坂にて

 

「・・・」

 

腕を組みつつ、細い手首に巻かれた腕時計を覗き、少女は時間を確認する。

 

 

―「あの人」はまだ、・・みたいね。こんな日に私を待たせるなんていい度胸してるじゃない。

 

などと内心思いつつも、

 

―・・まぁそりゃあ流石に早すぎるでしょ・・私。

 

と、どこか自分に呆れている自分が居る絢辻 詞だった。現在の時刻は四時半。有人が指定した夕方六時の集合時間のまだ一時間半前である。

 

 

事前の準備や用意に関して自分程要領のいい人間は中々いないと絢辻は自負している。

正確なタイムスケジュールを元に定刻までに周到な準備を完成させる事において彼女は絶対の自信を持っていた。

しかし、この日は予定より早く準備をし始めてしまい、結果、準備を完了した後に膨大な空き時間を残してしまった。

 

否。「始めた」のではなく「始めてしまった」のだ。

結果、予定よりもあまりにも早く出来上がってしまった自分の「完成」の姿は予定が大幅に遅延し、時間ぎりぎりで滑り込みで完成した自分の姿よりもきっと滑稽だろうと絢辻は思う。

 

「・・・はぁ~~~っ」

 

まだ正午を過ぎたばかり、昼の一時にもなっていない時分―自室で、余りに気合いの入りすぎた「完成形」の自分の姿を鏡で覗きこみながら絢辻は大きくため息をつく。何事も遅すぎるのは困りものだが逆に早すぎてもそれはそれで時に滑稽なものだ。

彼女の人生の忙しいサイクル上、何時もは秒針が進む時間が早く感じて仕方ない場面がほとんどなのだが今日ばかりは―

 

―・・怠けてんじゃないわよ。サバ読んでんじゃないの?

 

絢辻よりも時間にきっちりしているはずの彼女の細い手首に巻かれた腕時計も絢辻の内心の追求に「ちゃ、ちゃんと働いてますって~~」と言いたげにいそいそ針を進めていた。

 

 

 

そして現在―

 

集合場所に来た現在時刻は四時半、これでも粘って時間を潰した方なのだ。その潰した約三時間の間にも色々な事があった。

 

―もういい!彼を呼びだして何かどっかで話でもしてたらすぐに時間になるはず!

 

と思い立ち、一度絢辻は自宅の電話の受話器を取った。しかし、番号をプッシュする直前でぴたり手が止まる。

 

―ん!?んん~!!?そ、そう言えば源君の電話番号って・・?

 

・・しまった。そう言えばクラス、そしてその他の知り合いの電話番号録を載せていたのは「あの」手帳だ。絢辻はがっくりとうなだれた。

 

―焼却処分しちゃったじゃない・・。私のバカ・・。

 

あの日は色んな意味、勢いで突っ走った日だったからな~と、絢辻は受話器を置きながら頭を掻いた。そしてあの日の記憶を少し反芻する。

 

勢いのまま有人の机、そして週刊誌に落書きしたり、人体模型を抱えて校内を疾走したり、

某スナイパーの如く遠距離から有人の頭部をサッカーボールで射抜いたり、誤解だと解った後、恥ずかしさのあまり逃げようとしたり、・・勢いで「貴方を私の物にします」と言ったり、

 

そして勢いであの手帳を燃やした日でもある。

 

その後勢いで・・・

 

―・・・・。

 

「・・・は!違う違う違う!今はそれどころじゃないでしょ!え~っと・・う~んと・・」

 

自分の記憶力には自信がある。絢辻はこめかみに人差指を当て、うんうん唸りながら

 

―思い出せ、思い出すのよ。所詮数字の羅列よ。この私に思い出せないはずはない!

確かあの人の住んでいる所は○○○で、番地は確か△△だから・・・・よし、まずこの番号で行ってみましょう・・。よし・・開始!

 

暇人絢辻は記憶も曖昧な有人の電話連絡先をほぼあてずっぽうで入力する暴挙に出る。

・・よい子は絶対に真似してはいけません。

 

 

『はいもしもし辻内です』

 

「あ・・ごめんなさい間違えました」

 

がちゃり。

 

―まずこれは消えたっと・・次

 

『お電話有難うございます。山崎屋です』

 

「あ、すいません・・番号欄をまちがえちゃったみたいで・・ごめんなさ~い」

 

がちゃり。

 

―次!

 

『もしもし?ひょっとして樹理か!?あの女とは遊びなんだ!愛してるのはお前だけだ!』

 

がちゃり!

 

―次!

 

『は~い。吉備東の撃墜王と呼ばれている「ミッキー」こと御木本久遠!聖夜の夜・・僕と一夜を過ごすのは君、かな・・・?』

 

がちゃり!

 

―次!

 

 

 

 

「・・・。はぁ・・私一体何してるのかしら・・」

 

―この私がまるで悪質な勧誘電話まがいの電話番号のローラー作戦なんて・・。

 

恥と自己嫌悪のオンパレードである。快く自分の暴挙を電話もとで許してくれた方々、本当に申し訳ありません、と、絢辻は謝った。

 

―・・まぁいいわ。時間も潰せたし、少し楽しかったし。

 

いつ彼が出るのか、何時「あの声」が聞けるのか。全く解らない。そもそも聞ける保証も無い。そんな無駄な時間だった。

 

「源」

 

そんなにありふれた名前ではない。電話帳で調べれば案外こんな苦労もせず、いずれ彼の家の番号にたどり着けただろう。でも絢辻は敢えてそれをしなかった。

 

―「自分が彼の元へ一足早く辿りつけるかどうか?」の運だめし。

どうやら空振りの様だけど、その間に永遠に近い様な待ち合わせまでの時間がちょっとは削れたし、気も紛れた。・・ま。良しとしましょう。

 

そして絢辻は家を飛び出した。まだ早い。でももう待てない。

 

 

 

 

そして現在―

 

―・・まだかしら。

 

やや日が落ち始めた桜坂で絢辻は彼を待っていた。

 

 

 

 

あの声を待っていた。

 

あの笑顔を待っていた。

 

それは・・

 

 

 

六時になろうとも

 

七時になろうとも

 

・・八時を過ぎようとも変わらなかった。

 

その代わりに

 

早く過ぎて欲しかった絢辻の時間は一転、逆に一分、いや一秒でも限りなく遅くなって欲しいと願うようになった。

 

何度も連絡した。今度は学校の最寄りのバス停付近の公衆電話から。記憶をまたうんうんと必死で振り絞って。

 

トライ&エラーの繰り返し。間違った電話先の相手への謝罪する自分の声が徐々に生気を喪っている事に気付きつつも愚直に絢辻は繰り返す。

 

 

「あの」声を。「あの」声を聞きたくて。

 

 

財布の中に予めあったテレホンカードの度数は切れ、十円玉も底をついた。だが幸いにも「候補」は減っていた。あの馬鹿な時間つぶしのお陰で。結果、確かに、待望の「あの」声は聞けた。最初の一声が、一言が聞けた瞬間に絢辻の瞳にぱぁっと光が宿る。

 

―・・・やった!

 

とうとう辿りついた。間違いなく「あの」声だ。今絢辻が求めて止まない彼の声だ。

 

 

 

『はい。もしもし源です』

 

 

 

「・・・!!!み、なもと君・・?」

 

 

 

『ただいま留守にしております。御用のある方は発信音の後にメッセージを・・・』

 

 

 

「・・どうして」

 

 

 

耳に残っているあの声が頭を共鳴しながらも、絢辻が送話口にようやく発する事が出来た言葉、留守電メッセージはたったそれだけだった。

 

 

―・・どうして。

 

 

―どうして?

 

 

鉛より重い公衆電話の受話器をゆっくりと置いて絢辻は誰も来ないバス停を後にし、賑やかで煌びやかに光る吉備東高校門への桜坂をひとり登っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・この私がお誘いに乗って上げたのよ?それをあの人が無下にできる筈が無いわ。

 

容姿端麗!成績優秀!品行方正!清く、正しく、美しく!

 

そう私は絢辻 詞。「あの」絢辻 詞なのよ!

 

あんなへらへら、ふわふわ、こっちがハラハラする程のお人好しには勿体ない逸材なのよ。

 

ま、所詮せいぜいあの人は・・。

 

 

・・あの人は。

 

優しくて。あったかくて。あの人の隣は居心地が凄く良い。その程度・・。

 

・・・。

 

 

・・なぜ?

 

私はなぜそんなに自分に自信を持てるの?

彼が来る保証なんてどこにも・・ないじゃない・・。彼がずっとそばに居てくれる保証なんて無いじゃない。

 

だって私は

 

だって私は

 

ホントは意地っ張りで、猫かぶりで、へそ曲がりで、皮肉屋で、強情で、打算的で

 

そして、何よりも、何よりも・・

 

 

 

・・愛された事も無い。

 

 

 

そんなわたしが・・何故そんなに自分に自信が持てるというの?なんで過信と自惚れにまみれた根拠のない自信に浸っていられるの?

 

いや、むしろ過信や自惚れならどれほど楽だろう。過信や自惚れなら自分の哀れさ、滑稽さに気付かないまま、知らぬ存ぜぬのまま幻想に浸っていられるのだから。

 

私のそれは・・「虚勢」。

 

気付いていながら・・解っていながら、それに目をそむけているだけ。

 

 

・・そう。私は絢辻 詞。

 

 

・・誰にも見てもらえない。たった一人。今も。そしてこれからも。

 

ずっと。

 

ずっと・・。

 

 

 

「・・バカね。私は何を期待していたのよ」

 

 

 

見上げた夜空、冬の澄んだ虚空に向かってそんな言葉をはぁっと吐く。

 

 

白の吐息はすぐに音もなく消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方

 

 

吉備東高創設祭会場にて―

 

 

―・・!?・・なんで?なんで来ないのよ!「あの」二人!

 

 

少女―黒沢 典子は奥歯を噛みしめながら腕を組み、満員御礼のメイン舞台周辺であの二人の姿を探していた。しかし、一向に見当たらない。他の実行委員達にもそれとなく捜させているが、あの二人と接触できた委員は今の所居ない、とのことだ。

 

―あ~~もう!気になって最初の舞台挨拶のスピーチも途中から忘れちゃうし何度も噛んじゃったわよ。どうしてくれるのよ!

 

八割方自分の到らなさが招いた結果とは解りつつも黒沢は内心そう毒づいた。

しかし、それを除けば全体的に今年の創設祭の進行はすこぶる順調だ。心配された来客数も例年かそれ以上。実行委員達も安堵と共にその来客に応えるべく程良い緊張感の中、一人一人慌ただしくも楽しそうに、同時頼もしく動いていた。その姿に一番安堵していたのは当の黒沢かもしれない。

 

―・・ねぇ。絢辻さん?貴方にはとても敵わないかもしれないけど中々のもんでしょ?この創設祭・・?だから、だから早く見に来なさいよ・・。源君と一緒に。

 

黒沢は少し不器用そうに優しく微笑み、純粋に絢辻達の来訪を心待ちにしていた。そんな彼女の下に―

 

 

「あ!いた・・!あの、黒沢委員長?ちょっと舞台前まで来てもらえますか・・?」

 

「・・何かトラブル?」

 

緩んでいた表情をきっと切り替えて黒沢は現れた後輩委員の話を聞く。

 

「ええ・・まぁ・・。ここじゃ説明が難しいので・・とにかく来てもらえますか・・?」

 

「解りました。行きます」

 

たったひとつの気がかりを振り払うように黒沢は促されるままメイン舞台前の待機場に向かう。そこでは舞台進行の裏方を務める何人かの委員が黒沢の到着を待ち侘びていた様に手招きしていた。

 

「あ。来た黒沢先輩!こっちです」

 

「何?トラブルって。ここで話して。あんまり近付き過ぎると舞台進行の邪魔になるから」

 

「先輩!いいからこちらへ」

 

「?何?」

 

「いいから!もっと近くに!」

 

「・・・?何よ一体・・」

 

 

「・・せーの・・えい!!」

 

「わわっ!!ちょっ・・おさない―」

 

がたん!!

 

黒沢が呼び出された実行委員三人に背後を取られた直後、背中をどんと押され、その勢いのまま舞台に躍り出た瞬間―

 

 

おおおおおおおおおおっ!!???

 

 

一斉に歓声が上がった。

 

「―・・・・でよ?」

 

不意に勢いよく背中を押されて乱れた髪をせかせか整え、黒沢は目を丸くしながら熱狂している舞台前の観衆を見回す。

 

―な、何よコレ!?一体!?

 

物凄い視線とスポットライトの熱気の中、黒沢は気圧されておどおどする。明らかに観衆は自分の登場に熱狂しているのだ。舞台進行役の実行委員が黒沢の混乱などお構いなく煽るようにアナウンスを開始する。

 

 

「待ってましたぁ!!!黒沢 典子実行委員長の登場です!!今日は・・なんとこの目の前に居るこのボーイが黒沢委員長?・・貴方に伝えたい事があるそうです!!レッツリスニィィィィング!!!」

 

 

「「「「おおおおお!!!!???」」」」←観衆

 

―ええええ!!!???

 

そのアナウンスと共に観衆から急かされ、友人らしいニヤついた男子生徒に「ほらいけよ」という感じで背中をつつかれ、追い出されるように一人の少年が躍り出る。

 

「・・・っ!」

 

緊張と同時、覚悟が固まった様な締まった表情をして黒沢をみていた。

この状況、雰囲気。・・どうやら「そういうこと」のようだ。

 

その後暫しの少年の黒沢へのアピールタイムが開始される。

正直、その少年が話していた事は非常に申し訳ないが完全にテンパっていた黒沢はよく覚えていない。しかし最後の締めくくりの言葉だけは流石に解った。頭にすっと入って来た。余りにも明確で単純で簡潔な、しかし力強い言葉であったからだ。

 

 

「黒沢さん!!好きです。僕と付き合って下さい!!!」

 

 

その一言と同時、メイン舞台周辺の観客達のボルテージが最高潮に達する。

 

視線も頭の回転の方向もぐるぐる定まらない中、カニが泡を吹くような不明瞭で曖昧な言葉達が黒沢の口からぶくぶくはみ出ては蒸発していった。黒沢が後に自分でも何を言ったかよく覚えていないその言葉達は奇しくもいつも通りの彼女らしく、正直になれないちょっと高飛車で遠まわしな言葉達だった。

 

「・・私には他にも色々やることがある」「・・構ってあげられないかもしれない」・・云々。

 

おいおいおいおいィ・・

 

何とも見ている観衆にとってはじりじりフラストレーションをためるはっきりしない言葉の連呼であった。しかし―

 

「・・・」

 

そんな黒沢の煮え切らない言葉も告白した当の少年はちゃんと一つ一つ受け入れて頷いていた。言葉は発しないが彼女から目をそらさず、きっちりした姿勢で。

ノリと勢いに流されてこの場に来た訳じゃない事が会場に居る誰にも解る誠実さを持っている少年であった。

そんな彼を前に取りあえずの取り繕いの数々の言葉を全て吐きだした後に言う事が無くなった黒沢は最後に―

 

・・にこっ

 

不器用に彼に向って覗きこむ様な表情で微笑んだ。素直に。

 

その笑顔の意味する所を観衆、そして黒沢の目の前に立った少年が即時理解できる程の可愛らしい素直な黒沢の笑顔であった。

 

 

 

 

―・・人を好きになるだけじゃなく。

 

 

時には人に好かれてみようか。愛されてみようか。

 

 

そして自分をもっと知ってもらおう。ズルイ所も良くない所も汚い所も。すべて。

それでも自分を「好きだ」と言ってくれる人なら、そして理解してくれようとする人なら私はその人の事をきっと好きになれる。人を好きになった事がある私なら今「私を好きだ」と言ってくれるこの目の前の子の事もきっと解ってあげられる。だって片思いの年季なら私、負けないんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

・・おめでとう。

 

 

 

 

 

 

 

―・・・え?

 

どこかからそんな声が黒沢の耳に聞こえた気がした。かつては不愉快、不快にしか感じなかった「あの」声だ。

 

 

―・・・?絢辻さん!?

 

 

黒沢、今は彼女を必死で探す。創設祭メインステージの中央。ココが世界の中心かと見紛う程のふわふわとした言いしれない多幸感の中、全てを見通せそうな見晴らしのいいそこから必死で周囲を見回した。

 

・・だが―

 

 

終ぞその声の主、そして彼女の傍に居るであろう黒沢 典子がかつて想い、恋焦がれた少年―その二人の姿をその日、黒沢は見つける事は出来なかった。

 

 

 

 

第57期吉備東高創設祭終了―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 














吉備東高校


屋上―







・・・源君?


あたし幸せだった。





貴方に見つけてもらえて。



貴方に惹かれて。



本当に幸せだった。


わたし。


貴方に逢えてよかった。


だから。


これ以上もう・・・何も・・望まないね?






ふっと仰いだ吉備東の聖なる夜の空をいつの間にか舞い散る雪の下―




少しずつ、少しずつ。




一つ。また一つ冷えていく自分の体の中の僅かな灯を抱いた。












「・・ばいばい」
















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ルートT 短編 きたかぜとかめさん

きたかぜとかめさん

 

 

 

 

 

むかしむかしあるむらにいっぴきのかめさんがいました。

かめさんの住むむらには可愛い姿と愛嬌のある性格で人気者のうさぎさんが住んでいました。かめさんはそんなうさぎさんがうらやましくてしかたありません。

 

そんなある日、かめさんはうさぎさんに競争を申し込みます。

 

「あの山の頂上まで競争だ!」と。

 

かめさんは頑張りました。

短い足をばたつかせ、例えうさぎさんが簡単に追い抜いていこうとも、行く先々でのんびりとうさぎさんが寝ていようとも足を止めること無く、こつこつ、ゆっくりと、しかし着実に。かめさんは必死でした。頑張り続けました。

 

でもどこかでかめさんは気付いてもいました。

そもそもうさぎさんにはかめさんと競争をする気が無いこと。そもそもかめさんの存在すらうさぎさん、そしてかめさんの村に住む者達には気付いてくれてもいないことも知っていました。それでも、かめさんは頑張るしかなかったのです。

自分の出来る事はただ「諦めず、少しずつ、ひたすら、こつこつと歩を進める事」。

それがかめさんにとって唯一の誇りでした。

 

 

 

そんなかめさんにも最近お友達が出来ました。

 

 

それはきたかぜさんです。

 

誰にも気付いてもらえなかったかめさんにもきたかぜさんは優しく、いつも傍に居てくれました。

必死で走るかめさんをそよかぜで優しく冷やしてくれたり、急な坂道を登る際、追い風になってかめさんの背中を押してくれたり、時にはかめさんに無理をさせないために優しい向かい風になってかめさんを止め、休ませてくれました。

 

木立の陰の下できたかぜさんの心地よい風に包まれてかめさんは何度も眠りました。

 

 

いつしかかめさんはきたかぜさんのことが大好きになりました。ずっと傍に居て欲しい、と思うようになりました。

 

 

でも何時も傍に居るとかめさんはまた気付いてしまいました。

そもそもきたかぜさんは「そういう存在」だという事を。きたかぜさんは誰に対しても優しい存在でした。

 

山の頂上にきて見下ろした時、その事にかめさんは気付いてしまいました。

きたかぜさんは―

 

ことりさんに春を告げ、あそこで寝ているうさぎさんにも昼寝を邪魔しないように優しく撫で、村の風車を回して村人達を助け、たんぽぽさんの子供たちを大空に運んであげていました。

 

きたかぜさんはかめさんにとって特別でした。たったひとりのお友達でした。

でも、きたかぜさんにとってかめさんは果たして特別なのでしょうか。

 

かめさんはとっても哀しくなりました。

 

ひとりぼっちのときよりも、誰にも気付いてもらえない時よりもっともっと悲しくなりました。

 

そしてこう思うようになりました。こんなことならお友達になんてならなければ良かった。

 

 

好きになるんじゃなかった、と。

 

 

そして寒い寒い冬が来たら、寒い寒い季節が来たらかめさんはとっても眠くなってしまうのです。きたかぜさんとは会えなくなります。

でもきっとその間もきたかぜさんは他の誰かを優しく、時にちょっと厳しくその風で包み込んでいるのでしょう。村の人達にも誰ひとり例外なく。

 

居なくなってしまったかめさんのことなんてきっと忘れてしまうでしょう。

 

 

そしてきっとほかの誰かを愛し・・また愛されるのでしょう。

 

・・かめさんだけを残して。

 

かめさんはまた誰にも見てもらえない。一人ぼっちになってしまうのでしょう。

 

 

―それならもう・・ずっと眠っていよう。

 

 

そう思ってかめさんは甲羅の中に閉じこもり、もう二度と目覚める事はありませんでしたとさ。

 

 

 

 

 

・・めでたしめでたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











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ルートT 二十一章 暗転






「う・・あ?・・・っ!?」




白い天井。ぼやけた視界とぼやけた頭。状況を把握するのにはしばし時間がかかった。ここで目覚める前の記憶を必死に探す。すると同時に体中から不自然な固定と鈍い痛みが少年―

源 有人を襲った。

「った・・・!」

体が痛みを思い出すと同時に記憶と意識が鮮明になってきた。

―そっか俺・・確か。・・そう!そうだ。

確か信号無視してきたバイクにふられて吹っ飛ばされて・・で・・左折してきた軽トラに轢かれて・・死んだ!?死んだよな?確か!?
あんなに血が出てて・・体も怖いぐらいに冷えて・・。

「・・・!?」

有人はとりあえず自分の体を見る。打撲の跡、頭に巻かれた包帯、顔の擦り傷、そして痛々しい包帯を巻かれて吊りあげられた右足・・。・・しかし、あれ程の大量の血だまりが出るほどの怪我はないようだ。あの時、確かに見ただけで自分でも致命的と解るような大量の血だまりの中で意識が真っ暗になっていった記憶が残っているのに。

―・・!?生きてる、みたいだな・・?

とりあえずここはあの世ではなさそうだ。死んでいる自分が最後に見ている夢だと言う可能性も無きにしも非ずだが、「どうせ死んだんなら体の痛みぐらいは消してくれよ神様」と悪態付きたくなるぐらいに体のあちこちが痛い。
そして奇跡的に一命を取り留めて、ICU(集中治療室)で体中に管を通された半死人の様な緊迫感のある状況でも無い。周りを見回してもどう考えても普通の病室だ。重傷には違いないがとりあえず今すぐに死ぬことはないだろう。

―・・・ふぅ。

ほっと安心すると同時に

「でも・・痛いもんは痛い・・・ぅいぃ・・」

有人はぼすんと、頭を枕に当て、体中に迸る痛みの箇所を一か所ごとに確認するようにしながら、心底痛そうに唸った。それと同時にドアが開く、ノックもせずに乱雑に開いた。

そこに現れたのは


「・・・!あ!兄ちゃん!?起きた!」


「相人」

有人の二つ下の弟―相人であった。
彼の弟は来年中三にも関わらず未だ幼さが抜けきらない表情で安心したように微笑んだ。・・様に見えた。事故の衝撃でコンタクトも吹っ飛んだのか有人の目もぼやけているのだ。

「・・あ、これいるだろ?はい!」

「あ。助かる・・」

弟が気を利かせて渡してくれた自宅用の眼鏡をかける。すると黒いサラサラの髪、切れ長の細い目をした見慣れた弟の表情が漸く映る。

「ホントよかったぁ・・あ。兄ちゃん俺の事解る!?大丈夫!?まさか記憶喪失とかは・・!?」

「そんな一気に話しかけんなって・・。頭がガンガンすんだから。・・第一さっき『相人』って名前ちゃんと呼んだろ?・・大丈夫。ちゃんと覚えてるよ」

「あ。そっか。あはは」

一瞬目眩を覚えながらも徐々に焦点が合い、目が日常生活の働きを取り戻すと脳ももう少し動き出したため、有人は弟に状況を説明してもらうことにした。

自分の怪我は重傷だが命に別条はない事。
安心した両親は一旦自宅へ必要な物を取りに行った事。
・・特に制服は悲惨な状況だったこと。

事故の瞬間、投げ出されていた有人をよけようとしたトラックは横転し、積み荷が投げ出された。

そこに積載されていたのが近くの洋食、料亭等に納入予定であった大量のトマトジュースであり、現場はトマトジュースで一面真っ赤になった。その中で倒れている有人の即死を誰もが疑わなかった。
実際本人ですら、だ。しかし、実際は粉々に砕け散った有人のロードバイクの破片が目の前で急ブレーキをかけた軽トラによって弾き飛ばされ、それが有人の頭にあたった事によって有人は意識を失っていたのである。
幸い直撃した破片は自転車のライトの丸みを帯びた部分であり、彼の脳に異常が残る怪我ではないと診断された。一番重傷なのはバイクの前輪に直撃された際の右足の骨折とのことである。

「嘘みたいだな・・」

「救急搬送された時のお医者さんも驚いてたみたいだよ。『何でこんなに血まみれな患者なのにここまで怪我が軽いのか。で、なんでトマト臭いのか』~ってさ」

「・・・はは」

「っと。いっけね。俺お医者さんに兄ちゃん意識戻った事言ってくるよ!」

「あ。ちょっと待て!相人」

「何?」

「ところで・・今、何時なんだ?俺どれくらい眠ってたんだ・・?」

「あ。そか。今は夕方の五時半過ぎだよ。と、言っても・・25日の五時だけどね。兄ちゃん丸一日意識なかったんだよ?」




「・・・いっつつつっつ!!!」

有人は駆けだしていた。

と、言っても足が折れているのだから走れない。這いずるのが精一杯である。

「ちょちょちょちょちょっ!!兄ちゃんダメだって!!そんな体で!!」

彼の弟は今の日時を知り、急に慌てふためきだした兄を諌めながら、担当医を呼んでくれた。クリスマスの日に夜勤を担当している少々悲しい四十代くらいの男性担当医に事情を説明する。彼は話が非常に解る人だった。
事の経緯を全て知っているその担当医は「こんな大事な二日間に浦島太郎状態じゃ仕方ないな」と笑って有人の外出(といっても勿論院内だが)を許可してくれた。
弟に馴れない車いすを押してもらって目的地に向かう。当然行先は公衆電話ボックスである。まずは・・梅原だ。


『おう!みなもっちか!めりーくりすます!』


能天気な友人のいつもと変わらぬ声に改めて有人は生を実感する。そして自分の状況を端的に告げる。梅原は心配しつつも大したこと無い病状に心底安心してくれた。

『そりゃあ災難だったな・・。でも無事なら良かったぜ。ん・・?ってことは!』

「・・そうなんだよ。察しが良くて助かるよ」

『・・おいおいおい!俺に電話してる場合じゃ無いんじゃね!?お前確か創設祭・・・』

「だから・・絢辻さんの電話番号を教えてもらいたいんだよ。なる早で」

『よっしゃ待ってろ!』

梅原はその後一分もかからず、絢辻の連絡先を調べて教えてくれた上に「国枝辺りにも連絡しといてやる。だからおめーは一刻も早く電話して謝りな」と最後に言ってくれて電話を切った。重ね重ねの梅原の配慮に感謝しながら、有人は手元のメモした絢辻の連絡先を見ながら暫しじとっと黙り込んだ。

―ここからだ・・・。

電話番号ボタンをプッシュし、最後の数字を打ち込む前に一度深呼吸してゆっくりと最後の数字のボタンを打ち込んだ。四回目のベルで受話器が上がる。
同時に有人の心拍も跳ね上がった。


『はい。もしもし絢辻です』


間違いない。


「彼女」の声だ。

一瞬姉の縁が出る事を期待したことを有人は心から恥じた。

「もしもし・・えっと・・源・・です」

『・・源君?』

「うん。その・・何て言ったらいいのか・・」

『・・・』

「先に謝らせて貰っていいかな」

『・・。どうぞ?』

「あの・・昨日行けなくてほんっとうにごめん!・・・俺・・事故に遭って・・今ようやく病院で意識が戻ったところで・・」

いきなり事故を言い訳にしてしまったあたりに「うわ。俺性格悪いな」と一瞬自己嫌悪に陥った。

『え・・・?』

「本当に本当にゴメン!」

『・・・・』

「・・・・ゴメン・・・謝って済む問題じゃないけど本当にゴメン・・」

『・・・・』

「・・?」

『・・・』

「・・・絢辻さん?」


長い。永い沈黙だった。有人は震える手で徐に十円玉を二枚追加する。絢辻の次の一言の予想がつかない。怖すぎる。

しかし・・絢辻の次の一言は何とも意外な物だった。

それよりも前に有人は気付くべきだった。このあまりにも長い沈黙の本当の意味を。
電話越しで。この電話線の先で絢辻が果たしてどういう状況かを推し量るにはこの「電話」という物がどれだけ不便な物であるかを有人が痛感するのはそう先の事ではなかった。




『大丈夫なの!?怪我は!?』

「・・え?」

かつて無い逼迫した、同時真摯な心配の声色だった。

『今電話なんかかけて大丈夫なの!?安静にしてなくて大丈夫!?もう、馬鹿ね・・!電話なんて何時でもよかったのに・・!』

「・・・ううん大丈夫。お医者さんにも大丈夫って言ってもらえたし・・ありがとう。そんな事言ってもらえるなんて」

目を丸くしていた有人だったが絢辻からの言葉を頭の中で噛み砕き、咀嚼すると同時に心根がゆっくりと落ち着き、思わず謝罪よりも感謝の言葉が出る。

『心配するのは・・するのは当然でしょ?で、今どこの病院に居るの!?』

「え・・吉備東の市立病院だけど・・」

『病棟は?』

うぬぼれでも何でも無く、有人は絢辻のその強い語気に直感した。絢辻はここに来る気だ。それも確実に今から。

「え?だ、大丈夫だよ!それにもう遅いし!」

『大丈夫。今日は両親がたまたま家に来ているから・・車も出してもらえると思うわ』

「でも・・」

『あ。ごめんなさい・・無理言って。迷惑よね。でも・・私としては行きたいんだけどな』

「あ・・」

―謝らせてしまった。

非は全面的にこちらにあるにも拘らず、話の流れとはいえ結果彼女に謝らせてしまった事に痛恨の表情を有人はした。

「・・。俺は大丈夫だよ。怪我も・・来てもらう事も」

『・・ホント?』

「うん。ホントならこっちから行きたいんだけど・・外出はまだ許されてないから。でも絢辻さんが望んでくれるなら、もし来てくれるなら・・俺何時でも待ってます。それぐらいしかできないけど・・それでもいい?」

『ええ。充分よ』

「本当にゴメン。有難う・・」

『・・ううん。あ。お部屋は?』

「・・部屋は・・あ」

―しまった。勢いのままでたから病室の番号覚えてないや。

『ふふ・・大丈夫。本当に慌てん坊さんね?ま・・お互い様かな。・・いいわ。受付で聞く。・・お話しを通してもらえるとありがたいかな』

「うん。こんな事言えた義理じゃないけど・・待っています。絢辻さん」

『・・ええ。じゃあまた後で・・』



その年の12月25日。誰もが知っているクリスマスの日。有人は事故の結果、一日の大半を眠って過ごしていた。実質この日、彼が起きていたのは僅か五時間にも満たない。

しかしこの日は彼にとってこの日はとてもとても長い一日になった。

絶望と空虚、混乱と罪の意識。そして逃げ出したくなるほどの恐怖。
あらゆる負の要素が濃密に配合された時間はここまで流れにくくなるものかと。

有人はこの日の事を忘れないだろう。忘れる事が出来ないだろう。

そんな時間が今、くるくると―回りだす。







 

 

 

 

 

 

 

22 暗転

 

 

 

 

 

 

 

 

「う・・いって・・頭が・・重い」

 

予想以上に体調は深刻らしい。

当然だろう。意識の無い間、点滴に頼っていた体にそれ程の気力と体力が残っているとは思えない。何よりも先程の絢辻との電話のやり取りは意識を取り戻したばかりの体と脳には負担がやはり大きかったようだ。

まだ自分の頭が全身に負った怪我のダメージをちゃんと自覚していないのも問題だった。

命に別条は無くとも有人の体は間違いなく重傷で、安静を余儀なくさせる程のものである。

 

無事に病室に戻った後、「一旦家に帰るよ」と言う弟の相人に礼を言った―までは覚えている。しかし何時意識が落ちたのか解らない。

 

・・何処かで少し有人は安心していたのだろう。自分を責めもせず、電話の向こうで優しく、こちらを気遣ってくれた絢辻に。

 

 

―・・何も知らない癖に。何も理解してあげられなかったくせに。

 

 

後の自分がそう悪態付きたくなるほどの行為である事も気付かずに。

 

 

―・・ん?

 

・・気配を感じた。ぼうっとする意識の中でその気配は徐々に形を成していく。感覚から視覚へ。ゆらゆら揺れながらもゆっくりと固定されていく。現実の形に。

 

しかし違和感。

 

「形」は確かに見慣れている。間違いない。この「形」は・・あの子だ。

 

しかし・・「かたち」は・・?見た目には表れない。しかし有人にだけ自覚できる彼女の「かたち」。形、貌は同じでも有人には理解できる、知覚できる違和感の中、有人の意識は徐々に覚醒へ。

その違和感の正体を「ぼやけた意識の中の勘違い、働かない頭の誤作動」―そう自分の感覚を卑下して有人は打ち消した。

 

意識が完全に落ち着いた時、現実が形を整えた時。

 

にこり・・

 

「かたち」は有人の目の前で微笑んだ。そしてこう言った。

 

 

「・・・おはよう」

 

 

「・・おはよう」

 

―ほら、見ろ。

 

 

・・・絢辻さんじゃないか。

 

 

一向に自分の中から消えてくれない違和感を抱えながらも塗りつぶす。

まるで色彩豊かな絵を真っ黒な絵の具で塗りつぶすみたいに。台無しにするみたいに。

 

 

 

その数分前・・

 

「じゃあ静かにね。他の患者さんもそろそろ就寝の時間だから。・・でも、静かに話す位なら全然OKよ」

 

親切そうな看護師の女性はそう言って静かに病室のドアを開け、入りづらそうにしている一人の少女を促してくれた。そろそろ面会の時間外になる時刻ギリギリに訪れた少女に一切迷惑そうな感情を持っていない事が解る笑顔で。

 

「・・すいません。こんなギリギリのお時間に無理を言って・・」

 

「いいのよ。何せ・・『こんな』日だしね。・・会いたいのも解るわ」

 

「・・はは」

 

「ではごゆっくり・・」

 

「有難うございました」

 

ぺこりと頭を下げて立ちさる親切な看護師の女性を見送った。

 

 

 

看護士の女性が去り、が黙りこむと周囲は静寂に包まれた。ようやく聞こえてくるのは恐らく小児病棟でクリスマス会をしているのだろう、その楽しげな音楽や笑い声が僅かながら不快ではない程度に少女の鼓膜をくすぐる。

しかし、それも病室内に入るとほぼ完全に聞こえなくなった。

 

 

―・・眠ってる。

 

 

少女―絢辻 詞はそう確信した。

 

すぅ・・すぅ・・

 

ほぼ無音の病室内で聞こえる僅かな息遣い。多分少しでも物音を立てればそれはあっさりかき消えてしまうだろう。だから音も無く、そして病室の電気もつけないまま少女は歩み寄る。廊下の電気で室内は照らされているが消灯された有人の病室内はそれでも薄暗い。それでもお構いなしにそのまま絢辻はベッドに近付いた。

 

 

―・・見えた。会えた。

 

 

切望していたその姿。その顔。無垢で無防備な寝顔。少年―源 有人の顔。

頬にガーゼ。痣。頭には包帯と少し痛々しいがそこから覗く閉じられた目、睫毛、その先にある小さな泣きぼくろ、面長の顔に少し長めの鼻、小さな息遣いの少しだけ開いた薄い唇。あの日、神社の裏の境内で穴が開くほど眺め、見つめたあの顔だ。

 

「・・・くすっ」

 

絢辻はこれ以上にないほど痛々しく眉をひそめて微笑んだ。そしてゆっくりと先程有人の弟の相人が座っていた丸椅子に座り、また暫し彼の寝顔を無言のまま眺める。その視線ゆえか彼が目覚めるのにさほど時間はかからなかった。

 

「・・・ん」

 

眼鏡の奥から光る彼の薄茶色の瞳は少し弱々しい。

 

「・・・おはよう」

 

「・・おはよう」

 

時刻はもう九時過ぎ。二人は時間的には何とも的外れな挨拶を終えた後、絢辻は有人の顔から彼の全身を見る。頭の包帯、顔の擦り傷、手にも包帯、固定された右足。そんな痛々しい有人の姿に心から心配そうに絢辻はこう呟いた。

 

「酷い状態ね・・大丈夫?」

 

「うん。大丈夫。むしろ・・」

 

「むしろ・・?」

 

「救急搬送された時にハサミで切られちゃった制服が痛いかな・・」

 

「え・・?」

 

「あ。大丈夫だよ?本当に。俺・・ぶつかった軽トラの積み荷のトマトジュースを全身に浴びたみたいでさ?血まみれに見えたらしくて・・救急の先生も『出血の割になんでこんなに外傷が少ないんだ?』って不思議に思ってたって」

 

「そうなの・・?」

 

「うん。怪我自体は本当に大したこと無いから・・それよりも待ち合わせの場所に行けなかった上に、こんな時間に呼び出して、心配もさせて・・絢辻さん。何から何まで本当に・・・ゴメン・・!」

 

勢いよく頭を絢辻に向かって下げ、そのせいでピシリと有人の体中に激痛が走るが、それをかみ殺すように歯を食いしばって耐える。しかし、目の前の聡明な少女にはお見通しだった。ふるふると首を振る。

 

「・・いいのよ。仕方なかったんだし。・・それよりも!!あんまり無茶しないで。ホラ・・楽な姿勢になって?病人は大人しくしているものよ?」

 

「・・つつつ」

 

有人は体を起こす。体中に走る痛みが抜けきらないまま顔を上げたせいで表情は未だやや引きつっていた顔のままであった。それを見てクスクスと絢辻は笑う。

 

しばしの沈黙の後、絢辻が懐かしむような口調でこう呟いた。

 

「・・そう言えばあの時と立場がまるで逆ね?・・私が風邪をひいて学校を休んで・・源君が看病をしに来てくれたあの日と」

 

「そうだね・・」

 

「あ、そこにある林檎・・何か食べても大丈夫なの?」

 

有人の弟が置いていってくれたらしいパックに入ったままの林檎を指差しながらまたクスクスと笑い、絢辻は徐に手を伸ばした。くるくると艶のいい林檎を捜しながら有人をちらりと優しい瞳で見る。

 

「これも『あの時』と一緒ね・・食べる?」

 

「あ。俺が剥くよ」

 

「・・・その手で?」

 

「あ・・」

 

自分の右腕に巻かれた包帯を見て有人は申し訳なさそうに苦笑いするしか出来ない。それに向けて絢辻は優しくも今度は呆れた笑顔で顔を傾ける。

 

「こういう時は人に甘えなさい。ね?」

 

絢辻は一つ一つ林檎の形を確かめるように二、三個手を付けた後、見つくろった一つの林檎をスルスル近くに有ったナイフで器用に剥き始める。

 

「・・お上手」

 

「ありがと。・・あの日の源君の手つきに感化されてちょっとは練習したのよ?練習の成果を発揮できた上にお披露目まで出来て嬉しいわ♪」

 

丸い大きな瞳をくりくり動かしながら器用に林檎とナイフを滑らせ、見事に林檎の皮はこれまたあの日と同様にあの形になる。

 

「どう。綺麗なS字の完成。大したもんでしょ?」

 

得意気に絢辻はまるで眼鏡を装着するみたいに、剥ききった林檎のS字の皮を顔の前で茶目っ気たっぷりに誇示した。

 

「お見事・・痛!」

 

―・・手を叩くことも出来ないのか。

 

自嘲の表情でびりっと激痛が走った右手の患部をさすっている有人の姿に

 

「ふふっ・・無理しないのっ。ハイ・・召し上がれ」

 

切り分けられた林檎の少しいびつな方を有人は手にとって口に入れる。

そう言えば目覚めてから何も口にしていなかった。空腹も喉の乾きも今思い出したように蘇る。改めて有人は自分の生を実感する。

 

「・・」

 

そして同時気付く。・・やはり自分の感覚が「正常」である事も。

 

 

―・・やっぱり気のせいじゃない、よな。

 

 

何かが「変」だ。有人は踏み込むしかなかった。

 

 

「・・絢辻さん?」

 

「うん?何かしら」

 

「どうかした?」

 

「え・・?」

 

「何か・・変だよ」

 

「・・・?何が・・?」

 

「上手く言えないけど・・変だよ」

 

おかしい所はたくさんあった。このクリスマスという肝心の日に有人がみまわれた不運を前に彼女の予想された悪態。侮蔑。不満。憤り。皮肉。

それを全面に出しつつ、押し殺して優しく、いかにも親切そうに彼女が振舞っているのなら解る。いつもの彼女がすること、やりそうなことだ。

確かに有人にとっては不可抗力の事故とは言え、彼女にはそれぐらいの権利は許されている。「こんな日に限ってなんて間の悪い人なの!?」ぐらいの不平不満、嫌味、愚痴や皮肉を聞かされたとしても妥当とも言えるだろう。

 

 

でもそれも無い。

 

 

それどころか今の絢辻には全く欠けている。有人に多少なりとも存在する負い目に対してそこを嬉々と悪戯に責める、自分達の不運さに憤る、等の感覚が全くぽっかり欠けている。

 

そして

 

何故か今の彼女の表情にはあろうことか含まれている物に有人は気付いていた。

優しく微笑みつつも憂いのある伏せ目がちな瞳、控え目な声量、そして相対する有人との視線を可能な限り合わせようとしない、一歩引いて自重した様な態度。

それは状況を考えれば本来有人が持つべき負い目、絢辻が決して背負う事は無い、必要も無いもの―謝罪、同時自己嫌悪の様な感情が宿っていた。

 

 

「何で・・絢辻さんはそんな顔をしているの?」

 

「・・」

 

有人の問いかけに否定も肯定もせず、絢辻はおし黙った。表情も全くの無に変わる。

彼女が有人に本性を晒す前に何度も見せていた謂わば「接続」の儀式である。

 

が、しかし―

 

 

 

・・Error

 

 

・・接続は断たれました。

 

 

 

・・直前の状態に復帰します。

 

 

 

「・・・。気付いちゃうか。源君はやっぱり・・」

 

絢辻はそう言って微笑んだ。これ以上なく寂しそうに。

この時の自分のいくつもの問いかけ達が「今」の彼女にとってどれ程残酷な言葉であったかを有人はこの時、知る由も無い。

 

絢辻は覚悟したように言葉を紡ぎ始める。

 

 

「・・出来るなら貴方が落ち着いて体も怪我も・・そして心も回復した時にお話ししたかったんだけど・・やっぱり私ってこういう肝心な時にダメね?・・手帳を落とした時もそう」

 

自己嫌悪ここに極まれりといった表情のまま絢辻は右手で髪をくしゃりと覆う。綺麗に整えられた黒髪の間から覗く水晶の様な黒い左の瞳が一層憂いを帯びた。尚も消え入りそうな声で言葉を紡ぐ。

 

「・・ちゃんと伝えなきゃいけない事がある時に限って上手く出来ない・・ホント、ダメ・・」

 

「・・・?あや、つじさん・・・?」

 

「・・源君?」

 

「・・何?」

 

「これから私変な話をすると思う。理解できないかもしれないし、気持ち悪いと思うかもしれない。とても今の状態の源君にはお勧めできない・・それでもいい?」

 

「・・・」

 

即答できなかった。普段の自分なら一歩退いて考え込むのかもしれない。日を改めるのかもしれない。だが・・今の有人にはそれが無理だった。

 

・・ぶるっ

 

身の毛がよだつ。正直今有人は怖い。他でも無い絢辻が怖かった。

自分の事をまるで「他人事」のように話す絢辻の事が。

 

「・・・」

 

沈黙だった。今有人が出来る事はそれだけだった。

しかし・・絢辻は

 

「そう・・嫌、だよね。でも・・やっぱり話すね?解るように精一杯話すから聞いてほしい。

 

 

・・貴方に『あの子』の最後の言葉を。多分『あの子』もそれを望んでいると思うから」

 

 

と、発した言葉は彼女の言葉通り、有人には理解できなかった。そして、言いしれない不気味さ、気持ち悪さが有人の背筋に差しこんでくる。

 

 

 

 

 

 

―・・・。酷い状態ね。

 

―うるさい!

 

―貴方はあの人を責めているの?それともあの人を信じ切れなかった自分を責めているの?

 

―・・・。

 

―どっちもね。

 

―煩い!解ってるくせに。だって・・だって

 

 

 

貴方は私なんだから!!!

 

 

 

絢辻は向かい合っていた。他でも無い自分自身と。

 

 

―・・そうね。貴方が何時も自分を責める時に都合よく作りだした。貴方が都合の悪い時に全てをなすりつけて逃げるために作りだしたのが「あたし」なのだから。

 

―そうよ!

 

―「成績優秀、品行方正、清く、正しく、美しく。」・・私は貴方の「仮面」そのもので、みんなにとっての「絢辻 詞」だった。・・ただ一人「あの人」を除いてね。

 

―・・・。

 

―・・でも解っていたでしょう?あの人はあくまで「ああいう人」だってこと。確かに「私達」はあの人に相応しい。むしろお釣りが来てもおかしくない位に「私達」はあの人の傍に居ていい人間のはずよ。でも・・貴方があの人を必要以上に欲した時に全ては崩れるの。気付いちゃうのよ。「ああ私達にとって彼は絶対だけど彼にとって私達は必ずしも絶対じゃない」ってことを。

 

―いや・・。嫌・・。言わないで・・言わないで。聞きたくない。

 

―「いや」、じゃないの。・・貴方も認めてくれないとね。・・「私」にはもともと選択肢なんて無い。貴方が否定したい、目を逸らしたい事象をすべて引き受けるしかない、それで前に進まなければ・・いえ違うわね。傍目には「前に進んでいる様に振舞わなければならない」んですもの。だって貴方が作り出した私ってそういう「役目」なんだから。

 

・・「仮面」の私は、ね。

 

 

―・・言わないで。

 

―仕方ないでしょう?あの人の傍に居る、居たいと思う事は即ちそういう事よ。「絶対」になれない自分を受け入れてでも彼を望むのであれば、だけど・・国枝君も言ってくれたでしょ?

 

 

「アイツは君を傷付けるかもしれない」

 

 

・・って。貴方あの時ふんぞり返って言ったわよね。国枝君の前では私が何時も出張るのにあの時だけわざわざ茶々入れてまで。

 

 

「解ってる。でも仕方ない。そんな簡単な気持ちじゃ無いの」って。それが・・このザマ

 

 

・・だものね。

 

―・・うぅ・・。

 

―・・ま、彼の本質は今置いておくとして・・・彼の性格からしてあの日あの時、私達との約束を放り出して他の子といたり、めんどくさくなって投げ出したり、すっぽかしたりするような人じゃないってぐらい散々に解っていたはずでしょ?それなのに今あなたはここに居る。あの人を信じきれなくて、自分の事なんてどうとも思ってないって勝手に思い込んでね。

何よりも彼の傍に自分が居てもいいのか、居るべきなのかの自信が無くて。

・・・貴方は彼を疑ったんじゃない、彼の中に在る「自分」―絢辻 詞を疑ったのよね?彼が「私なんかを好きになってくれるはず無い」って。ホントは「散々自分を苦しめた私を心底面倒臭く想っているのじゃないか」って。

 

―お願い・・もうやめて・・。

 

―信じようとした。でも出来なかった。彼を信じる強さよりも彼の中に居る自分を疑う心の方が強かった。勝っちゃった。

ははは・・。笑っちゃうわ・・。何が「もうこれ以上何も望まないね。バイバイ・・」―よ。浸りすぎよね。可哀そうなヒロインでも演じたおつもり?

 

―・・もう。やめて。やめてよ・・・。

 

―止めないわよ。っていうか止められないの。私は貴方が向かいあえないものに「表向き」は向かい合えるように、対処できるように貴方がわざわざ設定した「仮面」なんだから。

 

―ッ!!解ってる!解ってるから・・。全部・・。

 

―解ってない。だから反芻するの。・・続けるわね?そして貴方が自分の中で閉じこもり、勝手に解釈した幻想の中に逃げ込んだ中、今「この場所」のことね?そこでその真実は明らかになった・・

 

―・・。

 

―彼は貴方との約束を破った訳ではない。本当の本当に昨日あの場所・・私達の元へ行けない「確固たる理由があった」。何とも安い、在りがちなドラマの展開よろしく彼は交通事故に遭い、病院に運ばれてしまいました、とさ。

 

―・・・。

 

―まぁ?・・こういう展開では大概の場合、主人公の男の子は死んじゃうのだけれど・・幸い彼は軽傷。よかった良かった♪めでたしめでたし♪

・・しかし、よくない子が一人いる。と~~っても都合が悪い人が居る。・・それが貴方。

 

―・・。うう・・。

 

―「こっぴどく振られた」。「すっぽかされた」。「別の女のもとに行かれた」とかならまぁ・・それならあの時の貴方の台詞はまだカッコはついたかもね?

 

「幸せだった。」?

 

「何も望まない。」?

 

あははは!これはカッコ悪い!すっごくカッコ悪い!あの人は貴方を裏切ってなんかいない。意識が回復して即連絡もくれた!必死で謝ってくれた!

・・でも。「貴方」じゃ無く「私」にね?

肝心の貴方はその時既に「ここ」に隠れていた。そして彼からの電話を、彼の声を聞くのが怖くて仕方なかった。でも・・聞き耳を立てずには居られなかった。・・耳を澄ました。私とあの人の会話を。真実を。

 

―・・・。うぅ~~~っ。

 

―その真実はあまりにも平坦極まりないものだった。貴方が自分の中で勝手に作り上げた悪い予感、想像、妄想を遥かに下回る些細な不運。電話もとで聞く彼の声に心底安堵しながら、噛みしめながらも貴方の意識は更に深い深い方・・この場所に墜ちていった。・・電話を、というか全てを私に任せて、押し付けて、ね。

 

「何してたのよ!」

 

「心配したのよ!」

 

「このドジ!何であんな日に限ってそんな目に合うのよ。この倒変木!」

 

なんて・・言えるわけがないわよね?貴方は昨日憤りもせず、ただ粛々と、淡々と受け入れた。貴方が勝手に作り上げた幻想をね?彼とのいい思い出、楽しい日々だけを残して綺麗に終わろうとしたの。

 

・・・「予定通り」に、ね?

 

―・・・。

 

―その方が楽だから。ほんと、笑っちゃうわ・・。

 

彼を信用しきれなかった自分、彼の中の自分を疑った自分、そして自分という人間を疑い、真実を知ろうとする事も無く楽になろうとした自分。居なくなろうとした自分・・。

 

「何も望まない」、「幸せだった」―そんな虚勢を張って美学に逃げ、綺麗に、美しく、華麗に終わらそうとした。その行動が後に知った真実を知った時、有り得ないほど滑稽であったかを知ったとしたら成程・・「ここ」に膝抱えて無様に蹲って籠りたくなる気分、気持ちも解るけどね。彼に合わす顔が無いものね?

 

・・いいえ。「顔」ならあるかしら?「丁度いい」のがあるから。何せ貴方には在るから。この貴方ご自慢の―

 

 

 

私という・・「仮面」がね。

 

 

 

―・・。解ってる。もう・・全て解ってるから。もうほっといて・・お願い。

 

―・・。会わないの?彼と。

 

―・・。無理だよ。恥ずかしいし、情けないし、悔しいし、もう・・無理だよ。・・もう消えたい・・居なくなりたい。

 

―・・解った。元々私には拒否権なんて無いものね。

 

―ごめんなさい・・ごめんなさい。

 

―いいのよ。私は貴方なんだから。

 

―・・・。

 

―最後にあの人に伝えたい事・・・何か在る?

 

―・・・こう伝えて―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 










「―『ばいばい』」





「・・・・!!」





何を言ってるのか解らない・・そうのたまってしまえればどれ程楽だろう。
その絢辻の言葉を頭のいかれた女のたわごとだ、実は嘘をついて俺が苦しむのを楽しんでいるんだろう?と思えれば。

しかし・・その気配が一向に現れない。種明かしをする「あの子」の姿が。今の血の気の引いた有人の顔をからかい、また罵倒する「あの子」の姿が。

有人は唐突に思い出す。神社の裏であの「契約」したあの日・・

彼が「あの子」の物になったあの日。


―・・・「あの子」はあの日言った。「不安を覚えている」と言った。

「貴方が居なくなる可能性」が怖いと。


俺はこう言った。笑って。


「俺はそう簡単に居なくならないよ」、と。





でも・・・俺は予期していなかった。


まさか








「君」が居なくなるなんて。
















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ルートT 二十二章 源 ~ルーツ~








 

 

 

 

 

 

 

23 源 ~ルーツ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―本当に変わった男の子だった。

 

喜怒哀楽すべてを笑顔で表現する・・まず笑顔ありきの男の子。

特に図抜けた所は無い・・しかし決して低くも無い嫌味なほど抜け目の無い能力の印象を覆い隠すあの笑顔。誰にも友人、知人、教師分け隔てなく振舞われるそれに彼の印象は決定づけられる。

 

 

絢辻が彼―源 有人と個人的に親しくなる前にも既に感じていた特異な力である。

対人・・人と付き合う上での様々な能力に置いて絢辻が併せ持った物の「総合力」に関しては有人の比ではないだろう

 

しかしこと「笑顔」に置いてははっきりと絢辻は白旗を上げる。「叶わない」と。

基本表向きの、虚構のコミュニティで生きていた絢辻にとって本当の笑顔に出会うこと、触れること、そして自らが無意識の笑顔になるほど愉快な事自体が少なかったのだ。

 

いつも鏡で自分の顔を見、程度、相手から見える角度等を調節して訓練、謂わば「養殖」された笑顔こそが普段絢辻の浮かべる大半の笑顔である。しかし「養殖」のそれも時には天然ものすら上回る時がある。それは時と状況によって相手のしてもらいたいタイムリーな「笑顔の種類」を厳選出来るからだ。場所と空気、雰囲気を察して適当な笑顔を選別できるからだ。

 

しかし、時に居るものだ。本当の「天才」というものは。

 

笑顔の天才・・源 有人。

 

絢辻を強く惹きつけて離さない。

純粋にその笑顔に異性として惹きつけられた。自分が落ち込んでいる時に根拠も無くホッとさせる、安心できる。逆に困らせた時の困った笑顔もまたいい。

そしてその笑顔は・・。

 

・・その笑顔は―

 

 

・・とにかく絢辻は彼の笑顔に魅了された。虜になった。でも・・彼女は時折知りたくなる。解らなくなる時がある。

 

―本当に彼の笑顔は「天然」なのだろうか?

 

と。

 

―私と同じ「養殖」・・つまり「仮面」じゃないのか?

 

と。

 

誰に対しても分け隔てなく、平等に、一見自然に振舞われる彼のその笑顔。それは時に人を思考停止させる強制力がある。

 

「この子なら大丈夫」、「誰にでも何処にでも居場所を作れるだろう」―こんな無意識の安心感を周囲はすぐに覚える。

そうやって彼という人間を定義づけ、彼という人間を知ることを周りがある意味放棄してしまう―そんな笑顔の強制力をもっている。

 

「深く話をしないでも聞かなくても解るよ。源 有人って奴はさ―」

 

こうだ。

 

ああだ。

 

こんな風に確信も根拠も無く、誰もがその先を勝手に作り上げてしまう、そしてそれを誰もが自分の中で「これが正解」と疑うことなく完結させてしまう・・そんな「仮面」。

 

他人を惹きつけ、意味もなく他者を納得させ、思考停止させてしまう温かい笑顔。

温かい・・が、同時人を凍らせる彼の―

 

 

 

 

・・・氷の微笑み。

 

 

 

 

そしてそれは例外なく自分・・絢辻 詞という人間に対して相対する時もつけられているのではないか―?

 

―・・それは嫌だ。たまらなく嫌だ。自分が今までしてきた仕打ちを他人に・・そして他でも無い「あの人」にされる事がたまらなく嫌だ。

 

そんな自己嫌悪に陥るほど身勝手な言い分を抱えながらも絢辻は確かめずに居られなかった。

 

そしてあの日、とうとう絢辻は「彼」に聞いてしまった。おそらく・・源 有人を最も知るであろう人物―彼の幼馴染である国枝 直衛に。

 

図書室で国枝からクラスの創設祭の用意の手伝いを頼まれたあの日に時間はさかのぼる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺に聞きたい事って・・?」

 

絢辻の向かいに座った国枝は椅子の背もたれにもたれること無く、やや腰を浮かせるような前のめりで絢辻と向かい合う。やや緊張と警戒が消しきれない姿勢であった。

そんな彼とは対照的にリラックスした姿勢の絢辻はしっかりと彼を見据えていた。

 

―そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。私は「貴方には」何もしない。

 

と、その瞳で語りつつ話を進めていく。

 

「うん・・まぁ色々あるんだけどね・・ねぇ?国枝君って有人君とはどれぐらいの付き合いなのかな?」

 

「ん~~・・。幼稚園の年少だから三歳として・・約十五年・・か」

 

「へぇ・・凄く長いお付き合いなのねっ」

 

「それから・・小、中、高と結局全部一緒だ。梅原でも俺達とは小学校からの付き合いだから俺と有人がやっぱり一番長いのかな」

 

「どんな子だったの・・?国枝君、有人君の二人って」

 

「・・・。別に。・・よくある関係だと思うよ」

 

「・・具体的には?」

 

くすすっ、っと悪戯に笑って絢辻はさらに国枝にずいっと机越しに近付く。何となく国枝の挙動に「嘘」というには大袈裟だが、どこかしら「誤魔化し」の類の感情を感じ取ったからだ。

 

「・・・」

 

その絢辻の所作にややバツが悪そうに顔をしかめる国枝。だが尚クスクス笑う絢辻の無邪気な笑顔に気圧され、ゆるゆると語りだす。

 

「・・無愛想で負けず嫌いな俺とふわふわへらへらお人好しの性格正反対なアイツ・・自然と一緒に居るようになったかな。親同士も仲良かったし、あいつの兄弟とも昔はよく一緒に遊んだ記憶があるよ」

 

「ふんふん・・。ねぇ聞きたいんだけど・・有人君って三人兄弟なのよね?どんな御兄弟なの?」

 

「・・。兄弟仲は良いと思うな。性格はそれぞれ結構違っていてお兄さんはアイツとまた違った大人しめの人で、逆に末っ子の相人(あいと)はやんちゃないかにも末っ子ってタイプかな。不良ってワケじゃないけどね」

 

「・・ふーん」

 

「んで・・当のあいつは次男特有の呑気で気ままな笑い男って感じかな」

 

ふふっと絢辻は微笑んだ。―そうね。そんな感じよね。とでも言いたげな表情。

しかしその後に出た絢辻の言葉に国枝は目を見開く事になる。

 

 

「・・・『表向きは』・・・ね?」

 

 

「・・!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・ひょっとして絢辻さん知ってるの?っていうか聞かされた?アイツから・・」

 

その国枝の消しきれない驚き、焦りを含んだような言葉に絢辻は怪訝に首を傾げ、とぼけたように微笑んだ。

 

「・・何のことかしら?」

 

正直言って絢辻にはその国枝の言葉が本当に何の事か解らない。しかし何処か確信めいた、そして同時核心をついたかのように微笑んだ。そして今度は妖しげな瞳で国枝を問い詰めるように見据える。こう言いたげに。

 

 

 

 

―あの人は・・、源 有人君は・・

 

 

 

・・・・一体何を私に隠しているの?

 

 

 

 

「・・はぁ」

 

国枝は両眼を閉じ、少し悔しそうな溜息をついた。

 

「ごめんなさい。意地悪なカマかけて。でもね・・私は知りたいのよ」

 

何時も笑顔でへらへらふわふわ。お人好しで危なっかしい・・でも優しくて温かくて、でもちょっとガンコもの。・・そんな彼の事を。

 

国枝は黙りこくった。物事の考え方、冷静さ、立ち振舞い―周りに居る多くの人間が高校生にしては落ち着いた、大人びた雰囲気を持っていると認識するであろう国枝がその時、絢辻には小さな子供に見えた。

彼が抱えている本音を・・有人の真実を伝えるために急速に彼は退化しているようだった。

己の中に隠し持った疑問、他人に話すこと無く彼の中で凍結した何かをゆっくりと溶かしているのだ。

 

―こんな事を話しても誰も信じてくれないだろう。

 

子供の戯言だと。考えすぎだと。

 

「ほら見ろよ。アイツ・・『源 有人』はああいう奴さ。裏表なんてあるように見えるか?」

―他人にそう烙印をおされるであろう国枝が抱えた「想い」を。

最も長い時間を共に過ごした彼が気付き、抱え続けた、隠し続けた源 有人という少年の真実を。今、目の前のたった一人の少女に伝えるために。とりあえず国枝はこう前置いた。

 

 

「・・俺が話す事でも無いかもしれない・・絢辻さんの知りたい事の答えになるかも解らない・・おまけに余計な俺の事も話さなけりゃならない。それでもいいなら話していいかな?絢辻さんに・・」

 

 

「・・・ええ。もちろん喜んで。・・どうぞ?」

 

 

しっかりと今度は茶目っ気無く国枝を見据えて絢辻は背筋を正した。国枝の言葉を一言一句聞き逃すまいと。

 

 

「・・俺がアイツと・・有人と友達になったのはアイツが好きだったからじゃない」

 

 

「・・・え?」

 

「嫌いだったんだ。これ以上なく」

 

「・・・」

 

「うん。俺はアイツが嫌いだった。源 有人の事がね」

 

あまりにも意外すぎる国枝の始まりの言葉を絢辻は驚きで瞳を見開きながら無言で聞いていた。そんな彼女に―

 

 

 

 

 

「・・って~か・・今でも嫌いだ」

 

 

 

 

 

国枝は微笑み、重ねてそう言った。しかし、彼の長く癖の無い黒髪の下から覗く彼の瞳は差し込むオレンジの夕日に照らされ、とても優しく綺麗に澄み渡っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「絢辻さんさ・・アイツの家に行った事は在るの?」

 

「え・・。いいえ」

 

余りに意外な言葉から始まった国枝の話の方向性がまた唐突に切り変わった事に戸惑いを隠しきれないものの、絢辻はすぐに順応し、ふるふると正直に首を振る。

 

「・・じゃあ相人・・有人の弟に会った事は?」

 

「いえ。それも無いわ」

 

「お兄さん・・舞人(まいと)さんに会った事は?」

 

「・・お兄さんに関しては・・少し有人君とお話ししたぐらい、・・ね。あ。お兄さんの彼女の沢木 茜さんって方とはお会いした事もお話しした事もあるけれど」

 

「・・そう」

 

「勿論!有人君のご両親にもお会いしたことはないわ」

 

「・・・」

 

「・・うふふっ」

 

「・・?」

 

「残念でした・・国枝君達はこの前の事で盛大に誤解していたみたいだけど~私と有人君は今の所は『そんな関係』ではございませんっ♪」

 

確実に先日の有人に対する国枝を含めた友人達の疑惑、詰問を引き合いにだしてきっぱりと、そして悪戯に茶目っ気をまじえて絢辻は否定した。しかし―

 

「・・・。って言う事は絢辻さんもやっぱりアイツから何も聞かされていないんだね・・」

 

そんな絢辻の悪戯な言葉に何ら反応せず、国枝は唇を噛むようにして神妙そうにそう呟いた。

 

「・・。どういう意味かしら?」

 

絢辻は少し気分を害した様な口調が出てしまう自分を抑えきれなかった。「何も聞かされていない」という国枝の言葉に反射的に反応してしまったらしい。他でも無い有人の事でそのように言われてしまった事が絢辻のプライドに触ったようだ。しかし、国枝はそれにも反応を示さず尚も言葉を紡ぐ。

 

 

「アイツとアイツの兄弟・・そしてご両親に会っていたなら絢辻さんも気付いたかもね。でも・・まぁ多分アイツは会わせなかったと思うけど」

 

 

「・・・!」

 

絢辻はさらに国枝のその言葉を聞いて一瞬で血が沸騰し、毛が逆立つような感覚を覚えた。自分が苦手な姉の縁の存在を周りにひた隠した事と似た様な行為をあの有人もまたしていたのか―そう考えると怒りと屈辱に似た感情が湧きあがって来たからだ。

 

―・・・!・・・。

 

そんな自分を諌めるように絢辻は心根を落ち着かせ、再び国枝の言葉を静かに待つ。

国枝は彼女が自分の言葉を冷静に受け止める態勢が出来たと判断し―

 

 

こう呟いた。

 

「有人の奴ってさ・・個性的って言うか・・独特の顔しているだろ?」

 

「・・・?」

 

「色素の薄い茶色の目に明るい髪色・・」

 

「・・」

 

 

「・・全然違うんだよね。誰にも似てない。家族の誰にも。兄弟にも。ご両親にも」

 

 

「・・・え?」

 

国枝は驚きで見開かれた絢辻の瞳を真っ直ぐ見据えてこう言い放った。

 

 

 

「有人は養子なんだ」

 

 

 

「・・・!」

 

「・・元々有人のお父さん・・おじさんの実の妹さんが生んだ子供―それが有人だよ。その人が有人を生んだ後すぐに亡くなってしまった上に、アイツの父親も誰か解んなかったらしくて・・・で、有人の本当のお母さんの唯一の血縁者であり、有人の叔父でもある今の親父さんがアイツを引き取ったってワケ・・」

 

誰よりも源 有人が嫌いだという彼の親友―国枝 直衛が語り始める。

 

 

源 有人という少年の源(ルーツ)を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




















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ルートT 二十二章 源 ~ルーツ~ 2











三年前―吉備東公園にて

 

ポーン・・

 

・・ポーン

 

二人の学生がその公園にいた。

 

「・・ねぇ」

 

ポーン

 

「ん?」

 

ポーン

 

「アンタに聞きたい事あんだけど」

 

ポーン

 

「・・何?」

 

ポーン

 

「普通さ。こんな年頃の麗しい、ぷりてぃ~~な女の子を・・さっ!」

 

ポーン

 

「・・何処に居んのそんな子。俺の視界には見当たらないんですが?」

 

ポーン!!

 

「目の前に居んでしょうが!!この棚町 薫ちゃん花の14歳を夕方の吉備東公園に誘い出して置きながら何よコレ!?キャッチボールの相手!?何処の世界にそんな男子が居んの・・よっ!!」

 

ポーン

 

「・・・」

 

ポーン

 

「『ここに居る』って顔すん、なっ!!!」

 

「あ」

 

怒りの余り目一杯投げた棚町のボールが大暴投となり、少年―国枝 直衛のはるか後方をてんてんとしていく。それに対して全く咎める様子もなく、淡々と駆け足でボールを拾いに行く彼の後ろ姿を両手に腰を添え、ぷんっぷんしながら棚町は眺めていた。

 

まだお互い中学二年生であるこの頃、棚町 薫は髪も短く、体型もまだまだ女の子らしさが控え目だったため、少年の様に見えた。彼女が学校の制服さえ着ていなければ一見はごく自然な少年同士のキャッチボールに見えていただろう。

 

暴投に対する大したお咎めも無く、戻って来た国枝は淡々とキャッチボールを再開、渋々ながらも少女はグラブをしゃくる様にして再び受け取る。

 

「・・・。ふんっ」

 

ポーン

 

一球一球相手にボールを投げる際、お互いに一言会話をすることを暗黙のルールとして少年少女の奇妙で珍妙な会話は続いていく。

 

 

「・・でさ、棚町」

 

ポーン

 

「『薫』でいいって。何よ?」

 

ポーン

 

「・・どう?」

 

ポーン

 

「(・・・無視。)・・で、何がよ?」

 

ポーン

 

「俺の投球フォーム」

 

ポーン

 

「・・・ふぅ。・・アンタも真面目よね~。たかが今度の学校の球技大会の為に練習だなん、てっ!・・キャッチボールの相手ぐらい源君でも梅原君でもいっくらでもいるでしょうに」

 

ポーン

 

「・・お前は有人や梅原と違って俺に対して遠慮なし、忌憚の無い意見をズケズケ言うだろ?アイツら俺に気ぃ遣うんだよ」

 

ポーン

 

「ふふん♪まぁねん~~。・・・ん!?ちょっと待って!それって暗に私が『気を遣えない』、『空気読めない』って言いたいの!?しっつれいねぇ~~~!?」

 

ポーン!!

 

「わっと!!・・そんな事言ってないって・・で。投球フォームに戻るけど・・どう?」

 

ポーン

 

「・・・。ま、イイケド。ハッキリ言っていいのねー?」

 

棚町は一旦返球を止め、ふぅむと考え込む。この一言会話ルールへの「タイム」の合図を兼ねていた。

 

「・・・」

 

「その、さ。・・何て言えばいいのか・・確かに悪くない・・だいたい合ってはいる気がすんのよ?ホント」

 

「・・・」

 

「でもさ・・・なんっっっか違うんだよね~~。自然さが無い・微妙・ぎこちない。けど、だからといって『何処をどう改善しいたらいい?』といざ聞かれたら『皆目わかんない』・・・そんなカンジ?」

 

上手く言語化できそうにないことにもどかしげに、そして微妙に申し訳なさそうな表情をして棚町はこう言う事しか出来なかった。

 

「・・・。良く解らん。・・が、ある意味すげぇ良く解る」

 

「良く解らないが何故かすごくしっくりくる表現」と、国枝は棚町の言葉を受け取った。

国枝は実は運動音痴だ。基本彼は何事も一定量努力しないと何もできない奴である。反面「運動」に関して生来の抜群のセンスを持ち、例え女子にとって馴染みの無い競技でもあってもほぼ即時適応できる棚町には到底理解できない境地である。

 

「・・・」

 

自分のセンスの無さに露骨に落ち込み、考え込む国枝を前にクスリと棚町は愛おしそうに笑い、

 

「くすっ・・直衛?」

 

ポーン

 

「ん・・?」

 

「いいわよ。トコトン付き合ったげる。納得いくまでやんなさいな♪」

 

「・・ありがと。棚町」

 

ポーン

 

「『薫』っ!」

 

ポーン!

 

 

 

 

 

「・・ねぇ」

 

ポーン

 

「ん?」

 

ポーン

 

「アンタってさ~」

 

ポーン

 

「・・?」

 

ポーン

 

 

「・・何でそんないつも頑張んの?」

 

 

ポーン

 

「・・・」

 

ポーン

 

「別に成績は良いし、優等生じゃん。性格も少々根暗、あと寝起きとかにヘンな習性は有るにしてもまぁ・・普段、そこそこ、それなりに私はアンタの事イイ奴だと思うし?」

 

ポーン

 

「人の褒め方下手だな~・・お前」

 

ポーン

 

「あ、ひねくれ者なトコも追加」

 

ポーン

 

「・・・(これ以上余計な事は言わないでおこう・・)」

 

ポーン

 

「・・。で、その~顔もまァ・・悪くはないし?その、・・さ?・・・いっそ『コレ位でいいや~~』ってなんないの?」

 

ポーン

 

「・・・」

 

ポーン

 

「・・・」

 

 

「・・勝ちたい奴が居る」

 

 

「・・え」

 

突然割り込んできた「ルール無視」の国枝のその言葉に棚町は思わず投球動作を止めた。ストンと両手を落とす。

 

「・・ずっと勝負してきた。そいつと小さい頃から。俺はそいつの事が昔から大っきらいでいつか『鼻を明かしてやろう』って思ってきた」

 

「・・アンタにそんなファイティングスピリッツが有ったなんて意外・・」

 

間違いなく嘘や冗談の類ではない。国枝の意外な一面に棚町は面食らった。同時こう思う。

 

―案外アンタって私に似てんのね。・・・すこし・・嬉しいよ。

 

 

「でも、ま・・多分相手にされていないだろうけどな?」

 

きょとんとしている目の前の棚町の気持ちを緩和するように国枝は雰囲気を少し和らげ、珍しく自嘲気味に笑ってこう言った。でも今の棚町はその言葉にとても笑えない。

 

「え。それちょっと悲しい・・悲しいよ」

 

何時になく神妙に瞳を伏せて気遣うように棚町はそう呟いた。

「嫌いな奴に相手にされない」―これはこれで結構屈辱でもあるのだ。

 

「・・でもいい。絶対負けたくない。絶対見返してやる。で・・アイツに気付かせてやる」

 

―「アイツ自身」にアイツ自身を。

 

「・・・」

 

普段おしゃべりな棚町も普段は多くを語らない彼の嫌悪感、そして同時強い劣等感を抱えている事を容易に窺わせる言葉達にかける言葉を見つけられず、無言のまま其のやりきれなさを覆い隠すようにボールを再び投げる。

 

・・ポーン

 

「・・っと」

 

「・・ごめん」

 

優しく国枝の胸元に投げたつもりであったのにやや逸れた自分のボールがやけに棚町は悔しかった。

 

「・・いいよ。こっちこそ悪かったな」

 

 

 

 

正直な所、この頃の棚町にはその国枝の言う「嫌悪」、そして「劣等感」の対象が誰であるのか解らなかった。普段の国枝の交友関係を一見してもすぐにそれに結びつく様な相手が出てこない。

周りを見てやや強引に大別すれば嫌な奴、そもそも国枝とは合わなそうなタイプは確かに居る。でも国枝はそう言う人間と面と向かって言い争うとか、逆に露骨に避けるタイプでも無い。明確に一定距離置いて「住み分ける」タイプだ。

 

ただ「その対象に対してのみ別」らしい。

 

普段は物静かで大人しい少年である国枝が静かな闘志、そして隠しきれない劣等感を抱えつつ、それを勉強、そしてそれに類する全てにぶつけ、がむしゃらに何事も努力していた。棚町にとっては過剰とも思える程に。

 

そんな国枝 直衛という少年を構成する源(ルーツ)を棚町は垣間見た。

 

そして棚町はその日から考え続けていた。国枝、そして彼の交友関係のある人物達との普段の何気ない会話、取りとめの無い、しかし大切で楽しい日々の中からほんの少しずつ、少しずつ抽出、濾過していく。

 

嫌な奴、合わなそうなタイプ等では無い。極々身近なヤツのはず―国枝と共に過ごす日々の中、棚町はそう確信していた。

 

 

そしてある日―唐突に棚町は気付く。

 

 

 

「ねぇ・・直衛?」

 

「ん・・?」

 

「アンタがだいっ嫌いな奴ってひょっとして・・・―

 

 

 

―源君なの?」

 

 

 

その日から国枝は棚町の事を「薫」と呼んでくれるようになった。棚町は嬉しかった。同時・・複雑だった。

初めて自分の名前を呼んでもらう事が出来た「契機」、「理由」としては女の子として少々切なすぎる。

 

でも同時決心もする。

 

―・・いいわよ。トコトン付き合ったげる。納得いくまでやんなさいな。

 

棚町はもう一度国枝の心にボールを投げかける。

 

 

―私も納得いくまでアンタの傍に居たげるから。

 

 

ポーン・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートT 二十二章 源 ~ルーツ~ 3












 

 

 

 

「サンタなんか居ない」

 

 

 

 

 

 

「ごく平凡な日本人」の送る人生の中では結構初期に訪れる大きな「ネタばれ」の一つかと思う。その次か同時期に「赤ちゃんはコウノトリが運んでくるというのはウソ」辺りのネタばれだろうか。何にしろ人の人生の中にはこの様な子供のころには大人の都合上、知らされていなかった多くのネタばれが潜んでいる。其の数々を受け入れ、踏み抜いて人は大人になる。

 

源 有人という少年もこの日、それを予定通り通過していくだけの日のはずであった。

 

有人がまだ五歳のクリスマスの夜の話である―

 

 

この位の年齢になると少しススんだ幾人かのマセた子供達はクリスマス前、自慢げにこう言いだす。

 

「サンタなんて居ないよ。サンタの正体はパパとママだ!」と。

 

一方不思議な事に何の気なしに歌っている有名なクリスマスソングの一部に堂々とサンタの正体を歌詞に曝している有名な童謡等が在るにも拘らず、何故か小学校高学年レベルまでサンタを信じているツワモノも居る。

 

「居る!」派と「居ない!」派―そんな派閥に分かれ、人生初の討論会を開いている同年齢の児童達から一歩距離を置いて彼らを眺めつつ―

 

―・・確かめてみたらいいだけの話じゃないかな~?

 

と、一人小生意気な少年―幼い頃の源 有人は思っていた。

 

確かに「サンタが居ない、正体は両親」というのは成長すれば恐らく100%の人間が知る事実であろう。(北欧かどこかで「本物の、本職のサンタが存在する、実在する」とか、ひねくれた意見は置いておくとして。)

しかし、他人の話、大人になる上での常識として知る事はあっても、自分の目で実際に確かめ、「居ない」事を確認した人間というのは案外少ないのではないだろうか。

 

有人はその数少ない少年の一人だった。

 

その五歳のクリスマスの夜―彼は起きていた。そして何の変哲もない、大人になれば誰もが知る事になる事実をハッキリ「光景」として目の当たりにする。

 

「・・・・」

 

暗闇の中、有人の兄、そして弟共に眠る有人のベッドの傍にひそりと忍び寄る二人―両親の姿を薄眼で有人は確認。「わっ!」と飛び上がって両親を驚かせてやりたい衝動を必死で抑えつつ、有人は自分達三兄弟を起こさない様に音を殺して三つのプレゼントの箱を三人の息子達それぞれの枕元に置いていく二つの影を薄目で追う。くっく、とこみ上げてきそうな笑いを喉元で必死に押し殺しながら。中々嫌な五歳児だ。

 

―寝ているかな有人は・・?

 

―うん大丈夫よ・・。・・あらら相人の毛布ちゃんとかけたげて貴方?・・風邪引いちゃうわ。

 

 

まだ幼い末っ子の相人の傍で寝ている兄―舞人の様子も確かめ、最後に両親は有人の寝顔を眺め始めた。

 

―有人。・・・メリークリスマス。

 

有人の母が優しい目をしてそう呟く。思わずその声に有人も飛び起きて「メリークリスマス!」と応えたくなる。しかし、同時有人の癖のある茶色い髪の毛をくしゃりと撫でる母の優しい手に有人は目的を達した満足感と突然差しこんできた眠気に身を任せ、意識を閉じようとしていた。しかし、次の父の放った一言に有人の閉じかけた意識が「待った」をかけられる。

 

 

―・・・。いずれ有人には告げなければいけないな・・。

 

―・・もう止しませんか?いいじゃないですか・・有人は私達の子です。

 

―僕だってそうしたいのはやまやまだ。だが・・有人は賢い子だ。遅かれ早かれ気付く。舞人と相人・・そして僕と君が「自分と違う」と言うのが・・。何せ有人はますます僕の妹・・母親に似てきたよ。

 

―でも・・なんて声をかけたらいいの?どんな顔でこの子を見てあげればいいの?

 

 

・・「貴方は私達の本当の子じゃないの」なんて・・。ぐすっ・・。言えません・・。

 

 

―・・・。

 

 

 

有人はその日サンタの正体、そして同時自分の正体―源~ルーツ~が酷くあいまいで不確かで有る事を知った。

 

 

 

「ぼくは父さんと母さんの本当のこどもじゃない」―

 

これをまだ五歳の子供が即時はっきりと意味を理解するのは中々に難しい。しかし、幼いなりに情報を収集する事は出来る。そしてこの有人という少年は幼い身でありながらこの言葉の意味を直接、自分の両親から聞き出そうとするという発想をしない、ある意味不幸な聡明さを持っていた。

この事実を知ったあの日―彼の枕元で母が泣いていた、父が沈痛な面持ちをしていた・・そんな両親の儚げな声、姿が有人の耳に、瞳に灼き付いた結果、本人達に問い質すこと無く、まず自分なりにその言葉の意味を知って行こうとしたのだ。

 

結果有人は成長と共に知って行く事となる。幸いな事に巷にはあふれていた。

自分の子供と血の繋っていない両親、逆に自分の親とは血の繋がっていない子供の話―ドラマ、絵本、漫画、アニメに小説等・・自分の境遇と重ねるには余りにも現実味が湧かない空想の様な話が。

でも年月が追うごとに、有人が成長する毎にそれははっきりと現実味を帯び始める。父があの日、有人の枕元で呟いた言葉を裏付けるように有人の見た目は日に日に両親、そして兄弟達とかけ離れていった。

 

色素の薄い茶色の瞳と髪色、髪質、どちらかと言えば目鼻立ちのハッキリとした源家の中であっさりとした薄顔の有人の顔はとりわけ異なる物であった。

(有人の兄―舞人の彼女である少女―沢木 茜も名前は同じ「源」でも外見的特徴での余りの差異に彼らが兄弟である事に気付けず、有人に仲立ちをして貰ったのが本当にギリギリの中学三年の卒業式になったのにはこの経緯がある)

 

そんな日々の中でそれがはっきりする日はいずれ訪れる。あのクリスマスの日から七年―12歳の小学校卒業の「節目」とも言える年、有人は一人突然両親に呼び出され、自分が血の繋がらない家族である事を伝えられる。

生みの母親は父の妹、父親は誰かすら解らない。言っては何だが「よくある」話だ。

 

有人にとって正直な所「答え合わせ」のようなものであった。この七年間、彼なりに知識を密かに吸収し、彼なりに結論も出ていた事を粛々と有人は受け取る。当然本当に知った当時ほどの驚きはない。でも両親の手前驚いたふりもした。ショックを受けた顔もした。

そして―

 

「・・・あはっ。正直ちょっと驚いたけど。俺は大丈夫・・うん。有難う。父さん。母さん」

 

笑った。

 

 

―笑おう。

 

沈痛な面持ちで彼に真実を告げた両親を前に内心堅くそう誓い、有人は笑った。すっきりしたような笑顔で。

 

何せ有人にとってはあれから「七年」も経っているのだから。有人の中で色々な用意、そして覚悟はしてあった。いずれ訪れるであろうこの日の為に。

そして・・・自分の「生き方」すらもこの少年は既に己の中で決めていた。

 

安心して貰う為に、これまでと変わらず受け入れてもらう為に。

 

そして同時・・誤魔化す為に。欺く為に。

両親も兄弟も友人も。そして自分すらも。

 

客観的にみれば有人の両親が真実を初めて「有人に知らせた」と思っていたこの時と、「実際本人が真実を知ってしまった」時間とのタイムラグ―この七年の差は致命的であった。生来聡明で器用であった少年は既に情報収集を素に周到な準備、用意を重ね、彼らを偽り、誤魔化す用意が出来ていたのだ。

 

・・・その人を凍りつかせる笑顔の「仮面」を以て全てを押し隠し―

 

 

 

彼は。

 

 

源有人は微笑む。

 

 

 

 

 

そして周囲はこう思う。

 

 

 

―ああ。よかった。

 

この子ならきっと・・・大丈夫。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再び時間は絢辻と国枝が話したあの日に戻る。

 

「・・・」

 

夕日に照らされた静かな図書室内にて絢辻は黙りこくっていた。ただ姿勢をただし、真っ直ぐと国枝の話の続きを待っている。

 

「・・俺が有人の『アレ』に気付いたのは・・ちょっとした理由が在る。・・アイツはね?昔から何事も器用に出来るヤツだった。・・頭もいいし、他人の気持ちに聡いし、健康だった。比べてアイツの兄貴の舞人さんは幼いころ体が弱くてね。どうしてもアイツの両親や周りの人間は兄貴の方に重点を置く他なかったんだ。幸い次男のアイツは『賢く手のかからない健康な子』だったからな。家族にも、そして周りの人間にも病弱な兄を気遣う兄思いな賢い出来た弟としての役目を担ってた」

 

「・・おまけに彼は自分が家族にとってどういう立場の人間なのかを既に知っていたから・・」

 

「・・そういうこと。・・そんな病弱な兄も小学校卒業くらいにはすっかり健康になった。でも二つ歳の離れた弟も源家には居る。そして今度はヤンチャで少々危なっかしい弟を気遣う弟思いな賢い兄としての役目を担う」

 

「・・・」

 

「そうやって聞き分けのいい子供を演じ続ける。なまじ頭もよかったせいでそうすれば両親、周囲が喜ぶって解っていたんだろうな。その後も続けたんだ。聞き分けのいい手のかからない子供って言う立場を」

 

その根底にある物は、やはり自分がこの家の本当の子供ではない事を知っている故の彼なりの「線引き」だったのだろう。表向きには有人は源家の家族の一員として振舞いながら、実際は一歩引いた立ち位置を維持し続けていた。

 

「・・俺から見てアイツ自身の素養からして本気になればもっと成績は良くなるだろうし、物事の中心に立てるだろう。・・でもアイツは頑なにそれをしない。源家の兄弟の中で養子である自分が抜きんでる事によって生まれる後ろめたさが有ったんだろうな」

 

そう言って国枝は少し視線を絢辻から逸らし、「これは君に向けた言葉じゃないよ」と態度で前置いたうえで声を出さずに口だけでこう象った。

 

バ カ 野 郎 が

 

「・・・」

 

心底の忌々しさを国枝が吐き出しているのを絢辻は認めた後、無言で次の国枝の言葉を待ち続ける。暫くすると国枝は長い黒髪を僅かに揺らして再び絢辻に向き直る。

そして自嘲気味にクスリと笑い、頬杖ついてこう言った。

 

「俺はさ~?アイツとは真逆で昔から基本ホントに何にも出来ない奴でね?だから幼いころから人一倍出来る奴が見てて羨ましかった。俺がどれだけ頑張っても、盤石に用意してもあっさりそれをすぐこなしちまうヤツが・・あろうことか傍に居た」

 

 

直、大丈夫?

 

直、怪我無い?

 

・・直は頑張ったよ。

 

 

「・・」

 

「空回りした俺の数々の失敗を見事にフォローしていきやがる・・。幼いころからずっとそうだった」

 

「・・ふふっ」

 

「・・だからこそ俺はアイツの『アレ』に気付いた。で、ムカついてもいた。当時の俺には笑う事で他の皆を騙している悪い奴にしか見えなかったからね。でも『皆を騙しているアイツ』はその笑顔で誰にも好かれたし、頭も要領もよかった。何やらせてもダメな俺は自分とあいつを比べるウチにもっとアイツが嫌いになった。その内コイツには負けたくないって思うようになった」

 

これは悪循環だ。その都度その都度フォローされて更に国枝は有人が嫌いになるコースである。でも国枝は止めない。彼は自分の生来の出来無さを諦めて諦観する程大人では無かった。

 

「・・勉強やらスポーツやら何やら事在るごとにアイツと自分を比べた。必死こいて勉強してアイツよりいい成績採って・・。でもアイツは必死な俺のすぐ後ろを涼しい顔でいつも居やがった。そして何時も言うんだよ。・・・『流石直だね』って」

 

「くすっ・・あははははっ」

 

―それは・・・!それは嫌われるわね~~?・・源君。

 

心底悔しそうな国枝を前にして思わずこらえきれず、絢辻は声を上げて笑ってしまう。国枝はそれに対して屈辱を感じるよりもまずきょとんとした。絢辻が「こんな笑い方が出来るのか」と驚いた意外な表情だった。

 

「・・あ~~ははははっ・・あぁ~国枝君ごめんなさい・・何かほんっと・・おかしくて・・ふふっ、くふふふっ・・」

 

絢辻はおかしくて涙まで出てきた。「あ~~あ」と言いながら手で両眼を交互に拭い、「ゴメン、ほんとゴメンね」と言いながらすまなそうに眉をひそめ、潤んだ瞳で国枝を見る。

 

「・・いいよ別に。正直笑い飛ばしてくれると嬉しい」

 

―滑稽には違いないから。

 

そう言いたげに国枝は絢辻の行為に対して全く咎める事無く、優しく笑う。そしてこう続けた。

 

 

「―んで、ある日。俺はとうとう堪忍袋の緒が切れた。中学三年の時の話さ」

 

 

絢辻はきらきら瞳を輝かせて心底嬉しそうに、そして食い入る様に乗り出して国枝の話の続きを無邪気に促した。

 

 

 

生粋の努力家であり、負けず嫌い、同時生来の自分の不器用さに心底、劣等感を感じ続けてきた国枝はその矛先を直接有人に向けた。

 

彼の今までの人生は屈辱の連続だった。自分が人一倍手間と時間をかけてようやく成す事を短時間でこなしてしまう同い年の少年。そいつがまたその自分の能力を鼻にもかけず、むしろ隠して淡々と自分にも他人にも分け隔てなくなんとも平等に微笑む「嫌な奴」だった。ただし一般的な「嫌な奴」と断じるにはかなり無理がある柔らかな物腰と立ち位置を確保している。

 

自分以外の人間の殆どが「イイ奴」と断ずるであろう大嫌いな少年に国枝は突っかかった。

殆ど「八つ当たりのようなもの」と、彼の冷静な部分が心のどこかで警鐘を鳴らしているが、同時長年溜まりに溜まった鬱憤を解放せねば自分は前に進めない、と国枝は判断、行動に踏み切った。

 

 

中学三年生の半ば、そろそろ各自目指す進路が固まり、それに向けて勉学に励む中で国枝の我慢の糸は切れる。

 

何時ものように有人は彼に柔らかな笑顔で自分の進路を絶妙なほど無理の無い妥当で、しかし国枝にとって凡庸で退屈すぎる判断を下していた。

 

 

吉備東高校への進学―

 

 

国枝が学力的に吉備東より更に上のランクの高校への進学に向けて日々努力する中で、彼よりも遥かに基礎能力、そして素質を備えているはずの親友の相変わらずの―

 

「中学からの友達がたくさん行くし、家からも近いしね。俺の学力じゃこれが限界です」

 

と、いつものように笑う有人に内心抱え続けた劣等感をついに国枝はさらけ出してしまった。

 

 

 

「お前さ・・・ざっっっっけんな!!!!」

 

―何が限界だ。家から近いだ。友達がたくさん行くから、だ!?

 

ほんとふざけんな。

 

 

国枝は見たかった。有人が悔しがる所を。自分が更に上を行く、目指すことで、僅かでも有人の表情に反抗、若しくは対抗意識の欠片が浮かぶ事を。

しかし普段感情を表さず、内に秘めるタイプの国枝の突然の激昂を前にしても有人は驚いた顔をほんの一瞬したかと思うとふっと黙り込む。かといって顔を伏せたりおびえたりしながらただ国枝からの言葉に一方的に打たれる訳ではない。ただ淡々と珍しく無表情のまま国枝の言葉を聞いていた。彼の薄い茶色の瞳に曇りや翳り、強い動揺はない。

 

「・・・!」

 

コレも国枝のカンに障る。この態度に国枝が有人自身に対して抱いている感情を有る程度昔から見透かしていたことを彼は悟る。有人は実は国枝が自分を内心では嫌い、同時結構な対抗意識、ライバル意識を持っている事を察していたのだと。

 

有人が自分の激昂に逆撫でされ、彼もまた激昂して反撃してきたならばこのまま国枝は思いの丈全てを勢いのままぶつけ続けられただろう。しかし、有人のここまで落ち着き払い、尚且つ見透かされて居た様な表情を見せられると悔しい事に国枝の心はどんどん落ち着いていく。

怒り、そして有人に対する嫌悪感は確実に膨れ上がっているはずなのに何故か落ち着いていくのだ。心も。頭も。

 

そして国枝がそろそろ振り下ろす鎚の先を見失いかけた時―

 

「・・・くすっ」

 

すまなさそうに有人は国枝に「あの笑顔」で微笑むのだ。そして呟く。ただ「ごめん」、「ごめん直」、と。そしてこう言った。

 

「・・・。でもね?俺は止めないよ?止められないんだ。この生き方が」

 

 

 

 

 

 

 

 

「直ってさ」

 

「・・?」

 

「妹の衛奈ちゃん・・好きだよね」

 

「・・・は?」

 

唐突な有人の質問の意味不明さに露骨に嫌悪感を隠さず、国枝の表情が歪む。しかし有人は「そんなカオしないで」と尚も微笑み続ける。

 

「あぁ。そういう意味での『好き』じゃないよ?でも好きだよね。家族として。当然おじさんも、おばさんも。直は家族の事大好きだよね」

 

「・・・」

 

「俺もそう。俺も好き。弟の相人も兄貴も父さんも、母さんも。・・でもね?やっぱり俺は本当の家族じゃ無いんだよ。だって見て・・?この目。茶色い目。髪の毛の質、色、顔・・全部・・皆と違う。俺はそれを自分の成長の都度思い知った。幼いころにたまたま知った俺の事実、祖、源・・。何かの間違いだ、聞き間違いだ、そう何度も打ち消そうとしたけど現実は俺の思いに反してどんどん不安を裏付けていった」

 

「・・・」

 

「直なら・・どうする?」

 

「・・何が?」

 

「俺は本当の親の顔も写真でしか知らない。それも母親だけ。・・父親は顔すら知らない。そんな俺を大事に育ててくれた大好きな両親の本当の子供に対して何も考えずに居られる?遠慮せずに居られる?」

 

自惚れでも何でもなく、有人は兄弟達と比べて自分が比較的優秀である自覚が在った。国枝もそれを理解している為に言葉が出ない。

 

「・・・」

 

「そして疑わずに居られる?例え兄弟の中で本当の子ではない俺が頑張って何かを達成しても『本気で心から歓迎してくれるのか』って」

 

「・・・」

 

「俺を称えて、褒めてくれる家族に『本当の私の子(兄弟)であればな』とか言われないかな、想われないかな、って考えると不安で不安でしょうがない」

 

「・・・」

 

「そう。それは解らない。解らないよ?でも・・そう。『解らない』んだ。だったら・・俺は知らなくていい。確かめなくてもいい。このままで・・」

 

 

 

「俺は他者にとっての自分の本質、本当を知るのが怖い」

 

 

 

「だから直?俺さ?早く大人になりたいんだ。早く大人になって一人になって・・俺を育ててくれた大好きな家族と・・離れて生きていきたい。・・早く・・成りたいよ。大人に」

 

 

―・・・。

 

「それは逃げだ」と、国枝はのたまりたかった。

確かにコイツは生きていけるだろう。人の中で何の軋轢も無く。淡々と、粛々と。今まで通りに。コイツにはそれが出来る生来の器用さ、聡明さがあり、そして何よりも他人に対して深くは踏み込まない「線引き」がある。強固な笑顔の仮面の奥の有人の「源」には誰にも踏み込ませない。

 

思いを隠したまま、自分を隠したまま。コイツは生き続ける。国枝にとってこれ以上ない「嫌なヤツ」のままで。

 

・・なんだそれは?大嫌いならいいじゃないか。ほっといてしまえばいいじゃないか。コイツは実は誰よりも孤独だ。誰よりも。人の中に居ながら、囲まれながらも自分は「一人」だと思い込んでいる様な馬鹿で嫌な奴だ。

ならそれでいいじゃあないか?散々コイツの事を嫌っていたお前が、誰よりもお前が、お前だけがそれを知っているんだぞ。へらへらと鬱陶しい笑顔の奥で実はもがき、苦しんでいる大嫌いなコイツの姿。それを高みの見物だ。こんな楽しい事は無い―

 

 

 

―・・そんなこと出来るか。

 

 

 

国枝は自分の心に渦巻いたどす黒い感情をその一言で打ち消した。そして決心する。

 

 

 

―絶対に俺はコイツをほっとかない。コイツが大嫌いだからこそ。

 

 

俺は―

 

絶対コイツと友達になってやる。

 

 

 

 

国枝は進路第一希望の私学の入学試験の際、最終教科の数学の答案用紙を白紙で提出した。

名前すら書かなかった。

 

確かに普通に解答したとしても合格できたかどうかは解らない。国枝が受けた私学はそれ程の難関校ではあった。受かったとしても選りすぐられた学生たちの中で激烈な受験戦争の渦中に放り込まれる。

 

―ある意味・・これも「逃げ」、なんだろうな。

 

と、国枝は自分の今までの努力を全くのフイにする余りにもバカすぎる行為に心底の自嘲の笑いを浮かべ、第一志望の私学の門をくぐった。一度も振り返る事も無く。

 

幼少からの過剰な、滑稽なほどの無力感、劣等感を糧に国枝は自分の未来を切り開く事から一旦背を向け、大嫌いな奴の元へ戻る。

 

 

今の国枝 直衛という少年―彼自身を作りだした源(ルーツ)そのものの元へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









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ルートT 二十二章 源 ~ルーツ~ 4







―今なら解る。

・・源君?貴方は私と・・・とってもよく似ていたのね。

「早く大人になりたい」。「一人になりたい」。

そう。

私もそう。


早く大人になりたいよ。


だったら・・


いつでも貴方の傍に行けるのに。居られるのに。










 

 

 

 

 

「・・俺も人の事言えないけど・・」

 

国枝はそう前置いて再び絢辻に語りかける。

 

「悪循環だよね。有人の奴・・内心ではホントは自分の事を見て欲しいはずなのに、構ってほしいのに成長の過程で『アレ』を身につけてしまった上に周りがそれを喜ぶもんだからアイツはそれを止められなくなったんだ。アイツの奥底に確実に在る筈の自分の不満、そして何よりも不安を直接訴えたりせず、替わりにアイツはいつも笑ってた」

 

「国枝君は・・凄いね。そこに気付いて上げられるなんて・・」

 

絢辻が心からの感嘆と共に国枝を賛辞するがその言葉に国枝は苦々しそうに首を振って否定する。

 

「・・いや?多分あの頃のアイツを身近で見てれば絢辻さんなら気付いたと思うよ。どうやらアイツのあの笑顔にもそれなりの『思考錯誤の期間』はあったみたいだったから」

 

「思考錯誤・・・の、期間?」

 

「そう。幼い頃は今のアイツに比べればまだ笑顔は拙かったし、徹底もしてなかった。親や家族、大人の目を盗んでは時折ほんの一瞬浮かない顔を見せるアイツを何度も見ていたら俺でも流石に気付くよ」

 

「・・・」

 

「でも・・アイツの秘密を知る、想いを知るその過程で俺みたいな馬鹿にでも少しは解るようになった。アイツが抱えた苦しさや辛さ、消しきれない不安・・そんな自分の中にある物を思わず訴えたい、ぶちまけたい、見てもらいたい部分・・それとは逆に自分を押さえて笑い、周りに良く思われたい、これ以上踏み込みたくないっていう相反する感情をぶつけて相殺しながら生きるっていう苦悩が・・ほんの少し解るようになった」

 

「ある意味で大人っぽい・・またある意味で子供っぽいのね」

 

「そういう事。意地を張るんだよ。本音を隠す事が・・他人を困らせない自分を作り上げることがそれこそ、あいつの『子供っぽい』部分が必死で行ったせめてもの『大人ぶった』抵抗なのかもしれないね」

 

「・・・」

 

 

 

 

 

 

 

「それでも国枝君は彼を何時も時に挑発し、時に鼓舞し続けた・・」

 

「・・そんなカッコイイもんじゃないけどね」

 

「ふふっ、そうかしら?成程ね・・国枝君が有人君を焚きつける様な言葉をちょくちょくかけること多かったのはそういう背景があったのね・・」

 

「それも・・気付いてたんだ?良く見てるんだね」

 

「ふふっ、『レーダー』と言うのは誰にも知られずにこっそり静かに張り巡らす物よ?国枝君?」

 

絢辻はそう言って片目を閉じ、悪戯に微笑む。

 

「・・そう。ご指摘の通り基本『構ってちゃん』なの俺は。無視されんの嫌い」

 

「それも知ってる♪」

 

国枝はそんな絢辻に対して有人と「似た者同士だ」と思う。

 

「・・まぁいいや。んで・・俺はアイツに出来るだけ言葉に直接出さないように暗にアイツにこう言い続けたワケ。『お前も本気出せよ。俺よりも何でも出来るお前ならここまで簡単に来れんだろ。もっとだせよ?お前自身をさ。・・本当はムカついてんだろ?腹が立ってんだろ?今の自分に。俺と一緒でさ!!』・・ってな感じで」

 

「くすっ・・国枝君は本当に嫌いなのね~~?有人君のことが」

 

「まぁね。それに関しては余程の自信が在る」

 

「あは♪」

 

「・・でもアイツは終始変わらず。相変わらず。・・結果から見ると俺のしたことは大概的外れだったんだろうね。あ~色々ヘマもバカな事もやらかしたな~。・・さっき言った私学受験の際の白紙解答やら・・、あ・・半ば無理やり好きな人作って、彼女作って有人を羨ましがらせようとかもしたっけ・・」

 

国枝が中学生の当時、初めて付き合った少々質の悪い彼女の彼に対する非道の数々―それを国枝自身が特に強く責めなかったのは実はこんな負い目があったからでもある。

(しかし振られた後、予想以上に凹み、結果有人にかばわれ、慰められるという皮肉付き)

 

「・・・うわっ。それは結構最っ低よ?国枝君?」

 

「うん・・若気の至りとはいえほんっと最っ低俺」

 

火が出そうな自分の顔を両手で覆いつつ天を仰ぐ国枝を前に、絢辻もクスクスと笑う。

 

 

 

 

「・・でも俺も最早そんな自分を変えられなかった。今の俺の性格は小さい頃からのアイツへの劣等感から生まれたといっても過言じゃないんだよ」

 

「・・・」

 

「でもね?俺はアイツに感謝している面もある。・・どんな馬鹿でガキっぽい理由が俺の源泉にあったにせよがむしゃらに突っ走る俺を認めてくれる人間をアイツは結果増やしてくれた。それが嬉しかったから」

 

「・・・」

 

「もしアイツがいなかったら自分の何に置いてもダメな所を一人嘆いたり、他人を羨ましがるだけで何もせずに後悔することが多かっただろうな~って・・・何時も思う」

 

「・・・」

 

「だから・・俺はあいつとホントの意味で友達になろうと思った」

 

「・・・」

 

「・・でもアイツは未だに変わらないまんまだ。内側に抱えたもの、隠した物を相変わらず誰にも見せないままただ笑ってる。強く主張したり、怒ったり、悲しんだりするところを見せること無く。・・それを本当に見せてもらって初めて俺はアイツの友達になれる気がするんだ」

 

陽気で柔らかな笑顔の奥に隠し持った源 有人という少年の真実。

 

それを国枝は一気に喋った。絢辻は彼がここまで饒舌だとは思いもしなかった。

それ程国枝もまた長年抱えていたものの重荷を誰かに共有して貰いたかったのかもしれない。だが、それを伝える相手は中途半端な人間ではダメだ。

本当の意味で有人と共に居たい、傍に居たい、そして理解したいと願う人間でなければ・・その上で国枝が自分を選んでくれたことが絢辻にとっては嬉しかった。そして思いがけず本音や抱えた物をさらけ出してくれた事もまた嬉しかった。

 

全てを話し終え、黙る国枝に絢辻は無言のままぺこりと頭を下げる。

 

「・・・有難う。国枝君全て話してくれて・・あんまりお話したくない事だった・・でしょ?」

 

「・・・。いや・・なんか・・少し楽になったかな」

 

「・・そう。良かった」

 

 

 

 

「・・絢辻さん?」

 

「・・何?」

 

その場を去ろうとする絢辻の背に国枝もまた背を向けながら最後にこう付け加えた。

 

「有人の壁は・・心の壁は手ごわいよ。恐らくあいつ自身にもそれが自覚できない位になってる。それでも探ろうとすると俺はともかく・・絢辻さんには結構辛いかも。傷付くかもしれないよ」

 

―俺は男だから。

 

それにあいつ以外にも大切なヤツが出来た。今はそいつの事で手一杯、精一杯だ。

 

でも果たして絢辻には・・?国枝は周囲が想っている以上に絢辻には何もない、何も持っていないのではないのか・・?と、有人の話を聞く絢辻を見た今、大した根拠もなくそう思う。

 

そんな彼女をもしあの有人が意図せず傷付けたとしたら・・?

 

彼女が有人を失ったとしたら・・?

 

 

 

「・・解ってる」

 

 

 

 

「・・!・・・」

 

 

「でもね・・どうしようもないの。そんな簡単な気持ちじゃないの」

 

「・・そう」

 

国枝は「そりゃそうだよね」と言いたげに少し考え込む。少し場を緩和するようにやや声色を上げてこう続けた。

 

 

「・・まぁあまり無理せずにじっくり時間をかけた方がいいと思うよ?俺は十年以上かかってこのザマだけど・・きっと絢辻さんなら・・さ」

 

 

「うん・・」

 

 

でも―

 

 

「――――」

 

 

 

「・・え?」

 

国枝は絢辻の呟いたその不明瞭な言葉を聞き取る事が出来なかった。聞き直すようにそう促したが絢辻の次の意外な言葉に―

 

 

「あーあ。ひょっとしたら私・・国枝君みたいな人を・・・・

 

 

 

 

好きになれたらよかったのかもしれないなぁ・・」

 

 

 

 

「・・・え」

 

色んな意味で呆気にとられた。

 

「正直で、まっすぐで、負けず嫌いで、でも自分のいい所も汚い所もしっかり、はっきり見せてくれる優しいヒト・・そんな人を好きになれたらどれだけ私幸せだったかしら」

 

本気・・とはとてもとれないが流石に意外な言葉に国枝は面を喰らった。でも・・ほんの少し揺らぎののちにすぐに国枝の心のざわつきは消えていく。

 

 

・・何キョドってんの、よ!!

 

 

国枝の頭を小突くようにあの癖の強い髪を持った悪戯に笑う少女の声、顔が浮かんだからだ。生意気で口が悪くて最早取り繕う必要もないくらいに自分のダメな所を見せたあの少女の顔を。

 

心底ホッとする。

 

国枝の精神状態があっさり足場を立て直したのを確認して絢辻は優しく笑い、そして恭しくもう一度頭を下げてこう言った。

 

 

「・・さようならっ♪また明日ね?国枝君」

 

「・・・うん」

 

 

 

―さようなら。絢辻さん。

 

 

 

 

国枝は自分の長年抱えてきた親友への想いを共有し、理解してくれた、そして今の自分の真意をも気付かせてくれた少女―去っていく絢辻 詞の後ろ姿を無言で見送る。

 

 

 

 

国枝は無性に棚町 薫に会いたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてその日、国枝は予備校をサボって街をぶらつき、たまたまかけもちのバイトをしていた棚町 薫と遭遇する。

 

 

「クリスマスケーキいかかでしょ~~かっ?本日より予約もうけたまわっておりま~~す!!」

 

 

棚町はテキパキ、そして大きな声を上げ、何時ものように元気に働いている。しかし、今日は何時も働いているJOESTERでのエプロン姿とは違う赤い赤いサンタクロースの衣装を着てケーキを売っているらしい。露出過多で少し寒そうな所が玉にキズだ。だが―

 

―・・可愛いな。

 

珍しく国枝はごく素直にそう思う。そして気付けばもう既に声をかけていた。

 

 

「あの・・すいません」

 

「あ、いらっしゃい・・ま・・せ」

 

「・・・。よう」

 

「うあっちゃ~・・直衛」

 

棚町はあからさまに「ヤバい所を見られた」といった表情であたふたしている。

 

「・・・ははっ」

 

―・・ホッとする。

 

無愛想な国枝にしては珍しく満面の笑みでほほ笑んだ。すると

 

「・・・!・・・」

 

棚町は照れたように少し目をそらした後、相当味が微妙な料理を食わされた人間の様に眉をしかめ、「じっ」と、音が出そうなくらい微妙な視線を国枝に向ける。

 

「・・・む~~?」

 

「・・何」

 

「う~ん・・・なんかさ、アンタがそんな風に笑うと正直ちょっと不気味だな~・・って思って。そこまではちょっと嫌。キモチわる~~い」

 

「ぬ・・・」

 

国枝は何時ものしかめっ面に戻る。「もう二度とやらん」と、拗ねたように。

 

「・・ぷっ。あっはははは!!ウソウソ!うん!たまにはいいよ!ごくたまに!」

 

「・・・」

 

「・・。何かあった?」

 

大口を開けて何時ものように国枝をからかいつつの大笑いをしたかと思えば一転、棚町は彼を気遣う様な口調に切り替えて顔を傾け、心配そうに優しく国枝にそう聞いた。国枝はその鋭さにほんの少し驚いた顔を見せたものの、すぐに表情を元に戻して軽く首を振る。

 

「ううん別に。・・・でも。まぁ少しすっきりした事があったかな・・」

 

「・・・そ」

 

 

背中でサンタの手袋をしたまま両手を組み、手持無沙汰に何度もつま先を伸ばしてゆるゆる、ふわふわと上下に背伸びをしつつ、伏せ目がちで、でもどこかふっきれたような表情をした国枝にもう一度少女は「えへへ~」と、笑って見せる。

 

「・・お疲れ様」とでも言いたげに。

 

 

 

 

 

 

 

 









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ルートT 二十三章 足音












時は現在―クリスマスが終わる直前の有人の病室に舞い戻る。

 

しんしんと雪が降り始めた屋外よりも更に零下の如く冷え込んだ空気の中、無言で俯いたままの絢辻の表情を病床の有人は目を見開いたまま、茫然とすることしか出来なかった。

 

―・・・。

 

一通り話は終わった。絢辻は有人が在る程度状況を理解したと判断し、無言で彼の様子を見ている。その証拠に有人は一言も発さない。実際は理解などしていないのかもしれないし、正直理解出来るものでもないのかもしれない。例え出来たとしても上手く言語化できないのかもしれない。

 

でも彼の「感覚」は告げているのだろう。

 

―私が「あの」絢辻でない事を。少なくとも彼の知っている「あの子」ではない事を。

・・・「あの子」が居なくなってしまった事を。

 

それを「自ら」告げる前に源君に気付いてもらえただけでも少しは「あの子」は報われただろうか?後は・・・「今」の私がやるべきことだ。あの子の「顔」、「声」・・全て同じの仮面の私がやるべきことだ。それは―

 

彼を守る事・・。

 

 

「・・どうしても源君には解って欲しい事が一つだけあるの」

 

「・・え?」

 

「・・『貴方には何の非も無い』という事・・。何せこんな状況だったんだものね・・責められるべきは多分『あの子』の方よ?」

 

 

相変わらず絢辻は他人事の様な口調を決して崩さない。しかし、それが今の絢辻は繕った物ではなく本当に他人事を話しているように見える所が恐ろしい。

背格好、見た目、声すら同じなのに実際全くの同一人物であるはずなのに「全く違うもの」と自分が認識しているという感覚に有人は戦慄を覚える。言葉など出る筈が無い。絶句している有人を尻目に絢辻は尚も淡々と言葉を紡ぐ。尚も他人事のように。

 

「『あの子は』・・自分を許す事が出来なかったんだと思う。貴方を疑った事・・自分を疑ったこと・・自分の中にある貴方を信じられなかったこと・・。『あの子』は一見いつも自信満々に見えて実は誰よりも、何よりも自分なんて信じていなかったの。疑い続けてたの。恐れ、怯え続けていたの。今回の事はそれが招いた自業自得の結果よ・・貴方が気に病む必要はないわ」

 

 

「御免・・」

 

 

ようやく消しっかすのようにか細く出てきた有人の紡いだ言葉はそんな最低最悪の言葉だった。自分の中で必死に理解しようと筋道を正し、どういう状況かを感覚では理解しても頭では理解しきれない故の混乱、自失状態の中、辛うじて今の彼に解るのは今の絢辻の状態の引き金になったのが確実に自分であるということだけだ。

 

でもどうすればいいのか解らない。どう考えても現状最悪の状態の絢辻にかける言葉等見つからない。

 

「御免」―

 

「ごめん」

 

「ゴメン」

 

文字通り「免れたい」。「許してほしい」。

この時有人はこの「御免」という言葉が実は謝罪した対象の為の言葉ではなく、他でも無い何よりも自分を守るための言葉である事を身にしみて思い知る。

しかしこうでもしないと有人まで完全に崩壊してしまうのだ。そうすれば絢辻の言葉をちゃんと理解することすらできなくなる。

今はただひたすらに。有人は自分を守った。そんな有人を更に「今」の絢辻は守ろうとする。

 

「源君?・・そんなカオしないで?・・本当に、本当に私、貴方を責める気は毛頭ないから。元々責める資格なんて無いわよ。『あの子』には。勝手に悲観して、勝手に怖くなって勝手に居なくなっちゃっただけなんだから」

 

暗い病室内にて必死で消え入りそうな灯を、光を灯すかの如く努めて明るく、絢辻はにっこり笑ってそう言い切った。少し物悲しさは配合されていても表情は明るく、笑顔は崩さない。あたかも何年も連れそった今ここに来られない「友人」の本意、総意を本人に変わって冷静に、しかし必死で、懸命に伝えているように。

しかしその光景は例えようもなく痛々しい。それでも尚今の絢辻は言葉を紡ぐ。

 

・・ただ必死に。

 

「こっちこそ本当にごめんなさい。貴方がこんな状態の時にこんな話をして。・・多分私も元気一杯の時の貴方がこんな訳の解らない話をされたら、ひょっとしたら強く責められるかも、罵られるかも、とか・・そう思ったら怖くて・・。だから今貴方がこんな状態の時に話しているのかも・・」

 

しゅんと頭を下げ、心底申し訳なさそうに視線を落とす。最後に消え入りそうに

 

「はは。ずるいね。・・私」

 

こう呟いた。そして有人に向き直り、またふるふると首を振る。「貴方のせいじゃない」と。

 

「本当に御免なさい。・・『私』の事はいくら責めてくれてもかまわない。だからお願い・・『あの子』の事は許してあげて?こう見えて私の方が『あの子』より強いのよ?」

 

―・・何せ私は「あの子」から生まれた絢辻 詞だから。あの子の数々の失敗、教訓を元にあの子が作った「仮面」なんだから・・。それが本人より「強い」事は当り前じゃない?

貴方の前だけに現れた、解き放たれた混じりッ気なしの「あの子」よりも、多くの他者との中で培った私の方が「人」の中で生きる分にはよっぽど強くて都合がいいのは当たり前・・でしょ?

 

ねぇそうでしょ?・・私。

 

 

「そ、んな・・・責めるなんて・・出来る訳ないじゃないか・・」

 

「・・やっぱり源君は優しいんだね」

 

苦笑いして微笑む絢辻の言葉に今の有人はまともに返す言葉が浮かばない。ただ今度は有人が振り切る様に頭をふるふると振って頭を抱えた。

 

 

―・・違う。これは決して「優しさ」なんかじゃない。ただただ自分が楽になりたいただの・・・ガキの言葉だ。

 

 

お互いにただひたすら自分を守るために二人は自分を責め続けた。・・・余りに悲しい光景であった。

 

 

 

 

「・・・。ごめんね。やっぱり私はもう貴方の傍に居ない方がいいかもしれない・・私の顔を見るたび・・『あの子』のことを思い出しちゃうでしょ?それで貴方が背負わなくてもいい、必要も無い罪悪感を与えちゃってるんだとしたらそれこそ・・」

 

―・・!そんなことない!

 

と、有人は即否定するつもりだった。

 

「そっ・・・!!・・・ぅ・・」

 

しかし出来なかった。実際有人は怖かったのだ。

 

絢辻であるはずなのに絢辻と思えないこの目の前の少女をこれ以上見ているのが辛かった。

そしてそれを引き起こしたのが紛れも無く自分の失態だという事実だ。

罪悪感は確かにある。しかし確実に心の奥底で存在するこんな自分もまた否定しきれずに居た。それは絢辻の言うとおり、「彼女を内心何処かで責めている自分」だ。

 

 

―だって・・・だってしょうがないじゃないか!俺は事故に遭ったんだぞ?意識無かったんだぞ!?二日近くも!

 

俺のせいじゃないぞ!?悪くないって・・俺は!

 

 

正論である。

 

客観視したのならば有人の中にあるこの言い分は至極まともだ。しかしそれが今の絢辻の言葉を即否定する言葉を遮ってしまう。

 

「正論、まとも」―この言葉で世の中すべてまかり通るのであれば苦労は無い。

 

結果二人の間に残されるのは後味のこの上なく悪く、苦い苦い沈黙である。残酷なこの冷え切った病室を包み込むまた暫くの重い沈黙。それを破ったのは有人ではなく・・・絢辻だった。

 

「くす・・」

 

相も変わらず悲しそうに笑っている。

 

「安心して?・・どうやら私にはそう時間が無いみたいだから。だからすぐに居なくなるから。・・貴方の傍から」

 

「・・・?」

 

その絢辻の言葉に有人は当然の疑問を呈そうとした。「一体・・どういう意味・・?」と。その言葉を―

 

 

 

コンコン・・

 

 

 

有人の病室のドアがノックされる音が遮った。

 

 

 

 












数分前―


コツ――ン

コツ――ン


消灯後の薄暗く、静かな病棟の廊下を切り裂くような鋭く、甲高い足音が響いている。


近付いていた。

迫っていた。

そして今、口を開けようとしていた。


今日この日この状況をまるでバタフライ・エフェクトの様に作り出したルーツとも言える存在が今の心のぽっかり空いた空洞に苦しむ絢辻の元へぬるりと浸蝕、そして飲み込もうとしている。


有人は今夜、己を知り、向き合い、そして同時・・・



出会う事になる。

彼独自の生き方によって生ずることが無かった、生まれる事の無かった存在に。初めての存在に。
端的にそれを至極単純な単語に言いかえるとするなれば、それは―




「敵」と言えた。







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ルートT 二十四章 仮面は泣かない










「ふぅ・・」

―・・・。あの子・・あの男の子とちゃんと話せているかしら?

ナースセンターまでの途中にある病室の患者幾人かの様子を見終わった後、親切な女性看護士は先程、先日事故で運ばれた少年の病室に案内した髪の長い美しい少女に思いをはせる。はっとするような美しい黒髪と整った顔立ち、育ちの良さを感じさせる礼儀正しさを持った十二分に魅力的な少女―そんな子がこのクリスマスという大事な日に、面会時間のギリギリに会いに来る相手だ。詰まる所は・・「そういうこと」なのだろう。

そう考えるとクリスマス・イブの夜、ここにかつぎ込まれてきたあの少年に大事が無くて本当に良かったと親切な看護士は思った。

少女は聞いてきた。熱心にあの病室の少年の具合を。

―あ、あの・・電話では確かに彼から「大丈夫」って事をお聞きしていたんですが・・その、ホントに・・・。だい、じょうぶなんでしょうか・・?

心なし少し声が震えていたのを覚えている。同時隠しきれない焦燥が表情にも表れていた。無事な姿をその眼で見るまでどこか安心できなかったのだろう。親切な看護士はそんな少女を自分の出来得る限りの相手を安心させる表情で微笑んだつもりだ。

―大丈夫。何も心配ないわ。元気よ彼は。見た目は半ミイラ男だけどカオは男前なままよ。・・中々カワイイわね?彼。・・お目が高い。

と。

その看護士の茶目っ気たっぷりの言葉に少女はようやく表情を緩めてくれ、ほうっと息を吐いた。そしてまるで自分の子供の命を救ってくれた大恩人に礼をしている母親みたいに大げさに数回頭を下げた。
これ程頭の良さそうな子だ。確かに重傷とはいえ、命に別条のない患者の、おまけに軽い治療をした程度の看護士相手にどの程度の感謝が適当であるかくらい解っているだろう。それでもこの全てにおいて大げさな所作は彼女にとって偽り難い本音を表す故の行動なのだ。
そんな少女をこれ以上自分が足止めしていいはずが無い―親切な看護士は彼女の背中を押しつつこう促した。「いち早く行ってあげなさい」―と。すると漸く少女はにこりと微笑んでくれた。美しいルックスと相まって笑うとより魅力的な美少女だった。

だが何故だろう?―と看護士は同時思った。

その少女の笑顔が何よりも哀しく、儚く消え入りそうに見えたのは自分の勘違いだろうか。
何と言えばいいのか・・「自分の存在に価値を置いていない」とでも言えばいいのか。


―「私」が行っても特に意味は無いけど―


職業柄、親切な看護士は何度もそういう表情をした面会者を見た事がある。
幾年も会わなかった、距離が離れていた近親者・・または実の親が急な入院をした時に駈けつけた面会者等の一部が時折浮かべる特有の表情だ。
大別すれば確かに彼らは患者を心配しているのだ。が、同時「自分がここに来ても特にやれる事は無い。医者が出来る事に比べれば所詮瑣末なことだ。なら自分がここに居る価値は無い」と言いたげな表情をする。そんな面会者達の表情を見る度に―

―そんなこと無いのに!

と、親切な看護士は何時も声に出して言いたくなる。

病気やけがをした人間の体の回復を助ける上で医者の貢献の割合は確かに少なくないかもしれない。しかし一方で時にそれを遥かに凌駕する驚異的な回復の促進をもたらすのが身近な人間が患者を傍で勇気づけることである。謂わば心の回復を助ける事だ。
これこそ医者がどれだけ技術を磨こうとも、医療がどれだけ発展しようとも中々手に入れることが出来ない最良の治療法、良薬なのである。

―ああ。あの少女にも声をかけてやればよかった!!
そんな悲しいカオせず、女の子のクリスマスを台無しにした罪作りな少年に面と向かって堂々と不平、不満をぶつけた後、最後に「本当に、本当に無事でよかった」とつけ加えるだけで、それだけで患者と面会者は、二人は満たされるはずなのだ。お互いに。

何故あの少女があんな消え入りそうな表情をしていたのかはその看護士には解らない。それは本人たちしか解らない事情があるのだろう。そこまで深く踏み込む事は出来ない。
ただそれでも親切な看護士はまだ若く、これから未来のあるあの少女がいざ大事な人間への面会を前に「あの」表情を浮かべていたことに独特のもの悲しさを覚えていた。




―その時だった。



・・カツ――ン






「・・君」





いつ現れたか解らない。消灯し、非常口を照らす鈍い緑色に包まれ、薄暗くなった病院の廊下に立ったひとつのシルエット。それが身長の高い一人の男性であることがすぐに解る。そして白衣を着ていない事、聞き覚えの無い声からしてここに勤める医者ではない事を看護士はすぐに理解する。

―・・誰?

看護士はやや警戒が僅かに混じった視線を上目遣いにして声の主を見る。
響いた声、そして見た目からして恐らく・・四十代ぐらいだろうか?首元からつま先まで完璧に整えられた黒いスーツ姿のシルエットから落ち着きと同時威厳が感じられる。仕事、そして社会的地位に於いてそれなりの立場にあるであろう人間だと言う事が一目で解った。だが表情がまだ看護士からはよく見えない。

「は、はい。御面会の方でしょうか・・?」

警戒が抜けきらないながらも看護士は少し前に出た。お互いの表情がはっきり確認できる距離にまで近付こうと。シルエットの男性も彼女のその意図に気付いたのか、歩み寄り始める。

コツ――ン

コツ――ン

良質な革靴特有の心地いい程の高い音を立て、看護士の質問に薄暗い病棟の廊下から声、そしてシルエットの印象と寸分の違い無く、落ち着きはらった表情の紳士がぼぉっと躍り出た。

「・・・」

―わ。

近付くとより背が高い印象を看護士は受けた。同時、男性のスーツ越しにも解る一切無駄な贅肉が付いてない事が一目で解る節制の行きとどいた体、その体に完璧に整合されたオーダーメイドであろう漆黒のスーツが否応なくこの男性がやり手である事を窺わせる。艶、ハリ共に良いこの年齢の男性にしては肩にかかるぐらいの長めの髪を嫌味無く、しかし同時堅く感じない程度にふわりとウェーブさせつつ整えている。実年齢より確実に若く見えているだろう。

―・・・。

ハッキリ言って「素敵な男性」だと看護士は思う。彼女がぼぉっとしばし見惚れているとやや居心地悪そうに男性はえへんと少し咳払いし、

「失礼。ひとつお聞きしたい。ここに・・髪の長い高校生くらいの少女が面会に来たと思うのだが・・見かけてはいないだろうか?」

これまた均整のとれた適度な声量、壮年の男性らしい低い口調ながら聞き取りやすい心地いい声ははっと看護士の放心をほどく。

「・・・!あ、ああ・・あの青いジャケットを着た女の子の事でしょうか?」

「それだ。彼女が何処の病室に向かったか教えてくれないだろうか?」

「はい。あの、・・その、失礼ですが・・」

そのまますぐに案内しても問題はない―それ程「節度を弁えた大人の男性」という印象はあったが看護士は一応男の身分を確認しようとする。
これは「病院規則の決まり事」という建前の元、この思いがけなく出会った素敵な男性ともう少し話してみたい、という好奇心から来る本音が看護士の中で僅かに勝ったからであった。

「・・あ。ととと、失礼。この許可証を見せれば大丈夫と受付でもらったのだが・・怪しい者では・・・ないよ私は。恐らく」

紳士は少し慌てた動作で胸ポケットから本来は首から下げる来客用のネームプレートを取り出して看護士に見せた。其のネームプレートに記載された名前を確認し、看護士は合点がいく。

「ふふ・・・。・・・え~~。




―あ」

看護師は少し言葉に詰まった。そして「これは失礼いたしました」と続け、整った壮年の紳士の表情を覗き込む。















「・・お父様でしたか」


















少し残念そうになる口調を抑える事が出来なかったことに内心看護士は苦笑した。











 

 

 

 

「娘さんはこの先にある308号室の患者さんの面会に向かわれました。相手は『源 有人君』という同じ学校の・・お友達、クラスメイトとのことです」

 

親切な看護師は壁に掲示されてある病室の間取りを指差しながら紳士に懇切丁寧に伝える。

 

「・・そうか。この先だね?丁寧な案内をどうもありがとう。・・・失礼するよ」

 

「はい・・・あ、あの・・」

 

紳士が一礼して一歩踏み出し、横切ろうとしたが看護士は少し名残惜しそうにその精悍でたくましい紳士の広い背中に自然に声をかけてしまっていた。

 

「・・む?」

 

きちんと振り返り、紳士は「まだ何か?」と言いたげに少し目を丸める。少し幼さを感じさせるその表情に看護士は情動が少し和らぐ。

 

「・・・。凄く礼儀正しいお嬢さんですね。ご両親の教育の賜物でしょうか」

 

「・・ええ。自慢の娘です。ありがとう。では失礼」

 

 

壮年の紳士はそこで看護師に向かって初めて微笑んだ。

 

 

「・・・はい。お大事に」

 

親切な看護士はいつもならこの時間帯の来客にはある程度の諸注意などを促すのだがこの紳士には全く以て不要だとその笑顔から直感し、道を譲って頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・・どこかで見た様な気がする。

 

 

去っていった男性が薄暗い病棟の廊下の先で見えなくなるまで見送った後、看護士は少し首を傾げながらそう思う。

 

かといって何かの芸能人という訳ではなさそうだ。そういう人種に比べると纏っているオーラが全く異質である。その既視感をハッキリさせるため・・まずはあの紳士の娘だと言う少女の名前を頭の中反芻する。

 

―あの子の名前は確か・・絢辻・・。・・。絢辻 つかささんだったかしら・・?

 

 

・・・「絢辻」?まさか・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

24 仮面は泣かない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在―有人の病室にて

 

「・・!・・は、はい!どうぞ?」

 

こんな時間、そしてこの病室への意外すぎる来訪者のノックに有人は反射的に放心状態を解き、即招き入れる返答をした。

 

 

「・・夜分に失礼。・・・詞?居るのか?」

 

 

低い声と共に、病室のドアに誂えられた曇りガラス越しに大きな黒いシルエットが浮かび上がる。同時に―

 

「・・・!あ・・」

 

絢辻が気不味そうな小さな声を上げたと同時にドアが開く。そこには漆黒のスーツに身を包んだ背の高い壮年の紳士が立っていた。

整った身なり、精悍な表情、姿勢、引き締まった口元を真一文字に結んだその姿は年相応の威厳、厳格さを感じさせる。が、娘を確認した瞬間、視線、表情を幾分柔らげ、ほっと息を吐くようにこう呟いた。

 

「・・。ここに居たか。遅いので心配したぞ」

 

「あ・・はい」

 

いきなり訪れたその紳士の正体を有人は聞かずとも解った。

 

 

 

 

間違いなく絢辻の父親だ。

 

 

 

 

顔はそこまで強く似てはいない。恐らく絢辻、そして姉の縁共に母親似なのだろう。

しかし、堂々とした立ち振舞い、佇まいのスキの無さ、しかし堅くなり過ぎずに適度に人を受け入れる包容力を伺わせる雰囲気―それに関して完全に絢辻は父親譲りだ。

 

「・・・」

 

娘の姿を確認し、二、三言葉をかわした後、くっと切り替えるように紳士は目だけ有人の方に向け、すぐに体の角度も顔の向きも視線と同様、有人に向け、軽く目を閉じて会釈した。

 

「こんな遅い時間にお邪魔をしてしまって申し訳ない。・・私も娘を止めたのだが押し切られてね。・・君が・・源 有人君だね?ココに来る前に娘から一通り話を聞いているよ。・・娘がいつもお世話になっております」

 

「あ・・。っ・・!」

 

有人も紳士に合わせ、姿勢を正そうと体の向きを変えようとしたが横っ腹と足に激痛が走る。思わず苦悶の表情を浮かべる有人に―

 

「あぁ~すまない。無理をしなくていい。楽な姿勢で居てくれていいよ。・・しかし災難だったね。こんな年の瀬に事故とは・・」

 

紳士は大きな左掌を向けて無理をしようとする有人を制しつつ、大人の対応で少しにこやかに場を緩ませる。

 

「そんなに畏まらなくていいんだ。こんな時間にこちらが面会等の無礼をしているのは重々承知だからね」

 

「いえ・・こちらこそすいません・・こんな状態で。では改めて・・僕は源 有人と申します。初めまして。こちらこそ絢辻さんにはいつもいつも大変お世話になっております」

 

有人は体の向きを変えられないまま謝罪の意味も込めて頭を下げてこう続けた。

 

「むしろ無理言って絢辻さんがここに来てもらうことをお願いしたのは僕です。こちらこそ本当に申し訳ありません。わざわざ来ていただいて本当に有難うございます」

 

「うむ。ならいいのだが・・詞?」

 

「はい・・」

 

初対面同士の父と有人の和やかな会話を無言で聞いていた娘が戸惑いがちにおずおず返事をする。明らかに様子がおかしい。

 

「彼もこんな状態で大変だろう。時間も時間だしもう今日はそろそろお暇させてもらおう」

 

「・・」

 

妥当で節度を弁えた絢辻の父親からの申し出であった。しかしそれに対して娘は頑なに首を縦に振らず無言のままである。

 

「・・詞」

 

無言の娘にほんの少し紳士の口調が冷えた、窘める様な論調に変わる。

 

「・・すみません。父さん。私はもう少し彼とお話したい事があるんです。もう少しお時間を頂けませんか?」

 

何とも他人行儀な敬語を並べ、絢辻は自分の親と接する態度には見えないほど卑屈に頭を下げ、懇願するようにこう言った。だがしかし―

 

 

 

 

「ならん」

 

 

 

 

先程の有人との会話から一転し、静かだが強い口調での否定、却下の一言であった。いかにも「絢辻 詞を育てた父親」らしい厳しい一面を見せる。よくよく考えてみれば自分に対して娘に敬語を遣わせている所からもそれがうかがい知れることだった。しかし娘―絢辻は

 

「お願いします・・」

 

尚もそう言って頭を下げ続ける。

 

「・・。あの・・僕からもお願いします。もう少しだけお時間をくれませんか」

 

そう言ったがその有人の言葉は実は自分の真意と真逆であった。

 

正直有人はこの場から逃れたかった。足が固定されて動けない自分がもどかしいほど逃げ出したかった。そして有人の真意はこの厳しい父親が「これ以上彼に迷惑をかけるのは良くない。今日の所は一旦帰るぞ。詞」くらいの言葉を言ってくれる事を予期し、期待した。

 

有人にとって絢辻の父親の思いがけない来訪はこの時に於いては「僥倖」という他ない、ベストタイミングであったのだ。この針の筵の様な空間、時間から一時的であろうとも逃れられるのでは―少なくとも有人はそう思っていた。そして数秒後、確かにこの期待は叶う事になる。

 

しかし―

 

それはあくまで「この父親が娘の申し出を断って連れ帰ろうとする」という点においてのみである。

 

 

 

 

 

「ならん。私もそんなに暇ではない。詞。お前だけの体ではないのだ。聞き分けなさい」

 

 

 

 

―・・・え?

 

有人の予想を遥かに凌駕する冷たい言葉が有人の「見せかけ」の言葉を全く無視し、紳士の口からなんとも冷淡に頭を尚も下げ続ける娘のみに発された。

 

―そんな言い方って・・。

 

まるで心臓を鷲掴みにされたみたいに有人の呼吸は止まった。そして気付く。頭を下げている絢辻の閉じた瞳がこれ以上なく、歯を食いしばる様に強く閉じられている事に。

 

「・・・っ・・お願いします」

 

有人の予想を遥かに超えた強い絢辻の懇願の姿であった。その姿に自分の事だけをただ考え、この場を一旦凌ごうとした自分の浅ましさに有人は自己嫌悪に陥り、閉口する他なかった。しかし―

 

 

「詞。いい加減にしなさい」

 

 

尚も有無を言わせない口調で壮年の紳士は娘を窘め続ける。先程まで有人がこの場に居るのを考慮した語調であったが、今は最早彼が居ないものと仮定しているレベルの語調に切り変わっている。

 

「・・私・・・まだ彼にお話していない事があるんです」

 

「・・。『話していない事』・・?詞。お前・・まさか・・」

 

「・・・・」

 

 

「『まだ』話していなかったのか・・?」

 

 

「・・・」

 

有人は二人の会話についていけなくなった。

 

―何の・・・話だ?

 

戸惑う有人を尻目に紳士はふぅと息を吐き、無言のまま頭を下げ続ける自分の娘を脆く見下ろす。

 

「はぁ・・そんな大事な話を今まで話していなかったとは。何のために予め縁を通して早めに伝えておいたか解っているのかい?お前は」

 

―・・あんまり私を失望させるな。

 

言外に確実にそんな類の言葉を含んでいる様な声色の実の父親を相手に

 

「申し訳ありません・・」

 

あの絢辻が返す言葉もなく、只管謝る事しか出来ない。ただ彼女は一人打たれ続けていた。他でも無い自分の実の父親から。事情の全く解らない有人は彼女をかばう事も出来ない。ただ彼らの会話を呆けて見守る事しか出来ない。

 

「『申し訳ない』・・?それを私に言ってどうするんだ?それはむしろ彼に告げるべき言葉だろう。今『その事』を知らされる彼の身になりたまえ」

 

「・・・」

 

「・・良いだろう。少し時間をあげよう」

 

絢辻の父親は再び大きくため息を吐き、有人の方を再び振り返って、またほんの少し頭を下げ、こう言った。

 

「いや・・見苦しい物をお見せして申し訳ない。すまないがもう少し娘の話を聞いてやってくれ。そして・・理解して納得してやってほしい。それでは私は失礼する。

 

 

 

 

 

お大事に・・」

 

 

 

 

 

 

言葉を閉じながら薄く男は眼を開き、やがて踵を返して病室を後にした。

ここまで初対面の娘の友人に対しての態度、言葉の選択としてはごく自然、適当と言える。

 

しかし―それが有人にもたらした「状況」は全く異なるものだった。

 

―・・・!?

 

その僅かに開かれた瞳に映っていた「もの」に有人は気圧された。

 

そこには消し難い「無関心」という感情があった。有人という存在を物の数にしていない。丁寧で基調を整えられた節度ある数々の態度、言葉―その全てが「仮面」であることが垣間見える。それも絢辻の「それ」を遥か凌駕する付け入る隙が微塵もない頑強な物が展開されていた。

しかし・・同時「もう一つ別の感情」が僅かにちりりと混ざっている事が有人には読みとれた。

否、有人には「わざと感じ取らせた」。と、言った方がいいかもしれない。

 

―・・・・・!

 

有人は絶句していた。

 

絢辻の父親の凍える様な冷たい瞳のさらに奥で凍傷を引き起こすほどの冷気が発せられていたのを感じ取った。

それを前に自分が果たして今凍えているのか、焼け爛れているのか、はたまた痺れているのかも解らない曖昧な感覚を有人は覚える。今までの人生で彼が感じた事の無い、言いしれない不快感であった。それの適当な表現はただ一つ。

 

 

 

 

 

 

それは有人に対する明らかな「敵意」をにじませた眼差しだった。

 

 

 

 

 

 

 

雪が降り始めた外より数段温かいはずのこの病室の方が現在遥かに寒く感じる。あの男が存在していた事自体が有人の現在の体感温度を更に貶めていたからだ。

絢辻の父親が踵を返して病室を後にした瞬間、室内でも溜息が白くなるんじゃないかと思いながら息を吐く。「塩を撒いて身を清めたくなる」とはまさにこの事だろうか。体を包み込む不快な寒気が一向に体から離れていかない。

 

有人は理解した。

 

学校の同学年であり、クラスメイトであり、そして友人かそれ以上の関係である娘の前に居る存在に―

 

 

 

「あの男」は微塵も好意を覚えていない。

 

 

 

それが有人にとっての「あの男」の第一印象だった。

 

 

 

―・・・!!なんだよ・・!あれ・・・!!!

 

有人の中に何かが浸蝕し、どす黒く拡がっていく。その正体は言うまでも無く彼の人生で初めて向けられたあの「敵意」だ。出会ったばかりの、そして自分より明らかに上位の存在にハッキリ向けられた理不尽とも言える強烈な敵意―それに有人が恐怖、そして昂りを覚えないはずが無かった。

 

「・・源君?」

 

「・・」

 

「大丈夫?」

 

「・・」

 

「・・御免なさい」

 

―ああいう人なの。

 

絢辻の言葉少ない謝罪にそんな言葉が含まれている様な気がした。絢辻も当然気が付いている。初対面の有人に対して自分の父親がどんな行為をとったかを。力無く笑う絢辻の顔に何処か諦めた様な微笑みが張り付いた。

 

「時間無いから・・話を続けるね」

 

 

―・・・!!

 

そんな絢辻の言葉も耳に入らないほど有人は混乱していた。

絢辻の父親が有人に向けたあの敵意は彼を恐怖させただけでなく、ある意味彼の「誇り」をこれ以上なく傷付けたからだ。

 

自分の出生の秘密を知って以降、他人から怒り、憎しみ、非難、疎外などありとあらゆる他者から自分に向けられる様々な負の感情を向けられないようにする為、彼の選んだ生き方を実は無意識のうちに彼自身誇っていたのだ。

 

それを真っ向から否定された・・いや、行使する間もなく一方的に向けられた。あの敵意を。

 

・・・絢辻の傍に居るだけで、だ。

 

その理不尽さに有人の中で今まで覚えた事の無い感情が形を成していく。

周りを見失うほどの吐き捨てたくなる感情―皮肉なことにそれもまた・・あの男が有人に僅かに、そして意図的に嗅ぎ取らせた「敵意」だった。

 

そして敵意から来る混乱、屈辱、怒りはこれ以上ないほど有人を盲目にさせる。彼の目から一瞬だけ今の絢辻を外させるほどに。今の「あの子を失った」という絢辻が細い細いロープの上で目隠しのまま綱渡りをするかの如く危うい状況である事を知りながら、今有人は自分に突然向けられた理不尽な「敵意」に対する感情の奔流、激流のみに囚われた状態であった。

 

―・・・源君・・お願い。私を見て。

 

 

・・一人にしないで。

 

 

しかし有人は気付かない。未だ忌々しそうに己の誇りをこれ以上なく傷付けた男の背中を睨むように病室のドアを睨んでいた。そんな有人を振り向かせるために、絢辻は「この言葉」を使うしかなかった。今の有人はいつものようにじっくりとゆったりと耳を傾けてくれる有人ではない。それが今の絢辻には無性に悲しかった。

 

―お願い・・聞いて。「いつもの」優しい貴方で。

 

・・こんなズルイ言葉で・・今の貴方を振り向かせたくないのに・・なのに・・・!

 

 

しかし有人は振り向かない。振り向いてくれない。悲しかった。悔しかった。

 

 

でもやっぱり自分は・・泣けない。

 

 

 

―だって

 

 

「仮面」は泣かないから。

 

 

 

否。

 

 

 

泣けない。から。

 

 

 

 

 

 

 

 

絢辻は諦めたようにこう切りだした。

 

 

 

「源君・・私ね―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近いうちにこの町を出なきゃならないの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・。・・・え?」

 

その絢辻の突然発した台詞にまるで彼の中で逆回転の台風同士がぶつかって相殺したみたいに有人の顔は全くの無表情になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・ようやく振り向いてくれた。

 

 

今にも泣きだしたくなるような情動に駆られる。が、絢辻の中の何かがそれを止める。

 

 

 

 

 

 

 

 

仮面は―

 

 

 

 

泣かない。

 

 

 

 

 

 

 

泣けない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートT 二十五章 冷たい頬






―・・あまり無理せずにじっくり時間をかけた方がいいと思うよ?俺は十年以上かかってこのザマだけど・・きっと絢辻さんなら・・さ。


あの日、国枝君はこう言って私を励ましてくれた。優しく背中を押してくれた。

・・でも―


「――――」


私は彼に聞こえない程度の声でこう答えた。

・・いいえ。

その「言葉」は彼に対してでなく、他でも無い私自身にかけた、言い聞かせた言葉だったのかもしれない。

この一年で有人君を初め、彼を取り巻く多くの人達、そして私自身の新たな一面と出会う遥か前から解っていた事、決まっていた事、・・目を逸らしていた事を改めて言い聞かせるように。

その言葉は。





―私にはもう、時間が無いから。










 

 

 

 

 

 

 

 

 

25  冷たい頬

 

 

 

 

 

 

 

 

八章 不協和音・裏

 

 

 

 

数ヶ月前―

 

絢辻姉妹の同居しているマンション、絢辻妹の自室にて―

 

 

 

 

「つかさちゃ~ん。入るわよぉ~?」

 

 

 

いつものように絢辻の姉―絢辻 縁がノックもせず妹の部屋に入ってくる。それに全くの手加減なしの不機嫌な声を隠さず、妹は応対した。この姉妹の日常ではあったが。

 

 

「当然の様に入ってこないで・・何か用?」

 

 

―全くこの姉は・・こうしたいがために私をわざわざロックの無い部屋をあてがったのかしら・・?

おかげでまだ仲良くなって日の浅い彼に先日自室に侵入され、寝顔まで覗かれる災難も蒙った。この被害の賠償金を誰に請求すればいいのやら?

 

そんな事を考えつつ勉強机に座ったまま、背後のドアを能天気に開けた「損害賠償金支払い能力ゼロ」の姉に背を向けたまま一瞥もくれず、黙々と絢辻はペンを動かし続ける。

 

この創設祭の会計資料の提出期限が数日後に迫っている。が、今回も問題なく間に合いそうだ。念の為、有人に見直しをさせるぐらいの時間も設けているため、後は任せて大丈夫なくらいだろう。

 

―ふふ。相変わらず我ながら完璧な仕事ぶりね。~~♪

 

絢辻はうんうんと頷き、一段落まで残り僅かな創設祭資料をトントンと勉強机の上で纏め、上機嫌そうににんまりと笑う。そんなご機嫌な妹とは対照的に背後で口を尖らせつつ―

 

「む~~~~っ!つ・か・さ・ちゃん?人のお話しを聞く時はせめてこっちを向きなさ~~い?」

 

ぷぅと頬を膨らませ、そんな苦言を呈する姉。しかしその言葉にも相変わらず妹は真面目に取り合わない。

 

「今忙しいの。用件があるならそのまま言って」

 

作業を尚も続けながら絢辻は相変わらず背後の姉に目もくれない。「片手間にアンタの話を聞くぐらいの余裕はあるから」、とでも言わんばかりに。

 

「・・大事な話なのよ」

 

「ふ~ん」

 

―貴方が?大事な話?明日はヤリが降るかもね。

 

嘲りともとれる皮肉な感情をこめてそう絢辻は心の中で言い捨て、尚も姉の方を向こうとしなかった。

 

 

 

この時、絢辻は確かに見るべきだった。背後の何時もとは違う縁の表情を。

 

 

 

 

 

「お父さんがね・・こっちに来るって」

 

 

 

 

―・・・!

 

その縁の言葉に全く淀みなく動いていた絢辻のペンが紙の上で突如ピタリと止まった事を縁は確認する。

 

 

「『来年、詞は大学受験を控えた大事な年だ。勉強のしやすい最高の環境、そして信頼のおける家庭教師、講師を揃え、こちらで万全の態勢を整えてある。だから―』」

 

 

縁は「あの男」の言葉を一言一句間違いなく、そのまま妹に伝えようとした。

今の絢辻には姉の言葉が全て「あの男」の声にそっくりそのまま脳内変換されて響いていたことだろう。

 

 

「・・・。―そう。解った」

 

 

絢辻は尚も姉に振り向かないまま素っ気なくそう言って姉の言葉の続きを遮る。「その先は言わなくても解っている」と言いたげに。

どうせ・・

 

「戻ってきなさい」

 

―そう続くに決まっている。「戻ってこないか?」ではなく。

ただ強制力だけを備えた抗いようのない絶対の命令、「宣告」だ。そこから「対話」に派生しない。そもそも派生させない。あの男は。これは既に決定事項なのだ。

 

 

「・・詞ちゃん?」

 

「煩いなぁ・・用が済んだなら出てって?『忙しい』って言ってるでしょ」

 

「詞ちゃん・・」

 

「いいから」

 

「・・」

 

パタン・・

 

縁は無言で静かに妹の部屋を閉める。妹の部屋にかけた縁特製の「つかさちゃんの部屋❤」と書かれたプレートがかたりと揺れた。

 

 

 

 

この日より約二年前―

 

絢辻 詞。吉備東高校入学直前の春の事―

 

 

あまり仲のいいとは言えなかった、・・否。姉―縁の方はむしろ大好きだったのだが、残念ながらあまり好かれていなかった妹―詞が吉備東高校入学を機に姉が下宿しているマンションから吉備東高校へ通いたいと言い出した。

 

縁は嬉しかった。歳はそれほど離れていないが何となく距離があった妹が初めて「姉の所に行きたい」と言ってくれたのだ。

正式に両親からの許可が出た際、縁は喜び勇んで彼女が在学している陽泉大学の友人に頼みこみ、つてを頼って建設工学部の校舎に潜り込み、実技の際に余った資材を頂戴し、施設まで間借りしてこの妹の部屋のドアを飾るお手製のプレートを作った。

 

そして引っ越してきた当日の妹の微妙な表情もなんのその、満面の笑みでこのプレートがかけられた部屋をうきうき紹介したものだ。

 

「じゃ~ん♪ここがつかさちゃんのお部屋よ~~!」

 

そんな能天気にはしゃぐ姉を実家に居た時から変わりなく、姉に対してトコトン無愛想な妹はうっとおしそうに、そして素っ気なくじとりと睨んで

 

「・・見たらわかるわよ」

 

と、一言言った。そんな相変わらずの大好きな妹の「らしさ」に尚も縁は嬉しそうに笑う。

 

対照的に妹はそんな姉に一つ大きな溜息の後、未だその場に居座ろうとニコニコ傍らに立っている姉のバックに回り込み、ずいずいと背中を押した。「何か手伝う事な~い?つかさちゃん♪」と言いたげにるんるん指示待ち人間してやがった姉を早々に追い出す腹だ。

 

「ん~~!ん、もう!!部屋の中は自分で整理するから。あ~手伝わなくてもいいよ!はい!だからあっち行って!」

 

「えぇ~お姉ちゃんも手伝いたいよ~」

 

「余計時間かかっちゃうでしょ!ぶっちゃけジャ・マ・な・のっ!!も~お願いだから早く行って?私は入学式の準備とかで色々忙しいんだから!」

 

今ほどまだ髪の長くなかった妹は髪を振り乱しながら姉を追いやった。ぶぅと膨れ面しながら縁は渋々その場を去る。しかし、

 

―うふふ~~スキありぃ♪つかさちゃん♪

 

去るふりをしてひょっこり廊下の角から自分の部屋の前で一人立っている妹を覗き見した。その時の妹の顔を縁は今でも覚えている。

 

「・・くすっ」

 

自分の部屋にかかった恥ずかしい姉のお手製プレートに呆れながらも隠し難い喜びを讃えたあの表情。とことん姉に対して愛想の無い妹が姉には見せた事の無い表情だった。

 

―うふふ♪

 

縁は凄く嬉しかった。その表情の一因が自分お手製のプレートである事も嬉しかった。

・・しかしその後すぐに覗いている事がバレ、遠目から妹に思いっきり睨まれ、怒られた。

 

「・・解ってんのよ!」

 

「ひぃ~つかさちゃんったら怖いぃ~♪」

 

「けど初めてお姉さんらしいことをしてあげられたな~♪」と、縁はすたこら逃げながらも自分を褒めてあげたい気分だった。

 

 

 

 

でも―

 

一方で縁には解っていた。その妹の明るい表情の理由の大半を占める原因が非常に悲しい事を。

 

それは「解放」による安堵だ。

「あの男」の支配から逃れることが出来たことへの安心。たとえそれが一時的なものと解っていたとしても浮かびでる他ない、にじみ出る表情だったのだ。

 

そして二年後の今日この日―

 

父親からの伝言を縁は一言一句違えること無く、相変わらず振り返ろうとしない妹の背に一方的に告げた。

妹にとって安堵の時間―それが予定通り近い将来終わりを迎えることを宣告する役目が二年前の春の日、大好きな妹の「一時的解放」の祝福をした他でも無い自分自身であることが縁は悲しかった。

 

この会話が始まってから終始、妹は姉に背を向け、とことん素っ気なかった。縁が「あの男」からの伝言を伝えた後も粛々と淡々と宣告を受け取っていた。

 

でも、縁には見えていた。

 

突如動きの止まった妹のペン先が僅かに震え、染みだしたインクが真っ白な紙の上で真っ黒なインクがゆっくり、じわじわと底なし沼の様に広がっていく様を。

 

 

 

 

 

 

この日、この夜のこの時間以降の事を絢辻はよく覚えていない。大事な会計資料の纏めがこの後、予定通りすぐに終わったのか、だらだら、長々と翌朝辺りが白み始めるまでやらなければいけない程捗らなかったのか本当に全くの記憶が無かった。

 

翌日、学校にてそれの点検をした有人が「全く問題なかったよ♪」と笑ってくれたのを見て心底絢辻はホッとしたのは覚えている。あの屈託のないへらへらとした笑顔に。

 

 

 

 

いつしかそんな彼の笑顔は絢辻の生きる糧となっていた。

 

 

 

 

 

しかしそれもいずれ―

 

 

 

 

・・喪われる。予定通りに。

 

 

 

 

 

 

 

―・・・っ!!!

 

 

 

そう考えると居ても立っても居られなくなった絢辻は姿を消し、図書室の文書保管庫―立ち入り禁止の「あの」場所で無心に、一心不乱に大事な今後の創設祭実行委員の行動指針を纏めたノートをいつの間にか―

 

 

 

・・・破り始めていた。

 

 

 

 

 

 

―「今後」「この先」なんて、

 

 

 

 

・・来なければいいのに。

 

 

 

 

 

例え未来を破り捨ててでも・・・私はここに居たいんだ。

 

 

 

 

何故・・寄りによって今なの?

 

 

 

 

 

嫌だよ・・もう一人は・・いや・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在―

 

12月25日吉備東病院。有人の病室にて―

 

 

「いずれ話そう、話さなきゃ、・・そう思っていたんだけど・・ここまでギリギリになってしまって本当に御免なさい・・」

 

 

絢辻は自分の方をようやく向いてくれた有人の顔を見、微笑みながらそう言った。

そして今度は無表情のまま絶句している有人が意識を取り戻し、言葉を紡ぐことを拒んだ絢辻は矢継ぎ早に言葉を続けていく。

 

 

「『高校三年生になったら親が中学から推薦していた高校に編入すること』・・元々そういう約束で私はあの姉との共同生活を許されていたの。・・あはっ。びっくりしたでしょ?有人君が初めて私のお見舞いにウチに来てくれた時のこと・・覚えてる?」

 

 

当時びっくりはしたものの、今考えるとかけがえの無い楽しい思い出を反芻してなるべく自分の表情が曇らない様に絢辻は工夫する。

 

ただただ絢辻は必死だった。

 

 

「・・大学生の姉の下宿先に居候している高校生の妹なんて・・考えたら普通おかしいでしょ?・・想像はつくかもしれないけど最初は両親に猛反対されたわ。でも下宿生活で自炊、洗濯、家事・・つまり将来の『自立の為の訓練』をすること、そして吉備東の最近の学力の向上、校風、評判の良さ、そして自分の成績は常に上位をキープして安定させること、・・そんないくつかの約束を盾にしてようやく今の下宿生活を送る事を認めてもらえたのが中学三年生の受験の数週間前だったかな・・」

 

 

数々の条件、制約、約束、誓約を素に作り上げたたった二年間の自由―

 

「・・嬉しかった。こんな事言っちゃうと源君は嫌な気分になるかもしれないけど都合が良かったの。吉備東高校は。たまたま姉の下宿先に近くて学力もそこそこ、おまけに・・制服も可愛いし、・・ね?」

 

そして何よりも

 

―「あの男」から、そして自分の家族から少しの間でも解放される―

 

絢辻は奥底に秘めたそんなどす黒い言葉を紡ぐこと無く、替わりに悲しく笑う。

 

全ては最初から解っていた。自分に許された時間も、それが終わった後、自分の身の振り方がどうなるかという事も。その時の自分の冷めた対応も状況も、訪れるであろう失望感や落胆すらも全て解っていた。二年前からそれを粛々として受け入れるであろう未来の自分すらもまるで見てきた時の様に解っていた。

 

どれだけ吉備東高校で充実した時間を過ごそうとも、どれだけ努力や研鑽を積み重ねようとも決して変わらない未来を。

 

それが今とうとう訪れただけだ。今更嘆き悲しむことなど無い―そう思うだろうと「思っていた」。

 

しかし―今、自分が予測していた未来とはかけ離れた場所に自分は居る。いや、違う。

私の中の「あの子」はもう居ないんだ。

予想だにしない未来が目の前には広がっていた。そして予想だにしない未来に「あの子」を誘った存在が今目の前に居る。他の誰でも無い。

 

 

・・源 有人君。

 

 

この人が目の前に居る。大事な大事な「あの子」の初めての大事な人。

 

でも、なら・・・今彼の目の前に居る人はだあれ?

 

誰でも無い。

 

居なくなった「あの子」がかつて虚勢で作りあげた作りモノ。

 

本来ならばココに居るべきで無いモノ。

 

お呼びでないモノ。

 

でも今はただ「あの子」としてココに存在しなければならない。

 

・・これ何の冗談?

 

今の「あの子」を失った私は、恐らくは「あの男」―父にとっては都合のいい存在だろう。

何せ父の元から離れることを、父の意思に逆らって離反した張本人である「あの子」が居なくなったのだから。

ようやく二年前―ささやかな抵抗をした「あの子」を失った今の私があの父の意思に逆らえるはずもない。私という「仮面」は「あの子」が父と表向き体よく接する為に生みだした物でもあるのだ。

 

でも。

 

今目の前に居るこの―源 有人君の目の前に居る存在として今、「あの子」を失った私が未だ存在していることはこれ以上限りなく忌むべき状況だろう。

彼にとって今の私の存在は耐えがたい重荷、罪悪感の象徴だ。彼を苦しめるだけの存在だ。

それでも今私は存在するしかないのだ。彼の前に。伝えなければならないのだ。「あの子」の遺志を。最後の言葉を。

 

ホント・・これ何の冗談だろう?

 

今の私は彼を恐れ、混乱させ、怒らせ、傷つけるだけの存在なのに。

何でここに居なければならないのだろう。今の彼を見ていなければならないのだろう。

 

憔悴し、何時もは穏やかに澄んだ茶色く、優しく垂れた彼の目がまるで髑髏の様に落ち窪み、瞳はぐるぐると渦巻きのように回り、彼自身の体を吸い込んで行くような、墜ちていくような光景を目の前で直視しなければならない現状を。

 

そして私自身にも絡みついてくる例えようのない感情。瞼をこじ開ける様な熱い衝動、激流。ビリビリと手の先が震える。

 

・・ああ。「あの子」がすること、抱える事―「あの子の役目」を体が自然と反芻する。

でも。これを「表現」することは、表に出す事は「私には」許されていない。

これはもともと私に「許された」行為ではない。

 

これは「あの子」の役目だ。「仮面」の私には許されていない行為だ。

 

悲しい、辛い、憤りたい、

 

・・・泣きだしたい―

 

でも「あの子」が作った私には抱えた「負」をさらけ出す権利は与えられていない。「仮面」の私はただ人形のように全てを受け入れて微笑んで佇むだけだ。

 

その人形の顔に。その冷たい仮面の頬に。

 

 

 

 

「・・・あ」

 

 

 

瞳が空洞の様に空っぽになった彼の手がぴとりと触れる。

そこには何もない。ただ冷たい。

 

 

冷たい頬―

 

 

その冷たい頬に触れる彼の指先もまた、震え、そして冷たかった。

 

 

その冷たい手の甲に絢辻もまた冷たい手を添える。

 

 

「ふふふっ・・」

 

 

気持ち良さそうに目を細め、噛みしめるように微笑んで―

 

 

 

 

「・・・ありがとう。さようなら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




病室を去る直前の彼女の背を呼び止めようと有人が手を伸ばした時、彼女は気配を察したのか横顔だけ振り返る。

呼びかけようとした。でも声は出ない。せめて表情で「待って」と必死に伝えたつもりだった。


しかし―


―・・・待ちません♪


そう言いたげに横目で悪戯に微笑む。ひょっとしたら彼女は彼女の言う「あの子」の姿をせめて別れ際くらい、その「名残」、または「残滓」の様な物を有人に見せるため、必死に彼女なりに象ったのかもしれない。
・・残念ながらお世辞にも良く出来たとは言い難い笑顔だった。彼女にも自覚が在ったのだろう。すぐに誤魔化すように恥ずかしそうに笑い、そのまま再び絢辻は前を向き、今度こそ二度と有人に振り返る事は無かった。




起きていた時間はほんの数時間、確実に有人の人生の中で一番短い一日だった。
一方で永遠の如く長く重い一日が終わりを告げる。

しかし瞼を閉じても尚、残る彼女の感触がいつまでも有人の掌に残っていた。




決して温かい涙に濡れる事のない―






冷たい頬のままで。


















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ルートT 二十六章 涙をとどけて





・・この胸の中。


温めている物はなぁに?


温めた物はなぁに?



温めた人は・・だぁれ?




私を見つけた人は・・・だぁれ?





全てが素敵な事だった。幸せだった。





そしてその人が今も目の前に居る。傍に在る。







―君は・・・



「あの時」のままだね。







いつものように、あの時のように微笑んで・・彼はそう言った。


彼も変わらない。・・「あの時」からずっと。






誰もが恋に落ちるでしょう。



貴方の微笑みに。









 

 

 

26 涙をとどけて

 

 

 

 

 

 

 

「・・・大体十年ぶりくらいかな」

 

 

 

 

 

―あれからどれぐらいの季節が流れただろう。高校を卒業し、大学を経て、就職。俺は望み通り大人になり、家族のもとを、そして吉備東から離れて上京。忙しい日々を送っていた。

 

 

・・・あの子とはあの日以来顔を合わしてもいない。

 

 

元より会わす顔も無い。それを俺が気にすることを彼女も知っていたのだろう。

あのクリスマスが二十六日に変わる直前のあの日以来―彼女が最後に微笑んで病室を後にした後ろ姿が瞳に焼きついたまま、俺の人生から彼女は跡形もなく消えた。

 

その年が明け、新学期に入って彼女は何の挨拶もせず、吉備東高校からも姿を消していた。突然の絢辻の転校に当然2-A初めとする周囲は一瞬ざわついたが、今年高校三年生という人生の転換期に訪れた一つの「些細な出来事」としてすぐに彼らの記憶から薄れ、彼等は日常に戻っていく。まるで彼女等居なかったかのように。

 

当然、俺だけはすぐにそんな風には割り切れず、彼女の姉の縁さんが住むマンションに俺は未練がましくちょこちょこ顔を出したりした。縁さんは相も変わらずウルと戯れていたが、それを呆れ顔で眺め、微笑みかけるあの子の姿は俺が高校を卒業するまで終ぞ見る事は無かった。

春になろうとも、暑い夏を迎えようとも、秋を経て・・また冬を迎えようとも。あの美しい長い黒髪を河川敷に吹く四季折々の風に揺らされ、微笑む彼女の姿は俺の人生からまるで風景画の中からぽっかりと一部分切り取られた様に消えた。

 

考えてみると「あの子」を最後に見た、最後に言葉を交わした場所はここだった。

病室で最後に言葉を交わしたあの子は最後まで自分の事を他人事のように「あの子」と言い続けた。それに何の言葉もかけてやれないまま俺はただ黙り、底冷えする病室で更に冷たい指先で彼女の頬に触れることしかできなかった。自分が泣く事も、嘆く事も許されない、ただ謝る事しか出来ない。

 

いや、他でもない自分を守るために俺はひたすら何も出来なかったのだ。ただ自分を守るために、自分を許す為に謝っていただけだ。あの日から・・・ずっと。

 

 

 

 

「―なもと・・源?みなもっち~~~!?お~~~い!?」

 

 

 

 

「・・!あ・・・」

 

「なーにしてんだよ!久しぶりに会ったってのに・・さては酒が足りてねぇな?ほり、飲め飲め」

 

「あ、御免。ありがとう梅原」

 

有人はおとと、と、なみなみ注がれたグラスのビールを少し吸って、ぐっといけや♪的に微笑む梅原の顔に応えて彼も笑う。

 

 

―・・・俺は約十年ぶりにここ吉備東、故郷に帰って来た。大学、そして就職先の関係で吉備東を離れて以来、俺はここに戻ってきていなかった。

 

かつての吉備東高の同級生、友人達との交流はそれ以降も続いていたが流石にこの歳になるとお互い頻繁に会う事は困難だ。今回の同窓会を主催した梅原の様に要領よく全員の連絡先、各々の予定を把握したうえで日程を合わせ、奇跡とも思えるほどの日時、都合の良い宴会の場所を選定して今日この日の様に高校の同窓会を開きでもしない限り、まず会う事の出来ないメンツも居た。梅原の知り合いが経営しているという飾らない雰囲気の居酒屋で懐かしそうに騒ぎ合う彼らをやや大人びた微笑みで見回しつつ、有人はにんまりと笑う。

 

「・・皆、案外変わりなさそうだね。元気そうで良かった」

 

「いや~?そうでも無いぜ。御崎の奴は今度なんと・・三人目だそうだ」

 

「太一君が!?え・・?確かついこの前・・二人目の出産祝いを贈ったと思うんだけど・・」

 

「また出来たんだよ・・。予定日は来年の三月・・予定通りなら『年子』だそうだ。あいつ・・この手で俺達を破産させる気なんじゃねぇか?畜生・・ギャクタマ野郎め・・羨ましい。・・あの美人の巨乳奥さんとの間に次々と・・」

 

本当に御崎を殺しかねない嫉妬の塊の如くの梅原をどうどうと有人は宥めつつ話題を切り替えようとする。

 

「ま、まぁめでたい事じゃん。で、で、他のメンツは、と・・。あ・・・!やっぱり『あの二人』は一緒か・・」

 

「・・。おぉ棚町と国枝か」

 

「・・。やっぱり?」

 

「あれこそ・・松ぼっくりに火が付いたっての?」

 

「・・『焼けぼっくい』ね」

 

 

飲み屋のバーカウンター。そこにはかつて、いつも付かず離れずの悪友同士がまるで話題等尽きる事が考えられない程楽しそうに会話している。そんなかつてと変わらぬ二人の姿を眺めつつも有人、梅原のやや憂いの籠った二人の表情が晴れない。

 

 

―・・・高校卒業後―大学二回生の時に直衛、棚町さんの二人は別れていた。

 

・・・志望大学にめでたく現役合格した直衛は俺と同様、高校卒業後すぐに吉備東を出た。棚町さんも推薦された美大へ進学。お互いに新しい出会いも行動範囲も飛躍的に増える。しかしそれとは反比例に二人の会える時間は減っていった。

そんな時間が約一年半続いた頃、ほぼ同じタイミングでお互い別れを切り出したらしい。

二人が別れたその日に飲み屋に呼び出され、珍しく荒れ、嘆き、眠りこける直衛の介抱をしたのが他でも無い俺なのだ。何が在ったかは良く解っている。

 

お互い未練が無いはずが無い。確かにお互いの境遇は異なるし、元々二人共全く正反対の性格の二人だ。衝突はいい意味でも悪い意味でも多い二人だった。しかし一方で真逆だからこそまるで磁石みたいに惹かれあい、晴れて高二の冬にようやく一緒になった二人すら引き離してしまうほどやはり距離、会えない時間、そして各々の新たな場所での出会いというのは大きいものなのだろうと酔いつぶれ、眠りこける直衛の隣に頬杖ついて座りながら俺は解釈した。

 

でも、やはり二人の縁は切れてはいなかったらしい。

数年前、高二のクラスのささやかなメンツであの二人が再会した時、明らかにあの二人だけ近寄れない絶対領域なものが敷かれていたのを他の友人誰ひとり例外なく感じ取っていた。

 

そして直衛の左手の薬指に光る輪を棚町さんが心底気にしていた事も。

 

直衛は既にその時棚町さん以外の女性と結婚していた。

それを知りながら直衛の前で笑う棚町さんの笑顔が何ともいたたまれなかった事を覚えている。

 

 

「・・・。ん~~~もうよそうぜ?・・こんな席で話す事でもねぇ」

 

「・・そうだね。ほら梅原こそグラス空いてんじゃん」

 

「お、すまねぇな。へへ」

 

―・・・。

 

それでもいつもと変わらない、あの頃から変わらない梅原の姿が俺の心を本当に和ませる。

今もこの町に住み、この町で働き、時々帰っては会いに来る俺達を隔てなく、壁無く迎えてくれる。こういう奴こそ本当に凄い奴だと俺は思う。

 

 

「さてと・・うーん。やっぱり無理だったのかねぇ」

 

梅原の同業者の友人が経営するという貸し切りの飲み屋をぐるりと見渡して梅原はおおげさに溜息をついた。わいわいと騒ぐかつての学友達を嬉しく思いながらもどこか心残りそうに。

 

「・・?何の話?」

 

「・・・俺の情報網を使ってどうにか、ようやく先日コンタクトは採れたんだが・・あ~いやワリぃな、こっちの話!気にするねぇみなもっち!!」

 

「・・?」

 

そんな会話を有人が梅原としていた五分後のことであった、

 

 

「おっ!!!??マジか・・!?・・あ!・・・ととととっと失礼・・みなもっち!?体全体がすべったぁ~!!」

 

 

ざわっ!?

 

 

 

梅原が挙動不審にいきなりそそくさと自分の座っている位置をわざとらしい台詞と共にワザとらしく変え、有人の視界を遮ったかと思うとその梅原の背後で歓声の様などよめきが湧いた。

 

「わ。・・・んんっ?誰か来た?凄い歓声だけど」

 

「いやいや・・その・・な?はは~」

 

「誰?」

 

「まぁ~気にすんなよ?いいからみなもっち・・・今は・・俺だけ見てろ・・」

 

有人に熱っぽく迫る梅原。正直正視に堪えない。恐らくその手の人間でも需要は限りなくゼロに近い迫り方。露骨に有人は表情を強張らせる。

 

「うぇ・・きもい」

 

「ひでぇな・・。そんな照れんなって・・」

 

「・・って!!だから近いよはなれろ!梅原!!・・げ。おい!皆見てる!!」

 

二人に周囲からの視線が集中する。「需要はゼロ」のはずだが、なんで好きこのんでこんな男二人のキモイやり取りを見ているのか有人は不思議で仕方無かった。

だが、その有人の疑問の答えは次に辺りに響いた声ですぐに払拭される事になる。本当の「注目の的」が彼らに接近していたからだ。

 

 

 

 

 

 

「・・・あら。お二人お取り込み中?私・・お邪魔かしら?」

 

 

 

 

 

「・・え?」

 

 

「・・・こんばんは梅原君。この前はお電話有難う。折角お招き頂いたのに遅れちゃって御免なさい」

 

 

 

こんな麗しい、透き通る様な声をこの目の前の気持ち悪いニヤニヤ笑う梅原が出せるのならコイツは寿司屋をやめてオカマバーでも経営した方がいい。

 

「ふふん。今回のサプライズゲスト満を持して御来店~ってな?」

 

得意げに笑う梅原が俺の視線の先をようやく譲る。

 

 

 

「・・・ふふふ」

 

 

 

そこには上に着ていたであろう品のいい茶色いコートを脱ぎ、小脇に抱えて真っ白な首まで包むセーターを着たあの日と同じ髪の長さの、しかし、より大人びて美しくなったあの姿があった。

 

「ぅわ・・・」

 

思わず有人の喉からそんな声が出る。

 

「・・・。ちょっと・・久しぶりに会った女の子に対してその反応はどうかと思うわよ?

 

 

 

 

 

 

・・お久しぶりです。源君。元気そうで何よりです」

 

 

 

間違いなく絢辻 詞であった。高校時代の彼女のイメージそのままに大人の女性になった彼女が顔を傾け、曇りない笑顔で有人に微笑みかける。

初めて出会ったあの春の日の様に一旦有人は目を逸らし、今日はちらりと自分の左手を確認する。すると―

 

「・・お久しぶり。絢辻さん」

 

何時もの調子を取り戻して彼もまた微笑んだ。

 

「・・・。相変わらずねぇ?」

 

絢辻もまたにっこりと微笑み返す。

 

 

 

 

その後―

 

―・・意外すぎる彼女の来訪に気付いたかつてのクラスメイト達がかわるがわる彼女に挨拶しに来た。その誰ひとり欠けること無く彼女は覚えていた。当然だろう。暗記は彼女の得意技だ。・・この記憶力はさぞかし「今の彼女の仕事」を助けていることに違いない。

 

高二の冬、突然居なくなってしまった彼女はあの時のイメージのまま、クラスの一人一人に刻まれていた。彼女が居なくなる直前に起きた不穏な様々な出来事はすっぽりどこか抜けおち、もしくはまるで無かったかのように彼らは彼女を認識していた。そして当の彼女も意識して行っている風ではない。あの頃のように誰彼も分け隔てなく完璧に応対している。

 

自然だった。不自然すぎるほどに。しかしその不自然を認識できる人間は俺一人だけだった。そして・・そんな俺に気付いたのも一人だけだった。

 

周りに不自然に思われない程度に振舞っていたつもりの俺の動揺に気付いていたのは。

 

昔と同じように他全員の目線を一瞬盗んで彼女はそっと俺に近付く。そして耳元でゾくりとするほど程良い薄いピンクの紅を差した唇を震わせて俺にこう囁く。

 

 

 

「・・・なに呆けてんの?もっと自然に振舞いなさいよ。ばれるでしょ」

 

 

 

―・・悪戯そうにそう言った。

 

 

 

 

数時間後―

 

 

 

「・・・ホント久しぶりね」

 

「・・俺はそんな気しないけどね」

 

「ん~そうかもね。私って今ちょっとした有名人だしね」

 

吉備東の繁華街を昔の様に二人して歩いていた。昔と同じように絢辻を一歩先にしてそれに有人は続く。

 

 

帰宅が決定した女性陣を送る役目を有人は願い出た。元々生来酒に強く、おまけに思いもよらないゲストの登場で有人の酔いは随分醒めている。あの絢辻がこの同窓会に参加するなどと有人は露ほども考えてもみなかったからだ。

 

「最近、忙しいの?やっぱり・・」

 

「・・う~ん・・・」

 

絢辻はそう唸って腕を組み、自分の顎に右拳をあて、眉をしかめて目を閉じたのち、パッと目を開いて有人に振り返り、にぱっと子供みたいに笑う。

 

「うん!すっっっっごい忙しい!正直この私のほんのわずかなオフの瞬間を凄腕のスナイパーみたいに見事に射抜いた梅原君には脱帽モノよ。私のスケジュール管理を頼みたいくらいだわ」

 

「寿司屋から有名人の秘書に転職か・・。大出世だね梅原。でもちゃんと正式に引き抜きのオファーは俺を通してね?安くないよ?アイツは」

 

「あら・・仲介人になってくれるの?」

 

「その手の仕事をしているもので」

 

「ふふっ・・残念だけど・・貴方には向いてそうねその仕事」

 

「ははっ」

 

「・・で。源君」

 

「・・・」

 

 

「奥さん・・居るんだね」

 

 

 

 

先程久しぶりに会った絢辻から有人が目を逸らした時、ちらりと向けた視線の先の左手―そこには銀色の指輪が施されていた。

 

先日有人がペアで買っていた婚約指輪だった。

 

「・・まだ籍は入れてないけどね。来年式挙げる予定」

 

「それはそれはおめでとう♪お幸せに♪」

 

「ありがとう」

 

「・・・」

 

「・・・?」

 

「・・ひょっとしてお相手は梅原君?」

 

「・・・」

 

 

 

 

 

 

「もう・・帰るの?」

 

「うん。私を遥かに上回るほど父が忙しいから・・。明日の朝には向こうにとんぼ返りよ。久しぶりにゆっくり吉備東の街並みを眺める事も、懐かしむ事もできそうにないわ」

 

「・・そっか」

 

「・・ありがとうね?源君」

 

「うん?何が?」

 

「率先して送ろうとしてくれて。・・気を遣ってくれたんでしょ?気付かれない様にちらちら時計見てたつもりだったけど」

 

「・・そっちこそこっそり時々携帯いじくってたでしょ。『あぁあんまり時間無いんだな、忙しいんだな』ってすぐに解った」

 

「相変わらずそういう所は目ざといわよね。貴方って」

 

「皆解ってたと思うよ。君は『二次会無理だな』って」

 

「まぁね。でも・・正直何人かの男性陣は私を狙っていたわね。社会人になって経済力もついて・・ちょっと自分に自信が出来た連中が『今ならかつての憧れの女の人を口説けるかも』ってカンジで。まぁ・・『あの高嶺の花』の私ですもんね?仕方のない話とは言え笑ってしまうわ。貴方も気付いてたでしょ?」

 

「・・相変わらずだなぁ」

 

「ん・・・?それじゃあひょっとしたら貴方も?悪い男ね?フィアンセいるくせに」

 

「どうだろ」

 

「・・ふふっ。な~~んて。・・そんなことしないわよね。貴方は」

 

「お互い立場がありますから」

 

「・・あの頃とは違うもんね」

 

「でも・・」

 

有人は歩みを止め、こう言った。

 

 

 

 

 

「君は・・・『あの時』のままだね」

 

 

 

 

 

「・・・」

 

 

有人の一言に急に絢辻はおし黙った。

 

有人には解っていた。その証拠に再会してから有人は一度も彼女の名前を呼んでいない。

 

「最後」に絢辻と言葉を交わしたあの時、あの河川敷で初めて彼女を「つかさ」と読んだ時の様に下の名前で呼ぶことはおろか、今は「絢辻」とすら呼んでいない。

今の彼女は居なくなった「あの子」が作りだした・・「あの子」の真似を・・「あの子」の姿を作りあげて気丈に振舞っているだけに過ぎない―

 

 

「何か」だ。

 

 

空っぽの世界にただ一つポツンと佇んだ欠片の様なもの。

 

それが今の彼女の全て。

 

傍目には自立し、社会的に認められ、容姿も美しく、優秀で誰もが認め、一目置く。かつての学生時代の彼女が望んでいた理想の自分だ。自分で歩き、自分で判断し、自分の道をつき進める自由な「大人」の姿―それを「相も変わらず」演じているのがこの有人の目の前に居る小さな小さな・・

 

 

・・「何か」だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―この胸の中。

 

 

温めているもの物はなぁに?

 

 

温めた物はなぁに?

 

 

温めた物は・・だぁれ?

 

 

私を見つけた人は・・だぁれ?

 

 

 

全てが素敵な事だった。幸せだった。

 

 

 

 

そしてその人が今も目の前に居る。傍に在る。

 

 

 

 

「君は・・・『あの時』のままだね」

 

 

 

 

いつものように、あの時の様に微笑んで・・彼はそう言った。

 

 

彼も変わらない。・・「あの時」からずっと。

 

 

誰もが恋に落ちるでしょう。

 

 

 

貴方の微笑みに。

 

 

 

 

 

 

そう・・。私は変わらない。「あの時」と同じ。

 

今の私は「あの子」が残した、託された遺志に則って気丈に振舞っているだけの―

 

 

・・・「仮面」のまま。

 

 

 

 

 

 

 

「あ~あ。やっぱりダメか・・・」

 

諦めたような口調でしょんぼりと絢辻が苦笑いする。

 

「・・・」

 

「これでも頑張ってきたつもりなんだけどな。やっぱり源君は騙せない、か・・」

 

くるりと踵を返し、とことこ二歩前に出て絢辻はそう言った。

そしてまたくるりと有人に振りかえると同時、攻撃的な口調、視線は和らぎ、あの日の―今度は全てが止まったあの病室での絢辻に戻る。

有人にとって「絢辻」ではない絢辻が。

 

 

誰もが誰よりも先に進んでいると考える、理解する、認識する―そんな有人の目の前の女性は実はあの日17歳の冬から一歩も前に進んでなどいなかった。そして有人と再会した今この時も彼女の時は動こうとしていない。

 

しかし。

 

「彼女の中の時」は止まろうとも時間は進んでいる。巻き込まれている。そう。実際には時間は過ぎているのだ。彼女の時が止まろうとも時は待たない。彼女の人生は続いていく。

 

その中で「あの子」を失った絢辻はひとり闘い続けていたのだ。人生の中で最も心強い、誰よりも自分自身の味方であってくれるはずの自分の一部ないし大部分を見失ったまま彼女は目の前に敷かれた苛烈なレール、競争社会の中を生きた。

 

その苦悩が、その苦痛がどれほどであったか有人には想像もつかない。

 

 

しかし、一方で確実に解る事はある。そのことが有人自身にどれほどの恐怖、そして罪悪感を与えるかはうかがい知れる。

 

 

・・その上で。

 

 

恥を承知で有人は今の絢辻にこう言ってもらいたいのだ。楽になりたいいのだ。例えうわべだけの言葉だけでもいい。

 

 

「貴方のせいではない」

 

 

「貴方には何の責任もない」

 

 

と。

 

「あの日」と同じように彼女にはもっとも自分が傷つかないようにしてほしいのだ。振舞ってほしいのだ。そして―

 

 

 

・・居なくなって欲しいのだ。自分の人生から。

 

 

 

誰よりも何よりも自身を守るために。自身が犯した罪、罪悪感から目を背ける為に。

 

 

 

 

しかし・・

 

年月は残酷だった。確かに当初、絢辻はそう思っていたのかもしれない。そもそもあの日の状況を考えれば有人を過剰に責める事はあまりにも酷だ。しかし反面、彼女はそれをきっかけに自分を見失い、それによって生じる欠損により、更に生ずる不便、不都合、理不尽の矢面にさらされた事実がある。

 

悲しむこと、憤る事を禁止され、ひたすら他者との中で生き抜くために培った他者にとって都合のいい「仮面」の自分を表現し続けるしかない。苦痛の積み重ねをするしかない人生―考えるだけで怖気が走る。

 

そのやり場の無いものを誰にぶつけることが出来るのか?それは唯一にして絢辻がその状況に陥ったことを知る人物。同時きっかけを作った人物。

 

かつての「あの子」を知っている目の前の源 有人しかいないのだ。

 

それでも今の絢辻は「それ」をも止めようとする。耐えようとする。有人の望む言葉を吐こうとする。それが「あの子」に作られた今の絢辻の謂わば「機能」だからだ。そして残された、託された「あの子」の「願い」、「遺志」だからだ。

 

 

しかし・・もう限界だった。その残された絢辻すら今―

 

 

壊れた。

 

 

絢辻の中でぱぁんと何かが壊れ、砕け落ちる音を有人は確かに聞いた。

何の音なのか?・・言うまでもない。

 

 

 

 

「仮面」が粉々に砕け落ちた音だ。

 

 

 

 

 

直後・・絢辻が語り始める。まるで酸素を求め、口をパクパクさせる水槽の金魚みたいに。

 

 

 

「・・源君・・?」

 

 

 

 

「私は・・何度も殺してきました。私という存在を何度も殺してきました。色んな人に出会って・・色んな場所に行って新しく芽吹きそうな、新しく生まれそうな自分を・・何度も何度も・・殺してきました。父がそれを望まなかった事もあります。けど・・そもそも私にそんな『機能』が無かったと言うのが正直なところです。新しい自分に気付いてそれを育てていくこと・・それこそ貴方に出会って変わっていった『あの子』の様になれればと何度も思いました。でも、・・出来ませんでした。私・・。私・・。・・その・・・一体、一体どうすればいいんでしょうか?」

 

まるで糸の切れた人形みたいにだらりと上体と視線が危うくぶれる。しかし機械的に今の絢辻はただ言葉を発する。生気の宿らない、しかし隠しきれない怨嗟の呪言の如くの言葉を。

 

「源君・・・私には・・『あの子』が必要だったんです。貴方にとっての『あの子』以上に。遥かに。ずっと」

 

病的に乱れた前髪の奥に虚ろで最早光の宿らない「空洞」と化していく絢辻の真っ黒な瞳が有人の恐怖の頂点を超えさせる。

 

 

「・・はっ!・・・!はぁっ・・!」

 

 

過呼吸に陥りそうなほど空気が薄く、重い。呼吸すらままならない。意識が飛びそうなほど苦しいのに有人の意識は、そして頭は異常なほどにクリアだ。疎ましいほどに。

 

「返してくれませんか・・・?」

 

もう一度絢辻はロボットみたいに繰り返し愚直にそう呟く。口調、表情、生気、最早全てにおいて感情はこもっていない。電池の切れかけのおもちゃが電池切れを示す直前の赤い赤い点滅ランプを灯すのと大差はない。

 

 

「お願い・・・返して・・・・『私』を・・『あの子』を・・」

 

 

―返して。

 

 

ふらふらとおぼつかない足取りで「絢辻の様なモノ」は有人に迫る。そんな抜けがらの彼女にかける言葉も何も見当たらない。ずるずると後ずさりしながら真っ暗な絶望の底を今有人は漂っていた。

 

 

「う・・うあ・・」

 

 

目を逸らすように頭を抱え、恐怖に満ちた瞳を有人はぐるぐると回転させる。

 

 

 

 

 

―許して。許して。

 

 

 

誰か。

 

だれか。

 

助けて。

 

お願いだ。

 

 

直。梅原。太一君。広大。棚町さん。田中さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

・・絢辻さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

―・・・来い

 

―・・?

 

―おい!

 

―・・・・?

 

 

 

 

―こっちだ!有人!!

 

 

 

 

 

 

有人は「彼ら」にこの日ほど感謝した日は無い。

 

 

 

「彼ら」が来なければ、居なければ・・「これ」はまさしく「現実」として繋がって行った気がする。ぽっかりと未来の道の先に落とし穴の様な大きな穴が開いていることを知りながら、気付きながらもそれに向かってただ漫然とゆっくりと歩いていく自分の歩みを。

ただこの「悪夢」に繋がっていく一本道を。悪夢の様な冷めない現実が訪れるまでの道をただなぞって行くだけの人生を送ってしまう所だった。

 

 

 

 

「・・・!おい!起きろ!!有人!!!」

 

 

 

 

 

「大将!!」

 

 

 

 

「・・・えっ・・・?」

 

 

 

明るい病室。ベッドに縛られた自分の姿。窓の外は昨夜積もった雪が日光を反射させ、白く照らし出された病室には何時もと変わらない友の姿があった。長い髪から覗く強い目の力を持つ幼いころからの親友。そしてひょうきんで澄んだ優しい目をした親友の二人の姿を映す。

 

悪夢の中の彼らの様にまだスレていない。未来にまだどこか希望、期待を持っている幼い高校二年生のままの二人だ。

 

「・・大丈夫か?有人・・?」

 

「びっくりしたぜ・・」

 

 

「な・お・・梅、原・・・」

 

 

有人は茫然と二人の友の名を呼ぶ。掻き消えそうな声で。しかしそのか弱い声の下から何かこみ上げる様な力強い何かが湧きだしてくる。今、目の前に居てくれる形ある有り難い存在達に包まれた安堵によって有人は導かれる。ここ数年有人が感じる事が無かった、人によっては「弱さの象徴」と断罪する「それ」を。有人が彼の人生を歩む上で意識的に自重し、閉ざしてきた「それ」を―

 

 

今、どうしても堪えることが出来なかった。

 

 

 

 

「・・・!?有人・・・!」

 

 

「おい・・大将・・どした?」

 

 

 

 

 

「う・・っくっ・・・くぃっ・・・うぅぐっ・・・・」

 

 

 

 

有人は泣いた。

 

 

 

―・・温かい。

 

 

まだ「こんな物」が俺の中にあったのか。昨夜の出来事、そして今の悪夢。その中では決して生まれる事の無い温かみ。昨夜のあの子にも、悪夢の中のあの子にも決して生まれる事の無かった物。

 

溜まっていく。

 

こめかみを伝って、久しぶりにかけたメガネのレンズの上へ。

 

一粒、また一粒。

 

 

 

この一つ一つを失った「あの子」に。また許されない今のあの子に。

 

一粒でいい。

 

とどけてくれ。

 

 

 

涙を

 

 

とどけて。

 

 

 

 

 

 

 












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ルートT 二十七章 お前次第だろ








 

 

 

 

27 お前次第だろ

 

 

 

 

 

 

友人二人にただ淡々と有人の口は吐き出していく。

今まであった出来事全てを出しきり、窪んだ痛々しいほどの眼窩だけでは飽き足らず、口に、喉に、そしてその先にある胸に溜まった、抱えた物を惜しげもなく吐きだしていく。

 

そしていずれ空っぽになった。

 

「・・・」

 

全てを出し切り、空っぽになって病室のベッドの上で力無く天井を見上げている有人を国枝、梅原の友人二人は無言で、しかし驚きと逡巡、戸惑いを隠せないながらも見ていた。

頭の包帯、顔の傷を隠すガーゼ、足の骨折とただでさえ痛々しい有人の姿―空っぽになった消え入りそうな友人の姿にかける最初の言葉を必死で探しながら沈黙を保っていた二人の内一人である―

 

 

「・・・・。成程。大体解った」

 

 

国枝 直衛がようやくこう呟く。

 

「え。マジで・・」

 

もう一人梅原 正吉は「信じらんね」、「お前すげぇ」、というやや尊敬の表情で瞳を輝かせ眩しそうに国枝を見る。すると国枝は「むっ・・」と口を閉ざし、居心地悪そうにして―

 

「・・。すまん。ちょっと強がった」

 

と、面目なさそうに言った。

 

「な、なんでぇ」

 

安心した様な、がっかりした様な複雑な表情でずるりと梅原はずっこける。

 

 

「で、まぁ話戻すけどよぉ・・絢辻さんがその・・『居なくなってた』って?いやでも大将・・お前・・実際昨日会ってたんだよな・・?」

 

「・・そうだよ。でも『俺の知っている絢辻さん』は居なくなってた」

 

「ん~~そこなんだよ・・解んねぇのは」

 

「ま。そうなるよね・・」

 

梅原が首を傾げる。同時有人もこの事実を全くの事情に通じていない第三者に一から説明する事の難儀さにもどかしそうに下唇を噛みしめていた。しかし―

 

「・・要するに有人・・『お前だけが知っている絢辻さんが居た』ってことだよな?」

 

国枝は思いのほか理解が早かった。

 

「・・うん」

 

 

 

 

 

「・・あれ?ひょっとして二人共気が付いてなかった・・?」

 

合点がいかず、尚黙る二人に対し、不思議そうに有人は涙で赤黒く変色し、窪んだ瞳を見開いた。

 

「・・・」

 

「・・・」

 

有人のその質問にしばらく国枝と梅原はお互い無言で顔を見合わせた後、再び有人に向き直る。しかし国枝は硬い表情で無言のまま。梅原は両手の平を空に向け、首を振る。

 

「ええっ・・?二人共見たでしょ?ほら・・教室で創設祭が生徒主導どうのこうので他の子と絢辻さん揉めていた時あったじゃん?あの時・・」

 

「あああったな。覚えてる。確か・・田口と磯前あたりが絢辻さんキレさせてぼっこぼっこにされたやつだっけ・・」

 

「そう!『あれ』がそうだよ。・・二人共あの場に居たよね?アレが俺の知ってる、で、・・俺の言う『居なくなった絢辻さん』だよ。・・え?・・ほ、ほんとに気が付いてなかったの二人共?あんなに・・」

 

国枝、梅原はお互いに顔をまた見合わせ、お互いの変わらない意思を確認し合うように頷き、再び有人を見た。

 

「・・。確かに『何時もの絢辻さん』とは違ってたってのは確かだけどよ・・あん時は状況が状況だったしなぁ・・」

 

まず口を開いた梅原が合点がいかない表情のまま腕を組み、そして次にぽりぽり頭を掻く。それに国枝も同調し―

 

「・・。あんだけある事ない事言いたい放題言われたら、いくら絢辻さんだって怒るだろ・・って程度の認識だったな。恐らく一緒に見てた薫あたりもそんな感じだと思うぜ。・・ある意味自然に見えたってのが俺の意見だ」

 

彼もまた首を振ってそう言った。

国枝は元々根は熱い所が在る為、あの絢辻の突然の激昂を意外に淡々と受け入れていたようだ。

 

そんな友人二人との認識のずれを前に有人はぱちくり目を瞬かせるしかなかった。

 

「じゃ、じゃあ?二人・・っていうか皆それじゃあ・・」

 

「・・そういうこと。正直有人・・お前の『認識』とは程遠い、な」

 

「・・だな。事実あれ以降あそこまで感情的になった絢辻さん見た訳じゃねっしさ?俺達。その後の行動といい、雰囲気といい・・少なくとも俺には・・いや、俺らには普通に見えてたぜ?」

 

国枝に同調した梅原の言う「その後の絢辻の行動」―創設祭の為の献身的な行動、理不尽とも言うべき実行委員長解任の受け入れ、それでも普段と相変わらずの模範的振舞い、更には全国模試の上位に入る程の優秀な学業成績―

 

あれ程の出来事の後、そして逆境の中でも絢辻は変わらなかった。それ故周りの人間にとってはあの時激昂した絢辻の行動、言動は一時の感情に身を任せた「在る程度理解が出来る」乱心程度に留まり、そこで止まっていたのだ。

 

あれこそが絢辻の「本性」であるのだ、という考えに結び付けた人間ぐらいは中には居るかもしれない。しかしそこで皆思考を止めていたのだ。

まさに「事無かれ」、「触らぬ神に祟りなし」、「喋ったら村八分」―この状況の事をかつてココに居る三人にポーカー勝負中にそう語っていた棚町 薫の言葉は言い得て妙である。

「何かの間違い」、「突発的事故」、「想定外」。それだけのこと。流行り言葉でくくれればOK。言い表す言葉の概念があれば十分。安心。「あの後の絢辻は見ての通り何時も通りだ。それでいいじゃないか。・・まぁ、だけど、とりあえず、何となく、彼女からは距離を開けておこう。ほとぼり冷めるまで」―そんな感情。それは有人の友人達すらも同様であったらしい。

 

 

つまり終始ぶれなかったのだ。絢辻は。誰の前ですら。

 

 

ぶれていたのは・・全て有人の前でだけ。笑い、泣き、怒り、憂い、悲しみ、慈しみ、照れる。・・何処にでもいるただ一人の女の子として。

 

 

「お前だけが知っている絢辻さん・・それが本当の絢辻さんだったんだな?」

 

「・・・」

 

有人は無言になる。国枝は肯定と受け取った。まだまだ納得いかない、解らない事が多すぎるにせよ有人のその無言の姿を見て梅原もまた結論が出たと判断する。

 

「・・・。まぁ女の子には『建前と本音、裏と表』があるって言うのはなんとな~く解ってるつもりだったけどここまで行くと俄かに信じがてぇ話だな・・」

 

「・・。ま、本音や建前はどうかとして今の一連の話を聞いて一つ言える事がある。解ったことがある」

 

そう言って国枝はずりりと有人のベッドに向かって自分の座イスを近付け、何時になく悪戯な瞳で塞ぎこむ有人の顔を覗きこむように見ていた。

 

―・・国枝・・?

 

梅原は少し驚いた。なぜならまるでいじめっ子が格好の虐め甲斐のある相手を見つけた時の様な瞳をしていたからだ。・・あの国枝が。

 

「・・・」

 

「・・有人。お前は絢辻さん。いや、『お前だけが知る絢辻さん』にとって『特別』だった。でも・・お前は何時もと変わらず同じ『源 有人』だった訳か」

 

「・・・」

 

「は?国枝・・?お、おい、何の話だよ?」

 

何時もと全く以て雰囲気の異なる国枝を梅原は本能的に止めようとした。明らかに精神的、肉体的にも憔悴しきっている相手に浮かべていい表情ではないと梅原の中の何かが警鐘を鳴らしている。しかし国枝は止めない。尚も言葉を続ける。

 

「・・優しく聞きわけのいい、でも変なトコ頑固者。誰かれ構わずわけ隔てなく接し、同時・・・何時ものように誰とも本当には向かい合わないお前だった訳か」

 

「!?国枝・・?おい?」

 

「おいおい誰の話だよ、ってぇか何の話だよ」と言いたげに梅原は有人、国枝の双方をまるで行儀よく小学生が横断の際、信号を左右しっかり見てから渡る時みたいに見る。

そうでもしないと全く見当外れのまま、この二人の会話の中を「横断」し、敢え無く撥ね飛ばされてしまいそうな気がしたからだ。

 

しかし、当の二人は梅原のそんな涙ぐましい心境をよそに既にその話を双方理解し、「会話」として成立しているようだった。

眉を歪めたまま俯く有人を国枝は真っ直ぐと見下ろしていた。そして一つ溜息をついてこう切り出す。

 

「・・別に俺はそれでも構わなかった。長年お前と一緒に居て馴れてたしな。お前がニコニコへらへらしながら壁作って、他人と距離を離してんのをずっと見て来たから。・・とことん付き合ってやろうと言う覚悟も余裕もあった。けど絢辻さんには・・彼女にはそれは出来なかった。・・何故か?単純だ。俺ほど時間が無かったからだ。来年には親の言いつけでここを去らなくちゃならない。・・つまりお前と離れなくちゃならない」

 

「・・・」

 

「それまでに何とかしなければならない。焦ったろうな?彼女。でも逆に言いだすのも怖かった。目の前に確実に迫っている別れの現実が怖い。真実を告げるのも怖い。そして何よりも・・」

 

「・・」

 

 

「・・真実を告げた時、お前が恐らく『何の抵抗も無く自分を送り出してしまうだろう』事が怖い」

 

 

「・・・」

 

「お前・・止めないだろ?お前が頑固や意固地になるのは相手が本当に非を犯していると判断した時、それを諌めようとする時だけだ。絢辻さんには解ってたんだろう。自分が居なくなる事、それを言葉に出した時・・お前が何時ものように笑って

 

『そっか。残念だけどまた会おうね。元気で・・』

 

・・とか、なんとか言う所が。・・決して引き留めてくれないってことをな」

 

「・・・」

 

「お前は昔から誰にも何も強要はしないよな?受け入れて・・何かを無くしたり、離れていくことにも抵抗しなかった。来る物拒まず、去る物追わず・・それが楽だからだよな。なぁ有人?」

 

「・・・」

 

「多分・・絢辻さんは創設祭の夜に全て伝えるつもりだったんだろうな。けどお前は運悪くこの有様。不可抗力とは言え絢辻さんは・・その・・お前が言う『そういう状態』・・?ってやつになってしまった」

 

「・・・」

 

「・・わかってんだろ?今回の件、確かにお前にとって不運な事は多かった。傍から見れば誰もお前を責めないだろう。むしろお前が責められる謂われはない」

 

「・・・」

 

「でも・・俺は解ってる。お前がやって来た事が。・・全部な。だから・・俺だけはお前を責める。軽蔑する。今の状況を招いたのは他でも無い自分自身。お前の生き方自身が招いたって事を」

 

国枝はそう言い捨てた。

 

 

「・・何でだろうな?」

 

「・・」

 

「そんなお前の・・何処が良かったんだろうな?絢辻さん」

 

「・・・」

 

 

 

「お前は本当に冷たい奴だよ。有人。昔も今も。ヤな奴だ」

 

 

 

―・・おわ~~。

 

予想だにしない有人に対する国枝の執拗な言葉責めを絶句しながら梅原は見ていた。

 

それでも・・そんな言葉を心身ともに満身創痍の有人に容赦無く投げかけ続ける国枝に悪意も敵意も感じなかった。国枝は何時もの有人に対しての表情とは異なる珍しい呆れた笑顔で有人を見ていた。

 

そして対する有人もその言葉に憤り、反論する事も何時もの誤魔化すような笑顔もせず、ただ口の端を僅かに緩めて聞いていた。

何故かこの二人が今まで以上に親友同士らしく見えたのが梅原には少し羨ましく、そして同時蚊帳の外である自分が悔しかった。

 

 

「・・・はははっ」

 

 

突如有人が笑った。そして片膝を抱え、目を隠すようにして恥ずかしそうに泣き笑う。

 

「そこまで・・言う事ないじゃないかぁ・・直」

 

泣き笑ったままの口調で親友のキツイ詰問に有人は口を尖らせながら不満げに、且つ恨めしそうに国枝を睨む。そんな見た事もない有人の姿に梅原は少し気圧されたようになるが国枝は微動だにしない。表情も淡々としたままであった。ただ満足げに僅かに微笑んで

 

「・・言われなきゃわかんないだろ。お前は」

 

尚も溜息をつきつつそう言い捨てる。

 

「・・あはっ・・そうかも」

 

「・・で。『こっから先』・・・お前はどうしたい?」

 

「・・・」

 

「彼女はお前を見てくれた。俺が十年以上かかったお前の本当の姿をお前と出会って一年足らずで見抜いちまったんだぞ。・・たいしたもんだぜ」

 

「・・・」

 

「お前は実際昨日『その』絢辻さんと会った。昨日はいつもの通り、予定通りお前は逃げた」

 

「・・」

 

「どうする?このままでいいのか?・・何時もの様にまだ逃げるか?逃げ続けるか?」

 

「まだ間に合うのかな・・?」

 

 

「・・お前次第だろ」

 

 

簡単に国枝はそう言い放った。言外にこう言い含ませる笑顔で。「遅くなんかない」、と。

その言葉に有人は内心強く頷く。

 

 

―・・うん。ありがとう。直衛。

 

そう。遅くなんかない。取り戻すよ。

 

 

 

・・「あの子」を。

 

 

 

 

「ううう。お~い。俺を置いてくんじゃねぇよ~」

 

梅原は違う意味で泣きそうだった。

 

 

 

国枝は思う。そして思い出す。

 

―そんな簡単な気持ちじゃないの。

 

図書室で絢辻と有人の話をした時―そう言い放ったあの日の絢辻を国枝は思い出す。あの日から全てを解った上で彼女は今日この日まで来たのだろう。自分の中で既に出ていた結論をなぞるために。

 

でもひょっとしたら有人が引き留めてくれるかも、「行かないで」と言ってくれるかも、「ずっと傍に居て欲しい」と言ってくれるかも―そんなわずかな希望に縋ったのだろう。

しかし「想定外」というものはあるものだ。伝えようとした、そしてせめて足掻こうとした。残された僅かな時間で出来ることを散々模索し、いざ迎えた身を切られる様な思い、同時一日千秋の思いで待った最後の日―創設祭、クリスマス・イヴの日。

例え結果がどうであろうとも、有人とゆっくり最後の時を二人で送ることを心底彼女は楽しみにしていたのだろう。

 

「例え運命が変わらずとも彼との綺麗で、切なくも楽しい思い出だけでも残せるのなら」―と。しかしあの夜、彼女に突き付けられた不運、現実、運命はあまりにも残酷だった。

 

・・有人が来ない。どれだけ待っていても。

 

彼女の中で不安と失望が交錯する中、有人と送る最後の時間を糧に均衡を保っていた彼女の元々壊れかけであった心の堰は徐々に崩れ、ついには決壊。後はひたすら不安と失望が彼女の中で際限なく勝手に浸蝕、膨れ上がり、悲観的な感情が抑えようもなく湧きあがる。それがあたかも真実であるように。

 

しかし―その後に判明する拍子抜けするほどの間抜けな真実は彼女に更に深い絶望を与えた。

 

それは自分の築いてきた「在り方」そのものに対する失望、絶望。

自分が今まで保ってきた、培ってきた自信、誇りが全て空虚に感じる程のものだ。

加えてもう一つ、自分が思った以上に有人を信じきれていなかったことを思い知った。

 

耐えられない程の自分への嫌悪感、失望感、それによって絢辻は壊れてしまった―それが国枝の結論だった。

 

絢辻ほど頭のいい人間が何故にここまで早計、早とちりで、短慮で、視野狭窄とも言える思考に陥ってしまったのか―大抵の絢辻を知る人物は不思議に思うかもしれない。が、

 

―・・解らないことはないような気がする。

 

国枝はそう思う。

 

―そもそもこいつは・・この有人って奴はとことん人を寂しがらせるんだ。笑顔の奥に葛藤と迷いを抱えながら決して自分からそれを他人に打ち明ける事は無い。

 

線を引く。

 

立ち入らせない。

 

踏みこませない。

 

弱みを見せない。

 

それがコイツの生き方だ。

 

大部分の人間はコイツの生き方に納得するだろう。その線が目の前にひかれるのを見ることが出来ない範囲で、その外でコイツを見るからだ。

「そういう生き方をしている」―ということ自体にそもそも気が付かないだろう。

でも・・実際いざその線が引かれた瞬間を感知できる近しい人間にはこれ以上の無い寂しさを与える。

 

国枝は見た。見てきた。「ココからは直は立ち入らなくていいよ・・」と言いたげに何時ものあの笑顔でそう訴えてくる有人を。

 

―・・俺はそれでいい。と、思ってきた。

 

いずれ俺がそこから引きずり出してやる、その笑顔の仮面、俺が引っぺがしてやる、とも思ってきた。しかし残念ながら・・俺は無能だった。思った以上に。

一向に引きはがせない、歪みもしないコイツの笑顔に俺のやってきたことは間違いだったと気付いたのはつい最近だ。正直な話、今もどうしたらいいのか解らない。そして理解するための余裕も昨今無くなっていた。

 

元々無能な俺だ。年月が経つごとに右肩上がりのタスク、そして有人以外の・・・支えてやりたい、傍に居てやりたいと思う人間も出来た。その全てを器用にこなす事など俺なんかに出来るわけがない。

 

でも。

 

そんな時に最高のタイミングでコイツの前に現れてくれたのが・・彼女だった。

 

絢辻 詞。

 

俺とはとことん正反対。優秀で知的で大人で器用で・・そして何と言っても俺にとってほっとけない幼馴染を本当に受け止めようとしてくれた初めての女の子だ。

「もう大丈夫。俺なんかいなくても」―そう思っていた。しかし、その彼女は今確実に有人の前から去ろうとしている。居なくなろうとしている。

 

・・困る。困るよそれ。

 

今目の前に居る有人をここまで素に立ち返らせた君が今更居なくなるなんて。

俺には出来なかった事をあっさりやった君。コイツの隠し持った本質を知った上でも「簡単な気持ちじゃない」とまで言ってくれた君。

 

・・ホント不思議な女の子だ。マジでどこがいいの?こんな奴。

 

そんな君が今更・・ホント、困る。

 

・・そんな勝手な俺の想いの裏で冷静な俺がこう指摘する。

 

―誤解するな。ただの一人の女の子だよ。お前よりも小さく、力も弱い。

しかし、そんな小さな少女が抱えた物はお前の比じゃなかった。背負っていたものもお前の比じゃなかった。

おまけに時間制限付き。それでもお前には出来ない所まで辿りついた。

それを見て・・お前は見ているだけか?傍観しているだけか?どうするんだ国枝 直衛?

 

 

―・・。でもさ?・・俺なんかに出来ることなんてあるのかな?無能な俺に?

 

 

―・・お前次第だろ。

 

 

 

「・・直」

 

「・・・!ん?」

 

「梅原」

 

「・・おう」

 

「俺・・このザマだからさ・・」

 

有人は自分の痛々しい体を一瞥したのち、改めて国枝、そして梅原に苦々しそうに言った。

 

「だから・・お願い。手を貸してくれないかな」

 

「おう!!当然でぃ!」

 

梅原は全くの逡巡なく、にやりと笑ってそう言った。その何時もと変わらない友人を見てほんの少し有人は微笑み、今度は国枝を見る。

 

「直衛も・・頼むよ。力を貸して」

 

「・・・」

 

国枝は黙る。しかし、迷っているワケじゃない。そもそも答えなんて決まっていた。

 

 

―ああ。俺はこう言って貰う為に・・お前の友達になったのかもな。

 

 

ただ国枝は嬉しかった。自分の中で勝手に救世主の様に扱った小さな女の子を救う為に。そしてこれからも目の前の危なっかしい、大嫌いな親友の傍に居てもらう為にただ漠然とこう聞いた。

 

 

「・・何をすればいい?」

 

 

単純だが信頼する友人に言ってもらえたらこれ以上なく嬉しい言葉だ。有人は心の底から微笑み、次に強い眼差しを以て国枝を見据えてこう言った。

 

 

「・・・俺をもう一度絢辻さんに会わせて欲しい。ここに連れて来てくれるだけでいいんだ」

 

 

「了解・・協力者は多い方がいいわな」

 

 

国枝は梅原をちらりと見る。既に梅原は自分のメモ帳を取りだして悪戯そうにニッカリ笑っていた。「よ~~やく俺の出番だな」と言いたげに。

 

 

 

 

 

 

 

遅くなんかない。全ては。

 

 

 

 

 

 

俺達次第だろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

















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ルートS 終章 Roots ~元凶~ 1



















 

 

 

 

 

 

 

 

終章 Roots ~元凶~ 1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クリスマスイブ一週間前の日曜日、棚町 薫の働いているファミリーレストランJORSTERにて行われた中多 紗江主催のクリスマス前パーティーにて―

 

―よかった・・紗江ちゃん楽しそう。

 

露出多めの短期バイトで貰ったサンタクロース衣装を着、現在少々目に毒なレベルの少女―中多 紗江に自分の着ていたジャケットをあてがった少年―御崎 太一は向こうの席で彼女のクラスメイトの友人―七咲 逢、そして今回の件で彼女を色々お世話してくれた桜井 梨穂子、棚町、田中 恵子に伊藤 香苗など先輩女性メンツに囲まれ、談笑している中多の姿をニコニコ満足そうに見ていた。

 

そんな彼の視線の先に気付いたのか「えへん」という咳払いが響いたと同時にすっくと太一の背筋は伸び、やや緊張した面持ちに変わる。

何せ現在、太一の向かいの席で対面しているのは「娘溺愛歴=娘の年齢」の筋金入り、生粋の娘大好きパパ―中多父であるからだ。

 

「・・・。言いたい事は色々とあるのだが・・」

 

何とも複雑そうな表情で、わなわなと自分の中にある形容しがたい「何か」と必死に葛藤しつつもようやく抑えこんでいる事が丸解りな中多父がそう前置き、

 

「・・ありがとう太一君。あんなに他の子達と楽しそうにしている娘を見るのは初めてだ。・・君のご学友達にもこの感謝の意を伝えてほしい」

 

意外な言葉で太一を労ってくれた。そんな夫を満足そうに彼の隣に居る夫人―中多 紗希は眺めながら

 

「あら。貴方よく言えました♪てっきり私は太一君を・・」

 

「え」

 

「・・紗希!余計な事は言わんでいい!!」

 

「おっと・・これはこれは失礼致しました~♪」

 

「・・・」

 

―僕をどうする気だったんだろう・・。

 

そんな言葉を飲み込んで太一は引きつった笑顔で二人に向かって取りあえず笑う。

 

 

「・・。本当に君のご学友はいい子が多いようだな」

 

宴も一時間を過ぎる。すると中多父も娘の心から楽しげな姿を見ているうちに随分と受け入れ態勢が整ってきたようだ。

特に女性陣に関しては七咲、桜井、そして田中 恵子、伊藤 かなえと端的に言うと性格も見た目も非常に学生として「弁えた」雰囲気を持っている少女達であり、その中では比較的目立つ容姿のここの店員である棚町もここに居る中多夫妻に対するプロッフェショナルな接客態度、気遣い、手際の良さから根は非常に真面目で誠実な少女であることが容易に伺えたため、

 

「この前君が言ったとおり・・娘は新しい環境で友人に本当に恵まれたようだ。本当に良かった」

 

優しい目をして彼女達のやり取りを見つつ、心底安心したようにそう言った。

 

「そうですわね。どの子にしようか迷ってしまうぐらいですわ♪」

 

そんな夫を前にしても相変わらずマイペースな中多母が茶々を入れる。

 

「・・・」

 

―・・ど、『どの子にしよう』?

 

「・・失礼。これの悪い癖でね。可愛い女の子を見るたびにすぐに持ち帰りたくなるそうだ・・適当に聞き流してくれ。この前は家に遊びに来た七咲君と橘君という女の子を帰したくなくて駄々をこねてね・・私も紗江もほとほと困り果てたものだ・・」

 

「ま、まるで犬、猫感覚ですね・・」

 

 

 

「御崎君の男の子のお友達も中々イイ子が多いわね~~?あの子達よね?紗江が『お話のお相手になってくれました』って言っていたのは。・・よかったわ。紗江は昔から本当に男の子に対して免疫が無くていつも怯えていたものだから。これこそ共学の学校に転校させた甲斐があったってものよ♪」

 

「・・まだ解らんがな」

 

上機嫌そうな中多母―紗希のその言葉にやや拗ねたように苦言を呈す中多父。太一の友人である彼らも先程少し話してみると、目の前の太一同様に一人一人が憎めないタイプに見えたのが中多父にはやや不満げらしい。

せめて「・・まぁ一見はな。しかし所詮は男だ。腹の内ではウチの娘に対して何考えているか解らん」的な態度で取り繕いたいようだ。が―

 

「・・ま。君よりは信頼できるかもね。太一君」

 

やはりあくまで中多父にとって最も要警戒なのは太一らしい。

 

「あ、っはは・・」

 

「もう~~紗江の事になるとホ~~ント子供みたいなんですから・・気を悪くしないでね太一君?ま、こう言う所がこの人の可愛い所でもあるんですケド♪」

 

「ふん・・ちょっと失礼・・」

 

やや照れたように立ち上がり、時計を見ながら中多父はすっくと席を立つ。

 

「あら何処へ?」

 

「聞くな」

 

悪戯そうに聞いた妻を窘め、そそくさと去っていく中多父の背を見送りながら紗希と太一は目を見合わせ、クスクスと笑う。

 

 

 

「本当に御免なさいね。・・あの人戸惑っているのよ」

 

「戸惑っている・・ですか?一体何に?」

 

「・・・。主人にとって太一君とそのお友達の姿がね、余りにも自分の居た世界、価値観と異なっているだろうから・・かしら」

 

「僕たちの姿・・?」

 

「・・ええ」

 

いつも茶目っ気たっぷりな中多母―紗希にしては珍しく、やや憂いの帯びたまなざしで「あの人にはこれを話した事内緒ね?」と言いたげに唇に指を添えた可愛らしいジェスチャーをした後、こう語り始めた。

 

 

「・・あの人が貴方達位の歳の頃はね?既に周りは学生の身分で打算、競争、嫉妬の渦巻く世界だったそうよ。そういう生まれ、環境で育ってきた人なの。あの人は」

 

 

憂いを込め、席を外した中多父が歩いて行った「道筋」をなぞる様に視線を向けた後、夫人は今度は優しい光を帯びた瞳を太一に向け、微笑む。

 

「周りに居る友人は競争相手、よく言えばライバル、・・悪く言えば敵。それも状況によって簡単に覆るような不安定な間柄。・・それだけならまだしも出身家系やら、親の地位やら、財産やらに端を発するグループ分け、派閥もある。純粋に、平等にただ同じ学生として比べ合い、高め合うだけの関係とは言えない、お互いの嫉妬や羨望、見下しから来る足の引っ張り合いや差別の渦中・・そんな世界で生きてきたの」

 

 

「・・・」

 

「お友達である前にまず相手の生まれや地位を見て自分に損得、利益、利点、欠点を頭に入れた上で、上手くやって行かないと自分の歩みたい道すら真っ当に歩めない・・そんな人間関係の中で生きてきたのあの人は」

 

「・・」

 

「ふふ・・。ま。貴方達の学校でもそういうものが全くないという訳ではないと思うけど・・少なくとも主人にとって貴方達の関係に関しては奇異なものとして写っているでしょうね。太一君?貴方もピンとこないでしょう?」

 

「そう、ですね・・」

 

「・・・?ひょっとして太一君。貴方はそうでもないのかしら」

 

「・・。恥ずかしい話、僕って高校来るまで殆ど同性の友達がいなくて・・今あそこに居る梅原君や源君達が本当に初めての男友達らしい男友達って言えばいいのか・・」

 

太一に近付いてくる男子生徒の中には中多母の言う「打算や損得勘定」を交えて近付いてくる連中も居た。

同性の交友関係と比べ、比較的異性との交友関係が深かった太一をやっかんで嫌がらせをしてくる連中もいれば、彼にあやかって意中の女の子に近付こうというある意味狡猾、ある意味軟弱な下心を持って太一に接するタイプも居た。その点で考えれば太一の存在はこの場のグループの中では異質と言える。

 

「・・あら。そうだったのね。少し意外だわ」

 

「だからまだまだ経験不足なのでおばさんの言う様な『僕たちの関係』というもの自体がよく理解出来ていない様な気がします」

 

太一の正直な本音であった。

 

「はは♪なんだ。太一君は案外主人と似ているとこが在るのかもね。主人が貴方の事を嫌いになれないのはそう言う所があるからかしら」

 

「・・そう、なんでしょうか?」

 

「うん、きっとね。・・私はどちらかというと今の貴方達に近しい世界を生きて来たから解るわ。貴方達の関係ってとても素敵よ。大事にしなさい。損得勘定抜きで自然に付き合える人達・・初めてで戸惑うかもしれないけど太一君にとって手放してはいけないものよ。きっと」

 

「はい」

 

―元よりそのつもりです。と、言いたげに強く頷いて太一は笑う。その表情を見て満足げに紗希もまた頷いてぺこりと頭を下げた。

 

「・・。そして紗江の事をよろしくお願いしますね?父娘共々手のかかる性格だけどこれからもよろしくお願いします♪」

 

「・・・」

 

―どちらかと言えば一番手を焼くのはおばさん・・貴方ですけどね。

 

 

 

 

「さぁ~~って湿っぽい話は終わりにしてまだまだ食べるわよぅ♪ホントに美味しいわねぇココのお店。今後も是非とも通わせて貰うわ」

 

「はは。棚町さんも喜ぶと思います」

 

「おまけに紗江がもしここでお世話になる事になれば、心配性の主人の監視の為に足繁く通う事になるのは必至でしょうからね?今の内にメニューを発掘しておかなくちゃ。早速梨穂子ちゃんに色々相談しないと~♪」

 

既に今日出会ったばかりの桜井の事を名前で呼んでいるあたり流石である。

 

 

「ねぇ太一君?」

 

「はい?」

 

「貴方のお知り合いのお友達はこれで全員?是非とも紗江がお世話になっている人には全員お会いしたいわ。確か来られなかった子が何人かいるって聞いたけど・・」

 

「国枝君の事ですか?ちょっと今日は無理かなあ。『大事な用』が在るし」

 

「ああ。『薫ちゃんの』、ね?」

 

「・・事情通じていますね。何時の間に・・」

 

「えへ♪」

 

 

「後はえ~~っと・・あ。確か絢辻さんが源君の話だと『行けたら行く』って話ですね。」

 

 

「『絢辻』、さん?」

 

「僕のクラス、2-Aの学級委員長さんです」

 

―・・・。多分ルックス、おばさんの大好物ですよ。

 

と、太一はそう続けかけたが止めた。

 

「まぁ!『学級委員長』!!う~~ん懐かしい響きねぇ~♪是非とも会ってみたいわ。何時来るの?わくわく♪」

 

この反応を見て太一は即時自分の判断が正しかった事を悟る。

まるで初めて乗った電車で窓に張り付いて景色を眺めている子供みたいに中多母はJORSTERの店内から外を今か今かときょろきょろ眺め始める。

 

「いや・・来るかどうかは解りませ―」

 

 

 

「来た!!アレね!?まぁ!!何て綺麗な子!!それに如何にも『委員長風』だわ!!」

 

 

 

「え。うそ」

 

中多母は剛運持ちだった。

太一は流石に呆気にとられる。べったりと店の大きな窓にハイテンションで張り付き、まだ店の外に居る新たに現れた長く美しい黒髪を持つ少女―絢辻 詞の凛とした姿に彼女は心底ご満悦である。

 

「きゃ~~っ可愛いわぁ!!プリティわ~~!!太一君がこんな『隠し玉』を持っているなんて!!悪いオトコねぇ~~?」

 

「僕が『囲ってる』みたいに言わないで下さい・・おばさん」

 

「あれ~?でも中々入ってこないわね~~?」

 

「・・・?確かに変ですね。あ・・」

 

何故か店の前で居心地悪く入りづらそうにしている少女に駆け寄る一人の少年の姿が在った。

 

「お。あれは太一君のお友達の・・確か源君、よね?」

 

「はい。・・迎えにいったみたいですね」

 

「んん・・?ひょっとしてあのお二人近しい関係?」

 

「・・否定はしません」

 

「あらあら~~。コブつきかぁ。梨穂子ちゃんといい、薫ちゃんといい・・おばさんちょっと残念だわ」

 

そんな会話をしながら太一と紗希は店外の「コブ」―源 有人、絢辻 詞のやりとりを見守っていた。店内に何となく入りづらそうにしていた絢辻は少しホッとした様な顔をして駆けよって来た源と二、三言葉を交わしている。しかし、再三源が来店を促しているような動作をする中、絢辻は遠慮がちにふるふると首を振り始めた。

 

「ああん。帰っちゃや~よ!お話ししたいのに!!ほら源君!頑張って!!彼女を店内に招き入れるのよ!!」

 

中多母はスポーツの観戦中みたいに両拳を堅く握ってハッスルしている。「行けぇ。そこだぁ。シュートぉ~~あ~もうそこで『こねる』な!!」・・的な。

しかし、昨今の某国代表を象徴するかのように

 

「あ~~」

 

と、いう溜息に似た台詞が中多母の口から洩れる。絢辻はどうやら来店を固辞したらしい。後から「決定力不足」だった源に聞いた所、「ほんの少し時間が在って顔を出しただけみたい。他にもいろいろやる事、行く所が在るんだって」―とのこと。

 

そんな彼女に駆け寄った店員の棚町 薫、そして今回のパーティー主催の中多 紗江が差し入れした持ち帰り用の専用カップに入れた一杯のコーヒーを絢辻は微笑んで受け取り、去っていく。

 

「あ~~残念。・・よしっ!せめて手を思いっきり振ってやる!!」

 

中多母は窓をトントン叩き、去っていく美少女―絢辻に自分の存在を必死でアピールした。すると―

 

 

―・・・?

 

 

店外の少女―絢辻は店内で挙動不審な動作をしている見知らぬ妙齢の女性がいる事に気が付く。同時その女性と座席で対面している太一の姿も確認。謎の女性の謎の行動が他でも無い自分に対して行われている事を察する。そして同時―

 

―・・・?・・!?・・・・!!??

 

はっきりと驚きの表情をした。

何せ先程自分を見送りに来てくれ、今も尚JORSTERのエントランス周辺で棚町と共に自分を見送ってくれている少女―中多 紗江と窓に張り付いている女性の風貌が驚くほど合致していたからだ。

 

―・・・!?・・・!!?

 

二、三回二人を尚も見比べた後、戸惑いの中、取りあえずきっちりと絢辻は背筋を正し、女性―中多母に頭を下げた。

 

「きゃ~~♪」

 

絢辻の流麗で丁寧な所作に喜びの余り更にハイテンションになり、さらに強く手を振る中多母相手に絢辻は苦笑いしつつ、遠慮がちに手を振って帰って行った。

 

絢辻が見えなくなると、まるで贔屓のアイドルが去ってしまった追っかけファンの如く力の抜けた表情で中多母は―

 

「信じられない程の美人さんだわ。何て綺麗な子。・・ああ。太一君、私はかつて無いぐらい貴方に嫉妬している・・。・・紗江という者が在りながらあんな子まで」

 

本気でちっと舌打ちした上、少し忌々しそうに羨望の眼をして中多母は太一を睨む。

 

「おばさん・・だから僕が―」

 

 

 

「ほう・・太一君。それは聞き捨てならないね。・・詳しく聞かせてもらおうか」

 

 

 

「え」

 

 

いつの間にか太一の背後に仁王立ちしていた中多父の姿に太一は震撼し、同時悟る。中多母がこの瞬間を狙っていた事を。

 

 

 

 

 

数分後―

 

太一に対する詰問を終えた中多父が再び中多母の隣に座る。

 

「紗希・・君は本当に質が悪いな・・。また必要もなく太一君を責めてしまったではないか・・」

 

詳しい事のあらましを知り、太一にさして非が無い事を理解して既に自分の行為を反省している中多父が恨めしそうに苦言を吐きながら席につく。そんな彼に全く悪びれもせず夫人はぷいと眼を背ける。

 

「あら。人聞きの悪い事を言わないで下さいまし?そもそもあんな綺麗な子が折角来てくれたのにいざそんな大事な時に席を外している貴方が悪いんですっ」

 

「しかしだな・・」

 

「・・どうせ仕事の連絡でしょう?今年のクリスマスの事と良い、あんな綺麗な娘さんを見逃してしまう事と良い・・間の悪さは相変わらずですわね。貴方は」

 

「・・・」

 

鋭く痛い所に切れ込んでくる妻の言葉に中多父は言い返せない。

 

 

 

 

「・・はぁ。しかし本当に綺麗な女の子でしたわ。それにとても利発そうで」

 

「・・そうなのか。是非ともお会いしたかったな」

 

「太一君の話によると彼のクラスの委員長さんで成績もトップクラス、おまけに今年の吉備東の創設祭の委員会でも代表を務めていたそうよ。才色兼備とはまさにこのことね」

 

「ほぉ・・君がそこまで言うからには相当美しい子だったのだろうな」

 

「ええ!ホントに!」

 

「名前は何と言うのかね?」

 

「確か『つかさ』ちゃん・・・あや―」

 

 

 

「パパ・・・?」

 

 

 

突然響いた中多母の言葉を遮ったその声は心底冷え切っていた。そして同時、今までにないくらい父親を侮蔑と軽蔑の瞳で見ている娘―中多 紗江の姿が中多夫妻のテーブルの傍で仁王立ちしている。

 

―あら。紗江ちゃん。最近パパに似てきたわね♪

 

内心、中多母は心が躍っている。ご満悦な妻とは対照的に夫はかつて無い程凄みのある目の前の娘の表情に戦慄していた。

 

「さ、紗江?・・どうかしたのかね?」

 

「パパはまた・・その、・・太一先輩を虐めた・・ですか?」

 

「・・・!!い、いや、それは・・・紗希がな?・・その」

 

「あら貴方。何の事かしら?紗江~~そうよ~パパったら酷いと思わない~?」

 

 

妻はあっさり夫を見捨てた。

 

そして生まれて初めて父を責め、本気で半泣きにさせる程になった娘―紗江の成長の光景を万感の思いで見守る。「素晴らしいお茶の肴ね」と言った表情で。

 

 

 

「紗江・・違うんだ。・・頼む。私をそんな目で見ないでくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・・結果。


中多父はとことん間が悪く、すれ違いになってしまったあの美少女の事のあらまし、そして詳しい名前を妻から聞く機会を完全に逸してしまった。




・・もしこの時、中多父が彼女と出会っていたならば。せめて名前を聞く事が出来たのならば―




・・一週間後に訪れる彼女と一人の少年の皮肉な運命は少しでも変わっていたのかもしれない。





余りにも意外な所から物語は進んで行く。




・・「Roots」―元凶へと。










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ルートS 終章 Roots ~元凶~ 2







舞台は唐突に切り替わる。

12月26日―

中多家・・応接間にて。

「・・先日は世話になったね。楽しい一日だったよ」

そう言って中多父は中多母の淹れた紅茶を照れ隠しの様に一口含む。カップの裏で恐らく少し口の端が緩んでいるであろう中多父の顔を想像し、御崎 太一、中多 紗江、そして中多母は一瞬目を見合わせて笑った。しかし、ほんの一瞬彼女達が目を離したすきに太一の顔がすっと曇る。

「・・・」

今朝―梅原、そして源 有人より太一の家に突然連絡があった。

中多家に出かける前のほんの二十分程の短い時間に聞かされた話であったがそれは太一に深い衝撃を与える。

昨夜源と絢辻の間にあったこと―
そしてそれが現在思いもよらない事態を引き起こしている事が解ったこと―

源はこれから「中多 紗江の元へ出かける」という太一の話を聞いて心底すまなさそうに「気にしないで。こんな日にゴメン」と言ってくれたが彼の憔悴が電話を介してでも伝わってきたのがずっと胸にひっかかっていた。
本心から今度詳細を聞かせて欲しい、と太一が頼むと源は笑って、「・・解った。また追って詳細を伝えるよ。・・ありがとう。今日は楽しんで来て」と言ってくれた。

―やっぱり・・顔くらい出した方が良かっただろうか。せめてお見舞いでも出来たら・・。

自分だけ置いてけぼりにされたような手持無沙汰を味わいながら、その両手の中に中多母の淹れてくれた綺麗な赤い紅茶に映る浮かない自分の顔を両眼で眺めつつ、中多父とは異なる感情をカップの中に押し隠した。

しかし―

「太一先輩・・?」

中多娘―中多 紗江は目ざとくその太一の憂いを帯びた瞳に気付く。隠そうとした太一とは対称的に戸惑いと心配を隠さない上目遣いで眉も曲がっていた。


短い付き合いだがこの御崎 太一という少年がとりわけ同性の友人思いな事をこの少女は知っている。中多家の最寄り駅まで出迎えに行き、今日初めて顔を合わした際の太一のどこか浮かない表情からすぐに彼女は違和感を覚え、家に向かう道中で既に中多は辛抱強く、今回の一件の話を太一の口から聞きだしていた。

よって太一が紅茶のカップの表面に浮かべた浮かない表情の意味を彼女は理解している。

「あ。ごめ・・紗江ちゃん」

「いえ・・」

謝る太一の言葉を否定し、気にしない素振りをしつつも中多の笑顔も曇り、しゅんとやや視線を落とす。中多娘にとっては面白くない事は確かだ。が、同時太一の気持ちが解る分、何も言えない。

自分だって今年いきなり男女共学の吉備東高に編入し、新しい環境への大きな不安の中、とても良くしてくれた友人達がいる。
同じクラスの橘 美也や七咲 逢を筆頭に、そして何よりもアルバイトのことで相談に載ってくれた生まれて初めて近しい異性となった少年―御崎 太一は勿論、彼の同い年の幾人かの女子の先輩―棚町 薫や桜井 梨穂子とその友人達。
そして・・少し怖かったがとても良くしてくれた男性の先輩達―太一の友人達のことを知っている。

その内の一人―源 有人。

自分の今大好きな人がとても大事にしている友人の一大事。それを考えると中多は何も言えないのだ。むしろ太一がちゃんと話してくれたことが嬉しくもあった。
大好きな人を知り、これから知っていく上でその大好きな人が大切に思っている物を理解し、共感できる事が嬉しくもあったのだが、やはり少し切ない気分にもなる。
また太一から聞かされた話を聞いた限り、自分があまり役に立てないであろうことも中多の憂いに拍車をかける。

「先輩・・やっぱり・・心配ですか?その・・」

やきもきした自分の心を宥める様にもじもじ、胸の前で両手の指先をこねまわす。

「・・・?どうかしたの?紗江?」

「・・・?」

中多母は中多父のティーカップに紅茶を継ぎ足しながら様子のおかしい娘に怪訝な表情を見せる。中多父も同様だった。しかしその言葉や表情は今娘の目には入っていなかった。
構わず言葉を紡ぐ。


「源先輩と・・絢辻先輩の事が・・御心配、・・ですか?」


そう言った中多娘の顔を見て居心地悪そうに太一は頭を掻く。

「良かったら・・午後からお見舞いに行きませんか?その・・私も源先輩のこと・・心配ですし・・」

困った顔をしながらも中多は不器用そうにニコ・・っと笑って太一の顔を覗きこむ。「一緒にお見舞いに行く」というのは口実で明らかに太一を気遣っていた。
恐らく一緒に行けば自分が立ち入りようの無い話になってしまうのが重々解っていながらも太一の心配そうな表情をこれ以上見ているのが今の中多娘には辛かった。

「『お見舞い』・・?御崎君?どうかしたの?」

「あ。いえ・・その」

言いにくそうな太一の言葉を遮って中多娘が割り込む。

「先輩の・・お友達がお怪我をして入院してるの・・ママ」

「・・紗江ちゃん!」

「まぁ!大丈夫なの!?」

「あ!だ、大丈夫です!!今朝本人から直接電話をもらって別に命にかかわる怪我じゃないって話で・・声も元気そうだったから大丈夫です・・ホント」

「そうなの・・?でもこんな年の瀬に災難ねぇ・・」

「すみません・・」

「あら。貴方が謝る事じゃないわ。は~ん・・それで紗江はさっきからずっとそんなカオしていたのね?」

全てを察した中多母は労わる様に、曇りがちな娘の前髪をいじいじと悪戯に、しかし優しくこねる。

「・・・」

「また今度病院に顔出す事にしているのでお気になさらず。・・本当にすいません」

苦笑いしつつ微笑む御崎の顔を見ながら中多は申し訳なさそうに眉をしかめた。
太一にとって中多の気遣い、気持ちはとても嬉しい。でもやはり場所は選んで欲しいなぁと思いつつも、うっかり表情を曇らせ、中多に悟らせる結果を招いた自分を太一は諌めた。

その会話の中―


唯一無言を貫いていた人物が唐突に声を上げた。



「紗江」



中多父の低く、少しくぐもった威圧感のある声に

「・・!はいっ?」

娘はびくっと反応する。


「今、何と言った?」


「えっ・・?」

「・・貴方?」

「何と言ったと聞いている」

「・・?」

珍しく娘に対して高圧的な父に娘は首を傾げながら今までの会話を頭の中で反芻する。
しかし中々言葉が出ないようだ。思わずすぐさま中多母、太一が助け船を出す。

「貴方・・紗江を脅えさせないでくださいな」

「僕の友人がその事故に遭いまして・・おとといから入院しているらしいんです。それを紗江ちゃんが心配してくれて・・はは・・すいません」

しかしそんな妻と太一の言葉を中多父は無視し、次に出た言葉は全く以て意外な物だった。



「紗江・・今・・『絢辻』・・と、言ったか?」



「・・・?・・はいパパ・・?」

記憶を反芻し、漸く自分が発言した内容と一致して中多はおずおず頷いてそう言った。あまりにも意外な父の問いかけに面を喰らったのか怯えは消え、ただただきょとんと目を丸くしている。

「絢辻」―

中多家のこの場に置いて本来なら全く接点の無いはずの言葉である。恐らくこの一連の会話の中で最も触れる必要のない単語のはずだ。しかし、それにあえて触れてきた中多父の意図が太一達にはまだまるで理解出来ない。

娘の言葉に対する疑問が解消された後、中多父はやや鋭い視線で今度は太一に目を向ける。

「・・。御崎君」

「は、はい?」

「ひょっとして君は・・―


『絢辻 縁』君を知っているのかね?」


「・・・?」

―ゆ、かり・・?

聞いた事の無い名前だ。すぐにふるふると被りを振って太一は

「いえ・・」

当然そう答える。




「・・!そ、そうか。すまない。人違いだった様だ。そもそも君達より彼女は少し年上のはずだからな・・いや本当にすまない。早とちりだったな」

そこで中多父ははっと目が覚めた様に我に返り、直前の自分の行為を恥じる様に体をゆすった後。こくりと手元の紅茶を飲んで小休止。

話は終了。ただの「人違い」で終わるはずだった。


「・・?」

―なんだろう、なんか・・このままスルーしてはいけない様な気がする・・。

太一はどうしてもひっかかった。付き合いは短いが今までこの父親がこの隣に居る小さな可愛い最愛の娘に対してあそこまで鋭く詰問するような口調で問い詰めた事は無い。そのきっかけとなった「絢辻」という単語、そして聞きなれない「ゆかり」という単語を頼りに太一はもう少しこの話を詰めてみようと決心する。

「その・・『ゆかり』っていう人は絢辻っていう名字なのですか?」

「ああ。まぁね。すまない。忘れてくれ。まぁ・・ありふれてはいない名前だが全く居ない訳ではないだろうしな」

おかしい。中多父は明らかに話を打ち切ろうとしている。太一は構わず切りこむ。普段はあまり余計な詮索をする少年ではないが今は少々「事情」が違う。

「その人・・僕達より年上、とおっしゃいましたよね?」

「・・。うむ。今は大学生ぐらいのはずだ」

「・・・大学生?その・・絢辻『ゆかり』さんは確かに僕は知りません。でも・・絢辻 『詞』さんなら僕は知っています。僕のクラス―2-Aの同級生の女の子です」

「ゆかり」と「つかさ」―その名前の奇妙な語感の一致を頼りに御崎は更に言葉を繋ぐ。

「・・・」

「そして聞いた話なんですけど・・そのクラスメイトの女の子には『お姉さんが居る』って話を少し前・・・友達から聞いたことがあるんです。今その人が大学生くらいだとしたら・・」

中多父はそれから十秒ほど口を開かなかった。





予想だにしない場所から。

偶然から。

糸は派生していく。

その糸を紡ぐのは。

源 有人に紡ぐのは意外にもこの御崎 太一という少年だった。




「・・・左京さん?」



中多母―紗希が彼の夫―本名 中多 左京(なかた さきょう)の名を呼び、太一の問いかけに対する返答を促す。




・・ルート「S」の真実。ここに。












 

 

 

 

 

 

 

ルートS 終章 RootS ~元凶~ 2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―大好きだった。

 

その笑顔が。

 

 

 

その笑顔は何時も彼女の傍にあった。それが彼女の誇りだった。

そしてその笑顔は常に彼女だけに向けられていた。それをいつしか彼女は「自分だけのもの」と認識する。その笑顔を「その人」が自分以外の他の誰かに向ける所を彼女は終ぞ見た事がない。

それ故に「自分は特別だ」と思っていた。

 

そして自分が「その人」にとって特別であると考える事に疑いを持たなかった。

傍から見れば全く不自然に思える自他との温度差。それに気付くのに、違和感を覚えるのに生まれつき聡明な彼女でも時間がかかった。

 

「愛されている」―その珠玉の言葉に疑問を投げかけるにはまだ彼女は幼かった。そして疑うのは幼き彼女にはあまりにも辛く、悲しい事だった。しかし、それは唐突に終わりを告げる。

肝心の「その人」が一切それを打ち切ったからだ。一時を境に「その人」は変わった。

 

・・否。違う。

 

「戻った」だけだ。「ウソを止めた」だけだ。

 

 

「仮面」を止めただけだ。

 

 

 

―「試み」は失敗に終わった。もう「これ」をする必要はない。・・仕方ない。「替わり」を使おう。

 

 

 

「その人」の意図に少女は気付いてしまった。

「その人」が自分に向け続けた笑顔。その正体を理解した。

そして自分が体のいい「あてつけ」だったことに。そしていざという時の「替わり」であることに―

 

・・・気付いてしまった。

 

 

 

 

 

再び12月26日―

 

中多家応接間にて

 

 

「・・すまない。何にしろ君には関係の無い話だ。忘れてくれ」

 

中多父―左京は笑ってまた話を打ち切ろうとした。場を仕切り直すように紅茶を飲みほし、次の一杯を注ぐように中多母―紗希に「んっ」と促す。

 

「・・む~~」

 

しかし美味しい紅茶を味わう顔ではなく、まるで苦々しい物を紅茶と一緒に無理矢理飲み込んだかの様な渋い顔を中多父はしていた。まるでヤケ酒みたいだ、と。これには中多母は納得できない。あからさまに不機嫌に唇を尖らせている。

明らかに夫―左京が何かを押し隠しているのが丸解りだった。おまけに押し隠すのに利用されたのが自分の丹精込めて淹れたお茶では溜まらない。

 

「・・紗希」

 

「・・。自分でいれて下さいまし」

 

ぷいと拗ねたように紗希は目を逸らす。

 

「・・・」

 

困った顔でバツが悪そうに左京は自分でポットを掴みぎこちない手つきで紅茶を継ぎ足す。

 

場の空気を悪くしてしまったのが自分ではないのかと落ち込む中多娘―紗江の背中を優しくポンとたたいたこの場に居る唯一の部外者、小さな少年―御崎 太一は「有難う紗江ちゃん。・・おかげで決心付いた」と言いたげな迷いの無い目で左京を見て微笑む。

 

「良かったら・・僕に話していただけませんか?」

 

家族全員に振られた左京を慰める様な優しい顔でまださらに少年は本題を再開。確信めいた瞳でしっかりと前を見据え、口を開く。

 

 

「絢辻・・詞さんをおじさんは知っているんですね?」

 

「・・。いや、『彼女の事は』ほとんど知らない。今君がはっきり彼女の名前を言ってくれてようやくそういう名前だったかなと思い出した程度だ」

 

「そう・・ですか」

 

 

「だが・・彼女の姉の縁君・・そしてその子の父親とは面識がある」

 

 

「父親・・」

 

絢辻の父親―その異質な単語に太一は身震いするように背筋を正した。そんな彼を見て左京はちらりと娘と妻に目を向け―

 

「・・・紗江。紗希」

 

「はい?」

 

「・・?」

 

「少し外しなさい」

 

端的に、しかし有無を言わせない口調、そして目線で二人を部屋の外へ行くよう促す。

 

「・・・解りましたわ」

 

「・・」

 

中多母は聞きわけ良く席を立つが、娘の紗江は心配そうに隣に座る太一を見る。

 

「せんぱぁい・・」

 

「大丈夫だよ」

 

太一はにっこりと笑ってまだ心配そうに彼を見る中多娘を彼女が応接間のドアから廊下に出るまで見送った。そして見届けた後、澄んだ瞳で中多父を見る。

顔つきはお世辞にも男らしいとは言えない程幼く、そして同時に少女の様な小さな体の少年だがその堂々とした態度、表情に邪推や興味本位の感情は全く感じられなかった。

その姿に取りあえず中多父―左京は太一の第一次防衛線の突破を容認する。

 

 

「君は『絢辻 詞』君とは、仲が良いのかね?クラスメイトという事は解ったが」

 

太一はその問いに正直にふるふると首を振った。確かにクラスメイト故に彼女と全く話さない訳ではないが彼と彼女の間柄は「友人」とは言えないだろう。

 

「なら何故・・そんなに話を聞きたいと思うのかね?」

 

太一が解答を間違えば即時、左京はこの話を打ち切るだろう。その為には偽らない事だ。小細工は無用、というよりそもそも無理。

 

「・・。正直絢辻 詞さんとは僕そこまで接点は無いです。でも僕の友達・・源君の、・・その、・・?」

 

「・・『源』君?・・ああ。紗江の開いたパーティーにも来てくれていたあの茶色い髪をした彼だね?その子と・・何だと言うのかね?」

 

「その・・」

 

―そう言えば・・何だろう?

 

絢辻 詞と源 有人―あの二人の関係を表す言葉をすぐに御崎は思い浮かばなかった。

元々あの二人の関係をはっきりと認識している第三者の人間はほぼいない。

 

―でも、きっとあの二人は・・。

 

「ふむ・・。『大事な人』・・と、言ったところだろうか?」

 

言い淀んだ御崎の言葉を代弁するように左京が割り込んだ。有る程度しっくりくる表現ではあるので太一はまた小さく頷く。その反応を見たのち、また左京は考え込むように口を塞ぐ。

 

ほんの少しのきっかけで「・・やはりこの話はこれ位にしておこう」と左京があっさり言いだしかねない程の雰囲気であった。そんな細い綱渡りの中必死で太一はその綱の上でバランスを取る。

 

 

「・・確かに僕は全く絢辻さんの事を知りません。だから僕が聞くのは多分お門違いなんですけど・・。でも僕の友達が、・・大切な友達が多分、恐らく今すごく大変な状態で・・少しでも役に立てたらと思っているんです。でも・・情けない話、正直彼にしてあげられる事が今の僕には何も浮かばなくて、ですね・・」

 

実際左京から絢辻の話を聞きだしたところで何か役に立つ情報が得られるとは限らない。第一太一が現状、電話で梅原と源から伝え聞いた話はあくまで

 

「源が事故」、「その影響で絢辻が謎の変調」、「その絢辻は近いうちに吉備東を去らなければならない」、「その前にどうにかしなければならない」

 

以上・・この程度の断片的な話である。事態がどの程度の深刻さかを推し量るには情報が少なすぎる上、おまけに相手の表情の見えない電話を介してでは状況の完全な理解はほぼ不可能と言っていい。

 

しかし、電話もとで響く源の声に太一ははっきりと事態の深刻さを根拠なしに確信していた。何時も笑顔を絶やさず、何処か一歩引いて物事を冷静に見ている傍から見ていて安心感のある友人―源 有人の掠れた、あの消え入りそうな声を聞いて。

 

何か彼の役に立ちたいとは思う。でも何も浮かばない。会いに行っても役に立てるかどうかも解らない。歯痒かった。悔しくてたまらなかった。初めてできた大切な友達の一大事に傍に行って勇気づけてあげる事も出来ない自分に。

 

 

そんな感情をもてあましながら太一はここに来ることしか出来なかった。

 

 

その中で一つだけ見出した予想だにもしない光明だった。

 

出すつもりもなかった「絢辻」という言葉を中多娘―紗江が太一を想うあまりに発してくれた事を発端とし、それを娘の言葉にいつも真摯に耳を傾ける中多父―左京が漏らさず聞き取ってくれた事によって生まれた思いがけない光明。

それが運命だろうが、偶然だろうが、必然だろうが、奇跡だろうがどうでもいい。

 

今、太一は縋る。

 

初めてできた友人の内一人の一大事に太一は何でもしてあげたかった。

今は役に立つか立たないかは問題じゃない。それは話を聞いてから確かめればいい。

もともと何の役にも立てそうになかったのだ。今聞きだそうとしている事が例え役に立てなかろうと同じ事なのである。だからこそ今は―

 

 

「・・聞きたいんです。それしか言えないですけど」

 

どこまでも太一は自分を偽らなかった。

 

「・・あまり気持ちのいい話ではないし、全くの赤の他人である君に話す話でも無いが」

 

「それは・・違いないです。でも・・きっと聞くべき僕の友人が残念ながらここには来られないんです。だからそれを必要であれば僕が伝えに行きます。テープレコーダーか何かに話しかけているつもりで話してくれませんか?」

 

「・・随分と押しの強いテープレコーダーもあったものだ」

 

呆れたような苦笑いを浮かべた左京は少し幼く見えた。

 

 

 

 

「旧姓・・天間 孝美(てんま たかみ)」

 

 

 

 

「・・はい?」

 

唐突な左京の言葉に面を喰らったように御崎は目を見開いた。それに構わず左京は話を続ける。

 

「この男の名前を知っているかね?太一君は」

 

「・・いえ。全く」

 

これは当然である。太一はそう答えるしかない。悪戯な質問に面食らっている太一の表情に満足げに頷き、左京は長い脚を崩す。これは彼なりのリラックスの為の所作であった事を太一はその後知る事になる。彼が先程言った「あまり気持ちのいい話ではない」という言葉を否応なく裏付ける真実を語る前の彼なりの前戯、準備運動の様なものだったのだろう

 

その証拠にすぐに彼の表情が一気に冷えた。太一に「一度しか言わない。ちゃんと付いて来たまえよ?」と言いたげに。

 

 

「今その男は絢辻 孝美と名を変えている。奴らしくない、何とも大人しそうな名前だがな」

 

「あやつじ・・たかみ?」

 

「・・そう。縁君と詞君の父親の名前だ。そして私とは大学の同期だった男の名でもある。こっちの名前に聞き覚えは無いかね?御崎君は」

 

「・・・?いえ・・」

 

「そうか。まぁ・・そんなに名前を出す方の人間ではないしな。あいつは」

 

「・・有名な方なんですか?」

 

「・・・今度この町で地方自治体の首長を務める事になる大物だ。国政に関わる仕事をしている。この日本の国家の『根』の部分に居る男といったところだ」

 

「・・・!?」

 

話がおかしな方向に行き出した。出だしから何とも突飛な話過ぎて太一は頭の回転が追いつかない。

 

「・・・まぁその筋には有名な男でね。解りやすく言うと元・キャリア官僚だ。その中でもあいつは家柄もコネもなく、自分の力だけでのぼりつめた完全な実力派、叩き上げの星の様な男でね。その能力を気に入ったある医療関係の大物の家に婿養子に入った。その家が絢辻家だ」

 

「・・・」

 

御崎はきょとんとした。

 

「・・ふふ。すまない。君にはあまりピンとこない話かもしれないな。重要なのは・・その男がこの日本という国家にとって重要なポストの人物でそれに見合った実力、立場にある男であることを理解してくれればいい。そして同時に何と言っても・・」

 

「・・・」

 

「目標の為にはとことん冷酷な男だということだ。利用出来る物はすべて利用する。例え自分の家族であろうがね」

 

無表情で語る中多父の目がその言葉を表すように冷えた光を宿す。しかしさらにその奥には何処か静かな炎の様な揺らめきを感じる。それが抑えきれない「憤り」を意味していた事に気が付くのにさほど時間はかからなかった。

 

「繰り返し聞くが・・君は縁君とは面識は無いんだったね」

 

「・・はい」

 

「私は先程言ったように何度か彼女には会った事がある。・・紗江も会った事があるはずだがあの子はまだ五歳の上、幼いころから引っ込み思案だったから覚えていないだろう。・・比べて縁君は明るく利発で礼儀正しい子だった。おまけに母親に似て綺麗な黒髪と整った顔立ちで黙っていても目を引く子だったよ」

 

「・・そうなんですか」

 

少し左京の表情が和らいだのを確認して太一もどこかほっとした表情をして一息つく。

 

「・・見事な品評会だった」

 

「・・?品評会?」

 

「・・私が縁君と初めて会ったのはあの男が政界への進出をする後進会でのことだ。その場には官僚はもとより、政治家、各界の有力者、識者、企業役員の顔合わせと売り込みの場だ。そこであの男は公私の充実のアピールと共に将来の為の自分の『手札』を見せた。その一つが『完璧に誂えた』自分の娘だ」

 

「・・・!」

 

太一はぞっとした。

 

「完璧に」、「誂えた」・・人間を表す言葉とはとても思えない。それを敢えて左京がそう表現した事に強い彼なりの意図を太一は感じとる。顔も知らない、会った事もない男の話を左京から伝え聞いただけなのに太一は言いしれない不気味さを覚えていた。

 

 

「まだ十歳の少女が大人びた態度であの男とその妻に連れられ、堂々と後進会に出席している各界の大物、来賓に挨拶回りしていた。他の出席者の中にも何人かの子供連れがいたが年上を含めて一番彼女が大人びて見えたね」

 

「・・・」

 

「それからそのような会で幾度となく私は縁君と会った事がある。彼女も私の顔をいつしか覚えてくれてね。何度か話すようになった。話してみると本当に賢く、また優しい子であることが解ったよ。笑顔も素敵な子だった」

 

中多父が目を閉じ、また一瞬表情を緩ませる。しかしすぐにまた険しい表情に戻り、話を続ける。

 

「しかしだ。何回も繰り返し彼女に会っていると気付く事がある」

 

「・・・?」

 

「常に傍に居る彼女の父親―あの男が一切彼女に対して笑いかけていない事にだ。そして逆に彼女があの男に対して笑いかけてもあの男が一切反応しないことにも気付いた」

 

 

 

「・・私も一人娘を持つ身だ。自分に微笑みかける娘の表情にきっちりと応える事は父親として当然だと思っている」

 

「・・」

 

―・・でしょうね。

 

太一は納得した。今までの左京の話の中で最も納得した、理解出来た言葉だった。

 

「増してまだ小さな少女が海千山千の曲者の大人が蔓延る後進会に交じって立ち回るのだ。その精神的、肉体的負担は測り知れない。・・それを彼女は気丈に、十二分に努めあげているというのにあの男はそれをしない。全くもって笑いかけないのだ。・・それが『偶然であるのか意図的なのか』と聞かれれば間違いなく『意図的だ』と私は言いきれる。そして思わず私はあの男の仕打ちに我慢しかねて外に連れ出し、問い詰めたのだ。『何故あの子の、縁君の笑顔に対して応えてやらないのだ』とね」

 

中多父は一見冷静な様で物凄く激情家で情熱的だ。

 

「しかしあの男は柔らかく笑って『君の勘違いだろう』と言った。私は食い下がったよ。『そんなはずはない』とね。

 

・・その時だった。

 

あの男が私の後方に目を向けて今まで見た事の無いやわらかい表情で微笑んだかと思うと後ろからいきなり声が聞こえた。小さな女の子の声―恐らく紗江と変わらない・・同い歳かそれ以下にも聞こえる無邪気な声だった」

 

 

 

 

『パパ!!』

 

 

 

『おお。詞!!おいで』

 

 

 

現在、中多父―左京の中で今記憶が繋がる。

 

 

―ああ、そうだった。彼女の妹の・・あの子の名前は―

 

 

・・「つかさ」だった。ああそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

「・・あの男は駆けよって来た小さな女の子を抱き上げ、今まで見た事の無い表情で笑っていた。何よりも娘の縁君に向けてあげて欲しい笑顔、それをあっさりするあの男とその対象である少女を私が唖然として見ている中、後ろで気配がした」

 

 

『・・・』

 

 

「振りかえるとそこには・・縁君が居た。彼女もまた私が今まで見た事の無い表情をして私達三人―いや・・悔しいが私はその時彼女の眼中には無かったろうな」

 

「・・・」

 

「彼女の眼には自分には決して向けない笑顔をしている父親とそれに満面の笑みを浮かべてじゃれついている彼女の妹の姿しか映っていなかっただろう。・・あれ程悲しく、切ない表情をした女の子を見たのは生まれて初めてだった」

 

 

悲哀、羨望、嫉妬、失意。

 

その全てが合わさった諦めの縁の瞳―その表情が当時の中多父の瞳に突き刺さり、焼き付いていた。

 

「・・・」

 

 

「それが初めて私が見た縁君の妹・・君のクラスメイトだという詞君に会った最初で最後の時だ。私はそれ以来あの男と縁君には会っていない。あれ程不愉快な思いをした事は私の人生の中でそう無い・・・!!あの男の考え方、やり方に心底不快だった・・!」

 

 

最早僅かな焔ではない、言葉通り心底からの憤りを込め、絞り出すように吐き捨てた。

 

 

 

 

この絢辻の父親―孝美の姉妹達に対する対極的な行為。

 

この行為の目的の一つは完全なる「当て付け」だ。

 

まだ幼い縁は父の妹に対する無償のその笑顔が羨ましかった。求めていた。自分に対しても浮かべて欲しかった。

しかし、彼女がどれだけ学校でいい成績を採っても、どれだけ社交の場で堂々と振舞っても父親はそれを与えてくれない。彼女に与えられるのはいつも父親の無表情で事務的な―

 

―よくやった。縁。この次もこの調子で頑張るんだぞ。

 

・・だった。

 

笑顔を伴わない言葉達。しかし当時、縁はそれでも良かった。嬉しい事には違いなかったからだ。

 

しかし、片やまだ幼い妹には無償で与え続けられる自分には決して向けられることの無い父親の笑顔。そして優しい言葉達。「何故それが自分に与えられないのか?」―縁は考え続ける。

 

 

―そうだ。もっと私がいい子なら、もっとすごい事をすればパパは・・きっと、きっといつかは!

 

 

健気な少女の一途な願い―しかし、それは終ぞ訪れる事は無かった。

 

当然だ。そもそも父親―「あの男」にはそうするつもりなどなかったのだから。

 

ただ「愛されるにはもっと努力しなければならない。現状以上を求め続けなければならない」という意味の無い命題を彼女に与え続けた。それをただ愚直に縁は繰り返す。意味の無い反復作業。しかし一向に愛、笑顔は得られず。変わりに出来上がるのは―「父にとって都合のいい存在」

 

頭脳、容姿、振舞い、そして何より自分に対して従順で忠実な「何処に出しても恥ずかしくない」娘。一見完全、完璧な「調度品」。

 

それ即ち―自分を更に高みに押し上げるための貢物。道具だ。

 

 

父の、父による、ただ父の為に作りあげられる自分。

「愛」という心の交流を求めた少女の行く先にあるのは皮肉にも自分が心を持たない人形になる事であった。

 

父にとって都合のいい―可愛く、美しく、賢い綺麗な服を着せられた人形に。

 

 

 

 

 

 

 

 

「古いと思うかね?」

 

唐突に太一に左京は尋ねる。

 

「えっ・・?」

 

「今時そんな『政治、出世の道具に自分の娘を利用しよう』なんて考えるなんて古い、と」

 

「・・・」

 

「今は自由の時代だ。男女平等だ。自由な道が開けている。性別なんて関係ない。能力と意志と努力さえあれば登り詰める事はそんな事をしなくても出来る!」

 

「・・・」

 

「だからそんなのは古い!」

 

「・・・」

 

「・・そうでもない。社会が変わろうと、時代が変わろうと、一流の男というものは常に求めるものなのだ。自分の言う事を理解し、把握し、共有できる聡明で・・尚且つ美しく若い女性をね」

 

つまりあの男にとって自分が手塩にかけて「作った」完璧な娘は自分という人間の健全性と親としての管理能力をアピールし、尚且つ自分の足場を固めるためのいざという時の「貢物」の一つであるというのだ。

 

いや、正確には「二つ」持っていたか。

 

中多父の言葉を聞いた後、何故か太一の頭の中でこんな光景が思い浮かんだ。

 

 

とてもとても高い高層ビル―その最上階、見晴らしのいい明るいオフィスの一室で座っている背の高い身なりの整った男性の後ろ姿のシルエット。デスクチェアに背中を預け、窓の外―街も人も全てが握りつぶせそうなぐらいの高みから見下ろしている。

その男が振りかえると・・その男には顔が無かった。まったくののっぺらぼうだった。

 

彼のいくつもの顔を持って本質を掴ませないその内面を表すように。

 

この「世界」では本音を晒してはいけない。自分の意図を読み切られてはいけない。

彼の生きる世界はシンプルだ。「敵」、「味方」しかいない。ただし、その区分は常に流動的。ほんの些細なきっかけで全てがあべこべに入れ替わる。

 

だから男は隠す。だから「顔」は無い。持たない。

 

 

全てが「仮面」の世界だ。

 

 

そしてデスクの上に指先まで整えられた男性の手にそっと自然に触れる指先が見える。

男性の手より小さく細く、白い指。両手を重ね、ほんの少し男性の甲の上に指先を重ねている。

 

 

その女性の顔が今見えた。・・それは今よりさらに大人びた未来の―

 

絢辻 詞の顔だった。

 

その自然すぎる、美しすぎる笑顔が今は何よりも御崎は怖かった。

 

 

 

 

 

「縁君は・・その後風の噂で聞いた。父親・・あの男の反対を押し切って自分で進路を選んだと聞いている。私は喜んだよ。『彼女は自分の意思で自分の道を決めた』のだろうと」

 

「・・・!」

 

思わず閉じ込められそうなほど薄ら寒い想像の光景の中で金縛りみたいに竦んでいた太一が左京の声に現実に引き戻される。

 

「・・会いたいな」

 

まるで長い間会えないかつての恋人、想い人を語る様に左京は目を伏せた。

 

これが大事な娘を想う本当の父親の顔だと太一は思う。姉が三人いる太一には確信があった。しかし、彼はすぐに目を開けた。少しゆるんだかのような空気が一気に張り詰め、太一は背筋を伸ばす。そんな太一を左京はじっと、まるで太一の中にある縁の妹―詞の記憶を目から映しとる様に見つめ、こう尋ねた。

 

「あの子・・あの小さかった縁君の妹が君と同い年で、同じ学校で、しかも同じクラスとはな・・数奇と言えば数奇だな」

 

「・・」

 

「・・彼女は今どんな子になっているのかね?恐らく母親と姉に似て美しい女の子になっているだろう」

 

「・・はい。とっても綺麗な人です」

 

「そうか」

 

「・・それに頭もよくて、明るくて、クラスの中心になっている人です。皆に頼られて認められて憧れられて・・」

 

「・・・」

 

御崎の言葉を聞きながら、微かに何度も左京は頷き、そして・・沈痛な顔をした。

 

彼は彼の中で答え合わせをしている。

 

風の噂で聞いた姉の縁のその後―そこから導き出される一度しか会った事の無い少女の事を想う。

 

姉―縁は自ら外れた。あの男の敷いたレールを抜けた。父親に認められようと健気に努め続けた彼女がその道を自ら外れる事は容易なことではなかっただろう。想像を絶する痛みを伴ったはずだ。が、ともあれ彼女は抜けた。・・しかしそこで終わりではない。

 

左京があの男と完全に袂を分かったあの日からその先の物語は紡がれているのだ。

左京が知らない物語―

 

 

 

 

・・絢辻 詞という少女の物語が新たに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


















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間章 ルートN 二つの終わりの風景 降伏の先に・裏








 

 

 

 

 

間章 ルートN 二つの終わりの風景 降伏の先に・裏

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・ちょっとパパ!!一体これどういう事なの!!??」

 

 

「何だい典子・・藪から棒に」

 

 

典子と呼ばれた少女―黒沢 典子は怒っていた。そして同時頭を抱え、困惑していた。

 

何故こんな事になったのか?確かにあの女―絢辻 詞の高い鼻っ柱を折ってやれた事に関しては痛快だった。

 

禁則事項を犯して危険な作業を行い、怪我をした創設祭実行委員の一年生の少女―坂上の情報をこれ幸いと直接市にリークし、監督責任を持つ創設祭実行委員長としてのメンツを完全に潰された絢辻の苦虫を潰した様なカオは最初こそは胸がすく思いであったが徐々に黒沢の心に重い枷の様なものが積み重なっていく。

 

正直黒沢にとって絢辻の屈辱の顔が見られただけでも今回の件、「御の字」だったのだが事態はそれだけでは終わらなかったのだ。

 

黒沢 典子の父親であり同時、吉備東市議会代議士である男―彼が何故か娘が当初望んだ絢辻に対する嫌がらせ以上に暴走を始めたのだ。

 

創設祭実行委員会の行動の過剰な自粛に始まり、強引な業者の変更、創設祭準備作業の強行―ハッキリ言って暴走、暴挙と言って過言ではない。

 

「典子ももう高校生だろう?そろそろ自分の問題は自分で解決しなさい」―そう表向きは言うが、結局最後には何らかの手助けをしてしまう娘には甘い彼女の父親である。

そんな娘に従順だったはずの父親の度を超えた今回の行為に黒沢 典子は頭を抱えていた。

 

元々絢辻の事さえなければ吉備東校の創設祭を「生徒主導」の方針で行う事に関しては賛成側である黒沢にとってここまで父親―つまり市に介入される事に関しては本意ではない。

実際彼女自身の仕事も減ってしまう事による手持無沙汰感を味わい、同じ実行委員達の落胆の姿に流石に罪悪感も募る、・・終いには彼女の想い人―源 有人に「あんな」切ない表情をさせるに至ってしまった。

 

何故ここまで事が大きくなってしまったのか―

 

 

数日後―

 

絢辻と源の「あの」策略に嵌り、彼女自身が自分の犯した行為に向きあう事になった時、

 

「私だってこんな事になるなんて思ってなかったのよ・・・!」

 

とのたまった言葉は嘘偽りない彼女の本心であった。

 

 

 

そして更に数日後―絢辻と担当教諭の高橋 麻耶の解任を条件に市が―つまり父親が全面的に譲歩し、創設祭作業の再開を許した事も更なる黒沢 典子の混乱を増長する。その困惑を再び父親に向けた。

 

「パパ!!」

 

「何だ典子・・これをお前は望んでいたのだろう?これで晴れて典子は創設祭の実行委員長じゃないか!これで内申も、評価もうなぎのぼりじゃないか、私も嬉しいよ」

 

「そ、それはそうだけど!・・でも、こんな形なんて望んじゃいないわよ!!」

 

そう。確かに黒沢はかつて自分が望んでいたポジションを手に入れた。しかし経緯が経緯だけに喜べない。黒沢 典子にもプライドがある。

 

最早罪悪感を覚えてしまう程、自分の軽率な行動によって周囲の人間に迷惑をかけ、それを補う為に彼らに余計な手間を与える大失態を犯し、それによって大嫌いだった、しかし同時心のどこかで認めてもいた自分より誇り高いライバル―絢辻を蹴落としてしまった。

 

自分の力で堂々と彼女を蹴落とせれば胸のすく思いにもなったのであろうが、今回のでは流石に無理だ。むしろこれ以上なく黒沢を惨めにさせた。

 

責任を受け入れ、自分のやれる事を全うした絢辻。片や愚行を犯し、周囲に大迷惑をかけた自分が在ろうことか望んでいた地位に就く。それも殆ど自分の力ではなくなし崩し的に決まってしまったものである。おまけに絢辻から引き継いだ仕事はあまりに自分の手に余る想像を遥かに超えた激務であった。

 

結果彼女のチンケなプライドはあっさり粉々に砕け散った。

 

 

 

 

そんな日々の激務によって黒沢は「なぜここまで事が大きくなってしまったのか」というかつて抱いていた疑問を考える余裕すらなくなった。

 

つまりそれはこう言いかえる事も出来る。明らかに

 

 

黒沢 典子の父親は「絢辻 詞」に対して何らかの感情を以て事に及んでいた―という事だ。

 

 

大人としてそれ相応の地位にある人間が何故にそこまで「たかが」一学生、女子高生に、それも今回の件で結果接触する事になったにせよ、それまで全く面識もない相手に何故にここまでの仕打ちをしたのか。

 

 

いみじくも吉備東高の校長が先日、自分が創設祭の担当教諭を解任された事よりも絢辻が解任された事で泣きじゃくる高橋にこう吐露していた。

 

 

「今回の件で市が一生徒の責任をあそこまで過剰に追求したがる意図が見えてこないがね」―

 

 

そう。「市」など大きな物ではない。とてもちっぽけな・・たった一人の男の惨めな劣等感が今回の件を招いた―否。ここまで「ムダ」に事を大きくしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―やった・・!!やってやったぞ!!

 

一矢報いてやった気分だった。否。そう言い利かせたかった。そうでもしないと空しさに押しつぶされそうだった。

 

 

―「あの男」に!!

 

 

黒沢 典子の父親は彼の自室のデスクの上で両拳を握り、内心そうほくそ笑んだ。何とも市という集合体を代表する人間として相応しくない表情で。

 

 

・・これでは任期途中に解任される事にも頷ける。

 

 

その彼の後任が―「あの男」だ。

 

彼になり変わって、吉備東市を含む、この周辺の地方自治体の首長を務める事になる「あの男」―

 

 

 

 

 

絢辻 孝美だ。

 

 

 

 

 

 

黒沢 典子の父親はかつてより絢辻 詞の父親である男―絢辻 孝美に苦渋をなめさせられてきた。

 

否。むしろ彼は「あの男」の「眼中に無かった」、「相手にされていなかった」と言った方が適当だろう。

黒沢の父親なりに長年努力はしてきた。それに彼には元々生まれ持った地位もコネもあった。結果今の役職―地方代議士の立場にまで上り詰めた。

 

しかし、正直今回の子供じみた行為から解る様に元々あまり人の上に立てる様な人間ではない事は容易に誰にも察しがつくだろう。分不相応な地位に就いた男はより自分より遥か勝る才、コネ、手腕を持った者達への嫉妬、羨望、劣等感に苛まれる事になる。

 

そんな人生を20年以上送った結果、彼の風貌も何ともみすぼらしい事になってしまった。

 

後退した頭、汚らしい肌―「凶相」とは流石に言えないまでも、苦労―それも要らぬ苦労が垣間見える姿には何だかんだ時に「容姿や見た目」が重要になる局面が在るこの仕事に就いた彼の不幸であった。おまけに政治家としてはお世辞にも優秀とは言えないし、それに対しての劣等感や、それに相反する功名心もあるためプライドだけは高い。

 

残念ながらそんな彼の人望は頭皮と一緒でかなり薄い。

 

 

 

 

そんな彼が最近知る事になった。自分の可愛い娘―黒沢 典子もまた、どうしても勝てない相手に対して最近不満を募らせている事を。

 

当初こそは流石に彼も地方代議士という立場が在り、可愛い娘の事とはいえ謂わば「子供の喧嘩に親が出張る」のも大人気ないと笑い飛ばしつつ、膨れる娘を宥めていたのだが、その相手の名前を娘から聞いた瞬間―完全に彼の中で事情が変わった。

 

 

 

「コイツ!!コイツよ!!パパ!!この絢辻 詞っていう女よ!!あ~~ホントむかつく!!!」

 

 

 

 

―・・・!!

 

 

 

「絢辻」

 

 

娘からその名前を聞いた後、念の為一応確認はしたものの、彼には娘の話を聞いた途端に既に解ってしまっていた。その女生徒が間違いなく「あの男」の娘である事を。

成績、容姿、人望、能力―全てにおいて自分の娘より勝っている少女―なんという皮肉なデジャヴであろうか。

 

「あの男」―絢辻 孝美。

 

家柄も金もコネも持たなかった男が全てに於いて自分に勝る結果を出し、出しぬき、遥か高みに居る不条理、理不尽。年々劣化していく自分の姿とは異なり、歳もそれ程離れていない筈なのにまだまだ脂の乗り切った若々しい容姿、容貌を保ち続ける人望も厚い男。

 

すべてが対照的だった。世間的には「エリート」と言われる区分の中で、彼と「あの男」の差はまさしく「エリート」と「落ちこぼれ」程の埋めがたい差が在った。

 

 

そんな自分だけではなく、可愛い自分の娘も、可愛い自分の遺伝子もまた「あの男」に遥か劣っているというのか―

 

その受け入れがたい事実に加え、漸く登り詰めた現在の地位ですらあっさりとひきずり下ろされようとしている現実は彼に深い絶望、そしてねじ曲がった嫉妬心は復讐心に形を変える。

 

しかしだからといって―彼に「あの男」本人に逆らえる器量も、度胸もない。所詮自分が何をやろうともあの男はゆるがないだろうし、下手に事を行えば更に自分の立場が危うくなるだけで在ろう。

 

だから―せめてもの復讐として・・今回彼は娘をターゲットにしたのである。余りにも個人的で下らない子供じみた復讐心を満たす為に彼は大多数の人間を巻き込む暴挙に出た。

 

 

 

しかし―

 

結果、「あの男」どころかその娘自身にも彼は凹まされる事になる。

 

 

 

「あの男」の娘―絢辻 詞は彼の下へ創設祭の件に関しての直談判に訪れることとなったのだ。

正直彼は願ってもない機会だと思った。憎いあの男の娘が辛酸を舐める所を直接見てやれると思った。作業の再開を必死で頭でも下げて願ってきたら、嘲笑ってほんの少しだけ譲歩してやろうと考えていた。「全く・・仕方ないな」と言った余裕の大人の表情をして見下ながら嘲笑ってやろうと思っていた。

 

しかし―

 

あの娘―絢辻 詞は在ろうことか彼に脅迫まがいの交渉をしてきた。一学生の身分で一地方を収める代議士相手に全く怯むことなく、しっかりと見据えていた。

 

「娘の事、娘の行為、娘の責任―そして今回の件に関しての彼の余りに個人的な行為がハッキリ公になれば立場が拙いのはむしろ貴方達の方ではないか?」と。

 

 

 

「ふふっ・・。見えすぎる目を持っていて申し訳ありません」

 

 

そう言って誰もがハッとするような美しい顔で片や長年の苦労で醜く老けた顔をした自分を睥睨したあの姿に彼は「あの男」の姿と重ねた。そしてこう思った。

 

 

―・・・間違いなくこの女は「あの男」の娘だ!!そっくりだ!!!・・・忌々しい!!!

 

 

内心、煮えたぎる腹を必死でこらえ、タコみたいに赤くなる頭、屈辱感をかみ殺して逆にこちらが「絢辻と担当教諭の解任」という市(表向き)のメンツを立てる譲歩を引き出すのが精一杯だった。しかしこれは彼女にとって想定内で在ったらしかった。

 

その申し出を「待っていました♪」と言わんばかりに粛々と受け入れ、「寛大な処置に感謝いたします」とまで言って深々としおらしく頭を下げた絢辻の目を盗んで、彼は下唇を噛んだ。

 

それも「解っていますよ?」と言わんばかりにパッとすぐに頭を上げ、さらに「お悔しいですか?」と言いたげな瞳でほほ笑んだ後、彼女は踵を返した。その背中を睨み続ける彼に僅かに振りかえり、今度は全く敵意を隠さない瞳を向け―

 

 

―・・所詮貴方にはもう直何もなくなる。だからもう二度と私達に関わるな。

 

 

・・見苦しい。

 

 

そう瞳だけで語っていた。

 

その姿がまた彼の中で再び完全に「あの男」の姿と重なった後、呆ける彼を尻目にもう二度と彼女は振り返る事は無かった。

 

部屋にただ一人彼はポツンと残される。

 

正直「あの男」の化身のような、あの物の怪の様な娘がいたこの場所を塩でも撒いてすぐに清めたい気分だが出来なかった。所詮ここは、この席はいずれすぐに自分の居場所ではなくなる場所―そこに塩でも撒いてしまえば一緒に自分も払われてしまいそうな気分になったからだ。

 

「・・・」

 

彼は無言のまま、窓に映る自分の姿を見る。

 

 

 

・・何ともみすぼらしい顔だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の夜―

 

 

「・・くひっ」

 

喉元から鳴る妙な下卑た笑いをかみ殺しながら同時、黒沢父は屈辱をかみ殺す様に今は、せめてあの娘だけは道連れに出来た快感に酔っていたかった。浸っていたかったそんな姿を―

 

 

「・・・っ!!」

 

 

娘―黒沢 典子は僅かに空いた父の部屋のドアの隙間から覗き見ていた。そして思う。絢辻が屈辱に苦しんでいる時、「自分もまたあんな表情をしていたのだろうか」、と。

 

 

結果として黒沢 典子の父親はこれ以上なく娘を今回の件で成長させたと言える。

それが今回の一件によってこの哀れな父親が生みだした下らない数々のトラブルの中で唯一の光明と言えるだろうか。

 

それは彼女にとってこれ以上ない現状の自分の映し鏡、反面教師となったことだ。

 

 

 

―・・確かにパパは昔から私の思い通りになっていた。いつも言う事を聞いてくれた。

 

いつもパパは私の味方なんだ・・そう思ってた。

 

 

でも違う。パパは結局何時も、誰よりも自分の事しか考えてなかったんだ・・。私の事を想っているようで本当は誰よりも自分が可愛かったんだ・・。

 

 

 

今回の件で自分の父親がどういう意図であそこまでの暴走をしたのかの詳しい事情に関しては流石に現状黒沢 典子は把握できない。しかし今自分の父親が浮かべているあの表情に娘は全てを察した。そして最後にこう思う。

 

 

―私・・・あんな風になりたくない。

 

 

・・・なりたくない!!!ぜったいっ!!!

 

 

ギュッと拳を握り、音もなく黒沢 典子は父親の部屋から背を向け、静かにしかし確固たる足取りで踏み出す。何故かとめどなくあふれ出る涙をぐいっと両眼を腕で拭って。

 

 

 

 

 

 

「・・・これではどちらが子供なのだか」―

 

 

あの日校長室で高橋 麻耶にこう呟いた吉備東高の校長の言葉は何とも言い得て妙である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 













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ルートT 二十八章 Roots ~元凶~






「君さ~『誰かに似てる』って言われたことな~い?」

「はい~?」

「ん~・・ま~いいや~まったね~?」







「・・・やっぱり似てるわ」






「やっぱり・・似てるわ・・有人君」

「・・・」

「詞ちゃん・・?」

「・・がう・・・」

「詞ちゃ―」




「違う!」









 

 

 

 

28 Roots ~元凶~

 

 

 

 

 

 

 

・・ワケが解らなかった。

 

「笑顔」が消えた。大好きだったあの笑顔が。

 

私の気のせいなのだろうか?いや、違う。確かに消えた。突然に。

 

どうして?どうしてなの?

 

―・・パパ。

 

少女―絢辻 詞は求め続けた。自分に間違いなく向けられていた「かつて」の物を取り戻すために。

 

それは―父が幼いころから自分に向ける無償の笑顔であった。

 

 

姉―縁がかつて「手に入れよう」とあがき続けたそれを今度は妹―詞は「取り戻そう」とし、皮肉な事に姉と同じ道を彼女は辿る。

 

信じられなかった。そして信じたくなかったから。

 

しかし―彼女はその道の過程、つまり成長の過程で気付いてしまう。皮肉にも元々聡明で在った為に彼女の理解は殊更早かった。むしろこの事実を知らぬまま生き続けていた方がよほど楽であったろう。それ程にこの事実は絢辻 詞と言う少女にとって屈辱的な事実であった。俗っぽい言葉を使えば「トラウマ」とも言える。

 

 

・・自分が体のいい姉の「スペア」であったことを。「代替え品」であったことを。

そして―

 

 

・・・もともと「愛」等存在していなかった事を。

 

 

しかし、先述したように妹の絢辻 詞と姉の絢辻 縁―この姉妹には決定的に違う面がある。一時的に、そして仮初めとはいえ「愛に包まれた」―少なくとも妹の詞自身はそう認識していた時期があった事だ。

姉の縁は一貫して終始冷たく突き放されていた一方、妹の詞には少なくとも自分を包む「世界が愛に包まれている」と認識、否、「誤認」するほど親に愛されていた「らしい」時があったという事実がある。

「元々無かった者」と「かつては持っていた者」―この差がこの姉妹の行きつく先を変える。

 

一度愛を得た者は自分に対するその愛が偽物であったとは認めたくないものだ。思いたくないものだ。

愛によって得られていた自分の幸福感が実は空しい虚構だったことになるのだから。

子供という存在にとってその屈辱は計り知れない。幼い子供にとって誰よりも認めてくれていると思っていた存在―親から実は「否定されていたも同然」という事実はつまるところ「世界に否定されていた」事と同義である。

その事実をすぐに受け入れる事は出来ない。否定する他ないのだ。そうでないと自分が壊れてしまう。だから詞は親に―あの父親に認めてもらう為の動機が遥かに姉より強かった。

 

自分への愛は確かに存在していたんだ。

虚構ではない。断じてない―そう確認するために。

 

―私が頑張れば、もっと頑張れば、きっとまた・・パパはまた「あの笑顔」でほほ笑んでくれるはず!だって、だって私は愛されているんだから!きっと・・きっとそう!

 

実際にはもう決して訪れないその日をただひたすらに待ち望んで彼女は走り続けた。姉と同様に努力し、積み重ね、実績を上げる。

それが「あの男」の思う壺である事を何時しか聡明な彼女は気付いていた。でも最早止められなかった。その度に彼女の冷静な部分がこう指摘する。

 

 

―・・何を貴方は期待しているの?

 

 

と。

 

でも気付いた時には彼女は世間で言う「立派な女の子」になっていた。

 

清く。正しく。美しく―明朗快活、成績優秀、容姿端麗。

即ち築き上げた仮面、彼女なりの抵抗の証。

 

それは何時しか彼女の顔にぴったり張り付いて一向に外れようとしなかった。その仮面の一枚下にあらゆる己の負の感情を覆い隠した。

 

屈辱、恥辱、憤怒、悲哀―そんな遣る瀬の無い、誰にも見せる事の出来ない本当の自分の声を。

 

でもその作り上げた「仮面」の下に多くの人は集まるようになる。あの父親に自分を認めさせる為に、また微笑んでもらう為に作り上げた仮面によって与えられる副産物。

多くの出会いは生まれた。しかし、彼女の虚構の仮面はそれと同じ数の多くの誤解と不理解を生んでしまう。

 

本当の自分、本当の彼女を誰かに知ってもらえる事はない。

それを諦観し、都合よく踏み捨て通り過ぎていく日常の中である日―

 

 

詞は「あの」笑顔に出会った。

 

 

最早期待もしていなかった、二度とこみ上げる事は無いと思っていた「あの」感情をもてあました。

 

その笑顔は良く似ていた。

 

幼い頃に大好きで飽きもせず、その笑顔の為だけにまとわりついた―小さい頃の自分にとって「世界の全て」だったあの笑顔に。

 

ざわついた。「あの男の正体、本性」を知ってからは最早嫌悪感すら覚えるかつてのあの男の笑顔が戻ってきた気がして。

 

でも逆に、

 

「あの頃」の愛を取り戻したような押さえきれない懐かしさを覚えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺は源 有人っていいます。初めまして。一年間よろしくね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

笑って手を差し出す。あの春の日、初めて出会ったあの少年の笑顔。

 

「元凶」―

 

その文字通りの「凶兆」を差す言葉は、常に闇の底で暗くねばねばと生理的嫌悪を催す形をしているとは限らない。

 

太陽の様な明るい光の下で

 

甘く。

 

優しく。

 

人を惹きつけて止まない魔力を時に持つ。

 

絢辻 詞という少女にとって美しく、懐かしく、心地がいい。しかし、虚構だったかつての真実、事実。

薄々それに感づき、見て見ない振りをし、同時どこかで理解しながらもその「元凶」を追い求め、恋焦がれ続けた少女の目の前に突然現れたのは一人の少年―

 

 

・・源 有人。微笑みのひと。

 

 

皮肉にも詞が生まれて初めて惹かれたその少年の笑顔は、今では彼女の中で愛憎入り混じったものになってしまった記憶の中の―

 

 

 

・・・かつての父親が彼女に向けた笑顔に良く似ていた。

 

 

 

だから彼女は出会ったその日すぐに―

 

 

この少年、有人に惹かれた。

 

 

 

 

 

「・・・。・・ふふ。一足早い自己紹介ね。私は・・絢辻。絢辻 詞っていいます。これから一年間よろしくね。源君」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 










源 有人―




絢辻 詞は彼を知って行く内に理解した。「あの男」のかつての笑顔も、今の彼の笑顔もまた―


・・・「仮面」であるのだと。



―・・ああ!!何て事!


寄りによって初めて惹かれた相手が皮肉にも今では最も嫌う男とよく似ているなんて!



ああ最悪。サイアク。



・・でも。



この人に認めてもらえれば―?受け入れてもらえれば―?




・・愛してもらえれば―?




私は実は本当に愛されていたのではないか―?

・・そうよ。頭ごなしにどんなに否定しても。虚勢を張っても本当の私は―自分を誰かに見て欲しい。私の話を聞いてほしい。一緒に居て欲しい。





・・・愛してほしい。




誰かに愛されたい。・・愛されていなかったなんて認めたくない。



だから。愛して。




・・・愛して。














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ルートS 終章 Roots ~family song~

男は孤独だった。生まれた時からずっと。

 

 

「左京さん」

 

 

実の母親に「さん」付けされるほどの名家に生まれた。今時解りやすい男尊女卑の一家だったと思う。そんな名家に生まれ育ち、それに疑問を抱くことなく家に忠実、そして愚直であった彼の父親は尊大であり、自然その子供達、親戚も生まれた時から自分たちの表向きの社会的地位を自覚しているためか妙に攻撃的、というか他者を見下す傾向が強かった。

そんな家庭の中で特に自分を出すこともなく淡々と、しかしほかの子供たち、親類たちより秀でた能力を持っていた為、「変わり者」程度の家族の中の扱いでじっと男―左京は待ち続けていた。

 

この一家に決められた将来、決められた結婚相手、そして決められた人生から一人離反することを。

 

左京は幼少期より薄々気づいていた。この一家にそれほど先が無い事を。父親は必死で押し隠していたが一家が長年担ってきた事業が頭打ちでこれから先どんどん先細りになっていくことを。この一家と共倒れすることなど左京にとって我慢ならないことであった。だから一定の年齢に達し経済力、生活力、社会的地位、信用、コネクションがついたと同時に彼は暴挙にでる。

 

「一家の合意の上」ですでに婚約、結納まで済ませていた幼いころからの許嫁が居ながら出会ったばかりのまだ十代であった少女を妊娠させたのである。

当然面目をつぶされた父親は怒り狂い、幼いころから従順(そう思い込んでいた)であった息子の暴挙を許容することなく勘当を言い渡した。

既に落ちぶれた家の援助など必要の無い左京は粛々とそれを受け入れ、あっさり家を捨てた。

 

正直言うと左京にとって妊娠させる相手は誰でもよかった。どこにでもいる普通の女であれば面倒も少ない。相手がまだ十代の大学生であったのは流石に計算外であったが初対面、何ともさばさばとした気持ちのいい少女であったため、彼はその女性を選んだ。

 

長年の目的と一時の感情と勢い―そんな曖昧な組み合わせで。

 

こういう「人でなし」な点は「血は争えんな」と自嘲気味に左京は笑ったものだ。嫌い続けた一家の血が逃れようもなく自分にも流れているのだと思い知る。

そんな感傷的な思いも打ち捨て、左京は自分の目的のために利用し、「用済み」となったまだ十代の幼さ残る少女を呼び出した。どう転がろうと対応できる自信はあった。

 

この年齢、そして一時の感情とはいえ「自分ほど」の人間が選んだ相手だ。それにそれなりの大学に通っていることは知っていたし、受け答えもしっかりしていた。少なくとも「一定の分別」はついているだろう。まだ彼女が十代という自分の年齢、彼女の将来を鑑みれば結果は見えている。

 

おそらく堕胎が妥当だろう。

 

堕胎手術費用と手切れ金、そして「報酬」としてそれなりの金を渡せばどうにでもなる―そんな驕りともとれる上から目線と下卑た感情を抱えながら左京はとある人目につかない寂れた喫茶店で少女と再会する。

 

その日仕事での大事な会議を控え、「・・私にはあまり時間がない。申し訳ないが早速本題に入ろう」と前置き、ほんの十分ほどの時間の間に話を終わらせ、「一生会わない、お互いに関わらない約束」を左京は取り付ける腹づもりであった。

 

 

しかし―一回り年の離れた次の少女の言葉に天地がひっくり返った。

 

 

 

 

 

「・・左京様。私この子を産もうと思います。そして貴方は私と結婚して頂きます」

 

 

 

 

 

左京はその日大事な会議に出ることができなかった。それどころかあったことすら忘れた。

 

 

少女はその日既に自分が通っていた大学を中退し、今までの人生も将来も投げ出して左京の前に座っていた。

幼く柔和で、しかしもう「母親になる」という強い決意、意志をにじませたまっすぐな瞳に左京は気圧される。ここまで動揺したことは今まで彼の人生においてなかった。

 

「・・。・・ぐびっ」

 

まともに話ができるまで落ち着くのにアイスコーヒー三杯とお冷二杯を要する。このころから動揺すると彼は飲み物で気持ちを落ち着ける癖があった。

(一方彼女は「お腹の子供のため♥」と言って果汁100%のオレンジジュースを負けじと四杯ほど頼んだ。)

しかし、彼女を翻意させるために用意したありとあらゆる「好条件」を揃えた彼の言葉は全く以て彼女に通用しなかった。

 

「・・決めましたの」

 

愚直に少女はそう繰り返す。手詰まりになり、次第に弱々しくなる左京の言葉とは対照的に。

 

左京は困り果て、妙に高くついた喫茶店の五、六人分ぐらいはありそうな伝票をしゃくり上げ、生まれて初めてこれ以上みっともなくそそくさと逃げた。そんな彼を追うこともなく少女―紗季はテーブルの上で微笑みながら凛と彼を見送る。

 

「・・・♪」

 

彼の人生においてこれほど鮮やかで美しい少女を見たのは初めてであった。

 

自分の過去、今、約束された未来すべてから外れた直後のこの少女がその原因を作った張本人の男に浮かべている表情がこれ以上もなく美しかった。

 

 

そのまま彼女と合わせる顔もなく数か月が経過する。

 

一方的に金は送り続けた。堕胎費用と手切れ金と報酬すべての意味を込めて尚過剰すぎるほどの金を。けど一向に会う勇気は生まれない。何とも情けない自分の有様に頭を抱える。

 

・・気付けば四六時中彼女のことを、そして彼女のお腹の中にいる子供のことばかり考えている自分がいることに左京は気づく。あの後彼女がどうなったか、どうしたのか分からない。確かめる勇気も湧かない。

 

 

―彼女は今、どうしているのだろうか。やはり自分の若さを痛感し、子供をおろしたのだろうか。

 

彼女―・・・つまり私の子供を。

 

完全な私の自分勝手な都合で生まれてしまった命―

 

簡単に切り捨てようとした、向かい合おうともしなかった命―

 

もう既に喪われているかもしれない命―

 

・・・・!!

 

 

 

左京はその日再び大事な会議があったにもかかわらず会社を飛び出し、市内全ての産婦人科をしらみつぶしに車で回る。

 

 

奇しくもその日が彼の最愛の娘―紗江の誕生日であった。

 

 

最後に訪れた小さな助産院―そこにまだ名もついていない小さな小さな女の子を抱え、息も切れ切れ、乱れた髪、疲れた表情の左京を笑顔で迎え入れたあの少女―いや、「母親」になった紗季が居た。

 

 

「・・抱いてあげてくださいな。左京さん」

 

 

彼女にそう言われたがとても出来なかった。目の前の母親である紗季に比べればなんと今の自分は頼りない存在か。そんな情けない人間にこの子も抱かれたくはないだろう、と、左京は目を逸らす。

 

「・・ほら、左京さん?」

 

しかし尚も紗季は促す。一足早く人の親になった紗季が急かす様に左京を。お転婆な娘が照れ屋の父親の手を引くみたいに。

 

―・・・。

 

紗季に促され、ようやく恐る恐る左京は無言のまま生まれたばかりの赤ん坊に人差し指を伸ばす。その小さな小さな手のひらに向かって。正直まだ目が開いていない段階の赤ん坊でなければ確実に拒否られるほどのおっかない表情の左京であったが、生まれたばかりの娘はそんな「父」の指先を手探りに辿り、小さな掌でしっかり握る。

 

 

 

 

・・涙が出てきた。

 

 

 

 

―・・何というものを手放そうとしていたのか、自分は。あっさりと。何の感慨もなく。

 

 

この小さな手が男にとってかけがえのない至宝になることが決まった瞬間であった。震える指先を止められない。そんな彼の指先の震えを慰めるように掴む小さな娘の掌が温かい。

 

 

 

―・・この子のためになら何でも出来る。何にでもなれる。

 

 

 

そう思い、祈るように無言でただ俯いたまま嗚咽する左京の姿に向かってにっこり微笑み、紗季は―

 

 

 

「改めて・・私と結婚してくださいませんか?左京様」

 

 

 

・・二回目のプロポーズをした。

 

 

「貴方がこの子を放っておけなかったように私もあなたを放っておけません。だって貴方は・・いつもとっても寂しそうなんですもの。私でよろしければお傍に居させてくださいな・・」

 

 

「・・駄目だ。やっぱり君の申し出は断るよ」

 

「・・・」

 

 

プロポーズに対するあまりに冷たい拒絶の言葉を発した直後の男の顔が上がる。しかし、今の彼の表情は先ほどの言葉とはあまりに対照的に熱く、赤く染まっていた。照れ隠しのごとく少しの「えへん」という咳払いとともにこう切り出す。

 

 

「そして・・改めて私から言わせてもらいます。・・紗季さん。どうかこの子と一緒に末永く私と添い遂げてくれませんでしょうか・・?このような瞬間でしか自分の気持ちに気づけない情けない男ですが・・」

 

 

深々と左京は頭を下げる。

 

 

 

 

この日より左京、紗季、そして後日「紗江」と名付けられる三人の「S」は家族となった。そして歩み、奏でる事となる。

 

 

・・・ルート「S」を。

 

 

 

・・・何ともにぎやかで愉快な家族の唄を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





だからこそ―


左京は「あの男」を許せない。


なぜこうまで自分たちは違うというのか。

同じような人生を歩みながら。

同じ年齢でありながら。

近い年齢の宝物のように可愛い娘を得ながら。


―お前にもあったはずだ。この時の私と同じ様な瞬間が・・!!


なのに。



―・・なぜ「それ」ができる?



・・なぜそんな仕打ちができる!?



ある意味これは「同族嫌悪」なのかもしれない。一歩間違えれば左京もまた「あの男」と同じ道を辿ったのかもしれない。

しかし、似たような環境、似たような家族の風景を作った二人の男のたどった道は実際の所、あまりにも対照的であった。












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ルートS 終章 Roots ~family song~ 2













「・・」

 

「・・」

 

ただ無言。ただ沈黙。記憶と思いの丈すべてを語った直後の中多父―中多 左京とその向かいに座りながらぴんと背筋を正し、彼の言葉を一言一句聞き漏らすまいと強く拳を握りしめていたひときわ小柄の17歳の少年―御崎 太一の二人を静かな沈黙が包み込んでいた。

 

「・・もう一杯どうかね?冷めてしまったが」

 

「・・。・・!あ・・。い、頂きます」

 

ふっ、と笑って左京がポッドに入った残り少ない紅茶を太一のカップに注ぎ込む。いつの間にかじっとりと汗ばんでいた両掌を隠すようにしつつ、太一は注ぎ込まれる紅い紅茶の澄んだ色を眺めていた。ゆらゆら揺れる紅茶の水面と一緒で太一の頭の中もまたゆらゆらまだ纏まっていない。

 

―・・・。

 

「何か言わなければ」とは思う。だが、やはり自分は部外者なのだということもまた痛感する。自分が目の前の中多父―彼にどんな言葉をかけてもすべてが筋違い、的外れのようになるような気がしてしまって今は言葉など出ようもない。しかしそんな複雑な心中を察したのか目の前の紳士は―

 

「・・。聞いてくれてありがとう。みさ・・いや、太一君。正直この話は今まで誰にも話した事はなかったんだ。紗江はおろか妻にすらない」

 

左京は何時になく優しい口調で微笑み、同時やや恥ずかしそうに眉をひそめて太一のカップに残りの紅茶を注ぎ込んでくれた。

 

「全て」は太一に伝えた。与えた。注ぎ込んだ。

 

「・・ふぅ」

 

その「注がれたモノ」をどうするのかは君次第だ、と言いたげに左京は珍しく疲れたように一息つく。その姿に太一は改めて自分に託されたものがこれ以上なく重く、そして大半の情報が自分という人間が「その情報を手に入れる人間」としてはこれ以上なく不適格であることを悟る。

 

しかしそれは解っていたことだ。この情報を本当に聞くべき、そして知るべき人間が居る。そして今の自分は幸運にもその人の下に行ける人間なのだ。伝えられる人間なのだ。それだけのことが今はとてもうれしい。ほんの数年前の自分では考えられなかったことだ。

 

―・・よかった。

 

本当に太一はそう思う。彼らと、そして彼と友達になれて。そしてまた本当に、本当に良かったと思う。

 

 

 

 

―・・紗江ちゃんに会えて。そしておばさんとおじさんに会えて。

 

 

 

 

あくまで聞かされた情報の内、確かに大半は太一のものではない。

 

そう。あくまで「大半」は。

 

一方で今の左京の話の中で確実に解ること、そして太一にとって他人ごとではない事は本当にこの目の前の男性が太一にとっても大事な可愛い少女、そして妻、つまり自分の「家族」を本当に、心から大事に思っていることの証拠である。

 

・・それ故に彼は苦しんできた。到底理解、そして許容できぬ仕打ちを目の前にして憤り、そして何をすることも出来ず忌避し、唾棄し、背を向けた過去を。

 

確かに他人事ではある。彼にとって絢辻家の姉妹達、そしてあの男との関わり合いもほんのわずかな時間の事であることも違いない。

だが、それでももう放っておけないのだ。この目の前に居る小さな少年が友人の一大事を放っておけなかったことと同じ様に。

 

例え他人事、他人の家族のこと、関わり合いの無い事、部外者である自分が茶々を入れることなどおこがましい事だとしても・・放っておけないのだ。

 

 

同じ年頃の娘を持つ一人の人間として。一人の父親として。だからすべてを話した。

 

 

「ありがとうございました」

 

 

「・・・」

 

「・・ふふっ、こう言うのがきっと正しいんでしょうね」

 

そう呟きながらすっくと立ちあがり、太一もまた一息ついて幼く笑う。

「僕が全部を受け取ることはできない、できそうもない」、でも「必要な分だけ貰っていきます」とでも言いたげに時間が経過しすぎ、少し苦味ばしった紅茶を僅かに一割ほど残し、かたりとティーカップをテーブルの上に置いた。それを理解したかのように左京も頷く。

 

「・・ご馳走様でした」

 

「・・。行くのかね。・・また来るといい」

 

「・・・!」

 

―・・・え。

 

初めてだった。太一が左京にこんな風に言われたのは。

いつも素っ気なく帰り際に「・・・今日が君がこの家に来る最後の日であることを願うよ」などと言った大人げない一方、妙にカワイイ悪態を付く彼を何度も見てきたからだ。冗談九割、しかし一割確実に拭い難い本音が見え隠れするあの悪態。

 

 

しかしそれほどに彼は娘が可愛いのだろう。愛しいのだろう。

 

 

太一もまた紅茶を一割残した。飲み干した九割をここに居ない友人の元へ今から届けに行く。そして残りの一割を・・またここに来るために太一は残しておく。

 

 

 

―・・僕はこの家族のことが好きです。

 

 

たとえまだ出会って間もないとしても。・・大切な人たちです。

 

今までいろいろ突飛なこともされた。怖かったこともあった。心底肝を冷やしたこともあった。だけどやっぱり僕はこの人たちが好きです。大好きです。

 

この家族の奏でる「歌」は・・・とても心地いいんです。

 

 

 

がたっ

 

 

『ちょっ・・紗・・ちゃ、ん・・ママよく、聞こえないわ~~~・・もうす、こしよ・・ってちょ~~だいっ!!』

 

『ま、ママぁあ!!・・お、重いよぉ!きゃっ、きゃあ!!』

 

 

 

「・・・ん?」

 

「・・・む?」

 

 

そんな声が廊下から聞こえてきた。はっきり言わなくてもわかるだろう。「奴ら」は聞いていやがったのだ。おそらく発案はあの悪戯な母親であろうが。

 

「きゃあ!!」

 

「あらぁっ!」

 

そしてお約束通り、応接間のドアが聞き耳立てていた二人の重さに耐えきれず、バガンと開き、悪趣味な母娘二人がどどっと雪崩れ込んできた。

 

 

 

二択開始。この母娘、やはり背格好、見た目ともによく似た二人だ―

 

 

「・・!!」

 

 

しかし太一は迷うことなく一直線に駆け出し、そのうち「一人」を選んだ。初めて「彼女」と出会ったあの日、吉備東高校の食堂で出会ったあの日と同じ様に。

 

 

「・・わっと!」

 

「きゃっ・・!」

 

 

・・今回もまた正解。でも正直中多母―紗季には悪いが多分、この先ずっと太一は自分が彼女と母親を見間違えないだろうなという自信があった。

 

 

「・・先輩」

 

「・・・」

 

あの日と一緒だ。この女の子はこれからずっとこの先このぐらいの大きさだろう。相変わらず頑張って毎日牛乳を飲んでいるようだが、残念ながら彼女の体のとある「一部分」を除いて成長は望み薄のようだ。

 

そして太一も同時にまた望み薄。きっと一生身長が160cmを超えることはないんだろうなと内心諦めの苦笑いする。

この童顔も、力の弱さも男にしては妙に高い声も変わらないんだろう。

 

でも―

 

今は出来ることがある。誰かに何かを与えることができる。伝えることだってできる。

なら誰かを支えることだってきっとできるはず。この手の中の小さな一人の女の子を支えられたらどんなに嬉しいだろう。誇らしいだろう。

この子を産まれた時からずっと守り続けてきた人たちに比べるとまだまだあまりに貧弱すぎる両腕であるが自分が出来ることはすべてやるつもりだ。

 

それにこの小さな少女は意外にも見た目ほどに柔ではない。ほんのわずかな時間でだれもが目を見張る成長を太一達に見せてくれた。

 

 

「・・立てる?」

 

「・・・へ?」

 

「立てるね?紗江ちゃん」

 

「・・は、はい!」

 

一瞬呆けたような表情を中多 紗江は見せたがすぐにパっと大きな瞳を見開いて姿勢を正し、衣服をしっかり整える。

 

「・・・っは!!(ぺこぺこ)」

 

ただ結局太一と左京の話を覗き見、盗み聞きしていた事への詫びなのかぺこぺこと頭を下げてしまう。しかしそんな相変わらずの所もまた可愛らしく、何とも「らしい」。

 

「・・・む~~また見破られちゃった・・。ほら見て貴方?わざわざ私紗江ちゃんと同じ服に着替えたのよ。なんっで~~~!?」

 

「紗季・・いい加減よしなさい。私も人のことは言えないが・・」

 

床の上で頬杖をつき、不機嫌そうに足をぶらぶらしながらぶ~たれつつ、口を尖らす妻―紗季に手を差し出しつつ、左京は大人げない今の妻の姿をいつもの自分と重ね、反省したような自嘲気味の口調でつぶやく。

 

―・・私も、いや、私たちも大人に、大人にならねば。・・な。

 

 

「・・・ふふっ♪」

 

そんな神妙そうな彼の手を少し幸せそうに、うれしそうに微笑みながらしっかり掴んで妻はゆっくりと立ち上がり、夫と共に小さな娘と少年のやり取りを暫く微笑ましく見守る。しかしー

 

 

「・・い~~えっ!私諦めませんわ!!『これと』、『それと』は別っっ!!」

 

 

結局堪えきれずに彼女もまた「らしさ」を全開に出す。

 

 

「・・もう好きにしたまえ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




三十分後―太一、そして中多 紗江の二人は家を出る。目的地は言葉に出さずとも皆解っていた車で

「送ろうかね?」という左京の申し出を太一は笑って断った。

ー「自分達」の足でいきます。

とでも言いたげな二人をせめて玄関先までと、左京、紗季夫婦は見送りに来てくれた。
正直まだまだ周りで見ている方が不安になるくらい一見頼りなさげで小さな小さな少年少女二人―しかしその姿は今や中多夫婦にとってこれ以上なく頼もし気、そしてどこに出しても恥ずかしくない二人であると確信している。だから左京は申し出を断った太一にこう声をかける。


「・・いってらっしゃい。気を付けて。二人とも」


「またいつでも帰ってくればいい。・・『二人』で」―そう言いたげにやさしく微笑みながら。


この玄関先、この場所こそ新しいルート「S」の「原点」、「Roots」。



今日この日。一つの家族に一人の小さな少年が新たに仲間入りする。


小さな小さな「S」―


「少年」、「小動物」、そして「新参者」―御崎 太一。


彼らは新しいルート「S」ー家族の唄を奏でる。



行ってらっしゃいー




行ってきます―





ただいま―





おかえり。











                            ルートS       完


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ルートT 二十九章 集約 








これは梅原から御崎に連絡が行く前―有人と梅原、国枝三人の病室内の会話である。

 

「う~~む」

 

大体の事情を呑み込めながらもとある疑問を隠し切れない梅原が腕を組みながら唸り、こう呟いた。

 

「しっかしよぉ・・よっくよく考えれば何もそんなに協力者を求める事もないんじゃね?だってぶっちゃけ絢辻さんをここに連れてくるだけの話だろ?今から俺が電話してちょちょいのチョイって感じじゃねぇの?」

 

梅原の当然の質問が飛んだ。確かに彼女をここに連れてくるだけならば一見簡単なようにも思える。

 

「・・・」

 

国枝もそれに関しては無言のまま。特に異論はないようだ。確かに絢辻が吉備東をいずれ去らなければいけないことは事実だとしても、昨日の今日ですぐに身動きが取れないほどの状況にはならないだろう。現に今は12月26日、吉備東高校も冬期休暇に入り、一学生がほんの数時間乃至、数十分程度の時間をとることは可能なはず―そう考えていた。

 

「・・いや」

 

しかし「現状」の詳細、事の全てを知る有人にとっては梅原の質問はある意味愚問であり、内心明確に否定した。昨夜の絢辻との出来事を目の前で目撃していない人間にとってはピンとこない話だろうが、昨夜この場所に居た有人と絢辻の二人にとって次のこの言葉が共通認識だろう。

 

―有り得ない。「あの男」が許すわけがない。

 

まず十中八九、「あの男」はもう娘を―絢辻を有人に関わらせることをさせないだろう。

この時点で大した根拠は無かったが有人にはそういう確信があった。昨夜「あの男」がハッキリと有人に向けたあの静かな、当たり障りのない会話の中の僅かで、しかし苛烈で強烈な敵意の眼差し―それだけで十分だった。ハッキリと言外からこんな感情を感じ取れた。

 

―娘には金輪際近づかないでもらおう。理由も聞く必要はないよ、ただ忘れてくれたまえ。君と娘。いや、君と「私たち」とはそもそも生きる世界が違うのだ

 

・・身の程を知り給え。

 

 

ほんの二、三分足らずの、ほぼまともな会話は無かったといっても過言ではない「あの男」との邂逅、しかしそのほんのわずかな時間に濃密なほどに有人に浴びせられた強烈な「敵意」―それは同時に有人自身にも生まれて初めてと言っていい物を生まれさせていた。これもまた皮肉なことに「敵意」だった。

 

「・・無いよ。絶っ対させないと思う」

 

「え・・そなの・・?」

 

首を振って梅原の言葉を明確に否定する有人の―彼にしては珍しい強いその断言の言葉に思わず返す言葉を失う梅原に代わり、今度は国枝が質問をする。

 

「『させない』・・?絢辻さんがもうお前とは会うつもりがない、会ってくれないってことか?」

 

「・・。絢辻さんの方は・・。確かに確実に会ってくれる保証はない、かもしれない、ね?・・正直、さ」

 

弱気な表情をして視線を落とし、自信なさげに有人はそう呟く。しかし先程現に「絶対させない」と断言した際のニュアンスと今の有人の歯切れの悪い言葉、態度が全く辻褄が合わない。

 

「・・『方は』?って言ったか?」

 

「・・うん。そうだよ直。絢辻さんのことじゃない。絢辻さんの・・お父さんが、さ」

 

「へっ?そこで絢辻さんのお父さんが出てくんの?なんで?」

 

梅原はあまりに意外過ぎる有人の言葉を前に素っ頓狂に瞳を丸めるしかなかった。

 

「・・・」

 

一方、「絢辻さんのお父さん」と便宜上言った有人の言葉―それに含まれるこれ以上ない不穏さを国枝は感じ取り、押し黙っていた。合点は行かなくてもある程度雰囲気を感じ取ってくれた勘のいい親友の気遣いを前に有人はふっと表情を崩し、

 

「まさか・・自分の人生で『この言葉』を使うとは思いもしなかったな・・一生使うことないと思ってたよ」

 

と呆れたように呟く。当然梅原には意味が解らない。国枝は黙り込んだままだった。

 

「は?」

 

「・・・」

 

 

「あれ・・・『敵』だよ。絶対に妨害してくる」

 

 

「敵」―

 

ドラマや漫画、テレビ、映画で満ち溢れているこの言葉は元来、スポーツなどの「競技」を除けば普通の生活を営む一般人、とりわけ平和な日本の日常生活に使われる事は実はほぼない。

 

が、有人にとって「あの男」の存在は紛れもない「敵」だった。

 

自分のプライドを一瞬にして踏みにじり、また問答無用で絢辻を連れていこうとする「敵」。

 

有人という少年の普段のイメージ、生き方からははっきり言ってあまりにかけ離れている言っても過言ではない言葉である。が、「あの男」はまさしくそれに相応しかった。

 

 

 

 

そしてそれを裏付ける、そして有人だけでなくここにいる国枝、梅原にもある程度有人の思いを共有させる情報が届く。

 

数時間後―御崎 太一、そして連れ人として中多 紗江が来訪。

 

 

 

今全てが「集約」した。

 

 

 

 

 

 

 

29 集約

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕が紗江ちゃんのお父さんから聞かされたのはこれで全てです・・これ・・何かの役に立つかな・・?」

 

 

病室の背もたれの無い、昨夜何時もより小さく儚げに見えた絢辻が座っていた丸椅子の上で今日は女の子の様な小さな少年―御崎 太一が頭を掻きながら苦笑いし、今朝中多父から伝え聞いた絢辻姉妹、・・そして「あの男」の話をし終えた。

 

しかし御崎はこの中多父―中多 左京から伝え聞いた話がどれ程今の有人たちの状況にどストライクな話題なのかはまだ良く解っていない。解るはずもない。だから申し訳なさそうに照れ笑いしながら誤魔化す。

 

「「「・・・」」」

 

何せ御崎の話を聞いた直後、有人はもちろんのこと、国枝、梅原の三人が現在、彼の目の前で完全に無言のカッチコッチのフリーズ状態となってしまっているからだ。

御崎は今にも「すんませんでした!場違いな話でしたね!僕帰ります!お邪魔しまっした~~!!」とか言って逃げ出したい気分だ。

 

「い、いきなりこんな話聞かされてもって感じだよね・・あはは」

 

そうひきつって笑う御崎を置いてけぼりになおも有人は押し黙ったまま、国枝も梅原もだ。「やばい。帰りたい」と御崎が思ってしまっても無理はない。

 

―うう・・なんだろう・・このものすっごい「やっちゃった」感。

 

「御崎ぃ・・?」

 

その中でようやく三人の内一人、普段一番多弁の梅原がやはり一番先に口を開く。

 

「は、はい・・?」

 

「お前さ。俺いつも思うけど・・な~~~んか『持ってん』な・・?」

 

「へ?も、『持ってる』って?」

 

―へっ?ぼ、僕もうお見舞いの品は渡したよね?つまらないものだけど!でも、でももう何も持ってませんって!ほら!?え!?ひょっとしてお金とか?「場違いな情報持ってきたペナルティ」とか!?「お前ぴょんぴょん跳ねてみろ」とか言われるの!?

 

お金なんてもうないって!!この前のクリスマス前のパーティーでスッカラカンだってぇ!!

 

真っ先に口を開いてくれたはいいが梅原の言葉があまりにも中途半端すぎる。御崎は気の毒な事この上ない。

 

 

「太一君・・」

 

びっくぅ!と背筋を伸ばしながら今度は有人の言葉に御崎は躍り上がる。

 

「は、はい!?・・・!」

 

「もう覚悟はできています。ヤキ入れてください!」と、言いたげに目を瞑った御崎の耳にあまりに意外な言葉が届く。

 

 

「・・ありがとう。おかげで決心が固まった。色々と。本当に、ホントに有難う・・・」

 

 

そう言って深々と有人は頭を下げた。

 

「え・・?う、ううん」

 

御崎はそんな有人を前に女の子みたいに仕草で胸の前で両手と、そして「よ、よしてよそんな」とでも言いたげに首をぷるぷる振りながらワタワタする他ない。

 

「御崎・・お前本当に凄いわ。梅原の言う通りホントに何か『持ってる』よ。・・おかげでこっちも色々と状況が解った」

 

最後に国枝も同調する。

 

「・・そ、そう?・・よかった」

 

まだ「半分」しか状況の解ってない御崎はまだおそるおそる怯えつつそう言った。彼には気の毒な事だが現状少し涙目ですらある。彼のタイムリー過ぎるファインプレイを当の彼自身が未だ理解できないという何とも悲しい状況はこれからもまだ数分間続くことになる。

そんな彼への感謝を終えた有人は今度は中多 紗江にも微笑みかける。

 

「なか・・いや、・・紗江ちゃんも本当にありがとう。そして紗江ちゃんのお父さんにもお礼を言っておいてほしい」

 

「ふへっ・・!?はっ、はひ・・」

 

そんな状況を少し離れた所で見、いざ御崎がピンチの時駈けつけようとして居つつも怯えが消えず、プルプル震えていた中多もまた涙目だった。

そんな彼女も今の有人の心底の感謝の言葉を前に心底ほっとし、同時安心と極度の緊張感からの解放からかふらふら、へなへなと腰が砕ける。

 

ーはぅう~。心臓に悪いですぅ・・。

 

「おっとぉ~~紗江ちゃんあぶぬわぁ~~いっ♪」

 

「わ。あ、ありがとうございます・・」

 

そんな彼女に「はいどうぞ~」と梅原が絶妙なタイミングで病室の丸椅子をあてがう。そして未だ緊張した面持ちで背筋を伸ばしながら忠犬のごとく健気に座る彼女の背後で「紗江ちゃ~~ん?リラックスリラックス~♪お?なんなら肩でもお揉みしましょうか~~?『さぞ』凝ってることでしょう~~?」と、言いたげに揉み手をしだす。が、明らかに「別の所」を揉みそうなので御崎はきっ、と鋭い視線で梅原を睨んだ。

 

―・・「触った」ら殺すよ。梅原君。

 

―ちぇっ。ケチケチすんな~~い。

 

そんな些細な日常のやりとりを経てようやく御崎の心根も平常に戻りつつあった。

そして御崎もまた安堵する。そして中多と視線を合わせ、お互いにやや疲れた瞳を緩ませ笑いあう。

 

 

―・・よかった。ちゃんと聞いてもらえたみたいだぁ。ホントに・・よかった。はぁ・・。

 

 

それほど今の病室は御崎の話を終えた後、異質な空間になっていたからだ。国枝はもとより既に梅原もまた雰囲気を元に戻している。

 

 

御崎から聞かされた内容をかみ砕き、国枝、梅原もある程度「理解」する。有人が「敵」と断言した意図を。そして思った以上に状況は一筋縄ではいかなそうな事を。

 

 

・・一方―

 

―・・・。絢辻さん。

 

有人は中多 紗江にもしっかり頭を下げてお礼を言ったのち、頭を下げた姿勢のまま眼鏡の奥の薄茶色の瞳を見開きながら無言のまま今はただ絢辻の事を考えていた。

 

 

今までの彼女のことを。彼女と過ごした日々を。

 

 

そして彼女がどのような環境で育ち、どんな想いで生きてきたか、そしてその一部を有人とのほんの短い時間の中で少なからず静かに送り続け、見せ続けた―

 

 

 

・・小さな小さな儚いメッセージ達を。

 

 

集まり、集約する。有人の中で。

 

 

 

絢辻 詞という少女が。

 

 

 

 

 

彼女は美しく、優秀で知的で。

そして―

 

 

 

 

 

・・コワレモノだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートT 三十章 時よ ~雨天決行・裏~










 

 

 

 

 

 

30 時よ

 

 

 

 

 

―土砂降りでも、ずぶぬれでもいい。

 

 

この気持ちを持っていられるのなら。

 

 

何も持たずに絢辻は雨の中を飛び出した。神社の軒下に眠る有人に自分のブレザーをかけ、肩までの学校指定のセーターも脱ぎ、白いブラウス姿のまま雨の中を一人少女は歩く。

 

「・・・」

 

灰色の空を仰いで無表情、無言のまま瞳を閉じ、ただ一人少女は雨に打たれていた。濡れた黒い前髪が彼女の視界にぴとりと張り付いている。

 

「・・・」

 

それを丁寧に指先で拭い、黒い水晶のような瞳を開き、改めてまるで鉛のように重い灰色の空をもう一度仰ぐ。

 

 

しかし。

 

雨は。

 

止まない。

 

止む気配すらない。

 

ただひとりぼっちの少女を濡らす。

 

 

 

 

 

「・・・っまって・・・」

 

 

突如不明瞭な言葉で少女ー絢辻はそう呟いた。降り頻る雨の音にたやすく掻き消されてしまうほどの、そもそも存在自体すらも疑ってしまうような声。近くに誰かが居たとしても空耳と誤認識してしまうのではないかと思うほどの小さな声だ。しかし―

 

 

「・・・まって、・・・っまって・・っっって!!」

 

 

ならば質より量で。掻き消えそうな存在を自ら必死で訴えかけるようにただ繰り返す。それでもその声はたとえ「音」としては存在していても未だ「言葉」としてこの世界に存在するには余りにも弱々し過ぎるものであった。

 

聞こえないぞ―

 

はっきり言え―

 

周囲には確かに絢辻以外誰もいない。しかしそんな幻聴が聞こえてきそうなほど苛立たしいほど、もどかしい程のか細い声。

 

これでは誰にも聞こえない。

 

響かない。

 

・・届かない。

 

そんな状態の自分に誰よりも腹を立てていたのは―

 

「・・・・~~~~っ!!!すうっ・・・!!!」

 

他でもない絢辻自身であった。苛立たしそうに唸った後、降りしきる雨の中思いっきり空に向かって虚空を吸い上げる。口に瞬時に何十、何百もの雨の滴が入ろうともお構いなし、口の中で糸を引く程粘ついた口内も気にせず、絢辻は大きく口を開け―

 

 

 

「・・・・止まって!!!!!!!!」

 

 

 

こう叫んだ。

 

今世界がようやく彼女が先ほどまで小さな声で呟き、敢え無く、意味も無く掻き消えてきた言葉たちの意味を理解する。しかし尚も絢辻はやめない。

 

 

肩で息をするように肩を震わせ、何もかも打ち捨てた筆舌し難い程の痛々しい表情、普段の「仮面」など一切合切取り払った見るに堪えないくしゃくしゃの潰れた顔のまま、雨水だらけ、鼻水だらけ、

 

・・涙まみれのままで―

 

 

「あ・・あぁああああああああ!!!!」

 

 

ただ彼女は叫ぶ。繰り返す。

 

 

 

「止んで!!・・・止まってぇっ・・・!!!もう、・・降らっ・・ないで!!!!」

 

 

 

「・・・止まってよ!!!!」

 

 

雨も。

 

・・時も―

 

 

 

 

「私はっ・・!!あのひ、人と、居たいだけなのぉっ!!!!一緒に居たいだけなのっ!!!なんっで・・・何で、・・なんでそれが駄目なの!!?それだけなのにっ!!??」

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぁあああああああんああああっ!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

―土砂降りでもいい。ずぶ濡れでもいい。この気持ちを持っていられるのなら。

 

・・・あの人の傍に居られるのなら。

 

例えどれほど傷ついても、悲しくても、せつなくても構わない。

誰に傷つけられても、貶されても、貶められても構わない。

 

でも・・もう一人は嫌だ・・・っ!!もう嫌っ、なの・・っ!!

 

 

 

 

 

 

・・いっそのこと時など止まってしまえ。

 

誰も自分のもとに居なくなってしまうのなら、また一人になってしまうのなら。

 

・・あの人が居なくなってしまう未来が訪れるくらいなら。

 

 

 

時よ―

 

 

 

止まって。凍り付いたままじっとしていて。

 

 

 

 

 

 

だが―

 

時が進むことを誰かがどれだけ強く拒もうと、誰かのこの先の未来がどれだけ闇に満ちていようとも平等に時は彼らを運んでいく。止まることなどない。決して。

 

今までの絢辻 詞という少女にとって時というものはいつも味方だった。どれだけ苦しかろうと、どれだけ辛かろうと時はいつも平等に進んでくれた。日々努力し、歯を食いしばって耐えている時も、屈辱にまみれた瞬間も、吐き出したい鬱憤をこらえ、愛想笑いを続けたときも。

時はすべてを解決してくれた。そんな時間をいつも通り、通り過ぎさせてくれた。

 

また、時はすべてをいずれは解決してくれるはずだった。

 

いずれ大人になれる日が来る。いずれ一人で生きていける日が来る―

・・愛されなかった事実、過去を忘れて自分が生きていける場所を自ら選んで、自ら進んでいける時間が来るはず―

 

繰り返そう。絢辻 詞にとって確かに時は味方だったのだ。

 

 

しかし、今は違う。

 

と、いうより絢辻は改めて思い知る。そもそも時は味方でも敵でもなく所詮は「概念」であることを。時自体は何の感情も持たず、誰しもに平等に刻まれるのみ。結局は己の在り方次第で時というものの意味が変わるだけの話なのだ。

 

それが絢辻 詞という少女の中で彼との出会い―源 有人との出会いで全くの真逆になってしまっただけなのだ。時にとってはただそれだけの話。関わり合いの無い事なのだ。

 

 

 

 

時は残酷なことに常に「雨天決行」。人を誰分け隔てなく、平等にあるべき場所へ運んでいく。

 

 

 

極地、終点は誰しもが例外なく死である。しかし、その前にいくつもの人の数と同じ、更に一人ひとり星の数ほどの無数の基点、起点、輝点、岐点、機点を刻みながら進んでいく。

 

 

 

 

 

「・・・」

 

絢辻が喉の奥から、心の奥から張り上げた声に何の感慨も示さぬかのように尚も降りやまない雨の下―

 

「・・ぎりっ・・」

 

諦めたように肩をストンと落とし、俯いた唇と奥歯を噛みしめる。もはや視線に再び纏わりついた前髪を払おうとすらせず、そのまま絢辻は再びトボトボと歩き始める。

 

止まらない雨の中を止まらない時と一緒にまた。

 

 

・・歩んでいく。

 

 

 

数十分後ー

 

 

「つかさちゃ~~おか、・・え、り・・・な、さい・・」

 

「・・・」

 

無言の、ずぶ濡れのままの妹を絢辻姉―絢辻 縁は玄関先で迎え入れる。妹のずぶ濡れの黒髪から無数に滴り落ちる雫、足元が水たまりになるほど水を吸った妹の靴、靴下、なぜか羽織られていないブレザー、手元には濡れて丸めたセーターのみで鞄も何も持っていない、上半身を申し訳程度に覆っている白いブラウスは最早下着が透けて見えるほど濡れている。

 

「・・!」

 

普段近くの河川敷でウルと一緒に泥だらけになるほど駆け回っている絢辻姉―縁のちょっと疎い、世間ずれしたとぼけた倫理観を以てしても全くもって許容できない姿である。襲われたら、乱暴でもされたらどうするのだと言いたげに絶句した。

 

 

「どいて邪魔」

 

そんな目の前の姉を何時ものように妹は邪険に振り払う。淡々と必要最小限の台詞のみ姉とすれ違い様に呟き、俯いたまま脱いだずぶ濡れの靴を揃えることもせずただふらふらと室内に入っていく。濡れた靴下でびとびと律義に廊下に足跡を残しながら。

 

「つかさちゃ・なんでこんな・・詞ちゃん!!・・ちょっと!!」

 

縁が静止するも一瞥もくれることなく姉を無視し続ける妹の足からぼとぼと続く、雨の雫の帯を前にアタフタしながら取り合えず縁は洗面所からタオルを取り出し、「あ~~あ~~あ~~(-_-;)」と言いながら掃除係のおばさんみたいに床を拭く。そんな背後の姉の悪戦苦闘も完全無視。尚も妹は振り返ろうともしない。

 

しかし―

 

 

―え?

 

縁は目の前の光景に意外そうに瞳を見開いた。なぜなら家に帰ってきたら直ぐに大抵の場合自分の部屋に籠ってしまう妹がリビングのソファに濡れたままの体で無言でポスんと座っていたからだ。「詞ちゃん!?ソファが濡れてしまうじゃない!どきなさい!」なんてことを縁は言わない。縁はその姿にむしろ逆にウキウキとしながら妹が濡らした床を拭き終えると―

 

 

「つーかーさーちゃん・・」

 

ふぁさりと後ろから抱き着くようにフカフカの新品のバスタオルで妹の頭をすっぽりと包み込む。そしてぎゅ~~っと抱き着いて妹の頭を濡らしていた一定の雨水を吸い取ったのち、くしくしと雨にずぶ濡れになりながらも絹のように柔らかい妹の髪を乾かし、解きほぐしてやる。

 

「・・なんか久しぶり。詞ちゃんの髪の毛を拭くなんて・・詞ちゃんが何歳の時以来かしら~?」

 

「・・・」

 

「♪」

 

相変わらずの完全無言の妹を前にしても縁はうれしそうに無愛想な妹の髪をやさしく、くしくし拭き続ける。なぜなら何時もなら確実に自分を邪険に振り払うであろう妹が今は姉にされるがままなのだ。姉にはとことん無愛想な妹がいつ以来かわからない位、久しぶりに自分を受け入れてくれていることがこれ以上なく嬉しかった。

 

・・どうやら何かあったのは確かだろう。妹の目の周りが不自然に赤く腫れていた。何かが当たって腫れたような痕が残っている。

 

・・そして同時恐らく「それ以外」、「別の理由」で瞳の周りが赤く腫れぼったくなってしまっているのを縁は見抜いていた。

そしてその何らかの事情で妹は今、普段とことん苦手で、いつもつっけんどんにあしらう姉を受け入れている―詰まるところこれは縁に対するどこか「信頼」の様なものが彼女自身消し切れていない証拠にも縁は思えた。

 

否。そう思いたかった。

 

「・・・。っ・・!」

 

一通り妹の髪が乾いたと判断した姉―縁は背中から今は小さな小さな、そしてすっかり冷たくなってしまった妹の体をぎゅっとタオル越しに抱きしめる。

そんな姉を尚も振り払うことなく、ただ妹は相変わらず力のこもっていない上体のままじっとしていた。二人の距離は今限りなくゼロ。だから今はすぐ近くにある妹の微かな息遣いに姉―縁は耳を凝らす。

 

 

「・・・つ・か・さちゃん・・・?」

 

 

 

―・・。・・・・すん、くすん、くすん・・。

 

ほんの僅かではあったが妹の小さな息遣いに交じる嗚咽を縁は感じ取る。その声、その姿に思わず縁は自分も泣きそうになる程の情動が冷たく背筋を走り抜ける感覚を覚えた。が、必死に堪える。換わりに抱き着いた両手に更に力を込める。

 

 

 

 

 

 

この妹を・・かつて縁は疎ましく思ったこともある。

 

幼少のころから縁が心から望んでいたものを全くの無償で「あの男」から受取っていた、享受していた妹だ。正直縁が「あの男」の支配の道から逃れ、「あの男」がその姉の代わりとして今度は妹にかつて縁に行っていたあの仕打ちをしだした時、表面にはなかなか出さないにしても心底では確実に混乱している妹の姿をかつての自分の姿と重ね、可哀そうに思う反面、同時にどこか消し切れないような優越感、快感が彼女に全くなかったといえば嘘になる。

 

それでも逃げた自分とは異なり、尚も頑張り続ける、そして結果を出し続ける妹の姿を見て何時しかそんな自分を恥ずかしく思い、そして応援したくなっていた。

 

 

 

そしてこう願うようになる。叶うなれば彼女にも違う道を見つけてほしいと。かつての私と同じにならないでほしいと。

 

縁、そして「あの男」以外の誰かが彼女を理解し、受け入れ、また嘘でも虚構でなく心から彼女のことを本当に愛してくれることを願った。

 

そしてその「誰か」はどうやら現れてくれたらしい。

 

だがしかし、その人が妹の前に現れてくれたタイミングは最悪だった。別れの時間のほぼ直前の出会いだった。あまりにも二人には時間がなさ過ぎたのである。

 

・・そして何よりもその現れてくれた「誰か」―その一人の少年に縁自身も出会い、話し、知ったときに姉―縁は悟る。あまりに「重なりすぎる」目の前の朗らかな少年の笑顔。

 

 

かつての「あの男」に重なる笑顔に。

 

 

・・さぞ妹は屈辱だったろう。悔しかっただろう。

 

未だに自分が「あの男」の呪縛から逃れ切れていない事を悟って。

 

自分が曾て向けられていたものを未だ何処かで期待し、求めている事を悟って。

 

 

 

―・・やっぱり愛されたいのね。そして・・愛されたかったのね・・。・・詞ちゃん。

 

 

 

・・私とおんなじ。

 

 

可愛い、かわいい私の大事な妹。・・詞ちゃん。

 

 

 

 

「・・・!」

 

 

ぎゅぅっ・・・

 

 

さらに縁は強く強く妹の冷えた体を抱きしめる。自分の心と一緒に。

 

 

強く目をつぶり、そしてまた願う。請う。強く。

 

 

奇しくもその願いは現在力いっぱい両手で抱きしめ、繋がっている妹と完全に同調していた。

あのとことん気のあわない、対照的な性格の姉妹が今同時に全く同じ願い事をする。

 

 

 

―お願い。止まってあげて。詞ちゃんのために。

 

 

 

 

 

時よ。

 

 

 

 

 

止まって。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし―

 

 

 

 

 

 

 

 

雨天決行。

 

 

 

 

どれだけ泣いても、願っても。握りしめても。

 

 

 

 

時はやはり止まらない。

残酷な程に終わりへの時間を進めていく。ゆっくりと、しかし確実に。

 

この日、最後まで妹の詞が姉の縁を何時ものように邪険に振りほどくことがなかったのがせめてもの救いだろうか。

 

 

 

しかし尚も二人無言で身を寄せあう姉妹の静かな一室に。

 

 

 

時計の音が響き渡る。

 

 

 

チッ

 

 

チッ

 

 

チッ・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




翌日ー


2-A教室内で絢辻の策略に嵌まり、四面楚歌の有人を流し見しながら絢辻は悲しそうに微笑んで瞳を閉じる。



時が止まらないのならばせめて今だけは。


ー・・覚えていたいの。


泣き崩れた日も。

笑い会えた日も。

気まぐれな天気みたいにコロコロ移ろう日々を。楽しい今を。


・・覚えていたいの。




・・握りしめて。










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ルートT 三十一章 歩き出せ クローバー 1











 

 

 

―見たことのない女の子ね・・?

 

怪訝な顔で「ん~~っ?」と首をかしげながら、綺麗な黒髪に幼くとぼけた表情の可愛いらしい女性―絢辻 縁は下宿先のマンションのエントランス来客用のインターホンの監視カメラに映る一人の少女を眺める。

 

『あの~~絢辻さん。絢辻 詞さんはオラれますか?あ。その、ワタシは絢辻さんのクラスメイトの―・・』

 

インカムからくぐもった少女の声が聞こえる。しかしどことなく用意された言葉のように感じるのが自然なくらいの不自然な棒読みである。しかし―

 

「あ~~詞ちゃんのお友達かしら~?」

 

縁は疑うことなく簡単に受け入れる。警戒心より先に映っているのが妹と全く毛色の異なる少女で好奇心をそそられるという方が勝るらしい。

 

『・・・。は、はい!!そうでっす~~』

 

まだ名乗ってないんだけど~と言いたげに液晶画面に映る少女は困惑顔を浮かべながらもブイブイとぎこちないピースサインを送る。

 

「わぁ!詞ちゃんのお友達が来てくれるなんて嬉しいなぁ!それになんてかわいい子!わぁ~~♪うわ~~っ♪」

 

インターホンを通して自らのハイテンションを惜しげもなく見知らぬ来訪者に開放する縁。

 

「あ。いけない。申し遅れましたっ。私は詞ちゃんの姉の絢辻 縁です!!詞ちゃんがいつもお世話になっています・・かな?」

 

『あ。はい。こちらこそ~』

 

自分の名前を先に紹介するようになったことは進歩といえよう。しかし今回、縁は逆に相手の名前を聞くことをぽっかり忘れている。どこかやはり抜け落ちている彼女である。

 

ハイテンションのまま「詞ちゃんは学校ではどんな子ですか~?あなたのご趣味は?犬派?猫派?」・・などのずれた質問を矢継ぎ早にインカム通して聞いてくる縁に監視カメラ前の少女が益々困惑している時間が数十秒続いたのち―

 

 

「・・お姉ちゃん」

 

 

痺れを切らした「彼女」は姉を押しのけるようにしてずいとインターホンをのぞき込む。

 

―・・!本当に意外なお客さん。

 

と、言いたげに彼女は丸い大きな瞳をさらに丸めた。

 

 

絢辻姉妹の住むマンションの階下エントランスにて―

 

 

『え・・棚、町さん?』

 

 

「あ!その声は絢辻さん!?良かった!居たのね!?」

 

縁の一方通行過ぎるハイテンションに困惑気味な表情を浮かべて居た来訪者―棚町 薫はインカム内から響くクラスメイトのいつもの声に安心し、ぱぁっっと後光が差すような笑顔でカメラに向かって手を振り始めた。

 

『・・どうしたの?私の所に棚町さんが来るなんて意外だわ』

 

「あ、その、ちょっと事情がありまして・・そ、それよりもまず一つ聞いていい?っていういか一生のお願いなんだけど」

 

いきなりインターホン越しに重いお願いをしてくるクラスメイトもいるものである。

 

『・・・?な、なに?』

 

 

「・・・。ここさ!めっちゃ寒いの!!まずはい、い、いい入れてくんないかな!?そしてと、トイレ貸してくんない!?」

 

 

両手を寒くて擦り合わせているのか、それとも「お願い」のジェスチャーなのか曖昧な動作でカチカチ歯の根を鳴らしながら白い息と、癖のある髪を振り乱しながらそう言った。

 

来訪早々クラスメイトにトイレを借りようとする少女―棚町 薫。絢辻姉妹の住むマンションに襲来。

 

そして―

 

 

 

「・・いいじゃないか。早く入ってもらいなさい」

 

 

 

絢辻姉妹とは全く異なる、落ち着きはらった低い声がインターホン前に居る二人の姉妹の背後より響く。そして大きく、たくましくも綺麗に整えられた指先が姉妹二人を割って入るように伸びてきて何の躊躇いもなくエントランスの開錠ボタンを押す。階下の棚町 薫の目の前でガチャンと音が鳴り、エントランスのドアが開錠音を発している頃―

 

「詞。丁重にお出迎えしなさい。クラスメイトなのだろう?」

 

「はい・・わかりました。・・お父さん」

 

少しの間とともに娘―絢辻 詞はこくりと頷いて玄関先へ歩き出す。・・動揺を悟られないように自然な後姿を父―絢辻 孝美に向けて。

 

 

 

「ふぅ~~っ。おっす!絢辻さん!助かったわ~~めるしーぼーくー♪」

 

突き抜けるほどの尿意から解放された棚町が意気揚々とトイレから出てきたのをくすくすと笑いながら絢辻は向かい入れる。

 

「まさかいきなりトイレを貸すことになるなんて思いもしなかったわ。棚町さん」

 

「いや、あはは。・・面目ない」

 

恥ずかしさを振り切るようにお手洗い後、早々普段の彼女らしい爽やかさで誤魔化そうとしていたが絢辻は忘れず、そこをきっちり突いてきたので再び棚町は恥ずかしそうに頭を掻いて目をそらした。

 

「・・ふふっ。まぁそこまでにしときましょう。あ。でも棚町さん?」

 

「うん?」

 

「私・・言っておかなければいけないことがあるわ・・とっても大事なお話・・」

 

いきなり会ったばかりのクラスメイトに重そうな話が今度は絢辻から出そうな歯切れの悪い口調だ。思わず棚町も表情を引き締める。

 

「・・ん?何・・?」

 

が―

 

「・・・。ちゃんと手は洗った?」

 

 

「・・。『そこまで』って言っておきながら未だに引っ張る絢辻さんにどんびきよぉ・・」

 

「くすっ♪」

 

 

―・・・。

 

棚町は正直内心驚きだ。

 

確かに棚町は聞かされていた。他でもない国枝達から事の「全て」を。しかし、目の前に居る絢辻と普段の絢辻との違いを現状彼女ではまるで見出せない。何だかんだ彼女ら二人もほぼ丸一年間教室、クラス活動を共にしているのだ。友人と言っても差支えがないぐらい最近は交流があった。流石に「親友」とは呼べない間柄とはいえそれなりにお互いを見知っている自負は棚町にはある。しかしー

 

―本当にこれが・・その、「壊れた」状態?だっての?直衛・・。

 

国枝はこういう事で冗談を言うタイプではない。それは誰よりも彼女がわかっている。でもやはり今の絢辻の彼女の印象は普段と大きく異ならない。

 

―・・もう少し普段から絢辻さんと色々話しておくべきだったのかな?・・せっかくクラスメイトになれたのに。何だかんだ言って私も絢辻さんに何処かでカベ作ってたのかも・・ね。

 

と、少し内心落ち込む。

 

「・・?棚町さん?」

 

「・・・!あ。ごめん。はは~いきなりあったかい部屋入ったせいかぼ~っとしてた!」

 

「いいけど・・。今日のご用は?その手にある鞄がキーとなってはいるんだと思うけど」

 

棚町は心根、そして表情を入れ替え、本腰の用向きに入ろうとする。切り替えは早い。「蒸し返すんじゃないわよ」と言われそうだが突き抜ける尿意から解放されて余裕も出てきた。

 

「御明察。・・絢辻さん!!!本っと申し訳ないんだけど勉強教えて!!数学の追試があんのよ今度!!で、ついでに冬休みの宿題をちょっと手伝ってほしいな~・・なんて・・ダメ?」

 

国枝からの「依頼」プラス棚町本人のいくつかの「個人的事情」。完全に利害が一致しているために棚町はこの日、絢辻姉妹の居るマンションに来たのだ。

 

棚町の突然の要請に「仕方ないわね」と言いたげな困った顔で笑っている絢辻に棚町が満面のいたずらな笑みで返す中―

 

・・足音もたてずに既にあれは近付いていた。

 

 

「レディのお話中失礼・・」

 

 

―!

 

 

「娘の御学友でいいのかな?娘がいつもお世話になっております」

 

 

彼女達の下に極自然なタイミング、適度な声色を纏って「あの男」は挨拶に来た。

 

「・・あ。初めまして。いきなり押しかけて碌に挨拶もしないまま・・申し訳ありませんでした」

 

棚町は背筋を正し、礼節を弁えた態度で頭を下げる。職業柄切り替えは非常に速い。そして顔を上げると同時、目の前の紳士をのぞき込むように見上げる。

 

―・・ふ~~んこの人が・・絢辻さんの「お父さん」、か・・。

 

・・かっこいいじゃん。

 

・・「あんなこと」するようには思えないんだけど。

 

当然棚町は国枝達から「この男」の話も聞いている。もともと正義感の強い彼女にとって結構胸糞悪い、自分がもし父親にこんなことをされたとしたら直接鉄拳で返してしまいそうな話を聞かされた。

 

だからこそ棚町は初対面の彼に対して、ここまで他人行儀に程よく距離を置いた礼節を心掛けた。時々彼女のバイトする店に現れるいわゆる「うるさ型」の客に徹底的に終始一貫プロッフェショナルな対応で接し、隙を見せずに穏便かつスピーディーにあしらい、満足してお帰り頂く―そんな経験をしてきた彼女ゆえのスキルを発揮する。

 

普段の彼女ならクラスメイトや友人の親御さんに会うと大抵の場合直ぐに馴染んでしまう。一定の礼節を弁えながらも普段の茶目っ気を失わずに接するからだ。見た目こそ「くるくる天パ」と少々突飛とは言え、茶目っ気と礼節の匙加減、バランス感覚は良好であり、初対面の相手にいい意味で壁を作らない。

 

しかし今日に限って棚町は徹する。冷静に。極度なほどに節度を以て。あくまで今回の自分の目的は絢辻と「話をすること」だ。そして波風立てずに彼女と一旦このマンションを出ることだ。

 

目的はただ一つ。シンプル。大好きな国枝からの依頼を全うすること。

 

「有人と絢辻の再会」である。

 

 

 

「棚町 薫と申します。お邪魔しております」

 

「薫、君・・と、いうのか」

 

「・・。はい」

 

―・・!・・。

 

「・・。ん~~」

 

紳士は少し人懐こそうに目を丸めて棚町を見、やや考え込むように顎に手を添える。

 

「・・何か?」

 

「いや、失礼。まさか詞にこんなに美人なご友人がいるとはね。ふふ」

 

「・・・。嫌だ。美人なんて」

 

「所で・・薫君」

 

瞬時に砕けた口調が消える。今度はやや見据えるような視線、口調だ。

 

「・・。何でしょうか?」

 

「娘は忙しい。来ていただいて早々悪いがお暇を願えないだろうか?」―国枝達からの話を基にするとこれぐらいの対応を棚町は予期していた。しかし―

 

 

 

 

「・・・。トイレの後、手はちゃんと洗ったかい?是非ともおいしいお茶とお菓子があるのでご賞味いただきたいんだよ。せっかく娘の友達が来てくれたのだからね。いや、よかった。せっかくお茶を淹れたのにトイレだけを借りに来たのだったらどうしようかと思っていた」

 

 

 

 

「・・・!ぷはっ!」

 

思わず棚町は吹き出し、真っ赤な顔で破顔した。

 

 

 

「薫」

 

「薫」

 

「薫」

 

 

 

紳士はこう繰り返した。

 

普通の人間ならまず気付かないのであろうがこの男は気づいている。

 

何故かは分からないが、この突然現れた自分に対する警戒を押し隠しているつもりで残念ながら丸わかりの少女が初対面早々、彼が「薫」と名前で呼んだ時に奇妙なほど内面が無意識に揺れ動いているのを。

 

 

 

前日―

 

吉備東病院にて

 

「・・有人寝た?梅原」

 

「ん。何だかんだでアイツ実際のところ結構重傷だかんな。おまけに精神的にすっげぇ思った以上に参っていたらしい上に・・さっきの御崎からのあの話だろ?」

 

数分前、一通りの話を終えて有人はその場にいた国枝達全員に珍しく、すこし弱気そうに「ちょっと疲れた」と言ってほほ笑んだのち、目を閉じた。そして―

 

「くぅ~~っ。す~~っ」

 

「すぅ・・すぅ・・」

 

後から参戦し、有人たちに真実を伝えた御崎 太一、中多 紗江もまた病室の外の廊下のベンチにてチビ達二人、肩を寄せあい眠っていた。彼らも極度の緊張から解放された疲れがドッと出たらしい。

正直二人の功労はすでに十分すぎるほどであり、そんな二人の姿を微笑ましく国枝達は見たのち―

 

「・・。さて次は俺らがどうするか」

 

有人自身には最後に大仕事が待っている。それまで眠って英気を養ってもらうしかない。それを彼自身もわかっていて眠ったのだろう。・・来るべき時のために

それは詰まるところ国枝、梅原たちを有人が信用している証拠でもあった。

 

「ん。でも大将よぉ・・正直オメの言ってたさっきの感じでいいんじゃね?棚町に絢辻さんとこ行ってもらって連れ出してもらって・・棚町が絢辻さんとこに行く理由。実際結構リアルだろ?」

 

「・・まぁな。『ちょっとズボラなルックス、パッとしない微妙な成績、おまけに追試予定あり、長期休暇に出される宿題は基本休暇の終わるギリギリに開始するタイプ』・・『成績優秀で頼られる学級委員の鑑の絢辻さんのところに行く』理由としては十分だわな」

 

「お前・・棚町にはキッツイな・・」

 

「・・梅原。お前アイツに夏休みの宿題の手伝い頼まれたことないだろ?8月末に休み中遊びまくって真っ黒コゲになったアイツが笑いながらほぼ真っ白の宿題の教材を持って真っ白な俺の前に現れるんだぞ。トラウマもんだわ」

 

「・・苦労してんのな」

 

 

 

 

 

 

「で・・今の感じだとおめぇ不安なんか?棚町が絢辻さんとこ行くの?アイツあ~見えて何だかんだアタマいいし頼れんぜ?」

 

「・・知ってる。けどなんとなく・・今回は相手が相手だし」

 

「まぁ絢辻さんだしな。確かにお互いクラスメイトとはいえ棚町とは滅茶苦茶仲いいってわけじゃねっし。でもよ~?何だかんだ利害一致したら協力関係しける間柄だろ。あの二人は。ドッジの時も創設祭の準備の時もそうだったし心配するとこか~~?」

 

「いや・・絢辻さん自身じゃなくて俺が心配してんのは・・絢辻さんの親父さんの方さ」

 

「・・ええ?棚町とは全くの赤の他人だぜ?」

 

「・・・。昨日まで全く他人だったはずの有人が『あれ』だぜ。・・あの有人が」

 

「・・・」

 

そう国枝に言われると梅原は何も言えなくなった。

 

「・・それにさ」

 

「ん?」

 

「アイツ・・薫のやつは早くに親父さん亡くしてっからさ。結構年上の男に案外免疫無いんだよな。妙に憧れ、・・って言えばいいのかな。結構・・街中で娘さんと仲良くしてる親御さんの姿とか見てると俺たちの目盗んで羨ましそうにしてんの何回か見たことあんだよ・・俺」

 

「・・」

 

―あ~そういやこの前のパーティー・・紗江ちゃんとお父さんのやり取り・・じっと見てたような気すんな・・棚町のやつ。

 

「はっきり悪意とか敵意とか向けてくる解りやすい相手なら靡かないんだけど・・絢辻さんの親父さんは有人と御崎の話聞いた限り・・なんか・・なんとなく、な・・」

 

「・・・」

 

そこにやや国枝に個人的な嫉妬のような微妙な感情が相まっているように梅原には感じた。彼なりに死んだ人間に、ある意味このままずっと棚町の中にそのまま残り続ける存在に何とも言えない遣る瀬無さを覚えているのかもしれない。

 

―・・・オメ。変わったな。国枝。

 

 

 

 

そして現在―

 

―・・・。いい人そうじゃん。

 

実際に棚町はすでに国枝の予想通り、「あの男」―絢辻 孝美を受け入れそうになりつつあった。幼少の時父を失い、それ以降母の手だけを握って歩き続けた彼女が手に入れることが出来なかった感覚を疑似的にも覚えていた。

 

そして屈託なく笑うあまりにも聞かされた話からはかけ離れている目の前の絢辻の父親の印象のギャップに軽い錯乱状態に棚町は陥っていた。

 

 

 

・・・そう。あの男は今―「笑っている」のだ。棚町 薫に向けて。

 

 

 

実の娘には確かにこの男この数年笑いかけてはいない。しかし、この男「笑顔」という「道具」を当然失ったわけではない。

 

それどころかこの男は有人と同様かそれ以上の強固な、強烈な「氷の微笑み」を持っている。

 

そして―

 

「・・」

 

それを今、娘である絢辻 詞は隣で実際に「見ている」。かつての姉―縁がじゃれつく妹―詞に微笑む父親の光景を眺めていた時の表情と皮肉にも全く同じ表情で。

 

もう一人の自分を見失い、そして昨日有人とも別れを告げた直後の壊れかけ、宙ぶらりんの絢辻 詞にとって結局縋ることになるのは、頼りになる人間は現状この男しかいないのはまず間違いなく事実なのだ。そしてその男はー

 

「地位、経済力、知識、知恵、容姿、包容力」

 

凡そ人間の男女が生涯切望する人間的魅力をほとんどすべてを兼ね備えている男だ。

そして詞とは間違いなく血の繋がった親娘である事実。・・よくよく考えると娘としてこの父親に「愛されたい」と思うのが普通である。

 

根元的に「雄」、そして「親」、「父」として一つの「動物」、一つの「個体」として「この男」は優れすぎているのだ。

 

そんな存在が自分を見て笑うことなく、赤の他人に目の前で無償の微笑みを与えている。

棚町は意図せずしてその状況を現在、絢辻に突き付けて居てしまっている状況なのだ。

 

棚町と絢辻という少女は一見対照的でありながらどこか酷く似通ってしまっている面がある。結果状況は完全にすでに「この男」に支配されていた。

 

 

 

 

 

 

 

その時であった。

 

 

 

ピンポ~~~ン

 

 

 

「む・・」

 

 

 

「・・!はいは~~~い♪」

 

縁が新たなインターホンの呼び出し音にとことこ歩いていき、ボタンを押す。そこには―

 

 

『はぁ・・はぁ・・』

 

 

膝に手をついてぜぇぜぇとせき込む一人の少女が居た。

 

「???どなたかしら~~?っていうか、だ、大丈夫かしら~~?(^_^;)」

 

挙動がすでにおかしい少女に怪訝そうに縁は声をかける。すると少女は顔を上げ―

 

『すぇ・・すいませ~~ん。そ、その・・絢辻さんとととっ・・た、棚町さ~~~ん!?そこにいますか~~?遅れてごめんなさ~~~いぃぃぃ』

 

可愛らしい、そして間の抜けた声を出して栗毛でふわりとした癖っ毛の少女が太ましい体を揺すって心底申し訳なさそうに眉をゆがめた。世界中、約九割九分の人間が呆れてすぐに許してしまいそうな表情をしている。

 

「・・・??」

 

流石に「同属性」の縁も戸惑うほかない光景であった。そんな彼女におかまいなく新たに現れた少女は液晶画面内で再び挙動不審にもじもじし始める。

 

―・・・?

 

絢辻姉妹のマンションの一室がそんな状態で凍り付いている。新たに現れた少女の一挙手一投足に注目が集まっていた。

 

 

『あの・・すいません・・その、・・おトイレかしてくださ~~~~いぃ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再び前日の吉備東病院にて―

 

「・・・。大体話は分かったけど」

 

「・・・」

 

「・・・え・・」

 

「なら簡単な話じゃね?梅。国枝」

 

「え・・・」

 

「・・?」

 

「助っ人を連れて行けばいいだけの話だろ?あの二人と同い年で『ぱっとしない微妙な成績』、『追試予定』、『休み末には宿題で泣きついてくる』・・おあつらえ向きの奴がいるぜ?」

 

 

腕を組み、国枝、梅原の話を無言で聞いていた、この「三人」の中でひと際体格のいい少年―

 

 

 

 

茅ケ崎 智也が確信めいた口調でこう言った。

 

 

 

 

「梨穂子を連れてけ」

 

 

 

 

―・・確かにアイツの頭は良くはない。喧嘩も口喧嘩も強くない。

 

 

だけど―

 

 

 

・・アイツに勝てるやつを俺は知らない。

 

 

 

 

 

 

 

じゃ~~~っ

 

 

 

パタン・・

 

 

「ふぃ~~っ助かりましたぁ~~皆さんは命の恩人ですよ~~」

 

少女は拝み倒す様に両手をすりすり目の前でこすり合わせ、憑物が落ちたような顔で微笑む。ものすごくデジャヴな光景が絢辻姉妹のマンション一室にて展開されていた。しかし一方で―

 

―・・・。

 

彼女のトイレが流された音と一緒にこの空間に籠っていた淀み、濁りが全て取り払われたような感じがした。そんな彼女に―

 

 

「・・ははは。トイレを貸しただけでこんなに幸せそうなカオをするお嬢さんに会ったのは初めてだ」

 

 

先ほどまでの淀み、濁りを引き起こした張本人である「あの男」は突然インパクトマシマシで現れた少女に先ほどの棚町と同じ様に笑いかける。

 

「うわは~~~っお恥ずかしいデス・・。・・すみません本当に」

 

本当に、心底落ち込んだ姿勢で新たに現れた少女はがっくりと肩を落とす。

 

 

「ははは。まぁゆっくりしていってくれたまえ。えっと・・」

 

「申し遅れましたっ!初めまして~~桜井 梨穂子と申します」

 

「わは~~っ」と言いたげな全くの屈託のない笑顔で桜井は目の前で微笑む紳士に返す。

 

 

 

―・・。これは。

 

 

 

・・手ごわいな。

 

 

 

そんな男の心象もいざ知らず。

 

 

「?」

 

 

桜井は瞳を丸める。

 

 

 

 

 

桜井 梨穂子ー

 

彼女という少女の周りは笑顔に溢れていた。それは他でもない彼女自身が常に笑顔であろう、そしてありたいと強く願っているからだ。

 

 

だからこそ彼女は靡かない。流されない。例え偽りの笑顔であろうと全てを包み込む。

 

 

 

 

 

「くすっ・・いいわ。絢辻さんに桜井さん。二人纏めて面倒見たげる!」

 

 

「・・棚町さん?それ私の台詞よ」

 

 

 

絢辻は微笑んで談笑を交えつつ二人を自分の部屋に招く。

 

 

 

 

 

「・・お父さん?レディの会話に立ち入るなんて無粋な真似、しないで下さいね?」

 

 

 

 

縁のその言葉に紳士は一切反応しなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

31 歩き出せ クローバー 1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




棚町×桜井・・。

原作では個人的に何故か「タブー」的な印象があるんですよね。殆ど絡む機会が無い。
同い年のうえ設定上、中、高同じなはずなのに。

・・我ながら書いていてぞくぞくするねぇ。








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ルートT 三十一章 歩き出せ クローバー 2 改

12月20日 追記・修正あり







 

 

 

 

 

 

 

12月27日

 

絢辻自室にて―

 

 

「―つまり、この問題の答えはX=3という事なの」

 

「「おお~~っ」」

 

艶やかな黒髪をしならせ、得意げに微笑む少女の手元のノートに羅列した数字、記号、式配列、すべてにおいて美しい数式を前にし、黒髪のくせ毛の少女―棚町 薫は目を丸めうんうんと頷き、方や栗毛の少女―桜井 梨穂子は心から感嘆したように息を吐いた。

 

成績優秀者、尚且つ教えるのがうまい人間というのは何故ここまで理路整然、すっきりとした考え方、そして伝え方ができるのかと感心する時がある。

 

―今まで何度か勉強教えてもらったことあったけど・・やっぱすげ~わ絢辻さん・・。

 

―・・智也より教えるの上手いかも。ふふっ。・・先生になるのを目指しているなら負けていられないねぇ~智也?

 

そんな二人の心象の中、さらに絢辻は赤いペンで解説を続ける。

 

「注意点としてはこの手の問題は『解き方が分かった、解けそう』と思った瞬間程焦らない事、ね。問題を作った人の『何パーセントかの人間はこう間違えてほしい』っていう意図・・というかイタズラみたいなものが隠されているから」

 

黒髪の少女―絢辻 詞はただ問題を解くだけでなく、この問題の出題者の意図、傾向まで把握したうえで目の前の二人に注意点を促す。

 

「正解が解らないから一旦解答を見る・・それは大事なこと。でも折角解き方が分かったのに過程を間違えてしまって正しい答えに辿り着けなかったら・・自分が『理解した』と思っていた事も疑うようになってしまうの。だから『解き方』が解っても決して焦らないでね。答えという結果はもちろん、それに行きつく過程も同様に大事よ」

 

「うう。絢辻さん。それは解らなかったら答え見て、取り敢えず答えだけ書いてお茶を濁すいつもの私を攻めているの?」

 

「うう。棚町さん。それ物凄い共感できマス・・答えだけ書いて『・・これでいいんだ』って自分に言い聞かせるんだよね~」

 

「うう。桜井さ~ン。それわかる~~」

 

「同族」相憐れむ。しかし「異種族」絢辻は満面の笑みで二人にこう言った。

 

「うふ。駄目よ?提出物はそれでいいかもしれないけど、テストはそうはいかないわ。私も国枝君も茅ヶ崎君も・・その時は助けられないわよ?」

 

「「・・はひ」」

 

しゅんと「同族」コンビは自分たちの甘さを指摘してくれた絢辻に対して「すいませんでした」と頭を垂れる。

 

 

 

数分後―

 

 

―・・さて。と。

 

 

ある程度の時間、「間」は取れたと棚町は判断。ちらりと絢辻の部屋のドア―その向こう側を見据えるようにちらりと横目で睨んだのち、かさりと真っ白なルーズリーフを一枚徐に取り出して桜井、絢辻とともに囲んでいるテーブルの中心に据える。

 

「―!・・」

 

―・・うん。

 

桜井も「頃合い」と思ったのだろう。棚町と視線を合わせて二人こくんと頷き、次に絢辻に視線を合わせる。絢辻から勉強を教わっているときに比べるとずいぶん眼差しが強い。

 

「・・・」

 

そんな二人を交互に見、絢辻は突然自分の下を訪れたあまりに意外なペアの「本題」がようやく始まることを理解した。そして目の前に置かれた一枚のルーズリーフが意味するところも。取り敢えず確認の意味でまず棚町がペンをルーズリーフの上でさらさらと滑らした。

 

(筆談でいくわよ。いい?返事はうなずくか首振るかでOK。)

 

ルーズリーフに彼女特有の癖の強い、が、同時決して悪筆ではない整った字が並ぶ。

他二人は小さく無言で頷く。「YES」の意味。それを見て棚町も頷き、補足でさらさらとこう付け足した。

 

(会話もある程度適当にやろ。)

 

いきなり室内が全くの無音、無言になっても不自然という意図だろう。

 

「・・うん。じゃあ次の問題行きましょうか二人とも」

 

「・・・え。え、ええ~~まだやるの?」

 

完全に本音が混ざっている棚町の反応だが逆にリアルで丁度いい。それを見越した絢辻の、棚町の申し出の肯定と表向きの会話の継続双方の意味を込めたひと言であった。

 

「あ~~いごっちゃ!まだまだ頑張るよ~~」

 

桜井も了承。両手をぐっと握ったのち、やや緊張した面持ちで絢辻、棚町を交互に見る。そんな彼女に目で「取り敢えず私が主(おも)で行くわ」と桜井に棚町がアイコンタクトする。極力無駄な筆談は避けたい。「言葉」よりも「書く」ことの方が遥かに手間と時間がかかるからだ。絢辻も察する。

 

「・・・うん。じゃあ次の問四の問題・・桜井さん?一人で一回やってみて?」

 

「あ、はーい♪」

 

桜井は問四を開始する。絢辻は主に棚町と筆談しつつ、桜井が問題に関して解らないことがあれば口頭で相談に乗るという態勢をとる。

本当か眉唾なのかは定かではないが男性に比べると女性の方が「二つ、もしくはそれ以上のことを同時にできる」力が優れているらしい。少なくとも絢辻、そして棚町に関してはそれに該当するようであった。

 

「・・あ。桜井さん?そこ間違っているわよ。さっき言ったじゃない?そこは―」

 

「あ~~ごめんなさい絢辻さん・・」

 

「ううん。いいのよ。・・実は本音を言うとそこを間違えてほしくて選んだ問題でもあるから♪」

 

「あが~~ひどいです」

 

「教え甲斐があるわ♪」

 

そんな自然な会話を桜井としながら絢辻は棚町のルーズリーフに書かれた次の一文を横目にして―

 

―・・・っ!!

 

「・・・どくん!」と、音が外まで響いてしまうんじゃないかと心配するほど波打つ心臓を必死で絢辻は抑えた。過呼吸になってしまいそうな浅い呼吸もようやく整える。そしてその一文を凝視する。

 

 

(源君が絢辻さんにもう一度会いたいって。どうする?)

 

 

大きな瞳をさらに大きく見開き、目に見えて動揺している絢辻は不安そうに棚町を見る。

 

「・・うん」

 

そんな絢辻を励ます様に棚町はしっかりと絢辻を見据え、真剣な顔でこくんと頷く。その表情が意味するところはすぐに分かった。

 

―「こっち」は準備出来てるわよ。後は絢辻さんの返答次第。

 

 

「・・・」

 

そんな頼もしい棚町の表情を眩しそうに絢辻は少し視線を逸らし、落とす。心臓の動悸と共に血が頭に上り、ぐるぐると彼女の頭の中で不安、高揚がない交ぜになっていく。そんな時―

 

「ねぇねぇ絢辻さん?こうなったんだけどどうかなぁ?」

 

突然桜井が陽気な声を上げて会話に割り込んできた。しかし、いざ絢辻が彼女を見ると桜井は「手元のノートを見てほしい」というのではなく、明らかに「私の目を見て」と言いたげにずい、と桜井は絢辻の伏せ目がちの視線に真っすぐ割り込み―

 

「どうかな・・絢辻さん?この問題・・『会って』くれると私とっても・・嬉しいんだけどな」

 

桜井はにぱりと微笑んで顔を傾ける。そのやり取りを見て真剣な表情をしていた棚町も毒気を抜かれたようにやや表情を緩め、笑う。

 

逃げ場なし。そんな二人をまともに見られず、絢辻は丁度いい視線のやり場として桜井のノートの問四の解答を見るほかなかった。

 

―・・・!

 

驚きだ。合っている。

 

どこか抜けていて少々暢気者、温かく柔らかい彼女の性格を体現したような角のない優しい丸文字。しかし、数学では形式上「一つ」しかない答えを導きだすための美しい数式が迷いなく最短距離を通って一つの正答に辿り着いている様は桜井 梨穂子という少女の芯の強さを否応なく絢辻に感じさせる。

 

どうやら意外にもこの少女もまた二つの事を同時にできるタイプであったらしい。

 

「・・正解」

 

そう正解だ。解りきっている。絢辻の想いは。絢辻自身すらも。

 

会いたい。

 

会いたいに決まっている。

 

だけど―

 

「・・すごいわ桜井さん。・・この調子でもう一問行きましょうか」

 

絢辻は自ら最短距離を外れ、二人の間に再びもう一つの数式の「壁」を作る。

二人の想いは純粋に嬉しい。疑っているわけでもない。

 

でも駄目なのだ。怖いのだ。恐ろしいのだ。今の自分という存在が彼の下にまた行くことによって彼が傷ついてしまうのが。そして否が応にも己という存在を思い知ってしまうのが。

 

「・・・」

 

無言のまま手元の教材に目を落とす絢辻を前にしてやや残念そうに桜井、棚町は顔を見合わせる。「そんな簡単なことじゃないよね」と言いたげに。しかし、そんな彼女たちの目の前に置かれた筆談用のルーズリーフに今度は絢辻がさらさらと文字を書き始めた。

 

―!

 

―・・・あ!

 

棚町、桜井二人もそれを注視する。

 

―・・。

 

棚町、桜井程癖のない誰もが「達筆」と言う他ない完璧に整えられた文字が並んでいく。でもそれが何故か今の絢辻には内心妙に悔しかった。

 

 

(二人はどこまで知っているの?)

 

 

「う~~ん。正直話を聞いて理解したつもりだったけど・・解んなくなっちゃったって言うのが正直な所―」

 

(なんだけどね)

 

棚町は表向きの会話と筆談を織り交ぜて、何とももどかしそうに眉をしかめて苦笑いしつつ絢辻の質問に答える。桜井も「そうだよね~」と言いたげに頷く。

 

(一応大体解ってる、と、いうか聞いた話はこんなトコ)

 

棚町が再びペンを進める。

 

 

数分後―

 

筆談を通して大体の棚町、桜井が知っている情報を絢辻は知る。

 

・・正直予想以上に踏み込んだところにまで精通しているところに絢辻は驚きを隠せなかった。御崎が中多父から伝え聞いた情報が大きい。

 

(なんかごめんね。部外者の私らがさ)

 

(ううん。驚いたけど。・・そう御崎君と中多さんと・・中多さんのお父さんが・・)

 

あまりに意外な情報の出所に流石の絢辻も面食らっていた。深く考え込むように口を手元で隠しながら一考したのち、絢辻は「あ~~あ。恥ずかしいなぁ」と言いたげにやや申し訳なさそうに眉をひそめて来訪者二人を見る。

 

色んな意味で絢辻 詞という人間が多くの人間に開放されてしまった。

「源君のおしゃべり、嘘つき」と、のたまりたいところだが代わりに絢辻は恥ずかしそうに笑う。そんな彼女に棚町、桜井もまた申し訳なさそうな顔をした。

 

(ま。一部は必要な情報だったってことは解って)

 

あの絢辻の父親と接する以上、ある程度事情が解っていた方が確かに対応しやすい。だとしてもやはり、絢辻にとって踏み込まれたくない所であったとこは確実。事実、絢辻のやや恥ずかしそうな態度を見て棚町は―

 

「あぁ~~~っ!!この問題考えれば考えるほどこんがらがってくる!あ~~・・出来るだけ忘れるようにしよ」

 

「・・出来るだけ忘れるようにするからさ」とそう言外に言い含めて棚町は申し訳なさそうに頭を掻く。そんな彼女に―

 

「あはは。・・そんなこと言わずに覚えておいて?」

 

受け入れるように微笑む。「知ってもらえた人が貴方たちで良かった」と言いたげに。

 

「・・頑張る」

 

そんな絢辻に棚町はそう返すのが精いっぱいだった。

 

 

(とにかく!絢辻さんどうする?行かない気?)

 

「・・」

 

(「今の私」は彼を傷つけるだけだと思うから)

 

「今の私」―棚町や桜井たちにとって一番解らないとこはそこだろう。絢辻が有人のみに見せていたという彼女の本性―それを知覚していない彼女らにとって一番の難物である。そしてそれを「現在見失っている」、「今の自分は抜け殻みたいなもの」―という割にはあまりにも見た目、雰囲気において理知的、理性的でとても「壊れた人間」に見えない絢辻の姿に、近い表現で言えば二人が「恐怖」を感じているのも事実である。

 

「う~~~ん」

 

棚町は腕を組み、唸る。桜井もまた黙るほかなかった。

 

しかし―

 

 

 

―ん?・・あ。いっけない。私、似合わない事してたかな。

 

 

 

突如棚町は憑物が落ちたようにとぼけた顔で天井を見上げ、悟る。

 

―そいや私の目的忘れてた。あくまで私のすることって絢辻さんを連れ出すことだけ、じゃない?考えて絢辻さんと一緒に悩むのは私らじゃない。・・・源君じゃん。

 

 

そうだ。絢辻の度重なる様々、かつ複雑な事情に覆い隠されていたが棚町が国枝に任されたことはシンプルだ。ガラにもなく色んなことを考えすぎていたか。

そうだ。いつものこのスタイルだ。解らないこと、めんどくさい事、出来ないことは「丸投げ、丸写し、丸かじり、丸儲け」、だ。

 

 

「絢辻さん?」

 

「ん?」

 

「歩こう」

 

「え・・」

 

「外。解らない問題にうんうん唸っても仕方がないし気分転換しに行こうよ。よくよく考えれば私、美術の推薦で大学行こうと思ってるから数学いらないし。出席日数たりてりゃ文句ないでしょ。うん」

 

「そ、そんないきなり身も蓋もないことを」

 

「た、棚町さん。絢辻さん!私を見捨てないで~~~っ!私推薦なんて夢のまた夢~一般

ピーポーピーポーなんですぅ~~(;゚Д゚)」

 

意外、というか棚町の無茶苦茶な理論、手前勝手な展開に桜井からの119番、悲鳴が上がる。

 

「いやいや~ご謙遜を桜井さん?見た感じ私より吸収力遥かによくない~?ちゃっかり私おいてどんどん問題解いちゃってるし」

 

そんな彼女に「イタ電は止してください。切りますよ」と言わんばかりの棚町である。

 

「そ。そこは否定しないけど」

 

絢辻。あまりに意外な展開に困惑したため、オブラートに包むことなく馬鹿正直に肯定。

 

「がくぅっ!・・そうよね。自覚はあったわ・・私は所詮クズよ」

 

テンションの振り幅がとてつもなく大きい。いつもの棚町である。つまりこの現状は絢辻の事情が有ろうと無かろうと「棚町がここを訪れればいずれ至る結論」―あまりに自然な展開なのである。違和感など発生するはずがない。

 

「桜井さん?『推薦がない』とか言っていたけどいざ街を歩けばわっかんないわよ~?何が起こるかなんてサ~~?大手のプロダクションにいきなりスカウトされてあれよあれよという間にアイドルデビューっていう可能性だって無きにしも非ずなんだから」

 

こんな突拍子もない、クソみたいなシンデレラストーリーが原作にあったりする。興味あれば見てほしい。「・・コレ要る?」ってなるから。

 

「さ!善は急げよ。早速出掛けましょ♪」

 

棚町はいそいそと壁のハンガーに掛けていたお気に入りの上着に二人から背を向けて袖を通し始めた。「あ~~っ、待って待って~~」と言いたげに桜井は机の上の教材をわたわた整理をし始める。

 

「ちょっ、ちょっと待って棚町さん!こ、困るわ」

 

とんとん拍子に、いや一方的に話、展開を進めていく状況に「まった」をかけるべく、絢辻は棚町の背中に手をかけようとした時だった―

 

「・・・!」

 

それを待っていたと言わんばかりにくるりと棚町は振り返り、さっきまでとは打って変わった真剣な表情で眼前の絢辻の瞳を見据えた。あの絢辻が吸い込まれそうな瞳で。そしてわずかに唇だけで目の前の絢辻にだけハッキリと分かるようにこう象る。

 

 

―・・会いたくないの。声聞きたくないの。話聞きたくないの。伝えたくないの。・・はっきり「好きだ」って。「傍に居たい」って。

 

 

―・・・!

 

呆気にとられ、瞳を見開くほかない絢辻にさらにずいと棚町は詰め寄る。吐息と癖のある黒髪がかかるぐらいに。そして今度ははっきりと声を形にして伝える。蟻のような小さな声。でもそこに強い意志、力さえ宿っていれば相手には不思議と伝わる。一寸の虫にも五分の魂だ。

それにこれだけゼロ距離ならそもそも問題はない。内心「早くこうするべきだったわね」と棚町は自嘲した。

 

 

「・・・今のアンタが絢辻さんだろうが絢辻さんじゃなかろうが関係ない。大事なのは『今のアンタ』が『どうしたいか』よ。もう隠さないで。意地はらないで。そんな中途半端な気持ちで人を好きになるんじゃ無いわよ」

 

 

まるで棚町自身が「つい数日前の自分」に言い聞かせているみたいだった。つい数日前、クリスマスに自分を誘ってくれなかった国枝本人に確認することも、自ら赴くことも出来ず、怖くて一人逃げ出し、一人泣いたちっぽけな自分を思い出す。

 

しかし国枝は来てくれた。馬鹿で間抜けなみすぼらしい姿、でも来てくれた。天国と地獄を味わった日だった。

 

でも絢辻の場合は無理なのだ。期待できない。今の有人は重傷。あの場を動けない。だから絢辻自身が行くしかないのだ。

 

たとえ怖くても。恐ろしくても。

 

・・・国枝には無かった大きな「障害」、「障壁」が「内外」共に絢辻に有ろうとも。

 

「・・・」

 

それでも尚ぶれる、揺れる絢辻の視線が吸い込まれそうになる程、自分を見据える棚町の両目から逃げるように逸れていく。

 

しかし―

 

残念ながら棚町は現在一人ではない。緊急に呼び出されたあまりに適材適所、強力な助っ人が絢辻の視線の先に居た。

 

「・・・!」

 

いつの間にか絢辻の視線の先には綺麗に片づけられたテーブルの上でたった一枚のルーズリーフに自分の思いの丈を可愛らしい丸文字で綴った桜井 梨穂子のえへへ、と微笑む姿があった。

 

 

 

(歩き出そう。会いに行こう。大好きな人が大変な時ならなおさらそばに行かなきゃ)

 

 

 

「・・・」

 

―・・・そうね。桜井さん。あなたは「あの時」もそうしていたわね。今のあなたみたいに・・まっすぐな瞳で。

 

 

絢辻は見ている。茅ヶ崎 智也が心無い噂で孤立した「あの時」―誰よりも何よりもいち早く彼の下に駆け付け、傍に行こうとした、寄り添おうとした彼女の姿を。

 

 

 

―正直あの時・・・「貴方みたいに生きられたなら、貴方みたいになれたら」って思ったわ。

 

 

 

再び視線のやり場を無くした絢辻。しかし今度は都合のいい視線のやり場などない。見据えるしかないのだ。このドアの外を。この世界の外を。

 

 

 

「お願い・・連れて行って。棚町さん」

 

 

絢辻は懇願するように頭を下げた。しかし―

 

 

「ん~~~~~嫌」

 

棚町は腕を組んで要求を却下。目を逸らす。

 

「・・え」

 

意外な棚町の反応に絢辻が気の抜けた声を出し、信じられないという表情で棚町を見ると彼女はふふんと笑い、今度はやや優しい眼差しで絢辻を見つめてこう言ってくれた。

 

 

「・・・アンタが行くの。アンタの足でね」

 

 

―・・「あの日」の私と一緒でね。

 

 

「うん。そだね」

 

絢辻の足を指差しながら笑う棚町。それに同調して桜井も微笑んだ。絢辻を励ます様に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 歩き出せ クローバー 2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








歩き出せ クローバー・裏





「・・お父さん」

「・・・」

「もう詞ちゃんを解放してあげてくれないでしょうか」

「・・・」

「こんな思いをするのは私一人で十分です」

「・・・」

絢辻姉妹のマンションの玄関にて―

傷一つない真っ黒で上質な皮仕立ての革靴を靴ベラですっぽりと紳士の足に収める。その靴がこの世でただ一人、この紳士の為「だけ」に仕立てられたことを象徴するかのようなフィット感。人間これを味わうと何とも言えない気分になるものだ。しかし、最早この紳士はそんな感慨に耽ることはない。
背後に居る確実に血を分けた娘―絢辻 縁に対する態度と同様、何の感慨も覚えずに無言のまま背後の娘に一瞥もくれず父―絢辻 孝美は長い足を延ばす。

「家では勉強に集中できそうにないから三人で学校で勉強しようと思います」

娘であり、縁の妹である絢辻 詞と友人二人のそんな申し出に紳士は応え、車を出すことを提案。意外にもあっさりと娘と友人はそれを受け入れ、先に外に出ている。

―・・詞ちゃん逃げて。

・・解ってるから。詞ちゃんが向かう場所は。・・逢いたい人は。

いち早くここから抜け出すの。早く。

こんな縁の想いが紳士の一見全く淀みなく見える、妹の詞を今から追うための流麗な準備の所作に何ら影響を与えたとは思えない。が、それでも縁は無言の父の背中に声をかけ続けた。

「・・お願いします」



「・・娘が『居た』」



「・・え?」

「『二人』、な。・・一人はとても聡明で美しく、そしてとても従順な子だったよ」

「・・・!!」

縁は瞳を見開いた。彼女の時が止まる。否、凍り付く。いっその事このまま心臓の芯から冷えて止まってしまえばいい、とさえ思った。

それ程に。

「残念だよ」、「終わってしまったことなんだ」―というニュアンスを惜しげもなく纏う冷厳なるその父の言葉に縁はもはや声をかけることも出来ず、立ち尽くす。


「・・・縁?『無い』よりかは遥かにマシだとしても・・・やはり極力『失敗』というものは少ない方がいいのだよ。人生において、ね」


紳士は彼女の名前を呼んだ。わずかに横顔を向けて・・・微笑んでいた。

「受け入れる。抱きしめる。包み込む」―・・・「そんなもの」からは全く以てかけ離れた笑顔。失意の、諦観の、そして別離の笑顔。

それでもそれはあくまでも「笑顔」であった。あの父の。縁は自分を馬鹿だとは思う。愚かであるとも思う。しかし―今の縁は泣き笑いながらその父の顔を見ていた。求め続けた父の目の前の笑顔に向けて。

紳士は歩き出す。




歩き出せ クローバー。



クローバー。



花言葉は「私のものになれ」



―さもなくば。



お前達の人生にも、お前達の存在にも価値はない。























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ルートT 三十一章 歩き出せ クローバー 3

前話追記、修正あり
















 

 

 

俺は御木本 久遠。高3。自他共に認める吉備東高校最高、最強のプレイボーイ。

 

 

 

高身長、高ルックス、高学れ、き・・・。ま、まぁ来年はほぼ浪人が確定している俺だが取り敢えず吉備東の超モテ男―「撃墜王みっきー」とは俺の事さ。

今年のクリスマスも俺―御木本 久遠クンはさぞかしゴージャスでイケてるモテライフを堪能したんだろうなと、日本全国のモテないクンは悔し涙に一人枕を濡らした事だろう。ふふん。

 

 

・・・。

 

・・あの娘何故か来なかったンだよな~~?確かに俺約束したはずなんだけどな~~?

あっれ~~?おっかしいぃな~~?これおっかしいなぁ~~?

 

「例え12月23日に登校から下校までの間に女の子二人と翌日のクリスマスデートのダブルブッキングしても何故か翌日には確実に片方の女の子との約束、存在すら忘れて、もう一人の女の子とデート楽しむようなもはや記憶喪失レベルのクソ野郎」程、耄碌したつもりないんだけどな~~?

 

ま、まぁ風邪だろう。すっげぇ急病かなんかだろう。身内に不幸でもあったんだろう。

 

・・確認取ってないけど。

 

・・話を変えよう。突然だが俺は今18歳だ。そして繰り返すが俺はイケメンだ。高身長だ。何が言いたいかわかるか?・・解らない?ちっ、勘の鈍い奴だ。

 

 

車だよ!ク・ル・マ!!モテ男の必須アイテム!

 

 

旅行!買い物!遊び!送り迎え!そして車内×××!!

夢のアイテムだろうが馬鹿野郎。何で日本は16歳から乗れねぇんだよ!馬鹿野郎この野郎!

 

当然だがイケメンの俺は18歳になった直後、即免許を取りに行き、仮免に二回落ちながらも無事免許を取れたっつ~わけだ。

 

高身長、高ルックス、おまけに車の免許持ち。・・パーフェクトぅだ・・パーフェクトぅすぎて困っちまうぜぇ・・。

 

・・ただウチにあるのが四人乗せたらもう「ヒィヒィ」言い出すボロっちい国産の軽なのがネックだが。いずれジャ〇―とかボ〇ボ、ビー〇ム、ワー〇ンとか乗って見せるぜ。

それまではコイツで我慢だ。

 

・・ぷすん

 

・・畜生。またエンストしやがった。オートマでエンストってどういうことだ。この野郎。

 

・・ん?ああ・・「今モテ男の御木本 久遠クンは車に乗っているのかい?」だって?ま。そういう事だ。話の分かる奴は嫌いじゃないぜ。

 

実はな・・今朝呼び出しがあったんだよ。「車で来てくれ」って。

呼び出してきたの誰だと思う?わっかんねぇだろうな~~?モテない君には!

 

聞きたいか?聞きたいか?ん?そーかそーか!!仕方ねぇな・・聞いて驚け。

 

あの森島だよ!!森島 はるか!!

 

 

今日は12月27日。

 

「三日」遅れとはいえまぁようやく収まるとこに収まろうとしてるっつ~感じかね。収まるところ―つまり高身長、高ルックスの俺の元ってことさ!!

 

いや~~おかしいと思ってたんだよな~~?こんなイケメンの俺を振る女が居るはずねぇって?森島もようやく覚悟を決めたってところか・・ふん。そんなに恥ずかしがらなくていいのによ?

ま。でもせっかくの冬休みだってのに集合場所を「吉備東高校の正面玄関」にするってのは頂けねぇなぁ?一応制服着なきゃなんねぇし休み気分が台無しだぜ。ま、いいんだけど。イケメンってぇのは制服も似合っちまうからな?それに・・森島の制服姿はやべぇからな・・うん。

 

・・・ん!?お・・「噂をすれば」ってやつだ。あそこに居るのは森島だ。お~~手ぇ振ってやがる♪か~わ~いい~~♪

 

俺にだぜ?俺にだぜ?車に乗ったクールでイケメンな俺にだぜ?

 

・・相変わらずいいスタイルしてんなホント~♪制服越しでも俺にはわかるぜ?

 

跳ねる跳ねる♪揺れる揺れる♪

 

はっ!・・んっんっ!・・さぁってと、クールでカッコよくアイツの目の前で車を止めるとしますか・・。まずは開けた窓に優雅に片手をかけて、と。・・んで片手でハンドルを掌うまく使って優雅にくるっとな、っと・・。

 

キキッ

 

ふっ・・我ながら完璧だ。

 

・・・相っ当練習したからなこれ。この車の左サイドについた無数の小汚いキズは俺の名誉の勲章―精根(←「聖痕」と言いたいらしい)だぜ・・。

 

「待たせたな・・森島」

 

さぁどこへ行く?どこへでも連れて行ってやるぜ?

海か?景色のいい高台か?お洒落なカフェか?高級ブティックか?

 

・・最後のはお願いだから止めてくれ。金が尽きそうだ。あと「受験勉強のために図書館」とか間違っても言い出さないでくれ。ま。森島の事だから心配はしてないけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとう!!みっきー!来てくれて!!ぐ~~っど♪」

 

 

制服姿の天然魔性の少女―森島 はるかは満面の笑みで御木本の車に走り寄ってきた。そんな彼女の破壊力抜群の弾ける笑顔に内心小躍りしそうな心を抑え、御木本はすかした態度を崩さないまま窓に手をかけつつ―

 

「ふっ・・いや。構わない、ぜ。・・・ごにょごにょ」

 

ようやくそう言った。

 

あんまりに森島が可愛いのでうまく言葉がでない。・・ちょっとお口が色んな意味で寂しい状況だ。スカしてタバコでも咥えて居たいところだが意外にもそこのところ結構この御木本 久遠という少年は真面目である。酒も煙草もいきって飲んだり、吸ったりしない。

言い換えるなら案外小心者である。

 

そんな彼が必死で心を平静に保とうと葛藤する中―

 

状況は進みだす。

 

 

 

 

 

 

「たなまちちゃ~~ん!さくらいちゃ~~ん!あやつじさ~~~~ん!橘く~~~~ん!!みっきー来た~~♪っていうか車が来たよ~~?さ~早く乗って~~~!」

 

 

 

 

 

 

「・・・へ?」

 

必死でスカしていた顔をまだまだ18歳の少年という年相応な表情に変え、御木本は素っ頓狂な声を上げた。

 

そんな彼の呆気に取られた顔を余所に森島が声を張り上げた方向から数人の男女生徒が現れ、ぞろぞろと御木本のボロ車を取り囲む。そして色とりどり、各々何とも勝手な言い分を開始し始める。

 

「・・うっわ。思ったよりちっちゃくない?これ」

 

遠慮なし、気遣いなしに現れたオンボロ軽自動車を前に何ともエグいものを見る目でくせ毛の少女が言い放つ。その彼女に同調し、自分のお腹周りをさすりながら太ましい栗毛の少女がやや切なそうにこう言った。

 

「うん・・これじゃ私たち乗らない方がいいかも・・スピードも落ちるだろうし・・私、幅取るし」

 

「ん~~取り敢えず絢辻さんと・・『エサ』の森島先輩には乗ってもらった方がいいよね」

 

「あ~ん。『エサ』だなんて酷いわ。え~~っと・・・誰ちゃんだっけ?」

 

「・・僕も乗っていくよ。森島先輩が心配だ」

 

「・・・(⋈◍>◡<◍)。✧♡橘君たらぁ・・」

 

「はい決定。頼んだ(よ~)!!」

 

トントン拍子に話が進んでいく。「エサ」にまんまと喰いついた御木本を置いて。

 

高3で車の免許を取るということ―大概の人間はまず最初にこう覚悟した方がいい。

当分都合のいい「足」として使われかねないということを。

 

 

「みっきー!!ささっと車出しちゃって!!ごーごー♪」

 

「な、なんなんだよ森島!!これ一体!?・・・っていうか誰!?こいつら!?」

 

「え~~っとぉ・・。・・いっけない・・もうみんなの名前が出てこないわ」

 

「森島ぁ!?」

 

「先輩僕が話します。えーーっと『みっきー先輩』でしたよね?道すがら話します!取り敢えず今は車出してください!みっきーさん!!」

 

いつの間にかボロ軽自動車の助手席に滑り込んだ男子生徒―橘 純一が御木本にそう言った。律義にシートベルトを締めながら。しかし何故かベルトの長さが足りずに「あ、あれ?閉まんない!?」と言いながら少年はわちゃわちゃしだす。

 

「あ・・わり。そのシートベルトな、ここ引っ張ってやんねぇとここまで届かねぇのよ。不便かけるな・・・」

 

意外にも属性―「親切」を併せ持つ御木本 久遠という少年。

 

「あ。すいません」

 

「あ~いや。・・あ~~~!!いやいやいや違う!!!!ナニコレ!?どういうこと!?てぇかお前誰だよ!?お前森島の何なの!?」

 

「ぼ、僕ですか?僕はも、森島先輩の・・、なんてゆうか、その・・ふふっ・・」

 

その少年、比較的顔立ちは端正だがその質問に対してちょっと気持ち悪い含み笑いをし―次に堂々とこう言った。

 

 

「ぼ、僕は森島先輩のペットです!!」

 

 

含み笑いも気持ち悪ければ言動も中々に気持ち悪い。それを「そうそう♪」と言いたげにうんうん頷く森島もこれまた気持ち悪い。

 

「・・・」

 

御木本は絶句した。森島が遠く感じた。そして思う。「コイツは、いや『コイツ等』は俺の手に負えねぇ」と。

 

「こ、細かいことはいいんです!早く車出してください!!頼むぜみっきー!」

 

「いけいけみっきー♪」

 

 

「・・・・」

 

 

呆気に取られる御木本 久遠。そんな彼に―

 

 

「えっと・・御木本 久遠先輩、ですよね?」

 

一際落ち着き、礼儀を弁えた話の通じそうな少女の声が後部座席から発せられる。暴走族―森島 はるか、普段はある程度普通だが状況によっては「ド変態・成虫」に華麗に変態する橘 純一を制して少女―絢辻 詞が御木本の顔を申し訳なさそうに上目で覗き込む。

 

「本当にすみません。いきなりこんな風に押しかけて。でも・・どうか今は何も言わず車を出していただけませんか?お願いします・・!」

 

深々と頭を下げる絢辻の姿に言葉を失った御木本は何も出来ることがなくなった。彼が出来ることは最早言われるがまま車を出すことだけだ。

 

「わ。わぁったよ・・。どこ行きゃいいの?」

 

絢辻には聞かず、助手席の橘に御木本は尋ね、行き先を確認。行き先―吉備東病院へのルートを頭の中で漠然とシミュレート。カーナビなど洒落たもんは残念ながらこの車にはない。十数秒のローディング時間ののち、御木本は確信めいた表情で三人を見―

 

「出すぞ。飛ばすからな!!」

 

と意気込んだ。が―

 

 

ぷすん。

 

 

「・・・」

 

 

二、三回キーを回して再び点火したエンジン音に恥ずかしさを押し隠す様に今度は無言で車を御木本は発車させる。

 

―・・・。

 

ビー〇ム、ボ〇ボ、ジャ〇ー、ワー〇ン、メル〇デス・・走馬灯のように将来いつかは持ちたい車をお経のように心でぶつぶつ唱える。今はただ只管無心になりたかった。

 

 

 

 

 

―しっかし・・誰だよ?この子・・。

 

 

「・・・?」

 

ルームミラーでちらちら彼女―絢辻 詞を見る御木本に鑑越しに不安そうにしながらも笑いかける絢辻の姿に御木本は目を逸らす。事情を聴くつもりだったがそれどころではなかった。

 

―何だよ・・この訳あり顔のこの子・・・すげぇかわいいじゃねぇか。

 

 

良い「プレイボーイ」の条件とはある意味「切り替えの早さをもつこと」なのかもしれない。

 

 

しかし、先日のクリスマス・イブの昼頃―彼に質の悪い謎のイタズラ電話をかましてきた相手がこの少女であるとは御木本は夢にも思わまいて。

 

 

 

御木本は車を走らせる。いつもより速い速度で。

 

 

 

 

 

 

歩き出せ クローバー 3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




森島、橘のカップルが車内にて御木本と交渉(?)中のこと―


「・・ありがとう。棚町さん。桜井さん」

「うん。気を付けて。みなもっちによろしくね」

「・・頑張って」

絢辻は車の後部座席に座ったまま、ここまで自分を導いてくれた同学年の少女二人の手を軽く交互に握って、申し訳なさそうに微笑んだ。

「・・。早く行って。ほら!」

棚町は名残惜しそうな絢辻を握った絢辻の手ごと後部座席に押し込むようにしてくれた。

「閉めるよ~♪挟まないようにね」

パタンとドアを閉め、桜井は車の窓越しににひひと絢辻に向かって笑ってくれた。相も変わらず背中を押してくれるような温かい、優しい笑顔だ。



―ありがとう。・・ありがとう!



車は走り出す。車窓は流れていく。絢辻は離れていく、手を振る二人の姿を必死に目で追った。


そして―


沢山の思いがけない「協力者達」の残る吉備東高校もまた目で追った。



話は一時間前にさかのぼる。






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ルートT 三十一章 歩き出せ クローバー 4












絢辻 詞が森島達三人と共に車で吉備東高校を走り去る一時間前―

 

 

「・・・。ちょっと私お手洗いに」

 

吉備東高校―図書室にて桜井 梨穂子、棚町 薫と共に勉強の続きをしていた絢辻が一息つくように腰を上げる。

 

「・・手ぇ洗いなさいよぉ~?」

 

棚町は中々根に持つタイプのようだ。くすくすと悪戯に頬杖突きながら微笑み、立ち上がった絢辻を見上げる。

 

「うん・・。ふぅい~~~私たちも一息つこうかなぁ」

 

ぐぐぐっ、と伸びをしながら棚町の向かいに座った桜井は何気なく視線だけ周囲を見回していた。

 

―・・・。うぅ・・。

 

彼女らしくない何時になく不安そうな瞳の光を宿して。

 

 

「あの男」の姿は見えない。彼女達を吉備東高校へ送り届けたのち、「暫し娘が世話になっている学校を見て回りたい」と言い残し、姿を消した。

 

 

しかし―

 

姿が見えない、気配もしないのに何故か「見られている」という感覚が抜けないのだ。この三人から一向に。そんな異常な状況に晒された流石の桜井も疲労感がぬぐえず、終始明るく振舞い続けていた彼女が珍しく弱音を吐露したような表情をしている。

 

そんな彼女の緊張をほぐす様に絢辻は立ち上がる。この場に取り敢えず絢辻さえ居なくなれば彼女らに少しの安息を与えられると判断しての絢辻の小休止の提案であった。

 

「すぐに戻ってくるわ」

 

そう言って絢辻が去ったのち―纏わりつくような「感覚」が桜井、棚町からすとんと消えた。その瞬間二人が大げさにため息をつく。

 

「桜井さぁん・・お疲れぇ」

 

「ふぐ~~まだお昼前なのに、もうなんか一日が終わったみたいな感覚ですよぉ~~」

 

ふみゅうと、机に突っ伏しながら目を×印にした桜井が棚町と向かい合う。

 

「そうね。私もクタクタ・・これで一銭も出ないんだから泣ける話よね・・」

 

「・・お腹すいたぁ」

 

「うん!これ終わったらお昼にしよっか。でも、・・その前に」

 

「うん・・。『バトンタッチ』だね」

 

 

 

 

 

 

キュッ・・

 

絢辻が入った女子トイレの中から水道の水が流れる音が消えた。同時小さな白い掌を彼女愛用のいつもの花柄のハンカチで丁寧にふき取るその様を―

 

 

「・・・」

 

 

「あの男」は見ていた。元々この男には娘以外眼中にない。茶番に付き合うのも終わりだ。

すっと音もなく背後から娘に近づく。足早に駆けていく娘の歩幅に悠々と追いつく長い足を無駄なく運ぶ。

 

―・・・わが娘ながらずいぶん耄碌したものだ。

 

ずいぶんと足の運びが遅い。

 

「常に人の前に立て。一歩先を歩け。」そう背中で教えてきたはずだ。それについてこられない相手など置いて行け。捨て置け。所詮住む世界が、格が違うのだから。

 

 

 

そう。

 

男は前を歩いていた。常に娘の前を。振り返らず。

 

 

 

 

しかしそれが今回仇になる。

 

 

「・・・?」

 

 

「娘」が振り返る。腰まである艶やかな黒い髪をなびかせて。整った顔立ち、黒く、そして―

 

 

 

 

・・・光一点の吊り上がった瞳をして。

 

 

 

 

彼の「娘」同様運動神経も良く、頭もいい。しかし「彼女」は―

 

 

 

 

「歩くのは早い方ではない」。

 

 

 

 

「―――!!!」

 

男―絢辻 孝美はほんのわずかに整った顔を歪ませる。

 

―・・やってくれるな。

 

「・・・?」

 

そんな彼を訝しがるように形の整った黒い吊り目を見開き、娘―絢辻 詞ではない少女が覗き込むように紳士の顔を覗き込む。純真無垢な美しく黒い、しかし強い意志も宿らせたような瞳だ。

 

「あのぅ・・私に、・・何か御用でしょうか?」

 

「あ・・いや失礼。人違いだったようだ。驚かせて申し訳ないね」

 

紳士はいつも通り柔らかい表情をし、全く自身の動揺の残滓を残すことなく少女に笑いかける。

 

「いえ。ふふっ・・ちょっとびっくりしちゃいました。この学校では見たことのない方だな~~って思っていたので」

 

少女はやや緊張した面持ちを崩し、胸の前で細く、白い指を絡ませて微笑んだ。

猫の瞳のように気紛れに少女の瞳がころころ変わる。彼の娘と比べるとやや幼さは残る。が、将来間違いなく美しい女性になるだろう、と紳士は確信しつつ愛好を崩す。そんな感覚が紳士の常に計算、鉄壁の時間間隔によって管理された彼の自制心、自己統制にわずかにノイズを発生させていた。

 

「あの・・」

 

「・・うん?何かな」

 

「あのぅ・・ひょっとしてどなたかをお探しだったのではないんですか・・?」

 

そんな少女の気遣いの言葉がなければ自分の目的を見失うほどに。

 

「ああ。でも・・正直どうでも良くなったかもね」

 

「え・・?」

 

「いや。君みたいな子に出会えるとは・・たまには人違いもしてみるものだね」

 

「・・ふふっ。お上手ですね。あ・・では私は用があるのでそろそろ失礼いたします。お探している人・・見つかるといいですね」

 

きっちり礼儀も弁えた動作でぺこりと頭を下げ、少女は踵を返す。その背を見送りながら紳士はこう思う。

 

 

―成程。たまには誰かの背を見送る、というのも悪くないものだな。

 

 

 

 

 

同時刻―

 

女子トイレで待機していた「彼女」に自分の愛用のハンカチを手渡し、一人トイレ内に待機して、父の追跡を撒いた絢辻は再び棚町、桜井そして用意の整った森島達と合流、正面玄関に現れたボロ軽自動車で現れたアッシー君「みっきー」こと御木本 久遠を向かい入れていた。

 

 

完全な不覚、一手遅れ。してやられた現実を前にした男に―

 

 

「・・お待たせしました」

 

 

「彼ら」の更なるもう「一手」が追い打ちをかけるように紳士の背後から指される。

 

 

―・・・全くなんで私が・・。茅ヶ崎の奴、後で覚えていろよ。

 

 

意外過ぎる人物、茅ケ崎 智也の2-Fの担任教師―多野が居た。

 

 

「では。改めて。私が吉備東高校の校内を案内させていただく多野と申します。お噂はかねがね・・・」

 

 

 

 

 

 

 

「・・・」

 

―「やはり」この教師すら「差し金」だったか。・・成程。「彼ら」を少々甘く見ていたのかもしれないな。私は。

 

「・・・?どうかされましたか。案内役がこんなむさくるしい男で申し訳ありません。何せ人が他に―」

 

「・・・いやいや。いきなり押しかけて無理を言っているのはこちらです。気にせんで下さい。ただ・・」

 

「・・ただ?」

 

「娘の担任の先生が中々綺麗な女性だとか・・お会いできなかったのが少々残念かな」

 

 

 

 

 

自分が今度治めることになる区に有り、きっとこれからの吉備東、いや、日本の未来の人材を育て、そして同時娘がお世話になっているこの学校をぜひ一度自らの目で見ておきたいと思いましてね―

 

 

先程、吉備東高校内を訪れた一行が校内廊下で「偶然」この男性教師―多野と接触した際、紳士はにこやかに笑ってこう言った。はっきり言って建前、社交辞令。そんな彼に多野はいつもの気難しいキャラを精いっぱい崩壊させ―

 

「で、では宜しければ私が校内を御案内致しましょう。あ・・申し訳ないですが、少し時間を頂けますかな?ちょっと所用を済ませてから直ぐに馳せ参じますので」

 

明らかにぎこちない語り口調であった。普段の彼を知る生徒達からすれば、特に茅ヶ崎あたりが聞けば笑い出してしまうに違いない。このぎこちなさは逆に紳士の多野に対する警戒をやや緩ませる。

 

「・・是非ともお願いしたい。あなたのような熱心な教師が娘の学校に居てくれ『た』ことはとても喜ばしい限りだ」

 

 

 

そして一時間後の現在、先ほどと違って完全に落ち着き払った目の前の男性教師を前に紳士―絢辻 孝美は不敵に笑いかける。まるで目の前に次々に現れる障害を楽しんでいるように。

 

「・・。やはり貴方のようなお忙しい方に不躾な申し出でしたでしょうか?御都合が悪ければ日を改めさせていただきますが・・?」

 

「・・いやとんでもない。これはある意味私の責務です。予定通り校内のご案内をよろしくお願いいたしますよ。多野先生?」

 

「・・・。ではこちらへ」

 

―・・。

 

全く警戒心を感じさせないこの男の柔らかい笑顔。しかし言いしれない不気味さを同時、背後に感じながら多野は歩を進める。

 

 

 

 

 

 

 

一方―

 

「全く・・いきなり呼び出されたかとおもったら・・何事かと思いましたよ」

 

「・・お帰り」

 

先程絢辻の父と接触し、彼に鮮烈な印象を残して去っていた長い黒髪の吊り目の少女が水泳部更衣室裏で座っていた「とある一人の少年」に声をかける。

少女の先ほどまでの初対面の目上の人間と接するに相応しい節度は成りを潜め、今はやや幼く悪戯で少し生意気そうな雰囲気を醸し出している。

しかし、一方で間違いなくあの男が覚えた印象通り、十二分に魅力的なまま、少女はスカートを丁寧に折り―

 

「んしょ・・」

 

彼女は水泳部更衣室裏の「いつも」の特等席に座った。

 

 

 

「お疲れ・・・いきなりヘンな頼み事してゴメンな?七咲?」

 

 

 

そんな彼女の隣に彼女の帰りを一人この場所で待っていた少年―杉内 広大が隣に腰かけた少女―七咲 逢に労いの言葉をかける。

 

「ホントです。ま。良いですケドね。・・先輩の頼みですし。それに創設祭の件で何度もお世話になった絢辻さんのお役に立てるのなら」

 

「ありがと」

 

「・・いえ。それに結構・・あの絢辻先輩と間違えてもらえるなんて光栄ですしね」

 

「ん~~~それなんだけど・・、なんかさ?・・連れの話によると七咲と絢辻さんって『雰囲気が少し似てる』・・らしいんだってさ」

 

「そうなんですか?・・意外です」

 

「実際に今日も成功したしね。それも絢辻さんのお父さん相手に・・びっくりだよ」

 

「ええ。私も正直ドキドキしました。絢辻先輩の小物とか預かって持っていたとはいえ・・でも流石にあの『先輩方』の協力なければ無理だったと思いますけど・・」

 

「・・まぁね」

 

「・・それに」

 

「・・?」

 

「『コレ』も無ければ到底無理だったでしょうね~~やっぱり?」

 

じとりと七咲は杉内をにらんでこう言った。手に持ったとある物体ー「コレ」を見せつけながら。

 

「・・・根に持つね~」

 

 

 

 

 

一時間前―茶道部部室にて―

 

 

「動くなよ~?七咲ぃ~~カツラずれちゃうからな~。・・うっし、こんなもんかぁ?・・あ・と・は・・あの絢辻さんの美しい黒髪の艶を再現しないとねぇ。・・七咲―?そこのワックス取って。後黒染めと」

 

「は、はい」

 

「あんがと」

 

 

 

「・・七咲。君の身長は絢辻さんに比べるとやはり少し低いようだな・・この厚底付きの上靴を履くのだ・・。そしてこの肩パッドを調整したブレザーも・・」

 

「は、はい。・・どうですか?」

 

「ふむ・・いい感じだ。欲を言えば背筋をもう少し伸ばせ。絢辻さんはもう少ししゃんとしているイメージがある・・」

 

「は、はい」

 

いきなり杉内に連れられ、為すがままに連れ込まれたその場所―茶道部部室で七咲は茶道部の重鎮である二人―夕月 瑠璃子と飛羽 愛歌にもみくちゃにされていた。

 

今朝―七咲はいきなり杉内から今日会って開口一番に

 

 

「頼む七咲!!絢辻さんに変装してくれ!!君しかいない!」

 

 

という突飛な要請に「はいぃ!?い、いきなりそ、そんなの無理です!!」と断ることも出来ないまま七咲は杉内に手を引かれ茶道部部室に連行―手薬煉引いて待っていた茶道部重鎮二人に引き渡される。

 

「にひひ~~りほっちから話は聞いてるよ。楽しそうじゃないか。混ぜな?さ。七咲こっちだ」

 

「大丈夫・・。痛くはしない」

 

 

数分後―

 

「これが茶道部秘伝の『絢辻 詞変身セット』だ・・。コレさえあれば君は何時でも絢辻 詞になれるのだよ七咲。すばらしいだろう?・・ふふふふ」

 

「ひ・・」

 

胡散臭いグッズを訪問販売で売りつける霊感商法販売員のごとく怪しく笑う胡散臭さ満開の飛羽を前に七咲は戦慄し後退。しかし「おっと~~逃がさないよ!?」と言いたげにいつの間にか背後に回り込んでいたもう一人―夕月によって羽交い絞めにされ、退路を断たれる。

 

「ひ、『秘伝』!?っていうか何故そんなわざわざ一般人の女子高生になるためのニッチな変装グッズが存在しているんですかぁ!?」

 

という七咲の質問に―

 

「・・来年の茶道部予算確保の為だ。もし・・この前の私たちの『おもてなし』が上首尾に働かず残念ながら絢辻さんを味方につけることが出来なければ・・誰かを絢辻さんの影武者に仕立てる必要があったのでな・・茶道部の将来のために・・」

 

「!????」

 

意味の解らない返しをされ、七咲は硬直するしかない。混乱の中、そんな「こんな事も在ろうかと」が、この世に在ってたまるかと言いたい七咲を余所に茶道部重鎮の二人の「七咲かってに改造作業」がつつがなく進み、七咲の変身は続いていく。それを―

 

―・・ウキウキ。

 

とでも言いたげに杉内は胸の前で掌合わせ、恋する乙女のように成り行きを見守っていた。・・なんとも酷い彼氏だ。しかし―

 

「あん!?いつまでアンタそこに居んの!?邪魔邪魔!でてけっつ~~の!!」

 

「・・・(キッ)」

 

夕月の一喝と飛羽の睨みに敢え無く締め出される。酷いうえに何とも役に立たない男だ。

 

 

しかし、変装を終え、まったく自信が無いまま恐る恐る茶道部部室をでた七咲が杉内と対面した瞬間の―

 

「その・・どう、で、すか?先輩」

 

「・・・!!な、七咲・・嘘みてぇ。か、可愛い・・」

 

「え・・・」

 

真っ赤な顔を片手で隠しながらぼぉっと七咲から目を逸らす杉内の反応に一気に彼女の闘争心に火が付いた。そして「こうなりゃもうヤケですな」と言わんばかりに覚悟を決める。

 

―よ、よぉ~~しっ!!

 

「さぁ誰を騙せばいいんですか!?」と言いたげに七咲はズンズン歩きだす。が―

 

「・・七咲。ちょっと・・」

 

誰かがずいと七咲の肩を掴む。七咲が振り返るとそこには飛羽が神妙そうな顔をし、少し視線を泳がせていた。「なんですか。今更怖気づいたんですか?」と言って何時になく強気な七咲は彼女を見る。先ほどまでとは打って変わって自信満々の彼女を前にして飛羽は―

 

「・・いや。『完璧だ』という自負はある。髪型、肩幅、瑠璃子がセットした髪型、髪の艶・・『絢辻変身セット』がこれ以上なく機能していることは間違いない。まさしく七咲・・君が着るために生まれてきた『絢辻変装セット』だと思う。・・だが私は不覚ながらも大変なことを忘れていたようだ・・私としたことが」

 

「・・?」

 

「済まない七咲・・誠に済まない。その・・・非常に言いにくいのだがな・・」

 

「もう!飛羽先輩!?遠慮せずに言ってください!!さぁはっきりと!!」

 

ヤケ気味のせいでナチュラルハイな七咲は二つ年上の吉備東高の重鎮相手にずけずけと迫る。程なく目を逸らしていた飛羽が決心したように七咲を見据え、こう言った。

 

 

「七咲・・この胸パッドを入れるのだ・・何・・お前はまだ高1・・あと一年ある。落ち込むことはない・・」

 

「・・・」

 

掌のホットケーキ大の物体二つを申し訳なさそうに飛羽は七咲の前に差し出す。

 

重苦しい沈黙。

 

そんな中、七咲の背後で杉内、夕月の二人が悶絶していた。

 

 

 

 

 

「うぅ・・しくしく・・」

 

この一時間前の出来事を思い出すと七咲は恥ずかしくて泣けてきた。いじけて小石を川に投げこむように「コレ」―取り出した胸パッド二つをぺっぺと投げ捨て、膝を抱えてぶぅと頬を膨らます。

 

「その・・悪かったって七咲・・俺も夕月先輩もその、反省してるからさ」

 

「ふん!」

 

そんな隣の七咲に対して杉内は申し訳なさそうに笑い、話題を変えることにした。

 

 

「・・それにしても・・七咲。君は凄くロングヘア―が似合うな。雰囲気がすっごい大人っぽくなって」

 

「・・ふん。そうですね。どうせ私は今まで子供っぽかったですよ。絢辻さんと比べたら。胸もないですしね」

 

本当に案外根に持つタイプである。

 

「んなこと言ってないって・・」

 

思ったより話題を転換できてない事に杉内は頭をがりがり掻いた。

 

 

「・・逢」

 

「・・」

 

「・・おいで?」

 

―・・・少しずるいけど仕方がない、か。

 

 

プーは最後まで決して杉内の下に来たことはなかった。しかし彼女は別だ。

 

「・・・」

 

無言のままずりずりとおしりを滑らせ、杉内の懐にむくれた時の姿勢のまま、すっぽりと小柄な少女は収まる。そんな彼女の頭にちょこんと顎を乗せ、杉内は深く息を吸う。いつもの七咲は決して使わない艶出しのための整髪料の香りがツーンと鼻をつく。

 

「・・何か今日の逢はいつもと違う香りがする」

 

「いつもの方が良いです、か・・?カツラそろそろとりましょうか」

 

「・・ううん。せっかくだしこのままで。ロングの逢なんてそうそうお目にかかれないだろうし♪」

 

「・・杉内先輩は長い髪の女の子の方が好みですか?塚原先輩も・・そうでしたし」

 

「え・・!?そういうわけじゃねっと思うけど・・」

 

「・・・。もしそうならはっきり言ってくださいね?髪・・私伸ばしますから・・先輩が・・望むなら」

 

「・・え?」

 

 

「ふふっ・・私、・・先輩の為なら何でもしますよ?何でも言ってください。常に先輩を見て、監視して・・捕まえて見せますから」

 

 

「・・・」

 

「ふふふっ・・♪私、結構束縛するタイプみたいです♪」

 

 

いつもと異なる長い、ぱっつんの前髪から除くいつもの光一点の吊り目―それが横目で悪戯に杉内を射抜く。

 

 

 

―・・・。タイム・・集合。

 

 

杉内の中で緊急脳内会議が始まる。今日のお題は

 

「今日の長い髪の七咲が可愛すぎる件に対する緊急対策」について。

 

脳内数十人の杉内 広大が議論を開始。

 

しかし残念ながらどうやら議論にならない。

 

 

―無抵抗で。

 

―無条件降伏で。

 

―異議なし。

 

―降伏で。

 

―降伏。

 

―降伏で。

 

 

―・・・・幸福で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩き出せ クローバー 4

 

 

 

 




同時刻―

絢辻は協力者達の残る吉備東高校をずっと車窓から眺めていた。そして同時気づいてもいた。

・・「この」纏わりつくような視線に。

校舎の渡り廊下。

かつてここを渡ったあの時、人体模型を抱えた少女―伊藤 香苗と校門前で有人が彼の兄の恋人と話している姿を目撃した日、つまり盛大な勘違いをしたあの日彼女が居たあの場所。そこに―


「あの男」・・父が居ることを。


後部座席の窓から見える渡り廊下―多野に案内され、彼の一歩後ろに続くあの男の視線は今―


―・・・。


確実に絢辻を射抜いていた。



どこにいようと。

何をしていようと。

あの男は彼女を見ている。














その三十分後のことであった―


有人の入院する吉備東病院に国枝、そして梅原宛に一本の電話が入る。
その電話の相手は御木本 久遠の車に森島 はるか、そして絢辻と共に同乗していた少年
―橘 純一からの連絡であった。

「予定通り絢辻は吉備東高校を出ることが出来た」と棚町、桜井から連絡があったにも関わらず、未だ一向に病院に現れる気配がない四人の少年少女の一人から電話が来た―

すなわち何らかの予定外のトラブルが発生したとしか考えられない、という結論に行きつく。

「便りがないのはいい便り。便りがあるのは・・」

そんな使い古されたことわざを裏付けるように橘は電話下で国枝達に申し訳なさそうにこう言った。


『・・・ごめん。暫くの間、動けそうにない』




『警察に捕まっちゃったんだ・・僕らの車・・』










12月27日―

時刻は奇しくも12時27分。

彼らの歩み、快進撃はまるで子供が大人に


「ご飯よ。いい加減降りていらっしゃい」


とでも言われて水を差された児戯、おままごとの如くぱったりと時を止めた。















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ルートT 三十一章 歩き出せ クローバー 5

12月26日―

吉備東記念病院―エントランス付近公衆電話コーナーにて

「・・・」

ピーっと甲高い音を鳴らしながらテレホンカードを吐き出す公衆電話の受話器を握ったままいつもの様にポーカーフェイスを貫く少年―国枝 直衛は残った左手で考え込むように口をつぐんだ。

「あぁ、うん!分かった。・・て~か大将?・・おめぇちゃんとウチの自転車返せよ?いきなり朝早くウチに来たと思ったら『自転車貸せ』って何だそりゃ!?れっきとした商売道具なんだワ。あれ。・・あ!?なっにぃ!?『チェーン外れた』だとぉ!?」

隣の公衆電話で恐らく杉内 広大あたりに連絡中の梅原に対し、横目で「先に戻る」と告げ、国枝は一旦有人の病室に戻ることとする。

「・・・」

一見普段と全く変わりないように見える表情で歩いている国枝だが、恐らく彼の幼馴染の有人、そして棚町 薫。そして電話中でなければ恐らく梅原あたりも今の彼にこう声をかけたであろう。「何考えこんでんの?」と。


「・・何か心配ごと?国枝君」


「・・・!」

訂正が入る。どうやらこの小さな少年もまたそれに新たに「仲間入り」していたらしい。いつの間にか国枝が辿り着いていた有人の病室の前の簡易座席にて―

「す~~っ。すぅ・・・むにゃ」

すやすやと眠る隣の小動物のような少女に肩を預けていた小さな少年―御崎 太一が戻ってきた国枝に声をかける。

「・・そんな風に見えたか?」

「ん~~なんとなく、だけどね?」

そんな国枝の反応に自分の質問があながち的外れではなかったことに嬉しそうに笑い、御崎は国枝を向かい入れる。その彼の隣で

「う、ん・・っ・・・?太一せんぱ・・い?・・?・・・・!?は!す、すみません私寝ちゃってました!!」

こしこしと大きな瞳をこすりながら御崎の隣でさっきまで眠っていた中多が覚醒。なんともばつが悪そうにアタフタしながらまず、未だ二人の前で立っている国枝にペコペコ頭を下げたのち、頭を預けていた隣の御崎の肩にも「あ~~私ヨダレでも先輩の肩にかけてないでしょうか~~?」とでも言いたげにごしごし律義に拭き始める。そんな小動物的動作をする隣の少女―中多 紗江を苦笑いしつつ、頭を撫でる御崎の微笑ましい光景を見ても尚、国枝の表情は晴れなかった。しかし―

「・・・ん」

その二人のやり取りを前に決心したかのように頷き、二人に国枝はこう切り出した。

「・・御崎」

「うん?」

「それと、・・中多さん?」

「は、はい?な、なんでしょーか?国枝先輩・・・」

「・・。二人に頼みたいことがある」












 

 

 

 

私はいずれ道路交通法違反―特に飲酒運転、無謀運転、煽り運転、スピード違反、積載超過、違反駐車等の細分化、厳罰化を主とする法改正案の意見書を近日国会に提出する手筈となっている。

 

特に「市」という集合体に於いて重要性の高い場所、例えば常に物流、運搬の要となる高速道路、国道付近、そして市民の安全と暮らしを守るためのこの警察署はもちろん、消防署、病院、災害および緊急時避難場所等、重要な避難経路、緊急車両の通過する可能性の高い施設周辺道路の環境整備、法整備は最重要項目の一つであることに疑いの余地はない。

 

よって諸君ら市民を守る警察組織には上部、下部組織関係なく更なるこの件に該当する施設、周辺区域のパトロールの強化、徹底をお願いしたい所存だ。

 

いずれ私、そして未熟な私に支援の手を差し伸べてくれる方々との始動の下、日本全国で施行される新道路交通法の整備に向け、この私が治める事になるこの吉備東市こそがまず日本全国の先駆け・・「ロールモデル」、「モデルケース」として見本を示していきたいと私は考えている。

 

特にこの師走という季節は忘年会、クリスマス、そして年を明けても新年会、などと、飲酒運転、無謀運転が最も発生しやすい季節であり、一方で運送、運輸会社は繁忙期で多忙を極める、さらに学生の長期休暇も相成って一年で最も危険な時期と言っても過言ではない。

 

よって貴兄らには改めてより一層の努力、ご協力、ご尽力をお願いしたい所存であります。

 

・・ここからは私のひどく個人的な話で恐縮ですが、不肖の私にも幸せなことに年頃の娘が二人おります。

 

その娘にごく近い年代の少年、または少女が幼さ、若さゆえに起こしてしまった数々の悲惨な交通事故によって死亡、もしくは命が助かったとしても心身共に重い障害、傷を負ってしまう痛ましい事件が頻発してしまう時期でもあります。

 

そんな事故を一つでも少なく・・いえ、この吉備東、そしてこの日本から根絶するためにも皆様のお力をこの私に御貸し頂けますようお願いいたします。

 

 

 

―・・。まぁ何とも聞いている方がむず痒くなる様なご立派なお題目なこって。

 

ウチの署長は卑屈なぐらいに諸手をあげて賛同、「感服、感動いたしました」とあの「お偉いさん」に尻尾振ってすり寄っていったがな。・・割を食うのはいつも現場の俺らだが。

 

・・つまる所、今年の年末年始の俺らの「ノルマ」の激増が決定、ってこと。

 

あのぶくぶく太ったウチの署長にとってはここら辺一帯取り仕切る連中に揉み手しながらすり寄れるし、これをきっかけに「道路交通法の法改正」とやらが進めば地方議員と国会議員の両方に恩を売れる。さらに違反運転の摘発が増えれば罰金の徴収額も単純に増える。

・・さぞウハウハだろうさ。方や下っ端の俺らはこの寒空の中ヒィヒィ言いながらノルマに追われて違反車のケツを追っかけまわすってワケだ。

 

 

・・・んで、と。

 

 

今日12月27日―

 

俺は今、先ほど「善意の市民サマ」のご通報に従って、恐らくこの国道を通過するであろう「目的の車両」を待っている。

 

 

『運転している人間は制服を着ていたから恐らく高校生ぐらい』

 

『かなり形式の古い軽自動車。ミニバンタイプ。・・のわりに結構なスピードを出しているうえに、見たところ座席は満席』

 

『当然初心者マークが付いていた。運転技術に関しては甚だ疑問である』

 

『どうか事が起こる前に彼らを保護、諸注意を促してあげてほしい』

 

 

・・ふん。何とも懇切丁寧な通報もあったもんだ。おまけに車種、ナンバーまでご確認済みたぁご苦労なこって。・・・案外同業者かなんかじゃねぇのか?この通報者。

 

 

 

・・若しくは先日のお有り難いご高説のあの「お偉いさん」ご本人だったりしてな?つうか何気にあの時のあの「お偉いさん」の話と今回の件のシンクロ具合やばくね?

 

言葉借りるとこれ、絵に描いたような「モデルケース」じゃねぇ?

 

 

 

まるで「仕組んだ」みたいな、よ?

 

 

 

 

 

ん・・。来た・・まさに「噂をすれば」ってやつか。・・行くか。

 

 

 

 

 

 

『・・そこのミニバン。ゆっくりと速度を落としてそこの道路わきに停車しなさい』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―ん・・?なんだ。通報内容の印象とちげぇな。

 

思いの外すぐに速度を落とし、素直に制止に従おうとする前の軽自動車に追跡者―白バイ隊員の男は拍子抜けする。かなり速度を緩めた車にそっと背後から白バイを右運転座席の横につけ、走りながら窓を開けるように促すと―

 

「・・は、はい?あの~~俺らっすか・・?」

 

ガタガタとぎこちない音を立てて空いたウィンドウからは見た目は少々派手だがその服装、怯えた表情は間違いなく幼い。まだ子供。十代だ。

 

―・・・ただのガキじゃねぇか。それもこの制服・・キビトか?おいおい・・マジで本当にまだ高校生だったのかよ。

 

「・・法定速度28キロオーバー。スピード出しすぎだよ。・・あの先の側道に止めて。・・焦らずゆ~~っくりね。んでその後免許証見るから用意しといて。・・免許。持ってるよね?」

 

心底うざったそうに白バイ隊員は後部座席に乗る二人の少女も並走しながら一瞥した。

 

―・・ん?

 

運転席には学生服を着崩したいかにも遊んでいそうな少年。ここまではまだ自然と言えた。

しかし、一方で助手席には打って変わって良くも悪くも普通そうな男子学生が乗っていた。こちらは制服もちゃんと普通に着ている。

 

そして後部座席の二人の少女は・・正直、これは中々の綺麗どころだった。

 

「・・・?」

 

表情に少し幼さ、あどけなさは残るものの、すでに「女性」としては十二分な魅力の肢体を持つ少女が後部座席に一人。

 

そして―

 

「・・・(ぺこり)」

 

一転。運転席の少年とは一見一切の接点、関わり合いが無さそうに思えるほど真面目そうで同時弁えて居そうな雰囲気の美しい黒髪の少女が一人、その雰囲気に違わない流麗な動作で白バイ隊員に頭を下げる。

 

 

「????」

 

―・・?なんだ?こいつ等。最近の「遊んでる奴等」ってのはこんなのなのか?

 

 

そこから白バイ隊員の諸注意の中、御木本 久遠の法定速度オーバーの違反切符、必要書類作成、確認、さらに同乗者である他3人もまた学生証の提示、身元確認とちょっとした取り調べに約2~30分を要する。

白バイ隊員は表情こそうんざりしながらもある程度節度を以て3人に接してくれた。橘が途中、「吉備東病院に友人のお見舞いに行く道中だった」と、事情を説明すると

 

「・・・『病院に見舞い』?わざわざその制服で?冬季休暇中だろ?君ら」

 

「・・あ」

 

「う~~ん。・・ま、いいけど。見舞い、ね。そういうこと。・・うん。ならいいや、一旦病院に電話しといで。でもちゃんと戻ってきなよ?っつ~か女おいて逃げんな?少年」

 

そして形式的な必要事項、必要手続きを済ませ、やたらと13時過ぎて混みだした周辺道路の惨状を白バイ隊員は流し見―

 

 

「・・。着いてきな。病院までの混まない裏道紹介してやる。ただし!・・法定速度は守れ、な?」

 

 

白バイ隊員は安全、かつ周辺道路の混雑状況からすれば結構に早い所要時間で4人を無事病院に送り届けてくれた。

それでも停車から約三十分以上の手続きの拘束時間に加え、更に約二十分・・・あまりにもそのタイムロスは大きかった。

 

 

 

 

「じゃ。気を付けて。入院中の友達には『お大事に』、な」

 

そう言って白バイ隊員が去ったあと、混み合う病院の駐車場内で他の車のクラクションに刺激されながら御木本 久遠と助手席の橘が「初心者ドライバーにも優しい楽に駐車できそうな停車場所」を探して必死に葛藤するさ中―

 

 

「・・・っ!・・・」

 

 

絢辻が息の詰まるような声を上げたのち、車外のとある「場所」をじっと見つめていた。それを絢辻の隣に座る少女―森島 はるかもまた怪訝そうに彼女のその視線の先をみやる。

 

―あやつじさん・・一体何を・・見ているのかしら~?・・車?・・案外車とかに興味あるのかしら~~?

 

森島にはその「車」が何を意味するかは分らなかった。しかし、当然絢辻には分かる。

彼女にとっては「見慣れすぎている、見慣れすぎた光景」が病院の駐車場―それも特定の来賓、いわばVIPの為に空けている駐車スペースに鎮座していたからだ。

 

致命的な足止めによる到着時間の遅れ―その結果が意味するものが・・その光景だ。

それはあまりにも絢辻にとって予想できた、覚悟していた―純然たる現実であった。

 

 

 

 

絢辻の視線の先で佇むは傷一つ、曇り一つない一台の黒塗りの高級車、その車内で―

 

 

―・・。

 

 

待ちくたびれたようにハンドルに両手をかけながら「あの男」は絢辻をただじぃっと見ていた。まるで目の前で他の子たちと遊ぶ我が子の戯れが終わるのを待ち焦がれている親の様に。

 

 

 

 

あの男―絢辻 孝美はそもそも解っていたのだ。

 

 

「答え」が。

 

 

なら、過程は関係ない。現実は所詮「数学、数式」とは違う。そもそもの「答え」が解っていれば時に過程などは必要ないのだ。

 

美しい努力の証、答えに至るために必死に象った筋道―数式は必要ない。

 

色々と手を講じてはくれたものの、所詮は彼の娘、そして有人達の目的とはもともと至極シンプルなのである。それはただ「この場所に来て絢辻、有人の二人が再会する」―ただそれだけの事だ。考えれば誰にも分かることだ。

 

そもそも「目的」が解っているのなら。「答え」が解っているのなら。

そこまでの過程は男にとって「お遊び」のようなもの。答えまでの過程―途中の数式に火を噴く怪獣やら、やたら目のでかいお姫様のようなちゃちな落書きが施されていようが一向に構わないのだ。

 

ならば大人として子供の「お遊戯」に付き合ってやるのも悪くない。相手をしてやらないのも大人気ないことだ。

 

それに一体あの学校で自分の娘に他にどんな「愉快な」知り合いたちが居たのか、・・そして自分に曲がりなりにも楯突こうという連中がどんな子たちなのか調べておく、知っておくのもまた一興―そう考えていた。

 

 

「有人と絢辻を会わせないようにする、直前で止める事」など造作もない。所詮この「車内」にある―

 

 

ピピピピピ・・・

 

 

「・・・ん。私だ」

 

黒塗りの車内、何とも事務的で味気の無い電子音が鳴る。この時代にはまだ珍しい携帯電話の代わり―車内電話の呼び鈴であった。

 

 

 

数十分前―吉備東高校にて

 

 

「む・・失礼ですが多野先生?案内の前に仕事のことに関して先方に少し定時連絡をしたいと思いまして・・一度私は車に戻ります」

 

 

所詮この時のこの電話一本で事は足りた。警察署へのたった一つの電話を終えさえすれば、多野の下に戻って吉備東高内の案内を再開、つつがなく終わるぐらいに時間は悠々稼げる。

 

後は足止めさせた「彼ら」に追いつくため、最近車内に彼の分刻みのスケジュール管理、統制の一助にするため増設した最新衛星式のカーナビゲーションシステムによって周辺道路の渋滞、混雑状況を把握し、その合間を縫って悠々と「答え」―詰まるところ有人が居り、娘が向かっている病院に先に回り込み、待ち構えることが可能だ。

 

 

 

そして現在―

 

そんな先端を行く最新技術の数々を前に何とも無感動な動作、口調を携えつつ紳士は車内電話の受話器を整えられた指先で握り、にこやかに恐らく部下であろう人物と通話をしていた。

 

 

「ん、ん。ああ、その件か。・・問題ないよ。その方向で話を進めておいてくれ。

 

 

・・ありがとう。それでこそ君を次席管理官に据えている意味がある。

 

 

ん・・。・・私かい?ははは。おかげ様で今は久しぶりの休暇を満喫しているよ」

 

 

物腰柔らかく笑い、そう言った。そしてこう続ける。

 

 

 

「・・今日はちょっとした『寸劇』を見ていてね?なかなか面白い出し物だったよ。たまには悪くないものだね。こういうのも。だが・・」

 

 

 

 

 

―些か・・「飽き」は早かったかな?

 

 

 

 

 

紳士はそう言い残して徐に電話を切ったのち、車外に出て真っすぐと娘―絢辻 詞達の乗る車に向かって長い足を優雅に滑らせ、ゆっくり、堂々と歩いてくる。

 

 

 

 

 

―・・帰ろう。詞。・・遊びは終わりだよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩き出せ クローバー 5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートT 三十一章 歩き出せ クローバー 6




一時間前、吉備東高校二階女子トイレにて―


「・・・」


絢辻は瞳をきょとんと丸くし、鏡に映りながらも全く自分の意に沿わない、違う動きをする奇妙な自分を見るような不思議な感覚に包まれていた。


「・・?絢辻先輩?どうかなさいましたか?」


「・・あ。ご、ごめんなさい。・・・七咲さん」

目の前の少女―七咲 逢が顔を上げ、絢辻の顔を怪訝そうにのぞき込む。すると絢辻を包み込んでいたその不思議な感覚はすぐに立ち消えた。
「シルエット」こそ確かに自分に見事に寄せている。が、やはり顔が、そして表情が視界に入るとちゃんと「自分とは全く異なる別人である」と今更ながら実感が湧いてくる。

「じゃあ・・ハンカチお預かりしますね?あ!ちゃんと洗ってお返ししますから」

「いいのよ気にしないで。・・むしろ突然こんなヘンなことを頼むことになってごめんなさい。びっくりしたでしょ?」

「ええ。まぁ」

少女―七咲は謝る絢辻に対して少し悪戯に目線を逸らし、キッパリそう言った。

「・・・あ、はは。はっきり言うのね・・」

そのあまりにはっきりとした返答に申し訳なさそうに苦笑いする絢辻の表情をちらりと横目で見、七咲はクスリと笑う。「もうこれぐらいでいいかな」と、言いたげに。
まぁ彼女が「この姿」になるまで「多々」あったのだ。絢辻には悪いがこれくらい嫌味を言っても罰は当たらないだろう。

「ふふっ。冗談ですよっ。私。こう見えて今、結構楽しんでいるんですよ?こんなにサラサラのロングヘア―にしてみたいな~って憧れていた時期もありますしね。・・ま。生まれつきの髪質と大好きな水泳をする為にはやっぱり無理かな~って諦めてはいましたけど」

「そうだったの・・」

「でも・・ふふっ♪まさかこんないきなり思いがけず夢が叶うなんて・・素敵な体験です」

少し上機嫌そうにころころ笑い、七咲はぎこちなく髪をふぁさりと掃う動作をする。どうやら冗談やごまかしの類ではなく本当に彼女なりにこの状況を楽しめているらしい。その姿は普段の「絢辻にとっての七咲 逢」という少女の印象と少々異なる印象を覚えた。

―・・。七咲さん少し・・変わったかしら?気のせいなのかもしれないけれど。

が―

「・・。さて。絢辻先輩そろそろ。あんまり時間無いんでしょう?」

七咲は一転、表情を引き締め、アスリートらしく心根を入れ替える。幸いここは女子トイレだ。入口からは完全な死角。付け焼きとはいえ七咲に絢辻の歩き方、姿勢、仕草などの指南もある程度行える。ただしあまり時間はかけられない。が―

「うん・・もう少し背筋を伸ばして?・・うん。いい感じよ?七咲さん」

「ホントですか」

「歩き方って人の第一印象を良い風に変える場合が多いから・・よかったら覚えておいてくれると嬉しいかな・・あ、顎は少し引いて」

「はい!」

覚えの良い七咲はすぐに及第点と言えるレベルに達してくれた。

そもそも「普段の自分の姿を他人に真似てもらう」という普通の人ならどこか伝えるには抵抗と独特の難しさのありそうな行為である。が、絢辻にとっては常日頃から自分の仕草、姿勢、振る舞いを他人視点から見て適宜調整するというのが日常であったため、思いの外その伝達作業が滞りなく進むという背景もあった。人生何が役に立つか分からないものである。

―・・・。

七咲の上達ぶりを目で見送ったのち、少し複雑そうな顔で笑う絢辻に―

「・・先輩?」

「・・!あ。ごめんなさい」

「いえ。・・私、そろそろ行きますね?上手くいくかは解りませんけど・・やってみます」

「・・・うん。お願い」

やや緊張した面持ちの七咲を前にして絢辻もまた緊張を隠せずゆっくりと頷く。いくら見た目、雰囲気を真似ても本当に「あの男」を騙すことが出来るのかは正直微妙なところだ
。しかしやるしかない。

七咲が先行。絢辻がその後ろ入り口付近で様子見、待機の形。よって絢辻から背を向けた七咲の表情が見えなくなり、再び自分とそっくりな後姿をした七咲の姿が絢辻の視界に映る。

―・・・。

まるで見失った、自分の中に居るかつての「あの子」の姿を見ているみたいだった。

気丈で、自信たっぷりで、少し横柄で傲慢さも垣間見える立ち姿。反面、人情脆くて、繊細で涙脆い。そんな感情豊かな後ろ姿。

しかし、「今の彼女」が最後に見たのは全てから背を向け、目を背けて塞ぎ込み、蹲ったあの日の「あの子」の姿だ。それが今の彼女の現実。
今の目の前にあるかつての自分の姿と重ねた背中は所詮幻だ。今日だけの。すぐにはかなく消えてしまう。

絢辻に残されているのは結局のところ、今の自分―ただ一人だけなのだ。

―・・・。

不安になる。弱気になる。そんな彼女に―


「絢辻先輩」


かつての「あの子」の姿をした後姿から全く異なる声色が発せられる。はっと目が覚めたように絢辻はその背中に目を凝らした。

「行きますよ。頑張ってくださいね?応援しています。・・心から。

・・・いってらっしゃい」

そこには横目でちらりと振り返り、自信気に微笑んだ吊り目の少女―七咲が居た。

―・・強いのね。

彼女の尊敬する三年生の先輩―塚原 響の普段からの言いつけ通り、既に彼女は程よい緊張感を既に自分の力に変換していた。

幻などではない。確かに居る。例え「あの子」ではなくとも今目の前に、そして今から自分が向かう先には多くの人が居る。支えがある。一人ではない。

そしてその先には―「あの人」が居る。

「・・・」

絢辻もまた歩き出す。


見事に七咲の背中に喰いついた「あの男」の背に背を向け、全く正反対の道を行く。二年間通って歩きなれた学校の階段を駆け降りて。





しかしその一時間後の現在、吉備東病院メインエントランス前VIP専用駐車場にて―




皮肉にも互いに背を向けたはずの「あの男」と絢辻は向かいあっていた。最早退路はない。絢辻は無言のまま車を降り、

「・・。有難うございました。そして迷惑をおかけしました。・・先輩方、・・橘くん」

そう言った彼女に同乗している他の三人もかける言葉が見つからず見送るほかない。


―何も言う必要はないよ。ただ車に乗ればいい。さぁ・・詞?

そう言いたげに紳士はちらりと僅かに視線を愛車に向けたのち、次に牽制の如く絢辻の背後でオンボロの軽自動車内にて固まっている他の同乗者を一瞥。完全に彼らの動きを封じる。

「・・」

広い病院の駐車場で、ポツンと一人完全に孤立した絢辻はふらふらと覚束ない足取りで「あの男」の元へ歩き出した。その所作を確認し、相も変わらず紳士は無言のまま流麗な動作で後部座席のドアを半分ほどカチャリと開ける。抜け殻になった娘を抵抗なくその中に吸い込ませるために。


彼女が車に乗った瞬間すべては振り出し・・否、すべて終わりだ。深い深い虚の如くの黒塗りの高級車のドアはぽっかりと口を開けたまま、絢辻を呑み込もうとしていた。


―・・そう。いい子だ。詞。

・・うん。そうだな。・・詞?君がこの車に乗った瞬間ご褒美として―



本当に。本当に久しぶりに君に微笑んであげよう。




うん。それがいい。「縁だけ」にはずるいからね?



これは絢辻にとってこれ以上ない扉の「鍵」になる。もう二度と外に出られない、そして外からも誰にも開けることのできない堅牢な牢獄の「鍵」の完成だ。

それに百も承知でありながら歩く他ない絢辻。まさしくクローバーの花言葉通りだ。



「私のものになれ」。



―元々その為に詞・・。君は生まれたんだよ?

それが少々遅れただけの事。それだけの事。所詮「結果」、「答え」は変わらないものさ。例え君が私に反発しようと、遠回りしようともそれは結局いずれ私の下に来る君のその歩みの一つだったんだよ。私の下に来る君の歩みは止まることは決してないんだ。


さぁおいで―


・・詞。



最早その場に居た誰もが「結果」を疑わなかった。「あの男」が描いた「答え」―筋書き通りの光景が目の前に展開されることに。



が―




「――!!!!!」




突然。絢辻がその歩みを止めた。ふらついた足で躓いた上体がぐらりとぶれるぐらいの急激な制止であった。そして同時大きな瞳を目いっぱいに見開いていた。さっきまでの人形のような姿とは異なり、大きな情動が彼女の中で駆け巡っていることが一目でわかる―そんな表情だ。

「・・・?」

紳士もまた怪訝に人懐っこそうに瞳を丸めた。本当に久しぶりに娘の為に「用意」し、待ち構えていた彼の笑顔の残滓が張り付いてしまったみたいに幼く、無垢な表情をして。

しかしその表情が急に立ち止まった今の娘の目線の先を見やると、ほんのわずかに強張る。


―・・おっと。・・これはしまったな。



・・来ていた、のか。



紳士、そして絢辻の親娘の視線の先には―



「・・・・はぁっ、はっ、はっ」



そこには息を切らしながら慣れない松葉杖をつき、上体を隣に居る親友―国枝 直衛に支えてもらいながらようやく立っている少年―源 有人の姿があった。そして彼は開口一番―


「・・ありがとう!」


こう言った。

その言葉を贈るべき相手が全員はこの場所には居ない。でも言わずにはいられない。

永遠の虚の直前にて二人は



―再会。










 

 

 

 

 

 

―・・・何のことはない。娘はもうすぐそこだ。すこし・・遅かったな?少年。いや源君・・だったかな?隣に居るのは・・誰かは解らないが・・うん。中々面白そうな子だね。

 

そう言いたげに紳士は彼らもまた一瞥したのち、再び彼の元へ歩き出した絢辻を小さく諸手を広げて向かいいれる。

 

数秒前―有人の登場に絢辻は一旦一瞬こそ激しく反応したものの、次の―

 

「詞!」

 

怒気も焦燥も無い、ただ淡々とした紳士の一言が揺らぎかけた娘の歩みを再び車に向かわせ、現在―

 

「・・よく来たね。さぁ。乗りなさい」

 

いつの間にかポンと肩に手をかけられるほどに絢辻は父親に接近していた。

 

絢辻はこの男の「娘」としてどこかで感じ取り、予期していたのかもしれない。

この車に乗った時、瞬間―この父親がかつての笑顔で自分を向かい入れてくれるつもりだということを。だからこそ機械的に、反射的に歩みを再開してしまったのだ。例えそれがこの先の自分という人間に完全に雁字搦めの、二度と解かれることはない鎖、鍵を掛ける笑顔だとしても。

 

何せ今までの彼女の人生の大半の目的は「それ」だったのだから。そんな目的に反目し、反旗を翻した「あの子」ですら根っこのところでは実は「それ」を求めていたのだから。

 

どれだけ自分を取り繕ったところで「結果」、「答え」は変わらない。求めていたものは変わらない。それは事実である。

 

 

―しかし

 

 

「答え」「結果」は確かに一緒だった。今も、そして「かつて」も。

 

今回の絢辻の逃走劇もそうだ。前述べたように結局の所絢辻、そして有人たちの目的とは「有人、絢辻の再会」である。とてもシンプルな答えだ。それ故にこの男に先を越された。いやむしろ相手にすらされずに終始遊ばれた。

そう考えると実際の所、ここに至る過程など何の意味も持たなかったと言って過言ではない。答えに至るための懸命の「数式」は意味をなさず、元から「この男」にとって分かり切った、決まりきった帰結、「答え」を示すだけとなった。

 

繰り返すが「現実は所詮『数学、数式』とは違う。そもそもの「答え」が解っていれば時に過程などは必要ない」

美しい努力の証、答えに至るために必死に象った筋道―数式は必ずしも必要ではない。

 

しかしこの一見無駄に見える過程の中で「答え」こそは変わらないものの、しかし確実に変わったものがある。

 

 

この過程を、数式を「経た」絢辻自身が、だ。

 

 

 

―・・・今のアンタが絢辻さんだろうが絢辻さんじゃなかろうが関係ない。大事なのは「今のアンタ」が「どうしたいか」よ。もう隠さないで。意地はらないで。そんな中途半端な気持ちで人を好きになるんじゃ無いわよ。

 

 

 

―(歩き出そう。会いに行こう。大好きな人が大変な時ならなおさらそばに行かなきゃ)

 

 

 

―行きますよ。頑張ってくださいね?応援しています。心から。

 

・・・いってらっしゃい。

 

 

 

彼女達は彼女達できっと色んな事を乗り越えてきたのだろう。だからこそその言葉たちの裏に併せ持つ重みが彼女たちのことをほとんど何も知らない絢辻にも痛いほど理解できた。

 

それは絢辻にとって一見無駄な数式たち。変わらない答えに愚直に向かうための今日の過程達―

 

 

 

そしてもう一つ―何よりもこの数か月。・・他でもない有人と送った日々。

 

楽しい日々、失いたくない日々。様々な、今まで感じたことのない数々の情動が彼女を包みこんだ。

 

所詮いずれ喪われる。離れ離れになる―そんな決まりきった「答え」の中で彼と紡いだ日々。

 

 

つまりそれもまた同様に、とてもとても美しく、そして無駄な過程、数式。

 

 

例え在ってもすべてが終わった後には。決まりきった最後の「答え」が出てしまった後にはただ悲しいだけ、空しいだけ、切ないだけのものになるはずなのに。

 

 

けど他でもないそれによって。そんな日々を繰り返していつしか―変わったものがある。

 

ここで改めて更に繰り返すが「「現実は所詮『数学、数式』とは違う」

 

そう。その通りだ。

 

 

数学の「答え」は一つ。しかし―現実は違う。

 

 

 

「答え」は過程、数式を経て時に複数に、そして時に―

 

 

 

変わっていく。生まれていく。

 

 

 

 

 

歩き出せ。クローバー。

 

 

 

花言葉は―

 

 

 

 

「私のものになって」

 

 

 

 

 

それは奇しくも「あの子」が、そして他でもない今の絢辻、双方望んで止まない新しい彼女の大切な大切な―

 

 

 

「答え」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バッ!!

 

 

 

「・・・む!?」

 

 

 

絢辻は肩に乗せた父の掌を強引に振り払った。その瞬間―その光景のほんの刹那の瞬間を―

 

 

「・・直。ゴメン」

 

 

「え?」

 

有人は見逃さなかった。

 

 

「え・・。・・っ!?」

 

 

彼もまた肩を支えてくれていた親友の腕を振り払い、また片腕で支えていた松葉杖も捨てた。

 

立てるわけがない。彼の体は現状他人の支え、松葉づえ若しくは車椅子でも無ければ到底歩ける状態ではない。だからこそ父の元へ向かう絢辻に歩み寄ることも出来なかった。当然支え全てを失った、捨てた彼はその場で蹲る、這いずるしかできないはずの芋虫状態だ。

 

 

上体は当然転倒へ一直線。何の変哲もない「答え」へ一直線のはずだった。

 

 

しかし―

 

 

彼ら全員で紡いだ拙い過程、数式は今ようやく実を結ぶ。

 

 

 

・・「答え」へ。

 

 

 

 

ぼすっ

 

 

 

 

 

絢辻が有人の上半身を抱き留める。有人の脇の下から背中に両手を回してしっかりと守るように。

 

「・・ありがとう」

 

「・・・!・・・。・・・(ぶんぶん)」

 

その有人の感謝の言葉に絢辻は言葉が出てこず、口を彼の肩に埋めたままふるふると首を振る。「あの」父の腕を振り払い、無我夢中のまま倒れこむ有人の傍に駆け寄った自分の行為に心底信じられないように不安そうに眉を歪め、そして・・・僅かにぶるぶると小さく震えていた。

 

そんな彼女の背中に骨折して痺れる右腕を回し、強く抑える。震えが少しでも止まるように。

 

「・・・っ!」

 

そしてそんな彼女の震えの根源―「あの男」を有人は見据える。

 

 

 

 

「・・・」

 

 

 

「あの男」の表情に特段変わった様子はなかった。怒りも戸惑いも先程ほんの暫時見せた驚きの表情もしていない。

 

・・いや―違う。

 

 

有人だけが気づいている。その男のその表情の意味を。

 

奇しくもその表情はかつて絢辻が浮かべていた「接続を断った」際の無表情の顔によく似ていた。

 

急速に己の中の処理を進めている。どうやらそれなりの「混線」をしているらしい、が「あの」絢辻の父親である。現状の処理速度は娘の比ではないだろう。

 

その証拠に男はすぐににじり寄る。だが開けた車の後部座席のドアを閉め忘れていることに珍しくこの男の精神状態に僅かながら「不快」の感情が混じっていることが容易に推察できた。

 

 

―・・悪い子だ。

 

 

詞。

 

 

 

コツ・・

 

コツ・・

 

 

「・・・っ!!」

 

そう言いたげににじり寄る背後の父親の規則正しい革靴の音に絢辻は強く目をつぶり、一層有人を抱きしめる力を強める。

 

―・・・っ。

 

正直全身打撲、重傷の体にはキツイ負荷だ。が、有人は奥歯を食いしばって弱音を吐かなかった。逆にようやく自分の下に戻ってきてくれた少女を決して離すまい、と、痺れた鈍痛の走る骨折した右手で抱きしめる。

 

「答え」は決まっているのだ。彼もまた。

 

 

ならば―

 

 

 

 

「・・・天間!」

 

 

 

 

後は「大人」もそれに応えなければならない。子供が「答え」を示した以上は。

 

「・・・!」

 

その思いがけない声にさしもの「あの男」―絢辻 孝美も再び目を見開く他なかった。

 

 

「久しぶりだな。天間。いや・・今は絢辻だったな・・・?」

 

―本当に似合わない名前だな。・・・やっぱり俺のお前のイメージは何時までも「絢辻 孝美」ではなく「天間 孝美」・・だよ。

 

新たに現れたもう一人の紳士が輪の中に加わっていく。その姿を見て国枝はほぉっと息を吐いた。

 

―ありがとう。御崎、紗江ちゃん。あとは・・よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

「君は・・ひょっとして中多、君、か?・・これは驚いた。久しぶりだね」

 

 

一瞬の動揺をこれまた一瞬に切り裂き、噛み殺して柔和な笑みを浮かべ、絢辻 孝美は新たに場に現れた彼らの正真正銘最後の「差し金」―

 

中多 左京を迎え入れた。

 

 

「本当に久しぶりだな。丁度いい。時間あるんだろう?話していかないか?ここの病院なかなかどうして・・本格的なコーヒーを出すぞ」

 

「いや申出はありがたいが・・その、今は」

 

そう言って絢辻 孝美は周りを伺うが・・

 

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「「「・・・」」」

 

 

背を向けた娘―絢辻を含め、その場に居た全員が彼に一斉にここから立ち去ることを要求するように視線を向ける。そして目の前の中多 左京も「彼らはこう言ってるぞ」とでも言いたげな表情で彼を見ている。

 

何とも久しぶりだ、いや、むしろ生まれて初めてかもしれない、男にとってこんな四面楚歌な状況は。

 

 

「・・む。良いよっ。君の驕りなら」

 

 

紳士は余裕の表情でクスリと苦笑し、珍しくまるで大学生みたいに幼い軽いノリをしつつポケットに手を突っ込みながら、新たに現れたかつての同級である壮年の男性―中多 左京の申し出を快く受け入れる。

 

 

 

抱き合ったままの有人と絢辻の側面を「あの男」は悠々と通り過ぎ、もはや一瞥もくれずに院内へ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩き出せ クローバー 6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ルートT 三十二章 ここに居る そこに在る








 

 

 

 

「「あ、あの」」

 

「「あ」」

 

「「・・・」」

 

冬空の下、少年少女の言葉は間抜けなほどにエコーする。

 

 

 

12月27日午後十三時、吉備東病院屋上にて―

 

「「・・・」」

 

眼下に吉備東市内を見下ろせる場所で少年―源 有人、そして少女―絢辻 詞の二人はベンチに腰掛け、しばらく向かい合うことも、視線を合わすことなくただ静かに眼下に広がる街並みを見つめていた。

 

冒頭のエコーした言葉はその沈黙に耐えきれなくなった二人が双方ようやく発したきっかけの言葉であった。が、それも不運なことに絶妙のタイミングで重なってしまった結果、もう暫く重い沈黙を場は差し挟むこととなる。

ようやく再会を果たした二人の中にある「物」―まず伝えようとしていた事もまたお互いに「重なっている」ことがその沈黙の長さに拍車をかけていた。

 

それはお互いに対する「謝罪」だった。ほとんど全ての事、秘密を誰かに話した、もしくは聞いた事に対する謝罪だった。

 

「絢辻さん・・どこまで聞いた?俺の話・・」

 

「・・色々。貴方の許可も取らずに。・・私の事も色々聞いたみたい、だね?・・源君も」

 

「「・・ごめん」」

 

再び二人の言葉はエコーする。さらに気まずそうにお互いの表情が曇る。視線は相変わらず合わせにくい。しかし少しののち―有人は冬の空を見上げ、思いっきりため息をついて恥ずかしそうに笑ってこう愚痴った。

 

「・・直のおしゃべり」

 

「・・源君のおしゃべり」

 

御崎のおしゃべり、中多のおしゃべり。

 

おしゃべり、おしゃべり、おしゃべり。

 

全く自分たちの周りはお節介やきだらけだ。でもそんな彼らがここまで自分たちを導いてくれた。だからこそ肝心の自分たちが何時までたってもこんな実りのない沈黙を続けていても仕方ない―

 

「・・・」

 

ようやく有人と絢辻は視線を合わす。もう少女の瞳には先程父の手を振り払った直後の動揺、ぶれ、迷いは感じられない。ずいぶん落ち着いた様子だ。・・あの男からの視線も現在絢辻は感じられない。先ほど現れた中多 紗江の父―中多 左京が彼を抑えているのだろう。

 

まさかあの姉―絢辻 縁にあんな頼もしい知り合いが居たとは思いもしなかった。その点はあの、・・決して彼女にとって「嫌い」では無いにしろ昔から苦手で煙たかった姉に感謝するべきだろうかと、絢辻は瞳を逸らして恥ずかしそうに笑う。

 

「お互い・・何も話してなかったんだね。・・俺たち。短い間だけどあんなに一緒に居たのに」

 

「そうね。『あの子』も私も・・忙しさを言い訳にしてた。『何時か言おう』、『いつか伝えよう』、って思いながら結局最後に、クリスマスの日まで後回しにしちゃったら・・こうなっちゃった・・」

 

人生ってわからないものよね―そう言いたげに絢辻は苦々し気に微笑みながら視線を落とす。やはり今の彼女にとって例え望んでいたとしても、今の有人の目の前に「自分が居るべきではないのでないか」という疑念、感情は消えない。拭えない。

 

例えあの日、直接の過失はなくとも今の自分がこうなってしまった事は有人が原因―その証拠みたいなものが今の絢辻自身であることも確かなのだから。

本来ならば「予定通り」いなくなるべき、このまま彼にとって自分自身が神様の全くの偶然、気紛れな悪戯によって存在した奇妙な存在、取るに足らない時間、事象としてフェードアウトしていくのが理想であった。

 

でも今日来てしまった。周りに流されるまま、しかし一方で彼女自身も同時、確固たる目的を持って。

 

しかし― 

 

一方でまだ、有人が何の目的で自分をここに呼んだのかは実は絢辻にはまだ判然としていないのもまた事実。勢いのまま彼の下へ、胸に飛び込んだのはいいにしろ、・・この先は?

 

・・どこへどうなるのか。

 

もし・・ここに自分を呼んだのは有人がただちゃんとした「別れ」を告げたいだけだったとしたら―?

 

―どこへ行っても君を忘れない、また会おうね。

 

そんな当たり障りのない、響きだけいい、美しい去り際、同時残酷な終わり際だけをせめて飾り、絢辻に突き付けようとしただけだったとしたら―?

 

すなわち「さよならの形」だけを取り繕うものだけだったとしたら―?

 

―・・結局・・私はまた「あの人」の下へと逆戻り・・?あの暗い、黒い車の中へ?

 

 

その最悪の想像に絢辻の視線はグルグル回りだす。不安に押しつぶされそうな頭を抱えたくなる。

 

先程あの男の手を振り切った直後の自分―あの時一瞬とはいえ絢辻は完全に「孤立」した、頼る瀬を完全に失った時間だった。

 

「あの子」―つまり自分も。あの男も。そして有人もいない。完全なる「孤立」の瞬間。

 

それは宇宙空間で防護服、酸素マスクなどすべてを投げ捨て裸で放り出されたようなもの。その瞬間の背筋が凍り付く程の不安、恐怖は耐え難い。

 

「頼る瀬が欲しい、このままでは一瞬で自分が壊れてしまう」―そんな極限の不安から逃れられる都合のいい場所―それが倒れこんできた有人の胸に飛び込むことだったのではないか―?とすら疑ってしまう自分が居た。

 

しかし―今からの有人の言葉如何では再び絢辻はあの空間へ投げ出されることになる。思い出すだけで怖気を覚えるあの空間へ。

そして次に戻る他ない場所は・・結局あの男の下だ。一度は振り払ったあの男の手をもう一度取りに行くことになる。

 

あの時、絢辻は振り払った直後のあの男の顔を見ていない。しかし解っていた。背中で感じ取っていた。

 

―詞・・悪い子だ。

 

間違いなく背後で自分を見るあの男の感情に僅かながらも「不快」の類が混ざっていたことを。あの男は傍目には変わらないかもしれないが、「終始、問答無用で自分に付き従った者」と「一度は自分を裏切った者」を分け隔てなく同じように扱う男ではない。

 

それはある意味「選ぶ側」の当然の権利でもある。しかし相手はあくまで「あの男」だ。増して自分は「あの男」の娘である。例え今まで通り直接的な暴力、暴言などあの男は絶対にしないとしても・・

 

怖い。・・怖い。これではうっかり言葉など出るものではない。

 

選んだ自分の行きつく先、戻る場所、帰る場所はどこなのか、この先どこへどう行けばいいのか―

 

 

―――!!!怖い!

 

 

拓けた見晴らしのいい、吉備東の街並みが一望できる広い病院の屋上でまるで緊縛の牢獄の鎖に縛られたように絢辻は固く瞳を閉じ、有人の次の一言を待つ。

 

 

しかしその言葉は一向に耳に届くことなく、替わりに―

 

―・・・?

 

絢辻の深く閉じた瞳に瞼の裏からでも差し込んでいた太陽の光が雲の影にでも隠れたのだろうか、元々真っ黒だった視界が絢辻の瞼の裏でさらに黒く濁る。絢辻の不安をさらにどす黒く塗り固めるみたいに。

 

しかし―

 

―あれ・・?

 

その「影」、その「陰り」は何故か絢辻の瞼の裏で今心許なくゆらゆら、ぐらぐらとぶれていた。

 

「・・・?」

 

絢辻は固く閉じた瞳を不安そうに薄く開き、おずおずと視線をあげる。そこには―

 

 

「・・・っ!・・・・ぐっ!」

 

 

「え・・・」

 

 

まるで今の「彼」の揺らいでいる、しかしその中でも必死で立て直そうと、堪えようと、・・支えようとしている「彼」の心を表す様な震え、ぶれる黒い影が―絢辻の前で太陽を遮っていた。

全身にヒビが入るような痛みをこらえ、足を震わせ、奥歯をぎりぎりと喰いしばり、脂汗をたらしながら。

 

 

「影」はそこに「何かが在る」からこそ生まれるもの。実体無き者に所詮「影」は作れない。

 

彼―源 有人はここに居る。そこに在る。絢辻 詞という少女の目の前に。

 

結論の変わらないただ響きだけのいい言葉も、綺麗な別れを望む笑顔も無い。ただ今の、そしてこれから続くであろう鈍痛、激痛をこらえ、歯を喰いしばった痛々しく、恥も外聞も飾りもないがむしゃらな顔―しかし目の前の困難を乗り越えていく、また乗り越えようとしている際の必死な人間の顔はえてして―こういうものである。

 

 

「み、みなもとく、ん!?」

 

「なんて無茶を!!」と言いたげに眉を顰め、思わずベンチから身を乗り出し、また彼に駆け寄ろうとする絢辻を有人は

 

――!!!

 

バッと包帯とギブスの巻かれた右手の掌を見せ、絢辻を制す。「大丈夫!!もう立てたから!!」とでも言いたげに。そんな目の前の有人を「そ、そんな問題じゃないでしょ~」とでも言いたげに眉を歪めたまま、有人の制止の手をどうにか突破して前に出ようとする絢辻。

・・優しい少女だ。何時の間にか自分をさっきまで黒く覆っていた不安、恐怖を忘れて今は誰よりも有人の体を心配しているのだから。それはきっと今の絢辻も、彼女の言う「あの子」であっても大差ないだろう。

 

―ちょっと!!無理しないのそんな体でっ!!アナタ馬鹿なの!?

 

例えこんな風に今の彼女と「あの子」ではかける言葉、選ぶ言葉は少々違っても結局のところの本質の彼女は変わらない。

 

彼女は現に「ここに居る」のだから。有人の目の前に。

 

 

 

 

「・・絢辻さん。どこにも行かないで。俺の傍に居て。

 

 

 

・・・・俺のものになって」

 

 

いつもの様にニコリとも、柔らかく笑って誤魔化すこともなく少年―源 有人は真顔でそう言い切った。

 

 

「・・・・!!」

 

思いがけない目の前の有人の言葉に思いっきり瞳を見開いて絢辻は暫時、呆けることしかできなかったものの、ようやくその言葉を自分にしみこませ、軽く「はあっ」と、呼吸を吐き、心根と波打つ心臓、それを瞳を閉じ左手で押さえつけて無理やり落ち着けたのち、薄く瞳を開いて、上目遣いで言葉を紡ぐ。

 

「・・・ありがとう源君。嬉しい。とっても嬉しい」

 

そう言いながらも彼女はぶんぶんと首を振っていた。癖のない長い黒髪がたわむ位の力で強く。そしてこう続ける。

 

「でも・・でもね?今の私に『あの子』は居ない・・。抜け殻みたいなものよ?ただ人の中で、人の間で軋轢無く生きていくためにあの子が必死で作った・・象った人形みたいなもの。・・私は絢辻 詞であって絢辻 詞じゃないの。今の私はすべてが嘘の塊なの」

 

「・・・」

 

「ふふっ・・・『あの子』がまったくウソツキじゃなかったとは言わないけどね?確かに嘘も隠し事もたくさん『あの子』はしたけど・・でもやっぱりそれでも『あの子』こそ本当の絢辻 詞―真実だったの。それを失った今の私は・・ただ貴方を傷つけるだけ。見た目だけは『あの子』と一緒の、ね?貴方が背負う、感じる必要も無い重荷、責任、良心の呵責を存在するだけで生じさせてしまう女よ?・・嫌でしょう?こんな女?」

 

 

―「こんなに」なってしまっても一応私は・・あの子と同じ顔、同じ声をしているんだから・・。だからお願い。消えさせて。私を。貴方の前から。

 

・・あぁ。

 

なんとも矛盾している。矛盾だらけだ。私は。

あれ程離れたくなかった、自分のものにしたかった人がこれ以上なく嬉しい言葉を言ってくれた後なのにそれを受け入れず、否定している、拒否している。

 

でも所詮これが今の私という「仮面」の機能。

元々人の間で生きるため、人の間で生きていくために「あの子」が作り上げた「仮面」―つまり過度に、不必要なほどに人を縛ったり、強制、強要したりする「機能」はない。持たされていない。だから例え受け入れてもらえたとしても、どれだけ嬉しくてもこれは認められない。

出来る限り他人を、そして自分を傷つけることなく生きていく為に生まれたこの「仮面」には他者を傷つけるだけの存在として生きていくことは・・許されない。

 

 

そんな彼女の弱弱しい心の叫びを―

 

 

「・・違うよ」

 

 

端的に次の少年の一言が振り払う。

 

「・・え?」

 

 

「君は『嘘』なんかじゃない。紛れもない『絢辻 詞』という一人の女の子。・・確かに君は君の言う『あの子』に作られた存在なのかもしれない、本当の自分を隠してみんなの中で生きていくために都合よく作られたのかもしれない。でも・・その君がやったこと、成し遂げたこと、みんなの為にどこまで頑張ってきたのかを俺は知ってる。まだまだ短い間だけど・・本当にいっぱい・・正直嫌っていうほど君が誰かの為に動いてる姿を見てきたんだ。・・一番近くで」

 

 

「・・・もちろん俺だけじゃないよ?直や梅原たち2-Aの皆、他のクラスの皆、七咲さんや中多さん―今日俺を手伝ってくれた人達もみんな今の君をずっと見てた」

 

自分の仲間たちの事を語る有人の瞳、表情が漸く久しぶりにいつもの様に緩む。絢辻は内心ほっとするように彼女もぎこちないながらも微笑む。

 

―・・貴方のその表情が好き。誰かを思って笑う顔はとても・・素敵。

 

しかし―

 

直ぐに有人は表情を切り替えた。

 

「・・必死で頑張ってくれたのをみんなみんな知ってる。だからみんなお節介なんだよ。君が誰よりもお節介だったからこそみんな・・今日俺に協力してくれたんだ」

 

 

 

確かに「始まりは嘘」だったのかも知れない。他人の中で都合よく自分を押し隠して生きていくために作られた「仮面」の彼女は言い換えるなら「嘘」そのもの。それを彼女自身楽しんでいる節すらあった。「悪意」、「悪戯心」、「計算」、「謀略」、「打算」・・間違いなくすべて含まれていたのは確かだろう。

 

いみじくも彼女はかつてこう言っていた。

 

―対象者が私の言葉、態度、仕草に触れてどう動き、また何を思い、考え、汲み取り、私の思い通りに動いて結果を出す。それが回り回って私のもとにちゃんと私への賛辞と評価がついてくる算段をする事・・。これを楽しく思えない、快感だと思えない様じゃこんなボランティアみたいな事やってられるもんですか。

 

―一見私は何の見返りも無く周りの人間の為に働いているように見えるかもしれないけど、お生憎様・・私は貰うものはちゃんと頂いています。御馳走様~♪

 

 

何とも絢辻らしい言葉達。

 

 

しかし―事実その彼女の築いてきたその「嘘」は何を周りに与えていたか?

 

そしてその最奥に在る本質は?

 

 

それは紛れもなく真実―絢辻 詞という少女に他ならない。

 

 

「嘘」あってこそ、「仮面」あってこその絢辻 詞なのだ。

 

嘘を通して、本音を通す少女。それが絢辻 詞。

 

 

誰よりも誰かの、何かの、人の役に立つために。そして誰かの笑顔を見るために。

支えになってくれた人間への感謝は「借りを返すだけ」と、誤魔化しながら。時に悪態付きながら。一方どこかで照れ隠しをしながら。

 

 

有人は覚えている。全部。だってまだ「昨日の事の様に思い出せる」と、表現できるほど昔の事じゃない。

 

まだ終わっていない。「過去」なんかじゃない。「過去」になんかできやしない。させない。だって絢辻 詞は「ここに居る」。

 

 

―だから俺は「ここに居る」

 

 

「だから今の絢辻さんは『嘘』なんかじゃない。君は優しい嘘をつく優しい女の子なだけ」

 

「・・・」

 

「君は散々『あの子』、『あの子』というけれど俺にとって、そして皆にとっても君もまた確実に『絢辻 詞』さんなんだ。だから俺は今の君を絶対に置いてかない。どこにも行かせない。・・重荷?責任?勘違いしないで。これは俺の意志だもん」

 

 

「あ・・くぁ、は・・・っ!」

 

その言葉にぱくぱくと絢辻は空気を吸うように顎を震わせる。急激な情動に体が泣くことを要求しているのであるが、今の彼女の「機能」がそれを遮る。吐き気をこらえる如く、絢辻の上体が不規則に、挙動不審にぶれるがすぐに治まり、絢辻はぶれた視線だけ痛々しく有人に向け、悲しい声でこう言った。

 

「・・でも、ね?ダメ、なの。例え私が貴方の言うように本当の『絢辻 詞』だとしても結局おんなじなの・・。もう一人の私―『あの子』はやっぱりもう居ない・・私という存在がね?源君を・・色んな意味で貴方を傷つけるだけの存在ってことはやっぱり変わらないの・・」

 

「それも違うよ」

 

「・・え?」

 

「居なくなってなんかない。絶対。・・だって君は『ここに居る』んだから。君がここに居るように君の言う『あの子』だって・・居る。絶対に君の中に。

 

 

君は『あの子そのもの』なんだから・・君は『そこに在る』」

 

 

有人は「そこ」―絢辻の胸の中心である心を指差しながらそう言った。

 

 

 

「・・俺は君の全部ほしい。俺のものになってほしい。だから取り戻す。今日は君。そして君の言う『あの子』も、・・・絶対」

 

 

「・・・」

 

「・・まぁそもそも俺が原因でいなくなっちゃったんだから情けない、都合のいい言葉だけどさ・・でも・・取り戻すから。君も。あの子も」

 

すこしバツが悪そうに表情を一瞬だけ歪めて申し訳なさそうに有人は視線を逸らしたがすぐにもう一度絢辻に向き直る。

「逃さない、見逃さない、見つけ出す」―そう言いたげに。

 

 

「・・・・!」

 

もう絢辻は言葉が出なかった。ただ両手で口を押えるだけ、今は泣くことも笑うことも出来ない自分が今はただただ疎ましい。でもはっきり分かった。自覚した。

 

 

―・・!私だって・・いや!離れたくない・・!

 

父の下に戻ることを恐れる以上に今はここに居たい。彼の傍に在りたい。彼が言う「ここに居る」・・・「あの子」と一緒に。

 

両手で口、そして胸―心を一緒に抱え込むようにし、絢辻は震えながら体を小さくする。

 

 

 

 

―・・お願い。

 

 

見つけて。

 

 

もう一度私を。

 

 

 

 

・・・見つけて。

 

 

 

 

 

 

「・・・。だから傍に居て。君も・・『あの子』も絶対俺が取り戻して見せるから」

 

 

いつもの様な照れ隠しで笑ったりせず、しっかりと未だ迷い、ぶれている絢辻の瞳をやさしい薄茶色の瞳でかつてなく強く見据え、こう言った。

 

 

 

「これは・・これは契約」

 

 

「・・え?」

 

「これは恫喝でも強制でも何でもない。お互いの同意が無いと成立しない・・契約」

 

 

そう言いつつ有人はゆっくりと絢辻の目の前に今度は左手を差し出した。

 

・・「あの日」―彼が「絢辻のもの」になったあの日と同様・・否。あの日とは真逆―

 

「あの日」は少女が少年に。

 

今日は少年が少女に手を差し出す。

 

 

 

 

 

 

 

「・・手をとってくれますか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・はい!」

 

 

 

相変わらず涙も何も出てこない。ただ絢辻はようやく曇りなく少し笑って有人の一回り大きい手を迷いなく・・受け取る。

 

 

「・・・!」

 

「え・・んっ・・」

 

同時ぐいと片手で引き寄せられた有人の胸に飛び込む。何時になく強引な有人に驚きでしばらく瞳を見開きながらもすぐにすっと瞳の力を緩め、受け入れるように絢辻は瞳を閉じた。そしてゆっくりと有人の胸越しに空気を胸いっぱいに吸い込む。

 

 

「・・・。すぅっ・・はぁ。・・・」

 

 

この胸の中に居る、この胸の中に在る「あの子」に伝えるように、届くように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




―所詮今の俺は―

文字通りの「半人前」だ。

片手、片足は骨折状態の今の俺と同じ。片足、片手で歩くのもやっと。誰かに半身を預けて支えてもらって、助けてもらってようやくこの一人の女の子の下に辿り着くことが出来る出来損ない。そして今、片手片足で自分を支えながら、片手片足で彼女をようやく支えている状態。

・・いや、むしろ今の俺はこの子を抱きしめているようで、支えているようで実の所はこの子に支えてもらっているのだろう。

こんな俺を受け止めてくれた。そして今も胸に顔を埋め、頼りない俺の薄い体を抱きしめ、支えてくれている今は消え入りそうなほど儚い女の子と繋がった胸―心を通して伝える。



俺はここに居るよ。

俺はそこに在るよ。



だから。



君もここに居て。



君もそこに在って。










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SHARK・T







 

 

SHARK・T

 

 

 

 

 

 

 

ルートS

 

 

 

 

 

年が明け一月、吉備東神社にて―

 

 

空に続く社までの階段の前にて、次々に訪れる参拝客でごった返す人の流れから少し外れ、一際小柄な少年が晴れ渡った冬の夜空を眺めながら一人の少女を待っていた。

 

「!」

 

程なくして彼の待ち人は現れる。寒さのせいかそれとも自分の今の姿に自信が無いのか・・頬を赤らめ、いつもの小動物の耳の様に二つ結わえた髪を揺らし、心許なく視線をちらちら逸らしながらも少年―御崎 太一を上目遣いで見上げつつとぼとぼ歩いてくる。

 

見事な薄い桜色の着物姿に身を包み、陶器のように白い肌もまた少し紅潮させて白い吐息を漂わせる見惚れるような色香を放つ小さな姿―

 

―・・・。

 

太一は寒さで赤くなった鼻を少しぐずらせながら歩み寄り、彼女の目の前で深々と頭を下げた。新年の挨拶と共に。その所作に戸惑い気味で頬を赤らめていた彼女も応え、何ともぎこちない所作でぺこぺこと何度も頭を下げる。

 

新年の挨拶もその頭を下げる回数に合わせて切り貼り。「新年!」「明けまして!」「おめでとう!」「ござい!」「ます!」「太一!」「先輩!」そんな彼らのやり取りをいつもの様に―

 

「~~~♪」

 

背後から現れた「女性」がハイテンションで突っ切ってくる。そして何ともぎこちない新年の挨拶を終えた二人の間に堂々と割り込み、太一の両手を握って先ほどまでの二人のぎこちないやり取りとは一転、何とも豪快で軽快な新年の挨拶をまくしたててくる。

澄んだ紺碧の海のような深い藍色の着物に、かなり複雑な意匠の簪を頭頂に見事に施された大人の女性の色香を放ちながらもまるで幼い少女のような遠慮のない踏み込み方である。

 

「・・・」

 

そんな彼女にあきれ果てたように無言で壮年の紳士が背後より彼女に続く。彼はどうやら「今回は」無事日程を明けることが出来たらしい。娘と妻を引き連れ、太一の下に新年の挨拶に来てくれたのだ。そんな彼にも太一はしっかりと頭を下げ、紳士も最初は戸惑いながらも娘と妻に視線で促され、「・・解っているよ」と言いたげにしっかりと頭を下げる。

 

そんな所作に満足したように藍色の着物の女性は相も変わらず少女のように太一のぐいぐい手を引っ張り、「早く行きましょ♡まずは今年の太一君と私の運勢を神様にうらなってもらわなきゃ♡」と急かす。彼女に浴びせられる「た、太一先輩にあまりベタベタしないでよぅ・・」と言いたい不満げな視線もどこ吹く風で。

 

―・・・。

 

そんな彼女を相手に―

 

「・・・?」

 

ポンと太一は彼女の頭頂にて簪で綺麗に、そして丁寧に誂えられた髪を崩さないように柔らかく乗せ、彼女の怪訝そうな顔にすっと顔を近づけてこう言った。

 

 

「・・新年あけましておめでとう。『紗江』ちゃん?凄く大人っぽくて似合ってるよ~?」

 

 

「~~~~!!」

 

見る見るうちに藍色の着物を着た少女―中多 紗江の表情がいつもの様に崩れていき、すぐにわんわんと泣き出した。

 

一方―

 

ガーン!!!

 

「今回も」見破られた桃色の着物を着た女性―中多 紗季はあんぐりと口を開け、「完全敗北」を前にがっくりと肩を落とす。そして「馬鹿な。対策は完ぺきだったはずなのに」と悔しそうにぐぐぐっ、と拳を握った。

 

娘との「とある特定部位」の差異に関しては体形をとことん隠す今回の和服、着物によって解消済みだ。そして今回は娘の紗江との特訓―いや、太一に娘を自分と誤認させるためだけに、嫌がる娘―紗江を最早洗脳レベルで一方的に調教し、短期間で自分の口調、所作も完璧に身に着けさせた。彼女もまた太一を前にしたときの娘の所作、仕草、視線の合わせ方を彼女がかつて中学生時代に行ったカエルの解剖の時並みの集中力を発揮し、徹底的に調査、解剖し、終いには自分に「私は紗江ちゃん、私は紗江ちゃん・・」という呪詛のような暗示までかけて今日この日に挑んだのだ。

 

しかし、それでも、・・駄目なのか・・!

 

頭をぽんぽんと太一に撫でられ、わんわんと嬉し泣き続ける娘―紗江を見ながら、対照的に「く~~~っ」と悔し涙を流す母―紗季を「・・本当にもういい加減にしなさい」と背後の紳士は窘める。が―

 

絶対に、絶対にあきらめない。

 

彼女の文字に再起不能(リタイア)という文字はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルートA

 

 

 

 

 

「・・・」

 

すこし寂しそうに少女は吉備東神社の夜空を無言のまま見上げていた。

多くの参拝客とすれ違う社までの道の途中で足を止め、ただ只管星空を見上げている一人の少女は周りの参拝客には少し奇異に映っただろう。

 

あの人―杉内 広大があの日、彼女―七咲 逢に言った言葉の通りだ。

 

「ただ通り過ぎる人間は絶対に気付かない」、「気づいてあげられない」。

 

まして既に散ってしまい、あの日広大と見上げたあの季節外れに開花した桜の花―「二期桜」があった名残すらも残っていない現在の裸の茶色い枝のみを残す、何とも物悲しく、寂しいソメイヨシノの木の枝に誰が気づき、足を止めてまで眺めることが有ろうか。

 

春に咲く桜たちの様に誰にも咲く姿、そして散る姿を見てもらえることなくただひっそりと咲き、ひっそりといつの間にか散っていった「あの子」の事をこの賑やかな初詣の参拝客の中で思い浮かべるのなんて変わり者の自分一人くらいだろう、と七咲は自嘲の笑いを浮かべてクスリと笑って歩き出す。もともと歩くのが早い方ではない彼女の足がいつもより更に歩が進まなかった。

 

―・・・?

 

「・・・!」

 

そんな彼女の背をポンとたたく一人の少年の姿があった。

相も変わらず慢性的な体力不足であり、ここまでの道のりで小休止を行って七咲に後れを取っていた少年―杉内 広大がようやく呼吸を整え、人混みを掻き分けて先行した七咲に追いついてきたのだ。

 

「・・・!・・?」

 

しかし、振り返った少女の現在の瞳がややうっすら潤んでいるのを確認すると少年は心配そうにやや神妙な面持ちに代わる。

そんな彼に「散々寒い中、待たされてこうなった」と、七咲は笑って誤魔化す。それを言われるとぐぅの音もでず、少年―広大は反省の表情を浮かべたのち、早々に帰り路の飲みもの―コーンポタージュ代を彼女の分も負担する話の運びとなった。

七咲はそれを了承してからっと笑い、とりあえず初詣という行事に訪れた以上、「やることやって帰ろう」と自然に足を二人は一緒に踏み出した。いつもと同じ、広大が七咲に歩幅を合わせて。しかし―

 

「・・・」

 

二、三歩ほど歩いてつと広大がいきなり足を止める。二人の後ろから続いていた参拝客が数人「おっと」と、声を上げて驚くぐらいの急停止。彼らに軽い謝罪を言って先に行かせた後も広大は立ち止まったままだった。

 

「・・・?」

 

怪訝な七咲を前に「・・そういやもう願い事決めた?」と広大は妙にずれた質問をしてくる。それここで、そして今じゃなきゃダメなのか?という疑問を呑み込み、七咲は「取り敢えずお賽銭放ってから考えようと思ってます」と、妥当な返答を返す。

元々今年に関して彼女は少し願いたい事が多すぎた。だからすぐに浮かんでこないし選びにくい。しばし考えたのち、取り敢えずは「皆の無事と健康を望もうかと思っています」となんとも七咲らしい解答に広大は満足げに笑い、「ついでに俺の分もお願い」と笑った。

 

「・・・」

 

―何とも適当なことだ。と、七咲は内心少しため息をつく。中途半端に場違いな質問をしてきたかと思えば、広大の落し処が結局「他人任せ」という結果に。

彼女の中から次から次へと湧きでる広大への文句の言葉が止まらない。時々「自分の悪い癖だな」と彼女自身思うが止められなかった。

 

適当ですね。

 

っていうかズルくないですか?

 

私に自分の分までお願いさせといて先輩は自分の事だけお願い、ですか?

 

呆れながらくどくどそのような文句、ぷんぷん悪態つく七咲に「・・そのつもりだけど?」と全く悪びれずに広大は笑う。とうとう七咲の堪忍袋の緒が切れた。

 

 

「もう!ひどいです!せめてその願い事、私に聞かせてくださいっ!」

 

 

「・・・う~~ん。また『あの子』に会えますように、七咲と一緒に見られますようにってのは・・ダメ?」

 

 

広大は夜空―いや先ほど七咲が目を離せなかった「あの子」が咲いていた場所を指さしながらそう言った。

 

―・・え?

 

―・・・。

 

彼が歩みを止めたのはその為だった。場違いな場所にとどまり続けた理由も。中途半端な場違いな質問も。それはあまり「あの子」が居た場所から離れるわけにはいかなかったからだ。

 

「一年の計は元旦にあり」―そんな言葉すらある新年早々、広大は何とも目先の事、些細な願い事を願うことに決めた。彼の性格、計画性の無さを象徴する何とも「らしい」ことだ。

 

広大は先ほど一瞬、振り返った七咲が浮かべて居た切ない表情の意味にちゃんと気づいていたのだ。大切な小さな少女のほんの僅かな、そして一瞬の感傷を目に前にしてこの少年は一年に一回、初詣の願いごとをあっさり「これ」に決める。そもそも「これ」以外にないとも考えている。

 

「ただ通り過ぎるだけでは気付かない、気付いてあげられない」―その言葉を体現するようなその広大の言葉は―

 

―私がこの人を見ているようにこの人も・・私を見てくれている・・んだ。

 

そう七咲が感じるのに十分だった。

 

 

 

「いこ。・・逢」

 

「・・ふふっ。・・はい」

 

 

満たされた心で踏み出した次の彼女の一歩の歩幅はいつもより僅かに広い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルートR

 

 

 

この吉備東神社の近くには世代をまたいで子供たちに受け継がれる秘密基地的な場所がある。

・・と、いっても所詮段ボールで出来た簡素な小屋をハサミ、ガムテープを使った子供の手で拙い補修作業を繰り返された代物である。しかし、子供たちにとってそこに居る瞬間、時間は真剣で、かけがえのない、そして掛け値なしに楽しいものであった。

 

そんな場所をかつて利用していた現在高校生の幼馴染の二人の少年少女は久しぶりに訪れたその場所に懐かしさを覚えつつ、それなりに双方大きめの体をせせこましく中に滑り込ませる。

 

「梨穂子・・お前もっと痩せろ。狭い。壊れる」、「む~~っ失礼な~~。第一智也がおっきくなり過ぎなんだヨ~~」などの会話を挟みながら数分後―

 

「あ~ようやく落ち着いた」と言いたげに二人息を吐き、晴れて簡素な段ボールの室内で「夫婦で楽しいホームレス生活体験」、開始。

 

太ましい栗毛の少女―桜井 梨穂子が持参した水筒のお茶を「しゃちょ~?まぁ一杯ぐぐっと♪へへへ~~♪」と、がっしりした体格の少年―茅ケ崎 智也の持ったコップに注ぎ、次に「こうじょうちょ~~今度は私が~~♪」と珍しくノリノリな智也が梨穂子のコップにお茶を注ぎ込む。

 

そして二人同時に段ボールの独特の香りのする室内で、香ばしいお茶を啜り―

 

「「ぷへ~~っ( ゚ Д ゚)_旦~~(*´Д`)旦~~」」

 

と息を吐く。

 

一見何とも癒し系な二人の光景である。が―

 

 

「ふんふんふん~~♪」

 

―・・・。

 

表情、声色、血色すべて桜色のご満悦、幸せ満開の梨穂子とは異なり、なぜか内心智也は焦っていた。

 

なぜなら彼のケツ周辺で「最近のガキ進み過ぎだろ」レベルのえぐいエロ本が二、三冊転がっているからだ。昔から「秘密基地とエロ本」は何故か切り離せない永遠の癒着関係であると相場が決まっている。

 

「~~~♪~~~♪」

 

「・・・」

 

―・・こんなもん見て今の幸せそうな梨穂子と微妙な空気になってたまるかぃ。

 

「今度梅に頼んでもっと健全な内容の奴に変えてやるぜ、クソガキどもめ」と智也は内心そう毒づきながら決心し、さらに「臭い物には蓋を」理論の下、エロ本を奥に奥に押しやろうとする。・・残念ながらこれがいけなかった。

 

びりっ

 

―・・・!!!??

 

こういうものは不思議なもので隠そうとすれば隠そうとするほどに何故か表に出てしまう。不倫みたいなものだ。

 

「・・・?」

 

慌てふためく智也の隣で暗闇の中、爛々と輝く梨穂子の瞳が心配そうに彼を射抜く。

あの破れたような音の出所を彼女は探し、心配しているのだ。あれがこのホームレス秘密基地の損壊音なのか、それともこの狭さで智也の着ている服がどこか破れでもしたのではないかと心配しているのだ。

 

昨今の女子にしては珍しく「裁縫道具を持ち歩く」という稀有な少女―桜井 梨穂子。

 

迫る。

 

智也に。その彼の背後にあるなんとも迷惑なシロモノに。

 

これほど梨穂子の純真無垢な瞳に智也が怖気づいたのはこの時を置いて他にない。

 

 

―・・・助けてください。

 

 

助けてください!!!

 

 

彼の人生でここまで強く他人に助けを請うのもまた初めてだった。これも彼なりの成長か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ルートK

 

 

 

 

「・・・!・・・♪」

 

肩までのくるくる癖っ毛の少女が手元の白い小さな紙を思い切ってパッと開くと同時、パッと満面の笑みを浮かべて振り返り、彼女の背後に立っていた長身の少年に自慢げに広げて見せた。

 

そこには「大吉」の文字。

 

そして同封されている小さな金の招き猫のキーホルダーを得意げに少年―国枝 直衛に晒したのち、「大吉」の少女―棚町 薫は嬉しそうに財布の中に招き猫をしまう。

 

「~~♪」

 

何とも新年早々幸先のいいおみくじの結果に心底ご満悦の薫はおみくじの内容―特に「金運」あたりを食い入るように見始める。

 

―・・・。

 

現在の角度からは彼女の瞳は直衛から死角になっている。が、確実に彼女の瞳の中が「¥」になっているであろうことが見ずとも長い付き合いの彼には瞬時に分った。

彼女のらしさにやれやれと首を振りながらスカしていた彼であるが―

 

――!!!??

 

薫と違って何の感慨もなく開いた彼のおみくじの内容に戦慄する。

 

 

・・「大凶」。

 

 

本当に存在したのか、都市伝説ではないのかと思っていたおみくじの最低地位の運勢が今直衛の目の前で現実に存在している。

 

「・・・!」

 

奇しくも今年彼は高校三年生だ。あ~~あ、あ、あ。高校三年生~♪

 

そんな大事な勝負の年に新年早々こんな仕打ちがあっていいのか。おまけにご丁寧に「学門」の運勢欄に「妥協は大事」「目標は分相応に」とか余計なお世話な事が書いていやがった。そんなあんまりな結果のおみくじに愕然とする直衛の手元からするりとおみくじが取り上げられる。

 

下手人は当然薫だ。

 

「・・・?・・・!~~~~っ」

 

ほぼタイムラグなく薫の口がフルフルと歪みはじめ、目もぐにゃりと綺麗なバナナか、柿の種みたいな「逆U字」に代わる。

・・笑っちゃダメ→・・笑っちゃダメ→でも・・コレ無理だって!!という最早様式美を感じるほどの表情ローテンションを経て薫は―

 

 

「ぷっ・・・!!!あっはははははははは!!!」

 

 

盛大に吹き出し、バンバンと隣でしかめっ面の直衛の背中を彼が呼吸困難を引き起こすレベルの強さで叩いた。

 

 

 

帰り道―

 

「♪」

 

「・・・」

 

終始ご満悦の表情で歩く薫の隣で彼女が引いた「大吉」のおみくじの文面を見ながら憮然と直衛は歩いていた。・・金運はこの際どうでもいい、彼にとって納得いかないのは何よりも彼女の「学門」の運勢の文面だ。

 

学問:今までの積み重ね、努力が実る年。今まで苦手だった教科、科目が嘘のように得意科目となり貴方の心強い武器になってくれるでしょう。

 

―・・・。

 

あまりにも棚町 薫という少女にかけ離れた文面に直衛は流石に怒りを禁じえない。

 

・・「積み重ね」ぇ?「努力が実る年」ぃ?ざっけんなや!下手すりゃコイツ推薦ぞ!完全な「ぽっと出」やぞ!むしろ俺が引くべきちゃうんかい、このおみくじ!!・・と関西弁で突っ込みたくなる直衛であった。

 

「・・・」

 

そんな理不尽すぎる結果を前に必死で自分を抑えながら直衛は薫におみくじを返す。隣でご満悦の薫にこんな文句を言っても仕方あるまい。むしろこれもまた理不尽、八つ当たりもいいとこだ。

そんな感じで必死で平静を装う直衛の横顔を見て薫は少し薄く笑い、いきなり直衛の左のポケットに手を突っ込む。

 

「!・・・?」

 

怪訝な顔をする直衛のポケットから薫が取り出したのは先ほどの直衛の「大凶」のおみくじだった。

改めて見直しても笑いが込み上げてくる。それ程散々な内容にくすくすと笑いを堪えながら薫は徐にその直衛の「大凶」のおみくじと自分の「大吉」のおみくじをぺたりとドッキングさせ、くるくる巻いた。

 

「~~♪」

 

「・・・?」

 

薫の意図が直衛にはわからない。薫は目線だけ明後日の方向を見つつ、何か「ふん、ふん、ふん、ふん。ふん・・」と、いつも整えられた綺麗な指先で指折り何かを数えたのち、今度は嬉しそうに直衛を見てこう言った。

 

 

「確か大吉、吉、中吉、小吉、末吉、凶に大凶の順なはずだから・・ならえ~~っと・・うん!!私の『大吉』とアンタの『大凶』を足せば・・あ~ら不思議。真ん中の『小吉』になっちゃった♪」

 

 

「え・・。いいのかよ。お前・・折角の大吉なのに」

 

「いいのっ」

 

薫は重ねて巻いたおみくじ二つを持って駆け出し、そして境内にびっしりと無数に結びつけられたおみくじの隙間を探して「ここらへんかな~♪」と言いながら楽しそうに結び付け、最後に彼女にしては珍しくすこし神妙そうな笑顔を浮かべながら瞳を閉じ、手を合わせる。そして隣の直衛にその姿勢のままこう言った。

 

 

「・・私は去年散々アンタに迷惑かけた、で・・・」

 

「?」

 

 

「・・・同時散々幸せにしてもらった。だからいいの。今年は私がアンタに幸せのお裾分け」

 

 

「・・・薫」

 

「くすっ・・い~い直衛?耳のどっかをかっぽじるのよ」

 

「・・・」

 

「元々アンタは『神頼み』なんてしないでしょーがっ?運気なんて小吉もあれば十分でしょ?・・らしくない事してないでいつも通り精々頑張んなさいよ。それが・・アンタでしょ?」

 

薫は直衛に向き直り、とん、と拳で軽く直衛の胸を殴ってにんまりと微笑んだ。

 

 

「・・・。お前ってさ・・」

 

「ん?」

 

「・・案外いい女だな」

 

「今頃気付いたの~~?ふふっ・・帰ろ?・・直衛」

 

 

 

 

 

 

 

―・・「幸せにしてやりたい女の子」ってのは・・まさしくこんな女の子のことを言うんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

直衛は楽しそうな薫に手を引かれながら珍しく、本当に優しく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 










ルートT 了章  おいで。「ここ」へ







「・・寒くない?」

「大丈夫よ。へーき」


吉備東神社の裏手社の軒下―

彼女―絢辻 詞が大好きなこの場所のいつもの特等席に彼女は今日も座り、未だ新年の参拝客の多い表の通りの喧騒もどこ吹く風、静かな夜を過ごしていた。
風でざわめく竹林の合間から覗く冬の夜空の満天の星を見上げ、黒い水晶の様な瞳に映しとるように絢辻は目を閉じた。そして今度は傍らで一緒に星を見上げている少年―源 有人の姿を憂いの籠った瞳で見つめる。彼の傍らには松葉杖が二つ立てかけている。


「・・大丈夫?・・源君。まだ無理しないようにお医者さんに言われているんでしょ?」


「ん~ん。だいじょぶ。それよりごめんね」


「・・?何が?」

「俺の退院の関係でこんなに初詣に来るのが遅れちゃって。新年気分・・もうだいぶ薄れちゃってるでしょ?」

「・・なんだ。そんなこと気にしなくていいのに。それよりも私は無理をしている貴方の体の方が心配だわ。ここまで来る階段なんてハラハラしちゃったし」

「あは。心配させてゴメン。でも少しは動いた方が絶対回復も早いしね」


―・・何よりも俺の気が楽。

俺が動けない間に君が、絢辻さんが居なくなっちゃう気がして。



12月27日以降―

「あの男」は絢辻の下を去った。そしてどうやら絢辻の転校、転居、吉備東を出る話も同時に立ち消えとなったらしい。これまで通り絢辻が吉備東高校に通えることを「あの男」に話を通してくれた中多 紗江の父親―中多 左京が確約してくれた。

流石にこの件に関してはまだ未成年である二人にはどうしようもない事だった。そのある意味一番の問題ごとを見事に解消してくれた彼には感謝の言葉もない。・・「あの男」と何を話したのかは頑なに話してはくれなかったが。

「君たちが気にすることではない」

と笑い、彼は去っていった。柔らかくも押隠したわずかな怒りの焔を消し切れない笑顔だった。


とにもかくにも事態は収まった。


でも、あの日以降―毎日有人は絢辻のマンションに病院から電話を掛け続けた。絢辻が居なくなっていないか不安で仕方なかったからだ。新年明けてすぐに退院して以降はお互いに出来るだけ会うようにしていた。

でもやはり絢辻は彼女の言う「あの子」を見失ったままだ。「表向き」は問題ないとはいえ学校が始まれば「何らかの支障」が出てくるのは確実。そして絢辻自身も少なからず不安を覚えていることもまた確かだろう。何せ「あの子」の居ない時間は当然ながら彼女の人生には無かったのだから。

「・・・」

無言のまま有人は彼女の整った横顔を横目で見やる。
彼女が「あの子」を見失ってからはや二週間。一見問題なく元気そうだが気丈に振舞っているのは明らかだった。そもそも彼女自身が見栄、虚栄心、言い換えるなら「あの子」の「強がり」そのものでもあるのだから。
「頑張るな」と言っても頑張ってしまう子だ。かと言って逆に「頑張れ」もまた今の彼女には危険な言葉である。

これはまさしく綱渡り。それも目隠し状態の。ここからは有人は何もかも手探り状態だ。

でも幸いなことに彼と彼女が過ごしてきた時間は短い。二人の距離が開けば、会える時間が無ければ失われるのも早かったろうが、幸いなことにそれを動けない有人の代わりに彼の仲間皆が防ぎ、二人を繋ぎ止めてくれた。

その短い時間の記憶―だが大切な記憶を未だ鮮明に有人は覚えている。そしてきっと絢辻自身も。・・当然「あの子」も

それを踏まえてまず有人にできることは二人で一緒に記憶を辿って、一緒にいろんな場所で色んな事をしたことを思い出して、話して、そしてこれから先また違う場所に一緒に行って違うことをして・・どんどん新しい記憶を積み重ねて彼女の心を揺り動かし続ける。

未来と過去と今、すべてを賭けて。ただ心を通わすのだ。愚直なほどに。

そうしたらきっと眠っている「あの子」は茶々入れずにはいられないはずだ、と有人は考える。元々何とも趣味の良い性格だし、茶目っ気もある。そして案外好奇心も旺盛。きっとひょっこり顔を出す。あの強気な顔をして腕を組んだり、腰に手を当て―

―へらへらしてんじゃないわよ。

とか言いながら。

悪戯な視線で、生粋の毒舌家で、時にちょっと・・いや、かなり暴力的で。の、わりに変なところ妙に繊細で、義理堅くて人情脆くて。

そんな絢辻 詞という少女が有人に残した記憶―その欠片を拾って今はつなぎ合わせていく。
その第一歩、その一片がこの場所だ。吉備東神社の裏庭。言わずもがな絢辻が大好きな場所だ。二人以外に言わせれば風景自体は少し物悲しい光景かもしれない。が、この二人にとってはとても人間臭い、何とも喜怒哀楽全てがあふれた場所である。

現在、吉備東高校は冬期休暇中だ。入校することはできても普段と違い、静か過ぎる。結果、彼女と一緒に最初に行くべき場所はここ以外有人には思いつかなかった。



しかし―


この場所においても現状―今の絢辻には大きな変化が一見見受けられないように有人には見えた。楽しそうではある。が、やはり少し物悲しく、消え入りそうな儚さが見受けられる。

―・・・。ま。そんなに簡単な事じゃないよね。

期待はしていた。でも同時そんなに甘くないとも思っていた。・・この程度でへこたれてはいられない。有人の表情には少し残念さが滲みながらもいつもの様に柔らかく絢辻に向かって微笑みつつ立ち上がり、隣に立てかけていた松葉杖を手に取る。

「・・もう、行くの?」

「ううん。すこし体冷えてきたからウォーミングアップしとくよ。・・でももしウォーミングアップで俺が燃え尽きて倒れたら絢辻さん・・介抱お願い」

「了解しました。でも何すれば?流石に私じゃ源君背負って帰るのは無理よ?」

「あっためて。人肌で。多分飛び起きる。骨折箇所もつながるかも」

「バカ!」






―・・・。

絢辻は軒下に座り、そして瞳を閉じて語り掛ける。胸に手を置いて。・・彼女の心に。

―・・眠ってる。

あの日病院の屋上で有人と話して以来、絢辻は自分の中にはっきりと「あの子」が居ることが自覚できた。ひょっとしたら有人の語り掛けによってまた「あの子」が「生まれた」と言っても良いのかもしれない。「あの子」がかつて自分を生んだように。

でも生まれたばかりなのに「あの子」はとっても疲れている。沢山頑張ってきた、悲しい思いも辛い思いもしてきた。傷ついたり、失望したりもした。その疲れは恐らく眠るだけでは癒されないものなのだろう。

―でも・・今は眠って?そのままでいいから。・・私とあなたは繋がっているんだから。今の私の瞳に映ったもの、感じたものは全て貴方のものでもある。

思い出して。

懐かしんで。

そしていつか一緒にまた歩こう?過去を見るだけじゃなく今も、そして・・明日も。


ひょっとしたらずっとこのままかもしれない、眠ったままかもしれない―そんな不安を覆い隠しながらも絢辻はそう祈って瞳を開く。

その時―


「・・・え・・」


開いた視線の先に在る「もの」に絢辻は瞳を見開いた。

―・・・あ。



「う~冷えるね」

有人が冷える両手に息を吹きかけながら小脇に抱えているその松葉杖の先端。そこには―


朽ち果てた、大半がすでに「あの日」炭化し、雨風、そして先日の雪にさらされ劣化、風化してほとんど原型はとどめていないものの、それは紛れもなくかつて絢辻が「自分の心」と読んでいたもの―




黒い手帳の断片が残っていた。




絢辻の視界を通して記憶が一気に繋がっていく。フラッシュバックの様に記憶が走る。
これはかつての「あの子」そのもの。あざとく、未熟で意地っ張りだった「あの子」の断片。

「・・ん?絢辻さん?」










「・・へらへらしてんじゃないわよ」











「・・・!」




ほんの僅かな瞬間だった。だが次の瞬間には―


「・・・っ?・・あ?あ、あぁ・・・」

絢辻はつい一秒前の自分の発言に信じられないような顔をし、次に困惑するような恥ずかしそうに顔を真っ赤にして目を伏せる。再び元の状態に戻ってしまった。

しかし―見た。ほんの一瞬であるが確かに有人は見た。「見たよ。確かに見たよ」と、言いたげにやや泣き笑いでぎこちなく微笑む。

「あは・・ははっ」

―見間違いなんかじゃない。やっぱり君は・・・「そこ」に居る。


今、これから彼らが歩む道が全くの暗闇、全くの手探りではなく、ほんの僅かではあるが道筋、光が差した瞬間だった。

「あ・・あはは。み、源君・・」

それを絢辻も理解しているのだろう。自分の状況に混乱、困惑しつつも嬉しそうに顔を上げた。


雲間からわずかに差し込んだ光はすぐに立ち消えた。が、分厚い雲の上に確かに光があると分かったこと―なら雲が晴れるのを待つことも出来る。いっそのこと雲を飛び越えていくことだってできる。

その先に光があると解っているのなら。人は・・進める。




有人は松葉杖を捨てた。カタコトと地面の上で乾いた軽い音を立てながら暫く鳴動し、松葉杖はすぐに動かなくなる。そしてそのまま震えながらも一歩踏み出す。痺れるような足の痛みが今は―

「~~~っ!」

何故か妙に今の有人にとって心地よかった。「前に進む」、「一人で立つ」ということは時に辛く、痛みを伴う。そして所詮一人で立てたところで今の自分が半人前であることには変わりない。それは有人も解っている。

でも、二人なら、目の前の半身を見失ったこの少女と一緒なら立派に「一人前」になって歩いて行ける―そんな根拠もない確信の下、彼はまたびりりと痛みの走る足を踏み出す。

―なんでだろう。なんか俺・・今一人で立って、一人で歩いている気がしないや。

そんな彼の心象を全て解っているかのように、まるで初めて立った子供を見守る母親の様に絢辻は微笑んでいた。





―おいで。「ここ」へ。

急がなくていいから。


今の私たちの時間はきっと溶けて、消えてなくならない。


だからおいで。「ここ」へ。・・・来て。もう一度「ここ」へ。




私を・・見つけて。






そんな少女に向かってもう一歩踏み出し、少年―源 有人もまた微笑む。





























                       ルートT           了











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間章 1

 

 

 

 

 

 

間章1   「ほ」の字でおま。

 

 

 

 

 

吉備東高校―屋上にて

 

「はぁ、はぁ、はぁ・・ほ~~~」

 

とある一人の少女が息を切らしながら屋上の出るドアの扉を背にして乾いた空に息を吐く。

 

 

「こ、これでしばらくは安心、か、な。・・・ほ」

 

乱れた黒いショートボブの髪を整えながら吊り目の少女―七咲 逢は屋上を見渡した。

周りに人は誰も居ない。生来根っからの真面目な気質の少女にしては珍しく、人目を気にして周囲を妙に警戒している。

 

少女は今、生涯かつて無い程誰にも会いたくなかった。屋上の扉を挙動不審にじ~~っと覗き、「よし誰も来てない!・・お願い今日はここに誰も来ませんように~~」とすりすり小さな手を顔の前で合わせ、目を閉じつつパタンとドアを閉める。

 

しかし―

 

 

「・・・う、んが?」

 

 

―・・・へほ!!!

 

七咲は驚いて飛び上がる。思わず内心奇妙な奇声も出た。

 

確かに七咲がここに来て以降、今日は誰もここには来なかった。しかし、残念ながら既に屋上にはとある先客が居たのであった。

 

「・・・」

 

恐る恐る七咲は声の方向屋上のドアの真上に設置された取水棟を見上げる。そこには

 

「あ~~よく寝た・・。う、んっんっ!!ん・・?・・ん?あれ・・。君は・・確か」

 

寝ぼけ眼のまま伸びをし、屋上に現れた来訪者―青ざめた顔で彼を見上げるその少女に体格のいい少年は記憶をめぐらす。

 

「あ、あ、あああ、ち、ちち・・茅ヶ崎先輩。こ、こんちにわ~~・・ほ」

 

「・・七、咲だっけ?杉の彼女だよね」

 

「は、はい。・・ほ」

 

「・・・?」

 

―・・・「ほ」?よくわかんないけど安心してくれてんのか。いきなりこんな俺見たら大抵の奴逃げ出すんだけどな。

 

彼にはそんな経験がこの二年間何度かある。逢引きしに来たらしいカップルが丁度今日の七咲みたいに現れて彼と鉢合わせした日、そのカップルが飛び上がって逃げて行った記憶もあったりする。

 

 

 

「・・ま。俺はまぁ適当に存在してるから君も寛いでいけば?天気良いし。何なら梨穂子が淹れてくれたお茶もあるよ。飲む?」

 

「・・は、はい。そうします。頂きます。・・ホ」

 

―・・・?

 

何か様子がおかしい。茅ケ崎はそう思う。

 

「・・どうかした?」

 

「へ、ほ・・」

 

「・・・?」

 

「その、ですね、・・ほ」

 

「・・・?」

 

「茅ヶ崎先輩・・気を悪くしないんでほしいんですがあまり今日の私を喋らせないでほしいんです・・ほ」

 

「・・何があったのよ」

 

 

七咲は今日一日―

 

「絶対に語尾に『ほ』をつけなければならないんですほ」と恥ずかしそうに言った。

 

 

 

こんなことになってしまった経緯は少々複雑である。

 

 

 

先日―七咲は杉内 広大を自宅に招いた。

 

父や母への紹介はもちろん、彼女と九つ離れた小学生低学年の弟―七咲 郁夫との初対面の日―そこで悲劇は起こる。

 

当初こそ七咲の弟―郁夫は比較的、姉の彼氏である杉内 広大に好意的であった。

 

が―彼がヘビロテで週三回は録画したのを見返す週一の仮面ヒーロー番組―仮面ライ・・、い、いや失礼。・・「イナゴマスク」ごっこを始めた時、悲劇が起こる。

 

杉内 広大という少年もかつてはそういうヒーロー番組を見てきた少年だし、元々末っ子で子供っぽい面もある。子供の相手は比較的しやすい性格をしており、郁夫の突然のヒーローごっこ遊びの要請にも快く付き合った。が・・杉内が童心に帰って繰り出すかつての歴代の「イナゴマスクが繰り出してきた技」たちは残念ながら・・十年ほど遅い。

 

仮面ヒーローものは1シーズン、1シーズン巡る。デザイン、ストーリー、主人公の境遇や敵、技に至るまで時代、世相を反映してマイナーチェンジされ、世代交代を経ても尚変わらず子供たちに受け入れられる。シーズンによってはコア的人気を誇り、大人が長年夢中になるものすらある。

 

が、残念ながら子供にとっては「超一過性の流行もの」という側面も強い。友達とのヒーロー談議で1シーズン話題が遅れようものなら時に完全に「時代遅れ」のレッテルを張られ、はみ出し者とされる。下手をすればいじめにもつながったりするから恐ろしい。子供の世界にも色々あるのだ。

 

結果―「十年遅い」技を次々繰り出すほかない杉内は七咲の弟―郁夫によって文字通り「そんな技で僕に勝とうなんて10年早い!」とか

 

「そんなんで僕の姉ちゃんをやれるか!!」とか散々言われ、出直しを要求される。

 

 

―う、お、おおお・・。

 

結果、杉内は心底マジで落ち込んでしまった。七咲の弟―七咲 郁夫とのファーストコンタクトの盛大な失敗を前にして。

 

結果―

 

「七咲・・俺負けねぇ。頑張るわ!!」

 

杉内はその日以降、イナゴマスクの研究に余念がない。知識を貪欲に吸収し、週一の放映時はリアルタイムで確実に視聴、そして録画を何度も見直すなど涙ぐましい努力を開始、めきめき実力をつけていく。

 

「ローリングイナゴスパーク・・イナゴスピニングバックナックル・・イナゴーゴー張手・・」

 

「この熱量を少しは勉強に向けろや…」という友人―国枝 直衛の愚痴も何のその、杉内は努力を続けた。しかし―彼は失念していた。

 

季節は冬を過ぎ、そろそろ春を向かい入れる時期となっている。つまり―今シーズンのイナゴマスクが・・最終回を迎えて終わってしまうのだ。

 

新シーズンが始まってしまっては今の彼の努力が全て水泡に帰す。一からやり直しである。斯くもヒーローものとはシビアなものなのだ。これに付き合わされ、シーズンごとに玩具を買わされ、そしてごっこ遊びに付き合わされる親御さんの苦労を杉内は垣間見る。

 

しかし―そんな彼に救世主(メシア)、否、女神が現れる。それが―

 

 

「良かったら杉内先輩・・私がイナゴマスクの事、その・・教えます、よ・・?」

 

 

中多 紗江だ。

 

 

彼女は意外にもはっきり言ってイナゴマスクのマニアだ。オタクだ。

今シーズンは勿論、ここ十年スパンのイナゴマスクの全ての知識を彼女は持っている。

あまりにも意外なダークホース出現に杉内は一人沸き立つ。

 

流石にイナゴマスクシリーズが1シーズン1シーズン、マイナーチェンジしていくとは言え、男児というものは心の中に潜在的に「この仮面ヒーローこそ俺の青春のバイブル」と銘打ち、他のシリーズと別格化、神格化するシリーズを持っているものだ。

流石に杉内の「十年前」というまだ七咲の弟がまだチンカスレベルの時のイナゴマスクには対応していないとしても、ここ二、三年のシリーズであれば七咲の弟の郁夫は小学校低学年か、幼稚園の年長でヒーローものに最も敏感なお年頃だ。「どれか」が当たる可能性はある。

 

「学んだ知識は奪われないから」という例の「英雄」の雷様の有り難いお言葉に従い、杉内のイナゴマスク研究は壁にぶち当たりながらも続いていく。中多 紗江というこれ以上ないブレインを得て。

 

中多 紗江自身も自分の大好きな共通の話題が出来る相手を見つけられたことが相当にうれしかったらしく、進んで杉内にイナゴマスクの情報を提供し続けてくれた。それだけではなく、休みの日にはともに遊園地のヒーローショーに繰り出したりもし、最早杉内と中多が会う頻度は彼氏彼女レベルにまで達していた。

 

更に彼女は仕事の関係で芸能関係に非常に顔の広い父親のコネにより、今シーズン、そして過去シーズンのイナゴマスクシリーズはもとより、まだ公開されていない次期の新シリーズのマル秘情報すら入手できる立場に在った。

 

「杉内先輩!!これがマル秘資料『新シリーズのイナゴマスクのデザイン設定資料』ですよ!うっかり出まわったら関連会社の株式市場に影響が出かねませんので絶対にオフレコにして!だ、そうです!!」

 

・・ヤバいものを学校に持ってくる女子高生も居るものである。しかしまさしく杉内にとって中多は救世の女神であった。

 

 

しかし、当然これを快く思わない奴は現れる。言うまでもなく中多 紗江の彼氏である―

 

 

―邪魔だなぁ・・杉内君。早く死なないかなぁ。あと寿命どれぐらいかな?

 

 

・・御崎 太一だ。

 

 

当初こそ中多が杉内と趣味の事に関して楽しく話していることを寛大に受け入れてはいたのだが日曜のデートは邪魔されるわ、登下校中も割り込んでくるわ、距離は近いわで流石に御崎も我慢の限界、噴火直前に達していた。

中多 紗江と出会って早々と源 有人、国枝、茅ケ崎に彼女を紹介した御崎ではあるが杉内に関しては本当に「誤算、紹介しなければ良かった」と今彼は心底後悔している。

 

しかし、そんな中でも必死に自分を抑え、「杉内には七咲が居るので大丈夫だろう」と御崎はどこか言い聞かせていた。結構ああ見えて七咲 逢という少女は嫉妬心、独占欲が強いことを御崎は知っている。杉内と中多の過剰接近にはいずれ彼女自身が物申すことになるだろうと踏んでいた。当の杉内も七咲にベた惚れだ。彼女から物言いがつけば流石に彼も自重するだろう。「ほんの少しの時間の我慢」と御崎は自分に言い聞かせる。

 

しかし彼―御崎 太一の誤算はここに在った。

 

 

在ろうことか後日、あの七咲すらも中多をイナゴマスクの「師」と仰ぎ始めたのだ。

これにも少々悲しい事情が有る。

 

杉内だけでなく姉―七咲もまた仮面ヒーローものの理不尽すぎる世代交代に振り回された「時代の犠牲者」の一人であった。

 

 

先日、弟郁夫への誕生日のプレゼントとして、彼女は思いの外安く手に入れることが出来たイナゴマスク変身セットを弟に手渡した。弟が喜んでくれる姿を想像してわくわくしていたが彼女はなぜその変身セットが他と比べて異常に安いのかを深慮すべきだった。

 

彼女のその変身ベルトは1シーズンどころか2シーズンも外していたものであった。そして残念ながら2シーズン前はイナゴマスクのスーツデザイン、ストーリーともに「不作」と呼ばれた谷間世代のイナゴマスクである。そんな不作のシーズンのイナゴマスクの変身ベルトを前にした七咲弟―郁夫の反応は「姉の前で泣きながらベルトを突っ返す」という姉―七咲にとって余りにも悲しい結末を迎える。

 

 

―う、ああああ。郁夫ぉ・・ゴメンね・・!お姉ちゃんを許して・・!

 

 

七咲もまた杉内同様、マジで落ち込んでしまい、自分の無知を恥じた。

 

そんな彼女の前に現れたのがクラスメイトであり救世の女神―中多 紗江である。

あとは言うまでもなく杉内と同じ道を辿る。彼女は杉内と中多の過剰な接近に然したる嫉妬の感情を覚えず、むしろ率先して自分も二人に溶け込んでいき、完全に三人で「イナゴマスク固有結界」を形成してしまったのだ。

 

そもそも、元々杉内がイナゴマスクを知ろうとしていたのは純粋に「七咲の弟と仲良くなりたい」というものである。よくよく考えれば姉の七咲 逢がそれを拒むはずがないのだ。むしろその必死な姿に内心嬉しいとすら感じていただろう。それに加えてあのプレゼントの悔しい経験を前に七咲もまた弟の喜ぶ顔を見るためにイナゴマスク知識が必須と判断、結果三人は各々の事情が複雑に絡み合い、かみ合い過ぎてしまった結果今に至る。

 

―し、しまった・・!!完全に僕読み違えた!!

 

御崎は頭を抱える。

 

 

 

 

そして先日―とうとう堪忍袋の緒が切れた御崎は―

 

「杉内君・・七咲さん。ちょっといいかな・・・」

 

「ん?どしたミサキ?」

 

「御崎・・先輩?」

 

 

「僕と紗江ちゃんをめぐって勝負だ!!かかってこい!!」

 

 

 

 

 

ここに中多 紗江を巡る戦争勃発。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在―

 

 

「と、いうわけなんですほ・・・」

 

しゅんと俯き、恥ずかしそうに事の経緯を語り、茅ヶ崎が同じ茶道部の桜井 梨穂子から今朝差し出してもらった水筒のおいしいお茶を啜って七咲はまたため息をついた。

 

「ほ・・・あ、おいしいお茶ですほ・・」

 

事の経緯を長々と茅ケ崎に語った中でも常に「語尾は『ホ』のルール」を律義に七咲は守り続けたため、彼女も少々慣れてきてしまったらしい。悲しい。

 

「・・・」

 

―・・アホらし過ぎて言葉がでねぇ。

 

 

 

「で、・・七咲。その勝負ってのは?君のその、語尾が『ホ』っていうのも罰ゲームかなんだろう?」

 

「はい・・流石に喧嘩は駄目ですし公平に『ゲームで勝負』という形になりました。勝った方が紗江ちゃんを手に入れられて、負けた方は罰ゲームという形です。今日は私は御崎先輩にトランプの『スピード』で勝負を挑みましたほ」

 

「・・あ。あ~ダメ。御崎の奴はその手のゲーム、っていうか全般的にアイツはなんでも強いよ?」

 

「そうなんです・・私も『スピード』には結構自信があったんですけど・・完敗でしたホ・・」

 

「・・で。肝心の杉は今何してんのよ?」

 

―こんな状態の彼女ほっぽり出してどこほっつき歩いてんだ。あの野郎は。

 

「杉内先輩は・・私の仇を討つために御崎先輩に勝負を挑んでますほ・・」

 

「で、次もトランプの『スピード』?・・杉じゃあ望み薄だな?」

 

 

「いえ・・確か『あっち向いてホイ』ですほ」

 

 

 

「・・・!」

 

「より悪いわ」、と言いたげに茅ケ崎は眉を顰め、首を振った。

 

―・・馬鹿が。ジャンケンの勝率がもろに勝敗に左右されるゲームを選びやがって。アイツ自分のジャンケンの弱さに気付いてないのか!?

 

「・・茅ヶ崎先輩・・どうかしましたか?・・ほ?」

 

「・・。七咲・・その、残念だけど。今日は中多さん諦めろ」

 

「・・・。そうですかほ・・」

 

「あの、敢えて聞くけど・・杉が負けた時の罰ゲームは?」

 

「・・一日中語尾が『ホイ』ですほ・・」

 

「・・・」

 

―彼女が語尾が「ホ」。彼氏が語尾が「ホイ」に決定か。・・帰り道ただのバカっプルだな・・オイ。

 

 

 

 

しかし考えてみるとこのケース悪いのはいったい誰なのだろうか・・。えてして戦争というものはこんな些細なすれ違いから発展してしまう物なのかもしれない。

 

世の不都合で不条理な真理を垣間見、茅ヶ崎は一人物思いにふける。吉備東高校の乾いた空に吹く風はまだ寒々しい。

 

 

「へ、へくしょん、・・・は・・!ほ!」

 

本当に律義だ。

 

「七咲・・もういいよ。その、俺の前では罰ゲームやっても意味ないし・・普通でよくね?」

 

「そ、そうはいきません!!罰ゲームなんですから甘んじて受けます!!・・ほ!!」

 

「そ。そう?無理しないでね」

 

「は、はいっ!・・ほ」

 

「・・なぁ・・七咲?」

 

「はいほ?」

 

 

 

「君って案外ア『ホ』?」

 

 

 

「・・とほ『ほ』~~」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の放課後―下校時間

 

 

「智也。お待たせ」

 

太ましい体を揺らし、ふぅふぅと息を吐きながら栗毛の少女―桜井 梨穂子は茅ヶ崎の下へ走り寄る。

 

「あぁ。おかえり。梨穂k・・」

 

「ん?」

 

「・・じゃあ帰るか。梨『穂』」

 

「『りほ』・・?珍しいね。智也が私をそんな風に呼ぶなんて」

 

「・・嫌か?梨『穂』」

 

「・・う~~うん。新鮮でいいよ~~♪もっと呼んでくれたまへ~~♪」

 

 

 

 

 

 

数日後―

 

昼休み

 

 

茅ヶ崎が桜井と昼食を終え、中庭周辺を散歩していた時であった。

 

 

「あ、茅ヶ崎先輩に桜井先輩!こんにちわですぴょん」

 

 

「・・」

 

茅ヶ崎は絶句。桜井も七咲のあまりにキャラに合わないその言葉に驚きで元から丸い目を「へ?」という感じで( ゚Д゚)←こんな風に更に丸くさせた。

 

 

「・・また負けたの?」

 

「はい!三連敗ですぴょん!ちなみに~昨日は『べし』でした!あははは!傑作ですぴょん」

 

「・・・」

 

―おい杉。いい加減にしろ。お前の好きな子が・・今確実に壊れていってるぞ・・。

御崎も御崎だ・・遠慮してやれよ・・。無理か。

 

「七咲さん・・」

 

流石の梨穂子も居た堪れなさそうに可愛い後輩女子を憐れんだ。

 

「・・七咲。いいんだもう無理しなくて」

 

「ダメですぴょん!絶対に今度は勝ちますぴょん!御崎討つべし・・!・・・。ぴょん!!」

 

「・・」

 

「・・」

 

―・・間違えたな。

 

―・・間違えたね。

 

 

壊れかけの彼女を手を振って見送ったのち、桜井は神妙そうに茅ケ崎に上目遣いで訴える。

 

「智也ぁ・・」

 

「ああ。わ~ってるよ」

 

―梅はインフルエンザ、国枝は学期末テスト控えてグロッキー、棚町さんは棚町さんでぜってぇあの状況楽しんでるだろし。源は・・「彼女」の事で手一杯だろうしな。

 

 

昨年末―彼の担任である多野に言われた言葉を茅ヶ崎は思い出す。

 

 

―今度はお前の仲間たちの力になってやれ。

 

 

「・・じゃ梨穂子」

 

「うん」

 

「ちょっと・・シメてくるわ」

 

「うん。いってらっしゃい♪」

 

 

 

彼は五分後2-Aに無言で潜り込み、教室後方でいがみ合うバカ二人の姿を確認するとつかつかと詰め寄り―

 

 

「お前らいい加減になさい」

 

 

思いっきり二人の頭に拳骨をめり込ませる。頭頂部を抑えて悶絶する二人を見下ろし、茅ヶ崎はこう言った。

 

 

「中多さんは皆のものだ。公平に分け合いなさい」

 

 

 

「ぐ~~っ・・!茅ヶ崎君!!紗江ちゃんは僕のものだよ!!」

 

「解ったよ茅ヶ崎・・じゃあ俺紗江ちゃんの左胸な。確か『そっちの方が大きい』って聞いた事あるし」

 

七咲が居ないことをいいことに暴言レベルの言葉を発する。この状況で尚、御崎を煽る杉内。「連敗」の鬱憤が溜まっているようだ。

 

「てんめ~~杉内!マジで殺すよ!?」

 

 

そんな二人に再び鉄拳を突き刺し、

 

「お前らがそのつもりなら中多さんと七咲さんは預かる。お前ら二人で一生バカやってろ」

 

「な・・!!今度は茅ヶ崎君が紗江ちゃん僕から奪う気なの!?」

 

「七咲関係ねぇだろ!?」

 

「・・安心しろよ。預かるのは俺じゃなくて梨穂子だ。今のお前らであの梨穂子に勝てると思ってんのか?ん?」

 

 

 

「・・・」

 

「・・・」

 

 

二人は返す言葉を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




間章1   「ほ」の字でおま。・裏






ルートS 喧嘩はやめて 二人を止めて 4







実は今回のこの状況を楽しんでいた人間が今回の件では終始、傍観者に徹していた棚町 薫以外にももう一人いる。




御崎、杉内、そして七咲の三人に取り合われていた当の「景品」―


・・中多 紗江だ。


やはりあの母親在ってこの娘、なのだろうか。それとも何度もあの母親に調教されるたびに彼女自身が図太くなっていったのか・・それは解らない。

自分を巡って二人の男子(プラス1親友の女の子)が戦い、いがみ合うその姿。初めのころは恐怖を覚えていたものの徐々にむくむくと―

―あれ・・?なんだか私・・楽しい。

そんな感覚が小さな少女の中で芽生えつつあった。

自分が持ってきたイナゴマスクの情報に我先に喰いつく哀れな羊たち。誰もが彼女を見、彼女の話を聞き、喜び、泣き、笑い、そして最後にいがみ合うその姿―




け、喧嘩はやめて~二人を止めて~


私のために 争わないで~(音痴)


うふっ・・うふふふ~~~(*´艸`*)

















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間章 2






間章 2  ルート「K」 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉備東高校

 

 

昼休みの2-Aにて―

 

 

「く、国枝君!国枝君!たたたた大変だぁ!!」

 

「・・んぁ?」

 

「た、橘君が・・」

 

「・・『橘が』・・?」

 

 

 

「ま、マイクさんとこの前の日曜デートしたんだって・・」

 

 

「・・詳しく聞かせてくれ」

 

 

小さな少年―御崎 太一が戦慄の表情で語った衝撃の事実。強固な国枝 直衛の眠気すら一気に吹き飛ばす橘のデートの相手―「マイク」という男とは―

 

本名マイケル・ギャラガー。

 

数か月前、棚町、田中、そして絢辻ら女性陣も交えた2-Aの一行がビリヤード大会を行ったバーで彼らを最初にもてなしてくれた一見気のいい、しかしどこか胡散臭い日本語を話すアメリカ人の留学生である。そして同時「男」専門と言われ、その界隈では有名な男でもある。

あの日、国枝、源、梅原、杉内、そして御崎の男性陣五人のケツを確実に狙っていた危険人物だ。

 

「そんなヤバめの人物とデート」と言う最早不穏しか感じない御崎からの突然の話題に国枝の眠気が一気に吹き飛んだ。食い入るように未だ息を切らし、呼吸を整えるのも忘れている御崎に踏みよる。

 

事の顛末はこうだ。

 

先日―

 

件のバーにて橘―つまり国枝達2-Aのクラスメイトの少年である橘 純一が彼の「彼女」兼「飼い主」、そして吉備東高校のアイドル、マドンナ的存在でもある美少女、三年生―森島 はるかとダーツを楽しんでいた時の事だ。

 

 

現在―

 

「・・ちっ、羨ましいな。橘の奴・・」

 

「だね・・国枝君。・・って、話の腰折らないでちゃんと聞いてね?」

 

再び先日―

 

「ハ~~イ。とってもウマいですね~~?ヨカッタら~~ご一緒しませんか~~?」

 

 

彼女らは突然気さくに話しかけてきた例の男―「マイク」ことマイケル・ギャラガーと意気投合し、一緒にダーツを楽しむこととなった。

まだダーツ初心者であった橘を共にダーツ経験者同士であった森島、マイクの三人を交えて一通り楽しんだのち、マイクが森島に耳打ちでこっそり「とあること」を提案してきた。・・何も知らない橘を一人置いて。

 

「・・ハルカサん?良かったら私とダーツで勝負、しませんカ?」

 

「わお。いいわね!・・マイクさんすっごく上手だから実は私もお手合わせ願いたかった所なの♪」

 

森島は快諾した。どうやら彼女自身、手ごわいダーツの対戦相手に飢えていたらしい。

 

「グ~~~ドゥッ♪・・う~~んデモ・・ハルカさん?ただ普通に勝負って言うのも面白くないと思いませんカ~~?」

 

「ん~~っ?どういう事かしら~?」

 

綺麗な人差し指を整った輪郭に沿えて森島は首を傾げる。そんな彼女の普通の男なら軽く悩殺する仕草に何ら反応せず、マイクは怪しく笑ってこう言った。

 

「な~~に、シンプルですヨ。・・お互いに景品、もしくは罰ゲームをかけて勝負するンです。勝った時の嬉しさ、負けた時の悔しさ・・これぞまさしくギャンブルのDAIGO味ですヨ♪ウィッシュ♪」

 

・・未来を生きる男―マイケル・ギャラガー。

 

 

再び現在―

 

「・・読めた」

 

「・・うん」

 

三度先日―

 

賭けの内容はマイク敗北の際、「マイクが丸坊主」。そして森島が負けた際の罰ゲームは―

 

・・「橘が一日マイクとデート」に決定。

 

そして森島は壮絶な打ち合いの末・・敗北。橘は気の毒な事に森島の敗北後にその罰ゲームを聞かされるというこの上ない不条理の中、放心状態で対照的にノリノリ、ウキウキのハイテンション・マイクと次の日曜の待ち合わせの約束をした。

 

 

現在―

 

「最近は『景品』の本人の了承無しに本人を賭けの対象にするのが流行ってんすかね~~?御崎クン?」

 

「・・耳が痛いです。国枝君」

 

「・・しっかし恐ろしくベッドが吊り合ってねぇ。森島先輩はほぼノーリスクじゃん」

 

「いや、下手すりゃ彼氏が・・その、・・『別世界に行く』と、考えると」

 

「・・。ま。それもそうか。・・で、当の本人は?今どこで何してんの」

 

正直国枝は今の彼を見るのが怖い。既に「事後」という可能性もあるゆえに。

 

 

しかし―

 

 

 

「ああ。国枝!御崎!おはよ!!いい朝だね」

 

「お・・おはよ」

 

「・・おはよう。橘君」

 

基本、橘 純一という少年は普段爽やか、顔立ちも人懐っこく端正だ。押隠された少々、中々、いや相当の変態さに目をつぶれば(目を潰さないといけないレベルだが)好青年と言える。しかしその爽やかさ、普通さが今、彼を目の前にしている国枝、御崎両名にとって例えようもなく不気味であった。「男同士でデート」という人間離れした離れ業をやってのけたにもかかわらず、特に普段と変わらないように見える彼になんと言葉をかけていいか解らない。

 

「・・?・・!あ。ひょっとして・・」

 

そんなクラスメイトの複雑な心境を察したのかやや細い眉を苦そうに歪め、橘は

 

「・・はは。マイクさんとのこと?梅原から聞いた?」

 

「あ、いや・・うん。すまん」

 

あっさりと自分から話に踏み込んできた橘に国枝は申し訳なさそうに頷き、目を逸らす。

 

「御崎も?ひょっとして僕の事心配してくれた?」

 

「あ・・うん」

 

「あはは。ありがと。でも残念だけど何にもなかったよ?マイクさん気さくですっごいいい人だったし。お話も面白いし」

 

「・・そうなのか?」

 

訝し気ながらも思いの外、大丈夫そうな橘の雰囲気に国枝もややほっとした口調で目を丸める。

 

「うん。僕も最初は当然戦々恐々でさ。だって男とデートだなんて初めてだし!?ははっ!っていうか初デートだってこの前森島先輩としたばっかりだしね?」

 

明るく自虐的に笑う少年にぎこちなく二人は相槌をうつ。

 

「まぁ・・中学のクリスマスの時・・『未遂』はあったけどさ。は、はは・・」

 

「「・・・」」

 

かと思えば一転過去のトラウマ級の思い出を語り、橘は暗い影を背負う。・・重いぞこの男。

 

「・・でもそんな僕をマイクさんが終始リラックスさせて笑わせてくれて・・緊張もすぐにほぐれていったよ。で、車でいろんなところ連れて行ってくれたんだ。『今度カノジョのハルカさんと一緒に行ってみてくだサイ。喜んでくれること間違いないデス』とか言っておススメの穴場のデートスポットとかお洒落なショップ、あと僕のファッションの指南とかもしてくれたなぁ」

 

思い出を反芻するように橘は腕を組み、視線を上げる。正直楽しそうだ。実際楽しかったのだろう。ユーモアを交えつつ、人生の先輩としていろんな場所に連れて行って勉強させてくれたのだから。

 

「へ、へぇ・・」

 

―あ、案外ちゃんとデートしてんな・・。

 

 

「で・・デートの終わり、マイクさんが家まで送ってくれた時に僕・・正直にマイクさんに言ったんだ。『僕は森島先輩が大好きなんです』って」

 

彼なりに一日とっても良くしてくれたマイクに対する「礼儀とけじめ」を兼ね、橘はちゃんとこう言い切ったのである。言外に「貴方の気持ちは嬉しいが~」というニュアンスを込めて。そんな正直な少年にマイクは笑い―

 

「マイクさん・・こう言ってくれたんだ。『安心してくだサイ。私は無理強いは絶対にしまセン。マシて素敵な恋人の居るガイにはネ。・・彼女のハルカさんをおダイジにね♪タチバナくん』って」

 

 

去り際にマイクは運転席の窓からパチッと、程よく軽いウィンクをして橘にこう言った。

 

 

「レンアイに無理強いはイケマセン。好きな子にはちゃんと真摯に向き合い、尽すことデ~~ス。そして・・ちゃんと好きになった以上、ちゃんとこっちも好きにさせて見せマ~~ス♪じゃ!シーユー♪タチバナくん♪グッナ~~イ♪HAHA(→)HA(↑)HA(↓)!!」

 

 

颯爽とフェミニンな癖のある茶髪を靡かせ、車に乗った陽気な青年は去っていった。

 

 

「いやぁ・・かっこいいし・・ホント良い人だったなぁマイクさん・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・なんかさ」

 

「ん」

 

「『いい感じ』の話でまとまっているように見えるけど・・」

 

「・・ああ」

 

「これって絶対橘君・・オチかけてるよね!!??」

 

 

恍惚の表情で先日のデートの思い出を反芻し、旅立っている橘を前に国枝、御崎の両名は結論・・いや、「ケツ論」をだす。これは・・明らかに策略だ。

生来少々特殊な性癖を自分が持っていることを自覚している人間である以上、経験が豊富なのだろう。どうやったら受け入れられ、どうやったら拒絶されるのか―その配分率、段階、潮時をよく心得ている。少々特殊な性癖を持とうとも魅力的な人間は当然居る。そういう人は性別の関係、問題なくモテるものだ。

普通の人間では持たない、持てない経験、また価値観を持っている人間はそれだけで時に十二分に人を惹きつける魔性を持つ場合が確かに在る。

 

そして最後に橘に言い残した「好きにさせて見せる」という彼の言葉―これ即ち「諦めてませんよ」と言ってるも同然なのだ。

 

「あぁ~~マイクさ~~~ん・・♡」

 

現在自分のケツに火が付いていることに橘は気が付いていない。まぁ本人同士が良ければそれはそれでいい話、本人たちの自由なのだが・・いざ「そうなった」場合、果たして残された森島はどうなる。半分自業自得だとしても彼女はどうなる?

 

―・・案外森島先輩はグレるかもしれない。

 

国枝、御崎はそういう彼女に対する共通認識を持っていた。案外彼女はメンタルが非常に弱い印象がある。そんな彼女があろうことか「男」相手に生まれて初めて惚れた男―橘 純一を盗られたとしたら・・果たしてどうなるか?

最悪人間不信に陥り、誰も信じられなくなって将来次々にその美貌と体を使ってライバル企業の買収を行うおっかないエリート女上司にでもなるかもしれない。

・・ここはマイクには悪いが二人は森島側につくことにする。

 

「・・橘」

 

国枝はしパしパした目を輝かせ、手を胸の前で組み新しい恋に落ちる直前の気持ち悪い少年の両肩をしっかりと持つ。

 

「ん?」

 

「しっかりしろ。・・目を開け。・・さぁ思い出すんだ・・お前の彼女は誰だ?ん?」

 

「え・・それは当然も、森島先輩だよ」

 

「そ~~だ。あのスタイル抜群、美人で性格も良くて可愛いかわいい森島先輩だ。あ~~羨ましいな~~ほんっと羨ましいな~」

 

うんうん頷きながら国枝は橘に暗示をかけるように囁きつつこう続ける。

 

「なのにお前ときたら他の女・・いや男にうつつを抜かして彼女のことを忘れてる!嘆かわしい!!あ~ほんっと嘆かわしいなぁ~~」

 

「・・・」

 

御崎は黙ってその光景を見守っていた。かつてないぐらい国枝が詐欺師か何かに見える。

 

「そ、そうだよな。僕一体何考えていたんだろう。あ、あぁ・・目が、目が覚めたよ・・」

 

「そ~か。お前が正気に戻ってくれて俺も嬉しいよ橘・・」

 

「あ、でも待って国枝・・」

 

「ん・・?」

 

「な、なんか僕・・国枝の事が・・何だろうこの気持ち・・国枝がこんなに心配してくれてぼ、ぼく・・」

 

 

「・・・。あ。UFO」

 

「え?」

 

橘が窓の向こうに視線を向けた瞬間、国枝の瞳が輝く。

 

―・・隙あり。

 

 

 

ドゴッ!

 

メキャっ!

 

ゴキャっ!

 

 

・・どさり

 

 

一分後―

 

「・・・はぁ、はぁ・・こ、これですべての記憶を無くしてくれているといいが・・マイクさんへの想いも・・芽生えかけた俺への想いも」

 

サブイボのたった肌をすりすりと両手で擦り合わせながら国枝は意識の飛んだクラスメイト橘 純一を脆く見下ろす。

 

「・・む、無茶するね~」

 

―・・「あの」彼女あってこの彼氏だなぁ。根っこの所ホントよく似てるよ。国枝君と棚町さんって。

 

「・・御崎。わりぃけどそっち持ってくれ。取り敢えずこの馬鹿を席に運ぼう」

 

まるで死体を処理するみたいにずるずると二人は橘の体を引きずり、橘の席に彼を突っ伏した姿勢で座らせる。

 

「あとは・・梅原に頼んで梅原秘蔵の森島先輩の盗撮写真をこの席に散らばらせとこう・・。こうなったら睡眠学習だ。刷り込みだ。よけいな記憶は鮮烈な記憶で上書きするに限る・・も~~関わりたくねぇ」

 

「僕、なんか国枝君の事見損ないそう・・」

 

「御崎・・解ってくれ。薫に余計な心配かけさせたくないんだよ」

 

「あ・・ああ。そういうこと・・」

 

―なんだ。結構カワイイ心配してるんだ。

 

 

「・・。もし俺が『そっちの道に目覚めてしまったかも』ってあの薫が思うことにでもなってみろ・・今度今の橘の姿になるのは俺だ・・。『安心して!直衛。私が目を覚ましたげる!!安心して逝きなさい!!』・・とか言って」

 

「・・」

 

―前言撤回。案外自分の事しか考えてねぇよ。この人・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




数日後―


「国枝君!国枝君!たたた大変だぁ!!」

いつもの様に自席で眠る国枝に御崎は突っ込んでいった。が―


「は!?あぁ!!ダメだ太一君!!今の直に話しかけちゃあ―」







「・・うっせ~~~ぞ御崎ぃ!!?帰って紗江ちゃんのおっぱいでも吸って寝な~~~!!!」






ドっゴオォオオオオン!!




数分後―

一階保健室にて―

「だ、大丈夫ですか。太一先輩・・」

少女―中多 紗江に介抱され、御崎は寝起きの国枝に殴られてこんもり腫れあがった右頬を彼女に氷で冷やされていた。向かいには源 有人が苦笑いしつつ、幼馴染の親友の凶行を止められなかった自分の失態が引き起こした現在の御崎の状態にやや申し訳なさそうにその様子を見守っていた。

「・・ゴメン。・・『今の直に話しかけるのはNG』って伝えるの忘れてた・・」

「ううん・・くっそ~僕もうっかりしてた。学年末考査に模試も控えてたんだっけ・・」




「その・・先輩方?」

「ん?」

「何。紗江ちゃん?」




「その・・今回の『国枝先輩の寝起きの暴言』って・・どんな暴言だったんですか・・?」




純粋無垢な瞳で首を傾げ、見つめてくる少女に二人は返す言葉が無かった。





















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間章 3
























 

 

 

ルート「K」 2

 

 

 

 

吉備東高校

 

いつもの2-Aにて

 

 

 

「な・お・え~~~♡」

 

 

肩までのくるくる癖っ毛を揺らした少女が何ともご機嫌そうな声をあげ、「愛しの彼」の名前を呼びながら駈けていく。周りの人間が「・・てめぇら余所でやれ」と思わず突っ込みたくなる程の猫なで声だ。周りに居る生徒達はうんざりとした表情で声の主の姿に注目する。

 

しかし―

 

―あ。これ「違う」。

 

瞬時に彼らは悟る。その少女の表情、精神状態があまりにもその猫なで声に似つかわしくない事を。彼女の端正な顔に「#」←がいくつも、無数に走っていたからだ。

 

「コレは・・殺る気だな」と全員が悟る。

 

彼女―棚町 薫は駆けていく。一直線に。いつものように自席に突っ伏して眠っている少年―国枝 直衛の下へ。

 

 

「直衛~~♡」

 

 

「・・んあ?」

 

 

 

 

「新しいカオよ~~~~♡受け取って~~♡」

 

 

「・・え?」

 

 

 

 

 

 

ドッゴオォオオオオン!

 

 

 

 

 

 

数分後―

 

 

「・・。確かに『新しいカオ』だね・・」

 

 

国枝の親友である少年―源 有人は目の前に座る親友―国枝の変わり果てた「カオ」を眺めていた。その隣にはこれまた困りはてたように梅原が頬杖突きながら―

 

「・・何したのよ」

 

と呟き、変わり果てた少年―国枝のパンパンに腫れ上がった「新しいカオ」を見ていた。

 

「助走をつけて男子学生を殴る女子学生」を見る事など恐らく普通の人生を歩んだ場合、大抵の人間は一生お目にかかれないままおっちぬ光景のはずだろう。しかし源、そして梅原の二人はこのレアすぎる光景をこの三年で数度は見ている。

 

「・・また寝言で暴言でも吐いたんだろ?国枝の事だから」

 

「・・」

 

国枝は口を開かずうなだれている。というか今は下手に話すと彼の口内に激痛が走るのだ。

 

「・・ん?いやおかしいな?棚町さんは直の寝起きの習性よく知ってるはず。だからそれで今更ここまで怒ったりはしないと思うんだけどね・・他に何か原因で喧嘩でもしたんじゃないの?」

 

「・・(ふるふる)・・っ!びぃいいいん」

 

国枝は返事の代わりに首を振る。しかしそれで激痛が走ったのか何とも切ないカオ芸をして再び項垂れる。

 

「・・メンドくせー。会話にならねぇな、こりゃ」

 

「・・わかった。せめて筆談にしよう。うん」

 

源はペンとノートの切れ端を国枝に渡す。

 

「・・(こくん)・・っ!びぃいいいん( ;´Λ`)」

 

「だから・・無理しなくていいって。直」

 

「・・はは。アホだな~オイ」

 

 

 

 

 

「喧嘩したわけじゃねぇし、いつもの寝起きの暴言で怒ったわけでもねぇ。なのに国枝のこの重傷具合・・一体何があったんでぇ?棚町の奴に。ホントに心当たりねぇの?」

 

怒るとその怒りの度数に合わせた結構シャレにならない暴力を振るう、元々「吉備東の核弾頭」と言われるほどの危険人物―棚町 薫だが流石にここまでシャレなし容赦なしの一撃をくわえたとなると相当怒っている証拠である。

 

―本人に聞いても無視されてる。ようやく口開いてくれたと思ったら「自分の胸に聞けば!?」って感じで・・取り付くシマもない。

 

国枝はさらさらと、しかし切なそうな文面でそう書いた。

 

「うわ。今回は結構本気で怒ってるねコレ」

 

「・・原因が解んねぇんじゃちゃんと謝ることも出来ねぇしな~~。棚町の性格からして『・・アンタさ。何に対して謝ってんの?自分が何したか解ってないくせに取り敢えず謝るって最低の考えよね』・・とか言われんのが目に見えてら」

 

「逆効果になるね。へたすりゃもう一発直はなんか喰らうことになりそう」

 

―・・首から上が無くなる。

 

 

 

―実は・・薫が怒ってる、怒らせた理由は大体わかってる。

 

「なんだ解ってんのかい!?はよ言えや!?まぁ話してみろや。なんか俺たちで協力できるかもしんねっし」

 

―でも俺はその内容を詳しく知らない。だから謝りようがない。

 

「はぁ?意味わかんね」

 

「・・。『内容を詳しく知らない』。つまり覚えてないってことか。今回の事の発端もまた結局『直の寝言』なんだね?直は絶対自分の言った寝言覚えてないから」

 

―・・アタリ。有人。

 

「・・時々お前らの相互理解の高さに気持ち悪さを覚えるぜ俺はよぅ・・」

 

結構本当に気持ち悪そうに梅原は眉を歪め、二人から心なし距離を離す。

 

「で。棚町さんは直の寝言には基本怒らない。でも今回は何故か怒ってる。それもものっっっすんごく、ね。つまり今回の直の暴言の棚町さん『以外』の被害者から話を聞く他ないわけだ。で、それは誰?直」

 

 

 

―・・田中さん。

 

 

 

 

放課後―

 

「え?田中さんに話を聞きに行ってくれって?俺が?」

 

少年―杉内 広大は素っ頓狂な声を上げて目を丸めた。

 

「・・(こくん)」

 

やや腫れが引いて回復した国枝は漸く頷くぐらいのことは出来るようになっていた。

棚町 薫の完全無視は恐らく当分の間続く。だから今回の国枝の寝起きの暴言の被害者であるらしい田中 恵子から話を聞く他ない。しかし、暴言を吐いた当人がみずから彼女の下に直接赴くのも気が引けた。なぜなら棚町と一緒で田中もまた妙に国枝に余所余所しいのだ。おまけに国枝は現在会話も困難な状態である。これ以上被害者の田中に気を遣わせるのも忍びない。だからせめて話せるようになった際、きちんと謝れるように情報収集を頼みたいとのことで今、国枝は杉内にこう頼み込んでいるのである。

 

―頼む。お前しかいないんだよ。

 

「お、『俺しかいない』?」

 

国枝の筆談の文字を眺め、すこし嬉しそうに杉内は目を泳がせる。しかし、国枝の「お前しかいない」という言葉の裏はこうだ。

 

源―やや体調不良気味の絢辻 詞の付き添い。

 

梅原―実家の手伝い。

 

御崎 太一―・・逃亡。

 

茅ヶ崎 智也―そもそも田中と接点無し。

 

国枝の寝言の暴言は時に想像を絶する。そのため、桜井 梨穂子や伊藤 香苗など気のいい女子たちに任せるのも気が引ける。結果―国枝の杉内に対する「お前しかいない」という言葉はイコール「お前しか残ってない」というワケである。つまり完全なる消去法。リスペクト値は底辺レベルだ。

 

「おっけ。俺が聞きに行ってやるよ。任せとけ」

 

そんなこともつゆ知らず杉内は笑って国枝の頼みを快諾してくれた。

 

―サンキュ。

 

「そしてすまねぇ」と国枝が内心良心の呵責に苦しむ中―

 

「・・国枝。俺さ?ちょっと今月ピンチなんだよね・・だから千円!千円だけ融通してくんねぇかな?何。ちゃんと返すって。思いだした時に。だから・・」

 

「・・・」

 

国枝の肩をつかんで胡散臭く人差し指を点てながら笑う杉内に国枝は閉口する。つい先ほどまで良心の呵責に苦しんでいた自分がアホらしくなった。「そうかお前はこういうやつだったな」と、ある意味清々しい杉内の「らしさ」に感動さえ覚える。そして徐に杉内の頼みにこう返事を書いた。

 

―いいよ。

 

「マジ?助かるよ!」

 

―だけど条件がある。

 

「ん?心配すんなって。ちゃんと返すって」

 

杉内に解らない程度に「絶対信用しねぇ」と言いたげな表情を現在腫れ上がって変形し、歪んだ顔に精いっぱい浮かべ、国枝は手元の用紙にこう付けくわえた。

 

―いや違う。千円だけでいいのか?

 

「え・・?」

 

―千円じゃなく倍の二千円出してやるよ。そして返さなくていい。

 

「ま、マジか!?ありがとう国枝~~♪」

 

―但し条件がある。賭けしねぇ?

 

「賭け?」

 

―俺とジャンケンで一発勝負して勝ったら二千円やるよ。勿論返さなくていい。でもお前が負けたらタダで田中さんに話を聞きに行ってくれ。どうだ?

 

 

 

 

当然杉内は。

 

 

タダ働きになった。

 

 

 

 

 

翌朝―

 

 

 

「・・直。俺が言うのもなんだケド・・ホント君って性格悪いね」

 

「・・バカと『ハサミ』は使いようだ」

 

 

そんな彼らの下へいつもよりやや早い登校時間に現れた「ジャンケンの時、最初は何故か絶対チョキしか出せない少年」―杉内が歩み寄ってきた。

 

「あ。国枝・・ゲン。おはよ・・」

 

「広大。おはよ!」

 

「おはよ。・・どうだった?聞いてきてくれたか?田中さんに・・」

 

「あ~うん、その、一応・・ね」

 

「・・サンキュ杉内。恩に着るぜ」

 

 

両手を顔の前でパンと合わせ、「ありがたや」と拝むように国枝は礼を言う。流石に二千円は出せないが「今度何か奢ってやる―」と国枝が言いかけた時、次の杉内の言葉がそれを遮った。

 

「いや、それが悪いんだけど・・田中さんお前の暴言に関しては答えてくんなくってさ・・結局聞けずじまい。ワリ」

 

杉内は申し訳なさそうに頭を掻きながらそう言った。

 

「え。マジ、かよ・・」

 

「でも田中さんから国枝に伝言頼まれたからそれだけは伝えとくな?」

 

「あ、ああ。聞かせて?」

 

「結論から言うと・・田中さん『全然怒ってない』ってさ。多分・・嘘じゃないと思うぜ。むしろ国枝が謝ろうとしてくれてること話したら嬉しそうだった。よかったな国枝」

 

「そ、そうか?なら、良いんだけど・・さ」

 

「うん・・。田中さん自身がそんなに怒ってないんだったらいずれ棚町さんも機嫌直してくれるでしょ。まぁほとぼり冷めたら両方にちゃんと謝りに行こうね?直」

 

「あ~。うん。そうするわ・・」

 

少しほっとした表情で国枝は源の言葉に賛同し、肩の力が抜けたように教室の天井を仰いだ。しかし源と国枝が緊張から解き放たれたのに対し、向かい合った杉内は未だどことなく落ち着かない所作をしたまま、彼らを見下ろしつつ話を続ける。

 

どうやらまだ話すことがあるらしい。

 

「で、・・実はもう一つ田中さんからこう伝言を頼まれたんだけど・・」

 

「・・もう一つ?」

 

「・・?」

 

「その前にさ・・一つ聞いていい?国枝?」

 

 

「ん?」

 

「お前さ・・ほんっとに田中さんに何て言ったのか覚えてないの?」

 

「・・うん。お前も知ってるだろ?基本俺は毎回自分の暴言はおぼえて無いんだよ・・何せ寝てんだからさ」

 

「それは解ってるんだけどさ・・う~~~ん」

 

「広大・・田中さん・・一体なんて言ってたの?」

 

「そ、それが、さ・・」

 

 

 

前日―

 

『杉内君・・その、あははっ。恥ずかしいな・・うわ、私カオ熱い・・。ふ~~っふ~~っ。・・よしっ!言うね・・。杉内君。国枝君にこう・・伝えてくれる?その・・私は・・私は「何時でもいいよ」!!って。「国枝君にそんな風にしてもらえるなら私頑張っちゃうから」!!・・って・・伝えてくれる?あっはっ!!言っちゃった!言っちゃった!!きゃ~~~っ!!』

 

 

 

 

 

「・・だってさ」

 

「・・」

 

「・・」

 

「国枝!?お前本当に田中さんに何て言ったの!?田中さん・・ハッキリ言って完全に『メスの顔』になってたぞ!!?俺あんな田中さん初めて見たわ!!」

 

「・・・」

 

国枝は無言のまま頭を抱える。そして恐る恐る友人たちにこう尋ねた。

 

「お。お、お、お、おおお。有人・・杉内・・教えてくれ。俺は・・俺は一体何て田中さんに言ったんだ・・?」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

かける言葉が見当たらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








放課後―

2-A教室にて




「・・なぁ有人」

「ん?何?直」

「お前ってやっぱ嫌な奴だよな」

「うん。解ってる」

「・・この前の『件』でお前を攻めるやつは確かに一人もいないだろう。当の絢辻さんだって絶対お前を攻めないだろうしな」

「うん。彼女は・・優しいから、ね」

「安心しろよ。俺だけはずっとお前を攻め続けてやる。嫌いでいてやるからな」

「ははっ・・ありがと。直。・・安心して?俺も『このままじゃいけないんだ』って思うようになったから」

「口だけでは何とでも言えるわな」

「・・確かに。だから見ててくれる?直が。・・少し走って見せるから。俺も」



―・・俺は時々昔からこんな風に目の前で眠っている直衛と話をする。

直衛は普段は無口でポーカーフェイス。面と向かって俺を非難したり、貶したりすることは滅多にない。でも内心俺に抱え、溜まっている不満や愚痴をこんな風に眠っている時にだけハッキリ、正直に俺に言ってくれる時がある。

昔は聞き流すだけだった。俺は俺で俺の生き方を否定する直衛の言葉をまともに受け取ることは難しかったから。生き方を変えることが出来なかったから。

・・怖かったから。

でも最近はちょっと違う。さっきも直にこう答えたように「このままじゃいけない」って思うようになった。


・・「誰か」と本気で向き合うためにはまず「自分」と向き合わなくちゃいけない。





日本の古来からの言い伝えによると「寝言には話しかけてはいけない」と言う。
寝ている人は「魂が抜けている状態」で、それに誰かが話しかけてしまうとその人は自分が生きている状態―つまり「体から魂が抜け落ちている状態であるのに自分が生きているもの」と錯覚してしまい、体に戻れなくなることが理由と言われている。



でも源は最近こう思う。

普段は弁え、滅多に源に感情を露わにしない国枝が彼に対して内心抱える本当の想いを告げてくれているのだ、と。そしてそれは同時源自身が内心、自分自身が押隠した、抱えたものを彼が変わって伝え、教えてくれているのだと何時しか思うようになった。

元々魂が抜けたようにふわふわと彷徨い歩いていた、生きているふりをしていた自分の魂を無理やり国枝が体に押し込んでくれているような感覚を覚えた。


少年二人の傍から見れば何とも奇妙な会話は最近になって彼らの「中」で少し形を変えていた。




























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間章 4





…今年2月は28日までだったか。コイツは三月までには書き終えたかったねぇ…。






 

 

 

 

 

 

間章 明日春が来たら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

突然、

 

 

母の恋人―つまり母の再婚相手であり、私の新しい父になるあの人から二枚の招待券を貰った。あの人の「知り合いが勤めている」らしいちょっとした高級なレストランの招待券だ。

二人の再婚を仲間内だけで些細に祝う式を来月に控えたある日の事だった。

戸惑う私に再婚相手のあの人が言うには、よく何かの祝いの日に棚町家では親娘そろってよく食事に出かける―というのをウチの母から聞いていたらしい。そこであの人なりに私に気を遣ってくれたんだろう。

「親娘二人水入らずで食事して楽しんで来て欲しい」・・ってことらしい。

少し嬉しい反面、複雑だったけど美味しい料理と厚意は受け取らないとね。っていうか・・実はこの店、昔から私知ってて一度は行ってみたかったのよね。・・うふふ。

 

・・はっ!・・く、食い物につられた訳じゃないんだから・・。ホントよ。

 

でも我ながらすこし固い表情とひきつった笑顔で受け取ったと思う。作り笑いと愛想笑いには自信あったんだけどな・・職業病で。

 

とりあえず・・

 

先日直衛を強引に誘いだし、初めて正式に母の再婚相手と出会ったあの日に感じたのは

 

―ああまぁこんなものか。

 

と言うのが正直なところだった。

 

柔和で落ち着いた知らない男性が私にとっては違和感と場違い感丸出しで母の横に座り、娘とその恋人の少年―直衛の顔を交互に見て微笑んでいた。

「この人が自分の新しい父になる」・・なんて全く現実味の無い話。料亭の個室を間違えた他の席の客じゃないかと思えるくらいだった。

 

「あ、これは失礼。部屋を間違えました」

 

とかなんとか言ってそそくさと帰っていく姿がよっぽど似合いそうな私にとって見知らぬ男性―でも彼はごく自然に、節度を保った落ち着いた姿勢でぺこりとお辞儀して再び向かいの私達二人を見据える。

子供の私から見ても歳相応の経済力、礼節、責任を弁えているオトナの態度。それを隣で少し頼もしそうに見る母の笑顔に複雑な感情を抱きながらも―

 

「おい・・薫?」

 

「・・ん」

 

私―棚町 薫は隣の直衛に促されて、もう一度ちゃんと挨拶する。

 

正直この人と特に話す事は無かった。けど自分の中で取り敢えず言いたい事だけは決めていた。

 

まずは主に私の「現状維持」の点で。

 

二人が籍を入れるのは構わないが、今までの交友関係等の事情から今まで通り自分は「棚町 薫を名乗らせてほしい事」。

 

住所は変わっても「転校、編入はしない事」を了承してもらう事。

 

後は・・まぁ月並みと言いますか。「お母さんを大事にして欲しい事」。

 

何とも子供臭い単純な要望達だけどこれはこれで大事なこと。ここはちゃんとしておかないとね?

 

再婚相手の男性は然したる戸惑いもなく「解りました」と言って微笑んだ。そして形通りに互いに「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 

 

え。・・私にしては「何の捻りも無い」?「大人しい」?

 

・・何よ。悪い!?

 

だってそんなもんよ!?いきなり会ってこれからいきなり父親になる人間にそんなにポンポンといつもの暴言吐くこと出来ますかのって!

私だって気不味いし、恥ずかしいし、正直何しゃべっていいか解んなかったっての!

下手すりゃこの歳で「弟、妹出来るかもしれないわね~」って冗談で言いかけたけど・・よくよく考えてみるとそれってかんなり複雑な気分で物すっごい嫌な汗もかいたりして大変だったんだから!隣の直衛がそこはかとなくフォローしてくれなかったらどうなっていた事か・・。

 

・・今更だけどホントゴメンね直衛。アンタがいて本当に助かったわ。

 

・・つっても予想以上にテンパるアンタが隣にいたおかげで逆に私が落ち着けたってトコもあるんだけどね。もっと頑張んなさいよアンタ。

・・まぁあんな席に全くの抜き打ちで引っ張りだしたアタシにも責任ありまくりだけど・・。

 

 

・・ホント。

 

ゴメンね?

 

直衛。

 

 

・・まぁそんなこんなでその日以来特に私たち母娘と再婚相手は大きなトラブルも無く、今の所はうまくやれているわけですよ。

 

そして式の日が迫るこの時期―いきなり母の再婚相手から手渡されたこの二枚のお食事チケット。

 

さぁ・・どうしてくれよう?

 

正直母と私は一番もめた時期に比べたら遥かにわだかまりは少なくなっていたのは確か。でも、それでもやはりどこか喉にひっかかる様なしこりは残ってる。その矢先にこれ。久しぶりにタイマンでお食事かぁ・・。

 

う~ん。さて・・どうしたものかしら?いっそのこと・・直衛も参加してもらって一緒に食事に行った方がいいかな?なんて私は考えはじめた。

 

うん。

 

うん・・。

 

うん!

 

・・これナイスアイデアじゃない?デリシャスよ!そう!そうよ!そうすればいいじゃない!じゃあ早速・・

 

 

 

吉備東高校屋上にて―

 

 

 

「断る!」

 

 

 

 

「ええ~!?」

 

 

 

考えたら即行動の薫は既に行動を開始していた。が、敢え無くそれは失敗する。先日の直衛に対するあまりにひどい抜き打ちの仕打ちを少し反省し、今回は情報を正直に、あけっぴろげにしすぎたのが仇になったか。吉備東高校屋上にて薫の直衛への支援要請はあっさりと却下される。

 

「折角お前とおばさんのために用意してくれたのに何で俺も行かなきゃなんないのよ」

 

「そんな事言わないでよぅ。アンタの分の食事代は出すからさ~お願い!ついてきてよぉ~」

 

高校生の割に結構高給取りな彼女の何とも素敵な申し出だが直衛はあっさり断った。

 

「ヤダよ。第一おばさんと二人外で食事なんて珍しくないだろ?何で今更・・」

 

「そりゃそうだけどさ?・・その、私らここ数か月色々あったし?一時期口もあんま利かない気不味い時期もあったしさ?今更その・・なんてゆ~か?照れくさいってゆ~か?」

 

直衛から視線を逸らし、居心地悪そうにくせ毛の頭をくしくし掻いて複雑そうに薫はそうこぼす。誤魔化しや着飾った感の無い正直な薫の返答に直衛もそこのところは僅かに頷いて同調する。

 

「・・。まぁ気持ちは解らなくもないけど、それでいいのか?」

 

「う・・ん・・」

 

「最後かもしれないんだろ?二人家族の食事って。そんなとこに俺が入って水差したらダメじゃね?」

 

「う~」

 

「ま。はっきし言おう。俺は今回は行かん。行きたくない」

 

「む!それ本気で言ってんの?」

 

「うん。言ってる」

 

即答。あまりの鮮やかな直衛の返答に薫は一瞬反論できず、変わりにどすっとローキックを直衛の膝に入れ・・

 

「薄情者」

 

口をとがらせて漸くそう言った。

 

「いって・・薫よ・・自分が普通の人間よりキレのいい蹴りを持ってる事を自覚しようね・・」

 

「うっさい!い―だ!」

 

でかい口を一杯に横に引っ張って子供みたいに薫は言い放ち、薫はウキッと、しばらく「言わザル聞かザル」モードに入った。B型特有、そして勝気な女子というおまけ付きの少々ウザイ砦が築かれる。

 

―・・。

 

直衛は溜息をついてしばらく間を置き、「兵糧攻め」の態勢をとった。この程度の我慢と譲歩が出来ないことにはこの少女の相手は務まらない。それなりに長い付き合いだ。放っておけばその内生来の飽きっぽさが顔を出す―ということを直衛は知っている。

 

「やっぱ来てくれない・・?」

 

―・・ほら来た。

 

「うん。今回に限っては全く行くつもりない」

 

早々に砦から恥ずかしそうにひょっこり顔を出した薫の目の前にはいつの間にかコレまた難攻不落な砦が築かれていた。薫の急造の砦とは違う。兵糧はたっぷりありそうだ。気まぐれな彼女と異なり、この彼女の恋人は激情的な面もあるが、基本はかなり我慢強く、気が長い。

 

それでももう少しゆさぶりをかけてみる。ほんの少し間をおいてもう一度。うじうじと指先でつつきながら。

 

「・・・ねぇ。今からでも『行く』って言えないの・・?」

 

少し甘えるように。囁くように。「・・仕方ないな、分かったよ」と言える状況は彼女なりに整えたつもりだ。

 

が―

 

 

「言えないねぇ」

 

 

「かーっ!!もういいわよっ!ふんっ!」

 

―カワイイ彼女がこんな似合わないキャラ演じてもこれか!愛の無い男め!

 

 

 

「・・何時でも出来る事と今しかできない事とをちゃんと天秤にかけてよ~く考えろ」

 

「・・あ」

 

何時でも出来ること―つまり三人での食事。それに関しては彼は何時でも行ける用意はできている。今はそれよりも今しかできない事、「棚町親娘二人家族の食事の方を優先しろ」―彼はそう言外に含めたのだ。

 

「・・いってらっしゃい薫。楽しんで来い」

 

薫は一見突き放された様で実は背中をそっと押された感じがした。

 

―・・やっぱり優しいね。アンタは。

 

 

「・・うん!」

 

 

 

 

 

棚町親娘の食事の当日―歓楽街デパート前にて

 

「・・お母さん。まだかな」

 

薫の母の仕事の都合に合わせ、外で待ち合わせる。棚町家にとって別段特に珍しい事では無かった。

お互いの誕生日や薫の高校合格の日など、ちょっとした記念の日に母子でこうして何度も待ち合わせしたものだ。今更大して緊張するでも無いもののはずだった。

 

最近「悪友」から「恋人」へと関係が変わった直衛と待ち合わせする時の緊張に比べたらどうってことない時間のはずだがこの日は少々事情が違った。

最近の微妙な母との距離感のせいだ。去年から今年の初めにかけてのクリスマスや元旦でさえ母と二人で出掛ける事は無かった。先日の再婚相手との食事会でようやくそんな「冷戦」状態から少し進展し、二人は「国交」を取り戻した程度なのである。それにあの場には初対面の再婚相手は元より直衛がいた。

 

母との「冷戦」中、終始最も自分の傍に居り、支えてくれた人間が今は居ないこと―これもこの薫の緊張の源泉の一つだろう。

 

しかし何より「これが最後かもしれない」事だ。

別にこれから先、親娘二人で食事する事が全く無いワケではあるまい。これから先も色んな節目で祝ってもらったり、愚痴を聞いてもらったりして二人で出掛ける事もきっとある。

しかし母が夫、薫が父を亡くして以来続いた「母子家庭の時間」が近日中に終わる。母子二人で生きてきた日々が今日のこの食事の日を節目に一旦終わりを迎える事―実の父を亡くしたあの日以来、「親子二人で歩いてきた日々の終わり」と考えるとやはりなんとなく切なく、複雑な気分になる。

 

無くなるものは何もない、・・はずなのにきっと「何か」が確実に二人の中から失われる。

 

―それが私「怖い」のかな?・・いや・・「怖さ」でもない、・・かな?これはまた何か全く別のモノ、ね。

 

実体のハッキリしない曖昧だけど不可避なモノ。色んなものがない交ぜになって敢えてそれに名前や呼び方をつけることも億劫な「ナニカ」―それによって薫は今も憂鬱な気分を払拭できないでいる。

 

「はぁ・・私らしくないなぁ」

 

そう呟いて今日街を一緒に歩くことになる髪質も、髪形もよく似た母と見た目の差をつけるため、頭頂部で結った癖の強い髪を少し整えながらすっかり暗くなった夜空を見上げた。

 

こうしていると今日何のためにここに居るか忘れそうに・・

 

 

なるはずがない。

 

「忘れそうになる」―それはつまり忘れていない事と同義なのである。そして現実も事実もそんな柔な事で歪んだり、捻じれが起きる事は無い。

 

コツ

 

コツ・・

 

それを裏付けるように彼女の下に一つの足音が近付いてくる。聞きなれた間隔と一定のリズムで響きながら確実にこっちに向かっている。昔から薫は一人待つ家で僅かに玄関先で響くこの「母の帰宅の音」に何度も耳を傾けたものだ。

 

―お母さん帰ってきた!!

 

そこにはたった一人の親の帰りをひとり待っていた子供の拭いがたい安心という感情があった。もう一つは二度と聞けなくなってしまったが、もう一つは常に自分の傍に今日まで在り続けた。それに今日も耳を澄ます。

 

―・・・。すぅっ・・。

 

一瞬目を閉じ深呼吸、冷たい空気で満たされた肺で心臓を冷やし、心根を落ち着かせたのち―

 

―・・よしっ!

 

薫は前を見据える。ほんの少しの微笑みを浮かべて。その瞬間足音は止まり、薫の目には自分の写し鏡の様な存在が映った。「待ったかしら」と彼女に言いたげな顔をして。

 

「・・いこっか」

 

「人生二回目」の嫁入りを前にして最近めっきり綺麗になった母に少し嫉妬に近い感情を覚えつつ薫はそう呟いて歩き出す。

 

二つのよく似た足音が街中の喧騒に消えていく。

 

 

 

 

―久しぶりね。薫と二人きりで外で食事なんて。

 

「そうね。おまけにこんないいお店で食事なんて〇〇さんに感謝しなきゃね」

 

―・・どう?最近。

 

「『どう』って・・例えば?」

 

―学校とか。

 

「・・楽しいよ。それは間違いなく」

 

―・・国枝君とはどう?

 

「・・喧嘩ばっかしてるけど・・最近アイツ折れてくれるのが早いから少し物足んない」

 

―だめよ。薫も少し大人にならなきゃ。国枝君は案外繊細なんだから。

 

「嫌よ。気を遣うの。散々振り回してやるんだから」

 

―・・そうね。そうした方が貴方達らしいわ。

 

「そうよ!基本的にあいつと私なら私が主導権握らないと!肝心な時アイツとちるから私がしっかり見てやんないとね!」

 

―・・大事にしてあげてね。

 

「・・うん」

 

 

 

―薫は・・進路の事考えてるの?

 

「うん!少し前の自分が驚くくらい考えてるよ」

 

―そう。やっぱり美大の推薦を狙ってるの?

 

「うん。基本方針はそっち、かな。でもね?・・今はそれだけじゃないよ。就職の為の専門学校とかも色々見てる」

 

―へぇ・・そうなの?

 

「何も一つに絞ること無いもんね~。目移り・・って程じゃないけど色んな可能性とか見ておきたいからさ。私の」

 

―ふふふ・・薫らしくない台詞ね。

 

「お母さんそれ酷くない?」

 

―あ。ごめん。

 

「全く・・貴方の娘は結構多才なんですから。そこから一つを選ばなきゃならない娘の苦悩を解ってよ。私にフラれることになるいくつもの道が気の毒で仕方ないんだから」

 

―それはそれは・・失礼いたしましたっ。

 

「・・でも。まぁ今のところのやっぱり第一候補は美大の推薦かな・・あ。そうそう!この前ね?美術の先生にこういう技法教えてもらったんだ!」

 

―なになに?聞かせて。

 

 

仲のいい親娘の会話は途切れない。彼女が懸念していたわだかまりなど最早存在しないのだろう。

 

 

「・・って事なの」

 

―すごい・・やっぱり美術って・・奥が深いのね。

 

「うん!・・最近ね?絵を描くのがどんどん面白くなってくの!もともとその手の技術や知識は空っぽだったから新鮮でスルスル入っていくんでしょうね!?」

 

―「空っぽ」って・・薫って時々尊大なのか謙虚なのか解んない子ね・・。

 

「いいの!細かい事は。楽しいのが一番♪」

 

―そうね。・・薫?

 

「ん?何?」

 

―遠慮することなんて無いのよ。

 

「・・『遠慮』?何それ?」

 

―薫。貴方は貴方の行きたい道を行きなさい。無理に理由をつけて行く道を決める事は無いの。

 

「・・別に無理してるワケじゃないんですケド・・」

 

―そう。ならいいわ。

 

「そうよ」

 

―これだけは信じて。どんな道を行こうと私は薫の味方だからね。今まで散々苦労かけたし気を遣わせたと思うけど・・これからは自分のことだけ考えて前見て進んで行きなさい。

 

「・・・。そんな風にさらっとクサイ台詞言われると・・どっかで聞いた台詞っていうか・・」

 

―そうかもね。私もそう思う。でも・・薫の言う「クサイ、どっかで聞いた台詞」を今言ってみて解ったけど「本音」って相手に心から「伝わってほしい」、「理解してほしい」って思うから案外奇をてらう余裕が無いの。だから結局はありふれた言葉に落ち着くものなんだって思うわ。

 

「・・。そ。そういうものなのかもね」

 

―・・そそそ♪・・ところで薫?

 

「ん?」

 

―国枝君は・・・薫にどういう風に言ってくれたの?伝えてくれたの?

 

「え!?」

 

―告白・・してくれたんでしょ?薫に。・・どんな言葉で?・・この際ゲロっちゃいなさい。

 

「げ、『ゲロ』って・・食事中に・・」

 

―どうなの。

 

「うぅ~・・一気に攻勢に出てくるわねお母さん」

 

―ほらほら~♪

 

「うぅ・・やっぱりお母さんはアタシの母親だわ。質の悪い所とか・・」

 

―あんまり焦らさないでよっ。薫。

 

「・・。その・・う~んと・・あ・・。確かにどっかで聞いた様な台詞かも・・」

 

―さぁ!さぁ!言うの!

 

「う・・その・・『誰にも渡したくない』とか・・何とか・・?言ってくれた。

 

・・正直ヤバいくらい・・嬉しかったな」

 

―まあ!

 

「な、何よ!?」

 

―言われてみたいわ~(はぁと)。素敵よ~国枝君。正直私が付き合いたいわ。

 

「・・再婚近日中に控えた人間が何言ってんだか・・てかやらないわよ?」

 

 

 

 

 

 

「薫」

 

―ん?

 

「幸せになってね」

 

―・・うん。お母さんもね。

 

 

 

「立場があべこべじゃないの。私がその言葉を言うべきじゃないの?」―そんな言葉が出かかったが薫は無粋なその言葉を飲み込んでただ頷いてそう言った。

 

母の顔を見る。

 

ずっと変わらない。再婚しようとも、自分が遠くに行こうとも。

 

―お母さんはお母さん。お互いにこれから違う道を歩くことになろうともそれだけはずっと変わらないんだ。

 

 

・・私の大好きなお母さん。

 

 

 

 

 

 

 

 

「よっと・・茅ケ崎?これで終わり?」

 

「おう。国枝ありがと。おかげで早く終わった。これ・・大将の奢りだってさ」

 

「サンキュ」

 

最後の積み荷を軽トラックに移し終えた後、体格のいい少年茅ヶ崎 智也から手渡されたペットボトルの差し入れを直衛は礼を言って受け取る。直衛の隣にどっかりと座った茅ヶ崎は逞しい腕でペットボトルを片手で楽々開ける。

 

―ぬ・・。

 

変な対抗意識を燃やした直衛も挑戦するが積み荷作業後の握力が足りない彼には無理だった。諦めて少し恥ずかしそうに両手で開け、隣の茅ヶ崎と見比べるとひょろい自分の両腕を見て少し落ち込む。

 

「悪いな国枝・・二週続けて日曜使わせて。ホント助かった」

 

隣に座った茅ヶ崎が改めて直衛に礼を言った。

 

「・・いやこっちの台詞。日雇いの上に給料イロも付けてくれてホント助かってる」

 

「そっか。よかったらさ、国枝?これからも手伝ってくれ。大将もお前気に入ったみたいだしな。『頭で仕事できる奴は大歓迎』だってさ。都合のとれた時でいいからよ」

 

「うん、ありがと。でも・・もう少し鍛えるわ」

 

「まぁ勉強ばっかせずにたまには体動かせよ?お前は・・『国』。筋トレのメニュー組んでやろうか」

 

「・・そうするわ」

 

仲良くなった相手の名前を茅ヶ崎はこんな風に略す癖がある。何にしても同性であろうが異性であろうが「相手が心を開いてくれた瞬間」というものは気持ちがいいものだ。直衛は少しクスリと笑って気持ちよさそうにまだ肌寒い空を仰いだ。

 

「それはそうと・・国・・お前ってさ。ひょっとして金に困ってねぇ?」

 

「え!?なんで?」

 

「いや・・ほら」

 

 

二週間前・・2-Aにて

 

 

「ごめん茅ヶ崎、今度の日曜は俺ちょっと無理ぃ・・」

 

「そっか・・いきなりで悪かったな。杉」

 

顔をしかめて謝る「杉」―杉内 広大に茅ヶ崎は手を振りつつ「全然大丈夫」とアピールし、他の心当たりを当たろうと思案していた。

去年創設祭の搬入作業の手伝いをした際に知り合い、茅ヶ崎の要領のよさと筋力、帰宅部という立場を買われて彼をスカウトした引っ越し兼運送業者に緊急の仕事が入ったらしい。新春を控え、引っ越しや身辺整理などの注文が殺到し、人手が足りないそうなのだ。

そこで「出来るなら後一人か二人助っ人を連れてきてほしいのよ」との要請を受け、茅ヶ崎は知り合いを回っていたのだが彼の狭い交友関係の中、色よい返事はなかなか得られなかった。

 

「ウメハラは?」

 

「梅は実家の手伝いだって」

 

「そっか・・力仕事となると流石に桜井さんはダメだしな」

 

「まぁな・・ってかアイツ話聞いたらお構いなしに行くってんで宥めるのが大変だった・・」

 

「ははは。お疲れ。うーん・・御崎はちょっとな・・ゲンも忙しいらしいし。あ。国枝は?ダメ元で聞いてみるか」

 

 

 

直衛はその時、財布の中を無言で眺めていた。

 

「・・・」

 

「おーい国枝」

 

「・・・」

 

「国枝?」

 

「・・・」

 

「・・てい」

 

「すぎうチョップ」が直衛の脳天に炸裂。

 

「あ痛。・・何?杉内」

 

「あ、起きてたんだ。は~い茅ヶ崎。用件をどうぞ」

 

「いきなり人殴っといてマイペースな奴だな・・」

 

「・・お前に言われたかねぇ。ほれ茅ケ崎!」

 

「いきなり悪い・・国枝」

 

いきなりの来訪と杉内のチョップに対する詫びも兼ねて茅ヶ崎は申し訳なさそうにそう言った。

 

「・・あ。茅ヶ崎・・久しぶり」。

 

「今大丈夫か?」

 

「あ。うん大丈夫」

 

殆んど空の財布をそそくさと仕舞い込み、直衛は茅ヶ崎からアルバイト先の緊急の用件、事情を聞いた。

 

「無理だったらホントにいいんだけどな」

 

茅ヶ崎は最後にこう前置いた。正直半分諦め状態。元々茅ヶ崎と直衛は接点があまりない。杉内の仲介がなければ恐らく頼もうとも思わなかったであろう。

 

「茅ヶ崎・・悪いんだけど・・その日」

 

「ん・・」

 

―やっぱダメかね。

 

茅ケ崎にはすでに断られる覚悟はできていた。が―

 

 

「御一緒させて貰ってよろしいですか!是非!」

 

「え」

 

意外過ぎる直衛の喰いつきの良さに茅ヶ崎は面食らった。

 

 

その更に一週間前のことである―

 

国枝宅にて

 

 

「トイチ(借金の「十日で一割の利息」がつく事。当然違法)ね・・」

 

 

「どこでそんな言葉を覚えた・・衛奈」

 

「Ⅴシネ」

 

そう言って万札を手渡す小学六年生の妹―国枝 衛奈と受け取る高校生の兄直衛の姿。

 

「アニキ。お年玉もう使いきっちゃったの?」

 

「・・『色々』あってな」

 

「『色々』、ね。まぁ別にいいけどねん。トイチの利子さえ入れてくれればこちらは文句ないわ」

 

「・・」

 

「闇金のMさん」みたいな台詞を吐く妹に兄は閉口する。

 

「あ、ちなみに踏み倒そうとしたらお母さん達にチクるからね。あと薫さんにも」

 

「・・チクる相手の人選に全く思いやりがねぇな・・」

 

金にはしっかりしている一家の国枝家だがどうやら妹はその中でも特化した違う方向に育ったらしい。

 

とにかくこの時の実の妹への借金、そして利子の返済期日が三日後に迫っていた直衛にとって茅ヶ崎のバイトの救援要請はまさに天界から来たクモの糸であった。日雇いで即日金が入るのも大きな利点である。ここまで利害が一致する世の中ならこの世は平和なのだが。

 

そして三日後―

 

直衛は労働で疲れ果てた体でその日に貰った日給に利子分を足した茶封筒を妹に手渡した。

 

「お納めください・・」

 

「・・確かに」

 

妹は札を指先でピンと弾き、即席の可愛い字で書かれた領収書をひらりと差し出した。

体をしこたま酷使した少年―直衛に残されたのはこの紙切れ一枚のみである。

 

―・・。

 

直衛は誓った。「将来絶対に闇金に手は出さねぇ」と。

 

 

 

再び一週間後の直衛×茅ヶ崎のやり取り

 

「・・余計な心配させたみたいですまん。茅ヶ崎・・」

 

「ま。稼いだ金何に使おうが勝手だけどよ。入り用ならまた言ってくれ。・・国」

 

 

 

 

そう。稼いだ金を「何に使おう」と・・本人の自由である。

 

 

 

 

―この食事券・・私から薫さんにあげていいんですか・・?しかも国枝君の「名前を出さなくていい」なんて・・そんなの申し訳ないですよ。

 

「いいんですよ。どうせ半分以上はだしてもらった上に・・二人が食事するこの場所を決めてくれたのも〇〇さんなんですから」

 

―でも・・発案は国枝君です。なら「私たち二人の共同出資」のプレゼントって形でいいじゃないですか。

 

「俺が『金出した』って言ったら薫・・アイツ俺に気ぃ遣うんですよ。『自分も出す』って言いだします。普段からバイトしている分、アイツの方が金持ってるわけですからね」

 

―うーん。しかしですね・・。

 

「・・多分あいつ〇〇さんからだったら素直に受け取ると思うんです。『受け取らないのも変だし悪いなぁ』とか思って。多分俺からだとゴネます。『金も無いのにカッコつけんな。第一私も再婚祝う立場なのになんで私がタダメシなのよ』とか、言って」

 

―ははは。成程。少し・・薫さんの事が解った気がします。

 

「・・。まぁ我儘で猪突猛進で気が強くてすぐ手挙げたりするトラブルメイカーですけど・・根は素直で優しくてしっかりした奴です。色々苦労すると思うんですけど・・アイツの事よろしくお願いします。・・〇〇さん」

 

―はい。わかりました。貴方の御厚意在り難く受け取りますよ。勿論、私もこれからの薫さんの将来の事を考えて非力ながら出来る限りのバックアップをさせてもらうつもりです。

 

「・・よろしくお願いします」

 

―こちらこそ。至らない新参者ですがこれからもよろしくお願いします。国枝君。いえ、

 

・・直衛君。

 

 

 

 

 

 

 

「ん・・。おかえり薫」

 

「・・ただいまっ!」

 

食事会を終えた翌日の吉備東高校屋上にて―

 

春を目前にしながらまだ肌寒い、しかし澄み、晴れ渡った空だった。

屋上で足を広げて座り、冷たい風で眠気をはらっていた直衛の元にいつもの足音が近づいてくる。引きずる様な重みが無いさっぱりサバサバ軽快な足音、その足音の持ち主が健康で在る事がすぐに解る。逆に気だるさを感じさせる靴底を僅かに擦る様な音も混じる。こんな微妙な足音を持つ人間はそうはいまい。

 

「う~ん寒いわねぇ・・直衛?ちょっとアンタ春を連れて来なさいよ」

 

いきなり驚異の無茶ぶりから始まる二人の会話。平常運転だ。

 

「別にいいけど・・俺が戻ってくるのは三月になるぞ」

 

「それじゃ意味無いじゃない!」

 

そう言って笑いながら薫は直衛の隣に彼と同じように足を広げて座った。そして癖っ毛を軽快に振って満面の笑みで隣の直衛にこう言った。

 

 

 

「アタシの傍にアンタが居るからこそ意味があんのよ。春だろうが冬だろうがね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・ど~だった~?薫」

 

「ん~?なにが~?」

 

「昨日」

 

「そうね・・・すっっっっごい楽しかった」

 

「・・そりゃよかった」

 

「やっぱり私のお母さんは綺麗だったよ。そりゃあお父さんも〇〇さんも・・ううん、『お父さん』も骨抜きにされるって。さっすが私の母親だけあるってもんよ」

 

「お母ちゃん褒めてんのか、自分の事褒めてんのか解らんな・・」

 

「勿論両方よ」

 

「さよか・・」

 

 

 

 

「ねぇ直衛。今の私って昨日のお母さんみたいな顔しているかな」

 

「・・?どういう意味?」

 

「鈍いわねぇ。だからぁ・・『綺麗になった』?ってこと」

 

「・・これまた・・答えづらい質問を」

 

「いいから答えなさいよ」

 

「返答を間違えたらマスクを脱いだお前にナイフか何かで刺されるんかね?俺」

 

「・・茶化さないでよ」

 

「・・う」

 

少し笑いながらも真剣な目でじりっと迫る薫に直衛は目をそらした。

 

「あ、もういい。なんか・・今のアンタの顔見たら大体解った~♪」

 

そう言って薫はクスクスと笑う。楽しそうに。嬉しそうに。少し癪だったので直衛は少し反撃に出る。と言っても今は話題を逸らす程度の事しか出来なかった。

 

 

 

今日自分の隣にいる少女が何かがおかしいぐらいに可愛いのが原因である。

 

 

 

「・・そういや聞いていいことかどうか解らなかったから聞いてなかったんだけどさ。〇〇さんは今まで結婚歴とか子供とかいたのか?結構いい歳だろ?」

 

「あ・・ううん。『仕事一筋』だって言ってた」

 

「そうなのか」

 

「昔・・若い時付き合っていた人はいたらしいけど・・その・・亡くなっちゃたんだって」

 

「え・・」

 

「・・だから私それ聞いた時、『だからお母さんとも意気投合しちゃったんだな~~』って勝手に少し納得しちゃった。同病・・なんとかってやつ」

 

薫は両ひざを曲げてその先に顎をチョコンとのせ、少し似合わないしんみりとした表情でそう言った。それが他でも無い父親を失った彼女自身にも存在する感情でもある事は明らかである。「夫」と「父」、そして「恋人」という三者三様の違いは有っても大切な人を亡くした時に感じた悲しみ、痛み、苦しみは彼女らも彼も大差はないはず。まさに―

 

「同病相憐れむ」だ。

 

「それはお前もだな」と言いかけた直衛はその言葉を飲み込む。ただその言葉を言いかけた直衛の感情の動きに彼女は気付いていたのだろう。

 

「・・・」

 

―「それはお前もだな」って・・言わないの?

 

とでも言いたげな表情をして悪戯そうに片膝で口元をやや隠しながら顔を傾け、直衛をやとろんとした瞳で見る。正直直衛は動悸が止まらない。

 

「・・。はっきり言えよ。お前も杉内に次いで国語が不自由だな・・」

 

「・・あんたもね」

 

「かもね」

 

「ま!!何時も言ってるけど細かい事はいいの!伝われば充分じゃない。事実ちゃんとアンタとアタシの『会話』は成立してるでしょ?このと~~り!」

 

「・・まぁ」

 

―・・否定できない。「慣れ」とは恐ろしいもんだ。

 

「ふふん。でしょ?ならいいの」

 

「しかしだねぇ・・」

 

「いいのっ♪」

 

 

 

 

 

 

「ふ~ん・・でもひょっとしたら再婚相手の方に連れ子がいて私に義理の兄弟、姉妹が出来ていた可能性もあったのよね?そう考えるとちょっと複雑だわ・・ってかちょっと怖いかも」

 

「まぁ・・気まずいな。確かに」

 

「でしょ?でも・・これから弟か妹が出来る可能性も全くのゼロじゃないのよね・・」

 

「そーだな。まー今から生まれるとしたら歳の差からして大きくなったら最早薫は『お姉ちゃん』というよりも・・」

 

「ストッ~~プ。殺されたい?」

 

「・・・」

 

「ふん!ま。でも・・アンタんトコの妹の衛奈ちゃんみたいな子とか紗江ちゃんとか七咲さんみたいな子がいたら私嬉しいかも。兄弟、姉妹って密かに憧れてたのよね。アタシ。う~~んよくよく考えるとそれも悪くないかもね♪うんうん♪」

 

「そうだな」

 

「・・そこは兄として否定しときなさいよ・・うん」

 

「む・・」

 

「・・シスコン」

 

「・・ぐう」

 

「寝るな~。はい珈琲牛乳。これで起きなさい?直衛。ハイ!頑張って私の話を聞く!」

 

先手、先手、先手。この日はとことん直衛は後手に回る。「まぁ・・こんな日もたまにはいいだろう」と直衛はあきらめたように薄く笑って・・

 

「・・・」

 

―在り難く頂きます。

 

いつもの様にコーヒー牛乳を啜る。そんな姿を満足げに薫は眺めていた。

 

―ふふん♪カワイイヤツ♡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




「んー・・でもさ~直衛?」

「ん~~?」



「私は別に今更『妹』、『弟』じゃなくて『子供』でもいいけどね」



「・・・」



直衛思考中・・

読み取り中・・

・・「データ」が開きました。




「っぶっ!!!」



※他人が牛乳もしくはその類のモノを飲んでいる時に驚かせたり笑わせたりするのは絶対やめましょう。


「ぷっ・・あはははははははははは♪」


まだ肌寒い、しかし春を間近に控えた乾いた空に心から愉快そうに笑う癖っ毛の少女の声が響く。




春はもう。


そこまで来ていた。















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間章 5












 

 

 

 

間章 5 「サクラ」の少女

 

 

 

 

「お。来たね暇人達♪」

 

 

 

 

中庭―

 

「いつも」のベンチに座る一人の快活そうな少女がとある男子生徒三人を快活な笑顔で向かい入れる。その内の一人―気のよさそうな短髪の少年が心底嬉しそうに少女にこう話しかける。

 

「伊藤さん!!聞いたぜ!!茅ヶ崎の奴、正式に茶道部に入部したって~~!?」

 

「そう!そうなのよ!梅原君!!いや~~全くやきもきさせたけどようやくくっついたか!あの二人は!は~~私も肩の荷が下りたわよ・・・」

 

桜井 梨穂子の親友―伊藤かなえは自分の片方の肩を叩きながらやれやれと首を振った。まるで「ようやく娘に嫁の貰い手が見つかって安堵する母親」の様な姿だ。

 

「お疲れ様。伊藤さん」

 

そして彼もまた茅ヶ崎 智也の友人の少年―杉内 広大もまた笑って伊藤を労う。が―

 

「で・・伊藤さんの方は?」

 

「・・聞くな。杉内。殺すゾ」

 

杉内の余計な一言に伊藤の顔はくわっと般若に一変。慄く杉内は彼の後ろに居る小柄な少年―御崎 太一に「ホント君はいつも余計な地雷踏むな~」と、困った顔で呆れられる。

 

「しっかしまさかアイツが茶道部に入るとわねぇ・・上手くやれんのかな・・」

 

梅原も親友の吉報に心底喜びながらも複雑そうに眉をひそめた。元完全な体育系の茅ヶ崎に文科系の部活動が果たして毛色に在っているのかどうか、という懸念はやはりある。だが、そんな梅原の疑問に「そう!そこよね!?・・私も最初はそう思った!!」的な顔をして伊藤はずいと梅原に迫る。彼の顔に容赦なくびしっと人差し指を突きつけながら。

 

「お、おおう?なんでぇ伊藤さん?」

 

「・・それがね・・ひょっとしたら茅ヶ崎君は桜井より茶道部の適性があるかも知んない・・覚えいいし手際もいいし・・。肝心の桜井も『どうしよう!!智也に部長の座を奪われる~うわ~~ん』とかヒィヒィ言ってたわ・・」

 

「あ・・何か解る気がする。茅ヶ崎君って実は器用だもんね」

 

御崎もうんうん頷きながら同意し、

 

「それに・・元々雰囲気といい顔立ちといい・・『和風』に合うのかな?創設祭の時の着ていた着流し姿も凄くかっこよかったし」

 

基本彼は小柄で華奢な少年故に「いかにも男性的な服、召し物」だと相当注意しないと大抵「服に着られてしまう」ことになる。御崎は少し羨ましそうに創設祭時の茅ヶ崎の姿を思い出していた。厚い胸板、広い肩幅に落ち着きと風格を備え、そして意外にも他者に対して丁寧で弁えた常識と良識も併せ持っていた。

 

「あいつはもともと中学の時の剣道着が良く似合ってたからな~。元々剣道って伝統とか格式ある国技だから姿勢とか身だしなみにも気ィ遣う競技なんだよ。『体は心を表す』ってな?だから似合って当然だと思うぜ」

 

御崎の意見に梅原も何故か得意げに同調する。元々彼も茅ケ崎のその姿にホレて中学時代、剣道部に入部したクチ。その思い出を反芻する梅原の姿はどこか妙に乙女だ。・・残念ながら少し気持ち悪くもあるが。

 

「・・?の割に梅原君は・・・」

 

「・・ふむ。ウメハラはな・・」

 

御崎、杉内の二人はその「不思議さ」に首を傾げざるを得ない。「な、なんだよおめーらその目は・・」と言いたげに梅原は後ずさる。

 

「確かにね・・梅原君どうしてこうなった。こんなゆるくてちゃらんぽらんな・・」

 

とどめに伊藤も首を傾げてこう言い切る。

 

「うっせぃ!余計な御世話でぃ!」

 

 

 

 

 

 

「でも・・入部早々大変だよね茅ケ崎君・・いきなり茶道部廃部の危機だなんて・・」

 

「飛羽先輩と夕月先輩が卒業しちゃったから正式な部員はあの二人だけなんだっけ?今」

 

「そうなんだよな~前まで他の部活と掛け持ちしてた部員もいたみたいだけどこの前『正式に退部した』って言ってたし・・だから今年の新入生の入部に賭けるしかねぇのよ。だから入学式の日に新入生歓迎と新入部員の勧誘を兼ねた茶会するとか言ってたっけな」

 

「『下手すりゃそれが茶道部最後の晴れ舞台かもしれません。あはは~~』・・って桜井は暢気にへらへら笑ってたけどね・・笑えないっつ~の」

 

「「「・・・」」」

 

容易に男衆三人にも桜井のその光景が思い浮かび、閉口するほかない。「・・うわ~桜井さん言いそ~~」ってな顔をしている

 

「・・・でもさ・・正直・・副部長と部長が付き合ってる上にその二人だけの部に新入生が入部するって・・結構ハードル高くね?」

 

 

「・・・」

 

「・・・」

 

「・・・」

 

杉内の余計な一言でさらにその場は凍りついた。杉内を除く他全員が杉内に一斉に非難の目を向ける。このKYが、と。

 

「それを言っちゃいけねぇよ大将・・ちっ・・これだから『猫好き』は・・」

 

「全く・・『猫好き』も大概にしなさいよアンタ」

 

「『猫好き』か・・。・・・。『猫好き』ね。七咲さんもそんな感じだしね」

 

「おい!猫好きは関係ねぇだろ!」

 

 

 

「はいっ!注目!!」

 

暫しの脱線ののち、気持ちを切り替えるようにぱんと両手を軽快にならし、伊藤は爽やかに場を引き締める。

 

「話を戻しましてっと・・・どう?私らがあの二人の為に何か出来る事ないかしら!?案を出しなさい!あんた達!」

 

「・・うーん。僕たちが緊急の茶道部員になって盛り上げるとか?結構『仮部員』に関して寛大じゃん。茶道部って。他の部との掛け持ちもOKだったみたいだし」

 

「あ。ぐっど!ミサキ!?紗江ちゃん呼べ。あんなちっちゃくて可愛い先輩がおどおどしながら勧誘すればホイホイ新入部員が・・」

 

杉内は昨年の春、水泳部の勧誘に何故か部外者の森島 はるかが参戦していたことを塚原 響、七咲 逢から聞いた事を思い出す。それなら随分と毛色は異なるにしても中多 紗江の秘めたポテンシャルならば決して引けをとらないと考えた。

 

「ええ!?それはちょっと!!」

 

「廃部は避けられても茶道部が違う部に変わりそうな気がするわ・・却下っ」

 

バツ印を胸の前で作って伊藤は杉内の案を却下。確かに新入部員は入るかもしれない。が、来る人種が「異質」になる可能性は高い。

 

「ええ~伊藤さんこれダメ?でもいいと思うんだけどな~あんなちっちゃな可愛い子が着物着てお茶点ててくれたら俺入部しちゃうかも・・・ぐぎっ!???」

 

最近気が多い杉内 広大という少年。そして思いっきりその足を踏みつける御崎 太一。

 

―・・あ、あにすんだよ。ミサキ。

 

―おお~~っとぉ。こりゃ失礼。ぐぎっ!!?

 

ー・・わっりぃ~足が滑ったぁ~。

 

ー上等だよ・・。

 

彼らの足元では今熾烈な攻防が繰り広げられている。「また始まったよ」と呆れて伊藤は彼らを無視し、梅原を見る。がー

 

「うん違いねぇ。手元がおぼつかなければ尚いい。うっかりお茶を点ててる時に茶しぶきが顔にかかっちゃったりしてさ~~?『ど、どうしよう。私汚れちゃった・・』とか言ってほしい。・・録音してぇ」

 

梅原もうんうんと頷いて同調し、気持ち悪い持論を展開。が、次の瞬間全体重を乗せた怒りの御崎の右足のスタンプを右足甲に喰らい、「ぬお~~~!?」と断末魔を上げて梅原は悶絶。

 

まず一人が脱落した。

 

「あ~あ~あ~ウメハラ・・?物事には限度ってもんがあるぜ?」

 

「・・・。杉内君も大概人のこと言えないからね。いい加減にしないと七咲さんに言いふらすよ」

 

「アンタ達ぃ・・・!!!まともに考えなさい・・!!!」

 

妙な方向にヒートアップし始めた男衆三人に伊藤は堪忍袋の緒が切れる寸前。

この男衆においての国枝と源、そして茅ケ崎の存在の重要性を再認識する伊藤であった。

 

 

―駄目だ。この男ども。つっかえねぇ・・他あたろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうだね・・太一君が言っていたみたいに『サクラ』はいい手だと思うけど・・どうかな?」

 

「『サクラ』?」

 

「そ。あの『桜』じゃなくてイベントとかの『寄せ』。盛り上げ役の方の『サクラ』のこと」

 

カフェテラスにて―

 

ぴっと指を立ててにこやかに少年―源 有人は茶道部の件で相談しに来た伊藤にそう提案する。

 

「・・やっぱり入学したてで新入生って絶対緊張していると思うんだ。だからまだ誰も来ていない、で、あんまり『部活』としてお世辞にもメジャーではないと言える茶道部の茶会に率先して顔を出そうって子は少ないと思うんだよね」

 

「ふんふん」

 

「だからまずはあの二人に俺達がもてなしてもらってる光景を見せるんだよ。シュミレーションしてね。『茶道って大体こういう事することだよ。畏まらなくったっていいよ』ってな感じで」

 

「成程・・」

 

「だって所詮俺達だって茶道部の部員じゃないからさ?作法とか・・そもそも茶道って何するかなんて全く知らないワケだし。その点はお茶会に入ってみようか、どうしようか迷ってる新入生と大して変わんないでしょ?でも俺達は茅ヶ崎君や桜井さんがどういう人達かっていうのは誰よりも知ってる。癒し系の桜井さんにしっかりした茅ヶ崎君。あのペアなら上手にもてなして俺達をリードしてくれると思うんだ。その光景を新入生達に見せれば・・」

 

「『何も特別な事をする必要はない。あの二人と一緒に楽しめば自ずと人は集まってくる』・・ってことね?」

 

「うん。そういうこと。それに・・入学式の日だと保護者同伴って人も多いだろうしね?保護者、主に主婦層も巻き込めれば・・」

 

「そうね・・桜井の好感度は高そうだわ。善人のオーラがにじみ出ているからねあの子。親御さんも安心」

 

「それで思いの外人が増えたら『サクラ』を止めて、二人をお手伝いって形にすればいいんじゃないかな。流石に人が増えたら二人だけじゃキツイかもしれないし」

 

「そうね。よっし決まり!有難うね源君!それ採用!」

 

「それは何より」と言いたげに源はにっこりと笑い、そして少し考え込む仕草をしたのち伊藤に少し遠慮がちにこう尋ねる。

 

「俺も・・後で顔だしていいかな?新入生歓迎の挨拶で絢辻さんが在校生代表でスピーチするからその後で・・」

 

「二人で来るのね!勿論!じゃ!アドバイスあんがと!源君!ばいばい♪」

 

伊藤は源に爽やかにお礼を言ったのち、軽快に去っていく。

 

 

―最近・・源君は変わった気がする。元々優しくて筋の通った人だったけど最近はずっと男らしくなったと思う。

 

・・絢辻さんとの事は桜井からほんの少しだけ聞いた。凄く・・、悲しくて辛い話だった。でも辛い出来事に目をそむけずに向かい合って、それでも笑っていられる男の子ってこんなに素敵なのかと思う。・・少しさびしそうな笑顔がネックだけどね。

 

私の好きな「アイツ」は・・ここまで強くなってくれるんだろうか。私の事で。

ま。そもそも私はまずは振り向いてもらわない事にはね?・・がんばろ。桜井にも先越されちゃったことだし、・・ね?

 

伊藤は少し自嘲の笑顔をしながら振り返り、少し憂いの籠った顔で彼女から背を向け、去っていく源 有人の背を見送る。

 

 

 

 

吉備東高校入学式当日―茶道部お茶会 中庭の会場にて

 

「わ」

 

「・・すごい」

 

源、そして在校生代表で新入生への挨拶を終えた絢辻 詞の二人は目を丸くしてその光景を眺めた。

 

春風と共に桜の花びらの舞う中庭で茶道部の新入生歓迎と勧誘を兼ねたお茶会は・・

予想以上の大盛況であった。

 

「・・素敵。この学校ってこんなに綺麗な所があったんだ・・知らなかったな」

 

少し冷たくも心地よい風に靡く長い絹の様なしなやかな黒髪を耳にかけ、舞う花びら、その香り、風とそれに吹かれる草の音を感じながら絢辻は気持ちよさそうに瞳を閉じた。

 

「・・だね」

 

 

茶会場に用意された席はほぼ満席。主に一年生の女生徒たちとその母親であろう主婦層が舞い散る桜の花びらと振舞われるお茶や茶菓子にご満悦の表情で楽しんでいるが、中には男子生徒もちらほら混じっている。

 

既に助っ人の伊藤を筆頭とする茅ヶ崎の友人達は「サクラ」どころではなく肉体労働を余儀なくされていた。そんな中―

 

「ん・・・あー!源君に・・絢辻さん!!」

 

二人の来訪にいち早く気付いたのは着物姿の桜井 梨穂子だった。忙しい最中でも満面の笑みで二人によちよち走り寄って来る。だが着物を着ている以上二人にはオチが解った。

「こける!この子絶対こける!」―これが源、絢辻二人の共通認識であった。

 

 

「あっ・・・あー!!」

 

 

予想を裏切ることなく彼女は躓いた。「ほらやっぱり!」と絢辻があわわっと口に両手をやり、源が受け止めようと駆けだした時―

 

「!」

 

それよりも更に反応早く、後ろから大きな影が現れ、がっしと桜井 梨穂子の着物の帯を掴んだ。がくんと転倒を逃れた衝撃で「わぁ」と桜井の声が漏れる。

 

「おい・・お前は走るな」

 

「あ。ごめんねぇ。智也ぁ。あははは♪」

 

「はぁ・・」

 

そのいつもの能天気な桜井の反応に大げさに溜息をついた後、現れた少年―茅ヶ崎 智也は

 

「源に絢辻さん・・良く来てくれました。ゆっくりしていって下さい」

 

まるで老舗料亭の「出来る」若旦那のように裃姿で二人を向かい入れる。春の好天の下で微笑む彼は以前と比べるとずいぶん物腰が柔らかい。

 

「いらっしゃいませ~。お二方。お天気もいいのでゆっくりしていってくださいね~」

 

帯を茅ヶ崎にもたれたまま、前のめりの姿勢で「ドジだが気のいい若女将さん」的な桜井 梨穂子はまた満面の笑みで二人に微笑んだ。

 

―・・かわいい。

 

流石の絢辻も桜井のその癒し度の高さにそう内心呟くしかなかった。

 

 

「桜井さん・・大盛況ね」

 

茶道部のお茶会の盛況ぶりをぐるり見渡して感嘆の声をあげる絢辻に桜井も嬉しそうに頷き、

 

「へへへ~そうなんですよ~。おかげでお菓子が足らなくなっちゃって・・今杉内君と御崎君に買い出しに行ってもらってるんだよ~。嬉しい悲鳴です」

 

「よく言う。本気で悲鳴上げたかった癖に・・ポロツキ―が無くなる度に物欲しそうなツラすんな。新入生が食べづらそうにしてたぞ」

 

「う~気付いてたの~?」

 

「・・。(やっぱりか)・・あ。悪い。えっと・・源?今あの席しか空いてないから・・もう少ししたら日当たりのいい席空くと思うんだけど・・それまで待ってくれるか?」

 

一番奥の席―やや日陰よりの席を指差しながら茅ヶ崎は源、そして絢辻の方をちらりと見る。

 

「ううん大丈夫。あそこでいいよ。新入生達優先したげて」

 

「私も大丈夫よ。茅ヶ崎君。お気遣いありがとう」

 

「・・了解。ではご案内いたします。お二方。・・梨穂子。頼む」

 

「アイ♪ゴッチャ♪すぐお茶を持って行くんでちょっと待っていてくださいね~♪」

 

茅ヶ崎に案内され、源、絢辻の二人は新入生たちの合間を縫って歩いていく。するとその姿を見て新入生、そしてその親御さん達が二人を注目し始めた。

 

―・・。あ。あの人。お母さん。見て。ホラ。

―ん?あ~。さっき在校生代表で挨拶していた生徒さんよね。

―やっぱり近くで見てもすっごい綺麗な人~。髪きれ~。肌白~い。

―挨拶もしっかりしていたものね。ねぇ・・貴方二年後にああなれる?・・無理よね。

―・・入学早々娘の将来諦めないでくんない?お母さん?

 

 

―うわ~近くで見るとより高級感があんな~。

―うん。着物着たあの女の人もすげぇ可愛いけど・・あの人もまた違った感じ。スゲェ綺麗な人だな。

 

―・・隣に居る人・・彼氏かな?

―どうだろ。でも優しそうな人だね。

ーえ~~!?そう?

ーえ?そう見えない?

ー寧ろ私・・好みかも・・。

ー・・。今の話の流れで何でそうなるの?

 

 

絢辻と源が新入生とその保護者の間を通り抜けるたびに次々とそんな小さな声が上がっていた。

 

―・・ん?

 

その一つを耳に拾って、作業に追われていた助っ人の少女―伊藤 香苗が頭を上げた。彼女もまた本日、茶道部部室に在った淡い檸檬色の着物に袖を通し、仮の茶道部部員として奮闘中。爽やかな中にも少し茶目っ気や気の強さを持つ明るく元気な彼女のイメージ、また彼女のコロコロ変わる表情の豊富さも顔写りのいいこの着物は引き立ててくれている。見繕ったのは恐らく桜井であろう。こういうところの勘、センスの良さを時々彼女は垣間見せる。長年連れ添った親友という点も大きいが。

 

―ん!やっぱり来てくれたんだあの二人。

 

いつもの様に軽快に伊藤は駆けだした。といっても流石に借り物の着物なので相応に弁えた歩幅で、しかしできる限りの最大速力で二人の元へ。

 

「源君!絢辻さ~ん。ようこそで~す」

 

「あ。伊藤さんお疲れ様。・・着物似合ってる伊藤さん」

 

「お手伝いお疲れ様です。・・うんホント。素敵よ伊藤さん」

 

「あ・・えへへっ♪あんがと」

 

 

源は隣に座った絢辻と一緒に予想以上の盛況ぶりの茶会場を見回していた。「どう。凄いデショ」と、得意げな伊藤も傍らに行儀よく座ってその光景を一緒に見ていた。

 

「それにしても大盛況だね。『サクラ』なんて必要なかったかもね」

 

「それがそうでもないのよ源君。最初はやっぱり皆遠巻きでじ~~っと見てるカンジ。でも頑張って新入生親娘一組が入ってくれたら後は芋蔓式で増えて・・このザマよ。新入生よりむしろ保護者、お母さん達の方がノリいいわね。うん」

 

「あとは茅ヶ崎君の真面目さと威厳、手際の良さ。それとは対称的な桜井さんの優しい癒しで、って感じかしら?」

 

「そうそう!絢辻さん!まさしくそんな感じ!特に桜井のお母さんメンツへのウケがいいこといいこと♪あっはっはっは♪」

 

「はは」

 

案外伊藤は自己評価が苦手なんだなと内心源は思う。桜井だけでなく間違いなく伊藤自身にもそんな魅力が備わっているはずなのに、と。そんな源の心象も露知らず、伊藤は今度は一転微妙そうに少し眉をしかめた。

 

「・・?どうかした伊藤さん?」

 

「ん~いやね?この調子だと下手すると・・吉備東高で一番部員が多い文化部になるんじゃないかしら・・茶道部は。あ。ほらまた・・」

 

向こう側でまた新たに一組お茶会に参加する新入生の母娘が入ってきている。どうやら既にもてなしてもらった母娘が他の知り合い、新入生達にもこのお茶会の評判を口コミで広げていってくれているらしい。まさに「芋づる式」である。

 

「廃部の危機から一転・・大した昇格になるかもね」

 

「・・おかげで来年廃部の危機に陥るのはわがパソコン部かもしれない・・敵に塩を送って自分の傷口に塩を塗りこんでいる気分だわ・・」

 

実は伊藤の所属文化部―パソコン部もなんだかんだ言って安泰と言えるほど部員数が多いわけではない。おまけに彼女は実はその部で部長を務めるほど重鎮なのだが何故か今ここに居る。

 

「え・・?伊藤さん。なんでそんな微妙な立場で茶道部の助っ人買ってでたのさ・・」

 

「そうよね・・我ながらお人好しだと思うわ」

 

 

 

「ふっ・・まぁーいいわ。幸せそうな桜井を見られるだけでも儲けもんよ。あの子の笑顔は悔しいけどこっちもほっこりするのよね」

 

やれやれと手を腰に当てて伊藤は吹っ切れた様に笑ってそう言った。

 

「・・大丈夫よ。伊藤さん」

 

暫く源と伊藤のやり取りを傍らにて無言で見守っていた絢辻が唐突に静かに、しかしどこか力の籠った低い声で伊藤に囁く。

 

「・・へ?絢辻さん?」

 

「私がパソコン部を潰させないから。勿論茶道部もね♪」

 

「え。でもどうやって?部員が増えない事にはにっちもさっちも・・」

 

「それは企業秘密。でもアテはごまんとあるから大丈夫♪でもその代わり・・」

 

「・・そ、そのかわり?」

 

「それは『今からの伊藤さんのおもてなし次第』・・って事でどうかしら?」

 

悪戯に絢辻はにこりと笑ってそう言った。伊藤の知っている絢辻と少々イメージの異なる今の彼女の雰囲気に意外そうに眼を見開いたものの、伊藤はすぐ嬉しそうに胸の前でパンと拳を握り、からっとした好戦的な笑みを浮かべる。

 

「・・!いいわよ~先日急遽招集された茶道部OB先輩二人、そして茅ヶ崎君に鍛えられた私のおもてなし力見せてあげるわ!」

 

「・・・」

 

―・・肝心の茶道部部長の桜井さんがそこに入らないのがなんだかなぁ・・。

 

源はそう内心苦笑いして突っ込む。

 

「ふふっ♪楽しみにしているわ」

 

「絢辻さん・・お手柔らかにしてあげてね・・」

 

そんな源の仲介を―

 

「源君は黙ってる!『恩情采配で補欠合格』なんて私のプライドが許さないっての!私のお・も・て・な・し!見てなさい!?二人とも!」

 

爽やかに振り切り、伊藤は気合十分でにっかり笑う。本当に気持ちのいい少女だ。

 

―・・。「絢辻さん好み」の性格だなぁ伊藤さんって。頑張り屋で、他人想いで、でも負けず嫌いで張り合いのある性格で・・。

 

ん・・?あ・・!

 

 

源は一瞬驚いた顔をした後、伊藤と談笑する絢辻の横顔を見て少し笑った。

そうだ。この「絢辻」は。この悪戯な「絢辻」は―

 

源は伊藤の想いに感謝し、心から礼を言った。

 

 

―・・ありがとう。

 

 

 

賑やかで爽やかな「サクラ」の少女に呼び出され、誘われて。

 

 

 

 

ほんの少しだけ彼女の中の「あの子」がひょっこり顔を出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











―・・あ。あれ見て。
―ん?あ~~やっぱり~?うう・・。


ーあれは・・「彼氏」だね。うん。




「すぅ・・」

ー・・。

最近彼女ー絢辻 詞の時間は短い。

時折いきなりこの小さく、華奢な体にずんとのしかかる眠気と疲れによって糸が切れたように眠ってしまう。

やはり「二人分」の時間を生きていくことは今の彼女「一人」では負担が大きいのだろう。

そんな彼女を傍らで何時ものように肩を貸して支えつつ、源 有人は春風浚う好天の空を見上げていた。















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間章 6







一部元ネタ解る人が居たら嬉しい









 

短編 1 とある服屋店員と少女Sの冒険

 

 

 

私の名前は渡部 直美(ワタベ ナオミ)。身長157cm。体重は〇〇〇kg♡堂々の三桁!!0.1トンクラス!!

 

でも私は自分が「ポッチャリ系」であることに誇りを持っているスウィート&キュートな子猫ちゃんよ。

 

そんな私の勤め先である吉備東デパート二階に店を構えた洋服ショップ―「ゼロコンマワン」は普通の日本人体形を大幅に超えるようなポッチャリ系の子達にも変わりなくファッションを楽しめるように少々大きめのサイズの服を取り扱っているの。

 

体形の悩みを抱えていたって可愛い服を着ちゃいけない法律なんてない!

 

最近メタボに悩むオジサマも、アスリート体形で素敵なガチマッチョボディをお持ちの体育大生も、「二ホンには外国人のワタシに合う服がありまセン!オマイガー!」とお嘆きの来日中特大サイズのビジネスマンも私の所にいらっしゃい♪素敵な洋服を見立てて貴方をコーディネートしてア・ゲ・ル!

 

この店の服を貴方が着て街に出た瞬間―あ~ら不思議。道行く皆が振り返ること請け合い!!

 

ピンポーン。

 

あら。今日もまた悩めるお客様のご来店ね♪さ、スマイルスマイル!

 

「いらっしゃ~~~い・・ま、せ?」

 

―・・あらあら。これはまた・・。

 

 

 

「は・・え、と。その・・こ、こんにちは・・」

 

身長150センチ以下、体重は40kgにも満たないであろう。可愛らしい顔立ちにぱっちりとした目元。育ちの良さ、大事に大事に育てられたことが伺える控えめな仕草。少し色素が薄めの髪に華美になりすぎない両サイドのポニーテールが誂えられて小動物の耳を思わせる。

 

・・体系の割には妙に胸が発達しているが、それを差し引いてもおおよそこの店に訪れることはまずないであろう小柄な少女が向かい入れた「0.1トンクラス」の渡部 直美の巨体を前にオドオド怯えていた。

 

 

中多 紗江である。

 

 

「いらっしゃいませ!カワイイお嬢ちゃん♪今日は何をお探しかしら~?」

 

渡部は不自然な程、自然に中多を向かい入れる。疑問は確かにある。しかしこういう経験が彼女は今まで全く無いわけではない。

ファッションに「興味ない」、「買いに行くのもめんどくさい」と言い張り、そのくせ体形がマンモスサイズで面倒くさい父親や夫、または兄弟にお使いを頼まれて来る女の子や奥さんなども来る時があるし、彼氏や知り合いの誕生日、記念日のプレゼントの為にとこの店を訪れる場合もある。つまり取り立てて奇妙に思う必要もない。むしろ「こういうお客様の為にこそ自分が居る」とも渡部は考えている。

 

「あ、は、はい!で、出来るだけ大きめのサイズでフードのついたパーカかケーブルセーターをさ、探していまふ!・・あ!・・・ぅ」

 

折角言い切ったのに最後の最後で噛んでしまった事に痛恨の表情をしつつ、カワイイ小柄な少女は恥ずかしそうに目を伏せ、胸の前で指をこねこねした。

 

「くすくす…畏まりました。あ、男性?それとも女性物?」

 

「あ、出来るなら・・男性物でお願いします。できる限り大きいのが欲しいので」

 

「・・?」

 

―・・?「できるなら」?

 

その一言が渡部は少し引っかかったものの、粛々と紳士物のコーナーにミニマム少女を案内する。ふくよかな女性店員と他の店舗では全くの規格外の大きめの服のサイズが揃い、一際でかいマネキンが所狭しとある店内を、オドオドびくびく一際小柄な少女が歩く光景は、さながら「逆ガリバー旅行記」とも取れなくない。結構にファンタジーな光景だ。

 

 

「わぁ・・か、可愛い♪」

 

平積みにされたフードパーカー、ケーブルセーターを前に少女―中多は興味深そうに目をキラキッラ輝かせていた。どうやらデザインはお気に召してくれたらしい。

 

―色は・・やっぱり女の子ねぇ♪パステルピンクとショッキングピンク、ボルドーと赤、あとはベージュとオフホワイトあたりを見ている感じかしら。でも・・「男性にプレゼント」となると一部好みが分かれる色だからプレゼントする相手の感じを聞かせてもらおうかしらね・・。

 

ただでさえサイズがデカい代物なのにやたらと膨張色を見ているのも気になる所だ。

 

「お嬢さん?一つお聞きしてよろしいですかぁ~?」

 

「は、はひ!」

 

「逆ガリバー旅行中」で少しメルヘンな世界に旅立っていた中多が渡部の問いかけにビクッと現実世界に帰還する。

 

「良かったらこの服を着る方のイメージを聞かせてくれると嬉しいですぅ」

 

「え」

 

「お父様?お兄様?それともひょっとして・・彼氏?」

 

「!」

 

少女の顔が最後のワードに過激に反応し、赤く腫れあがる。小動物の耳の様な両サイドのポニーテールも跳ね上がる。・・どうやら決まりだ。

 

「(´∀`*)ウフフ~~」

 

渡部はしてやったりの表情で得意げに大きな体を風船のようにさらに膨らませる。対照的にしゅぼぼと縮こまる少女の前にごく自然に腰を落とし「一緒に良いお買い物しましょう♪」と微笑むと中多もまた不器用ながらも微笑み返す。見事に中多の懐に渡部は入り込んだ。

 

「さて・・サイズはどのくらいが良いのかしらね~~あとお色は何がいいかしら」

 

「・・その、このお色の一番大きいサイズを・・お願い、します」

 

迷うことなく少女は最大サイズをよいしょっと、と両手に取った。その光景はとても服を扱っているようには見えない。厚手の羽毛布団か何かを持っているみたいだ。

 

「え、XXXXL!?」

 

そのサイズ実に中、もしくは重量級のレスラー、相撲取りでも着用が可能レベル。日本人にとって最も需要が低いサイズと言って過言ではないレベルだ。

 

「はい」

 

「・・。畏まりました。でも・・すごく大きな体をお持ちなのね・・貴方の彼氏・・」

 

「あ、そ、その・・いえ」

 

「うん?」

 

「私が・・着る、ん、です」

 

「・・え?」

 

話がおかしな方向に行き始めた。サイズからして全てにおいてミニマム。この店のサイズ規格ではXXXSでも大きすぎるこの少女が寄りによってXXXXLをご所望とは。時折自分が着るものを恥ずかしいのか「私じゃなくて家族が着るんですのよオホホ」と何故か無駄に誤魔化すタイプの客もいるが彼女の場合、あまり意味が解らない。

 

「お嬢さん程スリムな体格なら~この(XXXS)サイズで十分ですヨ?」

 

渡部はそう付け加える。何せXXXXLは布地面積が最小サイズに比べると桁違いなので値段も若干変わってくるのだ。

 

「い、いえ、こ、このサイズがいいんです!」

 

この店に入って以来常に不安げだった少女がしっかりと渡部を見据えてきっぱりとこう言い切る。ミニマムな体(一部はそれなり)だが中々芯は太いらしい。なら渡部はもう言うことはない。

 

 

「畏まりました♪では―」

 

 

 

10分後―

 

満面の笑みで商品二点、パステルピンクとオフホワイトを購入して小さな少女は何度も何度も渡部に頭を下げてお礼を言った後、「現実世界」に帰っていった。

 

その小さな体に似つかわしくない戦利品―大きな買い物袋をえっちらよっちら運ぶ小さな背中を微笑ましく見送りつつ、渡部は少し物思いにふける。あの少女とのやり取りを総まとめすると幾つか疑問点が頭を過ったからだ。

 

―・・・ん~~?あの子・・アレは「自分で着る服」って言っていたけど、なら服を着る方のイメージを私が聞いた際の「彼氏?」って言葉に反応したのはなぜかしら・・?

 

二つ買っていったからペアルックでもするつもりだろうか?しかしそれにしても―

 

―・・試着をしていかなかったら今更な話だけど・・多分あの子があのサイズを着たら、まず間違いなく「服」じゃなくて最早「寝袋」レベルよね。とても表を歩ける姿になるとは思えないわ・・。「着られる」というより「食べられる」って感じよね~~。

 

ならやはり・・理由と意味は解らないがあの子ではなく他の誰かが着るものを「私が着る」と言い張ったのだろうか?

 

―ま。これ以上の詮索は止しましょう♪「お客様が満足して帰られた」―それこそが一番大事♪

 

渡部は気を取り直して仕事に戻っていく。しかしもう一度あの小さなカワイイ女の子があのサイズの服を着てしまった時の光景を思い浮かべると何とも微笑ましく、思わずフフッとなってしまう。あの子のサイズならあの服の中で寝てしまってもコロリと寝返りを打ててしまうレベルだろう。

 

―むしろ・・もう一人「小柄な誰か」が入っても全く問題がないくらい・・

 

 

 

 

 

 

 

 

・・はっ!!!???あ、あ。あ。あぁあああ!!

 

 

 

 

 

 

そ、そうか!!そういう事ね!!?

 

 

 

 

 

 

 

 

渡部 直美は今、すべてを理解した。

 

 

 

出来得る限りデカいサイズを希望。

 

「彼氏」という言葉に反応。

 

「自分が着る」という発言。

 

「外行きの服」としては恐らく着用不可能レベル。

 

そして女の子寄りの淡い色、もしくは暖色系のカラーチョイス。

 

 

 

全ての点と点が繋がった。

 

 

 

 

 

読 め た ぞ こ の 野 郎 

 

 

 

 

 

 

 

 

短編 2 浮気

 

 

 

 

「ちょっとぉ!?どういうことぉ!!?御崎君!???」

 

「え!?い、伊藤さん!?いきなりな、何!?」

 

いきなり教室にどどどどと雪崩れ込んできた怒れる少女―伊藤 香苗を前にして御崎 太一は自席で慄いた。そして次の彼女の発言に更に御崎は仰天することになる。

 

「聞いたわよ!?『茅ヶ崎君が浮気してる』って!!」

 

「・・え。ええぇ~~!?まさか!茅ヶ崎君に限って!!杉内君ならともかく!!」

 

「ええ。最近のアイツなら在り得るでしょうね・・カワイイ彼女出来てちょっと調子こいてるし。・・って違うわ!!茅ヶ崎君よ今回は!」

 

「ホントなの・・?とても信じられないんだけど。杉内君ならともかく」

 

「私もそう思った。でも『煙の無い所に火は立たない』って言うでしょ~がっ!!何!?アンタら男ってやつは!?『釣ったエサに魚はやらない』って言いたいの!?」

 

「両方とも逆だよ・・落ち着こ?伊藤さん。日本語まで怪しくなってるよ。杉内君ならともかく」

 

「うるっさい!!もうさいってい!!あんた等いっぺん死んだら!?」

 

「なんで僕までここまで言われなきゃならんのか・・杉内君ならともかく」

 

普段はあまり噂などに惑わされない良識を持った彼女だが大親友―桜井 梨穂子が幼少の頃からの大恋愛を先日ようやく実らせた矢先の出来事に冷静さを欠いているようだ。

 

「と、とりあえずその『噂』ってのを聞かせて?」

 

「聞いて驚け!!何と茅ヶ崎君の浮気相手は『二人』居るらしいわ!!二股だけじゃ飽き足らず三股よ!?」

 

「ふ、『二人』ぃ!!??尚更在り得ないって!!元々茅ヶ崎君って誤解されやすい人だしきっと何かの間違いだって・・」

 

「私もそう思ったわよっ!!でも現に私も聞いちゃったのっ!!茅ヶ崎君が桜井にこう話してるの見ちゃったの、聞いちゃったの!!」

 

 

先日―

 

「悪い梨穂子。今日、『ミサ』と『ミナ』と遊ぶ約束してんだ。先帰っといてくれ」

 

「そっか~~。がっくし~~。でも・・仕方ないよね・・」

 

 

現在―

 

 

「可哀そうに!!桜井のあの悲しそうなカオ!浮気しているのをおおっぴらに『夫』から公言されても粛々と受け入れる『本妻』の姿!!あんまりよ!」

 

くぅっ、と両手で顔を覆い、ふるふると首を振って伊藤は嘆く。そんな彼女を―

 

「・・。あの~~伊藤さん?」

 

おもっくそ冷めた口調、そして冷めた瞳で御崎は眺める。

 

「何よ!?」

 

「話は分かったよ。・・『ミサ』と『ミナ』って言ってたんだね?茅ヶ崎君は・・」

 

「そうよ!!はあ~若干一名デス〇ートに書きこみたいくらい腹立つ名前だわ・・」

 

「・・・。僕、その二人の事よく知ってるよ。・・知り合いだから」

 

「何ぃ!?流石よ御崎君!!伊達に『小動物の皮被った肉食系ギャクタマヤロー』じゃないわねアンタ!!」

 

「・・・。呼んでくるよ」

 

「ええ!直接私が文句言ってやるわ!!そしてその二人とっちめた後、最後に茅ヶ崎君・・いえ!!『茅ヶ崎』をとっちめてやる!!」

 

「・・・」

 

二分後―

 

「・・あれあれ。伊藤さん?」

 

「・・え?」

 

御崎に連れられて伊藤の下にやってきたのはなぜか怪訝な顔をした「少年」―源 有人一人であった。

 

「…これは何の冗談かしら・・?御崎君?連れてきたのは一人の上に・・源君じゃない」

 

 

 

「・・・。紹介するよ伊藤さん・・この子が『ミナ』。そして僕が『ミサ』だ」

 

 

 

源 有人(「ミナ」モト ユウト)

 

御崎 太一(「ミサ」キ タイチ)

 

 

 

「・・・・」

 

「・・・・」

 

 

「???え。何コレ。太一君?伊藤さん?」

 

 

 

「アンタたち・・?」

 

「・・・」

 

「はい?」

 

 

 

「二人とも即刻改名なさい!!紛らわしい!!」

 

 

 

「「理不尽!!」」

 

 

 

 

 

 

短編3 間章「ほ」の字でおま。 1.5 

 

 

 

 

 

 

 

今日こそは。今日こそはっ!!

 

絶対に負けない!!三度目の正直!!

 

 

今度こそ紗江ちゃんを私が手に入れて見せる!!そして―

 

 

「イナゴマスク」来シーズン最新情報も!!

 

 

郁夫の為にも!!先輩の為にも!!

 

 

 

 

 

「スピード」なら!!

 

 

ナンバーワンはこの七咲 逢―

 

 

 

 

 

バッ!!

 

シュバババババ!!

バッ!!

シュババババババ!! ←少年M﨑の猛攻音。

タシタシタシッ!!

 

バッ!シュ!バッ!

 

 

ダン!!!シャ~~~ッ

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・だぴょん (ToT)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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間章 終章


















 

短編1 新学年開始 

 

 

 

県立吉備東高校

 

 

四月―

 

 

 

 

 

「うわは~~?智也ぁ~~~♡」

 

太ましい体とふわっふわな栗毛を揺らし、一人の少女が満面の笑みで一人の体格のいい少年に走り寄る。しかし、勢いのまま少年に飛びつこうと思いつつも彼女の太ましい体は慣れない運動と興奮状態に足を引っ張られ徐々に減速、愛しの彼に突撃直前にてガス欠を起こし―

 

「あ・・ダメだ・・ぜい、ぜい・・」

 

体格のいい少年―茅ヶ崎 智也の三歩手前でひらひらへなへな力尽き、「ゴール手前」で両膝に両手を突く。

 

「・・・」

 

その光景を前に呆れつつもどこか残念そうに茅ヶ崎は苦笑した。そんな彼に俯いたまま「ゴメンもう少し待って、呼吸調えるから」と言いたげに少女は掌だけ茅ヶ崎に向ける。

 

 

「・・だいたい何年ぶりだっけ?」

 

ある程度少女の呼吸が落ち着いたと判断し、茅ヶ崎は少女にむかってそう切り出す。すると俯いていた少女―桜井 梨穂子はすっくと顔を上げ―

 

「ぜ~~ぜい・・へっへへっ♪な、なんと~~じ、実に小学校以来デスよ~~!!ろろろ六年ぶりの快挙ですっ!!」

 

未だに肩で息をしつつ呂律も回らないながらもにへらっと満面の笑みを浮かべて桜井はその「六年ぶりの快挙」を噛みしめる。そして丸っこい柔らかそうな両掌を掲げ、右掌片方は一杯に広げて「五」を、左掌は人差し指だけ一杯に延ばして右掌とドッキングし「6」を茅ヶ崎の顔の前まで掲げて強調する。本来は結構不吉な数字として扱われることが多い「6」という数字だが今の幸せそうな彼女にかかれば微塵もそんな気配が感じられない数字になる。

 

そんな彼女の言う「六年ぶりの快挙」とは―

 

「智也」

 

「ん?」

 

「一年間短い間ですが・・クラスメイトとしてよろしくお願いします。えへへ~~♪」

 

「・・ん」

 

ぺこりと初々しく頭を下げる桜井に茅ヶ崎もまた頷き、小さい声で少し恥ずかしそうに「・・こちらこそよろしく」と付け加えた。

 

 

茅ヶ崎 智也、桜井 梨穂子。高校三年生にてようやく念願の同クラス―「3-B」になれた。

 

 

「・・取り敢えず新しいクラスに移る前に・・友達に挨拶して来いよ梨穂子は。伊藤さんとはまた一緒になれたとはいえ・・お前は他にも友達多いかんな」

 

「ん!そのつもりだよ~~。・・でも智也~?」

 

「ん?」

 

「智也だって前のクラスでお世話になったクラスメイトたくさんいるでしょ?成瀬君とか実行委員のコ、担任の多野先生だってそう!きちんと智也もサボらず挨拶してくるっ!」

 

ピッと桜井は珍しく人差し指と一緒に背筋も伸ばして、やや説教モード・・いや「オカンの小言」風の態度に切り替える。残念ながら彼女の場合少々迫力に欠け、微笑ましいぐらいに可愛らし過ぎるのが気の毒だが彼女なりに真剣なのだ。

 

「・・え。俺は別に・・」

 

「・・・む~」

 

今度はぷく~~っとフグみたいに口を膨らませて無言の圧力を茅ヶ崎にかける。これには茅ケ崎も困り果てる他ない。

何よりも彼女が言っていることは至極真っ当なのだ。それも大いに茅ケ崎自身にも良く解って居る。だからこそ―

 

「・・わかった。行きます。行くから」

 

根負けする他なかった。ぷくぷくの彼女の頬を人差し指で突いて取り敢えず宥める。「ぶしっ」とちょっと間抜けな音をたてて桜井の輪郭は人間に戻り、「に~~っ♪」と、にんまり満足そうに笑う。

 

「んふふふ~~♪よきにはからえっ。じゃ♪また後で!」

 

六年越し、念願の同じクラスになれた事を目一杯喜ぶ事もそこそこに、桜井は最後に茅ヶ崎に両手を掲げるように挙げてふるふると振ったのち踵を返し、駆け出した。

 

まずは昨年一杯お世話になった人達に彼女はお礼を兼ねて挨拶をしにいく。折角去年、何かの縁で一緒に過ごした人達との繋がりを簡単に断ってしまうなんて彼女には出来ないことなのだ。例え長年望んだ悲願が達成された嬉しい現実を前にしても彼女は盲目にならない。現状の優先順位を無意識ながらもよく解って居る少女である。誰にも好かれるあのキャラクターの源泉はこの細やかさ、メリハリ、謂わば彼女独自の揺るがない「芯」にあるのだろう。

 

―・・ホントに大した女の子だよお前は。

 

彼女の背を見送りつつ茅ヶ崎はそう思う。そして今回の三年生のクラス分けに張り出された用紙に再び目を通す。そこにはしっかりと「桜井梨穂子」「茅ヶ崎 智也」の文字。彼女が言うに実に六年ぶりらしい。それを彼自身も改めて噛みしめてみる。

 

「・・・」

 

ひょっとしたら内心自分の方が遥かに彼女よりもはしゃいで居るのではないか?と思いながら。

 

 

・・だからこそ。

 

 

彼はどうしても目についてしまう「3-D」の自分たち二人の名前「以外」がどうにも気になった。一転彼はしかめっ面になって唸る。

 

「・・・むむぅ」

 

 

3-Dのクラス名簿一部抜粋 以下↓あいうえお順

 

梅原 正吉

 

杉内 広大

 

御崎 太一

 

 

「・・・嫌がらせ?」

 

―正直邪魔だなぁ。・・早く死なないかなぁコイツラ。後寿命どれくらいかな?

 

あまりにきよきよ・・いや清々しい桜井 梨穂子の去り際の余韻を台無しにする錚々たるメンツを前に彼自身閉口する他ない。これを全員、桜井含めて「面倒を見ろ」という事なのだろうか。とってつけられたように桜井の親友兼保護者である伊藤 香苗が居てくれるのは幸いな所だが。

 

「はぁ、はぁ~~・・」

 

一息と言わず二息ついて気を取りなおし茅ヶ崎は歩き出す。そして間もなくつと「とある場所にて」足を止め、無言のままじっと「それ」を眺めていた。

 

―・・・。

 

 

 

 

 

 

 

短編 2 アイの成せる事

 

 

 

「智也~~?」

 

「ん?」

 

 

「~~らら~~るるるる~~♪わっわわわわ~~~~らら~~るりりるるる~~わっわわわわ~~♪って・・何て言う曲だっけ?」

 

「・・ああ。『ラクダイマムス』のヴォーカルの『シェリー』の『スピーナ』な。あれシングルカットだから『ラクダイマムス』で検索しても出ないぞ。『シェリー』で調べろ」

 

「あ~~そうそう♪ありがと~~」

 

 

 

「智也~~?」

 

「あ?」

 

 

「ベン♪ベベン、ベン♪ちゃ~~ラララ♪ぱらりんチャッチャラチャラら~~~ラ♪」

 

 

「・・演歌歌手『与謝野 刹那』の『命からくれない?』か?・・渋い。そしてこれまた歌詞が重いのを選ぶのな。梨穂子・・」

 

「あ~!!そ~そ~それだよ~~♪へへっありがと。『よ』、『よ』、『よ』~~っと」

 

「・・しかし命『から』って・・『それ以上さらに何をやればいいってのよ』って曲名だよな」

 

「ん~~そだね~。『保険金』とか『遺産』とかかな~?」

 

「・・。思った以上にお前の解答が的確で怖いよ」

 

 

 

「智也~~?」

 

「はいはい」

 

 

「ぽわぽわぽわ~~ほわんほわんほわんほわん♪」

 

 

「・・へ~『テクノ』とはまた梨穂子らしくない変わったチョイス・・。『元気団』の『トランスジェンダー』な」

 

「それ~~!!ありがと~~♪」

 

「でもあの曲って・・そもそも歌詞あったっけ?ほとんどイントロだったような気が・・」

 

「あるよ。『トラんすじぇんだぁ~~~あああ~あああ~あ~~♪』って、感じの」

 

「お前なんでそこ覚えてて曲のタイトル忘れんだよ」

 

 

新学年、新クラス開始の初日は授業はなく、所定の手続き、自己紹介等を終えたのち程なく下校時間となる。まだまだ日は高いので新三学年メンツ一行は一同棚町 薫主催でカラオケに出かける運びとなった。その中でのそんな茅ヶ崎、桜井の二人のやり取りに他のメンツは閉口していた。

 

「なぁ・・杉っち?御崎よぉ?」

 

「おう・・」

 

「うん・・」

 

梅原は二人のやり取りを見届けた後、隣に座った二人―杉内と御崎に小さくも戦慄を隠せない

声でこう話しかける。その二人も梅原の意図を察したようにやや緊張した面持ちで頷いていた。「みなまで言うな」と言いたげに。

 

「今の桜井さんのイントロクイズ・・おめぇら一つとして解るのあったか・・?」

 

「・・ねぇよ」

 

「無理無理・・あれこそ愛の成せる事だよ」

 

何ともニーズの低い「愛の成せる事」もあったものである。

 

 

一方―

 

「む~~」

 

二人のやり取りを見ていたくるくるパーマのくせっ毛少女―今回のカラオケ大会主催の棚町は腕を組んで唸っていた。基本的にカラオケ中はマイクを決して離さない割り込み上等、好戦的な彼女だが今は何故か両手を空けた状態である。もうこの時点で異常、不穏だ。

 

―・・・。良くない状態だ。

 

彼女の隣に座った長身の少年―国枝は「なんか厄介そうなのが来そう」と予見して出来るだけ無言で気配を消していたが・・

 

「む~~。・・・。直衛!?」

 

「・・!」

 

―ほら来た。

 

正面から真顔で見据えてきた棚町の接近に「びっくぅ!」と躍り上がりながら国枝は大きくのけぞる。そんな彼から全く視線を逸らすことなく棚町は小刻みに顎を振りながら―

 

「・・・。ふんふんふんふんふんふん~~ん♪」

 

「・・張り合うな。音痴の俺に解るわけがない」

 

「ええ~~っ!??つっかえな~~~い」

 

 

国枝 直衛 音楽成績 「4」。まぁ決して悪くはない。

 

しかし実技、主に歌唱テストでは音楽教師からの「お情けの努力賞」以外は取れず、筆記で巻き返すしかないタイプである。彼曰く―

 

「主要科目より遥かに『5』をとるのが難しい。・・正直絶望レベル」

 

・・らしい。

 

 

 

 

 

 

 

「・・・くすくす」

 

そんな三者三様のやり取りを見届けながら長い絹のような黒髪をまとった少女―

 

絢辻 詞はご機嫌そうに頬を緩めていた。

 

新三年生の一行―実に合計が九人という大所帯での今回のカラオケだ。ほとんど歌う順番など回ってこないうえにメンツの中にカラオケ大好き主催者―棚町 薫が居るので更に時間は圧迫される。

 

それでも絢辻は楽しそうであった。

 

 

 

「・・源君?」

 

「ん?」

 

 

 

「らららら・・ららら・・ラララ・・♪ラン、ラン、ラン、ランララ・・」

 

 

 

「・・。ん~聞いた事はあるけど曲名は知らないかな」

 

「・・そう」

 

ほんの少し残念そうに絢辻の笑顔が曇る。切りそろえられた綺麗な前髪に少し恥ずかしそうに瞳が隠れた。

 

「でも・・」

 

「・・?」

 

 

 

 

 

 

「『屋上で絢辻さんが口ずさんでいた曲』・・ってことは解る」

 

 

 

 

 

「・・・。ん」

 

 

 

源の言葉にほんの一瞬恥ずかしそうにはにかみながら絢辻は微笑み、嬉しそうに頷いた。

そんな彼女に源も頷いて微笑み返す。

 

 

 

 

―・・今はただ。

 

 

 

俺(I)が成せる事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

短編3 新学年開始・裏 

 

 

 

「絢辻君と2-Aの源を同じクラスに・・?」

 

「はい・・クラス分けって担任教員が全員集まって話し合いで決めるんですよね?だから多野先生・・何とかお願いできませんか?」

 

「あのな茅ヶ崎・・。解って居るとは思うがクラス分けに関してそういう生徒の個人的感情は入れられないぞ。『二人は付き合っている、だから一緒のクラスにしてやれ』など尚更だ」

 

「・・俺だってあの二人がただ付き合っているってだけならこんなこと頼みませんよ」

 

「・・・」

 

「話聞いてると絢辻さん・・俺の思っている以上に今大変な状態みたいなんですよね。支えてあげられる人間がそれこそ誰でもいいんならそれはそれでいいんスが・・」

 

「・・・それが源だと?」

 

「はい。まぁ俺も所詮部外者なんでうまく言えないですけど。余計なお世話かもしんないですしね。でも・・その、無理は百も承知で先生・・お願い、します」

 

「・・。まぁ話は聞いた。でも期待はするな。所詮私の一存で決められることではない」

 

「・・」

 

―その言葉聞けただけでも十分です。

 

茅ヶ崎にとって最早多野は家族を除けば最も信頼できる大人である。

 

「・・なんだ」

 

「いえ」

 

「おっと・・表情に出てたかな」と茅ヶ崎は思わず薄く笑ってしまった自分を諌めた。

 

 

 

 

その数か月後―

 

 

四月 新学年クラス分け公開日

 

 

―・・。有難うございます。先生。

 

張り出された「それ」を茅ヶ崎は眺めつつ、内心そう呟いた。彼が眺めていた「それ」―掲示された「3-A」のクラス名簿を見て。

 

「3-A」クラス名簿より一部抜粋 以下↓あいうえお順 男→女の順

 

 

源 有人

 

絢辻 詞

 

 

茅ヶ崎はそれを見届けてクラス名簿に背を向け歩き出す。確固たる足取りで。

 

礼を言わなければ。

 

桜井、多野だけじゃない。自分をこんな見たこともない、予想だにしない余計なお節介焼きに変えてくれたたくさんの誰かに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

間章 終章 「カンショウ」を経て

 

 

 

 

ある日の放課後

 

食堂野外テラスにて―

 

 

「・・薫」

 

「ん~~?なあによ。直衛」

 

 

「お前『ウノ』って言ってない」

 

 

「・・・。い、言ったわよ」

 

「いつ?」

 

「さ、さっき!そ、その、ごにょごにょ・・(心の中で)・・」

 

「・・・」

 

そんな彼女の手元に無言のまま少年―国枝は「ウノ」の宣言をしなかったマヌケ少女の手札にテラスのテーブルの中心に置かれた山札からペナルティの二枚を追加させる。

 

「うあぁ~~ん・・」

 

悩ましい唸り声をあげて少女―棚町は自分の手札に新たに追加された二枚の札を忌々しそうに見つめて大きな口を心底苦そうにむにゃむにゃ歪める。

勝利を目前にしながら何とも初歩的なミスにより、勝負の混沌の最中に引き戻される瞬間の人間の顔は例外なく滑稽で面白い。

 

「ちぇっ、ふ~~んだ。・・彼氏サマならね~~?そこんトコフツー理解するべきところよねぇ~~?彼女が心で思ってること常に読み取って、理解して、推し量るべきよね~~?」

 

口をツンツン尖らせながら無茶苦茶な理論をぶつぶつ独りごちる少女―棚町。

 

そんな彼女にどうやら勝利の女神も呆れ、見放したらしい。

 

三分後―

 

手元に更にドロ2で二枚追加された状態のまま彼女は敗北。相も変わらず勝負所での詰めの悪さ、甘さを露呈する。

 

基本的に国枝の属するグループはこういう勝負事の際、何事も罰ゲームというものを用意している結構俗っぽい連中の集まりである。「いい勝負が出来ればOK」とか、「勝った側も負けた側も最後は遺恨なく」とか、「すっきり爽やかなスポーツマンシップ」とかとは意外にも縁が無い連中だ。

 

 

「さて・・薫。今日の罰ゲームだが・・」

 

「・・うぅ屈辱だわ。何すればいいのよ・・」

 

「・・良し、じゃあ今日一日お前メイドな」

 

「・・はぁ?」

 

本当に、マジで「頭おかしくなったんか」と言いたげに顔を歪めて棚町は国枝を見下ろすが、「予想の範囲内だ」と涼し気に国枝はその視線を受け流し、財布から徐に小銭を取り出していかにもな「横柄な主人」を演じつつこう続ける。

 

「さて早速だが・・ジュースを買ってこい。今日はちょっと暑いから炭酸飲料がいいな。ほらとっとと。ん・・?どうした返事は?『かしこまりましたご主人様』は?」

 

「・・・」

 

 

数分後―

 

「お待たせ致しました。ご主人様」

 

「む。遅かったな。一体何をやっていたんだ」

 

「申し訳ありません。販売機が混み合っておりまして」

 

全く以て生気の宿らない「主従関係のテンプレセリフ」棒読みの二人。ある意味完璧すぎて監督も「カット」、「NG」出来ないレベルのクオリティーである。

 

「ふぅ全くしょうがないな・・じゃあ・・このジュースはお前にやろう」

 

「・・え?」

 

「さぞかし疲れただろう。混み合う中ジュースを買ってきたのだ。頑張った褒美をやらんとな」

 

「・・・いえ。畏れ多い。滅相もございません。さぁどうぞご主人様。ぐぐっと」

 

「なんだ。遠慮しなくていいぞ?ほら。お前の大好物であろう?炭酸飲料は」

 

「いえそのお気持ちで十分で御座います。さぁお飲みくださいませご主人様」

 

「・・そうか?ならば仕方ない・・では」

 

「・・・」

 

 

 

 

 

「・・絢辻さん?」

 

「?」

 

「少しこの二人から離れよう。危ない」

 

「・・え?」

 

 

カードゲーム「UNO」を三位で上がった少年―源は二位で上がった戸惑い気味の少女―絢辻の手を引き、二人から少し距離を離させる。

 

 

 

 

「薫」

 

「はい?」

 

「やっぱお前にやるコレ」

 

スッ・・

 

「・・へ?」

 

 

 

プシっ・・

 

 

 

 

ブッシュウウウウウウウウウウ!!!

 

 

 

 

「・・・・!!!?ぶっ!!!!!??うべっ!ゲッホ!!!エッホォ!!ゴッホ!!な、ななな何すんのよ!!直衛~~~!!!!」

 

缶の口からまるで間欠泉の如く噴出した炭酸飲料の顔面直撃を前に棚町は素に戻ってベトベトギトギトの顔をしかめながらぷんすか猛抗議する。彼女の狙い、企みを看破し、逆手に取った国枝もそのしてやったりの光景を眺めてご満悦・・どころかこれまた思いっきり顔をしかめて国枝もまた抗議する。

 

「・・こっちのセリフだ。・・ってかナニコレ!?お前っ・・はぁ!?ふっざけんな!?お前どれだけ振ったんだよコレ!?もうほとんど残ってねぇじゃん!!」

 

炭酸飲料に含まれる砂糖の成分で最早ニッチャニチャになった缶の側面をバッチそうに指で摘まみながら国枝はフルフルと缶を振ってみる。が、何とも軽量級な頼りないちゃぷちゃぷ音が響く。恐らく残りは三割ほど、・・いや二割か。

 

「信じらんない!!さいってい!!直衛のバカ!!あほ!変態!!もう別れてやる!」

 

「炭酸飲料と一緒に弾け飛ぶ男女の恋愛」。中々面白い破局への流れである。

 

「ヒトの金で買ったモン台無しにしといてソレ・・!!!?」

 

「買ってきてやっただけありがたく思いなさいよ!!つ~~かなぁにが『メイド』よ!!お給金もなしにこんなのやって(⤴)られる(⤴)かぁ~~!!」

 

「だから『罰ゲーム』なんだろが!大体お前普段もっとえげつない罰ゲーム俺らに振ってくるくせに自分が負けた時はそれかい!」

 

 

 

そんな二人の光景を見て―

 

 

 

 

「くすっ・・あはっあはははははははは!!」

 

 

 

 

 

少し離れて二人を見守っていた絢辻はこらえ切れず吹き出し、盛大に、、そして自然に笑った。おかしくて涙が出るくらいに。

 

 

 

「あははは、あ~~~はははは!ご、ごめんなさい。国枝君、た、棚町さん!わ、笑っちゃいけないんだと思うけど・・ぷっ!あ、ははははっ」

 

 

 

ついには腹を抱えて絢辻は尚も笑いこける。そんなあまりに意外な絢辻の反応を前にして―

 

「・・・」

 

「・・・」

 

呆気にとられ、すっかり毒気を抜かれてしまった国枝、棚町の二人は目を丸めて目線を併せる。

 

―・・意外。絢辻さんってこんな笑い方出来るのね。知ってたのアンタは?直衛・・。

 

―いや・・流石にここまでは。

 

 

そんな二人は笑いこける絢辻の傍に立つ少年―源を見る。彼はいつもの様に笑っていた。

それは二人に対する感謝の意を込めた表情である。

 

「・・薫」

 

「ん」

 

「ホレ半分」

 

「・・ありがと」

 

 

「してやられた」と気付いた二人はもう喧嘩する気にもなれなかった。仲良く二割程残った今の二人には相応しい気の抜けた炭酸飲料を分け合い、なんとも甘苦いその味にお互い苦笑いする。

 

 

 

「3-A」クラス名簿 追記―

 

 

国枝 直衛

 

棚町 薫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




―なんで?


何で貴方達は。

何で。

こんなに面白いの?



国枝君も、棚町さんも。

七咲さんも杉内君も茅ヶ崎君も桜井さんも御崎君も中多さんも。

梅原君も橘君も森島先輩も伊藤さんも田中さんも。

皆。

みんな。

面白くて優しくて温かい。

源君だけじゃない。貴方達も傍に居てくれた。支えてくれていた。


それに気づかずに。・・ううん。ちゃんとホントに向かい合わずに私「達」は過ごしてきたんだと今更ながら気づく。




私は。



そして私「達」は改めて。


・・貴方達に逢いたい。



















いくつもの、たくさんの「干渉」「感傷」「観照」を経て。




彼らの新しい季節は始まる。

















間章                                    完





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