アイリスの君 (まなぶおじさん)
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貴女に恋した

 

 夏の青空に、雨上がりの虹が淡く発現していた。それはそれは綺麗なものだ、間違いない。

 しかし今は、天上の風情などはまことどうでも良かった。下界に存在する花壇の方が、よっぽど重要だったからだ。

 

 今の大学は夏休み中だからか、キャンパス内における人の数は少ない。東側では人や戦車が走り回っているものの、関わりさえなければ単なる遠い世界だ――それよりも今は、宇宙で自己主張を繰り広げている太陽に対し、強い関心と憎しみを抱いている。

 こちとらくそ暑い中で、花の世話をしているっていうのに。

 園芸サークルの一員である紺野は、軍手着用で花壇の花についた水滴を払う。先日の夜、思いきり雨に降られたのだ。お陰で余計に蒸し暑い。

 

 花にとって、水は命そのものだ。だが、水滴がついたままでは逆効果だったりもする。病気の原因にだって成り得るのだ。

 なのでこうして、紺野含む数名のサークルメンバーが、夏休みを返上してわざわざ大学まで駆け付けた。目的はもちろん、花の命を救う為に。

 

「っとによーなんで雨って降るんだ?」

「なんでだろうなあ。傘はいるし、それでも濡れるし、花にとっても良いことばかりじゃねーし」

 

 紺野と男友達が、天に向かって好き勝手にものを言い合う。

 表情はやる気なし、言動は腑抜けそのものだったが、腰つきや手振りは、常に熱心だった。みんな花が好きなのである。

 女友達が、ばかだねーと言わんばかりにへらへら笑い、

 

「雨が無いと、私たちも花も生きてられないっしょ」

「そーだっけ?」

「そうかあ?」

 

 紺野と男友達が、面倒臭そうな態度で花の水滴をぽんぽん落とす。労働をしてはや数十分、紺野が背筋を伸ばした先には、

 

「――ところで」

「え、何」

 

 紺野が、「ほれ」と東側を指差し、

 

「あっち側、なんか忙しいな」

 

 少し離れた位置で、多数の女性が、教師が、そして様々な戦車が、所狭しと走り回っている。ひと際デカい戦車が目についた時は、思わず手が止まった。

 

「あー、確か、戦車道絡みらしいぜ。高校生と試合をするとかなんとか」

 

 ああ。

 紺野が通う大学は、戦車道に強い事で有名らしい。この前も社会人相手に試合をして、それに勝ったと大学内で少し騒ぎになったこともある。

 次は高校生が相手なのか。まあ、戦車道にも色々あるのだろう。

 戦車道には疎い紺野だが、母校の繁栄に繋がるのであれば、それはそれで良い――紺野の中では、そうまとまっていた。

 

「ねーねー」

 

 女友達が、実に気軽な声で紺野に話しかける。紺野は「なに?」と応えた。

 

「これ終わったら、一緒にどこか出かけない?」

「何人で」

「二人でー」

 

 つまるところが、デートのお誘いだった。男友達が「いいねえ」と煽ってくるものの、紺野の表情は以前として変わらない。

 

「そういうのは、恋人としかしない主義だって言ったろ」

「んもー、真面目くんだなあこのイケメンは」

「うるせ」

 

 そう――小学生の頃から今日まで、この決意は変わっていない。

 これまでに、沢山の出会いがあった。時には友情を育み、時には趣味を共有し、時にはケンカをしたり、時には仲直りして――時には、告白を受けたりもした。それも三度。

 けれど、紺野に恋心が芽生えることはなかった。できなかった。

 だから、「ごめん」と断り続けてきた。恋に対しては、真面目に向き合わなければいけないと、心の底から思っているから。

 

「出会いを選り好みしてると、独身のままかもしれないよー」

「いいよ別に、恋に対してはマジでやりたいの、マジで」

 

 たぶん、これからも明日からも数年後も、この考えは変化しないだろう。たとえ出会いが無かったとしても、自分には花がある、友情がある。

 自分は、そうして満たされていた。

 

「……おや?」

 

 女友達が、鈍い動きで立ち上がる。紺野は「はて」と、手を動かしたままで首を傾げていた。

 

「そこの君、もっとこっちに来ても良いんだよ?」

 

 女友達が手招きをする。振り向いてみると、花壇から少し離れた位置に、背の低い女の子が突っ立っていた。

 部外者かな。

 口にすることなく、紺野はそう思う。顔つきはどうしても幼かったし、大学生特有の「砕けた」雰囲気が感じられない。小学生か中学生か、それくらいだろうか。

 緊張しているのか、表情に色はない。胸には熊のぬいぐるみを抱いていて、花壇とは一定の距離を置いている――考えられる原因は二つ。遠慮しているのか、人と接するのが苦手なのか。

 女友達は、そこを嗅ぎ取ったのだろう。部外者だろうが何だろうが、花を愛でさえすれば誰だって歓迎だとばかりに、笑顔を作る。

 

「いいよいいよ、遠慮しないで」

 

 そういうことなら、手伝わざるを得ない。花の愛好家は、是非とも増やしたいものだ。

 姿勢を低くしたまま、紺野は笑顔を作って「おいで」と手を振るう――女の子が目を逸らす、けれど内股気味だ。たぶん、きっかけを精製しようとしているのだろう。

 女友達は「いいんだよー」と、積極的に誘いをかけている。紺野も「俺達のことは気にせずに、見ても触れてもいいんだよ?」と勧誘した。男友達も空気を察したのだろう、「おいでー」と左右に手を振るう。

 対して女の子は――嫌ではないのだろう、ぎゅっと熊のぬいぐるみを抱きしめている。たぶん、食いつくことが苦手なのかもしれない。

 どうしたものかと、炎天下で紺野は思考する。そんな中で、同性である女友達が「よし、誘ってみる」と、女の子に近づこうとして、

 

「あ、隊長、ここにいたんですか」

 

 東側から、女性の声がよく響いてきた。物珍しさと主張性の高さに、園芸サークル一同が一斉に注目する。

 

「探しましたよ、隊長――あれ」

 

 ――。

 何故だか全く、これっぽっちも分からなかったのだが。眼鏡をかけていて、ショートヘアで、やや釣り目で、明るい声をした、恐らくは大学生であろうその女性(ひと)に対し、紺野の両目なんぞは完全にくぎ付けとなっていた。

 こんなにも、まじまじと人の容姿を眺めたのは、覚えておきたかったのは、生まれて初めてのことだった。

 自分の頭をはたく、冷静になったフリをする。

 東側からやってきて、軍服らしいものを着ているところから、恐らくは戦車道履修者なのだろう。隊長と呼ばれた女の子は、眼鏡の女性めがけくるりと視線を変えた。

 

「ここ、『虹の花壇』じゃないですか。花を見てたんですか?」

「う、うん」

 

 女の子が、少し遠慮がちに頷く。女友達は「しめた」とばかりに指を鳴らし、

 

「じゃあ、もっと近づいて見てみて、遠慮しないで」

「え、でもっ」

 

 女友達が「いいから」と言い、女の子が「でも」と戸惑う中、紺野はぼさっと手を止めていた。

 

「隊長、ここはとても評判の高い花壇なんです。見るもよし、触れるもよしの、園芸サークルの宝なんですよ」

「そ、そうなの?」

 

 そうなの。

 この「虹の花壇」は、大学が設立された頃と、ほぼ同時期に設けられたらしい。最初は1ジャンプで通り抜けられる程度の規模だったのだが、やる気に満ち満ちた園芸サークルが、あの手この手スキあらばボランティア精神で、いつしかキャンパス内の中心を彩るようなデカさにまで発展させたという。

 形状自体は典型的な円型花壇で、花を植えるスペースが四段階に、その隙間には歩行路が敷き詰められている。これは、花を手入れする際の利便性を考慮した結果だ。

 

 評価に関してだが、女性が言う通り極めて良好だ。学内はもちろん、外部からの撮影者も多い。大学の公式サイトのトップページにも、でかでかと花壇が映し出されているくらいだ。

 人気の秘訣は、代々受け継がれてきた「虹の配色」によるものだろう。外側から赤色の花、黄色の花、青の花、紫の花と、これらを順番に植えていくのが伝統で、これがまたウケが良いらしかった。

 

 モチベーションを保つために、植える花はほぼ一年草でまとまっている。今年は「インパチェンス(赤)」、「コレオプシス(黄)」、「エボルブルス(青)」、「ニーレンベルギア・ブルーマウンテン(紫)」という構成だ。

 植える花の基準は、とにかく「誰でも育てやすい花」であること。これが原因で、「やってみようかな」と加入してくるメンバーも少なくはない。一年草中心なので、「また同じ花かー」とメンバーがダレることも、見物人から飽きられることもあまり無かったりする。

 

 そういうわけなので、虹の花壇は大学の名物として、今日も堂々と君臨しているのだった。

 

「宝といっても、そんなに気を遣わなくていいからねー。花は愛でるものだからさ」

「そうそう。そうですよね」

 

 女友達の言葉に対し、眼鏡の女性が明るい表情で頷く。そして、「見るもよし触れるもよし」を実証するかのように、眼鏡の女性が花壇へ近づいてきた。

 

「いいですか?」

「あ、はい」

 

 眼鏡の女性が、じっくりと腰を下ろす。見るものはもちろん、インパチェンスという赤い花だ。

 ――よく、真面目に返答出来たと思う。

 自分の呼吸音が聞こえて、らしくなく心臓が鳴り響いて、両目は眼鏡の女性へ張り付いたままだというのに。

 

「よく見るのは初めてなんですが……うわあ、綺麗だなあ」

 

 眼鏡の女性の目は、雨のように潤んでいた。眼鏡の女性の顔は、少年のように明るかった。

 なぜだか全く目を離せない――離したくない。眼鏡の女性に対する印象はといえば、綺麗というよりも活発そうで、物事に積極的で、世話好きらしい一面もあるようだった。

 水滴を払うフリをして、眼鏡の女性に近づく。

 思い出の品を見つけたかのように、感慨深く目を細めたかと思えば――今度は、物珍しそうに両目を見開いた。「大きいなあ……」と口にして。

 たくさんの花を、見せたくなった。「俺の」花を、もっと見てもらいたかった。

 

「他の花、見ます? インパチェンスだけじゃなくて」

「あ、いいんですか?」

「ええ。さあ、またがって」

 

 眼鏡の女性が「わかりました」と、嬉しそうに言う。その際、眼鏡の女性が女の子めがけ手招きをした。

 女の子も「惹かれた」のだろう。恥ずかしがりながらも、花壇へ近づいてきた。

 

「ささ、見てってね。触りたかったら、いつでも触っていいからね」

「う、うん」

 

 女友達が、すかさずフォローを入れる。最初は「どうしたもんか」な空気だったが、眼鏡の女性の積極性にかなり救われた。男友達も、その他メンバーも、「こっちに来ていいからね」と声をかける。

 眼鏡の女性が、再び姿勢を低くした。

 

「しっかし、流石は大学名物……本当、丁寧って感じがします」

「あ、ありがとうございます……」

 

 異性との会話なんて、慣れっこなはずなのに。

 「丁寧」と評され、紺野は明るく恥ずかしがった。そのまま受け止めたら、死んでしまいそうなくらい嬉しかった。

 

「先日は雨だったから、その後処理でここに?」

「ええ、まあ」

「なるほど……やっぱり、園芸って凄いなあ。私にはできませんね」

「いえいえ、鉢植えもありますし」

 

 直射日光なんて、すっかり空気だった。炎天下なんて、二の次だった。

 それよりも今は、女性を花の世界へ誘いたかった。そうすればきっと、接する機会が多くなる気がして――

 

「へえー、今度やってみようかなぁ。なんて、やっぱり私にはちょっとなー、すぐ枯らしちゃいそうで」

 

 眼鏡の女性が、たははと笑う。

 ――目を逸らす。

 砕けた表情が、快明な口調が、特徴的な眼鏡が、紺野の心なんぞを瞬く間に夢中にさせる。

 

「あ、いえ、初心者向けのヤツ、紹介しますよ」

「え、本当ですか? やった」

 

 心の底からの言葉なのだろう、眼鏡の女性は歯を見せて笑った。壁も格差も感じさせないような、そんな顔をしていた。

 

「好きな色は?」

「青かな?」

「今の季節だと……ロベリアかな。初心者おすすめです」

「へえー、ためになるなあ……」

 

 眼鏡の女性が、ほうほうと二度頷く。

 

「存在感もありますから、育てがいがあるんじゃないかな。――分からないことがあったら、色々教えますよ。ネットもありますけどね」

「あ、いいの? ……ありがとうっ」

 

 遠慮なく、笑われた。

 男どもなら十中八九、勘違いされそうな笑顔だった。

 包み込むのではなく、悩みを吹っ飛ばすような快明さがあった。

 

「いえいえ……あ、ところで、隊長って?」

 

 ここで話題をバトンタッチしたのは、我ながら上出来だと思う。眼鏡の女性が、「ああ」と応え、

 

「隊長っていうのは……島田愛里寿、あの女の子ですね。十三歳にして、大学まで飛び級してきた天才なんです」

 

 眼鏡が、きらりと光った。女性の目が、紺野から島田愛里寿へ移る。

 

「島田流という、戦車道における流派の跡継ぎでもあるんです。私たち、大学選抜チームの隊長を務められるほどの技量持ちなんですよ」

 

 愛里寿はといえば、現在は女友達とともに「この花はねー」「へえ……」とやりとりしている。天才、飛び級、跡継ぎ、隊長と、夢みたいな単語が飛び交ったが、全て真実なのだろう。

 それらを語っている時、眼鏡の女性の目がとても輝いていたから。

 

「凄いね……」

「うん。だからこそ、何かしてあげられないかなーって思うんです」

 

 眼鏡の女性の瞳が、愛里寿から花へ流れゆく。先ほどまでの明るさに、多少ながら陰りが生じた。

 

「何とか……?」

「ええ。ほら、私たちって大学生じゃないですか。でも、隊長は僅か十三歳、どうしてもズレが生じてしまう」

「あー、そうか」

 

 紺野の表情も、苦く変化する。

 愛里寿は、天才にして戦車隊の隊長だ。尊敬され、羨まれ、時には恐れられることもあるのだろう。

 ――女性の口ぶりから察するに、友情が芽生えていないのかもしれない。だから対等な会話が生じず、遠慮がちになってしまっているのかも。

 何とかしたい、と思う。友達を作ってあげたい、と思う。唸るが、これといって名案が閃かなかった。

 

「ああ、ごめんなさい。こんなことを話してしまって、迷惑を」

「いやいやぜんぜん、俺も何とかしたいって思ったから」

 

 本心を、口にしたつもりだ。この女性の関係者ならば、紺野は――

 

「へえ、優しい」

「いやいや」

「流石、花好きだね」

「花好きが、みんな心優しいとは限らないですよ」

「ふうん。でも、あなたはそれに入らないと思うな」

「どうして」

 

 眼鏡の女性が、人差し指でエボルブルスの花びらを触っている。

 

「真面目な顔をしてくれているから」

 

 こっ恥ずかしくなって、水滴を払う作業を再開する。しかし、未だに視線を感じるのだ。

 

「……偉いなぁ」

「え」

「今、夏休み中でしょ? それなのに、ちゃんと花壇の手入れをして」

 

 花好きとしては、これくらいの献身なんて日常茶飯事だった。むしろライフサイクルの一環であり、好きでやっているに等しい。

 ――けれど、胸がどきりとする。男友達から「よーやるわ」と評されても、女友達から「流石だね」と言われても、「趣味だから」で流していたはずなのに。

 

「……まあ、虹の花壇を任されていますから。これくらいはしないと」

「やっぱり偉いなぁ」

 

 眼鏡の女性の顔なんて見てられない。作業的に水滴を払い、何となく土の匂いを嗅いで、女友達が「もっと見てって」と愛里寿を歓迎する。愛里寿はといえば、最奥にあるニーレンベルギア・ブルーマウンテンを拝見する為に、小さくジャンプした。

 

「……あなただって、凄いと思いますよ。戦車道、でしたっけ? 俺には出来そうにもない」

 

 数分程度だが、テレビで試合を見たことはある。戦車というチームワークの塊を動かして、精密射撃を決めては相手を負かしたり、負かされたりすることもある。試合の展開もかなり早く、自分のような鈍ちんにはついていけそうにもない。

 だから、心の底から「凄い」と口にした。そう思った。

 

「そう?」

「ええ」

 

 ちらりと、眼鏡の女性の横顔を覗う。女性は、エボルブルスをじいっと見つめていた。

 

「――それじゃあ」

 

 紺野と目が合った。呼吸が止まるかと思った。

 

「どっちも偉いってことになるのかな? わかんないや」

 

 けらけらと、眼鏡の女性が笑う。

 

「……それでいいと、思います」

「そっか、よかったよかった」

 

 たぶん、この人は争いとか口論などが嫌いなのだろう。そんなシリアスにかまけているヒマがあったら、目先の面白さへ飛びつくタイプに違いなかった。

 

「――あ、そうだ。君いくつ?」

「え、二十一ですけど」

 

 眼鏡の女性が、実に嬉しそうな顔をしながら指を鳴らす。正直、少しビビってしまった。

 

「じゃあタメってことだね。よしよし、じゃあ堅苦しいのはやめにしよう、やめ」

「えー、でも初対面ですし」

「同級生っていうのは、そういうのを吹き飛ばすパワーがあるでしょ」

 

 まあねえ。

 先輩に対してはどうしても堅苦しさが残ってしまうし、後輩相手も何だか遠慮がちになってしまう。けれど同級生とは不思議なもので、成績に差があろうとも、身長が高かろうと、生まれが違えど、異性相手だろうと、同じ部活でなくとも――気が合えば、それだけで砕けた仲が成立してしまう。そういうものだった。

 

「じゃ、じゃあ……敬語はいらないってことで?」

「とーぜん」

 

 その時、携帯の振動音が近くで鳴り響いた。紺野がポケットに手を当てるも、特に反応はない。

 となると、

 

「はい、もしもしー。あ、ごめんごめん、すぐ合流するから――うんうん、うん、はあい」

 

 眼鏡の女性が、何事も無かったかのように携帯をしまう。合流云々は、たぶん戦車道絡みだろう。

 腰をさすりながら、眼鏡の女性がゆっくりと立ち上がる。

 

「じゃ、そろそろ私は行くよ。――次も花、見てってもいいかな?」

「当然」

「やった。あ、ロベリアだっけ? 育ててみるけど……あんまり、期待しないでね?」

「大丈夫、君ならできるよ」

「ほんとー? 君にそう言われたら、自信沸いてきたぞ」

 

 同級生の仲になった途端、眼鏡の女性がはきはきと言葉を紡いでいく。表情にだって遠慮がない。

 拳を作ったり、苦笑してみせたり、笑顔を浮かばせたり――日光のようだった。何かが、燃え上がっていった。

 

「今日は色々ありがとね。じゃ、ばいばい」

 

 手を振るい、軽々とした跳躍でインパチェンスの真上を飛び越えていく。忍者みたいだなあと、ぼうっと思考した。

 

「あ……ちょっと待った」

 

 両手を広げ、十点満点の着地をこなすと同時に、

 

「そういえば、君の名前を聞いてなかった。私はルミっていうんだけれど……君は?」

 

 くるりと振り向かれる。ルミのアクションを凝視していたせいか、紺野は「え、あっ」と出遅れながらも、

 

「紺野。……また縁があったら、よろしく」

「紺野か、了解。じゃね」

 

 ルミが、愛里寿に向かって「行きましょう」と声をかける。愛里寿はサークルの面々に頭を下げ、サークルメンバーも「また来てね」と手を振った。

 こうして、ルミと愛里寿は東側へ――戦車道の世界へ、姿を消していく。紺野なんぞ及びもつかない、遠い遠い世界へ。

 

 紺野ときたら、未練たらしく二人の背中を、ルミの後ろ姿をじっと見届けていた。

 ルミの顔が、未だに忘れられない。はっきりと変化するルミの表情が、脳裏に焼き付いている。ルミの気軽な口調が、記憶に強く残っていて、

 

「紺野」

 

 そう簡単に、余韻などに浸らせてはくれないらしい。男友達も女友達も、にやにや笑いとともに食いついてきた。

 声をかけてきたのは男友達だが、誰が振り向くか。女友達に至っては、好きに笑い転げていて欲しい。

 次に来る言葉なんて、どうせ――

 

「惚れたな?」

 

 ずばり、男友達から指摘された。

 ――見上げる。

 紺野二十一歳は、五つの過ちを犯してしまったことに気づく。

 

 まず、恋心の芽生えなんてアテにしていなかったこと。

 次に、花を愛でれば全て満たされると思っていたこと。

 更に、戦車道に対して興味と関心を抱かなかったこと。

 そして今、ルミという青い華と出会ってしまったこと。

 たった今、ルミという女性に対して――

 

「惚れた」

 

 恋心が、芽生えたこと。

 

 

 虹は、空のどこかへ消え去っていた。

 

―――

 

 長い夏休みも終わりを迎え、大学生達は授業に研究、サークル活動に昼飯と、これまで通りの生活を再開し始めた。

 授業の尾を引いているのか、紺野は食堂内であくびを漏らす。いつもなら友達とメシを食うのだが、今日はあれやこれやの事情があって昼飯にありつけないらしい。

 

 そういうこともあるのか。

 まあいいか。

 

 好物のカレー定食を注文し、どこに座ろうかなと食堂を一瞥する。視界に入るは、男どもで固まった一席、女性グループでまとまった席、男女混合、空席、ルミ、

 二度見する、両目をこする。少し離れた席に、ルミが一人で食事を――特に、おかしい話でもない。ルミはここの学生だし、そもそも食堂自体が出入り自由だ。時間帯にしろ真昼間だから、ここで飯を食ったところで何の問題も無い。

 鋭く呼吸する。

 ルミの前は、空席だ。だから、相席したところで何の不自然さも無い。

 ルミの顔とは、数回程度合わせた。だから「ここ、いいかな?」と聞いたところで、何の問題も無い。

 ルミの、戦車道における活躍っぷりは何度も見直した。残念ながら大洗は強かったが――まあいい。話題の種も持ってきた。

 

 俺はイケメン紺野君だぞ。話しかけたところで、ルミに迷惑はかからないはずだ。

 

 よし、行くぞ。突撃。

 

「こんにちは」

 

 ルミが持つ、スプーンの動きが止まる。「ん?」と見上げられ、「あ」と微笑された。

 

「また会ったねー」

「どうも」

 

 敬語が暴発しそうになるが、ぐっと堪える。

 相手は同級生だ、だが初恋の人でもある。それ故に、接し方がド丁寧になりかける。

 

「ここ、いいかな?」

「いいよ」

 

 あっさりクリアした。たぶん、同級生でなければ色々とつまづいていたと思う。

 席に座る、真正面からルミと目が合う。食堂であろうが何だろうが、これで二人きりだ。

 ――さて、

 

「いただきます――この前の試合、テレビで見たよ」

「え、ほんと? どうだったかな?」

 

 ルミの表情が、途端に明るいものになる。紺野は「見ておいて良かった」と、小さく自画自賛をしつつ、

 

「カッコ良かった。流石ルミさんって感じ」

「ありがとー。でも、負けちゃったけどね」

 

 苦笑しながら、スプーンでシチューを掬い取る。紺野の方も、カレーを口に入れながら、

 

「いやでも、ルミさん凄く格好良かった。バミューダアタックだっけ? あれは何度も見直したよ」

「あ、それ知ってるんだ」

 

 間もなく、ルミが「ん?」と漏らし、

 

「えっ、見直した? ってことは録画してるの? うわー恥ずかしい、アラ見え見えだー」

 

 そうは言うが、当のルミはまるで嫌がってもいない、むしろおかしそうに笑っている。勝てば祝杯、負ければ思い出、そういうことなのだろう。

 

「アラなんて、俺には分からなかったなぁ」

「いやでも、やられちゃったし」

「そういうこともあるよ」

 

 まあねーと、ルミがシナモンロールをかじる。

 

「しょうがないか」

「しょうがないよ」

 

 ルミが、「うん」と頷く。紺野は、ごくりと水を飲む。

 よしいけ、本心と下心を口にしろ。

 

「でも、大学選抜チームはよくやったと思う。素人目だけれど、精一杯が伝わった」

「ありがと」

 

 ルミが、にこりと笑いながらシチューを飲み込む。いよいよもって心拍数がやばくなる。

 

「俺、ルミさんには感謝してる。戦車道の熱さっていうのかな、そういうのを知れたから」

「え、そうなの? ――私がきっかけ?」

「うん。この前さ、ルミさんは俺なんかと話してくれたじゃない」

「なんかって言わないの」

 

 ルミが、スプーンを向けて「めっ」をする。紺野は「ごめんごめん」と苦笑しながら、

 

「――ルミさんはさ、俺と、花について語り合ってくれたじゃない。それでこう、なんていうのかな……仲間意識っていうのが芽生えてね」

「仲間? ほんと? 嬉しいなぁ」

 

 かなり踏み込んだ発言だったが、ルミは難なく受け入れてくれた。しかも、子供のように口元を曲げながら。

 

「で、ルミさんの熱中していること――戦車道だね。それに興味を抱いて、この前の試合を見たってわけ」

「なるほどねー」

「うん。……でさ、その、試合結果はああだったけどさ」

 

 言え、建前とか脈絡なんてものは捨てろ。恋なんてものは、多少大袈裟なくらいが丁度良いんだ。その人に対して嘘さえつかなければ、割かし好意的に受け止めてくれる。

 両肩で、呼吸をした。

 

「え、何?」

「――大学選抜と大洗含め、俺は、ルミさんが一番イカしてたって思ってる」

 

 信じられないことでも見聞きしたかのように、ルミの両目は思い切り見開かれていた。

 

「え……えー? そう? そう言っちゃう?」

「言う言う」

「あちゃー、そっかぁー……」

 

 けれど、ルミは決して笑いを止めないのだ。まだ告白してもいないくせに、紺野ときたら「今、フられても悔いはない」とか思っている。

 

「ありがとう。君、いい男だねえ」

「そんなことないよ」

 

 そう。ルミから好かれなければ、こんな顔をしたって何の意味もない。

 

「いやいや、私から太鼓判を押してあげよう」

「やったぜ」

 

 カレールーの海から、ジャガイモを回収する。パワフルな感触が、今となってはとても心地良い。

 いい気になって、ジャガイモをかみ砕く。ルミも、シナモンロールを手にとって、

 

「……あのさ」

「え、何?」

「さっきさ、バミューダアタックって言ったじゃない」

「ああ、うん」

 

 バミューダアタックに関しては、ルミの「ついで」で手に入れた検索結果だったりする。

 これは大学の公式サイトでも公開されているのだが、ルミにはアズミ、メグミという仲間が居て、その三人から繰り出される連携攻撃――通称「バミューダアタック」が、とにもかくにも強力なのだ。別のサイトでは、史上最高のチームプレイとして、高く評価されていることもあった。

 

「やっぱり、目につく? バミューダアタック」

「うん、まあね」

 

 分かりやすい迫力があるし、目に見える結果だって残す。ルミのことを抜きにしても、やはり、バミューダアタックは印象深い。

 

「……バミューダアタックってさ、ほら、三人で行う攻撃だからさ、どうしてもそれが目立っちゃう。で、これでナンチャラ三人組とか呼ばれないとさ、ウソじゃん?」

「……確かに」

「でしょ? で、ついたあだ名が『バミューダ三姉妹』。これで、私とアズミとメグミは、一括りに評価されるようになっちゃった」

 

 黙って、納得するように頷く。

 よくある話だ。

 

「まー褒められたり怒られたりするからさ、現状に不満はないんだけれど」

 

 ルミが、あくまで苦笑しつつシナモンロールをかじる。紺野は、白米めがけカレールーを垂らしていた。

 

「……やっぱり嬉しいな。私個人が、こうして評価されるのって」

 

 海でも眺めているかのように、ルミは静かに微笑む。どこか寂しそうに、けれども光を失わないままで、ルミは紺野の目をじいっと見つめていた。

 

「……ルミさん、あんなに凄い腕前なのに」

「バミューダ三姉妹って、定着されちゃったからね。しょうがないしょうがない」

 

 否定はできない。三人組という構成は、それだけでキャラも存在感も沸き立つ。

 ほんとう、どうしようもない強力な個性だった。

 

「……そうか、そうかもね。でもさ」

「うん?」

「やっぱり、俺はルミさん推しだなあ」

 

 ルミが、「そお?」と苦笑する。

 

「花仲間だからね」

「……そっかー」

 

 シナモンロールを完食する。ルミは、薄く「ふーん」と漏らして、

 

「ありがとね、紺野君」

 

 シンプルな、お礼の言葉を返された。いつも振りまいているであろう笑顔は、間違いなく紺野にだけ向けられていて、感謝の情念が伝わってきて――

 

「よし、決めた」

 

 紺野が首をかしげる。ルミは、残り少なくなったシチューを味わいながら、

 

「ロベリア、必ず咲かせるよ。花仲間、だからね」

 

 あ――

 手の動かし方なんて、もう忘れた。紺野の脳ミソには、ルミ専用という看板が張り付けられている。紺野の目ん玉は、シチューをおいしそうにいただくルミしか映していない。

 

 惚れた。




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

一通り園芸関係を調べてみたのですが、間違いがあった際はご指摘ください。
新しいことを調べるのって、本当に面白いです。

今回はルミさんがヒロインで、短編です。すぐ終わると思います。

何度か推敲しましたが、ミスがあるかもしれません。その時は、遠慮なくご指摘ください。
お気軽にご指摘、ご感想を送信していただければ、本当に嬉しいです。


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貴女に恋されたい

「ほーん」

 そろそろ秋が近づいてきたらしく、夕暮れとともに空が暗くなる。以前は、てんで明るいままだったというのに。
 しかし、天上は天上、下界は下界ということで――紺野は、かったるそうに水やりをこなしていた。

「なんだよ」

 一般人にしろスポーツマンにしろ、夕方といえば夕飯であり、

「モテてるか? イケメン君」
「モテてねーよ」

 園芸サークルからすれば、夕方=面倒くさい水やりの時間だった。
 紺野も男友達も、顔は「やりたくねーなー」と語ってはいる。花びらと葉に水を当てないように、あくまで根っこめがけ水を浴びせながら。
 時々水が付着してしまうこともあるが、そういう時は「はいはい」と手で払ってやる。気付けば三年間くらい、こんなことの繰り返しだった気がする。

「そうなの? ちゃんとアタックしてんの?」
「一応してるよ、この前も食堂で話してきたし」

 男友達が、「ほー」と面白そうに漏らし、

「何を話した?」
「あ? 戦車道について、かなあ?」
「戦車道? お前、戦車道について何か知ってたか?」
「知らん。だから俺なりに調べた」

 男友達が、「ほーん……」と一言だけ。その声色には、呆れやら感心やらが入り混じっていた。

「マジで惚れたんだな」
「うるせえ」
「良かったじゃん」

 紺野は、忌々しそうに鼻息をつく。

「まあな」

 夕方ということで、キャンパス内には人が数多く見受けられる。帰路につこうとしている男とか、見覚えのあるカップルだとか、外部者らしきおばちゃんも居る。中には、軍服姿の女性まで。
 違う、あの人じゃない。
 男友達に悟られないよう、水やりに意識を傾ける。土の匂いが、一日の終わりを何となく告げていた。

「ま、頑張れ。俺は応援してるよ」
「そいつはどーも」

 水やりは、主に六人体制で行われる。別に五人でも四人でも良いのだが、虹の花壇を相手取るには、これぐらいの人数でなければ面倒くさくてやってられないのだ。
 花のスペースは全部で四つ――外側から「インパチェンス(赤)」、「コレオプシス(黄)」、「エボルブルス(青)」、「ニーレンベルギア・ブルーマウンテン(紫)」の順で植えられているのだが、外側から内側へ行くほど規模は縮小していく。
 なので新人は、一番楽なニーレンベルギア・ブルーマウンテンのスペースを任されることが多い。焦らずここから、水やりのコツを掴んでもらうためだ。

「しっかし、なんで俺は毎回インパチェンス担当なんだ?」
「もう三年だろ、しっかりしろよ。そんなんじゃルミさんに見てもらえないぜ?」
「はー? 関係ねーだろー」
「いやあるだろ。甲斐性って大事よ? 恋愛したいんだろ?」

 男友達のアドバイスに対し、紺野は舌打ちで返答する。
 どいつもこいつもめんどくせーかえりてー土パッサパサじゃんと愚痴っているが、「ここに集合して水やりをしろ」とは誰も口にしていない。夕方になれば、ジョウロ片手に自然とサークルメンバーが寄ってきて、適当に誰かが指示をしては適当に従い、適切に水やりをこなしていく。この前は、呼ばれもしていないのに十二人も集まってきたことがあった。
 これが、このサークルの「芸風」だった。こんなのだから、長生きし続けられているのだろう。

「恋愛、ね……どうやって告白するかな」
「お前がそれ言う?」
「するのとされるのとでは違うだろ」
「贅沢ぬかしやがって」

 男友達が、コレオプシスにかかった水滴を払う。

「恋愛は待ってくれないぞー」
「わってるよ」

 インパチェンスの肥料へ水をかける、土が黒ずんでいく。口では怠惰を求めているものの、何だかんだいって、この過程が結構好きだった。
 紺野にとって、花壇の世話とは日常茶飯事であり、生き甲斐でもあって、全てだった――「だった」。

「あ、いた。こんにちは。紺野君」
「あ、こんにち、」

 顔を上げた瞬間、猛暑が残る中で肉体が氷漬けとなった。
 大学生で、ショートヘアで、眼鏡をかけていて、パンツァージャケットを着ていて、明るい雰囲気をまとった女性が、花壇の前で小さく手を振っている。
 どうしてここに。
 いや、おかしくないだろ。
 本能がとっさに意見し、理性が現実を示す。

「水やりしてるの? 偉いなぁ」

 動揺まみれの紺野をよそに、ルミは今日も笑顔を振りまいていた。


 半年ぶりに、ニーレンベルギア・ブルーマウンテンへの水やりをやることになった。もっと正確に言うならば、「やらされた」。

 

「別にいいのに、見ているだけで」

「いやいや。私もこのたび、花を愛でることの楽しさに気づきましてね」

「おっ」

「最初はちんぷんかんぷんだったけれど、なんかこう、いいね」

 

 突如として、ルミが「手伝えること、あるかな?」と言い出したのだ。勿論何度か断ったのだが、ルミは好奇心溢れる目つきのままで「そう言わず」と、グイグイ押してきた。

 結果的に、ルミにはニーレンベルギア・ブルーマウンテンへの水やりを任せることにした。スペースが一番小さく、手間のかからない個所だ――そのついでに、メンバーどもから「お前も行くんだよ」と押し付けられ、二人きりで水やりをこなしている最中である。

 ルミの言う通り、花好きには優しい人が多いのかもしれない。実にありがたいことだ。

 

「本当に育ててるんだね、ロベリア」

「うん。戦車道と結構相性が良いんだよね、疲れた後の園芸っていい感じ」

 

 戦車道とは、決して争いの為のツールではない。ただどうしても轟音は鳴り響くし、忙しくなく動き回っては攻撃を仕掛けなければならない。そういった意味では、園芸は良い気分転換になるのかもしれなかった。

 少しだけ、気分が明るくなる。何だか戦車道に、ルミに近づけたような気がして。

 

「戦車道といえば……疲れてない? さっき、授業をしてきたばっかりなんでしょ?」

「大丈夫大丈夫、慣れてるから」

 

 あっさり言うあたり、余計に真実味が増す。戦車道だって無傷では済まないはずなのに、ルミときたら楽しそうに水やりをこなしている。

 

「無理はしないでね。いつでも交代するから」

「ありがとう。でも平気だから」

 

 葉に水滴が付着する。ルミが、人差し指で水を払う。

 

「君も大変だよね。毎日、これやってるんでしょ?」

「一応ね。まあ、好きでやっていることだから」

 

 紺野はサークルリーダーでも何でもないから、居てもいなくても問題は無い。あくまで自主的に、趣味的な都合で立ち寄っているだけだ。

 何だかんだいって、花を一から育て、それを咲かせるのは、とてつもなく楽しい事なのだった。

 

「へえー……イケメンだねえ、紺野君は」

「そんなことないよ」

 

 口では遠慮がちに振る舞うものの、内心ではみっともなく歓喜していた。ジャンプだってした。

 そんな紺野のことなどは露知らず、ルミは繊細な手つきで水をやり続け、

 

「そーお? まあ、少なくとも、私はそう思ってるよ」

「そうなの?」

 

 当たり前だとばかりに、ルミが頷き、

 

「だって、私個人を見てくれたじゃない。あれ、すっごく嬉しかったんだから」

「ええー、まだ言う?」

「言う言う。私、嬉しいことは根に持つタイプだし」

 

 実にルミらしいと思う。悪い事は、食うか寝るか飲むかで忘れてしまえるのだろう。

 ――本当、好きな人物をしていると思う。

 

「そういうことなら……これからも、試合があったら録画するよ」

「えー? 嬉しいな。でも恥ずかしいなー」

 

 もちろん、これっぽっちも嫌がってはいない。上機嫌の横顔を浮かばせたままで、ルミの手は水やりに夢中となっている。

 

「まあまあ、俺は戦車道の専門家じゃないし」

「いやいや、紺野君だからこそだよ。――私推し、なんでしょ?」

 

 この時、ルミに照れが生じた。もちろん、見逃さなかった。

 煩悩を振り払う為に、わざとらしく髪をかき上げる。

 

「……うん。まあね」

「だよねだよね。まあ、がっかりさせないように、これからも頑張るからさ」

 

 もう少しで、水やりも終わりを迎える。

 どうして、ニーレンベルギアのスペースはこんなにも小さいのだろう。

 

「ロベリアの方も、期待しないで待っててね」

「わかった、期待してる」

 

 ルミが「やめてよー」と、おかしそうに苦笑する。そんなルミの表情を見て、紺野は心から安堵した。

 

「……よし、終わりかな」

「お疲れ様、ルミさん。ジョウロ、片しとくから」

「サンキュ」

 

 お礼とともに、ルミの青いジョウロが手渡される。それを機に二人同時で立ち上がり、面倒くさそうに背筋を伸ばした。

 空はもう薄暗く、遠ければ遠いほど世界が赤く染まっている。何処かで車のクラクションが鳴り響くが、かえって静けさが増した気がした。

 キャンパス内に、人気はもう少ない。サークルメンバーはかったるそうに、スキあらば愚痴をこぼして、紺野を見てはニヤニヤと笑う。それでも手を動かすことはやめない、付着した水滴の存在を決して許しはしない。

 風。

 少しばかり肌寒くなってきて、何となく「秋か」と呟いた。

 ルミも、空を眺めたままで何も言わない。

 

 世界は、とても綺麗なものだった。

 

―――

 

 素晴らしい朝が訪れ、健康体のまま起床する。次に起こすべき行動はといえば、

 

「めんどくせー」

「しょうがないでしょ、朝の水やりは基本よ、基本」

 

 朝の水やりである。

 午前八時くらいに「自然と」集合し、土の乾燥具合を確認してはがっくりと肩を落とす。そうして将来性の無いツラを浮かばせながら、今日も花壇相手に水をご奉仕するのだ。

 ちなみに先日もやった、今日もやる、たぶん明日も実行されることだろう。

 

「命を育むって、大変だねえ……」

「ねー、大変だよね」

 

 まるで他人事だが、やはり手の動きは止めない、もちろん姿勢は低く。こうでもしなければ、根っこに水を与える事ができないからだ。

 ――頭の片隅では、分かってはいるのだ。愛情を与えるって、こんなにも大変で、けれど夢中になってしまう。そういうものなのだと。

 

「あーあ。俺は一生、子供なんて持てねーわ」

「そお? あんたの場合、何やかんやで親ばかになりそうだけど」

「ないない、俺は自分のことで手一杯だよ」

 

 女友達が、力の抜けたあくびをする。

 

「へー、じゃあ」

「んだよ」

「ルミさんと、結ばれる気はないんだ」

 

 ――秋の前触れは、何となく感じてはいる。それでも空は素直に青いし、朝だからといってそれほど寒くもない。だから、土だって乾燥もする。

 旅客機の風切り音が、世界を静かに震わせる。顔だけは知っている同級生が、今初めて見る誰かが、花壇をちらりと眺めては通り過ぎていく。サークルメンバーの一人があくびをして、それに連なるように他のメンバーも欠伸を漏らした。

 紺野だけだろう。朝の倦怠感なんて、吹っ飛ばしてしまえたのは。

 

「……馬鹿言うな」

「あ、そこは否定しないんだ」

 

 ため息をつく。

 

「当たり前だろ。たぶん、これ以上の恋なんてしないと思う」

「へー。なんで、そこまで好きになっちゃった?」

「顔。あと、気さくなところとか、性格とか、全部」

 

 女友達が、「うわ正直」と笑う。しかし否定はしていないあたり、女友達も共感はしてくれているのだろう。

 惚れた腫れたの動機なんて、大抵は顔だと思う。そこから興味と関心を抱いて、自然とその人を知っていって、芯から惚れるか幻滅するか――ルミに対しては前者だ。こればかりは、何物も覆せない男の答えだった。

 

「そうかー。あー残念、私も顔には自信があったんだけどなー」

「お前もいいセンいってると思うけどな」

「じゃあ、私と付き合うー?」

「悪い」

 

 女友達が「なんだいケチー」とぶーたれながら、葉についていたテントウムシをつまみ取る。

 

「しょうがない、新しい恋に生きるとしよう。あんたは、後ろにいるルミさんと幸せにしてってください」

「へいへい」

 

 間。

 

「あ!?」

 

 手元が狂い、インパチェンスの花びらに水がかかる。勢いよく首だけを捻ったものだから、瞬発的に激痛が走った。

 嘘でも、でまかせでも、おふざけでも、からかいでもなくて、確かにルミが居た。夢のようだった。

 

「おはよう。今日も偉いねえー」

 

 どうやら、話を聞かれてはいなかったらしい。手で挨拶をしながら、今日も晴れ晴れと笑っていた。

 

 テントウムシが、けたたましい羽音とともに空へ還っていく。

 

 

 ルミがニーレンベルギア・ブルーマウンテンの世話をするのはこれで二度目であり、紺野もそれに付き添った。もっと正確に言えば、背中を叩かれた。

 本当、花好きに悪い奴はいないのかもしれない。実にありがたく、余計なお世話だった。

 

「朝早いね、ルミさん」

「うん。我ながら信じられないくらいの健康っぷりだよ」

 

 真正面と向き合うような形で、ルミとは水やりを行っている。その為にルミの表情がよく覗えるが、やっぱり夏のように明るかった。

 

「てことは、普段はそうでもない?」

「うん、ないねー。大体は授業ギリギリに来るからさ」

「いいなー、よく寝れて」

 

 別に、朝の水やりは強制でも何でもない。やりたくなければ寝たままでもいいし、何だったら見るだけでも良い。

 単に、「しょうがない、やるか」の精神で早起きしているだけなのだ。そんな気質持ちが、たまたま数十人ほど集っているだけで。

 

「そうだねえ。睡眠時間は大事、大事なんだけどさ――なんだかね、ロベリアが気になって気になってしょうがなくてさ、意識が勝手に起き上がっちゃうのよね」

「あ、俺とおんなじだ」

「あ、そうなんだ? ひょっとして、目覚ましが鳴る前に起きちゃうパターン?」

 

 紺野が、二度頷いて同意する。ルミも、「やっぱりそうなっちゃうのか……」と感心した。

 紺野は、健全な一般大学生である。それ故に勉強はまあまあ嫌いだし、早起きなんてしたくもないしやりたくもない。

 ただ、花が好きだから「仕方なく」目覚めてしまうのである。朝七時に目覚ましをセットしているが、大抵は役目を果たせずにスイッチを切られるのが日常だった。

 

「いやあ、どうして早起きしちゃうんだろうね。命を育むことに使命感を抱いているのか、単に楽しいと思っているからなのか」

「両方じゃないかな」

「あ、そうかも。なんていうのか、花って素直だからついつい世話したくなっちゃう」

 

 同意する。天真爛漫な動物とは違い、植物はモノも言わないし甘えてもこない。こちら側がとれるコミュニケーションはといえば、水をやったり、見つめあったり、切ったりと、それぐらいだ。

 だからこそ、手間をかければかけるほど、植物は大真面目に育っていく。やがては、自分の為だけに花を咲かせてくれる――そうした過程を乗り越えてきたからこそ、枯れすらも受け入れられる。

 

「いやあ、園芸っていいね。今までどうして、やってこなかったんだろう」

「いやー、人生って案外そんなものじゃない。俺だってルミさんと出会わなかったら、きっと戦車道のことなんて知らないままだった」

「そっかー」

 

 空が青くなっていく、朝が目覚めていく。息を吐き、見上げてみれば、今日も元気に太陽が輝いていた。

 

「……あのさ」

 

 ルミにしては珍しい、大人しい声色だった。紺野は「うん?」と返事をする。

 

「ロベリアさ、まだ発芽もしていないけれど……なんだかさ、凄く愛おしく感じる。なんだろ、これ」

 

 愛おしいという言葉を聞いて、紺野の心がどきりとする。

 

「一人暮らしだからなのかな。こんな気持ちになっちゃうの」

「それもあると思う。けどね、」

 

 視線を、土の方へ逃がしながら、

 

「ルミさんが、心優しいからそう思うんだよ」

 

 こんなこと、ルミを見たままで言えるわけがなかった。

 ルミからの強烈な視線を感じるが、応えることは出来ない。めちゃくちゃ恥ずかしい。

 

「……優しくなんかないよ。私、ガサツだし、テキトーだし」

「けど、冷徹じゃない。そうだろう?」

「そうかな?」

「じゃなかったら、戦車道を歩めない」

 

 戦車道とは武であり、礼が全てであって、決して争いの為の文化ではない。

 私だけが、自分だけが、勝てれば、負けなければ――戦車道は、これらの自我を決して認めはしない。たとえ勝てなくとも、負けっぱなしでも、乙女になることが出来れば、その人は立派な戦車道履修者なのだ。

 ルミは、今もこれからも、戦車道を歩み続けるだろう。そんな人に惹かれるのは、必然だった。

 

「……そう思う?」

「思う。戦車道履修者だからこそ、花の命も感じられるんじゃないかな」

「なるほど、そっかー……」

 

 花びらに水滴がつく。作業的な手つきで、それを払う。

 

「ロベリア、咲かせたい?」

「うん」

 

 力強い返答だった。それがひどく嬉しくて、紺野の口元が曲がってしまう。

 

「私が選んだ命だもの。だからこそ、その命を育んでいきたい」

「いいね。やっぱり、ルミさんと花は合う」

 

 もう少しで、ニーレンベルギアも満足する頃合いだ。土も程よく濡れていて、誰から見ても満点を貰えるだろう。

 これは、紺野とルミの成果だ。

 

「花好きから評価されたかー、やったね」

「いやいや、俺はただの趣味人だよ」

「でも、花好きなんでしょ? 同好の士から認められたら、それは立派な評価になるよ」

 

 そうなのかな、と疑問する。そういうものかと、嬉しそうに納得する。

 

「よし、終わりか。さて、」

 

 立ち上がろうとして、腰に痛みが走る。緊張しすぎたせいなのかもしれない。

 

「いってー」

「あ、大丈夫?」

「よくあるよくある」

 

 その時だ。先に立ち上がったルミが、手を差し伸べてくれたのは。

 

「え」

「さ、掴んで」

 

 軍手をはいたルミが、清々しい微笑とともに助け船を出してくれた。

 その右手からは、義務的なものも、事務的な雰囲気も、面倒臭さも感じられない。助けたいから助ける、それだけだった。

 

「――悪い」

「いいって」

 

 軍手ごしから手を握り締め、力強く引っ張られる。

 ほんの一瞬だったが、紺野は間違いなくルミに触れた。軍手ごしであろうとも、紺野は間違いなくルミと接触した。

 ルミが、自分の手をとってくれた。

 

 紺野からすれば、それだけでも一生モノだったというのに――強く引っ張られ、反動を押し殺せなかった都合上、紺野の両足はルミ側へ釣られていく。ルミが「あっ」と声を出すがもう遅い、既に至近距離だった。

 お見合いが始まる。

 

「あ、えと」

「ご、ごめん。引っ張り過ぎた」

 

 右手は握られたまま、互いの両目はくぎ付けとなったまま。

 ルミの顔が、とてつもなく近い。ツリ目気味の瞳がこんなにも輝いていて、頬が不意に赤く染まっていて、力なく口が半開きになっていて、いつまでも目を逸らそうとはしない。

 紺野の運なんて、この瞬間から品切れになったと思う。笑えるくたばり方をしたところで、それも仕方がないとさえ思う。そんな風に考えられる時点で、やはりどうしても、ルミのことが好きなんだと実感する。

 たぶん、中学か高校だったら、勢いのまま抱きしめていただろう。それとも、キスをしていたか。

 けれど、今の身分は大学生だ。

 だから、

 

「……ごめん、本当にごめん」

 

 何事も無かったかのように、ルミとは距離を取った。緊張感とか罪悪感とか、それらが処理出来ないままで、視線をニーレンベルギアへ泳がせる。

 しかし、

 

「いや、大丈夫大丈夫。こういうこともあるよね、うんうん」

 

 ルミは、あくまでもルミだった。

 気まずさを残したままで、ルミの顔をちらりと拝見するが――真っ当に明るかった。

 ほっとする。ルミの気質に、心から救われた。

 

「私の方こそ、ごめんね。勢いつけすぎちゃった」

「いや、ありがとう」

 

 ルミが「あはは」と苦笑する――その時、ルミの表情が「あ」と変化した。迅速な動きで携帯を引っこ抜き、画面へタップすれば、

 

「いけない、もうこんな時間。ごめん、抜けるね」

「いやいや、十分だよ。ありがとう」

 

 ルミが「こちらこそ」と、小さく頭を下げる。色々あったが、ニーレンベルギアの世話はこれにて終了だ。

 

 ルミから、青いジョウロと軍手を手渡される。後はそのまま、軽々とした跳躍で虹の花壇を乗り越えていき、十点満点の着地を決めた後で、こう言うのだ。

 

「またね」

 

 こう、言うのだ。

 

 ルミが、東側へ消えていく。名残惜しいはずなのに、その道を歩み続けて欲しいと紺野は思う。

 そうして間もなく、メンバー達から「やるじゃん」だの「すげーな」だの「意気地なし」だのと好き勝手が飛び交うが、そんなものは二の次だった。

 

 深呼吸する。秋らしい冷たい空気が、肺に沁み込んでいく。

 

―――

 

 目覚まし時計がアラーム音をかき鳴らす前に、ルミの脳ミソがはっきりと覚醒した。

 寮のベッドから起き上がり、面倒くさそうに背筋を伸ばす。また目が覚めたのかと、ぼんやりと思考した。

 目覚まし時計の針を見る――だいたい七時くらいか。前までは目覚ましに叩き起こされて、「もう八時~?」とか愚痴っていたのが懐かしい。

 

 さて。

 

 目覚まし時計のアラームをOFFに設定して、青迷彩の掃き出し用カーテンに目を向ける。朝の日差しがカーテンを黄色く染めていて、これを目にするたびに「ああ、朝か」と実感するのだ。

 力なく欠伸を漏らし、ちらりと部屋を一瞥する。床には購読中のファッション雑誌が二冊ほど転がっていて、折り畳みテーブルの上には、やっつけたばかりの缶ビールが三本ほど放置されていた。

 部屋の片隅もチェックしてみたが、「あー」と声が漏れた。この前処理したはずなのに、またゴミ袋が増えたんだっけ。

 あーやだやだ。

 再び欠伸を漏らしつつ、カーテン前に置いてある丸いミニテーブルへ目を向ける。テーブルの上には、一つかみ出来るくらいの白い鉢植えと、水やりの為の受け皿が、ぽつんと置かれているのみ。このちっちゃな存在が、ルミを早起き体質に仕上げてくれた。

 

 ――今日はどうなっているのかな。

 首を長くして、鉢植えを真上から確認する。今日になってようやく発芽したらしい。

 安堵するように、息を吹く。さて、水やりの為にカーテンを開け、

 

 ――あ!?

 

 カーテンを開けていないせいか、部屋は薄暗い。もしかしたら見間違えたかも、視力悪いし――

 焦りを隠せないまま、左右にカーテンを開ける。真っ向から日差しを浴び、目が細く歪んだ。

 視力を確保する為に、テーブルの上から眼鏡をふん捕まえ、音を立てて着用する――これまでの勢いは何処へいったのか、ルミは恐る恐る鉢植えを確認して、

 

「芽だ」

 

 声が漏れた、感嘆を吐いた。

 ルミなりのやり方に対して、ルミなりの愛情に対して、ルミなりの想いに対して、ルミなりの命の考え方に対して、ロベリアは応えてくれた。私を選んでくれた。

 

 ――なんだかさ、凄く愛おしく感じる。なんだろ、これ

 ――ルミさんが、心優しいからそう思うんだよ

 

 紺野は、自分なんかに対して、そう言ってくれた。

 自画自賛は趣味じゃないが、今回ばかりはそれが正しい、正しいのだろう。

 

 これが、園芸か。

 

 試合中でもないのに、心が静かに燃えていく。

 絶対に、このロベリアだけは咲かせよう。私のロベリアを、美しい姿にしてみせよう。いつか、紺野に見せてあげよう。

 

 ――紺野君、か。

 

 さて、朝の支度をしなければ。着替えに歯磨きに朝食に水やりにその他もろもろ、余裕があれば虹の花壇の手入れもしておこう。

 日光を横目に、洋服ダンスの中身を漁っていく。今日は何で決めようか、やっぱりカジュアルスタイルにしてみようか――朝からやることが多くて大変だ、かったるいね。

 

 

―――

 

 校門を潜り抜ければ、まずは虹の花壇が目に飛び込んでくる。キャンパス内の中心に設けられたそれは、大学の象徴として、園芸サークルの宝として、今日も元気に花を咲かせていた。

 校内はもちろん、部外者からも、虹の花壇は絶好の撮影スポットとして高く評価されている。文化祭が開催された日には、老若男女問わず人が殺到することも珍しくはない。

 

 どうして、虹の花壇がここまで愛されるのか。ルミはよく知っている。

 

「もう少しで秋だっていうのに、土パッサパサじゃねーか。なんで乾燥なんかするんだっけ?」

「知らねーよ、専門家に聞け。……紺野よぉ、お前はまだいいだろ? コレオプシス担当なんだし」

「インパチェンスより、少し小さい程度じゃねーか」

「じゃあ変わるか? 一年が担当しているトコと」

「いい、変わらんでいい。このままでいく」

 

 虹の花壇には、沢山の手間と、幾多もの愛情と、園芸サークルの情熱が籠められている。

 だから、こんなにも美しいのだ。

 

「……相変わらずだなあ」

 

 ルミが、くすりと口元を曲げる。今日も、園芸サークルは熱心にご奉仕しているらしかった。

 紺野の背中へ駆け寄り、数人のメンバーが「あっ」と笑いかけてくれた。紺野も気配を察したらしく、腰を低くしたままで振り向き、ルミと目が合う。

 

「やあ、おはよう。今日も偉いねえー」

 

 手で挨拶をして、にっかりと笑ってみせる。最初は戸惑いがちだった紺野も、含み笑いでルミに応えてくれた。

 

 さて、今日は芽について報告しよう。どんな反応をするのか、楽しみだ。

 

 




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

ドラマCDを購入し、聴いてみたのですが、ルミさんって結構世話好きっぽく感じました。
凄く、良い彼女になりそうです。

何度か推敲してみましたが、もしかしたらミスがあるかもしれません。
その時は、遠慮なくご指摘してくださると、本当に嬉しいです。

ご指摘、ご感想などは、お気軽に書いてください。


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あなたと向き合った

「練習試合、お疲れ様でした。乾杯ッ!」

 アズミが天高くジョッキを掲げ、メグミもルミも喜色満面の笑みでジョッキをぶつけあう。居酒屋のカウンター前で陽気になるは、バミューダ三姉妹だ。
 今日は他校との練習試合があったのだが、結果は快勝そのものだった。なので浮かれに浮かれ、居酒屋へ飲みに行く流れになるのも仕方がないことなのだ。
 早速とばかりにアズミがビールを一杯、立て続けに「うまいっ」と一言。実に幸せそうである。

「ちょっとアズミ、明日は平日なんだからほどほどにねー」
「はいはい、わかってますよー。エライわねえルミは」

 へらへらと笑われながらも、ルミは「まあね」とビールを飲む。
 瞬く間に喉が冷えていく。いつから酒を飲むようになったんだったか、いつの間にかこうだった。

「しっかし、今日のMVPは間違いなくルミよね。どしたのあの破壊っぷり、秘密特訓でもしたの?」

 一瞬だけ、思考が詰まる。
 ビールを飲み干すことで、頭の中に生じた泥濘を洗い流した。

「たまたまよ」
「そうなの? まあ、そういうこともあるか」

 メグミからあっさり納得される、アズミも「ふーん」と頷いてくれた。
 そう、全てはたまたまだ。何処かで「あの人」が見てくれているかもしれないから、あの人を幻滅させたくないから、あの人へ応えたいから――なんて考えたところで、戦車は戦車、試合は試合だろう。
 ため息をつく、唐揚げを食う。
 さて、今日はほどほどに祝杯を上げるとしよう。明日は大学があるのだから。


「ねえねえルミちゃーん」
「なに」
「私って可愛い?」
「うん」

 アズミが「やったー」とけらけら笑う。メグミからも「じゃあ私はー?」と質問されたが、ルミは「可愛い」とだけ。
 メグミからの返答はといえば、ため息一つだった。

「あーあ、可愛いはずなのに、なーんで男に縁がないんでしょねー」
「さー、まだその時じゃないんでしょ、その時じゃ」

 メグミがジョッキを傾け、一杯やりつつ、

「その時を待って、気づけばお酒が飲める年齢になってましたー」
「うーん、なんでだろねー」
「これでも身振りには気をつけてるんだけどなー、なーんでかなー」

 居酒屋における話の種はといえば、酔う前は戦車道、島田愛里寿、世間への愚痴。時には、シリアスな事情を語り合ったりする。
 酔った後は――悲観的かつ、陽気な恋バナで盛り上がることが多い。
 アズミとメグミは、今日も楽しそうに世の中を嘆いている。自分もその仲間に入れて欲しかったが、「当事者」である都合上、無責任に騒ぎ立てることなど出来はしなかった。

「あれれー、どうしたの? 今日のルミちゃん、クールだねえ」
「いつもこうでしょ」

 アズミが、露骨に「はぁ?」と顔を歪め、

「なに言ってんの。あんたが一番声でっかいくせにー」
「そうだっけ」
「そーでーす、アンニュイなルミちゃんなんてルミちゃんじゃないでーす」

 アズミとメグミが、心底気楽そうな表情でルミを煽る。その事に苛立ちはしない、むしろ羨ましいくらいだ。
 ――恋バナなんて、単なる話のネタに過ぎなかったのに。
 練習試合について考察したり、愛里寿の良さについて話し合ったり、教師について愚痴りあったりと、ここまでは普段通りだった。だが、酔ったアズミが「ところで今年もそろそろ終わるけど、カレシできましたー?」なんて言うものだから、ルミのテンションは急に醒めてしまった。

 こうなった原因は何だ。すぐに思いつく。
 自分に対し、心優しいと言ってくれた男の事。トラブって、顔と顔が間近になってしまった男の事。愛里寿でもアズミでもメグミでもなくて、ただただ私の事ばかり見る男の事。
 芽が生えたことを報告してみれば、「やっぱり、ルミさんは優しい女性なんだね」と言ってくれた、あの男の事――
 心当たりがあり過ぎて、恋に対してバカ笑いが出来ない。抱いているものが恋なのか、友情なのか、何なのかもハッキリしていないというのに。

「あ、分かった!」

 メグミが指を鳴らす、最近上手くなったなと頭の中でぼやく。

「ルミちゃーん」
「なに」
「カレシできたんでしょー!」

 言うと思った。面倒くさそうに、ルミが頭を掻く。

「え、マジで? 本当なのルミ? 裏切ったの?」
「裏切ってないわよ、フリーよフリー。同盟同盟」

 白旗を上げるかのように、手をひらひらと動かす。しかしメグミは、目を輝かせたままで、

「うっそだー、今のルミちゃん最高にクールだもん。らしくないもん」
「そういう気分ってだけよ」

 メグミが「はー?」と首を傾げ、

「恋バナを始める前は、フツーのテンションだったのに?」

 流石は副隊長、人の事をよく見ているらしい。
 このまましらばっくれても、メグミとアズミの猛攻は止まらないだろう。恋ほど、食いつかれたら厄介なものはない。

「はいはいわかったわかった。単に、男友達が出来ただけよ」

 嘘、ではないのだと思う。友達でなかったら、今頃は花壇とは無縁の生活を送っているはずだ。
 正直に話した結果――メグミとアズミの両目が、お星様のようにキラキラと発光していた。話すんじゃなかった。

「まじ? マジなの?」
「マジ」
「うっそでしょ?」
「マジ」
「どこで知り合ったの!?」

 花壇――そう言おうとして、ルミは口を閉ざした。何故だか、何でだろう。

「……食堂」
「え、食堂? そうなの!?」
「まあね。たまたま話し相手になって、たまたま気が合って、そこから付き合い始めたって感じ」
「ほぉー、そういうこともあるんだねぇ」

 納得したのか、そうでもないのか。アズミが、こきりと首を鳴らした。

「どんな話をしたのー? ……お願いしますっ師匠、テクニックを伝授してくださいッ!」

 懇願するように、メグミが両手を合わせる。厄介そうに、ルミは「ああ」と口にし、

「単なる世間話よ。ニュースとか、時事ネタとか、そこらへん」
「ほー、普通ねえ」

 花の話題も、ロベリアについても、どうしてか秘密にしておきたかった。
 ――考察する。意外にも、すぐに答えを導き出せた。
 独占欲だ。

「まあ、きっかけなんて大抵はこんなモノでしょ」
「はー、勉強になりましたっ、と」

 それで満足したのか、メグミはジョッキを傾けた。
 アズミは――未だに、こちらに視線を合わせたままで、

「で」
「何」
「その人の事、どう思ってるの」
「……わかんない」

 アズミが「そっかー」と頷く。ルミは、箸でから揚げをつまみ取る。

「青春してるねー」
「そお?」
「安易に答えを出さないあたり、真面目にその人の事を考えてるんだなーって」
「……そう?」
「そうそう」

 アズミが、控えめにビールを飲み干していく。

「ま、せいぜい悩みなさい、おそーく答えを出しなさい」
「分かってるわよ」

 こちとら大学生なのだ。人間関係については、思慮深く気を遣っているつもりだ。

「……一つ聞くけど」
「何」

 あくまでアズミは微笑んだまま。けれど、姉のような目つきでルミを見つめている。

「その人の事、嫌いじゃないんでしょ?」

 ああ、
 そんなの、決まりきっている。

「嫌いじゃない」
「ならよし」

 行きつけの居酒屋は、今日もオヤジ達を迎え入れている。何か良いことでもあったのか、向こうのテーブルが随分と騒がしい。焼き鳥の匂いが鼻孔をくすぐる、暖色の照明が何だか心地良い。
 メグミは、「もう一杯お願いしまーす!」と、明るく注文する。先ほどまでのアズミは何処へいったのやら、「私もお願いしまーす!」とジョッキを掲げてみせた。

 ルミは――分からないことだらけだった。それなら、解るまで彼と会うまでだ。
 だって、嫌いではないのだから。



「なるほど」

 

 男友達が、カレーにスプーンを突っ込んだままで、紺野に一言問う。

 同じくカレーを食っていた紺野が、忌々しげに「何だよ」と聞き返してみれば、

 

「お前、やっぱり好みはルミさんなの?」

 

 何を今更と言うたげに、紺野は小さく舌打ちする。

 昼に腹を空かせて、そのまま男友達と食堂へ訪れて、カレーを注文してさあ食うぞという時にいきなりこれだ。

 断言してやる。

 

「当たり前だろ」

 

 断言してやった。男友達は「ほー」と声を漏らし、

 

「顔か? 性格か?」

「どっちも」

「なるほどなぁ。確かに、ルミさんは美人だもんなぁ」

 

 男友達のスプーンが、ジャガイモに突き刺さる。そのまま口まで運び、無感動に頬張る。

 

「で、どういうところが好きなんだ? あのツリ目がちなところか? 眼鏡か? 髪型か?」

「んー」

 

 そう言われてみれば、顔の何処に惚れこんだのだろう。全部といえば全部なのだが、やはり「何か」に惹かれたのかもしれない。

 唸る、考える、声が漏れる。脳ミソを振り絞り、出された結論は、

 

「やっぱ全部だわ」

「……すげえ」

 

 感動された。勿論嬉しくないので、淡々とライスをかみ砕く。

 

「でもまあ、ルミさんはパーフェクトな顔つきだしな、しゃーないな」

「だろ」

 

 ルミの容姿が褒められて、紺野も何となく嬉しくなってしまう。好きな人が評価される、これ以上の喜びがあるだろうか。

 

「じゃあ、性格はどうだ。やっぱりお前好みなのか?」

「当たり前だろ。俺なんかにも、対等に話しかけてくれるんだぜ」

「いいなー、いいなー。俺もルミさんと仲良くなりてーなー」

「なりゃいいじゃねえか」

 

 ふん、と鼻息を漏らす。カレールーをスプーンで掬い上げ、白米めがけゆっくりと垂らしていく。

 

「いやいや、お前の邪魔をするつもりはねえよ」

「余計なお世話だ」

 

 食堂で、男どもの笑い声が大きく響いた。別に気にするほどでもない、よくあることだ。

 

「で……お前、将来はルミさんと結婚する気なのか?」

 

 わざとらしく、荒っぽく「ああ?」と応える。

 しかし、男友達は気にもせず、

 

「付き合いたいんだろ?」

「……まあ、そりゃあ」

「じゃあ、結婚まで考えても、おかしかないだろ」

「そうかあ?」

「もう大学生だし」

 

 言われてみればその通りで、ぐうの音も出てこない。

 もう、酒を飲める年頃なのだ。これ以上、背だって伸びたりはしないだろう。結婚について考え出したところで、誰も否定はしないはずである。

 いつの間にか、そこまで育んでしまっていた。

 

「あーあ、結婚か……したいね」

「そーか。今のところは、ルミさんしか見据えていない感じか」

「当たり前だろ」

「他は」

「ありえないね」

 

 男友達から、「うっわすげえ」と笑われた。まったくもって嬉しくない、水をごくりと飲む。

 

「うんうん、お前はルミさんと結ばれるべきだよ」

「あったり前だろ。いつか、ルミさんに、」

 

 その時である。紺野の側面から、「呼んだ?」と、一言飛んできたのは。

 ハイスピードに声の主を探る、すぐに見つかった。紺野の近くで突っ立つは、シチューとシナモンロールをトレイに乗せた、

 

「どしたの? 何か用事?」

 

 話題の中心たるルミが、にっこりと姿を現していた。

 用事も何も、結婚を前提としたお付き合いをしてください――とは、当然ながら言えなかった。

 

「あ、いや、別にその」

「そお? あ、ここ座ってもいい?」

「あ、うん」

 

 先ほどまでの、紺野の投げやりっぷりはどこへ行ったのやら。その目はルミを中心に、その意識はルミを軸に、その思考はルミを基準に切り替えられる。

 顔にまで表れていたのか、男友達が含み笑いをこぼす。ルミに見えないようにガンをつけていると、

 

「あ、君の隣、いいかな?」

「ああ、どうぞどうぞ」

 

 男友達が、ルミと紺野を交互に見やる。またしても、にやりと笑われた。

 ――ルミは、自分の顔を覗う為に、男友達の隣へ座ったのだ。

 少なくとも、自分は赤の他人ではないらしい。嬉しいような、安堵したような、そんな気分になる。

 

「いただきます。……どう? 元気してた?」

「してたしてた。ああそうだ、練習試合見てたよ」

 

 ルミが「うえっ?」と目を見開かせる。残念だが、気づかれてはいなかったらしい。

 

「み、見てたの? 大会でも何でもないのに?」

「ルミさんが参加する試合なら、何処へでも駆け付けるよ。あんまり遠くなければね」

 

 この前の全国大会は、北海道が舞台ということもあって、残念ながら諦めざるを得なかった――が、次こそは北海道だろうが何だろうが、ルミを追おうと考えている。ルミへの想いは、日に日に増していっているのだ。

 ――何処へでも駆け付ける。その言葉を聞いて、ルミは、

 

「そっか――ありがとう」

 

 優しく、笑いかけてくれた。

 紺野の呼吸が、止まった。

 

「これはこれは、熱心なファンが出来ちゃったなあ」

「ファンというか、ルミさん推しというか」

「そういえばそうだった。何だろ、私だけがこんなに良い思いをしていいのやら」

 

 たははと笑いながら、ルミがシチューを掬い取る。

 

「ところで、さっきから何の話をしてたの? 私を呼んでた気がするんだけれど」

「あ!? い、いや、聞き間違えじゃないかな?」

 

 男友達が、「そうそう」と助け船を出してくれた。持つべきものは、

 

「名前は呼んでないけど、結婚するならどんな人? って感じの話題なら」

 

 てめえ覚えてろよ。

 フォローしてやったぜとばかりに、清々しくウインクされた。

 

「結婚……はー、もうそんな時期かぁ」

 

 意外にも、ルミが興味深く食いついてきた。紺野は、あたふたと手を動かし、

 

「いやいや、その、こんな話は気にしないで、」

「いや、もう他人事じゃないからね……結婚かぁ」

 

 左手でシナモンロールを摘み、小さくかじる。視線は天井へ、何処か遠い目をしている。

 

「……よし、ごっそさん」

 

 紺野が「え」と漏らし、ルミが「ん?」と口にする。気付けばなんと、男友達が綺麗さっぱり完食済みではないか。

 

「え、お前、早くね……?」

「そうか? いつも変わらないぜ」

 

 「ごちそうさまでした」と、男友達が手を合わせ、

 

「じゃ、俺は先に教室行ってるわ。ゆっくりなー」

 

 トレイを片す前に、男友達から背中を叩かれた。頑張れ、ということなのだろう。

 余計なお世話だ。

 

「あ、あらー……食べるの早いね、彼」

「そ、そうかな? まあ、用事があったんだろうね」

 

 間。

 

「何の話をして……ああそうか、結婚についてか」

 

 思い出された。残念なようなそうでないような、気まずそうに視線を逸らす。

 

「ねえ」

「うん?」

 

 恐れ知らずのルミが、珍しく深呼吸する。

 そして、

 

「紺野君は、結婚願望とかはあるの?」

 

 ある。目の前で、シチューを食べている人と。

 はっきりと言えるはずがなかった、受け入れられる自信がまるでなかった。だから、

 

「あるよ、とりあえずはある、かな」

 

 だから、無難に返答した。

 ルミは「へえー」と目を丸くして、

 

「どんな人と、結婚したいの?」

 

 予感はしていたが、それを聞いてしまうのか。

 ――誤魔化したくはなかった、嘘もつきたくはなかった。偽証をしてしまえば、その時点で縁が切れてしまうような気がして。

 

「……そう、だね」

 

 遊び半分で聞いたつもりはないのだろう。ルミは、紺野から片時も目を離しはしない。

 

「明るい人、かな」

「ほうほう」

 

 ルミが、素直に頷く。

 

「次に……話しやすい人かな」

「ふむふむ」

 

 ルミが、小さく首を振るう。

 

「後は、」

 

 後は――何だ。

 正直な意見としては、「眼鏡をかけた人」とか「ショートヘアが似合う人」とか「戦車道履修者」とか「ツリ目がちな人」とか「花が好きな人」とか、好み自体はいくらでも思いつく。

 だが、これらをルミの前で言ってみるがいい。ものの数秒でバレるだろうし、下手すると悪印象を抱かれてしまうかもしれない。

 告白をするのって、本当に難しい。改めて、そう痛感する。

 

「後は?」

「後は、えーっと……」

 

 こうなれば、当たり障りのない本音を口にするしかない。紺野は、鋭く息を吸った。

 

「料理を作ってくれる人、かな」

 

 嘘は言っていない。

 ここで、ルミの表情が固まった。

 そして、紺野の顔面も硬直した。

 

 敏感に察する。この人、料理は不得意らしい――

 

「あ! ああいや、その、料理は別にいいかな、俺もチャレンジしてみたいし、」

「紺野君」

 

 紺野の弁解なんぞ、ルミの一声で制圧されてしまった。

 真剣で、けれども不安そうな顔をしたルミが、じっくりと紺野の目を射抜いている。

 

「……料理を作れたほうが、いいんだよね?」

「え、えっと、それは別に、」

「い、い、ん、だ、よ、ね?」

 

 黙って、強く頷くしかなかった。

 ――それだけで満足したのか、ルミは「うん」と笑顔になり、

 

「じゃあ今度、何か作ってきてあげる」

「え、え!? なんで俺なんかに!?」

 

 紺野の疑問に対し、ルミは「なんでだろう……」と、頬を赤く染めながら思考する。視線は真横に、右手で口元を隠したまま。

 

「うーん……あ、そうか!」

 

 今思いつきましたとばかりに、左手で指を鳴らす。不意な音にビビってしまい、紺野は情けなくたじろいだ。

 

「日頃のお礼、かな? ロベリアのことも教えてくれたし」

「え? いやいや。俺は、ルミさんの試合さえ見られればそれで良いし」

 

 しかし、ルミは首を左右に振るう。

 

「いやー……私もいつか、料理に挑戦しようと思ってたからね。結婚願望も、人並みにはあるから」

 

 物凄く、重要な情報をつかみ取った気がする。これにはすぐに、紺野が食らいついた。

 

「――ルミさんは、どんな男が好みなの?」

「そだねー……」

 

 特に拒まれることもなく、ルミが「んー」と唸り出す。スプーンをシチューの中に入れたまま、くるくると回して――ルミの顔が、急に明るくなった。これ以上無い意見を、思いついたとばかりに。

 

「――心優しい人、かな」

 

 ただ素直に、シンプルに、控えめに、ルミは笑いをこぼした。

 紺野の口から、声が出ない。

 自分が、それに当てはまらない可能性もあるのに。むしろ、逆なのかもしれないのに。「自分は心優しい」なんて、口が裂けても言えるはずがないのに。

 

 けれども何故か、それを聞けて良かったと、紺野は思うのだ。

 

「……そっか」

 

 紺野は、充実したように笑う。

 

「見つかるといいね、そんな人が」

 

 ルミは、笑顔のままで「うん」と頷いた。

 

―――

 

「もしもし、メグミ?」

『どしたの? こんな時間に』

「ああ、ごめんね。今、大丈夫?」

『うん。どうしたの?』

「……私さ、料理、頑張ってみようと思うんだ」

『え、どしたの急に』

「うーん、私も正直分からないんだけれど……私の事を、認めて欲しい人がいてさ」

『……あー、居酒屋で言ってた』

「そう、居酒屋で言ってたの。――メグミに電話をかけたのは、あえて逃げ道を塞ぐため……かな? ごめんね、いきなりこんなこと話して」

『ああ、ああ、なるほど。まあ、あれだ――頑張って、ルミ。応援してるからね』

「うん、ありがとう」

 

―――

 

 今日も早起きお疲れさん、ロベリアの管理よし、水やり完了、お着替え終了、ゴミ出し完遂、秘密兵器(おべんとう)持参、いってきます。

 さて。

 夏の尾はすっかり消え、今や秋の全盛期だった。朝から随分と肌寒いが、正直なところ、これぐらいの冷たさは結構好きだったりする。逆に暑いのは嫌いだ。

 空気を吸う為に、深呼吸する。

 虫の音は、もうどこからも聞こえてはこない。通学路を歩むルミに対し、後ろから車が通り過ぎていく。暗すぎず、まぶしすぎずの日光が、控えめに朝の訪れを主張していた。

 そして今日も、園芸サークルは虹の花壇相手に頑張っているのだろう。

 

 よし。

 たまたま目が覚めてしまったし、手伝ってあげようじゃないか。待っていなさい、紺野君。

 

 

 アズミよりも、メグミよりも、恐らくは愛里寿よりも先に、ルミは大学のキャンパス内へ足を踏み入れる。

 真っ先に視界へ飛び込んできたのは、キャンパス内を彩る虹の花壇だった――そして、それらを手入れするサークルメンバーも。

 紺野は――いた。今日は、一番外側に植えられたインパチェンス(赤)担当らしい。やはり、ああでもないこうでもないと愚痴っているのだろうか。

 

 今なら、紺野の気持ちがよく分かる。朝っぱらから懇切丁寧に花の世話をしなければいけないなんて、そりゃあしんどいに決まっている。

 だが、花はそれら全てを受け入れてくれる。はじめに芽から、やがては花を咲かせ、いつしか枯れていく――そうした過程を辿るのが、何故だかやめられないのだろう。

 たぶん、ルミはこの趣味を続けていくと思う。発芽した時、何故だか心が燃え上がったから。こんな自分でも、命を幸せに出来るんだって実感したから。自分の花とは、きっと世界一美しいものなんだって期待しているから。

 ――紺野が、褒めてくれるから。

 

 いやいやと、自分の頭を軽くはたく。服を引っ張って、しわを整える。準備完了、声をかけ、

 

「紺野ー」

「あー、何?」

 

 エボルブルスの世話が終わったのだろう。紺野の女友達が、コレオプシス(黄)、インパチェンスの真上をジャンプで乗り越える。

 

「手伝うー?」

「裏は?」

「ある」

 

 そのまま、インパチェンスへ水やりをこなしている紺野の隣にまで歩み寄り、あっさりと腰を低くした。

 赤いジョウロをひらひらと動かしながら、なんでもないように笑いかけて。

 

「言ってみろ」

「実は今月ピンチでさー。一番安いのでいいから、奢ってくれっ」

「やだよ、あっちいけ」

「つめたいなあ」

 

 紺野と、その女友達との絡み合いなんて、何度も目にしてきたはずなのに。

 何故だか、良い気分にはなれなかった。いつものことだと、処理出来なかった。友達関係であるはずなのに、妙な危機感を抱いていた。

 どうしてと、疑問に思ったフリをする。一瞬にして、「ああ、これは」と理解する。

 

「いざとなったら、キャラメルでもいいから」

「え、何処までヤバいの? 何買ったの?」

「服とか種」

「種はともかく……服は、もう十分なんじゃないの?」

「服に際限はないのよ」

 

 女友達が、紺野に対してけらけらと笑う。紺野も、不愉快ではなさそうに言葉を交わしていく。

 

 どんな人と、結婚したいの?

 明るい人、話しやすい人、かな。

 

 心が妬かれる。恋愛感情なのか、友情なのか、それ以外なのかも理解していないくせに。

 ――ルミは、前へ前へ進んだ。悩むのは性に合っていない、行動すれば割かし何とかなってきた。

 先に気づいたのは、女友達だった。首だけを振り向かせ、手を上げて「おはようございまーす」と挨拶をする。紺野も黙って女友達につられ、「あ!」と素っ頓狂な声を漏らした。

 だから、

 

「おはよう! 今日も偉いねえー」

 

 いつものように挨拶をして、いつものように水やりを手伝って、紺野と交流する。

 それでいい、それが一番いい。

 

―――

 

 昼が訪れると、紺野は決まって腹を空かせる。

 勿論、空腹状態なんて受け入れ難いし、好きでも何でもない。だからさっさと食堂へ出向き、とっとと何かを食って、あっさりと満腹に仕立て上げる。こうして、紺野の食糧問題は解決を迎えるのだ。

 が、

 紺野とルミは今、虹の花壇前のベンチへ腰を下ろしている。食堂以上に、距離が近い。

 

「ごめんねー、呼び出したりしちゃって」

「いやいや。むしろ、ありがとうっていうか」

 

 今日ばかりは、食堂へ立ち寄るわけにはいかなくなった。虹の花壇へ水やりをしている最中に、「今日、弁当作ってきたんだ」と誘われたから。

 ――ルミが申し訳なさそうに苦笑しながら、鞄から二つの箱を取り出す。両方とも、青迷彩の包みにくるまれていた。

 

「……マジで、俺でいいの?」

「いいのいいの。いつか、お礼をするって言ったでしょ?」

 

 ルミが、青迷彩を少しずつ解いていく。段々と、少しずつ、けれどもあっさりと、その正体を現した。

 銀色の、シンプルな弁当箱だった。

 

「うわあ……すっげえ。ルミさんの手作り弁当かよ」

「えー、そんなに驚くこと?」

 

 驚くに決まっていた。腹は満たされるわ、愛情は注がれるわで、紺野からすれば国宝級に匹敵する。

 胃も空気を読んだらしく、急に強い飢餓感に襲われる。腹だって鳴る。

 

「あ、いいタイミングみたいだね。開けてみて」

 

 爆発物でも取り扱うかのように、紺野はそっと、弁当箱のフタを開ける。

 おお、と声が漏れる。

 まず、ごま塩が振りかけられた白米が、視界へ飛び込んでくる。仕切りの向こう側には、ミニトマトが三個、ブロッコリーが二つ、ソースがかったハンバーグまで。おまけにクラッカーつき。

 

「い、いいの?」

「どうぞどうぞ」

 

 付属されていた箸を手に取り、まずは慎重に白米をつまみ取る。まるで鑑定士のような目つきで、その白米をただただ見つめていると、

 

「はやく食べてって」

「あ、悪い」

 

 潔く、口の中へ放り込む。

 ――うまい。

 

「うまい」

「本当?」

 

 ルミの両目が、運河のようにきらりと光る。紺野は、「うまいうまい」と何度も連呼する。

 

「全部うまい。ルミさん、才能あるよ」

「ほんとに? やったー、嬉しいなー」

 

 ルミは戦車道履修者だ。だから、トライアンドエラーの精神を用いて、ここまでたどり着いたのだろう。

 ――そうさせた動機に、自分も含まれているのは言うまでもない。

 だから、何としてでも完食しよう。何せ、食べても食べても満たされないのだから。

 

「あ、無理はしなくていいからね?」

「いやいや、食堂のメシより美味いよ、これ」

「大袈裟だって」

 

 ルミが、自分の分のブロッコリーをゆっくり味わっている。とても、幸せそうに微笑みながら。

 

「これはうまい……ルミさん、将来はいいお嫁さんになるよ」

「え、そうかな?」

「うんうん」

 

 上機嫌だったものだから、後先考えずに定番モノを口にしてしまった。

 紺野が「あ」と気づくも、ルミは特に気にしてなさそうな素振りで、

 

「そっかー。紺野君からそう言われたら、私の将来も安泰かな」

「俺の意見なんて、アテにならないよ」

「そう? そんなことはないと思うけど」

「どうして」

 

 ルミが、ミニトマトをかみ砕きながら、

 

「間違ったことは教えないもの、紺野君は」

「そ、そう?」

 

 ルミは、「うん」と物言わずに頷く。

 

「ロベリアにしても、料理についてもそう。最初は失敗しまくったけど、自作の料理ってほんとーに美味いんだなって」

「料理は……詳しくはないし」

「けど、きっかけは与えてくれたじゃない」

 

 ということは、自分はルミに対して、二つの趣味を与えたということになるのか。

 ――少しだけ、喜びが芽生えてくる。ルミの人生に善さが増すのなら、これほど嬉しいことはない。

 

「だから、そんな顔しないの。ね?」

 

 そう言われて、無理に笑う。それに満足したのか、ルミの視線は弁当箱へ移った。

 

「……これで一応、達成かな?」

「え、何が?」

「紺野君の、お嫁さんハードル」

 

 鼻が詰まったような声が出た。ルミが「あ、大丈夫?」と焦るが、紺野は「平気平気」と箸を震わせた。

 

「あー、ごめん。いきなり変なことを言って」

「いや、大丈夫だよ。むしろその、嬉しいって思った」

「……そうなの?」

 

 黙って頷き、

 

「だって、俺なんかの為に、ここまでしてくれて」

「――違うよ」

 

 箸の動きが止まる。

 

「紺野君、だからだよ」

 

 ルミの横顔を覗う。太陽のような笑みはどこかへ消えて、雨のようにどこか落ち込んでいる。

 眉が、力なく傾いている。唇が、いつも以上に艶めいていた。ルミの目は少しだけ寂しそうで、その瞳は決して紺野を映し出してはいない。

 これじゃあ、まるで――

 

「ねえ、紺野君」

「あ、うん」

 

 ルミが、ふう、と息を吐いた。

 

「紺野君ってさ、やっぱりイケメンだよね」

「え!? 違う違うそんなんじゃない」

 

 前に、食堂でイケメン認定されたはずなのに。

 なのに、今となっては恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。

 

「そう? 私はそう思うけどな」

「そ、そう……?」

 

 ルミが、静かに白米を咀嚼する。

 

「紺野君ってさ、コクられたこととかあるでしょ?」

「え。そ、それはー……」

 

 ルミの前で、真面目な嘘をつきたくはなかった。

 ここではぐらかしてしまうと、後が怖いような気がして。

 

「……ある」

「やっぱり? だよねー、イケメンだもんねー」

 

 ルミが、力なく笑う。目と目が合わないまま。

 

「三回くらい、告白されたことがあるよ。勿論、全て断ったけれど」

「ほんと? もったいなーい。なんでなんで?」

 

 ちらりと、ルミが紺野を覗う。一挙一動すらも見逃さないような、そんな鋭さすら感じられた。

 

「まあ、その……俺が、好きになれなかったから、かな。恋心が芽生えなかったっていうか」

「ほー……」

 

 感心された。ルミの箸が、ハンバーグに突き刺さる。

 

「好きでもないのに、勢いのまま付き合ってもさ。それはいつか、瓦解すると思う」

 

 ブロッコリーを回収する。

 

「だって、その人のことを愛していないんだから」

「……それもそうだ」

 

 力強く噛み締める。

 

「真面目だね、紺野君は」

「普通だよ」

「いやいや、勢いのまま交際する人は多いし」

 

 知ってる。それ故に、女友達からは「かったいねー」とよくからかわれる。

 だが、否定したことはない、するつもりもない。恋とは一生モノであって、自分から愛して愛されたいと、心の底から願っているから。

 ――ルミを見る。

 誓う。俺は、ルミしか愛せない。

 

「やっぱり、両想いが一番だよね。うんうん、それがいい」

 

 気づけば、弁当の中身も残り少ない。

 食ったんだな、と思う。

 

「ねえ、紺野君」

「うん?」

「紺野君はさ、今までの告白をしっかり断ったんだよね?」

「まあね。そうしなきゃ、相手にも失礼だし」

 

 ベンチの背に、身を預ける。

 これまでに三回ほど、何もしていないのに告白を受けたことがある。一度目は小学の時、二度目は中学の頃、三度目は大学生になってから。

 そして三度、告白を断ってきた。反応は人それぞれで、一人目は「ごめんね!」と謝ってきた。二人目は、「どうして?」と問うてきた。三人目は、「そっかー。わかった、ありがとう」と頭を下げてくれた。

 

 こんな贅沢野郎が、恋なんて一生するはずがないと思っていたのに。なのに恋ときたら、おかまいなしにその機会を与えてくれた。

 

「そっかー……」

「うん」

「……じゃあさ」

 

 はっきりと、ルミが紺野の顔を見た。

 

「私から告白されたら、紺野君はどう返すのかな?」

 

 ルミは、あくまで楽しそうに笑っていた。

 夕暮れ、のようだった。

 

「え……え」

「あ、ああ、ごめんごめん。変なこと聞いちゃった」

 

 ルミの弁当箱の中身も、そろそろ数少なくなってきた。

 終わる。昼食の時間が、もう少しで終了する。

 ――だから、紺野は言った。

 

「……バカみたく、喜ぶと思う」

 

 呼吸なんか忘れていたと思う、心臓はちゃんと動いていたっけ。

 

「絶対に、断らないと思う」

 

 拳を作り、自分の頭を小突く。「思う」じゃない、そうじゃない。

 

「絶対に断らない。俺でよければ喜んで――そう、応える」

 

 風が吹く。

 そろそろ授業が始まるのか、キャンパス内で人がよく動く。部外者らしきおばさんも数人いて、虹の花壇をじいっと眺めていた。

 東側から、戦車の稼働音がよく響いてくる。ルミの世界も、そろそろ動き出してきたらしい。

 ――ルミは、ルミの表情は、しばらくは止まったままだった。目を丸くして、口を少しだけ開けて、少女のように瞳を揺らしていて、時々まばたきもして、そして、

 

「……そうなんだ」

 

 いつものルミのように、笑顔を見せてくれた。紺野の言葉を、拒んだりはしなかった。

 ……ほんの少しだけ、間が生じる。

 

「ああ、ご、ごめんね! 変なシミュレーションしちゃって」

「あ、ああいやいや、問題ないから。気にしないで、今の返答は忘れて」

 

 一気に弁当箱の中身を平らげ、封印するように蓋を閉める。両手を合わせて、

 

「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした」

 

 少し早めに、青迷彩の包みを弁当箱へくるんでいく。少し雑な感じもするが、許容範囲だろう。

 

「じゃあこれ、ここに置いておくから」

「うん。機会があったら、また作るから」

「えー、悪いよそんな、」

 

 ルミが「いいからいいから」と、歯を見せて笑う。

 そういうことならしょうがない、そういうことなら。

 

「今日は本当にありがとう。それじゃあ、授業頑張ってね」

 

 手を振るい合い、ルミとお別れする。

 後はそのまま、振り向きなどはしなかった。名残惜しくなるから。

 

 何だか、濃厚な昼休みだった。まるで休んだ気がしなかったが――なんだか、いい気分だった。

 シミュレーションとはいえ、ルミに告白出来たのだから。

 

 ――たぶん、ルミは。

 

―――

 

 ベンチに座ったまま、ルミは呆然と空を見上げていた。

 青い、晴れそのものだ。けれど、どこかさみしく感じられる。秋のせいかもしれない。

 溜息をつく。

 少しだけ、口元が緩む。ただ、「そっか」と口ずさむだけ。

 

 右側に、視線を傾ける。

 弁当包みにくるまれた弁当箱が、今なおその場に鎮座している。さっきまでは、人がいたはずなのに。

 そっと、手に取る。

 色々、あったなあと思う。二十一年間生きてきて、恋愛なんて縁がないと割り切ったつもりだったが――

 

 アズミ、メグミ。やっぱりね、出会いってどうしても運が絡むよ。そうなったら最後、心まで絡めとられちゃうよ。

 

 電話をかける、携帯を耳に当てる。

 

『……はい、アズミです』

「ああ、ルミだよ。ごめんね。少しだけ話、いいかな?」

『あ、うん。そろそろ授業始まっちゃうよ、何処にいるのさ』

「虹の花壇前、すぐに駆け付けるから」

『うん。――それで?』

「……あのさ」

『うん』

「わかった、自分の気持ちの正体に」

『……ああ、そう、そっか』

「うん。恋、だった」

『そっかー……やるじゃん、ルミ』

「そお?」

『ええ。今度、何か奢りなさいな』

「スキあらばそういうことを言う」

『いいじゃないの、めでたいんだし。――で、進展は?』

「……それがさ……もう、どうしようもないくらいさ、愛されてるみたい」

『……良かったわね』

「うん」

『今度、紹介してよ』

「え、やだよ」

『ざんねん。じゃ、はやく授業に出なさいよ』

「はいはい」

 

 電話が切れる、笑いがこぼれる。

 自分の弁当箱と、あの人の弁当箱を鞄にしまう。数年ぶりに動くかのように、ベンチから鈍く立ち上がった。

 しんどそうに、背筋を伸ばす。

 さて、午後からは戦車道を歩まなくては。夕暮れになったら、園芸の時間だ。

 

―――

 

「で」

 

 夕暮れに差し掛かり、園芸サークル一同が「さーやるかー」とやる気なく花壇へ集合していく。ここまではいつも通りだ。

 今日も今日とてインパチェンス担当をやらされ、男友達とあーでもないこーでもないと不毛な愚痴りあいをしている最中、ルミから「偉いねえ」と声をかけられる。これもいつも通りだ。

 ルミが「インパチェンス、やってもいいですか?」と自主的に主張してきた時は、メンバー一同はそれはもう感動したものだ。ルミの目はふんすと輝いていて、女友達が「任せた!」と指示し、ルミと紺野は隣同士で作業開始。ここまでも、いつも通りといえばいつも通りといえる。

 昼休みはああだったが、こうして対面してみると、何だかおかしくなって笑い合ってしまった。何となく「これからもよろしくね」と言ってみたところ、ルミが「こちらこそよろしく」と、素直に返してきてくれた。

 後は、インパチェンスめがけ水をご奉仕するだけ。その間も、ルミは紺野の隣を譲ろうとはしなかったことを付け加えておく。

 本当にいつも通りで、無事平穏で、けれど何気なく進展していて、平和そのものだった――ルミの知り合いらしき女性から、「お、ルミ、何してんのー?」と声をかけられるまでは。

 

「なんであんたらまで水やりしてんのよ」

 

 実に不機嫌そうに、ルミが知り合いめがけ口撃を仕掛けている。ニーレンベルギア・ブルーマウンテンへ水やりを施している、島田愛里寿を除いて。

 

「いいじゃない別に。あんた、いい趣味してたのね」

 

 ボブカットの女性は、「手伝わせてくださいな」の一言と、絶対に男を勘違いさせる「雰囲気」で、サークルメンバー一同の意志をイチコロにした。

 ロングヘアの女性は、「手伝っても良いですか」の一言と、何処か女性を引き寄せる「純真さ」で、サークルメンバー一同の意志をイチコロにした。

 島田愛里寿に至っては、前々から見学者として歓迎済みだ。愛里寿はニーレンベルギアを熱心に見ていて、「この花の世話を、させて欲しい」と言い出したのが、そもそもの発端といえる。

 

「くそー、恐れていたことが……」

「まあまあルミ、邪魔はしないから」

「何の」

「んー?」

 

 ロングヘアの女性が、紺野をじいっと見つめてくる。紺野は「あ、どうも」と頭を下げることしか出来ない。

 

「ああ、ごめんごめん。自己紹介が遅れたね――私はメグミ、戦車道してまーす。彼氏募集中でーす」

「ちょっと、抜け駆けは駄目よ。ああ、私はアズミ、同じく戦車道してます。彼氏募集中」

「あ、俺は紺野っていいます。ルミさんとは、お友達をやらさせてもらってます」

 

 その時、アズミとメグミからの、強烈な視線を浴びた。理由は何だ――決まっている、ルミのお友達発言だ。

 はっと思い出す。前に、アズミとメグミという名前を聞いたような見たような。ルミも合わせて、これでバミューダ三姉妹となるのか。

 

 そんな紺野をよそに、男どもが露骨にどよめき始める。アズミが好みだの、メグミちゃんがいいだの、愛里寿ちゃんはあんなのに染まっちゃ駄目よだのと、あちこちから無遠慮な意見が飛び交う。

 かといって、アズミもメグミも不快そうにはしない。むしろ、楽しんでいるフシさえ感じられる。ルミと似た気質持ちなのだろう。

 

「……で、何の邪魔をしないっていうの」

「え、紺野君とルミのお付き合い」

 

 インパチェンスを手入れするメグミの言葉に対して、ルミが「は」と漏らす。紺野は、メグミをガン見する。

 

「はあ? こ、紺野君に失礼でしょ?」

「あら、紺野君を庇うんだ。いいなー仲いいなー」

 

 ルミが、ぐっと歯を食いしばる。紺野のヘタレは、おどおどと水やりをこなすだけ。

 

「しかし、へえ……なるほど」

 

 コレオプシスへ水やりをこなしていたアズミが、よくよく紺野の顔を覗ってくる。対して紺野は、「な、なんですか」と力無く応えた。

 

「なるほど、ルミが惚れるのも分かるわ。イケメンね」

「え、え」

「ああ、ごめんごめん。ルミから、よく紺野君の話をされるのよ。もうすっごく評価が高いんだから」

 

 そうだったのか。

 恥ずかしいやら嬉しいやら喜ばしいやら。これっぽっちも嫌ではない。

 ――ルミを見る。既に顔が真っ赤だった。

 

「何を言ってるのアズミ。ほ、惚れてなんか……」

「そうなの?」

「そ、それは」

 

 その場しのぎとはいえ、「惚れてない」と言われて少しダメージを食らう。ルミから、彼氏と認められたわけじゃないのに。

 

「……とにかくアズミッ。紺野君のことを、じろじろ見るなッ」

「え、なんで。紺野君は、フリーなんでしょ?」

「え? え、ええまあ」

 

 アズミがくすりと笑い、

 

「そんな、堅苦しくしなくても良いわよ。タメ口OK、呼び捨て大歓迎」

「あ、私も気軽にメグミって呼んでね」

 

 戦車道履修者のパワーに押し切られ、半ば流れで「わ、分かった」とだけ。

 アズミは「よろしい」とばかりに、口元を曲げた。

 

「で……ルミのこと、どう思ってるの?」

 

 いきなりか。ルミから「無視していいからね」と注文が飛んできたが、ダンマリを決めたところで追及は止まらないだろう。

 メグミからも視線でロックオンされている以上、もはや逃げ場はない。よくよく見れば、事情を知るサークルメンバーからも黙って見守られていた。

 ――潮時、か。

 

「……嫌いじゃない」

「へえ、嫌いじゃない」

「むしろ好き」

「なるほど、好き」

 

 この場で生きているのは、水やりをこなす手と、質問をしてくるアズミと、真剣な目つきのメグミと、いつの間にか紺野を見据えていた愛里寿と、ちらりと紺野を覗うルミだけだった。

 嘘はつけない。誤魔化しでもすれば、四方八方から主砲をぶち込まれるだろう。

 息を吐く。

 言うか。この場にいる全員は、紺野の本音など見破っているだろうから。

 恋愛で最も大事なのは、本人からその想いを口にすることだ。

 

「……ルミさんのことは、女性として好きだと思ってる」

 

 拳を作り、自分の頭を小突く。

 

「ルミさんのことが、好きだ」

 

 言えた。

 最も伝えたかったことを、現実世界でようやく口に出来た。

 

「だとさ、ルミ」

 

 目は寂しそうに、口元は嬉しそうにしながら、アズミがルミを見つめた。

 ルミは――

 

「あ、えっと……あの……」

 

 ルミの視線は、完全にインパチェンスのものとなっていた。インパチェンスのように顔は真っ赤で、泣きそうな目つきになっていて、答えを口に出来なくて、

 次に「ごめんなさい」と言われても、たぶん受け入れられると思う。想いは伝えきった。

 ――思い出す、告白された時のことを。

 きっと、怖かっただろう、不安だっただろう、物凄く勇気を振り絞っただろう。それらを拒否された時、彼女達はどんな想いで一晩を過ごしたのだろうか。

 過った選択をした、とは思わない。自信を持って、誠実に受け答えしたとさえ考える。

 

 だからこそ、三人の女性達の事を、心から称賛した。

 

「えっと……その、紺野、君」

 

 ルミが、深呼吸した。けれども、視線は地に着いたままで、まるで震える子犬のようで。

 ――少しだけ時間を用いて、紺野とルミの目が合った。ルミは、気楽そうに微笑んでいる。

 

「……紺野君のことは、好き……かな」

 

 これ以上無い言葉だった。ルミからも、これ以上言葉を紡げないだろう。

 紺野は、胸をなでおろした。

 

「……ルミ」

 

 極めて真剣な表情をしながら、メグミがルミに声をかける。

 

「ちゃんと、言って」

 

 気まずそうに笑ったままで、ルミは何も答えない。

 ルミは、太陽のような人だ。だから人一倍笑ったり、喜んだり、声を出したり、恋に対して感情的になるのだろう。

 そんなルミのことが、紺野は大好きだった。だから、今の言葉でも十分過ぎた。

 

 もう、ルミとは赤の他人じゃない。ルミのことは、少しばかり学んだつもりだ。

 だから、

 

「メグミ」

「え」

「……今は、ルミさんをこのままにさせて欲しい。ルミさんも、いきなりこんなことを言われて、戸惑っているはずだから」

 

 そう――

 告白を断った当初は、それはもう気まずくて気まずくて仕方が無かった。この人とは一生、話しかけられないんじゃないかとすら思った。

 けれど、時間の経過というものは、まるで全てを動かしてしまう。

 いつの間にかその人とは友達になったし、普通に話し相手にもなったりした。大学に至っては、同じ趣味を共有する者同士、仲良くしている。

 ――だから、待とう。待てる。

 

「ルミさんは、俺に正直な想いを告げてくれた。それで、十分すぎるよ」

 

 少し経って、メグミが「うん」と頷く。

 

「ルミさん」

 

 ルミが、ちらりと紺野を覗う。

 

「ありがとう」

 

 

 愛里寿とアズミとメグミの手助けもあって、虹の花壇の手入れは大いに捗った。しかも、「また来るね」のおまけつきだ。

 だが、誰一人として騒ぎ立てはしなかった。誰もがルミを、快く見守っていたから。

 

 赤らみがかっていた夕暮れも、少しだけ暗くなっていた。もう帰る時間だ。

 ルミの手作り弁当を食べて、ルミの友達と知り合って、遂にルミに告白して、ルミからも想いを告げられて――本当、めちゃくちゃ色々なことがあった。

 背筋を伸ばし、帰路につく。明日も元気に生きよう。

 

―――

 

 ルミほどではないが、アズミも園芸にハマり出してきた。きっと、丁度よい趣味だったのだろう。

 

 ――最初は、一度きりの手伝いで終わらせるつもりだったのだ。

 だが、楽しそうに花と触れ合うルミを見て、水やりをされて上機嫌そうなコレオプシスを間近で見て――女心がくすぐられでもしたのだろう、だから「また来るね」と言葉にした。

 最初は夕暮れから、時には早朝からお邪魔するようになった。そのたびにサークルメンバー一同が「いらっしゃい」と声をかけてくれて、ルミからは嫌そうな顔で「また来たの」とブーイングが飛んでくる。

 ――少し踏み出せば、コレオプシスがアズミを迎え入れてくれる。何も言わず、何も語らず、ただただアズミを待ってくれている。

 

 なるほど。

 園芸とは、実に大変だ。繊細な気持ちが大事になってくるし、毎日毎日手入れをこなさなければいけない。開花の時期だって、明日や明後日の話ではないのだ。

 だが、花は全てを受け入れてくれる。新参者である自分のことも、まだまだおぼつかない水やりも、自分なりの愛情に対してすら、花は何も答えずに受け取ってくれる。

 ああ、これは、ルミも熱心になるわけだ。

 

 ――ちらりと、紺野へ目を向ける。

 紺野は今日も、「土パッサパサだよっとによー」と愚痴っている。その隣で、ルミが「水をやれば解決するから」と苦笑した。

 アズミも、力なく笑う。朝っぱらから園芸に励んでいるのは、丁寧に水やりを行っているのは、どこのルミの彼氏さんなんだか。

 これは、ルミが惚れても仕方がないな。

 

 さて。

 ひと呼吸つき、「っし」と気合を入れる。今日もコレオプシスへ水やりを行う予定だが、その前に、

 

「ねえ、紺野君」

「え、何?」

 

 手を止め、アズミへ首だけを振り向かせる。

 アズミは「えーっとね」と前置きして、

 

「あのさ、黄色い花……育てたくなってきたんだけれど、何かいいのあるかな?」

 

 紺野の顔が明るくなる。今頃は、何がいいかなどれにしようかなと思考しているのだろう。

 アズミの口元も緩む。ほんとう、花の事が好きなのだろう――ルミからは、「えー、あんたも育てるのー?」とか言われた。その口ぶりから察するに、既に園芸デビューを果たしているらしい。これはいよいよもって止めるわけにはいかなくなった。

 

「……それなら、あいつの方が詳しいんじゃないかな」

 

 紺野が、親指でサークルメンバーの一人を示す。目で追ってみると、コレオプシスへ水やりを行っている、紺野の男友達の姿へ行きついた。

 男友達と目が合い、恥ずかしそうに笑われる。ああ、これはもしかして――

 

「うん、わかった。聞いてみるね」

 

 生まれてこの方、二十一年目になるが――自分もまだまだ、若かったらしい。

 

―――

 

 ルミほどではないが、メグミも園芸にハマり出してきた。きっと、気が合う趣味だったからだ。

 

 最初は、ルミのからかいついでに水やりを手伝ってやった。それはほんの気まぐれで、「たまには花もいいかな」程度の行為だったのだ。 

 だが、メグミはそれを見た、見てしまった。インパチェンスという赤い花に、容赦無く魅せられてしまった。

 なんて可愛いんだろう、と思った。指先で、赤い花びらを撫でたりもした。きっと、口元も緩んでいただろう。

 心のどこからか、「女の子」がふわりと現れたのをよく覚えている。それは今もなお、メグミの中に居た。

 

 なるほど。

 これは、ルミも熱心になるわけだ。

 

 夕暮れになれば、メグミも虹の花壇へお邪魔するようになった。サークルメンバーからは「ようこそ」と歓迎されて、ルミからは「メグミもー?」と邪険に扱われて、アズミからは「お、メグミもやる気だねえ」と笑われた。

 軍手と赤いジョウロを借りて、今日もインパチェンスの世話を開始する。季節的に考えて、そろそろ枯れてしまうのだろうか。

 ――なら、とことん育んでやろう。君のことは、ほっとけないから。

 あえて、楽観的に微笑む。そのままの顔で、水を施していく。鼻歌も漏れ、紺野の女友達から「楽しそうね」と声をかけられた。

 だから、

 

「うん。園芸って、楽しいね」

 

 紺野の女友達に対して、素直に微笑む。紺野の女友達も、「よかったよかった」と言ってくれた。

 うんと、背筋を伸ばす。その際、ルミと紺野が視界に入った。

 紺野は無気力そうな顔をしながらも、決して手を止めたりはしない。ルミも、「あと少しだから」と紺野を励ましている。

 ――ルミの告白を思い出す。

 メグミとしては、未だに納得出来ない部分もある。あの言い方で本当に良かったのかと、ルミも紺野も納得したのだろうかと。

 紺野は、「十分すぎる告白だった」と口にした。本人がそう言うのであれば、他人からの追求など余計な世話でしかないだろう。

 

 だから後は、時の流れに任せるしかない。

 恋とは、想い合う者だけのものなのだから。

 

 さて、

 ごめんねインパチェンス、辛気臭いことを考えて。今日も元気に育っておくれ。

 

―――

 

 ルミほどではないが、島田愛里寿も園芸のことが好きになり始めた。

 

 ほんとう、全てがたまたまだったのだ。

 戦車道を歩み終えて、いつの間にかルミがいなくなっていて、それを「まあいいか」で済ませていて、アズミとメグミから「一緒に帰りません?」と誘われて、帰路について、虹の花壇が目について、通り過ぎようとしてルミを見つけて――

 本当、全てが偶然だった。

 恐らくルミは、前々から虹の花壇を居場所にしていたのだろう。そんな目立つところに居たのに、今まで気づけなかったとは――空間にも、「縁」というものがあるらしい。

 

 流れのまま、愛里寿はサークルメンバーに歓迎された。可愛い可愛いと言われて、物凄く恥ずかしくなって、機嫌が良くなっていって――ニーレンベルギア・ブルーマウンテンと、「目が合った」。

落ち着いた紫色に、なんとなく惹かれたのかもしれない。腰を下ろして、じっくりと観察してみて、

 

「……きれい」

 

 言葉が、漏れた。

 その一言だけで、サークルメンバーは微笑んでくれた。「ありがとう」と、言ってくれた。

 ――風が吹いてもいないのに、ニーレンベルギアが小さく揺れた。

 愛里寿は「あ」と声を漏らし、再び、ニーレンベルギアをじいっと見つめる。

 

 ニーレンベルギアは、愛里寿を歓迎した、気がした。

 

 気がしただけで、本当は、ニーレンベルギアに惚れたのかもしれない――それでも良いと思った。女の子が、花のことを好きになって何が悪い。

 だから、サークルメンバーへお願いをしたのだ。「この花の世話を、させて欲しい」と。

 

 それ以来、愛里寿はニーレンベルギアに対して、よくよく世話をするようになった。

 メンバーはいつでも歓迎してくれて、飛び級だろうが天才だろうが何だろうが、花が好きであれば「いつでもおいでよ」と言ってくれた。紺野も、「ニーレンベルギアも喜ぶよ」と誘ってくれた。

 

 なるほど。

 ルミが惚れた理由が、なんとなくわかった。

 

 後になってなんとなく、ニーレンベルギアについて調べてみた。育て方から生態、そして花言葉を検索して――

 「ああ」と声が出た。どうして自分が、ニーレンベルギアのことが好きになったのか、分かった気がした。

 

 さて。

 

 今日も、虹の花壇へ立ち寄るとしよう。アズミもメグミも、「さーて、今日もルミちゃんを可愛がりますか」と言っているわけだし。

 楽しみが増えるって、いいな。

 行こう。

 

 ニーレンベルギアは、花言葉を以ってして、愛里寿の琴線に語りかけてきた。

 「あなたの心を、和ませて欲しい」と。

 

―――

 

 目覚ましが騒ぎを起こす前に、欠伸を垂れ流しながら上半身を起き上がらせる。今となっては、早寝早起きも板についてきた。

 折り畳みテーブルから眼鏡を引っ張り出し、音もなく着用する。後はベッドから生き返って、アラームのスイッチを切って、掃き出しカーテンを左右に広げるだけだ。

 瞬間、日差しがルミの視界を覆う。ああ忌々しい清々しい。

 

 カーテン前のミニテーブルに、視線を落とす。

 控えめだったはずの芽も、今となっては無遠慮に自己主張中だ。背景が茶色い肥料だからか、余計に目立つ。

 はいはい、水やりをしてあげますからね。

 テレビを点けて、ガーデニング用のジョウロを手に持って、それに水を注いでいく。ああ体がだるい。

 水を補充したら、後はロベリアへ水やりをこなすだけだ。ルミは「ほれほれー」と口にしながら、ロベリアへご奉仕を開始する。

 

 ――紺野と出会ってから、本当に色々なことがあった気がする。

 園芸に興味を抱いて、命が愛おしくなって、戦車道でも張り切っちゃって、何と料理にまで手を出して、いつしか紺野の想いが伝わってきて、自分もそれに共感して、告白したりされたりして、それから――

 それからは、特に何も起こってはいない。キスはもちろん、ハグも手繋ぎもデートもしていないのだった。

 まるでお友達だ。これじゃあ以前と同じだ。

 シケた溜息をつく。

 

 好き、なんだけどな。

 やっぱり、ビビっちゃってるのかな。

 

『本日は、午前、午後とも晴れが続きますが、』

 

 何か、きっかけがあればなあ――

 

『夜は、大型の台風が上陸すると予想され、』

 

 台風ね。

 ロベリアへ水やりをこなしながら、無関心そうに聞き流し、

 

「え」

 

 手が止まった、テレビにくぎ付けとなった。

 台風がこの地に上陸し、直撃するということは、つまり――

 

 ロベリアへの水やりを済ませれば、鉢植えを何となく窓から引き離す。

 さっさと着替え、菓子パンを腹に突っ込み、手作り弁当は――今日は断念する。はやく行かなければ。

 

 はやく、虹の花壇へ行かなければ。

 

―――

 

 予想通り、虹の花壇は戦場と化していた。

 朝早くから、数十名以上のメンバーが虹の花壇へ集合し、花のスペースめがけ青いネットを被せている。そのネットを固定化させる為に、ブロックを敷き詰めているのだが――

 

「どうなの? 紺野君」

「そう、だな」

 

 曇った表情のままで、紺野はブロックを置き、

 

「正直、不安といえば不安かも。何か凄い台風が来るらしいんでしょ? ブロックごと吹っ飛ばされるかも」

 

 それはルミも考えていた。ブロックにもそれなりの重量があるのだが、台風を圧倒出来るかどうかは怪しい、と思う。

 ――今となっては、この虹の花壇も「日課」の一つだった。段々と愛着が沸いてきて、だからこそ枯れるまで見届けたくて、それまでは守りたくて。

 過保護と言うがいい、何とでも叫ぶが良い。ルミは、虹の花壇のことが、園芸サークルの空気が、紺野の守りたいものが、好きになっていた。

 

 ブロックを片手で持とうとして――できた、浮き上がってしまった。

 それは当然の事なのに、「まずいな」と思ってしまう。台風対策としてはこれで十分なのかもしれないが、ルミはすっかり熱してしまっていた。

 

「紺野君」

「うん?」

「もし、花が傷でも負ったら、どうする?」

 

 紺野が、遠い目になる。中指でブロックを小突き、

 

「まあ、受け入れるしかないさ。自然のことだもの」

 

 苦笑する、大人の態度を示す。

 嘘だ。

 本当は、何一つとして犠牲にしたくないくせに。朝っぱらから、沢山の水を注いできたくせに。

 冷静な顔をしておいて、本当は「ふざけんな」とか思っているくせに。自然がどうとか口にしておいて、本当は「台風って必要あんの?」とか愚痴りたいくせに。

 この人の思い出を、壊させてたまるか。自分は、この人のことが間違いなく好きなんだぞ。

 

「……重たいもの、か」

 

 思考する、考える。東側から戦車の駆動音が鳴り響き、「ああ、戦車って重たいか」なんてぶつくさ呟いて、

 

「あ」

 

 朝の空気の中、指パッチンが高らかに鳴り響いた。紺野は「えっ」とビビるが、ルミは気にもせず、

 

「あった、重たいもの」

 

 その時、愛里寿が、アズミが、メグミが、朝っぱらから校門を潜り抜けてきた。

 インパチェンスをひとっ飛びし、着地のポーズも決めないままで愛里寿に駆け寄る。

 

「隊長。今日のニュース、見ましたか?」

 

 愛里寿は、黙って頷いた。アズミもメグミも同じく。

 

「一応、台風対策はしてあるみたいですが――」

 

 ルミは、視線で「見てくれ」と促す。愛里寿もアズミもメグミも、よくよく注目した。

 

「ネットを抑えているのは、普通のブロックのみです。ですが、大型台風に耐えられるかどうかは――わかりません」

 

 とにかく、確実性が欲しかった。とにかく重たいものを、花壇の通路にも置けるような物を、とにかくすぐにでも用意出来るブツが欲しかった。

 戦車道漬けのルミからすれば、導き出せるものは一つしかない。

 

「なので、重りとして――」

 

 ルミの答えを耳にして、愛里寿は「うん」と頷いてくれた。アズミもメグミも異議なし、流石は戦車道履修者。

 よし決まり。早速、重たくて厄介で必須なアレをたんまり用意しようじゃないか。

 

―――

 

  最初は、まるで意味がわからなくて「あ?」と声が漏れた。他のサークルメンバーも同じ感想を抱いたらしく、「え」だの「は」だの「ルミちゃん何それ」だのと、人それぞれの疑問が口に出た。

 サークルメンバーの視線が、ルミの「抱えているもの」に殺到する。それに対してはルミは、「私は何も間違ってません」とばかりに、良い笑顔で、

 

「パーシングに使う薬莢、持ってきました」

 

 サークルメンバー一同は、一斉に沈黙した。紺野だって、何も言えなくなった。

 読心術の心得などはないが、空気とか表情とかその他諸々を察するに、誰もが「何言ってるのかなルミさん」と聞きたかったはずである。

 だが、現実からの猛攻はまだ続く。アズミが、メグミが、パーシングの薬莢を抱えて寄ってきた。更には愛里寿までもが、薬莢をごろごろと転がしてくる。

 どうしよう。

 薬莢が何に使われるのか、それはよく分かる。全ては戦車の主砲をかっ飛ばすために使われるのであって、花壇とは何の縁のゆかりもないはずなのだ。

 それを分かっているからこそ、誰もが「何それ」とは聞けなかった。一種の気まずさを抱いていた。ルミはいい顔のままで、アズミもメグミも「持ってきたよ」とばかりに微笑していて。

 紺野が、必死になって思考する。ルミの意図を掴む為に、全力で脳ミソを回転させる。

 薬莢と花壇って、何か縁があったっけ。もしかして、台風と何か関係が――

 

「あのっ」

 

 一番先に沈黙を破ったのは、愛里寿だった。

 皆の視線が、愛里寿へ殺到する。愛里寿はびくりと体を震わせるも、すぐに、真剣そのものの表情へ切り替える。

 

「この薬莢、とても重たいの。だから、ブロックとして使えないかなって」

 

 間。

 愛里寿の瞳は、とてつもなく鋭かった。「これが隊長としての顔なんだな」と、瞬く間に納得させられた。

 誰もが、言葉を発せない。誰しもが、異論を口にしない。ルミもアズミもメグミも、使ってくれとばかりに薬莢を「ごとり」と置く。

 ――最初に動いたのは、他ならぬ紺野だった。男友達が「おおっ」と声を漏らす中、紺野は薬莢を持ち上げようとして、

 

「重っっ」

 

 声が漏れた、目なんて簡単に見開かれた。

 薬莢の重さといえば、「まあまあ」なイメージでしかなかったのだ。ところがなんだこれは、ブロックよりも数倍重たいじゃないか。

 ルミを見やる。ルミは、「どうかな?」と首をかしげてきた――そんなの、当然、

 

「……台風がチョロく思えてきた」

 

 マジかよと、メンバー一同が声を上げる。男友達も、アズミが持ってきた薬莢を持ち上げて、「うっわすっげえ!」とアホみたく喜んだ。

 こうした空気が形成された瞬間、俺も俺も私もと、薬莢を手にとっては「重ッ!」と、感嘆の声が上がった。

 

 ――戦車砲を撃つのも、簡単じゃないんだなあ。

 再び、ルミに視線を向ける。ルミもすぐに気づいて、「えへ」と笑うだけ。

 紺野のしみったれた機嫌は、瞬く間に明るいものとなった。

 

「……愛里寿ちゃん」

 

 女友達が、「はい」と薬莢をメンバーに渡す。託されたメンバーは、「うおおっ」と悶え苦しんでいた。

 愛里寿は視線だけで、「何?」とだけ。

 

「いいの? これ、大事なものなんでしょ?」

 

 確かに。

 薬莢は、戦車道にとっての主な備品であるはずだ。そんな重要なものを、大切な武器を、ブロックがわりにしてしまって良いものなのだろうか。

 愛里寿を見る、答えを聞こうとする。けれども愛里寿は、これっぽっちも怯みはしなかった。

 一度だけ、ニーレンベルギアを一瞥して、

 

「隊長は私だから、責任は私が背負う。心配しないで」

 

 決意が溢れた声だった。

 戦車道履修者らしい勢いがあった。

 

「それにね」

 

 女友達が、男友達が、薬莢の重さで苦しむ男が、紺野が、メンバー一同が、愛里寿の言葉を無言で待った。

 アズミもメグミも、妹を見守るかのように、愛里寿の背中についた。

 愛里寿が深呼吸する。朝の空気が、しんと静まり返る。

 

「虹の花壇が、花が好きだから、ここを守りたい」

 

 ひと呼吸。

 

「――みんなに、お礼がしたいの」

 

 誰も、言葉を発しなかったと思う。

 誰も、表情を変えなかったと思う。

 誰も、否定などしなかったと思う。

 

 キャンパス内に、人気が湧いてきた。眠そうな男が通り過ぎていって、何事も無く女子大生が横切っていく。カップル連れに教師、見知らぬ生徒に顔見知りと、誰もが虹の花壇を一瞥し、どこかへ去っていった。

 ――そして、メンバーの一人がこう言った。

 

「……ありがとう、島田さん」

 

 愛里寿の顔が、赤く染まっていく。見ないでと、視線を逸らす。

 

「え、えっと、この作戦の立案者は、ルミ、だから」

 

 愛里寿が、力なくルミを指差す。

 不意のご指名を受け、ルミが「えっ、ちょっ」と焦るがもう遅い。サークルメンバーの視線なんて既に独占済みだったし、礼を言う者まで現れた。中には、「名誉メンバー決定」と主張する奴まで。

 もちろん、異論などは生じなかった。アズミからは「やったじゃん」と笑われ、メグミからは「すっごーい」と賞賛され、紺野に至っては「流石ルミさん」と讃えた。

 なのにルミは、紺野に対してだけ「ちょっと、やめてよー」とぷりぷり怒るのだ。災難をおっ被った紺野は、けらけらと苦笑しながら「えー俺だけー?」と逃げ回ることにした。

 

 さて、防衛線を築き上げるとしよう。

 何としてでも、台風から花の命を守らなくてはいけない。一輪たりとも、散らせてなるものか。

 

 愛する人が愛したこの場は、絶対にこの手で救ってみせる。

 

 

 当初の予定は、まずはネットの上にパーシングの弾薬を置くこと。こうすることで、ネットが吹き飛ばされないようにするつもりだったのだが、

 

「ねえ、迷彩ネット持ってきたんだけど……どう?」

 

 オリーブドラブ色に染まった、実に戦車道らしいネットをメグミが調達してきてくれた。

 ルミは「ナイス!」と指を鳴らし、紺野がそれにビビり、一同は「すげえ」とメグミを称賛した。メグミのヤンキーピースが決まる。

 試しに迷彩ネットを触ってみたのだが、流石は軍用、丈夫に出来ている。そもそも「台風? おおかかってこいよ」という雰囲気すら感じられた。

 即採用の流れとなり、虹の花壇は瞬く間に緑一色と化した。この瞬間から、在校生からの視聴率がグンと上がったのは言うまでもない。

 

 とにかく守れるものは守れるよう、片っ端からパーシングの弾薬で通路を埋め尽くしていった。密集させることにより、防御力を向上させたのである。

 一番外側に至っては、「スペースに余裕があるから」ということで、T28という戦車の弾薬を「ごっとり」と置いた。

 最初にそれを見た時、紺野含む男どもは「でっけーッ!」と歓喜した。下手にトシを食っても、やはりデカブツには心惹かれるものだ。

 

 さて、

 

 かつては鮮やかだったはずの花達は、今となってはオリーブドラブの加護に覆われている。手入れの利便性を考慮した通路は、今となっては物々しい金属弾で埋め尽くされていた。

 外側に至っては、殺意すら感じられる巨大薬莢が八発、周囲を取り囲むバランスで鎮座されていた。はた目から見ると、新手の魔法陣にも見えなくはない。

 

 こうして、虹の花壇要塞は完成を迎えた。ざっと見た感じ、ちょっとやそっとの風ではビクともしないだろう。

 繰り返すが、これはあくまで台風対策の一環なのである。知らない人から見れば「何と戦うんだ?」とコメントが飛んできそうだが、虹の花壇要塞は専守防衛を約束している。

 ――虹の花壇要塞を目の前にして、紺野とルミが一言。

 

「何と戦うんだっけ」

「何と戦うんだっけ」

 

 他のサークルメンバーが抱いた感想はといえば、「すげえ」とか「花壇に見えねえ」とか「絶対撤去疲れるだろ」とか「メタルだな」とか、大体は好意的だった。

 さて、

 やることはやった、やれることはこなした。後は夜を過ごして、結果を待つことしか出来ない。

 

「ルミさん」

「うん?」

 

 T28の薬莢を、何となく撫でてみる。冷たかった。

 

「ありがとう」

 

 ルミへ、視線を向ける。

 ルミと出会わなければ、こんなメタルな台風対策はとれなかっただろう。ここまでしてダメなら――また、植え直すまでだ。

 

「……いいのよ」

 

 ルミが、太陽のような笑顔を見せる。

 

「だって私は、あなたの力になりたいから」

 

―――

 

 あっという間に、台風が通り過ぎていった。今の天候はといえば、台風を帳消しにせんとばかりの晴天っぷりだった。

 清々しい空の下で、紺野は曇り顔で感想を漏らす。

 ふざけんな。

 

 天気予報の言う通り、本当にめちゃくちゃなまでの天災だった。窓越しからは派手な風切り音が鳴り響いたし、実家自体も揺れた――気がした。

 本当、よく耐え抜いてくれたと思う。下手すれば家が半壊するかと思ったが、どうにかこうにか生き残れた。

 溜息をつく。

 ニュースによると、何処かの大木がへし折れたらしい。落石もいくつか発生して、通行止めがかかったとか。

 ひどいなと、思考する。他人事じゃないんだよなと、痛感する。

 

 朝飯をかっ食らい、急ぎ目に、開花したカランコエへ水をやる。心の中で、「いい加減ですまない」と謝罪しつつ。

 ――よし、大学へ急ごう。

 

 

 幾多もの水たまりを踏み越えつつ、虹の花壇へ到着してみれば、サークルメンバーのほとんどが集結していた。

 その中には、ルミとアズミとメグミと愛里寿も含まれる。正式なメンバーではないものの、もはや仲間同然だった。

 

「おはよう」

 

 紺野が挨拶をすると、数人が振り返った。誰も彼もがはっきりとしない表情を浮かばせていて、紺野も何も答えることが出来ない。

 早歩きし、虹の花壇要塞へ接近する。

 薬莢は無事か、迷彩ネットはしっかりしているか。花は元気か――花壇の全容が視界に入った時、紺野は「あ」と声を漏らした。

 

 薬莢は、一本も屈してはいなかった。

 

 濡れに濡れた迷彩ネットも、先日のように張り巡らされたままだ。なんというか、流石は戦車道だった。

 

「で、中身は?」

「これから撤去する」

 

 ルミが、しっかりとした声で返答する。それを合図に、サークルメンバー一同がこくりと頷いた。

 

 撤去作業はといえば、それはもうしんどかった。薬莢は多いし重たいし、T28の弾薬は化け物だし、本当の意味で腰が折れそうだった。

 しかし、紺野の隣にはいつもルミがいた。紺野が「疲れたら無理はしないでね」と告げるも、ルミは「大丈夫」とだけ。

 たぶん、本当に大丈夫なのだろう。ルミは戦車道履修者だ、薬莢の扱い方ぐらいは慣れているはずである――逆に自分がへばりそうになるものの、そこはいい格好しいで持ちこたえた。

 が、

 

「無理はしちゃだめだぞー」

 

 見抜かれていたらしい。紺野は「たはは」と苦笑するも、抱えていたパーシングの薬莢をひったくられてしまった。

 流石はルミさんだ、と思う。頼れる人だ、と思う。

 アズミとメグミも、効率の良い動きで薬莢を処理している。流石に愛里寿の腕力では無理があるので、女友達が「迷彩ネット、お願いできるかな?」とフォローした。

 愛里寿は、無表情で「任せて」と応えた。

 

 終わった。

 全ての薬莢は外に取り除かれ、迷彩ネットも全部剥がした。先ほどまではオリーブドラブの海だったそれが、今となってはただの虹色として、虹の花壇として、この晴れ空の下で、その姿を現した。

 

「……確認するぞ」

 

 男友達が、呆然としたような声を出す。

 それに従うように、皆は何も言わない。

 

「ニーレンベルギアは無事か?」

「うん、全部生き残ってる」

 

 愛里寿が、こくりと頷く。

 

「エボルブルスはどうだ?」

「大丈夫みたい」

 

 ルミが、小さく親指を立てた。

 

「コレオプシスは、どうですか?」

「うん、全部元気」

 

 アズミが、にこりと笑う。

 男友達が、安堵したようにため息をつく。

 

「……インパチェンスは?」

「……インパチェンスは、」

 

 両目をつむったままのメグミが、間を置いて、

 

「生還。全部生還したわ」

 

 ――。

 仲間達が、深く深く深呼吸した。終わったんだなと、顔で呟いた。

 後は、

 

「薬莢とネット、返さないと」

 

 紺野が、ぽつりと口にする。

 

「――戦車道履修者の皆さん」

 

 女友達が、ルミとアズミとメグミと愛里寿に向かって、

 

「本当にありがとうございました。助かりました」

 

 頭を、下げた。

 サークルメンバー一同も、深々と一礼をする。

 たぶん、この四人がいなければ、ルミと出会えていなかったら、虹の花壇は傷だらけになっていたはずだ。

 軽症で済めば、それはそれで良い。それが何だ、無傷で生き残れたなんて――そんなの、幸せに決まっている。

 

「いつか、この礼は返します」

 

 女友達の、心の底からの言葉だった。園芸サークルの願いだった。

 何年かかってでも、戦車道には借りを返さなくてはいけない。

 

「……まま、そう硬くならないで。頭を上げて」

 

 けれどルミは、いつもの明るい調子で言葉を投げかけるのだ。

 

「私たちはさ、ほら、戦車道やってるじゃない?」

 

 紺野が、黙って頷く。

 

「戦車道やってるとね、こう……守りたくなるのよ、好きなものが」

 

 メグミとアズミと愛里寿が、静かに微笑む。

 

「だから、今回もそうしただけ。だからお礼なんて、考えなくてもいいよ」

 

 そうか、

 そっか。

 

「ルミさんは、偉いね」

 

 ルミが、歯を見せてにっかりと笑い、

 

「戦車道には、人生の大切な全てのことが詰まってるからね」

 

 それを教えてくれた時、ルミはとても誇らしい顔をしていた。

 紺野が花を愛でるように、ルミも戦車道が好きで好きでたまらないのだろう。そして紺野と同じく、止める、なんて選択肢は毛頭無いはずだ。

 ああ、やっぱり好きだな、この人の事が。

 

「……あ」

 

 何かに気づいたらしい。ルミが、空へ視線を投げかける。

 後を追うように、紺野も見上げて、

 

「……お」

 

 青空の中で、虹の橋が淡く強く輝いていた。

 たぶん、サークルメンバーも同じものを見ているだろう。だから誰も語らない、言葉を発する必要もない。

 隣には、ルミがいる。先ほどから今まで、ずっとルミはここに居てくれた。

 

 だから、手を握り締める。

 ルミがびくりと震える。そのままでいて、静かでいて、沈黙して――ルミは、紺野の手を絡み取った。もう、離れない。

 

「紺野く、」

 

 虹を見たままで、ルミは首を振るった。

 

「紺野」

「何だい」

 

 ルミが、静かに含み笑いをこぼした。

 

「好き」

「俺も好きだよ」

「大好き」

「俺も大好きだよ」

「愛してる」

「俺も、君のことを愛してるよ」

 

 沈黙、

 

「週末、予定ある?」

「無いね」

「一緒に遊ばない?」

「ルミさんとなら、喜んで」

 

 手から激痛が伝わる。強く、握り締められたらしい。

 

「……ルミって、呼んでよ」

「ああ、ごめんごめん」

 

 紺野が、嬉しそうに苦笑いする。

 そうだ、その通りだ。ルミとは彼氏彼女の関係なのだ、何を今更遠慮する必要がある。

 

「ルミ」

「うん」

「週末、デートしよう」

「……うんっ」

 

 秋の青空に、雨上がりの虹が淡く発現していた。

 それはとても、綺麗なものだった。




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

あと二話で、この話も終了です。いや本当、今回は長くなりました。
読者の皆様、本当にありがとうございます。

何度か推敲しましたが、もしかしたらミスがあるかもしれません。
その時は、ご指摘くださると嬉しいです。

ご感想、いつでもお待ちしています。一言だけでも構いません。


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アイリスの君


 目覚ましのアラームが鳴る前に、すっかり目が覚めてしまった。
 横になったままで時刻を確認してみたが、何と朝六時。冗談抜きで新記録だった。このままデートの集合場所まで立ち寄ったところで、あと四時間もの猶予がある。
 呆れる。まあ、早期覚醒は予想していた。
 何せ初デートだ。その先日ともなれば興奮するに決まっているし、その境目ともなれば猶更だ。まるで寝た気がしない。
 だが、覚えてもいない夢を見た気はする。なので一応の睡眠はとったのだろう――朝早いというのに、まるで眠くもない。

 ベッドから生き返り、アラームのスイッチを切る。そのままカーテンを開けるも、空は未だ薄暗いままだ。
 さて、これからどうしたものか。
 部屋を一瞥し、まずはテレビに火をつける。天気予報によると、今日は晴れとのことらしい。よし。
 次に目にするは――窓際に置かれた植木鉢だ。現在植えられている花はカランコエ、花言葉は「幸福を告げる」。まるで今の自分だ。

 自分は、ルミと結ばれた。間違いなく告白して、告白された。
 大学生だから冷静ぶっているものの、実際は浮かれに浮かれている。自室へ戻った際は、「あー……」と深呼吸したものだ。
 落ち着かないので、少し散歩でもしてみようか。水やりを行うにしても、いくらなんでも早すぎるし。
 よし、そうしよう。
 服を着替え、背筋をうんと伸ばし、無理矢理欠伸をひり出す。眠気なんて、既に土の中だった。

 清々しい朝を体感するか――部屋から出ようとして、テーブルの脚に小指をぶつけた。

―――

 悶え苦しみながらもご近所を散歩して、後は適当に帰宅して水やりを行った。
 そうしてあっさりと午前九時を迎え、「もうこんな時間か」とぶつくさ呟いて鞄を持つ。
 忘れ物は無い、顔も洗った、髪も変じゃない、メシだって食った、水やりもキチンと行った。思い残すことはない、いざ突撃して「今きたとこ」作戦を実行し――

「お、早く来たんだね。えらいねえー」

 街中のど真ん中で、紺野は敗北を喫した。



 

 思うと、戦車道履修者は「待つこと」が得意そうな気がする。よくよく考えてみれば、試合中における膠着状態なんて日常茶飯事なわけだし。

 最初から、分の悪い作戦だったわけか――そんな悲しみをよそに、ルミは「何処行こうかなー」と笑顔を浮かばせていた。

 ルミを見る。

 今日のスタイルは、紺色のテーラードジャケットにレディースジーンズ、そしてレースアップブーツと、完全にカジュアルに特化している。めちゃくちゃ似合っていた。

 

「ルミ」

「うん?」

 

 口元を曲げたまま、首を少し傾ける。紺野は、多少ながら恥じらいつつも、

 

「すっごい似合ってる。可愛いというか、かっこいいっていうのかな」

 

 ルミがこくりとうつむく、顔は既に赤い。

 

「あ、ありがと……」

 

 いつものルミとは違う、か細い声だった。

 その言葉を耳にして、紺野のしみったれた敗北感は霧散していく。

 

 午前十時を迎え、街が息を吹き返していく。店が次々とオープンしていき、閉ざされたシャッターがうなり声を上げた。心なしか通行人も増えていって、改めて「ああ、今日が始まったんだな」と思う。

 空は今日も、寂しいくらいに青い。見れば見る程、肌寒くなってくる気がする――そろそろ、今の花達ともお別れか。

 

「……さ、さてっ。今日は、何処へ行く?」

「あ。そうだなー、うーん」

 

 実のところ、プランなんてろくすっぽも考えていなかったりする。肝心なのは、「一緒に歩けるかどうか」だったから。

 ショッピングにしろ、映画にしろ、食事にしろ、それらは単なる付属品でしかない。ルミと一緒にいられれば、そこがデートスポットだった。

 

「じゃあ……買い物、してみる?」

 

 ルミが、人差し指を立てながら提案する。

 

 

 久々に百貨店へ足を踏み入れ、「ほー、こんな場所だっけ」と紺野が漏らす。ルミは、「ここでいつも、服とか買ってるんだ」と教えてくれた。

 全部で八階構成で、フロアは全体的に白でまとめられている。店内にはジャズが流れていて、なるだけ疲れさせないようにする配慮が行き届いていた。

 年配の女性二人組とすれ違う。他にも若い女性が一人、老夫婦がちらほら、おばさんグループが視界に映る。雰囲気から察するに、女性寄りらしかった。

 移動しよう。

 エスカレーター付近に設けられたガイド板によると、三階が婦人服売り場であるらしい。ほうほうと紺野が頷き、「あ」と閃く。

 

「ルミ、三階で買い物してみない?」

「え、いいの? 待たせちゃうかも」

「いやいや」

 

 にやりと、紺野が悪そうに笑う。ルミは「はて」と顔で告げ、

 

「! もしかして、お着替え狙ってる?」

「よくわかったね、偉いねえー」

「それくらい予想つくわよ、バカッ」

 

 頬を赤く染めながら、しかしエスカレーターへ乗っかり、

 

「しょうがないから、あんたの望みを叶えてあげる」

 

 瞬間、手をぐいっと引っ張られる。紺野の体なんてあっさりと引き寄せられ、あっという間にエスカレーター行きとなった。

 一段上で、ルミが紺野のことを見下ろしている。その表情はとても明るくて、楽しそうで、手を離しはしない。

 改めて思う。結ばれたんだなって。

 

 

 婦人服コーナーへ到達し、紺野の口元がみっともなく釣り上がる。ルミは「まったく……」と溜息をつくが、何だかんだで勇み足だった。

 やって当然だとばかりに、ルミのファッションショーが開催される。手馴れたもので、服の選び方に躊躇が無い。

 

 白のセーターと紺色のロングスカートの、女性的な組み合わせは、

 

「可愛い……」

「そ、そう? そう」

 

 シンプルな灰色のトレーナーと、デニムからもたらされる男性的な組み合わせは、

 

「やっぱり、こういうのがルミらしい気がするなあ」

「そ、そお?」

 

 シンプルに、紺色のクラシックワンピースの着心地は、

 

「ルミ、モデルやれるんじゃない?」

「いやいや、私は戦車道の女だから」

「そう? ああ、この人が俺の彼女なんだもんなぁ」

「ば、ばかっ」

 

 この後も、紺野はルミのモデルっぷりを見せつけられていく。

 清楚にまとめたり、活発系で勝負したり、時には女の子らしさを特化させて――結果として、男性的な格好がベストだと直感した。ルミは、真っ直ぐなファッションこそが丁度良いのかもしれない。

 なので、紺野は言った。「こんな格好良い女性と結ばれて、俺は幸せだ」と。

 そして、ルミは言った。「そんな風に見てくれるなんて、まったくもう」と。

 その服を買うことになったが、先手必勝とばかりに紺野が財布を取り出す。ルミは「え」と声を漏らしたが、すぐに意図を察したのだろう。紺野の手首を掴み、「だめっ、私が出す」と言って譲らない。

 紺野は「まあまあまあ」と抵抗するが、ルミは「だめだめだめ」と主張し続ける。店員は、そんな争いを微笑ましく見守っていた。

 ――最終的に、半々出すということで落ち着いた。その時、ルミからは、

 

「……ありがとう。いつか、借りは返すからね」

 

 面白くなさそうに唇を尖らせて、拗ねたように目を逸らして、手を軽く握ってくれていた。

 

「さて」

 

 手提げ袋を片手に、ルミが悪そうに微笑む。その目から察するに、何かロクでもないことを考え付いたに違いない。

 

「じゃ、紺野のファッションショーも開催しますか」

 

 百貨店から逃げ出そうとしたが、腕までがっしりと掴まれた。無駄な足掻きだった。

 

「本気?」

「ほんき」

 

 ――その後は、また誰が出すか出さないかで揉めに揉め、最終的には割りカンで落ち着いた。そんな仲である。

 

―――

 

 気づけばもう昼間で、早速とばかりに腹が鳴った。何処で食うかなと街中を覗い、

 

「紺野」

「はい?」

 

 ルミの鞄から、青迷彩の包みにくるまれた二段箱が、唐突に飛び出してきた。

 それが何なのか、何を意味するのか、最初は把握出来なかった――「あ」と間抜けな声が出て、ルミが「じゃん」と自慢げに口にする。

 ルミの手作り弁当、それもスペシャルバージョンだった。

 

 街中のベンチへ座り込み、早速とばかりに包みを解いていく。太ももの上に弁当箱を置いているわけだが、ずっしりとした重量感がよく伝わってきた。

 これは中身によるものか、それともルミのお手製だからか。たぶん両方だろう――そして堂々と、二段重ねの弁当箱がその姿を現す。「おお」と感嘆の声が漏れる。

 

「さ、どうぞ」

 

 ルミに促され、蓋を開ける。上段はふりかけつきの白米がぎっしり、下段は卵焼きにハンバーグ、ミニトマトにししとうの肉詰め、おまけにクラッカーと、徹底的な手作り弁当だった。

 備え付けの箸を手にとり、静かに深呼吸する。ルミの顔をちらりと見るが、「食べて」と微笑んでくれた。

 よし。

 

「いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

 

 過剰なまでの丁寧な手つきで、箸でししとうの肉詰めをつまみ取る。

 料理に関してはド素人だが、まるで失敗らしい失敗が見当たらない。食欲を誘う焦げ目が、濃いめの緑色が、紺野の食欲を沸き立たせていく。

 シンプルに総括すると、「絶対に美味そう」だった。

 

 肉詰めの一部を噛みちぎり、何度も何度も咀嚼する。ルミが、表情だけで「どう?」と聞いてきたが、そんなもの決まっている。

 

「うまい」

 

 ルミの顔が、電球のように光り出した。

 

「そ、そう? 本当?」

「うまいうまい。将来、いいお嫁さんになるよ」

 

 後はもう、勝手に手だの口だのが動く。ししとうの肉詰めを飲み込み、お次はミニトマトへ目をつけた。

 ルミも一区切りついたのか、弁当箱の蓋を開け、卵焼きを箸で摘まむ。

 

「うーん、うまい」

「うん。毎日、これを食べられたら幸せだろうなあ」

「あ、ホント?」

 

 紺野が、きっぱりと頷く。

 

「いいなあ、羨ましいなあ、ルミの彼氏が」

「ばーか」

 

 ルミがけらけらと笑う。卵焼きを飲み込み、ししとうの肉詰めを回収した。

 

「……紺野」

「何?」

「紺野には、感謝してる」

 

 何かしたっけ。上の空で思考していると、

 

「あなたと出会わなかったら、料理なんてできないままだったと思う」

「大袈裟だよ。いずれは、料理に興味を持っていたさ」

 

 紺野が気楽そうに言い、気安く笑う。

 けれどルミは、何処か真面目そうに微笑して、

 

「それはないよ」

「そう?」

 

 ルミが、断言するように首を振った。

 

「こんなにも、私のことを『女性』として見てくれたのは、紺野が初めて」

 

 ルミがししとうの肉詰めを頬張り、「うまいな」と飲み込んだ。

 

「これが、最初で最後だと思う。私を『見て』くれたのは、紺野だけ」

 

 紺野の顔を見て、にこりと笑った。

 息が漏れた。

 

「紺野」

「う、うん」

「……ダメだよ? 別れたりなんかしたら」

 

 そんなの当然だった、そんなの当たり前だった。ルミを手離すなんてことは、自分の存在意義を破壊するにも等しい。

 ――それを証明する為に、

 

「あっ」

 

 箸を左手に持ち、ルミの肩を抱き寄せた。最初は小さく震えていたが、やがては受け入れるように静かとなる。

 どうしようもないくらい温かかった、こんな自分を見て笑顔を作ってくれた。自分の顔なんて、真っ赤になっていたと思う。

 後はそのまま、小さくキスをした。

 ――何事も無かったかのように、ルミが箸で、紺野の弁当を指す。

 

「――さ、食べて食べて」

「ああ」

 

 再び、食事シーンに移行する。腹が減って仕方が無かったのか、心地良い気まずさに捕らわれていたからか、しばらくは何も物を言わなかった。

 卵焼き、白米、ハンバーグ、ししとうの肉詰め、再び卵焼き――時の経過で、少しばかり醒めていった気がする。頭の中から、共通の話題を必死こいて発掘して、

 

「そういえばルミはさ」

「うん?」

「どうして、戦車道を歩み始めたの?」

 

 箸の動きを止め、ルミが「あー」と唸る。そして、回想するように「んー」と声を漏らし続けた。

 

「……カッコ良かったから、なんだよね」

 

 眉をハの字に、照れくさく言葉を発した。

 最初は「へえ」と思ったが、同時に「ルミらしいな」とも思った。

 

「なんだろ、子供の頃からああいうの好きだったんだよね」

「わかるわかる」

「それで、いつか絶対戦車道やるぞーって張り切ったわけ」

 

 何も口にすることなく、沈黙の同意を示した。

 

「で、中高ともども戦車道を歩み続けたよ。特に高校の頃は大変でねー、もう戦車が足りないの何の」

 

 明るいトーンを保ったまま、ルミがハンバーグを噛み砕いていく。

 

「無茶な走法もこなしたっけかなー、片輪走りってヤツ。あの頃は楽しかった、若かった」

 

 ルミの箸の手が止まる。何処か遠い目で空を眺めていて、その先には「あの頃」が映し出されているのだろう。

 今のルミに、触れることは出来ない。たぶん、すり抜けてしまうだろうから。

 

「うん、本当、若かったなーあの頃は……」

 

 ルミが両目をつぶる、上映が終了する。

 ――風が、静かに吹く。肌寒い気がした。

 

「――けどね」

 

 ゆっくりと、目を開ける。

 

「私は、今の方が好きだよ」

 

 今のルミの瞳には、紺野の顔が反照されていた。

 

「あなたがいる今の方が、私は好き」

 

 言葉を見失う。

 過去も含めて、今が好きだと言ってくれたルミに対して、紺野は静かに頷いた。

 

「紺野」

「……うん」

「私ね、戦車道のプロになろうと思うんだ」

「好きで好きでしょうがないからかい?」

「うん」

 

 やっぱりか。心が通じ合ったようで、何だか嬉しい気分になる。

 

「だからさ」

「うん」

「……応援してくれると、嬉しいかなって」

 

 ああ、

 そんなの、何を成すよりも最優先事項に決まっている。

 

「勿論する。だって俺は、ルミ推しだからね」

 

 うまく笑えたと思う、よく言えたと思う。

 だからか、ルミは声に出して笑った、笑ってくれた、笑いかけてくれた。

 残り少なくなった弁当の中身を、お腹の中に入れていく。食欲も、心の奥底も、満たされていく。

 

「紺野」

「何?」

「あんたってさ」

 

 ルミの手が、紺野の頬に添えられる。

 

「ほんと、心優しい人だね」

 

 ああ――

 生きていて、本当に良かった。

 

―――

 

 その後は、適当に街中を歩んだりした。新しい飲食店を発見したり、横切る戦車を前にして「おっ、パーシングじゃん」とルミがコメントしたり、アズミとメグミの馴れ初めについても語ってくれた。

 そして、まったくの偶然で花屋の前を通りすがった。紺野の足がぴたりと止まり、ルミが「寄ってく?」と誘ってくれた。

 同意するように、紺野は頷いた。

 

 

 花屋の中は広すぎず狭すぎず、白をテーマとしているようだった。色とりどりの花が鉢植えで販売されていて、種の種類もかなり豊富だ。「全種類あるのかな?」と、ルミがコメントするほどに。

 息をするたびに、慣れ親しんだ香りが感覚を刺激する。ルミも、浸るように両目をつむっていた。

 

「俺さ」

「うん?」

「……まあ、その、花屋を開くのが夢なんだよね、うん」

 

 ルミが「ああ」と声を出して、

 

「紺野らしいね」

「なー、捻りがないよなー」

 

 たははと、力無く苦笑する。けれどもルミは、見守るように紺野を見つめたままだ。

 

「ストレート、いいじゃない。大好きなんだね、花」

「ああ、好きだよ」

 

 そして、

 

「ルミの次に好きだよ」

 

 ルミの口元が、への字に曲がる。周囲に客がいなくて本当に良かった。

 

「馬鹿なことを言わないのっ、たく……」

 

 拗ねられてしまった。ルミは、あくまで不機嫌そうな顔でリュウキンカの花を眺めている。

 

「ほんと、困ったファンね」

「本当にね」

「そういう言い回し、大人っぽいとは思わないからね」

「ごめんごめん」

 

 どうしようかなあと店を一瞥した時、紺野の首が、視線が、意識が、「それ」に集中した。

 そういえば、あの花の花言葉は――

 

「あ、ちょっと種買ってくる」

「うん? うん」

 

 紺野は、いつだってルミのことが好きだった。本気で愛していた。

 ジャーマンアイリスの種を目にした時、ある一種の閃きが紺野に下った。その時の紺野ときたら、「俺らしい発想だな」と、たまらなくおかしくなったものだ。

 破顔をせき止めるよう、自分の頬をぴしゃりと叩く。もう少しで本心が告げられると思うと、みっともない顔にもなってしまう。

 

 さて、買おう。そして、渡そう――自分の一番の夢を、ルミに伝える為に。

 

 

 花屋から出てみると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 やることをやり終えてみれば、何だか体の力が抜けていく。それはルミも同じだったらしく、両腕を上げて背筋を伸ばしていた。

 ――初デートだからこそ、色々なことがあった。これから先も、そうなるのだろう。

 受け入れるように、口元を曲げる。

 

「じゃあ、そろそろ帰る?」

 

 相変わらず、ルミは清々しい笑みを浮かばせている。紺野はもちろん、ルミもデートが楽しかったに違いない。

 

「あ、待って」

 

 だからこそ、ジャーマンアイリスの種袋を差し出す。

 ルミが「ん?」と首を傾げ、

 

「あれ、プレゼントかな?」

「それもあるんだけど」

 

 もう我慢できなかった、どっと笑いが出た。ルミは「え?」と、可哀想な人を見る目つきになる。

 

「ああごめんごめん、俺は大丈夫だから。――その、ジャーマンアイリスっていう花の種なんだけどさ、花言葉で検索をかけて欲しい」

 

 ルミが、どれどれと携帯を取り出し、操作する。

 

「それで……『良かったら』、この種を受け取って欲しい」

 

 ルミの指が動くたびに、紺野の心臓が締め付けられる。けれど不快ではなくて、むしろ高揚でしかなくて、ここまで来たんだなと涙が出そうになって――

 

「……はっ……」

 

 ルミが、声にならない声を発した。表情が失われていった。

 恐る恐る、紺野へ視線を向けていって、その瞳は夕暮れの海のように揺れていて、

 

「ねえ」

「ん?」

「あなたって、本当に花好きなのね」

「そうだね」

 

 我ながらキザだと思う。

 けれど、それの何が悪い。想いが伝われば、愛が届けば、やったもの勝ちじゃないか。

 

「でも、花より大切な存在が、俺にはいるよ」

 

 その時、ルミがゆっくりと、首を横に振った。

 

「それは撤回して」

「え」

 

 ルミが、紺野へ一歩踏み出す。

 

「私は、花が好きな紺野が好き」

 

 ルミが、紺野へ腕を伸ばす。

 

「私も、花が好き」

 

 ルミが、ジャーマンアイリスの種袋をそっと掴む。

 

「だから、いいの。『花と同じぐらい好き』で、良いの」

 

 ルミが、ジャーマンアイリスの種袋を、胸に当てた。まるで祈るように。

 

「――いいよ」

 

 ルミの瞳から、

 

「卒業したら、私と――」

 

 ルミを愛して、ルミから愛されて、ルミと結ばれて――

 それは間違いなく、「素晴らしい結婚」となるに違いなかった。

 

―――

 

 アズミが戦車道のプロになって、三年くらいが経過した。年を取ると、月日の流れすら適当に受け入れられるようになる。

 だからこの先、数日が経過しようとも数か月が経とうとも3007日間くらい過ぎ去っても、「ああ、もうそんな時間か」と思うのだろう。

 

 それよりも重要なのは、つかの間の休息だ。

 プロになると、これがもう本当に忙しい。試合はもちろん、地元ファンとの交流にインタビューと――ここまでは良い、前もって把握はしていた。

 ところが、自分は容姿端麗だったらしい。なので、「戦車道の看板」として一に撮影会、二に撮影会、三に試合をして四に撮影会と、同じプロである、ルミとメグミよりもクソ忙しいのだった。

 

 だからこそ、休息が恋しくて恋しくて仕方がない。時折、何でプロになったんだっけ? とか世迷い事を抜かすこともあるが、そういう時は「彼」が支えてくれた。

 彼とは、もうじき結婚する予定だ――なので、「先輩」であるルミと会い、色々とご享受をいただく。

 

 住所をメモった携帯を頼りに、アズミはふらふらと街中を歩んでいく。今日は休日ということで、随分と人が多い。

 家族連れとすれ違って、アズミはにこりと笑う。そろそろ、私もああなるのか。

 若いカップルへ道を譲って、アズミは島田愛里寿のことを思い起こす。最近は同年代のボーイフレンドが出来たらしく、よく画像付きでメールが送信されるのだ――その世界の中の愛里寿は、とても幸せそうに笑っていることが多い。少しばかり寂しい。

 

 もう少しで到達というところで、街中の花壇が目に入る。「あ」とメグミのことを思い出す。

 メグミは、ヒマさえあれば虹の花壇の手入れを手伝っている。相変わらず赤い花が好きらしくて、今年はマツモトセンノウに夢中だとか。

 ここまでならよくある話しなのだが、最近になって男友達が出来たらしい。その男友達とは新人のサークルメンバーで、メグミと同じく赤い花が好きだとかどうとか。その縁もあって、色々とやりとりを交わしているらしいが――これ以上の詮索は余計だろう。「ふたりの秘密」というやつだ。

 

 さて、目的地が見えてきた。せっかく花屋へ寄るのだし、アドバイス料金として種でも買ってみよう。

 よし決まり。アズミは、上機嫌になって花屋へ入店する。

 

「いらっしゃ――ああ、アズミ」

 

 花屋の店主である紺野が、伊達眼鏡装備でアズミに声をかける。心の中で、「どんだけ好きなのよー」と苦笑してしまった。

 アズミが「こんにちは」と、手で挨拶をする。奥から「ああ、来たんだ」と、聞き覚えのありまくる声が聞こえてきた。

 ――ルミもプロだろうに。お疲れ様。

 

「相変わらずラブラブだそうで」

「ああ。この前なんか――」

「ちょっと、アズミに余計なことを吹きこんじゃ駄目ッ!」

 

 不機嫌そうな顔とともに、エプロン姿のルミがカウンターから寄ってきた。

 銀色の指輪が、ちらりと目につく。一番先に結婚しようと思ったんだけどなあ、まあいいか。

 

「ったく――で、何か用だっけ?」

「ああ、うん。メールで伝えた通り、彼とさ……」

 

 ルミと紺野が互いに見やり、にこりと笑う。これから先、為になるんだかならないんだかのアドバイスを聞かされるのだろう。

 でも、恋なんてそんなものだと思う。なかなか思い通りにいかなくて、もどかしくて、長くて、時にはアドリブも必要になって――それでも、やめられないのだ。だって好きなんだから、どうしようもなく愛しているのだから。

 うん、頑張ろう。この想いを、必ず咲かせてみせよう。

 

 さて、アドバイスを聞く前に――

 この店のおすすめは、ロベリアとアイリスらしい。どっちの種を買おうか。

 

 




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

これにて、ルミの物語はおしまいです。短編ですが、長かった気がします。
この話を書くのに、一から園芸の勉強をしました。特に「水やりのやり方」と「水やりの時間」は重要で、何度も見直しました。

ルミさんのお陰で、自分は花について学べました。
また、メタルな恋愛が書けました。

少しお休みをいただいてから、また何か書いてみようかなと考えています。
その時は、また読んでいただければ嬉しいです。

ご指摘、ご感想、いつでもお待ちしています。
それでは、最後に、

ガルパンはいいぞ。
ルミは魅力的だぞ。


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