君の名は知ってる。 (添牙いろは)
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君の名は知ってる。

 はじめは、お互い奇妙な“夢”を見ているのかと思っていた。

 が、周囲の反応がどうにもおかしい。

 まるで昨日――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ような。

 そして、二人はようやく気づく。

 不本意ながら――自分たちは眠っている間に入れ替わっているのだと。

 それも、三年間も時を隔てて。

 この“現実”に、先に気づいたのは瀧の方だった。

 何しろ彼にとって、三葉を通して映る世界は過去なのである。テレビで流れている社会情勢などを見れば、自分の記憶と照合することは難しくない。

 そして、自分自身の番号に電話を掛けて確信する。

『……何で俺が通ってる学校知ってるんです?』

 話している相手は、間違いなく中学生の自分だった。

 瀧はこの事実を、三葉のノートに記して彼女に報せる。

 が、その持ち主は未来からの手紙を信じようとしない。

 彼女とて、年号や日付自体は目にしている。

 三年後の世界といわれれば、妥当な気がしないこともない。

 だが、それはあまりに絵空事。

 何より、決定打となる証拠がない。

 手っ取り早いのは自分自身に訊ねてみることなのだが……解約してしまったのか、番号を変えたのか――何故か『現在使われていない』とアナウンスされてしまう。

 だったら、自分の足で聞いてこい――と、入れ替わり先からの許可は下りた。

 安くもない電車賃を()ぎ込むことと、平日の学校を無断欠席することを。

 ただ――

 願わくは、現実味のある変化であってくれれば良いのだけど、と三葉は思う。

 あの田舎町で、何か大きな都市計画など持ち上がりそうな気配はなかった。

 ならば、比べるべきはそこに住まう人々の方。

 おそらく自分は、お婆ちゃんを置いて村の外に出ることはない。

 四葉もそのまま地元の中学校へ上がっていることだろう。

 もし何の脈絡もなくグレていて、髪を金色に脱色していたらどうしたものか。

 それはそれで、見てみたい気もするけれど。

 端から半信半疑ではあったが――三葉はこの小旅行が少し楽しみになってきていた。

 が、その好奇心は地元へ着くと不安に変わる。

 バスの路線が、大幅に変わっていた。

 糸守へと通じる停留所がなくなっているのである。

 そこで、瀧君には悪いけど――とタクシーを使ってみるも……

「ああ、糸守が()()()ところね」

 危ないから近くまででいいか? などと運転手から問われては、聞き返さずにはいられない。

「糸守で……何があったんです……?」

 これに対する答えは――三葉にとって到底受け入れられるものではなかった。

 

 隕石により――消滅――?

 

 当時はそれなりに話題になったんだけどねぇ、などと軽い口調で話すのは――()()()()()()()()()()()()()()()()()()からのようだ。

 毎年神社で行われていた夏祭りが、その年だけは()()()()()()()()()高校で行われ、糸守町の()()()()が湖となったという。

 まったくもって信じ難い。

 だが。

 そんな与太話を聞きながら――もしそれが事実ならば、間違いなく、自分の仕業だろう――と三葉は察していた。

 今年だけ夏祭りの会場を変える必然性もなければ、そんな提案自体出てすらいない。

 それは、まるで別世界の話。

 だが。

 然程長い期間ではないが、これまで立花瀧として過ごしてきた日々、

 そして、掻き乱された宮水三葉としての日々――

 騒がしくも楽しかった思い出を、いまさら“夢”だなどと切り捨てたくはない。

 だが、これが“現実”であって欲しくもない。

 とにかく――先ずは、現地を見てみよう。

 次に、何があったのかを知りたい。

 この第一段階は、間もなく実現された。

 タクシーを下りて山道を登り、糸守を一望できる頂上に立った時――三葉は力なく膝を突く。

 目下に広がるのは大きく形を変えた糸守湖。

 綺麗に縁取られていた水辺の円が、瓢箪のごとく二つに増えている。

 それも、神社があったところを中心に、町のすべてを飲み込んで。

 ――いや、すべて、ではない。

 残された校舎の跡が、行き掛けに聞いた話に真実味を持たせる。

“その年だけは、夏祭りが高校で行われた”

 この惨状を見せつけられれば――自分はきっとそのように動くだろう。

 もしこれが、悪い“夢”でなければ。

 だが、これを“現実”として受け止めるには、あまりに重い。

 覚束ない足取りで――三葉は瀧の身体を東京へ返す。

 そして、彼のスマートフォンにメモを残した。

 自分がこの目で見てきたことと、そして、

“三年前の糸守町について、わかることすべてを調べて教えて”

 次に入れ替わった時、自分が何を見ることになるのか――

 それは恐ろしいことではある。

 だとしても。

 これに立ち向かえるのは、自分しかいない。

 いま見ている“夢”を“現実”に変えることができるのは。

 糸守に迫っている“悲劇”を“奇跡”に変えることができるのは。

 そんな事実はない、と言われれば、それに越したことはない。

 あとは、次の入れ替わりの日が来るのを待つだけだ。

 

 そして。

 翌朝も、その翌朝も、三葉は布団の中から木目の天井を見上げる。

 このまま二度と未来を見れなくなったらどうしようか。

 念のため、独自に動き始めた方がいいのだろうか。

 不安に押し潰されそうになってきた三日目の朝――彼女は段差から落下する。

 未だ、ベッドという物に慣れていない。

 しかし、お陰ではっきりと目が覚めた。

 朝食当番の事も忘れて、三葉は彼の調査結果を探し始める。

 最初はアラームを止めた流れでそのままタッチパネルを操作していたが……

『資料は机の上に置いておいた』

 昨日も、一昨日も――いつ入れ替わっても良いよう、毎晩寝る前にわかりやすく用意してくれていたらしい。

 それを見て三葉は――然程驚かなかった。

 覚悟など、とうにできている。

 当時の新聞や雑誌の記事になど、直に見たほどの衝撃は感じない。

 重要なのは、その経緯である。

 どのようにして、夏祭りの会場を変更させたのか。

 これについては――どうやら、とある雑誌からインタビューを受けたらしい。

 それも、父と娘で揃って。

 やはり、発案は自分だった。

 そして、町長たる父親に進言して、会場変更計画を実施させたらしい。

 元々父は、糸守の神社や伝統を快く思っていなかった。

 そこを突いて、町興しと近代化を名目に、祭りを一新させたのである。

 これまでのように内輪で盛り上がるのではなく、村の外からも人を呼び寄せるには、奥まったところにある神社より、バスターミナルに近い高校の方が好都合だ。理由としては筋が通っている。……もっとも、集客効果自体は芳しくなかったようだが。

 しかしそのお陰で、無駄に被害を拡大させるようなこともなかったし――思わぬところに良い変化をもたらした。

 神社がなくなったことで、父と祖母との確執も和らぎ――今後は東京で家族揃って暮らしていくという。そこでも政治活動は続けていくようだが……一家を支えてもらう身としては我儘も言えないかな、と三葉は思う。

 ともあれ、これで彼女の心は少なからず軽くなった。

 糸守のみんなを救うための道筋は見えているのである。

 それに、瀧が集めてくれたのは、雑誌のコピーだけではない。

 祭りが行われた当日の資料等も断片的ではあるが残っている。

 それらを基に父親に対して提案していけば――きっとうまくいくはずだ。

「ありがとう……ありがとう……瀧君……!」

 できれば直に逢って、この気持ちを伝えたい。

 だが、残念ながら、その彼は、今は自分だ。

 我が身に戻って東京に押しかけたところで、彼にとっては三年前のこと。話が通じることはない。

 届けたい声を届けられないもどかしさに苛まれつつも――三葉は、今後のカフェ巡りは控えることにした。

 ここまでしてくれた彼に報いられるのは、そのくらいしかなさそうだから。

 

 しかし、たとえ伝えられなかったとしても、

 このとき芽生えた気持ちを、彼女は忘れることはない。

 彗星の衝突を避け、東京へと移り住み、

 そして、大切な思い出を失ったその後も――

 

 翌日、瀧は依頼していた調査会社から、最後の連絡を受け取った。

 

 今回の件は――人命に係わる。

 それも、三葉だけでなく、町民すべての。

 未来を生きる者として、自分の責任はあまりに大きい。

 最初は軽くネットを巡っていただけの瀧も、糸守で起きた現実を前にその姿勢を改めた。

 きっと、今まで貯めてきたバイト代は、ここで使うべきなのだろう、と。

 さすがはプロというべきか――当時のマスメディアだけでなく、関係者からも話を聞き出してくれていた。

 しかし――

 ()()まで調べ上げてもらうことは、やはり良心的に憚られる。

 が、どうしても頼まずにはいられなかった。

 何より、現在の自分が彼女と繋がりがない時点で――きっと、そういうことなのだろう。

 それでも、一度、本人の口から聞いておきたい。

 だから。

『ええ、宮水議員は現在、義母と、娘さん二人との四人暮らしで――』

 政治家の住所を割り出すことなど、そう難しいことではないのだろう。

 だとしても、このようなストーカー紛いな所業は……と瀧は苦悩する。

 しかし。

“ありがとう瀧君! このことは、一生忘れないから!”

 三葉が残してくれた置き手紙の言葉に偽りがなければ、今も自分のことを忘れてはいないのだろう。

 この後、何らかの形で繋がりが途切れてしまったとしても。

 もしかすると、酷い別れ方をしていて――取り合ってさえくれないかもしれない。

 それでも、彼は教わった住所に足を向ける。

 今を生きる彼女と向き合うために。

 

 三葉は現在大学生だという。

 どこに通っているかまで訊けば早かったのだが……彼は、中途半端に躊躇した。

 あくまで、“都議員・宮水俊樹の居場所を知りたい”という体裁で。

 ゆえに、帰ってくるまで自宅の前で張り込まざるをえない。

 集合住宅エントランスの郵便受けには『宮水』と記されている。

 二つと無いほどの希少性はないが、ありふれた姓でもない。

 その上――顔を合わせた日はそう深くもないが、遠目で見ただけでもはっきりとわかる。

 今しがたマンションへと入っていった制服姿の彼女は――少しだけ背が伸びた、中学生になった四葉であると。

 ならば――ここで待ち続けていれば――!

 とはいえ。

 大学生ともなると、帰宅時間は中学生のようにはいかない。

 バイトでもしているのか、既に夜一〇時を回っている。

 もしこのまま帰ってこなかったら――外泊?

 どこで?

 誰と?

 自分の心の平穏を保つためにも、このまま引き下がることはできない。

 そして、彼の祈りは――その三〇分後に通じることとなる。

 少しずつ場所を変えてたむろしていたが、そろそろ空気も冷え込んできた。

 寒いことには違いないが、エントランスの中なら夜風は受けない。

 瀧はここで、手持ち無沙汰にスマホをいじったりしていた。

 あまり長く同じ場所に留まり続けていると、近隣住民には不審者として映るかもしれない。

 何より、既に人通り自体がまばらな時間帯である。

 だからこそ。

 コツコツと硬い床を叩く足音に、彼はすぐに気がついた。

 丁度中から出てきたところであるよう装ってすれ違うか――瀧は画面から顔を上げる。

 が、そこから一歩も動けない。

 フロアの出入り口を塞ぐ形で、一人の女性がそこに立ち尽くしていたから。

 しかし、一目で――彼にはわかった。

 彼女こそが、自分が待ち望んでいた女性なのだと。

 実際、彼女も瀧のことをじっと見つめている。

 だが、何も言わない。

 何も言えない。

 彼女には、どのように声を掛けていいのかわからない。

 心の中に様々な感情が湧き上がってくる。

 故郷を失った際に、共に砕かれた胸の一欠片。

 それが、みるみる満たされていく。

 今まで、ずっと探していた何か。

 それが、彼だというのだろうか……?

 だとしても……どうしてここに?

 脈絡がなさすぎる。

 気持ちが追いつかない。

 それでも。

 彼から目を離すことができない。

 もう、決して忘れたくはないから……!

「私……前にどこかで逢ったことがある気がする……?」

 この頼りない呟きは、瀧を少しだけ落胆させる。

 どうやら彼女は、自分のことを覚えてはいないようだ。

 自分と時折、身体を入れ替えていたことは。

 それでも、すべてを忘れてしまったわけではないのだろう。

 だからこうして、目と目で求め合っている。

 忘れてしまったことを思い出そうとして。

 ならば。

 彼は、彼女の記憶の彼方に訴えかける。

「はい、俺は、立花瀧です」

 その名を聞いて思い出してくれれば――と彼は願うが、残念ながら、そこには至らない。

 それでも、彼女の心には深く響く。

 初めて聞くはずの名前が、胸の奥まで貫いている。

 それは、彼によって救われた過去だけでなく――

 今後も入れ替わりが続いていく未来。

 その日々の中で育まれていく想いは、彼よりも更に大きい。

 逢いたいのに、逢えない――募るばかりの恋心は――

「わ、わた……私……」

 彼女は言葉を詰まらせる。

 だが、彼はその続きを必要としない。

 何故なら、彼は失っていないから。

 少なくとも、彼女として過ごしてきた奇妙な日々については。

 そして、これからは彼女と共に生きてゆくのだろう。

 今度は、もう失われることはない――同じ世界で。

 彼女と――

「宮水三葉さん、ですよね。貴女の名前は、知っています」

 



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その先を知りたい。

 このような深夜ではあるけれど――

 ただ連絡先を交換しただけで終えるつもりなど、三葉にはない。

 何故なら、離れたくなかったから。

 放したくなかったから。

 突然自宅前に現れた、この男のコを。

 普通に考えれば――彼女はこれでも議員の娘である。ただのストーカーどころでは済まないかもしれない。

 だが。

 それでも――!

「あ、少しだけ待っててくれる?」

 エントランスから先に踏み入ることなく、彼女はバッグからスマートフォンを取り出し耳に当てる。

 発信先は同じ建物内。

 自分の家。

 まだ起きているであろう、中学生の妹に宛てて。

「……もしもし? 今夜はお父さん、帰ってこない……よね……?」

 父・俊樹は視察やら根回しのために地方への出張も少なくない。

 うろ覚えではあったが、一応確認を入れてみたところ――

「何? また呑み会?」

 またって……! 先週末にバイト仲間と呑み明かしたばかりなのに、そう立て続けに大盤振る舞いはできない。

 何より、明日は平日で講義もある。徹夜明けで講義を受けるのは心身ともに極めて辛い。

 そんな無鉄砲な遊び人と思われるのは癪だが……

「ま、まぁ、そんなとこ……?」

 逢ったばかりの男のコと、もう少しだけ傍にいたいから――

 そんな理由よりは理解を得やすいといえるだろう。

「お婆ちゃんの方は誤魔化しとくけど……本当に気をつけてね。東京の夜は物騒だから」

 言われなくても大丈夫だよ。

 だって、世界で一番安心できる人が傍にいてくれるのだし。

 そう惚気けたい気持ちを胸にしまい、三葉は年上の顔で取り繕う。

「おまたせ。じゃあ、その……場所、移そうか」

「え、あ、はい」

 実のところ、瀧の方はノープランだった。

 今を生きる三葉と出逢うことに精一杯で。

 既に自分の目的は成就された――瀧はそう認識している。

 相手が入れ替わりのことを覚えていないのであれば、時間をかけて思い出してもらうか、

 もしくは――新たな関係を築いていくしかない。

 少しずつ。

 一歩ずつ。

 彼女の命は保証された。

 もう、急ぐ必要はない。

 ゆえに、そのまま帰るつもりだった。

 少なくとも、女のコの方から、こんな夜遅くに話し込みたいなどと提案されるとは思いもよらず。

 何故なら――瀧は、気づいていない。

 三葉の記憶が失われている時点で、すべてを諦めていた。

 しかし――

 記憶は失っても、残っている想いはある。

 立花瀧という少年のことは忘れていても――

 今から三年ほど前――まだ糸守が糸守だった頃、

 彼女は何故か足繁く東京に通っていた。

 しかし、そこに知り合いなどいない。

 女子一人で忙しなく、黙々と観光地を巡っていく。

 それはあたかも――デートの下見。

 彼氏どころか、気になる男子もいなかったのに。

 架空の相手を思い浮かべて――何と悲しい人生の無駄遣いだろう。

 と、三葉は当時を振り返る。

 だが。

 それは今日のためだったのかもしれない。

 この、立花瀧と名乗る男の子と、素敵な時間を過ごすための。

 願わくは、すぐにでも彼と街に繰り出したい。

 しかし――

 お洒落な喫茶店も、

 楽しげな雑貨屋も、

 賑やかな遊園地も――

 こんな時間では軒並みシャッターを下ろしている。

 だが、彼女の空想は、その程度で収まることはない。

 暗くなってから来たら綺麗だろうな――

 そんな思いを馳せている場所が、三葉にはあった。

 都内の電車は日付が変わっても走り続けている。

 今からでも充分間に合うだろう。

 そんな目論見が彼女の中で駆け巡っていることを、瀧は知らない。

 てっきり、駅前のファーストフード店にでも入るのかと思っていたが……その目前で道を逸れ、駅の改札へと向かっていく。

 自分をどこに連れて行こうというのか……瀧には、宮水三葉という女性が何を考えているのか、よく分からなくなっていた。

 それでも、彼の心の底は三葉と変わらない。

 ようやく出逢えた大切な人と、離れたくないと思う気持ちだけは。

 

       ***

 

 海にかかる大橋は欄干に沿ってライトアップされており、そこを歩いているだけで幻想的な気分に浸ることができる。

 とはいえ……

 如何に景観が美しくとも、このまま夜を明かすことは難しい。

 すでに、終電は行ってしまっている。

 観光地だけに、店が閉まるのはむしろ早い。

 何故なら……人々は然るべき宿泊施設に泊まるから。

 オフシーズンだけに、部屋探しに苦労することはないだろう。

 だが――

 三葉にはそれを言い出せない。

 初対面の男のコと、いきなり外泊なんて節操がなさすぎる。

 二人きりで個室に入って、何もないなんてありえない。

 むしろ、三葉自身が耐えられない。

 きっと、手を握ってしまうだろう。

 肩を寄せ合ってしまうだろう。

 そうして温もりを感じていては、唇を求めずにはいられない。

 一度柔らかさを交えてしまえば――どこまでも深みに溺れてしまう。

 そこに、初めてへの不安や恐怖はない。

 何故なら、不思議なことに――

 彼女は、そこにあるものを知っていた。

 知り得ないはずの異性の身体を。

 ちょこんと突き出した小さな乳首も、

 強く引き締まった硬いお尻も、

 そして何より、完全に異なる自分には存在しないところまで――!

 握って、擦る感触までしっかりとこの手に残っている。

 見たことすらないはずなのに。

 未知どころか、むしろ懐かしく、

 取り上げられたものを取り返しただけ。

 だからこそ、思う。

 今は――路上だからこそ、一線を超えずに済んでいるのだと。

 誰が通りがかるか分からないからこそ、踏み留まれているのだと。

 ただし、彼から求められれば、拒むことなどできようもない。

 こんな場所だし、

 誰かが見ているかもしれないし――

 一応、そんなことを言ってはみるだろう。

 しかし……

 橋を下りて、静まり返った観光地を歩きながら、二人は様々な会話に興じてきた。

 が、ここ一時間くらい、誰ともすれ違っていない。

 これでもし、そこの建物の陰にでも誘われたら、

 あっちの生け垣の裏側にでも導かれたら――!

 そこでの自分を簡単に想像できてしまう。

 むしろ、それを望んでしまう。

 だけど――

 彼がそれを言い出すことはないだろう。

 何しろ、あの幻想的な光の中で――手さえつなごうとしなかったのである。

 さらには、交わす言葉に色気もない。

 極めて健全な身の上話も興味深くはある。

 だが、三葉が本当に知りたいのはそこではない。

 恋人はいるのか、

 想い人はいるのか、

 さもなくば、好みの女性は――

 しかし、瀧は自らの恋愛観を一向に口にしようとしない。

 それを焦れったく思う一方――

 三葉の中に、不可解な期待感が募ってゆく。

 彼女が漠然と思い描いていたのは、まさにそんな男のコだった。

 行動力はあっても妙に奥手で、本当に切羽詰まらないと動き出そうとしない。

 一度その気になれば、あんな時間にだって――偶然立ち寄った、というわけでもないのだろう。きっと、長い間待っていてくれたはずだ。

 それなのに、あんな短い邂逅だけで満足してしまっている。

 男のコから迫ってくれたら楽だけど、

 迫ってこないからこそ惹かれてしまう。

 この人こそが、そこはかとなく感じていた、

 糸守と共に失ってしまった、大切な想いに繋がっているのだと。

 そんな淡い感覚に――三葉は知らず知らずのうちに惹かれていく。

 二人きりになりたい。

 それも、良い雰囲気を感じられるような空間で。

 既に、語るべきことは語り尽くしている。

 三葉が忘れてしまった、これまでの瀧のことを。

 瀧が知らない、それからの三葉のことを。

 だからこそ、望んでいるのは、これからのこと。

 しかし――それを伝えるのは言葉ではない。

 男として、女を求め、

 女として、男を受け入れる――

 黙って傍に寄り添っていては、湧き起こる胸の疼きも収まらない。

 いつの間にか、夜を彩る眩い装飾は遥か彼方へ。

 観光名所と呼ばれる場所から離れてしまえば、そこはただの道端にすぎない。

 誰が通ることもなく。

 誰に見られることもなく。

 仮に見られたとしても、恋人たちが集う土地柄なのだから――!

 三葉とて、このような時間に来たのは初めてである。

 ゆえに、いま、そこがどうなっているかは判らない。

 自分と同じように考えているカップルがどれだけいることか……

 それでも、足を運んでみるしかない。

 かつて、この日を夢見て歩いた道なのだから。

 瀧は、三葉に促されるままに、名も知らぬ公園へと連れられてゆく。

 中は綺麗に整備されている一方、景観を気遣って残されている緑地も広い。

 舗装路を少し外れただけで、照明も届かなくなる。

 暗がりの中に潜めば、誰に気づかれることもないだろう。

 例えそこで、

 どのようなことを、

 どのような姿で執り行っていたとしても。

 思い描かれるのは――慣れ親しんだ同い年の女子ではない。

 今ここで、隣を歩いている大人の女性と――!

 不覚にも淫らな妄想を過ぎらせて、瀧は恥じて深く俯く。

 まるで叱られた子供のように、彼女の隣に従って。

 だが、その小径を抜けきると――

「ほら見て、瀧君」

 ここまで足下ばかりを眺めていた彼だが、言われたとおりに顔を上げる。

 すると――

「…………!」

 しばらく前に渡りきった光の大橋がこんな近くに掲げられている。

 とはいえ、辺りはただ芝生が広がっているだけで、水辺とを隔てる柵もない。

 ここは案内所で勧めるような観光スポットではなく、いわゆる、穴場と呼ばれる場所なのだろう。

 海を臨める公園の芝生の上に、二人は並んで腰を下ろした。

 そして……夜空に渡された輝きを見上げるために、つい寝そべってしまう。

 時間が時間だけに、油断すれば寝入ってしまいそうだ。

 しかし――

 三葉は静かにそれを待つ。

 遠ざかりそうな意識を必死に縛り付けて。

 美しい架け橋を眺めているうちに……瀧の目蓋が一瞬だけ落ちた。

 その僅かな間を狙って――

 ……ちゅ。

 イタズラのような軽い触れ合い。

 唇の先と、唇の先だけの。

 どうしても我慢できなかった。

 こんないい雰囲気の中で何もせずに夜を明かすことなど。

 だが……

 その柔らかさによって“彼女”の瞳は開かれた!

「…………ッ!?」

 昨夜は糸守の自室で布団に入ったはず――瀧の中の三葉は、冷たい背中に驚き戸惑う。

 そして何より、目前に迫る二つの瞳は……!?

 間近で見つめ合ってしまった今の三葉は慌てて飛び退く。

 だが、昔の彼女は事態を把握できていない。

 まだ、夢を見ているのかな……?

 それにしては、空気が冷たい。

 何より、この見慣れた男のコの身体は……紛れもなく、瀧君。

 これまで信じなかったわけではない。

 瀧が未来の高校生であることを。

 しかし、こうなっては信じざるをえない。

 そこで申し訳なさそうに項垂れている女の人が、未来の自分であることを。

 例え夢であっても、自分以外の相手と、

 その……

 キスなんてして欲しくない。

 だから入れ替わりが起きていて、これは、未来の自分なのだ、と。

 そう結論付けることにした。

 はっきりしない頭で。

 寝起きだということはあるだろう。

 しかも、何故だか身体も疲れている。

 状況からして……かなり夜更かししているようだ。

 ロクに眠らずに、こんな時間まで。

 だけど……

 どうやら、未来の瀧君は、未来の自分を見つけ出してくれたようだ。

 それだけは、嬉しい。

 だから、そんな顔をさせたくない。

 これは紛れもなく、深夜のデートなのだから。

「ご、ごめんね。その……そういう雰囲気かな、って」

「…………」

 彼女の気持ちはよく判る。

 三葉は瀧を想いながら……そのような妄想を繰り返してきたのだから。

 例えば、デート帰りの終電の中で、ウトウトと油断した彼の唇にイタズラしたら驚くだろうな……などと。

 やっぱりこの人は、未来の自分なんだなぁ、と確信を深められたからこそ、

 三葉はこの景色をしっかりと記憶に刻み込む。

 ここが、自分のファーストキスの舞台になるのだから。

 ここに来ることで、ファーストキスは成されるのだろう。

 だが、それを実際に執り行ってしまった身には、罪悪感と悔恨が駆け巡っている。

 結局、彼の恋愛関係は聞き出せていない。

 もしも既に恋人がいたならば、とんでもないことである。

 こうなっては、もう腹を括るしかない。

 いかに彼が奥手であろうとも――そんな可愛らしい男子を慈しむ時間は自分の手で終わらせてしまった。

 このようなことをしてしまった時点で、自分の気持ちは伝えたも同然である。

 もう、立ち止まることすら許されない……!

「瀧君って、好きな人とか……いる?」

 それを耳にした高校生の三葉の胸をときめかせる。

 自分自身からの告白に喜んでいるわけではない。

 これはまさに、思い描いていたシチュエーションだったから。

 密かに温めてきたパターンの一つ。

 瀧君と出逢って、なかなか言い出さない彼に、恐る恐る尋ねる言葉。

 だから、その続きはご都合主義。

 妄想の中の彼は、()()()()を告げてくれる。

 それを、自分が言ってもいいのだろうか。

 身体の持ち主に、無断で。

 だけど……

 他に恋人がいる素振りはなかった。

 むしろ、勘違いでなければ、自分に対して好意のようなものも感じていた。

 だから……続けたい。

 これまで想い続けて来た夢のようなシーンが、いま現実のものとなろうとしているのだから……!

「お……俺が好きなのは、お前だよ……三葉」

 突然の口調の変化に、年上の三葉は驚かされる。

 ただし、良い意味で。

 ずっと縮めたいと願っていた二人の距離。

 どうすれば、詰め寄ってくれるのか。

 ここまで、手さえ握ってくれなかった。

 きっと、長期戦になるだろうな、と覚悟していた。

 が、そのすべてを吹き飛ばすような愛の告白。

 その後のことは……三葉の中にもなかった。

 この時点で嬉しさと恥ずかしさが溢れ出し――それ以上考えられない。

 が、これは妄想ではない。

 現実である。

 否応なしに、続いていく現実。

 だというのに……彼女の唇に微かな温もりがよみがえってくる。

 それを、もっと求めていい――彼は、そう言っているのだ。

 これではもはや、彼女の理性は耐えられない!

「嬉しい……瀧君っ!!」

 疲労は歓喜に塗り替えられていく。

 思わず抱きつき押し潰し、続けざまに二度目のキスを。

 ただしそれは、深く、奥まで入り混じらせるような。

 瀧の中の三葉もまた、意識はすっかり覚醒していた。

 身体は異性でも心は同性。

 しかも、相手は自分自身。

 抵抗したい気持ちは少なからずある。

 だが、ここで拒むわけにはいかない。

 そんなことをしては、未来の自分が傷ついてしまう。

 三年後のため――今は瀧の身体で耐えることにした。

 これからされること、求められることを覚悟して。

 彼女には、それが手に取るように判ってしまう。

 何故ならば――

 間違いなくそれは、昨日までの自分自身が思い描いてきたことなのだから。

 




そうそう、期間限定企画『こんな君の名は。の短編を読んでみたい』というリクは引き続き募集中です。書きやすそうなネタを拾っていきたいと思っているので、お気軽にコメントとか下さいな。


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