海老名さん√がまちがっているわけがない。 (あおだるま)
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クラス替え

 高校三年生になり、一学期が始まった。

 

 これから一年間をともに過ごすであろうクラスメイトたちがクラス替えの結果に一喜一憂するのを尻目に、俺は舟をこぐこともなく速攻で顔を伏せて居眠りを始める。

 

 無論、話しかけてくる人間は皆無。というか俺に話しかけてくる可能性のある人間といえば戸塚くらいしかいないが、その戸塚も今年は違うクラス。むしろ戸塚以外別に話す価値がないまである。よって俺がここで誰かとコミュニケーションを図る必要がない。

 

 至極論理的な理由で、俺は居眠りという選択肢を選んだ。決して、居場所がないわけではない。決して。断じて。ちか、って…。

 

 

 

 

 

 顔をあげると、あの喧騒が嘘のようにそこには誰もいない。時計の長針は最後に見てから半周ほど進んでいた。あのまま本格的に寝てしまい、誰にも起こされることもなかったのだろう。今クラスメイト達はおそらく、始業式の途中といったところか。

 

 そう考えると、別にいいか、と思えてきた。点呼をとるわけでもない、壇上に表彰で呼ばれることもない、というかなんなら一度も呼ばれたことはない。居ても校長の長い話を聞くだけだ。

 

 思い直した俺はもう一度寝ることにする。ぐー。ぐー。

 

「いやーやっぱりもう一回寝るんだね」

 

 後ろから聞こえた声に驚き、振り返る。まさか俺に話しかける人間が戸塚以外に存在したとは。誰だ。声の主を見て、俺は渋面を作る。

 

「はろはろー。予想に違わない、いっやそうな顔だね」

 

「…うす」

 

 相も変わらずどこの部族のものかよくわからないあいさつをする海老名姫奈に、短く返す。

 

「そこで迷わず二度寝を選択できるところが、ヒキタニくんだよね」

 

 

「一年間を一緒にしただけのクラスメイトに語られるほど、俺の自分は浅くはないが」

 

「いーや、一緒にしただけのクラスメイトよりかは、ちょっとは君を知ってる自信はあるけどな?」

 

 俺は去年の修学旅行、彼女の問題を解決するために動いた。その時に問題は解決を見せたかに思え、俺自身問題の解消はできたと思いこんだ。しかし実際にはそれは解決ではなく、解消ですらなく、ただ問題を先延ばしにしただけだったが。

 

「だからそういうことを言うのはやめてくれといったはずだ。惚れて告白して迷惑するのはあんただぞ」

 

「相変わらず私みたいなのには素直だね。捻くれもなければデレもない。本当に私はどうでもいいんだね」

 

「捻くれとデレは共存しねえよ。…で、なんで海老名さんは始業式出てねえの?」

 

「いやー、執筆活動に熱中してたら、周りが見えなくなっちゃって、気づいたら誰もいなかったんだよね」

 

「俺はともかく、海老名さんなら誰かしら起こしてくれそうなもんだが」

 

 ちなみに「起こす」は「目を覚まさせる」ないしは「現実世界に引き戻す」と読む。

 

「別に寝てたわけじゃないんだけどな。優美子も結衣もいないからね。クラス替えしたばっかだし、学校にはあの子たち以外にそんな友達もいないから、誰も教えてくれなかったんだよ」

 

「ほー。そりゃ災難だったな。じゃ、おやすみ」

 

「ちょっと待って」

 

 にっこりと笑う。俺の貴重な睡眠時間を削らないでほしい。

 

「速攻で二度寝しようとする君を目にしたら、私も始業式出る気なくしちゃったよ。というわけで、責任とってこの小説呼んでくれない?で、できれば声に出して」

 

「断る」

 

 即答し、寝る体勢に入る。

 

「ねえねえヒキタニ君」

 

 なに、まだ何かあるのか?顔をあげる。目の前の海老名さんは髪に手をやり、俺を見下ろしている。そして。

 

 なんの表情もない。

 

「君、今満足?」

 

「は?」

 

 彼女が何を言っているかよくわからない。

 

「言葉通りの意味だよ。君は今の君の立ち位置に、人間関係に、行動の結果手にしたもの、失ったものに、満足してる?」

 

「…俺は俺のことが嫌いじゃない。だから俺は俺の今の立ち位置も、人間関係も、行動の結果も、すべて嫌いじゃない」

 

 彼女が何を意図してこんなことを言うのかはわからなかったが、一応の答えを出す。この答えは一面の真実でもある。

 

「別に私は好き嫌いを聞いたわけじゃないよ。好きだけど不満足、嫌いだけど満足ということもあるでしょ。満足か不満足か、それを聞いたんだけど」

 

「俺の人生不満足しかないからな。無理やり満足だと思いこむしかない。そう言う意味では常に満たされてはいるな」

 

「はは、本当に素直だけど捻くれてるね、君」

 

「おい、思いっきり矛盾してるだろ、それ」

 

「いーや、矛盾してないよ。…受けのヒロインなんだから、ちょっとはひねくれてないと」

 

 ちょっと待って、この人いま恐ろしいこと口走ったよ。小声だったけど、難聴系じゃない主人公の俺にはしっかりと聞こえたよ。

 

「まあいいや。じゃあそういうことだから、これから一年間、またクラスメイトとしてよろしくね」

 

「ああ。よろしく」

 

 顏だけ上げて返す。

 

「うん、期待してるよ、比企谷君」

 

 最後に名前を呼ばれた気がした。しかし彼女の声は扉の閉まる音とともに消え、もともと寝ぼけていたため追及する気もなかった俺の意識はすぐにまどろんでいった。

 

 

 

 放課後の図書室というのは、基本的に静かだ。

 

 普段なら図書室に足を運ぶことは少ない。それは言わずもがな放課後は奉仕部で過ごすことが多いからだ。

 

 しかし今日は半日のため、奉仕部の活動はない。かといってこの時間から帰ってもあいにくすることがないうえ、俺ももう三年生。実験もかねて図書室で勉強するのも悪くないだろうと思い足を運んだ。

 

 の、だが。

 

「はろはろー。図書室で勉強?精が出るねー。…は⁉出るのは精じゃなくて精s…ぶはー‼‼‼‼‼‼‼」

 

 あほがいる。

 

「もう少し静かにしたほうがいいと思うぞ。図書室なんだから」

 

「そんなこと言ったって、ヒキタニ君と図書委員以外いないじゃない」

 

「その図書委員が騒いでるのが問題なんだよ」

 

 なんで材木座こういう時に限っていねえんだよ。ほんと使えねえなあの剣豪将軍。

 

「まあまあ。で、ヒキタニ君、勉強は進んでる?」

 

「おかげさまで」

 

 日本史の単語をひたすら書きなぐりつつ、答える。

 

「うん、よかったよかった」

 

 何がそんなに面白いのか、というぐらい笑っている。まあ、いい。俺には関係ないことだ。

 

 気を取り直し、勉強を続ける。

 

「ねーねー、ヒキタニ君」

 

「…」

 

「私のこと、ま、だ、好き?」

 

「⁉」

 

 彼女を見る。しかし、そこにあったのはいつもと寸分変わらない笑み。

 

「…勉強の邪魔はしないでくれると助かる」

 

「もー、つれないなぁ」

 

 彼女を見ていると、どうもどこかの魔王を思い出す。あんなのが何人もいたら身が持たない。

 

 しかし。俺は思う。

 

 彼女はこんな饒舌だっただろうか。自らの趣味の話や、由比ヶ浜や三浦といった親しい間柄の人間に対してはそうだったと思うが、少なくとも去年彼女は俺に話しかけることはなかった。しかしこうもコンタクトをとってくるということは、何かしらの意図があるのではなかろうか。

 

 そう思い、彼女を見る。が、そこにいたのは薄い本をながめうすら笑いを浮かべている彼女だ。…やはりかかわりはもたないようにしよう。

 

 大体学校で薄い本って、何考えてんだ。しかもそれが図書委員。世も末というか、この魔王が世を終わらせるまである。

 

 

 

「完全下校時刻です。校内に残っている生徒は速やかに下校してください」

 

 下校のチャイムが鳴り、アナウンスが流れる。あれからは海老名さんも特に話しかけてくることもなく、図書室には新学期初日のためか来訪者もなく、穏やかだった。

 

 時計を見ると、16時。本来半日の日だから、完全下校時刻も早い。家に帰ってもいいのだが、買いそびれていたラノベがあることを思い出した。異世界転生ものって、やっぱりいいよね。

 

「お、ヒキタニ君。帰る?」

 

「そりゃ帰る」

 

「そっか。じゃ、いこっか」

 

「は?」

 

 思わず自然なクエスチョンが出てしまった。

 

「ほら、行こうよ。早くカギ閉めなきゃ」

 

 そういってポケットからカギを取り出す。

 

「ああ。さっさと退散するよ」

 

「うん、そうしてくれると助かる」

 

 帰る準備を整え、図書室を出る。海老名さんは施錠し終え、俺の横に並んでいる。

 

「じゃ、帰ろっか」

 

「ああ。じゃあな」

 

「待って」

 

 鞄をつかまれる。

 

「ほら、ヒキタニ君、カギ返しに行かないと」

 

「まあ仕事だししょうがないな。頑張ってくれ。じゃあな」

 

「だから待ってって。確かに私は図書委員だけどさ、今日はほとんどヒキタニ君一人のために図書室を開けていたんだよ?そこには報いがあってしかるべきじゃないかな?」

 

「…チっ」

 

「あれ、今舌打ちした?」

 

「してません」

 

 はぁ。仕方ない。

 

「なぜおもむろに財布を出すのかな?」

 

「500円で勘弁してくれ」

 

 「お金で交渉なの!?…別にお金をとりたいわけじゃないよ。カギを返しに行ってくれればそれでいいよ」

 

 そうする義理もないのだが、ふと以前の彼女の依頼を思い出す。…このくらいの仕事は引き受けて罰は当たらないだろう。

 

「まあそのくらいなら。貸してくれ」

 

 そういってカギをとる、とろうとする、が、できない。

 

「…貸してくれないと返しに行けないんだが」

 

「いや、さっきはそうはいったけど、私も一応図書委員だからさ。仕事でやってるわけだし、いくら何でも君一人に任せるわけにはいかないよ。ということで、一緒に行こう」

 

「え、やだよ」

 

「即答とは、本当に予想を裏切らないね。旅は道連れ世は情け。ほら、行くよー」

 

「…はぁぁぁぁぁ」

 

 ため息を一つ。 

 

「ふんふんふーん♪」

 

 聞こえてないのか、聞こえないふりなのか。

 

 

 

 

「いやーごめんね、ヒキタニ君。わざわざ付き合ってもらっちゃって」

 

ちなみに職員室に行く途中、万年独身の国語教師にでくわし、ブツブツと呪詛の念を送られつつ、カギを返しに行った。リア充死ねとか、比企谷、お前もかとか。いや、こえーよ。

 

「何が付き合ってもらっちゃってだよ」

 

「ん、なんか言った?」

 

「特に」

 

 駐輪場につく。どうやら海老名さんも自転車通学らしい。駐輪場まで一緒にきたが、彼女も自転車を取りに行く。なに、駐輪場まで女の子と一緒に行くとかどこのリア充ですか。女の子どころか俺は男とも一緒に行くことはないんだが。

 

 自転車をとり、校門まで自転車を押す。

 

「じゃあ、俺こっちだから」

 

 ラノベ買いに駅に寄っていくことにする。

 

「うん。今日はありがとね。じゃあ」

 

 彼女と校門で別れを告げ、駅に向かう。

 

 にしても、今日の海老名さんは少しおかしかった。もしかしたら、また何か厄介ごとを持ち込んでくるかもしれない。

 まあ俺から動くことはない。というか、仕事じゃなければ何もやらないまである。でもそれだと逆説的に考えて、仕事なら何でもやることになりませんかね。なに俺超社畜。

 

 信号がぎりぎりで変わったので止まる。別にさして急いでいるわけでもない、むしろ時間をつぶしているので、無駄な時間は望むところだ。

 

「ありゃりゃ、いまいけたんじゃない?」

 

 横には自転車にまたがる海老名姫菜がいた。

 

「…」

 

「ヒキタニ君、なんで無言なのかな?」

 

 そのくらい察してくれ。

 

「学校の外で学校の人間にあったら気まずくなるだけだからな。他人の振りすることにしてるんだよ。」

 

「はは、君らしいね。その腐りっぷり」

 

「あんたほど腐ってるつもりはないが。じゃ、気を付けて」

 

 信号が変わり、ペダルに足をかける。完璧なタイミングかつ、素早く去る…進まん。

 

 横にはすっとぼけた顔の海老名さん。

 

「荷台をつかむのはやめてくれませんかね」

 

「ならどこならつかんでもいいの?」

 

「その返しおかしいだろ…。そもそもなんでつかんでんの?」

 

「だって比企谷君、家こっちじゃないよね?今からどこ行くの?」

 

「え、いや、駅だけど」

 

 しまった。不意の質問につい答えてしまったが、答える必要はなかった。

 

 …ん?なんでこの人俺の家知ってんだ。

 

「なんで俺の家…」

 

 俺が聴き終える前に彼女はまくし立てる。

 

「そうなの?じゃ、私も今から駅の本屋行くから、一緒に行かない?」

 

「は?」

 

 言葉に詰まる。この人は何言ってんだ。

 

「バカか。大体おれが女と二人っきりで一緒に出歩いて、勘違いしないわけねえだろ」

 

 言外に気持ち悪さをにじませる。買い物は一人でしたい派なのだ。それに学校でのことを含め、今日一日の彼女はあまりに彼女らしくない。厄介ごとは御免である。

 

「別に勘違いしてくれてもいいんだけどな…」

 

「はい?」

 

「だ、だから、別にそんなこと気にしなくてもいいから。減るものでもないし、べつにいいでしょ」

 

「いや、俺が気にするって言ってるんだが…」

 

「私がいると、邪魔かな?」

 

 上目遣いで聞いてくる。いや、おかしい。彼女はこんなキャラでもなければ、こんなかわいくもなかったはずだ。学校では、上位カーストの腐女子であり、俺にとってそれ以上でもそれ以下でもない。一度奉仕部で依頼を受けただけ。

 

 海老名姫菜がこんなにかわいいわけがない。

 

「…は?」

 

「…え?」

 

 恐る恐る横を見る。横の彼女は、頬は上気し、手は髪の毛をいじったり眼鏡を直したりとせわしない。

 

「か、かわ、かわ、かわいい…?」

 

 彼女の顔は真っ赤になる。真っ赤っかで、今にも爆発しそう。

 

 …やっちまったあああああああああああああああああ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。なんなの?心の声がつい出ちゃうとか俺どこのラノベの主人公なの?ご都合主義なの?いやでもあれはヒロインも主人公のことを好きだからご都合主義になるわけで、俺がやってもただの気持ち悪い奴…キモイのはデフォルトでしたね。てへっ☆

 

「ま、前から私のこと、そういう風に思ってたの?」

 

「い、いや今のは言葉のあやというやつで…」

 

「じゃあ不細工だと思ってたんだ」

 

「決してそういうわけではないんだが…」

 

「…」

 

「…」

 

 沈黙が怖い。

 

 2、3分そうしていただろうか。さすがにいたたまれなくなり顔をあげると、そこにはいつもの微笑をたたえた海老名姫菜がいた。

 

「買い物付き合って、くれるよね?」

 

「…はい」

 

 女の笑顔は怖い。

 

 



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アニメイトにて

 

 駅につくと、彼女は迷わずアニメイトに入る。よかった。本屋とか言ってヴィレバン入られたら、居場所をなくすところだった。

 

「で、なんかお目当てのものでもあんのか?」

 

「うん。今日発売のがあるはず、なんだけど…」

 

 彼女は不安げにあたりを見渡す。

 

「見当たらないのか?」

 

「そうなんだよね。発売日合ってたかな…」

 

 スマホを取り出し、調べ始める彼女。いや、それだともし発売日が合っていても、本がどこにあるかわからないと思うのだが。

 

 …仕方ない。

 

 彼女のスマホをのぞくと、作品名が表示されている。しかし、さすがにこの作品名をノンケの俺が口に出すのははばかられる。

 

「海老名さん、ちょっとスマホ借りてもいいか?」

 

「え、べつにいいけど…」

 

 受け取ったスマホを店員に見せ、本の場所を尋ねる。

 

「それでしたら、新刊コーナーのあちらにあります」

 

 不愛想な男の店員が親切にも教えてくれた。なぜかゴミを見る目だった気がするが、気にしない。そんなことをいちいち気にしていては、雪の下のいる奉仕部室に3分といることはできない。あれ、俺の扱いひどくない?なんか目から汗が出てきたよ?

 

 教えてもらった場所まで行き、お目当ての本を海老名さんに手渡す。

 

「ほい」

 

「あ、ありがとう」

 

 …どうも海老名さんから視線を感じる。何か俺の顔におかしいところでもあるだろうか。目以外はなかなかのものだと思うのだが。眼だけきれいにしたコラをネットにあげたやつ、怒らないから、手を上げなさい。

 ちなみに教師のこのセリフは、「先っぽだけ」くらい信用してはいけません。あれ、このくらいでR指定入らないよね?

 

「なにか?」

 

「いやー、ヒキタニ君って、普通に他人と話せたんだね」

 

「そんなにこじらせてるように見えるか?」

 

 確かに会話は決して得意ではないが、ぼっちにとって他人と事務的に行うそれは会話ではなく、ただの連絡だ。

 

「んー、見える。それに私が関係の薄い人とかと話すの苦手なんだよ。顔見知り程度の知り合いと会話とかどういう拷問だよ、っていうね」

 

「ふ、甘いな。顔見知り程度の知り合いさえ作らない学校生活を送っていればその心配もねえ。その程度でコミュ障名乗ってもらっては困りますな」

 

「なんで自慢げなの。私コミュ障とか言った覚えないんだけど…。まあ、私は赤の他人との事務的な会話も御免したいところだけどね。特に男子とは」

 

 ふむ。それには同意できる。

 

「そうか。おれもできれば女子と話したくはないな」

 

 海老名さんが目を見開き、俺をまじまじと見つめる。うっわ、眼鏡かけてるからわかりづらかったけど、まつ毛なっが。こんだけ長くて普段気にならないのか。八幡、気になります!

 

 俺の表情に困惑しか読み取れなかったのか、彼女は下を向き、深くため息をつく。

 

「本気で言ってるの…」

 

「?」

 

 海老名さんが小声でつぶやく。聞き取れなかったが、バカにされた気がする。悪意には敏感(笑)な高校三年生、どうも、比企谷八幡です。

 

「とはいっても、海老名さん教室では普通に男とも話してるだろ」

 

「ああ、あれは優美子たちが近くにいるからできるんだよ。男子と二人きりとかはちょっと怖いかな。気後れしちゃう」

 

 ああ。

 

「なるほど。だから」

 

 言いかけて、口をつぐむ。おれはいつからそんなに偉くなったのだろう。勝手に人を判断して、決めつけて、レッテルを張る。自分もしてしまうからこそ、それらを忌み嫌っているのかもしれない。特に人の好きな物、アイデンティティに関わる話を、他人が勝手に決めつけていいものではない。

 

「だから?」

 

 海老名さんが首をひねる。

 ううむ、まあそうなるよな。

 

「ええと…。ああ、だから俺のことは男としてみてないから今も話せてるってことだな。納得した」

 

 我ながらなかなかうまい返しではなかろうか。

 このあたりで適切な距離をとる必要もあった。過度な共感、シンパシーは危険だ。踏み込むべきでないところまで踏み込んでしまう。

 

 海老名さんは唸る。一時逡巡し、意を決したのか、まっすぐこちらを見る。そして、

 

「別に、そういうことじゃないよ。ただなんていうか、ヒキ…比企谷君。君のことは、私、知ってるから」

 

 そう笑った。

 

 俺はもう一度彼女を見る。海老名姫菜という人間を、もう一度見る。

 以前そんなことを誰かに言われた。そしてそれは、簡単に壊れそうになった。かたくて、もろい。その時はそうに違いないと信じても、すぐに崩れる。

 

「でも」

 

 小さくつぶやく。

 

 「俺はあんたのことは何も知らない。海老名さんが何をもって俺を知っていると思い込んでいるのかは知らないが、勝手な押し付けは勘弁してほしい」

 

 どこからか鐘がなる。17時を告げる鐘だろう。まったく、ずいぶんなところまで来てしまった。分をわきまえねばならない。ボッチにはボッチの、リア充にはリア充の領分がある。そこには見えない壁があって、踏み越えることはあってはならない。

 

 海老名さんは沈黙する。彼女の顔は大体想像はできる。言動から忘れそうになるが、彼女はカースト上位だ。プライドを傷つけられた人間が、どんな顔になるか。どんな行動をするか。だれも助けてくれ、といったわけでもないのに、差し伸べた手を拒まれると憤慨する。経験してきたことだ。

 

 しかし、そこには。

 

「そうだよ」

 

 まっすぐに見つめる瞳があった。

 

「私は君のことなんて、何にも知らない。別の場所で生まれて、別の人に育てられて、別のものを食べて、着て、性別だって趣味だって、一緒に過ごした人だって、全部違う。全部を知ってるわけがないし、理解だってできない。でもね」

 

 文庫本で、俺の頭を優しくたたく。

 

「私を見て、理解してくれた君のことを。誰も理解なんてしてくれない、腐った私を見つけてくれた君のことを。私は知ってるよ」

 

 なんと。

 

 俺は彼女はそういう人間ではないと思っていた。そんなことを、形もわからない不確かなものを信じる人間ではないと思っていた。いや、むしろそれらを、言葉にするなら「信頼」とでもいうべきものを、どこか斜に見ているところがあるとすら思っていた。

 

 彼女は修学旅行の前に俺に依頼をした。彼女の依頼の意味に気づいた俺は、意向に沿うように行動した。言ってしまえば、彼女は彼女のグループを信頼していなかった。それのはらんでいる危うさに気づき、信頼していないからこそ少しの傷で壊れると思った。だから俺にその傷をつけないように依頼をした。

 

 その彼女が今、あっさりと「海老名姫菜を見つけた比企谷八幡」を、その、知っているといった。

 

 彼女は「ボッチの比企谷八幡」ではなく、俺という人間を見ていたのだ。まったく、つくづく属性でレッテルを張って、決めつけているのはどっちなんだか。

 

「はぁ…」

 

 頭をガシガシと掻く。

 

「まあ、それならそうなんじゃねえの。…知らんけど」

 

 彼女の顔は、今度は見ずともわかる。

 

 その笑顔は負けた感じが半端ではないからやめていただきたい。

 



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サイゼって怖い

 気まずい。

 

 アニメイトにいたときはテンションもおかしかったが、外に出て冷静になってみるとなんかだんだん死にたくなってきた。

 

『俺はあんたのことは何も知らない。海老名さんが何をもって俺を知っていると思い込んでいるのかは知らないが、勝手な押し付けは勘弁してほしい』

 

 あ、死にてえ。これはもうあれですね。黒歴史確定ですね。今までのなかでも奉仕部でのアレに次ぐレベルで恥ずかしい。いや、でも海老名さんも割と…

 

 横を見ると彼女も少し顔を紅くさせ、うつむきながら歩いている。あっれれー、おかしいなー。本当にちょっとかわいく見えてきた。…俺ちょろすぎないか?

 

 勘違いするな。別に海老名姫菜は特別な思いからああいう発言に至ったわけではない。

そう、彼女にとってあの修学旅行の出来事は少なからず異質なものだったのだ。一人悩み、抱え込んでいた。それを誰かさんがかってに全部ぶち壊して無茶苦茶にした。時とともにその特殊性のみが浮き彫りになり、特別だと勘違いしているだけだ。吊り橋効果と何ら変わらない。でも吊り橋効果って、吊り橋を二人で渡るっていうシチュエーションの時点で割ともうイケる関係性なんじゃないですかね。

 

「と、ところで!」

 

 海老名さんはわざとらしく手をたたく。

 

「これからどうしよっか。ヒキタニ君はなんか用事とかある?」

 

「は?普通に帰るだろ。この辺だと同じ高校の人間もいるかもしれんしな」

 

 今はアニメイトを出て駐輪場に向かって駅前を歩いている。今日は学校が早く終わり部活のない生徒たちが多いのか、制服姿の連中が多い。どこで誰と出くわすかわかったものではない。いや、俺の知り合いなど数えるのに両の指で事足りるほどしかいないが、海老名さんはそんなことはないだろうし、俺と歩いていることは彼女の学校生活に良い影響は与えまい。それで新しいクラスでの彼女の立場が微妙なものになっても寝覚めが悪い。…まあ俺とて折本と出くわした前例もあるし、あまりこういうところには長居したくない。特に横に女の子(そこそこの美少女)がいるとなるとなおさら、何を思われるかわかったものではない。

 

「えー、せっかくここまで来たんだし、どっか寄っていかない?時間はまだ大丈夫でしょう?疲れたしお茶でも飲もうよ」

 …疲れたなら帰るのが正解じゃないですか。

「俺が海老名さんとこれ以上行動を共にする理由がない。アニメイトに行ったのはお互いに行く予定があったからだろ」

 

「お茶するのに理由もないでしょ。それとも、お茶に行かない理由はあるの?」

 

 ぐぬぬ。

 

 別に先ほど俺が挙げた理由を説明する必要はないし、したくない。ここは「疲れた」やら「面倒」やら言ってしまえばいい。…本当に行きたくないなら。

 だが、どうもそのように拒絶する気にはなれなかった。さっき彼女の思っていることを聞いたことに対して引け目を感じているのかもしれない。

 

 まあ、ちょうど腹も減ってるしな。

 

「…サイゼでいいか?」

 

「うん♪」

 

 ここで全く文句が出てこないのは、女子としては素晴らしい。

 

 

 

 

 

「いらっしゃいませー。お客様何名様ですか?」

 

 さすがに先ほどのアニメイトとは違って、店員のお姉さんは愛想がいい。俺は人差し指を立てる。

 

「はい、一名様ですね。ではこちr…」

 

「ちょ、ヒキタニ君。わたし、わたし」

 

 海老名さんが自らを指さす。しまった。ソロサイゼがデフォルト過ぎて無意識のうちに訓練されたやり取りになってしまった。ソロサイゼがデフォルト過ぎるってかっけえな。材木座?いっつも一人って店員に伝えてるけど、席に座ると目の前にいるから不思議だよね。

 

「はい、では二名様ですね。こちらへどうぞ」

 

 店員は気にすることもなく案内する。まだ5時過ぎということもあり店内には多少の余裕があるようだ。何も言わずとも禁煙席に通される。

 

「ではご注文お決まりになりましたらお呼びください」

 

 

 

 

 

 

「えーっと、どうしよっかな…あ、メニュー見る?」

 

「いや、もう決まってるからいい」

 

「メニュー見てもないのに?」

 

「俺が年に何回サイゼに一人で来てると思ってるんだ。プロのサイゼリアンなら、頼むものは曜日別に決まっている」

 

 でも実際、ファミレスでメニュー見るのって誰かと一緒に見るのが楽しいからだろう。それこそ一人であのでかいメニューを広げても虚しさが襲ってくるだけだ。だからおれこと比企谷八幡は、サイゼにも食券システムを導入することをここに提案します。

 

「へー。私はそこまで来ないかな。大体一人なの?」

 

「さっき言ったようにな。…ああ、戸塚とはたまに来るかな」

 

 

 

「と、とつはち!?」

 

 ぶはー!!!!と、いつもの彼女。私としてはちとつだと思うのだけれど。心の中で渾身の物まねを披露する。…だめだ、雪ノ下に殺される。

 

「戸塚が部活が早く終わったときとかな。疲れてるらしいからか知らんが、あいつ結構食うぞ」

 

 華奢でごはんもしっかり食べるとか、どこのヒロインですか、まったく。本当にけしからん。

 

「も、もしかして、あーんとか?」

 

 ハアハアと呼吸が荒い。怖い、怖いよ。

 

「しねえよ。でも戸塚が口についたソースをナプキンでふいてくれた時はプロポーズを決意したな」

 

「ぶっはー!!!キマシタワーーー!!!!!!」

 

 ちょ、まじで鼻血出してんじゃねえか。あーしさんいつも大変なんだな。このテンションを毎回かいがいしく世話してあげるとか、あの人マジおかん。

 

「ほれ、これでふけって」

 

 慌ててナプキンを差し出す。

 

「うん、ありがとー」

 

 海老名さんが落ち着くのを待ち、店員を呼んで注文する。たらこスパとか食べてこの人夕飯はいるのかしらん?俺はもちろんミラノ風ドリア。100週回ってむしろドリア。

 海老名さんがドリンクバーも頼んだので、つられて頼んだ。しまった、長居することになるかもしれない。ちなみにドリンクバーの原価は一杯七円らしいので、サイゼなら30杯近く飲まないと元は取れない計算になる。うん、長居する必要ないね。

 

「じゃあ俺ドリンクバー行ってくるわ。海老名さん何飲む?」

 

「あ、ありがとう。じゃあウーロン茶でお願い」

 

「はいよ」

 

 ドリンクバーへ向かう。割と遠い。

 

「えーと、ウーロン茶ウーロン茶…」

 

 ウーロン茶とはなかなか健康志向だ。おれはドリンクバーではコーラ。マックスコーヒーはさすがにないので、より糖分が採れそうなものを選ぶ。

 

 背後から人が来たので横にずれる。うっわ、ビッチっぽい、な…。

  

「あれー、ヒッキーだー!」

 まさかのガハマさんでした。

 

「お、おう。どうしたんだこんなとこで」

 

「別にこんなとこってわけでもないじゃん?サイゼ普通に来るし」

 

「だ、だな」

 

 別に悪いことをしているわけではないのだが、どうにも落ち着かない。俺の様子に違和感を覚えたのか、由比ヶ浜は不思議そうに俺を見る。

 

「どーしたの、ヒッキーなんかおかしくない?」

 

 なんでこのあほの子はこんな時だけ鋭いの。

 

「ばっか、お前俺がおかしいのはいつものことだろうが。むしろ俺がキョドってない時のほうがおかしいまである」

 

 自分で言っていて視線が泳ぐ。俺は何を言ってるんだ。無駄に自らを傷つけている気がする。

 

 その受け答えをさらにおかしいと思ったのか、由比ヶ浜は俺に疑惑の目を向ける。

 

「ヒッキーやっぱおかしい。なーんか隠してない?」

 

「べ、別に何も?お前に隠すことなんて何もないぞ」

 

「…ほんと?」

 

 捨てられた子犬のような目でこちらの様子をうかがう。ああ、心が痛む。だが、決して嘘はついていない。本当のことを言っていないだけだ。

 

「ああ、本当だ。」

 

「…じゃあ、さ」

 

 由比ヶ浜は一呼吸置く。

 

「今日は一人?」

 

 げ。

 

「えっと…」

 

「あ、誰かと一緒なの?」

 

「ま、まあそうとも言えるような。」

 

「中二とか、彩ちゃんとかかな?」

 

「ま、まあそんなところだ」

 

 やはり俺の態度を不審に感じているようだ。ふーん、と俺を一瞥し、とびきりの笑顔をつくる。あれれ、目が笑ってませんけど。

 

「じゃ、一緒のテーブルにしない?そんなに大人数じゃないでしょ?」

 

「それはだめだ!」

 

「…」

 

「…」

 しまった。

 

 いよいよ由比ヶ浜も俺が何かを隠していると確信したらしい。俺の来た方向に行こうとする。

 

「ちょ、まてって、由比ヶ浜。お前も誰かと一緒にいるんだろ?邪魔しちゃ悪いし、それに俺がいても空気が悪くなるだけだぞ。だから自分の席に戻ろう。な?」

 

「…後ろめたいことしてる男は口数が多くなるって、ママ言ってた」

 

 とんだ英才教育だ。ゆいがはママ、ほわんとしてる風で娘になんてこと教えてんだ。

 

「い、いいから戻れって」

 

「別にちょっと行くぐらい、いいじゃん!」

 

 若干の押し問答があり、人目を集めてきた。まずい、目立つ前に戻らねば…

 

「ヒキタニくーん、やっぱりレモンティーにしてもらっても…」

 

「由比ヶ浜さん、あなた満足にドリンクバーも…」

 

 沈黙が降りる。

 

 ふと外を見ると、雨粒が窓をたたいていた。さああという音が耳につく。

 

 口火を切ったのは雪の下だった。わーい、すっごい笑顔。

 

「あら、比企谷君、ごきげんよう。こんなところで、海老名さんと、いったい何をしているのかしら」

 

 学年主席、理解が早すぎる。

 

「ちょ、姫菜!!??え、なんでヒッキーといっしょに、あれ、だってヒッキーさっき彩ちゃんと中二と来てるって…」

 

 信じてたのかよ。どんだけいい子なんだよこの子。

 

 海老名さんを見ると、たははー、と苦笑している。チラっとこちらを見ているが、由比ヶ浜だけならまだしも、この氷の女王を俺が出し抜けると思うか?

 

「海老名さん、もしかしてこのゲスの極み・ガヤくんに何か脅しでも受けてここにいるのかしら?」

 

「おい、ガヤ君って誰だよ。いや確かに大体の場合において俺はガヤだが、今回ばかりは当事者は俺以外いないし、ガヤはお前…」

 

「比企谷君」

 

 こちらを向き、にっこりと笑う。

 

 「少し黙りなさい?」

 

 はい。ごめんなさい殴らないで。

 

 ふー、と一息つき、また海老名さんの方を向く。

 

「で、海老名さん。ここでゲスガヤくんといったい何をしていたのかしら。もし依頼についてだったら、部長である私も同席させていただきたいのだけれ…」

 

「ううん」

 

 海老名さんは雪の下の言葉を遮り、首を横に振る。

 

「デートだよ」

 

 ドリンクバー一帯の空気が凍り付く。

 

 あ、走馬燈ってこういうことなんだな。17年間の人生を高速で振り返りながら、比企谷八幡は死を覚悟した。

 



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ドキッ、女の子だらけの修羅場サイゼ

 

 どうしてこうなった。

 

 目の前には見慣れた顔二つ。横にはまだ見慣れない顔一つ。っていうか横って…なんか近い近い近いいい匂いなんだこれ。なんで女の子っていい匂いするの?それも女の子の秘密なのん?

 

 海老名さんの匂いで一通り現実逃避していると、目の前の無表情の黒髪の少女がおもむろに口を開く。

 

「比企谷君」

 

「ひゃ、ひゃいっ」

 

 …こんな噛み方ある?

 

 かわいい子がやったらまだしも、俺がやっても気持ち悪さが倍増するだけだ。雪ノ下は無表情、海老名さんも「ないわー」という目で見ている。っべー、まじっベー。なにがっべーって、まじ…もういいな。あほの子だけ肩を震わせて笑いをこらえている。

 

「…比企谷君。あなたは偶然駅の本屋で出会った彼女と、偶然サイゼリアの前で出くわして、これまた偶然相席することになったと、話をまとめるとそういうことね」

 

 至極事務的に、議事録を読むようにまとめられる。

 

「そうだ」

 

 俺も至極まじめに返す。今度は海老名さんが肩を震わせている。いや、気持ちはわかるけど。あなただけは笑っちゃいけないと思うの。

 

 ほら、目の前の氷の女王も下を向いて肩をわなわなと震わせている。怒りで。

 

 今度は笑顔ではなく、無表情でもない、青筋の浮かんだ顔で彼女は続ける。

 

「人をなめるのも、いい加減にしなさい、比企谷君」

 

 ひぃ!!恐怖でちびりそうになる。口調が若干ではあるが荒れる雪ノ下など、そうみられるものではない。こいつは人を攻撃する時にはきつい言葉は使うが、口調が荒れることはめったにないのだ。大方修学旅行の時のように、俺が勝手な行動をしていると思って憤慨しているのだろう。

 

 こめかみに指をあて、トントンと机をたたく。

 

「それと海老名さん」

 

「はい」

 突然話を振られ、眼鏡を直す。表情は普段とそう変わらない、何を見ているかよくわからない微笑のままだ。

 

「さっきのデ、デートという話についてだけれど、いったいどういうことか説明してくれるかしら」

 

「どうって言われても…」

 

 うーん、と指を顎に当てる。

 

「ちょーーーーっとまって!」

 

 由比ヶ浜が話を遮る。

 

「私もそこが聞きたいんだよ。ほら姫菜って割と、とっp…えーと、と、トッポギ?もないこと急に言うじゃん?それに私と優美子で突っ込むっていうか…。だから、今回のこともそーゆーことじゃないかと思ったんだけど」

 

 突拍子もない、だ。ガハマさんファンなら言われなくても察しろよ‼‼トッポギはなくても問題ない。

 

 いつもの調子の由比ヶ浜に、海老名さんは優しく笑う。

 

「そうだね。優美子と結衣は分かってくれるし、そういうこともあるかもしれない。でもね」 

 

 下を向く。

 

「少なくとも、わたしは今日のことをデ、ええっとデ、デ、デートだと、思ってたことも、なくはない、というか…」

 

 声がしぼんでいき、最後はほとんど聞き取れない。途中までは威勢がよく格好良かったのだが、デデデ大王が出てきたところからわからなかった。

 

 その様子を見て何を思ったのか、急に雪ノ下の表情が緩んだ。ふっ、と笑い、「そう…」とつぶやいた。

 由比ヶ浜も何かを察したのか「そっか…」といったまま動かない。

 

 このままだと下を向いた美少女三人と目の腐った男一人、という非常にシュールな画になってしまう。

 

 はぁ。

 

 ため息を一つつくくらいは許してもらえるだろう。

 

「まあ、ちょっとした冗談だろ。大体、今までほとんどかかわりもなかったんだから」

 

 なぜか由比ヶ浜と雪ノ下が目を見開いてこちらを見るが、まだ終わっていない。

 

「大体そんなこと真に受けても、海老名さんが迷惑するだけだ。まあ俺ほどになれば面と向かって好き、といわれてもそれを真に受けないまである、が…」

 

 隣から袖をつかまれる。

 

 横を見る。そこには歯を食いしばり、こちらを見つめる彼女がいた。目には雫がたまっている。

 

「…さっき私が比企谷君にいったことは、信じて、くれないの?」

 

 …まったく、その顔はずるいだろう。そんな顔をされては、都合の悪いように受け取れないではないか。

 確かに彼女の思っていることは先ほど聞いた。しかし、やはり俺はそれを信じてはいなかったらしい。三つ子の魂百まで、この性癖は一生治りそうにない。

 

 目は口よりも、モノを言う。

 

「そう、だな」

 

 顏が熱い。

 

 彼女は俺の否定とも肯定ともつかない返事から、何かを感じ取ったようだ。「なんだ。」とつぶやき、下を向く。肩まである髪が表情を隠す。

 

 またもや沈黙が下りる。

 

 なんだろう、目の前の二人から無言の圧力を感じる。

 

 恐る恐る前を向くと、雪ノ下は見たこともない笑顔を浮かべ、由比ヶ浜はほっぺたをいっぱいに膨らませていた。

 

 なんとなく八幡センサーが告げている、まずい、と。

 

「ま、まああれだよな、海老名さん。軽い冗談のつもりだったと」

 

ハッ、と目の前の二人を見た海老名さんは、俺の話に同調する。

 

「そ、そうなんだよー。私としてはやっぱりとつはちなのかはやはちなのか、はたまたとべはちなのか、ヒキタニ君にそろそろはっきりしてもらいたくてね。偶然会ったついでにその辺のことをサイゼででも聞こうかと思ったんだ。やっぱり私としては大穴のとべはちを推したいところではあるんだけどねっ!」

 

 二人はこの話に全く納得した風ではなかったが、海老名さんは話していて普段の調子が出てきたらしい。

 

「ところで雪ノ下さん、前もちょっと話したけどそろそろどう。今週末にでも池袋散策しない?やっぱり実地で教えたほうが…」

 

「いえ、その申し出は謹んでお断りさせていただくけれど」

 

「そう?絶対気に入ってもらえると思うんだけどなぁ」

 

 人のいい由比ヶ浜のことだ。実際に連れまわされたことがあるのだろうか、「あはは…」と苦笑を浮かべ、頬をかく。お疲れ様です。大体実地って何だよ。

 

 ゴホン、と一つ咳ばらいをし、雪の下が時計を見る。

 

「時間も遅くなってきたことだし、今日のところはそろそろお開きにしましょうか」

 

 時刻は18時半を示していた。サイゼに1時間以上いたのか。サイゼってついつい時間を忘れてしまうところ、あるよね。…マックスコーヒー製作会社コカ・コーラとサイゼからはそろそろ何かもらってもいいと思う。

 

「そうだね、早く帰らないとママも心配するし」

 

 由比ヶ浜も同調する。

 

 そうはいっても。俺は外を見る。窓に打ち付ける雨は一向に弱まる気配がない。この雨の中自転車で帰るのか…。

 

 ちらりと横を見ると海老名さんも同じようなことを思っていたのだろう。外を見て顔をしかめている。とはいっても帰らないわけにもいくまい。

 

「んじゃ、会計にするか」

 

 それぞれの伝票をもって席を立つ。ちらりと由比ヶ浜たちの伝票を見ると、「シチリアレモンのソルベ」「シナモンフォッカチオ」「イタリアンプリン」「アイスティラミス」etc…。あの、ガハマさん?物には限度があるだろうが。そのカロリーは全部二つのメロンに持ってかれてるんですか?横にいる人が気の毒じゃないですか。

 

「ヒ、ヒッキー?」

 

「比企谷くん?」

 

「ヒキタニ君?」

 

 三人が怪訝な視線をこちらに向ける。

 

 つい由比ヶ浜のメロンを見つめてしまった俺は、さっと視線を外す。

 

 気づかれただろうか?

 

 由比ヶ浜は赤面する。

 

「そんなみられると…ちょっと、はずかしいかも…。」

 

 どうもすいませんでしたああああああ。

 

「まったく、この男は…。いつ性犯罪を起こすかと思うと、気が気ではないわね。でも安心しなさい。実際に起こしたとしても、取材には『彼ならやると思っていました』とコメントしておいてあげるわ。サカりガヤくん?」

 

 いつもなら何か皮肉の一つでも返すところだが、今日ばかりはそんな気にならない。不憫だ…。

 

「雪ノ下」

 

 彼女をまっすぐに見つめる。

 

「な、何かしら」

 

 突然見つめられ、雪ノ下は視線を泳がせる。

 

 由比ヶ浜と見比べ、ため息を一つ。

 

「まあなんだ。…がんばれ。遺伝的に考えれば望みはある」

 

「…殺されたいのなら、素直にそういいなさい。大丈夫よ、痛いのは一瞬だから」

 

 はい、ごめんなさい。

 

 そんなやり取りの中、海老名さんは一人「そっか、やっぱり男の人は大きいほうが…」とかつぶやいている。いま海老名さんに偏った男性像を植え付けてしまったかもしれない。海老名さんのご両親、ごめんなさい。

 だが、勘違いされたままというのも癪だ。

 

「いや、べつにそういうことではなくて…」

 

「でも、ヒキタニ君は大きいほうがいいんだよね?」

 

「う…」

 

 そうはっきりと問われると、言葉に詰まる。

 

 煮え切らない態度が気に入らないのか、海老名さんはせかす様に言う。

 

「たとえば、ヒキタニ君は去年の林間学校のお手伝いの時、ここにいる全員の水着姿を見ているわけだよね?一人だけ川遊びもせずに、じっとりと、ねっとりと」

 

 おい、その言い方には激しく語弊があるだろうが。

 

 そのあと少しためらったが、後に引けなくなったのか。顔を紅くして、彼女は問う。

 

「で、それを踏まえて、ここにいる3人のなかだったら、だ、誰の水着姿がよかったの?」

 

「…はい?」

 

 彼女は慌てて手を振る。

 

「だってヒキタニくん、さっきから全然にはっきりしなくて、一般的な参考にすらならないんだもん!具体性を持たせた方が話も分かりやすいでしょう?」

 

 ぐ。一理ある、のか?

 

 まあ俺がはっきりしなかったのは確かだ。気づくとほかの二人もかたずをのんでこちらを見ている。

 

 さて、ここではどんな選択肢があるのだろう。シミュレーションしてみよう。

 

 1.由比ヶ浜→やっぱり巨乳好きの変態なのね。

 

 2.雪ノ下→ひんにゅ…そういう趣味の変態もいるよね。

 

 3.海老名さん→スク水好きなんだね。変態だね。

 

 はい詰んだ。

 

 いや、逆に考えろ。どうせ変態になるんだったら、一つ選択肢があるじゃないか。絶対的で、決して揺るがない、俺なりの、俺だけの解が。俺は、おれは、オレは。

 

 千葉の変態になる。

 

 深呼吸をすると、彼女たちの体もびくっと動く。窓の外をぼーっと見る。

 

 「…小町」

 

 「「「変態」」」

 

 やったぜ。

 

 

 

 

 

 

 会計をすまし、自転車を駅においてある俺と海老名さんは二人と別れ駐輪場に向かう。どうも、会計が終わってから彼女たちの態度がよそよそしかった気がする。小町ぃ…。お兄ちゃんもうだめかもしれない。

 

「やー、それにしても」

 

 カギをぶんぶんと回しながら、こちらをのぞき込む。

 

「今日はずいぶんとヒキタニ君とお話しちゃったね」

 

 さりげなく視線は外しておく。

 

「だな。…一生分話したまである」

 

「あはは、一生分って…案外、付き合い長くなりそうな気がするけどな?私たち」

 

 彼女を見る。いつもの笑みを浮かべている。が、

 

 その顔は紅い。

 

「…できれば今日限りにしてもらいたいもんだ」

 

 どうも調子が狂う。

 

 

 

 

 

 駐輪場についたが、ここで問題があった。

 

「あ、傘、持ってない」

 

「…まじか」

 

 ここまでは駅のサイゼから屋根伝いできたから彼女も気づかなかったのか。俺は折り畳み傘があるが、決してそんなに大きいものではない。べ、べつに相合傘とか意識してるわけじゃないんだからねっ。

 

「はぁ…」

 

「ど、どうしよう。まあこのくらいの雨だったら濡れて帰っても…」

 

 悩む彼女を遮り、

 

「ん」

 

 某トトロの寛太君ばりに、傘を差しだす。

 

「え?」

 

「いや、うちここから近いし、傘なしで帰って風邪でもひかれたら寝覚めが悪い。よければ使ってくれ」

 

「いや、でも悪いよ…。それにヒキタニ君のうちそんなに近く…そうだっ」

 

 ポン、と両手を合わせ、両手越しにこちらを上目遣いで見る。う、そのしぐさはやばい。

 

「あ、相合傘で帰ればいいんじゃないかな?」

 

 口にしたことで恥ずかしさがあとから襲ってきたのか、合わせられた手は開き、彼女の顔を覆う。

 

 ちょっとまて、だからなんで今日この人こんなに…。やばい、一刻も早くここから離脱せねば、俺の何かが決壊する気がする。

 

「い、いや、この傘そこまで大きくないし、二人で自転車押しながら帰るのは無理があるだろ。っていうことで、はい」

 

 海老名さんの荷台に強引に傘を押し付け、ペダルに足をかける。

 

「あ、ちょっと…」

 

「じゃあ、雨降ってるし気を付けて帰れよ。じゃあな」

 

「あ、比企谷くん、私ね…」

 

 何か言いかけた彼女を残し、雨が打ち付ける夜の千葉で、俺は一人自転車を飛ばした。

 

 …寒い冷たい着替えたい。

 



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濡れネズミの報酬

 

 今日は金曜日。

 

 翌日の休みのために学生はせっせと学校に行き、社会人は今日で終わりだと自分に言い聞かせ、馬車馬のように働く日。先日某新垣結衣が出ていたドラマであったが、「仕事の半分は仕方ないでできていて、もう半分は帰りたいでできている」なかなか的を射ているのではないか。まあ俺の将来は専業主夫なんで、関係ないんですけど。

 

 さて、そんな金曜日。俺も死んだ目で学校に行っているかというとそんなことはなく、家でポケーっとアニメを見ている。か、勘違いしないでよね、別に学校に居場所がないわけじゃないんだからねっ!…いや、まじで。

 

 先日海老名さんに傘を差しだし、寛太君張りのテンションで帰路についたところ、見事に風邪をひいてしまった。雨に打たれたくらいで風邪をひくとは思わなかった。

 そう、俺こと比企谷八幡、あまり風邪をひかない。というのも、小町が小学生まで少し体が弱く、よく風邪をひいていたからだ。…いや、説明になってないな。つまり、両親はよく風邪をひく小町の世話で手いっぱいで、比企谷家カーストワースト一位(カマクラよりちょい下)の俺が風邪をひくわけにはいかなかった。兄の鏡じゃないか。

 

 そんなわけで今俺は自室で寝転がりながらスマホでアニメを見ているわけだ。万が一にも小町に風邪をうつすわけにはいかず、満足にトイレにも行けない。兄の鏡というか、俺こそ小町の兄である。

 

 ちなみに今年から晴れて総武高校に入学を果たした小町は、すでに兄を家に残し登校していった。風邪の兄に何か気を遣ってくれるかと思ったが、今日の小町との会話は「あ、お兄ちゃん、小町時間ないから鍵かけといてよ」

 

 …兄の安全に配慮してくれるとは、なんと優しい妹か。

 

 そんな小町は総武高校に入ったらもしかしたら奉仕部に入るかもしれないと思ったが、そんなことはないらしい。

 

「だってあそこはお兄ちゃんたちのものでしょ?」

 

 当然のように小町は言った。

 

「それよりもお兄ちゃんがごみいちゃんだから、小町は権力を握らないといけないのです」

 

 何を企んでいるのかは知らんが、千葉のお兄ちゃんとしては小町がすくすくとたくましく成長しているようでうれしい限りだ。…そろそろ気持ち悪いな。

 

 ぼーっとアニメを見て、気づけば時刻は正午。ごろごろしてるだけでも腹は減る。風邪といっても微熱がある程度なので、飯が食えないほどではない。リビングに下り、何かないか探す。すると

 

 

  「お兄ちゃんへ

 

    お昼のおかゆです。おなかがすいたら温めて食べてね。

 

      愛しの小町より 愛をこめて☆

 

    あ、今の小町的に超超ちょーーーーーうポイントたっかい! 」

                                

 

 …お兄ちゃんポイントがカンスト寸前だよ。

 なんなの?うちの妹は千葉の妹なの?うん、間違いなく千葉の妹だ。まちがったルートに行きそうで怖い。

 

 ありがたくおかゆをいただくことにする。うまい、うまいよ小町。

 冷蔵庫にゼリーもあったので、それも食べる。もしかしたら親が買ってきてくれたのかもしれない。まあさすがに風邪の時くらいはね。

 

 ご飯も食べたからさっさと寝ることにする。アニメをスマホで見るのはいいが、目が疲れるしついつい止め時をなくしてしまうのは困りものだ。一応病人なのだから少しは休んでおこう。病んでるといえば普段から病んではいるが。目とか性根とか。

 

 

 

 

「ピーンポーン」

 

 誰だ。

 

 インターホンの音でたたき起こされる。時計を見ると時刻は17時。どうやら割とぐっすりと寝ていたらしい。

 それにしてもインターホンと電話の音はどうも好きになれない。こっちの都合などお構いなしに一方的にかかってくるからだろうか。あ、電話はかけてくる人いませんでしたね。インターホンもアマゾンの宅配以外俺には関係なかった。八幡、友達捏造しちゃった☆

 

 こちとら調子がよくないのだ。宅配でアニメグッズもゲームも、イケナイおもちゃも頼んだ覚えはないので、ここは無視することにする。寝よ寝よ。

 

「ピーンポーン」

 

「…」

 

「ピーンポーン。ピーンポーン」

 

「…」

 

「ピーンポーン。ピーンポーン。ピーンポーン」

 

「…」

 

「ピンp…」

 

 ああ、うるせえなぁ!あきらめろよ!なんであきらめないんだそこで!!

 気分は逆松岡修造。やはり今日は少しおかしい。

 

 くだらないことを考えるのはやめ、いい加減出ることにする。ここまであきらめないということは宅配といったものではなく、何か明確な用事があってきたのだろう。となればいつ諦めるかわかったものではないし、もしかしたら人が中にいるのがわかっているのかもしれない。しかし、家に人がいるとわかるのはいったいどういう時だろうか。

 

 深く考えを掘り下げる前に玄関の前につく。この間もインターホンが鳴っていたので少しせかされた。

 

「あー、すみません、何もかも間に合ってるんで…」

 

 ドアを開ける。そこにいたのは

 

「比、比企谷君のお宅でしょうか!!」

 

「は?」

 

「え?」

 見たこともないほど緊張した、海老名姫菜だった。

 

 

 

「…で、海老名さんは休んだ俺にプリントを届けに来た、と」

 

「う、うん」

 

 リビングのカマクラとの距離をはかりながら、海老名さんは答える。恐る恐るカマクラに手を伸ばしたり引っ込めたりしてる姿が、どうも雪ノ下を彷彿とさせる。

 

 とはいっても。

 

「かといって、別に海老名さんが来る必要はなかっただろ」

 

「じゃあ、他に誰が来るの?」

 

 …言葉に詰まる。去年であればとつかわいい戸塚が筆頭だ。まあ部活で忙しいなら由比ヶ浜あたりが奉仕部とクラスメイトの義理で来るかもしれない。しかし、今年は。

 

「…来てくれて助かった」

 

「素直なのは、いいことだ」

 

 花の咲くような笑顔を向けられる。いや、冗談抜きで助かった。さっき俺は風邪をひかないといったが、ひくわけにはいかないのだ。ボッチであることのデメリットの一つ。休むと周りの状況が全く分からなくなる。だから俺は大学に行っても授業には毎回出ることになるだろう。…大学生活がタノシミダー。

 

 ふとここで先日の疑問に行きあたる。

 

「そういえば、なんで俺の家知ってたんだ?」

 

 そう、先日のやり取りの中で、彼女は二度、俺の家を知っているということを示唆する発言をしていた。別に年賀状をやり取りする仲でもないだろう。なんなら幼稚園以来、同級生から年賀状が来たことはない。…あ、今年は材木座から来たな、墨使って筆で書いてあった。中身は知らん。宝くじが外れてたことは確認したのでだすとしゅーと。難しい漢字たくさん知ってるねっ!

 

「ああ、私の家もここから五分くらいだから、たまに見かけてたんだよ」

 当然のように海老名さんは言う。

 

「いや待て、中学で海老名さんを見た覚えはないぞ」

 

 同じ中学からほとんど人が来ないから、総武を選んだのだ。

 

「だって引っ越してきたの去年の冬くらいだからね。…ヒキタニくんは全く気付いてなかったみたいだけど」

 なぜかジト目を送られる。考えてみれば俺はぎりぎりで学校に行くことが多いし、放課後は奉仕部で下校時間まで過ごす。部活に入っていない海老名さんとは生活パターンが違ったのだろう。

 

「なるほど、それもあって平塚先生に頼まれたんだな」

 

 いい忘れていたが、今年も俺の担任はあの万年独身国語教師(白衣)だ。(白衣)って何だ。冷静に考えてなんであの人白衣着てるんだろうな。そこ、キャラ付けとか言わない。

 当然、平塚先生は去年も担任していた海老名さんの家と俺の家が近かったことは知っていたのだろう。

 別におかしなことは言った覚えはないのだが、カマクラの顎を撫で、目を細めていた海老名さんの手が止まる。

 

「え、えっとね、今日は頼まれたんじゃなくて…」

 

 こちらにちらりと上目遣いを送り、目が合うとまた慌ててカマクラに視線を向ける。「かまちゃんかわいいねー」猫なで声を出す。おい、その呼び方はやめろ。

 

 海老名さんはごほん、と一つ咳ばらいをし、鞄から紙束を取り出す。

 

「と、とにかく、これ今日もらったプリントね。あ、あと平塚先生から。「この進路票にふざけた進路を書いてきたらそのときは…わかるな?」だって。…ヒキタニ君。君いったい今まで平塚先生にどういう言動とってきたの?」

 

 海老名さんがあきれ顔で問うが、そんなひどい悪行はした覚えは…ないとは言えないか。まあいい加減あの人を心配させるのはどうかとも思う。進路票には真剣に、専業主夫と書いておこう。

 

「別に大したことはしてねえよ。…まあその、なんだ…今日はありがとな」

 

 ついでのように礼を言うが、なんだかむず痒い。ついそっぽを向いて吐き捨てるようになる。中学生か俺は。

 海老名さんの様子をうかがう。

 

「い、いえ、どういたしまして…」

 礼を言われるとは思っていなかったのか、虚をつかれた顔をし、頬を赤らめる。まあ、気分を害した、ということはないようだ。

 

「ところで、ヒキタニ君、体調は大丈夫なの?」

 

「ああ、別にそこまでひどい風邪じゃねえよ。午前中はアニメ見てたくらいだ」

 

「そっか。…ごめんね?昨日私に傘貸してくれたから…」

 

 海老名さんは下を向く。やはり、そう思ってたか。

 

 彼女の責任感がある程度強いことは、知っていた。文化祭では自らの趣味とはいえ、実質彼女一人でクラスの劇の準備を指揮していたし、体育祭では何の関係もないはずの仕事を最後の準備の段階まで手伝っていた。

 

 まったく、何を浮かれているのか。いまだに勘違いをする自分に嫌気がさす。彼女が今ここにいるのは、家が近く、そして幾ばくかの感じなくてもいい、お門違いの罪悪感があるからだ。

 

「べつに、そういうわけじゃねえよ。海老名さんは断ってたのに返事も聞かずに傘を押し付けたわけだし、むしろ悪いのは俺だ。あんたに非はないし、謝られても迷惑なだけだ」

 

 今度は意図して吐き捨てるように言う。

 

 しかし、目の前の海老名さんからは何の返答もない。勝手な言い分に腹が立っただろうか。それならいいのだが。

 

 しばらくそのまま待つ。すると。

 

「ぷっ」

 

 ぷ?

 

 顔をあげる。

 

「あは、あっはは!やっぱりそういう返しになるんだね、ヒキタニ君は。ほんとおかしいよね、きみ」

 

 盛大に笑っている海老名姫菜がいた。

 

 ひと通り笑い、目じりを拭う。いや、まて。

 

「いまなんかおかしいこと言ったか?」

 

「いやだってさ、本物の捻デレ見れたからさ。」

 

「…だからそれ矛盾してるだろうが。大体どこにデレがあるんだよ」

 

 海老名さんは一つため息をつき、あきれたように言う

 

「え、だってどうせ「お前が罪悪感抱く必要ない」とか思ってるんでしょう?」

 

 う。

 

「わからないとでも思った?だってさ」

 

 一呼吸つき、眼鏡をはずしほこりをふく。

 

「私は比企谷君のこと、知ってるって言ったでしょ?」

 

 その笑顔は、昨日のそれよりもずっと明るかった。

 

 

 

 

 長居しては悪いと思ったのか、海老名さんは帰ろうとしたが、なんの義理もないのに来てもらってお茶の一つも出さないわけにはいくまい。コーヒーを淹れ、海老名さんの前に置く。一応砂糖も添えておいたが、海老名さんはブラックで飲む。…やはりこの人とは相いれないかもしれない。それにしても…。

 

「海老名さん」

 

「ん?なあに?」

 

 ああ、これは気づいていないのだろうな。

 

「その…そろそろ眼鏡をかけておいてくれないか?なんつーか、落ち着かないというか…目の毒だ」

 

 そう、彼女は眼鏡を置いた後そのことを忘れてしまったようで、ずっと裸眼だったのだ。おそらく目はそこまで悪くはないのだろう。

 

 指摘され彼女は慌てて眼鏡をかける。

 

 「…見た?」

 

 何か誤解を与えそうな表現だ。

 

「さすがに話してる人の顔くらい見る」

 いや、あーしさんとかは無理だよ?だって怖いし。

 

「ひ、比企谷くん、目、目の毒っていうのは…」

 

 海老名さんは顔を真っ赤にし、カマクラを抱く。

 

 く、失言だったか。

 

「い、いや、それはだな…」

 

 そう、眼鏡をはずした彼女は、なんというか、その…かわいかったのだ。

 

 いやまて!誤解のないように弁明しておく。あの三浦優美子のグループに居られる女子だ。顔がいいのは当然のこと。しかし、彼女は普段の言動、そして眼鏡によって自分の素顔を隠していた。目が悪くないのに眼鏡をかけているのはその傍証だ。腐女子趣味も先日俺がアニメイトで思い当たり口をつぐんだように、もしかしたら男を遠ざけるためかもしれない。

 そしてそんな女子が眼鏡をはずし、こちらに見たこともない笑顔を向けたとしたら。

 

 「かわいくないわけがない」

 

 「え」

 

 「あ」

 

 あああああああああああ!!!!!

 

 だから、思ってることが口に出るとか(ry

 

 彼女を見ると、昨日のように顔を紅くし、ぽかんと口を開けている。うぅ…ごめんなさいぃぃ。

 

 しかし昨日とは違い、今度は紅い顔でおれをしっかりと見据えた。

 た、たのむ、一言「キモイ」といってくれ。雪ノ下のように、まじで引いた目で俺を罵ってくれえええええええ!!!!!!!!!!!!!

 

 しかし、俺の願いは届かない。

「えへへ…ありがとう。うれしい、な」

 

 ぐはっ!!!痛恨の一撃!!!!!はちまんは88888888のダメージをうけた!!!

 

 …だから俺、眼鏡っこは苦手なんだよ。眼鏡外すだけでこの破壊力とか、ちょっとずるすぎないか?

 

 

 

 その後は気まずくなったうえ、小町が帰ってきたこともあり海老名さんには席を立ってもらった。

 

 いやもちろん、小町がタダで帰すわけがない。「こんどのお義姉ちゃん候補は眼鏡っこ!?」「姫菜さんはお兄ちゃんとどこまでいったんですかーーー?」「…ぶっちゃけあの二人に対して勝算ありますか?」というような、まあわけのわからないことをまくし立てていたので、こちらもさっさと自分の部屋に上がらせた。

 

 送っていくといったが、流石に断られた。そういえば風邪でしたね、俺。元々軽い風邪の上、いろいろあったから忘れていた。

 

「ヒキタニくん」

 

 帰りがけ、いつもの眼鏡の海老名さんが、いつもの微笑みを浮かべる。

 

「ヒキタニ君は、眼鏡あるのとないの、どっちがいい?」

 

 …嫌なことを聞くものだ.

 

「いつも通りで、頼む。」

 

 

 

 翌週の月曜日。

 

「ヒキタニ君、はろはろー」

 

 寝たふりの顔をあげ、前を見る。

 

「どう?」

 

 屈託なく笑う、素顔の海老名姫菜がいた。

 

「いつも通りで頼む、といわなかったか?」

 ガシガシと頭をかく。直視できないではないか。

 

 俺のリアクションに満足したのか、ふふんと、彼女は胸を張る。

 

「私、性格よくないの」

 

 うん、知ってた。

 

 

 

 



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「彼の名は」

 

 その人のことを知っている、と人は無意識のうちに思ってしまう。

 

 自らの見聞きした情報で、感じた印象で、人のことを定義づける。その人は自分の知るものだけで構成されているわけがないのに、それを認めるのは怖いから。誰しも目に見えないものをそう簡単に信じられないから、自分で枠組みにはめ、「らしさ」を押し付けようとする。

 

 それだけに一度その人とはかけ離れた印象を受けると、その記憶は強く残る。

 

 

 

「おーい、ヒキタニくーん、きいてるー?」

 目の前に座る海老名さんによって意識は戻される。しまった。

 

「…おお、聞いてる聞いてる。戸塚ってかわいいよな」

 

「だよねだよね!でも戸塚君がかわいいだけじゃダメで、ヒキタニ君が受けることによってそこに一つの芸術が…って、ちがう!」

 

 見事なノリツッコミ。ノリというか完全にガチだったから、雑にふったことを軽く後悔してしまった。

 

「ねえ、絶対話聞いてなかったよね、君」

 

 笑顔が怖い。

 

「いや、そんなことはないぞ。ただ…」

 

「ただ?」

 

 しまった。海老名さんの笑顔が怖くて、つい口走ってしまった。

 海老名さんは無言の笑顔で先を続けるよう促す。事ここに至っては真実を言った方がよいだろう。下手にごまかしてもどうせばれて余計面倒になるだけだ。

 

「いや、いまだに裸眼の海老名さんを見慣れなくてな」

 

 突然の来訪から5日。あの日の翌週から、海老名さんは眼鏡をかけなくなった。去年は三浦のグループに属していただけに、そこそこ名の知れていた海老名さんが突然眼鏡をかけてこなくなったということは、新クラスでは話題になった。どう話題になったかというと…まあ有り体に行ってしまえば、男子の注目を集めるように、だ。元々整った顔をしているが、腐女子趣味と眼鏡でそこまで大っぴらにモテる風ではなかった。しかし、三浦と由比ヶ浜の不在によって前者が、その、まあ俺によって後者が抜け落ちたことによってそうなったわけだ。正直、今もほかの男子の目線がうっとうしいことこの上ない。

 

 はっとした様子の海老名さんは、髪の毛をいじりながらそっぽを向く。

 

「へ、変かなっ?」

 

「いや、別にそういうことではないが…」

 

「じゃ、じゃあ似合ってる!?」

 

「裸眼が似合うって何なんだよ…」

 

「う…」

 

 自分が的外れなことを言っていると気づいたのか、ばつが悪そうに伏目がちになる。

 

「はぁ。…もしおかしかったら、こんなに男子から恨みがましく見られることもなくてよかったんだけどな」

 

 海老名さんはあたりを見渡す。そして苦笑を浮かべ、申し訳なさそうに続ける。

 

「あちゃー…ごめんね。こうなるから嫌だったんだよね」

 

「ならまた眼鏡かければいいんじゃないか?」

 

 少し間がある。俺はいま何か、間違ったことを言っただろうか。

 

 深呼吸を一つ。

「…その要因になった張本人が、そういうことを普通言うかな?」

 

 …そう、彼女は少し変わった。眼鏡のことだけではない。あの日から、教室では彼女は俺の近くにいることが多くなった。本人は「新しいクラスで知り合いあまり居なくてねー」と笑っていったが、おそらくそんなことはないだろう。女子と談笑しているところもよくみかけるし、男子はさっきの様子だ。だからこそ海老名さんは彼らを敬遠しているのかもしれないが。

 

 今の発言にしても少し違和感を覚える。彼女はそこまではっきりとものをいうタイプではなかったはずだ。いつも自らの作ったキャラをかぶり、少なくともクラスで見ている分には彼女からは「腐女子の海老名姫菜」という上辺しか見えてこなかった。

 

 さて彼女が変わったのか、それとも俺が見えていなかったのか。

 

 考え込むうちに、始業のチャイムが鳴る。

 

「おっと、じゃ、ヒキタニくんまたね」

 

 そう言い残し、いそいそと自分の席に戻る。さあ、次の授業は何だったか。

 

 前の席の主の男子が俺に怪訝な視線を送ってくるのにも、いい加減慣れた。

 

 

 

 

 

 

 

 四限の現国がおわり、昼休みになる。と同時に俺は席を立つ。いざ、ベストプレイスへ。

  

 が、

 

「ああ、比企谷。少し話があるから、来てくれるか?」

 平塚先生から呼び出しをくらった。

 

 また俺は何かやらかしただろうか?今日の現国の授業を振り返るが、どうも思い当たらない。

 そして先日の進路調査票に思い当たる。まじめに書きすぎて先生も心配してしまったのか?やはりあの伝言はフリだったのか。まあ俺はそういうノリがこの世で一番嫌いなので、問題はない。

 

 廊下にいる平塚先生のもとへ昼飯をもって向かう。

 

「はい、なんでしょうか。とりあえずすいませんでした」

 

「何を言ってるんだ君は…別に叱りたいわけではない。ただ、な」

 ちらりと教室を見る。

 

「すこし、驚いた」

 

「はい?」

 

 平塚先生はその先を続けるか少し迷ったのか、ため息をつき手はポケットのたばこに伸びる。が、ここは廊下だ。無意識の行動だったのか、ばつが悪そうに手を引っ込める。

 

「…海老名のことだ。先週は自発的に君の家にプリントを届けにいき、翌週からは眼鏡をはずし、最近は何やら親しげに君と話している」

 

 さすがによく見ている。

 

「はい、それが何か?」

 

 平塚先生は目を見開いてこちらを見る。まるでこの世のものではないものを見るように。

 

「否定しないのか」

 

「散々俺は拒絶したつもりなんですがね…どうも調子が出なくて。はぐらかされたと思ったら、真をつかれる、というか」

 

 平塚先生は今度はさも愉快そうに笑う。

 

「ふ、はっはっはっ!いや、変わったのは海老名だけではないようだな」

 

「俺が変わるなんてありえないですよ。人間そう簡単に変わるものじゃない。調子が出ない時は誰にだってあるでしょう?」

 

 柄にもなくムキになってしまい、そう吐き捨てる。

 

「そうかな?」

 

 しかし、即座の否定に二の句を継げない。

 

「人間、きっかけなんてどこにあるかわからないものだ。君も海老名も、確かにかたくなではある。だが、君はこの言い方は嫌うかもしれないが、君たちはまだ高校生だ。今からこれから数十年の生き方が決まっているとしたら、あまりに虚しいと思わないか?」

 

 詭弁だ。そう思う。俺たちだったらわかりやすいものとして受験。高校時代にあるこの選択は人生の少なくはない部分を決定してしまう。そして彼ら教師も、受験を大切なものとして俺たちに語る。

 そんなことを言おうとしたが、どうもうまく言葉にできない。

 

 俺から何も返事がないことで、平塚先生は一層上機嫌になる。まったく、この人も性格がよくない。

 

「沈黙は肯定ととられるぞ。だれでも、自分の都合の良いように解釈したいものだからな」

 ニッと笑う。その笑みは格好のよい教師のものではなかった。

 

 その笑みで、一言返す余裕が生まれた。

 

「沈黙は金、ですよ」

 

 つくづく、俺らしくない。

 

 

 

 

 

 

 三年生になってもベストプレイスにはずいぶんとお世話になっている。そしてこの聖域はいまだに侵されず、俺だけのものである。

 

 はず、だったのだが。

 

「あ、せんぱーい。今日もこんなところにいるんですかぁ?」

 

 甘ったるい声が聞こえる。無視する。

 

「ひどーい、なんで無視するんですか?こんなにかわいい後輩がはなしかけてあげてるのにぃ」

 

「…先輩は俺以外にもいるし、俺じゃなかったら返事した時にいたたまれねえだろ。大体、俺の聖域をこんなところ呼ばわりする後輩を、俺はもった覚えがない。なんならこれまでの人生で後輩なんていなかったまである」

 

 相変わらずあざとい一色に、俺はしっしっと手を振る。大体こいつはなんで俺のこと名前で呼ばないの?名前知らないの?

 一色いろはは頬を膨らませる。

 

「なんですかその態度は。いいんですか?私が来なくなったらせんぱい一人ですよ?」

 

「あほ、俺は一人がデフォルトだよ。むしろお前が来ることの方が不自然だろうが。なに、教室に居場所がないの?」

 

「…せんぱいにだけは言われたくないんですけど」

 

 そう、この一色いろは。去年の三月あたりに偶然昼休みここで会ってから、昼休みはたまに顔を出すようになったのだ。ジャグラー張りに男を手玉に取る代償に、女友達は少ないのだろう。かわいそうに。

 そんな一色に少なからず同情している俺は追い返す気にもならず、まくし立てる一色を放っておいて黙って飯を食っている。ああ、友達がいないって哀しいね。…やめよう、そろそろダメージの蓄積が…。

 

「ま、まあいいです。おなかもすきましたし、お弁当にしましょう」

 

 俺の横に腰掛け、膝に弁当を広げる。俺は毎日買ってきたパンだからいいが、ここで弁当を食べるのは厳しくないか?

 

 「いただきます」

 

 合掌をして弁当を食べ始める。俺よりよっぽど行儀がいい。

 

 今日の一色の弁当は小さなハンバーグとエビフライを主菜に、副菜にブロッコリー、トマト、コーンなどを添えて主食はピラフのような混ぜご飯、といったオーソドックスなものだ。に、しても。

 

「いつも思うが、よくそれで足りるな。お母さんにもうちょい量増やしてもらうように言ったほうがいいんじゃないか?」

 

「なんですか、失礼な!わ、私そんな食べるイメージありますか?」

 

「いや、だってお前奉仕部で由比ヶ浜と一緒にいっつもバクバクお菓子食ってるじゃねえか…」

 

 なぜか一色は顔を赤くする。

 

 大体なんでこいつ気づけば奉仕部に入り浸ってるの?生徒会にも居場所がないの?…おれも百合百合してる二人相手に、奉仕部で居場所など皆無なわけだが。

 

「お、お菓子は別腹なんです!大体これ自分で作ってますから。この量で充分なんですー」

 

 ほう。

 

「意外だな」

 

「なんですか、私が料理するのはそんなにせんぱいの中で不自然なことですかー?」

 

「いや、普通に親が作る弁当と遜色ないレベルだから、おまえお菓子作りだけじゃなくて料理もそこそこできるんだな、と」

 

 彼女はハンバーグを箸で持ち上げたままフリーズした。

 

 数秒たってはっと声をだし、思い出したように手をぶんぶんとふる。

 

「な、なんですか口説いてるんですかもう彼氏面して『俺にもおいしい弁当作ってくれ』とかほんと厚かましいにもほどがあるので、できればもう少しここで一緒にお弁当を食べて私のお弁当のレパートリーを見てからリクエストしてください。ごめんなさい」

 

「べつにんなこと頼んでねえよ…」

 

「な!?じゃあせんぱいは私のお弁当は食べたくないっていうんですか?」

 

「だからそんな話してn…」

 

 俺の声は突然の闖入者によって遮られる。

 

「あっれれー、ヒキタニクーン?おっかしいなー?」

 

 コナン君!?思わず振り返る。そこには

 

「はろはろー。こんなところで、なにしてるのかな?」

 

 能面のような海老名姫菜がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「せんぱーい、この人誰ですか?」

 

「ヒキタニ君、この子、なんでこんなところにいるの?」

 

 俺の後輩と同級生が修羅場過ぎる件について。

 

 

 ごめんなさい、一度言ってみたかっただけです。…ほんと、そんないいものじゃないし、修羅場云々ではなく、単純に犬猿の仲なのだろう。

 

 ファーストインプレッションから最悪のこの二人。考えてみればこの二人が仲良くしているところは、上手く想像できない。なぜだろうか。

 たぶん。俺は考察する。この二人は正反対なうえ、どこか似ている。徹底的に異性を遠ざける海老名姫菜。片や徹底的に異性を手玉に取る一色いろは。しかしどちらも発言、行動ともに仮面をかぶっていることに変わりはない。つまり、異なるものを受け入れられない気持ちと、同族嫌悪が入り混じっているのだ。あれ、これ詰んでないか?

 

 険悪な雰囲気はそのまま、海老名さんは続ける。

 

「私はあなたのこと知ってるけどねー、生徒会長の一色いろはさん?」

 

「えー、私全然この人のこと知らないですー、せんぱい」

 

 話しかける海老名さんを軽く無視し、俺のほうを見る一色。だから、この子はなんでナチュラルに同性を敵に回しちゃうの。

 

「これでわかるかな?」

 

 普段の笑みを張り付けた海老名さんが、眼鏡をかける。一色はあっ、と声を出す。

 

「あっ、三浦先輩のお友達の…えーっと、何さんでしたっけ?」

 

 …海老名さん、ここはこらえてくれ。

 

「…海老名姫菜です。よろしくね、一色いろはさん」

 

 そこはさすがというべきか。笑顔には一ミリのブレもない。ふー、と一息漏らし、眼鏡をはずして俺の横に腰掛ける。

 

 一色はそんな海老名さんに怪訝な視線を送る。あまりに自然に座ったから、俺も逆に驚いたが。

 

「…で、海老名先輩は何してるんですか?お弁当も持ってないみたいですけど」

 

「いやー、お弁当食べ終わってちょっと食後の散歩がてらぶらぶらしてたら、珍しいもの見ちゃったからね。つい足を止めちゃったんだよ」

 

「へー。あーでも、それならもう満足しましたよね?ただ一緒にお弁当食べてるだけなんで、わかったら教室に戻ったらどうですかー?」

 

「ううん、生徒会長の二年生とひねくれぼっちのヒキタニくんがどんな会話するかも気になるし、もう少し同席させてもらってもいいかな?」

 

「…っていうかー、さっきからヒキタニ君ヒキタニ君って、いったい誰の話してるんですかー?」

 

 一色の声がなぜか低くなる。いや、君も俺の名前知らないんじゃなかったの?

 

 一色の変化から何かを察したのか、一瞬表情に陰りが出るがすぐに元の笑顔に戻り、当然のように言う。

 

「え、八幡君のことだけど」

 

 なん、だと…。

 

 当の一色は信じられないものを見たような顔で海老名さんを見つめる。海老名さんは素知らぬ顔。

 ちょっとまて。

 

「海老名さん」

 

 二人の間を遮る。

 

「俺の名前、なんだっけ?」

 

「え、八幡でしょ?二人の時はいっつも八幡だよねー?」

 

 ねー、有無を言わせない笑顔で俺に微笑みかける海老名さん。声を出せない俺を差し置き、一色は肩を震わせる。

 

「へ、へー、ずいぶんせんぱいと仲がいいんですね」

 

「別にそんなことはないと思うけど。っていうかさ」

 

 海老名さんは言葉を切り、

 

「一色さんこそさっきからせんぱいせんぱいって、どこの先輩の話をしてるの?」

 

 挑発的に笑う。ぐっ、と一色の言葉が詰まる。

 

「ひ、」

 

「ひ?」

 

 またもや海老名さんは挑発的な笑みを浮かべる。

 

 こんな好戦的な海老名さんは見たことがない。…水と油とはこの二人のことか。

 

 うぅ、と涙目になる一色は、堰を切ったように叫ぶ。

 

「わ、私にとってせんぱいはせんぱいなんです!せんぱい一人なんです!!お、おかしいですか?」

 

 一色はない胸を張って、鼻を鳴らす。いや、涙目で余裕のふりをされても…。それに何言ってるかわかんねえぞ。

 

 だが、海老名さんはその言葉で何かを感じ取れたのか、納得したようにうなずく。

 

「うんうん、そうだねそうだね。…これはあれだね」

 

 俺を横目で見る。な、なにか。

 

「ぜんぶ、ヒキタニ君が悪いね」

 

「そ、そうですよ!ぜんぶせんぱいがいけないんです!!」

 目をごしごしとこすって、一色が同調する。

 

 はぁ。ため息が出る。いわれのない濡れ衣も、場を収めるためには必要だろう。戦争には、戦犯が必要なのだ。

 

「ごめんなさい」

 

 俺は深く頭を下げた。

 

 地面には一匹のアリが大きな獲物をせっせと運んでいる。そのアリを見つめ、思う。

 

 …人間も、大変だぞ。

 

 

 

 

 



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告白(前編)

 

 新しい朝が来た、とは誰が作った言葉だったか。

 

 俺に言わせれば滑稽極まりない。今日は昨日の延長であり、明日もまた然りだ。人は前日の惰性で今日を何とか生き抜き、それを死ぬまで繰り返す。そして変わらないからこそ回っている世界があり、変わらないことを望む人も大勢いる。むしろ変化を良しとする人間のほうがマイノリティではないだろうか。

 

 よって、これも特筆すべき事柄にはならないし、俺に新たな朝は来ない。

 

「ヒキタニ君へ 放課後、体育館裏にきてください」

 

 下駄箱にいれられた10センチ四方の紙には簡潔に伝えたいことのみが書いてあった。しかし、送り主の名前はない。

ため息が出る。

 

 瞬時に目だけであたりを見渡す。目につくところにはこちらを指さす集団は見えない。高校生ともなればいやがらせ一つとってもそう簡単にはぼろを出さない。

 

 俺は特にその紙切れを気にする様子を見せず、無関心で教室へ向かう。こういった時にはあからさまな無視も、反発も必要ない。そのどちらも「あいつ調子乗ってんな」の一言で片づけられ、嘲笑の的にされる。必要なのはただただ無関心でいることだ。そうすれば少なくとも傷を広げる可能性は格段に低くなる。

 

 教室につく。ここまでで目立って俺に視線を送るようなものは見当たらなかった。まあ、気にしすぎることは意味がないとさっき自分で言ったが、簡単にそうできれば苦労はない。

 

 机にカバンを置き、席に腰掛ける。と、同時に

 

「はろはろー、比企谷君。今日は一段と目が腐ってるけど、どーしたの?なんかいいことでもあった?」

 どこの部族のものかわからない挨拶をし、海老名姫菜は前の席に腰を掛ける。

 

「うす」

 

 短く挨拶を返す。いつも通りの彼女を見て俺は少し安堵する。この様子だと彼女ではないだろう。

 

「俺の目がキラキラしてても困るだろ。…すこし、気分の良くないことがあってだな」

 

 柄にもないことを言ってしまった。彼女には少し口が軽くなっているかもしれない。

 

「へー、比企谷君が気分の悪い、とはっきりと口にすることか。…少しばかり興味をそそられるね」

 

 彼女の瞳が鈍く光り、声のトーンは幾分か落ちる。まあ我ながら失言ではあったが…。

 

 そんなことより。おれは彼女とあってからの違和感の正体に思い当たる。

 

「海老名さん。ヒキガヤって、どこの誰だ?」

 

 彼女は俺のことを「ヒキガヤ」と呼んだ。

 

 別に本名で呼ばれたくないわけではないが、彼女は去年一年間は俺のことを「ヒキタニ」と呼び、俺もそれに慣れていたし、そこそこ会話するようになった最近も呼び名に変化はなかった。

 

 少し意地の悪い言い方をしてしまったかもしれない。彼女はたははー、と苦笑を漏らす。

 

「ほら、こないだ「ヒキタニ君」って言って、一色さんを怒らせちゃったでしょう?私はあの呼び方で慣れちゃってたから何とも思ってなかったけど、比企谷君だってやだったよね?…ごめんなさい」

 

 ペコリと頭を下げる。どうもその呼び方は彼女にされるとむず痒い。頭を2,3回かく。

 

「別に何とも思ってねえよ。それに、一色は別に怒っていたわけじゃないと思うけどな」

 

「そうは見えなかったけどなぁ…」

 

 実際に一色は本気で怒っていたわけではないだろう。

 

 おそらく、だが。

 

「たぶん、海老名さんと張り合ってただけじゃないか?」

 

 俺の言葉の意味をしばし考えたのか、海老名さんは少しの間顎に手を当て、何を思ったのか手を左右にぶんぶんとふる。

 

「ちょ、比企谷君突然なに言ってるの?そ、それってどういう意味?」

 

 理由を話すのは少し気が引けるが、何か誤解を与えたままというのも気分が悪い。だがまあ海老名さんだったら大丈夫だろう。

 

「どういう意味って…そのままの意味だ。海老名さん、おそらくだが一色のこと嫌いだろ」

 

 海老名さんは虚をつかれた顔になる。

 

「私、そんなに顔に出てた?」

 

 裏付けも取れたので少し安堵する。決して気持ちのいい話ではなかった。

 

 実際に一色と話すときの彼女の笑顔と仕草は普段と寸分も変わらなかった。だが、それだけに、見た目が全く変わらないだけに、その笑顔に込められた意味が俺には透けて見えた。「敵意」。少し大げさだが、言葉にするとしたらそんなところか。

 

「いや、顔には出てなかった。ただ、まあ、なんつーか…よく話す女子の様子がおかしかったら、流石に気づく」

 

 そっぽを向いてそう答える。

 

 俺の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのか、海老名さんは目を見開く。

 

「そ、そっか…」

 彼女はようやくその一言だけを絞り出す。

 

「…」

 

「…」

 

 …きまずい。

 

 突然黙りこみ、うつむいている俺たちにクラスメイトも怪訝な視線を送り始める。ま、まずい。このままではあらぬ誤解を与えるかもしれない。

 

「で」

 

 俺はようやくの思いで一言を絞り出す。

 

「名前の件なんだが、まあ俺はどちらでも構わん。海老名さんの呼びたいように呼んでくれ」

 

 彼女の顔に笑顔が咲く。う、まぶしい。

 

「そ、そう?じゃあ…」

 

 赤くなった顔をあげ、今度は両手を口に当てる。

 

「これからもよろしくね、は、はち、はち、まん…」

 

「…それは勘弁してくれ」

 

 いや、ほんとにそれは無理だ。それは戸塚以外には許されない呼び方だ。

 

「だ、だって!」

 

 彼女は机をバンとたたく。

 

「こないだ一色さんに普段は名前で呼んでるって言っちゃったんだよ?いまさら後には引けないでしょ!」

 

「前にも後ろにも行きようがないし、行く必要がねえだろ」

 

 俺の言い分にふんっ、と鼻を鳴らして口をとがらせる。別に間違ったことは言ってないよな?

 

「あ、ところで比企谷君が言ってた気分の悪いことって…」

 

 彼女の声を遮るようにホームルームを告げるチャイムが鳴る。

 

「ほれ、時間だ」

 

「う…仕方ないね」

 

 彼女はしぶしぶ自分の席に戻っていき、それと同時に前の席の男子も席につく。いつも本当にすいません。

 

 男子の気持ちになった俺は本当に申し訳ない気持ちになり、心の中で謝る。口に出して言っては無駄な火種を生みかねない。

 今日はいつもより長く、ホームルームが始まってからも前からの視線を感じた。寝たふりでごまかすしかない。…本当に、申し訳ありません。

 

 

 

 その日は海老名さんは調子がよかったらしく、あらゆるもののカップリングに忙しそうだった。よってさっきの疑問も忘れてくれたらしい。にしても…せめて有機物と絡ませてくれ。

 

 放課後。俺はいつも通り奉仕部に向かう。呼び出しには「放課後」とはあったが時間指定も宛名もなかった。十中八九いたずらだが、一応それらを理由にし、もしも本当に女子に呼び出されていた際の言い訳を無駄に自分に言い聞かせる。…もてる男はつらい。

 

 自分で傷口を広げつつ、奉仕部のドアを開ける。

 

「こんにちは」

 

「うす」

 

 短く挨拶を交わす。

 

 雪ノ下は教室で一人文庫本を広げ、紅茶を飲んでいた。夕日が彼女の長いまつげを差す。何も知らないものが見ればさながら絵画のワンシーンのように感じるだろう。しかし

 

「…どうしたのゲスガヤくん、そんなところにぼーっと突っ立って。不審者に間違われて通報される前にさっさと座ったほうがいいのではないかしら」

 

 これである。

 

「通報されるってここにはお前しかいないだろ」

 

「何を言ってるの、私に通報されたくなければ、という意味なのだけれど」

 

 雪ノ下は誰もが見とれるほど綺麗に、にっこりと笑う。

 

 …どうもあのサイゼリヤでの騒動から、彼女の俺に対する当たりがきつい気がする。いや、別に元々柔らかいわけじゃなかったんだけどね。

 

「やっはろー!」

 

 突如元気よくドアが開かれる。声の主は言うまでもなく由比ヶ浜だった。

 

「いやいやー遅れてごめんねー!ちょっと優美子に捕まっちゃってて…」

 

 なぜかちらりと俺の方を見て彼女はつぶやく。

 

「いえ、そこの男も今来たところよ。それより由比ヶ浜さん、この間姉さんにもらったお茶菓子があるのだけれど、どうかしら?」

 

「あ、うん!もらうもらう!」

 

 ぶんぶんとふられる尻尾が見えるようだ。犬ガハマさんェ…。

 

「では、お茶を淹れましょう。紅茶でいいかしら?」

 

「うん、ありがとう、ゆきのん!」

 

 パァ、と由比ヶ浜は笑顔を咲かせ、雪ノ下に抱き着く。今日も百合百合してまいりました。一応全年齢でタグ付けしてるからゆるゆりでとどめていただきたい。

 

「い、いえ、別に大したことではないわ」

 

 抱き着こうとする由比ヶ浜を押しのけながら、雪ノ下は顔をそらす。気持ちはわかるぞ。ボッチに由比ヶ浜の裏のない笑顔はきつすぎる。

 

「…ヒッキーの分は?」

 

 カップを1つ用意した雪の下に、由比ヶ浜は問う。雪ノ下はちらりとこちらを一瞥するが、目が合うと慌てて由比ヶ浜に顔を向ける。

 

「…水ならあるわよ、比企谷君」

 

 …話すときにはその人の方を向きなさい。こんなところで雪ノ下のブーメランが刺さるとは。あまりの態度に少し腹が立ち、つい軽口で返す。

 

「おう、ありがとな雪ノ下。心からの愛を感じるな」

 

「なっ…!!」

 

「ちょ、ヒッキー、なにいってるし!!!」

 

 雪ノ下は頬を赤くし、由比ヶ浜は目を吊り上げる。…やっぱりこいつら、あれからおかしい。

 

 

 

 気まずくなったところで、唐突にノックの音が響く。

 

 三者三様の沈黙が部室に満ちる。

 

 しかしノックは止まず、雪ノ下はため息を漏らした。

 

「…どうぞ」

 

 来訪者は雪ノ下からの返事を受けると少し迷ったのか、しばらくたってからドアを開ける。

 

「ち、ちーっす…」

 

 現れたのはセミロングの茶髪をカチューシャで止めた、いかにも軽薄そうな男。えーと、確かこいつは…

 

「あ、戸部っちじゃん。ひさしぶり、どしたの?」

 

 由比ヶ浜が話しかける。そうそう、基本いい人の戸部だ。ただしうざい。

 

「いや、今日はそのさ…」

 

 戸部は下を向き、言葉は千切れる。どうもはっきりしない。はて。俺は少し違和感を覚える。戸部とはこういう人間だっただろうか。去年依頼に来た時も言いにくそうにはしていたが、ここまで自信なさげではなかったと思うが。

 

 そんな戸部の態度に雪の下も若干イラついたのか、「何かしら?」と続きを促す。ゆ、ゆきのん怖いよぅ…。

 

 そんなことを考えると、雪の下からにらまれる。声には出てないはずだが…雪ノ下雪乃、恐ろしい子。

 

「いや、なんていうか…」

 

 雪ノ下からの催促で戸部の声はさらに小さくなる。しかし、ちらりと俺の方を見ると突然意を決したのか。所在なさげに横を向いて立っていた体は、こちらに向けられる。え、俺?

 

「ヒ、ヒキタニ君!」

 

「な、なんだ?」

 

 突然の大声にビクッと体を震わせる。

 

「実は、今日ヒキタニ君の下駄箱に手紙入れたの…あれ、俺なんだ!」

 

 戸部はそう叫ぶと調子が戻ってきたのか、「っべー、まじぱないっしょ、これ…」とつぶやき、頭をかく。

 

 由比ヶ浜は「ひゃー」いいながら俺と戸部を交互にみる。

 

 雪ノ下はゴミを見るような…違いました。ゴミを見る目で、自らの体を抱きかかえながら俺と戸部を眺めている。

 

 いろいろまちがってるだろ、これ…。

 

 静寂が支配する部室の中、俺は一人絶望する。

 



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彼の告白(中編)

 

 俺は自分が男だということに誇りを持っている。今まで自らの性に疑問を抱いたことはないし、当然女だったらよかったなどと感じたことはない。…いや、戸塚は天使だから性別はない。よって俺が女だったら、戸塚が女だったらなどという仮定は意味がない。

 

 話を戻そう。

 

 だからこそおれはこの予想だにしていなかった状況にフリーズする。

 

 由比ヶ浜は俺と戸部をあわあわと見比べるのみだし、雪ノ下に至っては同じ空間にいることも我慢できないのか、教室の端で体を丸めている。…こんな雪ノ下が見れただけでもラッキーだと思っておくべきか。

 

 当の戸部はというと。彼はバカではあるが決して空気が読めないわけではなく、奉仕部3人の反応を総合してある程度今の状況を理解したようだ。ちぎれんばかりの勢いで両腕を振る。

 

「ちょ、まって!いやそういうことじゃなくて、ヒキタニ君を呼び出したのはただちょびっと話がしたかっただけ的な感じっていうか…と、とにかく、全然そういうあれじゃないんで!」

 

 的な感じとかあれとかなんなの?否定したいのか肯定したいのかわからねぇ…。

 雪ノ下も同じように感じたのか、眉間にしわが寄る。ああ、いらついてらっしゃる。気持ちはわからんでもない。

 

 釈然としないボッチ二人を差し置き、由比ヶ浜は得心が言ったように手をたたく。

 

「なるほどっ、つまりヒッキーを呼び出しはしたけど、本当にそれだけでヒッキーに特別な感情は全然なかった、そーゆーこと?戸部っち」

 

「そ、そう、そんな感じで間違いないっしょ!!」

 

 …エアマスターの由比ヶ浜がいて助かったな、戸部と俺。俺と雪ノ下ではおそらく話は一歩たりとも前に進まなかったどころか、後退していたまである。

 

「ふう。それならいいのだけれど」

 

 雪ノ下はようやくいつもの席に戻る。この人そういう世界にちょっと偏見持ちすぎじゃないですかね…いや別に俺も積極的にかかわりたいわけではないが。こいつは海老名さんとは仲良くできないだろう。

 

 あらぬ誤解を受けた戸部はほっと一息つく。だがまだ本題は終わっていない。

 

「で、なんでヒッキーを呼び出したりしたの?」

 

 肝心なところで空気を読めない由比ヶ浜が問いかける。今のは「戸部の誤解が解けた話」として終わらせてほしいところだった。

 

 今更思い出したのか。戸部はまた俺に神妙な面持ちを向ける。あまりいい予感はしない。

 

 なにかいってごまかそうか、そう思ったがすでに遅い。

 

 戸部は重そうな口を開く。

 

 

「ヒキタニ君…海老名さんと付き合ってたりする?」

 

 

 …何を言ってるんだこいつは。

 

 もう一度戸部を見る。「ヒキタニ君、何まじになってんのー?冗談に決まってるっしょ!」そんな風に彼が笑うことを期待していたのかもしれない。

 しかし、そこにあるのは血がにじむほど歯を食いしばる戸部の顔。

 

 ふと無言の雪ノ下と由比ヶ浜を見る。すると彼女らは戸部ではなく、俺を見ていた。じっと、すがるように見つめていた。見返しても目をそらさない由比ヶ浜。時折視線を左右に逸らす雪ノ下。

 

「戸部」

 

 彼の名前を呼ぶ。できるだけいつものトーンを出すように心がける。

 

「ヒ、ヒキタニ君、どうしたん?」

 

 …あまり効果はなかったらしい。自分でも驚くほど出た声のトーンは低かった。

 

「その話、ここで話す必要はないな?」

 

「もともと体育館裏に呼び出したのは俺っしょ。だけど書いたこと思い出したら時間も名前も書くの忘れてて、今日は部活も休みだったから…」

 

 彼の言葉を引き取る。

 

「ここに来た、と」

 

「そう…っしょ」

 

 なるほど。ここに来た理由には納得がいった。やはりこいつはバカだが、基本的にいいやつなのだろう。

 

「じゃあ、まあ場所変えるか」

 

「ねえ、戸部っち」

 

 沈黙していた由比ヶ浜が唐突に口を開く。彼女の目に、迷いはない。

 

「戸部、行くぞ」

 

 彼女の目から逃げるため、俺は戸部をせかす。

 

 戸部は状況が呑み込めないのか、泡を食うのみ。俺は強引に彼の左手をつかみ、廊下に引きずり出す。

 

「まって」

 

 由比ヶ浜が俺の右手をつかむ。その手は冷え切って、先ほどまでの彼女を置き去りにしていた。

 

「私も、一緒に聞いていいかな?」

 

 まっすぐに、由比ヶ浜結衣は問いかける。

 

 …まったく、彼女らしい。いくつもの言葉も、一つの理由も使わない。彼女は理屈を必要としない。そんないつも通りの彼女に思わず笑みがこぼれそうになる。

 

 でも俺は。

 

「それはお前の勝手な要望で、俺と戸部にそれを聞く理由は一つもない。過度な詮索は迷惑だ。…それともお前が同席する理由があるのか?」

 

 俺はいつも通り理屈と拒絶で返す。俺には理屈が必要であり、それがなければまともに立つこともできない。

 たいがい、変わらない。そう思い、ふと在りし日の教員の笑みを思い浮かべる。…そう、簡単には、変わらないものだ。

 

 明確に拒絶しても、彼女は引かない。

 

「それでも!」

 

「由比ヶ浜さん」

 

 声を荒げる由比ヶ浜に、雪ノ下はいたって穏やかに呼びかける。

 

「やはりあなたには理由が必要なのね」

 

「誰にだって、何にだって理由はいるだろ。理由がなければ人は動けないし、理屈がなければ物事は回らない。…そんなこと、お前もわかりきってるはずだ」

 

「いいえ」

 

 迷いのない否定に、俺は言葉を失う。

 

「私はそうは思わない。理屈通りに物事は進まなければならないとするなら…この部屋は、あの日に終わっていたはず。そうでしょう?」

 

 それを言われるとどうにも弱い。

 

 俺の沈黙をどうとらえたのか、彼女は息を吐く。

 

「それに」

 彼女はにやりと笑い、続ける。しかしそのらしくない笑みは、どこか自嘲を含んでいるように見えた。

 

「比企谷君の大好きな理屈なら、あるじゃない。由比ヶ浜さん」

 

「え?」

 由比ヶ浜は目を丸くする。

 

「戸部君、悪いけどすこし外してもらえるかしら。時間はとらせないわ」

 

 雪ノ下のこれ以上ない笑顔に、戸部は逆らえない。

 

「え、いや、別にいいけど…」

 

 自らドアに手をかけ、しぶしぶと教室を出る。これだけ好き勝手言われ、振り回されて文句の一つも言わず、理由の一つも求めないとは。やはり、戸部はいいやつだ。バカだけど。

 

「さて、比企谷君」

 

 雪ノ下がこちらを向く。

 

「あなたと戸部君と海老名さん。…修学旅行の依頼の件、覚えているかしら?」

 

 忘れるわけがない。由比ヶ浜結衣の叫び、雪ノ下雪乃の諦めたような表情。そして…自らを嫌いといった海老名姫菜。

 

「ああ」

 

 彼女は深呼吸を一つ。さっきまでとは違い、確固たる意志を持った目で俺を見つめる。

 

「あの修学旅行の時、あなたのとった行動は奉仕部として正しいものだったかしら」

 

「ゆきのん!」

 

 由比ヶ浜が怒気のはらんだ目で、雪ノ下をねめつける。

 

「私は」

 

 雪ノ下は顎を引き、俺を見つめる。

 

「私は、彼にきいているの」

 

 由比ヶ浜は言葉に詰まる。

 

「でも、それは…」

 

「あの時奉仕部が受けた依頼は」

 もう彼女に由比ヶ浜の声は届いていない。

 

「戸部君の告白をサポートすることだったはず。そしてそれが成功しなくてもいいと戸部君は言っていた。それで間違いないわね?」

 

 俺はうなずく。戸部は俺の再三の脅しにビビりながらも、失敗しようとも「告白を手伝ってほしい」という依頼をした。

 

「私たちが受けた依頼は、戸部君が振られることを防ぐことではなかったはずよ。それも間違いないわね?」

 

 またも雪ノ下は俺に問う。当たり前のことをそれでも問う。

 

「そうだ」

 

「でもゆきのん!ヒッキーは私たちのグループのために、必死に悩んで…」

 

「そんなこと!」

 

 雪ノ下の声が響く。

 

「そんなこと、わかってるわ。私たちが海老名さん、葉山君、そしてあなたたちのグループの問題に気づきもしない時に、比企谷君は一人で行動して、解決策を探していた。そして、私たちはそれにも気づかず…彼に、押し付けた」

 

 自嘲気味に雪ノ下は笑う。由比ヶ浜の顔も下を向く。

 

 それは違う。

 

 俺は否定の言葉を口にしようとする。

 

「…それでも、それは道理には合わない」

 

 雪ノ下は俺を見た。そこまで悲痛そうな彼女を、俺は見たことがなかった。

 

「由比ヶ浜さん、私は最初にあなたに会って、依頼を受けたときにあなたにこの部活についての忠告をしなかったかしら」

 

 由比ヶ浜はうつむきつつも答える。

 

「…魚を捕ってあげるんじゃなくて、捕り方を教える」

 

「そう、ね」

 

 彼女は目を伏せる。自らの理念に対して、いつもまっすぐな彼女が。

 

「そう、それが奉仕部の活動理念だったはずよ。加えて、私たちが受けていた依頼は戸部君の依頼告白のサポートの一件のみ」

 

「…ゆきのんは、いまさらそんなこと言ってどうしたいの?」

 

 由比ヶ浜の声色が低くなる。

 

 雪ノ下は由比ヶ浜の反応は予想していたのか、視線は俺に向けたまま答える。

 

「理屈の話をしたいのよ。どうやら彼はそういう話をしたいらしいから。

…さて、今言ったようにあなたのあの時の行動は奉仕部の部員としては適切じゃなかった。理屈から言えば、ね。そしてその道理に背いた行動を起こした結果、あの時の当時者である海老名さん、戸部君、そしてあなたの間にこうして何かしらのことが起きた」

 

 彼女は言葉を切る。

 

「奉仕部として、その不祥事には責任を負う必要がある」

 

 思わず目を背ける。

 

 理屈か。まったく、肝心な時に役に立たない。俺にとっても、彼女にとっても。

 

 去年の冬の部室を思い出し、俺は思う。本物を欲したあの日、それは理屈では届かない場所にあった。その時俺は、理屈をなげうってでもそれがほしかった。

 

 そして今。俺は理屈抜きに、それとは違う観点から彼女の申し出を断りたいと思ってしまっている。…こう思った時点で彼女の思うつぼだろう。

 

 彼女は俺に詰問する最中、何度も自嘲気味な笑みをこぼした。彼女も彼女自身が語った理屈が、実際には力を持たないことを知っていたのだ。

 

 彼女は俺が海老名さんと葉山に、意味ありげな発言をされていることに、あの時気付きすらしなかった。そしてあの解消法は俺が勝手にやったものとなった。責任は奉仕部ではなく、俺1人のものになったはずだ。その彼女が今更、奉仕部で責任をとると発言する資格はない。

 

 それでも彼女は理屈を振りかざした。力のない理屈を。

 

 未だに理屈に寄りかかる俺に、彼女は理屈以外の答えを求めている。

 

 正しくない理屈を掲げる彼女に、正しい理屈で返すのは簡単だ。しかし俺はそうしたくなかった。彼女はそれが間違っていると自分でわかっていても、由比ヶ浜に睨まれても、それでもやめなかった。その雪ノ下雪乃の気持ちを、願いを、俺は無視できなかった。

 

「来てほしくは、ない」

 

「…なぜかしら」

 

 彼女は涙目で、笑う。それでも、俺は言わなくてはならない。

 

 これは理屈ではない。

 

「…高校生の痴話げんかに首を突っ込むなんて、無粋だと思わないか?」

 

 

 

 俺の前の席の男子は、戸部だった。

 

 

 

 

 俺は彼の気持ちを知っていた。修学旅行の時には、それでありながら彼の告白を阻止した。だからこそ海老名さんと親しげに話すことに引け目を感じ、彼の椅子を海老名さんが独占していることを申し訳なく思った。

 

 海老名さんはその席の主が誰かということに気づいていたと思う。彼女は鈍感ではない。おそらく、気づいていてあえてそうしていたのだ。それが彼女なりの、自らを嫌いと蔑む海老名姫菜なりの、戸部に向けた答えだったのかもしれない。

 なぜ今更そんな形で彼に応える気になったのか、俺にはわからない。だが彼女は時折申し訳ない視線を戸部に送りながらも、そうした。

 

 そして、戸部もだからこそ軽い気持ちで自分の席に、海老名さんの座る自分の席に戻ることができなかった。彼が席に戻ってくるのは、いつもチャイムが鳴り、海老名さんが自分の席に戻った後だった。そこにあるのは思慮深いはずの少女の、らしくもない図々しい姿。戸部はそこから何かを感じざるを得なかったのだ。自分の気持ちに気づいているのに、自分の席で後ろの男子と親しげに話しているのは、いったいどういう意味を持つだろう。軽い気持ちでその彼女に話しかけてかえってくるのは。拒絶か、それとも無視か。

 

 そして戸部は、今日俺のもとへ来た。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜を見据える。きちんと言葉にできた自信はない。筋道立っているかもわからない。論理だって成立していないだろうし、支離滅裂だろう。

 

 だから、俺は言わなければならなかった。

 

「そう。…行きなさい」

 

 雪ノ下はそう小さくつぶやく。

 

 初めてみたときと同じように腰掛ける少女は、とても儚く見えた。

 

 由比ヶ浜は席を立ったままうつむき、その表情は茶髪に隠れて推しはかれない。

 

「悪い」

 

 ドアをふさぐ由比ヶ浜に声をかける。顔をあげ、彼女はこちらを向く。その顔は。

 

 笑っていた。



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彼と彼と彼女の告白(後編)

 

 

 屋上。

 

 陽は傾き、彼の茶髪は風で揺れる。彼はまっすぐ俺を見る。そこにいつもの軽薄さは欠片も感じない。恋敵…と彼は思っているだろう者への僅かな恨み、つらみ、妬みといったたぐいの物も感じない。あるのはただ抜けるような瞳と、覚悟だけだった。

 

「ヒキタニ君」

 

「なんだ」

 

「さっきの質問だけど」

 

「…ああ」

 

 やはり、いわなければならないか。

 

「え、海老名さんと付き合ってんの?」

 

「…」

 

 本当に最近の俺は少しおかしい。肝心な時に頭は回らず、必要な時に言葉は出てこない。

 

「ヒキタニ君!」

 

 黙り込む俺に、戸部の声が放課後の屋上にはじける。

 

「俺は…」

 

 ふう。一息漏らす。

 

「どうだろうな」

 

 余裕の笑みを浮かべ、一言そう返した。

 

「ちょ、ヒキタニ君、それはないっしょ!」

 

 彼はあっけにとられたように俺の顔を見たが、すぐに目には怒気がこもる。

 

「なぜだ?俺がそれをお前に教えなければならない理由があるか?」

 

 俺の修学旅行の時の海老名姫菜への告白は、本物ではなかった。しかし戸部はそれを知るわけもない。いまだに彼は俺が海老名さんを好きなものだと思っているだろう。もし戸部がすべてに気づいているとすれば、最初の質問は「お前は海老名姫菜が好きなのか?」のほうが適切だ。

 

 そして俺がこの一件を依頼の延長線上として考えるなら、ここで戸部とことを荒だてる理由もなく、ただ一言「付き合ってなどいない。」と返せばよい。それでこの一件はとりあえずの終わりを見る。

 

 もしくは彼女の最近のらしくない行動から推しはかり、彼女の「手助け」をするならば「海老名姫菜と付き合っている」と返してもよかった。

 

 だが、俺はそのどちらもしたくなかった。

 

 正直、戸部を挑発したことに最も驚いたのは、俺自身だ。この行為は紛れもなく俺を戸部の恋敵にさせる行為。そして俺は、そうなってもいいと思ったのだ。

 まっすぐに俺を見た戸部に一人の人間として応えたくなった。そしてそれならば、彼の質問に俺が答える義理はない。

 

 …恋敵ならば。

 

「…そっか」

 

 俺の笑みから戸部は何を思ったのか。更に悲痛な表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間には彼の顔はいつもの軽薄さを取り戻す。

 

「ヒキタニ君。…おれ、負けねーから」

 

 いつかきいたセリフが、今一度繰り返される。

 

「ああ。…互いにな」

 

 男として応える。声は震えていなかっただろうか。

 

 

 

 

 と、とんでもないことを、聞いてしまった。

 

 屋上に続く扉の裏で、海老名姫菜は一人頭を抱えていた。

 

 優美子と話していたら思ったより話が長引き、途中でお手洗いに立ったら何やら神妙な面持ちで階段を上がっていく比企谷君と戸部君の姿を見つけた。と、とべはち!?男同士の発展場☆を期待し、無意識のうちに屋上についてきてしまった。…そんなわけないのに。このどうしようもない癖がにくい。

 

 比企谷八幡君と、戸部翔君。どちらも知らない男子ではない。…ううん、二人とも少なからず私とはかかわりのある男の子だ。

 

 戸部君は私のことを憎からず思ってくれている。それは修学旅行の前から気づいていた。そして彼は去年の修学旅行であんなことがあったのに、それでも変わらずに私に好意を寄せてくれていた、ように私には見えた。でも私は、結局彼の気持ちには応えられなかった。…ううん、この言い方はずるいよね。意図的にはぐらかしたんだ、私は。すべてを失うのが怖いから。彼の思いにどんな形であれ、返事をしたら私の居場所がなくなると思ったから。

 

 比企谷八幡君。私は彼に対してもどうしようもない申し訳なさを感じていた。私のせいで、彼の大切な場所は壊れそうになった。少なくとも結衣は、…彼女のあんな顔は、見たくなかった。

 

 そして彼は私のことをどう思っているのか。正直、私にはまったくわからなかった。さっき言ったみたいに私の中には彼に対して罪悪感があったし、彼自身そういったことから自分から遠ざかろうとしている節があったから。

 

 だからこそ今年も彼と同じクラスになり、去年のグループが無くなると彼のことを少し知りたくなって彼に近づいた。

きっと私はどこかで彼のことを英雄視していたのだろう。彼と実際に言葉を交わすと思いのほか心地よくて、優しくて、暖かくて…タガが外れたように、すぐに愛しくなった。

 

 だけど、彼と一緒にいたいなら、彼に思いを伝えたいなら、私にはその前に出さなければならない答えがあった。

 

 戸部君。彼とも同じクラスになった。結局私はどこまで行っても、腐ってるんだと思う。彼からのメールや電話をはぐらかし、無視し続けて結局私はああいう形で彼に私の思いを伝えていた。いや、伝えたなんておこがましいよね。気づかせようとしたんだ、私は彼に。彼が勝手に納得して、勝手に諦めてくれることを望んだんだ。

 

 そして、今。

 

 彼らは向かい合っている。比企谷君と戸部君は、私と違って向き合ってる。

 

 …たぶん、比企谷くんは、男子の席に勝手に座るらしくない私の思惑に気づいていたと思う。それでも何も言わないんだから、優しいよね。

 

 でも、今戸部君と話している彼はそうじゃなかった。

 

 私の思惑に気が付いているだろう彼は、今日は修学旅行のあの日とは違って、私の意向に沿うように事を運んではくれなかった。もしここで彼が「海老名姫菜は俺の彼女だ」

 

 …ひゃ、ひゃー!!!自分で言ってて恥ずかしくなっちゃったけど、仮定の話だからね、仮定の話!ゴ、ゴホン、仮に彼がそう言ったとしたら。戸部君は一人で失恋し、一人で諦めただろう。

 

 でも、彼はそうしなかった。まるで普通の男の子みたいに、戸部君の質問に応じた。そこに込められた意味は。彼の気持ちは。

 

 トクン、と胸が鳴る。もう、こんなこと思ってはいけないと思っていた。こんな感情を抱く資格なんて、ないと思ってた。

 

 

 

 

 

 気づけば私は、屋上に続く重い扉を開けていた。

 

 

 

 

 

「海老名、さん…」

 

 突然現れた海老名さんに、俺も戸部もあっけにとられた。

 

「え、えっと、海老名さん、どうしてこんなとこに…」

 

 戸部が視線を泳がせる。無理もない、今ここでは目の前の女の子を巡った…しゅ、修羅場が繰り広げられていたのだ。

 

「戸部君」

 

 海老名さんは顎を引き、戸部に体を向ける。顎を引きまっすぐに戸部を見る。そんな彼女を、俺は。

 

 きれいだと思った。

 

 息を吐き、彼を見据えたまま、彼女は告げる。

 

「ごめんなさい。私、好きな人がいるからあなたの気持ちには応えられません」

 

 謝罪とは裏腹に、彼女は頭を下げず、じっと彼を見つめていた。

 

 戸部はまだ現実に戻っていないような様子だった。しかし、突然空を見上げたかと思うと、地の底まで視線を落とす。

 

「一つ、聞いてもいい?」

 

 戸部は、やっと一言つぶやく。

 

「うん」

 

 海老名さんはいつもの穏やかな顔に戻っていた。

 

「そいつ、俺より、格好いい?」

 

 海老名さんはちらりと横を見て、俺に視線をよこす。

 

 赤い顔を始めて地面に向け、短く答える。

 

「…うん」

 

「…わかった」

 

 彼女の言葉から、短い肯定から彼は何を読み取ったのだろうか。戸部は神妙にうなずくと俺を一瞥する。そして、

 

 笑った。

 

「ヒキタニ君、おれ、負けねえから」

 

  

 

 

 

 

 屋上。俺と海老名さんが向かい合う。今は果たして何時だろうか。屋上に満ちていた夕日は退場し、代わりに夜を告げる夕闇があたりを満たし始める。月明りだけが俺たちを照らす。

 

「比企谷君」

 

「…おう」

 

 海老名姫菜は呼びかける。俺の名前を、彼女は呼ぶ。

 

「私が来た時、驚かなかった?」

 

 答えるかどうかためらうが、結局、俺は言う。

 

「驚いた」

 

 俺は、彼女は偶然聞いたとしても姿を現すわけがないと思った。それが海老名姫菜という女の子の、これまで取ってきた姿勢だと思ったから。彼女は徹底的に遠ざけて、逃げて、知らないふりをした。…その自意識は、臆病は、理性は、どうもどこかの誰かを思い出す。

 

「なんで、来たんだ」

 

 俺の率直な質問に、彼女は一瞬の躊躇も見せない。

 

「比企谷くんが、戸部君の質問に答えなかったから」

 

 そう彼女は笑った。

 

「前に言ったよね。私、腐ってるって

私ほんとに腐ってるんだ。自分でも何考えてるかよくわかんないし、どうふるまえばいいかわからない。心の底の方がどろどろしてるみたいで、人の思いとか好意をそのまま受け入れられない。優しくされてもなんか居心地悪い。守りたいと思ってた場所は結局自分でも驚くほどあっさりと手放せちゃった。友達は傷つけたし、その挙句…その友達を裏切ってでも、ほしいものがあるの」

 

 一つ深呼吸をし、髪、裾を直しこちらへ向きなおす。

 

「だから私はね、比企谷君。君が」

 

 

 勘違いするな、と思えたらどれほど楽だったか。彼女の瞳が、彼の問いかけが、そして…俺の何かが、それを許さない。

 

「俺は」

 

 彼女を遮り、言葉を落とす。

 

「俺は、人に好意を向けられるような人間じゃない。もともと好意なんてあいまいなものを素直に受け入れられる質でもないんだろう。悪意や敵意のほうがよほど心地いい。そう感じてしまうおれも、やっぱり腐ってるのかもしれない」

 

 彼女は哀しげに微笑む。その笑みはいつかのだれかを思い出させる。だが、

 

「それでも俺は。

別に裏切られてもいい。腐っててもいい。好意なんて、希望なんていうあいまいで煌びやかものだけを向けられるよりよほど心地いい。世界の誰よりよくわからなくて、この世のどれよりドロドロしていて、そして…何よりも綺麗な、お前のことが」

 

 俺の続く言葉に確信を持っていたのか、彼女は微笑む。最後まで…いや、これが始まりか。

 よくわからない女だ。

 

「海老名姫菜のことが」

 

「比企谷八幡君のことが」

 

 息を吐く。

 

「俺は好きだ」

 

「私は好きです」

 

 月がまぶしい。

 

 もしかしたら自分で思ってるより、ずっと簡単なことだったのかもしれない。

 

「えい!」

 

 海老名さんは俺の胸に飛び込む。ちょ、近い近い近いいい匂い。

 

「え、海老名さん?何をしてらっしゃるんですか?」

 

 顏が熱い。鼓動が早い。くっつく頬から熱が、ゼロ距離の胸から律動が伝わる。

 

「なにって、ハグだよ」

 

「海老名さんがハ、ハグって、なんつーか…」

 

「らしくない?」

 

 キョトンとした顔で目の前の海老名姫菜は問う。顔は耳まで赤い。

 

「悪くない、かもな」

 

「え?今なんか言った?…八幡」

 

 尻切れではなく、今度ははっきりと、そう呼ばれる。そ、それはきつい。

 

 ニヤニヤとこちらを見る海老名さん。…やられっぱなしというのも、気分が悪い。

 

「別に何でも。…姫菜」

 

「へ!?う、うん、そうだ、ね。…そうだそうだ、なんかあっついねー」

 

 ぱたぱたと手で顔を仰ぐ彼女。

 

「それなら少し離れればいいんじゃないか?」

 

 その…これ以上は八幡の八幡がまずい。

 

 彼女はむー、と頬を膨らませた後、にひひと子供のように笑う。…こんな表情もしたのか。

 

 「やーだよ!」

 

 腕の中で目を細める彼女を眺めながら、俺は嘆息する。

 

 やはり海老名姫菜は性格が悪い。



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面倒な二人(前編)

 

 屋上での告白から1週間がたった。

 

 彼の家と私の家は近い。歩いて五分とかからないところだ。去年の冬に引っ越してきて、彼の登下校姿を何度か見かけて気づいた。

 …ご都合主義とか言わないで、本当に近かったんだからしょうがないでしょ!

 

 そんなわけで、私と彼の一日はここから始まる。

 

「おはよー、比企谷くん!」

 

 外から声をかける。

 

「…」

 

 へんじがない、ただのはちまんのようだ。

 

 宵っ張りなうえに低血圧な彼は、朝私より早く起きていることがない。しかし、妹の小町ちゃんはそんなこともなく、私が声をかけると小町ちゃんの怒鳴り声が中から聞こえてくる。

 

「ほらほら!ごみいちゃん、姫菜さん来たから早く起きなよ!…昨日遅かった?知らないよ、そんなの。どうせゲームでもやってたんでしょ!…あと五分?」

 

 ゴン!!、となにか鈍い音が聞こえてくる。い、生きてるよね?比企谷くん。

 

「すいません姫菜さん!」

 

 パンを咥えた小町ちゃんが勢いよく扉を開ける。

 

「はは…比企谷くん、だいじょぶ?」

 

「は、はい、一応生きてはいるんですけど…」

 

 チラリと家の方を見る。

 

「どうやら昨日夜更かししたようで、今日は小町の手に負えないんです。ないんですけど…小町今日は早めに学校に行かなければいけないので…」

 

 申し訳なさげに、上目づかいでこちらを見る。こんなふうに見られて、邪険にできる人類がこの世に存在するだろうか。いや、しない。

 

「わかった、比企谷君のことは私に任せて」

 

 胸をどんとたたく。…もうちょっと豊かなら、頼りがいもあるんだけどなぁ。

 

「ほ、ほんとですか!?ありがとうございます、姫菜さん!大好きです!」

 

 何の穢れもない目でそう言い、小町ちゃんは私に抱き着く。はうっ…この兄弟は正反対に見えるけどこういう唐突にデレるところはそっくりだ。

 

「ほ、ほら、小町ちゃん急いでるんじゃないの?」

 

 これ以上は私の身が危険なので、名残惜しいが無理やり引きはがす。

 

「はっそうでした。ではではよろしくお願いしまーす!」

 

 小町ちゃんは自転車にまたがり、猛スピードで学校に向かう。…今日も元気だなぁ。

 

 さて。

 

「お邪魔しまーす…」

 

 この時間に彼の両親がいないことは分かってる…っていうか、お会いしたことないけどね。…何してる人たちなんだろう。

 

「比企谷くーん!」

 

 寝ているだろうし、比較的大きな声で玄関から呼びかける。しかし、返事はない。なんなら生きている気配もない。

 

 はぁ。

 

 ため息が出る。まったく、朝くらい気持ちよく起きればいいのに。そう思いつつ、無意識に私の頬は少し緩む。…寝顔見れるかな。

 

 階段を上がり、彼の部屋を探す。窓の位置からどこが彼の部屋かはわかる。

 

 お目当ての部屋を見つける。一度部屋の前で深呼吸をし、そーっと部屋に入る。

 

「失礼しまーす…」

 

 そこには丸く盛り上がった布団が一つ。大方、小町ちゃんに引きはがされそうになったところを必死に抵抗し、くるまったのだろう。

 

 布団を下にずらし、彼の顔をのぞき込む。

 

「ん…」

 

 意外に長いまつげが揺れ、唇が震える。朝の光がまぶしいのか長めのクセっ毛をガシガシとかくが、彼の瞳はまだ開く気配はない。

 

 トクン。

 

 思わず胸が鳴る。こんなに近くで、こんなに無防備な彼の姿は今まで見たことはなかった。私の前にいる彼はいつでもひねくれていて、素直じゃなくて…そして私にとっては、一番格好良い男の子だ。

 

「…」

 

 ど、どうしよう。我慢できそうにない。彼の寝顔は思ったよりずっとあどけなくて、かわいくて、抱きしめられるととても大きく感じるその体もこう見ると意外にも細い。…思わず私が抱きしめたくなる。だ、だめよ姫菜!時間がないんだからここは心を鬼にして。

 

 布団をどかし、外気にさらされ、彼の瞳はゆっくりと開く。さっきまでのあどけない彼はどこへやら。すぐにいつもの少しひねくれた、寝ているときより眠そうな顔が現れる。

 

 そんなにじっと見つめられると。

 

 思わず顔が熱くなるが、見とれていたのは私のようだ。まだ目覚めきっておらず、状況を把握しきれていない彼はこちらに怪訝そうな視線を送る。

 そんな彼に私は笑顔で、言う。

 

「おはよう…はち、まん。」

 

「お、おう…」

 

 比企谷君は視線を泳がせる。まったく、この男は…

 

「比企谷君、朝のお迎えに来たっていうのに、その反応はどうだろう?私の名前、なんだっけ?」

 

「お、おはよう、…海老名さん」

 

 うん、ちがうよね。

 

「わたしのなまえ、なんだっけ?」

 

 さらに私は笑顔を深める。どうやら彼は私の笑顔には弱いらしい、と最近気が付いた。

 

 沈黙が下りる。

 

 はぁ。彼はため息を漏らし頭をガシガシと掻く。

 

「おはよう…姫菜」

 

 彼は照れ臭そうにそっぽを向く。…なんですかこのかわいい生物は。最終的に折れるなら、朝のあいさつの約束くらい守ればいいのに。

 

 そう、あの日屋上で私が彼に要求した。「一日の最初は、名前で呼ぶ」

 

 求めたのはこっちなのに、思わず頬が熱くなるのを感じる。だ、だって、あんなの私にはダメージが大きすぎるもん!

 

「う、うん」

 

 思いがけず朝から気まずくなる。

 

 壁にかけられた時計の秒針の進む音だけが部屋にこだます。

 

 …は!!

 

「比企谷君、時間!」

 

 私は時計を指さす。時刻は8時20分。

 

「…終わった」

 

 そう一言つぶやき、彼は布団を頭からかぶる。

 

「比企谷君、諦めたらそこで試合終了だよ!」

 

「…安西先生、僕は凡才ですから」

 

 逆桜木花道か。

 

「くだらないこと言ってないでさっさと準備しようよ」

 

 そういってかかっている制服をベッドに投げ込み、今日の授業の教科書を彼のカバンに放り込む。ん?何かおかしい。

 

「比企谷君、理数系の教科書もノートも一つも見当たらないんだけど…」

 

「…あー、買った時のまま学校に置いてあるわ」

 

 …彼らしいといえば彼らしいか。

 

「…まあいいや。教科書の準備できたから、ほら、歯磨いて顔洗って」

 

「だるい」

 

「…比企谷君、いい加減にしようね」

 

 彼に優しく微笑みかける。私の顔を見ると顔はひきつり、ベッドから飛び上がる。ねえ、好きな女の子の笑顔を見て「ひっ」っていう反応はおかしくないかな?

 

 ようやく準備ができたと思うと、時刻は8時半になろうとしていた。あーあ、遅刻確定だ。

 

「比企谷君、早く出るよ」

 

「ちょ、まだ朝飯くってねえ」

 

 妙なところで律義というか、細かいというか。

 

 私は小町ちゃんが用意したであろう机の上の食パンをそのまま彼の口に突っ込む。突っ込むって言っても、べ、別にやらしい意味じゃないからね!…ほんとだよ?

 

「ちょ、これ焼いてもなければバターも塗ってないんだけど。まじ、パン」

 

「うるさいなぁ。起きない自分がいけないんでしょう。…何のゲームしてたか知らないけど」

 

 彼はびくりと体を震わせる。…やっぱりそういうゲームかよ。机の上のpcの横に置いてあるパッケージを見ればわかる。まあ今はそれについて追及している暇はない。

 

「ほら、早くいくよ」

 

「…へいへい」

 

 

 

 学校についた時刻は8時50分。相当自転車を飛ばしてきたが、何度か寝ぼけた比企谷君がひかれそうになったのを私が必死に助け、ようやくここまでたどり着いた。無茶しやがって…。

 

 私と比企谷君は肩で息をする。下駄箱の前に立つが、まだゴールではない。教室まで走らなければいけない。教室につくまでが遠足です。…思ったより余裕だな、私。

 こう見えても私は学校を遅刻したことがない。もちろん風邪やイベントで欠席したことは何度かあるが、他の生徒が見ている中で一人教室に入るという経験はほとんどないのだ。 

 にもかかわらず私は緊張するどころか、妙に安心している。…彼が隣にいるだろうか。

 

 チラリと横を見る。すると、彼の目の腐り方がいくらか増している気がした。

 

「じゃ、先行っててくれ。朝はバタバタしてたし、俺はトイレ行ってから行くわ」

 

 …この男は。

 

「うん、わかった。じゃあ私先行くね。一限は現国だから急いだほうがいいと思うよ」

 

「まじかよ…。わかった、殴られない程度に急いでいくわ」

 

「じゃーねー」

 

「おう」

 

 

 

 

 

「…おい」

 

 彼とトイレの前で偶然会う。いやー、あのあと私も急にトイレに行きたくなったんですよね。

 

「お、奇遇だねー、比企谷君」

 

「…先に行ってくれといわなかったか?」

 

 比企谷君は深くため息をつく。その目には少しの諦念も浮かんでいる。

 

「トイレに行くから、っていう理由だったよね。私もトイレ行きたかったから、同じタイミングで教室に入っちゃうのはしょうがないよね」

 

「…はぁ」

 

「こと君のことに関して、私がわからないことでもあると思った?特に腐った思考で私にわからないことはないよ、比企谷君」

 

 彼は頭をガシガシとかく。だけど彼の顔に赤みがさしたのを私は見逃さなかった。

 

「どうせ、一緒に授業中の教室に入ったら、私に迷惑がかかるとでも思ったんでしょう?」

 

 なんで彼はすぐにそういう思考になってしまうのだろう。…迷惑だなんて思わないし、面倒ごとだって一緒に背負いたいのに。

 

「あー、いや、それだけじゃなくてだな」

 

 彼は横を向き、首を手に当てる。え、違うの?

 

 

「単純に、一緒に教室に入るのが恥ずかしかったってのもあるな。…同伴出勤みたいで」

 

 …はい?

 

 一瞬言葉の意味を考え、そして

 

「は、はぁ!????ちょ、比企谷君、何言ってるの!?」

 

 ほんとなんなの、この男は。ジゴロなの?タラシなの?…今度ぼっちとか口にしたら、とりあえず殴ろう。

 

「は、早く行こうよ、怒られちゃう」

 

「お、おう」

 

 彼もさすがに恥ずかしいことを言ったと思い当たったのか、顔は真っ赤だ。私の顔も熱いけど。…これで一緒に教室に入って大丈夫かな?

 

 

 

 

 教室に入る寸前、彼は私より半歩後ろに立つ。ふっふっふっ、そうはいかない。

 比企谷君を前に押しやり、ドアを開けさせる。彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。この期に及んで逃げようとは往生際が悪い。

 

 ドアが開かれる。

 

「「し、失礼しまーす」」

 

 二人の声が重なる。自分の教室に入るだけなのに、どうもひどい罪悪感を感じる。…遅刻はしないようにしよう。

 

 クラスメイト達は一斉にこちらに振り向く。当然だ。授業中はどんな小さな音でも気がまぎれたらそちらを向いてしまうものだ。

 そして彼らは私たち二人が一緒に登校してきたことに少なからず驚いた表情を浮かべた。クラス内には「え、なんで?」「まあ偶然でしょ」「いやいや、ありえねえし」「…調子乗んなよ」愉快とは言えない声が聞こえてくる。…全部聞こえてるんだけどなぁ。

 

 申し訳ない気持ちで比企谷君を見ると、彼はこんなことは慣れているという風でいつもと全く変わらない。濁った眼も、猫背でけだるげな歩き方にも変化はない。

 

 彼は本当にこんな周りの声なんてどうでもいいのかもしれない。私だってこれが自分に向けられたものだったら、なんとも思わなかっただろう。でも…大切な人が無言で、無自覚に傷ついているのを、私は見過ごすことなんてできない。

 

「じゃ、またあとでね!…八幡」

 

 気づけば彼に小さく手を振り、つかつかと自分の席に戻っていた。周りの様子を見る余裕などとてもなかった。

 

 教室のざわめきは大きくなり、それぞれの声は混ざり、喧騒となった。下を向いて自らの席へ向かった。一人一人の声なんて聞こえない中、ある男子の席の横を通り過ぎるとき、「かっこいいっしょ」という声が聞こえた気がした。…私なんかには、もったいないよ。

 

 教室の喧騒も、平塚先生からの「比企谷も席につくように」という声で収まった。彼女の声はとても静かで、顔つきはおだやかだった。なんというか、子供の成長を喜ぶ母親のようだった。…なんでこの人結婚できないんだろう。

 

 私も落ち着いて、慌てずに現国の準備をする。比企谷君のほうをちらりと見るが、彼はそれでも、いつもと変わらない様子だった。

 

 

 

 

 一限の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 

 私は何でもない風を装い、彼の席へ向かう。こうなったらヤケクソだ。今更何を取り繕いたいわけでもないし、何を取り戻したいわけでもない。それよりも、私には手に入れたいものがあるし、守りたいものがあった。

 

 

「八幡、今日の放課後なんだけど…」

 

 そう呼びなれない名前で彼に話しかける。やはりむず痒いが、ここは我慢だ。

 

 しかし私の声は続かず、彼は小さく顎で廊下を指すとさっさと出て行ってしまった。後ろからは「なんだよあの態度」「やっぱりな」「そんなわけないって」といった声が聞こえたが、無視した。なんとなく彼が私の思う通りに行動することがないと思っていた私は、妙に落ち着いた気持ちで彼の後を追った。

 

 

 

 

「で、だ。海老名」

 

 平塚先生は私に問いかける。授業終わりに比企谷君のもとへ彼女からの呼び出しがあったらしい。遅刻をしたことは明確に良くないことなのに、担任である彼女が直接私たちを呼び出さないところに、彼女の優しさを感じた。なかなかできることではないと思う。

 

「今日の遅刻の件だが、まさか…その、朝帰りというわけではあるまいな」

 

 彼女は少しためらったが、至って真剣に私たちに問う。ちょっと、比企谷君と同じ発想じゃないですか。

 

「何言ってるんですか…自分に経験がないからって、妄想を膨らませるのは良くな…うっ!?」

 

 彼の頬を平塚先生のこぶしがかすめる。み、見えなかった…平塚先生、何者!?

 

 ぶるぶるとうさぎのように震える彼のリアクションに満足したのか、彼女はゆっくりとこぶしを戻す。うん、平塚先生は怒らせないようにしよう。

 

「万が一のための確認だ。一応これでも教師だからな。…そのあたりのことはしっかりと把握しておかなければならない。君たちが本当にそういうことをしたとは思っていない」

 

 ふー、とため息をつく。

 

「だが、そうではなくても今日の遅刻はおかしかっただろう。そのあとのことも含めて。…なにかあったのか?」

 

 平塚先生は私ではなく、比企谷君にそう問いかける。私が考えていることなど彼女はお見通しなのだろう。おそらく、私の気持ちも。

 

「…べつに何もなかったし、何でもありませんよ。むしろ俺の人生何にもなさ過ぎるまであります。人間万事塞翁が馬とは言いますが、少しは何かあったほうがいいのかもしれませんね」

 

 そう吐き捨てるが、彼の目は平塚先生には向けられず、虚空をじっと見つめている。いつもの捻くれた発言はどこか空々しく、まるで台本を読んでいるように聞こえた。

 

 そうか、と平塚先生はどこか哀しげに笑った。

 

「だが最近の君たちはどうも仲が良い風に見えてな。私としても喜ばしい限りだったんだよ。だが、それは私にもとても意外なことだった。…何かあったではなく、何があったか、よければ聞かせてくれないか?」

 

 私たちは沈黙する。その顛末を話すには、行間休みは短すぎる。

 

 私たちの沈黙から答えられないことを察したのか、彼女は質問を変える。

 

「ではこれは教師としてではなく、一人の人間として、じょ、女子として聞こう。別に答えたくなければ答えなくてかまわない」

 

 女子、の部分で頬を赤らめる。かわいいなぁ、平塚先生。このかわいさが男の人に伝わらないのが疑問だ。…平塚先生の前でこんなことを口に出さないように気を付けよう。

 

「君たちは、付き合っているか?」

 

 彼を見る。彼も私を見てにやりと笑う。うん、当然のことだ。

 

 私はしっかりと平塚先生へ体を向きなおし、答える。

 

「もちろん付き合ってます――」「――いいえ、付き合っていません」

 

 …え?

 

 私の肯定と、彼の否定が入り混じる。

 

 彼と私は今一度顔を見合わせる。だが、彼の目はいつも通りの濁り具合で、そこには困惑しか見て取れなかった。

 

 …この男、本当に面倒くさい。

 

 

 

 



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面倒な二人(後編)

 

 

「八幡、ちょっとツラ貸してくれるかな?」

 

 放課後。満面の笑顔の海老名姫菜が俺の席にやってきた。笑顔はいつもと変わらないが、口調と呼び方に違和感がある。というか一言で言って、怖い。あれ、なんで俺は女子に下の名前で笑顔で話しかけられて、この上ない恐怖を感じてるんですかね。

 

 平塚先生からの「付き合っているか」という質問の後、海老名さんは顔をうつむけ、なぜか俺を一にらみすると、教室に早足で戻っていってしまった。釈然としない様子の俺に、平塚先生は深く、長いため息をつく。

 

「…君は本当に、どうしようもないな」

 

 ちょっと、先生がさじを投げたら俺の将来は誰が面倒見てくれるんですか。

 

 

 

 そしてその後、彼女は放課後になるまで俺とは目も合わせなかった。とりあえず今日は平穏に過ごせそうだと安心していたが、どうやらまだそう判断するには早かったらしい。

 

「ねえ、八幡、聞いてる?私の話。…ぼーっとしてたとか言ったら、どうなるかわかるよね?」

 

 彼女は俺の顔をのぞき込む。

 

 …こ、こわいこわいこわい!なにこれくそ怖い。なんで一色といい、女子は一ミリも変化のない笑顔でそんな冷たい声出せるの?強化外骨格さんだけじゃなくて、女の子にはこの機能がデフォルト装備でついてるの?チートすぎワロタ。

 

 下の名前を呼んでいるのも、どうやら怒りが羞恥心を軽く凌駕しているのか、まったく違和感も淀みもない。

 

「い、いや、でも俺、ほ、放課後は部活もあるし…」

 

 逃げ出しそうになる気持ちを必死に抑え、何とか絞り出す。この状況で俺がキョドりながらでもなんとか声を出したことを、誰かほめてほしい。

 

「えー、そんなの私の呼び出しを断る理由になるわけないだr…ないよねっ、八幡君」

 

 表情はいつもと寸分変わらない彼女の顔に、青筋が立つ。ちょ、これおれ死なないよね?俺の青春ラブコメここの選択肢間違えたらバッドエンド確定とかないよね?

 

「ま、まあ落ち着けって、ほらマッ缶でも飲んで」

 

 机の上に置いてあったマッ缶を彼女に差し出す。やはり気分がよくない時はマッ缶を飲むに限る。コーヒーに含まれるカフェインなんかとは比にならないレベルの量の砂糖が、脳みそを癒してくれる。

 

「え…」

 

 彼女の頬に朱色がさし、突然視線は泳ぐ。窓の外には夕日はまだ姿を現していない。

 

 もう一度マッ缶を見ると、そのフタは、すでに開いていた。

 

 あ…ぼくの飲みかけでした。てへっ、飲みかけのモノを、八幡無邪気に人に差し出しちゃった☆

 

「わ、わるい」

 

 そう言ってマッ缶を急いでつかむ。何をやっているのだ。こんな初歩的なミスをしてしまうあたり、彼女と接するときの俺はやはり少しおかしい。

 

 だが、彼女はマッ缶をつかんだ俺の手首を強く握る。

 

「べ、別に…それでいい。それ、私飲ませてもらうから」

 

 そう頬をかき、眼鏡を直すしぐさをする。あの、裸眼なんですけどあなた。

 

「いや、とはいってもだな…」

 

 まだ渋る俺に、海老名姫菜は消え入りそうな声で問う。

 

「わたしじゃ、…いや?」

 

 ぐっ。そ、それは卑怯だ。そんな涙目で上目遣いを送られ、断れるわけがない。

 

「ど、どうぞ」

 

 俺はマッ缶を仰々しく差し出す。

 

「ど、どうも」

 

 それを彼女は両手で受け取る。

 

 彼女は受け取ったそれをしばし凝視する。いや、それの飲み口部分を食い入るように見る。

 ちょ、そんな見ないでくれませんか。

 

「い、いただきます」

 

 ゴクリ。彼女は両手でそれを飲む。

 

 あれ、そういえば海老名さん俺の家に来た時は、コーヒーをブラックで飲んでいたような…

 

「な、なにこれ!…あっま」

 

 ですよねー。

 

「別に無理して飲まなくていいぞ。俺は好きだから飲んでるんだしな」

 

「い、いい!」

 

 彼女は腰に手を当て、一気にそれを飲む。れ、練乳を一気飲みとは、やはりこやつやりよる。

 

「ねえ、比企谷君。これ」

 

 彼女はぶはー、と一息つき、俺に呼びかける。思い切り顔をしかめるか。そう思ったが彼女は、

 

「…すっごい甘い、ね」

 

 そう赤ら顔ではにかんだ。

 

 

 

 

「ねえ、比企谷君」

 

「…はい」

 

 俺と海老名さんは今、サイゼで向かい合っている。さっきの出来事、名づけるならば「放課後マッ缶事件」があった後、結局俺は彼女の「ついてきて、くれるよね、八幡君。」という笑顔に逆らうことはできなかった。…俺が悪いのか。

 

 彼女は一瞬ためらうが、唐突に問う。

 

「比企谷君、私のこと、好き?」

 

 その目はまっすぐに俺を見ている。

 

「…好きだ」

 

 はっきりと俺は口に出す。らしくない、そう思う。だが彼女に対して俺がらしくないことなど今さらだろう。言葉に出せば伝わるとは限らないが、言葉に出さなければ不安になることはある。

 

「じゃ、じゃあ!」

 

 彼女は思い切り身を乗り出し、俺を見つめる。俺は思わず顔を背ける。ちょ、そんなに乗り出されると、その、胸元が…。

 

 しかし俺の葛藤には気づかず、彼女は背けた俺の顔にまた目を合わせる。

 

「じゃあ、なんで平塚先生に『付き合ってないです』って、言ったの?」

 

 やはり。俺は、俺と彼女の関係に対する認識に、違いがあることを確信する。平塚先生の質問の時まで、彼女の困惑を見るまで、俺は、俺と彼女との関係に対する互いの認識のずれに気が付かなかった。…もしかしたら意図的に目を背けて、見ないようにしていたのかもしれない。

 

「…俺たちの間で、一言でも『付き合おう』という言葉が交わされたことがあったか?」

 

 これは、事実であるとともに建前でもある。

 

 実際に俺たちの間にそのような言葉が交わされたことはなかった。その事実を無意識に盾にし、俺は「付き合ってはいない」という一言を口にした。屋上で向かい合ったあの日、確かに気持ちは確かめ合った。しかしそれがその先の関係を望む保証になるとは限らないし、何より…望んでよいものか、俺にはわからなかったのだ。

 

 今日の朝二人で登校した時、その俺の考えは正しかったと感じた。

 

 彼女は変わった。それは間違いないと思う。笑顔は増え、表情は柔らかくなった。その笑顔も少なくとも俺にとっては…とてもまぶしいものになった。

 

 そんな彼女を慕う人間はこれからもどんどん増えていくだろう。俺と彼女が教室に入ったときに聞こえた声はほとんどが俺への悪意によるものだったが、その中には純粋に彼女を心配しているものもあった。…男子の多くは下心からだろうが。

 

 そして彼女の周りの人間は、俺の存在を快くは思っていない。それは今日の朝のことだけではなく、普段から感じていたことだ。彼女が俺に話しかけるたびに、そのような視線を男女問わずから受けた。

 

 だがそれも俺にとってはさして問題ではなかった。確かにうっとうしくはあったが、遠巻きに見られることくらいならば別に我慢できるし、彼女にとっても大した傷にはならない。彼女は「ぼっちにも分け隔てなく接する優しい女子」という風にクラスメイトの目には映っていただろう。だから別にこのままの関係である分には問題はなかった。

 

 彼女がクラス全員が見ている中で、あのような態度をとるまでは。

 

 あの発言によりクラスメイトの目には俺たちの関係はどう映っただろうか。「ぼっちにも優しい女子」は下の名前で、自らと対等に俺に呼びかけたことによって、クラスメイトの中で「ぼっちと一緒の女子」というレッテルを貼られたかもしれない。そして俺は…好きな女の子がそのように、自分のせいで悪意にさらされることは我慢できなかった。

 

 だから、俺と彼女は付き合っていない。

 

 もちろん優しい彼女にこんなことを告げるわけにはいかない。俺はそんなことを断片的に都合良くこぼし、短く「そうだろ」と終わらせ、下を向く。

 

「私は」

 

 彼女はうつむきながら、静かに、確かに、つぶやく。

 

「私は、比企谷君のことが好き。比企谷君と一緒にいたい。楽しい時には一緒に笑いたい。悲しい時にはそばにいてほしい。うれしいことがあれば分かち合いたい。何よりも…傷つくときには、一緒に傷つきたい」

 

 …彼女は、優しいのだ。

 

「別にほんとは形なんて何でもよかったんだ。言葉に出さなくたって、私と比企谷君はお互いを知ってるから。周りの人がどう思ってるかなんて、気にしなかった。

 でもね、私は君が一人で傷ついている姿を見て、自分が傷つくよりも何倍も、何十倍も痛くて、苦しくて。…悲しかった」

 

 彼女は下を向く。

 

「私にはあの部長さんみたいに、君を助ける解決策を探すことなんてできない。結衣みたいに優しく君の心を溶かすことだってできない。でもね、比企谷君。もう一回だけ、言うね」

 

 彼女は瞳いっぱいに雫をためる。

 

「私は君と一緒に傷ついて、傷物になりたい。傷なんて気にならないくらい、私には、君が必要なの。自分の傷なんてどうでもいいくらい…君の傷を遠くで見てるのは、痛いよ」

 

 …だから嫌だったのだ。

 

 彼女はそういうと思った。クラスメイトに向けた宣言。彼女は俺と傷を分かち合おうとしたのだ。

 

 そして俺があげつらった、俺が彼女を遠ざける理由。それはそのまま、彼女が俺と一緒に居たい理由になる。

 

『海老名姫菜を傷つけたくない』

 

『比企谷八幡と一緒に傷つきたい』

 

 俺にはこの問題の解が出せない。そもそも解があるのだろうか。何よりも近くにいるはずなのに、完璧にその二つは並行していて、交わりが見つからない。

 

 見つからない答えに、おれは口を開けない。結局、俺は怖いのだ。一緒にいることで彼女が傷つくのが。自分が彼女を傷つけてしまうことが。…いや、それも、違う。

 

 この期に及んで、多くの言葉を、多くの思いを交わしてきたのに、俺は彼女を信じていない。彼女の身を案じている風で、彼女が折れてしまい、そして自分の近くを離れてしまうのが怖い。大切なものがなくなってしまうのが怖い。それを本物だと、どうしても信じ切れない。…本物を欲したあの日から、俺は何一つ変わってなどいない。

 

 俺の沈黙をどうとらえたのだろう。うつむいた俺の視界に、海老名姫菜の顔は映らない。

 

「比企谷君」

 

「…なんだ」

 

 ふわりと柔らかい風を纏い、彼女は俺の横に腰を掛ける。俺の顔を、優しく見る。目を瞑る。俺と彼女の距離が縮まる。そして

 

「ん…」

 

 彼女と俺の唇が重なった。

 

 どのくらいそうしていたのか。1秒か。1分か。1時間か。時間の概念が壊れて、すべてが白色になる。

 その世界で一人の女の子の、優しい暖かさだけが確かに伝わった。

 

 彼女が唇をゆっくりと離し、世界はだんだんと元の色彩を取り戻す。

 

「私は、比企谷君の考えていることがなんとなくだけど、わかる。たぶん比企谷君は怖いんだ。怖くて怖くて、自分じゃなかなか動けないんだ」

 

「…かもな」

 

 彼女は臆病な俺に失望しただろうか。ちらりと彼女を見るが、そこにはいつもの彼女が。いつもの笑顔があった。

 

「だったら、私は待つよ」

 

 まっすぐと俺を見て、彼女は当然のことのように言った。

 

「だってそれは私には…ううん、比企谷くん自身にも、すぐにはどうしようもないことだから。だから私は比企谷君が私のことを、私と比企谷君のことを信じてくれるまで」

 

 言葉を切り、俺の頭をなでる。 

 

「私は、待つ」

 

 …本当に、俺でいいのだろうか。

 

「情けねえな、俺」

 

 今までで最も俺らしくない言葉だった。当たり前のことを、当たり前に口にしてしまうとは。

 

「ほんとね」

 

 彼女は当たり前のように肯定し、笑う。

 

「でも、そんな君を好きになっちゃったんだよ、私。だから、これからもよろしくね…比企谷君」

 

 頭をかく。まったく、俺にはもったいない。

 

「あと!」

 

 彼女は短く叫ぶ。

 

「私、ただ待ってるだけなんて言う聞き分けのいい女じゃないからね?」

 

 え?

 

 困惑した俺に、あきれたようにため息をつく。

 

「いや、あたりまえだよね、比企谷君。そーんな都合のいいことやっておいて、平穏な学校生活が送れるとでも思ってたの?」

 

 う。ぐうの音も出ないとはこのことか。

 

 言い返せない俺に、彼女は宣言する。

 

「ずーっと近くにいるし、教室でもどこでも話しかけるし、女の子と話してたら嫉妬するし、ガンガンくっつくし…どんどん、好きになるから、ね?」

 

 ぐは!!!…やっぱり、海老名姫菜は性格が悪い。

 

 顏の熱はもはや俺の手に負える熱量ではなかったが、上手く言葉にできるだろうか?

 少しの不安とともに口を開く。

 

「あー…もしかしたらすぐには決断できないかもしれないし、それがいつになるかもわからない。それでも…絶対に、言う。待っていてくれるか?…姫菜」

 

 彼女の顔に朱がさす。たまには俺からやり込めてみたいものだ。特に、女の子に格好の良いところばかりを見せられた後では。

 

 ゴホン、とひとつ咳ばらいをし、海老名姫菜は不敵に笑う。

 

「私の腐り方を、なめないでよ?…手に入れにくいものほど、欲しくなるの。好きだからね、八幡!」

 

 ぐ、流石にこの手の勝負で彼女に勝つのは無理があったか。

 

 ニヤニヤと笑う彼女に、俺も一言返す。

 

「いや…俺の方が好きだな、姫菜」

 

 彼女は机に顔を伏せる。俺も彼女のほうを見られない。

 

 …引き分けか、今日のところは。

 

 

 大量の野次馬の視線を感じつつ、比企谷八幡は一人ため息をついた。

 

 

 



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彼女の悩みは尽きない

 

 抜けるような青空に、少しの風が吹く。春らしい、いい日だと思う。

 

 しかし私の周りだけ暑いのは気のせいだろうか。汗までにじんできた気がする。 

 

「お…はよう、はちまん」

 

「お、おう。おはよう…姫菜」

 

「…」

 

「…」

 

 ど、どうしようどうしようどうしよう!目合わせられないよ~!!!

 

 昨日、私は彼とそのき、き、き、キッシュをした。その前に間接き、き、キスをしてて、どこかハードルが下がっていたのかもしれない。…今綺麗にフランス料理が出てきたね、噛んだだけですけどなにか。浮ついてるけど悪い?

 

 

 

 

 

 昨日、サイゼリヤにて。

 

 してしまったことの恥ずかしさに時間が経つにつれ気づき、あの後はお互いに顔を見ることもできなかった。

 

「あ、あー、じゃあそろそろ出るか」

 

 比企谷君が明後日の方向を向きながらつぶやいた。

 

「う、うん」

 

 私は机に顔を突っ伏してそう返事を返す。うぅ…顔上げたくないよ…。

 

 しぶしぶ顔をあげると、どうも視線を感じる。比企谷君を見ると、彼もその視線に落ち着かないようだ。

 

 …わ、わー!!!当たり前だよ、だってサイゼリヤで、ファミリーレストランで、家族連れも学生もいる中で、あんなことしちゃったんだもん。しかも意外に比企谷君の唇が柔らかくて、結構長い間、その、しちゃってた気がするし…

 

 私と比企谷君は周りのおばさんたちと店員さんから温かい目で、男子学生たちからは若干の殺意のこもった目で見送られ、逃げるようにサイゼリヤを後にした。

 

 そのまま恥ずかしさとともに彼と一緒に帰宅した。交わす言葉は少なかったけど、今までで彼と一番つながっている気がした。帰りはゆっくりと、二人とも自転車を押して帰った。

 

 帰宅すると、母親の元気な声で出迎えられる。

 

「おっかえりー!姫菜。今日は学校どうだったー?」

 

 彼女の名前は海老名美菜。私の母親で、専業主婦。結構若く見えると思うけど、年齢は…ゴホンゴホン、まあプライバシーということで。

 

 いつも通り、いや、気持ちテンション高めの母親に、私は短く答える。

 

「…べ、別に」

 

 今日の一連の出来事がフラッシュバックする。きちんと答えられただろうか。

 

「へ~…別に、かぁ」

 

 彼女はにやにやと笑う。う、この母親は…。またろくでもないことを考えているんじゃないだろうか。

 

「これ、なーんだ」

 

 にひひ、と彼女は白色のスマホを高らかと掲げる。そこには。

 

「あ、あ、あ」

 

 私と比企谷君の、その、き、キスシーンの瞬間がバッチリと映っていた。

 

「あーーーーーーー!!!」

 

 ちょ、何考えてるの、この母親は!!!

 

 私は母親のスマホを奪おうとする。しかし、私より背の高い彼女の手までは届かない。

 

「いやー、最近妙にウキウキした様子で家出てくし、眼鏡もかけてないみたいだし、なーんかおかしいと思ってたんだよねぇ」

 

 私を軽快なステップでかわしながら、彼女はいくつかのショットの私たちをスマホからスライドで呼び出していく。い、いい加減に…

 

「姫菜」

 

 突然彼女はスマホの画面から目を離し、こちらに向く。

 

「な、なに?」

 や、やるか。ファイティングポーズをとる私を尻目に、彼女は静かに問う。

 

「本気、なの?」

 

 その目は先ほどまで違い、一人の母親のものだった。

 

「…うん。それだけは間違いないよ」

 

 私はまっすぐに彼女を見て、答える。

 

「そっか…」

 

 彼女は一言つぶやくと、またさっきまでのニヤけ顔に戻る。

 

「にしても、なかなかのイケメンくんじゃない。お母さん姫菜が面食いだったとは知らなかったな」

 

「え、イケメン?」

 

 すこし意外だった。彼は私の目から見れば、そりゃあ、なんというか…格好良い。でも決して一般的にそういわれる顔立ちじゃない。

 

「ちょっと、キスしてた人を捕まえてそれはないんじゃない?ほれ、見てみなさい」

 

 彼女は苦笑を漏らし、私にスマホを渡す。するとそこには

 

「だ、誰だこれ!」

 

 驚いた。彼の顔は目の部分だけが私の顔で隠れ、ちょうど腐った部分以外が映し出されていた。そしてその顔は

 

「かっこいい…」

 

 ついつぶやいてしまい、慌てて口をふさぐ。

 

「おうおう、お熱いねー」

 

 ヒューヒュー!と彼女は煽り立てる。む、むかつく。

 

「うるさいなぁ!っていうか、なんでこんな写真がここにあるの?お母さんもサイゼにいたの?」

 

 しかしそれだと彼をイケメンだと断じたことに違和感を覚える。この写真だから、イケメンなのだ。

 

 彼女は不敵に笑う。

 

「ふっふっふっ、母のネットワークをなめないでね。一言で言えば友達の弓ちゃんがあなたの姿を見つけて、送ってくれたのでした~」

 

「…この町にはプライバシーの概念がないのかな」

 

 あの笑ってたおばさん集団か。頭を抱えたくなる。母親の顔が広いのは知ってはいたが。

 

「何言ってんの、公共の場でこんなことしてる時点でプライバシーとか言える立場じゃないでしょう」

 

 ぐぅ…、正論。

 

「で、彼名前はなんていうの?」

 

 母親の追及が始まる。まずい、目が輝いてる。

 

「まあ、おいおい適当に話すね」

 

 私はそういい、早々に話を切り上げようとする、が母の追及は終わらない。

 

「ちょーっと、待ちなさい」

 

 笑顔の母に私は逆らうことができない。こ、こわいよぅ…。

 

「べ、べつにいいじゃん、誰だって!お母さんには関係ないでしょ!」

 

 しまった。まったくらしくないことを言ってしまった。母親はクスクスと笑い、続ける。

 

「まさか姫菜からそんな年頃の娘みたいなセリフを聞けるとは思わなかったな。…そりゃ気になるよ、娘に初めて恋人ができたんだから」

 

 恋人!ボン、と頭から湯気が出た気がした。そっか。私と比企谷君は、他の人から見たらそう見えるのか…

 

「う、しょうがないなぁ。比企谷くんって言ってね…」

 

 気づけば私はどんどん彼の情報を母親に伝えていた。今思えば、完全に乗せられてるよね、私…。

 

 

 

 

 

 

 ということで、話は気持ちの良い朝に戻る。なら最初から昨日のことから話せって?…文章構成の下手な作者に、どうぞ。

 

 彼と一緒に登校し、どうも気まずい空気が漂う中。下駄箱に到着する。

 

「やっはろー!」

 

 後ろから突然すっとぼけた挨拶が聞こえる。彼女を引き連れて教室の前まで行き、彼女と別れ、教室に入る。来た、来ましたよ…

 

「比企谷八幡君の、一日のスケジュール」

 

 登校時→結衣とご挨拶、憎まれ口をたたきながらも教室まで同伴

 昼休み→あざとい生徒会長とお弁当

 授業間→妙に平塚先生から呼び出される

 放課後→雪ノ下さんからの止むことのない罵倒

 下校→戸塚君とお・た・の・し・み。…デュフフ。

 

 ※1 サキサキが怪しい

 ※2 たまに遊びに来るほわほわしたせんぱいが怪しい

 ※3 相模さんが怪しい

 ※4 雪ノ下姉が怪しい

 ※5 …小町ちゃんが怪しい

 

 どこのギャルゲーだ。

 

 つまり、何が言いたいかというと。

 

「私の出る幕がない!!!!!!」

 

 教室の全員がこちらを向く。

 

「ちょ、海老名、急にどうしたし」

 

 目の前の金髪で見るからにイケイケな娘があたふたと問う。

 

「いや、ちょっと最近悩んでることがあって。優美子、驚かせてごめんね?」

 

 今私は、優美子の教室にいる。昼休みに優美子から話がある、といって呼び出されたのだ。私の前には小盛の二つに分けられたお弁当がある。彼女の前にはかわいらしいクマをあしらったお弁当箱、ウサギ、ネコ、イヌ…。さすがにかわいすぎないだろうか。というか多すぎない?それに加えていくつかのデザートも別の容器に入っている。結衣といい、栄養が全部二つのモノに集まる魔法でもこの世にはあるのだと思う。不公平だ。

 

 優美子は相談があるようだけど、ここ数日彼のことで悶々としている私も、内心では彼女の悩みを聞いている余裕はなかった。いや、ほんとに比企谷君隙なさすぎなんだよ…。

 

 私の言葉に少なからず驚いたのか、彼女は目を見開いて私を見る。

 

「へー、海老名が悩みあるって口に出すの、珍しくない?どしたん、あーしでよければ聞くけど」

 

「いや、それが一言で言えるような問題じゃなくてね…」

 

 つい伏し目がちになる。顏が熱い気がするが、顔色にまで出てないか心配だ。で、出てないよね?

 

 私の様子から何かを悟ったのか、彼女は「はーん…」と顔をニヤつかせる。

 

「もしかして、あんた好きな男でもできた?」

 

「ブー!!!!」

 

 思わずお茶を吹き出す。

 

「そんな驚くこと!?海老名、これでふけし」

 

「う、うん、ありがとう」

 

 優美子から差し出されたティッシュで口を拭い、気持ちを落ち着ける。やっぱり優美子はいいお母さんになりそうだなぁ…。

 

「で、海老名。その反応からみるに図星だし」

 

 彼女のニヤニヤは止まらない。…そんなにおかしいことかな。

 

「あ、いま「別にそんなに変なことじゃない」とか思ったっしょ」

 

 ぎくり。優美子はここまで鋭かっただろうか?

 

 彼女はため息をつく。

 

「十分変だっての。最近のあんた、変わったと思う。前は正直あーしにも海老名が何考えてるかよくわかんなかった。でも今はなんか、感情が表に出やすくなった気がする」

 

 …変わったのは彼女じゃなくて、私だったんだ。

 

 彼女の顔に笑みが戻る。

 

「しかも最近海老名、眼鏡してないじゃん。あーしがいくら『コンタクトにしなよ』って言っても聞かなかったあんたが、いきなり眼鏡をしなくなった。正直これだけでも十分判断材料になるし」

 

 ふふん、と豊満な胸を誇らしげに張る。く、くそう、二重に負けたみたいで敗北感がすごい。

 

「で、誰なん?言ってみ?」

 

 しまった。この手の話題は、優美子の大好物だった。

 

「い、いや、別に好きとかそういうことじゃなくて」

 

 「じゃなくて?」

 

 顔をのぞき込まれる。う…。

 

 ふと以前結衣が同じようなタイミングで言っていたセリフが思い浮かぶ。

 

「気になる、っていうか」

 

 そう顔をそらすと、優美子は下を向き、机をバンバンとたたく。…周りの人見てるよ。

 

「ま、まさか海老名からそんな女子みたいなセリフ聞けるとは思ってなかったし!」

 

「私だって一応女子だよ…」

 

「で、どういう風に気になるの?」

 

 ま、まだ来ますかこの乙女は。

 

 普段の私だったら、いつもの海老名姫菜だったらこんなこと絶対に口に出さなかっただろう。親にも兄弟にも、友達にも。

 しかし気づけばポツリポツリと口を開く私がいた。…なんで話してしまったのか。

 

 眼鏡をかけてくるべきだったのかもしれない。

 

「…どうって、そうだね。私、その人に嫌な思いさせちゃったことがあったの。…ううん、本人はそんな自責お門違いもいいとこだ、とか言うかもしれない。むしろ私に悪いことしたとか思ってるかもしれない。でも、私は確かに彼を傷つけた。それなのに今更彼の近くにいるのが私なんかでいいのかなって…」

 

 私は、彼のことを気にしている。更に続ける。

 

「それに、彼の近くには私なんかよりかわいい子が、たくさんいるの。だから私じゃなくたって…」

 

 私の中には二つの罪悪感がある。

 

 気持ちを確かめ合っても、それはなかなか消えてくれない。一つは今言った比企谷君へのもの。もう一つは優美子には言わない、というか言えないけど、奉仕部の二人へのもの。雪ノ下さんはどう思ってたかわからなかったけど、結衣はたぶん修学旅行の時の私の思惑に、彼の私への告白と私の受け答えによってなんとなく気づいたと思う。そして私は結衣の彼への想いに気づいていたし、責められても仕方がないと思った。でも彼女は、何も変わらず、変えようとせずに私と接してくれた。

 

 だから私は彼女に、彼女たちに引け目を感じてしまう。

 

「ふーん、そっか」

 

 優美子はオレンジジュースを一啜りする。

 

「あーしさ、むずかしいこととかこまかいこと考えるの嫌いだから」

 

 頭をガシガシと掻く。そのしぐさが彼を思いださせて、つい笑みがこぼれる。

 

「…だから、海老名の気持ち、わかるとは言えない。だっていくらがんばっても過去は取り返せないし。だったらその男が近くにいることを素直に喜んで、楽しんだらいいんじゃない?」

 

 彼女らしい。でも。

 

「それは優美子だから言えるんじゃないの」

 

 まっすぐに彼女を見る。

 

「…」

 

 彼女から目をそらされたのは初めてだったかもしれない。

 

「あんた、ほんとに変わったね。…ちょっと悔しいし」

 

 彼女は苦笑を漏らす。

 

「少なくとも、あーしはそう思うことにした。…今と、先だけ見るって」

 

 その一言に重みを感じた。そっか。優美子の相談って…。

 

「うん」

 

 一言、返すだけでよかったと思う。

 

 

 

「に、しても」

 

 優美子はブスリ、とフォークでソーセージを刺す。

 

「その男、ろくでもないし。海老名の話を一言でまとめれば、他の女の影が見える、ってことっしょ?」

 

「いや、そーゆーことじゃ…」

 

 低い声を出す優美子に、比企谷君の身が危ないと思い、言いかけて私は冷静になって考えてみる。あれ、優美子の言う通りじゃない?

 

 黙ってしまった私に彼女は厳しい目で続ける。

 

「それに、海老名。あんたもあんただし。さっきから「私なんて」って言うのやめな。…今あんたかわいいのに、ブサイクになるよ」

 

 優美子…。

 

 「お母さん!」

 

 気づけば私は優美子の胸に飛び込んでいた。

 

「は、はぁ!?何言ってんのあんた…。あーしがばばあみたいじゃん。ってか、さっさと離れるし!」

 

 そう言って顔を赤くする優美子に抱き着きながら、思う。

 

 …単純でもいいかもしれない。

 

 

 

 

 昼休みも終わりに差し掛かり、優美子の教室を出る。

 

 すると猫背で目が濁った、アホ毛の少年が目に入る。…よし。

 廊下にはほかにちらほら生徒もいた。見知った顔はいなかったけど、もしかしたら私と彼を知っている人はいるかもしれない。それでも、

 

「比―企谷くんっ」

 

 ふわりと後ろから抱き着く。彼の匂いがいっぱいに広がり、思わず頬が緩む。

 

「うわ、ちょ、海老名さん!?な、なにやってるんですかね」

 

 反応に成長がない。

 

「何って、ハグだよ、ハグ。そんなことより、比企谷君」

 

 いまだに緊張した様子の彼にの前に回り込み、彼の顔を正面からのぞき込む。あ、目そらした。

 

「今週末、デートに行きましょう」

 

「…はい?」

 

 …その反応は、点数をつけるとしたら0点だよ。

 

 目を丸くする彼を尻目に、私はすでに頭の中でデートプランを組み立てていた。

 

 既成事実って、大事だよね♪

 

 

 

 

 

 

 



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今日の彼女は少しおかしい(前編)

 

 20××年4月某日。午前8時半、千葉駅にて。俺、比企谷八幡はある人物を待っていた。集合時刻は9時なのだが、少し早く着きすぎてしまった。

 

 駅近くのベンチに腰掛け、マックスコーヒー片手に待ち人の登場に備える。うむ、やはり朝のスタートダッシュはマックスコーヒーに限る。昼には午後からの活力のために、マックスコーヒーは欠かせない。夜には気持ちよく寝るために、マックスコーヒー一本は必須だろう。…さて俺は今の数秒の間に何回マックスコーヒーと口にしたでしょうか?

 

 一人そんな思考で時間をつぶす。駅前は土曜日の朝だというのになかなか人が多い。家族連れの姿も多いが、それ以上にカップルの姿が目立つ。いや、バカップルの姿が。先ほど通り過ぎた男女のペアは、頭から足元まですべて同じ服でそろえていた。同じニット帽、同じパーカー、同じジーンズに同じスニーカー。それが許されるのは小学校に上がるまでの双子くらいだろう。そう毒づくが、どうもその先の言葉が出てこない。あっれれー、いつもならこのネタであと数分は時間がつぶれるくらいの思考ができるはずなん…

 

 高2病の調子の悪さを嘆いていると、突然視界が暗転し、俺の目を冷たく柔らかい感触が覆う。

 

「だーれだ?」

 

「どなた様でしょうか?」

 

 ノータイムでそう返す。声の主はぶー、と口をとがらせ、同時に俺の視界が開ける。

 

「もう、ノリが悪いなぁ比企谷君は。こーんな綺麗なお姉さんが、せっかく朝から話しかけてあげてるっていうのにぃ」

 

 雪ノ下陽乃はそう言って俺の頬を2、3度つついた。

 

 

 

 

 

「…どなた様でしょうか?」

 

 もう一度同じセリフをつっけんどんに繰り返す。いつもならばもう少し彼女の遊びに付き合ってもよいところだが、あいにく今日は余裕と時間がない。

 

 そんな俺に彼女は違和感を覚えたのか、首をひねる。

 

「んん?なーんか比企谷君今日はいつもより一層かわいげがないね。…なんか悩みでもあるの?お姉さんに話してみなさい?」

 

 雪ノ下陽乃は俺の目をのぞき込む。疑問形だったもののその目はどこか冷たく、有無を言わせない。

 

「べつに、何でもありませんよ。それに俺に可愛げがある方が気持ち悪いでしょう」

 

 そう返してそっぽを向く。

 

 ふーん…。彼女は意味ありげな笑みを浮かべ、顎に手を当てる。

 

「まあいいや。ところで比企谷君、こんな朝早くにこんなところで何をしているのかな?」

 

 う…。聞いてほしくないことを的確に聞いてくる。

 

「別に…。俺が休日の朝に自発的に出かけるのはそんなに珍しいですかね」

 

「んー、自然ではないよねー」

 

 抵抗もむなしく即座にやんわりと否定される。

 

 納得できない様子の彼女はうーん、と腕組みをし考え込む。…しつけえ。

 

 一通り思案すると、突然あっと彼女はわざとらしく手をたたく。

 

「もしかして、雪乃ちゃんとデートとか!」

 

「そんなわけないでしょう」

 

 はっきりと否定する。重ねて言うが、雪ノ下姉と遊んでいる余裕は、今の俺にはない。

 

 彼女はいよいよ怪しく思い始めたのか、俺の横に腰を掛ける。ちょ、近い近い近い。なにこの人、こんなはっきりと拒否姿勢出してる相手に、なんで距離詰められるんだよ。

 

「じゃ、私と遊びにいこっか」

 

「無理です」

 

 なんなのこの人?俺のこと好きなの?

 

 小さくため息をつき、また口をとがらせる彼女に続ける。

 

「大体、雪ノ下さんも何か用事があったからここにいたんでしょう。油売ってないでさっさと行ったらどうですか」

 

 目を合わせずにそう突き放す。しかし彼女にはそんな拒否も大した意味はなさないらしい。からからと笑う。

 

「大学の男の先輩から呼び出しくらったんだけどねー。まあどうでもいいし、待たせる分には問題ないでしょ」

 

 それ日本語おかしくないですかね。相変わらずの彼女の傍若無人ぶりに、俺はあきれる。待たせる分には問題ないって、つまり…どういうことだってばよ。

 

 ただでさえ頭の回らないところに、理解不能の言葉で俺の思考は止まりかける。その時。

 

 ふわり。

 

 小さく風が吹き、俺の背中に柔らかい感触が当たる。ちょっと、いい加減に…

 雪ノ下姉にはっきりと文句を言おうとするが、彼女は横でぽかんと口を開け俺の後ろを見ている。

 

 彼女を驚かせるとは。俺は後ろを見る。

 

「おはよ、八幡。ごめんね遅くなって。待った?」

 

 海老名姫菜はそう笑い、俺の肩に顎を乗せた。

 

 

 

 

 

 

「へー、じゃあ君たちはこれからデスティニーシーに行くんだね」

 

「はい。そうなんですよ。とっても楽しみで」

 

 どこか冷たい目で尋ねる雪ノ下陽乃相手に、海老名姫菜の笑顔は全くブレない。大したものだ。あの目で見られたら、俺ならば速攻で求められてもいない謝罪を繰り返し、土下座して許しを請うまである。いや、何やらかしたんだよ、俺。

 

「そうなの?比企谷君」

 

 なぜか雪ノ下姉は俺にも同じ問いを繰り返す。いや、俺は今初めて聞いたんですけど…

 

「だよね、比企谷君」

 

 言いよどむ俺に海老名さんは上目づかいで同意を求める。う、その目で見られては。

 

「はい、そうです」

 

 俺は何とか一言絞り出した。

 

「ふーん、ずいぶんと仲がいいんだねー」

 

 彼女は満面の笑みで俺たち二人を交互に見て、にやりと口の端を持ち上げる。

 

「じゃ、暇だしお姉さんもお邪魔していいかな?」

 

 何を言ってるんだこの魔王は。

 

「いや、さっき男友達と待ち合わせしてるって…」

 

「黙っててくれるかな?比企谷君。お姉さんはこの娘に聞いてるんだから」

 

 はいごめんなさい。

 

 海老名さんを横目で見る。彼女の額に一筋の汗が流れる。しかしそれでも表情は変わらない。よかった、傍若無人な雪ノ下姉に苛立ってはいないよう…

 

「えー、駄目ですよ。だって雪ノ下さんが来たら、邪魔じゃないですか。ねえ、比企谷君」

 

 …いらついてましたね、さすがに。

 

 流石の彼女でも本当についてくる気はないだろう。イラつかせ、余裕をなくすことが目的のように思える。雪ノ下姉は案の定余裕のなくなった彼女を一瞥し、にやりと笑う。

 

「えー、ひどーい。そんなこと言う女の子よりお姉さんのほうがよくない?比企谷君」

 

「比企谷君困ってるので、あまりくっつかないでくれますか?雪ノ下さん」

 

 必要以上に距離の近い雪ノ下姉に、彼女の表情が消える。…はぁ。

 

 俺はため息をつき、雪ノ下姉に一言告げる。

 

「すいません、今から姫菜とデートなので、今日のところは勘弁してください」

 

 雪ノ下陽乃の間抜け面を二度も見られた今日は、いい日かもしれない。

 

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃は興がそがれたのか、興味なさげに「ふーん、そうなんだ」とつぶやくと、男と待ち合わせのカフェへ行くと言って去っていった。…何しに来たのあの人。

 

「で、比企谷君」

 

「…はい」

 

 俺は笑顔で俺の横に座っている海老名姫菜を見られない。

 

「今更君の女性との交友の広さに驚きはしないけれど、初デートの当日にほかの女の人と親しげにくっついているのは、どうなのかな?」

 

 そう。今日は彼女とデートに行く約束をし、千葉駅前まで土曜の朝早くから来た。少なからず緊張して口数は少なくなっていたが、彼女の今の言葉は聞き捨てならない。

 

「ちょ、別に俺は女子との交友関係なんかほぼ皆無だぞ。なんなら男との交遊もないまで…」

 

「比企谷君」

 

 彼女は笑顔で俺を遮る。

 

「人として、どうなのかな?」

 

「すいませんでした」

 

 こ、こわいよぅ…。 

 

 ふう、と彼女は一息つく。

 

「じゃ、いこっか。比企谷君」

 

「え、どこに?」

 

 戸惑う俺に、彼女はあきれた様子でため息をつく。

 

「さっきの話聞いてなかったの?」

 

「いや、聞いてはいたが、その…ほんとに行くのか?」

 

 デスティニー。彼女がその場所を選ぶとは思わなかった。彼女にデートに誘われた時、俺は反射的に池袋、秋葉原といった場所を連想していた。

 

「…比企谷君、なーんか失礼なこと考えてないかな?」

 

 ジト目で彼女は俺を見る。

 

「い、いや、そんなことはないが。ただ少し意外だったからな」

 

 つい言葉に出てしまった。彼女は視線を落とす。

 

「うん、わかってる。私らしくない、よね…。でも、比企谷君」

 

 彼女は顔をあげ俺を見る。

 

「私、今日は思いっきり楽しむつもりだから!」

 

 彼女はいつもの海老名姫菜とは違い、屈託なく笑う。その笑顔とらしくない発言に違和感を覚え、俺はもう一度彼女を見る。

 

 今日の彼女の装いは、ベレー帽に長めのデニムシャツ、足元はベージュのショートブーツ。そしてボトムスには…その、かなり短いフレアスカート。

 

 一見彼女らしからぬ装いだが、メガネがないためかそんな格好もよく似合っている。そしてすらりと伸びた生足が目にまぶ…

 

「…比企谷君?」 

 

 気づくと彼女は顔を赤くしていた。…しまった。

 

「その、そんな見られると恥ずかしいんだけど…」

 

 うっ…。とっさに顔をそらす。

 

「ど、どうかな?」

 

 彼女はデニムシャツの裾を両手で握り、横目で俺に問う。ど、どうといわれましても…

 

「あー、よく似合ってる、と思う。…少なくとも目のやり場には困るな」

 

 チラリと横眼で見ると、彼女と目が合う。い、いや、別にやらしい気持ちはなくても自然と目がですね…

 

 彼女は顔を赤くし、小さくつぶやく。

 

「えへへ…勇気出してよかった…」

 

 しかしそのつぶやきはあまりにも小さく、俺の耳には届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「キターーーーーーー!」

 

 海老名さんは入り口前にある巨大パンさんマスコットを前に、両手をあげて叫ぶ。

 

「ちょ、海老名さん、テンションおかしくないか?」

 

 周りの視線が痛い。しかし彼女は俺の制止も気にしない。

 

「えー、せっかくデスティニーまで来たのに、比企谷君のテンションが低すぎるんじゃないの?」

 

 ウキウキとした様子で園内パンフレットを眺めながら、彼女は言う。

 

「…まあ、楽しそうなら何よりなんだが」

 

「最初どれから行く?あ、もしかしてお腹すいた?実は結衣からデスティニーのおいしいものとかも聞いてきたんだー」

 

 …人の話、ちゃんと聞こうね。

 

 しかし、彼女はこんなにデスティニーが好きだっただろうか。前にもクリスマスイベントの際に彼女とは一緒にデスティニーに行ったが、あの時はそんなそぶりを見せなかったが…。団体行動だったからか、それともランドではなくシーが好きだったのか。

 

 俺の疑問を知る由もなく、彼女は俺に言う。

 

「じゃ、比企谷君、最初はこのアトラクションのパスとろう!」

 

 パンフレットを指さし、彼女は俺の手を取る。ちょっと、柔らかい…じゃなくて、

 

「海老名さん、手…」

 

 そう彼女に訴える。しかし彼女は返事もせず、つかつかと歩いていく。その顔が赤かったのは、気のせいではなかったと思う。

 

 …春だというのに、もう暑い。

 

 その後俺達は、海老名さんの気の向くままにアトラクションに乗りまくった。どのアトラクションに乗っても彼女のテンションは高く、本当に楽しそうで、俺もらしくもなく少しはしゃいでしまった。

 

「そろそろお昼にしよっか?」

 

 タワーが落ちるアトラクションに乗り写真を選んだ後、海老名さんがそう俺に問いかけてくる。なんで俺はこういう時に絶対自分でも引くほどのキモイ顏してるんですかね…。海老名さんがそれをどうしても買えと言い張るので、一緒に買いはしたが。

 

 時計を見るとすでに時刻は14時。

 

「そうだな、言われれば腹も減ったし。どっか店はいるか?それともなんか適当に食うか?」

 

「そっだね、どの店もまだ結構混んでるし…」

 

 うーん、と海老名さんはあたりを見渡す。すると目の前にあった店の中の一つを指さした。

 

「こ、ここにしよう」

 

 その店は少ししゃれたレストランだった。店先のメニューを見てもそこまで高くはなく、家族連れや学生らしいカップルも多い。それだけに中では何組か待っているようだった。

 

「別にいいが…少し待つかもしれんな」

 

「そんなにいないし、ここにしようよ」

 

 彼女は譲らない。まあ、別にいいか。歩かなくていいし。

 

 

 

 

「お待たせいたしました。ご注文はお決まりでしょうか」

 

 メイド服を着たお姉さんが、ニコニコと注文を取りに来る。店を見渡すとどの店員もかなり若い。まあこの服を平塚先生が着るのは少し無理があるだろう。…はっ、寒気が…。

 

「じゃあ俺はグリルハンバーグとエビフライのプレートで」

 

「えーっと、じゃあ私は白身魚のフライセットと、…これを」

 

 昼食を注文した後、海老名さんはメニューを店員さんのほうに向けてメニューの中の一つを指さしながら、チラリと俺の方を見た気がした。

 

「…かしこまりました」

 

 店員さんは優しい笑顔を海老名さんに向け、奥に下がる。…何か違和感がある。

 

「海老名さん、今何頼んだんだ?」

 

「え?あ、ほ、ほら、ジュースだよ。いろいろ歩いてのどかわいちゃったから」

 

 その一言に俺はさらに疑念を深める。俺は普段彼女がジュースを口にしている姿を見たことがない。彼女はコーヒーはブラックで飲み、学校で弁当を食べるときはたいていお茶を飲んでいたと思う。

 

「そ、そんなことより、この後どこ行くか考えとこうよ」

 

 もっともな提案ではある。効率よく回らなければ多くのアトラクションは回れないだろう。今日は土曜日で人も多い。…多くのアトラクションを回ろうとは、今日は俺も少しおかしいのかもしれない。

 

 

 

 

「なん、だと…」

 

 それぞれに頼んだものが来て、俺は店を出ようとした。しかし店員のお姉さんが運んできたものに、俺はついそうこぼす。

 

 運ばれてきたものは大きなカクテルグラスに、中にはメロンソーダ、コップの縁にはレモンとパンさんのイラスト。そしてメロンソーダの中には…ハート形に絡み合ったストローが、2本、刺さっていた。

 

 これはいわゆる、そう、あれだ。

 

「お待たせいたしました。メロンソーダ・デスティニースペシャル…カップル用ですっ」

 

「注文してません」

 

 速攻で店員のお姉さんに告げる。おおよそ俺と海老名さんから最も遠いものだろう。

 

「お客様、申し訳ありません。…ご注文されませんでしたか?」

 

 店員は俺ではなく、うつむいている海老名さんに優しい笑顔でそう聞く。

 

「いえ…頼みました」

 

「…」

 

 まじですか。

 

「ではごゆっくりどうぞ」

 

 店員は普通のグラスよりも大きなそれを俺と海老名さんの間に置き、また奥に下がる。

 

「…た、頼んだんだし、飲もっか」

 

「…海老名さんが頼んだもんだ、俺が飲むのは悪いような…」

 

 目を泳がせる俺に、海老名さんは涙目になる。

 

「比企谷君は、私に一人でこれを飲ませる気なの?」

 

 「う…」

 

 そ、そういうことか。海老名さんがなぜこの店を選んだのか、分かった。

 

 まだ涙目で俺を見つめる海老名さんをみて、ため息をつく。

 

「…少しなら」

 

「…うん!」

 

 彼女の顔がパァ、と明るくなる。…この顔を見れただけでも、いいか。

 

 正直、メロンソーダの味などまるで分らなかった。

 

 

 

 

 

 午後は海老名さんと話し合ったとおりに園内を動き、アトラクションに乗った。夕方に行ったお化け屋敷では、彼女の意外な一面も見れた。

 

「比、比企谷君…」

 

 彼女はそう震え、ずっと俺の腕を自らの腕と絡ませていた。ちょっと、やめてください、その、膨らみが…

 

「いや、別にそこまで怖がらなくても…人間のほうがはるかに怖いだろ」

 

 いつか由比ヶ浜に言ったセリフを口にする。その先の「だから人間が怖がらせるお化け屋敷が一番怖い」を言えばもっと怖がらせると思ったので、言わなかったが。

 

「そ、そうはいっても、それは腐ってる比企谷君だから…ひゃ!」

 

 横から現れた女のゾンビに驚き、海老名さんは腕だけではなく体ごと俺にしがみ付ける。…や、やばい、理性が…。

 

 結局本能を理性でねじ伏せたが、本気で、本当に危なかった。

 

 

 

 

 

 そして時刻は20時。明るく、春の日差しが爽やかだった園内は、暗く、煌びやかな夜の世界となった。

 

「綺麗…」

 

 次々と水上に上がる花火を見ながら、海老名さんはつぶやく。

 

「…そうだな」

 

 以前、由比ヶ浜とみた花火を思い出す。…あの時と、こんなに違うのか。

 

 横で俺の手を握る女の子を見て、俺は思う。そう簡単には変わらない。ずっとそう思っていた。自分も、そして他人も。変わることは過去の自分を否定することだとも思っていた。

 

 しかし。俺はしっかりと絡ませた俺と彼女の手の熱を感じ、思う。変わることも悪いものじゃない。

 

 俺の理屈はまた矛盾する。変わった俺と彼女を肯定し、俺と彼女のつながりは今後変わることは、離れることは、壊れることはないと、そう感じていた。

 

「…比企谷君」

 

「…なんだ」

 彼女は俺の手をさらに強く握る。その手を俺は、離したくなかった。

 

 彼女はゆっくりと微笑み、告げる。

 

「…今日は、帰りたくない、よ…」

 

 

 

 

 

 



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今日の彼女は少しおかしい(後編)

 

 今日の彼女は少しおかしい。

 

 思えば、朝会ったときからそうだった。一目見て彼女らしからぬ、普通の女子高生のような服装。彼女らしからぬ浮足立った発言、行動。

 

 そして、今。俺はこれまでで最もらしくない彼女を前にする。彼女の目は花火でも、こちらに手を振るマスコットでも、煌びやかな夜景でもなく、まっすぐに俺を見ている。

 

 そんな彼女を俺は正面から見ることができない。視線を落とし、何とか告げる。

 

「冗談でもそういうことを言うのはやめてくれ。…俺は、もう間違えたくない」

 

 そう、俺は間違えたくない。思えば今までさんざん間違えてきた。俺が間違えるたび、ある者は憤慨し、ある者は気づかず、ある者は矯正を試み、そして…これはうぬぼれかもしれないが、ある者は俺の間違えを哀しんだように、俺には見えた。

 

 それでも、その何人かの想いに気づきながらも、俺は幾度も間違えた。俺の目の前で起こることはすべて俺のことでしかなく、俺の行動の結果も俺だけのものだった。だから俺は誰が哀しんでもそれは他人事で、物事は自分の中で完結していたのかもしれない。

 

 だが俺は今彼女に関することは、彼女と俺に関することは、間違えたくなかった。間違えるわけにはいかないと思った。彼女といくつもの思いを交わし、俺は確かにそう感じている。間違えれば彼女を傷つける。そして彼女が傷つけば、俺は…。

 

「…私、ね」

 

 海老名さんは俺を見る。

 

「私は、私が嫌い。腐ってる私が嫌い。卑怯な私が嫌い。傲慢な私が嫌い。よくわからない私が嫌い。そして私は…比企谷君のことが、好き」

 

 俺は彼女の独白に、何も言えない。言うべきではない。そう思った。

 

「だから私、不安なの。不安で不安でどうしようもないの。私は私が大嫌い。でも比企谷君のことはとても大事に思っている。

じゃあ比企谷君は?比企谷君にとっても私は、私が嫌いな私は、比企谷君の大切になれているのかな?なってもいいのかな?私には自信がない。全然、ない。 比企谷君の周りには私なんかよりはるかに素敵な女の子がたくさんいて、私はその子たちよりも比企谷君の大切になっていいのか、その子たちから比企谷君をとっていいのかわからない。比企谷君を傷つけた私が、比企谷君の大事な場所を傷物にした私が、その比企谷君の近くにいてもいいのか、わからない」

 

 彼女の言葉は、もう俺には向かっていなかった。どこまでも自分に向かっていて、どこまでも虚空に向かっていた。その問いは終わることなく彼女と虚空に投げかけられ、もはや問い自体が彼女にかけられた呪いとなっていた。

 

「だから私は今日、私じゃない私で、嫌いな私を置き去りにして、ここに来たの。いつもの海老名姫菜が着ないような服を着て、しないような発言をして、とらないような行動をとった。

でも、比企谷君。それは偽物じゃなかったと思う。その私は確かに今日、比企谷君との時間を楽しんで、今までと同じように。…ううん、今まで以上に幸せだったよ」

 

 そう俺に笑いかける彼女は、泣いているように見えた。

 

「だから私は今日、比企谷君と離れたくない。自信がほしい。確証がほしい。そうすれば…私は、比企谷君の大切でいられると思ったから。事実が気持ちを乗り越えてくれると、そう思ったから」

 

 彼女は手に持ったカバンから二枚のチケットを取り出す。

 

「比企谷君、ここにチケットが二枚ある。お父さんがくれた、会社の偉い人にもらったデスティニーリゾートの宿泊チケットだよ。今日私は友達と一緒にここに泊まることになってる。

…『事実が気持ちを乗り越える。』こんなこと言ってる時点で、私が卑怯なのは、私が一番わかってる」

 

 

 彼女は自嘲気味に笑う。

 

「だから、選んで。比企谷君」

 

 選んで。彼女はそれだけ言った。何から選ぶのか。何を選べばいいのか。俺にはなんとなくわかる気がした。

 

 彼女も俺と同じで、怖いのだ。怖くて、身動きが取れなくなっている。なぜ俺は自分だけがそう感じていると思い込んでいたのだろう。彼女は俺の葛藤に気づいていたというのに、俺は彼女の優しさに、強さに甘えていた。彼女の恐怖に、彼女の葛藤に、彼女の呪いに、俺は気づくことができなかった。

 

 底が見えなくて、いつも笑顔で、どこまでも優しく、見透かされていると俺が思っていた女子は…普通の不安を抱く、一人の普通の女の子だった。

 

 気づくことができなかったのではない。気づこうとしていなかったのだ、俺は。彼女なら大丈夫だと心のどこかで思っていたのだろう。変わったと思ったのに、変わろうと思ったのに。らしさを押し付け、自らの枠組みに当てはめ、俺の勝手な理想を押し付けて、一人の女の子の気持ちも考えていなかった。

 

 もう一度、彼女を見る。海老名姫菜という人間を、俺はもう一度正面から見る。ならば。不安で仕方のない彼女に、怖くて仕方のない俺に、とることができる選択肢とは。いや…出すことのできる答えは。

 

「わかった」

 

 うなずく俺に、海老名さんは瞠目する。

 

「比、比企谷君…いい、の?」

 

「ああ」

 

 俺は力強くうなずく。

 

「でも…ど、どうして?」

 

 彼女は心底不思議そうに、俺に問う。

 

「自分から言っておいてそれはないだろ」

 

「ご、ごめん。絶対断られると思ったから…」

 

 絶対、か。あまりの自らの甲斐性のなさに、思わず苦笑がこぼれる。

 

「海老名さん」

 

 俺は彼女の名前を呼ぶ。

 

「俺はお前のことが好きだ。それだけは間違いないし、間違えようがない。この気持ちは、たぶん本物だろう。

だが、それはただの俺の気持ちだ。俺はお前の気持ちにまで入り込めない。俺が海老名さんの気持ちを決めつけることはできない。その不安は、葛藤は、恐怖は、…罪悪感は、海老名姫菜にしかわからないものだ。結局のところ自分自身で向き合うなり、逃げ出すなり、整理するなりするしかないものだろう。俺にはそれを大丈夫だとも、わかるとも、許すとも言えない。俺にはその言葉が本物だとは思えない。

でもお前は、俺が自らの気持ちにケリをつけられるまで、俺が俺と海老名さんを信じられるまで、待つといってくれた」

 

 息を吐く。打ち上げられた花火の残骸が水面に降り落ち、風がそれをどこかへ運ぶ。

 

「ならば俺は、お前と一緒にいる」

 

 今度はまっすぐ彼女を見られただろうか。

 

「…比企谷君」

 

 彼女は短く俺の名前を呼び、ふわりと俺の胸に飛び込む。その体はとても軽く、触れれば壊れてしまいそうだった。

 

「行こっか」

 

 儚げな少女は、静かにつぶやいた。

 

 

 

 

 

「どんなことにも、最初というものはある」

 

 俺はこの言葉が嫌いだ。失敗の言い訳のようにも聞こえるし、「だからやれ」と強制されているように感じる。それに…失敗できないものにも「最初」は等しく訪れ、この言葉はそれを全く解決してくれない。

 

 あの後彼女と一緒にホテルで食事をとり、チェックインして現在の時刻は22時。今更どこか行くには遅く、寝るには早い。

 

「…クソ」

 

 俺はベッドに横たわる。

 

 自らのこれまでの生き方を今更後悔する。リア充として生きる比企谷八幡がもし別の世界線に存在するならば、今すぐに変わってもらいたい。…何とかして練習しておけばよかった。

 

 危うい後悔に溺れる俺の意識は、彼女の声によって現実へと戻る。

 

 

「比企谷くん、お風呂、空いたよ。…一緒に入らなくてよかったの?」

 

 肩まである髪をバスタオルで拭いながら、バスローブ姿の海老名姫菜はいたずらっぽくそう笑う。その姿に思わず、うっ…、と呻く。

頬は上気し、髪は艶めかしく濡れ、バスローブから綺麗な足をのばす彼女を、俺は直視できない。…俺は今晩果たして大丈夫だろうか。

 

「もう風呂に入れてもらう歳でもないしな」

 

 そう返し、俺も風呂場に入る。

 

 に、しても。俺は鏡とにらみ合う。俺を誘った時の彼女には、どこか儚げな憂いこそ見えたものの、それ以外はずいぶんと余裕を感じた。それに今の発言。思い出して少し顏が熱くなる。

 

 つい忘れかけるが、彼女も二年生の時は学年トップカースト。しかも三浦の談によれば男から言い寄られることも多かっただろう。もしかしたらすでにそう言ったことも経験…。

 

 俺は首を振る。何を考えているのだ。そんなことは今俺が考えてもしょうがないことだし、彼女に限ってそんなことはない。…と、思う。

 

 どうにも不安を拭いきれない俺は、シャワーを浴びて自らの考えを振り払った。

 

 

 

 

 

 

 そして俺と彼女は、ベッドの上で正座で向き合う。

 

 さて…どうしたものか。

 

 さっき言明は避けたが、もちろん俺にそういったことに関する経験はない。女子と同じ部屋で寝るということ自体、小町が幼稚園の時以来だ。あの時の小町はかわいかったな…。現実逃避している場合ではない。

 

 彼女を見ると、まだバスタオルで髪の毛でごしごしとふいていた。あの…さすがにもう乾いてるんじゃないですかね。

 

「あー…寝るか」

 

 あまりの気まずさに、それだけ口にする。

 

「え、も、もう!?まだ心の準備が…」

 

「寝るだけのことで心の準備も何もないだろ…」

 

 ジト目で彼女からの視線を受ける。間違ったことは言っていない、はず。

 

 ベッドをもう一度見る。布団には大きなパンさんの絵が描かれており、クッションはさすがに相当よさそうだ。体は何の抵抗もなく沈み込む。そして何より…一つのダブルベッド。

 

 俺は今日寝られるんですかね…。

 

「わかった。…じゃ、寝よっか」

 

 海老名姫菜はそう頬を赤らめる。

 

 げ、まだ心の準備が…。

 

 

 

 ベッドにお互い背中合わせで横たわる。部屋の電気は消し、ベッドの横の照明をつける。

 

 当然だが、落ち着かない。心臓の鼓動が自分でも聞こえるほど大きくなっている。背中越しに彼女のぬくもりを感じる。

 

 こういう時に取るべき行動を、最初の一歩目をあいにく俺は持ち合わせていない。…動けねえ。

 

「比企谷君」

 彼女は背中を向けたまま、俺を呼ぶ。

 

「おう」

 背中を向けたまま短く返す。

 

 彼女は言うべきかどうかしばし逡巡していたが、意を決したのか大きく息を吸う。

 

「比、比企谷君は、もしかしてそういう経験とか…」

 

「ば、あるわけねえだろ!」

 

 即座に否定する。言っていて悲しくなる。

 

「そ、そっか…」

 

 彼女がほっ、と一息つく。そっちが聞いてくるのならば、こちらも気になる。

 

「海老名さんはその、なんだ…そういう経験は…」

 

「あ、あるわけないでしょ!そういう女の子だと思ってたの?」

 

 思ったより強く否定された。最初に聞いてきたのはそっちなんだよなぁ…。

 

「じゃあ!」

 

 そう言って海老名さんはばっ、とこちらを向く。俺もつられて彼女の方を向く。

 

 目が合うと彼女は顔を耳まで真っ赤にし、布団を頭からかぶる。…はぁ。せっかくなかなか来られないデスティニーリゾートまで来て、気持ちよく寝られないのはさすがにもったいないだろう。そしてそのチケットを持ってきたのは、おれではなく海老名さん。優先権は彼女にある。

 

「ほれ」

 

 俺は布団を頭からかぶった彼女に、俺のほうにかかっている布団をかける。

 

「俺はソファーで寝るから、ゆっくり寝ててくれ。別に明日も休みだし遅くまで寝てても問題ねえだろ。…ああ、チェックアウトの時間教えといてくれれば起こす…」

 

 ベッドから離れソファーへ向かう俺の裾を、彼女がつかむ。

 

「一緒にいてくれるんじゃ、なかったの…?」

 

 ぐ…。

 

「別に一緒にいるとは言ったが、一緒の部屋に泊まっても、一緒のベッドで寝るとは言っていない気が…」

 

「…やっぱり私じゃダメなんだ」

 

 そう彼女は自らの胸に手を当て、ため息をつく。ちょ、男の前でそういう仕草をしてはいけません。

 

「いや、前にも言ったがそういうことじゃなくてだな…」

 

 頭を2、3度かく。

 

「じゃあどういうことなのかな?」

 

 彼女の顔にいつもの笑みが戻る。…だめだ、逆らえねえ。

 

「じゃあ、お邪魔して…」

 

「はい、どうぞ」

 

 彼女は布団を広げ、俺をベッドに入れる。

 

「で、でもなんか落ち着かないから…もうちょっと近づいて、頭なでてくれない?」

 

 いつもの笑顔を浮かべていた彼女の顔に朱色がさす。

 

「ち、近づくってどのくらい…」

 

 今の俺と彼女の距離は、ちょうど人一人分ほどある。なんならこの間に小町がいてくれれば俺はゆっくりと寝られると思う。

 

「このくらい!」

 

 彼女は突然俺との距離を詰め、俺の鼻孔をシャンプーしたての彼女の柔らかい髪の匂いがくすぐる。ちょ、近い近い近いいい匂いやばいこれやばい。

 

 彼女と俺の距離はほぼゼロとなり、彼女は俺の腹あたりに手を回す。

 

「ん…」

 

 彼女は俺に顔を向けることなく、頭を出して催促する。し、仕方ない。

 

「はあ…これでいいか?」

 

 彼女の頭を優しくなでる。

 

「うん」

 彼女の腕に込められた力が、少し強くなった気がした。

 

 こうして触れ合っている今だから、俺には彼女に、自らを嫌う彼女に今一度言わなければならないことがあった。

 

「海老名さん」

 

 彼女に呼びかける。

 

「…なに?」

 

 下を向く彼女の表情をうかがうことはできない。

 

「海老名さんは自分のことが嫌いだと言った。その気持ち、わかるとは言えない。俺は自分のことが好きだから。そして何より…海老名姫菜のことが好きだから。

お前は自分のことを腐っていて、卑怯で、傲慢で、よくわからないとも言った。確かにそうかもしれない。海老名姫菜は腐ってるし、卑怯で傲慢で、よくわからない女の子かもしれない」

 

 びくっ、と彼女の肩が震える。

 

「それでも、お前は俺の前で、それも含めたあらゆる海老名姫菜を見せてくれた。

優しく笑いかけてくれた。面白い話をしてくれた。嫉妬してくれた。逃げずに向き合ってくれた。傷を分かち合おうとしてくれた。待つといってくれた。そして…一緒にいてほしいといってくれた。

だから、俺は。

俺は…お前が嫌いだというお前も含めて、すべての海老名姫菜を好きになっていた」

 

 彼女の顔が上がり、俺を見る。

 

「腐っててもいい、汚くてもいい。俺は屋上でそう言っただろう」

 

「で、でも私は…」

 

「わかってる。さっき言ったようにそれは海老名さんの気持ちだ。お前だけのもので、俺が勝手に決めていいものじゃない。お前が嫌いなお前をどうしても許せないなら、これから変えようとするなり、許容するなり、諦めるなりすればいい。

だけど今は…」

 

 彼女を抱き寄せる。

 

「その…なんだ。そばにいる、姫菜。…俺でよければ、だが」

 

 彼女の顔を見ることができない。そっぽを向いてそう言う。

 

 彼女は声を出して笑った。まったく、最後の最後で格好がつかない。…いや、格好悪いのはデフォルトか。

 

「八幡だから、いいんだよ」

 

 優しく彼女は笑った。

 

 

 

 海老名姫菜は俺の腕の中で、ゆっくりと眠りについた。

 

 

 



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家庭訪問(前編)

 

 あの日。結局私は彼と、その…一線を越えることは、なかった。

 

 な、なんなの!あの甲斐性なし。抱き着いて、頭なでて、好き好きさんざん言って、結果普通にすやすや寝るだけって。…逆に、どこのギャルゲーなのかな?

 まあ、すやすやと彼の腕の中で寝ちゃったのは私なんだけどね。だって比企谷君、いい匂いして、とても落ち着けたんだもん。そういうわけで私は気持ちのいい朝を迎えたんだけど、朝起きたときには比企谷君の目の下にはクマができていた。…はっ、もしかして、わ、私のいびきがうるさかったとかじゃないよね!?

 

 まったくまったく。私はそう文句を言いながらも、あの日のことを思いだすと、自然とほおが緩んだ。あの後はチェックアウトの時間いっぱいまで二人でベッドにいて、たくさんおしゃべりして、時々、き、キスなんかしちゃったり。…大体私からで、比企谷君はため息交じりだったけどね。女の子からされてその反応はどうなんだろう。そう思いつつ、それでもそのあとは顔真っ赤にしてたから許してあげたけど。

 

 というわけで、今私は比企谷君を我が家で待ち構えている。

 

 いや、というわけでと言われてもわからないよね。話はあのデスティニーから帰ってきた、日曜日にさかのぼる。

 

 …時系列がぐちゃぐちゃだね。作者はほんともう少し考えて書いてほしいなぁ。

 

 

 

 

 

「た、ただいまー」

 

 時刻は19時。ホテルを出た私たちは、帰りに本屋、ゲーセン、カフェ、と普通の恋人のような寄り道をして、二人の時間を楽しんだ。比企谷君は寝不足と疲れからか、買った本を読もうとしたカフェにつくなり、スー、スー、と寝息を立ててしまった。とってもかわいらしくて、思わず写メをとって待ち受けにしてしまった。デへへ…。つい女子らしくない声とよだれが出る。目を瞑った彼はいつかのお母さんの見せてくれたスマホの中の彼のようで、かわいいけどとても格好良かった。…だから、寝不足は私のいびきのせいじゃないよね!?

 

 私はどこか後ろめたい気持ちで、我が家の扉を開ける。玄関には父親の靴もあり、台所からはカレーの匂いが漂ってくる。…う、なんて間が悪い。これから父と母と食卓を囲まなければならないのか。

 

 いや、大丈夫。私は自分に言い聞かせる。いつもの私なら、海老名姫菜ならきっとうまくやれるはず。

 

「姫菜、おっかえりー!」

 

 バン、と母がドアを開け、抱き着いてくる。ちょ、ちょっと…

 

「ん?あれ、姫菜?」

 

 お母さんは私の体をクンクン、と嗅ぎまわる。

 

「…あんたからなーんかうちのじゃない匂いがするんだけど、気のせいかしら?」

 お母さんは訝し気な目をこちらに向ける。げ…

 

「ほ、ほら、結構デスティニーリゾートのシャンプーとボティーソープがいいやつでさ。匂い残ったんじゃないかな?朝もシャワー浴びてきたし」

 

 私は何とか口にする。彼女はデスティニーリゾートに言ったことがないはずだから、そのあたりのことは知らない。この言い訳は通る…と思う。

 

「ふーん、まあいいか。ほら、ごはんできてるから、早く着替えてらっしゃい」

 

「は、はーい」

 

 お母さんの追及も終わりのようだ。内心胸をなでおろし、私は自室へ向かった。

 

 

 ご飯を食べ終わって、お父さんはシャワーを浴びている。ごはん中は普通に楽しかったデスティニーの思い出を語っただけだから、別に大丈夫だった。も、もちろん、カップル用のメロンソーダとか、お化け屋敷のくだりは省いたけどね。

 

 私はお母さんとダイニングテーブルでコーヒーを飲む。む。今日のカフェのよりおいしい。さすがうちの母。

 

 チラリと彼女を見ると、何やら目を瞑ってうん、うん、とうなずいている。

 

 

「で」

 

 お母さんはそう切り出した。

 

「昨日比企谷君とは、どこまで行ったの?」

 

 まるで「今日のテストはどうだった?」という風に、彼女は聞いた。

 

 はいいいいい?????????????????

 

 私の頭の中をクエスチョンマークが乱舞する。

 

 もう一度母を見る。しかし、そこにあるのはいつものニコニコ顔。

 

 何も言えない私に、母はもう一度笑顔で尋ねる。

 

「で、どこまで行ったの?」

 

 ぐ。これはすべてわかっている目だ。無駄な抵抗と知りつつ、私は口にする。

 

「な、何言ってるのお母さん?私は優美子と泊まりに行くって言ったじゃん。もう」

 

「うん、そう聞いたよ。だから、弓ちゃんに聞いてみたの。優美子ちゃんは姫菜がデスティニーに行ったとき、どこにいるか。そしたらね、その日優美子ちゃんはずーっと弓ちゃんとお出かけしてたんだって」

 

 …弓ちゃん?私はその名前をどこかで聞いたことがある。そうだ。サイゼリヤでキスシーンの写真を母に送った人。さらに休みの日に優美子と一緒に行動していて、私が名前を知らない、お母さんの知り合いといったら…

 

「もしかして、弓ちゃんって…」

 

「うん?そうだよ。優美子ちゃんのお母さん」

 

 な、なんというトラップ。

 

 私は頭を抱える。大方母は授業参観か何かで優美子の母親と仲良くなっていたのだろう。そういえば話をしていた記憶がある。まさか連絡先まで交換していたとは。もし何か聞かれたら話を合わせるように優美子に言っておいたが、それは想定外だった。本当は結衣に頼めればよかったのだけど、流石に彼女に頼むわけにはいかなかった。

 

「で、比企谷君とどこまで行ったの?」

 

 再三お母さんから同じ質問が飛ぶ。く、くそう…

 

「デ、デスティニーシーまで…」

 

「うん、お母さんが聞いてるのはそう言うことじゃないって、賢い姫菜ならわかるよね?」 

 

 こ、こわい!笑顔が崩れない母親に恐怖を覚える。確かに、この期に及んで無駄な抵抗だったけど…

 

 笑顔の彼女に私はどんどんと追いつめられる。心なしか彼女はじりじりと私に近寄っている気がする。

 

 ふう。私はため息を漏らし、両手をあげる。降参だ。

 

「うぅ…どこまでもいってないよ!ど、どうせ私には女としての魅力なんてないんだよ。私から当日、不意打ちみたいに誘ったのに、手出されませんでしたけど、な、なにか!?」

 

 私は開き直る。その声は震え、少し目じりが熱くなった気がしたが、気にしない。

 

 そんな私を見てお母さんは声を出して笑う。

 

「まあ、別にそんな心配してなかったんだけどね。姫菜から耳にタコができるほど比企谷君のことを聞いたけど、話で聞いてるだけでも彼ひねくれていて、とてもそんな度胸のある子じゃないじゃない」

 

 む。私は少し憤慨する。

 

「別に比企谷君は度胸がないわけじゃないよ。…ただ、すっごく優しいだけだよ」

 

 最後のほうはしっかりと言葉になっていただろうが。

 

 そんな私を見て彼女はひゃー、という声を出し、両手で顔を覆う。

 

「まあ、ごちそうさま。…本当に、姫菜はその比企谷君のことが好きなのね」

 

 一転、優しい表情で私にそう言う。まったく、お母さんにはかなわない。

 

「…うん」

 

 顏が熱い。お風呂に入ったらのぼせないだろうか。

 

 母はそんな私を見てパン、と手をたたく。

 

「そうだ、今度比企谷君うちに連れてきなさいよ」

 

 …はい?

 

「な、何言ってるの!?」

 

「なにって、そのままの意味よ。それも私がいるときに、ね」

 

 彼女はそうウインクをする。

 

「な、なんでそんなことしなきゃいけないの!」

 

 当然だ。急に彼をうちに呼ぶなんて。

 

「へー…そういうこと言うんだ」

 

 彼女の顔から表情が消える。あ…まずい。

 

「じゃあ姫菜がしたこと、お父さんに話しちゃおうかなー。この写真も添えて」

 

 彼女はちらりと以前のサイゼリヤでの写真をスマホから開く。

 

「そ、それはだめ!」

 

 母には前から比企谷君のことを話していたし、女親だからまだいいけど、お父さんにはこんなこと言えるわけがない。

 

「じゃあ、決まりね。都合のいい休日に彼を連れてらっしゃい」

 

 にっこりと微笑む彼女に私は思う。完全敗北だ…。

 

 それに、とお母さんは続ける。

 

「私も姫菜の話だけで、かわいい一人娘を預ける男の子を信じられるほど、人間できてないの」

 

 比、比企谷君…

 

 私は心の中で彼の名を呼ぶ。

 

 ご、ごめん!がんばって!!

 

 無責任だけど、私のできることは祈ることだけだった。

 

 

 

 

 

 

 というわけで、現在はその日曜から二週間たった、土曜日。

 

 比企谷君に都合のいい日を聞いた結果、この日になった。たぶん単純にあの翌週に私の家に来る、というのはさすがに気持ち的につらかったのだと思う。ただの先延ばしではあるけど、私も同じ気持ちだった。…うちのお母さんこわすぎるよぅ。

 

 さて、時刻は午前九時半。約束の時間まであと30分。これから比企谷君がうちに来る。

  

 その事実に気づき、私はもう一度部屋を見渡す。だ、大丈夫だよね?ちゃんと片付いてるよね?

 

 薄い本は全部押し入れにしまったし、ポスターもすべて中に丸めて押し込んだ。別に比企谷くんは私の趣味も知っているし、そんなこと気にしないかもしれない。でも…私は気づいたら、それらのものを目につかないところにしまっていた。

 

 目につかないといっても、それらを部屋の外に持っていくわけにはいかない。お母さん…はたぶん気づいていると思うけど、お父さんに私の趣味を知られるわけにはいかない。見つかったら、お父さん卒倒しかねないからね。

 

 そしてもう朝から何度見たかわからないが、もう一度鏡を見る。今日はたぶん、私らしい服だと思う。薄いピンクのワンピースに、白のカーディガン。私はデスティニーでのスカートを思い出す。ミニスカートがまさかあんなにいろんなことに気を付けなくちゃいけないとは思っていなかった。…優美子、いつもおつかれさま。

 

 しかし、こうして鏡を見ていると服はこれでいいのか気になってくる。も、もう少し胸が見える服のほうが…

 

「ピーンポーン」

 

 唐突にインターホンが鳴る。いや、インターホンは唐突に鳴るものだけど、今の私はそう言いたい気分だった。

 

「姫菜ー、比企谷君来たわよー!」

 

 下からお母さんが声を飛ばす。時計を見ると約束の15分前。少し早いけど…

 

 よし。

 

 鏡の前で頬をバシンとたたく。大丈夫。私は、その、かわいい!…かもしれない。

 

 いまいち気合の入らない気付けをし、階段を勢いよく下りる。

 

 玄関の前に立ち、大きく深呼吸をし、ゆっくりと玄関のドアを開ける。

 

「…うす」

 

 そっぽを向いて小さく頭を下げる、いつもの変わらない比企谷君がそこにいた。だから、約束の朝の挨拶くらい…

 

 後ろから視線を感じ、私は振り向く。

 そこには壁にかくれ、ニヤニヤとこちらを見るお母さんがいた。…いや、隠れられてないよ。

 

「お母さん!」

 

 柄にもなく私は母にそう一喝する。まったくもう、行儀の悪いお母さんだ。

 

「あー…」

 

 所在なさげな比企谷君がこちらに視線を送る。ご、ごめんね。

 

「ほ、ほら、比企谷君早く中に…」

 

 私の催促は比企谷君の声によって遮られる。

 

「…おはよう、姫菜」

 

 なん、ですと…。

 

 一瞬で顏が熱くなるのを感じる。耳まで熱いし、なんなら首のあたりまで熱い。な、何この気持ちは!名前なんて毎日呼ばせてるのに…

 

 そうか。私は思い当たる。彼から朝のあいさつで私の名前呼んでもらったのは、初めてだったんだ。

 

「お、おはよう、八幡…」

 

 彼の顔を見られない。

 

「あんたたち、いつまでそこに突っ立ってるつもり?」

 

 後ろから母のこの上ないニヤついた顔がのぞく。ま、まだいたのかこの人は。

 

「う、うるさいなぁ!今行くから!」

 

「はいはい。お邪魔虫は退散しますねー」

 

 そう言って彼女は今度こそ奥に下がった。

 

「な、なんか元気なお母さんだな…」

 

 比企谷くんは半ばあきれたように苦笑する。

 

「ご、ごめんね、比企谷君。うちの母親が迷惑を…」

 

「いや」

 

 比企谷君は否定する。な、何が?

 

「…いつもとは違う海老名さんが見られそうで、なんつーか…楽しみだ」

 

 彼は意地の悪い笑顔を浮かべる。う…母のいるここでは、私が圧倒的に不利だ…。

 

 だけど。私は内心ほくそ笑む。大変なのは、比企谷君のほうだと思うけどなぁ。

 

 私は少しの絶望、大きな同情とともに、比企谷君をラスボスのおわすリビングへ案内した。

 

 

 



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家庭訪問(中編)

 俺は家が好きだ。

 

 それは相対的なものではなく、絶対的なもの。つまり、外が嫌いだから家が好きなわけではなく、単純に家が好きなのだ。

 しかしこと他人の家となると、はた困る。なぜか。それも単純な理由だ。経験がないからである。俺には親がいる同級生の家に邪魔する、という経験が全くない。だから同級生の親とどういった距離感で接すればいいのかわからないし、他人の家でどういった振る舞いをすればいいのかもわからない。

 

 テレビを見ながら世間話をして、彼女のアルバムなどを引っ張り出し、2時間ほどが経過した。ソファに座っていた俺たちは、お母さんが促したことによって現在、俺と海老名さんが隣、その向かいに海老名さんの母親、という風に座っている。…すでにあり得ないほど疲れているんだが、大丈夫だろうか。

 

 俺はニコニコと値踏みするような視線を送る海老名さんの母親に、どこか落ち着かない気持ちになる。まるで海老名さんに、いや、ややこしいな。まるで、その、姫菜に見られているときのようだ。…名前呼びは心の中でもきつい。海老名さんと、海老名さん母と呼ぶことにしよう。

 

 横目でチラリと海老名さんを見る。俺の横に座る彼女はいつもの底知れなさがナリを潜め、視線は泳ぎ、手はせわしなく髪を触ったり爪をいじったりと、どこか頼りない。

 

「比企谷君」

 

 海老名さん母は笑顔を絶やさず、俺の名前を呼ぶ。

 

「はい」

 

「姫菜と同じクラスなんだよね?」

 

「はい」

 

「去年も同じクラスだった」

 

「はい」

 

「おうちはここからかなり近いんだって?」

 

「はい」

 

「妹さんも一人いらっしゃるとか」

 

「はい」

 

 海老名さんから事前知識を得ていたのだろう。イエスとしか答えられない質問を重ね、固くなっている俺の口を軽くするのが狙いか。常套手段だ。

 

 やはり。俺は思う。海老名さんの母親だけあって、油断できない。

 

「じゃあ姫菜と同じ自転車通学だ」

 

「はい」

 

「ふーん。今の時期は通学しやすそうだけど、冬だとずいぶん寒いよね?学校までそこそこ距離もあるし」

 

「はい、そうですね」

 

「で、毎朝姫菜と一緒に仲良く登校してるんだ」

 

「は…」

 

 言いかけて口をつぐむ。顏が熱くなる。やはりそういう質問が来るか。警戒していたにもかかわらず、まったく変わらない様子の彼女につい反応してしまった。

 

 横を見ると海老名さんも恥ずかし気にうつむいている。

 

「は、はい」

 

 俺は何とか答える。

 

「ふーん」

 

 ニヤニヤと彼女は俺を見て、続ける。

 

「でも去年の授業参観で見たときは、悪いけど比企谷君のことはあんまり記憶にないんだよね。金髪のイケメンくんと、茶髪でカチューシャの元気な子がいるなぁ、とは思ったけど」

 

「お、お母さん!」

 

 海老名さんが慌てた様子で遮る。しかし俺は机の下で小さく彼女を制する。

 

 そこを隠すことも、ごまかすことも今までの俺はしてこなかった。そしてそれを否定してしまったら、今までの俺すべてを否定することになる。

 

 俺はいつものように口の端だけ持ち上げ、笑う。

 

「まあ、でしょうね。姫菜さんとは去年は特に親しくもありませんでしたし、俺はクラスに友人が一人しかいませんでしたから。今お母さんが言った、彼女が親しくしていた男子は、どうも俺とは相いれないようなタイプでしたしね。正直、今日ここにこうしてきたことに一番驚いてるのは、ほかでもない俺なんですよ」

 

 事実をそのまま伝える。

 

「比、比企谷くん!」

 

 海老名さんは今度はオロオロと俺を見る。だが、ここは引けない。ここをごまかすことは俺にはできない。たとえ海老名さんにふさわしくないと判断されようと、リア充のふりなど、到底無理である。

 

 海老名さん母は俺をまっすぐに見る。そこに先ほどまでのニヤけ顔はない。ひたすら彼女は俺の瞳だけを見ていた。…さあ、どう来る。

 

 殺伐とした空気が流れ、俺と海老名さん母はにらみ合う。海老名さんだけが間を取り持とうとしていたように思うが、その声は俺まで届かない。

 

 どれくらいそうしていただろうか。腕の下に冷たい汗を感じ始め、その時。

 

 海老名さん母は、盛大に破顔した。

 

「ぷ、あっはっは!姫菜、あんたほんと面倒な男の子を好きになったもんね!」

 

 何やら彼女にとって俺の発言は相当おかしかったらしい。机をバンバンとたたき、目じりからは涙を浮かべる。…そんなにおかしいこと言いましたかね、俺。どこかこの展開には既視感を覚える。

 

「お、お母さん!何言ってるの!!」

 

 海老名さんのセリフが、名前を呼ぶだけから一言増えた。彼女は顔を真っ赤にし、母に詰め寄る。

 

 しかし、電話の鳴る音が彼女を止める。

 

 鳴っているのは海老名さんの携帯電話だ。着信には「優美子」とある。海老名さんは俺と海老名さん母を不安げに見るが、止まない着信に諦めたのか、ため息をつく。

 

「…ちょっと外すね。待ってて。お母さん、余計なこと言わないでね」

 

 そう言い残し、ドアの向こうへ姿を消す。

 

 

 それと同時に海老名さん母はこちらに体を向ける。

 

「で、比企谷君」

 

「はい」

 

 そこにあったのは先ほどまでの真剣な表情でも、ニヤけ顔でもなく、優しい微笑みだった。

 

「君は姫菜のことが好きなのかな?」

 

「はい」

 

 俺は迷わずに答える。

 

 いろんなことをさんざん考え、回り道をして踏み外しそうになっても、結局この気持ちは、この答えは揺るがなかった。

 

 彼女は俺の即答に瞠目するが、すぐに微笑みを取り戻す。

 

「それで君は姫菜と付き合っているの?」

 

 今度は少し言葉に詰まる。それでも、俺は答える。この人には、海老名さんを育てた人には、できる限り嘘をつきたくない。今日はそう思ってここに来た。

 

「…わかりません」

 

「それは、どうして?」

 

 海老名さん母は俺に問う。

 

「先ほども少し話しましたが、俺は対人関係に自信がありません。加えて自意識過剰です。だから周りの人間からの好意を素直に受け取れません。悪意ばかりを感じ取ってしまいます。

そしてそんな俺の学校での評判は、あまりよくありません。俺と一緒にいたら彼女は、姫菜さんは傷ついてしまうのではないか。…俺はそれが怖い。だから、彼女と俺が付き合ってる、と俺は胸を張って言えない」

 

 彼女の目を見て、何とか答える。

 

「じゃあ、君はなんで今日、ここに来たの?」

 

 次こそ、俺はこの先を言うべきかどうか迷う。これを言ってしまった時、俺と彼女は一緒にいることができるだろうか。一緒にいることを、許されるだろうか。

 視線が自然と下がる。自らの手を見る。いつからか海老名さんとつながっていることが普通になった。温かみを感じた。それが常温となった手を見る。

 

 その手を固く握って、俺は前を向いた。

 

「彼女は、俺と一緒に傷ついてもいいと、傷つきたいといってくれました。そして俺が俺と彼女を信じられるまで、待つとも言いました。

でもそれは彼女の気持ちです。お母さんは、当然彼女に傷ついてほしくないと願っていると思います。でも俺は「彼女を傷つけない」なんてことは、到底言えません。さっき言った通り、俺はこんな人間ですから。 それでも俺は。一緒に傷つきたいと、待つといってくれた彼女を、俺に踏み込んでくれた彼女を好きになりました。傷つけるかもしれない。失望させるかもしれない。それでも一緒に居たいと、そう思いました。

だから今日、ここに来ました」

 

 俺は心の中で自嘲する。まったく理屈なんて通っちゃいない。こんなものは説得材料としては0点もいいところだ。そこに論があるとすれば純度100%の感情論でしかない。彼女が俺と一緒にいることはデメリットしかないと、客観的に見ても思う。

 

 それでも。俺は彼女を見る。理屈がなくても、デメリットしかなくても、拒絶されようと。俺は海老名さん母を見た。彼女に嘘はつきたくなかった。

 

「ふう」

 

 彼女は小さく息を吐き、下を向く。その表情はどのようなものだろうか。俺にはわからない。

 

 

 下を向いた彼女は、その頭をそのまま机まで下げる。手を両ひざに置く。

 

 

「姫菜のことを、よろしくお願いします」

 

 

 彼女は座ったまま、そうお辞儀をした。

 

 

 なぜか、目じりが熱くなった。

 

 

 少し呆然とし、まだ頭を下げている海老名さん母に気づく。

 

「い、いえ、こちらこそよろしくお願いします」

 

 俺はようやくそう口にし、頭を下げる。

 

 しばらくの間頭を下げ合い、俺はちらりと海老名さん母を見る。

 すると彼女は、先ほどの微笑みを俺に向けていた。

 

「でも、いいんですか?」

 

 頭をあげ、俺はつい口にする。

 

「ん?なにが?」

 

 そう聞き返す彼女は、先ほどまで俺たちをからかっていた彼女にはとても見えない。

 

 

「だって、俺と彼女が一緒にいて、冷静に考えれば彼女にはデメリットしかないです。もっと条件がいい奴はほかにいくらでもいるでしょう。彼女はモテるようですし」

 

 彼女は今度こそ、声を出して笑った。その顔は元の笑いを取り戻していた。

 

「君、よくひねくれてるとか、面倒臭いとか、屁理屈言うなとか言われない?」

 

 彼女は口に手を当て、そう尋ねる。ぐ…。大体それぞれ一日一回は言われる。

 

「あのね、比企谷君」

 

 彼女は俺に呼びかける。

 

「一つだけ、覚えておきなさい。人を好きになるってね、そういうことじゃない。理屈とかメリットデメリットとか、君の好きそうなものと対極にあるの。君が姫菜と一緒にいる理由みたいにね」

 

 彼女はそう言い切る。

 

 …勝てねえな、これは。

 

 それに、と彼女は続ける。

 

「姫菜、三年生になってから変わったわ。よく笑うようになったし、本当に楽しそうに学校に行くようになった。それは君と一緒にいるようになってからだと思う。安心しなさい、姫菜を生まれてからずっと見てきた私が言ってるんだから。

確かに君は格好良くない。格好つけようとしてない。たぶん君は意図して今日、そうしたんだと思う。自分に都合のいいことを一つだって言わなかった。だから、私には君がとても姫菜を大事にしていて、一緒に居たいんだってわかったわ。

だから…本当に、よろしくね」

 

「い、いえ、こちらこそ」

 

 くそ、結局全部見透かされてるではないか。

 

 やはりこの母、油断ならない。

 

「まあファミレスでこんなことしちゃうのはどうかと思うけどねー」

 

 彼女は懐からスマホを取り出し、写真を開く。そこには、…その、俺と海老名さんがキスしている写真があった。

 

 顏が熱い。な、なぜそれを。

 

「お母さん!」

 ドアがバン、と開くと同時に、彼女のスマホは懐に戻る。目にもとまらぬ早業だった。

 

「…余計なこと、言ってないよね?」

 

「ええ、比企谷君と楽しくおしゃべりできたわ。ねえ、比企谷君」

 

 彼女はニッコリと俺に微笑む。くそ、どの口が…

 

 海老名さん母の笑顔は揺るがない。

 

「…はい」

 

 俺は海老名家の笑顔に逆らえないらしい。

 

 

 前途の多難を感じ、俺は聞こえないようにため息をついた。

 

 



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家庭訪問(後編)

 
 お久しぶりです。最後の更新から一つどころか何なら二つ歳を取りそうです。あおだるまと申します。

 この作品を一年ぶりに読んでくださる方に注意点をいくつか。この文を書いているのは、私であって私ではありません。二年前、実家で暇を持て余し、初めて文章を書いたのがこの海老名さん√でした。しかし今では当時のように、毎日更新するような情熱はとてもありません。

 そのため、過去の私とは違う文章になっていると思います。それでもこの物語は今の私の手で終わらせたいと思い、このたび筆をとりました。残り二話、長くて三話と言ったところでしょうか。どうか、お付き合いいただければと思います。

 あ、あと流石に覚えている人はいないと思うので、前話以前から読み直していただけると幸いです(笑)


 

 俺は他人の家にあがるのは経験がないから苦手だ、と言った。確かにそうだ。俺には親が在宅中の同級生の家にあがるという経験がほとんどない。経験がないことは無駄に疲れるし、気を遣う。その通りである。

 

 では、それが異性の部屋となるとどうだろう。雪ノ下の部屋には何度か邪魔したことはあるが、それも常に由比ヶ浜、雪ノ下姉と言った俺以外の存在があった。しかし、今は。

 

「お、邪魔します」

 

「は、はいはいどうぞどうぞ。散らかってますがごゆっくり」

 

 なぜか俺は今、同級生の女の子の部屋で二人きりになっていた。

 

まあ事の発端は言わずもがな、あの海老名さんを数段黒く…ごほん、大人っぽくした海老名さん母であった。時は海老名母との会話が終わったところまで戻る。

 

 海老名さん母といささかスリリングな会話をし、一息ついた。窓の外を見るとすでに陽は沈みかけており、近所の子供たちが笑いながら帰っていく様子も聞き取れる。あまり遅くまで他人の家に邪魔するのも悪い。適当に別れの挨拶をしようと腰を浮かすと、海老名さん母に制された。

 

「あらあら比企谷君、せっかく来てくれたのに彼女の部屋にもよらずに帰っちゃうの?」

 

「「…は?」」

 

 俺と海老名さんの口から擬音が重なる。触れてほしくないところに平気で触れるところは海老名さんにそっくりである。

横目で海老名さんの様子をうかがうと、顔が見る見るうちに赤くなり、手をぶんぶんと振っていた。今日は普段よりも随分と余裕のない海老名さんを見ている気がする。やはり身内がいる状態というのはやりづらいのだろう。俺も小町の前で他人に引かれないようにふるまうことは不可能な自信がある。そう、小町への愛ゆえにね!…うん、これは小町にも引かれるのは確定的に明らかですね。はい。

 

「だ、だから!比企谷君と私はまだそんなんじゃなくて!」

 

「へ~、『まだ』そんなんじゃないんだ~」

 

「うっ…ふう、お母さん、そういうのを揚げ足取りっていうの。わかるかな?」

 

「えー、わかんないわかんないー。お母さんにはなんで二人が付き合ってないのかわかんない―」

 

「ぐ…」

 

 深呼吸とともに、少し落ち着きを取り戻した海老名さんをつまらなそうに眺め、なぜか海老名さん母の視線がこちらに向く。彼女には俺たちが付き合っていない理由を先ほど長々と話したはずだ。二度手間は基本的に取りたくない。なぜなら無駄だから。恥ずかしいわけでは、断じてない。

 

「…はぁ、海老名さん」

 

「「なに?」」

 

 仕方なく口を開く俺に、二人が同時に返答する。…まって、いや確かにそうなるかもしれないが…流れでわかるだろ、普通。海老名さん母がまたニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「えー、比企谷君、『海老名さん』はこの部屋に二人いるんだけどー?」

 

 海老名さん母がそこ意地の悪い笑みを浮かべる横で、海老名さんがどこかくるくると髪の毛をいじり、ぼそぼそとつぶやく。

 

「そ、そうだよ比企谷君。いちいち名字で呼んでたら混乱しちゃうし、その…普段から名前で呼んだ方が効率的だよ、絶対」

 

 それに。海老名さんは顔を下に向けたまま小さくつぶやく。

 

「これからずっと、ずっと、ずっと、うちに来るんだし…八幡は」

 

 俺と海老名さん母の間に静寂が降りる。

 

「…比企谷君」

 

「…はい」

 

 何を妄想しているのか、一人明後日の方向を見続ける海老名さんを尻目に、海老名さん母が俺に笑いかけてくる。曇りひとつない満面の笑みに、逆に俺の顔はひきつる。

 

「こんなかわいい姫菜を…娘を、私は知らないわ。だから」

 

 海老名さん母は今度は真顔で俺を見る。

 

「泣かしたら、殺す」

 

「肝に銘じておきます」

 

 誓います。誓いますから、今にもかみついてきそうなその目はやめていただけるとありがたい。

 

 

 

 

 

 その後、俺と海老名さんは逃げるようにリビングを後にし、海老名さんの部屋で少しの時間を過ごした。と言っても何をするわけでもなく、最近の学校の話をしたり、ところどころ隠しきれていない海老名さんの趣味関連の話、特に俺と被る趣味の話をしただけだった。…いや、まあ、陽が落ちかけた夕刻。そういう雰囲気にならなかったわけではないが、考えても見てほしい。二人で黙り込むと決まって一回から海老名さん母の声が飛んでくるのだ。おちおちそんな雰囲気になるわけにもいかない。特に、先ほどのあの言葉。…下手を打てば本当に殺されかねない。底知れなさはやはり海老名さん以上である。

 

 そんな時間もあっという間に過ぎ、陽も完全に落ちたところで、お暇することにした。流石に夕食時まで他人の家に居座っているわけにもいかない。それに万が一にでも海老名さん父が帰ってきたときの身の振り方が俺にはまったくわからなかった。もし帰ってきたら小町がほかの男を家に連れ込んでいたら、即その男を亡き者にする自信がある。いやまじで。

 

 そして再三「夕食も食べていけ」と繰り返す海老名さん母を何とか振り切り、帰路に付いた。…あの笑顔、絶対もう少しで海老名さん父とドキドキの鉢合わせになるところだったことは容易に想像できた。…本当に油断も隙もない。

 

 そして現在。俺の家まで送ると譲らなかった海老名さんとともに、彼女の提案で最寄りのコンビニに寄っている。そういわれると思いのほか自分が空腹なことに気が付いた。そういえば今日は緊張して昼ごはんものどを通らなかったを思い出す。

 

 思い出した瞬間にぐう、と鳴る腹をおさえ、コンビニで目当てのものを買い、海老名さんに手渡す。

 

「海老名さんは肉まん…でよかったよな」

 

「うん、ありがとう比企谷君。はい、これお金」

 

「いや、いい。…その、なんだ。池袋でも秋葉でもいいが、今度どっか行った時になんかおごってくれ」

 

 財布を出す海老名さんを片手で制すると、海老名さんは目を丸くして軽く笑う。…らしくないことを言っている自覚は確かにあるし、池袋なぞにいこうものなら彼女の暴走は火を見るより明らかだ。

 

 しかし、それでも。どこにでも行きたい。俺はそう思ってしまう。

 

 彼女と二人であれば。

 

「ふっふっふっ、じゃあヘタレ受けの比企谷君にふさわしい逸品を探しとくから、楽しみにしててね」

 

 …俺の純情を返せ。ひたすらぐ腐腐と笑う彼女に思わずため息が出る。

 

「やっぱり池袋じゃなくて秋葉で頼む」

 

「ひ、ひどい!ただの食わず嫌いだと思うんだけどなぁ。比企谷君なら絶対気に入ると思うよ」

 

「気に入ってたまるか…ま、今度な」

 

「うん、今度、ね」

 

 今度。普通であれば来るはずのない「今度」を、これ以上なく心待ちにしてしまう。そしてそんな自分に少し気恥ずかしくなり、とっさに口を開く。

 

「いや、でもあれだな。…正直、海老名さんがこういうもん食うイメージがなかった」

 

 思わず口を開いてから俺は思い直す。海老名さんが、と言うより、女子高生がこういうものを口にするとは思ってなかったというのが正解だろうか。はむはむと肉まんをかじりながら、海老名さんも困ったように眉尻を下げる。

 

「それは女の子に幻想を抱き過ぎじゃないかな?なんなら私一人でラーメン屋はいることもあるし…あ、そうだ。秋葉行くなら今度比企谷君おすすめのラーメン屋でも行こうよ」

 

「秋葉ならいくらでもあるし俺はいいが…」

 

「やった!じゃあ楽しみにしとくね。…ちょっと足を伸ばして池袋も」

 

「ちょっとって距離じゃないし、それは勘弁願いたい」

 

 またしてもぐ腐腐と笑う彼女に苦笑いで返し、俺は思う。海老名さんに女子らしからぬ所が多々あるのは普段の言動からも承知していたが、まさかラーメンを一人で食べるとは思いもよらなかった。

 

 俺の多少の戸惑いに気づいたのか、海老名さんは上目づかいで尋ねる。

 

「意外だったかな?私がそういうことするの」

 

「…まあ、正直にいえば。というか、女子とラーメン屋を結び付けてさえいなかったおれの問題かもしれん。さっき海老名さんも言ったが、まだ俺も女子に多少の幻想を…」

 

「比企谷君はさ」

 

 なぜか少し焦ってしまい早口になる俺を、彼女は下を向いて制する。

 

「…比企谷君はまだ私のこと、そんなに知らないよね」

 

 思わず言葉に詰まった。彼女と同じクラスになり、会話をして数カ月。まさか彼女を知っている、と言えるほど長い時間を過ごしたつもりはない。

それでも、俺と彼女はこの短い時間で薄くはない時間を共にしてきたと思う。必要以上に他者との関りを避けていた俺が、これほど感情を動かされることも奉仕部以外ではなかった気がする。

 

 そんな俺の思考を知ってか知らずか、海老名さんは今度は乾いた笑みを浮かべる。

 

「でも、あの二人のことは…奉仕部の二人のことは、知ってるんだ、比企谷君は」

 

 夕暮れも終わり、俺たち以外誰もいない駐車場。彼女の言葉はいく当てもなく虚空をさまよい、二人の間に沈黙が落ちる。

 

 それは時間の問題であり、気持ちや意志ではどうしようもないものだ。時間。それは残酷なまでに正確に刻まれていき、人はしばしばそれを基準に人間関係や「絆」と言ったものを語る。時間という基準がなまじ客観的であるが故、それは質が悪い。

 

 相対性理論。今日ほどそれを世に広めた彼の氏を疎んじた日もないかもしれない。

 

 また何も言えない俺に、海老名さんは少し慌てて付け足す。

 

「勘違いしてほしくないんだけど、別にだから私たちがどうだってわけじゃないんだ。比企谷君はあの二人と私の知らない時間を過ごしたのかもしれないけど、でも…私もそれは同じだから。私と比企谷君も、あの二人が知らない時間を過ごしてきたと思う」

 

「…そうだな」

 

 それも、紛れもない事実だ。軽い肯定しか俺は彼女に返すことができない。それも純然たる事実で、客観的な時間と、少しの主観的な感情に基づくもの。

 

 しかし、それを俺は積極的に肯定できないでいる。

 

「だから、私はね、比企谷君」

 

 彼女はうつむけていた視線を俺に向け、眼鏡を通さないそのまっすぐな瞳を俺に向ける。思えば彼女のこんな瞳も、少し前の俺では想像もつかなかったことだろう。彼女は俺が思っているよりもはるかに歪んでいて、ずるく、卑怯で、そして自分の気持ちに正直であった。

 

「比企谷君をもっと知る前に…比企谷君が、もっと私を知る前に。あの二人と、話さなきゃダメなんだと思う」

 

 そのまっすぐに俺を見る瞳から目をそらすことはできなかった。それは、俺の問題でもあった。俺も、話すことがあったはずだ。海老名さんにも、そして彼女たちにも。無意識下で俺はそれを先延ばしにしていた。

 

「ごめん、いきなりこんなこと言われても困るよね…実は私、比企谷君とお母さんが話してるの、ちょっと聞いちゃったんだ」

 

「…盗み聞きは趣味が悪い」

 

「だ、だから謝ってるんだよ!…私だって聞くつもりなんかなかったし、優美子から電話がかかってきたのだって本当だよ?でも電話が終わった後でもお母さんと比企谷君は話してて…あんなこと言われちゃったら、嫌でも耳に入っちゃうよ」

 

 消え入りそうな声でそうつぶやき、海老名さんの顔は耳まで赤くなる。この様子だと俺が海老名さん母に言ったことは、あらかた聞かれたのかもしれない。確かにどうも戻ってきてからの彼女は余裕がなさすぎるとは思ったが…。

 

 自分の頬も急速に熱くなるのを感じる。海老名さんはそんな俺の様子を横目で伺い、逆に余裕を取り戻したのか開き直ったのか、コンビニの明かりに照らされるままに頬を染め、続ける。

 

「私が聞いたのはちょっとだけど…比企谷君は向き合ってくれたんだ。私とだけじゃなくて、私の周りの人とも。…ううん、比企谷君は、好きって言ってくれた。お母さんの前でも、私のことを好きだって言ってくれた。

だから、私も向き合わないといけないんだよ」

 

「…小町だったら海老名さんのことも大歓迎だと思うぞ」

 

「あはは…比企谷君のおうちにもいつかはお邪魔しないといけないとは思うけど、その前に、だよ。比企谷君。

比企谷君は、その…うん、戸部君とも向き合ってくれた。お母さんとも向き合ってくれた。私の関わる人皆に向き合ってくれた。…だから、今度は私の番だよ」

 

「…そうか」

 

 それ以外に、彼女にかける言葉は見つからなかった。ディスティニーランドで彼女が吐いた弱音。彼女は「自信がない」と言った。彼女はあの修学旅行から見当違いの罪悪感を俺に対して…俺や、奉仕部の二人や、戸部に感じている。俺は彼女のその罪悪感に対して待つと言った。それは海老名姫菜にしかどうしようもないもので、どんな罪やビハインドも肩代わりできたとしても、罪悪感だけは彼女だけのものでしかない。だから俺は待つとしか言えなかった。

 

 そして今、彼女はそれと向き合おうとしている。

 

 そんな彼女にかけられる言葉を、俺は持ち合わせていなかった。

 

 だから、俺は。

 

「海老名さん」

 

「なに、かな」

 

 その瞳は危うげに揺らいでいた。瞳いっぱいにあふれ出したそれをためてなお、彼女は俺を見つめていた。

 

 彼女にかけられる言葉を、俺は持ち合わせてはいない。言葉は、所詮言葉でしかない。言えばわかるというわけではない。言わなくてもわかるというのは幻想。俺はあの日、そう確信したはずだった。

 

 しかし、今、俺は。

 

「…だから、なにかな、ひきがや、く、ん…ッッッ!?!?!?」

 

 言葉以外の回答を持ち合わせている気がした。

 

 海老名さんの肩に手を置く。さっきまでは分からなかったが、その小さな肩は小刻みに震えていた。その手を取る。その小さな手は寒いわけでもないのに、凍り付いてしまうのではないかと思うほど冷たい。

 

 そして、その唇は。

 

「ん…んっ…ちゅ…ちょ、ちょっと…」

 

 海老名さんは小さく身じろぎをするが、振り払うことはない。それからどのくらい時間が経っただろうか。いつの間にか俺の腕は彼女の背中に回されていた。その手を彼女の肩に置く。離れる瞬間、唇同士が名残惜しそうに吸い付き、その音に今更ながら顏が熱くなる。

 

「…その、なんだ。海老名さんのお母さんとの話を聞かれたなら、言葉はもういいと思ってな。それに、ほら、海老名さんも前にしてくれたから」

 

 迷う俺に、彼女は待つと言った。初めて人と唇が触れたあの瞬間。俺は一生忘れないだろう。

 

「俺から言えることは、何もない。その罪悪感も、劣等感も、他の何らかの気持ちも…海老名姫菜だけのものだ。共有はできない。できるようならそれは本物じゃないと俺は思う。

だから、その、なんだ…これが俺にできる精一杯の応援ってことで…だめか?」

 

 いまだに彼女の肩は震え、ますますその視線は地面に落ちる。…あの、ここで「いきなりキスするとかマジでキモイ」とか言われようものなら、八幡のHPはもうゼロを天元突破して地の底まで堕ちること請け合いだしなんなら闇落ちする可能性まであるため勘弁していただきたいのですが。

 

 無言でうつむく彼女にダラダラと嫌な汗が流れる。海老名さんは顔をあげるなりそんな俺をクスリと笑い、ゆっくりと、しかし確かにつぶやいた。

 

「ダメ、なわけないよ…八幡!」

 

 今度は彼女は腕を広げ、体ごとこちらに預ける。…やれやれ、これなら少なくとも嫌がられているということはなさそうだ。

 

 安堵する振りをしながら、俺はひたすらに腕の中の彼女の頭を撫でた。

 

 それ以外、俺にできることはなかった。

 



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覚悟

 心臓の鼓動がうるさい。

 

 寒くもないのに膝はがくがく震えてるし、背中には冷たい汗が伝っている。かと思えばこれから話をする奉仕部の二人のこと、比企谷君のことを思い出すと一瞬で顔が熱くなり、体温まで上がるような気がした。

 

 私、海老名姫菜は今、奉仕部室前にいる。校内でも辺境に位置する特別棟にあることもあってか、放課後の廊下には私のほかには誰もいない。そして。

 

 この教室の向こうには、あの二人が待っている。

 

 そう思うとあと一歩が踏み出せない。この部室に私が入っていいものか、戸惑ってしまう。私の脳裏には自然と二人の女の子の顔が浮かぶ。

 

 由比ヶ浜結衣。一年間の間私と一緒に教室、その外で一緒に笑い合った女の子。私と違って可愛くて、とっても優しい。その優しさに何度助けられてきただろうか。私の大事な友人だ。

 

 雪ノ下雪乃。クラスは違うけど名前は知っていた。私に限らず、この学校で彼女を知らない人間の方が珍しいだろう。綺麗で、強くて、反対に内側には脆さを抱え込んでいるような女の子。

 

 私はこの二人に言うべきことがある。

 

 あの修学旅行。私は比企谷君に曖昧に助けを求めた。彼なら気づいてくれるかもしれないし、気づかないかもしれない。私は碌に話したこともない彼を、ある意味で信頼していた。仮に気づかれないなら、それはそれで仕方ない。私はあの時そのくらいの気持ちでグループのことを考えていた。

 

 結果、私たちのグループの関係は現状維持で保たれた。…現状維持というには少しぎこちなかったかもしれない。私たちの間には小さく、そして確かな歪みが生まれていたように思う。しかし、結局その歪みは表面化することはなく学年は変わり、グループは自然となくなった。だがこの部室は、奉仕部の三人の関係は。

 

 あの時の奉仕部の三人を思い出し、扉を開く手が止まる。私に何の権利があるのだろう。そう、冷静に考えてしまう。私に今更何が言えるのだろう。何をもって、私は彼女たちの前に立ち、彼女たちに語り掛けるのだろう。

 

 何もない。改めて私はそう確信する。私が彼女たちの前に立ち、彼女たちに語ってもいい権利など、なにもない。私がいまやろうとしていることはまるで正当なことではない。なぜなら彼女たちの関係を壊しかけたのは、他ならぬ私だから。

 

 再確認し、私は震える手で扉に手をかける。それでも、私には言わなければならないことがある。戸部君に伝えた。比企谷君に伝えた。彼女たちに黙っていられるわけがない。

 

 そして、これはお母さんにすら伝えたことだ。…うん、あの人に話す以上に怖いこともないよね。

 

 昨晩、比企谷君と別れた後のことをつい思い出してしまう。

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 玄関の扉を開け、私は早足に自室へ向かう。ぐずぐずしていれば母から詮索を受けるのは目に見えているし、明日に奉仕部の二人と話すにあたって考えておきたいこともある。そんな私の思惑を知ってか知らずか、玄関の前で待っていたかのような早さで返事は帰ってきた。

 

「おかえりー、姫菜…ん?顔赤いけど比企谷君と何かあった?」

 

「べ、べべべ、 別にそんなことないし!なんにもなかったよ。ていうか比企谷君の家すぐそこなんだから、なんか起きる時間もないよ。うん」

 

 私は母に対して早口で完璧な対応をする。声は上ずってないし、どもってないし、ましてや噛みかけてなどない。ないったらない。母は「あらあら~」と若干腹の立つ笑顔を浮かべ、リビングの扉を開けて座るよう促す。無言の圧力に耐えかね、私は仕方なく腰を下ろす。母は座る私の前に紅茶を出し、自分の分も用意してあったそれに口をつけ自分で嘆息を漏らす。

 

「うーん、おいしい。…ま、姫菜もとりあえずこれでも飲んで」

 

「あ、ありがと…」

 

 口を湿らせる程度に出された紅茶に口をつける。母には悪いが、私には考えなければならないことがある。さっきまでの比企谷君との会話、戸部君、奉仕部の二人のことを思いだし、口を閉ざす。

 

 無言になる私同様、母も何も言わない。静かに紅茶を口にし、下を向く私に見透かしたような目を向けてくる。私はそれにますます居心地の悪さを感じ、一息に紅茶を飲み干す。悲鳴が上がるほど熱かったが、それすらどうでもよかった。

 

「ごちそう様。じゃ、私はお風呂でも…」

 

「で、姫菜」

 

 飲みかけの紅茶を置き、母は静かに、しかし確かに切り出した。

 

「何があったの。…あなたは何をしようとしてるの」

 

「だから、何もないって…」

 

「いいから」

 

 否定から入りその場から逃げ出そうとする私の手首を、彼女は優しく握る。その手は伸ばされ、私の目元を拭う。

 

 彼の前で流してしまった涙。それはまだ、乾いてはいなかった。

 

「言ってみなさい。…お母さんはどうせ、聞くことくらいしかできないんだから」

 

 言うだけならタダよ。母は、そう静かに笑った。

 

 適わない。そう思ってしまうと同時に、私の口は自然と言葉を紡いでいた。

 

「私、実は最低なんだ」

 

 

 

 誰にも、親にも言いたくなかった私の今までと修学旅行の一件。言葉にならない言葉を、彼女にぶつけた。

 

 

 

「…私は、比企谷君と、戸部君と、奉仕部の二人を傷つけた。…自分勝手に、傷つけた」

 

「そう」

 

 修学旅行と戸部君、奉仕部にまつわるあらかたを話し終えた。それでも母の私に向ける視線に変化はない。彼女は優しく私に微笑むだけだ。

 

 その柔らかい視線で余計、自分の汚さを思い知ってしまう。

 

「戸部君には自分で言った。…ひどいことを言ったし、ひどいこともした。私は、私が比企谷君と一緒に居たいから、私を、私なんかのことを想ってくれてる彼をもっと傷つけた。わざと戸部君の席に座って比企谷君と話して、他に好きな人がいるって言って振って、追い打ちをかけた」

 

「そっか」

 

 また視界がにじんできた。もう、目の前に座るひとの顔もみることはできない。

 

「それでね、お母さん。私はいま、私よりも多くの時間を過ごしてきた奉仕部の二人から、…私が傷つけた彼女たちから、比企谷君を奪おうとしてる」

 

 決めたこととは言え、比企谷君に話し、彼が赦してくれたこととはいえ、揺らぎそうになる。私はこれまで18年間を共にしてきた母親に今、話したことがない私の腐った部分を語っている。

 

 幻滅されると思った。失望されると思った。罵られると思った。

 

 でも滲んでしまった視界ですら、目の前のひとはただ優しく私の話に耳を傾けてくれている。それがわかってしまう。

 

「そんなこと、赦されていいのかな」

 

 結局私は、どこまで行っても卑怯なのだ。滲む視界で、ぼやける思考で、そんなことを思う。

 

 流している涙も、震える声も、彼ら、彼女らへの気持ちも、本物だと思う。それは本当に、そう思う。

 

 でも今私は、私を産んでくれた、こんなに最低な私ですら許してくれる人に、赦しを求めてしまっている。最低だ。心底そう思う。でもそう思ってしまうのだから仕方がない。こんなに極限の、余裕なんてひとかけらもない状態で、私はそんなことを思ってしまうのだ。つまり私は、そういう人間なのだ。どこまでも打算的で、卑怯で、自分のことしか考えていない。それが私だ。海老名姫菜という人間だ。

 

 私はそれを彼女たちにも伝えなければならない。そうしなければ私は彼と一緒にはいられない。

 

 それなら何よりも先に、まずはこの人に。私の卑怯さも卑屈さも、伝えるのが先だろう。そう思うと、前なんか見えないけれど、目だけはまっすぐに母を見据えることができた。

 

 そして、彼女は。

 

「何言ってんのあんた」

 

 ため息をつき、「今日の夕食どうしようかしら」そんな風に悩むいつもと何ら変わらない。小さく肩をすくめるだけだった。

 

「私ならゆるすわけないわね。何発か殴るんじゃないかしら」

 

 そこには初めてみる、「女の子」の母がいた。

 

「姫菜、あなたは自分の都合で周りの環境を固定しようとしたんだよね。グループの気持ちも、戸部君の気持ちも、あなたは勝手に決めつけた。

比企谷君は確かにいいと思う。…少なくとも、彼なら「いい」と言うでしょう。赦すとすら言わないでしょうね。「自分で勝手にやったことだ。気にされても迷惑だ」なんて、彼なら言うでしょうし、本当にそう思ってるかもしれない。…男の子だからね」

 

 その女の子の顔のまま、母はいたずらっぽく笑う。

 

「好きな女の子の前なら、男の子はどこまでも格好つけちゃうものなのよ。…格好良くないことなんてこっちからすればバレバレなのにね」

 

 軽く笑う母につられ、つい笑みが漏れる。彼なら、もし今みたいに私が赦しを請えば、そう言ってしまうだろう。少しどもりながら、優しく、そう言ってしまうだろう。…なんで会って一日の比企谷君を母がそこまで理解しているかも疑問だが。

 

 そう思うとついあらぬ疑問を母に向けてしまう。…いや、流石にないとは思うけど、平塚先生然り雪ノ下姉然り、年上キラーでもあるからなぁ。

 

 気づけば百面相でもしていたのか、見世物を見るようなさも愉快そうな視線に気づく。ことさら真面目そうな顔を作るが、今度は母からは笑い声が漏れてきた。…えーえー、そんなわかりやすいですか私は。

 

 不貞腐れる私に「ごめんごめん」と軽く謝罪をし、母は静かに、実感を込めて続ける。

 

「でも女の子は違うよ、そりゃ」

 

 女の子。母はそう言った。ある意味私が逃げてきた、苦手とする部類の問題でもある。優美子も結衣も、悪口や異性関係といったいわゆる「女の子」的な面から離れていた。もしかしたら気を遣ってくれていたのかもしれないけど、二人からそういう話題が出てくることはほとんどなかった。

 

 でも、母はあっさりとそう言った。

 

「こと男の子が絡んだら、女の子は格好もつけないし、いい顔もしないと思うな。…その子たちは、比企谷君のことを憎からず思っているのでしょう?」

 

「…それは、そうだと思う」

 

 いや、そうとしか思えない。心の中で私は付け足す。あれで好意がないのだとすれば、比企谷君ではないが私こそ人間不信にでもなってしまいそうだ。…いや、なんならないほうがいいのだけれど。

 

「それでその一人は、結衣ちゃんなのよね?私も知ってる」

 

「うん、そう」

 

「じゃあ、例えばさ」

 

 結衣が優しく、常に空気を読んでしまうような子だということを母も知っているのだろうか。彼女は下を向く私の頭を軽く小突き、初めて真剣な顔を向ける。

 

「比企谷君とのことで姫菜はその結衣ちゃんに絶交されて、嫌われてもいいと思う?」

 

 思わず呼吸が止まった。

 

 私がしようとしていることはそう言うことだ。今更ながら実感させられる。どれだけ結衣が優しくても、どれだけ雪ノ下さんがきれいでも、彼女たちは女の子なのだ。少なくとも比企谷君の前では。

 

 いや。私は首を振る。誰でも、好きな男の子の前なら女の子になる。なってしまう。現に私がそうなのだから。ならば。私は今度ははっきりとした視界で、確かに母を見る。

 

「そうなっても仕方ないと思う」

 

 そんなの、当たり前のことだ。私は素直にそう思う。

 

 私は彼女と彼の居場所を壊しかけた。試練があってその関係は強固になる。そんなことを言う人もいる。でも、そんなのただの結果論だ。現実を見ていないだけの戯言だ。実際の人間関係はもっと空虚で、儚くて、軽い。少なくとも私はそう感じていたから、あの時に一生懸命にそれを守ろうと、壊れないように崩れないように、そっと触れようとしていた。

 

 そして彼女たちはその犠牲になった。なら。

 

「ごめんなさい、お母さん」

 

 今度こそ、私は母に謝らずにはいられなかった。

 

「私、大切に育てられたと思う。お父さんにもお母さんにも愛してもらってきたと思う。でも、私はまっすぐに、結衣みたいにまっすぐに、雪ノ下さんみたいに綺麗に…なれなかった」

 

 私は汚い。彼女たちを見ると余計にそれがはっきりとわかる。彼女たち二人は、綺麗だから、隣に居る女の子を慮ってしまう。三人の関係が壊れることを恐れてしまう。

 

 でも。私がほしいものは。

 

「戸部君に、結衣に、雪ノ下さんに…ううん、本当のことを言うとね。お母さんに赦されなくてもいいんだ、私は。…なんなら世界中の人間に嫌われたっていい。本当は」

 

 許しを求めたのも、同意を求めたのも、本当はただのポーズでしかない。本当に私が欲しかったものはもっとシンプルで、もっと汚くて、もっと不純で、だからこそ単純で。

 

「私はただ、比企谷君のそばに居たい。例えいつか比企谷君に嫌われても、嫌だって言われても、私は離れたくない。…ごめん、本当は赦されたいわけでも認められたいわけでも優しくされたいわけでもないの。もっとずっと、自分勝手なの、私は」

 

 全部、言ってしまった。

 

 私が思ってることすべてを伝えたと思う。少なくとも私にはこれ以上彼女に言うべきことはない。私がどれだけ汚くて、卑怯で、空虚であるか。多分全部言った。もう何も、言うことはない。

 

 何を言われるか、私は覚悟を決める。しかし、目の前に座る母は、ただ困ったように笑う。

 

「…まあ、あんたがひねくれてるのは分かってたけどねぇ」

 

「え」

 

 …え?いや、自分で言うのもなんだけど、今まで問題らしい問題も起こしてこなかったし、反抗期だってなかった自負がある。友達もそこそこにいて、恥ずかしい趣味ですら伝えてきた。

 

「あたりまえでしょ。何年あんたの親やってると思ってんの。…やっぱあんたは私の娘よ」

 

 絶句する私に、母は当たり前のことを、当たり前のように告げる。ずるい。まずはそう思った。そう言われては私には言い返せる言葉がない。そう思う反面、私は妙に納得してしまっていることに気づく。

 

 お母さんなら、しょうがないか。

 

「でも、ま」

 

 グイ、と正面から顔を手で持ち上げられる。な、なんだなんだ。やんのかこら。両の頬を押さえつけられたまま、私はファイティングポーズをとる。そんな私をまた母は笑う。

 

「ちょうどいいんじゃないの、比企谷君となら。ひねくれてる同士で」

 

「…お母さん」

 

 頬を押さえられたまま、瞳に雫がたまるのを感じた。しかし今度こそ真剣に、母は泣き顔の私に追い打ちをかける。

 

「ただ、殴られるくらいの覚悟はしときなさいよ」

 

 パンっ。軽い音を立て私の頬を叩き、母は紅茶を手にし台所に向かう。しかし、後ろ姿でも震える肩から、彼女は面白そうに笑っていることがわかった。…この母親は、まったく。

 

「男の子と違って、女は怖いわよ」

 

「…救急セットくらいは用意しといてね」

 

「おうよ、骨は拾ってやる」

 

 力強い返事に、私はすでに赤い自らの頬を叩いた。

 

 

 

 

 昨日のことを思い出し、今更ながらこの部室から逃げたしたくなる。おのれ、母。こうなることを見越していたのか。呪詛の念を送るが今更だろう。私がここに立っていられるのも、また母のおかげであることは明白なのだ。

 

 なら、私にできることは。私はその重い扉にようやく手をかける。片手で自らの頬をまた思いっきり叩き、足に力をこめ、小さく叫ぶ。

 

「女は度胸!」

 

 案外、その扉は軽かった。

 



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対峙

 

 私は、いつかのように奉仕部の扉を開けた。

 

 そこにはまた、いつかも見たように二人の女の子が座っていた。…いや、訂正。なんかちょっと二人の視線が痛い。雪ノ下さんの普段から冷たいその視線は絶対零度くらいにまでその温度を下げているし、結衣の困ったような優しい笑いは常より随分と固い。

 

「…で、海老名姫菜さん」

 

「ひゃ、ひゃいっ!」

 

 思いっきり噛んだ。今度は二人の冷たい視線が残念なものを見るようなものに変わる。うぅ…。

 

 思わず用意してあった言葉も飛び軽く放心してしまう私に、雪ノ下さんはため息交じりに続きを促し、結衣は今度こそいつものような苦笑いを浮かべる。

 

「…奉仕部に何か御用かしら。あいにく三年生になってからは受験もあって活動を控えているから、あまり表立ったお手伝いはできないと思うけれど」

 

「あ、あははー。姫菜が来るなんて久しぶりだね。…ヒッキーに用なら今日はいないよ?」

 

 …間違えた。普段からは考えられないほど、結衣は攻撃的だった。先制パンチを打とうとしていた出鼻を見事にくじかれてしまう。つい逃げ出したくなるが、今日の私はいつものように、適当なことを言ってお茶を濁しに来たわけではない。

 

「違うよ。比企谷君じゃなくて、今日はあなたたち二人に話があってきたの」

 

 話すことは、なんとなく決まっている。いくら考えても纏まりなんかしないことは分かっていた。だから、考えを伝えたいわけじゃない。なんとなくでも、話さなければいけない。

 

 この気持ちを。

 

「…なにかしら」

 

「なに、姫菜」

 

 大きく息を吸い、そして吐く。座る二人を見ると、二人の瞳は揺れていた。…違う。二人じゃない。揺れてるのは、震えてるのは私の方だ。

 

 かまわず、もう一歩前に出た。

 

「まずは、ごめんなさい」

 

 私は、二人に向かって深く、深く頭を下げる。

 

「な、何してるの姫菜!」

 

「それは何に対しての謝罪かしら」

 

 慌てふためく結衣とは反対に、雪ノ下さんから冷たい言葉が降ってくる。頭をあげるべきか、少し迷った。やはり二人を見るのは怖い。でも、見なければならない。見なければ来た意味がない。少しの間逡巡する私を二人は何も言わずに待った。

 

 どのくらい時間が経っただろうか。刻む秒針の音が痛いほどに教室に響くようになると、自然と覚悟は決まった。

 

「あの修学旅行のこと。私のせいで、あなたたちのこの部活を傷つけたのは事実だから。ごめんなさい。それと…」

 

「ふざけないで」

 

 続く言葉は、雪ノ下さんに阻まれる。その声は常からは考えられないほどに感情が透けている。激情、とでも言った方が良いのかもしれない。蒼い炎のように、冷たげで熱い。

 

「そんなこと今更あなたに謝ってもらうようなことじゃないし、謝ってもらういわれもない。あれはあの男が勝手にやったことで…そして、なにより私たちの問題よ。私たちの問題は、私たちだけが話すべきで、考えること。部外者にとやかく言われる問題じゃない」

 

 話過ぎた。早口に言い切った彼女はそんなような渋面を少し作り、落ち着けるように自らの肩を抱き、息を吐く。

 

 そして、重々しくつぶやく。

 

「…あまり、思いあがらないでもらえるかしら」

 

 正しい。そんなことは分かっている。彼女は、彼女たちは正しくて、私は一ミリだって正しくない。

 

 だから私は、今日だけはその間違いを貫かなければならない。

 

 黙って雪ノ下さんの言葉を聞く私に、今度は結衣の声が飛ぶ。

 

「ごめん、姫菜。私もそう思ってるよ。あの後…あの修学旅行の後、確かに私たち微妙だった。でもその後私たちにあったこと、姫菜は知らないよね。いろいろあった。本当に、いろいろ、あった。わかったり、わかんなかったり、わかるような気になったり…たぶん姫菜が考えてないようなこと、いろいろあったの。私たちは」

 

 ああ、今日で終わるかもしれない。そう直感してしまう。それほどまでに、私はそんな由比ヶ浜結衣のかおをみたことがなかった。

 

「いなかった人に勝手に謝られたくない。私は」

 

 部外者。いなかった人。当然だ。謝る権利すらないのは分かっていたことだ。謝れるのは、その問題に向き合った人間のみ。私は向き合うどころか、その問題から目をそむけた。ないものとした。すべて他人に押し付け、その上ダメだったら、壊れてしまうなら仕方ないとすら思っていた。

 

 それでも、私は謝らなければならない。

 

「でも、ごめんなさい。赦してもらう以前の話なのは分かってる。でも、謝らないと私が前に進めない。…ずっとあなたたちに後ろめたい思いをしなくちゃいけない」

 

 二人の目を見る。どちらも瞠目し、若干の呆れが見て取れる。それでいい。愚かなのも知っている。

 

「だから、勝手に謝る。ごめんなさい。私の問題を押し付けてごめんなさい。遠回しに気づかせようとしてごめんなさい。部活だからって依頼にもならない依頼を押し付けてごめんなさい。友達なのに相談しなくてごめんなさい。それなのにあなたたちの関係を壊しかけてごめんなさい。

それで、それで」

 

 怖い。率直に私はそう感じていた。だから自然と早口になった。海老名姫菜の人生で、そんなことを思うことは今までなかった。私はそう感じる前に逃げてきたから。いや、逃げすらしなかった。私はあらゆる問題を見ないようにして、それですべてが壊れてもどうでもいいとすら思っていた。

 

 だが私は今、二人の前に立つのを怖いと感じている。…ようやくわかった。怖いのは責められることじゃない。罵られることでもない。

 

 ただ、私は。

 

「比企谷君をあなたたちから奪ってしまって、ごめんなさい」

 

 見ない振りをしていたこの気持ちを、さらけ出すのが怖かった。

 

 しかしもう言葉に出してしまった。一度出してしまった言葉を引っ込めることはできない。震える脚が、荒くなる呼吸が、瞳からこぼれてしまうものが煩わしくてたまらなかった。そんなものでこの気持ちを、この二人に対して誤魔化したくはなかった。

 

 言葉とも言えない気持ちは、勝手にあふれてきた。

 

「私は比企谷君のことが好き。何をしたって私は比企谷君のそばにいたい。私は比企谷君のことなんてまだ全然知らない…二人に比べたら、全然知らない。それでもこの気持ちは負けてないと思う。

私は、比企谷君の隣で歩いていきたい」

 

 あふれた気持ちは、自然と強い言葉となって紡がれた。それは自信のなさの表れなのかもしれない。彼女たち三人の間に割り込めるのか。割り込んでいいのか。

 

 でも、言葉にした気持ちに偽りはない。

 

「そう」

 

「そっか」

 

 二人は一つうなずき、何も言わない。何も言わない二人に、私も何も言うことができない。

 

 なぜこの二人は何も言わないのだろう。私にはその理由がわかる気がした。傍から見ても奉仕部の三人が特別で、強く、固く、そして危うい関係であることはなんとなく感じ取れていた。部外者で、何も知らない私ですらそう感じた。

 

 多分、怖いのだ。彼女たちは。今の関係が壊れるのが、隣にいる女の子を裏切るのが。…大切な彼を戸惑わせるのが。だから一歩も進めないし、戻ることもできない。彼女たちが選べる選択肢は停滞しかない。

 その気持ちを、私は痛いほど理解できる気がした。私の場合はもっと打算的で、表面的だったかもしれない。しかし私は、確かに二年生の時のグループの関係を楽しいと、好ましいと思っていた。だからこそ壊れることを恐れた。停滞を彼らに、自分に強いた。

 

 そして、だからこそ私にはわかる。

 

「…きつくないかな、そういうの」

 

 言わずにはいられないのだ。その歪さを、指摘せずにはいられない。

 

「進むのが怖い。諦めるのが怖い。裏切るのが怖い。傷つけるのが怖い。失望されるのが怖い。だから、止まるしかない。

 でも、止まってるのがほんとは一番きつい」

 

 三人しかいない部室に静寂が降りる。

 

 的外れなことは言っていないと思う。止まっていることは辛い。進むより、戻るより、そこにとどまって、その関係を壊さぬよう、荒立てぬよう、気を遣いながら日々を過ごす。きつくないわけがない。

 

「…あなたに、なにが――」「――そんなこと」

 

 雪ノ下さんがなにか言いかける。しかしその言葉は、横でうつむく彼女に遮られた。

 

「そんなこと、姫菜に、言われたくない」

 

 去年、私たちの「グループ」にも、奉仕部にもいた由比ヶ浜結衣は、静かに私を睨めつける。

 

「友達のあたしにも自分のこと何にも言ってくれなくて、いつも勝手に決めて、勝手に判断して勝手に諦めて…修学旅行の時だって」

 

 彼女は少しためらうが、それでも続きを言う。

 

「…勝手に、全部壊して」

 

 そう言われると実際弱い。少しひるみかけるが、何とか口を開き、ついでに口の端を持ち上げる。

 

「だから、結衣は止まっててもいいんだ。この部室で。…雪ノ下さんと二人で」

 

「…三人だけど」

 

 ヒッキーと。そう小さく聞こえた気がした。

 

「ううん、二人だよ。さっき言ったじゃん」

 

 そんな目で睨まれたことがなかった。そんなかおを、知る術もなかった。

 

 一年以上の付き合いで、初めて、彼女と話をしている気がする。

 

「比企谷君をとっちゃってごめんねって」

 

 ぶちん。確かにその音は聞こえた。

 

 何かが、切れた。

 

「ヒッキー、どこ」

 

「いないよ。比企谷君には帰ってもらったから。…それに、怖くてなにも伝えられない結衣が彼に話すことなんて、なにもないんじゃないかな」

 

 今度こそ、私はここに来た意味を、ここであるべき私の態度を思い出す。…今更格好がつくかな。少し不安になるが、私は精一杯の笑みを浮かべた。

 

「…姫菜、私が何言っても怒らないと思ってる?」

 

『そんなこと言う時点で本気で怒る気、ないよね』

 

 ついそんな言葉が出てきそうになる。でも、それは普段の海老名姫菜だ。正しく、第三者であろうとして、どこまでも汚いだけの私だ。私は正論で自らを守りたいわけではない。知ったかぶって傷つくことから遠ざかりたいわけじゃない。

 

「違うよ。結衣は怒らないんじゃない。…怒れないんだよ。比企谷君と雪ノ下さんだけじゃない。結衣は、こんな碌でもない私ですら裏切れないの。知ってるよ、私は」

 

 曲がりなりにも、一年間近くで彼女を見ていたからわかる。彼女は、由比ヶ浜結衣は。

 

 この言葉で自らを定義されることを嫌うのだ。

 

「『優しい子』だもんね、結衣は」

 

 その瞬間、彼女の手は無言でふり上げられていた。

 

 思わず目を瞑る。

 

 しかしその手は、雪ノ下さんによって止められる。その瞳は気丈に結衣を見つめながらも、不安げに揺れていた。

 

 結衣も、自分がそんなことをするとは思っていなかったのだろう。誰よりも驚いたように、飛び上がるようにして私に向けた拳を引っ込める。しかしその口からは謝罪の言葉も誤魔化しの笑いも出てこない。

 

 ただ、短く、しかし強く彼女は言葉を紡ぐ。

 

「姫菜なんかより」

 

 その言葉は正しい。私は直感していた。

 

「姫菜なんかより、私の方がずっと先にヒッキーに遭ってた。私の方がずっと近くで見てきた。私の方が全然長く側にいた。姫菜なんかより、姫菜なんかより…」

 

 ああ。また新しい彼女のかおを、私は見た。私が知らない、優美子が知らない、雪ノ下さんだって、比企谷君だって、多分知らない。知りようがない。

 

「私の方が、ずっと…」

 

 そこには、確かに剥き身の、「女の子」の由比ヶ浜結衣がいるだけだった。

 

「ずっと…私の方が、ずっと、ずっと」

 

 強く、確かに、彼女は言い切った。

 

「ヒッキーのこと、好きだったんだから――」「――邪魔するぞー」

 

 ようやく、その言葉を聞けた。そう思った瞬間、

 

 その来訪者は突然現れ、時間が停止した。

 

「あ…」

 

 そこには見慣れた、元担任の教師がいた。「やっちまった…」そんな表情を滲ませ、誰かの手を引いていた。そしてその先に居たのは。

 

「…うす」

 

 苦虫をかみつぶしたような、比企谷君だった。

 



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彼らの行く末(最終回)

 

 何もかも、間が悪かった。

 

「…ヒッキー」

 

「比企谷君」

 

「…」

 

 

 黙る海老名さん、放心状態の由比ヶ浜を横目で見て、雪ノ下はいつものようにこめかみを押さえる。平塚先生はバツの悪い顔をしているだけだし、かくいう俺も言葉を見つけられない。

 

 誰も口を開けない現状に彼女は大きくため息を吐き、きっかけにでもしようとしたのだろうか。お決まりの台詞を口にする。

 

「だからいつも言ってるんですよ、平塚先生。…ノックをしてください、と」

 

「…そうだな。これは全面的に私に非がある。すまない」

 

 平塚先生は深く頭を下げる。彼女が…いや、教師がそこまで生徒に頭を下げている光景を俺は初めてみた。

 

 誰に向けた謝罪だったのだろうか。その目は横の俺を捉え、黙る海老名さんに移り、そして最後に由比ヶ浜へと止まった。…それでは気づかれてしまうのではないだろうか。放心していた由比ヶ浜はその視線で現実へと引き戻されたのか、慌てて手を横に振る。

 

「い、いえっ、べ、別にそんなに大したこと話していたわけじゃないですし…先生に謝ってもらうようなことないし」

 

 ね、と同意を求めるように、縋るように由比ヶ浜は雪ノ下を見る。雪ノ下は神妙な顔で、「そうね」と小さく零す。

 

 また誰も何も言えない中、由比ヶ浜の視線はいく当てもなくさまよい、最後に俺とぶつかる。

 

 ぶつかってしまった。

 

「あ…」

 

 小さく声をあげるとその顔は、教室に満ち始めた夕陽よりもはるかに赤い。視線はすぐにそらされ、ピンクがかった茶髪が由比ヶ浜の顔を覆う。

 元来人間のコミュニケーションにおいて、言語の持つ役割は三割程度であり、残り七割は仕草や表情によって行われる、とは以前も言ったことだが、俺は今度はこれが間違っていると言える。…七割どころではない。

 

 聞き間違え、と言う逃げ場もなくなってしまった。

 

 その由比ヶ浜の様子に平塚先生もまずいと思ったのか、苦々し気に口を開く。

 

「あー…生徒会のことで軽く君たちに力を貸してもらおうと思ってね。部室の前まで来たら比企谷君が不審者さながらドアの前でうろついていたのでな…一緒に話を聞いてもらおうと中に連れてきてしまったん、だが」

 

「そんなこと、どうだっていいんです」

 

 冷たい声が教室に響く。

 

 海老名さんは、俺を見据えて短く問う。

 

「どうして、きたの」

 

 海老名姫菜のいろんな顔をこの短い間で見てきたと思う。去年では考えられないほど、いろんな彼女を知った。

 

 しかし、俺はまだ見たことがなかった。

 

「今度は私の番。私、そう言わなかったかな」

 

 その視線は鋭く俺を射抜き、そこには温かさはひとかけらもない。去年の修学旅行で見たような…いや、それ以上に暗く、深い。しかしまったく異質のものだ。

 

 彼女は怒っている。

 

 明確に彼女に来ないでくれ、と言われたわけではない。しかし、はっきりとした言葉にしなくてもわかることもある。彼女は向き合おうとしていた。一人で、自分の中の罪悪感や劣等感と戦おうとしていた。俺はそれを待つと、そう言った。

 

「信じてくれてると、思ったのに」

 

 その小さなつぶやきに返す言葉を、俺は持ち合わせていなかった。

 

 なぜ俺はここに来た。自らに問う。群れることを嫌ったのは、わかったつもりになられることを嫌ったのは俺ではなかったのか。罪悪感も、劣等感も、共有はできない。そんなことを偉そうに嘯いていたのは俺ではなかったのか。

 

 しかし、なぜか俺の脚はこの部室に向かっていた。なぜだ。なぜ俺は今日ここに来た。話すべきことは、ある。彼女たちに言わなければいけないことがある。戸部と話をした屋上。その前に見た二人の壊れそうな笑顔。結局俺は彼女たち二人に対してきちんとした答えを出していない。

 

 しかし、それは今日ではない。今日話すべきは彼女だ。海老名姫菜だけだ。俺が奉仕部で過ごした時間に彼女は関係ないし、海老名姫菜が二人に抱く気持ちに俺は干渉すべきではない。干渉してしまえば、二人でここに立ってしまえば、どうしてもお互いに寄りかかってしまう。そんなことはわかりきっている。それぞれの気持ちは、時間は、言葉は、海老名姫菜のものでも、俺のものでもなくなる。もっと不純な、本物とはとても程遠いものになる。そのくらい俺たちはもう互いに依ってしまっている。わかっていた。

 

 結果、俺は最悪の形で由比ヶ浜の気持ちを覗いてしまった。結果論かもしれないが、確かに俺の行動が招いたことだ。最悪だ。心底そう思う。いつも肝心なところで俺は間違える。しかも普段の比企谷八幡であれば到底犯さないような失敗だ。なぜ、俺は干渉しようとした。なぜ俺は今日ここにきてしまった。彼女たちの、海老名さんの、俺の願いを振り切ってまで、なぜ俺は…

 

 結局。俺は至ってしまった結論にまた自己嫌悪する。いい加減、終わらせたかったのかもしれない。

 

 この歪な関係を。

 

「由比ヶ浜」

 

 海老名さんの問いを無視し、俺は由比ヶ浜に向き合う。ここまで来てさらに気持ちも、言葉も歪ませるわけにはいかない。今俺が話すべきは、海老名姫菜ではない。

 

 聞いてしまったからには、覗いてしまったからには、答えないわけにはいかないだろう。

 

「…なに」

 

 その目は決して合わない。今後、もしかしたら合うことはないのかもしれない。避けようとしている。彼女はなかったことにしようとしている。避けられる目から、震える肩から、零れ落ちた雫から、そのくらいは俺にもわかった。俺の声もつられて上ずりそうになる。この先を続けることを止めてしまいたくなる。しかしその反面、どこかに冷たく俯瞰する自分もいる。

 

 終わりなど、案外あっけないものだ。

 

「すまん、俺はお前の気持ちには――」「――ちょーっと待った――」「――待ちなさい、比企谷君」

 

 三人の声が重なった。

 

 …俺のこの場における地位は高くはない。そもそも出歯亀を見つけられたうえ、勝手に気持ちに区切りをつけようとしているのだ。なんなら女の敵と罵られても文句は言えないだろう。

 

 声が重なった海老名さんと雪ノ下。お互いに訝し気に見つめ合う。折れたのは雪ノ下だった。ため息を一つ、「どうぞ」と海老名さんに先を促す。

 

「…比企谷君、なに簡単に、ついでみたいに全部終わらせようとしてるのかな?」

 

 刀を突き付けられている気がした。

 

「そもそも比企谷君はここにいるべき人間じゃないの。普段の海老名姫菜は君にとって物分かりがいいかもしれない。でもね、それ以上に今の私は『女の子』なの。勝手についてきて、勝手に告白された気になって、勝手にその気持ちを決めつける。本人から直接聞いたわけでもないのに…ふふ」

 

 ゾッとするような笑顔で、海老名さんは嗤う。

 

「そんな楽でクズすぎる終わり方、赦すわけないよね」

 

 ごめんなさい。

 

 気づけば俺は土下座しようとしていた。この間のディスティニーランドや家庭訪問で、「かわいい」彼女を見過ぎていた。

 本来彼女は俺などよりもずっと暗く、深く、腐っている。それを失念していた。

 

 下げかける頭を何とか押しとどめると、今度は横から聞きなれた、しかし久しぶりに効く気がする、絶対零度より冷たい声が飛んでくる。

 

「まったく、不本意極まりないけれど、その通りよ。…勝手に楽になろうとしないで。これはあなただけの問題でも、海老名さんの問題でもない。ましてや由比ヶ浜さんとあなただけの問題であるはずがない。…私たち三人の問題のはずでしょう」

 

 雪ノ下は一息に言い切り、大きく息を吸う。その流れる柳のような黒髪は教室に溶け込んだ夕陽を反射し、暖かく輝く。

 

 そして彼女はそんな美しさからは程遠く、常からは考えられない。まるで子供だ。理屈も、理論もどこかに忘れてしまったかのような言葉を、胸を張って言い張る。

 

「なら、私も混ぜなさい」

 

 正しいだけ。うまくやれるだけ。依りかかるだけ。強く、綺麗で、壊れそうなくらいに儚いだけの少女は、そこにはいなかった。

 

 彼女に踏み込むことを願っている、と隣に立つ先生は言った。しかし彼女はこうも言ったはずだ。

 本当は、その役目は俺じゃなくてもいい。誰かがいつか、彼女に踏み込む。

 

 嫌だ。反射的にそう思う。先に踏み込んだのは、何の関係もない彼女だ。海老名姫菜だ。それはただの事実で、俺は逃げてきただけだ。そしてこの期に及んで逃げだそうとした腰抜けだ。

 

 でも、今からでも遅くはない。そう、俺は確信する。別に俺であってもいいのだ、それは。

 

 部外者の海老名姫菜であったように。

 

 なぜ今日、ここに来たのか。ようやくわかった気がした。

 

 ぼっちだと嘯いて。独りは気楽だと強がって。群れることを悪として。そしてそれらすべては多分正しくて。

 しかし、元来俺はそんなに強くなかった。弱者でしかなかったはずだった。失敗しかしてこなかった。

 

 単純なことだ。結局本質は情けなくて、卑屈。何も変わってない。世間知らずのガキが、成長もせず強がっていただけだ。認めてしまえば簡単にわかる。そう。

 

 ただ俺は、独りでここに来ることが怖かった。

 

「あー、平塚先生。私たちお邪魔みたいですし、ちょっと外出てましょうか」

 

 海老名さんに今の顔は見られたくなかった。…正面にいるから手遅れだっただろうが。彼女はでていくタイミングを失い、ポツンと取り残されていた平塚先生を教室の外に促す。平塚先生はほっと安堵のため息を吐く。

 

「う、うむ。私も仕事に戻らなくてはならないからな」

 

「何言ってるんですか?平塚先生」

 

 海老名さんのこめかみには、青筋が立っている気がした。

 

「勝手に教室に、ノックも無しに入ってくる人には、仕事以前に身につけなきゃいけない常識がありますよね?」

 

「う…」

 

「さあ、私と一緒にお話しましょう。私もまだまだ未熟な学生の身です。先生と一緒に学べるなんてとても幸せです。…時間はとらせませんよ」

 

 そう、海老名姫菜は色のない顔で微笑み、引きずるようにして平塚先生を外に連れ出す。

 

「…ご、ごめんなさいでしたあああああああああああああああああ」

 

 教室に断末魔が響き渡った。

 

 

 

 

「比企谷君」

 

「…はい」

 

 俺は部室の真ん中で正座させられていた。

 

 目の前にはいつものようなふくれっ面の由比ヶ浜、ゴミを見るような視線でこちらを見下ろす雪ノ下がいた。…いやまあ、確かに最低なことをしたし、しようとした自覚はある。海老名さんと行動するようになってからわざと避けていたのも否定できない。

 

 男にはただただ耐えねばならない時がある。母親に叱られる父の小さな背中を見て、俺はそれを知っていた。

 

「時間もないし、単刀直入に聞くけど」

 

 チラリと窓の外を見ると、すでに夕陽は沈みかけている。そうしないうちに下校のチャイムが鳴るだろう。なにもすぐに終わらせなければならない話ではないし、そう簡単に終わる話でもないだろう。

 

 しかし、この三人で。この教室で話をするべきだと思った。それは目の前の彼女も同じだったのだろうか。

 

「え、海老名姫菜さんと、あなたは…その、お、お、おつきあい…」

 

 気丈なのは立ち姿だけだった。まるで平時の俺のようにどもり、急速に声はしぼむ。…俺がこんなんしたら気持ち悪いだけなのに、美少女がやると急にかわいくなるのは何なんですかね。ちょっと不公平じゃないですかねこの世の中。

 

 続く言葉が何か。流石の俺でもわかったが、雪ノ下はなかなか言葉にしない。そんな雪ノ下を見て由比ヶ浜はフッと小さく笑い、濡れた瞳をこちらに向ける。

 

 そして、静かに問う。

 

「ヒッキーは、姫菜のこと、好き?」

 

 実に彼女らしい。彼女たちらしい。この期に及んで俺はそう思う。さっきまでの威勢はどこへやら、付き合っているかどうかの事実を問うことすらギリギリで迷う雪ノ下。片や先ほどまで涙を流し、余裕などなかったのに、今はただ静かに気持ちを確かめようとする由比ヶ浜。

 

 強いのに誰よりも弱い雪ノ下。弱いのに誰よりも強い由比ヶ浜。

 

 俺だけ弱いのみというのも、格好がつかない。

 

 いつもの笑みを浮かべることができるだろうか。

 

「好きだ」

 

 出てきた言葉はそれだけだった。

 

 いつだって策を弄して、人の心理を透かし見ようとし、言葉で自分も周りも傷つける。

 

 確かに、海老名姫菜を構成する要素。これまであった出来事。そこからなぜ俺が彼女に惹かれたか。証明のようなものは今でも頭に浮かぶ。しかし。俺は首を振って前を向く。

 

 それほど野暮なこともない。

 

「俺は、海老名姫菜のことが、好きだ」

 

「そっか」

 

「そう」

 

 一言で、事は足りた。

 

 静寂で満ちる教室。ギイギイと木がきしむ音がする。風が軽く窓ガラスを叩く。

 

 目の前の少女二人は、静かな笑みを浮かべた。

 

「私は比企谷君が好きよ」

 

「あたしはヒッキーが好きだよ」

 

「そうか」

 

 微笑みながら、彼女たちの頬を光るものが伝った。

 

 優しくまどろむような空気が教室を満たす。懐かしいと、そう思った。

 

 言わなくてもわかる。あながち、幻想でもないのかもしれない。

 

 しかし、その時。

 

 

「いやちょっとまって」

 

 

 ガラ。無機質な音でドアが開く。

 

 

「なに満足げな顔してるの、雪ノ下さんも結衣も比企谷君も」

 

 そこには、心底あきれた表情の海老名さんがいた。雪ノ下はその白磁のような肌を紅潮させ、由比ヶ浜はまた顔を真っ赤にしてあたふたと手を振る。

 

「なっ…あなた、なに普通に入ってきてるの。さっき比企谷君の出歯亀を咎めたのはあなたでしょう!」

 

「そ、そうだよ!…って言うか姫菜、さっきはあたしにあんなひどいこと言ったのに…」

 

「それはそれ、これはこれ。…ていうか、あなたたちの気持ちなんてとっくにバレバレだって。…ようやく話せてよかったね、二人とも」

 

「な…」

 

「う…」

 

 まったく悪びれもせず、海老名姫菜は笑い、俺の方を向く。

 

「そうじゃないと、いつまでたっても二人に対して悪い、とか思われてても鬱陶しいからね。…で、比企谷君」

 

「な、なんだ」

 

 海老名さんの勢いについていけていないのか、雪ノ下と由比ヶ浜は顔を赤くしたまま硬直している。海老名さんはかけていないのに、クイクイと眼鏡を持ち上げるポーズをする。

 

「で、誰を選ぶの。比企谷君は」

 

「「「…は?」」」

 

 声が三つ、重なった。

 

「いや、は?じゃないよ。なに終わった気でいるの、三人とも。…答えは、出してよ」

 

「…言わせたいのか」

 

「言ってくれないと困る」

 

 さっきまで不敵に笑っていた海老名姫菜。底知れぬ笑顔は剥がれ落ち、その声はトーンを落とす。

 

 震える声で、彼女は懇願する。

 

「私と、雪ノ下さんと、結衣。誰が一番か。…言って」

 

 彼女もまた、強くて、弱い。普通の女の子だ。

 

 だから、少しは俺も格好をつけてやらねばならない。

 

「俺は」

 

 少しくらいは、強く見せなくてはいけない。

 

「雪ノ下より、由比ヶ浜より、この世の誰より、お前が…海老名姫菜が、好きだ」

 

「うん、私も」

 

 にへらっ。どこかでみたような卑屈な笑みを浮かべて、海老名姫菜は彼女たちに向き直る。

 

 そして、高らかと宣言した。

 

「とー、いうわけで!この度わたくし海老名姫菜は、晴れて比企谷君と相思相愛となりました!私たちは逃げも隠れもしません。私は比企谷君が好きで、比企谷君は私が好きです。わーい、わーい、バンザーイ!」

 

 空気は、当然凍った。

 

「…由比ヶ浜さん、この子こんなにバカだったかしら。今初めて本気で人を殴りたいと思ってしまっているのだけれど」

 

「…ごめん、ゆきのん。私も姫菜がここまでバカだったとは思わなかった。やっぱり殴ってもいいかな。さっきはゆきのんに止められちゃったけど」

 

「今度こそ、私が止めることはないでしょうね」

 

「よーし」

 

 ぶん、ぶんと二人は肩を回す。…あの、ついでみたいに俺も殴られそうなんですけど気のせいですかそうですか。

 

 あははー、と笑いながら海老名さんはちゃっかりと俺を盾にして逃げる。まって、俺何も悪いことしてない。八幡そもそも何にも言ってない!

 

 一通りの武力制裁を俺が肩代わりし、雪ノ下と由比ヶ浜の呼吸が荒くなると、海老名さんはひょこっと顔を出す。

 

「いやー、やっぱり二人とも比企谷君のこと好きだったんだねー。そんなに怒るとは」

 

「「好きじゃなくても今のは怒る」」

 

 また声が重なる二人に、海老名さんはケラケラと笑いながら、目じりを拭う。

 

 そして当然のように言う。

 

「でも私と比企谷君、付き合ってないしまだ付き合わないよ。だから…あなたたちには、これまで通りにしてほしい」

 

「「「はい?」」」

 

 今度は俺の声も重なった。海老名さんは恨めし気に俺を見る。

 

「…そもそも、付き合ってないって言ったのはどこの誰だったかな?」

 

「いや、それはすまんかったとしか言えないが…でも、流石に」

 

 この期に及んで、この二人と話をして、気持ちを確認して。もう逃げられないと思った。あんぐりと口を開ける雪ノ下と由比ヶ浜を楽しそうに眺め、海老名さんは言う。

 

「今回の件で、どれだけ奉仕部の二人にとって比企谷君が大事か、比企谷君にとって奉仕部の二人が大事か、…三人にとってこの奉仕部が大事か、よくわかりました。わかりたくなかったけど、わかっちゃった。…あんな雰囲気見せられたら邪魔したくなっちゃうでしょ」

 

 最後の方は小声で聞き取れない。声とともに彼女の顔にも影が落ちる。

 

「私はまだまだ比企谷君のことも、三人の関係もよくわからない。…やっぱりまだあなたたちに割り込める自信もないし、割り込んでいいかもわからない。…それにこの二人が絡んだ時の比企谷君、情けなさ過ぎて正直引いちゃったし」

 

「う…」

 

 それを言われると弱い。のこのこ海老名さんについてきて、ありえない出歯亀をしてしまった。独りでここに来ることもできなかった。…人として大丈夫か、俺。失格ですか、太宰先生。

 

「だから、比企谷君」

 

 ぐるん、とうつむく顔を彼女の方へとむけられる。

 

「今度は、君が待って。…まだ罪悪感はあるけど、負い目は消えた。君にも、この二人にも。だから、今度は私に自信がつくまで。君の横にいてもいいって私が思えるまで。君が待って。私が誰にも負けないって、雪ノ下さんにも、結衣にも負けないって、そう思えたとき。自然と君と一緒に居れると思うから。

選ぶのは、その時でいい」

 

「あのー、それって…姫菜、私たちも、ヒッキーのこと好きでいいの?」

 

 恐る恐る横からかかる由比ヶ浜の声がかかる。雪ノ下も由比ヶ浜ともに戸惑う視線を海老名さんに向ける。臆面もないその姿に、思わず俺の顔が赤くなる。

 

 そんな二人と俺を見て、海老名さんはわざとらしくシャー、と牙をむき、力なく笑う。

 

「ほんとは嫌に決まってるよ。二人は、私なんかよりずっと可愛くて、素敵で、比企谷君のことを知ってる。私はいっちゃえば掠め取ったようなものだから。あなたたちから、比企谷君を。

でも」

 

 また落ちる視線は、逆説とともに前を向く。

 

「そのくらいじゃないと張り合いがないし、私に自信がつかないよ。…二人より可愛くて、素敵で、比企谷君のことを知ってる。そんな自信が欲しい。私は。それに…奉仕部の二人は比企谷君の大切なものだから。それが、わかっちゃったから」

 

 海老名姫菜は、今度こそ宣言する。

 

「だから、二人は今まで通り比企谷君のそばにいて。…私は、もっとそばにいるから」

 

「…せいぜい横からさらわれないように気を付けなさい」

 

「むぅ…。余裕でいられるのも多分そんな長くないと思うよ、姫菜」

 

「ふっふっふっ。だから私は負ける気なんてさらさらないって」

 

 ぐ腐腐。いつものように、いつかのように懐かしい笑いを浮かべる彼女に、雪ノ下と由比ヶ浜もつられて笑う。

 

 これ以上ない。こんな屈託なく笑う海老名姫菜を、俺は見たことがない。

 

「でね、比企谷君」

 

 スカートを翻し、彼女はまっすぐ俺を見る。

 

「私に自信がついた時。あなたの隣が誰よりも相応しいと思えた時。その時、私をあなたの彼女にしてください。…八幡」

 

 何度告白されるのだろう。毎日好き好きいうバカップル。蔑んでいたのに、その気持ちをわかってしまう自分が嫌になる。

 

 でも、まあ。そんな毎日も。

 

「いつでも歓迎だ。…姫菜」

 

 彼女となら、悪くない。

 




 おしまい。


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