バナナな短編集 (バナナ暴徒)
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You and I,against the world

脱け殻になったある男の物語。


波の音が耳を撫でる。真夏だと涼しげな心地よい音なのだろうが、冬の寒い夜、しかも独りだと寒々とした感想しか浮かばない。

 

 だが、彼女はそんな夜にこそ、この砂浜に来るべきだと言って譲らなかった。彼女曰く、『こういう寒々とした砂浜だっていいところがあるんだよ。素敵なね。そんな素敵なことに気づかない人達だってたくさんいて、それに気づけてる私達って凄い幸せだと思わない?』

 

 多分僕たち程真冬の夜の海岸に来たカップルはいなかっただろう。僕は顔をあげて黒いビロードのようになった海を見る。空気が澄んでいるためか月がこの上なく綺麗に水面に溶けている。懐かしい記憶と共に、彼女の笑顔がフラッシュバックしてきて涙が出そうになるが、すんでのところで堪える。僕は泣いていい立場ではない。

 

 コーチジャケットをカサリと鳴らしながら立ち上がって、ズボンの尻についた砂を叩き落とす。僕は無言でその綺麗な景色に別れを告げ、砂浜の沿道に停めてある自分のバイクに向かって歩いた。バイクのエンジンをつけると、静謐な空間を壊すかの如く無骨な音が鳴り響く。彼女はこの無骨な音さえも綺麗だと言ってはしゃいでいた。正直僕にはどこが綺麗なのか全くわからなかったが、この音自体は嫌いではない。どこか心を奮い立たせてくれる。

 

 僕はフルフェイスのヘルメットをかぶり、バイクで走り出す。頭の中に声が響く。『世界が私達に置いていかれて流れていく!』これも彼女の言葉で、僕の後ろで言って楽しそうにしていた。そんな彼女にはもう会えない。楽しい思い出ばかりだったために、寂しさが計り知れないレベルで僕を襲い続ける。赤信号で止まると同時に軽く鼻をすすり、フッと息を吐き出す。次のそのまた次の信号のある交差点で彼女は死んだ。僕の手が届かなかったばっかりに。

 

 僕は無言でバイクから降り、交差点で立ち尽くす。夜も深まり車の通りも少なくなってきていて、かなり遠くまで見渡せる。ヘルメットを外して、右手で抱える。明日で彼女が死んでから丁度一年。僕は何も変われてない。ただただ毎日嘆いてルーティーンのように大学に通うだけ。今の僕はゴミ以下だ。笑うことだってできやしない。そんなことできる立場の人間ではないだろう。ビルの灯りが夜闇に輝き、僕を責め立てる。光が槍のように鋭利に尖り僕の体を串刺しにする。苦痛で表情が歪むのが感じる。このままでは死んでしまう。そもそも何故僕は生きているのだろうか。生憎中々車は通ってくれそうにない。溜め息をついてバイクに再び跨がり、エンジンをかけようとしたときだった。誰かが僕の後ろに乗った気がした。

 

「ねえ、良からぬこと考えてるでしょ。」

 

「えっ」

 

 そのどこか聞き覚えのある声に、僕は思わず声を出して振り返ろうとした。

 

「ほら前向いて?世界を置いてこうぜ?そうだなぁ。いつも行ってたあのラーメン屋に行きたいなー。この時間でも多分まだやってるでしょ。」

 

 僕は全く状況が飲み込めていなかったが、取り敢えず彼女の言うとおりにバイクをラーメン屋に向かって走らせた。

 

「ひゃっほおおぉぉ!久し振りだーこの感じ。さいこー!」

 

 背中に彼女の温もりを感じる。まだ顔を見てないからよくわからないが、恐らく『彼女』だろう。だとしたら幽霊?幽霊って体温あるのかな。

 

「相変わらず無口だなあ。お?そろそろ着くんじゃない?」

 

 確かに目当てのラーメン屋はすぐそこだ。僕はバイクを停め、バイクから降りて彼女と向き合った。息を飲む。何をどう言えばいいのかわからないが、それはやはり僕の彼女だった。彼女がお気に入りだとよく言っていた服装で、なにも変わらない笑みを浮かべている。僕は信じられなくて言葉が出てこなかった。

 

「えっと…」

 

「あれ?元カノの顔も忘れちゃった?」

 

 言葉が出てこない僕を見ると、そう悪戯っぽく言って彼女は少し前屈みになって再び口を開く。

 

「ほーらー早く行こーぜー」

 

 そのラーメン屋は彼女の生前よく来ていたラーメン屋で、濃厚な豚骨ベースのスープが魅力的なつけ麺が売りのラーメン屋だ。最も彼女がいなくなってしまってからは辛くて来ることは無かったのだが。久し振りに彼女と一緒に並んで前に立つと何とも言えない気分になる。

 

「おぉー何も変わってないねぇ。相変わらず人気が無さそうだ。」

 

「僕も一年ぶりかな。多分」

 

 彼女は少し驚いた様子でこちらを見たが、そのまま店の扉に手をかけた。

 

「やっぱり私はいつものつけ麺かなぁ」

 

「じゃあ僕も同じのにするか」

 

 店の中に入って二人で同じ食券を買い、見覚えのある店主に食券を渡して案内されたカウンター席に並んで座る。話したいことは山ほどあるはずなのに、自然と昔のように二人で黙ってラーメンを待つ。しばらくすると、ちらりと目線をよこした店主が突如として口を開いた。

 

「お前さん達随分久し振りだな」

 

 驚いたように彼女は声をあげる。

 

「え、覚えててくださったんですか?」

 

「そりゃ週に三回位来てりゃ覚えるだろ」

 

 そんで、と店主は話を続ける。

 

「そっちの兄ちゃん大丈夫か?」

 

「「え?」」

 

 僕達二人の声が被る。僕は自分の顔に手を当てた。すると生暖かい液体が手についたのを感じて驚く。彼女が呆れたような顔をする。

 

「なーに泣いてんだよ。情けないなあ」

 

「いや泣くつもりは」

 

「ほら取り敢えず食って落ち着けや」

 

 目の前に二人分のラーメンが置かれた。僕は無言で頷くとそれに手をつけ始めた。彼女は久し振りだなぁと呟きながら、麺をつけ始めていた。

 

「おぉ…何も変わってない。うめー」

 

「そうそう店の味は変えねえよ。」

 

 そこからは無言で二人とも麺をすすっていたのだが、唐突に彼女は顔をあげて口を開く。

 

「そういえばそのPizza of Deathのコーチジャケットまだ着てるんだね」

 

「ん、まぁそうだね」

 

 僕がそう言うと、彼女は少し嬉しそうに笑いラーメンに目線を戻した。

 

「ごちそうさまでした。」

 

 しばらくして僕達は立ち上がって店を後にする。

 

「また来いよ」

 

 店主の声を背中に受けて出た店の外は、四方八方から僕の肌を刺してくる。僕達はそのまま無言で少し歩く。その時間は不思議と心地よく、ずっとこのまま二人で歩いていたいと思った。しかし、得てしてそのような時間は長く続かないもので、彼女は立ち止まって僕に話しかける。

 

「ねぇいつまでしょげてんの?」

 

「え…」

 

「全く情けないったらありゃしない。そんなんじゃそのPizza of Deathの名が泣くぜ?」

 

「でも僕が…」

 

「何?自分のせいだと思ってるの?違うに決まってるだろ。」

 

「え?だって僕の手が…」

 

「もうそんなのいいからさ、前に進みなよ。そろそろさ。」

 

 その彼女の言葉を聞いた瞬間、僕は目の前が真っ暗になった気がした。見捨てられたのか。そう思った。死んだ彼女に捨てられるというのは、字面だけでも可笑しい話だが、僕はそれで全てを失ってしまった。何も考えられなくなったようだった。そんな時だった。彼女が唐突に歌いだした。

 

「You and I, against the world. No more bullshit, let's bring all the wrongs to right. Don't you cry, No useless words. Fight for the ones you love and are precious to you.」

 

 彼女は歌い終えるとこちらを見て微笑んだ。

 

「何の歌かわかるでしょ?」

 

「健さんの…」

 

「そう私が一番好きだった歌。You and I, against the world.この歌詞の意味わかる?」

 

「あんまり英語得意じゃないから曖昧にしか。」

 

「じゃあ教えてあげるよ。」

 

 彼女はウィンクすると真っ直ぐに僕を見て口を開いた。

 

「俺とお前で世界に立ち向かうんだ。ウソはいらない全てのものを正解に変えていく。もう泣くなよ。無駄な言葉はいらない。愛する人や大切な人のために闘え。」

 

 軽く息を吐き出すと、彼女は再び僕に言葉をぶつける。

 

「今君に一緒に世の中に立ち向かう人はいるかい?今君がその人のために闘えると思える大切な人はいるかい?」

 

「いやそんなのは…」

 

「いらないとかいう嘘っぱちはやめろよ?ったくもうメソメソしないでよ。今の君には君を愛してくれる人が必要だ。君を理解してくれる人がね。」

 

「僕にそんな人が存在するのかな?」

 

「その台詞は私に失礼じゃない?私が惚れたんだから君がモテないはずがないでしょ。」

 

「そ、そうかな?」

 

「あったり前じゃん!私は君の幸せを願ってるからウソはつかないぜ。」

 

「それは良かった。」

 

「君がこっちに来たらまたイチャつこう。」

 

 そこまで言うと彼女は何かを思い付いたように顔を輝かせた。

 

「ねぇねぇ。最後にさ、あの海岸走ってよ。思いっきり。一夜の奇跡なんだからいいだろー」

 

「ああ勿論」

 

 僕達はバイクに跨がってあの海岸へと向かっていた。月は少し南中から西に傾いた辺りだろうか。

 

「やっぱりいいなぁ君の後ろ!そろそろ海みえてくるかなあぁー?」

 

「そろそろじゃないかな?」

 

「あ、ほんとだー!やっぱり綺麗だあ!最後に見れて良かったあ」

 

「最後か…」

 

「何?名残惜しい?」

 

「そりゃ名残惜しいけどさ、君にあんなこと言われちゃったし。君の方に言ったら嫉妬されるくらいの惚気話をしてあげようか?」

 

「はは、それは楽しみだなあ…。いやしかし、この景色を最後に君と見れたの最高だったよ。」

 

「それは…良かった」

 

「クスッそれじゃあね。そうだな、最後に一言。君がこっちに来るまで、Stay gold!」

 

 美しい月光が僕らを照らす。僕の後ろから少しずつ重さが消えていくのを感じる。ちらりと後ろを見ると、バイクの後ろから金色の光が、風に乗って空気中に分散していっていた。その光は月光の光の下さらに輝いていて恐ろしく幻想的だった。思わず涙ではなく笑みがこぼれる。彼女は最後までこんなにも輝いていていた。じゃあ俺はどうする?彼女に『輝き続けろ』と言われてしまった。月光によってできた薄い自分の影を見て呟く。

 

「I won't forget when you said me "STAY GOLD".」

 

 輝き続けて消えていった彼女を想って呟く。

 

「I won't forget always in my heart "STAY GOLD"」

 

 僕は一緒に世界に立ち向かう人と出会って輝き続ける。僕はもうメソメソしない。笑顔で再び彼女に会うために。



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隠り唄

とある狂った不器用な二人の物語です。

残酷描写が入るのでご注意ください。


 今は夕方の5時くらいだろうか。真っ暗な部屋のベッドの上で、パーカーのフードを被ったまま寝返りをうつ。スマホに入る通知のみが部屋の中で存在する唯一の光だ。恐らく母親からの連絡だろう。申し訳無いが見る気が起きず、無視して枕に顔を押し付ける。自分を何百回殺しても殺したりない気分だった。

 

 私は脳裏に焼き付いた景色を思い出す。あの時の景色を見たのは一瞬だけだったが、その景色はとても鮮烈に私の目に映った。それはこの部屋の俯瞰風景。私という世界の埃が住まった、埃の吹き溜まり。非常に、非情な程に汚かった。部屋の端の暗がりを何とも無しに見て、私は首に巻きつくギブスを撫でる。結局私は埃として死ぬことさえもできなかった。あの後、しばらく振りに目を開けた時に見た病院の白い天井は、私に深い絶望を刻み付けた。私なんて最初から存在しなければよかったんだ。そう、ぼんやりと考えることしかできなかった。私は少し自虐的に笑う。まだあの時の私は甘かった。存在していないのならそれはとても楽だ。それではいけない。私は生きながらもっと苦痛を味わい続けるべきだ。だから私は毎日自分に死なない程度の苦痛を与え続ける。

 

 私は着ているパーカーの裾をめくりあげ、腹を露出させる。そして拳を振り上げると、思いっきり降り下ろした。何度も何度も。腹の中がかき混ぜられるようなとてつもない苦痛が私を襲うが、私は表情を変えずに淡々と拳を降り下ろし続ける。しばらくすると熱い奔流が腹の底から込み上げてくる。それは喉を焼きつくしながら口の中へ到達し、一気に私の口から床に放出された。今日はほとんど腹の中に物を入れていないためか、胃酸のみが床の上で強烈な臭気を発し、部屋の悪臭の度合いを強めていった。もっとも、物を腹に入れていたとしても、ここ最近は物を腹に入れるのは朝のみのため、この時間帯には全て消化されきって腸の方に行っているだろうが。

 

 全てを出し終わり、どさりとベッドの上に仰向けに倒れこむ。未だに腹がぐちゃぐちゃになっている気がする。頭痛も酷い。ピロリンという音と共に再びスマホに通知が入る。ちらりと覗き込むと通知が200件近く溜まっていた。流石に無視しすぎかと思ったが、どうも手が伸びない。どうせ学校来いとかそういう感じのだろう。愚かだ。私をいじめようというのが目に見えている。基本的に学校のいじめというのは生ぬるい。死ぬ直前まで、例をあげるとすればよく漫画にあるような極端ないじめならば学校に行ってもいいのだが、あの愚か者どもにそこまでの度胸はないだろう。嘲笑おうとすると、非常に喉が渇いていることがわかった。流石に朝から一滴も飲んでいないのはまずい。水を飲もうかと体を起こそうとすると、電撃のような痛みが腹に走り思わず呻き声をあげる。卑屈な乾いた笑いが口からもれた。そのままのそりと体を起こすと突然、久しく聞いていなかった母親の声が耳に入ってきた。予想外の出来事に少し狼狽える。

 

「あの…同じ高校の人が来てるけど…話があるって…もう5日間来てるから…出て貰えない…かしら…。」

 

 綺麗事を言いにきた偽善者だろうか。今の私を見せるのはちょっと面白そうだ。

 

「いや、あの、嫌なら出なくていいから!」

 

 母親の情けない慌てた声が聞こえた。

 

「出るよ。」

 

 思ってるより低く、笑いを含んだ声がでた。部屋のむせるような刺激臭にまた吐き気が込み上げる。一度軽く吐いてから出よう。そう思い、口から迸るものを全てが床に吐き出し、顔をあげる。そして、床に転がったペットボトルから水を摂取すると、自分の部屋の扉を開ける。部屋の前には涙目でへたりこんだ母親がいた。憐れなほど痩せこけ、目の下には深い隈が刻まれている。

 

「絶対に顔出すなよ。何があっても。」

 

 母親は無言で怯えたように頷くと、私に道をあけた。私はその様子を一瞥し、フラフラと覚束ない足取りで階段を降りて玄関へと向かう。嗚呼、頭が痛い。

 

 

 

 視点 変更

 

 

 

 松川。表札を確認する。こうするのもはや5日目だ。教師に話だけでも訊いてこいと言われて、毎日教師に結果を訊かれる。学級委員というのはつくづく損な役回りだ。松川は確かにミスをした。だが、大多数の人間はもう気にしていないだろう。ああでも中夜祭に出ようとしていたバンドメンバー諸兄は未だに彼女に対して何か思うところはあるかもしれない。それでも、2ヶ月も引きこもることはないだろう。責任感が強いというのも考えものだ。

 

 目の前で松川母が何かを決心したように、「連れてきます」と言って階段をあがっていった。大丈夫だろうか。かなり心配だ。しかしここで待たされるのは初めての経験だ。どちらかが降りてくるまでやることがない。困った俺は自分の掌のシワを数えていることにした。松川は男子からも女子からもかなり人気があった。可愛くて気さくで、皆を引っ張れるリーダーシップがあり、それでいて全く威張らない。いや全く非の打ち所がない。あるとしたらやはり、責任感が強すぎるという点か。これは人気が出ないはずがないだろう。実際俺も松川が好きだった。フラフラと安定しない足音が階段から聞こえた。恐らく松川だ。さて、どんな風になっているか。少し痩せてしまっているだろうか。

 

 俺は絶句する。5秒位思考が完全にフリーズする。その姿はとてもじゃないが見れたものではなかった。よれよれのパーカーにスウェットのズボン。それ以上に何があったのかと勘繰ってしまうほどそげた頬、見たこともないほど深い隈、そして漂うどこかで嗅いだような刺激臭。何も声が出なかった。安定しないゆらゆらとした視点が漠然と俺を捕まえる。そして松川は卑屈に、自虐的に笑って口を開いた。

 

「何のようですかぁ?学級委員様?」

 

 自分がメンタル馬鹿で良かったと、人生で一番自分のメンタルに感謝した。いつもの調子で話せそうだ。

 

「いや、話を聞いてこいって言われてさ。何聞こうかなって。」

 

「もう話したんだけど。」

 

「多分そういう不毛で粋な会話は求めてないと思うんだよね。そうだなあ。」

 

 松川のイメージからは程遠いドライな語り口に軽く戸惑いながら、俺はしばし考えるふりをする。話すことはもう決めてあるのだが、どう切り出そうかということだ。しかし、最適解というのはそうそう短時間で出てくるものではない。

 

「じゃあ、なんで学校来ないんだい?多分だけど皆寂しがってると思うよ。」

 

 結局直球になってしまった。俺は少し情けなさを覚えながら、ちらりと松川を見やる。すると彼女はこちらを嘲るような目で見ていた。松川のあのような表情を見るのは初めてで、少し驚く。

 

「何?それは綺麗事のテンプレ?学級委員様に大した期待はしてなかったけど。そんな言葉で人の心が動かせんなら世界は今頃戦争起こってないわよ。」

 

「いやまあ待て待て」

 

 一気に捲し立てられるのは苦手だ。

 

「えー綺麗事な。じゃあこういうのもダメなわけね。皆来て欲しがってるとか。」

 

「来て欲しがってないってことはないんじゃない?」

 

 ほぉ?何故そう思うのか。そう思ったのが顔に出ていたらしい。

 

「だって突然私が学校に行ったら、私を遠目に見て蔑むことで日々の鬱憤とか、あの時のことの」

 

 何を言ってるんだろう。異国の言葉のように何を言っているのかわからない。

 

「え、もう大して松川は気にされてないよ?」

 

 つい口をついて出てきてしまった。出てしまったものは仕方がない。背を少し曲げて松川の言葉を待つ。

 

「そりゃ私のようなゴミのことは気にされてないでしょうよ。だけどね、ゴミが失敗したことはかなり強く負の出来事として記憶されんの。わかるでしょ?例えば。」

 

 あ、ダメだこれ。俺には許容できない。自分が好意を寄せていた相手がこれというのはかなりキツい。俺は自らを蔑む人間が何より嫌いだ。まがりなりにも他人から貰った貰い物の命。それに生かされている自分を自分で落とすなど、人間の屑がすることだ。だが、目の前の同級生は自らに責任を感じてこうなってしまった。だから俺は松川に屑になって欲しくなかった。俺は一歩前へ足を踏み出す。そして刺激臭を無視して松川が着るヨレヨレのパーカーの胸ぐらを掴む。そして、松川に声をかける。『かける』とは言ったものの無意識に怒鳴り声になってしまう。

 

「誰がゴミだぁ!?誰が誰のことをゴミっつったんだ?答えてみろこの糞アマぁ!」

 

 突然態度と形相が一気に変わり、掴みかかって来た俺に驚いて数秒松川はフリーズしていたが、少ししてハッとすると、俺の腹を力の限り蹴って必死の抵抗をしてきた。

 

「うるっさいなぁっ!離っせぇっ!」

 

 松川の瞳孔はこれ以上無いほどに開ききっており、明らかに異常だ。現在松川は言葉とも叫び声ともつかぬ声を響かせながら俺に抵抗し続けている。そんな松川の口から垂れる涎に意識を一瞬持ってかれた。集中力が途切れ、足が滑る。手が何かを引き裂いていく感覚と共に、俺は玄関に倒れこむ。少し呻きながら下を向くと、玄関に敷き詰められたタイルに自分の顔が薄く映っていた。思わず自嘲する。俺とは思えない非常に凶悪な獣のような顔が見えたからだ。しかし、顔をあげて松川の方を見ると、自嘲が一瞬で引っ込み、怒りで顔が歪むのを感じた。俺はまたあの顔になってしまっているのだろう。

 

 松川の状態はそれは酷いものだった。ヨレヨレのパーカーの前の部分が引き裂かれて見えたのは、松川の胸だけではなかった。本来なら白くて美しい曲線美を見せていたであろう彼女の腹は、青やら紫やらの色に変色し凸凹になってしまっていた。誰がやったのか。そんなものは考えずともわかる。俺はゆっくり立ち上がる。そして、手をついて膝まずいている松川の前に立つ。松川は顔をあげて俺の目を真っ直ぐに見据えた。羞恥心というものは涌いてこないらしい。

 

「お前の腹をこんなに殴ったのは誰だ?」

 

「私」

 

「だろうな」

 

 爪先で玄関の床を軽く叩く。

 

「なんでやったとかは大体わかる。死ぬより辛いもんな。」

 

 そう言って俺は思い切り松川の腹に己が右足を食い込ませる。松川が驚いたように目を見開き、俺を見る。しかしそれも一瞬で、直ぐに下を向き、嘔吐した。俺は少し顔をしかめる。これは吐き癖がついてしまっている。

 

「ぅぐぁ」

 

 松川は呻いて嘔吐を止める。

 

「自傷とかふざけたことやめるか?」

 

「あ"あ"?」

 

 再び彼女の腹に俺の爪先が食い込む。腹が立ちすぎて何も考えられない。

 

「やめるか?」

 

 松下はまた嘔吐する。

 

「おい!」

 

 松川の横腹に思いっきり蹴りを入れる。蛙が潰されたような声を出して、松下は壁にぶつかる。松下の顔を見る。あれほど可憐だった顔が醜く歪んでいた。だが、涙は出ていなかった。俺がどんなことを言ってもやっても松下は何も変わってくれそうにない。そんな時、ふと、自分が尊敬してやまないある男の声が脳裏に響き渡る。自分が起こした目の前の惨状をみて、唇を強く噛む。こんなことをしてしまっても俺は貴方の言葉に縋ってもいいのでしょうか。俺はポケットから小さなウォークマンを取り出して操作する。

 

『G-FREAK FACTORY 隠り唄(こもりうた)

 

 松下にウォークマンを投げつける。彼女は呆然とそれを受け止める。

 

「俺が尊敬する男がこう言ってた。音楽は非力だけども無力ではないってね。その曲ならお前一人位なら動かせると信じてる。」

 

 どうにも締まらない感じで松下家のドアに手をかける。

 

「それちゃんと返しに来いよ。」

 

 彼女が俺のその言葉を認識したかはわからない。だがこれでいい。根拠も無くそう思った。

 

 

 

 視点 変更

 

 

 

 私はドロドロになり、骨がミシミシいう体を必死で動かそうとした。自分の部屋に戻りたい。自分の全てを封じ込めたい。

 

『俺が尊敬する男がこう言ってた。音楽は非力だけども無力ではないってね。その曲ならお前一人位なら動かせると信じてる。』

 

 あの糞野郎が言った言葉を思い出して、少しは聴いてやろうと、朦朧とした意識で三半規管を働かす。途端に、感じていなかった強烈な嘔吐物の臭気を感じ、再び口から嘔吐物を垂れ流した。それは丁度破れたパーカーの部分に落ち、不思議な暖かさを私に与えていった。自分に軽く気持ち悪さを覚えながらも、もう一度三半規管に意識を集中させる。すると、男の声が流れ込んできた。その声は、その曲は、私を朦朧とした意識から掬い上げ、幼い頃に聴かされた子守唄のように私を優しく、また叱りつけながら包み込んだ。

 

『止まるくらいなら弱音を吐け。上手くなんかやらなくたってへっちゃらだぜ?』

 

 つらかった。とてもつらかった。自分のせいで中夜祭が失敗したことが、とても辛かった。でも私は、私は、全てが自分のせいだと思ったから、失敗することは何より恐ろしく、その上でまた人に馬鹿にされるのがとても怖かった。でも、それはただその時の自分のままで止まり続けることに他ならなかった。進まなければ、失敗なんか気にしないで進まないと、失敗した自分のままなのだ。気づくと、私の空虚な目から涙がこぼれ落ちていた。

 

『そう誰にだって毎日は笑顔に変わる涙しか流せない。どこからでもかかってこいと、そう何度も言い聞かせてる』

 

 涙は流してもよかったのか。私は体から残り少ない水分を搾り取るように、ぼろぼろと涙を流す。これでまた前みたいに笑えるかな。また前に進めるかな。また笑えるようになったら私は多分もう大丈夫。だって

 

『上を向くことがまだ難しい時代の中で、「前さえ向いて歩いていれば転ばずに遠くを見渡せる」んだろう』

 

 取り敢えず今は大いに泣くとしよう。母親にすがるとしよう。そしてまた笑うのだ。

 

『それちゃんと返しに来いよ。』

 

 それに彼から借りたものもちゃんと返さなければいけないし、私はまた前を向く。陳腐だが、それが人の生き方だ。多分これからも私は失敗するしつまづくだろう。だけどその度に私は笑ってまた前を見るのだ。




よいお年を


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