ダイの大冒険――幸せを求める世界 (山ノ内辰巳)
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新たな世界

ご注意

ポプマが大前提の世界です。


 ポップは後ろを振り返った。

 

 払暁の刻であり、人々の姿はまだ通りにほとんど無い。ただ、朝日を受けて王城がその優美な姿を煌かせている。

 早起きをしたという事を除けば、実に見慣れた風景だった。

(ここも長かったよなぁ…)

 

 脳裏に蘇るのは三年という時間。

 

 大魔王バーンとの死闘から三年―――それはそのまま、行方不明となったダイを捜し求める三年間だった。

 その間、マァムとメルルの二人と一緒に、ポップは世界中を旅して回ったのだ。また、竜の騎士に関する事ならどんな伝承にも詳しいと豪語出来るほどには文献も読み漁った。おそらくそれは、別行動を取ったヒュンケルやラーハルトも同じだろうけれど。

 そして、定期的に皆は、ここパプニカに集まったのだ。集めた情報を交換し、整理するために。

 何よりも、『国王』という立場から、自ら捜索に加わる事が出来ないレオナを励ますために。

 

 ―――そして、ダイは還ってきた。

 

 世界中がその帰還を祝った。

 三年前よりも随分と背が伸びた親友は、その歓待に最初は戸惑っていたようだったが、すぐに素直に笑うようになった。

 

 それを見てポップはようやく安堵した。

 

 ダイが見つかり、この地上に還ってきたのは泣くほど嬉しかったが、人々の反応が気がかりだったのだ。

 ダイの事を、『世界を救った勇者』として見てくれるのかどうか。

 もしかしたら、『世界を滅ぼせる力を持った兵器』として見る者もいるかもしれないから。

 けれど、どうやら無用の心配だったらしい。

 世界はまだ、ダイを忘れてはいなかった。あの戦いの時、ゴメがその生命に代えてくれた心を失ってはいなかった。

 

(大丈夫だよな…)

 

 連日のパーティーで疲れきった親友の寝顔を思い出す。

 昨日の晩は、ようやく二人で話す事が出来た。与えられた部屋のテラスに行き、少し酔った頬を夜風で冷やしながら、アルコール抜きのジュースで乾杯した。

 

『ポップ、オレ、嬉しいよ』

 

 街の灯りを見ながら、ダイは言った。

 

『オレ、この地上を護れて、本当に良かった…!』

 

 噛み締めるような呟きだった。

 

 その後少し話して、ポップが新しい飲み物を持って部屋に帰ったら、親友はテーブルに肘を着きながら舟を漕いでいた。揺さぶっても生返事だ。

 ほどなく寝息を立て始めたダイを、ポップはベッドへと運んでやった。

 当たり前だが、親友は12歳の昔より、ずっと重くなっていた。色んな事が、ダイの3年間の不在を示し、少し切なくなる。

 ―――けれど。

 3年前よりその背はぐんと伸び、声も低くなり、体つきはもう一丁前の戦士になった弟弟子だが、それでもその寝顔はあどけなさを残す記憶の中のそれだった。

 

『…俺も嬉しいよ。お前の笑顔を確認できた』

 

 あの笑顔がある限り、大丈夫だ。それは期待でも願望でもなく―――確信。

 

 だから旅立てる。心置きなく。

 

「ポップ……やっぱりダイに…皆にもう一度会ってから行く?」

 柔らかな声が、肩越しに掛けられた。

 振り向けば、桃色の髪の女性が微笑んでいる。

「いや、ちょっと思っただけだ。ここも長かったな…ってな。行こう、マァム」

 うなずいて、けれど彼女はほんの少しだけ心配そうな顔になった。

「本当にいいの? ダイの事を一番気にかけてたのは貴方なんだし、予定を少しくらい変えたって……」

「い・い・の!」

 強く言い切って、苦笑する。マァムの優しさは有り難いが、今はそれに甘えたくはなかった。

「会って話したら、絶対に決心が揺らぐ。俺だって、自分の性格ぐらいわかってんだぜ? それに今は…」

「今は…?」

 ポップは、聞き返してくる彼女から僅かに視線をそらした。

「ポップ?」

「……何でもねぇよっ!」

 にっと笑い、ポップは駆け出した。唐突な彼の行動に「ちょっと?!」とマァムが驚いて追いかける。

 

 足が蹴るのは、舗装された道。両脇には、まだ開いていないが小奇麗な露天。

 もう数時間もすれば市がたつ。人々が行き交い、明るい声が辺りに満ちるだろう。

 それは、親友が護ったもの。そして、この国の王たる少女が懸命に立て直したもの。

(ダイのこと宜しくな…。姫さん)

 自分達は、祝福された二人を外から見守るから……支えるから。

 

 

 門の手前で立ち止まり、追いついた彼女をポップは振り返る。

「マァム」

 差し伸べた手を、マァムは一瞬驚いたように見つめて、それから少し…何故だかほんの少し頬を赤らめて、とった。

 朝の風が、彼女の柔らかな髪をふわりとなびかせる。

 愛しい、と思う。

 自分の手を取ってくれた女性だ。自分と一緒に生きたいと言ってくれた女性だ。

 そして―――自分もそう思っている。

「…行こう」

「…ええ」

 

 

 朝日に照らされて輝くのは、知らない世界。

 

(今は…お前がいるしな……)

 

 

 

 繋ぐ手のぬくもりを知った、新しい世界が広がっている。

 

 

 

 

(終)

 

 

 



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空の色

この世界では、彼は生き残りました。


「どうした? ボーっと空を見てさ?」

 

 背後から、青年が話しかけてきた。

 

「別に」

 つれない返事をしてやったつもりだが、彼は「そうか」と気にした風でもない。むしろ横に座ってきた。

 鬱陶しい。

「何の用だ?」

「ああ。休憩。あいつは村に買い出しに行ったし、パティも勝手に草喰ってるし」

「だったらここでなくても良かろう」

「炎天下で座り込むのと、爽やかな木陰で一息つくのと、あんたならどっちを選ぶんだ?」

 周りを見れば、確かに大きな樹はここぐらいだった。

 心の中で舌打ちをする。この分では、横に座るなと言っても、ここが一番風があたるとでも言い出すのだろう。

「…お前は、余が怖くはないのか?」

「へ?」

 青年は間の抜けた声を出す。

 かつては自分を殺そうとした相手の横に、こんなにも無防備で座れるなど、驚くを通り越して呆れてしまう。

 

「そうだなぁ……怖く…はねえな。今なら多分俺の方が強いし。…警戒はしてっけど」

 その言葉と同時に青年の中で魔法力が高まったのを感じる。…いや、あえて高めたのだろう。自分にもわかるように。

 それまで無防備に見えたということは、自分がそれだけ力衰えたという事の証左だ。

 

 フッと苦い笑いが軽い息と共に出た。

 

 今の自分の心を表す言葉を、男は知らない。

 永年かけて積み上げてきたものが全て灰となり、あと少しで達せられた目的は、もはや手の届く場所から永遠に逃げ去ってしまった。

 そうしてくれた原因の一つが、いま横に座っている青年だというのに、不思議と怒りや悔しいという想いは沸いてこない。

 虚しいというのが一番近いのだろうか。それすらもしっくりこないのだけれど。

 

 サワサワと木々が鳴る。

 

 男は額に手をやった。

 指先が辿るのは、白い包帯の下に隠された深い窪み。既に血は止まり治った筈だというのに、吹く風にツキリと痛む。

 喪失の痛みだ。

 鬼眼の力は、あの時全て使い果たした。奇跡的に生き延びたが、もう今の自分に残っている魔力は、普通の魔族のそれに、毛が生えた程度だ。

 青年の言ったことは正しい。

 彼の魔法力は3年前に戦った時より強大になっている―――力を無くした今の自分などより、多分どころでなく確実に強い。

 

"ならば何故、自分を生かしておく?"

 

 胸の内で渦巻く問いがある。空を見上げて考えていた事。

 青年から見れば、自分は敵だ。人類全体を、地上全てを滅ぼそうとした魔王なのだ。

 なにより、三年前のあの戦で青年は勝者に属し、自分は敗北者となったはずだ。

 だと言うのに、自分を生かして…しかも、わざわざ治療を施して旅に同行させるなど……正気の沙汰ではないだろう。

 

「傷が痛むのか?」

 横からの声に、男は思考を中断した。青年がわずかに眉を寄せて自分を見ている。

「…ああ。少しな」

「薬草、持って来てやるよ」

「いらぬ」

 腰を上げかけたので、止める。

「…そうか。酷く痛むのなら、言えよ」

 そうしてまた座りなおす。んっ…と伸びをする表情は、まだ幼さも残していて、とても自分を苦しめた勇者の片腕には見えない。

 だからだろうか。先程から考えていた疑問が、言うつもりもなかったのにするりと口から零れた。

 

 

 

「何故、余を生かした?」

 

 

 

 それは劇的な変化だった。

 問いを耳にした途端、こちらを見るその黒い瞳が、先程までの飄々とした風とは打って変わって、真剣味を帯びる。

 ああ、この顔だ。

 三年前の血戦で、この小僧が自分に見せていた大魔道士の面(おもて)だ。

 自分の中で、ザワリと何かが蠢いたのを感じた。久方ぶりに覚える高揚感。あの大戦で敗れるまで、常に己と共にあった感覚。

 向けられる視線は、怒りであり、殺意で。

 青年が拳を握り締め、震わせて―――

 

 

 

 ―――ほどいた。

 

 

 

 いつまで待っても問いへの答えはない。

 男は、あえて重ねて訊く事が出来ないでいた。それはきっと、あの瞬間、拳がほどかれる一瞬の時、青年の表情が泣き出しそうに見えたからだ。

 はぐらかされた悔しさを込めて青年を睨めば、その黒い瞳が、ふいと上に向けられる。

 

 広がるのは、雲ひとつない青空。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺達があんたを見つけた日も、こんな青空だったんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ポップー!」

 村に行っていた娘が戻ってきた。青年も手を振り返し、立ち上がる。

「マァム、どうだった? いいもん買えたか?」

「ええ。とれたての野菜がたくさん売ってたの。それに、玉子をおまけしてもらったわ。そっちは?」

「おお、バッチリだぜ。この辺はハーブが生えやすい土かも知れねえな。パティも腹いっぱいになったし、いいトコだよな」

 和気藹々と語る二人は、とても三年前に戦った勇者のパーティーには見えない―――ただの若い恋人同士だ。

 それは、こんなうららかな陽の下にいる自分が、実は大魔王なのだと誰にも判らぬのと同じかも知れないが。

 

「バーン、行こうぜ。今日はオムレツだってよ。マァムのは美味ぇんだぜ!」

 

 黒い瞳は、また飄々とした軽さをたたえている。

 バーンは立ち上がった。目に入る空は、どこまでも青い。

 

 

 

 ポップのバンダナが、はためいている。

 

 

 

 

 空の色に哀しさを覚えたのは、初めてだった。

 

 

 

(終)

 



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石碑(短編)・決定打(短編)

石碑:ダイとポップの短い話です。
決定打:ポップとマァムと『彼』の短い話。
どちらも、元拍手お礼。


『石碑』

 

 

 目の前にある小さな石碑の前で、少年はひざまずいた。

 胸に手をあて、目を伏せる。

 

 その様子を、薄緑の法衣を着た青年が、数歩後ろから見つめていた。

 

 

 花を供え、二人は石碑の前に並んで立った。

 青年が微笑みをたたえる。

 

「師匠、ダイが帰ってきたぜ」

「…遅くなりました。マトリフさん」

 

 まるでこの日の空のような、真っ青な服がとても似合う少年が、頭を下げた。

 

 

 

 

 

「看取ったのは、先生とマァムのお袋さんと、俺だ」

 

「発作の間隔が短くなってきてな。そろそろ駄目なんじゃないかって…、俺も……師匠も、予想はしてた」

 

「外に出たいって言い出してな…。おぶって海辺に連れていって……その日の夜だったよ」

 

 月の綺麗な夜だったよ、と淡々と話す青年の隣で、少年はただただ頷いていた。

 

 少年が地上に戻ってきた時、すでに横の親友の師匠たる老人は鬼籍に入っていた―――今日より少し肌寒い、秋の初めだったという。

 墓に詣でたいという自分の願いを、親友は二つ返事でOKしてくれた。

 

 大戦で世話になった礼を、ついに直接にはきちんと言えなかった。その事が悔やまれる。

 それを親友に言えば、彼は、くしゃりと少年の頭を撫でた。

 

「大丈夫だ。師匠は言ってたぜ」

 

 

 

 

「あとはお前らに任せた―――ってな」

 

 

 

 

「…うん」

 強く頷く。

 青年が、にっと笑った。

 

 

 

 せめて、その約束はきちんと守ろう。

 それが、偉大なる大魔道士への、最上にして唯一の礼なのだから。

 

 

(終)

 

 

―――――――――――――――

 

『決定打』

 

 

 

 目的の村にはまだ少しある。 テラン領の、しかも王都ではなく村になど、訪れる者はほとんどいない。予想通り街道―――というのも憚られる田舎道―――に休息所などなく、さらに日も暮れてきた。

 

 青年は左手に見えた湧き水の横で馬車を停めた。今晩はここで野宿することになりそうだった。

 

 

 焚き火で薪がパチリと爆ぜる。簡素な食事のあとは、虫の音だけの静かな時間が出来ていた。

 

「バーンは、馬が好きなのか?」

 青年がおもむろに、少し離れて座る魔族に問いかけた。

 

「…なんだ、急に」

「いや別に? ただの質問。さっき、パティの頭をなでてやってただろ?」

 だからふと思っただけ。そう言って、彼はまた火に向き直った。

 

「…嫌いではない」

 

「好きって事よね」

 楽しそうに言うのは、薬草を入れる皮袋を繕っていた娘だった。彼女は焚き火を挟んで座る恋人に「良かったわね」と笑いかける。

 

 笑みを返して、青年は再びバーンの方を振り向いた。

 

「明日からパティの世話頼むな、バーン」

 

 

 

 

 

 

 沈黙の妖精が何周かその場を散歩してから、ようやくバーンの思考は動き出した。

 

「………いま…なんと言ったのだ、ポップ?」

 

 問いに対して青年は驚いたようだった。

「なんだよ。黙ってるから了解って意味だと思ってたのに。『明日からパトリシアの世話を頼む』って言ったんだよ」

 

 どうやら、ポップは己の台詞が届かなかったという風にはとらなかったらしい。確かに魔族の耳でこの程度の距離の声を聞き漏らすなどありえないが―――問題はそこではない。

 

 

 

 

「余が、馬の世話だと?」

 

 

 

 

 勇者に敗れたとは言え、元大魔王。魔界の神とも言われた男だ。その彼にしてみれば、一介の馬丁のように馬の世話をしろというポップの言葉は、屈辱をおぼえるのに充分だった。

 

 わずかに剣呑な空気をバーンは纏い、ポップを睨む。

 だが、ポップの態度は飄々たるものだった。

 

「もう身体はそんなに痛まねぇだろ? 三人で日替わり交代なわけだし、最初は俺もマァムも手伝うからさ」

 

 その言葉に、マァムも顔を上げる。

 

「そうね。リハビリには丁度いいと思うわ―――ここまで快復出来てホントに良かった…」

 

 心底喜んでいる顔で涙まで浮かべられれば、文句など言えるわけもない。

 バーンは黙り込んだ。

「バーンもしてくれるようになったら助かるわ。…時間が出来るから、洗濯も捌けるかしら」

 マァムが嬉しそうに笑った。

「あー…そっか。俺も調合にもぅちっと時間かけられるな。けどマァム、今の洗濯物は村に着いたら宿屋に頼めよ。水仕事ばっかじゃ手が荒れるぜ?」

「あら、ありがと。…でもそう言ってくれるなら、もう少し草の汁を付けない様にしてくれたら助かるんだけど?」

 娘が悪戯っぽく青年の顔を覗き込む。バツが悪そうに彼は肩をすくめた。

「…へいへい。気をつけます」

 

 恋人達の会話を、バーンは半ば呆然と聞いていた。

 

 マァムが立ち上がり、繕い終わった袋を馬車の中に戻しに行く。彼女はくつろいでいる白い馬の鼻先をちょんとつつくと、子供に物語るように囁いた。

 

 

「良かったわね、パティ。明日からあなたの友達が一人増えるわよ」

 

 

「…………………。」

 

 別にパトリシアの世話をするのは構わない。リハビリだと言われれば思い切ることも出来る。

 ただ余りにも急に、自分の意思を放っておかれた状態で決められたため、バーンは何とか今少し抗弁したかった。

 したかったのだが―――

 

 

 

 彼女の背中を見つめていたポップが、バーンのそんな心理を見越したかのように振り向いた。

 

 その表情は、満面の笑み。

 

 

 

 

「文句言わずに手伝いやがれ、居候」

 

 

 

 

 ―――不可能だった。

 

 にこにこにっこり。

 計算された、けれど裏の無い笑み。

 

 

 バーンが白旗を揚げた、それが決定打だった。

 

 

(終)

 

 

 

 

 

 



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名前

マァムの話です。
改行多いです。すみません。


 たとえば、母や父。たとえば、村のみんな。

 

 たとえば、アバン先生。たとえば、旅の仲間たち。

 

 

 

 

 たとえば………

 

 

 

 

「聞いたわよ」

 

 唐突な切り出しに、マァムはきょとんとした。

 

「聞いたって…何を?」

 

 

 

「この前、土砂災害があった村。たまたま通りかかった二人連れが怪我人をたちどころに治してくれたんですって。

しかもその二人は、何のお礼も受け取らずに立ち去ったそうよ。後から特徴を聞けば、きっとそれは大魔道士様と聖拳女様だったって。大の噂よ?」

 

 にこにこしながら、レオナは手ずから紅茶を注いでいく。

 ほんわりした柔らかな湯気が、テーブルの周りをあたため、クッキーの香がそれに乗った。

 

「噂になってるの?」

「違うわ。『大の』噂になってるのよ」

 

 楽しそうに目を輝かせる年下の親友に、マァムは小さく溜息をつく。

 

「騒ぎにならないように黙って村を出たのに、バレちゃったのね」

 

 そりゃあね。とクッキーをつまみながらレオナが笑う。

 

「何人もいる重症の怪我人を、あっという間に治したら噂にもなるわよ。それに男女の二人連れでしょ? みんなピンと来るわ」

 

 苦笑する。自分とポップが「そういう仲」で、共に旅をしているというのは既に有名な事らしい。

 もっとも、この目の前の若き女王陛下も、勇者との仲を全世界に知られているのだから、仕方がないのかもしれないが。

 

「照れくさいのはわかるけど、お礼はともかく、名乗ってあげたらいいんじゃない? 世に名高い勇者の仲間が立ち寄った村って事で、有り難がる人だっているでしょうに」

 

「ええ………そうかもしれないわね」

 そっと紅茶を口に含む。

 

 

 

 

   聖女さま! 聖女マァムさま! お助け下さい!!

 

   おお、なんと神々しい…! さすが勇者のパーティーのお一人だ。

 

   聖拳女さまの御技、卑小な私めに、どうかお見せ下さいませ!

 

 

 

 

 名乗りたくない、というのが本音だった。

 

 自分も彼も、当然の事をしただけだ。強い力を持つなら、持たない者よりも出来る事は多く、責任も比例するのは当たり前なのだと思う。

 

 けれど―――

 

 

 

 ふと目を上げると、レオナの真剣な目と視線が交差した。先程までの、噂話を楽しむ少女の目ではない。

 

「それで、被害はどれぐらい?」

 

 マァムは親友の言葉に、清清しさを感じる。

 統治者の責任というものを、この若い女王は決しておろそかにしない。わかっていた事だけれど、こうしてその器を再発見するのは感動を伴った嬉しさをおぼえるのだ。

 

「家や畠に被害はほとんどないわ。怪我をしたのは若い男の人ばかりで…石工のための切り出しに、山に行っていた人が巻き込まれたの。

 大丈夫。死者は出ていないわ」

 

 レオナが安堵の息を吐いた。

 

「ありがとう。正式に被害が報告されれば、手続きに則って予算を組むけど、先に状態を知っておくのと、そうでないのとでは全然違うわ。

 何より、誰も死んでないのね。良かった…」

 

 

 本当にありがとう、マァム。

 

 

 親友の笑顔に、マァムも微笑む。

 向けられる感謝が、ただ、友からの真っ直ぐなそれである事が嬉しくて。

 

 

 

 

 軽いノックがあり、レオナが入室を許可する。入ってきたのはパプニカ三賢者の一人、アポロ。

 

「ご休憩中申し訳ありません、陛下。次の会議までにこちらの書類にお目を通して頂きたいのですが」

「わかったわ」

 

 頭を下げたあとに気安い笑顔をひとつ残して、「失礼致しました」と彼は部屋を去った。

 書類を受け取った少女は、半ばは王の威厳と言うべき空気をまといつつも、その紙束をデスクに置いてお茶に戻った。

「書類を読まなくてもいいの?」

「いいの。次の会議までまだ時間もあるわ。友達とのお茶くらいしっかり楽しまなきゃ。」

 

 

 四六時中、国王陛下でなんていられないわよ。

 

 

 言い放つ親友の笑顔が眩しい。

 そうだ、と今更ながらにマァムは思い至った。自分より年若いこの少女は、生まれた時からずっとこの生活なのだ。王の娘として生まれ落ちた時から、家族以外の者に跪かれ、崇められ、『姫』・『王女』と呼ばれ続けてきたのだ。

 

 名前を呼ばれない。その事を、彼女はどう受け止めてきたのだろう。

 

「…どうしたのよ、難しい顔しちゃって」

「うん…その……」

 

 

 

 

「もう、慣れたわ。というかそれが普通ね」

 悩みというのとは少し違う、けれどここしばらくの心のしこりとなっていた事を話せば、レオナの答えは至極あっさりしていた。

 

 

「この立場にいると、色んな人に会うわ。時には私が小娘だからって舐めてかかってくる人だっている。膝を折って『陛下にはご機嫌麗しく』なんて言ってくるけど、下げた頭は嘲笑を隠すためかも知れないわね」

 

「でも、大多数の人たちは尊敬の念を込めて『陛下』って呼んでくれてる。わかるの。勿論、その尊敬は私が責務を果たさなければ、決して込めてもらえるものではないわ」

 

 レオナは微苦笑を浮かべて言い切る―――

 

 恵まれた暮らしをさせてもらえるのは、その分そうでない者よりも重い責任を負っているからだ。故に彼らは称号で自分を呼ぶ。そこに込められているのは、『期待』であり、呼ばれるたびに託されるものがある。

 

 ―――だからこそ頑張れる、と。

 

 マァムは頷いた。

 レオナの言葉は、すとんと心に落ちた。確かに『聖拳女さま』などと呼ばれる時には、何らかの期待が込められている。レオナを女王という立場と切り離せないように、自分も武闘家という事を切り離す事など出来ない。

 同様に、込められた期待に応えたいと思うのは、聖拳女であろうがただのマァムであろうと関係ない―――そういうことなのだ。

 

「考えすぎね、私は」

「そうかもね」

 

 くすくすと笑うレオナに、ありがとねと苦笑して、マァムは辞去を告げた。

 もうそろそろ聞いていたレオナの休憩時間が終わる頃だし、一緒に城に来たポップの事も気にかかる。図書館を訪れた彼は、本を見つけたらすぐに合流すると言っていたのに、結局現れなかった。

 

「ポップ君に宜しくね。それと、あんまり考えすぎちゃ駄目よ」

「ええ。ありがとう、レオナ。…気にしないことにするわ。名前なんて個人の問題だもの。あんまり大切な事じゃないのかもね」

 

 それは、なんとか折り合いをつけて導き出したマァムなりの答えだった。称号で呼ばれようと、自分は自分なのだからと。

 けれど、親友は呆れた顔をして首を振った。綺麗な金髪をかしかしと掻き、「何言ってんのよ!」と肩を落とす。

 

「本当に何言ってんのよ!! 名前は大切よ、何よりも! だって――――――」

 

 

 

 

 

 

 

 たとえば、母や父。たとえば、村のみんな。

 

 たとえば、アバン先生。たとえば、旅の仲間たち。

 

 たとえば………

 

 

「ポップ」

 

 中庭で本を読んでいる青年に声をかける。

 

「…よお。お茶は美味かったか?」

 少しくたびれた感じで、彼は顔を上げた。

 

「もちろん。楽しかったわよ。貴方も来れば良かったのに。…本は見つかった?」

 

 青年はうなずいた。読んでいた本を大切そうに閉じ、袋に入れて立ち上がる。

 

「参加したかったんだけどさ、司書のおっさんが必死に探してくれたもんでな。流石に頼んだ当事者が一服するわけにいかなくてよ」

 

 お陰で見つかったぜ。

 へらりと笑い、ポップは歩き出す。城の方ではなく、その足は門に向かっている。

「部屋に戻らないの?」

 少しは休んだらという自分の言葉に、彼はにっと笑って見せた。

 

「街に行こうぜ。夜は姫さんを誘って、デルムリン島でダイと合流だ。肉とかいっぱい持って行ってやろう」

 

 いつの間にそういう予定になったのか、とかは一切説明がない。

 ただあるのは、友との再会を出来る限り楽しむつもりの子供っぽい笑顔。

 

 

 

 

 ………たとえば、恋人。

 

 

 

 

「つーわけで、買い物に行かねぇか、マァム?」

 

 

 

 

 伸ばされた恋人の手をマァムは取る。微笑む彼女の脳裏に思い出されるのは、出来の悪い生徒を諭すかのような、親友の口調だった。

 

 

 

 

 ――――――だって大切でしょう? 名前を呼んでくれるその存在が。

 

 

(終)

 

 



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夢が告げる

元大魔王の話です。次話とセットになっております。


(ここは…?)

 

 彼は周りを見渡した。

 

 広がるのは一面の焼け野原。

 魔界ではよく見る光景だが、かの世界の空は、このように青くはない。

 

(地上か……?)

 

 そう。かつて自分が求め、手に入らなかった太陽が照らすのは、いまだ地上界のみのはずだ。

 

 

 煙が漂っていた。

 覚えがある、鼻につくこの臭いは――肉の焦げたそれだ。

 不意に思い出す。

 

(そうだ。さっき、余はカイザーフェニックスを放ったのだ…)

 

 全てを焼き包む、紅蓮の炎の鳥。

 ひとたび放てば、数十人からを丸焦げにするそれを受け、人間どもがゴミのように足元に転がっている。

 

 彼は笑った。

 みなぎる力。両の手に無尽蔵に集まる魔力。額には鬼眼の感触――何故だかわからぬが、失くしてしまったものが全て自らの元に返ってきたのだ。

 

(すばらしい…!)

 

 伸びをするかのように腕を上げようとして、そこで気づく。

 

 右手を見れば、見慣れぬ一振りの剣を握り締めていた。刀身からは、いまだ乾かぬ赤い血が滴り落ちていて。

 では左手が持つのは?

 

 

 

(…馬鹿な)

 

 

 

 彼は呻いた。握り締めていたのは、豊かな桜色の髪。

 敵だった自分にさえも優しく微笑みかける事が常だったその娘は、静かに目を閉じていた。

 いまにも語りかけてきそうな表情だが、それは決して有り得ない事なのだと彼には分かっていた。何故なら、娘の首から下は、存在していないのだから。

 

「……そんな馬鹿な」

 

 呆然と呟いたとき、足元で誰かが蠢いた。

 ハッとして飛び退ると、骸だと思っていた青年が一人、血まみれの身体で必死に起き上がろうとしている。

 

「おまえ、は…!」

 

 声がつまる。

 何故、先程は気付かなかったのだろう。焼け焦げていても、その緑色の法衣と、煙に揺れる黄色のバンダナは、この戦場で場違いなほど鮮やかだというのに。

 

 荒い息をつく青年の黒い瞳が、彼を見据える。

 瞳を彩る深い深い怒りが、左手に持った首を見て――

 

 

「どうしてだよ?! …バーン!!!!」

 

 

 ――爆発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ーン! バーン! しっかりして!!」

 

 意識が浮上する。

 最初に目に映ったのは桜色の髪の娘――マァムの心配そうな顔。

 涙さえ浮かべていた彼女は、次の瞬間、後ろを振り向いた。

 

「良かった! 目を開けたわ、ポップ!!」

「ほんとか?! おい、バーン! 大丈夫か?! 気分はどうだ??!」

 

 どたどたと駆け寄り、わめくのは癖のある黒髪の青年だ。

 

 相も変わらず喧しいことだ。

 

「――…最悪だ。耳元で騒がれて、うるさい事この上ない」

 

 言ってやれば、一瞬の間のあと、顔を見合わせて二人が笑った。

 ほーと息を吐き、へなへなと崩れ落ちるようにベッドに顔を埋めるポップと、

「大丈夫みたいね。ホント良かったわ」

 そう言って目元を拭い、微笑むマァム。

 

 一体なんだと言うのだ。

 

 訝しげにするバーンに、作業着姿の青年は力なく笑って説明した。

 

 

「お前、試作品の薬を飲んじまったんだよ」

 

 

 

 

 

 

 しばらく前から、ポップが薬の調合をしていたのは知っている。この時期はキラービーの繁殖が盛んになるので、月のめぐみでも作っていると思っていたのだが、勘違いだったらしい。

 

 ポップは、ズボンのポケットから二つの木の実を出し、ベッドのサイドテーブルに置いた。

 

 夢見の実というものがある。食べて寝ると良い夢が見られるというもので、寝つきが悪い時の睡眠導入薬としてよく使われるものだ。

 彼が見せた一つはそれだった。しかし、もう一つは夢見の実と形は同じだが、色がどす黒い。

「これは?」

 聞いてやれば、ポップは力なく笑う。バーンはそれを見てなんとなく察した。つまりはこれが騒ぎの原因か。

 

「夢見の実と毒蛾の粉を混ぜたら出来たんだ」

 

 バーンはひくりと引き攣った笑みを浮かべた。

「ほう…何故そんなものを掛け合わせた?」

 まったく悪びれずにポップは答える。

「珍しい痺れ薬でも作れないかなあと思ってさ。敵に投げつけたら痺れさせたうえに眠気まで! ってなると、戦う手間も省けてラクラク逃げられるだろ。っで、これを砕いて粉末にしたのがアレなわけ」

 親指で後ろを指す。

 そちらに目をやれば、香草茶を淹れるマァムの傍らに、小さな袋があった。

 バーンは目をしばたいた。その袋に見覚えがあったのだ。あれは確か、久方ぶりに頭痛を覚えたために飲んだ薬ではなかったか。そう………昨日の昼だ。そのあと念のために早めに床について……。

 

「思い出したか?」

 青年がベッドに腰掛け直し、こちらの顔を覗き込む。ああと返すと、彼はペコリと頭を下げてきた。

 

「ごめんな。余分な袋が無かったもんだから、頭痛薬の袋を代用したんだよ。お前ぇが薬を飲むって言ってきた時、ちゃんと手渡してればこんな事にならなかったのに」

 本当にすまねぇ――そう言って、ポップは再び深く頭を下げた。隣に戻ってきたマァムが、やはり同様に謝る。その手には、温かな香草茶。

「私からも、ごめんなさい。ポップから袋を代用したって聞いてたのに、貴方に言うのを忘れてたの。伝えておけば貴方だって確認したかもしれないのに」

 

「……別に構わん。何も問題はないしな」

 

 カップを渡され、バーンは二人に苦く笑った。

 実際なにも身体に異常はない。痺れているわけでもないし、もう眠気も感じられなかった。そう告げてやれば、ポップはばつが悪そうに「あー…そりゃまあ、今はな」と呟いた。

「なんだ?」

 何かまだ問題があるのか。目をやれば、ポップはぼさぼさの前髪を掻いて溜息をついた。

 

 

 

 

 

「すっげー悪夢を見るんだ、この実」

 

 

 

 

 どうやら、夢見の実に毒蛾の粉の痺れを与える効果が加わるのではなく、毒素が夢見の実を変質させる方向に働いたらしい。

 くしゃくしゃと髪を掻きながら青年は説明する。

 

「悪夢………」

「ああ。お前、物凄くうなされててさ。粉末は、吸ったら効果はめちゃくちゃ速く出るけど、そんなに長くは続かないんだよ。けど、飲んじまったら遅効性になる代わりに症状も重くなるから……」

 

 ポップの説明を、バーンはもう半ば以上聞いてはいなかった。

 

「悪夢…か………………あれが……」

 

 先程の夢が――

 

 三年前までの日常。血沸き肉踊る戦と勝利。絶大な力の前で、虫けらと見なしていた者達を踏みにじる事。あの快感が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――悪夢と思うようになった、という事か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「バーン…どうした? 本当に大丈夫か?」

 

「まだ身体がだるいの?」

 

 心配そうに見つめる二人に、バーンは笑った。

 

「いや、大丈夫だ」

 

 そう。もう大丈夫だ。起き上がろうとすると娘が「もう少し休めば」などと言うけれど、これ以上あの悪夢を見ないためにも、さっさと身体を動かして気分転換するに限るだろう。

 

「それより、お前たちの方が大丈夫か? 少し眠ったらどうだ?」

 

 どうせ一晩中、自分のことを看病していたのだろう。二人そろって酷いクマが出来ている。それを指摘した途端、眠かった事を思い出したのか、ポップが堪えきれずに欠伸をした。

「寝てこい。留守はしてやる」

 笑いながら言ってやる。小さく感謝を述べて寝室に向かう二人の背中を見送り、彼はカーテンを開けた。

 

 既に陽は高い。窓を開ければ、あの夢の残滓を吹き払うような風が、光と共に狭い部屋を満たした。少し冷めた香草茶を口に含むと、やおらハーブの清涼な香気が鼻から脳に通り抜ける。

 

「……大丈夫だ」

 

 我知らずバーンは呟いた。二人が入った寝室のドアにちらりと視線をやる――微苦笑と共に。

 

 

 

 

「良い夢を」

 

 

 

 

(終)

 

 



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玻璃のような

ポップの話です。前話とセット。


 そう言えば…と、薄桃色の髪を揺らして、恋人がこちらを振り向いた。

 

「いつお城に行ったの?」

「え?」

 

 ポップは書き物を中断して、質問者を見る。彼女が示した視線の先には、先日ひと騒動あった問題の薬が、装い新たに小瓶に詰められていた。

 

「悪夢を見る、なんて作用は被験者がいないとわからないわ」

 

 純粋な質問だったのかもしれないが、言いながら、最近の日程を思い描いたのだろう。マァムの形のいい眉根が微かに寄っている。

 薬の作成からこっち、薬師ギルドに連絡を取るだの、国王の許可をもらって囚人達に会うだのという時間はなかった。バーンの騒ぎがあって、もうその事はうやむやに済まそうと思っていたのに。

 

「何だよ、急に? そんなに俺は信用ねえの?」

 

 笑って、問いに問いで返す。いつもなら、それで話の流れは自分に移るのだが、今日は勝手が違った。

 

「……試したのね?」

「う…」

 

 悲しそうなその目―――自分の事を心から気にかけてくれる瞳にポップは弱い。

 腰に手をあて、きゅっと睨む目。

 姉が弟をたしなめる様なその態度は、以前は時折ポップを 『ちっぽけだがしっかり有る男としての矜持』 を以って悩ませたが、恋人として付き合いだしてからは割り切る事が出来るようになってきた。

 他者を思いやる心はマァムの本質であり美徳なのだ。そもそも彼女の前で、情けなく頼りない面を見せてしまう自分の甘えがある限り、この弟扱いは変わらない。

 

 ポップは降参の態で手をあげる。

 

「試した。ごめん」

「ポップ…!」

 

 傷ついた光が彼女の双眸に走るのが見えた。当然の叱責に肩をすくめながら、「ごめん」とポップは再度謝る。

 

「今回のは不可抗力なんだ。砕いてる時に…粉末にしてる時にうっかり吸い込んじまって……ホントにすまねぇ」

「……本当に?」

「本当だって」

 

 嘘はついていない。と言うか、この件に関しては嘘をつきたくない。

 もう二度と己の身体で実験しないと約束したのだ。

 自分の事でマァムが泣いてくれるのは、歪んだ喜びを伴うけれど、自分の所為で泣かせたいなどとは決して思わない。

 

「…………なら、いいわ。…よくないけど」

 

 マァムは静かに息を吐き出した。対面の椅子に座る。

 

「…大丈夫だったの?」

 

 ポップの空いている左手をそっと包み込むようにして、彼女は尋ねた。

 そのあたたかな手が震えているのは、ひとえにポップへの心配のためだ。愛しさと感謝を込めて彼は右手を重ねると、いつも通りの笑顔を作る。

 

「大丈夫だって! 考えてみろよ。もし俺がバーンみたいに酷い状態だったら、すぐにわかるだろ?」

 

 俺は顔に出やすいんだからさ。

 

 カラカラと笑って言い放つ。いつも通りの笑顔といつも以上の明るい声で。

 

「そう……ね。粉末なら、そんなに長く眠らないもんね」

「そうそう。量もホントにちょっとだったしよ、心配いらねーって」

 

 気をつけてよねと、軽く怒った口調を作ったあと、マァムはようやく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 言えるわけねーよな………。

 

 書類に戻ったポップは心の中で一人ごちる。

 

 夢を見るというのは、実は眠っている時間の長さは余り関係ない。

 一般的には、長い眠りが長い夢を誘うと考えられているが、短い午睡の間にでも長い夢を、しかも複数回見る場合すらある事から、先人の中には研究した者もいるし、書物も何冊か出されている。ポップは師の遺した蔵書の中から、その類を読んで学んでいた。

 

 そんな知識をマァムに披露していなくて良かったと、ポップは心底から思う。もし話していれば、いくら笑顔を作っても彼女は心配するだろうから。

 

 悪夢の実の粉末を誤って吸い込んだ際、ポップはしっかり見たのだ―――これ以上はないほど悪い夢を。

 

 

 

 

 

 

  地上の人々すべてがそれを望むのなら……オレは……

 

 

 

 

 

 

 パキンと小さく硬い音がした。

「ポップ?」

「あ…や、何でもねぇ」

 ペン先が折れていた。書類には、活かされる事のなかったインクが黒い染みを作り、穴まで空いている。

 いくらなんでもこんな用紙を提出するわけにはいかない。舌打ちをして紙を丸めると、マァムが気遣わしげにこちらを見つめていた。

「……本当に?」

「おう。ちょっと考え事しただけだって」

 新しい紙とペンを引き出しながら、ひらひらと手を振る。

 

 嘘ではない。何でもないのだから。夢の内容を考えていただけだ。それこそ瞬きする程の一瞬の時間の夢。しかし心に刻み込まれるに充分な、凝縮された悪夢。

 

 けれど、大丈夫だ。

 

 そう。何でもない。本当に何でもない事だ。本当に大丈夫。

 

 

 思うに、偶然作ってしまったあの実は、悪夢を見せるというよりも 『自分が望まない事柄を見せる』 と言った方が正しいのかもしれない。

 それはそれで便利と言えるだろう。皆、自分自身の心など存外わかっていないものだから。

 

 少なくとも自分は―――わかっていなかった。

 

 あの日、自分が見た夢は、確かに半分は想像していた事だ。

 親友…ダイに待ち受ける数多の未来の、最悪の形。彼の両親がそうであったように、繰り返されようとする悲劇。世界規模の迫害。

 

 ダイが地上を追われるという事になどなれば、自分はどうするだろう。そんな事も何度か考えた。レオナに大魔王戦でのダイの言葉を伝え聞いてからは、考えない日の方が少なかっただろう。

 

 3年前のあの日のように、どこまでも共にと願うだろうか。それとも、地上に残り、何とか人々を説き伏せようとするだろうか。

 大体がその二択に辿りついて、更に色々と思索を深めたけれど。

 

 夢に見た自分は、そのいずれでもなかった。

 

 

 

 

 自分は許さない。あいつが守った世界で、あいつが守った存在が、あいつへの感謝を忘れてしまう事を。

 

 弱さを笠にきて、愚かである事を免罪符にして、醜悪な正義を振りかざす事を、決して許すことは出来ない。

 

 もしも、人間がその道を選ぶのなら…もしも、それが人間だと言うのなら、その時、自分は彼らを………

 

 

 

 

 新しい紙に、新しいペンで文字を走らせながら、ポップは知らず薄い笑みを浮かべていた。

 

 おろしたての細いペン先は、まるで針のようだ。鋭く、もし刺さればとても痛いだろう。まるで、明日この書類を提出する貴族のお偉方の言葉のように。

 

 けれど、大丈夫だ。だって俺は―――

 

 世界は時折、牙を向く。

 玻璃のような美しさと輝きの中に、針のような痛みを潜ませて。

 

 

 

 

 ―――それでもいいって思ってんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ポップ、またペンを折る気?」

 

 ハッとして顔を上げると、マァムが困ったような笑みを浮かべている。

 

「…お茶でも淹れるわね。そうそう、昨日あのお婆さんがくれたクッキーがあるの。一緒に食べましょう」

 

 さり気なく、ペンを持つ手を彼女の手が包み込んだ。それは先程と変わらずに、優しさに溢れてあたたかく、針のように研ぎ澄まされたポップの心を和らぎで覆っていく。

 

「……ああ」

 

 ポップはペンを置いた。腰掛けたまま伸びをすれば、そんなに長時間座っていただろうか、身体の節々が固まっていた事に気付く。

 ふと、昼の眩さに白っぽく見える室内を見回した。

 

 

 ああ…そうだった………

 

 

 テーブル端の花瓶に挿してある小さな花は、近くの村の子が持ってきてくれた。

 

 それに、昨日の婆さんからクッキーをもらったのだと言われれば、マァムがいま淹れようとしてくれているお茶は、先日の患者が、薬の礼と言って置いていってくれたものだ。

 

 壁の刺繍は、道具屋の奥さんが俺たち二人にってプレゼントしてくれたんだっけ。

 

 奥の部屋に置かれてる木彫りの剣と、可愛いぬいぐるみは、今度パプニカに行った時にダイと姫さんに渡してやらなきゃな……。子供らと約束したんだった…………

 

 

 目を伏せ、ポップはゆるゆると頭を振った。

 椅子に背を預けて仰向けになる。その目蓋を腕で覆った彼が吐いた息は、深く、長かった。

 

 

「………ひと息つきましょう…ポップ」

 

 差し出されたカップを受け取り、彼は微笑む。

 

「ありがとう」

 

 それは、微かに痛みが混じりつつも。

 

 

 

 

 

 とりあえず、まだ大丈夫。まだ世界は玻璃のように輝いている―――限りなく脆くも、とても美しく。

 

 

 (終)

 

 



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不可能事項

 久々に互いに時間が取れたその日。

 散歩がてらに外に出て、近況や他愛の無いバカ話をどちらともなく話しては盛り上がって。

 

 ぽっかり出来た静かな時間。歩き続けて少し滲んだ汗を冷やすかのように、風が吹きぬけていった。

 

 一体なにがきっかけでそんな話をしようと思ったのかは、ダイ自身にもわからなかった。

 ただ、ぽつりと呟く。

 

 

 

 

「もしオレがさ、人間に絶望したりしたら……父さんみたいになるのかなあ?」

 

 

 

 

 ダイのその言葉は、ポップを振り向かせるのに充分な力を持っていた。

 

 

「……なんだって?」

 

 

 風吹く丘の上で、緑衣の青年はちらりと周りを見回した。

 人影はない。今の親友の台詞を聞いたのは自分だけだろう。詰めていた息をさりげなく吐いて、「お前さぁ」と少年に向き直る。

 

「そういう質問を急にするなよ。いくら俺が大魔道士サマでもすぐには答えられねえぞ」

「いや、質問っていうか…」

 

 彼は少し言葉を探すかのように上目になり、ぽつりと続ける。

 

 

「なんか、ふと思ったんだ」

 

 

 見上げた空は、突き抜けるように、青い。

 

 

「…ふと、ねぇ」

 

 

 二人はしばらく無言のまま、空を見つめた。

 

 

 

 

ざ ざ ざ  ざ   ざ   ざ   ざ    ざ     ざ

 

 

 

 

 風が、大股で歩いていく。一面の緑野が波立った。

 

 先に沈黙を破ったのは、少年の方だった。

 

 

「なぁ、ポップ。もしそういう事になったらさ、オレを止めてくれよ」

 

 

 青年はダイを見る。物騒なことを言ってくれた年下の親友の、言葉にも表情にも悲壮感はなかった。ただ、穏やかに。笑みさえ浮かべている。

 

「ダイ……お前…………」

 

 何があった、とは訊かない。訊いても答えはわかっているからだ。この三つ下の親友は何もないよと答えるだろう。

 実際に何も無かったのかもしれない。ふと色んな未来を思い浮かべてしまう事などよくある事だし、口に出すというのは、それが仮定でしかないと割り切っているからこその行為なのかもしれない。

 …けれど何かあったのだとしても、やはり答えは同じだろう。そして、例えその答えに嘘を嗅ぎ取ったとしても、自分もまた敢えて聞き出そうとはしない。

 若干十二歳で勇者と称えられるようになったこの親友は、己で耐える事・人にも頼るべき事…その一線の見極めをキチンとつけれられるのだから。

 

「………。」

 

 無言のままのポップに、ダイは焦れた風も無く言葉を続ける。

 

「こんな事、お前にしか頼めないから」

 

「………。」

 

 

 

 ダイと心で深く繋がる存在は、ポップの他にも大勢いる。その多くは人間であり、彼が心底愛するパプニカの若き女王も例外ではない。

 それでも、それは父親―――バランにとっても同じだったはずなのだ。

 戦いに明け暮れたバランにとって、つかの間の休息を得る場所は人々の住む地上であり、愛した女性は、人間の国の王女であった母―――ソアラだった。

 何よりも、そもそも父を育てたのは他でもない、人間の夫婦だ。

 

 

 その厳然たる事実を、一瞬で黒く塗り潰すほどの、凄まじい絶望と憎悪。

 

 

 ダイは拳をキュッと握り締める。

 父の紋章と共に、その記憶も受け継いだ為、時折自分は父の歴史を夢に見て知っている。

 

 

 優しさは容易く怒りにさらわれる。砂上に作られた城の如く、波にさらわれ掻き消える。

 

 

 …そんな父の生き方を止められたのは、結局のところ、信念をかけた戦いだった。ならば、もし自分が同じような憎悪に身を任せる事があった場合、止められるのはただ一人しかいないではないか。

 

 

 

 

 

 竜の騎士の力を持つ自分を止められるのは、相棒である大魔道士ポップだけ。

 

 

 

 

 

 それは誰しもが頷くだろう事実。

 

 けれど、渋い顔をしながらも頷いてくれるだろうと思っていた当の親友は、緩やかに頭を横に振った。

 

「無理だな」

 

 たったひと言。それはそれは当然の如く涼しい顔で言い放つ。

 

「俺はお前の頼みなら、出来る限りの事をしたいと思ってる。でもそれは無理だ」

「…なんで?」

 

 簡潔な答えで依頼を却下してくれた親友にダイは尋ねる。

 実力的に、無理ではないはずだ。純粋に力だけで言えば、戦士である自分の方が勿論上だが、戦いとは力だけで勝敗が決まるものではない。

 師に『切れ者』と讃えられ、魔法力と呪文のセンスにおいては他の追随を一切許さない当代随一の大魔道士である親友が本気を出せば、暴走した自分を止める事は決して不可能ではない。

 

 そう言えば、ポップは掌をぽむとダイの頭に乗せた。

 

「バーカ。んな事を言ってるんじゃねぇよ」

 

 がしがしと髪を掻き回され、うわとダイは悲鳴をあげる。

 三年ぶりに再会した時、もう少し縮まっている事を期待していた身長差だったが、自分が伸びた分とほぼ変わらずポップも背が伸びていた。

 すらりと高くなった親友に、いつかは追いつきたいと心のどこかで思いながら、それでも十二歳の時と変わらぬ高さで彼を見上げ、変わらぬ扱いをされる事が心地いい。

 

 その変わらぬ暖かい手と、明るい声のまま。

 

「お前がそんな風になる時には、俺はもうこの世にはいねぇんだよ」

 

 何でもない事のようにポップは告げた。

 

 

 

 

「え……………?」

 

 

 

 

 風の音が急に止んだかのように、世界が静寂に満たされた。

 髪を掻き回していた手が、静かに頭から離れる。ダイの目はそれを追ったが、それだけだった。身体も喉も、魔法に掛かったかのように動かない。

 くすりとポップは笑う。

 

「だって、お前が人間に絶望するって事はさ、俺にも絶望するって事だろ」

 

 俺にも―――その部分を親友が口にした時、ダイには聞こえた。『俺にさえも』と。

 

 

 

「ならそんな俺は、生きてても仕方ねぇ」

 

 お前に絶望されるような俺なら、生きてる意味がない。

 

 

 

「だから、ダイ。俺はお前を止められねぇよ」

 

 だから、ダイ。お前が最初に殺す人間は、俺なんだよ。

 

 

 

 ざわ、と風が吹く。

 

「ポップ……」

 

 ようやくそれだけを、彼の名だけを、掠れた声で呼ばう。

 

 優しい目元のまま、黒い瞳は自分を見つめている。

 

 呼吸することさえ困難に思えるような張り詰めた空気は、先程の風に押しのけられたようだった。ほぅと身体の奥から息を吐き、ダイは笑う。

 

「どした? 何かおかしいか?」

 

 ううん。とダイは笑顔のまま首を振る。

「おかしくなんかないよ。…わかっただけ」

「わかったって……何が?」

 不思議そうに首を傾げる親友に、ダイは笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オレ………人間に絶望する事なんて、ありえないみたいだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 微かに苦く笑った親友に、くしゃりと再び頭を撫でられる。

 

 

「そうか。そりゃあ何よりだ」

「うん」

 

 

 

 

 青空の下。吹き渡る風のように、軽やかな二人の笑いが緑野を満たしていった。

 

 

(終)

 

 



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始まりの薬

お久しぶりでございます。一年以上も更新してませんでした。
サイトのほうも頑張りますm(__)m


 ……ドン!

 

「んが?」

 遅めの昼食を取っていたポップは、パンを口に入れたまま、音のした方を見た。

 

 ドンドン!

 

 かなり激しく、扉を誰かが叩いている。

「誰かしら?」

 先に食べ終わっていたマァムが、心配そうに眉を寄せて立ち上がる。玄関に行く彼女の背を見ながら、ポップはもごもごと動かす口のスピードを上げた。

 誰が来たのかはわからないが、何の用かはわかる。怪我か、それとも急病か。ただの茶飲み話が訪問の理由なら、あのように強く扉を叩く者は、彼らの知り合いにはいない。

 

 ポップは、まだあまり噛めていないパンを無理やり飲み込んだ。マグに手を伸ばし、ひと息に中身をあおる。

 

 最近デルムリン島で仕入れたコーヒー豆はとても上質だ。これでコーヒーを淹れると乙な苦味はもとより、香が素晴らしい。マァムともども気に入っているのだが、いまだに二人で香を燻らせてのんびり…というのは実行できていない。

 

 夜に飲むと眠れなくなるので、出来ればこんな昼下がりにゆっくりじっくり飲んでみたいものだ―――いずれは。

 

 空になったマグの底に、一瞬だけ恨めしい視線を送ったあと、ポップは頭を切り替えた。

 病魔は時を選ばない。ならば、人も時をおかずに治療に当たるべきだった。

 

 

 

「まぁ大変!! ポップ!!!」

 

 マァムの慌てた声に、ポップも小走りで玄関に向かった。

 近くの村の男の子、ライが足からダラダラと血を流して姉の背におぶわれていた。

「うわ! ひでぇ怪我じゃねぇか!」

 踵から、ふくらはぎにかけて、何箇所もの刺し傷がある。鋭利な刃物で傷つけたのではないが、それゆえに却って抉られて見える肉の赤さに目を覆いたくなる。連れてきた姉―――クリスが心配の余り青褪めているのも当然だった。

 

「キツネ用の罠を、踏んでしまったんです。ポップ先生、マァム先生、ライを助けて!!」

 

 自分もまだまだ幼いクリスの声は、心配に震えていた。

 一方、当のライは何も言わない。血だらけの足を、彼は必死に見ないようにしていた。見てしまえば、それまで張り詰めさせていた我慢の糸が、一気に切れてしまうだろうから。口を開けば痛みを訴える泣き声しか出ないだろうから。

 誰しも覚えのある忍耐方法を、幼い子供が必死で実践している姿に、ポップとマァムの二人は、痛々しさを覚えながらも目元を和ませた。

 

「マァム、消毒液たのむわ」

「わかったわ」

「クリス、ライを椅子に。ライ、よく我慢したな。偉ぇぞ」

 

 赤みがかった少年の髪をくしゃりと撫でると、ポップは玄関横の低い椅子を持ってきてクリスの近くに置いた。

 普通、治療は奥の居間で行っているが、ライにもクリスにも、これ以上移動させるのは可哀相だ。消毒液を取り出したマァムが、コットンを入れた箱を持って何の迷いも無くこちらに戻ってくるのは、彼女も同じ思いだからだろう。

 

 

 傷口の血が、土汚れと共に洗い流されていく。

 食い縛った歯の隙間から、言葉にならない音を漏らしながら、ライは消毒の痛みに耐えている。

 脳天を突き抜けるような痺れと激痛が、叫びとなって迸るのをかろうじて押さえ込んでいるのは、優しくて綺麗な『マァム先生』の前で、赤ん坊のようにわんわん泣くのは恥ずかしいという、男の子特有のプライドのなせる業だ。

 手に取るようにわかるライの心理に、すり潰した薬草のぺーストをガーゼに塗りつつ、ポップは心の中で苦笑する。

「いい子ね、ライ。もうすぐ終わるからね。…汚れはもう取れたと思うわ」

 マァムの後半の台詞は、そんなポップを振り向いて告げたものだった。

「了解。…ライ、もうちょっとだかんな」

 ポップの言葉に、涙目になりながらも少年は顔を上げる。姉の手をさらに強くキュッと握って、「うん」と小さくうなずいた。

 幸いにも、神経や骨には傷は至っていなかった。これならば回復呪文を使わずに、大魔道士&聖拳女特製の上やくそうで、数日で治せるはずだ。

 

 包帯を巻き終わり、泣かずに我慢したご褒美に飴をあげて、何度も頭を下げる幼い姉弟を二人が見送ったのは、それから15分後のこと。

 それを皮切りに、やけに患者が多い午後となった。

 

 

 

 

 

 

 

 ポップは、大戦後にマァムたちと世界中を回った。それは偏に、黒の核晶で行方不明となったダイを探すためだったが、旅を開始してすぐにもう一つの目的が出来た。

 すなわち―――復興の支援。

 

 大戦の爪痕はポップ達が想像していたよりも酷かった。

 バーンは軍隊を率いて地上に攻めてきたのではない。そんな事をする必要はなかった。

元から世界中にモンスター達は存在している。普段は他の動物と共存している彼らだが、その魔性を活性化させてやれば、即座に人間の生活を破壊する使役となるのだ。

 アバンの使徒として、当時のポップたちは、各国の王都をその都度救ってきた。王都は国の行政の中心であり、魔王軍の戦略も王都に大量のモンスターを投入するというものであったから、勇者の一行が守備に重きを置くのも当然だった。

 だが、たとえ大量のモンスターに襲われなくとも、小さな村や集落は壊滅することもあるのだという事を、彼らは失念していた。

 マァムの故郷であるネイル村などは、男たちが王都の守りに徴集されても、マァムやその母であるレイラといった守り手がいた。ポップの故郷ランカークスはそれなりに人口もあり、山育ちの屈強な男たちがいた。…けれど、それらは幸運な例外にすぎないのだ。

 たとえ人的被害を受けなくとも、一歩外に出ればモンスターが暴れているとなれば、農家は鍬を振るえず畑は荒れる。街道を封鎖されれば、商家は仕事が成り立たなくなる。戦後3年が経ってそれらは随分回復したとは言え、まだまだ、どの国も田舎に行くほど疲弊しているのだ。

 

 ダイを探しつつ、ポップ達はそういった村々に立ち寄るたびに、復興の手助けをした。瓦礫の除去や、毒の沼地と化した池の浄化、時には子供らに文字を教え、村人に頼まれた物資の輸送も手伝った。

 中でも最も有り難がられたのは、医者の真似事だった。王都の守りに必要なのは兵士だけでなく、医者もそうだったため、多くの村が無医村となっていた。そんな村で、アバン譲りの簡単な医学知識を持ち、回復呪文を扱えるポップやマァムは非常に稀有な存在だったのだ。

 

 そして、現在(いま)がある。

 

 ここはパプニカ領内の村だが、ポップとマァムの住居兼診療所は各国にある。それも各王都にではなく、特に支援が必要とされる田舎に、だ。

 軽い病や怪我なら薬を調合し、大きな怪我は回復呪文で治療する。―――そんな事を繰り返している間に月日は流れ、ダイが帰還する頃にはポップは 大魔道士の他に薬師としての肩書きも持つようになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「…つっかれた…………」

 がっくりと肩の力を抜いて、椅子に背を預けるポップを、同じく疲れた顔でソファに座ったマァムが見る。

「今日は多かったわね…」

「ああ…。もうすぐリンガイアの方に移るからなぁ。みんな、わかってるんだろうな」

 あんまり薬草とか買いだめして欲しくねーんだけどなぁ……

 甕の中の上やくそうは、すっかり嵩が減ってしまった。ぼやくポップを見て、マァムは苦笑する。明日から錬金釜で上やくそうの大量生産に取り掛かるだろうポップの、渋い表情が今から想像できた。

 冬になれば彼女たちは一旦ここの診療所を閉じて、リンガイアに居を移す予定だ。パプニカよりも更に被害が酷かった国なので、薬作り以外にも、まだまだせねばならない事は多いはずだった。

 そろそろ荷造りでも…と思っていたが、そんな自分達の気配を察知したかのごとく、今日は患者が多かった。

「あ…もうこんな時間なのね」

 ご飯作らなきゃ…とマァムは立ち上がる。

 窓の向こうに月が見えた。今日はちょうど満月らしい。澄んだ空気にさやかな光を放つ、白い面。

「いーよ、もう。外に食いに行こうぜ。お前ぇだって疲れてるんだし、休んでく…」

 

  トントン

 

 ポップがマァムに休んでくれよと言いかけた矢先。それは昼のような大きな音ではなかったが、二人は顔を見合わせて苦笑する。

 

「はーい。どなた?」

 

 マァムは扉を開けた。

「遅くに、申し訳ない。マァム様」

 入ってきたのは村はずれに住む老爺で、彼はひどく掠れた声で謝罪を口にした。

 

「薬を…頂きたいのです。熱はないのですが、少し前から、咳が、ひどくて……」

 

 吸気のたびにひゅーひゅーと喉を鳴らしながら、彼は頭を下げた。

「咳止め……あったかしら…?」

 マァムは困ってポップを振り返る。確かに老人はひどく咳き込んでいる。簡単な風邪薬よりも、気管に特化した薬の方が良さそうだ。けれど、彼女はそんな薬を恋人が作っているのを見たことはなかった。

 おそらくはポップが首を横に振るだろうと思い、彼女は風邪薬を取りに行こうとその場を離れた―――離れようとした。

 

「…あるよ、咳止め」

 

 横から、ひどく静かな声がした。

「ちょっと待ってな、爺さん」

 ポップが立ち上がる。マァムは何故か彼に声をかけるのをためらい、老人に椅子を勧めながら、薬戸棚に向かう姿を黙って見つめた。

 普段あまり使わない奥のほうから、ポップは大きいビンを取り出して開ける。中に入った粉末を袋に分けて、メモに何事かを書いて付けると、彼は老人にそれを渡した。

「そのまま飲んじゃダメだぜ。中に入ってるスプーン1杯分をぬるま湯に溶かしてな。あと、頓服だから、メシの後じゃなく咳き込んで苦しい時に飲めばいい。爺さん、字は読めたよな? その紙にちゃんと書いてあるから…」

 いつも以上に、その声が優しいものに聞こえたのは、マァムの気のせいだろうか。

「ありがとうございます。大魔道士さまのお薬は、よく効くんで……」

 押し戴くように袋を持ち上げる皺々の両手。玄関先まで見送り、ポップは「お大事に」と呟いた。

 

 

 

 

「…お爺さん、喜んでたわね」

「ん? ああ…そうだな」

 

 そんなに疲れたのだろうか。老人が帰ったあと、外に出るという予定も忘れたかのように、ポップは黙りこくってしまった。

 あまりの静けさにマァムは話題を探したが、いつものポップらしくなく、すぐに会話は断ち切れてしまう。

 話の接ぎ穂を探して、マァムは「あの薬って…」と戸棚を見た。

 

 返ってきたのは、意外な答えだった。

 

「ああ、あれか…。俺が初めて作った薬だよ」

「え?」

「アバン先生に錬金釜を借りて作った、最初の薬だな。錬金術(あれ)なら、失敗したらすぐにわかるしさ」

 錬金釜で作ったモンは劣化しないから助かるよな、と小さく笑う。

「ちょ、ちょっと待って、ポップ。あなた…最初に作ったのが、あんな難しい薬だったの? しかもあんなに沢山なんて……」

 マァムが唖然とするのも当たり前だった。いくら錬金釜があるとは言え、普通はもっと簡単な薬―――たとえば栄養剤など―――から作るはずだろう。それをいきなり、気管の炎症を抑えるという、高度な技術と知識を必要とする薬から挑むなど、有り得ないではないか。

 

 けれど、ポップはただ微笑むだけだった。

 山の稜線から完全に顔を出した満月。窓辺に立ちそれを見つめるポップ。彼の顔に落ちた寂寥の影があまりにも濃くて、マァムは息を詰める。

 

 

「……そうだな。せっかく沢山作っても、ほとんど使わずじまいだった」

 

 

 ああ、そうか……

 

 マァムは思い出した。ポップがアバン先生から借り受けた錬金釜で薬を作り始めたのは、旅の初めからではない。その頃は、せいぜいが薬草をすり潰したり、エキスを抽出するくらいだった。彼が本格的に薬を作り出したのは、一旦旅を中断した時からだ。

 そして彼女は知っている。先ほどの老人よりも、さらに酷く咳き込んでいた人を。

 

 大呪文による身体の酷使からくる発作に苦しみながらも、いつでも軽口をたたき、老いても達者な姿を見せては笑うその人は、マァムにとっては両親の大切な仲間であり、ポップにとっては魔法においての偉大すぎる師匠だった。

 いよいよ発作が酷くなり、ポップはダイ捜索の旅を中断し、そして………

 

「もう…2年になるのね……」

 

 そっと寄り添い、呟く。頭一つ分高いところで、彼の頤が軽くひかれた。

 

「……ね…ポップ。コーヒーを飲まない?」

 彼女からの突然の提案に、「え?」とポップは目を丸くする。

「そりゃ、いいけど…今飲んだらなかなか眠れなくなるんじゃねぇか?」

「いいじゃない、たまには。…だって―――」

 

 マァムは微笑んだ。瞳に宿る光は強い。それは、痛みを知り、共有し、なおかつ相手をいたわる慈愛の笑みだ。

 

 恋人がかけてくれる優しさに、胸の内の哀しさを全部さらけ出して甘えたくもなりながら、それでもポップは笑顔を選択した。

 

「そうだな…。たまには……」

 

 たまには夜更かしもいいかもしれない。3年前と今迄と。通夜という言葉どおり、静かに積もった話を語り合うのに、夜は最適だろうから。

 

 

 

 

 ―――月がこんなに綺麗なんだもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 作り置きの素朴な料理と淹れたてのコーヒーを挟んで、恋人達が話すテーブルの片隅で、始まりの薬が月に照らされて輝いていた。

 

 

(終)




マトリフ師匠がポップに与えた影響を考えると、ポップは仮令ダイのことがあっても、つきっきりで介護くらいはしたと思います。
錬金のイメージは、ドラクエとアトリエシリーズを足した感じで考えております。


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理由の強化

だいぶ暖かくなりました。皆様、お元気でしょうか。

この話、サイトにUPしたのは遥か昔の新年だったような気がします。


 

 

 

 微かな魔法力の波動に振り向けば、鳥が背後に、いた。

 

「…来たか」

 バーンは確認を取るかのように一人ごちる。

 鳥―――と見えたのは、その周りで輝く細かな羽根のせい。霧散するキメラの翼の煌きは、夜明け前のこの暁闇に眩い。

 羽ばたかずしてその場に降り立ったのは、分厚い法衣を着込んだ青年だった。

 

「遅かったな」

 

 バーンの言葉に、青年は力なく笑う。

 

「わりぃ。抜け出すのに手間取ったんだよ」

 

 頭をかきながら、青年はバーンの横に立った。

「マァムは? まだか?」

「ああ。まだだ」

 少しアルコールのニオイをまとう青年に、バーンは眉を寄せる。

 

「気に入らんな。」

「ほえ?」

「余をこのような所に呼び出しておいて、自分は酒宴とは」

 

 半ば本気で言えば、青年は口をへの字にした。

 

「新年の祝いの席で、"国王陛下ならびに貴族諸卿"の杯を断れるかよ」

 つまらなそうな口調とふてくされた顔は、青年を大層幼く見せる。バーンは、一瞬目の前の彼が3年前の少年に戻ったかのような錯覚を覚えた。

 ふん、と鼻を鳴らす。

「貴様のようなガキに酒の味がわかるのか?」

「ひでぇな。多少は飲めるんだぜ」

「どうだかな」

 バーンは青年の法衣の襟元をちらりと見る。一見しただけではわからないが、立てた襟の中、首をさらに保護するかのように巻かれたスカーフは随分と水気を含んでいる。暗闇であっても魔族の目には明らかだった。

 

 祝いの席だと言うのに、振舞われたのはどうも安物の酒らしい。人には感じ取れぬだろう妙な刺激臭が、僅かにそのスカーフから漂っていた。

 

「大方、酔ってこぼしたのであろうが」

 

 バーンの指摘に彼は「あー…」と空気の抜けるような声を吐く。

 そういうわけじゃねぇんだけど、と弄んでいた厚手のスカーフをそのまま首から外し、広げる。高価な絹のそれは、完全にその色を深めるほどに濡れていた。

「やっぱりバレるかな、こりゃ。上手く誤魔化したつもりだったんだけどな…」

 苦笑を深め、「早めに洗濯しよう」とぼやく青年は、とてもその衣服の格に見合った存在とは思えなかった。

 この世界でそれなりの法衣といえば"賢者の国"と称されるパプニカ産であると相場が決まっているが、青年が今着ているものはその中でも最高級の物だ。

 ゆったりした袖口と長い裾。胸部につやを消した金糸で刺繍されているのは、師であるアバンの家紋。色は、先年法衣の貴色とされた緑を基調としていて、まさに青年のためだけに仕立てられた服なのだという事が一目でわかる。

 

 青年の立場は知っている。

 

 勇者ダイと共に、大魔王たる自分を相手に最後まで戦った、地上最高の魔法使い―――大魔道士ポップ。

 現在は生国であるベンガーナに仕え、国王の信頼も篤い。国が生んだ英雄として、そのうち、民草の生まれとしては例外的に、領地や爵位も与えられるのではないかと街では噂されている。

 

 経験でも伝聞でも自分はポップの事を知っているが、それでもなお、砕けた態度でいる時の彼は、『大魔道士』の呼称には似合わない。

 バーンにしてみれば、『瀕死だった自分を助けて治療を施した薬師の青年』の方が印象が強いため、尚更だ。

 

 彼は軽く頭を振った。長い銀髪が緩やかに揺れる。

 ポップの持つ二面性など、考えた所で今更どうなるものでもない。むしろその違いを楽しむべきなのだろう。

 

「…まぁいい。ところで、何故このような所に余を呼んだ」

 

 海を臨むこの場所は、通称『剣の岬』と言われている。

 勇者ダイが行方不明であった間、その剣が立てられていた為だ。

 もちろんダイが帰還した現在は、剣は主の元に戻った。今この場には台座が名残を留めているのみだが、それでも観光名所であるらしく、気候の良い時季には大勢の人間がやってくる。

 

 しかし、さすがに厳冬期の今、しかも夜明け前のこの時間に人通りはない。そもそも勇者に関係する場所に大魔王を呼ぶとは、何を考えているのか。

 

「ああ。ここでさ、日の出を見ようと思ってな」

 にこやかな笑顔と共に、ポップは告げる。

「日の出…だと?」

 うん。と頷いて、彼は剣の台座に腰掛けた。

「ここ、海から昇る太陽が物凄く綺麗なんだよ。毎年、年明けに来る事にしてんだ」

 

 バーンの口元に浮かぶのは、深い笑みだった。

 結局のところ、そんなものか。普段は過去の恨みの全てを忘れたような態度でいるとしても、その底には、敗残の身である自分に、最早永遠に手に入らぬ物を見せ付けてやろうという想いがあるのだ。

 それも当然だろうな。余裕を示せるのは勝者の特権だ。

「なるほど…」

 その口調は明らかに冷たいものをまとっていた。ポップは振り返る。

 

「………違うよ、バーン。お前ぇが今考えてるような理由で、ここに呼んだんじゃねぇ」

 

「ほう?」

 嘲りも露な声音に、ポップは少し哀しそうな顔になる。

 バーンは鼻で笑う。

「わざわざ余に太陽を見せるというこの事が、『太陽は地上の物だ』と言うのと、どう違うのだ?」

 ポップは答えない。小さく違うと呟いたようだったが、バーンはそれを無視した。

「所詮はお前も、その程度の人間か。神に優遇され竜の騎士に守られて当然だと思っている」

「…違う」

「違う? 何がどう違うと言うのだ?」

 嗤いながら、バーンは自分の言葉に怒りが篭っていくのを感じていた。そして、その怒りの原因を考えてさらに苛立ちが募る。

 

 何故こうも腹立たしい? ポップが自分に向けた態度か。だがそれは当然ではないのか。自分は3年前の血戦で負け、彼らは勝利者なのだ。生きているのも彼らが憐れんだからではないのか。

 わかっていた事だろう。気まぐれによって与えられた余生だと。違うとでも思っていたのか。何を怒る事がある。

 

 勝者と敗者、恨みと蔑み以外の、何か別の関わりを彼らに期待でもしていたのか―――?!

 

 自分の心が量りかねるという事は、これまでバーンにはなかった。数千年の生を経て、あらゆる経験を積んだ彼であったが、こんな気持ちは知らない。単純な怒りだけではなく、かといって屈辱や悔しさとも違う想い。

 ただわかるのは、この気持ちに襲われるのが、決まってポップ達と共にいる時だという事だけだった。

 

 凍りつくような視線を向けたまま、沈黙したバーンとは対照的に、ポップは少し苦く笑う。

 どこか困ったように、呆れたように、…寂しそうに。様々な感情を含んだその笑みは、掴みどころのない青年の性格を実によく現していた。

 

 

 

 

「全然違うよ、バーン。太陽に照らされる地上を、あんたに好いてもらいたいんだよ―――」

 

 

 

 

 まるでその言葉が合図だったかのように、曙光が海から溢れ出した。

「……………っ!」

 水平線を眩い光が包み込み、海が何百の宝石を散りばめたかのように輝きを放つ。力強い光は、闇に慣れたバーンの瞳を一瞬圧倒した。目の前の青年の輪郭が霞む。

 まんじりともしないポップは、まるで石像のように見えた。

 

「良かった…今年も見れたな」

 

 ぽつねんとした呟きは、一体どういう意味なのか。

 問おうとした時、光の中に再び鳥が現れた。

 

「ポップ!」

「マァム!! ぎりぎりだな! 丁度今からだぜ!」

 一転、朗らかな笑みを浮かべ、青年は恋人を抱き寄せる。現れた時そのままに、重さを感じさせない軽やかな動きでポップの胸におさまった娘は、陽光に目を細めた。

 

「綺麗ね……」

「ああ」

 式典用の、しかし動きやすさを重視した武道着姿の娘が寒くないように、青年はマントで彼女を包み込む。

 その優しい動作から、ポップの先程の台詞の意味を測るのは難しかった。

 

 ふと、マァムがポップの手にあるものを見る。

「……ポップ」

 不安気に眉を寄せた彼女に、ポップは申し訳なさそうに笑う。

「うん。……大丈夫だぜ?」

 笑って振るのは、ぐっしょりと酒に濡れたスカーフ。

 

 

 "国王陛下ならびに貴族諸卿"の杯を断れるかよ

 

 あー…そういうわけじゃねぇんだけど

 

 上手く誤魔化したつもりだったんだけどな…

 

 

 何故か、先程のポップの台詞が、唐突に脳裏に蘇った。

 

 酔ったのだと思っていた。貴族どもの酒で手元を危うくしたのだと。

 だが、ならば何故マァムはああも心配しているのか。

 酔ったのでないなら、それは…

 零さねばならない理由があるからではないのか?

 

 潮の匂いに混じって、先程の刺激臭がやけに鼻につく。

 

 

 良かった…今年も見れたな

 

 

「ポップ、うぬは…」

 

 自分が何を言おうとしたのか、バーンにはわからなかった。それでも、確かに掛けようとした言葉が存在した事を、胸の閊えが彼に教えた。

 

「綺麗だろ、バーン」

 

 ポップが彼を振り向いて笑う。

 それは最早一切の苦みを除かれた明るさで。

 

「魔界を照らしてもきっと綺麗なんだろうけどさ、地上も捨てたもんじゃねぇって思わねぇ?」

 

 その笑顔をバーンは知っている。心の底からの笑みだ。

 何故だか泣き出しそうにも見えてしまう、心の底から何かを信じようとしている笑みだ。

 

 

 

 

 

 地上を、あんたに好いてもらいたいんだよ

 ―――色んな人が好いたものなら、きっと俺は嫌いにならないから

 

 

 

 

 

 ポップの身体が震えているのは、寒さ以外にも理由があるのだろう。

 心得たかのように、彼の手を握るマァムがいる。

 

 

「……ああ」

 

 バーンは金眼を閉じた。曙光よりも更に眩いものが、彼にその動作を促したのだった。

 寒々しかった夜霧と共に、胸の内の怒りが霧散している事に彼は気付く。

 

 恨みと蔑み以外の関係を、彼らには求めても良いのかもしれない。けれど―――

 

「そうだな。捨てたものではないな」

 

 

 

 

 

 ―――そう思いたいのは、お前だろうに。

 

 

 

(終)

 



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純真の使徒

暑中お見舞い申し上げます。暑くて脳みそ融けそうです。


 

 すったもんだの騒ぎの末、ようやく勉強会はお開きとなった。

 珍しくアバンの使徒全員がこの場にいる―――という事で、お茶はそのままダイの勉強部屋に運ばれた。残念ながら予定が入っているという事で、ダイにいつもの倍の宿題を笑顔で与えると、師は帰ってしまったが。

「ヒュンケルも飲んで頂戴。休憩を取ってないんだし、どのみち私がこの部屋にいる限りは貴方もいなきゃいけないんだもの」

 仕事中だという理由でお茶を辞退しようとした使徒の長兄格に、レオナは笑って告げる。それを見てダイもラーハルトを誘った。

「そうだよ。皆で休憩しよう!」

 宿題の量に少々沈んだ面持ちであった彼も、気を取り直したようだ。にこやかな笑顔に、流石の鉄面皮二人も苦笑を浮かべ、それぞれの主に礼を述べて、席に着いた。

 

 窓の外、ミーン ミーンと大きな声でセミが鳴く。

 まだ日も高い。今日の午後はとても暑くなりそうだった。

 

 

 

「じゃあポップ、あとで図書館でね」

「おう」

 手を振って、マァムがレオナについて部屋を出た。

 久しぶりに女同士の気の置けない会話を楽しみたいのだろう。ヒュンケルの護衛任務も交代時間となったので、お茶と談話を楽しんだあと、レオナはマァムを誘って自室に移っていった。

 

 残されたのは野郎4人である。

 

 このメンバーの場合、大概は年少二人が話して、年長組はだいたい聞き役に回るというのが専らである。そして今回も、その範囲から一歩も漏れるものではなかった。

先程までの会話の続きで、ダイが「便利なんだよ」とポップに言った。

「困った時、結構助かるんだよ、父さんの記憶」

「ほー」

 気の無い返事が、ポップから返ってきた。

「カンニング以外にどんな使い道があると?」

「いや、だから、そういうのは引き出せないんだって!」

「引き出そうとしてただろうが」

 

 だからペナルティ―――大量の宿題というやつだ―――をもらったんだろ。と、ジト目で親友に突っ込まれ、ダイはぐっと言葉に詰まった。

 

「……結果的に引き出せなかったんだからいいだろ」

 なおも抗弁する弟弟子を、苦笑しながらヒュンケルがたしなめた。

「よくないな。ズルは駄目だろう。解けない問題には再度挑めばいい。…俺も先生と一緒にいた頃は、何度か再試を受けたのだしな」

 声は笑いを含んでいても、長兄分である彼の言葉は、ダイをばっさりと切り捨てる。

 

「いくら現在は『自分の紋章』に重なったとは言え、父親の記憶を頼りにするのは駄目だろう?」

 

「うぅ……」

 兄弟子二人に叱られて、しょぼんと落ち込むダイをラーハルトが気の毒そうに見ている。この忠臣がそれでも庇わないのだから、もうちょっといじったろかともポップは思ったが、雨に打たれた子犬のような目でダイに見られて、さすがにその気は失せてしまった。

「…わーったよ」

 くしゃくしゃとダイの髪をかき回し、ヒュンケルにも『もう止めとこうぜ』と目で合図する。もちろん、ヒュンケルも了承した。

「結局引き出せなかったんだもんな」

 未遂だ未遂。

「…うん!」

 許しをもらって、嬉しそうに目を輝かせたダイに、ポップは内心苦笑して話を戻した。

 

「で? 親父さんの記憶ってどんなのがあるんだよ?」

 

 

 

 嬉しそうに、ダイは父親の話をする。

 

「―――母さんとデートした時の記憶もあるんだよ。母さんが空を飛んでみたいって父さんに頼んだんだ」

 

 意外な事実発覚だな―――とポップは心の中で呟いた。ポップが知っているダイの父親は、厳格なイメージでしかない。女性とデートしている姿など想像もつかなかった。

「だから母さんを抱えて、トベルーラで空の散歩をしたみたい。母さんは凄く喜んでた!」

 身振り手振りを交えて、とても楽しそうに話すダイの表情は、曇りのない笑顔だ―――きっと、彼の父バランが最愛の人と散歩したという空も、同じような曇りの無いものだったのだろう。

 

「あと、おれが産まれた時の事とか。父さんはおれを抱き上げるのを凄く怖がっててさ…。母さんを見ながら、凄く上手にあやすなぁって思ってたみたい」

 

 ダイを寝かしつけようとして失敗するバランの慌てぶりと、それを見て苦笑するダイの母親の姿。

 あるいは、おむつを替えたり、お風呂に入れる笑顔の母と、恐る恐るそれらにチャレンジしては、泣かれて失敗するバラン。

 

 ダイの話からそれらを想像する事は、新鮮さを伴った驚きと楽しみを3人に与えてくれた。

 3年前の大戦で亡くなったダイの父、バラン。その鮮烈な生き様をこの部屋にいる者は全員が知っている。出会いも別れも余りにも辛い形だったため、バランについて語る事は避けられていた節がある―――特にダイの前では。

 それが、こんな風に明るい話題としてお茶のテーブルに上がるとは、意外を通り越して驚きだった。

 …いい傾向だよな………

 親友の笑顔を見ながら、ポップは思う。

 悲劇の将だったバランのイメージが、ダイの話によって、血の通ったあたたかい人物像になっていく。

 何よりダイが、こうして父親の視点から見た思い出をなぞりながら、自分がどれだけ両親に愛されていたかを改めて確認して、喜びを覚えているのだから。

 ちらりと視線をヒュンケルとラーハルトに向け、彼らが自分と同じ想いであることをポップは知る。

 二人の柔らかな笑顔は、ダイとバランの父子を想ってこそのものだ。そもそも、彼らにとっては『父親』や『バラン』という単語そのものが、想いを致すものなのだ。それが良い思い出として語られれば、嬉しくないはずがない。

 

 ポップはふと、以前に行われたダイとの会話を思い出した。風の強い日、とある丘でダイは、己が父親のように人間に絶望したら―――そんな仮定を自分に話した事があったのだ。

 あの時は、紋章を受け継ぐという事が、先祖の記憶の辛さも悲しみも一切合財を引き継ぐ事なのだと遣る瀬無い気分になったものだが、今日の様子を見ていると、悪い面ばかりではないのだと思えてくる。

 あたたかな思い出も、自分では覚えていない事まで伝えられるのなら、素晴らしい事なのだと思う。たとえ凍て付く記憶が多くても、ダイならばその温もりを貴重なものとして守り続けるだろうから。

 

「良い思い出ですね」

 ラーハルトが幼さの残る主に微笑みかける。

「そうだな。赤ん坊の頃の事など、普通は成長すれば忘れてしまうのに、お前はバランの視点から思い出せるのだな」

 大切にしろよ、と優しく言うヒュンケルに、ダイはどこか照れたように「うん」と笑った。

 

「…でもさ、やっぱり全部は引き出せないんだよね」

 

 ちょっと困ったような笑顔で、ダイは父親の記憶を辿る。

 数秒後、「駄目だ」と肩を上下させた。やはり、知りたい部分は引き出せない。

 

「へえ。記憶があやふやなのか? 戦闘中で、親父さんも必死だったとか?」

「いや…そういうんじゃないと思う。母さんと一緒だし」

「お母上と?」

「うん。母さんとの思い出だからオレも知りたいのに、何箇所かは絶対に無理なんだ」

「ふむ?」

 3人が首を傾げたのを受けて、「えーーっとね…」と、ダイはその思い出をわかる範囲で話し始めた。

 

 

 

「多分、父さんは母さんと向き合ってるんだ」

「うん」

「母さんは熱でもあったのかな? 顔が凄く真っ赤でさ」

「…ほう?」

「部屋の中だと思うんだけど、せっかく二人でいるのに、凄く薄暗いんだよ。カーテン開ければいいのにって感じでさ」

「…………はい」

「で、父さんが、母さんの肩に手をのせて―――」

 

 ―――そこまでしか見れないんだ。何だろうね、これ。

 

 

 

 ミーン…というセミの鳴き声を、年長者3人はやけに遠くで聞いた気がした。

 

 

 

 そこから先は、ダイには不思議なやり取りだった。

 

「まぁ…」

 と、ポップが小さく呟いた。

 

「そのうちわかるんじゃねぇかな?」

 

 微妙に彼の顔が赤い気がした。確かに今日は凄く暑いが、なんだか急に室温が上がった気もする。

「そうかなぁ?」と言う自分にラーハルトも頷いた。

 

「左様ですよ、ダイ様。引き出せないと言うことは、今はまだ特にお知りになる必要がないという事でしょうし」

 

 ラーハルトの言うことは尤もなのだと思う。戦闘に関して言えば、知りたい情報が知りたい時に頭に浮かんだ覚えがあるし、両親の思い出もそういうものなのかもしれない。

「…そうだね。でもさ、ちょっと残念だな。父さん達の事、もっと色々知りたかったのに」

 

「だからこそだ、ダイ。両親の大切な思い出だ。……そうあっさりと他人に話すものではないという事だろう」

 

 ヒュンケルの言葉に、ダイは素直に頷いた。

 …視線を逸らされたのは、気のせいだと思う事にする。

 

「うん…そうだね。じゃあレオナ達には内緒にしとくよ」

 

「…おう。それがいいと思うぜ。俺らだけの秘密にしとこう、な?」

 ポップが笑う。ヒュンケルとラーハルトも。

 頷く3人の笑顔は、三者三様に物凄く生温かかった。

 

 

 

 皆が同じような笑顔で自分を見るのが解せず、ダイは一人首を傾げる。

 その胸で、アバンのしるしが、静かに光を放っていた。

 

 

 

(終)

 




サイトのとは、少し単語が変わったりしてます。流れは一緒です。




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洗濯

お久しぶりです。二年以上ご無沙汰しておりました。
再アニメ化のお陰で色々充填できました。

マァムとバーンの話です。


 その日は、とてもよく晴れていた。

 ふと顔を上げたマァムの視線の向こうには、先程竿に干されたばかりの洗濯物が、風をはらんではためいている。

 ほんのり滲んだ額の汗すらも気持ちいい。そんな日。

 

 絶好の洗濯日和―――って、こういう日を言うのね。

 

 マァムは絞り終わったシャツを脇に置くと、さて、と洗いの続きに取り掛かる。

 確か、もうほとんど残ってはいないはずだ。今日のように緩い風もある日なら、あっという間に乾くだろう。雨の心配もない。あとは街にでも行って買い物をしようか。

 そんな事を思いながら、彼女はカゴの中身を盥へと一気に空けた。

 残っていたのは一枚だけ。

 

 ふわり

 

 綻んでいたマァムの表情が、少しだけ硬くなる―――それは、厚手のスカーフだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな水音を立てながら、マァムはスカーフを洗う。

 恋人が作った石鹸を使い、シミになっている部分を軽くこする。この石鹸は、市販の物より断然質がいい。スカーフは絹地だが、その事を余り気にせずに使えるので重宝していた。

 

 ちゃぷ ちゃぷ

 

「……………。」

 軽く舞い上がる泡。それとは対照的に、彼女の表情は重く沈んでいた。

 さわさわと風が鳴る。

 自身が立てる水音だけを聞いていた彼女の耳が、違う音を拾ったのはその時だった。

 

「洗濯か」

 

 背後から聞こえたその声は、彼女がごく親しくしている魔族の男から発せられたものだった。

「……バーン」

 マァムは振り向いた。

「お帰りなさい。村はどんな様子だった?」

 彼女と彼女の恋人が治療したこの元大魔王は、もう日常生活にほとんど支障がないほど回復している。

 共に旅をして暮らすうちに、今のバーンには数日おきに訪ねるほどこだわりのある場所も出来ており、かつてのような地上への嫌悪感は鳴りを潜めている。その事実が、沈んでいたマァムの心を僅かながらも浮上させた。…笑顔が成功したとは自分でも思えなかったが。

 

 ぎこちない微笑みが気になったのか、バーンはわずかに眉を顰めたが、特に文句を言うわけでもなく、訊かれた質問に答える。

「どんな様子と訊かれてもな…。すぐには変わらぬさ。家は建ったが、基本的に定住に慣れていない者ばかりだからな…雑なものだ」

 そう…とマァムは笑う。戻って早々に渋面を見せられれば、バーンにとっては不快であるに違いないから。心が沈む原因は、バーンとは無関係なのだから。…けれど。

「そう……でも、家が出来たのね。良かったわ」

 無理やりに笑顔を作れば、やはりぎこちなさは隠せない。自分の演技力のなさにマァムは苛立ちを覚えた。

 

 ―――ポップはあんなに巧いのに。彼ならばどこまでも巧く笑顔を作るのに。

 

 マァムの脳裏に浮かぶのは、共に暮らす恋人が見せる笑み。見る者の心を明るくさせるポップの「いつもの」笑顔だ。

 あのようにいつでも笑顔を見せられる人を、彼女は他に知らない。……それが良い事なのかどうかは、わからないけれど。

 

 バーンは家の方を顎で示した。

「アレは、おるのか?」

 誰の事かは尋ねるまでもない。その問いに、マァムはふるりと頭を横に振った。

「いまはパプニカよ。本を借りに行ったわ」

 バーンは頷き、荷物を置きに家に向かった。背中を見送るマァムから笑みが消える。力を失ったかのように彼女は座り込み、腰に当たった盥の縁に、自分が洗濯中だった事を思い出した。

 

 盥に浸かるのは、ポップのトレードマークとなっているバンダナと同じ色のスカーフ。

 新年の祝いの席や、先日の春の祭典で、ぐっしょりと濡れてしまったそれは、早めに洗ったにもかかわらず、頑固なシミが小さくもいくつか出来ている。

 先程よりも強めに擦りながら、マァムは溜息をついた。

 ベンガーナに登城する際、ポップは必ずこのスカーフを身に付けるようにしている。…いつの頃からだったろう。決して初めからではなかった。

 おそらくは、ダイが帰還した前後からだ。その頃から、ポップは王の招聘を受ける事が多くなった。

 

 ―――そして、爵位の授与が噂されだしたのも、丁度同じ頃から。

 

 勇者の仲間達は全員別々の国に所属している。

 レオナがパプニカにいるのは当たり前だが、ヒュンケルもパプニカでレオナの護衛という立場にある。彼の戦力が最早過去のものとなったと言っても、将来的には、勇者ダイまでもがパプニカに加わる可能性が高いと目されている状況で、例えどれほど親しい間柄だと言っても、他のメンバーまでもがパプニカに所属する事など許されなかった。

 師アバンが摂政としてカールに存在するのは婚儀によるものだが、他は違う。

 マァムはロモスに。ポップはベンガーナ。メルルはテラン。リンガイアにはノヴァと、皆それぞれの生国に所属することが暗黙の内に決まった。

 圧力がかかったたわけではない。戦力及び国力のバランスを王達が考えているのは自明の事だったし、それがひいては仲間や己の身を…誰よりも『勇者ダイ』を守る一番の方法だという事を、各々が肌で感じた結果なのだとマァムは思っている。

 温厚な性格で知られるシナナ王でさえも、マァムが任官を受諾した際に安堵の表情を見せたのだ。その事実が、彼女に政治というものの複雑さを如実に教えてくれた。

 そんな状況の中の、授爵の噂。

 今の時点でもポップはベンガーナ王の相談役という立場にあるが、王としては、ポップを確実にベンガーナに取り込みたいのだろう。

 気さくなポップの性格は、多くの人に好かれる。そしてその魔法力の強大さと機動力とは、どの国にとっても垂涎の的であるのは明白で。

 けれど、たとえ現在はベンガーナに所属していても、表面上は自由意志での所属なのだ。野に下ったり、他国に流れられたりしてはたまらない。だから―――土地や領民によって国に縛り付けようとする。

 

 吹く風に揺られ、耐える様に震えたあと、弾けて消える、泡。

 いつしかマァムの手は止まっていた。

 

 ポップが、爵位を受けるつもりでいるのかいないのか。それはまだ本人も決めかねているようだ。

 だが重要なのは、ポップの選択云々よりも前に、周りが動き出したという事だった。

 

 ぱちん ぱちん

 

 微かな音を立てて、シャボンが割れる。

 虹色の膜はこんなにも美しいのに。

 

   …ぱちん

 

 風に揺れて浮かぶ姿は、こんなにも綺麗なのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「隙だらけだな」

 

 ハッと息を飲んでマァムは振り返る。

 バーンだった。低い声はわずかに嗤いを含んでいて。

「…驚かさないで」

 知らず、硬い声が出る。それはマァムにしては珍しい事だ。

 バーンは目を細めた。盥の中身は、先程と変わっていない。水に浮かぶスカーフには見覚えがあった。

「……そのスカーフ、随分念入りに洗うのだな?」

「え…」

「余が戻ってから、何分たったと思っている?」

マァムは赤くなる。周りを見れば影の位置がハッキリわかるほどに移動していた。その事が、どれだけ自分がぼんやりしていたかを物語っていて。

 だが、バーンには別に揶揄したつもりはないようだ。金色の瞳は笑っていない。

 

「毒か」

 

 ざわ…と風がなる。

 ややあって、マァムはこくりと頷いた。

「…知ってたのね」

「酒をこぼしたにしては、妙なニオイがするのでな。…しかも頻繁にすぎるわ」

 バーンは指を小さく鳴らした。スカーフが浮かび上がり、雫を垂らしながら彼の手に移動する。

 典雅な動作が似合う元大魔王が、洗濯物を持っているというギャップも、今のマァムには何の面白味も感じさせなかった。先程、努力して作った笑みは既に消えている。

 スカーフのシミは、まだとれてはいない。ちらりとその部分に目をやって、バーンはわずかに咽喉を震わせ笑う。

 ……こういうのを『凄みのある顔』というのだろうかと、どうでも良いことを沈んだ気分のままマァムは思った。

 バーンの笑いは、蔑みと皮肉を足して2で割ったら出るのではないかという笑みで。ぼんやりとそんな分析をしながら、それでも彼女が腹を立てないのは、皮肉はともかく、蔑みの対象が自分や恋人でない事を心のどこかで理解しているからかもしれない。

 

「愚かな人間もおるものだな。世界を救った恩人に毒を盛る、か…」

 

 何もかもわかっているかのように、バーンは独りごちる。シミに向けられていた視線が、移動した。その先には―――マァム。

 

 

 

 

「このようなシミのあるスカーフ、捨ててしまえば良いのではないか?」

 

 

 

 

 マァムは一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 風の音がやけに大きく聞こえる。

 

 ざわざわ ざわざわ

 

「気に入らぬものなど、消してしまえばよいのだ」

 

 口調は嗤いを含んでいるのに、金の眼は真剣そのものだった。刺すようなその視線はマァムを真っ直ぐに見つめている。

 

「汝らには、その力があるだろう」

 

「……………バーン」

 マァムは言葉を探す。バーンの言う意味は明らかだ。

 政敵を消し、国を…世界を手に入れる―――それは確かに、今の自分たちなら不可能ではないのだろう。己の利権を守るためにポップの命を狙う輩など、力づくで排除してもマァムの心も全く痛まない。

 けれど、とマァムは思う。

 

 

 ―――大丈夫だぜ?

 

 

 脳裏に浮かぶのは、恋人の笑顔。

 悪意にさらされるたびに、自分が案じる言葉をかける前に、ポップは笑う。いつもと変わらぬ明るい笑顔で。自分にはとても真似出来ない笑顔で。

 それが作られた笑みだとマァムは知っており、しかし、込められた想いに嘘はない事も彼女は知っている。ポップが大丈夫と言うのなら、きっとまだ大丈夫なのだ。

 

 彼の笑みは強さの証であり、困難に立ち向かう勇気の証明。……ならば疑ってはならない。邪魔をしてはならない。

 

 だから、マァムは首を横に振る。口にする言葉は、危険な誘いへの返事ではなく。

「ありがとう、バーン」

「………何のことだ?」

「心配してくれてるんでしょ、ポップの事?」

「な………っ?! 誰があやつの心配など…!?」

 強く否定する元大魔王の姿が可笑しかった。そこまでいきり立って否定する事もないだろうに。

 心の中で苦笑しつつ、マァムはバーンの手からスカーフを取ると、「不思議ね」と呟いた。

「命懸けで戦った敵の貴方が、私達を気遣ってくれて。命懸けで守った人達の中から、私達を殺そうとする人が現れる」

「…………。」

 命懸けで戦った敵のほうが信頼に値し、命懸けで守った存在の中に憎しみや敵意が潜む、この不思議。

「でも、世の中そんなものなのかもしれないわね…。決して一つの色には染まらない……」

 スカーフを広げる彼女に、バーンはふんと鼻を鳴らした。

「知ったような口をきくのだな」

 ……確かに、20年も生きていない小娘がこんな事をしみじみと語るのも妙な話だけれど。

「でも、そうでしょ? 合わないからって捨てるばかりじゃ、貴方ともこんな風に喋ったり出来ないもの」

 

 勇者の仲間と、元大魔王。勝者と敗者。人間と魔族―――倶に同じ空の下に存在するはずもない立場の自分たちが、今ではそう問題もなく一緒にいる。

 

 それを言えば、バーンは小さく息を吐く。そのまま彼は何も言わずに視線を外した。

 数千年を生きた男のそんな態度が、何だかとても子供っぽく見えて、マァムは笑う。

 もう完全に気分は浮上していた。自分が普通に笑えている事がその証拠。

 

 ぱたぱた ぱたぱた

 

 スカーフを絞って、竿に干す。はためくそれは、風を孕んで小さな音を立てた。

 強い風は、彼女の髪をかき乱して通り過ぎていく。

 マァムは目蓋を閉じた。

 

 

 

 

 ―――このようなシミのあるスカーフ、捨ててしまえば良いのではないか?

 

 

 

 

「捨てないわ…」

 ぽつりと零れた呟きは、決意。

「私もポップも、このスカーフ、とても気に入ってるんだもの」

 誰が聞いていなくても、彼女自身は聞いている。

 忘れないために、言い続けねばならない―――それが自分たちの選択なのだと。

 

 

 軽くシワを伸ばして形を整えると、マァムはカゴを持って小屋に向かった。途中から小走りになる。

 もうこんな時間だ。急いで街に行かねばならない。ポップが帰って来るまでに買い物を済ましておこう。

 今日は彼の好きな玉子料理だ。

 

 

 駆ける彼女の後ろで、スカーフがはためいた。

 消えずに残ったシミは、それでも僅かに薄くなっている。

 

 

(終)




『理由の強化』からの流れです。読んで頂いてなくても大丈夫。

ポップは毒杯の中身を飲んでるようにみせかけてスカーフに吸わせているわけです。




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本日一話目。

ポップとマァムとレオナの話です。次話の元拍手小話とセット。

ご注意:オリキャラ出ます。


 玄関先に、植木鉢が置かれた。

 植えられているのは、肉厚のロカイ。

 自分には買った覚えがないし、居候の魔族は豪快な花を好む(そもそも彼は買い物には行かない)。ならば―――買ったのはマァムだろう。

 

「これ、どうしたんだ?」

 

 何気ない会話の中で、ふとポップが購入者に尋ねると、

 

「肌に良いって聞くから」

 

 そう言って、彼女はただ微笑んだ。

 

 

 

 そんなやりとりがあった事すら忘れた頃、ポップが調合を終えてキッチン兼ダイニングに行くと、マァムが手をさすっていた。

 その甲が、窓からの光に照らされて微かに輝いて見える。

 ああ…ロカイを塗ってるのか………

 心の中で一人ごちて、ポップは椅子に腰掛けた。

 このところ、よくこういう光景を見る。

 ヒマさえあればロカイの葉を積んで液を手に塗るマァムの姿に、最初ポップはかなり不安になったものだ。

 観葉植物の他のロカイとは違い、木立ロカイは薬用に用いられるものだ。錬金釜での調合に使った事はまだないが、民間でも『医者いらずの草』として昔から当たり前のように使われている。

 だが、頻繁に塗るというのは………

 火傷でもしたのか? と聞けば、違うらしい。

 怪我したの? と問えば、笑いながら彼女はひらひらと手を振った。

 

 ―――何でもないのよ。単に肌に良いから塗ってるだけ。気にしないで。

 

 健康そのものの笑顔で、そのように言われては、引き下がるしかなかった。

 だが、気にしないでと言われれば、かえって気にするのが人間というものだ―――特に恋人に関する事とあっては。

 

 …確かにロカイは肌に良いけどな………

 

 しっとりと光る手を、マァムはただ見つめている。ポップが自分を見ている事すら気付かずに。

 

 …何でもないなら、どうしてお前はそんな浮かない顔してるんだよ、マァム?

 

 

 

 

 

「私に聞かれても…一緒に住んでるポップ君のほうがマァムについては詳しいでしょう?」

「…まぁ、そうなんだけどな」

 パプニカの大図書館に行った際、ポップはレオナの所に顔を出した。その際、気がかりだったマァムの様子について相談を持ちかけたのだ。男の自分よりも、仲の良い女友達のほうがわかる事もあるだろうと思って。

 だが、レオナはわからないと言う。

「本当に大したことないんじゃない? 怪我をしたわけでもないんだし、気にしすぎじゃないかしら?」

「そう…かな」

 頭ではレオナの意見に頷けても、目の前にチラつくのはマァムの表情。

 そもそも、自分は女ではないから女性の機微には疎い。疎いが、手にロカイを塗るとして、それで眉を寄せて真剣な表情になるものだろうか? 鏡を見つめて黛や紅を刷くというのなら、まだわかるのだが。

「大体さ、おかしいだろ?」

 

 あのマァムが急に肌の状態を気にするなんて!

 

 さすがに女王の私室で話しているため声は大きくなかったが、断言したその台詞にレオナが噴き出した。

「ちょ…ポップ君……言いすぎよぉ!」

 だが否定はしない。

 そうだ。確かにマァムがお洒落に気を遣うことなどついぞなかった事だ。女だけの場所なら(もしかしたら異性がいたとしても)、服の裾を動きやすいという理由で腰まで上げてしまうような無頓着な娘なのだ。それが急に肌の手入れなど、ポップが奇妙に思うのも当然だった。

「でも…でもね、ポップ君、それっていい傾向なんじゃないの? あの娘、今迄がおかしかったのよ。自分の魅力に全然関心がないもんだから、貴方も苦労したでしょ? お肌の手入れはお洒落の第一歩なんだから……」

 笑いの余波に涙を浮かべながらレオナは言ったが、ポップは横目で彼女を見ただけだった。

「……手だけを気にしてるから、変なんだろ…」

 ぽつりと言われ、若い女王は笑うのをやめた。普段、飄々としている青年が、ここまで真剣な表情になるのは、ここ最近では余りなかったことだから。

 

 …それだけマァムに惚れてるって事でしょうけどね。

 

 ふと、かの勇者はいつまで待てばこんな態度を取ってくれるだろうか? などという切なすぎる疑問がレオナの脳裏に浮かんだが、強引に打ち消した。今は自分の恋愛が議題ではない。

 

「なぁ姫さん、本当にわからねぇか? 何かほんの少しでもヒントになるような事を、この前あいつと話したりしなかったか?」

 縋るような黒い瞳に見つめられて、レオナは戸惑う。

 実は、レオナは事情を知っていた。マァムに肌のことで相談され、最終的に王宮でもよく使うロカイを勧めてみたのはレオナ自身だったからだ。

 そして、その事をポップに漏らすなと、マァムに硬く口止めされていた。だが……

 

 ここまで心配してるんだもの……。ポップ君が可哀相だわね………

 

「姫さん?」

「…私が喋ったって、マァムには言わないでね?」

 

 

 

「レオナは、美容液には詳しい?」

「……え?」

 

 それは実に唐突な問いだった。レオナは目を瞬いた。問いの内容も意外だが、それを発した人物がマァムだという点がさらに意外だったからだ。

 

「どうしたのよ、急に?」

「…ちょっと、手がガサつくかなぁって思って」

 

 驚いたというものではなかった。世の女性に美容・お洒落という必須科目があるとすれば、確実に落第点を取るはずの子が、急に手指の手入れをしようなどとは!!

 その思いが如実に顔に出たのだろう。困ったようにマァムは微笑んでいた。

 

「レオナなら、そういう『綺麗になるもの』をよく知ってるでしょう? 私でも使えるようなものって、何かないかしら?」

 

 マァムの表情に引っ掛かりを覚えつつ、レオナは話に乗ってみる。

「…じゃあ、私が使っているのはどうかしら? 茉莉花水ので良いのがあるから」

 レオナはマリンを呼び、美容液の種類や効能、扱っている店の名前などをリストアップしてもらう。……本当はプレゼントしたいのだが、レオナにその自由はない。女王の顔色を整えるのは女官の仕事だ。彼女らの給料から使用する道具まで、それらは無論のこと国庫から出される公費でまかなわれるものであり、公費とはイコール税金なのだから。「ごめんね」とその事を言えば、「とんでもない!」とマァムは勢いよく首を振った。

 

 受け取ったリストを彼女は真剣な眼差しで読んでいて―――ふと、顔を上げる。

 

「ちなみに…こういうのって幾らくらいなの?」

「そうですね…。大体、200Gが最低ラインです」

 マリンの簡潔な答えに、マァムはぽかんと口を開けた。

「そ…そんなにするんですか?!」

「ええ。使うなら良いものを使わないと。安物は肌に悪い時もありますから」

 もっともなマリンの答えに、マァムは「はぁ…」と肩を落とした。

 ―――そんな様子を見つめていたレオナが、焦れたように立ち上がった。びくっとなるマァムに詰め寄る。

「マァム」

「な、なぁに?」

 

「とにかく理由を話しなさいな。美容液云々はそれからだわ」

 

 強く言い切ると、マァムは逸らしかけた目を再びレオナに戻した。揺れる栗色の瞳が哀しそうだと見えたのは、自分の思い込みなどではないことを、レオナは理性によらず知っていた。

 

 

 ―――貴女が聖拳女マァム? アバンの使徒のお一人の?

 ―――あの大魔道士さまの想い人ですもの。どんなお美しい方かと思っておりましたけど…普通ですのね。

 ―――まあ! まるで農婦のようなお手ですのね。あの方とは大違いだわ。

 

 パプニカ主催の小規模なパーティー。広い庭の片隅で喧騒から離れて座っていたマァムの前に、現れたのは一人の姫君。彼女は豪奢な金の巻き毛をを揺らしながら、まっすぐにマァムに向かって歩いてきた。碧い瞳が強い光をたたえている。

 着慣れぬドレス姿を嗤われるのは構わない。作法だとてロモスで城仕えをするようになってからの付け焼刃だという自覚はあるから、文句を言われるのも仕方がないと思う。

 身分の高い姫なのだろう。こういった手合いに言い返して、更に状況を悪化させるのはマァムの望むところではなかった。だから苦笑を浮かべて聞き流す。

 ただ、

 

 ―――大魔道士さまの手を取るのはわたくし。貴女は相応しくないわ。

 

 ただ、それだけは。それだけは厭になるくらい耳にこびり付いて離れなかった。

 

 

 

「…んな事があったのか。俺があのパーティーで席外してる間に……」

「ええ……。そんな女の事なんて気にする事なんかないわよって言ったんだけど……」

 大体が、マァムは武闘家だ。世界の猛者と渡り合える彼女の手が、深窓の令嬢と同じように細く嫋やかなはずはない。そもそも、彼女や皆が身体を張って闘ったからこそ、現在の地上があるというのに。

 心身を鍛え、命懸けで闘って、そうして掴んだ未来。その事に誇りを抱きこそすれ、恥じる事など一切ない。その想いは三年前、戦場に赴いた者全てに共通している。

 

 だが、そんな事はマァムだってわかっているのだ。…わかっていて、なのに哀しい。誰にも害意を抱かない娘は、己に向けられた負の思念に戸惑っていた。

 

「それで気休めにロカイを買ってきた…ってわけか。なるほどな」

 ポップの声は低い。イラついているのがわかる。

 友人の表情を見守りながら、レオナは冷めてしまったお茶を飲んだ。

 ねぇ、と彼女は身を乗り出す。

 

「その姫、ルドマって言うの。ルドマ=ブオム。心当たり、ない?」

 

 今度は自分が思い出す番になり、ポップは腕を組んだ。眉間にシワがよっている。

「ルドマって名前には…覚えがねぇんだけどさ、ひょっとして、その姫は伯爵家の娘なのか?」

「ええ。サラボ川の一帯を治めてるブオム伯爵家の令嬢よ。…知ってるのね?」

 その問いに、ポップは「あぁ」と頷いた。

「サラボ川の辺りなら、前に薬草の買い付けで行った事があるよ。…あの時か」

 

 

 

 その日は町でひと騒動があった。突如、馬車の馬が暴れだし、御者を振り落として走り出した…らしい。

 なぜ「らしい」のかと言えば、ポップが見たのは、既に御者台が空となっている馬車が、大通りを爆走している姿だったからだ。しかも悲鳴が聞こえる。人が中に取り残されていた。

 放ってはおけない。

 飛翔呪文を唱え、御者台に移動する。だが、こうも馬が暴れていては、座って御する事は難しい。浮かんだまま手綱を握り、馬車のスピードに飛翔速度を合わせると、彼は複数の呪文を矢継ぎ早に詠唱した。

 "スカラ" "ボミオス" "ラリホー"

 守護の光が青白く馬車を包み込んだあと、暴れていた馬が徐々に速度を落としてゆく。ついにその暴走は止まり、今までの猛りが嘘だったかのように馬はくたりと眠りについた。初めにかけられたスカラの効果で、かなりの負荷がかかったにも関わらず、馬車は無傷。野次馬からどよめきと歓声が起こる。「伯爵様の馬車だ!!」誰かが叫んだ。

「大丈夫ですか?」

 豪華な装飾が施されたドアを開け、乗っていた人物に声をかける。

 伸べられたポップの手を震えながら取ったのは、金の巻き毛と碧い瞳の姫だった。

 

 

 

「情緒溢れるシーンね……」

 レオナの言葉にポップは頭を抱えた。

「………あれがルドマ姫か。俺、騒ぎになるのイヤだから、すぐに移動したのに…」

 名乗る事すらしなかったのに、とポップはぼやくが、レオナにしてみれば、現場を見た人間は誰でも『大魔道士ポップ』を思い起こすに違いない。そんな状況でそれだけの呪文を自在に操る人間など、限られている。そもそも、飛翔呪文で飛べる人間など普通はいないのだから。

 

「とにかく、これで繋がったわね。…レディ・ルドマは美人で有名よ。『サラボの華』って言われてるわ。あと、高飛車でも有名」

「…姫さん、なんか声が楽しそうだぜ?」

「まさか。ポップ君とマァムの困難を楽しむわけないでしょう。上手く解決するって信じてるから、それを想像して喜んでるのよ」

 そういうのは真面目に応援してもらえたほうが嬉しいんだが―――心の中でツッコミながら、ポップが口にしたのは別の事だった。

 

「伯爵令嬢…か。厄介だな……」

 

 日頃の軽い言動とは裏腹に、ポップは恋愛については真面目で一途な性質である。もちろん一般的な18歳の男子として、女の子に好かれるというのはありがたいし、嫌な気分ではないのだが、貴族的な遊戯感覚など持ち合わせていない。

 そもそも身分の高い人間というものは、おしなべてプライドも高いものだ。しかも伯爵といえば、貴族の中でも上位である。そんな身分の姫君が、わざわざマァムに宣戦布告をしたというのなら、色々と対策を考えねばならないだろう。

 ふうと溜息をつき、彼は己の手を見た。

「…手……か」

 頭を一つ振り、肩をすくめる。

「ま…なんとかするしかないか。姫さん、そのルドマ姫って今度の園遊会には来るのか?」

「ええ。参加するって書いてあったわ」

「そっか。じゃあ…ひとつ頼みがあるんだ」

 にっと笑って、ポップはレオナに何事かを依頼した。

 

 

 

 

 

 ランプに火が点され、楽団の演奏が軽やかに始まった。

 パプニカ王宮の広い中庭。そこに設けられた園遊会場には、いまや国内外の貴顕がぞくぞくと訪れてきている。その中にマァムは一人でいた。

 いつもならばポップと連名で送られてくる招待状が、今回は個別に届いたからだ。

 

 ―――別々に来いって事じゃねえか? その方が、お互い時間を自由に使えるし、姫さんが気ぃ利かせてくれたんだろう。

 

 ポップの言葉になるほどと納得したものの、いざ一人でいると、案の定、実に居心地が悪い。ロモスのパーティーならばともかく、顔馴染みの人はレオナくらいしかいないが、彼女は会の主人として忙しい身なので、マァム一人を相手にすることなど論外だ。丁度いまも、彼女はどこぞのお大尽に挨拶を受けている。

 しかも今回のマァムの服装は、どうしても目立ってしまう。いつもならドレスを借りるのだが、今日は招待状にレオナの字で別書きがあり、ロモスで仕立てられた武闘家としての礼装を着てきたのだ。

 

 戦闘用ならば膝までの長さだが、式典用のそれは踝までの丈がある。女性らしく、落ち着いた花柄の刺繍が銀糸で施されている他は、無駄な装飾を一切排除した赤い道着。しかしそれは逆に、マァムの均整の取れた身体のラインを見事にアピールしていた。女らしい円やかさと、すらりと伸びた手。長い脚がスリットからちらちらと見える様は、男たちの視線を釘付けにする。

 

 幾人もの若い独身の貴族たちが、話しかけてくる。いつもならば横にポップがいるが、今日は遠慮する必要はないと判断されたのだろう。飲み物や菓子を先を争うように持って来られるわ、艶めいた話を振られるわで、マァムは内心溜息をつきたくなった。

 書類の束を抱えて、「少し遅くなるかもしれねぇ」と情けなく笑ったポップの顔が、変に懐かしく思い出された。まだ数時間前だというのに、もう何日も会っていないかのような気分だ。…だが、

 

「なに、しけた顔してるんだよ?」

 

 その声が聞こえた途端、群がっていた貴族達がそそくさと退散した。

 まるで、自分のピンチを読んだかのように、ポップが目の前に立っていた。いつも、こういう場に着てくる夜会服ではなく、魔法使いと一目でわかる姿をしている。―――しかも夏用の。

「ポップ」

「遅くなってごめん。今日は暑いだろ? 夏用の魔道士の服は良いのを持ってないからさ、姫さんに頼んで衣裳部屋で借りてきたんだよ」

 お陰でいいのが見つかったぜ、と彼は笑う。確かに涼しそうだ。大戦時はほとんど旅人の服で通していた彼のこと。半袖の法衣などは今回見るのが初めてだった。

「手袋もしないの?」

「ん? まぁいいだろ。暑いしさ。それより何か飲もうぜ」

 随分と咽喉が渇いていたようだ。先程の連中が置いていったワインやカクテルを、ポップはいつもより早いペースで飲んでいった。美味しそうな彼の表情に、マァムもようやく笑みを浮かべる。

「酔っちゃうわよ?」

「いいよ、別に。それが目的なんだし」

「え?」

 そんな会話を交わした時だった。会場の入口がざわめいた。

 

 レディ・ルドマがいた。

 

 なるほど、確かに彼女は美しかった。周りにいる他家の姫君たちも美しいのだが、彼女達を圧倒するような華やかさをルドマは持っていた。豪奢な金の髪も、煌く碧い瞳も、透き通るような白い肌も、個々がその美を競っているにも関わらず、全てが調和して当然のように一個の『美』を表現していた。

   サラボの華よ

   見て。ルドマ=ブオムだわ

   相変わらずお美しいな

   伯爵も完全に快復したらしいしな…社交界に復帰か

 小声で交わされる噂。すでに以前から彼女は有名人だったのだろう。数多の男女が、その元に集う。

 輪の中心でレディ・ルドマはゆっくりと会場を見渡していた。その視線がマァムの面を鋭く薙ぎ、横で緩くなる。……甘やかな視線は、他の誰でもない、ポップに据えられていた。

 

 ―――大魔道士さまの手を取るのはわたくし。貴女は相応しくないわ。

 

 思わずマァムは手をさすった。ロカイは怪我には効くが、やはり保湿云々の効果は気休めでしかなかった。武道着姿の今日は、手袋すらしていない。硬く、荒れたその手を。

「マァム? どうした?」

 ポップに呼ばれ、慌てて「なんでもないわ」と笑みを作ったが。

 

「大魔道士さま!」

 

 作ったばかりの笑みが凍りつくのを彼女は感じた。ルドマがポップの元に歩いてくる。彼が丁寧な礼をルドマに施すのを見て、全身が悪寒に襲われた。

「お久し振りです、ブオム伯爵令嬢」

「まぁ、そんな畏まらないで下さいませ。大魔道士さまはわたくしの恩人でいらっしゃるのに」

 ころころと鈴を転がしたような声で、レディ・ルドマは礼を返す。口元を覆うその手は、以前と変わらず、肌理細やかで美しい。

「ルドマ姫、飲み物などいかがですか?」

 ポップは普段どおりだった。多少、貴人向けの(本人曰く「営業用の」)言葉使いになっている以外、特に変化はなかった。ルドマにカクテルを渡し、自らはテキーラを咽喉に流し込みながら、サラボの町での事を楽しそうに話している。

 本来感じる必要のない、疎外感とでも言うべき思いにマァムがわずかに俯いた時だった。

 

 曲調が変わった。

 幾人かの男女が、会話の輪を抜けてペアを組み、踊り始める。―――ダンスの開始だ。

 

 ちらりとマァムを見たルドマの口元に、意地の悪そうな笑みが一瞬浮かぶ。マァムの背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。

「大魔道士さま、今日はわたくしと踊って頂けませんか?」

 星月夜の晴れ渡った空に、遠雷を聞いた気分で、マァムは立ち尽くした。

 

 

 ―――わたくしと踊って頂けませんか?

 ポップは、空になったグラスをテーブルに置いた。

 碧い瞳が彼を熱く見つめている。拒絶されることなど、はなから考えていないのだろう。艶やかな笑みに込められた意味は、自信というよりは、傲慢さだった。

 同時に、背後にも自分を見つめている目があることを、ポップは知っていた。

 表ではいつも通りの笑みを作り、彼はマァムに振り向いた。

「マァム…」

「………。」

 返事はなかった。不安げに茶色の瞳が揺れ、今回の騒ぎの発端である彼女の手は、きつく握り締められている。

 

 ―――あの子は…マァムは、優しいわ。真実優しいから、悪意を向けられるなんて事には慣れてない。私達なら喧嘩でもなんでもして解決するでしょうけどね……

 

 レオナが言っていた言葉を思い出す。…困っているのならば相談してくれれば良いのにとも思うが、自分に内緒にしたという事は、それだけマァムが『己の』問題としてくれたのだと、自惚れても良いだろうか?

 安心させるために微苦笑を残して、「光栄です、姫君」とポップはルドマに向き直った。

「俺なんかで宜しければ、いくらでも」

 にこにこと彼は笑いかける。

 

 

 

「―――ですが、本当に宜しいのですか?」

 

 

 

「ひっ!」

 小さな悲鳴が上がった。

 差し出されたポップの手に、自らのそれを重ねようとしていたルドマの動きが止まる。刑の執行のようにその光景を見ていたマァムにも、それは伝わった。

「だ、大魔道士さま? そのお手は?」

 震えるレディ・ルドマ。そんな彼女に、ポップはほてった顔で「ああ」と笑う。

彼が差し伸べた手は、赤く、様々な傷が浮き出していた。

「昔の怪我です。普段は見えないんですが、酒に酔うと血の巡りがよくなるからか、浮き出てくるんですよ」

 それは無数の切り傷や裂傷、そして明らかに重度の火傷と思われる痕だった。右手だけではない、両の腕がアルコールの力を借りて赤く染まっている。とりわけ酷いのは、ケロイドだ。まるで両腕を炎の中に突っ込んでいたかのように、広範囲にわたって炎の舌が舐めた痕がぼこぼこと盛り上がっていた。

「戦場ではそんなに丁寧に治療は出来ませんから、表面は治っても深いところで痕が残るんです」

 ポップは、何でもないことのようにサラリと笑う。普段の飄々とした振る舞いに、皆が思わず忘れがちになる事実がそこにはあった。彼は、戦場を潜り抜けてきた勇者の一人なのだ。

「ルドマ姫?」

 ずい、と再び彼は右手を差し出した。にこやかに笑うその表情。…だが、瞳は酒精の欠片すら見つからぬほど強く、彼女を見据えていた。

 傷跡が、まるで意思を持った生物であるかのようにビクンと脈打つのを見て、ルドマは目を背けた。

「わ、わたくし、先約を思い出しましたわ。失礼いたします!」

 

 

 

 取り巻きと供に脱兎の如く去って行った伯爵令嬢の背中を見ながら、「やれやれ」と彼が呟いた。

「ポップ…」

 マァムは彼を呼んだ。

「はは…振られちまったな」

 ちっとも残念そうではない顔で、ポップは頭をかいた。むしろすっきりした笑顔になっている。

「…良かったの?」

「…何が?」

「あの人…凄く美人だったわ」

「うん」

「お金持ちだし、地位もあるし…」

「うん」

「それに、貴方の事を…好きだったわ……」

 恐る恐る…そう、本当に恐る恐る尋ねると、ポップは「かもな」と頷いた。

 

「でも俺は、彼女みたいな綺麗なだけの手よりは、強くて逞しい、働き者の手の方が、ずっと好きだな」

 

「…!」

 真っ赤になり、口をパクつかせるマァムを、ポップは面白そうに見ていた。

 

 不意に静寂が訪れる。一曲を踊り終わった恋人たちが、温かな拍手に迎えられる。つかの間の休息。あと少しもすれば次の曲が始まるだろう。

 

「………お前は?」

 静かな笑みのまま、彼は想い人に尋ねた。

「え?」

「マァムは、こんな手でもいいの?」

 

 差し出された手―――赤く大量の傷痕が脈打つポップの手を、マァムは見つめ…そして微笑った。

 とても晴れ晴れとした、笑顔で。

 

「ええ。もちろんよ…!」

 

 

 

 

 躊躇う事なく重ねられた武闘家の手に、大魔道士は口付けた。

 

 

 

(終)

 

 




ちなみにロカイはアロエのことです。
アロエの「ロエ」を音訳→「蘆薈」。「蘆薈」を音読みで「ろかい」です。昔はそう書いたんだそうな。


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記憶の痕

本日二話目。

前話『手』の続きです。


 ワルツが終了し、二人はまだ踊り足りぬといった男女の間を抜けた。

 偶然にも丁度そこは、園遊会の主催者であるパプニカ女王の席の近くだった。友人たちの楽しげな様子を見守っていた女王は、付き人たちを置いて、二人に歩み寄った。

「レオナ」

「姫さん」

 二人は同時に女王―――レオナに気付き、笑う。対するレオナも笑顔だ。

「やるじゃない、ポップ君」

 にこやかに彼女は笑い、小声で言う。

「あの『サラボの華』を上手くあしらったみたいじゃない?」

 からかう色も浮かべつつ、その目はちゃんと二人を祝福してする優しさに溢れていた。

 他人の恋愛沙汰に首を突っ込むのは、一国の君主としてはあまり褒められた行動ではないのだが、それでもやはり、レオナとしては友人であるマァムが困っているならばマァムが喜ぶ方法で事をまとめてほしいと思っていたのだ。

「…やっぱり、レオナが話したの?」

 ほんの少し顔を赤らめて、マァムが尋ねてくる。

「ええ~? 何のことかしら~?」

 レオナはとぼけた表情で、しれっと返した。

 

 レオナはマァムに相談事を持ちかけられていた。

 美容液のことから始まり、例の『サラボの華』についての一件だったが、それをポップには口外するなと頼まれていたのだ。

 噛み砕いて言えば―――

 

「とっても美人の姫が、私(マァム)に『貴女は大魔道士様に相応しくないわ』って言ってきて……。私…手はガサガサだし、オシャレでもないし、でもその人は美人で、手だってスベスベで…(中略)…あ、ポップが心配するからこの事は内緒にしてね?!」

 

 ―――というもので、レオナにしてみれば恋愛オンチの友人のそう言った言動に微笑ましいものを感じつつも、心配を募らせてくれる相談内容だった。

 案の定、同居するポップが違和感を感じる程度には、マァムの行動は妙だったようだ。そして、そのポップがレオナの所に「マァムの行動について思い当たる事はないか?」と訪れたため、結局レオナはマァムの相談内容をポップに打ち明け、彼の頼みに協力したのだ。

 頼みと言っても大したことではなかった。「夏用の魔法使いの衣装を一着、園遊会で貸してほしい」というもので、彼がそれをどのように活用したのかは今もってレオナは知らない。

 だが、『サラボの華』と取り巻きの者たちが、大魔道士殿の元からそそくさと退散したという、会場の片隅で実にささやかな出来事があったことを聞き、その直後にマァムがとても嬉しそうな顔でポップとワルツを踊っているのを見ただけである。

 それだけで充分だった。

 

 

 

「もう…。でも、ありがとう」

 柔らかな笑みを浮かべ、マァムはレオナに礼を述べた。

 自身が、こと恋愛というものにおいて、同年代のレベルに果てしなく及んでいない事は、一応の自覚がある彼女だった。

 無自覚だった頃は、そのせいで周りを振り回したこともある―――と言っても、彼女は常に誠実だったわけだが―――ため、今回の件は何とか自分だけで解決したいと思っていたのだけれど…やはりレオナを頼って正解だったのだろう。

 レオナがどんな風にポップに話したのかは知らないし、問うつもりもない。そんな必要などどこにもないからだ。

 先程ポップが『サラボの華』…ブオム伯爵令嬢に取った行動と、自分にくれた言葉は、マァムの心をあたたかい物で満たしてくれるものだった。

 

 ―――俺は、彼女みたいな綺麗なだけの手よりは、強くて逞しい、働き者の手の方が、ずっと好きだ

 

 ワルツの間、彼はいつもよりもずっと強く、マァムの手を握っていてくれた。

 今は飲み物を取りにテーブルに向かった彼に目を向ける。酒のせいで傷跡の浮き出たその手は、遠目にも鮮やかに紅かった。

「ポップ君たら、凄い手ね」

 レオナがそれに目をとめた。

「ええ…。昔の…3年前の傷ね。お酒を飲むと、浮き出てくるのよ」

 言えば、レオナは納得したように頤を引いた。

「そう…。普段は手袋をしてるものね。ダイ君も、貴女も、ヒュンケルも、凄く傷だらけになって戦ってたって印象があるんだけど、ポップ君のは怪我が目立ちにくい格好だったから…あんなに怪我をしてたなんて、知らなかったわ」

 どことなく申し訳なさそうに言われたその言葉には答えず、マァムは微かに口元を綻ばせただけだった。

 

 彼女の前には、少年の姿があった。3年前の、魔法使いの少年の姿―――視線の先にいる恋人に、その姿は重なっていた。

 

 

 

 大勢の男女が笑いさざめく中を、ポップはグラスを探していた。ワインやらカクテルやらのグラスならば探すのが馬鹿らしいほどにたくさんあるのだが、ただの水となると逆に難しい。 給仕に頼めばいいのだが、どうにもそういう『人を使う』という行為には慣れないのが、彼という人間だった。

 

「どうされました、大魔道士殿?」

 テーブルからテーブルへときょろきょろ目を移していると、不意に声をかけられ、彼は慌てて振り向いた。

「あ…なんだ。アポロさんか」

「すまない。びっくりさせたかな?」

 パプニカ三賢者の筆頭であるアポロが、にこやかに笑いながらそこにいた。園遊会に呼ばれる立場になったとは言え、ポップには貴族階級に気安い人物などほとんどいない。アポロはその数少ない例外の一人だった。

「いや…俺、ちょっと酔ってて、頭がぼーっとしてるんで」

 思考に靄がかかった状態で、急に声をかけられると驚くのも無理はなかった。

 小さく笑って、アポロは通りかかった給仕を呼び止めた。「水を」と簡潔に言う。

 使われることよりも、命じることに慣れた者の声だった。それでもその動作は似合っており、嫌味に感じることもない。育ちの良さと人格の良さが合わさると、『貴族』という呼称も素直に受け取れるものだと、ポップは感心する。

 ほどなくして給仕が持ってきてくれた冷たい水を、ポップは礼を述べて受け取った。

 

 先程ポップは、わざと酔うために無茶な飲み方をした。そのせいか、妙に喉が乾いて仕方がない。アルコールを薄めようと、身体が混じり気のない水を求めている気がする。

 一気にグラスの中身を喉に流し込むことで、ようやく少し身体の熱が落ち着いた。

「あ~…助かったよ、アポロさん。ありがとう」

 実は、頑張ってまっすぐ立ってはいるものの、酔いは足にまで回ってきていた。ガブ飲みしたあとで踊ったのだから当然である。マァムとレオナの前でこけたりせずに済んで、ポップは内心ほっとしていたのだ。

 

「……随分、大変な思いをしたんだね」

「はは…まぁ、大変と言われればそうなんですけど…踊ったのがまずかったかな……」

照れくさそうに頭をかく彼に、アポロは苦笑する。

「そうじゃないよ、ポップ君」

「え?」

「腕の傷のことだ。…大戦で?」

 指摘され、ああ、とポップは目を細めた。両腕は、まだ真っ赤に火照っていて、傷跡が浮き出ている。

「まぁ…修行中の分は残ってないはずなんで、そうなりますかね」

 薄く笑う。

 必死で駆け抜けた3年前の戦―――命がけでなかった戦いなど、一度もなかった。

 だが、ポップの中で大戦が本当に終わったのは、つい最近のことだ。親友が帰還し、ようやく未来というものを真っ直ぐ見て歩けるようになって数ヶ月。それまでは、こんな風に思い出話として話す気分にはなれなかった。

 

 

 

 アポロが密やかに尋ねた。

「痛みはないのかい?」

「大丈夫っすよ。たまに引き攣れる感じはするけど、完治してますから」

「そうか…」

 頷くアポロ。しかし、彼の表情は暗い。

「あの…? どうかしました?」

 何となく心配になり、ポップは目の前の賢者に尋ねた。自分の怪我は、もう完治していると言ったのに、何かまだ不安なことでもあるのだろうか?

「……大変な目に、合わせてしまったんだなと…今更ながらに思ってね…。君達のような子供に、死にそうな目に合わせて……私は、何も出来なかった」

 低い声だった。ポップ以外に聞き取れる者のいようはずがない。―――実際、アポロはポップ以外に聞かせる気はないのだろう。彼が呟いた内容は、彼の真摯な想いであると同時に、周囲の者が聞いたらどう受け止めるかわからない危険を孕んでいる。

 ポップは苦笑した。

「何言ってんすか」

 その笑みにアポロはつられなかった。

 彼にしてみれば、3年前の大戦は自身の不甲斐なさに歯噛みする日々だった。

 国を焼かれ、主君を捕らえられ、日々磨いてきたはずの魔法の腕は、前線でほとんど通用しなかった。情けなさに身を切られるような思いを、ずっと味わってきたのだ。

 賢者と呼ばれ、一国の要職にあって…戦うべき大人であった彼の代わりに、戦場に立ったのは若干十二歳の少年をリーダーとする勇者一行だった。特に大魔王との戦いで中心になったのは、最も年若い二人だったと聞いている。

 そう―――十二歳の勇者と、目の前の当時十五歳だった大魔道士の二人だ。

 二人の友情や、大魔王戦での戦いぶりは、世界中で英雄譚として謳われているが、彼らは英雄だから勝利したのではない。勝利できたからこそ英雄として扱われているのだ。ぼろぼろになり、血塗れになって、首の皮一枚の差で辛うじて掴んだ勝利ゆえに。

「ダイ君が戻ってきてくれて……、姫…陛下は毎日がとても楽しそうでね。年相応の表情をされるようになったのを見ると、本当に…無理をさせていた事に気付くんだよ。陛下だけじゃなく、君達全員にね」

「…………。」

 悲しい瞳で見られ、ポップはばつの悪い表情になる。潔癖なこの賢者にとって、自分の腕の傷は、罪の証のように見えているのかもしれない。

「…そんな考え方も、有りかもしれねぇけど……」

 自身も、年下のダイに最後の戦いで頼らねばならなかったことを申し訳なく思う部分があるため、アポロの気持ちはよくわかる。わかるが―――

「けど、それはお互い様でしょ。アポロさんだって俺らが出来ないことをしてくれたんだし」

「…え?」

 

 

 

 アポロが上げた視線の先には、ポップの笑みがあった。

「俺らだけじゃサミットなんて開けやしなかった。どこぞの馬の骨の魔法使いが『一致団結して魔王軍と戦うために会議を開くから集まって下さい』なんて言っても、誰も来てくれなかったろうし、会場の手配だって出来なかった。他にも…支援物資を送るのだって、食料の配給だって、皆アポロさん達のお陰だ」

「…だが私は…君達のようには……」

 その先をポップは遮った。

「もし、俺たちみたいな奴だけが偉いんなら、医療班の兵隊さん達はどうなるんすか。危険な街道を武器を運んでくれた商隊の人は。メシ作ってくれた人は。俺、マァムと漂流したことがあって身体ガチガチに冷え切ってたけど、食堂のおばちゃんが『お疲れ様』って、めちゃくちゃ美味いスープ出してくれて涙出たし。それに―――」

 ポップの例えは続く。

 アポロは胸のつかえが取れていく気がした。いくつもいくつも挙げられる例は、ポップがそれらの人々に本当に感謝しているからに他ならない。

 

「それに―――アポロさんは柱を凍らせてくれた。…あれ、一箇所でも凍ってなかったら今頃地上は無いんすよ?」

 だから、お互い様ですって―――にこやかな笑みを向けられ、アポロは、思わず微笑んだ。

「そう…だね…」

「そうっすよ。大体、俺の知ってる魔法使いの爺さんなんか、普段がとんでもねぇのに、『最後の最後で柱を凍らせた』って自慢してるんすから」

 ポップの言う人物に心当たりがあるアポロは、破顔する。その笑みを見て、ポップは内心で安堵の息をついた。

 実際の戦闘は確かに自分達が戦った。だがそれは後方からの支援が滞らず、安心して目の前の危機に集中できたからだ。その心強さをくれた人々に申し訳なく思われたりすれば、ポップにしてみれば立つ瀬がない。

 

 あの大戦で、人は皆、それぞれ出来ることを精一杯したのだ。

 

「ありがとう…。時間を取らせて申し訳なかったね」

 普段どおりとまではいかずとも、声に明るさの戻ったアポロの様子に、ポップは軽く肩をすくめた。

「いいっすよ。アポロさんは気を遣い過ぎだぜ」

「そうかな? ああ…それじゃ、遣い過ぎついでと言ってはなんだが……」

 言い差す賢者の視線は、やはりポップの腕に向けられていた。

「その傷、念入りに回復呪文をかければ痕を消すことも出来ると思うんだよ。もし、君が望むなら回復呪文に精通した医師を紹介しよう」

 

 

 

「お帰りなさい」

 明るい笑顔が、ポップを迎えてくれた。マァムだ。

 アポロと何の話をしていたのかと、彼女は不思議そうに聞いてきた。水を取りに行っただけだったのが、かなり長い時間話し込んでいたので、当然だろう。

 レオナはと見ると、貴族の一人が挨拶に訪れていた。ホスト役の彼女が友人だけを相手に出来るわけもない。―――という事は、マァムを一人で随分待たせてしまったのだろうか。

 詫びながら、ポップは菓子を載せた皿をマァムに渡した。

「ん…まぁ色々と。昔のこととか、な」

 ポップは己の腕を見た。

 無数の傷に飾られた腕。紅く浮き出てしまったそれらは、確かに見栄えのいいものではない。それを利用して『サラボの華』を退散させることも出来たが、普通は見せて歩くようなものではないだろう。こんな風に、血行がよくなり過ぎた時にしか浮かび上がらないとは言え、完全に消せるのならばそうするのも良いのかもしれない。

 けれど―――

「…その傷のこと?」

 小さく尋ねる彼女に、「うん」とポップは頷く。

「これだけ痕が残るくらい、激しい戦いだったんだなって…思い出話」

 アポロの抱えてきた辛さまで、伝える必要はないだろう。そう思い、ポップは話を変える。

「ま、こんだけ痕が残るのは、それだけ俺が弱かったって事なんだけどな」

 にゃははと声を上げると、マァムは苦笑する。

「馬鹿ね。あなたが弱いんじゃなくて、それだけ敵が強くて…必死で戦ったって証拠でしょう?」

 

「―――サンキュ」

 

 どんな時でも最も必要な言葉をくれる恋人に礼を告げ、その手を握る。

「あっちのテーブルにさ、美味そうなケーキがあったんだよ。あとパイも。一緒に食おうぜ?」

 指し示せば苦笑が返り……そして二人は歩き出した。

 

 

 

 武闘家のごつごつと硬い手を、魔法使いの傷だらけの手が引いていく。

 辛かった戦いの日々。忘れたいと…その痕跡を残したくないと思うのは人として当然の考え方だろう。消せるものならば、それも悪くないのかもしれない。

 けれど―――ポップは断った。

 

 

 

『いいんです。これは…残したいと思ってるから』

 せっかくの好意を無下にしてしまい、少々申し訳なく思いつつも、ポップの意思は決まっていた。

『逃げ出し野郎だった俺が、頑張ってきた証みたいなもんですから』

 そう言うと、アポロは頷いた。

『そうか…戦いの記録なんだね』

 感じ入ったように言われ、どうにも気恥ずかしくポップは頬をかく。

『はは…まぁ…それだけじゃ無いんすけどね』

『?』

 不思議そうに首を傾げる賢者に、大魔道士は笑う。どこか、照れくさそうな笑みだった。

『ま、旅してると色々あるんですって』

 

 

 

 アバンやマトリフの下で修行をしている間に負った傷は、ほとんど見つからない。それも当然で、どんなに厳しい修行の時も、さすがに治療にかける時間が足りないなどというような事はなかったからだ。

 だから、これらの痕は、ほぼ全て戦場でついたものだった。そして―――僧侶系の呪文が使えるようになるまでは、ポップ自身に回復の手段は一切無かった……。いや、むしろ覚えてからも……。

「どうしたの?」

 かつての僧侶戦士が、クリームをすくいながら視線の意味を問う。

 スプーンを持つその手は、出会った頃から変わらない。他人のために戦い、他人を癒してくれる、強くて優しい手だ。

 戦場という限られた時間と状況で、幾度もその手が自分を癒してくれた証が、ポップの腕に残っている。

「ん…色々あったなぁって」

しみじみとした声に、彼女はポップを見つめ、微笑んだ。

「そうね。…これからも色々あるわよ、きっと」

 ぽんとポップの腰のあたりを叩き、彼女は「早く食べないと溶けちゃうわよ」と笑う。

 

(これからも…か)

 

 心の中でマァムの台詞を反芻する。

 小さな笑みの理由は、彼にしかわからないだろうけれど。

 

 

 

 うん…これからも宜しくな―――マァム。

 

 

 

(終)

 

 

 



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番外編 最後の許可

本日三話目。全部で三話UPします。

番外編とついていますのは、原作から五年後のいわゆる『魔界編』の時系列だからです。
本編は、全て『原作ラストから三年後にダイが無事に地上に帰還して 魔界に赴くまでの二年間』の設定ですので。



「総大将!」

 駆け込んで来た伝令の声に、ダイは振り向いた。

「海戦騎殿よりご報告です。"仕込みは終了"と!」

 その声には緊張と興奮が等しく混ざり合っている。

 もうすぐ始まる戦―――いまはその前段階。

 幾度も体験してきた戦いと戦いの間の時間は、ひと息つけると同時に、更なる破壊と殺戮のための準備でもある。緊張し続けていては精神がもたないが、かといって緊張を解けばどうなるかわからない、そんな、どこまでも微妙な時間。

 ダイは伝令に頷いた。

「うん。わかった。…君は少し休んで。まだ時間はあるし、最後の詰めが残ってるから」

「はっ!」

 彼の言葉に、伝令の青年は一礼して兵の詰め所に向かう。鎧の間から見える細い尻尾と、兜からはみ出た尖った耳が、動きに合わせて弾むように揺れている。魔族の年齢はよくわからないけれど、外見だけなら自分とほぼ変わらないか、年下に見えた。

 腕や足に鱗が見えたから、きっとクロコダインの部隊に配属されたのは正解だったろうな。笑みに似た表情になって、ダイはそんな事を思う。

 海戦騎を名乗ってくれているあの巨きな武人は、その称号の通り水に関する事に滅法強い。いまも、敵陣の正面に広がる大河に、霧に紛れて布陣を敷いてくれた。その布陣に隙が無いかどうかなど、確認するのも愚かだろう。

 優秀な将の下につく事ができるなら、無能なそれの下につくよりも万倍は生存の確率が上がる。愚かしい感傷に過ぎないと言われるかもしれないが、自分より年少かもしれない青年が早死にするのは、やはり嫌だった。

 

「ダイ様…」

 青年の去った方向をずっと見たままの彼に、控えめな声が掛けられた。向き直り、ダイは「何でもないよ」と応える。だが、相手はそうはとらなかったようだ。

「少し休憩されますか。朝からずっと部屋に詰めておられるのですから」

「……うん。そうだね」

 気遣ってくれる忠臣に、あまり意地を張ってはいけないだろう。ダイは青い肌の側近の言葉に素直に従う事にした。ただし、

「俺だけじゃなく、ラーハルトも休んでよ。朝から頑張ってるのはお互い様なんだから」

 自分の代わりに報告書の残りに目を通そうとしていた部下に、しっかり釘をさす。ダメ押しとばかりに「命令だ」と悪戯っぽく笑ってからダイは部屋の執務室の外に出た。

「どちらへ?」

 ラーハルトが問う。ダイの所在を知っておくのは側近たる彼の義務だった。もっとも、魔界に来た当初は、ダイがどこに行くにも同行しようとしたのだ。さすがに幾許かの安全も確保できた今では、そこまでする事は―――ダイが断ったのもあって―――滅多になくなったけれど。

 そもそも、ダイが休憩時間に行くところと言えば、決まっていた。

「屋上にいる」

「…は」

 短いやりとりの後、扉は閉ざされた。

 

 

 

 屋上に続く階段を上りながら、ダイは背中越しに聞いたラーハルトの声を思い出す。

 きっとラーハルトは呆れているだろう……。もしかしたら、心配しているかもしれない。

 絶対的な信義を捧げてくれる父の代からの忠臣が、自分の事を第一に考えてくれているというのは、疑う余地の無い事実だ。そんな彼が自分の行動を非難する事はない。だからそれについ甘えてしまう。

 申し訳なく思うけれど、どうしてもこの場所に来るのはやめられない。特に…決戦の前には。

 階段が終わる。さして頑丈ではない扉が目の前に現れ、ダイはそれを押した。

 

 風が吹く。

 

 それは、どこか澱んだ重さを纏った空気だった。行き場の無い熱と、濁った水気が果てしなく世界を循環している。

 地上ではこんな風を経験した事がなかった。デルムリン島には毎年モンスーンがあったけれど、それとも違う。あの季節風は地の澱みを吹き飛ばし、海が蓄えすぎた熱を取り去ってくれた。

 けれどここ魔界の風は、新たな澱みをもたらすようにダイには思われた。どこかで流された血のニオイと怨嗟の声を運び、別の場所で巻きあがる争いの熱を吸収して、さらに強大になるような……そんな風。そんな空気。

 じゃり…と足元で音が鳴る。

 砦の屋上は、前の城主との戦闘で破壊された。

『碧霄(へきしょう)の間』と呼ばれていた屋上は、本来はドーム型の丸い天井で覆われていたのだ。名前の由来は、レンガの一つ一つが青光りする宝石で作られて人工の太陽に輝いていた事に由来する。だが今は、半壊した天井・粉々になった装飾・欠片と化したステンドグラス……それぞれの破片が床を覆い尽して、以前の優美な姿は見る影も無い―――もっとも、ドルオーラで破壊した張本人が言うのは筋違いなのだが。

 ダイ以外は訪れる者とてない屋上は、戦闘の痕がまだ生々しい。少し前の事だというのに、他の部分を補修した分、手を付けていないこの部屋(とはもう呼べないが)だけが古めかしさと無残さを主張している。元々見張り堂の役目を兼ねていた場所なのだが、新しく参戦してくれたドラゴンライダー達が自ら上空の守りをかって出てくれたために、重要性は低いのだ。いずれは修繕する予定ではいるが、当面は歪な半球の姿をさらしてもらう事になっている。

 

 ガラスの破片を避けながら歩き、まだ屋根が残る部分で壊れた彫像に腰を下ろす。

ダイは、空を仰いだ。

 

 青いレンガを透かして見る空は、ここが魔界なのだという事を忘れさせるくらいに、蒼い。

 

 太陽の無い魔界の空は、いつも薄暗い。

 もちろん完全な闇ではない。あちらこちらにマグマを吹き上げる火山があり、魔界ならではの発光植物や岩もある。何より、多くの魔族たちがその強大な魔力で人工の太陽を作り出していた。中でも、この辺りはかつてバーンが治めていた領地で、一際大きな光の球体が主が去った後も輝き続けている。地上の時間にリンクして、人工太陽は昼夜の区別をつけて光を強めたり弱めたりするため、時間の感覚もそうずれたりはせず、その点、ダイはバーンに感謝さえしている。

 それでもやはり、その光も熱も―――真物には程遠くて。

 

 この砦の城主との戦いが終わり、ふと見上げた空に大きく息を飲んだ事をおぼえている。

 半壊した屋根を通して視界に広がった世界は、灰色に慣れた目にあまりにも蒼かった。

 

 以来、休憩する時はこの部屋を訪れる事が多くなった。その理由をきっとクロコダインもラーハルトも知っている。知っていて、理解してくれているから、何も言わずに行かせてくれる。

 

 

 

 

 

 ―――海戦騎殿よりご報告です。"仕込みは終了"と!

 

 

 

 

 手が震える。それは決して武者震いなどではない。

 クロコダインの言葉を伝えてくれた青年の、上気した顔が目蓋に浮かんで、震えは全身に広がった。

 

 自分だけなら。

 

 自分一人だけの事なら、平気なのだ。何も怖くは無い。

敵と切り結ぶ事も、呪文を受ける事も。闘気をぶつけ合う事も―――自分だけなら。もしくは、親しい仲間とだけであるなら。

 いまは―――違う。自分は一人ではない。

 慕ってくれる『部下』が沢山いる。彼らは皆、自分が望む世界を共に見たいと言って集まってくれた者ばかりだ。かつての魔王軍軍団長と同じような強さを持つ者も多い。

 

 そして彼らが率いる、何万という兵も………。

 

 戦えば、必ず死者が出る。どんな小さな規模であったとしても、ゼロという事はありえない。そしてそれに数倍する、負傷者と遺族も。

 彼らは危険を承知の上で集まってくれたのだと、わかっていても…。

 魔界のありようを変えるのなら、魔界の住人である彼ら自身の戦いが必要不可欠なのだと理解していても……。

 …それでもやはり、自分の命令一つで何万という命が消えるかもしれないという事実に、怯えずにはいられない。

 

 あの伝令を勤めてくれている青年の名は何というのだろう? あるいは、この前の戦場で自分に、返り血を拭うための水をくれた男の名前は? 飛竜に乗るコツをぶっきらぼうに教えてくれた女戦士…彼女は一体どの部隊に属しているのだろう?

 

 自分は彼らの名前すら知らないというのに、彼らは自分に従い戦ってくれる。戦場を渡り歩くたび、味方を得ると同時に、顔馴染みになった兵も、ちらほらと欠けていることに気付く。もう何度も経験した事とは言え、回を重ねるたびに強くなる敵将、動員する人数の増大…それらを考えた時、戦局の困難さと共に圧し掛かってくる『責任』という名の重さは、想像を遥かに超えていた。

 そして今回の戦は今までと規模が違う。一つ戦局を間違えれば、地上をも巻き込むだろう。

 

 クロコダインの布陣は完了した。あとは……自分の号令一つ。

 

 震えを抑えるかのように、ダイは自分の腕をかき抱いた。

 こんな姿を他の者に見せる事は出来ない。兵たちや集ってくれた諸将はもちろんのこと、クロコダインやラーハルトにも。

 地上にいた時には出来た事が、いまは許されない。

 兵や魔界に来てから味方になってくれた将軍たちは、『部下』なのだ。トップに立つ者が戦いのたびに自らの権限を疎ましく思っているなど、彼らが知れば、忠誠に泥を塗る行為としか映らないだろう。そもそも強さが全てという風潮の魔界で、そんな弱さを見せれば、ようやくここまでになった組織が全て崩れる。敵は労せず地上も巻き込んで計画を作動させるだろう。

 クロコダインやラーハルトならば、『部下』ではなく『仲間』だけれど―――やはり駄目なのだ。彼らにも立場がある。二人が地上にいた頃からの仲間なのだと知られていても。表向き、彼らは自分の部下であるという立場を取っているのだから。側近と親しすぎては要らぬ軋轢を招くし、どの道、権限を分担する事など出来るわけもない。

 

 誰も代わってはくれない―――その怖さ。

 

 以前にも……こんな風に怯えた事があった。5年前のあの夜………。

 

「あいつは…どうしてるのかなぁ…」

 

 ぽつりと呟いて、ダイは目を閉じる。ドームの下、目を閉じている間だけは、青空の下にいるような気分になれる。

 埒もない空想だ。…ここは魔界で、自分にはやるべき事があるのだと、わかっているのに。

 あの送別の日以来、本当の青空など目にしてはいないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行くのか」

「うん…もう少ししたら」

 彼女の側にいなくていいのかと、視線でパーティーの会場を示した自分に、親友は苦笑する。

「いいんだよ。こーゆーのは、女の子が主役だ。男は添え物なのさ」

そうなんだと笑う自分の胸を、彼は小突いた。

「…俺が渡したアイテム、ちゃんと持ったか?」

「もちろん。ちゃんと持って行くよ」

「そっか」

 

 親友は、わずかに目を伏せると、呟くように言った。

 

「一緒に行けなくて、すまねえ」

 

 何を言うのかと、今更ながらに自分は呆れた。親友の立場で、魔界での戦いに参加するなど言語道断だろうに。

 そう言ってやれば、彼はまた苦く笑った。それを見ていると胸のあたりがチリチリする。

「…待っててくれよ。必ず、勝って帰るから」

「………。」

「信じてくれれば、俺、必ず勝てると思うんだ」

 黙ってしまった親友に、自分は更に言葉を重ねた。

 

 皆が信じてくれれば、力をもらえるような気がするから

 

 そこまで言うと、親友はわずかに眉を顰めた。

「……そうか。でもまぁ、それは他の奴らので充分だろ」

「え?」

 あの時の自分は、きっと物凄くきょとんとしていただろう。親友の言葉の意味がわからなかったから。

 彼のことだ。『当たり前だろう。俺は誰よりもお前を信じてるんだからな!』とでも言ってくれると想像していたのだ。

 なのに、彼が言ったのは―――

 

「俺はお前を信じない。その代わりに、許可をやるよ」

 

 ―――およそ、送別には相応しくない言葉だった。測りかねてぽかんとする自分に、なおも彼は続けた。

 

「負けることが許されないってわかってても、勝てるとは限らねぇ。敵さんも条件は同じなんだからな」

「…それは…そうだけど……」

「どうしようもなく、辛い時だってあるだろうさ。悲しい時も。……怖い時もな」

「う…ん……」

 頷きながら、実は少し腹が立っていたと言えば、言いすぎだろうか。親友の言葉はもっともだと頭ではわかっていたけれど、ここまで激励に不適切な言葉は無いと思うのだ。

 信じてほしいと頼んだのに、こんな返事はないだろう―――そう思った。

 

「だから、許可をやる」

「…許可?」

 ああ。と親友は頷いた。

 

 

 

「泣いていい。怖がっていい。後悔していい。…負けてもいい。逃げても、いい」

 

 

 

「な…」

 何を言い出すのだろう、こいつは…?! 負けることが許されないとさっき自分で言ったばかりなのに……!!

 

「もしお前がそういう行動をとったとして、その結果が――――――」

 

 なおも続ける親友に、自分は脱力した。肩から力が抜けて、苦笑が漏れた。

 

「ありがとう。もらっとくよ」

 そう言えば、うん、と彼は笑った。

「それでいい。気楽にしてろ。……お前は頑張りすぎる」

「そう? そうかなぁ?」

「そうだよ。俺は知ってるんだよ」

 親友の手が伸びて、頭に置かれた。昔からよくやられたように、くしゃくしゃと髪をかき回される。この2年で随分差は縮まったけれど、まだ少し親友の方が高い背丈。……次に会う時は並んでいるだろうか?

 

 頭上から、彼の声が降る。

 

「……お前が一生懸命だなんて、俺は昔から知ってる」

 

 今更、信じるも何もないだろう?

 

 

 

 ……………ああ。そういう意味だったのか。

 

 親友の言葉に、今度こそ自分は笑った。

 彼の後ろに広がっていたのは、とても良く晴れた、蒼い空。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぽたり、と雫が瓦礫に落ちた。

 まだかすかに震える身体。ぼやけた視界。それは、もう恐怖からではなかった。

「……ップ」

 親友の名を呼ぶ声は、半ば嗚咽交じりで、掠れていた。

「俺、馬鹿だね。今頃思い出したよ」

 記憶の中の彼に謝る。

 送別の少し前の会話を、思い出した。忘れていたわけではない。ただ、よく思い出すのは最後だけで、先に聞いた彼の言葉を思い起こす事など、これまでなかったのだ。

 

 ―――お前が一生懸命だなんて、俺は昔から知ってる。今更、信じるも何もないだろう?

 

 その言葉は、いつも力をくれた。彼以外の仲間にも同じような言葉をもらって、苦戦する時はいつも心に灯してきた。

 絶対の信頼。それをもらっていると思えば、何とかして応えようと尽きかけた力を振り絞る事が出来たのだ。

 

 けれど、あの時彼が言っていた『許可』については、今の今まで自分の緊張をほぐすための言葉だとばかり思い込んで、振り返る事などなかった。

 

「ありがとう…」

 

 

 

 

 

 泣いていい。怖がっていい。後悔していい。…負けてもいい。逃げても、いい。

 もしお前がそういう行動をとったとして、その結果が破滅に繋がるのだとしても。地上全てが道連れになったとしても。

 俺だけはお前を許すから。認めるから。

 お前が恨まれ、憎まれ、呆れられ、詰られ、責められるのなら、

 俺も一緒に謝ってやる。何千回でも何万回でも一緒に土下座してやるよ。

 

 俺と一緒なら、悪かねぇだろう、ダイ?

 

 

 

 

 

「ありがとう……!」

 

 自分で選んだ道だ。責任から逃げるつもりはないし逃れられはしないけれど、逃げたいとは常に思っていた。

 許されないその想いを、彼は……彼だけは認めてくれる。

 

 ダイは涙を拭った。 眦目を決して立ち上がる。震えはもう、止まっていた。

 

 

 

 ドアに向かい、歩き出す。責任を果たすために。

 

 彼の『許可』を使うのは、まだ、今でなくても良いはずだから。

 

 

(終)

 

 




三条先生のお話しでは、魔界編での新生竜騎衆の陸戦騎はラーハルト・海戦騎はクロコダイン・空戦騎は新キャラということでした。

じゃあポップは、いざという時の地上の守りかなと。たまに通信したりして励ましたり。(妄想)

で、絶対に最終決戦時のダイの大ピンチに駆けつけるんですよ。(妄想)
ダイにルラムーン草の粉末持たせたりして仲間連れて飛んでくるんですよ。(妄想)



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問答

 大きくなった町を飽きるまで散策する。

 しばらくご無沙汰だった里は、以前訪れた時よりずっと活気に溢れていた。知った顔もちらほらと見え、「久しぶり」「元気だったか?」と他愛の無い挨拶を交わしては笑みが零れた。

 旅の途中にここを紹介した者も、クチコミでやってきた者も、皆がこの里に馴染んでいる。

 

 原生林に囲まれた里は、来るべき寒さに備えて冬支度の真っ最中だ。…と言うよりは、エルフ達の記念日が近いらしく、その祭りに使う飾りつけや楽器の準備で忙しいらしい。

 ホビットやドワーフが細工物を楽しそうに作り、魔族たちは当日の料理に使うイノシシや鹿といった獲物を狩ってきた。

 妖精はその特技を活かして、この季節には希少な花の蜜を運んでいる。当日の主役のエルフ達はというと、里のあちこちから歌声が聞こえる―――練習に必死なのだろう。

 

 そんな中、恋人に言われていた店でお土産を買った。

「ここは本当にいい所ですねぇ」

 お揃いのマグを慣れた手つきで包みながら、カウンターの主人が笑顔で言う。奥さんも横で笑っている。

 

 ―――とってもいい感じのご夫婦なの。きっと素敵な雑貨があるはずだから。

 

「ありがとうございました。またどうぞ」

 にこにこと、夫婦は店先まで見送ってくれた。

 

 ―――ポップは最近行ってないから知らないでしょ。きっと珍しいわよ。その人達って…

 

「いらっしゃいませ!」

 背後で再び上がった声に、ポップはちらりと振り向く。

 雑貨屋は繁盛しているようだ。魔族の少女たちが夫婦に声をかけて店に入っていった。その後ろからは髭もじゃのホビットが笑いながらドアに手を伸ばしている。

 店の夫婦は新たなお客に、先程と同じように明るく挨拶をしている。

 ポップは口元を綻ばせる。

 マァムの言葉どおり、夫婦は里ではまだ珍しい………人間だった。

 

 

 

 

 

「あれは、今頃ロモスか」

 優雅にゴブレットを傾けながら、元大魔王が尋ねた。

「そうだろ。ひょっとしたら、もっと早くに行ってるかもな」

 買ったばかりの本から目を離さずに、ポップは答えた。 この里に来るのに、もちろんマァムも誘ったのだが、彼女は残念そうに首を横に振った。ロモスに仕える彼女にも、ポップと同じで仕事がある。無理は言えなかった。

 もうすぐチェスの世界大会があるのだ。今年の会場はロモス。毎年、多くの者が世界一の称号をかけて頭脳を競う、結構人気のある大会だ。今頃マァムはその準備をしているはずだった。

 

 ―――ダイのお祖父さんも参加するのよ。お城から島に派遣されてる兵隊さん達が、是非にって誘ったんですって。

 

 とても嬉しそうに話すマァムの声が、脳裏に蘇る。

「汝らも出るのか?」

「いやぁ、出てもすぐに負けるって。アバンの使徒の中で強いのは姫さんだけだな」

「ああ、そうだったな」

 ポップの答えにバーンは苦笑する。彼は一度ならずポップやマァムとチェスをした事があるので、ポップの言葉の正しさを経験から知っていた。

 駒の動きが読みやすいのだ。ポップはここぞという盤面では騎士ばかりを動かす傾向があるし、マァムは王を取られるという場面でも女王の駒を守ろうとする。ヒュンケルとは対戦した事はないが、ポップと興じているのを見たことがある。彼は兵士の使い方が絶望的に下手だ。…ちなみにダイはと言えば、ルールすらわかっていないので論外である。

「何で勝てないんだろうなぁ。俺、他のボードゲームなら結構いい線までいくんだぜ?」

 癖を全く自覚していないらしい大魔道士の言に、再びバーンは苦笑すると、酒をあおった。

 別に返事を期待していたわけでもないのだろう。ポップもちびりと酒を口に含み、読書に戻った。

 

 暖炉の火が、大きく揺らぐ。

 

「あ、俺、この話知ってる」

 ポップが呟いた。誰に言うでもなかったが、対面の男はしっかりと聞いたようだ。

「ほう? 魔界の説話集に貴様の知ってる話などあるのか?」

 グラスを置いたバーンが、ポップの持つ本を覗き込んだ。

 アルコールのにおいが、バーンの呼気から漂う。「酒くせぇな」と身体をそらしながら、ポップは自分も他人のことは言えないことは自覚していた。

 

 ようやく終わった一つの仕事。貴族連中の利害調整のための調査は、色々なしがらみがついて回り、思い出すだけでもうんざりだ。

 この里に来たのは、気晴らしのためだ。それは実際、充分に叶えられたのだと思う。そのせいか、浮上した気分のまま調子に乗って飲んでしまった。

 自分は下戸ではないが、別段強くもない。だというのにバーンを相手に、くだらない話をグダグダと喋りながら飲み続けて、結局酒瓶はかなりの本数が空けられた―――しかも度の強いものばかりだ。マァムが見ればきっと叱るだろう。

 里で唯一の酒場は、祭りの前の準備で客があまり寄り付かないらしい。豹のような顔立ちの魔族の店主は、祭りのために振る舞い酒を何樽も用意したのに、割に合わないとぼやいていた。こういう状況であるため、ポップとバーンの二人は上客として認定してもらえたようだ。店の一番奥の上席に案内してくれた。

 暖炉のすぐ横は暖かい。縮こまった身体を伸ばし、テーブルにマァムへのお土産を置いて、二人は思い思いに注文したのだった。

 

「ふむ。竜の王の話か。なるほどな」

「え?」

 もうそろそろ飲むのやめよう…と、全く別のことを考えていたポップは、バーンの言葉に本に視線を戻した。

「この話には人間も出てくる。勇者としてな―――だから貴様も知っているのだろう」

 軽い酩酊状態のポップに、冷めた視線を向けながら、バーンは短編の内容を掻い摘んで話した。

「あ~…うん。そうそう。一人で竜王を倒さないと駄目ってのが、凄くてさ。俺らはガキの時は毎晩親に頼んで話してもらうんだ」

 昔を思い出し、ポップはへにゃっと笑う。

 

 

 

 就寝前のわずかな時間に、ベッドにもぐりこみ、母の読んでくれる物語を聞く。

 うとうとし始めた自分に母が笑いかけて、そっと囁いてくれる。

 

 ―――おやすみなさい。続きはまた明日…

 

 その言葉と同時に、世界は長閑な闇の世界になる。

 そして、次に目を開けた時には、既に朝になっているのだ。…平和な幼い日々だった。

 

 

 

「攫われたお姫様の事をさ、『この世に二人といない絶世の美女』って言われても、全然想像出来なくてさ。村で一番美人のお姉さんの顔とか思い浮かべてたよ」

「ほう」

 薄く笑いながら、バーンはポップに相槌を打った。ぐびりとゴブレットの中を空けて、再びつぎなおす。ポップの分も。

「最後の戦いの前に、竜王が勇者に言うだろ。『自分と組めば世界の半分を―――』ってやつ。あの部分を読むときにな、"お母さん"は"子供"に聞くんだよ。『あなたならどう答える?』ってな」

 バーンの笑みが深くなった。

「貴様らにとっては英雄譚か―――余や魔界の住人にとっては、いささか異なるな」

 面白そうに語るバーンの台詞に、ポップはひんやりとした何かを感じた。どんな風に? と目だけで問う。

「タイトルを見ればわかるだろう」

 あっさりと返され、ポップはどれ、と目次を見直した。

 

『愚かなる竜』

 

 ただ一行。それだけのタイトルだった。

「…なるほど」

 これは魔界で書かれた本なのだ。ならば、弱いはずの人間ごときに倒された竜など、語るのも愚かだという事だろう。

 勝因無きはずの勝利はあっても、敗因無き敗北などは有り得ない。

この話の竜王とやらが勇者に敗れた理由を読み取り、教訓とするように…そんな意図が読み取れるタイトルだ。

「立場が変われば、見方も変わるよな」

 

 ……何が正義かなんて、わからないもんな

 

 呟き、彼はついでもらった酒を飲んだ。やめるべきだと一応理性が忠告するが、つがれる時に断らなかったのに残すのは悪いだろう…などと言い訳する声も同時に生まれている。

 ゴブレット自体は小さいものだが、何杯飲んだだろう…。少し手元が覚束ない。

 バーンはそんな彼をじっと見ていた。

 

「ふん…もう空だな」

 バーンが瓶を揺らし、店主を振り返る。

「もう無いか?」

「宜しいのですか?」

 赤くなったポップの視線の先で、店主が少し困った顔でバーンに応えていた。猫科らしい金目が、ポップを見る。

「彼は、随分酔ってますよ」

「構わん。余が飲みたいのだ。何しろ、こやつの家では安酒しか飲めんからな」

 ドサクサに紛れて余計な事を言われた魔法使いは、「しばらくこいつには消毒用のアルコールしか出さねぇ」と心中で不穏な決心をしたが、実際には睨むにとどめた。

「ごゆっくり…」

 店主が新たな1本を持ってきた。「どーも」と軽く礼を言うポップとは対照的に、バーンは鷹揚に頷いただけだ。店主も、バーンに対しては殊更に態度が改まる。単に客に対する態度ではない。もっと何か…恐れのような…いや……「畏れ」か。

 

 3年前までのバーンを知る者も、この里には多い。たとえ知らずとも、何か感ずるものがあるのだろう。

 

 様々な種族が暮らすこの里は、一種独特の雰囲気がある。訪れるたびに、ポップはいつも大魔宮の空気を思い出すのだが、それをバーンに言った事はない。ただ、バーンは里をかなり気に入っているようだった。

(普段はウチの居候だけど、こいつ本当は王様なんだよなぁ…古巣に帰った気分になるのかねぇ……)

 ぼんやりと、バーンが飲む姿を見ながら思う。

 

 泰然とした振る舞いは、実に自然だ。それでいて、杯を傾ける姿は絵に描いたように決まっている。他者にかしずかれる事に慣れており、またそれが当然だと思ってしまうような雰囲気をバーンは兼ねそろえている。たとえごく普通の着流しにターバンと言った格好でも、バーンが着ると大店の主人に見える。……根っからの庶民である自分とは、大違いだ。

 

 石になっていた彼を治療して、そのまま身柄を預かったのはそう前の事ではない。それでも流石に毎日顔を突き合わせていたら威厳も何も関係なくなってきた現在、こうして二人でこの里に来ると、改めて考えさせられる―――バーンは『王』なのだ。

 

「なんだ? 余の顔に何かついておるのか?」

 訝しげな表情で、バーンがこちらを見た。「いや」とポップは苦笑する。

「何でもねぇ。王様なんだなぁって思っただけだよ」

 その言葉にバーンは口の端を上げた。

「こんな力の無い王がいるものか」

 自嘲の混じったその言葉のあと、ふとポップは寒気を感じた。思わず横を見る。……暖炉は変わらず赤々と炎を養っているのに。

 

「…だが、そうだな。もし余がまだ魔王だとするならば、その前にいる貴様は、さしずめ勇者だな」

 

「へ?」

 一瞬きょとんとした表情になったあと、ポップは「何言ってんだよ」と笑う。

「何で俺が勇者なんだよ。勇者はダイだろ。俺は単なる魔法使いだ」

 だが、バーンは笑わない。

「物の譬えだ。魔王の対におるのは、第一に勇者であるのでな」

「…………。」

 これは…なんだ? バーンは何を言いたいのだろう?

 彼は黙った。我知らず唾を飲む。奇妙にザワめく感触が背筋にあった。

 ふ…とバーンが視線を緩めた。―――微笑と言ってもよい表情で。

「ポップ、先程の話だが、貴様は母親に何と答えたのだ?」

「…え?」

 急に変わった話に、ポップはついていけずに戸惑う。言葉足らずだったかと、バーンは繰り返した。

「竜王と勇者の問答だ。貴様の母親も多分に漏れず、幼い貴様に問うたのだろう?」

 

 我と手を組めば 世界の半分を 勇者よ 貴様に与えよう

 

「………んなの、昔のこと過ぎて…覚えてねぇよ。…でも、」

「でも?」

「『はい』って答えた時の結末なら、ちゃんと知ってるぜ」

 無理矢理に青年は笑った。パチパチと暖炉の中で薪が爆ぜる。だと言うのに、背を流れる汗は冷たい。

「真っ暗闇の世界しか手に入らねぇんだろ? で、答えを悔やんで再び闘おうとしても、勇者には力が残ってねぇ……だろ?」

 牽制のつもりだった。この先までをバーンに言わせたくなかった。

 いや…違う。

 ポップがこの先を聞きたくなかったからだ。いまや二人の席の周囲は空気が変わっていた。

「ああ。『契約』とはそのようなものだからな」

 弄んでいたゴブレットを置き、腹の上で緩やかにバーンは両手指を組んだ。ゆったりと座るその姿は、まさしく王者の威厳を持っている。どこにでもあるソファーが眩い玉座に見えるのは、錯覚というには余りにも生々しい幻視だった。

「覚悟定まらぬ者が言霊を弄せば、違約の罰が下される。もし竜王と心底手を組む気でおったならば、力衰える事など決して起こり得ぬ」

「そう…なのか?」

 聞くな! 聞くな!

 心の中で理性が叫んでいる。頭の芯がぼうっとする―――酒のせいばかりではないのは、わかっているのに。

「契約が締結されておったならば、竜王も勇者も、互いに更なる力を手に入れたはずだ。だが、言を違えた者は相応の罰を喰らう。自らの力一切を、相手に奪われるのだ」

 愚かよな―――そう言って、バーンは笑った。久しく見なかった、魔王の笑み。

 

「ポップ」

 

 名を呼ばれ、びくりと震える。そんな彼に、魔王は優しいとも言える声音で告げた。

 

 

 

 

 

「余と手を組まぬか?」

 

 

 

 

 

 静かな店内に、バーンの声が響き渡った。大声を出されたわけでもないというのに、その声は、ポップの脳に陰々と響いた。

 息を飲む。張り詰めた空気。先程までグラスを磨いていたはずの店主は、一体どこにいるのか……捜したくても視線すら外せない自分自身にポップは愕然とする。

「何を…言って……」

 咽喉が渇く。あれほど酒を飲んだというのにカラカラだ。

 早く、早く笑わなければならないのに。冗談を言うなよと、流してしまわねばならないのに。

 そんな彼に構わず、バーンは続ける。

 

「流石に今は余も、地上を破壊するなどとは言わぬ。地上も捨てたものではないからな。貴様が望むなら、共存という形を探すのも良いかも知れぬ。…だが、今の世界では、それは叶わぬ事だ」

 

「……そ…んな事…ない」

「ほう?」

 呻くようにようやく声を絞り出したポップに、バーンはくつりと嗤う。

 

「連日、書類を睨んでいる貴様の顔を見ておれば、とてもそうは思えぬが?」

「…っ!?」

 息を飲む彼に、「機密文書はテーブルに出したままにせぬ事だ」とバーンは笑う。

「前回は北森のグリズリー掃討の検案書だったな? たかが、いち貴族の別荘を建てるために提議されたのだろう? その前はデルムリン島のキメラの一斉捕獲…だったか? どちらも廃案にするのに貴様は駆け回っていたな。その前は…」

「やめろ…」

 拳を握るポップ。だが、その声は弱々しく震えている。

「…休みを取るなら他にも場所はあるだろう。何故貴様はこの里を選んだ?」

 

 ここは理想郷。隠れ里という名の、密かに存在する楽園。虐げられた者達が涙を拭う場所。

 大魔道士が施した結界に守られて、住人達は安堵する。「ここにいれば安全だ!」と。

 ―――けれどそれは、一歩外に出れば、数限りない迫害が彼らを待ち受けている事の証左。希望は絶望の影にしか存在しない。

 

「やめて…くれ……」

 魔王は、憐れな者を見る目をした。

「………どうせ飲むなら毒のない酒の方が美味であろうが」

 

 

 

 かつては勇者ダイと、今と似た問答をした。その時は、竜騎士を部下に欲しかった。地上を破壊した後に天に攻め入るに、神の遺産である竜騎士を手に入れておきたかったからだ。

 結局彼の答えはノーだった。例え人間に捨てられても、人間を捨てる事をしなかった。

 

 今回の問答の相手は、3年前、最後まで自分に抗した大魔道士であり、人間の善性を固く信じている青年だった。名声ゆえに公事に携わり、人間世界の汚泥に引きずり込まれそうになっている彼が、どんな答えを返すのか純粋に興味がある。

 そして、同情も。

 理想に苦しむのは、若さゆえの特権かもしれぬ。だが、大魔王たる自分に勝ち得た者が、クズのような輩に使われ苦悩するのは、見ていて腹立たしかった。魔界に生まれ育った身からすれば、力を持つものが権を握るのは当然の事―――だのに、ポップは動かない。

 

「さぁ、ポップ…」

 

 最早自分は大魔王ではない。ポップが自分の手を取ろうと、自分に力が戻る事は有り得ない。今現在の魔法力で、言霊にそこまでの力を込める事はかなわないのだから。だからこれは、『竜王問答』の真似事にすぎぬ。

 ……だが、おそらく冗談では済まないだろう。

 

 一度手を取ってしまえば、けして青年は言葉を翻さない―――それは予想を超えたバーンの確信だった。

 

 人の正義を守るために犠牲になる者達の嘆きを、ポップとマァムの二人以上に聞いてきた者はいないからだ。

 バーンは知っている。この里の住人は、かなりの数が彼らの紹介で訪れた者達だという事を。そして、時に異端のためにこそ東奔西走するポップ達をこそ、人間社会が異端視する事も。

 

 『地上も捨てたものではない』―――自分にそう言わせた青年が、理想を叶える姿を見てみたい。それはきっと自分が魔界で築いた王国とは随分違ったものになるだろう。『竜王問答』は、その切っ掛けにすぎない。悩み、迷う青年の手を、ほんの少し引いてやれば良い。

 

 元大魔王はすぅっと目を細めた。固まってしまった青年に手を伸ばす。

 

 覚悟を決めよ ポップ 汝は魔王に相応しい

 

「…余と手を組め」

 

 世界の広さと深さを知り、『より良き世界』の図案が胸の内にあるのならば。

 動けば良い。力を振るえば良い。そうすれば理想は疾く叶えられる。人間の影で泣く者達の涙も、早々に乾くだろう。

 その道の先には、魔界に光をもたらす可能性もあるかもしれなかった。

 

 

 

 

 

「俺は……」

 言葉が出ない。

 目の前でバーンが手を伸べる。取れば……取ればどうなる?

 大戦を経て世界を巡り、知った事・思った事は数あれど、願いは一つに収束していった。

 レオナから伝えられた、聞いてもいないはずの友の声が、頭の中で木霊する。

 

    地上の人々すべてがそれを望むのなら……オレは……

 

「俺は…っ!」

 ポップの声に力が戻った。握り続けた拳をほどき、伸べられたバーンのそれを見つめる。

 

 親友が口にしたという台詞を、冗談として笑い飛ばせるような世界。

 

 自分はそれが欲しかった。異種族への差別など存在しない、平和で明るい人間社会。あいつがどこにも行かなくていい世界…ダイが笑顔で暮らせる世界が、ずっとずっと欲しかった。

 

 その為には、どんな事だってしてみせる……!

 

 ―――流石に今は余も、地上を破壊するなどとは言わぬ。地上も捨てたものではないからな。貴様が望むなら、共存という形を探すのも良いかも知れぬ。

 

 バーンの言葉は甘い。飲み込めば、この店の酒のようにとても美味しいはず。たとえ毒杯であっても、登城する都度受けてきた酒よりは…きっとマシだ。

 『貴様が望むなら』―――ああ、望むさ。望むとも! 

 

 バーンがにぃと笑う。蟲惑的なその笑み。

 彼は言う。

「歓迎するぞ、大魔道士ポップ。貴様はアバンの使徒…『正義の味方』だからな」

 

 

 

 俺の『正義』は、どちらにある?

 

 

 

 ポップはバーンに手を伸ばす。己の行為が、まるで他人事のように観察できた。

 じりじりと、時間はコマ割のように流れる。距離が1ミリ縮まるたびに、彼の頭の中でやるべき事が整理され、『未来』が色鮮やかになっていく。

 

 我と手を組めば 世界の半分を 勇者よ 貴様に与えよう

 

 幼い頃に、母が枕元でおどろおどろしく読んでくれた、竜王の声を思い出す。

 バーンの手とは、もう指が触れるか触れないかの距離だ。ああ、こんな事で好きだった物語をなぞる事になるなんて………

 

 勇者が得たるは 暗闇 絶望に塗り込められし 闇の世界

 

 竜王の問いに諾意を示した勇者は、どうして絶望したのだろう? いやしくも勇者たる者が、中途半端な覚悟で、敵の手を取ったりするだろうか?

 それは、ふと脳裏に浮かんだ疑問だった。

自分は…自分ならばそんな事はないはずだ。きっと夢を叶えてみせる。邪魔者を排除して、国や社会のルールを根本から作り変えて。人間であろうとなかろうと、皆が笑顔で暮らせる世界を。

 

 色鮮やかな理想郷が目の前に見えた気がした。もう誰も隠れ住まなくともいい、楽園が。

 実現すればきっと皆、喜んでくれる。そうだ……みんな…………みんな……………?

 

 皆が迎えてくれる。幸せだと笑っている。

 けれど、その笑顔の中にポップが一番見たかった二人はいない。黒髪の少年は項垂れている。そして、桃色の髪の娘は――――――泣いていた。

 

 

 

「……やめとく」

 

 

 

 重ねられる寸前、ポップの手は止まった。

 バーンは目を丸くする。よもや、ここまできて青年が考え直すとは思わなかった。

「……理由を聞こうか」

 その質問に、ポップは微苦笑する。どことなく頬が紅い。

「竜王に『はい』って答えた勇者がさ、真っ暗な世界しか手に入れられなかった理由が…わかった気がしてな」

「………なんだ、それは?」

 再び問うてやれば、ポップの苦笑が更に深くなった。ぽりぽりと頬をかく。

 

 

 

 

 

「きっと、お姫様に泣かれたんだよ。……誰が笑ってくれたって、好きな娘に泣かれたら、そんな世界…絶望と同じだ」

 

 

 

 

 

 呆気にとられたバーンは、不意に手ではなく腕を掴まれ、引かれた。目の前にポップの顔がある。

 

「力で支配しなくたって…、俺達はきっと世界の全てを持ってる」

 

 青年はにっと笑った。その目に、先程まであった迷いは存在しなかった。

「他の方法だってきっとあるんだ。だからバーン…」

 

 

 

 マァムが泣かない方法を考えようぜ?

 

 

 

 深い苦笑をもらすポップの、黒い瞳が輝いている。

 それは、闇の中を照らす月にも似て。

 

「それは…命令か?」

 試みに問えば、彼はゆるりと頭を横に振った。

 

 俺は、ダイが笑える世界を、マァムが泣かずにすむ方法で作りたいから―――

 

「命令じゃない。頼んでるんだ、バーン」

 

―――手伝ってくれ、バーン

 

 それは、絶望の中に存在する希望。まるで、この里のように。

 夜闇に道を指し示す太陰は、けして太陽ではないけれど。

 かそけきその光が、それでも確かに見えていなかった道を照らし出したのをバーンは感じた。細く長いその道を…!

 

「大魔王たりし余に『頼む』…か……」

 

 なるほど…。余と、貴様との―――それが違いか……

 

 数瞬の間を置いて、腹の底から愉快そうに笑いながら元大魔王は頷いた―――「諾」と。

 

 

 

(終)




酒は飲んでも飲まれるな という言葉でまとめられる話。


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視点

前話『問答』の直後の一幕。
サイトとは掲載順を入れ替えております。


 ゴブレットに注ぎ足した酒をぐびりと飲むと、バーンは対面に座る青年に目を向ける。

「お前もダイも、見事に余の誘いを蹴ってくれるものだ」

 その言葉に、苛立ちの響きは皆無だ。むしろその逆で、楽しんでいると言った方がいいだろう。

 実際、バーンは上機嫌だった。

 つい先程まで竜王問答の真似事を行っていた彼は、青年―――ポップの答えに満足していた。

 共に暮らすようになって、はや数ヶ月。バーンは常にポップ達の側でその言動を見ていたが、彼らはバーンの想像の外の行動をしょっちゅうとるのだった。何千年も生きてきた彼にとって、こうも彼を『飽きさせない』人間は初めてだ。

 それに感化されているとは思いたくないが、人間という種族にバーンが描いていたイメージは、徐々に変化してきている。

 今回もそうだった。

 

「余の手を取ると思っていたのだが、な……」

 

 目的の為―――世界の有様を変える為に、その『力』を使え。

 新たな魔王として地上に威を示すという道は、理想郷への最短の道だ。

 硬直した世界を変えたいならば、一度徹底的に破壊して組み立て直せばいい。力を持つ者がルールを作る。それは、バーンの信じる真実であり正義だ。

 だが、そんなバーンの誘いをポップは断ったのだ。

 

「…結構、くらっと来たけどな。遠慮しとくよ」

 

 ポップが小さく笑った。その顔は随分と赤く染まっている。先程までの問答の間はそうでもなかったのだが、緊張が解けた後で一気に酔いが回ったようだった。バーンはくつりと咽喉を鳴らす。

「マァムが泣くから…か。随分と惚気られたものだ」

 それはポップが誘いを断った時に漏らした理由だった。曰く『好きな娘に泣かれたら、そんな世界は絶望と同じ』などというもので、バーンは呆気に取られたのだ。

 

 そう言えば…と、へにゃりと笑うポップの顔を見ながら、バーンは思い出す。

「……あの娘にも、同じ事をしたな」

「…へ?」

 きょとんとする青年に、バーンは以前のマァムとの会話を語る。

 

 政敵の仕組む毒酒によって、徐々に汚れていくポップのスカーフ。それを洗いながら物憂げな表情でいたマァムに、バーンは今回と似たような問いを放ったのだ。

 もっとも、その時は竜王問答ほどの『場』ではなかった。だが、彼女の心がバーンの誘いに揺さぶられたのは確かだった。大きく揺れた、哀しみをたたえる栗色の瞳……。

「慈愛の使徒」と呼ばれる娘がどんな答えを返すのか、バーンは興味深く返事を待った。

 

「結局は、巧くはぐらかされたわ」

 マァムは誘いに諾否いずれも答えなかった。苦笑に似た表情でバーンは呟く。テーブルを挟んだ正面で、ポップが笑う。

「そりゃあ…無駄な事をしたもんだ」

 揶揄めいた声に、バーンは僅かに眉を上げた。

 

 

 

「無駄、だと?」

「そう。あいつにンな問いは、するだけ無駄だぜ」

 赤い顔で青年は笑う。

 さも当然のように言われて、バーンはいささかムッとした表情になった。

「無駄とは限るまい。あれもお前と同じ人間だ。野心や保身と無縁なはずはあるまいが」

 まさか、徳高き聖女だとでも言うつもりか? ――ちらりとそんな思いが脳裏をよぎる。もし、ポップが彼女の事をそんな風に捉えているというのならば、それはそれで彼の勝手というものだが、少々拍子抜けだ。

 

 マァムは確かに「慈愛の使徒」と言われるだけあって優しい娘だが、どこまでも普通の人間だ(腕力は別として)。普通に笑いもし、泣きもし、怒りもする。共に暮らす男が常に政敵から陰険な攻撃を受けていると知って、その敵を排除する事に心が動かぬはずがなかった。

 

「そりゃ、そうなんだろうけどさ」

 バーンの心を知ってか知らずか、ポップは笑う。赤く傷跡の浮かび上がる手で暑そうに首を覆うスカーフを外し、広げたり扇代わりに振ったりと行動が喧しい。

 ポップが弄ぶそのスカーフは、バーンがマァムにその問いを発した切っ掛けとなったのと同じものだ。ベンガーナ王から拝領したと言う割には少々安っぽい絹地のそれは、いつしか普段着のように彼の首を飾るようになった。

 杯を受けるフリをして、彼はそのスカーフに中身を吸わす事がよくある。何故そのような事をするのかは、改めて聞くまでもなかった。

 

 再びスカーフが広げられ、とろんとなった黒い瞳が僅かに細くなった。

「なぁ、バーン…」

「…なんだ」

 ポップの口元は、かすかに笑んでいる。

 

「知ってるか? あいつ、すっげー綺麗なんだぜ」

 

「……………。」

 ストレートすぎるその台詞に、元大魔王は絶句した。そのまま彼はゴブレットを傾けたが、聞いてる? という視線が正面から注がれる。

「…何故、余がお前の惚気に付き合ってやらねばならん?」

 心中に留めおかずに、バーンは声に出した。年少者の初歩的な惚気など、身体が痒くなる。

 だが、ポップはどこかきょとんとした表情になっていた。次いで「あぁ」と口を開ける。

「違う違う。…いや、違わねぇんだけど……違うんだ」

「……………。」

 バーンには最早、酔っ払いのたわごとに相槌を打つ気もなかった。そんな彼を無視して、ポップは続ける。

「あいつはさ、確かに美人なんだけどさ。俺が言いたいのは、違うんだよ……」

 

 

 

 ポップの前には一つの風景がある。 それは、今のようにこのスカーフを広げていた時だった。

 

 

 

 登城する都度、シミが増えていくスカーフに溜息が出る。

 王から拝領した当初からは考えられないほどの、そのシミの多さ。マァムがいつも洗濯してくれるのが、申し訳ないくらいだ。

 取れない汚れ。消えない跡。こうして広げて改めて見ると、どうしても気分が沈んでしまう。

 王から爵位の話を聞かされてからこっち、このシミの数と同じだけ毒杯を受け取った。往来で襲われたりした事は今のところ無いが、いずれはそれも覚悟せねばならないかもしれない。

 政事に関わる事を決めた以上、覚悟はしたつもりだった。無論、命を捨ててもという覚悟ではなく、命を狙われるという意味での覚悟だが。

 それでも、正直ここまで敵意を向けられるとは思わなかった――同じ、人間に…。彼らも間違いなく自分たちが命懸けで護った人々だというのに……。

 幾度も出席した酒宴の席で、自分に話しかけてくる人物は皆、笑顔だった。その笑みの裏で、一体どれほどの憎悪が自分に向けられているのだろう。考えると、胸の奥がヒヤリと冷たくなっていく。

 

 自分の功績を称え、笑顔で酒を勧めてくる彼らの顔を思い浮かべると、ふつふつと暗い想いが湧きあがろうとする。

 

 甘かったのだろうか、自分は。親友を護るだけの力と立場を得るために、政事に携わろうとしたけれど…今迄に何が出来たかと言えば、特には何もない。逆に新たに敵を作っただけかもしれない。

 ……それとも、これが当たり前なのだろうか。出る杭が打たれるだけでなく、芽が出る者はその根から絶たれるのが、人間のルールなのだろうか。夢を持つ事は…友が心底からの笑顔で暮らせる世界を望む自分は、嘲笑の対象でしかないのだろうか。

 

 世界は―――汚いものなのだろうか。このスカーフのように…?

 

 思わずスカーフを握り締める。そんなポップに、柔らかな声が掛けられた。

「ポップ、あんまり握るとシワになっちゃうわよ」

 マァムだった。どこか苦笑する風なのは、きっと自分の考えていた事に彼女が気付いているからだろう。

「…悪い。気をつけるよ」

 二重の意味で謝って、彼は溜息をつく。

「……シミが気になる?」

「ああ…せっかく洗ってくれてるのに、いつも汚してきて…すまねぇ」

マァムは困ったように笑う。そっとポップの手からスカーフを取った。

「本当。目立ってるわね」

「うん……いっそ……」

「え?」

 マァムが続きを聞き直す。だが、ポップはただ首を横に振った。

 それは声にならなかったのではない。声にしなかったのだ。一瞬でも「いっそ捨てるか」などと思ってしまった。その事実が遣る瀬無さに拍車をかける。

 テーブルに突っ伏すような格好でいる彼に、優しい声が降る。

「大丈夫よ。もう一度しっかり洗えば薄くなるわ」

「………そうか?」

「ええ」

 きっぱりと言い切る彼女に、ポップは顔を上げる。

「…変わらねぇかもしれねぇぞ?」

「それでも頑張ってやる価値はあるわよ。…大切な物でしょう?」

 大切な物―――その通りだ。大切だ。…とても綺麗で、掛け替えがなくて、大切なのだと、ずっと思ってきた。

「……………こんなに汚れても、か?」

 その問いに、マァムの優しげな瞳が、何かを見つけたかのように明るく強く輝いた。

 

 

 

「汚れが目立つのは、周りが綺麗だからでしょう?」

 

 

 

「……ああ」

 声が掠れそうだ。

「ああ…そうだな。そうだった……」

 苦笑する。彼女の思い切りがおかしいようでもあり、己の悩みが愚かなようでもあった。

「そうだよ。綺麗なんだよな……」

 わかっていたつもりだった。けれど改めて思い知らされる。

 こんな時、マァムと自分では、視点が違うのだ。

 彼女は、狭く小さな点が、広く大きな面に存在する事を思い出させてくれる。自分が闇に目を向けてしまう時、光の存在を気付かせてくれる。

「ありがとな、マァム」

 微笑む彼女に、礼を告げる。

 

 俺、お前を好きになって……本当に良かった…!!

 

 

 

「あいつはさ、綺麗なんだよ。綺麗なものを愛してて、綺麗なものを見つけられて、綺麗なものを…護り抜くんだ……」

 呂律の怪しくなってきた青年の言葉に、バーンは頷いた。

「………なるほどな」

 最初はただの惚気話かと思ったが、ポップの言は予想外に深かった。

 

 ――あいつにンな問いは、するだけ無駄だぜ

 

 なるほど。『無駄』とはそういう意味か。

 ……確かにポップの言う通りなのだろう。マァムの視点――それは、己に都合の良い部分のみを見ているという事ではない。光以外を否定する頑迷さでもない。どれほどの汚泥の中にあっても尚、周りの美しさを忘れない強さからきているのだ。

 うまく出来ている、とバーンは苦笑する。

 ポップが、信じられる物を見つけようとするが故に苦しむ時、視点を切り替えさせるのが彼女なのだろう。逆に、マァムが美しさに心を許す時、潜む闇に気付いて彼女を護るのがポップなのだ。

 バーンの頷きに気を良くしたのか、ポップはへにゃっと笑う。そのまま彼は、くたりとテーブルに上半身を沈み込ませた。黒い瞳には、眠気の膜がかかっている。

「おい…」

 ここで寝る気か? とバーンが揺さぶろうとした時、ポップと視線が合った。

「なぁ、バーン。あいつはさ…本当に、綺麗なんだよ…」

「ああ、わかった。わかった」

「だから…―――」

 言葉はそこで途切れた。目蓋が落ち、小さな寝息が取って代わる。

 締まりなく眠りこける酔っ払いの顔を見つつ、元大魔王は溜息をついた。

 

 

 

 だから…――俺なんかでも…………

 

 

 

 僅かに聞こえた、呟きとさえ言えない言葉。

 続く言葉は何だったのだろう。知りたいが、きっと起きても彼は覚えてはいないだろう。

 

「…まったく。余を飽きさせぬな、貴様は……」

 

 仕方がない。少し寝かせてやろう。どうせ、宿代も酒代もポップ持ちだ。

 勘定を見た時の青年の顔を想像して、咽喉の奥で笑うと、バーンは再びゴブレットを傾けた。

 

 

(終)




バーンを狂言回しにすると、めちゃくちゃ書きやすいです。


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そこにいる人

 厳しい冬が、森に囲まれたネイル村にも訪れた。温暖な気候のロモスでも、この季節はさすがに寒い。北から流れ込む冷たい風が、国中をかき回していく。

 マァムは陽が沈んだ空を見上げた。今はまだ青と紅が同居しているが、このあとは急激に暗くなるだろう。まるで沈んだ太陽に早く追いつきたいかのように、空からあらゆる色が森に吸い込まれていく。

 

 ふぅと息をついて桶を持ち上げる。向かうのは彼女の実家の方向ではなく、その反対側。可愛い妹分の家だ。

 

「ミーナ、ここに置いておくわね。」

 家に入ってすぐの土間に桶を二つ置いて、マァムは奥に声をかけた。

「マァムお姉ちゃん!」

「おお、マァム」

 10歳くらいの少女がマァムに走りよってくる。その後ろからは少女の父親。

「ごめんなさい、マァムお姉ちゃん。…結局全部運んでもらっちゃって」

「すまないね、マァム」

 何回もの水汲みを代わりにしてもらい、ミーナたち父娘は恐縮する。

「…そんな、気にしないで。おばさんが風邪ひいてるんだもの。ミーナだって家の事をしないといけないんだから」

 にっこりとマァムは笑う。

「マァムお姉ちゃんは本当に優しいなぁ…ねぇ、お父さん」

「ああ。まったくだ。さすが、聖拳女様だ」

 父娘の会話を聞き、彼女は再び微笑んだ。

「…じゃあ、これで。もう陽も暮れちゃったから帰るわ。おばさんにお大事にって伝えてね」

 家の奥とミーナを交互に見遣り、優しい笑みを一つ残して、彼女は家に向かった。

 ミーナ達と話していた僅かな間に、外はもう随分と暗くなっている。木々が黒く林立する槍のように目の前にそびえて見えた。

 

 

 

 仕事の報告を終えて彼女がロモスの王城を出て家に寄ったのは昼すぎのこと。しかし、村の皆に頼まれた用事をこなしている間に時間はさっさと過ぎてしまった。本当は家の事もしたかったし、母とゆっくり時間を過ごしたかったのだが仕方ない。

 困っているのだと言われれば断ることは出来なかった。

(そろそろ戻らないと、ポップが心配するかしら……)

 そんなことを、とっぷり暮れた空を見ながら、ふと思う。

 

 今現在、マァムはポップとともにリンガイアの宿の一室を借り切って住んでいる。『せっかく実家に顔を出すんだからゆっくりしてこいよ』とポップは言ってくれたのだが、マァムにそのつもりはなかった。

 3年前の大戦で魔王軍によってほぼ壊滅した、かの国の復興の支援は容易ではない。離散した民が段々と戻り、人口は大戦直後よりは増えてきているが、それに比例して事故や犯罪も増加傾向にある。

 今ではバウスン将軍が代表となって暫定政府を開いており、騎士団もよく働いている。刀匠の修行のため普段はベンガーナ領に住んでいるノヴァも、父親を佐けようと頻繁に帰っているので、治安は徐々に安定はしていくだろう。だが、食糧・医療その他もろもろの件で、人手はいくらあっても足りない状況なのだ。

 そんな事情があるので、マァムは夜にはリンガイアに戻るつもりだった。ポップにもそう言ってロモスに飛んだのだ。母は残念がるだろうけれど…仕方がないだろう。

 

 せめて母にミルクをいれてもらおう。昔から疲れた時にはよくいれてもらった、砂糖入りの温かくほのかに甘いミルク。……それを飲む間だけは二人で静かに過ごせるはずだから。

 

「ただいま」

 マァムはドアを開ける。家は、しんとしていた。

「母さん、帰ったわよ」

 中にいるだろう母に声をかける。…だが、返事はなかった。

「…母さん?」

 声に訝かしむ響きが混じった。いつもならこの時間は、母は入ってすぐの台所にいるはずなのに。

 マァムは台所を覗き込んだが、無人だった。

 隙間風が入り込み、彼女は身震いを一つして隣の居間に早足で向かう。

 だが、居間にも母はいなかった。いつものテーブルに裁縫箱と服が何着か置いてあるだけだ。

 

 しん…とした空気は、外よりもよほど寒く、マァムは腕をかき抱く。

 

 残るは母の私室。ドアをノックすると、小さな返事があった。

「母さん…?」

「ああ、マァム、ごめんなさいね」

 明るくレイラは笑うが、その笑顔は少しやつれていた。

「縫い物をしようと思ったんだけど、段々と眠たくなってきて。少し休もうと思って横になっていたのよ」

「なんだ…そうだったの」

 昼寝には少し遅いが、こんな暗い日は睡魔に襲われやすい。細かい仕事をするなら、なおのことだろう。

「ごめんなさいね。あなた、夜には向こうに戻るんでしょう? 遅くならないうちに…」

 レイラの言葉が終わる前に、マァムは頭を振った。

「まだ大丈夫だから、居間にいるわ。母さんは、もう少し休んでて」

 戻る時にはまた声をかけるから、そう言って彼女は微笑んだ。

 ――母の瞳がわずかに揺れた気がした。

 

 

 

 ちくたくと時を刻む秒針の音に合わせながら、マァムは針を進める。

 昔から見慣れた母の服。その綻びを縫う自らの行為に集中しようとすればするほど、色々な想いが脳裏をよぎった。

 

(疲れた……)

 

 声には出さず、心の中で一人ごちる。

 村を囲う柵が先日破損したとかで修理をし、森の中の小川の流れが上流からの岩で細くなったと言われたために、どかしに行った。他にも色々な事を頼まれて、そして最後にはミーナにお願いされた水汲み――どれも力と時間が必要な仕事。一つ一つの事は大したことがないのだが、やはり一度に頼まれると手間だった。

(いつもの事だけど…)

 そう、いつもの事だ。村に帰れば皆が口々に「助かった」と漏らす。頼まれごとは様々で、面倒だと思う事も時にはあるけれど……

(仕方ないわよね。皆、困ってるんだもの…)

 自分は村の誰よりも力があるのだ。父の腕力を受け継いだのなら、その事を人助けに使えれば万々歳だろう。

 強いのならば、困っている人たちを助けるのは、当たり前だ。それで皆が喜んでくれるのだから、少し疲れるくらいが何だろう。

 

 ――マァムお姉ちゃんは本当に優しいなぁ…ねぇ、お父さん

 ――ああ。まったくだ。さすが、聖拳女様だ

 

(私は……アバンの使徒で、慈愛の使徒で…聖拳女なんて呼ばれてるんだもの……)

 そこまで思った時、チクリとした痛みが二箇所で起こった。一つは指に。もう一つは……胸に。

 運針を誤った所為で丸く盛り上がった紅を、指ごとしゃぶって、鉄くさい味に眉を顰める。気を取り直して、再び針を進めると、秒針の音がそうさせるのだろうか――意識は徐々に記憶の川を溯行していった。

 

   マァムはお父さんに似て、力持ちだな。

   お前のお父さんとお母さんは、勇者様の仲間だったんだよ。

   本当に優しい、いい子だよ。きっとお母さんに似たんだろうねぇ。

   マァム、アバン様の弟子になるって本当かい?!

   村の誇りだよ、お前は。

   大きくなったら、どんな立派な人になるんだろうな。

   アバン様の弟子として、恥じない人間にならないとね。

   私たちを守っておくれよ。

   やっぱりマァムは凄いな!

   俺たちとは違うよ。特別な子だ。

   マァムなら出来るさ。なんたってアバンの使徒だ!

   慈愛の使徒か。だからこんなに優しいんだな。

 

「……………。」

 幼い頃から掛けられてきた言葉が、マァムの中で渦を巻く。

(……慈愛の…使徒…かぁ……)

 ポップが勇気の使徒と呼ばれ、ダイが純真の使徒と呼ばれるように、それは自分の魂の輝きなのだという。

 しるしが赤く光るのならば、そうなのだろう。別に疑うつもりはない。

 ただ色々と考えてしまう。…こんな日は特に。言葉の持つ意味も、それによって負うものも、自分がとる行動に付与される意味も……様々な事が難しい。

 

 単調な運針のひと針ごとに、目眩めく色鮮やかな過去が蘇る。

 

 物心ついた時には、既に両親は村の皆の尊敬の的で。自分は、それを見て育ってきた。

 大人顔負けの腕力があるのだと、自覚したのは何歳くらいの事だったのだろう。それを活かして物を運んだりして周りの仕事を手伝って……

 最初は、「えらいね」と、皆に褒めてもらえるのが嬉しくて…頑張って……。いつしか、両親が立派だったのなら、自分もそうなりたいと望んで…二人が護るこの村を自分も守れるようになりたいと、アバン先生に弟子入りした……

 

 自分の事を優しいと皆は言うけれど、それだって同じようなものだ。

 

 人に優しく接すれば、その相手は喜ぶから。そして自分にも優しくしてくれるから。喜んでくれる笑顔が嬉しくて。皆が優しく笑っている、そんな輪が広がるのが自分は大好きだから。

 困っていた人が、自分の手助けで問題が解決出来た時に見せてくれる笑顔が、嬉しく、眩しい。そうであるからこそ頑張る――頑張ることが、出来る。

 だから、今日も……

 

 ――さすが、聖拳女様だ

 

 何故…こんなにも胸の内がもやもやするのだろう。

(いやだわ…私…癇癪を起こしてる……)

 荒っぽくなった縫い目が、それを物語っていた。…情けない。駄々をこねる子供のように、物に当たるなんて。何に苛立っているのだろう、自分は? 望んだ生き方に、不満などないはずなのに。

 マァムはぶんぶんと頭を振った。繕い物はこれで全部だった。時計はもう充分に『夜』と言っていい数字を指している。

 おそらくそのまま寝入ってしまったのだろう母に、声をかけてから帰ろうと彼女は立ち上がった。

 

 母の部屋のドアをノックしたが、返事はなかった。よく眠っているらしい。そろりと開ければ、やはり暗く静かなその部屋で、わずかに音がするだけだ―――荒く苦しそうな、呼吸音だけが。

 

「母さん?! どうしたの…?!!」

 

 マァムは母親―――レイラに駆け寄った。

 ベッド横に置かれたランプに灯りをともすと、オレンジの光がレイラの表情を照らし出した。いつも柔和な笑みを浮かべている顔に脂汗をにじませる母親を見て、マァムは息を飲んだ。

「母さん! しっかり!」

 母の額に手を当て、マァムは眉を顰めた。ひどい熱だ。

「風邪…かしら……」

 母はミーナの母親と仲が良い。ひょっとすると彼女からもらったのかもしれない。そうでなくとも、この寒さだ。

 額に当てられたマァムの手の冷たさが気持ちよかったのか、レイラが目を開けた。

 

「マァ…ム…?」

「母さん、気がついたの…?!」

 

 その声は震えていたかもしれない。

「ええ…。ごめんなさいね。朝から少し体調がおかしかったの…眠れば治ると思ったんだけど……」

 では、さっき話した時には既に熱があったのかもしれない。「だったら」とマァムは声を震わせた。

「私に言ってくれれば良かったのに…」

 違う。そうじゃない。

 いつもの自分ならば、言われなくても気付いたはずだ。他ならぬ、母の体調なのだから。

 

 マァムの様子に、レイラは何か言おうとした。だが、咳が気管を震わせ言葉を押しのける。熱い呼気が肺から叩き出された。

 

 激しく咳き込むレイラに、マァムは自分でも情けないほどうろたえた。母の背中をさするが、他に出来る事を考えようとしても、しわぶきの一つ一つに身が縮こまり、思考が止まる。

 回復呪文では、病は癒せない。薬のストックもない。薬草なら常備してあるが、彼女にはそれを使って風邪薬を作る技術はない。

 

 こんな時、彼ならどうするだろう―――混乱する頭が、一人の面影を浮かび上がらせた。この3年、最も身近にいた青年の姿を。きっといまはリンガイアの宿で自分の帰りを待っているだろう彼の顔を。―――この場にいない人の事を考えても仕方がないというのに、どうして…!

(どうしよう…どうしたらいいの………ねぇ……………ポップ?!)

 

「なんだ? おばさん、体調が悪いのか?」

 

 不意に聞こえたその声に、マァムは振り向き呆然とした。

 部屋の入口に立っていたのは、まさしく彼女がいま一番会いたかった人物―――ポップだったのだ。

 

 

 

 

 

 やはりレイラは風邪らしかった。盥に張ったお湯で手を洗いつつポップが告げるのを、ぼんやりと聞く。

「大丈夫。2・3日もすればすっかり元通りだ。おばさんは元々身体を鍛えてるんだしさ、すぐに良くなるって」

 にこやかに笑いながらポップはマァムに告げる。その内容にマァムはほっと息をついた。

 

 傷病の診立ては、マァムよりもポップの方が長けている。薬師の資格は伊達ではないのだ。彼が大丈夫という限り、少しは安心できる。

 

「しっかし、迎えにきたらこんな事になってるなんてな。玄関で呼んでも誰も出ないし、どうなってんのかと思ったぜ」

 マァムは苦笑を返す。

「ごめんなさい。薬の事とかを考えると、私じゃどうしようもなくて……」

 窓の外で森が黒く揺れていた。びょうびょうという風の音が、会話が途切れるとやけに大きく聞こえる。

 

「俺を呼べばいいのに」

 

 ポップが笑う。

「え…」

「風邪薬くらいなら融通きくんだからさ。ま、今日は呼びにきたら入れ違いだったかもしんねーけど」

 

 からかうように言ったポップの台詞に、マァムは虚を突かれたような顔をしている。

 ポップは、自分に対して普段はとことん姉御肌の彼女が見せる、その表情が面白くて、言葉を重ねた。

 

「しっかりしろよ、聖拳女さま」

 

 ゴウと風が吹いた――今までで一番強い、凍て付く風が。

 

「そう…ね……。私……棚から薬草を持って来るわ。薬に、使う…でしょ?」

「え? ああ…」

 返事を聞くなり、マァムはポップに背を向けた。そのまま部屋を出て行く。

「……どうしたんだ、あいつ?」

 いつもの武闘家然とした姿勢ではない、どこか悄然とした後ろ姿を見ながら、ポップは呟いた。もちろん、薬草は必要なのだが…。

 

「ポップさん…」

 小さく名を呼ばれ、ポップは振り向く。

 レイラだった。ゆっくりと彼女が上半身を起こそうとするのを見て、ポップは慌てた。

「おばさん、寝てて下さいよ。あ、俺、台所借りますね。薬を作ってきますから」

「ありがとう…。でも少しお話があるの…マァムのことで……」

 

 

 

 

 

「ポップ、これで足りるかしら?」

 部屋で母と何事かを話していたポップに声をかけると、彼は「おう」と手を上げた。

 パタンと静かにドアを閉めて、マァムから薬草を受け取った彼は「台所、借りるぜ」と笑う。マァムが何も言わずとも、手馴れた様子で鍋を引っ張り出し、甕から水を加え、火を起こした。

 

「…よくわかるわね」

「んー。勝手知ったる彼女の家だからな。何度か、おばさんにご馳走になった事もあるしさ」

 

 彼の視線は、コトコトと煮え始めた鍋の中身に向けられている。薬草の匂いが漂いだした。

 昔、ダイがまだ行方不明だった頃、ポップが村々で薬を作るようになった最初期は、よくこうやって鍋を使っていた事をマァムは思い出す。今では先生に錬金釜を借りているので、滅多にそんな調合はしないのだけれど。

「うん。錬金釜よりは時間がかかるんだけどな。原理は一緒だから」

 ポップは簡単に言うが、さすがに器用だ。材料の大半は普段から腰の袋に入れてあるのだとしても、それ自体が魔力を持つ錬金釜とは違い、普通の鍋では微調整が難しいだろうに。

 そういう彼の要領の良さを目の当たりにすると、先程何も出来なかった自身の不甲斐無さに対する想いが、また蘇ってきた。顔が強張るのがわかる。

 

 ポップのように柔軟な頭があれば、母の容態に慌てる事などなかったかもしれない…羨望とも嫉妬ともつかない感情が同時に湧き上がった。

 こんな心の動きを知られたくなくて、マァムは顔を伏せた。その時だった。

 

「マァム、疲れたろ」

 

 ポップがこちらを見ていた。その目はごく穏やかで、優しい。

「急におばさんが倒れたら、びっくりするよな」

「ポップ……」

「居間に行ってろよ。あっちの方がぬくいしさ」

「でも…悪いわ」

 

「悪くねぇ。俺は今日、そんなに患者も来なかったから元気だ。お前は昨日から書類作って、朝から城で仕事して、午後からだってこの村の人達のワガマ……」

 

 徐々に口調が強くなってきていた彼は、そこで口ごもった。鍋の中身を掻き混ぜながら、一度、言葉を探すかのように上を向き、緩やかに頭を振った。

 

「午後からは…この村の人達の頼み事をこなしてたんだろ? ちょっとは休んでこいって」

 苦笑して「頼むから」と言われれば、マァムには断る理由がなかった。

 

 小さく「ありがとう」と呟き、やおら隣の居間に向かう彼女の背中を、ポップは見つめ、心の中で嘆息した。

 

 

 

(あぶなかった……)

 ポップは胸を撫で下ろす。

 レイラに今日のマァムの村でのスケジュールを聞かされたため、もう少しで怒りに任せた言葉が出そうだった。言い直しはしたものの、実際、ポップはマァムをああも追い詰めた村人達に苛立ちを覚えていた。

(あいつも…難儀な性格だよな……)

 

 ――あの子…マァムにとって、対等な人間は村にはいませんでした。

 

 レイラに言われた言葉から、ポップは漠然と恋人の幼少時代を想像してみた。

 この村には、マァムと同年代の女性も男性もいない。彼女の生まれたのが大戦の最中であった事と、いたとしても街に流れたというのが原因だ。

 幼い頃から、彼女の周りにいたのは大人と、自分よりもずっと幼い子ばかりで。それに両親が両親だ。否が応でも注目される存在だったろう。

 

 マァムは確かに強い。それこそ16歳で村を出るまで、森に囲まれたこの村をモンスターから守り続けてきたほどに。しかも両親はかの大勇者アバンの仲間である戦士ロカと僧侶レイラ――まさに貴種と言うに相応しいサラブレッドだ。

 だが、と思う。

 そんな両親を持って生まれてきたマァムに村の者がどう接したのか……ポップには想像することしか出来ないが、両親が武器屋の夫婦という何の変哲もない出自の自分とは、決して同じような接し方ではないという事は確信できる。

 

 期待をかけられるという事は、決して悪い事ではないのだろうが…それが常態だとすればどうだろう。そして、なまじそんな期待に背かず、そつなくこなす実力が備わっていたとしたら……

 

 ふと、ポップは自分の子供時代を思い出す。

 

 友達と一緒に町中を駆け回り、色んな悪戯をし、周りの大人に怒鳴られ叱られる毎日。腕っ節が弱いからケンカではうまく立ち回って。時には情けないと小馬鹿にされて。鍛治仕事の手伝いを嫌がって、勇者ごっこにうつつを抜かし、最終的には父の拳骨に日々泣いていた自分。

 およそ良い子ではなかったが、それは他の子供も似たようなもので。断言できるが、自分は、どこにでもいる『普通の子供』だった。

 

 マァムは――そうではなかったはずだ。

 

(大変だったろうな……)

 幼い頃から特別視された彼女は、きっと期待に応えようと努力したのだろう。尊敬する両親のようになろうと立派な人になることを目指し、弱い者を守れるように強くなろうとして。しかもどんな相手にも優しく接する――完璧な女の子。

 

 彼女にとって村の人々は被保護者で。『護るべき人達』からの頼み事を断ることなど、まず出来なくて……

 誰かに甘えたくても、家族以外にそんな相手はいなかったろう。父親が他界してからは、唯一と言っていい母親も、今日は床に臥せってしまった。

 

 ――ポップさん、あの子をお願いします。

 

 その言葉に込められた意味が、如何ほどのものかはポップには量る術がない。

 だが、それでも。

 頼まれなくとも、己に課すものがあった。

 ポップ自身はこれまで幾度もマァムの存在に助けられてきたのだ。ならば、せめて――…。

 

 

 

 

 

 優しい眠りの腕に抱かれて、マァムは夢を見ていた。

 

 幼い頃の夢だ。おぼろげにしか覚えていない父が、自分を抱きしめてくれる。自分と同じ薄桃色の髪が、摺り寄せた頬にふわりと当たる。

 ほんの少し悪戯心を起こして、それを引っ張ると、父は大袈裟に痛がって。側にいた母が、笑いながら優しく自分を叱ってくれた。

『ダメじゃない、マァム。こんな事をしちゃ』

『いいさ、レイラ。子供の頃はこれくらい悪さをするのが当たり前だ』

 叱られているのに、幼い自分はきゃっきゃとはしゃいでいた。

 そう。嬉しくて。楽しくて。イタズラをしたって、お父さんは笑って引っ掛かってくれる。お母さんは抱きしめてくれる。

 

 …こんな風に甘えてよい人は、もう母だけだ。そして、こんな風に素直に甘えることが出来る自分は…もうどこにもいない。

 

 やがておぼろげな父の顔も若い母の表情も、霞に包まれるようにして、消えていった。代わりに柔らかないい匂いがする。…母がよくいれてくれた、大好きな…ミルクの匂い。それを辿った先に待っていたのは――

 

 

 

「――ポップ」

「ああ、起きたか。毛布もかけずに寝たら、お前まで風邪ひくぜ?」

 その言葉に、自分が居間で寝入ってしまった事に気付く。

「薬は…?」

「今はおばさんもよく眠ってるし。明日の朝飲めば充分だよ。多めに作っておいたから、明日の晩の分まであるさ………で、だ」

 

 ことんとカップが目の前に置かれた。

 

「お前には、これ」

「これ……ミルク?」

「ああ。…お前がよくいれてくれる味を目指したんだけどな」

 では、夢の中で自分が感じたのは、この匂いだったのか…。自身も同じミルクを手にするポップに、マァムは「ありがとう」と笑った。

 そうだ。早く元に戻らなくては。せっかくポップが気を遣ってくれてるのだから。いつもの自分に戻って、母の看病をして、村の皆の頼みも軽く引き受けられるようにならなければ。

 

 ……でないと自分は、慈愛の使徒では…聖拳女ではなくなる。

 

「…マァム」

 ポップが呼んだ。自分の考えに没頭していた彼女は、不意に聞こえたその声に顔を上げた。ポップの瞳は、まるで痛々しいものを見るかのように、哀しげだった。何故、自分を見るのにそんな顔をするのだろう。

「なぁに?」

 聞き返すと、ポップは少し視線を彷徨わせた。

「…さっきは、ごめんな」

「え?」

 唐突な謝罪に、マァムは瞬きをした。謝られなければならないような事など、ポップは何もしていないはずだ。

「やだ。何なの一体?」

 ミルクカップに手を伸ばす。掌から伝わる温もりに、マァムは自然と笑顔になる。こくりと飲んで身体中が喜び、もう一口と思った時だった。

 

「聖拳女なんて、軽々しく呼んで…悪かった」

 

 マァムの手がぴたりと止まった。

  ざわざわ ざわざわ

 森が唸る。どこからか入り込んでくる隙間風が、無言の部屋で渦を巻いた。暖炉の火が大きく揺らぎ、薪が爆ぜる。

「……どうして、謝るの?」

 ややあって、マァムが口を開いた。その声は平静そのものだった。逆に、静かすぎるくらいだった。

 

 ポップはその抑えられた声に、静かな怒りを感じた。ああ、と思う。触れてはいけない部分だったのかもしれない。かつても己の肩書きに悩んでいたことのある彼女の事だ。今回は…今回も自分で昇華させるつもりだったのか。

 

「…お前さ、もう少し人に頼れよ」

 

 問いには全く答えずに、ポップはマァムを見た。むしろ睨むような視線の強さで。そうでもしなければ、自分はこの女の持つ柔らかな空気に差し込む事が出来ない気がした。

「…何よ、それ」

「無理するなって事だよ。疲れてるなら、素直にそう言え」

 言い切ってから、なにやってんだ…と彼は自分を罵った。謝った直後にこんな事を言うつもりではなかった。もっと婉曲的な言い方を考えていたはずだったのに。

 …だが、もう止まらない。

「言えずに、自分の中で癇癪起こして、挙げ句の果てにいっぱいいっぱいになって、延々と辛気臭ぇ顔するなんざ周りも迷惑だ」

 人の心に土足で上がりこむという行為があるというなら、今の自分がそれをしている自覚がポップにはあった。マァム自身が必死で抑え込んでいるものを自分は賢しげに暴いてみせたのだ。けれど、

 

(…怒ればいいんだ。爆発すりゃあいい)

 

 どんな言い方をしようと、結局はそれが狙いなのだから仕方ない。村人にぶつけられないものがあるなら、自分にぶつければいいとポップは思っていた。大魔王相手にも成功した、挑発は彼の十八番だ。

 マァムの目が険しくなる。そんな顔を見るのは久しぶりだなと、関係のない事を彼は思い、彼女が拳を握るのを見て、内心で成功を確信した。

 だが――

 

「そうね…。ごめんなさい」

 

 ――拳がゆっくりと解かれ、荒れた指が再び現れるのを、ポップはぼんやりと見つめた。

 

 マァムは深く息を吐く。

「あなたの言うとおりね…。迷惑かけちゃって、ごめん」

「いや…あの…」

「もうこんな風にならないようにするわ。ちゃんと休んで、明日からまた頑張るから」

 

 にっこりと笑えば、ポップが心底困った顔をしている。

 それで何となくわかってしまった……彼は自分を怒らせたかったのだろう。他人の心理を読むのに長けている彼には、自分の心など見透かされているのかもしれない。薄汚く醜い、怒りや嫉妬も……。

 

 けれど、それを指摘されたからと言って、ポップにぶつける事などあってはならないだろうとマァムは思う。

 

「…なんでそうなるんだよ」

 

 ポップが小さく唸った。

「言えばいいじゃねぇか! もう疲れたって! 休みたいって! お前一人が村の仕事を引き受けなきゃいけない義理なんて、どこにもないんだぞ!?」

 

 その台詞に、自分の想像が間違っていなかった事をマァムは確信する。辛そうな彼の表情に、暖かいものを覚えながら、彼女は首を横に振った。

 

「でも、それを引き受けたのは私だもの」

 

 確かに、そこまでの義理はないのかもしれない。それでも、皆に頼られる存在になろうとしたのは他ならぬ自分自身だ。そして実際に頼られている。ならば文句を言うべきではないだろう。

 

「私は、力もあるし…村の誰よりも強いもの。いつもこの村にいるわけじゃないから、帰ってきた時に頼まれ事が重なるのは当たり前なのよ」

 

 ……常に辿り着く答えをポップに告げる。結局は堂々巡りだ。少し眠った事で頭がすっきりした。自嘲の笑みが口元に浮かぶ。

 疲れるから…だから要らぬ愚痴が出るのだろう。人の役に立つ為に強くなったのなら、間違いなく自分は目的を叶えたはずだった。今更それを否定する気は毛頭ない。だから……

「だから、気にしないで。私は大丈夫だから」

 上手く笑えたと、思った。

 

 

 

 マァムの笑みから、ポップは視線を逸らした。そうじゃない、と胸中で叫びが渦を巻く。

 違うだろと叫びたかった。だが、言葉が出ないのは、マァムの言う事はもっともだとポップの頭も理解しているからだ。…それでも――

 彼女が言ったことは、実に立派で、筋の通った覚悟だと思う。普通なら、自分もちゃんと引き下がるだろう。…それでも――

 

 ほんの1時間前、この家を訪れた時の様子がフラッシュバックする。咳き込む母親の背を撫でながら、振り向いた彼女の顔。

 

 道に迷った子供のように、途方に暮れた、恋人の表情。

 

 ――それでも納得しないのは、心だ。

 

 自分を呼べばいいのにと言った時、マァムはきょとんとしていた。今思えば、あれは…『考えた事もなかった』からではないだろうか。

 考えてみれば、戦闘以外で彼女が人と一緒に何かをしている姿など、ほとんど見たことがない。自分で出来る事は、いつもさっさと済ましてしまうのだ。

 

「…お前は、凄ぇな」

 

 ぽつりと呟く。マァムが首を傾げるのが目の端に映った。

「ずっと、そうやって、一人で頑張ってきたんだよな……小さい頃から、ずっと……」

 頼る必要がない…それは、何でも出来るという事だ。けれど…逆に言えば、それだけ他者との関わりが薄いという事になるのではないだろうか。

 

「ポップ?」

「…お前、さっき俺が言った事に半分しか答えてねーよな」

「え…」

「もう少し、人に頼れ。……ずっと一人で頑張ってきたんだから、頼りにくいのはわかる。でも、村の人達だって子供じゃねぇんだ。お前に護ってもらうだけの存在じゃねぇはずだろ。頼るってのは…信頼の現われだ。頼られる事で立てる奴だっているんだぜ?」

 

 最後の部分は、彼女自身がそうだから、きっとわかってくれるはずだ。そんな想いをポップは込める。そしてそれは伝わったのだろう。マァムの栗色の瞳が揺れた。

「でも…だって…私は……」

「……なんだよ?」

 マァムは一度開いた拳を再び作った。

 

「私は…『聖拳女』で『慈愛の使徒』なんだもの……!」

 

 搾り出すようなマァムの声に、暖炉のボッという音が重なった。どこから入るとも知れない風が、暖かなはずの部屋を冷やそうとする。

「頼れって言われても…どうすればいいの? 私は…私には……」

 

   マァムなら出来るさ。なんたってアバンの使徒だ!

   慈愛の使徒か。だからこんなに優しいんだな。

   さすが、聖拳女様だ。

 

 脳裏で木霊するのは、ずっと言われてきた言葉。聞かされ続けた賛辞。

 いつしか、皆を護りたいという目標は、義務に変わろうとしていた。アバンの使徒だという誇りは、枷になろうとしている。

 

「マァム…」

「私には…それしかないもの。それだけしか求められてないもの…!」

 マァムの声が上ずった。拳は白くなるほど固く握られて、震えている。

「マァム……っ!」

 

「私は…しっかり者で、強くて、誰にでも優しくなきゃいけないの。そうじゃなきゃ私じゃなくなる…! 誰かに甘えたり、怒ったりする私は必要ないの! そんな私は、誰も要らないもの!!」

 

 涙で潤んだ瞳が、ついぞ見たことのない苛烈さで光った気がして、ポップは息を飲んだ。そして気付く。同時に光った物がもう一つあった。それは彼女の胸のあたりに。

 ――アバンのしるしが輝いていた。

 

 ああ…こんなにも泣きそうになりながら、我慢しながら、それでもこの女は優しい。村人にも俺にも怒りを向ける事なく、ただひたすらに己だけを責めている。

 

 

 

 ポップはマァムを抱きしめた。ビクッと震えた身体が、一瞬の間の後、素直に自分の胸に縋ってくれたことが、例えようもなく嬉しかった。

「…頑張ってたんだな」

「……うん」

「…嫌な事も沢山あったな」

「…うん」

 まるで子供のように舌足らずな声が、かすかに耳に届く。安心させるように、ポップは腕に力を込めた。武闘家の彼女には、頼りないかもしれないななどと心のどこかで自嘲しながら。

 

「大丈夫だ…。無理に優しく強くならなくたっていい……」

 

 無理などしなくても、充分彼女は優しい。その笑みが、心根が、見るものに心強さを与えてくれる。

 

「お前は、慈愛の使徒として生きなきゃならねーんじゃなくてさ、お前だからこそ慈愛の使徒を名乗る資格があるんだよ……」

 

 柔らかな薄桃色の髪を撫でる。自分の想いが、わずかでも彼女に染みこめばいい。そんな思いを込めて。

「ポップ…」

 ややあって、マァムが顔を上げた。

 引き結ばれた唇。潤んだ瞳。それは、泣きたいのを必死でこらえる、女の子の顔だ。

 いつもしっかりした彼女を見慣れているせいか、こういう表情で見つめられるとドキリとする。

 紅くなった顔を誤魔化すように、彼は苦笑した。

 きっとこういう時は、何も言わずに抱きしめ続けた方が絵になるのだろうが…確かにマァムの言うとおり、創り上げてきた『自分』は、変えようと思って変えられるものでもないようだ。

 あえて軽い声を出す。それが自分の役目であるかのように。

「…ま、もしも鬱憤が溜まっちまって、吐き出す相手がいないんだったら、俺に頼れよ。いくらでも、殴られてやるから」

 カラカラと笑えば、マァムは「そんな!」と声を上げた。

 

 

 

「そんな…! そんなことしな…い……」

 

 マァムの声が途切れたのは、ポップの側に理由がある。マァムを抱きしめていた彼の手が、いつの間にか移動して別の場所に添えられていたからだ。

 その場所とは――胸。

「あんまりしけた顔してっと、早く老けちまうぜ? せっかくいい胸してんのに、勿体ねぇぞ」

 にやにやと笑いながら、遠慮なく胸を揉みまくるポップ。

 

 ぶちん

 

 鼻の下をだらしなくのばす勇気の使徒に、どこかで何かが切れた。

「……こ……の…………!」

 いかに慈愛の使徒と言われる彼女でも、『それはそれ これはこれ』である。

 漂っていたはずの甘い空気は、どこへやら。プルプルと肩を震わせるマァムの背中から、怒りのオーラが立ち昇った。

 

「馬鹿ぁ!!」

「うぉお?!」

 

 渾身の右ストレートを寸でのところで避け、キックを回避した――まではよかったが、武闘家と近接戦闘をして魔法使いが勝てるわけがない。あとはタコ殴りである。

「いててててて! 痛いって、マァム!」

「あんたが悪いんでしょ!!」

 傍で見る者がいればかなり恐い情景だというのに、余り緊迫感がないのは、頭を必死でガードするポップの表情が、それでもどこか嬉しそうだからかもしれない。

 

 ――いくらでも、殴られてやるから

 

 まんまと乗せられた自分が悔しくて、ポップの笑顔が余りにも楽しそうで、マァムは本気でない拳を繰り出し続ける。

 

「なによ。馬鹿。最低っ!」

 その言葉に、ポップは苦笑する。

「なーにを今更。俺はいつだって最低だっただろうが。初めて会った時も。告った時も。…いつでも」

 パシン…!

 最後に放たれた拳を、ようやくポップは掌で受け止めた。

 

「俺はお前に対しては、いつだって最低だ」

 

 それは、思いがけないほどの真剣な声音で。

 

「いつだって俺はお前の一番底にいて、お前を受け止めるから。だから――」

 

 

 

 

 

「――疲れたら、安心して堕ちて来いよ」

 

 

 

 

 

 マァムの身体から力が抜けた。かすかに笑ったあと、その表情は崩れた。

 こらえきったと思っていた涙が、堰を切って零れ落ちる。再び抱き寄せてくれたポップの身体を、今度は彼女も抱きしめた。

 

 

 

(終)




気付けば、そこにいてくれる人。
いつでも、底にいてくれる人。

マァムにしたら、ポップってそういう存在ではないかと思うのですよ。


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繕う

ポップとヒュンケルの話。


 大通りの喧騒を離れ、3回角を曲がる。

 1回曲がる都度、道は狭まり、建物の色はくすんでいくようだった。狭さを利用するかのように洗濯物が建物同士を繋ぎ、訪れる者を歓迎する旗のように揺れている。雑多なにおいが満ち、日当たりの悪さからか、それとも人の多さからか、湿気が凄まじい。

 

 そんな路地にも、少なからぬ数の店がある。門から王城に続く真っ直ぐな大通りに面しているのは、それなりに勢いのある大店ばかりだが、こういう場所にあるのはほとんどが個人の露天か、住居を兼ねた小さな構えばかりだ。

 大戦の前から、元々この地区はこうだったのだと言う。戦火に焼かれ廃墟となった後、再び大通りが作られ、路地が作られ、それに沿うように家が建っていったのだと。

 もちろん、全てが元通りというわけではないのは、当たり前だ。

 壊れた物がそっくりに作り直されても、元の物ではないのと同じ。失われた人々は―――決して還ってはこない。

 

 ローブを目深にかぶった姿で、ヒュンケルは服屋を探す。

 

 現在、聖騎士の称号で呼ばれパプニカの近衛隊に属しているヒュンケルには、結構な額の給金が出ており、制服が支給されている。だが、いま彼が小脇に抱えているのは近衛の紋章が入ったそれではなく、普段着とでもいうべき服だ。

 先だって、とある出来事で破れてしまったそれと同じ物を、ヒュンケルは求めるつもりだった。

 だが…

 

(これは…まいったな………)

 

 路地に入って5分も歩かぬうちに、彼は心の中で独りごちる羽目になった。

 簡単な作りの服だからすぐに見つかるだろうと考えていたのだが、甘かったようだ。通りには似たような露天や住居を兼ねた個人店がズラリと並んでいる。安価な既製品が多いのだろう、どの店も同じような衣類を扱っている。

 こんなことになるのならば、店の名前も調べておくのだった。と早くも彼は後悔し始めていた。

 ならばその辺の店の者に取り扱っているかどうかを訊けば良いのだが、そういう発想はヒュンケルにはない。出来ないわけではないのだが、元から人付き合いというものが不得手な上、ここがパプニカであるということが心理的な制限に拍車をかけている。

 

 他国の街でなら尋ねたかもしれないが、この場所は―――この国は彼が破壊したのだから。

 『魔王軍不死騎団長 ヒュンケル』が、人間憎しの心の赴くままに。

 

 

 この場所も、あの日に歩いたかもしれない。

 

 

 逃げ惑う人々の群れ。泣き喚く幼児、杖を失くし転ぶ老人、赤子を抱いた女性……非戦闘員には特に興味もなかったが、城が、街が、人の営みそのものが、当時のヒュンケルには憎悪の対象だった。彼が暗黒闘気で操った屍の群れは、『襲え 破壊しろ』という主の簡潔な命令に従って街を蹂躙していった。

 中には、屍を操っているのが彼だと気付いて立ち向かってくる兵士もいた。だが、圧倒的な戦闘力の差がヒュンケルに刃を届かせることはついぞ無く、かえって、その弱さがヒュンケルの苛立ちを助長した。

 

 無造作に剣を振るっては、勇敢で無謀な兵を斬り捨て、事切れたその骸を暗黒闘気で立ち上がらせて残りの者を襲わせた。いま殺された同胞が、自分たちに襲いかかってくるのを見た兵士達の驚愕と悲しみと…憎しみに満ちた目は、暗く鮮やかにヒュンケルの脳裏に焼きついている。

 

 ダイたち仲間と出会うまで…光を得るまで、あれと同じ目を――己もしていたのだ。

 

 大戦が終わり、平和になった世界であるからこそ、人々の悲しみや恨みは強まっている。自分が、師アバンを父の仇として憎み続けたように。

 周りを見る余裕がやっと出来て、そうして…自分が失ったものの大きさが、価値が、段々と見えてくる。

 

『平和になったのに、あの人はもういない』

『隣は家族全員が無事だったのに、私は皆を失った』

『自分の手は、足は、もう元通りには動かない』

『思い出のつまった家が、跡形も無いなんて』

 返せ。帰せ。かえしてくれ。戻してくれ。

 戦の前に戻してくれ。私の、俺の、僕の、父を。母を。夫を。妻を。子供を。恋人を。友人を。手を。足を。家を。財産を。

 以前の通りにかえしてくれ。私の、俺の、僕の、輝いているはずだった、こんなはずではなかった、もっともっと素晴らしいはずだった、存在しているはずだった―――未来を…!

 

 ヒュンケルがパプニカの人々と関わる事を極端に避けるのは、その想いを知っているからに他ならない。人々の、魂かけての號びを知りつつも、応える術がないからだ。彼が持っているのはその身一つであり、死者と生者のどちらに与えるにしても、数は足りないのだから。

 

 人と関われば顔を合わさねばならない。もし顔を知る者が自分を見咎め、騒ぎになったならば…上手く事を収めるなど不可能だということくらい、深く考えずともわかることだった。

 しかし、だからと言ってあっさり帰るという訳にもいかない。

 ちらりと手に持つ袋に視線を落とす。この服だけは、何とか同じ物を手に入れなければ。

(もう少し探してみよう)

 そう思い、再び歩き出したヒュンケルの耳に、聞きなれた声が響いた。

 

 

 

「なあ、頼むよ。教えてくれ! ちゃんとお礼はするからさ、な?!」

「いや…そう言われましても、ウチも商売ですし…」

「開発に成功したら、パッケージにこの店の事も書くしさ。売上からいくらか支払うし、品も格安でお宅に卸すから! な? な?!」

「………かないませんね、大魔道士さまにゃ」

「サンキューおっちゃん!! 恩に着るよ!!」

「恩よりも、ウチの服買って着てもらったほうが嬉しいんですぜ? まったく…。じゃあ、持って来ますから、少々お待ちを」

 

 

 

 少し歩いた所にある、小さな店の軒下で、その店の店主と思しき男性と、客の青年とが親しげに話している。人通りは多く、雑多な話し声や、時折叫びにも似た怒声や喧嘩も溢れていて誰も気に留めていないというのに、その青年の声はヒュンケルの耳に快く響いた。

 呆れたという態で肩を竦めながら奥に消えた店主を見つつ「よっしゃあ」とガッツポーズをしている『彼』に、ヒュンケルは近づいた。

 

「ポップ…?」

 

 黄色いバンダナが揺れた。

 緑を基調とした明るい服の青年が、振り向く。

「ヒュンケル?」

 丸くなった黒い瞳が、笑みの形に細まった。

 

「こんな所で会うなんて、珍しいじゃん。どうしたんだよ? 仕事は?」

 

 姫さんのお守りをしなくていいのか? 矢継ぎ早に問いを発して、六つ下の弟弟子はカラカラと笑う。

 知り合いに会えた事で少し和んだ空気をまとい、ヒュンケルは苦笑した。

 

「今日は非番だ。ここには服を探しに来てな。…お前こそ、こんな所で何をしているんだ? 今はベンガーナに居るのではなかったのか?」

 

 そう。この弟弟子であり希代の大魔道士でもある青年は、ベンガーナに仕官している身のはずだった。仕官と言っても、王個人に雇われている形をとっているため、無位無官であり毎日登城する義務もない。仕事量は多いが、しがらみの少ない自由な身でもあるため、それを利用して各地を転々としつつ復興の手助けをしているのだ――愛する女性と共に。

 

 ヒュンケルの脳裏に、薄桃色の髪の娘が浮かんだ。敵として出会った彼を慈愛の心で包んでくれた聖母のような存在……マァム。

 5歳も年下の妹弟子である娘にヒュンケルが抱く想いは単純だった。『敬愛』―――その言葉に尽きる。

 

 3年前の大戦で、憎しみの闇に囚われていたヒュンケルに光を与えてくれた娘は、共に歩む存在として、目の前の青年、ポップを選んだ。以前からポップが彼女に恋焦がれていたのは周知の事実で、マァムが彼の手を取ったと聞いた時、ヒュンケルは二通りの意味で心から祝福したものだ。一つには、ポップの想いが成就したこと。そして二つ目は、マァムが幸せになるだろう事が確信できたからだった。

 

 実際、ポップと共に暮らし始めてからのマァムは、以前よりもさらに幸せそうだ。毎日が充実しているのだろう。ふと見せる笑顔が、ハッとするほど美しい事がある。そしてそれは、ポップに向けられる時に顕著だった。

 

 自分が選ばれなかった事に嫉妬はなかったのか、そんな事を誰かに訊かれたこともあったが、それについてのヒュンケルの答えは「否」だった。元よりヒュンケルの中でマァムに対する想いは、恋愛感情よりも崇敬の方が遥かに勝っていたため嫉妬の抱きようが無かったのだ。

 

 それに、と思う。マァムが万が一自分を選んだとして、自分が彼女を幸せに出来るはずもないのだ。正道を歩んできた娘に、憎悪に半生を捧げてきた男が並び立つ資格などないのだから。

 

 

 

「いや、」

 ポップは軽い足取りで店の中に入り、店主が消えた奥をチラと見遣ると、ついてきたヒュンケルに視線を戻した。

「今はベンガーナじゃなくて、リンガイアだよ。瓦礫の撤去が終わる目処がついたから、そろそろ移動するけどな」

「忙しいのだな。…今日はいいのか?」

 リンガイアにいなくても良いのかと尋ねれば、頷きが返された。

「お前と一緒で、『おやすみ』って奴だ。さすがに、毎日じゃ身体がキツイし。急患以外は遠慮してもらって、今日は羽を伸ばすさ」

「そうか。…城に行くのなら、もうすぐ陛下も御政務を休憩されると思うぞ」

 

 折角の休暇にパプニカに来たのなら、きっと城に向かう途中だったのだろう。そう思っての言葉だった。

 ポップとパプニカで会うのは何ら珍しいことではなかったが、その場所はいつも城内だったため、ヒュンケルの台詞は当然のものだった。だが、ポップは首を横に振った。

「会いたいけど、今日はやめとく。おっちゃんに薬をもらったら、すぐに帰るよ」

「薬…?」

 ヒュンケルは思わず店の品を見回した。………どう見ても服屋だ。

「…ここは、薬局もしているのか?」

 訝しげな彼の問いに、小さく笑いつつポップは「違う違う」と手を振った。

 彼は言う。薬と言うのは医薬品ではなく洗剤だ、と。

 

「洗剤」

「そう。この店は、シミ落としでも結構有名な店でな。俺も何度かお世話になってるんだよ」

「ほう」

 そうなのか、と改めてヒュンケルは店を見回した。どこの市場にでもあるような服屋なのに、そんな売りがあったとは。

 

 当の店主はまだ戻ってこない。洗剤とやらを持って来るのに手間取っているのだろうか。

「ベンガーナのデパートにも洗剤はあるんだけどな。やっぱり蛇の道はヘビって言うだろ。『法衣のパプニカ』には、それなりの技術があるってことさ」

 確かに、ポップが身に付けるだろう魔道士の服は、ここ魔法大国パプニカの産であると相場が決まっている。布地の産地には、自然、それなりの洗濯技術も確立されるという事か。頷き、ヒュンケルは同時に感心していた。何でもない事のように弟弟子は笑うが、そういう店を探し出すところが彼らしい。

 

 自分には、出来ないだろうな…と心の中で自嘲する。自分が、目の前で明るく笑う青年のように、どんな場所にあっても人々に溶け込み親しく接する…などという事が可能だとはとても思えなかった。

 

 思えば、ポップとは大戦中に何度も衝突したものだ。敵として出会ったのであるから、わだかまりがあるのは当然だった。だが…と言うか何と言うか、面白いことに、一番自分に話しかけてきたのもポップだった。単に場の空気をもたせようとする無意識の行動だったのかもしれないが、そのおかげで、重苦しい沈黙に耐えられない…という事態には一度もならなかったように思う。

 ごく自然とそういう風に振舞えるところが、ポップが勇者パーティのムードメーカーと言われる所以だ。

「………。」

 己に欠けた所を全き形で備えている弟弟子に、羨望を覚えてヒュンケルは目を細めた。

 

 店の奥は、申し訳程度に設けられているカーテンと、家具の陰になって見る事は出来ない。「おっちゃん遅ぇな…」と小さくぼやきながら覗き込んでいたポップは、自分を見つめる兄弟子の視線に気付いたようだ。

「…なんだよ、じっと見て?」

「いや…。…ところでポップ、その洗剤とやらをお前がもらってどうするんだ?」

 不審がる黒い目に、慌てて彼は話を変えた。こういう時、表情に乏しいのは便利なものだ。

 ポップは「ああ」と破顔する。

「錬金釜で作ってみようと思って。材料費が安いものなら、沢山作って産業に出来るしさ。……それに、」

 言い差した声は、ほんの少し切なげだったが。

「ポップ…?」

「や…ほら、マァムが洗濯を頑張ってくれるもんだからさ、俺も何かしないとな~って思って」

 青年はへらりと笑う。その顔に翳りはない。ヒュンケルが一瞬感じたものは、笑みに払いのけられたようだった。

 黒い瞳は変わらず強い輝きを放っている。ならば、過度に気を回すのは無粋だった。――この弟弟子は強いのだから。魔法力はもちろん、その心根が。

「そうか…。マァムは、元気か?」

「おう、元気だぜ。今日はお袋さんと一緒にジパングに湯治に行ってるよ。『湯煙美人 ジパングの旅』って奴だ」

 

 何が楽しいのか、ニヤニヤと笑う彼に、ヒュンケルは首を傾げた。

 

「トウジ?」

「温泉で骨休めするこったよ」

「オンセン?」

「ああ…そっか……あったかい泉のことだ」

「ユケムリビジン?」

「…あ~……ダイが詳しく知ってる」

 面倒くさくなったのだろう。カウンター横の小さな棚に行儀悪く腰掛けていたポップは、強引に質問を打ち切って立ち上がった。

 視線がほぼ水平に交わって、ヒュンケルは僅かにたじろぎに似たものを覚える。

マァムの事が話題に上っても、ポップは何ら気負うところもなく答えた。……3年という時間が確かに流れたことを、ヒュンケルは改めて感じざるをえなかった。

 

 

 

「それよりさ、ヒュンケル、お前は服を探してるんだろ? どんなのだよ?」

 親友に説明の義務を押し付けた大魔道士は、店に入った時のまま突っ立っている相手に話を振った。ここまでほとんどヒュンケルに質問に答えるばかりだったので、流れを変えたかったのだ。

 

「ああ、普段着だ。この辺の店だと聞いて…」

 

 その返事に、ポップは脱力する。

 

「あのな…『普段着だ』じゃ何もわからねえよ。色とか予算とか言ってくれねぇと」

「そ、そうか…色は…」

 説明しかけて、ヒュンケルは手にしていた袋を開けた。持ってきているのだから、見せた方が早いのだと思い出したのだろう。

 

 戦場では怖いほどに冴えている癖に、このあたり、どうもこいつは鈍いんだよな。とはポップの心中の声だが、無論ヒュンケルに聞こえるはずもない。

 

「これなんだが」

「どれどれ? …へぇー」

 

 ヒュンケルが出したのは、いわゆる『布の服』といわれる物だった。

 大層シンプルなデザインだったが、生地は厚めで、『旅人の服』だと言われても通りそうだ。色は、角度によっては黒にも見えるだろう、ごく濃い紫紺。

 

 模様の有無を見ようとすると、「後ろには何も無い」と先を制された。

 

 ――深く落ち着いた雰囲気のある服だ。品は良いが、着る人間を選ぶだろう。と、そこまで思い、ポップは気付いた。着る人間を選ぶと言えば、この目の前の戦士ほどその候補として相応しい者はいないということに。

 

「いいモンじゃねぇか」

「ああ…、貰い物でな。俺も気に入っている」

 嬉しそうに応える彼に珍しさを覚えつつ、無人のカウンターを勝手に拝借してヒュンケルが置いたその服を、ポップは素直に賞賛した。なるほど、これなら似たような服を何着か持っていたいというのもわかる。

 

「色違いのモンが欲しいのか? デザインだけならこの店にも似たのがあるんじゃねぇかな?」

 

 先程から、他の客は来ていない。男二人で服談義というのも妙なものだと思いつつも、店主が戻るまではどうせヒマなのだ。ポップは床や壁に所狭しと陳列された商品を見るため移動しようとした。だが、

 

「すまんが…、似ている物ではなく、同じ物が要るんだ」

「へ………? 同じって…全く同じ服ってことか?」

 下着じゃあるまいし、何着も同じ服を持っていてどうするのか――呆れて言おうとした言葉を、彼は飲み込んだ。

「ああ」

 微かな変化だが、ローブの奥で、ヒュンケルの顔が曇ったのを見たからだ。

「ふーん…」

 じっと見ると、栗色の瞳が僅かに逸らされた。

 ポップは小さく溜息をついた。わかっている。こういう男なのだ、こいつは。会話は必要最小限。それ以外は静かに佇むだけ。言葉の少なさを自覚している癖に、相手に理解を求めるわけでもない。

 世の中には言葉で伝わらない事も確かにあるし、百の言葉よりも沈黙が雄弁となる事態もあるのは事実だが…ヒュンケルの場合はそうではない。寡黙のゆえに誤解を招こうと、それを「仕方ない」で済ましてしまう傾向があるのをポップは知っていた。

 

 ただそれは、開き直っているわけでもなんでもなく、単にどうしたら良いのかがわかっていないだけだという事もポップは知っている。人とは違うコミュニティーで長年育ってきたこの兄弟子は、敵を威嚇、挑発するための態度や自ら憎まれ役を買って出る手段には長けているくせに、『何気ない日常』という場面での振る舞いが実にぎこちないのだ。

 

(……隠し事も下手だよな)

 

「…………。」

 無言でカウンターまで戻り、ひったくるように服を取って『何も無い』はずの背中側を向けた。ヒュンケルの腕のあたりがローブの中で一瞬動いたのは、自分を制止しようとしたのだろう。だが遅い。

「…やっぱりな」

 こんな事だろうと思ったぜ。…とはポップは言わなかった。口に出してしまえば、彼の『日常』を認めてしまうような気がしたからだった。

 

 

 

 服の背は、スッパリと裂けていた。

 

 

 

「……斬られたんだな?」

 ポップの口調は問いの形を取っていたが、それは事実の確認だった。

「…ああ」

 やはりこの大魔道士に隠し事は無理なのだろう。ヒュンケルは素直に答えるしかなかった。

 

「どこで…誰に? まさか城内でか?」

「いや、家に帰る途中だ。兵士の一人でな…ずっと待っていたらしい」

 

 復讐の機会を。憎い男が一人になる時を。

 仕事帰りの、夜も過半を過ぎた時刻。しかも家を目前にした場所。さすがに少し気が緩んでいたヒュンケルは、殺気に反応するのが半瞬遅れた。袈裟懸けに斬りかかられた剣を、完全にかわしきる事が出来なかったのだ。

 

 服はその時に破れた。貰ったばかりだというのに、台無しにしてしまった。贈り主の顔がちらつき、申し訳なさが胸を突いた。

 

「そっか…」

 ぽつりと小さく相槌を打ったポップは、今一度その裂け目に視線を遣り、固く目を閉じた。

「これだけで済んだのか?」

 目を閉じたままの問い。見えないのはわかっているのだが、ヒュンケルは頷く。

「ああ。二撃目の時に当て身を喰らわせて、それで終わりだ」

 事実を淡々と語るヒュンケルの前で、一瞬青年が震えた。どうした? と訊く間も無く、それまでで一番静かな声が俯いた青年から届いた。

「一応、聞いとくけど……怪我は?」

「心配するな。当て身で怪我をさせたりは――」

「馬鹿野郎!! 誰が襲撃した奴の事なんざ心配するかよ!?」

 

 

 

 お前の事に決まってんだろうが!!

 

 

 

 はぁはぁと肩で荒い息を繰り返しながら、ポップはヒュンケルを睨み付けた。白いローブの胸倉を掴み、揺さぶる。……こんな風に怒鳴ったのは久しぶりだった。

 ああ、こいつは本当にムカつく奴だ。何もわかっちゃいない…!

 虚を突かれたようなヒュンケルの表情に、ポップの怒りが更に倍化する。こういう男なのだとわかっていても、理解と納得は別の次元に存在しているようだった。

 

 兵士の一人だと言うなら、それは、普段から知っている人間に狙われたということだ。暗殺を実行しようという人間が、鎧姿などという目立つ格好で夜中まで獲物を待つわけはないし、当て身を喰らわせた後で捕らえて身元を調べるなどという事を、ヒュンケルがこの場合するわけがなかった。ならば、人付き合いの苦手な彼が咄嗟の状況で判別がつくならそれは、見知った人間が刺客だったということだ。

 

 ――そんな近しい者に命を狙われて、何故そうも淡々と話すのか。

 

 襲われた時の状況もそうだ。

 

「家が近かった? 深夜だった? そりゃあ気は緩むかもしれねぇけどな、その程度のことで、お前がヘータイの攻撃くらい避けられねぇわけないだろうが!」

 

 

 

 ヒュンケルは息を飲んだ。ポップの迫力に気圧される。普段の飄々とした態から打って変わって、青年はまるで炎のようだった。黒い瞳はどんな嘘も逃がさぬように、ヒュンケルを見据えている。

 

「…そうだな…きっと、避けられたのだろうな」

 

   殺気を感じたその瞬間、危機を回避するために動こうとする身体。

   それを抑制するものがあった。

   「もういい」と。「斬られるべきではないか」と囁く何か。

   ――そうかもしれない

   瞬きにも満たない刹那、その囁きにヒュンケルは囚われ、ために動作は遅れた。

   男の振り下ろす剣が、振り向こうとした紫紺の背中に吸い込まれていく。

   月に照らされて冴え冴えと輝く銀髪が、数本散った。

 

 ローブを握る手が、震えている。ポップには、自分がどう斬られたかなど、お見通しなのだろう。

「……怪我はなかった。本当だ。この服に護られたから」

 刃はヒュンケルに届かなかった。生地の厚さが幸いしたのか、一条の傷すらなかった事に、ヒュンケル自身が驚いた。…刺客には残念極まりない結果だっただろうけれど。

 

 女房と子供の仇だ―――!!

 

 向き直り、改めて対峙した刺客は、そう告げた。少なくとも3人分の憎しみが込められた剣…それを受けるべきではないかという声は、頭の中でずっと響いていた。相手を気絶させても、声は鳴りを潜めただけで消えたわけではない―――当然だ。それは、いつも自分が考えている事なのだから。

 

「もっと自分を、大切にしろよ…。皆、お前に生きてて欲しいんだぜ?」

「ポップ…だが、俺は…」

 

 戦だから殺したのではなく、憎かったから殺し、破壊したのだ。師のことを父親を奪ったと思い込み、師が大切に護ってきた『地上の平和』そのものが、憎しみに値する存在だった。

 新たな主君に「生きろ」と言われ、仲間にも「生きて欲しい」と言われ…自分のような存在を惜しんでくれる人々を、ありがたく思わないはずがない。それでも、その逆の存在を無視など出来はしない。現に今でも…今だからこそ、処分を望む陳情が毎日王城に届けられている。

 

「生きて欲しいと願ってくれる人々のために生きると言うのならば、死を望む人々のためには…殺してやりたいと憎む人々のためには、どうすればいい?」

「………っ!!」

「ましてや、死を望む人のほうが圧倒的に多いんだ…俺という人間は」

 

 自分さえいなくなれば…そう思わない日はない。自分さえ死ねば、パプニカの民は溜飲を下げるだろう。恨みを抱えて生きる事も無く、未来に目を向けて進んでいける。元魔王軍不死騎団長を重用する女王に対する不信めいた感情も消滅するのだ。

 

「…そうだな」

 

 ローブを握り締めていた手が放された。

 

 

 

 ポップは悄然と項垂れる。ヒュンケルの言う事はよくわかる。もしポップ自身が同じ立場でも、そんな風に考えるだろうからだ。恨まれ、憎まれ、罪の意識に苛まれて…どうやって身を処すべきかを念頭に生きるに違いない。

 自分達が生きて欲しいと願う限り、ヒュンケルは「生きよう」と思ってくれるのだろう。けれど「生きたい」とは思わないのだ。

 そんな思いでいる限り、大戦の頃のように動けなくなったヒュンケルは、いつかは刺客の手にかかる。それが予測出来てしまう事が辛かった。

 けれど――

 

「―――だからってそれじゃ、何も変わらねぇよ…」

 

「ポップ?」

「お前が死ななきゃならねぇなら、バ……ウチの居候も死ななきゃならねぇ。おっさんも、ラーハルトも…ヒムも…」

「それは…」

 ポップが挙げた名前は、全て元々魔王軍の陣営にあった者……つまりは、今のヒュンケルと立場を同じくする者達だった。

「『魔族だったから人間を殺しても構わなかった』ってわけにはいかないだろ。人間が、魔族や魔物を殺していいわけないように」

 ヒュンケルはその言葉に言いようのない気分を味わっていた。敢えて表現を当て嵌めるのなら感動だったかもしれない。

 この弟弟子は、人間と魔を等しく見ているのだ。それは、この地上を支配する種族に属する者としては稀有な、そして危険視されかねない思想だった。

 

「俺だって、敵を沢山殺した。火炎呪文で焼き殺して、氷系呪文で凍らせて、爆裂呪文で粉々にした。ダイも、マァムもそうさ。剣で切り裂いて、拳でマホイミを打ち込んだんだ。きっと、その中にはビビッて逃げ出したかった奴だっていたはずだし、普段は人間にも優しい奴だっていたはずだけど、何にも考慮しなかった。……恨まれてると思う。殺したいほど。…そんでもって、」

 

 ポップは言葉を切った。項垂れていた顔を上げ、ヒュンケルの目を真っ直ぐに見つめた。

 

「今更、俺達が殺されてやったところで、誰も生き返りはしないんだ。―――しょうがないんだよ」

 過去は変えられない。起こった事は無かった事に出来ない。謝っても悔いても…どう仕様もない。

「………ああ、わかっている。わかってはいるんだが…」

「もしも、」

 ヒュンケルの言葉は、ポップの声に断ち切られた。いつも明るく輝いて見える黒い瞳が、違って見える。

「もしも、お前が殺されたりたら、マァムが悲しむ。…ついでに俺もな」

「…ついでか」

 彼らしい言い方に、思わずヒュンケルは苦笑に似た表情になる。ポップはそれには構わなかった。

「ああ、ついでだよ」

 

「生きる事が死ぬ事のついでな奴が死んだって、あんまり悲しむのも変だろうし、」

 

 ポップは薄く笑う。兄弟子の戸惑った表情が面白かった。だが、別にポップはからかったつもりはない。本心だった。

 ヒュンケルが…この『死にたがり』の兄弟子が復讐者の手にかかったりすれば、確かに悲しいだろう。だが、きっと……

「きっと俺は、悲しむより怒ると思うぜ」

 昨夜ヒュンケルを襲ったという、誰とも知れない兵士の顔貌を、勝手に色々と想像する。

 

「お前を殺した相手に怒り、そいつを褒め称える奴らに怒り、それを止める手立てを打てなかった姫さんに怒って…パプニカ全てを――憎む」

 

「………!!」

「そうやって繋がってくんだよ。憎しみの連鎖って奴は」

「……憎しみの…連鎖…………」

 ポップの言を繰り返し、ヒュンケルはその重みに僅かに震えた。感情豊かなはずの青年の顔は、一切を洗い流したかのように無表情だった。

 自分を見つめる黒い瞳が、まるで虚無の穴ように見える。何も残らない、憎しみの果て。

 

「過去を悔やむなとは言わねぇよ。居直れとも思わない。お前ぇのそういう態度は当然なんだと思ってる。……でも、復讐を認めないでくれ。お前がその兵士を刺客にしたように、今度は俺が誰かを恨まなきゃいけなくなる。ハドラーを憎み続けてなきゃいけなかったろうし、バ……あいつの事も助けちゃいけなかったんだろうし、それに…俺も、ダイも、マァムも、おっさん達も誰かに殺されなきゃいけなくなるんだ」

 

「……………。」

 ヒュンケルは瞳を閉じた。この弟弟子に、何かを教えられた気がした。

「俺は…中々変われないと思うが…」

「ん~…いいぜ、別に。諦めてるから」

 あまりと言えばあまりな物言いだ。だが、反論は出来ない。今回のことだけでなく、一体今までどれだけ自分はポップ達の想いを無下にしてきただろう。

「…すまん」

「謝ってくれなくていいさ。ただ…生きてくれ。あんたが生きてる事が…俺らの生に繋がるんだから」

 

 

 

「あんたの番で、鎖を斬ってくれ」

 

 

 

「…わかった。努力する」

 ヒュンケルの頷きに、ポップは安堵と同時に内心で溜息をついた。

(努力かよ。…まぁ、それでも一歩前進ってとこかね)

 実際にそう言ってやろうかとも思ったが、兄弟子のその表情に、言葉は出口を失った。

 

 泣き出しそうな、笑顔だった。

 

(…ああ、くそ。やっぱりムカつくわ、こいつ。この顔で憂えたり笑われたりしたら、誰が文句言えるかってんだよ!)

 思わず拳を作りそうになったその時だった。カウンター奥のカーテンが揺らめいた。

 

「お待たせしました、大魔道士様」

 

 店主だった。そうだ、忘れていた。自分は彼を待っていたのだ。

 

「あ…ああ、ごめんなおっちゃん。カウンター勝手に使っちまって」

 謝るが、特に気にしていない風の店主にほっとする。ヒュンケルと二人して、店内で随分と騒いでしまった自覚があるため、どうにもばつが悪かった。

 苦笑した店主が、懐から紙を取り出して自分に渡してくる。

「いえいえ。…薬なんですがね、いま丁度切らしてまして。それで、作り方を書いてきたんですよ。遅くなって相すみません」

 

 

 

 メモを差し出され、ポップは満面の笑みになった。

 先程まで話し合っていた表情とは全く違う鮮やかな変化に、ヒュンケルは我知らず感心した。弟弟子のこの表情の豊かさは、自分のような者には、人の世の深みと明るさを伝えてくれるものだからだ。

「とんでもねえよ。助かるぜ! 作るなら、こっちの方が手間が省けるし!」

 いつもの通りのくるくるした瞳に戻ると、ポップはメモに視線を走らせた。頭の中では既に、錬金に用意する材料をピックアップしているようだ。

「サンキュー、おっちゃん! 試作が出来たら、持って来るぜ!!」

 にかっと笑い、ポップはメモを懐に収めた。

「帰るのか」

「ああ。…っと、そうだ。おっちゃん、」

「はい?」

「悪いんだけど、こいつ服が欲しいみたいだからさ、探してやってくれねぇかな?」

 視線で店主に自分を示して、ポップは小さく頭を下げる。

「ああ、はい。わかりました。今度は大魔道士様も買って下さいよ?」

「へーい。じゃあな、ヒュンケル!」

 返事をする暇もなかった。

 放り投げられたキメラの翼が輝き、ポップは光の筋となって消えた――呆気ないほどの退場だった。

 

 

 

「賑やかな方ですねぇ」

 苦笑する店主の声に、光の筋を見送っていたヒュンケルは視線を戻した。

 カウンターに置かれた服を、店主は手に取り、見つめた。やおら口を開く。

 

「お客さん、残念ですが…この服はもう取扱いがありません。他の店でも同様でしょう」

 

「…そう、なのか?」

 どこか店主は笑っているようだった。

「これ、風の賢者さまからのプレゼントでは?」

「! 何故それを?!」

「ウチでお売りした、最後の一着です。この前買いに来られたばかりですから、よく覚えています」

 

 思った通りの物がやっと見つかったと、彼女はとても喜んでいたという。それを言われてヒュンケルは項垂れた。彼女がそうまでして選んでくれたものだというのに…

 

「直す方法は…無いだろうか?」

「ありませんでしょうな」

 にべもない返事に、ヒュンケルは黙るしかない。店主は服を畳みなおすと、彼に向かって差し出した。

「正直にお話しになっては?」

 破れた事を。…破れた理由を。

「っ…だが、」

 言い差した彼の言葉を、店主は待たなかった。

 

「同じ物を買って誤魔化しても、その服じゃあないんですよ。――この国と一緒でね」

 

「………!!」

 息を飲む。そんなヒュンケルを丁重に店主は無視した。

「申し訳ありませんが、全部聞こえてました。出て行くタイミングが難しかったですよ、ホント」

 軽い口調で、彼は笑う。どこか、痛々しいその笑み。

「……今更何を言っても、大魔道士様の言うとおり、しょうがないんでしょうな…。なくなったものは…元には戻りません。ですが――」

 

「――より善いものを作る事は出来ましょう」

 

 宙に上げたままの手を、店主は再びヒュンケルの方に伸ばした。

「上手く繕えば、元より丈夫になります。…風の賢者様に、裁縫がお出来になるかどうかは、私は存じませんがね」

 ヒュンケルの脳裏に浮かぶのは、この服の状態を見て盛大に泣いた後、縫い針を手に奮闘してくれるだろうエイミの姿。

「きっと、頑張って下さると思いますよ?」

「……ああ」

 そして自分は繕われたこの服を再び着るだろう。鎖を斬るという証を背中の縫い痕に覚えながら。

 押し付けられるように服を受け取った彼に、哀しそうな、けれど紛れもない笑顔が向けられる。

「大切にして下さい。…今度こそ」

「…承知した」

 ヒュンケルは頷いた。深く深く。

 

 一つの傷が、繕われた瞬間だった。

 

 

(終)




フレイザード戦の後、レオナによるヒュンケルの裁定の時、ポップがヒュンケルを庇わない点が好きです。


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とりあえず

読む人によっては、鬱陶しいかもです。
ポプマはもどかしいが標準装備。少年誌ですから。


 マァムは、広場を駆け回る子供たちの姿に目を細めた。

 人気のあるボール遊びは、既に大きい子らに取られてしまったらしい。年少の子らはめげずに石蹴りを始めた。隅の花壇の近くでは女の子たちがボロボロの人形を使いながら、ママゴトに興じている。

 どんな時代にあっても子供は遊びの天才だ。友達がいれば、その世界は無限に繋がっていく。そう…どんな時代でも、どんな状況でも。たとえそれが大戦後の混乱期だろうと、親を亡くした寂しい境遇であろうと、変わることはない。

 背後にすっと影が差した。

「元気な子たちでしょう」

 穏やかな声に、マァムは首肯し、振り返る。

「はい、とても。きっとこちらの園の運営がいいからですね」

 心からの賛辞をマァムは贈る。

 実際、子供たちの様子は素晴らしかった。

 古着ではあるだろうが、清潔な衣類。栄養状態もいいようで、痩せて飢えた目をした子は見当たらない。何より笑顔が眩しかった。

 転んだ友達を立たせてやる子がいれば、自分よりも小さい子におもちゃを貸してあげる子もいる。何気ないことかもしれないが、そういった行動は「自分は大切にされている」という自信が子供になければ育ちにくいものだとマァムは思っていたから。

 

 魔王軍の被害がほとんどなかったテランを除けば、どの国にも三年前の大戦で孤児が多数生まれた。

 当然のごとく、彼らを救済するために孤児院は手を差し伸べた。が、国が運営する公営の孤児院なのだから予算はおりるが、お金が必要なのは孤児院だけではないのは当然の話だ。子供たちだけでなく大人も皆が自分の生活だけで精一杯の状況であるため、なかなか寄付も集まらない。さらに言えば、この度の大戦の被害は18年前の戦の比ではなく、孤児の数が多すぎた。ゆえに公営のそれだけでなく、各地の領主や教会が私的に開く孤児院も引く手数多の大盛況となっている状況だった。

 この孤児院は、それら私立の孤児院の中でも特に有名なものの一つだ。

 もともと大戦前から存在しており、ロモスの貴族の中でも有力なジャスティ公爵家、その3代前の当主が創設者だった。

 潤沢な資金と堅実な運営。加えて代々の当主が篤実な人柄で知られているこの孤児院は、悲しい想いを味わった子供たちに、再び幸せになる道を示してくれるとして、いまやそのノウハウはロモスの全孤児院の範とまでなっている。

 

「拳聖女殿にお褒め頂き、光栄ですよ」

 マァムの言葉を聞き、彼――ジャスティ公爵家の次期当主であるテンデルは、嬉しそうに笑う。

 遠くカールの国にいる優しい師を思い出させる、感じの良い、さっぱりした笑顔だった。

「……色んな孤児院を見学させていただいてますけど、こちらは噂に違わず素晴らしいです。子供たちがこんなに元気で…職員の数も多いし、それに…職工ギルドと提携されていると聞きました」

「ああ、職業訓練のことですか?」

 子供たちに色んな仕事を幼いうちから何度も見せてやり、希望する職が見つかれば徒弟の真似事をさせる。まだ始まったばかりのシステムだ。

「はい。『本当なら、自分の親や住んでいる地域からごく自然に学んでいくことを、院に入ったために失ったとなれば子供たちに申し訳ない』……そう仰ったんでしょう?」

「本当によくご存知ですね、拳聖女殿は!」

 テンデルは少々驚いたようだったが、マァムにしてみれば、孤児院経営に僅かでも関心を持っている者なら、先にあげたテンデルの言葉は有名すぎて、知らない方がおかしいというものだ。

「色んな所で噂になっていますもの。『ジャスティ公爵家の若君』と言えば、他国でも慈善家として有名です。私も子供たちの世話をすることがよくありますから、いつかこちらを見学させていただきたいなと、ずっと思っていたんです。…今日はお招きいただいて、本当にありがとうございます」

 頭を下げるマァム。

 

「慈愛の使徒と呼ばれる貴女にそのように言っていただけるのなら、この院は合格というところでしょうね」

 

 テンデルは柔らかな笑みを浮かべた。横に樹つ大きなケヤキが、風にさわさわと鳴り、木漏れ日が彼の顔に落ちてその笑みを飾る。

 

「私もよく噂を聞きます。アバンの使徒のうち、慈愛の使徒と名高い拳聖女殿は、大魔道士殿とともに各地を巡って恵まれない者に手を差し伸べておられる、と」

 

 薄茶の瞳でマァムを見つめて、テンデルは今度はこちらの番とでも言うように彼女の業績を挙げだした。

 マァムはごく僅かに仰け反った。テンデルの言は、確かにその通りなのかもしれないが、自分たちのやっていることを改めて他人から言われるというのは妙な気分がするものである。

「力なき者たちのために砦を築き、貧しき者たちに薬を分け、子供たちに道を示されている……」

「…………。」

 それはきっと、大戦時の瓦礫を撤去して街の壁を修理するのを手伝った事や、ポップの作った上やくそうをスラム街で格安で提供している事、村の子供たちに絵本を読むついでに簡単な字を教えている事について言っているのだろう――テンデルの雅な表現は、ほんの少し落ち着かない気分をマァムに与えた。

「貴女がそんな風になさっていることに比べれば私がやっている事など、微々たるものだと思います」

「そんな…」

「私に出来るのは、畢竟、事業の一環としての出資――それに尽きますから」

 自嘲するテンデルに、マァムはかぶりを振った。

 

「でも…それで充分じゃないでしょうか?」

 

 彼女から見れば、テンデルの態度は過ぎた謙遜だった。謙虚な態度というのはそれだけで美徳だと彼女は思っているが、それでも目の前の青年が自らを貶すことによって、彼女が高い位置に置かれてしまうのは、気分の良いことではない。

「お金は、無いより有る方が良いに決まっています。それに、テンデルさんは子供たちを援けるのが良いことだと思って出資されてるんでしょう? 貧しい人が全財産をなげうっても自分一人すら救う事が出来ないのに対して、お金持ちがその使い方を正しくわきまえてさえいれば、何千人も救う事が出来ます。それが結局はより多くの人の幸せに繋がるんだと、私は思います」

 テンデルは目を丸くする。次いで、苦笑した。

 

「まいったな…」

「え?」

 

 呟きに首を傾げたマァムに、彼はやはり困ったような笑みを向けた。

「そんな風に言ってもらえるとは、思ってもいませんでした。その…アバンの使徒の方々というのは、金銭に価値を求めない方々なのだろうと……。勝手な思い込みだったようですね」

 すみませんと謝罪されて、今度はマァムが困る番だった。

「あ、あの、すみません…私…余計な事を……」

「とんでもない。嬉しいんですよ。私がやってきたことを肯定してもらえて。…やはり、貴女は……」

 柔らかな風。二人の髪をゆっくりと撫でるようにそれは通り過ぎていく。

 

「私の理想の女性だ」

 

 葉擦れの音が重なったその低い声を、マァムは呆然と聞いた。

 

 

 

 公爵家所有の豪華な馬車に一人腰かけ、マァムは黄昏の空を見つめていた。

 四頭立ての馬車はさすがに速い。景色が飛ぶように過ぎていく。

 高い空を飛ぶ渡り鳥の群れだけが、はっきり見える。きっと今から餌場となる湿原に向かうのだろう。

 

 来る時もロモス王と対面してからの事だったため、この馬車は城下町に迎えに来てくれた。帰りはネイル村まで送ろうと言ってくれたのだが、王城にまだ少し用があると言い訳をしてそこまでの好意は断った。

 城門で待っていれば、恋人が迎えに来てくれるのだという事まで、言えるはずもなかった。

 

(どうしよう……)

 マァムはきゅっと唇を噛んだ。

 テンデルに言われた言葉が頭の中でグルグルと回っている。孤児院の見学のつもりが、まさかあんな事になるだなんて…思ってもみなかった。

 

『私と共に生きて頂けませんか?』

 

 ――それは、プロポーズされたのと同じだった。

 何を言われたのか一瞬ぼんやりとしてしまった彼女の手を、テンデルはそっと握る。

 あたたかく、ソフトな感触の手だった。

 

 大戦後、アバンの使徒は全員公的な立場というものがついて回るようになった。マァムも例外ではなく、それにともない公の場に出ることが多い。テンデルも大貴族の一員である以上、同じ場所でよく彼女を見るようになったのだという。

 けれど、彼がマァムを見初めたのは華やかな舞踏会や園遊会の場ではなかった。

 かつての武術大会の跡地。ひっそりと建てられた石碑の前にたたずむ様子を見たからだ。

 超魔生物の実験体となったものたちの為、そして、灰となって遺体すら残さずに逝った妖魔学士ザムザの為に建てられたそれは、詣でる者もない敵の墓だ。それを前にして一人花を手向けるマァムを見た時、テンデルは心を打たれたのだという。

 

『貴女のように敵に対しても涙を流せる人が共にいて下されば、あの子供たちも喜びます。私では気付かない至らぬ点も、貴女なら改善出来るでしょう。何より…』

 

 馬車が停まった。

 扉を開けてくれた御者に礼を述べ、彼女はロモスの城門前に降り立った。

 夕日に照らされて長く伸びた己の影を踏みながら、門を守る衛士と挨拶を交わし、公爵邸へと戻っていく馬車を見送る。

 

『何より、私が貴女を必要としています』

 

 テンデルの静かな声が、耳の奥で何度も木霊する。

 マァムは溜息をついた。

 テンデルの言葉は、真剣そのものだった。しかも恋人として付き合うという話を通り越して、結婚の申し込みに等しい告白――女の子なら誰でも一度は憧れるシチュエーションだ。まるで自分が絵本の中の姫君になったような気がした。

 それでもマァムは首を横に振った。

 すでに彼女には選んだ相手がいるのだ。大戦を共に闘った大切な仲間であり、今は恋人として共に暮らす男性が。いくらテンデルが真剣でも、二股をかける気が無い以上、断るのが当然だった。

 だというのに――

 

「ごめんな。待ったか、マァム?」

 

 前方から声がした。

「ポップ」

 迎えに来てくれた青年の名を呼び、マァムは微笑んだ。

 衛士らが会釈をするのに、明るく挨拶をするポップ。その横顔を照らす陽の光は、随分と茜色を帯びてきている。うっすらと滲んだ汗が額や首できらきらと光り、彼が先程まで忙しく立ち働いていた事を証明していた。

 少年時代特有の丸みが、ほとんど取れたシャープな輪郭が、夕日に縁どられている。近づいてくる彼の影は大きく、その中にすっぽりとマァムは収まった。

 

『大魔道士殿とお付き合いなされているのは、知っています』

 

「遅くなってごめんな。村で毒消し草を選り分けてたら時間かかっちまって。涼しくなってきたし、おばさんも待ってるから早く帰ろうぜ」

「…ええ。ありがとう」

 にかっと笑う彼に、静かにマァムは頷いた。ポップは僅かに首を傾げる。

「……どうした? 疲れたか?」

 気遣ってくれる言葉に、逆に申し訳なさを感じて、マァムは黙って首を横に振った。

 

『私では駄目ですか? 大魔道士殿と比べて、私には、何が足りないのでしょう?』

『確かにあの方ほどの魔法の才は私にはありません。その点で比べられたのなら、私にはなす術がありません。ですが…』

 

「違うの。そうじゃないわ」

 ――比べたんじゃない。比べたわけじゃなくて…。

「そっか。それならいいんだけどさ」

 安心したように笑うポップに、マァムもにこりとした。

 

『誠実さで彼に負けるつもりはありません』

 

「色々、考えなきゃいけない事が多くて……」

 そっと目を閉じる。

「ああ…今は色々忙しいもんなぁ。手伝える事があったら、言ってくれよ」

 ポップの手から魔法の波動が伝わってくる。ああ、今日はキメラの翼ではないのだ。ぼんやりとそんな事を考える。

「瞬間移動呪文(ルーラ)!」

 

 幾度となく聞いた、ポップの呪文の紡ぎ。行先は、母の待つネイル村。

 …けれど、きっと今日もまた、辿り着くのは森の中だろう。自分たちが初めて出会った、あの思い出の場所。

 マァムは握る手に力を込めた。

 そう、あそこは思い出の場所。どんなに彼が呪文の腕を上げても、これほど時間が経っても、いつもそこに着いてしまう――

 

『私を選んでもらえませんか』

 

 ――帰るべき場所を知っているはずなのに、なのに迷い込んでしまうのだ。果て無き薄暗さを湛えた、あの森の中に。

 

 

 

 

 

(比べたんじゃない。比べたわけじゃなくて…私は……)

 思考はいつもそこで止まる。

 ジャスティ公爵家より帰ってからというもの、テンデルの言葉が脳裏にこびりついて離れなかった。

 

 告白をされてから、早や三週間が経っていた。

 来週にはテンデルの二十歳の誕生パーティーがある。"全ての指を使いきる年齢"は、どの国においてもそれなりに人生の節目と捉えられており、他の年齢の誕生日とは趣が違う。特に貴族社会においては家督相続の目安にもなるため、後継ぎがその年齢を迎えると祝い方は盛大なものとなる。派手なところでは、反目する他家の貴族や有力商人、果ては近隣住民までも屋敷に呼ぶこともあるのだ。

 

 …その日に返事を聞かせてほしいということなのだろう。マァム宛てに招待状が届いていた。

 

 テンデルは決して遊び半分ではなかった。どこまでもその態度は誠実で、瞳に宿る光は真摯だった。

 ならば、断るにしても、単に断るだけとはいくまい。きちんとその理由を伝えねば、彼は引き下がらないだろう。

 そう思い、理由を口にしようとしてはたと気付いたのだ。

 

 ――自分は、何故、ポップを選んだのだろう。

 

 あまりにも今更すぎると、自分でもそう思った。だのに、答えは出なかったのだ。好きだから付き合っている…それは当たり前だ。嫌いなはずがない。けれど、好きである事の明確な理由というものを探せば、それは捉えどころのない、形の無いものだった。

 

「お、いたいた。おーい、マァム!」

 向こうで当のポップが呼ぶのに、マァムははっと身体を揺らした。

「どうしたんだよ? 水遣りはもう終わったんだろ?」

 小走りにやって来るポップ。菜園の水遣りに彼女が出かけたのは既に随分前だった。心配して見に来てくれたのか。

「ご、ごめん。ちょっと考え事してたの」

「…そっか」

 黒い瞳がじっと自分を見つめていた。何もかもを見透かされているような気分になる……そう感じるのは、自分が後ろめたさを覚えているからかもしれない。

 ふとその視線が外れた。ポップは明後日の方向を見ながら、頬をかいていた。

「あぁそうだ。子供らが来てるぞ」

「え? …あ!」

 言われてみれば、今日は絵本を読んであげる約束をしていたのだ。慌てて彼女は立ち上がり、ポップに礼を言って駆け出した。

 ポップは何か言いたそうにしていたが、結局は「急げよ」と小さく笑っただけだった。

 絵本をいい口実に逃げた自覚があるマァムは、だから気付かない。

 その背を見つめていたポップが、ひどく落ち込んだ様子で肩を落とした事に。

 

 

 

 夜。借り物の童話集の中にテーブルに置きっぱなしだった一冊を直しながら、マァムは内心で溜息をつく。

 今日、子供たちにせがまれて読んだ話は、ラストがいわゆる『王子と姫はいつまでも幸せに云々』という話ばかりだった。こういった話の常として、姫君のバリエーションは豊かだが、出てくる貴公子の性格はどの話でも似通っている。

 物腰が優しくハンサム、親切なのに加えて賢明であり、主人公にのみ愛を注いでくれる王子様。

 ……テンデルはまさに、そういう人物なのだろう。

 

『誠実さで彼に負けるつもりはありません』

 

 真摯な瞳で見つめられ、僅かも心が揺れなかったと言えば、嘘になる。

 魔法の才能や、政治力といった事柄で、ポップとテンデルを比べるつもりはない。それは、かつてポップに対しても言ったことだ。彼らしいところを見せてくれればいいと、自分はそう言ったのだから。

 だがそれでは…同じだけの想いを向けられれば、一体何を以て選ぶ理由とするのだろう。

 

 はぁ…と今度は実際に溜息が出る。

 

 そんな事を考えているものだから、ポップに対して普段通りの対応など出来るわけもなかった。よそよそしくオドオドとしていて、挙動不審だろうというのは、自分の事だからよくわかっている。そして、そんな自分にポップが常に何か言いたそうにしているのもわかっていた。

 彼が不審がるのは当然だ。しかし、問い尋ねてくる事はなく、ただいつものように明るく振る舞ってくれる…それが申し訳なかった。

 だが、こんな今更な事を彼に話して相談出来るはずもない。

(私は、ポップの事が好き……)

 今更の、けれど重要な確認。

(なのに、その理由がわからないなんて……)

 言えるわけがない。付き合うまでにも共に旅をした仲だというのに、付き合いだしてからそんな事で迷うなんて。

(私…やっぱり何も変わらないままだったのかしら………)

 レオナに、からかいに見せかけた真剣さでよく指摘されるように、マァムは恋愛というもの…男女の心の機微に疎かった。いまだとて、ぴんと来ない事が多い。個人に対する親愛の情なら、好きか嫌いかではっきりするが、その個人が異性であった場合に、普通なら考える事や思う事が欠落しているのだ。

 ために彼女は完璧な『慈愛の使徒』であれたとも言える。誰か特定の人物に執着する心が強ければ、決してアバンのしるしは光らなかったろう。けれどもそういった性格と言動が、ポップをしたたかに傷つけてきた事を三年前の決戦間近に気付かされた。

 そして今もまた……同じように傷つけている。

 

(ポップは…あんなに私の事を想ってくれてるのに……)

 

 ポップはいつでもマァムを包んでくれる。あたたかく、時に力強く。彼が抱きしめてくれる時以上の安心感は、どこにもない。母親を除けば、この世で唯一と言っていい、マァムが自分らしくあれる居場所だった。

 だが、彼に想われているから自分も愛するというのは…違うだろう。そんなギブ・アンド・テイクが、この想いの正体なのではない。

(…別の人が同じだけの事をしていたら、私はちゃんとポップを選んだの………?)

 ある意味で、それは恐ろしい自問だった。

 彼の事は『特別』だと思っている。親友の為に心を砕くその姿も、新しい薬を作ろうと研究する姿も、時々ふざけながら子供たちの勉強を見てやる姿も、元大魔王と低次元な口喧嘩を繰り広げる姿も、政策と理想との齟齬に苦悩する姿も――全てが愛おしい。

 

 けれど、それらは付き合い始めてから更に気付いた彼の良さだ。

 

 恋人として、パートナーとして選ぶ前から、彼の事は仲間として大好きだったのだ。そう…人として。尊敬する個人として。…男性としてではなく。

 そして、今でもその感覚が強いという自覚があるために、テンデルの告白にも断固とした拒絶が出来なかった。

 いっそ話してしまえばラクなのだろう。告白されたのだとポップに相談する事で、自分がテンデルに対して何の想いも抱いてない事も、ポップにどれだけ重きをおいているのかという事もアピールできるのに。

 マァムは自らの腕を抱き寄せた。ぶるりと頭を一つ振る。

 

(いやだ…こんな事を考えるなんて…)

 

 それはただの逃げだ。相談をする形で、ポップに丸投げしてしまうだけの、狡くてひどく無責任な行為ではないか……!

 頬を紅潮させ、下唇を噛みしめる。己の不甲斐なさに涙が出そうになるのを、彼女はなんとか堪えた。

 泣けば必ずポップは気付く。気付いて、心配してくれて、そうしてその想いに自分は甘えてしまう。彼は悩みの原因を探り当てるだろう。

 その時、どう反応するだろうか。浮ついている自分に怒りを覚えるだろうか。未だにこんな基本的な事で悩んでいる事に落胆するだろうか。それとも、何でもない事のようにカラカラと笑って励まそうとするのだろうか。

 

 ……きっと最後だろう。『ったく、しゃーねーなぁ』…ほら、台詞まで簡単に想像する事ができる。溜息をついて頭を緩く振り、ちょっと困ったように笑いながら『そんなに深く考えるなって』と私の肩を叩いて言うのだ。……他の言葉も感情も、全て笑顔の裏に隠して!

(そんなの…絶対に、駄目よ………)

 自分は彼を選んだのだ。もっと彼に相応しかろう娘がいる事を知りながら。彼が、その娘の想いを知りながら、自分を求め続けてくれたように。

 

 マァムの中には、一人の少女に対して強烈な引け目がある。

 長く美しい黒髪と、同じ色の瞳を持つ清楚な占い師の娘――メルル。

 彼女に対してのコンプレックスは一生拭えないだろう。大戦後の旅を通して、気の置けない仲の良い友人になれたが、同時に彼女はライバルであり、目標でもあった。

 

 メルルは、ポップが好きだった。

 

 メルルのポップへの想いを献身を目の当たりにするたびに、その激しさと強さに圧倒されてきた。

 ポップという男性だけに想いを捧げるメルル…戦う力はなくとも、身を呈して彼を守ろうとし、大魔王戦では心を繋げることさえ出来た彼女に、どうしてこんな、異性としてようやくポップを意識しだしただけの自分が敵うだろうと思った。一人の相手をそれほど強く想える心を持っている彼女に、羨望も覚えた。

 

 だが、そんな少女の想いを知りながらも、ポップは自分への告白は取り消さなかった。自分が、長く待たせた返事を彼にした時、心底からの笑顔で自分を抱きしめてくれた。

 

 嬉しかった。嬉しいと同時に、ポップの手を取った時、嬉しさの中に潜む優越感に気付いて愕然とした覚えがある。大切な友人であるメルルにそんな感情を覚えた自分自身が、ひどく醜くて憤ろしく哀しかった。そして…恐ろしかった。

 何故なら、どれほど己の矮小さを自覚しても、もう自分は選んでしまったのだから。

 それまでの人生で覚えた事がない強い独占欲。初めは小さくとも、今後それはどんどんと大きくなるだけの想いだと理性に拠らずして悟っていた。

 

 理屈ではなく、道理も関係なく、ただ全く感情の範疇にしか存在しない想い。これが恋だと言うのなら、なんと恐ろしいものなのだろう……!

 

 どこかで自分の中の何かが根本的に変わった事を、マァムは感じた。

 自分がポップの手を取れば、メルルがどんなに辛いかなんて考えずともわかることだ。それでも身を引く事をしなかった。ポップに返事をしようと決めた時、最早そんな選択肢は、自分の中のどこにも存在しなかったのだ。

 

(そうよ…しっかり、しなきゃ………)

 

 友人の心を傷つけてでも望んだ関係なのだ。今後もあの可憐な占い師の前に、顔を上げて立ちたいと思うのならば、誤魔化す事は出来ない。自分が何故ポップを選んだのかをはっきりさせねばならない。

 

 自分にとって、他のあらゆる存在と彼がどう違うのか――そこに答えがあると思うからだった。

 

 

 

 

 

 台所の隣、数種類のハーブの匂いが充満している小部屋で、ポップは調合をしていた。

 ここのところ彼は一日の大半をこの部屋で過ごすようになっていた。冬に備えて作っておきたい薬の種類はかなりの数にのぼり、数も大量に必要となるからだった。

 

 と、いうのは確かに理由の一つだったが、彼にとってはもう一つの理由の方がウェイトが大きかったに違いない。勿論、面と向かって言われれば決して認めはしなかっただろう――マァムと顔を会わせづらいなどという事など。

 

 緑色の液体が、眼下でぐるぐると渦を巻いている。

 ゆっくりとしたリズムで、巨大なへらを使い、底が焦げ付いたりしないように攪拌する。熱気も相まって中々の重労働だ。いつもであるならば、その作業を億劫に感じる事もあるのだが、最近は違った。

 単調なその作業は、ポップの心を空っぽにしてくれる。何も考えず、ハーブの清涼な香りを吸い込んで、緑色の渦を見つめることに没頭し続けていたかった。とても無理だという事くらい、わかっていたのだけれど。

 

 この数週間、マァムの様子がおかしい。

 体調が悪いわけではなく、仕事に失敗したわけでもなさそうだった。ロモスに登城した日――その日から、心ここにあらずといった状態で、ぼんやりと何事かを考えている事が多かった。

 三年前から、常に見つめてきた相手の変化だ。しかも、彼女自身も自覚があるとは思うが、マァムは隠し事が出来ない人間だ。余りにもその様子が顕著なので、何度かは声をかけようかと思った事もある。

 ただし、あの状態の彼女に何を訊いても答えてはくれない事がポップにはわかっていた。無理に聞き出そうと思えば出来るだろうけれど、それをするには彼には度胸がなかった。有り体に言えば、怖かったのだ。

(あいつの、あの顔………)

 覚えのある表情だった――どこか夢見心地な瞳も、ほんのりと上気した頬も、どこか不安気で、そのくせひどく幸せそうな雰囲気も。

 

 それは世に言う『恋スル乙女』の顔だった。

 

(相手は、やっぱ…ジャスティ公爵家の…若君って奴なんだろうな……)

 ロモスの仕事帰りには既に考え事をしていたマァムだが、その日は公爵家ゆかりの孤児院を見学していたはずだった。そして、先日、彼女宛てに誕生パーティーの招待状が届いてからは、さらにぼんやりとしている事が多くなっていた。

 この方面に異常に鋭い(マァムに関する事限定でという形容がつくが)彼の勘は、相手の男性をしっかり当てていた。

 ポップはテンデルに会ったことはないが、マァムと同じく子供らの相手を村々でしている以上、彼の業績は聞き及んでいる。孤児院の方針や、訪れた者の感想、テンデル自身の評判……どれをとっても文句のつけようもない、まさに理想の体現だった。

 そんな人物に求愛されれば、どこまでも真っ直ぐなマァムの事だ。心惹かれるのではないだろうか。…惹かれても当然ではないだろうか。

 だとしても、ポップにマァムを責める権利など無い。

 

 ポップ自身がメルルに告白された時、そして大戦後に改めて彼女から好きだと言われた時、非常に揺れたのだから。

 

 メルルはとても良い娘だ。優しいし、所謂ところの女の子らしいし、いざという時の行動力もある。ダイの捜索時には、どれだけ彼女の能力に助けられたかわからない。戦闘が出来ない事で「ポップさん達にばかり戦わせて…」などと申し訳なさそうにする姿はいじらしく、守りたいと自然に思った。

 恩もあり、強い信頼もある。何より――メルルは自分の事を好きだと言ってくれた。

「……………。」

 へらを持つ手に、力が入る。

 自分のような男を愛してくれて、敵の攻撃からは身を呈して庇ってくれて、しかも最後には心で繋がる事まで出来た少女……あの時、彼女からの息も絶え絶えの告白があったからこそ、今の自分がいる。

 あの黒目がちの娘の細い手を取ることも出来たのだろう。そうしたとしても、きっと幸せであったに違いない。

 けれど――

 

(起こらなかった人生を考えたって、無意味だよな…)

 

 ――自分の中での唯一は…変わる事がなかった。

 

 たとえ、想いが届かなかったとしても、自分はマァムを想い続けたのだろう……。そんな仮定もやはりまた、無意味なのだけれど。

 人は『いま』をしか生きられない。同時に二つの道を歩く事は出来ない。

 ならば、マァムはどんな道を選ぶのだろう――願わくは、同じ道を一緒に進みたい。

(俺には、あいつしかいねぇんだから……)

 根性無しの自分を引っ叩いて性根を入れ替えるチャンスをくれた…人生を変えてくれた、恋愛音痴の美しくお転婆な娘。自分は彼女が…。彼女だけを……!

 

 どこかで鳥が啼いた。強く、鋭く。思考の帳が切り裂かれ、ポップは小さく息を吐いた。

 

 

 

 

 

 様々な理由を作って逃げてはいても、同じ家で起居している以上、会わずに済ませられるわけもない。表面上は何も問題が無い振りをしつつ、ギクシャクと更に数日。お互いに作り笑いが実に巧みになったとポップは思う。

 答えを待つのは慣れていた。こうして一緒に住むようになるまでに二年近く。ひと月の期間がどれほどの事だろう…とは言え、『いつかマァムが相談の形で話を振って来るのではないか』『いやそれよりも、いきなり別れ話を切り出されたらどうしよう?!』等々が頭から離れる事はなく、胃に悪い数週間だった。

 最初見えていた、『恋スル乙女』の表情は、もうマァムの顔に浮かぶ事はなかった。自分の勘違いだったのか…? とも思ったけれど、申し訳なさそうにこちらを見る彼女に気付き、更に動揺する羽目になってしまった。

 

 結果、こちらからも何も言いだせず、今日はテンデルとやらの誕生祝賀会――審判の日だ。

 

 大袈裟な言い方だが、ポップにとってはマァムの答えは審判に他ならない。付き合ってから今迄に行ってきた様々な出来事が一晩中頭を駆け巡って一睡も出来なかった。隣のベッドで横になっているマァムを起こして、早く結論を出してくれと言おうかとさえ考えたほどだった。

 

 胃がキリキリと痛い。マァムが知らない男の手を取るかもしれない…そう考えるだけで、叫び出しそうになる。

 

 だが、もっと恐ろしいのは自分の心だった。あの申し訳なさそうな視線の意味を考えて、彼女に振られるかもしれない事を考えて――それが事実になったとしたら? 耐えられるのだろうか、自分は? 可愛さ余って憎さ百倍とならないだろうか? 相手の男にだけでなく、マァムに対してもドロドロした感情をぶつけない保証はどこにもないではないか…!

 深い呼吸を繰り返す。居間のテーブルの上、指を組み合わせていた両手は真っ白だった。

 

(師匠がいたら、杖で殴られるな……)

 

 魔法使いは常にクールであれというのが、大魔道士マトリフの教えの中の基礎であるならば、いまの自分は弟子失格だ。マァムが何を言ってきても笑顔で受け入れよう――そう思い込もうとしても、もうすぐテンデルの誕生祝いの時間だと思えば知らぬうちに拳を作ってしまっている。

 きぃ…

 ドアが鳴った。礼装に着替えたマァムが立っていた。

 

 

 

「…………よぉ。…似合ってるぜ」

 服など全然見てもいないくせに、当たり障りのない賛辞を口にする彼に、マァムは苦く笑った。

 

 ――結局答えは出ていない。

 

 一晩中考えたのだけれど、掴めそうと思っても、するりと手から逃れてしまうのだ。なのに、既に答えが出ているような感覚もあって……わからないまま朝を迎えてしまった。

「一旦、ネイル村に行くんだよな? 馬車を呼んであるんだろ?」

「え…」

「だから、馬車が来るんだろ?」

「あ、う、うん。呼んであるわ」

 再び答えの出ない思考の海に潜りかけていたマァムは、ポップの言葉に慌てて頷いた。さすがに、貴族の会合に徒歩や移動呪文で訪ねる事は出来ないため、ネイル村に馬車を呼んであるのだ。……もう余り時間はない。

「そっか。…じゃあ、遅れないようにしろよ。…ゆっくり、楽しんでこいよな」

 視線を合わそうとしないポップ。彼は、この一カ月の自分をどう見ていたのだろう。鋭いから、問題の一端くらいは当てているのかもしれない。

「……ええ」

 頷いた彼女に、ポップはようやく目を合わせた。見事な作り笑いだった。

 

「テンデルって人に宜しくな」

 

 それきりまたうつむき加減に視線を合わそうとしない彼に、マァムは思わず呼びかけていた。

「ポップ」

 呼んだ彼女が驚くくらいに、ポップは身体を震わせた。

「っ…馬車に遅れるぜ?」

 声から逃げるように彼は踵を返した。実際逃げようとしたのだろう。そのまま錬金釜の部屋に向かおうとするのを、マァムは腕を掴んで引き止める。

「ポップ…答えてほしいの」

 

「あなたは…どうして私が好きになったの?」

 

 

 

 

 

『…どうして私が好きになったの?』

 

 別れ話をされるのではないかとビクビクしていた自分にかけられたのは、意外な問いだった。拍子抜けというのではないが、僅かにも気が抜けたのは事実だ。

(今更、理由なんてな………)

 そんな風にも思うが、改めて尋ねられると、確かにこうだと答えることは難しいのかもしれない。

 

 切っ掛けは何だったのだろう…と、ポップは三年前の己を振り返った。

 あの男勝りの腕力で自分を殴る姿と、包容力のある優しさのギャップに惚れたのだろうか。

 それとも、情けない自分を引っ叩いて、叱りながら正しい道を示してくれるその魂のありように?

 いや、ひょっとしたら単純に、からかい気味に触った身体が男の自分と明らかに違う柔らかさと円やかさを持っていて、脳が痺れたのかもしれない。

 魔の森で? ネイル村で? “おっさん”が攻めてきた時だろうか?

 

 それらは全部真実のようで、けれど全部違う気もした。

 スタート地点はすでに遥か彼方で、どれほど振り返り目を凝らして見つめても、はっきりと見ることは出来ない。

 

 当たり前か。とポップは苦笑した。

 何が理由なのかはわかるはずもない。一体誰が『今から自分はこの相手を好きになる』と決めて恋愛をするというのか。

 それは始めるものではなく、始まってしまうものだ。いつの間にか。気が付いたら相手に惚れてしまっているのだ。

 運命とか定めとかいうものに似ている――ポップは思う。

 選択肢はいくらでもあったはずなのに、自分は数多ある様々な未来の形の中から、この現実に辿り着いたのだから。当時を振り返って、その時々の選択肢を違う方向に辿っていく事は出来るが、何の意味もない。選ばなかった道は起こらなかった事でしかなく、ポップにとって大切なのは、これから先に待つ無数の未来をどう歩いていくかという事だった。…できれば一人ではなく、彼女と共に……。

 

『わからねぇ…。気が付いたら、もう…惚れてたよ、お前に』

 そう答えると、彼女は一瞬目を丸くした。

『気が付いたら……?』

『ああ…お前の事を考えるのが、なんつうか、こう……当たり前になってた』

『…………当たり前に…』

『うん。……マァム?』

 質問の意図を訊こうかと思った時だった。彼女は笑った。

 

『ありがとう、ポップ!』

 

 声をかける間もなく、彼女は外に駆け出し、キメラの翼を放り投げた。

 光の翼の幻影を目の前に見ながら、ポップの網膜に焼き付いているのは、先程の笑顔だった。

 このひと月、一度も見る事のなかった、彼女の心からの笑顔。

 

 寒さを湛える曇天に、光が差したかのような…そんな眩しい笑みだった。

 

 

 

 テーブルに突っ伏した格好で時計の音を聞く。

 今日は子供たちもやってこないし、怪我人や病人も来なかった。窓の外ではそろそろ太陽が傾きだしている。

 何をする気にもならず、ただぼんやりとポップは過ごしていた。

 

 あの笑顔の意味は、何だったのだろう……?

 

 そもそも彼女はどうしてあんな問いをしたのだろう? テンデルの事で色々と考えていたようなのは確実だったが、その事とあの問いにどんな繋がりがあるのだろう?

「……………。」

 わかるはずもない。別々の個体なのだから、自分たちは。……だからこそ出会い、惹かれたのだ。

 

(今頃…テンデルって奴に、返事してんのかな……)

 

 自分の事を抜きに考えれば、彼女が公爵夫人(!)になるというのは誰が聞いても良い話なのだ。事は政治の領域にも属するのだから。

 大戦時の仲間は、世界各国に散らばっている。一人ひとりが一軍に匹敵する力を持っているために、特定の国に固まる事はどの王も歓迎しない事がわかっていたからだ。

 いまは毎年サミットを開く事もあり、国々は相互扶助体制に前向きだ。戦の気配もない。だが、そんな平和な時代がいつまでも続くものでもないのは、少しでも歴史を学べばわかる事だ。人類の歴史は戦いの歴史……相手は異種族だけとは限らない。

 その点、ロモス出身のマァムがロモスの貴族と結ばれれば、何の問題も起こらない。寧ろ国を挙げて寿がれるだろう。

(あいつに…お姫様みたいな暮らしが似あうとは思えねえけどな……)

 息の抜けるような笑いが漏れた。それでも、と思う。

 テンデルの人柄が評判通りなら、きっとマァムを飾りものにはしないだろう。孤児院や養老院を経営しているという話だから、マァムも形はどうあれ関われる。何より、一から土台を築いていかねばならない自分と一緒にいるよりも、公爵家の資産があれば、もっと多くの人々をいますぐにでも救う事が出来るのだから。

(…それを条件に求愛されたとかなら、こっちも気がラクなんだけどなぁ)

 マァムが応えない限り、孤児院の子供たちを見捨てるとでも言うような屑なら、ぶん殴って終わりなのだが、そうではないだろう。旧家の誇りをそういう事で汚すような人間に、ああも立派な経営は出来まい。

 

 ふぅと溜息をつく。もう何度目かわからなかった。

 

 そういう出来た人間ばかりが、マァムの周りに集まるのは、とりもなおさず彼女が良い女だからだ。自分には勿体ない、綺麗な女。…選んでくれた事が嬉しくて、胡坐をかいてはいなかったろうか。彼女の綺麗な栗色の目には、結局のところ自分はどう映っているのだろう。

 どれだけ愛されても、やはり自分はいつもどこか自信がない。

(結局、いつまで経っても俺は、あの時の…魔の森で鼻水垂らしてたガキのままだな……)

 マァムの返事が恐くて、問題を先送りにして目をそむけて――変わらねばならないと誓ったはずだったのに。

 

「なんだそのザマは?」

「うわあ!!?」

 

 いきなり背後からかけられた低い声に、ポップは文字通り飛び上がった。

 バクバクする胸を無意識に押さえ振り向けば、玄関の扉の前に銀髪の魔族が腕を組んでこちらを見ている。

「な…んだバーンか。驚かすなよ! 『ただいま』くらい言えよな!」

「……大なめくじに負けたメタスラの如き空気をまとった奴に、何故律儀に挨拶してやらねばならん」

「は…? え…大なめくじ??」

 冷めた物言いに含まれた魔界風の比喩に、瞬間的な怒りをそがれてしまい表情の選択に困ったポップを尻目に、バーンは荷物を置いた。

 

「マァムはどうした? お前がそういう状態ということは、どうせあれが問題なのだろう?」

 

 天地魔闘の如く、最小限の言葉で的確にして最大限の攻撃である。本人にその気がなくとも、ポップにとっていまマァムの事を言われるのは、痛恨の一撃に等しい。

「……なんで、里に行ってたお前ぇがンな事わかるんだよ…」

「つまり図星というわけか」

 墓穴を掘った大魔道士は、今度こそぐぅの音も出なかった。戦闘ではあれほど怜悧な頭脳を持っているはずなのに、この青臭さはなんなのだ? とは元大魔王の心の声であるが、無論ポップには聞こえない。

 

「パーティーだよ…公爵家の若君の誕生祝い…」

 ぽそりと呟かれた答え。冷たく光る金眼で目の前の青年を見降ろしつつ、バーンはけれど、いつものようにからかって遊ぶ気にはならなかった。何があったのかは知らないが、不安ではち切れそうになっている相手をつついて、爆発されても大変だからだ。

「そうか、なるほど。…昼から行っているとなると、そろそろ散会と言ったところだな」

 窓の向こう、夕日はその傾きを大きくしている。

「そうだな……」

 帰ってくるかな……

 人の耳なら聞こえなかっただろう呟きを、バーンは確かに聞いた。そういう事か、と口角を上げる。喧嘩をしたのか、それとも会場に伊達男でもいるのか……どちらにせよ娘に振られるかもしれない事を気にしているわけだ。

「迎えに行け」

「……は?」

「さっさとマァムを迎えに行ってこい。鬱陶しい男に居られると、空気が悪くなるわ」

「お前な…ここ、俺の家だぞ?」

「ああそのとおりだ。貴様とあの娘が共に築いてきた家だな」

「…………!!」

 息を飲む音に、にやりと笑ってやる。

「行け。留守はしてやる」

 返事はなかった。瞬間移動呪文(ルーラ)の声が、代わりだった。

 

 

 

 

 

 前回と同じように首を横に振った自分に、テンデルは肩を落とした。

「そう、ですか……」

「ごめんなさい…お気持ちはありがたいのですけれど……」

 せっかくの誕生日に笑顔を奪ってしまって申し訳ない気持ちはあるが、仕方のない事だった。

「いえ…考えて頂いての結論なのですから………。マァム殿、」

 顔を上げたテンデルの目には、どこか切羽詰まった光があった。

「教えて下さい。私の…どこがいけなかったのですか?」

 彼の辛そうな目をマァムは正面から受け止める。逸らす事は出来なかった。

 

「……どこも、駄目な箇所なんてありません。ただ、『違う』――それだけです」

 

「え…」

「テンデルさんは、ポップとは違う。それだけの事です」

 言葉にしようとしても、それ以上の表現はなかった。だが、やはりわかりにくいのだろう。テンデルは困惑気味だ。

 マァムは小さく笑う。それは自嘲の笑みだった。昼に、ポップに尋ねた問い――その答えが、自分が答えに至る道を照らしてくれた。

 

「ポップは…色んなものを私にくれました」

 

 思い起こすのは、旅の事。出会ってすぐの出来事から、大戦後にダイを探し世界を巡った、長いけれど凝縮された数年間。

「彼に告白されてから、随分長く時間をかけて、私は返事をしましたけど……」

 その返事をするに至るには、メルルとの三人旅が欠かせなかった。あれがなければ、今のような自分は存在しないのだろう。

 

 いつの間にか気付いた時には自分は変わっていた。それまでの自分には、もう決して戻れない。

 

「長い旅の中で、私は彼から色んなものをもらったんです。絶対に敵わないと嫉妬する事も、人に有るものを自分に無いからといって羨ましがる心も、自分だけが選ばれた事に対する醜い優越感も、誰にも彼を取られたくないと願う浅ましい独占欲も、………彼の手を離したらどうなるのだろうという恐怖も」

 

 広大な庭の片隅、孤児院と同じ立派なケヤキがざわざわと揺れる。多くいた招待客達もほとんどが解散し、残っているのは親族ぐらいなのだろう。閑散とした庭園で、たたずむ二人にオレンジ色の太陽が最後の光を投げかけた。

 

「全部、ポップからもらったんです」

 

 恥じらうように微笑むマァムのその表情を、テンデルは知っている。

 それは『恋スル乙女』の顔だ。

 

「だから…彼はもう、私の一部です。離れる事は、出来ません」

 

 テンデルは頷いた。かけられる言葉は彼の中に存在しなかった。

 残念な結果ではあるが、こうも見事な答えをもらってなお食い下がるほど、男を捨てたつもりはない。

 きっぱりと諦めよう。そう…諦める事が出来る。考えようによっては、貴重な経験だ。

 決してかなわぬ恋――…それを目の当たりにしたのだから。

 

 

 

 

 

 馬車が村に着いた頃には、すでに夜だった。一度母に顔を見せてからキメラの翼を使って戻るつもりで、マァムは家に向かった。

 村の皆はもう誰も外にはいない。家々の中からはたまに声が聞こえるが、広場はしんとしていた。そろそろ夕餉も終わる時間なのだから、そんなものだろう。

 ガサ…という音が、マァムの耳に届いた。

「え?!」

 音が鳴ったのは、森側の道だった。マァムは顔を引き締める。

 家はもう目の前だったが、森の魔物でも入り込んだら大変な事になる。出入り口には聖水がまいてあるから普通は森の魔物程度なら入ってこないのだが……

 だが音の正体は、彼女の想像したどれでもなかった。

 

「マァム…」

「ポッ…プ?」

 

 ポップの様子は酷いものだった。いたるところに土と葉っぱと小枝が引っ掛かっており、服は何箇所か破れている。

「ど、どうしたの?! こんな格好で……怪我は?!」

 大丈夫…と小さく彼は笑った。

「村に行こうと思ってルーラしたらさ、やっぱり失敗して……あの場所じゃなかったんだけど、近くの木に突っ込んだんだ」

 キメラの翼を使えば、よほど目的地のイメージが滅茶苦茶でない限りは無事に運んでくれるのだが、ルーラは術者の魔法力のコントロールが問題になるため色々と難しいと聞く。その説明にマァムは一応納得したが、一つだけ疑問があった。

「あの場所じゃなかったの…?」

 いつもならば、ネイル村をイメージしてルーラを唱えても、ポップは森の中に着地するのだ。あの場所とは、森の中…自分達が初めて出会った場所だった。

「ああ…すぐそこの木だ。随分と村に近くなったぜ」

 にゃははと明るく笑うが、その笑いはすぐにしぼんでしまった。

「………。」

「………。」

 虫の音が響く中、二人はしばらく無言だった。やがてポップが何かを決心したように顔を上げた。

「あの…さ…、パーティーは、どうだった?」

「……豪勢だったわよ。とっても。綺麗なお庭で、テンデルさんに皆で乾杯して、あとは立食だったわ」

 あえて、はぐらかした返事をする。ポップは自分とテンデルの間に、何があったかをわかっているのだろう。けれどそんな風に遠まわしに尋ねられても、先読みしてまで答えたくはなかった。意地が悪いかもしれないが、そういうのは、男の役割ではないかと思うから。

「そうじゃなくて…」

「うん。なぁに?」

 ちょっと傷ついた顔をするポップ。自分を見ようとしない黒い目が一度閉じられ、…次に開いた時にはどこか力が宿っていた。

 

 ポップはマァムに向き直った。

 

「お前は…テンデルを選んだのか?」

 

 真っ直ぐに自分の目を見る黒い瞳。静かな声は少しだけ震えていたけれど。

 マァムは微笑んだ。

「いいえ…選ばなかったわ。ちゃんとお断りしてきたの」

 まるでその答えを吟味しているかのように、ポップが次に言葉を発するまでしばらくの空白があった。そして、その長さに反比例して、反応はとても短かった。「そうか」とただ一言。

 

 隣に腰かける恋人から、安堵した空気が伝わってくる。張り詰めていた空気は、もうどこにもない。

「不安にさせて、ごめんなさい。もう、あなたのお陰で答えは出たから」

「俺の? 答えって…?」

「ちょっとね……。私にとって、とても大切な問題だったの」

「…そ、か」

 ポップの手が、マァムの手を取った。互いにあたたかく…少し荒れた手だった。「なぁ」と彼は言う。

「もし、お前が…また誰か別の男に告白されてもさ……とりあえず……」

 

「俺に……俺にしろよ。俺は…頼りないかもしれないけど、苦労ばっかかけるかもしれないけど…! 絶対にマァムが望む分だけ頑張ってみせるから――」

 

 ――だから、俺にしろよ。

 

「ええ…ありがとう」

 静かで力強い要請に、マァムは頷いた。

 もう自分の中で答えは出ていた。改めてポップが求めてくれたのなら、頷くのに何の躊躇があるだろう。

(それでも『とりあえず』なんてつける辺りが、ポップらしいわね)

 彼の肩に頭をのせて、ふふっと笑う。

 

 きっとこれからも色々と問題はあるのだろう。それでも自分には、とりあえず彼がいる。彼の存在の答えがある。

 それをよすがに、これからも進んでいこう。渡り鳥が決して迷いはしないように、自分ももう、迷う事はない。

 

 

 

 何があろうと、他の全てを取り敢えず、ただあなたと共に。

 

 

 

(終)




アオハルかよ。の一言でまとまるお話でした。
この二人が付き合ってる前提で書いてますと、いずれはマァムがポップを選んだ理由付けにぶつかるので、自分なりに解釈。『慈愛』は難しいです。


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それぞれの平和

サイトとはかなり掲載順が違ってます。
しばらくアニメの方は精神的にキツイ展開が続く時期ですので、重苦しいのは載せたくないし。まあ自分は見れない地域在住ですが(泣)


「……無理だよ」

 

 その声は絶望に満ちていた。

 

「…………諦めんのか?」

 

 うつむく少年に、傍らの青年が尋ねる。

 

「諦めんのか、ダイ?」

 

 重ねて問われ、ぴくりと少年が震える。

 

「でも…オレ…………」

 

 わずかに顔を上げ、自分を見下ろす青年にダイは小さく呟いた。無理だ。自分には無理なんだ、と。

 避けてはいけない事くらい、わかっている。…けれど、出来るわけがなかった。所詮自分には手に余る問題なのだ。

 

 そう言えば、ポップはそうかよと視線を外す。わずかな怒りがその黒い瞳に宿っていたのを、ダイは確かに見たと思った。

 親友でもあるこの兄弟子が、自分に怒ることはまずない。それをわかっているからこそ、ダイは申し訳なさで胸が締め付けられた。

 

 

「………私が代わるわ」

「姫さん!!」

 

 

 二人の様子をじっと見守っていた少女が、ダイの横に移動する。それを見咎めポップが声を上げた。

 

「何考えてんだ?! 姫さんが代わってどうする! これはこいつの問題だろうが!!」

「…っでも!」

 

 怒鳴られ、けれど萎縮せずに少女は青年に喰ってかかった。

 

「もういいじゃない! ダイ君は、もう…充分悩んだわ。苦しんだわ。これ以上は無理させたくないのよ!!」

 

 泣きそうな顔だった。この国の女王として、為政者として常に凛と自らを律している彼女が、こうも感情を出す事など最近では珍しい。

 それだけ、彼女にとってこの少年が大切なのだ。理を曲げてでもダイを守りたい――その大きな愛。

 

「姫さん…」

「レオナ、落ち着いて」

 

 いま一人、同じ部屋でダイを気遣わしげに見ていた女性がそっと立ち上がり、少女の名を呼んで肩を抱いた。

 

「マァム、私は…」

「ええ。落ち着いて、ね…? ポップも……」

 

 優しい瞳に、ちらと振り向かれ、ポップは気まずそうに息を一つ吐いた。

「…ごめん、姫さん。怒鳴って悪かったよ…」

 けど、とポップは言葉を切った。

「ダイがやらなきゃ意味がねぇ…そうだろ? 先生は…先生はお前を信じてこれを託したんだぞ?」

 後半は、横の親友に向けたものだった。

 ダイは顔を上げる。二対の黒い瞳が相対し、視線が互いを射抜くのを、レオナとマァムは息を飲んで見つめた。

 

 ややあってダイは「わかってるんだ…」と小さく呟いた。

 

「先生がオレの為に必要だって言ってたんだ…。……だから、やらなきゃいけないのはわかってるんだよ。でも…でも、どうしたらいいのかわからないんだ!!」

 

 激昂ではない、静かな叫び。

 拳を握り締める今の彼に、勇者としての覇気はない。それは、責務を自覚しながらも、その重さに耐えかねているごく普通の少年の姿だった。

 

 

 

 しばしの沈黙を破ったのは、慈愛の使徒の名に違わぬ、優しさに満ちた声だった。

 

「ねぇ、ダイ…私は昔、アバン先生にこう教わったわ。『負ける時は、全ての力を出し尽くしてから負けなさい』って――」

 

 ――今のあなたには、もう何も残っていないの?

 

 息を飲んでマァムを振り仰いだダイを見て、ポップはやれやれと溜息をつく。

 

「俺も先生にそれ、言われたな。『自分に出来る事の全てをしてから諦めろ』って。ま、俺の場合はちょっとでも厳しい修行になると、すーぐに諦めてたからだけどさ」

 

 ――けど、そうだろ? 諦めたらそれで終わりなんだぜ?

 

「マァム…ポップ……」

「ダイ君」

 そっと、背後からレオナが彼を抱きしめた。金の髪が揺れ、ふわりと甘い香がダイを包んだ。

「レオナ…」

「…二人の言う通りよ。もう少し頑張って。まだ時間はあるんだもの…ダイ君にならきっと出来るわ!」

 

 

 

「……………うん!」

 

 

 

 久しく絶えていた力強い笑みが、少年の顔に戻った。同時に窓から陽が差したのは勿論偶然だったけれど、それはその場の全員の心を表して余りあった。

 

 

 

 ダイは再びペンを取った。

 かつてない『計算式』という名の強敵にも、皆がいればきっと勝てるはず――そんな希望を胸に。

 

 

 

 

 

 

「台詞だけ聞いておれば、とてつもなくシリアスなのだがな……」

 

 分厚いドアを隔てた隣室の会話をそれとなく聞き取っていた元大魔王は、何とも言えぬ気分で呟いた。

 

「は? 何がですか?」

 

 チェスの相手が顔を上げる。度の入っていない伊達眼鏡がきらんと光り、やけに眩しい。

 

「貴様の弟子達の会話だ。ダイが宿題をサボっていたようだな」

「え? そうなんですか? …先週『キチンとやります』って返事してくれたんですけどねぇ」

 バッドですねえとカールの大公は溜息をついた。とは言え、あまり悪く思っていないのはその苦笑でわかる。つまりは、かなりの頻度でダイはアバンの出す宿題をサボっているのだろう。

 

「…あれは、算術が苦手か」

「ええ」

 

 即答か。

 バーンは心の中でつっこんだ。ドアの向こうではまた竜騎士が式のヒントだけでなく答までを大魔道士にねだり、怒られている。

 

 本当にこの調子で今日中にレオナ女王に会えるのか。

 

 『里』への布地の調達に役立つように姫さんに紹介状を書いてもらう――そんな理由でポップに呼ばれ(むしろ呼びつけられ)パプニカに来たまでは良かったが、元々謁見の話をポップ達は通しておらず、飛び込みなのだ。

 もっとも女王と勇者の仲間であり友である大魔道士ポップと拳聖女マァムを追い払う者がパプニカにいるはずもなく、すんなりと城内には通されたが、肝心のレオナ女王は執務時間外の喜ばしい休憩であるにも関わらず、恋人である勇者の勉学につきっきりで、時間まで隣のサロンで待たされる事になったのだった。

 

 ちなみに『時間』とは、勇者がその師であるカール王国の摂政大公殿下に付いて、学問を修める時間の事である。

 パプニカとカールの友好事業の象徴的な事例として双方の民は認識しているが、実際は『勉強の苦手な生徒に、優秀な家庭教師が週に一回読み書き計算を教える』というだけの、どこにでもある時間だ。

 

 それにしても、と元大魔王は盤上を見つめながら脳裏で一人ごちる。まさか彼らと同じ客間で待たされるとは思っていなかった。

 

 侍従にしてみれば、バーンの正体など知らぬし、ポップ・マァムにとってアバンは師なのだからと気を利かせたつもりなのだろうが……アバンが教科書をテーブルに広げて鼻歌を唄い、ダイの護衛としてラーハルトが、レオナの護衛としてヒュンケルが侍している空間に、自分が入った時のあの何とも言えない空気を、他の二人はどう感じたのだろう。

 何の断りもなく、さも当然のように隣室の様子を見に行ったポップとマァムが実に羨ましかった。

 最高潮に達した気まずさの中、目の前の勇者の家庭教師が、どこからともなく携帯のチェス盤を取り出してゲームに誘った時、彼が一も二も無く応じたのは言うまでもない。

 

 

 

 駒を移動させながら、バーンは窓の向こう、青い空を見つめた。

 まったりとしたこの空気は不快ではない。だが……

 

 

 いまのこの雰囲気に、覚えがあることをぼんやりと思い出す。

 

 

 

 ――――――…あんたを見つけた日も、こんな……

 

 

 

 ああ、そうか。

 

 

 いつか、慣れるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 額の傷跡が、わずかに痛んだ。

 

 

 

 

 

 

「…ポップはどうなのだ?」

「ポップですか? そうですねえ…あの子はどちらかというと算術が得意でした。御実家が商売されてるからでしょうかね、計算は結構早いですよ」

「ふん…なら良い」

「は?」

「余を倒した勇者とその相棒が、両者とも阿呆では情けないだろう」

 

 バーンの言葉に、はははと力なくアバンは笑った。

 

「それにしても、よく隣の会話が聞こえますねぇ。さすが魔族、耳がいいんですね」

 

 さりげなく話題を変えて、アバンはドアの脇に立つ青い肌の男に目をやる。

 

「貴方がそわそわしてるのも、それで納得しましたよ」

「…………。」

「心配ですか? 大丈夫ですよ。別に何かの資格を取るための試験ってわけじゃないんですから」

 

 のんびりやっていきましょう。そう言って紅茶を口にし、ソファにもたれ直す。

 

「ん。このお茶美味しいですね! ヒュンケル、ラーハルト、貴方達もどうですか?」

 

「結構だ」

 後者にはあっさりと振られ、アバンは苦笑する。

 本当に愛想の無い青年だ。それでも、年若い主君の師という事で、自分にはそれなりの気を遣ってくれているのは知っている。

 彼の中でまだまだ根深いだろう人間への不信感を、その原因たる彼の過去を考えれば、文句を言える筋合いはない。むしろ返事を返してくれるだけ有難いと思うべきなのだろう。

 

 それでは――ともう一人、同じくドアの側に待機する、こちらは女王の護衛として佩刀した戦士に笑顔を向ける。

「すみません、先生。今の俺は執務中ですから」

 申し訳なさそうに返した青年は、「ただ」と言葉を続けた。

 

「来週は非番なので。その時はお相伴に預かります」

「…そうですか。楽しみにしていますよ」

 

 返事に微妙な間があった事にヒュンケルは気付いただろうか。

 盤上に視線を戻し、アバンは瞳を閉じる―――いま見たばかりの、一番弟子の柔らな笑顔を目蓋の裏に焼付けるために。

 

 

 耳を澄ましてみれば、自分にもかすかに隣室の騒ぎが聞こえた。

 

「ああ、青春ですねぇ」

 

 ぽやーんとした呟きに、バーンが「止めぬのか?」と少々うんざりした表情で聞いてくる。

 

「いいじゃないですか。…あれくらいの歳に、騒げるのは……」

 

 最後の言葉は飲み込んだ。もっとも、何と続けるつもりだったのかはアバン自身にもはっきりわかっていない。

 『羨ましいじゃないですか』と言おうとしたのだろうか。『幸せですよ』と言うつもりだったのだろうか。

 けれど、それは言うべきでないという事だけは、はっきりしていた。

 

 父の仇を討つために、魔王軍で修行を続けていたヒュンケル。

 バランの元で人間への憎しみを募らせてきたラーハルト。

 強さのみが正義である魔界で生き抜いてきたバーン。

 そして…ハドラーと戦うために旅に出た自分。

 

 口に出せば、この部屋にいるもの全員が、幸せではなかったと言うに等しいから。けれども、それは事実かもしれないが真実ではないから。

 

 

 だから口にしたのは、全く別の言葉だった。

 

 

 

 

「……平和な証拠ですよ」

 

 

 

 

 噛み締めるように、その響きを。

 

 

 

 

(終)




『獄炎』が面白いです。ダイ大本編は言わずもがな。いつも思うのは、三条先生の話の組み立てが天才だということと、「先達の歩みを次世代が受け継いでる」ことの尊さです。
後に生まれんものは先を訪え。ですね。


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番外編 お花見(超短編)・指先(短編)

短いのを二つ、上げさせて頂きます。
ポプマは可愛い。初々しい熟年夫婦らしさがいい!!

※『番外編 お花見』は、ダイがまだ帰還していない捜索時にジパングに来た二人を想定して書いております。故に番外編。


『番外編 お花見』

 

 

 

 群生する桜の木々。風が吹けば一斉に花弁が揺れて散るその様は、まるで吹雪のようだ。

 

「…綺麗ね」

 

 他に言いようもなく、月並みな称賛を溜息と共にマァムは漏らした。

 

「ああ…」

 

 足元に寝転がるポップが返事をした。月明かりに照らされるその頬が少し赤い。マァムは横に座ると、恋人の顔を覗き込んだ。

 

「お酒?」

「…社の『講』のおっさん達に振る舞われた」

 

 それきり口を噤む。ああ…ならば今日彼が調べた文献も、ダイには繋がらないのだ。

 かける言葉を探す彼女に、ポップはごろりと横を向いて背を見せた。「なあ」と小さく言う。

 

「このまま時間、止まらねえかな」

 

「え…」

「だってよ…こんなに綺麗なのに、どんどん散っちまうなんて、勿体ねえよ。…いまは、世界中が上手くいってる。先生は結婚した。おっさん達だって式に招かれたし、姫さんも立派な女王様だ」

 

 一気に言い終えて、へへっと漏れた笑いはどこか虚しい。

 

「ポップ…」

「今なら…こんだけ平和なら、あいつ、安心して帰ってこれるだろ…?」

 

 震える肩。そこには、どれだけ探しても親友が見つからないという現実に、進む事を恐れる青年がいた。

 

 マァムは背中に声をかける。

 

「時間を止めたら、明日が来ないわ。―――ダイが帰ってくるかもしれない、『明日』が」

 

 優しくも凛としたその声に、ポップはゆっくりと身体を戻した。

 

「…疲れてるのね。おやすみなさい、ポップ」

 

 ひんやりした手が、腫れぼったい瞼をそっと押さえた。涙の痕を隠そうともせず、うん、と子供のように頷き、ポップは瞳を閉じる。

 

(……ああ…本当に、綺麗だ……)

 

 夢に落ちる直前、最後に彼が見たのは、桜よりもなお鮮やかに艶めくマァムの髪だった。

 

 

(終)

 

 

――――――――――

 

『指先』

 

 

 

 風が吹き、桜色の髪が大きくなぶられる。

 

「…あっ!」

 

 小さく上がった声は、その髪の持ち主である娘のものだった。

 ホットミルクを飲みながら本を読んでいた青年が顔を上げ、「どうしたんだ?」と問うと、彼女は情けなさそうにブラシを置いた。

 青年の黒い瞳が、理解に細められる。

 

「あー…。また失敗したのか」

「……また、とか言わないでよ」

 

 青年が苦笑する。

 ほんの少しからかいも含んだその笑みに、彼女は軽く頬を膨らました。鏡の前に座ってから数分。髪をあげようと頑張っているのだが、どうにも上手くいかない。

 

「長めに揃えてもらったのに…」

 

 軽く溜息をついて、娘は悔しそうに再びブラシを持ち直す。

 彼女は決して不器用ではないが、如何せんその髪は街で切ってもらったばかりだった。昨日までと同じ要領で上げようとしても、何箇所かで指の隙間をすり抜けてしまい上手く仕上がらないのだ。

 

 

 

 

 ぱらり ぱらり―――零れ落ちていく桜色。

 

 

 

 

「………貸してみ」

 

 青年が本を閉じた。

 分厚い魔道書がバフっと重い音を立てるのと同時に、彼は椅子から立ち上がる。そのまま彼は娘の後ろに立ち、ブラシを彼女の手の上からそっと握った。

「え? ちょ…ポップ??」

「いいから。俺がしてやるよ」

 肩を軽く抑えられ、正面を向けられる。

「そんな…いいの?」

「いいの」

「……ありがと」

 

 

 

 鏡を見れば、自分の髪を梳いてくれる彼の、白い手が映っている。

 毛先まで丁寧にブラシがかけられて、一緒に彼の長い指が上下する。

 その動作は、昨日プロにしてもらったそれより、ずっとゆっくりで優しい。そう思うと同時に、何故だか気恥ずかしくなって、俯きかけたが。

「マァム、動くなよ」

 瞬間、制止の声がかかり、彼女はビクッと身体を震わせるにとどまった。

 

 

 どんな顔をして彼がブラシを操っているのかは、角度的に襟元から上が見えず、わからない。

 

 

 普段は長手袋をしている為に、ほとんど日に焼けていない白い手。その長い指が、ピンを持って髪を上げてはとめていく。

 うなじに触れるか触れないかの距離で、器用にうごめく指先。

 

「…上手なのね」

「まぁな。俺は昔っから細かい作業が得意なんだよ――で、だんごにするんか?」

 うんと答えれば、了解と短く返る。

 再び青年が指を動かしだしたのを見て、娘は目を閉じた。

 

 

 

 

「よっしゃ。できたぞ」

 

 

 

 

 数分後、嬉しそうな声で終了を告げられ、鏡の中の自分が思った通りの髪型になっているのを、娘は確認した。

 つむじ近くの毛束にそっと触れれば、今まで自分がやっていたよりも、きっちりとまとまっている。器用なものだ。

 礼を言えば、気にすんなと笑って青年は再び本を手に取った。

 

 その白い手――

 

「……ねぇ、ポップ」

 

 ――それが今日は自分の髪を上げてくれた。

 

「ん? どした?」

 

 読書に戻った恋人を思わず呼んで、娘は少し俯き加減に呟いた。

 

 

 

 

「………明日も、してくれない?」

 

 

 

 

 思いがけない言葉だったろう。きょとんとしていた顔が、ふっと微笑んだ。

 

「いいぜ。俺の手なんかで良ければな」

 

 いつでも使ってくれよ、と彼は笑った。

 

 

 

「ありがとう…!」

 

 

 

 ほのかに顔色をその髪の色に近づけて、娘は嬉しそうに笑った。

 

 

 

 

 風が吹いた。すっきりとしたうなじを撫でていくそれは、暖かい。

 

 めくられる頁を軽く押さえるのは青年の白い指先。

 

 それは、あらゆる場所で、あらゆる人に敬われ畏れられている手だ。

 戦場に於いては世紀の魔法を、今の世に於いては種々の薬を生み出さんとしている、長く繊細な指先――

 

 

 

 ――けれど、その一時だけは彼女の為に。

 

 

(終)

 

 

 




山ノ内はダイ大アニメ2020年版が映らない地域在住ですが、予告くらいはようつべで見ております。
今日の放送(26話)、キツそう…。様々な諸姉諸兄の心を抉りそうですね。バラン編みんなそうだけどさ……。


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最小公約数

ダイとアバン先生のお話。



 コンコン

 

 ドアが軽くノックされ、見事にカールした青い髪と大きな黒ぶち眼鏡を持つ男性が、ひょいと顔を覗かせた。

「アバン先生」

 ダイは笑顔で師の名を呼ぶ。

「こんにちは、ダイ」

 にっこりと優しい笑みを浮かべ、アバンは「さあ今日も頑張りましょう」とダイに席を促した。

 

 この日は、パプニカ王宮の一室で毎週行われている、カール王国との友好事業の日にあたる。

 平たく言えば、『勇者ダイのお勉強の日』である。

 

 今日の授業は最初に政治、次に算術と続いている。カールから持ってきた教科書をテーブルに置き、アバンはダイを振り向いた。

「今日は税の使い道について、でしたね。どうです、ダイ? 予習はしてきましたか?」

 朗らかな声で尋ねるアバンに、ダイは頷いた。教科書を広げながら、彼は少々緊張した面持ちで「あの…」と口を開く。

「予習はしてきたんですけど…先生、オレ、今日は…別の所を教えてほしいんです」

「別の所…ですか?」

 アバンは、思わず聞き返した。用意した本に書いてある順番で教えねばならないという義務は彼にはないため、ダイの提案自体は何ら問題ないのだが、いままでダイがそういった提案をしてきた事が無かったため、少々驚いてしまったのだ。

「駄目…ですか?」

 上目づかいに問われ、慌てて首を振る。

「いえいえ。駄目なんて事はありませんよ。それで、どのページですか?」

 

 ダイが教わりたいと言ったのは、『議会』についてだった。

 

 珍しい事もあるものだ…アバンは内心で独りごちる。

 ダイは政治に関わる事柄が苦手だ。12歳までを人とは違うコミュニティーで育ってきたのだとは思えないほどに社交的な少年だが、それでも社会の仕組みというものにはかなり疎いところがある。人がその生活や関わりを維持するために築いてきたものの集大成が『政治』であるという事も、そのルールや意味を学ぶ事の大切さも、重々承知しているが、煩雑さを覚えるのだろう。

 

 そのダイが自分から政治学の学びたい箇所を指定してくるなど、意外のひと言に尽きる。それでもその驚きをアバンは表には出さずに、ダイの望むままに議会の仕組みと意義を説いた。

 興味を持っているのならば、わかる範囲で徹底的に教えるというのがアバンの教授方法だ。人間、『知りたい』という欲求がある時に学ぶのが最も吸収が早いのだから。

 

(ですが、これは…違いますね……)

 

 アバンの書いた説明を、たどたどしく写すダイ。帳面と黒板を往復する、その視線。

 この日のダイの黒い瞳に宿るものは、「興味」の言葉だけでは足りない事がアバンにはわかった。

 張り詰めた力が宿った視線。勉強にある程度の緊張感は必要だと思うが、そうではない。

(余裕がない…)

 今日のダイには、いつも彼とともにある明るさが欠けていた。

 アバンは3年前を思い出す。

 

 デルムリン島で初めて彼を教えた時、勇者に憧れる12歳の少年の情熱そのままに、剣術への意欲は実に高かった。逆に呪文や一般素養の授業は、ちょっと(という事にしておこう)意欲に欠けるところがあったのをよく覚えている。これは今でもそう変わらない。基本的に、考える事よりも身体を動かして行動する事が好きな子なのだ。

 

 だが、どれほど興味が無くとも、疑問に思っていた事に答えが見つかり、それまで知らなかった事がわかるようになれば、ダイは嬉しそうに笑い、『知る喜び』に屈託ない笑顔を見せてくれて。その喜びに満ちた素直な笑顔が、教える側として、アバンのやる気にも繋がった。

 

 そんな、周囲にも伝わる明るさが、今日のダイには無い。

 

 

「先生、議会って…会派とか党とかがあるでしょう? あれは、何なんですか?」

 議事進行の流れを話していると、ダイが質問した。

「え? ああ…会派ですか」

 アバンは立ち上がり、横にかけられている黒板に「そうですねぇ」とロウ石でいくつかの丸を描いた。

 

 黒板に描いた丸はダイの言った党や会派といった集団を表したつもりだ。その中に適当な単語と数字を書いて見せる。いくつかは、カールやパプニカに実際に存在する会派の名前であり、数字はそれぞれの会派の人数だ。

 

「色々な人が意見を出し合いますが、バラバラに発言するよりも、利益や主張が同じ人がいるならまとまって『これだけ多くの人の意見です』と数を主張した方がいいでしょう? どんな立場の、どれ程の数の人がその意見を持っているかという事も表しやすいですから」

 頷くダイ。その黒い瞳に、いっそうの熱がこもる。

「――時には別々の党同士ががくっついたりもします。こんな風に…」

 二つの丸を更に大きな丸を描いて囲い込む。

「細部では違っていても、大筋で合意出来る意見を持っているのなら、一緒に協力して要求を通す――仲間になるわけですね」

「へえ…仲間かぁ…」

 しみじみとしたその声に、アバンは小さく吹き出した。

「先生?」

「いえ、余りにもしみじみ言うもんですから、可笑しくってね」

 くっくっと喉を鳴らす、アバン。丁度その時、壁に掛けられた大時計が音楽を奏で始めた。

 時刻は丁度15時。授業を始めてからあっという間に90分が経っていた。

「ああ、もうこんな時間だ。休憩にしましょう、ダイ。レオナ陛下もいらっしゃるんじゃないですか?」

 後半の台詞は、少しからかい気味に口にしたつもりだ。

 だが――

 

「今日は…無理なんじゃないかなあ……」

 

 ダイの反応は、静かなものだった。苦いものを飲み込んだような表情と声音は、ますますいつものダイからはあり得ない事だった。

 お茶と焼き菓子を運んできてくれたメイドが退室するのを待って、アバンはダイに尋ねた。

「何か、ありましたか…?」

 

 

 

「…授業の前に、レオナを探してて……」

 ぽつぽつとダイは話し始めた。

 

 パプニカの女王として忙しい日々を送るレオナは、ダイの授業がある日には、いつもならばその前後に執務の休憩時間を設けている。そうしてダイと一緒にお茶を飲んだり庭園を散歩をしたりして、ささやかな心の洗濯をするのだ。

 二人を見守る周囲の面々からすれば、実に微笑ましい恋模様である。もっとも、当事者の片方はその自覚があるのかどうか不明なのが、周囲の新たな悩みの種にもなっているのだが――それはまた別の話である。

 

 レオナに会えるのはダイとて勿論嬉しいし、彼女がどれだけその時間を喜んでくれているのかも知っている。だから今日も、いつもと同じように授業の前にレオナに会ってから教室に行こうと思っていた。

 だが、ダイは、レオナに会うことは叶わなかった。

 彼女は女王として議会に臨んでいたのだ。

 

「オレ、あんな大きな会議は初めて見ました」

 

 通りかかった三賢者の一人アポロに頼んで、こっそりと議会を見学させてもらったという弟子の言葉に、アバンはただ頷いた。

 世界で主要な位置を占める国は、全て王制を敷いているが、いずれも専制的なものではない。議会があり、そこでまとめられた意見を最終的に国王が裁可するという形を取っている。

 だが、女王であるレオナが臨席したということは、先週の議題はかなり重要な案件だったのだろう。アバンもカールの王配である以上、友好国パプニカの動向は逐一チェックしているのだが、特に情報は入ってきていなかった。

「…どんな議案だったのですか?」

 あるいはルール違反かもしれない…そう思いつつも、アバンはダイに尋ねた。

 その問いに、ダイの表情がわずか曇った。

 

 

 

 議会で取り上げられていた案件は、魔族たちに関してだったという。

 

 

 

 現在、どの国も魔族やモンスターの市街への出入りを禁止する法はない。意外な事に思えるかもしれないが、そもそもが魔に属する者たちは人間の街に入る事を好まないのだ。

 人間のように群れて暮らすという事をしない彼らは、人と交流があったとしてもその輪の中に入り込む事を嫌がる傾向にある。かのロン・ベルクが良い例だ。

 また、戦争中ならともかく、現在『敢えて市街地へ入ろうとする魔族・モンスター』というのは、大体において3年前の大戦で名の通っている者ばかりで、これも問題にはならない。彼らは経緯はどうあれ、地上を共に守った仲間なのだから。

 それゆえに、これまでは特に議論もされなかった。

 

「それを…法を以て禁じると?」

 

 アバンは眉を顰めた。

「そういう意味だったと思います。オレ、難しい言葉はあんまりよくわからなかったけど…」

 ダイの答えに、なんてことだ…とアバンは内心で舌打ちをする。そんな案件、ダイの表情が曇るのも当然ではないか。

「提案してたスムグル男爵って人は、『危険な魔族たち』だけを禁止の対象にしてたみたいでした…けど…オレ……」

 何だか…怖くなったんです……。

 ぽつりとダイが呟くのに、アバンは頷いた。

 

「わかりますよ。何を以てして『危険な魔族』に当てはめるのか――いくらでも拡大解釈出来てしまいます」

 

 スムグル男爵という人は、そこまでの意識はないのかもしれないし、防衛意識が高いだけで魔族たちを嫌っているわけではないのかもしれない。だが、一度その法が制定されてしまえば、法の存在を拠り所にして、あらゆる場所で魔族や魔物の排除が始まるだろう。大戦の恐怖はまだ人々の心に新しい。最悪、運用者の胸先三寸で仲間たちとて排除対象にすることもできてしまう。

 残念だが、人間とはそういうものだ。

 実施が可能かどうかはともかくとして、そんな法は自分達が目指す世界から逆行するものだ。

 

 そこまで考え、アバンは下唇を噛んだ。この情報がいままで彼の所に届いていなかったことを思い出したのだ。

 

 彼の元に上がってきたパプニカの情報といえば小麦の値上がりや大教会の司祭が交代したことなどで。それらも勿論重要な知らせではあるけれど、今聞いた話には比べるべくもなかった。

 一般的に、新たな法や条例が布かれるまでには、それに至るまでの問題が多々沸き起こるものだ。男爵がどのような団体の利益代表であるかまではアバンは知らないが、彼の領地内で魔族や魔物による被害でも出たのだろうか――そういった情報の一切がアバンの手元には届いていなかった。

 

 他国の情報を得るために働いてくれている者は、アバン自身が選んだ者達で人柄も経歴も信頼できる。意図的に情報を隠すような者達ではない。

(……単に、私の元にまだ届いていないだけか…それとも…大した情報ではないと判断したのか………)

 考えても今この場では調べようもない事だが、理由が後者であった場合は問題は深刻だ。情報と言うものは玉石混交とは言え、収集する者が情報そのものを軽視していては意味が無い。

 何より、『魔族の締め出し』に繋がる問題を大した問題ではないと考えた結果ならば、その思考が危険なのだ。

 

「…まさか、その案は通りそうなんですか?」

 

 尋ねると、ダイは「わかりません」と頭を振る。授業開始まであまり時間はなかったし、あの場に長くいても、ダイには何を意見する資格もないのだ。

「ダイ…」

 愛弟子の心情を慮って、アバンの胸は痛む。ダイはそう言うが、たとえ何も出来ないのだとしても、結果を見届けたかったに違いない。議院を後にする際の辛さは如何ばかりだったろう。

 

「先生」とダイはうつむき加減だった顔を上げた。

 

「オレ、政治って難しくて…レオナともそんな話は全然したことなかったんですけど……でも、」

 彼はそこで一旦言葉を切った。どういう風に言おうか、逡巡する。

 脳裏に浮かぶのは、男爵の口上を聞くレオナの様子だ。

 奏上される立場にある者として、一切の感情を見せずに、ただ座っていた彼女。

 その白い手は…微かに震えていた。

 

「レオナは、あそこに一人で…。すごく、必死だったから…だから――」

 

「――オレも頑張りたい」

 

 静かで、力強い決意。

 青年期のとば口に差しかかったばかりの、まだ15歳という年齢だというのに……。

「そう…ですか」

 アバンはダイの黒髪を優しく撫でる。知らぬ間にこの弟子もまた大きく成長している。そのことに喜びを覚えながらも、成長を促した原因を思って胸が痛むのは仕方のない事だった。

 

 

 

 

 

 休憩が終わって、二時間目。算術でアバンが教えたのは、『公約数』というものだった。

 二つ以上の整数がある場合、それらを共通して割ることのできる数のことで、その最大のものを最大公約数という。

 ちなみに、これはダイが望んだ授業というわけではなく、単純に、教科書の掲載順である。

 

 求め方を習ったダイは、アバンが黒板に書いた問題に奮闘していた。アバンにしてみれば、これは割り算と同時に掛け算のおさらいにもなるので、ダイの算術レベルには丁度良いのだ。

「えーっと…」

 がしがしと頭をかきながら、ダイは小さな公約数を掛けていく。数多ある数値を順々に選び、丸で囲んで、掛け合わせた数値がごちゃごちゃにならぬように線で結んだりしながら。

 3年前ならば四則計算自体が危うかったことを考えると、ダイは本当によく頑張っているだろう。たとえ好きな分野の事柄であっても、年単位の空白があれば遅れを取り戻すのは難しい。ましてやダイは算術が好きではないのだ。しかし…

 

(頑張ってくれるのは、とても嬉しいんですが……)

 

 切っ掛けになった決意の重さを考えると、手放しでは喜べないというのがアバンの感想だ。

 だからといって、いつまでも無邪気な子供のままでいてほしいとも思わない。本人の意志に関係なく、ダイの立場というものは政治的に常に不安定なのだから。

 ふとダイの視線が黒板から外れて窓に向けられる。

 よく磨かれたガラスの向こう、白亜の城に添うように建つ赤レンガの建物は、議院だった。ステンドグラスが輝くその中で、いまどのような話が交わされているのか――それを知る術は、師弟どちらも持たない。

 

 先の時間にあんな話をした手前、二人の中から、いま行われているだろう会議のことが消えるはずもなかった。

 

 授業が終わってから何と言ってダイを励まそうか…アバンがそんな事を考え出した時だ。

「あ…」

 ダイが小さな声を上げた。

「どうしました、ダイ?」

 ことさら明るい声音で、アバンは問いかける。彼に向き直ると、ダイは「ほら」と黒板を指さした。

「先生、ほら、これって似てませんか?」

 

 黒板には、アバンが書いた問題と、ダイが書いた、お世辞にも綺麗とは言えない数字がいくつも書かれている。

 首を傾げるアバンに、丸で囲まれ、あるいは他の数同士を掛け合わせて出来た公約数の図を指しながら、

「さっき、先生が書いてくれた、会派の図!」

 小さな発見に、ダイはちらと笑顔を見せた。

「なるほど、確かに…」

「ね。似てるでしょ、先生」

 アバンも薄く笑う。それは先程の授業で、彼がダイにわかるように描いた会派の図によく似ていた。

 

 小さな公約数を沢山掛け合わせて求められる、最大公約数。

 小さな会派同士が手を取り合って出来上がる、最大会派。

 

 ダイは、己が導き出した公約数を小さい順から眺め、最大公約数の所で視線を留めた。見る間に笑顔がしぼむ。

「…あの意見に、何人くらいが賛成するんでしょう?」

 ぽつりと少年は呟いた。

 

 

 

 最大公約数に代表される大きな数――有力な会派があって、その他にもいくつもの小さな数の集まりがあって……。

 時に彼らは、他と手を結んで大きな勢力になり、自分達に共通の主張を通そうとする。

 

 ならば、数こそが力だ。

 

 より多くの者を幸せにするために、より多くの者が主張した意見が通る。多を取り寡を捨てる事で、問題を解決していくのだ。

 算術の式と違うのは、割り切れない想いを抱えつつも進んでいくという事……かもしれない。

 そうやって人の世界は『答え』を出していく。

 

 今回の会議で出される答えは、なんだろう? 正解するのは、自分たち? スムグル男爵? それとももっと別の人たちだろうか?

「ダイ…」

 人が支配する地上では、魔族や知恵ある魔物たちより人間の数が多いのは道理で。

「人間以外、必要ないって考える人の方が…ずっと……多いんじゃないでしょうか」

 たとえどんなにレオナが反対したとしても、会議の流れは変わるものだろうか。彼女も人間の国の女王として、守らねばならないルールがあるのだ。

 

「そうですね…。確かに、あなたの心配は当たるかもしれません」

 アバンの低い声は、他の一切の音を消すかと思えた。

「先生…」

「国王の役目は国の指針を決める事――レオナ陛下が我がカールや他の主要国との協調を重んじておられる以上は、そういった法案が通るかどうかは五分五分ですが…」

 

 例えば、ロモスでは魔王軍の被害があったにもかかわらず、その将であったクロコダインが街の復興を手伝い、シナナ王自らが敬すべき敵将として彼を賞したという事例もあるため、人と魔との友好ムードがかなり高い。また、深き森の王国テランなどは、そもそもが信仰の対象が人の神ではないのに加え、ダイという存在そのものを神聖視している感がある。

 

「でも…」

「ええ。それでも、賛成多数となった場合は、魔族の締め出しは可とされるでしょうね…」

 それがパプニカの法である限りは、元首である女王がルールを破るわけにはいかないだろう。レオナは…レオナだからこそ、法を遵守せねばならない。

「そう…です、よね」

 ダイは項垂れた。師の言葉は自分の不安を的確に言い当てる。結果を見たわけでもないのに、不安だけがどんどんと胸中で育っていくのが止められない。

 勉強すればするほど、さまざまな事を知れば知るほど、難しい問題が見えてくる。その問題は、人が出してきた『答え』の積み重ねだ。

 

 かつて大魔王と闘った時よりも、重圧感は上かもしれなかった。戦い方もわからず、高く厚い壁の前で、立ち尽くすしかないのではないだろうか。

 指の先から力という力が抜けそうな気分に陥りかけた、その時だった。

 

「ですが、それが何だと言うのです?」

 

 涼やかな声だった。

 顔を上げれば、師が、眼鏡を拭きながら口元に笑みを浮かべるのが見えた。

 眼鏡を掛け直し、アバンはダイの両肩に手を置いた。

「ダイ、どうしたんです? あなたらしくもなく、委縮しちゃってますね」

 苦笑する師に、ダイは何か言おうと思うのだが、言葉がなかった。委縮――そうかもしれない。先の会議を見た時から、自分は何かに呑まれてしまっているのかも。

「自分が立ち向かうモノの強大さが見えて、竦んじゃいましたか? レオナを助けて、背負ってるモノを一緒に荷って歩むって決めたんでしょう?」

「あ…先生、オレ…」

 綺麗なブラウンの瞳が、伊達眼鏡の奥ですうっと細まった。

「いいですか、ダイ」

 

「人が出す『答え』は、必ずしも『正解』ではないんですよ」

 

 広い王宮の一室。白い壁に囲まれた静謐な二人だけの部屋で、それはとてもよく響いた。

 くすりと微笑んで、肩から話した左手の人差し指を振り、勇者の家庭教師は語る。

「考えてもごらんなさい。百年…いや、五十年…二十年間でもいい。たったそれだけの間に作られて、現在では運用されなくなった法や制度なんて、山ほどあるんです。廃止されたり付帯事項がくっついたりして、どんどん変わっていった――」

「…はい」

「――さて…それらは何故、変わっていったんでしょうね、ダイ?」

 問いを振られ、ダイは一瞬身体を揺らした。そして、アバンの言わんとする事を了解して息を飲んだ。

 

「わかるでしょう。『良くしたいと思ったから』です」

 

「良くしたい…から……」

「ええ。本当に『正解』なら、直しようもないでしょう? ですが、そうじゃない。どんなに多くの人が望んだ事であっても――」

 ――変えていけます。

 静かで、だからこそ力強い言葉だった。

 

 簡単なことではないだろう。それがわかっていても、師の言葉は救いであり、希望であり、ダイの心に喝を入れてくれた。

「仮令、今回その法が成立したとしても、変えましょう。何度でも何度でも。挫けずに、諦めずに……」

 ダイを見つめるアバンの瞳が、不敵に瞬いた。

「勇者は、諦めないものですよ?」

 

 

 

 時間になり、アバンが帰ったあとの部屋で、ダイは黒板を眺めていた。

 ロウ石で書いた、自分の汚い数字に混じって、先生がチェックした綺麗な文字が躍っている。

 公約数を書いていくという問題は、掛け算・割り算が苦手な自分には難しかった。それでも良い線いってるだろうと思っていたのだが……結局、どの問題もOKはもらえなかったのだ。しかも全部、同じ間違いをおかしていた。

 ぽり、と頬をかく。苦笑する声が脳裏に蘇った。

 

「忘れちゃ駄目ですよ、ダイ?」

「どうしたって、大きな数に目がいっちゃいますけどね――『1』を忘れちゃいけません」

 

「どんなに大きな数字でも、『1』が集まって形作るのですから……か」

 口調を真似して呟く。大きく温かい手が頭を撫でてくれた感触まで蘇ってきそうだ。

 

 そうだ。忘れてはいけない。

 自分はこの地上が好きで、ずっとここにいたいと望んだ。家族や友がいる地上で、生きる事を選んだのだ。

 

 最小の存在、最小の意見――『1』は、ダイ自身だ。

 

 そうして、同じ世界を望んでくれる仲間がいる。少しずつ少しずつその輪は広がる。広げられるのだと知っている。

『1』が『2』になり、『5』になるように。決して世界を割り切る事は出来ないのだとしても。

 

「……ゼロじゃない」

 

 丁寧に黒板を消しながら、ふと、窓の向こうに目をやる。

 夕陽に照らされて、燃えるように緋く染まって見える議院。

 もう議会は終わった頃だろう。ならば自分は……、結果を聞きに行くべきだ。

「レオナ……」

 この国の柱たる娘の名を、唇に乗せる。

 彼女もまた、同じ『1』だ。

 

 待っててくれよ。オレ、頑張るから。何度でも、諦めないから。

 オレ、勇者だもん。もう忘れないから。

 

 

(終)




 この勇者と大勇者の場合、
「私が治める国があるのだとすれば、自分で探しに行きたいのです」
 とはならないのが好きです。入り婿さんの御立場って、古今東西けっこうなご苦労があると思うので頑張れ、ダイ、先生。
 舅さんが既にいないのも共通点。考えると、先生は元カールの騎士団員だから剣はフローラ様の父王に捧げていただろうし、ダイのところにアバン先生を勇者の家庭教師として派遣要請をしたのは、レオナの父王なんだよねえ。…どちらももう他界。どこにも書かれないけど結構人は死んでるんですよね、ダイ大は。


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美醜 ①

ヒュンケルとエイミの話です。

エイミさん結構好きです。

原作では、突然の告白に読者が置いてきぼりをくらったものですが、キャラクター個々にはそれに至るまでの歴史があるはずなので、その辺りを勝手に色々想像して書いてみました。


 真上には、冴え冴えとした光を放つ月。

 鎌のように細い月でも、雲一つなく澄みきった夜空にはまた眩しい。か細い銀月の代わりを務めるように、星々もまた互いが競うように光を地上に投げかけている。

 涼やかな光がゴツゴツした岩肌を照らす。下の方には緑もあるが、いまこの場所には視界を遮るものは何もない。遥か南西を見下ろせばパプニカの王城を要として都が広がっているのが一望できた。

「綺麗ね…」

 エイミはぽつりと呟いた。

 月光に照らされる都は、城は……綺麗だった。よく見ればまだまだ瓦礫が放置された場所も見つかるのはわかっているし、破壊の爪痕生々しい箇所もあるのは知っている。それでも、噴煙の一本も上がっていない。悲鳴の一つも聞こえはしない。―――三年前からの死に物狂いの復興。エイミの主君とエイミ達自身の努力の結晶。それが着々と実を結ぼうとしているこの光景が美しくなくてなんだろう。

 

 じゃりじゃりと小さな音がエイミの方に近づいてきた。それは一度止まり、すぐに間隔を短くして鳴りだした。

 名を呼ばれる前に、彼女は音の主に振り向く。同時に、頭上の月と同じ色の髪を持つ男が、彼女の視界に入った。

「エイミ…!」

 驚いたような、僅かに呆れたような声で、彼はエイミを呼んだ。

「何故ここに?! まさか、ずっと…?」

「ええ。貴方がここに残ったと聞いたから、迎えに来たのよ…ヒュンケル」

 相手の困惑などお構いなしに、エイミは穏やかに笑って「捜索隊の者に聞いたの」と告げた。

「坊やが気にしていたわ」

「……そうか」

 かすかに瞠目し、ヒュンケルは頷いた。苦笑に似た表情になる。

 ヒュンケルは数刻前に救出した子供―――ルースの負けん気の強い顔を思い出した。

 捜索隊の者から聞いて、ルースは、誰が己を助けたのかを知ったのだろう。

 

 フレイザードによってマグマに呑まれた地底魔城。しかし、元々が死火山だったところを無理やり起こされた―――フレイザードの言い方を借りれば「活」を入れたということだったが―――ため、結局噴火はすぐに収まり、溶岩も大した量は流れず、すぐに冷えて固まった。

 そのため、城の全てが溶岩に埋もれたわけではなく、無事な箇所もかなり残っている。特に、かつての闘技場の上階席からは比較的自由に内部に出入りが可能なので、今では山の獣や弱いモンスター、時には盗賊などが棲みつく場所になっていた。

元々が前大戦の頃に魔王ハドラーの根城だった場所である。しかも三年前は不死騎団の魔物…つまりアンデッド系モンスターの住処となっていたため、誰からも恐れられている場所だ。普段は近づく者とてない。

 

 だが今日は違った。

 

 剣の修行だと言って、周りが止めるのも聞かずに闘技場から入っていった少年がいたのだ。

 

「怒って…いただろうな……」

 正体を明かせば、少年はきっと、意地でも自分の手は取ってはくれなかっただろう。何とか発見したものの、あのまま闇雲に進めば、通路に仕掛けられている罠がまだ活きているかもしれない状況―――実際に幾つかは作動して、ヒュンケルがルースを見つけたのは落とし穴の先だったのだ―――では危険極まりない。そう思い、単に『捜索隊の者だ』としか名乗らなかった自分の判断は間違いではなかったと思っている。

 

 けれど―――

 

 迷子になった事の恥ずかしさを誤魔化すためか、ルースという少年はよく喋った。

 曰く、いつも剣の鍛練をしているという事。大戦でパプニカの兵士であった父親を喪ったという事。腕試しのために噂に聞く地底魔城の魔物を倒しに来たのだという事。

 

 いつか、父の仇である元魔王軍不死騎団長ヒュンケルを斃したいのだという事………。

 

 ―――告げるべきだったのかもしれない。

 

 地上に出てからでは、他の面々もいる。あの子の恨みを晴らさせてやる為には魔城内で名乗るべきだったろう。けれど、それを考えるたびにヒュンケルの中で制止の声が掛った。

 

 あんたの番で、鎖を斬ってくれ

 

 ―――それは、以前、弟弟子に言われた言葉だ。

 

 憎しみの連鎖をこれ以上繋げさせるな……その言葉はヒュンケルに大きな感銘を与えた。

 自分の事を、復讐されるべき、討たれるべき存在だと考える意識が消えたわけではない。それでも、少なくとも、生きている事にも意義があるのだと思えるようになったのだ。

 だが、そんなヒュンケルの心情をルース少年が理解する義理も義務もないのも確かだ。己を助けに来てくれた、やたらと迷宮に詳しい兵士の正体が、実は斃すべき仇だったと知れば、少年の気分が良かろうはずもない。

 

 怨まれている事を恐れて名乗ることもしない卑怯者だと考えたかもしれない。あるいは、己の恨みを無視する…他人の痛みを理解できない男だとも。

 

「……あの子は、何か…言っていたか?」

 しばしの沈黙のあと、ヒュンケルはエイミに問う。彼女は先程から変わらぬ笑みのまま、頷いた。

「『ありがとう』」

「…え?」

 耳を打った短い言葉は、余りにも予想とは違っていた。反射的に訊き返した彼に、エイミの微笑は深くなる。

「『助けてくれてありがとう』って貴方に伝えてほしい。そう言われたわ」

「……まさか」

 信じられない。

「あら、本当よ」

 ヒュンケルの心の声が聞こえたかのようにエイミは告げ、立ち尽くす彼に、さあ、と声をかけ、防寒用のマントを渡した。

「もう遅いわ。帰りましょう、ヒュンケル」

「あ、ああ…………」

 促されるままにヒュンケルは頷き、マントを羽織った。

 

 いくら鍛えた身体とはいえ、夜のこんな高地では寒さが堪える。乾いた風を孕んで、二人のマントが大きく膨らんだ。

 エイミはマントを手繰り寄せて身を窄め、ヒュンケルの横に並んだ。彼女がポケットからキメラの翼を取り出すのが見えた。使用すれば瞬く間に望んだ場所へと連れて行ってくれる魔法の道具だ。

 細く白い手がヒュンケルの肩に置かれた。だが、エイミが翼を放り上げる前に、ヒュンケルはその動作を片手をわずかに上げる事で制止した。

 

「ヒュンケル?」

「…すまん、エイミ。俺は…まだ少し、ここにいようと思う」

 迎えに来てくれた彼女の厚意を無駄にするのを申し訳なく感じつつも、思わず止めてしまっていた。

「どうしたの? まだ、何か調べないといけない事があるの?」

 訝しげに問われ、答えに窮する。言われてみれば、地底魔城に残る理由を捜索隊の者たちに話す時、「まだ作動する罠があってはいけないから調べようと思う」というような事を告げた事を思い出す。勿論それは、ルースから離れるための言い訳だったが、一応は尤もな理由なので、皆納得してくれたのだ。

 

 エイミが大きな瞳でじっと見つめてくる。ここで「そうだ」と答えれば、彼女は「手伝うわ」とでも言うのだろう。言い訳に巻き込むのは本意ではない。

「いや…」

 彼女に嘘は吐きたくはない。それに、こういう時は彼女に嘘が通じないのもわかっている。もう長い付き合いだ。

「そうじゃないんだ…。その…すぐに街に戻るというのは、どうにも違う気がしてな……」

 説明が難しい。もとから口下手なのは自覚があるが、こういう感覚的なことを他人に話した経験などほとんど無い。

 エイミの表情は変わらない。不思議そうにするわけでも、不審げに眉を顰めるわけでもない。

 

「すまない…上手く説明が出来ない。……朝までには、歩いて帰れるだろうと思う」

 

 明日も城での仕事がある。エイミも同様だ。それを考えれば、深夜までこんな所にいるのは間違っているだろうことはわかっている。時間を有効に使うには、キメラの翼でもルーラでも何でも良いから活用して、さっさと帰宅すべきなのだ。

 だが、いまはそれが嫌だった。…そう、嫌なのだ。別にその移動法に含む処があるわけではない。ただ単に、目の前の風景が一瞬にして移り変わるというのを想像すると、いまこの時に限ってどうにも抵抗を覚えるのだ。こんな意味のわからない我儘など、説明のしようがない。

 少ない語彙しか持たぬ身でどう表現すべきか迷っているヒュンケルに、エイミは小さく笑って点頭した。

 

「わかったわ。なら私も残ります」

 

 目を大きく見開いたヒュンケルが何か言い出すのを制するように、エイミは続ける。

「せっかく迎えに来たんだもの。貴方の気が済むまで一緒にいます。それに、あっという間に帰ってしまうと、ちょっと勿体無いわ。こんなに綺麗なんだもの」

 綺麗? 何の事かと思えば、エイミは視線を外し、前を見た。つられてそちらを見る。

 

 果ての無い世界があった。

 

 眼下にはパプニカ王城を臨む街。彼方に広がる海は黒く、空との境を無くして星々を映している。鏡映しになった無数の星と細い月が作り出す、柔らかな蒼い夜の世界。

 広大なパノラマ。見えていたはずなのに気付いていなかったその光景に、ヒュンケルは一瞬息を詰まらせた。

 

「ね。綺麗でしょう? キメラの翼を使って帰ってしまうと、この感動が此処に置いてけぼりになってしまうわね」

 朗らかに笑うエイミの言葉に、ヒュンケルは素直に頷いた。感動が置いてけぼりになる……なるほど、自分が感じていた抵抗も、そうなのかもしれない、と。

 もっとも、彼が置いて行きそうになると感じたのは目の前の美しい光景への感動ではない。

 再生する街に目を向けながら、背中を振り返りたいと言う衝動を堪える。

 

 エイミのいる場で、振り向くべきではない。

 置き去ってしまうと感じたのは、断絶してしまうのは、先程まで訪れていた地底魔城―――その空気への思慕なのだから。

 

 

 

 エイミは、愛しい男の乏しい表情の下で、どんな思いが渦巻いているのか想像していた。

 捜索隊にヒュンケルが加わったと聞いて、彼女は、救助対象がどんな子供なのか調べたのだ。孤児院の子だと言うなら、今現在、院に入っている子供のほとんどは戦災孤児だ。そこに、いくら地底魔城の地理に詳しいとは言え、ヒュンケルが行く事には抵抗を覚えたのだ。止められることではないにしても。

 

 もう戦の終結から3年が経つ。だが、まだたったの3年でしか経っていないとも言える。人々の中には、魔王軍の将だったヒュンケルを深く憎む者も、まだまだ多くいるのだ。

 ルース少年も、その一人だった。

 常日頃から剣の鍛練をし、その事を褒められれば、「父親の仇を討つためだ」と口癖のように返す子だという情報を耳にして、エイミは、心に不安の黒雲が湧き立つのを止められなかった。

 

 ヒュンケルがそんな情報を事前に得ていたのかどうかは知らないが、今の反応を見れば、きっと彼はルースの境遇は知っているのだろう。知っているからこその苦笑であり、問いなのだ。

 少年が無事に救助されたという事と、ヒュンケルがすぐに地底魔城の探索に取って返したとの知らせを聞いて、エイミは孤児院に帰ったルースを訪ねた。二人とも無事なようで何よりだったが、何かしらの問題が起こっていないかとの心配は当然のものだった。

 だが、そんな心配は、実際に少年に会ってみて、朝日の前の夜霧のように霧散した。

 

『助けてくれて、ありがとうって…伝えてもらえませんか……?』

 

 ヒュンケルの正体を知ってなお、少年が礼を言うなど、誰も想像すらしていなかったに違いない。実際に、孤児院の院長や子供たちは驚いて顔を見合わせていた。

 だが、ルースの瞳に嘘はなかった。怒りはあったかもしれない…それでも、憎しみや恨みといった冥いものには翳っていなかった。彼はぽつりと呟いた。

 

『ああいう人なんですね…』

 

 ぽつりと呟かれたルースの言葉に、エイミは静かに頷いた。

 

 ルースはヒュンケルに『何か』を見たのだ。それはきっと―――

 

 

 

 風の届かない岩陰に腰をおろして、二人はただ静かに座っている。

 エイミからルースのことを聞いても、ヒュンケルは何も言わない。ただそれは、何も思わないという事ではないというのを彼女は知っている。

 僅かに瞳を泳がせ伏し目がちになる…そんな、困惑する男の表情を見つつ、エイミは尋ねる。

「ねえ、ヒュンケル。地底魔城であの子とどんな話をしたの?」

「話?」

「ええ。何も話さなかったわけではないんでしょう? 入ってから救出まで一時間はかかったって聞いたもの」

「それはまあ、そうだが。何も大したことは話していないぞ。城の中に住む魔物達のことくらいだ」

 素っ気ない答えはいつもの事だ。

 

 大戦後、エイミはヒュンケルに付いて旅をした。求められての事ではない。ヒュンケルが同行者として頼みにしていたのは半魔の戦士ラーハルトであって、エイミはただの押し掛けでしかなかった。

 元々魔王軍の超竜軍団に属していたというラーハルトは、戦いを通してヒュンケルと互いを認め合ったのだ。その関わりを証明するように、いざ戦闘となった時に彼らは実に息の合ったコンビだった。エイミが役に立つ事などほとんど無かったと言っていい。

 それでも彼らはエイミを邪険には扱わなかった。そのうちに時折、補助呪文で戦闘の援護をし、人里での情報収集を多く担当するというような形で彼女は二人の旅に受け入れられ、打ち解けていったのだ。

 

「魔物達の話? あの子に? 興味があるわ。教えてくれないかしら?」

 放っておけば必要最小限のことしか喋らない二人との旅の間、エイミはいつも話題を探しては話しかけた。黙っていられるだけでは場が持たないというのもあったし、親睦を深めたいというのも勿論だった。だが、一番の理由は、単に知りたかったからなのかもしれない。

 

 人間を憎んで魔王軍に属し、祖国を壊滅状態にした…そしてその後は地上を救うために全身全霊を捧げた男が、何を考え何を想うのかを。

 

 

 

 不思議な女だ―――心中で独りごちる。

 それは、ヒュンケルがエイミによく思う事だった。

 いつも親しく話しかけてくる彼女は、ヒュンケルにとっては不思議な存在だ。

 好意を持ってくれている事は、直接告げられた事もあるから当然知っている。だが、その理由が理解できないため、不思議としか言いようがない。

 

 愛している―――そう告げられ、もう戦わないでと懇願された。もう三年も前の、大魔王軍との戦いも終わりに近づいていた頃の話だ。恋愛感情というものを、まさか自分が向けられることがあるなどとは、ついぞ思っていなかった。

 

 ましてや、エイミはパプニカの人間なのだ。

 

 自分が一度滅ぼした…滅ぼしかけた国の人間。そんな彼女が、仇敵である自分に恋愛感情を抱くというのが理解できない。そして、自分にその想いを受け取る資格があるはずもない。

 今もこうして、ルースに喋った事を訊かれるままに答えてはいるが、魔物たちの生態などを聞いてもエイミには面白い事など何も無いだろう。むしろ、魔物について詳しい自分に忌々しさを感じるのではないかと思う。なのに彼女は熱心に聞くのだ。

 目許が柔らかな弧を描いて、紅を薄く入れた唇が時折ほころぶ。それは、彼女がいつもよく見せてくれる笑顔だ。

 受け入れてくれているという嬉しさや、ありがたさを覚えると同時に、何故そんなにも好意を持ってくれるのだろう、との問いも浮かぶ。自分は元は敵だったのに。何故、赦してくれるのだ。自分は罪人だというのに。

 

 あのルース少年が自分に礼を言っていたというのも信じられない。いや、エイミが嘘を言っているとは思わないが、それでも、少年が自分に対して礼を述べる筋合いなどないだろうに。

 肉親を奪われた辛さと悲しみは、知っている。そして、その仇が、大手を振って生きている事に対する、恨めしさと憎悪も。

 

 奇しくも、ルース少年が喪ったのも父親だ。そう、まるで…昔の自分の再来ではないか。アバンを憎み続けた3年前までの自分の………

 

「ヒュンケル?」

 エイミの呼ぶ声が、意識を現実に引き戻した。

「あ…すまない。どこまで話したかな」

「………。坊やが引っ掛かった落とし穴は、貴方も知っている仕掛けだった。って…」

 僅かな躊躇いが瞳に浮かんでいたが、彼女は何も触れなかった。

「ああ…そうだったな。…あの子が落ちていたのは、旧魔王軍の時代からの仕掛けだったんだ」

 もう20年以上も昔の、幼い頃の記憶に心が飛ぶ。ヒュンケルは遠い目をした。

 




続きはまた後程。


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美醜 ②

ヒュンケルの贖罪とは、結局どういう風に生きるかという事に集約されるんだと思います。
誰でもそうなんでしょうけども。

……需要があるのだろうか。これ。結局重たい話をUPしていますね。すみません。


  ☆☆☆

 

 身体が痛い。気付いて最初に思ったのはその事だった。そうしてすぐに、ハッと周りを見回した。

 知らない場所だ。

「ここ…どこ…?」

 小さな問いに答えてくれる声など、当然存在しなかった。

 起き上がろうとすると、身体の下でカシャリと乾いた音が聞こえた。暗闇でも利く瞳は、自分が大事に抱えていた紙工作の潰れて埃まみれになった哀れな姿を認め、涙を盛り上がらせる。

 

 いつものように部屋にいたヒュンケルは、遊びに夢中になっていた。随分上手く使えるようになってきたハサミで色んな形を作っていた彼は、ふと思いついて『お父さん』の剣の鞘を飾るために綺麗な紙で星や月を模した飾りを沢山作った。

 明るいランプに照らされて、金紙や銀紙で作ったそれらは、キラキラと光った。太陽の下に出る事はあるものの、あの眩しい光より、夜に外に連れて行ってもらった時に見た月や星の方が、闇に慣れたヒュンケルには好ましいものだった。作り上げた飾りは会心の出来。にこにこと満足気にそれを見て、ヒュンケルは、「これなら、お父さんのかっこいい剣を、もっともっとかっこよくしてくれる」と思った。

 脳裏に浮かぶのは、絵本で見た『星屑の剣』。お父さんがわるいてきをやっつけるときには、ぼくがつくったこのおほしさまが、お父さんの剣で光るんだ…!

 

 お父さんは、きっとこのかざりをよろこんでくれる。鞘や、ろっ骨や、くびの骨をかざってあげるんだ。そしたら、きっとお父さんは、いまよりももっとりっぱでかっこよくなって、まおーさまだって、みんなだって、お父さんのことを「ものずきな騎士」なんて、いわなくなる。「さすがまおーぐん1の騎士バルトスだ!」ってほめるだろう。

 そしたら、ぼくもほめてもらえるかな? 「ニンゲンのこども」なんてなまえじゃなくて、「バルトスのむすこのヒュンケル」っていってもらえるかな? そしたら、お父さんは、ぼくのことを、「まおーぐんのいちいん」としてなかまにいれてくれるよね?

 

 見せに行こう―――幼子ならではの純粋さと短絡さが、そんな結論を出すのはごく自然なことだった。

 部屋を飛び出して、いつも父親が仕事をするという『地上』へ、ヒュンケルは向かった。逸る気持ちのまま、暗い廊下を走る。時折すれ違う魔物達が、驚いてこちらを見るのも構わずに、紙飾りを抱きしめながら一路父親を目指して。

 けれど、何度か角を曲がった時、ふと違和感を覚えてヒュンケルは立ち止まる。似ているが知っている景色ではないような気がして……しかし戻るのが惜しかった。結果、早く父親に会いたい一心で幼いヒュンケルはそのまま進んだ。

 足下が沈んだ。奇妙な浮遊感を感じたのは一瞬のことだった。

 

 落とし穴の中は、真っ暗だった。天井の穴は既に塞がっており、明かりは一条たりとも差し込むことはない。こういった洞窟の落とし穴は、くまなく歩き回れば脱出の手段を見つけられるようになっている事が多い―――設置者が誤って落ちる場合もあるからだろう―――のだが、そのような冒険者や洞窟探索マニアのみに通じる暗黙のルールを、幼い子供が知っているわけもない。ヒュンケルは途方に暮れてその場に座り込んだ。

 

 ヒュンケルや。部屋の外をうろついてはいけない。知っている場所以外は行ってはいけないよ。さもなければ、帰ってこられなくなる。広いお城の中で、人間はお前一人なのだから……

 

 いつもいつも聞かされていたお父さんの言いつけを、破ってしまった……父の声が脳裏に蘇り、ヒュンケルの胸がきゅうっとなった。

「お父さん…」

 返るはずのないいらえ。しん、とした空間にいくつかの気配はあるが、それは父親とは全く別の魔物のものばかり。

 ふよふよと浮かびながらメーダが前を横切っていった。大きな目玉がじろりとヒュンケルを睨み、興味がないとばかりについと逸らされる。ドラキーの羽音が微かに聞こえ、スライムが不思議そうにこちらを見つめる。その都度、ヒュンケルは声を掛けようとして逃げられてしまった。

 父バルトスが人間の子供を育てているという事を知っているからか、はたまた父の匂いがするからか、ヒュンケルに襲いかかって来る魔物はいないが、誰もが遠巻きに自分を見ているだけなのをヒュンケルは感じていた。膝小僧を強く抱え込む。挫いた足が痛むが、慣れているはずの暗闇が今は怖かった。このまま真っ暗な闇に包まれて、自分の存在が誰からも隠されてしまうような、絶対的な恐怖。

 喚きたいのに、喉が痺れてしまったように声が出ない。心臓の音がしじまの世界にうるさいほど響いて聞こえる。ヒュンケルはただ震えてしゃくり上げるだけだった。

 いつしか喉の奥がかさかさして、鼻の奥が痛くなって、涙すらも出なくなって。考えるのは父の事ばかり。

 

 お父さん、たすけて。お父さん、はやくきて。ぎゅってだきしめて。お父さん、ぼくをよんで。ヒュンケルってよんで。お父さん。お父さん。お父さん。

 お父さん……!!

 

「ヒュンケル!!!」

 光が差した。

 もう聞くはずもないと思っていた優しい声で自分の名を呼ばれ、ヒュンケルは声の主を見上げた。

「ヒュンケル! おお…おお…生きていてくれたか!! 良かった。ありがとう…!!」

 天井からの光を背負うようにして、父バルトスが目の前に降りてきた。六本の腕がヒュンケルを壊れ物のように優しく抱き上げる。

「ぉと…さん」

 枯れたはずの声が微かに出た。父の白くて綺麗な骨を小さい手で懸命に握りしめて、ヒュンケルは父親の顔を見た。この世の全ての優しさと力強さを以て、安心を与えてくれるその白い顔。

 落ち窪んだ眼窩の闇の向こうに、微笑みを見つけた瞬間、張り詰めていたものが緩み、ヒュンケルは深い眠りに落ちた。

 

   ☆☆☆

 

「古い話だ…」

 微苦笑を浮かべて話すヒュンケルの横顔を、エイミは見つめた。

 いままで、こんな風に彼が昔の事を話してくれる事など無かったから、一種の感動があった。

 

「父が助けに来てくれたのは、落ちてから数時間ほどしてからだったらしい。スライムかリカントか…誰かが父に知らせてくれたようだった」

 積極的には助けてくれなかったが、皆、俺のことを気にはかけていてくれていたよ―――と懐かしそうに呟く。浮かぶのは柔らかい笑み。

 ああ、とエイミは思う。きっとこの笑みをアバンの使徒たちならば何度も目にしているのだろう。

「…お父様が来てくれて、本当に良かったわね」

 地底魔城に住んでいた事は知っている。「地獄の騎士」とさえ言われる骸骨剣士の中でも最上位の騎士に拾われて育てられたという事も。けれど―――

「ああ。父はあの頃の俺にとって、誰よりも強くて、誰よりも偉い…世界の全てだったからな……」

 幼子にとって、親とは世界そのものだ。無条件に甘えられる存在。庇護してくれる、愛してくれる存在。ヒュンケルと地獄の騎士バルトスの関係も、何ら違いはない。人間と魔族という違いなど何の障害にもならないのだ。

 ―――ヒュンケルにとって、あの地底魔城は故郷なのだとエイミは改めて思い知った。愛してくれた家族、見守ってくれた周りの者達…そうでない者の存在は無視しえないとしても、彼にとっての家は、あの暗くて静かな地下世界なのだ、と。

 

 ならば…幼いヒュンケルがアバン様を憎むのも、当然だったのだろう。とエイミは、現在カールにいるヒュンケルの師の穏やかな顔を思い浮かべた。

 聞いた話では、ヒュンケルの父親を殺したのは、上司である当時の魔王、ハドラーだったらしい。父親は勇者アバンと闘い敗北したが殺されはしなかった。負けを認めて守っていた地獄門を勇者に通過させ、ために魔王の怒りを買って「処分」されたのだ。その事実を知らなかったヒュンケルは、勇者アバンを父の仇と憎み、彼が守った人間社会全てにその怒りを向けた……

 思いを馳せる彼女の耳に、ヒュンケルの自嘲に満ちた声が届く。

 

「あの子にも、きっとそうだったんだろう……結局…俺は、また…繋げてしまった………」

「……繋げる?」

「…以前、ポップに言われた。『憎しみの連鎖』を俺の番で斬れと。だが、今更だな…とうに連ねてしまった」

 

 柔らかさはそのままに、口調は己に向けた嘲りと怒りと蔑みに満ちていた。その視線の先にあるのは何だろうか。過去の自分か、それとも今日助けたルースの姿か。

 ヒュンケルという名の鎖の輪に連なった、続きの輪は多すぎた。ルース少年はその内の一つだ―――けれども、

 

『助けてくれて、ありがとうって…伝えてもらえませんか……?』

 

 ―――けれども、少なくともルースの輪から次は、きっともう繋がる事はない。

 

「…解けて落ちる鎖だってあるわ」

 ぽつりとエイミは呟いた。

 その言葉にヒュンケルは驚いたように彼女を見た。思いがけない事を言われた―――そんな表情だった。

 

 

 

「今日の坊や―――ルース君みたいに、貴方への憎しみを捨てる人だっているのよ、ヒュンケル」

 エイミはヒュンケルに微笑んだ。対するヒュンケルは戸惑いを隠せないでいる。いつも冷静な彼のそんな表情は、エイミにとってとても新鮮なもので、けれどもその苦悩は、間断なく見続けてきたものだ。

「そんな事は…あの子が俺を許すなど、あり得ないだろう」

 言葉を選ぶように、ゆっくりと、ヒュンケルは呟く。その呻くような低い声にエイミは痛みを覚えた。

 

 『俺を許すなど、あり得ないだろう』というその言葉は、自嘲と共に彼を切り刻む刃に等しい。本当は許されたいと願っているのに、その願いを持つ事さえもヒュンケル自身が断罪する。そうして益々彼は罪を増やし、救われるべきでない罪人として罰を望まれるのだ―――彼自身に。

 ヒュンケルの存在を知り、その正体を知った時から、エイミは彼を目で追うようになっていた。だから知っている。彼がいつも悩み苦しんで、己を責め続けている事を。

 

 彼は故国を壊滅させた人物であり、敵であった人間なのだと……わかっている。

 国民の多くが不死の軍団に殺され、美しかった街並みは瓦礫の山と化した。戦の陣頭に立った先王は、三年を経ても未だ遺体すら見つからぬままだ。

 当時の事を思い出せば、記憶の大半は紅に染まっている。その中でも、パプニカ城陥落の時の事は一際鮮やかだ。

 

 レオナ姫を守って城から脱出する際、振り向いたエイミが見たのは、炎に呑まれる街。そして、死霊の群れの中にあって彼らを指揮する、唯一の生者だった。何故だか、遠目に鮮やかな銀の髪が目に入ったその時、「敵の指揮官は人間のようだ」という情報があった事を思い出し、彼がそうなのだと直感した。

 

(どうして?! どうして人間が魔王軍に与するの?! どうして私たちと同じ人間が、魔物に味方をして私たちを襲うの?!)

 

 怒りと疑問ではち切れそうになりながら、エイミは走った。悲鳴を乗せて自分を追いかけてくる風を、ただひたすらに背に受けて振り切るように。

 

 紅蓮の思い出に、拳を作る。そうして、その原因となった男の苦悩に沈む横顔を見、エイミは視線を地に落とした。

 ヒュンケルは悲劇を生みだした人間だ。パプニカの民にとって、憎んで当然の相手だ。罵って当然の人間だ。

 けれど―――憎む()()相手では…ない。

 

「あり得なくはないでしょう…。貴方が憎しみを捨てたように」

 返事はなかった。静かに息を飲む音が横で聞こえただけだった。

「ね、ヒュンケル。貴方はどうしてアバン様を許せたの?」

 あえて軽い声音を作って問う。

 ヒュンケルはどこか困ったように顔を歪めた。彼にとって楽しい質問であるはずがないので当然だろう。

「どうしてと言われてもな……。先生は父の仇ではなかった。マァムが魂の貝殻で父の遺言を…」

「知ってるわ。でも、それはマァムが偶然、魂の貝殻を手に入れて貴方に渡してくれたからわかった事でしょう?」

 眉を僅かに顰めた彼は、怪訝な表情だ。何が言いたいのか? と無言で問うてくる。

「お父様の死の真相を知らないままなら、貴方はずっとアバン様を憎んで、その弟子のダイ君たちを恨み続けたの?」

「っ! それは…」

 違う―――と言いかけて、ヒュンケルは固まった。

 

 

 どうしたの? エイミの瞳はそう問うている。

 答えられずにヒュンケルは言葉を探すが、そもそもが、何故答えられないのかがわからなかった。

 三年前のダイたちとの闘いがヒュンケルの脳裏に蘇り、エイミの問いを反芻する。

 あの時、マァムが魂の貝殻を自分に渡して、父バルトスの遺言を聞かせてくれなかったら……どうしていたのだろう。

 

 ダイとポップを手に掛けて、勇者アバンを超えたと、父の仇を討てたと満足したのだろうか。

 

 想像し、すぐに否定する。

 その瞬間は満足しても、きっと後悔に似た気分に襲われたはずだ。

 何故なら、自分は復讐のために師事しながら、心の奥底ではアバンを先生として慕っていたのだから。

 

「違うのでしょう? アバン様を貴方がずっと憎み続けるだけだなんて、想像できないもの…」

「…ああ」

 

 エイミの確信に満ちた言葉に、ヒュンケルはただ頷いた。

 彼女の言いたい事が何となくわかった。

 自分がアバン先生を父親の仇として憎むだけでなく、いつしか慕っていたように、パプニカの民も自分の事をただ憎むばかりではないのだ、と……

 

 そうなのかもしれない。だが、嬉しさに似た感情が湧きあがるのをヒュンケルは抑え込んだ。仮令そうだとしても―――

 

「だが、先生は正義の為に戦ったのだ。俺は、そうではない」

 憎しみの為に戦い、憎しみの為に破壊して殺した。それが許されるはずはないのだ。

 

「―――パプニカの民は、自分が、八つ当たりで殺したのだから」

 




次回で『美醜』は完結します。

……こういうの需要あるのかなあと思っても、誰にも聞けないからわからないんですよね。
まあ、好きな事を書いて、同好の士が見つかれば御の字というのが同人といふもの。とわかっちゃいるのですが。


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美醜 ③

美醜3話目。ヒュンケルとエイミの話、これにて完結です。


 ヒュンケルの言葉にエイミは痛ましげに眼を伏せる。

 己が憎しみによって大勢の人を殺したという事実から、ヒュンケルは決して逃げようとはしない。パプニカの民に怨まれることや怒りを向けられることを、当然だと受け止めている。彼の中で、己の所業に対して許しを乞うなど、あり得ない事なのだろう。

 

 その姿勢は、エイミにとって「パプニカを襲撃した魔王軍不死騎団長」への怒りを増させるものではなかった。

 

 誰とて程度の差はあれど、罪を犯したならば言い訳をしたり、その罪に走った理由を正当化する心が働くものだ。けれどヒュンケルにはそれがない。城や街の、ヒュンケルを受け入れている者は皆、彼への怨みを捨てた理由として彼のその態度を挙げる。

 けれど、とエイミは思う。

 

 許されるはずがない―――その言葉。許されるという事を頑なに否定する彼の、心の叫びが聞こえた気がした。

 

 そう。ヒュンケルは、自身を『許されてはいけない存在だ』と思っているのだ。

 違うのに。そうではないのに。

 思いきり首を振って、否定できるものならしたかった。だが、エイミ自身にも説明が難しいものを、感情のままに伝えて届くはずがない。想いのうねりに翻弄されぬよう、彼女は自らの言葉を探した。

 

「…貴方の言いたいことは、わかるわ」

 

 小さな肯定。

「パプニカの民は、二度の大戦で魔王軍に大勢殺された。私だって正直、魔王軍は恐ろしいし、憎いわ…」

 今度はヒュンケルが頷く番だった。

「それが当然だろう。むしろ―――」

 俺には不思議だ。そう続けたヒュンケルの顔は、困ったように笑っていた。

「え?」

「君が…俺を好いてくれるということが、不思議なんだ」

「……それは」

 

「俺は、パプニカを滅ぼした男だ。アバン先生が俺を導いてくれたような…そういった恩など、俺と君との間にはないだろう。だと言うのに…」

 何故なんだ? と真っ直ぐに尋ねられる。エイミはヒュンケルの逸らされる事のない視線に、ドキリと胸が鳴ったのを感じた。

 理由を問われたが、答えの一つは先程も考えた事だ。ヒュンケルの罪を自覚し静かに向き合う真摯な態度…そこから積み重なった様々な出来事が好意を抱かせたのだ、と。そう答えれば彼は納得するだろうか。

 

 いや…と自答が返る。尋ねられ答えを返す…それだけでは、ヒュンケルが納得しても、エイミの目指すものには届かない。

 

 いい加減な言葉で返す事は出来ない。もとよりそんなつもりは無いとしても、この、憎悪の何たるかを知っている男の前では、全てを曝け出すべきなのだろうと、彼女は覚悟を決めた。

 

 ふ、と息を一つ吐く。

 

「そうねぇ…きっかけは、顔、かしら」

 苦笑しつつエイミは答えた。

「初めて貴方の顔をハッキリと見たとき、驚いたのよ……物凄い美形なんだもの」

「そ…そうか……」

 懐かしそうに目を細める彼女の様子に、ヒュンケルは思わず知らず、己の頬に手をやった。

 

 自身が女性に好まれる容姿をしている事は、ヒュンケルは一応自覚がある(弟弟子が自分につっかかるときは、必ず容姿にも文句をつけるためだ)のだが、それを武器にして女性の心を得ようとしたことは一度もなく、エイミにそんな風に言われると反応に困ってしまう。

 

 だが、困っているのはヒュンケルだけではなかった。

「貴方は、あまりにも恰好よくて…想像とまったく違っていたわ」

 エイミの苦笑が深くなった。

 

「きっと、『魔王軍についていた人間』なんて、悪魔のような容姿だと思っていたんですもの」

 

 彼女は俯き、小さく「ごめんなさい」と呟いた。

 ヒュンケルはやはり困惑で固まったままだった。彼女の謝罪の示すところが、あまりにも重かったからだ。

 

 

 

 エイミの脳裏で、大戦からの記憶がいくつも現れては消える……。

 

 魔物などという存在を消し去ってやりたいと、何度考えたかしれない。悲鳴と恐怖と絶望に包まれた真紅の王都は、決して夢でもなんでもなく、三年前の現実だ。避難が済んだ後、行った偵察で、焼跡をうろついている魔物たちを怒りにまかせて殺したのは、一度や二度のことではなかった。

 

 あの死霊の群れを指揮していた男―――人間だというなら、人類に対しての裏切り者として、いつか必ず一矢報いてやりたいと、願っていた。

 

「姫さまが、しょっちゅうダイ君の事を仰ってたけど、それは『聖なる島』の話だからだって思っていたわ」

 

 どこかで、自分とは関わりがない事だと思っていたのだろう。人は人。魔物は魔物。混ざり合う事などあるはずがなく、心を通わせる事など夢物語だと。

 そんな魔物に味方をする人間は、きっと残忍で卑劣で、堕落した存在なのだと―――それこそ伝説に言う悪魔のような醜悪な人物なのだと思っていた。無論、強くそう考えていたわけではないが、当時を振り返ってみれば、漠然とそう思い込んでいたのだとわかる。

 

「『フレイザードの元から姫さまを救い出してくれた勇者の一行』の剣士が、魔王軍の不死騎団長で…その人が自分を裁けと姫さまに言った時はショックだったわ……」

 様々な事が、余りにも想像と違っていた。

 

 魔王軍の将として魔物に味方した男が、高潔な魂の持ち主だったことも。

 そもそも彼は人間を裏切ったのではなく、人間に殺された父親への愛のために魔に属したのだという事実も。

 

 冷たい風に前髪がそよぐ。座り込んだままの身体は冷え切っているはずなのに、声には熱がこもっていた。

 

「憎んでた相手のはずの貴方が、どんな人間なのか、あの時見てしまったから…」

 

 取りも直さず、それは自分の中でヒュンケルが、『魔王軍の不死騎団長』という『仇』から、『ヒュンケル』という名の人間に変わった瞬間だったのだろう。

 そして……自分が衝撃を受けた理由を考えざるをえなくなった瞬間でもあった。

 

「さっき貴方の、顔のこと、ね…言ったけど……『どうして人間を裏切って魔王軍に入ってたのに普通の顔をしてるのかしら』って思ったのよ……。可笑しいでしょ? だったら私は貴方の容姿に何を求めてたのかしらね?」

 苦笑が漏れる。黙って聞いてくれるヒュンケルの表情は変わらない。

「姫さまの前で貴方が裁きを受けると言った時、本当に悔いているんだっていうのがわかって…その事だってショックだったわ。真っ当な、そうあるべき態度なのに。じゃあ私は貴方がどんな態度なら当然だと思ってたんだろう……って」

 醜悪で、人間を見下して、殺戮に罪悪感など感じず、けれど自身の命には執着する男―――それが『魔王軍の不死騎団長』に自分が期待していた人物像なのだと思い至った時、より以上の衝撃をエイミは覚えた。

 自分がヒュンケルに感じていたのは、故郷を破壊された者としての正当な怒りだったはずなのに。なのに、これは何だ?! 憎み、蔑みたかっただけではなかったか…?!

 

 裏切り者を裁くのだと、思っていたのに。

 正義が邪悪を討つのだと、考えていたのに。

 なのに、彼をこのまま憎むのは、彼がパプニカにした事を肯定する事になるのではないだろうか………?

 

 ヒュンケルを認めたくはないと思っていても、頻繁に耳に入って来るのは、勇者一行の中での彼の目覚ましい活躍だった。圧倒的な強さで敵を蹴散らしていくという武勇伝だけではなく、命懸けで仲間を救った話や、魔王軍の知己との訣別も聞いた。

 

 そうして時折姿を見せれば、彼はいつも陰にいた。会議などには顔を見せるものの、それ以外の時は可能な限り目立たぬように…人目に触れぬようにしているのがわかった。

 

 あれだけ華々しい戦果をあげながら、誇る事もなく、驕る事もなく、それどころか『アバンの使徒としての功績』だけを残して、自身の存在を消そうとしているかのようで。

 

(そうだ…。私は、そんなヒュンケルが居た堪れなかった……)

 

 功績をふりかざし、声高に権利を主張されれば反発しただろう。だが、実際には彼は与えるばかりで何も受け取ろうとはしなかった。人々に希望や未来への展望を与えてくれる立役者。だと言うのに、人々の中に彼自身は勘定に入っていなかった。

 

 違う、と思った。それでは駄目だ、と。

 

 それでは駄目なのに。償うというのなら、その償いを認める者がいなければ駄目なのよ、ヒュンケル。貴方は『裏切り者』じゃない『人間』なのよ!

 

 

 私は見ているから。私はアバンの使徒じゃないけれど。パプニカの人間だけれど。いいえ、パプニカの人間だからこそ。貴方がどんなに必死に償おうとしているのかを、ちゃんと見ているし、認めているから……!!

 

 

 記憶の海から意識を浮上させ、顔を上げれば、銀月と同じ輝きで彩られた秀麗な顔がエイミを見つめていた。

 綺麗な顔だわ…と、ふと思う。この顔が、以前は人間への憎しみに歪んでいたのかと考え、どんな風だったのかを彼女は想像した。

 そして答えはすぐに出た。怒りのままに魔物を屠った、当時の自身の表情が浮かんだからだ。思い出すだに酷い翳をまとわりつかせていた…。

 頭を一つ振る。

 

「色々…本当に色んなことを考えたわ。姫さまの出した答えを奉じつつ、怒りのままに貴方を刺したいって思ったことも一再じゃない。今だって、あの頃を思い出せば貴方を詰りたくなる。でも、最前線で身体を張って私たちの矛となっている人にする事じゃないって思って、悩んで、いつからか…私は貴方を目で追うようになっていたの」

 

 ずっと見てきた。パプニカの人間だからこそ。

 そうして…政に携わる者として、あの若き女王を補佐する者として、公正であることが求められる身であれば、あとはもう気持ちを整理するまで早かった。

 

 人類が争うのは魔物相手だけではない。同じ人間の治める他国に攻められ蹂躙されたとしても、外交の一環なのだ―――互いの利益の為に暴力を以て語り合う最悪の形ではあるが。

 その敵国の武将が、今度は味方し、囚われた主君を救い出すために手を貸してくれた……ヒュンケルの事はそういう解釈になる。彼だけでなく、クロコダインやラーハルト、ヒムといった嘗て魔王軍にいた者で後に勇者ダイに味方した者全てが、公的にはそう位置づけられているのだ。

 

 ―――身に受けた不幸も悲しみも怒りも、どこかの時点で受け入れなければ、相手を滅ぼしつくすまで終わらない。

 

 ならばどうする?

 

「人だとか魔だとかを取っ払ってしまうと、貴方自身に怒りは感じても、憎しみはもう…湧かなかったわ」

 

 『魔王軍の不死騎団長』でも『裏切り者』でもなく、彼をヒュンケルという個人として認識したその時に、どこか心がラクになった…。思い返せばそういう事なのだろう。

 

 あるいは疲れたのかもしれない…とエイミは思う。どれほどヒュンケルを憎んでも、喪われた者は返らない。仇討ちをしたとして、満足するのは自分の心だけだ。そうして、ヒュンケルの生い立ちを知り、彼の、身命を顧みずに敵軍から民を守る姿を見れば、嫌い続ける事も難しかった。ましてや、それらを肯定すれば、次に堕ちるのは自分であることをエイミは理性に拠らず悟っていた。

 

 

 

「そう…か……」

 初めて話されたエイミの心の変遷に、ヒュンケルは小さく点頭した。

「エイミ、君は…凄いな。俺と同じ所に嵌り込まなかった」

 全ての『人間』を『父親の仇』と見做してしまったヒュンケルは、人間を憎み蔑むための理由を探していた。誰もが持っているだろう弱さを悪意を以て解釈し、受けた優しさを偽善と断じようとした…その自覚がある。

 

「どうかしらね…私だって、あの時、大切な人がたった一人で、殺されてしまったのなら、貴方と同じように憎しみに狂っていたかもしれないわ」

 彼女の声には苦みがあった。憎み怨むという感情が、どれだけ負の力に満ちているかをお互いが知っているという事実が、妙な共感に繋がっていた。

 

 大切な人―――父バルトスの事を、彼女にああも話したのは先刻が初めての事だ。以前から知ってはいたのだろうが、こう極自然に受け容れてくれているのを見ると、不思議な感じだった。人と魔という違いを見ずに、地獄の騎士である父の事を語ってくれる人間は少ない。まして、エイミはパプニカの民だというのに。

 

「……ありがとう」

「え?」

「父の事を、そんな風にちゃんと見てくれて…俺が父を慕っている事も否定せずにいてくれて、感謝する」

「ヒュンケル…貴方……」

「俺が子供の頃の話をしても、君は普通に思い出話として聞いてくれた。父の事を良く言っても怒らないでいてくれた。……ありがとう」

 

 パプニカ宮中で知己は多く出来たが、昔の話をしたことなどついぞ無かった。尋ねられるわけでもないなら、話すべきではないと思っていたし、あえて過去を尋ねてくる者は、自分に隔意ある者ばかりで、魔物に育てられたという事実を蔑むための材料とされるのは御免だったからだ。

 

 しかしそう言った環境での「当たり前」は、薄紙のように精神に入り込んできた。いつしか父バルトスに育てられたこと自体が忌避される事であるように考える自分に気付き、愕然としたのだ。

 憎しみの為に犯した罪が、魔物に育てられた所為で犯した罪にすり替わりそうになる…それは紛れもない恐怖だった。そして、周りのほとんどの人間が己をそのように見ている事に気付いた時、ヒュンケルは無意識に自身をその他の人間と区切っていた。

 

 エイミは、その区切りを簡単に超えてしまった。人や魔などという違いは関係がないと。親であり、慈しんで育ててくれた者であるならば、子が愛するのは当然だと。

 

「だって、そんなの…当たり前のことだわ」

 

 あっさりと述べる彼女が有り難かった。

 エイミは言う。

「私が貴方に罪を見るのは、貴方が憎しみから人を大勢殺したから。……お父様のことや、貴方が属していたのが魔王軍だったことは関係がないわ。必要以上に卑下はしないで欲しいの」

 

 最後の部分は、同じような言葉で主君にも言われたことがあったなと思い出す。だが……

 

「どんなに言っても、貴方はきっと自分を責め続けるんでしょうけど…それでも、そんな貴方をちゃんと受け容れる者はパプニカにもいるわ。それを忘れないで頂戴」

 

 口を開く前に、エイミが言葉を次いだ。こちらをじっと見つめる大きな瞳に記憶が刺激される。……そう、ルース少年も同じ眼差しをしていた。ヒュンケルの正体にうすうす気づいていただろうに、怒りではなくどこか心配そうな、哀しそうな表情でヒュンケルを見つめていたのだ。

 

 息を一つ吐く。エイミの言葉の一つ一つが、重い。

 受け容れてもらえる―――許してもらえるという事は、ヒュンケルにとって望んで已まないことだ。けれど、

「だが俺は…許されるべきでは……」

 

 

 

「なら、私たちに永遠に憎めと言うの?」

 

 

 

 高地のしじまに、静かなそれは、とても良く響いた。

「あ……」

「言わないでしょう? …憎み続ける事の辛さを、貴方はよく知っているはずだもの」

 ヒュンケルは顔を覆う。

「ああ…ああ……」

 凛としたエイミの声とは対照的に、彼のその声は震え、掠れていた。

 ヒュンケルの腕にエイミの手がそっと触れた。

 

「憎むことってね…過去しか無いという事だと私は思うの。憎み続ける事しか出来ない人は、それだけ今迄が大切で…それに等しいだけの何かを、ずっと見つけられない人なんだと思うわ……。私は…そうじゃないから」

 

 心や、感情の程度は、人それぞれで。全員が満足できる方法などありはしない。

 誰よりも、ヒュンケルを許せないのはヒュンケル自身だ。

 

 ―――それでも人は、前を見て生きねばならない。

 

「前を見て……」

「ええ、そうよ。自分の心に折り合いをつけて、悲しいことや辛いことはその痛みを少しでも薄めようと努力して、受け容れて、楽しいことや嬉しいこと、遣り甲斐のあること、生きている意味…そういった未来を築くための光を見て、そうやって生きていくんだわ」

 辛いことや苦しさから目を背けるのは、当たり前のことだ。取り返しのつかない損失であればあるほど、その事実は認めがたく、けれど受け容れざるをえない。ならばその損失に、これから先を生きていくために意味を求めるのだ、人間は。

 

「姫さまが貴方に下した裁きは、そのまま、私たちパプニカの民全てへの言葉よ。憎しみに囚われず、より良い未来のために生きるための……」

 

 そのための、パプニカ全ての道筋を、エイミの主君は民に示した。だから皆「ついて行く」のだ。父を喪った悲しみに震えながらも民の前では頼もしげに笑顔を浮かべる、あの、細い身体で王道を歩む若き女王に。

 

 ヒュンケルが自身を許せないのならば、代わりに許そう。自分やルースといった、彼の人間性に触れた者だけでも。

 光のために生きると誓った男のために、光の中で生きるための、よすがとなりたい。―――それが、エイミに生きることの美醜を教えてくれた男への、彼女なりの想いの表し方だ。

 

「ヒュンケル、貴方も…ついて行くのでしょう?」

 示された道に、光のある方向へ―――皆と一緒に。

 

 じっと見つめられて、答えを求められて、だのにヒュンケルは頷けなかった。頷いてよいものか、わからなかった。

 レオナ女王の示した道は、明るい。光の…希望を求める者の歩む道だ。自分は勿論その道が正しい事を知っているし、その道のためならばどんな邪魔も排除しようと剣に懸けて誓う。だが……ついて行っても良いのだろうか?

 

「大丈夫よ」

 心を読んだその声に、びくりと肩を震わせ、ヒュンケルはエイミを見た。

「居場所が無いなら、作りなさいな。貴方は償わなければならないし、私たちは、貴方を受け容れなければならないのよ。離れていては、それは不可能だわ」

「エイミ…」

 大きな瞳が、強い光を湛えてヒュンケルを映している。

 月のものばかりでない光が、届き始めた。水平線の彼方が白み始めている。

 

「パプニカの民や貴方のお父様の死を無意味にしないで。姫さまの示した道を否定しないで。たとえ、光の中を歩くのが―――」

 

 かわたれ時の直前、今の今まで存在しなかった影が、岩肌から生まれ始める。光が届いたために、辺りは夜よりも暗く感じるほど。

 照らされて、より明らかになる罪のように。

 

「―――貴方にとって地獄だったとしても」

 

 

 

 私も一緒に地獄について行くから。

 

 

 

 ヒュンケルは、腕に添えられた細い手を取った。

 言葉は無い。ただ震えて握りしめる―――それが彼の返事だった。

 

(終)




 ヒュンケルにとっては、マァムのように慈愛で許されるほうが辛いだろうと、リアタイで読んでた頃に思って、ずっと心の内に残っていました。
 もちろん、あんな罪を犯しても、許す人はいるんだというのを示してくれたからこそ、マァムは彼の中で聖母なのですが。
 でもそこから先は。
 庇う人ではなく、見届けてくれる人が必要なんだと思います。
 山ノ内なりの、エイミさんの解釈でした。

 ではまた次作で。


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番外編 黄金色の希望

凄く今更ですが、アニメ視聴しかしていない方には、特にこの話は大変なネタバレになります。
ご注意下さい。


 青く澄みきった空に浮かびながら、ポップは伸びをした。

 デルムリン島に来るといつも思うのは、空が高いという事だ。

 広い世界を旅してきて、最早ポップには行けない場所の方が少ない。そうしてこれまでの記憶を辿れば、地域によって気候が変わり、その気候によって空が変わるという覚えがある。

 空は空だ。いずこに在っても同じ空の下――という言葉もある。にも関わらず、地域によって空の色も高さも変わるというのは、実際に飛翔呪文で飛ぶことが出来るポップにとって、身を以て知る体感だった。

 

 そのポップ、今はデルムリン島の上空を飛行中だった。時期外れの嵐の後、島の周囲には雲ひとつ無い。普段なら感じるだろう湿度も少なく、実に気持のいい空中散歩である。

 さして広くない島をひと巡りし、眼下に親友の家を見て、その横で自分を待っていてくれたらしい恋人が手を振ってくれているのを認めると、ポップは口元を綻ばせて下降を始めた。

 

「ポップ、どうだった?」

 たたっと小走りで駆け寄ってくるマァムと、その後ろをやおら歩いてくるブラス老に、ポップは笑みを返す。

「大丈夫。特に異常はねぇよ。何箇所か木が折れてるとこはあったけど、魚の打ち上げも座礁船も無い。平和なもんさ」

 その言葉にマァムはにこりとし、ブラスも「そうかい」と頷いた。この時期には珍しい嵐だったため、ブラスは念のためにポップに見回りを頼んだのだ。魚の打ち上げだけならともかく、船が座礁したとなれば放置すれば大変なことになる。怪我人がいるなら助けてやらねばならない――というのは何も道徳的なことばかりで言うのではなく、『怪物島』の周囲で人間の船が壊れたという事実が、悪意と偏見のメガネを通されれば、どんな災厄となるかわからないからでもある。いくら現在の地上世界が人間と魔物全般にとっての「佳き時代」であるとしても、そういった問題は厳然として存在するのだ。

 だが、今回は杞憂であったようだ。ブラスは孫の友人たちに杖で家を示した。

「手間をかけさせたね、ポップ君。マァムちゃんも、さあ、お茶でも飲んでおくれ」

 

 

「それにしても、凄い風だったな」

 ブラス御手製の茶菓子を摘まみながらポップが言うのに、マァムは頷いた。

「本当に。満ち潮と時間が一緒だったらと思うとゾッとするわね」

 この場所が特に海抜が低いというわけではないが、高波は時に怖ろしい被害をもたらすものだ。彼らの師が島全体に施した破邪呪文も、自然災害には効果は無い。

 たまたま休暇を利用してブラスに会いに来ていたポップとマァムは、時ならぬ嵐に島での一泊を余儀なくされた。一晩中の暴風雨は頑丈な作りであるはずのブラスの家の屋根や壁の一部を傷つけ、二人は朝からその補修を手伝っていたのだ。

 この一年は、こういった自然災害が世界各地で頻発した。よくある事ではある。むしろ、何もない年のほうが珍しいだろう。だが一部の人々は、魔界での戦の影響ではないか? と声を潜めて囁き合い――そしてそれは事実だった。

 

 天地魔の三界のバランスを担う存在は、現在、魔界にいる。

 

 かの大戦で地上を救ってくれた勇者ダイは、新たな敵との戦いのため、魔界へと降りた。およそ一年前の話である。

 時折もたらされる情報では、現在の魔界は群雄割拠の態から徐々に二つに纏まりつつあるという。一つは地上を狙う覇王の勢力であり、もう一つが調和を求める勇者ダイを中心とした勢力だ。両軍の戦いの規模は、地上の人間国家同士の戦争とは別次元であり、その魔界での戦いの余波が、地上の『気』にも影響を与えているのだ。

 その事実を知るポップは、昨晩の嵐の激しさを思い出すに、それがそのまま魔界での戦いの深刻さに繋がっているのだろうと眉を顰めた。マァムの顔が曇りがちなのも、同じ理由だろう。

 沈黙が落ちた。晴れた外に対して今度は家の中が暗くなりかけた時、ブラスがお茶を運んできた。二人は慌てて笑顔を作る。

 こういった話をわざわざ言うまでもなく、この優しい老鬼面導師は愛孫の無事を日夜祈り続けているのだ。不安を煽るような真似をすべきではないだろう。

 

 当のブラスは穏やかな笑顔で、島名物の香草茶を二人と自分の前に置いた。

「このお茶はダイが好きでのぅ。その菓子も、あの子が小さい頃からよく食べていたんじゃよ」

 にこにこと笑って、彼は、ポップとマァムにお茶を飲むように促した。

 微かな甘い香りが鼻腔をくすぐり、温かさが身体を中から整えてくれる。どちらともなく小さな溜息をついた時だった。

「よく晴れた。あれもこんな日じゃったのぅ」

 ブラスが窓の外に視線をやりながら、ぽつりと呟いた。

「ブラスさん?」

 マァムが呼ぶのに、ブラスは振り向いてにこりとした。

「ダイがの、ゴメをつれてきたのも、こんな――嵐の後じゃったんじゃよ」

 

 

 

 

『じいちゃん! じいちゃん!! ぼく、トモダチができた!!』

 

 

 

 

 よちよち歩きから抜け出して、一気に沢山の言葉を覚えだした愛孫が、ようやく晴れ上がった空に嬉しそうに遊びに出掛け――息せききって帰ってきた。その頭上には、翼持つ金色のスライムの、可愛く飛び回る姿があった。

 

「ダイが二歳になったくらいの頃じゃったなぁ…」

 

 それからは、ずっと二人は一緒だった。雨の日も風の日も、毎日のように共に遊び、時には喧嘩をし、けれどすぐに仲直りをして。ゴメちゃんと呼んでいたそのゴールデンメタルスライムは、ダイの望むままにずっと一緒だった。

 まさかその正体が、『神の涙』と呼ばれる伝説のアイテムだなどと誰が思うだろう。知った今でも、ブラスの中ではゴメは愛孫の大切な友人であり、家族に等しい存在であるのに変わりはない。

 それは、ポップやマァムにとっても同じことだ。正体が何であっても、ゴメちゃんは大切な仲間の一人で――大戦での最後の戦いで死なせてしまった寂しさは、消える事が無い。勇者のパーティーとして考えれば、大戦で亡くなった唯一の犠牲者でもあるのだ。

 

「ゴメちゃん…」

「ゴメ……」

 

 二人は同時に小さな友人の名を呟いた。同居人の元大魔王がこの場にいないのは、互いにとって幸いだったろう。戦いの場での恨みつらみを蒸し返すつもりは無いけれども、彼がこの心の痛みを共有する等ということは、決して叶わないのだから。

 ブラスは窓から差し込む明るい光を、眩しそうに見遣った。

 ダイは、バーンとの最終決戦の時の出来事をブラスに何度も語ったのだという。嘆くでもなく、悔やむでもなく、ただ噛みしめるように。

 

「最期にゴメは時を止めて、ダイと二人きりで話したんじゃと」

 

 己が『神の涙』と呼ばれるアイテムだということを。

 幼いダイの「友達が欲しい」という願いを叶えて、ずっとゴールデンメタルスライムの姿で共にいたことを。

 

 ポップは頷いた。その辺りの事は、ポップもダイから聞いていたのだ。

 彼自身バランとの戦いで不帰路を行こうとしたときに、ゴメに呼び止められて会話を交わした覚えがあるため、不思議には思わなかった。あの黄金色の小さな友人は、その身命をすり減らしながら、ダイだけでなくポップや皆を守り続けてくれたのだった。

 

「会いたいわね…もう一度……」

 

 マァムがぽつりと言った。叶わないとわかっていても、思わず口をついて出てしまった――そんな声だった。

 齢数千歳の同居人がいるため、『神の涙』については二人は少し知識がある。今まで幾度も三界のバランスが崩されてきたという歴史から、いずれは復活するのかもしれないという漠然とした希望もあった。

 けれど、復活するのだとしても、それがいつ・どこでなのかは調べようがないのだ。マァムの声が多分に諦めを含んでいるのも無理からぬ事だった。

 ブラスの次の言葉は、それ故に、二人にとっては衝撃だった。

 

「復活までは、あと五年か六年かかるはずじゃ」

 

 

 

 

 『神の涙』の復活までの時間を、何故そこまで詳しく言えるのか。

 そもそも、どうして一介の鬼面導師でしかないブラスが、大魔王も知らないそんな情報を知っているのか。

 

 衝撃故の硬直から立ち直ったポップとマァムは、ブラスに縋りつくように前のめりになって質問をした。二人のあまりの勢いに、ブラスは目を丸くする。彼は、二人も同じように、ダイから話を聞いているものとばかり思っていたのだ。

 

「いや…俺は…ダイに『ゴメちゃんとは、最期に話が出来たんだ』って聞かされただけで……」

「私も…私は、ポップからそう聞いただけだったわ…」

 

「なんと…いや、そうか…。言えぬかもしれんなぁ…」

 

 緩やかに頭を振り、ブラスは孫から伝えられた事を二人に語った。

 

 『神の涙』に心があるのは、悪しき願いを叶えないようにするためだということ。

 願いを叶えてきたのと同じだけ復活まで時間がかかるということ。

 大魔王バーンとの大戦時で、それは「十年以上」であったこと。

 世界で最も汚れていない場所に落ちるということ。

 復活した時には、以前の記憶は消えてしまっているということ。

 

「じゃあ…」

 ポップは短く呟いて、言葉を切った。その顔に笑みがじわじわと広がっていく。

「それなら…」

 こちらはマァムだった。やはり彼女も綻ぶように笑顔になっていく。

 そんな若者二人を、ブラスは見つめていた。

 ブラスの瞳にあるのは、痛みだった。彼には、二人の考えている事が、以前に己も思い至った事であると容易に想像ができたのだ。

 そしてそれは、孫も当初思っていた…想っていた事だった。想い続け、想い描いて、そして―――

「じゃあ、じゃあブラスさん! あと五・六年くらいすれば、またこの島でゴメを見つけて、それで……っ!!」

「そうよ、ダイに同じ願いを…!!」

 

 

 

「いいや……ダイはそれを望んでおらん」

 

 

 

 ―――断念した願いだった。

 

 

 

 

 

『うん…オレも最初はそう思ったんだ。いつかゴメちゃんが復活したら、きっと見つけて…それで、また願いを言おうって』

 

『オレの友達になって欲しいって……。そしたら、またずっと一緒にいられるから……』

 

『でも……』

 

 

 ブラスは、魔界で戦いの日々を送っているのだろう愛孫の、静かな声を脳裏に蘇らせる。

 行方不明となって三年が過ぎたあと、立派に成長して帰ってきてくれたダイは、もう十二歳の頃の子供ではなかった。

 顔つきも、声も、背丈も、そして、心も――大人と言うには早すぎても、既に子供ではなかった。天界での三年は一体どのようなものであったのだろうか……、ダイは、実に思慮深い面を見せるようになっていたのだ。

 

 あのゴメが、『神の涙』と呼ばれる心あるアイテムであったなど、当然ブラスは思いもしなかったし、そもそもそのようなアイテムの存在自体、聞いたこともなかった。だからダイにゴメとの会話の内容を聞かされた時は、ブラスは大いに驚き、悲しみ、そして……喜んだのだった。

『それなら、いま一度ゴメを見つけて、同じように願いを言えば――』

 ブラスの言葉は、ポップやマァムの言った内容と変わるところはない。再び地上に降りてきた『神の涙』を見つけて、ダイの友達になってほしいと願えば、きっとまたゴメちゃんとして側にいてくれる。また一緒に楽しく暮らすことが出来る――そう告げようとした言葉を、ダイは頭を振る事で封じた。

『じいちゃん、それはやっちゃダメだと思うんだ』

 何故だと問うブラスに、ダイは言った。

 

『オレ…ゴメちゃんを失いたくない』

 

 どういう意味なのか、ブラスには初めはわからなかった。少し考え、再びゴメちゃんとして側にいることで、戦いに巻き込んで死なせてしまうのが怖いのか…そう思った。竜の騎士としての運命を持ったダイは、本人が望まずとも戦いのほうが彼を放っておかないだろうから。

 けれどもダイは再び頭を振った。『それもあるけど』と彼は言う。

 

『またゴメちゃんを見つけて、オレの友達になってって頼んで……それでもしまた死なせてしまったりしたら? きっと悲しいだろうけど、でも、オレは…オレはもう、ゴメちゃんが「神の涙」だってこと知ってるから、「よし、また見つけて同じ願いを言うぞ!」ってなると思うんだ』

 

 話しながら、ダイは拳を作っていた。微かに身体が震えている。戦士らしく逞しい筋肉が付きだした、まだまだ伸び盛りの生命力に溢れる身体が、何かおぞましい物でも見たかのように小さく縮こまるようだった。

 

『もしも、そんなことが何回かあったら、そのうちオレは、ゴメちゃんの事を…本当に……アイテムとしてしか見なくなってしまう気がするんだ。「どうせまた蘇らせるから、だからちょっと願い事を聞いてもらおう」とか考えるかもしれない』

 

 握られた拳は、血の気が無いほどに真っ白になっていた。ブラスには、愛孫が必死に泣くのを堪えているのがわかった。

 

『オレ……そんなの…嫌だ』

 

 そんなことにはならない、と言ってやるのは簡単だ。しかし出来なかった。

 ダイの言葉の正しさをブラスは認めた。人の心の移ろいは避けられ得ぬところだ。どれほど自己を律しても、防ぐことは難しい。自らの安寧の為に、掛け替えがないはずだった存在を貶めてしまう――そんな未来をダイは決して認めたくないのだ。

 

 失いたくないとは、そういう意味なのだろう。神の涙ではなく、ともだちとして十年以上を側にいてくれた優しいゴメちゃんの、友であったと胸を張れる資格を。

 

『そうか…。そうじゃなぁ……ワシも…、ゴメを失いたくないのう』

 ブラスは頷き、ダイははっと顔を上げた。『じいちゃん』と掠れた声で名を呼ぶ。

 くしゃくしゃと歪んだ顔は、成長したと思っていた孫の、十二の頃の幼さと無邪気さとを思い出させた。

『ごめん…ごめんね、じいちゃん…!』

 じいちゃんだって会いたいのにね――ぽろぽろと涙を零して、ダイは謝った。その謝罪はきっと、ブラスだけでなくポップやマァム達にも向けられていたのだろう。

 

 

 

 

 

 帰りはルーラを使えば一瞬なのだが、ポップはもう一度島を一巡りしたいと言いだし、マァムの手を引いて浮かび上がった。

 ポップの魔法力に包まれているからなのか、マァムは上空にあってもそれほど寒さは感じなかった。彼女は無言で飛翔を続けるポップの横顔を、やはり黙って見つめた。

 

 孫との会話のことを語り終えたブラスは、寂しそうに笑って言った。

『まぁそもそもが、もう一度この島にゴメが落ちてくるかなど、保証がないしのぅ――こんな怪物だらけの島じゃし』

 そんな、自らを卑下するようなことを言わないでほしい。そう思った。

 眼下に広がる濃い緑に覆われた島は、人間が支配する地上にあるにもかかわらず、魔物達の領域だ。

 人々との諍いを嫌い、心穏やかに暮らしたいという優しい魔物達の島。勇者ダイを育んだ、聖地デルムリン島。

 

 そこにゴメちゃんは落ちてきた。地上の力無き生物たちの苦しみを嘆いた神々が、落とした一粒の涙……。

 

 マァムは、ああそうかと思った。同時にポップが呻くように呟く。

「落ちてくるに決まってんじゃねぇか……」

「ポップ?」

 どこか怒っているような声音に、マァムはポップを呼んだ。

「デルムリン島に落ちてくるかどうかわからないなんて……そんなはずあるかよ…!」

 ポップは視線のみをマァムに向けた。黒い瞳にたゆたうのはやはり怒りだ――ダイとブラスの尊く悲しい決意に何も言えず、何も出来ないポップ自身に向けた。

「あんなに…あんなに、ゴメのことを想って! そのために自分の願いも押し殺して! そんなに心が綺麗な人たちがいる島が、汚れてるわけねえのに!」

 その言葉にマァムはこくりと頷いた。彼女も同じことを思ったからだった。

 

 神々が地上の力無き生物たちの苦しみを嘆いたのだという。力無き人間ではなく、力無き生くるもの全ての苦しみを、だ。

 その苦しみを作り出す最大要因は、魔の侵攻などではなく、人間の欲ではなかろうか。

 

 ならばこの島は文字どおり、苦しみ無き楽園だ。心清き魔物たちの島。ブラスのような、ダイのような、種族を超えた友愛を持つ者たちの住まう聖地。神の涙が落ちるに相応しい場所があるならば、ここしかない。

 

 そして、だからこそ――

 

「大丈夫よ」

「…マァム?」

 微笑んだ彼女に、ポップは虚を突かれたような表情になる。

「大丈夫よ、ポップ。きっと、絶対にゴメちゃんにまた会えるわ」

 マァムの声は確信に溢れていた。その力強さにポップは戸惑う。

「で…も、でもよ。ダイも、ブラスさんも……願わないって言ったじゃねぇか。なのに何で、そんなこと…!」

 西に傾きだした太陽の光を受け、柔らかな笑みのまま、マァムは瞬いた。

 

「あなたも言ったじゃない。『あんなに、ゴメのことを想ってる人たちなのに』って」

 

 つい先ほどの己の言葉を繰り返されて、ポップはきょとんとする。

 マァムは適当な慰めを口にしたつもりはなかった。絶対にまた会える――彼女なりの、けれど決して過たぬ確信の故の言葉だった。

 

「神の涙には、心があるんだもの…」

 

 そのために人間の欲深さは忌諱される…それは悲しい事実だけれども。

 どこまでも青く深い空。それはダイの色。空の高さはそのまま、ダイという存在の、彼を育んだブラスやデルムリン島の、懐の深さであり心の気高さだ。

 

「そんなに自分の事を想ってくれる人がいるなら、それを感じとったなら、きっと……」

 

 ポップは声無く、あ…と口を開けた。やり場のない苛立ちは消え、泣きそうな瞳で笑みを浮かべると頷いた。彼にもマァムの次の言葉がわかったのだった。

 そうだ。きっとまた会える。

 

「そう…だな。もう…あのゴメじゃねぇんだろうけど…」

 

 鼻をすすってポップは笑う。マァムの目尻も光っていた。

 それはもう、ゴメちゃんではない。あの黄金色をした小さな愛らしい友達ではないのだろう。

 ダイと遊んだ記憶も、自分たちと旅した思い出もない。

 マァムに「いいこいいこ」と撫でられるのが好きな、瀕死のポップに喝を入れてくれるような、高く小さな声で飛び回るような、そんな存在ではないのかもしれない。

 

 けれどやはり友達なのだ。

 心があるのだ――

 亡くした友を想ってその想いゆえに復活を願わずに泣く、清く優しい竜騎士に寄り添おうとしないはずがないではないか。

 

 

 

「ええ。ゴメちゃんの方からダイに会いに行くわ。『ボクのともだちになってよ』って…!」

 

 

 

 ――黄金色の奇跡は心の輝くままに、地上の太陽(ダイ)を求め、また出遇うだろう。

 

 

(終)




別に山ノ内はDBという世界的な漫画が嫌いとかではございませんが、ダイ大というお話は、あれとは死生観(ししょうかん)が違っていてほしいなという思いから書いた覚えがございます。
ダイ大からザオリクを排除された三条先生は素晴らしいと思ってます。


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言霊の使いかた

最初に謝っておきます。改行がめちゃくちゃ多いです。気にされる方、ごめんなさい。



 一人の魔道士に乞われアポロはそちらに向かう事となり、申し訳なさそうにポップを振り返った。

 ポップは慌てて「適当に見学させてもらうから」とアポロを促した。休日で時間を持て余しているポップと違い、アポロは忙しい仕事の合間を縫ってポップを案内してくれたのだ。いつまでも相手をさせるわけにはいかない。

 再び始まった兵士たちの訓練では、先に自分が伝えておいたアドバイスを実践しようとしている者も見える。

 それなりに有用な助言が出来たようだと、ポップは満足気に一人で頷いた。

 

「ポップ!」

 

 親友の呼ぶ声が聞こえ、ポップは振り向いた。

 嬉しそうに笑いながらダイが駆け寄ってくるのに、彼も目を細める。今日はパプニカ王城に来た直後に会ったばかりで、ダイは勉強に行ってしまい、自分は図書館に寄った後、色んな人に捕まってしまったのだ。

「よう、ダイ」

 軽く手をあげて笑みを返すポップに、いつものように半ば抱きつく形でダイが飛び込んでくる。正直、青年期のとば口に差し掛かったダイに抱きしめられるのは、鍛えているとは言っても魔法使いであるポップには結構な衝撃なのだが、三年前、十二歳の頃と同様にじゃれ付かれるのが嬉しかったりもする。

 訓練をしていた兵士たちが、何人か手を止めてダイに敬礼をするのを、ダイはポップにくっ付いた状態のまま「こんにちは!」と手を振った。大魔道士殿と勇者様が親友なのは世界中の人間が知っている事だが、こうして間近で仲の良さを見せられると、畏敬の念よりも微笑ましさが勝るらしい。少し緊張していた若い兵士たちの顔にも笑みが浮かんで、何となく訓練場がほっこりとあたたかくなった。

 

「探してたんだ。珍しいね、ここにいるの」

 ベンチに腰掛けながら、ダイの言葉にポップは「ああ」と訓練している魔道士たちに視線をやった。パプニカにはしょっちゅう寄るが、ダイに会う以外は、図書館で本を借りるか、女王陛下やその護衛をしている兄弟子と会っていることがほとんどのため、練兵場の方には滅多に足を運ぶことがない。ダイが珍しいと言うのも当然だ。

「アポロさんに言われてさ」

「アポロさん?」

 パプニカ三賢者筆頭の名前を出すと、ダイはきょとんと首を傾げる。当のアポロは、依然として先程呼びに来た魔道士と何か話し込んでいるのが離れた門に見えた。

「そ。ちょっと前に魔法兵団の訓練内容で相談に乗ってな。実際に訓練に取り入れてみたって言われたから、見に来てたんだ」

 練兵場の南隅にあるベンチからは、魔道士たちの訓練がよく見える。パプニカの兵士なら簡単な呪文は全員が扱えるが、それでもやはり、剣が得意な者と魔道士タイプの者で分けてやらねば訓練に支障が出る。今日は南側が魔道士タイプの者たちの訓練に割り当てられていた。

 魔道士タイプの兵と言えば、その理想形は三賢者たちになるため、彼ら三人は兵士たちによく技術向上のためのアドバイスを求められるのだそうだ。

「で、話のタネにオレが先生に習った方法とか、最近やってる事とかを簡単に説明したんだ」

 まさかルーラを覚えさせるために、身体に岩を括りつけて水の中に放り込むなどという、マトリフ師匠のやり方を伝授するわけにはいかないため――ポップはとりあえずこれも一応は話したのだが、アポロには思い切り引かれた――どうしてもアバン先生に教わった事が中心となってしまったが、それはそれで、魔法初心者の武器屋の息子が実践できた方法なのだから、万人に応用がきく。

 ポップが魔法使いとしての修業をする際、最初にアバン先生に教わったのは自分の中にある魔法力を感じとる事だった。これを上手く放出するのが初歩の初歩で求められる。呪文というのは、その魔法力に方向性と形を与えるものだ。

 どんな呪文の使い手でも最初はこの段階を踏む。そして基礎というものは、しっかりと固めれば固めるほど後に積み上げるものが安定する道理だ。

 

 ポップは、瞑想という方法で自分の中の魔法力の流れを読むことを毎日のように続けている。

 

「この後どんな呪文を使いたいか、とかな。目標を決めてから瞑想すると、力の使い方がわかりやすいんだ」

 力を深く探り、感じとるのが鋭敏になるほどに、扱う時の術の精緻さが増すことに気付いてからは、余程の事がない限りサボる事はあり得なかった。二代目大魔道士の実体験に基づくその言葉にアポロも通じるところがあったのか、深く同意したらしい。

「瞑想ってそんなに大事なんだ……」

 ポップの説明を聞いていたダイが感心して漏らす。ああそう言えばこの勇者は、昔から瞑想が苦手だったなとポップは苦笑した。

「そーだぜ。お前も頑張れよ?」

 ダイのしかめっ面を見たいポップの冗談に、案の定、ダイは「うえぇ」と情けなく顔を歪めた。

 実際には剣で戦う方がずっと得意なダイにしてみれば、呪文の精度はそう重要なことではないだろうけれど。そこを補うためにポップがいるのだから。

 からかいながら、ポップはくしゃくしゃと親友の頭を乱暴になでた。

 

 

「じゃ、じゃあさ。最近やってる事っていうのは?」

「あん?」

「言ってたじゃないか。『先生に習った方法とか、最近やってる事とか』って」

 これ以上、瞑想のことで話をされたくないのだろう。ダイは別の事を聞きたがった。

「ああ、それか」

 頷いてポップは魔道士の一人を探す。

 ほどなく訓練場の西側の壁に向かって杖を向ける初老の男性の姿をみとめて、ダイに示した。

「ほら。あの杖を持ってるおっちゃんがいるだろ?」

「うん」

 ダイは点頭する。ポップが指した男性は、袖に線が三本入ったローブを着ている。あれは確かパプニカ軍内においては中隊長の階級を示すはずだ。

 赤茶色の髪をした彼は、杖の先にメラで炎を顕現させていた。すぐに壁にそれを放つのではなく、炎を維持しながら杖術の型をゆっくりと行っていく。集中しているのは遠目からでもわかる。

 魔法使いにとって杖は手の延長だ。放つまではその魔法力は身体の一部として扱われ、その身を焼いたり凍らせたりする事がないのと同じで、彼の持っている杖も燃えはしない。それは良いのだが、杖に炎を維持したままで動くことにどういう意味があるのかは、ダイにはわからなかった。

「お前は闘気を剣に伝わせたりしてるだろ?」

 ぽかんと見ているダイに、ポップが説明する。

「あ、うん」

「それと原理は一緒でさ、あのおっちゃんのメラ、少しずつ大きくなってきてるのわかるだろ?」

 ダイが再び目を向ければ、小さく拳大に宿っていただけの炎が人の頭部くらいの大きさにまでなっている。

「動きながらでも呪文への集中力を切らさずに威力を凝縮できれば、敵に接近されても便利だからな」

 ポップの説明にダイはただ頷いた。あの状態で敵に間合いを詰められても、メラを放つことなく杖を振って、炎と打撃を同時に叩き込むことも出来るというわけだ。

「あのおっちゃん、かなり腕が良いからな。あれで炎を小さく見せたまま威力を上げて、自由自在に動きまわれたら完璧なんだけど。そこまでは無理でも、初級呪文で中級くらいの威力を出せるくらいに凝縮できるようになればさ」

 どこか嬉しそうなその説明に、ダイはやはり頷くだけだった。

 

「じゃあ、ポップもああいう訓練してるの?」

 ふと疑問に思ってダイはポップに尋ねた。最近やってる事と言うからにはそうなのだろうか、と。

 だがポップは、ふるりと首を横に振った。

「いや、オレの場合は元々呪文の凝縮ってのは得意だからな」

 ダイに答えながら、ポップは立てた指先に小さな小さなギラを作り出す。余りにも小さな光なので、素人目には何の威力もないように見えるが、少しでも魔法を使えるものなら、その指先にあるのがベギラマ級の閃熱呪文だとわかるはずだ。しかも普通は掌にあらわれる光を指先に凝縮しているのだから、一旦放たれれば、その熱は岩の表面を溶かす程度ではなく、巨石を貫通するほどのエネルギーを秘めている。大戦中に強大な敵を相手にして、いかに呪文の破壊力を上げて効率よく戦うかと工夫を凝らしてきた結果、磨かれぬいてきたポップの戦いのスタイルだ。

「今は、攻撃呪文だけじゃなくて色んな呪文の凝縮を試してるんだ」

「攻撃呪文だけじゃないって、回復呪文とか?」

 尋ねるダイに、ギラの光を消してポップは「ん~」と小さく唸る。

「回復呪文はあんまり力を込めすぎると過剰回復になって危ないから、凝縮ってよりは範囲を絞り込むって感じかな……。他にはスクルトとかピオリムとかの補助呪文が結構使い勝手がいいってわかったぜ」

 スクルトは仲間の守備力を、ピオリムは行動速度を上げる呪文だ。確かにそういった呪文ならば威力が上がれば上がるほど便利だろう。

「もちろん攻撃呪文も試してるぜ。ベタンも放つ前に威力を集中させてやれば、オレの腕力でもクレーターを作れる。逆に、手じゃなく全身で放てば敵に掴まれた時に弾き飛ばせるって寸法だ」

 闘気を扱えなくとも、工夫次第では物理的なダメージを敵に与えられそうだと思いついた時には、ポップはかなり感動したものだ。なまじ、父親を始めとして周囲の男の知り合いが力自慢な分、腕力の無いことにはかなりコンプレックスを感じている彼である。誰の責任にも出来ない話ではあるが。

 その力自慢を通り越して馬鹿力第一人者としか言いようのない親友は、心底感心したという風に目をキラキラさせて「凄いや!!」とのたまってくれる。その邪気のない称賛を聞くと、鍛練の成果を報告しているだけにも関わらず何だか卑屈になりそうだった自分に気付いて、ポップは微苦笑を浮かべた。親友のこの純粋さには、本当に敵わないなと。

 

 

「んで、お前は? 最近は剣の稽古はしてるのか?」

 ポップが水を向けると、ダイはちょっと面映ゆそうな表情になった。

「剣は…おれが稽古をつけてるんだ。騎士団の皆に」

 時々だけどね、と注釈をつけながら説明されて、ポップは諒解した。

 今日ポップがしたように、ダイも時折パプニカの兵に剣を教えているというのだろう。二人が違うのは、ポップはアポロにアドバイスという形で協力するだけなのに対して、ダイは兵に直接指導が出来るという点か。

 ベンガーナに仕える立場のポップには、パプニカの兵を直接鍛えるなどという真似は出来ない。別に両国の仲が険悪だというわけではないが、守らねばならない『分』というものがある。

 その点ではダイは遠慮はいらない。将来パプニカの女王の伴侶になると目されており、現在もどの国にも属してはいない(強いて言うならデルムリン島だ)のだから。

「最初は『希望者だけ』って話だったのに、物凄い数になっちゃったから、結局全員に教える事になったんだ」

「へぇ。ま、そりゃそうなるよな」

「え?」

「勇者様に剣を習える機会なんて、普通は無いだろ。そりゃ誰だって教えを受けようとするさ」

 笑いながらポップは指摘する。自身の人気の高さをわかっていないダイが可笑しかった。それ以上に、ダイが人の輪に慕われ囲まれているのが目に浮かぶようで嬉しかった。

 ダイのような立場の存在が、力を忌避されるのではなく、ごく自然に憧れを抱いてもらえるように――そんな流れに持っていくのは、簡単なようで難しい。ダイ自身の人柄も勿論だが、周りが心を配ってきたのも大きいだろう。特にこのパプニカの若い女王陛下などが……

「その話を持ちかけたのって、姫さんじゃねぇのか?」

「あ、うん。レオナだよ。何でわかったの、ポップ?」

 ダイの返事に、ポップは微笑んだ。辣腕の彼女らしい、上手いやり方だ。

「ん? あ~…そういうのって姫さんが考えそうだって思ってさ」

 そう言えば、その女王陛下はいまどうしているのだろう? いつもならそろそろ無理やりにでも休憩時間を作ってダイに会いに来るのだが。

 毎回嬉々としてダイをお茶に誘うレオナの表情を思い出して、そろそろ練兵場から退散しようかとポップが考え始めた時だった。

 

「ポップ君、放ったらかしにして申し訳ない。ダイ君も一緒なんですね」

「あ…気にしないで下さいよアポロさん。話は終わったんですか?」

 先程アポロを呼びに来た魔道士は、もういなかった。アポロは軽く頷く。

「大した話ではないんだよ。今度、この練兵場の簡単な改修工事があってね」

 そのことで一寸…とアポロは笑う。人好きのする爽やかな笑みだった。

「改修工事って、今日レオナが話してた奴かな? 壁の補強とか…」

 ダイが言う。レオナは彼の稽古の評判のついでに話したらしい。

「え? お前、今日はもう姫さんと会ったのか?」

「うん。『いつもより早く休憩もぎ取れたから!』って。おれの勉強の後すぐに会って、さっきまで二人でお茶してたんだ」

「なんだ。そうか」

 もう逢瀬が済んだのなら、急いで練兵場から失礼する事もないな……とポップは小さく息をついたが、ダイの次の言葉に頭が痛くなった。

 

「ポップも一緒なら三人でお茶した方が楽しかったかなぁ」

「……お前、そこは気を遣わなくていい」

 

 

「え? なんで? 皆一緒の方が楽しいじゃんか」

「時と場合によるんだよ、そう言うのは!」

 二人のやり取りにくすくすとアポロが笑うのが目の端に映ったが、ポップとしては彼にも参戦してもらいたい気分だ。

「ったく変わらねぇなあ、お前は。で? 楽しかったか?」

 半ば投げやりに問えば、ダイは満面の笑顔で「うん!」と頷いた。

「レオナと話してるとすっごく楽しいし、勉強にもなるし、お菓子も美味しかったよ」

 最後がなきゃ完璧なのにな、とポップは内心で呟いたが、それはアポロもおそらく同じなのだろう。

「陛下はダイ君とお茶を飲まれるのを毎週楽しみにされてますから、ダイ君がそう言ってくれれば、凄くお喜びになりますよ。剣の稽古の事や改修工事の事以外も何か仰ってましたか?」

 苦笑しつつ言うアポロに、ダイは少し考える態で首を傾げた。

「あんまり長い時間じゃなかったから、そんなには…。あとは高い所の本を取りたいって言ったから抱っこして持ち上げたりとか、久しぶりに新しいネックレスを作ったらしいから着けてあげたりとか……」

 どうやらレオナは随分と積極的行動しているようだ。乾いた笑いを漏らすアポロに対して、ポップは素直に感心していた。ダイがそういった事に疎いものだから、彼女が頑張るしかないというのは、傍目には微笑ましい。

 それでもダイはレオナと二人きりでの時間をとても喜んでいるのだ。好意は充分に伝わっていると思っていいのだろう。

 問題は――

 

「レオナの身体って本当に抱き心地がいいんだよ。柔らかくって、あったかくって。それに、何だかとってもいい匂いがするし」

 

 ――ダイにそっち方面の常識が色々と欠けているという事だ。

 

  ぴしり

 

 一瞬、空気がひび割れる音が聞こえた気がして、ポップはちらりとアポロに視線を遣った……案の定、固まっている。だが、そんなアポロの様子にダイは気付かない。

「おれ、レオナを抱っこしたのって三年前に何度かあったけどさ。地上に帰ってきて抱きしめられた時とか、今日とかは、その頃と全然違うんだ」

 そりゃそうだ。とポップは心の中でツッコんだ。が、思春期を生きる年頃の女の子の身体についてここで語っても仕方がない。取り敢えず、アポロの『誤解』は解けただろうが、これ以上ダイに報告を続けさせるのは拙いだろう。

「ダイ、お前さ…そういう事を言うのは時と場所を選べよ。あと言葉も選べ」

 溜息を吐きつつ、ポップは告げる。アポロはまだしも、練兵場という男ばかりの場所(女性ばかりであっても問題だが)で話す内容ではない。女王陛下と勇者との間を誇張して受け取る人間が出てもおかしくないのだ。

「? おれ何か変なこと言った?」

「変なことじゃなくて……とにかくまずは言い回しがヤバいんだよ。何なんだよ『抱き心地』って」

 きょとんと訊き返してくるダイに、何だか腹が立ってしまうのは仕方がないだろう。他意はないというのは重々承知しているが、こういった機微をもう少し理解してほしいとも思う。

「せめて『三年前よりずっと綺麗な女性になった』とか、そういう風に…」

「レオナはいつだって綺麗だよ。ポップこそ何言ってんのさ」

 真っ直ぐな瞳で言われて、ポップは髪を掻き毟りたくなった。言いたい事のポイントが完全にずれている。

 レオナも気の毒なことだ。好意はしっかり伝わっているしお互いが大切に想い合っているのも変わらないのに、ダイの感覚は子供のように純粋で、そこから先は中々発展しそうにない。

(オレが十五歳の時って、もっとこう…。ああでも、こいつにはそういった『情報』自体が欠けてるんだよなぁ……)

 ダイの隣にいるアポロが、どんな表情を取るべきか迷っているのが痛々しい。理知聡明な賢者の彼が、先程から「あー」とか「うー」といった意味を成さない言葉のみを発している。

「別に姫さんの綺麗さを問題にしてるんじゃねぇんだよ。とにかく言葉を選べって言ってんだ!」

「おれ間違った言葉なんて…」

「だーかーら! 『抱き心地』とか…ああもう! お子様なんだからよ!!」

 投げやりな溜息と同時にポップが言ったその言葉は、ダイのプライドを刺激したようだった。

 

「なんだよ! お子様って!! おれ、何にも間違った事なんて言ってないだろ?!」

 肩をいからせて頬を膨らますその様子は、充分子供っぽいと評されて仕方ないのだが、

「うっせーよ! 言葉の意味じゃなくて使い方が駄目なんだって言ってるだろうが!? 誤解を招くような発言してんじゃねーよ!!」

 それに言い返す方もまた子供っぽいと思われてしかるべきだろう。幸か不幸か、彼らはその事に気付いていなかった。

「使い方って、じゃあわかりやすく言ってくれよ! おれお子様だからわからないんだからな!」

「あーはいはい! 自分でお子様だって認めてりゃ世話ないよな! とにかく! 姫さんのことでこれ以上お馬鹿な発言すんな!!」

 そのくだらない口喧嘩に、練兵場の多くの人間が注目しだしたのは当然の流れだ。

 そして――アポロが、これは嗜めるべきかと仲裁に入ろうとした時、それは起こってしまった。

  

「なんだよ馬鹿にして! おれ間違ってないだろ!! レオナの方がポップよりずっと抱き心地がいいよ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「誤解を招く発言はすんなっていってるだろうがああああああああ!!!!??」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後日行われたパプニカ練兵場の改修工事だが、その工程には何故か『クレーターの埋め立て』といった作業があったそうな。

 その作業を大魔道士殿が手伝っていただの、その日を境に勇者様に特別授業が組み込まれただの、女王陛下が随分とご機嫌だっただの、様々な噂が流れた。

 だが、真相を知る者たちは一様に口を噤み、練兵場で何があったのかは語られることはなかった。

 

(終)




別タイトルは『純真の使徒2』。
ダイ凄くいい子なんですけど、そういう方面をどこまで出して良いか迷います。興味があるほうが健全なんだとは思うのですがね。


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番外編 遺産

アニメでメドローア初登場の記念に。

戦中戦後の、あるひとコマです。


 

「え…何で?」

「何でもなにもねぇ。これは覚える必要はねえ。」

 常になく不機嫌な顔で、呪文の契約の魔法陣を師匠と慕う老人は消した。砂浜に描いた陣を足で踏みにじる念の入れようである。

「でも、師匠は使えるんだろう?」

「……契約はしたが、使った事はねぇよ。」

 それなら、とポップは食い下がる。

 決めたのだ。

 極大消滅呪文を伝授されたその時に。

 体調の悪さをおしてでも自分の求めに応じて、かの呪文を託してくれたその時に。

 師匠に出来る呪文は全て覚えてみせると。

 師匠のようになってみせる、と。その大魔道士としての教えを全てこの身に受け継いでみせる、と。

 

 その覚悟の裏にあるのは優しさと寂しさだった。言う方も聞く方もわかっている。

 師弟の間に残された時間は少ない。

 

 ポップが自分を安心させたいと思っているのが、ひしひしと伝わってくる。

「……だからこそ、だ」

 マトリフは目を細めて年若い弟子を見やった。

 ああ、眩しい。若さも熱意も、将来性も、可能性も…希望も。

 全てがいま、この、世界が大魔王の手に落ちようとしているかつてない危機にあって、まばゆい。

 数少ない友人と言える存在だった、あの大勇者が遺した弟子たちは皆そうだ。

 だが…自分にとっての弟子は、ただ一人この少年だけだ。

 こいつだけでいい。

 だからこそ、この呪文は覚えて欲しくない。

「ポップ、お前の決意は嬉しい。だが、その気持ちだけで充分だ。」

「師匠…」

 

「オレは、お前に正しいものだけを伝えたい」

 

 そんな目で言われたら、引き下がるしかない。

「…わかった。それなら師匠、理由だけ教えてくれよ。」

 使えるかどうかに関わらず、様々な呪文を契約だけでもしておいたほうが良いと言うのは当然のことだ。戦術の組み方だけでなく戦略の範囲までことは及ぶ。それでもこの傍若無人な師が、契約すら禁じるというのは余程のことだ。

 ならば、自分はその理由を知っておくべきだ。

 いつか、自分が他者へ伝える立場となった時に、大魔道士マトリフが禁じた魔法…契約できた本人が使わず封印したというその理由は、きっと伝えねばならない事なのだから。

 

 マトリフはポップの正しさを認め、溜息をついた。

 

 

 

 ザキ系はお前には無理だからだよ。どう考えたって相性が悪い。

 本来は神官とか高位の僧侶が習得した呪文だ。彼らは、神のための正義を基とした者だ。だからまだ習得が出来る。揺るぎない信仰ってものを持っているからだ。

 いいや。お前に足りないのは破邪の力とかじゃねえ。

 その本、契約の魔法陣は載っているが、何と契約するかわかってるか?

 死霊だよ。

 この世に未練を遺した者の声を聞くんだ。恨みつらみ悲しみをな。

 …馬鹿野郎が。そんな顔するから相性が悪いって言ってんだよ。

 ああ、可哀想だな。そうさ、みんな生きたかったんだ。

 なあ、ポップよ。お前は若い。まだ十五だ。どっかの高僧がこの世の幸せを詠んだ歌にな『親死ぬ子死ぬ孫死ぬ』ってのがあるんだよ……そうさ。歳の順に死ねれば、まだ幸せだよな。

 ……歳喰ってから死んだ奴や、死因が自業自得な奴なら、まだこっちも冷静に話を聞けるだろうよ。だが、世の中そうじゃねえのはわかってるだろ……。

 小せえ子どもが「ママに会いたい。パパに会いたい。」って泣きついてくるんだ。一人きりの我が子を遺して死んだ女が嘆いてくるんだ。我が子を抱く前に戦死した奴や、冤罪で惨たらしく殺された無実の奴もいたな。

 お前は優しい。きっと一人一人の死霊と関わり、話を聞き、同情しちまうよ。仇を討ってやりたいなんて考えるかもしれねえ。

 そしたらもう、契約は失敗だ。

 奴らはお前を決して離さねえ。心を寄せてくれる者に縋りつき引きずり込み、そうして仲間になってほしいと望むのさ。

 わかったな。お前には無理だ。…オレみたいな傲岸不遜で愚かなジジイじゃねえとな。

 

 

「オレは、お前が、敵であろうと死を呼ぶ姿なんざ見たくねえ――いい笑顔でいろ。」

 それは、どこまでも優しく哀しい、師の笑顔だった。

 

     ※※※

 

「マトリフおじさん…そんな事があったのね。」

「ああ…ほんと色々と教わったよ師匠には。」

 恋人との何気ない会話で使える呪文について聞かれ、ついつい話し込んでしまった。

 もう随分前に不帰路へと旅立った師は、恋人にとっては両親の大切な仲間だ。互いにとっての共通の善き先達だった。

「私も、ポップがそんな呪文を使ってるのは…見たくないわ。おじさんが遺した呪文の方がカッコいいもの。」

 小さな笑みと共にマァムに言われ、ポップは肩を竦める。

「まあ…うん、師匠の呪文ってどれも大呪文だしなあ…」

 ベタンもそうだし、メドローアだってそうだ。一撃で大勢の敵を殲滅できる分、消費する魔法力も凄まじい。話に上がったザキ系呪文などとは比べ物にならない。それを言うと、マァムはゆるく頭を振った。

「そうじゃなくて…。呪文を喰らう相手にすれば、押しつぶされても、消し飛んでも…死霊にとり憑かれても、嫌なことに変わりはないわよ?」

「…そりゃそうだ。」

 命のやりとりなのだ。こちらから仕掛ける事はまずないとは言え、戦闘となれば殺し殺される、そんな世界を自分たちは生きている。

 ただ、その方法を選ぶならば、死霊の嘆きを安全な位置で傲然と聞くよりは、乾坤一擲の意志で自ら敵を射る方がいい。それだけのこと。

 

「ええ。それに私は、あなたがあの光の矢をつがえる時、その…結構……カッコいいと思ってるから。」

 

 ぽそりと呟かれたそれを、ポップは聞き逃さなかった。

 あ…カッコイイって、呪文もだけど、呪文を唱えるオレがってこと?

「嬉しいこと言ってくれんじゃん! ん~~師匠に感謝! ますます大事に使わねえとな…!」

 にぱっと笑うと、マァムは赤くなって――表情を変え立ち上がる。ポップは幸せを噛み締めつつも、無粋な来訪者らに溜息をつき、周囲に視線を走らせた。

「やれやれ、またかよ。懲りねえなあアイツら…。いっそ、メドローアで道作るか?」

「出来る?」

「ああ…。師匠の技だぜ。任せとけ。」

「ええ。頼りにしてるわ、ポップ。」

 気を高め敵の牽制をしてくれる恋人の信頼を胸に、ポップは魔法力を練る。

 弓手に炎を。馬手に氷雪を。

 光の矢を引き絞り、ポップは笑う。

 多くを遺してもらった。呪文も、心構えも。大きな愛も。

 あの人が安心できるよう、自分は…自分たちは今日も間違えず、いい笑顔でいよう。

 

 この魔法は、その為の嚆矢なのだから。

 

 

 

(終)

 




師匠とポップの絆、大好きなんですよ。


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レベルアップ

かなり初期に書いたお話。

最近、令和アニメ版でチウが魅せてくれますね。

というのもあって、UP。


 キラリ

 

 空の一点が光った―――と思った次の瞬間には、舞うように軽やかな足取りでその場に降り立った二人がいた。

 ふわり、と白い羽が彼らの周りに輝いて、霧散する。

 キメラの翼使用時の幻想的な光景に一瞬見惚れたダイは、けれどすぐに意識を来訪者に戻した。彼にとって今来た二人に会うこと以上に、重要かつ喜ばしい事はない。

 

 

 砂浜に着地した二人のうち、黒髪の青年がまずダイを見つけ「よう」と手を上げた。

 青年の声に、横で荷物を降ろしていた女性も振り返り、笑顔になる。

「約束どおり来たぜ、ダイ」

「お招きありがとう」

 

「ポップ! マァム!」

 

 駆け寄り、二人に抱きつく。

 

 ダイは前回二人に会った時に頼んでいた。

 パプニカで会うのも楽しいけれど、たまには自分の家にも遊びに来てくれ、と。

 地上に帰還した後、ダイは故郷のデルムリン島に帰ったが、ポップとマァムの二人はそれぞれの家に落ち着くのではなく旅空の下にあったため、簡単に会いに行くという事は出来なかった。

 週に一回パプニカに行くようになった今でも、ポップ達の予定が合わねば合流する事は難しい。それならば、彼らの空いた時間に島に来てもらう方が確実だった。

 

「来てくれたんだ! 今日はゆっくりできるの?!」

 

「そのつもりよ。ねぇ、ポップ?」

「ああ。今はそんなに急ぎの患者もいねぇしな」

 しばらく厄介になるぜ、との親友の言葉にダイは破顔した。

「やった! なぁ、また旅の話を聞かせてよ!」

 

 一旦置いた荷物を、ポップとマァムはもう一度担ぎなおす。木箱の中には島では採れない野菜や果実、それに書物が入っているらしい。麻袋には、衣類とダイの祖父ブラスが以前にポップに頼んだという各種の薬など。

 当然と言った感じで、前者を持ったのはマァムであり、ポップは麻袋をひょいと肩に引っ掛けた。

 ダイの実家はすぐ近くだ。立ち話をするよりも家に行った方が良い。三人は歩き出した。

 

「そうだ、この前くれたハーブ、気に入ったから案内してくれよ」

「いいよ。新しい薬に使うの?」

「うんにゃ。薬よりはお茶だな。それで……」

 

 言葉を途切らせたポップの視線の先を、ダイは見た。向こうの岩の上に小さな影が乗っており、こちらを見ている。

 

 

「マァムさん!!」

 

 叫んだ小さな影は、人の形をしていない。一般に『大ねずみ』と呼ばれるモンスターの姿をしていて、違うのは、裸ではなく武道着を身につけている事だ。それこそネズミのすばしこさで岩から飛び降り、大きな耳が後ろに倒れそうなくらいの速さで一直線にこちらに走ってくる。動きにつれて長い尻尾がぴょこぴょこ揺れるのが、やけにコミカルだ。

 

「まぁチウ! 久しぶりね」

 

 マァムは微笑んだ。大ねずみ…もとい空手ねずみのチウは、彼女にとって拳聖ブロキーナの下で共に修行した弟弟子だ。

 

「は、はい!! お久しぶりです、マァムさん!」

 

 上気した顔でチウはマァムを見上げる。

 

 実際、随分と久しぶりなのだ。彼らが前に会ったのはダイが地上に帰還した時のパーティーの席だ。それからもう、長いとは言わないが決して短くもない時間が流れている。

 チウは基本的にデルムリン島から動かない。獣王遊撃隊のメンバーが皆、島とその周辺に居を構えているのもあるだろうし、居心地が良いのもあるだろう。他にも理由はあるかもしれないが……彼がそれを口にする事はなかった。

 

「ほんと、久しぶりだわ。元気にしてた?」

 

 マァムの言葉にチウは胸を張る。

 

「もちろんですよ! 僕をそこのひ弱な魔法使いと一緒にしてもらっては困ります!」

 

 また始まった…。それがダイの心の声だった。

 

 チウがマァムに惚れているのは誰でも知っている。それと同時にポップに対抗心を燃やしている事も誰の目にも明らかで、事あるごとにポップを貶める喋り方をするのは有名だった。

 さすがにパーティーの席では聞かなかったが、どうやら3年経ってもそれは変わっていないらしい。もちろん軽口の域を出ないのがほとんどなので、皆それほど気にしていないが、言われている本人としては嬉しいはずがないだろう。

 

 マァムも同じ思いなのだろう。チウと話しながらも少し困った顔になっている。

 

 何となく怖々とした気分で、ダイは、チウ言うところの『ひ弱な魔法使い』の顔を見る。多分ムカついた顔をしている…いや、絶対に。

 

 

 だが、ダイの予想は綺麗に裏切られた。

 

 

「そんな重い荷物、僕が持ちますよ。まったく…男のくせにマァムさんのような女性にこんな物を持たせるなんて」

 

 更に言葉を重ねるチウにも、ポップの表情は変わらない。どこまでも穏やかで、にこにこと笑っている。

 しかも、マァムから箱を受け取って、踏ん張りながらそれを持ち上げたチウを見ながら、

 

「おー。すげぇなチウ。ほんと力持ちなんだな。助かるぜ」

 

 などと笑顔で言うのだ。

 今までのポップならありえない態度に驚いたのはダイだけではなく、チウも同様だった。

 喰ってかかってくるかと思っていた相手に賛辞を送られては、誰だって調子は狂うだろう。

「ふ……ふん! これくらい当然だ」

 顔を背けて、ダイの家まで荷物を運ぶ。その背中に、いくつもの疑問符が浮かんでいるのが見えるようだった。

 

「なんか…ポップ、変わったね……」

 

 こっそりとマァムの側に行って、ダイは呟いた。

「そ…そうね」

 何故か、はにかむような笑みを向けるマァムに、ダイは首を傾げる。

 家の中ではポップは相変わらず笑顔のまま、持っていた袋を開けて中身を出していた。

 

「えーーーっと…、これが特やくそうだろ。これがいやし草で…。ああ、あった。あった!」

 

 取り出したものは、少し厚みのある円盤で、きっちりと紙で包んである。「ほい」とポップはそれをチウに軽く投げ、受け取った側は「え?」と目を丸くした。

 

 

 

「土産。山羊のミルクで作ったチーズなんだ。結構美味いぜ。チーズ、好きだろ?」

 

 

 

 え? なに? 今なんて?? 土産? 誰が誰に? ポップが? チウに?? ほんとに? 冗談とかじゃなくて? だってポップだよ?? チウにだよ?? うわー爽やかな笑顔! 何があったのさ?! あ、実はこの二人かなり仲がいいとか? オレが知らないだけ? でもそんな感じじゃないよね。チウ硬直してるもんね。じゃあどうしてポップそんなに親切なのさ? 女の子になら解るけど「野郎相手にプレゼントなんざするか!」とか言うのがポップじゃなかった? え? ほんとに今なんて? お土産って言ったんだよね?

 

 

 

「あ…………うん………………どうも………………………」

 

 

 ポップの台詞を聞いたダイが、頭の中で無限ループに入りかけた時、ようやくといった態でチウが返事をした。かろうじて言葉を思い出した、という感じではあったが。

 

「どういたしまして」

 

 固まってしまったチウをよそに、ポップはブラスに薬を渡しに奥へ消えた。

 入口に立ったまま、同じくダイは呆然とそれを見ていた。3年前と変わらないと思っていた親友の、急激に成長した部分を見せ付けられた気がして、驚きが胸中を満たしていた。

 

「ポップ…大人になったなぁ……」

 

 ダイが呟いた途端、がたんと重い音がした。

 箱の中を整理し始めていたマァムが、手にしていた本を落としたようだ。

 

「大丈夫、マァム? って……どうしたの?」

「どっ…どうもしないわよ??!」

 ぶんぶんと首を振るマァムの顔は、何故か真っ赤で。

「え…でも、顔がめちゃくちゃ赤いよ……?」

「そ、そう?! あっ! ほ、ほら! そう! この島は暑いから。だからよ!」

 

 

 

 …どうやらこれ以上追求してはいけないらしい。

 ダイはそれ以上問いを重ねるのを諦めた。

 ベホマスライムの如く真っ赤になるほど必死な様子のマァムに、遠慮したというのもある。けれど、まさか竜の騎士の本能というものでもないだろうが、何となくこれ以上を踏み込むのに躊躇する部分が心のどこかにあった。

 

 

 ――多分、まだ知らなくてもいいことなのだろう。うん。

 

 

 少々無理やりに自分を納得させて、ダイはマァムの荷物出しを手伝い始めた。

 

 

(終)





原作から三年後の世界を想像して書いてますので、まあ…皆成長して大人になってるよね、と。

ダイ大世界は十代後半で親になってもおかしくない世界なんですよね……。アバン先生、ほんまフローラ様に感謝しなさいと言いたい。普通は待ってくれないよ?

だって女王陛下だよ? 王統とか考えると凄いプレッシャーだっただろうなあ……。しかも戦争が身近にある世界。
種をまいとけば、王が戦争で散った後も後継者候補が複数得られるだろう男王と違って、女王は自分で産まねばならないわけだから後継者候補が一人(低い確率で二人)しか得られないうえに、出産は命懸け。しかも戦争で代表として立たねばならない。

ダイも先生もマジで頑張れと思います。
そしてポプマは幸せになってくれ。他のキャラも皆、幸せになってくれ。


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策士

ポプマの日常の話です。

これを投稿する前に、以前投稿したものを誤って再投稿してしまいました。謹んでお詫び申し上げます。
いまの展開のアニメ見てから投稿するの駄目ですね。メンタルやられるわ…原作知ってるのになあ…。


 中天に太陽が輝く時刻、温められたレンガ道を軽い足取りでその2人は歩いていた。

 

 ベンガーナの街は、いつ訪れても活気がある。大戦の被害をほとんど受けなかった事もあって、町並みも美しい。豊かさが肌で感じられるこの王都は、買い物に来た人々の財布の紐を容易く緩めさせるのだ。

 

 そんなベンガーナ王都だが、普段はポップのみが登城する為に訪れ、マァムは留守を預かっている事が多かった。ポップとマァムが2人揃って王都にやってくるのは久しぶりだった。

 デパートには行かず、その辺りの商店を廻っていた2人の鼻先に、ふんわりとあたたかな香りが漂う。

 

「あら、この店…」

「ん?」

 

 マァムは通りかかった店の前で立ち止まる。丁度それは香りの源泉であったらしい。

 看板には大きなパンの絵がいくつも描かれているが、それを見なくとも食欲を刺激されるあたたかな匂いを辿れば、この界隈の人々は皆ここでパンを買って行くだろう。

 

「ああ、ここか」

 

 明るいポップの声に、「え?」とマァムは振り返る。知っている店なのかという彼女の問いに、ポップは笑って頷いた。

 

「この辺じゃ有名なパン屋だよ。ほら、お前ぇも食べたことあるだろ。俺がベンガーナに行ったら必ず買って帰るパン。あれはこの店のなんだ」

 

 言われて、よく見れば、確かに彼女も看板に書いてある店の名は見たことがあった。ポップが土産に持ち帰るパンの袋に、いつも判で押されている店名だ。ここで買っていたのか。

 

「そうだったの。じゃあ今日も買って帰りましょう…よ……って、凄い人ね」

 

 今更ながらに、マァムは店内を見てその客数に驚いた。さして広いとも言えない店の中に、20人はいるだろうか。

 老若男女―――客層は様々だが、皆が皆この店の味のファンなのだろう。目当てのパンを取るために、他人を避けながら必死でトングを持つ手を伸ばしている。カウンターではちょっぴり太目の小母さんが、並んだ客から忙しそうに代金を受け取り、お釣りを数えていた。奥で新たに焼きあがるパンの熱気もあるだろうけれど、それよりも賑やかさが原因で、みんな汗を浮かべている。

 和気藹々というには、ちょっとした競争心を孕んだ店内の喧騒に、少しマァムはたじろいだ。 ウィンドウ越しに見えるのは彼女の好きな苺クリーム入りのパンだが、今にも売り切れそうだ。けれど、先客を掻き分けてあれを買うのはちょっと気が引ける。

 

 お気に入りのパンは諦めるつもりで、「後で寄りましょう」と横に立つ恋人に苦笑して告げる。

 だが、ポップはへらりと笑う。ひと言残して、彼は混みあっているパン屋のドアを引いた。

 

「大丈夫。常連(オレ)に任せとけって」

 

 

 

 

「また来ておくれよ、ポップちゃん!!」

 

 待つこと2分。ポップはすぐに店から出てきた。しかも小母さんの見送りつきで。

 

「もっちろん! いつもありがとなー!」

 

 ドアを開けた格好のまま、にこやかに手を振る丸い女性に、ポップは振り向いて、両手に抱えるパンの袋を目の高さまで持ち上げた。小母さんは、恰幅のいい身体をゆさゆさと揺らして笑っている。

 呆気にとられて2人を見るのは、マァムだけではない。店内の他の客も同様だ。

「んじゃ、行こうか。マァム」

 店内の視線は、どこ吹く風と先に歩いていくポップだけでなく、彼の連れであるマァムにまで注がれ始めた。ガラス越しとは言え、キツイ。かなりキツイ。彼女は小走りでその場を去った。

 

 角を曲がり、振り向いても完全にパン屋が視界から消えるようになって、ようやくマァムは自分でも知らずに詰めていた息を吐いた。

「どした?」

 のほほんとした声が頭上から降ってくるのが、なんだか恨めしい。

「お、あそこで一服しようか。…焼きたての方がいいと思って、明日食べる分と別に、もう1個買っといたぜ」

 何という用意のよさ。

 ポップはにこやかに先にある公園を顎で示した。マァムはもう頷くだけだった。

 

 

 きらめく噴水を正面にして、2人はベンチに並んで座った。

 先に買っておいた日用雑貨を脇に、ポップは紙袋から焼きたてのパンを二つ取り出す。

「ほい、苺クリーム」

「…ありがとう」

 チョコレートを練りこんだクロワッサンを美味しそうに齧る恋人の横顔を見ながら、マァムはパンを千切る。

 美味しい。確かにこれは焼きたてでないと味わえない。しかし、棚に残っていたのはもう僅かだったはずだ。どうやってあの短時間でポップはこうもしっかり買って来られたのか。

「なんだよ、さっきから?」

「あ…うん。どうやったのかな…って」

 まさか彼に限って、肩書きを使って他人を蹴散らすわけでもなし。もしそうなら、店の小母さんのあの笑顔は説明がつかないだろう。

 それを言うと、ポップはパンを口に入れたまま、にまっと笑った。

 

「呪文を使ったんだ」

「呪文??」

「そ。特に、ああいう小母ちゃんにめちゃくちゃ効く呪文」

 

 

 

「いらっしゃい! …あら! ポップちゃん、ひさしぶりだね!」

「こんちは。うわー相変わらず繁盛してんなぁ」

「おかげさまでね」

「こりゃあ、パンを取るのも大変そうだな。いつもの奴買いたかったんだけど、出直すよ」

「おや、そうかい?」

「うん。『お姉さん』のパンを買えないのは残念だけどな」

 

 

 マァムは脱力した。

「―――相変わらず、口が巧いわね」

「おや」

 ポップはやはり、へらりと笑う。

「策士と呼んで欲しいね」

 悪びれずに言って、彼は言葉を続ける。

「誰も傷つかないんだし、いいだろ。しばらくは他の客も小母ちゃんの事を『お姉さん♡』って呼ぶだろうし。小母ちゃんは喜ぶし、客も早く買えてラッキーだし、良いことずくめだろ?」

「…はいはい」

 呆れた声で返事をすると、「なんだよ」とポップは肩を上下させた。

 

「硬いこと言うなって。ほら、んな顔してたらせっかく可愛いのに台無しじゃねぇか」

 

 マァムは今度こそ盛大な溜息をついた。言った端からこの男は。

 

「だから! そういうお世辞が、口が巧いって言ってるのよ!」

 

 

 けれど――

 

 

「…は?」

 

 

 ――眉根を寄せて睨んだ彼の顔は、あまりにもきょとんとしていて。

 

 

 

 

 

 

 

「俺、お世辞なんて今は言ってねぇけど…?」

 

 

 

 

 

 

 

「…………………策士なんだから…」

 

 ぽそりと消え入りそうな呟きは、うつむくマァムからのもの。

 

「?? おう。サンキュ??」

 

 クリームに使われた苺よりも紅く、頬を染めた彼女を見ながら、ポップは不思議そうにクロワッサンを飲み込んだ。

 

 

(終)

 




(前書きにも書きましたが、再度。)
これを投稿する前に、以前投稿したものを誤って再投稿してしまいました。謹んでお詫び申し上げます。


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実るほど

ジパングにて、秋のお話。


 目の前に広がるは一面の黄金色。

 さわさわと吹く風に、頭を垂らした稲穂が重たげに揺れた。

「なんて綺麗なの……」

 マァムは独りごちた。

 ここジパングでは、畠ではなく田圃と呼ばれるものが一般的で、麦ではなく『コメ』というものが主食だ。マァムの郷里であるロモスは世界一の農業国であり、いたるところにも小麦畠や野菜畠が広がっているが、その彼女にしてジパング地方を訪れるまで見たことのなかった植物である。

「絶景だな。さっすが黄金の国!」

 横に立つポップが、軽く口笛を吹いた。

「黄金の国?」

 マァムが振り向くと、ああ、とポップは頷いた。

「旅行記に書いてあったんだ。『秋のジパングは黄金の国だ』ってな。読んだのは、前にここに来た後だったんだけどさ」

 微笑むポップの黒い瞳は、まるでちょっとした宝物を見つけた時のようで、マァムの脳裏には『男の子』という単語が浮かんだ。別に恋人のことを子供っぽいと言いたいわけではない。

 

「ジパングの事が載ってる旅行記なんてあるのね」

「おう。温泉のこともそれに書いてあったんだぜ」

 

 堤の向こう、案内してくれたヤヨイが二人を呼んだ。

 ダイを探す旅の過程で訪れたこの土地で、二人はヤヨイと出会い親しくなった。彼女はいわゆる世話焼きな性格で、その後二人がジパングを訪れるたびに案内や宿泊の手配などを買ってでてくれる。

 今回も二人は彼女の厚意に甘え、宿の手配を頼んだのだ。何しろここは異境。文化も風習もガラリと違うのだから。

 

「ポップ殿、マァム殿、こちらです」

 にこにことヤヨイが手を振る。簡素な貫頭衣の下につけた、薄紅の裳がふわりと風に揺れた。かつて巫女の館に仕えていた頃の五色の裳ではないけれど、その簡素さは彼女の美しさを却って引き立てていた。

「明るくなったよなぁ、ヤヨイちゃん」

「そうね。…でもあの状況じゃ沈んでて当然だわ。本当に間に合って良かった」

「…だな。あ~~ったく!! 嫌なこと思い出させちまった。悪ぃ」

 ポップが掌でその顔を覆った。喉の奥で小さな唸りが鳴る。不快なものを押し殺すときに、よく彼が見せる仕草だった。その唸りの原因は、マァムにも十二分に心当たりがある。

 

  老いた巫女とその取り巻きの老人衆

  身寄りのない、若く美しい下仕え

  始めから結論ありきの評定

  「尊い犠牲」という名の踏み台

  例年のこととて誰もが諦めて……

 

「いいのよ。…彼女だけでも助けられたんだし、それを喜びましょう」

「ああ」

 初めてジパングを訪れた時のことを、二人は思い出していた。

 

 大戦後、地上を守って行方知れずとなったダイを探す旅でのことだ。竜の伝説があると聞き、辿り着いたのがジパングという小さな島国だったのだ。

 実際には竜ではなく「龍」の伝説だった。

 そして、その伝説を利用する形で、酸鼻を極める行為が行われていた。ヤマタノオロチ――ポップたちの認識ではヒドラと言われる系統の魔物――が国に巣食い、毎年若い娘を生贄に捧げさせていたのだ。

 いや…捧げさせていたというのは少し違うかもしれない。ヤマタノオロチと名乗っていたその魔物は確かに生贄を要求したけれども、見返りに富――ジパングで珍重される鉱物や田畠の実りなど――を与えていた。

 最初こそ民は、その理不尽さに怒り、嘆き、阻止しようとする者もいたらしい。けれども、生贄の儀式が数度続き、見返りが与えられると、いつとはなしに誰も彼もが口を噤んでしまったのだという。

 ポップたちが訪れた時には、生贄の事に誰も表立っては反対していなかった。まるで税や賦役と同じような義務であるかのように、人々はそのおぞましい行為を受け入れていたのだ。

 一般の民からすれば、どう足掻いても変えられない絶望から、痛みを受け入れるしかなかったという面もあるかもしれない。そのことにマァムは憐みを覚えたし、ポップは苛立ちながらも同情をした。

 

 だが、巫女とその取り巻きについては別だ。己や身内からは決して犠牲を出さずに生贄を選ぶ立場の彼らには、怒りしか覚えなかった。

 

 よそ者である二人を、それでも親切に世話を焼いてくれたヤヨイは、神殿の巫女に仕える下仕えだった。二人が、地上を救うために黒の核晶の爆発を喰い止めて行方不明になった勇者の少年ダイの捜索のための旅をしていると知った彼女は、宿の世話だけではない、『龍神』の伝説が残る社や村に、仕事の合間を縫って案内してくれた。全く違う習俗に戸惑う二人を馬鹿にすることなく、どんな基本的な質問にでも快く答えてくれた。

 この地には、大魔王バーン打倒の旅で訪れたことはないし、そもそもほとんど島の外とは交流を持たない地区ゆえに、ダイのことも、地上の危機のこともほとんど伝わっていなかったというのに、何故そんなに親身になってくれるのかというポップの問いに、ヤヨイは答えた。

 

『だってお二人が必死に探しておられるのでしょう? こんな島国にまで手がかりを求めるくらい…それだけ大切な人なのでしょう?』

『ならばその人だって、お二人に会いたいと思っておられる筈です。私だったら、きっとそう思いますから』

『私、そういう人って放っとけないんです』

 困ったときはお互い様ですよ、と晴れやかに笑う乙女は、ポップとマァムの心に強い感動を覚えさせずにはいられなかった。

 

 その彼女が生贄に選ばれて、何故二人が大人しく立ち去ると思ったのだろう。

 嘲笑う取り巻きの老人たちを叩きのめし、地下の祭壇に向かったポップとマァムが見たのは、祈りを捧げて去るはずの巫女が、ヒドラに変貌していく場面だった。

 恐怖よりも、敬愛していた巫女の正体を知ったショックで、ヤヨイは祭壇の上で呆然としていた。神の使いと信じていた巫女王ヒミコが、生贄を喰らって生き続けるヤマタノオロチそのものであったとは…! 生贄を選ぶ時の苦渋に満ちた表情も、先ほど地下祭壇への入り口で涙ながらに己にかけた別れの言葉も、全てが演技だった。昨年の生贄は同じ下仕えの友人だった…その友を食べた口で己を慰撫し、神への祝詞を嗤いながら詠んでいたのだ――その絶望ゆえに乙女は祭壇にくずおれた。

 無言で流される涙を、無言の背中で受け止めて、ポップとマァムは静かにヤマタノオロチと対峙した。

 

 

 

「皆さん、もう温泉にお入りになってますよ」

 堤を上ると、ヤヨイは街の方を指さした。ポップたちが定宿にしている街一番の宿はハタゴと呼ばれていて、建物の中にはサイコロ場という賭場や、土産物屋、温泉もある。中でも二人が気に入っているのが温泉で、沐浴とサウナ風呂の普段とは全く違う『温かい湯につかる』という文化が異国情緒をたっぷり感じられて好ましいのだ。

 ダイが帰還してからは数度、レオナやヒュンケルといった旅の仲間も連れて訪れており、いつも喜ばれていたこの温泉宿に、今回はマァムの希望でいつもとは違う人物を招いていた。

「ヤヨイちゃん、あの温泉は腰痛に効くかしら?」

「ええ! もちろん!」

 マァムの問いにヤヨイは大きく頷いた。

「そのかみに法師さまが開かれた湯は、必ず身体の痛みを和らげてくれます。飲んでも健康に良いんですよ!」

 ジパングには、大昔に高名な僧侶が開いたという温泉が各地にあるらしい。民はかねてよりその恩恵にあずかってきた。ヤヨイのお国自慢に二人も笑顔になる。

「そりゃいいや。老師も今度こそ持病が治ったりしてな」

 ひひ、とポップが笑う。マァムが、もう! と彼の脇腹を肘で小突いた。

 マァムの武闘家としての師匠であるブロキーナ老師は、実に珍しい病に侵されているのだ。「おしりぴりぴり病」「ひざがしらむずむず病」「くるぶしつやつや病」等々、聞くたびに部位の変わる奇病である。ちなみに現在は「腰まわりちくちく病」だ。

 そんな気の毒な持病のある老師に、たまには師匠孝行したいというマァムの希望で、老師と、一緒に暮らしているチウやヒムといった面々を誘っての今回の小旅行である。

 宿に戻ったら、自分たちも温泉に入ろう、夕飯は一緒に街に繰り出そう……そんな話をしながら、三人は旅籠へ向かった。

 道すがら、ポップとマァムは一度だけ田圃を振り向いた。

 

 広がる稲穂の海は、黄金色に輝いてさわさわと鳴る。生贄などなくとも、努力さえすればこの実りを得られるのだ。――何故、そのことに気付けないのだろう。何故、人々は間違ったのだろう。

 

 

 

 

 

「温泉はどうでした、老師?」

 廊下をぺたりぺたりと歩いていた老人は、愛弟子の声に振り向き莞爾として笑った。

「いやあ、実に気持ちの良いものじゃったよ。最近ずっとデルムリン島に住んでおったから、たまには寒いところの方が良いなんて思っておったもんじゃが、湯に浸かるというのは疲れがとれるものなんじゃなぁ」

 呵々と笑って

「この年齢まで色んなことを経験してきたが、まさか素っ裸で他人と湯に浸かって語り合うのが、ああも楽しいことじゃとは知らなかった」

 長生きはするもんだね。との言葉にマァムは微笑んだ。

 常には考えられないほどの高齢であるブロキーナ老師は、体内で気を練る武闘の達人だ。そのため年齢の割にはとても健康で動作もキビキビとしている。

 けれどそれは、若いという事ではない。

 大魔宮での戦いは老師の身体にかなりの負担を強いた。若ければ溢れる体力で自然と補えるような事が、老師の身体には小さな無理として次第に蓄積していくのだ。デルムリン島に大戦後移り住んだのは、もちろんチウやヒムといった人外の仲間のためもあったろうが、彼自身の体調を考えて温暖な地域が良いということもあったろう。

 老師自身は、老いの苦しみを他人に見せようとはしないし、愚痴も言わない。そのことが逆にマァムには気がかりだった。

「気に入ってもらえて良かった。なかなかお誘い出来なくてすみませんでした」

「なんの」

 老師は、ほほっと軽い笑いを漏らした。

「お主もポップ君も忙しい身じゃ。それだけ皆に必要とされていて、その期待に応えているのが手に取るようにわかるよ。ワシのことなぞ気にしなくても良い」

 くるりと元の方に向き直る。

「年を重ねると、若い者の活躍が嬉しいもんだよ。それも弟子なら尚更だ。お主やチウを見ておると、自分の撒いた種がきちんと育って、立派な枝葉をつけて花を咲かせているのが胸にグッとくるでな」

 ひらひらと手を振り、老師は笑んでまた歩き出した。

「ワシは幸せ者じゃよ。有り難うな、マァム」

 言うべきことは全て言った――そんな笑みだった。

 

 

 

 夜、出かけた街の酒場で、ポップたち一行はジパングの様々な郷土料理を皆で堪能した。さすがにこんな遅くまで既婚者であるヤヨイに付き合ってもらうわけにはいかないので、一軒目でたらふく御馳走させてもらって別れたわけだが、その後、二軒目からは飲み会である。

 滅多に食べられない珍しい料理に舌鼓を打ちながら、赤い紙のランプ(提灯というらしい)が掲げられた店を三軒もハシゴしただろうか。チウが慣れないサケに酔いつぶれ、逆にどれだけ飲んでも平気なヒムが「隊長さんをおぶって旅籠に戻る」と言い出したのを機に、ようやく飲み会はお開きになった。

 老師とヒム、チウのデルムリン島組と旅籠の廊下で別れたあと、マァムは前栽の紅葉にふと視線をなげた。

 

 篝火に照らされて、赤く色づいた葉が、それ自体が燃えるように輝いている。その輝きのまま、一枚がはらりと散った。

 

「あ…」

 思わず出た声に、ポップが振り向いた。

「どうした?」

「モミジが……ううん、何でもないわ」

 自分でも何を言いたかったのかマァムにはわからず、それゆえの「何でもない」だった。

「酔ってるのかしら、私? あんまり飲まなかったつもりだけど…」

「ああ、お前、飲まずに食ってばっかだったもんな。太っちまうぞお?」

「ちょっ…!」

 にやにや笑いながら腹をつまもうとするポップに、条件反射のように拳が出そうになるが、

「待て待て! さすがに宿を破壊するのはまずいって!!」

 こちらも条件反射のように飛びずさったポップは小さく叫んだ。

 「まったく…」とマァムは拳をほどく。もう幾十回と繰り返してきた彼ら二人のやり取りだ。この場に友人たちがいれば、さらに冷やかされたり煽られたりするのだろうが、旅籠の中はもう寝静まっていた。遠く賭場の声は聞こえるけれども、酔客の喧嘩も女衆(おんなし)の明るい喋り声も聞こえない、静かなものだった。

 居心地が悪いわけでもなく、さりとてこれ以上喋るのも、また黙って部屋に向かうのも妙だという空気が二人に流れた。

 

   はらり

 

 また紅葉が散った。

 視界の端にそれを捉えてマァムは知らず眉を下げる。恋人のそんな動作を見逃すポップではなかった。

「…マァム、何か心配事でもあるんだったら、聞くぜ?」

「……ありがとう。でも、心配事じゃ…ないの……。私自身、よくわからないから……」

 優しい言葉にマァムは微笑んだ。実際その通りだった。何が心に引っかかっているのか、彼女自身にもわからないのだ。ポップにそんなあやふやな事で相談に乗ってもらうのも悪いだろう。

 訝し気なポップを促し、マァムは部屋に戻った。薄紙を張っただけの木の扉を開け、アンドンの灯に既に布団が敷かれているのを見る。相も変わらず細やかなサービスだ。

 お茶でも飲んでから寝よう――そうぼんやり思ったマァムの耳に、ポップの声が届いた。

 

「マァム、来てみろよ」

「なあに?」

 

 呼ばれ、部屋の奥窓の方に向かう。窓の外には朱塗りの柵が設けられており、そのシンプルだが独特の色に、初めてジパングを訪れた時に目を瞠った、大鳥居を彷彿した。

 この宿最奥の部屋の位置から、窓の向こうは旅籠の裏だ。山に囲まれたこの国は、大きな建物は行政府である巫女王の神殿しかり、そのほとんどが山を背にして建てられている。朱色の柵は仕切り。人の住まいと外界との区切りだ。

 街の賑やかさとは裏腹に、静寂に包まれた山を月が照らしていた。

 その中腹まで、段々に続いてかすかに揺れているのは、あれは――

 

「田圃…?」

「ああ。棚田だ…綺麗なもんだなぁ」

 

 木々が風に鳴るのとはまた違う。音もなく揺れる気配だけが二人に届いた。

 暖かな中天の陽に、橙に沈む夕陽に、そして今は神々しく輝く太陰に照らされて、黄金色の稲穂は静かに頭を垂れて輝いている。照らしてくれる存在に感謝を捧げるかのように。

 

「実るほど頭を垂れる稲穂かな――かぁ」

 

「え?」

「ジパングの故事にあるんだってさ」

 人格者であるほど謙虚であるというその諺に、マァムはうなずいた。同時に、この国に巣食っていた正反対の人々の事を思い出す。老害という言葉は嫌いだが、そうとしか言い表せないような老人たちだった。

「あんな人たちだっているのにね……」

 ヤマタノオロチを倒した後、巫女王の取り巻きたちは一斉にこの地を追われた。曲がりなりにも彼らは知識層であり、統治のノウハウも知っていたので追放までせずともという意見もあったが、民に積もった怒りは深かった。幸いにも、彼らの下で働いていた者たちの中には清廉潔白の者もおり、その人たちを立てて何とかジパングは崩壊を免れたのだ。

 取り巻きたちの、生贄を選ぶ時の醜悪さと追放される時の情けなさは、慈愛の使徒といわれるマァムでさえも嫌悪感を抱かずにはいられないものだった。有限の時を生きる存在なら、ブロキーナ老師と彼らは同じ時間を過ごしてきたはずなのだ。ならばどうして長い時の間、何も学ばず何も実らせはしなかったのか。後世に恨みと怒りと嘆きだけを残すような、そんな生き方しかできなかったのか。

 若者の成長を喜び、老いを穏やかに受け入れ、その生き方そのものが憧憬の的になるような立派な人だっているというのに……

 ぽつりぽつりとそこまで話して、マァムは唐突に思い当たった。

 

(そうか…私は……)

 

 彼方で揺れる稲穂に、先ほどのモミジが重なって見えた。

 

(私はさっき…老師のことを考えたんだわ……)

「マァム?」

「…老師にね、言われたの」

 

 年を重ねると、若い者の活躍が嬉しいもんだよ。それも弟子なら尚更だ。

 お主やチウを見ておると、自分の撒いた種がきちんと育って、立派な枝葉をつけて花を咲かせているのが胸にグッとくるでな。

 ワシは幸せ者じゃよ。有り難うな、マァム。

 

「そっか…」

 ポップは身体を乗り出し、柵に肘をついて呟いた。

「老師はさ、『コメ』なんだな。マァムにとってさ」

「え…おコメ?」

「ん」

 棚田を指さし、ポップは続ける。

「俺たちは麦を食べるけど、植えた時も食う時も麦は麦だろ。呼び方なんて変わらねぇ。でも」

 ポップは言う。稲は違う、と。

 この国では稲の実を食べるが、その実のことをイネとは言わない。米という別の字で、別の名称を呼ぶ。他にも食べる穀物はあるけれど、それらとも扱いが違う。粟はアワだし稗はヒエだ。

「『コメ』は特別なんだ。だから呼び方が変わる」

 命の糧であり神聖なもの。何よりもその恵みに感謝をして食すもの。

 

 

 自分という存在を形成し、生かすもの。

   

 

「そうね…。本当に…そうだわ……」

 しみじみとマァムが言うと、ポップは鼻の下を一度こすった。

「ま、旅行記の受け売りだけどな…」

 瞑目し、彼はふうと酒の匂いのするため息をつく。

 月に面を上げたまま、伏せる瞳。

 だからわかってしまった。ポップがそんな態度を取るのは、マァムの知る限り一人しかいない。

 旅行記を書いたのは――

 

 

「――私たち、『師匠』に恵まれたわね」

 

 

「おう。――ウチのは助平爺だったけどな」

「あら、私のとこなんか、ビースト君よ?」

 くぐもった笑いが漏れたのは、どちらからだったろう。

 静かな夜、窓辺の二人を月は優しく照らし続けた。

 




ご近所が農家ばかりなので、山ノ内は現在脱穀と乾燥による埃で、喉と鼻が死んでおります。
治してくれる温泉ないかなあ……。


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いっぱい食べる君が大好き

以前、Twitterのポプマ好きさんがたの企画で「来いよ」の台詞を使ってポプマの話を書くというのがありまして、参加させてもらいました。


「マァム。」

 声のした方に視線だけ向けると、ポップが手招いている。

「……いい。」

 少し迷ったけれど、首を横に振った。だってこんな事で慰められるのは馬鹿らしい。

「こっち向けって。」

 溜息が聞こえた後、もう一度ポップが言う。それにも再度自分は首を横に振った。彼に頼らなくとも、この程度、自分で何とか出来ることだし、今迄も何とかしてきたのだ。

 反対側を向き、自分で自分を抱えて丸くなる。せっかく朝整えたシーツがもうぐしゃぐしゃだ。

 

 これではふて寝だ。わかっている。

 子どもみたいだ。わかっている。

 だけど、別にいいじゃない。

 アバンの使徒がふて寝をしちゃいけないなんて、どこの法律にもないわ。

 聖母とか自分で名乗ったこともないのに、大体私は独身なのに、勝手に決めないで。

 何が「イメージが崩れる」よ。

 私はあなたの勝手な想像のために、アバンの使徒になったわけじゃないんだから!

 

 脳裏に浮かぶのは、ロモス王宮の絵師アルトの顔だ。最近王宮お抱えの絵師団に入った新進気鋭の若い彼は、このたび製作が決定し完成すれば王立美術館に納められる予定の、『アバンの使徒達一人一人の日常』というテーマの絵画で、マァムの絵を一枚担当することになったのだ。

 そこで彼は数日マァムにくっついて取材をしていた。

ポップにも他の担当者がついていて、そちらはかなり年配の女性絵師マルカだった。彼女はそろそろ身体にガタがきているという事で、大魔道士ポップを描くのが王宮絵師としては最後の仕事だと言い、終わったら息子夫婦と孫と故郷の村で過ごすのだと笑っていた。ポップやマァムにとってマルカは祖母に近い年齢の女性で、その年齢の職業婦人らしく闊達で大らかな、まさに肝っ玉母ちゃんという言い方の似合う人だ。

 自分の担当もマルカのような人ならば良かったのに、とマァムは心の中で愚痴を零す。

 アルトはまだ十六歳。マァムが旅に出たのと同じ年齢だ。彼は歳が近いからか、アバンの使徒という存在を尊敬してくれているのは有り難いのだが、『自分と余り変わらぬ年齢で偉業を成し遂げた人々なのだから、きっと普段から素晴らしいはずだと思っている。』と初対面で言い放った。

 特に同国人であるマァムに対する尊崇の念が著しく、最初の挨拶からマァムは若干引いていたのだが……。

「マァム。」

 真後ろで呼ばれ、マァムはびくりとなる。

「…やっと振り向いてくれたな。ほら――」

 いつも二人並んで寝ているベッドだ。だからポップが自分と同じように横になっていても何の不思議もない。いつもと違うのは、自分の顔が酷い事になっているという点だ。

「――来いよ。」

 今更だけど見られたくなくて、だから、彼から見えないようにその胸に顔を押し付ける。

 ぽんぽん、と背中を軽く叩かれ、撫でられる。温かく広い掌の感触に、マァムは知らぬ間に詰めていた息を吐いた。

 

「…スリを捕まえても引っ叩いちゃ、乱暴でダメなんだって。」

「ちょっとくらい良いと思うぞ?」

「…お年寄りおんぶしたまま両手に荷物は、怪力すぎて違うんだって。」

「だったらあいつが持ってやれよなあ。」

「肉屋さんがくれた炙り肉に齧り付いちゃ、イメージが崩れるんですって。」

「何だそりゃ。食わねぇと力出ねぇだろが。」

「アルトは、『皆がそう思ってますから。』って言うのよ…! 聖母とか、聖女とか…私っ! そんなの! 知らない!!」

 

 寝転んで鬱憤を吐き出しながら途方に暮れるマァムが泣きやむまで、ポップはその背を撫で続けてくれた。

「…ごめんなさい。服、濡らしちゃって……。」

「気にすんなって。…ところで、週末マルカさんに料理振舞うんだけど、一緒にどうだ?」

「え?」

「オレのほうのデッサン終わったって言ってたから、御礼とか慰労とか兼ねてな。お前ぇも仲良いんだし、同席してくれよ。」

「………アルトさんは?」

「あいつはイメージ大事で進んでないんだろ? 取材したきゃ勝手にさせとけよ。」

 へっとポップは肩を竦めて笑う。結構悪い笑みだ。

「…いいのかしら」

「お前さ…誰のせいでそんなストレス溜めてんだよ? そもそも、あいつはお前の行動に文句つける立場にないんだぜ? マルカさんが何でオレらに好かれてるか、食事会見ればちっとは勉強するだろ。オレこれでもかなり、あの野郎に譲歩してんだぞ。」

 悪い笑みのまま、ポップは振舞う料理を上げていく。

「まず炙り肉だろ。鶏肉のささみ入れたサラダも良いよな。皆大好きチャーハン大量に作って、巨大オムレツも作るか。この二つは鍋から取り分けな。開拓村のリンゴ酒と、ネイル村から何かジビエ買わせてもらって……。」

 大半が肉料理な事にあからさまな意図を感じるが、素直に嬉しくて、マァムの顔は綻んだ。

 

「ありがとう、ポップ…!」

 

 その笑顔にポップは思う。やはりアルトに譲歩すべきではないかもしれない。

 自然体で笑うこの娘がどれほど綺麗かなんて、あいつに見せたくないのだが……

(まあ、いいか……)

 

「せいぜいアルトの奴、悔しがらせてやらあ!」

 

(終)




山ノ内はポプマ大好きです。


それはそれとして、
ヒュンケルは良い人だし、ポップはとても努力してるし、二人がマァムを大切に思ってるのも素晴らしいことだと思ってますが、
マァムの意見とか恋愛観はガン無視なんよな。
原作で視点が描かれてないとも言うけど。

マァムが全く別人を好きになったっていいのに、何なら恋愛なんて興味ない!独身万歳!でもええのよ。なのにあの男どもは「お互いに譲り合う」んだよな…。いつもモヤる。ま、三十年前のお話だからそれが王道なんですけども。


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歳の数だけ

節分の話です。
うちでは子どもと豆を投げて、イワシを食べます。
教えもしないのに、子どもは恵方なんぞを聞いてきて、巻きずしに齧り付いていました。ノドつまるよ?
大人は誰もそんな事せんのになあ。どっから教えてもらうのか。



 ダイは、旅の話を聞くのが好きだ。

 

「いいなぁ。…オレもジパングに行ってみたい」

 心底羨ましそうなその声に、ポップは吹き出した。

「そんなにオンセンが気に入ったのかよ?」

「だって、水浴びとは違うんだろ? 面白そうじゃん」

「デルムリン島には無いのか? あそこも火山があるんだし、オンセンだってありそうなもんだけどな」

 ダイは残念そうに首を振る。

「似たような泉はあるけど、熱すぎて誰も入れないよ」

 ポップは、なるほどと頷いた。

「そっか。じゃあ今度連れていってやるよ」

 

「ジパングって、面白い所なんだね」

 どうも先程までの会話で、ダイは随分と想像を掻き立てられたらしい。「まぁな」と応えながら、ポップは帳面をめくった。そこには、ダイを探す旅に出てからの日誌や、立ち寄った村や町の様子、竜に関する伝承など、様々な事が書き連ねてある。

「懐かしいわね」

 ポップの横から、マァムがそれを覗き込む。ジパングには彼女も同行したのだ。巫女が治めるその島国には、大陸では聞いたこともない独自の文化が息づいていて、毎日が驚きの連続だった。

「ねぇ、他には?」

 目を輝かせてダイが続きを促した。その様子はどこからどうみても普通の、15歳の少年だ。今の彼を見て、3年前に大魔王と死闘を繰り広げた勇者―――人ならざる力を持つ竜の騎士だと思う者などきっと存在しないだろう。

「うーん…そうだなぁ……他には…と」

 ポップは帳面に目を落とす。そのページは、ジパングの風習を月ごとに書き分けてあった。

「1月は色んな祭礼があるんだけど、逆に行事ってのは無いみてぇだ。『モチ・サケを飲み食いして楽しむ』…って書いてあるけど、どんな風に祝うのかもっとちゃんと聞いてくれば良かったなぁ」

 ポップがぼやいて頭をかいた。モチという単語にダイが首を傾げ、マァムが笑いながら説明する。

「へぇ…。今度行ったら食べたいな。ねぇ、じゃあ2月は?」

 どんな事をするの? とダイはポップとマァムの顔を、テーブルに身を乗り出しながら見やった。

 ポップは苦笑しながら、ダイにも見易いように帳面を大きく開ける。

 次のページをめくり自分の記述を目で追う彼の、表情がふと強張ったようにマァムには見えた。帳面に夢中のダイは気付いていないが、瞬きするほどの僅かな時間、ポップの口元は固く結ばれた。

(ポップ…?)

 マァムが恋人の様子を訝しむと同時に、ダイが口を開いた。

「え…と…セツ、ブン…?」

 対面から覗き込む格好のためか、ダイは聞き慣れぬ単語を読むのに苦労していた。視線で彼は親友に「あってる?」と問いかける。

 

 尋ねられたポップの黒い瞳は、とても柔らかな光を湛えていた。

 

「ああ。セツブンだ―――豆を…沢山用意してな、歳の数だけ食べて福を招くんだと」

 その言葉は、常のポップよりも少しゆっくりだった。……まるで、言葉を選んでいるかのように。

「豆を食べるの? 歳の数だけ?」

「そう。…あ、そう言やぁこの前、ひよこ豆を沢山もらったな」

 

 なぁ、マァム?

 

「えっ? あ、うん。そうね」

 急に話を振られ、マァムは少々うろたえたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「…折角だし、今日は豆のスープにしましょう。ダイも食べていくでしょう?」

 とても良いアイデアを思いついたかのように、マァムは微笑む。ポップもそれに乗った。

「そうだな、食べていけよ。マァムの料理は美味いんだぜ」

 やったぁ! と無邪気にダイははしゃぐ。

 台所に向かいながら、マァムはちらと居間を振り返る。

 明るく笑うダイの横で、静かに帳面を閉じるポップの姿が見えた。彼のその微笑みに、マァムは己の想像が正しかった事を確信した。

 

 

 

 夕飯は、楽しい笑いに終始した。

 そろそろ帰らないと…と席を立ったダイに、マァムは袋を渡す。

「これは?」

 きょとんとするダイに、彼女は微笑む。

「炒り豆よ。歳の数だけ食べなさい」

「ありがとう! …でも、これって、凄く多いんじゃ……?」

 ズシリと重い袋を持ちながら聞き返す15歳の親友に、ポップが横でカラカラと笑う。

「ブラス爺さんや島の皆の分だよ。福を招くんなら、皆一緒じゃねぇとな」

「……うん!」

 

 

 

 デルムリン島へと飛んでいくルーラの軌跡から、マァムは視線をポップに移した。

 柔らかな微笑みに、ポップは彼女が言わんとしているところがわかったのだろう。ぽり、と頬をかく。

「……嘘は言ってねぇぞ」

「わかってるわよ。…私も、あれでいいと思うわ」

 セツブン―――ジパングの2月の行事は、ポップがダイに語ったように確かに歳の数だけ豆を食べる。だが、本来はそれがメインではないのだ。

 かの国の文化を否定する気は毛頭ないのだが、ポップはあえて触りとなる部分を語らなかった。

 

  福は内 鬼は外

  人の世ますます盛んなれ

  豆もてやらえ 鬼どもを

  石もて祓え 魔物ども

 

「きっと…あの子は気にするもの……」

 その日、ジパングでは順番に当たった者が、オニと呼ばれる怖ろしい化け物の面を被る。人々は彼に豆を投げつけて追い払う。

 たったそれだけの事だけれど、和やかな行事として笑えるのは、当事者たちが皆、人間だからだろう。

 オニというのは、災厄の象徴だ―――島で仲良くなった女性、ヤヨイはそのように語っていた。もしくは…人ならざる者・異端者のことだ、とも。

「……ああ」

 ただの異邦の文化だ。けれど、親友にそれを紹介するには、ポップの中の抵抗は大きすぎた。

 人の世の姿を、ダイは知っている。その行事はジパング固有のものだとしても、地域差や個人差はあるだろうが、人は種族として抱えているのだ―――得体の知れない存在に対する、排除の心理を。

 もちろん普通に考えて、追い払われるのは人を襲うモンスターや害獣や盗賊なのだから、何の不思議もない行事と言われればそれまでなのだ。ただ、楽しそうに自分たちの旅の話をせがんでくれる親友に、文化がまるきり違う国でも『そういう事』が同じなのだと伝えるのは、自分が嫌だったというだけだ。

 

 既に飛翔痕の消えた空を、今一度ポップは見上げた。

 冬の澄み渡った夜空に光る、幾百もの星々。数の多さは、先程ダイに渡した炒り豆と、良い勝負だろう。

「もう、ダイは帰ったかしら」

 マァムがそっと呟く。

「多分な」

 きっと今頃、ダイは袋を祖父の前で開けて見せている。そして、数えながら豆を口に運ぶだろう。歳の数だけ。…あれほどの数の豆の中で、たった15粒だけを。

「15…か……」

 僅かに15。取るに足らない数だ。3年前の己の年齢。それがどれだけ幼い数字だったかを、ポップは知っている。

 15の自分は想像だにしなかった孤独と苦悩。古歌が表すような非情な振る舞いに、いつ晒されるかもしれない不安。

 それらをダイは既にして12の歳に知ったのだ。知った上で尚も人の側にあろうとする、その在りかたがポップには譬えようも無く眩しい……さながら、太陽のように。

「…頑張らねぇとな」

 ぽつりと呟くと、マァムが彼の手を握った。振り向けば、優しい笑みがそこにある。

「一人じゃないわよ」

「…ああ。サンキュ」

 マァムは、何も言わずともわかってくれているのだろう。手から伝わるあたたかさが、嬉しい。

 

 護りたい。それは切なる願い。

 鬼に投げつけられるつぶてを、一つでも減らそう。

 そのために、自分は…自分達はここにいるのだ。

 

 

 

「豆だろうが石だろうが、あいつに届かせるもんかよ」

 

 

 

 にっと笑い、ポップはマァムの手を握り返す。強く深い想いを込めて。

 それは、歳の数だけ強まる願いだった。

 

 

 

(終)




次話、これの後日譚となります。


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オニたちの物語

前話の後日譚となります。


 襖を開ければ、部屋の奥、障子で区切られた窓に面する板張りのスペースで、ダイが本を読んでいた。

 その光景にポップは僅か、目を瞠った。

 最近は勉強を熱心にしているのは知っているが、そもそもダイは余り文字を読むことが好きではない。なのに自分から本を読むなんて、珍しいこともあるもんだ、と肩のタオルに手をやりながら部屋に上がると、ダイがこちらを向いた。人懐っこい顔が苦く笑う。

「おかえり。大丈夫?」

「…まぁな。」

 ダイの苦笑にポップも同じ表情で返した。

 ポップの頬には、赤い手形がくっきりとついている。

「久しぶりに見たなぁ。マァムがポップ殴るの。」

 ダイのからかう声に、「うっさい」とポップはむくれた。途端に、手形の部分がひりひりと痛みを訴え、更にむすっとした表情になる。

「大体、あいつは力がありすぎるんだよ。ったく…怪力女なんだからよ……」

 ぼやくポップに、ダイはまた笑う。

「でもあれは、ポップが悪いよ。」

 丸聞こえだったじゃん。と少年はつい先ほどの光景を脳内で再生した。

「おれ、ロマンとかはよくわからないけど、あんな響く所で女の子の話をしてたら、怒られるよ。」

 ついさっき温泉の中でポップがダイに授けた湯煙美人についての講釈は、『そういった方面』に疎い弟分に教えると言う情熱に少々ヒートアップし、女湯のほうにも充分届いてしまったのだった。

 まあ実際、温泉の煙で女性のシルエットがどうたらこうたらという内容は、まずかったかもとポップも反省はしている。と言うか、殴られる事で大いに反省させられたのだった。

 久々のジパング旅行に、ダイ達も連れて来ることが出来たというのがあって、少々舞い上がっていたかもしれない。あとでマァムにはきちんと謝ろうとポップは心の中で呟いた。

 

 そのマァムは、現在レオナと一緒に、旅籠の中の土産物屋を物色している。

 いわゆる『女の子のお買い物』という事象に付き合うのは、男には恐ろしいほどの忍耐を要求するものである。アバンの使徒の中でもその法則は不変であるようで、先に温泉から上がったダイも、脱衣所で頬を冷やしていたポップも、巻き込まれないように退散したのだった。

 そして、今のこの部屋である。

 

「どうせ、この後は旅籠の外の店巡りとかになるぜ、きっと。」

「え? そうなの?」

「そうなの? じゃねぇよ。お前が行かないでどうすんだ。デートみたいなもんなんだからさ。姫さんをエスコートしてやれよ。」

「…そっか。うん、頑張るよ。」

 ――でもオレ、デートって苦手だよ。レオナの買い物の量、凄いんだ。

 ――荷物持ちだけで済んでるんなら構わないだろ。…てか、え? 何? お前の中ではデート=買い物になってんの?

 こちらが呆れて言えば、ダイはにこにこ笑って頷く。そんな会話を交わせることが、ポップには単純に嬉しい。

 何気ない言葉や他愛のない仕草を、そうとして受け止められることが、ポップの中では3年かかって再構築した『日常』だからだと自覚があった。

 

 『日常』の貴重さと有り難さは、一度失ってみなければ気付くものではないのだろう。

 だからこそ、その『日常』が何気なく他愛なく破れてしまうものだという事をも覚悟している。

 

「ところで、何の本を読んでるんだ?」

「あ、これ? さっき、温泉から出てすぐに売店で買ったんだよ。」

 話の接ぎ穂を探して、ポップはダイの置いた本に目をやり、小さく息を詰まらせた。

 表情の固まった親友の顔に、ダイは優しい眼差しを送った。

 

「ありがとう、ポップ。」

 そう言っているのに、ポップはばつが悪そうにダイを見た。

「…悪い」

 ぽつりと告げられた言葉に、ダイは、ううんと首を横に振った。

「ポップもマァムも、おれの事を考えてくれたんだろ? 謝ったりしないでよ。」

 おれ、怒ったりしてないよ。とダイは本を再び卓に置いた。

 

 温泉から早々に上がり、店の物を物色していた時に、ふと目に止まった薄い本だった。

 パプニカや他の国では見かけない綴じ方が珍しく、子供が描いたかのような大雑把で、けれど味のある筆の運びの絵が、気に入ったのかもしれない。タイトルに『ジパングの民話』と書かれたその本を、ダイは話のタネに買ったのだ。

 同室のポップが出てくるまでには、マァムの事もあってまだ少し時間がかかるだろう。そばで待っていてもいいのだが、そういう事をされるとポップは恥ずかしがるはずだ。ここは先に部屋に戻っていよう。買った本を読めば時間も潰せるだろう。

 そんな風に考えて部屋に戻り、明るい窓辺で民話本を開いた。簡単で短いストーリーと、未知の習俗が楽しくて、いつの間にか夢中で読んでいた。

 中には、以前にポップを訪ねた時に教えてもらった逸話も入っていた。正月の事。春の桜の花見の事。頭を八つも持つという伝説の竜の事――

 

 ――節分の事も。 

 

 親友がかつて話してくれた節分の行事は、一部分でしかなかったのだという事をダイは知った。そして、どうして彼が一部しか教えてくれなかったのかも理解した。

 オニという存在に豆をぶつけて追い払う――その意味するところは、ダイにもわかる。

 敵・異種族・異端者・罪人・ケガレタ者…そういった立場の者を排除するという事だ。ある集団の秩序を守るために、多数者の幸福のために、少数者を切り捨てるという事だ。

 ポップは…そういった事を当事者のように悲しみ憤ることのできる男だから。

「おれのために、隠してくれたんだろ? おれが…傷つくから」

 ダイの身に流れる血の半分は、人間のものではない。父親であるバランは、最後の正当な竜の騎士だった。そのバランは、人間であったダイの母親ソアラと結ばれた。この点だけを見ても、ダイは異端だ。竜騎士としても、人としても。

 だが、何よりもダイの得た力は余りにも強大なのだ。額の紋章を輝かせれば、山の一つくらいは簡単に破壊でき、剣閃だけで海を割る事ができる程の力を持つ存在を、恐れる者がいるのは当然だった。

 何かが狂えば、オニに見立てられるのはダイ自身になる。ダイの両親はアルキードという一国から迫害された。そんな過去を持つ子供に、人々が疑いの目を向けてしまう事がどうして無いと言い切れるだろう。今度は世界規模でそんな迫害が行われるかもしれない。

 暗い想像には際限がない――だからこそ、ポップは話さなかったのだ。親友のそんな気遣いと優しさがとても有り難く、嬉しい。

 

「でもおれ、わかるんだ。人が、そういう風になるの。」

 

「え?」

 ポップが顔を上げた。

「わかるんだよ――オニを追い払うの。そういう風にしてしまうのって…わかる気がする。」

「…ダイ」

 ポップが自分を呼ぶのに微笑んで、ダイは再び本を開いた。先程読んだ、節分の話。

 オニと呼ばれる存在が豆をぶつけられて逃げていくシーンには、挿絵があった。

「この絵の人たちは皆…、凄く恐がってるから。」

 呟くように言えば、「そうか」とポップが答えた。彼は対面の椅子に腰かけると、ダイの手から本を受け取った。絵を見て納得し、その独特のタッチに微かに苦笑する。

「ほんとだ。」

 魔除けの豆を必死に投げながら、人々の顔は恐怖に歪んでいる。

 オニが実際はどんな悪さをしたのかは、話には書いていなかった。ただ、村を『突如として襲った』とあるだけだ。

 考えようによっては、このオニはいわゆる大戦時の魔族を摸したのかもしれないし、荒んだ時代には盗賊などが横行するのはどの国も同じだ。

 人々が豆を投げるのも、皆で力を合わせて敵を追い払ったと見れば、微笑ましいひとコマになる。

 だが、オニという存在に仮託されたのは、【敵】という問答無用の悪役だけではない――そんな事は、ダイもポップもごく自然と理解していた。

 

 平和で小さな村に住んでいた人々にとって、得体の知れない異形の存在は『恐怖』そのもの。人間が心の奥底に強く持っている排他的な思考。排除の対象を定めた時、人は、その弱さゆえにどこまでも強く団結し、どこまでも残酷になれる。

 それを語るとき、絶対的少数者であるダイたちの立場に意識が向くのは、当然だった。

 

「おれ達は強いし…強くなったし。それに、知ってるから」

 デルムリン島から飛び出して、世界中を廻って、色んな人を見て色んな魔族達と知り合った。敵だった者にも惹き付けられる程の美点があることを知り、味方だと思っていた者から白い目で見られる事もあった。

「だから怖くないんだ。でも、ジパングとか…世界のほとんどの人は…弱いし、知らないから」

 自分だって…とダイは思う。もし旅に出ずにずっと島に留まっていたらどうだったろう…と。

 モンスターの祖父に育ててもらい、周りが気のいいモンスターばかりだった分、他の人間のように[[rb:怪物 > モンスター]]への恐怖はないけれど、それでもそんな祖父たちの思考を支配し、自らの意思で人を襲う魔王――魔族というのは『悪』なのだと思い込んでいた。島の外の世界には優しくて善い人間ばかりがいて、そういった人たちが『悪の魔王軍』に成す術もなく蹂躙されて、抵抗できずに泣いているのだと思っていた。

「知らないと、警戒するし、怖くなると思う。それまでの自分の世界で大切なものを守るためには、得体の知れないものなんて要らないって考えるかもしれない。……それって、当たり前だろうから」

 ――だから、仕方ないんだよ。きっと。

 

「……………。」

 ずっと無言で、こちらを見つめて話を聞いてくれていた親友が、ぱたんと本を閉じた。

「後から知った方が嫌だったろ……悪かった。」

 苦い声音。それは以前に節分の内容を尋ねた時の事についての謝罪だ。 

「そんな…何度も。いいよ。おれの事を考えてくれたんだろ。かえって嬉しかったよ。」

 ダイは慌てた。そうやって、気持ちを考えてくれる素晴らしい仲間や友達がいるから、だからこそ自分は地上が…人間が大好きなのだというのに。謝ってもらう必要なんかないではないか。

 ポップが薄く笑う。

「…ありがとよ。でもな、やっぱ謝るよ、ダイ。オレは、お前がそんだけ強いんだっての忘れてたわけだし…」

 親友が真っ直ぐな言葉で褒めてくれるのは、自分の『力』に対しての言葉でなく、覚悟と度量への称賛だった。自分の頬にさっと赤みが差したのだろう事がわかる。いつだってこうして自分のことを認めてくれる親友の存在が、本当に嬉しい。

 けれど、その事に礼を言う前に、ポップは続けた。

 

「それにオレは、お前の気持ちだけ考えて隠したんじゃない。俺がお前に、人間のこういう所を知らせたくなかったってのもあるんだ。」

 

 

「あの時に本当の事を話してたとしても…さ、お前ならきっと、いま喋ってたような答えを出すよ――『仕方ないことなんだ』って。」

「それは……」

「オレは、お前が傷つくのも勿論嫌だったけど、そんな言葉を聞くのも嫌だった」

 ――だから隠した。

 ダイの返事を待たず、ポップは言い募った。本心からの言葉だった。

 生粋の人間である自分にとって、この三つ下の親友が…幼いくせに大戦で誰よりも深く傷ついた弟弟子が、人間の弱さというものを肯定してくれるのは、とても嬉しい。けれどそれは喜びの半面、心の中に消えない怒りの炎を灯すのに等しかった。

 困惑している態のダイに告げる。

「オニになるのは、お前だけじゃない」

「え…」

 ダイの、虚を突かれたふうの反応が、ああやっぱりというポップの思いを深くする。

 強くて優しいこの親友は、その分、辛い事も苦しい事も己が引き受けるべきだと考えている部分があるのだろう。

 

 冗談ではない。そんな認識を否定するために、自分たちは…自分はここにいるのだ…!

 

「例えば、ブラスの爺さんが石を投げつけられたら、お前は石を投げた奴を赦すのか? ラーハルトやヒムやおっさん、チウや遊撃隊の皆………いや……オレでもいい。爺さんが人間じゃないからって理由で殴られたり、オレが魔法力のせいで怖がられても……お前は『仕方ない』って言うのか?」

「そんな!!」

「だったら!」

 がたんと椅子を蹴立てて立ち上がるダイ。そんな酷い事は絶対に赦せないと、顔にありありと書かれていて。

 ああ。その反応は嬉しい。ありがとよ。けど腹が立つよ。許せねぇ。怒りをそのまま声に乗せて、ポップは叫んだ。

 

 

「だったら何で『ダイ』にだけ仕方ないなんて言うんだっ……!!」

 

 

 しんとした部屋に、とさりと音が鳴った。それはダイが座り込んだ音だった……くずおれるように。

「ポップ…ごめん。」

「…………ああ。」

 いつの間にか、またポップは件の頁を開いていた。

「なあ、見ろよ。」

 豆を撒く村人達の恐怖に歪んだ顔。そんな表情を誰にもさせたくはない。それはポップとてダイと同じ気持ちだ。

 だが、逃げ行くオニの顔をダイはちゃんと見たのだろうか。

 強そうなオニ。人とは全然違う姿。だのに彼は泣いているのだ。こんなに悲しそうに、痛そうに。

 

「泣くのが自分なら構わないとか…思ってんじゃねぇよ。オレは、豆でも石でも、ぶつけられりゃあ痛いし、ムカつくし、悲しいし……嫌なんだよ。」

 

 その台詞に、ダイはくすりと笑った。

「うん…祖父ちゃんも、痛いと思う……」

「お前は?」

「うん…。おれも痛いし……嫌だ。」

 

「それで、ぃんだよ」

 ようやく小さな笑みを浮かべて、ポップは本をダイに返した。

「ありがとう。」

 おうと応えて、ポップは、ふいと視線をそらした。

 その仕草は、友人が照れた時によくする事を、ダイは知っている。

 

 ポップは、たったいま思いついたように、「なあ」と言う。

 

「いつかさ、それとは別の話を作ろうぜ」

 余りにも唐突な提案に、「別の?」とオウム返しに呟くダイ。

「ああ。別の話だ」

 

「人間の村に…さ、遊びに来たオニと、村の…そうだな、子どもが仲良くなる話だ。豆を投げようとする奴からオニを庇って、『何も知らない癖に、友達をいじめるな!』ってちゃんと怒るんだ。どれだけ周りがオニを悪く言っても、そいつは友達を信じるんだ。」

 

「ポップ……」

 

「んで、だんだん友達が増えていくんだ。最後は、オニが村にいるのなんて当たり前だって皆が思うくらいに仲良くなるんだ。」

 

 ダイはその物語の絵を鮮やかに想像することが出来た。

 理想かもしれない。夢で終わるかもしれない。けれど絶対に不可能だとは思わない。そんな物語と同じ光景が、当たり前に存在する世界。

 

 きっと、オニを信じてくれるその子どもの顔は、目の前の親友そっくりなのだろう。

 

「…じゃあ、物語の結びは、こうだね。」

「うん?」

 

 

 

「『こうしてオニは、ますます人の事が大好きになりました。めでたしめでたし』。」

 

 

 

「……ああ。それがいいな。」

「きっと、そうなるよ。」

 互いの目にうっすらと光るものを見ながら、二人のオニは笑い合った。

 

 

 きっと、そうなる。そうなるように、しよう。

 

 

(終)




地方によっては「福は内 鬼も内」と仰るところもあるとか聞きましたが本当でしょうか?
もしそうなら、悪心もきちんと自らの責任だとお考えになる、素晴らしい考え方だなと思います。


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心の宿り

いつもお読みいただきありがとうございます。
このお話は原作後が舞台ですので、息をするようにネタバレがあります。
原作未読もしくはアニメ視聴オンリーという方は、その点をご留意ください。






 居間のテーブルに、色とりどりの布を何枚も広げると、彼女はしばらくそれらをじっと見つめていた。

 そして、何枚かを選ぶと、次に持ってきたのは針と糸。

 塗り薬を瓶につめる最終作業をしていたポップは、恋人がこれから針仕事をするのだと察して、テーブルの広陣地を占領していた薬壺を自分の方に引き寄せた。

「ありがとう。」

 マァムはにっこりと笑う。陽だまりのような、柔らかい笑みだ。

「いいって。何作るんだ?」

「ん? 服よ。簡単なものだけど。」

「え、服って…」

「残念ながら、貴方のじゃないわよ、ポップ。」

 澄まし顔で先を制され、ポップはちぇっと片頬を膨らませる。

 彼女は「貴方の服じゃこんな布じゃ足りないでしょ。」と、くすくす笑う。

 言われてみれば、確かに並べられた布は、端切ればかりだ。

「じゃあ、誰の…? あ、わかった。」

 作業を中断してポップは言う。

「ライだろ? あいつ、しょっちゅう怪我して服破るし。お袋さん、継ぎがおっつかないって嘆いてたもんな。」

 自信たっぷりに言うポップ。けれど、マァムは首を振った。

「残念。はずれよ。……一昨日、教会に来た子がいるでしょ?」

 後半の声は、少し密やかだった。ああ、とポップも思い至る。

 ぼろぼろの服を申し訳程度にまとった、母親とその娘。雨の中を助けを求めて隣村の教会にやってきて、修道女たちに保護されたのだ。

 娘は熱を出しており、だのに運悪く教会では薬を切らしていた。結果、ポップ達が呼ばれたのだった。

「あの子の服か。…もうほとんど布切れだったもんな。」

「あ、ううん。ちょっと違うの。あの子とお母さんの分は解決してるのよ。」

 気の毒な母子に同情しつつも、マァムはポップの推測を否定した。

「解決?」

「ええ。貴方が看病してくれている間にシスター達に聞いたんだけど、もうすぐバザーがあるから大丈夫なんですって。」

 なるほど、とポップは頷いた。バザーと言うが、この場合、そんな着の身着のままだった母子に、安いからと言って買い物をさせるというわけではない。教会が主宰している慈善事業の一つで、数か月に一度、恵まれない人々に古着やら色々な物を提供する催しがあるのだった。開催日が近いならば、教会には既に沢山の古着が届いているだろう。

「そっか。じゃあ、大丈夫だな。」

 嬉しそうに言いつつ、あれ? と彼は再びテーブルの布に目をやる。

 会話の間にもマァムは針を動かしている。いま彼女は、扇形に切られた花柄の布、その端にレースを縫いつけているところだ。

「じゃ、それは?」

 彼の質問に、マァムは微笑んだ。

「その子の、お人形の服なの」

 

 

 マァムは、昨日もその教会に行き、母子の様子を見てきた。娘は熱も下がり、もう随分と良いようだった。だが、シスター達やマァムがいくら話しかけても怯えたように頑なに口を利いてはくれないのだ。

 母親には嬉しそうに話しかけているし、話し方も普通だった。だが、他人には心を閉ざしていて、その門はとても堅固なものらしい。

 ただ、母親以外に口を開く相手が一人だけいた。

 幼いその娘が片時も離さず、持っていた人形があった。持ち主と同じくその人形の服もぼろぼろだったが、中身は、薄汚れてはいるが青い目がパッチリと開き、ぷくぷくとした柔らかそうな頬っぺを持つ、可愛い女の子の人形だった。

 よほどに大事にしているのだろう。少女が、その人形を可愛がる様子を見て、マァムは思った。

「まるで本当の妹みたいだったわ。ううん…一心同体って言った方が良いかもしれない。」

 流浪する生活の中で、少女にとっては人形が唯一の友達なのだろう。ああも愛されていれば、きっと、人形だって嬉しいに違いない――そんな風に思えるほどに。

 

「だから、そのお人形の服を作ってあげれば、きっと喜んでくれると思うの。」

 

 そうして、少しでも心を開いてくれれば……そんな真摯な想いが、マァムの声には込められていた。

「…うん。いいな、それ。」

 ポップは恋人のアイディアを称賛する。慈愛の使徒と言われるマァムにぴったりの、子供への優しい接し方だった。

 

 

 

 

 

 詰め終わった瓶の蓋をきゅっと閉めると、ポップは立ち上がった。

 大きく伸びをし、「ちょっと出てくる」とマァムに告げて外に向かう。

 

 春とは言え、まだまだ寒い日もある。今日はそんな日だった。一日中曇っていて、時折、身を切るような風が吹いては人の身を縮こまらせる。

 これから草木がどんどん芽吹いて、息をするたびに若葉の匂いも吸い込む時候になるけれど、夕刻、どこかで焚かれた火のあとからの煙と、冬の名残の寒さが、ポップの中で一つの単語を媒介として過去の風景を思い出させた。

「『人形』か……」

 三年前の戦いで、最後に現れた敵は、『人形』だった。決してその使い手ではなく、人形そのものが敵だった。

 

 風がびょうと吹いて、肌が粟立った。

 

「未だに信じられねぇなあ…お前が人形だったなんてさ……」

 記憶の中の敵に話しかける。

 そして、あの使い魔が本体だったなんて。腹話術だと言われても、納得など到底出来かねるほどの強敵だったのだ。

 その証拠に、未だに自分は、あの『人形』をこそ憎んでいる――殺したいほどに。

 あるいは、あれこそがマァムの言う一心同体というものだったのかもしれない。

 残忍さも、卑劣さも、殺気も、怒気も、あの死神という器を通して表現されていたのだろうか。

「…………。」

 何をどう考えようと、相手に尋ねる事は不可能なのだから、所詮は推測の域を出ない。考えるだけ無駄なのだとはわかっているのだけれど。

 けれど心のどこかが、何故か寂しく、哀しかった。

 

 憎まれ、恐れられ、嫌われ、罵られ、最後には使い手に兵器として捨て置かれた『人形』。

 

「なあ、キルバーン。お前は…幸せだったか?」

 詮無い問いを口にする。

 もしも目の前に相手がいるのなら、きっと嗤って馬鹿にして……そして鎌を振るうだろう。

 

 ザァ…!

 

 強い風が吹き渡った。

 細かい砂が、ぴしぴしとポップの頬を打っていく。

 なんとなく、それがあの冷たい『人形』の返事のような気がして、彼は肩を竦め、かすかに笑った。

 

 陽はもうとっぷりと暮れた。村の家々に次々と灯りがともっていく。そしてそれは、自分たちの家にも。

 ドアが開く音がし、マァムが呼んだ。

「ポップ、もう入ったら? 風邪をひくわよ?」

「…ああ、いま行く。」

 振り向き、ランプを持つ恋人のもう片方の手に、小さな花柄のスカートがあるのを認めて、ポップは微笑んだ。

 

 それは、どこまでも温かい心の宿りだった。

 

 

 

(終)




『人形』の本体も凄いですよね。
あの姿で本来は弱いはずなのに、たった一人、主の命令を果たす為に数百年もの間、大魔王バーンの横にあり続けた。

きっと忠誠心だけは、誰と比べても遜色ない。




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夢の通い路

もうすぐハロウィンということで。


「さあどうぞ!」

 レオナが出してきたのはクッキーだった。

 透明な袋に数枚ずつ入っていて、色違いのリボンで袋の口が閉じられている。

「へえ。可愛いな。」

「ほんと。これ、もらっていいの、レオナ?」

 ポップとマァムに可愛いとの評価をもらい、レオナは胸を張る。

「もちろんよ。せっかくのカシカシの日だもの。」

 パプニカではこの日、子ども達にお菓子を配るという風習がある。元々は、身分の高い者から使用人などに、当時はまだ高価だった菓子(砂糖でも可)をボーナス的に支給する日だった――なので名称が菓子下賜なんだそうな――のだそうだが、それも今は昔。近年では大人たちが子どもらに菓子をプレゼントするというちょっとしたイベントになっているのだ。

「でもいいの? レオナだってまだ子どもだろ?」

 そう聞いたのはダイである。いくらレオナがパプニカで姫という身分であって振舞う側であるとは言え、レオナだってまだ少女と呼ばれて然るべき年齢だ。

「おれたちと一緒に町に出て、お菓子をもらいに行ってもいいじゃんか。」

 一緒に楽しみたいし、レオナが楽しんでいるのをダイも見たいのだ。それがその場の全員に伝わり、場がほっこりする。

 レオナ自身もダイに気遣われて嬉しくないわけがないし、行ってみたいとも思ってはいる。だが、静かに首を横に振った。

「さすがに私まで仮装して夜の街に出るのは、警護の者が大変なのよ。」

 ヒュンケルや、それこそダイが一緒にいれば何の問題もないのかもしれないが、そこは公私の別というものだ。

「それに、ダイ君や皆が町中でもらってきてくれたお菓子、見せてくれるでしょ? それをこの部屋でパーッと広げて楽しみましょうよ!」

 明るい声に、ダイは頷いた。ポップがその頭をくしゃっと撫で、マァムが肩にそっと手を置いた。

 レオナは少し寂しさも見せるが、彼女の立場としての楽しみ方というのがあるのだ。ならば自分たちは、そのやり方を盛り上げる方向で、レオナを楽しませてあげればいい。

 

 

 パプニカの街は夜だと言うのに子どもたちで溢れていた。

「凄いや…!」

「ほんとね。」

「ああ。子どもがこんな夜になあ。」

 そう。普通、陽が沈んでから子どもが一人で出歩いたりすると、事件に巻き込まれる確率が跳ね上がる。それがイベントとは言えこんなに堂々と行われているだなんて、パプニカ王都の治安の良さを示して余りある。

「レオナ、本当に頑張ってるんだね…」

「そうね…彼女の事だから、小さな子どもがお祭りを楽しめるのを目標にしているんじゃないかしら。」

「ああ、そうかもなあ。姫さんらしいよな。」

 三者三様にレオナを褒め称えつつ、街の子どもらを見ながら一緒に練り歩く。

 スライムやドラキーの被り物、騎士の鎧や妖精の姫らしき薄い羽根を身に着けた子どもたちがそこかしこで「お菓子くれなきゃイタズラするぞ。」と家々を回っていく。大人たちも心得たもので、大袈裟に驚いたり逃げた振りをしながら家の奥からお菓子を持ってきては、子どもらの歓声を聞きながら籠にお菓子を入れてやっている。

 

 この日の楽しみは菓子のほかにもう一つあって、皆が皆、これは子どもだけでなく大人もおおっぴらに仮装するのだ。

 これがどんな由来なのかは誰もよく知らない。

 菓子をあげる方ももらう方も、普段通りの姿だと気恥ずかしいからだという説や、元はもらう方だけが仮装していて、それは普段通りの使用人の姿だと権高な主人に甘味を要求するのに気後れするからモンスターなどに仮装して強さをアピールしたという説など、色々だ。

 

 ダイ・ポップ・マァムの三人もレオナに話を振られて、興味を示した途端に着替えさせられた。

 ダイはドラゴンキッズのような小さな翼を背中につけて口には牙をつけ、耳は少し尖らせられていた。元々パプニカの人々に勇者ダイとして顔が知られているので、特徴的な右頬の傷は濃い目のパウダーで隠してある。

 ポップは「意外性を」との企画者(無論レオナである)の提案を汲んだ者たちに帯剣させられた。軽い鎧も身に着け、まるで駆け出しの冒険者という態だ。

 マァムはと言えば、黒猫である。カチューシャ型の猫耳の飾りに、彼女の腿にぴったりとした厚手の黒いタイツ。そこに直でついている黒く長い尻尾。上衣は短く、これまた黒。グローブとブーツももちろん黒一色である。

 

 余談だが――マァムの姿を一目見たポップは『これのどこが黒猫だよ…女豹じゃねえか……』と頭を抱えた。

『姫さん、おれの格好はともかく、マァムのこの色気で子どもと同じ事させんのかよ?!』

 愚痴とともに鼻血を零しながら抗議をするポップに、

『何言ってんのよ。二人は近くにいる子らの保護者枠よ。いくら善意のお祭りでも大人が目を光らせてないと危ないんだからね!』

 とレオナはしれっとのたまい、『気に入らないんなら、マァムの服はブロキーナさんからゴースト君かビースト君の衣装デザインを拝借してもいいのよ?』と返されたポップは己の眼福をとった――という経緯がある。

  

 三人とも衣装や意外性(そもそもアバンの使徒がこんなイベントに混ざると誰も考えない)のお陰か正体はバレず、ある子どもらの一団に加わり家々を回った。何も知らぬ各家庭から見れば、小さな可愛い仮装の子どもらに、お兄さんと御姐さん(⁈)が混ざっているという一風変わったグループであったが、街のあちらこちらに歩哨が立ち子どもらを害する者がないか目を光らせているのを考えれば、年長者が同行しているのも不自然ではないためあっさりと受け容れられて、銘々しっかり籠を菓子で満たしたのだった。

 

 

 

「凄いじゃない! こんなに沢山!!」

 テーブルの上に広げられた小さな菓子の山にレオナが嬉しい悲鳴を上げる。

「おう。結構沢山の家を回ったもんな。」

「うん、一緒に歩いたグループのボスの子、凄かったよね。」

「本当にね。あの子はしっかりしてるわ。将来が楽しみよね。」

 マァムが苦笑する。彼女たち三人が合流したのはガキ大将のような子が色々と差配しているグループだった。

 子どもらの頼れるリーダー、ダーミン君の菓子に対する執念は凄まじく、それにともなう作戦も凄かった。年寄りの家にはその孫に似ている子を行かせ、もともと子供好きな家には大勢で行かせ、赤ちゃんを授かったばかりの若夫婦の家には特に小さな子らを並ばせて簡単な歌を歌わせたりして、大量の菓子を手に入れさせていた。ちゃんと全員に平等にわけるのだから文句のつけようもない。

 あの子は将来大物になるだろう、というのがアバンの使徒三人組の共通の意見だ。

「そんな子がいるのね…。前もってリサーチ済みだなんて凄いわね……いずれ王宮にスカウトしてみようかしら。」

 半ば本気のレオナにポップは苦笑して言う。

「ま、とりあえずおれらはグループの子どもらが全員家に帰ったのを見てから戻ったから、安心してくれ。」

「軽く見回りもしたけど、どこも騒ぎは起こってなかったよ。」

「凄く治安がいいわって、私たちびっくりしてたのよ、レオナ。」

 

「ありがとう! それじゃダイ君、マァム、ポップ君、一緒にお菓子食べましょう!!」

 

 

 

 

 ダイはふわふわとした気分で静かになった街を歩いていた。随分と遅くなったけれど、明日はアバン先生の授業がお城であるから、今日はパプニカ城に泊まりだ。ブラス祖父ちゃんにはちゃんと言ってあるし、ポップ達も軽くお酒を飲んだから酔い覚ましに夜の散歩に一緒に出掛けた。

 子ども達はもう帰ったけれど、大人はまだ何人も仮装した人たちが街を歩いている。

 ふわ…と欠伸を一つ。

 公園のベンチに腰掛けてポップとマァムの二人を待つ。小腹が空いたので、彼らは近くの酒場で何か食べ歩ける物を買ってくると行ってしまった。

(レオナも一緒に遊べれば良かったのになあ……)

 先程まで王宮の私室で一緒にお菓子を食べた少女の事を想う。

 レオナは立場があるから、きっと、自国だというのにあんな楽しいお祭りに参加したことはないのだろうな…と思ったところで、はたと気付く。

 ああいう事に参加したことがないのは自分も同じだったという事に。

 

 ダイはデルムリン島で育ったため、島を出るまで友達はモンスターばかりだった。

 ポップやマァムと遊ぶことはある。だが、今日のように年齢も環境もバラバラの子らと一緒に何かしたという事はついぞなかった。ガキ大将なんて存在も、子どもらだけのグループも、初めて見たのだ。

 アバンの使徒と言われるグループの中で、ダイは一番年少だ。だからどうしたって皆に弟的に構われる事が多い。だが、今日のグループでは小さい子は四歳になるかならないかという年齢で、リーダーのダーミン君とて十歳だった。

 途中でトイレに行きたくなる子や、転んで泣き出す子が次々に出て、ダイ達は駆け回ったのだ。正直、戦闘よりも疲れたかもしれない。

(そっか…レオナは、おれにこういうのを経験させたかったのかも……)

 心地よい疲れに彼女への感謝を胸中で呟き、ダイは口元だけで笑った。

 奥歯に残ったクッキーの欠片が、甘い。

 

 レオナがくれたクッキーはとても美味しかった。

 

『皆に配った分は特別よ。ナッツとかの代わりにレアな実を砕いて入れたんだから!』

 なんと、レオナはアバンの使徒用に【ちからのたね】や【まほうのたね】などをくるみやナッツの代わりに混ぜたらしい。ちなみに前者はマァムに。後者はポップに渡したクッキーに入っていたそうで、その場にはいなかったがヒュンケルにも渡したそうだ。

『剛毅だなあ…さすがセレブ! ……ちなみにヒュンケルの奴にはどんな実なんだよ?』

『彼、やっぱりまだ身体が本調子じゃないから、【すばやさの種】とかなの…?』

 それに対するレオナの答えは『【ラックの種】よ。』という短いもので、その場の誰もが『ああ…』と言葉少なに納得したのが印象的だった。

 

 そして肝心のダイがもらったクッキーの実は――

 

「おや、せっかく来たのだが、もう子どもたちのイベントは終わりなのかな?」

 

 

  ※※※※※

 

 

「おや、せっかく来たのだが、もう子どもたちのイベントは終わりなのかな?」

「あらそうなの? 残念ね…お菓子をあげたかったのに……」

 ダイは耳朶を打つその声にハッと息を飲んだ。顔を上げるとすぐそばに若い男女が立っていた。

 精悍な男は、姿からして騎士のようだ。立派な鎧すがたで、今日のような日に遊びで着て囃し立てられるほうが失礼な気がするくらいの武者ぶりだった。

(誰かに似てる……)

 眠気で少しぼんやりしているせいか、会った事もない人のはずなのに知っているような気がする。

 女性は正真正銘、見覚えが無かった。だが、胸がざわつく。嫌な意味ではなかった。会えて嬉しいという喜びと、何かをせねばという焦燥感とがない交ぜになった気分と言えば近いだろうか。

 一部を三つ編みにして垂らされた、肩よりも長い髪。騎士と違って、こちらは膝までのワンピースにストールという普通の服装だというのに、溢れ出る気品が彼女の生まれの貴さを物語っていた。それはレオナが持っている雰囲気とよく似ていた。

(お姫様だ……)

 二人が語らう姿は姫君とそれを守る騎士だった。話し方から主従という関係ではないだろうことがわかるのに、そうとしか見えない。

「坊や、もうお祭りは終わったのかな?」

 騎士に尋ねられて、ダイは思わず背筋を伸ばした。

「あ、はい! 子どもはさすがにもう皆、家に帰りました。」

「まあ…。坊や、ごめんなさいね、急に聞いたから驚いた? そんなに緊張しないで普通に喋って、ね?」

 姫君が言う。なんだかその瞳が少し寂しそうに見えて、ダイはドキリとする。

「ね、坊や。横に座っていいかしら?」

 え? と思う間もあらばこそ、姫君はもう決めたとばかりにダイの横に座る。彼を挟む形で、騎士もベンチに座った。

 

 驚き緊張気味のダイに、二人は話し出した。

 会いたい子どもがいるということ。

 今日その子はこの国にいるということ。

 イベントを楽しんでみたかったのに、間に合わなかったということ。

 

「どんな事をするんだい? 子どもにお菓子を配ると聞いたんだが…」

「あ、えっと、モンスターとか妖精とかの仮装をして、家を回って玄関でこう言うんです。『お菓子をくれなきゃイタズラするぞ』って。そしたら家の人が籠にお菓子を入れてくれて…」

 レオナが仮装させてくれたことや、歳の違う子らと遊ぶのが初めてだったということも、ダイは身振り手振りを交えて説明した。

 女性が笑う。

「まあ。レオナ姫って素敵なかたね。それに子どもがメインなんて、とても可愛いお祭りなのね。私の国ではそんなのはなかったわ。」

「そうなの? やっぱりパプニカだけなのかなあ。ポップのとこも無いって言ってたから。」

「ああ、あの魔法使いの少年か…。彼はどこの出身なのかな?」

「ランカークスって村です…だよ。ベンガーナの山奥で、ポップは田舎だよってよく言うけど、いいところなんだ。」

(…あれ?)

「そうか…。友達とは仲良くやっているのか?」

「もちろん! しょっちゅう一緒に遊ぶよ。明日は勉強の日だからその後お菓子パーティーの続きをするんだ! マァムもだし、明日はヒュンケルも非番だから皆一緒なんだ!」

(ポップの事、知ってるの…? 話したっけ?)

「お勉強、頑張ってるのね。偉いわディ…ダイ。好きな勉強はなあに? 私は歴史や詩編の朗読が好きだったわ。」

「う…おれ、それどっちも苦手……。あ、でも字はもうバッチリだよ!」

(おれの名前も…)

「ふふ、そうなのね。焦ることないわ。」

「剣や魔法はどうしているんだ? 鍛錬しているのか?」

「うん。おれ、やっぱりそっちの方が得意だし…。でも呪文はポップがいるからいいよ。相棒だもん。」

「そうか。相棒か。」

 二人と話しているとダイの心は踊った。嬉しくて、楽しくて、次は何を話そう、どんな事を聞いてもらおう、とブラス祖父ちゃんに話す時のようになる。それはきっと、どちらも親し気に優しく話してくれるのもあるし、会話の最初のほうがどことなくダイと同じように始まった事で「自分と同じだ」という思いもあるのだと思う。

 ――どんな風に話そうか。

 ――何を話せばいいのだろう。

 ――うまく話したい。

 ――せっかくの機会なのだから。

 そんな、手探りの会話。慣れていなくて、ぎこちなくて、それでも優しさと温かさと思い遣りに満ちた――まるでかつての父との、それ。

「ねえ、ディ…ダイ。ご飯はちゃんと食べている? 病気とかしていない?」

(だからきっと、これは、この人は……)

「大丈夫。おれ、父さんに似て凄く丈夫だし健康だよ! ご飯だって毎日お腹いっぱい食べてる!!」

「そうなのね。良かった…」

「だから心配しないで――母さん。」

 自分と同じ目が大きく見開かれ、涙がにじんだ。そのまま優しく抱きしめられる。あたたかい。夜だというのに、太陽の…陽だまりの中にいるような…。

「さあ、もうおやすみ。ディーノ。」

 頭に大きな手が置かれた。戦いを生業とする者の手が、優しく頭を撫でてくれる。

「父さん…」

「またいずれ会おう。必ずだ。だから今日はもうおやすみだよ。眠っておくれ。」

「うん…絶対だよ……」

 

 ――おやすみなさい。

 

 

 

 ――やはり君は寝かしつけるのが上手だな、ソアラ。

 ――あら、今日はあなたも初めて泣かさずに寝させてあげたじゃないの…バラン。

 

 

 

 

 

「ダイ、やっと見つけたぜ! なんでこんなとこで…って…寝てんのか?」

「もう夜も遅いものね。…寝ぼけて公園と間違えたのかしら?」

「…間違うか? いくら綺麗にされてるからって墓地だぞ……ん?」

「ポップ?」

 さわさわと、この時季にしては暖かな風がダイの髪を揺らした。

 優しい眠りの園を月が静かに照らす。

 むにゃ、とダイが呟いた。

 

「父さん…母さん…」

 

「…行こうか。」

「…そうね。」

 ポップは剣と鎧の上部を外すとマァムに預け、ダイを背負った。

「きっとご両親との素敵な夢なのね…レオナのクッキーのお陰かしら?」

 ダイのクッキーには夢見の実を入れたのだとレオナが言っていたのを、マァムは思い出す。それは寝つきが良くなり、良い夢が見られると言われる木の実だ。

 年相応のあどけない寝顔のダイがとても可愛らしい。ポップに背負われても起きないなんて、幼子のようだ。

「さあなあ…。もしかしたら正夢なのかもしれねえな。」

「…? どういう意味?」

「いや…。」

 マァムの問いにポップは答えない。答える言葉を持たないからだ。だから静かに首を振る。

 

「何だっていいよな…夢でも、現実でも――」

 

 ――ダイが幸せならさ。

 

 

(終)




令和アニメ版、あと二回で最終回を迎えますが…やはり原作どおりのラストなんでしょうか…なんでしょうね……。
もうホント、使徒ら幸せになって。ダイ君幸せになって。の気持ちしかないです。つらい。


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おそろい

以前Twitterで出されたお題『おそろい』に寄せて。


 大戦からしばらく。勇者ダイの行方は杳として知れないままだった。

 そんな中、勇者一行の一人であるパプニカ王女レオナは正式にパプニカ国王の座についた。今迄の彼女は、王家直系の唯一の生き残りの王女として、あくまでも国主代行の立場だったのであるが、いつまでも国主不在では良くないという事と、大戦での父王の仇である大魔王バーン――攻め込んだのは魔王軍の不死騎団であったとしても、その命を発したのは大魔王である。そもそも、公的な理屈では元魔王軍不死騎団長ヒュンケルがパプニカにもたらした破壊は(本人の見解如何に関わらず)将としてのものであって、犯罪ではないとされる――を討ったという事で、簡素ながら即位式が行われ、正式にパプニカ国王(女王)を襲名したのだ。

 その彼女が最初にした事は、勇者ダイの捜索の縮小だった。

 戦後の復興に人手は勿論必要だ。正直言って、勇者ダイ一人のために数百人態勢で捜索などどの国家も出来る事ではなかった。なので、このまま発見できない日が続けば必ずいつかはその話が出るのも皆が分かっていた事だ。それでも、縮小を言い出したのが他でもないレオナであった事に、皆が息を飲んだ。

 若き女王は言う。

「ダイ君は生きてる。必ず見つけ出すわ。でも、その時に復興が遅れていて、それがダイ君のせいに少しでもされてしまう事は、私が嫌なの。」

 勇者ダイを探しだし、厚く保護し、感謝を捧げる事は、人間である限り…いや地上にある者が決して怠ってはならない義務だ。

 かけた情けは水に流しても構わぬが、受けた恩は岩に刻んで忘れてはならない。それが人の道というものだ。

 だがそれでも、ダイが見つかったとして、彼を排除しようとする輩は必ず出てくるだろう。レオナから離そうとする者も。そんな攻撃の原因は一つでも取り除きたい。

 それに――とレオナは哀しそうに笑う。

 

「私が言い出さなければ、どこかが悪者になっちゃうじゃない。」

 

 レオナの胸元で、アバンのしるしが小さく輝いているのを、マァムは見た。白いその色は美しく峻厳な、正義の輝きだった。

 

 

 即位の式に来賓として訪れている者の中にはカール女王夫妻がいる。フローラ女王は長年の意中の人であった大勇者アバンと、先日遂に結ばれた。世情が世情のために王家の華燭の典というには質素すぎるものだったが、それでも誰からも祝福される式を再建途中のカール大聖堂で行い、晴れて二人は夫婦となったのだ。情勢が落ち着けばいずれ、復興記念と共に披露宴も行うと言う。

「その時はおれ達も呼んでもらえますか?」

 ポップがアバン先生に尋ね、先生が「勿論ですよ!」と答えるのを、マァムは微笑みながら見ていた。

 先生たちは、明日になればカールへの帰途につく。マァムはポップと、そして占い師メルルと共にダイを捜索するチームを組んで旅に出る事が決まっていた。これはヒュンケルもそうで、彼はダイに忠誠を誓う陸戦騎ラーハルトと共に旅立つのだ。

 先程二人で会いに行った時、ヒュンケルは「必ず見つけよう」と自分たちその場の者全員に言い聞かせるように宣言した。

 その胸元で、しるしが紫の闘志の光を放っていた。

 

 先生も捜索メンバーの一員となりたいと言っていたが、その申し出は丁重に無視された。役割分担的に、アバン先生には動き回らずに知恵を出してもらった方が良いと言うのは皆が思っていたし、そうでなくとも、前大戦と今回で、先生にはもう充分働いてもらったのだ。女王陛下と結ばれたからにはカールにいてもらい、復興に携わってもらわねば国民に示しがつかないだろうという尤もな理由もある。何より、これ以上、女性を悲しませるのは許される事ではないだろう。

 そんなわけで、マァムはポップと共に、明日出発する挨拶をしに先生のもとを訪れたのだった。先生自らお茶を淹れてくれて、フローラ様も一緒にお茶を楽しんだのだ。

 

※※※※※

 

 今後の事も話したが、アバン先生がデルムリン島を出てからのダイの事を尋ねたので、そこからは、もっぱら話すのはポップの役割になった。

 

「――マァムに殴られて、泣かれて、ニセ勇者の爺さんに背中押してもらって…。おれ、あの戦いでようやく人の為に力を使うってわかった気がしました。」

 ポップがクロコダインと戦った時の話をした時、マァムは懐かしく目を細めた。

(あの時からずっと、ポップには『勇気』があったのに……)

 ロモス王城に駆け込んできた彼を見て、見直して、そこからは何の不安もなく頼れる仲間だった。少なくともマァムの中ではそうだ。

 それなのにミナカトールの際に光らなかったのは、それだけ彼が「皆に仲間の資格が無いと思われるのが怖かった」からだ。

(誰よりもダイのそばにいて、誰よりも共に苦境を乗り越えてきていても……)

 弱さを克服してきたポップだからこそ、弱さを隠したくて、かつての臆病さを恥じていて、それを誰にも見せたくなくて――特に、私に。

 男性のプライドとかは女性の自分にはわからない。ただ、人として、好意のある相手にみっともない姿を晒したくないというのは誰しも持つ思いだというのはわかる。

(…私もそうだもの)

 

 ポップがダイの父親バランとの戦いの事を話している。その辺りの事は、マァムもあまり詳しく聞いた事はなかった。父子で戦ったという、ダイにとってとてもつらい戦いだったのだから、誰も話したくないのだろうと…そう思っていたのだ。

 だが、それだけではなかった。ポップはさらりと流そうとしていたが、先生に問い詰められ、自己犠牲呪文を唱えたのだという事を白状し、ばつが悪そうに視線を彷徨わせて――

 ――見つめていた自分と目があった。

「……初めて、聞いたわ。」

 マァムの口から、自分でも予想外なほどの硬い声が出た。

 脳裏でロモス武闘大会での、ダイの言葉が繰り返されていた。

 

 ――ポップなんか一度死んじゃったんだよ。

 

 あれは、そういう意味だったのだ。余りにもダイがあっさりと言うものだから、ポップは大怪我で生死を彷徨った等の意味だとばかり思い込んでいた。

 自己犠牲呪文を。この目の前の彼が?

 ポップが、死んだの……?

 血の気が引くのが自分でもわかった。唇が震える。 

 

「あ…あー…えっと…ごめん。言ったら、優しいお前の事だから…ほら、凄く取り乱すんじゃないかとか…ダイの剣を手に入れなきゃって時に、そんな死闘の話聞いたらますます父子で争うってのも反対されるかもとか…色々あって……」

「そう…」

「う、うん。」

「………そっか……そうね…聞いても、何か出来るわけじゃないものね…」

 違う。と思う。

 そんな事を言いたいんじゃなかった。

 ほっと安心したと言いたげな顔をするポップに、何故だか無性に腹が立った。

 

 自分以外は見ていたのだ。ダイもレオナもヒュンケルも、クロコダインも。…………メルルも。

 ポップが命を散らす瞬間を。

 自分は、修行の為にブロキーナ老師の元にいて、テランの戦いにはいなかった。

 いたとしても、きっと何も出来なかっただろう。あの頃の僧侶戦士として魔弾銃を失った自分に、そのままで戦力になったとはとても思えない。

 妻を人間に殺された憎しみで狂っていた竜の騎士に、自分が声をかけて何が変わるわけでもないだろう。

(アルビナス……)

 ――あなたが虫唾の走るイイコちゃんで良かった。ためらいもなく殺せます!!

 大魔宮で戦った美しい女王の駒。主であるハドラーの為に、彼の望みである『勇者ダイとの一騎打ち』を叶えるために彼女は戦場に出た。

 けれど、彼女の本当の望みはハドラーの延命だった。

 自分はそんな忠節と愛情の想いでいる相手と命のやり取りをせねばならないのを避けたくて、説得にのために戦いなど無意味だと言い…彼女の怒りを買った。

 今はわかっている。ハドラーを延命する手立てすらない状態で言っても、それは命を燃やし尽くそうとしている彼と、彼を大事に思う親衛騎団全員を侮辱したのと同じ事になるのだと。

 

 きっとバランの時に自分がいては、同様の事で相手を激高させたのではないか…そんな気がする。

 

 避けられ得ぬ戦いというものは必ず存在するのだ。命のやり取りにまで至って、犠牲を出さなければ納得できないものが世界には存在する。

 正義がどれほど優しさの重要性を説いても、結局は武力という力が無ければ、その正義自体が通らないのだ。

 ダイの父バランとの戦いとは、そういうものだったのだろう。

 皆は――自分以外は、それを乗り越えてきたのだ。

 

 過去の事を聞いて、何が出来るわけでもない。…それこそ口を出せる事ではなかった。だから、試合前に心を乱さないようにという「配慮」をしてくれたポップやダイに感謝しなければならないのだろう。

 ただ……

(私は…ただ……ただ、何だろう……?)

 

 話し上手なポップのこと、アバン先生への三ヶ月の思い出語りはあっという間だった。特に、バーンとの初戦で大魔宮から脱出してからの事はフローラ様も知っている事が多いので猶更だ。

 

「ミナカトールの時は…おれ…しるしが光らなくて。マァムやダイはすぐに光るのに、どうしてって…」

 本番でもポップのしるしは光らず、辛さにその場から離脱しようとした彼に、ザボエラの攻撃があり、それを防ごうとメルルがポップの前に飛び出し重傷を負った。

 マァムは、きゅと拳を作った。あの時の事は忘れたくとも忘れられない。

 勇気を出して告白をしたメルルも、彼女のポップへの献身も。ポップの叫びも、しるしの光も、彼の覚醒も。何もかもが怒涛のように目の前で過ぎていったのだから。

「おれ、やっと本当に皆の仲間になれたんだって、嬉しかったです。おれも、先生の弟子を名乗って良いんだって…。このしるし、皆と一緒におそろいで持てるんだって。」

 その言葉に息を飲む。

「ポップ…そんな風に思ってたの。」

「そりゃ、そうさ。お前なんて握っただけで光るし、ダイは特訓してる間にも光ってた。ヒュンケルだって助け出されてすぐ光るんだぜ。先生に習った事ない姫さんまで光るのに…おれだけ…ずっと…仮免なのかなって。命かけて戦って、一度は本当に死んだのに。もう戦いから逃げたりしないって覚悟もあったのに、何が足りないのかって…ずっと悩んでたんだ。

 ――そんなおれなんかが、『勇気』なんてびっくりだよな!」

 殊更に明るい声を出して、ポップは笑う。

 彼の事を勇者一行のムードメーカーと誰かが言っていたが、本当にその通りだと思う。つらく苦しい終盤の戦いで、全体の明るさを保てたのは間違いなくポップの持つ、この明るさだ。自分も含め、誰もが、ポップが諦めていないなら大丈夫という無言の信頼を寄せていた。

 ――何も心配いらねえよ。いつも一番に逃げちまうおれがここにいるんだぜ?

(誰からも信じられて、頼られて、重荷だと感じる事だってある筈なのに……)

 ポップは、本当に成長したのだ。

 立派で、尊敬すべき仲間。

(……じゃあ、私は?)

 彼にとって、彼らにとって…自分は一体何なのだろう?

 

 頭の中がグルグルする。

 知らなかった出来事や思いに触れて、心の整理が追い付かない。

 自分がこれからしようとしている事が、正しいのかどうか、あれほど考えたのに。

(ううん。そうじゃない…正しいとか間違ってるとかじゃ、なくて……)

 顔を上げ、胸元のしるしを握りしめる。

 無機物であるはずのそれが、何故か少し熱を持った気がした。 

 

(私が、そうしたいんだから……)

 

 

※※※※※

 

「ポップ、本当に成長しましたね。私はあなたを誇りに思いますよ。」

「先生…」

 ありがとうございます…! とポップは頭を下げた。気を抜くと鼻水と涙が溢れそうだ。

 師からのこの一言で、正真正銘、仮免から卒業できたのだと感じる。

「明日からの捜索、大変でしょうけど力を合わせて頑張って下さい。あの占い師のメルルさんですか、彼女も一緒なんでしょう?」

 マァムの方にも微笑むようにアバン先生が言うのを、少しドキリとして窺ってしまった。

 メルルの占い師としての力はダイの探索に物凄く役立つだろう。本人がそう言って売り込みにきてくれたのだから、間違いない。ダイの捜索に人手が割けない以上は自分たちであいつを探そうとなったが、地上以外の場所の可能性もあるならば、彼女の能力は未知の領域を照らす灯明のようなものだ。

 ただ…

 自分に告白した男と、その男に恋をしていると宣言した女性と、共に旅をするというのはマァムにとってどうなのだろう?

「はい。彼女と協力してダイを探す為に、頑張ります。」

 にこりと笑うマァムの顔にほっとする。

(そうだよな…いらん心配だよな。こいつは、そういう恋愛とか男女とか関係なく、立派で強いんだ……)

 行方不明のダイ。大切な弟弟子を探すという目的の前に、同行者が誰とかは問題にもならないのだろう。

「その…先生、」

 マァムが師を呼ぶ。

「どうしました?」

「少しお話があるんです…。出来たら、フローラ様と三人で。」

「え?」

「まあ、私も?」

「はい。」

 師がちらりと女王様の目を見て頷いた。

「私とフローラ様は構いませんが…」

 次に視線が向くのは当然こちらだった。マァムがふわりと笑う。

「ポップ、少しだけ外で待っていて。すぐ終わるから。」

「あ、ああ。わかった。」

 ポップは頷き、挨拶して部屋から退いた。

(マァムと先生夫婦での話なら…マァムの父ちゃん母ちゃんの事かな……?)

 それなら確かに自分がいても邪魔だろう。

 そう思い、壁に背を預けてマァムが出てくるのを待とうと目を閉じる。

 

 目蓋の裏に浮かんだのは、先程のマァムの笑顔。

 いつもと違う笑みだったな…そんな風に感じて思い至る。あれは、彼女が慈愛の…何かの痛みを包み込む時の笑顔だった、と。

 

※※※※※

 

「先生、これ…お返ししたいんです。」

 愛弟子から告げられた言葉に、アバンは息を飲んだ。よもや彼女から…マァムからそんな言葉を聞く事があるとは思ってもみなかった。

「マァム、何故…⁉」

 彼女が取り出したのは、アバンのしるし。他ならぬ、自分が弟子となった子たちに渡した師弟の絆とも言える大切なもの。

 隣ではフローラが驚きのあまり口を押えていた。

「私…これを持つ資格、ありませんから。」

 それはつまり、もう『慈愛の使徒』ではない、という宣言に等しい。

「ど、どうしたんです? 一体何があったんですか?」

「アバン、落ち着いて。マァム、理由を話してくれますか?」

 おろおろする自分よりも、フローラの方が衝撃から立ち直るのが早かった。

「はい…。私、あまり上手く説明出来ないかもしれませんけど……」

「構いませんよ。……私ね、あなたがさっき、ずっと静かだったのが気になっていたの。もしアバンにも言いにくい事でしたら、私だけで聞くわ。どう?」

 マァムが…アバンにとっては親友ロカの愛娘が、少し悩んだようにうつむき、そして「はい」と頷くのは衝撃でしかなかった。いつでも慕ってくれるこの娘は、アバンにとって弟子である以上に親友の忘れ形見であって親族のような気持ちでいたのもある――拒絶など、考えた事もなかった。

「で、では、私も外に出ていますね。」

「すみません、先生。」

「いえ……では、お願いします、フローラ。」

「ええ。ああアバン、飲み物がまだ残っているから持って行って。…ポップの分も。」

 妻の心遣いが有り難かった。

 

 部屋から出ると、ポップの驚いた顔が正面にあった。

「え、先生…?」

「はは。私も追い出されちゃいました。」

「あ、はい…あの…先生、」

 ポップが小さく「顔色悪いですよ」と指摘するのに、アバンはぐ、と詰まる。

「マァムに何か言われたんですか…?」

 

「…ええ、まあ。取り敢えずお茶を飲み干してしまいましょうか。」

 

※※※※※

 

「お茶を淹れ直すわね。」

 フローラが言うと、マァムは「いえ、そんな」と断った。ではとスイーツスタンドの菓子を勧める。

「好きな物をとって頂戴。二人きりなんて初めてだもの。まずはお菓子を頂きましょう?」

 緊張しているかもしれない少女に微笑む。

 たとえどんなに『アバン先生の奥さん』の立場を手に入れたとしても、フローラはどうあってもカール女王である事に変わりはない。同様に、フローラがいかにマァムの事を『ロカの娘』として見ていても、彼女は騎士団長の息女としては育っていないのだから。

「どれが好き? とってあげる。」

「あ…私、こういうのわからなくて。どれも皆素敵で…」

「じゃあ全部食べてみる?」

「そ、そんな!」

 慌てつつ美味しそうだなという風に薄茶の瞳が輝いたのがわかった。何故だかその事実にフローラはほっとする。十六歳の女子ならば、もちろん例外はあるとは言え、菓子が好きというのは当たり前なのだ。

「いいのよ。レオナの心遣いはありがたいのだけれど、私とアバンじゃ食べきれるわけもないし、それにアバンが余り料理に凝るのも困るもの。さっきもあなた達が来るまで、このバラの形の菓子が珍しかったみたいでノートに描いていたのよ。」

「そうなんですか。じゃあ…クリームが多い、それを頂きます。」

 マァムが選んだのはカロンと呼ばれている菓子だった。軽く薄く膨らんだ生地には種々の色があって、フローラはいくつも皿に入れてやる。

「沢山あるから、好きな色をお食べなさいな。」

 慌てるマァムに最初は目を細めた彼女だったが、本当に迷っている様子に「おや」と微かに眉を顰めた。

「…マァム、選ぶのは苦手?」

「…沢山あるので。村では菓子は滅多に食べませんから、選ぶことも初めてで。」

「そう………好き嫌いを言ってはいけないものね。」

「はい。お母さ…母にいつも言われてました。ネイル村は貧しいわけではないんですけども、やっぱり自給自足なので。それに母の実家は教会ですから、『あるものに感謝しましょう』『どれも皆等しく尊い』『優劣は自分の都合』って耳にタコが出来るくらいに……。あ、すみません。こんな話……」

 困ったようにマァムは笑う。

 フローラはグラスに視線を僅か落とした。この娘は緊張してはいないのだろう。だが、もっと厄介なものに縛られているのではないか…そんな思いが脳裏をよぎった。

 

「ポップがメルルに告白されて、私の事を好きだと言ってくれました。その後…大魔宮で親衛騎団との戦いの後に改めて告白してくれたんです。」

 ちゃんと顔を見て正面から言ってくれて、嬉しかったんです。

 マァムが大魔宮での出来事を語る。先程ポップが語った通りの事だった。

 だが、視点はマァムのものだ。

「返事はしたの…?」

 この問いをする時、フローラは年甲斐もなくドキドキとした。娘のような歳の少女が、いつもそばにいた仲間に告白されて初めて自分が想われていた事を知る、なんて結構胸の躍る展開ではあるまいか。

 だが、マァムは首を横に振った。

「戦いが終わってちゃんと生き残ってから返事をさせてと言いました。必ず返事はします。けど、あまりにも急で。…私、ポップの事はずっと性別関係なく『素晴らしい仲間』だって思っていたので。

 レオナには鈍いって言われたけど…ポップは私の身体つきの事は言いますけど、戦いの時はしっかり戦力に入れてくれるから、特に女扱いなんてされた事なかったし…。だから…前の夜もヒュンケルとエイミさんの事で相談なんてしてしまって……」

「そう…だったの……」

「それに…」

 マァムの次の言葉にフローラは絶句した。

 

 マァムは言ったのだ――「私は、仲間ですらないのかもしれません。」と。

 

「何を言い出すの…そんな事あるはず」

 ないでしょう、と続けようとしたのをマァムの声が遮った。

「私、さっき初めて知ったんです。ポップの、自己犠牲呪文の事。」

「え…?」

「知りませんでした。教えてもらえませんでした。何も。竜騎士バランとの戦いで、彼がそんな事になったなんて一言も…!」

 フローラはマァムの手が震えているのに気付いた。声は穏やかだが、瞳には熱があった。

 それはまるで嵐の中心のようだ。荒れ狂う渦の中心だけが静かに澄んだ青空を見せるように。

「その場にいなかった私に、何も言う資格なんてありません。

 後から聞かされたって何が出来るわけでもないし、武闘大会で勝たなければいけなかったから『配慮してくれたことに感謝しなきゃいけないんだ』ってわかってます。

 私だってダイがつらいだろうって思って聞かなかったんだし、聞かれなければ答える必要もないんです。

 ポップは…生きてくれてる。

 わがままなんです。私は…わがままです。

 こんな事で疎外感を感じるなら、じゃあ、それなら私はその場にいたかったのかって考えれば、そんな酷い出来事に遭わなくて幸運だったんですから……だから、筋違いの怒りなんだとわかっています。

 でも…やっぱり、教えてもらいたかった……っ!!」

 

 ぽろぽろと少女の瞳から涙が零れていくのを、フローラは呆然と見遣った。

 

 心配しないでいいようにと慮られて、感謝しなければと理性が思う反面。皆が共通して持っている連帯感には、決して入れない…入れてもらえない。

 戦闘要員として望まれていても、他のどの戦いを一緒に経験していても。

 戦えなくて申し訳ないと嘆き「出来る事をやろう」と励むメルルと、共に戦い同じアバンの使徒という括りの中にありながら『配慮』をされ続けるマァム。

 フローラは溜息をついた。

 一概に比べられるものではないのはわかっているが、つらいのはマァムではなかろうか。

 大事にされる事に感謝があろうと、それは彼女を対等に扱っていないのと同じではないのだろうか。

「フローラ様、慈愛って皆を分け隔てなく愛する事…ですよね。」

「ええ…そうね……」

「私、告白されました――ポップに。嬉しかった。凄く私の事を想ってくれてたんだって……でも、それなら、返事をすればもう…それまでの『みんなが大切』って関係は……壊れるんですよね。」

 マァムがポップに諾と答えれば、それはつまりメルルの完全な失恋だ。

 また、マァムはいま取り上げていないが、パプニカ三賢者の一人エイミが言うように、マァムのヒュンケルへの気持ちが恋なのだとして、マァムが彼を求めればおそらくヒュンケルは拒否しないのだろうという事がフローラにもわかる。少し会って話した程度ではあるが、あの青年のマァムへの態度は崇敬のようなものだと思えた。アバンへ向けるのと同じ深い尊敬がいつも眼差しに籠っているのだから。

 そうなれば、エイミもポップも失恋の痛みを味わうだろう。

 選ばなかったとしても、マァムがマァムである限り、ポップは恋い続けるのかもしれない。

 想いを伝えられた者は良いだろう。だが、真実の意味で大きく広い愛を皆に抱いていた少女だけが、答えを出すことを求められ、必ず何かを失うのだ。

「私、皆が好きです。大切です。ポップもダイもレオナもヒュンケルも。クロコダインやヒムやラーハルトもチウも。メルルやエイミさんも。関係の濃淡はあるかもしれないけど、皆大切でした。ずっと――それが続くって思ってました。」

 ただ頷く。先程ずっと静かに、少年の話の影でここまでの想いを滾らせていたのか。

『母の実家は教会ですから、『あるものに感謝しましょう』『どれも皆等しく尊い』『好き嫌いは自分の都合』って耳にタコが出来るくらいに……。あ、すみません。こんな話……』

 つい先程の会話が耳の奥で蘇る。

(ああ…何てこと……)

 フローラはマァムの母レイラとはあまり面識がないが、あのロカが惚れた女性なのだから素晴らしい人なのだろう。僧侶だと聞いていたから、主婦となっても一人娘に優しさの尊さと分け隔てのない態度をしっかりと伝えてきたのだろう事も容易に想像できる。

 

 それによって育まれた慈愛が、よりにもよってマァムを縛るとは、何ということだろう。

 

「答えは必ず出します。ポップの誠実さにちゃんと答えたいから。先生の弟子なのも誇りです。でも…『慈愛の使徒』はもう…無理、です。こんな、理不尽な怒りとか、贅沢な、疎外感とかを抱いてっポップや、メルル、に『慈愛』なんて…言えません…! 私…私も……っ」

 

 私も皆とおそろいが良かった――!!

 

 その魂からの叫びに、フローラはただ少女を抱きしめるだけだった。

 友人だと言っても、今の、ダイを失ったレオナにこんな相談は出来ないだろう。師であろうと異性であるアバンにも。言えるとすれば母親であるレイラくらいだろうが、思い返せば彼女はいまのマァムの年齢で母となった女性だ。激しく深い恋は知っていても、慈愛の悩みには僧侶としての観点からしか答えは出ないかもしれない。

 等しい愛を抱くがゆえに、マァムはあまりにも孤独だ。なまじ強い心であるがゆえに、皆がこの子に安定を感じて、寄り添ってこなかったのだ――救われる事はあっても。

 

※※※※※

 

 涙を拭い、腫れた目蓋をホイミで癒し、フローラに挨拶をして部屋を出たマァムは、待っていた二人に礼を言った。

 廊下の端に空のグラスが二つ。すぐに終わると言ったのに長く待たせて申し訳なかった。

「フローラ様とお話は出来ましたか?」

 アバンの問いに、マァムは頷いた。

 あれほど誰かに親身になって話をきいてもらったのはいつぶりだろう。

『またいつでもいらっしゃい。先生では無理な話なら、先生の奥さんがいくらでも聞いてあげますからね。』

 あれほど、誰かに頼るという事が出来たのは、いつぶりだろうか。

 フローラ様に心の内を全部曝け出したお陰で、心はここしばらくなかった位に軽くなっていた。

「はい。あの、先生…」

「はい?」

「私は先生の弟子で良かったです。」

 告げると、数瞬の間の後、先生は天井を見上げて目を揉んだ。何故だかその耳元には赤い筋が走っている。

 肩に手を置かれ、先生が微笑んだのを正面から受け止められるのが嬉しい。

 

「私も、あなたを弟子に持てて良かったですよ、マァム。貴女は優しくて勇敢な、私の自慢の弟子です。」

 

 

 

 部屋に戻る道すがら、ポップがおずおずといった態で話しかけてきた。

「お前さ…その…アバンのしるし…返すって……」

 ああそうか。先生に聞いたのね。

「うん…そのつもりだったんだけどね。フローラ様に『持っておきなさい』って言われたの。」

 自分の代わりに先生に返してもらおうとお願いしようとしたのだが、かの女王陛下は『ダメよ』と言った。

 

『マァム、私が受け取るのは、あなたのそのつらい気持ちとやり場のない怒りだけ。あなたは紛れもなくアバンの使徒なのだから、その絆の証として持ち続けなさい。』

『で、でも…』

『慈愛だけが、使徒の条件じゃないでしょう?』

『え…?』

『あなたにだって正義の心はあるでしょう? 困難に立ち向かう闘志も。皆を公平に愛する純真さも――いつか誰かを選び取る勇気も。』

『…はい。』

 

『自信を持ちなさい。あなたはちゃんと、皆とおそろいよ。』

 

「そっか…。おれは、お前がしるし持ってても持ってなくても好きだけどさ…やっぱ、絆が形になってるって感じで、持っててくれたら嬉しいよ。」

 見上げた彼の顔。そう、「見上げた」のだ。いつの間にか、並んでいたはずの背は彼の方がうんと高くなっていた。

 その耳元には、何故か先生と同じ赤い筋があった。何かを押し付けたような丸い跡だった。

 目が合う。

 視線が絡む。

「明日からの旅、な。おれ、絶対お前にいっぱい心配かけると思う。心配かけないように頑張るけどよ、それでもやっぱり嫌な思いとかつらい思い絶対させると思う。だって、おれだからな。」

「ポップ…」

「ごめんな。けど、こんな奴だけどよ…心配してもらっても…いいか?」

 困ったように申し訳なさそうに、とんでもない宣言をされた。だけど、それは今の自分が何よりも欲しい言葉で。

「私に…心配させてくれるの? ちゃんと、怒らせてくれる? 泣かせてくれるの?」

「ああ! って、自信もって言う事じゃねえけどさ! ガキみたいに隠したりしねえから。ちゃんと見てもらうから!」

 なによ。なんでそんなに勢いこんで言うのよ。なんでこんなに……嬉しいのよ。

 ポップの指が頬を、目元を、すくうようにした。

「…ごめんな。いっぱい泣かして。」

「…謝らないでよ。」

「ああ。そうだな。…有り難うな、マァム。」

 

『あなたが誰かを選ぶことは、他を捨てる事ではないわ。ちゃんとあなたが皆を好きな事は伝わっているわ。』

『そう…でしょうか。』

『ええ。そして皆も、自らが傷つく覚悟と、誰かを傷つける事を覚悟に選んだの。だから、大丈夫。

 全てを幸せにする事は決して出来ないの。だからね、選ぶ幸せを見つけなさい――あなたなら、選んだ相手一人は、確実に幸せにできるでしょう。』

 

「ねえポップ、私、必ず返事をするわ。だから…もう少し待ってて。」

 尋ねながら思い出すのは、あの日のポップの言葉。

 ――マァム、絶対勝とうな。未来見てえから。おれがフラれる未来でもいいからさ。

 きっと、どんな答えを出しても、ポップとの絆は変わらないのだろう。

 

 けれど、頷く彼の黒い瞳に映る未来と自分が見る未来は、おそろいがいいな――そう思えた。

 

(終)




するまでもない補足

グラスをドアと耳にあてて部屋の会話を探るという、古典的な方法があります。部屋の女主人公認だから、この場合目を瞑ってください。(絵面考えたらバカっぽいですが)
女性特有の悩み相談とかの、本当に聞かせられない話なら、気づいた時点で先生がやめるし、横で聞いてる三番弟子にもやめさせるだろうという、フローラ様なりの夫への信頼と問題共有です。



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変わらないもの

お久しぶりです。
だいぶ間が開いてしまいましたが、とりあえず活動はずっと続けております。
今後とも宜しくお願い致します。


 一年の大半が寒さに支配されるこの地方も、この時季にもなれば一斉に緑が生い茂る。

 大地が短い夏を謳歌しようとするかのようだ。それでも深呼吸をすれば、吸い込むのは他の地方で感じるような草いきれではなく、色とりどりの花の香と清涼という他ない空気。

 ぐっと胸を張り、腕を頭上で伸ばす。そうして軽く筋肉をほぐすと、同時にここ数日のささくれ立った気分もほぐせた気がした。

 いい加減気持ちを切り替えよう、と内心で呟く。話を聞きたがる親友の態度は当たり前のものだ。こんなくさくさした気分のまま一日中いるなんて、ダイにも悪いではないか。

 

「……まぁ、こんなとこだ」

 

 先日のパプニカでの騒動の真相をせがまれるままに話し、あらかた説明が終わると、ダイはどこかポカンとした表情になった。

「わかったか?」と確認すると、ダイは「うん」と頷いた。あっけないその反応に、おや? とポップは意外に思う。

 親友の性格からして、怒りに震えるのではないかと想像していたのだ。何せ、先日パプニカで逮捕された貴族を首魁に『組織』の連中は、自分たちの悪事を隠すために魔族に扮する事までしていたのだから。

 その当日はさすがに喧々囂々の騒ぎとなり、ポップとダイは会うことすらかなわなかった。ようやくその騒動からポップが解放された今日、ダイと一緒に里へと出かけると、詳しい話をせがまれたのだ。

 何しろ、当日ダイはパプニカにいたのだから騒動は目の当たりにしている。だのに、いつもならば一番にダイに色々と話してくれるレオナは騒ぎの渦中におり、とても話しかけられる雰囲気ではなかっただろう。ヒュンケルや、アポロを筆頭とするパプニカ三賢者も同様で、ダイ一人の為に時間を割いてもらうわけにもいかなかったはずだ。

 騒ぎの中にはポップ自身もマァムも、更にはチウやクロコダインといった、普段はデルムリン島に住む仲間もいた。事件解決に協力したためで、本来は他国人である自分たちでさえ対応にてんてこ舞いだった。

 そんなわけで、ダイとしてはこの数日、蚊帳の外の気分をずっと味わってきたはずだ。何とか詳細を知ろうとするのは当然だった。

 別に隠す必要もないので、ポップは乞われるままに事件の概要を語った。だが、先程気持ちを切り替えようと思ったばかりだというのに、己の語った内容を思い出すと、怒りが再燃しそうになる。

 わずかに眉を寄せた彼の表情を、ダイは自分の反応の薄さの故と取ったのだろう。少し慌てたように「えっと」と言う。

「わかったんだけど…」

「けど? 何だよ?」

 少々語尾がキツくなったのは否定できない。だが、ダイの次の言葉でポップの苛立ちはうやむやになってしまった。

 

「ポップは凄いね」

 

 至極あっさりとしたその言葉は、称賛ですらなく、単純に事実の確認をしたといった風で。今度ポカンとしたのはポップの方だ。

「……は?」

 何故そこで自分のことになるのか。ポップにはわからなかった。確かに犯罪の解決に関わりはしているが、今回は彼の十八番である魔法を使う場面も特になく、仲間と一緒に少々立ちまわっただけなのに。

 だが、ダイは「だってさ」とポップの困惑などお構いなしだ。

「だって、その『組織』って大きかったんだろ? それに、当たり前なんだろうけど、バレないように物凄く計画も練ってあったんだろ?」

 それは先程ポップが語った内容の通りだ。頷く彼に、ダイは続ける。

「それだけ大きな組織なら、黒幕って中々わからないって思うんだ。なのに、割り出すって凄いよ」

「ああ…そういう事か………って、あれ?」

 親友の言葉に納得しかけて、引っ掛かる。自分は事件のあらましは語ったが……

「俺が割り出したって、言ったっけ?」

 言ってないはずだ。だが、ダイは笑う。

「え? だって、ポップだろ、そういう役割は」

 当然だろうという風に、ダイは黒い目を瞬かせた。まるで、あらかじめ知っていたかのように。

 その言葉にポップは内心で手を上げる。親友のこういうところは本当に敵わない。

「まぁそうなんだけどな。……実際、大した事はしてねぇよ」

 肩をすぼめて告げる。謙遜でも何でもなく、本当に大したことは何一つしていない。この件でポップが主に使ったのは、魔法力でも腕力でもなく、舌先三寸なのだから。

「所詮は欲にまみれた連中だったってことさ。言葉一つで片が付いたからな」

 首を傾げるダイに、ポップはにやりと笑って見せる。

 

「人間は、信じたい事だけを信じるもんだから」

 

 ポップが取った策は単純なものだった。捕えた下っ端をわざと逃がしたのだ――偽の情報を手土産に。

 例えば、どこで検閲があるか。どんな人間がそこに向かうか。こちらがどの程度の規模で動いているか。賊を捕えた部屋の外で仲間と会話をしてわざと聞かせ、そうしておいて夜中に見張りを甘くする。

 当然のように、賊はまんまと逃げおおせ、手柄顔で巣穴に帰り、自慢気に持ち帰った情報を伝える。無論、尾行がつけられているのだが、遥か上空から獣王遊撃隊のメンバーに見張られているなどと気付くはずもない。

 手土産に持たせた情報の九割以上は真実だ。というか、真実になるようにポップが演出しておいた。偽の情報はごく僅か。

 

 秀逸な言葉の罠は、真実の盃に一滴の嘘を垂らせばいい。相手が望む味の、一滴の嘘を。

 

「上手く仕掛ければ、情報一つで集団全体を壊せるもんなんだよ」

「そういうもんなの? 悪い事をしてるって自覚があるからこそ群れてるのに?」

 情報一つで簡単にヒビが入るものだろうか? 親友のもっともな疑問に、ポップはチラと笑う。

「欲得で群れてる人間は、いつだって他人を疑ってるもんだからな……どんなに強い結束だって言っても、裏切りが出たと思えばすぐに崩れるもんだ」

 言いつつ、ポップは、ふと遠い目をした。

 

 強大な敵を前にして、非力な魔法使いであるポップが戦場で生き残ってこられたのは、敵の裏をかく戦い方をしてきたというのが大きい。敵の望みを見抜き、その流れ通りに事態が進んでいるかのように錯覚させて手玉にとる。「場」を支配するというのは、そういう事だ。

 戦後、この戦い方は、政治に関わることで更に磨かれた。心理戦こそが大魔道士ポップの本領発揮と言っても過言ではない。

 

 人は、信じたい事柄を…もしくは信じやすい事柄を信じようとする。数多ある情報を取捨選択し、己に都合のよい事だけを真実だと思い込もうとする。…そうして己を保っていく。

 

 若い大魔道士が経験から得てきた、それは答えだった。何も、悪党相手に限った話ではない。

 少し前までの彼自身が、身を以て味わってきたのだから。

 たった一つのだけ情報を頼りとして、ようやく前を向くことが出来る――そんな状況を。

 絶望的な状況の中での微かな可能性を信じることで、何とか進んできた。心が折れそうになるたびに、剣の宝玉の輝きを確認した3年と言う日々。

 ダイが帰還し、いま噛みしめているこの幸せな温もりの中でも、時折、得も言われぬ不安に駆られる事がある。心の一部は荒んだままだ。おそらくは一生涯、癒えることはないだろう。

 

「……あいつらは皆、こう思ってた。『他人なんてどうでもいい』ってな。だからこそあんな酷ぇ罪が犯せるわけだけど――そうして俺やマァムやチウ達が現場に乗り込んで大暴れして、何人かは捕えられた。そんなヤバい状況で『どうやら組織のボスは裏切ったらしい。組織を売って、一人だけ助かる気でいる』なんて噂が流れたらどうなる?」

「あ…」

 ダイは絶句する。そんな噂が流れれば、疑心暗鬼に陥った者たちは我先にと仲間を売るだろう。自分が心の奥で考えていた裏切り行為を、上位者が率先して行ってくれたのなら、心理的な抵抗は消える。意図的に流されていた他の情報がホンモノであるなら、尚更、疑う事などあり得ない。

「あとは、芋づる式だよ。簡単だったぜ」

 ダイは納得と同時に、感嘆する。この目の前の親友の知恵に。

 昔から頭の回転の速い彼だが、ダイが見てきたのは戦場での作戦がほとんどだった。3年前のそれが戦術レベルでの事なら、いま、ポップが何でもない事のように口にした内容は、状況そのものを作り出し変えてしまう戦略レベルの話だ。

 高い鳴声が空に響く。

 巣に帰っていく鳥の群れが、頭上に一瞬大きな影を落とした。

 里への道に戻るため、のんびりと丘を歩いていたが、話し込んでいる内に空はどんどんと黄昏てきている。夜が近い。

「……やっぱりポップは凄いよ」

 ポップは答えずに、茜色の空を見上げている。その目が、遠く見つめているものは何だろう。

「…………オレじゃ、そんな事は絶対に出来ないもん」

 アバン先生に頑張る決意は伝えたけれど、それでも。

 様々な壁を知れば知るほど、どう動けば良いのかわからなくなるのだ。身体を鍛え剣の腕を磨いて、大魔王打倒を目指していた時とは全く違う戦い方が必要で……、けれどダイは、いまだ戦い方を学ぶ地点にすら立てていない。その自覚がある。

 果てが無いと思える道。ポップはその道を歩いている。一緒に歩くことは不可能に思えるほど、最早その距離は開いている。ダイが3年間足踏みをしていたからだ。

(ポップだけじゃない、よね……)

 心中でぽつりと呟く。ダイがようやく歩こうとしているその道を既に歩んでいるのは、ポップだけではない。レオナもマァムも、ヒュンケルもアバン先生も、ラーハルトやクロコダインとてそうだ。彼らは既に何らかの形で政治に関わっている。

 皆は、積極的にそういった話をしようとはしないが、それでも苦労しているのは伝わって来るものだ。

(オレ、甘やかされてるよなあ……)

「別にいいじゃねえか」

「えっ?!」

 まるで自分の心を読まれたかのようなタイミングで言われ、必要以上に驚いてしまったダイに、ポップは黒い瞳を丸くする。

「何だよ? そんな驚くことか? 別にお前が口達者にならなきゃいけない必要なんて、ねぇだろうが」

(あ…そっちか……)

 怪訝な顔をする親友に、ダイは苦笑するだけにとどめた。そんなダイに、ポップは追及はせず言葉を重ねる。

「お前が何から何まで全て出来るようになる必要なんて、どこにもねぇ。出来ないことを補い合うのが仲間だろう?」

 静かな声だった。黒い瞳も笑っていない――こんな時の彼がどこまでも真摯であることをダイは知っていた。

「うん…でも……」

 親友の言うことは尤もだと、ダイとてわかってはいる。立場が逆なら自分だって同じことを言っただろう。けれども政治というジャンルで自分はスタート地点にすら立てていない。守られてばかりで……むしろ足を引っ張っている気がするのだ。

 ザワリ

 風が吹く。くるぶしを優しく撫でていたはずの草が不意に絡みつくような感じがして、ダイは視線を落とした。

「ダイ?」

「…オレ、全然役に立ってないだろ…? 勉強不足だっていうのもわかってるけど……皆や、ポップみたいに才能がないから………」

「違う」

 小さな声は、けれど凛とした声で否定された。がっと強く肩を掴まれ、ダイは顔を上げる。

 射抜くような強い視線でポップが見つめていた。

 

 

「才能じゃねえ。個性の違いだ。俺や姫さんのようになる必要なんてどこにもねぇ。お前は、お前にしか出来ないことをすればいいんだ」

 

 ザワザワ ザワザワ

 夕闇に冷えた風が、二人の間を駆け抜けていく。ややあって、こくりと頷いたダイを見て、ポップはようやく目元を緩ませた。

「オレにしか、出来ないこと…」

「そうだ。気負うことなんかねぇよ。そのために勉強してるんだろ?」

「…そう…だね」

「ああ。そんで、こう考えろ。俺がお前の歳には政治のイロハなんざ齧ってもいなかったんだぜ? 魔法とマァムのケツの事ばっかりだ。だろ?」

「…ばっかりって……」

「あぁ、うん。ケツばっかりじゃねぇな。胸もだ」

 すっとぼけた最後の言葉に、とうとうダイは吹き出した。

 ポップは、明るさの戻ったダイの笑顔に、肩を掴んでいた手を離し、そのまま癖のある黒髪をくしゃりと撫でてやった。嬉しそうに笑う年下の親友に、「それに」とポップも微笑む。

「それに、俺に限って言えば、俺が政治に関わってるのは誓いみたいなもんだからな」

「誓い?」

 おう、とポップは頷く。

「お前が帰って来るまで、俺達が地上を守っていこう――って誓い」

 大戦直後にダイの剣の前で誓ったのだ。

 

 ――いつの日か、ダイが帰ってきた時に誇らしく胸を張れるような地上にしよう。

 

 決心してから3年が経った現在、旅の仲間の中でも特にポップは政事に深く関わるようになっている。

 『力なき正義は無力』という先生の言葉は正しく、そして、平和な世界での力は魔法ではなく、発言力と言う名の権力だからだ。

 もう抜け出すことは不可能に近い。親友は帰ってきてくれたけれど、自分なりに上出来だと思えるほどには頑張ってきたけれど、ここで満足してすっぱり足を洗うことなど考えられなかった。関わっただけ新たな縁があり、やり遂げたい仕事も出来ている。何よりポップの中には、気楽な立場を愛するのと同じだけの強さで、政治の世界で腕を振るうことへの楽しさが存在しているのだから。

 権力に固執する人間になるなどおぞましい限りだが、目的の為にある程度の権力は欲しいし振るいたい――そんな思いが確かにある。

 切っ掛けが何であれ、随分と変わってしまった自覚はある。このような立場になるまで、雲の上の存在だった人々が動かしていた世界の仕組み。それに関わる事で得られる楽しみに、権力欲が僅かも含まれていないとは、ポップにはもう言い切れなかった。

(けれど…いや、だからこそ、いつまでも変わらずに、誓いを守っていきたい)

 それがひいては、この三つ下の勇者の友であり続けられる最低限の条件になるとポップは識っている。

(ま、本人には言わねえけどな…)

 ダイに話せば、真っ直ぐな彼のことだ。友人に条件など付けないとでも宣うだろう。そんな優しい言葉を引き出して、喜ぶようなことはしたくなかった。

 当のダイは、ポップの『誓い』の説明を聞いてどこか照れたように笑ったが、

「――だから気にするな。これは、俺の誓いなんだから」

 というポップの言葉に、ふと表情を消した。

「…どした?」

 ダイは答えない。じっとポップを見つめて。

 それは、苦労をかけてごめんねという悔恨であったり、その苦労を親友が己のためにしてくれたのだという優越感に似た喜びであったり、こんな素晴らしい親友がいるということの嬉しさであったり、さっさと追いつきたいという競争心だったりするのだが、視線に様々な感情が乗せられていても、言葉は僅かなものに収斂していった。

 

 暗くなっていく里への径。たたずむ二人の影法師が、長くながぁく丘に伸びていく。あと少しもすれば影は夜闇と同化するだろう。

 けれど二人の足は進まない。進めないでいた。まだ。

 

「なら、オレも誓う」

 ぴくりと肩を震わせたポップに、言葉を探すようにしてやおら告げる。

 

 

 

「オレ、もうどこにも行かないよ。地上が好きだ。ポップ達が守ってくれたここが好きだから。もう絶対にどこにも行かない」

 

 

 

 ザワザワ ザワリ

 ポップの胸に瞬間走ったのは、痛みだった。

 心のどこかがざわめいた。荒んだ嵐が吹き荒れ、嘘だ嘘だと喚き立てる。

 ――わかっている。この言葉はいつか反故になるのだと。

 歴史には【流れ】がある。個人がいくら望んでも抗っても、けして避けられ得ぬ大きな潮流がある。時代がもたらす運命と言ってもいい。その力に後押しされる形で、この目の前の親友が再び動かねばならない時が、きっと来る。

 ダイと自分では背負っているものが違う。この勇者は、地上だけの宝ではないのだから。

 いつかダイは、再び地上から消える。

 それでも……

 

「……ああ…信じるよ」

 

 それでもポップは頷いた。深く、強く。

 人間は、信じたい事だけを信じる……そんな、己の語った言葉が脳裏に蘇るが、違う。

 だって俺は……

(今回は、信じたいから信じるってわけじゃあ…ねぇもんな…)

 ほのかな笑みが、口元に浮かんだ。

 

 信の置き所は、ダイの言葉ではない。運命に変えられてしまう言の葉なのでは決してない。

 未来の嘘は、けれど不変の誓いだ。ダイがいま立てた誓言は、その心において決して嘘ではないのだから。

 自分が信じるのは――

 

 一番星が瞬いた。

 涼やかな光と同じように、荒れた心に澄み渡ったものがある。

 

 

 

 どこにも行かないよ。地上が好きだ。ポップ達が守ってくれたここが好きだから。

 

 

 

「有難うな、ダイ」

 ――その心。この瞬間の、お前のくれた精一杯の真実。偽りのない、想い。

 何物にも代わることのない、お前のその誓いが、俺を生かしていくだろう。

 

 

(終)




「信」て字は「人の言葉」と書きますが、正確には「その人の心がこめられた言葉」なんだろうな、と思います。
ポップにとり、ダイの想いが決して変わらないものだとわかっているからこそ、その言葉に頷けるのだと。
もちろん、ダイにとってもそれは同じ事なんだと思います。


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描きたい絵

 

 

『へぇ~! こりゃ凄えな!!』

 オレの感嘆にアバンは照れ笑いを見せた。

 城の裏門から見える丘陵は花盛りで、大きめのノートを横にしてアバンはスケッチをしていた。

『お前、絵を描くのが好きなのか?』

『うーん…絵を描くの「も」好きですね』

 照れ笑いの中に、ちょっと困ったような色がある。オレはそれに気付かなかったふりをした。

『そうか。お前なら絵描きもいけるし、作家で食っていけるほど文章も書けるし、料理家でもやってけるし、何にでもなれそうだな』

『……そうでしょうか?』

 ――つうか、本当はそういう道に進みたかったんだろ? …勇者なんかじゃなくさ。

 アバンの笑みは、いつも静かだ。オレがその言葉を言ってやれたら、こいつはどんな表情をするんだろう。

 お前は、もうこの頃から自身の使命がわかってたんだろうな。

 知識欲とかも勿論あったんだろうけど、お前は色んな「したいこと」を探してたんだろう、アバン?

 オレは……お前がとんでもなく強い、立派な、真の勇者ってやつなんだと誇らしいけども、さ。

 

 丘に風が吹く。サワサワと。ザワザワと。

 花が散っていく。

『ロカ、』

 アバンの笑顔は相変わらず綺麗だ。泣きそうに見える笑顔でこいつはオレに訊く。

 

『あなたならどんな絵を描きますか?』

 

 花霞の中に消えるアバンをオレは見つめた。慌てることも焦ることもなかった。

 

 ※※※※※

 

 あんな記憶は無い。

 オレは訓練をサボるアバンを探して小言を言って連れて帰るのが専らで。あんな風に穏やかに花畑を見るなんて事はなかった。

 だからあれは夢だとわかってた。

 きっとアバンの奴と、今ならあんな風にゆっくりのんびり、綺麗なものを見ながら好きな事をして話せるし、話したいと思っていた……オレの願望が最期に見せた夢なのだろう。

 ――ロカ、あなたならどんな絵を描きますか?

(どんな絵だろう……)

 

 花霞よりも更に霞む視界の向こうに見えるのは、可愛い可愛いマァムの姿。

 抱っこは嫌がるけど、いないいないばあをすると毎回物凄く嬉しそうに笑う、目に入れても痛くない一人娘。

 クレヨンを握らせたら、画用紙いっぱいに叩きつけるように点を描いたり、線を引くという単純な事に感動して興奮したり。

 ピンクが好きでもう短くしちまったから、次に街に行ったら買ってやらないといけない。オレから受け継いでくれた、お前の可愛い綺麗な髪の色だなあ。

 ……レイラは泣くだろうか。

 泣くよな…優しいもんな。オレの事を愛してくれてるんだから。自信を持って愛されてると思えるのが、本当に幸せだ。

 でもどうか笑ってほしい。

 勝って、生きて、アバンが作る平和な世界で、マァムと一緒に…幸せに笑ってほしいんだ。

 

(綺麗な絵だ……)

 朧気ながら見えてきた。

 マァムがいる。レイラがいる。マトリフの奴が遊びに来て…あいつも家族みたいな弟子に恵まれたりしてるんだ。

 そんで、アバンが姫様と結ばれて、好きな研究とか料理とかで心の底から屈託なく笑って。

 

 幸せに溢れた絵だ。

 

 そこにオレはいないけれど。

 

 

 

 オレはその絵を描く側になるよ。

 

 

(終)



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並ぶということ

 頭上に影が落ちた。

 見上げれば遥か上空にコンドルが飛んでいる。既に中天に差し掛かっている太陽にヒュンケルは目を眇めた。

 切り立つ岩山をコンドルは悠々と超えていく。時に旋回し、獲物を探しながら、砂塵を孕んだ風を羽に蓄え、段々とその高度を上げていくのがわかった。

 す…と差し伸ばされた手に、ヒュンケルは首を傾げた。

「ポップ?」

「掴まれよ」

 ぶっきらぼうに告げられた弟弟子の言葉に苦笑する。確かに坂道――というのはヒュンケルの認識であって普通の人間には岩場と呼ばれるだろう道である――ではあるが、これくらいはまだ登れるだろう。

「大丈夫だ。手を引いてもらわなくてもこれくらいなら登れるさ」

 笑って言えば、「そういうこっちゃねえんだよ…」とポップは頭を振った。癖のある黒い髪がゆらりと揺れる。どこか呆れたという風な視線が自分に向けられる。

「ほら」

 有無を言わさず、ポップはヒュンケルの手を取った。

 薄緑の手袋越しに、じわりとヒュンケルの中に何かが流れ込んでくる。

「…!」

 ぴくと肩を震わせたヒュンケルに、ポップは一瞬怪訝な顔をしてから頷いた。

「すまねぇ、びっくりさせた。お前ぇには馴染みがなかったよな――オレの魔法力だよ。お前ぇは闘気に特化してるもんな」

 何でもないような顔でポップは言う。魔法力――それは確かにヒュンケルには馴染みがないものだ。

「魔法力…これが、そうなのか…」

「おう。人によっては回復魔法でも違和感覚えることがあるらしいんだけど、さすがにそれはないだろ? マァムのベホイミとかキアリ―とか平気だったはずだし。オレの魔法は旅の間はほとんど攻撃呪文ばっかりだったからなあ…。ル―ラの時くらいか?」

 言われてみれば、この弟弟子にこうして魔法力で包み込まれるような経験は一度も無かったような気がする。

 この場に来る直前の村に着いたのもポップのル―ラでだったが、それもパプニカの城門を出て「じゃ、行くぞ」と声をかけられた直後だったため、魔法力の感触など考える余裕もなかった。かつての大戦の間はどうだったろうと考えて、ヒュンケルは大魔宮でのそれを思い出そうとした。

「ル―ラの時…か。大魔宮の時は感じなかったな」

「だろうな。一瞬だし、他の皆もいたから分散されるからだろ」

 納得し、ヒュンケルは頷いた。元より彼は魔法は門外漢だ。ポップの説明には「そういうものなのか」と素直に聞くばかりである。

 そして、素直に聞いたからこその疑問が湧いた。

「では、これは何の魔法力なんだ?」

「ああ、これから使うのは――飛翔呪文!」

 ポップの声が辺りに響いた。特に大きな声だったわけでも激しい口調だったわけでもない。けれどもそれはヒュンケルの鼓膜に周囲の音を圧して聞こえた。

(そうか…これがポップの魔法力なのか)

 支配するわけでなく、従えるわけでもない。それでもその場に唯一と知らしめる声だった。周りに溶け込み、その場に存在することに何の不思議もないというのに、言霊が決して無視をさせない声。

 考えたのは一瞬だった。同時にヒュンケルの身体が浮き上がる。

 それは不思議な感覚だった。

 足が地面を蹴ったわけでもないのに、宙にあるという事が。

 徐々に上がっていく高度は、戦闘時の素早さなどなく、ただだぶついた旅装に風を含ませていく。スピ―ドが重視される戦場において風を斬るように跳んだ事は幾度もあるが、それはイコ―ル同じような速度での落下であり、ヒュンケルの中での『想定された動き』だった。故にこの弟弟子の呪文で単に浮かび上がるというのは、想像の外の出来事だった。

「おぉ…!」

 思わず声が漏れた。

(これが、飛ぶという事なのか……!)

 それは一種の感動だった。

 ヒュンケルには魔法の素養は無い。元より剣の道を目指していた為にその事を残念に思ったことはなかったが、もしも使えるならばと想像したことくらいは何度もある。

 攻撃魔法を受けた時は、もし自分にも使えるならば戦術の幅が広がるのに、と。

 戦い疲れた時に回復呪文を受けた時は、傷の治るのを見ながら、これでまだ戦える、と。

 だが、この飛翔呪文にはそういった思いが湧かない。

 気球に乗ったことはある。クロコダインのガル―ダに乗せてもらったこともある。けれどもその時にこんな感動を覚えたことは一度もなかった。何故だろうと思い、すぐに答えは出た。

 

 これまでの飛行は、いまこの時と全く違っていた。飛ぶ目的は戦闘のためだった――向かう先には戦いが待ち受けていた。斬りかかるべき敵がいたのだ。

 

 登ってきた道が遠ざかっていく。

 鬱蒼とした木々を分けるように石畳があり、昔は人の手が入っていたのだとはわかっていたが、それも中腹まで。先ほどポップと休憩した祠から先は、獣道としか言いようのない細い小径があるばかりで、大柄な自分では踏み外さぬように気をつけねばと思っていたのだった。

 それがいまや遥か下にある。

「寒くねえか?」

 足が何も踏んでいないという不思議な感触を味わっていると、ポップが尋ねてきた。

「あ、ああ。平気だ。…というより、先ほどより少し温かいくらいだ」

 質問に答えながら、ヒュンケルは思ったことを口にする。高度が上がり風も強いというのに、何かに包まれているようだ……とそこまで考えて思い至る。

(そうか。ポップの魔法力で包まれているから温かいのか……)

 今一度見上げれば、柔らかく笑んだ黒い瞳と視線が合った。

「寒くねぇならいいんだ。しっかり捕まっててくれよ。もうちょい高度上げて、この『壁』越えちまうからな」

 ポップの優しい声音に、ゆっくりとした上昇に、ヒュンケルはただ頷く。ポップ一人ならば、もっと素早く移動できるだろうに、気遣ってくれているのだろう事がわかる。

 申し訳なく思う。

 傷ついた身体の回復は遠い。ブロキーナ老師にはもう二度と元のようには戦えないだろうと言われ、その見立てはアバン先生にも他のどのような名医にも覆される事はなかった。

 だが、この山の頂を超えた向こうにあるエルフの村の泉なら、回復呪文でも治りきらない身体に効くのではないか――そんな風にポップに提案されたのはつい先日のことだ。

 ダイを捜索する旅の途中、ポップが共に行動したメンバーの中には占い師のメルルがいて、彼女が結界に隠されたエルフの里のことを探り出したのだという。

「さっき休憩した祠あっただろ? あそこが結界の端っこでな。祠で供え物をしたら魔法を使う許可が出るんだ」

「なるほど…それで森の中は徒歩だったのか。お前のこの呪文があれば木の上を飛べばすぐに抜けられそうだと思ったんだが」

「だよなあ。そんだけ、エルフ達は外の奴には来てほしくないんだろ」

 苦笑してポップは答える。おそらくだが、森の中の正しいルートを歩く事で、何らかの紋を刻むように歩かされているのだろう、と。それを外からの来訪者や帰還したエルフ達が幾度も繰り返すことによって、森の守りが更に強力になるようなまじないなのかもしれない、とも。

 それにしても、とヒュンケルは思う。森を正しく抜けたとしても、普通の人間は、その先の断崖絶壁で進むのをあきらめなければならなくなる者がほとんどではないだろうか。それだけの絶壁なのだ。アリの列のような細い道が岩壁に沿ってあるが、強風でも吹けば落ちてしまう者がいても不思議ではない。

 そんな問題が、ポップの魔法一つでこうもあっさりと解決してしまう。

「たいしたものだ……」

 掛け値なしの本音だった。

 ふと、ポップが掴む手の力が増した気がした。その顔は戸惑いに満ちていた。

「どうした、ポップ?」

「……何でもねえ」

 尋ねるとポップは、ふいと上を向いてしまった。一瞬のその動作の間に、戸惑いと納得と怒り、そして哀しみが表情に浮かんで、最後は柔らかな笑みになった。

(――相変わらず、表情が豊かな奴だな)

 出会った最初は頼りなさげな子供でしかなかった弟弟子の、今では立派な一人前の魔道士となった男の成長に思いを馳せ、ヒュンケルもまた笑う。

 

 それはポップが浮かべたのと同種の、優しく柔らかな笑みだった。

 

 ※※※※※

 

 飛行に慣れぬ兄弟子の手を握りつつ、ポップは可能な限りゆっくりとした上昇を心掛けた。

 握る手に力を込める。万が一のことがあって手が離れたりなどすれば、今のヒュンケルには身を守る術はないのだ。

 こちらを柔らかい目で見上げるヒュンケルに、心のどこかが叫びだしたくなる。

(こいつが、あんな顔をするなんて……)

 

 目の前の断崖絶壁を初めて見た時、ポップが思ったのはかつての竜騎衆との戦いの場での事だった。

 正確には戦いが終わってからの、仲間との合流に向かう道のりだ。

 あの場所には森など無いし、エルフの仕掛けも無い。ただの荒野だ。当時、テランの城から竜騎衆を足止めする為に単身で向かった時には無我夢中で、どのように飛んだかすら覚えていない。だから覚えているのは竜騎衆の戦いが終わってからの道のりだった――ヒュンケルに支えられ、ようやく歩く事の出来た道だ。

 陸戦騎ラーハルトとの死闘を終えたばかりだというのに、闘気を放って疲労困憊だろうはずなのに、ヒュンケルはずっとポップを支え、時には抱えて走ってくれたのだ。

 お陰でバランがダイを連れ去るのは阻止できた。戦いの場に間に合うことが叶った。

 だが、ヒュンケルはバランに対峙することが出来たのに対して、ポップの魔法力はその時点ではほとんど回復しておらず、何の役にも立てなかったのだ。体力と闘気に満ちた成人男性の戦士である兄弟子と、その当時まだ成長期の子どもで、魔法使いという後方担当職(本人はどうあれ一般的には)だったポップでは比較しようがないとわかっていても、どうしても体格や力で劣るという事実はポップの心に暗い影を落とす。

 

 反発心から、むきになって喰ってかかった事もある。心配させたことも何度もあるだろう。

 思い出すだに赤面する過去だが、今なら「最後には必ずこの男が何とかするだろう」というような感情があった事がわかる。

何があろうと守ってくれるだろう、見捨てないでいてくれるだろうといった想いが、根底にあるからこその――甘え。

 情けなくも思うが、それだけこの兄弟子を自分は信頼しているという事なのだ。そして……

(ヒュンケルには、そういうの、バレてたんだろうな……)

 自分とダイの関係に置き換えてみるとわかる。信頼というものはあからさまに表さずとも、言動の端々から示されるものだから。

(応えてくれてたって事なんだよなぁ)

 どうにも恥ずかしい。両手が空いていれば髪をガシガシと掻き回したいところだ。

 ちらりと視線を岩壁からヒュンケルに移す。彼は足元に広がる森を眺めていた。風に乗って小さな呟きがポップの耳に届く。

 

 ――森があんなに…遠い。

 ――こういう視点を持てるのか。

 ――魔法とは、良いものだな。

 ――大したものだ…ポップは…!

 

 ポップは己の頬がカァッと発熱するのを感じた。

 ヒュンケルは、まさかポップに聞こえているなどとは思っていないのだろう。彼はそういうあざとい事をする人間ではない。ただ純粋に、空の旅を、景色を、楽しんでいるからこそ漏れた声だった。

 見ていたことを気取られぬよう、ポップは静かに視線を飛ぶ方向に戻す。

 握る手が震えぬように、細く息を吐いて動悸を鎮めた。

 胸が痛いのはきっと、終わったからだ――この兄弟子に守られるばかりの時期が。

 ダイを探す間にどんどんと伸びた背。手も足も体格も、自分ではまだまだ細く思えて不満があるのに、共にいるマァムなどに言わせると、どう見ても男のそれでごつくて固くて…大人の男だと言われる。

 声も随分低くなった。ごつさばかり気にしていたけれど、今日ずっと二人で歩いていた時にヒュンケルの顔はすぐ横にあった。見上げる必要がなかった。

 かつて肩を貸してもらい、ようやく上った荒山。同じようなこの場所を、いまは自分がヒュンケルの手を引き飛んでいる。

 

 やるべきことを成しているだけだというのに、違和感があって。誇っていいのに坐りが悪くて。

 

「ポップ?」

 ヒュンケルが何かを感じたのか、声をかけてきたが、ポップは答えずに飛翔呪文の速度を上げた。

 岩が途切れ、視界が開けた。

 広がる台地は見渡す限りの花と緑。高地の植物らしく背の低いそれらが隠せるはずもない視界の先に、青い湖と、それを覆う結界が薄く見える。

「ここか…?」

 地を踏んで、その感触を確かめていたらしいヒュンケルが尋ねる。

「ああ。このまま真っ直ぐ歩いた湖だ。見えるか?」

「…いや、オレの目には花畑しか……」

 魔法力の無いヒュンケルには、結界の中身は見えないのだ。ポップは頷くと「ついて来てくれ」と歩き出す。

 ゆっくりと、傷んだ身体に負担をかけぬように。

 この兄弟子が、また動けるようになるために――畢竟、戦えるようになるために、一縷の望みをかけてエルフの里へ。

 並んで歩く。

 形容しがたい想いが、胸中を満たすのがわかった。

 

 この治療が良い事なのか。もしも治ればまたこいつは闘うに決まっているのに。それを本人も望んでいる。また甘えるのか。頼ってもらえるほどにこちらも成長すればいい。出来るのかよそんな事が。自分なら治したい。闘わなくたって治療されるべきじゃないか。治したら今度こそこいつは死ぬかもしれない。けれど。でも。

 

「なあ」

「うん?」

「……もしこれで身体が治ったらさ、何がしたい?」

 どうしてそんな事を訊いてしまったのか、ポップは自分でも不思議だった。ただするりと出てきたその問いに、ヒュンケルは怪訝な表情をするでもなく「そうだな…」と考えて答えた。

「酒が飲みたいな。自分で言うのも変だが、快気祝いで」

「え…酒?」

「ああ。ラーハルトやお前と一緒に」

 

 破顔したヒュンケルを凝視して、ポップは「そ…っかあ」と頷いた。

 

 

 嗚呼きっと――これが並ぶということなのだ。

 

 

 

 

(終)



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