【完結】Innocent ballade (ラジラルク)
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Prologue

 

 

「綺麗な、澄み切った歌声だね」

 

 

 

 男性はそう言うと静かに私を見つめていた。

私の生まれ育った地元の小さな田舎町で行われた小さな夏祭り。その夏祭りののど自慢大会で歌い終わった私の元に真っ先に駆け寄って声をかけてくれたのは友達でもなく親でもなく、見知らぬ男性だった。

 ドンドンと、遠くからは和太鼓の音が聞こえてくる。その和太鼓の音を掻き消すかのように響き渡っているのは夏休みに入ったばかりで興奮冷めやらぬ子供たちの元気な笑い声。そんな騒々しい賑やかなこの場所でも、耳をすませば夏の虫が奏でる綺麗な音色や生温い夏風が揺らす木々の音が聞こえてくる。

 夜とはいえ真夏日が続く最近は暗くなっても項垂れるような暑さが続いており、今日も例外なく蒸し暑い気温がこの小さな田舎町を包み込んでいた。それでも私の間に立つ男性は少しでも暑がるような素振りをも微塵も見せずに、それどころか少しばかり涼しそうな表情さえ浮かべている。お世辞にも若いとはいえる風貌ではないが、だからといってそれほど歳を取っているようにも見えない男性は暖かな眼差しで私の瞳だけを見つめていた。吸い込まれるようなその男性の瞳に、私はなすすべもなく吸い込まれて行く。

 

 

 

「私のところでアイドルを目指す気はないかね?」

 

 

 

 そう言うと男性は胸ポケットから小さな銀色の薄いケースを取り出し、そのケースの中から一枚の紙を両手で私の胸の前に差し出す。私はその紙を男性の顔色を窺うようにしてギクシャクしながら両手で受け取った。

 男性の分厚い手から私のか細い白い手へと渡った一枚の白い長方形の紙。その紙には『765プロダクション 代表取締役社長 高木順二郎』と書かれていた。

その文字列を何度も何度も読み返し、もう一度高木順二郎と名乗る男の元へと視線を戻す。高木順二郎と名乗る男性は変わらず、私を暖かな優しい眼差しで見つめていた。

 

 

 これが私と高木社長の出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

Prologue

 

 

 

 

 

 

 

 高校進学と同時に私は高木社長の765プロダクションへと入社した。私の実家からは少し離れた場所に事務所を構えていたため実家からは電車で一時間もの時間がかかってしまうものの、事務所近くの高校に進学したためそれほど通うのは苦にならなかった。

 そして何より、今まで生まれてから小さな田舎町で平凡に過ごしてきた普通の女の子だった私にとってアイドルの世界は新鮮でとても刺激的な毎日で、学業とアイドルの両立は大変だったが楽しくて仕方がなかったのだ。もちろん、アイドルの世界はとても厳しい世界で養成所に通っていたわけでもなく、ボイストレーニングをしてきたわけでもなく、ただ趣味として歌を歌ってきただけで寧ろ高木社長にスカウトされるまでアイドルになるなんて考えたこともなかった私にとって765プロで受けるレッスンはどれも難しくて大変なものばかりだった。全くの素人としてアイドル候補生になった私はゼロどころかマイナスからのスタートで、結果として入社してからの一年は表立ったアイドル活動をする機会は全くなく、一年間ずっとレッスンを受け続けるだけで終えてしまっていたのだ。

 でも高校二年生になった頃から徐々に表立った活動も増え始めると、梅雨が終わり唸るような暑さが戻ってきたころには私だけの曲が与えられローカルの中でもかなり無名の部類に入るレベルではあるがローカルデビューを果たすこともできた。

 この時は本当に嬉しかった。数は少ないしその数少ない中で本当に私のファンだと言ってくれる人がどれだけいるかも分からなかったが、私の歌を聴くためにお金を払って見に来てくれた人たちの前で私の為だけに作ってくれた歌を歌って、まばらながらも拍手を貰ったりサインを要求されたり――……。

 

 

――去年の努力も無駄じゃなかったんだ。

 

 

 そう思えると同時に「もっと大きな舞台で歌いたい」、「もっと沢山の人に私の歌を届けたい」、そんな欲も私の中で芽生え始めていた。

私の元に後輩たちがやってきたのはそんな頃だった。

 

 

 

「私、アイドルになるのが夢だったんです! まだまだ未熟だとは思いますが、精一杯頑張ります!」

 

「アイドルにはあまり興味がありません。世界的な歌手になりたいと思っているので」

 

「わ、私、引っ込み思案なとこ治したくて……。よ、よろしくお願いします!」

 

「ボク、ダンスには自信があるんです! 昔から色んなスポーツやってきたので」

 

 

 

 春香ちゃんに千早ちゃん、雪歩ちゃんと真ちゃん。

入社した理由も違えば年齢も違う、オーディションを勝ち抜いてきた子もいれば高木社長自らスカウトしてきた子もいる。そんな何もかもがバラバラの四人だったが、皆目指しているものは私と一緒のもだった。皆、「キラキラしたい」、「もっと輝きたい」そういった想いを胸に765プロへとやってきたのだ。

 四人とも私より年下だったせいか、四人が入社したばかりの頃は先輩の私が四人の面倒を見ることが多かった。そして何より四人ともとても素直で優しくて私を慕ってくれて、私たちが仲良くなるのに時間はさほどかからなかった。

 

 

 

「私、家から事務所まで遠いんですよね。だからあんまり家で勉強する時間がなくて……」

 

「なら電車の中で勉強してみるのもいいんじゃない? 分かる範囲であれば私も教えれるから!」

 

 

「サビの部分はもう少し力を抜いてみたら? 千早ちゃんの声質なら多少力を緩めても大丈夫だと思うけどな」

 

「確かに、そうかもしれませんね……。ありがとうございます、次のレッスンで試してみますね」

 

 

「私だけダンス下手だから皆より遅れてるし……。やっぱり私にアイドルはまだ早かったんじゃ……」

 

「私も初めは全然ダンスなんて出来なかったら雪歩ちゃんも大丈夫よ。それに雪歩ちゃんは可愛んだからもっと自信もってやらないと」

 

 

「姉さんの私服って可愛いですよね。良いなぁ、ボクもそんな可愛い服着こなせたらいいのに」

 

「真ちゃんだってきっと似合うわよ! そうだ、今度の休みに一緒にお洋服でも見に行かない?」

 

 

 

 もともと人のお世話をするのが好きだったし、何より四人の後輩たちが皆素直で良い子だったからこうして接する機会が私は嫌いじゃなかった。真ちゃんは私の事を「姉さん」なんて呼んで実の姉のように慕ってくれて、小恥ずかしい気持ちもあったが嫌な気もしなかった。私自身も一人っ子で兄妹がいなかったから、四人が実の妹のように思えることもあって楽しかったのだから。

 

 

――いつまでもこんな時間が続けば良いのにな。

 

 

 時々、私はこんなことを考えていたと思う。

まだまだ無名中の無名ではあるがデビューも出来て、高木社長や律子さんのような優しい大人に囲まれ可愛い後輩たちにも恵まれ、この時の私は本当に幸せだった。事務所に行けばいつも大好きな人たちがいて、そんな人たちと一緒に夢を追いかけていけて、そんな風に充実感を毎日のように感じて私はアイドル活動を続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから一年後。

 

 

 

 

 

 

「あ、先輩お疲れ様です!」

 

「春香ちゃん、久しぶりね。お疲れ様」

 

 

 

 小さなレッスンルームを出た直後、私は春香ちゃんの声に呼び止められて振り返った。おでこの両端に私が去年の誕生日にプレゼントしたリボンを結んだ春香ちゃんの傍には千早ちゃんに雪歩ちゃん、真ちゃん。四人の後ろには四人が入社して間もなく765プロへとやってきた七人の新たなメンバーたちが嬉しそうな眼差しで私を見つめている。

双子の亜美ちゃんと真美ちゃん、やよいちゃんに伊織ちゃん、響ちゃんに私より少し年上のあずささん、年齢は公表されていなから分からないがおそらく私と同じか少しだけ上の貴音さん。

 新たに加わった七人も四人と同じように良い子たちばかりで私はすぐに仲良くなることができた。だからか、今でもこうして皆私を見ると嬉しそうに駆け寄ってきてくれて温かい言葉をかけてくれる。

 

 

 

「明日、ですよね? トークショーとミニライブ。私たちは応援に行けないけど頑張ってください」

 

「ありがとう千早ちゃん。頑張ってくるわね」

 

「姉さんが来るの、ずっと待ってますから! ボク、姉さんと一緒のステージで踊るのが夢なんです!」

 

「真ちゃんもありがとう。私も皆に負けないように頑張ってすぐ追い付くから、楽しみに待っててね」

 

 

 

 右手で握った拳を力強く掲げると真ちゃんは嬉しそうに頷いて笑ってくれた。

私の後輩たちは半年ほど前にメジャーデビューを果たした。『765 ALL STARS』の名でユニットデビューした後輩たちは瞬く間に大ブレイクし、今では事務所で顔を合わせることが珍しいくらいに多忙な毎日を送っている。毎日のように事務所で顔を合わせては他愛もない会話をしていた頃が遠い過去のように思えるほど、後輩たちは遠くに行ってしまった。

 一方で私は未だにローカルアイドルとして細々とアイドル活動を続けている。テレビや雑誌で見る機会が増えた後輩たちを見て悔しい気持ちがないと言ったら嘘になってしまうかもしれない。でも悔しいといった気持ちよりも、後輩たちの活躍を心の底から祝福する私がいた。

 こんなことを言ったら偽善者と言われるだろうか。でも本当に私はまるで自分の事のように、いや、もしかしたらそれ以上に後輩たちの活躍を喜んで応援していた。みんな本当に良い子たちでみんな必死に頑張っていたから――……。だからこそみんな成功してほしい。頑張ったからと言って成功が保証されていないというアイドルの世界を理解してはいたが、それでも素直で優しくて謙虚で、それでいて真っ直ぐな私の大好きな後輩たちには誰一人として挫折してほしくなかった。

 そんな想いが私の中で何よりも一番だった。自分自身のことより、大好きな後輩たちの成功の事ばかりを願っていたのだ。

 

 

 

「それじゃ、皆も頑張ってね! 私応援してるから!」

 

 

 

 そう言って手を振ると後輩たちに背を向けて廊下の一番端にあるロッカー室へと向かった。

 これが765プロで大好きな後輩たちと交わす最後の言葉になるとも予想もせず、私はいつものように何度も振り返って私に向かって手を振ってくれる後輩たちに手を振り返していたのだった。

 

 

 

○○○○

 

 

 

 薄暗いロッカー室に着き、私は手探りで壁に備え付けられたスイッチを探す。何度か感触のないひんやりとしたコンクリートの壁の上を手が泳ぎ、スイッチを捕まえた。カチッと鈍い音が薄暗い部屋に響き、暫くして弱った電気が薄暗い部屋を照らした。

 

 

 

「あら、美希ちゃん。いたのなら電気付ければ良いのに」

 

 

 

 薄暗いロッカー室には先客がいたらしく、狭い部屋の隅のベンチにはパーマが掛かった金髪の髪が特徴的な女の子が座ってイヤホンで音楽を聴いていた。美希ちゃんも私に気付くと嬉しそうにイヤホンを外し、ベンチから勢いよく腰を上げる。

 

 

 

「お疲れ様なの! 今日はもう帰り?」

 

「美希ちゃんお疲れ様。私はもう帰りよ。それより美希ちゃん、またこの曲聞いてたのね」

 

 

 

 私の前で可愛らしくぴょんぴょんと飛び跳ねる美希ちゃんの右手に握ったままになっている黄色のウォークマン。その小さな画面には765 ALL STARSのデビュー曲である『Ready!!』のジャケットが映っていた。ウォークマンに繋がったままのイヤホンからは小さな音ではあるが私の大好きな後輩たちの声が聞こえてくる。

 美希ちゃんは恥ずかしそうに頭を掻くと、ウォ―クマンの画面の下に備え付けられた丸いボタンを押して『Ready!!』を止めた。そして慣れた手つきでイヤホンをウォークマンに巻き付けていく。

 

 

 

「うん、美希毎日聞いてるよ! 早く皆と一緒にこの曲歌いたいなーって思ってるの。そしたらハニーもきっと私の事を好きになってくれるだろうし」

 

 

 

 美希ちゃんが言うハニーという単語に私は思わず苦笑いをしてしまった。

ハニーと呼ばれているのは一カ月ほど前に765 ALL STARSのプロデューサーとしてやってきた赤羽根プロデューサーのことだ。もともとは律子さんが担当していた765 ALL STARSだがその中の亜美ちゃんとあずささん、伊織ちゃんの三人が『竜宮小町』として新たなユニットを組むことになり、そして私のようなローカルアイドルも数人担当していた律子さん一人ではとてもじゃないけど手が回らないから、という理由で765プロにやってきたプロデューサーだ。

 私は直接喋ったことはないが何度かすれ違ったり見かけたりしたことはある。まだ若い男性プロデューサーは遠目から居ても人の好さそうな雰囲気が滲み出ている、優しいプロデューサー。そんなプロデューサーに美希ちゃんは恋心を抱いているのだ。

 

 765プロの中では一番最後にやってきた美希ちゃんは高木社長がスカウトしてきたらしいが、いかんせんマイペースな性格と飽きっぽい性格が災いしてお世辞にも熱心にアイドル活動をしているようには見えなかった。レッスンのドタキャンはいつものこと、暇さえあれば事務所のソファで寝ているし、起きたかと思えばおにぎりを食べてまた寝たり。

 そんな自由気ままな美希ちゃんだったが、赤羽根プロデューサーがやってきてからは見違えるように精力的に活動を行い始めた。もともとスタイルもルックスも歌唱力も、全てを高いポテンシャルで誇っていた天才肌の美希ちゃんが本気になり始めたのだから、最近は結果が目に見えるように出始めていたのだ。

 

 

 

「だってあと一人あの中に入れるかもしれないんでしょ? 絶対その一人に美希がなりたいだもん」

 

 

 

 数週間前から流れ始めていた噂。765 ALL STARSに新たなメンバーを加えるという話が出回りだしたのだ。提案者は律子さんだというから信憑性も間違いない。そして765 ALL STARSに加われるのは一人だけ。

 薄々勘付いていた、その一人が私か美希ちゃんのどちらかから選ばれるということを。私を見ていてくれている律子さんや高木社長の最近の言動を見て私はある程度察していたのだ。

 だが美希ちゃんはそんなことに気付いていないらしく、今もこうして誰か分からない見えない相手に闘志を燃やしている。

 

 

 

「美希ちゃんなら大丈夫よ。絶対765 ALL STARSに入れるから」

 

「ホントに? 先輩にそう言ってもえると本当に入れる気がするの~」

 

 

 

 美希ちゃんも凄く良い子だった。純粋無垢で、私より遥かに可愛いし持っている才能も桁違いにずば抜けている。頑張り始めた動機は不純でも、ここまで熱心になれるのなら理由はなんだっていいのだと思う。

 春香ちゃんたちもだが、美希ちゃんのように必死に頑張っている人には本当に成功してほしい。目的や目標は違っても、本当に頑張っている人の姿はとても美しくてカッコいいのだから。私はそういった人たちを見るとどうしても応援したくなるのだ。自分の幸せよりもそういった頑張っている子たちの幸せを願ってしまう。それがこうして私を慕ってくれる可愛い後輩なら尚更だ。

 

 

 

「それじゃ、私は帰るね。美希ちゃんもレッスン頑張って」

 

 

 

 ロッカーから荷物を取り出し、私はそう言った。

 美希ちゃんは眩しいまでの笑顔で元気に頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

○○○○

 

 

 

 

 

 昔から765プロと交流のあったとあるショッピングセンター。今まで何度もここでお仕事をさせてもらったことがあったが、未だかつてこれほど空気が重い日はあっただろうか。私の横で腕を組む律子さんは唇を噛み締めているし、その横で自分の名前が書かれた襷を掛けた私もどうしても憂鬱な表情を拭うことができなかった。

 今日のトークショーとミニライブがどれだけ重要な物か、私は理解していた。恐らく今日のイベントの結果次第で私が765 ALL STARSに入るかどうかが決まるのだろう。律子さんも今まで以上に気合が入っているのがひしひしと伝わってきていたし、私自身もここが正念場なのだと、このイベントが決まってから今まで以上にレッスンに力を入れ万全の状態で臨んでいた。

 

 だがそんな私たち二人の前には週末だというのに平日以上に人通りが少ない店内の寂しい世界が広がっている。

 

 

 

「ホントにもうっ、なんで今日に限ってこんなことになるかな……」

 

 

 

 律子さんの悔しさが滲み出たセリフだ。

昨晩から降り始めた雨が朝方になるにつれその強さを増し、東京はここ近年で最大ともいえる大雨に見舞われたのだ。激しく振り続ける土砂降りの雨の中、律子さんの運転で何とかショッピングモールに着いたものの、ようやく辿り着いた店の中に人影はほとんどなかった。遠くに見える入り口からは大雨に曝され白くなった外の世界が見える。遠く離れたこの広間にも届く雨音がこの雨の強さを嫌というほど私たちに思い知らせていた。

 

 

 

「とりあえずお客さんは少ないけど、予定通りにいきましょう。目の前を通り過ぎるお客さん一人一人に声をかけていく感じでね」

 

「分かりました。私のデビュー曲である『お願い!シンデレラ』好評発売中です! 午後からはトークショーとミニライブも予定していますので是非ご参加ください!」

 

 

 

 律子さんと一緒に何度も何度もお客さんの少ない店内に向かって声を出し続けた。だが誰一人として立ち止まってくれる人はおらず、私の方をチラッと見てはそのまま通り過ぎていく数少ないお客さんたち。

 何度も何度も私は声を出した。それこそ、午後からのイベントでの体力も使い果たすほどに声を出して呼びかけた。だがそんな私の健闘もむなしく、相変わらず私たちの前に置かれた沢山の椅子に腰かける者は現れなかった。

 

 

――あぁ、これが私の限界なんだな。

 

 

 この時、私はそう悟った。

 これが私の限界なのだと。お客さんが少ないせいかいつもより少しだけ広く感じる店内に響く私と律子さんの声。そのステージの横に設置されたCD販売ブースには朝から一枚も減っていない私のデビューシングル、『お願い!シンデレラ』が山積みになって積んである。たまに通り過ぎるお客さんは私を見て冷ややかな目を浮かべたり、憐れむような目を浮かべたり。何度も心が折れそうになったが私は必死に声を出し続けた。

 

 それから間もなく、街に避難警告が発令されたのと同時に私たちはステージを降りた。当たり前だが午後からのイベントも中止。私たちは無言のまま荷物をまとめ、車に乗り込んだのだった。

 この日、売れた私のCDは三枚。一つは私が買って残りの二つはショッピングモールの社員さんが買ってくれた。

 

 

「この雨じゃ仕方ないわよ。またお願いね。私、765プロさん応援してるから」

 

 

 帰り際にCDを買ってくれたショッピングモールの女性がそう言ってくれた。私たちは力なく、「ありがとうございました」と言うのが精一杯だった。

 

 

 

 

 

 

○○○○

 

 

 

 

 

「律子君から話は聞いてるよ。昨日は大変だったそうだな」

 

 

 

 次の日、日曜日だというのに私は事務所へと向かい高木社長にイベントの報告を行った。高木社長は私の手短な報告を受け、初めて出会った時から僅かにしわが増えた表情を歪ませ、唇を噛むと静かにそう呟いた。

 高木社長の座る椅子の向こう側、大きな窓からはどんよりとした鼠色の空から細々と雨が降り注いでいる。昨日よりは雨はだいぶ弱まったが今日も朝から細かな雨がこうして振り続けている。古びたこの雑居ビルの下には色とりどりの傘が行き交っていた。

 

 

 

「それで、話とは?」

 

 

 

 高木社長が私の心の奥底を必死に探ろうとし、背もたれに付けていた背中を起こし両肘を付くと顎を両手の上に乗せて前かがみになる。「高木社長にお話したい事があります」、そういった旨のメールを昨晩送ったのは私だ。日曜日は休みにもかかわらず、高木社長はいつものようにキッチリとスーツを着てネクタイを締め、嫌な顔一つせず事務所まで来てくれたのだ。

 

 私は一度目を瞑り深呼吸をした。その瞑った瞼の裏に映ったのは私の大好きな可愛い後輩たち。笑顔で私の名前を呼んで、慕ってくれた大事な後輩たちの姿だった。

 

 私はゆっくりと目を開ける。高木社長は私の言葉を黙って待ち続けていた。

 

 

 

「私、今日限りでアイドルを辞めようと思います」

 

 

 

 私の言葉に高木社長は黙ったままだった。薄暗い社長室に響くのは外の世界の雨音だけ。昨日より遥かに弱まったはずの雨音が昨日より遥かに大きく聞こえる。

 高木社長の言葉を待ったが高木社長は何も言わなかった。まるで私の次の言葉を待っているように、ただただ両手の上に顎を乗せたまま、私を真っすぐに見つめていた。

 

 

 

「昨日のイベントも確かに天気のせいもあったと思います。でもそういうのも含めて私の実力なのだと、そう思うんです。運も実力のうちって言うじゃないですか。運も含めて、私には実力がなかったのだと思います」

 

「……そうか。分かった」

 

 

 

 社長はゆっくりと言葉を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。

 そして私の背中を向け、どんよりとした雲が覆う外の世界を眺める。背中しか見えないから高木社長の表情は見えない。だが、その高木社長の背中がほんの少し寂し気な感じがしていた。

 

 

 

「君の歌声を初めて聞いた時、すっかり私は君に惚れ込んでしまった。歌声も勿論だが君にアイドルになる為のとてつもない才能を感じたのだから」

 

「そんな……、勿体ないお言葉です」

 

「だが君にはアイドルを目指す上で決定的なものが欠けていた……」

 

「分かってます、でも私には……、誰かを蹴落として上に行くことなんてできませんでした。ここにいるみんなが大好きですから」

 

 

 

 

 高木社長は驚いたように私の方を振り返った。私は目を見開いた高木社長に笑って見せる。

 

 

 

「……気付いていたのか」

 

「自分のことですから。自分が一番分かっているつもりです」

 

 

 

 私の笑顔に釣られ、高木社長は力なく笑った。

 そしてすぐにまた私に背中を向け視線を外の世界へと戻す。窓で遮られた外の世界、その隔たりである白い窓に高木社長は優しく触れた。

 

 

 

「蹴落とすことだけが全てではない、そして誰かを蹴落とすことが正しいとは私も思わん。だが、誰かが幸せになるためには誰かが不幸にならねばならん」

 

「そう……、ですね」

 

「それが嫌で黒井と決別したはずなのに……。皮肉なもんだな」

 

 

 

 高木社長の声が微かに震えていた。そのせいか、私の目に映る大きな背中も少しばかり震えているような気がする。

 

 

 

「ここにいるみんなが君の事を慕っている。天海君たちの今があるのも君のお陰だと思っている。だからこそ、君だけは何とか成功させてあげたいと思っていた……」

 

 

 

 背中を向けたままの社長はいつの間にか優しく窓に触れていた右手が力のこもった拳に変わっており、反対の左手では力なく目元を抑えていた。

 

 

 

「本当に申し訳ない、君をブレイクさせてあげれなかったのは私の実力不足だ。本当に申し訳なかった……」

 

「やめてください、社長。私、社長に感謝してるんですよ? ここに連れてきてもらえなかったらみんなとも出会えなかったんですから」

 

 

 

 私は静かに高木社長の元へと歩みより、高木社長の大きな背中を小さな細い手で擦った。ついに我慢できなくなったのか、高木社長は声を上げて泣き始めている。それでも私は何も言わず、静かに高木社長の背中を擦り続けた。

 本当に高木社長には感謝していた。あの時声をかけてくれたこと、ここで素敵な仲間たちに出会わせてもらったこと、そして泣くほどまでに私の事を大切にしていてくれたこと――……。もしあの時声をかけてくれなかったら、きっと私はあの小さな田舎町にいたままでこんな素晴らしい出会いと経験をすることができなかったのだから。

 

 この気持ちを伝える最適な言葉が見つからなくて、私は高木社長の背中を擦ることしかできなかった。

 

 

 

「高木社長? 私、勉強して大学に行こうと思います。今はまだ何もないけど、大学で私のやりたい事を見つけるつもりです。そして私の最後のわがままを二つだけ、聞いてもらえませんか?」

 

 

 

 高木社長は私に丸めた背中を向けたまま、頷いた。溢れ出る涙が左手を伝って薄暗いこの社長室にポツポツと流れ落ちている。

 

 

 

「私のデビュー曲である『お願い!シンデレラ』ですが、いつか私よりもっとあの曲が似合って歌いこなせる子が現れたらその子に与えてあげてください。あの曲を私は歌いこなせなかったけど、凄く良い曲なので私みたいな売れないローカルアイドルだけで終わらせるのは勿体ないと思っているので」

 

「……分かった。作詞家の人も私の古い友人だ。頼んでみるとしよう」

 

「ありがとうございます。そしてもう一つのお願いですが、765 ALL STARSの最後の一人に良ければ美希ちゃんを入れてあげてください。あの子は素晴らしい才能を持っています。私みたいな人間が意見するのも図々しいとは思いますが、是非ご検討ください」

 

「……そうだな、分かった。君の言う通り検討させてもらうよ」

 

 

 

 高木社長の言葉に私は背中を擦る手を止め、深々とお辞儀をした。高木社長はようやく私の方を振り向いてくれたが、溢れ出る涙を止めるのに必死で目元が左手で覆われたままになっている。

 そんな高木社長を見て、私は静かに笑った。そして、一歩だけ後ろに下がるともう一度だけ深々と頭を下げたのだった。

 

 

 

「それでは高木社長、本当に今まで長い間お世話になりました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから八年の月日が流れた。

 

 八年という長い時間が流れ、二十六歳になった私は――……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「プロデューサーさん、お待たせしました。来週のニュージェネレーションズのライブの最終資料です」

 

「ありがとうございます、千川さん」

 

 

 

 私――……、千川ちひろは346プロダクションのアイドル部門のアシスタントとして働いていた。

 

 

 

 



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Episode.1

 

 

 まだ冬の肌寒い風が残っていながらも、次第に殺風景な状態で厳しい冬を乗り越えた木々の枝の先には小さな蕾が宿り、それがやがて春の訪れと冬の終わりを告げるピンク色の桜へと花開く。

 新たな環境へと進学する若者、新社会人として社会に出て行こうとする新品同様のスーツを着た若者、旅立って行く先輩たちを名残惜しく見送る残された後輩たち。そしてそんな若者たちの旅立ちと別れを微笑ましく見守り、若かりし頃の自分を思い出しちょっとばかりノスタルジックな想いになる大人たち――……。

 通勤のため毎日のように利用している、見慣れたこの電車。この狭い電車に乗っている乗客一人一人にもそういったドラマがあり、この季節は車内に寂しいような、でも何処か新たな世界への旅立ちに心躍らせているような、そんな様々な乗客が抱える想いが交錯して毎年のように独特な空気が流れている。いつもとは少しだけ雰囲気の違う電車を降りて駅を出た私を出迎えてくれるのは桜の花びらが降り注ぐピンク色一色に染まった並木道だ。

 一直線に伸びたこのピンク色の並木道の入り口の前で私は思わず足を止めてしまった。毎年のようにこの風景を見ると思い出してしまうのだ、もう二度と戻ってこない一度きりの高校時代を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「アイドルになる」というあの頃の私の夢は結局叶わなかった。

 あの頃の私は確かにキラキラしたアイドルになることを夢見ていた。そのことに嘘偽りはなかったのだが、そんな自分の夢を叶える為に誰かを蹴落とすということが私にはできなかった。高木社長が言ったように誰かを蹴落とすことだけが全てではないが、実際にはアイドルとして生き残るためには必然的に誰かを蹴落とさなければならない。どんなに綺麗事を並べても、それはアイドルを目指す上で避けては通れない道なのだから。だが私はそのことを理解してはいながらも765プロのみんなが大好きで、とてもじゃないが大好きな人たちを蹴落としてまで自分の夢を叶えようと思うことができなかったのだ。

 私はもうその時点でアイドルには向いていなかったのかもしれない。だから「叶わなかった」なんて、そんな本気で頑張った人が言うような言葉を私は口にしなかった。私は戦うことすらしないで自らの意志で辞めただけなのだから。

 

 夢を諦めた私は高校を卒業後、高木社長に話した通り大学へと進学し平凡な時間を過ごした。勉強、バイト、サークル、そしてたまに大学で出来た新たな友人たちと飲みに行ったり――……、765プロでアイドルをしていた頃とは比べ物にならないくらいありふれた平凡な日々。刺激がないと言えばそうなのかもしれないが、私はそんな平凡な時間も嫌いじゃなかった。そう思えたから、アイドルになる夢を諦めても未練がましく引きずることなく切り替えて平凡な日常を生きる事ができたのかもしれない。

 そして大学四年生の時にこの346プロダクションの求人を見つけ、すぐに応募した。結果は採用。アイドルになれなかった私がアイドルを目指す若い子たちが集まる場所で働くのも何かのご縁なのかなと、そんなことも考えたりしたものだ。

 あの頃憧れていたアイドルにはなれなかった。だけど、私と同じように夢に向かって頑張る若い子たちの手助けが出来たらと思う。これが私の大学生活で見つけた新たな「やりたいこと」だったのだから。

 

 

 

 

「ねーねー、しまむー。今度駅前のお店行ってみようよ!」

 

「新しく出来た喫茶店ですよね? ちょうど私も行きたいと思ってたんです!」

 

 

「だからさ、ここはもっとカッコよくロックに決めた方が良いんだって」

 

「何言ってるにゃあ? どう考えても猫耳付けて可愛く行くのが良いに決まってるにゃ!」

 

 

 

 

 いつものように賑やかなみんなの笑い声がプロデューサーオフィスで一人書類の整理を行っていた私の元まで聞こえてきた。思わず笑ってしまうと私は作業をする手を止め、目を瞑り耳を澄ませると、本当に楽しそうな皆の声が私の頭の中でこだまする。そしてそんなみんなの笑い声と昔の私を照らし合わせて、765プロにいた頃の自分を思い出していた。

 春香ちゃんに勉強を教えたり千早ちゃんと一緒に自主トレに励んだり、何か失敗するたびに落ち込む雪歩ちゃんを励ましたり真ちゃんと休みの日に一緒に洋服を買いに行ったり――……。もう八年前のことなのに、二十六歳になった今でもあの頃の日々は何一つ欠けることなく鮮明に覚えていた。

 

 暫くして閉じたままの瞼を開き、手に持っていた書類を机に置くとそのままゆっくりとプロデューサーの机の裏側へと回った。大きなガラス窓から見下ろした街並みはピンク色に染まっている。去年の今頃もこうしてこの部屋から春の街並みを見下ろしていたな、なんて思い出し一人で苦笑いしてしまった。

 

 

 早いものでシンデレラプロジェクトが始動してもう一年が経過した。ちょうど今のように桜が満開で東京の街並みをピンクで染めている頃、不安と緊張を抱えて346プロにやってきたシンデレラプロジェクトの十四人。こうして一年が経った今振り返ってみると、本当に色々なことが起こった一年間だったと思う。

 デビューの目途が立たないことに反発してストライキを行ったみくちゃん、ミニライブ後にアイドルを辞めると言い出した未央ちゃん、ようやく落ち着いてきたかと思った矢先のシンデレラプロジェクト解体の噂、そしてニュージェネレーションズのクリスマスライブ直前にスランプに陥った卯月ちゃん――……。アイドルになる夢を諦めた過去があるからか、あの時の卯月ちゃんを見ているとまるで自分の事のように胸が痛んだのだ。

 

 実は数年前にも同じようなことがあった。ある日突然週刊誌で大々的に報じられた千早ちゃんの壮絶な過去。あの時、千早ちゃんが精神的ショックのせいで声が出せなくなりそのまま引退するのではないかというニュースを見た私はジッとしてられず、スクープから間もなくして行われた765プロの定例ライブに足を運んでいたのだ。もう765プロを辞めてしまった私に出来る事なんて何もないのかもしれない、だけど私はジッとしていることができず、765プロを辞めたあの日から一度も行かなかった765 ALL STARSのライブへと駆け付けた。

 ライブの終盤、一人でステージに上がった千早ちゃんはやはり声を出すことができなかった。でもすぐに舞台袖から春香ちゃんたちが飛び出してきて、千早ちゃんを支えるような形で千早ちゃんのためにみんなが作った「約束」を歌って見せた。そしてみんなの支えによって、千早ちゃんは無事いつものような美しい歌声を取り戻すことができたのだ。 

 そんな千早ちゃんの復活劇を見届けた私にはいつの間にか立派になっていた後輩たちを見て嬉しく思う反面、少しばかり寂しい気持ちにもなった。もう私の出る幕はないんだなと、この時になって今更ながら痛感させられたのだから。

 

 そして卯月ちゃんも自分自身の力でスランプを乗り越えて見せた。いつの間にか私たちの知らないところで立派に成長していたみんなを見て、千早ちゃんの時と同じような感情になってしまっていたのだ。

 若い子たちの成長速度は本当にあっという間で、時には大人の予想以上のスピードで逞しくなっていく。なかなか人に心を開けなかった千早ちゃんが少しずつ自分の殻を破れるようになって、いつも失敗ばかりで落ち込んでいた雪歩ちゃんが大勢のファンの前で笑顔でダンスを踊れるようになって、そして周りのメンバーたちに劣等感を感じて自分を見失っていた卯月ちゃんが自分を信じれるようになって――……。みんな予想を遥かに上回るスピードで逞しく成長して私たち大人を驚かせてくれた。きっとこうやって人は成長して、いつしか私たち大人の助けが必要ないくらい立派な大人になるんだろうなと思う。まるで我が子が自立していく姿を見守る親のような心境で、私は陰ながらこうしてみんなの成長を見届けてきたのだ。

 

 

 

 

 そんな感傷に浸っていた時、控えめにドアをノックする音が三度ほど聞こえてきた。私は「どうぞ」と返事をすると少しばかり名残惜し気に桜が彩っている街並みから視線をノックの音が聞こえたドアの方へと向ける。

 静かに開けられたドアノブを握っていたのは美波ちゃんだった。ドアノブを握る手とは反対の手には小さな紙袋が握り締められている。

 

 

 

 

「プロデューサーさんは……、今日はお休みでしたっけ?」

 

 

 

 

 ドアノブに手をかけたまま、美波ちゃんは私しかいないプロデューサーオフィスをキョロキョロと見渡している。

 

 

 

 

「えぇ、明日は出社すると思うけど。プロデューサーさんに用事?」

 

「コレ、返しに来たんです。舞踏会のライブDVDなんですけど、みんな見たみたいだから」

 

 

 

 

 美波ちゃんは左手に握っていた紙袋を肩の位置くらいまでに上げて私に見せると、ドアノブを握ったまま礼儀正しく一礼して私の元へと歩んできた。ドアが静かに閉まり、私と美波ちゃんしかいないプロデューサーオフィスには美波ちゃんの白いヒールの音だけが鳴り響いている。

 冬に行われたシンデレラプロジェクト存続を賭けた舞踏会。その時の映像がDVD化され、もう間もなく一般販売されることになっている。毎回こうして自分たちが出たライブが映像化されて販売される時は、販売前に会社から何本か試作品を受け取りシンデレラプロジェクトのみんなで順番に回して映像を見ているのだ。

 美波ちゃんが持ってきた紙袋を受け取り、中身を確認する。試作品の状態だからまだカバーなどはなくシンプルな透明なケースに入っただけのDVDには「試:舞踏会ライブ」と書かれたラベルが貼られているだけだ。

 

 

 

 

「美波ちゃん、ありがとう。明日プロデューサーさんに渡しておくわね」

 

「ありがとうございます、ちひろさん」

 

 

 

 

 美波ちゃんはもう一度だけ礼儀正しくお辞儀をすると再びヒールの音を鳴らし、プロデューサーオフィスから出て行ってしまった。

 バタンっ、とドアが閉まる音が聞こえるまで出ていく美波ちゃんの背中を見送った私は再びこのプロデューサーオフィスで一人になった。再び静まり返ったこの部屋で壁に掛けられた時計を見ると二本の針はもうすぐ一直線になろうとしており、昼休憩の時間が近づいていることを報せていた。今日はプロデューサーもお休みで今西部長も出張で会社を離れている。仕事もそれほど溜まっているわけでもなく、特別急ぎの仕事があるわけでもない。

 

 

――ちょっと早いけど、もう昼休憩にしようかな。

 

 

 自分に言い聞かせるようにしてそう呟くと、私は軽く息を吐き両腕を思いっきり天井へと伸ばした。暫くそうやって疲れた身体を解すと、プロデューサーの机に設置されたデスクトップパソコンの電源をそっと付ける。暫くしてデスクトップの画面になったことを確認すると大きなディスプレイの隣に置かれた本体機器の右端にある長方形のボタンを押した。カチッ、という小さな音と共に出てきたトレイ。先ほど美波ちゃんから預かった舞踏会のライブDVDをセットし、軽く親指でトレイを押し戻す。DVDを飲み込んだ本体機器から少しばかり鈍い音が響いたかと思うと、すぐに大きなディスプレイに舞踏会の時の映像が流れ始めた。

 確かこの時はアンコール前に歌っていたはずだから……。慣れた手つきでマウスを操り、スクロールバーを動かしながら映像を確認する。そして全体の三分の二ほどの位置で私が探していた場面を見つけ、スクロールバーからポインターを離した。

 

 

 

 

『それでは聞いてください、お願い!シンデレラ』

 

 

 

 

 アップで映る白いドレスを着た美波ちゃんが汗を流したままの笑顔でそう叫ぶと、すぐに聴き慣れたイントロが流れてきた。そのイントロを聞いた観客席からは溢れんばかりの大歓声が上がっている。それから少しカメラアングルは離れ、ステージに立つシンデレラプロジェクトの十四人全体を映す。画面の下の方には『お願い!シンデレラ』の文字と、この曲の作詞をしてくださった方の名前が字幕として表示されている。その字幕を見て、私は高木社長の事を思い出した。

 

 

――私のお願い、ちゃんと聞いてくれたんですよね。

 

 

 あの日の涙ぐむ高木社長の姿を思い出してしまい、私は思わず頬を緩めてしまった。

 

 大学を出て346プロで働き始めてからの四年目の昨年、私は新たなに新設されたシンデレラプロジェクトのアシスタントとして抜擢されることとなった。そしてどんな偶然があったのか、シンデレラプロジェクトのデビュー曲として私の最初で最後の持ち歌であった『お願い!シンデレラ』がカバーされることになったのだ。

 シンデレラプロジェクトがこの曲をカバーするまでの過程で高木社長や作詞家の方とどのようなやり取りがあったのかは私は何も知らされていない。唯一私が分かったのは、高木社長があの日の私のわがままを聞いてくれたことだけだった。

 『お願い!シンデレラ』が私の曲だったなんて、きっとみんなが知ったら驚くだろう。私はシンデレラプロジェクトのメンバーどころか、プロデューサーにさえ過去に私が765プロでアイドルをしていた事を話していない。そしてこれからも話すつもりもない。だからきっとシンデレラプロジェクトのみんなは何も知らないまま、私が昔ずっと歌っていたこの曲を歌い続けるのだろう。

 でも、私はそれで幸せだった。私の大好きなシンデレラプロジェクトのみんなが私の大好きな曲を歌ってくれて、あの日の私の願い通りになったのだから。私のような売れないローカルアイドルには勿体ないこの曲を、シンデレラプロジェクトのみんなが歌ってくれたおかげでこうやって沢山の人に聞いてもらうことができたのだから。

 

 そしてもう一つのお願いも高木社長は聞いてくれていた。私が765プロを辞めて間もなく公式発表された765 ALL STARSへの新メンバーの加入。金髪の長い髪を揺らし、笑顔でみんなとステージに立つ美希ちゃんをテレビ越しで見て、私は何度も何度も心の中で高木社長にお礼を言ったのだった。

 天才肌の美希ちゃんはすぐにブレイクし、瞬く間にハリウッドにまで進出した。今ではモデルにタレント、芸能活動にと幅広いジャンルで活躍するアイドルにまで成長している。超が付くほどの売れっ子になりながらも、天狗になることなくあの頃と変わらないマイペースなまま自分の道を行く美希ちゃんを、私はずっとテレビ越しで応援していた。

 

 テレビでは昔の後輩たちが変わらず元気に活躍していて、会社に来ればあの頃の春香ちゃんたちのような真っすぐで素直な可愛いシンデレラプロジェクトのみんなに会うことができる。

 だから私は今の生活に満足していた。遠い世界に行ってしまった765プロの後輩たちも、シンデレラプロジェクトのみんなも、私は本当に大好きなのだから。

 

 

 私の夢は叶わなかった。だけど、私は今の平凡な日常を気に入って楽しんでいる。例えそれが昔憧れていた自分の生活とは違っていたとしても、私は心の底から満足できる生活を送れているのだから幸せなのだと。私は平凡に流れていく日々の中で、そんなことを考えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 そうは思ってはいるものの、そんな私の本心とは裏腹にこうしてシンデレラプロジェクトのライブDVDを見る度に私の身体はウズウズしていた。大学を卒業してから仕事ばかりで運動する機会もなく、こうして鈍った身体と持て余した体力が燻り続けているのだ。

 

 

――誰も、いないよね?

 

 

 確認するかのようにプロデューサーオフィスをぐるっと見渡してみる。当然だが部屋にいるのは私だけで、部屋の外からは変わらずシンデレラプロジェクトのみんなの楽しそうな話し声が聞こえてくるだけだ。その事実を何度も何度も確認して、私はディスプレイに流れているシンデレラプロジェクトのみんなが歌う『お願い!シンデレラ』の映像を見ながら少しばかりパソコンから離れた位置に移動した。そして少しばかり恥ずかしい気持ちを持ちながらも、軽く膝を曲げて腰に手を当ててみる。

 

 

――確かここはこうで、この次がターンで……。

 

 

 私の身体は意外にも記憶力が良かったらしい。あの頃、毎日のように踊っていたこの曲の振り付けを八年が経った今でも錆びることなく身体に染み込んだままだったのだから。

 当然だがシンデレラプロジェクトのみんながカバーすることになり振り付けもだいぶ変わってしまっていた。だから私はシンデレラプロジェクトの映像を見て踊っているはずなのに、画面の中のみんなとはまるで違うダンスをしているという奇妙な行動をとっている。だけどこの部屋には誰もいなくて、私のこんな奇妙な行動に不信感を持つ人もいなければ不愉快になる人もいない――……、私だけの世界なのだ。だから私はいつの間にか昔を思い出し、身体に染み付いて取れることのなかったこのダンスを一人で踊って楽しんでいた。

 久しぶりにこうして踊ると不思議なことに気分が良くなって、思わず歌詞まで口ずさんでしまう。歌詞はカバーされても何一つ変わることもなく、曲調もほぼほぼ同じだったから私はパソコンから聞こえてくるみんなの声とズレることなく、懐かしい歌詞を歌うことができた。

 

 

 

「なみだのあーとには……」

 

 

 

 いつの間にか自分の世界に入り込んでしまっていて、制服のままターンまで決めてしまった時だった。反転した先に立っていたのはドアノブに手をかけたまま固まってしまっている凛ちゃん――……。凛ちゃんは驚いたように目を見開き、その見開いた目で黙って私を見つめていた。

 あまりにも夢中になり過ぎて、私だけの世界に侵入してきていた凛ちゃんの存在に全く気が付いていなかったらしい。恥ずかしげもなくノリノリで歌詞を口ずさみながらターンまで決めてしまった私は、そんな私を見ていた凛ちゃんの姿を見て思わず身体全体に熱が駆け巡り始めた。数秒前まで久しぶりなのに思っていたより身体が動くなー、なんて我ながら感心していた私の身体だったが今はまるで金縛りにあったかのようにその場で固まってしまっている。

 

 

 

「ごめん、邪魔しちゃったかな」

 

「あ、いえ。全然大丈夫です、あははは」

 

 

 

 凛ちゃんの言葉で私の身体に懸けられた金縛りは一気に解けた。解けたかと思うと、また蘇ったように私の身体中を熱が帯び始める。あまりに顔が熱くて、私は思わず両手の小さな手で必死に扇ぐ。凛ちゃんはそんな私を物珍しそうな瞳でジッと見つめていた。

 

 

 

 

「プロデューサーに用事があったんだけど、今日は休みなんだよね」

 

「そ、そうですね! 急ぎだったら私が伝えておきましょうか?」

 

 

 

 身体が熱いせいか、上手く呂律が回らなかった。

 だが一人で慌てている私とは対照的に、凛ちゃんはいつものように高校生とは思えない落ち着き払った態度のままだ。

 

 

 

 

「いや、いいよ。明日直接言うから。それよりちひろさんって歌、上手いんだね」

 

「え、あ、えっ!? そ、そうかなぁ……。あははは」

 

 

 

 

 もうどうすれば良いのか分からず、私は熱で赤くなっているであろう表情を隠すように前髪に手を伸ばした。やはり、一人の世界に入り込んだ私を凛ちゃんは見ていたようだ。

 

 

 

 

「ダンスも素人じゃないでしょ? もしかして昔、何かやってたの?」

 

 

 

 

 少しだけ驚いたような表情で首を傾げる凛ちゃん。

 凛ちゃんは勘の鋭い子だった。とても高校生とは思えない落ち着いた雰囲気、そして特徴的な翠色の眼差しで見つめられると、私の心の奥底まで見透かされているような気になってしまう。勿論、当の本人は私が昔アイドルをしていたことも、この曲を歌っていたことも何も知らない。そうは分かっていても、本当は私の全てを知っているのではないかと錯覚してしまうほどに凛ちゃんの澄んだ翠の眼差しは不思議な力を持っているのだ。

 そんな翠の眼差しから逃げるようにして視線を逸らすと、私はプロデューサーオフィスの隅に置かれた私の茶色いバックを手に取る。もう一度だけ窓からピンク色に染まる東京の街並みを見下ろすと、手に取ったバックをゆっくりと肩にかけた。そして小さく深呼吸。

 

 

 

 

「……昔、趣味程度でやってただけよ」

 

 

 

 

 それじゃ、私はお昼に行ってくるから。

 そう言い残して凛ちゃんの傍を通り過ぎた。凛ちゃんは私とすれ違うギリギリまで何か言いたげに翠の眼差しで私を見つめていたが、結局それ以上は何も言わなかった。

 

 そのままシンデレラプロジェクトのオフィスルームを出てエレベーターへと乗り込む。何処も昼休憩時のようで少しばかり窮屈になったエレベーターを降りると、私はそのまま会社の外へと出た。会社の外も上から見下ろした景色と同じように、満開になった桜が綺麗に咲き誇っている。太陽も出て気温もそこまで寒くない今日は、コートを脱いでベンチに座りながら昼食をとっている人も沢山いた。そんな光景を見る度に、またこの季節がやってきたんだなぁ、と思う。

 今年も沢山のアイドル候補生たちが胸に不安と期待を抱え、346プロへとやってきた。少しばかり不安げで落ち着かない雰囲気の若い子たちを見ると私まで初々しい気持ちになってしまう。

 

 そして初々しい気持ちになる度に、私は思い出すのだ。今年も346プロにやってきたアイドル候補生のような頃が自分にもあったことを。

 

 

 

 お世辞にも施設が充実しているとは言い難い765プロダクション。今私がいる346プロとは比べ物にならないくらい貧相で、とてもじゃないが知らない人にアイドルを抱える会社だって言っても信じてもらえないような小さな会社だったのかもしれない。だけど私にとってはとても大切で貴重な時間を過ごした、何にも代えられない思い出の場所なのだ。

 

 あの古びた雑居ビル、狭い廊下に閉まりの悪いロッカー室のドア、狭くてもみんなの温かい笑顔と優しさに溢れかえっていた小さな事務所、そして誰よりも優しくアイドルを見守ってくれていた高木社長――……。

 

 

 

 

「懐かしいなぁ」

 

 

 

 

 綺麗な桜の木々を見上げ、私は静かに呟いた。

 毎年この桜が咲き誇る中、これから始まる新たな世界での生活に胸躍らせてやってくるアイドル候補生たちを見るとこうして765プロのことを思い出してしまうのだ。

 そして桜の花びらが春風によって舞うこの場所で懐かしい過去を思い出す度に、私の胸は何とも言えないような甘酸っぱい想いでいっぱいになってしまうのだった。

 




ちなみに明日はちひろさんの誕生日だとか。

おめでとうございます(-_-)


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Episode.2

 

 

 

 

 今年の春先には綺麗に咲き誇っていたものの、例年のようにその寿命は長くはなかった。つい最近綺麗なピンクの花を咲かせ春の訪れを報せていた桜も、気が付かないうちにその綺麗な花びらを散らしてしまっている。私たちに春の到来を報せる為だけに咲いた桜は、今となってはもう殆ど残っていない。ごく僅かに残っている桜も、数日前の満開時の面影は微塵もなく、今すぐにでも力尽きてしまいそうなか弱い姿になってしまっている。

 あれだけ私たちを震え上がらせていた冬の寒さも今となっては跡形もなく消え、ピンク一色に染められていた東京の街は徐々に本来の姿を取り戻そうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 年度末の怒涛の慌ただしさを乗り越えたかと思いきや、休む間もなく今年度から新たに346プロにやってきたアイドル候補生たちの手続きや研修などで今年の春もあっという間に過ぎ去ってしまった。気が付けば綺麗に咲き誇っていた桜も散ってしまい、最近は暖かい日も続くようにもなった。ようやく長かった冬も終わり、年度末と新年度の前後で会社全体が慌ただしくなっていたここ346プロも少しずつ落ち着きを取り戻し始めている。ほんの数週間前まで新たな環境に移ることになり気を張り巡らせていた若者たちも、新たな環境にも慣れ始め今頃から少しずつ肩の力を抜き始める頃だ。

 346プロも例外ではなく、会社全体としても期待と不安を胸に四月からやってきたアイドル候補生たちも、とりあえずは最初の一仕事を終え一安心――……、といった雰囲気が車内には広がり始めていた。

 

 

 

「それではシンデレラプロジェクト全員分の新プロフィール、お任せしてもよろしいでしょうか?」

 

「はい、大丈夫ですよ。まとめて美城専務に提出しておきますね」

 

 

 

 ありがとうございます、そう言われると一年前には想像もできなかった柔らかな笑顔を浮かべるプロデューサーから十四枚の紙が入ったクリアファイルを受け取った。

 アイドルたちは年度が切り替わるこの時期に新たなプロフィールを提出することが求められている。スリーサイズは勿論、身長や体重まで全て測り直して今までのプロフィールの上から最新のプロフィールに書き換える為だ。今年も年度末が近付いてきた頃からシンデレラプロジェクトの皆も各々でダイエットや食事制限をしたりして、なるべく良い数字をプロフィールに書けるようにと地道な努力を続けている姿を陰ながら見守っていた。

 成長期の子供たちは自分の身長が伸びたことに喜び、成長期を終えた子たちは自分の体重を見て声にならない悲鳴を上げる。若い女の子たちにとって身体測定というのはとても重要な意味を持つ一大イベントの一つなのだ。

 

 同じ女性としてクリアファイルの中身がちょっと気になってはいたものの、こっそり見るのはなんだかシンデレラプロジェクトの皆に悪い気がして私はクリアファイルを握った右手をそのまま胸の前から下ろした。そしてプロデューサーに向かって軽く一礼するとプロデューサーオフィスを出てそのままプロジェクトルームを後にする。昼休憩が終わったばかりのせいか静まり返る廊下を一人で歩き、四つのドアの前に立つと間もなくしてやってきた無人のエレベーターに乗り込んだ。最上階の数字が書かれたボタンを優しく押すと私だけが乗ったエレベーターはノンストップで登っていき、最上階で止まった。私はエレベーターを後にする。

 ビルの最上階のエレベーター前には他の階とは少しだけ違う、豪奢なドアがドッシリと構えていた。右手の人差し指を軽く曲げて二度ほどノックすると、部屋の中から人がドアに近付いてくる足音が聞こえてくる。

 

 

 

 

「……ちひろか」

 

 

 

 

 少しだけ開けたドアの隙間から顔を覗かせた美城専務はそう呟くと、少しだけ唇の両脇を吊り上げ嬉しそうにドアを開け私を招き入れてくれた。

 

 

 

 

「お疲れ様です、美城専務。今、お時間大丈夫でしたか?」

 

「大丈夫だ。それと、私たち二人だけの時はその堅苦しい呼び方を止めろと言っているだろう?」

 

「……そうでしたね、美城さん」

 

 

 

 

 そう言って笑って見せると、美城専務もいつのもの硬い表情を少しだけ崩して笑顔を浮かべる。いつも固く強張らせた美城専務の表情がこうやって柔らかくなることを、私だけが知っていた。

 実は美城専務と私の付き合いは古く、私がまだ765プロでアイドルをしていた頃、他の会社でアイドル活動を行っていた美城専務と一緒にお仕事をしたことが何度もあったのだ。当時の私はまだ高校生で美城専務は確か二十代半ば――……。少し歳が離れてはいたが、美城専務は私を妹のように可愛がって面倒を見てくれていた。

 346プロダクション会長の娘であった美城専務は私がアイドルを辞める少し前にアイドル活動を引退しこの仕事を継ぐこととなり、私もアイドルを引退した後に大学を経てこの346プロに社員として入社してきた。

 本当に縁とは不思議で、理由は違ったが同じ夢を諦めた者同士こんな場所で再会する未来が待っていたとは当時は想像もできなかったものだ。美城専務はアメリカにいたため私が346プロに入社したことは知らなかったらしく、昨年の夏過ぎに帰国して初めて会った時のあの驚きの表情は今でも覚えている。

 

 

 

 

「それで、今日はどうした?」

 

 

 

 

 部屋の隅にあるソファに机を挟んで向かい合うようにして座る私に美城専務が問いかけた。私は美城専務が淹れてくれた紅茶が入ったティーカップから手を離し、隣に置いたままになっていたクリアファイルを差し出す。

 

 

 

 

「シンデレラプロジェクトの今年度のプロフィールです」

 

「もうそんな時期か、わざわざありがとう」

 

 

 

 

 私から十四人分のプロフィールが入ったクリアファイルを受け取った美城専務は、躊躇いもなくそのクリアファイルに挟まった一枚一枚の紙を取り出して目を通している。暫く無言でシンデレラプロジェクトの皆のプロフィールが書かれた紙を順々に眺めていたが、途中で動かす手を止めた。

 

 

 

 

「……島村卯月はどうだ?」

 

「あれからは順調ですよ。前よりも自信をもって活動できていますし」

 

「……そうか。それなら良かった」

 

 

 

 

 私の言葉を聞いて、そう呟いた美城専務は安堵の溜息をついている。

 

 

 

――その優しい笑顔を私だけじゃなくてもっと皆の前でも見せてあげたらいいのに。

 

 

 美城専務の優しくて暖かい笑顔を見る度に、私はいつもそう思っていた。

 昨年の夏の終わりに帰国したかと思えばすぐにアイドル部門統括重役に就任した美城専務は、就任と同時に様々な改革を行った。当時進行中だった全てのアイドルプロジェクトの白紙化、そしてプロジェクトクローネの設立――……。

 それはあまりにも強引すぎる政策で、当時は四方八方から批判と反発が後を絶たなかった。そのせいか、今でも346プロの中には美城専務のことをよく思わない人たちが沢山いることを私は知っている。

 でも昔から付き合いのあった私だけは知っていた。美城専務は美城専務なりにアイドルたちのことを考えていたことを。

 

 昔、私はたった一度だけ美城専務がアイドルを辞めた話を聞いたことがある。美城専務は346プロダクション会長の一人娘でもあったせいか、幼少期からとても厳しく育てられていたらしい。その厳しい父親のせいか、ずっと胸に抱えていた「アイドルになる」という夢をなかなか言い出せずに美城専務は大人になってしまった。そしてようやくを意を決してアイドルになる夢を追いかけ始めたのはもう二十歳を超えてからのことだった。アイドルを目指すのに、それはあまりにも遅すぎる決断だったのだ。

 それから数年は日の当たらない世界でアイドル活動を続けるも、鳴かず飛ばずのアイドルのまま引退。最後まで「どうしてもっと若い時に勇気を持って飛び出さなかったのだろう」と、何度も何度も過去を振り返っては悔やみ続けていたらしい。

 そんな自分の苦い経験があったからこそ、美城専務はゆっくりと個人のペースで個性を伸ばしていくスタイルの既存のアイドルプロジェクトに納得がいかなかったのだろう。

 

 

 

 

“城ヶ崎美嘉は今、『カリスマJK』と呼ばれているが彼女が女子高生というブランドを失ったらどうなる? 『カリスマJD』になるのか? それじゃあ大学を出たら? 『カリスマOL』にでもなるのか? そんなその場凌ぎの売り方では絶対に将来的に潰れてしまうぞ”

 

 

 

 

 城ヶ崎美嘉ちゃんを大手化粧品メーカーとタイアップさせる企画が出た時の美城専務の言葉を思い出した。美城専務は美嘉ちゃんのことを誰よりも気にかけ、そして美嘉ちゃんの将来を考えていたのだ。

 今まではギャル路線だけで売り込んでいた美嘉ちゃんを高級化粧品メーカーとのタイアップで新たな大人の女性としての魅力を引き出す――……。このあまりにも急な路線変更に美嘉ちゃんは苦戦し悩み戸惑いながらも、その真逆の路線の中で自分の個性を際立たせる術を見出し、新たな自分のアイドルとしての生き方を見つけ出して見せた。その結果、今は今までのギャル路線はそのままに一人の大人の女性としての新たな魅力も身に付けた美嘉ちゃんの輝く場は倍に近くにまで増え続けている。

 口にはしなかったがきっと美城専務は全て計算していたのだと思う。美嘉ちゃんが真逆の路線でも自分の個性を際立たせることが出来ると信じたうえで、彼女のアイドルとしての幅を広げるために多少強引ではあったがこの企画にゴーサインを出したのだと、私はそんなことを考えていた。

 

 美嘉ちゃんだけじゃない、楓さんに彼女自身の思い入れのある仕事より大きな仕事を勧めたのも346プロを代表するトップアイドルとして皆が憧れる楓さんが目先の仕事よりファンを大切にできているかを試すため、お天気コーナーから下ろして一時的に菜々さんを干したのも長年貫いてきた自分のキャラにこれからも拘り続ける覚悟があるのかを確認するため、スランプに陥った卯月ちゃんに優しい言葉をかけずに敢えて厳しい言葉をかけたのも卯月ちゃんを甘やかさずに発破をかけて自身の力で乗り越えさせるため、プロデューサーに卯月ちゃんを切り捨てろと言ったのもアイドルを預かるプロデューサーとしての覚悟と技量を見極めるため――……。

 夏過ぎに美城専務が日本に帰って来て346プロのアイドル部門統括重役に就任して間もなく、二人だけで食事をした際に美城専務が話していたことを私は鮮明に覚えている。

 

 

 

 

“本人たちが思っている以上にアイドルとして輝ける時間は短い。誰しも老いには勝てないのだから。だからこそ、私たちのようなアイドルの上に立つ人間がもっとその事を理解して一秒たりとも時間を無駄にせずにアイドルたちを正しい道に導く必要があるのだと思うのだ”

 

 

 

 

 誰よりも“時間”というものの重さを知っている美城専務らしい言葉だった。そしてその時に美城専務は私だけに言ったのだ。「例えどれだけの人に嫌われ憎まれようと、必ず346のアイドルたちを全員輝かせて見せる」と。

 その言葉通り、美城専務は独りで悪役に徹し続け何を言われても自分の唱える方針を決して変えなかった。その結果、346プロに所属するアイドルたちは美城専務がアイドル部門統括重役に就任してからの一年弱で驚きの成長を遂げて見せたのだ。

 そんな美城専務を私はずっと傍で見守っていた。常に被り続けていた冷徹な表情の仮面の裏に存在する、決して私だけにしか見せなかった美城専務の不器用な優しさを。

 

 

 

 

「安部菜々はどうだ?」

 

「相変わらず頑張っていますよ。最近は若い子たちの手本にもなっているようですし」

 

「そうか。彼女もずっと長い間苦労して頑張り続けてきたから、そろそろ大きな舞台を用意してあげたいところだな。トライアドの神谷奈緒と北条加蓮は?」

 

「二人とも凛ちゃんと一緒に、伸び伸びとアイドル活動を楽しめていますよ。二人だけでデビューさせずに凛ちゃんと三人でデビューさせたのが結果的に良かったのだと思います」

 

「……あの二人のデビューを先送りにしたのは、いくら事情があったにせよ今でも申し訳ないと思っている」

 

 

 

 

 少しだけ声のトーンを落とし、そのことを隠すかのように美城専務は紅茶の入ったティーカップを口元へと運んだ。

 

 

 

 

「……大丈夫ですよ。きっと皆気が付いていますから、美城さんの不器用な優しさに」

 

 

 

 

 美城専務は私の言葉に小さな笑みを浮かべると何も言わずにただ静かにティーカップを机の上に戻す。

 この一年弱の成果が認められ今年度から美城専務は常務から専務へと昇進した。それでも美城専務は今までのように独りで仮面を被り続けて、アイドルたちのために悪役に徹し続けている。

 本当の強い人なのだと、私はそんな美城専務の姿を見て思っていた。それと同時に本当にアイドルたちの事を愛している優しい人なのだとも。

 

 美城専務はゆっくりとソファから腰を上げると、立ち上がったガラス張りの窓にそっと触れた。そしてそのままガラスの向こう側の、桜が散ってしまった東京の街並みをボンヤリと見つめている。

 

 

 

 

「夢に向かって頑張る若い者たちの姿とは本当に美しいものだな」

 

 

 

 

 そして――……、少しだけ羨ましい。

 そう呟いた美城専務の表情は何処か寂し気で、何処か遠くの過去を振り返るような眼差しで東京の街並みを見つめていた。

 

 そんな美城専務の姿を見て私は適切な言葉が頭に浮かばず、一緒に桜の散った東京の街並みを見下ろしていたのだった。

 

 

 



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Episode.3

 

 

 

 夕暮れ時を迎え、朝から変わらずに一日中どんよりとしていた空は少しだけ暗くなり始めている。小さくて細かい雨がアスファルトを叩く音、湿ったアスファルトの独特な匂いが私の鼻の奥まで伝わってきた。

 765プロを辞めたあの日もこんな天気だったな、なんて思わず振り返ってしまう。最近は何故だか昔の事を思い出す機会が増えた。仕事中にふと一息ついた時、こうして独りで帰路を辿ろうとしている時、そして東京の騒がしい騒音の中の小さなワンルームマンションで眠ろうとしている時――……。気が付けば私は無意識に二度と帰ってこない青春時代を振り返っている。

 過去に未練があるわけでもないし今からもう一度夢に向かおうだなんてことも考えていない。だけど―……、それでも私は765プロにいた頃の自分を思い出す度に胸の奥が締め付けられるような思いを感じていた。

 

 

 

 

「あら、ちひろさん。今帰り?」

 

 

 

 

 雨がアスファルトを叩く音の中、私の名前を呼ぶ声。

 傘をさしたままの私はその声の方へと振り向く。私の後ろ、正門の前では二人の女性が一つの傘に入ったまま、振り返った私に向かって笑顔で手を振っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、久しぶりね! ちひろさんも最近は忙しかったでしょ?」

 

「この時期は毎年大変ですよ。まぁ最近になってようやく落ち着きましたけど。お二人とも今日はお仕事なかったんですか?」

 

「私は午後からの取材だけで瑞樹さんは収録あったけど午前中で終わったんです」

 

「早苗ちゃんはバラエティーの収録で関西行ってるんだけどね」 

 

 

 

 

 私たち三人――……、私と川島瑞樹さん、高垣楓さんの三人は並んで薄暗いカウンターテーブルを前にして座っている。お客さんの数もまばらで静かなクラシックが流れているこのお店は楓さんに教えてもらった346プロ近くの路地裏にあるバーだ。店内には小さなステージが設置されており、時々この小さなバーが小さなライブ会場へと姿を変えているらしい。そんなお店に私と今一緒に並んでいる瑞樹さんと楓さん、そして今日は関西で収録を行っている早苗さんは頻繁に足を運んでいる。十代後半が多い346プロのアイドルたちの中で、数少ない私たち二十代半ばから後半組はいつからか自然と仲良くなり、こうしてプライベートでも頻繁に会ってはお酒を飲んだりしているのだ。

 

 

 

 

「今日は菜々さんは一緒じゃないんですか?」

 

「誘ったんだけどね、『菜々は十七歳だからお酒はー!』って断られちゃったわ」

 

「こ、この前は来てたのに……」

 

 

 

 

 瑞樹さんの言葉を聞いて思わず苦笑いをしてしまった。菜々さん本人は十七歳と言い張っているが、事務員でありアシスタントの私は菜々さんの本当の年齢を知っている。それは私だけではなく、ここにいる瑞樹さんと楓さんも、今は関西にいる早苗さんもだ。勿論、皆暗黙の了解で口には出さない。

 

 

 

 

「でも昨日私、仁奈ちゃんから聞かれたんです。『どうしてこの前菜々ちゃんは誕生日迎えたのに十七歳のままなんですか?』って」

 

「あはははは! 楓ちゃん、その話面白いわ! 仁奈ちゃん純粋過ぎでしょー、犯罪級の純粋さね。早苗ちゃんに逮捕してもらわないと」

 

「そんな話聞かされたら菜々さんをここに連れて来れませんね。仁奈ちゃんみたいな純粋な子の夢を壊しちゃ悪いですし」

 

 

 

 

 私たちが思わず声をあげて笑ってしまったタイミングで、カウンター越しで無言でお酒を作ってくれていたマスターが静かに私たちの前にカクテルを差し出してくれた。一礼しカクテルが入ったグラスを受け取るとマスターは無言で頷き、再び黙々と違うお客さんのカクテルを作り始める。

 私たち三人はマスターが作ってくれたグラスをそれぞれ手に取り、それぞれのグラスを軽くぶつけあった。カクテルが入ったグラスに口付けをすると、甘味のあるお酒が私の喉元へと流れ去って行く。一気に飲むのは勿体ない気がして、私はすぐにあまり減っていないグラスをカウンターの上へと戻した。

 

 

 瑞樹さん、楓さん、早苗さん、この三人はある意味特殊な経歴を持っている。三人ともスカウトされてアイドルになったのだが、今年で二十九歳になる瑞樹さんは二十六歳まで大阪でアナウンサーとして働いており、私と同じ歳の楓さんは二十四歳までモデルをしていたらしい。早苗さんに関しては二年前まで新潟県で警察をしていたという異色のキャリアの持ち主だ。

 この三人は私のようにスカウトされるまでアイドルになることなど考えたこともなかったらしい。それにスカウトされたのが瑞樹さんは二十六歳、楓さんは二十四歳、早苗さんは二十七歳と、世間一般的に見るとアイドルを目指すのにはあまりにも遅すぎる年齢だった。それこそ、何よりも“時間”の重さを知っている美城専務からすれば到底考えられないタイミングでのアイドル転向だったのだ。

 だが三人は私と違って、常識や前例をことごとく覆して見せブレイクすることができた。今となっては三人とも346プロを代表するアイドルとしてその名を世に知らしめている。

 

 

 安定した立場の生活を捨て、臆せず挑戦し夢を叶えた三人を私は本当に尊敬していた。そして、そんな三人がちょっとだけ羨ましくもあったのだ。

 

 

 

 

「……ちひろさん、黙り込んじゃってどうしたんですか?」

 

 

 

 

 楓さんの言葉で我に返った。私の隣の楓さん、その奥に座っている瑞樹さんは揃って私の顔を覗き込んでいる。どうやら私は二人を忘れ、自分だけの世界に入り込んでしまっていたらしい。

 

 

 

 

「ごめんなさい、ちょっと考え事してて……」

 

「考え事?」

 

 

 

 

 驚いたように首を傾げる瑞樹さん。

 はい、考え事です。そうとだけ返すと私は二人の視線から逃げるようにしてグラスを握り、再び冷えたグラスにそっと口付けをした。そしてそのまま初めの時よりもほんの少しだけ多くカクテルを喉元へと流し込む。その際に少しだけ上を向いた私の瞳に入って来たのは薄暗いオレンジ色の灯り、そして耳にはタイトルは分からないが何処かで聞き覚えのある静かな曲調のクラシックが響いていた。

 グラスから唇を離し、静かにカウンターの上へと戻した。その間も私は横目に二人の視線を感じていて、二人は何も言わずに私の次の言葉を静かに待ち続けていた。そんな二人の視線に逃げられそうにもないことを察し、私は苦笑いを浮かべながら二人の方へと視線を戻す。

 

 

 

 

「ずっと気になってたんですけど、お二人共どうしてアイドルになろうと思ったのですか?」

 

 

 

 

 私の唐突な質問に二人は揃って顔を見合わせた。そして眉を八の時にして困ったような表情を浮かべている。

 

 

 

 

「“どうして”って聞かれてもねぇ……。私はただ単純に楽しそうだと思ったから、かしら?」

 

「私もスカウトされるまではアイドルになることなど考えたことありませんでしたから、正直今でも良く分かりません」

 

 

 

 

 困ったような表情で眉を八の時にしたまま、二人は苦笑いを浮かべていた。

 ですが……、楓さんはそう静かに付け加えると笑顔を浮かべる。そんな楓さんの表情は私が今までで一度も見たことがないような幸せそうな表情をしていた。

 

 

 

 

「私、今本当に幸せなんです。歌うのも踊るのも楽しいし、何よりそんな楽しい事をしている私を見て嬉しそうにしてくれるお客さんの方々が沢山いてくれて。毎日が楽しくて刺激的で、本当に幸せなんですよ。だから、アイドルに転向して良かったと私は思っています」

 

 

 

 

 ボブカットの髪を揺らし、幸せそうにグラスを握っている楓さんは私にそう言って笑って見せる。そんな楓さんの瞳――……、不思議な力を持つ楓さんのオッドアイに私は吸い込まれてしまい、何も言うことが出来なかった。

 

 

 

 

「ふふ、楓ちゃんらしいわね。私もアイドルに転向して良かったと思っているわよ。ここだけの話、かーーーなり身内には反対されてたんだけどね、でもその反対を押し切ってまでアイドルに転向したのが間違いじゃなかったって今なら自信を持って言うことが出来るわ」

 

 

 

 

 そう答えてくれた瑞樹さんの瞳にも、楓さん同様に一ミリの迷いも感じられなかった。二人にはアイドルになる時に明確な理由や目標がなかったとしても、二人はそれで良かったのかもしれない。例え目標や夢がなかったとして、こうして二人は何の迷いもなく今の人生を「幸せ」だと胸を張って言う事ができているのだから。周りの人間が何をどうこう言おうと、本人が心の奥底から幸せだと言うことのできる生き方が間違っているはずがないのだ。そんな、今の自分が「幸せ」だと自信を持って言い切れる二人がなんだかとても眩しかった。

 二人だけじゃない、346プロのアイドルの殆どがそうだ。明確な目標がある者、そうじゃない者、色々な事情を抱えた人たちがいるが皆本当に楽しそうにアイドル活動を行っている。そんな皆の幸せそうな表情を見てると私まで幸せな気持ちになれるのだ。そんな皆の笑顔を私はとても眩しく感じていた。

 

 

 

 

「ちひろさんはどうなの?」

 

 

 

 

グラスを口元へと運んでいた瑞樹さんがグラスから赤い唇を離したタイミングでそう問いかけた。瑞樹さんの肘をついた右手に握り締められているグラスの中のカクテルはもう三分の二ほどなくなっており、オレンジ色のカクテルを染み込ませた氷が薄暗い灯りに照らされて輝いている。

私は瑞樹さんの質問の意味がよく分からず、思わず首を傾げた。

 

 

 

「え? 何がですか?」

 

「ちひろさんは今を楽しんでる?」

 

 

 

 

 咄嗟に瑞樹さんから振られた質問に、私は言葉を詰まらせてしまった。私は今を楽しんでいるなんてこと、今まで一度も考えたことがなかったのだから。

 アイドルになる夢を諦めて346プロのアシスタントとして働くことになり、今は昔の私のようにアイドルになる夢を追いかけている若い子たちのお世話をしている。そんな日常を私は気に入って生きていた。

 だけどそれは本当に私にとっての「幸せ」なのだろうか。ただ単に私は自分が叶えられなかった夢を346プロの若い子たちに照らし合わせ、現実逃避をしているだけではないのだろうか。

 今までそんなことを考えたことがなかった。だけどよく考えてみれば346プロの若い子たちの夢はその本人たちの夢であって、私の夢ではないのだ。だとしたら私の夢とは何なのだろうか……。悲しいことに、何も浮かんでこなかった。

 

 

 

「私たちみたいに好き勝手生きてきた人間が偉そうに言えることではないと思うけどね、ちひろさんはもっと自分の為に生きた方が良いわよ。自分の人生なんだから、人のことよりも自分がしたいと思うことをしなさい」

 

 

 

 

 瑞樹さんの言葉に私は何も言えなかった。自分のしたいと思ったことに躊躇いもなく飛び込めて心の底から幸せだと言える今を送っている二人に対して、自分がとても小さな人間に思えたのだ。

 765プロの後輩たちの活躍を見て自分のことのように喜び、346プロの若い子たちの夢を応援している今の生活を私は幸せだと思い込んでいた。だけどそれはあくまで他人の人生であって私の人生ではないのだ。具体的な夢や目標がないためか、私はそうやって人の夢に自分の過去の夢を重ねて自分と向き合うことから逃げ続けているだけではないのだろうか。

 分からなかった。私自身が本当にやりたいことが。自分のことのはずなのに、自分でも分からなかった。

 

 

 

 

「あ、そうだ! ちひろさんも今からアイドル目指してみたらどうですか?」

 

「ちょっと楓さん、もう酔ったんですか? 私にはアイドルなんて無理ですよ」

 

 

 

 

 楓さんの提案を私は笑って誤魔化した。勿論、二人とも私が昔アイドルを目指していたことは知らない。

 もう二十六歳なんで遅いですし、なんて言おうと思ったが言わなかった。遅すぎると言われる年齢からアイドルを目指し、そして夢を叶えた二人を見ているとそんなセリフが惨めな言い訳にしか聞こえないと思ったからだ。

 楓さんの提案に笑って誤魔化し、そして私の本心を隠すようにして再びカクテルを喉元へと流し込んだ。少しだけ溶けて小さくなった氷が、私の唇へと当たって唇がひんやりとする。再び目に入ってきたオレンジ色の薄暗い灯りは私に様々な思い出をフラッシュバックさせた。初めて『お願い!シンデレラ』を貰ったあの日、それを人前で初めて歌ったあの日、そしてアイドルを辞める前日に律子さんとお客さんのいないショッピングモールでがむしゃらに声を出し続けたあの日――……。

 今となっては遠い日の思い出になってしまったあの日の日常が走馬灯のように駆け巡ったのだ。

 

 

 

「ただ――……、皆のステージを見てると時々思いますよ。あんなに大勢の人たちの前で歌えたら幸せだろうなーって」

 

 

 

 

 唇に当たっていた冷たい氷を離し、私は冗談交じりにそう呟いた。その呟きを聞いた二人は何も言わず、ただただ得意げに笑っているだけだ。

 嘘だった。時々なんてものではなく、毎回のように思っていたのだから。小さな街頭の路上ライブでも、ショッピングモールで行うミニライブでも、大きな会場の大勢のお客さんの前で行うライブも、どんなライブでも舞台袖からステージを見る度に胸の奥に潜んでいるあの頃の私が渇望しているのだ。何度も何度も自分に言い聞かせても、この渇望は消えることがなかった。そしてそんな渇望を感じる度に、私はあの頃を思い出して胸が締め付けられるのだ。

 

――もう一度だけでも、皆みたいに大勢の人前で歌えたらなぁ。

 

 胸が締め付けられる度に、そんな想いが私の胸を駆け巡る。歌うことは今でも好きだし、昔は今の皆のように本気でアイドルになりたいと思っていた。だけど私はその夢を叶える為に必ず通らなくてはならない道から逃げてしまった。765プロの後輩たちが好きで、そんな後輩たちを蹴落としてまで自分の夢を叶える勇気が私にはなかったのだ。

 私は甘かったのだと思う。私も夢を叶えて、765プロの後輩たちも皆が夢を叶えて――……、そんな上手くいく話なんてないのだから。そんな都合の良い話を考えていた時点で私に夢を追う資格なんてものはなかったのだ。

 この世の人間、全員が幸せになることはできない。誰かが幸せになるためには誰かが不幸にならなくてはならない。仮に私があのままアイドルを続けて765 ALL STARSに入れたとしたら、きっと今テレビで見ているような美希ちゃんの幸せそうな笑顔は見ることができなかったはずだ。だからこそ、私はテレビで美希ちゃんを見る度にあの時の判断は間違ってなかったのだと自分に言い聞かせてきた。大好きな後輩の幸せが、私にとっての幸せなのだと。

 

 そうやって八年もの月日を生きてきて、今、私は瑞樹さんの問いに答えることができなかった。私は今、瑞樹さんと楓さんのように胸を張って幸せだと言い切ることができなかったのだ。

 

 

 

 

(私にとっての幸せって、何なんだろう)

 

 

 

 

 私はあの時、確かに高木社長に言った。「大学でやりたいことを見つける」のだと。その言葉の通り、私は大学の四年間で自分の新たなやりたいことを見つけた。見つけたはずだと思っていた――……。だけどそれは、自分と向き合うことから逃げていただけではないのだろうか。

 私の隣に座る楓さん、瑞樹さん、そして今はこの場にはいない早苗さん。安定した生活を捨ててまで自分のやりたいことに挑戦している三人と比べると、三人のように自信を持って「今の生活が幸せ」だと言う事のできなかった自分自身がとてつもなくカッコ悪い人間に思えて仕方がなかったのだった。

 

 

 

 



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Episode.4

「あー楽しかった! 久しぶりにスッキリしたわ」

 

 

 

 

 そう言いながら私は雲一つない綺麗な青空に向かって両手を伸ばした。数時間ぶりに陽の光を浴びたせいか、太陽の光が眩しくて瞼を開くことができない。左目の瞼は強すぎる陽の光に抵抗するのを諦めたせいで閉じており、反対の右目の瞼は辛うじて僅かに開けてはいるものの、細めているせいで私の視界は狭くなっている。

 そんな私の狭い視界の中、隣に立つ友人の恵子は左手を伸ばすと両目の上にかざし、陽の光をなんとか遮ろうとしていた。

 

 

 

 

「ちひろ、ホントに歌上手いよね! いつ聞いても惚れ惚れしちゃうわ」

 

「もー、やめてよ。恵子だって今日は高得点出してたじゃない」

 

「これから暫くはちひろとカラオケに行けなくなると思って張り切っちゃったからかなー」

 

 

 

 

 私はお互いに目を細めたまま笑い合った。

 大学時代の友人である恵子とは大学を卒業しお互い社会人になった今でも頻繁に連絡を取り合い、互いの休みが重なった日はこうしてカラオケに行って何時間も二人で歌っている。恵子も私が高校時代にアイドル活動を行っていたことは知らない。ただ恵子も私と同じように単純に“歌う”という行為が好きで、大学時代から今まで私たちは数え切れないほどカラオケに行っては気が済むまで歌い明かしていた。

 

 だけど、そんな恵子とのカラオケもこれからは暫く行けなくなる。私たちも大学を卒業して四年が経過し、二十六歳になった。二十六歳は紛れもなく立派な大人の歳であり、私たちはいつまでも学生気分のままではいられないのだ。

 

 

 

 

「……来週、楽しみにしているから。ちひろの歌」

 

 

 

 

 そう言って少し寂し気に笑って見せる恵子。恵子の左薬指には太陽の眩しすぎる光に照らされた指輪が綺麗な輝きを魅せていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨晩から続いていた雨も今朝には止み、濡れたアスファルトが朝の陽ざしによってキラキラと光り輝いている。少しばかり駆け足で晴れた空を流れていく沢山の雲たち、その雲の隙間から差し込む太陽の光が人生一度きりの晴れ舞台を迎えた恵子を祝福するかのように照らしていた。

 

 

 

 

「恵子、結婚おめでとう。ウェディングドレス、似合ってるじゃない」

 

「……ありがとう、ちひろ」

 

 

 

 

 私の言葉に真っ白なドレスに身を綴んだ恵子は恥ずかしそうにはにかんだ。そして何度も何度も鏡に映る自分を見ては、照れ臭そうな表情を浮かべたり不安げな表情を浮かべたりとコロコロと表情を変えている。

 私も恵子も今年で二十六歳。女という生き物は少しでも若くて一番輝いている時に一生に一度の晴れ舞台を迎えたいと考えているもので、恵子も例外なくずっと大学時代から二十代半ばで結婚をしたいと周囲に話し続けていた。そしてその願望通り、恵子は大学時代の先輩と三年の交際を得て、本日ようやく挙式。恵子の夫になる男性にも私は何度か会ったことがあり、本当に優しそうで誠実な男性だと周囲の友人たちも皆話していた。そんな男性からプロポーズされ、夜中の遅くに興奮交じりに電話してきた日のことを思い出して私は思わず頬を緩めてしまった。

 そんな幸せムード一色の恵子に対し、私は恐ろしいほどに結婚願望がなかった。相手もいない、大学を出てからはずっと仕事ばかりの日々。そんな生活を四年も送ってきたせいか、ずっと遠い先の話に感じていた結婚式を私の友人が挙げると聞いた時は驚きを隠せなかった。だが二十代半ばは世間一般から見れば婚期真っ只中で、社会人になって三年も交際していたら自然と結婚の流れになっても何も不自然ではないのだ。

 

 

 

 

「でもホントに私で良いの? もっと良い人沢山いると思うけど」

 

「ちひろじゃなきゃダメなの。私、絶対結婚式する時はちひろに歌ってもらおうと思ってたんだもん」

 

 

 

 

 式の案内が私の元に届き返事をしてから間もなくして、恵子から結婚式後の披露宴で歌を歌ってほしいとお願いをされた。カラオケ以外で人前で歌うことなんか当然だがアイドル活動を辞めてからは一度もなく、まさか恵子からそんなお願いをされるとは思ってもいなかった私は困惑してしまったが恵子の勢いに飲まれ思わずその場で引き受けてしまい、こうして私は恵子の披露宴で一人で歌を歌うことになったのだ。

 初めは少しばかり嫌な想いもあったが、それもすぐに吹き飛んで行ってしまった。私が歌うと言った時の恵子の嬉しそうな笑顔――……、私が大好きな“歌う”という行為で友達が喜んでもらえるのだと思うと嫌な気持ちなんて消え失せてしまったのだから。大学時代も頻繁にカラオケには通っていたし、社会人になっても大学時代に比べれば頻度は減ったが恵子とよくカラオケに行っていたからそれなりに歌える自信もあった。それでもやっぱり少しだけ緊張はしているけれども。

 

 

 

 

「それじゃ、お願いね」

 

「うん、任せて。絶対恵子を泣かせて見せるから」

 

 

 

 

 私の意地の悪い笑みに恵子は微笑むと、そのままドレススタッフに手を引かれたまま白いドレスを引きずり部屋の奥へと消えて行ってしまった。

 

 

 

 

――結婚……、かぁ。

 

 

 

 

 恵子の後姿を見送った後、私は溜息交じりに心の中でそう呟く。結婚も数多くある幸せのうちの一つの形なのだと、恵子の幸せそうな表情を見て私は初めて実感した。

 先日、瑞樹さんと楓さんと飲みに行った時に瑞樹さんから言われた言葉があの日以来ずっと私の頭の中で駆け巡っていた。瑞樹さんも楓さんも、そして白いドレスに身を綴んだ恵子も、三人とも理由は違えど私の前でとても幸せそうな表情を見せてくれた。そんな三人に対して私はどうなのだろうか。周りの人から見て私は幸せそうに見えるのだろうか。

 あの日からずっと考えていた、私にとっての本当の幸せとは何なのだろうかと。だがその答えはまだ見つかっていない。

 

 私は自分の幸せを掴んだ恵子の後姿が見えなくなった後も、暫くその場に一人で立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

「えー、あの会社辞めちゃったの!? しかも二ヶ月って早すぎじゃない!?」

 

「結構ブラックで残業とか半端なかったもんねー。それより仁美は大学から付き合ってた彼氏と別れたんでしょ?」

 

「仁美ちゃん、別れたの!? 結婚するとか言ってたじゃない!」

 

 

 

 

 披露宴の会場内では小さな同窓会のような雰囲気が生まれていた。大学時代の友人も数多く披露宴に参加しており、中には卒業以来会っていなかった友人も多くいたため卒業してから何をしていたのかなどの近況報告などで私たちは大いに盛り上がったのだ。卒業してすぐ務め始めた会社を辞めた友人、結婚前提に付き合っていた彼氏と土壇場で別れた友人など久しぶりに再会した友人たちは皆様々な苦労をしているようだったが、何より皆元気にこうして集まって友人の結婚式を祝えたことが私は何より嬉しかった。

 結婚式の時とは違うドレスを着て私たちの前に現れた恵子は本当に幸せそうな表情を見せてくれた。そんな幸せそうな恵子を見ていると祝福する私もすごく幸せな気持ちになれたし、それはきっと私以外の人たちも同じだと思う。この会場にいる全員が新郎新婦の記念すべき今日という日を祝っており、そういった人たちも、会場の至る所に散りばめられた煌びやかな飾りも、思わずウットリしてしまうような味の料理も、この会場の全ての物が新郎新婦の二人を引き立てているのだ。親や親族、そして大好きな友人たちから盛大に祝福される二人はもしかしたらこの瞬間、世界で一番幸せな気持ちになっているのではないだろうか――……。そんなことを、幸せないっぱいな笑顔を浮かべている新郎新婦から少し離れた席で私は考えていた。

 

 

 

 

「えー続きまして、これより新婦の大学時代のご友人である千川ちひろ様から、お歌をご披露していただきます。千川様、ご用意の方お願いいたします」

 

 

 

 

 披露宴も中盤に差し掛かった頃、新郎の友人である司会の男性のアナウンスが会場内に響いた。それと同時に私にスポットライトが当たり視線が一斉に私の方へと集中する。口の中に食べ物を入れている人、隣の友人と会話に華を咲かせていた人、ワイングラスを握ったままの人、会場内の殆どの人がスポットライトに当てられた私を見つめているのだ。この大勢の人から見られる感じはアイドルをしていた頃もあんまり慣れることができず、昔も今も少し恥ずかしい気持ちが芽生えてきて顔が赤くなるのを感じてしまう。私は手に握っていたグラスを机の上に戻し、一度だけ深呼吸をした。遠くの席で恵子が、期待を寄せているかのような表情で私をジッと見つめている。その恵子に私は軽く一礼し、席を離れた。

 みんなに見守られる中、私は少しだけ早足で新郎新婦の近くへと向かっていく。二人の座るテーブルの右斜め三メートルほど手前で立ち止まり、司会の男性からマイクを受け取った。

 

 

 

 

「えー、ご紹介を受けました千川ちひろです。まずは新郎新婦のお二人、そしてご両家ご両親様、ご親族の皆様、本日はおめでとうございます」

 

 

 

 

 マイクを口元から離すと軽く一礼する。恵子は照れくさそうな表情で軽く頭を下げた。

 

 

 

 

「上手くはありませんがお二人の為に心を込めて歌います。よろしくお願いします」

 

 

 

 

 私の言葉の後には場内から拍手が巻き起こった。その拍手がなんだが恥ずかしくて、恵子たちに向かって頭を下げた後に会場の人たちにも思わず頭を下げてしまった。暫く続いた拍手が鳴りやむと、恵子が好きだった恋愛ソングのイントロが流れ始める。そのイントロを聞いて、私は右手に握っていたマイクに左手を添え、口元へと運んだ。

 懐かしい感覚だった。アイドルを辞めて人前で歌うことがなかった私だが、引退から八年が経った今でもあの頃の感覚が鮮明に蘇ってきたのだ。大勢の人の前で“歌う”という行為がどれだけ幸せで気持ちの良いものだったか、忘れかけていたあの頃の感情が一気に心の奥底から這い上がって来た。この会場の皆が私を見ていてくれている。つい先ほどまで主役だった新郎新婦の二人も、会場の名も知らない大勢のギャラリーも、大学時代の友人たちも、皆が歌を歌っている私だけを見ていてくれているのだ。

 

 気が付けば曲は終わってしまっていた。少しだけ余韻を残すような終わり方を迎えた曲が完全に止まると、静まり返っていた会場からは先ほどよりも何倍もの熱気が籠った拍手が巻き起こる。新郎新婦の二人もとても喜んでくれたみたいで、椅子から腰を上げて何回も何回も手を叩いて大きな拍手を私に届けてくれた。

 

 

 

 

――あぁ、やっぱりいいなぁ。

 

 

 

 

 私の大好きな歌を沢山の人たちに聞いてもらえて、そしてこうやって沢山の人たちや大好きな友人たちが喜んでくれ――……。アイドルを辞めてから八年が経った今でも、私はこの瞬間以上に幸せを感じれる瞬間に巡り合ったことがなかった。私は何度も何度も、感謝の想いを込めて頭を下げる。その度に会場の皆が私の為だけに温かい拍手を送ってくれた。

 

 

 

 

「いやー、素晴らしい歌声でした。千川ちひろ様、ありがとうございました。素晴らしい歌を聞かせてくれた千川ちひろ様にもう一度大きな拍手をお願いします!」

 

 

 

 

 司会の男性にマイクを返し、もう一度だけ軽く頭を下げた。司会の男性の声によって再び勢いを増した拍手が私を包み込んでくれる。

 

 

 

 

「ありがとうちひろー! サイコーだったよ!」

 

 

 

 

 未だに立ち上がったまま力いっぱいの拍手をしてくれている恵子が私にそう叫んでくれた。手を振る恵子の目元には光る滴も見えた。そんな恵子に向かって私は得意げにピースを作ってウインクをして見せると、新郎新婦に向かって背中を向けた。

 拍手が徐々に弱まっていき、司会の男性の声がマイクを通して聞こえてきた。どうやら次は新郎の大学時代の友人たちが作ったスライドショーが流されるようで、私が歌い終わり暗くなったままの会場をスライドショーが映し出されようとするプロジェクターの灯りが照らしている。数秒前までは私だけを見ていてくれた会場のお客さんも、今となっては誰一人私の方を見てはおらず、スライドショーが始まろうとするプロジェクターに視線を集中させていた。寂しい気持ちもあるが、今日の主役は私ではないのだから。そう自分に言い聞かせ、誰にも見られないまま自分の席を目指して歩き始める。

 その時だった。会場の隅を通り自分の席へと戻ろうとしていた私の前に、スッと誰かが立ちはだかり私の行くゆえを遮ったのだ。私の前に立つ人影を見上げると、真っ黒なスーツに赤いネクタイを締めた男性が少し驚いたような目で私を見下ろしている。

 

 

 

 

「お前、765プロの……」

 

 

 

 

 赤い髪に不愛想な眼。だけど決してその表情からは悪気は感じられない。そんなプロジェクターの灯りに照らされたこの男性の表情に私は見覚えがあった。

 最後に会ったのはいつだろうか――……。恐らく八年前ほど前になるのだろうか。だけど私はこの男性を頻繁に見ていたのだ。テレビや雑誌、時には車の中でかけるラジオでも声を聴いていたのだから。

 記憶の中の姿と、テレビ越しで見る姿と、今私の前に立ちはだかる姿。それぞれ微妙にズレがあって変な感じもするが、それでも特徴的な部分はどの姿にも一致していた。そんなことを考えていたせいか、思わず懐かしい思いが胸の奥を駆け抜ける。

 

 

 

 

「……久しぶりね、冬馬君」

 

 

 

 

 私の言葉に男は少しばかり頬を赤めらせ、照れ臭そうに頬っぺたを人差し指で掻いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

「まさかこんなところでこんな人に会うなんて思いもしなかったぜ」

 

「私もよ。冬馬君、見ないうちにカッコよくなったじゃない」

 

「う、うるせぇよ」

 

 

 

 

 私たちはスライドショーが始まり騒々しくなった会場を出て、式場の中庭に出てきていた。私の隣で顔を赤くして動揺しているのは私が765プロでアイドルをしていた頃に何度か仕事で一緒になったことがあり――……、今は人気アイドルグループ『ジュピター』のリーダーを務めている天ヶ瀬冬馬だ。春香ちゃんと同じ歳のはずだから私の一つ下になる冬馬君は昔から何かと不器用な性格で、当時所属していた961プロダクションの社長の影響もあり何かと765プロのアイドルたちに突っかかって来ていた覚えがある。だが一つだけだが年上の私からすればそんな冬馬君は子供のような感覚で、異常なまでの負けず嫌いで尚且つ不器用なだけで、決して悪気があるわけで憎まれ口を叩いているわけではないのだと薄々勘付いていた。例えるなら好きな女の子に思わずちょっかいを出す小学生の男の子のような、そんな感じだったのだ。

 そんな子供だった冬馬君も今では国内屈指のアイドルグループのリーダーを務めており、春香ちゃんたちに負けず劣らずの活躍で毎日のようにその姿をテレビ越しで見ていた。冬馬君も春香ちゃんたち同様、私の知らない間に立派な大人になっていたのだ。

 

 

 

 

「それより今日はどうしてここに?」

 

「新郎が俺の高校の先輩だったんだよ。お前は……、友達だっけか」

 

 

 

 

 中庭のベンチに並んで腰を下ろし、他愛もない会話を交わす。遠くからは鳥の鳴き声も聞こえてきて、太陽の光の下、生暖かい風が私たちしかいない静かな中庭を駆け抜けていった。濡れたアスファルトも日陰の部分を除いて乾いており、今朝までの雨の後がほぼほぼ消えかけてしまっている。

 

 

 

 

「……今は何をしてるんだ?」

 

 

 

 

 隣に座る冬馬君が独り言のように呟いた。その視線は真っ白な雲が流れる空をぼんやりと眺めている。

 冬馬君の質問の真意に私はすぐに気が付いた。アスファルトは殆ど乾いてしまったものの、何処からか流れてきた風がアスファルトの濡れた匂いを運んでくる。私は風で乱れる髪をそのままに、ゆっくりと重い腰を上げた。そして冬馬君と同じように空を見上げる。晴れ渡った空には点々とした雲が浮かんでおり、その雲の向こう側には小さな飛行機が何処か私の知らない世界に向かって羽ばたいていた。

 

 

 

 

「私ね、今幸せなの。346プロで昔の私と同じような夢を持った若い子たちを応援出来て、テレビでは春香ちゃんたちが輝く姿を毎日のように見れて――……。だからアイドルを辞めたこと、後悔してないわ」

 

「……ふんっ、相変わらずお人好しなんだな」

 

「お人好しでもなんでも、私が幸せだと思えるならそれで良いでしょ?」

 

 

 

 

 自分に言い聞かせるようにしてそう言うと笑って見せる。そうだな、なんて言いながら笑うと冬馬君もベンチから腰を上げて立ち上がった。あの頃より少しだけ身長が伸びて大きくなった冬馬君は頭の後ろで手を組み、暫く空を見上げている。あの頃の面影を残しながらも大人の表情になった冬馬君の横顔を少しだけ見つめると、私も再び視線を空へと戻した。

 そうして暫く私たちは無言で空を見つめていると、会場の中から大きな拍手が沸き起こった。どうやらスライドショーが終わったらしい。その拍手にならい、頭の後ろで組んでいた両手を解くと名残惜しそうにもう一度だけ空を見つめる。そして冬馬君はそのまま私に背中を向け会場の入り口へとゆっくりと歩き始めた。

 

 

 

 

「今が幸せって言ってるけどな、歌ってる時のお前も相当幸せそうな顔してたぜ。お前にとってあの歌っている時の表情以上の幸せがあるとは思えねぇけどな」

 

 

 

 

 そう言い残し、冬馬君は一度も振り返らず会場の中へと戻って行ってしまった。

 残された私はポツンと中庭に立ち尽くしていた。再び風が中庭を駆け、私の髪が揺れる。瑞樹さんや楓さんたちといい、冬馬君といい、そんなに今の私は幸せには見えないのだろうか。何度も何度もこだました瑞樹さんの言葉、そしてついさっき冬馬君が言い残した言葉――……。

 

 分からなかった。今の私は本当に幸せなのか。そして何が私にとっての幸せなのか。

 

 自分のことのはずなのに、何も分からなかったのだ。中庭に一人立ち尽くす私に、ほんの少しだけ強い風が吹き抜けたのだった。

 



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Episode.5

 

 

 

 東京のショッピングモールの小さな広間。まだ高校生の私は学校の制服ではない紺色のブレザーを着て小さなステージに立っている。私の立つ小さなステージの前には百人前後のお客さんたちがマイクを両手で握り締める私だけを見つめていた。私に向かって必死に手を振ってくれる人、たった一人でステージに立つ私を勇気づける笑顔を送ってくれる人、そして私の名前を何度も何度も呼んでくれる人――……。

 それは何度も何度も私が憧れた、夢のような世界だった。この世界の主役は私で、ここにいる人たちは私の歌を聴くためだけに集まってくれた人たち。そんなことが脳裏を掠めると思わず目頭が熱くなってしまった。涙を溢さないようにと一度だけ強引に鼻を啜ると無理矢理お客さんたちから目を逸らそうとわざとお客さんたちの埋め尽くす広間の後方へと視線を逃がす。だがそんな私を逃がさないと言わんばかりに、大勢のお客さんたちの後方には大好きな後輩たちが私を溢れんばかりの笑顔で見つめていた。

 

 

 

 

「何してんのよ。もしかして緊張してる?」

 

 

 

 

 舞台袖から突然聞こえてきたのは律子さんの声。律子さんは少し意地の悪そうな表情で私を見つめている。

 

 

 

 

「みんなちひろ君の歌を待っているんだ。早く君の綺麗な歌声をお客さんたちに届けてあげなさい」

 

 

 

 

 律子さんの隣で腕を後ろで組み、まるで我が子を見守るかのような暖かな眼差しで私を見つめてくれているのは高木社長だ。

 その暖かな眼差しに応えるように私は頷く。そしてもう一度だけ鼻を啜るとマイクを少しだけ強く握り締めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「皆さん、今日のライブでご不明な点とかありませんか?」

 

 

 

 

 恵子の結婚式からあっという間に時間が流れた。あれだけ鬱陶しいほどに振り続いた雨が恋しくなるくらい、最近は暑い日が続いている。私が運転するこの車の中もクーラーが効いているのに関わらず、外の唸るような暑さのせいかどうにも涼しい気がしない。バックミラー越しに見える後ろの若い三人もさすがにこの暑さには苦戦しているようで少しばかり疲れた表情を浮かべていた。

 

 

 

 

「だ、大丈夫です! 今日も頑張ります」

 

「しまむー、頑張るのは良いけど頑張り過ぎて倒れないようにね」

 

「はい! 頑張り過ぎないように頑張ります!」

 

 

 

 

 卯月ちゃんの言葉に少々疲れた表情を見せていた未央ちゃんと凛ちゃんは頬を緩めた。

 今日は卯月ちゃんと未央ちゃん、凛ちゃんの三人のユニットであるニュージェネレーションズのミニライブが予定されていた。プロデューサーはクライアントとの打ち合わせもあったため先に現場入りしており、今日は私がこうして三人を会場に連れていくことになっていたのだ。

 ミニライブが行われる今日の会場は東京のショッピングモールで、私が最後のアイドル活動を行った場所だ。そのせいか、今朝は久しぶりに懐かしい夢も見てしまった。あの日以来足を運ぶ機会がなかった場所に、八年が経って今度は私がアイドルを連れて行く側として足を運ぶことになったのだから縁とは本当に不思議なものだ。

 だが八年前と今とでは全く状況が違う。私と違ってニュージェネレーションズはそれなりの集客率を計算できるほどのユニットだし、何より今日はあの日のような大雨も降っていない。そもそもニュージェネレーションズのような人気のあるユニットが極端にキャパの狭いショッピングモールでライブを行うことになったのも、今年の十一月に開催が決まった346プロのアイドル部門設立五周年記念ライブのスポンサーにこのショッピングモールが名乗り出てくれたからであって、今のニュージェネレーションズと八年前の私とではこのショッピングモールでライブを行うそもそもの理由が違っていたのだ。ようは今回のミニライブは秋のライブの宣伝を兼ねたライブであって、それなりに人気のある今のニュージェネレーションズからすれば少しばかり不似合いな会場と言っても過言ではないのだから。

 高速を降りて五分ほど車を走らせ、記憶の中の姿より少しだけ広くなったショッピングモールの駐車場に車を停めた。数年前の舗装工事によって広くなったこの駐車場、まだ新しい真っ黒なコンクリートの上に私は降り立つと色々な情景が目に浮かんできた。初めてこのショッピングモールで『お願い!シンデレラ』を歌った日の帰りの車の中で凄く律子さんに褒められたこと、ここでの二回目のライブでは沢山の人がミニライブ後に物販に並んでくれて温かい言葉をかけてくれたこと、そしてあの大雨の中が降り注ぐ中で殆ど人の居ないショッピングモールで律子さんと必死になって声を出し続けたこと――……。

 ここでライブを行う度に毎回応援に来ては先頭で私を見ていてくれたあの青年は今どうしているだろうか。私のことを憧れと言ってくれた小さな女の子は今はどんな女性になったのだろうか。

 そんな、今まで思い出しもしなかった沢山のことが私の脳裏に浮かんできたのだ。

 

 

 

 

「……ちひろさん? どうしたの?」

 

 

 

 

 感傷に浸っていた私ははっと我に返った。いつの間にか車を降りていた凛ちゃんがギラギラと私たちを容赦なく照らす太陽の光に目を細めている。

 今日は仕事で来たんだからしっかりしなきゃ――……。私は知らぬ間に額を流れていた汗を、軽く右の手の平で拭った。

 

 

 

 

「ごめんなさい。あそこの関係者入り口から入ってプロデューサーさんと合流してください。私は事務室にこれを持っていきますから」

 

「りょーかいですっ! じゃ、プロデューサーのとこに早く行こうよ」

 

 

 

 

 未央ちゃんは一度だけ私が右手に握った十一月のライブの告知ポスターなどが詰め込まれた紙袋に視線を落とすと、すぐに卯月ちゃんと凛ちゃんと顔を合わせ暑さに負けない笑顔で関係者入り口の方へと走り去っていった。そんな未央ちゃんに遅れまいと、慌ててついて行った卯月ちゃんと凛ちゃん。暑さに負けない元気な若い三人を見て思わず笑みを浮かべると、私は車が閉まっていることをもう一度だけ確認して三人が走り去った方とは逆の方へとゆっくりと歩き出した。

 

 駐車場とは違い、建物の中は八年前とあまり変わっていないような気がした。入館手続きを済ませ、階段を登った先の二階の倉庫のドアが並ぶ薄暗い廊下に私の足音だけが鳴り響いている。窓がなく太陽の光を遮断しているせいか、この薄暗い廊下の空気は少しばかりひんやりとしていた。先ほどまでの暑さとは真逆で、薄着だった私の身体には小さな鳥肌が駆け抜ける。

 暫く歩いて事務室の灯りが見え始めた頃、私は壁のコルクボードに貼られたポスターを見て足を止めてしまった。ポスターにはニュージェネレーションズの定番となった赤い衣装を着た三人が溢れんばかりの笑顔で映っており、その三人の下には『突如現れた新時代の三人組!』のフレーズが添えられている。私の頃はこんな立派な告知ポスターなんてなかったのになぁ、なんて心の中で呟いてしまい、思わず苦笑いをしてしまった。

 

 

 

 

「あら、346プロの方ですか?」

 

 

 

 

 ポスターに目を奪われていて、人の気配に全く気付かなかった私は咄嗟に肩を上げて振り返ってしまった。振り返った先には胸元に小さくショッピングモールのロゴが入った白いポロシャツを着た少し猫背の年配の女性が私を見つめている。慌てて右手に握っていた紙袋を冷たい廊下の上に置くと、ポケットから銀色の名刺ケースを取り出した。

 

 

 

 

「み、346プロダクション、シンデレラプロジェクトのアシスタントをしています千川ちひろと申します。本日はよろしくお願いします!」

 

 

 

 

 慌てて名刺を取り出したせいか、少しばかり口調が早口になってしまった。何だかそれが恥ずかしくなって顔が熱を帯びていく感じがした。そんな顔を隠すように両手で名刺を差し出し、勢いよく頭を下げる。だが、名刺はいつまでたっても私の手に握られたままだった。

 恐る恐る顔を上げてみる。そこには名刺がまるで見えていないかのように、驚いたようにして見開いた目で私だけを見つめる女性の姿が目に映った。

 

 

 

 

「……ちひろちゃん? ちひろちゃんじゃない!」

 

「…………え?」

 

 

 

 

 次の瞬間、年配の女性は嬉しそうに両手を広げると小さな細い腕で私を力いっぱい抱き締めてくれた。

 何が何なのか、全く状況が理解できていない私は思わず名刺を落としてしまい、ただただ女性に抱き締められて固まっている。暫く熱い抱擁を交わしてくれた女性が突然パッと手を離すと、私から少し離れて怪訝そうな表情で私の眼を覗き込んだ。

 

 

 

 

「もしかして私が誰か分からない?」

 

「え? え、えぇ……。すみません……」

 

 

 

 

 私の口から出た言葉は思っていた以上にか弱い声になってしまった。そんな声を聴いて女性は腰に手を当てて苦笑いをしている。

 

 

 

 

「ホント、声が小さいとこはあの頃と変わらないのね。あなたのCD、まだ私持ってるのよ?」

 

「CD……? ま、まさかあの時の!?」

 

 

 

 

 そこまで言われて、ようやく思い出した。私がアイドルを辞めた日の前日、このショッピングモールで全く売れなかった私のCDを買ってくれた人の顔を。あの時は私以外にもう一人だけ買ってくれた人がいて、その人こそ今私を抱き締めてくれたショッピングモールの社員さんだったのだ。

 あの頃から随分と姿が変わってしまったように思えた。背中は猫背になっているし、髪も白髪が多くなってしまっている。何より記憶の中の姿より遥かに増えたシワが八年の月日が流れたことを証明していた。だけど、暖かくて優しい眼差しと人懐っこい性格だけは八年前と何も変わっていなかった。

 

 

 

 

「ようやく思い出してくれたようね。美人さんになっててビックリしたわ」

 

 

 

 

 女性はそう言ってあの頃と変わらない優しい笑顔で私にそう言ってくれた。

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

「そう、アイドルを辞めた後は大学に行って346で働いてたのね……」

 

 

 

 

 ニュージェネレーションズのミニライブまでまだ時間もあり、こうして半ば強制的に事務所の隅にある応接室に連れてこられた私はあの雨の日から今日までの事を簡潔に話した。お喋り好きの女性だったが、私の話を聞いている間は何も口を挟まずにただただ黙って聞くことに徹し、一言も口を挟まなかった。そして一通り話し終え、私の前で氷が入った麦茶のグラスを握り締めた女性は静かに呟く。女性の表情は少し寂し気な表情にも見えた。

 

 

 

 

「後から秋月さんから聞いてはいたけどビックリしたわ。突然辞めちゃったんだもん」

 

「お世話になったのに挨拶もせず、すみません……」

 

「いいのいいの、今こうして元気な姿を見られて安心したわ」

 

 

 

 

 寂し気にも見えた表情を崩し、何度も見慣れた優しい笑顔で女性はそう言ってくれた。そんな女性を見て、私の生まれ育った田舎町を思い出す。私の故郷のように人口が少ない町では住人同士の距離が都会より遥かに近く、私が小さい頃も近所のおじさんやおばさんたちがまるで我が子のように私を可愛がっていてくれた。あの都会にはない、田舎町の独特の暖かい雰囲気が私は好きだった。

 そんな、昔私を可愛がってくれた近所の大人たちの姿と目の前の女性の姿が重なって、懐かしい気持ちになったのだ。懐かしい気持ちを思い出したあまり、久しぶりに地元に帰りたいなぁ、なんてことまで考えてしまう。

 

 

 

 

「ちひろちゃんね、此処の従業員の中でも評判良かったのよ?」

 

「そ、そうなんですか?」

 

「えぇ。結構こういうショッピングモールに色んな有名人たちがイベントで来るんだけどね、中には態度が悪い人もいるのよ。でもちひろちゃんは礼儀正しかったしちゃんと挨拶もするし愛想も良いし。みんな言ってたわ、『765の子は本当に良い子ね』って」

 

「そんな……。そもそも私は『アイドル』って言っていいのか分からないほどの無名でしたから」

 

 

 

 

 女性の言葉が妙に照れ臭くて、私は苦笑いをしながら前髪を弄った。当時の私からすれば小汚い都会の路上でも、ショッピングモールの小さなミニライブでも、私の歌を聞いてくれる人がいる場所が私にとっての幸せな場所だった。だから私は感謝をしていたのだ。私に歌わせてくれて幸せを感じさせてくれる機会を作ってくれた沢山の人たちに。

 暫く黙ったまま温かい眼差しで私を見つめていた女性はふと小さく笑うと、ゆっくりとソファから腰を上げる。付いて来なさい、と言わんばかりの瞳で私を見ると、そのまま黙って応接室から出て行ってしまった。慌てて私も立ち上がり、事務室の中を歩く女性の後を無言で付いていく。事務室には数人の若い社員たちがパソコンを睨んでおり、静かな事務室にはキーボードの音だけが響いていた。そのうちの一人の若い男性が私に気付き、キーボードを叩いていた手を止めてチラッと一度だけ私を見ると、軽く静かに一礼して視線をパソコンの画面へと戻した。その男性にならって私は思わず立ち止まって頭を下げてしまい、女性との距離は広がってしまった。少しばかり開いた女性との距離を縮めようと早足で女性の後を再び追い始める。

 そしてようやく女性に追いついた頃、私の少し前を歩く女性はその足を止めた。女性の前にあるのは他の席とは少しだけ雰囲気の違う、座り心地の良さそうな椅子が特徴的な机だった。

 

 

 

 

「ちひろちゃん、これ覚えてる?」

 

 

 

 

 女性の言う“これ”が何を指しているのか分からず、私は首を傾げた。そんな私を見て、女性は静かに微笑むと、猫背の背中を伸ばし、小さな指先で壁に貼られた何枚もの色紙の一番右端にある色褪せた色紙を指さした。

 

 その色褪せた色紙には少し乱れた書体で『ちひろ』と書かれている。そしてサインの右下には日付も添えられていた。

 

 

 

 

――……二〇〇七年、四月十日。

 

 

 

 

 肺の奥に潜む何かかが震えた気がした。

 この日付は忘れもしない、私が初めて人前で私のデビュー曲である『お願い!シンデレラ』を歌った日だったのだから。

 

 

 

 

「可愛くて誰にでも優しくて礼儀正しくて――……、そんな貴女の事を此処のみんなが応援してたわ」

 

 

 

 

 私は何も言わずに隣に立つ女性を見ていた。女性は私が書いた色紙だけを真っすぐに、何処か遠い過去を遡るような眼差しで見つめている。

 

 

 

 

「だからこそ……、ちひろちゃんには成功してほしかった」

 

 

 

 

 眉を八の字にして、女性は寂し気な表情でそう呟いた。

 そんな寂し気な表情を横目に、私は何も言えなかった。なんだかとても大きなことをやらかしてしまい、親から怒られるどころか呆れられてしまった子供のような、何とも言えない心苦しい気持ちになってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ、最後は私たちのデビュー曲、『できたてEvo!Revo!Generatin!』です!」

 

「みんなも一緒に付いてきてねー!」

 

 

 

 

 卯月ちゃんと未央ちゃんの声。

 そしてその二人の声に呼応するかのようにショッピングモール中に鳴り響く沢山のお客さんたちの熱狂的な声援。私と律子さんだけの声だけが響いていた時とはとてもじゃないが同じ場所には見えないような光景が広がっていた。

 小さな子供も、若い男女も、そして年老いた年配の方々も、この狭いショッピングモールに押し込められたお客さんたちは皆楽しそうに三人のステージを見つめている。そしてそのお客さんたちの笑顔にも負けないくらいの輝かしい笑顔で、三人は小さなステージで踊って歌っている。

 

 

 

 

「良い子たちじゃない。さすがちひろちゃんが面倒見てる子たちだけあるわね」

 

「もうっ、私はただのアシスタントなんですってば」

 

 

 

 

 私と女性は並んでステージから少し離れた場所からニュージェネレーションズの三人を見守っていた。どうやら私の言葉はお客さんたちの大歓声で掻き消されたようで、隣に立つ女性は楽しそうにステージを眺めたまま私の言葉に反応は示さなかった。私も何も言わず、暫くそんな女性の横顔を眺めて再び三人が輝くステージへと視線を戻した。

 

 

 八年前、私は確かに此処に立っていた。あの三人と同じくらいの歳で同じように歌を歌って踊っていた。三人と同じ“アイドル”として、有名になることを、もっともっと輝く自分を目指して、前だけを見て進んでいた。

 だが私は夢を諦めてしまった。当時は前を向いて走る事だけで必死で、気付けなかった沢山のことに夢を諦めて八年が経った今、初めて気付くことができた。どれだけ沢山の人たちが私の事を応援してくれていたか、そして突然消えた私の事をどれだけ心配していたのか――……。そのことを考えると複雑な想いになってしまう。私はこれだけ沢山の人に応援してもらいながらも夢を諦めた、それはあまりにも無責任なことなのではなかったのかと。

 だが今になってそう思ってももう遅いのだ。いつも気が付いた時には手遅れで、どんなに願ってもどうしようもないことばかり。大切なことに気が付くのは決まって何かを失った時だ。長く生きれば生きるほどそういった後悔は付き物なのだと、いつか美城専務が私に話してくれた。

 

 今でも私はあの時の決断が間違っているとは思わない。だけど未練がないかと言われれば、私はないとは言い切れない。たらればだがもしあの時、隣に立つ女性のように本当に私を応援してくれる人たちの気持ちをもっと理解していたのなら――……。もしかしたらあの時の決断は違っていたかもしれないのだから。

 

 八年前に私が立っていたステージに今はニュージェネレーションズの三人が立っている。その三人の姿が八年前の私に重なって見えた。

 

 

 

 

――やっぱり良いなぁ。

 

 

 

 

 歌いたい。三人のように大勢の人の前で私も歌いたい。

 この時、八年前に私が立っていたステージで楽しそうに歌う三人を見て、私はあの決断から初めてアイドルを辞めたことを後悔したのだった。

 



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Episode.6


昨日の12/11、この作品が日間ランキングで8位に入っていました!
恐らく今までの作品で過去最高だと思います。本当に沢山の人に読んでいただいているようで、感謝感激です。

それと同時に毎回誤字報告をしてくださっている方々、本当にありがとうございます。
この場を借りてお礼申し上げたいと思います。

物語は中盤に差し掛かり、もうそろそろ物語が動き始めます。
拙い作品ではありますが完結まで是非お付き合いください!


 

 

 

 

 

 

「今年の十一月に346プロのアイドル部門設立五周年記念ライブを行います! 精一杯頑張るので是非遊びにきてください!」

 

「私たちニュージェネの他にも、346プロ全体のアイドルたちが数多く参加する大規模なライブだよ! この未央ちゃんに、また会いにきてね!」

 

「ファンクラブ先行販売は終わりましたが一般販売も行います! ファンクラブ先行で残念ながら落ちてしまった人、ファンクラブに入ってなくて先行販売に応募できなかった人、まだまだチャンスはありますので是非ご応募ください!」

 

 

 

 

 卯月ちゃん、未央ちゃん、凛ちゃんの声。三人は各々で大勢のお客さんたちに声を掛けては、何度も何度もステージ横に設置されたポスターを強調するかのように宣伝していた。

 今年の十一月で346プロのアイドル部門は設立五周年を迎えることになる。それを記念して、346プロ全体の五周年記念ライブの開催が決定したのだ。この五周年記念ライブにはシンデレラプロジェクトは勿論、346プロに在籍するアイドルたちが大勢ステージに立つことが決まっており、今まで行ってきた346プロのライブの中でも最大規模と言っても過言ではない大きなライブが計画されていた。それに加えライブ会場も今現在改修工事中で九月末には完成予定の三万人収容の大きな会場を抑えており、新たな会場のこけら落とし公演としても非常に多くの注目が集まっているのだ。

 その宣伝も兼ねて、今日はスポンサーに名乗り出てくれたこのショッピングモールでニュージェネレーションズのミニライブが行われた。先日終了したファンクラブ会員先行のチケット応募受付も凄まじい数の応募が殺到したらしく、今までのライブとは比にならないほどの高倍率を記録している。この五周年記念ライブはアイドルたちにとっては勿論、346プロにとっても非常に大きな意味を成すライブになるのだ。

 

 

 

 

「千川さん、今から少しクライアント様と話をしてきます。この場は任せてもよろしいでしょうか?」

 

「はい、大丈夫ですよ」

 

 

 

 

 ミニライブが終わり、ステージ裏にパーテーションで作られた小さな部屋から静かに三人を見守っていた私にプロデューサーさんが声を掛ける。私が頷いたのを確認すると、プロデューサーさんは軽く一礼して小さなパーテーションの部屋から出て行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミニライブが終わって五周年記念ライブの宣伝も終わった。残るイベントはニュージェネレーションズの三人の握手会だけだ。この握手会は定められた期間にこのショッピングモールにあるCDショップでニュージェネレーションズのCDを買った先着二百名だけが参加できるイベントで、そのせいか握手会に入る頃には大勢いたお客さんも少しばかり減ってしまっていた。

 椅子に並んで座る三人の前に広がるのは二百人ものお客さんたちが作り出した長蛇の列。ショッピングモールの中で冷房が効いているとはいえ、この夏の時期に全力で数曲を歌い踊った三人の顔色には多少なりとも疲労感が漂ってはいたが、それでも三人は次から次へと入れ替わるお客さんたちに満面の笑みで対応していた。その姿を見て、この一年で三人ともすっかりアイドルらしくなったな、なんて思って私は感心してしまう。あんなに笑顔がぎこちなかった凛ちゃんが自然に笑えるようになって、数にばかり拘っていた未央ちゃんがお客さん一人一人の笑顔を見れるようになって、自分に自信が持てなかった卯月ちゃんが自信を持って笑えるようになって、本当に一年前とは比べ物にならないくらいにこの三人は成長した。初めてニュージェネレーションズの三人が美嘉ちゃんのバックダンサーとして舞台に立った時、ガチガチに緊張して危なっかしい三人を見ている私たちが不安で仕方がなかった頃が遠い過去のように思えてしまい、私は思わず頬を緩めてしまった。

 

 

 

 

「ちひろさん、ちょっと良いかな」

 

 

 

 

 成長した三人を見てもう大丈夫かな、そう判断した私が一人で備品の片づけをしていた時だった。パーテーションを少しだけずらし、私の方を覗き込むようにして見つめている凛ちゃんの声。私は手に握っていた備品を箱に戻し、作業を止めた。

 

 

 

 

「凛ちゃん、どうかしましたか?」

 

「うん……。プロデューサーはいなんだよね? ちょっと変なお客さんがいるんだけど」

 

 

 

 

 そう小声で言った凛ちゃんは困ったような表情で眉を八の字にしている。

 

 

 

 

「変なお客さん? クレームかしら」

 

「いや、クレームではないんだ。ちょっと何を言っているのか分からなくて……。ちひろさん、対応してもらえないかな」

 

「分かったわ。どのお客さん?」

 

 

 

 

 凛ちゃんはそっとパーテーションから離れると、私が顔を出しやすいように少しだけパーテーションを動かしてくれた。その隙間からそっと首を出すと、迷惑そうに前方を眺める険悪なムードが漂ったお客さんたちの列が真っ先に目に入った。そのお客さんの列を辿るようにしてお客さんたちの視線の先を見ると、次に目に入ってきたのは卯月ちゃんに何か必死に問いかけている一人の男性の姿だった。

 男性は必死の形相で卯月ちゃんに何か言葉をかけている。ここからだと遠くて男性の声は聞こえないものの、その男性の必死な表情からは物凄く真剣な想いが伝わってきた。だがそんな真剣な男性とは裏腹に、卯月ちゃんは少しパニックになったようにあたふたしているし隣に座っている未央ちゃんもどうすれば良いのか分からずにオドオドとしている。その男性がだいぶ時間を消耗させているようで、後ろに並ぶ何人ものお客さんからは厳しい視線が男性の背中に向けて投げられていた。

 パーテーションをもう少し動かして、私は小さな部屋から出た。その姿に気が付いた未央ちゃんが助けを求めるような眼差しで私を見る。私は首から関係者パスがぶら下がっていることを確認し、少し小走りで二人の元に向かっていった。

 

 

 

 

「お客様、どうかされましたか?」

 

 

 

 

 必死の形相で卯月ちゃんに詰め寄っていた男性は慌てて私の方へと振り返った。黒いシャツを着た少し小太りで地味な眼鏡をかけた男性――……、パッと見て年齢は私より少し上の気がするがもっと上の気もする。

 その男性は私の表情を見て視線を下に動かした。どうやら私の首から下げられた関係者パスに気付いたようで、再び視線を上げた時には先ほどとは違って少しだけ罰の悪そうな表情をしている。

 

 

 

 

「関係者の方ですか……。すみません、どうしてもお聞きしたいことがありまして……」

 

「どんなことでしょうか? お答えできる範囲でお答えしますよ」

 

 

 

 

 男性の声は少しだけ震えていた。そしてもう一度だけ罰の悪そうな表情で私を見ると、すぐに身体を丸めて椅子の下に置いてあった古びた鞄からCDを取り出した。男性が取り出したCDの表紙にはニュージェネレーションズの三人が真ん中に並んで祈るように両手を合わせているジャケット写真――……、半年ほど前に発売された『お願い!シンデレラ』のニュージェネレーションズverだ。

 

 

 

 

「この『お願い!シンデレラ』って、彼女たちの曲じゃありませんよね!?」

 

「えっ?」

 

 

 

 

 予想外の言葉に私は思わず呆気に取られてしまった。

 だがそんな私を気にもせず男は再び鞄に手を突っ込むと、次は違うCDを手に取って慌てて私の前に差し出した。次に鞄から出てきたのはさっきのニュージェネレーションズのCDとは違い、少し色褪せて年季を感じさせるジャケット写真のCD。何処か見覚えのある、懐かしい感じのするCDだった。

 

 

 

 

「この千川ちひろって人が昔歌っていた曲のカバーなんですよね!? ほら、これ見てください! このCDのジャケットに映っている人、この人が歌っていたんですよねっ!?」

 

 

 

 

 興奮しているのか少し早口の男性の口調。

 男性は右手に握ったCDのジャケット写真を左指で指さして私に見せつけている。その男性の左指の先に映っているのは、紛れもなく八年前の私だった。

 私は固まってしまった。近くで驚いたように目を見開いている未央ちゃん、卯月ちゃん、凛ちゃんの姿が目に入った。騒がしかったショッピングモールの音も、怪訝そうな眼差しで男性を見つめていたお客さんたちの声も、何もかもが聞こえなかった。静寂に包まれたこの世界で、私の耳に響いているのは私のCDを握った男性の声だけだ。

 

 

 

 

「教えてください、この千川ちひろって人は今は何をしているんですか!? 突然アイドルを辞めたって聞いて、それっきり何も音沙汰無しで……」

 

 

 

 

 必死に、必死になって私に何度もCDを見せて訴えかける男性。眼鏡越しに見える人の好さそうな黒い瞳、そして特徴的な少し早口な口調。私の頭の中を一気に何かが駆け巡った。八年前、ここで行った私の初ライブを先頭で見ていたお客さん、その後の握手会で少し顔を赤面させて「応援しています」と言ってくれたお客さん、次のミニライブでは友達を連れてきてくれたお客さん、そして照れ臭そうに「友達に聞かせたいんです」って言って何枚も同じ私のCDを買ってくれたお客さん――……。

 色々な過去の風景が頭の中で交錯し、そして一つになっていく。笑ったお客さんの顔、少し照れくさそうに握手をしてくれたお客さんの顔、そして熱心に私のライブを見ていてくれたお客さんの顔――……。

 その全てが、今私の目の前で私のCDを握っている男性の顔に重なった。

 

 

 

 

「かず……、さん?」

 

 

 

 

 無意識に出てしまった私の言葉。

 かずさん、と呼ばれた男は目の前で固まってしまっている。眼鏡の奥の目が大きく開かれ、その真ん中に位置する優しい黒い瞳は私を射抜くようにして見つめていた。

 

 

 

 

「……ち、ちひろちゃん!?」

 

 

 

 

 再び私の耳から音が消えた。そんな私の耳に届いたのは、かずさんが握っていた私のCDがかずさんの右手を離れ地面に落ちた音だけだった。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 人生とは不思議なものである。アイドルを辞めてからの八年間で一度も会わなかった、そしてもう二度と会うことのないと思っていた人に今日一日だけで二人も会ったのだから。

 ショッピングモールの屋上駐車場、騒々しい店内から解放されたこの場所は不気味なまでに静まり返っている。屋上駐車場に停められたまばらな数の車も動く気配はなく、周りの風景の一部と化していた。そんな屋上駐車場の片隅にある店内入り口の壁にかずさんはもたれかかってボンヤリと空を見上げている。何を考えているのか私には読めない表情で空を眺めていたかずさんは、次第に近付いてくる私の足音に気が付いたのかボンヤリとした表情のまま私に視線を移した。

 

 

 

「これ、良かったらどうぞ」

 

「あ、すみません……。ありがとうございます」

 

 

 

 

 かずさんは私の腕から冷たい缶コーヒーを受け取り、軽く一礼して缶の蓋を開けた。それにならって私も右手に握っていた缶コーヒーの蓋を開ける。そして一口だけ乾いた喉に冷え切ったコーヒーを流し込むと、かずさんと並ぶような形で入り口の壁に背中を預けた。

 

 

 

 

「……迷惑、かけましたよね」

 

「いえ、全然大丈夫ですよ」

 

 

 

 

 申し訳なさそうな表情でかずさんは両手で缶コーヒーを握ったまま、俯き加減にそう呟いた。私はそう言葉をかけたものの、かずさんは依然として私ではなく缶コーヒーを見つめている。

 

 

 

 

「ご迷惑かけて本当にすみませんでした。でも……、どうしても確かめたかったんだ! 自分の眼で、自分の耳で、ちひろちゃんがあの後どうなったのかを」

 

 

 

 

 そう言うと意を決したように、かずさんは真っすぐな眼差しで私を見つめる。八年前と変わらぬ、真っすぐに私を見つめてくれる眼差しに、私は何も言えなかった。

 それからかずさんは最近『お願い!シンデレラ』がシンデレラプロジェクトによってカバーされたことを知ったのだと教えてくれた。冬に行われた舞踏会のライブの翌日、朝のニュースの数十秒だけダイジェストで放送されたライブ映像。その中で偶然シンデレラプロジェクトの皆が『お願い!シンデレラ』を歌っているシーンを見つけたらしい。驚いたかずさんはすぐにネットで検索すると、曲名も歌詞も私の時と全く同じでカバーされたことを知った。だが公式サイトにも販売サイトにも何処にも私の名前が見つからず、疑問に思ったかずさんは346プロに問い合わせのメールを送ってみたり電話で聞いてみたりしたらしい。

 

 

 

 

「だってどう見てもちひろちゃんの曲なのに、何処にもちひろちゃんの名前が全然出てこないんだもん」

 

 

 

 

 かずさんの苦笑い交じりの言葉。それもそのはず、私が765プロを辞める時に高木社長にそうお願いしたのだから。私の名前を伏せていいので、いつか『お願い!シンデレラ』が似合う子が現れたら与えてくださいと。だからかずさんどころか、シンデレラプロジェクトの皆も誰一人として私が過去にこの曲を歌っていたことを知らなかったのだ。

 

 かずさんはいつも私のイベントに来てくれる熱心なファンの一人だった。私がアイドルとして活動していた頃、かずさんは大学生で何度も何度も私のミニライブや握手会に来ては私に応援の言葉をかけてくれた。ミニライブに大学の友達を連れて来てくれたり、『お願い!シンデレラ』のCDを何枚も買っては友人たちに配ってくれたり、とても言葉では言い表せないほど私のことを応援していてくれたのだ。私のようなローカルアイドルは良い意味でも悪い意味でもお客さんとの距離が近く、頻繁にイベントに足を運んでくれるお客さんの事は今でもよく覚えているものだ。かずさんは紛れもなく私を一番に応援してくれていたと言っても過言ではないくらい、何度も何度も私に会いにきてくれた。

 そんなかずさんにも一言も言わずに私は突然引退した。私の引退を知ってかずさんは相当落ち込んだらしい。「あの時は暫くご飯も喉を通らなかったよ」なんて言って笑って見せたかずさんを見て、私は本当に心が痛んだ。

 そんな突然の引退から八年。思わぬところで私の曲がカバーされたことを知ったかずさんは居ても立っても居られず、どうにかしてこの曲がどういった経緯でカバーされることになったのかを知りたかったらしい。だがシンデレラプロジェクトも今や人気アイドルグループの一つであり、私のようなローカルアイドルとは違ってなかなか近付くことができない。その現実に途方にくれていたかずさんが見つけたのは、今日のニュージェネレーションズのイベントだった。

 定められた期間にニュージェネレーションズのCDを買って三人の握手会に参加できれば、『お願い!シンデレラ』がカバーされた経緯を聞けるかもしれない。そんな一心で、かずさんは仕事も有休を申請して朝の早くからお店の外に並んだらしい。

 

 

 

 

「そのイベントでまさかちひろちゃん本人に会うことになるとは思いもしなかったよ」

 

「私もまさかかずさんが来てくれるとは思っていませんでした」

 

 

 

 

 私の言葉にかずさんは申し訳なさそうに、そして少しだけ照れ臭そうに力なく笑った。

 

 

 

 

「引退してからすぐ346に?」

 

「いえ、高校卒業してからは大学に通いました。346で働き始めたのは大学を出てからです」

 

「そっか……」

 

 

 

 

 ちひろちゃんがアイドルしてたのはもう八年前なんだよね、そう呟くとかずさんは壁にもたれかかったまま、遠い眼で空を見上げた。その視線の先には微妙にオレンジ色を含んできた空が広がっている。大きな入道雲が、沈もうとする夕陽に照らされ赤味を増して綺麗なグラデーションを描いていた。

 夕方の生暖かい風が吹いた。屋上駐車場を吹き抜けていく風が私の肩に流した三つ編みを揺らす。風に揺らされた私の三つ編みを、かずさんは静かに見つめていた。八年前はショートカットで肩にかかるくらいの長さだった私の髪が、今は三つ編みができるほどに伸びている。この伸びた髪が、八年という長い月日が流れたことを物語っていた。

 

 

 

 

「ちひろちゃんの歌声なら絶対ブレイクできると思ってたのになぁ」

 

 

 

 

 寂し気に笑って、かずさんはそう呟いた。また私たちの間に風が吹いた。生暖かい風に吹かれながらもかずさんは目を細めて、夜の世界へと移り変わろうとし始めている空の世界を見つめている。

 そんなかずさんの姿を見て泣きたくなった。あっという間に流れた八年間の月日の重さが、今になって私にのしかかってくる。かずさんだけじゃない、ショッピングモールの女性も、突然姿を消した私をこの八年間ずっと心配していてくれたのだ。あれだけ必死に応援してくれて、何度も何度も励まされたのに。それなのに私は一言も言わずにかずさんの前から姿を消した。

 それがどれだけ無責任なことだったか。私は溢れそうになる涙をグッと堪えて、鼻を啜った。

 

 

 

 

「ごめんなさい、私……」

 

 

 

 

 思わず言葉が漏れてしまった。今にも溢れようとする涙を必死に堪えたせいか、少しだけ力が入ってしまって声が震えてしまった。

 そんな私を少し驚いたようにかずさんは見つめる。だけどすぐに暖かい眼差しで、八年前に何度も何度も私に見せてくれたあの優しい笑顔でそっと言葉をかけてくれた。

 

 

 

 

「元気そうで良かった。今日、ちひろちゃんの顔を見て安心したんだ」

 

 

 

 

 そう言ってくれたかずさんの表情は、私の記憶にはない表情だった。まるで我が子を見守るような温かい表情――……。それは子供のように無邪気な笑顔で笑っている印象の強かった今までのかずさんからは想像できないような大人びた表情だった。

 そして、その理由がすぐに分かった。缶コーヒーを握り締める手の中に、一つだけ光り輝く指輪が見えたのだ。恵子のより少しだけ大きいその指輪は、夕焼け空に照らされてオレンジ色に光り輝いている。その指輪を思わず見つめていた私に気が付いたのか、かずさんも自分の指にはめられた指に目線を落とした。

 

 

 

 

「娘の名前、ちひろって言うんだ」

 

「えっ?」

 

 

 

 

 突然の言葉に私は意味が分からず、咄嗟に聞き返してしまった。

 

 

 

 

「妻が提案したんだ、ちひろって名前にしようって。妻にはちひろちゃんのことは話してなかったからビックリしたよ」

 

「そうだったんですね」

 

 

 

 

 かずさんの笑顔につられ、私も笑ってしまった。そのかずさんの笑顔を見て、今この人は本当に幸せなのだろうなと思う。それと同時に再度八年という月日の長さを改めて感じた。八年前、私のライブを先頭で見てくれていて、握手会などでは何回も来ているのに毎回恥ずかしそうに顔を赤くしていたかずさんがこんな大人の表情をするようになったのだから。あの時はかずさんがこうして結婚して子供を育てる姿なんて想像できなかったが、今のかずさんなら不思議と容易に想像することができた。

 優しくて温かい眼差しを持つこの人が自分の娘に溺愛する姿が想像できてしまって、何だか私まで幸せな気持ちになってしまい、頬が緩んだ。きっとこの人なら良いお父さんになれるんだろうな、とまで考えてしまう。

 そんなことを頭の中で考えられているとは知らずに、かずさんはあの頃と変わらないニコニコとした温かい笑顔で私を見つめている。その横顔が、夕陽によって照らされていた。

 

 

 

 

「ちひろちゃんみたいに、優しくて心が綺麗な女の子に育つと良いなって思ってるよ」

 

「きっと私よりもっと良い女性になりますよ」

 

 

 

 

 そうだと良いな、なんて言いながらかずさんは照れくさそうに頬を掻いた。

 そして頬を掻いていた指を止め、かずさんは腕にはめられた腕時計を確認する。そろそろ帰る時間なのだろう。かずさんを待っている妻と、私と同じ名前をした子供が待つ家に。別れ惜しそうに私の方をもう一度見ると、かずさんは寂し気に笑って言った。

 

 

 

 

「長く付き合わせちゃってごめんね、そろそろ帰るとするよ」

 

「いえ、久しぶりにお話しできて楽しかったです」

 

 

 

 

 かずさんは何も言わずに、私にニッコリと笑って見せた。

 そして入り口の壁から背中を離し、大きく伸びをする。次第に赤色へと染まっていく空に両手を思いっきり伸ばすと、かずさんは何かを思い出したかのように地面に置いていた鞄の中を漁った。

 鞄の中から取り出したのはニュージェネレーションズのCD。一度しみじみとそのジャケット写真を眺めると、CDを握ったまま私に視線を戻した。

 

 

 

 

「いつか、ちゃんと聞くよ。この子たちの『お願い!シンデレラ』」

 

「……ありがとうございます」

 

 

 

 

 私の言葉にかずさんは無言で笑うと、そのまま私に背中を向けた。そして太陽が沈もうとする空に向かってゆっくりと歩き出す。かずさんのスニーカーがアスファルトを擦る音が響いて、また生暖かい風が吹いた。その風に静止をかけられたかのように、かずさんは私から数メートル離れたところで立ち止まり、夕陽を背にゆっくりと私の方へと振り返った。

 

 

 

 

「それでも……、僕はちひろちゃんの『お願い!シンデレラ』が一番だって言うと思う」

 

 

 

 

 そうとだけ言い残し、またかずさんは背中を向けゆっくりと歩き始めた。それからは一度も振り返らずに歩き続け、屋上駐車場の隅に停めてあった軽自動車に乗り込み、乾いたエンジン音を響かせて屋上駐車場から出て行ってしまった。

 誰もいなくなった屋上駐車場で一人佇み、私は察した。もう二度とかずさんに会うことはないのだと。そう思うと無性に寂しくなって悲しくなって、胸が張り裂けそうになってしまった。

 

 かずさんが去って行った方に見える夕陽は赤く輝いてる。その赤く輝く夕陽の中目掛けて一直線に飛ぶ飛行機を私は独りで暫く見つめていたのだった。

 



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Episode.7

 

 

 

 

 いつの間にか太陽が昇っていたようで、窓から差し込む眩しいまでの日差しで私は目を覚ました。上半身だけを起こし、ベッドの上でボンヤリと座る私。騒がしい東京の朝の音が遠くから聞こえてくる。大学卒業と同時に独り暮らしを始めてから今年で四年、私の生まれ育った田舎町とはまるで違うこの街の朝の騒音にも今となってはすっかり聴き慣れてしまった。そんなBGMを耳に、私はボンヤリとした意識のまま暫くベッドの上から忙しそうに朝から大勢の人が行き来する東京の街並みを見下ろしていた。汗を含んだパジャマが重く、真夏なのに私の身体は少しばかり寒気を感じる。小さな鳥肌が身体を走ったタイミングでようやく意識がハッキリしてきた。

 時計を確認してベッドから降りるとそのまま風呂場へと向かいシャワーを浴びた。寝汗を流すとドライヤーで髪を乾かし、いつものように鏡を見ながら長い髪を三つ編みに編んで片方の肩へと流す。それからテレビを付けてニュース番組をボンヤリと眺めながら昨晩の夕飯の残りを朝食として食べていると、いつも家を出ている時間になった。

 

 そんな、四年間の間ずっと繰り返されてきたいつもと何も変わらない朝。

 いつもと何も変わらない朝なのに、今日ばかりは少し憂鬱だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 憂鬱な気分のせいか、346プロまでの足取りがいつになく重かった。就職してからの四年間、ずっと通ってきた道がとても長く感じられるし景色も全然違って見える。気持ち次第で見慣れた景色もこんなに変わるんだな、なんて思い苦笑いしてしまった。

 そんないつもと少し違う通勤路を通り、346プロの前に着いた時は何とも言えない気持ちになった。思わず足が止まってしまい、大きな346プロを見上げる形で立ち尽くしてしまう。もしかしたら就職する際にここで面接を受けた時よりも緊張しているかもしれない。未だかつてここまで仕事に行くのに気持ちが乗らない日があっただろうか――……。この四年間を振り返っても心当たりはないし、恐らくこれからもないだろう。いつもは出社してシンデレラプロジェクトの皆に会えるのが私の日々の楽しみの一つだったはずなのに、こうなってしまってはそれも私の足取りを重くする一つの理由になってしまう。

 いつもは十分前には事務所に到着しているのに、今日ばかりは重い足取りのせいでギリギリの時間になってしまった。いつもより一回り大きく見え、私の前に立ちはだかるようにしてそびえ立つドアの前で私は深呼吸をする。右肩にかけたバッグをかけ直すようにして背筋を伸ばすと、大きなドアのドアノブをゆっくりと捻った。

 

 

 

 

「ちひろさん――……!」

 

 

 

 

 開いたドアに誰よりも早く反応した美波ちゃんの声。それと同時に一斉に私に視線が集まる。シンデレラプロジェクトルームに入った私を出迎えたのは十四人のシンデレラプロジェクトの皆とプロデューサーさんだった。驚いたような目で私を見る子もいれば戸惑ったような目で私を見つめる子、十五人の視線はそれぞれだ。だが十五人とも、他の物に目をくれることもなく私だけを見つめていた。

 やはりこうなってしまったか。十五人の視線を一人で受け止めた私はもう言い訳も何も出来そうにないことを察した。予想していた通りの光景に、私は力なく頬を緩める。

 

 

 

 

「皆さん、おはようございます。今日は皆朝から揃っているんですね」

 

「おはようございます、じゃなくて! ちひろさん、昨日の話は本当なの?」

 

 

 

 

 ソファから腰を上げた凛ちゃんの低い声がシンデレラプロジェクトルームに響き渡る。

 昨日行われたニュージェネレーションズのミニライブ後の握手会、その時に私はかつて私を誰よりも応援してくれていたファンの人と再会した。それと同時に私は今まで皆には隠していたアイドルをしていた過去をニュージェネレーションズの三人に知られてしまったのだ。

 昨日はプロデューサーさんが気を利かしてくれて、ニュージェネレーションズの三人はプロデューサーさんが事務所まで送ってくれた。そして八年ぶりに再会したかずさんと積もる話もあるだろうから今日は直帰で構いませんと、そう言ってくれたプロデューサーさんの言葉に甘え、私はあの後誰にも会わずに自宅へと帰宅したのだ。

 だから今日はこうなることを予想していた。きっと私を見た瞬間に、あの話の真偽を問われるのだろうと、私はそう覚悟していた。

 知られたくない秘密、ってほどではなかった。私はアイドル時代に何か不祥事を起こして辞めたわけでもなく、ただただ“ブレイクできずに引退”しただけなのだから。だがなかなか言い出すことができずに時間が経ってしまい、皆と過ごせば過ごすほど私の胸には隠していることへの後ろめたさも生まれていた。いつかはちゃんと話をしなければいけない、そう思ってはいたもののいざその時が来てしまった今はどうすれば良いのか分からずに困ってしまう。まずは隠していたことを謝るべきなのか、それとも何故アイドルを辞めたのかを話すべきなのか――……。

 皆には見られないように、私は右手で拳を作るともう一度だけ深呼吸をする。そしてゆっくりと瞼を開くと、私の言葉を待っている十五人に向かって静かに呟いた。

 

 

 

 

「……本当よ。八年前、私は765プロでアイドルをしていたわ。そして、皆がシンデレラプロジェクトのデビュー曲として歌った『お願い!シンデレラ』は――……。もともと私の曲だったの」

 

 

 

 

 私の言葉を聞き、口を開く者はいなかった。

 ただただ、シンデレラプロジェクトルームには恐ろしいまでの静寂さが広がっているだけだった。

 

 

 

 

「ちょっと待つにゃ。な、765プロってことは……」

 

 

 

 

 暫しの沈黙の後、ようやく口を開いたのは目を見開いたままになってしまっているみくちゃんだ。途中で途切れてしまったみくちゃんの言葉の意味を理解し、私は静かに頷く。

 

 

 

 

「えぇ、765 ALL STARSは私の後輩になるの。もっとも、私は売れないローカルアイドルだったから春香ちゃんたちとは比べ物にならないくらいの無名だったけどね」

 

「あの765 ALL STARSがちひろさんの後輩だったなんて……」

 

 

 

 

 李衣菜ちゃんの言葉を最後に、シンデレラプロジェクトの皆は再び黙り込んでしまった。十四人のシンデレラプロジェクトの皆が私の方を一斉に見ているものの、十四人全員が皆驚いたような表情で言葉を失っている。その十四人から少し離れたところから遠目で私の様子を伺っていたプロデューサーさんも今このタイミングで口にするのに最適な言葉が思い浮かばないようで、困った時によく見せる首の後ろに手を回す仕草をしながら私を見つめていた。

 そんな微妙な空気が漂うシンデレラプロジェクトルーム、私も何をどう言えば良いのか分からずに困ってしまった。とりあえずこのままでは終わらないとは思いながらも、一度皆に背を向けてプロデューサーオフィスに入り、いつもと同じ場所に鞄をそっと置く。いつもならこのプロデューサーオフィスにまで皆の明るい笑い声が聞こえてくるのに、今日に限っては何一つ誰の話声も聞こえてこなかった。不気味なまでに静寂に包まれたシンデレラプロジェクトルームは皆私の言葉だけを待っているのだ。

 そんな空気の中、私は静かにプロデューサーオフィスから出てきた。プロデューサーオフィスの外では私の予想していた通り、先ほどまでと何も変わらない立ち位置で十四人のシンデレラプロジェクトの皆とプロデューサーさんが無言で私を待ち続けている。

 

 

 

 

「隠す……、つもりはなかったの。ただ言い出すタイミングが分からなくて」

 

「ってことわぁ、きらりたちがおねシン歌ったのも……」

 

「ううん、それは違うわ。本当に偶然なの、私も皆がカバーすることが決まるまで知らなかったから」

 

 

 

 

 本当に、全てが偶然だった。私がアイドルになったキッカケも中学三年の時に夏祭りで歌った私に高木社長が声をかけてくれたからで、私のデビュー曲が『お願い!シンデレラ』になったのも、アイドルを辞めてアイドルを目指す若い子たちのお世話をする仕事に就いたのも、その若い子たちが私のデビュー曲をカバーすることになったのも、全てが偶然なのだ。

 だけどその偶然が、まるで必然ではないのかと疑ってしまうほどに一直線に繋がってしまった。今私が送っている日常、大好きなシンデレラプロジェクトの皆がいるこの場所、今の私を作ったのは紛れもなく数多くの偶然なのだ。その数多くの偶然の上に成り立った今の生活は、そんな沢山の偶然が一つでも欠けていれば存在しなかったかもしれない。そう思うと、運命の巡り合わせとは本当に不思議なものなのだと思えてしまう。

 

 

 

 

「それで……。失礼なことかもしれませんが、どうしてちひろさんはアイドルを辞められたのですか?」

 

 

 

 

 いつかは聞かれるであろうと覚悟していた質問を、美波ちゃんが申し訳なさそうな表情で言葉にした。

 予想はしていたものの、私は言葉に詰まってしまい口を閉ざしてしまう。恐らく美波ちゃん以外の十四人も皆この答えが一番気になっているのであろう、皆の視線が私を逃がさないようにとしっかりと捉えていた。

 尋問を受けている気分だった。私は降参の意を込めて苦笑いを浮かべる。これだけの視線に囲まれたら、余程頭の切れる人じゃない限りは皆を納得させる嘘なんてつけないはずだ。

 

 

 

 

「辞める直前にね、765 ALL STARSに入れるチャンスが回ってきたの」

 

「え、凄いじゃないですか! あの765 ALL STARSでしょ? 天海春香ちゃんとか、萩原雪歩ちゃんとかがいる……」

 

 

 

 

 キラキラした眼で私を見る未央ちゃんに、私は再度苦笑いをしてしまう。

 シンデレラプロジェクトの皆がそれなりにアイドルとしての知名度が上がってきているのは間違いないのだが、それでも765 ALL STARSにはまだ遠く及ばないレベルだった。もうかれこれ八年もアイドル界のトップに君臨し続け、幾度となく大きなステージを成功させてきた765 ALL STARSとはたった一年程度じゃ埋まらない大きな差があるのが事実なのだから。

 もちろん、その事をシンデレラプロジェクトの皆は理解している。だからこそ、シンデレラプロジェクトの皆は765 ALL STARSを憧れとして尊敬している人が多いのだ。そんな皆が憧れるアイドルグループにこの私が入れるかもしれなかったと聞いて、皆の間には小さなどよめきが走っていた。

 

 

 

 

「でもそのチャンスの枠は一つしかなかった。765 ALL STARSの最後のメンバーに、私ともう一人の後輩で絞られてたの」

 

「……それでダメだったんですか?」

 

 

 

 

 少しだけ聞きにくそうに、智絵里ちゃんが問いかける。私は静かに首を横に振った。

 

 

 

 

「ダメだったとか、そういう以前の話よ。私が自ら退いたの」

 

「えっ!?」

 

「どうしてですか? 765 ALL STARSに入れたかもしれないんですよね?」

 

 

 

 

 私の言葉が理解できない、といった様子のかな子ちゃんの言葉。私は再び言葉を詰まらせてしまった。

 

 

――どうしてだろう。

 

 

 理由は分かっていた。美希ちゃんに笑ってほしかったから、美希ちゃんが悲しむ顔を見たくなかったから、だ。あの時、私は確かに765 ALL STARSに入りたいと思っていた。大好きな後輩たちと一緒に大好きな仕事が出来たらどれだけ幸せだろうかと、真ちゃんはそんな私を待っているとまで言ってくれた。

 だが私は美希ちゃんの悲しむ顔も見たくなかった。美希ちゃんを押し退けて765 ALL STARSに入って、私は心の底から笑顔で仕事を楽しめる自信がなかったのだ。

 765 ALL STARSで大好きな後輩たちと一緒に大好きな仕事もしたい、でもそれを叶える為には美希ちゃんを押し退けないといけない。この二択に私は何度も何度も頭を悩ませた。時には神様を呪ったことさえあった。

 

 

――どうして誰かが幸せになるためには誰かが不幸にならないといけないのだろう。

 

 

 これが世の定理なのだと分かっていながらも、何度も何度もそんなことを考えていたのだ。私も美希ちゃんも、皆が幸せになれる道はどうしてないのだろうかと。

 

 

 

 

「私と765 ALL STARSの最後の一枠を争っていた子がね、私は大好きだったの。本当に可愛くて素直で私よりうんと才能に溢れた純粋な子で、その子に笑ってほしかったの。その子が悲しむ顔なんて見たくなかった――……。だから私が自ら身を引いたの」

 

「その子ってまさか……」

 

「莉嘉ちゃん、そうよ。その子が765 ALL STARS最後の一人になった星井美希ちゃん」

 

 

 

 

 皆は再び絶句した。

 765 ALL STARS最後の一人となった星井美希ちゃん――……。デビューしてからあっという間に頭角を現した美希ちゃんはマイペースな性格と圧倒的なスタイルとルックスを武器に瞬く間に765プロの看板アイドルにまで登り詰めた。デビューしてから一年足らずで当時中学生ながらもハリウッド映画にまで進出、幾度となく前例をぶち壊しアイドル業界に旋風を巻き起こして見せた美希ちゃんはデビューから八年が経った今でも尚、アイドル界のトップに君臨するトップアイドルとしてその名を幅広い業界にとどろかせている。

 そんな超が付くほどの有名人の美希ちゃんと、シンデレラプロジェクトのアシスタントの私が765 ALL STARS最後の一枠を争っていたのだから驚くのも無理がない。もちろん、今となっては当時争っていた私から見ても美希ちゃんは遠い世界の人間になってしまったが。

 

 

 

 

「それを機に私はアイドルを引退。辞めた後は大学に通って、卒業と同時にここで働き始めた……。ただそれだけよ」

 

 

 

 

 私は美希ちゃんに笑ってほしかった。やっぱり私に大好きな美希ちゃんを蹴落とすことはできなかった。だからあの大雨の中行われたショッピングモールでのイベント翌日に「私には実力がなかった」なんて言い訳をしてアイドルを辞めたのだ。数は少なかったが熱心なファンがいてくれたのも関わらず、だ。

 

 

 

 

「でも、どうして? 765 ALL STARSに入れなくてもアイドル活動は出来たでしょ?」

 

 

 

 

 私の話を聞いて未だ納得がいかない様子の凛ちゃん。眉を八の字にして、不思議な力が籠った翠の眼差しで私を見つめていた。

 

 

 

 

「今こそ765 ALL STARSのおかげで有名になったけどね、当時765プロはアイドルを抱える事務所の中では中小企業だったの。仕事も少なくてその数少ない仕事を得るためには誰かを蹴落とさないといけなかった――……。346プロみたいに大手じゃなかったから、皆のように満遍なく仕事が回ってくることがなかったのよ」

 

 

 

 

 それが私には最後まで出来なかった。こんなことを考える時点で、私はもうアイドルサバイバルに負けていたのだと思う。

 会社と契約し、私はアイドル活動を行った対価として会社から給料を頂く。給料が発生する以上、これは学校の部活や遊びなどではなく、れっきとした仕事になる。だからみんなと一緒に楽しくやれたら良い――……、そんな私の思考はそもそも間違っていたのだ。生きていくために、夢を叶えるために、必死でレッスンをしている子たちもいる。どうにかして自分の名を世間に轟かせようと、死に物狂いで頑張っている子たちを私は沢山見てきた。それでも夢を掴めるのはほんの一握りだけだったのだ。

 いつからか、そんな風に必死に生きようとする子たちを見て私はとても失礼なことをしているのではないかと思うようになった。皆で一緒に楽しくやれれば良い、そんな事を考えてしまっている自分はこの場に居ちゃいけないのではないかと。何度も何度も私は考えた。私だってアイドルになりたい、だから私ももっと皆のようにならないといけないのだと、こんな甘い思考は捨てないといけないのだと。

 だけど、結局最後まで私にはそれが出来なかったのだ。どうしても自分の本心に嘘を付いて無理矢理言い聞かせることができなかった。

 

 

 

 

「社長にも言われたわ、『蹴落とすことが正しいとは思わないけど、誰かが幸せになるのには誰かが不幸にならないといけない』ってね。そう割り切れなかった時点で、私はアイドルには向いてなかったのよ」

 

 

 

 

 その点、私は皆が羨ましかった。

 私が765プロにいた頃と違って、大手企業である346プロには沢山の仕事が舞い込んできている。当時の765プロのように一つの仕事を数人で奪い合うのではなく、それぞれの能力に合わせた適材適所の仕事を選んで割り振られているのだから。

 皆同じ夢を持っていた。私も、春香ちゃんも、美希ちゃんも、みんな同じアイドルになる夢を抱いていた。キッカケや理由は別々でも、それぞれが熱い情熱を内に秘めて憧れる自分を目指して、死ぬ気で努力して少しでも夢に近付こうと皆がむしゃらで必死に走っていたのだ。

 でも皮肉なことに、どれだけ頑張っても全員が夢を叶えることはできない。「頑張れば夢は叶う」なんて無責任なフレーズを言えるのは本当に死ぬ気で頑張っている人たちを見たことがない人が言うセリフだとまで私は思っていた。

 

 

――こんなに皆頑張っているのに、どうして皆が夢を叶えることができないのだろう。どうして頑張った人が泣かないといけないのだろう。

 

 

 頑張っている後輩たちの姿を見る度に、私はそんなことを考えていた。こんなに頑張っているのだから、皆が幸せになれればいいのに、と。

 だからこそ、私は今の346プロの皆が羨ましかったのだ。貴重な一つの仕事を得るための過酷なアイドルサバイバルもなく、自分のペースで自分の能力に見合わった仕事ができるのだから。

 シンデレラプロジェクトの皆は本当に仲が良い。そんな皆を見て、もし私がこういった環境で春香ちゃんたちと出会うことが出来ていたのなら――……。なんて事を今まで何度も何度も考えたこともあった。

 

 だがいくらシンデレラプロジェクトの皆を羨ましく思ってたり嫉妬したところで、時間が遡るわけではない。もう私の青春時代は戻ってこないし、今の私はアイドルではなくシンデレラプロジェクトのアシスタントなのだ。

 それにこんなことを考えている時点で、例え何度青春をやり直せたとしても私は本物のアイドルにはなれなかったと思う。

 

 

 

 

「コウカイ……、はしてないのですか?」

 

 

 

 

 アーニャちゃんの言葉に私は唸った。

 後悔はしていないと思う。今の私でも、同じシチュエーションに巡り合ったら同じ選択をすると思うから。

 

 

 

 

「後悔はしてないわ。でもね、ほんの少しだけ未練はあるかしら」

 

「未練って?」

 

「みりあちゃんは昨日居なかったら分からないと思うけどね、昨日ニュージェネレーションズの三人がイベントを行った場所では私も昔何度もイベントを行っていたの。初めて人前で歌ったのもあそこ、そして最後のイベントを行ったのもあそこのショッピングモールだった……」

 

「私たちが昨日歌ったステージにちひろさんも立っていたんですね……」

 

「そうよ。だから昨日あのステージで歌う卯月ちゃんたちが少しだけ羨ましかった――……」

 

 

 

 

 昨日、私の思い入れのあるステージにニュージェネレーションズの三人が立つ姿を見て、何度も何度も八年前の私と姿を重ねてしまった。そして何度も何度も渇望した、私ももう一度だけあのステージに立ちたい、と。

 大きなライブ会場じゃなくてもいい、小汚い路上でも小さなショッピングモールのステージでも、どんな場所でも良いからもう一度だけあの頃のように大勢の前で大好きな歌を歌いたい。そんな今更願ったところでどうしようもない儚い夢を、シンデレラプロジェクトの皆がステージで輝く姿を舞台袖から見守っていた私はずっと思い描いていた。

 

 

 

 

「今でも皆を見ていると思うわ、私もステージに立って人前で歌いたいなぁって」

 

 

 

 

 思わず独り言のように、私の口から言葉が洩れてしまった。

 今更どれだけ願ったってどうしようもないことなのに。そのことを理解しるはずなのに。それでもこうして時たま言葉に出してしまう自分が駄々をこねている小さな子供のように思えてきて、なんだか恥ずかしくなってしまう。

 

 

 

 

「でもね、今はシンデレラプロジェクトの皆が輝く姿を見ることが私の夢なの。だから……」

 

「ちょっと待ってよ!」

 

 

 

 

 シンデレラプロジェクトの皆に、ではなく、自分に言い聞かせるように話していた私の言葉を遮ったのは凛ちゃんだった。

 凛ちゃんの大きな声がシンデレラプロジェクトルームに響き渡る。その迫力に押され、私も思わず言葉を止めてしまった。

 

 

 

 

「それは本当にちひろさんの本心なの!? 765 ALL STARSの時も、今も、そうやって人の事ばっかり優先して、それでちひろさんは本当に後悔しないの!?」

 

 

 

 

 初めて見るここまで凛ちゃんが熱くなっている姿に、再びシンデレラプロジェクトルームが静まり返った。皆が凛ちゃんを見つめる中、凛ちゃんは翠の眼差しで私だけを射抜くようにして鋭く見つめていた。

 凛ちゃんの言葉に、私の胸の奥にあった中途半端な何かが音を立てて壊れた気がした。あの日からずっと抱えていた、自分自身でアイドルを辞める選択をしたのに消えなかったモヤモヤが、未練が、音を立てて壊れたかと思いきやスッと私の胸の奥から消え去って行ったのだ。

 私は自分の夢より大好きな後輩たちを選んだ。これからずっと死ぬまで叶わなかった夢を抱えて生きていくことになったとしても、この道を選んだのは私なのだ。静かに右手を握り締め拳を作る。この言葉を言ってしまったら最後、本当の意味で私はもう後に引けない気がしていた。

 

 

 

 

「……後悔しないわ。例え未練があったとしてもね。一つの選択で全てが綺麗に解決できるほど、人間の心は上手くできていないのよ」

 

 

 

 

 それこそ誰かを蹴落とさなければ自分の夢が叶えられないのと同じように。私はアイドルを辞める道を選んだ、だけどその道を選んだからといってキラキラ輝くステージへの未練が完全に消えるわけではない。八年が経過した今でも、そのしこりは消えることなく私の胸の奥底に存在し続けていた。

 これが人間という生き物なのだと思う。時に酷な選択を迫られ、どちらかを選んだとしてもそれで全てが完全に綺麗に収まるわけではない。時には選ばなかった道を思い出し、その道を選んだ自分を想像しながら長く続く人生を歩まなければならないのだ。

 何かを得るために何かを捨てる、こんなことができるのは極わずかな人間だけだと思う。いや、もしかしたらそんな人間は誰一人としていないのでないかとさえ思ってしまう。

 どんなことでも、完全に忘れ去ることなんてできないのだから。

 

 

 

 

 凛ちゃんは私の言葉に何も言わなかった。

 



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Episode.8

 

 

 人生とは本当に不思議なもので、長い人生の数千分の一、ほんの一日のたった数分の出来事でそれまでの人生からは全く考えられないような方向へと舵を切ることがある。この言葉をいつ知ったのか、それも本で読んだのか遠い過去の偉人の台詞なのかテレビで偶然見かけたのか、そんなことは今となっては覚えていない。ただ私はその言葉をずっと記憶の片隅にしまい込んでは、忘れることなく覚えて続けていた。

 まさにこの言葉通りだと、私も思う。それこそ中学三年生の時のあの夏祭りの日、歌い終わった私に高木社長が声をかけるまで私は自分がアイドルを目指すことなんて考えたこともなかったのだから。あの時、高木社長と話をしたあの数分、あの数分はこれからも長く続く長い人生の中で見るとまさしく刹那のような瞬間だった。だがその刹那の時間がキッカケで私の人生は予想もしなかった方向へと走り出した。あの時アイドルを目指そうと思って、そして挫折して――……、全てが今に繋がっているのだ。

 そんな経験があったからか、私は薄々勘付いていたのかもしれない。アイドルを辞めてから平凡な八年の月日を生きてきた私の周りで、最近になって何かが起ころうとしていたことを。そう思い始めたのがいつからだろうか、ニュージェネレーションズのミニライブでショッピングモールの女性と当時私を応援していてくれたファンに会った時からなのか、それとも恵子の結婚式で冬馬君に会った時からなのか――……。

 こればっかりは分からなかった。だけど、今になって思えば全てが何かが起ころうとする前兆だった気がする。あの大雨の日から過ごしてきた私の平凡な時間が、静かに音を立てて動き出そうとしていたのだ。

 

 そして夏の日差しも少しばかり弱まり始めた九月の中旬。いつもと同じような朝を過ごしていた私。今日も明日も、きっとこれからもこんな朝が永遠のように繰り返されては続いていくのだと思っていた。

 いつものようにトーストをかじりながらボンヤリと朝のニュースを見ていた私はその映像に目を疑った。そして確信したのだ、私の人生を変えようとする何かが動き出そうとしていることを。

 

 

 

 

“昨晩、今年の一月から改修工事が行われていました東京グリーンアリーナの現場で作業中に鉄パイプが数本落下する事故が起こりました。その鉄パイプが落下した際、近くで作業していた作業員三名が転落。幸い、死者は出ておりませんが転落した作業員三名とも重体で近くの病院で治療を受けているとのことです”

 

 

 

 

 淡々と言葉にする男性のニュースキャスター。

 私はそのニュースを見て少しばかり残っていた眠気が一気に吹き飛んで行ってしまった。事故が起こった東京グリーンアリーナは、改修後十一月に346がアイドル部門設立五周年記念ライブを行う予定だった会場だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝から社内は大変な騒ぎになっていた。止まることなく次々にかかってくる問い合わせの電話、その対応に追われ346プロの事務員は朝から広い社内を慌ただしく走り回っている。正門のところには時間が経つにつれ次第に増えていく報道関係者たちの群れが出来上がっていた。

 昨晩起こった改修工事事故。これを受けて建設会社は昨夜の遅い時間に改修工事の見合わせを発表した。三人の従業員がこの事故で重体になっただけでなく、現場の管理の甘さ、そして作業員たちの長時間重労働が公に指摘されたのだ。

 年明けから近年では最大とも言われた大寒波に見舞われ東京には大雪が降り、梅雨時には数年ぶりに台風が上陸した。幾度となく続いた悪天候で改修工事は予定よりも遥かに遅れてしまい、それにしたがって急ピッチで作業をしていると私たちは聞かされていた。それでも十月中旬には完成予定だと聞いていたが、この事件を受けて無期限の作業見合わせ。ほぼ確実に346プロが予定していたアイドル部門設立五周年記念ライブには間に合わなくなってしまったのだ。

 だがそんなことを予想もしていなかった346プロはもう全てのチケットを売り捌いてしまっていた。三万枚ものチケットはファンクラブ先行販売、一般販売の二段階で完売、ライブももう三か月後に迫り、地方から見に来るファンの人たちの中には既にホテルや航空券も予約している人もいるだろう。

 要するにあとはライブ会場の改修工事が終わり、ライブ当日を迎えるだけになっていたのだ。だがその肝心のライブ会場がこれで使えなくなってしまった。ライブまでの残り三ヶ月、この僅かな期間でチケットを持つ三万人のお客さんを全員入れることのできるキャパを持つ会場を東京で新たに抑えるのは不可能に近かったのだ。

 

 ライブの開催はどうなるんだ、航空券やホテルにチケットの払い戻しはあるのか、事件を見て不安になった日本中のお客さんたちの問い合わせが朝から後を絶たなかった。

 

 

 

 

「ち、ちひろさんっ! 私たち、ライブはどうなるんですか!?」

 

「まさか中止とかならないよね!?」

 

 

 

 

 この事件が巻き起こした不安はファンだけではなく、紛れもなくシンデレラプロジェクトの皆にも伝染していた。シンデレラプロジェクトルームに到着した私が見たのはこの騒ぎを受けて明らかに動揺しているシンデレラプロジェクトの十四人だった。皆が不安そうに私の顔を見ている。

 こういう時は嘘でも『大丈夫』だと言ってあげればいいのだろうか。いや、彼女たちももう子供ではない、きっとそんな無責任な言葉をかけたところで何の気休めにもならない。ならどうすればいいのか、十四人分の不安が一斉に私にものしかかってきて私は息苦しくなってしまう。

 

 

 

 

「今の段階ではまだ分かりません。プロデューサーさんが今、美城専務たちと会議を行っています。皆さんは落ち着いて続報を待っていてください」

 

 

 

 

 こんな機械的な答え、誰も望んでいないことくらい私でも分かっていた。でもこう言うことしかできないのだ。ここで無責任なことなんて口が裂けても言えない。私はあくまでシンデレラプロジェクトのアシスタントなのだから。あとはプロデューサーさんや美城さんに任せることしかないのだ。

 私の言葉に皆は黙り込んだ。皆頭では納得したようだが、それでも動揺を隠しきれていない表情を浮かべている。そんな不安を隠せない皆を見て、私は何て無力なのだろうと痛感させられた。もっとこの子たちの不安を和らげることのできる言葉をかけてあげれたら良いのに。何度も何度も心の中でそんなことを考えるも、私の口にこの場に最適な言葉は思い浮かんでこなかった。

 

 

 

 

「ま、今はP君を信じて待つにぃ。P君ならぁ、きっと何とかしてくれるよぉ! ねっ?」

 

「そうだね、今は待つことしかできないもんね」

 

 

 

 

 凛ちゃんは硬くなった表情を崩し、溜息交じりにそう呟くと力なく笑った。それと同時に、シンデレラプロジェクトルームに張り詰めていた緊張の糸がほんの少しだけ緩んだ気がする。

 きらりちゃんに助けられた形になってしまい、私は心の中で何度も何度もきらりちゃんにお礼を言った。その心の声が聞こえたのか、きらりちゃんは一瞬だけ私を見ていつもの皆を元気付けてくれる笑顔を私に向けてくれた。

 

 

――でも実際どうなるんだろう。

 

 

 常識的に考えてライブ三か月前に新たな会場を抑えることはほぼ不可能だ。それに売り捌いてしまった三万枚ものチケットを持つお客さんを全て入れることのできる会場なんか日本全体でも数えるほどしかない。よっぽど奇跡でも起きない限り、どうしようもないのが現実だった。

 だがアイドルたちも全国のファンも、皆このライブを心待ちにしている。346プロアイドル部門設立五周年記念と大々的に謳って企画されたこのライブは、346プロで活躍するアイドルたちが一度に集結する大舞台になるはずだった。五年目を迎えようやく軌道に乗り始めた346プロのアイドル部門としても、舞踏会で結果を残し存続を勝ち取ったシンデレラプロジェクトとしても、このライブはこれからの更なる飛躍のキッカケとなる非常に大きな意味を成すライブだったのだ。

 もしそんなライブが中止となったら高倍率の中からチケットを勝ち取ったファンたちはどう思うか――……。

 

 アイドル部門設立五周年記念ライブ、このメモリアルライブは絶対に成功させないといけないライブなのだ。

 

 

 私は誰もいないプロデューサーオフィスから外を見下ろす。正門には朝見た時より更に増えた芸能関係者たちが大挙して駆け付け、開く気配のない入り口をじっと見つめていた。その光景を見て、ドッと疲れが出てきたような気がして私は思わず深い溜息をついたのだった。

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

「だ、大丈夫ですか!? プロデューサーさんっ!」

 

「はい、大丈夫です。ちょっと昨晩から寝てなくて……」

 

 

 

 

 昼過ぎ、プロデューサーさんがシンデレラプロジェクトルームに帰ってきた。今日初めて見たプロデューサーさんは別人のように疲弊していた。まるで何日間も何も食べず飲まずで陽の光の当たらないところで生活していたかのように、疲れ切った表情で私に笑って見せる。目元に出来たクマが、その疲れ果てたプロデューサーさんの表情を更にげんなりとさせているようだった。そんな変わり果てたプロデューサーさんを見て、シンデレラプロジェクトの皆は何も言わなかった。いや、言わなかったというよりは“言え”なかったのだろう。言葉にせずとも今自分たちが迎えている状況の厳しさを知るのには、プロデューサーさんの表情だけで十分だったのだ。

 プロデューサーさんは自分の姿を見て動揺しているシンデレラプロジェクトの皆にいつも以上にぎこちない笑みで軽く一礼すると、そのままプロデューサーオフィスに入って行ってしまった。慌てて私も後を追うようにプロデューサーオフィスに入る。部屋の中ではプロデューサーさんがぐったりとした様子で椅子に持たれかかり、力なく首に絞められたネクタイを緩めていた。

 

 

 

 

「また一時間後に会議が再開します。シンデレラプロジェクトの皆は千川さんにお任せしてよろしいでしょうか?」

 

「はい、大丈夫ですけど……」

 

 

 

 

 どう見てもプロデューサーさんは大丈夫ではなさそうだった。恐らく昨晩の工事見合わせの報道を受けてから日付が変わる頃に出社し、一睡もせずに緊急会議に参加していたのだろう。だが半日もの時間を費やした緊急会議でも良い案は見つからなかったようだ。完全に疲れ果てたプロデューサーさんの様子を見るだけで私はある程度の状況を察することができた。

 

 

 

 

「……それで、会議の方は?」

 

 

 

 

 聞かなくてもある程度は予想できた。だけど一応、もしかしたら何かシンデレラプロジェクトの皆を少しでも安心させられる話があるかもしれない。

 そんな淡い期待にかけて、私は申し訳ない気持ちを持ちながらそう問いかけてみた。プロデューサーさんは私の問いに疲れているのに関わらず、嫌な顔一つ見せないで一枚の裏紙を見せてくれた。その裏紙には凄まじい量の文字が書き殴られている。どうやら半日近く時間を要した会議で使った裏紙のようだ。

 

 

 

 

「一応、東京の他の場所でできないか模索する話にはなっているのですが……」

 

 

 

 

 プロデューサーさんはそこまで言うと力なく裏紙の右端を指さした。

 

 

 

 

「東京で三万人を収容できる会場となると、この時点で二か所に絞られます。一つはここです。正式には二万八千人収容ですが、立見席を作ったりステージのセットを極限まで削ればギリギリ三万人は入らない数ではないと思います。ただ、そのぶん安全性が落ちてしまうのと、なにより私たちのライブの前日にジュピターがここでライブを行うことになっていました。一晩での搬出、搬入は不可能なのでここは候補地からなくなりました」

 

「まぁ、一晩じゃさすがに無理ですよね……」

 

「二か所目は東京ドームでした。十一月中旬なら幸いプロ野球のシーズンも終わっており、プロ野球と被る心配はありません」

 

 

 

 

 ですが……。そう言うとプロデューサーさんは疲れたように溜息を付き、困った時に見せる手を首の後ろに回す仕草を見せた。

 

 

 

 

「東京ドームは二年前から765プロとスポンサー契約を結んでおり、再来年まで契約が残っています。765プロのスポンサーである東京ドームが765プロの許可なく我々に使用許可を出すのは恐らく契約違反でしょう。それに同じアイドル部門を抱えるライバル会社同士、765プロが我々のイベントに使用許可を出すとも考えられません。よって、東京ドームも候補地からはなくなりました」

 

 

 

 

 これで一通りの説明は終わったようだ。プロデューサーさんは再び倒れるようにして椅子の背もたれに背中を預けて、何もない天井を溜息交じりに見つめた。

 もうどうしようもなかった。ライブ会場がなければ当たり前だがライブは行うことができない。かと言ってチケットを買ったお客さんの何千人かを削って少し小さなキャパでライブを行うことも当然無理だし、残り三ヶ月で今更東京ではない地方の会場に変更することもできない。時期も時期で十一月になるから野外コンサートにすると寒さの問題も出てくる。

 もう完全に詰まってしまっていた。その現実は誰が見ても明らかだったのだ。

 事故が起こってしまったのは今更どうしようもない。建設会社を責めるわけにはいかないし、彼らだって悪天候によって工事が遅延しながらも、なんとか期限までに終わらせようと必死になって頑張ってくれていた。今朝だって建設会社の社長さんが346プロにまでやってきて何度も何度も頭を下げていた。彼らが必死になって頑張っていたことを私たちは知っていたから、誰も何も言えなかった。

 でも――……、それでも私は割り切ることができなかった。色々な苦難を乗り越えてきたシンデレラプロジェクトの皆も、他の部署のアイドルたちも、皆この346プロのアイドル部門史上最大規模と言っても過言ではないこのライブを楽しみにしていたのに。このアイドル部門設立五周年記念ライブで新たに全国デビューする数人のアイドルたちの話も、私は美城さんから聞いていた。その子たちだって、勿論全国のファンの人たちだって、皆がこのライブを心底楽しみにしていたはずだ。

 

 

 

――本当にもう手詰まりなのだろうか。どうにかしてライブを行う方法は本当に残されていないのだろうか。

 

 

 

 その時だった。私の頭に小さな電流のようなものが流れたかと思うと、一つの案が思い浮かんだのだ。それは限りなく可能性が低い案だった。だけど、今のこの四方八方行き詰っている状況からすれば一番可能性のある案なのだと、私は確信した。もうこの方法しかないのだと。

 無意識に両手を叩いた私を、プロデューサーさんは訳が分からずボンヤリと見つめている。

 

 

 

 

「千川さん……? どうかされましたか?」

 

「美城専務は今どちらへ?」

 

「え、美城専務ですか? 専務ならまだ三十七階の会議室にいるかと……」

 

「分かりました、ちょっと行ってきます」

 

 

 

 

 そこまで言うと私は咄嗟に足を動かし、プロデューサーさんに踵を返して走り出した。背中からプロデューサーさんの声が聞こえてきた気がしたが、それも耳に入る前に私はプロデューサーオフィスを飛び出した。プロデューサーオフィスから勢いよく出てきた私を、シンデレラプロジェクトの皆は驚いたようにして見つめている。だが、その皆の視線に目もくれずに私は一直線にシンデレラプロジェクトルームを出て、エレベーターへと走って行ったのだった。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

「ちひろか……。そんなに慌ててどうした?」

 

 

 

 

 広い会議室の窓際で一人佇む美城さん。この広い会議室には美城さんの低い声が響いていた。昨日見た時とはまるで別人のように美城専務も疲れ果てており、その表情から疲労困憊な状態を隠しきれずにいる。走ってきたせいで身体が熱くなり、肩で息をしている私を美城さんは疲れた目を少しだけ見開いて見つめていた。

 数年ぶりの全力ダッシュで思っていたように息が切れてしまい、私は美城さんの言葉に応えようとしても喉が言う事を聞かずに上手く開くことができなかった。早く乱れた呼吸を整えようと慌てて深呼吸をしてしまい、余計に呼吸が乱れてしまう。そんな一人で荒い息をしている私を美城さんは怪しむような眼差しで見つめて、首を傾げていた。

 

 

 

 

「美城さん、良い解決策は見つかりましたか?」

 

 

 

 

 ようやく呼吸が落ち着き、私はゆっくりと窓際で佇む美城さんの元へと歩み寄った。美城さんは相変わらず疲弊した表情のまま、一度溜息を付くと力なく笑った。

 

 

 

 

「彼から聞いていないのか? これだけ話し合っても何も案が出てこないんだ」

 

「……一つだけ、私に良い考えがあります」

 

 

 

 

 珍しく弱気になっていた美城さん。私の言葉にそんな美城さんの表情から一気に疲れが吹き飛んで行ったようだった。疲弊した表情から一変、充血した目を大きく開いて私を見つめている。

 それから美城さんに私が思い付いた案を説明した。恐らく誰もこの方法は考えていなかったのだろう、手短に話した私の説明を聞いている間、ずっと美城さんは腕組をして聞いているだけで何も言わず、ただただ淡々と話す私を驚いた表情で見ているだけだった。

 

 

 

 

「……そんなことが、できるのか?」

 

「可能性は僅かですが、やってみる価値はあると思います」

 

 

 

 

 一通りの説明を聞いた美城さんの言葉に、私は力強く頷く。

 おそらくこれしか今の状況を打開する方法はないのだと思う。だから例え可能性は低くても、やってみるしかないのだ。何もしなかったら当たり前だが、ライブは行えないのだから。

 

 

 

 

「ちひろの言う計画が上手く行ったらライブは行える。そして我々も当初の予想以上の成果が出せると思う。だけど……」

 

 

 

 

 そこまで言うと、一度言葉を区切る。

 そして申し訳なさそうに私を見て、普段冷徹な仮面を被った美城さんからは想像できないようなか弱い声で静かに呟いた。

 

 

 

 

「ちひろ、お前は大丈夫なのか……? お前にとっては辛い仕事になるのではないか?」

 

「私は大丈夫ですよ。あんなに皆頑張ってるのに、ライブが中止になる方が私は辛いですから」

 

 

 

 

 少しだけ強がって笑顔を繕って、私はそう答えた。美城さんはそんな私の奥底に隠した本心まで見抜いていると思うけど。

 でも美城さんはこれ以上私の作った強がりを剝がそうとはしなかった。その代わりにまた疲れたような表情で溜息を付くと、苦笑いを浮かべた。

 

 

 

 

「お前は本当に何処までもお人好しだな……。ありがとう、本当に感謝している。自分の事より会社のことを、アイドルたちのことを、いつも考えてくれているお前には頭が上がらないよ」

 

 

 

 

 そう言って美城さんは深々と私に頭を下げる。

 

 

 

 

「ちひろ、お前は今日は帰りなさい。一晩で色々と頭の中を整理する時間も必要だろうから。先ほどの件は午後からの会議で皆に話してみようと思う。恐らくちひろの案が採用されると思うから、それが決まり次第私から連絡を入れよう」

 

「美城さん、ありがとうございます。よろしくお願いしますね」

 

「それは私の台詞だ。ちひろ、本当にありがとう。お前には感謝しても感謝しきれない……」

 

 

 

 

 それから私は美城さんの指示通り、ワンルームマンションへと帰った。

 そして私がワンルームマンションにちょうど着いた頃、美城さんからメールが届いた。私の案が採用されることになったと、そう書かれたメールを見て私の鼓動は勢いを増して動き始める。もう後戻りはできないのだと、今更ながらそう思うと色々な想いが胸の中で交錯した。

 私はワンルームマンションのエントランスの前で私は夕焼けに染まり始めた空を見上げた。九月中旬になっても広い空を覆う入道雲が、赤い夕焼けに照らされオレンジ色に染まっている。

 

 あの日以来、止まっていた私の運命が大きく動き出そうとしているのだろう。

 

 大きな入道雲を暫く眺めていた私はそんなことを考えていたのだった。

 



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Episode.9

 

 

 この日ばかりは眠れなかった。

 いつもより早めの時間に部屋の電気を消した私は、窓から月明かりが差し込むベッドに横になった。月明かりだけが光る部屋の中で、ボンヤリと天井を見つめている私の胸には色々な想いが交錯する。何度も何度も、そんな想いを掻き消すかのように無理矢理に瞼を閉じてみたが、数分も持たずに私の瞼は無意識に空いてしまい再びボンヤリと天井を眺めていた。そんな行動を何十回も繰り返して日付を跨いだ頃、私はもう無理に寝ようとすることを諦めた。こればっかりは無理に考えないようにしようとしてどうにかなるレベルのことではなかったのだ。

 美城さんが私に気を遣って早く帰してくれたのに関わらず、私がようやく眠りに落ちることができたのはいつも寝ている時間より遥かに遅い時間だった。そしてその数時間後、全く眠った気がしなかったが私はセットしていた目覚ましより早くベッドから出て、いつもより時間をかけて準備をしてまだ真っ暗な闇を月が照らす中、狭いワンルームマンションを出たのだった。

 

 九月中旬の朝。まだ太陽は昇っておらず、いつもは人や車が溢れかえっている道は不気味なほどに静まり返っている。そんな夜の東京の街は世界は夏の気配を僅かに残しながらも、少しばかり肌寒い風が駆け抜けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.9

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に制服を着たあの日以来一度も来ることのなかった駅に降り立った瞬間、私の胸には様々な想いが込み上げてきた。懐かしいような、そしてほろ苦いような、そんな言葉では上手く言い表せない想いが胸一杯に広がっていく。私の背後で停まっていた電車がゆっくりと動き出したかと思うと、すぐに大きな音だけを残して走り去っていった。 ノスタルジックな想いに駆られ、ホームで一人立ち尽くす私の傍を大勢の高校生たちがすり抜けていく。白いシャツに黒のネクタイ、膝上の茶色のスカート。私が高校生の頃と何も変わらない制服を着た高校生たち。大きなリュックを背負って今から朝練に向かおうとしている部活生、眠そうな目を擦りながらも片手に握った参考書を読んでいるのは進学科の生徒だろうか。そんな高校生たちを見てこんな頃が私にもあったなぁ、なんて思い苦笑いしてしまった。

 アイドル活動と学業を両立していた高校生の頃はほぼ毎日利用していたこの駅。高校を卒業して大学に進学したものの、大学は私の高校とは離れた場所にあったため自然とこの駅に来る機会はなくなってしまっていた。駅周辺には私が通った高校があるくらいで、栄えているわけでもなかったからプライベートでここに来ることもなかったのだ。

 三年間毎日のように通っていた道を八年ぶりに訪れたせいか、目に映る景色や駅周辺の雰囲気、寂れた駅から漂う独特な匂い、その全てが懐かしかった。懐かしい光景を見たからか、思わず鼻の奥がツンとする。その痛みが私の弱気になっていた心をゆっくりと引き締めるのだ。

 

 

――もう、引き返せない。

 

 

 私に346プロアイドル部門設立五周年記念ライブの開催が懸かっている。

 どうしてもこのライブを開催させたかった。シンデレラプロジェクトの皆は勿論、他の部署のアイドルたちも全国のファンたちも、皆がこの大規模なライブを待ち望んでいるのだから。美城さんもプロデューサーさんも大勢のアイドルたちも、皆本当に色々な困難にぶつかりながらも必死に頑張って来て、ようやく辿り着いた五周年記念ライブなのだから。

 そんな皆の苦労をアシスタントとして誰よりも陰から応援していたから、私はこの案を美城さんに提案した。これは私にしかできないことなのだと、そう言って私の事を心配してくれた美城さんを強引に納得させたのだ。

 

 

 駅近くのコンビニでコーヒーを買うと、いつの間にか陽が昇り明るくなった道を私は少しばかり急ぎ足で歩く。今は六時四十五分、私の記憶が間違っていなければあと十五分であの人は来るはずだ。だからそれまでに私があの場所に辿り着かないと――……。

 時間もあまりなかったため、昔の通学路を懐かしむ余裕はなかった。だけど、それで良かったのだと思う。もし通学路を懐かしむ時間があれば、きっと私は思い出したくないことを沢山思い出してしまい、この足を前に動かすことを躊躇ってしまいそうな気がしたのだから。一度でもそういった余計なことを考えてしまうと、今まで張り詰めてきた強気の糸が一気にちぎれてしまいそうな気がして怖かったのだ。

 幸い道は覚えていたから迷うことはなかった。八年前と何も変わっていない街並みを辿り、次第に速まっていく胸の鼓動を必死に隠そうと平静を装って、私は歩き続けた。近付いていくにつれ、ドンドン胸が締め付けられるような気がして、自然と足取りが重くなる。引き返したい、何度も何度もそう胸の奥底でそんな弱気な言葉を呟く私がいた。それでも私は歩き続けた。

 そして今は閉店してしまった小さな煙草屋を右に曲がり、とうとう私の目にはこの八年間で忘れることが一度もなかった景色が飛び込んでいた。縦に伸びた古びた雑居ビル、その一階部分にはシャッターが下りており、シャッターの中央部分には「貸店舗」と書かれた紙が貼られている。そしてそのシャッターから目線を上にあげ、あの頃と何も変わらない色褪せたテープで窓に書かれた「765」の文字を確認した。

 腕時計を見る。時間は六時五十六分、ギリギリ間に合ったようだ。私はアイドルを辞めたあの日からの八年間で一度も訪れることのなかった765プロの前で最後の覚悟を決めると、建物横の入り口にもたれかかる様にして足を止めた。

 完全に太陽が昇り、明るさを取り戻した空を見上げて手に握ったままのコーヒーを一口飲んだ。氷が溶けて少し水っぽくなったブラックコーヒーが、私の喉元をゆっくりと通り過ぎていく。毎朝、出勤前に買って飲んでいるブラックコーヒーなのに今日はなんだか全然別の味がした。緊張のせいか、すぐに乾いた喉にもう一度ブラックコーヒーを流し込む。二回目の味も、やはりいつもとは違う味だった。

 ストローから口を離し、腕時計を見る。私の腕時計は数分前に七時を過ぎていたことを報せていた。そろそろのはずだ、そう思って腕時計から目を離した時だった。いつの間にか現れたのか、私から少し離れたところからゆっくりと私の方へと向かってくる男性が目に入った。男性は私には気付いていないようで、ずっと下を向いたまま腰を少しばかり丸めて歩いている。私の胸の鼓動が大きく高鳴る。それを機に、一気に心拍数が上がった。

 八年前と何も変わっていないその歩く姿を、私はずっと見つめていた。耳にまで響く胸の鼓動、抑えることのできないその音が届いたのか、私に気付くことなく歩いていた男性は私の五メートルほど前でその足を止めてゆっくりと顔を上げた。八年前より少し痩せたように見えたその男は信じられないようなものを見ているかのように驚いた表情を浮かべて私を凝視していた。

 

 

 

 

「き、君は……」

 

 

 

 

 思わず震えている男性の声。

 驚きのあまり、男性は手握っていた鞄をビルの陰に覆われ暗くなっているアスファルトの上に落としてしまった。アスファルトに鞄が落ちた音でようやく我に返り慌てて腰を曲げて鞄を拾う男性の姿を見て、私は思わず口元が緩んでしまった。

 

 

 

 

「……お久しぶりですね、高木社長」

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 一歩ずつ登っていく度に軋む音が響く階段、窓が少なく光があまり差し込まないせいで一年中薄暗いままの廊下、そして開けるのに少しばかりコツがいる事務所のドア。

 765プロの中は八年前とあまり変わっていなかった。施設は相変わらずお世辞にも綺麗とは言えないし、失礼だが何も知らない人に今アイドル界のトップに君臨している765 ALL STARSがこの事務所にいるのだと話しても間違いなく信じないと思う。

 それでも、この場所は私にとって何にも代えることのできない大切な思い出が詰まった場所なのだ。八年前も今も、このことに変わりはなかった。

 

 

 

 

「八年ぶりか。すっかり大人になったものだな」

 

「そんなことないですよ。ここは……、あんまり変わっていないようですね」

 

 

 

 

 事務所の片隅の古びたパーテーションで囲まれた小さな応接間。私の前に麦茶が入った湯呑をそっと置くと、高木社長は私をそう言ってゆっくりと向かい側のソファに腰を下ろした。その眼差しは、まるで数年ぶりに孫を見る年配の方のような優しい眼差しだった。

 まだ誰も出社していない事務所をグルっと見渡してみる。綺麗に整理された机はおそらく音無さんの机で、その横で沢山の書類が重なっている机はきっと律子さんの机、律子さんの向かい側の机は美希ちゃんが淡い恋心を抱いていた赤羽根プロデューサーの机だろう。給湯室の水切り籠にポツンと残されている湯呑も、八年前に雪歩ちゃんが愛用していた湯呑だ。

 事務所の中はあの頃と殆ど変わっていなかった。だけどこの八年間で変わった部分も勿論ある。私が入社したばかりの頃は空欄が多かったスケジュール表が今は隙間なく埋められていて、殺風景だったデスク周りの壁には私が見たこともないような賞状が何枚も額に入れられ飾られていたり――……。あの頃から765 ALL STARSは誰一人欠けることなくみんな頑張っているのだと、そんな変わった部分を見て私は思わず胸が熱くなってしまった。

 

 

 

 

「朝会社に来て千川君がいるんだからビックリしてしまったよ」

 

「朝早くから突然押し掛けてしまい、本当にすみません……」

 

「いや、良いんだ。久しぶりに千川君の元気な顔も見れたのだから」

 

 

 

 

 高木社長はそう言うと、ニッコリと笑って見せてくれた。八年前のあの日、突然アイドルを辞めて765プロを退社したっきり一度も顔も見せずにいきなりこうして連絡もなしに訪れ、本当に失礼なことをしたと思う。だけど、そんな失礼を承知で私は高木社長に会いに来た。私は知っていたのだ、高木社長がアイドルや社員たちが出社する前に誰よりも早く会社に来ていることを。高木社長と直接話をするには朝一で私が765プロに行くしかない、そう思って私は高木社長を待っていたのだ。

 

 

 

 

「……それで、私が一人の時にわざわざ訪れるという事は何かあるのだろう」

 

 

 

 

 少しだけ声のトーンが下がったと思うと今までの暖かな眼差しからは一転、高木社長は目を細めて私を静かに見つめる。高木社長は私の考えを見抜いていた。その視線に少しばかり怖気づいてしまいそうになり、私は慌てて高木社長の視線から逃げるようにしてポケットに入れていた名刺ケースを取り出す。緊張のせいか錘が付いたかのように上手く動かない両手で何とか一枚だけ名刺を握ると、そのまま高木社長へと差し出した。

 私の名刺を受け取った高木社長は、細めていた目を大きく見開いた。

 

 

 

 

「……今は346プロで働いていたのか」

 

「はい、そして今日は高木社長にお願いがあって此処に来ました」

 

 

 

 

 いよいよこの時が来た。高木社長は私の言葉に見開いていた目を再び細める。私が最後にアイドル活動を行った大雨の日の翌日、アイドルを辞めることを話した時と同じだった。高木社長は何も言わずに、ただ黙って私の言葉を待っている。あの日の情景が一気にフラッシュバックし、八年前にタイムスリップしたような気がした。

 八年前と変わらない高木社長の眼差し。その眼差しに見つめられた私はもう後に退けない。大きく深呼吸をすると、私は高木社長の眼差しを見つめ返すようにして静かに呟いた。

 

 

 

 

「……346プロと765プロで共同ライブを開催してもらえませんか?」

 

 

 

 

 私の言葉に高木社長は何も言わなかった。

 それから私は順を追って説明をした。東京グリーンドームが先日の事故により改修工事が見合わせになってしまったこと、そのせいで十一月に予定していた346プロアイドル部門設立五周年記念ライブの開催が絶望的になってしまったこと。チケットも既に三万枚売り捌いてしまっており、346プロとしてもどうにかしてライブを開催させたいと思っている。だがチケットを売り捌いてしまった以上、その枚数分のキャパは確保しなくてはならない。時間ももう残り少なく、今更地方開催に変更する時間もなく、残された方法は東京で三万人を収容できる会場を抑えるしかなかった。

 だが三万人のキャパを持つ会場は二か所しか東京にはなく、一か所はジュピターのライブと被ってしまっていた。残された一か所は数年前から765プロとスポンサー契約を締結した東京ドーム。その場所をどうしても使いたいが為に、こうして346プロと765プロの共同ライブを提案したのだ。

 

 まるで一方的に家出をした子供が久しぶりに実家に戻ってきて突然親にお金を請求しているような感じだった。これがどれだけ身勝手で我が儘な話か、私は嫌というほど理解していた。

 当然だが765プロに346プロの事情は全く関係ない。それどころか、同じアイドルを抱える会社同士、敵と言っても過言ではない。だから、結果として346プロを助ける形になるこの共同ライブのメリットが765プロには少なすぎたのだ。

 

 

 

 

「なるほど、そういう事情か……」

 

 

 

 

 私は何度も何度も高木社長に頭を下げた。普通に考えてこんな我が儘が認めてもらえる道理はない。それを分かっていながらもこうして突然アポなしで訪れて無理なお願いをしているのだから、高木社長からすればどれだけ迷惑な話なのかも理解している。そんなことを何も気にせずに頼み込むより、よっぽどタチが悪いと思う。

 一通りの説明が終わり、高木社長はため息交じりにそう呟いた。前のめりの体勢で肘を机に付き、何も言わないままで窓の外をボンヤリと眺めている。

 

 

 

 

「突然ふらっと現れてこんななことを言って、図々しいのは承知しています。だけど、どうにかご検討してもらえないでしょうか?」

 

「千川君の頼みも346の事情も分かった。だが、その前に一つだけ質問をしていいだろうか?」

 

 

 

 その時の高木社長の表情は今までに見たことがない表情だった。

 まるで何もかもを見透かしているような目で、無表情で私を射抜くようにして見つめている。怒っているようにも見えるし悲しんでいるようにも見えるその表情からは、いつもの優しい高木社長の面影が跡形もなく消え去っていた。

 初めて見る高木社長の表情に私は凍り付いてしまった。まるで裁判官から判決を言い渡される直前の大きな罪を犯した加害者のような、そんな思いになってしまうのだ。

 

 

 

 

「それは、誰の提案なんだい?」

 

 

 

 

 無表情の口から言い放たれた言葉はその表情とは裏腹にいつも以上に優しい声だった。思わず身構えていた私は拍子抜けしてしまう。高木社長はそんな私を変わることなく真っ直ぐに見つめ続けている。

 

 

 

 

「765プロと共同でライブを行おうという提案は誰がしたんだい? 千川君の上司なのか? それとも346プロの上層部の人間なのか?」

 

 

 

 

 そこまで噛み砕いてもらって、ようやく高木社長の質問の意味を理解することができた。私は高木社長の黒い瞳を見つめ返す。何を考えているのか分からない、まるで瞳だけ別人の物を取り付けたような高木社長を真っすぐに見据え、私は口を開いた。

 

 

 

 

「私が提案しました」

 

「……それは本当かい?」

 

「本当です。この提案をしたのは私で、私以外の人は誰一人として765プロと共同でライブをしようという提案はしなかったそうです」

 

 

 

 

 高木社長は私の言葉を聞いても、ずっとその言葉の真偽を確かめるように私を静かに見つめている。その眼差しは私の心の奥底まで、全てを見つめているような気がした。

 

 

――この人の前では何も隠せないんだな。

 

 

 この時、私はそう悟った。嘘も強がりも、きっとこの瞳は全てを見透かしているのだろうと、そう確信したのだ。高木社長の前では小細工も何も通用しない、きっとそんなズルい手はこの人にかかればすぐに見破られてしまうのだから。

 765プロと共同でライブを行う提案を高木社長に伝えると初めて美城さんに話した時、美城さんは私の事を気遣ってくれた。アイドルを辞めてから今まで一度も訪れなかった765プロに独りで行くのは辛いのではないかと。過去への後悔や未練、叶わなかった夢の渇望など、色々な想いが交錯して私自身が苦しい想いをするのではないかと、美城さんはそう言って心配してくれた。

 全部がないと言ったら嘘になってしまう。だけど、私がそんな想いをして346プロのライブが開催できるなら喜んでやってみますと言った。346プロの皆が大好きで、そんな大好きな皆の笑顔が見たいのだと、その言葉に噓偽りはなかった。

 だから高木社長に心の奥底まで探られている気がしても、私は自然と堂々とすることが出来た。瑞樹さんや楓さん、冬馬君も私にもっと自分の好きなように生きて、自分自身にとっての幸せを掴むべきだと言ったてくれた。

 

 

 

 

“今もそうやって人の事ばっかり優先して、それでちひろさんは本当に後悔しないの!?”

 

 

 

 

 私が昔アイドルをしていたことを知られた翌日、私が凛ちゃんに言われた言葉だ。

 だけど誰がどう言おうと、決して傍から見れば幸せに見えなかったとしても、これが本当に私にとっての幸せなのだ。誰かの力になりたい、誰かを幸せにしてあげたい、そう思う気持ちに一ミリも嘘は混じっていない。

 

 だから私は今日、ここに来た。胸が締め付けられるような想いに駆られても、私は346プロの皆に笑ってほしかったから――……。

 

 

 

 

「……分かった」

 

 

 

 

 高木社長はため息交じりにそう呟くと、苦笑いを浮かべた。先ほどまでの険しい表情から一変、今はいつもの優しくて温かい表情に戻っている。

 

 

 

 

「千川君は相変わらずだな。あの頃から何も変わっていない」

 

 

 

 

 そう言って私に笑って見せる。私は照れくさい気持ちになってしまい、何と答えれば良いか分からずにただただ黙って笑うことしかできなかった。

 

 

 

 

「もし346プロの誰かが千川君が765プロにいたことを利用して、千川君をここに来させたのなら私は断るつもりだった。だが、その表情を見るとそういった訳ではないようだな」

 

「はい、先ほども言いましたがこれは全て私の提案ですから」

 

 

 

 

 私の言葉に、高木社長は笑顔で何度も何度も頷いた。そして、よしっという小さな呟きと共にゆっくりとソファから腰を上げる。

 

 

 

 

「分かった。前向きに検討してみるとしよう」

 

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 

 

 

 嬉しさのあまり、私は思わず両手を叩いて立ち上がってしまった。何度も何度も、感謝の意を込めて頭を下げる。いきなりアイドルを辞めて八年間一度も姿を見せなかったのに、突然現れて我が儘なお願いを言い出した私の話を怒ることなく聞いてくれた高木社長の優しさが心に染みて、思わず目頭が熱くなってしまった。

 こんなにも身勝手で図々しい私を、こうして笑顔で出迎えてくれたことが嬉しくて、「ありがとう」という言葉にしてしまうと薄っぺらく感じられるほどに私は感謝をした。こんなに私は高木社長に感謝しているのに、もっともっとこの気持ちを伝えたいのに、どうしても私の気持ちを伝える方法が思い付かなかった。

 だから、私は何度も頭を下げ続けた。こんなことで今の私の高木社長への感謝が伝わるとは思わないが、それでも何もせずにはいられなかったのだった。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 高木社長は一応前向きに検討するとは言ったものの、実際は高木社長一人の判断では決めることはできないらしい。東京ドーム自体はギリギリになるがこの時期はイベントが特にある訳でもないから恐らく抑えることは可能だと教えてくれた。だがそれ以前にまずは律子さんや赤羽根プロデューサーに相談して、そこから765 ALL STARSの皆にも相談する必要があり、その為の時間が少しだけが欲しいと、そう言われたのだ。

 もちろん私としては全然大丈夫なのだが、未だにライブの開催可否が発表されていないことに混乱するアイドルやファンたちのことを考えると、なるべく一日でも早く話をまとめたいという思いもあった。

 

 

 

 

「そうだな、分かった。三日後までに結論を出すことにしよう。三日後の夕方、またここに来てほしい」

 

「分かりました」

 

 

 

 

 三日後の日曜日に共同ライブを行うかどうかの判断を聞くことで、今日の話し合いは終わりとなった。

 時間は八時半を迎えており、あと三十分後には律子さんや赤羽根プロデューサー、音無さんにアイドルたちが出社する時間になる。高木社長にせっかくだから皆が来るまで待っていればと言われたが、私はまた改めて伺いますと伝えてその誘いを断った。高木社長に会って共同ライブの依頼をするのとは別に、春香ちゃんたちに会うのには気持ちの整理をしないといけない気がしたのだ。それに今はこの話し合いの結果を一秒でも早く346プロに戻って皆に伝えたいという気持ちが強かった。きっと今も美城さんやプロデューサーさんたちは共同ライブがダメだった時の代理案を会議で話し合っているはずだから。

 八年ぶりの再会で色々と話したい事も沢山ある。だが、今日ばかりはこのタイミングで帰ることにした。そう聞いて高木社長は残念そうな表情を浮かべながらも、私を下まで見送りにきてくれた。

 

 

 

 

「シンデレラプロジェクト、最近勢いがあって良いじゃないか」

 

「ありがとうございます。皆良い子たちで昔の春香ちゃんたちにそっくりですよ」

 

「そうかそうか、それなら私たちも追い抜かれないよう気を付けねばならんな」

 

 

 

 

 そんな他愛もない会話をしながら古びた階段を下りていた時だった。何処か遠くから微かに声が聞こえてきて私は足を止めたのだ。そんな私に気が付いて高木社長も足を止める。耳を澄ませばかろうじて聞こえてくるような小さな声は、私の聞き覚えのある綺麗な女性の声だった。

 暫くその女性の声を聴き込んでいた私に、高木社長がそっと声をかけてくれた。

 

 

 

「如月君だよ。彼女は今でもこうして出社の一時間前ほどからトレーニングルームで歌っているんだ」

 

「八年前と変わりませんね、千早ちゃんは」

 

「ホントだな。世界デビューも果たして今となっては一流歌手の一人なのに、今でも無名の頃から変わらずこうしてストイックに夢に向かって歩き続けているのだから」

 

 

 

 

 高木社長はそう言って感心したように音が漏れているトレーニングルームのドアを眺めている。

 八年前と何も変わっていなかった。765プロも事務所の中も、そして千早ちゃんも。私がまだアイドルをしていた頃、よく週末の朝は千早ちゃんと早く会社に来てこうして一緒に自主トレに励んでいたことを思い出した。八年前に私がいなくなって一人になっても、こうして千早ちゃんは毎日欠かさず朝の自主トレを続けていたのだ。

 嬉しかった。私の大好きな765プロが八年前と同じままで今も在り続けていて。それと同時に、やはりこの場所は私にとってかけがえのない場所なのだと、そう改めて痛感させられた。

 

 それから暫く、私は八年前より更に上手くなった千早ちゃんの歌声を静かに聞き続けていたのだった。

 



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Episode.10

いよいよ765勢との再会。

物語はこの話を含み、残り四話で完結予定です。




 

 

 

 私が765プロに行って高木社長に共同ライブの話をしてからの三日間は、恐ろしいほどまでに時間の流れが遅く感じられた。高木社長は前向きに検討してくれるとは言ってくれたが、赤羽根プロデューサーや律子さん、765 ALL STARSの誰かがこの企画を拒否したら当然だがこの共同ライブは実現することができない。346プロの事情を聴き、自分たちにはあまりメリットがないことを分かった上で高木社長はこの企画を認めてくれたが、765プロに関わる他の人たちが皆346プロの事情を理解してくれるとも限らない。私が自ら提案したこの案は、どう考えても実現の可能性が限りなく低い企画だったのだ。

 相変わらず社内の電話は一日中鳴り響いている。日を追うごとに増えていく全国のファンたちからの問い合わせ、募っていくアイドルたちの不安、ここ数日で346プロの人間は皆疲弊しきってしまっている。後を絶たないファンからの問い合わせに対応するべく、改修工事見合わせの発表があった次の日の夕方、美城さんの提案で急遽ファンに向けたビデオメッセージを公式ホームページに掲載することが決まった。だが346プロのアイドルの中でも特に人気のある小日向美穂ちゃん、川島瑞樹さん、高垣楓さん、塩見周子ちゃん、城ヶ崎美嘉ちゃんの五人が混乱するファンたちに落ち着いて続報を待つようにと言葉をかけても、全国のファンたちの不安はとてもじゃないが払拭することはできなかった。

 そんな皆の姿を見て、私は何度も何度も口を開いてしまいそうになった。

 

 

――今、765プロとの共同ライブを企画中です。この企画が通れば765プロとの合同になりますが予定通りライブは開催できます。

 

 

 この言葉をかけてあげることができたら、皆の不安を少しは解消できるのに。

 だけど私は言えなかった。私以外に水面下で765プロとの話し合いが進んでいることを知っている人たちも誰一人として口を開かなかった。共同ライブの噂が万が一ファンたちにまで漏洩し、もしこの企画が通らなかった場合にどれだけ765プロに迷惑がかかることになるのか。765プロは346プロを助ける義理などないはずなのに、我が儘を言って助けを求めたのは私たちなのに、結果的に765プロが認めなかったから346プロはライブを行えなかったという形になってしまうことを皆分かっていたのだ。

 例え自社のアイドルたちでも社員でも、絶対にこの話は正式に決定するまでは話さない。このことは美城さんから厳しく言い渡されていた。だからこそ、私たちは混乱するアイドルたちや社員を見る度に胸が締め付けられていたのだ。

 

 

 

 結局、高木社長との話し合いの日からずっと続いていた会議も、「765プロとの共同ライブが実現しなかったら正式にライブを中止にする」という結論で幕を閉じた。

 そしてその話をプロデューサーさんから聞いた数分後、私の社用の携帯に一通のメールが届いた。差出人は高木社長、恐らく先日渡した私の名刺に書かれたメールアドレスを見て連絡したのだろう。

 

 

 

 

『予定通り、明日の夕方十六時から765プロダクションでこの前の話の続きをしよう』

 

 

 

 

 高木社長のメールを見て、私は大きく深呼吸をした。

 明日、共同ライブの開催の可否がどうであれ765プロに行けばきっと今度こそ春香ちゃんたちに会うことになるのだろう。後輩たちだけじゃない、律子さんと赤羽根プロデューサーや音無さんとも、皆に会うことになるはずだ。

 八年ぶりに私を見て皆は何と言うだろうか。何も言わずに辞めたことを怒るかもしれないし、もしかしたら私の事なんて皆忘れているかもしれない。

 

 いずれにせよ、明日には全て分かることになるのだ。

 雨が降り注ぐ中、高木社長に自ら引退を申し出たあの日から八年。いつかは訪れるであろうと予感していた再会を直前に、私の胸には様々な想いが渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とうとう訪れた日曜日の昼過ぎ。今日は仕事も日曜日だから休み、小さなワンルームマンションでソワソワと落ち着かない気持ちで朝から一杯だった私は、じっとしていられずに予定より遥かに早い時間に外へと飛び出した。

 三日前と同じ駅で電車を降りて、九月中旬になったのに関わらずに未だ夏の暑さが感じられる太陽が照らす懐かしい道をゆっくりと歩いていた。三日前は急いでいて早足でこの道を歩いていたが、今日は三日前とは対照的に十分すぎるほどに時間がある。その有り余る時間が私に色々なことを考えさせるのだ。

 季節外れのセミの虚しい鳴き声が何処からか聞こえてきて、私はその足を止めた。幾つもの大きな木が並んだこの並木道、私の目に飛び込んできたのは八年前に私が着ていた制服と同じものを着た五人組の高校生たち。どうやら部活の帰りらしく、私の方へと向かってくる五人の高校生たちは学校指定のバックではなく荷物で一杯になったスポーツバックを肩から下げていた。

 

 

 

 

「ねぇ、このあと新宿行こうよ」

 

「えー、今月小遣いが結構ピンチなんだけどなー。ま、いっか」

 

「新宿行くなら原宿の方がよくない?」

 

「原宿だと行くまでに時間かかるじゃん。私、明日提出の数学の課題もあるし、今日は早めに帰りたいんだよね」

 

「数学の課題って明日までだっけ!? やばっ、アタシ全然やってないし……」

 

 

 

 

 五人の高校生たちは仲が良さそうにワイワイと話をしながら歩いてくる。そんな高校生たちを見て、私にもこんな頃があったなー、なんて振り返ってしまい思わず微笑ましい気持ちになってしまった。

 季節外れのセミの鳴き声が途切れたかと思うと、暫くしてセミが羽ばたいていく弱々しい音が聞こえてきた。そのセミが羽ばたく音が次第に遠のいていくのと同時に、私はゆっくりと時間を遡る。そしてセミの羽ばたく音が完全に聞こえなくなってきた頃、八年前に私がこの道を歩いて、見て、感じていた情景が私の頭の中にフラッシュバックしてきたのだ。

 

 

 

 

“姉さん、このあと皆でゲームセンター行きませんか!?”

 

“ま、真ちゃんが行くなら私も行きたいですぅ”

 

“良いね、皆で行こうよ! 私、せっかくだしプリクラとか撮りたいなぁ!”

 

“は、はるか!? 私、あんまりプリクラとかは……”

 

“良いじゃない、千早ちゃん。皆で撮りましょ?”

 

 

 

 

 私の横を通り過ぎて行った五人組の高校生たちが八年前の私と重なって見えて、私は思わず二度と帰って来ない青春時代を思い出してしまった。

 この道を歩いた時のことを、私はアイドルになる夢を諦め八年の月日が流れた今でも鮮明に覚えている。思えばあの頃はこの並木道をほぼ毎日誰かしらと歩いていた気がする。平日の放課後に765プロで皆と一緒にレッスンを受けた後の街灯が照らす帰り道、朝から夕方までレッスンを受けたり時には小さなお仕事をした後に通った夕暮れ時の道――……。私にとってかけがえのない大切な時間だった。

 響ちゃんが飼っている動物たちの話、亜美ちゃんと真美ちゃんが通っている学校で起きた面白い話、貴音さんが私と二人だけの時にしてくれた色々と深く考えさせられる話――……。この並木道で誰とどのような話をして歩いたか、八年が経った今でも私は何一つ欠けることなく覚えていた。

 学業とアイドル活動の両立は大変だったが、私はそんな多忙な日々に充実感を感じて幸せに過ごせていた。大好きな後輩たちや高木社長や律子さんのような優しい大人に囲まれて、私の夢に向かって真っすぐに駆け抜けた私の青春時代。何事にも永遠というものはないということくらい当時の私でも理解してはいたが、それでもこんな幸せな時間がずっと続けば良いのに、といつもこの並木道を歩き終え誰かと別れて独りで電車に揺られながら帰る時にそんなことを考えていた。いずれこの夢のような時間も終わりを迎えるのだと、その現実はあの頃の私でも分かっていたはずだった。

 だが私はあの幸せな日々が終わってしまった今でも、時々昔を思い出してはこう思ってしまう。

 

 

 

 

――やっぱりあの頃に戻りたいなぁ。

 

 

 

 

 そんなことができないことくらい、私は分かっていたはずだった。

 時間というものは誰にでも平等に与えられたもので、どれだけ大金を払ってもどれだけ渇望しても、過ぎ去ってしまった時間には戻ることができない。だからそんな変えることの出来ない過去の時間に浸って現実から逃げるより、これから私に訪れる時間を如何にして素晴らしい時間にするかを考える方がよっぽど良いことだって、頭では分かっている。

 そもそも、そんな幸せな時間に終止符を打ったのは私なのに。誰かから辞めろと言われたわけでもなく、私が一人で考えて決めたことなのに。私自らの意志でこの幸せな時間から身を引いたのに、八年経った今でもその時間を渇望するなんて考えてみれば可笑しな話である。

 だけど、頭ではそう分かっていても、私はこの過去の時間への未練を未だに断ち切れずにいた。

 

 

 どんなに願ったって、過去の時間は戻らない。その揺るぎない事実を、八年前とは違って独りでこの並木道に立ち尽くす夢を諦めた私は嫌というほど痛感させられたのだった。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

「ちひろちゃん、久しぶりね! 社長から聞いてはいたけど、見間違えるような美人さんになってビックリしちゃった」

 

「そんな……。音無さんも相変わらず元気そうで安心しました」

 

 

 

 

 少しだけ予定よりも早い時間に765プロに着いた私を出迎えてくれたのは事務員の音無さんだった。今日は日曜日、本来なら仕事も休みのはずだが私が来ることを高木社長から聞いてわざわざ出社してくれたらしい。

 音無さんは八年前の記憶の姿とは少し変わっていた。ショートカットだった髪は腰の辺りまで伸びており、印象的だったカチューシャも今は外してしまっている。そのせいか、765プロに到着して音無さんを見た時は誰だか全く分からなかった。

 

 

 

 

「社長はもうすぐ帰ってくるから、ちょっと待っててね」

 

 

 

 

 パネルパーテーションで区切られた小さな応接間に案内され、私は静かにソファへと腰を下ろした。辺りをぐるっと見渡してみても、どうやら今は音無さんしか事務所にはいないようだ。てっきりもう皆が事務所内にいることを想像していた私にとって、これは予想外だった。今から八年ぶりに会うのだと、ようやく覚悟を決めてやってきたのに肝心の後輩たちは誰一人事務所内にいなかったのだから。

 キョロキョロと辺りを見渡していた私の気持ちに気付いたのか、給湯室から二つに湯呑をトレイに乗せてきた音無さんが応接間に入ってくると私の前に一つの湯呑をそっと置いてくれた。

 

 

 

「皆は今『生っすか!?レボリューション』の収録に行ってるわ。そろそろ帰ってくる頃だと思うけど」

 

「あ、なるほど……」

 

 

 

 

 そういえば毎週日曜日に『生っすか!?レボリューション』という生放送番組に765 ALL STARSのメンバーが総出演していたことを思い出した。一度は番組終了を迎えたものの、視聴者の熱い要望によって再び復活したこの番組はもうかれこれ九年ほど続く長寿番組になっている。今となっては日曜日の午後と言ったらこの番組を思い出すほどに、765 ALL STARSの知名度が上がるのと比例して人気番組へと成長したのだ。

 ちょうどそのタイミングで鈍い音を立てて事務所のドアが開かれた。ドキッとした私は思わず両手で握っていた湯呑を机の上に戻してしまう。胸の鼓動が一気に加速して行く中、恐る恐る入口の方を覗いてみるとドアの前にいたのは高木社長と眼鏡をかけた一人の男性――……、美希ちゃんが恋心を抱いていた赤羽根プロデューサーだろうか。思わずホッとしてしまう、どうやら春香ちゃんたちではなかったようだ。

 

 

 

 

「社長、ちひろちゃん待ってますよ」

 

「おお、千川君か。お待たせしたようで申し訳ない」

 

 

 

 

 音無さんに急かされるようにして、高木社長と赤羽根プロデューサーは応接間へと入ってきた。立ち上がった軽く一礼した私に高木社長は座るように促すと、二人は私の向かい側のソファへと腰を下ろす。音無さんは高木社長たちが腰を下ろしたのを確認すると、そっと静かに応接間を後にした。

 一度だけ、高木社長がわざとらしく大きな咳払いをする。

 

 

 

 

「ゴホンっ、彼女が先日話した346プロダクション、シンデレラプロジェクトのアシスタントをしている千川ちひろ君だ」

 

 

 

 

 高木社長の説明を受けて、隣に座っていた赤羽根プロデューサーは私に向かってニコリと笑って頭を下げる。私も慌てて頭を下げると、すぐにポケットから名刺を取り出して赤羽根プロデューサーに向かって差し出した。

 

 

 

 

「千川ちひろと申します。よろしくお願いいたします」

 

「はじめまして……、かな。改めまして、765 ALL STARSのプロデューサーをやっている赤羽根と申します」

 

 

 

 

 そう言われ、私たちは名刺を交換した。

 赤羽根プロデューサーは律子さんと二人で765 ALL STARSのプロデューサーをやっている。私がアイドルを辞める直前に765プロにやってきて、当時の私のプロデューサーは律子さんだったから赤羽根プロデューサーとは直接の認識はなかった。もっとも、美希ちゃんから赤羽根プロデューサーに関する話は何度も聞かされていたからある程度の話はしっていたけれども。

 赤羽根プロデューサーは私の名刺を静かに机の上に置くと、屈託のない笑顔で私を見つめる。

 

 

 

 

「昔、律子が担当してた子だよね? 春香たちが今でもよく千川さんの話をしてくれたから、色々と聞いてはいたよ」

 

「えっ? 私の話ですか?」

 

「そう。皆言ってたよ、誰よりも優しくて私たちを可愛がってくれた優しい先輩がいたって。今でも皆凄く会いたがっていたから、今日はみんなすごく喜ぶと思う」

 

 

 

 

 そう言って赤羽根プロデューサーは笑って見せる。眼鏡の奥にある瞳は優しくて真っ直ぐで、人のよさそうな表情をしている暖かな雰囲気を持った人――……、そんな第一印象を私は抱いていた。どうやらその第一印象通りだったようだ。赤羽根プロデューサーの話を聞いて少し小恥ずかしくなってしまい、私は音無さんが持ってきてくれた湯呑を口元へと運んだ。

 嬉しかった、春香ちゃんたちが今でも私の事を覚えていてくれて。皆私の事を忘れていたらどうしようと、ここに来るまでに何度も何度もそんなことを考えては不安になっていたのだから。そのことだけで、私は思わず目頭が熱くなってしまった。

 そのタイミングで音無さんが新たに二人分の湯呑を持ってきて、静かに私たちに挟まれた机の上へと置いた。私の様子をまるで父親のように温かく見つめていた高木社長は、音無さんが置いた湯呑を一度だけ口に付けると、再びわざとらしく咳払いをする。どうやら今から本題に入るようだ。

 私は高木社長の咳払いで再び背筋を伸ばすと、ジッと高木社長を見つめた。三日前に高木社長にお願いをした共同ライブの話、346プロのアイドル部門設立五周年記念ライブの開催可否が今高木社長の口から決められようとしているのだ。

 極度の緊張感がパネルパーテーションで作られた狭い応接間に漂う。高校受験時の合格発表を見に行った時と同じような――……、いやあの時よりもはるかに何倍も緊張している。背中が熱くなって、ヒンヤリとした冷たい汗が伝っていく気がした。

 

 

 

 

「では、本題に入ろう。先日千川君が提案した共同ライブの件だが……」

 

「はい」

 

「満場一致で開催することが決まった。是非良いステージにしようじゃないか」

 

 

 

 

 高木社長の言葉があまりにもあっさり過ぎて、私は唾を飲み込む時間すらなかった。思わず呆気に取られてしまう。喜ぶべきはずなのに、あまりも高木社長の言葉が簡潔すぎてどうこの喜びを表現すればいいのか分からなかったのだ。

 

 

 

 

「ん? あ、え……? 今、開催することが決まったって仰いました?」

 

「私はそう言ったつもりだが……。もしかしてそう聞こえなかったかね?」

 

 

 

 

 そう言われ、ようやく実感が沸いてきた。

 これで765プロと合同でライブを行うことができる。当初の予定通りの日程で場所も東京ドームだから東京グリーンアリーナからもそう離れていない。開催が危ぶまれた絶望的な状況からは考えられないような、あまりにも理想的な代理案だった。

 ほぼゼロに近い成功率だったこの案が、奇跡的に通って全てが上手く行く形で正式に決まった。高木社長に赤羽根プロデューサー、そして律子さんと765 ALL STARSの皆の協力のお陰で346プロは無事にライブを行えるのだ。アイドルを辞めて八年、突然ふらっと現れてはこんな我が儘なお願いをして、普通なら怒られても仕方がなかったのに――……。それでも765プロにとってメリットが少ないこの馬鹿げた案を、皆は真剣に検討して受け入れてくれたのだ。

 その765プロの皆の優しさを想うと、胸が熱くなってしまう。

 

 

 

 

「本当にありがとうございます! こんな我が儘な話を聞いてくれて……」

 

 

 

 

 気が付けば私はソファから腰を上げ、何度も何度も二人に向かって頭を下げていた。こんな形でしか今の私の感謝の気持ちは伝えれなくて、私は何度も頭を下げることしかできなかった。そんな私を見て高木社長と赤羽根プロデューサーは苦笑いをしている。

 

 

 

 

「……これは全部君のおかげだよ。私たちは何もしていない」

 

「え?」

 

 

 

 

 高木社長の言葉の意味が分からず、私は頭を下げるのを思わず止めて聞き返した。高木社長は何も言わずに、手で私に「とりあえず座りなさい」とメッセージを送っている。訳が分からないまま、私は高木社長の指示通りソファへと腰を下ろした。

 私が座ったのを確認して、赤羽根プロデューサーがニッコリと笑って口を開く。

 

 

 

 

「実は高木社長と僕と律子以外、千川さんがこの提案をしたことは知らないんだ」

 

「え? じゃあ春香ちゃんたちは私が此処に来たことも知らなかったんですか?」

 

「まぁ、そうなるかな」

 

 

 

 

 それから赤羽根プロデューサーはどういった経緯で共同ライブが開催されることになったのかを話してくれた。

 まず三日前、私が帰った後に高木社長は赤羽根プロデューサーと律子さんを呼んでこの共同ライブの話をした。私が朝一に765プロへやってきてどういった事情があって346プロと765プロの共同ライブの話を提案したか、それを全て話したらしい。そこで三人はとりあえず今の段階では何も決めず、765 ALL STARSの皆の意見を聞いてみることにした。

 その後、全員が揃ったところで赤羽根プロデューサーと律子さんが共同ライブの話を全員に相談したのだ。東京グリーンアリーナが改修工事中に事故が起こって346プロが予定していたライブが行えなくなってしまったこと、だからその代わりとして765プロと合同で東京ドームで合同ライブを行いたいと申し出てきていること、更にこの共同ライブがもし行われたら自分たちは結果的にライバル社を助けることになるということまで話したらしい。

 その際に私の名前を出さないで話をしようと提案したのは律子さんだった。私の名前が出ればどうしても皆の判断には情が入ってしまう。私が関わっていることを話さない上で皆がどのような判断をするかに任せてみることにしたのだ。

 

 だが皆の意見がまとまるのに時間はかからなかったらしい。満場一致で開催すると、その意見に誰一人異議を唱える者はなくまとまったのだ。

 

 

 

 

「みんな言ってたんだ、『346プロの子たちが困ってるなら力になりたい』って。誰一人として346プロのアイドルたちと関わりがある子はいなかったんだけどな」

 

「勿論、あの子たちは誰一人として千川君が346プロで働いていることを知らない。でも、あの子らは皆346プロに協力することに前向きだったんだ」

 

 

 

 

 そこまで説明して、高木社長は赤羽根プロデューサーと一度顔を見合わせる。そして私の方を見ると、何度も私に見せてくれた暖かな笑顔で私の眼を真っすぐに見つめた。

 

 

 

 

「八年前の千川君と同じだよ。自分のことよりも困っている人を助けたい、誰かを幸せにしたい、そんな誰よりも人の為に行動していた千川君の優しさがあの子たちにも伝わっていたんだと思う」

 

「俺は当時の千川さんとはあまり関わってなかったから八年前の事は分からないけど……」

 

 

 

 

 そこで一度区切ると、赤羽根プロデューサーは身体を捻って壁にかけられている額に入った何枚もの賞状へと視線を移した。それは私がいた頃には見たことがなかった賞状たち。きっと765 ALL STARSの皆が勝ち取ったものだと思う。

 

 

 

 

「アイドルの世界って本当に厳しくて、正直あの子たちがデビューから八年が経った今でもブレイクできてることが信じられないくらいなんだ。あの子たちより才能がある子は沢山いるし、歌が上手い子たちだって沢山見てきたから」

 

 

 

 

 私は何も言わずに赤羽根プロデューサーの話を聞いていた。赤羽根プロデューサーは名残惜しそうに額に入った賞状たちから視線を話すと、再び私の正面へと身体を向ける。

 

 

 

 

「でも共同ライブをしたいって言った皆の姿を見て思ったよ。きっとこうやって自分たちのことより人の為に動けるから、沢山の人たちに愛されることができたんだなって。これが765 ALL STARSの魅力なんだなってさ」

 

「その魅力をあの子らに与えたのは紛れもなく八年前の千川君だと、私は思っている。千川君がいなかったら今の765 ALL STARSは絶対に有り得なかったのだから。本当に心から感謝している、ありがとう」

 

 

 

 

 高木社長の言葉に胸が熱くなってしまった。それと同時に私の目頭も熱くなってしまう。

 こんなことを言ってもらえるとは思っていなくて、私は口元を両手で覆ってしまった。二人が思っているほど、私はそんな大層なことは何もしていないのに。ただ単純に765プロの優しい皆が好きで、そんな皆の力になりたいと思って動いていただけなのに。

 私は沢山の人にお世話になって支えられていたのに何も告げずにアイドルサバイバルから逃げ出した。戦うことすらしないで、「私には実力がなかった」なんて言い訳をして、765プロを出て行った。そんな無責任な行動をして、夢から逃げ出したのは私のはずなのに。

 それでもそんな私に高木社長と赤羽根プロデューサーはこんなに優しい言葉をかけてくれた。思わず涙が出そうになってしまって、私は強引に鼻を啜った。今すぐにでも壊れそうな涙の堰を、どうにかして私は壊れないように支えていた。

 

 その時だった。事務所の中に突然ドアノブを捻るガチャガチャという音が鳴り響いたのだ。その音に反応して、私の心臓が大きな音をたてて動き始める。

 誰かが帰ってきたようだ。閉まりの悪いドアに苦戦しているようで、ドアノブが捻る音は何度も何度も事務所内にこだましている。その音が私の耳に届くたびに、私の胸がざわついた。遂にこの時がきたのだと、そう思うとここに来る前に固めたはずの覚悟があっという間に崩れ去って行くのを感じた。何度も何度も私なりの覚悟を決めてここに来たはずなのに、その覚悟もドアノブを捻る音を聞いただけで跡形もなく消え去ってしまったのだ。

 だがそんな弱々しい覚悟が消え去ったからと言ってどうにかなるわけでもない。ここにきた以上、逃げ場などないのだから。私は高木社長と赤羽根プロデューサーに気付かれないようにそっと目を閉じて深呼吸をする。そして、大きく息を吐いた。

 

 

 

 

「たっだいまー!」

 

 

 

 

 私が大きく息を吐いたのと同時に、ドアノブが開いた。ドアノブを捻る音の後に事務所に響いたのは響ちゃんの元気な声。テレビ越しでもラジオ越しでもなく、八年ぶりに生で聞いた響ちゃんの声だった。

 向かいのソファに座っていた二人が立ち上がり、応接間から出て響ちゃんを迎えた。二人が出た後に、私も二人に付いてくるようにして応接間を後にする。響ちゃんは最後に出てきた私を見て、驚いたように目を見開くと眉を八の字にして困ったように苦笑いをした。

 

 

 

「あ、お客さんが来てたのか……。って、アレ……?」

 

 

 

 

 響ちゃんは大きく見開いていた目を、今度は極限まで細める。私はその視線にどう返せば良いのか分からず、ただ静かに笑いかけただけだった。

 だがそれだけで響ちゃんは気付いたようだ。再び大きく目を見開くと、慌てて私に踵を返したかと思いきや、そのまま走って事務所から出て行ってしまった。

 

 

 

 

「ちひろさんだ! ちひろさんが戻ってきた!」

 

 

 

 

 物凄いスピードで去っていた後、開けられたままの事務所のドアの先から響ちゃんの叫び声が聞こえてくる。響ちゃんの声の後には、狭い階段に響く十一人の騒然とした声。そしてバタバタと慌ただしく聞こえてくる皆の足音。十一人の大きな足跡が徐々に私の耳に近付いてきた。

 開いたままになっていたドアの先に一番に現れたのは真ちゃんだった。全速力で階段を駆け上がってきたようで、事務所のドアの前に立ち肩で息をしながらじっと私の方を見つめている。

 

 

 

 

「姉さん……。姉さん!」

 

 

 

 

 真ちゃんはからっていた鞄を投げ捨てるようにして事務所の床に落とすと、そのまま走って私の胸へと飛び込んできた。真ちゃんを受け止めた私の肩に、冷たいひんやりとした感触が伝ってくる。それが真ちゃんの涙だということに私はすぐに気が付くことが出来た。

 八年前と何も変わっていなかった。男女問わず幅広い年齢層から人気のある真ちゃんは、『王子様系美少女』なんて世間から言われてはいるが、その中身は八年前と変わらず人一倍繊細で傷付きやすい、か弱い女の子のままだったのだ。

 

 

 

 

「どうして何も言わないで辞めちゃったんだよ! 残されたボクたちがどれだけ寂しい想いをしたか……」

 

「……真ちゃん、ごめんね。本当にごめんなさい」

 

 

 

 

 今の私にはこう言うことしかできなかった。

 真ちゃんは私の腕に抱かれたまま、力なく右手を丸めて作った拳で私の肩を何度も力なく叩いている。そんな真ちゃんを見て、何度も鼻の奥は熱くなって、私は無理矢理鼻を啜って涙を堪えた。私の肩に真ちゃんの涙が伝う度に、何度も涙が零れ落ちそうになる。だから私は必死に鼻を啜っては、涙が零れ落ちないように天井を見上げた。

 皆の前では絶対に泣いちゃいけない。私に泣く資格なんてないのだから。これは此処に来る前に私が決めたことだった。こんなにも私を慕ってくれる可愛い後輩たちがいてくれて、私の事を応援してくれるファンの人たちもいて、私は沢山の人に支えられていたはずなのに、私は高木社長にしか告げずに逃げるようにしてアイドルを辞めて夢を諦めた。こんな無責任なことをして許されるはずがないのだ。

 でも泣いてしまえばそんな無責任なことも許されてしまいそうな気がした。だから絶対に皆の前では涙は流さない。そう誓って、私は765プロに来たのだから。

 

 

 

 

「ちひろさん――……っ!」

 

「ホントだ、ちひろさんだ! ちひろさんが帰ってきたんだ!」

 

「ちひろさ~ん、ホントに会いたかったですぅ~!」

 

 

 

 

 真ちゃんの後に続くようにして、次々と私の大切な後輩たちが私に駆け寄ってくる。雪歩ちゃんと春香ちゃん、美希ちゃんに響ちゃんと亜美ちゃんと真美ちゃんは真ちゃんと同じように私の傍まで駆け寄ってきてくれて私の顔を見るなり声を上げて泣いている。その光景を少し離れたところから貴音さん、千早ちゃん、あずささん、やよいちゃんと伊織ちゃんが涙を堪えて見守ってくれていた。

 大好きなこの場所で大好きな仲間たちに囲まれて過ごす時間――……。それは私がアイドルになる夢を諦めたあの日からの八年間で何度も何度も夢にまで見た光景だった。もう二度と帰っては来ない日常なのだと分かってはいながらも、それでもその理屈に納得することができずに私はいつも765プロのことを思い出す度に渇望していた。

 

 

――もし、もう一度だけあの頃に戻れるのならば、私は何だってするだろう。

 

 

 そんなことを考えたことだってあった。

 だが今こうして八年ぶりに皆と再会して、私は改めてこの時間はもう二度と戻っては来ない時間なのだと痛感させられた。八年ぶりに会った私をこうして歓迎してくれる皆を見て、嫌というほど八年という月日の重さを私は感じたのだ。

 やよいちゃんは幼かった記憶の中の姿とは変わり果てて、今では立派なお姉さんになっている。性格も顔もそっくりだった双子の亜美ちゃんと真美ちゃん、亜美ちゃんは身長が伸びて表情も別人のように大人びている一方で、真美ちゃんは八年目からあまり身長は変わっておらず表情もあの頃の子供っぽさを残したままだ。伊織ちゃんに関しては貴音さんと並ぶほどまでに身長が伸びていて、真っすぐに伸びた綺麗な脚が際立っている。

 

 

 

 

 

――みんな、成長しているんだよね。

 

 

 

 

 当たり前の事実が、私の胸の奥にスッと入り込んできた。

 それと同時に、今までずっと胸に抱えていた過去への未練が入れ替わるようにして私の胸の奥底から消え去っていくのを感じた。此処に来る前に通った並木道、あの道で私は胸が締め付けられる程にあの頃に戻りたいと思っていたのに、それが不思議なほどまでに今は何も感じなかったのだ。

 

 きっと皆に会わなかったら私は多分死ぬまであの渇望を抱えたままだったと思う。だけど今こうして八年ぶりに大好きな場所で大好きな後輩たちと再会して、私のそんな渇望は消え去ってしまった。

 私の大好きな後輩たちはこうやって前を向いて今を生きている。だから私もいつまでも過去の事を引きずらないで現実を生きていかなければいけない。そんな当たり前の事を、私は今になって感じたのだ。

 

 

――ホントに此処に来てよかった。

 

 

 色々な想いが交錯して複雑な心境だったけど、此処に来てよかったと思う。こうして私は過去への未練を絶ち切れたのだから。

 

 

 それから暫く、私は泣きじゃくる大好きな後輩たちを一人一人丁寧に、この一瞬を噛みしめるようにして抱き締めたのだった。

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

「えー、もうちょっとゆっくりしていけば良いのに! ね、ハニー? それでも良いよね?」

 

「美希、千川さんにも色々仕事があるんだから我が儘言うなよ。それに、どうせまたすぐ会えるだろ?」

 

 

 

 

 赤羽根プロデューサーの言葉に美希ちゃんは不貞腐れたように頬を膨らませている。

 あれから久しぶりに再会した皆と色々と話し込んでしまい、あっという間に時間は流れもう時計の針は六を指そうとしている。共同ライブの開催が正式に決まったことを早く美城さんやプロデューサーさんたちにも知らせないといけないし、何より此処に長居するのも悪い気がして私はそろそろ帰らないといけないのだと切り出したのだ。

 私ももっと皆と話をしていたかった。だけど今は皆と話す前にやらないといけないことがある。話し合いの結果がどうだったのか、首を長くして私の帰りを待っている人たちがいるのだから。

 

 

 

 

「また今度ゆっくり話しましょ。皆でご飯でも食べながら」

 

「うん! 姉さん、約束だからね!」

 

「真ちゃんもありがとう。また連絡するわね」

 

 

 

 

 そう言って皆に深々と頭を下げると、私は事務所を後にした。夕暮れ時を迎え、暗くなった階段に夕陽の光が差し込んでいる。その階段を私は一歩一歩、踏み外さないように力を込めて降りて行く。どんどん事務所から聞こえてきた皆の声が遠のいて行って、私の足音と階段の軋む音だけが響いている。そんな中、私は一度も立ち止まらずに振り返らずに、ひたすら前だけを見て階段を下り続けた。

 最後の階段を下りてドアノブを開けてビルの外に出た私は、一気に力が抜けてしまい、倒れ込むようにしてビルの壁に背中を預けてしまった。ずっと張り詰めていた緊張の糸が一気に解れていき、私の身体中のエネルギーを奪っていってしまったのだ。ビルの壁に触れた背中が冷たい。私はビルの壁に背中を預けたまま、ゆっくりと雑居ビルの隙間から見える空を見上げた。

 綺麗な夕焼け空だった。真っ赤に染まった広大の空の向こう側がちょっとばかり黒味を含んでいる。夏も終わり秋に入ろうとするこの時期特有の、生暖かい風が吹いた。優しくて、何処かノスタルジックな想いを感じさせる秋風が私の髪を静かに揺らしている。

 

 その時、丁度一滴の滴が私の頬を濡らした。雨だろうか、そう思って無意識に頬に右手を伸ばすと、その右手に新たな滴が伝って来る。

 

 

 泣いていた。

 

 

 いつの間にか無意識に涙が零れていたのだ。その事に気が付いた瞬間、私の眼からは堰を切ったかのように涙が溢れてきた。皆の前では絶対に泣かないと、そう思って必死に堪えてきた涙が一人になったこのタイミングで溢れるように次から次へと止まることなく私の頬を伝って流れ落ちていく。

 その時、私のすぐそばから鈍い音が鳴ってビルのドアが開かれた。出てきたのは律子さんだ。律子さんは泣いている私を見つけ、静かに歩み寄ってくると、そのまま私が真ちゃんたちを抱き締めた私と同じようにして私を抱き締めてくれた。

 

 

 

 

「……本当に辛かったよね。ちひろだってアイドルになりたいって真剣に思ってあんなに頑張ってたんだから」

 

 

 

 

 律子さんの言葉に、私は何も言えずにただただ泣いた。アイドルを辞めたあの日から一度も流さなかった涙が、どんどんと溢れ出てくる。 

 

 

 

 

「夢を諦めた場所に戻ってくるのは辛かったでしょ? ちひろは優し過ぎるのよ。そうやって皆の前では泣かないようにして、誰にも見られないように一人で泣いて――……。あの頃から何も変わってないじゃない」

 

 

 

 

 そう言って律子さんは私を少しばかり強く抱き締めてくれた。

 もう涙が止まらなかった。もうすぐ二十七歳になるというのに、私は律子さんの胸の中で声を上げて泣いた。今まで必死に取り繕ってきたものが音を立てて壊れていった気がする。皆の前では泣かないようにと涙を堪えていた強がりも、律子さんの前では何の意味も持たなかったのだ。

 

 

 

 

「辛いのに皆に会いにきてくれてありがとう。理由はどうであれ、またちひろに会えて嬉しかったわ。私も高木社長も、あの子たちも。本当にありがとう」

 

 

 

 

 律子さんの言葉に私は何も言えなかった。何かを言おうとしても、次から次へと溢れ出てくる涙が邪魔をして、口を開くことすらままならないのだ。

 だが律子さんは何も言わず、ずっと私を優しく抱き締めてくれた。その律子さんの優しさに甘え、私は律子さんの胸で枯れるほど涙を流したのだった。

 



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Episode.11

 

 

 

 

 765プロと346プロの共同ライブの開催が正式に決まってからの対応は両社共にあっという間だった。

 私から高木社長が正式に共同ライブの話を承認したことを聞いた美城さんは次の日に自身が直接765プロまで出向き、高木社長と直に話し合ってライブの詳しい話をまとめると、すぐさま両社同じタイミングで公式ホームページを通し共同ライブの発表を行った。765プロは共同ライブ開催に従いチケットのファンクラブ先行販売、346プロは既にアイドル部門設立五周年記念ライブのチケットを持っているファンの人たちへ会場とライブ概要の変更のアナウンスを流したのだ。 

 これにより、346プロは765プロとの共同ではあるものの、ライブが中止になるという最悪の事態は免れることができた。この数日間は生きた心地がしなかったアイドルたちも346プロの社員たちもこのアナウンスを聞いてひとまず安心したようで、社内全体を覆っていた不安があっという間に消え去ってしまった。

 

 共同ライブ開催まで残り三ヶ月――……。時間はとても十分とは言えないが、それでも346プロは765プロに救われる形で何とかライブを開催することができるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、ちひろさん。コレって私たちのことだよね?」

 

「765からしたら私たちって迷惑だったんじゃ……」

 

 

 

 

 アスタリスクが出演する音楽番組の収録が終わり、二人を車に乗せて帰ろうとした時だった。スマートフォンを片手に、画面を見てアスタリスクの二人――……、李衣菜ちゃんとみくちゃんは不安げにそう呟いたのだ。李衣菜ちゃんが指す“コレ”が何のことなのか、私はすぐに理解できて思わず唇を噛んでしまった。

 765プロと346プロの共同ライブ開催の決定。このアナウンスに対する世間の反応は私たちの予想以上に良くなかった。そもそも346プロは単独でアイドル部門設立五周年記念ライブを行う予定だったが、使用予定だった会場の事故によりライブ開催が危ぶまれた。そこで765プロに頼み込んで共同で765プロとスポンサー契約を締結している東京ドームでライブを行うことになったのだ。

 346プロからすればこれは願ってもない企画だった。事故によって会場が使えなくなり、アイドル部門設立五周年記念ライブは中止になる予定だったのが中止にならずに済んだのだから。尚且つ、アイドル業界ではトップの呼び名高い765 ALL STARSと共同でライブが行える――……。これは新たな客層開拓のチャンスでもあり、765 ALL STARSと共同でライブを行うという話だけでもかなりの売名行為になるのだ。

 

 その一方で765プロはというと、もともと十一月中旬はライブも何も予定はしていなかった。そこで346プロと共同でライブを行うことになったのだが誰が見ても765プロと346プロとではまるで釣り合っておらず、そんな346プロと共同でライブを行っても大した知名度アップにも繋がらないことが目に見えていた。765プロと346プロとで、このライブを通して得ることの出来る目に見える利益があまりにも違い過ぎたのだ。

 そのことが765プロのファンたちはどうも気に入らなかったようで、共同ライブ開催のアナウンスが流れた日からネット上では数多くの厳しい意見が目立っていた。

 

 

“346が765に無理矢理すり寄ってきた”

 

“きっと346は金持ちだから、多額の賄賂でも払って一緒にライブをさせてくれって泣きついたんだろう”

 

“あんな金だけのプロダクションと共同ライブなんかしたって765には何の得もないのに”

 

 

 こういった心無い書き込みが後を絶たなかったのだ。

 だがこういった捉えられ方をされても仕方のない事で、私たち346プロ側としては765プロに頭を下げて事情を話し、我が儘な提案だということを承知の上でこの話を持ち掛けた。いくら765プロの皆が誰一人嫌な顔せず承諾してくれたとしても、そんな経緯をファンたちは知る由もないし、ましてや私たちが言い訳するかの如く説明するわけにもいかない。

 だからこういったファンの純粋な想いを見る度に胸が痛んだ。私たちでさえこんなに胸が痛むのだから、765 ALL STARSと共にステージに立つ当のアイドルたちはもっと苦しい想いを募らせているはずだ。不安そうな表情で私を見つめる李衣菜ちゃんもみくちゃんも、きっと他のアイドルもアイドルとして大先輩である765 ALL STARSへ迷惑をかけているのではないかという後ろめたさがあるのは間違いなかった。

 765プロの皆は共同ライブの開催に前向きだったが、逆にこの話を提案した私たち346プロ側は765プロの皆に迷惑をかけてしまったという気持ちで一杯だったのだ。

 

 

 

 

「ライブの告知ポスター、346プロの子たちと一緒に撮れませんか? 私たちのスケジュールなら何とか調整してみますので」

 

 

 

 

 美城さんと二人で765プロを訪れたある日、私たちにそう提案したのは春香ちゃんだった。もともと急に決まったライブだったため本番までの時間も少なく、また765 ALL STARSの皆は各々で毎日のように仕事が重なっており、全体での写真を撮る時間を取るのは難しいということからライブの告知ポスターは両社のアイドルたちの写真をパソコンで張り付けて合成で作ることになっていたのだ。

 だがそれが逆効果になっているのだと、春香ちゃんは私と美城さんに話してくれた。私たちと346プロの子たちが仲良く写った告知ポスターの方がファンも納得してくれる。そして私たちに申し訳ないという思いを持った346プロの子たちと打ち解けて、少しでもその思いを払拭させないといけないのだと、春香ちゃんはそう言ったのだ。

 

 

 

 

「今回は346プロと765プロの共同ライブだから、どっちが主役でどっちが脇役とか、そういうのはないと思うんです。皆同じ立場なんだから、気遣いとか遠慮とか、そういうのは無しにしないと」

 

「春香の言う通りだと思います。スケジュールの方は俺と律子で何とか調整するので、告知ポスターはやっぱり一緒に撮らせてもらえませんか?」

 

 

 

 

 私と美城さんは春香ちゃんと赤羽根プロデューサーの言葉にただただ驚かされるばかりだった。

 おっちょこちょいで少しドジっ子な部分があった春香ちゃんが、こんなに立派な大人になっているとは思わなかったのだ。私たちにそう意見してくれた春香ちゃんからは、八年前の何処か危なっかしい春香ちゃんの面影は消え去っていた。それでいてあの頃から変わらずお節介なまでに相手を思いやる優しい、私の大好きだった春香ちゃんの魅力はそのままだった。そんないつの間にか立派な大人に成長した姿を見て思わず感心してしまった。

 

 結局春香ちゃんの提案通り、ライブの告知ポスターは346プロの撮影ルームで両社合同で撮影を行うことになったのだ。

 共同ライブの開催が発表されてから約一週間後の土曜日、765 ALL STARSは別の現場で撮影を終えた帰りにそのまま346プロにまで来てくれることになっていた。346プロはライブに参加予定のアイドルが多かったため全員は無理だったが、ある程度出番の多いアイドルたちが代表して765 ALL STARSと一緒に346プロの撮影ルームで撮影することになっている。

 これが765プロと346プロが一緒に行う初めての仕事だ。アイドル部門設立から五年でそれなりに成果が出てきたと言えても、それでも346プロに所属している殆どのアイドルからすれば765 ALL STARSは未だ遠い世界の人たちであり、同じアイドルとして憧れの存在だった。そのせいか、346プロの撮影ルームで765 ALL STARSの到着を待つ皆の間には言葉では言い表せない緊張感が漂っていた。あれだけいつも元気な未央ちゃんは緊張のせいか全く口を開いていないし、李衣菜ちゃんは平静を装うとして一人椅子に座り足を組んで目を閉じたままヘッドホンで音楽を聞いているが、十秒に一回のペースで目を開けてはスマートフォンの画面をチラチラと見て時間を気にしている。

 だがそんな緊張感も、765 ALL STARSが到着してからあっという間に消え去ってしまった。ガチガチに緊張している346プロの子たちに765 ALL STARSの皆は決して先輩の態度を取ることなく、同じ立場のアイドル――……、というよりも友達に近い感じで接しはじめたのだ。

 

 

 

 

「亜美、ほらっ見て! 杏ちゃん私より身長小さいよ!」

 

「何言ってんのよ真美、杏ちゃんはまだ子供だから当然じゃない」

 

「……いや、杏は今年で十九歳なんだけど」

 

「えぇ!? 嘘でしょ!?」

 

 

「我が闇の力、優しき同胞たちと共に更なる宴にて解放せん!」

 

「共に頑張りましょう。蘭子殿、宜しくお願い致します」

 

「クルータ! タカネ、すごいです。蘭子の言葉、理解しています」

 

「もしかして貴音さんも私と蘭子ちゃんと同じ、熊本出身なのかな……」

 

 

「きゃっぴぴぴぴーん! 皆のアイドル、菊地真ちゃんなりよ~! まっこまこりーん」

 

「ま、真ちゃん! もう止めなよ、未央ちゃんたちドン引きしてるよ……」

 

 

 

 

 大先輩である765 ALL STARSの面々を前に緊張で固まっていた346プロの皆は予想以上にフレンドリーな765 ALL STARSに最初は戸惑いを見せていたが、それでも次第に慣れ始めると完全に打ち解けるまで時間はかからなかった。春香ちゃんが言っていた通り765プロの皆は誰一人として先輩風を吹かすことなく、あくまで対等の立場として346プロの子たちに接したのだ。

 皆が打ち解けてから間もなく、告知ポスターの撮影が始まった。今ではすっかりとカメラに慣れた765プロの皆が346プロの子たちを引っ張る形でどんどん撮影が進んでいく。無意識に隣の子と肩を組んだり、手を握ったり――……、765プロの皆とカメラの前に立ち改めて緊張していた346プロの子たちの表情にも自然と笑顔が戻り始めていた。

 

 

 

 

「良いねぇー! 皆、良い笑顔だよ!」

 

 

 

 

 カメラマンが楽し気にそう呟くと、次々とシャッターを切っていく。カメラマンが切るシャッターの先には、繕った笑顔ではなく皆の素敵な笑顔が眩しいまでのライトに照らされて光り輝いている。そのまま最後まで、765プロの皆は朝から二か所の現場で収録を行ってきた疲れを感じさせることなく346プロの子たちをリードして撮影を終えた。

 

 私の眼に映る世界は不思議な光景だった。

 八年前に私が愛してやまなかった765プロの皆が、八年の月日を越えて夢を諦めた私が新たなに手にした大切な場所で大好きな子たちと仲良さげに一緒に写真を撮っている。八年前の大切な日々と今私が生きている大切な日々、この二つは決して交わることのないものだと勝手に決めつけていたからこそ、この光景は今でも夢なんじゃないかと思ってしまうくらいだった。

 だけど、これは夢なんかじゃない。なによりいつの間にか私の知らないところで立派な大人になっていた後輩たちの姿が、八年の月日が流れた現実を証明している。私はアイドルになる夢を諦めて765プロを辞めた。そして昔の私のような夢を持った346プロの子たちのお世話をするアシスタントとして夢破れた後の世界を生きている。八年前と今の狭間でずっと揺れ動いていた私を、この光景が現実に引き戻した気がしたのだ。

 

 願っても悔やんでも、過去に戻ることはできない。楽しい日々も苦しい日々も、いずれは思い出になって過ぎ去って行ってしまう。

 八年間、心の奥底で受け入れることのできなかったその事実が、八年前の大切なものと今の大切なものが交わった光景を見た今の私はすんなり受け入れることができたのだった。

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 合同で告知ポスターを撮った後からお互いの距離は縮まり、次から次へととんとん拍子でライブの準備は進んでいった。両社のアイドルたちの距離が縮まると次々に面白い企画が飛び出してきて、千早ちゃんが凛ちゃんの『Never say never』を歌い、凛ちゃんが千早ちゃんのデビュー曲である『蒼い鳥』を、真ちゃんがプロジェクトクローネの速水奏ちゃんの『Hotel Moonside』をカバーし逆に速水奏ちゃんは真ちゃんの『エージェント夜を往く』をカバーするといったそれぞれのソロ曲をカバーする企画の他、両社から合同の限定ユニットの設立など、共同ライブならではの企画が続々と決まっていったのだ。

 それと同時に本来行われる予定だった東京グリーンアリーナでのアイドル部門設立五周年記念ライブで全国デビューを予定していた新人アイドルたちも、この共同ライブでの全国デビューが正式に決まった。全国デビューが決まったのは最近メキメキと頭角を現してきていた一ノ瀬志希ちゃん、森久保乃々ちゃん、相場夕美ちゃんの三人。この三人は765プロの子たちと共同で歌うわけではなく、それぞれが当初の予定通り自身のデビュー曲をソロで歌うことになっている。だがそんな346プロだけの企画も高木社長をはじめとする765プロの皆は快く受け入れてくれた。

 

 

 

 

「三人のデビューを先延ばしにするのはどうしても避けたかった。本当に765プロの人たちには頭が上がらないよ」

 

 

 

 

 事情があったとはいえ以前トライアドプリムスの北条加蓮ちゃんと神谷奈緒ちゃんのデビューを先延ばししてしまい、罪悪感をずっと感じていた美城さんはホッとした様子でそう話していた。頑張り続けてようやくデビューの目途が立って喜んでいた皆の落ち込む姿を見るのはきっと誰でも心苦しいはずだから。美城さんは何度も何度も損得勘定なしで自分たちを救ってくれた765プロの人たちに感謝をしていたのだ。

 

 この三人のデビューを認めてくれただけではなく、765プロの皆は何から何まで私たち346プロに協力してくれていた。共同ライブが決まって765プロのファンたちに生まれてしまった誤解も、雪歩ちゃんが自身のブログで346プロのアイドルたちと一緒に撮った仲良さ気な写真を掲載したり、真ちゃんがラジオでプライベートでも仲良くなった未央ちゃんと遊びに行ったことなどを話したりしてくれたおかげで、少しずつ誤解を解消してくれたのだ。勿論二人とも765プロのファンたちの誤解を解く目的でそんな行動をしたわけでもなく、ただ単純に346プロの子たちと仲良くなったから写真を一緒に撮ったりプライベートで遊びに行ったりしただけだ。だが結果としてあからさまな行動ではなかったからこそこうして765プロのファンたちも分かってくれたのだと、美城さんは感心したように呟いていた。

 どれだけスケジュールが混んでいても、赤羽根プロデューサーや律子さんはどうにかして私たちの為に時間を作ってくれた。特に真ちゃんは仕事の合間に頻繫に346プロに顔を出してくれて、短い時間ではあるが打ち合わせや合同レッスンなど積極的に共同ライブへ向けての準備に参加してくれていたのだ。それが例え三十分だけだったとしても、真ちゃんはほぼ毎日のように時間を見つけては私たちの元までやってきてくれた。

 

 

 

 

「一緒にステージには立てなかったけど、こうして姉さんと一緒にお仕事できる夢が叶って嬉しいんだ! それに346の子たちも皆良い子で一緒にいて楽しいし」

 

 

 

 

 どうしてそんなに私たちに協力してくれるの?

 ある日、いつもと同じように短い時間を見つけて346プロに来てくれた真ちゃんにそう問いかけた時に真ちゃんはそう言ってくれた。

 あの頃と変わらない屈託のない笑顔でそう言ってくれた真ちゃんを見て、そう言えばずっと私と一緒にステージに立ってお仕事がしたいと、そう言ってくれていたことを思い出したのだ。そんな真ちゃんの変わらぬ純粋な優しさに、私は思わず胸が熱くなってしまった。

 本当に立派な大人になっていた765プロの後輩たち。それこそ赤羽根プロデューサーが言っていたように、765 ALL STARSの皆がこうやって自分たちのことより誰かのために動けるからこそ、沢山の人たちから愛されることができたのだろう。これが765 ALL STARSの何よりの強みなのだ。そしてそんな立派な先輩たちの優しさに触れて育った346プロの子たちが、いつかこんな素敵な大人に育ってくれたらいいなと思う。

 

 

 蹴落とすだけがアイドルの世界じゃない。それは綺麗ごとなのかもしれないけど、夢を叶える為に誰かを押し退ける世界より今私が見ているようなお互いが相手のことを気遣って助け合う世界の方がよっぽど素敵だと思う。

 今すぐには無理かもしれない。だけど、こうして損得勘定なしで人の為に動ける765プロの優しさに触れた346プロの子たちが大人になって、今の765プロの皆のように誰かの為に行動できるようになったら――……。きっとアイドルという世界は今以上に魅力的で素晴らしい世界になると思う。私は共同ライブへ向けて協力し合う両社のアイドルたちを遠くから見守りながら、私の大好きな765プロの皆と346プロの皆がそんな夢のような世界に私を連れて行ってくれるような予感を感じたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、ちひろさん!」

 

「美希ちゃんじゃない。今日も遅くまでレッスンお疲れ様」

 

 

 

 

 346プロで合同練習が行われた日の夜遅くに私は廊下で美希ちゃんに呼び止められた。振り返った先には使用感が感じられる黄色のジャージを着た美希ちゃんが少しばかり汗をかいて私の方を見つめている。

 

 

 

 

「美希ちゃんも何か飲む? レッスンで喉乾いたでしょ?」

 

「う、うん。ありがとう……なの」

 

 

 

 

 ゆっくりと私の傍に向かってくる美希ちゃんを確認して、私は目の前の自動販売機に千円札を入れた。すぐに各ジュースの下のボタンが青く光り、私はいつも飲んでいる缶コーヒーのボタンを押す。ガランっ、と音を立てて缶コーヒーが落ちてくると再び各ジュースの下にあるボタンが青く光った。そのタイミングで私の隣に立った美希ちゃんは遠慮がちに手を伸ばすと、一番最上段の端にあったスポーツドリンクのボタンを押した。

 お釣りを受け取り、缶コーヒーの上に重なるようにして落ちてきた冷たいスポーツドリンクを手に取って美希ちゃんへと渡す。美希ちゃんは綺麗に整った金色の眉毛を八の字にして受け取ると、そのまま力なくスポーツドリンクの蓋を開けた。

 

 どこか美希ちゃんの様子が変だった。いつになく態度がよそよそしいし、私の隣でスポーツドリンクを飲む美希ちゃんの表情はまるで何かを壊してしまい、それを親に隠している怯えた子供のような表情をしていたのだ。美希ちゃんはもともと純粋で正直な子だから、きっと何かを隠そうとしてもこうやって顔や態度に出てしまうのだろう。

 

 

 

 

「美希ちゃん、どうしたの?」

 

 

 

 

 いつもと違う訳を聞いて良いのか迷ったが、私はそう問いかけた。私に並ぶ形でベンチに座る美希ちゃんは一度だけ私を見ると、すぐに視線を落として握り締めているスポーツドリンクのペットボトルをボンヤリと見つめている。

 

 

 

 

「ちひろさんにずっと言いたかったことがあったの」

 

「私に? 何かしら」

 

 

 

 

 ペットボトルを見つめる美希ちゃんの額から、汗が一滴床へと落ちて、美希ちゃんの言葉を待って口を閉ざしていた私の耳にはその微かな音が響き渡った。もじもじと子供のようにペットボトルを触る美希ちゃんと私の間に自動販売機の起動音が静かに響き渡る。暫くそんな状態が続いた頃、廊下の奥から未央ちゃんと真ちゃんの話し声が聞こえてきた。その二人の声に我に返ったかのように美希ちゃんはゆっくりと顔を上げると、眉を八の字になった迷ったままの表情で私を真っすぐに見つめた。

 

 

 

 

「社長から聞いたの。ちひろさんが辞める直前に私を765 ALL STARSへ推薦してくれていた事。それと、そんなちひろさんと私が最後の一枠を争っていた事も……」

 

「……そう」

 

「ちひろさんは全部知ってたんだよね? 分かってて私を推薦したんだよね?」

 

「そうね。美希ちゃんの言う通りよ」

 

「……そっか」

 

 

 

 

 高木社長は美希ちゃんに全てを話したようだ。美希ちゃんは弱々しくそう漏らし、また困ったようにして私を見つめた。私はそんな美希ちゃんに何も言わずに静かに笑って見せる。私は765 ALL STARSに入った美希ちゃんが笑う姿を見たかった、美希ちゃんが入ることによって私は皆とステージに立つことはできなかったがそれでもテレビ越しで皆の活躍する姿を見て心の奥底から幸せを感じることができている――……、という想いを込めて。八年前に私が決断した判断を、私は今でも間違いだったとは思っていない。例えそれが自分の夢を諦める決断だったとしても、だ。

 私の夢は叶わなかった。今私が送っている日常は、あの頃私が夢見ていたアイドルとしてステージで光り輝く姿とは全く違う平凡な毎日。私はそんな想像していた未来とは全く違う未来に辿り着いてしまったが、それでもこの日常に幸せを感じて生きている。夢を持った若い子たちのお世話をして、テレビでは大好きな後輩たちが活躍する姿を毎日のように見ることができて――……、例え偽善者だと言われたとしても、それが今の私の幸せなのだ。

 だから八年前の私の判断は正解じゃなかったとしても間違いではない。今の私はそう胸を張って言う事ができる。

 

 

 

 

「美希ね、765 ALL STARSに入れるって聞いて嬉しかったの。ハニーにだってもっと見てもらえるし、もっともっと大きなステージで歌えるんだ!って思うとホントにホントに嬉しかった――……」

 

 

 

 

 でも、そう区切ると美希ちゃんは苦しそうな表情を浮かべて私から視線を逸らした。

 

 

 

 

「ちひろさんの話を聞いて複雑な想いになったの。嬉しいんだけど、胸の奥に何かが引っ掛かってる気がして、苦しかった。765 ALL STARSに入れたのは嬉しかったよ? でも、なんだか素直に喜べない気がして……」

 

「美希ちゃん……」

 

「でも765 ALL STARSに入れて嬉しいって思う美希もいて、どっちが本当の気持ちなのか分からなかったの。嬉しいのに悲しくて、悲しいのに嬉しくて、そんなモヤモヤがずっと消えなかった」

 

 

 

 

 

 そう話してくれた美希ちゃんの本当に辛そうな表情を見て、ひどく胸が痛んだ。

 美希ちゃんも私と同じだった。美希ちゃんに笑ってほしかったから夢を自ら諦めて、だけどキラキラするステージへの憧れは消えることなくて――……、そんな私と同じ苦しみを美希ちゃんもこの八年間抱えて生きてきたのだ。念願の765 ALL STARSに入れたものの、その代わりに私がアイドルを辞めたことを知って、美希ちゃんは夢を掴んだ達成感と私への罪悪感の狭間でずっと揺れ動いていたのだろう。美希ちゃんはそんな苦しみにどうやって向き合いながらこの八年間を生きてきたのだろうか。決して忘れ去ることのできない胸の奥のモヤモヤを八年間抱えてアイドル活動を行う苦しさはどれほどのものだったのだろうか。そんな美希ちゃんのことを考えると私も胸が苦しくなった。

 

 

 人間って本当に不器用な生き物だと思う。どうして完全に記憶を捨て去ることができないのだろう。それが自分を苦しめる記憶だって分かっていながらも、どうしてその記憶と向き合わないといけないのだろう。

 自分にとって都合の悪いことはすぐにでも忘れ去ることができたら、きっとこんなに苦しむことなくもっと楽に生きていけるはずなのに――……。

 

 

 

 

「それが『生きて行く』ってことなのよ」

 

 

 

 

 私の言葉に美希ちゃんはゆっくりと顔を上げた。私を見つめる美希ちゃんの瞳には涙が溜まっていて、今にも零れ落ちそうになっている。

 そんな今にも溢れだしそうな涙に、私はそっと人差し指を当てた。大粒の涙が私の人差し指を伝って零れ落ちていく。美希ちゃんは鼻を真っ赤にして、涙を堪えるようにして私を見つめていた。

 

 

 

 

「私も美希ちゃんと同じよ。美希ちゃんたちが輝く姿を見て幸せな気持ちになる反面、今でもステージへの憧れは消えていないもの。まだ『ステージに立って歌いたい』って思うことだって沢山あるし……」

 

 

 

 

 何かを得るために何かを捨てる――……。そんな器用なこと、残念ながら人間はすることができない。できないからこそ、そうやって何かを失った過去に折り合いをつけて生きて行かないといけないのだ。

 

 

 

 

「でも私は今でも八年前の判断が間違っているとは思わないわ。美希ちゃんが765 ALL STARSの皆と一緒に輝く姿を見て、ホントに幸せを感じているんだから」

 

「……ホントに?」

 

 

 

 

 堰を切ったように、美希ちゃんの瞳からは涙が溢れていた。涙でぐしゃぐしゃになった美希ちゃんの顔に私は頷いてみせると、綺麗な金髪の頭を優しく撫でてもう一度笑いかける。

 

 

 

 

「本当よ。だから美希ちゃんはいつまでもステージで輝いて、いつまでも私を幸せにさせてね。そんな顔の美希ちゃんを見てたら、八年前の決断が間違いだったって思うかもしれないじゃない」

 

「……うん、うん!」

 

 

 

 

 美希ちゃんはそのまま私に抱き着いてきて、私の胸の中で声を上げて泣いた。それこそ765プロで八年ぶりに皆と再会した後に律子さんの胸で泣いた私のように、美希ちゃんは子供のように声を上げて泣き続けた。

 美希ちゃんもこの八年間苦しんでいたのだ。きっと夢を諦めた私より比べ物にならないくらい辛かった八年間だと思う。そんな八年間と独りで戦い続けてきた美希ちゃんを想うと、私も目頭が熱くなってしまった。

 美希ちゃんの背中に優しく触れて、私もグッと涙を堪えたのだった。

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

「ちひろさん、取り乱しちゃってごめんね。そろそろ律子……、さんが迎えに来るから行かないと」

 

「ううん、気にしないで。共同ライブ、楽しみにしてるから練習頑張ってね」

 

「ありがとう! それじゃあまたなの!」

 

 

 

 

 散々泣いて真っ赤にした目で美希ちゃんは笑って見せると、そのまま一度も振り返らずに走り去って行ってしまった。もう迷いは吹っ切れたようで、私が八年前から知っている美希ちゃんの元気な後姿を見えなくなるまで見送ると、私は一人残されたベンチに腰を下ろした。

 ちょうど私がベンチに腰を下ろした時、美希ちゃんが走り去っていった方向とは逆の方から人の足音が聞こえてきた。ベンチに腰を下ろしたまま足音の方を向くと、そこにはバツの悪そうな表情で立ち尽くす凛ちゃんが私を見つめている。

 

 

 

 

「あら、凛ちゃんじゃない。もしかしてさっきの話、聞いてた?」

 

「……ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど」

 

 

 

 

 どうやら私と美希ちゃんの話を聞いていたらしい。凛ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げると、重そうな足取りで私の傍までやってくる。私がそっと腰を動かして凛ちゃんの前にスペースを作ると、凛ちゃんは軽く一礼して私の開けたスペースへと腰を下ろした。

 

 

 

 

「ごめんね、この前は生意気なこと言っちゃって」

 

「あぁ、気にしてないから大丈夫よ」

 

 

 

 

 凛ちゃんの言う“この前”とは恐らく私が昔アイドル活動をしていたことがシンデレラプロジェクトの皆に知られた時のことだろう。私は大丈夫という意味合いを込めて凛ちゃんに笑って見せると、凛ちゃんは困ったような表情を浮かべながらも苦笑いを浮かべてくれた。

 

 

 

 

「私ね、あの人に誘われるまでアイドルなんて興味もなかった。ただ漠然と夢中になれる何かが欲しくて、ボンヤリと毎日同じような時間を過ごしてた」

 

 

 

 

 私の隣に座る凛ちゃんが突然、淡々と話し始める。私は何も言わずに、ただただ相槌を打ち続けた。

 

 

 

 

「でもあの人に誘われて、もしかしたら夢中になれる何かが見つかるかも――……、って思ったからアイドルやってみようと思ったんだ。実際挑戦してみて良かったと思う。あの人が誘ってくれなかったらきっと今でも夢中になれるものが見つかってなかったと思うから」

 

「そうだったんですね」

 

 

 

 

 私は凛ちゃんがどういった経緯でシンデレラプロジェクトに来たのかは聞かされていなかった。プロデューサーさんが直接スカウトして来たという話だけしか知らなかったのだ。

 今思い返せば凛ちゃんは少し変わった子だった。アイドル志望や歌手志望でもなければ、有名人になりたいという野望があるわけでもない。何かしら憧れや目標があり、オーディションを勝ち抜いてシンデレラプロジェクトにやってきた皆とは違って、凛ちゃんには大まかな目標や夢が何もなかったのだ。それでいて凛ちゃん自身の愛想も決して良いとは言えず、どうしてプロデューサーさんはこの子をスカウトしてきたのだろうといった疑念を感じたことだってあった。

 だけど凛ちゃんは戸惑いながらも一年間のアイドル活動を通して、自身の夢中になれる何かを見つけたと言ってくれた。

 

 

「初めは何も分からずに始めたけど、今はアイドルになって良かったと思う。こんなに夢中になれるとは思ってもいなかったから」

 

 

 これは冬の舞踏会ライブが終わった後、凛ちゃんがプロデューサーさんと私に言った言葉だ。その時は凛ちゃんがシンデレラプロジェクトにきた経緯を知らなかったから意味が分からなかったが、今こうして初めて経緯を聞いてあの時の言葉を納得することができる。

 

 

 

 

「だから、ちひろさんの話は納得いかなかった――……。ステージへの憧れがあるなら今からでも挑戦すれば良いのに、ってそんなことを思ったんだ。皆を優先することでそんな自分の夢から逃げてる気がしたから」

 

「凛ちゃん……」

 

 

 

 

 きっとアイドルの先に何があるのか分からなくても挑戦した凛ちゃんだからこそ、最後まで挑戦することなく夢を諦めた私に納得がいかなかったのだろう。

 凛ちゃんはまだ若い。もうすぐ二十七歳になる私と違ってまだ凛ちゃんは高校生だ。人間という生き物は大人になるにつれ、色々なことに折り合いをつけて生きて行かなければならなくなる。そのことを凛ちゃんはまだ知らない。今はまだ無限に可能性が広がっている高校生なのだから、理解できなくても仕方がないと思う。

 だけどこんなカッコ悪い大人の台詞を私は言いたくなかった。『大人になったら分かる』なんて無責任なことをまだ可能性が無限大に広がっている凛ちゃんの前では絶対に口にしたくなかった。

 

 

 

 

「でもね、ちひろさんみたいな生き方もカッコいいなって思うんだ」

 

「え?」

 

 

 

 

 凛ちゃんの口から出てきた予想外の言葉に私は思わず呆気に取られてしまった。

 そんな私を見て凛ちゃんは静かに笑みを浮かべている。

 

 

 

 

「ちひろさんみたいに優しくて純粋な気持ちで誰かの為に生きるのもカッコいいなって思うようになったんだ。そういう生き方も素敵だなって」

 

「そ、そんな大してカッコいい生き方じゃないわよ」

 

「ううん、カッコいいよ。じゃないと、こんなに沢山の人から慕われるわけないでしょ」

 

 

 

 

 そう言って凛ちゃんは笑って見せる。一年前の凛ちゃんからは考えられないような、自然な笑顔を私に向けてくれた。なんだか私が照れ臭くなってしまって、思わず溜息をついてしまった。

 

 

 

――私みたいな大人になったらダメよ。

 

 

 

 この言葉は言ってはいけない気がして、私は喉まで出てきていた言葉を唾と一緒に飲み込んだ。

 

 

 

 

「共同ライブ頑張ってね。皆のステージ、楽しみにしてるから」

 

 

 

 

 私の言葉に凛ちゃんは何も言わずにただ笑顔で頷く。

 346プロと765プロの共同ライブはもう二週間後にまで迫ってきていた。

 

 

 





いよいよ次は共同ライブ。

一話伸びてしまい、エピローグ含めあと三話で完結です。




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Episode.12

 共同ライブの当日は綺麗に晴れ渡った青空が何処までも広がっていた。つい最近まで秋を感じらせない暑い日々が続いていたかと思えば急激な寒さが到来した東京。肌寒い日が続き、いよいよ冬の訪れを感じさせ始めた頃にはもう私の吐く息も白くなってしまっていた。

 集合時間より少し早い時間に会場へと着いた私は、ライブを数時間後に控えているのが嘘のような静寂に包まれている東京ドームを見つめていた。正面入り口の前には765プロと346プロの皆が写った大きな告知ポスターが冬の肌寒い風に吹かれてなびいている。そんな風に揺れるポスターのすぐ近くにはもう既に多くのお客さんが凍えるような寒さの中で身を丸くして物販の列を作っていた。

 

 東京ドーム周辺には興奮と緊張が入り混じった独特の雰囲気が漂っていた。千早ちゃんの引退報道を聞いて夢を諦め765プロを辞めた後、初めて見に行った765プロの定例ライブ、大人になって346プロに就職し仕事として参加することとなったシンデレラプロジェクトが設立されて間もなく行われた夏のアイドルフェスや部署存続を賭けて挑んだ冬の舞踏会――……。私はそういったライブ会場に足を運ぶたびに、こうしていつも皆より少し早い時間に会場に着いてライブ前の独特な空気を肌で感じていたのだ。

 私はこのライブ直前の会場全体の空気が好きだった。私は皆のようにブレイクすることができずに引退してしまったからこんな大きな会場でのライブは経験することはできなかったが、アイドルになる夢を諦めた今でもこのライブ前の張り詰めた緊張感のある空気は、引退から八年が経った私の胸の奥底に隠れたあの頃の気持ちを刺激してくれるのだ。ライブをずっと楽しみにしていたお客さんたちの高まる気持ち、アイドルたちの本番直前の興奮と緊張が入り混じった気持ち、そんな様々な気持ちがこのライブ会場で交錯して独特の雰囲気を創り上げる。

 私はもうアイドルではないし、一人のお客さんでもない、ただアイドルたちを支える裏方のスタッフの一人。だから裏方の私がこんなことを思うのは可笑しな話なのかもしれない。だが例え何度こういったライブを経験しても、夢を諦めて長い年月が流れようと、この独特な雰囲気はいつも私を二度と戻ってこない青春時代に誘ってくれるのだ。

 

 

 そんな空気を肌で感じる度に「やっぱりアイドルって良いな」、と私は思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Episode.12

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さぁー、皆! 準備は良いかな!?」

 

 

 

 

 薄暗いステージ裏に春香ちゃんの声が響き渡る。周りに立つ数人のスタッフが手に握っている灯りに照らされた先には、私が八年前過ごしていた日常過ごしたと今の私が生きている日常が交わり合っていた。あの頃私にとってかけがえのない存在だった765 ALL STARSの皆と、今の私にとってかけがえのない存在である346プロの皆が肩を組んで大きな円陣を組んでいる――……。決して交わることのない世界だと思い込んでいた私の宝物が、こうして今、私の目の前で一つになっているのだ。

 その光景が共同ライブ当日を迎えた今でも何だか信じられなくて、私はそんな皆の様子を一歩離れた場所から不思議な気持ちのまま見守っていた。

 

 

 

 

「あの子らも346プロの皆も、みんな良い笑顔ね」

 

 

 

 

 私の隣で一緒になって皆の円陣を見守っていた律子さんが静かにそう呟いた。律子さんの言葉に、私は何も言わずにただ笑って見せる。

 律子さんと私の前で円陣を組む総勢四十人ものアイドルたちの表情からは、誰一人として遠慮や後ろめたさといった気持ちが感じられなかった。765 ALL STARSの皆も、346プロの皆も、今日デビューする三人も、みんな先輩や後輩といった立場や会社などのしがらみに縛られることなく、同じ目線で同じ立場で肩を組んで円陣を作っている。いつの間にか立派な大人に成長していた765 ALL STARSの皆と、そんな立派な先輩たちの後姿をこの三ヶ月だけでもずっと見ていた346プロの皆――……、その両社のアイドル全員が自信を持った素晴らしい笑顔を浮かべているのだ。

 皆のそんな逞しい表情を見て私は確信していた。きっと今日のステージは最高のステージになるということを。

 

 

 

 

「今日のライブは歴史に残るライブになりそうですね」

 

「当たり前じゃない、私たちとちひろたちが組んでるんだから」

 

 

 

 

 眼鏡を人差し指で動かして、律子さんは自信満々にそう答える。八年前に私をプロデュースしてくれていた頃から変わらないその自信満々な表情に私は思わず苦笑いを浮かべてしまった。それと同時に、私はそんな昔から頼りにしていた律子さんの表情を見てホッとしたような落ち着いた気持ちになってしまう。

 

 そして私たちのいるステージ裏の外から大きな歓声が聞こえてきた。ライブのオープニング映像が流れ始めたようで、この場にまで会場のお客さんたちの溢れんばかりの歓声が響き渡ってきたのだ。

 いよいよ始まる765プロと346プロの共同ライブ。未だかつてない大規模なこのライブの開幕を目前に控え、円陣を組む春香ちゃんは私と律子さんに届かないくらいの小さな声で皆に何かを話している。私たちは聞き取れなかったが、春香ちゃんの声は皆に届いていたようだ。皆は春香ちゃんに向かって静かに頷くと、大きな声と共に四十人ものアイドルが肩を組んで作る円陣の中へと一斉に右足を踏み込み、大所帯の円陣を解いた。

 

 

 

 

「まずは私たちからだね! 皆が後に続くように、しっかり決めるよ!」

 

「失敗しても良いから、今日は楽しもう! 何かあったらボクたちがカバーするから」

 

「はい! 天海先輩たちに負けないように頑張ります!」

 

「なら私はしまむーに負けないように頑張らないとだね」

 

 

 

 

 未央ちゃんの声に、円陣が解かれた後にその場に残っていた六人は声を上げて笑っていた。そしてそれぞれがバシッという力強い音を響かせ、ハイタッチを交わす。不安を微塵も感じさせないリラックスした表情の六人は、それぞれとハイタッチを交わすとそのままポップアップ台に乗り、背中を丸めてスタンバイの態勢をとった。

 

 

 

 

「美波ちゃん、大丈夫?」

 

「大丈夫ですよ、千早さんたちみたいな先輩たちとこんな大きなステージに立ててちょっと興奮してるんです」

 

 

 

 

 私の目の前のポップアップ台に位置取る美波ちゃんと千早ちゃんの会話が聞こえてきた。千早ちゃんは静かに笑みを浮かべるだけで何も美波ちゃんには言わなかった。それと同時に会場から一段と大きな歓声が響いてきて、聞き覚えのある静かなイントロが聞こえてくる。

 

 

 

 

「それでは行きます! 3、2、1――……」

 

 

 

 

 真ん中の春香ちゃんが乗ったポップアップ台に手を掛けていた男性スタッフのカウントダウン。男性のカウントダウンが「1」になったと同時に、ポップアップ台に乗っていた春香ちゃん、真ちゃん、千早ちゃん、卯月ちゃんと未央ちゃん、そして美波ちゃんの六人を乗せたポップアップは勢いよくステージ目掛けて駆け上がっていく。そして上で六人を待っていた光り輝くステージに辿り着いたポップアップの音だけが、取り残された私たちの元まで聞こえてきた。

 耳が張り裂けんばかりの大歓声。私と律子さんはその会場の様子を後ろに設置された小さなモニターから確認した。光り輝くステージへと無事に辿り着いた六人は、五万人の大観衆に出迎えられステージの上に立っている。どうやら上手く行ったようだ。

 

 

 

 

「良かった……。何回経験してもライブの一発目って緊張するわよね」

 

 

 

 

 隣で疲れたような表情で安堵の溜息をついた律子さん。ライブの一番最初の登場シーンはとても肝心で、この時のライブへの入り方によって成功か失敗かを決めると言っても過言ではない。そしてどうしても不安定なまま勢いよくステージへと登場するポップアップは失敗が多く、その登場シーンを一番最初の曲で持ってきた私たちはずっとそんな心配をしていたのだ。

 だがそんな私たちの心配も不要だったようだ。ポップアップによってステージへと登場した六人は最高の笑顔でオープニング曲である『We're the friends!』を高らかに歌っている。その様子をモニター越しで確認して、私も律子さん同様に安堵の溜息を付いた。

 

 

 

 

(本当に立派になったのね、765 ALL STARSの皆も346プロの皆も)

 

 

 

 

 私の想像をも越える速さで急成長を遂げた六人を見て、私は心の中でそう呟いた。

 そんな私たちの心配も知る由もない六人のアイドルたちは五万人の大観衆からの後押しを受けて、いつになく眩しい笑顔を浮かべてステージで歌っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 ライブも中盤に差し掛かった頃、千早ちゃんのデビュー曲であった『蒼い鳥』を歌った凛ちゃんのステージが終わり、いよいよ346プロからこの共同ライブで正式に全国デビューを果たすこととなった三人がステージに上がる時が来た。序盤から凄まじい盛り上がりを見せた会場は、開始から二時間ほどが経った今でもその盛り上がりは冷めぬことを知らずに会場全体を溢れんばかりの熱気で包み込んでいる。まるで今から初めてステージに立つ三人の新人アイドルを歓迎するかのように、これ以上ないくらいに会場のボルテージは上がりきっていた。

 そしていよいよ凛ちゃんがステージから姿を消し、新人アイドル三人の紹介を兼ねたVTRが会場の大型モニターに流された時だった。ステージに上がる順番は最初が一ノ瀬志希ちゃんで二番目に森久保乃々ちゃん、最後が相葉夕美ちゃんの順になっていたのだが、このタイミングで森久保乃々ちゃんがスタンバイの場所から姿を消したのだ。

 森久保乃々ちゃんは今年で十五歳を迎える、気弱な子だ。常にネガティブで恐ろしいほどまでに後ろ向きの乃々ちゃんは高いポテンシャルとは裏腹に全く自分に自信が持てず、アイドルを志したのも親戚に勧められて断れずに始めたのがキッカケといった他の子たちとはちょっと変わった子だった。だが何故かそんな今までになかったネガティブキャラが一周回ってとても受けが良かったようで、こうして今日の共同ライブで正式デビューが決まってしまった。乃々ちゃんの性格が性格だけに、この大舞台でのデビューはかなり物議を醸したが、それでも美城さんは「最初に大きなステージを経験しておいた方が彼女の為にもなる」と言い切って、共同ライブでステージに上がることになったのだ。

 

 本人もアイドルになることへの抵抗はないらしい。だがあまりにもネガティブ過ぎる思考が彼女を弱気にさせ、迷わせてしまっていた。

 

 

 

 

「アンタ、この期に及んでまだビビってるの?」

 

 

 

 

 暫くしてスタンバイ場所近くの部屋の机の下で発見された乃々ちゃんを見て、伊織ちゃんが腕を組みながら呆れたように口を開く。

 

 

 

 

「だってぇ……。こんなに沢山のお客さんがいたら、私どこ見れば良いのか分からないですしぃ……」

 

「お客さんの顔を見れば良いに決まってるでしょ!」

 

「そんな恥ずかしい事、森久保にはむーりぃーですよ……」

 

 

 

 

 何度か伊織ちゃんが説得に当たるも、全く埒が明かなかった。そんなことをしている間に一ノ瀬志希ちゃんが大歓声に包まれながらステージへと上がって行っている。乃々ちゃんとは違って五万人のお客さんたちに臆することなく自己紹介をする志希ちゃんの声がマイク越しに聞こえてきて、より一層乃々ちゃんを不安がらせていた。簡単な自己紹介と自身のデビュー曲を歌ってかかる時間はせいぜい五、六分ちょっと、そんな僅かな時間の後には志希ちゃんはステージを降りて乃々ちゃんが代わりにステージに上がらないといけない。一秒が重くのしかかる残された時間で、乃々ちゃんは伊織ちゃんの説得に必死に抵抗するかの如く、隠れた机の脚を握り締めているのだ。

 いよいよ志希ちゃんの歌が始まった時だった。もうスタッフも伊織ちゃんもお手上げ状態で乃々ちゃんがステージに上がらなかった時の対処法を皆が考え始めていた時、雪歩ちゃんが何処からか騒ぎを聞いて駆けつけてきたのだ。雪歩ちゃんは膝を曲げて机の下で震え上がる乃々ちゃんの目線まで合わせると、優しく乃々ちゃんの髪に触れた。

 

 

 

 

「私もね、乃々ちゃんの気持ち分かるよ。私も初めはアイドルなのに、いつも人前で歌うのが恥ずかしくて逃げ出しくなる気持ちでいっぱいだったから」

 

 

 

 

 優しい声で語り掛けるように雪歩ちゃんは声を掛ける。乃々ちゃんは潤んだ瞳で雪歩ちゃんを見つめたまま、何も言わなかった。

 

 

 

 

「もし今日のステージに立ってキツくて辛かったら、私は途中でも逃げ出して良いと思う」

 

「……本当に? 本当に逃げても良いんですか?」

 

「うん、大丈夫よ。その時は私が何とかして見せるから」

 

 

 

 

 震える乃々ちゃんに雪歩ちゃんは優しい笑顔で笑って見せる。

 

 

 

 

「でもね、そんな臆病だった私でも変われたんだから、乃々ちゃんだってきっと大丈夫だよ。頑張った先には乃々ちゃんが想像できないくらい驚くような楽しくて魅力的な世界が待っているから」

 

 

 

 

 そう言うと雪歩ちゃんは乃々ちゃんの頭を撫でていた手をゆっくりと下ろし、机の脚を握り締めていた手に重ねた。そのまま優しく手を引いて、ゆっくりと立ち上がろうとしている。

 

 

 

 

「そんな素敵な世界に、私たちが連れて行ってあげる。だから頑張ろう? 私も傍で見守ってるから」

 

 

 

 

 雪歩ちゃんの言葉に、あれだけ頑なに机の下から出ようとしなかった乃々ちゃんはゆっくりと出てきて震えながら立ち上がった。今にも泣きだしそうな表情の乃々ちゃんの右手を雪歩ちゃんが握り締め、ゆっくりとスタンバイの場所まで連れてくる。

 モニターに映る志希ちゃんは自身のデビュー曲の最後のサビを歌っていた。もう間もなく志希ちゃんのステージが終わり、乃々ちゃんがステージに上がることになる。今にも崩れ落ちそうな震えた足で何とか立っている乃々ちゃんだが、雪歩ちゃんに左手に支えられたその表情にもう迷いはなくなっていた。

 

 

 

 

「一ノ瀬さん、完全に捌けました! 森久保さん、お願いします!」

 

「さ、行くよ。一緒に頑張ろうね」

 

「は、はい……」

 

 

 

 

 男性スタッフの声と共に、雪歩ちゃんは乃々ちゃんの右手を握ったまま階段を登って行った。そして最後の段を越えた舞台袖ギリギリのところで乃々ちゃんの右手を離すと、軽く乃々ちゃんの背中を押す。一人になった乃々ちゃんは震えながらも、ゆっくりとした足取りで六万人が待つステージへと進んでいった。

 

 それから乃々ちゃんは逃げることなく、なんとかステージで歌って見せた。妙な緊張感に包まれたまま緊迫した空気の中でモニター越しで皆が見守る中、途中何度も何度も乃々ちゃんは舞台袖の方へと視線を向けたが、それでも決して逃げ出すことなく最後までステージに立ち続けたのだ。乃々ちゃんが歌っている間ずっと舞台袖ギリギリのところでその様子を伺っていた雪歩ちゃんも、モニター越しで見守っていた私たちも、乃々ちゃんが歌い終わって五万人の大歓声と拍手が聞こえてくると思わず手を叩いて喜んでしまった。

 

 

 

 

「乃々ちゃーん! ちゃんと歌えたじゃない!」

 

 

 

 

 舞台袖へと戻ってきて真っ先に駆け寄ってきた雪歩ちゃんに抱き締められた乃々ちゃんは大粒の涙を流していた。独りで五万人に囲まれた中で歌う緊張感と恐怖に解放された乃々ちゃんは雪歩ちゃんの熱い抱擁に出迎えられ、更に大きな声を上げて泣いている。

 

 

 

 

「怖かったです、どこ見ても人しかいないし、誰に目を合わせれば良いか分からないし……」

 

 

 

 

 暫く泣き続けた乃々ちゃんは、最後の相葉夕美ちゃんがステージ上で歌い始めた頃にようやく落ち着いたのか、脱力した感じで目を真っ赤にして椅子に腰を下ろしていた。その隣では乃々ちゃんを落ち着かせるように、しっかりと雪歩ちゃんが乃々ちゃんの右手を握り締めている。

 

 

 

 

「でも……、なんだか楽しかったです。萩原さんの言う“素敵な世界”っていうのが少しだけ見えた気がして……」

 

 

 

 

 そこまで言って、一度言葉を区切り真っ赤になった鼻を啜った。そして私たちが今まで見たこともないような素敵な表情でこう言ったのだ。

 

――もう少し頑張ってみたいと思います……、と。

 

 雪歩ちゃんはそう言った乃々ちゃんに得意げに笑って見せる。そんな雪歩ちゃんにつられて、泣き疲れた乃々ちゃんも力なく笑顔を浮かべた。

 二人の様子を私は少し離れたところから見守っていた。あんなに臆病で自分に自信が持てなかった雪歩ちゃんが立派な先輩に成長して、昔の雪歩ちゃんのように自分に自信が持てない子を励ましてステージを成功に導いたのだ。その姿は弱気な雪歩ちゃんしか知らない私にとっては物凄く衝撃的だった。

 

 

 

 

「……良いステージだったな」

 

「美城さん……」

 

 

 

 

 そんな二人の様子を見つめていた私の横に静かに歩み寄ってきたのは美城さんだった。きっと何処か別の場所で乃々ちゃんのステージを見守っていたのだろう。無事にステージを終えて帰ってきた乃々ちゃんを見て、少しばかり安堵の表情を浮かべている。

 

 

 

 

「きっとあの子には忘れられない日になるだろう」

 

「そうですね」

 

「そして萩原雪歩も……。見間違えるように成長したな」

 

 

 

 

 感心したようにそう呟いた美城さんは決してアイドルたちの前では見せなかった優しい眼差しで雪歩ちゃんと乃々ちゃんを見守っている。美城さんはアイドルをしていた頃に雪歩ちゃんとも何度か仕事をしたことがあると言っていたから、今の姿からは想像もつかないような弱気な雪歩ちゃんを知っていたのだろう。

 美城さんの言葉に、私も静かに頷いた。もしかしたら765 ALL STASRで一番成長したのは雪歩ちゃんかもしれない、そんなことを考えながら。

 

 

 

 

「高木社長から聞かせてもらったよ、ちひろがどれだけあの子たちを可愛がっていたか……」

 

 

 

 

 思わず隣に立つ美城さんの方へと顔を向けた。美城さんは二人に送っていた暖かな眼差しを、今度は私に向けている。

 

 

 

 

「ちひろの優しさに触れた萩原雪歩が大人になって、昔の自分のように自信が持てない若い子を励まして――……。そうやって紡いでいく絆というものは本当に素晴らしいものだと、私は思う」

 

「そんな、私はそんな大そうなことはしていませんよ」

 

「相変わらずだな、ちひろは……」

 

 

 

 

 私の言葉に美城さんは溜息交じりに苦笑いを浮かべた。私は美城さんが言うほど大そうなことはしていない。雪歩ちゃんが、765 ALL STASRの皆が、本当に良い子たちで、そんな皆が私は大好きなだけだったのだから。

 

 

 

 

「ちひろ、お前のお陰で今日のライブが開催されたのだ。森久保乃々も相葉夕美も一ノ瀬志希も、お前の力なしではこんなに素敵なデビューを迎えることはできなかった。本当にありがとう、彼女らに代わってお礼を言わせてほしい」

 

「……どういたしまして」

 

 

 

 

 こんなに面と向かって言われると、照れ臭くてどういった表情をすれば良いのか分からなかった。だから私はちょっとだけおどけたように、そう言って笑って見せた。そんな私の真意を見抜いてか、美城さんも口元の端を緩めて笑顔を浮かべる。そうして、私たちは静かに笑い合ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

「何事もなく終わりそうだな」

 

「春香ちゃんたちのお陰ですね。皆があれだけ引っ張ってくれたから、346プロの皆も伸び伸びとやれてますし」

 

 

 

 

 私と高木社長はスタンドの真上にある静かな関係者室からステージを見守っていた。隣に立つ高木社長は卯月ちゃんの歌う『M@STERPIECE』を聞いて楽しそうに右手の人差し指を机に当ててリズムを刻んでいる。

 

 長かったライブも終盤に突入した。だが相変わらず会場は盛り上がる一方で、未だにどんどんとボルテージが上がり続けていくのを遠く離れた場所に居ても感じられる。

 三人のデビューステージが終わりこのライブ限定の限定ユニットが数グループステージに上がり、今ステージ上では卯月ちゃんが765 ALL STARSの曲である『M@STERPIECE』が持ち前の笑顔で元気に歌い上げている。卯月ちゃんのステージが終わると次は春香ちゃんがステージに立ち、その次はいよいよ共同ライブのフィナーレで765 ALL STARSがシンデレラプロジェクトの『STAR!!』を、346プロの人気アイドル数人で組まれた限定ユニットが765 ALL STARSの『READY!!』をカバーすることになっていた。

 私が高木社長から呼ばれたのは木村夏樹ちゃんと松永涼ちゃん、李衣菜ちゃんと真ちゃんが組む四人のユニットが歌い終わった時だった。「千川君に話があるからスタンドの真上の関係者室に来てほしい」。そう言われた私は美城さんに許可をもらうと、一旦舞台裏から離れてこの関係者室までやってきたのだ。

 

 

 

 

「それで、お話とは一体何ですか?」

 

 

 

 

 私がそう切り出したのは、卯月ちゃんが歌い終わった頃だった。ステージでは何度も何度も卯月ちゃんが五万人のお客さんに向かって手を振って、名残惜しそうにステージを後にしようとしている。

 完全に卯月ちゃんがステージから姿を消したのを確認して、高木社長はゆっくりと口を開いた。

 

 

 

「私には昔から夢があったんだ」

 

「夢……、ですか?」

 

 

 

 

 高木社長の口から零れた言葉が予想もしていなかった言葉で、咄嗟に聞き返してしまった。思わず首を傾げる私に高木社長は静かに頷く。そしてゆっくりと椅子から重そうにして腰を上げると、腕を背中で組んで見下ろすかのように大勢のお客さんで埋め尽くされた観客席へと視線を落とした。

 

 

 

 

「“誰もが幸せになるプロダクションを作りたい”、これが私の夢だった。それを黒井に話した時、彼は笑って馬鹿にした。『アイドル業界はそんな綺麗事が通じる世界じゃない』と、そう言い捨ててな。だから私は黒井と決別した」

 

「そう……、だったんですね」

 

 

 

 

 黒井社長――……、以前冬馬君たちが所属していたプロダクションの社長だ。色々と悪い噂が後を絶たない人で、理由は分からないが冬馬君たちのジュピターも黒井社長との固執がキッカケで黒井社長のプロダクションである961プロを脱退したと聞いたことがある。

 そんな961プロの黒井社長と高木社長が昔からの知り合いだったことは聞かされていた。

 

 

 

 

「そして私はあの千川君がアイドルを辞めると申し出た日、こう言った。『誰かが幸せになるためには誰かが不幸にならねばならん』と」

 

 

 

 

 八年前のあの雨の日の事を思い出し、私は頷いた。私は八年が経った今でもあの時に高木社長に何を言われたのか、言葉の一つ一つを欠けることなく覚えていたのだ。

 高木社長は相変わらず観客席を見下ろしたまま、独り言のように話を続ける。

 

 

 

 

「“誰もが幸せになるプロダクション”とか言っていたのに、結局私は心の何処かで夢を諦めそうになってしまっていた。だけど――……」

 

 

 

 

 高木社長はそっと顔を上げて、私を真っすぐに見つめる。その瞳に吸い込まれるようにして、私も高木社長の瞳を真っすぐに見つめていた。

 少し静まり返っていたお客さんたちから息を吹き返したかのような大歓声が聞こえてくる。大歓声の中心には春香ちゃんの元気な声――……。どうやらいよいよ春香ちゃんの登場らしい。

 

 

 

 

「今日のライブを見て思ったんだ。会社や先輩後輩たちの枠を超えて、こうやって協力して助け合うアイドルの生き方もあるんだと。そしてやっぱりそんな優しい世界の方が私は好きなのだと。そう思ったんだ」

 

「高木社長……」

 

「千川君、こんな素敵なライブを見せてくれて本当にありがとう。君のおかげで私は諦めかけてた夢をもう少し追いかけてみる気になったよ」

 

 

 

 

 

 優しく笑って見せた高木社長。そんな高木社長の優しい言葉に私は思わず目頭が熱くなってしまって、何も言葉を返すことができなかった。そしてそのタイミングで八年前から何度も何度も聞いていたイントロが響き、春香ちゃんは大歓声に包まれたまま『お願い!シンデレラ』を歌い始める。

 

 本当に、運命の巡り合わせとは不思議なものだと思う。

 私が高木社長にスカウトされて765プロに入社したのも偶然。引退して346プロに就職して、アシスタントを務めることになったシンデレラプロジェクトの皆が『お願い!シンデレラ』をカバーすることになったのも偶然。そしてこうやって765プロと346プロが合同でライブを行うことになったのも、東京グリーンアリーナの改修工事が間に合わないと聞くまで考えたこともなかったのだから。

 そんな偶然が幾つも重なって、今日のライブは開催された。何か一つでも欠けていたら今日のこのライブは存在しなかったのだと思う。そう思うと、全てが必然のように思えてくるのだ。

 

 そんなことを考えていた時だった。関係者室の小さなモニターに私は目を奪われてしまった。

 モニターに映っているのは私のデビュー曲であった『お願い!シンデレラ』を歌う春香ちゃん。その春香ちゃんが握っているマイク、そのマイクに何かが結び付けられている。少し色褪せて先端に薄い黄色のラインが入った赤色のリボン――……、そのリボンに私は見覚えがあったのだ。

 

 

 

 

――これって、私が春香ちゃんの誕生日にプレゼントしたリボンじゃない。

 

 

 

 

 見間違えるはずがなかった。これは私が春香ちゃんの十五歳の誕生日にプレゼントしたリボンだったのだから。

 まさか今でもあの時のリボンを持っているとは思わなかった。このリボンだって当時高校生だった私が買えるくらいのリボンだから、恐らくそんなに高い代物でもなかったはずだ。値段までは覚えていないが、ふと帰り道に立ち寄った商店街でこのリボンが目に留まり、春香ちゃんに似合いそうだなと思って買っただけのリボンなのだから。

 だけどそんな安物のリボンでも春香ちゃんは今でも大切に持っていてくれた。そのことが嬉しくて、私は胸がいっぱいになってしまう。

 

 高木社長や美城さんにあんなことを言ってもらえて、そして何も言わずに去った私を今でもこうやって皆が慕ってくれて、私は幸せ者だった。

 

 

 

 

(感謝したいのは私よ。こんなに素敵な人たちに囲まれて、幸せを感じられているのだから……)

 

 

 

 

 心の中でそう呟く。そんな私の頬を、冷たい一滴の雫が伝っていた。

 



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Final episode

 

「本日の全プログラム、終了しました! 皆さん、本当にお疲れ様でしたー!」

 

 

 

 

 ディレクターの男性の声が響き、それと同時に大勢の人で埋め尽くされた控室は大きな拍手と歓声に包まれた。未だにライブの興奮が冷めていない両社のアイドルたちは近くにいた人たちと楽しそうにハイタッチを交わしたり、抱き合ったりしてライブの成功を各々の形で祝福している。765 ALL STARSの皆も346プロの皆も、そして私たちのようなステージには立たない裏方のスタッフたちも、この控室にいる皆が良い笑顔を浮かべていて、そんな皆の眩しいまでの笑顔がこの大規模な765プロと346プロの共同ライブの成功を物語っていた。

 

 

 

 

「ちひろもお疲れ様」

 

「律子さん……。お疲れ様です」

 

 

 

 

 嬉しそうにライブの成功を祝う皆の輪から出てきたのは律子さんだ。律子さんは一仕事やり終えたといわんばかりの満足気な表情でみんなの輪から少し離れた場所で立っていた私の隣に並ぶと、私に向かってやんわりと右手を差し出す。その差し出された右手がどういう意味を持っているのか、すぐに察した私は律子さんの右手を力強く握り返した。

 

 

 

 

「今日は本当にありがとうございました」

 

「いーえ、こちらこそありがとうね。言ってた通り、歴史に残るライブになったでしょ?」

 

「間違いないですね」

 

 

 

 

 ふんっ、と鼻を鳴らし、律子さんは得意げに両手で腰を抑えている。八年前と変わらない律子さんの自信が漲った頼りがいのある表情が妙に懐かしくて、私は小さく噴き出してしまった。「なによそれー」、と眉尻を上げて私を見る律子さんの様子がまた妙に可笑しくて、私は暫くの間左手で口元を隠しながら笑っていた。

 

 そんな私と律子さんの視界には、私にとって大切な人たちで溢れている世界が広がっていた。衣装を着たまま記念撮影をしている子たちもいれば、ライブの成功が余程嬉しかったのか、涙を流している子までいる。765プロと346プロの総勢四十人ものアイドルたちの創り上げたこの素敵な世界を、私はしっかりと目に焼き付けるようにして見つめていた。

 暫くそんな光景を静かに見守っていた私たちは近くの男性スタッフが律子さんを呼ぶ声で我に返った。

 

 

 

 

「ごめん、行かなきゃ。それじゃあ、この後打ち上げでね。ひとまずお疲れ様」

 

 

 

 

 律子さんは私にそう言い残し、そそくさと私の元から去ってしまった。そんな律子さんを見送った後も、私は暫く目の前に広がる大切な人たちで埋め尽くされた世界を無言のまま見つめ続けていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Final Episode 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 共同ライブが終わった後に打ち上げをしようと提案したのは高木社長だった。私が高木社長に呼ばれて765プロに行った時にも、「みんなでご飯でも行きたいですね」なんて話はしてはいたのだが、実際は今までずっとライブ前でお互いに慌ただしい毎日が続いており、八年ぶりに再会したのにゆっくりと話をする時間すらなかなか確保することができなかった。だからライブが終わってひとまず落ち着いて、それからゆっくりとご飯でも食べながら話をしようと、高木社長がそう言って私を誘ってくれたのだ。本当は346プロの皆も含んだ全員で打ち上げを行えれば一番良かったのだが、765プロの皆と私とて皆この八年間での積もる話も沢山あるだろうから今回は少人数の方が良いだろう。そう気遣って、高木社長は小さなバーを予約してくれたらしい。もっとも、高木社長が予約したバーは偶然にも瑞樹さんや楓さんたちと頻繁に足を運んでいたバーだったのだが。

 打ち上げの集合時間までまだ二時間も余裕があった。きっと時間が押すことも想定して、少し遅めにお店を予約したのだろう。だがライブは予定通りにアクシデントもなく進み、こうして高木社長の設定した時間まで微妙な時間が空いてしまったのだ。

 

 

 私は皆が会場を後にしたのを確認すると、一人で誰もいない東京ドームを歩き回った。静まり返った東京ドーム全体に、コツコツといった私の足音が響き渡る。五万人のお客さんが数時間前までこの東京ドームを埋め尽くしていたのが信じられないくらいに、東京ドームは静寂に包まれていた。数時間前までの盛り上がりからまだあまり時間が経っていないせいか、とても同じ東京ドームとは思えない。まるで異世界を歩いているかの感覚さえ覚えてしまうほどに、東京ドームは私に数時間前とはまるで違う姿を見せていた。

 ライブのオープニングで使ったポップアップの前を通り過ぎ、私はステージへと続く階段の前で足を止める。シンデレラプロジェクトの皆がライブを行う時、私はいつもこうして大勢のお客さんが待つステージへと繋がる階段を駆け上がって行く皆の姿を、この階段の前で見送っていたのだ。

 

 

――この階段を登った先に見える景色はどんな世界なのだろう。

 

 

 日に日に逞しくなっていく皆の背中を見送る度に、私はいつもそんなことを考えていた。私はもうアイドルではなく、アイドルの皆を支えるただのアシスタント。アシスタントの私はこのステージへと続く階段を登ることはできない。だから私はこの階段の先に見える世界を知ることができなかった。

 だけど私はこの階段の先に広がる世界はきっと、とても素敵な世界なのだと思う。だってシンデレラプロジェクトの皆はいつも緊張と不安が入り混じった表情で階段を駆け上がって行くのに、階段を下りて私の元へ帰ってくる時は対照的にとても幸せそうな、良い笑顔を浮かべて帰ってきているのだから。階段の前で少しだけ顔を強張らせる凛ちゃんも、身体全体が震えて今にも逃げ出しそうな智絵里ちゃんも、面倒くさそうな表情でボンヤリとしたまま階段を上がっていく杏ちゃんも、皆帰ってくる時はとても幸せそうな表情を浮かべて帰ってくるのだ。

 そんな皆の様子を私は何度も何度も見てきた。だから薄々勘付いてはいた、きっとこの階段を登った先の世界は皆を幸せにする素敵な世界が広がっているのだろうと。

 

 その世界が私も見たくて、私はゆっくりと階段に足をかけるとゆっくりと登り始めた。暗くて足元があまり見えないから踏み外さないように注意して一歩一歩確実に階段を登っていく。そしてようやく階段の一番上に辿り着いた私の視界に飛び込んできたのは、小さなスポットライトに当てられたステージの真ん中のまるで忘れ去られたかのようにしてポツンと佇むマイクスタンドだった。

 ほんの数時間前までは誰かしらがここに立って歌って踊っていた光り輝くステージの面影は完全に消え去ってしまっており、今となってはステージの真ん中を照らすスポットライトだけが寂しく光を放っている。

 

 

 その世界を見て、私は無意識に足を止めてしまった。私はこれ以上先に進んではいけない、そんな気がしたのだ。私の見つめる先のステージは舞台袖とはまるで空気が違っていた。何か神聖な空気が漂う聖域のような雰囲気さえ感じてしまうほどだったのだ。

 そんなステージを見て私は察した。ここから先はきっと私みたいな夢を諦めた人間が足を踏み入れてはいけない世界なのだと。必死に頑張って努力をして、ようやく栄光を掴むことの出来た限られた人だけが入ることの出来る世界なのだと、私はそう思ったのだ。

 選ばれた人しか立つことの出来ない世界だから、きっと大きな価値があるのだと思う。きっとここには自分の夢を諦めずに血の滲むような努力をした人だけが見える素敵な景色があって、その景色を何度でも見たいが為に346プロや765プロのアイドルたちは頑張っているのだと思うのだ。

 そんな世界に私のような夢を諦めた人間が入ってしまうと、このステージから見える素敵な世界を壊してしまうような気がした。皆が憧れている世界の価値を下げてしまう気がして、私はそれ以上先には進むことができなかった。

 

 それから暫く、私は階段を登ったところから動くことなくステージの真ん中で照らされているマイクスタンドを一人で眺め続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 東京ドームで長居してしまったようで、高木社長から聞いていた打ち上げの時間をもう数分過ぎてしまっていた。バーの最寄りの駅で電車を降りた私は大学を出てから毎日のように通っている街灯が照らす通勤路を私は少し早足で駆け抜ける。向かい側から歩いてくる人たちを何度も何度も掻き分けて、時折口から漏れる白い息にも目もくれずに私は足を動かし続けた。

 ようやく見慣れたバーの看板が見えて来たのはもう既に時間から十五分も過ぎてしまっていた頃だった。バーまでの百メートルほどの残り道を、私は最後の力を振り絞って足を進める。コートに包まれた私の身体が熱を持っていて、少しばかり熱く感じていた。ほんの少しだけ湧き出てきた汗が私の髪をおでこに引っ付けて、その髪を必死に直しながら私は重くなった足を動かし続ける。

 そしてようやくバーの入口へと辿り着いて肩で息をしながら必死に呼吸を整えていた時、私はバーの様子がいつもと様子が違うことに気が付いたのだ。いつも見かけるメニューが書かれた看板が今日はないし、いつも薄暗い店内が覗けていた窓も今日は全て黒いカーテンで覆われている。明らかにいつもとは様子が違ったのだ。

 不安になって私はもう一度スマートフォンを取り出して高木社長からのメールを確認した。だが何度見ても高木社長のメールにはこのバーのお店の名前が書かれており、住所も間違いなくこの場所を示している。場所はここで間違いないはずだった。

 そもそも営業しているかさえ怪しい雰囲気のバーの前で私は暫く立ち尽くしていた。だがすぐに私は遅刻していたことも思い出してしまった。ただでさえ遅れているのにこれ以上遅れるわけにはいかない、高木社長が此処だと言っているのだから場所も間違いではないはずだ。そう自分に言い聞かせ、私は一度だけ深呼吸をするとゆっくりと重い木のドアを押した。

 恐る恐る店内を伺った私の眼に飛び込んできたのは異様な光景だった。今までにこのお店では見たこともないくらいの大勢の人がお店の中に溢れかえっていたのだ。何か今からイベントでもあるかのような雰囲気に包まれた店内を見て、やはり店を間違えたのだと私は確信した。一度外に出て高木社長に確認しよう――……、そう思ってドアに再び手を掛けた時だった。突然背後から私の名を呼ぶ声が聞こえてきたのだ。

 

 

 

 

「あ、ちひろさん!」

 

 

 

 

 美波ちゃんの声に私は振り返った。すると店内に集まった大勢の人たちは静まり返ると一斉に私の方へと視線を移す。美波ちゃんの横に立っているのはアーニャちゃん、その近くで私を見つめているのはキャンディアイランドの三人――……、よく見れば店内を覆っている沢山の人たちは皆私の知っている顔ばかりだ。

 

 

――え、どういうこと? 765プロの人たちだけの打ち上げにどうして346プロの皆がいるの?

 

 

 765プロの皆と私とで皆この八年間での積もる話も沢山あるだろうから今回は少人数の方が良いだろう。そう聞いていたはずなのに、私の目の前にいるのは346プロの皆だ。状況が理解できていない私は混乱してキョロキョロと辺りを見渡してみる。だがどこを見てもここにいるのは皆私の知っている人たちばかりで、その皆が何か悪戯を隠す子供のような笑みを浮かべていた。どうやらライブが終わってそのままこのバーにやってきたようで、中には髪のセットがライブ中のままになっている子も数人見受けられる。

 

 

 

 

「ほらっ、プロデューサー君! ちひろさんが来たわよ!」

 

 

 

 

 何処からか聞こえてきた瑞樹さんの楽しそうな声。その直後にスピーカー越しにマイクのスイッチが入るノイズが狭い店内に響き渡った。

 

 

 

 

『えー、皆さん。大変お待たせしました。それでは今から千川ちひろのワンマンライブを開催しった……』

 

「もうなんで大事なところで噛むのよ!」

 

「だから元アナウンサーの瑞樹さんがやった方が良いって言ったのに……」

 

「あははは、良いじゃない! こういうのはプロデューサー君に任せる方が面白いのよ」

 

 

 

 

 瑞樹さんの声に、店内はどっと笑いが巻き起こった。

 だがそんな皆とは対照的に私は意味が分からず、その場で呆然と立ち尽くしていた。

 

――ワンマンライブ? 私の? 私が歌うの?

 

 確かにマイク越しでプロデューサーさんは今そう言った。それは多分聞き間違いではないと……、思う。だが私は何も聞かされていない。ただ高木社長に打ち上げをしようと誘われてこのバーに来ただけなのだ。

 未だに状況が把握できずに固まっている私。そんな私を見て皆は楽しんでいるようで、悪戯が成功した子供のような無邪気な笑顔を浮かべて私を見つめている。

 

 

 

 

「ちひろさん、これはドッキリだよ」

 

「……ドッキリ?」

 

 

 

 

 暫く呆然と立ち尽くす私に、凛ちゃんが呆れたように声を掛けてくれた。そして凛ちゃんは私の手を少しだけ強引に引くと、沢山の人がそっと両脇に動いて出来上がった道をゆっくりと進んでいく。訳が分からないまま凛ちゃんに手を引かれ、私が辿り着いた先にあったのは小さな一メートルほどの高さのステージ――……。その先端にはマイクスタンドが置かれていた。

 

 

 

 

「……これって、私が今から歌うの?」

 

「そうだよ。プロデューサーだってちひろさんのワンマンライブだって言ったでしょ?」

 

 

 

 

 ステージの前まで連れてこられて凛ちゃんはそっと手を離した。そして未だにポカンとしている私を見て呆れたように苦笑いを浮かべている。

 丁度その時、ステージ前の一番端からすっと高木社長が出てきた。後ろで手を組んだままの高木社長は私の元へとゆっくりと歩み寄って来る。そのタイミングで凛ちゃんはそっと大勢の人混みの中へと姿を消した。

 

 

 

 

「た、高木社長。これは一体……」

 

「千川君、これは私たちから君へのプレゼントだよ」

 

 

 

 

 そう言って静かに笑うと、高木社長はそっと後ろへと視線を向けた。高木社長の視線に釣られ、私もその方向を思わず見つめる。その視線の先には、得意げな表情で私を見つめる765 ALL STARSの皆と赤羽根プロデューサーと律子さんの姿――……。

 ようやく私は状況を把握することができた。私は高木社長から打ち上げをするからといった理由でこのバーに呼ばれたが、実際は私を呼び出すためのただ嘘だったのだ。本当の目的は打ち上げではなく、私へのドッキリ――……、だったらしい。

 

 

 

 

「ちひろさん、今でも人前で歌いたいってこの前言ってたでしょ?」

 

「ボクたちも姉さんの綺麗な歌声がまた聞きたいって思ってたんだ!」

 

「今日はちひろさんが主役なんです。だから遠慮なんかなしで、思う存分歌ってください」

 

 

 

 

 未央ちゃん、真ちゃん、楓さんの声が順々に狭い店内へと響く。三人以外の他の人たちも、皆が私の方を見てステージに上がるのを今か今かと待ち望んでいた。

 

 私は自らの意志でアイドルを辞めた。誰かから強制された訳でもないのに、自分一人で結論を出して誰にも挨拶もせずに765プロを出て行った。それなのに、アイドルを辞めてから八年が経った今でもステージへの渇望は消えることなく私の胸の奥底で存在し続けていた。

 何度も何度も、そんな自分に言い聞かせてきた。もう私はアイドルではないのだと、自分で辞める道を選んだのだからそんな未練は捨ててしまわないといけないのだと。どれだけ願ったってあの頃の時間はもう二度と戻らないのだから、いつまでも戻らない過去にしがみついて生きるくらいならもっと前を向いて生きて行く方がよっぽど良いに決まっている。そう頭では理解はしていたが、それでも私の胸に残り続けた渇望は消えることがなかった。

 

 

――きっと私がアイドルを辞めて八年が経った今でも人前で歌いたいって思っていたから、こうして皆が私のステージを用意してくれたんだ。

 

 

 そう思うと皆の優しさが身に染みて、胸がいっぱいになっていくのが分かる。視界が潤んで、皆の顔がしっかり見えなくなってしまい、その事を隠すかのように私は思わず両手で鼻を覆ってしまった。

 

 

 

 

「ちひろさん、もう泣いちゃったの?」

 

「……こんなことされて泣かないはずがないじゃない」

 

 

 

 

 美嘉ちゃんのからかうような言葉に、私は思わずそう言い返した。それと同時にポツポツと頬に涙が流れ落ちていく。ステージを前にして私の瞳から涙が溢れ出て止まらなかった。

 本当に嬉しかったのだ。大好きな765プロの人たちや346プロの皆がこんな私の為に歌う機会を作ってくれたことが。ずっと叶わないと願っていた夢を、大好きな人たちが叶えてくれたのだから。

 こんなに幸せなことをされて、泣かないはずがない。皆の優しさに、私の涙が止まることなく溢れ出ては次から次へと足元へと流れ落ちて行った。

 

 

 

 

「姉さん、涙の後は笑って……」

 

「スマートに」

 

「でも可愛く……」

 

「進むんでしたよね?」

 

 

 

 

 真ちゃん、貴音さん、美希ちゃん、そして春香ちゃんの四人が私のデビュー曲である『お願い!シンデレラ』の歌詞を伝って笑ってそう言ってくれた。その様子が何だか可笑しくて、思わず吹き出してしまう。四人の言葉に力が抜けてしまって、私の瞳からは再び大粒の涙が零れ落ちてしまった。

 一通り涙を流すと私は強引に涙を拭い、ゆっくりと一メートルほどの高さのステージへと足をかけて登った。それと同時に店内は大きな拍手に包まれる。店内に響く皆の拍手が何だか妙に照れ臭くて、私は逃げるように視線をお店の隅へと動かした。

 そんなお店の隅へとふと視線を向けた瞬間だった。私の視線の先のお店の隅で私に向かって手を振っている小さな子供を肩車した眼鏡の男性が留まって、再び固まってしまったのだ。

 

 

 

 

「か、かずさん!? どうして此処に……」

 

 

 

 

 私に名前を呼ばれ、かずさんは照れくさそうに人差し指で頬を掻いている。そしてかずさんの周辺にいる人たちも何処か見覚えのある顔だということにすぐ気が付いた。

 

 

 

 

「社長から突然連絡が着たんだよ、ちひろちゃんのライブを行うから来てほしいって。だから大学の時の友人を集めて来たんだ!」

 

「昔、千川君のファンクラブに登録していた人たちの電話番号に片っ端から連絡を入れたんだよ。もっとも、殆どの人は連絡が付かなかったがね……」

 

「そうだったんですね。わざわざありがとうございます、私なんかの為に……」

 

「君のように誰よりも人の為に生きる人間が主役になれる日がたまにはあっても良いじゃないか」

 

 

 

 

 高木社長は何処まで良い人なのだろう。こうやって私の為にわざわざ当時のファンの人たちにまで連絡を取って、そして私だけのステージまで用意してくれて――……。

 そんな高木社長の優しさを想うと、また涙が溢れ出そうになってしまった。私は薄暗い店内を照らすオレンジ色の電球を見るかのように顔を上げると、無理矢理に鼻を啜った。これ以上涙が出ないように、大好きな皆の前で笑顔で歌えるようにと思いながら。

 

 

 

 

「パパ、あの人がパパが言ってたちひろさんって人?」

 

「そうだよ、とっても純粋な心を持った素敵な歌を歌う人なんだ。ちひろもよーく見ておくんだよ」

 

 

 

 

 かずさんの優しい言葉を聞いて、私と同じ名前の小さな子供が無邪気手を振ってくれた。その小さな手に私は笑って振り返すと、改めて深呼吸をする。

 ぐるっと店内を見渡してみる。ステージの最前列には765 ALL STARSの皆がいて、その後ろにはシンデレラプロジェクトを含む346プロの皆がステージに立っている私だけを見つめている。その両脇では昔、私を熱心に応援してくれていたかずさんたちがいて、反対側には高木社長や律子さんに赤羽根プロデューサー、慣れない様子でマイクを握っているプロデューサーさんに暖かな眼差しで私を見つめる美城さん――……。

 

 

 私の目の前の狭い店内は、夢のような世界だった。私の大好きな人たちが、私の大好きな歌を聞きにきてくれているのだ。数時間前に行われた東京ドームでのライブに比べたら何千分の一の規模かもしれないし、お客さんだって五十人もいない。もしかしたら私がアイドル活動をしていた頃に経験した舞台よりも小さなステージかもしれない。

 だけど、私は今、世界中の誰よりも幸せな自信があった。どんな大きな会場よりも、何万人の前で歌うステージよりも、私は間違いなくこの狭い空間で行われるライブが私にとって一番なのだと。そう胸を張って言える自信があったのだ。

 

 

 

――私にとっての本当の幸せは何なのだろう。

 

 

 

 リスクを承知で夢に挑戦する瑞樹さんたちを見て、女性としての幸せを掴んだ恵子を見て、私はそんなことをずっと考えていた。私は自分のやりたいことから逃げ出して、他人の人生に重ねることで逃げているだけではないのかと。そんなことを考えた時もあった。だけど今は違う。あの時見出せなかった答えを、今なら自信を持って言う事ができる。

 だって今、私はこんなに幸せな気持ちになれているのだから。こんなに幸せを感じられる人生が間違いのはずがない。結果的に私がこれ以上ないくらいの幸せを感じられているのだから、今までの人生は誰がどう言おうと間違いではなかったのだ。

 

 

 

 

「さぁ、早く千川君の純粋な歌声を聞かせておくれ」

 

 

 

 

 高木社長の声に私は力強く頷いた。そしてマイクスタンドからマイクを外すと、ギュッとマイクを握り締めた。

 目の前には私の過去と今の大切な人たちが今か今かと私のステージを心待ちにしている。そんな皆に私は深く一礼すると、右手に握り締めたマイクのスイッチをそっと入れて口元へと近付けた。

 

 

 

 

「それでは聞いてください! 『お願い!シンデレラ』!」

 

 

 

 

 私の声に、大好きな皆が作ってくれた夢のような狭い空間は大歓声に包まれたのだった。

 

 




一応、これにて本編は完結です。

あとはちょっとしたエピローグだけ追加しようと思います。
短い間ではありましたが、拙い作品にお付き合いいただきありがとうございました。




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Epilogue.とある事務員の一日

お待たせしました、エピローグです。





 

 

 

Epilogue.とある事務員の一日

 

 

 

 

 

 

 

 

 765プロと346プロの共同ライブが終わってからはあっという間に月日が流れて行ってしまった。興奮冷めやらぬライブを経験して終わった後、暫くはライブの余韻が残っていた346プロの皆も会社全体も、数週間が経つと次第に落ち着き始めて共同ライブの前の慌ただしさや緊張感は薄れ始めていった。

 皆のおかげでたった一日の数分だけではあるが非日常的な経験をさせてもらった私も、すっかり今までの仕事一筋の生活に戻ってしまい、相変わらず多忙な毎日を送っている。

 そんな平凡な日常に戻った私たちだが、それでも共同ライブで765 ALL STARSの皆と一緒にステージに立ったアイドルたちには少なからず変化が現れ始めていた。共同ライブで自分の出番直前で逃げ出そうとした森久保乃々ちゃんはあれから少しだけではあるが前向きに仕事をこなせるようになり、千早ちゃんの『蒼い鳥』をカバーした凛ちゃんは千早ちゃんの歌唱力の凄さを身を以って体験したようで、「いつか千早さんと一緒に歌いたい」という新たな目標の元、今まで以上に熱心にレッスンに励んでいる。

 そんな風に共同ライブに出たアイドルたちは765 ALL STARSの皆から各々で何かを学び取ったようで、明らかに共同ライブ前と比べると皆の雰囲気は変わっていた。新たな目標を立てた子、本物のトップアイドルたちとの差を改めて痛感した子、765 ALL STARSに感化された子、この共同ライブで得た者は皆それぞれではあるが、765 ALL STARSの皆はとても大きな物を346プロの皆に与えてくれたのだ。逆に765 ALL STARSの皆はそんな346プロの皆を見て、「昔の真っすぐな想いを思い出せた」と話してくれていた。

 

 誰かに勝って誰かを蹴落として、夢を叶える為にはそういった残酷なサバイバルの世界を通らなくてはならないのが現実だと私は思う。誰もが自分の持つ夢を本気で叶えようとしていて、その熱い想いがぶつかり合うのだから争いが起こるのは当然である。誰もが夢を叶えられるわけではないからこそ、夢というものには何にも代えられない価値があるのだから。勝者と敗者もいない、皆が簡単に手に出来る栄光にはきっと大した価値も魅力もないのだ。

 その現実は嫌というほど分かっている。でも、私はそんなギスギスした世界より、やっぱり765プロと346プロの皆が私に見せてくれた助け合いながらお互いに励まし合い、高め合っていく世界の方が素敵だと思う。自分でも甘いと思うし、綺麗事だということも分かってはいるが、それでもそんな私の戯言の世界を765プロと346プロの皆が私の前で実現させて見せてくれた。あの共同ライブを見て私は確信したのだ、「きっとこの子たちなら私や高木社長が考えている夢のような世界を作るのも不可能じゃない」と。

 そして、願わくばそんな優しい世界が765プロと346プロの間だけでなくもっともっと広がって行ってほしいと思う。

 

 それはまだまだ夢のような話。だけど、いつか私の大好きな皆が私たちを憧れの世界へと連れて行ってくれる。共同ライブが終わって少しばかり逞しくなった皆の背中を見て、私はそう思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白が基調の衣装を着た美波ちゃんはステージへと続く階段の前で立ち止まると、目深に被った帽子を少しだけ上げて、私の方を振り返った。美波ちゃんの先を駆け上がっていくのは鷺沢文香ちゃん、高森藍子ちゃん、相葉夕美ちゃんの三人。その三人の最後尾で小さな橘ありすちゃんの手を握った美波ちゃんは微塵も緊張が感じさせず、リラックスした表情で私を見つめていた。

 

 

 

 

 

「ちひろさん、行ってきますね」

 

「いってらっしゃい。頑張ってくださいね」

 

 

 

 

 私の言葉に美波ちゃんは何も言わず、優しく微笑む。そして階段を登った先から耳が張り裂けんばかりの大歓声が聞こえてきた。その大歓声に急かされるようにして、美波ちゃんは私に背中を向けると一度も振り返らず、ありすちゃんの手を握って階段を登って行ってしまった。そんな美波ちゃんとありすちゃんの姿が見えなくなるまで、私はじっとその場で二人の背中を見守っていた。

 

 こうして、私は今日も皆が光り輝くステージへと続く階段を登っていく様子を見送っている。この階段の先に広がっている世界を、私は未だに知らない。私はその世界を知らないが、毎回のように幸せでいっぱいの笑顔を浮かべて階段を下りてくる皆の表情を見て、やはりこの階段の先の世界はとても素晴らしい世界なのだと思う。

 つい最近まで、私はその世界をどうにかして知りたいと願っていた。私はこの階段を登ることができずにアイドルを引退し、引退してからの八年間でずっと未練を持ち続けていたのだ。笑顔でこの階段を下りてくる皆を此処で出迎える度に、「私も一度でいいからこの階段の先の世界へ行きたい」と、ずっとそんなことを心の奥底で思っていた。

 だけど、今は違う。あれほどまでに知りたいと思っていた階段の先のまだ見ぬ世界を、共同ライブの日を境にそれほど知りたいとは思わなくなってしまったのだ。

 私は夢を諦めてしまった。今のアシスタントである私にこの階段を登る資格はない。だから、私はこの階段の先に広がる素敵な世界を見ることは出来ない。でも階段を登れない私にしか見えない景色だってある。ライブ前に階段の前で緊張する皆の表情や、歌い終えて帰ってきた時の皆の幸せそうな表情を見ることができるのは、この階段の前までしか進むことの出来ない私だけなのだ。そしてそんな皆の姿を見守っているからこそ、この階段の先の世界へと足を踏み入れることがどれだけ価値のあることで名誉なことかも知ることも出来たと思っている。

 

 だから、私はもっとこの素敵な世界を沢山の人に見せてあげたいと思う。私が辿り着けなかったこの世界を目指して頑張る子たちの力になりたい――……。そう思えるようになったのだ。

 

 

 

 

「それでは、聞いてください! 生存本能ヴァルキュリア!」

 

 

 

 

 美波ちゃんの声がマイクを通して聞こえてくると、それに呼応してお客さんの大歓声が再び響き渡る。

 きっと今日もこの階段の先には素敵な世界が広がっているのだろうな。そんなことを、いつも私は階段の下からでは見えない世界を想像して思っているのだった。

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら、ちひろさんじゃない」

 

「瑞樹さん、お疲れ様です」

 

 

 

 

 すっかり東京の街が色鮮やかなイルミネーションに彩られた十二月の中旬、ピーク時を過ぎて人影が減った静かな食堂で休憩を取っていた私は瑞樹さんに声をかけられた。瑞樹さんの隣には楓さんが並んでいて、二人は外から戻ってきたばかりなのか分厚いコートとマフラーを身に付けたままの格好で私を見つめている。そんな二人の視線が自然と私ではなく、私の目の前のテーブルへと流れていくのを私は見逃さなかった。

 

 

 

 

「休憩時間に勉強とは、相変わらずちひろさんは真面目ですね」

 

「勉強しているっていうことは、あの話は受けるみたいね」

 

「そのつもりです。まぁ、まだまだ先の話なんですけど」

 

 

 

 

 私の言葉に瑞樹さんはニッコリと笑うと、そのままそっと手を伸ばして私の前に置かれていた一冊の参考書を手に取った。至る所にマーカーでラインが引かれていたり、沢山の付箋が張り付けられた私の参考書を瑞樹さんは器用な手つきでパラパラとページを捲りながら楽しそうに眺めている。その瑞樹さんの隣で、楓さんも瑞樹さんが次々に捲っていく参考書を覗き込んでいたが、あまり興味がなかったのか、すぐに読むのを諦めてしまった。その代わりにテーブルに置かれたままになっていた私が書き込んだノートを遠目から眺めていたが、それもすぐに飽きてしまったようで次は私の方を見て静かに笑みを浮かべている。

 そんな楓さんの様子に気が付いたのか、瑞樹さんは手に持っていた参考書をパタンと音を立てて閉じると、そっと私の方へと差し出してくれた。

 

 

 

 

「経営学ねぇ……。難しそうで私にはサッパリだわ」

 

 

 

 

 瑞樹さんは私が参考書を受け取ったのと同じタイミングでそう呟き、苦笑いを浮かべた。

 私は一カ月ほど前から自分で参考書などを買い集め、独学ながら経営学を学び始めた。何故二十七歳になった今のタイミングで経営学を勉強し始めたのか――……、そのキッカケは共同ライブが終わってから約一週間後に高木社長に誘われて二人で食事に行った時だった。

 

 

 

 

「将来的に、765プロに私の後釜として戻ってくる気はないかね?」

 

 

 

 

 唐突にそう切り出した高木社長。二人きりでの食事という時点で何か大事な話があることは予感していたが、高木社長の口から出てきた言葉があまりにも予想外過ぎて私は思わず言葉を失ってしまった。

 それから高木社長はその言葉を私に言うまでの経緯を教えてくれた。高木社長ももうすぐ六十五歳を迎えようとしており、最近になってそろそろ自分自身の今後を考えるようになり始めていたらしい。日に日に体力的にもきつくなり始めていた高木社長は、自身が体力がもつであろうあと数年はこのまま社長として765プロに残り、その後は誰かを後釜にすることなく765プロを畳もうと考えていた。その際、765 ALL STARSは業界の親しい友人のプロダクションへ移籍させようと思っていたらしく、そんな話も律子さんや赤羽根プロデューサー、765 ALL STARSの皆にも時々ではあるがしていたようだ。そんな風にもうじき訪れる未来の事をボンヤリと考えていた高木社長だが346プロとの共同ライブを見て考えが変わったらしく、高木社長の引退後は私に765プロを預けようと言い出したのだ。

 勿論、最初は私も断った。今まで自分が社長になることなんか一度も考えたこともなかったし、大学では文学部だったため経営学などに関しては全くのド素人だったのだ。そんなド素人の私が社長なんか務まるはずがないのだから。

 だが高木社長はまだあと数年は頑張るつもりでいるから勉強をするのなら今からでも十分に時間はあるし、もし本気で跡を継いでくれるのなら引退後も私をサポートしてくれるとまで言ってくれた。

 

 

 

「私の“誰もが幸せになるプロダクション”という夢を引き継いで叶えてくれるのは千川君しかいないと思ってね。君にならあの子たちも安心して任せられる」

 

 

 

 

 今すぐに決めて欲しいとは言わないからじっくりと考えて欲しい。高木社長からそう言われ、その日は別れた。

 急な話ではあるが、魅力的な話ではあると思う。今はまだ絵空事のような私と高木社長の夢も、あの765プロの皆となら叶えていける気がするし、そして何より人の世話が大好きな私にとってもプロダクションの社長というのは全く興味がない話ではなかったのだ。きっと今のアシスタントという立場とは比べ物にならないくらい責任は重くなるし、私が抱えるリスクも大きくなるとは思う。だがそれ以上にやりがいのある仕事だとも思うのだ。

 それから数日は一人で考えてみて、美城さんにも相談してみることにした。美城さんは私の話を聞いて少々驚いた様子ではあったが、「難しいことではあるが、沢山の人から慕われているちひろなら出来ると思う」と言って私の背中を押してくれたのだ。

 その美城さんの言葉が決定打となり、私は高木社長に数年間勉強した後に跡を継ぐと話をした。

 

 

 

 

「でもようやく自分のやりたい事を見つけたかと思ったら、“皆が幸せになれるプロダクションを作りたい”だからねぇ」

 

「ちひろさんはどうしようもないお人好しですね」

 

 

 

 

 瑞樹さんと楓さんはそう言って顔を見合わせるとお互いに苦笑いを浮かべている。二人と同じようなことを、先日のとある音楽番組の収録で一緒になったジュピターの冬馬君にも言われたことを思い出して私も二人と同じように苦笑いをしてしまった。

 いずれ高木社長の後を継ぎ765プロの社長になろうと思っているのだと、そんな話を私から聞いた冬馬君は、「救いようのねぇお人好しだな」と言って呆れたように溜息を付いた。だけどその後に、そんな呆れたような表情のまま笑って、「でも結婚式で会った時より今の方が良い顔してるぜ」とも言ってくれた。

 きっと皆が言うように私はどうしようもないお人好しなのだと思う。誰から何を言われようと、私にとっての幸せは私の大好きな人たちの笑顔を見ることであって、私の大好きな人たちはそんな誰かの為にばかり生きる私を次から次へ夢のような素敵な世界へと連れて行ってくれるのだ――……。

 それで良いのだと思う。それが凛ちゃんが言ってくれた“カッコいい生き方”なのかは分からないけど、私はそれで幸せなのだから。誰が何を言おうと、私が幸せだと思えるのならその生き方は間違いではないと思う。

 

 自分の夢に向かって真っ直ぐに生きている346プロの若い子たちやリスクを冒してまで冒険をしている瑞樹さんや楓さん、そして一人の女性としての幸せを掴んで見せた恵子――……。そんな周りの皆を見て、私は自分にとっての幸せな生き方とはどのような生き方なのだろうとずっと考えていた。考えれば考えるほど分からなくなってしまい、色々と悩んではいたが、それでも私はようやく今になって私なりの答えを見出せた。

 

 

――私は誰かの笑顔の為に生きたい。皆の笑顔を見ることが私にとっての幸せ。

 

 

 これが私の見つけた、私にとっての最高の幸せなのだ。

 だからこれからも私は誰かの為に生き続けようと思う。そう思えるようになった今の私は、完全に迷いが吹っ切れた気がしていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆☆

 

 

 

 

 

 

 黄色い大歓声が会場を包んでいる。目の前に広がるのは緑色のサイリウムで埋め尽くされた幻想的な世界。何千何万人という人たちが創り出した幻想的な世界を緑色の特徴的な事務服を着たままの私は、そんな圧巻の光景を前にして立ち尽くしていた。

 

 

 

 

――これが、シンデレラプロジェクトの皆や765 ALL STARSの皆がいつも階段を登った先で見ている世界なのか。

 

 

 

 

 そんなことを考えると、私は思わず唾を飲み込んでしまった。

 目の前に広がる数え切れないほどのお客さんたちは皆、私の歌を聴くためにお金を払って見に来てくれた人たち。皆が一人でステージに立つ私だけを見つめていて、この緑色のサイリウムが光り輝く世界の主役は私なのだ。耳を澄ませば会場の至る所から私の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。成人男性の野太い声、その成人男性の声に負けじと必死に甲高い声で私の名前を呼ぶ女性の甲高い声――……、最初はまばらだったそんな声も次第に増えて来たかと思いきや、あっという間に会場全体は私の名前を呼ぶ沢山のお客さんたちの声で覆われてしまった。

 鼓膜が破れんばかりの大歓声。私の身体には思わず鳥肌が走った。

 階段の先の世界がこんなにも凄い世界だったとは思ってもいなかったのだ。目の前に広がる光景は私の想像を絶するものだった。大勢の人が私の名前を呼び、私の身体に言葉では言い表せないような不思議なパワーが漲ってきたかと思いきや、そのパワーが身体全体へと回っていくのを感じる。今の私なら何でもできる、そんな根拠のない自信が私に未だかつてないほどの勇気を与えてくれるのだ。

 

 そんな謎のパワーに支配されていたかと思いきや、気が付けば私はデビュー曲であった『お願い!シンデレラ』を歌っていて、次の瞬間には私はもう歌い終えていて緑色のサイリウムが創り出した緑色の海に向かって深々と頭を下げていた。

 一瞬にして進んだ時間の流れに違和感を感じたのか、私はボンヤリとしたままゆっくりと顔を上げる。目に飛び込んできたのは何も変わらぬ緑色のサイリウムで埋め尽くされた観客席――……。だが何かがおかしかった。ついさっきまでは感動的にも思えたこの光景が、どうも何か物足りなく感じるのだ。目で分かるほどお客さんが減った訳ではない、会場全体の空気が悪くなっているわけでもない。だけど、何かがさっきまでとは決定的に違うのだ。

 その違和感にモヤモヤを感じていた私。すると次の瞬間に景色が変わると、目の前の緑色のサイリウムが埋め尽くす会場は消え去ってしまい、私は真っ暗な闇の中でポツンと立ち尽くしていた。誰もいない、何処を見ても真っ暗な闇ばかりが広がる静かな空間で佇む私。そんな真っ暗な世界の果てから、微かに私の聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

 

 

 

「……ほら。ちひろさんだって、たまには休憩するよね」

 

「あ……、ちひろさん、おねむだにぃ。起きるかなぁ~?」

 

 

 

 

 私の耳に届いたのは杏ちゃんときらりちゃんの声。

 その二人の声を判別した瞬間、また私の目の前の景色は変わった。次に私の目に飛び込んできたのは黒と白の色合いで綺麗に統一された見慣れた部屋、そして私を見つめて静かに笑みを浮かべている杏ちゃんときらりちゃんの表情だった。

 

 

 

 

「んぅー……、あれぇ……?」

 

 

 

 

 ゆっくりと身体を起こすと、そっと目を擦ってみる。まだ焦点が合っていなかった私の眼は次第に焦点を合わせ始め、私の身の回りにある物をしっかりと映し出してくれた。机に置かれたままになっているシンデレラプロジェクトルームの消耗品の一覧表、プロデューサーさんが提出し忘れて溜まっていた領収書の束、そして私が無意識に抱き締めていた杏ちゃんのウサギのぬいぐるみ――……。

 さっきまで大きなステージで歌っていた私がいたのは、私が毎日のように通っている346プロのプロデューサーオフィスだったのだ。

 

 

 

 

「あれ、私、さっきまでステージに……。ここは事務所?」

 

「にゅふふっ。ちひろさん、ステージに立つ夢でも、見てたのかにぃ?」

 

 

 

 

 きらりちゃんの言葉でようやく全てを思い出した。

 プロデューサーオフィスで書類の整理をしていた私の元に杏ちゃんがやってきて、杏ちゃんを追ってやってきたきらりちゃんから逃げる為の時間稼ぎをしてほしいと言われ、このピンクのウサギのぬいぐるみを預かったのだ。それから慌ただしく逃げて行った杏ちゃんと追いかけるきらりちゃんを見送った後、私に一気に眠気が襲ってきて杏ちゃんから借りたウサギのぬいぐるみを使い昼寝をしていた――……。

 ということはさっきまで私がステージに立っていたのは夢だったのか。あまりにも現実感のある夢で起きて数分は夢だという事が認識できなかった。ようやく意識が戻り、全てを理解した私は思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 

 

 

 

「……そうですね。でも、夢は夢のままにしておいた方が、良い事もあるのかも……」

 

「へ? なにそれ?」

 

 

 

 

 私の言葉が理解できず、咄嗟にそんな言葉を口にした杏ちゃんは首を傾げている。そんな杏ちゃんに何も言わずに笑いかけると、私は机に置いたままになっていた自分のスマートフォンのホームボタンを押した。

 真っ暗な画面に映し出されたのは、共同ライブが終わった後のバーで皆と撮った写真。765プロの大好きな皆と346プロの大好きな皆が写った写真の中央には、皆のサプライズで『お願い!シンデレラ』を歌った後に高木社長から「少し早い誕生日プレゼント」だと言われて貰った大きな花束を大事そうに抱えている私が満面の笑みで写っている。

 

 

 私のアイドルになるという夢は叶わなかった。今の私が生きている世界は、あの頃の私が憧れていた光り輝くステージで活躍する私とは比べ物にならないくらいに平凡でありふれた日常だ。何万人という大勢の人の前で歌うこともなければ、大きなステージに立ってスポットライトに当てられるわけでもない、そんな世界を二十七歳の私は生きている。

 でもそれで良かったのだと、今ならそう思うことができた。だってもしアイドルになるという夢を叶えてしまったら、きっとあの共同ライブが終わった後の皆が作ってくれた夢のようなステージを味わうことはなかったのだから。私にとって、大好きな765プロの皆や346プロの皆、私を応援してくれていた熱心なファンの人たちに囲まれて私の大好きな曲を歌うことの出来たあの世界より魅力的で幸せを感じることの出来る世界はきっと何処にも存在しないのだ。例え何万何百人の前で歌う機会があったとしても、五十人前後の私の大好きな人たちがぎゅうぎゅうになったあの小さなバーのステージには敵わないだろう。そう断言できるくらいに、あのステージに立った私は幸せを感じられたのだから。

 

 私はアイドルになる夢を諦めて大好きだった765プロを離れ、346プロで就職し皆と出会った。そしてシンデレラプロジェクトの皆が私のデビュー曲をカバーして、改修工事の事故がキッカケで私は765プロの皆と八年ぶりに再会した。

 この全てが偶然なのだ。きっと何処かで一つでも道を違えていたら、私はあの夢のようなステージに立てなかったのだと思う。だからこそ、こう言うことができるのだ。

 

 

 

 

――あの時の決断は間違ってなかった。

 

 

 

 

 と。

 

 

 

 

「ううんっ! なんでもありませんよ! さて、ウサギちゃん、ありがとうね。残りの事務仕事……、片付けなきゃ」

 

 

 

 

 相変わらずポカンと口を開けたままの杏ちゃんにピンクのウサギのぬいぐるみを返した。そしてもう一度だけ自分のスマートフォンに映る、あの日の夢のようなステージに立って幸せそうな笑顔を浮かべる私を名残惜し気に見つめると、スマートフォンをポケットへとしまった。

 

 

 

 

「プロデューサーさんが帰ってくる前に、もうひとふんばりっ! よしっ!」

 

 

 

 

 そう自分自身に言い聞かせると、眠気を吹き飛ばすかのように両手で頬を軽く叩いたのだった。

 

 




うっうー、疲れたですぅw
これにて完結ですぅ!


留年が決まって開き直ったかのように書き始めたこの作品も、皆さんの応援のお陰で無事に完結まで走りきることができました!
まさか飽きっぽい自分が三作も完結させるとは……笑

今作も前作、前々作に続き見てくださった方も多いようで本当に感謝しています!
ありがとうございました!

あとがきは書く気になれば書こうと思います。と言いつつ毎回書いてますけどね。笑



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あとがき

 

 

少し時間が空いてしまいましたが、あとがきです。

 

 

まずは完結までお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございます。前作、前々作と続き今作も楽しんでくれた方も多数いらっしゃったようで、本当にありがたい限りです。

誤字脱字の指摘等をしてくださった方々にもこの場を借りて感謝申し上げます。本当に誤字脱字が多く、挙句エピローグではキャラの名前を何をどうしたものか声優さんの名前と間違える(しかもその名前も間違えてる)というとんでもない失態を犯すという終始色々とミスの絶えない作品でした……。もうちょっと気を付けないといけないですね。申し訳ない!

 

 

さて、それではそろそろ「innocent ballade」について書いていこうかと思います。

この作品はデレステの4/1限定でリリースされたちっひのお願い!シンデレラを見てから思い付いた作品です。

当初は前々作の卯月が挫折する話とちっひの話のどっちを書くかで悩んでいました。結果的に卯月の話を選び、そしてそこから生まれたアナザーストーリーである「*君がいるから*」に繋がったので、ちっひの話は3作品目になってしまったんですよね。

前々作、前作とは全く違う設定になるので前作が終わった時点でちっひの話は書くかは迷っていたのですが、留年が決定し晴れて自由の身になったので書くことにしました。笑

 

 

今作を書くにあたって、一番大事にしていたのは「夢を叶えられなかった世界で生きる大人」という世界観です。

挫折して夢を諦めながらも最後の最後で復活した前々作の卯月、挫折しそうになりながらも頑張り続けて夢を叶えた前作のみく、この二人とは違ってちひろは夢を叶えることができませんでした。そういった現実を生きていくあたり、ある意味「魔法が解けた後の世界」という前々作と前作の世界観と似てるのかもしれませんね。

 

多分読んでいる方の中にはちひろが真剣に再び夢へと挑戦する展開を予想していた方もいらっしゃったかと思います。その展開に関しては自分もすごく悩みました。

確かに26歳からアイドルを目指す話も面白みがあったかと思いますが、それでも今作は夢を諦めたちひろが過去の夢と今の現実の狭間で揺れる話を書きたいなと思いまして、結果的にちひろはアイドルを目指す夢に挑戦するわけでもなく、夢破れたまま生きていく結末を選びました。

 

「夢は叶えられなかった、でもその夢破れた後の世界で新たな目標や夢を見つけて生きていく姿」

 

これが自分がこの作品で最も描きたかった大人の姿だと思います。

 

 

 

765プロの扱いにも相当頭を悩ませました。やっぱりデレマスはデレマスで、アイマスはアイマスで、あまり交わらせるのは良くないかと思っていたんですよね。

ただどうしても話の流れ的に、ちひろがアイドルを目指していた頃の仲間たちと再会する話は欠けることができなくて、その仲間たちをオリキャラにするのもなぁーって思った結果、多少強引ではありましたが765プロにちひろが在籍していたというめちゃくちゃな設定を作りました。笑

 

なので今作の765ASの人たちは殆どが二十代半ばから前半です。あずささんに関してはみじゅきと多分歳変わらないし……。

 

 

そのため、今作の765ASは完全に「先輩」の立場で扱うことにしていました。

 

先輩という立場になって成長した765ASのメンバーたちの裏にはちひろの影響があり、あの頃のちひろがいたからこそ765ASはブレイクすることができたのだと。

結果としてちひろ自身の夢は叶いませんでしたが、誰よりも人の為に生きてきたちひろにとってはこれは自分の夢が叶うことと同じくらい嬉しい事ではなかったのではないかと思います。

 

誰よりも人の為に生きる事というのは本当に難しいことだと思うし、誰にでもできることではありません。

アイドル社会や他の世界でも競争は必須で、そういう優しい人たちが生き残れない現実というのもあるとは思いますが、それでもこうして自分のことよりも人の為に生きてきた人間が報われる優しい世界が二次創作物の中でくらいあってもいいじゃないかと、そう思って書いていました。笑

 

最後の最後で自身の長年の夢であったステージに上がることのできたのも、そういった人の為に生き続けてきたちひろへのご褒美だと思います。

 

 

 

ちなみに今作で一番気合を入れて書いた回は当時のファン(かず)との再会、765勢との再会の回です。

この回だけは本当に手抜きが出来ないと思い、少し書いては何度も訂正したりと凄く修正を繰り返していました。結果、死ぬほど疲れましたけど。笑

作品の肝となるシーンで手を抜くと、それだけで物語の質が下がってしまいますからね。まぁそんな偉そうなことを言えるほどの出来とは思いませんけど。笑

 

 

最後にラストについて……。

実は今投稿したラストには続きがあって、本当はそちらをエピローグとして投稿する予定でした。

内容は高木社長の後に765プロを継いだちひろの元に当時のファン(かず)の娘であるちひろがオーディションを受けに来る……、といったものです。

 

だけどそれは何だが蛇足になりそうな気がして。

ラストはデレステのコミュで閉める方が良いかなと思っていたので、その話は投稿しませんでした。

 

感想をくださった方の中には、765を継いだ後の話も書いて欲しいと言ってくださった方もいらっしゃったので少し申し訳ないとは思いますが……。

あくまで、そんなラストもあったとだけ思っていただければと思います。笑

 

 

 

 

次回作については今のところ未定です。

というのも、この3作品でホントに出し尽くした感がマックスで、正直自分の拙い語彙力じゃ限界がきてると感じてるんですよね。

表現の使い回しも多いし、なんか表現が偏ってる気もするし、もう少し勉強したいなーとも思います。

 

ちょうど描きたいと思ってる作品も今は何も思い浮かんでないので、多分暫くはないでしょうね。

でもプロジェクトクローネの話とかも描きたいなとも思っているので、一概には言えませんが。

 

 

ちなみに年末の限定ガチャは爆死しました。

そんでもってちっひがくれたお年玉でも爆死しました。

 

皆さんも爆死して画面をぶっ壊したくなる気持ちになることもあるかと思いますが、その度にこの作品の優しいちっひを思い出して一歩踏み止まってもらえたらと思います。笑

 

 

 

短いですがあとがきは以上です!

 

今作もお付き合いいただいた皆さん、本当にありがとうございました!

次回作があれば、次回作でもよろしくお願いします!

 

 

 



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