新世紀エヴァンゲリオン 連生 (ちゃちゃ2580)
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第壱話 使徒襲来
1.Angel attack.


 あまりに長い夢を見てきた。

 あまりに酷い夢を見てきた。

 

 それはまるで異世界で。

 それはまるで未来で。

 それはまるで夢物語で。

 

 人という生き物が、未知の侵略者と戦う。

 そんな良く出来た御伽噺だった。

 

 だけど幾度も約束の時を経て、わたしは気付く。

 

――これは決して夢物語ではないと。

 

 わたしはそれを主張した。

 幼心の導くままに、自分がヒーローにでもなった気分で、周囲の人へ必死に警鐘を鳴らした。

 

 しかしあまりに脆弱。

 御伽噺を現実にするには、子供と言う立場は様々なモノが足りていない。どれだけ難しい言葉を並べても、どれだけそれっぽい理屈を組み立てても、誰も信用してくれなくちゃ意味が無い。

 

 気味が悪いだけ。

 そしてそんな気味の悪い子供に、他人が好意を抱く筈も無い。

 

 抱く感情はただ一つ。

 

『キモチワルイ』

 

 それだけだ。

 

 だからわたしが虐げられたのは必然。

 己が招いた愚行の結果。

 

 受ける視線が奇異なものを見るソレになり。

 掛けられる言葉が異端児を労わるものになり。

 与えられた環境が更に悪化していく。

 

 これは本当に夢物語なのか?

 いや、違う。

 

 違う筈だ。

 

 

 御伽噺の世界への招待状を受け取ったわたしは、居心地の悪い日常に手を振った。

 

 

 セカンドインパクト。

 それは二〇億もの人間を無に還し、後のヴァレンタイン休戦臨時条約が締結されるまでの半年もの間、世界規模の大抗争を引き起こしました。その実体は隕石の落下だと言われ、これによって地球の地軸がずれてしまい、環境面においても大きな変化を生み出したとされます。簡単な例を出せば、四季折々の風景が美しいとされた先進国の日本が、首都を失い、常夏の国になってしまった事ですね。

 

 わたしが生まれる一年前のお話です。

 それから一五年が経ち、わたしは今年一四歳になりました。

 

 セカンドインパクトのお話は耳にたこが出来るくらい聞かされてきましたが、わたしからすれば『常夏の国日本』というのが常識です。つまり教科書で見た以上の事は、何も知らない世代です。今日も今日とて、暑くてかったるい日本が当たり前。遠い昔に無くなってしまった『冬』という季節に憧れを持つのです。

 とはいえ、この二一世紀という時代で、何処もかしこもくそ暑いだなんて、流石にちょっと有り得ない。ナンセンスです。過去の様々な偉人達が積み上げてきた文明の力というものは、セカンドインパクト後の荒廃した世界でもしっかりと活かされています。

 当然ですね。在るものを使わない筈が無いのです。世間は節電節電ってうっせーけども、普通は公共機関がソレを使わない訳が無いのです。

 

 そんな訳でわたしは現在、冷房が利いた電車に乗っています。

 田舎では公共機関のくせに冷房を使わなかったり、ガタンゴトンと揺れて、遅いばかりのクソッたれな文明機器ですが、流石新都市と謳われる第三新東京市へ向かうソレ。冷房が利いていれば、揺れも少ない。改めて主張しましょう。流石です。

 車内は混雑していて、立っている人はおろか、座っているわたしでさえ身を縮こまらせているってのに、一体どれくらい効きの良い冷房なのでしょう。汗を掻くどころか、むしろ半袖なら寒いんじゃないでしょうか? いや、もしかするとわたしが冷房に慣れてないだけですかね?

 

「……お嬢ちゃん」

 

 わたしが物珍しい風に首だけで辺りを見ていれば、隣に座る方が声を掛けてきます。不意を突いた声に、僅かに肩を跳ねさせつつも、わたしはそちらへ振り向きました。

 白髪でアフロが作れているくらいの老婆が目に留まります。もしも目の前に立っているのなら、悪逆非道だと言われているわたしでも、席を代わってあげなきゃいけないと思うぐらいのお年頃の方です。彼女はわたしを品定めでもするかのように見てきていました。

 

「この暑い日に、長袖かい? 日焼けでも気にしてるのかえ」

 

 老婆はわたしの左腕へ視線を向けつつ、そう問い掛けてきます。

 膝の上で学生鞄を抱える風にして組んだ腕。老婆の指摘の通り、確かに長袖です。服自体は紺色のセーラー服ですが、何の飾り気は無いながらも、常夏の国、日本では珍しい長袖といえば、流石に制服だとは見えなかったのでしょう。お洒落着として着るにしては地味だとも思えますが……。

 

 わたしはこくりと頷いて返しました。

 言葉は要らないでしょう。

 

 すると老婆は満足した様子で、「そうかえそうかえ」と二度頷き、前へ向き直ります。

 その様子を見届け、わたしも老婆に倣うように前へ向き直りました。

 

 別に日焼けを気にしてる訳じゃないんだけどね。

 

 なんて心の中で呟くものの、赤の他人である老婆に聞こえる筈もありません。

 

 わたしは辺りの観察に戻ります。

 とはいえ観察自体はもう終えていました。田舎から出てきたわたしにとって、ワイシャツ姿の男性だったり、痴漢を気にした風に背後を警戒する女性の姿が珍しいだけです。ずっと見ていれば、都会の空気に馴染みを覚えられるんじゃないかと思っているだけです。

 まあ、別にそんな仰々しい理由を態々頭で考えている訳ではないのですが。

 

 暇潰しってやつです。

 わたしは『彼』と違ってS―DATなんて持っちゃいませんから、暇潰しアイテムが無いだけです。

 

 田舎なら窓が開いてるし、混雑なんて滅多にしないので、外の景色を楽しみ放題なんですが……ぬかりました。

 

 そんな心地なのです。

 

 そしてわたしが暇潰しの人間観察に飽きてきた頃、二度目になる不意を突いた声が聞こえてきました。

 

『お客様にお報せします。先程、一二時三〇分頃。第三新東京市より非常事態宣言が発令されました。法令に基づき、当車両は次の駅にて停車致します。車内のお客様は職員の指示に従い、速やかな避難をして頂きます様、お願い申し上げます』

 

 それは緊急警報を報せるアナウンスでした。

 

 思わずハッとします。視線を近くにある扉の上へと向けてみれば、先程までは企業のコマーシャルが流れていた液晶が真っ黒に染まっていました。そこへ赤い文字で『非常事態宣言発令』と流れています。

 

 どう言う事だ。

 マジかよ。

 会社間に合わねえ。

 

 なんて危機感の無いざわめきが起こり、知人と一緒な風の人達がこぞって焦った風な会話を始めました。ある人はスマートフォンを弄って状況を確かめたり、ある人は耳からイヤホンをとって茫然としていたり……。

 不意に先程の老婆を見てみれば、訳も分かっていないような姿で辺りを見回していました。

 

 ふと目が合い、わたしは仕方なく唇を開きます。

 

「駅員さんが案内してくれる筈ですよ」

「……そうですか。ご親切に」

 

 わたしの言葉に老婆は嬉しそうに皺だらけの顔を破顔させ、お辞儀をしてきます。首だけで会釈して返すと、肩越しに振り返って視線を窓の外へ。丁度電車が駅のプラットホームに入って、ゆっくりと減速していく最中でした。その様子を確認すれば、再度前へ向き直ります。

 

 ついにこの日が来た……。

 

 わたしはそんな心地で自分の左腕を右手で強く掴み、ふうと息を吐きました。

 

 

 駅へ着くと、電車の扉が開きました。

 未だ危機感が無いらしい群集は、一様に怪訝な表情を浮かべながら出て行きます。ぞろぞろという形容が似合う、あまり機敏ではない理性溢れる姿です。此処で我先にと言う感情を持った様子の人がいない事は、危機感が無い事を嘆けば良いのか、日本人の理性的な育ちを誇れば良いのか、判りかねます。

 まあ、パニックにならないのは良い事なのでしょうね。多分。

 

 但しそれは民間人だけの話。

 わたしが車外へ出てみれば、駅員達は大慌てのご様子でした。大声で避難経路を促す声が凄く耳障りです。「落ち着いて」との声に、お前が一番落ち着けと思うのは、わたしが捻くれている表れなんでしょうけども……。

 

 おそらく第三新東京市に入るか入らないかの場所にある駅舎。その装いは残念ながらわたしが密かに期待していた都会っぽさが無く、田舎の無人駅よりは少しばかりマシになった程度でした。二階建ての二階がプラットホームで、天井は吹き抜け。当然ながら冷房は無し。でもって一階へ降りる為の経路も、エスカレーターではなく階段でした。

 都会は階段が少なく、殆んどの場所がバリアフリーだと聞いていたのですが……嘘っぱちですね。わたしに嘘を教えた誰か、くたばって下さい。

 

 そうして駅舎の外へ。

 うだるような暑さに加え、目が眩む程に眩しい陽射しが照りつけていました。わたしは不意に陽炎を見て、思わず目を細めます。早くも長袖の下に汗が滲んでいる気もして、気だるくも感じました。

 鞄を持たない右手を額の上にかざして、わたしは空を一瞥。

 

 ああ、雲ひとつ無い青空が憎たらしい。

 なんで冬に固定されなかったんだろう、この国は。寒いなら着込めば良いけど、暑いのなんてどうしようもないじゃない。ばーかばーか。

 

 胸の内に宿る悪態を言葉にこそ出さず、わたしは溜め息を吐きました。……ああ、暑い。

 

 とはいえ愚痴っていても仕方ないので、さっさと目的地に行きましょう。

 その為に……と、わたしは右手で陰りを作ったままの体勢で辺りを見渡します。職員が避難を促している姿がちらほら見えますが、なんだかんだ人が多いと言えど、昨今の人口の減少の所為か、誘導する人員は足りていないようですね。線路に沿うようにして流れていく人波に対し、わたしは職員の目を盗んで、真逆の方向へと向かいました。

 

「お嬢ちゃん?」

 

 そんなわたしの背に掛けられる言葉。

 振り向けば先程の老婆が居て、足を止めてこちらを臨んでいました。

 

 わたしは顎で人波が流れている方向を指して、早く行けと伝えます。不躾だとは重々承知ですが、声を出すと職員に気付かれるでしょう。もたもたしていたくもないし、結局わたしは口を開かぬままに手近なビルの路地へと駆けて行きました。

 

 

 幾つかの路地を抜け、わたしは()()()()()初めて見る風景を駆けて行きます。

 田舎ではあまり見ないコンクリート製の建物の隙間を縫い、稀に避難中の人波を見つけるとその波を避け、やがてとある道路へと至ります。

 

 此処らにはコンクリート製のビルはもう無く、住宅街が広がっていました。そこにあるのも何の変哲も無い道路です。目新しいものは無いのですが、一角にはひとつの『公衆電話』。

 

 あった……。

 

 わたしはそれを見た時、不意に既視感を覚えます。……可笑しな話です。此処へ来るのは生まれて初めてで、公衆電話なんてありふれたものなのに。ですが、この場所、この時間、あの公衆電話。わたしの中で繋がるものがあるのです。

 

 ごくりと生唾を飲み、わたしは歩を進めました。

 非常事態宣言の所為で辺りは閑散としており、人気は皆無。聞こえてくるのは煩いセミの鳴き声ばかり。その音を聞きながら、おそるおそる進みます。別に誰に見咎められる筈が無い事は分かっているのですが……何となく。

 

 ゆっくりと公衆電話へ辿り着き、そこで取り上げる緑色の受話器。

 耳に当ててみれば、当然のように非常事態宣言の最中なので使用出来ないと言う旨が返って来ます。ただでさえスマートフォン等の通信機器の普及によって、数を減らしている公衆電話なのに、こんな非常時でも使えないとなると、いよいよ本当にお役御免の時代は近いかもしれませんね。

 

 わたしはそんな風に思いました。

 

 いや、単なる現実逃避ですけどね? この状況で公衆電話(これ)が使えない事は既に知っていましたし、その()()が間違いではない事も、此処に至っては否定する方が難しいですから。

 

 公衆電話に受話器を戻し、わたしはふうと息を吐きます。

 右手で陰りを作って、今一度空を見上げました。

 

 それにしても暑い……。

 

 本当、憎たらしいくらいに清々しい青空です。

 昼下がりのソレは、雲に隠れてでもいないと凶暴すぎるったらありゃしません。果たして今日の気温は何度くらいなのでしょうか。三〇度は超えているように思うのですが……。こんな事ならうちわのひとつでも持ってくるべきでした。

 

 わたしは今一度ふうと息を吐き、公衆電話の前で膝を折り、それに出来る限り心地よい形で凭れ掛かりました。腕を覆う長袖を見詰め、いよいよ人気が無いんだし、その時までは袖口を捲っていても良いのではないかと自問自答をします。

 別に誰に見られたって気にする事も無いし……。ただ、不意に見られた時、やっぱ気持ち悪いんじゃないかと思ったりするのです。

 

 と、少し現実逃避が過ぎますね。わたしは首を横に振ります。

 

「……あれ?」

 

 そこで不意に気がつきました。

 耳障りだった筈の音が聞こえなくなっていたのです。

 

 ミンミンゼミと呼ばれるセミの鳴き声。気がつけば何処かしこで鳴いていた筈の、田舎のそれと変わらぬ声が、まるで此処は元から静寂に包まれていたとでもように、根こそぎ消えていました。

 思わずわたしは立ち上がって、道路のど真ん中まで歩いていきます。ゆっくりと辺りを見渡してみますが、やはり何の音も聞こえません。

 

 しかし、すぐに次の音が聞こえてきました。

 

 ずんとした衝撃の音が始めに聞こえ、次いでその音とは全く別の重さがある音を耳にします。ハッとして聞こえてきたその方角を臨めば、わたしは固唾を飲んで立ち尽くしました。

 

 住宅街の外れに見える山。音はその影から聞こえてきています。

 更に音が大きくなるにつれ、山の陰から物々しい雰囲気までもを感じました。まるで触発されるかのように、わたしの胸がドクンドクンと大きな音を奏で、胃に鋭い痛みを覚えます。喉を締め付けられるような感覚も感じてくれば、徐々に呼吸が浅く、激しくなってきます。

 それでもわたしは、鞄を持たない右手で胸を押さえ、双眸を出来る限り見開きながら山の峰へ視線を送り続けました。

 やがてその陰から、わたしが『UN重戦闘機』と記憶している名前の垂直離着陸型の戦闘機が出てきて、音の正体を直に認めます。

 それを確認すれば、思わずわたしの膝が笑うのです。

 

 尚も聞こえ続ける重い音……いえ、此処に至っては目視も出来ますし、それがジェットエンジンの音だとは分かる事でしょう。先に聞こえた重みのある音は、それが搭載しているロケット弾の着弾音でしょうか。いや、どうだろう。それにしては地面まで揺れたような……。

 

 音に耳を傾けながら、わたしは今に胃から逆流してきそうになる衝動を、背を丸めて堪えます。

 しかし縮こまらせた体勢とは逆に、視線は尚も山の峰へ。

 

 何より最後の確信が必要だと、見逃す訳にはいかないと、わたしはその方向を見詰め続けました。

 

 ついにわたしの視界が()()を捉えます。

 そしてソレは、わたしが『記憶』している姿と寸分違わぬものでした。

 

 ああ、そうだ。

 さっきの一番最初に感じた衝撃は、ソレの足音だったのかもしれない。

 

 

 現れたのは烏色の巨人。

 使徒と呼ぶ事になる御伽噺の侵略者でした。




どうも、ちゃちゃです。
この作品、前に投稿していたのですが、諸事情により第一話から書き直す事に。

とは言え展開は殆んど『別物』だと思います。
前作と同じ設定も勿論ありますが、一応……。

本編中で描写出来ない解説等は章末に纏めております。
お目汚し失礼しました。


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2.Angel attack.

 わたしは茫然と巨人に臨みます。

 まるで魅了でもされたかのように身体が動かなくなり、その体躯を、挙動を、観察していました。

 

 身体自体はカーボンのような烏色。肉質は……どうなんでしょう。一見すると柔らかそうですが、戦闘機の攻撃を食らっても傷ひとつ付いた様子は見られません。つまり実際は随分と硬そうです。しかしあれが『ATフィールド』によるものなのか、はたまた純粋な硬さなのかについては、残念ながら肉眼では判りかねます。

 また、まるで装甲のような白いパーツが肩、腰、胸などに付いています。これは一見すると浮き出た骨のように見えますが、これまた肉眼では何なのか分かりません。

 頭部のようなものはありません。首自体が無く、形としても首無しの人型という姿です。その代わりなのかは判りませんが、胸より少し上の辺りに啄木鳥(きつつき)を模したような仮面が付いています。それは正しく模っているだけのようなもので、生気は感じられません。ですが、がらんどうな双眸はちゃんと視覚の機能を有しているようで、時折何かを探すような素振りを見せます。その様子がただただ印象的でした。

 そして、最も特徴的なのは胸の装甲に守られるようにしてある赤い宝玉のようなものです。見た目にも分かり易い『コア』ですね。アレを砕くとあの巨人は絶命する筈です。

 

 あの巨人の識別名称は『使徒』。

 ちゃちな呼び方をするのならば、UMAと呼ばれる生命体でしょう。

 

 そして今尚、戦闘機の攻撃をものともせずに悠然と歩を進める『彼』自身は三番目の使徒。名前は『サキエル』。わたしはそう()()()()()()()

 

 

 うん。もう疑う余地も無い。

 わたしは間違っていなかった。

 

 一度目を瞑り、ふうと息を吐きます。

 未知の生物を拝んだ所為なのか、本能的に強張る身体と、ドクンドクンと騒ぎ立てる胸の鼓動。それを自覚したわたしは、自分自身に落ち着けと何度も言い聞かせます。鞄を持った左手と、胸に添えた右手をグッと握り締め、深呼吸と共に力を抜きました。

 

「……ふう」

 

 思わず言葉までも漏らし、ゆっくりと目を開きます。

 視界の先では第三使徒が戦闘機の一機をジッと見据え、「これは何だ?」とでも言いたげに小首を傾げていました。

 そろそろ状況が動きそうです。

 

 此処に居ると危ないかも……。

 公衆電話の前なら安全だったっけ?

 

 わたしはその場で軽く足踏みして、震える足に動けと命じます。そしてゆっくりと一歩踏み出し、公衆電話の近くまで歩を進め、膝を折りました。その場で蹲って顔を伏せ、()()()()()()

 

 ドクン。

 ドクン。

 

 胸の内で高鳴る鼓動。

 何度落ち着けと言っても、全然静まる様子はありません。

 

 しかしこれは本当に本能的な恐怖なのか、はたまたこれから自らに訪れる激動の一年が待ち遠しいのか、それとも――。

 

 

 ほんの少しの間。

 きっと本当に僅かな時間しか過ぎていない事でしょう。

 

 視界で捉えてはいませんでしたが、煩わしく思ったのか、はたまた先程の様子の通り単純な興味を示したのか、使徒の手によって戦闘機の一機が撃墜されたようでした。風を切るような音と、幾つもの爆発音が重なったような轟音が近付いてきて、その音を聞くわたしの身体がただただ本能的に強張ります。

 そしてわたしが自分の身体をギュッと抱き締めたその時、締めと言わんばかりのとんでもない爆発音と、衝撃波が襲い掛かってきました。

 

 不意に身体に掛かる重力が無くなったように感じて、目を開きます。何時の間にか身体が僅かに宙を舞っていて、蹲った状態から真横に弾き飛ばされるように転がされました。

 

 視界の先では、やはり爆炎。

 しかしそれよりも手前に――アルピーヌ・ルノー。

 

 青いスポーツカーはまるでわたしを庇うように滑り込んできていました。地べたに尻餅をついたわたしは、きっとその車が庇ってくれていなければ丸焦げになっていた事でしょう。

 そのルノーの助手席の扉が、バンと大きな音を立てて開かれました。中からこちらを臨んでくるのは、長い黒髪とサングラスが特徴的な女性。

 

「ごめーん! お待たせ」

 

 そしてその女性は、こんな非常時だというのに、底抜けに明るく感じるような声を上げてくるのです。おまけに口はにっこりと笑っていて、非常識にさえ思えてしまう程でした。

 爆炎を背に、戦場を目前にしているというのに、澄んだその声はきちんとわたしに届きます。他のものが有象無象に見えてしまう程、彼女に目を奪われました。

 

 その声、その顔……どれもがわたしにとっては()()()()

 

 思わず喉が震え、四肢から力が抜けたように感じます。唖然と開いたままの口が熱気の籠もった空気を浅く吸い込み、その焦げ臭さがなんと息苦しく感じる事でしょうか。

 わたしは目をパチパチと瞬かせ、右手で胸を押さえます。落ち着け、息を整えろと自らに言い聞かせました。

 

 と、そんなわたしを見ていた女性が小首を傾げます。そして呆れたように口角を片方だけ吊り上げました。

 

「……パンツ、見えてるわよ?」

「へ?」

 

 唖然としていたわたしが、状況を飲み込めていないように見えたのでしょう。それを解す為の指摘だったのだと思います。ですが、その指摘は確かに事実でした。

 視線を自らの股間に向けてみれば、紺色のスカートが捲れ上がっていたのです。全く日焼けをしていない太ももと、真っ白の下着が……『覗けている』ではなく、完全に『晒している』と言えた状態で顕になっていました。

 

「あ、わ、わあああーっ!」

 

 思わず頬が熱くなる思いでスカートを直します。

 完全に捲れ上がって、スカートの下に仕舞い込んだ服の裾さえもが見えてしまっているのを、急いで正します。

 

 そして立ち上がり、わたしは首を横に振って「違うんだ」と主張します。何を違うと主張したいのかは自分でも分かりませんでした。それでも身振り手振りであたふたと言い訳がましい様子を見せるわたしは、実に滑稽だった事でしょう。

 

 そんなわたしの様子が可笑しかったのか、女性はクスリと笑います。

 

「それは良いから、早く乗って」

「ひゃ、ひゃい!」

 

 もうグダグダ。

 わたしは返事すらも噛んで、転がり込むようにしてルノーの助手席へ入りました。

 

 そこからはその女性の独擅場(どくせんじょう)です。

 華麗なハンドル捌きでルノーを操り、降って来る瓦礫をきちんと避けて、その場を離脱しました。

 

 その走行の速い事速い事。

 わたしが待っていた場所から即座に離れていきます。

 掴まっててとの言葉に従い、何とかシートベルトだけは締めましたが、身体に掛かる加速度が凄まじい。今に事故るんじゃないかと、頭の中で誰かが呟きます。それに煽られたように、羞恥心で限界を迎えようとしていた筈の心臓が更に大暴れをして、冷や汗が止まりません。

 き、気持ち悪い……。

 が、今は非常時。わたしは鞄を抱えて蹲りました。少なくとも前を見なければ怖さも半減します。

 

 しかし、わたしはその女性に言わなければいけない事があります。戦地を離れ、加速が落ち着いた頃合になれば、わたしの羞恥心や恐怖心も少しは落ち着いていました。

 

 わたしは今に加速を緩めそうな女性を振り返り、ありったけのポーカーフェイスで表情を取り繕い、叫ぶように声を上げました。

 

「葛城さん! 戦自がN2兵器を使う筈です。速度落とさないで下さい!」

 

 するとその女性――葛城ミサトさんは、サングラスを掛けたままの顔をこちらへ向けて来ます。薄く唇を開いて、唖然としたような様子でした。

 

 さながら「何故N2兵器(それ)を知っているの」とでも言いたげですが、構わずに二の句を継ぎます。

 

「事情は離れてから話します。今は兎に角離れて! 新車ボコボコになって、卸したての服もドロドロになっちゃいますから!」

「ちょ……えぇ? はいい?」

「ほら、急げって言ってるんですよ!」

「え、ええ……」

 

 無理矢理話を止め、わたしは運転に再度集中しようと言うミサトさんに代わって、窓から身を乗り出します。心臓がはちきれんばかりに煩く鳴って、『怖い』と訴えますが、そんな事は言ってられません。運転席から「危ないわよ!?」と焦ったような声も頂戴しましたが、状況の確認が必要なのです。丁度此処等は『彼』がN2兵器の余波で吹っ飛ばされた辺りなのですから。

 

 シートベルトを限界まで引っ張り、わたしは上半身を完全に車外へ。きつく細めた目で先程離脱してきた戦地をじっと見据え、米粒程の大きさにしか見えない戦闘機の様子を確認します。

 遠目に何とか見えたのは、小さな人形の周りに群がっていた米粒が、ふらふらとした軌道で転進しようとしている様子でした。

 

 ゴクリ。

 喉を鳴らして見守る先で、戦闘機は凄まじい加速と共に離脱――。

 

 わたしはすぐに車内へ。

 ミサトさんへ顔を向け、ありったけの声を吐き出します。

 

「戦闘機が離脱しました! 来ますよ。ミサトさん!」

「……マジ? 間に合わないんじゃないの? これ」

「アクセル目一杯に踏み込んで! 今ならまだルノーが焦げるだけで済むと思います! 死にたくないならごたごた言ってないで頑張ってよ!」

 

 自分の目で見ていないからか未だ怪訝な表情のミサトさんですが、理屈よりも衝動を優先する彼女の気質が発揮されてか、言葉もなくルノーは更なる加速をします。

 瞬時に感じた加速度でシートへわたしが叩き付けられた頃になってから、申し訳のように「掴まって」と言ってきますが、明らかに時既に遅し。思わず息が詰まって、わたしは茫然とフロントガラスの向こうの景色を見詰めていました。

 

 ぐんぐん流れていく景色。

 抜き去っていく様々なモノ。

 

――はじめて見る風景。

 

 胸の内で何かが変わっていくような感覚。

 恐怖心が全く別のものへと変わっていきました。

 

 それは確かな期待感。

 絶望を覆す、努力の果てにある奇跡。

 

 奇跡という名の――現実。

 

 そう……。

 此処からわたしの記憶の世界が、御伽噺が、絶望が、奇跡に変わっていくんだ。いや、変えていくんだ。

 

 

 そんな事を考えた瞬間でした。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚という、五感の内四つもの感覚をぶち壊すような衝撃がやって来ました。

 

 

 わたしの名前は碇レン。

 今年で一四歳になりました。

 性別は女。髪の色は黒。髪型はセミロング。少し癖っ毛だから、毎朝整えています。

 長袖しか着ないけど、体型には自信があります。……まだ、自信はある筈。ミサトさんに勝てないだけ。彼女に勝つ一四歳がいたら見てみたい。わたしの知る限りではいません。

 

 そんな、何処にでもいそうな中学生女子のわたし。ですがわたしには普通と違う事が幾つかあります。

 

 例えば父親が非公式組織の総司令だったり。

 その父が仕事に没頭する為にわたしを放置したり。

 更にその父親とは一〇年以上会ってなかったり。

 

 等、その殆んどは単なる『不幸な身の上』で片付く事ばかりですが、唯一『神様の悪戯』とでも言ってしまえそうな話がありました。

 

 それが『ある人物の記憶を受け継いでいた』という事。

 

 いや、違う。

 そんな生温い言い方ではありませんし、記憶を受け継いだ等という言い方では語弊もあります。

 

 正しくは『夢に見てきた』。

 

 赤の他人である……というか、わたしが居るこの世界には存在しない筈の少年、『碇シンジ』の人生の一部を、毎晩の睡眠時間の間に見てきました。

 

 そして、苦しめられてきました。

 間違いの無い苦痛でした。

 

 例えばその『碇シンジ』が本当に正真正銘の赤の他人であったり、わたしと何ら係わり合いの無い人物ならば、見ている夢がたとえ凄惨であれど、それは喜劇にもなり得た事でしょう。少なくとも逆説的に、わたしにとって『彼』がどういう存在かを自覚してからは、正しく地獄のような夢でした。

 

 そう、『碇シンジ』とは、わたしです。

 わたしが男の子であれば、正しく彼と同じ人生だったのだと思います。故に『この世界には存在しない筈の少年だ』という訳です。

 

 とはいえ普通の人生をただ見ているだけならば、わたしはちょっとしたファンタジーにでも浸っている少女で済んだ事でしょう。決して『死にたい』と思う程に、苦しんでいた筈はありません。

 

 

 つまり、普通ではなかったのです。

 碇シンジの人生は。

 

 わたしと同じ父親、碇ゲンドウによってある日突然第三新東京市へ召還され、未知の生命体である使徒と命懸けの戦いをしていく。

 

 簡単に要約すればそんなところ。

 

 此処までならまだヒーローもののアニメでも観ている感覚で、浸っていられます。しかしこれはアニメではなく、非情すぎる程に現実的でした。

 

 

 初めて紡いだ親友という絆を自ら壊し。

 初恋と似た感情を抱いた少女が自爆を決行し。

 最も近くて最も遠い憧れの少女が廃人となり。

 自分を最も愛してくれた少年を自ら殺し。

 大人の象徴と感じていた男性が消息を絶ち。

 最愛の家族だった女性が自分を庇って死に。

 

 そして、全ての黒幕は自らの父であったと知り。

 

 世界は滅びました。

 

 

 夢だというのに痛みも苦しみも感じるその物語の終わりはあまりに残酷。碇シンジはLCLと言う生命のスープに溶け、最後まで彼を拒んだ少女が『人類補完計画』そのものを否定し、物語の本懐は全人類を液体化させただけで終わりました。

 

 そこに未来も、救いも無い―ー。

 

 

『嫌だ。もう嫌だ。死にたい! 死なせてよ!!』

 

 そして『わたし』は自らの左腕を何度も引き裂きました。

 もう何度も何度も、数え切れない程に、わたしはこの地獄から恒久的に逃れられる唯一の術を決行し続けました。

 

 だってそれは夢物語で。

 それは御伽噺で。

 

 周りの誰に話しても全然信じてくれなくて。

 そんな状況がもどかしくて、辛くて。

 

 悲しくて……。

 

『あたし……引っ越すんだ……』

 

 そんなわたしを救ってくれた人もいたけど、何時しか居なくなってしまって。

 この時の喪失感で、碇シンジの抱いた絶望感が更に分かるようになって。

 

 

 結局は死にきれずに、こうして此処に居る訳ですが、これまでのわたしは不眠症であれば自殺志願者で、精神鑑定でも異常の二文字をつけられていたような人間でした。

 

 今は少しばかり落ち着きましたけどね。

 改善したのはその救ってくれた人のおかげと――そう、これが『御伽噺』や『夢物語』ではなかったからです。

 

 正しくは『碇シンジの記憶』だった。

 それが今のわたしの見解です。

 

 たった二文字の黒い葉書を受け取ったわたしは、まるでそれが希望のように感じたものです。

 

 

 そうしてわたしの物語は始まりを告げたのでした。




独擅場(どくせんじょう)について。
独壇場(どくだんじょう)と書く方が親しみ深いかと思いますが、元来正しい書き方は独擅場(どくせんじょう)(てへんになってます)のようです。エヴァらしさを意識したパフォーマンスとして、このようにしております。


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3.Angel attack.

 

 目の前の景色がゆっくりと流れていきます。

 N2兵器の余波で吹っ飛ばされながらも、ルノーは何とか走行出来ていました。時折ガタガタと揺れますが……ミサトさんと同じでしぶといと言うか、何と言いますか……。

 

 そんな車内で、わたしは先程の未来予知染みた過剰な知識に対する理由を求められ、事情をある程度要約して話しました。

 

 今まで誰にも信じて貰えず、親友と認めた少女にさえ話す事が出来なくなっていたものなので、信じて貰えるかと言う不安はありましたが、逆にこの状況で信じて貰えない理由は無いでしょう。

 事実N2兵器は使用されて、わたしが注意しなければルノーはひっくり返っていましたし。

 加えてわたしが当然のように並べていく名前は、決して公になっているものばかりではありません。エヴァンゲリオンと言う名前の兵器だって、特務機関ネルフにおける最重要の機密事項の筈。

 

 更に、シンジくんの物語のオチである『サードインパクト』の際、彼の意識が色んな人と混ざったおかげで、親しい人達の知識が少しばかりインプットされていたりもします。どれもが持て余してしまっている知識なので、使い方を知らない数学の公式のように、どういうものかは分かりませんが、話の種にはなりました。

 

 例えば、先程見た使徒と言う生物は、アダムと言う生命体の派生で生まれた生物で、相対するわたし達人類はリリスと言う名前の生命体の派生で生まれた生物。違うのは『生命の実(セイメイノミ)』を持っているか、『知恵の実(チエノミ)』を持っているかの差だとか。……意味は分かんないですけどね。セイメイノミとか、チエノミって何でしょうか?

 

 でもって使徒を倒しきると、そこからお父さん――だけじゃないみたいですが――の計画が始動。全てのリリンはLCLに溶け、黒き月(クロキツキ)とやらへ還る事になります。……が、まさかの失敗。結局わたしの知る限りでは、永劫埋まる事の無い欠けた一人の少女(パーツ)の所為で、人類はそのまま行き場を無くすのです。

 

 そのあとは――よく分かりません。

 もしかしたら自己を失ったシンジくんはそのままLCLとなって生き続けたのかもしれませんし、あの子が欠けた所為で生まれた不調和から崩壊したのかもしれません。ただ、まあ……普通に考えて液体化しちゃったんだから人類滅亡エンドですよね。

 

 そんなものを言い並べていけば、はじめこそ「お父さんと連絡とってない筈よね?」と訝しんでいたミサトさんですが、わたしの言い分が知ろうとして知れる域ではないことを理解してくれたようです。

 まあ、話の真偽は兎も角、わたし自身を信用して貰えるかについては、全く別な話でしょうけども。

 

 

「という夢を見たので……って言うとわたし変な子ですけど、何せわたしはお父さんの野望をぶっ壊しに来ました。お母さんにはわたしも会いたいけど、その為に全世界を巻き込むなんて頭可笑しいし。……あ、でもでも、使徒を放っておくと当然人類滅亡なので、当面の目的は使徒の殲滅……ネルフの役割通りですよ?」

「そう……」

 

 ルノーが第三新東京市の敷地にあるトンネルに入った頃、わたしは話を締めようとそう告げました。運転中のミサトさんはサングラスを掛けたままの双眸で、逐一横目でこちらを見てきていましたが、此処に至って溜め息混じりに呆れたような笑みを浮かべます。

 

「……当然かもしれないけど、苦手? お父さんの事」

 

 当然も当然。

 わたしは薄暗いトンネルの先を見詰めながら、げんなりした風で答えます。

 

「苦手っつうか、気持ち悪い。さっきも言ったけど頭可笑しいのよ。あいつ。我が父ながら……」

「……ちょいちょい話し方が乱暴になるわね。貴女」

 

 シンジくんの記憶なら、『あたしと同じね』なんて続くのですが、わたしがあまりにきっぱりと断言してしまえば、父親に対する思いには相違があると思ったのでしょう。ミサトさんは言及せずにそんな風に言って、乾いたような笑い声を上げていました。

 まあ、わたしの口調については、昔唯一無二の親友だった女の子に矯正されて今じゃ可笑しな丁寧口調ですが、それまでは同年代のオラオラ系の男子でさえ口だけで泣かしてましたし……うん。

 

「若気の至りです」

 

 言い得て妙。

 そんな返事で誤魔化しました。

 

「一四歳は十分子供よ?」

 

 車をジオフロントへの昇降口まで運転し、そこで停車すれば、ミサトさんはふうと息を吐いてシートに掛け直します。此処からはカートレインによって降下するようです。

 彼女はサングラスをおでこに上げて、肩を竦めながら改めてこちらを見てきます。

 

 ミサトさんが落ち着いたのを見計らって、わたしは挑発的に微笑んで見せました。

 

「まあでも、夢の間の人生を勘定して良いなら、多分今の倍くらい生きてますよ。わたし」

 

 わたしの記憶は無駄な知識が多い上に、何の必要性があるのかシンジくんの人生がサードインパクトまで行けば、彼が第三新東京市へ来たその日に戻ります。そうして繰り返し観た事によって、もう既に忘れられないようになっていれば、ある種の達観をし始めて観ている自分さえいたり……。

 おまけに夢の中では時間の感覚が違っていて、何日も経過する事が度々ありましたし。

 

 わたしがそんな風に思案に耽るのを他所に、ミサトさんは溜め息混じりにルノーの天井を仰いでいました。

 

「夢、ねえ……」

 

 そしてぼやきます。

 その言葉を聞けば、当然ながらまだ半信半疑なのは良く分かります。

 

 わたしは肩を竦めて返しました。

 

「とりあえず、ルノーを()めたら、さり気無くわたしが先導します。ミサトさん方向音痴だから迷いますし」

「……あはは」

 

 人間、本当に困り果てたら精神安定の為に笑うのだとか。

 ミサトさんの呆れたような乾いた笑い声は、きっと精神安定の(その)為でした。

 

 暫くしてガラスコップをスプーンで叩いたような音と共にルノーが目的のフロアへ到着。ミサトさんが気を取り直すような声を漏らして発進させましたが、N2兵器に吹っ飛ばされた時に地面を跳ねた所為でサスペンションが傷んだらしく、車内はやはりガタガタと揺れに揺れて進みます。

 ひっくり返る事こそ無かったのですが、ルノーは修理に行くさだめだったようです。ミサトさんが泣きそうな顔で「これは高くつくわー」なんて零していました。

 きっとアレですね。シンジくんの時みたいに中破までいっていれば諦めもついたんでしょうね。良い事をした筈なのに、何だか残念です。

 

 やがてルノーは駐められ、一応の様式美として『ようこそネルフ江』を渡されました。

 

「要る?」と聞かれて、「一応」と受け取った理由は……まあ、わたしがこの記憶をお父さんやリツコさんに話すつもりは無いと言うこと。車内で説明した時にミサトさんにもそう伝えていて、『わたしの話を危険思想として口外するかどうか決めるのは、わたしを信用出来るか判断してからでも遅くないですよね?』と一応の釘もさしています。

 つまるところ、わたしは『初めてネルフに来た女の子』を演じる訳です。

 

 大丈夫。

 芝居を打つのは大得意です。

 三文芝居に成らぬように、必要とあらば涙さえ流して見せましょう。

 

 うぇーん、パパー逢いたかったよぉー。

 とか言って泣きついたらどんな反応するんですかね。あいつ。……いや、吐き気がするからやりませんが。

 出来たらそれはそれはとても面白い映像が撮れそうですけどね。

 やりませんが。

 もう一度言いますけど、やりません。

 

 そもそもわたしの事をシンジくんと同じくらい心の内で大切に思っているのでしょうか? 自らを非道外道と認めた上で、今わの際に詫びる程の愛情はあるのでしょうか? お母さんの次にでも大事に想っているのでしょうか?

 

――いや、無い。

 

 だってわたしが何度自殺未遂で入院しても、あいつは見舞いのひとつにも来やしなかったのですから。

 

 

 記憶の中では見慣れていた道を、シンジくんより少しばかり視点が低い所為か、何処か新鮮な心持ちで歩きます。ミサトさんの後ろを付いて行く形ですが、分岐路の前で振り向いてくる彼女に視線で正しい進路を伝えて進みました。

 

 数分歩けば、わたしが格納庫へ続くと記憶しているエレベーターの前に人影を見つけます。

 

 金色のショートボブに、白衣が特徴的な女性でした。

 ミサトさんに負けず劣らずグラマラスな体型で、キリっとした目付きと泣きぼくろの所為か、何処か厳しい印象のある赤木リツコ博士です。

 

「お待たせ。リツコ」

 

 リツコさんの姿が見えるやいなや、ミサトさんは片手を上げて声を掛けました。

 閉鎖的な廊下で反響するその声に思わずと言った様子で彼女は肩を跳ねさせ、手元の資料に落としていた視線をこちらに向けてきます。そしてすぐに「あら予想外」と口にして、目をパチパチと瞬かせました。

 

「貴女の事だからてっきり迷ってるものだと思ったけど」

「失礼ねぇ。迷ってないわよ。……ええ、迷ってないわ」

 

 確かめるように言って、胸を張るミサトさん。

 うん。確かに迷ってはいないですね。

 何度振り返ってきたかは兎も角、迷ってはいないですね。

 

 思わず笑いそうになりつつ、わたしは横目でちらりとミサトさんを見てみました。すると彼女は罰が悪そうにこちらを見ていて、更にその表情を誤魔化すようにわたしの背中を押してきます。

 促されるままにリツコさんの前へ。

 とりあえず礼儀正しくお辞儀しておきました。

 

「はじめまして。碇レンです」

「……E計画責任者の赤木リツコよ。色々と話は聞いているわ。その上で良く来てくれたわね」

 

 リツコさんはまるで哀れむかのように目を細め、わたしに微笑み掛けてきていました。

 

 言わんとする事は……まあ、分かります。

 わたしが自殺未遂を繰り返したり、虚言癖と妄想癖で苦しんでいるという世間的な情報は、当然のようにリツコさんの知るところでしょう。

 わたしは何も言及せずに首を横に振って返しました。

 

 わたしが錯乱した時に何を言っていたとかまではおそらく伝わっていないと思います。ていうかそう思いたい。

 まあ、伝わっていたのならわたしはもっと早くリツコさんに呼びたてられて、その夢の内容について聞かれている事でしょう。幼くて物事の分別がつかなかった頃のわたしは、意図せずしてネルフの機密をぺらぺらと喋っていたのですから。

 つまり何もアクションが無ければ、それは彼女がわたしについて上辺の事情しか知らないという事の筈。むしろ此処で生活を始めれば過去の経歴は全て抹消されるのですし、そこまでいけば過去の不安要素も無くなる事でしょう。

 

『総員第一種戦闘配置発令。対地迎撃戦用意』

 

 まるで頃合を見計らったように鳴り響くアナウンスと警報音。

 思わず天井を見上げてしまうのは何ででしょうね。スピーカーなんて見えないのに。

 

『繰り返す。総員第一種戦闘配置。対地迎撃戦用意』

 

 わたしと同じように天井を見上げるミサトさん。

 やがて呆れたと言わんばかりに肩を竦めて、溜め息混じりに唇を開きます。

 

「……ですって」

「これは一大事ね」

 

 まるで良く出来た芝居のようでした。

 

「……で、初号機はどうなの?」

「現在B型装備のまま、冷却中よ」

「本当に動くの? それ。……オーナインなんとか」

「オーナインシステムね。ゼロではないわ」

 

 ミサトさんが抱いたままの疑問をリツコさんへとぶつける様は、言葉に多少の誤差があれど、シンジくんが此処へ来た時と大差ありません。

 わたしが記憶を伏せておきたいと思う心を汲んでくれているのか、はたまたわたしの話を殆んど信じていないのか、それについては分かりかねました。

 

「案内するわ。付いて来て頂戴」

「……ええ」

「分かりました」

 

 先導をリツコさんに譲り、ミサトさんはわたしの横に付きます。

 如何にも作業用のような古めかしいエレベーターを待ち、格子状の扉が開くと、中へ。その間わたしは『ようこそネルフ江』へ視線を落とし、まるでさも初見な風を装います。それが功を奏してか、話し掛けられる事はありませんでした。

 

 やがて格納庫だと記憶している場所へ案内されますが、当然のように電気が落ちていました。此処で開いていた冊子を閉じ、「真っ暗ですね」なんて零しながらリツコさんの後を追います。

 

 鋼鉄の床、アンビリカルブリッジ。スニーカーで踏んでみれば硬い質感こそ感じますが、先を歩くリツコさんのヒールのようなカンカンといった乾いた音は鳴りません。

 ほんの僅かな光を放つ誘導灯を頼りに、リツコさんの後へ続いてゆっくりと歩を進め、やがて止まった彼女の歩に合わせて静止。

 

 そして――。

 

 まるで舞台装置のカットインと言うような点灯によって、わたしの目が僅かに眩みます。こればっかりは予想していながらも唐突すぎて、本心から「キャッ」なんて、らしくない声を漏らしてしまいました。

 

 数度の瞬き。

 次第に慣れてくる視界。

 

 視界()の端に映る紫色の巨人。

 思わずハッとして向き直ります。

 

「……なにこれ」

 

 事前に用意しておいた言葉を呟きます。

 するとリツコさんが誇らしげに解説してくれました。

 

 とはいえ、勿論説明不要です。わたしは知っています。

 旧世代の鎧武者の兜のような頭部しか見えていませんが、それさえも人間の身の丈に対してはとてつもなく巨大。目に見えている通り塗装は紫が基調で、見えていない胴体にはところどころに黒や緑の部分もある筈です。

 

 一二〇〇〇もの特殊装甲に覆われた汎用人型決戦兵器。

 

 人類の叡智を惜しげ無く費やした最後の希望。

 

『エヴァンゲリオン初号機』

 

 それがこの巨人の名前です。



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4.Angel attack.

 リツコさんの長ったらしい講釈を耳半分で聞き、わたしはひそかに拳を握ります。彼女の話が終わる頃には……と考えれば、心の奥底から何かしらの衝動が這い上がってくるように感じました。

 その衝動を押し殺すようにお腹に力を込め、彼女の言葉に相槌を打ちます。

 

「これが、父の仕事ですか?」

 

 すると……。

 

『そうだ』

 

 頭上から降って来るような声。

 低く、かすれた印象のあるものでした。

 

 わたしはその声がスピーカーから発せられたのを承知の上で、聞こえてきた方向を臨みます。すると、この格納庫を眼下に見下ろせるような位置に指令室があり、その室内に点る光をバックライトにしてこちらを見下ろす黒い人影。

 逆光であまりはっきりとは見えませんが、わたしは視力が良い。その人影が常夏の国日本においてはあまり着ている人がいないような黒いスーツを身につけ、サングラスを掛けている事ぐらいは分かりました。

 

 言わずもがな。

 

 碇ゲンドウ。

 

 わたしの父親です。

 間違いありません。

 

 マフィアみたいな変な格好をしていますが、この特務機関の総司令でもあります。

 

 わたしを睨むかのようにジッと見詰める高圧的な雰囲気も、久しい再会だというのにこれまで放置してきた事を悪びれるような素振りさえない事も、シンジくんの記憶と相違ありません。

 

 何年ぶりだろう?

 

 わたしは自分に向かって問い掛けます。

 わたしとしては、夢物語という名前の記憶の世界で何度となく見てきた顔ですから、こうして会っても感慨深さなんてものはありません。むしろ先程ミサトさんに述べた通り、大嫌いですし……。

 しかし、よくよく考えてみれば、一〇年は面と向かって会っていませんでした。これはわたしが入院していて、唯一と言える邂逅の機会だったお母さんの墓参りに行けなかった為なのですが、要するにわたしのお父さんへの印象といえば、ほぼほぼシンジくんの記憶が基盤になっているのです。

 

――が、それも此処まで。

 

 もう疑う余地はありません。

 わたしの父親もシンジくんの父親と同じで、鬼畜かつ外道なのでしょう。その姿の裏に、あちらのお父さんと同じく愛情が隠されているのかどうかまでは分かりませんが、きっとわたしに愛情を感じさせる事は……無い。

 

『……出撃』

 

 まるでわたしの思案を肯定するように、お父さんはそう述べます。

 白手(はくて)を着けた右手でサングラスを押し上げ、その下でにやりと口角を動かしているように見えました。

 

「出撃?」

 

 ミサトさんがお父さんの声に対し、怪訝そうな反応をします。

 

 そしてやはり、シンジくんの時と大差無い問答がリツコさんとミサトさんの間で繰り広げられます。わたしはジッとお父さんを見上げたまま、その声を耳半分で聞いていました。

 まあ、ミサトさんの反応がわたしに配慮した芝居だとは思えませんし、わたしの話を踏まえた上でも『今』、『この場』でわたしが出撃させられるとは思っていなかったのでしょう。

 

「碇レンさん。……貴女に乗って欲しいの」

 

 リツコさんがわたしにそう告げてきます。

 視線を向けてみれば、まるで感情を感じない目で見られていました。

 

「ちょっと待ちなさいよ。綾波レイですらシンクロするのに七ヶ月かかったんじゃ――」

 

 そこへ更に食って掛かるようなミサトさんの言葉が続きます。

 

 わたしは何も言わずに事態を静観しました。

 言わずともミサトさんが丸め込まれるのは分かっていますし、何を言う必要も感じませんでした。

 

 やがて予定調和よろしく、ミサトさんはリツコさんに論破され、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、言葉を呑むに至ります。

 その後痛々しいものを見るような視線を向けられ、わたしは彼女に薄く微笑んで返しました。暗に「ほらね?」と述べれば、彼女は僅かに目を見開き、下唇を噛むような仕草を見せてから、視線を逸らします。

 

 わたしはゆっくりとお父さんを振り返ります。

 

 そして自分を落ち着かせる為に、大きな深呼吸を一度だけして、活目。頭上から見下ろしてくるクソッタレな父親を睨み返しました。

 

 浮かべる表情は挑戦的な微笑み。

 自らに課している『女の子として』の自戒を全部解除。

 

――どうせだし、思いっきり恨み言を言ってやろう。

 

 わたしは唇を薄く開く。

 

「……一〇年も放置して唐突に呼ばれたんだし、ろくでもない事言われるんだとは思った。だけど、まさか実の娘に兵器を使えだなんてね。本当、鬼畜外道も大概にしてよね。クソ親父」

 

 すると僅かにピクリと肩を震わせるような仕草を見せるクソ親父。

 はん。予想外ってか。

 

 すぐに何事も無かったかのようにサングラスを掛け直して、わたしを見直してくる。言葉は間髪入れずに続いた。

 

『ふん。乗るのか乗らないのか。早く決めろ。乗らないのなら帰れ』

 

 わたしは口角を歪めて、これ以上無いくらいに醜悪だと自覚する笑みを浮かべて返す。

 

「……はあ? 命令? くっそムカつく」

 

 成る丈低い声を吐き出したけど、流石に二度目となればクソ親父は動じない。

 微動だにせず、声が返ってくる。

 

『乗らないのだな? なら帰れ』

「あらあら。一〇年来放置したんだし恨み言を言われるくらいの想定もしてないの? それともなに? 離れていても父娘(おやこ)だーとか、宣うの? わたしを捨てたくせに」

『……ふん』

 

 歯に衣着せぬような会話が交わされる。

 いや、その実はクソ親父もわたしと同じで、相手の腹の内を探っているだけなのだろう。しかしながら、きっとミサトさんからすれば正しく思った事をずけずけと言っているように見えているに違いない。

 

 まあ、クソ親父の考えなんて分かりたくもないんだけど。

 どうせだから恨み言を言っているが、これ自体は本来言わなくても良い事だから、別にいっか……。

 

 本当に大事なのは此処からだ。

 わたしは改めて唇を開いた。

 

「条件次第。わたしが提示する条件を呑んでくれるなら、最高のパフォーマンスで返してあげる」

 

 にやりと笑って見返す。

 隣で二人が身じろぎするような素振りを見せたけど、先程まで演じてきた良い子のわたしに対する今の言いぶりが意外だっただけだろう。

 

 クソ親父はやはり微動だにしない。

 

『早く言え。事態は一刻を争う』

 

 ふん。

 ()()()()()クソムカつく口調だ。

 

 わたしはスカートのプリーツの隙間にあるポケットに手を突っ込んで、胸を張って見返した。

 

「雇用形態をちゃんと纏めた上で、わたしに対する給金、立場についてなあなあにはしないこと。それが先ずひとつ。そしてもうひとつが――」

 

 と、言おうとした時、ガタンと音が鳴って、足下が跳ねるように揺れた。即座にばちゃりとLCLの海が波打ち、わたしは思わずふらつく。

 震度にして四か五はありそうな地震。

 原因は言わずもがな、使徒がジオフロントの存在に気がついて攻撃を仕掛けてきたのだろう。

 

 クソ。空気の読めない使徒が。

 ほんと()()()()()()()()ムカつくなあ。

 

 わたしは舌打ちをひとつ。

 隣でミサトさんとリツコさんが慌てたような声をあげて、指令室のクソ親父も『此処に気付いたか』等と悪態を吐いていた。

 

 ガシャンと音が鳴る。

 ハッとしてわたしが天井を臨めば、今の地震で崩れたらしい天井板が降ってきていた。

 

「危ない!」

『レン!』

 

 そこでふたつの声。

 わたしは黙ったまま、落ちてくる瓦礫を見詰め続けた。

 

――大丈夫。

 これは知っている。

 

 するとガシャンと音が続き、わたしの頭上へ巨大な影が伸びてきた。

 と、言うと語弊もあるだろう。事実としては、エヴァ初号機が右腕を振り上げて、わたしを瓦礫から庇ってくれていた。

 

 充電こそされているだろうが、その初号機にはまだ誰も搭乗していない。わたしとその初号機を繋ぐ為のインターフェイスさえ、わたしは装着していない。

 動く筈の無い存在だった。

 それを主張して慌しく声を荒げるリツコさんと、驚愕するミサトさん。そしてその二人を静観するわたし。

 

 いや、わたしはこの時、ハッとしていた。

 

 初号機に庇って貰ったお蔭で無傷のわたしは、その右手の指の隙間から指令室を見上げる。

 

 わたしを見下ろす男の視線は、やはり逆光でまともには見えない。

 瓦礫が降って来た際、声を発していたような気がするけど……まさかね。

 

 リツコさんとミサトさんが慌しく状況を進める中、わたしは今一度クソ親父を見据えた。

 

 空気の読めない馬鹿な使徒の所為で興が削がれたけど、言わずに乗る訳にはいかないだろう。

 

「……最後の条件は」

 

 わたしが声を挙げれば、辺りの慌しさが凍り付いたようにしんと静まった。

 

 リツコさんもミサトさんもわたしを見ているのか、視線をひしひしと感じる。……が、構う事はない。

 

「金輪際父親面しないこと」

 

 わたしは一息に言い切った。

 

 クソ親父は白手でサングラスを押し上げ、ふんと一笑して返してくる。

 

『この期に及んで家族ごっこ等する気は毛頭無い』

「……そ。雇用条件は?」

『後程書面に纏め、葛城一尉に渡しておこう』

 

 白手を着けた手を腰の後ろへ。

 クソ親父がにやりと笑った気がした。

 

『……満足か?』

 

 そしてあざ笑うかのようにそう聞いてくる。

 わたしはにっこりと笑った。

 

「満足。これから宜しくね。()()()

『……ふん。さっさと説明を受けろ』

 

 わたしとの決別を何とも思っていないかのように、クソ親父は踵を返す。そしてそのままわたしの見えない場所へと去って行った。

 

――勝った。

 

 そう思って、わたしは内心ほくそ笑んだ。

 

「……碇レンさん。それでは、説明をしましょう。こちらへ」

 

 事態が終息したと見たらしいリツコさんが声を掛けて()()()

 わたしはこくりと頷いて、改めて「よろしくお願いします」とお辞儀を返しました。

 

 

 汎用人型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオン。

 

 その操縦方法は至って簡単。

 動きを思案すればそのままトレースするようにして機体が動きます。その情報伝達の速度や精度についてこそ『シンクロ率』と言うものによって差はありますが、仕組み自体はそんな感じです。

 それだけ聞けば「なんだ楽勝じゃん」なんて言いたくもなりますが、難しい操作が必要ではないメリットに対して、大きすぎるデメリットがあります。

 

 エヴァに動きをトレースさせる事とは、それ即ち神経接続をする事。難しい言葉で言えば訳が分かりませんが、エヴァの腕を掴まれれば、わたしの腕を掴まれたような錯覚に襲われると言う事です。

 つまり、首をちょんぱされでもしたら、わたしの首が飛ばされたと錯覚した身体が、自発的に死んでしまう可能性だってあると言う事です。……まあ、そのフィードバックダメージもシンクロ率によって差がありますけども。とはいえ危険な操縦方法という事については間違いないでしょう。

 

 ただ、そんなものが誰にも出来る筈ありません。

 

 初号機の起動確率は〇・〇〇〇〇〇〇〇〇一パーセント。〇が九個並ぶので、オーナインシステム。

 適性がある人間にしか動かせないと言うシステムです。その適性の仕組み自体は絶対に教えてはくれないでしょうけど、わたしは知っています。

 

 エヴァには心があります。

 というか、コアと呼ばれる部位に人格がインストールされています。それとパイロットの相性が、そのまま適性と言う訳です。

 

 初号機の場合、そのインストールされた人格がわたしのお母さんなのです。適性としては文句無しでしょう。

 

 碇ユイ。

 わたしがまだ幼子だった頃に死んだとされていますが、実際はエヴァのコアに肉体ごと取り込まれているのです。誰もが事故で死んだとか言ってますが、事実はそんな感じ。さっき瓦礫から庇ってくれたし、わたし自身も自分が何歳だったかさえ分からない幼少の頃に実験に挑むお母さんの姿を見ていますし、間違いなく『現実世界』でもお母さんが初号機のコアにいる事でしょう。

 

 上辺だけの操縦方法を聞かされながら、わたしは頭を垂れて延髄からエントリープラグと呼ばれる筒状のものを出した状態の初号機へ向かいます。

 聞けた内容としては、『思った通りに動く』事だけ。

 先ず起動させられなければ話にならないからか、シンクロ率に影響を与えるような不安を煽る発言は一切ありませんでした。例えばフィードバックダメージとか、使徒の概要とか。

 まあ聞かなくても覚えてはいるので、知らないふりをする事が面倒くさいだけですね。

 

 そんな感じの指導を受けながらアンビリカルブリッジを歩き進め、やがてプラグの横に着いた頃、リツコさんから白いヘッドセットを渡されます。

 

「これは?」

 

 白い三角形のヘアバンドのようなソレを受け取りつつ聞き返します。……いや、知ってますけど、何も聞かずに着けたら変でしょ?

 

 するとリツコさんは手元の書類を捲って説明してくれます。

 

「インターフェイスヘッドセット。エヴァとのシンクロを行うのに必要なものです。まああまり気にせず着けて頂戴」

「……普通に頭に乗っければ?」

「ええ、そうよ」

 

 言われた通りに頭に乗っけます。

 すると微かな重みを感じて……と、自分の頭を見れないのは分かっていつつも本能的に見上げて、不意に前髪が気になりました。

 

 僅かに視界に掛かってくる程度ですが、シンジくんの時には感じなかった事です。

 思わず手で前髪を触って小首を傾げました。……邪魔になりそうです。

 

「前髪が気になって?」

「……まあ、まさかパイロットさせられるだなんて夢にも思ってませんでしたし」

 

 わたしの様子にクスリと笑うリツコさん。

「それもそうよね」と言って、白衣のポケットをごそごそと漁り始めました。

 

「サードチルドレンも女性だと聞いていたから、一応用意しておいたの。良かったわ」

 

 そしてそんな言葉と共に、わたしに差し出される手。言葉の意味をとりあぐねて小首を傾げていれば、リツコさんに手をとられました。

 わたしの手を両手で覆うようにして、ポケットから出したその手が乗れば、軽く硬い感触。

 

「うん?」と、更に小首を傾げて、モノを何だと改めてみれば、可愛らしい黒猫の顔がついた小さなヘアクリップでした。思わずハッとして見上げると、リツコさんが微笑んでいます。先程目を合わせた時には無機質にさえ感じたものですが、何となく胸が温かくなるように感じました。

 

「……プレゼントよ。差し上げるわ」

「あ、ありがとうございます」

 

 慌ててお礼を言って、お辞儀を返します。

 

「良くってよ。……頑張ってね」

 

 そして背を優しく叩かれ、プラグの中へ促されました。

 こくりと頷き、わたしは中へ。

 

 入れば足を着く位置にコックピットがあります。

 可動式のものなので、乗りやすい位置に調整してくれているのでしょう。

 立っていれば窮屈にも感じるだろう広さのプラグ内ですが、座っていれば広くも感じるというもの。わたしはコックピットのソファへ迷う事無く座りました。

 

 自分の眼では初めて見る景色。

 改めて見てみれば記憶と寸分の違いさえありませんが、わたしの座高がシンジくんより低いからか、景色としては違和感があります。……とはいえ、記憶は実感もありました。違和感を覚えたとしても操縦方法は変わりませんし、そういう面で言えば問題は無いでしょう。

 

 搭乗の確認がとれたからかエントリープラグの開閉口が閉じられます。

 

 それを目視で確認した後、わたしはふうと息を吐きました。

 ゆっくりと目を閉じ、手を操縦桿に添え、身体をシートに預けます。

 

――久しぶり。お母さん。

 さっきはお父さんに酷い事言ったけど、許してね。

 

 わたしは声にならない程の言葉を零します。

 

 まだ起動さえしていない筈のエヴァが、僅かに振動した気がしました。



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5.Angel attack.

 薄暗いエントリープラグの中でジッと時を待ちます。

 暫くして小さな警告音と共にエントリープラグ自体が動いたような振動を感じて、その後コックピットが降下を始めました。

 

 やがて聞こえるザパンと言う水の音。

 頃合と見計らって、わたしは慌てたような姿を取り繕って大声を上げます。

 

「な、何か水が入って来てるんですけど、これってなんですか!?」

 

 すると間髪入れずに、プツンと言う何かの接続音が聞こえました。

 

『LCLよ。それで肺が満たされれば、直接肺へ酸素を取り込んでくれます』

 

 続いたのはリツコさんの声です。

 わたしは尚も滑稽に慌てる様を演じて、あたふたと身振り手振りで「ええ!?」と驚愕を顕にして見せました。……いやまあ、シンジくんの真似事してるだけなんですけどね。

 

 と、思ったのも束の間。

 

 わたしの足をLCLが濡らした瞬間。

 芝居を打つでもなくわたしはハッとしました。

 

「ちょ、服! 服濡れちゃうんですけど!!」

 

 そりゃそうでしょ。

 我ながら馬鹿か。

 

 と、冷静な自分がそんな事を言っていました。

 

『我慢して頂戴』

 

 リツコさんも呆れたような言葉を吐きます。

 先程の威勢の良さに対して、あまりに滑稽な姿だと言わんばかりでした。

 

 いや、でも……!

 

 わたしは思わず取り乱して悲鳴を上げます。

 

「ふ、服が濡れると体型丸分かりじゃん! 見ないでよエッチ!!」

 

 本心も本心。

 有事だという事も忘れる心地で主張しました。

 

『……あのねぇ』

 

 すると、呆れたかのようなミサトさんの声。

 加えてリツコさんのものらしき溜め息まで聞こえてきました。

 

 いや、だって、女の子だよ? わたし。

 女の子の体型がモロバレするって、死活問題だよ?

 嫌だそんなの。見られたくない。

 

 むしろ誰に見ているか考えたら吐き気が……。

 オペレーターの日向さんと青葉さんや副司令は兎も角、あの腹立たしい父親には見られたくないよ!!

 

 わたしは思わず足を上げて、コックピットの中で立ち上がって――ごちん。エントリープラグの天井で頭を打ちました。痛い。

 そしてその間にもLCLは水位を増しています。

 

 うぅぅ……。

 

『……カメラをフェイス固定しておくから、それで我慢して貰えるかしら?』

 

 そうまでして体型を見られたくないわたしの姿に、ついに呆れ果てたと言わんばかりなリツコさんが妥協案を提示してくれます。

 渋々ですが納得する他無いでしょう……。

 

「わかりましたぁ……」

 

 思わず溜め息混じり。

 ぶつけた頭が訴える鈍い痛みも合わさって、泣きそうになりながら応えます。

 

 だって、だってぇ……。

 わたしって結構体型良いって自分で思ってたのに、此処に来てみればミサトさんはモデル顔負けだし、リツコさんもすんごいグラマラスだし、そりゃあ自信も失くすよぉ。

 

 胸までLCLに浸り、身体に張り付く制服を呪いがましい目で見つめます。

 脳内でミサトさんの爆乳と比べてみれば……ダメだ。勝てる気がしない。そこに越えられない壁を感じるよ。ちくしょー!

 

 でも、よくよく考えてみれば、プラグスーツを着ればずっと体型晒す感じになるんだよね?

 うわぁ……。有り得ない。

 初日だけ我慢して、上着着て良いか聞いてみる事にしよう。身体にぴったりフィットするスーツを着て本部内をうろうろしなくちゃいけないとか、絶対に嫌だもん。絶対に。

 

 

 そんな悶着を脳内でしながら、わたしは先程リツコさんから受け取ったヘアクリップで前髪を纏めて左へ寄せて留めます。

 実に嫌そうな顔つきを浮かべて見せながら、LCLを吸い込みました。

 

 肺に鋭い痛み。

 思わず咳き込んで、肺に残った空気を全て吐き出します。

 

 これもこれで嫌ですね。

 これから先訓練や実戦の度に痛い思いをしながらLCLに浸からなきゃいけないのかと思うと、ゾッとしません……。

 

 

 だけど本当にゾッとするのは、ここからでした。

 

『神経接続、開始します』

 

 プラグ内がLCLで満たされたのでしょう。女性の声が聞こえました。その声に『ああ、この声はマヤさんだ』なんて思っていたわたしですが、『神経接続』が開始された瞬間、凄まじい衝撃を感じたのです。

 

「あ、あぁぁっ!?」

 

 思わず声を漏らして、わたしは身じろぎします。

 脳の中身を引っ掻き回すような……いや、違う、心の中身を引っ掻き回すような感触でした。

 

 頭に激痛が走って、視界がはっきりしません。咄嗟に身体が震えて、凄まじい嫌悪感に襲われます。

 こんな事はシンジくんの記憶では無かったし、生まれて初めてとも思える程の痛みでした。

 

「痛い、痛い、痛ぃぃ……」

 

 前頭葉と呼ばれる部分がズキズキと痛んで、思わず声を漏らします。

 

 その異常事態に対して、すぐに『マヤ、接続中止!』とリツコさんの声が聞こえたけど、続く『接続中止』の言葉が聞こえても痛みは治まりませんでした。

 

 薄く開いた目の前がチカチカします。

 何か分からないけど、その良く見えない光景に、誰か見知らぬ人影を見た気がしました。

 

――知らない? それは嘘だね。

 

 そしてそんな声を聞くと、()()()は意識を失くしたかのような錯覚を覚えます。……というのも、目は開いていたし、視覚は機能していたのですから。

 

「……ご、ごめんなさい。大丈夫です」

 

 だけど。

 

『大丈夫?』

「はい。続けて下さい」

『……了解したわ。異常を感じたらすぐに教えて』

「分かりました」

 

 だけど――。

 

『神経接続再開します』

 

 今、目を開いて視ているのは誰だ?

 今、口を開いて話したのは誰だ?

 

 今、わたしは、誰だ?

 

『シンクロ率……は、八七・二パーセント。す、凄い……』

『どうりで神経接続にショックを受ける訳ね。……続けて頂戴』

『ハーモニクス正常。神経接続……全て完了しました』

 

 

 声が聞こえない。

――いや、聞こえている。

 

 身体が動かない。

――いや、動いている。

 

 わたしがわたしじゃない。

――いや、わたしだ。

 

 頭が可笑しくなりそう。

――いや、思考は正常だ。

 

 

 ()()()はにやりと笑う。

 自らの手を握って自分の身体の動きを確かめたい衝動はあったが、今此処で動かせばエヴァまで動いてしまうかもしれない。その衝動は胸の内で収めた。

 

 何時の間にかコックピットの前面にはエヴァの視界が広がっていた。

 赤いパトライトが警告を示した後、アンビリカルブリッジがゆっくりと離れていく。

 

 そして先程自発的に引き千切った右腕の拘束具以外を着けられたまま、初号機は移送される。行く先は見慣れた射出ゲートだ。

 

『碇司令。……構いませんね?』

 

 そこで葛城ミサトが碇ゲンドウに最終確認する声。

 

――ああ、懐かしい。

 

 確かな聞き覚えを感じた。

 

『構わん。使徒を倒さぬ限り、我々に未来は無い』

『……分かりました』

 

 返って来た冷徹な言葉に、葛城ミサトが寂しげな言葉を漏らす。

 

 わたしはただただ黙って聞いているだけだった。

 

 そして――。

 

『エヴァンゲリオン。発進!』

 

 葛城ミサトの声が掛け声になって、初号機が射出される。

 凄まじい速度で上昇していき、わたしは思わず身を強張らせる程の加速度を感じた。

 

 頭上を見上げてみれば、何時の間にか開いていたゲートの先に……夜空。

 

 非常事態宣言の発令が一二時三〇分だった事を考えれば、随分と時間が経っていた。

 

 まあ傷んだルノーでは移動に相応の時間が掛かっていたし、わたしがエヴァに乗る事を葛藤しなかったとはいえ、結局は碇シンジと変わらない時刻になったのだろう。そう理解する。

 

 そしてその夜空の下へ出た時、わたしは正面を見直す。

 そこには先の街で見た烏色の巨人。

 

 まだ浅い月に照らされ、こちらを臨む虚無の双眸は相変わらずのがらんどう。しかし先のN2兵器の被害が多少なりあったのか、啄木鳥のような仮面は斜め上へ逸れ、かつてそれがあった場所には新たに丸い仮面があった。今機能しているのはその丸いもののようだ。

 

 悠然とビルの間で佇むその姿は、正しく不気味。

 

 しかしわたしの心は真逆の昂ぶりを見せた。

 思わず、わたしの口角が歪む。

 

 胸の内でドクンドクンと音が鳴り、如何にこの日この時を待ち望んできたかを自分自身に訴えていたのだ。

 

――やっと、やっと……()()()

 

 ああ、喉が震える。

 口の中を満たすLCLの温度が上がっていく程、身体の熱が上昇していく。

 

 腕が、足が、胸が、震える。

 恋をした事は無いけれど、きっとこれは恋しいと言う感情と良く似ているんだろう。

 

 会いたかった。

 ずっと会いたかった。

 

 御伽噺の住人。

 夢物語の象徴。

 

 わたしを苦しめ続けた存在。

 

「……ふふ」

 

 思わず小さな笑い声を出してしまう。

 きっと発令所の大人達には怪訝に思われた事だろうが、この程度なら問題無いだろう。

 

 現に拘束具は外された。

 直立するエヴァの体勢が不安定になるが、倒れる事は無かった。

 

 戦えと、言っている。

 殺せと、言っている。

 

 わたしは醜悪な笑みを浮かべて、第三使徒を見据えた。

 エヴァが呼応するように顔を上げて、奴を視界の中央に収める。

 

 ドクン、ドクンと鳴る心音が耳にまで聞こえる気がした。

 

 

 さあ、早く指示を寄越せ――無能な大人ども。



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6.Angel attack.

 浅い月が淡く照らす二体の巨人。

 その片方に搭乗しているわたしからすれば、相対する未知の生命体しか臨む事は出来ないが、傍から見ればきっと壮観な光景だろう。周囲に展開されているビルが、まるで玩具のように見えた。

 

 第三新東京市。

 その役割は対使徒用の決戦都市だったか……。

 

 ()()()は仕組みに興味が無かったのであまり詳しく覚えちゃいないが、かつて碇シンジの記憶で目前の使徒『サキエル』と相対し、これを撃破した。その戦闘中に彼は意識を失くしていたが、後日目が覚めた際、その使徒の自爆により更地と化した此処に、ビルが生えてくる光景を見ている。

 呼ばれは『天井都市』というものの筈。

 大規模な戦闘の際に都市部を地下のジオフロントへ収納し、使徒との戦闘による被害から住居設備を守る機能。それがあたかもジオフロントの天井に逆さまになって都市が生えているように見えるから、そういう名称なのだろう。

 

 先の碇シンジの記憶を鑑みるに、その機能は今現在発動している。

 つまり、エヴァのコックピットから見てみれば、巨大な積み木の玩具のようにさえ見えるそのビル群は、きっと『兵装ビル』だ。壊したとしても誰も困らない。……いや、財政的には困るのか? まあそんな事ならば知ったこっちゃないが。

 

 人が居ないのならば結構。

 存分に暴れさせて貰うだけだ。

 

 

――いや、人が居たところで、邪魔になるなら構う事も無いか。

 

 

 わたしは昂ぶる心を隠すでもなく、不敵に微笑む。

 思わず声を漏らして高らかに笑ってしまいそうにもなるが、流石に相対したばかりで大声を上げて笑うのは、致命的な印象の悪さがあるか……。後が面倒くさい。とはいえ、どの道『アスカ』が来るのはまだ先だし、『綾波レイ』は現在入院中。エヴァで戦えるのは暫くわたしだけ。あまり配慮する必要も感じないが、あくまでもこの場の笑みは『緊張と高揚』の表れぐらいにしておく。

 まあ、『ラミエル』に『イスラフェル』、あとは『サハクィエル』……こいつ等はわたしが殺しておきたい。それまでにこの初号機(おもちゃ)を取り上げられるのは本意じゃないし、一応の配慮だ。

 

 まあでも、別にわたしがどうしようとそう簡単には取り上げられる事も無いか。初号機が無いと補完計画は頓挫するだろうし。……多分。まあ、仮にわたしが更迭されたとして、パイロットがあの『死にたがり』じゃ、何人ストックがいても足りないだろうし。

 

 ふむ。成る程。

 わたしや碇シンジが召還された理由の一つかもしれない。

 

 そんな思案をしていれば、わたしの高すぎるシンクロ率に言葉を無くしていたらしいE計画の責任者様が指示をくれる。

 

 歩け、と、そう言われた。

 

 可笑しな話だ。

 敵の真ん前に繰り出して、悠長に『歩け』だって? 馬鹿なのか、はたまた暴走するのがシナリオだから、わたしがやられる前提なのか……。

 

 いや、記憶によるところでは、配置を決めただろう作戦部長の葛城ミサトは黒幕側の人間じゃない。おそらく初出撃と言う事もあって、まだ勝手が掴めていないのだろう。

 まあ搭乗しているのがわたしではなく、綾波レイであれば、敵の目の前に出すのはあながち間違いでもないだろう。彼女らは対使徒のお題目を並べながらも、使徒戦が初めてなのだから。初陣で『奇襲』を思いつかなかったとしても、誰に責められる話じゃない。

 

 とはいえ予想こそしていたが、歩行の指示だなんてまるでわたしを馬鹿にしている。

 

 造作も無い。

 わたしはエヴァに歩くようイメージを伝えた。

 

 目の前のスクリーンが揺れ、巨人が一歩踏み出したと理解する。

 

 いや、こんな表現は不適切だ。

 

 ()()()が一歩踏み出したと知覚し、()()()が体感しているのだ。最早これは主観。態々小難しくごちる必要など無い筈だ。

 

 そう自覚すれば、わたしの身体がぐんと引っ張られるような感覚を覚えて、コックピットがエントリープラグの中を更に下降する。

 

 シンクロ率上昇。八九・三パーセント。

 わたしの感覚の向上は、そんな野暮ったい理屈の象徴で述べられた。

 

 回線の向こうでどよめきに似た音が漏れていた。

 が、正直に言って煩わしいだけだ。

 

 わたしは自らの唇を開く。

 

「……あれを殺す。指示はそれだけでしょ? 御託は要らないから、さっさとやらせてよ」

 

 すると返事は即座にやってきた。

 先ずは様子見。わたしがきちんとエヴァを扱えるかを見定めないと危険だと言われた。

 

 面倒くさい。

 しかしそれならば、わたしがエヴァをこれ以上ないくらいに巧く扱えるとパフォーマンスをすれば良いだけだろう。なんだ、簡単じゃないか。

 

 わたしは回線を無視する事にした。

 ならば見てろと、それだけを告げて。

 

 相対する使徒はこちらを見ているが、まるで品定めをするかのように、動きを見せていない。

 きっと初見だからエヴァが『敵』であるのかさえ判断しかねているのだろう。とはいえエヴァの波長パターンはオレンジ。ブルーの彼からすれば『敵』である事は何となく本能的に察している筈。攻撃をされるのは時間の問題だ。

 

 先手必勝。

 

 わたしは初号機に指示を出す。

 初号機は僅かなラグこそ感じさせたが、間違いなくアスファルトの大地を駆った。

 

 そのまま使徒へと真っ直ぐに突っ込む。

 が、初号機の足はすぐに止められる。

 

 打ち付けた額がキンと音を立てて、極彩色の壁に弾かれた。

 

 じんとした痛みを訴える額。

 わたしがぶつけた訳じゃないのに、まるでコンクリートに頭突きをしたかのような鈍い痛みだった。更にご丁寧な事に相乗するダメージもある。視界が眩んで、首の付け根から骨が軋むような音を聞いた。

 

 成る程。

 これがフィードバックダメージらしい。

 随分とご丁寧な仕様だ。先程のわたしは『シンクロ率によって左右される』と考えていたが、エヴァと言うもの自体が巨大である為に、ダメージも一々大きい様子。首なんて飛ばされたらひとたまりも無い。

 

 これが碇シンジを痛めつけた感覚。

 これがわたしを苦しめ続けた感覚。

 

 回線の向こうでは初号機の行く手を阻んだ壁をATフィールドと呼称していて、わたしに無駄な指示を出す余裕さえ無い程に驚愕している様子だった。

 

 

 不意に胸が震えた。

 熱くたぎるような衝動が血液と共に全身へ巡り、わたしは歯を食いしばる。それでは我慢が出来そうになかったので操縦桿をきつく握り締め、身体中に力を込めた。

 

「……邪魔」

 

 衝動のままに指示を出す。

 初号機はやはり僅かなラグと共に右腕を引く。左手は目標を確かめようと、極彩色の壁に当てる。強烈な痛みと共に弾かれるが、構う事なく踏ん張った。

 

 痛みなんて、わたしの左手は()()()()()()()()慣れている。

 

「すんなぁああっ!」

 

 そして一息。

 わたしの叫びと衝動に呼応して、初号機は右手で拳を作り、それを使徒のATフィールドへぶちかました。

 

 しかし、初号機の手は尚も極彩色に阻まれる。

 自らの右手の指に焼け付くような痛みを覚え、手首が嫌な音を立てた。思わず痛みに右手を震わせたが、わたしはその手を胸の前で今一度握り締める。

 

 大丈夫。

 折れちゃいない。

 

 そして眼前を今一度確認。

 

 初号機に正拳突きを打たれた使徒のATフィールドは、割り破る事こそ敵わなかったが、僅かな穴が開いていた。

 

 わたしはハッとする。

 すぐに指示を改め、左手をその穴に差し込ませた。右手もその後を追うかのように、極彩色の穴を無理矢理引き裂かんとさせる。

 

「うざったいなぁ、もうっ!!」

 

 そして大声を上げながら、わたしは操縦桿を再度握る。それ自体に意味は無いが、何かを握る方がずっと力が籠もるものだ。

 これ以上無いくらいの、ありったけの力を籠めた。

 

 ガクン。

 コックピットが音を立てて、更に降下をする。

 しかしそんなものを気にする余裕は無い。

 

 今は……今は何より、この壁をぶち破って、奴を殺したい。

 

 復讐が――したい。

 

 その思いが活力となり、その活力がエヴァの馬力になる。

 わたしが猛り、叫ぶのと同じくして、初号機も馬鹿でかい咆哮をあげた。

 

 そして、パワーバランスの臨界を超え、初号機の膂力が使徒のATフィールドの強度を上回る。一度勢いがつけば、あとは布でも引き裂くかのように簡単だった。

 

 バシュンと音を立てて裂けた壁。

 極彩色の残骸が欠片となって見えるが、わたしはそれが霧散するより早く初号機に駆けろと命じた。

 

 僅かなラグが感じられなくなる。

 ただただ指示に順応な操り人形のように、初号機は大地を蹴った。

 

 此処に至って漸く、使徒は初号機を敵と認識したようだ。

 顔面を狙ったように、奴の右手が差し出される。その手の長さは決して初号機の顔面をそのまま鷲掴みに出来る程では無かったが、わたしは開かれたその手の平に虚無を思わせる空洞を見た。

 

 そして、その虚無が光る。

 

 わたしは舌打ちをひとつ打った。

 脳に描く行動をそのまま初号機に命じる。

 

 駆けている為に前方へ慣性が掛かっている状況。そこへカウンターよろしく、攻撃を仕掛けられようとしている訳だ。……つまり、避ければ相手に凄まじい隙が生まれる。

 

 避けれるか?

 そんな事を考える必要はない。

 

――避けろ!!

 

 使徒の手の平から杭のような光線が放たれるのと、初号機が左前方へ体躯を捻ったのは、正しく同時。

 

「……っつぁああー!!」

 

 初号機の目前を映すスクリーンが光に包まれ、わたしの右目が凄まじい激痛を訴える。

 

 直撃?

 いや、違う。

 当たってはいない。

 

 当たっていたらもっと……死ぬ程痛い筈だ。

 

 大地へ左手と左膝を着く初号機。

 わたしは右手で右目を押さえながら、スクリーンを見詰め直す。

 明後日の方向へ右手を差し出す使徒の姿。それを脇下から見上げるかのような角度で映っていた。

 

 ほらみろ、傷ひとついっていない。

 

 初号機の無事なスクリーンが表す意味は、初号機の顔面は攻撃を受けていないという事。

 つまり、わたしの右目は『余波』を受けただけだ。回避は完遂している。

 

 右目から右手を放す。

 わたしの視界も、やはり問題は無い。

 滲んで見えるのは、LCLに涙が混じっているのだろう。痛みに対して涙が出るのは生理現象だ。気にする事はない。

 

 それよりも、この機を逃すな。

 

 わたしは意思を改める。

 即座に思考し、指示した行動に、やはり初号機は従順。

 

 愚鈍な動作で右手をこちらへ向けようとしていた使徒の脚へ、初号機の右足が足払いを仕掛ける。直撃はわたしの方が随分早かった。右手こそ初号機の頭へ向いたが、光を放つより早く使徒の体勢が崩れ、うつ伏せになるように倒れこんでくる。

 

 使徒の右手が充填していた光線が暴発した。

 が、足払いを掛けたその右足で立ち上がって、バックステップでそれを回避。光線は初号機が居た場所を薙ぎ払ったものの、初号機の背のアンビリカルケーブルすらそれを回避しきっていた。

 

 素早く距離を詰める。

 右足を振り上げ、思いのままに使徒の右腕の最も柔そうな手首の部分を踏み抜いた。

 

 鉱物を踏んだかのような痛みを足の裏に感じると同時に、何処から集音したのかグチャリと言う使徒の腕が砕ける音を確かに聞いた。

 

 使徒は痛みを感じるのだろうか?

 分からない。

 

 だけど目の前で、碇シンジの右目を焼いた、わたしの右目を焼こうとした、使徒の腕が砕けていた。

 

「……あ、あはは」

 

 それが心に満足感を与える。

 ドクンドクンと鳴る心音が加速し、わき腹から胸を這い上がるようにぞわりとした感覚を覚えた。

 

「あはは、あはははははっ!!」

 

 最早額や右目の痛みなんて感じない。

 わたしはただただこの時が嬉しくて、愉快で堪らなかった。

 

 いや、待てわたし。

 まだ足りない。

 足りないよね。

 

 わたしは口角を歪ませる。

 きっと誰かが見ているなら、狂気を孕んだような笑みに見えているだろう。だけどもうそんな事は知ったこっちゃない。

 

 殺せば良いんだろう?

 だけど『殺し方』を聞かされていないから、仕方無いよねぇ?

 

 そう気がつけば、わたしは嬉しくって仕方なかったんだから。

 

 

 使徒の背を左足で踏みつける。

 腕の骨らしきものが砕けて、糸が切れたように動かない使徒の右手。それを初号機の右手で掴み、持ち上げた。そして砕けていない部分を左手で掴み――引き千切る。

 紫色の飛沫が噴き出した。

 

 この液体は何だ?

 使徒の血液だ。

 

 血液? つまり痛い?

 痛いんじゃないだろうか。

 痛いと思う。

 痛い筈だ。

 

「あは、あははははは!!!」

 

 わたしは絶叫するかのように笑った。

 目の前で苦痛を表現する事すら出来ない憐れで可哀想な生物が噴き出す痛みの象徴を見て、心の底から湧き上がる衝動をそのまま表現して見せた。

 

 キモチイイ。

 最高だよ……。

 

 わたしは引き千切った右手を放り捨てさせると、新たな指示を出した。

 

 初号機は左足を軽く上げ、今一度使徒の背中を踏み潰すかのような勢いで踏みつける。

 その足を基点にして、体躯を半回転。

 振り向き様に右足を使って使徒の左腕を蹴り飛ばせば、やはり簡単にへし折れた。

 

 そうなればさっきとやる事は変わらない。

 右手で動かない手を持ち上げ、左手で腕を固定。

 

 そして――引き千切る。

 

 噴き出す紫色の血液。

 それはまるで宝石のように美しく見えた。

 

 初号機の手の中にある千切った左手を見てみれば、わたしの胸がドクンドクンと音を立てて、身体が疼く。

 

 これは果たして達成感なのだろうか?

 それとも全く違う何かだろうか?

 

 だけどそんな事はどうでも良い。

 ただこの時がわたしの欲を満たしている。

 それだけで十分だ。

 

 初号機の手が左手の残骸を握り締める。

 グチュリと音が鳴って、次いでバキバキと何かが砕ける音が続く。

 

 ああ、キモチイイ。

 

 この感触は、とても素敵だった。

 

 わたしは足下の使徒を見やる。

 

 両手をもいだから……あとは足。それと腕。膝。

 うわぁ、いっぱいある。

 嬉しすぎて涙が出そう。

 

 と、そこで思い出す。

 

 碇シンジの記憶によれば、この使徒は自爆をした筈だ。

 

 ちんたらしている所為でこんな楽しい事をやり逃すなんて有り得ない。あまりゆっくりしている時間は無さそうだ。

 

 まあでも、コアを傷付けなければもう暫くは楽しませてくれるだろう。

 

 

 その夜。

 わたしは使徒の四肢を引き千切り、仮面を叩き割り、肉体を裂いた。痛みを表現出来ない生命体を飽きるまで蹂躙し続けた。



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7.Angel attack.

 第三使徒のコアを初号機の右足で踏み抜き、とどめをさせば、すぐにわたしと初号機の神経接続は解除されました。僅かな静寂の後、ミサトさんの静かな声でそのままプラグ内で待機するようにと命令されます。

 

 わたしは初号機のエントリープラグの中で、暗転したスクリーンを見詰め続けていました。

 ミサトさんに返事をする事さえも出来ず、ただただ茫然と目を瞬かせるばかり。やがて自分の右手を顔の前で振ってみて、気がつくのです。

 

 動ける……。

 

 そのままその手で自分の顔を触ってみて、頬っぺたをつねってみます。……少し痛い。

 

――()()()はもっと痛かった。

 

 そう思ってハッとします。

 

 口内にあるLCLを生唾の代わりに飲み干し、右手で右目を押さえます。

 すると思い出したかのような鈍い痛み。

 それを自覚して、思わず身体が震えました。

 

 視線を降ろして、操縦桿を握ったままの左手を視界の中央に収めます。その後その手を開いて、操縦桿を握り締め直しました。……ひりひりとした痛みを感じます。

 右手でLCLを扇ぐように動かしました。すると針でも刺したかのような鋭い痛みを感じます。

 額を両手で覆えば、やはり鈍い痛み。

 

「…………」

 

 わたしは言葉を出す事も出来ず、目の前で開いたままの両手の平を見詰めます。

 その手が、紫色の特殊装甲に覆われた手に見え、赤に近い紫色の液体で汚れているように見えました。

 

「――っ!」

 

 思わず身体が震え上がって、わたしは自分の身体を両腕で抱き締めます。手で掴んだ肩が痛む程に力を籠めて、きつく、きつく……。けれど身体の震えが治まる事はありませんでした。

 

 

 その後わたしは機体回収班によってエントリープラグから出され、保安部らしき人に引き渡されました。第三使徒の残骸がそこら中に散らばった場所を連れられ、何となくこれからを察します。

 

 命令不従順。それは間違いありません。

 きっとお父さんの下へ連れて行かれ、叱責でも受けるのだろうと思いました。

 そう思い至れば、今一度出撃前の威勢を作り上げて、叱責を何とかやり返さなくちゃいけないという思案は浮かびましたが、実践出来る精神状況ではない事も同時に自覚します。

 

 びしょ濡れの制服のまま、ネルフ御用達である黒塗りの特務車両に乗せられます。車内にはわたしを連れて来たその人と、運転手が一人。助手席には誰も座っていませんでした。

 わたしの隣に座った彼に、タオルを手渡されます。

 

「状況お疲れ様でした。着替えを用意してありますので、シャワールームへ向かいましょう」

 

 黒い髪をオールバックにして、サングラスを掛けている黒スーツのその人。

 何も返事をする気にはなれず、こくりと頷いて返します。

 

 車が発進すると、わたしの隣に座る黒服が、聞いてもいないのにこれからの事を説明してくれました。

 

「シャワーと着替えが済み次第、葛城一尉が待遇についてお話する為にお迎えにあがるとの事です。ですが、お疲れのようでしたら休むようにと、司令から指示が出ております」

「……え?」

 

 その予定が予想外も予想外。

 わたしは思わず短く問い返してしまい、二度目の説明を要求してしまいます。

 黒服は嫌な顔ひとつせずに、先程と全く同じ事を話してくれました。

 

 本当に予想外でした。

 叱責されると思ったら、まさかお父さんの指示で労われるなんて。

 

 いや、もしかしたら精神状況が落ち着いてないと見て、明日に回しただけなのかもしれない。

 

 わたしは目を丸くさせつつも、再度溜め息混じりに俯きます。

 

 何でも良いや。

 とりあえず、疲れた……。

 

 そんな心地です。

 するとその気持ちを汲んでくれたのか、隣の黒服は何も喋らずにいてくれました。

 

 

 特務車両がネルフ本部に着けば、わたしは隣に座っていた黒服に先導されて、ゆっくりと歩き出しました。

 何も言葉を交わす事が無ければ、話題に挙げるものもありません。状況終了直後な所為もあってか、本部内は人気がありませんでした。きっと地上に残された使徒の残骸の回収や、エヴァの回収に出払っているのでしょう。

 

 そのまま黒服の後ろをとぼとぼと着いて行けば、やがて更衣室に辿り着きます。着替えは中にあるらしく、中の設備などを簡単に説明してくれれば、黒服は「表で待っているので何かあれば声を掛けて下さい」と言って、見送ってくれました。

 

 中へ入れば、シンジくんの時には見た事が無い景色でした。

 女性用の更衣室なので、当然です。

 とはいえ作り自体は男性用の更衣室の間取りを対照的にしただけのようなものです。ロッカーが並んでいて、中央にベンチがあるだけの簡単な作り。シャワールームへ向かう扉も、やはり男性用とは真逆の位置にありました。

 女性(こちら)特有のものと言えば……と、探してはみるものの、ありません。今まで『綾波レイ』しか使ってこなかったのかもしれませんが、鏡くらいは用意しておいて欲しいものです。

 

 思わず溜め息を吐いてしまいます。

 まあ、今の自分の顔はとても酷い表情だろうし、見なくて正解なのかもしれませんね。

 

 それよりさっさとシャワーを浴びましょう。

 ()()が鼻につくし……。

 と、その前に着替えとタオル探さなきゃ。

 

 わたしは並ぶロッカーのネームプレートを見渡します。が、そこにはまだ自分の名前が用意されていません。となると……と、今一度室内を見回して、部屋の中央にあるベンチに洋服が置いてあるのを見つけました。

 

 新品だと主張するナイロン包み。中には白いワンピースが入っています。

 そして持ち上げてみて気付きますが、洋服の下にはやはり新品の下着。胸のサイズをどうやって確認したのか、ちゃんとブラジャーまであります。

 誰でしょう、用意したのは……。

 そしてその更に下に、バスタオルもありました。

 

 誰のものとは書いてませんが、ほぼほぼ間違いなくわたしに用意されたものでしょう。此処がパイロット専用の更衣室かは定かではありませんが、職員達は今尚働いている筈。ネルフ本部に所属するもう一人のパイロットである『綾波レイ』に関しては、現在入院中の筈です。……まあ、違ったら弁償しよう。

 

 わたしは手早く服と下着を脱ぐと、ローションでもぶちまけられたかのような状態のそれを畳む事は諦め、バスタオルを持ってシャワールームへ向かいました。

 

 

 降り注ぐ湯を浴び、わたしはジッと目を閉じて佇みます。

 

 シャワールームは文字通りシャワーしか用意されておらず、当然ながら湯船はありません。先程別れ際に受けた説明で、もしも湯船に浸かりたければ宿舎に用意されていると言われました。

 思い起こせばあの黒服は随分と親切な方です。

 だけどそんな親切心にお礼すら言えない程、わたしは呆けていました。

 それを今になって「ああ、お礼忘れてた」なんてごちるのですから、我ながら腑抜けですね。

 

 降り注ぐ雫によって、身体にまとわりつくLCLの匂い……端的に言えば血液に似た匂いが流れていくような気がします。

 べたついたセミロングの黒髪を湯で一通り洗い流せば、髪を一房掴んで鼻の前へ。

 匂ってみれば、微かに香る血の匂い。

 洗い流せるのなんて気の所為も良いところ。シンジくんの記憶にある通り、微かに匂います。……シャンプーしたら少しは落ちるかな。

 

――でも。

 

 わたしは髪を掴んだ右手を返し、手の甲を鼻に押し付けます。

 先程よりも強く、血の匂いがした気がしました。

 改めて確認して、わたしは何となしに嫌悪感を覚えます。

 

 これは本能的な血の匂いに対する感想なのか、はたまた別の何かなのか……。

 

 そう思って、今度は手を開いて目の前にかざしてみます。

 よく色白と言われるわたしの肌は、露呈させている手の部分でさえあまり日に焼けてません。

 

 肌色だ。

 

 正しくそんな感想を持ちます。

 

 使徒を蹂躙した紫色の右手ではありません。

 わたしの……人間の手です。

 エヴァの手ではありません。

 

 だけどわたしは、この手で――。

 

 そう思いながら、わたしはジッとその手を見詰めます。

 

 彷彿する先の戦闘の光景が何処となく蘇ってきて、わたしの胸がドクンドクンと静かな音を徐々に速めていきます。右手を下ろし、左手で顕になっている自分の胸を押さえました。

 見下ろしてみれば、まだ成長過程だと言うのに年齢不相応には成長した胸。それを押さえる手もまた、肌色。

 

 だけど、と思って左手を胸から離します。

 その腕には、無数の白い傷痕。

 

 横に裂いた痕があれば、縦に裂いた痕もあります。一番多いのは斜めに裂いた痕。数は……数えられませんし、数えてもいません。ただ、覚えてる限りでも一〇や二〇で済まない事は確かです。

 

「……またやっちゃいそうだなぁ」

 

 その傷痕を右手で撫で、わたしはぼやきます。

 頭上から降り注ぐ湯によって声そのものはかき消されますが、自分で吐いた言葉は骨と肉を伝って直接鼓膜を揺らし、脳の中でこだましました。

 

 馬鹿。

 

 自らの言葉に対する自らの感想を、言葉に出さずごちます。

 目を瞑り、心の中で零した言葉を反芻。

 

 何を考えてるんだろう……わたしは。

 シンジくんの記憶は夢でも御伽でもなくて、事実だったじゃない。

 

 それに、()()()と約束したじゃない。

 二度と自分から死のうとしないって。

 いや、既に何回も破ってるけど。

 

 むしろシンジくんの記憶が事実なら、わたしは来る最悪の結末を回避し、最善の未来を掴み取る事だって出来るかもしれない。……ううん。人類補完計画を阻むという事は、それそのまま、そういう事でしょ?

 

 やがてそう思い至り、ゆっくりと目を開きました。

 

 見下ろす胸。そして同年代では胸以外は小柄だと言われる女の子らしい身体。

 これは決して碇シンジのものではありません。

 わたし……碇レンのものです。

 

 そう。間違えちゃいけません。

 わたしはわたしの未来を進むのです。

 シンジくんの記憶を活用こそするけれど、彼の為の復讐なんて考えている訳ではありません。

 

 第三使徒を蹂躙する必要なんて、何処にも無かったのです。

 それと同時に、わたしが自傷する理由も、もう無いのです。

 

 夢が御伽噺じゃない事を確認する為に此処に来た。

 自分が御伽噺になりたくないから戦う事にした。

 

 わたしは自分の言葉にこくりと頷くと、シャワーの横に備えられたシャンプーを手に取りました。

 無くなっていた活力を何処かから取り戻す心地で、髪を洗いました。

 

 ほら、言ってたじゃない。ミサトさんが。

 『風呂は命の洗濯よ』って……。

 

 あの言葉は御伽噺じゃないんだから。



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8.Angel attack.

 シャワールームで身体を洗った後、手早く着替えを済ませます。

 何故か下着のサイズはぴったりでした。ノースリーブのワンピースも同じく。共に白いだけで意匠も洒落っ気もあったようなものでは無く、無意味にもサイズがぴったりなので身体のラインが浮き出てしまいますが、傍目には清楚に見えるんじゃないかと思えます。……左腕の傷痕への配慮が無い事は仕方無いにしても、わたしの経歴を知っている人が用意したのだとすれば、色んな意味で凄い皮肉ですね。

 

 その後わたしは髪も乾かさない内に、一度更衣室を出ます。すると先程の黒服が扉を開けてすぐの所に立っていて、葛城一尉が来るまでは此処で待機ですと教えてくれました。ならばと先程のお礼だけを告げて再度中へ引っ込み、ベンチに腰掛けて待つ事にします。

 

 と、すれば然程待つことも無く、ノックの音が聞こえてきます。扉を開けて入ってきたのは、やはりミサトさんでした。

 

 表情としては苦虫でも潰したようなもので、罰の悪そうな顔つき。手にはお父さんに出した条件についてのものらしき封筒を持っていて、扉を後ろ手に閉めた後は、その場で溜め息を吐いていました。

 その溜め息に気圧されて、先の戦闘の事を暗に非難された気分になってしまい、巧く表情が作れません。……が、失態をしたのは自分です。わたしはミサトさんが喋るより早く立ち上がり、両手を揃えてお辞儀しました。

 

「ごめんなさい。……命令聞かなかったり、色々可笑しな事してすみません」

 

 戦闘の際、自分が何をやったか、そして自分に向けて誰がどう言っていたか。正直に言うと、覚えてはいるものの、何処か朧気です。

 激昂して喧嘩をすれば、その時は相手しか見ていない。周りの事を知覚していても、後になってみると良く思い出せない。先の戦闘を思い返してみれば、そんな心境でした。

 

 だから言葉こそあやふやなものになってしまいますが、わたしは謝らずにはいられません。

 結果良ければ全て良しとされる程、使徒との戦いは子供の振る舞いが許されたものではないのですから。

 

「……いえ、貴女は別に謝る必要は無いわ」

 

 とすれば、わたしの心境なんてまるで見透かしているかのように、諭すような声色で返されます。

 思わず疑問符を返してしまいながら頭を上げれば、ミサトさんは呆れたような表情で微笑んでいました。

 

「あの笑い声にはちょっち引いたけどね。まあ、今の貴女はネルフの所属ではないし。むしろ誰も貴女に命令する権利は無いわ」

 

 つらつらと並べられる言葉。

 わたしは思わず首を横に振りました。

 

「で、でも――」

「責任を感じてる? 日本の法律には緊急避難って言う制度があるわ。あの戦闘で貴女の命の危機が差し迫っていた以上、貴女が器物損壊をしたとしても法律上の問題は無い。加えて言うなら、エヴァンゲリオンなんてものに触れる法律は無いし、これから先作られる事も無いでしょうね」

 

 わたしの言葉を呑ませるかのような勢いで、ミサトさんは捲くし立ててきます。小難しい言葉を並べつつ、理屈で黙らせようとする……そんな姿は、わたしが覚えている印象にはありませんでした。

 

 思わず目をぱちぱちと瞬かせてみれば、ミサトさんがしてやったりと言わんばかりににやりと笑いました。

 

「まあ、気が立ってないみたいで安心したわ」

「……へ?」

「ほら」

 

 そう言ってミサトさんは歩を進め、ネームプレートが挿さっていないロッカーを開けてわたしに指差して見せてきました。そこには鏡。……あ、ロッカーの中にあったのか。シンジくんの時は気にしなかったか……ら……。

 

「…………」

 

 鏡に映るわたし。

 目鼻立ちはくっきりとしていて、誰にも言われないけどお母さんとよく似ています。

 普段はドライヤーで髪をふんわりとさせるようにしているのですが、濡れてぺったんこになっているので、今のわたしは髪型までそっくり。違うとすれば、お母さんが少し赤毛に近い黒髪だったのに対して、わたしは不本意ながらもお父さん譲りの真っ黒な髪をしている事ですね。

 

 あと、顔立ちは兎も角、普段の顔つきはよく『悪人面』だなんて言われます。

 

 そう、()()()顔つきは……。

 

 今のわたしの表情。

 口をぽかーんと開けて、目をまん丸に。

 眉までへの字を描いているおまけつき。

 端的に言うと間抜け面でした。

 

「……いやぁ、あの時ばっかしは本当にびっくりしたわよ? 急に人が変わったかのようだったし、すんごい顔して笑ってたし」

「…………」

 

 鏡に映る自分の顔が真っ赤に染まっていくのを、わたしはただただ唖然としたままの顔つきで見ていました。見られていました。

 

 ハッとして膝を折って座り込み、そこに顔を伏せて悲鳴を上げます。

 

「や、やだやだ! 何見てんの変態!」

「……変態って、あたしは女よ?」

 

 思わず罵倒したわたしに、ミサトさんは呆れたような口振りで返してきました。

 

 次いで、クスリと笑うような声。

 視界を涙で滲ませながら見上げてみれば、含み笑いをするような表情で「ほんと……変な子ねえ」などと言われます。わたしはもう、ばつが悪いやら、恥ずかしいやらで、再び顔を伏せる事しか出来ませんでした。

 

「とりあえず、そのままで良いから聞いて」

 

 そんなわたしへ強引に続けるミサトさん。

 そのままで良いなら、暗に変な顔と揶揄されたような顔を見せる必要も無いでしょう。わたしは顔を伏せたまま、頷いて返します。

 

「先の戦闘についてはお咎めなし。……本当のとこ言うと、ネルフは超法規的機関だから世間様の法律なんて通用しないんだけど、初陣だったし、使徒はしっかり殲滅したし、結果オーライってやつね。但し、精神的な異常状態であったのは間違いなさそうだから、明日からカウンセリングを受ける事。敢えて言うなればこれが懲罰かしらね」

 

 ミサトさんの話を聞いて、わたしは伏せておこうと決めた顔を早くも上げます。

 

「あの、カウンセリングって?」

 

 問わずにはいられませんでした。

 

 おそらくミサトさんには既に知れた事だとは思いますが、わたしはそれを受けた事があります。……そして、あまり嬉しくないレッテルを貼られました。

 

 病名としては、解離性同一性障害。

 簡単に言えば、多重人格者。

 

 事実としては多少差異はあれど、間違い無いのでしょう。夢の中限定とは言え、わたしの主観が碇シンジと言う別の人間と同化していたという観点で言えば、ですが。

 

 わたしはそこまで思い起こして、ふと気がつきます。

 

 あれ?

 さっきの戦闘の時の()()()……。

 

 と。

 

 するとまるでわたしの思案を読んでいるかのように、ミサトさんは少し言い辛そうに視線を逸らしてから、唇を開きます。

 

「……貴女の()()が再発したんじゃないかってね。懸念する声があったのよ」

「持病って……」

 

 持病なんかじゃない。

 わたしの夢は、確かに事実でした。

 この世には存在しないけど、確かに在った出来事の筈なのです……。

 

 まるで先の相談をけんもほろろに突っぱねられたように感じて、わたしは思わず下唇を噛んで俯きます。

 するとわたしの視線が落ちた先で、ミサトさんのヒールが床を二度打ちました。まるで意図していると言わんばかりにコツコツと音が鳴って、ハッとして再度顔を上げます。

 

 ミサトさんは目を細め、わたしを見ていました。

 しかしその視線はすぐに逸れ、わたしの視線を促します。

 

 向けられた先は――更衣室の入り口。

 

 と、したところでわたしは再度ハッとします。

 そうだ。外には黒服が居る。普通に話していれば彼に丸聞こえです。それに、ネルフ本部内は何処もかしこも監視されています。盗聴されていても可笑しくはないでしょう。

 

「……ごめんなさい」

 

 ミサトさんの振る舞いの理由を察して、わたしは思わず謝罪を述べました。

 

「今尚治療中の貴女を無理矢理乗せたのはあたし達よ。謝らなくて良いわ」

 

 と、すれば、わたしの謝罪をてんで違う方向にとって返して来るミサトさん。……いえ、これもおそらくカモフラージュなのでしょう。

 

 わたしの頭が働いていませんね。

 ネルフ本部内で件に関する話をしちゃいけないって思ったから、態々『ようこそネルフ江』を貰って初見を装ったのです。ミサトさんはその心を汲んでくれて、不要なリスクを払わずにいてくれているだけでしょう。

 

「まあ、今日は疲れてるみたいだから、宿舎で休むと良いわ。あたしも残務処理があるから、今日はあまり時間が取れないし。また明日ゆっくり話しましょ」

 

 わたしの頭が軽く撫でられました。

 小脇に持っていた封筒を手渡され、余裕があったら読んでおいてと告げられます。

 それを両手で受け取ってみれば、彼女は踵を返しました。

 

「明日は朝一〇時に迎えに行くから、それまでに起きて支度をしておく事。食事はネルフの食堂を使いなさい。案内は保安部にお願いしてあるから」

「……分かりました。ありがとうございます」

 

 わたしの礼に後ろ手で応えつつ、ミサトさんは行ってしまいます。

 更衣室にぽつんと残されるわたし。閉まった扉を茫然と見詰め続け、「そっか」なんて小さくごちます。

 

 シンジくんの時は病院に直行だったので、当日の内にミサトさんと再会する事はありませんでしたが、こうなっていれば彼もまた「あたしの家に来ない?」と誘われるのは後回しだった事でしょう。

 まあ、わたしが誘って貰えるかは別として……。

 でも考えてみれば当然ですね。作戦部長と言う役職は基本的に戦闘指揮官に当たりますが、作戦結果要項などを纏めて報告していたりもするみたいですし、当日のうちに暇になる筈も無いでしょう。

 

 わたしはふうと息を吐いて、ベンチに向かいます。

 ゆっくりと腰掛けて、書類を膝の上に。

 そのまま天井を見上げてみます。

 

 知らない天井ですね。

 知っているように見えて、シンジくんは見た事がない筈の天井です。

 

 と、そんな事はどうでもいいでしょう。

 わたしが考えるべき事は他にあります。

 

「カウンセリング……かぁ」

 

 思わず愚痴っぽく唇を尖らせながら零します。

 

 不意に目を瞑ってみれば、蘇る光景がありました。

 

『……気持ち悪いねえあの子。カウンセリングを受けさせたら多重人格者だってさ』

『面倒な子を預けられたものだ』

『本当だよ。早く引き取りに来てくれないものかね?』

 

 あれは確か、わたしが小学生にならない頃だったかな……。

 襖越しに聞こえた言葉があまりにショックで、それからわたしは誰にも『御伽噺』の話をしなくなったんだっけ……。

 

 お父さんの友人らしいけど、『先生』なんて呼びたくも無い。本当にクソババアとクソジジイとしか形容出来ない奴ら。

 育ての親だなんて覚えもありません。小学校の高学年に上がる頃になれば、わたしは自分の生活の殆んどを自分で世話していましたし。それまでもそれからも、わたしに対する優しさは全て『お金の為』でしたから……。

 それでも育てて貰ったんだから――なんて感性が持てないのは、きっと彼らの上辺だけの優しさが大嫌いだったからです。

 

 表では『レンちゃん』。

 裏では『気持ち悪い子』。

 

 ああ、吐き気がする。

 

 わたしは閉じたままの瞼を右腕で覆い、天井を仰いだ体勢のまま溜め息を零します。

 

 気持ち悪い……かぁ。

 

 そう考えてみれば、次に思い起こすのは第三使徒との戦闘。……いや、あの時は『キモチイイ』って考えていたのでしたっけ。

 

 まるで他人に身体を乗っ取られたかのように自分の感性で戦えず、『復讐』と称して使徒を蹂躙したわたし――あれは誰だ。

 

 そう考えてみれば、まるで自分が『多重人格者』と自覚しているようではないですか。

 

 わたしの別人格は『碇シンジ』だった筈。

 つまりわたしからすれば、わたしは多重人格でも精神異常者でもなかった筈なのに……。

 

 何て言うか、ショックだ……。

 

「……はぁ」

 

 二度目の溜め息と共に、わたしは自分の腕を退けて、項垂れます。

 

 

 そのまま暫く途方に暮れてから、更衣室を後にしました。

 ミサトさんの指示に従って黒服に案内して貰い、わたしにとあてがわれた宿舎へ。

 

 ご飯は食べる気がしませんでした。

 

 初の使徒戦でこれ……我ながら先が思いやられるなぁ。

 

 なんて思いながら、わたしはベッドに入るのでした。

 

 

 どうでも良いけど、ネルフはパジャマまでは用意してくれませんでした。

 ワンピで寝たなんて『あの子』に知れたら何て言われるか……。

 

 そんな事を考えて目を瞑れば、自分で考えている以上に疲れていたようです。あっさりと眠りに堕ちるのでした。




どうも、ちゃちゃです。
遅々として展開が進まない事に定評があります。案の定一話+αで八ページも費やしました。……まあ、そこは作風って事で許して下さい。場面を飛ばす事が苦手なんです。

さて、それじゃ一ページ目のあとがきの通り、本編が一人称なので描写しきれない原作との相違点などを長々とぼやきます。もしも続きが気になる方は飛ばしてって下さい。
注意事項として、本作品、本解説には独自解釈が多々含まれます。あくまでもエヴァ連の解説なので、これがエヴァシリーズにおける絶対の解答などではありません。

箇条書きにて失礼。


・『使徒襲来』
 エヴァの第一話のサブタイはこれ以外有り得ないと思う作者の拘り。

・英題
 上に同じ。

・レンのイメージは?
 一人称だし描写しないと思うので、声だけ捕捉。
 平時はシンジくんより高く、彼より低い声も出す。
 緒方様ボイスではない。しかし誰の声かと言われると悩む。強いて言えば、時代は違うけど、ヨハネ化してる時のインデックスや、ガルパンの冷泉麻子(共に井口裕香様)みたいな感じを妄想してる。あんな風に淡々と喋るイメージ。アララギさん家の月火ちゃん(も、井口裕香様)ではない。ただ、狂気化してるイメージが湧かないから、やっぱり謎。
 他は描写するので割愛。

・レンの知識
 あくまでも『記憶』で、『知識』ではない。
 中身のない辞書を持って歩いているようなもの。脳内で探せば大抵の事は分かるが、シンジが懇意にしていなかった人間しか持っていないような情報はわからない。『生命の実』や『黒き月』等の知識にしても、ミサトが調べ上げた情報がこのぐらいなのだと思って書いている。但し、その実が何なのか、『生命の実=S2機関』という図式が出来上がっていないのは、それを知っていたら面白くないのでご都合主義によって削除(。
 この弊害として、シンジとユイ、ゲンドウの補完は完遂されていない。これのフラグはゲンドウとの補完シーンを覚えているのに、彼の心境が『ユイ>シンジ>越えられない壁>その他』だという事を理解していない場面。

・シンクロ率高くね?
 初号機にユイがいる事を知ってる時点でお察し。

・発狂したな……ああ
 末期シンジが更に悪化して一周回ってまともに見えるのがレン。

・レンのメンタルは強いのか弱いのか
 自称精神年齢アラサーですから。自称。

・女子更衣室、シャワールーム
 間取り謎。其処までの資料を持ってない(っていうか一般に出回ってるの?)。已む無く適当に……。

・主人公最強なの?
 タグに入れていない以上違います。


以下、おまけ。

・なんで書き直した?
 描写の厚さが全然違う。
 誤字脱字誤用が酷すぎた。
 前作は勢いで書きすぎて、後から見直すと張るべき伏線が無さ過ぎた。

・書き方
 前作の二部と同じ似非口語調一人称。
 基本レン視点。それは前作より徹底する筈。
 レンが再起不能にでもならない限りはレン視点(番外編などを除く)。

・統一されていない口語調について
 描写は口語調ながらも『い抜き言葉』等に注意してます。但し、話す時や、思案の時ではその限りではありません(あとがきもですが)。つまり、正しい口語調の書き方ではない筈。その理由と『です子』っぽい口調は何となく……ではなく、切っ掛けは前作二部作成の時。読者に媚を売るレンが想像出来たから(敢えて丁寧に書いている描写は正に見栄っ張りなレンの心を表しています)。
 故に、『です子』口調ではない場面は、心境が乱れていたり、純粋な思案として、態と口調を潰しています。……因みに作者的には、書いていて撲殺天使ドクロちゃんが頭に過ぎります(一人称で丁寧口調な描写なのに、喋らせると口が悪いとか)。
 何せ『です子』が崩れている時は心情吐露or発狂or激昂していると思って頂ければ。


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第弐話 御伽噺と傷痕
1.Past and future.


 わたしは何処かで見た事がある教室に居ました。

 セピア色の風景。色彩に欠けた景色。

 

 ()よりずっと低い視点で辺りを見渡しています。

 視界の端に映る黒板には、達筆とは真逆を思わせる丁寧な字で、『じこしょうかい』と、態々平仮名で書いてありました。

 

 平仮名……という事は小学校でしょうか?

 よくよく見れば周りのクラスメイト達の顔に見覚えはあれど、第三新東京市へ来る直前に見た顔よりはずっと幼い姿です。

 

 そこでわたしは察します。

 これは『わたしの過去』。

 碇シンジのものではないと――。

 

「わたしはいかりれん。しゅみもとくぎもない。しょうらいのゆめは()()()()

 

 そう言って、わたしの視点の高さが下がります。

 どうやら椅子に腰掛けたようです。

 

 自分で聞いてもあんまりな自己紹介。

 視界の端で教師がハッとして立ち上がりますが、わたしの視線がその人から逸らすように窓の外へ流れれば、その人は諦めたように「次」と零しました。

 

 後ろの席からガタンと音が聞こえ、自己紹介は続いていきます。

 

 向けられた視線の先には、グラウンド。

 小学校のそれっぽく、大きな遊具があります。

 

――あれ? たしか、この時って……。

 

 わたしは何処か既視感を覚える風景に、ある予感を抱きました。

 

 自分の中でも『特別な日』だったと思い起こせる記憶だと、そう思い出すのです。

 

「あたしは『しにたい』なんていうこがだいっきらいです!」

 

 思わずと言う風に、ハッとして振り返るわたし。

 その動作はわたし自身が『この日』を思い起こしてハッとするのと殆んど同時でした。

 

 が、わたしが感慨深く感じるのとは対照的に、この記憶のわたしは敵愾心を抱いていたのでしょう。

 視界はスッと細まり、視点が先程自己紹介をした時と同じ高さになります。

 

「……なに? わたしにむかっていってんの? ていうかだれよあんた」

 

 その視線の先には赤褐色にも見える栗色の髪をした少女。

 わたしよりも席は二つ後ろで、今正に自己紹介をしていたと表すように立っていました。

 

 少女はわたしに合わすかのように目を細めます。

 

「ことしからのてんこうせいだよ。だからあなたのことはしらない。……でも、いのちをそまつにするこがきらいだからそういっただけだよ?」

 

 そして言葉の締めに、にっこりと笑って見せてくるのです。

 

 あ、ヤバイ。これ……。

 わたしは幼い自分の心境を思い起こし、そんな感想を抱きます。

 

「うっわ、うっとうしい。そういうせいぎぶったやつがいちばんむかつくんですけど」

「そうなの? でもあなたにきらわれてもべつにきにしないけど」

 

 少女はわたしの反応に対し、尚も挑発的に返してきます。

 そこで教師が「おい」と声を荒げて止めに入ってきましたが、その様子を視界の端で確認したわたしは、自分の席から離れて少女のもとへ走ります。

 

 そして右腕を振り上げて、少女も同じく右腕を振り上げて――。

 

「ちょっと! グーなんてひどい!」

「はあ!? しるか。おじょうさまなの? パーとか。ぶってんじゃねえよ」

 

 グーで殴ったわたしと、パーで叩いてきた少女。

 ダメージが大きかったのは間違いなく相手でした。

 それでも尚立ち向かってくる彼女は、きっとわたしの言い分が赦しちゃいけない事だと思っていたのでしょう。パンチを食らって泣きそうな表情になっているのに、より一層饒舌になってわたしを罵倒してきました。

 

 その後はもう滅茶苦茶です。

 

 わたしは少女の赤毛を引っこ抜かんばかりに鷲掴みにして、彼女はわたしの頬を何度も何度も叩きました。わたしが押し倒して馬乗りになれば、彼女は近くの机を引っ張ってわたしにぶつけてきます。

 やがて漸く駆けつけた教師が止めに入ってきても、わたしは彼女を蹴るし、彼女はわたしの顔を引っ掻くしで、自己紹介の時間なんて何処かに消えて無くなるのでした。

 

 そこで景色が白くなっていき――。

 

 

「……んん」

 

 目が開いて、思考よりも先に零れる声。

 それは薄暗い室内に溶けるように消え、しかし夢の中で聞いたどの声とも合致しない自分の声に、わたしの意識は急速に現実の世界を知覚していきます。

 

 身じろぎしながら瞼を開き、違和感のある視界を改めんと何度か瞬きをしました。

 ゆっくり身体を起こしてみれば、頭の中まで響くようにドキドキと音が鳴っていて、まるで早鐘を打つかのようです。思わずブラジャーを着けていない柔らかな脂肪の間を右手で押さえ、鼓動を自分の脈だと確認。その後再度目をパチパチと瞬かせました。

 そして数秒経って、ふうと一息。何時の間にか強張っていたらしい身体から力が抜け、じんわりとした温かみが身体中を巡っていく感覚を心地よく感じます。

 

 同時に鼻腔をくすぐるのは慣れない香り。

 新品の布団特有の爽やかなもの。

 

 ごくり。

 喉を鳴らして現状を確認。

 

 左右を見渡してみれば、ベッド以外は何も置かれちゃいない部屋。……ああ、そうだ。ネルフの宿舎に泊まったのでした。此処はその寝室ですね。

 

 天井を見上げてみれば、円盤型の電灯が豆球のみ点いている状態。それを確認してから左手で枕元を弄り、昨日電気を消したリモコンを探します。手探りでしたがすぐに見つかり、わたしはスイッチを入れました。

 

 パッと言う形容が似合う感じで点灯。

 突如明るくなった所為で思わず目を瞑り、顔を伏せます。やがてゆっくりと目を開き、今一度数度の瞬き。視界に映るのは真白の布団と、胸を押さえたままの右手。そして昨日着替えとして用意された白のワンピース。

 

 あー……。

 ワンピで寝るとあの子に怒られるとか思ってたんだっけ……。

 

 視界が光に慣れていく感覚と共に、わたしの意識が覚醒していくようでした。

 座ったままの体勢で両手を組み、天井へ向けて力一杯伸ばします。胸を張って腰を左右へ回し、凝り固まった身体を解していきます。

 

 それにしても――。

 

「普通の夢見るの、超久しぶり……」

 

 わたしは背伸びをしながら、誰に話し掛けるでもなくそうぼやきます。

 

 見た夢は小学二年の頃のものでしょう。多少おぼろげですが、『親友』と出会ったその日の記憶。忘れる筈ありません。あの子との出会いが、自殺志願者だったわたしのターニングポイントでしたから。

 

 と、それは兎も角、今何時だろう?

 確か一〇時にミサトさんと約束してた筈です。昨日は晩御飯も食べずにさっさと寝たので、流石に寝過ごしてはいないでしょうが……。

 

 そう思えばぐうと音を鳴らすわたしのお腹。

 見た目に変化が無いのを承知で、思わず本能的に音が出た部分を目で見て確認してしまいます。

 

 お腹、減ったかも……。

 

 そう思って、わたしはベッドから出ました。

 そのままベッドだけの寝室を後にし、覚束無い足取りでリビングへ向かいます。

 

「……あ」

 

 開き戸まで歩き、それを開けようとして、思わずクイックターン。

 ベッドまで戻って、枕元を弄ります。そしてすぐに見つけました。

 

 何故かサイズがぴったりないわくつきブラジャー。

 

 片手で掴み上げて見てみれば、思わずその『何故か』と言う部分に理由を探してしまいます。しかし当然ながら不明。考えられる可能性としては前の学校で受けた身体測定のデータが此処へ流れている事ですが……四月(あれ)からバストカップ上がってるんだけど……むー……。

 

 まあ、悩んでいても仕方無いので、さっさと着けてわたしは再度リビングへ。

 開き戸の『施錠』を解除し、ガチャリと音を立てて扉を開けます。

 

 白い二人掛けのソファーがひとつ。

 その向かいに木製の机と、壁に掛けられた液晶テレビ。

 

 家具としてはそれだけで、きっと最低限の設備を用意している部屋なのだと思います。昨日は大して気にしなかったものの、改めて見てみるとフローリングの上にカーペットさえ無いのに、幾つか家具があるというのは違和感満載です。

 

 だけどそんな違和感よりも一際目立つオブジェクトがありました。……いや、オブジェクトではないですし、『居ました』と言うべきでしょうか?

 

「おはようございます」

「……おはようございます」

 

 扉の音でこちらを振り向いてきていた顔は、ソファーに座って、首だけでこちらを向いていました。

 朝っぱらからサングラスを掛けていて、全く寝ていないかのように見えるこれっぽっちも乱れが見られないオールバックの黒髪。昨日わたしをエスコートしてくれた黒服です。

 

 名前は木崎(きさき)ノボルさん。

 

 まことに不本意ながら、一四の身空にて、赤の他人の男の人と二人っきりで屋根を共にしてしまいました……。やましい事は何もしていませんが。

 

 理由を聞けば素直に教えてくれたのですが、どうにもわたしの精神状態が懸念されたらしく、『何かあった時』の為に音が聞こえる範囲から離れないようにと指示されていたのだとか。

 この人が何かしら問題を起こすとは思わないのか。指示をした誰かさん。寝室は施錠出来たけど、『何かあった時』は躊躇なくぶち破って入ってくる筈だし、その気なら襲われてたよね? わたし。

 

「よく眠れましたか?」

 

 表情ひとつ変えず。

 口角のみを動かして喋る木崎さん。

 

 わたしは視線を逸らしながら答えます。

 

「……ええ。まあ」

 

 そんな訳ないでしょ! 野郎と一緒で安心して眠れるか!

 

 とは言ってやりたいものの、爆睡していたのだから言える筈もありません。……いびきとか掻いてないよね? もしも掻いてて聞かれてたら自殺ものなんだけど。

 

「それは良かった。お食事は?」

「いや、別に――」

 

――ぐうううう。

 

 お腹は減ってるけど、すぐに食べなくて良いやと思って返事をしようとしたわたし。だけど、がめつくもずうずうしく、わたしのお腹が何とも間抜けな音を響かせます。

 思わずわたしは木崎さんと再度目を合わせ、表情ひとつ変えずに右腕を振り上げて――ゴスッ! 恥知らずな自分のお腹へ罰を下します。

 そしてにこにこ笑顔を浮かべて小首を傾げ、「別に急ぎません」と報告をしました。

 

 すると木崎さんはこくりと頷いてくれます。

 サングラスのつるを右手で掴み、掛け直すような仕草を続けて見せて、やはり表情を変えないままに唇を開きました。

 

「そうですか。しかし先程、レン様の鞄を受け取りがてら、朝食代わりの菓子パンを用意させてしまいました。無駄にするのもどうかと思います。いかがですか?」

 

 示すように左手が挙げられれば、その手はコンビニの袋らしきものを持っていました。

 

「……あ、はい」

 

 気を使ってくれているのでしょうか?

 思わず呆気にとられてしまいました。

 

 と、お礼言わなきゃ。

 

 わたしはハッとして「ありがとう」と短い礼を述べます。

 

 すると木崎さんはやおら立ち上がり、ソファの右へ外れて、わたしに座るようにと手で促してくれました。

 

「……自分は床で食べますのでどうぞ」

「べ、別に隣でも気にしないですよ?」

「分かりました」

 

 成る程。

 

 一々気を利かせる人のようです。

 きっと思春期女子の思考を想定して、席を譲ってくれようとしたのでしょう。とはいえカーペットが無い床に直に座って食事なんて、見ているこちらが嫌な気分になります。

 本来ならば黒服がソファーに座っている光景自体も珍しいですが、これだって流石に一晩中休憩も無く突っ立っているなんて酷いと思って、昨日わたしから適当に休んでくれないと申し訳無いと告げてあるのです。

 

 改めて()()()()気の使い方は嫌だと言えば、木崎さんはこくりと頷いて「了解しました」と返してくれました。

 

 その動作のきびきびとした様ったら……って、この人ロボットじゃないよね?

 さっきから表情が全く動かないし、やたらと気を利かせてくるし、昨日の夕方から一睡もしていない筈なのに全く疲れてるように見えないし……。リツコさんのお手製保安用ロボって言われてもわたしは驚きませんよ?

 

「では改めて失礼します」

 

 そう言ってソファーの()()に腰を降ろす木崎さん。

 

 って、本当に至れり尽くせりですね。

 気を使っているのか、気遣いなのかは、分からなくなってきそうですが……。表情も読めないし。

 

 ただ、態々ソファーの右側から左側に移動して腰掛けた理由といえば、わたしがノースリーブのワンピを着ていて、左腕の傷痕が露呈しているからでしょう。そうじゃないと理由が見当たりませんし、黒服という身の上からそんな無駄な事はしないでしょうから。

 

 やべえ。

 わたしが()()()感性してたら惚れてるかも……。

 

 生まれて初めて見たよ。

 加持さんやカヲルくんレベルのイケメン。

 お父さんには絶対出来ない芸当だわ、これ。

 

「……ども」

 

 一応ささやかな気遣い(やさしさ)だったと捉え、面と向かってお礼を言うのは可笑しい気がして、わたしは会釈しながら隣に座ります。……今度別な形でお礼をしましょう。

 

 用意された菓子パンこそ誰かを使いぱしったらしく、『あんパン』とか『クリームパン』とか簡単なものしかなくてすみませんと言われました。だけど、それがとても美味しく感じたのはきっと気の所為じゃ無いでしょう。

 

 

 食事を終えれば、木崎さんは腕時計を見せてくれました。

 

 時刻は八時三〇分を過ぎたところ。

 一〇時までは時間も空いていますが、如何しますかと問われ、わたしは逆に何が出来るかを問い掛けます。

 すると昨日LCL塗れになった制服と下着を水洗いしたので、それをクリーニングに出しに行く事は出来ると返されました。

 

 えっ……。

 

 と、思って表情を固めれば、「女性職員に頼みました」と続ける木崎さん。

 思わず深い溜め息を吐き、何度目か分からないお礼を述べました。

 

 だけど答えはノー。

 此処に来たと言う事は転校させるのでしょうと問い返せば、当然の事ながら頷いて返されます。

 ならば前の学校の制服は必要無いと告げますが、しかし木崎さんは首を横に。

 

「思い出としても、退路としても、大事な意味があるではありませんか」

 

 そう零す彼の顔つきは、表情こそ全く変わっていないのに、何故か慈悲深げに見えました。

 

 鉄仮面なのに物凄く心情を汲んでくる姿に、思わずわたしの年頃の子供でもいるのかと思えば、左手の薬指に指輪が着いていました。……そりゃそうか。誰も放っておきませんよね。

 

 

 まあ、そこまで言われて無下にするのはどうかと思ったので、制服は地上のクリーニング屋さんへ持っていく事に。

 

 その後は再度この宿舎へ帰ってきては、やはり木崎さんの提案で昨日ミサトさんから受け取った封筒の中身へと目を通しました。




木崎ノボルはレンを除くと本作唯一のオリキャラです。彼が居ないと成り立たない部分があるので、ご了承下さい。


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2.Past and future.

 ミサトさんから渡された書類には、お父さんに提示した条件への回答が記載されていました。小難しい文章がずらりと並び、機械が印刷したと思わせる活字の合間合間に、後から書いたと思わしき手書きの文字が目立っています。渡された時は第三使徒殲滅後すぐだったので、急ぎで製作したのでしょう。

 

 貸し与えられた宿舎のリビングで、ソファーに座って机の上にそれを広げてみて、一枚一枚確かめていきます。すると重要な部分と思わしき場所には赤い蛍光ペンでチェックがしてあり、所々に付箋が貼ってあって、そこに解説も書いてあります。……誰がやってくれたんだろう? ミサトさんかな?

 

 とりあえずチェックしてある部分を確認していけば、わたしの手当てに関する部分に付箋が着いていて、『九九パーセントは秘匿に貯金されるわよ』とありました。

 はて? 秘匿に貯金?

 思わず木崎さんに尋ねてみます。

 

「出撃手当てが一度に一〇〇〇万(いっせんまん)円ですから、そのままレン様の手元に納まれば、高所得者になってしまう事もあり得るでしょう。非公式組織からの未成年者への給金ですから出所も公に出来ませんし、その辺りを誤魔化す為の措置では? 葛城一尉に聞いてみる事をお勧めします」

「……へ? いっせんまん?」

「此処にそう書いてあります」

 

 わたしの隣で腰掛けている木崎さんが手を伸ばし、それまでわたしが注目していた『月給三〇万円』の下の行を示してきました。そこには確かに、『一度ノ出撃ニ対シ、甲ハ乙ニ金一〇〇〇万円ヲ支給スル』とあります。

 甲はネルフ、乙はわたしですね。

 

 って、いっせんまんえん?

 

 へ? あ、うん。

 いっせんまんえんか。

 いっせんまんえん……。

 

 いっせん、まん、えん……?

 

「は、はぁあ!?」

 

 想像さえも出来ない金額に、わたしは思わず大声を上げて目をぱちぱち瞬かせます。

 

「妥当な数字かと思われます。一応、後遺症を残す怪我をした場合等の保険についても記載がありますね」

 

 茫然自失のわたしに、木崎さんが更なるフォローを入れてくれました。

 

 って、いや、妥当って……。

 妥当なの? これ。

 

 シンジくんはあまりお金持ってなかったイメージがあるんだけど……。実を言うとお金持ちだったの? 本人も知らなかっただけ……とか?

 

 ふうと息を吐いて、少し補足しましょうと木崎さん。

 うん? と小首を傾げれば、彼は書類を見ながらゆっくりとした口調で解説してくれました。

 

「戦自のデータは機密扱いなので挙げられる例はありませんが……。給与については尉官待遇にパイロットの資格手当てといったところでしょう。出撃手当てについては死亡する危険性が高い以上、あって然るべきです。金額はセカンドインパクト以前の自衛官の航空機等のパイロット手当てと比べればかなり多いですが、エヴァのパイロットの希少性に加え、相手が未確認生命体である事を鑑みれば、妥当だと思われます」

「……へ、へぇ?」

 

 思わずとぼけたような返事をしてしまいながらも、言われた事を反芻。

 

 成る程……。今現在世界一の軍隊と名高い戦略自衛隊の情報が無いのは残念ですが、セカンドインパクト前にあった自衛隊と言うものと体制自体はあまり変わらないと学校の授業で習いました。それと比べて貰えるとしっくりきますね。

 それでも具体的な金額を聞けば、わたしの出撃手当てには尋常じゃない補正が掛かっていると思えますが、エヴァで戦闘機二〇機分の活躍を出来るかと聞かれれば愚問です。そう言う話だと思います。……多分。

 

 兎も角。

 と、木崎さんは話を強引に区切ります。

 

「金額が大きいと不安に感じるかもしれませんが、別段司令はレン様にパイロット以外の役割をさせようという算段ではないでしょう。しかし給金も、定期訓練と有事を()()()()こなして頂ければ、ですが」

「……問題があるとなにか?」

「厳罰の項目に『処罰ノ対象ニ給与減額ヲ含ム』と書いてあります」

「ほんとだ」

 

 しっかりしてやがる。

 わたしはこれを定めたのがお父さんだと勝手に決め付けて、そう思いました。

 

 命令違反は……まあ、やりかねないよね、わたし。

 気をつけましょう……。

 

 よし。

 給与については理解しました。

 ならば他はどうだろう? と見ていって、次にわたしの目が留まった赤ペンの場所は『監視義務』について。

 

「あ、木崎さんの名前だ」

「はい。僭越ながら、自分がレン様の担当をさせて頂きます。他のパイロットには基本的に本人の目に留まらない場所で護衛する形なのですが、申し訳ありません」

 

 木崎さんは表情のひとつも変えずにそう言って会釈してきます。

 

 と、いう事は――。

 わたしにだけ木崎さんと言う護衛が四六時中着いて回ると?

 

 聞けば二つ返事でそうだと答えられました。

 理由は……当然なのですが、わたしの『持病』と『経歴』を踏まえての事です。そりゃあまあ、手首切るわ、喧嘩するわ、発狂するわ……うん、お目付け役を付けられて然るべしかもしれません。

 

 街中では常に隣に居て、学校では廊下で待機して、家でも成る丈近くに待機すると説明されました。名目上は要人の娘の護衛としてなんだとか。

 一応最低限のプライバシーを守る為に他の上官と居る時は席を外してくれるそうですが……聞いたわたしは思わず唖然とします。

 わたし自身はやる事を考えた事すらありませんが、シンジくんの記憶を元にして敢えて主張するなら――おちおち自慰行為すら出来ないじゃないですか! いや、しないけど。

 

「あの、木崎さんの休みって?」

 

 わたしは頬を引きつらせながら、一応聞いてみました。

 

「ありません」

 

 すると即答。

 しかも残念がる素振りすらありません。

 

 わたしは思わずソファーの上で身を引き、木崎さんを睨み付けて唇を開けます。

 

「さ、さてはあんた……ロリコンだな」

「自分は以前、司令の身辺警護をする部隊の隊長を務めておりました。弁えております」

 

 すると眉すら動かさずの返答。

 サングラスの下に見える双眸はこちらをジッと見詰めていて、ぶれる事を知らないかのようでした。

 

 その迷いが無い姿に気圧されて、わたしは固まり、頬を引きつらせたまま視線を逸らします。

 

「……ごめんなさい」

「いえ、疑う気持ちは分かりかねますが、察せます」

 

 ああ、もう……。

 なんかすっごく頼りになる人だ。

 

 わたしはそんな風な感想を持ちました。

 多分木崎さんが実はロリコンだとしても、わたしの目では見抜く事も出来ないでしょうね。あはは……。

 

 ふうと木崎さんは溜め息をひとつ。……と言ってもやはり表情は崩れないので、全然溜め息(それ)っぽくはないのですが、身体から力が抜けたように見えました。

 彼はわたしをちらりと見て、肩を竦めて見せてきます。

 

「必要とあれば理由を用意します。ですが、とってつけた風な話は嫌いです。自分の行動理念はセカンドインパクトで死んだ知人達の為。故に必要とあれば、この身体を貴女の盾にするだけです。そこに情を持ち込む程、自分はこの職にプライドが無い訳ではありません」

 

 そう言って木崎さんは立ち上がります。

 少し喋りすぎましたと言って、玄関へ続く廊下へ。

 そこで立ち止まって、明後日の方向を向いてしまいます。

 

 わたしは言われた言葉を今一度反芻してみます。

 

 自分が失礼な事をしたと察するのに、一秒も要りませんでした。

 

「木崎さん」

 

 話し掛ければ、木崎さんは顔だけで振り向いてきます。

「何でしょう?」と、言葉を仕草も無く吐き出す様は、如何にも黒服っぽさがありました。

 

「この仕事、どれぐらいですか?」

「足掛け一八年……というところですね」

 

 成る程。

 セカンドインパクトの前からそういう仕事をやっていたと……。

 当時も今と同じく護衛をやっていたのでしょうか? とはいえそこまで根掘り葉掘り聞くのは失礼も度が過ぎると思い直します。ですが、どうせですし失礼ついでで気になっていた事を言ってみましょう。

 

 わたしは微笑んで見せて、唇を開きました。

 

「もし良かったら、様付けは止めて欲しいです」

「では、なんと?」

 

 木崎さんはやはり表情のひとつも変えずに問い返してきます。

 

 うーん。呼び捨てでも良いのですが、それはそれで木崎さんの立場からすれば呼び辛いかもしれません。あくまでもわたしは護衛対象で、おそらく雇用主はお父さんでしょうし、周りの視線もあるでしょうから。

 

 わたしは小首を傾げて、虚空を見上げながら零すように提案します。

 

「……レン()()()とか?」

「お断りします」

 

 即答で断られました。

 

 うん。

 知ってた……じゃなくて、そんな予感がした。

 なら何故言ったのよ、わたし。

 

 そんな風に溜め息混じりになってそっぽを向くわたしへ、木崎さんも溜め息混じりなご様子でした。

 

「レンさん。で、よろしいでしょうか?」

「あ、はい。それで」

 

 やがて彼自ら挙げてくれた提案で話は決着。

 

 そんな事より早く書類を確認して下さいと続けられて、わたしはハッとして書類へ向き直ります。後ろからあと五分でミサトさんが来る時刻だと言われ、思わず焦る心地に。

 しかしながら給与と監視の要項以外に目立った項目はありませんでした。シンジくんの記憶ではなあなあになっていたような気がするのですが、秘匿義務などは彼も()()()()心得ていましたし、前提となる知識があれば、彼の記憶で知っていたものと大差が無い部分はすんなり理解出来ました。

 

 やがてミサトさん来訪。

 木崎さんが玄関を開ければ、彼と入れ替わる形でリビングにやって来ます。彼は言わずもがな、わたしが『上官』と居る時こそ気の休まる時なのでしょう。廊下で待機しているのでしょうが、少しは休めると良いななんて思いながら、わたしはミサトさんを迎えました。

 

 服装は昨日と変わらず、襟が立っているノースリーブの黒い服。流石に本部内でサングラスは着けていません。意味も無いでしょうし、当然ですが。屋内でサングラス掛けてる変質者なんて、お父さんだけで十分です。

 

 わたしがソファーから立ち上がって声を掛ければ、ミサトさんは柔らかな表情で微笑んでいました。

 

「ごめんねぇ。忙しくって時間ギリギリになっちゃったわ」

 

 開口一番に謝罪。

 まあネルフの仕事は軍務とも言ってしまえる訳で、本来なら一五分前行動が望ましいのでしょう。シンジくんの記憶で『アスカ』がそんな事を言っていた気がします。

 

 わたしは首を横に振って応えました。

 

「いえ、丁度書類に一通り目を通したところです」

「そ。色々補足しておいたけど、分からない所は無かった?」

 

 ミサトさんは腰に手を当て、ふうと息を吐くような姿で問い掛けて来ます。その姿に何となく彼女が疲れ果てている事を察し、話しぶりから『赤ペン』の人は彼女だったのだとも気がつきました。

 疲れているのにわたしに代わって一度書類へ目を通して、補足を入れてくれたのでしょう。そう思うと申し訳無い気分にもなりますが、わたしは罰悪い表情ですみませんと断りを入れます。

 

「秘匿貯金のところが分からなかったんです」

「ああ、それはどのみち説明しようと思ってたから気にする必要はないわ」

 

 そう言って彼女はこちらへ歩を進めて来ます。

 空いているソファーの左側へ、淑女にあるまじき「どっこいしょ」の掛け声と共に腰を降ろしました。

 

 いや、何も言うまい。むしろミサトさんに淑女っぽさを求めるなんて……あはは。

 

 そんなわたしの心境なんて知る由も無く、わたしが続いて腰を降ろすなり、ミサトさんは書類を手で退けていきます。雑な動作で紙を散らばらせると、付箋が目印になったのか「あったあった」と給与について書かれていた用紙を取り上げました。

 

「えっと、レンちゃん。所得税って分かる?」

「あ、税金対策……って言うか、お金の出所が明かせないからじゃないかって事は木崎さんが教えてくれました」

 

 教えを請うにあたって口を挟むのは野暮でしょうが、疲れているミサトさんに無駄な話をさせるのは忍びなくって、わたしは先程木崎さんから教わった事を伝えます。

 と、すれば当然のようにミサトさんは首を傾げます。

 

「木崎って、貴女の護衛……つまりさっきそこに居た彼よね?」

 

 わたしははいと頷いて、他に受けた補足を伝えました。

 すると目を丸くさせていたミサトさんは感心したようにへぇと声を漏らします。

 

「まあ、ほぼほぼ彼の話で合ってるわね。唯一必要な補足としては、この秘匿に貯金されたお金は何時でも好きなように使える訳ではない事ね」

 

 幾らか手間が省けた事で気が抜けたのか、両手を組んで天井に向けて伸ばし、「んーっ……」と短い声を漏らすミサトさん。そのまま力を抜いて、ソファーに深く凭れ掛かりふうと溜め息。

 

 わたしは不意に苦笑を浮かべました。

 

「お疲れですね……」

「ちょっちねー。……って言うか、他人ごとみたいだけどほっとんどレンちゃんの所為よ?」

 

 ソファーの背もたれに頭を預け、視線だけで咎めてきます。とはいえ表情は悪戯っぽく笑っていて、怒っているようには見えませんでした。

 

 わたしは意図的に眉をハの字にして、更なる苦笑を浮かべて肩を竦めます。

 

「知ってます。ごめんなさい」

「……もう、可愛げないわねえ。もっとしおらしくなさいよぅ」

「昨日気にするなって言ったのミサトさんだもん」

「へえ、言うじゃない」

 

 呆れたように肩を竦めるミサトさん。

 わたしは笑って返しました。

 

 まあ、申し訳ない気持ちは一杯なのですが、こうして茶化してくれるのは逆説的に捉えろと言う事でしょう。気にするなと、暗にそう言ってくれているのだと思います。

 

「ま、話を戻すわね」

 

 今度は「よっこらせ」の掛け声で身体を起こすミサトさん。

 その動作にわたしがどんな感想を持っているかを気にした風も無く、彼女は腕と足を組んでから続けました。

 

「秘匿にする意味は分かる?」

 

 問い掛けられて、わたしは先程ミサトさんに話した木崎さんから聞いた話を思い起こします。

 思わず小首を傾げました。

 

「わたしが未成年だから?」

 

 思い起こした中で一番理由らしい理由を取り上げてみます。

 ミサトさんはこくりと頷きました。

 

「有り体に言えばそうなるわね。だけど未成年者だから給金出来ない理由って?」

 

 尚も話を掘り下げられます。

 わたしは大事な事に気付けと言われてると察して、真面目な表情で返します。

 

「税金?」

「そ。でも税金なんて払っちゃえば良いだけじゃない。むしろそれが正しいわ」

「……うん」

「じゃあ、なんで?」

 

 話は更なる深みに。

 

 わたしは床へ視線を落として思案してみます。

 

 例えば税金を払ったとする。

 中学生のわたしには消費税以外の税金なんて払った経験は無いのですが、授業で習った『所得税』の仕組みを思い起こします。確か給与から半ば自動的に引かれて――。

 

「あ……そっか」

 

 そこでわたしは気付きました。

 ミサトさんへゆっくりと向き直って答え合わせをします。

 

「わたしがネルフから貰ってるって知れたら、金額や年齢的にわたしがパイロットだって分かっちゃう。そうなると公的な組織にわたしの存在が割れちゃう。そこから情報が漏洩する可能性がある。戦自は共闘する事もあるだろうから兎も角として……軍務機関以外のところに漏れるのはあまりよろしくない……ってところですか?」

 

 するとミサトさんは目をまん丸に。

 唖然としたと言わんばかりに口をぽかんと開けて、右手でその唇を押さえていました。

 

「おっどろいた……。まさかそこまで理解すると思わなかったわ」

 

 そしてそんな風に零します。

 成る程、聞こえは不名誉ですが、正解だったようです。

 

 何度かこくこくと頷いてから、ミサトさんはわたしの頭を撫でてきました。

 

「まあそう言う事なのよ。貴女の事は世間的には中学生として通しておきたいから、いずれ成人して堂々とネルフ所属と言えるまでは、司令からのお小遣い程度しか支給出来ない訳。もしもそれまでにネルフが解体とかになっても、そうなればパイロットの任も終えてるから幾らでもやりようがあるわ」

 

 そう補足されます。

 つまるところ月三〇〇〇円、出撃一回に対して一〇万円のお小遣いだという事です。因みに生活費は別途支給されるそうなので、明らかにわたしはシンジくんより優遇されています。……お父さんからのお小遣いってのは癪に障りますが、まあおそらくあの人のポケットマネーから出るって事でしょうね。財布を軽くしてやる事は別に悪い事じゃないでしょう。主に嫌がらせ的な意味で。

 

 しかしこれは主張した自分を褒めてやれば良いのか。はたまたシンジくんの不遇っぷりを哀れめば良いのか……。

 

 シンジくんが銀行に幾ら持っていたかはわたしの知るところではありませんが、アスカにジュースを奢るだけで財布の中身を心配していた覚えがあるので……っと、ここで不意に思い起こしますが、『サードインパクト』が起こると、わたしの給与が確約されたところで意味がありませんでした。世界が滅べばお金なんて意味が無くなっちゃいますから。

 

 むう、これは何としても邪魔せねば。

 

 わたしは思わず決意し直す心地です。

 お金に目が眩んだのは否定しませんが、やる事は変わりませんし、別に良いでしょう。



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3.Past and future.

 わたしが給与と手当てに関する事に得心がいった頃合を見計らったように、ミサトさんはさてと言って強く拍手を打ちました。それと同時に彼女は勢いよく立ち上がったので、同じソファーに腰掛けていたわたしは思わず小さな声を上げて身を引いてしまいます。

 しかしそんな事はお構いなしと言ったご様子。彼女は満面の笑みで、「ちょっち休憩がてらドライブにでも行きましょ」だなんて言うのでした。

 

 えっ……。

 

 わたしは思わず固まります。

 

 確かにミサトさんのドライビングテクニックは目を見張るものがあるでしょう。わたしを迎えに来てくれた時、落下してくる瓦礫を全て華麗にかわした姿なんて、わたしの胸中の琴線に触れるかと言う程でした。有り体に言って、『運転は荒いけど凄い!』だなんて思ったのです。

 しかし今のミサトさんは疲労困憊に加えて睡眠不足。おまけに愛車はボロボロ。

 そんな状況で『ドライブ』をしようだなんて、パッと思いつく懸念要素を数えてみるだけで片手では足りない話です。だからわたしは大声を挙げて嫌だと主張したのですが……「大丈夫大丈夫ー」などという、いよいよ何も考えていないような発言と共に腕を引っ張られ、拉致されました。

 そして「では、此処で待機しております」なんて言って敬礼している木崎さんに見送られ……出発。

 

 おい、護衛、働け。

 

 

 駐車場に着けば、見た目だけは綺麗なルノーが此処へ来た時と変わらぬ位置に()めてありました。

 跳ねた時に擦ったのか、バンパーの下部分が少しばかりへしゃげていますが、シンジくんの記憶にあるルノーよりかはよっぽど綺麗です。まあサスペンションが傷んでいるのですが、それは見た目には分からないものでしょう。

 

 ミサトさんに促され、わたしは渋々車内へ。

 助手席へ乗り込み、彼女が運転席に座るのを待ちました。

 

 アルピーヌ・ルノーって、元は外車なのでしょうが、日本での利便性の為かミサトさんのこの車は右ハンドルです。なのでわたしは左側。右側に座ったミサトさんは、慣れた様子でキーを差し込みました。エンジンを掛けながら、何処からかサングラスを取り出して装着。

 その頃を見計らって、わたしはげんなりとしながら小首を傾げます。

 

「……で、何処に? 事故だけはマジで勘弁ですよ?」

 

 すると少しばかり驚いたように、薄く唇を開いて返して来るミサトさん。薄暗い車内に加え、サングラスを着けているので双眸は確認出来ませんが、きっときょとんとした風な表情なのでしょう。

 

 ミサトさんは「んー……」と言って頬を掻きます。

 その様子にわたしは思わず怪訝な風の表情で返してしまいますが、彼女は気にした風も無く苦笑を浮かべました。

 

「ネルフには長袖の洋服なんて制服以外に無いし、あと貴女の新しい制服も長袖だから特注になるし……買い物のつもりなんだけど」

「へ? 買い物?」

 

 思わぬ発言に、今度はわたしがきょとんとした表情になってしまいます。

 

 ミサトさんは二度三度頷き、「だって気になるでしょう?」と言って、わたしの()()を指差してきます。

 

 思わず視線を自分の左腕へ。

 そこには無数の傷痕。

 昨日の夕方に着替えた白いノースリーブのワンピースのままなので、当然のように露呈しています。

 

 わたしは思わず「あ……」と零して、罰が悪くなる心地で頭を下げました。

 

「……ごめんなさい。お願いします」

「オッケー。んじゃ、揺れるけど我慢してねん」

 

 わたしの謝罪を軽く流すような雰囲気で、ミサトさんは笑います。そして即座にルノーはガタガタと揺れながら、発進していくのでした。

 

 パワーハラスメントと良く似たサボタージュのお付き合いかとばかり思っていたわたしとしては、少しばかり罰悪く思う心地です。

 

 日頃の行い……と言うか、主にシンジくんの記憶でのミサトさんは、心情的に頼りになるお姉さんやお母さんのような印象がある反面、私生活はずぼらでだらしない人でした。使徒戦での采配だって、動けない状態のシンジくんへ『避けろ』との指示や、完全に行動が読めない形状をした敵に対して威力偵察さえしなかったりと、その気質は目立ちます。ですが、肝心なところで運が良く、結果として全ての使徒を殲滅するに至らせた人物です。

 きっとシンジくんからすればなくてはならない人で、最も信用していた人なのだと思います。

 そしてそれはわたしからしても同じ。

 良くも悪くも理解している人物で、ミサトさんからの見方は兎も角、わたしからの印象は欠点も美点も振り切れている訳です。

 

 つまるところ、ミサトさんが仕事をサボタージュして考え無しなドライブに行きそうだと思う心もあれば、その実はわたしへの配慮だったとしても何ら疑問では無いと言うか、腑に落ちると言うか……そう思うのです。

 

 欠点と美点で対極の印象を生み出す人。

 そんな人だからこそ、わたしが表情に困れば、「気にしなくて良いわよぉ。サボりたかったのも本音だしぃ」なんて返してくれるのでした。

 

 

 その後、わたしとミサトさんは第三新東京市の隣町でお昼前まで買い物をして、『第壱中学校』の制服を発注しに行きました。その採寸をした時にわたしの胸のサイズを見て「本当に中学生?」と苦笑いをしていましたが、爆乳のお姉さんに言われましても……ねえ?

 

 お昼を過ぎた頃合になると、レストランで昼食をとりました。

 木崎さんとの時とは違って、楽しく会話しながら食事をするのは新鮮で……これだけの為に此処へ来た価値があったんだと思います。

 シンジくんは当初慣れなくて、ぎこちなかったけど、どうもわたしからすれば親しい人と楽しく食事をするのは憧れだったようです。自分の事ながらも、そう再確認するかのような心地でした。

 

 しかしながらそんな楽しい一時は、唐突に終わりました。

 ある時ミサトさんのスマホが鳴って、電話口の向こうから怒声が聞こえてきたのです。

 

 言わずもがなでしょう。

 

 リツコさんが激昂していました。

 

『貴女何処行ってるの!? サードチルドレンの登録だけの筈でしょう!?』

 

 と、それはそれは凄まじいお怒り具合でした。

 

 という事で食事はさっさと済ませ、帰路へ。

 

 店員さん一押しだった薄手の白い長袖のカットソーと、ベージュのキャミソールを組み合わせたレイヤードワンピースを着て、わたしはルノーに乗り込みます。ミサトさんも同時に乗り込んで、発進。

 相変わらずガタガタと揺れる車内ですが、怒られた筈のミサトさんが微笑んでいれば、わたしも久しぶりの買い物で自然と相好が崩れます。流石に楽しく談笑しあう雰囲気ではありませんでしたが、笑顔でいれば自然と会話は弾むというものです。

 

 理由はどうあれ、わたしが殲滅した使徒がバラバラになっている事が幸いして、全部ジオフロント内に回収が出来たとか。しかしその指揮が忙しくて、ミサトさんは今日も本部に泊り込みなのだとか。同じく市民に使徒の残骸を見られる訳にいかないのでそちらを優先していた為に、わたしの事は後回しになっているのだとか。

 

 話の折々で聞かされるシンジくんの時との相違に、思わずわたしは目から鱗の心地でした。

 どうやら使徒が自爆しなかった事は、方々に色んな影響を与えているようです。……なんだっけ、こういうの。物理の話なのかは分からないし、シンジくんの世界を『パラレルワールド』だと言って良いのかは分かりかねますが、『バタフライ効果』って言うんでしたっけ?

 

 と、そんな風に考えて、わたしはハッとします。

 

 ネルフの監視が外れている現状。

 そして、盗聴される心配も無いような場所。

 

 なのにミサトさんは昨日話したわたしの事情について、何も聞いてこようとしていません。

 そう気がつけば、思わずわたしは小首を傾げてしまいます。

 

「あの、ミサトさん」

「なぁに?」

 

 円満……とまではいかないまでも、朗らかとした雰囲気のまま、ミサトさんは笑顔でわたしをちらりと一瞥してきます。辺りは交通量の少ない直線で、ガタガタと揺れるルノーでも事故の危険性は少ないような場所でした。

 それを確認してから、わたしは改まって真面目な声色で問い掛けます。

 

 何も聞かないのか、と。

 

 するとミサトさんはしばし無言に。

 前方をじっと見据え、微かに微笑んだような表情のまま、アクセルを踏み続けます。

 

 やがてわたしが視線を前方へ戻した頃になって、「そうねぇ」なんて言葉が聞こえてきました。

 横目で見やれば、サングラスの下の双眸は細められていて、真面目に考えていると示すようです。

 

 それからたっぷり三〇秒は経って、ミサトさんの唇が動きました。

 

「正しい事をしているからってその人の全てを信じられる程、人の心は簡単に出来ていない。例え今信じて歩んでいる道のりの先に、期待を大きく裏切る事があっても、裏切られるまでは気付けない。……あたしはそうだった。今が全てじゃないって知った時には、全て手遅れだった事もある」

 

 だから、と、そう区切って、ミサトさんはサングラスを額に上げます。顕になった双眸で、わたしを横目にちらりと見て、にっこりと笑いました。

 

「貴女を信用する為に。貴女が何の為に此処へ来たのか……。貴女の気持ちそのものを聞かせて欲しいと思うわ」

 

 わたしはゆっくりと頷きます。

 

 挙げられた例は、きっとミサトさんの胸にある大きな傷痕の話なのでしょう。直に見た記憶はありませんが、セカンドインパクトの際に負った二つの傷は、直に見ずとも『触れた』事はありました。そう、心の傷痕の方に……。

 

――今の選択が必ずしも絶対じゃない。

 だから後悔しないように、出来る事をやりなさい。

 

 今わの際に、ミサトさんがそう教えてくれた『記憶』を思い起こし、わたしは薄らと微笑みます。

 胸が熱くなる思いを尊く感じて、右手で胸元を押さえました。

 

 うん。

 大丈夫。正直に打ち明けよう。

 

 わたしは前方へ向き直ったミサトさんの横顔へ向き直り、ドクンドクンと聞こえる心音を心地よく思いながら、唇を開きます。

 そして一字一句、自ら確かめながら、ゆっくりと話していきました。

 

 

 生きてて良いんだよって、生きててくれてありがとうって、そう言われたい。

 ただいまって言えば、おかえりって言って貰える。そんな当たり前な幸せを、ちゃんと掴み取りたい。

 

 わたしが碇レンとして、生きていたい。

 

 世界がどうなっても良い。

 滅亡しようと知ったこっちゃない。

 だけどわたしが生きていたいから、戦う。

 

 その為にこの街に来た。

 

 碇レンとして歩く為に、此処に来た。

 

 

 そう言って見据えた正面。

 視界の端に、『ここから第三新東京市』との看板が眩しく映ります。

 

 ミサトさんは何も応えてくれませんでしたが、ガタガタと揺れるルノーと、わたしの心音がただただ心地よく感じました。

 

 

 シンジくんの記憶についてはまた後ほど詳しく聞かせて欲しい。

 ルノーを駐車場に駐めたミサトさんは、そう言って仕事に戻っていきました。

 両手に買い物をした紙袋を引っ提げて、エレベーターで彼女の背を見送り、わたしは宿舎のあるフロアへ。

 

 どうやら今のミサトさんは多忙極まりないようなので、今暫くはゆっくり話す暇が無ければ、わたしの寝床ももう暫くはあの宿舎になりそうです。

 今回のドライブはそれに対する出来る限りのフォローだったのかもしれません。

 

 ってか、同居しようって誘って貰えるのかな? 今のままずるずるといって、木崎さんと宿舎に住む事になると色々先行きが不安になるのですが……。いや、ってかそもそも、本部内の宿舎なんて宿直の職員の為のものの筈です。シンジくんだって当初はもっと別の場所に個室を用意されていた覚えがあります。

 とはいえ、悩んでもわたしが答えを出す訳でもありませんし……。

 

 そう思案をしていれば、チンという音と共にエレベーターの扉が開きます。仕方なくわたしは思考を放棄して、俯きがちに歩を進めました。

 と、すればすぐに、通路の先から誰かが歩いているような音が近付いてきます。

 顔を上げて見てみれば、遠目に黒いスーツ姿の男性。

 

「あ、ども」

「ご苦労様です。帰還したと聞きましたのでお迎えにあがりました」

 

 こちらへ歩いて来つつ、淡々と述べるのは言わずもがな。木崎さんでした。

 

「お荷物をお持ちしましょう」

「え? 別にこれぐらいいいですよ」

「お気になさらず。さあ」

 

 木崎さんはわたしの目の前まで来ると、半ば強引に紙袋を取り上げます。そしてさも何でも無い風に踵を返し、こちらを肩越しに振り返ってきて、無表情のまま口角だけを動かして「宿舎に向かうのですね?」と確認してきました。

 僅か一日にしてもう見慣れてしまいそうに思える鉄仮面ぶりに思わず苦笑しながら、わたしはそこまでして貰ったのを無下にする訳にもいかず、「お願いします」と返しました。

 

――そう言えば……。

 

 わたしは先を歩く木崎さんの背中を見ながら不意に疑念を抱きます。

 

 シンジくんの記憶では黒服なんて恐怖の対象に近かった筈なんだけど……。

 

 と、そう思うのです。

 話す時は木崎さんみたいな丁寧口調ではなく、ミサトさんが相手でさえ命令、指示の口調だった気がしますし、お父さん程ではないにしろ高圧的で、有無を言わせず任務をこなすイメージがありました。

 任務に対する真摯さは木崎さんも同じように感じるのですが……なんだろう、シンジくんの時に持った彼らへのイメージが『冷徹』なら、わたしは真逆のイメージを持ちそうにもなっています。

 

 何が違うんだろう?

 そんな風に思いましたが、これも宿舎の件と同じく、わたしが悩んでも答えが出ない事だとすぐに気がつきました。



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4.Past and future.

 宿舎に戻ると木崎さんがこれからの予定を教えてくれました。

 先ず、先程確認した書類にサインが済んでいないので、ミサトさんから説明を受けた上で問題が無いようならサインをする事。次に、それを持って副司令のもとまで持っていく事。それらが済めば、一七時から赤木博士の所へ行き、カウンセリングを受け、エヴァの説明を受ける事。

 どうやら今日は過密スケジュールのようです。……まあ、当然ですが。

 

 しかしながら不意に気になって、率直に聞いてみたところ、どうやらわたしの予定については、事のついでで木崎さんが管理してくれているそうな。思わず秘書かよ! と突っ込みたくなりましたが、まあお目付け役とするならそういう役回りも仕事の内……なのかなぁ? 分かんないや。

 

 

 とりあえず書類を今一度確認。

 給与や木崎さんの件は先程確かめた通りなので、他の部分を見ていきましょう。

 

 とはいえそれらも先程確かめた通り、殆んどがシンジくんの時と変わりません。

 大事な事を取り挙げるとすれば……。

 

 訓練は週六日で、学業と並行して行う事。有事の際は早退、欠席する義務があり、重要な訓練の際も欠席する事が有りうる。また、非常召集に迅速な対応が出来ない地へ行く事は慎む事。

 ネルフの情報については全てにおいて秘匿義務があり、特に第三新東京市外部に漏れるような行動は慎む事。如何なる理由で免職になっても生涯監視がつき、ネルフに不利益な情報を漏洩した場合は逮捕も有りうる。

 如何なる理由であっても指示なくエヴァに搭乗しない事。私的占有は犯罪行為であり、如何なる処分も有りうる。

 

 要約すればこんな感じの三項。

 これが重要……ですかね。

 

 一つ目は当然の事です。

 むしろ世界を懸ける戦いだというのに、週一で休みがある事自体驚きです。

 

 二つ目も当然。

 シンジくんの記憶だと、ミサトさんが言っていましたし。

 

 三つ目は……シンジくんが一度犯した罪ですね。

 如何なる処分も、というのは、暗に死刑も含まれている筈。まあ、人類補完計画のキーパーソンに近い筈のわたしが殺される事は早々無いと思いますが、『LCL圧縮濃度を最大にする』ぐらいな事は当然にして有り得る事でしょう。

 

 わたしは机の下に置いてあった自分の鞄を取り上げ、中から筆箱を取り出します。あまりごちゃごちゃと物を持つ趣味は無いので、黒のボールペンはすぐに見つかりました。

 そして更に、木崎さんから「印鑑はお持ちですか?」と問われたので、これも鞄から取り出します。シンジくんがどういう準備をしてきたかはあまり覚えが無かったのですが、わたしは此処へ来るまでに『住民票』と『印鑑』、『通帳』くらいのものは用意して来ています。

 記憶があるので当然な事と言えば当然なのですが、横で見ていた木崎さんに用意が良いですねと褒められました。

 う、嬉しくなんかっ……いや、普通に嬉しいですね。思わず顔がにやけてしまうのは、褒められた事が少ないからでしょう。

 我ながら哀れと言うか、何と言うか……。

 

 そんな事は兎も角、わたしはさっさとサインを済ませていきます。

 正本と副本からなる二枚組みの書類たちへ、氏名の欄に成る丈綺麗な字で碇レンと、日付の欄に八月一六日と記入しました。その後は印の文字がある場所へ捺印し、更に木崎さんに教えて貰いながら『割り印』というものを済ませます。

 

「捨て印って要るんでしょうか?」

 

 割り印を終えて、わたしは自分が持っている知識の中で、昔テレビドラマで見た名称を木崎さんに問い掛けてみます。役割は書類内の重要ではない要項について、誤字修正などをわたしの許可無しに行えるようにする事ですね。

 彼は「いえ」と言葉を置いてから説明してくれました。

 

「今から副司令にお持ちする書類です。きちんと確認して貰えるかと思われます。それに、修正内容は逐一レンさんの耳に入る方がよろしいのでは?」

「……それもそうですね」

 

 成る程。

 確かに雇用主であるお父さんをわたしが信用していない以上、勝手に修正されるのはよろしくないでしょう。

 わたしは思い直すと、木崎さんにお礼を言って、書類を封筒に纏めました。

 

 その後学生鞄の中に入っている教科書たちを宿舎の机に出し、鞄の中へ封筒と筆記具、住民票、印鑑、通帳を収めます。これからすぐに必要なのかは分かりませんが、あって邪魔になるものでもありませんし、持っていく方が良いでしょう。

 服装は特に畏まる必要は無いそうなので、レイヤードワンピースのままで問題無さそうです。

 

 さて、用意は出来ました。

 とすれば、わたしが準備をしている間に木崎さんは通信機で他の隊員に確認を取っていたらしく、それを終えるなり「今からでも大丈夫のようです」と報告しくれます。

 短いお礼を言って、彼の先導で宿舎を後にしました。

 

 

 木崎さんの先導で通路を歩きます。

 此処が宿舎しか無いフロアだからか、辺りには相変わらず人気がありません。前を歩く彼の革靴がカツンカツンと音を鳴らす以外は音も無く、僅かな呼吸の音でさえ響いているんじゃないかという程の静寂でした。

 何となく心地がよく、わたしは出来る限り静かに歩を進めました。

 

 やがてエレベーターの前に到着すれば、そこでカーゴの駆動音が静寂をぶち壊します。

 その頃を見計らって、わたしは木崎さんの横顔を見上げました。

 

「木崎さんって、お幾つですか?」

 

 すると彼はこちらを一瞥。

 しかしすぐに前へ向き直り、サングラスを左手で掛け直します。

 

「必要な質問でしょうか?」

 

 そして突っぱねるような言葉が返って来ました。

 思わずわたしはくすりと笑って、自分の唇を右手で軽く押さえます。すると咎めるように横目で睨まれますが、構う事無く首を横に振って見せました。

 

「これからお世話になるんだから、些細な事も知っておきたいなって思いますよ」

 

 わたしがそう言えば、木崎さんは溜め息に似た息を吐きます。

 そしてゆっくりと唇を開きました。

 

「……五〇を越えてから数えてません」

「へっ? ご、五〇!?」

「はい。多分六〇にはなってないと思います」

 

 淡々と言う姿は、飄々としている風にも見えます。

 思わずわたしは目をぱちぱちと瞬かせました。

 

 木崎さんの顔をまじまじと見てみますが……どう見ても三〇代にしか見えません。皺は少なく、肉付きはしっかりしているものの、骨格の印象が強いので、精悍な顔立ちに近い印象。世間一般で言う五〇代の悩みである弛みなどに襲われているようにも思えませんでした。

 しかし童顔と言うよりは、年をとっているように見えない感じです。纏っている雰囲気は落ち着いていますし、年を聞いて驚愕すると共に納得している自分もいます。

 

「……わ、若く見えますね?」

「年を教えると必ず言われます」

 

 木崎さんはそう言って、浅く頷きました。

 相変わらずの鉄仮面ぶりですが、何処かしてやったりな風に見えてしまうのは、わたしが捻くれているからでしょうか……。

 

 エレベーターがまだ来ないからか、木崎さんは「まあ」と頭打って、話を掘り下げてくれます。

 わたしは改まる思いで彼の二の句に身体ごと向き直りました。

 

「老兵ですから、こう見えて身体にはガタがきています。レンさんを取り押さえる事は出来ても、司令の命を狙う刺客からお守りする事は難しい。……そういう事です」

 

 言われた事を反芻してみます。

 つまりボディーガードというよりは、やはりお目付け役の役割が強い。という事でしょうか。

 

 少しばかり言い回しを変えて聞いてみると、木崎さんはこくりと頷いて返してきます。その後与太話がてら、更に掘り下げた話を教えてくれました。

 

 わたしにもシンジくんと同じく、当然としてサードチルドレンを監視する部隊自体はあるらしく、その方々はわたしの目に留まらない場所に待機しているようです。木崎さんの役目はあくまでもわたしの自傷行為に対する監視であり、ボディーガードとしての役割も担ってはいるもののそちらは本意ではないのだとか。

 だからこそわたしに対する態度はある程度柔らかく、わたしの精神状態を悪化させない為に配慮もしてくれるそうです。

 

 なんだ、あの優しさはただの仕事だったのか。

 

 と、シンジくんならばそう思いそうですね。

 わたしはそんな感想を持ちました。

 

 あるいは木崎さんが馬鹿正直にも思える程あっさりと己の任務を教えてくれたのは、わたしがこれを聞いても別段不信感を持たない事を気付いているからかもしれません。もしくは、対面してまだ一日しか経っていないからこそ、利害関係である事を念頭に置いておけという事でしょうか。

 

 ともあれ、わたしは木崎さんの態度が仕事であると言われ、得心いきました。

 

 だって、ねえ……。

 オフでもこんな鉄仮面ならちょっと怖い。

 いや、まあ、木崎さんにオフなんて無いようなものですけども……。

 

「……何か?」

 

 わたしが思案に耽って思わず微笑むと、木崎さんが顔だけをこちらに向けて問い掛けて来ます。

 わたしは首を横に振って何でもないと答えました。

 

 丁度その頃を見計らったかのようにエレベーターが開きます。

 

 と、すればそこには人影。

 白衣を着たその人は、開いた扉にハッとした様子で顔を上げていました。金色のボブカットの下に宿る真っ黒な瞳で先ず木崎さんを見て、次いでわたしを見て、「ああ」と声を零します。

 

 思わずドキリと鳴るわたしの胸。

 別段何をした相手ではないのですが、何処からかやって来る焦燥感はシンジくんの記憶でその人――赤木リツコさんを信用しきれていないからでしょう。同時にやって来た背徳感は先程ミサトさんに怒鳴っていた件を思い起こし、わたしの為に彼女の予定を遅延させていたと思うからです。

 

 わたしは慌ててお辞儀をします。

 

「こんにちは」

「はい。こんにちは」

 

 返って来る言葉は落ち着いていて、何だかホッとする心地です。

 見上げてみればリツコさんは微笑むでもなく、手に持った書類へ視線を落としつつ、わたしと木崎さんに場所を譲るように数歩下がっていました。

 

 木崎さんがわたしの目的の階を押して、カーゴの扉が閉まります。

 僅かな加速度と共に、エレベーターが動きました。

 

「レンさん。後でわたしの研究室に来て欲しいって事は伝わっているかしら?」

「はい。木崎さんから聞いてます」

「そう、なら結構。お小言はその時まで取っておくから、肩の力を抜きなさい」

「……はい」

 

 暗に「あとでお説教よ」と言われ、わたしは思わず項垂れます。

 そんな様子が可笑しかったのか、リツコさんはくすりと笑いました。

 

「司令と似ているようで似ていないわね。貴女」

「……へ?」

 

 不意に掛けられた言葉に顔を向ければ、丁度良いタイミングを計ったかのようにカーゴの扉が開きます。リツコさんはわたしに微笑みかけると、その扉から出て行きました。

 

「その話はまた今度ね」と残して。

 

 再度閉まって、木崎さんと二人になるカーゴの中。

 思わず彼にリツコさんの発言をどう思うか聞いてみますが、分かる筈も無く。仕方なくそのまま疑問を思考の隅っこに投げて、副司令の執務室へと向かいました。

 

 

「保安二課、サードチルドレン担当の木崎だ。サードチルドレンをお連れした」

 

 先導する木崎さんがそう告げると、扉の前で立っていた黒服が敬礼と共に横へ外れます。そして彼自身も会釈と共に扉の前をわたしへ譲りました。

 わたしはお礼を言ってそこへ。

 特に気負うでもなく、扉を二度ノックします。

 

「サードチルドレン、碇レンです。契約書の提出に参りました」

 

 不意に学校で職員室に入る際の名乗りを思い起こす心地で声を上げました。

 

『通しなさい』

 

 するとしゃがれた老人の声が返って来ます。

 先程扉の前に居た黒服が反応して見せ、扉の横にある端末を操作しました。

 

 シュッと音を立てて扉が開きます。

 わたしは黒服に会釈してから室内に入りました。

 

 そして思わず息を呑みます。

 

 部屋の中はネルフ本部に設けられた一室だというには異質さがありました。

 ジオフロントの景色を一望出来る巨大な窓に、それをバックにした革張りの椅子。そして執務用と思われる机。そこだけを見れば、シンジくんの記憶にある司令執務室のようでした。

 違うとすれば、接待用の机とソファーが用意されている事や、お父さんならば絶対に置きそうにない観葉植物が、部屋の隅を飾っている事。あとは此処を専用の宿舎としているのか、他の部屋があると示すような開き戸が幾つもある事ですね。

 

 この部屋の主たる冬月コウゾウ副司令は、執務用の机に向かっていました。

 わたしが入ってきた姿を細い目でジッと見詰め、骨張った印象のある顔に、柔らかな笑みをたたえています。髪は年齢を思わせるように全て真っ白で、威厳を思わせるようにオールバック。格式の高さを感じさせるような紫色のスーツを着ていました。

 

 わたしは目が合ってすぐにぺこりとお辞儀をします。

 

「初めまして。碇レンです」

「やあ。よく来たね。……はじめにひとつ訂正しておこう。君とわたしは初めましてではないよ」

 

 そう言ってからゆっくりと立ち上がる副司令。

 不意の指摘に「え?」と声を漏らすわたしに微笑み、「そこへ」と言って接待用のソファーへ促してきます。

 

 会った事あったっけ……?

 

 疑念を抱きつつも、再度会釈をし、副司令が示してくれたソファーへ。

 

 改めて挨拶を交わすと、わたしがまだ乳飲み子から抜けるか抜けないかという頃に会った事があるそうでした。……覚えてる訳がありませんね。



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5.Past and future.

 副司令はお母さんの担当教諭だった過去があるそうです。いや、大学なので『教授』なのかな?

 そんな経緯を懐かしむように話して、わたしと会った頃の話を教えてくれました。

 

「あの頃は……そうだな。ユイくんが健在で、碇も君の愛らしさに相好を崩していた」

 

 そんな言葉と共に、昔を懐かしむような副司令。

 お父さんが相好を崩していたという言葉には思わず本当ですか? と問い返してしまいましたが、彼はそんな不躾なわたしの言葉を気にした様子は無く、微笑みながら執務用の机の上にあるポットを弄っていました。

 

「お茶が良いかね? 珈琲が良いかね?」

「あ、お構いなく」

「何、気にする事は無い。長く語らえば喉も渇くだろう。……それとも、つまらない静寂と、笑い話のひとつさえ出来ないような、作業的なやりとりがお好みかい?」

「……すみません。珈琲でお願いします」

「うむ」

 

 わたしが返事をすれば、副司令は実に満足そうでした。

 

 ポトポトと音が聞こえ、次いで香ってくる香ばしい匂い。そんな庶民的なものに何処か安堵を覚えて、わたしは改めてこちらに背を向ける副司令を見やります。

 するとまるでその視線を察していたかのように、彼はわたしに背を向けたまま、顔を僅かに上げました。

 

「……ユイくんはよく甘いジュースを飲んでいたな。珈琲は専ら眠気覚ましだったようだ。よく赤木くん……と言っても赤木博士の母にあたる女性だが……彼女が淹れる珈琲に苦いと文句を言っていたよ」

 

 副司令はそう言ってから、ゆっくりと振り返ってきます。

 わたしがどう反応して良いか困っているのを見越していたようで、済まないと首を横に振りました。

 

 両手で盆を持ち、その上に湯気を上げるカップが二つ。

 それを机に持ってきて、「砂糖とミルクは?」と問い掛けてきます。

 

 わたしは首を横に振りました。

 

「ブラックで頂きます」

「……そうかい」

 

 短いやり取りを交わすと、そのまま副司令はわたしの対面にあるソファーへ腰掛けます。どうやら彼もブラックで飲むようで、砂糖とミルクは用意されませんでした。

 

 頂きますと言って、受け取った珈琲に口を着けます。

 淹れたては少し熱く感じました。豆を挽いたものではないので、味も香りも何処か洒落っ気がありません。ただただ苦いだけ。全然美味しくありません。

 

 ですが、何処か温かい。

 そう思わせるのは、おそらく副司令の懐かしむような眼差しの所為なのでしょう。

 

 わたしはカップを受け皿に戻すと、副司令に微笑みかけました。

 

「似てますか?」

 

 誰と――なんて言葉は要らないでしょう。

 

 副司令はわたしの言葉を正しく理解したようで、首を横に。

 

「お世辞無く言うならば、似ているのは顔だけだ。ユイくんはもっと子供っぽい面が多かった」

「……そうですか」

 

 返って来た感想に、わたしはそう呟きます。

 そして座ったまま、閉じた膝の上で組んだ両手へ視線を落としました。不意に浮かぶ表情は、安堵を表す微笑み。

 

「彼女と似ているのは……嫌かね?」

 

 するとそんなわたしの意図を汲みかねたのか、副司令は僅かに悲しげな声で問い掛けて来ます。

 

 わたしは首を横へ。

 しかし唇は「でも」と、否定に否定を重ねます。

 

 顔を上げて副司令を見据え、唇を開きました。

 

「わたしは碇レンで、お母さんじゃありません。固執するつもりは無いんですけど、こう……なんて言うか……」

 

 そしてわたしの視線は自分の左腕へ。

 視界の端で副司令も倣うように視線を落とした姿が見えました。

 

「…………」

「……ああ」

 

 思わず言いよどむわたしに、副司令は頷きます。

 そして顔を上げなさいと諭してきました。

 

 わたしは言われるままに視線を上げます。すると副指令は目を瞑っていて、あまり力を入れずに腕を組んでいました。

 その動作が示す事は分かりかねますが、どうやらわたしが言いたい事は伝わったように見えます。

 

 自分の命を何度も絶とうとしてきたわたし。

 そんな人間が、母を良く思っていそうな副司令に母と似ていると言われると、それが申し訳なくなるのです。今更行為自体を後悔してはいませんが、呑気に「お母さんと似てるでしょう?」なんてやって良い筈はありません。

 

 だからわたしはわたしとして見て欲しい。

 だけどそう見えないならそう見せるだけの自戒はするつもりです。

 

 本当はわたしだって、ブラック珈琲なんて苦手なんですから。

 

「レンくん」

 

 やがて三〇秒は経ってから、副司令は落ち着いた声色で声を掛けてきました。

 はいと答えます。

 

 すると副司令は優しげな笑みをたたえ、首を横に振りました。

 

「本当なら君に伝えるのはもっと後にしようと思っていたが、此処で伝えておこう」

 

 そしてそう前置きして、話はお母さんの遺言だと告げてきます。

 わたしはこくりと頷いて、姿勢を正しました。

 

「生きていれば何処だって天国になる。それが彼女が君に残したかった言葉だろう」

 

 告げる言葉はゆっくりとしていて、昔を懐かしむようでした。

 果たして彼がわたしへ向ける視線の先に、誰の面影を見ているのかは言わずもがなでしょう。

 

 わたしは僅かに俯きました。

 胸にちくりとした痛みを覚えます。

 

「生きているのは辛いかね?」

 

 副司令は問い掛けてきました。

 まるで面影から、わたしを見詰め直すように。

 

 わたしは視線を伏せたまま答えます。

 

「……辛かった。です」

「今はどうかね?」

 

 更に深堀りされ、わたしは顔を上げて、副司令と視線を合わせます。

 

 ちくちくとした痛みを覚える胸に、じんわりとした温かみを感じました。

 まるで促されるように、わたしは薄く微笑みます。

 

「……ちょっと、楽しい。です」

 

 すると満足したように副司令は頷きました。

 

「なら、しっかり楽しみなさい」

「はい」

 

 それはお説教でした。

 間違えてきたわたしへ、お母さんが言うであろう言葉でした。

 

 怒るではなく、叱るというもの。

 言って聞かせるという、落ち着いた印象のある副司令らしい振る舞い。

 

 とても、温かいものです。

 

「今一度聞こうか。砂糖とミルクは要るかね?」

 

 そしてお説教の締めはそんな問い掛け。

 にこやかな副司令に、わたしも微笑んで返します。

 

「砂糖二つと、たっぷりのミルクでお願いします」

 

 その後「ユイくんは甘党でもなかったよ」と呆れられたのは別のお話です。

 

 

 時刻は夕暮れ。

 別にジオフロントに日は射していませんけども。

 

 わたしは副司令のもとへ向かった時と同様に、木崎さんに案内されてリツコさんの研究室を訪ねました。

 副司令執務室とは違って黒服は待機していませんが、扉には猫をモチーフにした看板が掛かっています。その看板には横へスライドさせるプレートが着いていて、今は青い文字で『在室』と表示されていました。

 

 木崎さんは例の如く部屋の前で待機するようなので、わたしは扉を二度ノックをした後に、副司令執務室を訪ねた時と同じ名乗りをします。「どうぞ」と返ってきて、一人で入室。

 

 ふわりと香ってくる嗅ぎ慣れない匂い。

 何だと思って、匂いの理由を目で見て探せば、宙をたゆたうように紫煙が流れていました。

 ああ、そうだ。と気がつきます。

 リツコさんは愛煙家なのです。

 

 入ってすぐの脇にコの字型のデスクがあり、その人は相も変わらずの白衣姿でそこへ向かっていました。忙しなく手を動かしている様は、何だかタバコが似合っているようで、似合っていないようにも見えました。

 

 部屋の様子は()()()()()()研究室だとある通り、やはり私室っぽさが強く表れています。

 デスクに資料が山積みになっていれば、コーヒーメーカー等の私物も置かれています。そこを明るく照らすのが、まるで診察室にあるようなレントゲンを貼る板――シャーカステンって言うのだとか――で、その光の所為で動きが少ないらしい部分には埃が積もっているように見えました。

 とはいえ散らかっているのはデスク周りのみです。ゴミ箱に投げ入れようとして外れたらしい紙くずが床に転がっていたりはするのですが、壁は綺麗なままだし、参考文献を置いているらしい本棚はきちんと整理がされています。

 成る程。おそらくリツコさんは汚す部分を一箇所だけにして、そこ以外は定期的に掃除するタイプのようですね。

 

「そこ、座って頂戴」

 

 中を見渡していると、リツコさんにそう声を掛けられます。

 向き直ってみれば、デスクに向かったまま、手に持ったペンで後ろにある丸椅子を差していました。二つ返事で了解し、そこへ腰掛けます。

 

 少し待って欲しいと言われ、わたしはしばし待機します。

 ちらりと見やれば、リツコさんはデスクの脇にある灰皿に向かって煙草を押し付けていました。

 

「煙草。ごめんなさいね」

「いえ……」

 

 未成年の身で吸おうとは思わないし、嗅ぎ慣れない匂いではあれ、別段不快感はありません。

 

 むしろ香ばしい匂い自体は好きです。

 『加持さん』も吸っていたからでしょうか、嫌いになれません。

 

 わたしがそんな事を考えていれば、やがてリツコさんはふうと息を吐いて、椅子をくるりと半回転。こちらへ向き直ってきました。

 

 申し訳ないと示すように眉をハの字にして、肩を竦めて見せてきます。

 

「待たせて悪いわね。誰かさんの所為で状況が遅れてしまっていて」

「……いえ、本を正せばわたしの所為ですし」

 

 揶揄するのが誰の事かを察し、わたしは首を横に振って返します。

 するとさも当然な風に「そうね」とリツコさんは零しますが、「だけど」と続けました。

 

「本来は三時間で終わる仕事をずるずると引っ張ってるのはミサトよ。貴女の買出しだって明日でもよかった筈。貴女に責任は無いわ。……ま、そんな訳だからさっきエレベーターで言ったお小言は冗談よ」

 

 そう言って話を締められます。

 その様子は終始淡々としていて、わたしの『左腕』を恥じる心に配慮してくれたミサトさんの心境を全く鑑みないものでした。

 

 思わずムッとする心地になりますが、大人には大人の都合があるのでしょう。ミサトさんが仕事を遅延させているのが事実なら、わたしが何を主張したところで事実は事実と言い包められて仕舞いです。

 わたしは今一度念押しをする心地で謝罪こそしましたが、特に言及はしませんでした。

 

「さて……」

 

 リツコさんは机の端からファイルを取り上げます。

 ごった返して見えるデスクですが、どうにも彼女の中では何処に何があるかはきちんと把握されているご様子。取り上げたファイルも迷う事なく捲られていき、すぐに目的としたらしいページが開かれます。

 

 向かいからパッと見ただけで理解しました。

 それはわたしの『カルテ』

 前に住んでいた所で受けた受診記録でした。

 

 それを一瞥し、リツコさんはふうと息を吐きます。

 

「解離性同一性障害……まあ、先の第三使徒戦の際に見ているのだから、疑う余地はなさそうね」

 

 おそらく報告書から挙がっているわたしの普段の様子と比較したのでしょう。リツコさんは確認するように述べます。

 

 それ自体は正解かもしれませんが、大きな間違いです。わたしの別人格として挙げられるのは碇シンジで、第三使徒を倒した際の可笑しなわたしではありません。

 ですが、此処に至ってそれを言及するのは藪を突くと言うものでしょう。仮に理解を得たとしても、わたしはシンジくんの記憶をリツコさんに話すつもりは無いので。

 

 故にこれ幸いと、わたしは頷きました。

 するとリツコさんは特に疑う様子も無く、「では」と続けます。

 

「貴女が見る夢と言うものは?」

 

 と、したところでまさかの誤魔化したと思った事を問われました。

 あくまでも疑った様子ではないのですが、カルテに書いてあったらしい単語を問い掛けて来ます。

 

 どうしたものか……。

 思わずそう迷いました。

 わたしが言葉に詰まれば、リツコさんが「質問を変えましょう」として、改まります。

 

「碇シンジとは……誰なのかしら?」

 

 思わず胸がドキリと音を立てます。

 懸念していた事が、大丈夫なように見えて、その実やっぱりアウトでした! と言われた正にその瞬間です。

 

 どうしよう。どうしよう。

 と、思わずわたしは思案します。

 

「えっと……」

 

 とりあえず何も言わないのは状況的に可笑しいと思い、口ごもったような言葉を吐き出しました。

 

 何を何処まで知っているのか。

 先ずそれが分かりません。

 

 対面から見たカルテは『碇レンの知識』では読めない字……多分ドイツ語で書いてあって、『アスカ』と()()()()補完した記憶を思い起こしてみても、読み方はわかりませんでした。単語単語は分かるのに、文章が上手く繋がらない上に、達筆すぎて所々読めない。そんな感じです。

 ああ、中途半端な知識が凄く呪わしい……。

 

 そんな風にわたしが返事に困れば、まるで何かを察した風に、リツコさんは肩を竦めて微笑みます。

 

「そんなに緊張しなくてもよくってよ。……まあ、無理があるかもしれないけれど」

 

 と、如何にもわたしの気負いを解そうとするかのようにそう零しました。

 

 そこでわたしは『あれ?』と、疑問を抱きます。

 無理があるかもしれないとは、きっと此処に至るまでの碇レンとの接点を踏まえた上での発言でしょう。急にパイロットとしてエヴァに乗れという件に口火を切ったのは彼女ですし、その後のミサトさんとのドライブの件も含めて……。

 ですが、もしもわたしの記憶を全て知っているのなら、彼女はそんな風に言うでしょうか?

 

 うーん、分からない。

 

 思わずわたしは眉根を寄せ、視線を伏せます。

 するとリツコさんは仕方無いと言って、椅子を回転させました。

 

「珈琲、飲む?」

 

 そしてまたも思わぬ発言。

 わたしは目を丸くしてしまいます。

 

「……へ?」と返せば、リツコさんは肩越しに振り返ってきていて、紅茶もあるわと付け足してくれます。

 

「あ、えと……珈琲を頂きます」

「分かったわ。ドリップだから少し待って頂戴」

 

 そしてリツコさんはカルテを机に置いて、手を伸ばします。

 コーヒーメーカーの水を入れるケースを取って、更にその後ろからペットボトルに入った飲料水を取り上げます。その水を注ぎ入れつつ、彼女は微笑みました。

 

「昔から拘りがあってね……。珈琲には手間を掛ける派なのよ。わたし」

「そ、そうなんですか……」

 

 冷や汗をダラダラと流しつつ、わたしは凄まじい速度で思考をしながら生返事を返します。

 

 そうしているうちにも水は入れ終わり、リツコさんはそれをコーヒーメーカーにセットしました。カチリと音をたててスイッチを押して、彼女はふうと一息。

 肩甲骨の間を解すように肩を回して、疲れたような表情でわたしへ向き直ってきました。

 

「貴女がわたしを信用しきれないのは無理もないわ」

 

 そして核心を突いたような一言。

 思わず心の中で、ぎゃあと悲鳴を上げました。

 

――が。

 

「医者の真似事をやっているけど、医者ではない。わたしは研究者」

 

 続いた言葉でわたしは『うん?』と再び疑問を持ちます。

 

 リツコさんは気にした風も無く続けました。

 

「本来ならカウンセリングなんて一番向いていないのにね」

 

 そしてそう言って笑いかけてきます。

 

 どうやら危惧した内容ではない様子に、わたしは内心ホッとします。

 勿論表情には出さないように努力していますが、リツコさんの発言は本当に心臓に悪くて、露呈していても不思議じゃありません。

 芝居は得意だけど、ポーカーフェイスに自信は無いんです……。

 

 しかし、リツコさんの発言は、同時にわたしへ一縷の希望を持たせるようでした。勿論彼女が意識したであろう形ではなく、ですが。

 

 わたしは改まって問い掛けます。

 

「すみません……。色々、不安になって……。えっと、カルテって()()()()()から残ってますか?」

 

 少し質問に工夫をして、わたしは暗に『貴女は何処まで知っているんだ』と問い掛けます。

 するとリツコさんは安堵したように薄く笑って、端的に答えました。

 

「五年前よ」

 

 回答を聞いたわたしは心の中でガッツポーズ。

 加えてそれ以前のカルテは既に処分されていたと聞き、シンジくんの記憶の詳細は、彼女に伝わっていないんだと確信を持ちました。

 

 わたしが人様にシンジくんの記憶を詳しく話していたのは小学生になるかならないかの頃まで。それ以降は誰も信じてくれないと諦めて、『親友』にさえ話していませんでしたから。

 『碇シンジ』の名が残っている理由は、その夢を見たと言う報告だけで、それ以上でも以下でもないでしょう。内容は全て『人を殺した』とか、『化け物を殺した』とか、とても漠然としたものの筈です。

 

 本来は治療中の受診記録は五年以上前のものも残っていないといけないらしいのですが、最近はこういう事も珍しくないのだとか。特に精神科なんてものはセカンドインパクトの所為で受診患者が増える一方だったらしく、患者一人一人に対する診察の質はそれ以前と比べると見るも明らかに劣化しているそうです。

 

 だからこそ、此処で改めてリツコさんがわたしを診断し直そうというのです。今一度病状を一から教えて欲しい。と、そう言われました。



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6.Past and future.

 しかしどうして話したものでしょうか。

 

 リツコさんの手元にあるわたしの情報が無害である事を確認出来たのは良いものの、それは当面の危機が無くなっただけで、話を詳しく聞きだされるといずれ誤魔化しが利かなくなります。特に彼女はわたしの現状へ真摯に向き合おうとしてくれているらしいので、かつて医者へやってきたようなはぐらかし方では、そう遠くないうちにボロが出るでしょう。

 むしろ彼女が本気であればある程、わたしの中で誤魔化す事が心苦しくなって、『カウンセリングを受けているのに精神状況が悪化していく』という矛盾した状況になっていくおそれもあります。エヴァとのシンクロが精神状況の影響をもろに受ける事を考えると、それは捨て置けない懸念です。っていうか、そうなればすぐに数値に表れて露呈しちゃいますしね……。

 

 これは……本当にどうしよう。

 考えれば考える程難しい問題で、わたしは思わず俯きます。

 リツコさんからの視線を頭の天辺にひしひしと感じつつも、少し考えさせて欲しいと告げて思案しました。

 (こと)これに関してはわたしが見るも明らかに悩んだところで可笑しいところは無いでしょう。リツコさん自身が今の自分をまだ信用出来なくても不思議じゃないと先程述べていましたし、それ故純粋に話そうか話そまいか悩んでいる風に見えると思います。

 

 そんなわたしの考えは正解だったのか、コーヒーメーカーが小さな音を立てるなり、リツコさんは「まあいいわ」と話を切りました。

 視線を彼女に向けてみれば、表情は何処かもの悲しそうに見え、わたしも罰が悪くなります。が、此処で情に流されてしまう訳にはいかないでしょう。

 

 シンジくんの記憶でのリツコさんは明らかな黒幕側の人なのですから。……厳しくも良い人なのは間違いないとも思いますけども。

 

「まあ、追々聞かせてくれると嬉しいわ。今日は昨日の第三使徒戦での事を教えて頂戴」

 

 わたしが思い悩んでいた姿に、リツコさんは今日この場で事情を聞く事を諦めたようです。そう言ってから取り繕ったような微笑みを浮かべて立ち上がると、そのまま食器が置かれている所へと歩いていきました。

 

「お砂糖とミルクは?」

「二個とたっぷりでお願いします」

「あら意外……甘党なのね」

「よく言われます」

 

 リツコさんの優しい言葉に胸が痛い……。

 そんな気持ちを拭おうと、わたしは微笑んで返します。

 

 とすれば、そんな心境をも僅かにすれ違った理解の仕方で察したのか、リツコさんもくすりと笑います。

 

「気にしなくて良いのよ。自らの過去を人に話すのは大きなストレスになるわ。……ほんと、カルテを破棄した貴女の前担当が憎らしい限りよ」

 

 とりあげたカップの片方へミルクとシロップをいれて、こちらを振り返ってきました。

 

――そのカルテが残ってたらわたしのストレスは一瞬で限界に達するんですけどね!

 

 とは当然ながら言えません。

 わたしは小さな声ですみませんと返し、苦笑を浮かべます。

 

 黒猫を模した形のマグカップと何の飾り気も無い白いマグカップをひとつずつ持って、リツコさんが戻ってきました。そしてそれをデスクの上に。コーヒーメーカーからポットを取り上げ、小さな音をたてながら注ぎいれていきます。

 

「知っていて? ミルクは先にいれておくと味がまろやかになるのよ」

 

 その最中、リツコさんは呟くように零します。

 それ自体はわたしの気を解す為のものなのでしょうが、話の内容に思わずわたしは目を見開いてしまいます。

 

「あ、究極のミルクティーってやつですよね?」

「そうよ。よく知ってるわね」

 

 リツコさんは感心した風にちらりとこちらを見て、僅かに破顔します。

 

 ミルクティーにはミルクを先にいれるべきか、後にいれるべきか。一〇〇年以上にわたる論争の末に、どこぞのお偉い学者さんがセカンドインパクトの被害も収拾されきっていない頃、学会へ提出した『究極のミルクティー』論。それは冷たいミルクを先にいれ、後から熱い紅茶を注ぐべきだというものでした。

 その話自体はわたしの物心がつくより以前のもので、時期も悪くてあまり話題にはならなかったようでしたが、わたしは偶々テレビの特集で見て興味を持ち、インターネットで過去のそのニュースを調べた事がありました。

 

 それを語れば、リツコさんは「あの時の学会は明るいニュースをと思っていたのでしょうね」と返してきて、白いマグカップを手渡してくれます。

 中には湯気が立っている肌色の珈琲。受け取って一口飲んでみればとても甘く、口の中から唾液が溢れて混ざるような感覚を覚えました。そうそう、この感覚が好きなのです。

 

 ほっこりとするわたしに、リツコさんはこれが話の種になると思ったのか、更なる深堀りをした話を並べていきます。

 

「究極のミルクティー……けどそれ自体は文字通り紅茶に限った話なのよ。何故だか分かるかしら?」

 

 此処にきてカウンセリングの基本である『会話』をしようという様子のリツコさん。

 別段無下に扱う必要は無いので、わたしはマグカップを両手で持ちながら返します。

 

「えっと……香りが一番引き立つ温度ってものがあって、それが紅茶と珈琲じゃ違うから……ですか?」

「いえ、不正解よ。それ自体は正解だけどね」

 

 リツコさんはくすりと微笑みました。

 何故なら、と続いて話は更に深みへ。

 

「珈琲の至高はブラックよ。ブラックで飲めるものでなければ、究極の珈琲とは言い難いわ」

「え? その回答はズルくないですか?」

「だって先の理論はミルクティーについてじゃない。わたしは珈琲と言って、オレやモカとは言っていないわ」

「えー……」

 

 呆気にとられるわたしの前で、リツコさんは自分のブラック珈琲を一口飲みました。

 ふうと息を吐く様子は実に様になっていて、何となく出来る大人な風に見えます。

 黒猫のカップの中を見つめつつ、彼女は続けました。

 

「まあ、この珈琲自体ドリップだもの。抽出はポットに出てきた時点で済んでるわよ」

「……たしかに」

 

 言われてみれば正にその通りでした。

 最適な温度での抽出は既に済んでいるのです。

 あとは口に入れる際の温度が自分の舌に合うか、ただそれだけでしょう。

 

 わたしが納得すればリツコさんはにっこりと笑います。

 

「とはいえ、貴女にとってミルクを先にいれておいた方がまろやかになるのは間違いないと思うわ」

 

 そしてさも当然な風にこれまで話してきた事と矛盾するような事を言いました。

 

 何となく言いたい事が分かった気がして、わたしは呆れた風な微笑みを返してしまいます。

「気分的に?」と、思った事をそのまま口にすれば、こくりと頷くリツコさん。

 

「そんな理由で構わないでしょう。研究者はそれについて熱く議論を交わすものの、結局味覚は人それぞれだもの。先入観や空腹以上の調味料はこの世に無いわ」

 

 そして結論はそんな月並みなものに至りました。

 それでもリツコさんの表情が満足げに見えて、わたしの心地も悪くないのは、その結論が究極のミルクティーよりもよっぽど真理に近いと思えるからでしょう。

 

 改めて見直せば……。

 わたしはリツコさんから受け取った珈琲に二口目を着けて、そんな言葉で思考を巡らせます。

 

 決して情に(ほだ)される訳ではありませんが、自分の行動理念を見詰め直さないといけないように思うのです。

 赤木リツコという人物は、シンジくんの記憶では『良い人』とは思っていながらも、好感を持っていない相手でした。その理由は比較的単純な『苦手意識』。ミサトさんより多く叱りつけてきた人物で、それによって下がった好感度を回復する機会が少なかった相手だからでしょう。加えてリツコさん自身が理屈っぽく、物事を曲解して悪い方に捉えがちな彼からすれば接し辛い人でもあったのだと思います。

 しかし此処に居るのはわたし。

 わたしが受けた印象をシンジくんのフィルターを通して感じてしまうのは、きっとダメな事。だって向けられている優しさは誰でもないわたし宛てなのですから。そこにああだこうだと思ってしまうのは、今正に話していた『先入観』という名前の、味の悪い調味料の所為な訳ですし。

 

 まあ、『黒幕側の人である』という知識だけは念頭に置いておきましょう。あとは……何だっけ、確かリツコさんはお父さんと――。

 

 と、考えた瞬間に感じる凄まじい悪寒。

 

――キモチワルイ。

 

「……ひっ!?」

 

 不意に頭の中に響いた言葉によって、わたしは思わず肩を跳ねさせます。手に持ったカップの中でカフェオレがぱちゃんと音を立てて思わず落としそうになり、慌てて掴み直しました。

 そんなわたしの様子にリツコさんは僅かに驚いたような様子で、「どうかして?」と尋ねてきます。が、わたしは首を横に振ると、何でもないと素早く答えました。

 

 思い起こそうとした何かは、もう思い出せません。

 しかしそれは決して思い出してはいけない事だと身体が本能的に察したのか、胸の中でドクンドクンと大きな音が鳴り、全身の肌が粟立つかのようでした。

 

 わたしは思わず固唾を飲み、僅かに震える手でカフェオレを煽ります。

 そしてごくりごくりと音を立てて一気にカップの中を空にしてしまえば、リツコさんに向かって頭を下げました。

 

「ごめんなさい。……もう一杯貰えますか」

「……どうしたの? 急に」

 

 リツコさんは心配するように問い返してきながら、わたしの手からマグカップを受け取ります。

 口頭での問いに対しては首を横に振って返しますが、砂糖とミルクを取りに行こうと椅子から立ち上がる彼女を止めました。

 

「……ブラックで、下さい」

 

 すると僅かに目を見開いたかのような様子のリツコさん。

 暫くして「ええ」と声が返って来れば、わたしは俯いて唇を開きます。

 

「嫌な事を思い出すのは嫌なので、漠然的に話します。手短ですけど、良いですか?」

 

 視線は真っ白な床へ。

 わたしの言葉にリツコさんが身じろぎをしたような気配がありますが、わたしは顔を上げません。

 いや、上げられないと言った方が正しいでしょう。胸の内でドクンドクンと高鳴る音が彼女を見てはいけないと言っているような気がして、思い出してはいけない事を思い出してしまう気がして、わたしはこの場を手早く切り上げたいと思ったのです。

 

 唐突な物言いに、流石のリツコさんも驚いた事でしょう。

 返事が来たのは、たっぷり一〇秒は経ってからでした。

 

「……ええ、構わないわ。話せるだけで良い。無理もしなくて良くってよ」

 

 その返答を受け、わたしはすぐに唇を開きます。

 

「夢の事は……ごめんなさい。詳しく話したくありません。だけど何時もわたしは戦わされて、怪物や友達を殺していました」

 

 逡巡した筈の事を述べていく唇は、まるでわたしの唇じゃないかのように動きます。決して第三使徒の時のような誰かに操られている感じではないのですが、自分でも驚く程さらりと誤魔化しを入れて話していきました。

 

「エヴァに乗った時……あのLCLって液体に包まれた瞬間、頭が痛くなって、わたしがわたしじゃなくなっていく感覚でした。そして発進した後はまるで夢で怪物と戦ってたような感覚になって、あの怪物が憎たらしくって仕方なかったんです……」

 

 気をつけるべき部分はきちんと気をつけ、殆んどを『自ら理解していない』と主張して投げやりに話すわたし。

 

 ああ、そうだ。

 これはかつて保護者に受けさせられたカウンセリングで、医者にした回答と何ら変わりない。

 

 あの時と同じように対処しようとしている自分がいるのです。

 

「だから八つ裂きにしました。ただただ夢の中の復讐をしている気分になってた……と、思います」

 

 此処まで話しても、わたしは嘘を言っていませんでした。

 ただただ『謎』と言うフィルターを利用して誤魔化しているだけです。

 

 ああ、本当にわたし……嫌な子だ。

 

 先程の朗らかな気分は何処へやら。

 わたしは半ば自暴自棄にでもなる気分であっさりと誤魔化しを終えました。

 

 

 受け取ったブラック珈琲はとても苦く感じて、それをやはり一息で飲み干したわたしは、疲れたと駄々をこねて宿舎に帰りたいと言いました。本来ならばこのあとエヴァの話もしようという予定だったろうに、リツコさんはすんなり許可をくれるのでした。



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7.Past and future.

 

 翌日。

 わたしは昼まで予定が無いと言われ、朝食をとった後は宿舎のベッドで寝転がっていました。

 昨日買ったパジャマ姿のまま、仰向けで四肢を放り出していますが、仮眠をとるつもりはありません。だから瞼はしっかりと開けています。

 身体を休めていると思考が捗るような気がするから、楽な格好で寝転がっているだけです。

 第一、わたしは暇を持て余したとしても、仮眠で時間を潰す事はありません。睡眠はわたしにとって天敵です。……って思ったら今朝の夢(シンジくんの記憶)を思い出しちゃう。やめよう。

 

 それはさておき、今という時間は一人でゆっくり思案するには丁度良い時間でした。

 相変わらずリビングで木崎さんが待機していますが、乙女の寝室に入ってくる程無粋な人ではないですし。彼は向こうで新聞を読んでいるらしく、時折紙の擦れる音だけが聞こえてくるものの、無音には及ばない程度の静寂さとは、何とはなしに心地よく感じるものです。

 仕事とはいえ自分を労わってくれる誰かが近くにいるというのも、実に安心出来ますしね。

 

 わたしは天井を見上げ、身体を包む布の感触と、背を覆う柔らかな布団の感触に酔いしれます。

 

 見上げているものが石造りの天井と円盤型の電気でなければ、もっと心地よいのになぁ。

 なんて、月並みな事を考えるのも、まるで酩酊するかの如くです。……いや、お酒を飲んだ事は無いんですけどね。昔読んだ小説で、初めて飲んだお酒で酔い、夜空を見上げてみれば風情を感じるなんてお話があって――って、別にわたしは猫ではないし、飲み残しのビールを飲んで足を踏み外して水死するつもりも無いんですけども。

 

 でも、心地としては変わらないのでしょうか。

 

 今のわたしは言い知れぬもどかしい気持ちに覆われ、思考という大海で溺れようとしているのかもしれません。先の話に乗っけて巧く言い換えるのなら、『水瓶(みずがめ)の中へ落ちた猫は、大海を知らぬまま溺れ死ぬ』でしょうか。

 

 はは、我ながら何を考えているのやら……。

 

 一度思考をリセットしましょう。

 わたしは両手を組んで、頭上――といっても寝転がっているので布団の上ですが――へ向けてゆっくりと伸ばします。小さな声で喘ぎ、力を抜けば、ふうと一息。

 

 思考がクリアになりました。

 さて、今一度考えてみましょう。

 

 考えるべくは今の自分が置かれている状況と、これからどうするべきなのか。

 昨日のカウンセリングではわたしの考えが足りないばかりに、不測の事態へと陥りました。今後あんな事は避けておきたい。とすれば当然ながら、下準備をしておいて損は無い筈です。それこそ考えが固定化されてしまう事を危惧していた考えもあるものの、既に『やらかして』いるのだから、咄嗟の事に上手く対応が出来ないのは自分でもよく理解出来ましたし。

 むしろ人類補完計画なんてとんでもない計画は、一年やそこらの準備期間で出来るものではないでしょう。相手は既に動いていると見る方が良い。

 となれば、既に後手。

 出来る限り無駄無く対処しなければ……。

 

 先ず、昨日の事を整理してみましょう。

 リツコさんにシンジくんの記憶が伝わっていなかった事は幸いでした。が、同時に思い出されるのは、やはり第三者の視点から見れば、わたしが第三使徒を蹂躙した光景は『異常』そのものであったという事実。

 わたし自身としてもあの時の事はおぼろげで、もしかしたらいよいよ本当に自分が多重人格者だったのではないかと思ってしまいますが……これについては判断を保留。リツコさんに言葉を濁して語った通り、使徒に傷付けられた記憶の鬱憤を晴らしたかっただけかもしれませんし。

 わたしって昔からキレると自分でも制御出来なかったからなぁ。だけど、何となく自分がキレてた感覚ではないし……。強いて言うなら、狂ってた? うーん……。

 どうにも判断がつきません。

 

 ふうとひとつ溜め息。

 別にわたしの状態は取り急ぎそこまで重要じゃない。今考えるべくはわたしという人間が他人の目にどう映っているかという『状況』についてだ。

 そう言い聞かせて、自らの頬を軽く叩きます。

 

 さて、それを推測するなら取り上げるべきは、『木崎さん』ですね。

 彼がわたしの護衛として用意された理由は、わたしの現状が精神的に危うい状態か、もしくはそういう状態に今に陥りそうな人間に見えているからの筈です。

 その本懐は、人類補完計画に必要な人材であるわたしを死なせる訳にはいかない……だからこうしたと見るのが一番正解っぽいように思います。

 ただ、気がかりとするなら、シンジくんは此処へ来てから何度かパイロットを辞めようとしています。そしてそれが許可された事実もあります。結果的に彼はパイロットを続けるのですが、解雇(それ)が単なるパフォーマンスだったかは彼の視点では分からず、調べようもありません。

 つまり、シンジくんを中心として行われた人類補完計画ですが、別案があるのかもしれません。わたしがそのポジションにいると思って胡坐を掻くのはいささか無用心に思えるのです。

 

 まあ、これはこれでいいか。

 とりあえずその人類補完計画の全容をわたしは知識として知っているものの、いまいち理解出来ていません。結果こそどうなって、どういう目的があるのかはお母さんが語っていたので覚えていますが、そうしなければいけない理由や意義が全く以って分かっていないのです。だってほら、シンジくんのその時は使徒を全部倒した後ですし、人間がひとつになったところで何の利点があるの? って話な訳で……。

 黒き月(クロキツキ)だとか、生命の実(セイメイノミ)だとかの、言葉の意味が分かれば、見当つくのかな? まあ分からないんだから仕方無いんだけど。

 

 つまるところ、この知識を明け渡して、わたしには見つけられない回答を並べてくれる人を探さないといけないのです。

 これがこれからわたしが早急にやるべき事……でしょうね。

 

――例えば……ミサトさん?

 

 わたしは自分に問い掛けます。

 目を瞑って回答を頭の中で探しました。

 

 ミサトさんはああ見えて頭が良い人だし、実際シンジくんの記憶でも真実に辿り着いていたっぽいですが……どうでしょう。使徒が来ている現状、それを考えるだけの余裕はあるのでしょうか。

 もとより彼女は理屈で物事を考察するタイプじゃない筈です。これは推測ですが、シンジくんの時に提示した回答だって、最終的に『自分で調べた事』だから行き着いたものかもしれません。

 わたしが口頭で知識を並べたとして、彼女は自らそれを調べないと回答として用意出来ない気がするのです。となれば、まだ佳境には遠く、人員に余裕のあるネルフで暗躍するにはあまりに危険。……せめてわたしに監視がつかなくなるぐらいに切羽詰った状況でない限りは、警備が厳重すぎて手が出せないでしょう。

 

 それを出来るとすれば……『加持さん』かな。

 

――だけど、加持さんは……。

 

 と、否定の言葉がわたしの脳に現れます。

 

 ごくり。

 喉を鳴らしてわたしは目を開きました。

 視界の中央には円盤型の電気。それは光が点いていて、少し眩しく感じます。

 

 しかしわたしの視界には見える筈の無い景色が見えていました。

 

 それは見慣れたリビング。

 だけど自分の眼では見た事が無い部屋。

 誰も居ない、シンジくんの我が家。

 ミサトさんの家。

 

 その片隅に置かれた固定電話が示す――留守番電話の報せ。

 

 ドクンドクンと胸が高鳴る音を聞きます。

 わたしは不意にその音を自覚して、すぐに首を横に。きつく目を瞑って自らに忘れろと言い聞かせました。

 

 そしてゆっくりと深呼吸。

 同じくゆっくりと目を開けば、幻覚染みた景色は影も形もありません。それを確かめれば、思わずホッとして息を吐きました。

 

 ああ、もう……。

 ほんと皆簡単に死んでいくんだから。

 人の心に勝手なトラウマばっか残してちゃってさ。

 

 ばーか……。

 

 少しばかり愚痴っぽく心の中で悪態を吐き、わたしはゆっくりと身体を起こします。

 

 何だか気分的にこれ以上思案するのは嫌になって、また夜にでも考えようと思い至りました。ミサトさんに相談するにしても、加持さんに相談するにしても、どの道今日今すぐにって動ける訳ではありませんしね。

 あーあ、事情通のリツコさんが味方ならすんごい楽なんだろうけどなぁ……。

 

 そんな事を考えながら、先程した筈の背伸びを今一度してみます。すると先程は感じなかった違和感を肩に感じて、何時の間に凝ったのかなんて考えながら、頭を横に一回ずつ倒します。

 ゴキゴキと鳴る音。思わずしかめっ面を浮かべて、手を解きました。

 

 はぁ……。

 思わずわたしは溜め息を吐きます。

 

 肩凝りの原因となっている自分の胸にぶら下がった脂肪の塊を両手で持ち上げてみて、再度溜め息。

 朝食の前にブラジャーを着けたので鷲掴みにした感触はあまり良くないのですが、吊り下げている重さを体感してみれば、こいつも知識と同じく、半端で役に立ちやしないなぁ……なんて思うのです。

 

 色んな意味で使えない人間だ。

 わたしって。

 

 そんな事を思いながら、着替えを始めました。

 とりあえず昨日クリーニングに出した前の学校の制服を取りに行こう。

 その後はお昼からミサトさんに誘われていますし、そこであわよくば同居をお願いしよう。

 

 

 上は首元がゆるい白のシャツに、長袖のゆったりとした黒のロングカーディガン。下はデニム地のショートパンツと黒いニーソックスを穿いて、ちょっと大人っぽさを意識したコーディネートにしてみました。

 リビングに出て木崎さんに印象を聞いてみれば、「これもどうぞ」と黒いキャスケット帽を渡されたのでそれも被りました。……てか、この帽子何処から? 買った覚え無いんですけど。

 

 それは兎も角として、わたしはクリーニングのお店に行きたい旨を伝えます。すると木崎さんは二つ返事で頷いてくれて、予定まではあと一時間程しかないので急がなければいけない事を教えてくれました。

 まあ、急げば間に合うのだから問題はないでしょう。

 

 ジオフロントから地上へ上がり、そこから最も近いらしいクリーニングのお店へ。といってもネルフの職員の人達が敬遠するぐらい割高で、新都市にあるまじき古びた装い。制服一着だから使ったものの……というようなお店です。

 店主の人は横に黒服を引き連れて現れたわたしを覚えていたらしく、さしたる問答も無く紙切れ一枚の応酬で制服を渡してくれました。

 

 受け取ったわたしはすぐにとんぼ返りです。

 例の如く木崎さんに制服の入った紙袋を取り上げられて、少し小走りになりながら宿舎へ向かいました。

 

 そしてその道中で最後になるエレベーターでの事です。目的のフロアへ着かない内に扉が開き、そこに丁度良くミサトさんが居たのでした。

 

「あら、レンちゃん。丁度良かった」

 

 そう言って僅かに驚いた様子を残し、彼女は微笑みます。

 ハッとして会釈を返し、今クリーニングに出していた制服を受け取って帰ってきたところだと伝えました。

 

 今から良いかと問われ、木崎さんをちらりと見てみれば、彼は頷いてくれます。制服は宿舎に置いておきますと言ってくれました。そこで一言お礼を述べてわたしはエレベーターを降車。ミサトさんと並んで木崎さんを見送ります。

 

 エレベーターが動き出した頃合を見計らって、ミサトさんは先程わたしがやって来た方へ戻るボタンを押します。その意は……外出するという事でしょうか? 押された行き先は外への連絡路や駐車場へ向かうだけの方向です。

 

「昨日リツコのカウンセリング……あまりよろしくなかったそうね?」

「ああ、はい……」

 

 そのエレベーターを待つ最中、ミサトさんは無沙汰になった時間を持て余してか、そんな苦言を寄越してきます。ちらりと横目で表情を確認してみれば、別に怒っている風には見えません。一昨日から服装が変わっていない事の理由か、疲れが見てとれるのですが、呆れたように微笑んでいる姿です。

 とすれば、彼女も彼女でわたしの服装を確認していたようで、不意に視線が合いました。

 

「……ふむ。中々お洒落さんねぇ」

 

 ミサトさんはジロジロ見ていた事を誤魔化しもせず、そんな感想を呟くと、更に舐めるようにわたしを見直します。特に気にする事もなく、頷いて返しました。

 

「まあ、そう見えないと、長袖なんて着てる理由を誤魔化せないですし」

「あ、そういう理由なのね」

「一応……。お洒落自体は好きですけどね」

 

 得心いった風なミサトさんに補足を付け加え、わたしは改まる思いで今一度唇を開きます。

 

「……で、何処に?」

「んー、単にお昼ご飯食べに行こうってだけよ。ただまあ、リツコから貴女の様子を見てきて欲しいって頼まれててね」

「ああ……ほんとごめんなさい」

「気にする事ないわよ。元々リツコ自身カウンセリングは苦手だって言ってたし」

 

 成る程。

 まあ、わたしがミサトさんに対して軟化しているとはリツコさんも知るところなのでしょう。ミサトさんはそこに小難しい理由が必要な人柄ではありませんし、彼女自身がわたしよりも深刻な精神疾患を抱えていた事もあります。それをわたしよりよく知る筈のリツコさんからすれば、わたしの精神面のチェックは彼女が行う方が合理的だと思ったのかもしれません。事実その通りかもしれませんけども。

 

 

 そんな訳で、ガタガタ揺れるルノーと、疲労困憊なミサトさんの運転に、わたしがガクガクブルブルするのはそれから間も無くの事でした。



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8.Past and future.

 カートレインで地上へ出て、三〇分程走ったでしょうか。

 ルノーは市外のとある駐車場に着いていました。

 二階部分は建物の床になっていて、周囲は吹き抜けになっています。広さは学校のトラックの半分程。混み具合は密集して()まっている程ではないという感じでした。上の建物はレストランなのですが、昼を少し過ぎたくらいの時間なので、丁度良く空いていたのかもしれませんね。

 

 無事に目的地へ着いた事にふうと息を吐いて、わたしは胸を撫で下ろします。ミサトさんがさあてと声を上げて降りていくのに続いて、ゆっくりと車外へ。

 ちらりと横目にルノーを見やって、帰りもこのガタガタと揺れる車に乗らなきゃいけないから、腹八分を心掛けようと肝に銘じます。……揺れるだけならまだしも、ミサトさんは運転が荒いし、わたし自身もそんなに酔い難い体質じゃないし、気をつけないと。

 

 鼻歌混じりに先行するミサトさんに続いて、わたしはゆっくりと歩きだします。シンジくんの記憶を辿っても覚えが無い場所ですが、どうやら彼女は慣れた様子です。向かう先は駐車場を出た所にある階段でした。

 付かず離れずの距離で着いて行き、ガラス戸を二度、抜けます。

 

 普通に普通のレストラン。

 何処にでもあるようなチェーン店のお昼下がりは、騒がしい程ではなくも、ある程度繁盛しているようでした。その証明ではないのでしょうが、活力に満ちた小粋な声でいらっしゃいませと歓迎されます。

 

「二人。禁煙でお願いね」

「畏まりましたぁー」

 

 やけに語尾が間延びした女性に案内され、わたし達は窓際の奥の席へ。只今お水をお持ちしますと言って、そのウェイトレスはさがっていきます。その頃を待っていたように、ミサトさんが「ちょっと」と声を掛けてきました。

 ソファーに腰掛けたばかりのわたしは、キャスケット帽を取り上げながら目線を向けて応えます。すると彼女は口に手を添えて、内緒話でする風な雰囲気で唇を開きました。

 

「大丈夫? 顔、青いけど……」

「……へ?」

 

 言われてわたしは目を瞬かせます。

 帽子をテーブルの隅に置きつつ、「そうですか?」と小首を傾げて更に聞き返しました。

 するとミサトさんはうんと頷きます。何か思うところがあるのか、罰が悪そうに頬を掻きました。

 

「やっぱ、車早めに修理出すべきかしらねぇ?」

 

 そしてそうごちます。

 その言葉でわたしは「ああ」と声を上げて、得心いったと表しました。どうやらミサトさんはわたしが車酔いをしているのではないかと思っているようです。言われてみれば何となく倦怠感を覚えます。

 わたしは薄く笑って見せました。

 

「気分が悪くなる程酔ってませんよ」

 

 するとミサトさんは尚も罰が悪そうに視線を逸らし、「ならいいんだけど……」と続けます。

 と、そこでまるでタイミングを見計らったように、足音が近付いて来ます。ゆっくりと視線をやれば、先程のウェイトレスがお盆を片手にやって来ていました。

 

「お冷をお持ちしましたぁー。ご注文がお決まりになられましたら、そちらのスイッチにてお呼び下さいー」

 

 机に二つのお冷と、おしぼりを置いて、優雅な礼と共にさがっていきます。

 ミサトさんがお礼を言って彼女を見送りました。わたしはその間にお冷を取り上げ、ごくりと一口。喉を冷たい水が下りていって、身体に宿る若干の倦怠感を晴らすような気分です。

 

「……車、苦手なの?」

 

 そんなわたしへ、同じくお冷を口にするミサトさん。

 迷う事無く首を縦に振って、わたしは答えます。

 

「嫌いです。絶叫マシンとかも大っ嫌いです」

「……でも前にN2兵器が来るって窓から身を乗り出したりしてたわよね?」

「そりゃあ、まあ……命懸かってたら頑張るでしょ」

 

 わたしは肩を竦めて返しました。

 腑に落ちない様子のミサトさんでしたが、「じゃあ」とわたしが声を挙げれば、彼女は改まった様子で小首を傾げます。

 

「ミサトさんは車の運転手がどれくらいの確率で人身事故を起こすか知ってます?」

「……へ?」

 

 思わぬ問答を受けたといわんばかりに、彼女は唖然とした表情になりました。その後すぐに考えるような素振りをしていましたが、答えは否。「わかんないわね」とそうぼやきます。

 

 わたしは溜め息ひとつ。

 ほらみろと言って、肩の高さに両手を挙げて、首を横に振りました。

 

「一年間に一〇〇人のドライバーの内、一人が事故を起こすんです。そんで、その内三人に一人は死んじゃいます。……三〇〇人のドライバーが居たら、毎年一人づつ死んで、二人づつ大なり小なり怪我するんです」

「……よく知ってるわね?」

「嫌いだと思ったら、克服する努力ぐらいはしようと思って、調べたりしますから」

 

――結果は真逆。更に大嫌いになりましたが。

 一旦そう締めて、わたしはお冷を一口飲みます。冷たさが身体中に行き渡るような感覚を覚えて、思わずふうと息を吐きました。

 

 改めて顔を上げ、ミサトさんに肩を竦めてみせます。今一度唇を開きました。

 

「んで、自ら運転するものをそんなに危険だと知らない理由って何でしょう? わたしからすればそれって、ドライバーにとって厳禁だと言われる『自分は事故を起こさないだろう』の感性にしか見えないんですよね。言っちゃ悪いけど、そんなアマチュアがプロの証たる免許を持って走ってるんだから、乗りたくなくて当然でしょ?」

「……随分ボロックソに言ってくれるわねぇ」

 

 何処か煤けたように見える笑い方で、ミサトさんは悲しげに呟きました。哀愁が漂っていますが、それはもう自業自得。他人を同乗させる以上、命を預かっているという感性をしっかり自覚して欲しいものです。

 

「まあ、ミサトさんの運転技術自体は信用してますけどね。……だけどルノーは早く修理に出して下さい。整備不良で事故ったら洒落になりません」

「……はーい」

 

 がっくりと肩を落とすミサトさん。

 憤然とした態度に見えているでしょうし、わたしは改まる思いでふうと息を吐きました。

 このままじゃ折角のご飯が美味しくなくなるでしょうし、明るい話題でフォローしましょう。

 

「で、第三新東京市って今日の夕方に避難解除なんですっけ?」

 

 するとミサトさんはハッとした風に顔を上げて、頷きながらそうだと返してきます。

 

 片手でメニューを取り上げ、それをミサトさんの前に開いてあげながら、わたしは「じゃあ」と話題を掘り下げます。

 

「明日には漸く家に帰って寝れるって感じですか?」

「ありがと。……そうね、そうだと良いんだけど」

 

 自分用にもメニューを取り上げ、手前に開きます。視線を落としつつ、再度唇を開きました。

 

「ペンペンにご飯あげには帰ってたんですよね?」

 

 すると目の前で「え?」と声を漏らすミサトさん。

 何でそれを知っているのとでも言いたげでしたが、わたしは構わずメニューを吟味します。シンジくんの記憶だとは説明せずとも、すぐに気がつくことでしょう。

 

 さて、シーザーサラダにするか、キノコピザにするか……。

 値段的にはサラダの方が安いし、これぐらいでお腹一杯にはなるのですが、別にダイエットしてる訳じゃないんだから炭水化物が欲しいとも思います。だけどピザなんて食べたら、帰り酔っちゃいそうだよなぁ……。あ、ドリアも美味しそう。値段も手ごろだし、ちょっと熱そうだけどこれにしようかな。

 

 メニューを決めて顔を上げれば、ミサトさんは首を傾げてわたしを見ていました。

 うん? わたしがシンジくんの記憶を持ってる事、忘れちゃったのかな?

 そう思って唇を開こうとすれば、先に彼女が「ちょっち聞いて良い?」と問いかけてきました。

 特に断る理由もないので頷いて返します。すると少し言い辛そうにしながら、彼女は再度唇を開きました。

 

「……シンジくん、だっけ。もしかすると彼とあたしって……デキてたの?」

「どうしてそうなった」

 

 思わず突っ込みました。

 わたしの夢については忘れていなかったようですが、あまりに突拍子がありません。何処をどう解釈すれば、そういう話になるんだかさっぱりです。思春期男子でももっとマシな回答に行き着くよ。この変態!

 

「なはは。いやぁ、ほら、他にも色々考えてみたけど、つまりアレよね? やっぱあたしとシンジくんは懇意……てか同居してたのよね? そうなるとまさかあたしが一四の男の子を引き取るとか考えられないし」

「そのまさかだよ! て言うか一四歳を彼氏にする方がよっぽど有り得ねえだろうが!!」

 

 もう歯止めが利かずに叫びました。

 するとミサトさんは誤魔化すような笑顔を浮かべたまま硬直します。

 後頭部を掻く右手が憎たらしいね。その手で誰をナニしようってんだ。この痴女め! っていうか、結果論から言って手は出されたよ。この性犯罪者め! ディープキスって手を出された内に入るよね?

 

「……はぁ」

 

 思わず溜め息ひとつ。

 

「そんな事より早く決めて下さい。さっさと店員さん呼ばないと、お冷で粘ってるみたいじゃないですか」

 

 そしてそう言ってミサトさんへ細めた目を向けます。

 が、彼女は先程の表情とは一転。何か考え込むような表情で、視線をメニューから逸れた所へ向けていました。

 

「ちょっと」

 

 思わずわたしがそう声を掛けると、途端に彼女は顔を上げます。そして澄んだ黒い双眸で、こちらをジッと見てきました。

 

 何か変な事を言っただろうか。

 それとも言いすぎて怒らせただろうか。

 

 ハッとして視線を逸らそうとしたわたしですが、それより早くミサトさんは唇を開きました。

 

「一緒に、暮らす? 暮らしたい?」

 

 そしてそう問い掛けてきます。

 思わず「へ?」と声を漏らし、逸らしかけた視線を再度彼女へと向けます。

 

 目をぱちぱちと瞬かせて、わたしは小首を傾げます。

 

「良いんですか? そんなあっさり」

「別に良いわよ? 女同士なら特に気にする事もないし」

「で、でも――」

 

 思わず否定の言葉で繋いでしまいます。

 

 それは確かに言って欲しい言葉でしたし、わたし自身それを交渉するつもりで来ました。

 ですが、わたしは自分で言うのも可笑しな話ですが、辛辣な物言いばかりが目立つ人間です。笑顔を心掛けていますが、これだってまだまだ自然体で出来るようなものではありません。いつも表情が硬くて、自分でにっこり笑っているつもりでもぎこちない風に見えるとよく言われます。

 左腕には決して人から好まれるようなものではない痕がありますし、夜中には見るに堪えない夢の所為で悲鳴を上げながら飛び起きる事だってあります。それだってミサトさんの知るところの筈。

 

 わたしは顔を伏せました。

 

 自分が望んでいる事なのに、いざそれに触れようとすると、何だか背徳感と似たものを感じます。

 

 こんなわたしで良いのか。

 こんなわたしが家族と呼んで貰えるのか。

 こんなわたしに、家族になろうと言ってくれるのか。

 

 手が震え、唇が震え、鼻がつんと熱くなるような感覚を感じます。先程まで馬鹿みたいにはしゃいでいたのに、そんな事を一瞬で忘れてしまうかのようです。……ダメだ、泣いちゃいそう。

 

 そんなわたしを見てか、ミサトさんはくすりと音を立てて笑ったようでした。

 

「……引越しは明日で良いかしら?」

 

 胸にずんとした重みを感じて、わたしは思わず双眸を細めます。

 

 こくりと一回。

 頷いて返すので、精一杯でした。




章的には此処で終わりですが、一応おまけがあるので解説はそのあとがきで。


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Ex.Past and future.

番外編というかおまけ。
但し今回はレン視点。


 ミサトさんに同居を提案された次の日。

 

 使徒の残骸の回収と解析、方々への根回しに追われていたネルフの動向も落ち着き、わたしの引越しの日がやって来ました。例の記憶で馴染み深い赤のジャケットを羽織った姿のミサトさんに、お昼過ぎに迎えに来て貰って、出発です。

 

 元々ごちゃごちゃと物を持つ事は好きじゃなかったので、荷物はミサトさんと買いに出た洋服に、学校の用意ぐらいしかありません。他は全部、嫌な思い出と共に、此処へ来る前に処分しました。ぽいっです。ぽいっ。

 

 故に荷物といえば段ボールニ箱に収まるもの。

 それをひとつはわたしが、もうひとつは木崎さんが持ってくれて、三日間お世話になった宿舎をあとにします。

 

 ミサトさんのルノーは、昨日わたしをネルフに戻した後、修理に出されたらしく、今日は彼女の別の車に案内されました。

 シンジくんの記憶では進路相談の際に乗ってきた……って、これフェラーリ? こんな高級車買うから偶にえびちゅ飲めなくなるんじゃないの? ルノーだって無駄に電動機駆動に改造してるらしいし。そういえば左ハンドルで純正のルノーだって持っていた気がするし。

 そんな事を考えて、わたしは思わず金欠のくせにとぼやきます。すると彼女は横目にちらりと見てきて、フェラーリは二人乗りなんだと意味深な笑顔と共に言いました。……おい、わたしを置いて行こうとするなよ。

 

「では、わたしは保安部の車にて向かいます」

「あ、宜しくお願いします」

 

 一応フェラーリのトランクはフロントボンネットにあるのですが、そこには残念ながらスペアのタイヤが入っているそうです。なので段ボールを置く場所が無く、ついでにフェラーリ自体が二人乗りなので、荷物は全て別車両で移動する木崎さんにお任せする事に。

 もう見慣れてきた相変わらずの鉄仮面っぷりですが、表情ひとつ変えない彼だからこそ、下着の入った段ボールを預けられます。……他の男性職員には預けたくないですね。木崎さんが留意するようにと注意してくれましたが、わたしって何だかエロい目で見られてるそうですし。そ、そりゃあ本部内をお洒落着で歩き回ってるから目を引くのは分かるけど……男って不潔だ。

 

 別に露出度が高い服を着ている訳じゃないんですけどね。何でだろ? やっぱり胸が()()()()()()()大きいからなのでしょうか……。

 

 

「……はぁ」

 

 第三新東京市内を走行するフェラーリの助手席で、わたしはあからさまな溜め息を吐きました。

 すると左の運転席でハンドルを握るミサトさんがちらりとこちらを見て、「うん?」と小首を傾げます。

 

「どったの?」

 

 そして少し舌っ足らずに聞こえる口調で問い掛けてきました。

 

 わたしはちらりと見返してから、再度視線を前へ。首を横に振っては、扉に肘を突いて、右の頬を預けます。

 

「別に、なにもー」

 

 ゆっくりとした口調で返しました。

 

 とすれば何を思ったのかミサトさんはくすりと笑い、「考え込むと酔うわよ」と注意してきます。

 しかしそう言われると考えたくなくても考え始めてしまうのが人間という生き物。成る丈酔い難いように正面を見据えて、わたしは思案に耽ります。

 

 まあ、考えなければいけない事が多すぎですし。

 考えたくないのが本音でも考えざるを得ません。

 

 第三使徒戦で感じた懸念要素。そして、人類補完計画の阻止をする為に必要な事。特に後者については、重要な事こそ理解していないくせに、まるで樹形図のように考えるべき事が派生していくようにも思えて、もう考える度に蕁麻疹(じんましん)が出るんじゃないかってぐらいです。

 それでも考えなきゃ死んじゃうし、死ぬのと蕁麻疹が出るのとじゃ比べるまでもなく死ぬ方が嫌ですし……あー、やだやだ、ほんっと何でわたしがあのクソッタレなお父さんの所為でこんなに悩まなくちゃいけないのか。

 

「……まあ」

 

 まるでわたしが思案に耽っているのを見越したように、ミサトさんはハンドルを握って前を向いたまま、ぽつりと零しました。改まったような言葉に、わたしは首を向き直らせます。

 

「貴女の夢の話は未だに半信半疑っちゃ半信半疑なんだけども……」

 

 そして前置き。

 ルノーが信号待ちで停止したのを見計らって、ちらりとこちらを見てくるミサトさんの視線は、とても優しいものに見えました。

 

「貴女がそこまで必死じゃなければ、あたしは同居なんて言わなかったわよ。だから――」

「いや、シンジくんは一人じゃ可哀想だから同居しようって言われてたよ?」

 

 わたしの素早い指摘にぴしっと音を立てるような雰囲気で表情を凍らせるミサトさん。『前例』を基に、「それはお世辞か嘘だ」と言われたのだと察したのでしょう。

 

「い、いやぁ、そ、それはわからないんじゃないかしらー……? ねぇー?」

 

 途端に焦った風な様子で身じろぎするミサトさん。

 もう語るに落ちてますね。

 思わずわたしの中にある嗜虐心が擽られて、悪戯っ子のように笑って返します。

 

「つまりシンジくんなら一人じゃ可哀想だと思って誘うミサトさんでも、わたしは誘いたくなかったからと?」

「そ、それはいくらなんでもネガティブ過ぎやしない!? いや、ほんと、違うのよ?」

 

 更なるわたしの指摘で大慌てのご様子。

 もう何時ハンドルを手放してこちらに身振り手振りで否定してくるかという程の焦りっぷりでした。

 

 その様子が……こう言っては失礼なのですが、可愛くって、わたしは声を上げて笑います。

 するとミサトさんはすぐに弄ばれたと自覚したようです。目を丸くしたあとハッとした様子で表情を改めて、前を向きました。

 

 ちょっとからかいすぎたかな。

 

 そう思ってフォローを入れようと唇を開こうとしました。が、しかし――。

 

「スリー、トゥー……」

 

 ぶつぶつとカウントダウンを始めるミサトさん。

 その様子に気がついたわたしは思わず呆然とします。しかし彼女は前を向いたままこちらを振り向きもしません。

 

「ワン……」

 

 そして、ミサトさんはそう零します。

 

「ゴー!」

 

 まるで青信号になった瞬間を待っていたかのように、身体に力を籠めたようでした。

 

「――ひゃっ!?」

 

 即座にぐんとした加速度を感じて、わたしはシートに叩きつけられるような感覚を覚えます。

 どうやらミサトさんは思いっきりアクセルを踏み込んだらしく、ちらりと横目で見てみれば、ハンドルの裏にあるギアを忙しなく操作していました。その表情は、頬が赤く染まっていて、恥ずかしさの名残こそ見てとれますが、獲物を見つけた獣のような笑い方をしていました。

 

 ハッとして正面を見れば――とんでもない速さで景色が流れていました。

 

「ひ、ひゃぁぁああっ!?」

 

 思わず内臓がギュッと締め上げられるような感覚を覚えて、表情を凍らせます。

 そんなわたしを横目に見たのか、ミサトさんは含むような醜悪な笑い方で声を上げました。

 

「……知ってるのよぉ? レンちゃーん」

「な、なに……を?」

 

 わたしは冷や汗を掻きながら視線と共に問い返します。

 すると先程のわたしより、倍は増した嗜虐心を顕にするかのような表情で、こちらを見返してくるミサトさん。

 

「貴女が酔い止め飲んできてるって事。ちょーっち荒っぽくっても、大丈夫よ、ねえ?」

 

 言われてドキリと音を奏でる心臓。

 それと出所は全く同じ筈なのに、バクバクと鳴る音が頭を埋め尽くすようでした。

 

――ヤバイヤバイ!

 

 思わずそんな言葉が脳裏に流れます。

 視線をミサトさんから逸らし、正面に正せば、緩やかなカーブが見えました。

 

 っていうか街中で何キロ出してるのこの人!?

 凄まじい勢いでガードレールに近付いて――。

 

「ああああ、事故るぅぅううう!!」

 

 わたしが悲鳴を上げるのと同時に、ミサトさんは素早くハンドルをきります。それと同時に凄まじい衝撃を感じ、身体を押さえているシートベルトが肩に埋まって痛みさえ覚えます。

 視界の先は目まぐるしく流れていく景色。

 先程まで見ていた景色が真横へ方向を変え、反動と言わんばかりに右へ左へ動きます。

 

 完璧なドリフト。

 絶対に一般道でやるべきじゃない走行方法。

 

「……なにか言う事はぁー?」

 

 ミサトさんは尚もアクセルを踏み続けて、勝ち誇ったような笑みと共にわたしを見てきます。

 もう形振り構っていられませんでした。

 

「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさぁぁあああぃ!!」

 

 必死の謝罪も虚しく、まるで昨日の分も含めた復讐だといわんばかりに、ミサトさんの表情はどす黒く染まったままでした。決して緩まぬアクセルはその後、わたしの神経をずったぼろにしてくれました。

 

 

「この世に神様なんていない。この世に神様なんていない。この世に神様なんていない。……いたとしたら殺してやる。絶対に殺してやる。絶対に絶対の絶対、殺してやる。自動車なんてものをこの世に生み出す知能を人類に与えた事をたっぷりと後悔させた後、人類……いや、わたしを生み出した事を更に後悔させて、ものすごーく苦しい死に方をするように六二秒のユニゾンキックソロバージョンでぶち抜いてやる。ふふふ……あはは……素敵、素敵、素敵だよぉ。神様を殺すなんて本当に出来っこないって分かってるけど、今のわたしなら()れる気がするもん。素敵だよぉぉ。ふふふ……あはは……あはははは……」

 

 わたしはフェラーリが止まった事を気にも留めず、うわ言を呟き続けます。時折抑えきれなくて笑い声まで上げてしまう程に浸っているので、きっと表情は愉悦を表している事でしょう。

 ああ、第三使徒を倒した時もこんな感じだったなあ。なんて思いながら漏らす言葉は、意味も意図するところも無いのですが、ただただ思いつく限りの恨み言を言葉にして発散しているのです。それが気持ち良くて楽しいのです。ふふふ……。

 

「ちょ、レンちゃん?」

 

 そんなわたしの様子に気がついて慌てるミサトさん。わたしを辱めた極悪人です。

 

 ギロリ。

 わたしはその神様の前に消してやりたいとさえ思える極悪人を()()()()()で睨みました。

 

「ひっ」と短い声を上げて、顔を引きつらせ、身を引くミサトさん。すぐにわたしから視線を逸らし、「あの、あのね」とたどたどしく話を逸らそうとします。

 

「着いた……んだけど」

 

 そして指をフロントガラス越しに上へ向けます。

 わたしはスッと視線を細めつつ、指された方向へ視線を向けて――。

 

「あ」

 

 そこでハッとします。

 わたしの視界には懐かしいと思うものの新鮮に映るマンションが一棟。

 

 思わず先程まで抱いていた醜悪な感情を忘れる心地で唇を開きました。

 

「着いたんですね」

「え、ええ……」

 

 コンフォート17。

 ミサトさんの自宅があるマンションです。

 これからわたしの住居になると思うと感慨深く思います。

 

 って、あれ?

 

 と、そこでわたしは何か重大な事を忘れている気がしました。

 

 まだ時刻はおやつ時にもなっていないので、食事時でもない。ご飯時までに買い物に行かなければなりませんが、事前に木崎さんの部下が家具を設置してくれたそうなので、荷物を片付けるのにそんなに時間は――。

 

「…………」

 

 うん?

 

 片付け?

 

「あ、あああ、ぁぁああああ!!」

 

 わたしは思わず大声を上げて、口を両手で押さえます。

 

 しまった。

 完っっ全に忘れてた!!

 

 どうしたの? と小首を傾げているミサトさんを素早く振り向き、すぐに「木崎さんに電話して」と頼みます。彼女は「はい? どうして?」と理由を求めてきましたが、そんなものはどうでもいいから掛けろと急かします。

 やがて怪訝な表情で電話を掛け、繋がったらしい端末をわたしに寄越してくれました。

 

 わたしは電話口で『どうしました?』と問い掛けてくる木崎さんに、泣きそうな声を出しながらお願いします。

 

「木崎さん! 掃除用具買ってきてください! ミサトさん家すんっごい汚いらしいんです!!」

『……分かりました。では葛城一尉宛で一式揃えて参りましょう。先日の家具の配置の際にどの程度か見ている職員から詳しい事情を聞いてきます』

「お願いします!!」

 

 そして終話。

 

 キッとミサトさんを睨めば、彼女は呆然とした表情で頬を赤らめていました。

 やがてわたしの視線にハッとした様子で、「あ、えと」と言葉に詰まって、そして――。

 

「……ちょ、ちょっち――」

「『ちょっち』って言うのはミサトさんだけだから!!」

 

 わたしは怒りを顕にして叫びます。

 

 

 小さな戦争が始まったのはそれから間も無くの事でした。




どうも、ちゃちゃです。
この小説は法定速度を守ってます。守りに守りまくってます。因みにちゃちゃは事故った事ありませんが、一瞬眠気で飛んで、危うく事故りかけたトラウマがあります。

懲りずにまた解説します。
続きが気になる方は飛ばしてって下さい。

・『御伽噺と傷痕』
 御伽噺は現在と、これからの一年。傷痕は過去。を、表している。
 意図は読んでの通り。十分表せたと思っているので、解説しません。

・オリキャラ木崎ノボル。
 主要キャラ。
 レンの状態的にいない方が不自然。
 CV:玄田哲章様のイメージ。
 シュワちゃんのお方。

・レンの給料って?
 適当。
 戦闘機パイロットの出撃手当て二〇人分。
 成功しないと世界滅びるので成功手当て。
 つまり使徒撃破報酬みたいなもの。

・てか冬月先生ぺらぺら喋りすぎじゃね。
 愛弟子の娘。顔はそっくり。元自殺志願者。そりゃ心配するだろって事で。

・冬月ハウスとリツコハウスの描写。
 冬月先生→適当。自宅は地上に在る筈だけど、仮眠用の部屋がある。
 リツコ →パチンコから。半ば適当。

・ビールを飲んで溺れ死ぬ猫って?
 我輩は猫である。のオチ。

・ミサトの車
 右ハンドルルノー(電動機駆動)
 左ハンドルルノー(純正かどうか不明)
 フェラーリ
 が、本編で登場してる。個人的にフェラーリの加速感は乗らなきゃ分からないと思う。昔知人の助手席に乗りましたが、これは日本で走らせる車じゃないよねって思った。


おまけ。

・書式
 縦書き用。
 どうしても漢数字じゃ違和感がある部分はアラビア数字を使用。また、明らかに見辛い桁は万や億といった漢数字で省略しているけど、正しい書き方ではないよね。でも見易さが一番だと思うからある程度見逃して欲しいなって。
 ある程度は大らかな日本書式の自由という言葉によって受け止めて貰えるだろうという希望的観測で書いてる。
 誤字脱字誤用については……自分でも見直すけど中々気付けない。報告欲しいです。出来る限り調べて書いてるけど、作者馬鹿なんです……。


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第参話 卑怯者恥を知らず
1.She doesn't know the pain of others.


『あんたまだ知らないの!? 参号機にはね――』

 

 ぼくが見ている画面の向こうで、アスカは呆れたような、怒ったような、そんな表情をしていた。知らない事を揶揄するような口調だけど、知っているから優越感に浸っているようではない。どうも、知らずにいるぼくの無知さに警鐘を鳴らそうというようだった。

 その言葉のあとにはぼくの知っている人の名前でも挙がるんだろうか。

 そんな呑気な事を考えていた。

 

 けど、ぼくに答えが与えられる事はなかった。

 画面に映るアスカが苦悶の表情を浮かべ、彼女の悲鳴と共に画面が激しく振動する。

 何をと言われる前に察した。

 

 アスカが――弐号機が撃破された。

 

 その様子を回線越しにただ茫然と見ている事しか出来なかった。

 

 アスカに続いて、綾波が攻撃の指示を受ける。

 指示を出しているのは父さんだった。

 

 司令である父さんが自ら指示を出している理由は簡単。ミサトさんは今、生死も分からない状態だからだろう。何があったかは詳しく聞かされていないけれど、参号機が敵対している状況を考えれば何となく分かる。

 それもぼくの心を落ち着かせない理由だった。

 だからアスカが言いかけた言葉なんて、すぐにぼくの脳裏から消えてしまったんだ。

 

『きゃっ!』

 

 可愛らしい悲鳴と共に綾波の回線が途絶える。

 左腕が使徒に侵食を受けて、神経接続さえ解除せずに切断したらしい。その痛みで失神したのだろうとは、聞くまでもなく分かった。

 

 ぼくは震え上がった。

 アスカが負けた。

 綾波が負けた。

 

 次は――ぼくだ。

 

 敵はエヴァ参号機。

 ボクと同じ一四歳の子供が搭乗する機体――。

 

 

 と、思ったところで視界が急速に白く染まっていきます。

 ハッとして目を覚ませば、わたしは活目するなり仰向けの体勢から勢いよく上半身を起こしました。

 

「せーっふ!」

 

 そして両腕で宙を水平に斬るように手刀を広げます。よくある野球の『セーフ』です。

 

 ドクンドクンと鳴る心臓の音。

 例の如く頭の中にまで響いていますが、そんな事はさておいて、私はびしょ濡れのパジャマ越しに胸に手を当ててホッと一息。安堵します。

 理由は簡単。『その場面』までこそいきませんでしたが、今見ていた夢は間違いなくシンジくんの記憶の中でもトップクラスのトラウマ案件なのです。目を覚ます事なく見続けていれば、わたしはきっと悲鳴を上げながら目を覚ましていたでしょう。そういう意味での『セーフ』です。あーよかった。

 

 荒い息遣いを整えながら、わたしは色が変わる程に濡れてしまっている桃色のパジャマを目で見て確かめます。本能的に自分が『碇レン』である事を再確認していきました。

 

 セカンドインパクト以前に日本の象徴とされた、『サクラ』と呼ばれる樹の花弁を散りばめた柄の桃色のパジャマ。今は汗の所為で濃い色に変わってしまっていますが、これはわたしのパジャマです。間違いありません。でもって未だ成長過程なのに『たわわに実った』とか言われた事のある胸もわたし、碇レンのものです。閉じた足の間、股間にも異物感は無いし……って、朝っぱらから何考えてんのわたし。

 

 でも男の子の身体って、何かこう……色々グロい。気持ち悪い。

 

「…………」

 

 思わず溜め息ひとつ。

 わたしは首を横に振って、目を覚ませと自分に言い聞かせます。すると不意に、自らの身体を確かめた時に『色』を確認出来た事を思い起こして、促されるような気分でやおら立ち上がりました。

 ベッドから出てみれば、パジャマが腿周りまで汗で張り付いていて、つけっ放しのエアコンの冷気でひんやりとした感覚を感じます。……まるでおねしょでもしたみたい。してないけど。

 

 そのまま歩を進め、ベランダの方へ。

 薄手の桃色のカーテンを一息に引けば、朝というには凶暴すぎるように感じる陽射しが射し込んできました。思わず目を細めて、顔をしかめます。

 

 今日も暑そうだなぁ。

 

 そんな事を考えながら、わたしは両手を組んで、頭上へ向けて伸ばします。小さな声を漏らしつつ背伸びをすれば、慢性的な肩凝りで肩に僅かな痛みを覚えるものの、それを補って余りある程の爽快感を感じました。

 

「ふう」

 

 そして一息。

 サッと下ろしたい気分の腕ですが、ブラジャーを着けずにやるには憚られて、わたしはゆっくりと下ろします。首を左右に二度ずつ傾けて、肩からくる首の凝りも解しました。

 自らの胸へ何とはなしの苦言を零し、最後に手で肩を揉み解しながら、踵を返します。

 

 第三新東京市へ来て早二週間。

 ミサトさんのお家に移住してから十日と少し。

 手続きや訓練で忙殺されていたわたしですが、ついに昨日家具が揃いました。黒いシーツのベッドに、アンティーク調の箪笥、学習机。それらに合わせて濃い色合いを基調にした小物達。色合いが濃い目なのは……まあ、出来る限り汚れを目立たなくさせておきたいからです。特に女の子の日なんかで血でシーツを汚してしまったら、過去のトラウマも合わさって元々悪い夢見が更に悪化しそうですし。

 方々を一緒に回って買い物を手伝ってくれた木崎さんには、感謝してもしきれません。

 

 まあ、欲を言えばもう少し可愛らしくしておきたかったんですけども……今度ぬいぐるみとか見てこようかな。大きなぬいぐるみならごちゃごちゃした印象にもならないと思うし。でもこの辺りってファンシーショップあったっけ? ゲームセンターでクレーンゲームやる方が早いかな。ああいうゲームってやった事ないけど、簡単そうに見えるし。

 

 そんな事を考えつつ、わたしは下着を取り換えます。寝る時はノーブラ派なので、ブラジャーも取り出して着用。

 そこでそういえばと、リツコさんに巨乳は形が崩れやすいからナイトブラを着けた方が良いと言われた事を思い起こします。しかしその逆に、窮屈に感じるなら止めとけとも言われました。まあ、これ以上睡眠時間がストレスの原因になったら洒落じゃ済まないので、もう少しこの現実世界がより良いものになって、あの夢が苦にならないようになってから考えましょう。

 

 最近ではカウンセリングとは名ばかりのお茶会を思い起こして、わたしはくすりと微笑みながら着替えを進めていきます。初回のあの時以降、信用を得る事に重きを置いたらしいリツコさんとは、当たり障りの無い会話ばかりをやっています。近頃は彼女の助手であるマヤさんも混じって、三人で楽しく談笑するだけの光景になっていて、本懐なんてどこかに忘れてしまうようです。

 つまるところ、どうやらリツコさんはそこらのカウンセラーよりもよっぽど名医なようで。

 

 下着を身につけたわたしは、部屋の隅にあるポールハンガーから、白いブラウスと青いジャンパースカートのセットを取り上げます。言うまでもありませんが、ブラウスは特注品。袖口を留められるような長袖です。

 下着は白色だし、ただでさえ長袖で暑いので、肌着は無し。ブラウスをそのまま着込みます。更にスカートを穿いて、ブラウスの上から胸を隠すような形をしている肩掛け部分を後ろから前へ。スカートの帯部分にボタンで留めます。長袖の袖口もボタンで留めて、最後に首元を赤いリボンで締めて、完了。

 

 ポールハンガーの隣に置いた姿見の前へ行き、皺が寄っていないかチェックします。

 

 うん。大丈夫。ダメな皺は寄っていません。

 

 胸が出すぎていたり、少しばかり大人びた顔立ちの所為で、可愛らしい装いが恐ろしく似合っていないのは、仕方が無いことでしょう。もう転校を済ませてから何日か経っていますし、諦めもついています。人間潔さが大事です。

 密かにこの可愛い制服を着れる日を楽しみにしていたわたしはもういません。似合わないという非情な現実によって、粉々に砕かれた淡い夢と共に、何処かへ消えました。……ぐすん。

 

 溜め息ひとつ。

 朝っぱらから哀愁を漂わせながら、わたしは自室を出ます。

 

 引き戸を開ければ、正面に物置部屋。間の廊下を歩けばすぐにリビングです。部屋数が少ないお家だとリビングで食事をとるお宅もあるらしいですが、この家は4LDK。つまりダイニングキッチンがあるので、このリビングは専らテレビ観賞や、何気ない時間を過ごす為の部屋です。

 そのダイニングキッチンは、わたしが今出てきた廊下の正面にある扉ではなく、左手にある扉の先です。とはいえキッチンとこの部屋の境にある扉は開けっ放しですが。

 正面の扉の先はミサトさんの()部屋。何回か片付けましたが、まだ纏まった時間がとれなくて、汚部屋のままです。そんな所から大きないびきが此処まで聞こえてくるのですから、葛城ミサトという人間が如何に私生活においてだらしないかという表れにも思えますね。

 

 わたしはダイニングキッチンへ歩を進めます。

 そのままキッチンのはす向かいにある洗面所へ。

 

 トイレを済ませ、その後手を洗うついでに顔を洗います。

 

「ぷはぁ」

「クァッ」

 

 するとわたしの物音に反応したのか、顔を洗い終えたタイミングで横から声を掛けられました。ここ数日で定番化している事なのでさして驚く事なく、わたしは声のした方へ振り向きます。タオルで顔を拭いてから、出来る限り優しい笑顔を浮かべて見せました。

 

「おはよう。ペンペン」

「クァックァァ」

 

 片手を挙げて、まるで『おはよう』と返してきているかのような仕草を見せる、ペンペンという名前の温泉ペンギン。葛城家の住人としてはわたしの先輩にあたるこの家の家族(ペット)です。ミサトさん曰く改良種の鳥類なのだとか。

 黒と白の体毛と黄色いくちばしは従来のペンギンの姿に似ています。人間でいう眉の位置から生えている赤いとさかが随分と立派ですが、これもセカンドインパクト前にいたとされるキタイワトビペンギンが持っていたそれと、色や長さは違えど似ているんじゃないかと思わせます。従来の彼らとの何よりもな違いは、『温泉ペンギン』の名の通り暖かいお湯に浸かる事が好きな事でしょうか。あとミサトさんの晩酌に付き合ったりもしてるけど……これはペンペンだけだと思う。

 

「ちょっと待っててね」

 

 わたしはペンペンにそう告げて、タオルを肩掛けにしたまま玄関へと向かいます。まるで人語を理解しているかのように、彼は一鳴きして洗面所の入り口の脇にある冷蔵庫の前で佇んでいました。

 いえ、『まるで』なんて言葉は不要でしょう。実際に彼は人語を理解していますので。喋る舌を持たないだけで、彼の碧眼に近い緑色の双眸だって、世界に数ある言語の内でも難解とされる日本語をきちんと読めているのです。日本語だけに留まらず、外国語さえも理解出来たとて不思議じゃありません。

 その証明の為……ではありませんが、わたしは先輩の日課をお手伝いせんと、玄関で今朝届いたばかりの新聞紙を取り上げます。この新聞の種類が『経済』なのですから、これの株式欄を彼が読んでいる姿を見た時のわたしの衝撃といえば、知識で知っていた事を忘れる心地で仰天しました。実際に目で見てみると本当に凄い。何せ、とある株が下落したのを見たらしい時の表情と言えば、まるで不況を嘆く専門家のように哀愁が漂っていたのですから。

 

「はい。ご飯時になったら声掛けるね」

「クァ」

 

 ペンペンが腰に当てた腕の間に新聞を差し込んであげて、彼の部屋である冷蔵庫に戻っていく姿を見送ります。

 因みに中々なお洒落さんでもあるらしく、冷蔵庫の中は寝床用のソファの他に小さなモニターやベッドサイドランプまであったりします。ペンギンらしい気温で過ごしている事に安堵すれば良いのか、まるで人間のように世俗染みた生活環境に驚けば良いのか……。

 彼は冷蔵庫の中でもう一鳴きすると、自ら扉を閉めました。

 

『今日の魚はローで』

 

 って言われた気がするのは気の所為でしょう。

 流石にわたしの脳裏に直接話しかけてくるようなサイコな生き物ではないと思いたい。……でも、何となく気分的に、今日のペンペンの魚はロー……もとい、生で提供しましょう。彼が首を横に振ったら焼くって事で。け、決して亭主関白なパパに指示されたとか思ってないですからね?

 

――さて。

 

 わたしはそんな心地で、リビングにある時計を確認します。

 五時四〇分。まだ急ぐような時間ではありませんね。ですがやる事は多いし、ちゃちゃっと済ませましょう。

 

 一度自室に戻って、先程脱ぎ捨てたパジャマを回収。

 そのまま廊下へ出て、向かいの汚部屋を二回のノックの末に開けます。

 するとそこは、ゴミと着替えた後の洋服や下着が至る所に投げ捨てられている見るも無残な地獄絵図。そしてその部屋の中央。ゴミと下着に端のスペースを奪われた薄汚れた布団の真ん中で、大の字になって寝ている我が家の主様を発見。

 気持ちの良いくらいに緩んだ寝顔です。丈の短いタンクトップと、デニム地のショートパンツが顕に……つまり掛け布団を足蹴にしていたりもします。しかしながら、入り口側ではない手で酒瓶に腕枕をしてあげているのが頂けません。見ているこっちは決して気分が良くない姿ですね。

 思わず顔をしかめます。

 

 ほんと、仕事の時は頼りになるくせに、なんで私生活がこうもだらしないのかなぁ……。

 

 そんな事を考えて、思わず溜め息。

 何となく異臭を嗅いだような気がして、わたしは余った手で鼻を摘まみます。その腕に自らのパジャマを挟み、空いた手で辺りに散らばる下着をいくつか拾い上げました。

 

 あーやだやだ。

 掃除は好きだけど、ばっちぃのは嫌いです。

 

「ミサトさん。朝だよ。起きて」

「ぐごー……ぐがー……」

 

 一応声を掛けてみるも、爆睡中のミサトさんはちょっとやそっとじゃ起きません。酒瓶を抱えているところを見るに、昨日も深夜に酒盛りしていたのでしょうし。……騒いでないよね? 隣は兎も角、ご近所さんの目を少しは気にして欲しいんだけど。

 

「みーさーとーさーんー」

 

 今一度声を掛けてみますが、やはり彼女は大きないびきを掻いたまま。起きる気配はゼロに等しいでしょう。

 

 仕方無い。先に洗濯しちゃうか。

 でもミサトさんの寝覚めって良くないから、さっさと起きてくれないと朝ご飯を食べる動作が遅くて、食器洗う時間が無いんだよね。まあ帰ってから洗えばいいんだけど、言わなきゃ水にさえ浸けてくれないし。でも起こすのは正直面倒臭い。

 

 少し迷います。

 

 起こすべきか。

 放置すべきか。

 

 うーん……。

 

 自分が手元に抱えた洗濯物を見下ろしてから、後ろを振り返って時計を確認。五時四五分にならないぐらいです。……洗濯をしてる間にご飯を作るとして、洗濯が完了する六時半ぐらいに一旦料理を止める。そうしたら木崎さんが来る七時までに干せますね。三〇分あれば何とかなるか。

 

 よし。

 決めた。

 

 わたしは一旦洗濯物を抱えて汚部屋を出ます。

 洗面所にある洗濯籠と纏めて、除けるものが混じっていないかを確かめながら投入。下着は纏めてネットに入れて投入。スイッチを入れて、洗剤と柔軟剤を入れて、蓋を閉じます。

 

 その後駆け足気味にリビングへ戻り、大きく息を吸い込んで汚部屋に突入。

 

「とぉー!」

 

 そして未だいびきを掻いて大の字のミサトさんの身体に向かって倒れこみ(飛び込み)ます。

 

「ぐぇえええ!?」

 

 それはもう勢い良く飛び乗ったわたし。

 女性のお腹は大事にしろと言うけど、それを主張するなら布団ぐらい被って、もっと可愛らしい姿で寝やがれ。そんな思いで放ったボディプレスもどきはミサトさんのいびきをしっかりと止め、首を絞められたにわとりみたいな声を上げさせます。顔を向けてみれば、苦悶の表情で目を見開いていました。虚空へ伸ばした手が、まるで今わの際だと言うかのようです。

 

「起きた?」

「……も、もう少し……優しく……ぐへ」

 

 ぱたん。

 虚空へ伸ばされた手が力なく堕ちて、ミサトさんは気絶したような姿になります。……いや、戦闘訓練を受けてる人間がこんなので気絶する訳ないですよね。改めて頬っぺたを優しく叩いてやれば、彼女はすごく気だるそうな姿で起床しました。




新年明けました
今年も宜しくお願いします


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2.She doesn't know the pain of others.

 昨日遅かったのよー。と、主張するミサトさん。

 その言葉にわたしは「それは自分の所為だ」と言って、汚部屋から無理やり引っ張り出します。すると彼女は意地悪だと言いながら、渋々着いてきました。

 

「意地悪じゃない。昨日ミサトさんが残業になった理由は大体予想出来てるもん」

「ちぇっ。リツコのやつぅー……」

 

 愚痴る彼女へ、そんな事は良いから顔を洗えと、洗面所へ行くよう促しました。まったく、良い大人がだらしない。

 

 大きな欠伸をしながら洗面所へ向かうミサトさん。

 その姿をキッチンで見送ったわたしは、ペンペンの部屋とは別にある冷蔵庫を開け、朝ご飯の為だけにしては過剰な量の材料を取り出します。別に大食漢が居る訳ではなし、単純にお弁当用も含んでいるからです。

 エプロンを着けて、背中でその紐を縛り、食器棚を開きます。

 

 今日は――。

 

「あ、レンちゃん。あたし今日当直ー」

 

 昨日言えよ。

 

 そう思いながら、わたしは洗面所から聞こえてきた声に分かったと返事をします。

 つまるところ、ミサトさんは本日昼過ぎから出勤。お弁当は不要でしょう。

 

 となると、()()()ですね。

 

 不要になったミサトさんのお弁当分の材料を冷蔵庫に戻し、早速調理に取り掛かります。フライパンを熱し、油を引き、お鍋に水を入れてから余ったコンロに置いて、着火。

 

 顔を洗ったミサトさんが戻ってきて、席に着きます。そしてペンペンはもう起きてるのかと問い掛けてきました。

 いや、ミサトさんよりペンペンが寝坊してる時の方が珍しいんだけど……。わたしはそんな風に肩を竦めながらもうんと返します。

 

 切ったほうれん草を水洗いしてお鍋に。

 手をかざしてフライパンの温度を確認。少し火を弱めておきました。

 ボウルに卵を五個割って、菜箸で掻き混ぜます。

 

 と、そこでわたしは手を止めないままに、ミサトさんを振り返ります。

 

「あ、ごめんなさい。珈琲淹れ忘れた」

「いいわよぉ。そんくらい自分でやるわ」

 

 ミサトさんはテーブルで頬杖を突いて、空いた手でスマートフォンを操作していました。夜中の内に入ってきた新着通知を確認しているのでしょう。わたしは前に向き直って、ブロックベーコンに包丁を入れながら話を続けます。

 

「着替えも急いで下さいね。七時には木崎さん来ちゃうから」

「はいはい。分かりましたよーっと。……珈琲、レンちゃんの分は?」

「いつも通り甘々のオレで」

「朝からよく飲むわね……」

 

 背中に掛けられる呆れた声に、短い笑い声を返します。

 

 まあ、毎晩悪夢にうなされてるので、起きた時にはいつも疲労感を感じるんですよね。だから朝からしっかり糖分を摂らないとやっていけないと言うか、頭が働かないと言うか……。ほら、さっきもミサトさんを起こすかどうかで迷って、時間を少しばかり無駄にしましたし。

 

 

 やがて珈琲を淹れたミサトさんは愚鈍な動作で汚部屋に戻って行き、着替えを済ませ、リビングへ帰って来ました。その頃には洗濯物をベランダに干し終えて、お弁当のおかずが完成。

 ふたつのお弁当箱の中には三種類のおかず。もうひとつのお弁当箱には同じく三種類ですが、ベーコンを抜いて、他のおかずに少し手を加えたものを詰めています。種類は少なく感じますが、お米は混ぜ御飯にする予定だし、問題ないでしょう。栄養バランスのチェックの為に、後で作ったものをメモしておきましょう。

 余った材料で更に二品作る頃に、葛城家のインターホンが鳴りました。……やっべ、急がないと。

 

「はーい」

 

 そんな声を上げながら玄関へ行くミサトさん。

 わたしはミトンを着けて炊飯器から釜を取り出し、キッチンに戻ります。

 

「おはようございます。葛城一尉」

「おはよう。今日もご苦労様ー」

 

 玄関から聞こえてくる声を背に、わたしは手を急がせます。

 調味料を置いている棚から混ぜご飯用のふりかけを取り上げて、それを軽量スプーンで計りながら投入。しゃもじで混ぜていきます。

 

「おはようございます。レンさん」

「おはよーです」

 

 後ろから掛けられた声へ、肩越しに振り返って笑顔と共に小さく会釈。

 いつもの黒いスーツに、サングラス。きちんとオールバックに纏められた髪型。そして、鉄仮面を思わせるかのような硬さが垣間見える引き締まった口角。わたしからすれば気心も知れたように感じる相手、木崎さんです。

 

 この二週間で何が変わったと聞かれて、一番はミサトさんの家へ移住した事だと思います。ですが、それはシンジくんの記憶の上では予定調和でした。とするなら、わたしの中で一番印象に残っている事といえば、間違いなく木崎さんの事でしょう。

 

 聞けばこの人、一日一食。睡眠時間は多くて三時間。でもって休日は無し。

 

 どこのブラック企業だよ。

 

 流石に酷い。そう思って、わたしは副司令に頼んで、都合良く空き家だったミサトさんの隣家を木崎さんの待機場所にして貰いました。これで少しでも休める時間が増える事でしょう。でもって「年頃の女性の家に男が行くのは……」と拒絶する彼を何とか説得して、朝ご飯を一緒に食べる事に。今用意したお弁当もひとつは彼の分です。お昼は友達と食べて下さいと譲ってくれませんでしたが、晩ご飯も一緒に食べています。

 勿論ミサトさんの許可もとりました。彼女的には渋々といった様子だったのですが、こちらもわたしが家事を全部引き受ける条件で了承を得ました。まあ、この家を掃除したのはわたしと彼だったので、引け目もあったのでしょうが。

 

 もう見慣れてきた光景という事もあって、最近ではミサトさんと木崎さん同士も他愛のない話をしていたりもします。この前なんてミサトさんの『上官許可』という職権乱用でお酒の相手もさせられていたり……。まあ、身体の中に濾過機(ろかき)でも入れてるのかってくらい、木崎さんは酔わなかったのですが。

 

 少しの時間が過ぎて、食卓に着いたわたし。

 三人と冷蔵庫から出てきたペンペンとで向かい合って、手を合わせて食べ始めます。

 

「ミサトさん。今日当直ってさっき言ってましたよね?」

 

 食事の合間で問い掛けてみれば、タンクトップの上に一枚薄手のシャツを羽織ったミサトさんは、お米を口に入れながらこくりと頷きます。ごくんと飲み込んでから、改めて唇が開かれました。

 

「ええ。だから今日の晩ご飯は要らないわ」

「明日の朝ご飯はどうしましょう? あとお弁当」

「多分帰ってすぐに寝ちゃうから朝は要らないわね。あ、でもお弁当は欲しいかな」

「はーい」

 

 そんな会話をしながら、七時半になる頃には食事も終了。

 お弁当を包んで、ひとつを木崎さんに手渡します。

 自室から昨日用意しておいた学生鞄を持ってきて、その中へふたつのお弁当箱を傾かないように入れました。

 

 二〇分程の時間が余っているので、五分で食器を洗い、一五分で髪の毛をブローしたり、歯を磨いたりと、身支度を整えます。最後に自室で今朝とお弁当のメニューをメモ用紙に走りがきして、よしと頷いて木崎さんの下へ。

 リビングでテレビを見ながら珈琲を飲んでいるミサトさんに声を掛けます。

 

「じゃ、行ってきまーす」

「はーい。行ってらっしゃい」

 

 見送ってくれるミサトさんに会釈で返しながら木崎さんと共に玄関へ。

 扉を開けていざ出発です。

 

 余談ですが、ミサトさんの昨日の残業の理由は、サボっていたからなんだと思います。リツコさんが昨日カウンセリングの時に、そう愚痴っていたので。

 

 

 どうせならと用意された特務車両で学校へ。

 有事ではないので運転手は木崎さんですが、建前上わたしは『お嬢様』みたいなものなので、それっぽく取り繕っているみたいです。本当は単なる監視ですけど。

 彼の運転はとても安全で、停車の際にも後部座席に座るわたしへ揺れを感じさせない優しいものです。自動車嫌いのわたしだって喜んで乗れる程なのですから、どっかの誰かに見習わせたいものですね。

 

 そんな上層ブルジョワジーみたいな登校は当然目立ちます。

 丘の上にある第壱中学校へ着いてみれば、登校中の生徒の視線を浴びせられるのです。とはいえ当然ながら道路と同じ速度で走っては他の生徒を危険にさらしてしまう為、ゆっくりと駐車場へ向かいます。となれば後部座席とはいえスモークが貼ってある訳でもないので、わたしの横顔は外から丸見えでしょう。ちらりと視線を向けてみれば、クラスメイトの姿も確認出来ます。

 

 っと、ちょい待ち。

 

 わたしは窓を開けて、目が合った生徒へ笑顔を向けました。

 

「おはよ。ヒカリちゃん」

「あ、やっぱり碇さんだったのね。おはよう」

 

 わたしの動作を察して車両を止めてくれた木崎さんに会釈でお礼を示し、目の前の少女に向き直ります。

 

 茶色いおさげと年頃を思わせるそばかすが特徴的な、それでいてとても可愛らしい容姿の女の子です。わたしが在籍する『二年A組』の学級委員長、洞木ヒカリちゃん。転校生のわたしに自ら率先して話し掛けてくれた優しい子で、此処へ来て初めて出来た友達です。

 シンジくんの記憶の中でも優しいイメージが強くて、()()()の親友でした。はじめは彼女の親友を取っちゃう事を悪くも思いましたが、ヒカリちゃんならわたしと仲が良いからって他の子を蔑ろにする筈も無いと思って、仲良くして貰っています。

 

「あはは、重役通学だよ」

 

 ヒカリちゃんにはわたしがパイロットである事を秘密だと頭打って早々に話してしまっている――学級委員である彼女に言っておけば、後々面倒臭い騒がれ方はされないだろうなんて算段です――ので、おふざけ半分に今の状態を茶化してみます。

 すると彼女は呆れたように微笑みました。

 

「重役出勤の事? それって遅刻した人に対する嫌味よ?」

「そうだっけ?」

「まあ、近代語だから解釈次第だろうけど」

 

 そんな言葉を思い出すような仕草と共に零すヒカリちゃん。

 やがて目が合って、二人して何が可笑しいのかあははと笑い合いました。

 

「じゃ、また後で」

 

 わたしから話を収め、木崎さんに『もういいよ』と目で合図します。彼はこくりと頷いて、車は再度発進しました。

 ヒカリちゃんと手を振って別れ、駐車場へ。

 車を()めれば、木崎さんと一緒に教室へ向かいます。その移動中さえ奇異なものを見る目で見られますが、構う事はありません。後ろに黒服がいる生徒なんて珍しくて当たり前。恥ずかしがらずにすまし顔をしておいた方が、面倒な印象は持たれないでしょう。

 

 やがて木崎さんは二年A組の教室の前で「では」と告げて待機。わたしは無駄な労いという事は承知で、適度に休んで下さいと告げて、教室へ。

 

 ガラリと音を立てて開けた引き戸の先は、何処にでもある学校の教室でした。木製の板と金属製のパイプを組み合わせた机と椅子が並んでいます。強いて言うならその数が田舎のそれよりは少ない事が違いでしょうか。

 あとは机の上にあるラップトップパソコンも、教室の後ろにある大きなエアコンも、田舎の学校よりスペックが高いものでしたっけ。

 

 予鈴まで二〇分はあろうかという頃合。

 まだ半数も揃っていないクラスメイトは会話を止め、わたしを一瞥してきます。成る丈にっこりと笑って、「おはよう」と零してから自分の席へ。するとクラスメイト達は「おはよう」と返してきたり、こちらへの興味を無くしたかのようにそれまでやっていた事へ戻ります。……いやぁ、教室に入って開口一番に挨拶をするのも慣れたものです。はじめは凍り付いた空気の溶かし方が分からなくて、黙って扉を閉めた後、後ろの入り口に回って入り直したものですし。

 あの時は恥ずかしかったなぁ。態々出直したのに、ずっと凝視されてたもん。主に胸を、だけど。

 

 席に着くと、先に教室へ着いていたらしいヒカリちゃんが近寄って来ます。

 

「朝からご苦労様」

 

 机に荷物を仕舞うわたしに、微笑み掛けてきました。

 何を言わずとも、晒し者になっていた事を労ってくれているのだと理解します。脇に立つ彼女を横目に見上げる形で、わたしは肩を竦めて見せました。

 

「ありがと。まあ、車で登校するのは助かってるんだけどね」

 

 薄く笑って、そんな風に返します。

 

 自分で言った事とはいえ、家事を全部引き受けているのです。朝から時間に追われるのは結構苦しいものがあります。徒歩での通学ならば、ある程度手際良くやったとしても、髪の毛をセットする時間や食事の時間を急がねばなりません。そんなのは嫌です。女の子の身支度には時間がかかるもの――わたしは掛からない方だけど――だし、シンジくんと同じ状況でだなんてやってられません。

 まあ、やっていた彼に対しては脱帽を通り越して脱皮するぐらいな気持ちなんですけどね。

 

「いいなぁ。わたしも朝もっとゆっくりしたいわ」

 

 まるでわたしの心境を揶揄するかのように、愚痴っぽく零すヒカリちゃん。……そういえば彼女は三姉妹の次女で、お姉さんが働いてるからって家事全般やっているのです。ヒカリちゃんにも頭が上がらないと気付きました。

 

 もう思わず両手を合わせて拝んでしまう心地です。っていうか、事実拝みました。

 

 流石変態が多いこの学校において、彼らを戒める立場の存在。さしずめ『第壱中学校最後の良心』ってところでしょう。

 

「……何してるの?」

 

 と、すればわたしの奇妙な行動に怪訝な表情を浮かべるヒカリちゃん。眉根を寄せて、小首を傾げ、ぱっちりとした目が若干薄目みたいに……困っているようにも見えました。

 

「え? いや、何となく」

 

 そんな彼女へわたしは大抵の事を誤魔化せる言葉『何となく』を放ちます。

 するとすぅーっと目を細めて、にっこりと笑う彼女。

 

「……わたしの胸を拝んだところで、嫌味にしか見えないよ?」

「それは失礼」

 

 第壱中学校最後の良心の額に怒りマークが見えた気がします。

 思わず咄嗟に両手を差し出して、『ストップ』と訴えました。

 

 ですが、その際も自らの手首に当たるわたしの大きなバスト。不意に見下ろして、自分の両手で軽く持ち上げます。そしてヒカリちゃんを見上げました。

 

「欲しいならあげるよ? (これ)

 

 すると呆れたようにあからさまな溜め息を吐くヒカリちゃん。

 

「無理でしょ……」

「いや、ネルフの技術ならいける気がす――」

 

 としたところで、わたしの脳裏にぴきーんという、何かを告げる直感の音が響きます。

 

 ヒカリちゃんから視線を逸らし、わたしは教室の後ろへ顔を向けました。即座に胸から手を放し、自分の席と後ろの席に両手を突いて立ち上がります。

 視界の先には、こちらにカメラを向ける眼鏡を掛けた男子生徒。癖っ毛の茶髪が特徴的な――。

 

「相田ぁぁああ!!」

「ひぃっ! 見つかった!」

 

 相田ケンスケ。

 趣味は盗撮とミリタリー関連の何とかと盗撮と盗撮と盗撮。言わずとしれた第壱中学校の変態株筆頭です。

 

「待てコラ。今撮ったろ!? ネガ寄越せこの糞眼鏡!」

 

 わたしの叫びに正しく危機感を持ったのか、機敏な反応を見せて後ろの出口へと猛ダッシュを開始しようとする相田くん。すかさず後を追います。

 

「あ、ああああげないぞ。これには知的財産権という――」

「その前に肖像権を勉強しろよ! 今までのその財産とか言うのも含めて渡せコラァァアア」

 

 しかし走り出そうとしたところで盛大に揺れてくれる胸。

 引き千切れそうな痛みを感じて、わたしは思わずたたらを踏んで止まります。ハッとして見直した先で、相田くんはさっさと後ろの出入り口から出て行ってしまっていました。

 

 くそったれ。

 後で椅子に画鋲置いておいてやろっと。

 

 そう心に決めて、わたしは溜め息を吐きます。

 そして立ち上がったわたしの動作を予期してか、数歩離れた位置で何とも言えない苦笑いを浮かべていたヒカリちゃんを振り返ります。ズキズキと痛む胸を片手で押さえ、苦悶の表情のまま、わたしも苦笑いを返しました。

 

「……これでも、羨ましい?」

 

 分かってますとも。

 走ったらすんごい揺れて痛いって事ぐらい、もう今年の春頃から自覚してますよ。でもまだ咄嗟に幼少の頃を思い出して走っちゃうんです。そしてあまりの痛みに毎度撃沈。いい加減学習しろよとは自分でも何度も思っている事なのですが、一昨年の春まではAとかBとかだったんだもの。二年ちょっとで急激に成長すれば、そりゃあこんな風にもなるでしょ……。

 学校全体でもEとかFとか、あまり聞かないよね。卒業まであと一年半もあるのに、今でDとかどんだけ成長期なんですか、わたしの身体。……背は大して伸びないくせに。

 

 フルカップのブラにしようかなぁ。

 でも制服だと透けるから、目立つんだよね……。

 

 脳内で涙するわたしに、第壱中学校最後の良心がくれた言葉は「ドンマイ」でした。



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3.She doesn't know the pain of others.

 登校早々、朝っぱらからド変態に盗撮されて、逮捕を諦めるという、珍事のようでこの学校では日常風景にもなりそうな事件の一時的決着――それはわたしが相田くんの椅子に、画鋲の代わりとして鉛筆を垂直にセッティングする事でした。盗撮は犯罪です。故にヒカリちゃんも苦笑しているだけで、わたしの陰湿な悪事を止めようとさえしません。因みに昨日は机の上に花瓶を置いておきました。その前は他の被害者(女子生徒)に協力して貰い、机を逆さにしておきました。

 

 虐められっ子の気分を味わえ相田。

 それか盗撮を止めろ。

 

 このクラスにおいて虐めはありません。あったとしてもわたしは勿論、シンジくんにも覚えがありません。だから冗談で済みます。……まあ、画鋲じゃなくて鉛筆なんだし、座る前に気が付く事でしょう。盗撮したお宝に目を奪われていなければ。

 

 そんな虐めの偽装に満足したわたし。

 頃合と見計らったのか、ヒカリちゃんがまた後でと言って、自分の席へ戻っていきました。彼女は真面目なので、きっと一時限目の準備をするのでしょう。わたしは二つ返事で見送りました。

 

 さて。

 そんな心地で教室の前方、黒板の上にある時計を確認します。時刻は八時一五分。あと五分で予鈴が鳴る事を確認して、わたしは自分の席へ。椅子に腰掛ける事無く机の横に掛けた鞄を取り上げ、中から水色のハンカチで包んだお弁当を取り上げます。

 それを持って窓際の後ろから三番目の席へ――と、やっぱ五分前に来るんだよね。

 

 視線の先には、痛々しい姿の女の子。

 空色の髪を無理矢理ツーブロックにするように、鉢巻のような形で巻かれているものと、指先しか出ないような形で右腕に巻かれている包帯。ついでにその腕は使えないようにと三角巾で吊るしてあります。それを除けば普通の制服姿です。

 既にリツコさんとのお茶会で、彼女の包帯の理由を実際に聞いています。わたしが来る三週間程前に行われた、エヴァ零号機の起動実験中に起こった事故で負った傷のようです。露呈している部分に目立った傷痕こそありませんが、わたしが此処へ来た当初も入院していた程の重傷でした。登校してきたのだって、わたしの転入が終わった後です。

 

 まあ、退院までにお見舞いに行ったりはしていたんですけどね。耳聡いフリをして、リツコさんから色々と聞いていたので。そして、()()はその時からの約束です。

 

「おはよう」

 

 向かった先で、わたしは出来る限り以上を意識した優しい笑顔を浮かべます。

 すると声に反応して、空色の髪の少女――綾波レイちゃんはわたしを一瞥。

 

「……ええ」

 

 そして挨拶にならない挨拶を返してきました。

 その声色といえば、正しく無頓着な風。挨拶どころか、わたし自身にさえまるで興味が無いと言わんばかりです。

 そんな彼女の様子に、しかしわたしは胸の内でドクンという音が鳴ったのを確かに聞きます。目を細め、唇を薄く開くと、思わずはにかんだような笑みを浮かべてしまいました。

 

――ああ、返事してくれるって幸せ。

 

 無を思わせる抑揚の無い声。

 興味が無さそうな風に見上げてくる無事な左の赤い瞳。

 

 だけど言葉の先にわたしが居る。

 それだけで十分です。入院中にお見舞いへ行った時なんて、何を喋り掛けても基本的に無視されていましたから。唯一反応してくれたのが『碇司令の娘』という単語に対してだったりと、かなり無残でした。あの時の反応って、絶対にお父さんについてでしたし。

 

「はい。今日のお弁当。ちゃんとお肉抜きにしてあるから」

「ええ」

 

 感慨深く思う気持ちのまま、わたしは彼女の机の上に持ってきたお弁当を置きます。

 

 三つ作ったお弁当。

 そのうち一つは勿論わたしの分。そして木崎さんの分。最後の一つは、綾波ちゃんの分です。

 

 お弁当を作って来てあげる事自体はシンジくんの記憶からの受け売りで、彼がやっていた事の真似事です。しかしこれがまた妙手というか、珍奇なことというか……いや、お弁当のプレゼント自体は懇意な仲ならあまり珍しいとは思いませんが。

 しかしながら見ての通り、綾波ちゃんは感情を面に出さない子です。僅かな表情の変化はあったりするのですが、基本的に破顔して接するのは憎き我が父親に対してくらい。つまり、彼女からどれ程信頼されているのかって、分かり易い尺度が無いのです。実際シンジくんだって、彼女が死んじゃうまで『何となく』でしか感じ取れていませんでしたし。

 そんな時にお弁当。

 これは重要なパラメータの役割を担ってくれるのです。っていうか事実そうでした。

 

 入院中ののれんに腕押しな綾波ちゃんに持っていった時は、少ししか食べてくれませんでした。それも殆んど一口。しかも美味しくなかったのかと問えば、極々微妙に表情を曇らせるのです。

 そんな彼女の変化が表れたのが学校へ復学してから。半分程食べてくれて、そこでわたしが量が多かったのかと問えば、こくりと頷いてくれました。

 半分減らして、全部食べてくれる。

 そんな現状は、きっと重要な意味を持っています。もしかするといつか、彼女が嫌いな筈のお肉を注文してくる日があるんじゃないかって、そう思えるのです。

 

 二人目の綾波レイ。

 

 今はまだ、まるでお人形のような女の子。

 いえ、文字通りお人形の女の子です。

 

 お父さんからすれば……きっと、そう。

 

 だけどシンジくんからすれば、最愛の女の子でした。……多分。

 

 そしてシンジくんの記憶を見て、今実際に綾波ちゃんを見るわたしは――。

 

「わ、わあ! 何だよこれ!?」

 

 教室内に響き渡る甲高い叫び声。

 肩越しに振り返って視線を向ければ、相田くんが自分の座席を見下ろした体勢で、眼鏡を落としそうな勢いで驚いていました。椅子にはセロハンテープで無理矢理垂直に固定された鉛筆。それを目をぱちぱちとさせながら確認した彼は、やおらわたしへ顔を向けて来ます。

 その表情の間抜けな事。

 未だ片手にビデオカメラを持っていて、現状の一部始終を撮影しているかのようでしたが、本当に撮るべきは今の自分の表情でしょう。

 

 わたしは思わず含むように笑ってしまい、自らが犯人だと無言で肯定してしまいます。

 

「あ、危ないだろう!?」

 

 相田くんはそう言ってさぞ憤慨しているような声を上げましたが、わたしは小さく舌をだしてから片目の下を人差し指で引っ張ります。

 

「知るか、ばーかっ」

 

 そして悪戯っ子のように笑ってみせるのです。

 綾波ちゃんへは「また放課後」と告げて、相田くんへ身体ごと向き直ります。そして拳を手の平に打ち付けて、ぽきぽきっと鳴らしました。表情は勿論、優しさ補正〇の笑顔。

 

 ガタンと音を立てて後ずさる相田くん。

 ついでに黒板の上へと視線を向けて、顔を青ざめさせました。

 飲み込みが早いようで何よりです。

 時刻は二〇分に迫るその瞬間。

 

 つまり今から逃げると――。

 

「授業放棄して先生に怒られるか、ネガなりテープなりを渡すか、選びなさいな?」

「……っ!!」

 

 追いつけないのなら、帰って来るのを待てば良い。

 

 さっきはそう思って一時的決着としたのです。

 

 しかしわたしの優越感に対して、相田くんはにやりと笑いつつ、眼鏡の真ん中を人差し指でくいと持ち上げました。その様子は何か考えがあるようで、わたしは思わず黙って彼の動向を窺う事になります。ごくり。……と、気がつけばクラスメイトの殆んどが、彼の動向を興味深そうに見ているようでした。

 

()()()がいない今……だからこそやらねばならぬ事がある」

 

 そして呟き始める痛々しい中学二年生男児。

 わたしは目をぱちぱちと瞬かせながら、引き続き彼の動向を見守りました。

 

「強いては委員長が巨乳に嫉妬しているなんて、珍しい構図にも程があるだろう?」

「あ、相田!?」

 

 彼の呟きに反応して立ち上がるヒカリちゃん。

 恥ずかしそうに頬を真っ赤に染め上げていました。

 

 ああ、あの二人ってシンジくんが来る前から気にしてたのか。

 

 一方のわたしはそんな感想を持ちながら、勇者となりそうな相田くんを見ておきました。

「ちょっと! どういう事よ!」と、声を荒げながらヒカリちゃんが彼を取り押さえようと近付いて……。

 

――キーンコーンカーンコーン。

 

 そこで予鈴。

 思わずといった様子でハッとするヒカリちゃん。

 しかしその隙を見計らったかのように、相田くんは踵を返して猛ダッシュ。そのまま誰の手も届かぬ勢いで、教室から飛び出していきました。……うん、あれは追いつけない。授業をボイコットする覚悟なんだから、止めに行ったら行った人も巻き添えを食う。それは割りに合わないでしょう。

 

 反省文だとか、お説教だとか、そういうなのはきっと全て承知の上。やっている事はド変態な犯罪行為ですし、わたしの胸がメインになっていそうな事も許せません。あとでぶん殴ってあげようと思うけど……まあ、今はいいや。ヒカリちゃんが今このクラスにおいて長く不在である関西弁の少年の事を好きなのは……好きになるのは確かだし、いずれ二人を引っ付ける為の伏線の一つになるのであれば、躍起になって止める事もないでしょう。まあ、わたしの胸だって減るものでもないし。……とはいえ販売しているところを見掛けたらぶっ飛ばそう。

 

 そんな心持ちでわたしは自分の席へ着きます。

 ヒカリちゃんも溜め息混じりに席へ戻っていきました。ふと目が合えば、彼女は何処か寂しげに笑い掛けてきます。

 

 と、そこでハッとしました。

 

『トウジがいない今……』

 

 相田くんの声が頭の中にこだまします。

 わたしの心に、何か重たいものが落ちてきた気がしました。

 

 鈴原くんが登校してくるの、明日じゃん。

 

 そしてそう思い至ると、思わず机の上に頭を打ち付けてしまうのです。そのまま力なくへたって、とても深い溜め息を吐きました。

 

――やだなぁ。絶対殴られるよ……。

 

 鈴原トウジ。

 長く休んでいる理由は、第三使徒迎撃戦の時に落下してきた瓦礫によって怪我をした妹の看病。そしてその原因はわたしにあるのだと思われているのです。……まあ、わたしが出撃した時は避難が完了していた筈ですし、使徒の殲滅方法が違うシンジくんの記憶と同じ結果になっているという事は、おそらく本当の理由はN2兵器の使用だったり、第三使徒がジオフロントに攻撃してきた際の衝撃なのでしょうけども。

 ただ、彼はシンジくんの記憶では有無を言わさずにシンジくんをぶん殴りました。それこそ妹の仕返しなのですから、躊躇も手加減もなく。多分それについては、わたしという『女子』が相手だとしても、きっと同じように迷う事なくぶん殴ってくるでしょう。彼は良くも悪くも直情的で、女の子だからなんて感性は大義名分の下に捨て去られている筈ですから。

 

 見当違いだって言って、聞いてくれる相手ではないと思います。護衛がいるからって臆する質でもありません。

 

 ちょっと今日の放課後に考えて行動してみましょうか……。殴られたくないですし。



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4.She doesn't know the pain of others.

 

『シンクロ率七二・三パーセント……。MAGIはこちら側から出来る調整の限界を示しています』

『……そう』

 

 女の子の日を思わせる生臭い匂いの中、わたしは意識を『何も考えない事』に集中させていました。

 LCLが鼓膜を揺らして直接耳に届くその声は、マヤさんとリツコさんのもの。先程までは集中する為に回線が切断されていたのですが、今は最終調整という事で繋がれ、その状態から助言を受けつつシンクロしてみました。耳から入ってくる言葉に対して割かれる意識は、まあ……戦闘中を想定すればあって当然です。それでもわたしにはシンクロに対する才能があるのか、はたまたシンジくんの夢で学習した事を活かせているのか、あまり気にする事なくシンクロする事が出来ます。……ある程度。

 

 人肌の温もりを感じるような、感じないような。

 何かに包まれているような、そうでないような。

 

 明確な温度ではない温かみを感じつつ、わたしは不確かな存在……お母さんの気配に包まれるのです。

 

 しかし……。

 

『やっぱ第三使徒戦の時のような数値は出ないのねぇ』

 

 つまらなさそうな声で、ミサトさん。

 表情は見えないので明確には分かりませんが、きっとあひる口をしながら目を細くしている事でしょう。最近家でよく目にするものです。どうにかしないといけないどうしようもない事を考えている時の顔付き……だと思います。

 閉じた瞼の裏に、そんな表情の彼女が椅子を逆向きに座って、背凭れを抱いている様子が浮かびました。わたしの単なる想像ですけども、あながち間違っていない気もします。

 

『そうね』

 

 そして続く声はリツコさんのもの。

 相変わらず無頓着にも聞こえる程の冷静な声で、表情は読めません。瞼の裏にだって様子は浮かびませんでした。

 

『でも凄いですよ。まだ二週間ですよ? レイやドイツのチルドレンのシンクロ率を鑑みると、少し信じ難い程です』

『そうね。でも出してしまった数値がある以上、それを求めるのがわたし達の仕事でしょう』

 

 マヤさんがフォローに入って、リツコさんが台無しにします。わたしがシンクロ率に無頓着な事を踏まえての事だろうけど、上げてから落とすとはきっとこの事。二人掛かりでやってくれるなんて、モテる女は辛いですねー。

 

『シンクロ率低下、七〇パーセントを割りました』

 

 っと……すみません。

 意識が逸れました。

 

 反射的にそう言おうとして、わたしは目を開きます。

 

 視界はLCLの色であるオレンジ色に染まっていて、無機質な鋼鉄の板しか見えません。手元を見下ろせばわたし自身の()()プラグスーツや、コックピットが目に留まる筈ですが、今は楽な姿勢をとるようにと指示を受けているので、天井に当たるテスト用エントリープラグの内側の壁を眺めていました。

 その壁に通信用のモニターがホログラフのような感じで展開されたのは、声を出そうとした正にその瞬間です。わたしは思わず小さな声を出して、朧になりかけていた意識もろともにハッとしました。

 

 モニターには金髪と泣き黒子が特徴的なリツコさんが映っていました。わたしの驚いた姿に珍しいものを見るような表情をして見せ、しかし何やら察した風に言及する事は無く、『今日のテストは終了よ』と告げてきます。続くお疲れ様の言葉に、わたしは胸の中でドクンドクンと早鐘を打つような音を聞きながら、お礼を述べました。

 

 

 初出撃から二週間。

 それは同時に、訓練開始からも相応の時間が過ぎた事を意味します。

 この間、二日目に提出した契約書通りの日程で訓練を行ってきました。初めはわたしの性格診断や、体力テストから始まり、それを以ってネルフが誇るスーパーコンピューター『MAGI』によるスケジュールが組まれて、ほぼほぼその予定通りにこなしてきました。

 

 しかし、その予定を狂わせるものが一つ。

 それがわたしのシンクロ率です。

 

 初出撃でマークした数値は八七・二パーセントから九一・三パーセント。理論値では上限とされ、それ以上は精神汚染の危険性があると言われる九〇パーセントさえも超えていました。……が、しかし、あれ以降のわたしのシンクロ率は最大でも七三パーセント前後。長期間の訓練を受けずにして出す数値としては異常に高いものでしたが、数値そのものは有り得ないとされる程ではなかったのです。

 当然ながら訓練プログラムの難度は若干の下方修正を施され、その分一日が無駄になったなんて事があったり……。

 

 つまり、あの時のわたしのシンクロ率は『火事場の馬鹿力』的な何かだと解釈された訳です。とはいえ本来、エヴァのシンクロ率はそんな根性論で跳ね上がる仕様ではない――むしろ激情すると数値が下がる筈なんだとか――ので、事実上『わたしが出せても可笑しくない数値』という事なんだとか。今はその『出せても可笑しくない数値』を『何時でも出せる数値』にするような訓練と調整をしているそうです。

 

 ともあれシンクロテストは終了。

 わたしはプラグから出ると、小脇に第壱中学校のジャージを抱えた木崎さんに先導されながら更衣室へ向かう事に。用意の良い彼から渡されたバスタオルで髪を拭きつつ、白が基調の廊下をてくてくと歩き進めます。

 

 時折すれ違う白いスーツの職員。

 女性ならば目線で挨拶を交わし、男性ならばそれとなくバスタオルで身体を隠しながら挨拶。すれ違った後は、振り返ってきても見られないようにと、背中にバスタオルを回す徹底っぷりです。あくまでも自然体を装っていますが、故意だと分かれば『自意識過剰な女』なんて言われそうですね。でも、実際に被害があったので言われようと気にしません。更衣室まで自分の身体を隠し通します。

 

 と、すれば……。

 

「なあ、おい……。サードって一四歳だろ? でかくね?」

 

 すれ違った後、背後から聞こえてきた言葉。

 二人組みの男性職員でしたが、どうやら片方の方からは見えていたようで……。何がでかいのかと追いかけて問い質してやりたいものの、相手は同じ職場の職員。反感を買うのは避けておきたいところです。

 諦めてバスタオルを身体に巻きました。

 しかし思わず溜め息をひとつ。

 

 全ての原因――それは、わたし用に用意されたプラグスーツです。

 正しく人目を引く理由の大半。何がどうしてそうなったのか、シンジくんのそれとは見るも明らかに違ったのです。

 

 何のバタフライ効果なのかは分かりません。

 ですが、色が真っ黒だったのです。

 

 もうそれはそれは見事な真っ黒。

 シンジくんが着ていたものでは群青色だったボディスーツが真っ黒なら、白色だった筈のボディアーマーだって真っ黒でした。とはいえ形状は女性用なので、例えるなら綾波ちゃんやアスカの着ていたボディスーツがイカ墨でも被ったようなもの。初めて見た時は思わず呆気にとられました。

 

 しかしながら黒色ってだけなら別に何を嘆く事はありません。黒色好きですし。

 

 問題はプラグスーツの材質でした。

 例えば洋服でいう黒色であれば、殆んど影は目立たず、光を反射する事もないでしょう。しかし生憎プラグスーツはダイビングスーツのようなもので、簡単に例えるなら『水着』みたいなもの。陰影は目立つし、身体にこれ以上無いくらいにフィットするし……体型がモロバレです。

 

 そして更に問題になるのがわたしの胸。

 中学生としては不相応に育っているものの、ミサトさんやリツコさんには負けるサイズのこの胸。

 すれ違う男性職員がちらりと二度見してくるのが当然の様子であれば、今のようにすれ違った後にひそひそ声で話題に挙げられる始末。ほんっと勘弁して下さい……。

 

 って事で先日、リツコさんにプラグスーツの上にジャージを着用させてくれとお願いしました。

 

 勿論エヴァの中までは着ていきませんが、道中でわたしのメンタルに甚大な被害が出ると言えば、二つ返事で許可をくれたものです。彼女自身は自らの胸をあまり気にした事が無いようですが、「良い気はしないわよね」と理解を示してくれた姿に、わたしは涙を浮かべて感謝しました。

 相談する先って大事ですよね!

 この話の前にミサトさんに相談して、胸を鷲掴みにされた挙句、「おお、張りが違う」なんて何の解決にもならない話どころか、セクハラされただけのわたしは今すぐに正座! 正座ぁぁああ!!

 

 因みにプラグスーツの色は単なるイメージカラーらしいです。

 つまりわたしのイメージは白色(ピュア)とは真逆なようで……。もう踏んだり蹴ったり。

 

 そんでもって行きは着ていけるけど、帰りはLCLでびしょびしょなのでジャージを羽織れず、こうして結局体型を晒す羽目に……。踏んだり蹴ったりどころか、わたしの小鳥のようなハートはズッタボロですよ……あはは。

 

「では、此処でお待ちしています。三〇分後にカウンセリングです」

 

 更衣室の扉の横でわたしを振り向き、そう告げてくる木崎さん。こくりと頷いて返し、恒例となりつつある休んで欲しいという言葉を投げ掛けてから中へ。

 

 プラグスーツをさっさと脱いで、毎度誰かが何時の間にか用意してくれている新しいバスタオルを持ってシャワールームへ。

 

 そういえばこのシャワールームって士官専用シャワールームって名称らしく、更衣室自体もパイロット専用ではないそうです。わたし自身が誰かとかち合った経験は無いのですが、シャワールームが仕切によって何人も同時に使える風な装いをしている事が気になって、お茶会の時にマヤさんに聞いてみたらそう教えてくれました。

 まあそりゃあ、パイロット(わたし達)はLCLがべたつくから使うけど、整備担当の人とかべたつくどころじゃ済みそうにないですもんね。マヤさんも機材チェックとかをした後はシャワーを浴びるそうですし。リツコさんだって多分そうなんでしょう。

 

 そう考えたら……ちょっとドキってした。

 

 言わずとしれたナイスバディなミサトさんやリツコさんは勿論だし、わたしの胸が羨ましいって呟いていたマヤさんだって女子力の塊みたいな人だし。綾波ちゃんや……そのうち『アスカ』だって来るとして。こんな美女軍団に囲まれていたのにある程度平然としていたシンジくんって、一体全体どういう神経していたんでしょうね。皆して女のわたしから見てもドキってするレベルの凄く綺麗な人達なんだけど……。

 

 そんな事を考えながらシャワーを済ませます。

 さっさと髪と身体を洗って、バスタオルを身体に巻いて更衣室へ。

 

 時間的な理由なのか、誰にも出くわした事がないからって、最近は着替えを更衣室に置きっぱなしです。家でも木崎さんがいない時なら自分の部屋までバスタオル一枚で行っちゃうし……。

 そういえばアスカもそうだったなぁ。でもあの子の場合は男性(シンジくん)が居ようと居まいと関係なしだったっけ。まあ、全裸は()()()()見た事ないけど。

 

 学校帰りに直行してきたので第壱中学校の制服を着用。下着を着けて、ブラウスとジャンパースカートを着れば完了です。その際先日ミサトさんから渡されたスマートフォンを鞄から取り上げて点けてみれば、一件の通知がありました。時間的にはまだ余裕があるので確認してみます。

 

 通知内容はメール。差出人はヒカリちゃんでした。用件は今度の日曜日にクラスメイト数人と、わたしの歓迎会をセッティングしようと思うけれど、その日は訓練があるのかという確認です。……残念、訓練です。

 わたしは申し訳ないけれど訓練だから行けそうにないと丁寧な文章で返しました。

 

 そこで少しばかり寂しく思う心を感じますが……しっかりしないと。

 そう思って頬を両手で軽く張って、更衣室を後にしました。



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5.She doesn't know the pain of others.

 更衣室を出たわたしは、最早日常的になりつつある木崎さんに先導される形で、リツコさんの研究室へ。

 『在室』のプレートを確認すれば、部屋の前で待機していると言う彼とは別れ、二度のノックの後、入っての声を受けて中へ。

 扉を潜れば相変わらずの装いが視界に映ります。デスク回りだけが散らかっていて、他は程々に綺麗――とは言っても、わたしは綺麗好きな部類に当たるので、ミサトさんが見れば『凄く綺麗ね』なんて言われるでしょう。物はきちんと整理されているのですが、何処かしらに埃が残っていて、ピカピカにしているという風ではない感じです。つまるところ、『片付けられている』程度で、『掃除している』という事ではありません。というか、先日リツコさん(本人)がそう言っていました。

 

 そのリツコさんは、入ってきたわたしに目もくれず、シャーカステンの前のごちゃごちゃとしたデスクで、パソコンに向かい合っていました。ヘビースモーカーの彼女にしては珍しく、現在煙草は吸っていないようです。しかしながらわたしの鼻腔を(くすぐ)る残り香が、つい先程まで吸っていたのだと教えてくれました。

 

「適当に楽にしていて頂戴」

 

 わたしに背を向けたままそう言って、パソコンを忙しなく操作するリツコさん。大方やりかけている仕事のキリが悪いのでしょう。その証拠に彼女の指は目にも留まらない速さでキーボードを叩いています。

 小声で返事をしながら、こっそりとパソコンのディスプレイを横目に見てみます。そのまま悪びれる事も無く覗きつつ、リツコさんの後ろにある丸椅子へ向かいました。

 

 ディスプレイの真ん中を陣取るウィンドウの背景は真っ黒。そこには白い英文字の羅列がずらり。

 

 おそらく何かのプログラミングをやっているのでしょうが……残念。リツコさんのタイピング速度が尋常じゃないので、英文が自然体で読める程のバイリンガルではないわたしには読めません。一番下の文章を脳内で例文と照らし合わせる頃には、上に消えていっていますから。いや、それにしても……見慣れてはきたものの、リツコさんのタイピングって本当に芸術的です。指は見えないし音はずっと続いていて詰まる事さえ無いようだし、更に打ち間違う事も無いようだし……凄い。こうしてただただボーっと見詰めていても、『あまりの速さに感動してました』の言い訳で済むんじゃないでしょうか。っていうかそれくらいの事を日常的に言われていそうです。

 

「ふう」

 

 やがてパチンと音を立てて、エンターキーを押したリツコさん。その後それを保存して、メモリースティックの接続を解除し、抜き取ります。結局傍から見ていて、何のプログラミングをしていたのかは分かりませんでした。

 そのメモリースティックを白衣のポケットに入れて、彼女は椅子ごとくるりと回転。こちらを振り返ってきます。

 

「お待たせ。悪いわね、毎度待たせて」

「いえ、やっぱ凄いタイピングだなーって見とれてました」

 

 疲れたような笑みを浮かべるリツコさんに、わたしは考えていた言い訳をさらりと述べてみます。すると彼女は首を横に振って、「お上手ね」と、呆れた風な表情で返してきました。

 どうやら此処最近のお茶会で、わたしの媚び(へつら)うようなこの話しぶりを、わたしの処世術の一つと捉えられたようでした。最近じゃ殆んどを『お世辞』で片付けられます。まあ、確かに否定はしませんけども。……いや、リツコさんのタイピングを凄いと言ったのは本音ですから、『お世辞』ばっかりではないんですけどね。

 

 リツコさんはゆっくりと立ち上がります。

 肩を回しつつ、紅茶か珈琲かと尋ねてきました。

 

 勿論、甘々のオレで。

 

 

 今日のシンクロテストの結果。

 そしてそれを基にしたこれからやるべき意識改革――って言うと凄く仰々しいけど――と、その方針。

 どうやらわたしは集中力が足りていないようで、エヴァの操縦一つだけに陶酔する程の集中をしなければ、今日以上のシンクロ率は見込めないそうです。具体的には、回線を繋いでいても音が耳に入らないぐらいでないとダメらしいです。

 

 そんなものを話し終えた頃にはマヤさんも合流して、()()()()お茶会に。

 

「わたしは……そうだなぁ。キラキラした綺麗なコーディネートより、シックで落ち着いた服装に憧れるかな」

 

 両手で持ったカップに息を吹きかけながら、そう言って微笑む伊吹マヤさん。

 服装はネルフの士官用の制服ですが、今は休憩よろしくなので畏まった言葉遣いもありません。

 

 黒いショートカットの似合う清楚なお姉さん。というものがわたしの中での印象です。少しばかり潔癖のきらいがあるものの、ネルフ職員の中では割りと年が近い事もあって話し易い人。

 普段はオペレーターとして働いている技術部所属の二尉ですが、リツコさんの直属の部下だという事もあって、こうしてわたしのカウンセリングを手伝って? くれているそうです。まあ、おそらく年が近い人が居た方がわたしの心の負担が少ないとか、そんな感じのリツコさんなりの配慮だと思います。

 とはいえ形式ばっかりカウンセラーのお手伝いという訳ではなく、ヒカリちゃんが第壱中学校の良心なら、ネルフの良心はマヤさんだと思う程に、わたしが心を許せている相手です。実際、プラグスーツの事をリツコさんに相談した時に彼女が一緒に居て、『男って不潔よね!』と凄く同意してくれましたし。

 

 リツコさんとマヤさんとわたし。

 三人で向かいあって、椅子に腰掛けながら珈琲を飲みつつの一時。

 

 今の話題は服装についてですが、そろそろだと見計らったわたしは、「そういえば」の言葉で不躾に話の腰を折りました。どうかしたのとの言葉と共に視線を向けてくる二人に頷いて返し、気になっていたと頭打って話し始めます。

 

「第三使徒が来た時って街一つ吹っ飛んだと思いますけど、あれ以外に被害……明確に言えば、わたしが格納庫に居た時の地震とかって、どうだったんですか?」

 

 そして目的だった鈴原くんの妹の被害を予想する為に、話を誘導します。

 

 マヤさんは唇に人差し指を当て、天井を見上げ、何かを思い起こそうとしているようでした。が、その様子をちらりと見たリツコさんが首を横に振り、彼女より早く唇を開きます。

 

「シェルター内部で壁が崩れたとか、誰それが転倒したという話ならば一〇〇件を超える被害が挙がっているわ。まあそれが元で重傷とされる患者の数は二十余といったところの筈だけれど」

「……よく覚えてますね。先輩」

「挙がってきている報告にはきちんと目を通すもの……誰かさんとは違って」

 

 リツコさんはそう言って、椅子のキャスターを転がして三人で組んでいた輪を崩します。そのままデスクの方へ向かって、煙草を一本咥えました。そのままライターでカチリと火を点けて、咥え煙草に。更に書類を取り上げて、こちらへ投げて寄越しました。

 

 ()()()()が誰なのかは言わずもがななので気にする事もなく、わたしは片手で受け取ったA4サイズのファイルを開きます。甘ったるい珈琲を飲みつつ目を落とせば、リツコさんの声が補足と言わんばかりに続きました。

 

「貴女のクラスメイトに被害者はいなかった筈だけど……その身内までは分からないわ」

 

 そして彼女はそう述べます。

 核心を突いた言葉に思わず「へ?」と言葉を漏らして、落とした視線を上げてみれば、彼女はしてやったり顔で肩を竦めていました。

 

「悪い方に取らないで頂戴ね? ただ、貴女の性格を考えれば、人の事を心配するよりも、自分に降りかかる火の粉の理由を知りたがると思ったのよ。……違ったかしら?」

「ああ、成る程。確かに先の使徒の被害って公になってないから、レンちゃんが逆恨みされていて不思議じゃないですもんね」

 

 飄々とした態度で続けるリツコさんと、たったこれだけの会話で本懐を理解するマヤさん。

 やだ。頭良い人って怖い。

 しかしながら、不名誉な言われ方こそされましたが、殆んど正解です。わたしは苦笑いと共に頷いて返しました。

 

「鈴原くんって言うんですけど……使徒が来た日から学校を休んでるらしいんです。普通に考えて使徒の所為でしょうし、転校のタイミング的にわたしが関わってるのは暗黙の了解でしょうし――なら、何か言われても可笑しくないですから」

「……随分心配症ね? でも鈴原という姓には見覚えがあるわ。ネルフ職員の身内の筈だから、ファイルの手前の方にあるわよ」

「分かりました」

 

 怪訝な風のリツコさんですが、わたしの用意の良さは、此処への移住の際に手続きの殆んどが済んでいたという前例があります。それを思い起こしてか、そうでないのか、あまり深くは聞かれませんでした。大方『狡猾』だとか、『用意周到』だとか、あまり褒め言葉にならない印象の切っ掛けでも思い出されている事でしょう。

 

 隣から覗き込んでくるマヤさんと共に、ページを捲って確認していきます。

 

 すると――ありました。

 

 鈴原サクラ。

 生年月日等の詳しい情報は空欄のままでしたが、年齢の欄には『八歳』との記載。状態としては意識不明と書かれていて、被害を負った際の状況が事細やかに書いてありました。そこを見る限りは……どうやらわたしは彼女の怪我の原因ではありません。

 小学生の女の子が怪我をして入院している事に対して同情する気持ちはありますし、同じく何度か入院した事がある者としては思うところもある訳ですが、それは兎も角として――とりあえずわたしの潔白は証明されています。問題はこれを鈴原くん本人にどうやって説明し、どうやって信憑性を主張し、どうやって理解を求めるに至るか……ですね。

 

 ふうと一息。

 ありがとうございますと丁寧な言葉を添えて、立ち上がってリツコさんの下へ書類を返却します。それを受け取った彼女は、呆れたように肩を竦めて、唇を開きました。

 

「それで、どうするつもり?」

「うーん……」

 

 具体的な案が出ないうちにそれを問われて、わたしは視線を逸らします。

 煮え返らないどころか、煮えてさえいないわたしの様子に思うところがあるのか、リツコさんは溜め息をひとつ。

 

「中途半端は良くないわね。事前準備をしておくのなら一二〇パーセントの用意をして、八〇パーセントを発揮するものよ。そうでないと足を掬われるわ」

 

 そんな何処かで聞いたような事に、持論を付け加えた助言を貰いました。

 

 言われた事を反芻。

 そして成る程と理解します。

 

 どの事例を以って、わたしが中途半端な準備しかしないと踏んだかは分かりませんが、自分で見詰め直すだけでいくつもの例を思い起こせます。……特に()()なんて、それの塊です。まあこれは中途半端で良かったのかもしれませんが、確かにわたしは中途半端です。何事も決して『完璧』とは言い難いところまでしか、出来ていません。……ほら、ミサトさんと同居したいと思っていたのに、全部ミサトさん次第だって投げ出していましたし。

 とはいえ言われた事に少しばかり疑問もあって、わたしは小首を傾げて返します。

 

「八〇パーセントってのは、何でですか?」

 

 この返事はリツコさんが予想していた通りの返しだったのでしょう。

 彼女は薄く笑って、やはり肩を竦めて返して来ました。

 

「運と、相手が人間だからよ」

 

 リツコさんはブラックの珈琲をごくりと一口。

 そしてわたしを一瞥した後にマヤさんへ視線を向けて、再度微笑みます。

 

「……例えばマヤが相手なら、貴女の考えた通りに物事が運べないと思うわ」

「わたし、ですか?」

「マヤさん?」

 

 リツコさんの言葉に、マヤさんとわたしが揃って小首を傾げます。

 しかし彼女は首を横に。

 理由は教えないと、暗にそう言われました。

 

 だけどそんな思わせぶりな態度は、わたしに『考えろ』と言っているのだと思います。その態度に促されるようにして、わたしは自分の唇に空いていた右手を当てて、しばし俯きました。

 

 わたしがマヤさんならば思い通りの事を出来ない。

 状況的、逆説的に見て、リツコさんが相手ならば思い通りに出来るという事でしょう。

 

 二人の違いは一杯ありますが……強いて言うならマヤさんは優しくて、リツコさんは厳しい。

 

 優しい人が相手ならば思い通りにいかない。

 うーん……何か違う気がする。

 

 マヤさん……じゃなくて、似た人としてヒカリちゃんなら?

 例えば、相田くんにしたみたいに、ヒカリちゃんの椅子に悪戯は出来ないよね。そんな事をしたら罪悪感で軽く死んじゃいそう。これが理由……だとは思えないけど、でも傷付けちゃいそうで出来ないって事は当たらずと遠からずだと思えます。それなら納得出来る気がする。

 別にリツコさんなら傷付けても良いって考えている訳ではありませんが。

 

「……まあ」

 

 頃合を見計らったように、リツコさんが言葉を漏らします。

 視線をやれば、彼女はカップを持たない手で自らの肩を揉みつつ、首を左右に傾けていました。肩が凝るのでしょう。色んな意味で。

 

「何にせよ、事前準備をする事は別に悪い行いじゃないわ。だけど中途半端にしか下準備をしていなければ、それを発揮したい心が相手を逆に傷付けてしまう事もある。……用意が出来ないなら、しない方が得策な事だってあるわ。わたしが言いたいのはそういう事よ」

 

 説教臭くてごめんなさいね。

 最後にそう付け加えて、リツコさんは話を締めました。

 

 やはり当たらずと言えど遠からず。

 わたしの中では若干ベクトルがズレているような気がしないでも無いのですが、何となく為になるようなお話でした。

 

 暗に、論破するだけが解決策じゃない。

 恨まれておいた方が、やりやすくなる事もある。

 

 そう言われた気がするのですが……これは流石に深読みのしすぎでしょうか。

 

 

「あ、そうそう……。貴女にプレゼントを用意したんだったわ」

 

 カウンセリングに当てられた時間も残り僅か。

 そんな頃合で、今日の締めと言わんばかりに、リツコさんは拍手を打ちました。

 

 うん?

 プレゼント?



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6.She doesn't know the pain of others.

 

 セピア色に加工された記憶の世界。

 シンジくんの記憶よりもずっと現実味があって、だけどこれは間違いなく夢だと言える既視感に満ちた世界。

 

 それは例えるならデジャヴのようで。

 漠然とした未来を知っていて、そこにあるだろう悲劇を記憶していて、なのにそれを回避する為の思考は無くて。与えられる未来という()()を、ただただ享受する為だけのものでした。

 

 そこにある今のわたしの感性等、ただの感想に過ぎません。

 まるで途中退席が出来ず、頭を前に固定されて観ている映画みたい。拒絶しても、嘆いても、瞼を閉じても、スクリーンを消すことは叶いません。わたしの想いは、画面の向こうに映る役者に、決して届かないのです。

 

「あんたなんかだいきらい! はなしかけないでよ!」

 

 そしてその役者は、やはりわたしの望まぬ言葉を、後のとても大切な人へ吐き捨てました。

 その言葉の意味や、相手が自分にとってどういう存在か等、考える事もしていないようです。彼女はきっと、自分が酷い事を言っているという自覚さえ、持ち合わせていないことでしょう。わたしはそう記憶しています。

 

「ひどい! ひどいよぉ!」

 

 もう一人映る役者……いえ、違います。

 先程の役者は主観者である為、目の前で涙を目一杯に溜めている少女が、わたしの見る事が出来る唯一の役者でした。

 だけど間違いの無い二人目の役者である彼女は、一人目の役者が言った事を、額面通りに受け取っているようです。

 

 その言葉の裏に隠された本当の想いに気が付くには、きっと幼すぎるのです。

 

 一人目の少女も、二人目の少女も、この時はまだ一〇に満たない幼子でした。

 

「もういい! れんちゃんなんてだいっきらい!」

「うっさい。なれなれしくよぶなぶす!」

 

 怒りを抑えられないと言った様子で、踵を返す二人目の少女。

 その背中へ投げかけた言葉は、きっと誰に向かって言っても酷い言葉です。

 

 端的に言って、暴言。

 意味の無い、暴言。

 

 ほんと、酷い事を言う奴です。

 ()()()は……。

 

 言葉を聞いた少女は、()()()に背中を向けたまま、肩をびくりと震わせました。

 一度跳ねた小さな身体は、次いで二度、三度と震え、やがて嗚咽まで混じるのです。

 

「はん! なくならさいしょからはなしかけないでよ!」

 

 そしてその背中に、更なる暴言を吐き捨てるわたし。

 震える少女は、背中越しでも分かるぐらいに俯いて、小さな嗚咽と共に腕を顔の前で何度も動かしていました。溢れかえった涙は、それ程に多かったのでしょう。

 

 ああ、本当に酷い。

 何で優しい優しい()()()に、こんな酷い事を言えるのか、わたしは。

 

 

 この時の事を、今でも覚えています。

 

 新年度早々に大喧嘩して、そのほとぼりも冷めた頃。あれは確か五月の半ばでした。

 親睦会宜しくと言わんばかりの遠足で、少しばかり遠出した時。

 

 昼食の時間になって、クラスメイトの輪を外れたわたし。

 その理由は様々にあったのですが、今から思い起こせば些事ばかりでした。

 

 そして彼女は、そんなわたしを追いかけて来てくれたのです。

 

『おべんとういっしょにたべよう?』

 

 と、誘ってくれたのです。

 

 それはきっと、喧嘩をした間柄ながらも、ずっと気に掛けてくれていたからでしょう。彼女はわたしがずっと一人ぼっちだと、知っていたのです。そしてその原因の一端になってしまったのではないかと、そんな事も考えていたのではないでしょうか。

 優しげな笑顔で話し掛けてくれた姿は、それまでのわたしが見た事のない慈愛染みたものでした。

 

 だけど、その優しさは同時に、わたしが知らないものでもありました。

 無償の愛というものを、誰からも与えられていなかったのです。唐突に見た笑顔の裏に、きっと何かが潜んでいるんだと、本能的にそう考えて――。

 

『しね』

 

 そんな暴言を吐き捨てたのです。

 

 あまりに惨い。

 あまりに酷い。

 

 少女はたっぷり一〇秒は唖然として、それから堰を切ったように怒りを顕にしたものです。

 

 何でそんな事を言われなくちゃいけないのか――と、慈愛を無下にされた怒りは相当なものだったんだと思います。

 顔を真っ赤にして怒っていました。

 そりゃそうです。彼女からすれば善意以外の何ものでも無かったのですから。

 

 だけどそれを理解出来ないわたしは、結局彼女が大泣きして、その場に先生という第三者が現れても、終ぞ謝罪の言葉を口にする事はありませんでした。

 

 

 ただ、この時、この瞬間。

 

 わたしの心に何かが落ちてきたのです。

 

 罵倒し続けたわたしの周りに、誰も味方がいない事。

 罵倒された彼女の周りに、沢山の味方がいた事。

 

 漠然と感じたその感情は――。

 

 

「…………」

 

 言葉に出さない解答を脳裏に浮べ、わたしはまだ僅かに重たい瞼をゆっくりと開きます。そうすればすぐに理解出来ます――今しがた見ていた夢の事を。

 懐かしい夢です。

 此処に来てから半月程の時間が過ぎましたが、その中で二回目の『自分の記憶』。とても尊い、懐かしい記憶。

 

 はて……。

 もしかするとこの場所に来て、シンジくんの夢を現実だと実感したから、彼の記憶を見る必要性が減っているのでしょうか? こんな短期間で夢らしい夢を二度も見るなんて、何時以来なのか……。いや、まあ、過去の記憶が夢らしい夢かと言えば、多分そうではないんでしょうけども。

 

 そうしてゆっくりと身体を起こします。

 今日はミサトさんが当直の日なので、この葛城家にはわたしとペンペンだけです。

 

「ふぁーぁ……」

 

 そう思えば気も緩むというもの。

 女の子らしさとして自戒している筈の欠伸を、これ以上無いくらいおおっぴらにやってしまいます。

 両手を天井に向けて、口を覆うことも無く……我ながら、凄く間抜けな顔をしていることでしょう。近くに人が居ないという事は、わたしから女の子らしさが欠如するその瞬間みたいなものです。だってこっちが素ですし。

 

――着替えは……いっか、木崎さんが来るまでにすれば。

 

 そんな事を考えながら、はだけたパジャマすら直さずに、自室を後にします。

 

 監督者不在の状況で、わたしから離れちゃダメな筈の木崎さんは、お隣の仮住まいで待機している筈。

 わたしの右腕に巻かれたちょっと重たい黒のリストバンドがその理由です。昨日のカウンセリングの時、リツコさんが渡してくれた代物で、わたしがこれを着けていれば健康状態を遠隔で確認出来るそうです。つまりこれを外したりしてアラートが鳴ったりしない限りは、約束の時間までは干渉してこないでしょう。

 まあわたしとしては気が休まる反面、構ってちゃんである自覚はあるので、これはこれで少しばかり寂しいものですが、木崎さんの気も休まるのであればそれ幸い。流石に我儘で彼の仕事を増やすのはよくないでしょう。

 

 肩を回して慢性的な肩凝りを解しつつ、わたしはリビングへ。

 気を張らない状態のわたしといえば、本当に自堕落というか、何と言うか……欠伸までして、目尻の涙さえ拭うのも億劫になりながら、洗面所へ向かいます。だって面倒なんだもん。仕方無いよね。

 

 可愛らしい女の子をやるのは、女の子の嗜みみたいなもの。

 だけどわたしのそれは、過去の親友を傷つけてきた事に対する自戒で、他人への配慮といったところなのです。つまり他人様が居なけりゃ、取り繕う必要なんて無くて良いんです。……ペンペンが居るけど、彼はまあ、人間じゃないですし。別に優しさや思い遣りのスイッチまでオフにするってんじゃないんですから、良いじゃないですか。

 ていうか、誰に言い訳をしているんだわたしは。

 

「クアッ」

「おふぁよー……」

「……ク、クァ?」

 

 洗面所にて、わたしより早く起床した末に朝風呂をしていたらしいペンペンと邂逅。欠伸をしながら挨拶。

 思わずと言った様子で二度見されましたけど、気にしないでと左手を振って誤魔化しておきました。

 

「新聞ちょっと待ってねぇ……ふあぁ」

 

 欠伸が止まりません。

 それを大して気にもせず、あろうことか洗面所でパジャマを脱いで、パンツ一丁になるわたし。

 脱いだパジャマはそのまま洗濯機に投入して、洗剤を入れてから蓋を閉めて、スイッチオン。

 

 そして重たい肉の塊を二つ、放り出したまま、顔を洗います。

 

「ぷはぁ……」

 

 堕落、此処に、極まれり。

 

「ク、クァァ……」

 

 もうペンペンも呆れ顔でした。

 顔を拭いているので、表情は見えないけど、多分。

 

 半裸のまま朝刊を取りに行って、何処かもの悲しげなペンペンにそれを渡し、肩を落とす彼に世の中の女の子みんなこんなもんだよと告げて、自室へ。

 漸くカーテンを開けて、着替えを開始します。

 

 ああ、気を張らなくて良いって素晴らしい。

 

 世の中には彼氏や旦那さんが居ても気を張らない方がいるそうですが、わたしは多分そうではありません。本心から家族と認める人が居たとしても、大抵取り繕った女の子らしさを心掛けている事でしょう。実際ミサトさんに対してもそうですし。

 だからまあ、一人の時くらいはこれ以上ないくらい緩めたいんだい。文句あっか。

 

 ペンペンは一羽だから、わたし一人だもん。

 間違ってない。間違ってない。

 

 そうして着替えを済ませ、愚鈍な動作で台所へ。

 今日の魚の焼き加減を窺っていなかったので、冷蔵庫の前で問い掛けてみれば、力の無い鳴き声で何でも良いって言われた気がします。んじゃあ、今日はレアで。

 

 さくっと調理を済ませ、お弁当四つと二人分の朝食を仕立てます。魚も焼いて、ペンペンのものも完了。

 洗濯物も干して、カフェオレも淹れて、あとは木崎さんを待つだけです。

 

 いやぁ、ミサトさんが居ないと捗るのなんのって。

 起こすのに時間が掛かるし、一々気に掛かるし……自堕落化してる方が支度早いってどうなのよ。

 

「……ふぅ」

 

 甘々のカフェオレを飲んで、一息。

 目の前には伏せた茶碗と汁碗、目玉焼きとウィンナーの乗ったお皿。お漬物の小皿。……もう少し凝ったメニューでも良かったかも。と、そんなことを考えます。

 

 さて。

 糖分を摂ったら少し頭が回ってきた。

 

 今日は鈴原くんが登校してくる日。

 何か考えないと……。

 

 鈴原くんの妹さんが怪我をしたのは、間違いなくわたしの所為じゃありません。

 それをわたしの所為ではないかと教えるのは、多分相田くんでしょう。彼は鈴原くんの親友ですし、彼程ネルフの事情に興味を持っている人間は、第壱中学校において他にいませんから。鈴原くんからしても、彼に聞く筈です。

 

 なら、わたしが第三新東京市へ来た時間を、彼の耳に入るように吹聴するのが手っ取り早い気はしますが……うーん、これは今日やって今日効果が出るものではないですね。気付くのが遅すぎました。

 それに、詳しく話すとネルフの規約に違反しちゃうかもしれませんし。

 

 やっぱり、鈴原くんを面と向かって論破する方が確実でしょうか?

 はたまたもういっそ、先にボコっちゃうとか……って、これは幾らなんでも酷すぎる。流石のわたしでも、これを彷彿した事自体に我ながらドン引きだ。

 

 うーん……。

 

 ああでもない。

 こうでもない。

 

 結局、答えは出ぬまま、インターホンが鳴りました。

 

 残念。

 もう出たとこ勝負になりそうです。

 

 とりあえず、話しても殴られた時は、容赦なく殴り返す。

 それだけは決めました。



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7.She doesn't know the pain of others.

 早朝から重役みたいな通学をして、我等が二年A組へ到着。

 毎度御馴染みの白い視線も、そろそろ『ああ、二年の碇か』程度になっているように感じました。クラスメイトに至っては、木崎さんの事を『渋い』だとか、『ダンディー』だとか、そんな風に言っている子すらいます。頬を赤らめて彼を見詰める一部の女子生徒には、左手の薬指を見ろよと思いますが。

 

「おはよー」

 

 そうして目立った登校風景の末、更に目立つような教室に入ってすぐの挨拶。もうそろそろこれも必要ないんじゃないかと思えますが、既に習慣化しているので止めるとなればそれはそれで目立ちそうです。

 が、今日に限ってはわたしに向いてきた視線も、すぐに別なところへ向けられるご様子。その方向は一定して、教室の後ろ側でした。ちらりと見て、わたしを怪訝そうな顔付きで見てきていた男子生徒と視線が合います。

 

「…………」

「…………」

 

 あまり手入れをされていなさそうな短髪。精悍な面構えを思わせる長い眉、細い目。そして何よりも彼の特徴だと思わせる――黒のジャージ姿。今は両腕共に肘まで捲っていて、その手を互いの上腕に当てています。

 向けてくる視線は何処か懐疑的に見え、値踏みされているようにも感じました。

 

 鈴原トウジ。

 その人です。

 

 隣には相田くんが居て、彼もわたしを横目に見てきていました。

 その視線は何処か申し訳なさが垣間見えた気もしますが、わたしは彼よりも鈴原くんをしっかりと見返します。

 

 そして一拍。

 わたし達三人以外には、何気ない一時。

 

 何時とも無く、わたしは顎を下げて、浅い会釈を返します。

 それは何を言及するでもなく、初対面の誰かと会った時に交わされるような、挨拶を後回しにする挨拶。すると彼はぷいと明後日の方向を向き、小さく舌打ちをしていました。

 

 疑う余地すらなく、わたしを敵視しているようです。

 そう察しました。

 

 

 そしてそれからは大した悶着もなく、授業へ。

 ヒカリちゃんと彼が誰なのかという話をしたり、綾波ちゃんにお弁当を渡したりはしましたが、殆んど毎朝行われている馬鹿騒ぎは――こういう日に限って、ありませんでした。

 

 やけにゆっくりとした、静かな時間が過ぎ、わたしは早朝から感じていた眠気に襲われます。

 

「――そして数千種の生物と共に、人類の半分が永遠に失われたのであります。これが世に言う、セカンドインパクトであります」

 

 初老の教師が並べる知識はただの常識で、わたし達からすれば知りたくなくても何度も教えられた事。クラスメイトの大半は、その講釈を聞き流していたことでしょう。

 わたしだって聞き流していました。

 寝るつもりはないけど、何を考えて聞くつもりも無いのです。

 

 だからこそ、不意に机の上に開いてあるラップトップが通知を示したその時、わたしは思わずびくりと震えたのです。

 

『碇さんがあのロボットのパイロットというのはホント? Y/N』

 

 その通知を開けば、そんな事が表示されました。

 思わず目をぱちぱちと瞬かせて、朧気だった意識を取り戻します。

 と同時に、ああ、こんな一件もあったなぁ……と、そう思い起こしました。

 

『ホントなんでしょ? Y/N』

 

 そして更なる催促。

 宛先は不明ですが、わたしは知っています。これはクラスメイトの大半がグルになって、送りつけてきているのです。これに『イエス』と答えたシンジくんは、授業中にも関わらず、質問攻めにされました。

 

 ふむ……。

 どうして答えたものか。

 

 イエスと答えてはいけない。

 でも、ノーと言って嘘吐きになるのも嫌だ。

 

 そんな事を葛藤して――ふと、妙案が浮びます。

 

――此処で否定すれば、わたしの疑い晴れるんじゃね?

 

 と……。

 

 しかしそう答えた場合……を考えると、不意に綾波ちゃんの事が気になりました。

 別段、彼女はこういう事に興味を持たないでしょうけれど、仮に此処でわたしが否定したら、綾波ちゃんが疑われる可能性があるのではないかと思ったのです。

 

 実際に彼女は使徒戦の前後を休んでいて、明けてからは大怪我をして登校してきているのです。綾波ちゃんはこのクラスの誰とも関わっていないようですし、休んでいた理由が吹聴されていた様子もありませんでした……ただ、元々休みがちだったらしく、何かしら特別視されていた様子もあります。ここでわたしが否定すれば、ミステリアスな彼女を持ち出して、『やっぱあのロボットの搭乗員は綾波レイなのかも』ってなる可能性は、否定出来ません。

 

 となると、イエスと言う他は無いようです。

 

 ですが、そのままイエスと言って、シンジくんみたいに神輿台に乗せられるのは嫌。となると程好く誤魔化す事が望ましいでしょう。

 無理のある誤魔化し方をして、違うと言いつつも暗に『そうだ』と言っている事になる感じにしましょうか。幸いなことに知識ばっかりは豊富にあるので、すぐには解けない方法なんて簡単に思いつきました。

 

 ふうと一息吐いて、わたしはキーボードを叩きます。

 

『Even if I am the pilot of the automaton, easily cannot it be affirmed. Alhough difficult to deny the facts related with it, still I want to spend my time as a junior high school student.』

 

 そして送信。

 

 すると教室内のあちらこちらから「はぁ?」だの、「えっ?」だのといった反応が返って来ました。

 やはりというか、クラスメイトの大半がわたしの返答を待っていたようです。

 

 とはいえ、中学生には難解な英文。すぐには解けないでしょう。

 まあ、わたしの知識はサードインパクトの時に補完されたものなので、これが正しい英文かはわたし自身も分からないんですけどね。思いついたものを脳内で翻訳して、浮かんだものをそのまま打っただけなので。

 

 ただ、効果は覿面(てきめん)だったようです。

 すぐに次の通知が来ました。

 

『はぐらかさないで教えてよ』

 

 相変わらず宛先は不明。

 ですが、何処からかごくりと喉を鳴らすような音が聞こえたような気がします。

 

 授業受けろよ、お前ら……。

 わたしも人のこと言えないけどさぁ……。

 

 溜め息混じりに、再度キーボードを叩きます。

 

『第三新東京市に来るまでは普通の中学生生活をしてたよ。此処に来たのはロボット事件のあった日のお昼頃。電車は途中で止まった。ロボット事件があったらしいのは夕方から夜にかけて。それはOK?』

 

 そして送信。

 すると、即座に返信が来ました。

 

『つまり?』

 

 溜め息しか出ねぇ……。

 つまり頭の良い人しかNOと思わないようなYESだよ馬鹿野郎。

 

 もう面倒臭いものを扱う気分になって、わたしは大して考えもせずに文章を打って、送信しました。

 

『秘密を話したくなるぐらいの友達になれたらいいね』

 

 とことんまでの皮肉。

 ちらりと近場のクラスメイトを見てみれば、黒なのか白なのか、とりあぐねているような微妙な顔付きをしていました。まあ、この言い分じゃわたしがパイロットであるとも、パイロットと関わる重鎮の娘ともとれるでしょうしね。悩みたきゃ悩めばいいんじゃないでしょうか。

 

 ただ……横目に見た相田くんは、にやりと笑った顔付きで、わたしを見ていました。

 

 奴には通用しなかったようで。

 

 

「おう、転校生……。ちぃと面貸せや」

 

 そして案の定、お弁当を机に出した頃合になって、そう呼び出されました。

 睨み付けてくる鈴原くんの双眸は明らかに怒りに満ちていて、褐色の肌に皺が寄っている程、敵意剥き出しの状態でした。

 

「良いけど」

 

 さしたる問答は必要無いでしょう。

 彼の隣に居る相田くんは意外そうな顔をしていましたが、わたしは立ち上がるなり、先に踵を返した彼の後を追いました。

 

 そして、校舎裏に。

 木崎さんが少しばかり離れた位置に着いて来てくれているようでしたが、道中で首を横に振って『気にしないで』とは合図しておいたので、手出し口出しはしてこないでしょう。……流石に私情で彼に助けを乞うのは違う気がするので。

 

 よし。といった風に、わたしの護衛が離れた所に居ることを確認した相田くんは、鈴原くんに頷きかけました。

 すると彼はひとつ頷いて、こちらに向き直ってきます。

 

「……先に確認したいんやけど、ワレがあのロボットのパイロットでええんか?」

 

 そして、シンジくんの記憶よりずっと低い声で、問い掛けてきます。

 わたしはふうと息を吐いて、彼の細い目をジッと見返しました。

 

「先に自己紹介してくれない? んで、何があったのかを説明してくれると有り難い。……物々しい雰囲気は察するけど、理由なく殴られたりすんのは嫌だ」

 

 そう告げて、片手で拳を握ります。

 問答無用で殴りかかって来たら、即座に反撃するよと、態度で示しました。

 

 すると鈴原くんは小さく溜め息を吐きます。

 

「……鈴原トウジ。ワレがこの街に来た()うとった日から、暫く休んどったわ」

「そう。わたしは碇レン。その数日後に転校してきたよ」

「おう。こいつに聞いとるわ」

 

 相田くんを顎で示して、腕を組む鈴原くん。

 含む所を隠そうともしていないのか、眉の間には皺が寄っていました。

 対して、相田くんは……何処か罰が悪そうな雰囲気でした。まあ、多少なりわたしに情は持っているのでしょう。この状況を作りだしたくせに。卑怯者。

 

 まあでも、どうやら話は聞いてくれそうです。

 

「……で、どう見ても怒ってるみたいだけど、その理由を聞かせてくれる?」

 

 ならば直球。

 そのまま問い掛けます。

 

「ロボット事件のことは知っとるな? さっき問答しとったの、ちゃんと見してもろとったさかい。……で、単刀直入に聞くが、ワレがそのパイロットなんか? って聞いとるんや」

 

 すると、わたしが問い掛けた理由についてを省いて、本題に入ろうとする鈴原くん。

 わたしはあからさまに溜め息を吐いて、目付きを醜悪に変えながら彼を睨みます。

 

「ああ? ちゃんと聞こえてないの? 理由(わけ)を話せって言ってんだろうが」

 

 突如変わったわたしの態度に、鈴原くんの眉がぴくりと動きます。

 隣に立つ相田くんが、大袈裟な程に身を引いていました。

 

「お前がパイロットなら話したるわ。それでええんちゃうんか?」

 

 静かな声で、鈴原くん。

 

「魂胆が見え見えだつってんのよ。何があったかも聞いていねえのに、殴られてやれるかって言ってんだよ。わたしは」

 

 普段よりもずっと低い声を出して、苛立ちを顕にしてみせるわたし。

 

「…………」

「…………」

 

 互いに言葉を失う。

 

 鈴原くんはきっと、鬱憤晴らさぬうちに相手に弱みを見せたくないと思っているのでしょうが……何だろう、すげえ()()()()。こっちはちゃんと調べて来てやってんのに、何でこんなやり取りをしなくちゃいけないんだ。

 

――なんか、イライラする。

 

 わたしは舌打ちをひとつ。

 

 それが切っ掛けになったのか、鈴原が肩を揺らしながら歩いてきて――。

 

「ああ、もう面倒臭いわ」

 

 今に腕を引こうとしていた彼に、そんな言葉を吐き捨てながら、わたしは足を振り上げて、彼の右足を引っ掛ける。そのまま体当たりをして、体勢を崩した彼を押し倒した。

 

「トウジ!」

 

 戸惑う相田の声。だけどわたしが横目で睨みつけたら、彼はすぐに臆して言葉を失くした。

 

「何さらすんじゃワレェ!!」

 

 思わぬ攻撃だったようだけど、女の子の膂力(りょりょく)では押し倒したくらいじゃ負うダメージなんてたかが知れていたらしい。鈴原は目をひん剥いて、大口を開けて、怒鳴ってきた。……ほんと、野蛮。

 彼の身体に圧し掛かるわたしは、「うっさい!」と一喝。胸倉を掴んで、怒りを顕にした彼と、面と面を突き合わせる。

 

「妹のことよね? 知ってるよ」

 

 静かな声で告げてやる。

 すると、ピクリと身体が震えて、彼の抵抗が静まった。

 映る表情は、奇異なものを見る風だった。

 

「昨日相田が馴染みない奴の名前出してたから、もしかしたらと思って調べといたよ」

 

 そして付け加える。

 何で知っていると言っているかのようだった彼の表情が、怪訝な風から再度怒りが燃えあがるようになる。頬までも真っ赤に染まって、ギリギリと音が聞こえそうな程に歯を噛み締めていた。

 

「だけどお門違い。確かにわたしはパイロットだけど、わたしが搭乗するよりも前に、あんたの妹は怪我をしていた。時間の確認は確か。あんたの妹のカルテと照らし合わせた」

「…………」

 

 言葉を失くす鈴原。

 だけどその身体には、より一層の力が籠もっているように思えた。

 顔を真っ赤にして震えだすその姿は、最早行き場の無い怒りを押し殺せないといった風だった。

 

――間違っているくせに、それを認められない。んで、今尚わたしに八つ当たり紛いの怒気を含む顔付きを見せてくる。……何様よ? こいつ。

 

 その子供染みた姿に、わたしのイライラはより一層増していく。

 もうどうせだしついでにぶちまけてやれ。

 

「……ねえ、それより知ってるー? あの敵がこの街に来るまでに、戦自のN2兵器で街ひとつ吹っ飛んでるんだよぉ? あんな爆発なら、シェルターとか意味無いねぇ? 怖いねえ?」

 

 態とらしく、惚けた風を装って告げるわたし。

 醜悪な笑みを収めないままに、彼の視線を相田へと促した。

 

 すると、震えた状態でこくり、こくりと頷く相田。

 ふふ、よく出来ました。

 

「……ごっつムカつくわ。お前」

「はあ? むしろ感謝なさいよ。わたしが戦わなきゃ、どうなってたかも分からないの? 仮にあの兵器がこの街にぶち込まれてたら、妹もあんたも仲良くお陀仏だったのよ?」

 

 虫唾が走る。

 そう言わんばかりに、わたしを睨んでくる鈴原。

 

 はん。ムカつくのはこっちの台詞だ。

 女に手を上げようとするクズに言われたくねえよ。

 

 

「レンさん。そこまでにして下さい」

 

 

 と、するとそこでひとつの声。

 ハッとして顔を上げれば、耳に手を当てて、インカムを確認している様子の木崎さん。

 

 彼はジッとわたしを見詰め――ゆっくりと唇を開いた。

 

「非常召集です。行きましょう」

「……うん」

 

 どうやら、第四の使徒が襲来した様子。

 確かにシンジくんの時も、絶妙なタイミングだったのを覚えている。

 あの時は……綾波ちゃんが呼びに来てくれたんだった。

 

 消化不良は否めないけど、まあ、いいや。

 鈴原(こいつ)を見てると、吐き気がする。

 さっさと行こう。

 

 わたしは立ち上がって、踵を返す木崎さんに続いた。

 

 すると、やり場の無い怒りを、負け犬の遠吠え宜しく、怒号で表す鈴原の声が背中に掛かってきた。

 それを聞いたわたしは、もうほんとムカつく限りだったけど、去り際に一度だけ振り返っておく。

 

「そうそう。シェルターを抜け出そうなんて考えないことね? 見かけても助けないから」

 

 それを捨て台詞に、わたしは荷物を取りに教室へ向かった。

 

 まあ、別に挑発したい訳じゃないし、ヒカリちゃんにあの馬鹿二人を見張っておくよう、お願いしておこう。




どうもちゃちゃです。
文字数の関係でシャムまで進みませんでした。まあ、日常風景を削れば入るんですけどね。ぶっちゃけそれならエヴァじゃなくて良いよねって思うんです。平穏な日常と使徒戦の両立があるからエヴァは素敵なんです。言い訳じゃないです。違います。そんな目で見ないで下さい!(迫真)


やはり懲りずに解説します。
ついでにおまけで雑学入れてます。
長いので不要な方は飛ばしてって下さい。

・『卑怯者恥を知らず』
 卑怯者はレンのこと。
 恥を知らずとは過去の行いを省みながらも、トウジ(被害者)の心を汲まないこと。

・英題
 彼女は人の痛みが分からない。
 意図は上に同じ。

・レンの胸。乳。おっぱい。
 中学生では珍しいDカップです。
 ユイの娘が貧乳なら可笑しいよねって事で巨乳化。

・スマホ
 原作(アニメ版)はガラケーで、新劇はスマホだったかな。
 こればっかりは時代的なもので、おそらく作られた当時から想定した二〇一五年を意識したギミック(電気自動車等)が多々ありますが、残念ながら現代はその更に先を行っていたようですね。そんな独自解釈の末、此処は原作よりも現代に忠実な描写をしています。

・第三使徒迎撃から二週間
 誰かさんが「三週間」と言う場面がある。
 八月開始説の矛盾点。気にせず開き直っていきます。
 詳しくはおまけで。

・アスカの全裸は一回しか見た事がない
 AIRのは全裸じゃないのでノーカウント。その上で『読者向け伏線』の一つです。レン主観なので『物語的伏線』としては機能しません。

・サクラちゃん
 被害については半ば適当。ただ、旧劇を追う以上彼女の登場シーンは予定していない。また、旧劇なのでエヴァ2で出た名前、『ナツミ』の方が良い気もしたけど、親しみ深いのはサクラだろうと思ってサクラにしておいた。

・サクラちゃんの怪我の原因
 独自解釈。

・堕落したレン
 誰の影響かなんて言うまでもない。レンは幼い頃から、ミサトやアスカと暮らすシンジくんを見ていた。つまりミサト。

・英文
 私がパイロットであっても、簡単には話すことができません。 しかし、私はそれに関連する事実を否定することはできません。 それでも、私は中学生として過ごしたい。
 優しい読者様からご教示頂きました。


以下、おまけ。

・八月一四日開始説のあれこれ+α

 コアなファンの方ならご存知かもしれませんが、エヴァの時系列はメジャーな説と、マイナーな説があります。

 メジャーなのは六月二二日開始説。
 正史です。根拠は色々ありますが、シンジ君の声優である緒方様のツイートですね。

 対する八月説が存在する理由ですが……。
 答えは簡単。作中で描写があるからです。

 最終話のカットのひとつに、シンジくんの住民票が出てくるのですが、ここに『八月一五日』とあるのです。
 住民票は転出後二週間放置すると不定になる事を忠告される筈です。シンジくんの性格考えると二月も放置している筈はないですし、翌日に行ったのではないかという考察が成り立つ――つまりこれが八月説ですね。
 しかしながら、シンジ君の住所が違ったりしますので、エヴァにおいてよくある『適当な描写』のひとつだったと言われています。

 まあ、それを推して尚、本作で八月節を採用した理由は、本作を『一年間』にしたかったから。六月スタートだと、最低でも一四ヶ月は過ぎる事になって、『激動の一年』とは少し言い難い為。
 あくまでもそういう理由なので、細かいところは気にしないで下さい。どうしても気になる方は、レンが暑さで頭やられてるんだと思って下さい。


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第四話 戸惑い
1.Another self alone.


 決死の形相で駆ける駿馬より速く、鋼鉄の塊が地上を走ります。

 街は混乱と喧騒で包まれていました。歩道を歩く人は居らず、一様に小走りになって、挙ってシェルターへ向かっているようです。車道では我先に逃げようとする車両が定められたレーンを無視していて、立ち往生している様子も見受けられました。

 そんな光景を尻目に、わたしが乗る黒塗りの車両は順調に進んでいました。MAGIのバックアップでもあるのでしょうか……法定速度を無視した速度を維持し続けられるルート取りには、さしものわたしとて唖然としました。

 朝の安全運転は何処へやら、本当に木崎さんが運転しているのかと疑いたくなる程の暴走運転。……いえ、爆走と言った方が良いのでしょうか? 揺れに揺れる車内ですが、わたしの三半規管へのダメージは少なくて、どれだけスピードを出しても大丈夫だと思える安心感があります。ミサトさんのそれとはえらい違いです。何時事故っても可笑しくはない状況ながら、わたしは普段より落ち着いていました。

 

 正しく有事である今。

 わたしは木崎さんが運転する特務用の車両――といっても何時もの車ですが――に乗って、ジオフロントへ向かっています。

 法定速度なんて知ったこっちゃなし。

 一般車両は通行禁止とされる道だって、我が物顔で突っ込んでいきます。

 

 そうしてちょっとした高台を通りがかれば、街の大まかな様子が目に留まります。

 そこは車内から確認した喧騒が些事に思える程、異様な雰囲気に包まれていました。

 

 つい今しがた避難命令が出されたのでしょうか?

 一般道で警察官が拡声器を手に、声を張り上げているようです。その後ろでヘルメットを被った警察官が誘導灯を振って、『此処に近付くな』と、市民に示していました。

 すると……ゆっくりと沈んでいく鋼鉄の建物。

 その建物の窓ガラスの向こうには、何事かと辺りを見渡そうとしている風な人も窺えました。

 

「……天井、都市?」

 

 激しい加速感に身体を縮こまらせつつ、自分の目で初めて見た窓の外の光景に、わたしは喉を鳴らしました。

 すると、「ええ」と返事。バックミラー越しに木崎さんを認めれば……立入禁止区域に入って急場が凌げたからでしょうか? サングラスを掛け直しながら、ミラー越しにわたしを一瞥してきていました。

 

「状況を報告します。宜しいでしょうか?」

 

 学校を出てからというもの、木崎さんが片耳につけているインカムからは、音漏れする程の何かが鳴り続けていました。……まあ、言わずと『報連相』や『指示』なのだろうとは思っていましたが、どうやらその情報が纏まったようです。

 

 暗に「聞く余裕がありますか?」と問われているのでしょう。わたしは窓の上に付いているグリップとシートベルトをそれぞれの手で握り、お願いしますと返しました。

 了解の言葉に次いで、木崎さんは前へ向き直ります。

 

「本日未明、第三新東京市近郊に正体不明の物体が出現。識別パターンは青。使徒と断定されました。そして先程、全権限が日本政府よりネルフへ移譲。その時刻を以って、副司令によってネルフ本部に第一種戦闘配置が発令。今はご覧の通り、第三新東京市への避難勧告、及び戦闘形態への移行を行っているそうです」

 

 耳を裂くようなブレーキ音。

 ぐわんと身体を引っ張る遠心力。続く加速感。

 

 立入禁止を示しているのだろう立て看板を、立入禁止区域の内側から吹っ飛ばして、一般道へ飛び出す特務車。飛んでいった看板を本能的に目で追いかければ、どこぞの建物にぶち当たっていました。

 

――いや、非常時なのは分かってるけど、ミサトさんより色々凄い事をしてるよ木崎さん(この人)

 

 そんな事を考えつつも、言われた事を何とか理解して、わたしは了解します。

 するとわたしを気遣うように、再度バックミラー越しに後部座席をちらりと見てくる木崎さん。小さな声で謝罪を述べられました。……どうやら考えが顔に出てしまっていたようです。しかしながらこの状況下で後部座席を何度も確認してるなんて危ないだろうに……不安感を抱かせないことは、流石としか言い様がありません。

 

 一般道へ飛び出してみれば、あと少しの距離がどうにも大変そうです。

 協調性の無い馬鹿が作り上げた車両の飽和状態。有り体に言って、二進も三進もいかなくなっている車両の大群が見えました。……一々迂回しているとキリが無さそうですね。

 

 わたしはアシストグリップを再度強く握り締め、バックミラーをしっかりと見返して、口を大きく開きました。

 

「木崎さんの運転なら酔わないから大丈夫! もっと急いでも平気!」

 

 そう返せば、彼はこくりと頷いて、「分かりました」と返してきます。

 そしてぐわんと加速する車両……ぶつけるんだろうなぁ。骨折とかしたら洒落にならないけど、木崎さんだから多分大丈夫な気がする。

 

 その後流石に悲鳴を上げたのは、言うまでもありません。

 まあ、覆面パトカーみたいにサイレンを装着して、車の隙間を強引に通って行っただけなんですけども。さしもの木崎さんとて、他車両の大群を弾き飛ばそうとするような真似はしませんでした。……ミサトさんなら思い切り突っ込んでそう。

 

 

 カートレインを使ってジオフロントに着くと、当然ながらネルフ本部も物々しい雰囲気に包まれていました。普段の静寂さは何処へやら、警報音と『第一種戦闘配置』の指示が繰り返されています。職員達は大慌ての様子で駆け回り、普段はわたしに視線を寄越す人でさえ、自分の業務に集中しているのか、そのまま擦れ違っていく程。使徒戦においては後手ばかりですが、何だかんだ特務機関ネルフはエリート揃い。非常時の迅速な行動は基本なのでしょう。

 

 わたしが到着したことを報告した木崎さんは、改めて『更衣室に直行し、着替えるように』と指示を伝えてくれます。分かりきったことだったので、わたし達の歩は既にそちらへ向いていましたが、了解して返します。

 部屋に至るまでの間も木崎さんは情報を集めてくれていて、使徒の形状や進行状況など、その詳細を教えてくれます。しかし内容は言わずもがな。わたしが女であれど、バタフライ効果は使徒にまで影響を及ぼさないようです。木崎さんが情報を精査してくれるにつれ、その使徒はわたしが『シャムシエル』と記憶するものだと確信を持てるようになります。

 

 更衣室へ着くと、木崎さんは扉の前で待機。

 わたしは何時もの挨拶をせず、替わりに『追加の指示があれば気にせず入って来て下さい』と告げ、更衣室へ入ります。まあ、裸を見られたとしても、この非常時……仕方ありません。彼はふたつ返事で了解しました。

 

 中へ入ると自分のロッカーへ向かいます。

 その間にリボンを解き、ジャンパースカートの肩掛けを下ろしました。ロッカーを開いて、中へ鞄を放り投げると、スカートを脱ぎます。それを空いたハンガーへ雑に掛けて、ブラウスの袖口と前のボタンを外して、これも脱いで雑に掛けます。リボンはスカートのポケットに突っ込んでおきました。ブラジャーのホックを外して――ガチャリ。後ろで扉が開く音がしました。

 ハッとして下着を脱ぐ手を止め、振り返ります。

 そこには水色の髪の少女。わたしを認めて、後ろ手に扉を閉めていました。どうやら追加の指示ではないようです。

 

「綾波ちゃんも出撃?」

 

 記憶上でも彼女は召集されていたので、あくまでも確認の為に問い掛けます。彼女は唇を開くことは無く、こくりと頷いて肯定しました。

 改めて下着を脱ぐわたしの横へ歩いてきて、ロッカーを開きます。

 

「予備」

「そっか。じゃあ、頑張るね」

 

 わたしは開いたロッカーの扉で遮られているのを承知の上で、微笑みます。しゅるり、しゅるり、という布の擦れる音を聞きながら、彼女も着替えを始めたのを何となく確認します。

 ドクンドクンという心音が少しばかり大きくなりましたが、多分先程唐突に開いた扉の音でびっくりしたのでしょう。……自分のことですが。

 

 脱いだ下着を畳み、ロッカー内の仕切りの上へ。

 ハンガーに掛けてある黒いプラグスーツを取り上げます。伸びきってだぼだぼなそれの首元に足を差し込み、その場で小さく跳ねながら、引っ張り上げていきます。その最中、不意に隣のロッカーから白い肌が見えて……心音が加速しました。我ながら何ででしょう? いや、綾波ちゃんは確かに可愛いんですけど。

 プラグスーツを肩まで上げて、袖に手を通し、足もしっかりと靴底に着けます。目視で改めてちゃんと着れているかを確認して、左手首に着いているスイッチを押しました。

 シュッと音を立てて縮むプラグスーツ。ロッカーで保管されていたそれは随分とひんやりとしていて、思わず声が出そうになります。それを堪えて、胸下や二の腕等、どうしても合わなかった部分を指で摘まんで直しました。

 

「碇さん」

 

 とすれば、綾波ちゃんから声を掛けられます。

 

「……うん?」

 

 ギプスがあるから、着替えが難しいのかな?

 綾波ちゃんは用も無く自発的に他人へ接触しようとする性質じゃありません。唐突に声を掛けられたことに、そんな当たりを付けて、隣を覗き込みました。

 すると、彼女は未だ半裸。ショーツだけを身につけた状態で、しゃがみ込んでいるではありませんか。

 

「ど、どうしたの?」

 

 思わず上擦った声を出しながら、わたしは彼女の真っ白な背中を認めます。

 滑らかな曲線を描く背中。決して丸みを帯びている訳ではありませんが、これ見よがしに背骨が浮き出ているような痩せ方はしていません。肌の色合いこそは不健康にも見えそうな彼女ですが、どうやら食事はしっかり摂っているようで。

 そして、わたしが危惧したギプスですが、どうも彼女はその辺りにおいて器用なご様子。どうやったのか、肩掛けの布は外され、ブラウスも既に脱ぎきっていました。

 

「これ」

 

 しゃがんでいた綾波ちゃんが、足許で開いていたらしい鞄から、水色のハンカチに包まれたものを取り上げて、わたしに見せてきました。

 そこで漸く理解します。お弁当箱でした。

 顕になっている胸を隠すでもなく立ち上がって、わたしへ改まってくる綾波ちゃん。真っ白なふたつの脂肪は、わたしのそれのように自己主張が激しい訳ではなく、それでいて整った形をしています。配慮することも忘れ、わたしは彼女の胸を凝視していました。

 

「……碇さん?」

 

 するとお弁当を片手に、小首を傾げる綾波ちゃん。

 わたしの視線は察したろうに、まるで意図を理解していないようです。

 

 思わずハッとして、わたしは両手を肩の高さに上げて、「ああ、うん」と、意味の無い返事をしました。

 その手を改めるついでに、彼女から包みを受け取ります……と、どうやら中身は残っている様子。特に思うところは無いのですが、受け取ったそれを一瞥してしまいます。

 

「時間が無かったの」

 

 わたしの視線が意味ありげに映ってしまったのでしょう。

 綾波ちゃんはらしくも無い言い訳を並べました。しかし、その言い訳はきっと配慮というもの。少しは気を許してくれているのでしょうか?

 わたしは首を横に振って、微笑みます。

 

「ううん。迷惑じゃなければ、明日も作ってくから」

「ええ」

 

 ドクン、ドクン。

 と、高鳴る胸の音が、わたしの脳に響くかのようでした。

 

 笑い合うような仲にはまだ遠く。

 しかし明らかに『他人』ではなくなったのだろうと思える距離感。

 何でもない挨拶を貰えるようになるまではまだ時間が掛かりそうですが、きっと……いつか……と、思わせてくれるようです。

 

 それはとても尊くて、とても嬉しくて。

 決して顔には出さないまでも、先程までクラスメイトに怒りを覚えていたことが嘘のような心地でした。

 

――そう……大事なことを、忘れてしまう程に。




どうも、約一年ぶりです。
別作の完結に手間取りました。
んで、更新再開……といきたいのですが、PCが大変ご機嫌ななめでして。まともに書けない状態だったりします。このようにスマホで打つ事は出来るのですが、やはり勝手の違いかより良い文章が浮かびません。

ともあれ、活動報告で出すと宣言しましたので、書き上がっている部分だけでも投下させて頂きます(七ページ分)。PCが直り次第、続きも書かせて頂きます。


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2.Another self alone.

 命令が下るまでは待機だと言う綾波ちゃんとは別れ、わたしはジャージを着込んで更衣室を後にしました。

 木崎さんから追加情報を貰いつつ、格納庫へと向かいます。

 そして搭乗。

 二度目となると、優秀な職員はもう慣れた様子です。きっと何度となくシミュレーションをしたのでしょうが、初戦の時にリツコさんが出張って来ていたのが嘘のよう……すぐにアンビリカルブリッジへ案内されました。上に着てきていたジャージを木崎さんに預け、コックピットへ。

 

「ご健闘を」

「はい。頑張ってきます」

 

 相変わらずの鉄仮面ながらも、優しい言葉を受け取り、ハッチが閉められます。

 外界と遮断されたことを示すように、静寂に包まれました。

 やがて静かな駆動音と、僅かな加速度を感じて、エントリープラグが挿入されたことを実感。

 

『LCL注入開始』

 

 するとすぐにマヤさんのアナウンスが響きました。

 ザパンと音を立てながら、生臭い橙色の液体が流れ込んできます。

 彼女の声の印象を思い起こしている内に、水位はあっという間に増して、わたしのつま先から、ふくらはぎ、腿……と、プラグスーツを濡らしていきます。

 

 って、あれ?

 

 そこで漸く、わたしはハッとしました。

 目に見えている景色。LCLが身体を濡らしていく感覚。それらは決して不確かではないのに、漠然とした違和感を覚えます。あっと思うが早いか、すぐに察しました。

 

――しまった!

 

 その言葉は口から出したつもりなのに、わたしの口角はぴくりとも動きません。

 確かなラグを感じて、漸く動いたかと思えば、わたしの口角は……

 

 笑みを()()()()

 

 本当、我ながら迂闊(うかつ)な奴だ。

 別に訓練なんて必要が無いから、大人しくしておいてやれば……あっさりと忘れて。

 そんなのだから、あんなガキ共にイラつくんだ。馬鹿じゃないのか。

 

――わたしの敵は使徒と碇ゲンドウだろ? 見誤るなよ。碇レン。

 

 わたしは不敵な笑みを浮かべる。

 その間も滞りなくエヴァの支度は済まされていき、神経接続も問題なく行われた。

 伊吹マヤがわたしのシンクロ率を口に出せば、赤木リツコが怪訝な言葉を漏らす。……葛城ミサトは相変わらず、呑気な奴だ。「本番に強いのかしら」って、思考を放棄しているも同然なことを言うものじゃない。そんな奴に『馬鹿』と言われた碇シンジに、同情してしまうじゃないか。

 まあ、それは兎も角として、問題なく出撃させてくれるのならばそれで良い。此処でもきちんとパフォーマンスをして、碇レンの必要性を実感して貰おう。

 

 さあ、蹂躙の時だ。

 存分に楽しませてくれ。

 

 

『レンちゃん、作戦どおり……良いわね?』

 

 葛城ミサトが確認を取ってくる。

 作戦……出撃前に生返事をしたものだが、使徒のATフィールドを中和しながらパレットライフルを掃射するというものだった筈。確か、これをそのまま実行した碇シンジは、力むあまり敵影が見えなくなる程の掃射をして、『馬鹿』のお言葉を頂戴した。

 

「断る。改めて見た限りだと、撃ち抜けるような角度じゃない」

 

 わたしは淡々とした口調で命令を拒否した。

 まあ、嘘ではない。ATフィールドの強さはまだ分からないが、兵装ビルからちらりと確認した形状は記憶にあるまま。イカのような形状をしていて、前屈しているような格好だ。コアはその内側にあり、頭部が邪魔をして巧く狙いがつけれるとは思えない。

 本来なら搭乗して二、三週間しか経っていない人間が、実戦でピンポイントに狙いを付けられると思えるのなら、彼女達は相当おめでたい。

 

『……MAGIの判断は?』

『パイロットの技量、位置関係を考慮し直した場合、命中率は一〇パーセントを下回っています』

『レンさんの技量でも……そう。あまり成果は望めなさそうね。作戦を改めましょう』

 

 MAGIが考慮するわたしの技量といえば、きっと表のわたしのものだろう。

 今のわたしならばもう少し高い数値を出すだろうが、改めてくれるのならば有り難い。射撃戦の経験は碇シンジの記憶を以ってしても、あまり多いとは言えないのだ。シンクロ率に目を瞑れば、わたしより綾波レイの方がずっと上手だろう。

 

『試用も兼ねてるから、出来れば撃って欲しいところだけど……仕方無いわね』

 

 葛城ミサトが残念そうにぼやく。

 いや、まて……彼女の言葉を聞いたわたしは、今一度思考した。

 

 使徒迎撃戦に用いる兵器には莫大な費用が掛けられている。折角作ったものを使用しないとなると、相応に反感を買うだろう。そんなものはわたしの知ったことではないし、非合法組織の癖に変な所で律儀なものだとも思う。しかし、それを蔑ろにした戦自との関係の末路は……と考えれば、あまり無下に扱って良いものではないかもしれない。

 

「なら、撃つだけ撃とうか?」

 

 逡巡の末、わたしは改めて問い掛けた。

 

『……威嚇射撃ってことかしら?」

 

 返答は葛城ミサト。

 少しばかり訝しげな声色をしているが、言葉遣いに違和感があるのだろう。かといって降ろされる訳ではないだろうし、それこそ気にすることはない。最低限従順なふりをしてやれば良いだろう。

 わたしはこくりと頷いた。

 

 ビルの陰から覗き見ている現状。

 当然ながら使徒はこちらを向いていない。

 奇襲を仕掛けるのならばこの状態は望ましいと言えるが、敵の視野や攻撃方法は判明していない。

 頭部に双眸らしきものは認めているが、白い円の中心にある黒い瞳のようなものは、先程から微動だにしていないからだ。それを『目』と判断するには、些か無用心。碇シンジの記憶によれば、頭部と思わしき部位をこちらに向けて相対していた記憶はあるが……これは本部の人間が知るところではない。

 同じく、奴はまだ武器である光の鞭のような触手を出していない。それが出される覚えのある両腕は、まだただの突起物という印象だろう。

 それに、奴にはATフィールドがある。

 その強度も知っておく必要があるだろう。

 

 碇シンジの記憶に纏わることは伏せながらも、わたしが敵使徒の死角と攻撃方法が分からないことを淡々と述べれば、赤木リツコが同意する。彼女の声色もまた、訝しげに聞こえたが、やはり奇襲は難しいという結論に至った。

 

『では作戦を変更。パレットライフルによる威嚇射撃の後、敵使徒の死角と思わしき部分を突いて、兵装ビルによる一斉掃射。その後初号機は有利なポジションへと移動、並びにコアへ向けて狙撃。有効性が確認出来なければ、プログレッシブナイフによる直接攻撃を行います』

 

 葛城ミサトが作戦を纏めた。

 成る程。現時点では最も無難かつ、リスクの少ない作戦だろう。これなら敵使徒の攻撃方法までもが分かると言える。こんな簡単な作戦であっさりと倒せるとは思えないが、あの使徒の奥の手や、使徒そのもののタフさは未だ彼女達にとって未知の領域。ポジトロンライフルのような超火力武器も無い以上、他に実用的なものがある訳でも無い。致し方ないと言えるだろう。

 まあ、わたしとしてはエヴァの装備で唯一信用しているプログレッシブナイフを使用する許可を得られたことが有り難い……事実、碇シンジの記憶にある使徒戦の大半は、ナイフか素手で決着しているのだ。作戦の有効性よりも、ナイフを使用する許可を重視しても已む無し。パレットライフルなんて玩具と比べたら、よっぽど使える。

 

「了解……」

 

 にやり。

 わたしの口角が歪んだ笑みを浮かべる。

 それは決してエヴァの機体へ表立った影響の見られるものではなかったが、抑えきれない衝動が、加速する心音となって頭に響く。胸から腕に伝わる震えや、全身の肌が粟立つような感覚。それは期待感の象徴だろうか。

 

 では、と聞こえた葛城ミサトの声に、胸の震えが喉から頬に。

 身体中に過剰な程の力を籠めれば、わたしの笑みは狂気のそれへと変化する。

 

『作戦開始』

 

 瞬間、わたしの中で何かが弾け飛んだ。

 

――動け!!

 

 思考による指示を初号機に下す。

 僅かなラグを感じさせることも無く、目の前のスクリーンが移ろう。ガクンと揺れたかと思えば、わたしの身体は『左足を踏み出した』という感覚を覚えた。

 急激な加速度。思わず前のめりになりそうな程のそれを実感。

 

『シンクロ率上昇! 九〇パーセントを超えました!』

 

 伊吹マヤの声が加速度の正体を教えた。

 が、そんなことは最早どうでも良い。

 目の前のスクリーンの中央に映し出された赤い生命体を認め、わたしはコックピットの脇にあるハンドルに手を掛けた。そして、即座に握る。

 

 初号機が腰元で構えたパレットを掃射した。

 それはわたしの目でも、スクリーンでも、認められないもの。しかし、わたしの右半身が、鋼鉄の何かを支え、それが激しく震える感覚を持った。反動でトリガーを引くわたしの右腕が震える。それでもトリガーを引き続ける。

 

 目で追えない弾丸。

 しかし着弾しているのは確か。

 使徒の頭部を僅かな白煙が覆った。

 

『頭部に命中!』

 

 伊吹マヤの観測情報を聞く。

 そこでわたしはトリガーを放した。

 

 白煙の下で、赤い生命体がこちらへと向き直ってくる。

 知っていることだが、やはり頭部らしき部分を前にして、改まってきた。

 

――彼等使徒は先駆者と情報の共有でもしているのだろうか? それとも、わたしが掃射した弾丸が、正しく『攻撃』だと理解出来たのだろうか?

 

 わたしへ向き直った使徒は、早速と言わんばかりに突起物から光を放つ。

 が、それを認めた瞬間、誰の報告よりも早い指示が飛ぶ。

 

『兵装ビル。一斉砲火開始!』

『了解。砲門開きます!』

 

 怒気を孕んだような葛城ミサトの声。

 応じる日向マコトの声。

 

 間髪入れずに、使徒の背中を爆炎が覆った。

 何処から集音するのか、その爆発音はわたしの耳へと届く。それと同時に構えを解いて、転身。使徒が目視出来ないだろう位置を目指す。

 

『初号機の経路を! 砲火に巻き込まないで!』

『初号機に経路の転送を行います!』

 

 伊吹マヤの声が聞こえるや否や、視界の端が黒く縁取られる。

 展開されたウィンドウには、精細な地図が映っていた。初号機と使徒の現在位置、稼動している砲門と、その射線上故に進入すべきではない区域。そして、目指すべき位置。その全てがリアルタイムに更新されているようだった。僅かに認めた一瞬の内にも、初号機の印は移動している。

 

『兵装ビルによる攻撃、効果見られません!』

『続けて頂戴。使徒の視認範囲の解析も急いで』

 

 伊吹マヤと赤木リツコの声を聞く。

 とても早口に交わされるとは思えない程、指示は的確かつ、端的だ。

 

 しかし、そろそろ回線の声も煩わしい。

 わたしは走り続ける初号機のスクリーンを見据え、ふうと息を吐く心地で、LCLを吐き出した。

 

 唐突に視界が狭まる。音が小さく、雑多なものに思えてくる。

 それは決して、目の前の現実に沿ったものではない。単なるわたしの感覚。しかし、応じるようにして、わたしの足が、アスファルトを蹴る感覚を、より鮮明に感じるようになった。

 ガクン。と、コックピットが更なる下降をする。

 しかしそれさえも最早雑多なもののひとつ。わたしの感覚を邪魔するものにさえ、なりはしない。

 

「ふふ……くふふ」

 

 含むように笑い、()()()は兵装ビルの間を駆けた。

 右手に持ったパレットライフルを左手で支え、構えの用意をする。

 ひとつ、ふたつ、と、視界の端を流れていく兵装ビル。人の身では決して味わうことの無い速さで過ぎ去って行くそれ。しかしわたしの目は確かに捉えていた。むしろわたし自身にとっては、やけにゆっくりとしている風にさえ見え、その数を数え、目印にしてしまえる程。

 

 不思議な感覚だった。

 そして、懐かしい感覚でもあった。

 

 現実的な感覚と、主観的な感覚が、同時に脳を埋め尽くす。

 どちらがエヴァのシンクロによって与えられるものなのかさえ、分からなくなっていく。ふとすれば、身体が溶けてしまいそうだ。

 

「ふふふ、あははは!」

 

 二本の足で大地を掴むようにして踏ん張った。

 と、同時に、慣性が働く方とは逆へ身体を傾け、向き直る。その間にパレットを眼前に構えた。

 横へ流れる景色。

 初号機が漸く制止した瞬間、丁度目の前は兵装ビルが密集している区画の間。その道の先に、明後日の方向を向いている使徒の姿を認める。

 未だその身体へ飛来している砲撃。どす黒い煙が、赤い身体の大部分を覆っているが、わたしの照準は迷うことはない。

 目に見えている右の突起、腹部の骨を認め、コアの位置に当たりを付けた。

 

――これで死なないでよ?

 

 目を見開き、口角を歪ませ……わたしはトリガーを引いた。



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3.Another self alone.

 両腕を震わせる反動。

 目の前の黒煙を塗り替えていく白煙。

 一体どれ程の効果があるのか。そんな考えも無く、わたしはパレットライフルの引き金を引き続ける。

 それはきっと、先程撃った時と比べ物にならない精度を誇っているだろう。手首が痛みを覚える程の反動を覚えたとて、わたしの狙いは揺るがなかった。

 

 綾波レイには敵わないまでも、碇シンジは少なからず訓練を積んでいた。

 その時を思い起こしながら、わたしはひたすら撃ち続ける。

 

――目標をセンターに入れてスイッチ。

 

 そんな言葉だったか。

 一時は呪詛のように呟いていた彼を思い起こす。

 

 今、わたしの目の前に照準器は無い。故にパレットライフルの上部を申し訳程度のアイアンサイトとして利用し、狙いを付けている。しかし、わたしの()には、黄色い線が映っているように見えた。

 その線で照準を合わせて撃てば、弾丸はそこを滑るようにして飛んでいく。今のわたしには、その軌道さえもが見える。そしてそれは、わたしがコアの当たりを付けた位置へ、寸分の違いも無く飛び込んでいった。

 

 小刻みに腕を刺激する反動。

 銃撃戦なんて面白味が無いと思う心は未だ変わらないが、確かな反動を感じながら射撃するのは気持ちが良い。これで決着させようとは思えないものの、シンクロ率の関係か、夢で感じた感覚よりは余程実感がある。

 思わずトリガーを引く指に力が籠もった。

 

 果たして何発撃っただろうか。

 不意に白煙の向こうで、何かが煌いた。

 

 わたしの口角が更に歪む。

 ドクンと胸が音を鳴らすと、薄らと見えていた黄色の線が消失。咄嗟に身体を捻って、パレットライフルを宙へ放り投げる。そのまま肩越しに振り返りつつ、パレットが虚空を漂う様を見届けた。

 ど真ん中に一閃。

 欠片が弾けたように見えたと思えば、パレットはウエハースのように真っ二つに割れた。それを認め、地に着いている足を何とか蹴り上げる。更に距離をとろうとした矢先に、ふたつに割れたパレットが、更に寸断された。

 

「だよねぇ。だよねえ!! 生きてるよねえ!!」

 

 わたしは高揚感を隠すこともせず、狂喜を顕にして叫んだ。

 そのままアスファルトへ片手を突き、慣性の促すまま、前方宙返りの要領で距離を置く。

 

 と、その時。

 ピー。

 という甲高い音が響く。

 

 視界の隅に赤い文字で『警告』と表示された。ハッとして改めれば、内部電源が『04:59:00』と示している。すぐ様後方を改めれば、初号機の動作に追いつけなかったらしいケーブルが断たれて、火花を上げていた。

 

 アンビリカルケーブルが断線した。

 警告と目の前の状況はそれを示している。

 

「……クソったれ」

 

 隠すこともなく、わたしは舌打ちをする。

 甚振る時間が決められてしまった。それはただただ不快なだけだった。

 

 ギリギリの戦闘を楽しみたいのではない。

 わたしはあの使徒を苦しめたいのだ。

 

 まあ、戦闘そのものは楽しいが。

 

 反転し、煙の先を望む。未だ敵影は認められない。

 しかし、その手前で何かが煌く――下!!

 再び大地を蹴って、後方へバックステップを一回。更なる追撃を避けて、二回目。その間も光は荒れ狂うように暴れ、わたしが先程まで佇んでいた場所のアスファルトを微塵に変える。わたしが後退する最中に倒壊させた兵装ビルがそこへ倒れ……やはり細かく切り刻まれた。

 改めて距離を置いてみれば、漸く晴れた煙の先に臨む使徒の姿は随分遠い。エヴァの身の丈でも一〇機は寝かせられそうな程の距離がある。どうやらそこが使徒の触手の射程らしい。

 

 さて……どうしたものか。

 知っていたことだが、奴の触手の切れ味と速さはかなりなものだ。どういう原理かは改めて考察する機会こそ無かったが、碇シンジの記憶ではあれの威力を実感する事もあった。

 彼はあの触手を終ぞ見切れず、最終的に肉を切らせて骨を断つような形で殲滅した。そう、つまりあれはエヴァの装甲を貫くのだ。流石に寸断されるまでには至らなかったが、如何に当時の彼よりシンクロ率が優れるわたしとて、至近距離に至ればあれを完全に避けきる自信は無い。彼よりもフィードバックダメージが大きいわたしだから……最悪、一撃で失神する程のダメージを負う可能性だってあるだろう。

 つまり、食らえば不味い。

 

 ()()()()

 

 初号機には使徒と同じくATフィールドが備わっている。

 彼等に通常兵器が殆んど通用しないのと同じく、より強固なATフィールドは如何なるものをも通さなくなる。現に第三使徒と相対した際、わたしは一度奴のATフィールドによって阻まれた。それをわたしが用いれば、奴の触手を通さずに接近することも出来るだろう。

 ただ……それを試した事が無い。

 碇シンジはそれを漠然的に使用していたし、ダメージの軽減をしてはいた。しかし、完全な遮断を出来ていた覚えは殆んど無い……強いて言うなら、使徒殲滅時の爆風でダメージを負った覚えが無いぐらいだ。

 

「で? それがどうした」

 

 わたしは自らの冷静な思考に唾を吐きかけるかのように、小さく零した。

 

 目を大きく開き、肩に耳が着く程に首を竦める。

 上目遣いにスクリーンを睨みあげてみれば、前方の煙が晴れていた。そこには此方へ改まっている第四使徒の姿がはっきりと映る。……どうやら本部の面々はわたしのやることを察しているようで、砲撃は既に止んでいた。

 おあつらえ向きだ。

 思わず唇の端を舐める。

 

「……ふふ、上等」

 

 わたしは挑戦的な笑みを浮かべて、エヴァに肩のウェポンラックからプログレッシブナイフを取り出すよう指示を出した。半身を引き、右手で中段に構える。

 

 ピッピッピッと聞こえる規則的な音を聞きながら、逸る心を落ち着かせる。

 活動限界までは焦るような時間でもない。

 確実に接近した方が、甚振る時間も生まれるだろう。

 小さく息を吐くようにしてLCLを吐き出した。

 

――ATフィールドは心の壁。

 

 不意に何時ぞや聞いた言葉を、死にたがりの声で思い出す。

 相手を、事象を、拒絶する心がATフィールドと化す。

 より深く、より冷徹に、拒絶すれば拒絶する程、その強度は増す。

 そんな事を誰かに教わったか……。

 

 アスカを思い出せ。

 あの子なんて碇シンジを遥かに凌ぐ程、強力な壁を持っていたじゃないか。

 

 いや、違うな。

 誰かを参考にする必要なんて無い。

 

 わたしはこの世界そのものを拒絶している。

 そんなことは、この傷だらけの()()が何よりも鮮明に表しているじゃないか。

 

 ゆっくりと右足を前に……地面を踏んだ。

 流れるように左足を前に……地面を踏む。

 

 三歩目に至れば、既に初号機は駆け足になっていた。

 

 半身を維持して、左手を右手に添える。

 まるでショルダータックルでもかますかのように、左肩を前にして突進した。

 

 縮まらせた身体を一息に伸ばしながら、わたしは叫んだ。

 

「ATフィールド……全開っ!!」

 

 使徒の触手が跳ねる。

 その一閃を視界の隅で捉えた。しかし極彩色の壁がそれを弾く。

 撃たれた部分から普段は絶対に耳にしないような鈍い衝撃音を聞いた。

 

 わたしの心の壁は、確実に使徒の触手を拒絶しきった。

 

 徐々に迫ってくる使徒の姿。

 第三使徒の時を思い起こしながら、適当に当たりを付けて、わたしは前方へナイフを突き出す。しかし、それが使徒のATフィールドを捉えることは無く、空を穿った。

 

 と、同時に、微かな違和感を覚える。

 

「……!?」

 

 思わずハッとした。

 隙だらけの格好で、視界の端に映る触手の先端が、ATフィールドをじりっと焼くのを、確かに認めた。

 

――こいつ、わたしのATフィールドをっ!

 

 ()()()()()

 瞬時にそう理解する自分が居た。

 

 空いた穴から触手が滑り込むようにして流れ込んでくる。

 それを一瞬一瞬の世界でただただ茫然と見詰めるわたしは、時間がやけに遅く流れているように感じた。

 

 丁度踏み出した右足に違和感を覚える。

 思わず自分の目で自分の足を改めた。

 

 そして、かつて味わったことが無い感覚に襲われた。

 

「ぁぁあああああっあああ!!」

 

 焼けつくような痛み。

 言葉に直せばおそらくそれだけのもの。

 初号機の右足に纏わりついたそれは、高熱を放っていた。断ち切られることこそ無い。だが、焼けるような痛みは殆んど軽減されずにわたしへフィードバックする。それが仮初の痛みだなんて、理解し直す余地さえ無かった。

 

 何が起きた!?

 

 目で理解した筈のことが、何故か分からなくなる。

 右足を圧迫されているのか、溶解されているのか、焼かれているのか、切られているのか……何か嫌なことをされているのが確かなだけ。ただただ本能的に足が痙攣して、わたしはLCLに泡を吐き出して呻いた。

 

――熱い!!

 

 それは本能的な思考の停止。

 たったの一瞬だが、反射的に身の危険に思考が囚われた。

 

 しかしそれは確かに、わたしがエヴァの操作を止めた一瞬だった。

 

「……はっ!?」

 

 不意に可笑しな浮遊感を味わう。

 咄嗟に閉じた瞼を再度開けば、スクリーンに映る景色が理解出来なかった。

 

 コンクリートのビル群が、頭上に見える。

 そんな感想を抱き――違う! 投げられた!

 すぐにそう悟った。

 

 ハッとして体躯を捻る。

 腰元からぞわりとした感覚が這い上がってくるのを感じながら、何とかしなければと受身を取ろうとした。が、当然ながら空中で上手く体勢が整う筈も無い。

 次にわたしが味わったのは、体内に僅かに残っていた気泡を吐き出しきるような衝撃だった。

 

「っ……」

 

 痛みに思考が追いつかない。

 衝撃を受けたかと思えば、呼吸が出来なくなった。

 

 目に映るのは青い空。

 そこへ映る数多の気泡……分からない。

 わたしは何を見ているんだろうか。

 

 再度思考が停止する。

 しかし、すぐにハッとして、だらしなく開きっぱなしにしていた唇と瞼を閉じる。固まってしまった胸周りの筋肉に更なる力を入れて、吐き出しきったと思える息を、更に吐き出すようなことをした。

 急激な酸欠。

 頭がくらりとする……が、それを理解すれば、深い水底から浮上して水面を割ったような心地で、呼吸を再開する。

 

 思考力が戻れば、前例がある以上、状況を理解するのは容易かった。

 

――投げられた。つまり……。

 

 ハッとして、スクリーンから目を逸らす。インテリアの脇下を望めば……そこには()()の少年少女。

 

――は?

 

 折角再開した思考が、またもやフリーズする。

 今度は理解が追いつかなかった。

 

 紺色のジャージを着た黒髪の少年は、精悍な顔立ちを情けなく歪ませていた。その彼と抱き合うようにして、斜めに傾いた眼鏡が印象的な茶髪の少年も居る。その二人は分かる。

 だが、その二人の後ろで、膝を崩して、自分の肩を抱いて震える少女……洞木ヒカリまでもが、何故そこに居る!?

 

「……うそ」

 

 思わずわたしは目を見開いて、そう呟いた。

 何となくだが、推測が出来た。理解はしきれなかったが……一番嫌な過程を想像出来てしまった。

 

 わたしは洞木ヒカリに二人を見張るように頼んだ。

 しかしその彼女の目を盗むことは、彼等にとって容易だったのかもしれない。何時の間にか姿を消した二人を捜して、彼女が此処まで追いかけてきたとすれば、納得がいく。

 

 何て面倒くさい。

 表のわたしはよかれと思ってやったのだろうが、こんなにも裏目な形になるとは……。

 

 わたしは逡巡する。

 視線を動かして、視界の正面で使徒を確認した……こちらに向かってきているようだ。

 

 このままでは不味い。

 この三人が……ではなく、投げ飛ばされた際に、プログレッシブナイフが何処かへいってしまっているのだ。手で持っていた物が無くなっていることに、今更気が付いた。

 つまり、このまま接近を許すと……わたしは打つ手が無い。

 足に触られただけで思考停止する程の痛みだ。胸や頭を穿たれたりでもしたら、意識を失くすどころか、ショック死さえしかねないだろう。

 

 クソ……。

 

 使徒がATフィールドを中和してくるなんて、予想外過ぎた。いや、違う。完全にわたしのミスだ。失念していた。そんなことは当たり前じゃないか。

 むしろ自分のシンクロ率を過信しすぎていたのだ。そもそも使徒はエヴァで言うところ、常時シンクロ率一〇〇パーセントの存在なのだ。碇シンジより高いくらいで、完全に上位に立てる訳が無い。それこそ、一〇〇パーセントを超えていなければ、彼等の攻撃をATフィールドだけで凌げる筈が無いだろう。

 第一わたし自身がやったではないか。ATフィールドの中和なんて、彼等からすれば十八番以外の何ものでもないじゃないか。

 

 と、したところでハッとする。

 

――待て! 違う。混乱するな。今優先すべきは後悔や反省ではないだろう!?

 

 そう自分に言い聞かせた。

 ふうと息を吐くように、LCLを吐き出す。

 

『レンちゃん! 大丈夫なの!?』

『応答して頂戴!』

 

 すると煩く喚いていた回線が耳に入る。

 わたしは不意のまま、「あ、はい。無事です」と、軽く返した。

 

 と、したところで視界の端に、活動時間の残りが映る。

 

『03:22:14』

 

 三分ちょっと。

 それを認めた瞬間、何となく言われることを察した。

 

『良かった……なら、一度撤退よ。体勢を立て直しましょう』

 

 安堵したような葛城ミサトの声が響く。

 どうやら洞木ヒカリ達の姿は、わたしがエヴァごと向き直っていないからか、まだ目に留まっていないようだ。何となくそう察した。

 としたところで、わたしの頭の中に疑問符が浮かぶ。

 

――撤退? 何それ。

 

 それは漠然とした不快感。

 胸の内がざわつく程に、受け入れ難い言葉。

 

 確かに一度撤退すれば、アンビリカルケーブルだって再度繋ぐ余裕がある。奴を苦しめる時間を確保出来る。

 だが、それをする程の相手か? 油断大敵だと思い知らされた形ではあるが……今のわたしがあれを倒せないと?

 

 否だ。

 有り得ない。

 

 ナイフさえ確保出来れば、それを投擲すれば良い。

 

 視界の端で、ビル群の外れに突き刺さっているナイフを見つけた。

 あれさえあれば何とでもなる。

 

 わたしは首を横に振った。

 

「嫌だ」

『ちょ……嫌って、あんたねぇ!』

 

 途端に焦ったような声を漏らす葛城ミサト。

 わたしは再度首を横に振る。

 

――なら、見てろ……。

 

 と、言おうとして、そこでわたしの耳が聞きたくないものを聞いた。

 

『碇さん?』

 

 あ……。

 と、思うが遅い。

 

 そういえば洞木ヒカリはわたしがパイロットであることを知っていたのだ。

 ほんと、表のわたしはろくな事をしない。



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4.Another self alone.

『民間人!? レンちゃんのクラスメイト!?』

『何故、あんなところに……』

 

 途端に喚く葛城ミサトと赤木リツコ。

 しかし無理も無い。封鎖されたシェルターから抜け出すなんて、普通の民間人には不可能だ。相田ケンスケはそういうところばかり、くだらない才能に富んでいる。

 

――どうする?

 

 逡巡したのは、わたしだけではないだろう。

 何時だって不測の事態は起こり得るものだが、こればっかりは本部の面々からすれば、予想外も良いところ。まさかこんな状況を予期して、職員を死地に配備している筈もない。

 

 しかし、答えは実に簡単だ。

 

 見捨てるか。

 見捨てないか。

 

 すっかり腰を抜かしている三人に、急ぎシェルターへ戻り、出口を封鎖するように言ったとして、実行出来ないのは目に見えている。つまり、誰かが助けない限りは、戦闘に巻き込まれて死ぬか、巻き込まれずに助かるかの二択。どう考えても前者の可能性が圧倒的に高く、彼等への気遣いがもとで、今の窮地が更に悪化する恐れもあるだろう。

 そして、この場において彼等に対処出来るのは、此処に居るわたしだけ。

 今から救助を出したとして、間に合う筈もない。

 

 だが――。

 

 何時の間にか彼等へ向けていたエヴァの視点を正面へ正せば、そこには悠々とこちらへ向かってきている第四使徒の姿が映る。どうやって移動しているのかは定かではなく、動きも緩慢ではあるものの、触手の射程を考慮すれば、猶予はあまり多くない。

 かと言って、戦地を動かすという判断も難しい。

 洞木ヒカリ達は、エヴァの指を少し動かせば届く位置に居る。起き上がろうと踏ん張るだけで、彼等に対して被害を及ぼす可能性が高い。

 

 そう、正に『見捨てる』か『見捨てない』かだ。

 

 構う事無く起き上がり、プログレッシブナイフを取りに向かえば、運が良ければ三人は助かる。ただし、助からない可能性だってある。唯一確実なのは、わたしが使徒を殲滅する事。

 仮に三人を助けるとなれば、碇シンジがやったように、エヴァに同乗させる事になるだろう。その場合、エントリープラグへ『異物』が混入する事になり、シンクロ率に害を及ぼす。となると、高い精度を求められる『投擲』という選択肢は無くなる。むしろ取りに行く最中に、すっ転ぶ可能性だってある。使徒を殲滅出来るかが、定かではなくなるのだ。

 つまり、前者がわたしのやるべき事であり、情に流されて後者を選ぶ事こそ悪手。

 仮にわたしが使徒を殲滅出来なければ、あの三人どころか、全人類に多大な被害を及ぼすのだから。

 

『レンちゃん。その三人を――』

「見捨てる」

 

 わたしは葛城ミサトが出そうとした指示を遮り、端的に言った。

 呆気にとられたような声が返って来たが、反論の言葉は既に用意してある。わたしは胸がどくんどくんと音を大きくしていくのを感じながらも、冷静に言葉を続けた。

 

「此処で情に流されて、エヴァを失う訳にはいかない。全人類とあの子達の命なら、わたしは前者を選ぶ」

 

 言葉を呑んだような音が聞こえた。

 わたしの言い分は正論でこそあるものの、齢一四の娘が言う事にしては、あまりに冷酷に聞こえた事だろう。

 事実、見捨てる事が正しいとは分かっていただろうが、葛城ミサトは碇シンジに『救助』の命令を出した前例がある。それを愚行だとは思わないが、態々わたしもそれに倣って、エヴァを損傷するつもりはない。少なくとも、彼の記憶で葛城ミサトがそう命令したのは、『犠牲者』を目にして、碇シンジのパフォーマンスを下げる事を恐れた為だろう。

 となれば簡単だ。

 わたしが割り切れば良い。

 

 わたしの精神状態に異常をきたすのでないとなれば、後顧の憂いも何もない。

 三人は自業自得――洞木ヒカリには同情するが――であり、必要な犠牲だったと言える。

 

『……後の責任はあたしがとるわ。好きになさい』

 

 葛城ミサトが諦めたような声を漏らした。

 その言葉に赤木リツコが『ちょっと、ミサト!?』と、声を荒げるが、続く指示は無い。

 本部の様子はこちらから分からないが、どうやら葛城ミサトが無視を決め込んでいる様子。赤木リツコの舌打ちが最後に聞こえて、回線が静かになった。

 

 さて、小煩い上官が黙った事だ。

 いい加減使徒の射程圏に入ろうかとしているし、そろそろ動――。

 

 として、わたしは胸に鋭い痛みを覚えた。

 それは決して目に見えたダメージでも、エヴァが負ったダメージでもない。とても漠然とした痛みだった。

 

 ふとすれば、視界が真っ白に染まる。

 目に見えた景色が全て掻き消え、エヴァの駆動音までもが聞こえなくなった。

 

 周囲の環境から完全に切り離されて、活目したわたしの視界には、一人の女の子が映る。

 赤褐色の髪を揺らし、笑顔を浮かべるその少女は、明らかな幻影。エヴァに乗っているわたしが、認める筈の無い人影だった。

 だけど彼女は、わたしの動揺なんて知ったこっちゃない様子で、朗らかに笑う。やがてゆっくりと唇を開いたかと思えば……わたしは彼女の言葉を覚えていた。

 

――れんはいいこ。

 いいこだから、もうしなない。

 あたしはそんなれんが、だいすきだよ。

 

「あっ……」

 

 瞬きひとつで一転する世界。

 ハッとして改まった先には、先程認めた距離感と変わらぬ位置に居る第四使徒の姿。

 今しがた見ていた幻想は瞬時に消え去っていた。さながら白昼夢だったと言わんばかり。しかし、それは現実。過去の記憶。表のわたしが、『決して忘れてはいけない事』として、脳に焼き付けた事だった。

 

 唐突にフラッシュバックした記憶は、まるで警鐘を鳴らすかのよう。

 大切な親友だった少女との誓いは、決して裏切ってはならぬものだろう? と、自分に問われている気分だった。

 煩わしい。

 そう言って吐き捨てる事は簡単だ。わたしはそれしきの事で揺らぐ程、柔では無い。しかし、敢えて心が警鐘を鳴らす理由は、言わずと察せる。……そう、表のわたしが耐えられないと言っているのだ。

 

 わたしは小さく舌打ちをする。

 面倒臭い上に、この期に及んで明確な悪手を取れだって? 冗談じゃない。

 そもそもこの状況は表のお前が招いた事。それをおして尚、わたしにあの三人の身を守れだなんて、虫が良いにも程があるわね。碇レン。

 

 とはいえ、仮に表のわたしが、罪悪感に耐えられず、廃人にでもなってしまったら、流石のわたしも困る。わたしという存在はあくまでも『碇レン』の一部であって、表の彼女無くして有り得ない。何処ぞのファンタジーのように、成り代わるだなんて事も出来ないだろう……少なくとも、現状においては。

 

「……はあ」

 

 思わず溜め息と良く似た感じで、LCLを吐き出す。

 

 仕方無い。

 遺憾この上ないが、そもそも『あの子』との約束なのだから、聞いてやっても良いだろう。

 

 わたしは目前の使徒と、活動限界までの時間を改める。

 使徒との距離は未だ奴の射程外。手元の三人を何とかしている内に射程内に入ってしまうだろうが、急げば間に合わない事もない。

 問題は活動限界までの時間。

 二分とちょっとって……碇シンジの時と同じくらいの猶予しかないじゃないか。

 

 まあ、仕方無いんだ。

 仕方無いと決めたら、さっさとやってしまうが吉だ。

 

 わたしはほとほと面倒臭いと言わんばかりにげんなりした顔で、本部へ呼びかけた。

 すぐに『何?』と、端的かつ、何処か怒ったような声色で応答した葛城ミサトに、「前言撤回」と言って、両手を上げて『お手上げ』だと伝えた。

 

「二重人格なのは承知でしょ? 見捨てたら表のわたしが面倒臭いみたいだから、とんでもなく遺憾この上ないけど、あいつ等を助けてやっても良いよ」

『……はい?』

『……えっ』

 

 葛城ミサトと同時に、赤木リツコまでもが素っ頓狂な声を出す。

 懸念してカウンセリングをしていたというのに、わたしに自覚症状があるのは意外だったらしい。それか、そもそもこの場でそれを主張される事自体が意外だったのだろうか?

 何にせよ、こればっかりは本部の全員が承知の筈。表のわたしにとっても、『言い訳』が出来るようになる訳で、別段悪い事ではないだろう。これに限っては、改めて認知して貰っている方が、こちらとしても都合が良いというものだ。

 

 わたしの思わぬ発言に、困惑する本部。

 溜め息混じりにLCLを吐き出して、わたしは呆れた顔をスクリーンに向けた。

 

「早くしてくんない? 気が変わるよ?」

『初号機をロック! 早く!』

 

 ハッとしたような様子で、葛城ミサトが早口に指示を出す。

 その端的な指示に対して、職員達の有能さったら、堪らないもの。『エヴァのロック』という指示だけで、何故エヴァの姿勢制御の他、エントリープラグの排出や、予備電源の供給率の低下までもをしかとやってのけるのか。そんな順応っぷりは、使徒戦に活かしてくれと思うばかり。

 

 ほんと、特務機関ネルフは一体何の為の組織なのやら……。

 

 ブラックアウトしたスクリーンを見て、わたしはそんな事を考えた。

 

 エントリープラグの排出が終わり、最低限のLCLを吐き出して、ハッチが開く。

 プラグの排出に合わせて、後退したインテリアから背を伸ばし、ハッチの外へ。溜め息混じりに周囲を改めれば、先程と変わらぬ位置で震えている三人を認める。

 突如エヴァの後頭部から出て来た棒。更にそこから現れたわたしを見て、今に悲鳴さえあげそうな程、驚いている様子だった。

 

 はあ……。

 子守りもしなくちゃいけないの? わたし。

 

 溜め息混じりに、わたしは顎で自分が顔を出しているハッチを示す。

「早く来たら? 死ぬよ?」と、続けて言えば、男二人は悲鳴を上げながら、形振り構わない様子でやって来た。続いて洞木ヒカリが立ち上がろうとして……あ、ダメっぽい。腰が抜けて立てない様子だった。

 その様子を認め、わたしは情けない顔をした二人の男子を否める。

 

「おい。か弱い女子を置いてくんなよ。クズかお前等」

 

 一時は見捨てようとした我が身棚上げで、わたしはそう罵った。

 すると、ぴたりと動きを止める二人の男子。互いに顔を見合わせ、今一度こちらを改めた後、わたしが指差した方向に倣って背後を振り返る。「あ、いいんちょ……」と、鈴原トウジが間の抜けた声を上げた。

 

 と、その時、ズガンという音と共に、わたしが佇むエントリープラグが激しく揺れた。

 思わず悲鳴を上げながら、まさかと思って振り向く。が、エヴァの頭部が邪魔で、その向こうの様子は視認出来ず。ただ、使徒の射程圏に入ったのは間違いないだろう……先程のように投げ飛ばされたら、堪ったものじゃない。

 

「早くしろ! 時間が無い!!」

 

 わたしはそう言って、プラグの内部へ戻る。

 幸いプラグ自体は地面すれすれに出ているので、子供の身の丈でも助け無くよじ登れるだろう。

 

 インテリアに身体を収め、何時でも起動出来るように操縦桿を握る。

 LCLは……大丈夫。多くは流れ出てしまったが、起動時に降下する位置を想定すれば、顔までしっかりと浸かる事が出来る。スクリーンの生成に支障をきたす程ではないだろう。問題はシンクロ率だが……そればっかりは再起動してみないと分からない。加えて、投げ飛ばされていない事を考慮すると、恐らく『串刺し』にされている。そのフィードバックダメージに対して、覚悟しておかなければ……。

 

 して、使徒はどうする?

 殲滅するか……撤退するか……。

 否、そもそも逃げ果せるものか。

 使徒の射程と攻撃速度を鑑みれば、愚鈍になったエヴァが、肉薄した状態から脱せるとは思えない。虎の子のATフィールドも、無効化される事は確認した。先程よりシンクロ率が落ちた状態では、誤魔化しにもならないだろう。

 

 やはり、此処で倒す他無い。

 前例通りならば、葛城ミサトは撤退を指示するだろうが……構う事はない。

 

 甚振る時間が無い事だけが遺憾この上ないものの、已む無し。

 本よりATフィールドを過信したわたしが悪い。これについては猛省する。次はもっと巧くやろう。

 

 ふとすれば頭上が騒がしくなる。

 

「きゃあ!」

 

 転げるようにして洞木ヒカリが入ってくれば、続いて似たような悲鳴を上げながら、相田ケンスケと鈴原トウジも続く。全員がインテリアの裏にしがみ付いたのを確認したわたしは、よしと頷く。

 三人を引き摺るのを承知で、手動でインテリアを降下させた。

 

「うわあ! な、何やこれ。水!?」

「か、カメラが!」

「い、碇さん!?」

 

 喧しく喚く三人を一度だけ振り返る。

 困惑する彼等にLCLを飲み干して見せた。

 

 肺に突き刺さるような痛みを覚えながらも、わたしは続けて彼等に忠告した。

 

「良い? 本来なら見捨ててた。洞木ヒカリに感謝なさい……そんで、今から戦闘に戻るけど、邪魔したら後でぶっ飛ばす」

 

 そう言って、前方へ向き直る。

 鈴原トウジが何事かを言いかけたようだが、相田ケンスケが彼を否めていた。くだらない才能ばかりに富んだ奴ながらも、こういう時の察しの良さは助かる。小煩いガキは、洞木ヒカリを見習って、口でも塞いでろ。

 

 すう……と、LCLを胸一杯に呑む。

 生臭い匂いが、わたしの昂ぶりを落ち着けるよう。

 しかしその代わりと言わんばかりに、先程の混乱によって失われた闘争心が胸に宿る。

 

 横目にちらりと見た活動可能時間は、残り『00:55:34』。

 これだけあれば……十分だ。

 

「三人収容。使徒殲滅を再開する」

『レンちゃん!? ダメよ。一度撤退。本部に戻って』

 

 通信が再開したのを見計らって報告すれば、却下される。

 しかし、この状況でどう見たら撤退出来ると?

 

 スクリーンが再起動するや否や、初号機に覆い被さるような形で、肉薄している第四使徒を認めた。最早逃げ果せる筈がない。

 

「良いから。シンクロ再開して! このままじゃ細切れにされる!」

『……っ。シンクロを再開して』

 

 小さな舌打ちと共に、指示が飛ぶ。

 了解と伊吹マヤが返す頃合を見計らって、わたしは腹にぐっと力を籠めて、歯を食いしばった。

 

 そして――シンクロ再開。

 

「う、うぐぁぁああ!!」

 

 堰を切ったように、身体を駆け巡る激痛。

 最早それが痛みである事さえ、分からなくなってしまいそうな感覚。熱い。ただひたすら熱かった。

 

 だけど、覚悟はしていた。

 それもあってか、思わず腹部を押さえたわたしは、活動限界までの数字が三つ減る瞬間には、操縦桿へ手を伸ばす。意識をもっていかれそうな痛みを、何とか堪え、操縦桿を――いや、使徒のコアへ向けて、手を伸ばす。

 

 肉薄したのが間違いだったねぇ……シャムシエル。

 あんたのコアの脆さは、よーく知ってるんだから……。

 

「ぶっころす……ぶっ殺してやらぁあ!!」

 

 猛るのと共に、わたしは思いきり手を伸ばす。

 臨界を越えたような感覚を覚えれば、やけにあっさりと手は伸びた。

 そして、スクリーンに映る赤い宝玉を、紫色の手が鷲掴みにした。

 

 しかし、同時に腸を抉る触手が、ぐわんと暴れた。

 体内をぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚を覚えて、わたしはLCLを吐き出す。首を絞められた鶏のような声まで上げて、それでも痛みは我慢出来ない。

 おまけと言わんばかりに顔面までぶっ刺されて、わたしは声にならない悲鳴を上げた。最早何処を穿たれたのかさえ分からず、腹を押さえていた手で髪を掻き毟った。

 

 ああ、本当に死に直面するような痛みって、此処まで痛いのか。

 そんな現実逃避が頭を過ぎる。

 

 それでも――手は離さない。

 此処で離したら、後は蹂躙されるだけ。折角助けた三人も、助からない。

 

 何より、諦めたら、あの子に褒められた事が、嘘になってしまう。

 

「が、頑張れ。転校生!」

 

 そこで、誰かの声が聞こえた。

 その声に便乗するように、「碇さん!」「碇!」幾つかの声が重なる。

 

 ふと見やれば、先刻の諍いなんて忘れたような面で、わたしの腕を支える鈴原トウジの姿が映る。

 

 全く……邪魔するなって言ったのに……。

 一体何処の青春漫画よ。これ……。

 

 頑張れなんて、言われるまでもない。

 もう既に死力を尽くして頑張っている。

 それに、わたしの中で、赤褐色の毛をしたあの子が、『いいこ』って言ってくれたこの生への執着心を、捨てる筈が無いだろう? そんなに心配しなくたって、誰も諦めたりしないって。

 

――ねえ? マナ?

 

 呼びかければ、赤褐色の少女はにっこりと笑う。

 そこに居る筈がない彼女は、わたしの中で確かに笑う。

 

 大丈夫だよ。

 レンはわたしが守るから。

 この子に貴女との約束は破らせたりしないから。

 

 

「くったばれぇぇえええ!!」

 

 

 全ての想いが馬力になり、エヴァ初号機の手が、赤い宝玉を握り潰す。

 一度勢いがつけば、あとはあっという間。ぐしゃりと音を聞いて、わたしは勝利を確信した。

 

 そしてそれがわたしの限界で。

 まるで古いテレビを消灯した時のように、ぷつんと呆気なく視界の色が消えた。



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5.Another self alone.

 

 右手に握り締めた筒が、ぴしぴしと音を立てて軋む。視界の端に認められる腕は微かに震え、万力に匹敵するような力を籠めていくよう。やがて何処かしらから亀裂が入り、そこを中心にして、蜘蛛の巣を描くように広がっていった。橙色の液体が亀裂から漏れ出して、地面に向けてぽたぽたと零れ落ちた。

 しかしそれを以って尚、赦されることはない。神の依り代は絶対悪を赦さず。この世から廃絶せんと、借りた玩具の腕に力を籠める。子が抗う姿など、まるで気に留めちゃいない。

 歪む音が徐々に変化した。ぱき、ぱき、と、今に臨界を越えようとしていた。

 

 ああ、あああ……。

 止めろ。止めてくれ。

 

 縋るわたしの声は誰にも届かない。

 幾つもの亀裂が同時に臨界を越え、数多の破裂音を鳴らす。幾重の音は一つに纏まって、ぐしゃりという呆気ない音に聞こえた。その音を最も鋭敏に知覚しただろう少年が絶叫し、言葉にならない声を上げる。悲痛な声は、まるで救いの無い物語を嘆くようにも聞こえた。

 

 ぷつん。と、目の前の風景が唐突に消える。

 同時に少年の慟哭も消え、わたしの意識は次なる明るみを求めて、広大無辺な暗闇を彷徨った。その果てに、小さな光を見つけて、そちらへと意識を向ける。接近するにつれて肥大化していく光が視界を埋め尽くせば、わたしはまるで別な世界に行き着いた。

 

 嵐のような風が吹き荒ぶ中、わたしは黙して佇んでいた。

 手に持った大切な人の形見をぎゅっと握り締め、彼女と最後に誓った約束を果たさなければならない事を、脱力するばかりで動けない身体に向かって、必死に言い聞かせていたのだ。そう。分かっていた。最期まで自分の味方として、葛城ミサトという人間は死んでしまったのだ。

 

「うぅぅ……」

 

 何人も、何人も死んだ。一時は自分も凶器を突きつけられていた。

 死に麻痺する感覚が、脳に強力な麻酔をかける。もう誰かの死を嘆いている状況でなければ、大切な人を自分の所為で死なせた事を、後悔する暇もない。ごめんなさいと言う事すら、憚られた。

 それよりも……決死の思いで戦線を確認しようと面を上げる。

 先に戦っている仲間が居たのだ。彼女だけは何としても救わねば、自分の為に死んでいった人々に、報いる事が出来ない。『戦え』ミサトさんはそう言って、決して果たされない約束を交わし、死んでいったのだ。戦わねば、自分が此処に居る意味がない。

 しかし、辺り一帯は、何がそうさせるのか、暴風と言う他ない風が吹いていて、舞い上がった粉塵の所為で何も見えない。

 これは、この嵐は何なんだ。そもそも此処はジオフロントなのか。はたまた地上なのか?

 疑問に促されるように、頭上を見上げた。

 

 すると、天を舞う九つの影が目に留まった。

 それは一見すると鳥のようにも見えたが、果たして鳥にしては大きすぎる。仮にそれが鳥だとするのなら、この地球上には存在しない程の大きさであるのは、遠目にも分かった。むしろ使徒や新型のエヴァだと言われた方が、納得出来る巨大さだ。

 と、そこで不意に疑問を持つ。

 

 新型の……エヴァ?

 そうだ。アスカは一体何と戦って――。

 

 何とは無しに、その巨大な鳥のような生き物の動きを注視する。それらは一様に何かを食み、捕食するような動作をしていた。一体何を食べているのか……改まってみると、それが持つ何かは既に原型を留めていない。だが、所々に見覚えのある色が見えた。

 注視する内、自身の瞳孔が開いていく感覚を覚えた。

 嫌な予感――強いて言えば、知覚してはならないものを見ているような気がした。

 

 最早原型を留めない程に、ぐちゃぐちゃにされた臓物。腸を曝け出している肉体の表皮は、赤いカラーリングが特徴的だった。脳漿をぶちまけた頭部にも、覚えのある赤。顎のラインは、特に印象的なものだった筈だ。瞳が四つある機体も、わたしは『それ』しか知らない。

 血の色は――紫色だった。

 

 瞬間、脳裏を茶髪の少女が過ぎる。

 

「うぁ、ああっ……」

 

 LCLを余分に吸い、それでも足りなくて、過呼吸を承知で尚も吸い込む。

 理解をしたくなくて、顔を背けたかった。しかし、全身が震え上がっていて、とても出来そうになかった。

 

――バカシンジ。

 

 何処からか聞こえた彼女の声が、わたしの喉を引き裂いた。

 

「うぁあああぁぁあああああ!!!」

 

 絶叫。

 絶望。

 

 終わった。

 全ては終わってしまった。

 アスカを……ミサトさんが最期に託してくれた事を、守れなかった。間に合わなかった。

 

 格納庫でぐずぐずとしていた所為で。

 自分が逃げ出していた所為で。

 アスカが、ミサトさんが……。

 

 恐怖に震えるわたしは……『ぼく』は……此処に至って、目の前の現実を、自分の所為じゃないと嘆く事が出来ない。偶然自分に訪れてしまった不幸な出来事だと、思えない。

 全ては必然。自らの選択がそうさせた。

 『仕方無い』では済まされない。ぼくの心が強ければ、ミサトさんはぼくを助けに来る事は無かった。アスカを守る事だって、出来たかもしれない。つまり……ぼくが二人を殺したも同然なのだ。

 

 気が付いた。

 気が付いてしまった。

 

 いいや、そもそも――。

 

 トウジが足を失ったのだって、カヲルくんが死んだのだって、ぼくが居たからじゃないか。ぼくが居なければ、トウジはパイロットに選ばれなかったかもしれないし、カヲルくんが死ぬことも無かった。

 皆ぼくの所為で傷付き、ぼくの所為で死んでしまった。

 

 ああ、そうだ。

 そうだよ……。

 

 ぼくが、ぼくさえ生まれて来なければ――。

 

 

 それまで見ていた景色が白ばんでいく。やがて少年の声が遠くなれば、睡眠状態だったわたしの意識が、唐突に覚醒する。まるで二つの中間をすっ飛ばしたかのような目覚めは、しかし意識ばかりが夢の中に囚われたままだった。

 フラッシュバックする光景。脳を支配する絶望感。

 目を見開いたまま、わたしはわなわなと唇を震わせる。

 徐々に理解していく『目覚め』に対して、わたしの意志は夢が促すままに、どん底へと突き進んで行く。目に見える見知らぬ天井とは別に、凄惨な最期を遂げた知人の姿が、わたしの視界を支配する。聴覚なんてまるで機能していなくて、脳には今しがた消えた筈の少年の声ばかりがこだましていた。

 

――死んじゃえ。

 

 不吉な言葉に、思わず本能的に、勢い良く身体を起こす。耳を押さえて蹲るも、閉じた瞼の裏側には、焼きついて消えない凄惨な光景。塞いだ筈の耳の奥で、少年の声は消える事無くこだました。

 途端に爪先から頭の天辺までを、串刺しにされたような衝撃が襲ってきた。途方もない恐怖心。絶望感。死へと誘うかのような、強い意志。片手に剃刀でも持っていれば、迷い無く自らの首を裂いてしまいたいと思う程だった。やがてその衝動は、開いた唇から、溢れんばかりに飛び出した。

 

「い、いゃぁぁああああああ!!」

 

 取り繕う事すら忘れた叫びは、誰に届ける為のものではない。助けを乞うものでもなければ、誰かに訴えかけるものでもない。強いて言うなら、これはわたしの心の断末魔そのものだった。

 

 わたしの異常への対処か、身体がぐいと引っ張られる。「レンさん!」と、オールバックの髪型をした男性が、大きな声を上げていた。肩を掴むその手を振り払って、わたしはこの苦痛から恒久的に逃れられる術を模索する。ひたすら奇声を発しながら、もがき続けた。

 しかし、その男の力は強い。すぐに両手を取られ、身動き出来ないように押さえつけられた。

 それでも尚じたばたと暴れるわたしの様子を見てか、彼は「医者を。医者を呼んで来い! 早く!」明後日の方向に叫んでいた。

 

 その時になって、わたしは漸く理解する。

 目の前の人物は木崎ノボル。わたしによく配慮してくれる護衛だ。つまり、『此処』は現実だ。

 

 そう察するや否や、深い絶望感から、急浮上するような感覚を覚えた。その衝動は大きな熱の塊となって、頭の中でばんと弾ける。とすれば、身体中が汗でぐっしょりとしている不快感や、此処が何時かの記憶で覚えのある『病室』である事等、様々な情報が押し寄せてきて、脳の中で溢れかえった。

 それらは全て、此処が現実である証明。

 わたしは死ななくて良いし、まだ誰も殺しちゃいない。

 

 ふとすれば、途方もない程の安堵を覚えた。

 それはふうと息をつけば済むような感覚ではなく、まるで虚無の彼方を彷徨った末に、漸く同胞に出会えたかのような感動となって、わたしの身体を衝動的に動かした。

 

 先程は振りほどけなかった腕を強引に払って、目の前のスーツ姿の男性へと、しがみ付く。

 堰を切った衝動が、再度口から溢れ出た。

 

「うあああぁぁっ。ぅわぁぁあああああん!!」

 

 気が付けば、涙が止まらない。

 途方もない絶望感から回帰したわたしは、『夢で良かった』という安堵感の促すまま、ひたすら泣き続けた。そんなわたしの心情を知ってか、知らずか、木崎さんは優しく抱擁してくれて、「大丈夫です。大丈夫ですよ」同じ言葉を繰り返し言って聞かせてくれた。

 

 温かい。木崎さんの身体は、とても温かかった。

 それは彼の体温が高いのか、わたしの身体が冷たいのか、はたまたようやっと訪れた安堵がそうさせるのか、明確には分からなかった。ただただ尊くて、遠く久しい感覚だと思った。

 

 けれど、押し寄せてくる情報が処理しきれない内に、脳裏にフラッシュバックする光景があった。

 赤いヤリイカのような形状をした使徒。それと対峙した自分。その最中、起きてしまった不測の事態。そして、それに対する自分ではない自分が出した冷酷な決断。

 未だ此処が何処か、自分がどういう状況なのか分かっていないと言うのに、『それ』ばっかりはよく理解出来た。

 

――そう。

 わたしは碇シンジと同じ道を行こうとしていたのだ。

 

 世界の為だなんて、高尚な建前を隠れ蓑にして、ヒカリちゃん達を見捨てようとした。正しい行いだとか、エヴァのパイロットとしてやるべき選択だとか、そんな事の為に、大事な友人を見捨てようとしていたのだ。しかしその本懐は、世界の為でも、正義の為でもない。単純にあの時のわたしが、そうしたかったからだ。そうする事が一番楽で、一番確実だろうと思ったからだ。

 つまり、己の保身だった。

 そんな姿は、つい先程見ていた碇シンジの愚行と、一体何が違う。鈴原トウジに癒えない傷を負わせた事や、渚カヲルを殺してしまった事に、『僕は何もしない方が良い』と、大事な場面で全く動こうとしなかった彼と――一体何が違う!

 

 わたしは木崎さんの腕に抱かれたまま、腹の下にぐっと力を籠めて、彼の服を引っぱった。

 嗚咽が静まらず、震える喉で、小さく彼の名を呼んだ。

 

「きさき……さん」

 

 すると、彼は小さな反応を示す。

 どうやら胸に抱いたわたしへ、向き直ってくるようだった。

 

 わたしは祈るような心地で、彼に問いかけた。

 

「さんにん……。ひかり、ちゃんたちはっ……ぶじ、ですか?」

 

 すると、今一度彼は抱き直すようにして、背中を叩いてくれた。

 こくり、こくり、と、二度頷いたような気配があった。

 

「大丈夫です。レンさんのクラスメイトは、三人共、無事ですよ」

 

 良かった……。

 本当に良かった……。

 

 裏の自分の決断に対する罪悪感は、未だ胸に明確な痛みを訴える。彼女が思い止まってくれた事に対する安堵感も、ひとしお身に染みた。

 けれどそれは、絶対に忘れてはいけない事。

 これから先、明確な懸念要素になる事柄だった。

 次の使徒戦からは、必ずと言って良い程、誰かと共闘する事になる。碇シンジの記憶と相違なければ、第五使徒戦からは綾波ちゃん、第六使徒戦からはアスカが合流するのだ。今回のこれをそのまま放置しておくという事は、この先同じリスクを仲間達に支払わせると言う事だ。

 

 そんな事は許されない。

 誰が何と言おうと、わたしは『おかえり』って言ってくれる人達を、見捨てちゃいけないんだ。

 その為に、此処に居る。

 此処で、戦っている。

 

 思考の整理がつけば、胸の内で沸々と滾るものがあった。

 それは、わたしの意向とは真逆の道を行こうとする裏のわたしへの、明確な怒りだった。

 

――絶対に、止めてやる。

 絶対……誰かを見捨てるなんて事、させない。

 

 木崎さんの服を握る手に力を籠めて、わたしは強く決意した。



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6.Another self alone.

 暫くして落ち着いたわたしは、その日の内に退院しました。

 情緒不安定なのは誰の目にも明らかでしたが、身体検査で異常無しと出れば、後は簡単な問診をしただけで、『家に帰りたい』というわたしの主張が優先されました。勿論、後日リツコさんのカウンセリングを受けるまで、健康状態を確認するリストバンドの着用は当然として、それを着けていても、上官が居ない時は木崎さんから離れない事。という条件がありましたが……。しかしながら、寝覚めに木崎さんに抱きついた事は兎も角として、ああした夢を見る事自体は、少し前まで日常茶飯事でした。

 心の復旧というか、立ち直りというか……そういった面においては、鍛えられている訳です。一、二時間も休めば、体調も普段通り。

 

 わたしが目を覚ましたのは、第四使徒戦の二日後でした。きっとリツコさんも忙しいのでしょう。木崎さんという監督役がいる以上、無為にわたしの希望を却下する理由も無いようです。……いや、まあ、挙げ出したらあるにはあるんでしょうけど。裏のわたしは『二重人格』だと言ったらしいですが、傍目には使徒による精神汚染の可能性も捨てきれない訳ですし。それをおして帰宅が許可されたのは、『病院』がわたしのストレスの原因になると思われたのでしょうか……一、二分、木崎さんの電話で指示を仰いだ限りですが、リツコさんは『そこに居るより、ミサトの家の方が気も休まるわね』と言っていましたし。

 

 何にせよ、有り難い限りです。

 とりあえず家に帰ってシャワーを浴びたい。エヴァから出された際に、女性の職員が身体を拭いてくれたらしいですが、LCLの匂いが取れてません。血の匂いで鼻がどうかしちゃいそうです。

 

 そういえば、使徒戦の前にロッカーに置いてきた着替えや荷物は、既に木崎さんが回収してくれていたようです。身支度を整えている際に、着替えと一緒に手渡されました。紙袋に纏められた中には、当然ながら下着も混じっていましたが、有事で女性職員を呼べなかったそうです。まあ、仕方ありません。

 恥ずべきと言えば、先程思いっきり泣きついてしまったのですから、今更下着の一枚や二枚……って気分です。むしろ入院着の下は当然のようにノーブラで、そのまま彼に抱きついていたのですから。孫と言われても可笑しくない年齢差である事が、せめてもの救いでしょう。

 

 その日の夕方。

 木崎さんが運転する車に乗って、ミサトさんの家に帰宅すれば、ほっと安堵の息が漏れます。

 やっぱり自分の家というものは、気が安らぐものです。厳密に言えば居候の身ですが、シンジくんの記憶を思い起こしても、わたしの記憶を辿っても、安堵出来る『我が家』はこの家以外ありません。わたしにとって『自分の家』とは、ミサトさんの家に他ならないのです。……って言うと、ほんと悲しくなってくる。わたしには『実家』と呼べるものがありませんでした。いやはや、ダメな父親を持つと、本当、苦労が絶えませんね。

 

「クワ、クワァ」

「ただいま」

 

 帰宅を待っていたかのように、声を掛けてくれるペンペン。

 家の中を改めれば、机の上にコンビニ弁当の残骸が残っていました。きっとミサトさんが彼のご飯を用意しに、短い帰宅をしたのでしょう。ゴミをそのままにしているのは……まあ、しゃあない。ご飯を食べるのに合わせて帰って来たのでしょうし、時間が無かったのだと思います。

 わたしは一言、ペンペンに不在を詫びると、そのまま自室へ向かいました。

 わたしに配慮して、部屋にまでは入ってこない木崎さんに、わたしも部屋の扉は開けっぱなしにして、配慮しておきます。荷物を置いて、箪笥から着替えを取り出しました。

 

 と、そうだ……。

 

 ふと思い至って、木崎さんが渡してくれた荷物の中から、学校の鞄を取り上げます。その中からスマートフォンを取り出してみると……ものの見事に電源が落ちていました。充電をしたのは三日前ですし、仕方ありません。

 ミサトさんに帰宅の報告をしようと思ったのですが、まあ、後で良いでしょう。むしろ報告自体は木崎さんから上がっているでしょうし、急ぐ必要もありません。

 溜め息混じりにスマートフォンに充電器を装着し、着替えを持って部屋を出ます。待ってくれていた木崎さんに「お風呂入ってきます」と報告。すると彼はこくりと頷いて、手を差し出してきました。

 

「すみませんが……一応、服の中に刃物が無いかを確認させて下さい」

 

 少しばかり何時もより低い声で零す木崎さん。彼からしても、無粋な事は不本意なのでしょう。ですが、わたしの身の安全には代えられない。そう言わんばかりです。

 胸の内で心臓がどきりと音を立てますが、已むを得ません。

 

「あまりまじまじ見ないでくれると嬉しいです……」

 

 そう言いつつ、何処か居心地が悪くなる気分で、顔を背けて、着替えを渡しました。

 荷物を回収した際に、既に見られているとはいえ、随分と恥ずかしい。

 そんなわたしの心境を察してか、木崎さんは手早く改めて、着替えを返してくれました。続いて「すみませんが、風呂場も改めさせて頂きます」とのことなので、そちらもチェック。当然ながら、ミサトさんがお手入れ用に使っている剃刀は回収されました。

 

 じゃあ……と、お風呂に入ろうとする訳ですが、尚も木崎さんはわたしを引き止めます。

 振り向いてみると、何とも言い難い表情の彼。思わず訝しげに見直していると、「すみません」と、一言。そして小さな溜め息をついて、彼は改まりました。

 

「申し訳ないのですが、風呂から上がった際、着替えの際にも何かしら仕込めてしまうので……見張るようにと」

「は?」

 

 木崎さんは形容し難い程、唇をひん曲げていました。

 その顔を間抜けな表情で見返すわたし。

 

 いや、ちょっと待って、理解出来ない。

 思わずわたしは唖然とする心地で、「えっと、どういう意味です?」問い返しました。

 すると、もうそろそろ気心知れたかという木崎さんですが、此処に至って、わたしが初めて見るような顔付きをしていました。有り体に言うと、『げんなり』した風でした。

 

「司令からの指示で……徹底するようにと」

「……はあ?」

 

 わたしは表情を凍らせました。

 木崎さんは珍しくも動揺しているようで、「すみません」と何度も口にしていました。

 

 暫く硬直して、漸く理解。

 彼に指示を出した司令とやらは、今尚育児放棄をしているわたしのダメな父親でした。

 

 あ……あんの、クソ親父ぃぃいいいっ!!

 なんつう事を命令していやがるっ!

 いや、そりゃあわたしの身の安全が第一なのは分かるし、わたしの過去やってきた事がやってきた事な以上、仕方無い面はあるけれど……だからって、だからって、実の娘の裸を、赤の他人の見せるような指示を出すか!? 普通出さないよね! っていうか、あいつが常人なら、わたしも苦労してないよ。知ってたよ!!

 

 とはいえ、言っても仕方の無い話。

 わたしからすればお風呂に入らないという選択肢は有り得ない訳で。木崎さんからすれば上官命令なので、徹底しなくてはいけない訳で。木崎さんの代わりを務められそうなミサトさんは、今日帰って来るかすら怪しいもので……。

 

 泣きそう……。

 かつてシンジくんに裸を見られて、不可抗力ながらも、問答無用で蹴り飛ばしたアスカの気持ちが、よーく分かる。シンジくん視点だと、理不尽極まりないと思ったけれど、当事者になってみたら、ほんとよーく分かる。

 今のわたしなら、きっと初号機でお父さんの頭をがぶりといける。間違いない。戸惑いも躊躇もなく、思いっきりかぶりつける。っていうか相手がお父さんならば、カヲルくんにやったみたいな事も出来る。むしろ、端的に言うなら……。

 

「死ね。クソ親父……」

 

 わたしはもろに口に出して小さく悪態をつきます。

 木崎さんは何とも言えない顔をしていました。

 

 まあ、そんな事を言っていても、状況は変わりません。熟考の末、顔から火が出そうな心地で、わたしは頷きました。ですが、蚊の羽音にも負けない程の小さな声で、ぽつり「見たら全部忘れて下さい」と、お願いしておきます。そんな事が出来る筈もないだろうに、木崎さんは「神に誓って」と、返してくれました。

 本当、木崎さんが誰にべらべらと喋るような人でない事が、数少ない救いです。

 とりあえずお父さんは今度何処かで出くわした時、思いっきり蹴り飛ばす。罪に問われようと、知ったこっちゃない。思いっきり蹴り飛ばす。それかエヴァでもぐもぐする。

 

 

 お風呂から上がったわたしは、羞恥心を誤魔化すように、晩御飯の支度に取り掛かりました。

 木崎さんは何も言わず、顔色さえ変えなかったものですが、もうほぼほぼ見られました。流石に恥ずかしくて、タオルを巻いた状態から、下だけは何とか見られないように穿いたものの……きっと何処かしらから見えていたでしょうね。あはは……。っていうか、下は兎も角、胸に関してはどうしようもありません。どうしたかって? 聞かないで下さい。

 

 ああ、もう本当、消えてなくなりたい。

 あれが世に言う視姦ってやつですか。そうですか。わたしはまだ男の子と手すら繋いだことありませんよ! シンジくんの自慰行為なら何度となく見たけどね。でもだからって、何でそんなマニアックなプレイをしなくちゃいけないんですか。ほんと、ほんっと、有り得ない! もっかい言うけど、死ね。クソ親父。

 思い出したらイライラしてきた。絶対、絶対、次会ったら蹴り飛ばしてやる。それでも我慢出来なかったら、サングラス叩き割ってやる。スーツも全部剥いで、パンツ一丁にして、同じ目に合わせてやる。

 

「ぐぬぬぬぬ……」

 

 怒り心頭の心地で、わたしは味噌汁をかき混ぜます。

 味噌を溶かすのが、丁度良い憂さ晴らしでした。

 

 とすれば、背後からふっと笑ったような音を聞きます。

 不意にその音が耳について、わたしは何と無しに振り返りました。とすれば、わたしが半ば無理矢理座らせた椅子の上で、木崎さんが口元を片手で押さえ、俯いているではありませんか。

 もしかして、笑ってた?

 鉄仮面な印象ばかりを持っていたので、あまり見ない彼の仕草に、思わずきょとんとした顔付きになってしまいます。

 すると彼はすぐにハッとして、何でもないように改まります。ふとすれば、先程見たものは目の錯覚ではないのかと思ってしまう程、毅然として、行儀の良くテーブルに向かっていました。

 

 わたしは目をぱちぱちとさせて、小首を傾げます。

 未だ彼に対して、恥ずかしい気持ちはありましたが、純粋な好奇心とは何にも増して優先される衝動です。

 

「あの……今、笑ってました?」

 

 木崎さんはちらりとこちらを一瞥すると、腕を組んで、そっぽを向いてしまいます。

 下唇を上唇に押し付けるような、微妙な顔付きをしていて、何処か罰が悪そうです。少しばかり信じ難いことですが、どうやら図星なようで……。思わずわたしはくすりと笑いました。

 

「人間なんですから、笑っても良いじゃないですか……むしろわたしの方が恥ずかしかったんですよ?」

 

 決して悪い印象ではないものの、無視をする彼を、わたしはからかいます。

 すると漸く、小さな溜め息をついて、彼は首を横に。「すみません」と短い謝罪の後、改まった様子で、再度唇を開きました。

 

「わたしも……似たような経験がありまして」

「へ?」

 

 笑顔の理由を話してくれようと言うのは分かりますが、少しばかり突拍子の無い発言です。

 木崎さんも視姦されてしまうような状況があった……とは、流石に思えず、わたしは「どういう意味ですか?」と、再度尋ねます。すると彼は、小さく息をつくような仕草の後、口火を切りました。

 

「娘が、わたしに対して、レンさんのような表情をしていたという事です。自分で言うのも可笑しな話ですが、仕事一辺倒の人間でしたから……随分と寂しい思いをさせてしまい、気がつけば司令と貴女のような関係になっていました」

 

 唐突なカミングアウトに、思わずわたしは「えっ?」と言って、硬直します。

 普段の木崎さんは、先ず公私混同をしない人です。自分の事は殆んど語らず、『任務ですから』と、何でも毅然とした様子で淡々とこなします。そんな彼が、自らの身の上話をするなんて、驚かない訳がありません。

 っていうか。

 

「娘!? 子供いるんですか!?」

 

 わたしは仰天しました。

 エンゲージリングを着けているので、結婚している事は承知の上だったのですが、まさか子供がいるとは思いませんでした。が、しかし、木崎さんは首を横に振ります。「いいえ」と、言葉でも否定されました。その意が分からず、わたしが小首を傾げれば、彼はふうと息をついて、天井を見上げます。

 

「死にました。家内と一緒に」

「え……」

 

 ぴしり。そんな音が聞こえた気がします。

 あまり自分の事を語らない人が、自分の事を教えてくれている。その事に、何処かから湧き上がってきていた温かい何かが、一瞬にして凍り付いたようでした。

 ですが、わたしのそんな気を知った様子もなく、木崎さんは再度首を横に。「失礼、話が過ぎました」と、話を止めてしまいます。「それより」と、指を差された先で、お味噌汁が煮えたぎっていて、慌ててわたしは調理に戻ります。

 

 そんなわたしの背中に、今一度謝罪がやって来て。

 暫くして、ふうと溜め息の音が続きます。

 

「だから……まあ、娘の裸を見たようなものです。わたしが言う立場ではありませんが、あまり気に病まないで下さい」

 

 そして、饒舌である事の種明かしがされました。

 どうやら木崎さんからしても、随分と気まずかったようで。わたしが言いつけた『忘れて欲しい』という主張こそ、違えてはいるものの、これまであまり感じなかった人間味に、何故だか安心する心地です。こう言うと失礼極まり無いのは承知ですが、『木崎さんも人の子か』なんて、思っちゃう訳です。

 

 ただ、ふと気になる言葉がありました。

 

――司令と貴女のような関係になっていました。

 

 わたしと……お父さんの関係。

 つまり、子供からした父の存在は、疎ましいという事です。ですが、その逆――仮に木崎さんが、普通の家庭の、普通のお父さんであったとするなら、『わたしとお父さんの関係と同じ』というには、些か語弊があるような気がします。だけど、木崎さんはわたしの護衛に就く前、お父さんの護衛をしていたと言います。だとするなら、腑に落ちない点があるような、無いような……。

 

 まあ、言葉のあやかもしれませんし、あまり気にしても仕方無いですね。

 言葉の節々を気にして、藪を突くのは、政治家だけで十分です。

 わたしは出来上がった料理を、出来る限りの笑顔で、テーブルに並べました。先程聞いた話でどうこうする訳ではありませんが、木崎さんの優しさの理由を知れた気になって、より一層、わたしも彼に好感を持つばかりです。勿論、親愛の情という意味ですが。



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7.Another self alone.

 普段は騒がしい葛城家の食卓ですが、その中心人物であるミサトさんが居なければ、会話どころか、物音すら珍しいものです。わたしは特別寡黙な性質ではありませんが、食卓を囲う相手が寡黙な人と、人語の通じない動物であれば、むしろ淡々と食事をとる方が、ずっと気が楽。下手に一人で騒ぎ立てても、空回りして、赤面する未来しか見えませんし。

 見たい番組が無ければ、テレビをつける必要もなし。とり急ぐ話題が無ければ、無理に喋る必要もなし。

 多くの場合、食事時の静寂というのは、細々とした物音が気になってしまうものですが、この日ばかりは何故かあまり気にする事はありませんでした。きっと自らの醜態よりも、先程不意に聞いてしまった事へ、配慮する心地の方が、ずっと上回っていたからでしょう。

 

 奥さんと、子供と、死別している。

 それがどういう事か、上辺こそ理解は出来ても、中身は分かりません。木崎さんの気持ちが、彼自身にしか分からないという点は勿論の事。わたしも母を亡くしていて、父は親らしい事をこれっぽっちもしてくれなかったのですが、これは物心つく頃には『当たり前』な事であって、それがわたしにとっての『普通』でした。シンジくんの記憶については、さて置いて……ですが。

 とはいえ、何もそれはわたし主観の話だけに止まらず、セカンドインパクトと、その後の戦争によって、多くの人口を減らしたこの星では、身内が欠けているという事は、あまり珍しい話ではないのです。だからといって、決して軽んじられる事ではありませんが、木崎さん自身もそう思っているからこそ、悲観的に見えるようには話さなかったのでしょう。

 わたしが知った風に、しょげてしまうのは、むしろ失礼な話です。

 

「ご馳走様です。今日の食事も、大変美味でした」

「あ、ども……」

 

 職業柄、木崎さんは早食いのきらいがあります。

 それは仕方の無い事ですが、やはり作っている側からすると、そういう人に対して『もう少し味わって食べて欲しい』なんて思ってしまうもの。……っていう事を、きっと彼は分かっているのでしょう。菓子パン等、購入したものを食べる時は、正しくあっという間なのですが、何故かわたしが振舞う手料理ばかりは、とてもゆっくり食べてくれます。それでも常人のペースで食べるわたしよりは、随分と早く食べ終わるのですが、『きちんと味わっている』と言わんばかりに、言葉を添えてくれるあたり、本当に気の利く人なのでしょう。

 

 今日の寝覚めもそうですし、その後の配慮も含めて、何から何まで至れり尽くせりです。こんなにも良くして貰っている事に対して、わたしが出来る配慮と言えば本当に些細。

 何か、木崎さんに返せたらなあ……。

 そう思いつつ、食べ終わった食器を流しに持っていく背へ、「お水に浸けておいて下さい」と、言っておきます。そうでもしないと、何処からともなく不似合いなエプロンを持ってきて、スーツの上に巻いてしまいますから。お礼を返してくる木崎さんに、わたしは穏やかな笑みを返しました。

 

 そこでふと、妙案が浮かびます。

 思わずわたしは箸を置いて、向かいに戻ってきた木崎さんへ改まりました。その様子を目聡く察した様子の彼へ、「あの……」と、口火を切ります。

 

「失礼なのは承知ですけど……お墓参りとか、行きたいって思いません?」

 

 すると、木崎さんは僅かに身体をぴくりとさせて、顎に手を当てて俯きました。

 何処か考え込むような様子の果てに、ぽつり。「そういえば……」と、小さく零します。やがて面を上げた彼の顔は、何時もと変わりない鉄仮面の筈なのに、何故かやけに人間味に富んで見えました。

 

「そろそろ命日です……。正直に申し上げると、毎年その日は休みを頂いています」

 

 成る程。やはりその日は大事にしているようです。まあ、そうでなければ、きっとわたしの事を『娘と似ている』だなんて、あんな安らかな顔で言える訳もないでしょう。

 ただ、この世界に使徒が現れ、わたしという重要人物の護衛を一身に引き受けている現状。わたしが何も言わなければ、彼はこのまま我慢していたのかもしれません。

 

 じゃあ、と、わたしは頷きました。

 

「何時でも平気なので、言って下さい。その日はミサトさんとかと一緒に居るようにするからって、お願いしておきますから……あ、連休とかでも良いんですよ? 最悪、ネルフに泊まりますし!」

 

 ここぞとばかりに言ってみれば、木崎さんは口角だけで笑みを浮かべます。

 その表情は、決して本心から笑っているようには見えず、強いて言うなら苦笑のように映りました。

 

「お心遣い痛み入ります」

 

 しかし、その声色ばかりは、とても安堵しているようでした。

 

 

 食事が終われば、ちょっとした掃除や、何故か第四使徒戦の日の朝に干してしまった洗濯物を取り込みます。……いや、本当、何で干したんだろう、わたし。昨日、雨降ってたらしいし、すんごい生臭いんですけど。皺も寄っちゃってるし、これは洗い直しです。次から使徒戦がある日は、絶対に洗濯物をしないようにしましょう。完全に無駄でした。ていうか、ミサトさん、帰ってきたなら取り込んでおいてよ……。

 已む無く、折角やった洗濯物を、再度洗濯機にぶちこんでおきます。マンションなので、夜間に騒音を立てるのはあまり宜しくない。明日の朝に回す事にしましょう。

 

「何か手伝いましょうか?」

「いえいえ、趣味みたいなもんですから。あ、手持ち無沙汰だったら、その辺にあるもの適当に読んでて下さい。ミサトさんのですけど……」

 

 気遣ってくれる木崎さんへ、リビングに置いてある机を示します。その上には、ミサトさんがぶちまけるだけぶちまけて、全く読んでいない雑誌の山があります。大半は美容系ですが、車やお酒のものもあるので、きっと木崎さんが好むものもあるでしょう。この前、ミサトさんとお酒について語ってましたし……。

 木崎さんは釈然としない様子でしたが、普段から口を酸っぱくして、休んでくれと言っている事が、奏功したのでしょう。洗い物を終えてから様子を見てみれば、リビングとダイニングの間にある柱に背を預け、立ったまま、一冊の雑誌を捲っていました。……成る程。やはりお酒が好きなようです。

 

 ふと時計を見やれば、まだ八時にもなっていません。

 寝るには少し早い……っていうか、わたしが目を覚ましたのはお昼前で、まだこれっぽっちも眠気がありません。

 

 時間、余っちゃった。

 どうしようか……。

 

 家事はある程度済んだし、お風呂にも入ってしまいました。

 学生の本分である宿題も、現状が現状であるので、出されている筈がありません。

 やる事らしいやる事が無くなって、ふと逡巡。すると、先程出来なかった事を思い出しました。

 

 木崎さんがちらりと向けてくる視線に微笑み返し、自室へ。

 ベッドの脇で、緑色のランプが点いているスマートフォンを拾い上げました。

 電源を長押しして、起動するまで待ちます。その間、一度部屋を出て、「ちょっとごろごろしてます」と、木崎さんに告げておきました。扉を開きっぱなしにしておけば、彼もゆっくり出来るでしょう。

 

 さてさて……。

 そんな心地で取り上げたスマートフォンは、ちゃんと充電が完了しています。

 ロックを解除して、ホーム画面を映せば、大量の通知が入っていました。……わあ、まるでわたし、人気者みたい。まあ、殆んど緊急警報を報せる通知でしょうけど。

 

 と、して、メールの画面を開いたのですが――。

 

「え?」

 

 上から下まで、同じ発信元で埋め尽くされていました。

 それも、何処ぞのサイトでなければ、巷で噂の迷惑メールとかではありません。全部一人の人物でした。

 

 取り急ぎ、その通知の一番古いものを開きます。

 

『今から出撃かな? 無事を祈ってます。頑張って』

 

 その文面を見た瞬間、わたしの脳裏に電撃が走るようでした。

 ハッと息を呑む心地で、次の文面を開きます。

 

『ごめんなさい! まだ出撃してなかったりする? 鈴原と相田が、トイレって言って、何処か行っちゃって。今捜しているところなんだけど……もしシェルターから抜け出してたら、わたしどうしたら良いのかな? 追いかけても良いのかな?』

 

 それは、わたしが勝手なお願いをしてしまったばかりに、危険な目に合わせてしまった友達からの、必死の連絡でした。途中からは、決してわたし宛てと言えたものではなくなり、シェルターの扉が開いている事に対する困惑や、外から聞こえる戦闘音に対する恐怖心の吐露、意を決して、二人を連れ戻そうと飛び出す決意までもが書いてありました。

 

 一通、一通、ゆっくりと改めていけば、喉の奥に何かが引っかかるような感覚を覚えました。それは熱となって、顔へ向けてじわじわと迫り上がってきます。

 

 顔が熱い……。

 視界が滲んでくる。

 ふと気がつけば、こんなにも涙腺が脆い。

 

 わたしは口元を押さえつつ、最後の一通を開きました。その受信日は昨日。使徒戦を終えたわたしが、まだ眠っている頃でした。

 

 

 こんにちは。

 昨日はごめんなさい。頼まれていたのに、二人から目を離してしまったばかりか、わたしまで迷惑をかける事になってしまって、本当に、本当にごめんなさい。

 

 あの後、わたし達三人は、ネルフの人に助け出されました。

 あの時のわたしは、目の前で何が起こっていたのか、全く理解出来なくて……呆然と、ストレッチャーに乗せられて、運ばれていく碇さんを見送りました。後から聞いて知りました。あの時、凄く痛かったんだね。苦しかったんだね。エヴァってロボットだから、あんなに苦しそうに戦っている理由が分からなくて。何も力になれなくて、本当にごめんね。

 

 正直に言うと、あの時の碇さんは、人が変わったみたいな顔付きで、少し怖かった。

 だけど、それも分かる気がした。……いいえ、分かるなんて言ったら、おこがましいって怒られちゃうかもしれない。でも、あの時、エヴァに一緒に乗って、碇さんが戦っている姿を見て……思ったの。

 一人なんだ……って。

 それでも果敢に、歯を食いしばって戦う姿は、きっと誰にも真似出来ない事だよね。そう思ったら、いてもたってもいられなくて、『守られているだけじゃダメだ』って思ったの。

 

 具体的に何が出来るかは分からないけど、もしも協力出来る事があったら、昨日に懲りずに、また頼って欲しい。昨日は情けない結果になっちゃったけど……次はもっと頑張るわ。それがわたしに出来る戦いだって、そう思ったの。

 

 こう言うと怒られるかもしれないけど……ありがとう。守ってくれて。

 

 追伸。

 碇さんが鈴原達に、わたしを置いてくるなって言ってくれて、本当に助かりました。もっと言ってあげて。大体、鈴原はほんと、ああいう時は頼り甲斐ないんだもの。

 

 

「……ヒカリ、ちゃん」

 

 小さく、送信者の名前を口にします。

 その声は自分でも分かる程に震えていて、画面を見ていた視界が波打つように歪んでいきます。やがて手に力が入らなくなって、スマートフォンを取り落とせば、わたしはベッドに向かって蹲りました。そのままむせび泣いていると、すぐに背後から「レンさん?」と、声を掛けられます。

 首を横に振って、手で『大丈夫だ』と示します。

 

 これはわたしだけが知るわたしの罪。

 わたしが解決しなければいけない問題。

 

 わたしは決して、ヒカリちゃんが言うような、勇ましい人間ではありません。むしろ、誰かを頼らねば、何も成せない人間です。それを隠して、強がっているだけなのです。

 

 見捨てようとしていた。

 その罪悪感はあまりに重たく、胸を締め付けます。それは確かな痛みとなって、わたしに警鐘を鳴らすのです。

 

――動き出せ。碇レン。

 

 熟考の末、わたしは涙を拭います。

 面を上げて、部屋の前で待ってくれていた木崎さんに、再度「大丈夫です」と告げ、席を外して貰いました。

 スマートフォンに向き直ったわたしは、返信画面を開きました。

 

『今度、少し時間を下さい。出来れば二人にも、声を掛けておいて欲しいです』

 

 そして、送信。

 ミサトさんに対しても、明日の夕方、どうしても時間が欲しいというメールを送ります。

 

 全てが済んで、わたしはふうと一息。

 自らの頬を二、三回張って、良しと気合を入れました。

 

 漠然とした不幸を嘆いているだけなら、今までのわたしがやって来た事です。だけど、もう舞台の主役は碇シンジではなく、わたし。碇レンなのです。わたしが何とかしなければ、誰がやるって言うんでしょう。

 二重人格をどうにかする方法は、具体的に浮かんできません。けれど、今のわたしには他にもやるべき事があります。そしてそれをしないと、二重人格をどうにかしたところで、誰も守れない結果になってしまう事も、分かっています。

 だから、先ずは出来る事を。

 出来る事からやっていけば、二重人格のそれもいずれ見えてくるかもしれません。

 

 わたしに出来る事……それは、わたしの味方を増やす事です。




当話はあと2ページを予定してます。
PCが直り次第投下します。

(追記)
PC直しました。
試運転していますが、問題なければ早いとこ更新再開します。


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8.Another self alone.

 

 何時の間にか日は落ち、窓の外は果ての見えない闇に染まっていました。ぽつりぽつりと点在する明かりも、深夜を過ぎた頃となれば、数も少なく、何処か寂しげに見えます。昔は何処そこの夜景を取り上げて、『一〇〇万ドルの夜景』だなんて言ったそうですが、第三新東京市のそれはどうでしょう。金額的には匹敵するのかもしれませんが、誰がどう見ても日本の次期首都とは言い難い。都市防衛機能に重きを置いた決戦都市の夜は、実に静かなものでした。

 いいえ。今が平時ならば、もう少し明るい夜景を見れたのかもしれません。

 暗がりでよく見えませんが、寝静まった街の外れに、山を丸ごと隠すような大きな仮囲いがあります。それは三日前、第三新東京市に住まう人々に出された避難命令の後、突如そこに現れたのです。おまけに周囲は昼夜問わず、ネルフ職員によって厳重に警備され、誰も近寄れないようにされているようです。ただでさえ特務機関ネルフには黒い噂が絶えないものですし、様々な憶測が実しやかに語られるというもの。あんなあからさまに不気味な場所へ、好奇心の促すままに近付こうという者は、早々いないでしょう。

 まあ、そんな変わり者に心当たりがないかと言われれば、否ではあるのですが……それは今、特に気にすることではありませんね。

 

「馬鹿。ねえ……」

 

 わたしの隣で、そんな言葉を零すミサトさん。

 髪はぼさぼさで、目の下にはくっきりとした隈。何時ものジャケットだってよれよれで、所々汚れているような箇所も見受けられます。停止したルノーのヘッドライトが照らす仄かな明かりに浮かぶのは、激務の疲れがありありと伝わるような容姿でした。

 

 辺りは静寂に包まれています。

 此処はあまり有名ではない山の頂上付近のパーキングエリア。深夜二時を過ぎた頃合ともなれば、停まっているのもミサトさんのルノーだけ。当然ながら、人気も無く。此処に居るのもわたしとミサトさんの二人だけでした。

 丸石が敷き詰められた地面を離れた所からは、微かに虫の羽音が聞こえてくるのですが……それさえも、何処か遠い別世界のような雰囲気。まるで世界から隔離されたような――とは、少し詩人が過ぎますね。とはいえ、普段、家で日常的な会話をしている時とは、少しばかり違った雰囲気が、わたし達を包んでいる。それは確かでした。

 

 じゃり。と、音を立て、わたしは踵を返します。

 視界の隅で認めていた彼女へ向き直ると、こくりと一回頷きました。

 

「まあ、拒否したのはわたしであって、わたしじゃないんですが……シンジくんの時は『馬鹿』って言われたから、ミサトさんの射撃指示を拒否したんだと思います」

 

 そして改めて説明を加えます。

 ミサトさんはこくりこくりと、数回に分けて浅く頷きました。そして「それは分かったけど」と言って、視線をゆっくりと下へ。そこには一冊のノートがあり、彼女はそれを次のページへと捲ります。

 深夜の静寂に、ルノーのエンジン音と、紙を捲る音が小さく響きます。寂しげにも聞こえるその音が促すように、ミサトさんの顔付きは険しく……いえ、何処か哀愁が漂っているように見えました。

 

「色々聞きたいことはあるんだけど……こうして見せられると、あたしって相当酷い指揮官ね。威力偵察もしてないし、二言目には発進させてるじゃない……」

 

 成る程。

 わたしが昨日、今日と掛けて作った『碇シンジ・THE・激動の一年』のうち、自分のとった行動を見ていたようです。まあ、そりゃあこんな風にパラレルワールド的な世界の史実を目にする機会なんてある訳無いでしょうし、となると自分がどうしていたかを注視するのは何となく理解出来ます。

 いやあ、頑張った甲斐がありますねえ。

 これを見て『無能指揮官』なんて呼ばれなかったことを奇跡なんだと理解して、反省して欲しいものです。ほんと、ミサトさんってごり押ししか能が無いんだもの。毎回、毎回、運が良かったから切り抜けただけなんだからね。……そう、運は良いんだよね。運だけは。

 付き合わされる方は堪ったもんじゃない。

 裏のわたしがどう思ってるかは知らないけど、少なくともわたしはごめんです。昨日は何ともなかったのに、シンジノート作成の為に思い返す内、シャムシエルに胸を刺されたことを思い出してからというもの、痛みがぶり返してきて、今だって地味に痛いんですから。

 

 書かれていることが、何らかの愛嬌宜しく、脚色されたものではないかと言いたげに、訝しげな顔を向けてくるミサトさん。わたしは溜め息混じりに肩を落とし、そっぽを向きました。

 

「事実ですけど?」

「……認めたくないわー」

 

 認めたくなくても、シャムシエル相手に射撃の指示を出したくせに、『馬鹿! 爆煙で敵が見えない!』って発言をした事実は、わたしの記憶からは消えません。少なくとも、シンジくんは割りと根に持ってました。

 指示に従ったら怒られた。

 指示に従わずに結果を残しても怒られた。

 酷い上官ですね。ほんと。

 

 わたしが呆れ混じりに皮肉を言えば、ミサトさんはがっくりと肩を落とします。

 徹夜明けに容赦無いと文句を言われますが、そんな事は知ったこっちゃありません。わたしだって――厳密にはわたしじゃないけど――第四使徒撃退という結果を残したんです。それに対して文句を言うのなら、『じゃあ使徒撃退しなくて良いんですね?』って返しちゃいますよ?

 

「ほんと……あんたって面倒臭い子ねぇ」

「悪意の塊をどうも」

 

 呆れた調子で零すミサトさんに、うそぶくような調子で返すわたし。

 それから無言の一瞬が流れたかと思えば、どちらからともなくふっと笑みを零しました。

 

「もう……疲れてるってのに、いきなしこんな大事な話を……」

「いや、だから態々ノートに書いたんじゃないですか。わたしだってそれ作るのに超疲れたんですからね? ミサトさんってば口で言っても絶対に忘れるもん!」

 

 一言の文句に、捲くし立てる勢いでお返しします。

 疲れているのは承知の上ですが、放っておけば一年後には皆仲良くLCLになっちゃうんですもの。それでなくても使徒という未曾有の脅威が襲来しているのですから、もっと危機感を持って欲しいものです。少なくともミサトさんは人類の存亡を預かる作戦部長なのですし。……いや、まあ、家の中までピリピリしてろとは言わないけどね? でも少しは木崎さんを見習えって思う。あの人、第四使徒戦の後、わたしが起きるまで一睡もしてなかったって、当然のように言うんですもん。むしろあそこまでいくと心配になる。わたしにも優しくする義務感みたいなものが芽生える。だけど今のミサトさんにかける優しさは……あんまり無いですね。

 

「こんなに頑張ってるのに……」

 

 項垂れるミサトさんに、わたしはにっこりと笑いかけます。

 

「もうちょっと頑張って?」

 

 すると彼女はげんなりとした表情を浮かべて、わたしをじろりと睨みつけてきます。

 

「鬼……悪魔……外道……」

「うら若い少女を捕まえて、あんまりな言いがかりをどうも」

 

 わたしは飄々と返しました。

 

 昨日、帰宅を希望する際に言いつけられたカウンセリング。

 それを済ませたわたしは、『もう少しで終わる』と言うミサトさんを二時間待って、夜間の恐怖ドライブへ。外で晩御飯を食べ、二人のドライブは山中を走りました。そうして此処に至り、シンジくんの記憶をミサトさんに話したのです。

 といっても、成る丈手短に話し終えられるよう、大半は要約しました。大事な部分は全部『碇シンジ・THE・激動の一年』に書いておいたので、疑問はそれを見て欲しいで済ませています。

 

 んで、今はそれを改めているところ。

 つまるところ気の抜けた一時です。

 

 シンジくんの記憶はどう話したとしても残酷で。話の主観が彼である以上、きっと誰もが同情を禁じ得ないことでしょう。何と言っても、齢一四の子供が負うにしては、大きすぎる責任と覚悟……そして、代償のお話なのです。彼は大人になろうと努力はしたものの、やはり一四歳の子供で。故に背負いきれない重圧に負けて、逃げ出してしまった……けれどそれは周りの悪意を放置する事になってしまい、最期は無念な結果になってしまう。

 仕方無いと言うには可哀想で。

 馬鹿だと言うには彼は若く。

 なら……一体どうすれば良かったんだ。と言うのが、今のお話。わたしはその正解ルートを歩いて行きたい。流石に男女の差はあれ、けれど大筋は彼と違いが無さそうな現状を、より良いハッピーエンドに向かわせたい。

 

「まあ、分かったわ……。それを急ぐ理由も、ね?」

 

 ミサトさんはそう言って、薄く微笑みます。

 笑顔の理由が分からないわたしは、それでも言葉の意味ばかりは理解して、僅かに顔を伏せます。

 

 急ぐ理由なんて沢山ある。

 それこそ、メリットは挙げ出したらキリが無い。

 だけど、ミサトさんの言うそれは、『急がなければいけない』という事。決してメリットを重視した話ではなく、急がなかったが為の代償を恐れたが故の行動だったと言いたげです。

 

 ええ。

 その通り。

 

 わたしは真面目な顔付きで改まります。

 ミサトさんに真正面から向かい合って、小さく頷きます。彼女の言わんとした事を、肯定しました。

 

「……二重人格。本来なら、わたしのそれはシンジくんのことでした。だけど、今の現状は明らかに違う。誰か分からない『二人目』がわたしの中に居て、使徒と戦ってる」

 

 独りごちて、わたしはミサトさんから視線を逸らします。

 改めた第三新東京市の街並みは、やはり静かで。それを守ったという実感は、わたしの心の何処を探したとて、存在しないものでした。むしろ、ふとすれば何時かわたし自身が壊してしまうのではないか……そう思えてしまう程、儚げに映るのです。

 

「ちょっち……今一度確認していい?」

 

 わたしの横顔に掛けられた声へ、再度振り返ります。

 ミサトさんは先程までの笑顔が嘘のように、あまり見ない思案顔をしていました。畳んだノートを脇に挟み、腕を組んで顎を撫でる様は、何処か『それっぽく』映ります。

 

 わたしが頷くと、ミサトさんは明後日の方向へ、視線を逸らしました。促された気になって、視線を追えば……第三新東京市に不穏な影を落とす仮囲いの方へ。

 

「あの時のレンちゃん……多分、今の貴女を指して『表のわたし』って言ってたわ。それってつまり、貴女は本当の二重人格者だった……って事で良いのよね?」

 

 それは、再三に渡って、なあなあで済ませてきた事です。

 わたしにとっての二重人格とは、『碇シンジ』のこと。『裏』と称するわたしの存在は、第三使徒と相対した際、生まれて初めて自覚したものです。つまるところ、ミサトさんの質問に対する答えは是。

 こくりと頷いて返しました。

 

「わたしにとっては、シンジくんの事だった筈なんですけどね……何が一体どうなっているのやら。我ながらほんとさっぱりです」

「……我ながらって言いつつ、随分他人事ね?」

 

 呆れたような調子で、ミサトさん。

 それぐらいショッキングな事なんです。察して欲しいものです。

 

 溜め息混じりに向き直り、わたしは補足します。

 

「因みに裏の時の記憶は朧気です。強いて言うなら、激情して大暴れした後に、ふとその事を思い起こそうとするような感じ……何となくは思い起こせるんですが、何処か断片的です」

 

 第三使徒の時も、第四使徒の時も、『裏』になっていた際の記憶は、わたしにとってシンジくんのそれよりも、よっぽど他人事です。感覚やら、感情やら、じっくりと思い返してみると、明確ではあるのですが……何と言うか、それらの記憶が繋がらない。『記憶』ではなく、『記録』のように感じるのです。

 例えるなら、歴史の年号を覚えているような感じでしょうか。本能寺の変と関ヶ原の戦いの間が、一八年しかないって、言われて初めて気が付くような感覚です。どちらの時代にも徳川家康はいましたが、改めて見直さないと、全く別世界の出来事同士のように思えるじゃないですか。

 

「その例えはよく分からないけど……まあ、言いたいことはよく分かったわ」

 

 ミサトさんは溜め息混じりに、そう言いました。

 ふと改まれば、その表情は何処か慈愛深く見えます。

 

 成る程。

 きちんと理解してくれたようです。

 

 そう……わたしはこの二重人格をどうにかしないといけない。

 これをどうにかしないことには、わたし自身の手でバッドエンドを作り出してしまうかもしれない。

 

 だから――。

 

 わたしは改めて、頭を下げました。

 

「ミサトさん。助けて下さい」

 

 

 人類補完計画の阻止を、誰かに任せる必要があるのです。

 此処に来て、わたしはそれを痛感したのです。



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EX.Another self alone.

 親の心、子知らず。
 子の心、親知らず。


 空いたガラスコップの縁を、金属製のスプーンで打ったような音。それを擬音語に直すのであれば、正しく『ちーん』。一体誰の趣味なのか、やけに古臭いその音は、わたしの前にある鋼鉄の扉が開く合図でした。

 ブリキのからくりが動くようながちゃこんという音と共に、ゆっくりと扉が開いていきます。すると漏れ出てくる光は、わたしが佇む廊下のそれより、随分と明るい。思わずわたしは目を細めました。しかし視界はすぐに慣れて、扉の向こう側が認められる頃になれば、わたしの視界には大きな影が映ります。

 その影をハッとする心地で認め直せば、思わず顔を背けてしまいました。

 

「…………」

 

 無言。

 折角呼んだエレベーターだと言うのに、わたしの足は前へ進みません。今しがた認めた先客が、その原因でした。

 

 ひしひしと感じる威圧感。

 目尻で冷ややかに睨み上げる風にして認めれば、わたしの父、碇ゲンドウは、何の感情も持たないような顔付きで、こちらを見下ろしていました。サングラスと逆光によって、細部までは確かではありませんが、指先ひとつ動かさないあたり、わたしの感想は間違いないでしょう。

 

 此処がネルフである以上、当然ながら服装は何時もの黒スーツ。常夏の日本において、見ているだけで暑苦しいその姿。きっと街中でこんな姿をした人物が歩いていれば、誰もが奇異なものを見たと思うでしょう。しかし場所が場所なら……成る程、組織の長に相応しい威厳はしかと感じる。

 こうして近くで見るのは、一体何時以来だろう? わたしが此処へ来た当初、この男との距離はかなり離れていました。実際に面と向き合うのは、それこそこいつに捨てられた時以来かもしれません。

 

 ふと、わたしの隣で身動ぎをする音がしました。

 認めて数瞬。すぐに父への興味を無くし、わたしは隣で佇んでいた筈の木崎さんへ視線を向けます。すると彼は、規律良い保安部として、正しい姿を披露していました。

 無表情ながらも、揺るぎない忠誠心を思わせる敬礼。相手がわたしにとって仇敵とも言える人物でなければ、素直に格好良く見えたのでしょうか……。いえ、木崎さんは何をさせても格好良いけど。

 

 そうこうしている内に、鋼鉄の扉が再度間抜けな音を鳴らします。からくりが仰々しい音を立てて動き、ゆっくりと扉が閉まっていきます。その間も、扉の向こうの父は無表情のまま。微動だにしませんでした。

 それが癪に障った――という訳ではありません。

 ただ、折角呼んだエレベーターを、そのまま見送るのは可笑しい気がして、わたしは足を一歩前に。閉まりかけていた扉は、わたしの足を挟むなり、安全装置が作動して、再度開いていきます。

 

「……乗る」

 

 そして短く告げました。

 

 どうやらお父さんは最上階に向かう模様です。わたしはリツコさんのカウンセリングを終えたところなので、ロッカールームの近くにある自販機コーナーに行こうとしているところです。つまるところ、わたしの方が降車は早いようです。

 『V―1』のエレベーターに乗っているということは……格納庫にでも居たのでしょうか。最上階はわたしも行ったことがなく、何処に通じているのかは知りませんが、わたしが乗った階層より下って、格納庫ぐらいしか無いんですよね。強いて言うなら詰め所とか、作業員用の売店とか、そういうなのがあったような気はしますけど……まあ、お父さんの行動なんてどうでもいいや。

 

 わたしはじろりと父の背中を睨みつけます。

 実の娘が同乗したと言うのに、一切の反応を示さないその姿。突飛な乗車の仕方にも、何ら驚いた様子はありませんでした。むしろ一言たりと喋っちゃいない。

 

 実に、実に腹立たしい。

 構って欲しいという気持ちは皆無ですが、故意に無視されているのは明らか。それに関しては遺憾この上ない。確かにわたしは父が嫌いで、エヴァの搭乗条件として『金輪際、父親面しない事』と提示したものですが、だからと言って大事なパイロットに対して挨拶のひとつも出来ないような輩になれとは言ってない。っていうか挨拶くらいしろ。男やもめに蛆がわくって、正にその通りじゃないか。……いや、元から蛆がわいたような奴だったのかもしれないけど。そこんとこ、お母さんの趣味を疑うわ。

 

 言い知れぬもどかしさを押し殺していれば、次第に腹の底が沸々と煮えてくるような感覚を覚えます。有り体に言うと、イライラしてきました。

 

 そういえば、わたし……昨日、こいつの所為で、木崎さんに裸見られたんだった。

 

 ふと思い起こす。イライラの発端。

 ただでさえ腹立たしい父の姿に、加えて明確な理由までもがあるのです。対して、情けを掛ける理由は殆んど無く。っていうか、全く無い。こいつにかけるような慈悲は、昨日木崎さんに全部使った。『木崎さんがお父さんだったら良いのに』って言うことだって出来るレベル。

 

 ふうと息をつく。

 よしと決めて、正面に立つ父の無防備な背中を見据える。そこからゆっくりと視線を下げていき、更に無防備かつ、全く鍛えられていないだろうふくらはぎをじっくりと見た。

 黒いスーツは割りと綺麗で、折り目もきちんとしている。それに包まれている父の脚は、きっととても貧弱な事だろう。なんたって、年がら年中座っているのだから。スポーツなんて絶対にしていない。筋トレも絶対にしていない。

 

 ギルティー。

 

「ていっ!」

 

 わたしは思いっきり父のふくらはぎを蹴り上げた。

 

「ぬ゛っ」

 

 僅かに前へ上体を崩すような動作と共に、くぐもった声が漏れた。

 割りと痛かったらしい。

 

 が、そんな反応は一瞬の出来事だった。

 すぐに父はわたしを振り返り、ギロリと睨みつけてくる。その表情は『無』そのもので、痛みはおろか、怒りさえも持ち合わせていないと言いたげ。不意の暴力に対して、あまりに毅然とした態度だった。

 

 父は小さく唇を開くと、「何だ?」低い声で問い掛けてきた。

 それは『今何が起こった』という疑問ではなく、『何故蹴ったのか』という問い掛けだろう。あまり接点の無いわたしにも分かる程、不明瞭ながらも明確な問い掛けだった。

 

 わたしはふんと鼻を鳴らし、そっぽを向く。

 その先で、珍しく唇を薄く開けて固まっている木崎さんと目が合う。その表情には思わずわたしもびっくりしそうになるけど、何とかすまし顔を貫いて、唇を開いた。

 

「セクハラ司令官は死んで下さい」

「……何のことだ」

 

 惚けたような答えに、わたしはムッとして父を睨み返す。

 思わず詰め寄って、向き直った彼の腹に指を突き立てて直訴した。

 

「あんた昨日、木崎さんにとんでもない事命令したじゃん! 娘の裸見ろとか正気かよ。死ねよ。くそったれ!」

 

 すると父は僅かに見目を開いたようだった。

 だけどその表情もすぐに一転。やはり『無』を貫く。

 

 ゆっくりと開かれた唇は、まるで嘲笑のような醜い笑みの形を浮かべる。

 

「ふん。何かと思えば……」

「父親面すんなとは言ったけど、こういう嫌がらせするんなら、わたしにも考えがあるんだからね!?」

 

 その表情に神経を逆撫でされたわたしは、感情を剥き出しに。

 何だ。言ってみろ。とでも言いたげに見下ろしてくる父を見上げ、歯を剥き出しにして、威嚇する。

 

 そして――父の無防備な脛に向かって、ダイレクトアタック。

 

「……っ!!」

 

 思わずと言った様子で、歯を食いしばるような表情をさせてやった。

 

 ざまあみろ!

 

 苦悶の表情を何とか『無』に戻そうとする父を尚も睨みつけ、わたしは唾でも吐きかけてやりたい衝動を何とか堪えた。流石にそれは女の子としてやっちゃいけない気がする。

 だけどその代わりに、わたしは捲くし立てた。

 

「犯罪って言うなら逮捕でも罰でもお好きにどーぞ。だけどうら若い娘の裸を赤の他人に監視させるような外道、わたしは許さないもんねーっだ!」

 

 歯を剥き出しにして、『い』の字を浮かべる。

 丁度良く開いたエレベーターのドアを我先に出て行って、振り返り様に中指を立てて「死ね。クソオヤジ!」と、とどめの一言を言っておいた。

 

 わたしは悪くない。

 

 だけどこの後、木崎さんに叱られた。

 

 

 エレベーターの中。

 取り残されたわたしは、膝を押さえて蹲りたい衝動を何とか堪える。痛みを紛らわす為、久しぶりに拳を握り、震わせた。左手の火傷の痕が疼くものの、丁度良く気が紛れた。

 このエレベーターは常時監視されている。

 組織の長として、此処で無様を晒す訳にはいかないだろう。泣き言は執務室に帰ってからだ。冬月に冷却シートを二枚用意させよう。

 

 しかし……何故、蹴られた。

 いや、理由はあれの口から出ていた。明確だ。

 分からないのは、何故それをああまで腹立たしく思うのか……だ。確かに娘の着替えを、――信頼している部下とはいえ――他人に監視させる行為は、常軌を逸しているだろう。しかし已むを得ない理由があった。あれの命に代えられるものは無いのだから、致し方なしとした。それの何処がいけない。父として、真っ当な事をしただけではないか。

 

 否、あれが拒絶するのであれば、これは宜しくなかったのだろう。

 それが答えであり、あれの感性こそが絶対の真理だ。

 

 蹴られた痛みは、過ちに対する罰。

 よもや蹴られるとは思っていなかったが……。

 

 ふむ。

 して、わたしはこの暴力に対して、何らかのパフォーマンスをせざるを得ない。あれがそこまで考慮していたかは兎も角として、この空間が監視されている以上、此処で何らかの罰を下さないと、わたしの威厳に関わる。これは最重要視されることだろう。

 わたしの威厳が無くては、組織の体制が磐石なものではなくなってしまう。部下に対して絶対の命令を出せる立場でないと、最終目的を達することが出来なくなるだろう。

 

 ならば、やはりあれには罰を与えなければなるまい。

 

 程好くあれを反省させ、且つ組織の長としての威厳を損なわない罰。

 子供の反抗ひとつを取り上げ、刑罰を与えるというのは、些か大人げが無いか……。しかし、これは暴力であり、あれが親子関係を拒否している以上、立派な犯罪行為ではある。それに対する罰は、禁固刑等が相応しいものだろう。とはいえ、そういったありきたりな罰を与えた場合、あれが『セクハラをされたから、反抗して蹴ったら、禁固刑にされた』と簡単に吹聴出来てしまう。

 

 大事なのは威厳を損なわず、且つあれに気安く口外出来ないと思わせる罰である事。

 となると……ふむ、既に答えはあるな。

 

 わたしは向かいの扉が開くと同時に、内ポケットから携帯端末を取り上げた。

 それをよく見知った先へ繋ぐと、「わたしだ」短く指示を出す。

 

「昨日、サードチルドレンの監視を命じた件だが……あれの様子が可笑しい。上官、もしくはあれに好意的な第三者が居ない場合に限り、恒久的な指示とする。伝えておけ」

 

 問題無い。




解説。

・『戸惑い』
 レンの心情。
 ヒカリがいなければ、二人を見殺していただろうことから、裏人格を見過ごせなくなっています。

・Another self alone.
 もう一人のわたし。

・木崎さんの爆走運転
 アクション映画のワンシーンをイメージしたが、描写力不足を痛感する次第。
 個人的に大事にしたい『作品の裏側』のひとつであり、これからもこういうワンシーンを重視したい。

・裏人格
 レンはぬかる。

・パレットライフルの命中率
 比較するものが無い。
 しかしながら、第四使徒の形状、ライフルの連射速度、パイロットの練度を鑑みるに、一〇パーセントは異常に高い方だと思われる。これはMAGIの補助を込みにしている数値。

・得手不得手
 独自解釈の一種。
 エヴァパイロットにも向き不向きがあったのではないかと思っている。
 シンジ→シンクロ率の高さによる緻密な制御。ATフィールドの強度、中和率。
 アスカ→戦闘センスの高さによる格闘戦。他人を拒絶するATフィールドの強度。
 レイ →冷静沈着な性格による精度の高い射撃。
 因みに余談ですが、零号機はN2兵器で大破する(ゼルエル戦)性能。対して、鋼鉄、サハクィエル戦から、初号機は電源無しでN2兵器を耐え、ATフィールド込みでN2兵器を遥かに上回るだろう衝撃を耐え凌ぐ。弐号機に至っては、鋼鉄でN2兵器(余波かもしれない)を耐え、パイロット覚醒時のAirではミサイル二発をもろに食らっても平然としている。
 レイの特技は? と、考えた際に、MAGIのバックアップあってもラミエル戦で射撃を外したシンジに対し、成層圏のアラエルを投擲したことが挙げられます。この間にも技術進歩はあったかと思いますが、一発勝負の投擲を当てられるのは流石と言えますね。

・シャムシエル戦
 前半の兵装ビルによる陽動作戦は単なる作者の趣味。

・マナ
 前作を見ていた読者にはお察しだとは思いますが、鋼鉄のガールフレンドのキャラクター『霧島マナ』の事。
 幼少のレンは末期シンジと同じ精神状態である為、何時死んだとしても可笑しくはなかった。故に、誰かしらレンを救うキャラクターが必要になってくる。ストーリーラインに影響を与えず、それでいて勝手の良いキャラクターといえば、旧劇では彼女しかいないので。
 余談ですが、本作の『ご都合主義』というタグは彼女のこと。


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第伍話 綾波レイ
1.She vomited lie.


 『諦めなければ、努力は必ず報われる』という言葉があります。

 それだけ聞けば、何とも倫理的で美しい言葉です。しかしその言葉の本質と言えば、何処か宗教的な意味合いが強く、物事を継続して行う為の自己暗示の一種のように思うのです。『実る』ではなく、『報われる』と言っている点から分かるように、必ずしも望んだ形で果たされる訳ではない。わたしにはそう見えてしまいます。先人は上手く言ったものですね。

 対して、『人間、諦めが肝心』という言葉もあります。

 必ずしも望んだ形で果たされる訳ではない努力。ならば、自分に合っていないと分かった時点で早々に手を引き、もっと自分の身の丈に合った事を努力しよう。そうすれば望んだ結果が待っているかもしれない。

 

 相反する二つの言葉ですが、ひねくれ者のわたしには、どうしてもそう見えてしまうのでした。

 

 つまるところ、やらねばならない努力は、必死になってやります。人類補完計画の阻止や、使徒の殲滅といった事は、多少自分にとって最良の形ではなくとも、本懐さえ果たせれば良いと思っています。しかしながら、自分が生きていくにあたって、あまり重要ではない事に心血を注ぐのは、些かナンセンスにも思う訳です。そんな事をやるくらいなら、数式の一つでも覚えた方がまだマシというもの。

 

「でも、二五メートル泳げないと……補習だよ?」

 

 ぎらつく太陽の下。

 茶色の髪を白くてダサい帽子に収め、苦笑とよく似た表情を浮かべているヒカリちゃん。何の洒落っ気もない紺色のスクール水着はしっとりと濡れていて、剥きだしの四肢には透明な雫が幾つも付いています。

 体育座りをしているわたしを、前屈みになって見下ろすその姿は、同年代女子と比べてスレンダーであるにもかかわらず、何処か艶やかにも見えました。

 

 辺りでは黄色い奇声が飛び交っています。

 それは等しく、この炎天下の下、水に浸れる事を喜びあっているかのよう。無遠慮な視線を寄越す筈の男子達が、グラウンドで野球をやっている事もポイントでしょうか。女の子だけの空間というのは、放っておいても騒がしくなるものです。

 

 ああ、空が青い……。

 あの空を映すだけのプールに浸る事なんて、何が心地好いと言うのか。いいや、そこに価値等ある訳が無い。あって堪るものか。全ては空を見詰めていれば良いんだ……。

 

「現実逃避しないで?」

 

 無粋な言葉が思考を断つ。

 思わずげんなりとしながら視線を降ろせば、ヒカリちゃんがじと目になっていました。その目は正しく『早く泳ぎなさいよ』と言いたげ。

 

 わたしは両手を肩の高さに上げて、首を横に。

 有り得ない。言葉に直す事もせず、態度で訴えました。

 

 小さな溜め息。

 ヒカリちゃんは肩を落として、「もう……」と小さく零します。そしてやおら振り返って、わたしが佇む隅っこから、およそ対極の位置に当たる方向を指差しました。その先には、フェンスに背を預けて、体育座りをしている空色の髪をした女の子。

 少し前まで彼女の特徴だった包帯は全て取れ、今は日に焼けたことが無さそうな真っ白の素肌を顕にしています。しかし、彼女もまた、ヒカリちゃんと同じく、水に濡れていました。

 課題が出されるや否や、いの一番にプールへ飛び込んで、誰よりも早く二五メートルを泳ぎきった彼女。今は何を考えているのか読めない表情で、プールで泳ぐクラスメイトを見詰めています。

 

「綾波さんはちゃんと泳いでたわよ? なのにどうしてレンが泳いでくれないの」

 

 少し前とは異なった呼び方で叱りつけてくるヒカリちゃん。

 わたしはその本懐を気にも留めず、『ああ、やっと呼び方が浸透したなー』なんて考えます。だって、それを考えたら泳がないといけなくなっちゃうから。真面目そうに見えて、綾波ちゃんは課題に対して『何故?』とぼやくような子だとか、わたしが補修になるとクラス委員のヒカリちゃんに迷惑をかけてしまうだなんて考えたら、いよいよ泳がないと友達甲斐がなくなってしまうから。

 

 ああ、空が青い。

 雲が白くて、わたあめみたい。

 どうせ旧季節の夏をイメージするのなら、夏祭りってやつが良かったなぁ。水着じゃなくて、着物が着たかったよ……。

 

「だーかーらーっ! 何でそんな風に無視するのよっ!」

 

 あ、いよいよヒカリちゃんが怒りはじめた。

 

 流石に怒らせるのは不本意です。

 わたしは溜め息混じりに肩を落とし、そっぽへ視線を逸らします。小さく唇を開いて、顔を赤らめているヒカリちゃんを横目にちらり。

 

「……察して?」

「泳げないのは分かってるわよ! 前も、その前も、水泳の授業エスケープしてたもの。分かるわよ!」

 

 ヒカリちゃんはついに声を荒げて、軽く地団太を踏みました。

 いやはや、何が第壱中学校最後の良心を此処までさせるのでしょうか。

 

 しかしながら、一つ訂正せねばなりません。

 わたしは彼女に向かって、素早く右手を差し出して、制止するよう求めました。

 

「泳げないんじゃない。泳いだことがないだけよ」

「それを世間では泳げないって言うの!」

「否。断じて否。泳ごうと思えばきっと泳げる。泳ぐ気がこれーっぽっちも起きないだけだっ」

 

 尚も憤慨そうに声を荒げるヒカリちゃんに、わたしも些かムッとして返します。

 

 わたしの身体能力は割りと良い方です。胸が大きいので走る事こそ難しいものの、身体は柔らかいし、力も女子の中ではある方。普段からネルフで訓練をしているので、木崎さん直伝の格闘技に関しては自信もあります。

 おまけにシンジくんの記憶もあり、彼は泳げていた。あの動きをトレースすれば、ちゃんと泳げる筈。

 

 わたしの意図を何処まで察したのか、ヒカリちゃんは更にぶすっと膨れます。

 じゃあ何で泳ぐ気が起きないのか――と聞いてこないのは、わたしが体育座りをする事によって、周囲の視線から隠している剥き出しの左腕に配慮しての事でしょう。これまでわたしが水泳の授業を色んな言い訳でエスケープした理由は、事実これが原因です。というか、小学校の時からそうでした。

 

「じゃあ、何で……」

 

 ヒカリちゃんは不服そうに、わたしが此処に居る理由を尋ねます。

 わたしは深い溜め息をついて、顔を膝に埋めました。

 

 今になって、何故わたしは、ヒカリちゃんと同じくダサい帽子を被り、何の洒落っ気もないスクール水着を着ているのか――それは、つい昨日の出来事でした。

 

 

 ようやっと第四使徒戦の事後処理が終わり、落ち着いた時間を過ごせるようになったミサトさん。

 わたしが渡した『碇シンジ・THE・激動の一年』も漸くにして読み終わり、これに関する細かな質問を受ける事も多くなっていました。まあ、その殆んどはやれ『碇シンジは誰が好きだったのか』とか、『大人のキスの感想は』とか、くだらないものでしたが……。

 

 しかし、ふとある事に気が付いたらしいミサトさん。

 食後の一時、木崎さんが隣の仮住まいに帰って、そろそろ就寝準備をしようかという頃合。彼女はおもむろに「そういや」と切り出したのです。

 ビール(えびちゅ)のつまみのするめを食み、彼女は気の抜けた顔付きで小首を傾げました。

 

「レンちゃん。貴女……水泳の授業をサボってるって、学校から連絡あったんだけど」

「ふぇ!?」

 

 思わぬ言葉に、わたしは素っ頓狂な声を上げて、びくりと肩を跳ねさせました。それこそ手元の紅茶をひっくり返してしまいそうになる程、予想外でした。

 

 すぐに胸の内を焦燥感に似た何かが駆け巡り、わたしは視線を逸らして「ああ、えっと……あー、水泳ですね。ああー、すいえーですかー」と、誤魔化しにならない誤魔化しをします。

 するとそんなわたしの心境を察したように、くすりと笑うミサトさん。「あのねえ……」と、呆れたような苦笑を浮かべていました。

 

「ただでさえ訓練と出撃で単位足りないんだから、ちゃんと出てくれないと……むしろ、ほら……この『第六使徒』とか海に出てきてるじゃない。泳げないと困るかもしれないわ?」

「お、泳ぐことは出来ます。出来ますとも! た……多分……おそらく……きっと……」

 

 消え入りそうな語尾と共に、わたしは視線を伏せます。

 その頭に、ぽんと手が置かれたかと思えば、わしゃわしゃと撫でられました。思わぬ所業に「ひゃあ」と声を上げて改まれば、ミサトさんは慈愛深げに微笑んでいました。

 

「苦手は克服しなくちゃ。自動車の件も含めて……ね?」

 

 

 そして、地獄に突き落とされた訳です。

 

「とか言ってたのに、結局泳がなかったじゃないの!」

 

 授業を終え、更衣室にて。

 ヒカリちゃんは水着姿のまま、両手を振って、抗議してきます。

 対するわたしはそしらぬ顔で、「仕方無い。時期ではなかったのだ」と、大して濡れちゃいない水着の肩紐を下ろします。

 

 あの後、ヒカリちゃんが幾ら促してこようと、教師に注意されようと、頑なに水へ入らなかったわたし。

 流石に目立ちすぎていたらしく、他の女子から『泳げないんだ』とか、『えー、意外ー』とか、言われていたような気がしますが、気にしません。わたしは泳がないだけで、泳げる筈ですから。

 ミサトさんには悪いけど、第六使徒もアスカが上手い事倒してくれると思うから、大丈夫、大丈夫。

 

「はぁ……おかげでわたしまで出席しなくちゃだよ……」

 

 肩を落とすヒカリちゃん。

 気だるげに肩紐を下ろす姿は、実に哀愁が漂っています。

 どうもわたしが素行不良――主に自殺未遂の件で――な所為で、指導役に抜擢されていたらしいです。まあ、授業を大して聞きもせず、なのにすらすらと問題を解いてしまうわたし。普段は指導する必要が無いからこそ、こういう状況に陥ると、細心の注意を払わざるを得ないのでしょう。そこへわたしの交友関係を用いるというのは、些か教育の名折れやもしれませんが、彼等は教師であって、カウンセラーではありません。心の病を患っていると言われるわたしに対してのマニュアルこそ用意されているでしょうが、それが絶対の解答という訳でもないのも承知の筈。挙句、わたしという人間は『絶対に壊してはいけない存在』であるのですから、多少不名誉でも、学校側としてはこれが得策なのでしょう。

 

 だからと言って、わたしは泳ぐつもりはありませんけどね。

 まあ、ヒカリちゃんと二人っきりなら、左腕に配慮する必要も無いし……少しはその気になるかもしれませんが。

 

 がやつく女子更衣室の中。

 わたしは水着を腰まで下ろして、ロッカーから下着を取り上げます。それを胸に当て――ようとしたら、「うわ、やっぱでっかい!」いきなり現れたクラスメイトの一人に、胸を鷲掴みにされました。その手の感触を知覚するが早いか、手はわしわしとわたしの胸を揉みしだきます。

 思わず「ひゃあ」と声を上げて、手を払い退け、ブラジャーを持ったままの腕で胸を隠します。ハッとして改まった先には、あまり話した事が無い女子生徒が数人。わたしの胸を掴んだ子を筆頭に、まじまじとわたしの胸を凝視していました。

 

「え、ええ? な、何でいきなし揉まれたの!?」

 

 キッと睨みつけてみれば、まるでわたしの反応が予想外だったと言わんばかりに、目を丸くしている少女。払い除けられた手をわきわきとして、感触を確かめているようでした。

 

「いや……あまりにでかかったから……つい」

「つい!? ついで痴漢されたの!? わたし」

 

 思わず捲くし立てるように文句を言えば、他の女子生徒が挙手します。

 

「わたしも揉みたーい!」

「うわ、本当におっきい!」

 

 まるで砂糖菓子に群がる蟻のようでした。

 中学生女子にしては珍しいDというサイズは、未だ成長過程故に持たざる者達にとって、純粋に興味深いものだったようです。わたしが醸し出す腹立たしいという雰囲気なんて、好奇心を顕にする女子中学生達の群れの前ではあって無いようなものでした。

 きっと元々気になってはいたのでしょう。しかしわたしは今までプールの授業を全てエスケープしています。正しく今日、初めて、一同の前に晒したと言えるのです。

 

 今までヒカリちゃん以外のクラスメイトは、何処かわたしを敬遠しがちでした。『乳、でけえ』という騒ぎに乗じて、「うわあ、やっぱ肌しろーい!」とか、「睫毛なっが!」と言われていますが、今までそんな事を面と向かって言われた例がありません。むしろ、気さくに話しかけられるような機会が無さ過ぎて、わたし自身「え? あ、う、うん……」と圧倒され、最早なされるがままな状態です。

 胸を揉まれて、頬っぺたを抓られて、髪を撫でられて、腰を触られて……いい加減擽ったい!

 こんな時に限って、状況をいち早く収めてくれそうなヒカリちゃんは、何故かもみくちゃにされるわたしを生温かい笑みで見守っています。……あれは、ああ、乳がでかいという言葉がお気に障っておられる! お怒りのご様子である!!

 

「ねえねえ、これ何カップ?」

「え? でぃ、でぃーだけど……」

「うわ、Dとかうちの姉貴よりでっかい!」

「中二でDとか、Fぐらいまでは育つっしょ。これ」

「そ、そんな育たれても困るって。超重たいんだもん。走るのも痛いし!」

 

 と、そんなやり取りをしていて、ふと気が付くのです。

 こんな風にクラスメイトに囲まれ、談笑する機会は、わたしにとって初めての体験。決してつんけんしてきた訳ではないですが、自分を年齢不相応なものだと自覚していた為に、同世代の大多数とは合わないものだと思っていました。

 ですが、それは思い過ごしだったのかもしれません。

 ふとした切っ掛けで手に入るもの……そう、そう言えば、正しく水泳を嫌がる姿を『意外だ』と吹聴されていたではありませんか。わたしが勝手に遠ざかっていただけで、周りのクラスメイト達は、ずっとわたしの事を気に掛けてくれていたのかもしれません。

 

「あっ……」

 

 しかしその内、一人が気付いて。

 彼女に倣って、二人、三人と、下着を握っているわたしの左手首を注視し、言葉を静めていきます。

 先程までの茶化すような雰囲気は唐突に消え失せ、一様に表情を無くしてしまいます。息を呑むかのように見えれば、何処と無くショックを受けたようにも見える姿。……まあ、一四歳の子供には、少しばかり刺激が強いものなのでしょう。

 触れてはいけないものだったかと、何処かわたしを畏怖するようでした。

 

「あ、あのね!」

 

 そこへ、ヒカリちゃんが両手を広げて割って入ってきます。

 彼女もまた、わたしの事を見てくれている人。わたしが一番大事にしている秘密を聞いて、それでも尚、わたしに寄り添ってくれる人。

 焦ったような表情は、思い遣りの表れ。わたしの禁忌を知ってしまった彼女等が、それを『今現在の事』と誤解しないよう、助け舟を出してくれようとしているのでしょう。

 

 しかしわたしは躊躇う事も無く、わたしに代わって説明してくれようとしているヒカリちゃんの肩を叩きます。そうして彼女を諌め、何時の間にか騒がしさを無くしてしまった一同に、ふうと息をついてから、改めて微笑みかけました。

 

「ごめん。嫌なもの見せちゃった」

 

 一言詫びてから、下着を右手に持ち替えて、左手を宙でぶらぶらとさせて見せます。

 言葉とは裏腹に、まるで何でもない風を装って、わたしは肩を竦めました。

 

「こんな腕だから……ほら、クロールとかすると……ね? だからわたしは泳げないんじゃなくって、泳がないの。良い? 泳げないんじゃないからね?」

 

 そうして悪戯っぽく茶化してみせます。

 

 傷痕を見られる事は、あまり好ましい事ではありません。見た方は気分が悪いでしょうし、わたし自身にとっても、懇意にしている人以外に見せたくないナイーブなもの。

 わたしがエヴァのパイロットなのかと聞かれた時のように、突っぱねたって構わない。むしろそうする方が楽で、普段のわたしならそうするでしょう。ただ、自分でも理由は分からず、気まぐれと言ってしまうと、少しばかり素っ気無いかもしれませんが、もう少し周りに優しくしないといけないような気もするのです。

 まあ、それこそ利己主義が過ぎる言い方をすれば、『ヒカリちゃん(友達)が見ている手前』という事なのかもしれませんが。

 

 ともあれ、折角茶化したのですから、どうぞ笑って下さい。

 そんな心地で、わたしはにこやかに反応を待ちます。

 

 すると……。

 

「あ、うん……」

「なんか、ごめんね?」

「補習……がんば」

 

 すんげえ哀れみの籠もった目で見られました。

 そのまま彼女等はわたしに苦笑を返して、各々のロッカーの方へと向かって行ってしまいます。

 

 あれ? 何で?

 

 暫し茫然とするわたしの肩を、ヒカリちゃんがぽんと叩きます。

 振り返ってみれば、彼女はとても哀れなものを見る目で、悲しそうに笑っていました。

 ゆっくりと首を横に振って、やがて一言。「ドンマイ」とだけ零して、彼女もまた、自分のロッカーの方へ。

 

 一人取り残されたわたしは、目をぱちぱちと瞬かせるばかり。

 

――何だか良く分かんないけど、ちょっと悲しい気分だ……。

 

 遣る瀬無い気分になりながら、わたしは溜め息混じりに着替えを再開します。

 今度こそブラジャーを着け、股間が見えるか見えないかギリギリの位置まで水着を下げて、ブラウスを着用。僅かに濡れた水着が、ブラウスの裾を濡らさないよう配慮しつつ、それを上手く目隠しにして水着を脱ぎきります。そして下着、ショルダースカートの順に着用。最後にリボンを付けて、荷物を纏めます。

 

 と、そこでふと気になって、スカートのポケットへと手を突っ込みます。おもむろにスマートフォンを取り出しました。

 すると、正しく通知を示すランプが点灯しているではありませんか。

 

 わたしの連絡先を知っている人間は、ヒカリちゃんを除けばほぼネルフの職員です。よって、割りと大事な連絡が入ってきたりします。まあ、仮にこういう状況で有事が発生した際は、木崎さんが呼びに来てくれる手筈なので、火急のものではないでしょう。とはいえ、一応その通知に目を通しておきます。

 送り主はミサトさんでした。

 

「……あ、そっか。()()か」

 

 通知内容を確認したわたしは、思わずハッとする心地に。

 

 スマートフォンを再度ポケットに仕舞うと、既に着替えを終えていたヒカリちゃんへ振り返ります。そして一言、「今日、買い物して帰るんだけど、乗ってく?」と、声を掛けておきました。

 すると彼女は唐突な物言いに驚いたようでしたが、すぐに本懐を理解したご様子。「晩御飯の?」と聞いてくるあたり、同じ食卓を預かる者として、通ずるところを感じますね。わたしはこくりと頷きました。

 

 さて、折角のお客さんなのですから、偶には贅沢なものでも作りましょうか。



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2.She vomited lie.

 わたしの趣味は料理。

 得意科目が家庭科なら、特技にだってそう書いちゃいます。

 それこそ、親友に女の子らしさを説かれるより前からやっていて、齢一〇の頃には和食の殆んどを一人で作れるようになっていました。切っ掛けこそ『義父母に世話をかけたくなかったから』という、ある種の強迫観念から始まったものではあったのですが……惨たらしいばかりで、己を苦しめる碇シンジの記憶の内、初めて目に見える形で役に立った知識。シンジくんの記憶を基に、見よう見真似でお味噌汁を作った時、その味が夢の中で味わうそれと遜色が無く、いたく感動してしまったものです。

 

 時を経て、その喜びは作る喜びに。

 更に時を経て、作る喜びは喜ばせる喜びに。

 

 きっと、料理の道を志す誰もが通る道でしょう。

 わたしのそれは『別人の記憶』という、少々ずるい過程を辿っていますが、『かける情熱は?』と問われれば、『己のプライドと同義』と答えましょう。

 今や和食以外にも手を出し、セカンドインパクト前にあった様々な料理を作れるのです。スープの不出来を理由に休業する中華料理店や、喫煙席に決して座らないソムリエ等、幼いながらも彼等の気持ちを理解する事が出来ます。

 

 わたしにとって、料理とは即ち生の象徴。

 碇シンジの記憶を『夢ではない』と悟った理由の一つであり、彼の生きた証を『悪意』にしてしまわない為の術であり、何よりわたしがわたしを生かす為、死なないから生きている人間にならない為の術です。

 

 さあ、ご覧あれ。

 これが碇レンの生きてきた理由だ――。

 

 

 調理開始から二時間四二分。

 予定時間の一八分前に、葛城家の玄関が開きました。極々平和的な談笑を交え、帰宅を示す挨拶と共に、ミサトさんがリビングへ。そこでわたしが「おかえりなさい」と返すや否や、ごとりと鈍い音が響きます。

 くしゃりとコンビニの袋がへしゃげる音。からからからと音を立てて転がるビールの缶の、なんと間抜けな事か。その後ろに続いたリツコさんも、制止したミサトさんの視線を追って、同じく硬直。ネルフ本部ではあまり見ないような驚いた表情を浮かべ、息を呑んでいました。

 

「……レン、ちゃん?」

 

 ぽつり。

 ミサトさんが零す言葉に、既に食卓の傍らで待機していたわたしは、「はい」と短く返事をします。浮かべる表情は、客人をもてなす高級料理店のウェイターを意識。自信ありげに微笑んでやるのです。

 

「なに? これ……」

 

 何が起きているのか分からない。

 まるでそう言うかのように、ミサトさんは唖然とした表情を浮かべていました。隣に立つリツコさんも、「凄いわね。これ、全部レンさんが?」と、目の前の光景を信じ難いと言いたげです。

 

 こくりと一度頷き、わたしはワンピースの裾を摘まんで、それっぽく会釈を返します。

 

「失礼。折角だから、全力の八割を出してみました」

 

 にやり。わたしはどうだ見たかと挑発的に笑って見せます。

 

 食卓の大皿は三枚。

 掻き揚げを中心としたフライの盛り合わせは、脇に添えた餃子、白身魚のフライの切れ目、ミニトマトで彩りを演出。それに合わせて、ローストビーフは花のように巻いておき、全ての塊の上にわさびを一つまみ乗せることによって、和風仕立てに。最後の一皿には刺身の盛り合わせ……まあ、流石に魚を捌く時間は無かったので、こればっかりはスーパーで買ったものを盛り付けただけです。

 七種の小鉢にはそれぞれの大皿に合い、それでいて酒の席となる事を予期して、程好いつまみをチョイス。煮物からナムルまで、ジャンルは実に様々です。但し、そのどれもが『和食』に合うようアレンジを加えていて、ローストビーフをわさびと醤油で食べるコンセプトに見合った出来栄えでしょう。

 そして四人分の席の前には、伏せた茶碗と汁碗。これらはまだ盛っていませんが、鶏肉をメインにした炊き込みご飯と、豚汁を用意してあります。気分に合わせて、牛、鳥、豚、魚から選べるようにしてあるのも、わたしの中でのポイントです。

 

 食卓を埋め尽くす皿の数々。

 そのどれもが、きっと一目見ただけで『美味しい』と思えるだろう出来栄え。過ぎた贅沢と言われても仕方無い。けれど、葛城家の食卓を預かるものとして、誇らしいものを。

 

「素材は急ごしらえですが、多分満足して貰えると思います。普段お世話になってるから……って言うと、ちょっと仰々しいけど、是非とも堪能して下さいな」

 

 そう言って、わたしは悠々とした足並みで台所へ。

 猫好きなリツコさんの為に、態々人参を猫型にカットした豚汁と、きちんと蒸らしを済ませた炊き込みご飯を用意しましょう。

 

「た、食べきれるの? これ……」

「さ、さあ?」

「大丈夫です。いざとなったら大皿はわたしが……」

 

 後ろからそんな声を聞いて、流石にやり過ぎたと反省――しませんけどね! わたしは作る事が楽しくって仕方無いんだから、食べる側も喜んで食べやがれってんです。今から食べきれるか心配しているようじゃ、偉大なる食文化に対して失礼極まりないってんですよ。残ったら朝食とお弁当行きになるだけ。食卓を預かる者として、そこはきっちり考えてますとも。

 そんな事より早く食卓について欲しいものです。

 行儀の悪いお客様はマナー違反で叩きだしますよ?

 

 

 そんなこんなで始まった大宴会。

 頭数こそ少ないものの、止まらぬ箸と、止まぬ談笑は、わたしへの賛美のようでした。事実、木崎さんは口々に「美味しい」と言ってくれ、リツコさんも「これは癖になるわね」と彼に倣います。唯一、微妙な顔付きをしているミサトさんは、「この料理でえびちゅが何本買えるんだろう」って言っていて、リツコさんに大顰蹙(ひんしゅく)を買っていました。

 

「こんな無能亭主に付き合うより、わたしの家に来ない? こんな料理を作ってくれるのなら、サービスするわ?」

 

 肩を竦め、呆れ混じりな顔付きで零すリツコさん。

 無能亭主とは良く言ったもの。「ちょっとぉ」と、彼女を横目で睨んでいる当人をちらりと見やり、わたしも肩を竦めて苦笑します。

 

「それも良いですね。馬鹿舌な人に付き合うと、わたしまで鈍りそうですし」

「ちょ、レンちゃん!?」

 

 思わぬ裏切りと思ったのでしょうか。

 ミサトさんがえびちゅの底で机を打ち、身を乗り出してきます。

 と、そこでわたしの隣に座る木崎さんが、「ごほん」と態とらしい咳払いを一つ。食事中には不躾な行いでしたが、横目に見やればきちんと口元を手で押さえています。ふと一同が改まるや否や、彼はミサトさんをちらりと見やって、「な、何よぅ」と口ごもる彼女に向け、小さく溜め息。

 

 木崎さんは箸を置くと、サングラスを外し、机の脇に置きました。

 あまり見たことが無い彼の素顔は、目尻に実年齢相応の小皺があり、少しばかり印象が変化します。厳格さが細かな皺によって軽減され、何処か温かみのある顔付きです。表情こそ動いてはいないものの、今にふっと微笑みそうな雰囲気をしていました。

 

「無礼講の席と信じて発言します」

 

 しかし、声色は低め。

 誰がどう見て、どう聞いても、叱責が飛ぶ気配のするものでした。

 

 木崎さんは真っ直ぐミサトさんを見据え、ふうと息を一つ。

 改まった様子でわたしをちらりと見て、再度視線をミサトさんへ。

 

「学業と職務をこなす一四の子供に家事の一切を任せ、己の職務を怠惰の言い訳にする大人がありましょうか。いずれレンさんに見限られたとして、何処に疑問点も出ないのが正直なところです。悔しければ己の味覚を狂わせる酒を適量まで減らし、有意義な楽しみ方をするべきだと思われますが?」

 

 そして、ド正論が放たれました。

 それを真正面から食らったミサトさんは、「ぐふっ」とても痛そうに胸を押さえ、「本当に家事まで任せてるの? 信じられない」というリツコさんからの追い討ちで、「ぺんぺぇぇん!」と、机の傍らでえびちゅを飲んでいるペンペンへと縋り付き――「くわっ」と、ペンペンは一鳴き。大事そうに缶ビールを両手で抱いて、ミサトさんの抱擁をするりと回避し、わたしの傍らへ。

 

 ミサトさん。

 まさかのペットにまで裏切られる始末。

 

 こればっかりは本当にショックだったらしく、唖然とした表情で固まってしまいました。

 オイルが切れたブリキのように、固い動作でわたしへ向き直ってきて、強張った表情を徐々に悲しげに変えていきます。目尻には涙も見えました。

 

「出て行かないわよね? レンちゃん」

「さあ? どうですかね?」

 

 縋るようなミサトさんを、すまし顔でけんもほろろに突っぱねるわたし。

 途端にわあと声を上げて、ミサトさんはビールを一気に飲み干しました。そのままやけ食い宜しく、ご飯を掻き込んで、お味噌汁を一気飲みし、おかずを口一杯に頬張って、更に次のえびちゅを開けました。「今夜は自棄酒よぉ!」ダメだこいつ。分かってねえ。

 

 まあ、実際のところ、人類補完計画の件を抜きにしたとしても、この家を出るつもりはありませんけどね。それこそミサトさんが結婚したり、わたしが自立したりしない限りは。

 あくまでも冗談です。ビールは少し控えて欲しいけど。それこそ木崎さんの言う『適量』っていうところまで。

 

「ああ、それはそうと……」

 

 すっかり出来上がってしまったミサトさんを他所に、リツコさんは不意に改まった様子で、ハンドバッグを取り上げます。その中から一枚のカードを取り出して、わたしに差し出してきます。

 それを特に意を介さず受け取ると、申し訳なさそうな表情と共に、続けて説明してくれました。

 

「ごめんなさい。綾波レイのセキュリティーの更新カードなのだけど、返しそびれたままになっちゃって。悪いんだけど、本部に行く前に渡しておいてくれないかしら?」

「ああ、はい。分かりました」

 

 受け取ったカードには、空色の髪をした少女の写真。

 何時もの表情と言いますか、やはり無表情で写っています。まあ、証明写真で可笑しな表情をしているなんて、有り得ない訳ですが……人物的にも、常識的にも。

 

 と、そこでふと思い出して、わたしはリツコさんへ改まります。

 

「そう言えば明日って、零号機の起動実験でしたっけ?」

 

 彼女はこくりと頷きました。

 肩を竦めて、何処か溜め息混じりな様子で唇を開きます。

 

「大事な日なのにね。渡し忘れるだなんて、どうかしてるわ……疲れてるのかしら? わたし」

 

 そう言って自嘲の笑みを浮かべるリツコさん。

 多忙の原因は説明されなくても分かります。というか、わたしが原因です。

 

 思わず頭を下げて、短く詫びます。

 すると首を横に振って、彼女は「顔を上げて頂戴」と一言。

 

「貴女のおかげで、使徒の生態が多く分かったわ。大半が人智を超えていた……っていう不名誉な結果だったけれど、貴女が第四使徒をあの形で倒してくれなければ、それすら得られなかった結果だわ」

 

 それはつい昨日の話。

 わたしではないわたしがもたらした戦闘結果は、シンジくんの時とほぼ変わらずのものでした。とは言っても、第三使徒もバラバラとは言え肉体は大半が残っていましたし、強いて言うなれば、前回は粉々に砕けてしまっていた使徒のコアが、殆んど完全な形で残っていて、それを解析する事が出来たくらい。まあ、つまるところ、先日、シンジくんの時にも体験した使徒の解体ショーを見物した訳です。

 結果、使徒は光のようなもので構成され、遺伝子上は九九・八九パーセント人類と酷似した生物である事が分かったのです。まあ、そのあたりもシンジくんの時と変わらず。当然ですね。

 

 故に、リツコさんはお疲れのご様子。明日には大事な実験が控えている所為か、ミサトさんとは違って出来た大人だからか、それを嘆く様子は見せませんが。

 しかしながら、今手渡された更新カードこそ、シンジくんの時と同じ展開ではあるのですが、わたしの精神状態がリツコさんの多忙に拍車を掛けていたのは疑いようもない事でしょう。わたしはシンジくん程、扱い易い人間ではない筈です。その点を考慮すると、彼女はシンジくんの記憶にあるより、ずっと疲弊している筈です。

 口に出した僅かな自嘲は、その表れなのかもしれませんね。

 

 ともあれ、無下に断る理由はありません。

 わたしは二つ返事で了解しました。

 

 その後、他愛の無い話へと戻り、ささやかな宴会は、空いていく皿と同様にゆっくりと終わりへ向かっていきます。

 わたしはにこやかな笑顔を浮かべつつも、誰にも悟られないよう、机の下で拳を握り締めていました。

 

 綾波レイとの改まった邂逅。

 それは同時に、第五使徒の襲来を意味するのです。

 そしてその使徒は、碇シンジに最もダメージを負わせ、初めて敗北の二文字を与えた強敵でした。

 

――ラミエル。

 

 果たして、自分の制御さえ儘ならないわたしが、あの強力な使徒をどう突破すれば良いのか、見当もつかないのです。準備を怠ったと思うには、わたしが出来るような事に当ても無く、万全に準備したと思うには、大した事をしていない。唯一、ミサトさんに渡した『碇シンジ・THE・激動の一年』だけが、わたしの成したこと。

 それが何処まで状況を好転させてくれるか――なんて、他人事も良いところでした。




『いたく感動してしまった』
いたく≒酷く
である為、『酷く感動した』とは書き辛く、(不意に)とても感動してしまったという意味合いで『してしまった』と書きました。用法的にどうなのかな? というのが正直なところです。詳しい方がいらっしゃれば、ご教授頂けると幸いです。


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3.She vomited lie.

 宴は終わり、一同は解散。

 夜も更けていましたが、リツコさんは保安部に車を用意して貰うと言って帰宅。何だかんだミサトさんが泥酔するまではいっていない――泣き上戸で鬱陶しい事にはなっていましたが――ので、木崎さんもお隣の仮住まいに帰っていきました。

 残されたわたしは、お片付けの真っ最中。

 ミサトさんはえびちゅを片手に、机に突っ伏していました。

 

「レンのあほぉー……おにぃー。あくまぁー」

 

 口々に零されているのは、先程寄って集って注意した事への脆弱すぎる意趣返しでしょうか。しかしながら、それでもえびちゅを手放さないあたり、どうしようもなく哀れなお人です。

 と、ミサトさんを見たわたしはそう思うものの、彼女の愚痴には然程意識を割いておらず、殆んど聞き流している状態でした。普段なら口に出して『煩い』と言ってやるところなのですが、今のわたしは黙々とテーブルの上を片しています。

 

 空いた大皿や、茶碗、汁碗を台所に。

 中身が残っている小皿は、明日の朝食に使えるよう冷蔵庫に。

 

 テーブルの上を大半片すと、布巾を持って「ミサトさん、ちょっと退いて」と、小さく零します。その声色の低さに、ふとした表情を浮かべるミサトさんですが、えびちゅと残ったおつまみを持って、素直に身を引いてくれました。

 手早くテーブルの上を拭いて、片隅に布巾を放置。代わりにエプロンを取って来て、素早く身につけます。

 その間、ふと気が付けば、ミサトさんの愚痴が止んでいました。視線をやれば、彼女は何か考え事をしているような様子で、明後日の方向を見ています。やはり普段なら『どうかしました?』と声を掛けるところですが、この時ばかりは気分ではなく。わたしは特に何も言わずのまま、台所へ。

 

 熱いお湯を出して、洗剤をスポンジに。

 そのまま洗い物を開始します。

 

 人間、何かしら単調な作業をしていると、思案が捗るというもの。洗い物なんて毎日やるような事をやっていれば、精神統一に及ばないまでも、思考の波に身を委ねている気分になります。

 無論、考えている事は一つ。

 明日、襲来するだろう『第五使徒』の事です。

 

 第五使徒、ラミエル。

 特徴は一見すると無害そうな正八面対の見た目。青色の外殻は、まるで良く磨かれた宝石のよう。空に浮かぶ雲さえ映していました。加えて、四肢をはじめとする生命体らしい器官が一切見られず。悠々と宙に浮かぶ姿は、一目見ただけで人智を超越したものだと思わせます。しかしながら、改めて『使徒』だと言われないと、そう思えない程、第三、第四使徒とは大きく違った雰囲気を持っていました。

 その最もたる違いは、攻撃性の有無。

 決して自ら攻勢に出る事は無く、絶対防御と言って差し支えのない強固なATフィールドと、有効射程圏内に認められた敵勢を、即座に迎撃する長距離射程の荷電粒子砲を搭載した――さながら、『要塞』の如き使徒。エヴァに向けて自発的に攻撃を仕掛けてきた第三、第四使徒とは、大きく異なります。

 そして、何よりも恐ろしいのは、その要塞っぷりを最も活かした戦術。ネルフ本部の直上に制止し、ドリルによって装甲板を穿孔。ゆっくりながらも、確実に攻めてくるのです。

 

 シンジくんの時は、戦略自衛隊から徴収したポジトロンスナイパーライフルによって、超長距離射撃を決行。日本全国から電力を集め、強固なATフィールドを突破するという作戦でした。結果、一発目こそ外したものの、綾波ちゃんの機転によって、二発目を撃ち、コアに直撃。第五使徒殲滅を果たしたのです。

 しかしながら、このヤシマ作戦の成功率は八・七パーセント。決して高くない数字でした。

 

 先程も考えた通り、わたしが同じ事をしようとしても、懸念要素が多すぎる。

 シンジくんとわたしのシンクロ率の差によって、成功率こそ高くはなるでしょうが、MAGIが加味しないわたしの『二重人格』という要素は、その信頼度を大きく下げる事でしょう。ミサトさん曰く、指示には幾らか従順ではあるそうですが、サキエル戦で見せた残虐性、シャムシエル戦で見せた冷酷さは、彼女が何事も無く碇シンジの記憶と同じように、使徒を殲滅する筈が無い……と、一抹の不安を残すのです。

 

「ねえ。レンちゃん」

 

 思考を断つ、不意の声。

 わたしは思わずハッとする心地で、洗い物をする手を止め、やおら振り返ります。

 

 ミサトさんは相変わらず片手でえびちゅを弄んでいて、退屈そうにそれを見詰めています。しかし、仄かに赤みが差した頬は、何処か強張って見え、笑みを浮かべてもいませんでした。

 静かに酒を嗜んでいるようなその姿。何か含むものを感じて、わたしは思わず改まります。洗剤まみれの手を洗い、蛇口を閉め、身体ごと向き直りました。

 

 エプロンで手を拭いていると、ミサトさんが小さな溜め息をつきます。

 身じろぎをする音に、今一度視線をやれば、彼女は机に突っ伏していて、えびちゅを持たない手で髪を無造作にかきあげていました。一見すると、飲んだくれて酔い潰れたようにも見え、愚痴っぽさが発揮されがちな姿だったと思い起こします。

 

「明日……もしかして、使徒が来る日なの?」

 

 出て来た言葉は、愚痴でこそないものの、愚痴に繋がりそうなもの。

 億劫にも見える表情は、先程まで呑気に戯けていた自分を自嘲しているのか。はたまた何かを思案しているのか。まあ、ともあれ……普段は返す言葉を幾つも呑んでいると、やはり様子が可笑しく見えたようです。わたしをちらりと見やる視線は、まるで訝しむようでした。

 

 ミサトさんの問いに、わたしはこくりと頷きます。

 しかし、返答こそ是ではあるのですが、頭に過ぎるのは疑問に対する疑問。小首を傾げて、わたしはそれを言葉に直します。

 

「そう書いてませんでしたっけ?」

 

 ミサトさんに渡した『碇シンジ・THE・激動の一年』。

 名称こそふざけてつけましたが、中身はかなり事細やかに書いています。当然ながら、第五使徒が襲来した日に起きたことは全部書いていて、シンジくんが綾波ちゃんにカードを届けに行った事や、零号機の起動実験があった事も、ちゃんと載っている筈でした。

 先程、如何にふざけていたとはいえ、リツコさんから綾波ちゃんの更新カードを預かっていたわたし。起動実験の有無も、言葉に出して確認していました。故に、改まって確認するまでもなく、分かっていると思っていましたが……。

 

「日付まで書いてなかったじゃない」

 

 ミサトさんは溜め息混じりにそう零します。

 確かに、シンジくん主観の記憶では、態々日付を確認する機会が少なく……と言うか、それを夢物語だと思っていたわたしにとっては、『時系列』こそ重要であって、『日付』は印象に薄かったのです。今となっては、それが重要である事は言わずもがなですが、夢物語だと思っていた頃のわたしも、そうでないと悟った頃のわたしも、人類補完計画、サードインパクト、といった重要過ぎる案件にばかり視線をやって、こういった細々とした情報を軽視していました。

 つまるところ、最終的に人類が滅亡しかねないという事が大きすぎて、それまでの過程で『敗北』する危機があるだなんて、思っちゃいなかったのです。

 

 とまあ、言い訳はそんな感じ。

 ミサトさんの言い分も、それはそれでご尤もです。

 

 ふうと息をつくミサトさん。

 えびちゅから手を離し、ゆっくりと身体を起こします。背凭れに深く腰を掛け、腕を組むのに合わせて、顔付きが微妙に変化。つい先程まで下がりがちだった目尻は上がり、唇はきゅっと結ばれ、眉も凛々しい角度につりあがっています。酩酊間際だった筈の顔に、一転して極々真面目な表情が表れました。

 一介の市民である葛城ミサトから、特務機関ネルフの作戦部長を務める葛城ミサトへ。その変化は、この家にある筈の団欒とした雰囲気をも侵し、一変させるようでした。

 

 ちらりとわたしを見上げ、彼女は重たそうな唇を開きます。

 

「シンジくんの時と同じ手法じゃダメなの?」

 

 それは『使えないのか?』という質問ではなく、『出来ないのね?』という確認。

 

 わたしはこくりと頷いて、先程まで思案していた事を素直に打ち明けます。

 特出すべき点として、『二重人格』と思わしき裏のわたしの感性。それを加味しないだろうMAGIの作戦成功率の算出。それらが全て悪手に繋がってしまうのではという懸念。

 裏のわたしも『使徒を倒す』という点では、わたしと同じ意志を持っているようですが、だからと言って素直にポジトロンライフルを撃つとも思えない。過去二戦を思い起こせば、決して楽観視出来た状況ではない。彼女の残虐性を思い起こせば、思い起こす程、取り返しのつかないミスを犯す可能性だってあると思えてしまう。それが許されない相手だと知っているかどうかさえ、わたしは彼女の事を知らない。

 

 言い並べていく内、ミサトさんの眉間に皺が寄っていきます。

 それは決して怒っているようではなく、思案を深めているようでした。

 

「そう……。確かにそうね」

 

 やがて言葉でも肯定。

 しかし彼女はすぐに顔を上げ、肩を竦めて、呆れたように笑いました。

 

「でも、もう悩んだって仕方無い事じゃない。今から打てる手は、貴女には無いでしょう?」

 

 まるで思考を放棄したような言葉に、わたしは思わず見目を開きます。

 でも――と、更に否定を返しそうになれば、彼女はわたしへ人差し指を突きつけて、にやりと笑いました。

 

「悩んでも仕方無い事に気を取られてると、足を掬われるわよ?」

 

 思わず突きつけられた指先を見詰め、わたしは言葉を呑みます。

 ミサトさんの言うことが、分かるようで分からず、目をぱちぱちと瞬かせました。

 

 しかしながら、ふとすれば視界が開けていくような感覚を覚えます。

 不意の内に思考がどん詰まりへ突き進んでいたのでしょう。後ろを振り返ってみれば開けていたと言わんばかりに、唐突に関係の無い事を言われた気になって、すっと抜けるような爽快感を得ます。

 

 確かに、ミサトさんの言う通り、考えたところで打つ手は無いのです。

 何かを思いついたとしても、行動を起こすにはあまりに時間が無い。出たとこ勝負にならざるを得ないのは、誰の目にも明らかです。それこそつい最近、『二重人格』をすぐに何とか出来ないからこそ、『使徒戦』や『人類補完計画』への対抗策をミサトさんに任せたのと、良く似ています。

 どだい考えたところで、第四使徒戦からこちら、何かをする時間は無かった。それが事実なのですから、今更思い詰めたところで、仕方が無い。ミサトさんにノートを渡した時点で、わたしに出来る事は終わっていたのです。

 

 ハッとする心地で言葉を呑み、俯くわたし。

 するとわたしの心境を悟ったのか、ミサトさんは満足したように笑って、ゆっくりと席を立ちました。「ちょっち待ってて」と、自室へ向かって行きます。

 その背を見送れば、「あっれー? 何処やったかしらぁ」と間抜けな声が聞こえてきて、思わず後を追います。ダイニングを出て、リビングへ。丁度その頃を見計らったように「あったあった」と、満足げな声が聞こえてきて、不意に足を止めます。

 

 一体何だろう?

 そう思って待っていれば、部屋から出て来たミサトさんは、手に見慣れぬ端末を持っていました。それを「はい」と手渡され、促されるまま受け取ります。

 黒い端末は、あまり見慣れない一昔前に流行っていた折り畳み式の携帯電話。今ではあまり見ないものですが、義父母のところに預けられていた際に、所持していた事があります。機種が違うので勝手こそ異なるでしょうが、どう見ても携帯電話で間違いは無さそう。

 開いてみると、電源は落ちていました。しかし、ボタンの所には大きなショートカットボタンがあり、老人向けに販売されていた『らくらくフォン』と呼ばれる部類のもののようです。

 

 はて? 何だこれ。

 

 わたしが訝しげにミサトさんを見やれば、彼女は満足げに頷きました。

 

「足がつかないよう、仲介会社を挟んだ端末よ。それ、加持くんにも番号伝えてあるから。流石にネルフが用意した端末で連絡をとるのは……ね?」

 

 ああ、成る程。

 ミサトさんの雑過ぎる説明を聞いて、わたしは目から鱗の心地でした。……いや、違う。目から鱗じゃない。え? いや、ええっ!?

 

 わたしは思わず顔を上げて、「加持さん!?」と、問い返します。

 そりゃあもう、当然の反応でしょう。彼はわたしにとって、碇シンジの記憶における絶対の味方。人類補完計画を止めようとするにあたって、言わば『切り札』のような人です。

 

 わたしのオーバーな反応を見てか、ミサトさんはくすりと笑います。

 

「ま、あいつの名前も挙がってたしね? 色々怪しい奴だけど、レンちゃんがくれたノートには、あいつを信用してるって節があったから……さっさと連絡を取ることにしたのよ」

 

 得意げに語るミサトさん。

 

 ネルフが用意した端末――つまるところ、わたしが常用しているスマートフォンは、危険思想だと判断された場合、監視されるものです。それでなくとも、大事なエヴァパイロットの思想が漏れるものなのですから、普段から監視されていたとしても不思議ではありません。

 だから、秘密裏に相談を行う為の端末。

 仲介会社を挟んだのは、もしもミサトさんが怪しまれた時の為。簡単な身辺調査では足がつかず、加えて古くアナログチックな機種だからこそ、盗聴される危険性も少ない。物は通話とメールさえ出来たら問題が無いので、これになったそうです。

 

 一通り説明を終えると、ミサトさんは大人びた笑顔を浮かべ、わたしの頭を撫でてきました。

 思わず「ひゃっ」と声を上げますが、彼女は気にした風もなく、唇を開きます。

 

「第五使徒に関しては……そうね。ごめんなさい。前回から期間が短すぎて、あまり有利に立てる対策は出来てない。けれど、わたしも行動してる……もうちょっとだけ、信用なさいな」

 

 温かみのある笑顔に、温かみのある言葉。

 シンジくんの記憶では、割りと『大人になりきれていない大人』という感情任せな一面が多くて、普段はそういう側面ばかりが目立つ人。だけど、今わたしを慈愛深く見詰める彼女は、何処かそれっぽく映ります。

 

 何がどうして、シンジくんの時より、そう見えてしまうのか。

 そんな事を考えながら、わたしは心が安堵するのを何となく感じました。

 

「うん。ごめんなさい」

 

 そう言って返せば、頭に乗せられたミサトさんの手が、僅かに浮いて、諭すようにぽんと改めて置き直されます。そのまま優しく撫でられたかと思えば、やはり彼女は優しげな顔をしていました。

 

「馬鹿。そこはありがとうって言うのよ」

 

 果たして、姉のようにも、母のようにも、見えるのでした。




先日書いたスランプ的なお話ですが、大分調整したので多分大丈夫ではないかと……(´・ω・`)


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4.She vomited lie.

 

 陽光の射しこみ具合なんてまるで度外視で、図書室の本棚のように並ぶ集合住宅の建物。近隣の工業地帯からは、全く配慮されていなさそうな作業音が響いていて、どうにも住み心地は悪そうです。

 綾波ちゃんが住んでいるという市営住宅は、如何にも『とりあえず住人を収容出来れば良い』という装いでした。

 

 シンジくんの記憶と、リツコさんが教えてくれた場所を照らし合わせながら、建物のひとつへ。

 こういう住宅棟の共同スペースは、自治会で清掃するものだと聞いた事があります。わたしが居候するマンションでは、毎週のように管理会社の従業員がやって来て、掃除をしてくれているものですが、此処ではやはり知識の通りといったところ。所々に蜘蛛の巣まで張っています。壁が打ちっぱなしのコンクリートという事も相まって、何処か廃れたような雰囲気を感じました。

 こつん、こつん、と、コンクリートを踏み歩く音がふたつ。遠方からの作業音の合間に響く足音は、何とももの悲しく聞こえるものです。……まあ、そりゃあこんな劣悪な環境で、子供の遊ぶ声などを期待している訳ではありません。住人の一人さえ見かけないあたり、随分と過疎化が進んでいるようですし。

 そりゃあそうか。

 第三新東京市は比較的新しい街。それに比べてこの建物と言えば、手入れを怠っていそうな事を差し引いても、建築からそこそこの年月を経ていそうです。あくまでも推測ですが、第三新東京市を建築するに当たって、作業員を住まわせていた施設ではないかと思います。……まあ、そんな場所に綾波ちゃんが住んでいる事以外、どうでも良い事ですが。

 

 階段を上り、目的の四階へ。

 『綾波』の表札は、その階の二号室に掛かっていました。

 当然ながら、此処まではわたしの予想通り。というか、記憶通りです。シンジくんの立場がわたしに代わっている事以外、あの記憶にある事は殆んど代わり映えしません。つまるところ、わたしの存在が、綾波ちゃんの住所なんてたいそれたものに影響を与えている訳もなく。

 

 同時に、今現在の状況においても、シンジくんの記憶は『解答』を用意してくれています。

 一応、呼び鈴を鳴らしてみたのですが、綾波ちゃん()のスチール扉は開く気配がありません。呼び鈴の電池が切れている可能性を考慮して、ノックもしてみましたが、返事は無いまま……。やっぱり彼の記憶にある通りでしょうね。

 つまるところ、今、綾波ちゃんは生まれたままの姿でシャワーを浴びている事でしょう。

 

 快晴の空を思わせる水色の髪。何処か触れてはいけなさそうな神秘性を感じる透き通った白い柔肌。そこに生を思わせる深紅の瞳は揺らぐ事が無く、けれど全体的な華奢っぽいシルエットが儚さを思わせる。

 その髪を、肌を、伝い、落ちていく雫。水滴。

 数多の水滴が床を打つ音の中、彼女はどのような表情で湯を浴びているのか。

 お日様とも、LCLともとれない彼女の良い匂いは、風呂場で作られるものなのか。もしもそうなら、彼女が入っている風呂場とは、正にその良い匂いが充満しているところではないのか。

 

 ふとした瞬間に浮かぶ妄想が、まるで白昼夢のようにも映ります。

 決して目で見ている景色ではないその映像は、わたしの心音を加速させ、腹の底からふっと燃えるような熱を生み出しました。ぐらりと歪むリアルな視界。ほわほわと脳を埋め尽くしていく妄想という名の第二の視界。

 うだるような常夏の気温の下、ふとすれば卒倒してしまいそうな程、わたしの体温は上がる。上がる。上がっていく――。

 

「レンさん?」

「ひゃいっ!」

 

 不意に呼びかけられて、わたしは素っ頓狂な声を上げます。

 脳の中で絶え間なく鳴り響くどくんどくんという音。ふとすれば冷や汗でも掻いているように感じる程、普段より高くなっていると自覚出来る体温。気が付けば手足が震えていて、断続的に首筋を撫でられるような感覚に襲われます。

 そんなどう考えても異常な状態のわたし。傍から見ても様子が可笑しかったのか、木崎さんはこちらを一瞥していた体勢から、身体ごと向き直ってきて「大丈夫ですか?」と問い掛けてきます。

 

「ああ、だ、大丈夫っ。大丈夫ですとも! ちょ、ちょぉーっと、暑さでぼーっとしちゃってました! あはははは!」

 

 胸に宿る高鳴りの正体を悟られまいと、わたしは盛大に誤魔化します。

 訝しげな顔をする彼の前で、ブラウスの胸元を大きくはだけさせて、手で首筋を扇いで見せました。「暑い。いやあ、本当に暑いですねえ!」なんて言っていれば、木崎さんは大きく溜め息をひとつ。

 短く「失礼」と断って、わたしの手を優しく払うと、第三ボタンまで開けたブラウスの第二ボタンまでを閉めてしまいました。

 

「胸が大きいのはコンプレックスではないのですか? 何処とは言いませんが、自ら強調してはいけませんよ」

 

 綾波ちゃんで妄想していた事は恥ずかしい。

 しかし、それを誤魔化す為に、不意にやってしまった事は、更に恥ずかしい事でした。ふと自分の胸元を見下ろせば、汗で湿って透けたブラウスの下、これ見よがしなふたつの肉塊による深い峡谷。そう、わたしはこれを今、見せつけていたのです。

 思わず唇を金魚のようにぱくぱくとさせて、硬直。

 自ら見せていた事実に加え、そこを顔色ひとつ変えずに、木崎さんに閉じられたのです。羞恥心で死ねるのなら、一〇回や二〇回死んだところで、足りないのではないでしょうか。

 

 次第に先程とは違う熱が、首の下から這い上がってくる感覚。

 ふとすれば、自分の顔が真っ赤に染まっていることなんて、手にとるように分かるのでした。

 

「き、きゃあああっ! ご、ごめ、ごめんなさいっ」

 

 そう言って、残る第一ボタンを大急ぎで留めて、木崎さんに背を向け、その場にしゃがみ込むわたし。胸を両腕でしっかりホールドして、「ごめんなさい」を連呼しました。

 

 いや、ね……?

 木崎さんってば、前にお父さんを蹴っ飛ばした件の意趣返しの所為――これに限ってはクソオヤジほんとマジで死んで――で、わたしの裸を度々見てるんだけど……それって不可抗力なのよ。でも、今わたしがしたのって、間違いなく故意なのよ。ビッチ予備軍みたいな事を、彼にやっちまったのよ。それってどうなの? わたし。頭可笑しいんじゃないの? っていうか死ね。死んで詫びろ。「お粗末様でした!」って叫んで、今すぐこの廊下の手摺を飛び越えて、気分は鳥になれ。だけどやっぱり鳥になれなくて、そのまま真っ逆さまに落ちて死ね。

 

 思い付いたら即行動。

 さあ飛び立て。碇レン。

 

 素早く立ち上がったわたしは、廊下の手摺にしがみ付くようにして、片足を上げます。

 今によじ登ろうとする姿に、「ちょ」と、らしくもないぎょっとしたような声を上げる木崎さん。彼もまた素早くわたしの腕を後ろから抱えて、しがみ付く手と、引っ掛けた足を、何とか手摺から引き剥がそうとぐいぐい引っ張ります。

 

「落ち着いて下さい! レンさん!」

 

 声を荒げる木崎さん。

 対するわたしはもうパニック。彼に肘うちをかましている事にも気付かずに、思いっきりもがきます。

 

「は、離してっ! もうわたし鳥にでもなるから! 離してっ」

「先程の行為は軽率でした。謝罪しますから兎に角落ち着いて下さい!」

「ビッチには相応しい死に様だ! ほら、よく見てろ! お粗末様でしたっ!!」

「お、落ち着いて下さい!」

 

 ぐいぐい引っ張る木崎さん。

 離せ離せともがくわたし。

 

 力は明らかに木崎さんの方が強いですが、わたしは既に膝までを手摺に引っ掛けていました。加えて手摺を抱き込むように抱えているのですから、パワーバランスは絶妙な拮抗状態にありました。

 そんな状況で一〇秒、二〇秒と過ぎていく内、わたしはひたすら「離せ」と叫んでいて、木崎さんは説得を試みていたのです。徐々に互いの体力が奪われていき、加えて蒸すような気温の所為で意識まで何処か朧気に。やがて暑さの所為もあってか、痺れを切らした木崎さんが声を張り上げました。

 

「子供の裸に興奮するような性癖は無いと言ってるだろうが! いい加減パンツも見えてるんだから足を下ろせ。この馬鹿娘が!」

 

 衝撃的な罵声。

 本当に、色んな意味で衝撃的過ぎた罵声。

 

 その声が冷や水のようにわたしの激情を静め、視線を足下へと促します。

 すると、巷で可愛いと評判の第壱中学校のショルダースカートの裾は、校則で決められている膝どころか、太ももすら顕にしている程、捲れ上がっていて――あああ、見えてる。見えちゃってる! 何で今日に限ってストライプなの!? 何で、何でっ! どうしてこんな子供っぽい下着をチョイスしたの? わたし。ああ、うわああ……うあああああああ!!

 

 ガチャリ。

 そんな折、空気を読んだのか、読んでいないのか、よく分からないタイミングで開く扉。

 

「……何?」

 

 出て来た綾波ちゃんは全裸でした。

 

 

 死にたい……。

 いや、もう、ほんと割りとマジで死にたい……。

 

 人類補完計画の阻止とか、使徒戦滅とか、もう全部投げ出して死んでしまいたい。

 

 でも、こんな時になって気が付く。

 わたしの自殺対策がかなり徹底されてる。

 それこそさっきの投身に対する木崎さんの対処の速さもそうだし、何時の間にかわたしの鞄からカッターナイフをはじめとする危険物が回収されてる……。おまけに本部に行く綾波ちゃんと一緒に乗り込んだ特務車だって、わたしが乗る後部座席は、内側から扉を開けられないようにロックされてるし……。

 

 あああ、ちくしょう。

 優秀だよ。木崎さん(あんた)。超優秀だよ。

 憎たらしい程優秀だよ。ちっくしょぉー……。

 

 でもって、綾波ちゃんの裸は最高だったよ。

 思わずグッジョブつって、そのまま気絶しちまったよ。

 色んな意味で台無しだよ。

 

 どちくしょぉーっ!

 

 期待した通り、透き通るような柔肌と空色の髪に滴る雫というのは、凄まじい破壊力でした。一目見た瞬間、見て見ぬふりをしてきた己の性癖が、開花しちゃいました。

 ええ。そうです。

 わたし、レズです。

 いや、『開花』なんて言うと語弊がありますね。

 知っていました。知っていましたとも……。

 己がレズである事なんて、親友と接してきた時、妙に胸がドキドキするなぁと思っていましたし、その感覚がシンジくんの記憶にあるアスカの裸を見た時や、綾波ちゃんを押し倒しちゃった時とかと、酷似していましたもの。それを以って気が付かない程、馬鹿でも鈍感でもないですって。

 

 だけど……ほら、やっぱ人並みの人生を生きたいって思ってるのに、レズってどうなの? って思ったりとか。この感覚はシンジくんの記憶の所為で、偽者なんじゃないかとか。そんな風に考えてしまうじゃないですか。だから自分でも深く考えないようにしたりとか、鈍感であるように振舞うじゃないですか。

 そ、それに一応男の子にだってときめく事もあるんですから、本当のところはバイというものです。木崎さんに対して憧れるクラスメイトの気持ちも分かりますし、シンジくんの記憶に出てくるカヲルくんとか、会える時が今から楽しみですって。相田? 鈴原? あいつ等は恋愛対象外。ヒカリちゃんには悪いけど、変態と野蛮人に恋する趣味は無い。

 って、誰に言い訳してるんだか……。

 

 ともあれ、あれじゃあ絶対に木崎さんは気が付いた。

 まさか同性の女の子の裸を見て、「グッジョブ」って言って倒れるような女の子はいまい。っていうか、『良い仕事だ(グッジョブ)』って、何がグッジョブなんだよ。馬鹿か。わたし。

 

 我ながら阿呆過ぎて泣ける……。っていうか、その実泣いてる。特務車の後部座席で、怪訝な表情をした綾波ちゃんにまじまじと観察されながら、さめざめと泣いてる。

 もう車が怖いとか、どうやって特務車まで運ばれたかとか、そんなのどうでも良い。

 穴掘って埋まりたい。

 ミトコンドリアとかになりたい。

 

「あの……」

 

 不意のソプラノが、隣から聞こえます。

 ちらりと見やれば、特務車は現在、トンネルの中らしい。綾波ちゃんの横顔は、薄暗い中、橙色のランプに照らされて、これっぽっちも表情が読み取れないものでした。いや、普段から表情が読み辛い子ではあるんですけども。最近は分かるようになった細やかな表情の変化が、はっきりと見えないと言えば良いでしょうか。

 

 彼女は木崎さんに声を掛けているようで、それを察した彼が「何でしょう?」と、短く返事。しかし視線は綾波ちゃんではなく、顔を起こしたわたしを、サイドミラー越しに見ていました。

 とすれば、綾波ちゃん自身も、わたしの方をちらり。その後一度木崎さんの方向へと改まったかと思えば、やはりと言った様子でわたしへ向き直ってきます。

 思わず目尻を拭い、鼻を啜ります。泣いていた痕跡を処理している内に、彼女は唇を開いていました。

 

「どうして? あそこは、わたしの家……碇さんの家ではない」

 

 問われて、わたしはハッとします。

 そういえば騒ぎ立てるだけ騒ぎ立てて、彼女の更新カードの事を忘れていました。

 

「ちょ、ちょっと待ってね」

 

 真っ直ぐこちらを見てくる視線が、何処か眩しく感じて……というか、先程見てしまった彼女の裸を彷彿してしまいそうで、わたしは慌てて自らの鞄へと視線を落とします。膝の上で学校指定の鞄を開き、スケジュール帳を取り出して、その一ページ目に挟んでおいた更新カードを取り上げます。

 流石に視線を逸らしながら渡すのは可笑しいので、短い深呼吸の後、彼女へ改まって、手渡します。胸がどくんどくんと高鳴る音に、『煩い。黙れ』と言い聞かせながら、出来る限りの笑顔を浮かべました。

 

「更新カード。リツコさんが、渡すの忘れてたって」

「……そう」

 

 若干の間の後、受け取ってくれる綾波ちゃん。

 ジッと更新カードを見詰めているかと思えば、ちらりとわたしの足許を見てきます。その後、何でもないかのように、自らの鞄を取り上げ、カードを仕舞いました。

 

 含むような動作に、内心『うん?』と小首を傾げるわたし。

 しかしながら、混乱して泣いていた所為か、上手く思考が纏まりません。「どうかした?」と尋ねてみても、綾波ちゃんはそしらん顔でそっぽを向いてしまいます。

 

 何か……いけない事したっけ?

 鞄を改めてみても、今日は学校に顔だけだして、すぐに早退してしまう予定だったので、大したものは入っていません。強いて言うならお弁当くらいですが……綾波ちゃんは今日、起動実験なので、昼食は――使徒が襲来したらそれどころじゃないだろうけど――お父さんととる予定でしょう。

 

 疑問は疑問のまま、特務車はネルフ本部へと到着しました。




『え? 綾波レイについて掘り下げるんじゃないの? なんでギャグコメやってんの? 作者馬鹿なの!?』

って思われそうだから先に補足。
次の章から暫くシリアス過多になるからってのが作品的理由。レンが綾波ちゃん家に凸したら妄想で三〇〇〇字くらい使うのでってのがキャラクター的理由。


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5.She vomited lie.

 一一〇〇(ヒトヒトマルマル)

 綾波ちゃんが搭乗する事になるエヴァ零号機の再起動実験の為、彼女のコンディションチェックが行われました。起動実験自体は何度かやっているのですが、今日はその本命の日。わたしが来る前、一度失敗したからか、万全を期す為に、態々午前中から彼女の最終チェックが行われたのです。

 

 これによって、わたしは今日の訓練がありません。

 ミサトさんやリツコさんと一緒に、綾波ちゃんの実験を見学する立場です。つまるところ、更新カードさえ渡したら、学校に戻っても良かったのですが、折角の起動実験だからとずる休みです。

 今は木崎さんと二人、管制室の端っこで、椅子に腰掛けています。リツコさんに用意して貰ったカフェオレを飲みながら、綾波ちゃんのデータが表示されているスクリーンをぼーっと眺めていました。いやはや、只今絶賛大忙しなリツコさん達には申し訳ないですが、ようやっと落ち着いてきました。

 

 前回、失敗したという起動実験は、危うくパイロットを一人失うかという程の惨事になったそうです。それ故に、再起動実験はとても慎重に行われています。何日にも分けていたり、コンディションチェックを行ったり……有事だったとはいえ、ぶっつけ本番で搭乗したわたしとは大違いですね。

 搭乗後のわたしの扱いに関しても、すぐにシンクロテストや訓練が始まっていて、エヴァとの適性を改めて確認するような機会は一切ありませんでした。シンジくんの記憶がある以上、それを不思議に思うことは無いのですが、改めて思い返すと違和感満載です。やっぱり、初号機って特別なものなんでしょうか……。

 

 確か、零号機はプロトタイプ。

 初号機もその域を抜け出ないのですが、後継機である筈の弐号機とは大きく異なる点を幾つか思い起こせます。

 

 先ず、初号機の血は赤色。零号機は直接血を流している記憶は無いのですが、こちらも赤色だという記憶があります。対して弐号機や参号機、そしてその後継機となる白い胴長のエヴァ――って、うえっ。トラウマが蘇ってきそう。あれを思い起こすのは無し、無し――は、赤というより、紫色の血を流しています。

 理由は単純。

 零号機と初号機は、リリスを基にして造られたのです。対して、それ以後の機体はアダムから造られているんだとか。だから、前者二機は日本で建造されて、後者は外国で建造されたとか、何とか……。まあ、それは兎も角として、つまるところ弐号機以後の機体は、使徒を基にしているのと同じです。対する二機は、人類と同じ存在と言って過言ではありません。そうは見えないけど。

 

 そうそう。

 だから使徒が現れた時の警報って、『パターン青』なんですよね。彼等の血が青いから。……っていうと、語弊があるかな。正確には波長パターン。人類の祖であるリリスも、『パターン青』なんだし。

 因みにエヴァの波長パターンはひっくるめて判別不能(オレンジ)。そこにルーツの差が無いことは釈然としませんが、逆に差があったらあったで、誰かしら疑問に思うかもしれませんし、ある程度誤魔化す為なのかもしれませんね。ただ、シンジくんのATフィールドを差して『パターンレッド』って言われた記憶――と言っても、これは補完された方の良く分からない知識ですが――もあるので、いよいよ訳が分かりませんね。

 

 って、思考が逸れた。

 つまるところ、初号機が特別だとすると、その理由はリリス由来の機体である事が挙げられます。

 同様の零号機は、シンジくんの記憶上、一六使徒戦の際に自爆して失われているので、補完計画の際、初号機は唯一のリリス由来の機体でした。でもって、白いエヴァは態々弐号機を破壊して、初号機を待っていた様子――って、ああ……気持ち悪い。あの時を詳しく思い起こせないのって、ほんとトラウマが邪魔してる気がする。

 

 何にせよ。

 一つの仮説が生まれるのです。

 

 初号機じゃなくて、零号機が中心でも、補完計画は出来るのかもしれない――と。

 

 まあ、だからといって深い意味は無いんだけど……。

 ちらりと、視線を泳がせます。

 誰もが綾波ちゃんの状態を映すスクリーンを見守っている中、やはりその男もスクリーンを見ています。唯一周りと違う事と言えば、彼女が成功する事を信じて疑わないように、何時も通り、顔の前で手を組み、悠然としている事でしょうか。

 

 そう。

 諸悪の根源はあの男。わたしの父。

 その目的は、初号機のコアに眠るお母さんと再会する事で、間違いない――って、あれ? 何か、可笑しくない?

 

 ふと過ぎる疑問。

 思考に何か引っかかる点を感じて、わたしは俯きます。

 

 何だろう。

 何か見落としてる気がするんだけど……。

 

 特別重要な事が引っ掛かっているようには感じられず、だからと言って軽視出来たものではないような気がしました。わたしは自らの唇に指を押し付け、「うーん」と唸ります。

 とすれば、様子に気が付いたらしい木崎さんが、何とも怪訝そうな顔をして、こちらを見てきました。ハッとしたわたしは手を振って誤魔化し、唇の動きで『気にしないで』と伝えます。昼間の一件で、普段以上にわたしの状態を気にかけてくれているようですが、思考癖は何時もの事です。決して珍しいものではありません。

 朗らかな表情で返した事が奏功したのか、木崎さんは小さく頷いて、警戒を解いたようでした。

 

 再度思考の海へ。

 とすれば、仕切り直しで着眼点が変わったのか、不意に光明が現れました。

 脳裏にフラッシュバックする記憶は、まるで鏡を見ているかのように、わたしと瓜二つなお母さんの顔。しかし、その顔はすぐに変化して、空色の髪を持った少女の顔に。

 薄らと微笑むその顔は愛らしいのに、何処か神秘的に思えるような雰囲気を持っていました。っていうか、透けて見えました。妄想だとか、記憶だとか、そういったものの所為ではなく、透けた姿を記憶していたのです。

 

『碇くん。わたしとひとつになりたい?』

 

 短い問いかけ。

 彼女はその後、それはとても気持ちの良いことだと言いました。

 

 その記憶、その光景、確かに見覚えがあります。

 そしてその時、シンジくんは……。

 

 長い潜水の後、水面を割って浮上するような感覚。

 ハッとしたわたしは、違和感の正体に気が付きました。

 

 あ、そっか……。

 お父さんのやりたい事って――。

 

 ちらりとお父さんを見やって、その後自らの手へ視線を降ろします。

 今、目に映るこの手は間違いなくわたしのものですが、視線の焦点はわたしの手を認めていませんでした。記憶の中、夢の中、シンジくんの世界に居る時を思い起こして、彼の手を思い浮かべていました。

 

 第一四使徒戦の後、身も心もエヴァと同化してしまっていたシンジくん。しかし彼は、約一月の時間が経過した後、物質へと戻ったのです。自らの形、自らの心を取り戻し、文字通りヒトの形へと回帰しました。

 俗に言う『サルベージ』。

 それを行ったのは、他でもないリツコさんでした。

 そしてそのリツコさんの師にあたるのは、赤木ナオコ博士。母の親友で、リツコさんを凌ぐ天才だったとも聞きます。MAGIの製作者であると言えば、どれ程偉大な人物かは分かるでしょう。

 

 シンジくんのサルベージ計画と、赤木親子。

 あまり関係が無いような二点ですが、お父さんの目的を念頭に置いて考えると、大きな矛盾を孕んでいるように思えました。

 

 わたしの母、碇ユイの魂は、リビドー反応が臨界点を越えず、サルベージ出来なかったのです。

 こういった事へ無知であるシンジくんを、サルベージさせたのはリツコさん。その彼女を凌ぐ天才だと謳われたナオコさんでしたが、結果は母のサルベージに失敗しています。これだけ見れば、技術的な進歩もあったと思えます。しかし、わたしはシンジくんの記憶を持っているので、彼がLCL化していた際、朧気ながらも自我を持っていた事を覚えています。事実、今現在、わたしがいるこの現行世界でも、初号機()の自我はあるようです。

 リビドーという生への執着が重要になるサルベージにおいて、対にあたるデストルドーに呑まれる……つまり、死を受け入れてしまうという事が、成功率に直結します。それはナオコさんが提唱した事のようですが、母も同じく天才と謳われた身。LCLに溶けてしまう危険性を持った実験に挑む以上、心得ていた事でしょう。

 

 つまり、母自身が『生きたい』と思えば、サルベージ出来たのでは? と、思えるのです。

 裏を返せば、まるで母がエヴァに取り込まれたいと願って、件の事故が起こったように思えてしまいます。腑に落ちません。漠然とした疑問から、あまり嬉しくない考察が成り立ってしまいます。

 

 もしも仮に、母が望んでエヴァの中に居るとするのなら――何で? と考えれば、わたしやお父さんと一緒に生きる事より、優先すべき事があったから。という回答が考えられます。

 確かに人類は、使徒が来る事を知っていました。だからエヴァを建造し、わたしを寄越したのですから。直前になって呼び出したあたり、使徒襲来の詳しい日時まで知っていたようです。

 その有識者の中には、エヴァを作っていた母も含まれるでしょう。むしろ知らない訳がありません。

 

 なら、母は使徒の殲滅の為、尊い犠牲となったのでしょうか?

 それは少し、無理がある気がします。実際のところ、第三使徒が襲来したのはつい最近の話。母がエヴァに取り込まれたのは一〇年も前の話です。一〇年もあれば、より良い手段を思いつくとは、凡人のわたしでさえ気が付く事。事実、パイロット側の魂を誤魔化すダミープラグは、近々作成される筈。母が存命なら、もっと早くにそれらの技術が進歩していたでしょう。

 

 何より、母がいなくならなければ、父が暴挙に出る事は無かったのです。

 母がそこまで予期していたとは思えませんが、父に野望を持たせたのは母だとさえ、言えてしまうのです。……いや、もしかしたら、お父さんの事だから、元々性根が腐っていたのかもしれませんけど。

 

 何せ、母を対象としたサルベージ計画は実際に行われましたし、微量ながらも遺伝子が回収が出来たからこそ、綾波レイという存在があるのです。だけど、やはり腑に落ちない。だって、アスカの母は――精神こそ欠如していましたが――肉体が帰ってきているのですから。此処まで考えてしまうと、母に『戻る気が無かった』としか思えないのです。

 おまけに、母はそれまで人工進化研究所に連れて来なかったわたしを、あの日に限って連れて行ったのです。つまり、事実上ほぼほぼ黒です。

 

 まあ、でも……何だかんだ言って、わたしってお母さんっ子なんですよね。

 仮にお母さんが悪い人だったとしても、お父さんが人類補完計画を提唱するように、自らの命までかけて誘導していたとは思えません。副司令から聞いた『生きていれば何処だって天国になる』との、母の遺言を思い起こせば、自分の命を粗末に扱う人じゃないとも思います。子供のわたしはこんなですけど……。

 つまり、お母さんが諸悪の根源とは思えない訳で。何かしら意味はあったんだろうけど、凡人のわたしには到底及びつかないって形に行き着くのです。

 

「……はあ」

 

 思考はどん詰まりに。

 最早恒例の溜め息タイムです。

 

 どだい考えても、わたしに他人の気持ちが分かる筈は無く。強いて言うなれば、シンジくんの記憶でサードインパクトを経験した癖に、父や母と補完されていない事を恨みました。……そう。そもそも、これも可笑しな話なんですよね。

 他の事は内容は兎も角、知識としてきちんと補完されているのに、どうしても父や母との補完が思い出せないのでしょうか……。

 

 ま、いっか……。

 順当に行けばきっと何処かで会えるだろうし、直接聞いてみよう。

 

 やがてわたしは疑問を放り投げて、面を上げます。

 視界に映る管制室は、何処かホッとしたような雰囲気に包まれていました。どうやら綾波ちゃんのコンディションチェックが全て済んだようです。スカートからスマートフォンを取り出してみれば、時刻は一一時半を示していました。予定より少し早く済んでいるあたり、けちのつけようが無い程、万全な状態のようですね。




これも先以って補足しておきますが、エヴァ零号機はルーツが明らかではなく、流血描写もわたしが覚えている限りでは存在しません。でもレンが知っていないのは可笑しいですし、本作ではリリス由来として扱います。


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6.She vomited lie.

 休憩にしましょう。

 リツコさんの言葉が鶴の一声になって、一同は各々肩の力を抜きます。綾波ちゃんも上がって良いと言われ、素直に了解していました。

 

 スクリーンに映る白いプラグスーツに包まれた少女。

 LCLが排出されていくうち、彼女は珍しくふうと息をついていました。

 

 そんな風景を茫然と見守っていると、わたしに近寄って来る気配が一つ。

 その人物の影が視界に留まって、思わず振り向きます。そこには薄らと笑顔を浮かべているミサトさんの姿。

 何時もの赤いジャケットに身を包んではいるものの、休憩と聞いて気が抜けているのか、本部でよく見られるような厳しい顔付きではありませんでした。家でぐうたらしている時のように、眉尻が下がっている呑気な顔です。

 ほんと、もうすぐ使徒が来るってのに、豪胆というか、何というか……。

 思わずふっと微笑めば、彼女はにっこりと微笑み返してきます。「どう? 退屈だったっしょ?」と聞いてくるあたり、わたしが思案に暮れているところを見られていたのかもしれません。わたしって考え込むと俯いちゃう癖があるので……寝ているように見えた事でしょう。

 

 わたしは首を横に。

 何事も問題ないようで良かった。と、当たり障りない返事をしました。

 

「お昼食べるでしょ? レンちゃんも自分のお弁当用意してたわよね?」

 

 呆れる程、気の抜けた顔付きで問い掛けてくるミサトさん。

 この後使徒が襲来する事なんて、まるで気にした様子の無い表情ではあるのですが、それこそ彼女が言った『気にしても仕方無い事は気にしない』という事を体現してくれているのかもしれません。

 

 わたしはこくりと頷いて、先程の思考を一旦忘れます。

 気にしても仕方無いんだから、わたしも忘れましょう。

 

「うん。何処かでゆっくり食べたい気分です」

 

 とすれば、まるでわたしの思考を見透かしたかのように、ミサトさんはにっこり笑顔で頷くのでした。

 

 管制室を後にして、向かった先は特務機関ネルフ本部における数少ない憩いの場。

 多くの職員が利用しているこの食堂は、三階層分の吹き抜けで、一方の壁が全面ガラス窓となっています。広大なジオフロントの風景を一望出来、尚且つ広々としている空間は、実に開放的です。加えて自然光――といってもジオフロントのそれも人工の太陽ですが――をそのまま明かりとして利用し、最低限の電力しか使っていないのですから、機材の相手ばかりをしなければならない職員達にとって、中々好評なようです。

 この日も人気は多く、時間も時間なだけあって、八割がたの席が埋まっていました。

 

 利用している職員は作業員から保安部まで、実に様々。

 当然ながら、パイロットであるわたし、ネルフの重鎮にあたるミサトさん、保安部の職員にとっては出世人の木崎さん、の三人が歩いていれば、やけに人目を引きます。見知った顔でない職員に挨拶をされたと思えば、敬礼までされてしまったり……まあ、この三人内、全員の顔を知らないという職員は早々いないでしょう。食事中の職員に改まって挨拶をされると、何処か申し訳無い気持ちになりますね。

 

 ともあれ、二階席のひとつに、四人掛けの空席を確認。それを確保。

 近場の職員がぎょっとしたような顔をしていましたが、気がついたミサトさんが「こっちは気にしないでいいわよー。休憩時間なんだし」と、声を掛けていたので、ホッと息をついたように見えました。

 まあ、ミサトさんは兎も角、リツコさんにしろ、お父さんにしろ、ネルフの重鎮って厳格な人達が多いですし、職員の反応も当然かもしれません。その点で言えば木崎さんも厳格な上官なのでしょうか……今は一線を退いている訳ですが、割りと便利に職員を使っている節もありますし。そう考えると部下思いで有名な重鎮って、副司令ぐらいでしょうか? ミサトさんは適当なだけだし。

 

 真っ白なテーブルの上に、お弁当の包みを広げます。

 ミサトさんと木崎さんも同じように包みを広げていました。

 

 ふとテーブルの上を改めて認め、胸の内がじわりと温かみを覚えます。

 各々のお弁当箱を包むハンカチは、大した洒落っ気のないものです。ですが、色こそ違えど、お揃いの柄。それが何処と無く『家族をしている』という気になって、安らぎに似た感覚に包まれるのです。

 

 なんか……良いなあ。こういうの。

 

 漠然とした温かみに促されて、ふと視線を上げます。

 辺り一帯の職員達は、多くが吹き抜けの三階部分にある食堂で食事を購入しているようです。その中でお弁当を広げているのは、些か浮いた気分にもなるのですが、こちらを認めた職員の目には、どう映るのでしょう……。家族のように、見えてくれるのでしょうか?

 

――うん?

 

 感慨深い心地に浸っていれば、ふと視界の端に水色の服を着た女の子を認めます。

 あれ? と思うや否や、わたしは彼女が誰かを素早く察して、瞬きを数回。彼女の周りに誰も居ない事を確認して、今に頂きますをしそうな二人へ「ちょっと、ごめんなさい」と断り、席を立ちました。

 

 お盆を持って、二階から一階へと降りていこうとしている女の子。

 彼女は先程スクリーンに映し出されていた白いプラグスーツ姿ではなく、第壱中学校の制服を着用していました。休憩が終わればすぐに今一度着替えなければいけない筈ですが、濡れたプラグスーツで動き回るのも可笑しな話。わたしだったとしても着替えている事でしょう。

 

「綾波ちゃん」

 

 声を掛けてみれば、思いの他あっさりと足を止めてくれました。

 何の気無しな様子で振り向いてくるその目は、わたしを認めて僅かに見開かれます。意表をつかれたようにも見えました。

 

 身体ごと振り返ってくれた彼女の手には、三階の食堂で注文しただろう料理が乗っています。

 湯気を立てるそれは、まさかまさかのラーメン。一瞥しただけで豚骨だと分かる程、ぎっとぎとな脂と肌色のスープ。おまけに振り返っただけでふわりと香るのは、正しくにんにくの香り。……い、意外とジャンキーなものを。い、いや、でも、確かに彼女はある時それを食べていた覚えがあります。『にんにくラーメンチャーシュー抜き』だったっけ……正しく彼女のラーメンにはチャーシューが入ってませんでした。

 普通、これからエヴァに乗るという時に、にんにくを食べるというのは、割りと勇気が要る事ではないでしょうか。仮にアスカなら先ず食べないでしょうし、わたしも絶対に食べません。……綾波ちゃん、恐ろしい子。いや、彼女が自分の体臭に気を使っていない事なんて、考えたら分かる事ですけど。

 ぶっちゃけ何の躊躇いもなく注文している様が、容易く想像出来てしまいます。

 

「……なに?」

 

 薄切りのにんにくを注視していると、綾波ちゃんは無表情のまま小首を傾げました。

 その声で思考の海から引きずり出されて、わたしはハッとします。

 

 そうだ。

 そうでした。

 

 と、言わんばかりに軽く拍手を打って、彼女に微笑みかけます。

 てっきりお昼はお父さんと上官用の食堂で食べるものだとばかり思っていた。と、断りを入れて、背後を指差し、視線を促します。とすれば、席の方でこちらを認めているミサトさん達。わたしの思惑を察したのか、微笑ましげな顔で手を振っていました。

 二人も問題無さそうなので、わたしは今一度綾波ちゃんを振り返ります。

 

「もし嫌じゃなければ、一緒に食べよ?」

 

 すると綾波ちゃん。

 お盆を持ったまま、再度小首を傾げました。

 

「……何故?」

 

 無垢な表情で、ぽつりと零された辛辣にも聞こえる返答。

 『何故』とは純粋な疑問を表す言葉。しかしながら、誘いに対する返答としては、『貴女と食べる事に何の意味があるの?』という解釈をしてしまえるもの……まあ、あまり嬉しくない言葉ですね。とはいえ、彼女の生い立ちを理解していればこそ、彼女の『何故?』は純粋な疑問のみを表していて、決して嫌味たらしい言葉ではないと分かります。

 

 わたしは彼女に微笑みかけました。

 

「わたしが一緒に食べたいから」

 

 わたしもわたしで、可笑しな返答をしたものです。

 そうは思うものの、無垢過ぎる程に無垢な綾波ちゃんには、これぐらいド直球でないと、好意は伝わらないでしょう。

 

 与えられた『親切』を、ただの『親切』として受け取ってしまう。それが綾波レイという女の子なのですから――って言うと、凄く上から目線ですが、事実上、妹みたいなものです。色々と知っていたら放っておけません。加えて、シンジくんが彼女を好きだったっていう贔屓目のようなものもありますから、さしずめわたしは『妹を狙うレズ姉』というところ……うわあ、我ながら気持ち悪い。いや、ダメでしょ。色々とダメでしょ。

 ちょっと自重しなさい。わたし。

 

「そう」

 

 そんなわたしの気持ち悪い妄想なんて知ったこっちゃない様子で、綾波ちゃんはてくてくと歩きだします。その行く先がわたし達の席の方向である事に、何となくホッと胸を撫で下ろすような気分になりました。

 

 いやはや、綾波ちゃんに手を出すようになったら、流石に死のう。朝のあの一件と言い、冷静になって思い起こせば思い起こす程、我ながら頭が可笑しい。バイセクシャルってだけでも生き辛い世の中だろうに、何で母親の遺伝子が使われた妹的な子に発情しているんだ。

 ああ、でも、今ふとすれ違った時に、にんにくに紛れてシャンプーの匂いが……って、待て、わたし。待て。いい加減にしなさい。

 

 イエス、綾波ちゃん。

 ノー、タッチ。

 

 よし、これでいこう。

 己を律する大事な文面だ。帰宅したら一〇〇回はノートに書き取りしよう。

 

「レイ……あんた、随分どぎついの食べるわね?」

 

 綾波ちゃんに続いて席に戻れば、ミサトさんが彼女のラーメンを見て、苦笑していました。そこで彼女が「何か?」と、さも自分のチョイスが当然であるかのような返答をするものですから、さしものミサトさんとて言葉に困った様子です。

 とすれば、そこで助け舟。「午後の起動実験の際、LCLに匂いが混ざるのでは?」と、木崎さんがフォローしています。

 

「そう……」

 

 目を伏せ、眉尻を僅かに下げ、少しばかり悲しげに見える表情でラーメンを見詰める綾波ちゃん。

 言われて『確かに』と思っているのでしょうか。それとも自分のチョイスが間違いだったと思っているのでしょうか。どちらにせよ、一目見たわたしは何処とない憐憫(れんびん)の情を覚えます。

 とすれば、ふと綾波ちゃんの視線がわたし達のお弁当の方へ。決して強請っている訳ではないでしょうが、何となく物欲しそうに見えました……って、そう言えば特務車の中でもわたしの鞄見てたっけ。もしかして、お弁当を期待してくれてたのかな?

 

 幸いな事に、昨日残った炊き込みご飯は朝食で食べきりました。なのでお弁当のそれは何時ものふりかけご飯。昨日の小鉢が中心のおかずは、幾つかお肉が入っているものの、除ければ良いだけです。

 この後、使徒が襲来するのは夕方になる前。しかし前情報を持っているミサトさんは威力偵察から行うとして、実際に迎撃するのは夜になる頃合でしょうか……。うーん、微妙な時間帯。というか、アウトかも。にんにくの匂いって翌日まで残るものですし。とはいえ、話に挙がってしまったものですから、此処で無視しちゃうのは可哀想ですね。っていうか、相手が綾波ちゃんなのですから、無視するのは有り得ない。彼女の好感度はわたしの中での最優先事項です。……あくまでも姉的な立場として。

 流石にわたしも匂いが気になるところではありますが……まあ、いっか。

 

 わたしは良しと言って拍手を打ちます。

 向かいに座る綾波ちゃんに、自分のお弁当を差し出しました。

 

「綾波ちゃんが良ければ、交換しよっか? 嫌いなものは残してくれて良いから」

「おやぁ? お優しいことで」

 

 ミサトさんが嫌らしい笑みを浮かべて茶化してきます。

 わたしは暗に『あんたの所為でしょ?』というメッセージを籠めて、にっこり笑顔で応答。

 

「じゃあ、ミサトさんが食べ――」

「おおっと! 今日のお弁当も美味しそうよ。貰っておきなさい。レイ!」

 

 現金な奴だ……。

 帰宅したら冷蔵庫のえびちゅ全部ペンペンの冷蔵庫に入れておこう。

 

 まあ、レイちゃんの後押しをしてくれたのはファインプレーです。促された彼女は極々自然に頷いて、「分かったわ」と答えました。お弁当を渡して、わたしの前ににんにくラーメンチャーシュー抜きを受け取ります。

 いざ目の前に持ってくると、存在感が凄い。

 こう言っちゃ悪いけど、一四の女の子が食べるものじゃない気がする……。

 小山を作っているスライスにんにくは勿論の事。背脂でぎっとぎとなスープも見逃せません。一応、『食堂のラーメンと言えば』というアンケートの上位を占めそうなほうれん草ともやしは入っているものの、果たしてこれらの食材が持つ美容効果が、一目に明らかな程凶悪なスープと、にんにくという女子力を大きく損なうものを前に、どれ程の功を奏すというのでしょうか……。

 

 い、いやぁ……覚悟はしていたけど、相当ヤバイ。

 涎が出るよりも、冷や汗が出そうです。

 

 とすれば、不意に横から現れた手が、にんにくラーメンが乗っている盆をひょいと持ち上げます。

 えっ? と思っていると、隣から黒い包み。その上に乗っているのはわたしが今朝作ったお弁当。

 ハッとして振り向けば、まるで何事も無いかのように木崎さんが手を合わせていました。「あれ? え?」と、わたしが状況を呑めないでいると、短いいただきますの後に、こちらをちらり。

 

「お気になさらず。にんにくは好物です」

 

 その姿は窮地に駆けつけた一人の勇者如し。

 

 わたしは唖然としつつも、瞬時に理解しました。

 本当ににんにくが好きなら、わたしの前に持ってくるより早く、彼は進言しているでしょう。わたしがエヴァに乗る予定が無くとも、女性らしさに気を使っているのは彼の知るところなので。とするなら、さしもの彼とて躊躇する一品だった訳です。だと言うのに、彼は顔色ひとつ変える事無く、割り箸を割り、ラーメンへぶっこみました。そしてそのまま止める間もなく……ずるり。

 麺が口に入った瞬間、彼の箸が止まったように見えました。

 しかし、次の瞬間にはずずずっと麺を啜っていきます。

 

「ちょ、あ……あの……」

 

 不意に凄まじい罪悪感を覚えます。

 彼の好物は『にんにく』ではないのです。むしろ、食卓を共にするにあたって、嫌いな物を聞いた時、彼は『匂いのきついもの』がダメだと言っていました。おまけに好物はあっさりとしたものだった筈……。

 にんにくが入った豚骨ラーメンなんて、彼の好物とは対極に位置する食べ物でしょう。

 

 しかし、わたしがおろおろとしていれば、木崎さんは箸を止め、こちらをちらりと一瞥。そのまま視線で正面へ促してきます。とすれば、示された先には、お弁当を前に俯く綾波ちゃん。

 仮にわたしが木崎さんに向けて、仰々しく謝罪をすれば、きっと綾波ちゃんも罪悪感を覚えるでしょう。

 彼の視線はそれを示していました。事実、彼女も少しばかり困った表情で、ちらちらとわたしや木崎さんを改めています。

 

 心の中でごめんなさい。

 言葉は無くとも、伝わると信じて、木崎さんの心意気を汲む事にします。

 わたしは綾波ちゃんへ笑いかけました。

 

「木崎さんも綾波ちゃんと同じだって。……ほら、食べて食べて?」

 

 すると漸く、綾波ちゃんは頷きました。

 ゆっくりとお弁当を一口食べて、咀嚼。ごくりと呑んで、彼女は暫し制止。唇が小さく開いて、何事かを呟いたようでしたが……わたしの耳には聞こえませんでした。




裏レン「木崎さんぐっじょぶ! マジぐっじょぶ!!」


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7.She vomited lie.

 

 一三時四〇分。

 それは綾波ちゃんの零号機再起動実験が順調に進み、エヴァ零号機の再起動が確認されてすぐの事でした。

 連動試験に移ろうとしていた職員達を、父の「テスト中断」の言葉が止めました。

 

「総員、第一種警戒態勢」

 

 シンジくんの記憶では、この時、わたしは此処に居ない筈でした。

 何をしていたかは印象に薄く、詳しく思い出せませんが、待機命令が出ていた覚えがあります。

 

 指示より先に、副司令が第五使徒襲来だと零した事もあって、職員達は指示に順応。父が初号機の状態を問えば、支度は三八〇秒で整うとの事でした。わたしが着替えてから乗り込むまでの時間を考慮すれば、搭乗後すぐに発進可能と言えるでしょう。

 父はこれを由として、わたしをちらりと一瞥。

 視線が合うなり、再度前方へ向き直ります。

 

「サードチルドレンはプラグスーツを着用。出撃だ」

「はーい」

 

 わたしは間延びしたやる気の無い返事をします。

 まあ、ミサトさんが威力偵察を進言してくれる筈なので、そうなるとすぐに出撃させられる事は無いでしょう。やる気が出る訳ありません。気だるげな返事をしたのは、父に嫌悪感を顕にしているように見える筈。事実そうですが。

 行きましょう。と言って、管制室の出口を促してくる木崎さん。素直に頷いて、更衣室へ向かいます。

 一応、着替えは急ぎましょうか……。

 あまりあからさまな態度を取っちゃうと、不審に思われかねないので。

 

 

 搭乗後、待てども待てども、発進の命令がある筈も無く。

 次にやって来た指示は、エヴァから降りて、シャワーを浴び、プラグスーツ着用のまま作戦司令室へ行く事でした。当然ながら、わたしはこれを了解。

 更衣室へ戻り、シャワーを浴びて、予備のスーツに着替えます。髪の毛をある程度乾かしたら、上から黒色のジャージを着込んで、作戦司令部へ向かいました。

 

 第五使徒はやはり碇シンジの記憶にある通り、正八面体のような姿でした。

 巨大スクリーンには、かの使徒が微動だにせず、極太の光線をぶっ放す様子が映し出されています。

 

「敵、荷粒子砲、命中! ダミー蒸発」

 

 青葉さんの声が上がります。

 普段、オペレーターを務めているマヤさんは、分析の為、キーボードを叩いていました。日向さんはそのフォローをしているのか、彼女へ紙束を手渡している様子が見られます。そのすぐ後ろでデータを眺めるリツコさんは、険しい表情を浮かべていました。

 巨大スクリーンを眺めるミサトさんは、目を細めながら、事態を確認。「次!」と、厳しい声を上げました。しかし、了解した青葉さんは、すぐに「一二式自走臼砲消滅!」と、無念の報告をするのです。それを受けたミサトさんは忌々しげな表情で得心いった様子でした。

 

「作戦中断」

 

 そこで頭上からの声。

 振り向いてみれば、父が何時ものポーズでスクリーンを注視していました。

 

「敵使徒の戦力解析。及び作戦考案に移れ。後は葛城一尉に一任する」

 

 そう言って席を立つ父。

 司令部の面々が「了解」と返す言葉さえ、聞いているようには見えませんでした。続いて副司令も、進展があったら報告するよう言い残し、退出。残された面々はふうと溜め息を吐きました。

 

 こう言っちゃ難ですが……子供のわたしから見ても、随分と無責任な上官ですね。しゃしゃり出てきて余計な指示を出されるよりかは、よっぽど良いのですが。

 

「しかし出鱈目ですね……」

 

 ぽつりと零すのは日向さん。

 その視線はスクリーンではなく、挙がってきた情報を纏めているらしい紙面に落とされていました。

 

「ミサトの『悪い予感』とやらが当たったわね。流石野生児。中々侮れない勘だわ」

 

 こんな状況でもブラックジョークを零すリツコさんたるや、相当肝の据わった人物です。何時もなら「誰が野生児よ!」と文句のひとつでも言いそうなミサトさんを、ちらりと振り向いていました。その顔付きばかりは、有事らしく、茶化したような様子はありません。

 対するミサトさんは真顔でこくりと頷きます。

 

「まあ、あんな姿されてちゃ、何かしら疑うもんでしょ。普通」

 

 そう言って改めて認めるスクリーン。

 そこには自走砲の砲撃なんて、まるで無かったかのように、無傷の使徒の姿。第三新東京市の一角で制止し、一番下の角からドリルのようなものを出していました。それはゆっくりですが、着実に穿孔しています。

 微動だにしない姿こそが、正しく不気味に見えるのでした。

 

「さ。ちゃちゃっと作戦会議するわよ。幸いお相手さんは、随分のんびり屋さんのようだしね」

 

 拍手一回。

 そう言って振り向いてきたミサトさんは、司令室に入ってすぐの場所で待機していたわたしを認めます。

 今気が付いたと言わんばかりにハッとすると、彼女は日向さんを振り返りました。

 

「ごめん。日向くん。使徒のデータ、レンちゃんに渡しといて」

「了解です」

 

 成る程。

 此処に呼びつけたのは、わたしに事情を説明するふりをする為のようです。その様子にリツコさんは「ちょっと……」と、何事かを危惧した様子でしたが、ミサトさんは首を横に振って返しました。

 わたしの場合、極限下におけるシンクロ率の低下は見られない。状況を知っていた方が、出撃時の対応も円滑だろう。

 リツコさんの懸念を察したらしいミサトさんはそう言って、こちらへ歩んできます。通りすがり様にわたしの肩にぽんと手を置くと、「あとは待機。余裕があったらレイの様子見てきて」と、追加の指示を寄越しました。

 

 どうやら作戦会議には出席しなくて良い様子。

 まあ、シンジくんの時も出席した覚えは無いですし、わたしがいくら事情通でも、当然ですね。

 

 日向さんから紙束を受け取ったわたしは、木崎さんに場所を聞いて、綾波ちゃんが居るらしいパイロット待機室へ。

 

 

 綾波ちゃんは本を手に、プラグスーツ姿で椅子に座っていました。

 自販機と椅子が幾つかあるだけの待機室。扉がある訳でもないのですが、足音でこちらに気付いたようで、わたしが彼女を認めるなり、視線が合いました。

 わたしの登場へ何の感想も持っていなさそうな彼女に、にっこりと微笑みかけ、わたしは自販機へ向かいます。

 

「綾波ちゃん、何か飲む?」

「……いいえ」

 

 短い返答に了解して、自分の分のお茶を購入。

 木崎さんの分も買おうとしたら、横からパッと手を出され、止められました。「自分で購入します」と、態々言われては仕方無い。自分で二本も飲む訳が無いので、苦笑の末に了解しました。

 

 読書を止め、本を閉じた綾波ちゃんの隣に、許可を得てから腰掛けます。

 お茶を一口飲めば、彼女はちらりとわたしを一瞥。その後、正面の何でもない壁へ視線を向けました。小さな唇がやけにゆっくりと動きます。

 

「怖いの?」

「へ?」

 

 思わぬ問いかけに、わたしは目を丸くします。

 そのまま目をぱちぱちと瞬かせて、小首を傾げました。どうしてそう思うのかと尋ねてみると、彼女は再度こちらを一瞥。その視線をわたしが膝の上に置いていた左手へと向け、「震えてるわ」と零しました。

 言われて、わたしは促されるように自らの左腕を改めます。その手は紙束を掴んでいましたが、自分で気付かぬ内に、微かに震えていました。いいえ、よくよく改めていけば、右手も、お茶を飲んだ唇も、両足も、僅かながら震えていました。

 

「あ……あれ?」

 

 思わず、わたしは疑問符を零します。

 自分でも全く気付かない程の僅かな震えでしたが、確かに震えていたのです。

 

 何故……。

 と、考えてみると、唐突に足元から首筋まで這い上がってくるような悪寒を感じました。言葉に直すと、正しくゾクッという形容が正しいそれは、確かな恐怖心。と同時に、脳裏にフラッシュバックする光景がありました。

 

 閃光に呑まれ、苦しむ中。

 目の前のLCLには、自分が吐き出した無数の気泡。

 

 それは――碇シンジが受けた苦痛。

 先程、わたしがスクリーンの向こう側に認めた粒子砲のもたらす結末のひとつ。

 

 不意に肋骨の下をかき回されるような不快感を覚えました。

 とっさにお茶を置き、口元を押さえて、蹲ります。紙がへしゃげるのも構わず、胸をきつく押さえました。喉がカッと熱くなったかと思えば、腹の下から突き上げてくるような衝動を覚えます。

 

「レンさん!?」

 

 木崎さんのハッとしたような声が聞こえました。その声が現実へ引き戻してくれたように、脳裏に宿っていた幻想が掻き消えていきます。ふとすれば、見知った待機所の光景を見ているわたしの視界は、涙で滲んでしまっていました。

 迫り上がってくる吐き気をぐっと堪えます。

 歯を食いしばり、喉に力を籠めて、息を止める。背筋を駆け上がる悪寒や、喉の奥からピストン運動をしてくるような衝動に、ひたすら落ち着けと言い聞かせます。

 

 次第に落ち着きをみせる身体。

 たった一瞬の間に掻いたとは思えない程の冷や汗が、プラグスーツをしっとりと湿らせます。空調の風に当たって、酷く冷えました。

 

「大丈夫ですか?」

「うん……ちょっと、嫌な事、思い出しただけです」

 

 両腕を抱え、わたしは俯きます。

 正面で膝を折り、わたしの顔を窺ってくる木崎さんは、とても心配そうな顔をしていました。彼からしてみると、わたしは替えの利かないパイロット。この両肩には人類の命運がかかっているのです。些細な体調不良とて、見逃せる筈もありません。

 すぐに医務室に行こうと提案されましたが、わたしは首を横に。もう吐き気も静まったと伝えます。それでも尚、木崎さんは食い下がろうとしましたが、一度主張したわたしが頑固だという事は察しているようです。呆れ混じりに無理をしないようにと言われました。

 

「何故? 怖いのなら、寝てたら良い」

 

 とすると、不意に聞こえてくるソプラノ。

 僅かながら平時より暗く感じるその声へ、ゆっくりと振り向いてみれば、彼女はわたしの左手を注視しているようでした。視線を追えば、何時の間にか紙束を手放してしまった手は、未だ震えていました。その手に力を籠め、右手で覆い隠し、わたしは首を横に振って返します。

 

「大丈夫だよ。戦える」

「どうして? 零号機も動ける。初号機で出撃する事も出来る。貴女が戦う必要はないわ」

 

 責め立てるようではなく、淡々と論を並べる綾波ちゃん。

 その表情は何時もと変わらず、攻撃性も感じない口調でした。とはいえ、わたしを庇うようでもありません。単純に疑問を持っていると言いたげな様子に見えました。

 

 我儘染みた主張で否定するのは簡単ですが、説得するのは難しいもの。

 体調に不安のある兵士が、貴重な兵器を扱うリスクを考えれば……成る程。彼女の言い分は尤もです。シンクロ率や操縦技能等、他にも考慮すべき点は多くありますが、第五使徒の戦力が正確に分かっていない現状、それを言い訳にする事も出来ません。

 しかし、何より重要なのはわたしの意思。

 乗るか乗らないか。

 

 怖くても乗る。

 回答はそれだけで良い筈です。

 

 きりきりと痛む胸を押さえつつ、わたしは強がって小さく微笑みます。

 回答をそのまま口にすれば、綾波ちゃんの表情が僅かに曇りました。

 

「どうして?」

 

 尚も問い掛けてくる彼女。しかしその疑問は先程と異なり、決意の理由を聞いているのでしょう。その回答もまた、わたしの中にあるものでした。

 しかしながら、思わず自嘲してしまいます。

 

――なんてありきたりな回答だろう。

 

 そんな事を考えながら、唇を開きました。

 

「守りたい人がいるから」

 

 誰を……とは言いません。

 だけどわたしの脳裏には、数多の人影が浮かんでいます。

 隣で訝しげな顔をしている彼女とそっくりな女の子。茶髪にスカイブルーの瞳をした気の強そうな女の子。無精髭さえも格好良く映る男の人。母のようにも、姉のようにも見える大切な家族。

 

 あの記憶では誰もが助かりませんでした。

 わたしはそんな未来を受け入れたくありません。

 

 加えて赤褐色の髪をしたあの子が、笑ってくれているのですから、この気持ちを大事にしたい。そう思うのです。

 

 しかし、そんなわたしの決意とは裏腹。

 

 

――『わたし』はそんな甘い考えを持ってなかった。

 

 




どうも、ちゃちゃです。
一時日間に載ってたみたいです。評価、感想、誤字報告等、ありがとうございます。評価に対して返礼はしていませんが、高評価は励みに、そうでない評価は文章を見詰めなおす機会にさせて頂いております。

さて、解説です。
不要な方は飛ばしてって下さい。

・『綾波レイ』
 レンの心情、日常に重きが寄ったので、原作タイトルは使いませんでした。

・英題
 彼女は嘘を吐いた。

・レンの運動能力
 水準以上ではある。

・洞木ヒカリとの関係
 既に碇シンジの記憶については打ち明けています。
 場面では出てこない他の二名も同様です。

・レンの下着
 水色と白色の縞々。
 因みに私服の時は、きちんと上下揃えて、少し冒険したものを着けているらしい。

・レイの挙動
 特務車の中でレンの鞄を見ていたのは、後から分かる通り、お弁当は無いのかと思っていた。

・レンの推理
 結局答えは出ないが、巷で言うところの『碇ユイ・真の黒幕説』。

・ネルフの食堂
 これは新劇を基にしました。
 新劇だと最低でも四階層はあったけど、ゲームではこじんまりとしていたような記憶もあって……仕方無いから適当に間をとった。


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第六話 ウラとオモテ
1.Raise the emotion to doll.


 さて……。と、改まって瞼を開けば、正面には黒い髪をオールバックで纏めた男の姿があった。屈みこんだ体勢でわたしの様子を窺っている彼は、木崎ノボル。

 視界の端には、表のわたしが先程まで会話をしていた綾波レイの姿も認められた。

 今は作戦が決定するまで待機しているのだったか。

 その折で、碇レンの心が弱り、頃合いと見計らって出てきたのだが……少し早まっただろうか? いや、先日のシャムシエル戦で二重人格である事を公言した以上、赤木リツコあたりが何らかの対策をとってくるかもしれない。警戒しておくに越した事はない。とはいえ、あまり長々と入れ替わると、表のわたしの心情に何かしらの影響があるかもしれないので、早すぎるのも考え物だが……。

 

「レンさん? 本当に大丈夫ですか?」

 

 思案に耽っていると、木崎ノボルが再度確認をとってくる。

 眉の角度こそ表のわたしが記憶しているものと変わりなかったが、サングラス越しの双眸は僅かに細められていた。わたしの腕を握る力み具合、薄く開かれたままの唇など、幾つかの点を考慮すれば、どうも本当に心配を掛けているようだと思い至る。

 まあ、見た目と雰囲気が憎き碇ゲンドウと似ているだけで、彼は信を置ける人間の一人だろう。思い起こせる表のわたしに対する配慮の数々は、一言に仕事とは片付けられない慈悲深さが感じられた。

 わたしは一先ず返事を保留し、周囲を見渡す。

 パイロットの待機所はあまり人が通らない場所にある。警戒態勢中の今、誰も通りやしないか。

 すぐ隣に居る綾波レイも無視で良いだろう。まだ自我も薄く、自発的に第三者へ告げ口をするような性質でもない。

 改めて、わたしは木崎ノボルに向き直った。

 傍目には挙動不審な態度をとったわたしだが、彼は特に言及するでもなく、表情も先程とさして変わっていない。

 

「本当、不甲斐ないわねぇ。表のわたしは……。そうは思わない? 木崎ノボル」

 

 わたしの言葉に、木崎ノボルの表情が薄っすらと変化していく。

 はじめはわたしの口調に違和感を覚え、次に言葉を不審に思い、そしてその内容に驚いたようだ。

 その表現自体は鉄仮面の彼らしく、目と唇にしか現れない。しかし、表のわたしは彼の変化を逐一気に留めているようで、些細な筈の変化がより一層際立って映る。経験則からして、木崎ノボルの表情の変化はこれまでの中でも、一際大きなものだった。

 ふと、わたしの腕を握る手に力が籠もる。

 痛い程の圧迫感に視線を落とせば、木崎ノボルの手は僅かに震えていた。

 

「それは、どういう意図を持った発言でしょうか」

 

 声に視線を戻す。

 今までは全く変化しなかった彼の眉が、少しばかり眉間に寄っていた。目付きを改めてみれば、何処か敵意があるようにも感じる。

 いいや、それはそうか。

 彼が何処まで詳細に知っているかは分からないが、わたしが前回のシャムシエル戦でやった事ぐらいは知っている筈。それを基にすれば、わたしに対して良い印象が無いのは当然だ。

 此処は弁明しておくべきだろう。

 

「勘違いしないで欲しい。わたしは今のところ碇レンに仇なすつもりはない。前回も結局、そうだったでしょう?」

 

 淡々と、だけど僅かに挑発するような心地で、彼に問いかける。

 暫し沈黙が流れた。

 腕を握る圧迫感が少しばかり増した気がしたが、やがて木崎ノボルはふうと息をついて、手を離す。

 納得した……と言うよりは、この場で騒ぎ立てる必要性がないと感じたのだろう。エヴァに乗っていないわたしは、ただの非力な一四歳の少女。その気になれば力ずくで取り押さえる事も簡単だ。

 良い人材だ。

 口に出せば『お前が言うな』と言われてしまいそうだが、この場での最適解は、例え印象が相当に悪くとも、わたしという不確定要素に色を付けて行く事が大事だ。少なくとも今のわたしに敵意が無いと言うのなら、少しでもこの理由を探るべきだろう。

 溜め息ひとつで無表情へ戻る様子は、わたしが知るどの大人より、大人びて映った。

 大抵の人間は己の欲や理念に揺れ動くものだが、成る程……こうして見ると、黒服というのは馬鹿に出来た仕事ではない。感情を押し殺す術は、是非とも表のわたしに教えてやって欲しいものだ。

 

「まあ、何をするという訳ではないけどね」

 

 木崎ノボルが落ち着いた頃合いを見計らって、わたしは(うそぶ)く調子で溢す。

 その言葉を汲んでか、そうでないのか、彼は改まった様子で綾波レイとは逆側、わたしの隣に腰を下ろした。

 

「おや、黒服さんが腰を下ろすなんて珍しい」

 

 横目で見やり、にやりと笑って挑発。

 彼を虐めるつもりはないが、その鉄仮面が濁る姿をもっと見てみたい。純粋にそう思った。

 しかし、木崎ノボルはどこ吹く風。

 気にも留めない様子で、わたしへ睨むような視線を寄越した。

 

「ひとつ、聞くべき事があります」

 

 無視かよ。

 と、そう思うものの、敢えて『聞くべき』なんて言われてしまうと、わたしの好奇心はぐらりと傾いた。

 組んだ膝に肘をついて、頬杖をし、わたしは閉口。

 話してみろと視線をやる。

 木崎ノボルは膝の間で手を組み、誰も居ない正面へと視線を逸らした。

 

「貴方が、『碇シンジ』ですか?」

 

 改まって溢された名に、思わずわたしの見目が開く。

 何故、その名を知っている!?

 ぴくりと出してしまった反応を察知したのだろう。彼はやおらこちらへ振り向き、サングラスの向こうの双眸をすっと細めた。

 

「当たらず……しかし、知っているという風ですね」

 

 裏のわたしと接するのは初めてのくせに、一体何処から察したのか。

 知った風に溢す彼だが、しかしその目は確信めいていた。

 鎌をかけられたか。

 少なくとも彼は碇レンの生い立ちを知る人間ではないと思っていたが……いいや、碇レンが彼に心を許している様子を見て、赤木リツコあたりが情報を漏らしていたのかもしれない。

 そう考えれば納得がいく。

 赤木リツコの視点では、碇シンジという存在は碇レンのカルテに確かに存在したが、今の彼女の口からは一度も出ていない要素だ。今のわたしが『別人格である』という事を公言した以上、これとの因果関係に、何処かしらで探りを入れようとするのは至極当然な事だろう。

 ふふふ。

 と、思わず口元が緩む。

 今の場において不適切な反応だとは分かっていたが、笑わずにいられない。

 見透かされた風なのは釈然としないが、こうして手玉に取られる感覚は、中々どうして面白い。

 木崎ノボルは碇レンやわたしにとって、敵ではない。しかし、ふとすれば強敵と相対している気分にも浸れてしまうではないか。

 ほんの遊び心だ。

 少し付き合ってみよう。

 わたしはにやついた顔付きのまま、くすくすと音を立てて、改まった。

 

「知りたい? 碇シンジが誰か……碇レンにとって、何者なのか」

 

 わたしの可笑しな態度を見ても、木崎ノボルは平然としていた。

 冷静にサングラスの位置を正し、わたしを品定めするように見据える。その目付きばかりは、碇ゲンドウのそれより、よっぽど冷徹に映った。

 

「いいえ」

 

 彼は短く言った。

 そのつまらない反応に、思わずわたしは笑うのを止める。

 

「あら、どうして?」

「今の貴方は、平然と嘘をつける人だ。言葉に信頼性が無い。違いますか?」

 

 木崎ノボルは鋭い目付きでわたしを見据える。

 成る程。碇レンが相手でなければ、そんな顔も出来るのか。

 それは悪魔の問いかけ。

 わたしがはいと答えようが、いいえと答えようが、彼が得る解答は変わらない。

 わたしの表情ひとつで真偽を定める自信があるからこそ、わたしが口から溢すブラフは全く役に立たないんだぞと言う圧力でもあるだろう。

 本当に優秀な人材だ。

 こんな奴がどうして碇ゲンドウの下で働いているのか……。

 確か、彼は娘と妻を同時に亡くしたと言ったか。

 あとは、以前、碇ゲンドウの側近を務めていたぐらいの事しか、知らされていない。

 そこに繋がるものはないが……いいや、前者の件なら、何が原因かは当たりがつく。

 成る程。

 出来れば木崎ノボルはこちら側に欲しい。

 少々、揺さぶってやろう。

 暫し沈黙した後、わたしはそっぽを向いて、ぽつりと溢すように言ってやった。

 

「セカンドインパクト」

 

 ぴくり。

 と、木崎ノボルが反応を出した。

 やおら視線を戻せば、表情に変化はない。

 いいや、これだけの単語なら、何の揺さぶりにもならないだろう。

 もう少し深掘りしてみるか。

 

「貴方みたいな人材が、この組織に入った理由……気になるわねぇ?」

 

 気取って問いかけてみるものの、木崎ノボルは微動だにしない。

 

「わたしが何か?」

「いいえ、ちょっと気になっただけよ」

 

 惚けた調子でうやむやにする。

 目立った反応は無かったので、実のところは分からない。返ってきた言葉も、わたしが疑いを掛けた事に対するありきたりなものだった。

 まあ、木崎ノボルは動向だけで第三者の思惑を察知する職に就いていて、その道のプロだ。生半可な心理戦を仕掛けたところで、わたしが勝てる筈もないか。しかし、そんな彼を懐柔させつつある碇レンという存在は、果たして彼の目にどう映っているのか……聞いたところで答えちゃくれないだろうが。

 はあ。

 自分から深掘りしたものだが、こういうのは肩が凝る。

 表のわたしも含めて、碇レンという人間は、根回しだの暗躍だのという事が、本当に苦手だ。何でもかんでも壁にぶち当たってから、ぶち壊して進む方が性に合っている。

 わたしは表情を緩めて、肩を竦めて見せた。

 

「ありがと。木崎ノボル。あんたがついててくれる限り、碇レンは安泰だわ。それが理解出来ただけで収穫よ」

 

 肩透かしをさせるような物言い。

 しかし、それさえも分かっていたように、木崎ノボルは呆れた風な溜め息をついた。

 ふと改まれば、普段の碇レンへ向けられるものと、変わりない目付き。先程まで殺気立っていたのが嘘のように消えていた。

 

「全く。普段のレンさんもそうですが、何を考えているのかが分からなくて困ります」

 

 なんて、(うそぶ)くのも良いところ。

 彼なりの冗談のつもりだろうか。

 わたしはくすくすと笑って返した。

 

「女の子の心は、父親に分からないものでしょう?」

「全くです」

 

 冗談に冗談の応酬。

 しかしその後深々と溜め息をつく木崎ノボルの姿は、実に様になっていて可笑しかった。そういえば、彼の娘はわたしと同い年ぐらいの頃に死んだのだったか。反抗期も知っていると言っていた。様になる訳だ。

 何にせよ、彼が本当に優秀なら、わたしの言いたい事は伝わっただろう。

 どうかその想いを汲んで欲しいばかりだ。

 先程は要らないと言われたが、馬鹿みたいな問答に付き合ってくれたお礼がてら、少し溢しておこうか。

 彼は碇レンにとって不利益な人材ではないのだし。

 わたしは首を横に振ると、今一度改まって、彼へ向き直った。

 

「わたしは碇シンジじゃないよ」

 

 先程までの小馬鹿にした態度を封印して、極々真面目な顔付きで続ける。

 

「碇シンジってのは、碇レンが幼少の頃から繰り返し見てる残酷な夢の主観者。自分が助かる為なら、大事な事から平気で逃げるし、誰かを傷つける。悪者だって責められたら拗ねるくせに、逃げて良いって言われたら責めてくれよって駄々を捏ねる……そんなどうしようもなく子供な人格よ。表のわたしからすれば、その感性があまりに恥ずかしくって、それが自分の持つ潜在意識だと思われたくないから、誰にも話せないのよ。まあ、わたしからすれば表のレンも本質は全く変わらないけどね」

 

 わたしが話しても問題が無いラインはこの辺りまでだろう。

 話したがらない理由もサービスしておいたから、今後これについて碇レンが言及される事はない。逆に彼女が話そうとするのなら、真摯に耳を傾けてくれる筈だ。

 あら、わたし、大活躍。

 なんてね。

 まあ、これだけフォローを入れておけば、表のわたしもやりやすいでしょう。わたしの目論見が達成されるまでに、碇シンジみたく逃げ出されちゃ困るし。多少は味方をしてやらないとね。

 受け取った木崎ノボルは、先程の言葉とは一転して、嘘偽りのない事実と受け取ってくれたらしい。

 畏まった態度でお礼を言われた。

 まあ、嘘は言っていない。難なら最後のおまけの一言はわたしの本音だ。

 とりあえず、わたしに出来るのはこれぐらいか。

 出来れば葛城ミサトや加持リョウジとも話がしたいが……前者は多忙な身で、後者は連絡を取る為の端末を家に置いたままだ。仕方ない。

 

「ねえ」

 

 そこで不意の声。

 声のした方へと向き直れば、空色の髪をした少女が、わたしをじっと見つめていた。

 まだ居たのか。

 っていうか、途中から居るの忘れてたわ。

 綾波レイは、澄んだ赤色でわたしを見つめたまま、小さく首を傾げた。

 

「あなた、誰?」

 

 いや、聞いてなかったのかよ。

 確かに言ってないけど……。

 まあ、別に綾波レイはいいや。

 話す事なんもないし。

 

「さあね?」

 

 わたしはすまし顔で、そう答えた。




どうも、お久しぶりです。
気が向いたので続き書きます。
詳しくは活動報告をご覧ください。

続けて見られた方には、書式変わって見辛いかもしれませんが、ご容赦を。
章末の解説コーナーだけは修正しました。


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2.Raise the emotion to doll.

 小一時間程経っただろうか。

 わたしは発令所に呼び出された。

 今回、同時出撃が予定されている筈の綾波レイは待機のまま。作戦が決定したのであれば、彼女も呼び出されているだろう。つまるところ、要件は大体の予想がつく。

 ていうか、木崎ノボルがわたしの状態を報告していたし、間違いない。それは保安部の義務だからと、彼を止めなかったのはわたしだ。何がどう転んでも大丈夫だと思っているからこそ、釘を差す必要が無かった。

 木崎ノボルと共に自動ドアを潜れば、三階層が吹き抜けになった解放感のある空間へ。しかし、使徒襲来中の今、当然ながら発令所の空気は重たい。吹き抜け部分にある大型スクリーンにも『警告』の表記があり、物々しい雰囲気だった。

 ちらりと目をやれば、ラミエルの穿孔状況の図形が表記されている。

 ひし形の物体が真下へ向けて管を伸ばしているような風で、デッドラインまでの推定時間が割り出されているが……数式のままなので、流し見の状態だと分かりづらい。ただ、ネルフ本部へ向かって管を伸ばしているのだけは、確かだった。

 わたしの到着に、葛城ミサトと赤木リツコが揃って手を止めた。

 今しがたやっていた事を中断して、オペレーターの三人組へ任せている。

 特にこの二人の動向に興味の無いわたしは、ちらりと頭上を見やった。しかし、そこに憎き碇ゲンドウの姿はない。彼の腹心である冬月コウゾウの姿も見えなかった。居たら難癖つけてやろうと思ったが……まあ、別にいいか。

 

「呼びつけて悪いわね」

 

 低く、淡々とした声に振り向く。

 普段の体たらくがまるで嘘のように、大人な顔を見せる葛城ミサト。

 その隣で資料を捲っている赤木リツコも、落ち着いているように見えた。

 数時間に及ぶ会議、作戦の試行錯誤をしていた筈だが、二人の顔に疲れはない。

 おそらくどだい現実的ではないヤシマ作戦のようなものしか、現状の手立ては無い筈だが、果たしてその顔付きは余裕があるのか、はたまたまだ危機感が足りていないのか。

 わたしは挑発的な笑みを浮かべて、改まった。

 

「ハロー。こっちのわたしじゃあ、初めましてね。お二人さん」

 

 目には目を、歯には歯を。

 ポーカーフェイスにはポーカーフェイスを。

 わたしが茶化して返せば、葛城ミサトは意に介した様子もなく、ゆっくりと腕を組む。

 今の顔付きだと中々様になっている指揮官様は、わたしに対抗するように、片目を吊り上げてにやりと笑う。

 

「随分な余裕ね? その調子で自己紹介をしてくれるかしら」

「あら。碇レン以外に、名乗る名前はないわよ?」

 

 腹の内を読みあぐねているのだろう。

 葛城ミサトは「ふーん」と、何の役にも立たない言葉で虚勢を維持していた。

 少なくとも、碇レンからしたわたしは敵。わたしにそのつもりが無くても、そう見えている筈だ。

 彼女から話を聞いている葛城ミサトからすれば、わたしは何をしでかすか分からない懸念要素。作戦を定めたところで、わたしがそれを守る保証がない以上、下手をすれば出撃をさせない選択だって選ぶ必要性がある。しかしながら、前回、前々回の出撃時の言動からして、わたしの気性が安定しているようには見えていまい。

 大事な玩具を取り上げられた時、わたしが碇レンの身体を傷つけないか――それを気にしているといったところか。

 となると、素直に聞いてくれた方が楽なんだけど……。

 

「率直に聞きましょう」

 

 と、赤木リツコ。

 資料に目をやりながら、淡々と続けた。

 

「貴方は前回、前々回と、司令部の指示を反故にした経緯がある。その上で、今回対峙している使徒が強敵と分かっていて、我々の指示を呑む事が出来るのかしら?」

 

 成る程。

 話が早くて助かる。

 わたしは赤木リツコに向き直ると、肩を竦めて返した。

 

「非効率な指示を寄越す上官には真っ向から盾突くわ。だけど有効的だと思ったら、ある程度の従順さは見せてあげる。前回の使徒戦でライフルを撃ったみたいにね?」

 

 すると、赤木リツコがこちらを尻目に見やる。

 睨むように映るが、彼女は冷静さを取り戻すように目を瞑り、資料を挟むバインダーの端を、ペンの頭でこつこつと叩いた。やがて思考が纏まったのか、再びこちらへ向き直ってくる。

 

「МAGIが出した作戦では、当てにならないと言いたのね?」

 

 その言葉は疑問形だったが、赤木リツコ自身、解答を知っているようだった。

 分かりきった事だろう。

 『わたし』は訓練を受けていない。だから彼女達は、わたしの詳細データを持っていない。わたしが持つパフォーマンスは、彼女が持つ碇レンのデータとはかけ離れ、出来る事も、質も違う。それは過去二戦のデータからして、明らかだろう。

 まあ、だからと言って訓練なんてかったるい事を、受けてやるつもりはないが。

 沈黙は肯定。

 そう捉えたのか、葛城ミサトが僅かに前に出てくる。

 

「じゃあ、貴女はどうしたいの?」

 

 改まった問いかけに、わたしはくすりと笑う。

 答えは決まっているが、そのまま言ってまさかその通りにしてくれるとは思わない。

 わたしが己の考えを言って、『じゃあその通りになさい』と言う程、この組織は子供染みてはいない。

 故に、少しばかり濁して答えよう。

 わたしは醜悪だと自覚する程に、人相を歪めて笑った。

 

「出来る限り残虐に。あの使徒をぐっちゃぐちゃにしてやりたいわね」

 

 閉口。

 わたしの発言で凍り付いたように、二人の唇が閉じた。

 それもそうだろう。

 わたしの発言はパイロットの役目を越権している。

 使徒を殲滅する事が目的である以上、それより先の行為は完全なる無駄。それに掛かるエヴァの稼働に関する金銭的事情や、街の被害、窮地に陥った使徒の抵抗を考慮すれば、許されて然るべきではない。

 しかしながら、その言葉が本音である可能性と同時に、わたしは前回の使徒戦で、己の狡猾さを見せつけた。

 この発言を、ただの子供の我儘だと捉えるには、些か無理があるだろう。そこに裏があるのではないかと判断する。

 そうして掘り下げれば、わたしが敢えて危険思想をぶちまけた理由は、簡単に推測出来る筈だ。

 

――わたしは、勝手にやる。

 

 だけど、そこに行きついたところで、次に挙げられるのが、前回の使徒戦での結末。洞木ヒカリ達を助けた理由だ。

 わたしは碇レンの破滅を望んではおらず、使徒の殲滅自体は間違いなく行うつもり。

 これに行き着くだろう。

 つまり、わたしと司令部の利害は一致している。

 その上で、指示にある程度の柔軟性を寄越せと言っているのだ。

 何処まで読めたかは知れない。

 しかし、葛城ミサトが次に口にしたのは、「具体的には?」と、話を深掘りするものだった。

 僥倖。

 その言葉が、わたしに発言権を与えた。

 手玉にとれた訳じゃないだろう。

 あくまでもこの二人は大人。その中でも、特別優秀だと言われている一握りの人材だ。

 先を知るわたしからすれば『無能』と罵ってしまえる相手ではあれ、節目節目のやり取りで欺けるとは思っていない。特に赤木リツコに関しては、今回の問答すら、わたしという異物の手綱を握る為の材料にするだろう。

 それで良い。

 ある程度の発言力、ある程度の自由を許してくれるのなら、わたしは最高のパフォーマンスで返すだけだ。

 

 思惑通り、作戦に口を出す権利を得たわたし。

 それから数時間、葛城ミサト達と共に、作戦の考案に携わった。勿論、だからと言って全てが自由になる訳ではない。あくまでも口を出す権利と、その正当性を得ただけだ。どんな提案をしたとしても、МAGIが算出する仮想データによるテストが行われ、期待値の低いものから削除。最適化が行われていった。

 しかしながら、今回は思ったよりわたしの意見を呑んでくれた。

 作戦の大筋こそ碇シンジの記憶と大差なかったが、細部は色々と変更点があったのだ。

 元々表のわたしにその才能があったのか、碇シンジの記憶による補正が大きかったのか、わたしの射撃技術は、碇レンが持つものを、そこまで大きく上回っている訳ではないらしい。それに対し、接近戦における反射神経、判断能力、そして最も重要な胆力については、間違いなく表のわたしを凌駕しているとされた。

 加えて、わたしのATフィールドが中々に強固なものであった事も挙げられた。第四使徒戦ではATフィールドを中和されこそしたが、その反発率は大きく、使徒の触腕が初号機の胴を捉えるところまで潜り込めなかったらしい。碇シンジの記憶を辿ると些か疑念も残るが、まあ、そう解釈してくれる分にはありがたい。

 シンクロ率の差がある以上、それでもわたしの射撃技術は綾波レイを上回っている。しかし、初号機のシンクロ率を九〇パーセントで想定した場合、合理的な理由のもと、役目が変わった。

 何せ、狙撃手はわたしであれ、綾波レイであれ、MAGIのサポート下における命中率は僅かにしか変わらない。想定される使徒からの反撃を考慮すると、わたしが前線に立つ方が、数発余分に撃てるという判断に至ったのだ。

 更に、わたしのシンクロ率であれば、あの使徒をして、接近戦に持ち込む事すら可能であるらしい。

 ATフィールドの中和というのは、現実的ではない。近付く前に、使徒の放つ荷粒子砲で蒸発してしまう。碇シンジの記憶ではそう言われたものだが、九〇パーセントを上回るシンクロ率をもってすれば、耐熱光波防御盾とATフィールドを併用した際、使徒の荷粒子砲を『四七秒間』、防げるという想定に至った。

 敵、荷粒子砲の有効時間自体は『三〇秒以上』という実に不安な結果だが、砲撃を中断すると、リロードまでには相応の時間がかかるらしい。一回の発射から次の発射までに、敵のATフィールドの中和が出来るのであれば、使徒が三発目を発射するまでに、距離を詰め切る事が出来ると言われた。

 荷粒子砲への対策は、無論、陽電子砲。

 よって、初号機による接近戦と、零号機による超長距離射撃の二段構えによる作戦が決定された。

 本命は零号機による射撃ではあるのだが……仮に零号機へ射線が向いた場合、初号機の行動には余裕が出来る。中々に良い作戦だろう。ただし、盾は一枚しかなく、零号機は無防備だ。最悪の場合、撃たずに退避する事も推奨されたので、決して安全な作戦ではない。

 成功率が最も高いだけの、非道徳的な作戦とも言えた。

 

 深夜二三時。

 結局、第五使徒迎撃作戦、通称ヤシマ作戦は、碇シンジの記憶と変わりない時間のものとなった。

 というのも、作戦に大規模停電が必要だった為だ。国民の生活との兼ね合いがある以上、どうしても日中には難しかったらしい。地球の存続をかけていると言っても過言ではない一大事。悠長に思えるかもしれないが、初号機が撃破されなかった分、作戦の準備時間にはゆとりがあったらしい。

 ポジトロンスナイパーライフルの用意をするにも、戦自に対してきちんとした交渉を経たとか。はたまた盾の支度も、わたしが覚えている以上の仕上がりだとか――まあ、後者については、わたしのATフィールドの強度が碇シンジのそれとどの程度の差があるのか分からないので、確証はないのだが。

 何にせよ、碇シンジの記憶より、余程ゆとりがある時間に、わたしは綾波レイと肩を並べて、二子山山頂にて待機していた。

 




昨日の昼間、予約投稿誤爆しました。
もしも万が一、通知設定入れておられる方がいらっしゃったら、すみませんでした。


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3.Raise the emotion to doll.

 碇シンジの記憶より数十分早く、計画停電が開始された。

 二子山の山頂から見える景色は殆んど黒一色。大気汚染が問題視されている都市部の月明かりでは、僅かな濃淡によって、向かいにあるもうひとつの二子山の輪郭が分かる程度。

 暗闇というのは人間にとって恐怖心を煽るものとして例に挙げられがちだが、不意に見上げた夜空には、思った以上の星明りがあり、決してその限りではないと訴えてくる。凶悪性が問題視されがちな今のわたしでも、不思議と心安らぐような気がした。

 尤も、エヴァの隣――非常用に用意された仮設のアンビリカルブリッジで待機するわたしは、暗闇に居るとは言い難い。沈黙する今の日本において、数少ない恵まれた環境に居た。

 エヴァがまだ稼働していないからだろうか。

 深夜の野外というのは、程好く地熱が冷め、過ごしやすい気温をしていた。鋼鉄の床が冷えている事もあって、後ろ手を突いて足を投げ出せば、実にリラックスが出来る。

 惜しむらくは、プラグスーツなんて洒落っ気のないものを着せられている事と、エヴァが夜風を遮ってしまう事だろうか。話し相手に最適な木崎ノボルが居ない事も悔やまれる。

 

「ねえ」

 

 ああ、いや……。

 一番惜しいのは、あまり話したくない相手が、隣のブリッジに居る事だった。

 ちらりと視線だけで声のした方向を見やれば、白が基調のプラグスーツに身を包んだ綾波レイが居た。

 彼女の居る所は夜風が当たるのか、空色の髪が僅かに靡いている。しかし、決して心地よさそうな顔付きではない。そもそもからして、表情の変化に乏しい奴だが、膝を抱えた今の様子では尚更そう見える。

 構ってやる義理は無かったが、思った以上に都合よく状況が運ばれて、今のわたしは気分が良い。

 首で振り返って、短く「何?」と、問い返した。

 綾波レイはこちらを振り向く。

 あまり目を見て話す性質ではない彼女。表情の変化こそなかったものの、その視線の意味は、次の言葉でよく分かった。

 

「あなた、誰?」

 

 昼間に受けた質問だった。

 あの時は言っても無駄だと適当にはぐらかしたものだが、今尚繰り返す意味は、それでいて分かりやすい。

 どういう訳か、他人に無頓着な筈の彼女が、碇レンに興味を持っているらしい。

 わたしが普段接している碇レンではない事に、確信を持っているのだろう。

 相手にするのは煩わしい。

 けれど、今の綾波レイが、どういう心境なのかには興味があった。

 

「わたしは碇レン。他に名乗る名前はないわ」

 

 発令所で葛城ミサトにした回答と同じものを用意する。

 しかしながら、表情は極々真面目。

 綾波レイに対して、何かを取り繕う必要性も、メリットもない。

 すると、彼女はぷいと視線を逸らした。

 正面に見える朧気な暗闇を見やって、「違う」と、短く一言述べた。

 違うとはどういう事だ?

 いいや、分からなくはない。そもそも違うと思っていなければ、わたしに誰だとは聞かないだろう。

 分からないのは、何を以ってそう思うのか。

 言動、態度からくるものであれば、それは碇レンという人間の顔を知らなさすぎる。相田ケンスケをとっちめている時等、表のわたしも横柄な態度をとる事は多々ある筈だ。確かに、今のわたしは普段特別視している綾波レイに対する当たりが強いが、彼女がそれに対する疑問を抱くのは、人間味に富みすぎていると言えるだろう。

 どういう事だ。

 わたしは再度短く問いかけた。

 綾波レイはやや言葉に困るように視線を伏せ、抱いた膝を更に寄せる。

 その雰囲気は、何処か悲しそうにも見えた。

 

「分からない。だけど、あなたを見ていると……ぞわぞわする」

 

 彼女が言う『あなた』は、今のわたしに限った事だろう。

 言葉は足りないが、それは確かに伝わってきた。

 理解が進むと、思わず鼻で笑ってしまう。

 そんな人間染みた事を、何故思うのか。まさか表のわたしに、好意を抱いているというのか。

 わたしは星空を見上げ、「じゃあ」と、話を掘り下げる。

 

「何でわたしに話しかけるの。嫌じゃないの?」

 

 溢す言葉は、虚空に消える。

 何の物音もしない状況では、吐息の音すら聞こえてくる。

 綾波レイのそれは、僅かに乱れているように感じた。

 

「分からない」

 

 端的に溢される言葉。

 僅かな思考の間はあったものの、回答というにはあまりに不完全。出来損ないだった。

 面倒臭い……。

 わたしはそう思った。

 綾波レイの相手は、驚く程生産性が無い。

 何故って? 簡単に死んでしまうからだ。

 綾波レイは碇ユイのクローンであり、その内容は兎も角、本人も量産型である自覚をしている。故に、自己犠牲をいとわない。生に対する執着心が、あまりにも薄い。

 それまで築いたものを――簡単に捨ててしまう。

 だから嫌いなんだ。

 わたしは舌打ちをひとつ。

 身体を起こして、綾波レイから視線を逸らすように、立てた膝に頬杖をついた。

 もう言葉を返す気も起きなかった。

 どうせ無駄になる。

 そう分かっているからこそ、彼女に対する言葉は無価値。

 表のわたしは綾波レイを守ると意気込んでいるが、彼女に救いは無い。

 本人に生きる意志が無い限り、わたし達の努力は無駄になる。

 だから、何も言わない事が、唯一生産性のある事なのだと思った。

 と、そんな折。

 

――ねえ、レン。

 

 ふと、誰かに呼ばれた気がした。

 その声は最近も聞いたようなもので。だけど実際には、遠く昔に聞かなくなった声だった。

 言葉は続かない。

 だけど、脳裏には一人の少女が浮かぶ。

 碇レンがわたしを生み出すに至った鍵。

 たった一人の、大親友。

 その姿を思い起こせば、今の自分の態度は本当に正しいのかと、自ずから問いかけてしまう。

 命を大切にしろと教えてくれた彼女は、命を粗末に扱っていた碇レンを嫌ったか? いいや、嫌わなかった。

 むしろ、誰より理解し、叱ってくれた。

 わたしが今、こうして、綾波レイに辛辣な態度をとるのは……気高いあの子の志から、何も学べていないのではないか。命の大切さを説いてくれた彼女は、望まないのではないか。

 わたしは、間違っているのではないか?

 表のわたしは、綾波レイを盲目的に愛しんでいる。

 なら、わたしのやるべき事は――。

 

「はあ……」

 

 わたしは深い溜め息を吐いた。

 その音に、綾波レイが僅かな身じろぎをしたような音が続く。

 ほんっと面倒臭いけど、あの子がいなければ、わたしは居ない。

 碇レンの命すら、無かっただろう。

 だから、その恩に報いるのは、当然の務めだ。

 わたしは睨むような心地で、綾波レイへ視線をやる。

 彼女もこちらを向いていて、その顔付きはやはり無表情。今しがたの問答すら、彼女の胸中には響かなかったのではないかと思うものの、それはわたしが判断すべき事ではないのだろう。

 わたしの中で、己の利が旧友の意思を尊重する事に傾いた。

 ただそれだけだ。

 綾波レイが己の命を粗末にしたところで、別に悔いる事もない。これはただの自己満足だ。

 わたしは改めて、真面目な表情で唇を開いた。

 

「今日を生き抜けば、いつものわたしが待ってるわ」

 

 その言葉が、正しく伝わったかは分からない。

 綾波レイはそっぽを向いて、「そう」とぼやくばかり。

 だけど、暫くして。

 

「明日の、お弁当は?」

 

 そう問いかけてきた。

 唐突な物言いに、わたしはらしくもなく目を丸くしてしまうが、理由は表のわたしの記憶を辿るとすぐに分かる。そしてそれがあまりに緊張感のないものだったから、思わずふっと噴出してしまった。

 綾波レイは不思議そうな顔をしていたが、答えてやらねば目的は果たされない。

 わたしは二度、三度頷いて、呆れた笑みと共に答えた。

 

「お互いに、生きてたらね」

「そう」

 

 まあ、表のわたしがこの約束を覚えている保証はないけれど、綾波レイにお熱な奴だ。間違いなく作ってやるだろう。

 何せ、死に急いだら食べられないという事だけ、覚えていれば良い。

 生きていれば、何処だって天国になる。

 綾波レイ(あんた)のオリジナルは、わたしに向けてそう遺したんだしさ。

 あんたが体現しないで、どうするってのさ。

 なーんて、詩人が過ぎるし、わたしらしくもない。

 早いところ作戦時間になってくれないと、月明かりがわたしを優しくしてしまう。

 そんな役目を持って、生まれた訳じゃないのに。

 

――ああ、早く暴れたいなぁ。

 

 深い溜め息と共に、空を見上げる。

 気持ち悪い事を考えた脳を切り替えるように、わたしは作戦のおさらいをした。

 作戦開始時間になったら、下山して、使徒の迎撃エリアに侵入。注意を引き付ける。綾波レイが狙撃を当てれば良し。当たらなければ、次弾発射までにわたしが距離を詰める。狙撃手が無防備である以上、二発、三発と撃ち込むには、使徒から見たわたしの危険度を極限まで高める必要があるが……さて、どう転ぶか。

 まあ、わたし個人としては、綾波レイの狙撃は外れて欲しい。

 あのやたら綺麗に磨かれたガラスのような体表をぼろぼろに砕いてやりたいのだから。

 だけど、あの使徒が強敵というのは理解出来る。

 そもそも生きて乗り越えなきゃ、続く使徒への復讐が出来ないのだから、元も子もない。

 改めて奴のデータを見た時、わたしひとりで決着出来ると断言出来なかったのは、仕方ない部分もある。思った以上に、奴は強かった。少なくとも、あれに勝った碇シンジは、随分な豪運の持ち主だろう。

 わたしのシンクロ率ですら、奴のATフィールドを破るのにギリギリ足りるかというところ。奴の砲撃に関しても、わたしのATフィールドを以ってして、完全に遮断する事は出来ないと言われているのだし。

 まあ、中和されると思わなくて良いのは、第四使徒より楽かもしれないが……いいや、それは言い過ぎか。中和出来る距離で荷粒子砲をぶっ放されたら、ひとたまりもないのだから。

 何せ、わたしの役目は距離を詰め、ATフィールドを中和し、奴をぶっ殺す事だ。

 臆す事無く突き進めば良い。

 得意分野だ。

 作戦をおさらいして、ゆっくりと立ち上がる。

 緊張感は全くと言って良い程無いのだが、身体が凝り固まって仕様が無い。

 肩を解していると、やがて綾波レイもすっと立ち上がった。

 

「時間よ。行きましょ」

 

 踵を返した彼女は、ぽつり。

 

「さよなら」

 

 そう溢した。

 言葉を受け取ったわたしは、思わず眉をひそめてしまう。

 さっきの説教受けて尚、その言葉をチョイスする?

 わたしは溜め息まじりに、ブリッジを去ろうとする綾波レイへ向けて、げんなりとした表情で唇を開いた。

 

「そこは『またね』でしょ?」

 

 そう言うと、時間厳守を心掛けている筈の彼女の足が、ぴたりと止まる。

 こちらを振り向いて、目をぱちぱちとさせて、こくり。小さく頷いた。

 

「また……」

 

 そう言って、今度こそエヴァの搭乗口へと向かって行った。

 ほんと、世話が焼ける奴。

 そんな感想を、夜空に向けて組んで伸ばした手にぼやいて、ふうと一息。

 さて、行きますか。



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4.Raise the emotion to doll.

 エヴァに搭乗すれば、わたしは作戦通り、盾を持って、二子山を駆け下りる。

 なるべく奴に近い位置かつ、狙撃地点である二子山からは離れておきたいところではあるが、電源設備は二子山に仮設されたものしか機能していない。他に割く余裕はなかったらしい。

 故に、アンビリカルケーブルがギリギリ届く二子山の麓で立ち止まった。

 左手で持った耐熱光波防御盾の底を国道に突き刺し、肩のウェポンラックからプログレッシブナイフを装備する。

 使徒のATフィールドの中和に使える時間は僅か数秒。

 ナイフを途中で落とす可能性より、一秒でも早く奴のATフィールドに傷を入れられるようにしておく。最悪の場合は素手でぶん殴れば良い。

 

『作戦内容は以上よ。良いわね? ふたり共』

 

 スクリーンの右端に表示された葛城ミサトに、頷いて返す。

 今回ばかりはわたしも作戦考案に携わっている以上、駄々を捏ねる必要は無い。素直に了解した。

 

『レンさん』

 

 サブモニターが切り替わる。

 赤木リツコがこちらを見ていた。

 

『今の貴女のシンクロ率は八九・三パーセント。MAGIの計算では、全開のATフィールドでも、使徒の荷粒子砲の一二パーセントが初号機に届きます。盾の有効時間も算出したものより〇・八秒マイナスよ。出来る限り盾から身を出さないように。照射箇所が増えると、フィードバックダメージで失神する恐れもあるわ』

 

 淡々と溢された言葉だったが、最後の忠告は赤木リツコらしくない。

 しかし、今回の作戦では、本命こそ零号機による射撃だが、それには初号機が奴の注意を引き付ける事が大前提。わたしが接近戦に持ち込める可能性があったからこそ、こういう配置になったが、そうでなければわたしが狙撃手を担当する方がよっぽど賢い。

 赤木リツコの忠告も当然だろう。

 わたしは了解して返す。

 シンクロ率の向上があれば、盾の有効時間が延びる。その際は一応補足するが、耳に留めなくて構わないと言われた。おそらくシンクロ率が高ければ、必然的に聞こえなくなってしまうものだからだろう。

 いいや、今回ばかりは聞いておく価値がある。

 エヴァと一心同体になったとして、頭に直接語り掛けられている気分でも心得ておけば、少しは聞こえるだろうか……まあ、物は試しだ。駄目そうならシンクロを優先しよう。

 呼吸を落ち着け、ゆっくりと意識を集中。

 自らの身体で感じる感覚を出来る限り軽んじて、思考の隙間へ入ってこようとする異質な感覚を重視する。

 ふうと改まる頃には、『わたし』は二子山の麓にある道路で、半身を引いて構えていた。盾も左腕に構え、走行の邪魔にならない角度に調整しておく。

 星明りのみが照らす沈黙の大地。

 目指す先は、一〇キロ程離れているようだが、奴を照らす唯一の明かりが空に仄かな線を描いていて、実に分かりやすい。

 目標を見据えると、腹の底から湧き上がってくる熱量が、先程まで抱いていた安らぎを喰らいつくしていく。ふとすれば、LCLがこんなにも熱い。まるでわたしの心臓が熱を放っているように感じた。

 

『作戦、開始』

 

 葛城ミサトの言葉と共に、バジッという音を立てて、アンビリカルケーブルをパージ。

 ピーっという間抜けな音が、スタートの合図だった。

 脆いアスファルトを容赦なく踏み割って、わたしは駆けだした。

 

『撃鉄を起こせぇ!』

 

 日向マコトの声を聞く。

 二〇秒後に、ポジトロンライフルによる第一射の予定だ。

 それまでに、わたしは駒ヶ岳の麓へ入らねばならない。

 大地を踏み抜き、風を裂く。

 電線や建造物等、容赦なくぶち壊しながら、わたしは駆けた。

 集音機(鼓膜)を揺らす風の音。

 装甲()で感じる大気の抵抗。

 それらは今までより、より鮮明で。

 わたしはこの大一番、過去二戦のどのタイミングよりも、深くシンクロが出来ていた。

 アスファルトを叩き割る足裏の感覚すら確か。

 碇レンの足はインテリアの中でLCLに揺蕩っているのに、地に足がついている。

 より一層、力強く大地を踏んでいる。

 大通りを超え、駒ヶ岳を目前にした。

 これを登ると射線が二子山を巻き込んでしまうので、麓を南下。少し逸れてみれば、遠目に使徒を照らす明かりがはっきりと見えた。

 

『目標に、高エネルギー反応!』

『レンちゃん。構えて!!』

 

 葛城ミサトの声が、わたしに警鐘を鳴らす。

 ハッとして身体の重心を後ろにずらし、強引に足を止める。

 アスファルトを抉りながら、慣性を殺すと同時に、左半身を前に。盾を大きく振り上げ、足が止まったと同時に、地面へ突き刺した。

 深く、深く拒絶しろ。

 奴を、他人を、誰かを、わたしの心に触れさせるな。

 

「ATフィールド、全開ッ!!」

 

 盾ののぞき窓の向こう。

 遠目に、ぎらりと煌めく閃光があった。

 一度ばかり弾けたかと思った瞬間。

 その光に、呑まれる。

 ドンッという乱暴な衝撃が一度。

 足下から掬い上げられるような衝撃が続き、わたしが踏ん張った腰を無理矢理引っ張り上げるようだった。

 力を抜いてしまえばひっくり返されそうな衝撃は、しかし耐えきれない程ではない。ナイフを握ったまま、右手を左手の上から押し付け、グッと耐える。

 ジリと焼ける感覚。

 ふと気が付けば、昼の陽射しが可愛らしく思えるような熱量に包まれている気がした。

 何が起こっているかは分かっているのに、何がどうなっているのかが理解出来ず、理解する事さえ恐ろしく、目を閉じ、歯を食いしばる。轟という音は、果たして衝撃の音なのか、身体が焼けてしまっている音なのか。ああ、こんなに恐ろしい音を聞かされるのなら、耳にも瞼があれば良いのに!

 あと何秒耐えれば良いのか。

 耐える。

 ただ耐える。

 だが熱い。

 あまりに熱かった。

 迫りくる衝撃の強さに、呼吸さえ機能しない。

 ただひたすらに苦しかった。

 当然、声さえ、上げられない。

 こんな苦しいものを、あと二度も耐えろって言うのか。

 死ぬ。

 死んじゃう。

 これ、死んっじゃ……う。

 

『ATフィールドによる遮断率九二パーセント。五〇秒はもちます!!』

『ポジトロンライフル。装填完了!』

 

 幾つかの声が重なった。

 耐えるのに必死で理解には及ばない。

 だけどふと、脳裏に蘇ってくる声があった。

 

――あなたは死なないわ。わたしが守るもの。

 

 それは、碇シンジの記憶。

 わたしには与えられなかった言葉。

 だけど、確かに聞こえた。

 

『発射ァッ!!』

 

 その刹那。

 荷粒子砲に晒される最中でも、エヴァの通信を通じてだろうか――ガチンと、力強く引き金を引く音を聞いた。

 わたしを襲う高熱が掻き消える。

 先程までの衝撃が嘘のように、力の行き場を無くして、たたらを踏んだ。

 ハッとすれば、頭上に一筋の閃光。

 それは弛み無く真っ直ぐ進み、遥か彼方へ。

 綾波レイが、ポジトロンライフルを撃ったのだ。

 しかしそれを見送った瞬間、凄まじい嫌悪感に襲われた。

 詰まっていた呼吸が突然再開され、思わず胸を押さえる。トンカチで殴られたかのように、頭が痛んだ。

 くそっ。

 まだ終わっちゃいないのに!

 冷静な思考が悪態を溢す。

 だけど、全身が震えて声も出ない。

 頭を押さえる手が、身体を強張らせる力が、上手くコントロール出来ない。

 

『目標健在!』

『外した!?』

 

 くそ! くそぉっ!!

 ありったけの力を籠めて、頭を押さえる右手を振り上げる。

 LCLの中でどれ程の効果があるのかなんて考えもせず、その手を振り下ろして、自らの胸を打った。

 動け。動きなさいよ!!

 二度、三度と殴って、わたしは不意に咳き込む。

 ゲホッとLCLを吐き出せば、深い水底から急浮上するような感覚を覚えた。

 勢いよくLCLを吸い込んで、ようやっと思考が戻る。それでも未だ朧気に思えたが、通信の音が耳に届いた。

 

『レンちゃん。急いで! 次、来るわよ!』

 

 くそが! やっぱりもう一回耐えないといけないの!?

 喉まで出かかった悪態を口に出したかどうかすら分からないまま、わたしは両の手を確かめる。

 右手に、プログレッシブナイフ。

 左手に、盾。

 それを確認したら、もう細かい事は後回しにして、走る事だけを考えた。

 

「状況……状況は!?」

 

 喉から絞り出す思いで、叫ぶ。

 今のわたしは盾の融解率を確認している余裕もなければ、『次は死ぬかもしれない』と思う心を抑えるので必死だった。だけど、それは『わたし』に限った話。

 走れ。

 走るだけで良い!

 耳を澄ませ。

 状況を確認しろ!

 身体に異常はない。

 次に備えるなら、弱音を黙らせろ!

 思考が幾つかに分裂していく。

 わたしの中で、わたしになれないわたしが、理解を担当し、自制を担当し、全てが整っていく。

 そんな並列思考もどきの技術を身につけた覚えは無かったが、不思議と信用に足る感覚だった。

 

『盾の融解率は二三パーセントよ! 次も耐えられるわ!』

『シンクロ率九三パーセント。危険域に突入しています!』

 

 大丈夫。

 大丈夫だ。

 リツコさんが耐えられると言うのなら、それは確かだ。

 シンクロ率の事は忘れろ。危険域だろうと、知ったこっちゃない!

 

――全ては、あの使徒を倒す為にッ!!

 

 がむしゃらに走った。

 気が付けば駒ヶ岳の麓を抜けようかとしていた。

 もう使徒の姿までくっきり見える。本当にポジトロンライフルを喰らったのかと疑いたくなる程、綺麗な水色をしていた。

 そこでふと、先程まで聞こえなかった金切り声のようなものが聞こえた。

 

『目標に、再度高エネルギー反応!』

『レンちゃん。構えて!!』

 

 この距離で、受けるの!?

 受けれるの!? あれ。

 考えるな!

 構えろ!!

 馬鹿、違う。

 見誤るな!!

 ミサトさん!!!

 ひゅんと、風を切る音がした。

 いいや、それは風を切っているのではない。粒子が空間を抉り取った音だった。

 盾を構えたわたしの頭上を、極太の光線が過ぎ去っていく。

 それはまるでわたしに見向きもしない様子で、わたしが先程まで佇んでいた場所へと向かっていた。呆然と見送るわたしの視界は白く焼け付き、何かの影が深く黒く映っている気がした。

 ふとすれば、こんなにも遠い。

 手を伸ばせど、届かない。

 守ろうと思えど、届かない。

 わたしはただ、彼女が蹂躙される様を見届けなければならなかった。

 彼女を守る筈の盾は此処にあり、その盾が防ぐべき砲撃は遥か頭上。いいや、そもそもからしてこの世界、この時間に置ける盾は、彼女を守る為のものではなかったのだ。

 彼女は無防備。

 砲撃を受け止める術は、何処にも無い。

 そう理解すると、腹の底から熱い塊がせり上がってきて、喉を裂く勢いで飛び出した。

 

「綾波ぃぃッ!!」

 

 返す音は、通信回線が混濁する雑音。

 爆ぜた音なのか、衝突音なのかすら分からない。

 だけど何故か、彼女の短い悲鳴だけは、耳に確かだった。

 心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。

 焦燥感。

 罪悪感。

 取り返しのつかないミスを犯したと思わせるような衝動。

 いや、違う。

 違う。わたしは……。

 

「くそったれぇっ!!」

 

 混乱する思考を放棄して、わたしは進行方向へ向き直る。

 未だぶっ放されている荷粒子砲の下を、無我夢中で走った。

 ぶっ殺してやる!

 ぶっ殺してやる!!

 思考が、やけに煩く怒鳴った。

 

――ちっ。使えないわね……。

 

 対して、激情する『わたし』の思考をとても冷静に観察する『わたし』がいた。

 その思考はやけに自嘲した風で、「そっか、そういう事かい。やっちゃったなぁ。これは」なんて、如何にもな言葉を並べて嘯いていた。

 今、自分の身に何が起きているのか。

 今、自分が何をしようとしているのか。

 漸くそれら全てが理解出来た。

 いやはや、まさかこの『わたし』が、綾波レイが狙撃されて激情するとでも? 有り得ない。彼女の代わりはいくらでもいる。つまり、今うるさくわめいているガキは……表のわたしだ。いつの間にか表面化して、身体の主導権も奪い返されていた。

 已む無し。エヴァの操作(身体)を表のわたしに預けて、思考する。

 綾波レイが狙撃された。

 この時点で、エヴァ初号機の接近戦による殲滅法をとるしかない。綾波レイの安否こそ分からず、無事である可能性もありはするが……二子山が蒸発してしまったという事は、狙撃に最適なポイントを失ったという事。奴に気取られず、コアを狙撃するのは、些か無理があるだろう。

 未だ奴の砲撃は止まずとも、初号機がATフィールドを中和するのに要す時間により、奴の反撃はあるものとする。肉薄状態での荷粒子砲の直撃――回避、不可。防御、困難。

 威力減衰無しであの砲撃は受けたくないな。

 一体何処で意識が切り替わったのだろうか……。

 発進した時の感覚は確かだ。一発目の荷粒子砲を食らった時から、思考が淀んでいる。頭の中で赤木リツコと葛城ミサトへの呼称が変わっていた気がする。そして、決定的なダメージが、綾波レイの被弾か。

 ふむ。

 現状の取り返しは大変そうだけど、後学の為にはなった。

 前回の使徒戦の際に反省すべきだったかもしれないが、どうやらわたしの人格というのは相当不安定なものらしい。元が同じ碇レンであるからか、ひょんな事から入れ替わってしまう。上手くコントロール出来ていないように見えて、表のわたしも本能的に入れ替わる術を心得ているのだろう。

 となると、少しばかり気になる事はあるが……いいや、考察はこのくらいにしよう。今はまだ戦闘中。このままあの強敵を表のわたしに任せてしまう訳にはいかない。

 

――てことで、お母さん。表のわたし(その子)、黙らせてくれる?



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5.Raise the emotion to doll.

――ドクン。

 

 一際強い心臓の鼓動が一度。

 身体を穿たれたような衝撃と共に、表のわたしが悶絶。思考が止まった一瞬を狙いすまして、それを乗っ取る。主導権を奪い返せば、身体は熱い程に上気していた。

 思考を濁してしまいそうだが、必要な事は先程考えておいた。

 反省や後悔はあと。

 状況を確認して、考察と合わせていけ。

 エヴァの走行状態は止まるのに数秒を要す。

 使徒との距離は近く、既に市街地に入ってしまっている。此処から引き返すのは困難であると同時に、流石に愚行か……奴の射程外に逃げ切る時間も無ければ、綾波レイが援護射撃を出来る保証もない。

 使徒の砲撃の有効時間は三〇秒以上。

 盾の融解率は二五パーセントと言っていたか。有効時間は多めに見積もっても三八秒程度だろう。肉薄していると威力減衰が無い為、下方修正すべきかもしれないが、細かい計算が出来ない以上、考えるだけ無駄だ。

 使徒の砲撃を止める援護射撃も当てにならない今、流石に不安はあるものの、耐えきれるに賭けるしかないだろう。

 使徒の荷粒子砲は既に止んでいた。

 表のわたしに奪い返される前に聞いた金切り声のようなものは無く、現在、使徒は悠然と佇んでいる。

 あの声には覚えがある。碇シンジが撃たれた時、同様の音を聞いた。おそらく奴が荷粒子砲を放つ際の兆候と見て間違いない。

 つまり、今から数秒は安全という事。

 だが、奴までの距離を詰めるには、あと十数秒を要する。ATフィールドの中和も考慮すると、決して十分な猶予とは言い難い。せめて奴のATフィールドが遠距離からでも中和出来る柔さならとは思うが、言ったところで仕方がない。

 

「葛城ミサト。聞こえる!?」

 

 エヴァの走行速度を維持。使徒への距離を詰めながら、わたしは叫ぶ。

 しかし、繋いだ回線はテレビの砂嵐とよく似た音を立てるばかりで、うんともすんとも言いやがらない。身体本体の視線をウィンドウへ向けてみるも、『SoundOnly』と書かれた映像に、ノイズが入っているだけ。目に見えた応答すらない。

 使えねえな! くそっ!

 まあいい。伝わろうが伝わらなかろうが、やる事は変わらない。

 

「エヴァ初号機、これより接敵する。ATフィールドの中和を確認次第、手筈通りに!」

 

 しかし、丁度碇シンジが初めて奴の荷粒子砲を食らったぐらいの距離だろうか。

 キィィィン!

 と、奴から金切り声が聞こえてきた。

 それと同時に、わたしは現状況を改めて分析する。

 

 距離、三〇〇。

 敵荷粒子砲発射まで、推定五秒。

 肉薄まで二秒プラスα。

 敵ATフィールドの中和に要する時間、不明。

 

 脳内で様々なシミュレートが一瞬にして行われる。

 とはいえ、元よりここからわたしが取れるアクションが少なかった為、幾つかの条件を考慮しても、結果の総数は知れている。まるで樹形図をひとつずつクリアしていくかのように、思考は一瞬の間に深くへと潜っていった。

 仮にここで盾を構えたとしても、衝撃によって大きく後退する。そこからフィードバックダメージによって混乱するであろう思考を纏め、再度攻勢へと転ずるのは、困難と判断。事実、一度目の荷粒子砲から、二度目の荷粒子砲の発射まで、わたしはがむしゃらに走っていただけだ。その状況でATフィールドの中和が出来るとは思えない。

 よって、最優先はATフィールドの中和とする。

 しかし、残された時間で中和しきれるかは分からない。出来なければ死ぬ可能性も高い。バックアップ無しの出たとこ勝負は愚の骨頂。最低限の保険は必須だ。しかし、その保険に挙げられる零号機は、既に沈黙。仮設本部とも連絡が取れない為、期待値は低い。

 

――状況、困難。何らかの犠牲を要する。

 

 思考開始より三歩目。

 先行する左手、及び盾が障害物に接触。不可視、且つ、極彩色の発光現象を確認した。

 プログレッシブナイフを所持する右手が後方にある状況で、敵ATフィールドへ接触出来たのは僥倖と言える。敵ATフィールドの硬度の調査、及び中和へと移る。

 

「ATフィールド、全開!!」

 

 走行の勢いがやや死んでいた為、上段から振り下ろすような角度でナイフを突き刺す。

 ガギンッ!

 と、非常識的な衝撃音が聞こえたかと思えば、右手は鉱物を打ったかのように痺れた。しかし、硬いながらも若干の反発を感じて、そこに活路を見た。

 いける!!

 一瞬ばかし右手を引いて、ナイフに掛かる重力が浮力と釣り合ったタイミングを見計らい、順手から逆手へ持ち直す。そのままぶっ叩くようにして、再度ナイフを突き立てた。

 しかし、足りない。

 右手の感触から、初号機の膂力ならかち割れる事に確信がある。しかし、片手では足りない。あとほんの少し力が足りなくて、臨界点を超えられない。

 じゃあ、もう両手でいくしかないじゃん!!

 左手の盾を投げ捨てる。

 ダメ押しと言わんばかりにナイフの柄に向けて、拳を叩きつけた。

 ピシッと音を立てて、極彩色の壁に亀裂が走る。

 だが、ここで思考より四秒が経過。

 使徒の中心部、こちらへ向いた頂点に、光が集まっていくように見えた。

 

――ATフィールドの中和は間に合う。けど、やっぱり被弾は避けられない。

 

 わたしがそう悟ると同時に、極彩色が音を立てて砕け散る。

 使徒のATフィールドの破片がガラス片のようにキラキラと舞う中、わたしはたたらを踏んだ。

 あと一秒。

 やけにゆっくりと進むわたしの思考は、これまでに無い程冷静だった。

 慣性の促すまま地面にプログレッシブナイフを突き刺し、右手でそれを強く握る。左腕を畳み、顔と胸を守るように、防御の体勢を取る。

 必ず犠牲がいる。

 だが、碇シンジの時のヤシマ作戦と違い、今のわたしは使徒に肉薄している。荷粒子砲の被弾部位は、ヤシマ作戦のあの時とは違い、最初に被弾したあの時と同じ……一点になるだろう。そしてその威力は、碇シンジが搭乗するエヴァ初号機の胸の装甲を七秒で融解する程。裏を返せば、『装甲の融解に七秒はかかる』という事になる。

 記憶と同じ状況であれば、奴は初号機のコアの反応を狙ってくるだろう。それを正確に察知している保証はないが、ラミエルもゼルエルも、碇シンジを窮地に立たせた際は、正確にコアの一点を集中攻撃してきていた。保証はなくとも、確信に足る。

 故に、左腕を犠牲にする。

 コアより先に、更なる装甲を盾にする。

 その間に、『第二ヤシマ作戦』が実行されれば勝ちだ。

 不確定要素は二つ。

 本部の連中にATフィールドの中和が出来た事が伝わったかどうか。

 そして、わたしが使徒の荷粒子砲を受けて、意識を保っていられるか。

 さあ、全て整った。

 

――わたしを殺せるものなら、殺してみなよ。ラミエル!!

 

 キィンッ!

 短い音が聞こえるや否や、とんでもない衝撃が襲ってきた。

 初めは肩を思い切り殴られたかのような感覚。しかし、次の瞬間には引き千切られるような痛みと、ナイフで抉られているような痛み、そして何故か腕から身体中へ響き渡るような悪寒を感じた。

 声にならない悲鳴を上げる。

 コックピットの中で左腕を押さえ、のたうち回る。

 想定していたよりずっと酷い痛みだった。それは瞬く間に左腕を貫通し、今度は脇腹へ届く。

 もう何が何だか分からなくなって、頭が真っ白になる。その空白の中で、左腕千切れ飛ぶイメージと、心臓を抉られるイメージが、交互に浮かぶ。それに対する感情はやけに冷めていて、アイスを地べたに落として悔いる時と似た感覚で、何でこんな結果になってしまったのかと後悔する。

 これが、死線なのだろう。

 そんな俯瞰したような事も考えた。

 必死に意識を繋ぎ止める自分に、頑張れなんて無神経で無責任な言葉を他人事のようにこぼしてみたり。仕方なかったとはいえ盾を捨ててしまった事がダメだったなとか、反省してみたり。使徒を倒しても、もしかしたら左腕が動かなくなってしまうんじゃないかと、恐怖するでもなく冷静に分析して、その可能性を考慮してみたり。

 そこで――終わった。

 

 女性の悲鳴のような金切り声が聞こえた。

 

 思考が停止したまま、青い結晶体の使徒の身体が、煙を噴いて傾いているのを見た。

 その身体の節々に爆炎が巻き起こり、焦げ付いたような黒ずみも複数箇所確認出来たが……いや、違う。使徒の中心部ががらんどうになっている。

 その姿は一度碇シンジの時に見た映像。

 陽電子砲が奴をぶち抜いた時に見た姿だ。

 

――いや、まだだ。

 

 思考がゆっくりと、ただ認識するかのように、目の前の状況を整理した。

 がらんどうに空いた使徒の身体の奥で、何かが(うごめ)いている。それはボコボコと泡立つ気泡のようで、空いた穴を塞いでいく。ふとすればそのまま破裂してしまいそうに見えたが、どうして、穴の奥で綺麗な球体へと整形されていくようだ。

 凄まじい自己復元能力だった。

 身体中に集中砲火を浴びて尚、傷付く傍から復元している。

 成る程。

 状況の理解が進む。

 わたしが使徒のATフィールドの中和を果たしたと判断した葛城ミサトは、『第二ヤシマ作戦』を発令。碇シンジの時は前哨戦とばかりに浪費した砲門全てを、この時に一斉掃射。ATフィールドが無くなった使徒の肉体を、物理的に破壊する作戦へと移行した。

 それと同時に元の『ヤシマ作戦』も再度決行。

 難を逃れていた零号機が、使徒を狙撃したのだろう。

 だが、足りていない。

 狙撃がほんの僅かに逸れてしまったのか、ラミエルはコアを復元している。外殻が物理的に硬かったのか、兵器の効果も薄いようだった。

 作戦は、失敗している。

 そう悟った。

 

――失敗? 違う!

 

 まだ、終わってない!

 ハッとしたわたしは、立ち上がろうと地面に手を突く。が、その感触が無い。

 激痛に呻きながらスクリーンの端を見れば、初号機の左腕は溶岩のように溶け落ちていた。

 知覚して、痛みが増す。

 

「ぐぅぁああっ!!」

 

 だけど、ここで痛みに屈してしまえば、本当に作戦が失敗する。

 まだ、この続きがあっただろう!?

 自分にそう言い聞かせて、よろけながらも立ち上がる。身体中に激痛が走って、無事な筈の右手の感覚さえあやふやだったが――まだだ。まだ戦える!

 プログレッシブナイフは大地から引き抜けただろうか。

 いや、その確認をする時間すら惜しい。

 今尚修復されていく使徒に空いたがらんどうだけを見て、動け、動けと身体を叱咤する。

 その距離がぐん、ぐんと縮まる最中も、痛み以外の身体の感覚はさっぱりなかったが、知ったこっちゃなかった。

 漸くにして、肉薄する。

 ここに来て、朧気だった意識が、集束するように覚醒する。それに対して、身体の痛みが感覚を超越したかのように、不快なものから別な感覚へ上書きされていく。

 

「痛い、痛い、痛いよぉ! 痛いの! あは、あはははは!」

 

 視界が傾くような感覚と共に、わたしという意識がずれ、壊れていく。そんな気分だった。

 修復されていくがらんどうへ、ナイフを握っている右手を、無遠慮にぶち込んだ。

 使徒が悲鳴を上げる。

 その感覚が、わたしを恍惚とさせる。

 第三使徒を蹂躙した時の感覚に近いだろうか。たまらない快感だった。

 

「あはは! ねえ、痛い!? 痛いの? ねえ!!」

 

 使徒の体内でナイフを持ち換え、そこいらじゅうがむしゃらに掻っ捌く。コアまで手が届きそうにはなかった為、致死性は低く感じられたが、使徒も生物的に単純な痛みを嫌うのだろうか。ラミエルは悲鳴を上げながら、地下へ侵攻していたドリルを放棄し、わたしから遠ざかろうとしていた。だが、地下への侵攻速度に相応しく、物理的な動きは実に弱々しいものだった。無理矢理大地へ引きずりおろせば、後はもうやりたい放題だ。

 

 ピー!

 

 そこで絶望の音を聞く。

 ハッとしてスクリーンの端を見れば、残り時間は〇:〇〇秒。

 全力で稼働させた所為で、思ったより時間が縮まったのだろうか。はたまた、わたしが残り時間を誤認していたのだろうか。いいや、それとも、経過時間を正しく認識出来ていなかったのか。

 うそ!? どうしよう。

 そんな言葉が浮かんだ矢先だった。

 

――ねえ。あんた。

 

 その声は確かにわたしのもの。

 しかし、遠い記憶の彼方にある忘れ去られた日々――様々な悪意に心を蝕んだ幼少期のそれだった。

 

――大丈夫? そろそろ死んじゃうよ?

 

 その声は、何が可笑しいのか、くすくすと笑っていた。

 わたしからわたしへ向けられた言葉の筈なのに、まるで自分自身の死を予期する事が、愉快、滑稽だと言わんばかりだった。

 

 ぷつん。

 

 なんて、昔のポンコツテレビが消灯する時のような感覚。

 ふとすれば、途端に身体中から血の巡る音が聞こえてくる。あっという間に聴覚が麻痺してしまえば、視界もぐらりぐらりと歪んだ。とすれば、身体の底から堪らない不快感がこみ上げてきて、胃をひっくり返したかのようだった。

 え、なにこれ。

 そんな感想を抱くが早いか、第四使徒にぶん投げられた時を彷彿させるような浮遊感を感じた。いいや、それはただの錯覚。視界が動いていないからこそ、頭と感覚が噛み合わずに、混乱する。

 なにこれ。なにこれ!?

 思わず己の口元を左手で押さえようとして――わたし自身の視界が、半ばで千切れた己の左腕を認める。ドロドロに溶けたプラグスーツの下、白い柔肌が、まるでエヴァのそれと同じように、無惨な姿になっていた。

 ストローから漏れ出しているように、血が噴き出していた。

 犬が飽きて捨てたおやつみたいに、へしゃげた骨が見えていた。

 いいや、それさえわたしの妄想が見せているに過ぎない。難なら、LCLがある以上、血が噴き出すなんて有り得ない。しかし、これが妄想だと分かっていても、妄想は現実をも蝕み、壊すものだと、わたしの記憶が知っていた。

 

――あ、ダメだ。これ。

 

 そんな言葉が脳裏に流れるや否や、冷静な意識までもがぷつんと音を立てて消灯してしまった。

 

「ひ、ひぃやぁぁああぁぁあああ!!!!」

 

 再び激痛が身体を襲った。

 あまりの痛みに両手で頭を掻きむしる。いいや、左腕の感覚がない。

 痛い。怖い。痛い。痛い。痛い。

 

「いや、ぎぃ、ぎゃあああ!!」

 

 泣いて、喚いて、のたうち回る。

 しかし、頭のすみっこで『使徒殲滅』というお題目が流れていた所為か、わたしの癇癪は無防備な使徒の肉体へとぶつけられる事になった。それこそ、内部電源が切れた事なんて忘れて、ひたすらに使徒を攻撃するイメージで脳を満たした。

 悲鳴、慟哭、激情。

 ラミエルの身体を殴り、叩き、頭突き……それでも身体の痛みは収まらず、わたしは叫ぶ。助けを求めて、無我夢中で回らない呂律を必死に回す。

 もう、どうにかなりそうだった。

 

『信号拒絶! エヴァ初号機、制御不能です!』

 

 伊吹マヤのそんな言葉が聞こえたかと思えば、ついにわたしは視界まで失った。



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6.Raise the emotion to doll.

 真白の世界に描かれたのどかな高原、一本の木。

 その木陰に、わたしは在りし日の面影を見る。

 いいや、それは確かに『在りし日』ではあるが、わたしが知る筈のない景色だった。

 

「ええ。ここは貴女の記憶ではない」

 

 そう答えを寄越すのは、わたしがこの景色に、『わたしの記憶ではない』という回答を持つ証拠であり、証明。証人でもあった。

 きっと鏡があれば、冗談交じりに間違い探しが出来ただろう。

 ここに憎き父がいれば、弱みを握るに十分な一面を垣間見れただろう。

 記憶や夢の中では何度となく姿を見たが、こうして『わたし』が『わたし』として、彼女の目に留まるのは、果たして何年ぶりなのだろう。

 ああ、本当に、懐かしい。

 

「おいで。レン」

 

 どうして、こんなにも温かい。

 どうして、安らぐ匂いがする。

 どうして、どうして、どうして……。

 ぎゅうと抱き締められてしまえば、思わず嗚咽が漏れた。

 記憶とは違う。自らの母に知覚して貰える事が、こんなにも嬉しい事だとは思わなかった。

 最期の時まで記憶に不確かなニアミスばかりが続いた碇シンジとは、どうやら決定的に異なる。今のわたしは、彼よりずっと鮮明な体験をしていた。果たして、今しがたエヴァの操縦桿を握っていた事なんて、それこそが夢みたいだった。

 

「もう、勝手に呼びつけて、勝手に利用して、勝手に泣きついてくれちゃって……随分、甘えん坊さんに育ってしまったのね。レン」

「誰の所為よ……誰の、誰の所為だと!」

「分かってる。分かってるわ」

 

 わたしを掻き抱く腕が、ぎゅうと力強くなる。

 母がくすりと耳元で笑えば、まるで春風に季節の移ろいを感じるかのように、胸にじんとした感動を覚える。それがやけに懐かしくて。身体では覚えていない幼い頃の記憶が、無理矢理引っ張り出されるかのように、わたしの涙腺を緩ませた。

 

「全部見た。全部、見たわ」

「ぜん……ぶ?」

「ええ。レンが必死に生きてきた事も、貴女を苦しめたもう一人のわたしの子供の事も。そして、人類補完計画と……その、末路も」

 

 つらつらと語る母、碇ユイ。

 その表情は何処か儚げで、気が付けば消えてしまっている木陰の風景と同じように、ふとすれば居なくなってしまうかのように見える。それが嫌で母の薄い白衣をギュッと握り締めれば、まるで応えてくれるように、わたしを抱く腕にも力が籠った。

 母が言うのは、恐らく碇シンジの記憶の事。

 人類補完計画でわたしが様々な人の心と思い出を垣間見たように、わたしとシンクロをした母もまた、わたしのありとあらゆる記憶を垣間見たのだろう。勿論、その中には見られたくない思い出もあったが、不思議と恥じらいはなかった。

 これが母と子の関係だというなら、何だか少し、母はズルい。

 

「大人はズルいくらいが丁度良い……でしょ?」

「お母さんは加持さんよりよっぽどズルい……ズルいよぉ!」

 

 心を読んだ風に零す母に、わたしは思わず涙声で悪態を溢す。

 わたしの記憶を覗いたと言うのなら、どうしてこんな風に姿を現せられるのか。どうして母としてわたしの前に立つ事が出来るのか。

 父がわたしを置いていった時も、わたしが悪夢に苛まれた時も、助けてくれなかった。一緒に居てすら、くれなかった。本当に辛い時、わたしに寄り添ってくれたのは、たった一人、自分自身だけだった。

 何もかも全部、貴女が生きたいと思うだけで、壊れなかったかもしれないのに!

 どうして、わたしが手を伸ばしても届かないところにいるの!

 それでも母親だと言うの!?

 堰を切ったように溢れ出した感情の促すまま、わたしは言葉にならない声を上げた。

 

「うぇ、うぁ、うあぁぁぁああん!!」

 

 ここはきっと、シンクロの果てにあるわたしとお母さん、二人だけの虚構の世界。だから、言葉にせずとも、気持ちは気持ちのまま、伝わっていく。伝わってくる。

 ズキリと胸が痛んだ。

 しかしそれはあまりに突拍子がない痛みで、思わず肩が跳ねてしまう。

 きっとこの痛みは、母の痛み。

 わたしの本音を聞いて傷付いた母の心。

 それが分かると、わたしは更に泣いた。

 

「ごめんね。レン」

 

 まるで痛みを覆い隠すかのように、母はわたしを更に強く抱いた。

 ぎゅうぎゅうと締め付けられて、胸の痛みなんてすぐに消えてしまう。母のそれも、きっともう名残りさえ残っていない。

 決して傷の舐めあいがしたい訳ではないし、母にそのつもりが無いのも分かっている。

 ただ、この一時が『たった一時』である事が分かっているから、冷静ではいられない。多少の痛みに目を瞑ってでも交わすべき言葉があるし、それを蔑ろにしてまで伝えるべき想いもある。

 なんて、御大層なお題目。

 実際は、普通の親子が交わす喜怒哀楽を、わたしと母の間では一瞬の出来事でしか共有出来ないから、何を優先して良いかが分からなくって、感情ばかりが駆け足になっているだけだ。まるで、そう、小さな駄々っ子が、母親相手に我儘を言っているようなものだ。

 そんな事、分かっている。

 分かってはいるけど、止められないんだ。

 なんで。

 どうして。

 そんな言葉で母を傷つけるばかりが、わたしのしたい事ではないのに。そんなつまらない事に浪費して良い程、母との時間は粗末なものでもないのに。

 ああ、ごめんなさい。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 

「ごめっなさい……ごめん、なさい」

「良いのよ。レン」

 

 ぎゅうと抱き締めてくれる母。時折肩をポンポンと叩いてくれるのが、とても心地好い。

 今まで様々なカウンセリングを受けて来たわたしだが、どんなそれよりもずっと効果的に感じるのは、やはりこの碇ユイという人物がどうしようもなく自分の母親である証に思えた。

 もしも、(あの男)に抱き留められるような事があれば、その時も同じように感じるのだろうか……分からない。

 と、そんな心地好い一時は束の間。

 ふとした様子で、母はわたしを抱く手を緩めた。

 

「さて」

 

 短く零す母。

 未だ何処か心苦しそうな表情ではあったが、やるべき事を思い出したように、その目はジッとわたしを見据えた。

 その視線に促されるようにして、わたしの思考から淀みが抜けていく。

 今がどういう状況で、何の為に此処にいるのか――と、思案が追い付いたところで、母が改めて唇を開いた。

 

「ごめんなさい。出来ればもっとゆっくり話がしたかったけれど……今はひとつだけ」

「ひとつ?」

「人類補完計画は……例え失敗するとしても、一縷の望みであるべきなのよ」

 

 唐突な暴露に、わたしは目を丸くする。

 え? でも……。

 と、出掛けた言葉は、母の人差し指がわたしの唇に当てられて、無理矢理飲み込まされてしまう。

 

「レン。貴女はもう、自分で考えて、切り拓くだけの力がある。だから、あくまでもわたしの意見はわたしの意見として、貴女の糧にしなさい。そうして自分なりの答えを得たら……また、今度はゆっくり、話しましょう」

 

 そう言って微笑む母。

 つまるところ、今は異論も反論も聞いちゃくれないという事だろう。

 成る程。

 母はヒントをくれている訳だ。

 もしかしたらそれは、人類補完計画の意図だけに留まらず、母がエヴァからサルベージされなかった理由も含まれるかもしれない。

 今、それについて答えてくれない理由は――。

 

「あまり悠長にしていると、貴女も、わたしも、死んでしまうのよ」

「えっと、今って……その」

「ええ。初号機の本能的な防衛本能で戦ってる。リツコちゃんあたりは、暴走って言いそう。いいえ、碇シンジの記憶で、確かにそう呼ばれていたわね」

 

 母があまりに淡々と語るものだから、上手く想像が出来なかった。

 五秒程時間を無駄にして、あまりの不確定要素の多さに、わたしは思わず「え、うそ」とぽつり。

 あの高火力と絶対防御を両立するラミエルを相手に、暴走? 碇シンジの記憶では、ゼルエルさえも圧倒したポテンシャルこそあるが、あれは肉弾戦が通用したからに他ならない。万が一、ラミエルの荷粒子砲が撃たれた場合、あれがATフィールドで防げる火力でない以上、被弾は避けられない筈だ。

 現状、わたしの身体は生身ではない筈なのに、サァと血の気が引いていくような気がした。

 

「それ、不味くない?」

「ええ。めっちゃ不味いわね」

 

 此処に至って、何故か満面のにっこり笑顔で肯定してくれる母。

 その様子は決して天然なようには見えず、むしろ『めっちゃ不味いから、お前が何とかするんだろ?』という隠された圧力に見えてしまう。そういえば、母ってあの父をからかったり、可愛いとか言ったり……ああ、そうだ。エスっ気があるんだった。

 いや、まあ、それはともかくとして。

 まさかこのまま黙って死ぬ訳にもいかない。

 ハッとするわたし……ではあるが、そもそもこの現状こそ、理解不能な状態である事を今更ながらに自覚する。碇シンジが似たような状況に陥った際は、赤木博士のサルベージ計画によって難を逃れたが、果たして今それが叶う筈が無い事もすぐに分かる。

 と、わたしがややパニックに陥ろうとしているのを察したのだろう。

 母がくすりと音を立てて笑った。

 

「ほんと、貴女って子は……」

「な、何を呑気な」

 

 言い返してみれば、母はツボに入ったように肩を揺らしていた。

 先程まで泣いていたわたしが、一転して狼狽えたり、不服を訴える姿が、そんなにも可笑しいものなのか。

 

「違う。そうじゃないわ」

「じゃあ何よ」

「貴女、嫌ってる癖に、お父さん似なのよね」

「は? いや、嫌なんですけど」

 

 言われてみればそうかもしれない。

 我ながら薄々感じているところはあるのだが、それは誰かに指摘されたい点ではない。少なくとも自分にとって、美点ではなく、欠点でもない。汚点だ。

 っていうか、急いでいるんじゃないのか。

 それを改めて何になる。致命的なタイムロスになりかねないじゃないか。

 途端に引き留めるような事を言う母に、わたしは思わず怪訝な顔をした。するとやはり、母はくすくすと笑うのだ。

 

「まだまだ思春期の子供よね」

「なによっ! お母さんは何が言いたいの? 今、結構ヤバいんでしょ!?」

「そうね。その通りよ」

 

 もう、まったく。

 そんな風に憤慨すれば、母はわたしから一歩離れて、虚空に指を立てる。

 

「じゃあ、先ず。生きたいと願いなさい」

「生き……たい?」

「ええ」

 

 要領を得ない提案に、思わず小首を傾げる。

 生きたいと思えと言われても、それは意外と難題な話。

 死にたいと願う事は多くあっても、生きたいと願った事はあまり無い。あまりと言うか、殆んど無い。それこそ覚えが無い。

 と、眉根を寄せれば、母は仕方がないと言わんばかりに、肩を竦めて見せる。

 

「今の貴女には、逢いたい人が、いるでしょう?」

「逢いたい……うん。いる」

 

 ミサトさんや綾波ちゃん。ヒカリちゃんをはじめとした学校の友達や、最近漸く打ち解け始めたと思えるリツコさんや、マヤさん。それに……いつかは、幼いわたしを助けてくれたマナにも、堂々と再会したい。

 と、母の促すまま、逢いたい人を脳裏に浮かべていけば、何時の間にか視界が滲むように白ばんでいた。

 ふとすれば夢から覚めるような心地で、母の姿が朧気になっていく。

 ああ、成る程。

 別に特別な装置が無くても、わたしが生を渇望すれば、それが自発的なサルベージを促すんだ。

 感覚の変化から、現実への帰還を察したわたしは、独りでに納得する。母もどうやらこれを承知していたようだ。改めて向き直ってみれば、輪郭さえ朧気ながら、安堵しているような気配がした。

 

「ふふ、『貴女じゃないレン』にも、よろしくね」

 

 そこで核心を突いたような言葉を受けて、わたしはハッとする。

 

 え? ちょっと待って。

 今のわたしって……どっち?

 



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7.Raise the emotion to doll.

 瞼を持ち上げれば、途端に全身の神経のスイッチがオフからオンに切り替わったようだった。

 酷く大きな静電気でも浴びたかのように、ピリリとした痛みが駆け抜けて、思わず苦悶の声を漏らす。

 開きかけた瞼を閉じて、歯を食いしばった。

 痛い。

 ヒリヒリと痛い。

 かさぶたが捲れた時のような痛みが、身体のそこら中から感じられる。その痛みが微妙であるからこそ、全身をむちゃくちゃに掻き毟ってやりたく思える程の煩わしさだった。

 

「つぅっ……」

 

 ずっと昔に包丁で指を切った時を思い出す気分で、おそるおそる瞼を起こす。

 とすれば、ぼやけた視界は身体を見下ろしている筈なのに、何やら青白い光を捉えてしまう。その光はまるで水中をたゆたうように揺れ、霞のように溶けては消える。

 その、溶けて消えているものが何なのか……と思って、その出所と、身体の痛みを訴える患部があまりに近しい場所だった為に、わたしはハッとした。

 

「うわ。何これ」

 

 わたしの身体は、まるでLCLに溶けていくようだった。

 いいや、そう感じてすぐに「あ、違う」とぼやく。

 溶けていく……の、逆。

 何やら粒子みたいなものが集まって、わたしの身体にくっついている。腕や足は勿論、お腹や顔、よくよく見れば髪の一本に至るまで、青白い光がわたしという存在を再構築するかのように集束していた。

 

――仕方ないよ。今のわたし、一時的とはいえ、シンクロ率三〇〇パーセントを超えたんだから。

 

 脳裏でわたしの声が返ってくる。

 え? 誰?

 と、思うものの、当然、答えはわたしだ。

 疑問を抱くのは一瞬ばかりで『そういえばそうだった』と、妙に腑に落ちた感覚のもと、疑問を捨て置く事にした。

 わたしの意識の中枢が母と邂逅していた間、本能のまま暴れようとするエヴァ初号機を、わたしの残された意識が何とか抑え込んでいた。無理矢理わたしの身体ごと意識を取り込もうとするエヴァに、自分の身体を認識し続ける事で抵抗していたらしい。あともう少し遅ければ、身体も持っていかれるところだったが……母が察してくれて助かった。

 そうだ。そうだった。

 母と邂逅した事は夢ではないが、現実の世界でエヴァの暴走に抵抗していたのも事実。

 いいや、違う。

 抵抗と言っても、わたしはわたしの身体を守る事で精一杯だった。エヴァとのシンクロを自ら拒み、エヴァの見聞きする世界から自分の意思を隔絶していただけだ。それでもエヴァは強引にわたしとシンクロし、コックピットをより深くへ沈めていったのだ。

 身体が溶けだしたのには焦った。

 早く意識を返してと、それだけを願いながら、頭を抱えていた。

 怖かった。

 とても怖かった。

 エヴァとのシンクロの果てにあるのは、母との邂逅だけではない。

 あれは……誰だ。

 白い巨人が、わたしを飲み込もうと……。

 

――それはリリス。当然だよ。初号機の身体も、わたしの身体も、リリスと同じだから。

 

 そう。

 そうだ。

 リリス。リリスが居たんだ。

 

――わたしと同じ、赤い血の通ったケモノだよ。

 

 ズキリと頭が痛む。

 肌が修復される痛みとはまた異なる明確な頭痛。

 まるで惰眠を貪り過ぎたかのように、ずきずきと痛んで、同時に気だるさがやってくる。

 

「ダメ。こんな事、してる場合じゃない」

 

 そうだ。

 現実はまだ第六使徒迎撃作戦の真っ只中。

 帰って来たのなら、わたしはすぐにシンクロを再開して、被害状況を改め……いいや、違う。ラミエルを殺さなきゃならない。

 

 そして、今度こそ、目を開く。

 

 辺りの風景は、いっそ清々しい程の変わりようだった。

 何がどうなってこうなったのか……それは流石に思い出せないが、確か陽電子砲の第三射が撃たれていた。それに合わせて、兵装ビル群による決戦砲火も行われたのだろう。

 一面、瓦礫の山。

 地上の光が失われ、月明かりが照らすばかりの大地は、まるで文明を失ったディストピアのよう。いいや、何も月明かりばかりではないだろう。よくよく見渡せば、ちらほらと火の手が上がっている。そりゃあまあ、火薬兵器が用いられていれば、火ぐらいは点くか。

 天井都市に影響が無ければ良いが……。

 そう思ったところで、わたしの視線は標的を見付ける。

 とはいえ、捜すまでもない。何分、巨大かつ、特徴的な外見をした使徒だ。二、三回左右を見渡したところで、やや街外れから、こちらへ向けて移動してきている姿が目に留まる。

 どうしてあんな場所に?

 そう疑問を抱いてみれば、脳裏にフラッシュバックする景色があった。

 あれは……そう、初号機の本能が促すまま、暴力を行使した果て。締めと言わんばかりに両腕を思い切り叩きつけて吹っ飛ばしたのだったか。砲火の中且つ、暴走に対して必死な抵抗をしていたので、確かではないが、奴があんなに距離を置く覚えがあるとすればそれくらいだ。

 その見た目は綺麗なものだが、ATフィールドの再構築はおろか、射程内に居るわたしへの自動迎撃の素振りもない。肉体の復元だけで精一杯だった? いいや、使徒が持つS2機関は無限器官のようなものだ。出力が低下しているとは思えない。

 となれば、どういう理由で迎撃を止めたのだろう。

 分からない。

 そもそも、人智を超越した存在に対して、目的を考察するのもナンセンスか……。

 いや、まて。

 ラミエルの思考回路は兎も角として、S2機関のくだりで思い出せる事はいくつかあるな?

 奴等はそのS2機関の螺旋構造を利用して、荷電粒子砲の技術に転用している……という考察があった。それの真偽の程は分からないが、内容は論理的に納得出来るものだった筈だ。

 事実やれば出来なくもない気がする。

 いいや、そもそもS2機関さえ要らない。

 必要な螺旋構造は既にどの生命体にもDNAという形で存在するし、肉体は微粒な電気信号から動く仕組みに出来ている。勿論、それはこのエヴァ初号機においても、言える事だ。

 つまり……。

 

「シンクロ率、上げて」

 

 そう指示を出せば、コックピットがかくんと傾き、エントリープラグの中を下降する。

 一度は修復された肉体が再度青白い光に包まれ、今に溶けだしてしまいそうに、輪郭がゆらゆらと揺れ動く。些かむず痒さがあったものの、そんなもの、気にしていられない。

 わたしの脳は今、生まれて初めて体験する程の活性化を見せ、心までそれに魅了された心地だった。脳裏に過ぎった見知らぬ計算式と、それが齎す結果に興味津々で、その好奇心が身体をつけ動かしている。

 それは、使徒を蹂躙するより、よっぽど甘美な快楽なのだと、身体が知っているようだった。

 

「いいね。良い感じ。身体の仕組みが、全部透けて見えてる」

 

 やけに落ち着いた声が出るものの、心臓は煩いくらいに音を荒くしていた。

 生命の螺旋構造を発電器官として流用。

 体内で練り上げた電気エネルギーを、磁場の代わりにATフィールドから生まれる強力な力場で増幅。

 此処まではエヴァの暴走状態と変わらないし、予備電源が尽きて尚、動いている現状の仕様だ。

 これを更に増幅し、エネルギーを溜める。

 予備電源に溜めていく事になるが……些かエネルギーのロスが酷いな。お母さんの知識なら、もう少し駆動のロスを減らした設計が出来たんじゃないの? まあ、どうでもいいか。

 

「カタパルトは出来たから、弾は……」

 

 そう呟いて、足許に視線を向ければ、プログレッシブナイフが転がっていた。

 これでいいや。

 溜め込んだ電力を放出しないよう気をつけながら、右手でゆっくりと拾い上げる。

 そこでふと、左腕が半ばで千切れ飛んだ事を思い出す。

 ふむ。

 エネルギーの放出を何処からするか迷ったが……丁度良いんじゃないかな。

 取り上げたナイフを眼前で構え、右手を離す。

 本来であれば再び大地に墜落し、転がってしまう筈のナイフだが……わたしが無き左腕でしかとそれを掴む想像をすれば、バチバチという紫電の迸りと共に、ナイフは天を差したまま空中に制止する。

 ジジッ、バヂッ!

 と、弾けるエネルギー。

 些か勿体無いが、初の試みなのだから、多少の不器用は仕方がないだろう。

 それより、早く結果が見たい。

 わたしの心臓は早鐘を打ち、身体中の筋肉が強張って、震える。

 たまらない。

 この高揚感は、まるで悪魔的で、背徳感さえあった。

 バチリバチリと音を立て、空中のプログレッシブナイフが徐々に角度を変える。その動きこそ不規則かつ、不安定な制御に見えたが……いいや、今のわたしはまるでそれを手に握っているような感覚だったので、不安は何処にも無かった。止まりかけの時計の針のような動きには、むしろ風情さえ感じてしまう。

 その刃が、第六使徒ラミエルの中心に、狙いをつけた。

 いよいよ準備が整って、わたしはくすりと笑う。

 

「第六使徒さん」

 

 体内のエネルギーが増す。更に増す。

 溢れ出した電気がバチバチと周囲に散り、紫電が迸る。

 コックピットから見える映像も、あまりの電力の影響か、ノイズが走って、歪んでいた。まあ、わたしの視界はエヴァのそれと同化しているので、その影響はあまりない。しかしながら、内部電源から残りの活動限界時間を計算し、報せてくれる筈のタイマーが、逆に増えていくのだから実に面白い。

 しかし、それも五分を超えれば、内部電源の稼働に切り替わったと示す告知音と共に、表示が可笑しくなってしまう。数字を示すデジタルが、数字の形を保てなくなっていた。

 五分を超える想定をしていない訳ではないだろう。

 電力が溢れ出してしまって、計器がいかれてしまったようだ。

 しかしながら、それはまるで人智を超えたモノを制御不能と示しているようで、おあつらえ向きのようでもあった。

 ああ、愉快だ。

 気持ちが良い。

 わたしはニヤリと笑ってから、ゆっくりと唇を開いた。

 

「おかえしだよ」

 

 刹那、轟音。

 わたしが全ての制御を解き放つと同時に、視界は白に焼け、酷い耳鳴りと共に音も失われる。

 体内の電気エネルギーを全てぶっ放した初号機は、そのまま活動停止……した筈だが、わたしはそれを知る事はないし、知覚する事もなかった。

 難なら、今の行い全てが夢の中の出来事のようで。

 起きた時、きっとわたしは何も覚えていないのだろう。

 そんな予感があった。

 ただ一つだけ覚えているとすれば……。

 

――お母さんの匂い、大好き。

 

 母に包まれた心地で眠る安らかさだけだろう。




・解説とあとがき
 先ず、長らく更新を止めてしまって、楽しみにしてくれていた方には申し訳ないです。
 見ての通り色々とごちゃごちゃした話だったので、まとめきれずに四苦八苦していたら、何時の間にか心が折れてました。これでも大分スッキリさせた方だったりします。未だ分かり辛ければ、それはわたしの実力不足です。


・ウラとオモテ
 タイトルの通り、レンの人格がごちゃごちゃする話でした。
 一人称ならではの魅せ方は出来たと思いますが、(わたしから見ても)同じくらいややこしく映ります。

・食いしん坊綾波レイ
 餌付けされてる。表レンに対して、割と情が湧いている。

・暴走、覚醒?
 実質覚醒ですが、まだ作中で初号機が暴走した事なかったので、司令部も分かってません。暴走扱いになってます。

・レールガンのようなもの
 いや、発電ロジックに目を瞑っても、流石に内蔵電源なり回路なりがショートすると思いますが……気にするな!
 ぶっちゃけ派手さを求めて盛った感は否めない。


 次回、アスカ、大海に死す!
 嘘です。


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