人外男と検体女子高生 (スド)
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人間との接し方

浅ましく思われるかもしれませんが、技術向上の為に様々な意見を募集しています。

お時間よろしければ批評等、宜しくお願いします。


13月4日

 

 本日より、対象の監視を始める。人外と人間で揺れ動いている状況の為、小さな経過も記録する必要があると思い、日記を付ける。

 

 年齢は人間で言う十七歳、人間で言う成人までの数歩手前という、ある意味では不安定な時期だ。注意して見守ることにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13月5日

 

 予想は的中した。早速脱走しようとした形跡が見られる。

 

 引き続き、監視を続ける。

 

 

13月6日

 

 言語が互いに違う為、私の言葉は通じない。その為、ジェスチャーで何とか会話の代わりをしている。何となくだが、私の動作で何を意味しているのか理解しているようだ。

 

 彼女自体の変化については、髪色が少し薄くなった程度だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

13月8日

 

 諦めたかと思っていたが、どうやらそういう訳でも無いらしい。本日脱走しようとした形跡有り。ただ家中の窓や戸の錠に合う鍵は私が持っているので、当然脱走は出来ない。窓を割ろうとした形跡もあったが、そういった物は人間程度の力では壊れもしないのが此方の常識だ。

 

 明日も脱走する可能性があると思われる為、注意して監視を続ける。

 

 

 

13月11日

 

 彼女が此方の世界に来てから一週間が経過した。家での過ごし方はあまり変わらない。いつも上の空で、何も言わない。人間らしい反応を示してくれるのは食事の時、風呂の時。怯えている訳では無いらしいが、基本、眼は合わせない。

 

 諦めがついたのか、今日は脱走する気配は無かった。

 

 

 

13月12日

 

 変化、大して無し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13月14日

 

 洗濯しているとはいえ、流石に二着しかない服を着まわさせるのは酷だと思い、外出時の行動も確かめるべく、適当な服を買ってみた。しかし、あまり興味を示さない。そういったものに対する執着は、そこまで強くないようだ。

 

 今度、人間の玩具に近い物を仕入れ、渡してみることを検討する。日長家に籠っているというのは、流石に酷だろう。

 

 

 

 

 

13月17日

 

 彼女の趣味らしきものを見つけた。どうやら小動物好きらしく、チワワ型のケルベロスに興味を示す。だが、人間にとって異常に映るであろう三首の犬を怖がらない。私の容姿の問題なのかも知らないが、我々に対し、恐怖という感情は薄いように見える。神経が図太い、もしくは精神に少し異変があるのかもしれない。一括りにただの人間、とは考えない方が良いだろう。

 

 髪、そして肌の色素が少し薄くなり始めた。変化の兆候が表れ始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13月34日

 

 もう少しで一か月が経過する。対象に、全体の色素が薄くなってきていること以外、大きな変化は無し。引き続き監視を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『―――監視を、続ける、と……よし』

 

 本日分の日記を書き終え、一息つく――――同時に、物思いに耽る。

『…そうか、一か月か』

 長命であるが為、時間にそこまで執着の無い我々人外だが、彼女にとって一か月とはそこそこに長いのだろう。まだ思考が人間寄りの少女だ。

 

 日記の日付を見れば、既に一か月の44日目まで、後少しだ。脳髄は大きな変化を記録していないが、この紙を見れば、中々な成長の兆しを確認出来る。監視日記とはいえ、日記を付けておいて良かったと改めて感じる。

 

『……ふむ』

 キャスター椅子ごと体を動かし、ソファの監視対象の方を向く。やはり小動物好きなのか、犬・猫と言った動物が載っている図鑑を捲っている。何が面白いのかは、私には分からない。それでも、彼女にとってはとても興味を引かれる対象なのだろう。なら、余計な口出しする必要は無い。

 風呂上がりの彼女は少し赤い顔をしているものの、他の人間に比べれば、とても肌の色が薄い。…元々白かった肌は、最近さらにその色を増している。最早、病的ともいえる色だ。

 

 本人は気付いていないのかもしれない。彼女は見た目は変わらずとも、身体の半分は既に人外と化している。顔の色が薄いのも、そのせいだ。

 本当は心臓部や腹部と言った箇所にも変化が無いか確かめておきたいが、モラル的な部分がある。取りあえず明らかな異常事態でも発生しない限り、大丈夫だとは思うが―――――

『…君も大変だね』

 彼女と目が合う―――が、直ぐに逸らされた。相変わらず感情変化が乏しい検体だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女との出会いは、酷く唐突なものだった。

 

 ある日、唐突に上司に呼び出され、会議室に迎えば、そこには上司の隣に首輪で繋がれた人間が居た。服も少し汚れ、髪も碌に整えられていない姿は、まるでペットか奴隷のように見えた。―――これが初対面。

 

 まさか私の上司にはそういう嗜好があるのか、と思わざるを得ない状況だったが、どうやら顔から察したらしく、直ぐに違うと否定された。兎に角掛けろ、と言うので椅子に掛けたものの、真正面の上司、さらに暗い瞳の少女の目線が当たり、妙に落ち着かなかったことを覚えている。

 余計なことは全て省かれ、いきなり内容について話されたが―――大体の要領は掴めた。

 

 まず、人間も此方側の世界に引き込めないかと言う実験の結果、"久々"に人外と人間の細胞結合が上手く行った検体が出来たので、私にその面倒を任せたいとのことだった。本来は上司が知り合いから頼まれたものらしいが、個人的な事情で難しい。なので他の人外に任せたいのだが、貴重な検体である以上、任せるには信用が必要不可欠。

 だから、部下の中でも信用でき、差別主義者では無いお前にしか頼めない云々と言っていたが、要するに「俺やりたかないからお前やって」と言うことだ。…厄介払い、という奴だ。

 

 正直人間の世話など最初は断りたかったが、正当な理由が無い以上、拒否は出来ない。それが上下関係というものだ。こればかりは人外社会も人間社会も変わらないだろう。

 引き受けてくれれば報酬は特別に払うと言われたが、どの道ヒラが上司の命を断るなど出来ない為、素直にハイハイと引き受けてしまった。

 世話をする期限を聞いてみたが、そもそも人外になってくれたらそれはそれでオーライなんだ、と返された。…つまる所、人外に変化するまで世話しなさい、という意味だと要約した。

 

 

 …もし長時間、人間のまま一切の変化が無ければ――――どうなるのか。それは、察しの通りだ。必要の無い検体は、廃棄処分が当然の措置だろう。

 

 今日は帰って準備してやれ、と言い放ち、上司は早足に会議室を去ってしまった。まだ聞きたいことは多々あるのだが、呼び止める暇も無かった。それ程、厄介に感じているらしかった。

 残ったのは、私、それと検体である少女、つまり一体と一人。 ―――酷く気まずい空気が、会議室に流れていたと記憶している。

 

 

『…よろしくね』

 建前上、挨拶から入ると、ゆっくり俯いていた顔を上げてくれた。…彼女の酷く暗い眼は、特に印象的だった。

 

 

 

 

 

 

 

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「―――で、最近どうなんよ」

 蝋燭の炎をなびかせながら、友人が言う。上を向いたせいで後ろを通った客に炎が乗り移り、情けない悲鳴が上がる。

 友人は胴体は人間と同じ、顔全体が蝋燭で出来た人外だ。人間からしたら奇妙な外見も、此方では特に珍しくない。そもそも人型ですらない者も居るのが、この世界の常識なのだ。

「あ、悪い……で?どうなの?」

 背後の客に軽く謝ったかと思いきや、直ぐに話を戻して来る。しつこい友人だ。

 

 コップをカウンターに置く。仕事帰り、珍しく奢りだと言って店にこうして入ったものの、やはり裏があった。…仕方が無いのかもしれない。人間は、注目を浴び易い存在なのだから。

 

 会社の同僚だが、この人外とは昔からの付き合いだ。彼此、もう百年以上になるだろうか。互いの関係は腐れ縁、というものに近いのだろう。その為か、発言や詮索には遠慮が無い。…お互い様ではあるが。

『どうもこうも…監視員としての役割は果たしているつもりだ。何も無い時は何も、何かあれば、何かを日記に書く。それだけだ』

 問いをかわすことも出来ず、素直に答えを返す。本来は他言無用なのだが、他言してはいけない程、重大な機密という訳では無い。昔から人外と人間に関する研究は進められてきたのだから。

 大方、彼女もあまり良い環境で育てられなかったのだろう。人外は、そういう人間を拾い、こうして此方で使うのだ。あまり理解はされないが、必要が無いであろう人間は、別にどう使おうと人間側に影響は無い。それが、大半の人外の思想だ。

「………」

『……どうした』

 返答を返したというのに無言の友人に声を掛ける。―――コップの中身を口に流し込み、一息ついてからようやく口を開いた。

「しけてるなぁ」

『ほっとけ』

 しけてるも何も、元々人間について、特に知らないのだ。詳しく知らない以上、大した感情を抱くことも出来ない。人間の技術や医療などは兎も角、個人個人の感情の移り変わりなどについて、そこまでの理解を持っている、という訳でも無い。容姿は似ていても、異類同士であることに変わりは無い。犬や猫の感情を理解できないのと同じだ。

 

 

 頭を抱えたくなる。どうして私なのか、という疑問が監視初日から脳内に巣食っている。

『…何で私が抜擢されたのか……』

 口から自然と出た言葉に、友人が返す。

「お前が結構人間に近い容姿だからじゃないのか?流石に、俺みたいに異類かどうかが明らかな奴は、人間には遠ざけられるだろう」

 人間に近い容姿…と言われるが、果たしてそうだろうか。彼の様に明らかな容姿では無いものの、自分は人外だ。異常に白い素肌に、色の反転した眼球。血の様に赤い唇。素肌同様の白髪。人間に近い容姿ではあるが、普通とは一線を画している。

 首を傾げる。

『…微妙だろう』

「微妙か?今、目はサングラスとかで隠せばいいだろ。肌は…まぁ、たまに人間で真っ白な容姿をしてるのも居るから、それで誤魔化すしか無いな。…お前の人外らしさは置いといて…結局その子はどうなんだ?」

『…どう?』

 話の要領を得れず、聞き返す。

「ほら、可愛いとか、そういう奴」

 

 ―――少し考える。可愛いかどうか、と言われても、判断基準が良く分からない。人間なんて、あまり良く見たことが無い。

 …取りあえず、可愛いと結論付けた。容姿は整っていると思うし、体つきも細く、綺麗だ。

 

『…まぁ…可愛いと思う。静かでいい子だ。手間がかからない。…それにしても…何故逃げ出さないのかが不思議だ』

 普通は何をされるか分からない以上、逃げ出そうという気持ちがあっても可笑しくない。―――だと言うのに、彼女は初日以降、殆どリビングのソファから動いていない。トイレ、風呂、洗面台、書斎…動いているのを見たのは、この程度か。

 

 

 店員に再注文をしてから、友人が口を開く。

「"訳アリ"の人間なんてそういうモンだろ。それなりの事情があるから、こうしてコッチに連れてこられてるんだ。…普段は何してる?」

『動物好きなのか、それ系統の図鑑を良く読んでいる。…後は、必要最低限のことくらいしかしていない』

「……買い物には連れて行ったか?」

『服とかには大した興味が無さそうだ』

 日記にも書いたことだ。衣類は着れれば良い程度の認識らしく、そこまで興味を引けなかったのを覚えている。

 友人が考え込む。―――肩に、手を置かれた。

「…難しいだろうけど、どうにか世話してやれよ。色々と不安定な筈だからな」

 

 ――――本当に、難しいことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜、人間は急な環境変化に大して弱い…という情報を仕入れたので、彼女には今まで使っていた自分のベッドを使わせている。自分は最初はソファで、しばらくしてからはパイプベッドを買って来た。布団と言う選択肢もあったが、冬のことも考えれば、ベッドの方が良いだろう。

 上司との雑談の際にその話をすると、床で寝せればいいのにと返された…が、そんなことをさせる訳には行かないだろう。ある意味、自分の身よりも大事な存在だ。もし彼女に何かあれば、責任を取らされるのは私自身。注意深くなるのも仕方が無い。

 貴重な検体かどうかと言われれば貴重なのだろう。人間の技術を此方に輸入したい人外にとって、少しでも人間が暮らしやすいように様々な道具を開発している。その中でも、そもそも人外化させてしまえば良いのではないか、という意見が幅を利かせている。兎に角、有能な人間を人外にしてしまえば、寿命も人間よりも長く引き延ばすことが出来、人間の高度な技術を何百年という長時間の間、仕入れ続けることが出来る。…人外の細胞を埋め込まれた彼女は、実現の為のモルモットと言うことだ。

 

「―――…――……―――」

 彼女は静かな寝息を立て、すやすやと眠っている。此処に来た当初は流石にここまで落ち着いていなかったが、一週間もすれば簡単に眠るようになった。寝る以外にやることが無いせいかもしれないが―――それにしても警戒心が低い様な気がする。

(いくら何でも…ここまで慣れるものなのか…?)

 脱走を考えていたのも最初の内だけだ。なのに、ある日を期にピタリと止めてしまった。もっと長引くと思っていたのに、拍子抜け――――とは少し違うが、それに似た感覚だ。

 どこか決定的な部分に"穴"がある気がする。一体どんな経歴を持つ人間なのか、気になる所だ。―――まぁ、当然碌な経歴でないことは確かだ。見た目、暴行の痕は無いものの、実際は腹部やわき腹に痣があるかも分からない。…この世界に連れてこられている時点で、可笑しなことだとは感じない。

 

 彼女とどう付き合っていくべきなのか。ひと月経った今も、まだまだ手探りの段階だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『―――じゃ、行ってくるよ』

 伝わらない言語だが、一応毎日、出勤の言葉は残していく。返事はいつも、期待していなかった。…それも当然かと思う。言語が通じず、さらには不気味な容姿をした化け物だ。会話もしたくないことだろう。

 ただ、その内最低限の会話は出来るようになりたいと思う。彼女の変貌時期が分からないということは、もしかすると、何年もの付き合いを強いられるかもしれないだろう。それなら、少しは信頼関係を築いていた方が特だと思われる。

「……」

 一瞬こちらを見た彼女だが、直ぐに手元の図鑑に目を戻す。毎日毎日、飽きもせず良くやるものだ。

『…行ってきます』

 念の為にもう一度声を掛け、背を向ける。どうせ返答は来ないだろう。…先程言ったように、言語が違う時点で、返事なんて出来る訳が無い。犬が人間に対し、いってらっしゃいと返すだろうか?少なくとも、私はそんな光景を見たことも聞いたことも無い。

 後ろ手に戸を閉める。全身に降り注ぐ日差しが、イヤに気持ち悪かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 彼女のその行動は、ただの興味本位から来るものだった。珍しく家主が閉め忘れたらしく、鍵が開いていた―――だから、外に出た。

 此処が嫌になった訳では無く、その行動の根底にあるものは、好奇心だった。何も知らない子供が、周りを見て自然と物事を学ぶように…自身が無知だと知っていたからこそ、好奇心を彼女は優先した。

 監視者に用意された靴を履き、こっそり、様子を伺いながら外に出た。別段、行きたい場所など無かった。彼女の目的は、外を見て回ることだ。自分がどのような状況下に置かれているのか。それを、知りたかった。自身の身の安全より、好奇心が勝ったのだ。

 

 

 

 結果、過去の自分を恨まざるを得ない状況に、彼女は陥った。

 

 好奇心は身を滅ぼすと言うが――――果たして、彼女がその言葉を知っていれば、未来は変わっていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 人間社会から仕入れた技術は、人外社会には既に必要不可欠な物として浸透している。眼前に備え付けられたデスクトップパソコンも、その一つだ。

 データ等の情報処理も楽になったとしみじみ感じる。百年以上生きているが為、新たな技術というものを自分は間近で見て来た。革新的というのだろうか、当時最先端の技術を駆使して作られた電子機器の登場に、自分は感嘆の溜め息をついた。

 だが、当時は革新的と思ったそれ等も、今では古めかしい物という認識に変わってしまった。日進月歩という言葉があるが、人間社会にはピッタリの言葉だと思う。それ程、彼等の技術には目を見張るものがある。

 とはいえ、まだ一年か二年程度、向こうと比べれば技術への理解が遅れている。だから、人外の多くは人間を仕入れ、此方の新技術開発に貢献して貰うために、彼女のように様々な手順を講じて人間を引き入れようとしているのだ。

 

 それは他の種族への対抗心から来るものなのだろうか。人間を下と見る人外が多いのも、劣等感からだろうか。専門家では無い以上、憶測の範囲に留まるが、これでも百年程度の社会経験がある。…当たらずとも遠からず、という所だろう。実際、私に彼女の世話を任せた上司は人間である彼女に対し、対応が冷たい。

 こうなると、外出は思っていたより危険かもしれない。

 

 

(下手に外は歩かせられないか―――可哀想な気もするが…)

 今まで人間に興味が無かったせいで、人間がどのような扱いを受ける存在なのかを自分は殆ど知らない。知っていることと言えば、男は力が強い傾向にあり、女は弱い傾向にあるということ程度だ。個人差、というものがあるらしい。…知っているのはこれくらいだ。

(…何故ここまで考える必要があるのか)

 彼女に対し嫌悪は無いが、どうも面倒ごとに巻き込まれそうで気が重くなる。―――気晴らしに、喫煙室に行くことにした。丁度、昼休憩の時間だ。

 

 

 

 

 

 

 煙草臭い部屋の中を、さらに煙草の煙で満たしていく。軽く開けた口元から、真っ直ぐ煙が吐き出されていく。

 喫煙室の中には自分だけで、他の社員は一人もいない。人間側から習って、禁煙家というものが人外社会でも増えてきているせいだ。喫煙家にとって、住みずらい社会になっていくのが目に見えている。

『……』

 手元にあるのは人間側から手に入れた煙草の一つだ。―――J"A"KERという銘柄のそれは、結構前に人間側で廃止になった銘柄だった。此方でも売られなくなる前に大量に買っておいたそれも、既に在庫が一桁台に突入していた。

『…禁煙するか』

 独り言が口から零れた。コレを期に、禁煙するというのも良いかもしれない。…そうだ、一応今は(半分程度は)人間と住んでいる。彼女の為にも禁煙を―――――……

 

 

『――――?』

 …何となく、今まで感じていた可笑しな感覚に対し、実感が持てた。どうして彼女の為なんて言葉が出てくるのか、不思議なのだ。まだ出会って一ヶ月。しかも彼女は検体であり、自分はそれを押し付けられた立場だ。だというのにどうして、彼女の世話を、自分はここまで焼こうとするのだろうか。

(一目惚れ――――じゃあないだろうな………)

 脳裏に浮かんだ言葉を打ち払い、再び口元に煙草を咥える。…妙な感覚は収まらない。何か彼女に固執する切欠があったとも思えない。

 じゃあ何だ?と自身に問いかけてみても、そこまでの領域にまだ踏み込めていないらしく、憶測は浮かんでも確信は浮上してこなかった。

 

 

 

 ―――喫煙で気は紛れそうにない。喫煙室に取り付けられた窓に近づき、開けて換気する。新鮮な空気でも吸えば、多少思考も晴れると思っての行動だった。

 縁に腕を乗せ、外を見る。目の前には二つのアパート。殺風景とは違うが、何とも興味の無い光景だ。

 …特に意味も無く下を見る。流石にこの時間帯、出歩いている人外は殆どいない。それも正面玄関方面ならいざ知らず、こっち側は裏側だ。外灯も無いこの道にあるのは、ゴミ捨て場や路地裏くらい。コンビニ等の施設は正面玄関の方にある。

 

 そう、歩いてる人外なんて――――

 

 

 

『………?……』

 二体の人外が歩いてくるのが見えた。遠目からでも分かる程、薄汚れた上着を着た獣系統の人外だ。その内一体は落ち着きが無く、頻りに周りを見渡している。もう一体は片手を後ろに、何かを引きずるようにして歩いていた。

 あんな気配が無さそうな場所に来るなど、碌な目的じゃあ無い筈だ。怪しい物資の受け渡しでもあるのだろうか。

 挙動不審な様子を見て、ポケットから携帯電話を取り出す。緊急連絡用画面を開き、番号を入力しておく。勿論、連絡先は警察だ。

 治安がそこまで良い訳でも無いので、ここら一帯では良くある話なのだが―――嬉しいことに情報提供をすると、報奨金が出ることがあるのだ。もし金銭を貰えたら、彼女に何か買ってあげれもするだろう。満足感も得られるだろうし、一石二鳥だ。

 

 それにしても、後ろの一体は何を引きずっているのか――――少し身を乗り出して"それ"を見てみる。

 人外に引きずられているのは、一体の人外だった。真っ白な白髪をした、自分と同じタイプの人外だ。中々珍しい。しかも長髪の為、性別は女だろう。…首を傾げる。新たな違和感が浮上したからだ。

 もしかして強姦目的か―――そう思い、携帯を握る手に力が籠る―――――人外が路地裏に踏み込んだその瞬間、何処か感じていた違和感に気付いた。

 

 

 

 

 

(…白髪………女……?………――――)

 

 

 

 ―――違和感は、確信に変わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最悪の状況に、鼓動が異常なくらい早まっていく。

「―――!」

 嫌悪の声を上げるも、人外は聞こえていないかのように彼女を無理矢理引きずっていく。

 どうにか逃げようとしてもどうにもならず、終いには路地裏に連れ込まれる。動物の形をした二体の人外は、酷く力が強く、彼女の抵抗など毛ほどにも感じていないらしかった。

 

 

 

 

 

 半ば引きずられる形で連れ込まれると、壁に体を押さえつけられる。…体毛だらけの顔が歪む。薄汚れたその姿と相まって、嫌悪は強まる一方だった。

「――――、―――――。…―――――」

 口を開き声を出す――――が、何を言っているか分からず困惑していれば、両頬を片手で挟まれる。―――背筋が凍るような感覚が彼女を襲う。

「―――」

「…―――」

 互いに何か話していることだけは分かったものの、彼女にそれを理解する力は無い。…それでも、この状況が何を意味しているのかだけは、何となく分かっていた。

 両頬を押さえられたまま、人外の手が太腿に触れる。感触を確かめるように、妙に念入りとした仕草は、彼女にとって恐怖の対象でしかない。

 

 

 

 しかし彼女が嫌悪と恐怖に目を逸らした瞬間――――鈍い衝撃音が、耳に聞こえて来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何時振りかはっきりしないが、ここまでの無茶をするのはかなり久しぶりだと思う。

 人外の体が丈夫に出来ていることが幸いだった。御蔭で、"四階相当"の場所からこうして"飛び降り"ても、そこまでの衝撃は感じない。骨に強い痺れはあるが、ヒビが入るまでには達していない。だから、直ぐに走れた。路地裏に向け、全速力で走ることが出来た。

 

 

 …だからこうして、最も良い角度でもって、横合いから殴りつけることが出来たのだ。身体が丈夫で良かったと思う。

『……――――!』

 右拳に感じる感触からして、腕自体はあまり落ちていないらしい。駆けつけながらでも、狙った場所へと吸い込まれるように命中してくれる。

「―――いッ!?!」

 自分と同様、人間に近い容姿が仇となっている。血の飛んだ地面を、頭を抑えて転がり回っている。

 叫びながら相方を心配するもう一体も、取りあえず鉄拳を打ち込んで黙らせた。―――同じ格好の人外が増えた。

 悶える人外の背後に周り、そこから股間付近を蹴り続ければ、痛みで自然と気を失った。もう一体にも、同様の手順を施していく。

 

 

『…念の為』

 脚を上げ、何度か頭を踏み潰す。念には念を入れよというので、さらに顔に蹴りを入れたところで…一旦、止めることにした。これ以上は、病室送りでは済まなくなる。

 取りあえず路地裏の端に二体を集め、その上から傍にあったゴミ袋を乗せていく。…見るからに怪しい状態だが、そのまま放置するよりかはマシというものだ。こうしていれば、近づこうとする人外もあまり居なくなるだろう、と見越しての行動だ。

 ついでに土での投げつけようかと屈み込んだところで――――追い込まれていた"彼女"のことを思い出した。

 腰が抜けたのか、八の字のままペタンと座り込んでいる。息も荒く、眼も僅かに潤んでいる。――――間違いなく、自分の監視対象だった。

 

 

 

 一旦嗜虐行為を止め、腰を上げて近づいていく。見れば、服の上部分が裂けていた…が、そんなことを気にする余裕は無いだろう。明らかに体目的の連れ込みだった。直ぐこの状況に適応出来る者など、人外にすら居るか怪しいレベルだ。

(……確か…密着、だったろうか…)

 うろ覚えの知識を頼りに彼女に近づくと、まずしゃがみ込んで目線を合わせ、"取りあえず"抱き締めてみる。同種に強く密着されると人間は落ち着く傾向にあると、昔何かで読んだ記憶があった。

 別に犬や猫でも良いのかもしれないが、生憎この場にそれ等はいない。居るのは、人外だと言うのに、皮肉にも人間に近い容姿と言われる自分だけだ。

 だから"取りあえず"抱き締めてみた。見た目は人外に近づいているとは言え、まだ見た目で人間だと判断できる程度にしか染まっていない。なら、精神的な部分は人間のままだろう。外面が変化したところで、内面にまで変化が及ぶ訳じゃあない。

 

 

 微かに震える体は、やはり細い。思い切り力を込めれば簡単に折れそうだ。

 …それは兎も角、これでは流石に仕事に戻れないので、再度携帯電話を取り出した。宛先は緊急連絡では無い。蝋燭の同僚だ。どうせ上司に取りあっても、まともな対応が返って来るとも思えなかった。

 

 コール音が鳴るのに連れ、彼女の震えも落ち着いてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『…痛』

 深夜、本日分の日記を記入していた途中のことだ。夕食時から感じていた鈍痛が、はっきり形を持って表れた。年甲斐もなく無茶なことをしたせいだ。四肢の節々が痛み、右拳が赤黒く内側で出血している。暴力沙汰など約数十年振りだ。

 

 

 最終的に友人が上手く言ってくれたらしく、返しの電話で上手く言い包めたから帰宅しても大丈夫だと言って貰えた。立場的には自分と同じだが、こういった事態での対応は彼の方が手際がいい。

 そして今は夜中。彼女と共に帰宅してから十時間以上が経過していた。帰宅して来て分かったことだが、朝、自分は玄関のカギを閉め忘れていたらしい。それを見て、何故彼女が外に出ることが出来たのか…その謎に合点が行った。

 

 無断で外に出たことについて彼女に対し説教しようにも、それが出来る程の精神状態では無かった(言葉が通じない時点で不可能ということには後で気づいた)。精神面については、事故直後よりかは幾分落ち着いているものの、夕食後、全ての身支度を整えてから寝室に籠ってしまった。

 トラウマになってしまわないか心配する。今は彼女に対し自分が固執する理由など、どうでも良かった。今はメンタル的な部分を気遣ってあげるべきだと、素人目にも分かるくらい彼女は参っている。

 無断外出についてだが、外に出てしまったことを、正直責める気にはなれない。まだ十代の子供だ。好奇心、そして自らの置かれている状況を知りたいという想いがあるのも当然のことだ。それどころか元を正せば、彼女が外に出たのは自分が戸締りの注意を怠ったせいでもある。必要とあれば窓からでも外には出れるが、彼女は見た通りあまり体が丈夫では無いらしい。だから今まで外に出ようとはしなかったのだ。…今回、このような事が起こったのには、様々な要因が重なったからだろう。原因の見当は大体ついている。

 

『……――』

 溜め息が出る。本当にこの調子で彼女と付き合っていけるのか。

『…?』

 ネガティブに走った思考を打ち消したのは、戸の開く音だった。

 キャスター椅子を回転させ、振り返る。…その先には、若干怯え気味の彼女が立っていた。

 

 ―――下手に話し掛けるのは悪影響と思い、首を傾げて彼女が現れた疑問を表現する。てっきり、もう眠っているものかと思っていた。

 少しの間の後、思いつめたような顔のまま、裸足で此方に近づいて来た。右手に、何かを持っている。凶器という訳でも無いらしい。遠目には包帯に見えた。

(……ケガでもしたのか?)

 包帯が巻けず、私に頼みに来たのかと思ったが…どうも違うようだ。

 

 目の前に来ると、そこで立ち止まる。何か言いたげに口を動かしているが、しばらくすると飲み込んでしまった――――代わりに左手を伸ばしてくる。

 一体何の用なのか測りかねていると、いつの間にか右手を取られていた。何をするつもりかと様子を見ていれば、右手に持った包帯を手の甲に巻いていた。―――彼女に手に、ではない。私の右手に包帯を巻いていた。

『?』

 何故こんなことをするのか聞きたかったが、言葉が飲み込んだ。今人外の言葉で話しかければ、トラウマを刺激する可能性もある。向こうの言葉と違い、此方の言語は明らかな違和感を感じさせる言語らしい。人間研究の本に載っていた。

 

 

 成すがままに手当を受けているが、よく見れば彼女の持つこの包帯、私が彼女の手当て用に購入してきたものだ。寝室に置いてあった救急箱から取ってきたのだろうか。

 …それは置いておき、実はこの右手の怪我を放っておいたのには理由があった。簡単なことだ。人外は個体にもよるが自己回復が早いのだ。人間との大きな違いを挙げるとすれば、それは容姿とこの回復力が代表される。

 打ち身や打撲は数日内で。この右手も、明日か明後日には完全に治っていることだろう。この傷の痛みも、体内で修復活動が行われている証拠だった。

 

 

 だから手当も余程で無い限りはいらない…のだが――――

「…―――」

 涙目ながらも処置をしてくれる少女に対し、必要とは流石に言えなかった。幾ら人外でも、それくらいの常識と教養はある。

 

 

 

 数分後、私の右手には綺麗な包帯が巻き付いていた。巻くのが上手だと思わず言ってしまったが、当然の如く彼女は不思議そうな顔をするだけで、特に恐怖心を煽るようなことには至らなかった。

『…ありがとう』

 まだ"覚えきれていない"ので此方の言語になってしまったが、動作も加えれば大体のニュアンスは感じ取って貰えるだろう。

 頭を下げながらの礼をした後、彼女を見れば少し驚いた顔をしていた。…これは、一見不愛想な私が、素直に礼をしたことに驚いているのだろうか。そう思われるのは少々心外だった。私だって、一応マナーは学んでいる。…それが人間に当て嵌まるのかは別の話だ。

 喜んでいる…ということでいいのだろうか。試しに口元に笑みを浮かべて見せる。これで私の思考が伝われば嬉しい。

 

「………」

 感じ取ってはくれたのか、一つコクンと頷くと踵を返して立ち去る。向かう先は当然寝室だ。

 ふと、置時計を見る。針が指す時間はかなり遅い。明日も仕事があるのだから、いい加減私も彼女に倣って寝るべきだろう。

 ただ、今日はリビングのソファで眠るつもりだ。あんなことがあった以上、加害者と同じ種族が近くに居ると言うのはストレスになるかもしれないという点を、考慮してのことだった。

 

 椅子を引き、立ち上がる。まずは毛布を引っ張り出す為、クローゼットに向かうことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝室に繋がる戸、そこから音が聞こえた気がしたが――――気のせいだと結論付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 朝食を済ませ、朝の準備を終えた彼女は、相変わらず飽きもせずに図鑑を読み耽っている。そこに関しては、いつも通りだ。昨日までと、何ら変わりは無い。

(トントン拍子、とは行かないか)

 昨日の彼女の様子から、少しは親睦も深まったかと思っていたのだが、これといった変化は無い。

 唸り声が口から零れたが、それで何かが変わる訳でも無い。―――今私がするべきことは兎にも角にも出勤、それだけだ。

 

 靴ベラを使って革靴を履き、玄関扉を開ける。そして、いつものように外出の挨拶を掛けようと振り向けば―――――

『…………』

「………」

 彼女が眼前に立っていた。

 

 

『…―――?』

 珍しい光景に首を傾げて見せたが、彼女は至って普段と同じ。無言で無表情。…そこから数十秒硬直してみたものの、状況に一切の変化は無い。

『……いってきますー』

 肩を竦め、彼女の返事に期待せずそう言い放つ。再度、戸を大きく開け――――

 

 

 

 

「―――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おい、どうした?」

『………』

 朝、出勤してからずっとこの調子の友人に思わず声を掛ける。仕事自体にミスは無いが、どこか魂でも抜けているような表情なのだ。

 肩をゆさゆさと揺らせば、首ががくりと後ろに傾く。―――異常性が垣間見えた。

「…検体に何か異変か?」

 思い当たる節があってそう問えば、その態勢のまま肯定の呻き声が聞こえて来た。

 

 昨日、どうやら検体に色々と大変なことが起こったと電話で聞いたが、その時は落ち着いていた。…こうなった理由は、帰宅してからだろうか。そこから先は連絡を取っていないので、自分には分からない。

 

 

 

 妙な沈黙が続く空間で、どう切り出そうかと試行錯誤をしていた自分だが、意外にも口火を切ったのは彼が先だった。

『…声……初めて聞いたんだよ…』

「……は?」

 

 ―――いきなりの発言に、疑問しか含んでいない声が口から漏れた。

『……声だよ声………早一ヶ月、初めて聞いたんだ…』

 ぐわッ、と体勢を直す姿に、周りの人外が一瞬跳ねた。…やはり皆、彼の異常性に気付いているらしかった。

「…声……検体の声か?」

 予想は合っていた。だらりと手足を放り出しながら、頭が大きく揺れる。

 

『…そう、検体の子の声だ』

 ゆっくりとした口調で言いながら、頭が机に向かって下がっていく。 

『……声、聴いたんだよなー…』

 そう言って、机へうつ伏せになった彼の横顔を盗み見る―――――その顔が意味する感情を察し、唖然とした。滅多に彼は笑わないのだ。愛想笑いはしても、心から自然に笑うようなことは、滅多に無い。

 

 

 

『……ふ…』

 

 

 そんな、滅多に笑わない彼の横顔には――――ここ数十年…いや、もしかするとこれまで見たことが無いくらいの、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――その日の勤務中、彼の顔には終始、笑みが張り付いていた。…友人に言うのも何だが、非常に不気味だったと記憶している。

 

 

 

 ちなみにその日の勤務終了後、嬉々として帰宅する彼の姿が目撃されていたらしい。

 

 

 



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『彼女』との『土台』

二話目、です。


 

 

 

 

 

 

 

 人外と人間はどうしても相容れない部分が多々存在する。それを前提として、彼女とは暮らしていかなくてはならない――――そう思っていた時から早二か月。朝、挨拶らしき言葉は返してくれるようになった。後、出勤時にも何か言ってくれるようになった。…以上、ここ二か月分の進展だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スプーンを口元に運び、前方に座る彼女を見る。お互いの間にはシチューやブレッドと言った食事…シチューは勿論、私の作ったものだ。私以外に作れる者は居ない。ハウスキーパーなんて雇っていない。

 幸い人間と人外の味覚は別に大きな違いは無いらしく、彼女も食べては、くれる。美味しさ等については言葉が通じないので分からない…が、一応完食はしてくれているので前向きに考えることにした。

 

 

 今日も食器のカチャカチャという音だけが、この静かな空間に響く。…当然と言えば当然だ。話すことが互いに出来ないのだ。テレビも点いていないこの空間にある音なんて、この食器音と、不定期に外から聞こえる車の音だけだ。

「…―――」

 音を殆ど立てず、静かに食事を行う彼女を見る――――この二か月、私はずっと監視だけをして来た訳では無い。彼女について、いくつか調べさせて貰っていた。

 色々と詮索した結果、彼女はニホン、という国の出身者らしいことが分かった。何となくは知っている。人間側では中々に人気のある国であると同時に、色々と他国に勘違いされやすい所だと聞いている。

 ただ、それを聞いて助かった私が居た。…理由は、"言語"にある。

 さらに深く調べたところ、どうも私達の使う言語と彼女の使う言語、ニュアンスが少し似ているようなのだ。単語一つ一つも、似ているものが多々あるらしい。人間側は場所によって使う言語が違うと聞いていたので、もし私自身が発音できないようなものであれば…という不安があった。ニュアンスが似ているということは、決して発音不可能な言語では無いということ。もし仮に、人間と人外の声帯の仕組みが違えば、出来なかっただろう。

 人外になれば体のつくりは私と殆ど同じになる。声帯云々の心配も無い。外見だけでなく、内面的なものも自動で切り替わるからだ。…が、それがいつになるか分からないというのが問題だ。彼女が人外化する経過は、前と違い今では大した変化が見られない。写真でも撮って比べれば違いは分かるかもしれないが、どうも気が進まない。…カメラはあるが、別に監視条件については特に上司から説明されていないので、今まで一枚たりとも彼女を撮ったことは無い。―――と、話を戻すが、つまりは彼女が人外と化す前に、私が彼女の言語を覚えた方が早いかもしれないということ。このままジェスチャーだけで暮らしていくと、どうしても不便な部分が出てくるのは辛い。

 

 

『……ん…ああ、終わったか』

 彼女の食器の中身が全て無くなったところで、私は立ち上がる。彼女の分の食器を自分の物に重ね、台所へと持っていく準備を始める。…彼女もそれに倣い、別の食器を纏め始めた。

 当初は別に私がするからやらなくていい、という意思表示をしようと思ったが、彼女の行動は基本、明らかに危険と分かるもの以外は邪魔をしない方が良いという考えに至った。彼女の"やろうとする"意思、それを否定するようなやり方は(例え私なりの気遣いだったとしても)此方としてはあまり気分の良いものでは無い。

 

 

 軽い水洗いを済ませ、洗剤をつけたスポンジで食器を洗う。泡を水で流して隣に差し出せば、彼女が受け取り、食器を拭いて重ねていく。―――彼女はこういった感じで協力してくれる。行動自体には段々と積極性が増してきた。そして私の普段の様子から判断したのか、直接危害を加えようとする相手では無い、ということも、分かっているようだ。―――だからと言って完全に警戒を解いてはいない筈だ。警戒は、あくまで"緩んでいる"だけで、何時でも"張り直せる"状態に保たれている。

 信用は出来る。だが"信用"はされていても"信頼"の領域には達していなさそうだ。…それでも、信用だけでもされていること、それが私にとっての大きな一歩であることに、違いは無い。私自ら手を下した訳では無いが、彼女からしてみれば、見知らぬ家に無理矢理連れ込まれたようなものなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洗い物を終え、食器棚に全てしまい込んだ後は互いに自由な時間だ。彼女は本やテレビ、私は日記や趣味に没頭する。彼女と話すことは、無い。

『…―――』

 気付かれないよう、軽くため息をつく。こう、どこか距離があるのには色々と要因があると思うが、どう考えてもその中には、確実にコミュニケーション不足が含まれていると私は思う。軽い雑談でも出来れば、多少は関係も好転に向かうだろうと思う。…しかし現状、彼女と出来るコミュニケーション手段は身振り手振りのジェスチャーだけだ。

 彼女とはジェスチャーで、それでいて適切に思っていることを伝えなくてはならない。…決して楽観視していた訳では無かったが、意外と大変だ。何か間違った解釈をさせるようなことをしてしまうと、危険な目に遭う可能性があることが無くは無い。携帯機器でのやり取り以上に、身振り手振りでの伝達手段には誤解が含まれやすい。もっと簡単で、確実な意思疎通が出来れば良いと本当に思う。

 せめて彼女の扱える文字を覚えることが出来れば、伝達は少なからず楽になるだろう。

(…やっぱり取り寄せるか)

 最近、本格的に『教材』を買うことを検討しようかと悩み始めた。取り寄せるのは人間の言葉に関する教材で、彼女の出身国にも関する物だ。今は何でもいいから基礎的な言葉だけでも覚えておきたい。勉強自体は―――まぁ、暇な時や手が空いている時にでもするつもりだ。

『…』

 何となしにソファへ目を向ける。そこにはクッションを抱き、テレビに集中する彼女の姿があった。此処に来た当初より伸びた髪の毛を、鬱陶しそうにしている。―――私の目線には、気付いていない。

(これは…どっちだ?)

 これも、関係が数歩前進した証拠、と言えるのだろうか。今までの彼女は、少し私が目を向けただけで直ぐ私の方へ振り向いて来たように思うが、今は、こうして"何も"反応しない。

 彼女がこうして反応しないのは、警戒心が薄まった証拠だと考える。当初は―――当然のことだが―――私の気配に対し敏感だったのだ。だから目線に直ぐに気付いたのではないだろうか。やはり、私の"緩んでいる"という認識は間違いないかもしれない。

 ―――結局、私の方が目線を逸らすまで、彼女が此方を振り向くことは無かった。椅子から立ちあがり、そのまま風呂場へと向かう。目的は、言わなくても分かるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し距離の離れたベッドに彼女が潜り込む。その身体には、少し前に買っていた薄ピンクの寝間着だ。

 警戒が緩んだ御蔭か、今まで以上に私の買ってきた服に手を出してくれるようになった。正確には生活に必須な下着系統には手を出していたが、衣服も同様に最低限の物にしか手をつけていなかったのだ。というのも、気に入らない云々より、怪しいから着れない、が強く彼女の中にあったからだと思う。それについて不満を唱えるつもりはない。【何があるか分からない。だから怪しむ】、生き物として当たり前の行動だ。

 

 

 私も彼女に倣い、電灯の紐を引いて灯りを消すと、布団を被った。―――枕に後頭部を埋め、暗闇の中で物思いに耽る。内容は…まぁ、彼女についてだ。

 既に随分と、私の中に"彼女"が浸透してきた気がするのだ。いつの間にか、彼女の存在が、私の生活の一部と化している。外出時も、今頃どうしているだろうかと気になることもある。前に一度、危険な目に遭わせてしまった負い目があるせいか。あくまでこれは監視という"仕事"だからか……妙に思考が彼女に偏るのは、このどちらかが根底にあるからだろうか…私は最近、そんな疑問で溢れている。

(だから……いや、それだけで?)

 果たしてこうして固執する理由は、自分の仕事だから、なのか。…自分の心情すら不明瞭な状況だ。嬉々として、という程では無い。ただ、"苦"というものでは決して無いこと。それだけは確かだった。現に今も、何かを考えれば直ぐ彼女に関連したものが、ふつふつと浮き上がって来ている。

 目を開けて彼女の方を見る――――が、直ぐに寝返りをうって顔を逸らす。

 

(……それより…優先することがあるだろうに…)

 自分自身に向けた言葉だった。こんな内容でうだうだ悩むより、私には考える必要がある件が一つあった。…これからの私と彼女の"関係"についてだ。

 ここ何日か、私は互いの関係の『土台』を作りたいと思い始めていた。理由は、一ヶ月以上経過した今も、彼女の心から警戒心が完全に消えていないからだ。信用はある程度、得られていると思う。しかし、信頼はまでは達していない。私は彼女の行動を監視、つまり強制している存在であり、そんな者に対し"信頼"を寄せられるとは思えない。ただこの境界線をどうにか出来れば、もっと色々と楽になるかもしれない。――――結論を直球で言えば、互いの境界線を解消する方法が無いかと、模索している最中だった。

 現時点で彼女との間にある、わだかまり―――のようなモノ―――を、全て取り除けるなんて、微塵程度…には期待しているが、そんな簡単に行くほど、甘い問題でないことは良く知っている。それでも、どんなものでも良いから、何か手助けになってくれれば良いと思うのは確かだ。

 

 ―――彼女のことを一度、よくよく観察する必要がある。そう区切りをつけて、私は目を閉じた。

 いつものように睡魔が私を覆うまで、時間は掛からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…で?なんか良さげな案は出たのか」

『出ていたら相談なんてしていないだろう』

「それもそうか」

 歯を剥き出しにしたまま、蝋燭頭がキシッと笑う。―――相も変わらず、特徴のある笑い方は変わっていない。……そんなことより、今重要なことは彼女に与える"何か"についてだ。

 出勤し、午前分の仕事を終えて今は昼休み。その時間の間を縫うようにして、私はこの友人に相談を持ち掛けていた。

 零れ落ちないよう、歯で煙草を押さえて煙を吐く。ガラス張りの喫煙所は、相談事をするのには中々の好条件だ。私達以外の喫煙者など、片手で数える程度しか、少なくともこの社内には居なかった。

『人間は…色々と大変だ』

「大変な代わりに面白味も強いだろ。寿命が短いってのは技術を発展させるのに一役買ってるんだよ」

『人間について調べたことでも?』

「…いや、ただの受け売り。確か…何かの本に書いてあった」

『そうか』

 ―――しかし進むのは雑談ばかりで、これといった打開策は一向に生まれない。唯一生まれたのは、贈り物―――試しにそれを渡してみる、ということだけだ。そして既に、友人と"贈る"ということを前提として話し始めていた。

 

「ちょっとしたモンで良いんじゃないか?服とか指輪とか凝ったもんじゃなくて…、あれだ、普段の生活で役立ちそうなヤツだ」

『…普段の生活』

「男女両方が使えるモノでも良いと思うが、出来るなら女性特有の物が良いだろーな」

 …彼女の日常を思い起こせば、読書家、という言葉が真っ先に浮かんでくる。それなら人間の言葉で綴られた本でも渡してみようかとは考えたが、如何せん、人間側から"直接"仕入れたものは価格が高騰するのが常識だ。本も、その例外ではない。金札数枚では足りないくらい、値が張る物もある。仕入れも不定期なので、予約も出来ない。

 服も買ったばかりで、今このタイミングで渡す物かと自問すれば首を傾げる。でも私に女性が好む物なんて分からない。挙げろと言われても思い浮かぶのは、化粧品・服…この二つで突っかかってしまう程度には分からなかった。あと挙げられるのは、本当に日常的に使う物ばかりだ。

 

 

 軽くため息をつき、かくんと肩を落とす。――――隣から笑い声が聞こえて来た。

『……あまり笑うな』

 眉を細めながら横を見る。短く途切れ途切れな笑い声は、この蝋燭頭のものだ。

 少し不愉快な私の顔を見て、軽く謝罪を入れてくる。…笑いながら。

「ッ…――…――……あー…悪い」

『そんなに可笑しなことか』

「いや?ただ、丸くなったと思って」

『何が』

「性格だよ。昔と今のお前を比べてみろ。天と地ほどの差、と言っても過言じゃない」

『…そんなことない』

「ある。物凄い変化だ。昔なじみが見たら誰か分からなくなりそうだ。…これも、あの人間の御蔭か?」

『………』

 一本目の煙草を吸い殻入れに捨てる。再び一本だけ取り出し、ライターで火を点けた。

 

 

 黙ったままの私に「でも、」と前置きして、友人は続ける。

 

「あまり深入りし過ぎると、後が面倒だ。ほどほどで止めとけよ」

『……』

 その言葉が一体、何を指しているのか。予想はつく。十中八九、監視対象である彼女のことだろう。深入りという言葉を聞き、それ以外に連想出来ない。

『情が湧くからか』

「お前は【一時的】にあの人間の世話を頼まれているだけだ。どうせ、いつかは研究会とかに引き取られるんだろ」

 情が湧いたら終わり、とでもいいだけな口調に、自然、険しい顔になる。

『………分かってる』

「それならいいが」

『……――ん』

「……」

『…………』

「…」

 

 ―――妙な気まずさが残る中、先に口を開いたのは彼が先だった。

「まぁ、なんだ。持論だけど、結局はソレに含まれた想い的なモノが一番大事なんじゃないか?」

 無言の私に向け、先の灰を落としながら友人が言う。―――それで済ませれれば、ここまでの苦労は無いのだ。女性との関係なんて、碌に私は持ったことが無い。大した物が思い付かないのも、そのせいだ。

『…簡単に言うな』

「何言ってる。あまり深く考えすぎて何も渡せないってなったら本末転倒だろ。テストプレイ感覚でいいから、あまり煮詰めないでやればいい」

『……』

「…性格上、難しいだろーけどな」

『よく分かってる』

「何十年一緒に居ると思う。慎重過ぎるその性格にはもう慣れたよ」

 友人が肩を竦め、煙草を捨てて立ち上がった。

「じゃあ、先に戻ってる。そろそろ休憩終わりだから急いだ方がいいぞ」

『分かった』

「ん」

 シガレットケース片手に、ガラス戸を開けて友人が退出する。―――――その姿を見送ると、喫煙所に取り残されたまま、だらりとしたまま、考えに耽る。優柔不断という言葉が最も今の私には似合う。考えが全く固まらない。

 

 やがて二本目も、寿命が近付いてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何はともあれ行動を起こすべく、会社帰り、少し寄り道をしてみることにした。

 足を運んだ場所は家近くのショッピングモール。大きい場所なら、具体案が決まっていなくとも、適当に陳列棚でも見ていれば思い付くかもしれないと言う、安易な発想ゆえの行動だった。―――そう、安易な発想過ぎた。

 

 

(…一体何が"必要"なのか分からない)

 

 もう、既に何十分も同じところをうろついている。うろうろウロウロ、同じ場所を行ったり来たりする姿が不審者に勘違いされないかと不安にもなってきた。

 物を選ぶとき、店は多ければ多いほどいい、という訳でも無いらしい。買う物が限定されていない状況では、こう、逆に選びにくい。まずは絞り込まなくては話にならない。

 

『……朝、どんな感じだったか…』

 

 早朝に見た彼女の姿を、脳内に思い浮かべる。実は彼女を観察するという目標。それ自体は朝、有言実行してはいた。朝食を早めに、準備も早めに終えた後、余った時間で彼女の観察に移った。時間にして数十分、ずっとだ。御蔭で、たまに目線がかち合うこともあった。

 

 結果、分かったことなんて殆ど無い。唯一の発見は、図鑑だけでなく、別の本にも手を付け始めているようで、風景画を載せた本も机に置いてあったことくらいだ。…だったら、その風景画の本でも渡せばいいと思うだろう。それが、そうもいかない。まだまだ大量に、その類の本は本棚に押し込まれているのだから。

 本は却下、服も却下、ならアクセサリーでもという考えには至ったが、逆に迷惑がられそうで躊躇している。少なくとも良い感情は抱いていない相手からそんな物を贈られて喜べるかと自問すれば、否定の自答が返って来た。

 別にそこまでの濃い意味を持たず、尚且つ手軽に使え、さらに渡しても迷惑がられなさそうな物……そんな物を見つけることは、私には難儀なことだ。

 せめて今日に限らず、これまでの彼女の行動を思い起こせられるなら、意外と突破口は見えてくるかもしれないが。

 

 

 

(………そういえば…)

 ふと思い立ち、鞄を探る。もしかすると、"連れて"きているかもしれない。

 何となくの感覚で探り続けていると、ファイルとファイルの間に、よくよく覚えのある感触を見つけた。…店内では少し躊躇いはあったが、取りあえず引き抜く。

『…あった』

 店内で私物を取り出すことがモラル的にどうか分からないが、今日だけは自分の中での特例措置、という奴だった。―――取り出したのは、一冊のノート。表紙には何も綴られていないそれの中身は、"彼女の監視日誌"だ。

 これこそが、彼女の行動を思い起こせそうなものが綴られている道具、つまり突破口を発見できる"かもしれない"可能性だ。彼女について気付いたところは、取りあえず綴ってみるのが私の基本スタイルだ。それなら途中途中、何かしら"今"の私に必要なヒントが含まれているかもしれない。

 

 

 

 出来るだけ素早く目を通す。目的の記述が無さそうなら、直ぐ次へと移行する、を繰り返す。

『……ふぅー』

 ざっと読み通して見たが、特に目立つ記述は無い。やはり今日の所は止めておくべきか、という考えも頭を過り始める。

『………』

 ―――もう一度、最初から読み直してみる。今度は、先よりも広く目を通して確認してみる。…最早、これは意地のようなものだ。このまま何も得られずに帰宅するのは、どこか不快に感じる。

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― 

 

 

 

 

 

 

 

 悪あがきは虚しく終わった。耳に閉店前の放送が聞こえて来る。―――…ページも終わりに近づいて来た。いい加減諦めろ、という声が聞こえてくる。…ここまで来ると、そもそも彼女は私に何かを貰って嬉しいのか?という根本的な部分にすら疑問を覚えてくる。

 半分自棄になりながら、乱暴にページを捲る。上の日付を見れば、今日から一瞬間前に書いた日記だ。

 半目になりながら記述を見る。内容は短い。ただ一行、当初より髪が伸びて来たように思う、とだけ。髪についての記述だ。

『………髪…ね…』

 口から小さく声が零れる。そういえば私も最近、視界に悪影響が及んできた。…前髪のせいだ。御蔭で、書類やパソコンを扱う時、一々かき上げる必要があった。髪留めでもあればもっと――――…

『……髪…』

 頬に垂れる一房を掴む。私ですら鬱陶しいと思っているのだ。私より遥かに量の多い彼女にしてみれば、苛立ちが日に日に大きくなっても可笑しくない。

 手の甲を顎に当て、少し考える。

『……そういうものは、向こう側か』

 この場から再び移動する。…今までのような、何となくという感情から来る行動ではない。足取りはしっかりしているつもりだ。

 今度こそ、目星を付けたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然だが、私は隠し事が"基本"出来ない。"出来る"例外は、私にとって色々と複雑な問題を抱えている時"だけ"だ。『失敗が出来ない』という意識が頭に強くあるからだ。…打って変わって、日常的な、そこまで大きくない問題に直面した場合には、この限りでは無かった。あの蝋燭の友人にも、お前はウソが下手糞だと何度も言われた。

 

『……』

「――――」

 

 その悪癖のせいで、帰宅してから彼女の目線がずっと痛い。台所に立つ時も、食事中もどこか落ち着かない。風呂掃除中には洗剤に足を取られている。

 今、私は食卓の椅子でテレビを見て―――振りをして――――いるが、たまに彼女を横目で見れば必ず目が合う。…言い換えれば、彼女から注意を、それも高い頻度で向けられているということだ。

『―――…』

 心中穏やかではない……買うべき物は、買って来た。現在、私の仕事鞄の中にあり、その鞄は私の隣にある。…そこからが、どうもダメだ。

 どうしてもタイミングが掴めない。異性に対する贈り物は、いつ、どこで、どうやって渡せばいいのか、全く分からないせいだった。無言で不愛想に渡す、というのも(私の精神的に)良いかもしれないが、そのせいで私の印象を悪くしてしまえば本末転倒だ。

「……」

 今も不思議そうに此方をうかがってくる。―――逃げ道を塞がれている以上、後には退けなかった。

 

 

 隣の椅子に置かれた鞄を手繰り寄せ、中を探る。わざわざ中を見なくても、明らかにコレだと分かるような物だ。

 目的の物を引き上げる。手には、一つの袋が握られている。

 もう一度彼女を見ると、またもや目線がぶつかった。…見つめられていると、妙に緊張してくる。

 

 袋を手に立ち上がり、彼女へと近づいていく。訝し気な顔だが、私から逃げよう、離れようといった心境では無いらしい。当初は近づけば、多少なりとも警戒されることが当たり前だったというのに。時間の経過を感じる。

 

 

 見上げるその眼前に、黙って紙袋を差し出す。先程のウダウダした考えなど、一瞬にして消え去っていた。もう方法なんてどうでも良いと開き直り、渡せればいいという結論に至ったからだ。…中身について補足すると、両手に収まるサイズの中にあるのは、全く持って大したものでは無い…ので、"質"よりも"量"を優先して買ってきた。

「――!」

 初めてのことにほんの少し驚いたようだが、直ぐに普段の顔に戻る、と、一つ会釈をしてから受け取ってくれた。……受け取ってくれたことに対し、内心、どこかほっとしていた。

 膝の上に袋を乗せると、俯いて紐部分に指を絡めたが――――何故か動きを止めてしまった。そして、私を見上げてくる。

『…?』

「……」

 彼女の手が、変わった動きを見せる。

『……ぁぁ』

 どうしたのかと一瞬、一瞬だけ不安が過ったが、成る程、納得した。人間はやはり、礼儀正しい生き物だと、改めて実感させられた。

 私もジェスチャーで、開けても良い、と返答する。再び、彼女が会釈する。―――彼女が動きを止めたのは、その場で開けるのは良いことなのか、と迷ったからだと予想する。…開けない方が失礼だ、と考える者もいるかもしれないが、それはそれで、"はしたない"というものなのだろう。

 

 なんにせよ、取りあえず私の目的は達成された。買ってきて、渡す。これで終わりだ。…もう開き直ったので、中身にがっかりされても別に問題ないから、終わりで良い。

 踵を返し、いつもの椅子へと向かう。その途中に袋を探る音が聞こえてきたが、振り向かなかった。

 手元が落ち着かないので、早速日記に取り掛かる。内容は勿論、あの紙袋と彼女の反応についてだ。例えどんな反応をされたとしても関係ない。日記に書くことが変わるだけで、私には関係の無いことだ。

 ノートは鞄の中から、ボールペンを引き出しから取り出す――――

『……?…どこだ?』

 ところが、引き出しを引いたにも関わらず、中に目的の物が無い。念のため二段目の引き出しの中を見てみたが、ここにも無かった。

 眼前に積まれた資料に埋もれているかもと探りを入れる。別にそのペンでなくとも字は書けるだろう…という訳にも行かない。別のペンを使うと、当然、今まで書いてきた字と違ってしまう。それが、何となく嫌だった。

 

 

 ―――そう、ただ何となく嫌なので探していた。だから、私が後ろを"振り返った"のも、そこで背後の"様子"を見たのも、全くの偶然だった。

 

「………」

 目線の先には、早速シュシュで髪を束ねた姿の彼女が居た。まとまった房が、右胸に掛けられている。

『……どうも』

 まさかこんなに早く使って貰えるとは思わず、なんとなく頭を下げてしまった。向こうも、会釈を返してきた。―――袋の中身は、髪ゴム、髪留め、シュシュ、の三つだ。そしてそれ等を三つずつ、色を変えて買ってきた。"質より量"とは、そういう意味だった。

「…――…」

 まだ少し落ち着かないらしく、髪の房に手を掛けて弄っている。色白・白髪の為、黒のシュシュが見栄えする。センスなんて分からないので、取りあえず彼女の白髪に合いそうな黒を中心に揃えて来た。選択の理由は、反対色なら何だか相性がよさそう、という安易な発想からだった。後は雲と青空を連想して水色、何となくで赤が中に入っている。

 

 

 兎に角、これで一旦、私の悩みには区切りがついた。この程度でどれほど関係を進められるか分からないが、多少は好転したと思いたい。

 実はこの案が浮かんだ時、どうせなら美容室に連れて行く、という手もあった…が、言葉が通じず、結果好みの髪型ではないものにされるのも可哀想だと思ったので止めた。―――私的な思いは無い。

(どのみち…そろそろ連れて行くが…)

 応急処置みたいなものだ。あと数週間もすれば、前髪が彼女の視界を完全に遮りかねない。そうなる前に、せめて生活に支障が無い程度には切りそろえておくのが良いだろう。当然、本人の意思を確かめてからの行動になるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボールペンを拾うと、満足そうな様子の彼女に背を向け、椅子に座る。今日はいつもより多く、ノートの行数を埋められそうだった。

 早速、本日分の日記を―――…………

 

『――――…………ああ、そうだ』

 

 ……―――書くつもりだったが、間を作ってからペンを置く……さらに思考に耽ってから、私は机上の薄型パソコンに手を伸ばした。今日はよく悩む日だ。

 

 

 

 

 たった今、思い出したことがあった。何度も【案】だけは出していたが、【実行】までには、以前至ったことが無いこと。それを、不意に思い出した。

 手早く電源を入れ、パスワードを入力してログインする。自前の物なので、どう使おうが私の勝手だ。 

(…挑戦するのも、いいかもしれない)

 今回の件で、覚悟決めて実行すれば、意外と良い方向へ転ぶことを覚えた。…それを踏まえた上で、行動することにした。彼女に深く"踏み込む"のは良くないことだが、これは妥協範囲だと言い聞かせる。

 ネットワークを開き、カーソルを検索欄に合わせる。

『…――』

 確かめるように後ろを見れば、テレビに集中しているものの、大事そうに『袋』を抱える彼女の姿があった。…一瞬その姿を目に収めて、再度パソコンと向き合った。

 

 

 

 

 

 キーボートを叩く音が、雑音と混じってリビングに木霊する。そして検索欄に『ニホン 言葉』と入力して、私はエンターキーを叩いた。

 

 

 

 




終わり、です。 


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彼女"の"問題 前編

 百年近く生きてきて、自分の無力さも何度か感じてきた。

 百年近く生きてきて、様々な恐怖も何度か感じてきた。

 

 しかし、これら二つが同時に襲い掛かって来ることは片手で数える程度にしか無かった。

 

 

 

 

 ――――だから片手で数える程度だったそれが、今日、まさか更新されるとは思ってもみなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…コンニ……チハ……わ?……なんだこれ…"は"を"わ"って読むのか?………――――』

 溜め息を一つ、パタンと音を鳴らし、本を閉じる。表紙のタイトルは『人間語 日本語編【初級】』―――――つい先日、宅配便で届いたものだった。

 

 

『―――意外と厄介だな』

 椅子にもたれ掛かりながら、少し回転させてソファを見る。彼女は、そこに居た。段々と、そこに居ることが当たり前になってきた。今日の本は、今までと違い、私の趣味が反映された"漫画"雑誌だ。文字は分からなくとも、絵のニュアンスで読めるだろうと踏んで引っ張り出してきた。少々埃っぽかったので、休日中に日干ししてから渡してやった。

 彼女も私も、もう寝る用意は出来ている。床に就くまでの経過は、彼女自身の判断に任せているので問題ない。今でさえ監視付きという窮屈な生活だと言うのに、さらに就寝時間までも強制してしまうのは可哀想だ。

 

『……』

 再度、流し読みの感覚で本を開き――――閉じてしまった。ニュアンス自体は似ているとはいえ、言語の習得は困難な作業だった。…初級とされているこの本にすら、手間取っている始末だ。

 それとも、あまり自分に学が無いせいだろうか。もしかすると、他の人外ならすらすらと覚えられるのかもしれない。……しかし、誰かに見せるのも気が引ける。差別意識が薄れてきているとはいえ、他の人外にこんな本を見せれば、訝し気な反応を返されるに決まっている。何故に他種族の言語を覚える必要があるのかと聞かれて、ただ人間とコミュニケーションを取りたいからだ、とは流石に言えない。特に蝋燭の友人には、この間関わり過ぎるなと念押しされたばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 ―――余計なことは一旦忘れようと、休憩代わりに今日の日記に移る。間違っても"逃避"ではない。休憩だ。

 

 

 日付を記入し、簡単に今日あったことを綴り始める。…と、書き始めたばかりだったが、ふと思うことがあり最初のページを見直してみた。

 最初期のページ…そこに綴られているのは、彼女がここへやってきた日の記録だ。見返してみると、随分と味気ない文に感じる。次の日記も次の次の日記も、まるで会社の報告書のようだ。

 それに比べ、先日の日記は私の感情や彼女の感情が付け足されており、味気がある…とまでは行かないが、薄味程度の価値は有りそうだった。時間が経つにつれ、こういった箇所にも慣れが出てきたのだろう。

 

『…これで、三か月か』

 

 初日と今日の日付を見直せば、日記から約三か月が経過したことを教えられた。最近、今までより時が経つのを早く感じる。

 

 ……改めて考えると、よく毎日こうも飽きもせず、書き続けられるものだと自分に感心する。ノートも、後が無くなって来た。

(足りなくなる前に、買ってくるか)

 明日の帰りにでも買いに行こうと思い、今日の分を書き綴って行く。このペンも、段々と掠れてきていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ――――妙な寝苦しさを覚え、深夜、不意に目が覚めた。

 

 

 

『…――……?…』

 

 

 完全に眠っていたと思うのだが、何故か、どこからか酷い苦し気な声が聞こえてきた気がしたのだ。…意識が覚醒するのに十分なほど、辛そうな声だった。だからこうして目を覚ました。

『…なんだ?』

 元々眠りがそこまで深くないせいか、瞼が開いてからの行動は早かった。素早く起き上がり、声の方向を探す。今日は月が見えているせいか、部屋はあまり暗くない。―――御蔭で、場所の特定は難しくなかった。

 

 

「…っ……――…」

 

 

 私から少し離れた場所、私の隣のベッドから、声は聞こえていた。この家の生物で、私以外の音源。そんなもの、一つしかないだろう。

 監視対象である、彼女の声だ。

 

「……――」

 布団を放り出し、繭のように縮こまる彼女から声は聞こえる。伝わって来る音は―――はっきりしておらず、声と言うより呻きに近いものだった。息も荒く、辛そうだ。

 

 

 

 数秒様子を見ていたが、苦し気な声は止みそうにない。

(…どうする…起こすか…?)

 葛藤しながらもベッドから足を下ろす途中――――そこで、声は止まってしまった。

(起きたか)

 目を覚ましたのか、と彼女に近づくが、聞こえて来たのは静かな寝息だけだった。何事も無かったかのように、穏やかで静かな寝息だ。

 

 逆に不気味に感じるくらい、何も無かったかのように眠っていた。

『………』

 落ちた布団を掛け直し、自分のベッドに潜り込む。…それから少しの間、様子見を続けていたものの、いい加減眠気が強くなってきたので同様に床に就く。念の為に、身体は以前彼女へと向けたまま眠るつもりだ。

(いつからだったか……)

 彼女の"コレ"についてだが実は――――初めて見るものでは無かった。…初めてでは無いと言っても、知ったのは最近だ。彼女は夜、睡眠途中にうなされていることがあるのだ。最後に聞いたのは数日前。言葉のニュアンスからして、何かを恐れているような、苦痛のようなものだったと記憶している。他に覚えていることと言えば、昼寝などの際、"コレ"に襲われることは無いということくらいか。

 

 

 

 

 このように私も、そこまでの理解を持てていない。最初は私にこうして監視されているせい、つまりストレスが原因かと思ったが、その線は薄そうだ。本心は伺い知れないが、私に意思表示をする時は至って普通だったように記憶している。加えて、もう三か月近くが経過するのだ。初期ならいざ知らず、そろそろ環境に慣れて来た頃合いだろう。…本心は、伺い知れないが。

 

(……彼女は、夢を見ているのか?)

 脳内の議題を変え、別の疑問に意識を集中させる。夢は夢でも、夜中にうなされるということは"悪夢"だろうか。…そうだとすれば、多少の不安がある。

 人外は「夢は夢」と割り切りのいい者が多いが、中には夢は何かしらの暗喩だと考える者もいる。近い未来、不快な出来事に遭遇するとか、そういう類のものだ。

 

『……』

 

 私はどちらかと言えば割り切りの良いタイプだが、仮にこれが何かの暗喩だったとすれば―――こう考えると、どこか不安に思う。良くないことが起きるから気を付けろ、と忠告されている気分になって、不安が増す。

『…寝るか』

 今考えても埒が明かないことを悟り、今日は寝ることに決めた。電子時計をみれば、もう日を跨いでいる。

(そもそも根拠が無いだろうに)

 所詮、確証も無いウワサのようなものだ。考えるだけ、無駄だ。そう言い聞かせてしまえば、全て終わりだ。

 

 

 

 布団を頭から被り、瞼を閉じる。明日も仕事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…――……―――……――…」

『……――全く…』

 

 念の為、念のため再び起き上がり、彼女の呼吸を確認してから――――

 

『………寝るか』

 今度こそ、床に就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女との生活が慣れて来たせいで忘れ掛けていたが、彼女は無理矢理人間側から採取されてきたタイプだったことを、今更になって思い出した。

 私は彼女がココにやって来るまでの経緯を知っている訳では無いが、無理強いされて連れ来られたことは、ほぼ確定と言える。―――細胞実験のテストに使われるということは、そういうことだろう。人間は人外と構造が似ているせいもあってか、実験には便利な道具と認識している者も少なくない。

 

 

 

 

 …そこで、だ。実験されていたということは、言い方を変えれば研究されていたということ。研究されていたのなら、何かしら資料があっても可笑しくない。寧ろ研究資料を作らないで実験を行うなんて話、ヤブでも無い限り聞いたことが無い。

 しかし研究資料なんて物、私には手に入れることが出来ない。私は研究者でも何でも無いのだ。ツテも――――無くは無いが、あまり使いたくは無い。

 

『―――あの、部長』

「ん、ああ、どうした?」

 

 そういう訳で、昼休みの時間を利用し、上司のデスクへと私は向かった。研究資料を手に入れたいのなら、この上司に頼み込むのが一番と言える。理由は簡単、彼が私と彼女を引き合わせた元凶だからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――要件を話したところ、何となく顔が曇った気がした。僅かながら、しかし確かな不快の色が見える。

「…あー…あの人間の資料……まぁ、一応持ってはいるよ」

 元々は俺の役目だし、と首筋を摩りながら上司が言う。面倒そうな顔と声をしてるのは言うまでもない。とはいえ、私より何百歳か上の筈だから"差別意識"があっても可笑しくは無い。古参の人外にはよく見られる傾向だ。

 人間とのいざこざがまだ根付いているのを実感させられる――――彼女と過ごす前の私なら、気にも留めなかっただろうが。

 

 

 慎重に、言葉を選ぶ。

『でしたら、少しの間だけ拝借できませんか』

「…あの人間に何かあったのか?」

 予め予想していた質問だ。何も聞かずに「はい」と渡してくれるような人外、見たことも聞いたことも無い。

 

 すぐさま口を開く。

『実は数点、"あの人間"について気になることがあって。…大したことでは無いんですが、ついでに境遇なども知れた方がこれから先、"楽"に過ごせそうですし』

 出来るだけ会話のテンポを速めに、次の質問をさせないように気を付ける。あまり長時間話していると、自分を"取り繕って"いられなくなりそうだ。

 このタイプと話す際、特に人間絡みの際は、人間を中心とした考えを抱いていること、これを悟られてはいけない。そうしなければ、彼女との関係性を妙な方向で勘ぐられるかもしれない。…そういう状況は、嘘の苦手な私では分が悪いのだ。だから"取り繕って"いられない。

 

 

 

 

 

 

『――――で…どう、でしょう。少しだけ拝借できますか』

 勢いに任せて説得を押し切った。心臓が高鳴っていることに気付いた。

 上司の目には、最初から最後まで疑問の光があった―――渋々といった様子だった――――が、頷いては貰えた。

「…俺としても、異常があると困るからな……面目立たないし、立場的にも…渡すべきだよな…」

『……?』

 

 妙な引っ掛かりを覚えた。視線が安定しておらず、その言葉自体、私に向けていて私に向けられたものではないような……そんな印象を目と声から感じた。

 

 

「じゃあ、帰りまでにまとめておくから。帰宅の時、デスクに来て」

『……』

「…どうした」

『……はい…すみません、ありがとうございます』

 一瞬、上の空だった自分を呼び戻し、頭を下げる。

 機嫌を損ねたかと表情を盗み見るが、既に彼の目は私を見ていなかった。

「…ん」

 返答も短く、足早にどこかへ去っていく。休憩時間はまだ残っているので、自販機にでも行くのだろうか。禁煙中という話を聞いていたので、喫煙室には行かないだろう。

 

 

 

 

 その姿を見送ってから、私もその場を去り、足早に廊下へ向かう。先程の発言が少し引っ掛かっていたが、別に気にするほどでもないと私も区切りをつけた。これから午後の分の仕事が始まる。余計なことを考えては、身が入らない。

(…全然禁煙できそうにないな)

 彼女の為に止めようと思っていた禁煙は、もう何度も三日坊主で終わっていた。そろそろ本気で始めるべきと言い聞かせて、何日経ったか。…ただし、今回ばかりは、散らかった脳内を片付ける為にも一服の必要があるだろう――――誰に向けるでもない言い訳をして、喫煙室への道を歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「個体情報は貰っていないから、俺が渡せるのはこの研究資料だけだから」

 差し出された青のファイルを頭を下げながら両手で受け取った。

 感謝を強調するべく、もう一度頭を下げる。

『ありがとうございます。出来るだけ、早めに返却します』

 仕事中、何故今の今までこの資料を渡してくれなかったかを考えたが、簡単に何か理由があったからだという結論で私は済ませた。

 彼女を私に預けた初日からずっと持っていたのだ。それには何か理由があったのだと私は踏んだ。だから帰宅後、重要点を急ぎ写すつもりだった。…予想がもし合っているのなら、いつ返せと言われても可笑しくない。

 

 

 

 

 

 

「…あー……いや、いい」

 ―――歯切れ悪くも彼がそう言ったのを聞き、一瞬上の空になった。

 

 

『………?』

 自然と眉が潜んだのを感じた。

 

「…いや、持ってていいから。ほら」

 ぐいっ、と胸へ押し付けられ、肩を叩かれた。

「監視が完全に終わるまで、返さなくていいから。だから、持っとけ」

『……』

 ならどうして初日に渡してくれなかったのかと問いただしたい所だが―――流石に上司に向かってヒラが言える言葉では無い。

 

 

 素直に感謝しておく。

『…すみません、ありがとございます』

「…ん」

 返答はやはり短い。

 既に帰宅準備は出来ていたのか、コートを羽織ると、直ぐに鞄を持って立ち去ろうとした…のだが、数歩進んだところで振り返り、口を開いた。

「あとソレ、本当に研究段階での資料だからな。…あの人間についての諸々は、載ってないからな……じゃ…お疲れ」

『…お疲れさま、でした』

 簡単な挨拶を交わし、私の声も殆ど聞かないまま、急ぎ足で去ってしまった。…様子からして、何か急ぎの用があったのかもしれない。

 

(少し悪いことをしたか……まぁ…いいか)

 簡単に疑問を片付け、手元の資料に目を移す。―――厚い表紙とは真逆に、資料本体はあまり多くはないらしい。

 しかし資料は資料だ。あまり部外者に見られるのも良くないと思い、急いでデスクに戻り、私物と共に鞄に突っ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 素早く挨拶を行い、部署から早足で出る。そして、玄関先まで来たところで鞄を開き、中を探り始める。勿論、目的は先ほどの資料だ。社内の玄関先で読むべきでないことは分かっているが、今日は常識より、好奇心が優先される日らしい。手を止めようとは思わなかった。

 早速表紙を捲って一ページ目。並べられた目次を、目で追っていく。

 

(行動から食事についてまで……意外と役立ちそうだ)

 

 日常生活には役立ちそうな内容だが、そこまで重要なことでは無い。今知りたいのはもっと別のものだ。

 引き続き、文字を追う。

(…これか?)

 目次のさらに下。そこの『重要項目』と太字で書かれた集団の中で、一つだけ、小さく赤丸がついているのを発見した。

(タイトルからして…合っていそうだ)

 題名の隣のページ数を確認し、パラパラと捲っていく。紙に皴が出来た気がしたが、そこまで気には留めなかった。

 

 

 

 

 

 ファイルの中を進んで行き、赤丸の項目に辿り着く。太字の題名の下に、なんとも微妙な量の記述があった。

(…研究資料なのに、この程度なのか?)

 若干の不満を覚えつつも、記述を読み進めていく。―――初めは項目の確認だけをと思っていたのだが、自分の"立場"的にも、その先が気になって仕方がなかった。

(前半だけ読んで…後は帰宅してからだ)

 自分に言い聞かせながら読み進める。いつもより眼の渇きが早いように感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――記述の前半だけを読み終わる。今はここで区切りとし、後は自宅で確認することにした。

 

 

 

 ファイルを鞄に入れながら外に出ると、空を仰ぐ。生憎、夜空は雲に覆われ、星は見えない。

 

 

『………良かった』

 独り言と溜め息が自然に零れた。―――両方とも、安堵から来るものだった。

 足を自宅へと向け歩き出す。日記用のノートとペンのことを思い出したが、それは明日以降に回すことに決めた。

 

 

 帰宅途中は、自分でも分かるくらいの"急ぎ足"になっていた

 

 

 

 

 



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彼女"の"問題 後編

百年近く生きてきて、自分の無力さも何度か感じてきた。

 百年近く生きてきて、様々な恐怖も何度か感じてきた。

 

 そしてその百年近くの歳月を、大体自分自身の為に使ってきた。生き残るために、殆どを自分にだけ、向けて来た。

 

 

 ―――だからしっぺ返しを喰らうんだ―――――

 

 

 

 

 そんな声が聞こえて来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目に痛みを覚えながらも資料を読み続け、一時間程度が経った。途中、休憩と称して淹れに行ったコーヒーも、カップの中では底をついていた。

 小さなメモ用紙に、掠れたペンを片手に、これから必要になるであろう情報を書き込んでいた。しかし、一枚一枚のメモ用紙には出来るだけ小さな文字で書いていたつもりが、既にメモ用紙まで底をつきそうだった。

 電話台に余りがあったかと、椅子を軽く引いた時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――声が聞こえた。

『!』

 急ぎ椅子を引いて立ち上がり、駆け足で寝室に向かう。ノブを回し、ドアを打ち破るようにして開けた。壁にドアが当たり大きな音がしたが、気にしている場合ではない。

 彼女の眠るベッドへ行き、様子を確認する。その間にも声は止まなかった。これが誰のモノなのか、私にはもう分かっている。

「―――ッ!っ、っ!」

 咳と嗚咽が酷く、止まらない――――ここまでの状態は初めて見る。今までは、僅かな呻き声だけで、しばらくすれば必ず収まっていた。

 寝室全体に響くほどの酷さだ。肺や喉に異常があるのかと疑ってしまうくらいだ。

 

 

 

 

 

『………』

 

 

 

 

「――ッ!!」

『…!』

 

 大きな咳の音で我に返る。そこで、一瞬意識が飛んでいたのを理解した。

 直ぐ、行動に移る。帰宅早々、予め考えておいた対策を実践するだけだ。実践するだけ。簡単だ。

(…そうだ、まずは……………――――…まず…は…………)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    ?   ?   ?

 

   ?   ?  ?  ?

 

 ?   ?   ?

 

        ?   

 

    ?    ?      ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……何をすれば………良かった…?)

 直前になって、"実際"に目の当たりにして、脳内が白く色褪せていくのを感じた。この状況をどう解決するか、既に、ある程度考えていた筈なのに――――

 

 

 

 

 

(…動けない)

 

 ようやく気付いた。頭では分かっている筈が、何かしら行動を起こさなくてはならない筈が、私の手は、体は、震えるだけで行動を起こせていないのだ。…久し振りだった。動きが鈍るほどの焦りに襲われるなんて、ここ数十年覚えがない。

 私が、こうして、傍観を決め込む合間にも、彼女の呻きは悲痛な響きを増していく。

 

 

 

 

 ――――唇に、酷い痛みが走った。

 

 

 

『……ッ…?……』

 口元を拭えば、ぬるりとした感触が伝わって来た。暗闇であまり見えないが、それが血液であることは疑いようが無い。

 無意識に唇を噛み続けていたらしい。…噛んでいたことも、痛みにも全く気付いていなかった。

(…助かった)

 しかし好都合だった。血の味は気持ち悪いが、痛みのショックのせいか御蔭か、緩慢ながらも体は動くようになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…よし』

 

 幸いにも、『戻って』からの私の行動は早かった。強く肩をゆさぶり、兎に角彼女を起こす。うなされていることは確かなのだから、このままにしておく訳にはいかない。

 何度か強く揺さぶり続けると、流石に彼女の目も開いた。―――小さな悲鳴と共に、勢いよく起き上がる。思わず手を引っ込めてしまった。

『…起きた……?』

 ひとまず起きた……ところまでは良い。――しかし、様子が妙だ。

「っ……っ…」

 彼女の目は、どこを見ているか分からない。息にも、荒いとまではいかないが、微かに震えが見える。

 

 

 

 

『……―――』

「―――!」

 

 そっと肩に触れてみたところ、腕で手を払われた。―――いや、払ったというより、衝動的に手を振り回した結果、という方が正しいか。

『……』

「…!……っ」

 一瞬、混乱した表情を見せたが、顔を直ぐに逸らす。顔を逸らしたかと思えば、今度は自分自身を覆いこむように両ひざを抱え、蹲ってしまった。震えも、まだ続いている。

 

 

『…』

 

 

 行き場の無くなった手をシーツに乗せる。外傷は無い……外傷は無い筈が、払われた手に"何処か"痛みを感じていた。それが、どうも不気味に感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『…………』

「…………」

『………―――』

 赤くなった目を冷やさせ、食卓の椅子に座らせた。―――それから何分経ったのだろうか。既に冷たさを失ったタオルが、時間の経過を物語っている。

 

 

 

 

 あれから五分程度の様子見の後、壁をノックして私を見せつけてから、居間に行かないかと誘いを掛けたのだ。壁をノックしたのは、手を払われた経緯から直接彼女に触れるのはタブーだと考えたからだ。下手に触った結果、状態を悪化させては危険だろう。

 

 

 

 兎に角、私の誘いに彼女が乗ってくれたのは幸いだった…が、空気は以前、重いままだ。時計の秒針の音が嫌によく聞こえる。

 こういった場合の対処法、それを知らないことが、尚更空気の悪化に拍車を掛けていた。…温かい飲み物でも渡そうと電子ポットに手を掛けたのも、つい先程のことだった。

 

 

 節電の為、食卓の電灯だけを点していた。あまり明るい光ではないせいか、彼女の顔にも暗い影が落ちている。…そのせいか、いつも以上に雰囲気が重く見えた。

 

 

(ここまでのものだったのか…)

 

 机に乗っている資料の中身を思い出す。確かに私は会社の玄関先で研究資料に目を通した。そして、一言『良かった』と言った。

(意味は、真逆だ)

 『良かった』、は決して異常が無かったからではない。―――"異常"が"あった"ことを、見つけることが出来たからだ。…もし今日、上司に資料の拝借を頼んでいなかったら、もっと対応が遅れていたかもしれない。だから、良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 資料はまず目次から始まっていた。好みの食物に関することから専門的なことに関してまで、十以上の項目が並んでいた。

 その中に、重要項目という太字があった。その下にも目次が並んでいたが、一つ、他のどんな目次よりも目立つ、赤丸で括られているモノを見つけた。

 重要項目の赤丸。そのページを探し出し、中を検めた。ページは『検体の睡眠時について』というタイトルから始まっていた。

 

 

 

 

 内容は、細胞実験を行ってから一週間の観察を続けた結果、他の人間とは異なる部分が見つかったというものだった。

 人間は人外と同じく個体差があるのは承知しているが、人間は人外よりも心も体も脆い存在らしい。強いストレスを感じると、夜、眠りが浅くなったり、頭痛を引き起こしたりと様々な症状が現れるとのことだ。人外にそれらの症状が現れたという話は、あまり聞かない。これには種族の違いも絡んでいるのだろう。…問題はここからだった。

 そこには就寝時、一度だけ酷くうなされていた、と綴られていた。それも嗚咽や息切れ、咳と本当にうなされている"だけ"かと疑いたくなる症状を確認していたらしい。その時は鎮静剤を使用して落ち着かせたようで、それ以降の発症は見られなかったようだ。責任者は最後、おそらく過去に何かしらのトラウマを抱えており、それが夢となって現れただけ、と結論付けていた。

 一応、症状の前兆らしきものが最後に並んでいた。就寝時、息切れ・咳・呻き声といったものが続くと、発症の確率が飛躍的に上がると"思われる"……そう、書いてあった。この思われる、という表現を持ち出したのは、まだ予想段階だからだろう。現に記録はここで終わっている。…しかしそれなら確定を導き出すまで、もっと観察を続けるべきだと思うのだが―――まぁ、そこには研究者側の事情が絡んでいるのかもしれない。だから詮索するつもりはない。

 当然のことながら、これについての明確な対策方法は書いてなかった。唯一書いてあったことは"目を覚まさせる"の一言。揺れ動かし、急いで目を覚まさせようとしたのはコレが理由だ。ネットの受け売りより、研究者の受け売りの方がまだ信頼性がある。―――この研究資料のせいで、少し胡散臭い気はしてきたが。

 

 

 

 

 

 

 電子ポットの音が鳴り、お湯が沸騰したことを知らせてくれた。

「…ッ……」

『……』

 予測は出来ていたが、電子メロディーが鳴った途端、彼女の肩が瞬間的に跳ねた。生物・無機物関係なく、様々なものに対する警戒が強まっているようだ。

(何かから護ろうとしている)

 寝室での自身を護るような様子からして予想はしていたが、的中してしまった。周りへの警戒が強まったのも、私の腕を払ったのも、膝を抱えて縮こまるのも、何かから"自分"を護ろうとしているような印象を受ける

 こうしている今も、心中穏やかでは無い筈だ。…飲み物も飲んでくれるか怪しい所だが、取りあえず出すだけ出しておくことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 さて、これからどうするかだが―――もしこのまま落ち着かないのであれば、一晩中でも付き合うつもりだった。明日は休日、それでいて用事も特にない。やることと言えば買い足し忘れたノートとペンの補充。

 何もすることが無い、というものに有難みを感じつつ、コーヒーの入ったカップを口元に運ぶ。当然、彼女の目の前にも一個用意してあるが、まだ飲めるような精神状態では無いだろう。別に余ったら余ったで、眠気覚ましの意味も兼ねて私が飲むから問題ない。

「……」

 虚ろな目をしている。いや、いつも明るい表情はしていないが、流石に平常時との違いは分かる。

 落ち着くまで時間が掛かりそうだと、気晴らしに机上の端に置かれた本を手に取った。タイトルは『人間語 日本語編【初級】』。…手持ち無沙汰のままでいるなら、時間を有効活用すべきだ。 

 

 

 

 

『――――』

 空気の気まずさに、単語の一つが口から零れてしまった。モールやコンビニでなら、誰にも聞こえないような、小さな呟きだ。

「…!」

『……あ』

 ぼそりという小さな呟きに、彼女の顔が上がる。僅かに口元が開き、目がいつもより開けている。―――モールやコンビニでなら気付かれないだろう。今のように、『音源が何一つ無い』。どちらもそんな状況が有り得ない場所なのだから。

 完全に聞こえてしまったらしい。それも彼女が扱う言語だ。かなり、聞き慣れている言葉の筈だ。

 やらかしたか…、と思ったが………そういう訳でも無さそうだった。何故?どうして?そんな表現が似合う顔を、彼女は見せている。

 

 

 

 

 試しにもう一度、同じ言葉を繰り返す。

『――――』

「……」

 ずっと、どうして、と言いたげな顔をしているので、持っている本を渡してみることにした。まだ手渡しも出来るか不安だったので、机に乗せて、押して渡した。私にはよく分からない言葉も、彼女なら理解できると思う。―――これは、彼女の言語なのだから。

「…」

 差し出された本を受け取り、早速開き始める。津々、とまでは行かないが、興味を持った目をしていた。

 様子見しながらコーヒーに口を付ける。時間が経ったせいか、冷めて飲みやすくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ピピッ、と置時計が小さく鳴った。今は午前一時。明日は、今日になってしまった。

 

(まだ見てる)

 

 それくらいの時間が経過したというのに、興味が尽きないのか、彼女は本を手放さなかった。もう、終わりにすら到達しかけている。…疑問なのだが、"コレ"に読むところなんてあるのだろうか。流石の私でも、この本が読書に適していないことくらいは分かる。なのに、飽きたと手放さないのが不思議だった。

(…懐かしいのかもしれない)

 愛国心とは違うのだろう。もっと適した言葉は"懐かしい"、だ。

 この世界に連れ込まれてから早三か月近く。その間、母国語なんて殆どどころか全くと言っていいほど見ていない筈だ。人間語自体が此方では全然浸透していないので、仕方ないことではあるが、辛いものがあるだろう。

 その分、今は存分に懐かしさに浸って貰って構わない。淹れたてだったコーヒーは既にぬるくなっているが、そんなことは大した問題では無いだろう。

 

 

 

 

 

 彼女の反応を見て、浮かれていたのか、深夜のせいなのか、妙なチャレンジ精神が生まれて来たらしい。

 

 

『――――』

 気付けば私の口からは、調子を心配する言葉が零れていた。……私達、人外の言語では無い。『彼女』の、つまりは"この本"の言語が、零れていた。

「!」

 俯いて読書中だった顔が上がる。目を微かに見開いていたが――――次の瞬間には、唇が微かに動き始めた。

(……どうした…のか…?)

 口元に手を当て、再び俯く。体調の悪化かと焦りが過ったが…次の瞬間、杞憂だったことを理解した。

 

 

 

 

 口元に当てた手が離れる――――もしかすると、私がコレを見るのは初めて、かもしれない。

 その口元に、微笑が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 呆然としている私の耳に、今度は声が伝わって来る。先程のような呻きでは無い。しっかりとした言葉、だ。

 

「…―ィ――ゥ―」

 

 彼女のぼそりとした呟きに、今度は私が目を見開いた。

 軽く身を乗り出し、集中して彼女の言葉に耳を傾ける。彼女から、声を出して話すことなんて、滅多に無い事だ。

 

『…?』

「…―イ―ョ―」

『…ダイジョー…ブ…?』

「―――」

 

 彼女が頷く。未だに、口元に笑みが浮かんでいる―――私の言葉はどこかが可笑しいのだろうか。つまり、今のは訂正授業、と言ったところか。

 

 

 

 

 

 

 

 飽きたのか、読み終わったのか、私に本を『手渡し』で返してきた。…その間も、笑みが消えることは無い。

 

(結構笑っているが……そんなに可笑しいか?)

 アクセントが変だったかと、少々恥ずかしく思いはしたが――――彼女の気分が少しでも好転したのなら、それでも良いとも思えた。例え彼女の目には間抜けに映っていても、今はそれで良い。

 現状を前向きにとらえる最中……ちょっとした提案が脳裏に浮上してきた。

(短い言葉は、彼女にも伝わったな…)

 伝わってはいた。可笑しな点はあっても、一応は伝わっていた。

 

 

 

(もしかすると、単語だけなら彼女にも伝わるかもしれない)

 文章は作れなくても、単語を並べれば意味だけは通じる可能性が浮上してきた。確か、文の構成自体は此方のモノと似ていると本に載っていた。試す価値はある。

『…んッ……』

 喉の調子を整えながら本を捲る。まずは、相手の調子を伺う言葉を――――

『……チョーシ……ドー?』

「…………」

『………』

「……―――」

『……』

「――…――…―――」

『…』

 

 可笑しいらしい、ではない。可笑しいのだ。私の扱う人間語は、どこかが可笑しいのだ。そうじゃなければ説明がつかない。彼女がここまで、微笑どころか、小さいながらも声まで上げて嗤うことに、説明がつかない。微かな笑み。それを見ていると、思わず頬が緩む。

 

(…ここまで彼女と一緒に居るのも、初めてか)

 

 空気が穏やかになっていくのを感じつつ、そんな感想を抱いた。食事の時を除き、面と向かい合い時間を共にする。そんな図、今までは考えたことも無かった。

 

 …こうしてしっかり面と向かって見ると、綺麗な顔形をしている。白、というより銀に近い髪。色素の薄い肌。顔も小さく、目も―――片目を除いて、綺麗だ。

 全て人外化の影響が進んでいるせいだ。…可哀想だが、ここまで進行が進んでいるのだ。元には、人間には戻れないと見て良いだろう。

 それに加え、彼女の元々居た世界にも帰れないと思われる。私も人外である以上、"向こう側"との行き来がかなり特別なモノであることは知っている。向こうと此方を行き来する方法すら、殆ど表沙汰にはならない。仮説は多くとも、本当のところは誰にも分からないのだ。―――この"世界"の重役ポジションにでも居なければ。

 私のような一般市民には、知る由も無い。彼女もそうだ。だから、もしこのまま人外化が順調に進んだとしても、彼女は一生を"ここで"過ごすことになるだろう。

 

 

(そう、ここで――――――ここで?……?)

 

 

 …何かの違和感を感じたが、クシャミの音で現実に引き戻された。

「………」

『毛布、取って来る』

 伝わる筈の無い言葉に、彼女が頷いた。…何となく、大体の感覚で伝わっているのかもしれない。

 ソファに掛けてあった毛布を手に取る。

 

(……?…さっき…何考えてた…?)

 

 彼女のクシャミの衝撃か、脳内で考えていた何かを忘れてしまった。もう、すっかり空っぽだ。

 

 

(…ま、いいか)

 忘れたということは、全く持って大したことでは無いということだ。

 切り替え良く、毛布を持って食卓に向けて歩き出す。彼女と目線がかち合ったが、特に目を逸らす気にはならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恐怖が薄れて来たのか、ずっと座っていた彼女の行動範囲は広がっていた。ソファ前のテーブルに置いたままの漫画雑誌を、こうしてここに持って来れるくらいには、恐怖は薄れているらしい。

 

 彼女は漫画を見たり、私は言葉を学んだりしている内に、彼女が欠伸をした。

「――……――」

 手を口元に当てているが、それでも分かるくらい、結構大きい欠伸だ。

 眠そうに目を擦る。そろそろ、彼女は限界が来ているらしい。私はコーヒーを何杯か飲んでいる御蔭か、眠気はまだまだ遠そうだった。

 机を指先で叩いて気付かせ、寝室を指さす。寝たいかどうかの意思確認だ。

「…――」

『…分かった』

 顔が曇らせ、首を振る。縦ではなく、横に、だ。

 眠りたくないのは、また夢を見るかもしれないからか。または、"寝室"そのものが嫌なのか。真意はまだ、測れない。まだ、測れない。

 どちらにせよ、私に出来るのは待つことだけだ。…後、根本的な改善案も考えなくてはならないか。

 明日、軽い仮眠を取ってから、再度資料を見直すことにする。今、この場で資料を開くのは気が進まない。検体番号のようなものも書かれているのだ。彼女が自分に振られた番号を知っているのなら、それだけで感づかれるかもしれない。自分のことが載っているモノなんて、見られたくないだろう。

 

 

 

『………』

「……――――…っ!」

『………』

「…――――……っ…!……―――」

(…いや、無理がある)

 さらに数十分経った結果、もう限界を迎えていた。―――彼女の方が。

 

「……―――」

 漫画を持ちながら、何度もカクンとなる度に驚いている。軽く十回はこの調子だ。

 冷めてしまったコーヒーを一気飲みしていたが、そんな直ぐに効果が出る訳が無い。

「…―――」

 遂に漫画がバタンと机に倒れた。

(……頑張った方か?)

 時計を確認すれば三時半過ぎ。彼女は元学生。徹夜には慣れていないだろう。

 肩を強めに揺らせば、薄目を開けて反応した。寝るにしても寝ないにしても、このまま椅子に座らせたままには出来ない。

『…移動』

「…………」

『……』

「……」

 ソファを指でさし、移動するよう促すが――――動くのは無理、と言いたげな顔だ。

 肩を竦めたが、仕方ないので運ぶことに決めた。まだ半人外だ。調子を崩されても困る。

 左手を背の後ろに滑り込ませ、右手を膝裏に付け、持ち上げる。こんな抱き抱え方、しかも仮とは言え、同族にするなんて何時ぶりか。

「…――……―――」

 呼吸も、今は落ち着いている。ついでにテストではないが、これで寝室が駄目なのかどうか、確かめられるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女を座らせ、隣で様子を見る。もう私が触れても大丈夫そうだ。

 ウトウトしているので、もう直ぐにでも眠ることだろう。私はそれを見届けたら、食卓に戻るつもりだ。眠気はすっかり覚めている。

「……――――」

『おっ…――』

 いきなり衝撃が来たので驚いたが、原因が彼女によるものだと知って安心した。衝撃の理由は、結局眠気には勝てず、バタっと寝転んだせいだ。

 

 何秒か呼吸を確かめてから、音を立てないように立ち上がる――――

(………?)

 立ち上がれなかった。腰のあたりを、何かに引っ張られていた。

 

 

 

 裾が引っ掛かったのかと思って確認すれば―――――服の裾を彼女に掴まれていた。…それも、結構な力で。

 一度座り直して取ろうとしたものの、

 

(……取れないな)

 

 無理だった。全然、取れないくらい、強く握られていた。

 本当に、いくら引っ張っても取れないのがその証拠だ。握りしめた手を剥がそうともしたが……起きかけたので止めた。

 

 力の強さ的にも寝ているのかどうか疑うが、可笑しな点は特にない。何かしらの異常も見えず、熟睡している。

 そこそこ多く裾を掴まれているせいで、自由がまったく効かない。ソファを背に寝ることは出来るが、動けない状況だ。

 どうにかならないかと考えを巡らせるが、裾を切り取る、思い切り引っ張るの二択しか思い浮かばなかったので、諦めた。諦めも肝心だ。

 

 

 暇つぶしに、唯一ポケットに入っていた携帯電話を取り出す。バッテリーは半分程度にまで落ちているが、どうにかなると思う。

 時間を利用し、携帯だが今日の分の日記をメモしておくことにした。ノートに書くのは、行動が全て自由になってからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれからも手が離れる気配は全くなかったので、結局私も眠ってしまった。現時刻は十一時を回ったところ。夜はすっかり明けていた。

 

 

『…冷蔵庫の中身も買い足してくるか』 

 少々早めの昼食準備に取り掛かるべく、台所に立っていた。彼女は、ソファで私の教材を読んでいる。やはり興味はあるらしい。

 最終的に、彼女が起きるまで私は自由にはなれなかった。彼女が起きてから、ようやく服の裾は解放された。…一晩中握られていたせいで、皴だらけになっていたが。

 

 

(なにはともあれ…良かったと言うべきか…)

 無事、あの発作が起きることも無く、一夜を過ごすことが出来た。寝室がやはり危険だったのか、それとも悪夢のせいだったのか、今となっては分からない。

 発作については、これからも探る必要性がありそうだ。また同じことが起きないとも限らない。…その時が来るまでに、出来る限りの対策案を講じる。今のところ、それが第一目標だ。

 

 

 

 

 

 

 

【 今、彼女を守れるのは私しかいないのだ 】

 

 

 

 

 

 

 

 

(……やっぱり、何処か妙だ) 

 

 毛布を取りに行った時もそうだったが、何かが妙だ。何か、上手く言えない、奇妙さがある。

(………別にいいか)

 だが、前例同様、楽観的に考えることにした。そんなこと気にしている暇があるなら、案の一つや二つ生み出せという話だ。

 

 

 

 鍋を火にかけ、水が沸騰するまで待つ。その間、手持ち無沙汰になったので、何となくごわついた裾を撫でていた。この皴が、深夜の出来事を思い出させてくる。

 色々と頭に残るものばかりだったが、特に印象的だったのは、彼女が微笑を見せてくれたことだろうか。

 

 読書中の彼女を盗み見る。本に集中しているせいか、私の目線には気づいていないようだった。基本無表情なせいで、あの笑みが強く印象に残っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 また見れるだろうか――――そう思うと、笑みが無意識に零れる。

 

 

 

 

 

 

 



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理解 1

 

 

 

「え、今日も行かないんですか?」

 バツの悪そうな顔で、彼は頷く。

『……ん、行かない』

「…………"また"言えない用事ですか…?」

 目線を逸らし、どう返す迷う姿に少し申し訳なくなった。意地の悪い質問の仕方だとは自覚しているが、最近ずっとこの調子なのだ。自分を正当化するようで嫌な感じだが、気になるのも仕方がないことだ。

『…―――………』

 しばらくの無言が続く。部署内の目線が私たちに向けられている気配がするが、目を逸らさない。

『…悪い、早く帰らないといけないから』

「え、あ、あ――――………―――…」

 

 

 

 ―――目を逸らさないことで真剣さを演出しようとしたが、彼にとって、それは全く持って無意味なものだったらしい。止めようとしたが、どうしようもなかった。―――私の呼び止める声に、振り向きもしなかったのが証拠だ。

「…………」

 結局理由も答えては貰えず、素早く、逃げるようにして部署から去って行く。

 残された私に出来るのは、その背中を、ただ見送るだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ…―――さん、今回もパスか」

「…みたい」

 傍で聞いていた人外の言葉に返事を返す。…溜め息が出る。

 

 

 

(…最近、全然来てくれなくなった)

 

 今日、部署内で飲み会でもしないかという話が出て来たので、一体の人外を私は誘った。…それが、先程去っていった彼だ。

 黒白の反転した目。驚くほど白い肌。灰色の髪に長身の人外だ。容姿は――――どちらかというと、人間寄りの人外だ。"ある意味"、希少な人外と呼ばれている。

 

「……――」

 そんなことはさて置き、最近の彼の付き合いが悪いことの方が私にとって問題だった。元々そこまで社交的では無かったが、最低限、そういった集まりには出席している。…が、ここ何ヶ月かはどんな人外から誘われても断りが多く、仮に来ても長居はせず、自分の分の勘定を払ってさっさと帰ってしまうようになった。正直、一部の人外はあまり良い顔をしていないのが現状だ。

 

 そこで、少し妙なのは、部長とある人外だけは、そんなに気に留めていない、ということ。今までの様子から判断して、部長の方とは何か縁があるらしく、人外の方は彼の昔からの友人らしい。事情を知っているのか、会に来ていないことに対し、気にする様子は無かった。少なくとも私は気にかけている姿を見たことが無い。

 だからといって交友関係が冷めているという訳でも無いらしい。友人とは何度か喫煙室で、部長とは廊下で話し込んでいる姿を何度か確認している。

 

 

 

(…前はもっと付き合い良かったのに)

 

 

「―――で、何度目だ?」

 横から馬鹿にしたような茶々が入る。

「…なにが」

 何を聞かれているのかは分かっているが、一応聞き返す。

「踏み込んでって撃沈された回数のことだよ」

 

 

 肩を竦める。

「…両手両足足しても足りないかも」

 今日何度目かの溜め息が出る。同僚の方は薄ら笑みを浮かべ、楽し気な様子だ。

「よくそこまで粘れるな。俺だったらもう諦めつけて、他探してる」

「………」

 "粘れた"とは、あれだ、アピールのことだ。…世間一般でいう『私を見て欲しい』という、アピールのことだった。こうして彼を必ず誘うのも、基本、会では彼の隣に座るのも、"そういうこと"だ。

 

 

 

「……なんで毎回毎回、タイミング悪いんだろ」

 

 愚痴るようにして出た言葉に、彼が反応してくれる。

「タイミングが悪いんじゃなくて、そもそもそのタイミングが無いってのが問題だろ」

「…タイミングが無いってどういうこと」

 彼が何を言っているのか理解できず問いかければ、知らなかったのか、と言いたげに眼を大きく開いた。

 

「ほら、人間の女と暮らしてるんだよ。"検体"、なんだってさ」

 

 

「……検体?」

 

 

 

 

 

 

 ―――――検体。何かしらの実験を受けた被験者のこと――――普段、日常的に、少なくとも私が使うことは無い単語だ。

 

「…検体………なんで――――さんが、そんなのと……?」

 検体という単語も気になるが、どちらかというと何故彼がそんな"もの"と暮らしているのか。それが気になった。

 人間と同棲していることは知らなかったが、どうやら彼の方は結構深いところまで知っていそうだ。直接聞いたのか、風のウワサと言う奴なのか。

 

 

「部長の頼みだってさ。多分、自分じゃ世話出来ないって思ったから任せたんじゃないのか。見た目若いけど、昔の人外だからな」

 昔とは、人間と人外の差別化が激しかった時期、という意味だ。その時期に生まれた、もしくはその風習を当たり前と思って過ごしてきた人外。それが丁度、部長の世代なのだ。今では随分と待遇も良くなってきたようだが、偏見の目はまだ各地に存在するのも確かだ。

(…別に、人間なんてどうでもいいけど)

 特にこの問題について詳しい訳では無い。今まで生きて来た何十年間の中で、ある時ふと知ったことだ。私にとって人間など、植物のようなものだ。植物は生物の一つだが、草木の思いを知ろうとする者などあまりいないだろう。そういうことだ

 

 

 ―――しかし今回ばかりは疑問だった。これまで"彼"が人間に対して特別な考えを持っていそうな素振りなど、見たことが無かったからだ。彼が飲み会の誘いを放棄し、その人間の元に向かう理由が良く分からない。

 それは検体人間の監視係だからなのか。情が生まれたせいなのか。はたまたペットのように思っているからだろうか。………それとも、少なくとも私にとって、『最悪』とも言える関係性を持っているからなのか。

 

 

 

 

「…でも、どうして――――ただの会社員が監視なんて……」

 こう言うのも何だが、彼はごく普通の会社員だ。仕事は真面目にそつなくこなせしているが、特に目立った"何か"を持っていそうにも無い。だから、不思議だった。

 疑問符だらけの私と真逆に、友人は呆気らかんとした様子で言葉を返す。

 

 

 

「理由?そりゃ本来は研究所か何かで記録つけられるのが当たり前だろうけど、なんか色々あるみたいだぞ。…大方、普通の生活に慣れさせる実験とかじゃないか?」

「……そっか」

 検体というからには、何かしら目的があって実験を受けた存在の筈だ。もし、その実験内容が生活と強く結びついているものだとすれば、別段、可笑しなことではない。…ただ、私が気になるのは――――

 

 

 

 

「…本来は、部長が監視役だったんでしょ。なんで―――さんに……?」

 どうして彼が監視担当になっているのか、ということだ。話を聞くに、本当は部長が世話役だったようだ。…なのに、何故彼が代役を担っているのか。そこか妙だ。

 首を傾げながらも、友人はどうにか予想を撃ち出してくれた。

「任せた理由?…そりゃ、面倒くさいからだろ。部長の交友関係って結構広いらしいからな。友人に厄介ごとを押し付けられたから、たまたま暇そうな―――さんに任せたってだけだろ。…………それか、容姿とか、かもな?」

「………容姿?」

 

 気になる言葉に、眉を顰める。

 

「―――さんって、どっちかというと『純系』の人外の顔じゃないだろ。どっちかというと人間寄りだから"検体"も接しやすい、とか考えたのかもなってこと」

 似た顔なら安心感も増すだろうと付け加える。一応、納得した。…が、

「…部長がそこまで考えてると思う?」

 どうもそこまでの考えを持って行動するとは思えなかった。部長は……頭が固く、先があまり見えていない人外だと、よく噂されている。

「さぁ?俺は分からん。当然、あくまで可能性の話だから、本当はもっと深い理由があるかもしれないけど―――――…それよりも、さっさと準備した方がよくないか」

 時計を見て彼が言う。予約時間まで、後一時間程度しかない。

 

「…うん」

 小さく返事して、デスクの上の片付けに移る。横目で部署の出口を見るが、彼は居ない。

 

 

(……―――)

 

 気に喰わない――――そんな、苛立ちを覚えた。苛立ちの矛先は……言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの酷いうなされ方をこの目で見てから早六日。今のところ、再発の兆候は出ていない。…こんな短期間に連続して来られれば、たまったものでは無い。いくら人外でも、何日も寝ないでいると体にも異常をきたす。

『……――』

 嘆息と共に、手元のファイルから目を遠ざける。当然だが、この六日間、何もしていなかった訳が無い。予想段階ではあるものの、いくつかの仮説は資料との併用で生み出せていた。

 

 資料では、酷い状態に陥る少し前、軽い呻き声や苦し気な様子を確認している。思い返せば、六日より前にも、夜中に軽くうなされていることはあった。症状も一致している。

 簡単な話、彼女があの状態に陥る前には、何かしら"合図"のようなものがある――――私はそう考えている。

(…私の考えだからな)

 私はあくまで普通の会社員。専門家ではないし、まだ発症数がたったの二回ということもあって、予想の範疇は抜け出せない。が、似た事例が過去にある以上、可能性は大きいと見ている。―――今日で休日も終わる。それまでに、こうして可能性だけでも提示できて良かった。

 

 

 しかし―――もし、当てが外れた場合の対策を容姿しておかなければならない。うなされ始めたら直ぐ起こす、兆候が見られた時には徹夜してみる―――の、二つは考えついたものの、一つ目は兎も角二つ目は最終手段という奴だ。"合図"が現れたとして、何度目で『ああいったこと』になるのかまだまだ分からない。三日程度なら兎も角、いくらなんでもそれ以上は体がもたない。連日徹夜続きになれば、彼女より先に、私の方が駄目になる。

 

 だから、今日もこうして対策を考えている。つい先日まで平日だったので碌な策を思いつけなかった分、今日で遅れを取り戻す必要がある。『タイムリミット』が分からない以上、行動を起こすのが早すぎる、ということはない。しばらくは、言語の勉強も中断の必要があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……遅いな)

 再度資料から目を離し、時計を見る。現時刻は朝八時を回ったところ。…いつもなら、とっくに彼女が起床してくる時間帯だった。

『………』

 様子を見に行こうと立ち上がる。平日も休日も、大体七時半から八時の間に彼女は起床してくる。日記にも書いてあることだ、間違いない。…今日は、"いつも"とは違うようだ。

 珍しいこともあるものだと思い、寝室前に立つ。――――念の為、ドアをノックする。着替え中に誤って入ってしまうと、どうも気まずい空気に支配されるから嫌だ。一度、反省して以降、ノックだけは徹底するようにしていた。

 

 

 

 

 

『…………』

 返事が、ない。

『……?…』

 確かに中に居る筈が、返答が無い。

 

 

『…聞こえてる?』

 もう一度ノックしてみたが、何も返ってこない。

(……何かあったか?)

 まさか、と最悪のケースが浮上してきた。例の、発作に近い何かが出て来たのかもしれない、という可能性だ。

 こんなに早く?とどこか信じきれない部分があるが、まだあの発作については分からない部分が大半を占めている状況なのだ。有り得ない、と断言は出来ない。

 

 

 

『……』

 ドアを、ゆっくりと開けながら、中に侵入する。――――――彼女は、ベッドの上に居た。

『…――』

 妙なざわつきが収まる。問題無さそうだ。現に、こうして起き上がって、前かがみで私の方をじっと見てくる。

 

 

 

 

 

 

(……前かがみ…)

 ただ、様子が、おかしい。遠目からだが顔色は暗く、どことなく、体調も悪そうだ。平常時も元気一杯には程遠い彼女だが、今日は特に気だるそうに見える。

「……―」

 背中をさらに曲げ、腹部を守るようにして抱えている。…間違いなく、体調が良好ではないようだ。

 足を進める。大丈夫そうなら覗き見だけで済ませるつもりだったが、彼女には色々と"前例"がある。野放しにしておく訳には行かなかった。

 

 

『…なにか異常でも?』

 そう言って近づく――――が、何故か布団を身体に掛け直し、隠してしまった。

 

 目線がかち合う。

『……』

「……」

 目線が逸らされる。

 

 

『…――』

 

 

 一体どうしたのかと近づけば、今度は後ずさるようにしてベッドの端に行ってしまう。枕の落ちた音がしたが、どうやら気付いていないようだ。

 それほど慌てるようなことがあったのか、歩きながら思考錯誤してみるものの、結局分からないまま彼女の元へと向かう。

「…―――」

(…失禁でもしたか?)

 そこまで子供ではないと思うが、人間には強い恐怖などを受けると自然と失禁してしまうケースが確認されているらしいので、無いとは言い切れない。…声は聞こえなかったが、また"悪夢"を見たのかもしれない。

 だとしたら、直ぐにシーツを取り換える必要がある。少し、急ぎ足になる。

 

 

「―――」

 …しかし、首を振って彼女が拒んでくるので、足を止めてしまった。

(……本当にシーツ、やらかしたか?)

 私のあの予想が的中しているとしたら……それは、かなり彼女にとって、恥ずかしいことだ。こうして私を遠ざける理由にも、納得がいく。

 とはいっても、それならそれで早いところ洗濯しなくてはならない―――――様々な理由も相まって、右往左往してしまう。

『………?』

 目線を色々な場所に飛ばす中……布団の、ある部分に目が止まる。

『………赤い、シミ……』

 赤いシミが点々としていた。絵具…な筈は無い。ここにそんなもの、置いていない。

 

 

 

 

 

 ―――流石に形振り構ってられず、急いで彼女の元へ向かう。

「!」

 案の定彼女の抵抗を感じたが、片手間で押さえつけながらシミを確かめる。…確かに、血液だ。大きな変色もないので、時間はそんなに経っていないらしい。

(腹部か?胸か…腕?…)

 一体どこからの出血なのか――――それを探ろうと、布団を捲ろうとした。

「っ―――ッ…」

『……見せて』

 やはり、抵抗してきた。布団を押さえつけ、捲られるのを阻止しようとしてくる。

(そんな場合じゃないだろうに…)

 何故出血を隠そうとするのか理解に苦しみ、軽く布団をはぎ取る。まだまだ人外には成りかけの彼女が、腕力で私に勝てる筈も無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …ただ、妙な印象があった。

 

 

(力が弱すぎる)

 

 純粋な力の差があることは知っていたが、それにしても弱すぎる気がした。まるで、其方に割けるほどの力が無いような…そんな印象だ。

(…顔も、赤い)

 息切れをしながら、頬を真っ赤に染めて私を見てくる。なんだか、とても気まずいというような表情だ。

 

 

 

 

 本当にどうしたのかと思いながら、布団の下を見ていく。血液らしきそれは、ズボン付近に――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……――』

 

 布団を元に戻すと、大きく、一歩大きく後退して目を逸らす。…もう、色々な意味で直視できなくなっていた。

 結論から言えば、出血している部分を見つけることは出来た。同時に、出血の理由まで、理解した。理解、してしまった。

『………』

 自分の察しのなさに思わず呆れる。シーツについている血。……それ以上に、ズボンに付着している血。両方とも、ある箇所から出ている、仕方のない流血だったのだ。

 

 

(…私と同じように、考えるべきじゃなかった)

 気まずい思いで彼女に視線を移せば、恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。原因が分かった今では、この表情の意味も理解できる。

(……やらかした)

 気付かれないように溜め息をつく。―――彼女のコレは……どうしようもない現象だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 …――――生理の日だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かなり焦ったものの、どうにか応急処置は施した。―――といっても、慌てているのは私の方で、彼女の方が冷静だった。…何度も経験していることなので、慣れが出るのも当然かもしれない。

 兎に角、まずは着替えと濡れティッシュ等を用意し、血のついていない私の布団と交換し、飛び出すようにして家を出て来た。応急処置の隙に、用品を買いに行くためだった。家からコンビニもドラッグストアも近いことに、今日は特に感謝した。

(気付くのが遅かった…)

 彼女が生理中と思われる姿を、私は今日まで見ていない。生理用品は無いが、自分で工夫してどうにかしていたのだろう。これでも監視者だ。私が気付くべき、用件だった。

 責任は私にある。人間の生理と人外の生理の違い、それを失念していた。――――帰ったら、また蓄えるべき知識が増えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……で…どれを買えば…?)

 そして現在、生理用品棚の前。……そこで立ち尽くしたまま、どれくらい時間が経っただろうか。

 携帯で時刻を確認しても、入店した時の時間が分からないので、つまり、意味が無い。完全に焦りが染み出ていた。

 

 時間が無いと言うのに、本当に意味の無いことをやってしまった。そんな暇があれば、店員にでも聞くべきだが……男性が"そういったこと"を聞くのは、どうしても抵抗がある。加えてこの店、男性店員が殆どいない。辺り見渡しても、女性店員しかいない。聞けるだろうか?『一体どんなものが女性にとって良いんですか?』と。

(一歩間違えばセクハラだ)

 そうなれば最悪、面倒な事態を引き起こすかもしれない。それは、マズイことだ。…だからといって、何も買わずに帰宅は出来ない。今の彼女に、これ以上の負担を掛け続ける訳にはいかない。

 

 

 

 

 

 どうするべきかどうすればいいのか――――――そうやって悩んでいる時のことだった。

 

 

 

「あれ、――――さん」 

『…!』

 名前を呼ばれ、反射的に振り返る。そこには私服の女が一体、目を丸くして立っていた。見覚えが、あった。

「何してるんです…?」

『…………』

 確かに、知っている顔だ。会社の、同じ部署の、後輩だった。妙なものを見るような顔で、そこに立っていた。

 

(…言い訳が必要だろうか?)

 

 生理用品片手に、そんなこと思う私が居た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…ありがとう。助かった』

「いえ、大丈夫です…」

 簡単なお礼を言えば、向こうも簡単な返答を返してくれた。

 

(取りあえず、良かった)

 あの後、私が言い訳をする前に察したらしく、何が良いのかを、案内して貰えた。既に私が人間と暮らしていることは社内で広まっているようなので、私が生理用品棚に居たことから察してくれたのだ。

 女性に直接聞くのは抵抗があったので、何がオススメなのか、気前よく教えてくれて助かった。あのまま立ち往生していたら、もっと時間が掛かったかもしれない。有難いことだった。

 

 

 

 

 ―――あまり時間が無いこともあって、急ぎ帰ることにする。用件は済んだ。早く帰らないといけない。

『それじゃあ、また会社で』

「え、あ……―――さん」

 早足で踵を返したのだが、引き留められる。

『…なにか?』

 時間が無いんだと逸る気持ちを抑えつつ、何事も無かったかのように振り返る。案内については本当に有難かったが、今の私に悠長にいられるほどの余裕はない。

「………――……あの…」

『…』

 その微妙な間すら、今では腹立たしく感じる。器が狭いと言われてもいい。余裕が無いのだ。

 

 

(…さっさと言ってくれ)

 心中、徐々に荒れ始めていた。元々沸点が浅い性質なので、このままだと頭に血が上ってしまいそうだ。…そうなると、世間体が悪くなりそうなのでちょっと困るのだ。

「……それ、監視対象の人間用ですよね?」

『そうだけど』

「………」

 

 

 再び間が生まれる。だから何だというのか。

 

 

 

「…なんで……人間に、そこまで手を掛けてるんですか」

『……』

 私の無言も気にせず、続けていく。

「…――さん、最近会社の付き合いが悪いって話も出て来ていて………それって、人間に構っている時間が多いせいじゃないんですか…?」

『………まぁ…確かに…』

 

 自分の時間を彼女に割いているのは事実だ。否定はできない。

 後輩は続ける。

「何かの実験の検体、なんですよね?だからそうやって……生理用品とかまで、買ってあげるんですか?」

『………』

 首周りを指で引っ掻く。別に虫刺されがある訳じゃないが、こんなことでもしないと間が持ちそうに無かった。

 嫌に真っ直ぐな瞳で見つめてくる分、タチが悪い。適当に流しても、あれやこれやと追及されそうだ。

(それに…言葉キツイな)

 プラス、先程から話を聞くに、言葉の節々に鋭い部分があるのが分かる。まぁ人間に風当たりが強いのは、決して老年の人外だけでは無い。若年の人外にも、そういった思想を持つ者は当然いる。この後輩の声も、気のせいかいつもより力が入っている気がした。

 

 

 

(…私が言える立場でも無いか)

 だが、この発言に対し、真っ向から人間を弁護する言葉を返すことは――――私には出来ない。私も彼女と出会うまで、全く持って人間というワードにすら興味の無かった類だ。あまり、そういった意見に文句を言える立場ではないだろう。―――私的な事情もあり、形容し難い気持ちがあるのも事実だが。

 

『………―――』 

 

 ただ、助けて貰った相手に何も返さないのもどうかと思うので……一言、今現在、思うところを吐き出しておきたいと思う。こちらの事情とは全く関係がないが、そこまで余計なことを言わなければ問題は無い…はずだ。こういった話は、他に言いふらしたりはしないだろう。ある意味、信用している。

『………』

 軽く嘆息して、しっかり向き直る。……思えば、こうして面と向かって話すことも、久しぶりな気がする。物理的に、ではない。精神的な距離の話だ。

 

 

 

 

 

『……私は―――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僅かな緊張感を抱きつつも、水を流すように言葉は吐き出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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理解 2

 

 

 

 

 帰宅後は直ぐ彼女の元に向かい、買ってきた物すべて、袋ごと手渡してきた。そして現在の居場所は洗面台。彼女が生理の『諸々』を終えるまで、彼女の寝間着のシミ抜きに専念する。彼女の着替えについては、取りあえず私の寝間着を使って貰っている。今、彼女用の寝間着は、全て生乾き状態でハンガーに掛かっているからだ。

『やっとけば良かった…』

 休日だからと溜め込んだ家事を片付けたのが、裏目に出た。こんなことになるなら、平日に終わらせておくべきだっただろう。

『…別にいいか』

 宥めるような、言い訳のような発言が零れた。…まぁ、実際問題、そこまで大きな問題でもない。私のは体格的に少し大きめだが、それは上手く調整すればいいだけのこと。何よりも、彼女に大きな問題が発生しなくて良かった。――――だから、別にいい。

 

 

 

 

 

 ―――余計なことを考えていれば、いつの間にかそこそこ時間が経っていた。手元のズボンのシミも、随分と薄くなってきた。下着は……新しいのを買った方がいいかもしれない。

 一応後で洗濯方法を調べてみるが、無理そうならまた買ってくるまでだ。――――それに、そろそろ本格的に『世界』を広げる時だ。丁度いいだろう。

 

 

 

 

 

 そろそろ諸々が終わったころだと踏み、水を止めて寝室に向かう。まだシーツの洗濯が残っている。…大変そうだが、やるしかない。

 ノック後入室すれば、予想通り事は終わっていた。

「……―…――…」

 顔は青く、辛そうなのは変わらない。

『―――』

「…――」

 隣に腰かけ、朝食が食べれるか聞いたが――――案の定、首は横に振られた。…これも、予想は出来ていた。私だってこの状態で食欲なんて湧きそうにない。

 ベッド横の台に目をやれば、パック型のゼリーが数個置かれていた。生理用品と共に、私が渡した物だった。明らかに食欲が無いことは予測できたので、ゼリー系統なら食べれるかと、ストアで買ってきたのだ。…結果は、これだ。多分、一口も口をつけていない。

 仕方ないか、と諦めをつける。あと、シーツの回収も今は諦めた。動くのも今は困難そうだ。

(シーツは……取り返し付かなくなったら、私のと取り換えよう…)

 勿論しっかり洗濯してからだ。人間は今くらいの歳で思春期を迎えるらしい。だから、なんでも洗濯するよう心掛けている。

 

 彼女の場合、なんでも慎重過ぎると言うことは無い。…私は監視者、彼女は監視対象。気を使いすぎるくらいで、いい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…………』

 眠る彼女の髪を手に取った。何週間か前までは、毛先にいくにつれて茶色だった髪も、今はどれもが完全に白色。元から白かった肌も透き通るような白色に変化した。眼球の色相反転については左目で止まっているが、これも時間の問題だろう。

 人外化の進み具合について、私は眼球と髪の色素で判断していた。眼球については両目の白黒が反転した状態、髪については白髪になった状態。…簡単に言ってしまえば、私と似た容姿になった時が、人外化に成功したというサインだ。

 

(……皮肉だな)

 自分を基準にしていることに、自嘲する。人外だが、人間に近いこの容姿。ある意味貴重と言われたこの容姿。それに今、彼女が変化する基準として助けられている。

 昔はまったく好ましく思わなかったものに、感謝する日が来るとは思わなかった。もし見た目からして明らかな『人外』だったなら、人間との違いが明白過ぎて、彼女との関係性が今より冷え切っていた可能性もある。……ずっと嫌っていたモノに助けられる。こういうのを、皮肉な話というのだろう。複雑な気分だ。

 

『進行は、順調、と…』

 

 髪を離しベッドに落とす。こうしてまじまじと彼女を見るのも久しぶりだ。当初は監視者としても名目上、"それらしい"こともやっていたが、慣れのせいか、今ではそこまでのことはしていない。…これはこれで監視する側としては問題だが、ストレスを与えて体調を崩される方が問題だ。

(君の場合、普通じゃないし)

 彼女は人外の細胞を移植された人間だと聞いている。…実を言うと、珍しい話でも無い。人外の欲しい技術を、実際に携わっている人間から導入するため。長命なペットを手に入れる為。理由は様々だ。

 物凄く大きな違いのある存在では無いため、実験体にするのは道徳的に問題があるという意見も当然あった。しかし、最終的にどうなったかは語るまでも無い。現状が、彼女の存在が、結果を物語っている。

 

 兎に角、そんなこんなで彼女は普通の人外と同じように考えられる存在ではない。長命なのか、人間と同じ短命なのかも、全く分からない。先のことが分かるのは専門家だけだ。素人には知る由もない。

 

 

 

 

 

 ――――それでも、思うことが無い訳でも無い。改めて今回の件を思い起こしていくと、一つ、非常に大きな心配が出てきた。これまでは殆ど気に留めていなかったことだ。

 

(いや、生理自体は良いことだが)

 

 それ自体に問題は無い。生理が来ているということは、子供を作るための準備が出来てきているということ。それどころか、彼女の年齢的にはもう子供を作ることは可能だったと記憶している。……ただ、彼女の生理が無駄に終わる可能性があった。それだけが、心配だった。

(普通じゃないからな…)

 人外の細胞を埋め込まれて出来たのが、今の彼女だ。生殖機能に何かしらの不具合が生じている可能性は否定できない。現に私は彼女が生理で苦しむ姿を、今日まで見たことが無かった。

 生理周期はストレスを強く受けると遅くなるというが、人間にしても人外にしても、周期が長すぎるように思う。…それは、最悪の可能性も考えられるということ。

 

 

『…………』

 息苦しさを覚える。女性にとって幸せの形は数あれど、子供という存在が私の幸せだ、と言う者も少なくない。彼女の意思はまだ分からないが、もしそう思っていたとしたら――――

『……―――』

 気付かれないよう、溜め息を押し込みながら吐く。色々が頭に浮かんでは消えていく。

(…もし、いつか子供を欲しがったら……)

 このまま順調に彼女が人外と化し、いつか誰かと婚約を結び、そして子を彼女が欲したとき――――最悪の可能性が現実のものとなったとき―――――彼女は、どんな思いを抱くだろうか。

 私達―――いや、私は彼女に酷く恨まれるかもしれない。人間から人外に変えた主犯が私でなくとも、私はその"主犯"と同じ、人外なのだ。我々に家畜の違いが分からないのと同じだ。彼女たち人間も、人外の違いなんて分からないだろう。

 

 

 

(………居間に戻るか)

 

 

 彼女の寝息を確認し、寝室を後にしようと――――――私が腰を上げたところで、再び彼女の両目が開けた。

『ぁ……』

「………――…」

 開けた、というより開けてしまった、の方が正しいか。

(…起きた……いや、起こしたのか……)

 殆ど物音は立てていないつもりだったが……現に彼女の目はしっかりと開き、私をこうして見つめてくる。…悪いことをした、という罪悪感が残った。

 尚更この場に居るべきでないと判断し、素早く部屋を出ようとしたところ、『何か』に身体を強く引かれた。

 

 

 

 

『…まだ、何か?』

 引っ張られたのは、袖を掴まれていたせいだと分かった。弱っていると思えないほど、中々に強い力で引かれていた。

 袖を離すよう、その手の上に私の手を添えた。直に触ると、体温も低いように思えた。

「…――」

 しかし彼女は横になったまま頷いただけで、手を離そうとはしなかった。…頷きについては肯定の意味の頷きなので、何かしら用があるらしかった。

 黙って要望を聞くことにした。何かして欲しいことがあるのなら、それを叶えてやるのが私の務めだろう。この状況、多少の面倒や苦労程度では、苦に感じない。

 

 

 

『………』

 

「………」

 

『……――』

 

「………」

 

『………』

 

「…………………」

 

 

『………???』

 

 

 

 何が欲しいのかずっと様子を伺うものの―――――………何故か、一向に何をしたいのか、示さない。目を閉じ、力を抜き…しかし私の袖は握ったまま、眠りにつこうとしている。空腹感がある訳でもないようだ。

 彼女は私の袖をこうして握っているだけで、何も催促してこない。どうしてか、分からない。

 

 

 結局最後まで何も要求しないまま、再度眠りについてしまった。

(結局、何だったのか……)

 理解に苦しむまま、彼女の寝顔を見つめる。眠っている以上、体の力も抜けている筈なのだが――――袖を掴む方の手だけは、全く抜けていなかった。寧ろ、先程運んだ時よりも強く握られている。

 

 

(……最近はよく服を引かれるな…)

 袖を掴まれたことで思い出したが、あの悪夢にうなされていた日も、こうして服を掴まれていた。あの時は服の裾だったが、今回は袖を引かれている。デジャビュではなく、本当にあったことだ。

 この二つの件についての共通点は、両方とも、彼女が大変な思いをしているということだけ。動機がよく分からない。

『…――』

 聞こえないよう、気付かれないよう溜め息をついた。何が何だか分からないまま、時間が過ぎていくのを見守るばかり。彼女の内側は、思っていたより大変そうだ。

 袖は握られたままで私の自由はほぼ無いが、こんな日があってもいいかと妥協する。私も今の彼女から離れるのには不安が残るし、彼女も………彼女、も――――――――

 

 

 

 

(………――――心、細い…)

 

 

 

 どこか、つっかえていた何か―――――それが 『ストン』 と落ちた。

『…………』

 顔を覗き込むように見る。安らかに、落ち着いて眠る彼女の顔色は、幾分かよくなっていた。辛げな表情や色は今のところ見られない。

 

(心、細い…?)

 この状況に対する、唐突に浮かんできた回答―――――だが、そう考えると合点がいくというものだ。痛い、しんどい、辛い。これらが一斉に襲ってきた時、当然、誰しもが不安になる。死ぬことは無い、そう分かっていても、不安感は拭えない。

 あの悪夢の時は恐怖、今回の生理は不安。どちらもマイナスに働く感情で、どちらも苦痛も伴っている。前者は精神、後者は物理的な苦痛だ。

 

 

(…ぁー……そうか…)

 

 彼女は、心細いのだ。だから、誰でもいいから、近くにいて欲しいのだ。自分に何かあった時、直ぐに気付き、対応してくれるような存在が欲しいのだ。

『………そりゃそうか』

 常に大人しいので普通より大人びて見える彼女だが、実質まだ十代の後半。成人すらしていない。―――他者に甘えたいと思っていても、不思議なことでは無い。

 起こさないよう、優しく頭に手を添える。指の腹で頭を撫でれば、どことなく寝顔に柔らかみが増した。

 

 

『…これじゃあ、私が親みたいだ』

 

 口の端が僅かに歪む。笑みは笑みでも、純粋な笑顔では無いことは、鏡を見なくとも分かる。今の私の顔には、酷く自嘲的な苦笑いが浮かんでいることだろう。

 今日は何とも皮肉めいた事が重なる日だ。嫌いだったものを基準にしたり、嫌いだったものに助けられたり―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『………お休み』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――親を知らない人外が、自分を親に例えたりするのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部署へと続く階段を上る。色々と疲れの溜まった休日だったが、今日から長い一週間が始まるのだ。辛いだなんだと言ってる暇は、無い。

(…なんにせよ、問題は解決したし)

 無事に彼女の生理も終わり、特に大きな異常も見られなかった。昨日の晩には食欲も多少は出て来ていたので、そこまでの心配は無いと見ていい。心中が、改めて穏やかになるのを感じる。

 

 やがて、部署の入り口が見えて来た。

(………じゃ、切り替えよう…)

 これから先はスイッチを切り変えなくてはならない。流石に仕事中にも彼女のことを考えている訳には行かない。上司に「踏み込み過ぎだ」と言われるのが目に見えている。

『…そういえば』

 彼女関連で思い出したが、昨日会った後輩にも、最近私に妙な印象を抱いている者が多いと言われている。友人にも言われたが、踏み込み過ぎない意識を強く持つべきかもしれない。

 私が人間と同棲していることを、既に皆が知っている可能性も高い。…それによる、偏見の目がそろそろ生まれてきても可笑しくは無い。他の者から好かれたいとは思っていないが、かなり嫌われたくも無いのだ。我ながら、面倒くさい男だと思う。

 

(…変な目に遭わなきゃいいけど)

 

 小さく嘆息しながら階段を上り切り、部署内に足を踏み入れる。すれ違う人外にもいつものように挨拶を交わし、いつもの定位置へと足を進める――――筈だった。

 

 

 

 

 

 

 ―――部署の空気に違和感があった。

 

 

 

(…私か?)

 この部署に居る人外の多くは無機物との配合系(例えば蝋燭が頭部になっている者など)が多いが、それでも目線のようなものは感じ取れる。顔を逸らすような動きまで見せられれば、殆ど確定と言えるだろう。

 朝の挨拶をしても、返答は来るが、どこかぎこちない。私が道を歩く度、近くの人外が椅子ごと身を引いたり、机に寄り掛かったりして私から遠ざかろうとする。

 

 

 デスクに到着し、一日の準備を行う間も視線は感じる。顔を素早く上げれば、真正面の人外が目を逸らした。……酷く居心地が悪い。

 一体何があったのかと思いながらも、ファイルを取り出すべく、引き出しを開け――――

『…?』

 ―――ようとしたのだが、何故か全く動かない。

 かみ合わせが可笑しいのかと色々試してみるが、何も改善しない。酷く硬く、まるで固定されているかのように動かないのだ。

「…おい」

 修理も頭に置きつつ様々な方法を試す途中のことだ。耳元で、覚えのある声がした。

 

『?…どうした?』

 

 声の方向に振り向けば、そこには見慣れた蝋燭の友人が立っていた。珍しいもので、いつもその顔に浮かんでいる笑みが収められていた。

 何かあったのか―――そう聞こうとする前に、先に口を開かれた。

「…一旦、こっちに来い」

 指で廊下を指すと、直ぐ踵を返して行ってしまう。ここで気付いたが、何故か大きなゴミ袋を持っていた。

『……分かった』

 妙な予感は感じつつ、取りあえず付いて行くことに決めた。やけに静かで落ち着いた声色だが、有無を言わせないような迫力があり、素直に従うしかなかった。どうしてなのか、という疑問もあったが、それすら躊躇われるような状態だった。

 早足の友人に追いつこうと、私も急ぐ。その間も、背中に視線の感触は止まなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喫煙室の近くまで来ると、ようやく足が止まった。

『…で、何か用事、あるのか?』

 ずっと気になっていたことを問いかけるが、

「………」

 どうして、反応が返ってこない。

『?』

 私が困惑する間も、友人の口元にはいつもどおりの笑みが宿らない。それがさらに私を困惑させる。

 

 軽口も叩きづらくなって視線をさまよわせていると、首を傾げたくなるものが目に入ってきた。話の繋ぎに出来るものなら、取りあえず何でもいい。

『…その袋は?』

 それはずっと友人の持っていたゴミ袋だ。中にはシュレッダーの残骸と思われる、大量の紙が入っている。

 

『シュレッダーで出たゴミか』

 ゴミ捨て当番なのかと問えば、首を横に振られた。

「違う、ゴミじゃない。もっと大事なものだよ」

『…ならどうしてゴミ袋に入ってる』

「大きめの袋っていうのがコレしか無かったんだよ――――今はそんなのどうでもいい。お前に、言っておかないといけないことがある」

 珍しく、いつもの不敵な笑みを収めている。…その顔が、この質問の真剣さを雄弁に語っていた。彼のヘラヘラとした笑みが収められる時、それは決まって真剣な状況下の時だ。

 

「………」

『………何』

「…――」 

 黙ってゴミ袋を差し出され、中身を見るよう促される。…妙な気分に襲われつつも、素直に従うことにした。これでこの微妙な空気の理由がわかるなら、それでいいと思ったからだ。

 

 

 

 

 しゃがんで袋の中を弄り、鷲掴みにして取り上げる。大量の紙屑だ。

『……ん……これ…なんかの書類か』

 紙屑の内、取り出した殆どの物に、パソコンで打ち込んだとみられる文書があった。企画書らしきもの、報告書のようなものまで種別はまちまちだ。

(やっぱりゴミだろ)

 ただのゴミだと改めて思い直し、眼前に立っている友人の顔を伺うが――――その顔に、まだ笑みは無い。

『……なんだ』

「…………」

『…おい』

「………その取った紙屑、よく見てみろ」

 一旦私が床へと置いたゴミを指す。…ますます意味が分からない。

『……どういうことだよ』

 流石に不安感が生まれ、戸惑いつつゴミを再び手に取った。そして、絡まっている紙の内、一枚を取って見定める。よく見ろと言われたので、しっかりと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…――――…………そういう、こと、なのか……?』

 

 

 理由が、分かった。この手にある紙切れに、その理由が張り付けられていた。何故、どうして彼がここまで笑みを収めて話しかけて来たのか、合点がようやく、いった。

 

『……』

 

 再三、紙の確認を取る。まだ、僅かばかり信じ切れていない部分があるからだ。

「…お前のことだからそんな恨みを買うようなことはしてないと思うけど……厄介なことには変わりない」

 見覚えのある筆跡に、見覚えのある書類―――――他の紙屑も、同様だ。先はシュレッダーの残骸かと思ったが、違うということも分かった。

 

(―――全部、引き千切られている…)

 明らかにシュレッダーにかけたものとは違った。それぞれの紙の寸断状態が疎ら過ぎる。

 友人を見る。顔は笑っていない。それが冗談や遊びでないことを雄弁に語っている。

 

『…冗談じゃ、ないんだな?』

「……」

 居心地悪そうにしながら、首を縦に振られた。…横であって欲しかったが、残念だ。

「…誰がやったか、分かっていない。朝、最初に出勤してきた奴が見つけたんだ。…監視カメラもこの会社、経費削減で玄関と廊下にしか取り付けられていないからな。部署内に無いせいで、今のところ誰がやったのか分からない」

『………』

「朝一番に来た奴が一番怪しいかもしれないが、ソイツ、俺の直ぐ目の前歩いていたからな。ソイツが部署に入って少ししたら、かなり驚愕って感じの声が聞こえて来た。俺も急いで入ったら、これが散らばってたんだよ。だからソイツじゃないとは思うが―――――」

 友人の声もあまり耳に伝わってこない。まだ信じ難く、奥の紙屑を無作為に取り出す。…やはり、見覚えがある。

 

「デスク自体はこれほど荒れていなかったが、ファイルの中身の殆どがこんな状態で床に散らばっていた。ファイル自体は重ねてデスクに放置だった。…ハサミや刃物を使ったようには見えない。力任せに引き千切ってるだろ」

 私の予想と同じ、故意的なものだと考えているようだ。いや、逆にこの結論にすら至れないようでは目が節穴過ぎるというものだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めての経験に動揺はしたが、落ち着きは取り戻したと見たらしく、念を押すような声が頭上から聞こえて来た。

「……一応、確認するぞ。…見覚え、あるよな?」

『…――』

 真剣な声色に、深く、深く頷いて答える。

「………ただの嫌がらせか?」

『……それなら大した問題じゃないが――――』

 袋の紙切れを見つめる。バラバラに分解されたそれ等の内―――――数枚に、私の名が入っている。

 

 

 

 

 

『間違いなく……………私の書類だ』

 

 

 ゴミ袋の中身は―――――私の扱っていた書類。そして、それ等すべてが引き千切られた、後の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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理解 3

 

 

 友人は昔から自分の境遇を甘んじて受け入れることが多かった。傍から見ても結構大変な目に遭っているが、文句は言っても、後が面倒だからと反抗しない。見ていて歯痒い想いを何度しただろうか。

 だから、代わりに友人自身ではなく、その周りが行動を起こしてきた。徒党を組んでいた頃も、集まってきた批判に対し、自分や周りが動くばかりだった。――――友人が動かなかったことについて、嫌だった訳では無い。それで自分たちは納得していた。納得したうえで行動していた。納得したから行動していた。

 今回も友人が被害者となった。不味いことだ。今、彼を助けることが出来るのは、自分しかいない。直ぐに動けるのは自分しかいないのだ。既に昔の集まりは彼自身が解散させてしまった。大半が今どこにいるのか分からない。

 

 こうして自分が"動く"のは、今回がそういう"時"だから、だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日、私のデスクが荒らされた。…正確には、私の取り扱っていた書類だけが、細切れにされた。

 パソコン等の会社の物品は壊されていない。だが、ファイリングしていた書類だけは、全てバラバラにされた。なのに椅子は、デスクそのものには、全く異常無いことが返って気味悪い。

 

 …簡単にまとめてしまえば、まぁ、よくある嫌がらせだ。かなり昔にも同じようなことがあったので、私自身は全く気にしていない。慣れている。―――私自身は、慣れている。

 問題は蝋燭の友人と上司だ。部署内の空気もどこか不気味で、今はコレで済んでいるが、もしかするとエスカレートの可能性もあるということで、有給休暇を取るように進められた。

 私は特に気にしていないので別にいいと言ったが、友人は納得せず、上司もついでに有休消費してくるようにとしつこいので、渋々休暇を取らせて貰った。一日だけと前置きしたので、明日には普通に出勤する。

 

 

 

 

 ――――以上が今に至る経過なのだが……

 

 

『心配性すぎるだろうに…』

 

 自然に小声で文句出る。どうしても、口から無意識に零れる程度には、不満があった。ただ嫌がらせを受けただけで、どうしてこの程度で、有休消費なんてしなくてはならないのか分からない。

 上司の意向だから従ったが、もしそう言われなければ普通に出勤していた。…あくまで上司の意向だから従っただけで、不満はある。もう百年は生きているというのに、その程度のことで打倒されると思っているのだろうか。

 

 

 嘆息して椅子から立つ。資料を見ても本を読んでも勉強しても、どうにも落ち着かない。

『…どうする、かな』

 何かしら大事な用事がある時を除き、有休を消費することなんて今まで殆どなかった。だから、こういった時、何をしたらいいのか分からない。

(全部終わらせたからな…)

 午前中に溜まった洗濯や掃除は終わらせてしまった。昼食も済ませた。

「――…」

 彼女も暇を持て余しているらしく、読書しながらソファでゴロゴロするばかり。―――早朝、私がずっと家にいることに疑問を覚えていた様子だったが、有給消費中、もしくは祝日なのだと納得してくれたらしい。既に疑問は抱いてなさそうだ。

 

 

 

 

 

 

『……暇…』

 大きな欠伸を出す。中途半端な休みほど、扱いに困る物はない。そもそも有休は基本、旅行に行くなどする時に週末と繋ぎ合わせて使うものだろう。

『………外、出るか』

 あまりにも暇すぎるので外出を提示する。特に物に困ってはいないが、この際仕方ない。暇つぶしにはなるだろう。

 

 

 

 そう思い、財布の中身を確認する―――――――瞬間、何かが落ちた衝撃と音に、体が跳ねた。

『ッ!………』

「―――…」

『…………キミ、か…』

 音の方向を見て、安心した。音源は彼女だった。床に数冊の本が落ちているので、それによるものだろう。

 問題無くて何より、と再度財布を覗き込む。――――そこで、思った。どうせこのタイミングで外に出るなら、と、ついでに、と思うことがあった。

 外出自体に変わりは無いが、私だけではない。私だけで行動するのではなく――――彼女も含めた外出を考えた。

 

 

 今までは"諸々の事情"で私も必要時以外は外出しないようにしていたが、彼女の場合は私以上に大変だったろう。彼女が行った勝手な外出以降、私は外に出ることそのものを禁じていた。――――だが、"今なら"色々と都合がいい。ツキが回って来ている。

『……ぅん』

 今日は平日。社会に出ているなら、仕事の筈だ。どこへ行っても、休日ほど人外の数は多くないと思われる。―――そこがねらい目であり、一番幸運な点だった。

 これまで彼女を外に出さなかったのは、もし逸れた場合に安全を保障できない可能性がある、という部分が大きい為だった。彼女には複数の人外に襲われかけた前例がある。幾分か安定してきたとはいえ、そういった人外が現れる程度には、この街の治安は悪かった。

 

 

 正直まだ迷いはあるが――――

(………そろそろ、出してあげるべきか)

 もう、既に数か月が経った。いくら何でも、ずっと室内生活は辛い筈。暇つぶしの材料は読書や絵画程度。仮に私が彼女なら、再びこっそりと抜け出そうとするだろう。

 しかし、彼女はアレ以来、勝手に出歩いたことは無い。それは私の監視のせいで出歩けないのか、出歩きたくなくなってしまったのか。そこのところ、判別がまだつかない。――――後者だとすれば、それは不味いことだ

 

 

 もし、もしもの話だが、私が何らかの事情で彼女の前から消えることになった時、外の世界を知らなかったら一大事だ。大事に巻き込まれる可能性は否定できない。

『…………そうだよな…』

 改めて考えると………迷う必要も無かった。外に連れ出すこと自体も問題ない。彼女に対する待遇については、私に一任されている。誰にも文句を言われる筋合いはない。

 

 

『―――よし』

 

 メモ帳とペンを取り、そこに一言、言葉を綴る。その隣には人間語の教材。…模範文章だが、その方が確実に伝わるだろう。格好は付かなくとも、浅い知識で書いた文章では、勘違いを与えかねない。この方が確実だった。

 内容自体は本当に簡素なものにする。綴るのは『 私と一緒に出かけませんか 』程度のものだ。

 

 

 

『……――』

 途中まで書いたところで、一旦ペンを置き、財布の紐を解いて持ち金を確認する。出かけた先で「金が無いので何も出来ません」では話にならないだろう。

 

『…ん…大丈夫か…』

 十分、十二分、趣味に回す貯蓄がある。足りなくてもカードがある。折角の機会だ。出来る限り楽しんで貰わないと、意味が無い。何も知らない彼女は、クッション抱き枕に本を読んでいる。

 ペンを持ち再開する。いつもより、ペン先に力が入るのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――― ――――――――――――― ―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この辺一帯が半都会といった有様なため、数分歩くだけで色々な物が目に映る。噴水、公園、ビル―――そんなものが一度に目に入って来る。

『…――』

 最近外出も近くのスーパーやコンビニばかりだったこともあって、私もどこか新鮮な気分だ。初めて見るものではないというのに不思議と新鮮に映る。

「――――」

『……』

 勿論、彼女から目を離したりは、しない。景色を二割、彼女を八割の割合で観察する。すれ違う人外自体は少ないが、好奇の目を向けてくる者も少なくない。…彼女がそれに気づいているかは知らないが、私は私でいつも以上に気を配る必要がある。何が起こるか分からないのがこの世界だ。

 

 

「――…――」

 私の数歩先を歩く彼女は、何度も振り返りつつ、あちこちへ目線を向け、人外の街について情報を得ているところだ。周りを見渡すたび、ヒラヒラとスカートが揺れ動いている。

(……アレ、私の買ってきた服か)

 結構初期に適当に買ってきたセットだった。実際に着ている姿は見たこと無かったが、こうして外出時に着ているのだ。そこそこ気に入っているらしい。

 いつも似たような服が多いので、こういった物は新鮮に映る。服だけではない。彼女の様子、気分、雰囲気にもどこか変化が見えつつある。

 

 

 ―――そうなると、それなりに私としては思うところがある。

(…感謝、しないと)

 出る前は文句や不満ばかりだったが、友人と上司の御蔭で普段できないようなことがこうして出来ている。結果的には良い方向に進んでいるのだ。意図的ではなくとも素直に感謝すべきだろう。

 少し離れた場所に職場のビルが見える。今頃他の社員は仕事の真っ最中の筈…どうしても多少は罪悪感が消えないことに、苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正解かどうか知らないが、とりあえずデパートに入ることに決めた。動機は単純、買い物・食事、何でも出来るからだ。彼女が『新』社会に突入するのには十分な舞台だ。

 

 

 まずは本人の意思確認として、行きたい場所は無いか案内板で尋ねたところ、本のマークがある場所を指された。普段読書時間が多いのは、てっきり本以外の娯楽が無い故と思っていたが、それ以前に、素で読書自体は好きだったらしい。

 

(まぁ…人間語対応の奴なんて殆ど無いけど…)

 

 問題は人外の本をわざわざ人間語、しかも彼女の国の言語に直した本がこの世にどれほどあるかだ。仮にこれまで生まれて来たすべての本を百とする。この二つの条件に合う本は、五冊あるかどうか――――そんなレベルだ。

 

「………」

 ただ、彼女は特に気に留めていないのか、今もこうして私たちの言語の本を立ち読みしている。その手にあるのは雑誌。先程は絵画の本だったので、文字よりも絵を見ているようだ。

(…そりゃ…当然だよな)

 文字が読めない以上、本は絵で楽しむしかない。優先も何もないだろう。

 彼女を視界の隅に置きつつ、此方も此方で適当な本を探してみる。雑誌コーナーに私たち以外の者はいないせいで、立ち読みが非常に目立つ。傍を通った店員が不満そうな目をしていたが、今回は無視させて貰う。私も身内が可愛いのだ。

 

 結局眼前に置いてあった週刊誌を取る。別に愛読はしていない。そこにあったから読む。私にとっては、それだけの"価値"だった

 

 

 

 雑誌を適当にパラパラ捲っていく。時計、ファッション、ゴシップ、短編官能小説、……大して興味も引かれない。

 ワイシャツを羽織ったヌードモデルがラスト――――珍しく、そこに目を引かれた。ここに関しては、僅かながら興味が出た。…疚しい意味合いでの興味じゃない。もっと純粋でマシな興味だ。

 

 好みだった訳でもない。別にスタイルに興味があった訳でもない。

 その容姿に、純粋な興味があった。

『…………同じ…』

 種族自体は特に珍しくもない、爬虫類系の人外だ。…しかし亜系なのが可哀想だ。人外らしき箇所は手や首筋に鱗が見える程度で、私のような人間と大差ない容姿。

『……―――』

 隣に気付かれないよう嘆息する。必ず、少なくない苦労を乗り越えて来たことだろう。――――ソースは私だ。不幸自慢する訳では無いが、私もかつて面倒な目に遭わされた経験がある。

 

 

 

 

『―――?―――――ぅお……ッ』

「――――」

 

 いつの間にか私から約ゼロ距離近くに彼女が居た。…近づいてきただけで、特に用は無いらしい。私の驚きの声には耳も傾けず、じぃっと手元を見つめてくるだけで動こうとしない。

 何を見てるのか?と同じように手元を見れば―――――そこにはワイシャツだけのヌードモデル。

 

『…マセてるな』

「っ」

 軽く前頭部を押さえつけ、長い前髪で視界を覆う。十代後半。"そういったこと"に対して興味があって可笑しくない。そういう兆しが見えて来ても、可笑しくはない。

(ノックは…徹底するか)

 ただその点に関しては気を付けるべきだ。ネットや本に書いてあったが、もし"そういった時"に出くわしたら―――――これまで構築してきた関係が一気に崩れかねないらしい。『その辺』については、人外も人間も同じなのだろう。

 

(私が、気を付けないと)

 

 想いを新たにしつつ、雑誌を元の位置に戻す。表紙が見えないよう、裏返しに。

 頭を押さえていた手を離せば―――――不満気な顔で見つめられた。

 

 

 



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理解 4

 彼女が欲しそうに見ていた本を五冊程度買い、片手に提げる。彼女の手にはパンフレット。

 折角の外出と言うこともあって、出来る限り長めに見て回ることにした。彼女自身もそれを望んでいるようだし、今後こういった機会は少なくなるかもしれない。なら今のうちに精一杯楽しませてあげるべきだろう。

 ここの案内パンフレットを食い入るように彼女は見ている。歩きながらは危険なのだが――――――まぁ、今回は大目に見ようと思う。その代わり私が慎重になればいい。

 

 ――――――とは言うが、正直にいうと、会社のことが頭から離れない。いや、嫌がらせの件ではない、そっちはどうでもいい。それよりも目先の問題があった。

 

(…出張時はどうするかな)

 

 近々出張の予定が入っている。おそらく三日程度。…彼女が心配だった。

 彼女が家事できる出来ないに関わらず、何かあっては危ない。もし泥棒にでも入られたら、よからぬことを考える輩がいたらどうする。その場に居合わせたならいざ知らず、不在時では流石に守りきれない。かといって出張先に連れて行くわけにもいかない。

 さてどうするか―――――そう思って彼女を見れば、案の定柱にぶつかりかけていた。

 

『危ないって』

 

 腕の裾を引いて気付かせた。何をするのか、と言いたげなので前を指させば納得した。…早速これだ。先程慎重になると決めたばかりなのに、もう目を離してしまった。でも、悩みは尽きないのだ。

 何かいい方法はないか考えた結果、そのまま裾を掴んで歩くことに決めた。

 困惑する彼女に歩き出すよう急かす。妙な顔をしつつも歩き出した。

 

 これなら、いざという場合にもすぐに引けば対応できる―――――――手の方がいいかもしれないが、それはアレだ。何となく提案しにくい。

 

 そのままエスカレーターに乗る。下まで降りたらまた歩く。その間も裾は離さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 服屋、二度目の本屋、ゲームショップ。色々なところに立ち寄ったが、本以外には大した興味を示さなかった。特に服屋には興味が全くなかった。振りとかそういうのも無しに、まったく。…まぁその辺りは人外と人間のセンスの差かもしれない。

 

(人外の服は合わないのか?)

 

 とはいえ人外の服と人間の服に大した違いは無い筈だ。……多分、本当に興味がないのだろう。着れればいいという思考。私と同じだ。元来こんな性格だったのだろうか。

 

(実験で変わったのかもしれない)

 

 血液を総入れ替えすると輸血の提供者の記憶が乗り移ったり性格が移ることがあるらしい。彼女の場合は細胞の合成だ。思考そのものに変化が及んでいても不思議ではない。

 目の前で、彼女は何を探しているのか、周りを見渡している。まだ黒の混じった白髪は、徐々に、しかし確かな"進行"を教えてくれる。

 

 ……そう言えば、ふと気になった。

(彼女の実験担当者に一度も会ったことがない)

 私が置かれている状況は屋外実験の責任者のようなものだが、担当者は心配では無いのだろうか。私は何もかもが素人。彼女に関して何か失敗を起こさないという保証はない。コンタクト自体は部長を通せば取れるかもしれないが――――ー。

 もしくは、

 

(素人だからこそ、なのか?)

 

 という可能性もある。何も知らない素人だからこそ、実験には最適だったりするかもしれない。

 

『よく分からない…』

 

 思わず呟く。彼女は周りに夢中で、私の声には気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 両手が結構な荷物で塞がる。そのうち八割がたは本であり、残り二割はついでにと買った食品だ。

 辺りはすっかり暗く、もう夜の九時が近い。最低でも半日以上はデパートにいた計算になる。私の有給はもうすぐ終わる。

 

(価値はあったけど)

 

 有給一日分。その分の価値はあった。寧ろそれ以上の価値かもしれない。

 彼女の表情のパターンは一日中豊富だった。困った顔、迷っている顔、選んでいる顔、決めた顔――――――色々なものを見ることができた。きっとストレス解消にもなった筈。

 いいこと尽くめな一日だった―――――中々の気分で夜道を歩く。

 

 

 

 噴水近くを通った時、急に前を歩いていた彼女が立ち止まった。

『……なにかあったのかい?』

 声を掛ければ振り向き、私に向かって歩いてくる。何の用なのかさっぱりわからない。

 目の前に立つ。その目は少し右往左往していて、落ち着きがない。手を後ろに、気まずそうな空気を出している。

 とりあえず何かを言い出しそうなので待っていると、

 

 

 

「―――――――」

 

 

 

 いきなり何かを言われた。

 

 

『………あ』

 

 しばらく呆気に取られていたが、意味は伝わった。彼女が目を逸らす。気まずい、というよりは、気恥ずかしいようだ。

 

(お礼か)

 【ありがとう】――――確か、そういう意味の言葉だった。つまり今日一日、出かけたことについての言葉だ。

 

『……ドーいたしまして?』

 

 練習がてら彼女と同じ言葉で返してみる。…多分、伝わったと思う。まだ違和感は抜けないが、日常会話程度ならもうできる。

「――…」

(笑ってる)

 まだ発音が変なのか、彼女はほんの少し笑っている。なんだか大人びて見えた。それは服のせいか、ただの光の加減か。

 

 どちらにせよ、悪い気分ではない。それだけは確かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よー」

 家に辿り着いたところで、聞き覚えのある影が玄関先に見えた。頭の炎が風で揺れている。

 彼女が、私の後ろに下がる。

 

 

『…いきなり……どうした?』

 

 

 影の正体は蝋燭頭の友人だった。私に向かってひらひらと手を動かして見せる。

「いや、残業終わったから、ついでに寄ってみた。お前の方は……なんだ、しっかり休めたか」

 私の荷物を見てそう言った。

『楽しかったさ』

「それなら良かったな―――――――で、そっちが"検体"か」

 

 顎で私の後ろを指す。背を引かれる力が強くなる。

 

『……まぁ』

 私を盾に彼女は隠れている。慣れないのだろう。当然だと思う。彼女は私以外の人外を"見た"ことはあっても"話した"経験は全くない。それは雲泥の差。

『…取りあえず、入れ』

「悪いな」

『構わないさ』

 ついでに寄ってみた、なんて言ってるが、きっと何かあったのだ。そうでなければ、こうして外でずっと待ってるなんて真似、するとは思えない。ついでに有給についてのお礼を言っておきたい。

 

 玄関に向かって歩き出す。ぐいぐい裾を引かれて歩きにくかった。

 

 

 

 



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理解 5

 

 

「それじゃあ邪魔するぞ」

 

『わかったわかった』

 

 靴を並べ、先にリビングへと進んで行く。私もその後に続く。

 

『………』

 

「……」

 

 彼女に背を引かれてるせいで酷く靴が脱ぎにくい。…振りほどくような真似は流石にしない。人外慣れができていない状態で彼のようなタイプの人外と会わせるのは――――少し早いかもしれなかった。

 

 

 

(…あまり悠長なことも言ってられないか)

 

 

 

 しかしそろそろ人外の姿形にも慣れていくべきかもしれない。私のような人間寄りの人外はそこまで多くない。友人のような姿もいれば、殆ど獣に近い者もいる。少しずつ、徐々にでも慣らしていくべきだろう。いつまでこうして過ごせるかも、分からないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪いな。コーヒーまで貰って」

 

『流石に何も出さない訳にはいかないだろう』

 

 

 

 早速友人はカップに手をつける。その間に買ってきた物品を整理しておく。その中に本は無かった。彼女が寝室に持って行ってしまったからだ。…やはり、まだ早かったらしい。人外慣れにはまだまだ時間が掛かりそうだ。

 

 カップを置いたところで話を切り出した。

 

 

 

『それで、何があった』

 

「大したことはなかったさ」

 

『嘘だろう』

 

 

 

 流石に嘘だと私でも分かる。大した目的もないのにずっと玄関先で待っている奴がいるだろうか。

 

 

 

「いや、それが本当なんだな」

 

 

 

 しかし否定は続く……嘘を言っているようには見えないのが妙だった。

 

 ならば、と聞いてみる。 

 

 

 

『……じゃあどうして玄関先で待ってた?』

 

 目的が分からなかった。何の理由も無しにどうして、と思っていた。

 

 

 

「どうせお前のことだから遠出はしないだろうし直ぐ帰って来ると思ったから。目的は、アレだ。しっかり休めたか確かめるためだ」

 

『…本当にそれだけのために?』

 

「疑り深いな。しつこいぞ。全部本当だって」

 

『……そうか』

 

「そうだよ」

 

 

 

 ああ、と察した。そういえばこういう男だったと思い出した。彼に関する事項の全ては深く考えたら負けだったことを思い出した。

 

 頭を掻く。

 

 

 

 

 

『……休めは、した』

 

「そうか。なら、良かったな。見たところ、検体も連れ歩いたらしいな」

 

 

 

 友人が寝室に顔を向ける。今頃、買ってきたばかりの本に夢中になっている筈だ。

 

 

 

『…外にも慣れさせようと思ったんだ。何かあったときに外を知っている方がいいと思って』

 

「良い心がけなんじゃないか?そういうのって全部一任されてるんだろ……あ、何も問題はなかったんだよな?」

 

『問題はなかった。毛髪で人間の目は隠して動いて貰ったから問題ない。…そもそも私以外の人外がほぼいない」

 

「平日だもんな」

 

『皆が働いているのに私だけ遊び歩いているんだ。正直、罪悪感はあったさ』

 

 

 

 細かい奴、と呆れられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話題が途切れて少しして、話を切り出したのは彼の方だった。

 

 

 

「そういえばだけど、前に比べて表情も良くなったんじゃないか?」

 

『…彼女のことか?』

 

「彼女?……ああ、検体のことか。そうそう、その彼女」

 

『…笑ってるのか?』

 

「いいや?別に?ほら、続けろ続けろ」

 

『…表情は……少なくとも、初日よりは断然良くなってきている。食欲もあるし、発作も最近は………ん?なんで昔の彼女を知ってる。前に会わせたことあったか』

 

 

 

 

 

 まるで前から知っていたような口ぶりに疑問を抱く。しかし、逆に困惑しているような口調で返された。

 

 

 

 

 

「会社で会ってるよ。ほら、あの検体がいた部屋ってガラス張りだろ。見えたんだよ」

 

『……ああ…そうか』

 

 初めて彼女と出会った場所を思い出す。確かに、あそこはガラス張りだった。

 

「それより、お前への嫌がらせの件だけどな」

 

『そっちの方は私としてはどうでもいい』

 

「まぁ聞けよ。誰がやったかは分かったんだ。動機は"アレ"だ」

 

 

 

 

 

 アレ―――――妙な"気遣い"に思わず苦笑する。今更だというのに。

 

 

 

 

 

 

 

『まだアレなんて言ってるのか。普通に言えばいいだろうに』

 

 

 

 アレ。隠してはいるが、要は私が人間寄りの容姿をしているのが気に喰わないからという意味だ。私が気にしているとでも思っているのか、友人はこのことについて必ず"アレ"という。

 

 昔は人間に似た人外は差別の対象だった。その名残が未だに残っているということだ。別に不思議な話でもない。差別はいつの時代も消えないのが世の常だ。

 

 

 

 

 

「…それは兎も角、そういう理由でやったらしい。で、やったのは別の部署の女。十中八九、人外至上主義だな。…どうせお前だ。あまり問題にされたくはないだろうから、厳重注意で一応は済ませたぞ」

 

『悪い。ありがとう』

 

「ありがとうじゃねーよ。寧ろもっと厳しくって言っていいんだよ、こういうのは。一度性根を――――――」

 

『……まぁ、考えとくさ』

 

「どうせ考えるだけだろう」

 

 

 

 呆れたような溜め息が聞こえた。

 

 

 

「………とりあえず部署内の空気は大丈夫だ。誰も特に気に留めていない。明日からは普通に出勤しろ。本当に何事もなかったことになってる」

 

『部長か?』

 

「手回したんだよ。オレともお前とも、結構長い付き合いだ」

 

『お礼言わないとな』

 

「いらないってよ。こんなことで感謝するなって言ってたさ」

 

『でもありがたいことだ』

 

「…あ、そういえば今日―――――――」

 

 

 

 暗い話は一旦切り上げ、関係のない話を始めていく。私としてもそういう話は正直気が進まない為、丁度いいと話に乗った――――――軽い話を続けて行くうちに、向こうが少し気になることを切り出した。

 

 

 

「……なんかお前、良い感じになってきたな」

 

 

 

 と、言われた。言葉の意味に、困惑する自分がいた。

 

 

 

『……いい感じってなんだ』

 

 意味が分からず質問してみたが、向こうも向こうでなんだか歯切れが悪い。

 

「変な意味じゃねーよ。性格的な面だ。前よりも…なんかよくなった」

 

 

 

 抽象的なのが変わらず、さらに困惑させられていく。

 

 

 

『…具体性がないな』

 

「俺も詳細を上手く摘まめてないんだよ――――――ま、原因は見えてるが」

 

『なんだ』

 

「検体の世話をし始めてからさ。それまでと今じゃあ"何か"が決定的に違う」

 

『どうせその"何か"もよく分かんないんだろう』

 

 

 

 狂暴性とか偏屈なところとか、そういうものかと予想するが、彼が言葉にできないということは、そういうものではないのだろう。

 

 

 

「わかんないな。でも、悪い意味じゃないさ。大方、世話をする奴がいるから生活にもメリハリがーとかだ」

 

『そうか。それならいいことだな』

 

「いいことだ」

 

 

 

 寝室に目を向ける。彼女と暮らし始めてそこそこの時間が経った。それは私にも少なからず影響を与えていたのだろう。

 

 

 

「……ほんと、いいことだよ」

 

『そうか』

 

 

 

 

 

 やはり、悪い気分ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『色々と悪かった』

 

「気にするようなことじゃない。もっかい言うけど、明日は普通に過ごせよ。部長も言ってたけど、変にお礼を言ったりするなって」

 

『それじゃあ電話かメールだけでもしておく』

 

「…お好きに」

 

 

 

 玄関先での会話だった。彼が来てから一時間。そろそろ帰ると言って今に至る。

 

 靴を完全に履き終えたところで彼の仕事鞄を渡す。

 

 

 

「悪いな」

 

『こっちこそ、悪かった』

 

「もう気にするなよ……じゃ、また明日」

 

『また明日』

 

 

 

 そう言って見送る。たまに振り返っては手を振って来るので一応振り返す―――――やがて何も見えなくなったところでドアを閉めた。

 

 

 

『…あ、来てたか』

 

 

 

 リビングに目をやれば先程まで座っていたソファに彼女がいた。テーブルには本が積み上げられていた。

 

 コーヒーでも淹れようかと台所に足を運ぶ。二つカップを用意してお湯を沸かす。その間、考えごとに耽ってみる。彼女との一日。私の性格の変化。彼女による影響――――――色々なことが頭をめぐる。

 

 

 

 

 

(あ…出張のこと、相談すればよかった)

 

 話しておけばよかったと後悔する。もうあまり時間がない筈だった。

 

 

 

 

 

 お湯が沸くまで休もうと思い、ソファに座る。隣には彼女がいる。

 

 

 

(慣れたな)

 

 

 

 思い返してみれば、前はこうして隣に座ることすらできなかった。その時に比べれば良好な関係になっているのだと思う。

 

 平積みされた一冊を拝借する。どれもこれも、画集関係の本ばかりだ。言葉が分からない以上、絵を見るくらいの楽しみしかないから…なんて理由だとは思うが、絵そのものが好きな可能性もある。

 

 見るのが好きなのか描くのが好きなのかは分からないが、描きたいのなら明日の帰りにでも買ってこようかと考える。

 

 

 

 

 

(絵具……鉛筆………いっそセットで買ってこようか) 

 

 あくまで見るのが好きなだけで描くのはあまり――――――というケースがあるかもしれないが、まぁその時はその時だ。私が使えばいい。

 

 

 

 

 

 隣を見れば、真剣な顔で本を読む横顔が見える。私と同じ白髪に、色の反転した目。髪はもう八割近くが白く染まり、人外化の着実な進行が見て取れた。

 

 前に彼女関連の資料で見た記述を思い出す。年齢、素性、好み…色々なことがあそこには書かれていた。特に年齢。一応人間の基準では大人にかなり近づいている年齢……らしいが、まだ彼女が子供であることに違いはない。

 

 無理やり連れてこられ、無理やり実験台にされ、無理やり人間を止めさせられた彼女の心境は―――――――決して良いものではない筈だ。

 

 

 

 

 

 

 

 気付けば、彼女の頭に手を置いていた。

 

 

 

 

 

「……――?」

 

『………』

 

「…………」

 

 

 

 

 

 不思議そうに見つめられる。私はそれに無言で返す。ついでに頭を撫でてみたところで……お湯が沸いたのに気付いて立ち上がった。

 

 彼女の頭から手を離し、歩き出す。頭を撫でたのは―――――――何故だったのか、私にも分からなかった。同情や可哀想とか、簡単に言い表せないものがどこかにあった。

 

 

 

(……別に分からなくてもいいか)

 

 

 

 今は保留で済ませることに決めた。無理やり理由づけると、陳腐な意味になりそうだった。だから、止めることにした。…それでも尚、無理に理由をつけるのなら、それはきっと「なんとなく」だ。

 

 

 

 とりあえず、そう思い込むことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外に出て少し歩く。家から何十メートルも離れたところで、携帯電話を取り出した。そのまま電話帳からコールを始める。

 

 一つ目のコールで電話先が反応した。

 

 

 

「今終わりました……――――ええ――――ええ――――――元気そうでしたよ」

 

 

 

 歩きながら話し続ける。

 

 

 

「前に比べればかなり良くなりました。同居者がいるといないとでは全く違う」

 

 

 

 振り向いて、なんとなく家を見つめて、再び前を向いた。

 

 

 

「………あぁ、そうだ。言われた通り、処理は終わりました。彼には嘘の犯人像、犯人には厳重な注意を……ええ、いつものように」 

 

 

 

 電話先からの質問が続く。

 

 

 

「処理についてはいつも通りです。ちょっとした脅しを掛けました。多分、もう"ああいう"ことはしないでしょう……様子は、さっき言った通りです。元気で笑顔が増えてましたよ。楽しそうだ。少なくとも、簡単に笑うような奴じゃなかったのに」

 

 

 

 

 

 納得したらしく、それ以上は踏み込まれない。

 

 

 

 

 

「…それじゃあ…はい、切りますね」

 

 

 

 

 

 通話を終えたところで、後ろを向く。彼の家は、既にはるか遠くにあった。

 

 

 

 

 

 

 

「……――――…」

 

 

 

 

 

 踵を返し、夜道を歩く。ため息が宙に消えていく。

 

 

 

 

 

 

 

「………似た者同士…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう呟いて影に消えていく。その背中は、酷く小さかった。

 

 



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