彼女の瞳は血の色だった (レイ)
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1 露見
「今日はこれくらいでいいかな」
ペンキを塗りたくった段ボールを眺めながら、葵は呟いた。この学校の文化祭への意欲は凄い、と改めて思う。どのクラスも教室に凝った装飾をし、独自の世界観を作っている。葵のクラスも例に漏れず、多くの生徒が居残りをして装飾の作成をしていた。
「理奈、そっちはどう?」
声をかけると、隣で作業をしていた友人は顔をあげた。
「ぼちぼちかな。あと数分で終わるよ。そっちは先に片づけてて」
葵は散乱した段ボールや色紙の切れ端や、絵の具で汚れたパレットなどを見てため息をついた。片付けには少し時間がかかりそうだ。
「うわ……忘れてた。これ、全部私がやったのか」
「まあ、明日は一日中準備だから、そこまで丁寧にやらなくても大丈夫だよ」
理奈は少々呆れた様な声で話しつつ、作業を進めている。理奈が作っているのは、教室の外の壁に貼るものだ。葵のクラスはお化け屋敷をするので、黒い模造紙に血糊として赤い絵の具をつけたり幽霊を描いたりしているのだが、理奈は絵心があるらしい。携帯で探した画像を参考にしつつ、リアルなおどろおどろしい妖怪の絵を描いていた。
結局、葵と理奈が全て片付け終えたのは十分後だった。
「じゃあね。お疲れ様」
「お疲れ。また明日」
まだ作業をしているクラスメイトに声をかけてから、教室を出る。他のクラスも気合が入っているようで、最終下校時刻の三十分前だというのに、どのクラスも明るかった。
「私達も負けてられないね」
理奈は楽し気に言った。
「うん。今年こそは一位を取ろう」
理奈とは去年も同じクラスだったが、前回は惜しくも学年内で二位に終わった。
手を見ると、落としきれなかったペンキの汚れがついていた。家に帰ったら、しっかりと洗わないといけないだろう。
下駄箱から出ると、外はもう暗かった。まだ暑いが、夏は終わったんだと実感する。
「ほら、早く帰ろう。電車に遅れちゃう」
理奈が葵の腕を引いた。葵は高校から徒歩圏内だが、理奈は電車通学だ。松籟高校は駅から遠く、歩いて二十分以上する。葵の家は駅の方面にあったので、いつも途中まで理奈と一緒に帰っていた。
いつものように明日の事や文化祭本番の事を駄弁りながら歩いていたが、今日はどこか理奈の表情が硬いような気がした。いつもよりノリも悪く、返事も曖昧だ。
「理奈? なんかあった? 変な匂いでもする?」
息を吸っても、特に異臭は感じられない。先程顔をしかめていた理由は、別の物か。
「あ……ごめん。何でもないよ」
理奈は虚をつかれたような顔をした。
「今日は少し疲れたから。絵を描いてて肩こっちゃった」
軽く笑いながら首を回して見せた。
「私も」
腕を上に伸ばすと、背中からごきりと大きな音がした。
だらだらと話していると、いつの間にか理奈と別れる交差点についていた。
「じゃあね。また明日」
「じゃあね」
駅へ向かう道と比べると、この先の道は暗い。とは言え、不審者がいたという話も聞かないので、特に怖いと思うこともなかった。
――当日のシフトも決まったし、母さんに言っておこう。
今日の事を振り返りつつ、物思いに沈みながら歩いていた。
だから、気付けなかった。
突然、脇腹に衝撃を感じた。次の瞬間、塀に叩きつけられる。息が詰まり、意識が飛びかけた。激痛に体を縮めつつ、必死で顔を上げると、振りかぶられた拳が目に入った。
――殺される!
とっさに目を閉じ顔をそむけたのとほぼ同時に、鋭い声が聞こえた。
「――やめてっ!」
鈍く重い音とともに、自分の前に覆いかぶさっていた男が左に吹き飛んだ。事態についていけず、強張った喉からは満足に息も吸えない。
男を突き飛ばした人影は理奈のようだった。リュックを投げ捨て、葵を背にかばうように男と相対した。
男は幽鬼のように立ち上がり、理奈を睨みつけた。――その虹彩は異様に赤く光っていた。
「どけよ」
低い声で唸るようにその男は言った。男の背から、剣のようなものが腕に沿って伸びていく。薄暗い中でも、それが鋭く硬質なものであることは分かった。
――化け物だ。
葵は慄き、絶望した。自分の生存が思い浮かべられない。ただ死のイメージだけが頭の中に膨れ上がる。
「やめてください」
理奈の声は静かだった。
男は剣を振りかぶって駆け寄ってきた。理奈が斬られるのを想像し目を閉じた。しかし、聞こえてきたのは硬い音だった。
その音に驚いて目を開けると、信じ難いものが目に入った。
理奈の背から、三本の尾のようなものが生えていた。それが、剣を受け止めていた。
「やめてください。戦いはしたくありません」
男に理奈の言葉を聞く気はない様だった。尾の一本を切り飛ばし、顔をかばうように挙げた理奈の腕を切り裂いた。
「お願いします。やめてください」
再度言った理奈の言葉からは焦りが感じられた。理奈の尾が男を塀へ叩きつけ、二本の尾で器用に押さえつけた。
「飢えているなら、私のカグネを食べてください」
切られて短くなった三本目の尾が、切り飛ばされた先端を巻き付けるようにして持ち上げ、男の前に差し出した。
「……わかった」
数秒黙った後に男が答えると、二本の尾は静かに男から離れた。男は尾の切れ端を受け取り、かぶりついた。硬いものを噛み砕くような咀嚼音を立てながら、人の腕ほどもあるそれを見る間に平らげた。
「……東京から来たんですか」
食べ終わったのを見計らって、理奈は声をかけた。
「そうだ」
「ここらの喰種に知り合いはいますか」
「……いや、いない」
男は警戒するように赤く光る目で理奈を見ていた。
「ここら辺の喰種は、極力人を襲わないようにしています。東京にもそのような地区があると聞いています」
「……」
「あまり、騒ぎを立てるようなことはしないでください。ハトを呼びたくないんです」
「飢え死にしろと言っているのか」
「いいえ。――私達の組織の人を紹介します」
理奈は投げ捨てたリュックから紙とノートを取り出した。ノートの一番後ろのページに何かを書き込み、破って手渡した。
「一番近い『窓口』の住所です。一番下のは私の携帯番号です。これを見せて『オサキ』に紹介されたと言ってください」
男は不審げに紙を見つめたが、軽く頭を下げた。
「わかった。……ありがとう」
「何かあったら連絡してください」
「助かる。だが……あれは、どうする」
男が、葵のほうへ顎をしゃくった。心臓が早鐘を打つ。理奈も葵を見やった。暗くて表情はよく見えない。
「……私が何とかします」
「そうか。――さっきは、すまなかった。
それでは、機会があれば、また」
男は再度頭を下げ、去っていった。理奈は、その背が小さくなるのを見ていた。
それから理奈は、葵の方を振り返った。
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2 告白
煌々と赤く光る眼が座り込んでいる葵を見下ろした。
「今まで……黙ってて、ごめん」
心なしか、その声は震えているようだった。葵は呆然としてただ見上げていた。
「私、化け物なんだ」
黒に囲まれた赤い瞳が、理奈が自分とは違う生き物であるという事実を突きつけていた。野生動物とも違う、異形の目。
「怪我……してない? 大丈夫?」
理奈が一歩葵に近づくと、葵はびくりと身を竦ませた。伸ばしかけた理奈の手が、行き場を失って垂れ下がる。
「……出来れば、」
理奈は迷うように目を逸らしながら言葉を続けた。
「CCGには言わないでおいてくれると、助かる」
葵は理奈を凝視していた。体の震えが収まらない。麻痺した思考がただ一言『喰種』という言葉だけを繰り返す。
「家まで送る?……やっぱり、喰種なんかとは一緒にいたくないよね」
理奈は葵の顔を見て、うつむいた。今、自分はどんな顔をしていたのだろうか。
「今まで、ありがとう」
理奈の瞳がすうっと赤から黒に戻った。――ひどく悲しげな、友の顔があった。
理奈はリュックを拾い、背を向けて歩いていく。小さな背だった。
――行ってしまう。
もう、二度と会えないかもしれない。その思いが去来した瞬間、強張った喉からやっと声が出た。
「……まって」
情けないほど、弱々しい。
「行かないで、理奈」
今度こそ、ちゃんと声が出た。振り向いた理奈の目は、驚きで見開かれていた。まるで自分の耳を疑うかのように。
体の感覚が戻ってくる。震えも、もうない。ゆっくりと立ち上がる。
「少し、話そう? 私、理奈の話、聞きたい」
もう大丈夫だ。こんな顔をする人を、どうして化け物と呼べるだろうか。
「……いいの?」
ともすれば聞き逃してしまいそうな声だった。
「もちろん。友達、でしょ?」
歩いて近づいていく。この人は、理奈だ。例え喰種であっても。
「さっきはありがとう、理奈」
笑顔を作る。うまく笑えているだろうか。
*
学校から出てしばらく歩いてから、その『臭い』に気付いた。
――同族がいる。
信号待ちで軽く振り向くと、数十メートル後ろをつけてきているのが分かった。
理奈が喰種であるということには、気付いていないようだった。無理もない。これほど離れていれば、気付かない喰種も多いだろう。恐らく食料として狙っているのだ。自分か葵か、どちらを狙っているかはわからない。自分であったら楽なのに、と思った。
喰種がそれと知らずに喰種を狙う。それも、恐らく外から移ってきて一人目の獲物に。幸か不幸かは分からないが、恐ろしい確率なのは間違いない。
知らず知らずのうちに酷い顔をしていたのだろう、葵に指摘された時は焦った。そして、気付いた。――葵の帰宅経路は喰種の喰場としては格好のものだ。
その喰種は距離を保ったまま、相変わらずついて来ていた。理奈も喰種であることに気づく様子はない。これはもう腹をくくるしかないだろう。まずは違和感がないよう、交差点を一度渡って葵と別れなければならない。そしてもう一度信号を待って、引き返し、話しかける。それで喰種が葵を襲うまでに間に合うかどうか。
葵と別れてから苛々しながら赤信号を待ち、飛ぶように葵と喰種の後を追うと、丁度喰種が葵を蹴り飛ばしているのが見えた。人間より遥かに身体能力が高いはずの自分の体が重く感じた。間に合わないかもしれない、と恐怖した。振りかぶった拳を葵に振るう前に、どうにか喰種を蹴り飛ばす。
――生きている。
耳をすませば葵の心臓の音が聞こえた。うずくまっている葵を見下ろしていると、もう一つの思いが浮かんできた。
――終わったな。
不自然でもいい、わざわざ信号など渡らずにいたら。例えば近所に用事がある、とでも言って早々に別れてから見張っていたら――。
幸いにも、その喰種は話の分かる人だった。その事に安堵しつつ、絶望しながら葵を振り返った。もう、葵とはいられない。
近づけば、怯えたように身を竦ませた。自分を見る目には、恐怖しかなかった。
――殺すべきか。
家族の命と天秤にかければ、家族の方に傾くのは当然の事だった。だが、友人を手にかけることはどうしても出来なかった。
親に話して、田舎の祖父母の所にでも行こう。そう考えつつ去ろうとした時、声がかけられた。
初めの声は、気のせいかと思った。自分の願望が作った幻聴だと。しかし、二度目の声ははっきりと聞こえた。さらに葵は自分の足で理奈に近づいてきた。
『さっきはありがとう、理奈』
私は喰種だというのに。
*
「理奈、怪我してる」
切り裂かれたワイシャツの左腕は、血で染まっていた。葵が理奈の腕をつかみ、袖をめくると、痛々しい傷が露になった。肉がざっくりと、半ば抉れるようにして裂けている。
「救急車……呼んだら、まずいよね」
そう言って葵は青ざめた。自分は、病院に行くことすら憚られる友人に、怪我をさせてしまった。その事実に慄いた。
「どう……しよう」
「大丈夫」
腕をつかんだまま固まっている葵の手を慎重にほどきながら理奈は言った。
「喰種の体は頑丈なんだよ。ちゃんと食事さえとっていれば、これくらいの傷はすぐに塞がるの。ほら、見て」
言われてからよく見れば、出血したあとはあるものの、確かに血は止まっている上、新たな肉が盛り上がって傷を塞ごうとしていた。
「……すごい」
「私がリンカクの喰種だから再生が速いってのもあるけどね」
葵は初めて聞く単語に首を傾げた。
「リンカク?」
「えーっと、カグネの種類の事。カグネってのは、さっき私が腰あたりから出してた奴とか、さっきの喰種が肩から出していたものの事」
「尻尾みたいなあれの事? 三本あったよね」
「それそれ。あー、でももっと尻尾みたいな種類のもあって、それは尾てい骨あたりから出てくるよ。それがビカク。私のはリンカクで、『鱗』に赤二つを横に並べた文字。カグネの『カグ』もこの字で、『ネ』は子供の子」
理奈は手のひらに漢字を書いて見せた。
「この鱗赫を持っている喰種は、再生力が他の喰種より高いんだって」
話している間にも傷が塞がっていくのが見て取れた。
「むしろ葵の方が心配。骨とか、折れてない?」
葵は改めて自分の体を見下ろした。確かに痛みはあるが、ひいてきている。自分の腕をまくって見ると、塀に衝突したときにできたのだろう、擦れたような傷があったが、血は出ておらず、骨に異常もなさそうだった。蹴られたところや塀に直接ぶつかったところを軽く指で押してみるが、所々青あざを押すような痛みがするだけだった。
「骨を折った事はないから分からないけど、多分大丈夫」
「そうなの? 良かった。……人の体って、壊れやすそうで、怖くて」
肉が裂けるほどの傷を負いながら、自分の身よりも葵を心配する様子で、その言葉が本心なのだと分かった。
「腕だって血も出てないし、心配しすぎだよ。さすがに理奈ほど丈夫ってわけじゃないけど、豆腐ほど脆いわけでもないから。むしろ、もっと自分のことを心配してよ」
葵がそう言うと、理奈は驚いたような顔をした。
「さっき言った通り、とりあえず話を聞きたいんだけど、電車の時間は大丈夫?」
理奈は腕時計をちらりと見た。
「次の電車まで三十分くらいかな」
「……ここだと家があるし、静かすぎて話しにくいから、向こうの公園にでも行かない?大きいし、人は入ってこないと思う」
理奈に自分を襲う気はないようだと分かれば、たとえ喰種だとしても、二人きりになるのにほとんど恐怖は無かった。
理奈は数秒だけ逡巡してから頷いた。
「こっちだよ」
葵に連れられて、理奈も歩き出した。お互いに無言だったが、かける言葉が見つからなかった。
ほどなくして目的の公園についた。明かりはまばらで足元はよく見えない。申し訳程度についている外灯が下から照らす木々は作り物めいて見えた。陸上の競技場など、市が管理している施設が幾つかあるが、どれも無人だった。
「人……いない、よね?」
風の音と虫の声の他は何も聞こえない。不気味なほど静かだった。葵が周囲を見渡してから恐る恐るベンチに座ると、理奈も隣に腰かけた。
「うん、いないよ。人の音はしない」
「喰種って、耳も良いの?」
「そうだよ。個人差が大きいみたいだけど」
葵はそうなんだ、と相槌を打ちつつ、聞かなければいけないのはそれではないと思い直した。
「……本題、なんだけど」
歯切れ悪く切り出した葵の様子に、理奈も察したのだろう。無言で先を促した。
「まずは、食事について。……その、人間の肉しか食べられないってのは、本当?」
理奈は葵の目を見ながら、頷いた。
「厳密に言うと、肉の他に水とコーヒーだけは飲めるけど、それでは栄養が取れないから」
「そっか……」
葵はうなだれた。
「この周辺では――というより、県内では喰種殺人なんて聞いたことがないけど、調達はどうしてるの? 行方不明者……とか?」
握りしめた拳が震えた。風が周囲にそびえる黒々とした木々をざわめかせた。聞いてしまったら、もう、後戻りはできない――。
「――私は殺人をしたことはないよ」
葵は弾かれたように顔をあげて理奈を見つめた。
「ここ周辺の喰種は大きな組織を作っているんだ。その構成員の一部が、殺人を避けて調達して、配ってるの。例えば、火葬場を経営している人とか。自殺者の死体を集めている人もいるよ」
「……そうなんだ」
「ごめんね。気分悪いよね」
「大丈夫。むしろ思ったより穏便で、ほっとした。理奈が殺人者だなんて、信じられなくて……」
葵は気まずそうに頭を掻いた。
「実際、殺しはしてないし。殺しているように見える?」
理奈はにやりと笑って自分の目を変異させた。赤い瞳が理奈を見据えた。
「こんな見た目じゃ仕方がないかな」
その言葉は自嘲じみた響きを帯びていた。
「確かに人とは違うけど、その目、綺麗な色だと思うよ」
「……ありがとう」
理奈は驚いたように目を見開いてから、照れたように笑った。その顔を見ながら、ふと思いつくことがあり、葵は眉をひそめた。
「――昼食。毎日一緒に食べてたよね? あれは人肉を加工したものなの?」
「違うよ。肉を食べると、この目が意識とは関係なく出ちゃうから、ばれるし」
「さすがにそうか。そもそも、肉をパンに加工する超技術なんて聞いたこともないし。
つまり、いくら人肉以外の食べ物を食べても、消化吸収ができないってこと?」
「うん。大体、そんな感じかな」
理奈は目を逸らした。
「喰種はね、人間の食べ物を消化すると、体調を崩すんだ。人肉以外は、体が受け付けなくて。だから今までも、消化する前に全部吐いてた」
「だから、食後にいつも教室を出てたんだ」
「うん。物理室前のトイレはほとんど使われてないから、そこで。……もったいないとは思っているけど」
「仕方ないよ。食べないと怪しまれるし」
「そうなんだよね」
理奈は苦笑した。
「もっと言うと、味覚も人間とは違うみたいでね。普通の人間の食べ物を食べると、吐きそうになる」
「え、そうなの? 全然気づかなかった」
いつも理奈と話しながら昼食をとっていたが、違和感などを持ったことはなかった。
「あれは努力の成果だよ。私、そこだけなら女優並みだよ」
理奈は少しだけ得意げに言った。
「喰種は、さっき言ったコーヒーだけ、美味しく飲めるんだ。ブラックだけだけどね」
「だからいつも缶コーヒーなんだ」
前々から極度のコーヒー好きだとは思っていたが、それを聞いて合点がいった。
「そうだ、背中見せてよ」
「なんで?」
「赫子……だっけ、あんなものを生やして、シャツは大丈夫なの?」
「あっ」
理奈はリュックを降ろし、葵に背を見せた。
「どう?」
暗くて見えにくいが、ぼんやりと白く浮かび上がるシャツが破れているのはわかった。
「破れてる」
理奈はしまった、とでも言うように頭を抱えた。葵は少し考えた後、自分の手提げからカーディガンを取り出した。
「貸すよ。背中の方はリュックで隠せるかもしれないけど、腕の方は電車で目立つだろうから」
「そうだ、腕もだった……。いいの? ありがとう」
そう言って受け取る理奈は、今までと全く変わらなかった。
その事に安堵しながら理奈の顔を見ていると、不意に先程の光景が脳裏をよぎった。蹴られた感覚。振りかぶられた拳。睨みつけてくる赤い目。背中から生えていた剣——。
冷えた手で心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「――理奈がいなかったら、私、死んでた」
恐怖がぶり返してきた。奥歯がカタカタと音を立てた。
「葵……」
心配そうな理奈の声がした。葵は理奈の腕にすがるように掴んだ。そのまま何度か深呼吸をする。
「……大丈夫」
葵は小さく言った。黙ってじっとしていると、発作のような恐怖は徐々にひいていった。葵は大きく息をついて、顔を上げた。
「ごめんね。恥ずかしいな、私。
……本当に、ありがとう」
「……うん」
「誰にも言わないと約束する。理奈は命の恩人だよ。——そもそも、話を聞く限りでは言う理由も無いからね。
理奈はこれからも学校に来れる?」
「葵だけにしかばれてないから、多分」
葵はほっとしたように笑った。
「良かった。私に出来ることなら何でも協力するから、これからは何かあったら言って。それに、喰種の事をもっと教えて欲しい」
本格的に原作キャラが出せるのは、上京してしばらくしてからになります。
書きだめは半分以上あります。もしも読者の方が一人でもいらっしゃるなら、誠意をもって完結まで書かせていただくつもりです。
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3 私考
電車から降りると、外は真っ暗だった。眼前には山が黒々と聳えている。
網戸から漏れる吐き気を催す夕食の匂いを嗅ぎながら、高低差の多い道を歩くこと数分、自宅にたどり着く。理奈はインターホンを押そうとして、手を止めた。カーディガンを脱いでリュックの中に入れ、血痕の上に巻いたハンカチをポケットにしまい込み、そして今度こそ、家のインターホンを押した。
「ただいま」
「おかえりなさい。――どうしたの? その腕」
鳴らしてから十秒ほどでドアは開いた。母は血の臭いに顔をしかめ、血の付いたシャツの左腕を握り、引き寄せて眺めた。
「東京から流れてきた人がいたんだけど、その時の状況が悪くて、少しだけ赫子使っちゃった。でも、大丈夫だよ。話せばわかる人だったし、ちゃんと山田さんを紹介したから」
「そう。なら、後で確認の電話もしておきなさい。怪我はもう治っているみたいね。でもこのシャツは捨てておきなさいよ。……今度新しいものを買ってこないと」
母は戦闘面では理奈をほとんど心配しなかった。薄情なのではない。祖母のしごきを受けていた分、信頼されているのだろう。それ以上何も言わず、母はリビングへと戻った。
理奈は洗面所の鏡を見つめ、赫眼を発現させた。
――綺麗な色、だって。
肉を食べるたびに自分の種の食性を厭い、この目を見るたびに忌まわしく思ってきた。その、化け物の証。それを、葵は綺麗だと言った。自分は彼女の同族を食べている化け物だというのに、なんという皮肉だろうか。
――言えない。
両親には、知られてしまった、などとはとても言えない。他の事例から考えると、すぐに葵に危害を加えるようなことはしないだろうが、それでも葵に手を出さないという確信は持てなかった。だからカーディガンを隠した。
理奈はシャツの胸元を握りしめた。葵は口が堅い。自分の事をCCGや他人に言うことはないだろう。それでも家族に黙っていることに、罪悪感があった。
*
葵はパソコンをいじっていた。
――喰種。分布。頭数。CCG。食性。生態。事件。法律……
何でもする、と言った。その言葉に嘘はない。だが、そもそも喰種について碌に知らないのでは、役に立てるはずがない。何をするにも、まずは知識が必要だ。知識は力なり、という先人の言葉には全面的に同意する。もちろん理奈から色々と教えてもらうつもりだが、自分で調べておくに越したことはないし、人間側の情報からは、また違ったものが見えるはずだ。
とはいえ、喰種に関してはCCGからの情報規制があるのだろう、一部の情報については、詳しく知ることは難しいようだった。そもそもどのように喰種を駆逐しているのかさえ分からない。それでも、CCGの広報などからは大まかな活動状況や喰種の生態に関すること、過去の事件については幾分か調べることができた。過去には喰種関係の裁判があったこともわかった。
喰種対策法なるものに、喰種の蔵匿・隠避を禁止するものがあり、擁護した者には死刑判決が出たことがあることを知った時は流石に肝が冷えたが、そもそも理奈に助けてもらえなかったら、自分は死んでいるのだ。今更何を迷うことがあるだろうか。基本的人権に黙秘権は含まれている。それに、自分は未成年だ。今の所は死刑にならないだろう。気にすることはあるまい。
驚いたのは、県内に喰種はいないとされていることだった。七年前に、県外からやってきたとされる喰種が駆逐されたのが最後だった。それを見て、理奈が男に言った言葉を思い出した。
『ここら辺の喰種は極力人を襲わないようにしている』『ハトを呼びたくない』
最初は鳩とは何かわからなかったが、調べているうちにCCGのエンブレムが鳩であると気づいた。恐らくこれを指すのだろう。
――『夜鷹』、か。
さらに調べれば、周辺の県まで『駆逐完了』とされている。どこまでが『夜鷹』の管理下にあるのか知らないが、下手をしたら県さえまたいでいるのかもしれない。そう思わせるほどの組織力と徹底ぶりを感じた。
翌日の朝は気持ちの良い快晴だった。
教室からは声が聞こえていた。もう何人もいるらしい。乗り遅れたかな、とため息をつき、引き戸に手をかけようとして躊躇した。
――理奈はいるだろうか。
考えていても仕方ない。軽く息を吐いて気持ちを切り替え、教室に入った。
「おはよう」
「おはよう、葵。今日は早いね」
「家が近いからね。手伝おうと思って」
いつもよりも早めに来たつもりだったが、クラスメイトのおよそ四分の一、十人程はもう準備をしていた。——理奈の姿も、あった。
先程まで作業をしていたが、声で気付いたらしい。顔を上げていた。
「おはよう」
「――おはよう」
さっきまではどんな顔をして会えばいいのか分からなかったが、意外なほどすんなりと返事を言えた。
――今まで通りに接しよう。
余計なことは考えないほうがいい。他人に何か違和感を持たれたら面倒だし、理奈も喰種だと特別意識したような対応は望まないだろう。その上で、自分にできることを探していこう。そう決めると、踏ん切りがついた。
ようやく気分が天気に追いついたな。そう思いながら、葵は自分の荷物を降ろし、作業に取り掛かった。
内装に使うもの以外は机も椅子も全て体育館や会議室に片付けてしまっていたので、昼食は各々好きなところに座り込んで食べることになった。葵はいつものように理奈の隣に座った。
「そっちはどう? 絵、完成した?」
「うん。今は小道具の方を作ってるよ」
「人手要る? こっちはもうすぐ終わりそうだから、手伝うよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
変に身構えることなく、会話することができた。これで大丈夫なはずだ。
葵は理奈の口元を見つめた。とても吐きそうなほど不味いものを食べているようには見えない。どれほどの苦痛なのかは分からないが、凄いのは確かだ。表情を変える事もなく、時折笑みさえ浮かべて見せている。しかし、感嘆しながら見ていると、喉元の動きが変であることに気づいた。噛み切ってからすぐに飲み下しているようなのだ。よくよく見れば、水を飲む回数も頻繁だ。
「――葵、人の顔見すぎ」
「……あ。ごめん」
じっと無言で見つめていたようだ。いくら食べながらとは言え、これでは変だ。せっかくの理奈の演技の足を引っ張ることをしてはいけない。
ほどなくして食べ終えると、理奈は思いついたように自分のリュックの中をまさぐった。
「はい、昨日はありがとう。汚れてないといいけど」
手渡してきたのは、昨日貸したカーディガンだった。丁寧に畳まれていた。一応左腕を確認したが、血の跡はなかい。
「どういたしまして」
それから理奈はそそくさと教室を出た。葵が後を追うと、理奈は意外そうな顔をした。人気のないB、C棟間の廊下まで歩いたところで、理奈は口を開いた。
「何しに行くか、話したよね?」
理奈は困惑しているようだった。
「うん。だから、見張りでもしようかなって。人に気づかれたくないでしょ」
理奈は一瞬、呆けたような顔をした。
「……そこまでしなくても、いいのに」
「私にできることなんて、それくらいしか思いつかないから」
「いや、別に大丈夫だよ。食べた後に吐く音なんて聞いたら、気持ち悪くなるでしょ?
それに、ほら、耳がいいって言ったよね。人の足音も聞こえるから、平気」
「そうなの?」
「うん、そう」
だから気にしないで、と嬉しそうに理奈は笑った。
自分に出来ることなどあるのだろうか。
一日、学校で過ごしてみると、理奈が見事なほどに人間の集団に溶け込めていることがわかった。もちろん、作業には手を抜くことはなく、たまに意識して眺めるように観察しただけだが、理奈が喰種だと疑う人もいないようだった。
昨日と同じく、理奈の電車の時間に合わせてぎりぎりまで作業をした。教室の中は、今は電気をつけているため明るいが、窓とドアのガラスを隈なく暗幕や段ボールで覆ったので、消灯すれば、昼でもほとんど見えなくなるほど暗くなるはずだ。
最後の仕上げをしている女子六人に挨拶をして、葵と理奈は教室を出た。
「『あれ』に関する事……今、話しても大丈夫かな」
校門を出て少し歩いてから、葵はきょろきょろと周りを見ながら理奈に小声で囁いた。
「車の音があるから、小声なら」
駅へ続く道は車の通りが多い。これなら、よほど近づかない限り、盗み聞きは難しいだろう。なるほど、と葵は頷いた。
「ええっと……昨日、調べてみたんだけど、CCGによると、この県には喰種は『いない』らしいんだけど」
「ああ、そのこと。――私っていないことになってるらしいね」
茶化すように理奈は言った。
「私の家族を含む、昨日言った組織――『
理奈は流暢に説明した。
「『食』、ね……」
葵が複雑な顔をすると、理奈は気まずそうに目を逸らし、ごめんと呟いた。
「……理奈が気にすることはないよ。と言うより、事実だし。もう、そこら辺については割り切ろうと思うから、これからはいちいち謝らなくていいよ」
「でも……気分悪いでしょ」
「そんなことばかり言っていたら、私は理奈の力になれない。理奈達は人を殺さない、そうだよね?」
「……うん」
「……理奈は、私を食料として見ていないんだよね」
「もちろん! そんな事、絶対にしない」
試すように言うと、理奈は葵を睨んだ。
「大丈夫、わかってる。失礼なこと言ってごめん。これであいこにしよう」
「……そうだね、わかった」
理奈が納得したように頷くと、葵は満足げに笑った。
「にしても、理奈達は大変だよね……喰種用栄養剤とかないの?」
「ないよ。そんなのがあったら苦労しない」
理奈は呆れたように言った。
「仮に作ったとしても、結局原材料は……ね?」
「そこさえ何とかなれば解決なんだけどな。——そうだよ」
葵は大仰に頷いた。
「私、作るよ。グルビタンG」
「何そのネーミング」
理奈はまたしても呆れたような顔をした。
「いや、本気だって。Rc細胞だっけ? それが一番の違いで、鍵なんだよね」
「まあ……そう、だと思うけど」
「なりたい職業なんて明確に持ってなかったし。決めた。私、大学で喰種について勉強して、共存できる方法を探す」
これなら、理奈に命の恩を少しでも返すことができる。
理奈は目を見開いた。
「何もそんなにしなくても……」
「いいの。私がやりたくてやる事なんだから。喰種に人間の友達なんて、なかなかいないよね? だから、偏見してばかりで誰もやろうとしないんだよ。それに、喰種の協力者がいたら、研究は格段にはかどるんじゃないかな」
葵は理奈を見つめた。
「……私は、葵の研究のためなら幾らでも被験者になるよ。でも、葵は自分の将来についてちゃんと考えて。……私が葵を助けたのは、喰種のために人生を捨てさせるためじゃない」
「手厳しいな」
葵は頭を掻いた。
「でも、人間のためにもなるはずだよ。代用できる物を作れば、それこそわざわざリスクを冒してまで人を狩ろうとする喰種は少なくなるはずだよね。確実に社会のためにもなるよ」
組織名「夜鷹」について
宮沢賢治「よだかの星」
主人公のよだかは、醜い容姿のためにほかの鳥から嫌われていた。とうとう鷹に改名まで迫られた日、よだかは自分が生きるために毎日たくさんの虫を殺して食べていることに気づき、生きることに絶望する。太陽や星に「焼け死んでもかまわないから、あなたの所へ連れて行ってください」と言っても相手にされず、命を賭して飛び続けたよだかは、いつの間にか青白く燃え始め、今も夜空で燃える「よだかの星」となる。
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4 遭遇
「おはよう、理奈」
今日は文化祭一日目だ。クラスの皆からは、興奮と緊張が感じられた。
「おはよう、葵。……ちょっと、話したいことがあるんだけど」
理奈は落ち着かなげな様子で、葵に話しかけた。しかし、その様子の理由は、他の人とは少し違うようだった。葵は軽く頷いて、理奈とそっと教室から出た。
「……今日、私の家族が来るって」
理奈は少し迷ってから切り出した。理奈の家族に何か問題でもあるのだろうか。理奈と同じ穏健派のはずである。
「それがどうしたの?」
「その……まだ、葵にばれたって事を話してなくて。だから、気付かれないように気を付けて欲しい。口を滑らせないようにね。挙動不審な態度もしないで」
理奈は柄にもなく慌てたように言いつのった。
「そんな事? 大丈夫だよ」
「まあ、平気だろうけど。……ばれたらどうなるか分からないから、慎重にね」
理奈が心配そうに言うので、やっと葵にも事の重さが理解できた。――確かに、自分は喰種からすれば正体を知られている危険人物だ。
「わかった」
せわしなく目線を変える理奈を安心させるように、葵は理奈の肩を叩いた。
「ちゃんと気を付けるよ。シフトも同じだし、お化け屋敷だから会っても中で会話することにはならないだろうから、大丈夫。ほら、教室に戻って準備しなきゃ」
「……そうだね」
理奈は葵に促されて、教室へ戻った。
葵と理奈のシフトは、一日目の午前だった。9月は秋とは言え、夏が終わったばかりだ。その上、教室の中の窓は締め切っていて、中ではお化けに扮して衣装を着るものだから、蒸し焼きにされそうな暑さだった。
「疲れたぁ……」
ハンカチで汗を拭きながら理奈はため息をついた。クラスの出し物が好評なのはいいが、休む間もないのは喰種も堪えるらしい。
「同じく」
葵は理奈と違い、仮面ではなく化粧でのお化け役をしていたので、念入りに顔を洗っていた。
「……どう? 落ちてる?」
「うん」
「凄い人気だったね。お客さん、途切れなかったし」
「まあ、お化け屋敷だからね。後、回転が悪いからってのもあるかも」
理奈は自分のクラスの前の行列を眺めた。教室の中からは時折悲鳴が聞こえた。
「……家族、来てた?」
「来てたよ。11時半ぐらいだったかな」
「そうなの? 気付かなかった」
仕事中は、特に違和感のある客は見かけなかった。
「気付かれるようなへまはしないよ。それに、暗くて顔も見えなかったでしょ」
理奈は事も無げに言った。
「今日はむしろ葵とは別行動の方が安全かな……」
理奈は思案するようにうつむいた。
「少し会話するくらいなら大丈夫だよ。私は、理奈と一緒に回りたい」
「……そう言ってくれるのは、嬉しいけど。まあ、そんなに神経質にならなくてもいいのかな」
朝は気にしすぎだったかも、と理奈は笑った。
「それなら、どこから行こうか——ああ、そうだ。葵、お腹空いているでしょ?」
「……お恥ずかしながら」
理奈は食べられないのに、気が利きすぎて申し訳なくなる。
「……そうだね、PTAのフランクフルトならあまり並ばなくても食べられるかな」
葵は去年の事を思い出しながら、言った。三年生の模擬店は、屋台が少ないので待ち時間が長い。フランクフルトなら他のクラスの出し物の待ち時間に食べられるので、理奈と回る上でも迷惑にならないだろう。
「それなら、A、B棟間だね」
理奈はパンフレットを広げて葵に見せた。
「あ、姉ちゃんだ」
部活の後輩の所にちょっかいをかけに行こうと、一年生の出し物の一つに並んでいると、不意に声をかけられた声に理奈が振り向いた。もしかして、と思いつつ、葵も振り向く。
「妹の、千鶴。中学生三年生」
理奈が紹介した。見れば、理奈とよく似ている。その隣には中年の女性がいた。恐らく、理奈の母親だろう。
「お母さん、この人が友達の葵だよ」
理奈の言葉にどきりとする。しかし、この場で紹介しないのは不自然だろう。
「葵です。理奈には、いつもお世話になってます」
「いえいえ。むしろ、理奈こそ、迷惑をかけてないかしら」
「お母さん」
理奈がむっとしたように言った。
「はいはい。葵さん、理奈を宜しくね」
理奈は諦めたようにそっぽを向いた。喰種家族などと想像して気後れしていたが、話してみれば何のことはない、普通の母親だった。
「そうそう、姉ちゃんはぼんやりしてるからね」
からかうように千鶴も言った。
「もう、千鶴まで」
理奈は眉間にしわを寄せ、疲れたような声を出した。
「じゃあ、私たちはあっちの二年三組のアトラクションを見てくるからね。そうそう、お化け屋敷、なかなかクオリティが高くてびっくりしたわ」
「ちゃんとうちのクラスに投票しといてよね」
「わかってるわよ」
理奈の母と妹は廊下の人ごみに紛れていった。
「……普通じゃん」
葵は言った。拍子抜けした。本当に、気後れしていたのが馬鹿らしい。
「私が普通じゃないとでも?」
理奈はからかうように言った。
「そういう意味じゃないけど、さ」
普通は、『そう』見えない事が恐ろしいのだろうな、とふと思った。
そのまま文化祭は何も問題が起こらないまま終わった。軽く内装の補修をして、下校する。
「やっぱり、ばれたの、初めてなの?」
朝の理奈の慌てようと、理奈や家族の普通さから、よほどのことがない限りばれることはなさそうだと思い、葵はそう尋ねてみた。
「それは……明確に、ってのは初めてかな」
「どういうこと?」
「……近所の何人かに、勘付かれてそうなんだよね。多分、ゴミ出しとか、買い物とかからだと思うけど。例えば隣の家の人なんて、去年、旅行に行って来た時のお土産に、私の家にだけ食べ物じゃなくて置物を渡してくれたし」
理奈は車道を見ながら言った。帰宅ラッシュだろうか。多くの車が走り抜けていく。
「それは……限りなく黒、だね」
「そうなんだけど、お互い何もはっきりとは言ってないし。だから私達も何もしてなかったんだ。だけど、葵みたいな事は初めてで――家族に言えなくて。言うのは、せめてもう少し時間がたってからにしたい」
世間のイメージからはかけ離れた温厚さである。喰種全体がこうではないだろうが、もしかしたら、理奈と同じ『組織』の喰種達もこのような感じなのかもしれない。そのことが嬉しかった。
「そっか。でも、話を聞く限りじゃ、大丈夫そうだね。――そんなに緊張する必要なかったかな」
「怖がらせてごめん」
「それは、いいけど。まあ、理奈の家族に話す時は、私にも先に言っておいてね」
「それは、もちろん」
喰種との共存は、案外うまくいくものなのかもしれない。
*
「いただきます」
今日は二週間ぶりの食事だった。手を合わせ、黙祷を捧げた。
目の前にあるのは、血抜きして保存された肉塊。町中の食材の匂いを拒否する鼻が、これからだけは香ばしい匂いを感じとる。それが忌まわしい。
口に含めば、旨味をを感じた。体内のRc細胞管が活性化し、瞳に熱を感じた。人間のように調理していない、ただの肉塊こそを、自分の舌と胃袋は適切な食事として歓迎する。
自分は、知っている。この肉は、自分と同じ見た目で、同じように思考する生き物の肉だ。共食いのような事を繰り返している事に嫌気がさす。人間は、ほぼ同族と言っていい種族だ。親友の葵。笑いあう級友。授業をする先生。優しい隣人達。——私は、同族として、接したいのに。
それでも手と口は、食事を着々と体内に収め続けた。
『反社会的な食性』――本当に、その通りだ。
葵は、知っているのだろうか。喰種擁護は、重罪だと。
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5 調査
教授の講義を聴くのが面倒な方は、後書きに要点だけまとめておきましたので、そちらで確認してください。
文化祭二日目も、無事に終わった。食事に理奈を付き合わせるのは申し訳なかったが、理奈の方はあまり気にしていないようだった。ただ、流石に打ち上げには行かなかった。
文化祭の翌日は、クラスの中に疲弊している人がちらほらと見られた。ただでさえ疲れるのに、文化祭は土日なので8日間連続登校になるのだから当然である。それでもちゃんと片付けやら机の移動やらをこなしていた。
全校生徒は片付けが終わった後に体育館に集められ、生徒と来校者による投票の結果発表を聞いた。惜しくも、葵達の二年五組は、一二年全体のアトラクション部門で三位だった。
「――悔しいなぁ」
下校中に、葵はそうぼやいた。
「まあ、私達にはまだ来年があるよ。それに、私達は十分頑張ったって」
「……そうだね」
――来年、か。
三年生はほぼ全てのクラスが模擬店をする。理奈は喰種だから、苦労するのではないか。葵は不安に思った。
火曜、水曜は文化祭の代休だった。葵は図書館に行くことにした。近くにあるのは公民館の図書室だけなので、電車を使っての遠出になる。
――広いな。
久々に来たが、その大きさに圧倒された。流石は市立図書館だ。入口にある館内案内を見て、目眩がしそうになった。これだけ蔵書があれば、喰種関連の本もそれなりにあるだろう。
4類――自然科学。……48――動物学。49――医学。
棚の番号を見ながら歩いていくと、動物学か医学かで、少し迷った。喰種は違う生物として扱われるのだろうか。人権を認めていられない事は知っているが、学問的にはどうなのだろう。Rc細胞の多い人間か、異種か。生殖的隔離をしていたら異種なのだろうが――。とりあえず、動物学の方から見ていく。
……485―節足動物……486―昆虫類……487―脊椎動物……488―鳥類……489―哺乳類。
随分と歩いたが、ここにあるのだろうか。
大きな棚を順繰りに見ていくと、やっと後ろの方で喰種という文字が見えた。
――あった。
『喰種生態学』『Rc細胞と喰種』『喰種の発見』……。二十冊以上が並べられていた。
とりあえず、手に取ってパラパラとめくってみる。『喰種生態学』は今の自分には難しそうだった。大学に行けば理解できるようになるだろうか。そう思いながら棚に戻す。幾つか見ていき、読みやすそうなものを借りることにした。
家に帰り、本を広げた。どれも素人用に書かれた物だったので、代休の二日間のうちに読み終えることができた。身体能力や治癒能力が高い事、それが多量のRc細胞によるものである事、その仕組みや赫包・Rc細胞管について――。様々な事が書いてあり、葵が知らない事は多かった。
喰種の食事事情についても知ることが出来た。
Rc細胞を持っているのは人間と喰種だけである。喰種は生存においてRc細胞にほぼ依存しているような生態であり、かつ人食い或いは共食いによってでしか摂取できない。体内で生産できる量では足りないのだ。
解決は大変そうだ。葵はため息をついて、今日借りた本の一冊、『Rc細胞と喰種』の背を見る。
『上井大学准教授 藤村哲也著』
この人からなら、喰種について詳しく学ぶことが出来るだろうか。上井大学を進路として考えてみてもいいかもしれない。
携帯からインターネットにアクセスし、『上井大学 藤村哲也』と検索すると、近々講演会が開催される事がわかった。
『人類の進化と喰種の発生――Rc細胞が生物に与えた影響――』
「……と言うわけで、その講演会に申し込んだんだけど、理奈も行く?」
このところ下校時に喰種の事を話すのが習慣になってきている。一定距離内に人が来たら理奈が黙るように指示するので、安全面についての問題はないだろう。
「うーん。……上井大学、だっけ? 東京はちょっと怖いなあ。親同伴でしか言ったことがなくて」
理奈は苦い顔をした。
「CCGがいるから……」
理奈は落ち着かなげに襟元をいじった。言われてみれば当然だ。今まで敵のいない所で過ごしてきたのだから、わざわざ敵地である東京に行きたくはないだろう。
「そうだね。そもそも、喰種が聞いて面白い話かもわからないし」
葵は話を切り上げた。喰種の方がよく知っていることも多いだろうし、人間についての話が主なら聞く必要もないだろう。
「一度、理奈の家に行ってみたいな」
そう言ってみると、理奈はぎょっとしたように目を見開いた。
「葵、頭大丈夫?」
「酷いな。いや、人目を気にせずゆっくり話したいなって思っただけだよ」
「……今度親に打ち明けてみる?
いやでも、どうなるか分からないし……」
理奈が悶々と悩み始めたので、ごめんごめんと謝った。
喋りながら歩いていると、理奈はふと思い出したかのように言った。
「――あのさ、葵。言っておかなきゃいけないことがあった」
「何?」
「Rc欠乏症については、知ってる?」
昨日読んだ本にも書いてあった事だ。
「体内のRc細胞が不足すると、喰種は――その、『狂暴』になるっていう?」
「そう。それなんだけど、あれは本当に理性吹っ飛ぶから、私がそうなったら、絶対に近づかないようにね」
理奈は酷く真剣な表情だった。相当危険なものらしい。友人さえも識別できなくなるというのは、考えるだけで恐ろしい。人としても、喰種としても。
「食料不足とかあるの?」
しかし、理奈が変な挙動をしていた事はないはずだ。最近の夜鷹の食料調達がうまくいってないのだろうか。
「いや、それはないよ。ただ、怪我をした時は、体内のRc細胞を使って治すんだけど、その時の体内に貯蓄されている分で足りないと急性Rc欠乏症になる事があるんだ。だから、もしも私が大怪我したら、極力――いや、絶対に近づかないで」
「……うん。気を付けるよ」
「ありがとう。まあ、そうそうないと思うけどね。万一の時は怪我させたくないから」
講演会はおよそ一か月後だった。
東京へ一人で行くのは初めてだった。携帯で道順を確認しながら歩いた。こういう時にGPSはありがたい。
恐る恐る大学内に入り、きょろきょろと周りを見ながら講堂を探した。挙動不審である。
何とか講堂にたどり着き、席に座った。少々早かったのか、まだあまり人は集まっていなかった。バッグから本を取り出し、始まるまで読みながら待つことにする。古本屋で安く喰種に関する本が手に入ったのは幸運だった。この前読んだ『喰種解体新書』と違い、元CCGの研究者が書いているものなので、信憑性は高いだろう。
講堂の席の半分が埋まったところで、やっと開会を告げるアナウンスが聞こえた。壇上に立っているのは白髪の混じりかけた中年の男性だった。若い女性の声が、講堂の中に響く。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。これより、第12回上井大学理学部公開講演会 『人類の進化と喰種の発生――Rc細胞が生物に与える影響――』を開会致します。それでは、藤村准教授、よろしくお願いします――」
みなさん、こんにちは。ご紹介いただきました、藤村哲也です。本日はRc細胞という観点から、人類の進化と喰種の発生についてお話させていただきます。
Rc細胞とは、特異な細胞です。人類と喰種しか持ちません。人類に近い他の霊長類もです。それは、Rc細胞は人類の進化の中で誕生したからです。
遥か昔、人類は樹上生活をやめて、直立二足歩行をし始めました。皆さんも知っての通り、そのおかげで、人類は他の生物とは一線を画す高度な知能を手に入れました。しかし、その代償として、運動機能は著しく低下してしまいました。例えば、人類は他の多くの陸上動物よりも足が遅いでしょう。それを少しでも補うために、人類はRc細胞を発達させたのです。
この統計をご覧ください。
これは、Rc値と運動機能の関係を示すグラフです。Rc値は、体内のRc細胞量を表します。この三つのグラフの横軸は全てRc値になっています。縦軸は、右のグラフは50メートル走、中央は握力、左は上体起こしの記録の平均です。見て分かりますように、全て、Rc値が高いほど、記録が高くなっています。このことから、Rc細胞は、運動能力を向上させる作用がある事がわかります。
また、大怪我を負ったあとや、手術後の患部には、Rc細胞の体内密度が上昇していることも近年の研究でわかっています。このことから、自然治癒に何らかの形で関与していることも明らかです。
それを踏まえて、喰種についての情報も見ていきましょう。人間のRc値の基準値は200~500ですが、喰種は1000~8000もあります。そして、喰種の筋力は、個体差はありますがヒトの4~7倍はあります。
喰種のRc値が高いのは、もちろん、人間から摂取しているからです。しかし、なぜヒトはこれほど劇的な効果を持つRc細胞を少量しか持たないのでしょうか。
理由は、Rc細胞の構造にあります。先程も言った通り、Rc細胞は人類と喰種しか持たない特異な細胞です。そのため、その材料となるアミノ酸の一つ、サプシンも人類と喰種の体内でしか生成されず、食事での摂取はほぼ不可能です。そして、アミノ酸の生成には、多くのエネルギーが必要になります。十分な食事のとれる現代とは違い、人類史のほとんどは狩猟と採集による不安定な生活です。そのため、人類は過食よりも飢餓に耐えるように進化してきました。エネルギーを消費するアミノ酸の生成、ひいてはRc細胞の生成を最小限に抑える必要があったのです。
ここで喰種の発生について考えてみましょう。古来より、人類は時に食料として、時に葬送儀式として、共食いを行ってきました。近年の発掘研究により、紀元前では食人が一般的だった事が明らかになっています。その過程で、人類はRc細胞をより効率的に摂取できるように進化したのでしょう。昔からヒトに由来する生薬なども存在しましたし、最近では人魚伝説——人魚の肉を食べたものは不死になる、というものですが、これは食人による健康効果の暗喩だったのではないかとの説も出てきています。この食人に対して、極端に適応したのが喰種なのです。
喰種は肉を摂取してすぐに体内でRc細胞を分離し、効率的に取り込むことが出来ます。酵素もこの食性に合わせて発達し、十分なRc細胞濃度下で作用するようになり、逆にその他の酵素は極端な体内Rc細胞により分泌されにくくなりました。そして、Rc細胞を貯蓄、統制する赫包、運搬をするRc細胞管を発達させ、Rc細胞に依存した生態を確立させました。この影響で、喰種は十分なRc細胞を含まない食品には、嘔吐中枢を刺激されるほどの拒絶反応を持つまでに至りました。
この喰種の発生時期に関しては諸説あります。どの段階から『喰種』とするかにもよりますが、食性が現在のように限定されたのは、農耕による人口増加の後なのは確かです。近年の研究では、一部の地方では喰種が神として崇められていた事を示す資料が発見されており、戦国時代に活躍した傭兵の中にも喰種らしき記述が……
藤村准教授の話は二時間に渡り、日常での食習慣によるRc値の増減に関する話で締めくくった。
――良い話が聞けた。
大学は上井大学を目指すことにしよう。
葵のメモ(捏造設定など)
・Rc細胞は運動機能や治癒能力に影響を及ぼす。人間でも、多く持っているほど身体能力が高い傾向にある。
・Rc細胞は、特殊なアミノ酸「サプシン」を含んでいる。Rc細胞と同様に、このアミノ酸も人間及び喰種体内でしか生産されない。(憂那さんが人肉を摂取することでエト出産に成功しましたが、人は体内にたんぱく質を吸収するとき、アミノ酸にまで分解します。コラーゲンを食べても、体内でコラーゲンになるとは限らないように、Rc細胞も普通の細胞と同じであるなら、憂那さんの体内で増えることはないと考えました)
・喰種はRc細胞を効率的に取り込むことが出来る。
・喰種は十分なRc細胞を含まない食料に対して、嘔吐中枢を刺激するほどの拒絶反応を持つ。また、体内の過剰なRc細胞量により、人類から進化する前に持っていた通常の酵素の分泌が阻害されている。
作者の専門は生物ではありません。細かい事は突っ込まないでくださると助かります。
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6 対面
十一月になると、もう夏の名残はすっかりと姿を消していた。制服は衣替えをし、ジャケットの下にセーターやカーディガンを着用している人も多い。
「今日は特に寒いね」
部活が終わるころにはもう日が暮れている。
「そろそろ手袋も欲しいな」
理奈は手をさすりながら言った。
「あれからもう二か月かぁ……」
理奈は感慨深げに呟いた後、押し黙った。
二か月。もう、それほどたったのか。もう、理奈が喰種であるということに慣れて、それに関する話題も、お互いに変に気を使うことなく、気軽にできるようになっていた。だが、取り急ぎ喰種に関して聞きたいこともとりあえずは尽きていたので、最近はあまり話に上ることはなかった。
葵は話しかけようとして、理奈の顔を見て口をつぐんだ。
「……一つ、聞きたいんだけど」
理奈が覚悟を決めたように口を開いた。
「喰種擁護に関する法律、知ってる?」
――ああ、そうか。
理奈は、自分がリスクを知らないから今のように接しているのではないかと、恐れているんだ。
「もちろん。ちゃんと、“あの日“の夜に調べたから」
「えっ……そんなに、前に……?」
理奈は拍子抜けたようだった。
「そっか……よかった」
ふう、と息を吐いて笑った。
「――そろそろ、親にも打ち明けようと思うんだ。二か月の間にCCGが動いてないことも分かってるし、それだけじゃなくて、葵は私のために行動すらしてくれたし……だから、信用してもらえると思う。
だから、言ってもいいかな……?」
「いいよ。理奈がそう思うのなら」
「ありがとう」
理奈は晴れやかに笑った。冷たい風が思い出したかのように吹いて、木の葉を揺らした。
葵が自室で宿題をしていると、くぐもったバイブ音が通学用のリュックの中から聞こえた。携帯を開くと、理奈からメールが届いていた。
『今週末、私の家に来れる? 親が、会ってみたいと言っています。会うのは母親だけで、私も一緒にいるから、危険な事にはならないと思う』
葵は唸った。話を聞く限り、急に殺されるようなことにはならないだろうが、どうしたものか。理奈は親に逆らってでも、自分を助けてくれるだろうか……。
カレンダーを見る。今日は水曜日だ。少し悩んだ挙句、返信をした。
『行けると思う。明日、打ち明けた時の様子を教えて』
「昨日のメールの事だけど……」
葵が話しかけると、理奈はうん、と落ち着いて答えた。
「まずは、驚かれて、怒られた。なんでその日のうちに言わなかったのって」
「まあ、そうなるよね」
「でも、葵が私のために喰種について調べたりしてくれているって言ったら、興味を持ったみたいで、話してみたいって」
「……物騒な事にはならないよね?」
「今の所は、ならなそう。何かあったら、私が葵を逃がすよ」
理奈は前を見たまま、言った。強い目つきだった。
「……ありがとう。行くよ、理奈の家」
今更、理奈に命を預けることに躊躇するほうが馬鹿らしいだろう。
乗り換え二回で、学校最寄りの駅から約40分。電車に揺られながら、秋めいた山々を眺める。電車通学は大変だ。理奈は毎日こうして通っていたのか。
やっと駅に着くと、改札の前に理奈がいた。
「迷わなかった? いつも電車使わないでしょ」
「馬鹿にしないでよ。通学に使わないだけだから」
理奈の家のある町は山に囲まれていた。道は起伏が激しい。駅よりも高地にある理奈の家に着くまでに、葵の息は乱れていた。
「もうすぐだよ。ほら、あの青い屋根の」
理奈の指さす先を見れば、二階建ての家が見えた。目的地を見て足に力が戻ったが、その中にいるだろう理奈の母親を連想して気が重くなった。
思った通り、近づいてみても、見た目は普通の家だった。葵は、『宮野』と洒落た字体で書かれた表札を見た。理奈がドアを開けると、軽やかなドアベルの音が響いた。
「ただいま、母さん」
理奈が声をかけると、廊下から母親が出てきた。
「早かったわね、理奈。そちらが高瀬葵さん? さ、上がってください」
「……失礼します」
恐る恐るといった体で靴を脱いで家に上がる。他人の家の匂いは違うものだが、別段異臭などは感じない。リビングに案内されると、窓からは明るい日差しが入っていて、居心地の好さそうな空間が広がっていた。
「コーヒーは飲める?」
「はい」
「ミルクとお砂糖は?」
「ブラックで、お願いします」
用意していたのだろう、キッチンからすぐに湯気の立つコーヒーカップを持って出てきた。盆から取り上げて一つずつ各々の前に置いた。
「ありがとうございます。……いただきます」
温かなカップを持ち上げ、一口飲む。苦味は気にならないので飲むときは大抵ブラックだが、正直、飲むこと自体は少ないので味についてはよくわからない。だが、良い匂いだ。緊張していたが、少しだけ落ち着いた。
「……美味しいです」
息をつき、ぎこちなく笑った。
「ありがとう」
理奈の母は上品にほほ笑んだ。それから、口元を引き締める。
「話は理奈から聞いているのよね?」
「はい」
カップを置き、背筋を伸ばす。さて、何を聞かれるか。
「まずは――何故、CCGに通報をしないのですか?」
「理奈は命の恩人ですから。裏切るようなことはしません。
それに、その必要を感じませんでした。理奈から聞く限りでは、人間に実害のあるようなことはしていない、と」
「嘘だとは思わなかったの?」
「……さすがにそこまで頭が回らなかった、としか。
まあ、少なくとも私は理奈の事を友人だと思って、信頼していたので」
葵は軽く身じろぎをし、言葉を続ける。
「そもそも、正体を知っているとばれた人間に選択肢などないと思うんです。
CCGに通報しなければならないような、人間にとって危険な喰種なら、その場で私を殺しているはずです。見逃したのなら――その喰種に人間と敵対する意思はないと判断するのが妥当かと」
「……それもそうね」
理奈の母は納得したように頷いた。理奈は黙ったままだ。
「――喰種の事は、どう思っているのかしら」
「……どう、とは」
「怖くはないの?」
「……面識のない喰種なら、恐怖を感じたと思います。今も、本音を言えば、出来る限り会うのは避けたいです」
理奈の母は静かな目で葵を見つめた。葵は膝の上の拳を握った。
「でも、理奈は友達です。危険を顧みず、私の命を救ってさえくれました。今更、理奈に怯える事こそ馬鹿らしいと思います。
それに、今では喰種にも話が通じることも、わかっています」
「……でも、何を言おうと、結局喰種は人間の天敵だわ」
「……否定はしません」
葵はテーブルに視線を落とした。
「理奈から、喰種について調べていると聞いたの。私達の食事の代用品を作りたいと考えていると聞いたわ。何故、そこまでしようと思ったの? 私達は人間の敵なのに」
葵は、長く息を吐いた。少し、思案する。浮かび上がってくる言葉に、まとまりはなかった。
「どこから話せばいいでしょうか……。
そうですね、まず、恩人である理奈に恩を返したいと思ったのが、一番の動機です」
葵は理奈をちらりと見やった。
「天敵、とおっしゃいましたが……それは、根本的には、食事に関してのみですよね」
ええ、と理奈の母は頷いた。
「食事さえ解決してしまえば、私達は共存できると思いました。もしも作れたなら、わざわざリスクを冒してまで人間を狩ろうとする喰種は減るのではないかと思います。
また、その……気を悪くされたら申し訳ないのですが……」
理奈の母の顔を伺うと、続けて、と促された。
「もしも人類が喰種を殲滅しようとしたら、出来たとしても、膨大な犠牲が出るでしょう。なので、この方法の方が、人間側にも受け入れられやすいと考えています」
「……そう、ね」
その声はどこか冷たく聞こえた。気にしないように、ゆっくりと話し続ける。
「もう一つは――私の道徳に関する価値観ですかね。これは、人に押し付けるようなものではありませんが……。
私は、道徳によって守られるべきは――理想としては全ての生物でしょうが、まず優先されるべきは、道徳を守る存在だと考えています」
右手で左手を軽く握った。手汗で湿っている。一度深呼吸をすると、卓上からほのかにコーヒーの香りがした。
「そもそも、善悪や道徳とは、人間が群れとしての秩序を保つために生まれたものです。つまり、その対象は本来同族のみとなりますが……その同族として受け入れるべきは、道徳を守る存在なのではないかと。
例えば、連続殺人犯がいたとします。――喰種ではなく、人間の、です。しかし、私は、その人を道徳によって守ろうとは思えません。そのような人の人権を叫ぶよりは、私は――人類との共存を望んでいる方に限りますが――喰種の権利を掲げたいです」
理奈の母は、黙って聞いている。理奈も神妙な様子だった。
「所詮、善悪なんてものは、多くの人類にとって都合が悪い行動かどうかなんでしょう。
そうすると、確かに、人を殺して食べるのは悪です。――人間にとっては。
しかし、あなた方は、それを出来るだけ避けようとしています。そのような人を迫害するのは理不尽な事です。少なくとも、私の道にもとります」
葵は口を閉じた。まとまりはないかもしれない。しかし、言いたいことは、言った。不思議と満足感があった。
「そう……」
理奈の母は目を閉じた。
「ありがとう、話してくれて。ええ……私はあなたの事を信用するわ。私の娘に、人を見る目があるようで良かった」
理奈はほっとしたような顔をした後、自分の母を軽く睨んだ。
「どこまで聞いているかは知らないけど……近所の人とは、面と向かってこんな話は出来ないから、人間がどう思っているか分からなかったの」
「いえ、あの……私のを、標準と考えられると困るのですが」
「わかっているわ。それでも、聞けて良かった。ありがとう」
頭を下げられ。葵はまごついた。
「ええっと……こちらこそ」
慌てて葵も頭を下げた。小さく息をつく。
「あの、一つ……私からも、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
やわらかい声だった。
「あなたは、人間についてどう思われますか」
理奈の母は思案しながら、ゆっくりと話しだした。
「そうね……私は、隣人として好きよ。そう、良き隣人と思っているわ。
道端で話したり、手芸サークルとかを一緒に開いたり……食べなくてはならないのが、申し訳ない」
理奈の母は、窓の外を見た。色づいた山が、燃えているようにも見えた。
「少なくとも、人間が家畜などに対して感じるものとは違うと思うわ。これは、私達の組織――『夜鷹』共通のものと考えてもらっていいと思う。もしも食べずにすむなら、そうしたい。良き隣人として、その輪に混ざれたなら、幸せでしょう」
葵を見て、ふっとほほ笑んだ。
「……こんなもので、いいかしら」
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7 赫子
「緊張したぁ……」
理奈の自室に案内されると、葵は脱力して壁にもたれかかった。
「ごめんね」
「いや、大丈夫だけどさ……」
ため息をついてから思い出した。喰種の耳は良い。ここで話すことは理奈の母に筒抜けなのかもしれない。――だが、それほど気にすることもないだろう。
「そうだ、折角だから、赫子見せてよ」
そう言うと、理奈はぎょっとしたように葵を見た。
「え?」
「人目がないから、さ」
せかすように葵が言うと、理奈は不思議そうな顔をした。
「そんなに見たいものかな……?」
「見たい見たい。面白そうだし、綺麗だったし」
「口説いてもなにも出ないよ。いや、別に出してもいいけど。というより、面白いって何」
「本にはあまり詳しく載ってないから興味があるんだ。ほら、見せて」
何処か達観した様子で、わかったよ、と言って理奈は服を捲り上げた。
「間違って刺さったらまずいから、ちょっと離れて」
覗き込もうとしていた葵は、勢いよく飛び退った。
「……行くよ」
理奈の腰から、皮膚を突き破って一本の鱗赫が飛び出した。小さく音を立てながらRc細胞が肉を形成していく。部屋の中のものに触れないようにか、自分の体に巻き付けるようにして伸ばしていた。
おおお、葵は感嘆の声をあげた。
「……こんなもので、いいかな」
伸ばすのをやめて、理奈が声をかける。葵は理奈の声につられて顔を上げた。
「あ、目の方も変わってる」
葵を見る理奈の目は赫眼に変化し、目の周りのRc細胞管は赤黒く変色している。それを聞いた理奈は、ぱっと顔を背けた。
「見せたくないものなの?」
「……私は、あまり」
「別に気にならないのにな。赤色、綺麗だよ」
うん、と理奈は曖昧な返事をした。
「ねえ、触ってみてもいい?」
葵は動かない鱗赫をみて、近寄った。
「いいよ。――手、切らないようにね」
艶やかで、赤黒い蛇の鱗の様だ。理奈が注意するので、恐る恐る触れてみると硬く、押しても弾力はなかった。
「……硬い」
「そりゃあ、武器だからね」
事も無げに理奈は返す。
「あの時、結構固い音したけど、強度はどれくらいあるの?」
葵が爪を立てて軽くつついてみると、カツカツと音がした。
「うーん……コンクリート位なら、割れる」
え、と葵は間の抜けた声をあげた。
「すごい。――これが生命の神秘か」
葵は一人関心をしている。
「にしても、必要な時だけ随時出せるってのが凄いよね。便利。というか、もはや生物として反則級な性能だよ。まったく、Rc細胞って何なんだか」
「あー、うん。確かに便利だけど、あまり使うことはないよ。練習はするけど。……というより、使ったらまずい。使うような事態に出くわしたくない」
「それもそうか」
鋭い光沢を放つ赫子を見ながら、葵は頷いた。
「……ねえ、前は三本出してたよね? 最高で三本?」
「今の所は」
「赫包が三つって事だよね」
「多分」
「――そうだ、理奈のお母さんは?」
「五本だよ。私より二本多い」
そう言いながら、理奈は赫子を引っ込めた。葵は名残惜しそうな顔をした。
「年齢によって増えるのかな。お父さんは?」
「お父さんは羽赫だから、よくわからない。多分、四つ」
理奈は自分の肩を叩いて見せた。
「理奈は鱗赫だけ?」
「そうだよ。両親の赫子を二つとも遺伝するのは、珍しいんだって」
なるほど、と葵は頷いた。
「妹の、確か――千鶴ちゃん、は?」
「千鶴は羽赫だけ。あの子は上手い事、名前に合った赫子を受け継いだみたい」
千鶴。なるほど、確かに『羽』に合う名だ。
「……仕方ないな。もう一度出すよ。ほら、離れて」
よほど名残惜しそうな顔をしていたのだろうか。理奈が呆れたような口調でそう言ってもう一度赫子を出して見せると、葵は顔を輝かせた。
「そうだね、幾つか芸でも披露しようか」
理奈は自分の赫子を見下ろした。
「まず、この鱗、角度を変えられるんだ」
葵の見ている前で、鱗が逆立った。
「やすりみたいでしょ? 当たっただけでも相当痛いよ」
以前見た赫子の動きを思い出す。あの速さで、おろし金のようなこれに触れたら、相当な傷になるだろう。脅威だ。
「……えげつな」
想像してぼそりと呟くと、理奈は苦笑いをした。
「うん。……痛かった」
「自分の体で試したの?」
「いや、そんな事しないって」
ないない、と顔の前で手を振る。
「小さい頃――小学校までは、祖父母と暮らしてたんだ。で、祖母は鱗赫なんだけど、稽古つけてもらってて、その時」
「……うわあ」
「幾ら直りが速いって言っても、痛いものは痛いんだよ。なのにばっちゃん、スパルタでさ……。そのおかげでいろいろ出来るようになったけど」
理奈がぼやく。一体、何をしていたのだろうか。
「まあ、いいや。見てて」
赫子に目を下すと、もう一本伸びてきて、今度は表面の鱗が解けるように消えた。
「おお……」
「これは序の口」
今度は赫子の先端が五つに割れた。見る間に手のように成形される。
「じゃんけんもできるよ」
赫子の『指』を自在に動かしながら、葵の間の抜けた顔を見て満足げに笑った。中に骨がないためか、全体がしなるように動いている。
「……そこまで自由に動かせるんだ」
「練習の成果だよ。ばっちゃんが、器用に動かせることに越したことはないって」
床に落ちていた三つの球を拾い上げ、お手玉までして見せる。
「私、お手玉二つしかできないのに」
「勝った。というか、それお手玉っていうの?」
最後は高く投げ上げ、綺麗な放物線を描いて落ちてくるそれを受け止めた。
「どうせ私は運動神経ないよ、うるさいなあ」
葵は手をひらひらと振った。人間の中でもそれほど高いわけではないのだ。まして喰種などと張り合えるわけがない。
「ねえ、その赫子、どれくらい感覚あるの? 器用すぎるでしょ」
「ううん……触覚はあるけど、体より鈍いかな」
理奈は自分の赫子をつついて平然と言った。
「――それであんなに⁉ 痛覚とかは」
「痛覚はないなあ……温度も感じないし」
「まあ、確かにダメージ受けても問題ない部位だろうけど」
葵は唸った。ほとんど感覚がないのに、この動きである。
「まあ、他の喰種でここまで出来るってのはあまり聞かないかな。ばっちゃんくらいだと思うよ。普通の喰種が赫子でこんな事をしようとすれば、加減が出来ずに握り潰しちゃうだろうね。私も、初めはそうだったから。だから正月とか、親戚が集まる時にやると結構うけるんだ」
理奈は嬉しそうに言った。宴会芸か。
「そうだ、防具にもできるよ」
今度は一本を平たく伸ばして体に巻き付けた。首と胴体を覆っている。
「正中線は急所の塊だからね。再生できるけど、わざわざ隙を作る理由もないし、治すのには体力も消費するから。流石に甲赫の攻撃が直撃したら貫通するけど、結構便利だよ。羽赫の防御に最適。これもばっちゃんの直伝。あとは、赫子を使った治療術も教えてもらった」
理奈の顔は自慢げだ。赫眼が笑っている。
「君のおばあさんは何者なんだ」
それともこれくらいに仕込むのは普通なのだろうか。
「……喰種内でもそれなりの有名人だって聞いたよ。特に県内の年配の人なら、『九尾』とか『天狐』って言ったら通じるし」
「それって、前に言ってた
「そう、それ」
鬼名とは、昔の
「同じ鱗赫のばっちゃんが変に有名だから、私も狐の妖怪の名前にされたんだ」
「……ばっちゃん、何やってたの?」
「何て言えば良いかな。自警団? ……傭兵?」
理奈は腕を組んで悩む。するすると、赫子をまた体内に収めた。
「まずは人間との関係から話したほうがいいかな。私のお母さんの方の祖先は、結構前から人間と共存してたそうでね、山奥のその村では喰種を村の一員として認めていたんだって。だから、私と妹の千鶴は、中学生になるまでお母さんの実家で育ったんだ。子供のうちは、ばれやすくて大変だから」
右手で髪をいじりながら、理奈は懐かしむように話し出した。
「やっぱり喰種だから、村から少し離れたところに家を建ててたんだけど、皆優しくしてくれたよ。喰種は畑仕事の手伝いとか、力のいる仕事や村の警備を任されて、受け入れられてた。そして、村人が死んだら、鬼葬――遺体は、喰種に渡された。今の私とは違う、公にされた上での共存だね。
それで、喰種の仕事の一つ、警備なんだけど、これは流れ者の、凶悪な喰種達から村を守る事も含まれるんだ。そういうのは村の中の精鋭が任されるんだけどね、基本的には自分の村にいたらしいけど、討伐の必要があるときは他の村の喰種に協力を要請したりしてたようで、組織としての機能もあったんだって」
「なるほど。それで、喰種自警団か。まあ、田舎の方じゃ和修家――だっけ? そういうのに依頼するのも難しかったろうし」
少々怖いが、味方なら頼もしいだろう。
「そう。それで、ばっちゃんは大活躍してたみたいで。仕事しているうちに赫者にまでなったとか」
「赫者……って、あれか。共喰いでRc細胞を大量に取り込むとなるっていう。あまり、体に良くないって読んだけど」
赫者とは、喰種が共喰いを繰り返して、体内に大量のRc細胞を取り込んだ末になるものだ。
喰種は生きたRc細胞を分解せずに、そのまま体内に取り入れる。そして、赫包には多量の神経細胞が含まれており、そのおかげで喰種は身の危険に対し、‘’反射‘’として赫子を出現したりする事がある。共喰い時に赫包まで食べると、Rc細胞は多量に摂取できる一方で他人の神経細胞まで取り込んでしまうため、赫子がその影響を受けたり、精神を病んだりすることがあると書いてあった。
「うん、それなんだけど。ばっちゃんは六十過ぎてるけどピンピンしてるから、そこの心配はなさそうなんだよね。というか、『九尾』って鬼名だけど、三十歳位で赫包二桁いったらしいし、稽古中じゃ意味わからないくらい赫子を変形させまくるから、今じゃ何個あるかもわからないんだよ。元気すぎて稽古でズタボロにされるし……」
理奈は遠い目をしてぼやいた。
「あれ、何の話だったっけ……そうだ、赫者だ。それで、赫者って珍しいらしいから、結構有名になったみたいなんだ。
……ああ、でも、話によると二百か三百年くらい前には、自警団のほぼ全員が赫者っていう時代があったって伝説があるよ」
「うわぁ……レジェンドだ」
なんとなくロマンを感じたが、結構恐ろしい話だ。もはや、和修家すら超えていないか。
東京外は割と優しい世界です。
理奈はある意味英才教育を受けていました。
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7.5 閑話 帰省
自動車に揺られること二時間半。車窓から見えるのは山ばかりだった。所々雪が残っていて、白く光っている。
「お久しぶりです。車、頼んでもいいですか」
「ええ。もう一年が経ちましたか。何だか早いですね。車はいつも通り、うちの敷地に停めておいてください」
山間の小さな村だった。祖父母の家は、集落から少し離れた山の中にある。車で帰省する時はいつも村の人の敷地に置かせてもらっていた。
「理奈ちゃんも千鶴ちゃんも大きくなったなぁ。こりゃ、私も年を取るわけだ」
昔は気にもしていなかったが、今では喰種一家に対してここまで寛容なのはありがたい事なのだと身に沁みて分かっていた。
「ただいま、母さん」
「久しいな。元気にしとったか?」
荷物を抱えて三十分ほど山を登り、やっと見えた祖父母の家は、二人暮らしには大きいものだ。電気や水道は通っていないが、広さだけなら立派なものである。
「理奈も千鶴も大きくなって。いやあ、来てくれて嬉しいね」
祖母は皺だらけの顔を歪めて笑った。
「ほらほら二人とも、荷物を置いてきなさい」
「はーい」
母親に言われて、いつも泊まっている部屋にトランクを置いてくると、父母、祖父母は既に炬燵を囲んでいた。
「ああっ、ずるい」
千鶴は声をあげて母の隣に入り込む。理奈も遅れて祖母の隣に座った。冷えた手足に炬燵のぬくもりが心地よい。
「……あったかい」
いつも家で使っている電気炬燵とは違う昔ながらの炬燵は、それはそれで味があっていいものだ。
「そうだ、肉が余っているんだった。二人じゃどうも食べきれなくてね。土に埋めるのも勿体ないから、君達が来るまで待っていたんだが。どうだい、食えるか?」
思い出したように祖父が言った。人口約千八百人のこの村では、年齢の分布が一様、全員が百歳まで生きる計算でも、毎年十八人が亡くなることになる。その上少子化、高齢化が進んでいるのだから、言うまでもなく、これよりも死人は多い。勿論、本人が望めば火葬になることもあるが、習慣としての鬼葬が色濃く残るこの村では、死体のほとんどはこの老夫婦に集まることになる。提供されるのは肉の少ない老人のものばかりとは言え、食欲も落ちてくるこの年で全てを消化するのは大変なのだろう。
「ええ。ありがたくいただくわ。……誰の、かしら」
「工藤の爺さんだよ。先月だ」
「川沿いの家の? ……そう。それなら、九十歳くらいかしら。長生きだったわね。寂しくなるわ」
祖母が席を外した。地下室から皿に盛った肉を持って戻ってくるまで、黙って待つ。
内臓は生で、肉は干して、骨にこびりついたものはこそげ取って。――小学生まで、手伝った作業だ。骨は水に晒して清め、素焼きの壺に収めて遺族に渡した。
一昨年の、大叔父の葬式も思い出す。喰種の場合、残すのは頭蓋骨だけだ。それ以外は全て親族で
翌日は大晦日だった。千鶴は背が伸びていたが、祖母が前もって仕立て直していたため、装束は体にぴたりと合っていた。昼になる直前、やっと伯父も到着し、急いで着替えた。
「では、行くか」
鬼面の祖母を先頭に、一列になって山を下りる。一族揃って、牙をむきだした鬼の面を着用していた。
「あっ、理奈だ。千鶴も。久しぶり」
「元気にしとったん? やっぱ『市』の方は賑やかなんだろうね」
村に入ってすぐに、小学校時代の友人が声をかけてきた。懐かしい顔だ。
「みっちゃん、けいちゃん、話は後で。これ終わったら、ゆっくり話そう?」
この村の大晦日の伝統行事、「鬼祓」。喰種が鬼の面をして村を練り歩く。東北のなまはげのようなものだ。昔の人が
「そんじゃ、一本杉んところで待ってっからね」
「話、楽しみにしてるから」
にこやかに二人は去って行った。笑顔がまぶしい。
――さて、頑張るか。
理奈は面の下で笑みを浮かべた。
うっかり話し込んでしまい、気付けば辺りは暗くなっていた。普通の人間ならば足元も見えない獣道を、赫子は使わないながらも全速力で駆けていく。
流石に足場の悪い道を走り通すのは疲れ、ぜえぜえと家の前で肩で息をする。十秒ほどで息を整え、玄関を開けた。
「遅かったね」
祖母の声は尖っていない。怒ってはいないようだった。少しだけほっとする。
「ただいま。千鶴は?」
「まだ帰っていないよ。見てきてくれるかい?」
――それなら携帯で言ってくれればよかったのに。
理奈はため息をついて再び山を下った。
匂いを頼りに、村を探す。こういう時、喰種の脚力がありがたい。ほどなくして見つかったが、よほど友達との再会が嬉しかったのか、千鶴はなかなか帰ろうとしなかった。
「……ばっちゃんに怒られるよ」
苛々としながらそう言うと、流石に効いたのか、千鶴は顔を引きつらせた。今、祖母の機嫌を損ねるのはまずい。――正月の特訓が地獄になる。
「わかった、帰る。じゃあね、今度は夏休みに」
「来年は受験でしょ」
「そっか。なら、暑中見舞いを送るね」
その夜は、大人には伯父の持ってきた血酒が、子供二人にはカフェインレスのコーヒーが振る舞われた。
夜も更け、いい感じに酔っぱらってきた大人達はラジオの歌合戦と張り合って歌い始めた。母は若干音が外れている。伯父は地味に上手い。父は赤ら顔で鼻歌を合わせている。
「……酔っぱらってるね」
「うん」
酒豪の祖父母は揃って演歌を歌っている。――夜は、長い。
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8 実演
理奈の家に来るのは、もう、四度目だ。窓からは柔らかな日差しが降り注ぐ。冬も終わり、もう春の陽気だ。
「理奈、ここらで人目につかないところってある? というか、行ける?」
会話が途切れたので、尋ねてみた。
「山の中にでも行きたいの?」
理奈は新緑の美しい山を見上げた。日を透かして、理奈の黒髪が柔らかな茶色に染まった。
「何か私にして欲しい事でも?」
「うん。成人の喰種の身体能力は人の4~7倍だと聞いたから、ぜひ見せて欲しいなって」
期待をこめて理奈を見る。
「なんだ、そんな事。――具体的に、何をすればいいかな」
「……走る、とか? 跳躍とか」
よく考えていなかったので、とりあえず思いついたことを言ってみる。
「――ねえ、葵、最近私の事を実験対象として見てない?」
葵は目を逸らした。
「いや、別にいいんだけどね。一般人からすりゃ、UMAみたいなものかもしれないし、代用食料の研究も、間接的に私らの研究になるだろうからさ」
口調も軽く、思っていたより理奈が気にしていないようだったので、葵は安心した。
「……そう言ってくれると、助かる」
「なに、私達の仲でしょ」
理奈は笑って、葵の肩を軽くたたいた。
理奈の家のすぐ裏はもう、木々の生い茂る山だ。斜面は急で、そこから上るのは難しそうだった。
「ここから登るの?」
「――背負うよ」
理奈が背を向けてかがんだ。乗って、と促され、ゆっくりと体重を預けた。
「ちゃんとつかまってね。腕、ほら、もっとしっかり握って」
「うん……大丈夫?」
喰種の体力を見たいと言い出したのは自分だが、人ひとりを背負ってこんな斜面を登れるのだろうか。自分は小柄なほうではない。むしろ、平均よりも身長は高いくらいだ。体重だって50㎏程度はある。0.05トンだ。いくらRc細胞の力があるといっても、可能なのか。
そんな思いとは裏腹に、理奈は軽快に走り出した。常人なら上るのも難しそうな急な斜面を、鹿のように身軽に走っていく。
「――葵、平気?」
速度を緩めることなく、理奈は無言で固まっている葵に声をかけてきた。
「いや、私は平気だけど……むしろ、理奈こそ、大丈夫なの?」
舌を噛みそうになりながら返事をすると、理奈は軽く笑った。息は全く乱れていない。
「喰種の身体能力を見たいって言ったのは、葵の方でしょ。こんなの、軽い軽い」
「スポーツ選手が見たら泣くよ、これ」
普通の女子高生の見た目なのに、自分と同じ体格の人を一人背負って平然と走っている。どうやら、想像以上の様だ。目眩がする気分だったが、期待で胸が弾んだ。
しばらく走ってから、それなりに平坦な場所で理奈は足を止めて葵をおろした。
「ここなら、平気かな」
「ちゃんと帰れる?」
葵はあたりを見渡した。茂った木々で覆われて、民家を見ることはできない。
「大丈夫だよ。私、たまにここ来るし」
理奈は両腕をあげて体を伸ばした。屈伸をしたり、肩を回したりと、ストレッチをする。
「何しに来るの? こんなとこ」
「赫子の練習。家でできることは限られるから、体が鈍っちゃう」
「そもそも、使う機会なんてないんでしょ?」
「いざって時のためだよ。いい気分転換にもなるし。それに、帰省した時にばっちゃんにしごかれるから」
理奈はわざとらしく身震いをして見せた。
「いや、本当だって。ばっちゃん怖いよ? ……なんなら、紹介しようか」
勢いよく顔を横に振ると、理奈は笑った。
「冗談、冗談。それに、ばっちゃん、村の人には優しいよ? 頼りにされてるみたいだし、稽古以外なら私にも優しいよ」
「でもなあ……」
葵は釈然としない顔で唸った。話を聞く限りでは、恐ろしく強く、勇猛な人のようなのである。
「まあ、そういう話は後でしよう。軽く動いてみるね」
たん、と地を蹴って飛び上がる。勢いよく上空へ放られた体は、太い木の枝の上に安定感を持って収まった。
「……凄い」
見上げる高さだ。身長の四倍は跳んだ。
「こんな感じでどう?」
「あ……うん。そうだ、いつもやってるっていう赫子の練習でも見せて」
「わかった」
慣れた様子で三本の赫子を出現させる。随分と大きいが、バランスを崩す様子もない。伸ばしきった後、木の上から跳躍した。そして、腕や赫子で枝を掴んだり、人間離れした脚力で幹を蹴ったりしながら、目で追うのも難しい速さで樹上を自在に移動する。木にとまっていた鳥が驚いたように鳴きながら飛び去ると、小枝の折れる音、木肌を蹴る音、枝のしなる音のみが残った。
理奈は仮想敵でも想定しているのだろう。赫子の一本を刃物のような形状に変化させた。先端のみ薄く鋭く、尖らせる。移動用の赫子を二本に減らし、速度を落とさぬまま、宙に向かって赫子を素早く振るっていく。まだらの木漏れ日を反射して、刃は鋭い光の筋を描いた。葵は何も言わず、目を見開いて必死に理奈の動きを追った。「
しばらく動いてから、理奈は葵から少し離れたところに着地した。
「こんな感じ、かな」
流石に、理奈の息は少し乱れていた。
「――凄かった。
いやあ、改めて、喰種って凄いな。襲われたらひとたまりもなさそうだね」
「……そう。だから、気を付けてよね。東京の大学に行きたいんでしょ?
というか、葵って結構肝が太いよね。普通、こんなのを見たらもっと怖がるもんじゃないの?」
赫眼を戻しながら、理奈は不思議そうに言う。
「いや、理奈だし。友達なら怖がることはないでしょ」
「そうじゃなくて、喰種全体についてさ、こう――あんまり関わりたくないな、とか思わない?」
「うーん。襲うような喰種には、別に関わるつもりもないし。怖がっても、向こうから襲ってくるなら関係がないからね。
それに、気を付けていればそうそう襲われることもないでしょ。県内はもちろんの事、東京だって夜の外出とかを控えたり大通りを利用したりしていれば、大事には至らないと思うけど」
「そんなものかな」
理奈は腑に落ちない顔だ。
「そんなもんだよ。だって、東京はちゃんと首都として機能してるし。――あとは、私が女子だからかも」
「うん?」
「ほら、クラスの男子って、筋肉あるし、喧嘩なんてしたら私じゃ絶対に敵わないよね?そんな相手が日常にいるから、喰種がいても、あんまり怖くないのかも。食料さえ作れれば、襲われることもなくなるし、今だってそもそもそんなに数が多いわけでもないし。そうだね、喰種殺人事件だって、凶悪な性犯罪みたいな感覚なのかも。怖いけど、そうそう自分の身には起こらなそうじゃない?——いや、私って一度襲われかけてたっけ」
葵は頬を掻いて苦笑いした。
「まあ、拳銃持っている人の中にマシンガン持っている人が紛れ込んでも、あんまり怖さじゃ変わらないもん、と考えてもらえれば」
「……ふうん」
理奈は鼻を鳴らした。
「あ――そういえば、CCGってどんな風に戦ってるの? こんなに赫子は強力で、鉄より硬いのに。街中で銃を乱射とか? 今の理奈の動きなら当てるのも難しそうだけど」
「……クインケ、だって。駆逐した喰種から、赫包を摘出・加工して、武器を作るらしいよ。
喰種は再生が速くてまともな武器は通用しないけど、赫子から出る分泌物は回復を遅らせるから、効くから」
理奈は表情を変えずに淡々と言った。葵は目線を下げた。風が、肌寒い。
「東京の親戚から聞いた。
理奈は吐き捨てるように言った。
「綺麗事を言う資格も、私達を責める資格もない」
理奈の家に戻ると、理奈の妹の千鶴が帰宅していた。千鶴と会うのは、文化祭の時以来である。
「こんにちは。理奈の友達の、高瀬葵です。……えっと」
葵は理奈の顔を見た。
「ああ、大丈夫。話してあるから」
「そうだよ、お姉ちゃんから聞きました。私は千鶴です。鬼名は、夜雀」
千鶴はにっこりと笑った。かわいらしい妹だ。
「これからも、宮野さんの家に行くだろうから、よろしくね」
千鶴が右手を差し出したので、葵は握り返した。温かい手だ。
「よろしくお願いします、葵さん」
礼儀正しくしていた千鶴が、いきなり葵の手をひいて、匂いを嗅いだ。葵は硬直した。
「……おいしそう」
千鶴は口元を歪め、舌なめずりをした。――赫眼が、輝く。
「――千鶴っ!」
理奈は千鶴を叱咤した。
「冗談だって」
千鶴はニカっと笑って葵の手を離した。理奈は赫眼で鋭く千鶴を睨んでいる。
「あれ……やりすぎた?」
千鶴は固まっている葵を見て、顔を強張らせた。理奈によく似た目が泳ぐ。
「えっと……ご、ごめんなさいっ!」
千鶴は頭を下げてから、喰種の脚力で廊下を駆けていった。葵は唖然としていた。
「いや、その……ごめん。冗談が過ぎる妹で」
千鶴の足音が消えてから、理奈は気まずそうに言った。
「本人が言った通り、本気じゃないから。……‘’知ってる‘’人間なんて初めてで、羽目を外しちゃったんだと思う。話した後、妙にテンションが高くて、何かやらかしそうとは思っていたんだけど――後でちゃんと注意しとくから」
不安そうに、理奈は葵の顔を伺った。
「……グールジョークは、反応に困るな」
葵は、ぼそりと呟いた。
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9 姉妹
三年生の選択授業では、葵も理奈も生物を選んだ。ただ、理奈は東京の大学への進学は親に反対されたため、地元の国立大学を目指すらしい。それでも、少しでも葵の研究に関わりたいからと、生物を選択してくれた。
「――私も、東京に行けたらよかったのに」
理奈はため息をついた。
「あんまり、親を心配させないようにね。……
葵は気まずそうに目を逸らしながら言った。理奈は数秒黙ってから、小さく返した。
「……そう、だね」
次に葵が理奈の家に訪れた時、外出していた妹の千鶴は、帰宅すると真っ先に謝ってきた。
「――ごめんなさいっ!」
深々と頭を下げている。そのまま動こうとしない。困惑して理奈の方を見ると、好きにしろとばかりに千鶴を顎でしゃくった。
「……顔を上げてください」
葵が声をかけると、恐る恐ると言った風に千鶴は顔を上げた。
「あの、この前はごめんなさい。いたずらが過ぎました。怖がらせてしまったようで……」
「もう気にしてないから、いいよ。ほら」
葵は右手を差し出した。千鶴は戸惑ったように見ている。
「仕切り直し。今度こそ、よろしく」
千鶴は顔を輝かせ、勢いよくその手を握り返した。
「――はいっ! よろしくお願いします」
その様子は、普通の少女のものにしか見えなかった。葵は微笑ましく思った。こんな子の、どこに怖がる必要があるのか。
「……何かお詫びをしたいんですけど、私にできる事、ありますか?
えっと、葵さんは赫子に興味があると聞きました。羽赫で良ければ、出せますけど」
おずおずと千鶴が提案してきた。理奈の差し金だろう。千鶴はこんな事でいいのかと、不安そうだ。もちろん、大歓迎である。
「いいの? ありがとう。羽赫は初めてだから、楽しみだな。今出してもらっても、大丈夫?」
「はい! …………あ。――あの、家の中では出しにくいかもしれません」
勢いよく答えた後、思い出したように千鶴が言った。
「結構大きいの?」
「ええと、羽赫見るの初めてなんですよね? 私の羽赫は勢いよく放出するので、その……部屋の中が……少しなら、大丈夫だと思いますけど」
下がっていください、と言われたので、素直に指示に従った。千鶴は襟を軽く引いて肩の方を開け、赫眼を発現させる。
ぶわり、と肩から、赤い煙のようなものが噴き出した。
「……おお」
理奈の赫子とは全く違うその様子に、葵は感嘆の声を上げて身を乗り出した。赫子は、赤を基調とした極彩色の炎のように、千鶴の肩もとで揺らめいていた。本来の大きさよりも小さく抑えているのだろう、手のひらよりも少し大きい程度である。
「……これ、本当に細胞なんだよね? ますますRc細胞がわからなくなってきた」
赫子の様子が安定したのを見計らって近寄る。
「私もよくわからないんですけど、それを言うなら、人間の爪とかだってあんまり細胞感がないと思います」
千鶴は首をかしげながら答えた。本人も分からないらしい。自分の体というのは、そういうものなのだろう。要は使えればいいのだ。
「ああ、爪ね。言われてみれば。でも、あれって角質化した細胞だから、死んでるんだっけ?
ともかく、私としては赫子の方がよほど凄いと思うよ。硬いのに自在に動かせるし。ねえ、触っても平気かな?」
人差し指を立てて見せると、千鶴は慌てたように後ずさった。動揺からか、赫子が揺らめく。
「や……やめてください。怪我しますよ」
「わかった。ごめん、触らないから、見せて」
千鶴は不審そうに葵を見てから、近寄った。
「触っちゃだめですよ。人間は怪我が治りにくいんですよね?」
「大丈夫だって。私だって怪我をしたいわけじゃないし」
しげしげと眺める葵の様子に、千鶴は気恥ずかしそうにしていた。
「そうだ、硬化させますね」
千鶴が眉根を寄せて集中すると、揺らめいていた赫子が、瞬時にまるでガラス細工のように固まった。
「あ……すごい」
理奈の、硬くかつ自在に動く赫子にも驚かされたが、今の赫子の変化は想像以上だった。赤や橙の混ざった、美しい色合いの結晶だ。
「これって硬くしたまま動かせるの? どうやって使うの?」
「私の場合は――というより、ほとんどの羽赫の喰種はこの硬質化した赫子の破片を発射して使っています。遠距離攻撃ができるの羽赫だけですから。」
「発射って……どんな構造してるの? それにしても、飛び道具ってのは凄いね」
葵は腕を組んで頷いた。確かに、リーチの差は大きいだろう。かつての戦争でも飛び道具が勝敗を決めていたはずだ。モンゴル帝国があれだけ栄えたのも、馬の機動力と弓矢による遠隔攻撃ゆえのもの――あれ、羽赫喰種って両方持っていないか。
「構造については、私もよくわかりません。羽赫は遠距離の攻撃と身軽さが特徴、とよく言われます。中には、近距離を好む人もいますが……」
「千鶴ちゃんの動きも見てみたいな。……今度、理奈との訓練の見学でもしてみたい」
「流れ弾が当たりそうなので、勘弁してください」
千鶴は勢いよく手を振って断った。残念だ。
「見たかったのにな……ねえ、理奈はどうやって発射赫子に対処してるの?」
「回避と防具」
理奈は口元に笑みを浮かべた。
「前に見せたでしょ? 鎧。あと、赫子を盾にしたり、叩き落とす技術も。千鶴の赫子に苦戦してたら、ばっちゃんに叩き込まれた」
「そうそう。それまでは姉ちゃんに勝てたのに。たまに体に当てられてもすぐ回復しちゃうし。赫包もう一つ持ってるんじゃないかってぐらいタフだし」
千鶴は悔しそうに言った。いつの間にか赫子をしまっている。
「やっぱり火力だよ、火力。私の鎧を貫けるようになるまではまだまだだね。じゃなければ、鱗赫を動かしにくい超接近戦に持ち込むかしないと」
理奈は偉そうに言った。千鶴が理奈を睨む。
「それが出来たら苦労しないよ。それに、私と同じ羽赫のお父さんはあまり教えてくれないし。というか、接近戦だって私の方が小さいから不利じゃん」
千鶴はそっぽをむいた。
「年の差が三つもあるのを忘れないでよ。私、まだ成長期だから。私の身長が伸びて、赫包がもっと発達してから、負け惜しみしたって聞かないからね」
それなりに強い赫子の遺伝+成長期に英才教育(祖母のしごき)+十分な食料の供給 で強くなりました。
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10 来訪
人混みの奥に覗く紙に凝らしていた目が、大きく見開かれた。
「――あった」
思わず口からこぼれた言葉は、周りの声でかき消され、自分の耳にも届かなかった。自失した状態から、徐々に喜びと驚きがないまぜになって湧き上がる。次いで、見間違えではないかという不安が。もう一度見る。――やはり、自分の番号だ。
「――――っ」
実感が熱を持って自分の身を包む。声に、ならない。私は、私は――――
震える手で携帯電話を取り出す。母に、朗報を送らなければ。
――上井大学、合格。
翌日の学校で顔を合わせた時、理奈は真っ先に駆け寄ってきた。
「理奈、メール見たよ! おめでとう!」
理奈は飛びついてハグをしてきた。興奮しているせいか、あまり加減されていない。――若干、痛い。
だが、その痛みさえも気にならないほどに、嬉しかった。
「また今度、うちに遊びに来てよ」
その言葉に、勢いよく頷いた。
思えばあれから、受験勉強に追われる日々だった。理奈と共に下校する習慣は続いたが、夏休み前の一度を最後に、理奈の家に行くことはなくなった。
「ありがとう。そうだ、合格祝いを持っていくよ」
理奈は二日前に合格発表があった。理奈も、第一志望合格だった。
「私も用意しておくね。楽しみにしてるよ」
「期待に応えられるといいな」
理奈の家には、今日は誰もいないようだった。二時間後に、母が帰ってくると理奈は言った。
「それじゃあ、交換会といきますか」
理奈はソファに葵を座らせ、自身も隣に座った。
「では、私から」
葵は膨らんだカバンから、青い包装紙で包まれた直方体の物体を取り出した。自分で包んだのだが、なかなかうまく包めたと思う。
「おお……」
理奈は若干芝居がかった仕草で、恭しく受け取った。
「私からは、これを」
理奈はテーブルの上に用意してあったそれを、葵に渡した。
「ありがとう。ねえ、開けてみてもいい?」
理奈が頷いたのを確認して、黄色い包装紙に手をかけた。慎重にテープを剥がしていく。
入っていたのは、ブックカバーだった。
「あ、かっこいい。高そう……いいの、こんなの貰って?」
「何言ってるの。そのために買ったんだよ」
皮だろうか。触り心地が良く、丈夫そうな良い生地で出来ている。本のサイズに合わせて、調節もできるらしい。あえてシンプルなデザインで機能性を重視したものにしたのは、葵の性格を思っての事だろう。本当に、自分の事をよくわかっている。
葵の反応に、理奈は満足そうだった。
「じゃあ、私も開けるね」
「どうぞ」
理奈が包みを開けるのを、緊張しながら見た。喜んでくれるか。
中身が見えた時、理奈は顔を輝かせた。
「うわ、ありがとう! そろそろ替えようと思ってたんだ」
理奈はペンケースを手に取った。大きくてたくさん入れられる上、中に仕切りもあり、使いやすそうなものだ。理奈は三年間同じペンケースを使っていたので買ってみたのだが、どうやら気に入ってくれたらしい。
葵がブックカバーを丁寧に包みなおして、カバンにしまうと、理奈も自室にペンケースを置きに行った。機嫌の良さそうな軽い足音だった。
「そうだ、コーヒーでも飲む? いい豆があるんだよ」
素早く帰ってくるなり、理奈はキッチンへ向かった。覗き込むと、殺風景なキッチンには不釣り合いな、立派なコーヒーメーカーが置いてある。喰種が食べるのは人肉だけだが、ほとんど料理することもないのか、或いは調理法が限られているのだろう。端にはコンロも見えるが、古いものには火を通したりするのだろうか。
「ブラックでいいんだよね?」
「うん」
四人家族の物とは思えない小さな冷蔵庫を開けて豆を取り出した。並んだタッパーが見えた。中身は見えなかったが、来客用の他に入れるものは、豆と後一つだけだろう。
「先週、お母さんが特売だからっていい豆を半額で買ってきてくれたんだ。やっぱり、味が違うよ」
「そんなに?」
舌にはあまり自信がないが、飲むのが楽しみだ。コーヒー好きの理奈が言うのだから、間違いはないだろう。だが、果たして喰種はコーヒーの味をどう感じているのだろう。舌の構造が違うらしいので、自分の飲んでいる味とはまた違ったものに感じるのだろうか。
ふと疑問に思ったので理奈に言ってみた。
「どうなんだろうね。人間から進化――いや、分化した存在だから、案外似たような味を感じているのかも。私も人間の舌を体験したことはないから、何とも言えないな」
やはり、他人の味の感じ方なんて、わかるはずがないか。そもそも、同じ人間でもどう感じているかわからないのだ。ここまで考えると
「――よし。出来たよ」
コーヒーの良い香りが漂ってきた。なみなみとコーヒーの注がれたマグカップを、ごとりと葵の前に置く。
「どうぞ」
目の前で理奈はおいしそうに飲んでいる。葵は自分のカップに目を落とした。色は変わらないが、匂いは違う気がする。
「――美味しい」
飲んでみると、豊かな香りが口中に広がった。渋みが少なく、飲みやすい。
「でしょ?」
「うん。これなら、また家でも飲みたいな。――あ。私、一人暮らしするから無理だ」
少し肩を落とす。家から遠いのでアパートを借りて通学する予定なのだが、一人暮らしは不便そうだ。
「ありゃ、それは残念」
「缶コーヒーかインスタントくらいしか飲めないな」
「なら、理系らしくビーカーでインスタントコーヒーを入れたら?」
理奈が冗談を言う。どっかの理系ドラマで教授がやっていたのは見たことがあるが。
「そんな事誰がするんだ。薬品の残留が危ないから、コーヒー用のビーカーを用意しなくちゃいけないじゃん」
「だよね」
理奈はからからと笑ってコーヒーを飲む。
「そうだ、上井大学って、二十区だっけ? あそこにいい喫茶店があるよ。私の
「それって、喰種関係の店?」
理奈の再従妹は当然喰種である。人間が入れるのか。
「そうそう。人間のお客さん、大歓迎だって。通っている人を襲わないことになっているらしいから、行ってみなよ。確か、店名は――」
インターホンが鳴った。
「あれ? ごめん、ちょっと待ってて」
理奈が立ち上がって玄関に出て行った。葵はコーヒーを飲んで待つ。
理奈がドアを開けたのだろう、軽やかなドアベルの音が聞こえてきた。
「――董香? 久しぶり。どうしたの?」
リビングのドアは開けられたままだ。玄関から理奈の声が良く聞こえる。
「
「わかった。――渡しとく。家、あがる? 私の友達もいるけど。
――葵、
理奈は葵のいるリビングに向かって声を張り上げた。葵も腰をあげ、玄関に向かう。外には、千鶴と同じくらいの歳に見える少女が立っていた。
「うん、いいよ」
「葵、前に言った
理奈がお互いを紹介した。
「よろしく、董香さん」
「……」
董香は答えなかった。理奈はため息をつく。
「ほら、入って」
「私は、別に……てか、この人…………」
文句ありげな様子で葵をちらりと見てから董香は帰ろうとしたが、理奈はその腕を掴んで強引に引き留めた。
「いいじゃん、折角なんだからさ」
「……わかった」
董香は渋々といった体で入った。
「――お邪魔します」
小さな声だった。軽く頭を下げると、髪がさらりと揺れる。血縁と言っても六親等ともなると、あまり理奈と似ている所はない。
「董香の分のコーヒーも淹れるね。待ってて」
董香と二人、リビングに残された。若干気まずい。どう話しかけるべきか。
「……私は、理奈と同じ高校の友達です。ええっと、人間なんだけど――」
「…………っ⁉」
葵を無視するように俯いて黙っていた董香はがっと顔をあげてまじまじと葵の顔を見つめた。
「あ、もしかして、人間って言うと差別的かな。だったら、ヒトって言った方が適切? それともホモ・サピエンス? ……喰種の学名ってなんだっけ。後で調べておかなきゃ――」
「理奈姉っ! ――こいつ、『知って』る!」
董香が瞳を赤々と燃え上がらせた。跳躍し、葵の上にのしかかって組み敷く。
「あんた、
すさまじい形相で睨みつけてくる。胸は膝で押さえつけられ、首は片手で締め上げられた。もう片手は、葵の手首を押さえつけている。痛く、苦しい。見る間に、董香は羽赫まで出現させた。花開くように広がる、羽にも似た鮮やかな炎。前に一度見せてもらった千鶴の物とよく似た、――だがあの時の羽赫よりもよほど大きな赫子。
「――やめて董香っ! 私の友達なの。知られているのも、知ってるから!」
理奈が慌ててリビングに戻って来た。赫眼で董香を睨みつけ、羽赫から葵を守るように鱗赫を伸ばす。董香は振り向いて理奈を見た。手首を握る手の力が強まる。——痛い。
「だったら、どうしてっ……! 早く、殺さないと!」
ようやく思い出した。――人間と喰種は、本来敵対関係にある。
「やめて、大丈夫だから。葵は信頼していい。……もう、半年前から知られているから」
「半年⁉ 嘘、でしょ。……なんで」
董香の赫子が少しだけしぼむ。
「私が、他の喰種から葵をかばって、ばれた。でも、ばれても友達でいてくれた。
ね、ほら、葵から離れて。葵は、敵じゃない」
「……理奈姉が、そう言うなら」
不承不承と言った風に葵から離れた。葵はゆっくりと身を起こす。打ち付けられた背中が痛い。さすりながら、董香に声をかけた。
「えっと……ごめんなさい、董香さん。驚かせてしまったようで……」
董香は得体の知れないものを見るような目で葵を見た。
「ごめん、私が悪かった。先にちゃんと紹介するべきだった。……東京は物騒だからね。そりゃ、警戒もするか……」
理奈は落ち込んだような顔をして頭を下げた。
「人間、なんて。どうして……」
董香は低い声で言った。不信の目で葵を睨む。
「どうして、ね……人間と関われた方が、楽しいと思うけど。案外、いいものだよ」
「……わからない。
帰る。私は、この人間を信用できない」
葵を指さし、淡々と言った。今すぐにでも帰りたそうに、体をドアへ向ける。
「だったら、私を信用して。……そうだね、学校の話でも聞いていってよ。折角コーヒーを用意しているんだから。それとも、私も信用できない?」
「……少しだけ、なら」
しばらく間をおいて、董香は答えた。
「じゃ、座って待ってて。今、コーヒー持ってくるから」
董香は葵の正面から少しずれて座った。
お互いに無言だった。董香の目は赫眼ではなくなっていたが、睨みつけてくる視線が痛い。
「——お待たせ」
理奈が湯気の立つカップを董香の前に置いた。董香は手に取った。
「……ヨシムラさんのコーヒーの方が美味しい」
ぼそりと董香は言った。
「さすがに、本職の人と比べられちゃ。うちのはコーヒーメーカーだし。でも、豆はいつものよりいいやつなんだよ?」
理奈は雰囲気を変えようと、努めて明るく言った。
「さて、何から話そうかな……董香は、学校に行ったことないんだよね?」
「……そうだけど。むしろ、なんで行くの」
言い方が刺々しい。
「結構楽しいよ、良くも悪くも平和ボケしてて……って、これは私もだけど。東京と比べると、夜鷹のみんな平和ボケかな」
「くだらない」
董香はまた一口コーヒーを飲んだ。葵は落ち着かなげに視線をうろつかせる。
「いいじゃん、平和なほうが。心に余裕を持てるのはいいと思うけど」
「ふーん」
興味のなさそうに相槌を打ちながら、董香は葵を冷たい目で見る。
「……理奈姉、なんでこんな奴信用するの。さっさと食べたほうが安全でしょ」
「友達だからね、食べられないよ。それに、董香も夜鷹の方針は知ってるでしょ。事件は極力起こさない」
「極力、でしょ。こいつは危険すぎる」
「――あのね、董香。私と葵は、人間と喰種の共存を目指してる。そのために、大学に行くの」
董香は唖然とした顔をした。
「共存? 本気? どうやって?」
「それはまあ……遺伝子組み換えでもして家畜にRc細胞持たせるとか、色々あるだろうけど。その方法を学ぶために、大学に」
董香は鼻を鳴らした。
「馬鹿にしないで欲しいなあ……こっちは本気なんだけど」
理奈は肩をすくめた。董香は強い口調で言った。
「人間が歩み寄ると思ってるの? CCGは気違い連中だ。私らが何しようが殺しにかかってくる」
「少なくとも葵は、私の仲間だよ」
「どうだか。――あんた、何で喰種の肩持ってんの」
急に話しかけられ、葵はびくりと身を震わせた。年下のはずなのに、迫力が凄い。
「それは……葵が、命の恩人だから。食料問題さえ解決できれば、共存は容易だと思うし……」
「あんた、馬鹿? 普通の人間が、いつ襲い掛かってもおかしくない化け物を受け入れると思う?」
「――そこは、人間の道徳を信じるしかない。だけど、少なくとも夜鷹の人達なら受け入れられやすいと思ってる。この県では、喰種が人間を襲った記録がほぼ皆無だから。
それでもだめなら、それこそ政治家になってでも人の意識と法律を変える」
試すような董香の目を、真正面から受け止める。董香は数秒黙って見てから、何も言わずにコーヒーをもう一口飲んだ。ごとり、と空になったカップをテーブルに置く。
「ごちそうさま」
言って董香は立ち上がった。理奈は、今度は引き留めなかった。
ドアベルが董香の退室を告げてから、やっと理奈は口を開いた。
「……ごめん、葵。危ない目に合わせた」
「理奈のせいじゃないよ」
葵は言いながら、手首をさすった。握られたところが、まだ少し痛い。
――二度目だ。
赫子を向けられたのは、これで二度目。やはり、あれを使われたら、抵抗のしようがない。葵は重い溜息をついた。
「さっきの、董香ちゃん……学校、行ってないの?」
「そう。――というより、東京の方じゃ、そっちのほうが多いらしいよ」
「確かに、喰種が学校に溶け込むのは大変そうだもんね……まず、食事の練習からしなくちゃいけないし」
理奈は凄いな、と言うと、やっと理奈は表情を和らげた。
「練習してたからね。私は恵まれていただけ。小学校あたりでは、母さんの実家だったから、赫眼出しちゃっても黙認されてたし」
「あぁ、共存してたんだっけ」
理奈は頷き、懐かしむように目を細めた。
「もうすぐ、葵と高校に行くのも出来なくなるね」
「そうだね。……なんか、寂しいな」
ため息をついて窓の外を見る。初めて来たときとは、違う色をしている。思い返せば、あっという間だった。
「大学行っても、家に来てね。いつでも大歓迎」
「それじゃあ、もしも東京に来れたら、私のアパートにも来てよ」
行きたいな、と理奈はこぼした。少しだけもどかしそうだった。
「そうだ。董香ちゃん、強いの? 東京で生き延びてるんでしょ」
理奈の話を聞いていると、CCGと喰種が絶えず争う東京は世紀末世界のように思えてくる。或いは、魑魅魍魎が跋扈する魔界か。……日本の首都のはずなのだが。
「どうだろう……昔は、遊んでたけど。千鶴より一つ年が下だったかな。実力は多分、千鶴と同じか、それより下か……でも、実戦の経験はあの子の方があるだろうからね」
「理奈の方が強い?」
「それは……さすがに。私の方が歳は上だし、稽古の量から、順当に考えれば。
あのね、赫包の発達に必要なのは、赫子の使用と十分な栄養なんだよ。筋肉と同じ。私と千鶴は両方が揃っているから、大分発達してる方だと思う」
理奈の腰を見る。立派な鱗赫が三本も出せる赫包だ。
「じゃあ、東京でも生きていけるんじゃないかな」
「それはなあ……それだけじゃ、流石に無理だよ。見つかったら終わりだと思うし。第一、夜鷹ほどの安定した食料供給を行っているところはないよ」
聞くところによると、夜鷹は県をまたがって葬儀関係を牛耳っているらしい。近隣にもう二つある、似たような穏健派喰種団体も合わせれば、静岡、山梨と埼玉はほぼ全域、群馬と長野のおよそ南半分。これだけの地域の喰種が統制のとれた動きをしている。だからこそ安定した食料の供給が行えるのだそうだ。
「そうか……そうだよね。やっぱそこなんだよな」
あー、と濁った声をあげながら、葵はソファに寄り掛かった。解決にはどれほどの時間がかかるだろうか。
「そうだ、理奈。もうすぐ卒業だけどさ、なんか思い出話聞かせてよ。食事以外で、学校で大変だったこととか」
寄り掛かったまま、首を理奈の方へ向けた。
「大変だったこと……やっぱり、体育かな」
「あー、確かに大変そうだった。力加減、面倒だったでしょ」
「あ、わかってた? もしかして、他の人にもばれてないかな」
「それはない。私は、知ってたから気付いただけ」
サッカーやバスケで走る時は、いつも周りを見ながらスピードの調節をしていた。テニスなどでは、勢い余って強く打ちすぎることもあった。
「何が一番大変だった?」
理奈は腕を組んで考え込んだ。
「……長距離走、かな」
「体力的には楽でしょ。速さに関しちゃ、前の人についていけばいいし。むしろ、こっちがきつかったよ」
さして体力のない自分に向かって、ひどい事を言うものだ。理奈の体力なら、歩いているのと変わらないだろうに。
「そこが、だよ。いかに違和感なく疲れている演技をするか。呼吸とかの演技、大変だったんだから」
「うん、まあ……分からなくもないけど」
「しかも、心拍数まで計測させられたし。隣の人の記録を見ながら、偽装の記録を書かなきゃならなかった」
「そりゃ、確かに大変だろうけどさ……」
自分とは違う苦労があったらしいが、少しうらやましくもある。
「あとは、新体力テストとか。――そうだよ、握力。あれ、指定された姿勢だと計測中に記録見えないから加減が難しかった」
「あー、それは大変だね。どうしたの?」
「一回、50㎏出しちゃって、慌てて記録をリセットしたよ」
葵は笑った。こんな普通の女子の腕から50㎏の記録が出たら、普通は機械の故障を疑う。
「笑わないでよ。――あ、そうだ。武道必修化が一番気を使ったかも。怪我させそうで、一番怖かった」
「……怪我人、でなくてよかったね」
「本当に」
心底ほっとしたように理奈は言った。
*
董香は、東京へ向かう電車に揺られていた。眼前のドアの窓の中を、明かりのついた家々が流れていく。
――なに、あいつ……人間のくせに。
知らず知らず、目つきが鋭くなる。ガラスに映った自分の酷い顔を見て、少しだけうろたえた。
――人間の友達、なんて。
信頼していた理奈だからこそ、信じられなかった。ばれていても、そのままにしているなんて、考えられない。
「『いいもの』だなんて……そんな事」
あるはずが、ないのに。
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11 小刀
――忘れていたな。
葵は電灯を消して暗い天井を見上げながら、布団に体を預けていた。
喰種と人間の、距離関係。
今まで、理奈とその母、妹の千鶴ぐらいとしか接してこなかったから、忘れていた。
――あちらが友好的なはずは、ないじゃないか。
普通の――東京の喰種からすれば、こちらは食料でしかないのだ。その上、あの子――董香からすれば、人間は自分の両親を駆逐した
「理奈、寄るって……どこに?」
下校中、理奈が寄りたいところがあると言い出した。急な話だ。
「……渡したいものがあるんだ」
理奈はそれ以上何も言わず、ただ道の案内をする。
十分程度、歩かされただろうか。あまり、馴染みのない通りだ。
「……火葬場?」
目の前の看板に、臆した。出来れば、あまり関わりになりたくないところだ。
――まてよ。
ここらの喰種は、葬儀関係を牛耳っているはずでは――。
「さ、入って」
腕を掴まれ、半ば引きずられるような形で中に入った。
幸か不幸か、今は客がいないようだった。理奈はずかずかと奥へ入っていく。
「――山田さん、千晶さんはいますか」
掃除をしていた中年の男性に、理奈は声をかけた。
この人も、喰種だろうか。
「はい——ああ、理奈ちゃんじゃないか。千晶ちゃんなら、あっちの部屋にいるはずだよ」
「ありがとうございます」
「ところで、その子――」
山田は何か言いたげに葵を見たが、理奈の顔を見てすぐに口を閉ざした。
――やはり、喰種か。
「今回の依頼の理由は、その人かい」
「……はい」
理奈は山田に軽く頭を下げた。それから、山田に言われた部屋へと大股で歩いていく。
中には、二十代くらいに見える、若い女性がいた。
「こんにちは、千晶さん。品物が出来たと聞きました」
「ああ、早いね、理奈ちゃん。――その子が、例の?」
「はい。――この人が千晶さん。技術師の『土蜘蛛』」
鬼名か。しかし、技術師とは何のことか。
「わかった。今、持ってくる」
千晶は理奈と葵を残して、部屋を出て行った。頭の整理が追い付かない。
「渡したいものって、千晶さんに作ってもらったもの?」
「そう」
「あの人、何者?」
わざわざ喰種に作ってもらう物とは、何なのだろう。
「もとは、東京の――確か、13区にいた人だって。
クインケって、前に教えたでしょ。あれの材料と似たものを作る技術があるの。喰種間では、結構重宝されてる」
「……普段は、何を作ってもらっているの」
物騒なものだろうか。葵の少し硬い声に理奈は軽く笑った。
「危ないものはほとんどないよ。例えば、爪切りとか。市販のだと、刃が弱すぎてすぐダメになるから」
「理奈達って、爪まで硬いの? 今度確認してみたいな。
……でも、今回私に渡したいのは、爪切りじゃないよね」
「もちろん、そうだけど」
千晶が戻って来た足音が聞こえた。
「お待たせ」
片手に持っていたのは、ナイフだった。
「ほら」
軽い調子で理奈に渡す。理奈は丁寧に受け取り、刃を露にした。硬質な反射光が刀身を滑る。だが、金属とは違う材質であることも瞭然としていた。――赫子だ。
「これは……」
葵の呟きに千晶が答える。
「『鬼熊』の甲赫を擬クインケ鋼に加工して作ったナイフ」
「擬……クインケ鋼?」
クインケとは、CCGの捜査官の扱う武器であったはずだが。
「そう。本物のクインケは赫包が『生きて』いる。それに電子信号を流して変形などを行うけど、これはあくまで赫子を硬質化させたまま固定したもの。構成するRc細胞は死んでいるよ」
自らの作成した刃物を見つめながら、千晶はよどみなく説明をする。
「細胞は死んでいるから、喰種の治癒能力を妨げる効果は薄いけど、傷をつけるだけの硬度はあるし、Rcゲートでは反応しない。また、その上に消臭処理もしているので、相当鼻のいい喰種でも、よくよく近づかなければ気付けないはずだ」
自慢するでも謙遜するでもなく、ただ淡々と言う。
「……まさか、人間に渡すことになるとはね」
その低い声音に葵ははっとして、千晶を見上げた。暗い茶の瞳を覗き込む。千晶の表情は読めなかった。
「……お代、出すので少し待っててください」
理奈は床に下したリュックから封筒を取り出した。一度中身を見て枚数を確認してから千晶に渡す。
「足りているはずです」
千晶は無言で受け取り、中身を確認する。そして思案するように顎に手を当て、動きを止めた。理奈は不安そうに千晶の様子をうかがう。
千晶は封筒から三枚だけ取り出して、封筒を理奈につき返した。
「――材料費だけもらっておく。これだけで十分」
理奈は軽く目を見開いた。
「そういう……わけには」
千晶は理奈の手を取って封筒を押し付けた。
「……夜鷹の基本方針は相互扶助。その人――葵さん、と言ったっけ、貴方は私達のために動いてくれるのでしょう。なら、私達はそれを支援するのが当然だ」
葵は千晶にかけられた言葉に固まった。自分には、その期待に応えられるだけの能力があるのか。
「勿論――私は、
千晶の強い言葉に怖気づき、うろたえ、口から出た言葉は言い訳だった。
「構わない。これは、投資。……頑張ってね」
最後の言葉は柔らかかった。
「こんなに高価なもの……」
客がいないのでホールの椅子に座っていた。理奈はもう一度刃を検分している。
「いいの。千晶さん、割り引いてくれたし。これも合格祝いって事にしといて」
「そんな」
刃を収めて理奈は葵にナイフを突き出した。葵をまっすぐに見つめ、真剣な表情をしている。
「東京には、好戦的な喰種が多い。葵には自衛手段を持っていて欲しいの。……董香のおかげで、気付けたから」
「……」
葵は黙って差し出されたナイフを見つめる。
こんな大層な物をもらっていいのか。それなりの値段をしていた。それに、自分にはこれがあったところで、喰種の身体能力に抗える気がしない。今まで、散々理奈に実演してもらったのだ。絶望するほどの格差をナイフ一本で埋められるはずがないことくらい、わかっている。
「それに、これを持っていて欲しいのは、武器としてだけじゃない。Rc細胞を扱うとき、通常の刃物では役に立たないことがあるかもしれない。喰種の肌が、そうでしょ。これなら、赫子だって多少は傷つけられる」
言われて、気付いた。なるほど、確かにこれは貴重なもので――そして、自分にとって有用なものになりうる。それに、自分を心から心配してくれる理奈の気持ちも、千晶の期待も――。
「……半額」
鞘を握る。
「理奈の気持ちは嬉しい。千晶さんの投資にも応えたい。だから、半額出させて」
そう言って受け取った。理奈が触れていたためか、ほのかに温かい。
「ありがとう。私、頑張るよ」
「――やあ、嬢ちゃん」
不意に後ろから声をかけられ、驚いて葵は振り向いた。理奈がぽつりと言う。
「……山田さん」
「すまないね、聞こえちゃったよ」
穏やかな声だった。
「それは、私の赫子なんだ。うまく使っておくれ」
「貴方の……」
葵はナイフを握りしめた。
「はい」
「……いい顔をしている」
山田は顔をほころばせた。
「何かあったら、ここにおいで」
「……ありがとうございます」
どうして、この人たちは人間である自分にこんなにも親切にしてくれるのだろうか。ありがたく思うと同時に、申し訳なくもなってくる。
「上井大学、だよね。20区だったっけ?」
「はい」
「良かったね。そこなら、比較的温厚なところだと聞いているよ。それでも、夜道には気を付けてね」
「はい」
親のような口ぶりだった。
「――ねえ、20区って言った?」
不意に千晶が奥から顔をだした。
「そうだよ。何か、心当たりがあるのかい?」
千晶は頷いた。
「ああ……私の師匠のような人がいるはずなんだ」
「君の出身は13区だろう?」
「その人も、13区を出たと聞いた」
千晶は葵を見る。
「もし会えたら、私の事を言っておいて欲しい。勝手に出て行ってすまなかった、と。フエグチアサキ、という喰種だ」
喰種世界は物騒なので、銃刀法も緩いという設定です。
『山田さん』は、理奈が一話で流れ者喰種に紹介した『窓口』の人です。
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12 教授
目当ての藤村哲也教授の授業があったのは、入学から四日目の事だった。必修のため、広い教室だった。授業を終えて退出する教授を、慌てて追いかける。
「――藤村教授っ」
駆け寄りながら声をかけると、教授は振り返った。
「どうしたのかい? 質問でも?」
葵は藤村教授を見つめる。――この人なら。
「はい。私は、一昨年のRc細胞についての講演会を聴きました。それについて、いくつか聞きたいことがあるので、空いている時間を教えてくださいませんか」
「一昨年……あの時のか」
藤村教授は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに思い出したように頷いた。
「そうだね。今日は九時までは研究室にいるから、午後の授業が終わったら、おいで」
教授は柔和な笑みを浮かべた。――これで、やっと一歩。
深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
――A238……ここか。
部屋番号をもう一度確認する。緊張で、心臓が痛い。それを押し殺すようにしてドアを叩く。
「……どうぞ」
ドアの向こうからくぐもった声が聞こえた。
「失礼します」
ドアを開けると、かすかに獣臭がした。マウスを入れたケージが並んでいた。
「……君か」
手を止めて振り返った藤村教授は表情を和らげた。
「そこに椅子があるだろう? 座りなさい」
「……失礼します」
教授の隣の椅子に腰をかけた。
「Rc細胞に関する質問があると言っていたね」
「はい。……あの」
強張った手を握りしめる。
「……藤村教授は、喰種をどう思われますか」
教授は怪訝そうな顔をした。
「喰種……それは、生物学的にどのような生物か、という事かい」
「それも聞きたいですけど、教授は、喰種に対してどのような感情を持っていらっしゃいますか」
「つまり、嫌悪感や恐怖感を持っているか、か」
「……はい」
葵は教授の目をまっすぐに見つめる。黒い瞳の奥には、自分とは比べられないほどの知性が見える気がした。
「うむ……まずは、恐怖がある。人肉を食べるのだからね。それに、殺されないまでも、身内の遺体を食われたら嫌悪感を持つだろう」
教授は言葉を切った。迷うように、口を閉じる。
「……だが、それだけではない。そう……私には、憧れがある」
――憧れ。
葵は眉をひそめた。喰種にそのような感情を持っている人を見たことがなかった。
「勿論、喰種の生態を肯定しているわけではない。
……私は、東京で生まれ育った。そして偶然、家の近くで喰種の駆逐作戦があった。それを家の窓から見ることが出来た。――凄まじかった。喰種という天敵の存在を実感し、その力を見た。そして、ヒトとほぼ変わらない体躯で恐ろしいまでの力を持っていることに衝撃を受けた。そして、喰種について調べた。ヒトの身であの膂力の少しでも再現できないかとも考えた……」
葵の覚悟を察したのだろうか、教授の言葉は真摯なものだった。
「あとは……そうだな。私は、喰種に関し研究する中で、彼らは極端なRc細胞――そしてそれを統制する赫包とRc細胞管以外では、ヒトとほとんど変わらない事を知った。脳は人間と変わりない。CCGの駆逐は生存競争だが、多少は哀れに思うこともある」
藤村教授は葵を見つめた。
「以上だ。質問の意図を、話してくれないか」
どこまでなら話せるか。――理奈のことさえ、話さなければ大丈夫だろうか。嘘は、真摯に話してくれた教授への裏切りだ。それはしたくない。
「私は……喰種との共存を目指しています」
藤村教授は一度瞬きをしただけだった。促すような沈黙。
「喰種にはRc細胞の摂取が必要だと知りました。Rc細胞の安定供給さえできるようになれば、人間を襲う必要はなくなります。殺人事件は皆無にはならなくても、大きく減ると思います。そうなれば、共存は可能だと思いました。だから、Rc細胞に詳しい藤村教授に学びたくて、上井大学に来ました」
「……光栄だな」
入学理由に、教授は虚を突かれたように瞬き、顔をほころばせた。
「共存か……人間の抵抗は大きいだろうし、私は喰種の考えを知らないから、何とも言えんが、君が必要とするなら、協力しよう」
軽い言葉ではなかった。思案しながらも、実直な返事だった。
「――ありがとうございます」
深々と頭を下げた。藤村教授に会えて、良かった。
「細胞の培養はコストが嵩みますよね……。
動物の体内で細胞を増殖させるには、どうすれば良いと思われますか」
「君はどのような策を考えているんだい」
試されているような気がして、今まで調べたことを必死に思い出す。
「……ヒト化動物と言うものを聞いたことがあります。最近では、免疫不全マウスにヒト 細胞を移植したものだけでなく、ヒトの遺伝子を入れたものまでいると聞きました。これを利用することは可能でしょうか」
「私も有効な策だと思う。家畜にヒト遺伝子を埋め込み、ヒトと同じ割合でRc細胞を含ませる事は、恐らく可能だ。長期的な目標としてはこれを目指すと良い。だが、時間がかかりすぎる。それに、知識も技術も必要だ。学ぶことなら大学で出来るだろう。進路として考えていい。だが君は、『今』、何かをしたいのではないかい。何か、成果の出せる事を」
「はい……おっしゃる通りです」
理奈の事は話していないが、急いていることは察したらしい。一年の初めに教授に相談したのだから、何かあると思われるのは当然かもしれないが、どこまで見透かされているのか、と少しだけ悪寒がした。しかし、教授に裏切られることを考えていては話は進まない。
「今、私はRc細胞と食事に関する研究を行っている。免疫不全マウスやヒト化マウスにRc細胞を移植し、食事と増殖効率の相関関係を調べているんだ。もし、君が私の研究に興味があるなら、時間がある時にこの研究室に来るといい。私の知っていることを教えてあげよう。もしも将来的にRc細胞含有豚の開発に成功したときに、役立つはずだ」
「教授はCCGとの関わりはあるのですか」
Rc細胞について研究しており、喰種に詳しいのだから、CCGから声がかかっていそうなものだが。
「教え子――私の研究室に来た学生の中にはCCGに就職した人も多いよ。前には、CCGに所属している地行君と共同研究をしたことがある。今でもたまに一緒に飲みに行くな」
教授は懐かしそうに眼を和ませた。
「ああ、そうだ。君、人体におけるRc細胞値に関する実験にも参加する気はないか」
葵は瞬きをした。
「この大学の内科医の上城君と、食事とRc細胞値に関するデータを取っているんだ。良ければ、参加してみないか」
自分のRc細胞量を知っておくのもいいかもしれない。増やせるのなら、さらに参加する価値があるだろう。
「はい。やってみたいです」
「じゃあ、後で連絡をしておくよ」
教授は棚のファイルをごそごそと探り、ホチキスで留められた紙束を差し出した。
「これは、要項。来週までに読んでおきなさい」
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13 移植
大学での授業と藤村教授の研究室での実験、自習に実験や生活に必要な諸々の費用のためのバイト。大学生活は思っていたよりも忙しく、目眩がするようだった。桜並木は濃い緑色にとって代わり、あっという間に三か月が過ぎていた。
「……Rc細胞腫の成長が遅いですね」
葵はケージの中で蹲るマウスを見ながら言った。
「先日、Rc細胞過剰分泌症についても調べてみたのですが、何らかのホルモンが関与しているのではないかとの推測があるだけのようで、あまり参考になるような情報はありませんでした」
「……そう急くんじゃないよ。簡単に成果は出ない。やることが全て成功するなら、人類は今頃タイムマシンまで作っているよ。科学の発展は遅々としたものだ」
どっしりとした藤村教授の背と言葉は、頼もしく感じた。
「……そうですよね。そう簡単にいくはずもないか……」
ため息をついて天井を仰ぐ。凝った肩をほぐし、リュックの中に手を入れる。ペンケースは奥の方に入り込んでしまっているようで、なかなか見つからない。まさぐっているうちに、硬く重いものに手が触れた。
――ナイフ。
千晶の作った、擬クインケ鋼。喰種のRc細胞で強化された皮膚も裂けるナイフだ。
その柄を掴んで固まる。喰種の、細胞……。
「教授」
思っていたよりも、硬い声が出てしまった。
「何か、あった?」
怪訝そうな様子で、パソコンに打つ手を止め、振り向く。
「もしも、喰種由来のRc細胞組織を使えたら、進展はあると思いますか」
教授は顎に手を当てて唸った。
「……可能性としては、なくはないな」
椅子に座っていた教授は、葵を見上げた。
「恐らく、人間のものよりはアミノ酸の生成効率はいいだろう」
「CCGに頼んで、取り寄せることはできますか」
「それは難しいだろうな。あそこは秘密主義だから」
家に帰り、理奈にメールを打った。東京に来て、赫子の提供をしてもらうことはできるか、と。理奈は前に、赫子を使った治療術も使えると言っていた。もしかしたら、使えるかもしれない。検閲を恐れ、喰種や赫子と言った単語には、事前に決めておいた隠語を使った。
返事は二時間後に来た。
『東京行きは、親の許可を得るのは難しそうだけど、相談してみるね』
「――あの、一つ頼みがあるんですけど」
「何だい」
「この前、結果の良かったヒト化マウス三種類、購入していただけませんか。お金ならあります。自宅でやってみたいことがあるんです」
教授は唸り、黙りこくった。
「……君、喰種の知り合いでもいるのかい」
ぼそりと言われた言葉に、心臓を掴まれた。
「いいえ。何故、そう思うんですか」
教授はCCGに知り合いがいる。もし、ここで疑われたら、厄介なことになるかもしれない。
「君の動機はともかく、そこまで急いている理由に、それくらいしか心当たりがない」
「……」
「君は勘違いをしているのかもしれいないが、別に通報するつもりはない。君が肩入れしているのだから、その喰種は人殺しはしないように工夫をしているのだろう。ならば、ここは二人ともCCGに突き出すよりも見ぬ振りをした方が人類にとってはいいはずだ」
教授は淡々と言った。
「その上で、もう一度聞く。君に、喰種の知り合いがいるのか? ——もしいるなら、私も協力は惜しまない。
ただし、それを使ったマウスは、研究室には置けない。これは私だけの責任ではなくなる。大学に迷惑がかかるようなことは、出来ない」
実直だが厳しい言葉。そうだ、この教授はそういう人だった。この数か月で、信頼できる人だということは分かっている。喰種との共存に理解も示してくれた。
「――います。
マウスの手配と、……出来れば移植に関する施術も、お願いできますか」
教授は黙りこくった。考えあぐねるように、あごをさする。葵は固唾をのんで返事を待った。
「いいだろう。施術したらすぐに、君の家に持ち帰りなさい」
「ありがとうございます!」
葵は、深々と頭を下げた。
すぐに理奈に事情を説明するメールを送ると、二日後の夜、朗報が届いた。
『ばっちゃんに口添えを頼んだら、東京行きの許可がもらえた。私に東京に行けるだけの実力と、人間に溶け込む経験があると保証してくれたよ。さすがに、大学に行く話は黙ったけど。二時間ごとの連絡が条件で、一時間たっても返信が来なかったら、私の家族は緊急避難で他の夜鷹の組員に一時的に匿ってもらうことになっているので、責任は重いよ。お互いに時間には気をつけようね』
携帯を持つ手が震えた。返信を書くとき、にやけが止まらなかった。
そして、土曜日には、久しぶりに理奈の家へ行った。大学でしてもらうことの打ち合わせである。母親の外出中に、話し合いをした。
「私の治療は、欠損部位を赫子のRc細胞で埋めるだけのものだよ。Rc細胞には、再生を促す効果があるらしいし、流し込まれたRc細胞を材料に組織を作ることもできるから、うまく継ぎ合わせられれば、そのあとは勝手に再生してくれる。だけど、自分以外の生物に使ったことはないから、どうなるかは何とも言えない」
理奈は赫子を出してうねらせながら、説明した。
「何なら、実演しようか?」
赫子を刀のように変じさせ、自分の腕に突きつけた。葵は冗談かと思い、理奈の顔を見ると、真剣な表情をしていた。――その真剣さと、自分の体に対する意識の薄さに、ぞっとした。
「やめて、そんな事はしなくていいから」
慌てて否定すると、理奈はするりと赫子をもとの形に戻した。
「そう。ならいいけど」
さらに一週間が過ぎた。土曜だ。八時に駅で待ち合わせのはずだったが、理奈は十分前だというのに、もうついていた。
「早めに乗っておいてよかったよ」
理奈は首を回しながらそう言った。帽子を深くかぶり、伊達眼鏡をしているのは、人相を少しでも変えるためか。マスクまでしており、顔はほとんど見えないため、葵も声をかけられるまで理奈だと気付かなかった。
「どんどん車内が混んでいくんだから」
疲れたように息を吐いた。
理奈の通うキャンパスは駅から近く、さほど歩くことなくついた。研究室に近づくにつれて、理奈の口数は減っていった。
「……大丈夫、なんだよね」
「大丈夫だと思うけど……何かあったら、すぐ帰っていいから」
理奈はどこか不安そうな顔をしていた。
「研究室には私と教授だけで、ちゃんと鍵もかける。カーテンだって閉められるし、ばれることはまずないよ。……人間一人にそこまで警戒しなくても、大丈夫でしょ」
「そうかも、しれないけど」
そうこう話しているうちに、研究室の前にきてしまっていた。いつものようにドアを叩くと、中から聞きなれた声が返事を返した。ドアを開ける直前に、理奈はバッグから取り出した目出し帽をかぶった。
「ほら、入って」
葵は理奈の腕をひいて入室した。中からすぐに鍵をかける。これで、邪魔が入ることはない。
「この人です」
理奈は藤村教授に無言で軽く会釈をした。教授は理奈の目出し帽に少しだけ面食らったような素振りをしたが、すぐに会釈を返した。
「初めまして、協力者さん。貴方を裏切るような事はしません。期待にこたえられるように、努力する。マウスはもう用意してあるので、もう少し寄ってくれないかな。説明をしたい」
藤村教授はさして緊張した様子もなく、理奈に話しかけていた。随分と肝の座った人だ。事前に、理奈について生物学を学んでいる事は伝えておいたので、説明はスムーズに行われた。理奈はあまり話さなかった。
今までの実験から得られた結果も使いつつの試みだった。教授がCCGで使っていた薬品も、出来る限り調合して再現していた。用意しておいたヒト化マウスは三種類で四匹ずつ、計十二匹だ。背中の皮をはぎ、肉も少し削ったのちに、理奈の赫子による治療を行った。理奈には、なるだけ赫包内での状態に近い凝縮された状態になるよう、また、一部のマウスには少し多めにRc細胞を移植するように頼んだ。
むき出しの肉を赫子が繊細に包み込み、皮膚を形成し、赫子本体から分離させていく様子を、藤村教授と葵は息を殺して見守った。赫子が接がれてすぐに、出血が収まり、止血がなされているのがわかった。教授は興味深げな様子で、熱心に観察をしていた。
「……手際がいいな」
三匹目の施術が終わったとき、教授はぽつりとつぶやいた。
「もしもこれが成功したら、再生医療にも応用できるだろう」
「……喰種が、人間の役に立つことがあるのでしょうか」
今までほとんど口を開かなかった理奈が反応したことに、葵は驚いた。覆面のせいで、表情を読み取ることはできないが、視線と声音は思いのほか雄弁だった。
「使おうと思えば、何だって利用する。それが人間だろう。私達科学者は、その使い道を探す人間だよ」
教授の声はいつも通り、実直で柔らかい。
「そう……ですか」
理奈はそれ以上何も言わなかったが、目元が和んでいるように見えた。
そして、九匹目が終わった後に、理奈はおずおずと自分から声をかけた。
「あの……赫包も、使いますか」
それには、葵も驚いて理奈をまじまじと見た。
「それ、体の負担が大きいんじゃ」
「ちゃんと栄養をとれば再生するから、大丈夫。『鬼熊』さん達にも、話を通してきたから、融通もしてもらえる」
理奈は教授をまっすぐに見た。
「どうしますか。メスの代わりに、葵に渡したナイフを使えば、私の皮膚を切れます。提供できる量は少ないですが、とりあえず赫包半分くらいなら支障はありませんので」
「なぜ、その提案を?」
「藤村さんなら、信頼できると判断しました。私の事を協力者、提供者、実験対象とは見ても、駆逐対象として見ているようには見えませんでした。それに、これは私達のための実験ですから」
入室直後からは考えられないほど饒舌に、理奈は言った。
「……そうですか。ありがたい」
教授はほほ笑んだ。
「では、ありがたく摘出させて頂きます。Rc細胞管が伸びる可能性もありますし、興味深いですね」
軽く話し合い、最後の三匹に、一㎤程度ずつを移植することにした。それぞれ、肩、腰、腕と、場所を変えて移植した。
理奈から赫包の一部を切り取った瞬間から、肉が盛り上がり、瞬く間に傷をふさいでいくのを、葵は奇妙な気分で見ていた。
――前に見たのは、かばってくれた時だ。
全てが終わるころには、とうに昼時を過ぎていた。終わってからようやく、自分の空腹を感じた。
「ありがとうございました」
退出時には、葵と理奈は揃って頭を下げた。
マウスのケージを抱えて歩くさまは、人目を引いているような気がした。ハムスター用のキャリーケースでも用意するべきだったかもしれない。数が多いため、理奈にも持ってもらった。
借りているアパートは、徒歩圏内だ。ペット持ち込み可だったのは、幸運だった。鍵を開け、中に理奈をあげると、理奈は興味深げに中を見渡した。
「ここに、一人で住んでいるんだ」
「そうだよ」
葵はアパートに用意していたケージにマウスを分け、一つのケージに一匹になるようにした。部屋の中はケージに占領されていた。
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14 経過
赫子を移植した三種類のマウスのうち、残念なことに一種類は拒絶反応を示し、一週間以内に全て死亡した。調合してもらったRc抑制剤を打ったが、間に合わなかったようだ。死体を研究室に持っていくと、やはり体内でRc細胞が増殖しすぎていると藤村教授は言った。施術後のマウスの写真と記録は、毎週USBメモリで藤村教授に提出していたが、いくら拒絶反応を起こしにくいRc細胞とは言え、他のマウスには何も異常がなかったことに驚いていた。
気が早いかもしれないが、喰種の社会進出への足掛かりが見えたとたん、法律改正の事が気にかかりだした。
『喰種 人権団体』
葵は自宅でPCを使って検索をかけてみるが、その存在には端から期待していなかった。喰種に人権を与えようという奇特な人間は、そうはいないだろう。
「『鴉の会』……?」
一番上に出てきたのは、奇妙な名の団体だった。クリックしてよく読んでみると、喰種に関する知識を広める活動をしたり、喰種の権利についての談合をしたりしている団体らしい。晴南学院大学の生命倫理の教授や弁護士などの識者も参加しているようなので、興味がひかれた。月に500円の会費で、年に四回、会報も配られるようだ。
会の中では、喰種擁護派の人間も少なくないらしい。勿論、否定派も多いのだが、共生に関する話し合いも幾度も行われているようだった。
――驚いたな。
今までは生物学的な点からしか喰種との共生について考えていなかったので、見落としていた。こんな団体があったとは。
さして迷わずに会員登録をした。後々、頼ることになるかもしれない。
内科医の上城教授の部屋を訪れる。隔週で火曜日の六時、Rc値検査の日だ。初めは抵抗のあった血液採取も、今ではもう慣れた。
「……うん、順調に増えてきている」
上城教授は検査結果を見せながら、そう言った。開始時は200もなかった値が、倍近くに増えていた。藤村教授に指示された、食事・生活習慣に従っただけである。
「体調に、変化はないか」
「いいえ、大丈夫です。少し、力がついたような気はしますが」
体力の測定も行い、そちらの値も向上していたが、最近は筋肉トレーニングにも手を出しているので、念のためその事も伝えておいた。藤村教授が、運動と細胞増加の関連性も確認したいと言ってきていたためである。
免疫抑制剤の投与の中止から十日、移植マウスの経過は順調だった。だが、赫包を移植したマウスのうち肩と腰に移植したものは、施術から一度も食事をとっていない。
葵は一匹のマウスを掴みだした。こちらは赫子を移植したマウスだ。餌に混ぜた睡眠薬のおかげで、深く眠っている。背中の皮膚はすでになじんでいるが、多めに移植してもらったせいか、元のマウスの皮膚よりも分厚く、硬い。それでも、マウスの動きにそれほど大きな支障はないようだった。
「……ごめん」
煮沸消毒した包丁を握り、マウスの背にそっと滑らせる。――もとが赫子のせいか、傷がつかない。
――予想はしていたことだ。
今度は甲赫のナイフを浅く走らせる。傷が出来たが、すぐに出血が収まった。
――背中だけ、喰種化しているのか。
移植していない部位に軽く針を押し当てると、今度は赤い血の球が浮かんだ。しばらくして出血は収まったが、これはマウス本来の止血能力だろう。
葵はもう一度ナイフを握り、息を吐いた。マウスを握る手が強張っている。そして、もう一度ナイフを向けた。息を詰めながら、皮を浅く切り取る。これもすぐに止血された。
マウスの移植部位の欠損は、僅か二日によって跡形もなく再生した。今までの実験で効果の高かった餌を与えた影響もあるだろう。今度はもっと多く、他のマウスからも採取する。前回採取した皮膚組織は、翌日が休日だったため、冷蔵庫で保存しておいた。理奈に会いに行き、食べてもらったところ、生臭く、不味くはあったが、吐き気はせず、体調不良も起こさなかったらしい。だが、少量だったのでまだ安心はできないだろう。
一方、肩と腰に赫包を移植したマウスは、全く食事を摂らず、飢えているようなそぶりを見せ始め、三日後には赫眼に似たものまで発現させた。黒くなった白目は見えなかったが、虹彩は喰種特有の赤色に染まっていた。そして日に日に狂暴化していった。赫子移植マウスから採取した赫子の皮膚組織を与えると、症状は治まったが、これは完全に食性が喰種化したと見ていいだろう。肩に移植したマウスから赫包を取り除いたが、体調不良を起こし、数日間の発熱の末に死亡した。死体を研究室に持ち込んで調べてもらったところ、全身にRc細胞管が広がっていた。藤村教授は、これを統制する赫包を取り除いたことが死因かも知れないと言った。
一方、腕に移植したマウスは他のマウスと何ら変わりのない様子だった。治癒力に大きな変化もない。喰種化したマウスの赫包から、脊椎に沿ってRc細胞管が伸び、全身に広がっていた事から、脊椎にRc細胞管が達しなかったことが他の赫包移植マウスとの違いの原因だと推察された。
マウスの観察をしているうちに、夏休みになった。定期テストの勉強との両立は大変だったが、自分なりに納得のいく成績は出せた。安心してマウスと喰種の実験に取り組めそうである。
「お邪魔します」
理奈が大きな荷物を抱えてアパートにやって来た。親から東京滞在の許可が下りたらしい。部屋に入った理奈は、まず一番存在感を放つ、マウスのケージを収めた棚に驚いていた。
「床に置いていたら、足の踏み場がないからね。理奈が来ることになったから、作ってみた」
「あ、ごめん。手間かけちゃったみたいで」
「気にしなくていいよ。前から作ろうと思ってたし。けっこう、いい出来でしょう」
葵が自慢げに棚に手をかけると、理奈は笑った。
「荷物はそこに置いといて。一応、部屋の説明もしておこうか」
荷物を片付け、風呂場の使い方などを一通り説明してから、葵は理奈を居間に座らせた。水を注いだコップをテーブルに置く。
「……不味いと思うけど、いいんだよね?」
理奈は頷いた。それを確認し、葵は水に粉末タイプのブドウ糖を溶かした。ブドウ糖——グルコースは単糖だ。これ以上分解しない。つまり、消化酵素を必要とせず、そのまま吸収できるので、喰種でも吸収できるのではないかと踏んだ。
まずは病院から借りた自己血糖測定器で、理奈の血糖値を測定する。針が通らないので、血液の採取には赫子を使った。――ほぼ人間と同じ値だ。
理奈はコップをにらみ、一気にあおった。
「……感想は」
「不味い。ほら、人間でも、『吐き気がするような甘さ』とか言うでしょ。多分、それ」
もう一杯、大量に溶かしたものを飲んでもらう。理奈はひどく気分が悪そうな顔をしていた。
「平気?」
「大丈夫。吐き気は、そんなにないから」
少しだけ時間をおいてから、再度理奈の血糖値を測った。
「……上がってる」
誤差ではない、明らかな変化だった。理奈の顔を見ると、目を丸くしている。
「肉以外からでも、栄養が取れるんだ……」
その顔が、徐々に喜びへと変わっていった。赫包を基点とした生態上、Rc細胞の摂取が必要なのは変わらないだろうが、これは凄い事だ。予想はしていたことだが、実際にそれが数値としてわかるのは、嬉しいのだろう。
「葵、ありがとう」
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15 咬傷
まずは赫子移植マウスの量産を試みた。繰り返すうちに、理奈は移植時の細胞の状態をある程度制御できるようになり、体を蝕まない程度にRc細胞を活性化させることで、マウスからの採取のサイクルをさらに速めることが出来るようになった。
並行して、喰種が食べられる食料の模索を行った。コーヒーに近い植物のハーブティーなどから始め、採取した肉を添加して、様々な食料を試した。適度なRc細胞さえあれば、酵素が多少は働くはずである。
「今日は、人肉二対、豚肉三」
購入したミンサーで理奈が持参してきた人肉をひき肉にし、豚のひき肉と混ぜて焼き固めた。人肉なら生でも火を通しても吸収が可能なのはわかっている。基本的には、他の動物の肉との違いはRc細胞の有無だけだ。ならば、どの程度の量があれば消化が可能か。
「いただきます」
緊張した面持ちで理奈は肉を口にする。
「……どう」
「食べられなくはない、かな」
理奈は不味そうな顔をしながらもそう言った。葵の前では、学校でのように取り繕う必要はない。
食べ終わってからほどなくして、理奈は胃もたれの症状を訴えた。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
お腹を押さえながら、理奈は外に出た。合鍵は渡してある。
「夕方までには帰ってきてね。親への定期連絡も忘れずに」
「大丈夫。行ってきます」
*
外は暑いが、風が気持ち良い。アパートの階段を降りる。一人で歩く東京は新鮮だ。
――あんていくにでも顔を出そうか。
日陰を歩きながら、目的地を決める。正午に近いこの時間帯、この暑さでは人気も少ない。
しかし、しばらく歩いていると、喰種に後ろをつけれていることに気づいた。
――二人……?
振り向いて声をかける。
「あの……どうか、されましたか。私も、
一瞬だけ赫眼を見せた。
「ああ、わかっている。お前、どこから来た? 見ない顔だが」
二人とも、理奈よりも五つか六つ年上のようだ。縄張りを荒らされると思ったのだろうか。
「私は都外から来ました。今は友人の家に泊まっています。秋には戻る予定ですが」
ふむ、と相手は鼻を鳴らして理奈を見下ろした。
「……ちょっと来てくれ。一応、ボスに会っておいて欲しい」
「わかりました」
ここで事を荒立てる必要はない。トラブルになる前に、近辺の喰種と顔を合わせておいた方がいいだろう。
喰種二人は、薄暗い路地をどんどん進んでいく。
「……後、どれくらいですか。帰りはあの通りまで送っていただけるとありがたいのですけど」
理奈は腕時計を見ながら、困惑したように言った。
「もうすぐだ」
――後ろ上方から、小さな音が聞こえた。赫子の発現音。
振り向きざま、横に飛ぶ。羽赫の弾丸が、先程まで理奈がいた地点に突き刺さっていた。
――謀られた。
理奈は顔をしかめ、赫子を展開しようとする。――出ない。
――葵、今回の実験は失敗だ。
もう一人が繰り出した尾赫を腕で捌く。
「こいつは赫子を出せない! 早くやっちまえ。久しぶりの共喰いだ!」
――馬鹿にするな。
赫子を出せる点は確かに喰種としては優秀だろう。だが、扱いは未熟なものだ。
狭い路地では三人がかりを上手く活かせない。目の前の喰種は大ぶりの尾赫を持て余している。前の二人に近寄ってしまえば、羽赫の援護射撃は難しい。先程の射撃の精度はお粗末なものだった。
尾赫の喰種の攻撃を、腕や脚を総動員して捌き、かわす。
「おい、ジン、早くやれっ!」
苛立たし気な羽赫の喰種の声。繰り出される攻撃を器用に避けながら、理奈は間合いを詰めていく。甲赫の刃と違い、鱗赫や尾赫は叩きつけて使うことが多い。大振りな分、ある程度まで近づけば扱いにくいものだ。
腹を裂かれながらも、尾赫の間合いを突破。
「――――っ」
上から、羽赫が肩を貫いた。理奈はバランスを崩しながらも、同じく羽赫の突き刺さっている尾赫の喰種の肩を噛み切り、飲み込む。
――味方ごと撃つのか。
突き刺さった弾を引き抜きながら、理奈は思わず嫌悪感を表情に出した。尾赫の喰種のみぞおちを蹴り飛ばして後ろのもう一人ごと向かいの壁に叩きつけ、壁を蹴って羽赫喰種に接近する。
「マジかよっ」
見開いた眼に向けて、拳を繰り出す。羽赫の動きなら、千鶴との訓練で慣れている。目線と赫子の根本の動きで、回避は可能だ。
体をひねって放たれた弾を全てかわし、羽赫喰種を地面に叩きつける。
理奈も大きく間合いを取って地面に降りた。腹の傷を押さえながらも、軽い着地。
――もう、消化は出来たはずだ。
腰から使い慣れた鱗赫が三本飛び出る。こんなにも頼もしいものだったか。
血が服を生暖かく濡らしている。腹の傷は大きく、出血がなかなか止まらない。体調も万全ではないうえ、尾赫の攻撃は相性が悪い。しかし、葵の家を探られないためにも、ここでは殺さない程度に叩きのめす必要がある。
*
ガチャリ、と玄関が開く音がした。
「理奈? おかえり」
返事がない。代わりに戸が閉まる音、続いてどさりと重い何かが落ちるような音が聞こえた。
何かあったのかと、廊下を覗き込むと、理奈がドアに背を預けてうずくまっていた。
「……理、奈……?」
脇腹を手で押さえている。影になって見えにくい手は、赤黒く染まっていた。服の肩の部分も裂け、血にまみれている。
葵は息をのんで目を見開いた。――――一体、何があったのか。
葵が駆け寄ろうとすると、ゆっくりと理奈は顔を上げた。
――赫い眼が、葵を見据えた。
背中に衝撃を感じた。気付けば肩と顎に手をかけられて押し倒されていた。大きく開かれた口が、葵の首筋にかぶりつこうとする。咄嗟に左腕をねじ込んだ。
激痛がした。
腕の肉に歯が食い込む。
「――――っ!」
残った右腕で理奈の耳に親指を突きこむようにして掴み、思い切り引く。理奈は呻いた。引き付けた片足で、渾身の力を込めて理奈の腹を蹴った。
――肉が、裂ける。
硬い感触を伴って、理奈の体が離れた。人間を遥かに超える剛力を持つ喰種と言えど、理奈の体重は葵とさして変わらない。
葵は荒い息をつきながら、食いちぎられた左腕をかばうように抱いて距離を取った。上腕は生暖かくぬれている。身を起こした理奈の様子を、慎重に伺った。
理奈は呆然としたように動かなかい。肩で息をしながら、自分の手を見下ろしていた。
「……私……私は――――!」
理奈は顔を手で覆った。指に込められた力で、手の筋が浮いていた。指の間から愕然として見開かれた赫眼がのぞく。
「葵……ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい――――」
消え入りそうな声で、理奈は繰り返し謝罪の言葉を呟いた。
葵はそれを震えながら聞いていた。
「……大丈夫……大丈夫だから、理奈……落ち着いて……」
葵は自分の左腕を見下ろした。大きくえぐれ、どくどくと血が流れ出していた。右手で服の胸元を握りしめ、何度か深呼吸をする。荒い息が幾らかおさまった気がした。洗面所のタオルを腕に押し付け、心臓よりも高く上げる。
「肉……持ってくるから」
そう言って理奈に背を向けた。右腕だけを使って冷蔵庫から肉を取り出し、理奈に手渡した。理奈は無言で受け取ったが、そのまま膝の上に置き、強く、肉を握りしめた。
「葵……ごめん。……私、何て事を――――」
理奈はうつむいていて、表情は見えない。
「私は、大丈夫だから……ほら、食べて」
葵も理奈の側に座った。
理奈は黙って頷いた。歯を食いしばっているのだろうか、顎が強張っていた。歯の隙間から、震えた息の音がした。
「……いただき、ます」
理奈は緩慢な動きで肉を口に含んで、飲み下していった。肉を食いちぎり、噛む音がやけに大きく聞こえた。
「……ごちそうさまでした」
理奈は目をつむった。潤んだ赫眼から涙が落ちた。
「……外で、何があったの? …………白鳩?」
小さな声で問いかけると、理奈はかぶりを振った。。
「……喰種に、不覚を取っただけ……」
気付けば理奈は酷く怯えたような顔で葵の腕を凝視していた。その目は通常の目に戻っていた。
「……治療」
葵は自分の腕を見下ろした。
「――ねえ、理奈。理奈の赫子で、治療できないかな」
「人間にやったことがない。どうなるか、わからないよ」
理奈は震える口で言った。
「肉を食いちぎられてるから、病院に行っても、怪しまれる。丁度人の口と同じ大きさの傷、怪我人は詳しく語ろうとしない。――CCGに通報されたら危険なことになる」
「……わかった。やってみる」
強く押し付けていたタオルを慎重にはがし、洗面所で生理用食塩水を使って洗い流す。マウスの実験用に用意していたものだが、まさかこのような使い方をするとは思っていなかった。
理奈が傷口に赫子を伸ばす。露出した神経に触った瞬間、激痛が走って呻いた。歯を食いしばる。
「ごめん、葵。我慢してて」
傷口をRc細胞が覆っていく。処置が終わったとき、葵だけでなく理奈も脂汗をかいていた。最後の仕上げとして、救急箱から取り出した包帯を巻いた。
理奈の治療術をこんなところで使うことになるとは、何の因果だろうか。マウスで積んだ経験のおかげで、Rc細胞の適度な不活性化も出来るようになっていたのが、不幸中の幸いだった。
葵は左腕を抱え込んで、ベッドに倒れこんだ。
「……大丈夫だよ、もう出血はほとんどない。理奈は風呂に入って着替えて。ずっとその恰好いるつもり?」
心配そうにのぞき込む理奈に、葵は力なく笑った。
理奈が部屋を出たとたん、葵は自分の身を抱いて震え始めた。
――理奈は……私を。
喰おうとしていた。あの時、首筋に噛みつかれていたら、確実に死んでいただろう。腕の痛みが主張する。体がびくりと大きく震えた。
――急性Rc細胞欠乏症。
理由は分かっている。傷の治療に、体内にため込んだRc細胞が足りなかっただけだ。それに、理奈は蹴られてすぐに正気に戻った。——それでも、理奈が怖かった。
――喰種、なんだ。
理奈ならば何があっても自分を食べようとしないと思っていた。自分は、甘かった。理奈はあれほど、怪我をした自分に近づかないようにと言っていたのに。
そして、今も理奈に恐怖を覚えている自分が憎かった。
――私は、理奈の友達を名乗れない。
どこに友達を恐れる人など、いるのだろうか。
口では綺麗事を言い、リスクから目を逸らし、身の危険を感じれば怯える。
――何て、浅ましい。
口元が緩み、嘲笑が浮かんだ。窓の外から聞こえる喧噪が、遠く、白々しく聞こえた。
そのままずっと、眼を閉じていた。
水音が消えた。それなのに、理奈は部屋に入ってこない。
――何故、理奈は怪我をしたのだろう。
冷静になった頭に、ふと疑問が浮かんだ。
理奈は相当に強い喰種らしい。他の喰種をあまり知らないので断定はできないが、それなりの実力がなければ東京行きの許可は出なかっただろう。CCGのいる東京で生活している喰種が並みの喰種よりも遥かに手練れであるというなら納得もいくが、夜鷹の人たちはそれを承知なはずだ。その上で、許可が出たはずなのに。
運悪く、特別に強い喰種に絡まれたのだとしたら話は別だが……。
――もしかして、実験のせいだろうか。
実験による体調不良のせいで、理奈が本来の力を振るなかったのだとしたら。もしそうなら、その責任は自分にある。
そこまで考えて、肝が冷えた心地がした。
――私は、またしても理奈を殺しかけた。
しばらく時間がたって、ようやく理奈が部屋に入ってくる気配を感じた。葵は顔を背けたまま、出来るだけさりげなく声をかけた。
「……ねえ、傷。塞がった?」
「……ほとんどは」
見上げると理奈はこざっぱりとした格好をしていた。手に持った半透明のビニール袋の中に、赤い染みの付いた何かが入っているのが、透けて見えた。
「穴、開いちゃったから」
葵は理奈の視線の先を見て、ぽつりと言った。葵は、そう、と言った。言葉が続かない。
お互いに、無言だった。
「……私、帰るよ」
理奈の声が静寂を破った。
「もう、一緒にはいられない……ごめん」
理奈はうつむいたまま言った。葵の顔を見ようとしない。
理奈は自分の荷物をまとめ始めた。最後にゴミ袋を強引に詰め込んだ。葵は何も言えなかった。部屋を出る前に、葵に深く頭を下げた。
「……今まで、ありがとう」
思い出した。
前に、この言葉を言われたのは、’’あの日’’だ。
「——待ってよ」
自然と、声が出た。
「ちょっと怪我させられたからって友達を放り出すほど……私は、腐ってない」
理奈が足を止める気配を感じた。
「その腹の怪我、実験のせいじゃないの? 本調子、出せなかったんでしょ」
「……それは」
そう言って理奈は背を向けたまま沈黙した。違う、とは言わなかった。
「……いいよ、今日も泊まって」
「葵、私は……私は、葵を食おうとしたんだ」
身を絞るような声だった。
「怪我させたんだ、殺しかけたんだ。だから、もう……友達だなんて、言ってもらう資格はない」
理奈は振り向いた。赫眼が葵を見据えた。泣きそうなほどに顔を歪め、歯を食いしばりながら理奈は笑った。
「怖いでしょ? 化け物だもの、当然だ——もう、いいんだよ。
喰種なんかと関わらないで、平和に生きてよ」
「――いやだ」
葵は負けじと理奈を睨んだ。
「どうして――」
「私は、」
理奈に嘘はつきたくない。
「正直に言うと、怖かった。……今も、少し。けど、今回の事の責任の一端は私にもある。だから、私にだって、理奈を責める資格はないんだ。友達だなんて言う資格もないんだ」
葵は当てられたガーゼの上から、そっと傷を触った。
「喰種に怯えて、関係を断つのは楽だ。――だけど、理奈と別れる方がよほど嫌だ」
「でも、また今度同じことがあったら……私、今度こそ――」
「理奈は体調が良くなかったら、すぐに言って。危険な場所にも行かないで。私も、気をつけるから——それだけでも、未然に防げることは多いはずだよ」
理奈の赫眼を見つめる。初めて見た時と変わらない、鮮やかな赤色。
腕から流れた血の色と重なった。
「毒を喰らわば、皿まで——だっけ?
私は引き返すつもりはない。もし、申し訳ないと思っているのなら、理奈も最後まで付き合って」
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16 柘榴
次の日、包帯を外してみると、腕の出血は完全に止まっていた。再生された皮膚をつつく。――感覚がある。
腕、指を動かす。全く問題がない。神経までつながっているなんて、と呆れて笑えた。
今、理奈は出かけている。少しくらいの無茶は許されるだろう。
まずは赫子を使った部位に、血糖値検査用の針を刺す。数ミリしか針が出ていないので、もし刺さっても大事にはならない。しかし、刺さる事はなかった。これは今までのマウスの実験から予想できたことだ。包丁の刃を滑らせる。――やはり、傷はつかない。変な気分だ。
もう片方の掌に針を刺す。――出血。これも予想通りだ。
移植された部位の近くを刺す。――出血。しかし、止血が速い。
あれ、と呟いてもう一度近くを刺す。やはり、止血が速い。
――Rc細胞管が伸びているのか。
自分の体はどこまで喰種に近づいているのか。今まで、Rc細胞値を徐々に上げてきた影響もあるのかもしれない。初めは食習慣から、続いて運動、最近は理奈と一緒に代用肉の試作品まで口にしている。……初めて食べた後の採血検査では、Rc細胞値が跳ね上がり、上城先生を驚かせてしまった。確か、人間の基準値を少しだけだが上回っていたはずだ。それからは念のため採血実験から抜けさせてもらった。
それでも、移植したのは赫包ではない。食性の変化はおそらくないだろう。もう少し離れたところを刺すと、止血速度は他の所と同じようなものだった。
もう一度、移植部分をつつく。――普通の肉だ。
今度は、右手の指をたわめて弾く。――痛い。
しかし、痛みがあったのは、弾いた指の方だった。驚いてもう一度弾く。やはり、硬い。
これは一体どういうことか。自律神経や筋肉の緊張に、喰種としての細胞が反応したのかもしれない。
筋肉に力を込めてから爪で突く。赫子程ではないが、硬い。
これは考えていてもしかたがない。これ以上思いつくこともなかったので、別の事をすることにする。
理奈が帰って来た時、葵はモース硬度の実験と称し、歯のエナメル質とほぼ同じ硬さの水晶を甲赫ナイフでひっかいていた。
「理奈、やっぱりすごいね、赫子。水晶に傷がついた。モース硬度7以上だよ。ほら、見てよ」
興奮気味の葵の様子に、理奈は若干引き気味であった。
「確かに、傷はついてるけど……どうしたの、それ」
「水晶なんて、数百円でその辺で売ってるよ。これは……確か、博物館の土産店で買ったやつ」
ああそう、と理奈は適当に返事をした。昨日の事が気まずくて部屋を出たのかとも思ったが、存外ぞんざいな扱いである。
「……で? 今日のメニューは何だっけ」
「いよいよ、養殖Rc細胞の出番だよ」
皿の上の焼かれた肉塊は、見た目には昨日のものとそう変わらない。
「人肉と同じ濃度になるように、挽いたRc細胞と豚のひき肉を混ぜておいた」
結果として、味は不味くはなかったが、昨日程とはいかないまでも、軽い胃もたれの症状まで出してしまった。
「……残念」
マウスからは採取できる量が少ないので、Rc細胞以外の必要な栄養は出来る限り他の食料から摂取したいものだ。
「この前食べた養殖Rc細胞単体よりも、味はましだった気がするんだけどなぁ」
理奈もお腹をさすりながらため息をついた。
次の日、葵は市販の胃腸薬を用意していた。
「なにこれ」
理奈はつまみあげて説明書きを読む。喰種には馴染みのないものだろう。
「今日は、昨日のをこれと一緒に食べてもらおうと思って」
成分の違うものを、三種類買ってきた。この中に喰種の体に合うものがあるといいのだが。人間ならば、珈琲も胃液の分泌を助ける効果がある。これも試してみるつもりだ。
三日目。一つ目と二つ目の薬は、あまり効果がなかった。この薬が体に合わなければ、他のを探さなければならない。
「……二時間経過」
どうかな、と葵は理奈の顔色をうかがう。
「体調は悪くなってないよ」
理奈は立ち上がって、赫子を出して見せた。三本ともいつも通り、腕以上の太さをしている。
「……成功?」
「の、ようだね」
理奈の満面の笑みに、葵も笑い返した。
「よし、家に報告だ」
携帯を取り出し、嬉しそうにメールを打っている。
「商品化できるかな」
「遺伝子組み換え家畜が出来るまでは、これが頼りだからね。移植マウスの生産と維持は手間がかかるし、すべての喰種の家庭に生き渡らせるのは大変だろうけど」
単純な必要Rc細胞量からの計算では、一人当たり約八匹いれば生きていけることになっている。
「商品名、なんて気が早いかな」
「――『
「柘榴……鬼子母神の話だね」
釈迦が人肉の代わりに鬼子母神に与えたのが柘榴だった、というのは日本での俗説に過ぎないけれど。
「いいと思うよ。『代用肉』なんてのは味気ないし、人肉の『代用』って連想させちゃうもんね。――うん、それにしよう」
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17 提供
理奈は葵が皮をむいている果物を見て、疲れたように息をついた。
「今度はパイナップル?」
最近は食べ合わせの実験だ。
パイナップルにRc細胞溶解液をかける。そもそも、赫子とは軟化と硬化を繰り返して動く器官だ。そして、クインケは電気信号を使って赫子を機械的に動かす武器である。一度、試しに乾電池と銅線を使って赫子肉に電気を流したら、一部が融解した。金網と改良した簡易的な回路を使って融解液を作ることは、思っていたよりも簡単だった。
「はい」
理奈の前に、パイナップルと『柘榴』を置く。パイナップルは、肉を消化する酵素を含んでいる。上手くいけば、消化を助けてくれるだろう。――悪ければ、理奈は体調不良を起こすだろうが。
理奈は慣れた様子で平らげてから、提案した。
「……ねえ、今度行きたいところがあるんだけど」
「ホットコーヒー二つ。あんていくブレンドで、お願いします」
落ち着いた様子で注文する理奈とは対照的に、葵は強張った顔で、注文を繰り返す女性店員を見ていた。店員は去り際に葵と葵のリュックを注視する。呼んだ時にも、真っ先に見ていた。
「……私、ここにいていいんだよね?」
「大丈夫だって。今は、他にも普通のお客さんいるよ」
小声で理奈に話しかけると、呆れたように返された。
「変に緊張していた方が怪しいって」
「……そうだね」
そうは言うものの、この状況で落ち着くのは難しい。葵は内心でため息をついた。
喰種が経営し、従業員が全員喰種だという喫茶店『あんていく』。知らなければ洒落た喫茶店だと思うだけだが、知ってしまえば魔物の巣窟にしか見えない。夜鷹と似た穏健派で、客は食べられないと分かっていても、東京の喰種である。喰種の人間に対する敵対心は、董香の言動で痛感させられていた。
話しかけてくる理奈に相槌を打ちながら待つと、さして時間をおかずに注文の品が来た。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
恐る恐る受け取る。ちらりと店員の顔を見ると、優し気にほほ笑んでいた。
思い切ってコーヒーに口をつける。
――美味しい。
今まで飲んだ中で、一番だ。目を丸くしていると、理奈はにやりと笑った。
「ね、美味しいでしょ。昔、父さんに連れられて何度か来たことがあったんだけど、このオリジナルブレンドが美味しくて。この味だけは、覚えてたんだ」
得意げに、そして懐かしそうに眼を細めながら、理奈は言った。
「ごちそうさまでした。――店長は、いらっしゃいますか」
会計が終わってから、理奈はそう尋ねた。ここからが本題だ。
「今は、買い出しに行っていますが……十分もすれば、戻ると思いますよ」
店員は少しだけ戸惑ったように言った。
「……待たれるなら、二階に部屋もありますが」
どこか困惑した様子で、葵とリュックを交互に見ている。
「いえ、邪魔でなければここで待たせていただきます。サンドイッチも追加で注文できますか」
「はい、では席でお待ちください。店長が帰ったら、声をおかけします」
「ありがとうございます」
理奈は葵の手をひいて席へ戻った。
「……ああ、緊張する」
葵は内心で頭を抱えた。
「そんなに気張ることはないって。店長は優しい人だよ」
「……もしかして、理奈って、いつも学校でこんな思いをしていたの?」
自分と敵対する種族に囲まれていることが、どれほど神経を削る事か、よくわかった。それを何年も続けている理奈は何者だろうか。正気の沙汰ではないように感じる。
「いや、そこまでじゃないよ。小学校はフリーだったし、中学時代にはもう慣れてたし」
「……そっか」
「でも、初めての東京は緊張したかな」
「あ……ごめん」
理奈には負担を強いてばかりだ。
「でも、それだけの成果はあったから」
理奈はにっこりと笑った。
「喰種史が変わるくらいの、ね」
葵も、やっと表情が和らいだ。
「そうだね」
しばらくして、提供されたサンドイッチを食べる。
「美味しい」
これを作っているのも喰種のはずだ。味も碌にわからないだろうに、こんなにもヒトの口に合うものを作れるとは。――どれほどの苦労があっただろう。
「そんなに美味しいの?」
「うん。理奈が食べないのが勿体ないくらい」
一分もせずに完食してしまった。
「遅いね、店長」
「――来たよ」
理奈の低い声に、葵はドアを振り向いた。誰もいない。
「裏口から入って来たみたい」
理奈の言葉に納得する。臭いで感知したのだろう。
ほどなくして、風格のある初老の男性が葵達のテーブルの近くに来た。
「用があるのは、貴方達ですか」
「はい、芳村さん」
応対は理奈に任せることにする。
「二階へ上がってもらっても?」
先程女性店員にも言われた言葉だ。理奈は葵を見る。葵は頷いた。
「はい、大丈夫です」
「では、こちらへ」
他の客に訝し気に見られる中、二階の部屋へ案内される。中にはソファとテーブル。応接間だろうか。
「おかけください」
店長の言葉は、喰種としての物ではなく、店主としての物だった。葵は理奈に倣って、ソファに腰かける。
「……どのような要件でしょう」
理奈はリュックからタッパーと市販薬を取り出した。
「どうぞ」
「……これは」
店長は差し出されたタッパーを受け取り、蓋を開けた。
「私達が作った代用肉です。私達は『柘榴』と呼んでいます。人も喰種も殺さずに作りました。――この薬を服用して」
理奈はテーブルの上に置いた薬を見やる。
「食べていただければ、人肉と同様に栄養を摂ることが出来ます」
「……なんと」
細い目が、少しだけ見開かれた気がした。
「……貴方は、何者ですか」
店長は葵を見る。いきなり声をかけられ、葵は膝の上で拳を握った。
「私は理奈の友人のヒトです」
店長の表情は読めない。柔和な顔の奥で、何を考えているのだろうか。理奈からはとても強い人だと聞いている。背に冷や汗が垂れた。
「……ただ、理奈の肉を移植しているので、匂いが奇妙になっているかもしれません」
葵は左腕を見下ろした。肘から下が全て喰種化している。それから変化はない。
「そうですか。……すみません、他意はありませんよ」
店長は片手で顔を覆ってうつむいた。
「……私は、人間が好きです。だから、こうして喫茶店を経営し、殺人事件も出来るだけ起こらないように行動してきました」
店長は感慨深げにため息をついた。
「ありがとうございます。にわかには信じがたいですが、食べてみます。これは、量産できる物ですか」
「これは試作段階なので、今は量産できていません。今のペースでは二、三人の食料を用意するのがやっとです。しかし、協力していただければ、増やすことが出来ます」
「生産方法を詳しく教えてください。――協力しましょう」
所用の為忙しくなるので、次に更新ができるのは一月下旬になります。気長に待ってくれると嬉しいです。良いお年を。
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18 少女
「東京は都会だけど、こういう人通りがないところも多いんだね」
理奈と二人、あんていくの店長――芳村に教えてもらった家へ向かう。人気がなく、静かな通りだった。
「都会だって、そんなもんでしょ。所詮は田舎者の幻想だよ」
理奈はどこか冷めたように言った。葵はそんなものだよね、と頷いて理奈の持つ紙を見やった。
「で、こっちであってるんだよね?」
「角の数は間違えていない筈だけど」
芳村に渡された紙には、簡易的な地図が書かれていた。
店長には丁寧に柘榴の製作までの話をし、最後に試食をしてもらった。マウスによって再生された赫子組織と豚肉の混合物である柘榴は、当然のように普通の肉とは違う匂いと味がする。葵には大して変わらぬように思えたが、鋭敏な感覚を持つ喰種にとって、それは何よりの証明であったらしい。彼は改めて快諾をしてくれ、葵と理奈も改めて自己紹介をした。
そして昨日、マウスを五匹ほど譲り渡し、世話の仕方や肉の採取方法も細かく見せた。
それにより得られた幾ばくかの信頼よりは、理奈が彼の知り合いである霧島家族の血縁である事、それにより理奈の父とも連絡を取り合っているという事の方が大きかったのだろうが、尋ね人の住所までこころよく教えてくれた。
「――ここ、だね」
目の前に現れたプレハブに、理奈はいくらか声をひそめて言った。
「匂い、するから」
そう、と軽く頷く。手に持っているのはマウスのケージ。今日はこれを見てもらう。店長は、彼は医者をしていると言っていた。少なくとも生物に関する知識を持っているのは確かだろう。
理奈がノックをする。中からは生活音がしない。来訪者に気づいているのだろうか。
「どうぞ」
扉越しにくぐもった声が聞こえた。軽く軋んだ音を立てて戸を開ける。
「確かに新鮮なほうがいいが……別に、生きているのを丸ごとってほど強欲じゃないよ」
出迎えた中年の男性は、葵を検分するように眺めた。葵は身を固くする。覚悟はしていたが、やはり、自分は食料として見られている。
「怪我はしていないようだね。どういう要件だい」
後頭部を軽く掻きながら、目の前の男性は理奈に言った。
「いえ、診察ではありません。笛口アサキさん、ですよね」
「ああ。そうだが」
アサキは鷹揚に頷いた。
「芳村さんの紹介で来ました。……これを」
理奈はバッグから封筒を取り出し、渡した。芳村からの言伝、紹介状だ。
「ありがとう。なら、そっちのは?」
アサキは葵を顎でしゃくった。無言ではあるが混乱しているようでない葵の様子をいぶかしんでいるらしい。その表情からはいささかの疑念が感じられた。
「まずは、読んでからでお願いします」
「わかった」
封をされた封筒の口を、はさみで丁寧に切り落とし、中の白い便箋を広げる。こちらからは見えないが、文面は理奈も葵も把握していた。
だから、アサキの反応は予想の範囲内だった。
途中で何度も見返すように読み、何度も文面と目の前の二人の女学生を見比べる。
「……君達が、協力者?」
「はい」
理奈は堂々としていた。喫茶店に行った時と変わらない。
「君は、喰種だね。宮野さん、であってるかい」
「はい。宮野理奈です」
アサキの視線が葵に向いた。
「……で、そちらが、高瀬さん、か」
「高瀬葵、です。ヒトですが、貴方方と親交を持ちたいと考えています」
アサキは疑心半分、といったような顔で鼻をならした。
「ヒトっていうのは本当のようだね。……これは芳村さんの字だ。まずはその鼠を見せて欲しい。話はそれからだ」
伸ばされた手に、ケージを差し出す。
「どうぞ。……あの、千晶さんを知っていますか」
その言葉に、アサキの動きが止まった。
「……心当たりはある。どういう関係だ」
「夜鷹にいます。都外一の喰種組織です」
今までよりも鋭く低い言葉に、理奈が答えた。
「勝手に出て行ってすまなかった、と伝えて欲しいと頼まれました」
アサキの体から、こわばりが抜けた。
「生きていたのか」
「はい。お世話になっています」
「そうか……」
アサキはため息をついた。
「無事で、何よりだな。所在は? 一度、顔を見たい」
その顔は入った時よりも和らいでいた。
「すみませんが、千晶さんは葬儀関係の職に就いているので、東京の喰種との接触はできません。夜鷹は機密の保持に慎重です。私が東京に来れたのは、父がただの技術者として働いているからです」
申し訳なさそうな理奈の態度に、若干落胆したようではあったが、責める様子はなかった。
「確かに、それなら仕方がないな。私のせいで駆逐されたらたまったものではないだろうし、夜鷹そのものが崩壊する可能性もある……」
アサキは顎をさすって考え込んだ。
葵もその決まりについては聞いていなかったが、夜鷹の食料配給の中核を担う葬儀関係には、慎重になるのは当然だ。もしも一人が喰種だとばれてしまえば、県内の葬儀関係者が洗われるのは当然の流れだ。食料の調達が断たれ、多くの喰種の存在が露見される未来は、想像に難くない。
「なら、手紙だけでも届けてくれないか」
「それなら大丈夫です。私の家は20区との連絡係も兼ねていますから、その点でも何かあれば言ってください」
「ありがとう。もう少し詳しい話を聞かせて欲しい。説明役は一人で足りるのだろう。ヒトの君が来たのは、誠意を見せるためか」
「はい」
いきなり話を振られて緊張しつつも、落ち着いて返す。その返事に満足したのか、アサキはおもむろに診療所の奥を振り向いた。
「リョーコ、ヒナミ、おいで。話は聞こえていただろう」
その声にこたえて、おずおずと二人が出てきた。一人は、まだ幼い。
「私の妻子だ。自慢の子だよ。私よりもとても優しい。少し、話をしてあげて欲しいんだが」
どうだろうか、とアサキは葵を向いた。
葵は現れた母子を無言で見る。僅かばかりの警戒と好奇心が、母親の後ろからこちらを見る姿にありありと表れていた。リョーコと呼ばれた母親の会釈に、葵は礼を返した。
「私で良ければ、喜んで」
出来るだけ緊張を見せぬよう、無造作に近づいた。喰種だ。――喰種だが、おそらく、宮野家に近い性質の。
「高瀬葵です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。笛口リョーコです。こちらは、娘のヒナミです」
「……ヒナミ、です」
ヒナミは母に促され、小さな声ながらも、葵から目を逸らさずに言った。
「よろしくね、ヒナミちゃん」
赫子移植マウスの説明は理奈に任せ、リョウコに勧められて奥に行く。確認の為にちらりと理奈を見れば、軽く頷いて返された。おそらく大丈夫だろう。
リョウコに勧められ、ヒナミと向かい合うように床に座った。正座はあまりしないので、崩すように言われたのはありがたかった。
「……あの、お姉さんは、人間……なんですよね」
「うん、そうだよ」
遠慮がちに尋ねてきたヒナミを怖がらせないように、柔らかい表情を心掛けながら返す。ヒトである自分が喰種を怖がらせないように、というのは少々おかしな気もするが、個体としてではなく社会の一部としてのヒトは喰種に恐れられているのも事実であるし、ヒナミは理奈の妹の千鶴よりも幼いように見えた。学校に行けているかどうかは分からないが、ヒトであれば小学生か中学生あたりの歳だろう。
「正確に言うと、大体は、かな。臭いが違うの、わかるの?」
ヒナミはこくりと頷いた。かわいらしい子だ。
「どんな臭いがするの?」
「えっと、そっちの腕はあっちのお姉さんと似た臭いがします」
思っていたよりも正確な答えに、軽く驚いた。
「私が持ってきたネズミからも同じ臭いがしてなかった?」
「はい」
ヒナミは迷いなく答えた。理奈は喰種の中でも嗅覚が良い方だと言っていたが、ヒナミも恐らく感覚が鋭い方なのだろう。
「ヒナミさんって、鼻が良いのですね」
「ええ、私とアサキよりも鋭いようで。トンビがタカを産んでしまったみたい」
素直に賞賛の意を示すと、リョーコは穏やかに応えてくれた。
「……他は、どうかな。変な臭い、しない?」
ヒナミは軽く首をかしげ、眼を閉じて息を吸う。
「変ではないと思います。……とても、いい匂いです」
「いい匂いか……シャンプーかな。安物だったと思うけど」
「えっと、そうじゃなくて」
言いよどむヒナミに、葵は少し意地の悪い事を聞いてしまったかもしれないと思った。
「美味しそうな匂い?」
「……ヒナミ、お姉さんの事を食べたりしない」
肩を強張らせてうつむいている姿に、やはりと思う。自分は、食料として魅力的なのだ。
「大丈夫。気にしてないよ。ごめんね、そういうつもりじゃなかったんだ。臭いについて確認しておきたかっただけ。私の体はちょっと特殊でね」
軽く左腕を捲って見せる。
「もうほとんど痕が残ってないけど、この腕はね、ちょっとした事故で抉られたんだ。それで、あっちの人――理奈に、赫子で治してもらったんだよ」
ゆっくりと話すと、ヒナミはしげしげと葵の腕を見た。
「……痛かった?」
「まあ、多少はね」
葵は腕をつつき、つまむ。神経はほぼ完全につながっているが、ほんの少し、以前とは違う感覚。
「あっちのネズミと同じ処置をしたんだけどね、私はヒトだからか、ちょっと違った結果になったんだ。赫子から作られた組織が変異して、赫包のようになったみたい。私の肘から下にはね、Rc細胞管が張り巡らされているの。だから、この腕だけは、ほとんどヒナミちゃんと同じなんだよ」
へえ、と感嘆したようにヒナミは言った。奇妙な臭いに納得がいったらしい。
「だからね、左腕の握力ならヒナミちゃんに勝てるかも。上腕は普通の人間だから、腕相撲はどうなるかわからないけど」
「……腕相撲」
口の中で繰り返すヒナミに、葵は言葉を止めた。
「腕相撲、知らないの?」
「……本で読んだことはあるんですけど、どういうものか説明がなくて」
「危ないから、学校に通わせていないんです」
リョーコが口をはさんだ。理奈からは、東京ではそういう事が多いと聞いていた。前に会った董香も学校には行ってないらしい。
「そうですか。……腕相撲ってのは、力比べの事だよ。こうやってね、肘をついて向かい合わせに相手と手を握って、押し倒した方の勝ち」
身振りを交えながら、ヒナミに説明してみる。伝わったようだ。
「まあ、ほとんどは弱っちいヒトだから、あんまり乱暴に扱わないでね」
ヒナミは困ったように笑った。馴れ馴れしくしすぎたかもしれない。
「ヒナミちゃんは、よく本を読むの?」
「はい」
「どんなの?」
ヒナミは何冊か本の題名をあげた。一冊は知っているものだったが、残りは聞いたことがなかった。
「……でも、あまり本は読めないんです。中々買えないから」
「ヒナミちゃんって、何歳?」
「十二です」
「じゃあ、小学校の六年生くらいか……」
自分はそのころ、何を読んでいたか。確か、ナルニア国物語などを読んでいた気がする。自分が昔読んでいた本を譲りたいが、生憎と実家にある。
「新品にこだわらないなら、私が前に読んでいたのを持ってこようか? 実家にあるから、渡せるのはちょっと先になるけど」
「……お姉さんの本」
「……ああ、ヒナミちゃんって、鼻がいいんだっけ。ヒトの臭いが気になるかな」
「いいえ! その、嬉しいです。ありがとうございます」
ヒナミは頭を下げた。学校へは行けてないが、行儀は良い。親の躾のたまものだろう。
「……なんで、お姉さんはヒナミ達に良くしてくれるんですか。……ヒナミ、喰種なのに。あと、『協力者』って、どういうことですか」
ためらうような沈黙の後、葵を見ずに、吐き出すように言うヒナミに、葵は内心でため息をついて頭を掻いた。どうも、自分は順序を間違える。
「私は、理奈の友達なんだ。だから、喰種の……
ヒナミは神妙な顔で頷いた。
「なら、私はヒナミちゃんの味方だよ」
「……でも、ヒナミは人間を食べます」
その小さな声に含まれていたのは、罪悪感か、警戒か、線引きか。あるいはそのどれとも違う感情か。幼いながらも思いつめたような顔を見ながら、葵はむしろ明るく続けた。
「そう、そこ。そこさえ解決できれば、人間と喰種は和解できると思わない?」
「……うん」
「だからね、私と理奈で代用品を作っているんだ。あのネズミは、そのためのものなの。喰種はすぐに怪我が治るでしょ?」
「うん」
「あのネズミに移植した赫子もね、削っても、ちゃんと餌を与えれば赫子の組織が再生するんだよ。そしてね、削り取った赫子の組織と、人間が食べる豚肉を混ぜ合わせて、喰種でも食べれる肉を作れるんだよ」
「……本当に?」
黙っていたリョーコが息を飲む気配を感じながら、葵は心からの笑みを浮かべて肯定する。
「……でも、ネズミさん、痛いよね」
「私と違って、移植された赫子はほぼそのままの性質を保っているから、ほぼ痛覚はないみたいだよ。……失礼な事を聞きますが、リョーコさんは赫子を出せますか?」
「……ええ」
「赫子にはほとんど痛覚は無いですよね」
「はい」
予想通りの答えを確認し、葵はヒナミに向き直った。
「だから、大丈夫。
元になるネズミはちょっと特殊なものだから、まだたくさん用意できてないけど、喰種全員に配れれば、もう人間と敵対する必要はなくなるよね? それに、将来的には、喰種も食べれる豚だって作れるかもしれないんだよ」
凄い、とヒナミは顔を輝かせた。
「でしょう? 科学って凄いんだよ。
ヒナミちゃん、人間だって肉も野菜も食べるし、生き物を食べる事には変わりないんだ。喰種が人間と違うのは、食べれるのが自分と同じような見た目で、同じような知性を持っているものだけって事だけで、他は変わらない。ヒトは植物にはなれない。私だって生き物を食べなきゃ生きていけない、傲慢な生き物なんだよ。そして、生き物は生まれを選べない。だから、ヒナミちゃんは罪悪感を持たずに生きて欲しい。勿論、ヒトを殺して回って欲しいわけじゃないよ。
私はね、ヒナミちゃんが堂々と『自分は喰種です』って言える社会を作りたいんだ。ヒトと同じように、ヒトと一緒に、学校に行って、友達と喋って、楽しい食事ができる社会。素敵だと思わない?」
「……出来るの?」
「今のままじゃただの夢だけど、持ってきたネズミがその最初の一歩なんだ」
ヒナミの嬉しそうな顔から、緊張がほぐれているのを感じた。純真無垢な、――世間の喰種の印象からはかけ離れた喰種の少女だ。人間と喰種がいがみ合い憎しみ合う東京にも、この笛口家族のような喰種がいる。それが、喰種と人間の共生の灯のように思えた。
「ヒナミ、お姉さんの事、応援する。学校に行けるようになった時の為に、勉強も頑張る」
「そうだね。それに、勉強できた方が、人間の社会で働きやすいから、頑張って。本と一緒に、私の教科書を持ってきてあげようか。理奈もくれるかもしれないから、後で聞いてみるね」
嬉しそうなヒナミの顔が愛おしく思えて、その頭を撫でたいとすら思った。流石にそれは馴れ馴れしすぎるので、代わりに右手を差し出す。
「握手、してくれるかな。友好の証。普通は会った時にするものなんだけどね」
言ってしまってから、照れくさく感じる。
「うん」
ヒナミは慎重に葵の手を握った。ヒトの方の手なので、力加減がわからず、怖いのだろう。
「私達、仲間だよ。喰種とヒトだけど、一緒に暮らすのを目標にする仲間。さしずめ、共生派、共存派ってところかな」
小さく柔らかな手を、ゆっくりとほどく。
「あのね、ヒナミちゃん。最初に私に、『人間?』って聞いたよね」
「うん」
「私は、生物学的に言うと、学名ならホモ・サピエンスって言うんだ。でも、普通の場合、生物学上の種を言うときは、『ヒト』って、カタカナで書くんだよ」
床に指で文字を書いて見せる。
「それでね、『人間』とか、『人』――特に、『人間』の方は、確かにこっちも生物学的な『ヒト』を指すこともあるんだけど、むしろ社会的な存在としての人、という意味合いが強いんだ」
ヒナミは真剣に葵の話を聞いていた。リョーコも黙って、葵の話に聞き入っている。
「理性とか、感情とか、知性とかを持つ存在。相手を思いやったり、他の人と協力できたりする人。『人間』にはそういう意味もある。この場合なら、私はヒナミちゃんも間違いなく『人間』だと言えるよ」
理奈が奥に葵を迎えに来るまで、それなりの時間をヒナミと話し込んだ。マウスの説明にかかるだろう時間を大きく超えている。所々聞こえてきた会話から察するに、夜鷹や千晶についても話していたらしい。
持ってきたマウスは、アサキが引き取ったので、帰りは手ぶらだ。世話が可能なら、引き渡すつもりだった。預けて調べてもらうという目的もあったが、マウスの支給のためのモデルケースとしての意味もあった。これで成功したら、家を持ち、飼育できるだけのお金を持つ喰種にマウスを広める事が出来る。
「では、お願いします。先程も言いましたが、餌はなるべく、たんぱく質が多いものを選んでください。余裕があれば、ミルワームなども良いようですので、試してみてください」
「わかった」
にこやかな家族に送られて、理奈と葵は笛口家を後にした。
「……理奈、あのさ」
十分に離れたのを確認して、葵は口を開いた。
「私、美味しそうなんだって。他の同年代の女子と比べてみて、どうかな」
理奈は口ごもっている。ぶしつけだったか。
「じゃあ、順番を変える。若い方が美味しそうに見える? 美味しかった?」
「それは、まあ。何度か食べる機会があったけど、老人よりは美味しかったと思う。多くの喰種は、若い方がいいって言うよ」
これは予想通りだ。
「私はね、自分がどれほど食料として魅力的なのか確認しておきたいんだ。若い、という点で私は他よりも狙われやすい。その中でも、さらに『美味しそう』な匂いがするかな?」
理奈は迷った末に、無言で頷いた。
「それは、個人的な、嗜好として? それとも、喰種の中で一般的に美味しそうだと思われる部類の?」
「……一般的な喰種として」
やっぱりか、と呟く。
「私の匂い、変わってたんでしょ。――多分、大学に入ってすぐから」
理奈は目を見開いた。
「どうして、それを」
「喰種の食料として何が魅力的かって考えれば、『Rc細胞が多い個体』ってのは、すぐにわかる。ただ、喰種の肉は不味いらしいので、やはり生物として共喰いは避けるらしい。なら、『人間の要素を持ち、かつRc細胞が多い』のが最も好ましい個体になる。……それは、今の私と完全に合致する。
喰種の嗅覚は同族どころか個人も判別がつくぐらいに鋭い。なら、生死に直結する、獲物のRc細胞の量を感知することも可能だと思った」
葵は理奈の顔を見る。
「今の理奈の反応から、それが証明されたように思う。教授の実験の一環として、Rc細胞を増やす生活習慣にしたのが、その時期。それで、柘榴を食べた時期、腕の移植をした時期で、匂いは急速に変化しなかった?」
「……うん。してた」
「ちゃんと早めに行ってよね、そう言う事は」
おそらく、腕の事件があって言いにくかったのだろう。食料として葵を見る事に、引け目を感じていたと考えるのが妥当か。
「そうだね、うん」
「でさ、ここからが本題」
葵は一度、口をつぐんだ。
「……食べてみて、どうだった?」
「どうだった、って」
「本当に美味しく感じられたなら、私は喰種に狙われた時、本気で逃げるために用意が必要になる。それでさ、前に――移植した後に、実験で軽く抉って時、食べてもらったけど、どうだった。喰種の味だった? それとも、美味しい人間の味?」
理奈は葵に目を合わせなかった。
「人間」
「美味しかった?」
「わからない。ごめん。私は、ほとんど若い人の肉を食べたことがない。だから、食べ比べは出来ないし、貰った肉だから新鮮なものでもなかった。だから、私には正確な判断はできないと思う。ただ、今まで食べた中では最も美味しい部類に入るよ」
理奈の答えに落胆する。左腕を削って渡して、喰種のふりをすることはできないらしい。これからは護身についても考えなくてはならないだろう。
「わかった、ありがとう」
多少の遠慮はあるが、今の率直な物言いに、高校の――知ってからすぐの時とは段違いの信頼を感じる。それだけは、嬉しかった。
金木が月山に目をつけられた理由、什造が美味しそうな匂いをしていた理由を考えた結果です。この作品内では、什造は体格、筋肉量に対して極端に運動能力が高い=Rc細胞を多く保有している、という設定です。
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