Methuselah:Kaziklu Bey 【ヴィルヘルム×クラウディア】 ※イカベイ時期のエピソードのみ抜粋 (桜月(Licht))
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運命

 
外伝にてワルシャワの戦火の中で出会った二人の、クラウディア視点のお話です。
 
 


 

 

§Side Claudia

 

 

「……っ、ごほっ、ぅ」

 

 ぶわりと舞う砂埃に咳込んで、包帯の巻かれた掌で口元を覆う。

 じりじりと熱で焦げる肌が、熱い。

 あたりの光景は、ずいぶんと酷い。ひび割れて倒壊した建物。あちこちに飛び散っている血痕。

 遠くに銃火器の音も鈍く絶え間なく響いている。

 

 だけど進まないわけには、いかなかった。

 この戦禍の中で、負傷した人を一人でも多く救う。それが自分に与えられた役目だから。

 脳裏に浮かぶ、憧れを抱いている彼女の凛とした姿と少しでも重なりたい。それは紛れもない本心。

 だからこそ、看護団の一員としてこうしてワルシャワの戦地に赴き、砕けた瓦礫を避けながらでも進んでいます。

 後悔はしていません。私の手を必要としてくれる人がいることも、信じて疑っていません。

 決して、誰かのために命を懸けるこの行為は無駄にはならないのだと知っています。

  

 ――だけど、可笑しい、と。

 呼吸を妨げる砂埃も、肌を焦がす熱も、行く手を阻む瓦礫さえも。

 果敢に踏み分けて人の手で造られてしまった荒野を進む自分の姿に、とてつもない違和感を覚えて。

 

 運び込まれてくる怪我を負った兵士の方々の手当を終えて、背後にちらりと聞こえたのは、ここから離れた少し先にまだ助けを求めている仲間がいると弱々しくこぼす声。

 体力に余力のある者は誰か行ってやれないか、と他の誰かの声が続いて。

 それに、真っ先に志願しました。

 別に看護を任されている私でなくてもいいと、軽傷の兵士に行かせるから構わないと断られたのだけれど、自分に出来ることがあるのならしたいのだと伝えて、制止を振りきって飛び出して。

 私は常々そういうところがあるので、看護団の方々は好きにさせてやろうと思ってくれたのかもしれません。

 それ以上後ろから制止の声がなかったことに少しほっとして、話に聞いた建物を目指して、物陰に隠れながら進みました。

 

 そろりと歩きながら、思うのです。

 こんなにも危険だらけの場所を歩いていながら、どうして私は怖くないのだろうかと。

 もちろん、物音がしたらびくりともしますし、人影がちらつくとドキドキします。

 味方だろうか、敵だろうかと考えてしまうくらいには。

 死ぬかもしれない場所にいるのだから、それなりに――怖い、はずなのに。

 どうしてこんなにも、瓦礫と砂埃にまみれながら、普通に歩けているのでしょう。

 さっきも私は誰よりも先に飛び出して、肩越しにちらりと振り返れば、恐怖に怯えて、後に続けない顔がたくさん見えました。男性も女性も、たくさん。

 それを悪いとも、弱いとも、間違っているとも思えない。

 むしろ、それこそが当然の反応なのだと、思うのです。

 

 私が勇気があるわけでは、決してない。

 だって私は、ただ怖くないだけだから。

 人より恐怖が薄い。それだけだから。

 そしてだからこそ、身近に感じられない恐怖をもっと知りたい。十全に、人として当然のように。

 ちゃんと自分にもその感情が普通にあるのだと思いたい。

 

 人助けももちろんだけれど、自分に足りないモノも見つけたい。

 だから今、自分で進むべき道を選んで、この場所にいます。

 死と隣合わせの 戦場(ここ)ならきっと、私は恐怖を知れるだろうと思ったから。

 

 砂埃の舞う視界の先。

 看護団の拠点からそう遠くないところに、話に聞いていた特徴と同じ建物を見つけて、開いていた入り口にするりと潜り込んだ。

 物音はしない。人影も見当たらない。

 思えば勢い良く飛び出してきてしまって丸腰なものだから――元々危ないモノを所持する気もないけれど、用心するしかできることもなく。

 怪我人がいるはずなのだと、そろそろと忍び足で歩いてあたりを見回した。

 

「あっ……!」

 

 入り口からほど近い場所、割れた窓ガラスの側。

 ぐったりと倒れた人影を見つけて、慌てて駆け寄る。

 急げばなんとかなるかもしれない。処置は少しでも迅速に。

 頭の片隅で冷静に考えながら、血塗れの軍服をまとって倒れた身体の横に膝をつく。

 けれど――。

 

「ああ、ごめんなさい。来るのが、遅くなってしまって。

 もう少し、もう少しでもはやく歩けばよかった。ほんとうに、ごめんなさい」

 

 冷えて冷たくなってしまっていた身体。

 息を引き取ってからそれなりの時間が経ってしまったのだと分かる。悔やんでも遅いと知っているけれど、やっぱりどうしても悔やんでしまって。

 せめて私にできることを、と。

 きゅっと目を閉じて十字を切って、精一杯の祈りの言葉を捧げる。

 国のためにその尊い生命を懸けた彼が、良き処へいけますように、と。

 

 そっとあげた視線を、続いている建物の奥へ投げた。

 怪我を負った兵士が一人とも限らない。

 もしかしたら、建物の奥にまだ避難した人がいるかもしれない。

 

 もう少し戦況が落ち着いたら、必ず仲間の元へ。

 あなたがここにいることを、戻って必ず伝えますから。

 だからもう少しだけ、ここで辛抱していてくださいね。

 

 そっと冷たい身体に言葉をかけて、立ち上がって踵を返す。

 ぎゅっと拳を握って、この建物にこれ以上の被害者がいないように願って、奥へ、奥へと歩を進めた。

 

 ひとしきり回った建物の中、倒れていた彼以外の人影はなく、ほっと胸を撫で下ろす。

 私ひとりで彼を運ぶことはできないから、まずは戻って応援を呼ぶこと。

 そう決めて、建物の奥から入り口を目指そうと歩き出した、ときでした。

 

 びきり、と嫌な音。

 不安に思ってふっと見上げる。

 すると、煉瓦造りの天井の真ん中、そこにあった隙間から、何故か曇った空が見えた。

 その違和感にひくりと、喉が震えて。

 

「……――っ!」

 

 声すら上げる間もなく、次の瞬間にがらがらと派手な音を立てて降ってくる大きな瓦礫たち。

 ああ、私の人生はここで志半ばに終わるのだと悟った。

 そして、そんな死を目前としたこの瞬間にも、驚きはしたのに――私はそう恐怖を感じてなくて。

 ただ漠然と、ああ、死んでしまうのだと。

 知りたい 感情(こと)を知ることもできず、足りない半分のまま終わってしまうことが、とても、とても悲しくて、残念で。

 だけど視界いっぱいに、あまりにも大きい規模で天井が崩れていくものだから。

 冷静な頭が、もう逃げられないし間に合わない、元々ボロボロなこの身体で走ったところで意味がないのだと動くことをすっかり拒否してしまっていて。

 

 ああ、それならばせめて最後は祈りながら逝きたい。

 どうか私も、良き処へいけますように、と。

 旅立つ覚悟を決めて、祈りのカタチへ手を結ぼうとした、そのときでした。

 

 まだかろうじて崩れていない壁の向こうから、ひゅっと聞こえた風切り音。

 それに続いて、倒壊が進む真上ではなく真横から、ドッカーンと、鼓膜いっぱいに響いたとてつもない衝撃音。

 そしてそれと同じだけ、びゅうびゅうと乱暴に吹きすさぶ風。そして微かに捉えた、誰かの叫び声。

 

「きゃぁっ」

 

 爆発するように溢れたいろんな音と風に驚いて、ぎゅっと目を閉じてしゃがみこんで、縮こまる。

 溢れていたいろんなモノが収まったように思えたころ、そろりと顔をあげて、あたりをうかがって――呆然と。

 

 これは、どういうことでしょう。

 視界がずいぶんとすっきり、さっぱり。

 さっきまでは壁に阻まれて見えなかった場所に、外の建物がちょこんと並んで建っていて。

 

 間違いなく助からないと思ったのに、助かったということでしょうか?

 あまりに突然なことにびっくりしすぎて、へたりと砂埃だらけの床に尻もち。

 

 ざり、と瓦礫を踏み分ける足音。

 そういえば爆発したような音の合間、誰かの叫び声が聞こえたような。

 ああ、もしかしてその声の持ち主が私を助けてくれたのでしょうか?

 そうであれば、あんな大きな瓦礫をどういう方法で撥ね退けたのか分からないとしてもこの状況は納得ができる。

 もし助けてくれたのだとすれば、助けられた者としてお礼を伝えなければ。

 舞い上がる砂埃の中で必死に目を凝らして、足音が聞こえた方向をじっと見据えた。

 ぼんやりと、浮かび上がる人影。

 ああ、やはり人が居たのですね。きっと、あの人が私を。

 そう思って喜びに頬が綻んだ、瞬間。

 

「……ぁ」

 

 ぞくりと、僅かに背筋に走った悪寒。

 体調に変調をきたしたのとは意味が違う。

 僅かに反応した身体。

 それが意味したのは、間違いなく――。

 

「――あぁ」

 

 唇から零れ落ちたのは、歓喜。

 私が選んだ道は、決して間違いではなかったのだという安堵。

 迷い苦悩する魂が、救済の糸口を見失うことなく手元に手繰り寄せた。

 

 眇めた瞳で見据える先には、血に塗れた黒い軍服を纏う長身の男性。

 整った顔立ちをしていて、その肌はまるで雪のよう、美しく白い。髪もまるで同じに。

 それでいて、赤く鮮やかに爛々と輝く狂気を宿した瞳。

 感じるのは 同類(おなじ)だからこそのシンパシー。間違いなく、彼は私と同じノアの子。

 

 崩壊し炎上していく地獄絵図のような景色に相応しく、大量の血飛沫を浴びた凄惨な姿。

 それなのに、どうしてでしょう。

 がらがらと跡形もなく崩壊していく世界の中で、どうしてあんなにも彼は美しく見えるのでしょう。

 まるで、神の御使。絵画に描かれた美麗な天使のよう。その姿に、魂が震えた。

 ――ああ、きっとこれは私の運命。

 今此処で彼に出会うために、私は今日までを生きてきた。

 そんな思考すら脳裏に浮かんで。そしてそれは確信となってすとんと私の心に落ちてきた。

 

「……ぁ」

 

 目が、合う。

 交錯した視線に、どくりと心臓が跳ねた。

 感じたのはそう、それはきっと――恐怖。

 私が知りたくて仕方がない感情の一欠片。

 

 彼を知覚した瞬間が今までで――生きてきた全ての時の中で一番、怖かった。

 それでも普通の人の感じる恐怖には足りないのだろうけれど、恐怖だと思えるものを確かに感じた。

 ついさっき落ちてくる天井に潰されそうになった、ほんとうにぺちゃんこになって死にかけたことより、よほど確実に感じた恐怖の気配。

 

 災害や戦争よりも怖いものが、間違いなくそこに存在している。

 私の、目の前に佇んでいる。

 彼はとても、怖い人。

 ――それを正しく知ることが、上手く私には出来ない。

 他の人――普通の感情を持った相手ならばきっと、出会っただけで恐ろしさに震え上がって許しを乞うのかもしれないけれど。

 私は普通じゃないから、半分だから。

 だから、彼が怖くない。それどころか美しいとさえ思う。

 荒んだ風に棚引くとても綺麗な白い髪に、狂おしいほど赤い瞳に心が奪われている。

 

 これはきっと、運命。

 そうとしか表現できないほど、彼との間に目には映らない確かな絆を感じる。

 私は、彼といっしょにいたい。きっとそうしたら、私の欲しいモノが手に入る予感がある。

 この出会いが運命だとすれば、きっとその予感は正しいはず。

 出会ったばかりでまだ名前も知らないのに、その側を離れたくない。

 

 ――ああ、それならば、まずは彼と関わらなくては。

 やっと手に入れられそうな感情を得るより先にまるで塵のように散らされてしまう、その前に。

 彼の瞳に、この魂を曝さなくては。共にノアの子なのだと、伝えなくては。

 手遅れになる前に、せめて私に興味を持ってもらいたいから。

 幸いにして、怖くない。私は彼が怖くない。

 大丈夫、きっと大丈夫。

 

 もつれそうな唇を、震わせながら息を吐いて。

 上手くまとまらない頭で、それでも咄嗟に最初の言葉を紡ぐ。

 

「その、あなたは……」

 

 お願い、どうか。

 どうかまだ、まだ私を殺さないで。

 あなたは私の運命の人だから。

 どうかお願い、私をあなたの側に置いて欲しい。あなたの側に居たい、私の言葉を聞いてください。

 

 心の中で祈りながら、もつれる唇で紡いだ言葉。

 それに、意外にもきちんと彼の声が返ってきて。赤い瞳に真っ直ぐに私の姿が映っていて。

 ああ、美しいこの人は、私を瞳に映して、私の声を聞いてくれる。

 私の声が、彼に届いた。瞳に映れた。それはなんて、素敵なこと。

 

 彼の声が鼓膜に届いた瞬間、ふっと心が軽くなった。

 恐怖のかわりに胸の内に篭っていた、手遅れになるかもしれない不安。

 それが彼の声を聞いただけで、まるで最初からなかったようにふわっと霧散したみたい。

 

 思わず、口元が綻ぶ。

 ああ、やっぱり彼は私の運命なんだって確信してしまったから。

 それならもう不安に思うことなんて何もなくて。

 

 ――そこからははもう、ありのまま。私の心が思うまま。

 運命だから、大丈夫。

 信じることは簡単で、心の赴くままに素直に言葉を紡いで。

 だから自然と、微笑めた。会話も驚くほど、とても自然だった。あなたに問われるまま答えることが楽しくすらあった。

 ねえ、ヴィルヘルム。

 あなたからすればきっと意味が通じなくて可怪しかったし苛立ったでしょうけど、あなたと居たい一心で喋って、微笑ったんです、私。

 そしたらね、ちゃんとあなたに手を伸ばして貰えたから。それは私にとって幸福なことで、それだけで嬉しくて。

 

 ありがとうね、ヴィルヘルム。

 あの日のあなたに、改めてお礼を伝えたい。

 あなたはきっとそんな風に思ってはいないでしょうけど、それでもあなたに助けて貰えて、あの日の私は救われました。

 運命に出会って、あなたの側に寄り添うことが出来ました。

 

 ――そう。これが、私たちの 初恋(はじまり)

 戦火の中に現れた白く美しい天使は私の運命の人。

 恐怖を知りたい私が掴んだ切欠は、彼の側。

 私を瞳に映す鮮やかな赤い瞳が嬉しくて、いっしょに居たいと願って言葉を紡げば差し出された白い指先。

 手を伸ばしてくれた 天使(かれ)のために、私が持てる魂すべてを捧げると決めた。

 これが私の運命なのだと、心から信じることが出来たから。

 



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雛鳥は腕の中 Side Claudia 2017/2/13訂正

ワルシャワから目的地を目指して移動中の二人のお話です。一番最初に書いたヴィルクラでした。
2017/2/13 シリーズを大分書き進めたので、全体の雰囲気に合わせて内容修正しました。
 


 

 

雛鳥は腕の中 

 

§Side Claudia

 

 

 ワルシャワの戦禍の中で運命の出会いを果たしてから、はや数日。

あの日以来、私は命を救って貰った恩を返すため、ヴィルヘルムと行動を共にしています。

 あちこちでいろいろと揉めつつ目的地を目指して街から街へ。空き家を利用しながら点々と移動して進んでいるのですが、毎回うまくはいかないみたい。

そんなわけで今日は初めての野宿です。ヴィルヘルムといると予想もしなかった初めての経験ばかりが起きてわくわくして楽しいですね。呑気に浮かれるなって、毎回怒られちゃうんですけど。

 

 とっぷりと夜も更けて、冷えた空気にそっと息を吐く。

夜目が利かずに無茶が出来ない私がいるので今夜の移動はこのあたりでおしまいと足を止めた、ときおりフクロウの鳴き声が響く広い森。その片隅にひっそりとあった、月明かりの差し込む薄暗い洞窟に、二人。

 

 ひんやりと冷えた洞窟の奥の方に、脱いだ頭巾を側に置いて膝を抱えてちょこんと座る私。それよりニメートルくらい離れた場所に、ごつごつとした岩肌に凭れかかってヴィルヘルムが座っている。この配置はたぶん、私が逃げ出さないように。

 逃げません、大丈夫って何度も言っているのに、まだ完全には信用して貰えないみたい。

 ちらりと横目に様子をうかがうと、片膝を立てて目を瞑った横顔。差し込む月明かりに照らされて、黙っているととても綺麗。

 無骨な景色と綺麗な顔と着こなしている厳粛な軍服姿がバランスよく噛みあって、ちょっとした一枚の絵画みたい。いざ口を開けばあんな口汚い言葉を吐くなんてウソのよう。

 とても綺麗なのでじっと見ているのもそれはそれで楽しくていいですけど、差し迫ったお願いがあるのでそれはまた今度の機会に。

 

「ヴィルヘルム」

 

 そっと、冷えた空気に名前を乗せて呼びかけてみる。あ、無視された。ヒドイです。

 

「あの、ヴィルヘルム」

「……」

 

 ちらっとこっちを見て、また無視。

 もう、ヴィルヘルムったらつれない。野宿になってしまって機嫌が悪いのは分かりますけど、相手して貰わないと私だって困るんですってば。返事してくれるまで、諦めませんからね。

 

「ねぇ、ヴィルヘルムったら。こっち向いてください」

「……何だよ」

 

 三度目の声がけでやっとこっちを向いてくれたけれど、やっぱり不機嫌そう。

 だけど、ここでその不機嫌顔に屈するわけにはいかない。自分の要望はきっちり伝えないと洒落になりませんから。

 

「あのですね、こうして夜も更けてくると昼間とは違って寒いじゃないですか。だからね、なんとかして欲しいんですけど……」

「ああ? なんとかって、具体的にどうしろってんだよ」

 

 あら、意外。てっきり知らねえの一言で終わると思ったのに。具体的な案を求められましたけど、特に思い当たる意見がなかったので口元に指をあててしばらく考え事。

 

「うーん、そうですねぇ。血生臭いのはこの際ガマンしますから、その立派なコートを貸してくれるとか」

「はッ、やなこった。血生臭いは余計だ、この馬鹿女」

 

 あら、残念。断られちゃいました。

 じゃあ他の案を探すことにして首をこてんと傾けると、ニメートル先から呆れ声が飛んできて。

 

「寒いんなら焚き火でもおこせばいいだろ。好きにしろよ。俺は寒くねえからいらねえがな」

「むー、私は寒いんです。あなたと違って生身の人間でしかも女性なんですからね。もっと大事に労ってくれないと困っちゃいますよ」

 

 頬を膨らませて不満を訴えると、盛大に溜息を吐かれて。

 もう、ほんとうに私の扱いが悪いんですから。自分から私を拾ったくせに、ヴィルヘルムったらヒドイです。

 女性ですから、もっと大切に扱われたいんですけど。

 あなたに紳士なエスコートなんて期待してもダメでしょうけど、そこはやっぱりちょっとくらい優しくされたいんですよ。

  

「あのですね、ヴィルヘルム。焚き火をするとして、ここには薪がないから拾いにいかないといけません。好きにしろってあなたは言いましたけど、私がひとりで出歩いてもいいんですね? 危ないかもしれないですよ? 真っ暗で迷子になったりとか、オオカミに襲われたりとか、お化けが出てきて拐われちゃったりとか」

「……あーァ」

  

 墓穴を掘ったって顔をして、困ったように半開きの唇。いい感じかも。うん、これはもう一押しでいけそうですね。では、にっこりと笑ってダメ押しを。

  

「それでもいいって言うなら私は薪を拾いに行きますけど、そうなったら全部、ぜーんぶヴィルヘルムのせいですからね?」

「……はぁ、もう面倒くせえなてめえは」

 

 がしがしと頭を掻いて、乱暴な溜息がひとつ。

 てっきり薪を拾いに行くのについてきてくれるために立ち上がるのかと思ったのに、違うみたい。

 

「ほら、こっちこいよ」

 

 乱暴に差し出された、白い手袋をはめた腕。不機嫌そうに眉根を寄せて、やっぱり口調も乱暴で。

 だけど、彼なりに大事にしてくれるみたい。きっちり手袋のはまった白い掌はこっちを迎える優しいカタチで、月に淡く光っていて。

  

「なるほど。コートを貸すのも嫌、薪を拾いに行くのも面倒くさい。だから、風除けになってくれる、と。うん、お手軽でいい考えですね」

「……ちッ。嫌ならくんじゃねえ。おら、どうすんだよ」

 

 ダメですよ、女性に舌打ちは失礼です。ヴィルヘルムのことせっかく見直したっていうのに、もう。

 でも、そうですね。嬉しいから許してあげます。

 だけどやっぱり私は女性ですので、大事なことの確認は確実に。

 

「えーと、あのですね、ヴィルヘルム。私はそっちに行きたいんですけど……ヘンなことしない、ですよね?」

 

 やっぱり恥ずかしかったので、ちょっとモジモジしつつ聞いてみたんですけど。

 

「はぁッ? バカ、しねえよ! てめえみたいな胸もケツもねえヤツに手えだすわけねえだろうが。俺の好みはもっとこうグラマラスなんだよっ」

「うーぅ、そんなにはっきり言わなくても。分かりました、その言葉を信じてそっちにいきますね」

「もういい、こなくていい。そっちでひとりで凍えてろ、馬鹿女」

 

 悪態を吐いて、またガシガシと頭を掻いて、ぷいっとそっぽを向く。

 だけど、素直でない彼はやっぱりどこか優しいんです。

 そっぽは向いたまま。こっちを見てもくれない。それでも、一度勢いで真下に振られたはずの白い手袋の掌がしれっと宙に浮いていて。それが、やっぱり嬉しくて。

 きっと放っておいたら自分が困るからとかそんな残念な理由でしょうけど、それでも彼なりの不器用な優しさを私に向けて貰えることが幸せで。優しい声で軽口を叩いて、嬉しくてくすくす笑って。

  

「イヤですよ。側に行きますから、ちゃんと温めてくださいね。女性なんですから、大事にして欲しいんですよ」

「あー、はいはい。それならさっさとこっちきやがれ、寒ぃんだろうが。風邪ひいてもしらねえぞ、馬鹿女」  

 

 促されるまま冷たい岩の上をよちよちと這って、ヴィルヘルムの側へ。近づくと、差し出されていた掌に腕を取られてぐいっとひっぱりこまれて。

 無造作にがばっと開かれていた長い足の間にちょこんと収まってみると、うん、たしかに。冷たい空気も、吹き込んでくる冷えた風も、さっきまでほど身体の熱を奪うことはないみたい。

 

「どうだよ。少しはマシになったか?」

「うーん、なったんですけど……」

「あ? まだなんかあんのかよ。またコートが血生臭えとか言いやがってもどうしようもねえからな」

 

 すぐ側から、呆れ返った声。見上げると、情けなく歪んだ口元に、ぎゅっと眉根の寄った顰めっ面の顔。

 うーん、もったいない。なんだかほんとうにもったいない。血生臭いコートはもう諦めてるので大丈夫ですけど、そこじゃなくってなんだか、もういろいろと。

 せっかくの綺麗な顔が顰めっ面してるのももったいないですし、この体勢もなんだかもったいないです。物足りないって、言えばいいんでしょうか。もっと、こう、暖かくできそうな気がするんですけど。

 この距離なのに、なんだか意味がないというか、やっぱりもったいないというか。とにかく、残念な感じなんですよ。

 

「ぁっ!」

「……ア?」

 しばらく軍服を着た足の間に座ったまま考えこんで、辿り着いたひとつの答え。思わずはっと声を上げれば、真後ろから追いかけるように怪訝な声が降ってきた。

 もったいなくて物足りないの正体は、きっと距離感。きっと、こんなに近くにいるのに触れ合ってないからヘンな感じがするんじゃないかと。

 温めてくださいっていったのに、ただ風除けになってるだけでは効果も薄いし、直接温められてないわけですし。寒いとき、人肌で暖を取るのは定番ですよね。これはヴィルヘルムにはないしょですけど、実は私一回くらいこういうシチュエーションを経験してみたくて。これはたぶん、やっちゃえっていう神の思し召しかと。どう取るかは人の自由なので、この機会(チャンス)をそれはもうありがたく頂戴することに。

「ふふーっ、えいっ!」

「はあァ? ――って、おい! こら、クラウディア、やめろって」

 

 そんなわけで、にっこり笑って気合をいれて、元気よく掛け声をひとつ。制止の声なんか無視してぐりぐりと軍服に頬ずり開始。

 ぴったりと引っ付いてみて気付いたんですけど、ヴィルヘルムの体温はとても不思議。何だか上手く言い表せない体温をしている。

 だからって不快ではない。確かに普通ではないですけど、私はむしろ好きで落ち着ける、そんな暖かさのある身体。

 ついでに言うなら、彼は見た目だけは普通の人のようですが、やはり纏う気配はただの人とは言えずとっても怖い。彼の機嫌が悪いと特に酷くて、側にいて苦しくなったりすることも。それは出会った瞬間から知っていたことですし、彼はそういう存在なのだと割り切ってだいぶ慣れちゃったのでもう気にしてません。だけどこうして直に触れ合ってみると、やっぱり彼は人とは違うのだなあと思い知る。

もちろん、だからって遠慮なんてしないんですけどね。彼が普通の人でないという理由で距離を作ってしまったら、それこそ身体を張って恩なんて返せませんし、こうして引っ付き合って暖なんて取れない。だからやっぱり拭えない恐怖はありますが、それでも半分の私の恐怖は薄い。だからそれを都合よくとって遠慮なんてしません。そんなわけなので、今は寒い夜を乗り越えるために暖を取るべく頬ずり続行。

 たしかに定番な手段ですけど相手がグラマラスじゃない私じゃ嫌だってヴィルヘルムが抵抗するでしょうから、そこはもう実力行使。暖かいって身体に教えるしかないじゃないですか。

 普通にひっつくだけだとすぐに暖まらなそうなので、スピード勝負で頬をぐりぐりすりすりと。しばらく胸元にぐりぐりと頬を押し付けて、ぬくぬくになったのを確認。ふっふっふー、ばっちりです。

  

「ふふっ、ね? 暖かいでしょう?」

 

 すっかり満足して視線を上げると、ぽかんと呆れた顔。あらら、突然過ぎてびっくりしちゃった?

 しばらくそのまま固まってた表情が、ふいに呆れ混じりの弾けるような笑い顔になって。

 

「くはッ。おい、おまえってやっぱ鳥みてえだな。 あー、見た目もそうだけどよ、ピーチクパーチクうるせえし、今はほら、アレだ。育ってちょっと大きくなった雛鳥同士がよ、よく狭い巣んなかでぎゅーぎゅーひっついてるだろ。アレみてえ。それじゃあおまえを囲ってる俺は雛鳥(おまえ)の巣かなんかかよ」

 

 あんまりにも屈託なく笑ってそう言うから、びっくりしてぽかんとしてしまって。

 

 ぽかんと呆けた顔のまんま、ぽわんと思い浮かべた雛鳥の姿はとても愛らしい。すっかり大きくなって、ふわふわの羽が生えている雛鳥。巣立ちまであとちょっと、そんな感じ。それが丁寧に木で編まれた巣の中にひしめきあって三羽くらい。

 ぎゅーぎゅーと押し合いへし合いして、身体をすりあわせて暖かそう。三羽とも、楽しそうにちーちーと鳴いている。

 

「ふふっ、可愛いです。想像した雛鳥もですけど、それを考えついて想像しちゃったヴィルヘルムも」

「似合わねえってか? おまえが鳥みてえなのが悪ぃんだろうが。こんな羽みてえにふわふわした髪の毛してっから想像しちまうんだよ」

「それは悪口じゃないですね。雛鳥に似てるのも、可愛くて嬉しいですよ。褒め言葉ばっかりで、どうしちゃったんですか?」

「ははっ、知らねーよ。おまえが勝手に褒められてるって思ってるだけだろうが。俺は褒めてねえぞ、バァカ」

 

 触れ合いながらうんと近くで、軽口を叩き合う。楽しそうな声が、珍しくほんの少しだけですけど優しい雰囲気。こんなにも穏やかな気持で彼の側にいるのは初めてで、ドキドキしてしまいそう。それに私からこうも好き勝手ひっついているとなんだか大胆な気分にもなってきて。

 

「ねえ、ヴィルヘルム。雛鳥は今、一羽しかここにいないので、ちょっと巣が大きすぎるんです。私にぴったりの巣の大きさになったりしませんかね?」 

「ったく、おまえはほんとにピーチクパーチクうるせえな。……はぁ。ほらよ、これでいいだろ」

  

 可愛くない悪態をついて合間に小さく溜息もついて、それでもぎゅっと雛鳥を守る巣のように包み込こんでくれた軍服を着た逞しい腕。寒さから守るために抱きしめられて、その不思議な暖かさに頬が綻んだ。

 もう一度頬を胸元にすり寄せると、真上から呆れたような、どこか楽しそうな吐息が落ちてきて。

 きっとまた、私がやっぱり雛鳥みたいだって思っちゃったんでしょうね。そんなヴィルヘルムが可愛いって、私もまた笑ってしまいそう。

 だけど声をあげてほんとうに私が笑ってしまったらきっと、俺は可愛くなんかないって顰めっ面をするんでしょうけど。その顰めっ面すら、思い浮かべたらなんだか微笑ましい。

 ああ、ほんとうに暖かい。私だけの巣だなんて、考えてみたらとっても贅沢。

 こんなに気持ちがいいなら、たとえ成長して巣立ちの時を迎えても、また何度でもこの巣に帰ってきたい。そう、思うくらい。

 とはいえ私は雛鳥に似ていても雛鳥ではなくて人間なので、空へ羽ばたく巣立ちのときはないのかも。

 じゃあ人間でいうところの親元を離れて独り立ち、という例えとしてみてみるとどうでしょう。うーん。世間一般の扱いでいえば、もうすっかり大人の女性のはずなので、あったとしても通り過ぎちゃってますね。

 だけどこの場合、親元を巣立ったあとに他の人が作った新しい巣を手に入れたのだから、やっぱりちょっと違うのかも。

 そうなると正しい例えは、人間でいうところの――結婚でしょうか。

 

 あれ、なんだか例えがすごいことに?

 それでいうと、これはヴィルヘルムが私に贈ってくれた愛の巣ということに。あらら、言葉の意味までぴったり。もしかしなくても新婚さんでしょうか。

 いえ、私は神に仕える身なのでそもそも男性との恋愛は禁止。それはもちろん分かっていますよ。する気だって、もちろんこれぽっちもないのですけど。

 ですけど、うーん。例えとしてはなんだかあながち間違っていないような気が。恋仲になんてなれないものの、一蓮托生に違いはないし。

 だって私、ヴィルヘルムにこの身体全部捧げちゃってますからね、命ごと。おまえは俺のものだーなんて、プロポーズみたいなことはとっくに言われてますし。一人の女性としては、できればもうちょっとロマンチックなのがよかったですけど、強引な男の人も嫌いじゃないのでそこはよしとしましょう。だって誰にもそんなことを言われることなくこの世界を立つのだと思っていた、そんな私がたとえ色気のある意味でなかったとしても、そうやって言ってくれる誰かに出会えただけで凄いことだと思うから。

 ――ああ、そういう意味では私、もうこの(ヒト)から離れる必要がないんですね。

 一生、ここにいていいんですね。それこそ最後の瞬間まで。だって私は、もうあなたのものだから。

 それを嬉しいと思いますよ。だから、素直にその気持ちを唇から音にのせて。大切なことをカタチにしたい、伝えたい――こういうときのために言葉ってあるのだと思うから口にしないともったいない。

   

雛鳥(わたし)は巣立たないでちゃんとヴィルヘルムの側にいますから、安心してくださいね」

 

 腕の中から飛び出した突然の一生愛の巣宣言。私を抱きしめたまま驚きにぽかんと呆気にとられた彼の顔が、やがて唇の端を吊り上げた苦笑いに変わって。

 

「そうかよ。まあ、おまえは俺のもんだからな。勝手にどっかいくとか許さねえぞ」

「はい、ちゃんと恩返ししますから。助けて貰った命はあなたのために使いたいんです」

 

 嘘偽りなく真っ直ぐに気持ちを込めた私の言葉を彼は受け入れてくれたみたい。たとえ魂を奪われるのだとしてもあなたから逃げないって、やっと信じてくれた気がする。

 ふいに抱き締めてくれる腕に力がこもって、荒っぽい手つきでもっと側へと引き寄せられる。たぶん、俺のものだってことなんでしょう。本当にその通りだから、その腕の力に抗うことなく身体を擦り寄せて甘えることにした。

 ぴったりと不思議な熱に包まれている。もうすっかり寒くない。

 いい夢が見られそう。だからあなたもいい夢を。できれば二人揃って、可愛い雛鳥の夢でも見れたら楽しい気がする。夢の中ですけど、愛らしい小さな雛鳥を、あなたと揃って眺めるのもいいかなって思うので。

 ああ、そういえば森の中にいるだから、明日の朝、起きてから本物の雛鳥の巣を探しながら進むのも楽しいかも。もちろん目指す目的地はあるので急ぎ足ですが、歩きながらきょろきょろするくらい構わないでしょう?

 朝日は嫌だと駄々をこねず、ちゃんと付き合ってくださいね。きっと素敵なものが見れますから、大丈夫。

 あなたは勘が鋭いし普通でないおかげでいろいろなことが上手そうですから、たぶん野鳥を見つけるのは得意でしょう。期待してますよ、ヴィルヘルム。ただの乱暴者じゃないんだぞーって、デキる男のカッコいいところ、私に見せてくださいね。

そうしたらちょっとくらい恩恵があるかもしれませんよ。あなたのことを見直せば見直すほど、道中私の憎まれ口は少なくなると思うので。どうもあなたにとってじゃじゃ馬らしい私を扱いやすく大人しくさせるいい機会だと思うんですけどね。

 これからのことを考えたら楽しくなってきて、前向きで幸せな気持ちで心が満たされる。私を抱き締めてくれるこの人も、少しでもそんな気持ちになってくれたら嬉しい。

 そのために、まずは惜しみなく情を。あなたがくれた優しいものを私もあなたにあげたいから。

 そっと顔をあげて、私を見下ろしてくれていた綺麗な赤い瞳を見つめ返して、あなたに優しい言葉を紡ぐ。

      

「ありがとう、ヴィルヘルム。おやすみなさい、また明日ね」

「…………ッ」

  

 嬉しかったから、素直なお礼の言葉。そしておやすみなさいの挨拶をいっしょに。

それに返事は返ってこない。彼と出会ってからの僅かな日々、人としての基本的な挨拶を機会さえあれば欠かさなかった私だけど、いつもそうやって返事は返ってこない。人の道を捨てた自分にそんなものはいらないんだとばかり、触れ合おうとする情を嫌そうな顔を隠さずに平気で突っぱねてしまう。欠片も受け取ろうとはしてくれない。

だけど、今夜はそうじゃなかった。いつもと少しだけ、違った。

優しい気持ちで掛けた言葉に返ってきたのは、いつもと違う困ったような、拗ねたような怒気の弱い顰めっ面。そうして、叩くような乱暴さでぐしゃりと掻き乱された私の後ろ頭。それは不器用で意地っ張りな彼の精一杯だったのだと思う。その仕草を恥じるように、誤魔化すように、乱暴な手つきで胸元にぐいぐいと押し付けらた。気の迷いだったから忘れろ、とばかりに真上から短い呻き声が聞こえてきて。

それに、何だか胸の中がじわっと熱くなった。込み上げてきた柔らかい熱に、ああ、私は嬉しいんだって感じた。

それは私がずっと欠かさず投げ続けてきた挨拶を躱し続けてきた彼が見せた気まぐれで、返せる精一杯だって分かったから、それ以上彼を追い詰めたりしたくなくて、込み上げた嬉しさのままに何か声を掛けたくなる気持ちをぐっと堪えて、ぎゅっと唇を噤んだ。

何も言わないかわりに、私も精一杯の喜びを込めてヴィルヘルムの胸に頬を寄せる。どうにかして伝えたいなって思ったから、そうっと伸ばした腕で逞しい身体を抱きしめ返した。驚いたように、僅かに触れ合った軍服が揺れる。だけど腕を払われることはなかったから、それがまた嬉しくて。込み上げてきた何かを堪えるように、ヴィルヘルムの額が向かい合った私の左肩にごつりと落ちてきた。ちょっと痛かったけれど、その乱暴さがどうにも彼らしくて、微笑ましくて。

寒さからも、寂しさからも守ってくれる私だけの巣の中で、不思議で心地良い体温に触れ合ったまま穏やかに眠るために瞳を閉じた。

 きっと明日は、今日以上にもっと素敵な日になる。だって帰る場所ができたから――それは、私のことが必要だと抱き締めてくれる不器用で優しい人の腕の中。

 雛鳥(わたし)だけの暖かく優しい(ヒト)がここにいるから、大丈夫。

 例え痛くても苦しくても、この腕の中なら羽を休められる。それにね、半分しかない私の片側を見つけてくれるって、あなたは約束してくれた。

 そんなあなたのために、この命すべて捧げられるその日まで生き抜くって誓いますから。負けないから、大丈夫だから。私はヴィルヘルムを信じていますから。

 だからどうかあなたといっしょに最後まで。

 光の中で心穏やかに強く明るく笑顔を浮かべて、素敵な日々を送れますように。幸せで、あれますように――。

 

 




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雛鳥は腕の中 Side Wilhelm 2017/2/13訂正

 

 

雛鳥は腕の中

 

§Side Wilhelm

 

 暴れまくったワルシャワで、抹香臭い馬鹿女を拾ってから、はや数日。今はちょっとした事情があって、国境付近の森の中だ。

 馬鹿女――クラウディアと出会った直後、黒円卓が集う必要があると招集がかかった。

 詳しい事情は説明されなかったが、行かないって選択肢はもちろんねえ。むしろ頼まれんでも行くわな。

 今のところ、目指しているハイドリヒ卿のお膝元、ヴェヴェルスブルグ城が拠点にしてるのは、ドイツ、パーダーボルンの田舎町らしい。

 そこへ向かうわけだが、何しろ今は俺ひとりじゃなかったからな。クラウディアがいるんだよ。

 生身の人間だし、強行軍でぶっ飛ばして進むってわけにはいかねえよな。

 もちろん、こいつも城の近くまでは連れていくぜ。逃げられちゃこまるしな。

 

 でだ。逆に、そこが問題なんだよ。

 出会ったばっかりのこいつのことが、正直俺はまだよくわかんねえ。いやもちろん、こいつを連れていくことを選んだ俺の勘が間違ってるなんざ思っちゃいねえよ。

 俺は俺の直感を信じてる。その選択は絶対にあってる。断言したっていい。次の段階に進んで、俺が強くなるために、ブレイクスルーを起こすにはきっとこいつが要るんだ。その考えも、きっとあってる。

 だけど問題は、その方法がさっぱりわかんねえってことだ。なにしろ情報が少なすぎる。基本となる必要なもんを掴むには掴んだんだ。

――死にたがり、光、半分の感情。あいつを構成する要素がそれってところまで手に入れて、理解した。だからその先、それをどう組み合わせ、どうやってあいつの魂を俺好みに作り変えるのか、それをするための方法は何だって話だ。

 材料はあるけどレシピがねえ、だからなんにも作れねえ。これはそんな状況に近い。黒円卓で集まるってことは、二、三年振りに同胞たちにも会うことになる。

 きっと俺と似たような悩みを抱えている奴もいれば、とっくに乗り越えた奴もいるかもしれねえ。

 そんな状況で、こんな中途半端な手の内晒すのはちょっと情けねえだろう。

 息巻いて買い物に行って材料はばっちり買ったもののの、いざキッチンに立ったらまったく料理できない自分に気付いた、みたいなもんだからな。カッコ悪いだろ。

 だからせめて同胞たちに 再会()う前に、もうちょっとちゃんとした糸口くらいつかんでおきたい。そう思った。

 運のいいことに、招集っていってもそう急ぐわけでもないらしい。

 もちろんそこそこは急ぐが、今すぐにでもってわけじゃあないようだ。数日ちょっとの猶予はあるんだと。

 なにしろ、黒円卓の面子は世界各地に散っている。おのおのあちこちの戦場で暴れまわってるって話だし、それ以外のことに勤しんでいる奴もいるだろう。

 やりかけたことをほっぽって急にこっちこいって言われても困るだろうから、って措置らしい。ありがたいことで。

 まあヘタするとザミエルあたりからきつく説教は喰らいそうであるが、事情を話せば別に許してくれるだろう。話がわからん奴でもなし。

 結果的にハイドリヒ卿のためになれば、あいつは文句言わん輩だしな。そこんとこ、俺と同類だからよ。

 それより面倒くせえのは遅刻を不敬だ不忠だなんだからかおうとしてくるマレウスの方なのは間違いない。とりあえず叩いて黙らせれば問題ねえだろ。

 

 そんなわけでもらった猶予を、俺はこうしてクラウディアを観察することに充てている。

 まずはその人となりを観察して、どうにかこうにかこいつを俺好みの魂のカタチにする具体的な方法を探すって寸法だよ。

 

 で、ワルシャワから人攫い同然に連れて来て、ここ数日行動を共にしてきて分かったことがいくつか。

 まずこいつは、俺と同じアルビノだってこと。最初の時点でわかっちゃいたが、数日いっしょに過ごしてそれが間違いないのを確認した。だけど、同じアルビノでも在り方はまったく真逆だ。俺からしたらキチガイとしか思えねえ。

 さっきも言ったが、こいつは光に憧れてる。

 そのせいで、普通の人間を――光に灼かれても平気な人間を、自分より凄いと勘違いしてやがる。そして、光に受け入れられていない自分は、普通の人間と違って半分なんだ、と。

 最初に出会ったときと変わらず、相変わらずズレてて頑固な馬鹿女だ。正してやるのも面倒くせえと思ったし、逆にそれが使えるとも思った。

 うまくすれば化けるかもしれないと、直感した。外れてない、いけると思った。この女からはいつだって美味そうな匂いがする。どんな生き物にもある程度の好き嫌いはあって生きるためにこそ食い物は選ぶ。肉食、草食、雑食、いろいろあるだろ。喰えないもん、喰いたくないもんってのは生き物なら何かしら存在するんだよ。こんだけ美味そうないい匂いがするんなら、俺にとって明らかにいいもんに違いない。

 これが、俺を次に押し上げるための切欠になる。この女は確かに最悪に馬鹿でイカレてやがるが、それでも間違いなく俺には要るんだと。

 だから約束してやったんだ。

 俺が、おまえの足りない残り半分を見つけて、満足させてやると。

 で、約束してやったらよ、想像以上に効いたらしくて、懐いてきて参った。まあ逃げられたり嫌われたりするよりマシだがよ。都合がいいっちゃ、いい。

 そもそもこいつは足りない半分を見つけたいがためにここまで光に灼かれながら生きてきたわけだ。その重要さを分かった上で口にした俺も大概だろ。

 もちろん、約束を違える気はない。それを見つけるのは、そもそも俺のためにもなる。だからどうにかして、こいつをうまく使って、俺もうまく立ち回ってって、この女の足りない半分とやらを手に入れなければいけないんだがよ。

  

「ヴィルヘルム」

 

 ああ、うるせえな。俺は今考えごとしてるんだよ。しかもてめえについてだよ。そもそも頭使うの苦手なんだよ、出来ることならこんなのはしたくねえ。空気読めや、馬鹿女。

 

「あの、ヴィルヘルム」

「……」

 

 だからうるせえっつんだよ。

 一言でも会話しちまえば、また面倒くせえ問答が始まるんだろう。女ってのはどうしてこういっつもお喋りで口煩えのかな。

 ちらっと横目で見てみれば、俺の態度に不満そうな可愛くねえ顔。だが拗ねて顔を顰めてるだけじゃなさそうだ。寒いのか、ぎゅっと縮こまって身体を抱きしめていた。心なしか、顔色が青い気がする。

 

「ねぇ、ヴィルヘルムったら。こっち向いてください」

「……何だよ」

 

 風邪でもひかれたら面倒くせえなと思って、しょうがねえから相手をすることにした。

 ここが建物の中なら自分でなんとかしろって放っておくんだけどな。今回はついてないことに野宿なんだよ。

 適当に見つけた洞穴ん中。外よりマシかと思ったが、こいつにはしんどかったかね。

 明日は無理やり国境越えする予定だからな。あちこちの戦禍の影響で国境周辺が物騒だって話はマジらしい。

 単身なら気にせずどこでも突っ込むが、馬鹿女ってお荷物がいるからな。身なりがSSの軍服って見ての通りだしよ。多少は厄介事が起きそうな予感がするんだよな。何があるかまだわかんねえし悶着起すのも面倒で、人目を避けようと思っての措置だったんだが、失敗だったか。

 

「あのですね、こうして夜も更けてくると昼間とは違って寒いじゃないですか。だからね、なんとかして欲しいんですけど……」

「ああ? なんとかって、具体的にどうしろってんだよ」

 

 困ったように眉根を寄せて要求してきた内容は、予想通りだった。やっぱり寒いのか。だけどそのわりに、具体的にどうして欲しいって言ってこねえから、仕方なく聞き返す。

  

「うーん、そうですねぇ。血生臭いのはこの際ガマンしますから、その立派なコートを貸してくれるとか」

「はッ、やなこった。血生臭いは余計だ、この馬鹿女」

 

 ほんとにてめえは一言多いな。そんなに殴られてのか。おまえが要るんじゃなかったら、俺の特別じゃなかったら、とっくにぶっ飛ばされてるって自覚しろよ。

 ほんとはとっくに死んでるんだぞ、数日前に俺に殺されてるはずだったろう。

 馬鹿女。てめえはどうしてそんなに面の皮が厚いんだろうな。俺相手にただの女がそんな口きけてるとかマジでびびるわ。 

 はァー、もうほんとうに面倒せえ。このくだらないやり取りをさっさと終わらせたくて、適当に思いついた案を口にする。

  

「寒いんなら焚き火でもおこせばいいだろ。好きにしろよ。俺は寒くねえからいらねえがな」

「むー、私は寒いんです。あなたと違って生身の人間でしかも女性なんですからね。もっと大事に労ってくれないと困っちゃいますよ」

 

 はいはい、そうかよ。たしかにおまえは性別女で、たしかに生身だ。男で人外羅刹な俺とは違わあな。

 だけどな、可愛くねえ口聞く女に優しくする男もいねえって、そういう一般常識も覚えろ、馬鹿が。そんでもって、おまえはほんとうに可愛くねえ、マジでな。 

   

「あのですね、ヴィルヘルム。焚き火をするとして、ここには薪がないから拾いにいかないといけません。好きにしろってあなたは言いましたけど、私がひとりで出歩いてもいいんですね? 危ないかもしれないですよ? 真っ暗で迷子になったりとか、オオカミに襲われたりとか、お化けが出てきて拐われちゃったりとか」

「……あーァ」

  

 言うに事欠いて迷子、オオカミ、お化け。おまえどんだけ俺のこと舐めてんだよ。迷子とオオカミまではリアリティあるから許すがよ、残り一つはマジでねえわ。いや、そりゃある意味俺だっておまえからしたらお化けみてえなもんかも知れねえが――って危ねえ、話が脱線する。

 とにかく、おまえはマジで迷子になりそうで一人で行かせられねえ気がする。

 おまえの寝ぼけっぷりは嫌っていうほどこの数日で見せられてるんだよ。たくましいのはその口だけだろう、どうせ。

 そんで結局一人で行かせたら、ほんとうに迷子になって戻ってこられなくなって、結局そのまんま森の中で朝日に灼かれてじゅーじゅーなるんだろ。全身真っ赤なおまえがぐったり森にごろんと転がるんだろ。

 どうせ、俺が朝になってわざわざ探しにいくところまでセットなんだろうが。勝手に灼かれて死なれちゃたまんねえぞ、おい。オチが見えてるんだよ、阿呆が。

      

「それでもいいって言うなら私は薪を拾いに行きますけど、そうなったら全部、ぜーんぶヴィルヘルムのせいですからね?」

「……はぁ、もう面倒くせえなてめえは」

 

 がしがしと頭を掻く。溜め息つくなとか無理だろう。ほんとうにこの女は質が悪ぃ。下手に頭の回る悪女よりよっぽどな。

 一人でここから出すわけにはいかねえ。迷子とか洒落になんねえ。

 だけど態度が可愛くねえからコートも貸したくねえ。かといって薪拾いとかマジで面倒くせえ。

 俺が一人で行ってぱぱっと拾ってくりゃあ話は早いしすぐ済むのかもしれねえが、負けたみたいで嫌だ。

 女の口車にのせられて動くとか、お断りだぜ。仕方ねえから、そのどれでもないのを選ぶことにした。

 

「ほら、こっちこいよ」

 

 適当に手を差し出す。まともな女扱いなんてしてやらねえ。気分はアレだ、餌付け。そんな感じ。

 鳥みたいな見た目してるからな、豆でもまいとけば寄ってくるだろう。

 可愛げ振りまいて、チチッと鳴いて手の上にでも乗っかってみやがれ。もう面倒くせから、さっさとこのヘンで折れろよな。

    

「なるほど。コートを貸すのも嫌、薪を拾いに行くのも面倒くさい。だから、風除けになってくれる、と。うん、お手軽でいい考えですね」

「……ちッ。嫌ならくんじゃねえ。おら、どうすんだよ」

 

 ほんっとうに可愛くねえ。人の心情探ってる暇あったらさっさとこっちこいよ。

 寒いんだろうが、だんだん顔色も鳥肌もひどくなってきてんぞ。下手な意地はんなよ、馬鹿が。

 

「えーと、あのですね、ヴィルヘルム。私はそっちに行きたいんですけど……ヘンなことしない、ですよね?」

 

 あ゛ー、いくら俺のためとはいえこんな女欠片でも気に掛けた俺が馬鹿みてェ!

 

「はぁッ? バカ、しねえよ! てめえみたいな胸もケツもねえヤツに手えだすわけねえだろうが。俺の好みはもっとこうグラマラスなんだよっ」

「うーぅ、そんなにはっきり言わなくても。分かりました、その言葉を信じてそっちにいきますね」

「もういい、こなくていい。そっちでひとりで凍えてろ、馬鹿女」

 

 腹立つ。マジでいい加減にしろボケ。ガシガシ頭を掻いて、癇癪をぶつけようとそこらへんの壁殴りつけようとしたが、これで洞窟くずれちゃたまんねえなと思ってやめる。

 崩れちまったら、てめえで崩した責任取ってこの馬鹿女かばわなきゃいけねえし、それが面倒くせえしよけい腹も立つ。

 そんでもって風邪でもひかれたら、やっぱりもっと面倒くせえことになる。大事な用事でひさびさの招集が掛かってるんだ。それの邪魔になるようなのはごめんだ。

 だから、仕方ねえ。腹は立ったまんまだが、こいつが寒そうなのはほんとうだ。

 それに、こっちが恐いからとガマンして無理して黙っててぶっ倒れられるより、考えたらマシだった。逆に、こういう女で良かったのかもしれない。

 

 そろっと手を元に戻すと、離れた場所で、きょとんとした顔が浮かぶ。じっとこっちの手を見つめたあとで、嬉しそうな顔をする。

 ああ、最初からそうやって素直にこっちにくれば可愛いのに。ほとほと呆れてたらよ、こてんと小首を傾げて鳥みたいにさえずって声をあげて笑った。

   

「イヤですよ。側に行きますから、ちゃんと温めてくださいね。女性なんですから、大事にして欲しいんですよ」

「あー、はいはい。それならさっさとこっちきやがれ、寒ぃんだろうが。風邪ひいてもしらねえぞ、馬鹿女」  

 

 楽しそうに這って寄ってくる腕を取って、開いた足の間に引っ張りこむ。

 触れた手はしっかり冷えきっていて、顔を覗きこめばやはり血の気が引いていて、まずかったなと少し焦った。

 身体を少しだけずらして、洞窟の入口に背を向ける。囲い込むよう膝を立てて、吹き込む隙間風を遮る。

   

「どうだよ。少しはマシになったか?」

「うーん、なったんですけど……」

「あ? まだなんかあんのかよ。またコートが血生臭えとか言いやがってもどうしようもねえからな」

 

 さすがにこれ以上はどうしようもできねえぞ。どうしろっていうんだよ。結局、焚き木を拾いに行ったほうが早いってか。選択ミスったか、俺。

 あー、まいったな。最悪、コート貸すしかねえかな。

 

 頭を悩ませながらちらっと見下ろすと、うーんとうなって何かを考えこんでるクラウディアがいる。

ヤバイな、なんか嫌な予感がする。

   

「ぁっ!」

「……ア?」

 

 その予感は的中したんだろう。俺の足の間で閃いたとばかりに楽しそうな声が跳ねて、思わずつられて怪訝な声が漏れた。

 

「ふふーっ、えいっ!」

「はあァ? ――って、おい! こら、クラウディア、やめろって」

 

 にっこりと楽しそうな笑顔を浮かべたクラウディアが、なにを思ったか俺の胸に突進してきた。

 そんで、ぐりぐりと頬を擦りつけはじめる。

 止めたって聞きゃしねえ、無理やり引き剥がしてもよかったが、そうすると本気で薪拾いのフラグ立つだろ?

 それはマジで面倒だなと思って、いったん様子を見ることにした。別に攻撃されてるわけじゃねえし、マジで意味はわかんねえが悪意があるわけでもねえからな。

 

 真下で、ふわふわの髪の毛がぐりぐりと頬を擦りつけるたびに揺れる。白くて細い髪の毛が長いから、ずいぶんと綺麗に舞うんだな。羽みてえ。

 仕草そのものは猫とか犬とかがマーキングがてらよくやってるそれだが、見た目がふわふわすぎてな、獣って感じがあんまりしねえ。

 なんだろうな。なんかに似てるんだが。

 

 羽……、鳥、あー、なるほど。そういう仕草って、鳥でもやんのか。

 毛づくろい的なアレだ。一羽でもそうだが、鳥同士でも、木の枝とか巣とかでもごしごしやってるよな。それっぽい。

 身体が発展途上って意味じゃ、雛鳥か。まだまだ成長途中ですって思ってそうだからな。そういうことにしておいてやろう、俺の温情だぜ。

 全力でこっちに突っ込んできてるからな、その貧相な胸がぎゅうぎゅうあたってんぞ馬鹿女。

 はッ、なんにも感じねえよ、残念だったなァ。自分であんなフリしといて結局気付かずに自分からありもしない胸擦りつけてるところがやっぱりおまえは阿呆だよ。 

  

 ごしごししやがるから、摩擦で胸元が温い。ひとしきり擦りつけて、満足したんだろう。

  

「ふふっ、ね? 暖かいでしょう?」

 

 ぱっと上がった顔に、またふわっと白い髪の毛が舞う。

 差し込む月明かりに照らされて、綺麗な羽。楽しそうな横顔が、明るい声が、楽しく鳴いてる鳥みてえ。

 すっげえ満足そう。お手軽でうらやましい限りだぜ。いいな、おまえ。

    

「くはッ。おい、おまえってやっぱ鳥みてえだな。あー、見た目もそうだけどよ、ピーチクパーチクうるせえし、今はほら、アレだ。育ってちょっと大きくなった雛鳥同士がよ、よく狭い巣んなかでぎゅーぎゅーひっついてるだろ。アレみてえ。それじゃあおまえを囲ってる俺は 雛鳥(おまえ)の巣かなんかかよ」

 

 俺は鳥ってガラじゃないしな。そんな可愛いもんじゃねえよ。それならまだ巣の方がそれっぽいだろう。

 例えとしては、あながち間違ってもない。

 実際こうして物理的に囲ってるわけだし、こいつの生殺与奪の権利は俺にあるわけで、真実こいつを囲ってる。

 俺が守って、俺が拾って、俺のために育てて、これから俺のために散る命だ。

  

「ふふっ、可愛いです。想像した雛鳥もですけど、それを考えついて想像しちゃったヴィルヘルムも」

「似合わねえってか? おまえが鳥みてえなのが悪ぃんだろうが。こんな羽みてえにふわふわした髪の毛してっから想像しちまうんだよ」

「それは悪口じゃないですね。雛鳥に似てるのも、可愛くて嬉しいですよ。褒め言葉ばっかりで、どうしちゃったんですか?」

「ははっ、知らねーよ。おまえが勝手に褒められてるって思ってるだけだろうが。俺は褒めてねえぞ、バァカ」

 

 考えたら、気分がよくなった。軽口を叩き合ってやるくらいには、機嫌がいい。

 俺が囲ってる雛鳥だ。俺のところに帰ってこないと困る。帰る場所はここなんだと教えこまないといけない。

 逃げられてしまったら、巣が空っぽになるだけだ。それじゃあ困るんだよ。だから逃げないように、俺のところに帰りたくなるように、少しくらい甘やかしてやったっていい。 

 

 そう思った矢先、雛鳥の方から甘えてきた。好都合だった。

 いつもこうやって可愛げを振りまいていれば甘やかしてやるのに、と内心苦笑いする。舐められちゃ困るから、本音を隠すために悪態も溜め息も忘れねえ。

 

「ねえ、ヴィルヘルム。雛鳥は今、一羽しかここにいないので、ちょっと巣が大きすぎるんです。私にぴったりの巣の大きさになったりしませんかね?」 

「ったく、おまえはほんとにピーチクパーチクうるせえな。……はぁ。ほらよ、これでいいだろ」

 

 そっと腕を伸ばして、細い背中に回す。

 壊さないように力加減をして抱き締めてやれば、嬉しそうにまた鳥みたいな仕草で胸に頬をすり寄せる。

 指先に触れた白い髪は想像通りに柔らかく、やっぱり羽みたいだった。

 

触れ合ったところが、温い。ふと、その温もりに気付かされる。ずいぶんと可怪しい事態になってるなあと。

消去法で仕方なくとはいえ、俺はこの女に手を伸ばした。その挙句に抱き締めている。過去を振り返れば直に手を引いたこともあったし、そもそもこの数日、連れ立って歩いて離れずずっと側にいた。

よく考えたら、そのどれもがまともに成立しねえことなんだよ。慣れねえことをしてるからな。俺もこいつを連れて行くのに手一杯で気付くのが遅れちまったが、やっぱりこれは異常だ。

俺と当たり前のように関われる存在なんて、それこそ黒円卓の連中か頭がイカレて壊れた奴だけだ。もっと簡単に言えば、人間を止めてるか、止めかけの奴だけなんだよ。

こいつは確かに光に憧れてて俺からしたらイカレてるって判断は下せるが、それはそういう基準とは違う部分にあるもんだ。怪物と肩を並べられるくらいイカレてるってのは、もっと狂気を感じるような輩のことを指すんだよ。こいつは過剰なまでに光に憧れているが普通の感性を持ってる、俺に言わせりゃただの人間。だから、そもそもこうやって触れ合えることがまず可怪しい。

ただの人間なら俺が怖いはずなんだ。俺は人間の命を狩る怪物だから、恐ろしくてやれないはずなんだよ。強者を前にした恐怖、それは生き物なら当然に存在する。だけどこいつは半分だから大丈夫、普通じゃないから平気って、そう思い込んで俺と過ごすことが平気だと考えている節がある。それに恩を返したい、約束を果たして欲しいから側にいたいって欲求が上乗せされて、この異常事態が成立しているんだろう。

 馬鹿だなあと思うぜ。囲ってる俺が言うのも何だがよ、俺みたいのに関わるのはこいつにとっちゃ不幸だろう。

だからって、絶対に逃がす気はない。俺にとって必要だと思うから、囲う腕を解いたりしない。このまま俺の都合がいいように、半分だから大丈夫、怖くないって言い聞かせて勘違いしたまま腕の中にいればいい。

思えば、こうやって何をするでもなく誰かとひっつくなんざ初めてだ。

 それも、こんなそそらない女抱きしめてるなんて考えたら笑えた。喰いたくなる美味い匂いがするのに、あんまりにも可愛げがないからこれぽっちもそそらないんだよ。

ほんと、俺らしくねえ。でもまあ、悪くない。たまにはこういう気まぐれもいいだろう。

 これは俺のもんなんだから、どうしたって俺の自由だ。温いのも事実だ。俺だってどうせなら温い方がいい。人肌であたためあうのは常套手段なわけだしな。死なれちゃ俺が困るんだから、仕方ねえよ。

 顔色を覗きこめば、だいぶマシにはなったらしい。血色が戻ってきて、もう寒くはなさそうだ。それに少しだけ、ほっとした。

 

 白い顔を見ていたら、クラウディアと視線が触れ合った。

 そしたら、綺麗な顔してにっこりと笑う。そうして、ふわりと形のいい唇が開いて紡がれた声。

 笑ったまま届いた言葉が突然で、だけど俺が欲しかったもんで、驚いたし、それと同時に呆れたよ。

 

雛鳥(わたし)は巣立たないでちゃんとヴィルヘルムの側にいますから、安心してくださいね」 

  

 ああ、こいつはほんとうに馬鹿な女だ。

 俺は俺のためにおまえを好きに作り変えて殺そうとしてるのに、逃げる気がないとか言うんだからな。

 たしかにその方が俺にとっちゃ都合がいいが、おまえほんとうにそれでいいのかよ。俺は殺すっていったら、殺すからな。本気だってわかってんのかな。

 もちろん、逃さねえ。もうとっくに俺のもんだし、おまえだってそれでいいって言ったろう。

 だから離さねえけど、やっぱり馬鹿女だよ、おまえは。

 俺はたぶん、おまえが思ってる以上にろくな男じゃねえんだぜ。おまえは何も知らないから、分からないだろうけどよ。

  

「そうかよ。まあ、おまえは俺のもんだからな。勝手にどっかいくとか許さねえぞ」

「はい、ちゃんと恩返ししますから。助けて貰った命はあなたのために使いたいんです」

 

 思ったことは顔にも出さず呆れきった苦笑いに変えて、当たり前の事実だけを口にする。

 こいつはほんとうに、もう俺から逃げないんだろう。半分の心が生み出した、体のいい偶然が噛み合った結果だ。今この瞬間、見つめた金色の澄んだ瞳の中に俺への怯えは見つからない。ただ信じてる、そんな感情だけが見つかる。それはそれで、なんだかくすぐったかった。

 

 俺の側にいるなんて言った馬鹿女は、これで二人目だ。ああ、そんな女をまた俺は殺すんだな。

 おまえは俺に殺されるのを、喜ぶんだろうか。いや、どうでもいいか、そんなこと。そこは俺が喜ばせてやればいい。無理矢理でも満足させるんだよ。

 そもそもこいつが望むものを俺が与えてやれねえと、こいつを殺すこともできやしない。交わした約束は果たされるべきだろう。

 ああ、そう考えると俺の手でこいつは満足して死ねるのか。俺のものが俺の腕の中で満ち足りて微笑って逝く、それは悪くない話だ。

 いいだろう、俺の腕の中で吸い殺してやる。絶対に、満足だと言わせてやる。

 そしておまえもその命で俺を満足させるんだよ。約束、しただろうが。絶対に、そうしてやるから覚悟してろ。

 

 黙って心に誓って、細い身体を引き寄せた。大人しく腕の中に収まって、気持ちよさそうに頬を綻ばせる。

 楽しそうに笑ってるが、どうせまたろくでもないことを思いついたんだろう。

 出会ってからこの数日、暇があれば楽しそうに浮かれて光の中に突っ込んでいってたからな。また止めなきゃいけないんだろう。面倒くせえが俺が拾った以上は仕方ない。勝手に死なれちゃ、困るんだ。

 死ぬんなら俺の腕の中じゃねえと、許さねえ。だからちゃんと生きろよ、クラウディア。俺がいいって言うまで、満足させるまで、てめえはくたばったらダメなんだ。勝手にどっか行くのも許さねえし、勝手におっ死ぬのも許さねえ。

 生きろよ、死にたがりの馬鹿女。光ばっかり見上げてないでよ、ちゃんと地面を歩く足も見なきゃ掬われて転けちまうぜ。

  

 そんなことを考えているうちに、ふるりと震えた形のいい後頭部がそっと胸元から持ち上がる。

 そうして上向いたクラウディアの顔。金色の瞳が、じっと俺を見つめてきた。それは近すぎる距離ですぐにかちりと触れ合って、優しい微笑みがふわりと浮かぶ。

      

「ありがとう、ヴィルヘルム。おやすみなさい、また明日ね」

「…………ッ」

 

いつもなら、この馬鹿女しか言わないだろうありがとうも懲りずに欠かさないおやすみも遠慮なく 無視(シカト)する。今だって、変わらずそうしようと思った。

 だけど、出来なかった。何ていうか胸に込み上げてきたもんに、跳ねるように華奢な背中に置いていた手が跳ねて。

指先に、柔らかく細い髪の感触。視界の端っこで、ふわりふわり羽みたいに舞う。意志に反して動いた感情、クラウディアの髪を掻き乱した自分の指先が信じられなかった。

 ああ、クソ。俺はおまえに応える気なんかないんだと、どうにか誤魔化そうとそのまま柔らかい髪に埋まった手でぐいぐいと俺の胸元に小さい顔を押し付けた。柄にもねえことをしたと自覚があるから気恥ずかしくて、顔を見られたくねえ。らしくない行動に出てしまった悔しさに、呻く。

 乱暴な手つきが苦しかったんだろう。腕の中から息を詰めたような小さな吐息が溢れた。それを聞きつけて、こんなにきつく抱いていたら苦しくて寝れるもんも寝れねえだろうと仕方なし締めていた腕を緩めようとしたときだった。

 

「――ァ」

驚きに、びくりと身体が跳ねる。まさかクラウディアの腕が俺の背中に回されるとは思わなかった。そんなことは予想外で、おまけに回された腕からクラウディアが馬鹿みたいに喜んじまってるのが直に伝わってきて。ああ、ほんとうにらしくねえ。こんなただ触れるだけの腕に驚くようなことなんて今までなかったろう。女を抱くのが初めてなわけでもなし、どうしちまったんだ俺は。こんなに密着していたら跳ねた身体を隠しようがなくて、またじわりと悔しさが滲む。俺をこんな気分にさせるなんて、ほんとうに頭がイカレててふざけた女だと思う。

ぎゅうと抱きついてくるクラウディアは、もう何も言わなかった。普段と違う反応を見せただろう俺をからかうこともなく、だからって素直に嬉しいと言葉にすることもなく、次も応えて欲しいと求めることもなかった。普段ならそのどれかをたとえ俺相手でも遠慮なしにしてくる馬鹿女なのに、今はただ黙って俺を抱きしめている。言葉はないかわりに俺の背中に回った指先は雄弁で、それが逆に妙にくすぐったくて耐えられず、目の前にある華奢な肩にごつりと額を落とした。

そうしたら、吐息だけで幸せそうに俺に囲われた馬鹿な女が微笑ったんだ。

 ああ、こいつはまたそうやって俺の側で微笑う。幸せそうに、微笑う。そんな女、俺はおまえしか知らない。

 俺の側がいいだなんて、やっぱりこいつは気が狂ってる。だけどそれを選んだのは、この女自身だ。連れて行きたがったのは俺だが、選んだのはクラウディアだ。なら好きなだけここにいさせて、逃げようとしても逃さない。その魂を奪う瞬間まで囲って、ずっとこの腕に抱きしめてやる。

 

 しばらくしてすぅすぅと聞こえ出した寝息に、さてどうするかと考える。  

 夜は俺の時間だから寝るつもりなんてなかったが、こうしてクラウディアがひっついている以上、他にすることもない。

 ……たまには、いいか。明日は国境越えだし、想像より面倒くさくて、体力を消耗する可能性もある。

 それぐらいのことでへこたれる気は毛頭ないが、精神的な余裕も体力的な余力もあった方がいい。ひさびさに夜に眠るのも、悪くないかもしれない。離れるわけにもいかないし、抱きしめた身体は温いし柔らかいから抱き心地が悪いわけでもない。

 肩に埋めていた顔をそっと傾けて、ふわりと羽みたいな白い髪に頬を寄せる。

 くすぐったそうに無意識に捩った細い身体をこっちが眠りやすいように、ちょうどいい位置に抱きしめなおす。そしたら寝ぼけたクラウディアの方からもこっちに擦り寄ってきて、それがやっぱり雛鳥の仕草みたいで面白くて喉からくつくつと吐息が溢れる。

 いつもこうやって可愛げがあるなら、本当にもう少しくらい優しくしてやるんだけどな。ちゃんと女扱いしてやってもいいんだぜ。まあ、明日も起きたら起きたでピーチクパーチクうるさいだろうから、無理だろうな。

 そんなわけで、諦めろ、馬鹿女。

 明日もどうせやいやい言い合いながら、二人並んで進むんだろう。

 それを考えたら面倒くさくて呆れたが、ほんの少しだけ気持ち楽しくなってきて口元が緩む。 

 

「――――」

 

 機嫌が良かったから、気が向いたから。そういう理由を取ってつけて、今晩だけは特別だと、クラウディア意識がないのをいいことに形のいい耳元にぼそりと囁いた。

 白くて手触りのいいさらりとした髪に頬を埋めて、瞳を閉じる。

眠ろうと思えば簡単で、あっさりと重なって一つに溶け合っていく寝息。

怪物になってから誰かの寝息をこんなに近く感じたのは初めてだ。それどころか、誰かとただ寄り添って眠ることすら初めてだ。やっぱりこの女は可怪しい。怪物の俺の側で無防備に眠るなんて、血と罪に塗れた俺を真っ直ぐに信じているなんて、有り得ない。ここまで必死に生き抜いてきて、そんな瞬間は昨夜までの俺には一度だって起きなかった。

しかし今夜、それは起きた。俺の腕の中に温もりとして確かに在る。

クラウディアが、だらりと身体を弛緩させて気持ちよさそうに寝息を立てている。怖がることなく、安心した表情で穏やかに眠っている。

――ああ、そんな奇跡みたいなことが起きたのか。

 ぼんやりと頭の片隅で思う。それに湧いた感情は眠くて上手く掴めない。でもきっと、それでいい。

触れ合う熱をただ真っ直ぐに信じて眠る温い身体を抱きしめて、辺りを包んで濃く満ちていく闇に身を預けて静かに意識を手放した。

 

 




閲覧ありがとうございました!
読んで頂けて嬉しいです(*´∀`*)


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摘み食い

 
Dies二次SS ヴィルヘルム×クラウディア
GW繁忙期にへこたれそうな社畜が推しカプの萌と癒やしを求めて書きました。
基本己の性癖にしか配慮しておりませんのでキャラ崩壊もろもろご注意ください。
同志の方はぜひに貰ってやってくださいませ。


【摘み食い】 ヴィルヘルム×クラウディア

 

§Side Claudia

 

 リビングから差し込む夕陽が、辺り一面を綺麗な橙色に染めていた。あと少しで終わってしまう昼の世界。今朝からずっと見渡す限りのいい天気だった。休み休みとはいえその下で、目一杯好きなことが出来た。だから今日も私にとって間違いなく良い一日だった。そんな感想が浮かんだけれど――ああ、ちょっと気が早かっただろうか。文字盤の上、短い針と長い針が仲良く天辺を差すまでは、今日は終わらないのだから。

 それに、やりたいことは日が暮れても残っている。というか、ここからが本番かもしれない。相変わらず意地っ張りな彼相手に私の目的を果たすのは、なかなか大変で骨が折れるのだ。

 以前、彼が一度だけ食事を褒めてくれたことがあった。偶然口から溢れたような他愛ない一言だったけれど、それがとても嬉しかったのだ。

 だからまた、褒めてほしいなあと考えてしまう。せっかく毎日料理を作るのだからと、欲張ってしまう。

 そういう目的があった方が作る方も張り合いがあるだとか、どうせなら美味しく喜んでくれた方がいいとか、それを助長させる理由はいくつも体よく見つかって、あれやこれやと考えながらレシピと食材とにらめっこする日々が続いている。

 ただ月並みに一言、美味しいとまた言って欲しいだけなのだけれど、食事を振る舞う度に大きく薄い唇が思う通りに動くことはなく。

 いつも残さず綺麗に完食してくれるのだから、決して不味くはないと思う。向かいで見ている限り、無理をしているようにも不満があるようにも見えない。好物を出せば、喜んでくれているように見える。素直でないから分かりづらいけれど、微かな仕草から察するに美味しいと思ってくれているようにも見えるから、決して現状に不満があるというわけではないのだ。ただもう少しと、つい願ってしまう私がいるというだけで。

 食事をすること自体は好きなようで、大きな口を開けて気持ちよく食べてくれる姿を見るのは作る側の私も気分が良かった。けれど食べたら思わずぽろりと良い感想が口をつくような食事は、やはりあの一回だけしかない。

 というか、いくら美味しい料理を作ろうと努力しても、まず食事のためのテーブルに彼を着かせることが難しかったりするのだから、困る。

 

「うーん、今日は食べてくれるんでしょうか?」

 

 ぼんやり思い浮かんだ疑問が、ぽろりと口をついて出る。

 仮初の家でいっしょに暮らしている彼は、本当に自由気ままな性格をしていて、世話を焼くのものなかなか大変なのだ。今朝だって、まだ日が昇りかけの薄暗いうちに三日振りに家に帰ってきたと思ったら顔すら合わさず自室に篭って眠ってしまった。それから一度も部屋から出てこず、今もたぶん眠ったまま。いっしょの時間帯に家にいても、生活の基準にしているものが違うから擦れ違ってばかりになることが多かった。こちらから積極的に顔を合わせにいかなければ、まるで姿の見えない幽霊と暮らしているかのような――吸血鬼なのだから案外似たようなものなのかもしれないけれど、残念な気分になりかねない。そんな状態でせめて食事だけはいっしょに取ろうとしているのだから、なかなか難しいというのが伝わると思う。それに彼は自分勝手な気分屋なのだ。こちらの事情なんてさっぱり慮ってくれない。

 こうして二人分の夕食の準備をしているけれど、食べてくれるかどうかすら怪しい。夜になってまたふらりと出掛けてしまうこともあるし、家に居たとしても気分でないと断られることも多かった。今は夕食だからまだいいけれど、これが朝食だったなら確実にいらないと断られる。朝に食事を取るということより、その時間帯に起きていること自体が嫌なようで。結局のところ、すべて彼の気分次第。こうして理由を並べてみるとよく分かるけれど、ヴィルヘルムと食事のために同じテーブルに着ける可能性はそれほど高くないのだ。

 それでも、食べると答えてくれる可能性を信じて毎回多めに食事を作っている。出来るならいっしょに食べたいという私自身の希望も込めて、いっしょにテーブルには着けなくても温め直せば時間を置いて食べてくれるかもしれないということもあって。だからやっぱり、彼の分を作らないという選択肢はなかった。

 必ず食事が必要だと言われたわけではない。それでも、乞われたときに温めて出せば綺麗に完食してくれるものだから、決して無駄ではないようだと前向きに取った結果なのだけれど。一人分、二人分、どっちに転んだとしても自分の食事になることに変わりはないのだから、美味しくても困らない。誰かに食べて貰うなら、それこそ美味しい方がいい。食事は命の糧になるのだから、とても大切なのだ。それが永い時を生きる彼の命の糧になるなら、なおのこと。

 新鮮な食材を前にして、手を抜く理由は何一つなかった。きっと食べてくれるだろうと期待を込めて、美味しく作ろうと気合を入れ直す。

 目の前には、煮立てられてことことと小気味よい音を立てる鍋。その前に立って焦げ付かないようにお玉をくるくると回す。そうするとキッチンいっぱいに香った食欲をそそるいい匂いに、自然とにこにこと笑顔が溢れる。よく熟れたトマトが溶けた美味しそうな朱色のスープを小皿に掬って、味見を一つ。

 

「ふふっ、なかなか良く出来たんじゃないですかね」

 

 出来に満足して、ついつい溢れた独り言。あとは火を止めて一度冷まして味を染み込ませればもっと美味しくなるはず。スープはこれで完成なので、その間にメインの料理の仕上げに取り掛かろうとコンロの火をかちりと止めた――ところで、シャッと何かが擦れたような物音がして、世界がぱっと薄暗くなった。

 突然の変化に驚いて、理由を突き止めようと音がした方にぱっと視線を投げて、色が消えた暗がりに目を凝らす。そうしたら、すぐに驚きも疑問もふわっと解けて消えた。

 リビングにずらした視線の先、不機嫌そうに窓の側に立つヴィルヘルムの姿を見つけたから。

 窓ガラス越しに差し込む夕陽が鬱陶しくてしょうがなかったのだろう。突然の物音は、苛立ちのまま乱暴に閉められたカーテンが立てた音だった。

 足音も立てずにやってきたものだから驚いたけれど、ここは彼の家でもあるのだからどこにいたって可笑しくはない。それでも日が沈み切っていない中途半端な時間に顔を見せるなんて、珍しい。

 我慢できず苦笑混じり、橙色の光が遮られて薄暗くなったキッチンに明かりを灯す。黙って家を出て三日振りに帰ってきて、ひさびさに顔を見せたと思ったら、ずいぶんと気の抜けた姿でいるものだから、つい。

 あちこち白いヴィルヘルムの姿は、光を遮って薄暗いリビングにいても、灯したキッチンの明かりに照ってぼんやりと浮き上がって、よく見えた。

 寝起きのまま鏡も見ずにやってきたのか、綺麗に伸びた髪は無造作にあちこち跳ねていた。普段出掛けるときはきっちり着込んだ乱れのない軍服姿はどこへやら、だらしなく着崩された白いシャツはしわだらけだった。目に眩しい日差しが遮られたことで機嫌は直ったのだろう、大きな口で気が抜けた欠伸を一つ。そうして切れ長の瞳を眠そうにしぱしぱと瞬かせた。

 帰ってきてからゆうに半日は経ったはず。あれだけ寝たのに、まだ眠り足りないんだろうか。そういえば、夜にならないと調子が出ないと言っていたからそのせいかもしれない。まだ世界が切り替わるには、もう少しだけ時間が掛かる。

 夜になり切っていないからだろうか、決して剣呑な気配はそのものは薄れないけれど、眠いのか、怠いのか、夜の更けた頃よりは屈強な体躯からだらりと力が抜けているように見えて。何というか、自然というか、気負いなくくつろいでいるような、そんな気がする。相手が何一つ警戒しなくてもいい、弱く力のない私だからかもしれない。そうであったらいいなあと思う。

 いつも誰かれ構わず敵意を剥き出してばかりでは、気負って疲れてしまうこともあるのではないかと案じてしまう。たとえそれが彼にとって自然なことであるのだとしても、世界にたった一人くらい、気を抜ける相手がいてもいいと思うのだ。

 もちろんそれは怪物である彼にとっては余計なことで、そんな彼の側にいたがる稀有な人間の私の勝手な考えでしかないけれど。

 ぐしゃぐしゃなのが気になって仕方がないと側に寄って跳ねた髪に手を伸ばしたら、手負いの犬のように牙を剥いて怒るだろうか。ああ、きっと怒るだろうな。そう考えて、キッチンから足を動かさなかった。跳ねた髪に触れるかわりに、遠くから声を掛けるだけにした。

 

「おはようございます、ヴィルヘルム。寝癖、すごいですよ?」

「…………」

 

 挨拶をしても、返事はない。そんな無愛想はいつものことだから気にならない。届いているのならいいと思う。彼の薄く尖った耳に声が届いている証拠に、まったく見目に拘りがないというわけでもないのか、シャツの袖から伸びた白い腕が面倒臭そうに持ち上がってがしがしと荒っぽく頭を掻いた。手櫛で適当に髪を整えたことで、さっきよりはましになった肩の高さで揺れる白い髪にまたくすくすと笑い声が溢れてしまう。それが気に障ったのだろうか。ふいに、じろりと赤い視線が窓の側から私を射抜いて。そのまま、怠そうにのんびりとした歩調でこっちに向かって歩いてくる。

 ああ、珍しい。こんな時間に起きてくつろいでいることもそうだけれど、私が嬉々として料理しているときにキッチンに近寄ることなんて今までなかったのに。あったとしても、世話焼き女を構うと鬱陶しいとばかり、リビングのソファーに寝転んで遠くから面倒臭そうに声を放るだけ。この場所で、この瞬間に、こんなにも彼との距離が縮まることになるとは思わなかった。

 

「ヴィルヘルム?」

「メシ。腹減った」

 

 こっちに向かって歩いてくる理由が分からず怪訝に思って問えば、あっさりと単調な理由が返ってくる。

 キッチンの中へ長い足で踏み入ってきたと思ったら、私の肩越しにひょいと湯気が立つ鍋の中を覗き込んだ。そのまますんすんと鼻を鳴らして、ぐるりとキッチンをひと周り眺める。

 ああ、なるほど。空腹なものだからいい匂いにつられて、今晩の献立が気になって、珍しくキッチンに入ってきたのかもしれない。興味があることを隠さずに赤い瞳に映ったテーブルの上の出揃わない料理を眺めて納得した。

 

「おい、腹減った」

 

 頭二つ分ほど高い位置にある白い顔をじっと見上げて呆けていると、もう一度呆れた声で急かされる。

 ああ、大変。珍しかったものだから、どうしてか気になるあまりすっかり返事を忘れていた。

 

「あ、ええと。あの、もう少し待ってくださいね。日が暮れた頃には完成しますから」

「…………」

 

 夕暮れの空気の中に放られた無愛想な催促に、今晩は食事を取ってくれることが分かって嬉しい気持ちになりながら、急かす声に慌てて答えた。そうしたら、不機嫌そうに白い顔がぐしゃりと歪んだ。その表情に、面白くなさそうに喉を鳴らす吐息までついてきたものだから、困ってしまってつい眉が下がる。

 そんな風に不満を表現されても、出来上がっていない以上はどうしようもない。元々私は、いつも彼が起きてくることが多い時間帯に合わせて料理が仕上げられるように準備していた。だから予想より彼が起きてくるのが早くて、あと少しが間に合わなかったのだ。そんなわけだから、ちょっとくらい譲歩してくれてもいいと思うのに。

 ここにいる私が出来るのは、空腹だと訴える彼を宥めて、催促された食事をなるべく早く出せるように背中を向けて料理の続きに戻ることだけ。

 

「はい、はいはい。なるべく早く完成させますから、あっちで座って待っててください。ね、ヴィルヘルム?」

 

 思う通りにならないからと拗ねる様子は駄々っ子と変わらない。孤児院でこんな姿はいくつも見たなあと懐かしい記憶と重ね、口にした途端どやされるだろうことを脳裏に思い浮かべながら、宥める言葉を口にする。随分命知らずな考えを抱いてしまう自分に呆れるけれど、そう見えるのだからこればっかりは仕方がない。もちろん、いくら見かけがそう見えるからと相手は年上の青年、果ては人外の吸血鬼なのだ。どう扱っても年下の子供たちほど簡単にいくわけはなく、穏やかに言葉を掛けても相変わらず表情は不機嫌に歪んだまま。

 思い通りにならないと分かって、つまらなそうに私の顔からふいと赤い視線が逸れた。そのままキッチンのテーブルの上に並べられた二つのお皿の上についと視線が落ちる。調理済みの食材が乗ってはいるものの空白が目立つ未完成な料理、それにじっと考え込むように視線を注ぐ横顔をどうするのかと思って見ていたら、まさかのまさかで。

 

「あっ!」

 

 するりと持ち上がった、しわだらけのシャツを着た右腕。ひょいっと伸びた白い指先が、お皿の上の付け合せの野菜のソテーを摘んだ。驚いて素っ頓狂な声が上がる。止める間もなく、ぱかりと大きく開いた唇に、薄茶色のソースの絡んだ人参が止める間もなくぽいっと放り込まれてしまった。お皿の縁から彩り良く綺麗に二色並んだインゲンと人参のソテーのバランスが崩れて不格好になってしまう。

 

「もう、行儀が悪いですよ。子供じゃないんですから待てないんですか?」

 

 駄々っ子みたいと思ったけれど、今度は悪戯っ子。自由な性格だとは思っていたけれど、こんなにも子供っぽいところがあるとは思わなかった。もぐもぐと咀嚼して、ソテーを摘んだ指先をぺろりと満足げに舐めたヴィルヘルムを思わず反射的に窘める。そしたら案の定、悪びれもせずに反論といっしょに浮かんだ見慣れた顰めっ面がこっちを向いた。

 

「うるせえ、俺に行儀なんて求めんな。さっさと作んねえおまえが悪い」

「ええ? ちょっと、もう。ヴィルヘルムってば――あっ!」

 

 相変わらず自分勝手な言い分に呆れているうちにお皿に向かって二度目の手が出た。今度も制止の声が間に合わず――間に合ったとしても止めてくれないだろうけれど、大きな口にまた付け合せの彩りが綺麗な人参のソテーがぽいっと放り込まれる。

 ああ、一度ならず二度までも。テーブルの上に並べたお皿の片方の見た目がすっかり寂しくなってしまった。あとはメインのステーキを乗っけるだけで、完成だったのに。あともう少し待っていてくれれば、綺麗な状態で出してあげられたのに。

 

「何だよ、俺に食べさせたくて作ってたんだろ。じゃあ、俺がいつ食ったっていいじゃねえか」

「……むぅ。それはそうですけど、なんというか、こう。あなたに食べて欲しいのはその通りですが、完成してもないものに手を出されると中途半端で悔しいじゃないですか。せっかくあなたに喜んで欲しいと気持ちを込めて一生懸命作っているわけですし。出来るならこう、見た目も味も良いものを食べて欲しいというか。それはまあ、あなたは見た目とか気にしないんでしょうけど、私は気にするというか……」

 

 もぐもぐと口を動かしながら、ある種正論めいた言葉を放ってくるから年端のいかない子供たちより質が悪い。それはそうだけれど、そうではないのだ。そもそも、摘み食いは行儀が悪いものだから今後の彼のためにも窘めるべきであって。

 どうにか伝わってくれないものかと、つらつらと言葉を重ねるものの段々と自信がなくなってきて最後には声の大きさが萎んでいった。摘み食いくらいで目くじらを立てず、笑って許してあげるべきなのか。彼の行儀の悪さは本人に自覚がある通りいまさらという気もするし、注意したところで聞く耳を持ってくれるとは限らない。そうは思っても、こういうことは今後のためにちゃんとしなくてはと思う気持ちも捨てきれず。

 孤児院にいた頃にお行儀に関してだけは年下の子供たちの善き見本となれるように振る舞いつつ――それ以外はだいぶお転婆で困らせる側だったのだけれど、きっちり諭してきた私としては、目の前の態度も図体も大きな悪戯っ子を見過ごすわけにはやっぱりいかなかったのだ。

 

「……ふぅん、そうかよ」

「え?」

 

 どうやって諭したものかと頭を傾けて悩む私を見下ろして、咀嚼した人参を飲み下したヴィルヘルムがつまらなそうにぼそりと零した。てっきり、そんな事情は知らないしどうでもいいと呆れ声で手酷く突っぱねられると思ったのに違った。驚いてか細く声を上げれば、どうしてか神妙な顔をしたヴィルヘルムがそこにいて。

 一体どの部分がどう効いたのかよく分からないけれど、運良く彼の胸に響くものがあったのだろう。摘み食いに対して反省の色はないものの、私が残念がっているということだけは伝わったようだった。

 摘み食いは窘められなかったけれど、こちらの言い分があっさり通ってしまったことに驚いて、明日はてっきり雹でも降って地震でも起きるのかと焦ったけれど――なんてことはない、ヴィルヘルムはやっぱり聞き分けがなくて自由奔放で乱暴な悪戯っ子だったのだ。まさかそんなことを、年上の青年に思うことになるとは思わなかったけれど、そんな彼に好き勝手振り回されることが私自身が選んだ最後の日常なのだ。

 

「はッ。おい、クラウディア」

 

 いつの間にか、もう一度寂しくなったお皿の上にじっと落ちていた視線が乾いた笑い声といっしょにちらりとこっちを見た。その視線は明らかに何か良からぬことを考えている顔で、名前を呼ばれた以上その矛先が向く対象はもちろん私しかおらず。

 ああ、よくもまあそんな悪い顔を浮かべることが出来るものだと感心しているうちに、ぬっと持ち上がった白い左手が伸びてきて私の顎をがっと勢い良く掴んだ。

 

「おら。いいから黙って口開けろ」

「むぐ、ふぁっ! ――……んぅッ?」

 

 顎を覆った掌から伸びた長い指先が両側から頬を押さえ、ぐっと強い力でぱかりと口を割り開かされた。口を開いたまま顔を動かせないように大きな掌に拘束されて、そのまま強引に口の中に何かを押し込まれて息が詰まった。身に覚えのある不思議な体温が唇と上顎を擦りながらぐいぐいと入ってきて、意地悪くさんざん奥まで乱暴に差し入れるものだから苦しい。苦しいと訴えるためにふぅふぅと呻き声を漏らせば、ぬるりと滑った感触をした塊が舌の上にごろりと転がった。そうしてやっと、ざらりと舌先を擽るように撫でて抜けていった指先に出来た唇の隙間から息を吸おうとすれば、吐き出せないように顎から口元に迫り上がった大きな掌に押さえつけられて唇を塞がれる。

 抵抗するのを諦めて、苦しいのを堪えながら仕方なく舌の上から転がした塊を奥歯で噛み締める。そうすると、じわりと甘い味が口いっぱいに広がった。口の中に押し込まれた塊を受け入れる姿勢を見せたことで、それでどうにか許してくれる気になったようだった。

 

「はっ、ごほっ、……こほっ。うぅ……」

「カハハッ、これでてめえも共犯だなァ。文句言えねえだろ、ざまあみろ」

 

 するりと離れた掌に、背を反らせて息を大きく吸えば咽てしまって、無理やり食べさせられた人参のソテーが溢れないように今度は自分の掌で口元を慌てて押さえつける。

 私の唇から引き抜いた指先が、満足げにふらりと宙で揺れる。口元を押さえつけ呼吸を整えながら拗ねて睨みつければ、ソースで汚れた指先をこれ見よがしにぺろりと舐められたものだからさすがに許せないとぷいと視線を逸らす。

 ああ、掴まれた頬がひりひりする。強引すぎる、酷すぎる。年端のいかない子供だってもっと上手に好意的に食べさせてくれるでしょうに、まったくどれだけ傲慢なんだろう。

 

「おい、拗ねてんなよ。待っててやっからさっさと作れ。美味くなかったらどやすからな」

 

 強引だった白い指先にむくれながら、口の中に残った甘い人参をしゃくしゃくと奥歯で噛み締める私に、相変わらず配慮も遠慮もない言葉が呆れ混じりに降って来る。ああもう、こんな気持ちになっているのは誰のせいなのかとじとりと上目遣いで睨みつける。それでもまったく効果はなく飄々と目の前に立たれるものだから、拗ねていた気分がすっかり削がれてしまった。自由奔放で自分勝手、我が儘で意地悪なヴィルヘルムの性格はこの先もきっと相変わらずだろう。これだけ捻くれていたら改心するにはきっととてつもない時間が必要だと思う。けれど、この性格が彼なのだ。素直で聞き分けのいいヴィルヘルムなんて考えてみたらちょっと気持ちが悪いし、そう思うならいっしょにいる以上は上手く付き合っていくしかないのだ。それに、呆れもするし拗ねもするけれど、性格の悪い彼に嫌気が差さない私も案外どうかしていると思う。

 それもこれも、彼から与えられる善いものが多すぎるせいだ。救われて拾われた恩は返さなければいけないし、いっしょに暮らし出してからの日々に新しく貰ったものが多すぎて、いくら世話を焼いたところで追いつきそうもないのだ。それにそう感じるのは、彼の性格がああだからという理由も多分にあると思う。普通でないからこそ、尊さに気付くことだってあるのだ。さっきも合意でないといえ、この歳にして人生初めての摘み食いを体験させられたばかりだ。

 味見をするのは料理に必要なことだから別として、貧しかったからこそ食事に関しては厳しく躾けられてきた。出来上がった食事に許可なく手を着けると、はしたないと厳しくシスターに怒られるものだから実際にしたことはなかったけれど、実はちょっと憧れていたのだ。怒られても平気でお皿に手を出す小さな子供たちが羨ましかった。薄い身体のことで周囲に迷惑をかけている自覚はあったものだから、光に関する以外の素行だけは振り返ってみれば実に優等生だったと思う。いざ実際にやってみてこんなに強引で痛くて苦しい思いをするとは思わなかったけれど、じわりと染みる甘い味は美味しくて、ごろりと転がる食感は面白かった。普通に食べるよりどきどきしたし、今もしゃくしゃくと口を動かしながらちょっぴりわくわくしている私がいる。もちろん、それを口にすると摘み食いを助長させてしまいそうだからヴィルヘルムには黙っているけれど。

 こくんと小さくなった人参を飲み込んで、こほんと咳払いを一つ。我が儘な彼の言いつけ通り、今日も美味しい食事を作ろうと思う。それが私に出来る精一杯の恩返しなのだから、やっぱり手は抜けないのだ。

 

「はいはい、分かりました。ちゃちゃっと作っちゃいますから、乱暴者はあちらへどうぞ」

「ははッ。おう、出来たら呼べよ」

 

 しっかり美味しく料理を完成させるために、もう少し待っていて欲しいと可愛くない口調でお願いをする。強引な彼を乱暴者と評したところで、事実だから意にも介さないらしい。けらけらと愉快に笑って猫背気味に去っていく背中を見送って、くるりと流しに向き直り途中だった作業に戻ることにする。

 

「……ううん、痛い」

 

 一人になったキッチンで料理に集中しようとしたけれど、遠慮なく摘まれた頬がひりひりと痛んだ。

 火傷の痕がない白い指先に与えられた痛みを我慢できず頬を擦りながら小さな声でぽつりと零せば、リビングからくつくつと忍び笑う声が聞こえた。ちらりとソファーの方に視線を投げれば、いつもの定位置に寝転がった肘置きからはみ出した長い足が愉快そうに揺れていた。

 あんなに強く摘む必要はなかったのに、もっと優しくしてくれてもと非難の視線を送れば、それを見えなくとも察知したのかまた愉快そうにけらけらと笑い声が聞こえた。今度はまったく隠す気のない笑い声に呆れて肩を竦めてしまう。

 そろそろ痛みも引きそうだし、今度こそ料理に戻ろうと視線を手元に戻したところで――ふと、痛む頬を撫でていた動きがぴたりと止まる。

 去り際に聞こえた、ヴィルヘルムの言葉をはたと思い出してしまったからだ。拗ねるな、待ってやる、美味くなかったらどやす。いつも通りの自分勝手で乱暴な言葉だけれど、引っかかる部分があったのだ。

 少しの間小首を傾げてみたら、何に引っかかってしまったのかに気づいた。

 ヴィルヘルムは言ったのだ、美味しくなかったらどやす、と。それはつまり俺の期待を裏切るな、ということで今から作る食事を態度には出さなくても楽しみにしてくれているという意味に取れる。どやされなかったら、それはつまりは美味しいということだ。さらにいうなら、いつもどやされないということは、いつも美味しいということで。もしも本当に不味かったなら、もっと直接的に味に難癖をつけたり、どうにか美味しくしろと指示を飛ばしてくるだろう。そうせずに、私の好きにさせてくれているのは、やはりそういうことなのだ。

 

「ふふっ」

 

 摘まれてひりひりと痛むはずの頬がじわりと熱くなって緩む。

 これは、なんとも、いいことを聞いてしまった。そういうことなら、今日も愛情(こころ)を込めた美味しい料理で彼のお腹を満足させてあげなければいけない。

 こういう部分の詰めの甘さが私を喜ばせることに彼はさっぱり気づいていないのだから質が悪い。いざ指摘すれば、そんなつもりはこれぽっちもないだの言葉のあやだの、愛想のないことばかりを並べるのだろう。だから決して指摘はしないで、私の胸の内だけにしまっておくけれど。

 肩越しにちらりとテーブルの上を振り返れば、揃って並んだ二枚のお皿。手付かずで綺麗に緑と赤の付け合せの野菜が彩りよく乗ったものと、手を出されて不格好に一色だけになってソースが散ったもの。隣のインゲンには手を出さず、人参のソテーだけすっかり我が儘で大きな口に食べ尽くされてしまった。確かに明るく鮮やかで美味しそうな色をしていたから、摘み食いしたくなる気持ちは今の私は分からんでもないのだけれど。そのうちの一つは、唇を割り開いた強引な指先のせいで私のお腹の中だから。

 彩り良く作り直そうにも、人参は使い切ってしまってあれが最後だった。明日また買い物に行って買い足さないといけない。だから今日は、ほんの少しばかり見た目が貧相になってしまうけれど、綺麗なお皿に乗った人参のソテーを仲良く半分こで許して貰うことにして。

 彼が満足しそうな焦げ目が食欲をそそる大きなステーキがお皿にどっかりと乗った頃に、こっそり均等になるように移そうと思う。お腹が空くあまり摘み食いを仕掛た張本人も、それに文句はつけられないだろう。なんていったって、ヴィルヘルムと私、二人揃って摘み食いの共犯なのだから。

 出来上がった料理が乗ったお皿の完成図を思い浮かべて、自然とくすくすと笑い声が溢れる。今晩はきっと楽しい夕食になるだろうなあと期待を込めて、取り出した愛用のフライパンを片手に、トマトの香るスープが温まった鍋の隣、わくわくと胸を躍らせながら空いていたコンロにかちりと火を灯した。

 

 




ちょっと待てそこのチンピラ何を摘み食いしてるの?というネタでした。
マザコンっぷりとバブみに日に日に拍車が掛かっている気がしますが性癖です、どうかご容赦ください。
シリーズ最終話近くまでキスシーン一ついれられないという血迷ったヴィルクラ信者の暴挙でした。許してやってくださいorz

閲覧ありがとうございました!


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夜を越えて

 
2017/2/14
 
KKKまで延々続く、ヴィルクラ短編集のうちの一つ。バレンタインデーイベント記念&ヴィルクラ布教のため新作を持ってきました。
前提として、パーダーボルン逗留二ヶ月目中盤くらい。本編と齟齬がないように注意しつつ全力でいちゃいちゃさせていくスタイルです。
たぶんこれ以上はこの先ないと思われるくらい過去最高に素直にデレるヴィルヘルムなのでご注意ください。
 


§Side Claudia

 

 

 揺らめく暖炉の炎が薄暗い室内を淡く橙色に染める。だいぶ前に建物の向こうに赤く輝いた夕日は沈んでしまって、訪れた静かな夜の帳。

 用事があると昨夜から出掛けたっきり、私を自分のものだと言い張る強気な彼は帰ってこない。だから今日は朝からずっとこの仮初めの家で一人きり。

 日が高く昇り切る前に二人分の洗濯をして、有り余った時間で家のあちこちを丁寧に掃除した。そうしたら疲れ果ててしまってつい気持ちよく居眠りしてしまった後に、いつまでも帰ってこない彼を残念に思いながら一人きりで取った夕食。明日の朝には戻ってきてくれるかもしれないからと二人分の朝ごはんの仕込みをして、いつもより少ない数の食器を洗ってからお風呂場へ。彼がいない日はたいがいこんな風に一人家に篭って過ごすことが多い。家事のために庭に出るくらいはともかくとして、勝手に出掛けないようにときつく言い含められているし、出掛けてしまったらたいそう彼が怒るので、――それでも気にせず買い物のために市場に行くのは必要だと敢行してしまうけれど、とにかく一応出来る限り彼の言いつけは守るようにしている。守ってないって、結局顰めっ面で怒られるんですけど。

 あちこち手入れをして包帯も綺麗に巻き直して。すっきりした寝間着姿で戻ってきた暖炉の炎が揺れるリビング。他にもうすることはないか、今日にやり残してしまったことはないかと、きょろきょろと辺りを見回した。

 そんなときにふと、物音。それは廊下の向こうから。

 夜が訪れてからそう遅くない時間に、珍しく玄関のドアががたがたと乱暴な音を立てた。それに続いて聞こえる乱暴な足音。大きな歩幅で進むから、あっという間にここまで辿り着いてしまう。

 

「何だ、まだ寝てねえのかよ」

 

 入り口からひょこりと覗いた、背の高い軍服姿。こっちをちらりと一瞥して、独り言じみた彼の声が暖炉の火が揺らめく橙色の空気に投げられた。それはどこか不思議そうな声音が混じった、浮かれたように熱っぽい声で。

 じっと帰ってきた彼の顔を見つめれば、白い頬がほんの少しだけ上気して赤く染まっているのに気付いた。それに、本当にほんの少しだけどどこか雰囲気が柔らかい。居合わせた人を射殺してしまいそうな鋭い気配を纏うのはまったく変わらないけれど、それがいつもより少しだけ緩んだような感じがして。どうも彼は酔っているらしい。きっと何処かでお酒を飲んできたんだろう。

 酔っ払った彼に感情が揺れる。嬉しいし、微笑ましい。そんな珍しい彼を見られたことも、彼がこんな時間なのに帰ってきてくれたことも。彼が帰ってきてくれると期待して明日の朝御飯の仕度もした甲斐があったなと機嫌のいい彼につられて私の気分も良い方へところりと転んだ。

 夜が明けはじめてきた頃にほんの微かにお酒の香りを漂わせて帰ってきたことは何度かあったけれど、そのときにはすっかり酔いも冷めていつもの調子。二人で食事を囲んだときに彼が少しだけお酒を飲むこともあるけれど、どうしてかつまらなそうにいつもへの字口。

 だから、こんな風にすっかり酔っぱらってこんなにも上機嫌の彼を見たのは初めてだった。そもそも機嫌がいいとき自体が少ない彼だから、珍しくてついじっと見つめてしまう。そうしたら、熱っぽい赤い瞳と目があった。とたん、愉快そうに破顔した彼の白い顔。

  

「クハッ、クハハッ。相変わらずぶっさいくな面してんなあてめえ」

 

 珍しく夜が更け切らないうちに帰ってきたと思ったら、私に向けた出会い頭の一言がそれなんてひどい。機嫌が良さそうに唇の端を緩めて、大股で近づいてくる。どすどすと床を踏み鳴らす乱暴な足音。それが私の目の前で止まったと思ったら、けらけらと笑いながら伸びてきた手袋を纏った掌が乱暴にぐしゃぐしゃと私の髪を乱した。まるで犬や猫でも可愛がるような素振り。濃ゆく消えない血の臭いに混じって近寄った彼の身体から香ったのは、くらりと眩みそうになるほどの強いアルコールの臭い。

 

「……っ、お酒臭い。ちょっと、飲み過ぎですよヴィルヘルム」

「うるせえ。俺に指図すんな、黙れよ」

 

 斜め上から鋭く睨みつけられる。ぎらりと光った赤い瞳に、びくりと身が竦んだ。掴んだままでいた私の髪の先を手袋越しに白い指先で弄びながら、にたりと唇の端を上げてヴィルヘルムが笑う。

 

「俺は今気分がいいんだよ。気持ちよく寝れそうなんだ、うるせえ小言はいらねえ。けどまあ、ああそりゃあ悪くねえかもな」

 

 機嫌がいいのはよく分かったけれど、最後の言葉の意味が分からない。不思議な告白をした彼に戸惑う。そんな私を気にすることもなく、高い位置にある赤い視線がきょろりと室内を彷徨った。次の瞬間には狙いを定めたような顔をして、薄い唇からぽつりと熱っぽく声が落ちてきた。

 

「まあ面倒くせえしここでいいか。――おら、こっちこい」

「ぇ? ちょっ、ちょっとヴィルヘルム?」

 

 腕を取られて、引き摺るように連れて行かれる。どこへ行くのかと疑問に思ったら、答えはすぐに明かされて。その足はたった数歩進んだだけでぴたりと止まってしまった。目の前にはよく二人で食事をするテーブルとソファーがあって、それがどうしたのかと思う暇もなくぐらりと傾いだ私の身体。

 

「きゃっ!」

 

 乱暴な手つきで硬めの布地のソファーにどさりと押し倒された。黒い軍服を纏った大きな身体が遠慮なしに真上からのしかかってくる。

 まさか、こんなことが起きるなんて。私に興味がある素振りなんて、ここまでいっしょにいてこれぽっちも見せなかったのに。興味がないって、あんなにはっきり言い切っていたのに。

 豹変した態度に驚いて我に返った私が覆い被さってくる身体を押しのけようとすると腕を突っ張る、よりも早くだらりと長身の身体から力が抜けた。そのまま私をソファーの背と彼の身体の間に閉じ込めるように大きな身体がごろりと横になる。これは、その、そういうことをする体勢とはちょっと違うように思う。

 抵抗なんてする間もなくあっさり想像と違う結果になって、ぽかんと呆気に取られてしまった。そんな私の隣に無造作に寝転ぶ、相変わらず自分勝手な唇が酔ったまま感想をつらつらと零して。

 

「アー、ぬくぃ。アァ、でもそうだな。もうちっと太れよ、もっとちゃんとメシ喰え。じゃねえと抱き心地悪ぃわ」

「…………むぅ」

 

 むくれてぷぅと頬を膨らませる。ちょっとだけとはいえ身構えて焦ってしまった私がみっともなく、馬鹿らしい。そんな反応を見せた私に、ヴィルヘルムがそれはもう楽しそうにくつくつと喉を鳴らした。愉快だと隠さずに笑う彼に、好きにからかわれてしまったのだと気付く。

 ええ、よぉく理解しましたとも。これは色気のある展開では決してなく、さっき自ら宣言した通り彼はただ眠りたいだけ。暖を取るのにちょうどいい温もりを求めて犬や猫のような愛玩動物よろしく私を捕まえた。要は都合のいい抱きまくらにしたいだけだということ。眠るならもう少し歩いてベッドまでいけばいいのに面倒臭いと宣ってソファーで済ましてしまうところも相変わらず横暴で自分勝手。捕まえてしまったらもうどうでもいいとばかり、隣に寝転んだヴィルヘルムがぎゅっと目を閉じて大きなあくびをした。気持ち良さそうにぱかりと開いた口からちらりと尖った牙が覗く。そのまま薄い瞼が開くことはなく、眠りに落ちるために呼吸を整えようと胸板が規則正しく上下する。

 こんなにしっかりと押さえ込まれていたら抜け出せない。締めつけられてはいないから苦しくはないけれど、解けない強い力で閉じ込められているのが張った背中に回った腕の力強さから伝わる。本音としては眠るなら予定通り慣れている自分のベッドが良かったけれど、面倒臭いとさっき言っていたから場所を変えてくれる余地はきっとない。だってもう、すぐ側からぐぅぐぅと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。もう、眠るの早すぎですよヴィルヘルム。戸惑う私を放置してあっさりと先に眠ってしまった彼にちょっぴり呆れた。

 ああ、諦めるしかないのかも。幸い暖炉はついたままで、朝まで薪も持ちそうだった。ソファーの背凭れとヴィルヘルムに挟まれて前も後ろも暖かく、ぴったり引っ付いているから隙間風も防げている。あえて難をあげるとすれば狭いことだけど、こういう体勢に引きずり込んだのは彼なのだし狭さを理由にいくらひっついたところで怒りはしないでしょう。怒ったとしたらあまりにも不本意で、そうなったらきっちりと抗議しよう。

 そう決めて、私の首の下に無造作に転がっていた軍服の腕をまくらに仕返すべくぐっと頭を持ち上げた。そのままぽすんといい位置に頭を乗っけて、身体をころんと横向きにして眠りやすい体勢を取ってみる。眠っているのだから当然だけど、それに対して文句は飛んでこなかった。それどころか収まりが悪かったのか、唸りながら寝ぼけて動いたヴィルヘルムにちょうどいい位置にずらしてしっかと抱え直される始末。まったくもう。この人は、本当に私を体のいい抱きまくらにする気みたい。人のことを何だと思ってるんでしょうね。

 犬猫と変わらない私への扱いに拗ねて、小さく溜め息を溢す。それでも、彼にあからさまに嫌がられいるよりはずいぶんとましなのかもしれないと思い直して、ちらりと軍服の腕と肩の隙間からぼんやり天井を見上げた。

 予想できなかった突然の展開にびっくりした頭が、まだ眠れないとぼやいている。落ち着くまで、眠気が訪れるまでもう少しかかりそう。

 力強い腕の中に閉じ込められて、ぽっかりとあいてしまった一人の時間。ただぼんやりするのはもったいないと思って、少し考え事をすることにした。どうせなら、何か有意義なことを。そう、例えば目の前の彼についてとか。

 そっと瞼を閉じて、彼との出会いから今までの出来事、彼について知ったことを思い出し、振り返ってみる。

 彼は私と同じノアの子で、けれど私とは違う道を選んで進んでいる強い人。私の知らない強い生への渇望を抱いて生きている人。

 いくつもの戦場を駆けた屈強な体躯。纏う黒い軍服からは血の臭いがする。軍服を任されて洗う機会が数度あったのだけど、その濃い臭いは洗っても洗っても消えなかった。それどころか彼の身体そのものにすら命を奪ってきた臭いが濃く染み付いている。そんな臭いを纏わせて、彼は渇望(ねがい)を叶えるために異形の力を奮っている。

 彼は、強い人であると同時に、とても怖い人。彼と出会った戦場で、半分ながらもその怖さを知った。間近に目にしたことこそないけれど、彼が私の近くで他者の命を奪ったことは何度もあった。狂気に満ち、暴虐を好み、闇に生きると誓った人。

 本当なら彼はいつだって簡単に私を殺せる。興味が失せれば、果たすべき役目を失えば、この命は花を手折るような気安さで摘み取られる。それをあっさりと信じられるほどには乱暴な人だし、いつだって殺意に満ちてあちこちを睨み付けている危険な眼差しに晒されてときおり首を絞められているような気分になったこともあった。

 そんな怖くて強い彼には、私が必要なのだと言う。私の魂を奪いたいのだと言う。そう力強く言い切って、悲しみと血に濡れたあの赤い戦地から連れ出して私をこうして側に置いてくれれている。それだけでは終わらず、この命が果てる前に手に入れたい私の半分を見つけてくれると約束までしてくれた。

 こんなにも特定の誰かに必要とされたのは初めてだった。彼に救われた恩を返すためにこの魂を捧げようと私も自ら選んで決めた。命を失うことより、私の半分を手に入れることの方が大切だった。そんな私だから、半分でない私が欲しい、奪いたいと言ってくれる彼との出会いは本当に奇跡のようなもので。

 だってそれは、私の結末が約束されたということ。この生命が果てる最後の瞬間を、彼が看取ってくれるということだから。私の命を詰むのは彼で、結果として奪われるのだからその表現は可笑しいのかもしれない。

 だけど一人でその瞬間を迎えないと約束されていることは、先の短い私にとって何よりの祝福で。それに彼は私を自分のために使ってくれると言った。私は誰かの役に立ちたいとずっとそう願ってそうあれるように努めて生きてきたから、ありがたい。私が欲しいと力強く言い切ってくれる彼の役に立ってこの生命を使い終えるなら、きっと私は善き所に行ける。私の望みはきっと叶う。そう信じられる。

 ああ、やっぱりこれは奇跡。彼は私の運命だと、あの戦場で直感したのは間違いじゃなかった。

 出会ってまだそう日々も経っていないのに、私は彼にいろんな初めてを捧げたように思う。治療の為に触れたり抱き支えたりするのは別として、こうして異性に抱きしめられたのは彼が初めてだし、誰かとあんなに負けじと言い合いをしたのも初めて。彼ほど融通がきかない人も珍しいから、この二か月近くでずいぶん私も口うるさく喋るようになったなあと思う。こんなにもたった一人のためだけに食事を作り家事をしたのも初めてだし、さらにいえばあんなに馬鹿にされたり、叩かれたり蹴られたりしたのも初めての経験だった。それが人として良いか悪いかは別にして、私の人生がまさかこんな様相を呈して面白いなと思えたこと、それがとても楽しい。もちろん彼にまともな倫理観は望めないし、怖い人だし、我侭で自分勝手でいろいろと大変だけれど、この日々を苦痛に思ったことはなかった。むしろ、楽しいことが多かった。それだけでなく怒ったり、寂しい気持ちになったり、いつも穏やかで敬虔にいようと努める私の心を揺さぶる出来事も多くて、半分しかない感情が自分の感情に素直な彼につられて揺り動くのにわくわくした。私とは違う表現を持っている彼が羨ましいし、憧れた。

 そう、彼と過ごしたこの二ヶ月近く、本当に賑やかで楽しかった。たくさん叩かれて馬鹿にされて、怒ったり、拗ねたり、笑ったりした穏やかで温かい日々だった。彼と二人で過ごしたささやかな思い出をたくさん思い返せばやっぱりわくわくとした気持ちになって、逞しい腕の中でくすくすと肩を揺らして笑ってしまった。そうしたら酒気に微睡む気持ちいい眠りの邪魔をしてしまったみたい。揺れてしまった私の身体に起こされて、ソファーに寝転がった黒い身体がもぞりとむずがるように動いた。

 

「……んだよ、寝れねえのか?」

 

 薄く瞼が開いて、とろりと動いてこっちを見た赤い瞳。眠そうな顔に囁いたような低い声で問われる。素直にこくりと頷けば、あからさまに溜め息を吐かれて。溜め息といっしょに沈んだ肩の重みが伸し掛かってきて、近くにある彼の存在をより強く身近に感じさせた。

 

「ったく、さっさと寝ろや。普段なら俺を差し置いてぐーすか勝手に寝てるだろうが。っていうかよ、夜なのに俺が寝てててめえが起きてるとか腹立つんだよコラ」

 

 相変わらず自分勝手な理由を振りかざして、ヴィルヘルムが寝つけ寝つけと私をどやす。あやしているつもりなのか、乱暴な手つきでがさりと背中を撫でられた。少し痛いその手つきが私のよく知る乱暴者で我侭な彼らしくて、つい苦笑いが零れる。誰かを優しくあやすことに慣れていないところが微笑ましいなあと思えた。

 

「ガキみてえによ、抱き締めてやったらすぐ寝るじゃねえか。おい、今日はどうしたよ?」

 

 そう問われて、ふと洞窟の壁に凭れた彼の腕の中でいっしょに眠った夜のことを思い出す。結局あれ一度きりだったけれど、普通の人とは違う彼の不思議な体温に何故か安心してすぐに寝付いてしまったのは確かで。それによく覚えていないけれど、倒れて運ばれる最中に彼の腕で眠ってしまったこともあったように思う。

 あの洞窟の夜のことを私が覚えているのはもちろん彼も忘れることなく覚えていてくれたのだとこんなときに分かってしまって、なんだか照れて頬がじわりと熱くなった。

 

「分かってんなら寝ろ、馬鹿女。何のために飯炊き女から抱きまくらに格上げしてやったと思ってんだてめえ。また倒れたりされちゃ俺が迷惑なんだよ。もう運んでなんかやらねえぞ、面倒くせえ」

「あっ、あれはその、確かに私の不注意だったのでごめんなさい。でももう自己管理はちゃんとしますし、臥せる前に自分でちゃんとベッドまで行きますから――って、痛!」

 

 指摘された出来事は、あまり思い出したくない。それこそ顔から火が出るほど恥ずかしい。いつもなら体調を崩す前に自分からベッドに潜り込むのにその日は間に合わなくて、キッチンで倒れて蹲ってしまった。私にとって、光がもたらす痛みは祝福と同じ。だからそれに悲鳴を上げるなんて以ての外。光は尊いものだから、どんなに苦しくても、倒れたとしても、それを辛いとは言いたくないし、苦痛だとは認めない。絶対に認めない。光とは私を救うもの。それは誰の指摘でも、どんな痛みでも、決して揺るがない私の真実と理解している。だからあのときも、私はいつものようにこんな状況なんて何でもない、たいしたことではないしすぐに元気になる。そう証明したくて自分の足でベッドを目指そうと躍起になった。

 光は尊い、そう訴える私の意地を彼は汲んでくれた。この表現は彼からしたら語弊があるのだろうけれど、無条件にすぐさま手を差し伸べるのではなく、床をみっともなく這ってどうにか立ち上がろうと足掻く私の好きにさせてくれた。私の限界が訪れるまでただ耐えて見守ってくれた。それが私という存在の芯をきちんと理解して貰えているようで、あのとき本当に嬉しかった。けれどもう、あんな痴態を彼には見せない。もう大丈夫、きっと上手く凌いでみせる。

 だからそれを必死になって訴えれば、何故か明らかに苛立っていく彼の顔。訴えたい言葉すべてを言い終わる前にその苛立ちをぶつけられて、ごちんとぶつかった額と額。与えられた衝撃が痛くて、頭がぐわりとしてぎゅっと目を閉じる。頭の揺れがやっと収まった頃、ひりひりする額をさすって目を開ければ、熱で火照った呆れ顔で私を見ているヴィルヘルムがいて。

 

「バァカ、そもそも倒れるなって言ってんだよ。あのなあ、分かってんのか。おまえが馬鹿みてえに微笑ってないとこっちは調子狂うんだよ、ボケ」

「……っ!」

 

 びっくりした。びっくりしすぎて心臓が、止まるかと思った。だってそれは、私が言葉の上だけでなく名実ともに本当にあなたのものだと証明してくれる言葉だから。私の不調が、私の存在が、あなたの心を掻き乱すだけの価値があると認めてくれたということで。

 彼がそんなことを言うはずはない。私相手にそんなことを思うわけがない。本当にそれが彼の唇から出た言葉なら、それはきっとひどく酔っているから。

 いつもは顰めっ面を浮かべて怒って叫んでばかりなのに、今日はお酒の力にかいつも以上によく喋って表情がくるくる変わる。怒った顔とか、呆れ顔ばかりだけれど、いつも最初に見せる不機嫌そうな顰めっ面がなりを潜めて、それに阻まれない素直で真っ直ぐな感情を表に出してくれている気がする。

 彼がそんな風だから、私までおかしくなってしまったんだろうか。びっくりしすぎて止まりかけた心臓に、ぎゅっと締まった胸。それが解けていくのといっしょに身体の力がじわりと抜けてしまって、きつくきつく閉めておかなければいけない心の箍までつられて緩んでしまったんだろうか。

 ぽろりと溢れたもので、私の頬が濡れた。その水滴が最初はなんだか分からなかった。それが私の瞳から零れた涙だと気付くまで、本当の本当にずいぶんと時間がかかってしまって。

 

「……おい、糞女。何で泣くんだよ。わけわかんねぇぞ」

「ごめ、んなさい。私にも何がなんだか……、ぅ」

 

 押し殺した声に責められて、上擦った声で謝罪する。だけど言葉途中でそれ以上上手く喋れなくなってしまって。

 

「はぁー、何で女ってのはこんなほいほいすぐ泣くかねえ、うざってえ」

「ちが……っ。私はそんな、泣いてなんか」

 

 泣いてんじゃねえか、低く真面目な調子で言い返されてぐっと言葉に詰まる。違う、違うのヴィルヘルム。私は本当に、泣いてなんかいない。きっとこれは何かの間違いだから。

 私は泣かないし、泣けない。もっと正確に言えば、泣きたくない。

 泣くことは、私の決めた世界(ひかり)に反してしまうから。そんなことは認められない。そんな弱い自分は嫌、嫌なんです。

 灼ける肌に苦痛を感じて涙することは、憧れの祝福(ひかり)に対する冒涜だと感じたから。

 そうでなくとも尼僧として敬虔に行動するようにと厳しく躾けられてきたし、理想とする彼女みたいに誰かの役に立てるように強く在りたいから痛みや悲しみに心折れて涙を流すような弱さを表に出したくなかった。ただでさえ私は半分なのに。普通の人のように涙を流したところで、受け取っている感情は半分で正しい涙を流す感情の量には程遠い。

 だから、半分しかない感情の制御が上手く出来なかった物心つく前の幼い時分を除けば、私の意志で泣いたことなんてただの一度も経験がなくて。熱に浮かされて生理的な涙を流したことくらいはあったかもしれないけど、意識のある時は絶対に涙なんて流していない。そう、私は泣いたことがない。そんなことはしたことがない。だけどこうして、ここにきて彼の腕の中で泣いてしまった。何気ない彼の言葉が嬉しくて、泣いてしまった。心が我慢できずに涙を流すほど、激しく揺れ動かされてしまった。

 ああ、どうしよう。したことがないものだから止め方なんてさっぱり分からない。不本意な涙を流しながらどうしたらいいのかと途方に暮れる。

 そんな私を見られることが恥ずかしくて、困り果てて隠れたくて、咄嗟にヴィルヘルムの胸元にぽろぽろと溢れる涙に濡れた頬を押し付けた。そうしたら、黒く血の匂いのする軍服が私の涙でしとりと濃い染みになってしまって。間近の視界に飛び込んできた一際目立つ漆黒の痕に、青褪めて慄いた。

 ヴィルヘルムといっしょに過ごすうちにこの黒い軍服は彼の誇りであると知った。彼が奉ずる黄金に固い忠誠を誓った証だから、それを不本意な涙で汚してしまったのが申し訳なくて。

 

「ぁ、ごめんなさい。ごめんなさいっ、ヴィルヘルム。私、汚してしまって……!」

「ァ……?」

 

 跳ねるように顔を上げて必死に謝れば、緩慢とした動作で私を見つめたヴィルヘルムが不思議そうな顔を浮かべた。

 

「はぁ、今更だろ。もっと汚えもんで汚れまくってんだから気にする必要ねえよ。そりゃあ常にきちっとしておきてえって頭はあるがよ、戦争やってりゃ嫌でもズタボロになるもんだし、涙なんて血や臓物の破片とかに比べりゃ綺麗なもんじゃねえか」

「……ぇ?」

 

 呆れた声音で鼓膜を打った彼の言葉に、かぁっと頬が赤面する。必死の謝罪にあっさりと返ってきた答え、それに恥ずかしさで胸がいっぱいになる。ああ、私は彼を軽んじていた。半分の心しか持たない薄い私の涙程度で彼の魂を汚すことができるわけがなかったのに。なんて、なんて失礼な考えを抱いてしまったんだろう。青褪めて後悔する私を、不思議そうに小首を傾げて、じっと熱に潤んだ赤い瞳が見ているのに気付いた。

 その視線に戸惑って顔を上げれば、ヴィルヘルムは酒気にぼんやりとするだろう頭を振って、じっと考え込むように視線をふいと天井に投げた。そうしてたっぷりの時間を掛けたあとで、戻ってきた彼の視線が熱っぽく私を見つめて、白い頬が僅かに赤らんだ彼の顔が少しだけ困ったようにくしゃりと歪んで。

 

「アァー、まあ確かにてめえの言うようにどうでもいい奴の汚えので汚れりゃ、嫌かもな。けどよ、おまえはもう俺のもんなんだから、俺の一部みたいなもんだろう。それに汚れりゃ、いくらでもおまえが洗ってくれりゃあいいじゃねえか。好きだろ、洗濯すんの。軍服(ふく)なんてどうしたって汚れるもんなんだしよ、それでいいと思うぜ」

 

 だから私が汚したことは別に気にならない、相手が私なら汚したいだけ好きに汚せばいいしその分綺麗に洗ってくれればいいのだと、彼は熱に浮かれた穏やかな口振りで言った。

 それは、その言葉の意味は、あまりにも私にとって意味が深くて、深すぎて、たまらなくて。

 

「っ、ぁ……あぁ」

 

 あなたは、私が半分で薄いからあなたの軍服(ほこり)を汚すに足りないのではなく、私があなたのものだからいくら汚してもその度に好きなだけ綺麗にすればいいと言ってくれるの?

 私はあなたのものだから、いくらでもあなたの側にいていいと言ってくれるの?

 分かってる。彼が何の気なしにその言葉を告げたこと。良いように良いように、私が取ってしまっているだけ。酔っ払っているからつい普段言わないようなことまで彼の口が滑ってしまっただけだって。だけどそれでも、嬉しくて、嬉しくて。我慢できずに溢れた悲鳴じみた嬌声といっしょにまたぼろぼろと涙が溢れる。今度こそほんとうにたくさん溢れて、止まらなくて、どうしようもなくて。自分の心すら上手く掴めないで混乱している、そんな私が怖くて、――微かでも確かに怖いと思えて、戸惑うまま助けて欲しくて涙に濡れた瞳で懇願してヴィルヘルムを見つめた。

 

「んだよ、まだ泣くのかよ。おい、どうしたよ、クラウディア。俺が泣かしたとかふざけたこと抜かすんじゃねえぞ。さっさと泣き止めよ、コラ」

「……ぅ。ふぇ、うぅ」

 

 ひどい。ヴィルヘルムったらひどい。泣くことを知らなかった私をこんなにも戸惑うほど泣かせたのはあなたなのに。いつものように泣くなとひどく言うのに、いつもより穏やかな音をして声をかけるものだから、私はまた泣いてしまう。泣き止み方なんて知らないから、溢れる感情に促されるままただただ嬉しくて泣いてしまう。ただでさえ初めてのことで戸惑っているのに、そんな私にさらに追い打ちを掛けるように呆れ顔を浮かべていたはずのヴィルヘルムが愉快げにくしゃりと表情を崩した。

 

「ハッ、でもまあおまえの泣き顔は悪くねえな。普段うるせえてめえが吠え面かいてるかと思うと気分いいしよ。それに泣くってのはそんだけ何か感じたってことだろう。生きてるって感じがしていいじゃねえか――って、おいよお。まだ泣くのかよ、いい加減にしろクラウディア」

「……だっ、て、ぅぇ、……う゛」

 

 溢れる涙は止まらない。嗚咽を溢す喉が震えすぎて痛い。生きてる、そう言って貰えたことが嬉しかった。もっと生に執着を持てとことあるごとに私を叱るあなたにそれを僅かでも認めて貰えたことが嬉しかった。

 途方に暮れながら涙を流し続ける私の隣で、同じようにヴィルヘルムも泣き続ける私を眺めて途方に暮れる。馬鹿だ阿呆だと罵って叩いてくれれば泣き止むかもしれないのに、私が泣いて弱々しい姿を晒してしまっているせいで珍しく当たりづらいのか、それとも叩いたらよけい泣くと思ったのか乱暴な手が持ち上がらない。いつもみたいに酷く扱ってくれない。それがまた辛くて、苦しくて、切なくて、なのにまるで大切にされているように感じてしまってどうしても嬉しくて。

 

「……仕方ねえなあ。本当にてめえは手が掛かる馬鹿女だよ。おら、こっち向け」

「ぇ? ぁ、きゃっ!」

 

 呆れ混じり困ったように半笑いで零して、前のめりになった彼の顔で見上げた真上にさっと薄暗い影が差す。がさりと覆い被さってくる大きな彼の体躯。ぐっと寄せられた整った白い顔。吐息で肌をくすぐるように近づいてくる彼の薄い唇。

 ぺろりと涙で濡れた頬を舐められた。そのまますいっと逸れた唇があぐりと開いたと思ったら、がじりと鼻先を噛じられた。びっくりした。あんまりにもびっくりして、びくんと跳ねた身体にぴたりと涙が止まってしまった。整った歯並びの形につきりと走った甘い痛み。彼の熱い舌が拭った涙の痕、濡れた舌が辿ったところがじわりと熱を持ったみたいに熱い。

 ああ、彼は本当に私の初めてばかりを奪っていく。尽く、持っていってしまう。抱き締めてくれたのも彼が初めてだったけれど、それはよくある男女の営みで想像の範囲内だし、最初に求めたのは自分からだったから心の準備も出来た。彼限定ではあるけど、多少は慣れもした。だけど頬を舐めるとか鼻を噛じられるとか、そんな行為は私の持てる知識にはなくて、そんな風に男性に扱われたのはそれこそ初めてで頭が真っ白になりかけた。

 しょっぱいと短く感想を零して、間近に整った彼の顔が私をじっと覗き込んでいる。拭えない狂気を宿した赤い瞳の中に、涙に真っ赤になった目で驚いた顔の私が映っている。口付けできそうなほどの距離の近さに息を呑んだ。心臓がばくりばくりと激しく鳴った。

 

「ハハッ、泣きやめるんじゃねえか。ぶっさいくな面しやがって、目ぇ真っ赤じゃねえかよ」

 

 意地悪い顔をして、からりと彼が笑う。その顔があんまりにも楽しそうで、眩しくて、闇に生きるはずの彼が放つ光にまた目が眩んだ。そうだ、彼はそうやって何度も何度も私を光の方へと導いてくれる。そんなことをした覚えはこれぽっちもないと、いつだって不機嫌そうに断じるだろうけれど、彼がなんて言おうと私はいつだって彼に救われている。闇の中に佇む彼が放つ眩い光に、いつかの澄み渡る青い空に見た美しい白い鳥に似た姿に。彼は、私と同じノアの子。けれど私と違う生き方を選び、光と闇が同在する厳しい世界を力強く生き抜いていく、強い人。この魂を善き処へと導いてくれる、私の白い天使。

 ああ、この人はどうしてこんなにも私の心を揺さぶるんだろう。半分の心しか持たない私が、十全になれると明確な根拠もないのに力強く信じられるくらいに私の心を捉えて離さない。交わしてくれた約束はきっと守られる。彼なら必ず守ってくれる。そう信じることが、こんなにも容易い。彼は私の運命なのだとただの直感でしかない考えが、どうしてこんなにもすとんとこの胸に当たり前のように落ちてくるんだろう。それが不思議で、だけど疑うことなんてこれぽっちもできなくて、ただ真っ直ぐにこの先も彼を信じて光の下を生きたいと、そう心から切に思う。

 

「……ッ」

 

 我慢できなくて、私一人ではこの胸に溢れる感情の渦を耐えることができなくて、私の涙で染みが出来た黒い軍服の胸元にきつく縋り付いた。

 

「アァ、やっと寝る気になったかよ。おら、さっさと寝ろ。諦めて大人しく抱かれてろよ、バァカ」

 

 普段からどうしたって素直に言うことをきかない意地っ張りな私が、やっと思い通りになったとどこか満足そうに笑って、言葉通り気持ちよく眠るための抱きまくらにするために軍服の両腕が温く私の背中を荒っぽく撫でて抱き締める。

 彼の良いようにして欲しくて、望まれるまま頬をざらついた軍服の布地に擦りつけた。きっと彼からしたら飼っている犬が芸でも上手く出来た程度のことなんだろう。そうだと分かっているのに、褒めるように乱暴な指先にくしゃりと後ろ頭を撫でられて、長い髪をからかうように柔らかく梳かれて、そのくすぐったさにまた泣きそうになる。だけどせっかく止まった涙をもう一度零すのは嫌だったから、ぐっと身体を縮ませて耐えた。また泣いたら彼を困らせてしまうし、弱い私をこれ以上強い彼には見せたくなくて。

 不思議な体温が与えてくれる温もりにぎゅっと身を寄せていれば、規則正しく脈打つ心臓の音が聞こえた。それに耳を傾けていれば少しずつ心が落ち着いてきてほっとした。

 二人してじっと寄り添っていれば先に眠ってしまったのは眠気を押し殺して会話をしてくれていた彼の方で、しばらくしてすぐ側から落ち着いた寝息が聞こえてくる。半開きの唇から香る濃いお酒の臭い。私といてこんなに最後まで笑っているほど機嫌がいいなんて、きっと本当に気持ちよくお酒が飲めたんだろう。誰と飲んでいたのかは知らないけれど彼が気分良く楽しい時間を過ごせていたのなら嬉しいし、どうしてかは分からないけれどこんな半端な時間に帰ってきてくれたのも――彼といっしょに眠れるのも嬉しい。

 そっと持ち上げた涙に濡れた瞳で気持ちよさそうに眠る彼の顔を眺めていたら、またじわりと涙がこぼれそうになって、唇を噛み締めて耐えた。ああ、もうこれ以上泣きたくない。泣いたほうが生きている気がしていいとあなたは言ってくれたけれど、私はやっぱり泣きたくない。ごめんなさい、ヴィルヘルム。これはただの私の我侭。絶えず眩しい光を求める私が幼い頃から朝の日課といっしょに諦めずに貫いてきた譲れない意地。だから、守り抜きたい。残されたあと少しの命を光に許される限り全うしたい。あなたみたいに、私も強くなりたいから。

 ――ああ、お願い。だから忘れて、ヴィルヘルム。

 朝になって日が昇って、それからぐっと夜が近づいてあなたが目を覚ます頃にはいつもの私に戻っているから。あなたが望んでくれたように、軽口を叩いて屈託なく笑う私に戻るから。涙を流してあなたに縋った弱い私のことは、どうか忘れて。

 だって、嫌なの。ここにいる弱い私はどうしても、耐えられない。昨夜の言葉は気の迷いだったと、酔っていたから口にした戯言だったと、あなたの薄い唇から、この夜のことを否定するような言葉は聞きたくない。そんな言葉を聞いてしまったら、半分しかない心なのに胸が傷んで眠れなくなってしまいそう。それならいっそのこと忘れて欲しい。我侭だって分かってる。だけどあなたの言葉一つに踊らされる弱い私は、それだけで本当に心が砕けてしまいそうだから。そのかわり、私は絶対に忘れない。こんなに大切なこと、忘れたくなんて、ない。

 あなたのかわりに、お酒の力につられた素直な言葉も、まるで一つのようにぴったりとひっついて触れ合った温もりも、抱き締めてくれた腕の力強さも、髪を梳いてくれたあなたらしい荒っぽい手つきも、欠けている私が持てる感覚すべてで受け取った記憶をこの胸に大切に大切にしまっておくから。

 私は半分だから、酔ったあなたが気まぐれにくれた優しいものを十全に受け取ることがきっとできていないけれど、それが悔しくてしょうがないけれど、それでも確かにこの心は喜びに震えたから。あなたが側にいてくれて幸せだって、思えたから。

 だからお願い、ヴィルヘルム。私の涙は、忘れてください。

 あなたが望んでくれた普段通りの私のように、あなたにはいつだってにこやかな笑顔を見せていたい。

 涙の夜を越えて、微笑いたい。煌めいて眩しい光を身体いっぱいに受け止めて、あなたの側で屈託なく笑顔を溢す私でいたいから、どうかお願い。

 目尻に残っていた涙と頬に残った涙の痕をごしりと手の甲で拭った。擦れてほんの少し熱を持った瞼をぱっと開けば整った白い寝顔がすぐ側にあって、眺めていれば自然と頬が緩んで唇が微笑みの形を浮かべてくれた。きっと彼も、明日はいつも通りの彼に戻る。すっかり酔いは冷めて、きっと朝にはいつもの顰めっ面を浮かべてくれる。そう、これは酔ったあなたが私にくれた一時の優しい夢だから。

 ああ、よかった。大丈夫、きっと大丈夫。いつも通り見慣れた彼が隣にいてくれるなら明日の私もきっとにこやかに笑っていられる。

 私の半分を見つけると約束してくれた彼のために明日はこの微笑みを絶やさないと心に誓って、彼が誇りに思う軍服の胸元に乾いた涙にかさついた頬をぴたりと寄せた。穏やかな寝息と力強い心臓の音に耳を傾けて、穏やかな眠りに落ちるためにそっと涙が乾いた瞼を閉じる。

 触れ合う彼の熱に優しく眠りへ誘われて、ふわりと漂った私の心、そこにじわりと沁みた一つの想いがあった。それを切に切に願って、深い眠りの淵へ落ちていく心の中で私の隣で穏やに眠る彼にそっと優しく語りかけた。

 私がいつか――きっと遠くない日にあなたのおかげで善き処へ行けるなら、私を幸せに導いてくれたあなたもどうか善き処へ。心が望むまま、彼の願いが果たされる場所に辿り着けますように。意地っ張りで理不尽で乱暴者で、だけど揺らぐことのない強い渇望を抱いて厳しい世界を生き抜こうとする誰よりも前向きなあなたが、どうか幸せであれますように。

 おやすみなさい、ヴィルヘルム。半分の私だけれどあなたの幸せをこの心で精一杯願うから、どうか素敵ないい夢を。

 あなたと私の二人で紡ぐ明日がより良く優しい輝きに溢れた尊いものになりますように――。

 




読んで頂けて嬉しいです。ありがとうございました(*´∀`*)!


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生誕の日【ベイ中尉誕生日SS2017】

 
ベイ中尉の誕生日2017ver.です。時系列は本編開始前の双頭鷲襲来後くらいです。
ヴィルヘルムの長い生涯で、誕生日の夜にたった一度だけ起きた小さな奇跡のお話を書きました。
 


 

【生誕の日】

 

§Side Wilhelm

 

 乱暴に身を預けた布張りのソファーが立てた、ぎしりと軋んだ音。ここでいいかと適当に当たりをつけて潜りこんだ空っぽの他人の家で、固い肘置きに組んだ足を放り出す。浅く息を吐いて視線をずらせば、背もたれと隣り合った壁に埋め込まれた四角い窓。単調でくすんだ色味の布地のカーテンが味気なく垂れている。うっすらと開いた隙間から見えた、縦長に切り取られた外の世界に目を凝らした。

 ガラス一枚隔てた向こうに満ちた黒い夜、それに映える色鮮やかな照明の色が建ち並ぶ建物の隙間から溢れ、眩しくちらついていた。人工的な照明が、まるで星のように見える。沈んだ太陽に世界が暗く反転しても蠢き続ける脆弱な魂は数多く、階下に広がる景色の中に喧騒を生み出していた。

 夜になっても明るく眠らない街に存在が霞んだのか、切り取られた四角の高い位置に掛かった月が随分と遠く小さく映る。

 

「……はッ」

 

 乾いた嗤い声が喉から溢れた理由が上手く掴めず、妙な気分に陥った。どこか納得のいかない気持ちを抱えたまま、ふいと視線を暗い部屋の中に戻す。手持ち無沙汰でやるせなく腹の上に置かれた指先がやけに白く映った。

 今夜は喧騒の中に身を置く気になれず、一人でいたい気分だった。そう思い立った空間を、周りから雑多な魂を追い払って望む形に作り変えるのは容易かったが、そういうのとは少し違う気がして扉を潜り階段を昇って地上(そと)に出た。それが叶う場所を探して、街中をふらりと徘徊した。踏み込んだことがなかった土地勘のない場所ばかりをジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま適当に歩き続けているうちに辿り着いたのは、暗がりの街並みの中で偶然に目についた年季を感じさせる古ぼけた外装のアパートだった。

 部屋数はそれなりにある割に、這った蔦とひびだらけの壁の向こうのどこにも住人の気配一つないのが気に入った。人が住んでいないわけじゃない。お誂え向きにその時だけは、運良くもぬけの殻だった。暇つぶしがてら正面に見えた部屋に微かに残った住人の残滓を辿ってみれば、数日前でふつりと途切れていた。たまには一人で静かに夜を明かしたい、その望みを叶えるのに都合良くちょうどいい塒が見つかって良かった。

 こういうときの勘が外れることはないだろうと機嫌良くカンカンと乾いた音を立てて外階段を昇り、適当な階で足を止めた。規則正しく並んだ幾つかの扉、そのうち一つを無造作に選んだ。

 どうせ適当に時間を過ごすだけだと乱暴にドアを蹴破りずかずかと中へ進んでみれば、あっさりと辿り着いたリビングに休むのにちょうどいいソファーがあったもんで腰を落ち着けて今に至る。

 重力で垂れた厚い布の隙間から差し込んでくる明かりこそ眩しく鬱陶しいが、表通りから離れて奥まっているおかげだろう。耳障りになるほどうるさくはなかった。

 

「……ン?」

 

 ふと、鼓膜をつく微かな物音に気付く。聴覚が捉えた音を辿ってみれば、行き着いたのは壁際に据えられた小振りの棚だ。その天板の上に、丸く簡素な造りの置き時計があった。

 肘置きに乗せた首だけを傾けて、家主が不在でも律儀に時を刻み続ける文字盤に目を凝らす。

 あと少しで短針と長針が重なりそうだ。体感でも探ってみるが、狂いはなさそうだった。

 もうすぐ日付が変わるなと独りごちて、けれどそれがどうしたと視線が床に落ちかけたが気が変わった。置き時計の隣、暗がりの中に立つ小さな四角い形を見つけたからだ。逸れ掛けた視界の端にちらりと映った四角いそれは、簡素で味気ない装丁の小振りのカレンダーで。並んだ小振りの丸と四角を視界の中に鮮明に捉えたところで、微かに呻き声に似た吐息が唇の端から漏れる。

 どちらも人間が円滑に暮らそうとするなら要るものだろう。そこにあることに違和感はない、並びだってよくある組み合わせだ。ただ、だからこそ別段面白くもないものに目が行ったことが不思議だった。漏れた吐息は妙な気分に陥ったせいで、気になったことに意味でもあるのかと訝しみ、規則正しく並んだ数字を視線でなぞってみる。

 日付なんて普段はろくに気にしない。公私問わず、誰かと会う用事でもなければ必要がないからだ。せっかく気が向くまま愉しんでいる自由な暮らしだ。日付だの時間だの、その手の細かく面倒なものに縛られる気はさらさらない。

 吸血鬼の俺にとって大事なのは、今が昼か夜かどうか。大雑把ではあるがそれに尽きる。

 そして黒円卓に存する俺にとって大事なのは、四半世紀を切った約束の時に出遅れないどうかだ。極東の地を血祭りに染め上げ、黄金錬成を完成させる。そのためにこうして待ち惚けを食らい続けているわけで、それさえ把握していれば他はどうでもいいし、どうとでもなる。待ちくたびれた挙句に遅刻するなんざ格好悪くて目も当てられないからな。

 約束の地を円滑に整えるのに力を貸せというのなら、こっちが指折り数えて待っていなくとも向こうから呼び出しが掛かるだろう。こないだだってそうだった。ちょっとは大暴れできるかと多少は期待して出向いた割にその期待は見事にすかされて、約束の時を迎える前に団員が欠けるという予想外の結末になった。

 月日は流れ、事態は動いている。緩慢ではあるが、約束のときは確実に近づいている。我慢なんて性じゃない自覚はあるが、それでもこれまでの永い時間を耐えてきた、そういう自負がある。あともう少しだ、しかしその少しがとてつもなく長く退屈に感じる。

 持てる力を揮えと乞われるまで耄碌せず、溜め込める限り魂を喰らって蓄え続けていればいい。そうと分かっちゃいるが、堪え続けてきた癇癪が爆発しそうだなという危惧がある。さっきも言ったが、我慢も退屈も柄じゃねえんだよ。毎度、適当な戦場で暴れてはうさを晴らしてきたものの、派手に暴れすぎてさすがに同胞から灸を据えられた。後処理を見据えてもう少し上手く立ち回れという小言は聞き飽きた。個人的にはそんな助言はガン無視したいところだが、事情をそれなりに鑑みるくらいの頭はあるもんだからそうもいかない。団員の立ち振る舞いの是非が我らの悲願を成功に導くのだと、黄金錬成の成否を引き合いに出されちゃあこっちにゃまともに反論する言葉もない。

 もう少し時期が近づけば実感も湧くんだろうが、生憎と焦燥と退屈が勝っているんだから気が滅入る。待ち望んだ瞬間を指折り数えて待つにはまだちと早い。

 あまり暴れ過ぎるなと灸を据えられちゃいるが、こっちは逃げも隠れもしちゃいないんだ。存在は臆することなくあからさまに世界(てき)に向けて曝されている。仕掛けられたら迎え撃つのは当然として、それくらいしか滾る血を鎮める手段がないことにまた辟易する。欲に塗れてのらりくらりと昂る破壊衝動を騙し騙し生きながら、真に欲するその瞬間が訪れるまで、ひたすら退屈に喘ぐしかない。そうなると、退屈を潰すための手段を模索しないとやっていられない。どうしてか目についた他愛ないものに意識を傾ける気になったのも、その一環だろう。

 気を引かれたことに意味はあるのか。あるとしたなら、それは何なのか。

 さて、今日は一体何日だっただろうかと暇潰しがてら規則正しい数字の羅列と答えになりそうなここ最近の記憶を引っ張り出し、照らし合わせてみる。

 大まかな日付くらいは分かっちゃいる。いくら興味がないからと、そこまで耄碌しちゃいない。

 既に、七月が始まってしばらく経っただろうが、まだ初旬あたりだろう。それくらいの夜しか越えていない気がするが、今からまた一つ日付(よる)を跨ぐわけで、そうなると関わってくる数字は二つだ。それならばと、正しい解答(きょう)の一歩先の数字(あす)を探す。答えがあると分かりきっていれば見つけ出すのは簡単だった。

 簡単過ぎてろくな暇つぶしにならなかったなと肩を竦めて当たりだと踏んだ数字で目を止めたが途端、脳裏をざわついた微かな違和感にきゅっと顎を引いた。

 

「……アア、何だっけなア?」

 

 七月十日。その数字に、見覚えがあるような気がする。どこかで誰かに何かを言われたような気もする。

 ほんのすぐそこまで答えが出かかっているような気が確かにするのに、その先を考えたくないような考えたいような変な心持ちだ。表現しがたい複雑な胸の内に手を伸ばしてみて、今夜はどうしてかあれこれ妙だと己の怪訝さに独りごちる。

 結局、掴めそうなものを掴まないのは負けたようで気分が悪いと結論付けて、喉元まで出掛かっている答えを手繰り寄せてみることにした。

 腕置きにだらしなく預けた頭で薄暗闇に広がる天井を仰ぎ、その体勢のまましばらく考え事に没頭する。

 俺に声を掛けたのは誰だったろう、そいつに何を言われただろう。気掛かりな数字の羅列に関わった他人の面影、答えを見つける取っ掛かりになりそうなのはそれだと踏んで、吸血鬼(おれ)に関わろうとする物好きの顔を数人ほど思い浮かべてみる。脳裏に並べた気の狂った怪物の面をぞろりと並べてみてやっと掘り返した記憶と数字の羅列が一本の線で繋がった。途端、背筋を這うようにぞわりと湧き上がったのは強烈な不快感だ。

 意味を忘れて、錆び付いていた数字。たいして重要じゃないからと脳裏の片隅に乱雑に放っていた。そのせいで答えに辿り着くまで時間が掛かったが、いっそのこと辿り着けない方がまだましだっただろう。腹に溜まっていく苛立ちに、顔を顰めて小さな四角い紙に刻まれた二桁の数字を睨めつける。

 ああ、そうだ。そうだった。

 七月十日はこの魂が、半端な肉体を伴って昼と夜が同在する憎々しい世界に生まれ落ちた日だ。どうでも良すぎて一々覚えていやしなかったのに、思い出したせいで馬鹿をみた。

 年齢一つでうるさく騒ぐ女子供じゃあるまいし、そもそも己の誕生日なんてものに興味がない。生まれた正式な日付だって、それこそ黒円卓の団員になってから知った。やれ手配書だなんだと、好き放題振る舞ううちに気がつけば出来上がっていた逸話に添えられて毎度ご丁寧に書かれたその数字は個人を特定するだけのもので、俺が世界の敵に相違ないと証明するくらいの役割しかない。

 それこそ、汚い血で繋がった母親の股ぐらから這い出た日より、過去を清算し怪物として自ら生まれ直した日のほうがよっぽど正しく生誕の日と言えるだろう。

 ああ、今夜はやっぱり妙だ。どうしてか、俺は選択を間違ったらしい。冴えているようで、冴えていない。絶妙な加減で勘を外している。

 それを防げる分岐点に気付く違和感はあったはずだ、覚えがある。負けた気分になるからと変な意地を張らず、汲み取った微かな違和感に従って日付の意味を探るのはやめて遠ざけておけばよかったんだ。

 悔いたところで、もう遅い。都合よく忘れていた生誕の日をまさか迎える直前に思い出すとは。

 刻一刻と迫る日付に紐付けられた意味を考えるだけで腸が煮えくり返る。どうしてか、それはこの身体に絶えず流れ続ける畜生の血ほど不快感を煽るものが世界にないからだ。

 この身体は、気色が悪い。幼い頃に根付いた肉体への嫌悪はどれだけ年月を重ねようとも拭えない。それどころかまるで枷のように絡みつき、色濃くどろりと粘つき溜まっていくばかりだ。

 獣のように交わる二つの身体をぼんやりと眺めていたある時に、小さな掌に走った震え。それは一瞬にしておぞましさに変わり、全身を侵した。その感覚に支配された瞬間から今まで、ずっと足掻いてきたんだ。

 どうあっても精神(こころ)を侵すおぞましさから抜け出したかった。そのために出生の因果だって手ずからぶち壊してやった。なりたいものになるために、たった一つしかない命だって懸けた。それこそ人知を越えた力を得る以前から、思いつく限りのことは身体を張って試してきた。そうだ、ありとあらゆる手は尽くしたはずなんだ。

 最初はただ、生きるためだった。だが、その可能性に気付いた瞬間から――怖気のない新しい身体を得られるならと獲物を狩って、大量の生き血を啜り、跳ねる肉を齧って喰らい、またそれと同じだけの血をこの身体から流し続けた。犠牲にした魂の数は既に数え切れない。

 それだけの他者の命を喰らって、まっさらに再生を繰り返して身体の細胞すべてがとっくに入れ替わってもなお精神(なかみ)は真新しくすげ替えられず、不快感は拭えない。

 

「――ッ゛!」

 

 古ぼけた光景が脳裏にちらついた。感覚まで還ったのか、嗅いでもいない饐えた臭いすら鋭敏に嗅覚が捉えた。ああ、思い出すだけで怖気が走る。全身を掻き毟りたくなったがその不毛さに萎えて、跳ねかけた指先を抑え付けきつく握りしめた。砕けそうなほどに軋んだ音を立てる白い掌を眺めてやっと、詰めた息を小さく吐く。

 まだ指折り数えるには早くとも、約束の時は確実に近付いている。暴れ回ることに異論はないし、出し惜しみをしているわけじゃないが、こんなくだらない理由でせっかく喰らって蓄えた魂を無駄に消費することはない。生まれ変わるために肌を裂き、肉を掻き乱すのならともかく、ただの逃避で自傷することに意味はないだろう。無意味に身体を傷つけて死に近付くなんて、それこそ死にたがりの馬鹿野郎がやることだ。確かにこの身体はおぞましく嫌いで取り替えられるものなら取り替えたいが、命を捨てたくなるほどに弱く落ちぶれちゃいない。

 ああ、忌々しい日がやってくる。あとほんの少しで日付が変わるが、祝う気になんて到底なれない。

 命は、どんな生き物だろうと基本たった一つだ。それは吸血鬼だって例外じゃない。掲げた望みを叶え、永遠を生きるのだとして、燃料さえあれば身体はいくらでも再生がきくが(いのち)だけはそうもいかない。魂は言うなれば自分自身、替えがきかない大事なもんだ。そんな魂が朽ちて褪せないように俗っぽい考え方をするならば、こういう機会こそ愉しまなければいけないのだろうが気が乗るわけもない。気色悪い近親の血を改めて認識するような真似をどうしてしなくちゃならない。俺は吸血鬼だと、それさえ識っていれば十分だ。

 騒がしく周りで騒がれ祝われるなら考えもするが、生憎と今は一人だ。永い未来に備えて魂を摩耗させまいと、たった一人でへらりと阿保に笑えるような心境になどなれるものか。

 

「……ァ?」

 

 そこまで苛立ち混じりに考え付いてふと、浮かんだ疑問に意識が逸れた。

 そういえば、俺にその手の考えを植え付けたのは誰だったか。俗っぽく生きるのは悪いことではなく、むしろ必要なことだといつかの昔に説いたやつがいたはずだ。

 気になったもんだから、それらしき古い記憶を手繰り寄せてみることにした。

 さっきに倣ってもう一度、薄暗い天井に視線を放ってしばらく――時間にすればほんの数秒だっただろうが見つけ出した答えについ苦虫を磨り潰したような気分になった。思わず呻いて、牙を剥いた。その瞬間に還った記憶に感情がつられたらしい。俺にそんな考えを植え付けたやつにまつわる記憶は、この身体とは違う意味で俺を不快にさせるものだったからだ。

 喧騒の明かりが細長い隙間から差し込む薄暗い部屋の中で、しわだらけのシーツに横たわる青白い顔の女と交わした会話を思い出す。

 心の深く暗い奥底に放り込んで忘れていたのに生誕の日を前にして引き摺り出してしまったのは、初めての喪失の記憶。

 ああ、そうだ。あいつは俺が認めた稀有な魂を持つ、光狂いで死にたがりな馬鹿な女だった。懸けた魂の半分を抱き、訳の分からない言葉を残して微笑って逝った、初恋の女だ。

 今夜は、本当に調子が悪い。どうしてこうも不快になることばかりを思い出すのか。さっきと違って、良くない方に転ぶ思考を足止めする切欠すら感じ取れなかった。耄碌したつもりはないのに、こうもしくじってばかりだと不満が募る。

 雑多な喧騒から抜け出して一人で夜を愉しみたいとわざわざ地上に出てきたのに、さっぱり愉しくない。俺はただ、有意義にいい時間を過ごしたかっただけだ。いい夜になりそうだという予感は外れたのか。まさかと即座に否定するが、現状がそれを許さずに噤んだ唇が思わずぐうと唸る。目の前に転がったもんが、欲しいものを取り逃がすという俺の業を示しているようで、そのくせ人の脳裏に勝手にふわふわと浮かぶ阿呆面の初恋の女がこれは俺にとって悪いものではないと馬鹿げたことを言いたげに笑いやがるもんだから腹が立つ。

 鬱陶しく浮かぶ阿呆面を無残に掻き毟って消してやろうとするのに、上手くいかない。屈託ない陽溜まりのような笑顔を鬱陶しいと思うなんざ久々で、それこそあの頃以来だと気付いて、その事実に呆れ返って溜め息が落ちた。

 本当にうざったい。死んだ後まで付きまとわれちゃあたまったもんじゃねえ。当時もそりゃあ散々だった。ぬるま湯のような二人暮らしの日々は、どれもろくな思い出じゃない。無邪気で自由奔放な性格に振り回されて、俺の性格にゃ不釣り合いな我慢ばかりを強いられて、不満だらけだった。

 だが、あの女が俺にとって特別だったのは間違いない。赤に塗れた戦場で拾ったのがあの女じゃなかったら、たった一つの魂を糧に限界を越える方法なんて見出だせずにいただろう。その稀有さは、約束の時を間近に控えてもなお燻っている現状に証明されている。

 俺に特別な獲物だと見出され、そのくせあれだけ長く側で命を繋いだ人間は一世紀近い時間を過ごしても他にいない。あれはいい意味でも、悪い意味でも俺とよく似た性根を持った腹の立つ女で。

 不慣れな我慢となけなしの努力をしてまで迎えた結果は、最悪だった。初めて本気で欲しいと望んだ女を奪えず、その魂を汚すことすら出来なかった。救うと決めたのに逆に救われ、奪うと決めたのに逆に奪われるという皮肉めいた結末。過程はどうあれ死闘の果てに、たった一人だけ世界に生き残ったんだ。状況だけ見れば勝ちは勝ちだろうが、不満だらけだ。おまけにあの瞬間、俺は自分に課せられた業が初めて深く身に沁みた。

 振り返ってみれば、どうしてあんな女が良かったのか。

 同じアルビノで、俺とは真逆の思想を持っていた。それが必要な要素だったことは認めるが、あんなイカレた女のどこに惚れていたかすら今じゃよく分からない。

 人であれ物であれ、いいもんはいいと褒めることに異論はないし、そういうのが色恋に取っちゃ大事だと思う。濡れた肌を重ねるんなら、萎えるような展開はいただけねえ。雰囲気は大事だし、男ならいい女は口説くべきだろう。欲望には素直な質なんでこれまでだって何のてらいもなくそうしてきた。ついこないだ死んじまったが、ここ最近本気で口説いてた殺したいほど好きだった同胞の女相手でもそれは変わらねえ。なびかないところがこっちを余計その気にさせて、ずいぶん構うのが愉しかった。

 だが、あの馬鹿女に関してだけは違う。あれは、俺の興を削ぐのが上手い女だった。惚れたなんて素直に認めたくないし、今でも何かの間違いなんじゃねえかとすら思う。振り返ってみれば、俺が惚れる女の類から一番外れているのがあの阿呆面だ。

 考えてみりゃ、あの女にだけはそういう色めいた台詞を好き好んで持ち出したことはなかった。あの女だってそうだったろうが、初めてだったんだ。惚れた、という自覚すらなかったから、それこそ無意識にぽろりと口にしたんでもなけりゃ艶っぽく口説いた記憶が一切ない。吐いた言葉はどれも罵声に近く、無骨で、色めいた雰囲気なんてまるでなかった。あの頃は俺も年相応だったし、さっきも言ったがそもそもあの女が趣味じゃなかった。相反する主義を抱いた女に好みでもないのに惚れるなんて、それこそ予想外だ。

 譲れない思想とたった一つの命、初恋の代償に懸けたものはとてつもなく重かった。捕食者と獲物という関係でありながら、互いが互いに相手に惚れさせたい理由があった。俺はあの女を受け入れやすい形に創り変えたかったし、あの女は俺に拾われた恩を返したかった。そのくせあの女は惚れさせたところで俺を受け入れる気がないと馬鹿げたことを抜かすもんだから、やり取りは逐一勝負事めいていた。好きだ、とその言葉一つを素直に認めることが心底癪だった。

 改めて言うが、あの女のどこに惚れていたのかよく分からない。我慢のきかない俺にしちゃそれなりに長い間、連れ立って二人でいたんだ。もっといろいろあったような気がするし、うんと大事なことを忘れているような気もするが、いくら頭を捻ったところでどうしたって出てきようがない。当然だ、俺のそういう気持ちごと、あの女が抱いて勝手に逝っちまったんだから。

 惚れていたはずなのに、奪われたせいで上手く思い出せない。肌を合わせた記憶もなく、甘い睦言を囁いてやったこともない。恋心と呼ぶには殺伐としていて、色めいた思い出は一切なく、腹立たしい出来事として記憶にしまわれている。だが間違いなく、あれはこの身が味わった初めての恋だった。ほんの僅かな間だったが、それでもあの女に愛された実感はこの半分の魂に刻まれている。色めいたものが他に何もなくとも、あの女の愛情――魂ごと抱き締められたような感覚だけは忘れていない。

 それ一つしか、この胸のうちに初恋を証明できるものがないのは皮肉だが、何も残っていないよりはましだろう。

 相変わらず脳裏には腑抜けた笑い顔が浮かんだまま離れない。そうやって笑うくせに、まともに思い出せたのはつまらない口論やくだらなく他愛ない日常の光景ばかりで、ろくなもんじゃない。

 やれきちんとまともにメシを食えだの、身だしなみはきちんとしろだの、挙句の果には他人をもっと慮れだの、人殺しの吸血鬼を相手に的外れな小言ばかりが拗ねた表情といっしょに再生される。世話好きがたたって口うるさかった。かと言ってこっちにも事情があるもんだから適当に遠ざけるわけにもいかず、当時は面倒ながらにその小言を聞き流すしか手がなかった。我慢できずに口が出て、それだけでは済まずに手が出たこともあったが、それでもなけなしの自制は効いていて、最後だと定めた瞬間まであの女を五体満足で生かせていたんだから褒めて欲しいくらいだ。

 結局、あの女がこの手を原因に血を流したことは一度もなかった。それがいまだに、心底悔しい。叶うことなら光に灼かれた細い首筋に鋭く牙を立て、俺だけの(もの)にしたかった。

 だが、もう全部終わったことだ。確定した不本意な結果が心底憎いが、後悔はない。未練たらしくあの瞬間をやり直したいとは思わない。年を重ねた今となっちゃ他にやりようがあったとは思う。だが俺という本質はこれだけの日々を生きても変化する兆しはなく、だとすれば過去に戻ったとしてもたいして結果に差はないだろう。上手くいくように器用に立ち振る舞ったとして、それで自己の本質が揺らぐようじゃ本末転倒だ。過去に還って理想の結末を叶えることが出来るとしても、思考や主義が噛み合わないならそれは姿形がよく似た別モンだ。間違っても、それを俺とは呼べないだろう。

 そもそもだ、定まった過去は変えられない、当然だ。

 それでももし万が一奇跡が起きて、あの女が再び俺の前に現れるようなことがあれば、その時は今度こそ掴まえて逃さず奪いたい。

 誤解するな、湿っぽいのは嫌いなんだ。いつだって見つめているのは未来(まえ)だけで、過去(うしろ)を振り返る気なんてさらさらない。だが、新たに進むべき道にそいつが訪れるなら話は別だろう。あの雪辱を晴らしたい、呪いのように縛り付ける不本意な業を払拭したいと思って何が悪い。進んだ先に機会があるなら、何度手を伸ばしたっていいだろう。望んで待ち焦がれた再戦ならば、挑んで勝ち取った果てに、喜んで喰らってやればいい。

 ああ、そうだ。亡霊でも、生まれ変わりでも何でもいい。

 あの女は底抜けの馬鹿で、俺と性根がよく似た諦めの悪い女だから、案外とそういう奇跡が起きるかもしれない。何かの拍子にひょっこり俺の前に現れそうな気がして、我ながらイカレきった愉快な想像に寝転がったままつい嘲笑ってしまう。

 もちろん、あの女が未練を残して逝ったなんてこれぽっちも思っちゃいない。

 俺に奪われたいと望んだくせに黙って大人しく待つことも出来ず、伸ばしてやった俺の手を頼みもしないのに勝手に振り解いて逝ったんだ。最後は清々しいほど、満ち足りて穏やかな表情だった。あれだけ自由に望み通り振る舞っておいて、満足出来なかったなんて馬鹿な話はないだろう。

 ただ、あいつは世話焼きなやつだからな。やれメシは食ったかだの、ちゃんと休んでいるかだの、吸血鬼相手に的外れなことを気にしてあの世からちらりと様子を覗きに来るかもしれない。いくら余計な世話だと手酷く追っ払っても恩を返したいの一点張りで頑として譲らない意地っ張りな女だったからな。

 奇跡なんてそうそう起きるもんじゃない。それくらい分かってる。だがしかし、起きないと決めつけるのもそれはそれで勿体無い。確かに有り得ないほど馬鹿げちゃいるが、手に入れ損ねたものを奪い直し、腹立たしい業とやらを払拭して完全な勝利を手にできるなら、期待するくらいはありだろう。どう考えようとそれこそ個人の自由だし、望まなければ機会なんて到底落ちてこない。そう考えれば、奇跡を信じることは悪い話じゃないだろう――なんて、考えがずいぶんと飛躍しすぎた。

 今夜はどうにも浮ついている。あと数秒後には訪れる望まない生誕の日を前に、つまらないことばかりを考えてしまう。この先の未来に懸ける望みの話ではあるが、起きるかどうか分からないならただの憶測でしかないわけだ。期待するのは悪いことじゃないが、これ以上は不毛だろう。時間ってのは有限だ、くだらないことに頭を使いたくはない。元々考え事に没頭するなんざ趣味じゃないんだ。

 勝利が欲しい、栄光だって手に入れたい。だがそれは愉しみにしている戦争がおっ始まってからの話で、それまでは目の前の時間をもっと気楽に、欲望に塗れて愉しく生きたい。半分だろうが、たった一つしかない魂を燻らせたくない。そういう持ち前の主義と、過去の鬱憤を掘り返し不満を募らす行為は相反している気がする。これ以上つまらない考えに頭を支配され続けるのは癪だった。いくら他になく特別だったからと、昔の女にいつまでも拘り続けるのも馬鹿らしい。そういうときはばっさりと意識を落としちまうに限る。考え事を止められないなら、考えられなくしてしまえばいい。無駄なことに延々と意識を割いてしまうくらいなら、惰眠を貪る方が遥かにましだ。誰に祝われるわけでもないのなら、こんな忌々しい日を前に起きていたってただ不快感が増すだけだという考えも吸血鬼が夜に眠るという選択をぐいぐいと後押しする。

 ああ、そうだ。こんなときは割り切って寝ちまおう。まだ夜は長いが、たまにはいいだろう。

 そう決めた途端、すんなりと眠気が襲ってきた。いつだって身体は素直だ、さっさと寝ちまって気分を持ち直せということらしい。身体が示した欲求に従うことに異論はない。

 感じた眠気に意識がとろりと蕩けだす。今夜は、悪夢を見ずに眠れそうだ。深い場所まで落ちる予感がある。それは、悪くない。もしそうなら地上へ抜け出そうとした最初の直感通り、いい夜だと呼べるだろう。次に目を覚ましたときにすっかり日付が変わって忌々しい日をやり過ごせたなら、それこそ何一つ文句はない。

 今日に残っていたほんの僅かな時間を越えて、止まっていた短針がついにかちりと動く。日付が変わった微かな音に、ぐっと唇を引き結んで瞼を閉じた。

 腹立たしく、それでいて懐かしいもんを思い返しちまったせいだろう。睡魔に意識を明け渡せば、妙な錯覚で身体が疼いた。寝転がるソファーの背もたれに触れたのとは逆の肩が、微かに温い。考え事は終わりだと決めたはずなのに、その温さにつられていよいよ馬鹿げた考えがむくりと頭をもたげる。触れるほどすぐ側で、俺の手を掴まずにすり抜けて早死した馬鹿な女がにこやかに微笑っているような気がした。あり得ないと自嘲すれば、吐息を零して開いた唇の端が歪む。奇跡なんて、そうそう起きようがない。信じていればいつか起きるかもしれないが、それが今だなんて保証はどこにもない。

 だが、信じているのに疑うというのも変な話だ。奇跡が存在するというのなら、その片鱗くらいは、いつどこで感じても可笑しくないだろう。

 そう思い直して、有り得ない感覚を受け入れでもしてみるかととろりと睡魔に誘われる意識の片隅で夜に増した五感をすうと研ぎ澄ましてみた。そうしたら――心底、驚く羽目になった。

 

『――誕生日おめでとう。愛してる、ヴィルヘルム』

 

 空気を震わせずに鼓膜を打った不思議な幻聴、それにびくりと肩を揺らして、閉じたはずの目を見開いた。声にならないほど浅い呼吸に混じった僅かな動揺に喉がひくついた。

 消えない街の明かりが漏れた薄暗い部屋の中、代わり映えのしない天井の模様が人を越えた視界に鮮明に映った、それだけだ。どこにもあの女の姿はない。気配を手繰っても誰もいない。妙な錯覚が熱になって肩に残っている気がするが、住人がもぬけの殻のアパートの一室で、ソファーに怪訝な顔で寝転ぶ、俺一人しかいない。

 それでも、確かに鼓膜は違和感を覚えていた。懐かしく、聞き覚えのある声を聞いた。ずいぶんと優しい声音だった。そんな風に俺に声を掛ける人間なんてもう、世界のどこにもいやしない。いるとしたら、それこそ遥か昔に俺を好きだと微笑って死んでいったあの馬鹿女くらいのもんだろう。

 

「ハッ、うるせえよバァカ。祝う気があるならとっとと出て来い。逃がすもんか、今度こそ喰ってやる」

 

 忌々しい日を迎えた途端、落ちてきた奇跡の片鱗に、天井を睨みつけ、瞳を眇めて吐き捨てる。僅かでも奇跡が起きるなら、もっと別の日が良かったと文句を言いたくなったせいだ。命が世界に生まれ落ちた日に限って奇跡が起きるなんて物語としちゃよく出来てる。そういう意味じゃあ他よりは遥かに確率も高いだろう。だが勝利とは一切関係がない奇跡なんて、俺には無駄打ちでしかない。望んだくせに贅沢だろうが御免こうむる、いらん。それこそ殺人鬼を相手にお節介焼きだったあの女らしい余計な世話だ。

 確かに声が聞こえたような気がするが、きっと何かの間違いだろう。それこそ、ろくに思い出すことがなかった懐かしく忌々しい記憶に引き摺られた幻だ。

 短い生涯でたった一人愛した男の忌々しい日を祝いたくて空から天使(おんな)が降りてきたなんて、馬鹿げている。俺が望む奇跡とは種類が違う。我ながら酷い幻聴だと嗤ってしまう。

 俺を愛していると、優しく微笑った女はもう世界のどこにも生きていないんだ。奪われたいと望んだくせに、奪ってやろうとした手を擦り抜けて身勝手に逝った。

 それでも、人殺しの化物を前に殺されると知っていながら馬鹿みたいに呑気に微笑っていた女が存在したのは事実で、その女が俺を愛したのも真実だ。あの女が俺のどこに惚れたのか知らないし、俺だってどこに惚れたのか上手く思い出せないが、あの女に愛された瞬間だけは、映像として、実感として、確かに記憶に残っている。

 どんな形でも構わない。もしもこの先のいつかに、俺の望んだ形で有り得ない奇跡が本当に起きて、雪辱を晴らすためにあの女と生きて向き合うことがあったなら――鼓膜に響いた都合のいい幻聴のように、まだ俺が好きだと、愛していると、屈託なく微笑うだろうか。あの頃のように俺に奪われたいと望むだろうか。

 ああ、どうでもいいか、そんなことは。あの女の気持ちが俺から離れていようといまいと、今度こそ俺が勝つために稀有な魂ごと喰らうだけだ。俺のためだけに美しく咲き誇らせて、限界を越える糧としてこの腕に永遠に閉じ込められればそれでいい。

 誰かにこの心情を吐露する気はない。どういう理由をつけたって昔の女を喰いたいなんて他人からしたら未練たらしく映る。そんなのは俺だって不本意だ。

 だからこの願いを言葉にすることはないが、それでも結末に納得がいかず真に勝ち誇りたい以上は再戦を望んだっていいだろう。

 それに、最後の瞬間にあの女は言った。俺は、負けていないと。

 確かに言葉通り、あの場の勝者は俺だ。だがもしも、あの言葉に他の意味があったなら、奇跡を期待したっていいはずだ。

 それにあの馬鹿女には、あの身勝手な行動への文句を言い足りてない。俺はあんな展開望んでなかった、この命を対価にしてもあの女を喰らいたかった。あのときゃ正直面食らったし、悔しいがこっちも限界だったもんだから、どうにも時間が足りなさ過ぎた。二、三発と言わず何度でもあの軽い頭を叩いてやらなきゃ気が済まない。男の甲斐性を圧し折ってあんなに好き勝手されちゃあよ、もう一回くらい、姿を見せろと言いたくもなるだろう。だからこの願いは、当然なんだ。過去は二度と取り戻せなくても、この先の未来はいくらでも変えられるんだから常識では馬鹿げていたとしても前を向いている限り、真っ当な願いだろうさ。

 あれ以来、あの女を越える極上の魂は見つからず、限界を越えるための切欠も見つからない。業に囚われ、魂も半分に欠けたままだ。

 だが、生きている。生きて、世界を踏みしめている。勝者として命を紡ぎ続ける限り、理想が叶う可能性はある。

 約束の時はそれなりに近いが、まだ時間はある。黄金錬成を経ても、遥かに未来は続くだろう。それならば限界を越える機会が二度とないとは限らない。他の方法が見つかるかもしれないし、あの女を越える稀有な魂と出会う可能性だってまだ十分にあるだろう。

 いつまで経っても光狂いの馬鹿女が特別なままなのも癪だ。次に会ったとき、他の(オンナ)を抱いた俺に拗ねた顔でも見せてくれればこっちだって溜飲が下がる。そんときゃあ、思いっきり無様だと嗤ってやるよ。そうだな、そんで、どうして欲しいかその薄い唇を抉じ開けて吐き出させてやる。いつかのようにもう一度拾って欲しいと、今度こそ歪んだ顔を見せてみっともなく泣いて縋ってきたなら、考えてやらんこともない。一度想いが通じ合ったからと、高を括っているようならその花咲いた頭を叩き潰してやる。

 逆に、他に都合のいい魂が見つからなかったときは、嫌だと逃げても問答無用で拾って喰らうだろう。元々俺のものなんだ、拾い直したところで何が悪い。

 だから、奇跡が起きて機会(いのち)を得たならさっさと顔を出せばいい。一度奪われ、失ったいつかの俺の勝利のためだ、うっすらと期待して待っていてやらんこともない。

 結局日付を越えてもだらりと続いたつまらない思考に、忌々しい生誕を祝う女の声で吹き飛んだはずの眠気がまたじわりと襲ってきた。込み上げてきた眠気を堪えて、瞬きのあとに一度だけじわりと開いた瞼。半開きの視界に映った薄暗い天井に向かって、腹の上に投げ出していた片腕をぐっと伸ばす。忘れ去っていたはずの懐かしい初恋の女の名前を思い出し、誰にも吐露しない声にならない秘めた願いを声なく宙に放った。

 ――クラウディア、俺はおまえなんか好きじゃない。おまえへの恋心なんてとっくに失くした。それでもおまえは俺の初恋(もの)だから、もう一度俺の前に現れるようなことがあれば拾ってやる。だからさっさと、俺から奪ったものを寄越せ。今度こそ、おまえを喰らって業を越えて、勝利を誇って嗤ってやる。

 伸ばしたその手を握り返す誰かの手は見えない。半開きの視界をいくら眺めても、お伽話のように空から天使が降りてくることはない。それでも、いつかその願いが叶う気がするのはどうしてだろうな。

 それはきっと、幸せを諦めてないからだ。俺は必ず欲しい物を手に入れると自身の強運を疑ってないからだ。奇跡が起きると、信じて何が悪い。強欲だと嗤いたいなら嗤え。所詮、人間なんて欲塗れ。どう外見を取り繕ったところで中身なんてそんなもんだ。それを恥じるつもりはない。死にたがりで欲しがりの馬鹿な女が、最後まで自身の幸せを追って身勝手に果てたように、俺もそうやって振る舞ってやろうと決めている。

 正直、あれ以来こうも奪われてばかりの俺からしたら満足だと微笑って逝った女が羨ましい。永遠の命を生きると決めているし、それを叶えるつもりでいるが、もしも果てることがあるならばああやって逝きたいもんだ。もちろん、死ぬつもりなんてこれぽっちもないんだからそんなオチは永遠に御免だが、生き方の参考にくらいはしてやってもいいと思っている。

 ぱたりと落ちた腕が、妙だ。やけに温い。緩やかに握った指先が、まるで誰かに握り返されたように熱を孕んでいる気がする。

 何だ、呼んでやっても空から降りてこなかったくせに。まさか最初からずっとそこにいたとでもいうのか。跳ねるように浮かんだ僅かな期待は、間髪入れずに裏切られる。小さな掌に触れられたような指先を中心にどこをどう探しても、あの女の魂を感じることは出来ない。そのくせ、ともすればそこにいるのかという可能性を細々と繋ぐように指先がじわりと不思議な温もりに包まれているような気がするのだから腹が立つ。この身に起きている妙な感覚はどれも、懐かしく忌々しい記憶が見せた有り得ない幻だろう。

 この状況は、俺にとって無意味だ。白い肌として触れられない、微笑った顔が見えもしない。それじゃ奪うことが出来ないからだ。いくらもう一度、いや、今度こそ細い首に牙を立てたい女の声と熱に触れるという有り得ない奇跡がこの身に起きたのだとしても、それは俺の望んだ形じゃない。あの女の魂を喰らって、今度こそこの腹の中に収められなければ意味がない。

 だがそれでも――肌に触れるじわりと苛立ちを溶かすような穏やかな熱が、いつか望む形で奇跡が起きる可能性の示唆だとすれば悪くない。そう思い直し、頑なに否定に走っていた考えをほんの少しだけ緩めることにした。指先を包み込むような小さな掌に似た熱につられて、拗ねた初恋の女の顔が脳裏に思い浮かんだからだ。

 せっかく誕生日に祝福を贈ったのに素直じゃないと、ぷいと頬を膨らませてそっぽを向かれた。幻のくせして、ずいぶんと表情豊かだ。祝われたところでたいして嬉しくもないが、今後のことを思うとここで拗ねられちゃいろいろと面倒くさい。そうだ、この顔を俺好みにくしゃくしゃに歪めたいのは紛れもない本心だが、そうする相手は存在が希薄な幻の女でなく手を伸ばして触れられる初恋の女がいい。

 これはどう取っても、俺に都合のいい幻だ。奇跡と呼ぶには程遠い。それでも、たとえ幻であっても俺の言うことを何一つきかず、好き放題自由に振る舞って表情をくるくると変える様はまるで本物のあの女のようで。

 だとすれば、もう少しくらいこっちの都合のいいように取ってやらなくもない。少なくともうん十年振りに存在を思い出されたことに浮かれてひょっこり現れるくらいには、この女はまだ俺のことを好きなんだろう。そう思えたもんだから、微かに見えた可愛げに免じて多少の譲歩をしてやることにした。今夜くらいは、稀有な女の幻に付き合ってやってもいい。清純な振りして欲塗れの強欲な女だ。姿形すらないくせにどうしても触れたいというのなら仕方がない、特別に好きにさせてやる。

 温かくそっと寄り添う幻を振り払わないまま、瞼を閉じる。添えられた懐かしい熱に浸れば、自然と緩やかに身体から力が抜けた。

 訪れた忌々しい生誕の日、それを祝ったのが初恋の女の幻だけだと思うと嗤えるが、それが魂を摩耗させない俗っぽい生き方を教えた女相手なら仕方がない。光と闇が同在する腹立たしい世界に生まれ落ちたことを祝われた以上は、それを受け止めて勝者として生き抜いてやる。吸血鬼という理想を叶え、覆せない漆黒の闇に塗り替えた世界で栄光を手にしてやる。俺なら、きっとそれが出来るだろう。

 幸いにして、今夜はそれをよりいっそう信じさせる奇跡の片鱗がこの身に起きた。たとえこの熱が、都合のいい幻でも構わない。望んだ幸せを手にする可能性が潰えていないなら、なんだっていい。

 いつかの未来に初恋の女の魂を奪い、望まざる業を踏破する奇跡が起きるだろう。言葉(こえ)にすることこそないが、そう信じること初恋の女の幻に改めて誓い直した。

 気持ちよく微睡んで暗闇に沈んでいく意識の中で、思う。

 予想通りの、いい夜だ。

 今夜は(いのち)が畜生の血と繋がった、忌々しい生誕の日だが、それでも俺が生き続けることを心から喜び祝う、懐かしい声がした。懐かしい熱を感じた。奇跡の片鱗を見つけた夜を、悪いものとは扱えない。忌々しいなりに、歓びはあった。

 ああ、そうだ。俺の勘は、鈍ってなんかいない。俺は吸血鬼だ、夜闇を彩る予感が外れるわけがない。俺は世界に生きる誰よりも、吸血鬼(おれ)のことを信じている。だからいつか、俺は初恋(はじまり)を取り戻すだろう。それに僅かに緩んだ唇から、ぽそりと取り戻したい女の名前がか細く音になって落ちた。

 そうして完全に意識が懐かしい雰囲気に似た穏やかで深い闇に落ちて溶け切る最後の瞬間に、温かく指先を包み、肩に触れる初恋の女の幻がどこか誇らしげな表情でうんと優しく、幸せそうに微笑った気がした。

 

 ――それはある年の生誕の日に、魂が半分に分かたれた吸血鬼の生涯にただ一度だけ舞い降りた、いつか起きると信じた奇跡の片鱗。

 誰に語ることもなく胸に秘められた、始まりの愛に触れた唯一の温もりの記憶。

  

 




 
閲覧ありがとうございました!
ベイ中尉、お誕生日おめでとうございます。あなたにとってどうか少しでも、素敵な一日になりますように。


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