除霊師・安倍あやめの非日常的日常譚 (ゆうと00)
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除霊師・安倍あやめ(1/7)

 外はすっかり日も落ちきって暗くなり、遠くで吠える犬の声が聞こえるほどに静かだった。仄かな月の光が優しく街を照らし、人工的な街灯の光が強く街を照らしている。そしてどちらの光も届かない場所は、全てを呑み込むほどに深い闇に覆われている。

 しかし私立北戸(ほくと)中学校の職員室は現在、蛍光灯の光によってその闇を跳ね除けていた。そこでは短い黒髪に黒縁眼鏡を掛けた30歳前後の男が、ノートパソコンの画面を睨みつけながら、カタカタと文章を打ち込んでいる。

 

 数学の教師である彼はその日、来週行うテストのために夜遅くまで学校に残っていた。ときどき手を止めて何かを考え込んでは再び画面へと視線を戻してカタカタとキーボードを響かせる、という動作を何回も繰り返してている。

 やがてそれが数十回を数えた頃、彼はふとその手を止めて背もたれに全体重を掛けるように仰け反った。パキパキと背中から小気味良い音が聞こえ、ギシリと椅子が静かに鳴った。

 彼はぐったりと疲れ果てた様子で大きく溜息を吐くと、壁に掛けられている時計に目を遣った。時計の短針は、頂点の12をとっくに過ぎていた。

 

「もうこんな時間か……」

 

 彼はそう呟くと、慌てた様子で帰り支度を始めた。書類と一緒にノートパソコンを鞄にしまうと、それを肩に掛けて入口へと歩いていく。そして擦れ違い様に照明のスイッチを切ると、パチンという音と共に職員室が途端に闇に包まれた。

 そして彼は、そのまま月明かりに照らされる廊下を歩いていった。

 

 こつ、こつ、こつ、こつ――

 

 夜の学校は昼と違って人がほとんどおらず、耳が痛くなるほどに静まり返っている。なので彼のたてる足音が、何物にも邪魔されることなく学校中に響き渡っていた。しっかりと戸締まりがされた校内は風通しが悪く、彼は空気と一緒に気分が沈んでいくような心地になった。

 

「さっさと帰ろ……」

 

 暗闇を恐れる人間の本能だろうか、彼の足取りが自然と速くなった。

 とはいっても、こういう場所では滅多に事件など起こらない。彼は今までに何度も夜遅くまで残業したことがあったが、今まで一度たりとも変わったことは無かった。

 今日までは。

 

 ――がたんっ!

 

「ひっ――!」

 

 突然頭上で響き渡った大きな音に、彼は思わず声をあげて足を止めた。

 彼は顔を強張らせながら、キョロキョロと辺りを見渡した。こんな時間なので、当然ながら人の姿があるはずもない。

 しかし、音がするということは、

 

「誰かいるのか?」

 

 返事が無いことを願いながら、彼は天井に向かってそう尋ねた。そして彼の期待通り、返事は無かった。

 しかし教師という立場上、そのまま黙って帰るわけにもいかない。万が一生徒が隠れていたなんてことがあれば、後日親を呼び出して厳重注意をしなければならない。

 

「変なのとかいるなよ……」

 

 彼は誰に言い聞かせるでもなくそう言うと、職員用玄関へと向かっていた体の向きを変えて階段へと向かっていった。そして月明かりが上手く届かず廊下よりも薄暗くなっている階段を、1段1段しっかりと踏みしめるように昇っていく。

 3階に到達したところで、彼は柱から恐る恐る廊下を覗いた。

 

「…………」

 

 真っ暗なため、当然何も見えなかった。彼は視線を廊下から離さずに、柱の傍のスイッチを手探りで押して照明を点けた。無機質な廊下が無機質な蛍光灯に照らされ、その姿を表した。

 そこには、誰もいなかった。

 

「…………」

 

 彼は前を睨みつけながら、無意識に前屈みになりながら、ゆっくりと廊下を歩いていった。まだ5月だというのに、彼の額にはじんわりと汗が滲んでいる。

 

「ん?」

 

 しばらく歩くと、とある部屋から光が漏れているのに気づいた。しかしその光は蛍光灯のような明るいそれではなく、蝋燭のように小さな、しかも青白いものだった。

 彼がその部屋のプレートを見る。

 そこには、“理科実験室”と書かれていた。

 

「ここって……」

 

 彼はそれを見て、顔を青ざめた。知らず知らずの内に奥歯をカタカタと鳴らし、膝をブルブルと震わせる。今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られるが、勇気を振り絞ってそのドアにゆっくりと手を掛けた。

 そして、勢いよくドアを開けた。

 前方の壁には大きな黒板があり、その前には教卓を兼ねた横長のテーブルがある。さらにそれと同じものが生徒用に12脚並び、奥の壁には蛇口と洗面台、そして実験器具が収められたガラス戸の棚などが設置されている。

 他の学校とほとんど代わり映えのしない、何の変哲も無いごく普通の実験室。

 

 その中に、その少女はいた。

 

 少女は、首を吊っていた。

 

 少女は天井の金具にロープを引っかけて、入口に背を向ける形で首を吊っていた。ロープを支点に首が不自然に曲がり、全体重をロープに預けるようにその体には一切の力が無く、重力に従って手足をだらりと垂らしている。

 そしてその少女は、何の照明も無いのに、なぜかぼんやりと青白く光っていた。

 

「あ……あ……」

 

 彼は言葉にならない声を発し、視線を少女に固定したまま動かさなかった。いや、動かせなかった。そして突然誰かに突き飛ばされたかのように早足で後ずさると、腰を抜かしてそのまま床に座り込んでしまった。

 確かに、真夜中の学校で首吊り死体を見つけたのだから、その反応も当然だろう。

 しかし、ただそれだけの理由で、彼はここまで怯えているわけではない。

 なぜなら、ここにこの首吊り死体があるのは、有り得ないからである。

 

 その少女は、5年前に同じ場所で首を吊ってすでに死んでいるのだから。

 

「な、なんで……」

 

 彼が搾り出すようにそう呟いたそのとき、突然少女の体がぐるりと回転し、彼へと向き直った。だらりと垂れ下がった長い茶髪の隙間から覗く大きな目が、彼の顔をまっすぐ捉えた。

 そして、少女はニタァッと口元を歪ませると、

 

「苦しいよ――助けて――」

 

 夜の学校に、男の絶叫が響き渡った。

 

 

 *         *         *

 

 

 私立北戸中学校は、生徒数は500を優に超える、市内一の大きさを誇る中学校である。私立でありながら制服が存在しないという自由な校風、また有名高校への進学率も高い進学校ということから、市内ではちょっとした有名校となっている。

 現在の時刻は午前8時10分。そろそろホームルームの始まる時間ということもあって、生徒達が続々と教室に集まってきている。

 

 ここ、2年4組の教室でもそれは同様で、彼らはそれぞれ仲の良い友人と集まって気ままに談笑していた。昨日のテレビについて。来週のテストについて。今日の放課後に何をして遊ぶかについて。それぞれ話題に多少の違いはあれど、その内容はどれも取るに足らないような、数分後には忘れているようなものばかりだった。

 しかし、教室の隅にいる2人の少女が話しているそれは、他のグループとは少し違っていた。

 

「転校生?」

「そ、女の子。このクラスに来るの」

「でも今、5月だよ? 転校するにしては、ちょっと中途半端な時期だね」

「ね、珍しいでしょ? 何だか気になってこない?」

 

 得意げな表情で目の前の少女に話すのは、松山清音(まつやまきよね)。中学2年の少女にしては背が高く、長い茶髪を後ろで縛っている。好奇心が旺盛で、すぐに誰とでも仲良くなれる明るい性格、そして校内や市内の様々な情報に詳しい“情報通”として校内では有名である。

 そしてもう一人の少女は、飯田春(いいだはる)。こちらは清音とは反対に背が低く、黒髪を肩に届くくらいの長さに切り揃えている。清音とは幼馴染みであり、何かと暴走しがちな彼女のブレーキ役として周囲には認識されている。

 

「それにしても、そんな情報、どっから手に入れたの?」

「今朝学校に来たときに、見慣れない子がいたからついてってみたの。そしたらその子が職員室に入ってって、先生達と何か話してたみたいだから――」

「それを盗み聞きした、ってこと?」

「うん」

「……相変わらず、嫌な趣味してんね」

 

 春は呆れたように溜息をつくと、清音は「ははは」と笑って頭をポリポリと掻いた。その表情に、反省の色は欠片も無い。

 

「でもさ、興味を持っちゃうのも仕方ないと思うんだよ。だってその子さ――」

 

 何かを喋り始めた清音の言葉を遮るように教室のドアが開き、担任である森田(大柄で筋肉質な見た目から渾名は“ゴリ田”)が入ってきた。清音や春も含めた教室中の生徒が、慌てた様子で一斉に自分の席に向かう。

 全員が席に着いたことを確認してから、森田は口を開いた。

 

「えー、今日からこのクラスに、仲間が1人増えることになった。1日でも早くこのクラスに馴染めるように、皆協力してやってくれ」

 

 それを聞いた途端、教室中がにわかに騒がしくなった。「どんな奴だろう」「男かな女かな」「不良だったらどうしよう」など様々な言葉が飛び交う。

 森田はそれを一旦鎮めると、「入ってきていいぞ」とドアの向こうに呼び掛けた。

 

 1人の少女が、教室に足を踏み入れた。

 

「綺麗……」

 

 その少女を一目見た春が、無意識にそう呟いた。教室のあちこちで「おおっ」と小さな歓声があがる。

 教室に入ってきたのは、染み1つ無い白い肌に艶やかな長い黒髪の映える、まるで高級な日本人形のような少女だった。パッチリとした目を俯かせて澄ましているその様子は、どこかの絵画かと思わせるほどに様になっている。以前通っていた学校の制服と思われる黒のブレザーを着ているが、さぞ着物が似合うだろうと、見たこともないのに確信できてしまう。

 

「それじゃ、みんなに自己紹介して」

 

 森田に促されると、少女は顔を少し上げて前をしっかりと見据えた。生徒達は無意識の内に、少女の声を聞き漏らさないようにと息を呑んで注目する。

 

「京都から来ました、安倍あやめといいます。皆さん――」

 

 その外見と違わない清流のように涼やかな声で挨拶を始めた少女だったが、そこまで喋ったところで突然ピタリとそれを止めてしまった。生徒だけでなく、隣でそれを聞いていた森田さえも不思議そうに首をかしげた。

 あやめと名乗ったその少女は、クラスメイト達の目の前で、自己紹介の真っ最中にも拘わらず、ボーッとしたように窓の外を見つめていた。

 

「……安倍?」

「あ、すみません。――皆さん、宜しくお願いします」

 

 森田の声にハッと我に返ったあやめは、挨拶が途切れたことなど初めから無かったように深々とお辞儀をした。見る者が惚れ惚れとするような、完璧な所作だった。

 最初の内は生徒達も戸惑っていたが、1人が拍手をすると瞬く間に教室中が拍手で包まれた。それが止み始めた頃になって、あやめはようやく顔を上げた。

 その後、彼女は生徒達全員の視線を浴びながら、森田が指差した席――最も廊下に近い列の一番後ろに着いた。そこはちょうど、清音の隣だった。

 

「よーし、それじゃホームルームを始めるぞ」

 

 あやめが座ったことを確認した森田の声に、ほとんどの生徒が一斉に前を向いた。

 そしてただ1人清音だけが、すぐ横にいるあやめへと顔を向けた。

 

「私、松山清音っていうの。宜しくね。安倍さんのこと、“あやめ”って呼んで良いかな?」

「……はい、構いませんよ。宜しくお願いしますね、清音さん」

 

 あやめがニコリと優雅に微笑むと、清音は満足げに笑みを浮かべて頷いた。

 そして、ずいっ、と彼女に顔を近づけてきた。

 

「ところでさ、さっきのは何だったの?」

「さっきの?」

「挨拶の途中で急に黙っちゃったじゃん。しかも、窓の方をボーッと眺めてたし。緊張で台詞がとんじゃったようには見えなかったけど」

「あぁ、あれですか? ……別に、何でもありませんよ」

「ふーん……、まぁ、いいや。何か訊きたいことがあったら何でも言ってよ。この学校のことなら、大抵は知ってるから」

 

 清音は自信たっぷりにそう言って、自分の胸をドンと叩いた。少し力加減を間違えたのか、小さくケホッと咳き込んだ。

 その言葉に、あやめは数秒考える素振りを見せて口を開いた。

 

「……では、一つ尋ねて宜しいですか?」

「いいよ」

 

「以前この学校で、何か事件でもありましたか?」

 

「……何か?」

「そう、何か」

 

 あやめは真剣な表情で、清音の目をまっすぐ見つめている。その迫力に圧されたのか、清音はあやめから逃げるように視線を逸らした。

 

「うーん、別に何も無かったと思うけど」

「最近ではないかもしれません。例えば、数年前とか」

 

 間髪入れずに、あやめは再び尋ねた。

 清音は先程にも増して、眉間に深い皺を刻んで考え込んだ。そしてしばらくしてから、何かを思い出したように顔を上げた。

 

「そういえば、5年くらい前だったかな? この学校で女の子が自殺したっていうのを聞いたことがあるよ」

「自殺、ですか? 原因とか分かりますか?」

「うーん、そう言われてもなぁ……。いじめじゃないか、っていう噂もあったみたいだけど、結局は分からなかったらしいよ。遺書も無かったみたいだし」

「そうですか。ありがとうございます」

 

 あやめは短く礼を言うと、もはや清音には興味が無いと言わんばかりに、ふいと前を向いてしまった。そしてその後、彼女がこちらを向くことは無かった。

 あやめの横顔を眺めながら、清音は不思議そうに首をかしげた。



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除霊師・安倍あやめ(2/7)

 4時限目終了を知らせるチャイムが、学校中に鳴り響いた。つまりそれは、待ちに待った昼休みの訪れを意味している。教師が次の授業までの宿題を話している最中も、生徒達はどこかそわそわと落ち着きが無いように見える。

 

「よし、それじゃ今日はここまで。ちゃんと復習しとけよ」

 

 日直の号令に合わせて、生徒達が一斉に立ち上がって礼をした。それを皮切りに、途端に教室中が騒がしくなった。

 北戸中学校には給食が無いため、昼食は各自で弁当を持ってくるか、1階にある購買で買うことになっている。しかし購買といっても総菜パンか菓子パン程度しか置いてないため、大多数の生徒は前者となる。

 そして、昼食を摂る場所に特に決まりは無い。教室でも良いし部室でも良いし、何なら教師から鍵を借りて屋上で食べても構わない。

 なのであやめも、自分の弁当を持って席を離れ――

 

「安倍さん、一緒にお昼食べよ?」

 

 ようとしたのだが、クラスメイトの少女があやめの席へ駆け寄ってきたせいで、それは阻止されてしまった。

 あやめは困ったように笑いながら、

 

「すみません。私は――」

「あ! 私も一緒に食べるー!」

「何? 私も混ぜてー」

「私もー」

 

 あやめの発言を遮るように、周りの少女が次々と声をあげて次々と駆け寄ってきた。あっという間に、結構な人数の少女が彼女を取り囲んでしまった。そしてその様子を、中に入りたくても入れない少年が数人、少し離れたところから羨ましげに眺めている。

 

「ねぇ安倍さん、前は京都にいたんでしょ? 京都の学校ってどんな感じなの?」

「どうと言われましても――」

「前は何の部活をやってたの? 私、陸上部なんだけど、一緒にやらない?」

「えっと――」

「安倍さんって、携帯持ってるよね? メアド交換しようよ」「あ、私も交換したいー」

「あの――」

「安倍さんの髪って綺麗だよねー。どんなケアしたらそんな風になるの?」「ねぇ、ちょっと触らせてー」「私も私もー」

「…………」

 

 少女達は必要以上に大きな声で、あやめに返事の時間を与えない勢いで次々と質問を繰り出してきた。中には断りも無く、彼女の髪を触りまくる少女もいる。

 

「ねぇねぇ、安倍さーん」「“安倍さん”って、何か他人行儀だな。“あやめ”って呼んで良い?」「あ、ずるーい! 私も“あやめ”って呼んで良いよね!」「ねぇ、あやめー。今日の放課後一緒に遊ばない?」「ねぇ、あやめー」「あやめー」

「…………」

 

 どんどん騒がしくなる周りと反比例して、あやめはすっかり顔を俯かせて黙り込んでしまった。彼女の肩はプルプルと震え、黒髪の隙間から覗く口元はヒクヒクと引き攣っている。

 しかしお喋りに夢中になっている少女達がそんなことに気づくわけもなく、むしろ返事が返ってこないのはあやめが聞こえていないからだと、さらに声の音量を上げて呼び掛ける始末だった。

 そしてついに、

 

 ばんっ!

 

「!」「!」「!」

 

 あやめは両腕を振り上げて、それを自分の机に思いっきり叩きつけた。突然のことに教室中の生徒が肩を震わせて驚き、一斉に彼女へと顔を向けた。

 先程まであんなに騒がしかった教室がしんと静まり返る中、

 

「私、お昼は一人で頂きたいので」

 

 あやめは無表情でそう言い放つと、自分の弁当が入っている巾着袋を持ち、呆然とするクラスメイト達の間を擦り抜けて、教室を出ていってしまった。

 

「……何なの?」

 

 誰かの呆気にとられた声が、教室をフワフワと漂った。

 

 

 *         *         *

 

 

 この中学校は、普段生徒達がいる“教室棟”と、実験室や職員室などが集まった“特別棟”の2つが向かい合わせに建っている。そしてその二つの間を、一階部分が昇降口になっている渡り廊下が繋いでいる。

 現在あやめはその渡り廊下を、眉間に若干皺を寄せて大股ぎみに歩いていた。右手に握られた弁当入りの巾着袋が、大きく振られてカタカタと鳴っている。

 

「まったく、人の話を聞かないで、自分のことしか頭に無い人ばかりですね……。――でもまぁ、これで話し掛けてくる人は大分減るでしょうか……」

 

 怒りを吐き出すようにそう呟くあやめだったが、それに反してその表情は能面のように冷たいものだった。人形のように整った顔立ちの彼女による無表情は、思わず背筋が寒くなるほどに恐ろしい印象を与えるものになる。現に、先程あやめと擦れ違った女子生徒は、あやめの顔を見た瞬間「ひぃっ」と小さな悲鳴をあげていた。

 と、そのとき、ふとあやめが足を止めた。

 

「…………」

 

 そしてうんざりしたように大きく息を吐き出すと、再びスタスタと歩き始めた。

 

 

 

 

 そんなあやめを、柱の陰から覗き込むように眺める人物が2人いた。1人は長い茶髪を後ろで縛っている背の高い少女で、もう1人は背の低い黒髪の少女だった。

 清音と春である。

 

「安倍さん、どこ行くんだろ……」

「分からない。でも、いきなり話を止めたり、かと思えばいきなり机を叩いたり……。何か興味をそそられるなぁ……」

「えぇっ? 止めなよ。怒られるよ」

「だったら春は先に教室に帰ったら良いじゃん。あやめは私1人で尾行するから」

「……私もついてく。だって清音、絶対安倍さんに迷惑掛けるもん」

「大丈夫だって。ばれないようにするから」

 

 2人が小声で言い合っている間にも、あやめは渡り廊下から特別棟へと入り、廊下の突き当たりを右に曲がって姿を消そうとしていた。

 

「ほら、早くしないと見失っちゃう! 行くよ!」

 

 清音は柱から勢いよく飛び出すと、渡り廊下を駆けていった。

 

「……まったく」

 

 春は呆れたように、あやめの、というよりは清音の後を追った。

 

 

 *         *         *

 

 

 特別棟というのはその名の通り、何か特別な用が無い限り生徒が近づくことは無い場所だ。ましてや授業の無い昼休みに来ることなど滅多に無く、教師もどこかの部屋で昼食を摂っていることがほとんどなので、あやめが廊下で誰かと擦れ違うことは無かった。

 

「さてと、どこでしょうね……」

 

 あやめはそう呟きながら、部屋の前に差し掛かる度に歩みを止めて、ドアの窓から中を覗き込んでいく。そして数秒ほど中の様子をじっと見つめると、ふいと視線を外して次の部屋へと向かっていった。

 やがてその階の部屋を全て見終わると、階段を昇って上の階へとやって来た。そしてまた端の部屋から、先程と同じ行動を繰り返していく。

 

 そうして繰り返すこと、11部屋。

 12部屋目に差し掛かったとき、今までと同じようにすぐに視線を外すのかと思いきや、あやめは途端に眉間に皺を寄せ、10秒ほどじっと中の様子を眺めていた。

 その部屋のプレートには、“理科実験室”と書かれている。

 

「…………」

 

 あやめは口を閉ざしたままスタスタとドアへ歩み寄ると、それを勢いよく開けて中へと入っていった。

 前方の壁には大きな黒板があり、その前には教卓を兼ねた横長のテーブルがある。さらにそれと同じものが生徒用に12脚並び、奥の壁には蛇口と洗面台、そして実験器具が収められたガラス戸の棚などが設置されている。

 他の学校とほとんど代わり映えのしない、何の変哲も無いごく普通の実験室。

 

 今は昼休みなので、当然ながらそこには誰の姿も無かった。

 しかしあやめは険しい表情でゆっくりと中を見渡すと、部屋の中央まで歩みを進めた。

 そして、ぽつりと呟いた。

 

「成程、“地縛霊”ですか……」

 

 

 

 

「何してるんだろ……」

 

 1つ1つ部屋を見渡していったかと思うと、突然理科実験室へと入っていき、部屋の中央で険しい表情で何かを考え込み始めたあやめを見て、清音は思わずそう呟いた。

 清音と春は今、階段近くにある柱に身を隠し、そこからあやめのいる理科実験室を眺めていた。2人からは、腕を組んで静かに俯く彼女の後ろ姿が、窓ガラス越しに見えている。

 

「もう、清音……。いい加減にしないと、これ以上は安倍さんに失礼だよ……」

「そんなこと言って、本当はあやめのことが気になってきたんでしょ? 私よりも身を乗り出してるよ」

「そ、それは……、私の方が後ろにいるんだから、より身を乗り出さないと清音が壁になって見えないというか――」

「ほら、見たがってんじゃん」

「えっ! いや、あの、それは……」

 

 わたわたと慌てた様子で何やら言い訳している春を無視して、清音は視線を理科実験室へと戻した。

 

「あれっ?」

 

 すると、先程まで確かにあったあやめの姿が忽然と消えていた。

 

「あやめ、どこ行ったんだろ?」

「えっ、いないの?」

 

 2人は柱から離れ、理科実験室のドアまで駆け寄った。ドアから中の様子を伺うが、テーブルやら洗面台やら実験器具やらが見えるだけで、あやめの姿は無い。

 

「まさか、もう帰っちゃったとか?」

 

 清音はそう言いながら、ドアを開けて中へと入った。春もそれに続く。

 あやめは、ドアのすぐ脇にいた。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 あやめはドアのすぐ脇で壁に寄り掛かって立ち、2人を鋭い視線で睨みつけていた。そこはちょうど、部屋の外から盗み見ていた2人からは死角になっている場所だった。

 

「えっと……、いつから気づいてた?」

「そうですね……、朝、清音さんが私のことを職員室までつけていた頃から、ですね」

「そ、そこからですか……」

 

 気まずそうに目を逸らす清音に、今度はあやめが尋ねる。

 

「2人はこんなところで、何をしているのですか?」

「えっと……、あの、そ、そういうあやめは何してたの?」

「私ですか? お弁当を食べる場所を探していました」

 

 あやめはそう言って、右手に持つ弁当箱を軽く上げた。

 それを見てピンときたのか、清音は口元が若干引き攣った笑顔を浮かべて、

 

「そ、そうなんだー! わ、私達もそうなんだー! あ、そうだ! 良かったらここで一緒に食べない?」

「……別に良いですけど、2人の弁当はどこにあるのですか?」

「へっ? し、しまったー! 私としたことが、弁当を忘れちゃうなんてー! それじゃあ、今から取ってくるから、春はここで待ってて!」

「えっ? 私も行く――」

「良いから良いから! 春の弁当は私が持ってくるから、春はここであやめと待っててよ! それじゃ!」

 

 清音は早口でそう捲し立てると、そそくさと部屋を出て、そのまま廊下を駆けていってしまった。どたどたどた、という清音の足音がだんだん小さくなっていき、そして聞こえなくなった。

 一方、取り残された春は頭を抱えたくなった。清音の先程の言葉は、言い換えるならば『あやめが逃げないように見張っておけ』となるからである。

 春はチラリとあやめの方を見た。あやめは澄ました表情で椅子に腰掛け、巾着袋の紐を解いている最中だった。

 

「えっと……、安倍さん、私も座っていいかな……?」

「どうぞ」

 

 あやめの言葉を受けて、春はあやめの正面に腰を下ろした。いや、正確にはそこは真正面ではなく、春から見てちょうど体1つ分右にずれていた。あやめと真正面から向き合う勇気は、彼女には無かった。

 

「…………」

「…………」

 

 重苦しい空気が、2人を包み込む。

 

 ――何か、話題を探さないと……。

 

 その空気に居たたまれなくなった春は、とにかく何か話題は無いかと、部屋をキョロキョロと見渡した。

 ふと、あやめの手元にある弁当が目に入った。ご飯とおかずの2段構造となっているそれは、ハンバーグの脇に色鮮やかなミックスベジタブルが綺麗に配置された、とても見栄えの良い弁当である。

 

「わ、わぁ! 安倍さんのお弁当、綺麗だねー!」

「そうですか? ありがとうございます」

「お母さんが作ってくれるの?」

「いえ、自分で作ります」

「へぇ! 安倍さんって料理できるんだ! 凄いね!」

「そんなことありませんよ。これだって、全部冷凍食品ですし」

「そ、そうなんだ……」

「…………」

「…………」

 

 重苦しい空気が、2人を包み込む。

 それから1分ほどの時間が流れた。春にとって、10分にも1時間にも感じる1分だった。

 春が、恐る恐る口を開く。

 

「えっと……、ごめんね、安倍さん。後をつけたりなんかして……」

「春さんは悪くありませんよ。清音さんに無理矢理連れ回されただけなんでしょうから」

「よ、よく知ってるね。ひょっとして見てた?」

「いいえ。でも彼女とあなたの性格からして、そうではないかなと考えただけです」

「あ、そうなんだ……。大当たりだよ、あははは……」

 

 春が乾いた笑い声をあげても、あやめは表情を崩すことなく、清音が帰ってきていないにも拘わらず弁当を食べ始めてしまった。

 その様子をじっと眺めていた春は、やがて意を決したようにあやめをまっすぐ見据え、

 

「……安倍さんは、その……、何をしてたの?」

「何をしていようと、春さんには関係の無いことですよ」

 

 あやめは春に一切視線を向けることなく、即座にそう答えた。きっぱりと放たれたその言葉に春は一瞬怯みかけるが、ある程度予想していたのかすぐさま口を開く。

 

「そうかもしれないけど、それでも教えてほしいの。私、安倍さんのこと、もっと色々知りたいから」

「それは、清音さんに唆されたからですか?」

 

 視線を一切向けないでの質問だったが、それは春にまっすぐ突き刺さった。

 春は小さく深呼吸をすると、意を決したように口を開いた。

 

「……最初は、そうだったのかもしれない。でも今は違うよ。私が自分の意思で、安倍さんと仲良くなりたいと思ったんだ」

 

 春のその言葉に、あやめは初めて彼女に視線を向けた。

 毅然とした表情であやめをまっすぐ見つめる春の姿が、あやめの目に映った。あやめが僅かに視線を鋭くしても、春は微動だにしない。

 

「……もし私が『友人なんて必要ありません。勝手なことをしないで頂けますか?』と言えば、春さんは大人しく引き下がってくれますか?」

「もし安倍さんが本気でそう思っているなら、私は無理強いはしない。――でも、清音はどうだろうね? 幼馴染みの私が言うのも何だけど、あの子は一度でも興味を持ったら、どこまでもしつこく食い下がるよ。それこそ、安倍さんが拒絶すればするほどに」

「……ええ、そうでしょうね」

 

 あやめはそう呟くと、フッと口元に笑みを浮かべた。それは春が初めて見た彼女の笑顔であり、春は思わずそれに見とれてしまった。

 

「今から話すことを、少しでも馬鹿馬鹿しいと思ったら言ってください。すぐに止めますから」

 

 あやめのその言葉に、春は真剣な表情で頷いた。

 それを受けて、あやめも真剣な表情でこう尋ねた。

 

「春さんは、“幽霊”って存在すると思いますか?」



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除霊師・安倍あやめ(3/7)

「ゆ、幽霊……?」

 

 春が戸惑うように問うと、あやめは「そう、幽霊」としっかりした声で答えた。先程の単語が春の聞き間違いでないことが分かったのと同時に、その目つきと口振りから彼女がふざけているのではないことも分かった。

 

「えっと……、今まで見たことはないから、よく分かんない、かな……?」

 

 春が返したのはそんなあやふやな答えだったが、あやめはそれに対して特に反応を見せず、ただ無表情に「そうですか」と呟くだけだった。

 

「安倍さんは、幽霊はいると思うの?」

「います」

 

 即答だった。迷いなど、まるで無かった。

 戸惑う春に追い打ちを掛けるように、あやめはさらに話を続ける。

 

「私の家は代々、この世に未練を残したまま成仏できないでいる幽霊を除霊する“除霊師”を生業にしてきました。当然私も、小さい頃から除霊に関する様々な術を学んできました。この街に来たのも、一人前の除霊師になるための修行の一環なんです」

「そ、そうなんだ……」

「大丈夫ですか? 別にここで終わりにしても構わないのですけど」

「だ、大丈夫だよ! 安倍さんのこと、もっと知りたいもん! 続けて!」

 

 胸の前で握り拳を作って力強く答える春に、あやめは「分かりました」と言って再び話し始める。その口元には、よく見なければ気づかないほどに、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

 

「まぁ、そんな理由でこの学校に転入してきた訳ですが、朝の自己紹介のときに、ふとこの建物から幽霊の気配を感じたんです」

「そ、そっか。それであのとき、自己紹介の途中なのに止まっちゃったんだ……」

「はい。ある程度近づかなければ部屋も特定できないほどに微弱なものですが、それでも放っておく訳にはいかないので、昼休みを利用してここまで探しに来たということです」

「そう、なんだ……」

 

 未だ戸惑いの色は消えないものの、春は納得したように頷いた。納得するしかなかった。幽霊については未だに信じられないが、あやめが冗談でこんな嘘を言うような人物とは思えないし、何よりこれを逃すと彼女と二度と話せなくなる気がしたからである。

 

 と、そこまで考えを巡らせたところで、彼女はハッと顔を上げた。

 もし、あやめの言うことが本当だとするのならば、

 

「ねぇ、安倍さん……。それじゃあ、その幽霊ってまさか……」

「はい、ここにいますよ」

 

 がたたっ!

 

 その瞬間、春は椅子を蹴飛ばして立ち上がり、びたん! と壁にタックルする勢いで後ずさりをした。部屋が急に暑くなったわけでもないのに、むしろ寒気すら覚えるというのに、体中から汗が噴き出してくる。

 あやめはそれを見て、笑いを堪えるように体を震わせ、口元を手で隠した。

 

「大丈夫ですよ、春さん。その子は“呪縛霊”ですから、春さんに危害は加えませんよ」

「ほ、本当……?」

 

 それを聞いて安心したのか、それでもやはり恐怖心は消えないのか、春は自分の座っていた場所へ恐る恐る戻ると、天井の辺りを注意深く見遣りながら、椅子を戻してゆっくりとそこに座った。

 クスクスと笑いながらそれを見ていたあやめが、小さな子供に言い聞かせるような声色で話す。

 

「呪縛霊というのは、特に強い未練を残して死んでいった人がなりやすいんです。場所に強い想いがあったら“地縛霊”、人に強い想いがあったら“背後霊”になります。まぁ、本当はもっと複雑な条件があるんですけどね」

「へ、へぇ……」

「その場所や人に縛られてるわけですから、行動は極端に制限されます。ですから普段はとても大人しくて、その霊の感情を刺激するようなことが起こるか、私達除霊師が無理矢理引きずり出すかしない限り、その霊が暴れ出すことはありません。その分、こちらが見つけるのに苦労するのですけどね」

「そうなんだ……。それなら、少しは安心かな……?」

 

 春はそう言うと「ははは」と弱々しい笑みを浮かべた。

 

 ――まぁ、普段は大人しい分、暴れると厄介なんですけど……。

 

 あやめは秘かにそんなことを頭に思い浮かべたが、それを口に出すのは止めた。

 

「ねぇ、安倍さん」

「何ですか?」

「その幽霊がこの部屋に未練を残してるってことは、ひょっとしてその幽霊って、この学校に関係ある人ってこと?」

 

 春の疑問に、あやめは「そうですねぇ……」と呟いて、

 

「これは清音さんから聞いた話ですけど、5年ほど前に、この学校で自殺した女子生徒がいるみたいですよ」

「じ、自殺?」

「詳しいことは調べてみないと分かりませんけど、仮にこの幽霊がその子だとしたら、多分その子は――」

 

「君達、こんなところで何してるんだ?」

 

 あやめの言葉を遮るように、あやめと春に呼び掛ける男の声が聞こえた。それに反応した2人が、声のした方――つまり入口へと顔を向ける。

 そこには、短い黒髪に黒縁眼鏡を掛けた30歳前後の男が、呆れたような表情でドアに寄り掛かっていた。

 

「あ、小林先生」

 

 春が小さく声をあげる横で、あやめが春に誰なのか尋ねた。

 

「数学の小林先生だよ。みんなからは“コバセン”って呼ばれてる」

 

 春があやめに耳打ちしている間に、小林はつかつかと2人の元へ近づいてくる。

 

「君達、何してたんだ?」

「えっと……、お昼を食べよっかな、て思って……」

 

 春がたどたどしくそう答えると、小林は小さく溜息を吐いて、

 

「こんなところで食べる奴があるか。ほら、さっさと戻るんだ」

「ですが先生、お昼を食べる場所に特に制限は無いと聞きましたけど」

 

 あやめのその言葉に、小林は呆れた表情を彼女へと向けた。

 

「いくら自由だからといって、それはあくまで常識の範囲内での話だ。ここには危険な薬品とかもあるし、万が一事故が起こったら大変なんだからな。――まったく、わざわざ鍵まで開けて入ってくるなんて……」

「えっと、小林先生……。私達が鍵を開けたんじゃなくて、元々開いてるみたいでしたよ……」

 

 遠慮がちにそう言った春に、小林は一瞬だけ動きを止めて僅かに目を見開いた。

 しかしすぐさま彼女の肩を掴んで無理矢理立たせると、「さぁ帰った帰った」と入口へと押しやろうとする。

 

「わ、分かりましたから、離してください」

 

 春が慌てたように、小林の手を振り払って彼から離れた。彼女のその言葉に小林は満足したように数度小さく頷き、そして今度はあやめの方を向いた。

 それに促される形で、あやめは腰を上げた。

 

 ――かたっ。

 

「ん?」

 

 小さな音、そして何かの気配を感じ取ったあやめは、中途半端に腰を上げた状態で動きを止め、注意深く辺りを見渡した。

 

 ――かたっ、かたっ。

 

 ふと彼女の目に止まったのは、この部屋を出ようと入口へと歩く、春と小林の後ろ姿だった。2人が音に気づいている様子は無い。

 

 ――かたかたかた。

 

 次にあやめの目に止まったのは、2人の向かう入口の傍に置いてあるガラス戸の棚だった。その中には、ビーカーや三角フラスコや試験管など、ガラスでできた実験器具が所狭しと並べられている。

 

 ――ぴしっ。

 

 そしてその直後、そのガラス戸に大きなヒビが入った。

 

「2人共、走って!」

「へっ?」

「な、何だ?」

 

 あやめの突然の大声に、小林と春が戸惑いの声をあげ、足を止めようとする。

 

「いいから走って!」

「は、はいっ!」

 

 2度目の大声に、春は反射的に廊下へと走り出した。彼女の傍にいた小林は、「おい、ちょっと!」と彼女の後を追うように走り出した。

 その瞬間、

 

 ――ばばばばばばばばばばばばばばばばりいいぃぃん!

 

「――――!」

「――――!」

 

 棚のガラス戸、さらにはその中に入っているガラス製の実験器具が全て割れ、鋭い切っ先をもつガラスの破片が、まるで爆発でも起きたかのような勢いで周囲に撒き散らされた。破片の幾つかは、床や壁やテーブルに深々と突き刺さっている。

 そこはちょうど、小林と春が足を止めようとしていた場所だった。

 

「な……、どうなってんだ、これは!」

「小林先生、早く逃げましょ!」

 

 呆然とそれを見つめていた小林を、春が叫びながら無理矢理引っ張っていった。

 2人が部屋から離れていくのを確認したあやめは、天井へと視線を向けて忌々しげに眉を潜めた。

 

「今除霊するのは、さすがに危険ですね……」

 

 そう呟いて、春達が出ていったのとは別のドアへと走っていく。

 そのとき、床に散らばっていたガラスの破片が、フワフワと独りでに浮き上がった。そして空中で回転して切っ先をあやめへと向けると、猛スピードで彼女へとまっすぐ突っ込んでいった。それはさながら、ピストルから飛び出した弾丸のようだ。

 あやめはそれを視線だけ動かして確認すると、それに向かってスッと手をかざし、

 

「――『界』」

 

 突然、あやめとガラスの破片との間に、蒼く光る透明な壁が現れた。ガラスの破片の進路はその壁に阻まれ、かかかかか、と深く突き刺さってそのまま動かなくなった。

 その隙にあやめはドアを通り抜け、部屋から姿を消していた。

 

 誰もいなくなった部屋で、光の壁が音も無く消えていった。空中に取り残されたガラスの破片は、重力に従ってジャラララと床に落ちていった。

 そして、理科実験室に再び静寂が戻った。

 

 

 *         *         *

 

 

「な、何なんだ、今のは!」

「えっと、何か、安倍さんが言うには、あそこには女の子の霊がいるらしくて、多分今のもその子がやったんじゃないかなって……」

「ゆ、幽霊だと……? そ、そんなの、実在するわけないじゃないか!」

「でも、それじゃさっきのあれは、どう説明するんですか!」

 

 2階と3階を繋ぐ階段の踊り場で、春と小林が何やら言い争っていた。先程の出来事のせいか、2人共声も体もブルブルと震えている。

 

「そ、そんなの、マ、マジックか何かに決まってるだろ……。その安倍って子が、私達を驚かせようとしたに決まってる……」

 

 小林はズレた眼鏡を直して、大きく深呼吸をしながらそう言った。

 

「何のためにそんなことをする必要が――あ、来ました」

 

 突然話を切り上げて階段を昇っていく春に釣られて小林がそちらに視線を遣ると、何事も無かったように平然とした表情のあやめが、こちらを見ながら階段を下りている最中だった。

 そんな彼女に駆け寄ってきた春が、縋るように彼女の手を握りしめた。

 

「安倍さん! 大丈夫だった?」

「はい。元々地縛霊ですからね、あの部屋を出てしまえば心配ありませんよ」

「そう、なら良かった。でもそれだと、まだ除霊はやってないんだよね?」

「本当は今すぐにでもやってしまいたいんですけど、他の人達に危険が及ぶかもしれないので、迂闊に手が出せないんです」

「そうなんだ……。なら――」

「そ、そこの君!」

 

 絞り出すように出された大声に、二人の会話が遮られた。

 その声の主である小林は、あやめを指差すと、

 

「さ、さっきのは君がやったんだろ! しかも話によれば、幽霊だなんだと飯田くんを誑かしているそうじゃないか! て、転入初日でこんな問題を起こすなんて、き、君はいったい何を考えているんだ!」

 

 顔を紅くして必死な形相で捲し立てる小林とは対照的に、

 

「小林先生、質問があります」

 

 あやめはその涼しい顔を一切崩さず、たった一言だけそう言った。まっすぐ伸びていた小林の人差し指が、彼の戸惑いを表すようにふにゃりと曲がった。

 

「な、何だ?」

「ここの先生方は、いつも何時頃にお帰りになりますか?」

「え、えっと……、時間は日によってまちまちだけど、昨日は大体9時頃には全員帰っていたと思うが……」

「そう言えるということは、小林先生は最後まで残っていたんですか?」

「あ、あぁ……。テストを作っていたから、12時過ぎまでは残っていたが……」

「成程。――それでは小林先生、お願いがあります。今日も学校に残ってくださいませんか? できれば、十時過ぎくらいまで」

「……は?」

 

 あやめの“お願い”に、小林は口をぽかんと開けた。

 横で聞いていた春が、あやめに尋ねる。

 

「安倍さん、夜にあの幽霊を除霊するの?」

「そうです。他の人達を巻き込まないためには、全員が帰った後に除霊をするしかありません。しかし学校のセキュリティを考えると、忍び込むなんて真似はできません。なので小林先生が学校に残って、私を入れてくれるのが一番良い方法だと思うのですが」

「し、しかし――」

 

 小林が何か言おうとするが、あやめが「小林先生」と呼び掛けたためにそれは遮られた。

 

「それまでの間、あの部屋は立入禁止にしてください。そうですね、『突然ガラスが割れた原因が分かるまで、安全のために立入禁止にする』とでも言えば大丈夫でしょう」

「……な、なんで私が……」

「先程の出来事を目の当たりにした小林先生なら、事の重大さがお分かりになると思ったので」

「……そ、そもそも幽霊なんて存在しないんだ。そんなテキトーなことを言って責任を逃れようなんて――」

「まぁ、小林先生が幽霊を信じていようといまいと、私には関係ないので別に構わないんですけど。――でも、宜しいんですか? このまま放っておいて、他の生徒が怪我をするようなことになっても」

「…………」

 

 あやめはその顔をピクリとも動かさず、小林の目をじっと見つめている。小林の掛けている眼鏡のレンズに、無表情なあやめの顔が映り込んでいる。

 半ば睨みつけるようにあやめを見つめていた小林は、やがて、

 

「……本当に、何とかできるんだな?」

 

 観念したように目を逸らすと、ぽつりとそう呟いた。

 

 

 

 

「それにしても、意外だったなぁ」

 

 小林と別れたあやめと春は、2階の渡り廊下を並んで歩いていた。あやめの右手で巾着袋がかたかたと揺れる中、ふと春がぽつりとそう呟いた。

 

「何がですか?」

「小林先生が安倍さんの願いを聞き入れてくれたことだよ。小林先生って凄く真面目だから、普段から冗談とか全然通じないんだよ。だから幽霊なんて言われても、絶対に信じないと思ってたけど……」

「私は冗談のつもりで言ったのではありませんよ。それに小林先生の場合、信じないというよりは、信じたくないという印象を感じましたけど」

「うーん、そんなもんかな……。――あぁ、それにしても、何か凄く疲れた……」

 

 そう言って項垂れる春の横で、あやめも心無しか力の抜けた表情で、

 

「そういえば、結局お昼を食べられませんでしたね。私もお腹が空いて仕方ないですよ」

「あぁ、そういえばそうだね……。まったく清音ったら、自分から弁当を取りに行ったくせに何分掛かっているん――」

 

 そこまで言いかけて、突然春は「あっ!」と大声をあげた。その目は限界まで見開かれ、額には汗が滲んでいる。

 

「春さん、どうしたんですか?」

「どうしよう! 清音は幽霊のこと知らないから、今頃あの部屋に戻ってるよ! もし清音が幽霊に襲われたら……!」

 

 あたふたと慌てた様子で、春は来た道を走り出そうとした。

 しかし、あやめは至って冷静に、

 

「大丈夫ですよ」

 

 たった一言だけそう答え、教室へと戻る足を止めることはなかった。

 

「え、でも安倍さん、さっき『他の生徒が怪我でもしたら――』って言ってたよね? そしたら、清音が危ないんじゃ……」

「はい、言いました。でも、清音さんは大丈夫ですよ」

 

 自信たっぷりにそう言うあやめに、

 

「そ、そう……」

 

 春はそれ以上何も言えなかった。

 

 

 

 

「……何があったの?」

 

 入口近くの棚のガラス戸や実験器具が割れ、しかしその破片は棚とは遠く離れた別の入口近くに散らばっている理科実験室。

 ぽつりと呟いた清音の言葉は、部屋の中を虚しく漂って消えていった。



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除霊師・安倍あやめ(4/7)

 夜もとっくに更け、時刻は午後10時を過ぎた頃。

 昨日と同じく、外は遠くで吠える犬の声が聞こえるほどに静かだった。仄かな月の光が優しく街を照らし、人工的な街灯の光が強く街を照らしている。そしてどちらの光も届かない場所は、全てを呑み込むほどに深い闇に覆われている。

 そしてそんな夜道を、昼間と同じ制服姿のあやめが歩いていた。この格好の方がやりやすいからなのか、それとも単に着替えるのが面倒だったからなのか、まさかそれ以外に服が無いのか、それは本人にしか分からなかった。

 

 それにしても、中学生が1人で夜道を歩くなんて光景を誰かに見られでもしたら、良識のある大人なら絶対に怒ってくるだろうし、(よこしま)な感情を抱く大人なら絶対に襲ってくるだろう。しかし幸いにも夜道には彼女以外の姿は無く、よって彼女が誰かに怒られたり襲われたりすることは無かった。

 ふとあやめは足を止めると、星が輝く空を見上げた。そのまま大きく両腕を上げて背筋を伸ばし、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。

 

「うん、良い天気ですね」

 

 あやめは満足げに呟き、再び前を向いて歩き始めた。

 

 

 

 

 両脇に校舎が堂々と鎮座し、1階部分が昇降口になっている渡り廊下がその間を繋ぐ私立北戸中学校。

 校舎の後ろに浮かぶ月のおかげで視界は良好だが、その分濃くなった校舎の影が地面を呑み込みながら、あやめに向かってまっすぐ伸びている。まるで彼女をも呑み込もうとしているようなその雰囲気は、昼間に来た所と同じ場所とは思えないほどに不気味なオーラが漂っている。

 

 あやめは校門のゲージに手を添えて、そんな校舎をじっと眺めていた。その表情には一切の感情が無く、彼女が何を考えているのかそこから読み取ることはできない。

 しばらくそうしていた彼女だったが、やがて大きく溜息を吐くと、

 

「……まったく、2人共、何を考えているんですか?」

 

 独り言を呟くのとは明らかに違う、誰かに呼び掛けるような声をあげた。その視線は校舎ではなく、校門脇に植えられた1本の樹に向けられている。

 すると、

 

「いやぁ、やっぱりバレちゃったか。こっそり後をついていこうとしたんだけどなぁ」

 

 その樹の陰から、2人の少女が姿を現した。1人は呑気にヘラヘラと笑いながら、もう1人は申し訳なさそうに眉を寄せながら。

 その2人とは、清音と春だった。

 

「まさか、ずっとそこで待っていたんですか? 随分と物好きですね」

 

 あやめが呆れを隠そうともせずにそう言うと、

 

「ずるいよ、あやめと春だけ幽霊見ちゃってさ! しかも私がまだ見てないのに、その幽霊をお祓いしようとしてるんでしょ! 私だって幽霊見たいんだからね!」

 

 清音は笑顔から一転、プリプリと怒ったように頬を膨らませて声を張り上げた。近所迷惑などお構いなしである。

 

「…………」

 

 あやめは清音に何も言い返さず、というより言い返す気にもなれず、彼女の後ろに隠れるように体を小さくする春へと視線を向けた。その瞬間、ビクンッ! と肩を震わせた春は、怖々とした様子であやめへと向き直ると、

 

「えっと……、安倍さん、ごめんなさい。放課後に清音に詰め寄られて……、それで、今夜除霊することを言っちゃったの……」

 

 本当にごめんなさい、と春は深々と頭を下げた。すると当の本人である清音もさすがに悪いと思ったのか、バツの悪そうに頭を掻いて頭を下げた。

 しばらくの間、2人を睨みつけていたあやめだったが、

 

「……中では、私の言うことを聞いてくださいね」

 

 大きな溜息と共にそう言い残して、さっさと敷地内に入っていった。

 清音と春はお互いに顔を見合わせた。清音はニカッとどこか意地の悪い笑みを浮かべてあやめの後を追い掛けていき、春は深い溜息をついて清音の後を追い掛けていった。月明かりに照らされた昇降口前の広場を、本体よりも何倍もの背丈を誇る影が3体、並んでヒョコヒョコと揺れている。

 

 その影が校舎から伸びる影に呑み込まれていったちょうどそのとき、昇降口のドアがガラガラと音をたてて開かれた。

 そして姿を現したのは、表情に若干の疲れを滲ませている小林だった。帰り支度を済ませているのか、既に小脇には鞄を抱えている。

 あやめはそんな小林に一礼して、

 

「小林先生、こんな時間まで残ってくださって、本当にありがとうございます」

「まったく、今回は特別に許可してあげたんだ。次は無いからな」

 

 小林はそう言うと、中に入っていく3人と入れ替わるようにして外へと出た。

 

「あれ、小林先生もご一緒にどうですか? 幽霊が見られますよ?」

「そうだよ、コバセン! こんなチャンス滅多に来るもんじゃないよ! 今見ておかないと、絶対後悔するから!」

「……いや、私はいい。少し疲れた」

「……そうですか。分かりました」

 

 あやめは頷くと、小林が開けたそのドアをガラガラと閉めた。そしてあやめはそのドアに手をかざし、優しく撫でるような手振りをした。隣で清音と春が、そして外から小林が、彼女のその行動を何の気も無しに眺めている。

 すると、フッ、とほんの一瞬だけあやめの手が青白く光った。

 そして、次の瞬間、

 

「――『界』」

 

 ぴしゃああああああぁぁぁん!

 

「ひっ!」

「な、何っ!」

 

 何かを引き裂くような甲高い音と共に、その光が生き物のようにドアへと乗り移り、次の瞬間には昇降口全体を覆い尽くしていた。清音と春に見えたのはそこまでだが、外にいる小林には、その光が校舎の壁を舐めるように広がっていき、3秒と掛からずにに校舎全体を青白く染め上げていくのが分かった。

 一目見て閉じ込められたと分かるその光景に、清音と春はただただ唖然としていた。光の向こう側では小林が何やら騒いでいる様子だったが、その声はこちら側にはまったく届いていなかった。目と鼻の先にいるにも拘わらず。

 

「幽霊が逃げ出すと困りますからね、出口を塞がせてもらいました」

 

 あやめは振り返りながら、平然とした表情でそう言い放った。しかし2人共、目の前の非現実的な光景への対応で頭がいっぱいになっているらしく、彼女の言葉に返事をする余裕は無かった。

 あやめは小さく溜息をつくと、「清音さん、春さん」と若干苛立ちの籠もった声で2人に呼び掛けた。そこで初めて2人の体がぴくりと動き、2人の視線が彼女へと向けられる。

 

「私は一旦除霊の作業を始めますと、どうしてもそちらに気を取られてしまいます。そうなると当然『界』は解けなくなり、仮にお2人に何かあったとしても、お2人はこの空間から出ることはできなくなります。今ならまだ間に合いますが、どうしますか?」

 

 その言葉に、清音と春は少しの間考えた。

 少しだけだった。

 

「行くよ。ここまで来たら」

「私も」

 

 2人の力強い返事を聞き、

 

「分かりました」

 

 あやめは頷いて、薄暗い廊下を歩いていった。

 清音と春も、それに続く。

 

 

 *         *         *

 

 

 校舎の中は、外にも増して暗かった。

 窓からは先程あやめが出した青白い光の壁も見えているが、それが照らすのはせいぜい窓の周辺だけだった。その壁を貫いて差し込む月明かりも廊下を照らすには大して役に立たず、廊下は自分の足元すらよく見えないほどに暗かった。その闇は奥へ行くほどに濃くなっていき、三人の向かう先はもはや洞穴のように真っ暗で何も見えない。

 それに加えて、1歩1歩足を踏み出すごとに音があちこちで反響しているため、清音と春はまるで自分達が何者かに囲まれているような錯覚を起こしていた。普段なら単なる気のせいだと切り捨てられたそれも、“あやめと共に幽霊に会いに行く”という現在の状況と相まって、やたら強烈な印象として2人の脳に刻み込まれていく。

 

「ねぇ、あやめ……。廊下の電気を点けてから進まない? 何かあったら危ないでしょ?」

「いえ、このまま進みます。電気の明かりで幽霊の姿が塗り潰されることもあるので」

「そ、それじゃ、せめて懐中電灯くらいは持たない? 私達の分はあるから……。安倍さんだって、足元が暗いと怖いでしょ?」

 

 春はそう言って自分の持っている懐中電灯をあやめに手渡そうとするが、彼女は首を横に振ってそれを拒否した。

 

「お気持ちだけ頂きます。暗い場所は慣れてますし、片手が塞がるのは不便なので」

「そ、そうなんだ……。さすが安倍さんだね」

 

 春はその言葉を聞いて、あやめが小さい頃から幽霊と関わっていることを思い出した。こういう場所にも行き慣れているんだろうな、という春の想像通り、あやめはほとんど先の見えない暗闇の中を、懐中電灯などの明かりに頼ることなくずんずん進んでいく。

 一方清音と春の2人は、互いに手を繋ぎながら、足元と視線の先を懐中電灯で何度も照らしながら進んでいた。当然その足取りは遅く、先を行くあやめとの距離はどんどん離されていく。

 やがて廊下の端にある階段に差し掛かったのか、あやめが突然進む方向を変えて姿を消してしまった。

 

「――ま、待って!」

 

 頼みの綱である彼女の姿が見えなくなり、途端に不安になった清音と春が、互いの手をしっかりと握りしめたまま、まるで二人三脚のように息の合った動きで廊下をどたどたと駆けていった。そのせいで廊下中に彼女達の足音が反響し、それがさらに彼女達の恐怖心を煽っていく。

 そしてやっとの想いで階段へと辿り着いた2人は、暴れ狂う心臓を手で押さえつけながら、懐中電灯の明かりをそちらへと向けた。

 暗闇に、あやめの顔が突如浮かび上がった。

 

「ひぃっ――!」

 

 2人は引きつった顔で悲鳴をあげると、互いの手をしっかり握りしめたまま、まるで二人三脚のように息の合った動きで後ずさり、そのまま背中から壁に激突した。

 

「――――!」

 

 2人して言葉にならない呻き声をあげて蹲るのを、あやめは完全に呆れた様子で眺めていた。

 

「2人共、怖がる気持ちも分からなくはないですけど、なるべく私の傍を離れない方が良いですよ。もしものことがあったときに、咄嗟に対処ができなくなるので」

「……う、うん、分かった」

 

 あやめの言葉に2人は頷くと、清音は彼女の右腕に、春は彼女の左腕にそれぞれガッシリとしがみついた。それはまるで木の幹にしがみつくコアラのようであり、ちょっとやそっとでは離れそうにないほどに力強かった。

 

「……まぁ、別に良いですけど」

 

 両腕に鈍い痛みを感じながら、あやめは溜息混じりに小さく呟いた。

 そして先程の清音と春よりも遅い足取りで、3人は暗い階段を昇っていった。

 

 

 

 

 3階まで昇りきったところで清音はあやめの腕を離すと、柱の陰まで駆け寄って、顔だけ出してそこから廊下を覗き込んだ。懐中電灯を使って陰になっている場所まで隈無く目を凝らすが、人の姿はどこにも見当たらない。

 

「……清音さん、さっさと進みたいんですけど」

「駄目だよ、あやめ! そういう油断が命取りなんだから!」

「清音さんよりも私の方が、こういうことには慣れてるんですけどね……」

「もしものことがあったとき、危ないのは私達の方なんだから!」

 

 清音の言葉にあやめは溜息をつくと、未だに左腕にしがみついている春へと視線を向けた。しかし彼女は怖々と視線をこちらに向けるだけで、清音を止めようとはしなかった。彼女も彼女で、今の状況を不安に思っているのだろう。

 だったら最初からついてくるな、とあやめは思ったが、口には出さなかった。

 

「よし、誰もいないね! 先に進もう!」

 

 言っていることはとても勇ましいが、大急ぎであやめに駆け寄ってガッシリと右腕にしがみつきながら言うのでは、せっかくの台詞も台無しである。

 

「…………」

 

 何とも言い難い表情を浮かべながら、あやめは2人を引き連れて廊下を進んでいく。亀よりも遅い歩みの中、両脇の2人は懐中電灯をあちこちに向けて周囲を見張っていた。

 と、そのとき、

 

「――――!」

 

 春がとある場所を懐中電灯で照らした途端、ビクンッ! と肩を震わせてそのまま静止してしまった。

 何事だと思ってあやめと清音が明かりの先を目で追うと、そこには“理科実験室”と書かれたプレートがあった。そこから少し視線を下ろすと、古ぼけた扉がまるで来る者を拒むように固く閉ざされている。

 

「ここが、幽霊のいる部屋だね……」

 

 清音がぽつりと呟き、春がごくりと唾を呑み込んだ。全身が強張り、その手にも自然と力が籠もる。

 

「……せめて私の腕を離してから、力を入れてくれませんか?」

「え? ――ああ、ごめんごめん!」

 

 2人が慌ててあやめの腕を離すと、彼女は痛みを解すように両腕をブラブラと振った。

 

「さてと……、このドアの先に幽霊がいるんだよね?」

「安倍さんの話だと、その幽霊って地縛霊なんだよね?」

「はい、そうです。おそらくその霊は、この実験室の外には出られませんし、力を行使することもできません」

「逆に言えば、私達が1歩でも部屋の中に入ったら、その瞬間に襲ってくることも有り得るってことか……」

「ちょ、ちょっと清音、怖いこと言わないでよ……」

「…………」

 

 清音と春が部屋のドアを眺めながらふるふると体を震わせる中、あやめは2人に気づかれないようにスッと数歩後ずさり、2人の背中に向けて両手を伸ばした。

 すると、フッ、とほんの一瞬だけあやめの手が青白く光った。

 

 ぴしゃああああああああああああぁぁぁん!

 

「――――!」

「――――!」

 

 先程学校に入るときにも聞いた甲高い音に、清音と春が揃って振り返る。

 2人とあやめとの間を、青白い光の壁が阻んでいた。その壁は2人の周りをぐるりと取り囲み、さらに上から蓋をするように覆い被さっていた。2人が座れるほどの空間が、光の壁によって切り離されている。

 

「――――! ――――!」

「――――!」

 

 2人が壁をベタベタ触っても、終いにはドンドンと叩いても、壁はびくともしなかった。2人はあやめに向かって叫ぶように大きく口を開けていたが、残念ながらあやめには壁を叩く音も2人の声もまったく届いていない。

 

「申し訳ありません。素人の方にその辺をうろつかれるのは危険ですので、閉じ込めさせてもらいました。でもまぁ、私の言うことを聞く約束でしたので、別に構いませんよね?」

「――――!」

「――――!」

「……あぁ、今お2人には、私の声は届かないんでしたね」

 

 あやめは口元に手を遣ってクスクスと微笑むと、人差し指を立てて地面に向けた。『大人しくここで待っていろ』という意味を込めているが、2人にそれが伝わったかどうかは定かでない。とはいえ、どうせ伝わらなくともその空間からは出られないので、彼女にとってはどちらでも良かった。

 あやめはそんな2人に背中を向けて実験室のドアを開けると、すぐさま中に足を踏み入れてドアを閉めた。

 

 昼間と変わらぬ景色が、ガラス戸にぽっかりと穴の空いた棚も含めてそのまま残っていた。腰くらいの高さのテーブルが並んでいるせいか、窓からの月明かりがテーブルに阻まれて床まで届かず、部屋の足元が極端に暗くなっている。そのせいで床はほとんど見えないが、おそらく昼間に床に散らばったガラスの破片もそのまま残っているに違いない。

 そんな実験室だが、そこにはあやめ以外の人の姿は見えなかった。

 しかし彼女は部屋をぐるりと見渡すと、

 

「大丈夫ですよ。出てきてください」

 

 誰もいないその空間に向けて、優しく話し掛けた。

 

「私はあなたの敵ではありません。あなたの力になりたいんです。私はあなたの姿を見ることができますし、あなたの声を聞くこともできます。あなたの溜まりに溜まった想いを、私に話してくれませんか?」

 

 そう話す彼女の声は、自らの子供に語り掛ける母親のようにとても穏やかで、暖かなものだった。

 しかしそんな彼女の言葉に対して、返事は一切無かった。それでもあやめはその優しい笑みを崩すことなく、誰の姿も見えない部屋の隅へと視線を向けた。

 そして、ゆっくりと言い聞かせるように、こう語り掛けた。

 

「お名前を、聞かせていただけますか?」



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除霊師・安倍あやめ(5/7)

「くそぉ、あやめにまんまと嵌められた……。最初から私達に幽霊を見せる気なんて無かったんだよ……」

「…………」

 

 薄暗い廊下の往来で、光の壁に閉じ込められた清音と春が、膝を抱えて座りながらじっとあやめの帰りを待っていた。清音は先程からずっと文句を垂れ続け、春は俯いたまま黙り込んでいる。

 清音も最初の頃は何とか部屋の中を伺おうと身を乗り出していたが、ドアが固く閉ざされているため中が見えるはずもない。2人を取り囲む壁には遮音効果もあるらしく、中からの音で何が起こっているのか推測することもできない。

 なので清音の行動も自然と文句を垂れる方向にシフトしていったのだが、唯一の話し相手である春が無反応を貫いているため、それほど時間も掛からずに飽きた清音は、不機嫌そうに口を尖らせてポケットのスマートフォンを取り出した。

 画面に表示されている時刻は、11時を少し過ぎた頃だった。

 

「ねぇ、清音」

 

 ふいに、春が口を開いた。

 

「ん、何?」

「もし、もしの話だけどさ、安倍さんに何かあったとしたら、私達、どうなるのかな……」

「…………、えっ、まさかこのままじゃないよね?」

 

 あやめの身に何かあったとき、光の壁も一緒に解かれるのならまだ良いが、もしこの壁が半永久的にそのままなのだとしたら、自分達は壊すこともできないこの壁に囲まれたまま一夜を明かさなければならなくなる。明日の朝になれば誰かに発見されるだろうが、素人があやめの術を解除できるとは思えない。

 光の壁に閉じ込められたままマスコミに取り囲まれるところまで妄想したそのとき、実験室のドアが突然開かれた。

 

「――――!」

「――――!」

 

 2人が弾かれるように顔を向けると、そこにいたのは平然とした表情を浮かべるあやめだった。彼女はそのまま2人を閉じ込める光の壁に歩み寄ると、そっと手を添えて何かを唱えるようにブツブツ呟いた。

 すると、いくら叩いてもビクともしなかった光の壁が、あっさりとその姿を消していった。

 

「あやめ、幽霊はどうなったの! もしかして、もう除霊しちゃったとか!」

 

 自由の身になった途端にそんなことを尋ねてきた清音に、あやめは露骨に嫌な顔をして溜息を吐いた。

 

「いいえ、まだ除霊していません。その前に、彼女の頼みを聞いてあげることにしたので」

「頼み?」

 

 首をかしげる春に、あやめは小さく頷いた。

 

「やはりここにいた幽霊は、清音さんの言っていた“5年前にいじめを苦にして自殺した女子生徒”でした。彼女はそれこそ毎日のように、同じクラスの生徒からリンチまがいの暴行を受けていたようです。そのときは決まって、この部屋に連れ込まれていたとか」

「そんな、ひどい……」

「成程。それで、この部屋の地縛霊になってたんだ……」

 

 春が悲痛な表情でぽつりと呟き、清音が納得したように腕を組んで頷いた。

 するとあやめは清音の方を向いて、

 

「清音さん、小林先生の携帯番号って知っていますか?」

「コバセンの? 確か携帯のアドレス帳に載ってたと思うけど……。どうして?」

「でしたら、小林先生にここに来るよう伝えてもらえますか? 訊きたいことがあるので」

「そっか! 5年前のことだから、コバセンも何か知ってるかもしれないもんね!」

 

 清音は“わくわく”といった表現が似合う笑みを浮かべると、自分のスマートフォンを取り出してボタンを押し始めた。

 それを横目に眺めながら、春があやめへと近づいていく。

 

「ねぇ、安倍さん……。その子の“頼み”ってもしかして、そのいじめの恨みを晴らすっていうものだったり、するのかな……?」

 

 春が恐る恐るそう尋ねると、あやめはにっこりと笑みを浮かべたまま、こんなことを尋ねてきた。

 

「良かったら、2人もご一緒にどうですか?」

「え? 私達は――」

「はいはーい! ぜひともお願いします!」

 

 春の言葉を遮るようにして、清音が身を乗り出しように手を挙げてそう言った。

 

「ちょっと、清音!」

「だって、幽霊を見られるチャンスなんてそうそう無いよ! しかもあやめの方から提案してくれるんだから、絶対乗った方が良いって!」

「そうですよ、春さん。どうぞ、遠慮なさらずに」

 

 ニコニコと笑みを携えたままそう言うあやめに、春は少しだけ考え込み、

 

「……それじゃ、お願いします」

「やったー! ついに本物の幽霊が見られるぞー! そうと決まれば、早くコバセンに電話しないと!」

 

 興奮した様子で携帯電話をいじる清音に、不安そうに顔を俯かせる春。

 そんな2人を眺めながら、あやめはニコニコと笑っていた。

 

 

 *         *         *

 

 

 月明かりに照らされながらもどこか薄暗い外にて、小林は青白く浮かび上がる校舎を不気味そうに眺めていた。

 

「大丈夫なんだろうな……」

 

 ぽつりと、小林が呟いた。その声はどこか不安そうで、そして何かを恐れているように微かに震えていた。

 と、そのとき、

 

 ぶぶぶぶぶぶぶぶ――。

 

「――――!」

 

 突然の低音と太股に伝わる振動に、小林は一瞬表情を強張らせて肩を跳ねらせた。しかしそれがズボンのポケットにしまっていた携帯電話だと気づくと、彼は1回深呼吸をして気を落ち着かせて、ゆっくりとした動きでそれを手に取った。

 微かに明かりを漏らす画面には、11桁の数字の羅列と“松山清音”という名前が表示されていた。それは今からちょうど1年前、入学したばかりの清音から半ば無理矢理自分の番号と交換させられて得たものだった。

 通話ボタンを押して、耳に当てる。

 

「……もしもし」

『あ、コバセン? 何かね、あやめがここに来てって』

「……分かった」

 

 小林はそれだけ言って、通話終了のボタンを押した。

 次の瞬間、おそらく清音の傍で会話を聞いていたであろうあやめの手によって、校舎を包み込んでいた青白い光の壁が煙のように音も無く消え去った。

 すっかりいつもの風景を取り戻した校舎を、小林は携帯電話を閉じることもせずにじっと眺めていた。1分ほどそうしたところで彼は大きく深呼吸をすると、ゆっくりとした動きで携帯電話を閉じてポケットに戻した。

 

「……行くか」

 

 その呟きは、まるでこれから何かに挑むように緊張した声色だった。

 

 

 *         *         *

 

 

 昇降口を通り抜け、特別棟へと歩みを進め、階段を昇っていき、廊下を少し進んだところに、その部屋はあった。

 “理科実験室”。

 そう書かれたプレートを眺めながら、小林は口の中に溜まっていた唾をゴクリと呑み込んだ。そして意を決したように大きく息を吐き出すと、ガラガラと音をたててドアを開けた。

 

 部屋に足を踏み入れると、部屋の中央に陣取るあやめの姿が真っ先に目に入った。彼女は小林の姿を見ると、にっこりと笑みを浮かべて小さくお辞儀をした。

 そして彼女から少し離れた所に、清音と春の姿があった。教室の後ろにある席につく2人はどこか落ち着きが無く、頻りに何かを確認するように何度も辺りに視線を遣っている。

 小林は目を細めてあやめの顔をじっと見つめながら、1歩1歩踏みしめるようにゆっくりと近づいていく。

 そして手を伸ばせばギリギリ届くかどうかという距離にまでなったとき、あやめがおもむろに口を開いた。

 

「すみません、小林先生。何度もご足労掛けて」

「それで、除霊とやらは済んだのか? もし済んだのなら、私はさっさと家に帰りたいんだが」

「まぁまぁ、そう焦らないでください。除霊はもう済んだのですが、その際に幾つか疑問に思うことがあったので、小林先生に質問をしたいと思うのですが、宜しいですか?」

「……質問だと? まぁ、別に構わないが」

 

 小林が首を縦に振ると、あやめは「それは良かった」と笑みを一層深くした。そんな彼女の後ろで清音と春が、お互いに顔を見合わせてキョトンとした表情を浮かべていたが、あやめの方ばかり注目していた小林はそれに気づかなかった。

 

「それでは、早速お尋ねします。――小林先生は、この部屋の幽霊に心当たりはおありでしょうか?」

「心当たりだって? そんなもの、あるはずないじゃないか」

「随分と早くお答えになるのですね、もう少しお考えになってみては?」

「君と違って、私は幽霊なんて信じちゃいない。そんなことを考えるのすら馬鹿らしい」

「あんな体験をしたというのに、随分と強情なんですね。分かりました、それでは質問を変えましょう。――小林先生は、“城田朱菜(しろたあかな)”という名前をご存知ですか?」

 

 あやめの言葉に、小林の眉がピクリと動いた。

 

「――いいや、知らないな」

「本当にご存知ありませんか? よーく思い出してみてください」

「……知らないと言ってるだろう。いったいその子が何だと言うんだ?」

「あら、子供だというのはご存知なんですね」

「…………」

 

 あやめがそう言ってにっこりと笑いかけると、それとは対照的に小林は眉間に深い皺を寄せて、彼女から逃げるように視線を逸らした。

 

「……学校に出る幽霊と言うから、子供ではないかと推測しただけだ」

「そうだったのですか。申し訳ありません、揚げ足を取るような真似をしてしまって。しかし今この場には私と小林先生、それと後ろにいる二人以外は誰もいません。後ろの2人にはちゃんと口止めをしておきますので、どうぞ遠慮無くお話しください。――お2人も、宜しいですね?」

 

 突然後ろを振り返って呼び掛けたあやめに、清音と春はビクンッ! と肩を震わせて驚き、反射的に首を縦にブンブンと振った。

 小林はしばらくの間、その2人とあやめの間に視線をさ迷わせて、何かを躊躇うような素振りを見せていた。しかし、やがて視線をあやめへと固定させると、

 

「……確かに、その生徒のことは知っている。今から5年前、この部屋で首を吊って自殺したこの学校の生徒だ」

「やっぱり!」

 

 がたり、と椅子を鳴らして立ち上がった清音だったが、隣の春に頭を叩かれたため静かに腰を下ろした。

 

「……それで、この部屋にいた幽霊はその生徒だったとでも言うのか?」

「はい、その通りです。この部屋で首を吊ったことにより、この部屋の地縛霊となっていました」

「それはおかしい。その子が死んだのは5年前で、それ以来ずっとこの部屋に居着いていたんだろ? それなのに、今日の昼間までそれらしい現象は一度も無かったじゃないか」

「それは単純に、彼女が危害を加えようと思っていた人物が、5年もの間ずっとこの部屋に来なかったからですよ。彼女は部屋から1歩も出られませんでしたからね」

「……危害を加えようと思っていた人物?」

 

 小林の呟くような問い掛けに、あやめはコクリと頷いた。

 

「自殺をするからには、それ相応の“理由”というものが必要です。5年前といいますと、小林先生もこの学校にいらっしゃいましたよね? ぜひとも小林先生の口から、当時のことをお聞きしたいのですが」

「……確かに、5年前にはもう私はこの学校にいた。しかし残念だが、その生徒について私が知っていることはほとんど無いな」

「あら、そうなんですか?」

「ああ、いくら教師とはいえ、学校中の生徒全員を把握している訳じゃない。しかもその時期は私もとても忙しくて、他のことに構っていられる余裕は無かったんだ」

「そうですか……。うーん、変ですねぇ……」

 

 あやめはそう言うと腕を組み、うんうんと唸りながら何やら考え込み始めた。

 

「……何が、変だというんだ?」

 

 そんな彼女に尋ねる小林の声には抑揚が無く、普段よりも一段低いものだった。

 

「いえ……、私の予想では、彼女のことを尋ねるなら小林先生が一番適役かと思ったのですが……。うーん、あてが外れてしまいましたね……」

「なんで私が適役だと思ったんだ?」

 

 小林が尋ねると、あやめはキョトンとした表情を浮かべて彼を見遣り、

 

「どうして、ですって? そんなの決まってるじゃないですか。

 

 ――小林先生が、彼女の担任だったからですよ」



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除霊師・安倍あやめ(6/7)

「えぇっ!」

「コバセン、そうだったの?」

 

 あやめの背後で話を聞いていた春が、驚きのあまり声をあげて立ち上がった。隣の清音も立ち上がりこそしなかったものの、驚愕の表情を浮かべている。

 先程あやめが言ったことは、友人達から“情報通”と呼ばれている清音ですら知らないことだった。この中学校に入学した頃、自殺した生徒の存在を知った彼女が教師に訊いて回ったときも、当時のことを思い出したくないからか、あるいは箝口令でも敷かれていたのか、詳しいことは何1つ分からなかったのである。

 そんな2人の眼差しを受けながら、小林は口を閉ざしてまっすぐあやめを見つめていた。その表情は落ち着いているようにも見えるが、その目つきはとても鋭く、彼女を“睨みつけている”と表現して差し支えないほどだった。

 

「……どうだったかな? よく憶えてないな」

「憶えてない? 本当にそうですか? 昼間に色々な方からお聞きした話によると、小林先生が初めて担当したクラスだそうじゃないですか。そんな思い出深いクラスの、しかも自殺してしまった生徒なんて、忘れたくても忘れられないと思うんですけど」

「……私のことを調べて回るなんて、随分と良い趣味をしているじゃないか」

「いえいえ、この部屋の幽霊について自分なりに調べていたら、たまたま小林先生が出てきたってだけの話ですよ」

 

 苛立ちを隠そうともせず静かに語気を荒げる小林に、あやめは尚も笑みを崩すことなく答えてみせた。

 

「……まぁ良い、別に隠すことじゃないからな。――確かに5年前、初めて私は自分のクラスを受け持った。そしてその中から自殺者が出たことも、君に言われて思い出した。しかし私が彼女を憶えていないというのも、紛れもない事実なんだよ」

「……それって、ちょっとひどいんじゃないの? 自殺したんだよ?」

 

 小林にそう尋ねたのは、清音だった。

 

「……君達には分からないと思うが、“担任”というのはクラスを持たない先生よりも圧倒的に仕事量が多いんだ。いくら目の前の問題を片づけても、次から次へと問題が舞い込んでくる。特に僕は初めての担任だったからね、クラスでもほとんど目立っていなかった生徒にまで気を回している余裕なんて無かったんだよ」

「ああ、成程」

 

 あやめは突然そう言うと、何かを納得したようにポンと手を叩き、頻りに何度も頷いていた。後ろからそれを眺めていた清音と春には、それが少し芝居がかって見えた。

 

「何が、成程なんだ?」

 

 それは小林も同じだったのか、あやめをギロリと睨みつけてそう尋ねた。

 するとあやめは「別にたいしたことじゃありませんが」と前置きしてから、

 

「つまり小林先生は、担任という慣れない仕事のせいで彼女がいじめに遭っていたことに気がつかなかった、ということですね?」

「……学校で自殺したからといって、安易にいじめだと決めつけるのは、あまり感心できることじゃないな」

「では、いじめは無かったと? 彼女のことをほとんど憶えていないほど気に掛けていなかった小林先生がそう断言するのなら、話は変わってくるのですが」

「……確かに、その生徒が自殺をするほどに何かを思い悩んでいた、というのは紛れもない事実だ。そして私が、それに気づけなかったこともな」

 

 そう言ったときの小林の表情は、先程までの強気なそれとは違っていた。喉の奥から振り絞るように声を出し、顔を俯かせて肩を震わせている。

 

「あの頃の私は未熟だった。自分の仕事にばかり目を向けて、肝心の生徒のことは何1つ考えようとしなかった。もし私が彼女の悩みに気づくことができたら、彼女は自殺なんかせずに済んだかもしれないというのに……。そういう意味では、確かに彼女は私が殺したようなものかもしれないな……」

 

 彼は小刻みに震える声でそう言って、目元に手を当てて何かを拭うような仕草をした。元々部屋が薄暗いこともあり、あやめ達が彼の表情を知ることはできない。

 しかしそれを眺めていた清音と春は、何だか彼が気の毒に思えてきた。

 いくら彼が担任だったとはいえ、当時はまだ初めてクラスを受け持つような新人だったのだ。彼が生徒の悩みに気づけなかったのは事実だが、それは他の教師達も、さらにはその生徒の親だって同じことである。自殺の責任を彼1人に負わせるのは、あまりにも酷というものではないだろうか。

 これ以上彼を見ていられなくなった2人は、もう止めるようにとあやめに話し掛け――

 

「本当に、気づかなかったのですか?」

 

 ようとしたが、あやめのその言葉によってそれは遮られた。

 小林が顔を上げた。その視線は鋭くあやめを貫き、目元に濡れた跡は一切無かった。

 

「小林先生、本当は気づいていたんじゃないですか? 気づいていながら、それを無視したんじゃないですか?」

「…………」

「彼女からいじめのことを聞かされて、それでも小林先生は何もしなかったんじゃないですか?」

「…………」

「いつもいじめに使われていたこの部屋にわざわざ呼び出して、服を脱いでまで傷痕を見せて、涙ながらに訴えかけたのに、それでも小林先生は忙しいからと突っぱねたんじゃないですか?」

「…………」

「もしそうだとしたら、彼女の絶望はどれほどのものだったでしょうね。いざとなったら自分を助けてくれると信じていた相手に、勇気を振り絞って告白したというのに、どうでもいいとばかりに見捨てられたんですから。――それこそ、自殺してしまうくらいに」

「…………」

 

 無言のままこちらを睨みつける小林に、あやめは矢継ぎ早に言葉を叩きつけた。彼女は穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その目はまったく笑っておらず、次第に彼女の雰囲気が刺々しいものになっていく。

 

「ちょ、ちょっと……」

「安倍さん、いくら何でもそれは……」

 

 部屋を包み込むただならぬ空気に耐えきれなくなった清音と春が、嗜むようにあやめへと声を掛けた。

 

「ところで2人共、1つ疑問に思うことがあるのですが」

 

 しかしあやめはそれに聞く耳を持たず、むしろ2人の言葉を遮るように後ろを振り返って唐突に尋ねてきた。

 

「それだけの仕打ちを受けてきた彼女のことです、いくら自殺という手段を選んだにしても、1人でも多くの人に自分の境遇を知ってほしいと思うのが普通でしょ? それなのに、彼女の遺書が発見されたという事実はありませんでした。なぜでしょうか?」

「え? えっと、それは……、その子がそもそも遺書を書かなかったからじゃ……?」

 

 春が戸惑いながらも答えるが、あやめは首を横に振ってそれを否定した。

 

「これも昼間の内に色々調べてみて分かったことなのですけど、最初に彼女の死体を発見したのはこの学校の事務員でした。――しかし、その事務員が最初に学校へ来た訳ではありません。実はその人よりも前に、学校へ来た人間がいるんです」

 

 あやめはそう言うと清音から視線を逸らし、ゆっくりとした動作で振り返ると、未だにこちらを睨み続けている小林をじっと見つめた。

 

「そうですよね、――小林先生?」

 

 あやめのその問い掛けに合わせて、清音と春は2人揃って小林へと視線を向けた。

 

「――――!」

「――――!」

 

 その瞬間、2人は思わず目を見開いて顔を引き攣らせた。

 じっとあやめを見つめる小林の顔は、まったくの無表情だ。先程まで怒りや悲しみなど感情を顕わにしていた彼が、今は人形かと見紛うほどに一切の感情を浮かべていなかった。

 そして彼は、一切感情の無いその表情のまま口を開いた。

 

「……成程、なかなか面白い“お話”だったよ」

「あらあら、認めてはくださらないのですね」

「認めるも何も、今の話は全て君が作り出した妄想の産物だろう? まったく、こんな時間にこんな場所に呼ばれて、挙げ句の果てにこれか。大人しく自分の非を認めていれば、ガラスの弁償代だけで済んだものを」

「…………」

 

 子供を叱りつけるような口調で話す小林に、あやめは反論をする様子も無く、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。

 

「悪いが、君の悪行は報告させてもらうよ。学校の備品を壊しただけじゃなく、ありもしない妄想話で私の名誉を傷つけようとしたとね」

「コ、コバセン! 本当に、さっきの話は安倍さんのでっちあげだったの?」

 

 清音が椅子から立ち上がって尋ねると、小林は彼女へと顔を向けた。人形のような無表情を見せつけられ、清音の肩がピクリと跳ねる。

 

「それじゃ逆に尋ねるが、君達は彼女をどこまで信用できるのかね? 君達は彼女と知り合ってまだ間も無く、彼女のことをほとんど知らないんだ。それなのに、なんで『この部屋には幽霊がいる』なんて彼女の話を信用することができるんだ?」

「で、でも! 私はガラスが独りでに割れるのを見ました! 先生だってそうでしょ!」

「そうだよ! それにさっきだって、あやめの手から出た青白い光で学校を包み込んだり、光の壁で私達を閉じ込めたりしたんだよ!」

 

 今度は春も混ざって一緒に反論してきたが、それでも小林の表情は変わらない。

 

「そんなもの、何かのマジックだと考えればいくらでも説明がつく。心霊現象だの何だのと恐怖心を煽ることで、君達に自分の話を信じ込ませることが彼女の狙いなんだ。――それじゃ訊くが、君達は実際に自分の目で幽霊を見たのか?」

「そ、それは……」

 

 小林のその質問に、清音も春も言い難そうに視線を逸らして黙り込んでしまった。

 するとそれに気を良くしたのか、小林はニィッと口角を上げて笑みを浮かべた。しかしそれに反して、あやめを見つめるその目はまったく笑っていなかった。

 

「残念だったね、安倍くん。多感な年頃の彼女達ならともかく、良識を持った一般的な大人はそんな“戯言”には耳を貸さないんだよ。何だったら今の話を、他の先生方にもしてみるが良い。どうせまともに取り合ってもらえず、むしろ君への罰が重くなるのがオチだとは思うがね」

 

 小林はそう言うと、くるりとあやめに背を向け、出口へ向けて歩き出した。

 

「さてと、夜ももう遅い。君達もさっさと家に帰るんだ。それと安倍くんは明日にも職員室に呼び出されるだろうが、ちゃんと逃げずに学校に来るんだぞ」

 

 あやめ達3人にそう呼び掛けながら、小林はドアに手を掛け――

 

「確かに小林先生の言う通り、証拠はありません。そもそも何年も前に起こったいじめなんて、証拠が残っている方が珍しい」

 

 ようとしたところで、あやめがふいに口を開いた。ぴくっ、と小林の動きが止まる。

 そんな彼を眺めながら、あやめはニィッと口角を上げて笑みを浮かべた。しかしそれに反して、小林を見つめるその目はまったく笑っていなかった。

 そしてその表情のまま、あやめはこう言った。

 

「なので、当時の“関係者”にお越し頂きましょう」

 

 ばばばばばばばばばばばばばばばばばりいいいいいいぃぃぃぃぃぃん!

 

 その瞬間、部屋の窓ガラスが一斉に割れ、その破片がまるで雨のように部屋中に降り注いだ。

 

「うわぁっ!」

「きゃっ!」

 

 月明かりを反射するガラスの破片が部屋を舞うその光景はとても綺麗だったが、実際に部屋の中にいる清音と春は堪ったものではない。2人は大きく目を見開いて悲鳴をあげながら、時々学校で行われる避難訓練よりも素早い動きで机の下へと逃げ込んだ。

 

「な、何だ!」

 

 一方小林は突然の出来事に体が完全に硬直してしまい、咄嗟にその場から逃げ出すことができなかった。自分に迫ってくるガラスの破片に、彼の足はまるで床に貼りついたように動かず、彼は自分の顔を腕で覆うことが精一杯だった。

 

「うぐ――!」

 

 その結果、彼は自分の体のあちこちに痛みが走るのを自覚しながら、背中から床に倒れ込んだ。そんな彼にも容赦することなく、ガラスの破片は次々と襲い掛かってくる。

 時間にして数秒ほどでガラスの破片は全て床に散らばり、部屋に再び静寂が戻った。

 いや、正確には完全な静寂ではなかった。

 

「ぐ……あ……ぁ……」

 

 教卓のすぐ傍で転がる小林の衣服はあちこちが裂け、そこから覗く肌には痛々しい赤い線がくっきりと刻まれていた。そこから流れる赤い液体が衣服を同じ色に染め上げ、彼は額に脂汗を浮かべて苦しそうに呻いている。

 そんな彼に視線を遣りながら、清音と春がそろそろと机の下から這い出てきた。彼女達は机に守られていたため、その体には傷1つついていなかった。

 そしてガラスが割れた瞬間から1歩も動いていないはずのあやめは、その身を守るものを何1つ持っていないにも拘わらず、どこにも怪我をしている様子は無かった。さらには床中を埋め尽くすように散らばっているガラスの破片が、なぜか彼女の足元だけには落ちていなかった。

 と、そのとき、

 

「――あやめっ! あれっ!」

 

 清音の悲痛な叫び声に、隣にいた春と床に転がる小林が彼女の指差す方へと視線を向けた。

 

「きゃっ――!」

「ひぃっ――!」

 

 そして次の瞬間、2人の口から悲鳴が漏れた。

 あやめも2人から1拍遅れて、そちらへと視線を向けた。しかし彼女は悲鳴をあげることなく、むしろ待ち人がやって来たのを喜ぶように口元にうっすらと笑みを浮かべていた。

 

 4人の視線の先にいたのは、背が低く腰に届くほどに長い茶髪をもつ、少し虚ろな目をした少女だった。月明かりの届かない影の中にも拘わらず、その体は青白く光っている。

 当然ながら、清音達が教室にいたとき、こんな少女はいなかった。

 

「……城田、朱菜」

 

 小林の呟きに、朱菜と呼ばれたその少女はフッと視線を彼へと向けた。



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除霊師・安倍あやめ(7/7)

「……城田、朱菜」

 

 小林の呟きに、朱菜と呼ばれたその少女はフッと視線を彼へと向けた。たったそれだけのことで、彼はビクンッ! と肩を跳ねらせて息を呑んだ。

 

「憶えていてくれたんだね、先生」

 

 朱菜が口を開いた。小林とは結構な距離があり、彼女の声は今にも消え入りそうなほどに小さいのに、まるで耳元で囁かれているかのようにはっきり聞こえた。

 

「い、今更何の用だ……。もう、5年も前のことだろ……!」

「今更……? 先生がずっとこの部屋に近づかなかったから、5年間何もできずにいたんだよ。5年前も昨日も逃げられちゃったけど、今度はそうはいかないよ」

 

 朱菜が抑揚の無い口調で話し掛けながら、小林へと1歩1歩ゆっくりと近づいていく。床にはガラスの破片が隙間無く敷き詰められているが、ガラスの割れる音どころか物音一つたたない。

 

「ふ、ふざけるな……! よ、寄るな……!」

 

 小林は震えた声で叫びながら、腰の立たなくなった体を引きずって朱菜から離れようとする。ガラスの破片に手を押しつけ、それによって新たに切り傷ができて血が滲み出るが、今の彼はそれに構っている余裕は無かった。

 しかし、

 

「――『禁』」

 

 その瞬間、小林の体を電流のような衝撃が走った。そして、まるで石にでもなったかのように、小林の体は1ミリたりとも動かなくなってしまった。

 

「な、何だ……! 何をした!」

「駄目ですよ、小林先生。生徒の話はちゃんと聞かないと」

 

 あやめは上品な笑みを浮かべながらツカツカと小林の元へと歩み寄り、腰を折って彼の耳元に口を近づけてそう囁いた。小林の背筋が凍りつき、体中に脂汗とも冷や汗ともとれる汗がブワッと滲み出た。

 

「ま、待て――」

「ふふ、そんなに怖がることはないですよ。彼女を気に掛けることができなかったのは、当時担任の仕事で忙しかったからでしょう? 自分は悪くないとあなた自身が思っているのなら、きちんとそれを彼女に説明してあげれば宜しいじゃないですか。――もっとも、彼女がそれで納得するかどうかは分かりませんが」

 

 あやめはそう言い残して、その場を立ち去った。そして彼女と入れ替わるように、朱菜が小林の目の前へとやって来た。

 

「先生、私、本当に辛かったんだよ? 毎日のように殴られて蹴られて、口に出すのも嫌なこともたくさんやられて……。――でもそれ以上に辛いのは、自分の味方が誰もいないことだった」

「はぁ――はぁ――」

 

 小林は息も絶え絶えに、必死に朱菜を見上げていた。こちらを覗き込んでいるのに自分自身に照準が合っていない虚ろな目、それでいてなぜか笑みを浮かべている口元が、小林の恐怖心をさらに煽る。

 

「だからあのとき、先生をここに連れてきて、今まで私が受けてきたいじめを全部先生に話した。本当は嫌だったけど、先生に信じてもらいたかったから、わざわざ服まで脱いで傷痕を見せた。――そんな私に対して、先生、何て言ったか憶えてる?」

 

 朱菜の問い掛けに、小林はただ黙っているだけだった。

 すると、今まで虚ろだった朱菜の目が、はっきりと小林の顔を見つめてきた。まっすぐ自分を貫いてくる彼女の視線に、小林の眼球がフルフルと小刻みに揺れ出した。

 

「忘れたなら教えてあげる。『私は色々とやることがあって忙しいんだ。こんな“くだらないこと”に時間を費やさせないでくれ』だよ。よく憶えてるでしょ?」

 

 ふふふ、と朱菜は楽しそうに笑い声をあげた。しかしその目はまったく笑っておらず、むしろ怒りを滲ませるように小林を睨みつけていた。

 

「ショックだった。いざとなったら先生だけは味方になってくれると思ってたのに、先生は忙しいからって私を見捨てた……! 私なんて先生にとってはどうでもいいんだって分かって、この先もずっと独りぼっちなんだって思うと、何だか凄く怖くなって……」

 

 朱菜の口元に浮かんでいた笑みが次第に消えていき、彼女は自分を抱きしめながらブルブルと震え出した。目の前でそれを見ていた小林は唾を呑み込もうとして、口の中がヒリヒリするほどに乾いていることに気がついた。

 

「だからあの日の夜、私はここで首を吊った……。遺書も書いた……。私がどれだけ辛かったのか、せめて皆に知ってほしかったから……」

 

 朱菜の目からは涙が溢れ、ポロポロと零れていく。涙は頬を伝い、顎から垂れ、そして床を塗らすことなく消えていく。

 

「でも……、先生は、私のそんな想いまで踏み躙った……!」

「待て、城田! 俺は――」

「黙れ!」

 

 朱菜が叫んだ瞬間、朱菜の足元に落ちていたガラスの破片が1つ、弾丸のように放たれた。それは小林の首を掠め、後ろにあった教卓にドスッ! と突き刺さった。

 

「はっ――はっ――かはっ!」

 

 心臓を鷲掴みにされているような感覚に、小林は過呼吸気味になりながら、それでも必死に体を動かそうともがいていた。しかし、まるで自分の体でなくなったかのように、彼の体はまったく言うことを聞かなかった。

 すると彼は、壁に寄り掛かってこちらを眺めているあやめへと視線を向けた。

 

「おい安倍、おまえが俺に何かしたんだろ! さっさと術を解いて、こいつを除霊しろ!」

「あらあら、小林先生? 先程まで『幽霊なんて信じない』と仰っていたではないですか。ガラスを割ったのも、彼女の姿も、私のマジックなんでしょう?」

「そんなことはどうでもいい! 殺されるかもしれないんだぞ! おまえはそれを黙って見過ごすっていうのか! 俺がこんな目に遭っているのも、おまえのせいなんだぞ!」

「いいえ、元々の原因は小林先生です。あなたが5年前に犯した罪を、きちんと償わずに放っておいた“ツケ”ですよ。あのとき素直に謝っておけば、このような事態にならずに済んだかもしれないのに」

「――わ、分かった! 認める、認めるから! 城田がいじめられているのも知っていたし、知っておきながら助けなかった! ちゃんと城田や彼女の家族にも謝るし、責任を取れって言うなら教師も辞める! だから――」

「だそうですよ。どうしますか、朱菜さん?」

 

 あやめがチラリと朱菜を見遣ったのに合わせて、小林も彼女へと顔を向けた。

 

「――――!」

 

 そして、息を呑んだ。

 朱菜の周辺には幾十ものガラスの破片がフワフワと浮き上がり、そのどれもが鋭い切っ先を小林へと向けていた。

 

「ま、待て! 悪かった! 俺が悪かったから! おまえをいじめてた奴にもちゃんと事実を認めさせて、おまえに謝らせるから!」

「はは、確かにいじめられてたときは、そいつらへの恨みでいっぱいだったけど……。先生への恨みが強すぎたのかな? 今となってはそいつらの顔も碌に思い出せないよ」

「と、とにかく、落ち着け! な! おまえは今頭に血が上ってるだけだ!」

「ふーん、幽霊でも頭に血が上るのかな? でも大丈夫、私はとても落ち着いているよ。むしろ自分でもびっくりするくらいにね」

「よ、よく考えてみろ! おまえがやりたかったのは、本当にこんなことだったのか! そんなはずないだろ!」

「先生にも、私の苦しみ、たぁっぷり味わわせてあげる」

「あ、安倍! おまえからも言ってくれ! 俺が目の前で殺されても良いのかよ!」

「…………」

「おい! 聞こえてんだろ! 返事しろ! こ、こんなこと許されると思ってんのか! なぁ、誰でも良いから助けてくれよ! こ、殺される! 嫌だ! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! 死にたく――

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 長い長い叫び声をあげた後、小林はまるで糸の切れた人形のように、突然バタリと床に倒れ伏した。あやめが近くに寄って覗き込んでみると、彼は白目を剥いて、口から泡をブクブクと吐き出しながら気絶していた。そして彼のズボンは股間の辺りに大きな染みができており、床に液体が徐々に広がっていくのが分かる。

 

「あらあら、誰も殺すなんて言ってないのに……、随分と早とちりをなさるんですね」

 

 大の大人が泡を吹いて失禁しながら気絶しているという異常極まりない光景に、それでもあやめは何てことないかのようにクスクスと笑ってみせた。

 しかしすぐに興味が失せたとばかりに彼から目を逸らすと、そのまま後ろを振り返り、ガラスの破片の散らばった床をパキパキ踏み鳴らして歩いていった。

 

「終わりましたよ」

 

 そしてあやめは机の脚にしがみついて床に座り込み、ブルブルと体を震わせる清音と春の肩をポンと叩いて、優しい声色でそう呼び掛けた。

 ビクンッ! と2人は肩を震わせると、恐る恐る彼女へと視線を向けて、生まれたての子鹿のようにガタガタと膝を揺らしながらゆっくりと立ち上がった。春に至っては、ほとんど泣きそうになっている。

 

「あ、安倍さん……。小林先生、どうなっちゃったの……?」

「ただの気絶ですから、心配いりません。おそらく朝にでもなったら、事務員の方が見つけてくださるでしょう。――まぁ、その後のことは分かりませんけどね……」

 

 あやめはそう言うと、にっこりと春に微笑んだ。その笑みに、春はこれ以上何も言えなかった。言ってはいけないような気がした。

 

「…………」

 

 そして清音はそんな2人の会話に割り込むこともなく、思い詰めたような表情で小林の方をじっと見つめていた。

 と、そのとき、

 

「あの、安倍さん……」

 

 背中から弱々しい声を掛けられ、あやめは後ろを振り返った。

 3人から少し離れた所で、俯き加減の朱菜がこちらを見つめていた。

 

「気分はどうですか、朱菜さん?」

「……よく、分かりません」

 

 5年越しの恨みをようやく晴らせたはずの彼女は、けっして“晴れやか”とは言い難い暗く沈んだ表情を浮かべていた。

 

「まぁ、そんなもんですよ。――では、約束ですので、始めましょうか」

 

 あやめはそう言って、朱菜の傍まで歩いていった。朱菜は覚悟を決めたように表情を引き締めて、彼女の顔をじっと見つめる。

 あやめが朱菜の額の辺りに、右手を差し出した。

 

「――『葬』」

 

 あやめが呟いたその瞬間、手を当てた箇所から青白い光が放たれ、朱菜の体を包み込むようにして輝き始めた。光はみるみる鮮明になって朱菜を呑み込んでいき、彼女の姿が光に溶け込むように曖昧になっていく。

 

「――――!」

「これが、除霊……!」

 

 生まれて初めて目の当たりにする光景に、清音も春も固唾を呑んでそれを見守っていた。

 やがて、ほとんど朱菜の姿が見えなくなった頃、

 

「あの、安倍さん」

「どうしました?」

 

 ふいに口を開いた朱菜に、あやめは作業を中断することなく尋ねた。

 

「“あの世”って、どんなところなんでしょうか?」

 

 朱菜の問いに、あやめは一言だけで答えた。

 

「さぁ」

 

 

 *         *         *

 

 

 青白い光は天井に吸い込まれ、そして消えていった。朱菜の姿はどこにも見当たらない。まるで、そんな人物は最初からいなかったかのように。

 

「……終わったの?」

「みたい……」

 

 清音が尋ね、春が答えた。

 途端、2人は崩れ落ちるように近くの椅子に座り込み、互いに顔を見合わせて深い深い溜息を吐いた。初めての経験ばかりで自覚する暇の無かった疲労が、ここに来て津波のように一気に押し寄せてきたのである。

 

「……ねぇ、あやめ」

 

 ふと、清音があやめの方を向いて口を開いた。

 

「どうしました、清音さん?」

「さっきあの子を除霊するとき、“約束”って言ってたよね? あれってどういう意味?」

「何てことありませんよ。私の除霊を素直に受け入れる代わりに、『小林先生と話がしたい』という彼女の願いを聞き入れただけのことです」

「…………」

 

 清音はちらりと、小林の倒れている方へと視線を向けた。先程からピクリとも動かない彼に、本当に生きているのか不安になってくるが、それを確かめるために彼に近づいていく勇気は彼女には無かった。

 

「……あやめは、あの子がコバセンを恨んでることを知ってたんだよね?」

「はい、知ってました」

「……もしそんな子をコバセンに会わせたらどうなるか、あやめなら分かってたんじゃないの?」

「はい、大体想像はつきますね」

 

 あっけらかんとした表情でそう言ってのけるあやめに、清音はぐっと拳を握りしめた。

 

「ちょ、ちょっと、清音……」

「ごめん、春は黙ってて。――じゃ、じゃあ、なんであの子とコバセンを会わせたの? むりやり除霊することはできなかったの?」

「不可能ではありませんが、彼女はもの凄く抵抗するでしょうね。その場合、どこまで被害が出るか分かりませんし、清音さん達の安全も保証できません」

「……だ、だったら! も、もっと穏便に解決することはできなかったのかな? ほ、ほら、納得のいくまで話し合うとかさ! そうすればコバセンも……あ、あんなことにならずに済んだかもしれな――」

「清音さん」

 

 彼女の言葉を遮るように、あやめは一言だけそう呼び掛けると、ズイッと彼女の目の前まで顔を近づけた。

 

「ひっ――!」

 

 突然の行動に清音は驚き、彼女が言いかけた言葉は喉の奥へと引っ込んでいった。

 そんな彼女の文字通り目の前で、あやめはニッコリと笑みを浮かべると、

 

「そんなの、無理に決まってるじゃないですか」

「――――!」

 

 清音の言葉をバッサリと切り捨てたその一言に、ぞくり、と清音の背筋が凍った。

 

「小林先生本人にも言ったことですが、彼女の話を真摯に聞いていれば、あるいは彼女が自殺したときに素直に罪を認めていれば、このような結果にはなりませんでした。小林先生が彼女から逃げ回っていた5年もの間に、彼女の怒りはどんどん膨れ上がっていき、そして歪んでいきました。言うなれば、もはや“手遅れ”だったんです」

「で、でも、だからって――」

「私がこれまで出会ってきた幽霊の中には、今回のように“手遅れな問題”を抱える人も珍しくありません。私と関わっていると、今回みたいなことに出くわすのも一度や二度ではないでしょう。もしそれが嫌だと言うのなら、今後は私につきまとわない方が得策ですよ」

「ま、待って! 私は――」

「申し訳ありませんが、私は清音さんと議論をするつもりはありません。明日、家に着く頃には今日になっているでしょうが、学校があるので早く帰って眠りたいんです。――という訳で、私は帰ります」

 

 あやめはそう言い捨てると、これで終わりだと言わんばかりにクルリと踵を返し、スタスタと部屋を出ていってしまった。

 

「ちょ……! 置いてかないで、安倍さん!」

 

 春が悲痛な叫び声をあげて、不安そうな表情で彼女の背中を追い掛けていった。

 1人取り残された清音は、床に転がったまま動かない小林をしばらく眺めていたが、やがて彼から視線を外すと、そのままゆっくりとした足取りで部屋を出ていった。

 小林1人を残した理科実験室は、どこまでも深い静寂に包まれていた。

 

 

 *         *         *

 

 

 月明かりで薄ぼんやりと照らされる廊下を、あやめ達3人は歩いていた。といっても3人並んで歩いている訳ではなく、先を行くあやめの背中を、清音と春が少し離れたところから追い掛ける形となっている。

 部屋を出てから、3人は無言だった。元々積極的に会話をする方ではないあやめはともかく、普段やたらと必要無いことまで喋る清音も顔を俯かせて口を閉ざしており、会話する相手のいない春も自然と喋らなくなっていく。3人の周りには、コツコツと足音だけが響き渡っていた。

 しかし、先頭のあやめが昇降口に差し掛かったとき、ふと清音が口を開いた。

 

「春……。私、決めた」

「……何を?」

 

 春がそう尋ねると、清音は部屋を出て初めて彼女の方へ顔を向けた。

 そのときの彼女は、真夜中で薄暗い廊下でも輝いて見えるほどに眩しい笑顔だった。

 

「私、やっぱりあやめと友達になりたい」

「……まだ幽霊に興味があるの? あんな怖い体験しておきながら」

 

 春が呆れたような視線を清音に向けると、彼女は「うーん」と小さく唸って、

 

「目の前で誰かが傷つくのを見るのは嫌だし、できれば二度と体験したくないよ。でもだからといって、幽霊への興味が無くなった訳じゃないよ。それに……」

「それに?」

「あやめ自身にも、すっごい興味があるんだよね」

「……でも、安倍さんは私達と関わりたくないみたいだよ? あの部屋に私達を招いたのだって、怖い思いをさせて私達を自分から遠ざけるためだろうし」

「だろうね。でもね、春」

 

 清音はそこで言葉を句切ると、春の前に躍り出て、

 

「私、今まで友達になれなかった人はいないんだよ」

 

 清音はそれだけ言い残すと、「あやめー!」と声をあげながら彼女の元へ全速力で駆けていき、彼女にタックルする勢いで抱きついた。「ちょ、何するんですか!」という彼女の抗議の声が聞こえるが、清音がその手を緩める気配は無い。

 

「……正直、私はもう幽霊とは関わりたくないんだけど」

 

 ギャーギャーと騒ぐあやめと清音を眺めながら、春は小さく呟いた。

 とはいえ、あやめとも関わりになりたくないかというと、そんな考えは微塵も浮かんでこなかった。なぜかと問われると春本人も上手く説明できないが、ひょっとしたら自分も清音と同じく、あやめに対して興味を持っているのかもしれない。

 

「私も人のこと言えないなぁ……」

 

 春はクスリと笑みを漏らすと、両腕で清音を突っぱねているあやめの元へと早足で駆けていった。



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迷惑な人々(1/5)

 北戸(ほくと)市は県の中央から少し外れた所に位置する、人口が三十万人弱とそれなりに大きい街である。しかし隣接する鬼塚市の方が人も多く県庁所在地となっていること、北戸市自体に有名な観光スポットやグルメが無いことなどから、市外の人間には“或る施設”を除いてほとんどその名は知られていない。

 そんな北戸市は、人口の大半が鬼塚市を始めとした周辺の都市に仕事場を持っている、いわゆるベッドタウンでもある。なので北斗市の駅では平日の朝になると、仕事に出掛けるサラリーマンなどが揃って電車に駆け込む光景が見られ、駅周辺はさながら戦場のように慌ただしい。

 しかしそこから少し離れた住宅街ともなると、そんな喧騒がまるで嘘のように、静かでのんびりとしている。時々聞こえてくるのは、時間などお構いなしに騒ぎまくる子供の笑い声か、餌の催促をしている犬の鳴き声くらいだろう。

 

 そんな住宅街の中にある、ごく平均的な大きさの一軒家。

 その家の2階にある部屋の1つにて、1人の少女がベッドでスヤスヤと寝息をたてていた。その部屋に置かれた家具はどれも、中学生くらいの少女が持つには些か色が地味で、全体的に質素な雰囲気を感じる。

 じりりりり――かちっ。

 ベッドの傍に置かれた目覚まし時計が耳障りな騒音を響かせ、そしてその瞬間、彼女の平手打ちによってそれは止められた。あまりにも無駄の無い、誰かが見れば美しいとすら感じるであろうその動作は、何百回と同じことを繰り返してきた賜物に違いない。

 

「うーん……」

 

 小さな唸り声をあげながら、彼女がゆっくりと起き上がった。

 その少女とは、あやめだった。彼女の背中に掛かるほどに長い黒髪は所々跳ね、彼女の大きな2つの目も今はほとんど閉じられている。そして眉間には、不機嫌であることを物語るように深い皺が刻まれている。

 しかしながら、今日が平日で学校がある以上、そのまま欲望に任せて二度寝をするわけにもいかない。あやめはかなり名残惜しそうではあったが、何かを振り切るようにベッドから腰を浮かせて立ち上がると、そのままの勢いで部屋を出ていった。

 

 階段を降りていったあやめは、そのまま別の部屋へと入っていった。この家では一番の広さを誇るその部屋は、普通ならばリビングとして生活の中心地及び寛ぎの場となっていることだろう。

 しかしその部屋には、生活感が一切無かった。

 高価そうなカーペット。革製のソファーが向かい合わせに2つ置かれ、その間には膝下ほどの一枚板のテーブル。壁には大きな本棚があり、中には専門的な分厚い本が隙間無く詰められている。そこはまるで、どこかの会社の事務所のようだった。

 あやめはそんな部屋を通り抜け、隣接するキッチンへと入っていった。そこは薄い布で仕切られており、先程の部屋から見えないようになっている。

 

 そして彼女は、そこで朝食を作り始めた。食パンをトースターにセットし、それが焼き上がるまでの間にフライパンでハムエッグを作る。それを皿に盛りつけた辺りで、トースターからチン! と音が鳴った。彼女はそれも一緒の皿に載せると、先程の部屋のテーブルまで運んでいった。

 そして席に着くと、「いただきます」と呟いて食べ始めた。食べ終わった。

 皿を持って再びキッチンに入った彼女は、今度は弁当を作り始めた。とはいえ手の込んだものではなく、一食分ずつ小分けに冷凍されたご飯とおかずになる冷凍食品を一度にレンジで解凍するという、何とも簡単なものだった。皿を洗い終えるまでの間に温め終わったそれを弁当箱に綺麗に詰め、しばらく放置する。すぐに蓋をしないのがポイントだ。

 

 次に彼女が向かったのは、洗面所だった。そこで歯磨きと洗顔、そして寝癖のひどい髪を整えると、再び2階にある自分の部屋へと戻っていく。この頃になってようやく目が覚めてきたようで、彼女の両目はパッチリと開かれていた。

 部屋に入った彼女はクローゼットを開けると、中から学校の制服らしき洋服一式を取り出した。彼女の学校は私服なのだが、彼女曰く「いちいち選ぶのが面倒臭いんです」とのことらしい。

 その制服に袖を通したあやめは、ふと目覚まし時計に視線を向けた。今から家を出れば、丁度良い時間に学校に着くだろう。

 

 彼女は机の上に置いてあった鞄を手に取ると部屋を出て、トットットッ、とリズム良く階段を降りていく。そしてそのまま玄関へとまっすぐ歩いて――

 

「あ」

 

 ふとあやめは声を漏らし、急に体を反転して事務所のような部屋へと逆戻りした。革製のソファーを通り過ぎ、部屋の一番奥にある“それ”の前にやって来た。

 

「いってきます、――お母様」

 

 彼女が優しい声で語り掛けたそれは、無垢の木目が暖かい印象を与える仏壇だった。小さな(やしろ)に立て掛けてある写真には、満面の笑みを浮かべる1人の女性が写っている。

 あやめはその写真にニッコリと笑いかけると、今度こそ玄関へと歩いていった。

 

 

 

 

「おはよー、あやめ!」

「おはよう、安倍さん」

 

 玄関のドアを開けた瞬間、あやめを出迎えたのは2つの声だった。それを聞いた瞬間、彼女はそのままUターンしてドアを閉めたい衝動に駆られたが、そんな理由で学校を休む訳にもいかないので、仕方なく玄関の鍵を閉めて敷地の出入口である門へと向かった。

 その門の向こう側に、清音と春の姿があった。

 

「……何を、しているのですか?」

 

 なるべく無表情を貫こうと心掛けながら、あやめは2人に問い掛けた。

 すると清音は、何を当たり前のことを訊いているんだ、とでも言いたげな表情で、

 

「あやめと一緒に学校行きたいなー、て思って」

「……私、2人に住所は教えていなかったはずですよ?」

「あぁ、それはね、ゴリ田に教えてもらった」

 

 聞きなれない名前に一瞬訝しげな表情を見せるあやめだが、すぐにそれが自身の担任である森田の渾名であることを思い出した。

 

「昨日の放課後、ゴリ田に『何だか安倍さんがクラスで孤立しているみたいなので、安倍さんと一緒に登校して友達になろうと思うんです』って言ったの。ゴリ田の奴、感動でボロボロ泣きながら教えてくれたよ」

「…………」

 

 その説明を聞いて、あやめは頭を抱えたくなった。嘘をついてまで個人情報を聞き出した清音も清音だが、ホイホイと人の個人情報を教えた森田も森田だ。

 あやめが春の方へチラリと視線を遣ると、彼女は困ったように苦笑いを浮かべていた。どうやら彼女は、清音にむりやり巻き込まれたようである。だったらむりやりにでも清音を止めれば良いのに、とあやめは思ったが、それを口に出すことはなく、代わりに大きな溜息を1つ吐いた。

 と、そのとき、清音が「ねぇねぇ」とあやめに呼び掛けた。

 

「門に掛かってるこの看板のことだけどさ、……本当だったんだね」

「あら、疑ってたんですね」

「いや、別に疑ってたわけじゃないけど……。いざこうして実際に見ると、何というか、不思議な感じがするね」

 

 清音の言葉と共に、春とあやめも門の柱へと目を向ける。

 そこには、『除霊屋』と書かれた看板が掛けられていた。

 

「お客さんって、来るの?」

「ええ、結構来ますよ。ほとんどが興味本位か、私をからかいに来た冷やかしですけど」

「“ほとんど”ってことは、少しは本物がいるってこと?」

 

 キラキラと目を輝かせてそう尋ねる清音に、あやめはニコリと笑みを浮かべた。

 

「――何なら、もう一度見せてあげましょうか?」

 

 その笑みは、あの真夜中の学校で清音があやめを問い詰めたときに浮かべた、見る者の背筋を凍らせるあの笑みとそっくりだった。

 

「け、結構です……」

「そうですか、それでは行きましょう」

 

 そう言って歩き出すあやめの背中を、清音と春は黙って見つめていた。

 

 

 *         *         *

 

 

 朝のホームルームまで、あと10分という頃。

 生徒が続々と登校してくる時間帯であり、学校が一番騒がしくなる時間帯でもある。早歩きで教室へと向かう生徒が廊下を行き交い、教室内は挨拶する声とお喋りする声が飛び交っている。

 そんな喧騒の中、

 

「今日は、まだ来てないか……」

 

 ぽつりとそんなことを呟く、1人の少年がいた。

 彼の名は佐久間明(さくまあきら)。背は同年代の男子と比べても高く、精悍な顔立ちに短い黒髪、そして細く引き締められた体躯が、とても爽やかな印象を与える好青年である。

 もっとも、普段の彼ならば、という注釈付きだが。

 なぜなら彼は今、教室の入口に立ち、しかしその中に入ろうとはせず、眉間に皺を寄せてジロジロと中を覗き込んでいる真っ最中だからである。さらに付け足すなら、その教室は彼のクラスではなかった。傍から見たら、はっきり言って不審人物そのものである。

 と、そのとき、

 

「あれ? 明くん、何してんの?」

 

 突然背後から話し掛けられ、明はビクンッ! と体を震わせると、ゆっくりとした動きで後ろを振り返った。

 そこにいたのは、明と同じクラスの女子生徒だった。

 

「ん? いや、ちょっと……」

 

 自分の行動が怪しいことを自覚していたのか、明は明後日の方を向きながらモゴモゴと言い淀んでいた。その行動自体がとても怪しいものなのだが、彼女は「へえ、そうなんだー」と答えるだけで、特に変に思う様子は無い。

 いや、それどころか、彼女も同じように明から僅かに視線を逸らしながら、両手の人差し指をモジモジと動かすという、彼に負けず劣らず怪しい行動をしていた。そんな彼女の頬は、微かながら紅く染まっている。

 しばらくの間2人は、お互いに体を向けながら視線を合わせようとしないという、何とも珍妙な光景を繰り広げていた。しかしながらそこは廊下のど真ん中であり、多くの生徒達が訝しげな表情を浮かべながら2人の脇を通り過ぎていく。

 

「あ、あの!」

 

 そんな状況を崩したのは、女子生徒の方だった。意を決したように何度も小さく頷くと、凛々しい表情を浮かべて明へと顔を向ける。

 

「ん、どうしたの?」

 

 そこで初めて、明は彼女へと視線を向けた。しかしその瞬間、せっかく視線が合ったにも拘わらず、彼女は再び彼から視線を逸らし、床を見つめ始めてしまった。現在彼女の視線の先では、2本の人差し指がモジモジと踊っているのみである。

 

「あ、あの、明くん……。もし、もしもさ、明くんが迷惑じゃなかったら、今日私と一緒に帰ってほしいなぁ、なんて……」

 

 そこまで言ったところで、女子生徒が再び顔を上げた。緊張した表情でまっすぐこちらを見つめる明と目が合い、彼女は息を呑んで再び視線を逸らそうとする。しかし今度は寸前で思い留まると、大きく1回深呼吸して、何か言おうと口を開きかけた。

 しかしその言葉が、彼女の口から飛び出すことはなかった。

 こちらを見ている明の視線が、微妙に自分と合わないことに気がついたからである。彼の視線は自分ではなく、自分を通り越して背後の何かに向けられていた。

 少女が、後ろを振り返る。

 そこには、廊下を横に並んで歩きながら雑談をする3人の少女の姿があった。

 

 1人は清音。

 1人は春。

 そして、あやめ。

 

 女子生徒がその3人をボーッと眺めていると、突然誰かが自分のすぐ脇を通り過ぎていった。

 明だった。彼の表情は、今まで見たことのないほどに緊張したものだった。

 

「明、くん……?」

 

 思わず戸惑うような声で女子生徒が呼び掛けるが、明はそれに答える様子も無くズンズンと廊下を歩くと、その3人の前に立ち塞がるように躍り出た。

 それに気づいた3人が、同時に足を止める。

 

「あれ、佐久間くん? どうしたの?」

 

 清音が明に話し掛けるが、返事は来なかった。彼の意図が分からず、3人が首をかしげる。

 すると、

 

「えっと……、安倍さん、ですよね……?」

 

 恐る恐る、といった風に明が口を開いた。

 そして彼に呼ばれたあやめはというと、キョトンとした表情で尚も首をかしげていた。以前に彼と話したことも無く、それどころか顔すらほとんど合わせたことの無い彼に呼び掛けられ、ただただ困惑しているといった感じだった。

 そんな彼女の見つめる中、明はみるみる顔を真っ赤に染め上げながら、必死に何か言おうと口をパクパク開けていた。しかしいつまで経ってもそこから出てくるのは空気だけで、まるで喉にでも詰まらせたかのように言葉が一切出てこない。

 しばらくそれを見ていた清音と春だったが、やがて清音の顔がパァッと明るくなった。

 

「え、何? 明くん、もしかしてあやめに告――むぐっ!」

「清音! ほら、行くよ!」

「むごっ! むぐむぐっ、むがぁ!」

 

 余計なことを言う前にその手で清音の口を塞いだ春は、そのまま羽交い締めにしながら清音を引っ張っていった。清音は必死に抵抗しながら何かを言っているが、生憎その言葉は春の手に遮られてモゴモゴとしか聞こえなかった。

 そして2人は自分の教室へと姿を消し、廊下であやめと明が1対1で向かい合う形となった。2人の周りでは、生徒達が何やら囁きながらその様子を遠巻きに眺めている。

 

「用があるのでしたら、早くしてほしいのですが」

 

 痺れを切らしたあやめがそう呼び掛けると、明は「う、うん……」と小さな声で答え、1回大きく深呼吸をした。そして意を決したように何度も小さく頷き、凛々しい表情を浮かべてあやめへと顔を向ける。

 

「俺は、佐久間明といいます」

「はい」

「えっと、突然で迷惑かもしれないけど……」

 

 明はそこで言葉を切ると、暴れ狂う心臓を抑え込むように、再び大きく深呼吸をした。

 そして、勇気を振り絞り、言った。

 

「好きです! 付き合ってください!」

「嫌です」

「…………」

 

 返事までに、0.1秒。

 あっけない。

 あまりにもあっけない幕切れだった。

 

「え、えっと……、分かりました」

 

 明は今にも泣きそうな笑顔でそう言うと、クルリとあやめに背中を向け、全力で廊下を走り去っていった。2人の様子を眺めていた生徒達が、揃って気の毒そうな表情で彼に道を譲っていた。

 みるみる小さくなっていく明の後ろ姿に、あやめが思うことは、

 

 ――ふぅ、やっと教室に入れますね……。

 

 それだけだった。

 そしてあやめは、自分の教室に入ろうと足を踏み出そうとして、

 

「…………」

 

 すぐにその動きを止めた。

 何やら周囲から不穏な空気を感じ取ったあやめが見渡してみると、先程明と話していた女子生徒を筆頭に、周りの女子生徒のほとんどから、怒りの込められた視線を向けられていた。

 

「……何なんですか、いったい……」

 

 全身でそれをひしひしと感じながら、しかしそれでいて平然とした表情を浮かべるあやめは、他人事のようにポツリとそう呟いた。



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迷惑な人々(2/5)

「いくらなんでも、それは返事が早すぎるよ。それじゃあ、勇気を振り絞って告白した佐久間くんの立場が無いじゃん」

「私はよく知らない人とお付き合いをする気はありません。ですから、変な期待を持たせるよりはキッパリと断った方が良いと思いまして」

「いや、そりゃそうだけど……」

 

 時刻は、放課後。場所は、駅前のレストラン。

 このレストランでは、ランチタイム終了からディナータイム開始までの間ケーキバイキングを行っている。そして現在あやめは、時々ここに来るという清音と春に誘われて、人生初のケーキバイキングを楽しんでいる真っ最中だった。

 3人が囲むように座る円形のテーブルには、2桁には昇るだろうかという数のケーキと3人分の紅茶が、所狭しと並べられている。

 

「それにしても、なんであのとき女子達に睨まれたんでしょうね……?」

 

 ぼやきにも似たあやめの呟きに、清音が答える。

 

「佐久間くんってさ、2年生でもう野球部のエースなんだよ。しかもあの爽やかなルックスでしょ? だから学年関係なく女子達に人気があるんだよね」

「だったら良かったじゃないですか。自分達が彼を狙えるチャンスが出来て」

「ほら、あれだよ。自分の好きなものを悪く言われるのが腹立つ、ってね」

「成程ね……」

 

 あやめは納得したようにそう呟くと、目の前のモンブランを一口食べた。普段ほとんど無表情な彼女の口元が、ほんの僅かに綻んでいる。

 

「うん、美味しい」

「……ねぇ、よくそんなに食べられるね」

「え? そうですか?」

「……そうだよ」

 

 清音が戸惑うのも無理はない。今テーブルに置かれているケーキの内、清音と春が取ってきたのはそれぞれ1つだけで、残りは全部あやめが自分で取ってきた物だからである。しかもあやめはその前に、5つもケーキを完食している。

 

「……安倍さんって、甘いもの好きなの?」

「まぁ、よく食べますね」

 

 だからといって、さすがにこれは食べ過ぎである。あまりの量に、横で見ているだけの春が胸焼けを起こしそうになっている。

 清音と春は思わず、あやめの腹の辺りに目をやった。これだけのケーキが収められているとは思えない細さに、2人は深い溜息をつき、力無く紅茶を啜った。

 そんな2人の憂鬱などお構いなしに、あやめは口角を微かに上げながら、その右手を自分の口とケーキの間を行ったり来たりさせていた。

 しかし、

 

「あ、あれ」

 

 清音がふと呟いたその言葉に、あやめはその手を止めて彼女へと視線を向けた。

 

「どうかしましたか、清音さん?」

「いや、まさに噂をすればって感じで」

 

 あやめの問い掛けに清音はそう答えると、窓の向こうを指差した。あやめと春の視線が、自然と指の先を追う。

 

「あ」

「…………」

 

 そして春は思わず声を漏らし、あやめはほんの僅かに目を鋭くした。

 窓からは駅前の大通りが見え、夕方ということもあり、歩道には学校帰りの制服姿や会社帰りのスーツ姿が大勢行き交い、車道には多くの車がビュンビュンと通り過ぎていく。

 そんな大通りを挟んだ向こう側の歩道に、見覚えのある後ろ姿があった。

 その人物とは、今朝あやめに一世一代の大告白をして、そして見事に返り討ちにされた明だった。彼は向こう側にある店のショーウィンドウを、食い入るようにじっと見つめていた。ちなみにそのショーウィンドウに飾られている商品は、全て流行の最先端という触れ込みの女性物である。

 

「佐久間くん、何してるんだろ……」

 

 春がぽつりと呟いたその疑問は、まさしく清音も思っていたことだった。なんで男の明が女性物の服なんて眺めているんだろう、と当たり前の感想を抱く。

 ひょっとして誰かにプレゼントでもするのか、と2人が思い始めたそのとき、

 

「申し訳ありません、2人共。今日はこれで失礼します」

 

 突然あやめはそう言って立ち上がると、自分の分の代金をテーブルの上に置いて、2人の返事も待たずにレストランの出口へと歩いていってしまった。

 

「安倍さん、急にどうしたんだろ……」

「行くよ、春! これは何か起きる予感!」

「え? ちょっと、清音!」

 

 2人(主に清音)はあやめを追いかけるため、急いでレジへと向かっていった。

 

 

 *         *         *

 

 

「そっか、そんなに前から……。辛かっただろうね」

 

 明は店のショーウィンドウに体を向けて、ブツブツと小声で呟いていた。彼の目の前には人の姿は無く、ガラスに閉じ込められたマネキンだけである。

 当然ながら、傍目にはかなり奇妙な光景に見えた。マネキンに向かって話し掛ける少年は、道行く人々には恐ろしい物を見るような目を向けられ、彼の周囲にはまるで見えない壁に阻まれたかのようにポッカリと空間ができていた。

 

 しかしながら、彼らは誤解をしている。

 まず第一に、彼はマネキンに視線を向けてはいなかった。彼が見ているのは、そのマネキンの足元、ちょうど彼の胸の高さ辺りである。しかしながら、そこにもマネキンの足以外会話できるような存在は無い。

 ところが、これこそが最大の誤解であった。

 

「何をしてるのですか、こんな所で」

「うわああぁ!」

 

 まさか声を掛けられるとは思わなかった明は、思わず大声をあげて仰け反り、その場から飛び退くように離れて後ろを振り返った。そんな彼の姿に、周りの通行人はますます彼に奇異の目を向けた。

 しかし、明はそれに気づけるほどの余裕は無かった。彼の視線は既に、自分に声を掛けたその人物へと固定されていたからである。

 

「あ、安倍さん?」

「どうも」

「えと、あ、どうも」

 

 突然のことに、明はかなり狼狽えていた。今朝自分が告白して振られた相手から話し掛けられたのだから、当然といえば当然だろう。

 

「あ、安倍さん、こ、こんなところで何してたの?」

「そこのレストランで、ケーキを食べていました。――あなたは?」

「えと、お、俺は……」

 

 明は口籠もると、あやめから目を逸らして顔を伏せた。そしてチラチラと彼女に目を遣っては、何か言おうと口を開きかけてすぐに閉じるのを繰り返している。

 

「言ってみてくださいよ、別に馬鹿にしませんから」

「いや、でも……」

 

 あやめの言葉にまだ迷いを見せる明に、彼女は小さく溜息を吐いてこう言った。

 

「そこの幽霊と、話してたんでしょう?」

「えっ――?」

 

 その瞬間、明は目を丸くしてあやめへと顔を向けた。

 そう。あやめはレストランの窓から明を見つけたときから、店のショーウィンドウにもたれ掛かって座る少年の霊が見えていた。そしてそのとき、彼がその霊と会話をしていることも分かっていたのである。

 

「えっと、安倍さんは、幽霊が見えるの……?」

「ええ、まぁ。あなたも見えるようですね。それも、かなりハッキリと」

「……うん」

 

 躊躇いつつも頷く明に、しかしあやめはそれに構う様子も無く質問を続ける。

 

「それはいつ頃からですか?」

「えっと……、物心ついた頃には、もう幽霊が見えてたかな……。最初は家族とか友達にも言ってたけど、誰も信じてくれないから、誰にも内緒にしてたんだ……」

「いつも、幽霊を見かけたら、今みたいに話し掛けているんですか?」

「うん、何か、寂しそうだから……」

「そうですか……」

 

 あやめはそう呟くと、すっと目を細めて少年の霊をじっと見つめた。睨まれていると思った少年の霊が、ビクビクと小刻みに肩を震わせている。

 それに気づいた明が、何か言おうと口を開きかけたそのとき、

 

「おーい、あやめー!」

 

 その声にあやめは少年の霊から視線を外し、あからさまに嫌そうな表情で後ろを振り返った。明がそれに釣られて、彼女の視線の先へと目を遣る。

 清音と春が、走りながらこちらに向かってきているのが見えた。特に清音に至っては、眩しいくらいに満面の笑みを携えていた。

 

「松山さんに、飯田さん……?」

 

 明は戸惑いの声をあげ、あやめは大きな溜息を吐いた。

 息を荒げながら自分の傍へと駆け寄る2人に、あやめは腕を組んで言い放つ。

 

「2人共、ついてきたんですね」

「友達だもーん、あやめが心配でさー」

 

 そう言う清音の顔は、走ってくるときの満面の笑みそのままだった。明らかに面白がっていることが分かるその笑顔に、あやめの眉間の皺がますます深くなる。

 

「まぁまぁ、私達を気にせず話を続けて」

「いえ、大丈夫です。もう終わりますから」

 

 あやめはそう言って、明へと向き直った。

 

「えっと、佐久間さん、でしたよね?」

「は、はい!」

 

 名字を言われたのが嬉しいのか、明の表情がパァッと明るくなった。

 しかし、

 

「こういうことは、もう止めてください」

「へっ?」

 

 その一言で、明の表情が途端に暗くなる。

 

「素人が下手に幽霊に関わるのは危険です。その幽霊は今から私が除霊するので、今日はもう帰ってください」

「じょ、除霊……?」

 

 戸惑う明に、清音が横から説明を入れる。

 

「あやめはね、自分の家で“除霊屋”ってのをやってるくらい、幽霊のエキスパートなんだよ! この前だって、学校にいた地縛霊を除霊したんだから!」

「ちょっと、清音! 余計なことは言わないの!」

 

 清音が満面の笑みで説明を入れ、春が慌てて彼女を窘め、あやめは小さく溜息を吐きながらもそれを否定しなかった。そんな3人の様子を眺めながら、明は「そうなんだ……」と戸惑うように小さく呟いた。

 そしてあやめは、そんな彼に構う様子も無く、

 

「それでは、私はこれで失礼します」

「ねぇあやめ、私もついてって――」

「清音さん、何なら私が術を掛けてあげますから、一晩ここで過ごしたら如何ですか?」

「ごめんなさい、まっすぐ家に帰ります」

 

 頭を下げる清音にあやめは満足そうに頷くと、3人の下を離れて少年の霊と二言三言会話を交わした。そして話が纏まったのか、少年の幽霊は大した抵抗も見せることなく彼女の後をついていった。

 

「“除霊屋”……」

 

 少年の幽霊を引き連れてこの場を去っていくあやめの後ろ姿を、明は何やら含みのある視線で見つめていた。



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迷惑な人々(3/5)

 それから、およそ1週間後。

 

「うーん……」

 

 北戸中学校の2年4組にて、眉間に深い皺を寄せて思い悩む清音の姿があった。彼女の右手には1枚の紙が握られ、彼女はそれを険しい表情でじっと見つめている。

 その紙の正体は、先程の授業で教師から返された、数学の小テストである。元々は小林が作っていたものだったが、当の本人が完成前に“一身上の都合”で長期休暇に入ってしまったため、急遽他の教師によって作られたという裏事情があったりする。

 

「くそぉ、テストごと懲らしめてくれれば良かったのに」

 

 清音はそんな意味不明なことを呟きながら、苛々をぶつけるように自分の頭をガシガシと乱暴に掻いた。

 

「清音、テストどうだった?」

 

 そんな彼女の後ろから顔を出してきた春が、彼女の背中越しに彼女のテストを覗き込んだ。名前の記入欄の横に書かれた数字を見て、春は思わず目を丸くする。

 

「……清音、35点はさすがにまずいって」

「う、うるさい! ほ、他の人だって悪かったに決まってるよ!」

「……さっき先生が言ってたでしょ。今回の平均点、70点だよ」

「え、嘘!」

 

 清音は驚きの表情を浮かべてそう叫ぶと、隣の席にいるあやめへと勢いよく顔を向けた。

 

「あやめ! さっきのテスト何点だった!」

「95点ですけど」

「えぇっ! は、春は?」

「私は88点」

「…………、おぅ」

 

 現実を受け入れたくなかったのか、清音は変な声をあげて机に突っ伏してしまった。

 そんな彼女の姿に、春が苦笑いを浮かべて彼女の頭を撫でる。

 

「……まぁ、清音。次のテスト頑張れば良いじゃん」

「そんなこと言われても、どう頑張れば良いのか分かんないよ……。――あやめ、ずばり数学の攻略法は?」

「ひたすら問題を解いて、解答のパターンを憶えることですね」

「地道にコツコツなんて、私が一番苦手なやつじゃん……」

 

 そのまま潜り込みそうな勢いで、清音は机に自分の顔を擦りつけていく。

 あやめはそんな彼女の姿に溜息をつくと、何と無しに教室の入口へと目を遣った。

 顔と上半身の一部だけを覗かせて、こちらを覗き込む明の姿があった。

 

「…………」

「えっと……、ども……」

 

 乾いた笑い声をあげて、明が気まずそうに軽く手を振る。

 

「…………」

 

 しかしあやめは一切口を開くことなく、睨みつけるその目を一切緩めることはなかった。

 すると明は、こほん、とわざとらしく咳払いを一つして、

 

「ちょっと、話があるんだけどさ……、ここじゃ何だから、別のところで良い?」

「…………」

 

 彼の誘いにあからさまな警戒心を見せるあやめだったが、とりあえず話を聞く気になったのか黙って席を立った。もちろんその様子を清音達も見ていたが、昨日の脅しがまだ効いているのか、2人に割り込むような真似はしなかった。

 明が歩き出し、あやめが後ろからついていく。

 周りの女子達の、嫉妬や怒りの入り混じった視線を感じながら。

 

 

 *         *         *

 

 

 明が足を止めたのは、3階と屋上を繋ぐ階段を昇りきった先にある踊り場だった。掃除用具の入ったロッカーと屋上へ続く扉しかないそこは、近づく者がいれば足音と気配ですぐに分かる、まさに内緒話をするには打って付けの場所だった。

 ここに到着するまで一度も振り返らず、じっと前だけを向いて歩いていた明が、ここでようやく振り返ってあやめへと向き直った。ここに来るまで一度も口を開かなかったあやめも、まっすぐ彼を見つめ返すことでそれに応える。

 互いの顔を見つめるその光景は、1週間前の告白劇を彷彿とさせる。

 そして、明がなかなか話を切り出さないのも、1週間前と同じだった。

 

「それで、話とは何ですか? 次の授業があるので、早くしてほしいのですが」

 

 痺れを切らしたあやめが問い質すと、明は「あ、ごめん……」と呟き、それでも尚あやめから視線を逸らして口籠もったままだった。

 しかし、待たされてるあやめは口を挟もうとはしなかった。彼の表情が、1週間前の告白劇のときよりも真剣だったからである。

 やがて、意を決したように明が顔を上げて口を開いた。

 

「安倍さんってさ、“除霊師”ってのをやってるんだよね……?」

 

 その瞬間、あやめの両目が細くなった。

 

「……その話は、どなたから聞いたのですか?」

「え? その、松山さんから……」

「まったく、あの人は……。そういうことは、あんまり言い触らさないでほしいんですけどね……」

 

 ぼそりと呟いたその言葉には、明らかに怒気が含まれていた。自分が怒られたわけでもないのにビクッと肩を震わせる明に、あやめは「すみません、こちらの話です」と小さく頭を下げた。

 

「それで、それがどうしましたか?」

「え、えっと……。ほ、他にも松山さんから、色々と聞いたんだ……。学校の幽霊のこととか、コバセンのこととか……」

「……そうですか。それで?」

 

 あやめがそう尋ねると、明が突然ガバリと頭を下げた。腰が直角に折れ曲がるほどの、実に見事なまでに深々としたお辞儀である。

 

「お願いです! 俺に除霊の仕方を教えてください!」

「……はい?」

 

 ポカンと開いた口を隠そうともせず、あやめは彼をじっと見つめた。頭を下げ続けているため、彼の表情を窺い知ることができない。

 やがて明は顔を上げ、話し始めた。

 

「この前街で偶然会ったときにも話したけど、俺、小さい頃から幽霊が見えてたんだ。友達とかは幽霊を怖いものだって思ってたけど、俺は昔からよく知ってるものだったから、特に怖いとも思わずによく話し掛けてたんだ」

「…………」

 

 あやめは無言のままだったが、続きを促してると受け取った明は再び口を開く。

 

「向こうも話し掛けられるのが珍しかったみたいでさ、嬉しそうに話し相手になってくれたんだ。ひょっとしたら小学校に通うまでは、人間よりも幽霊と一緒に過ごしてる時間の方が多かったかもしれないな。小学生になると周りの目が気になって幽霊と過ごす時間が減ったけど、それでも幽霊に話し掛けるのは止めなかった」

「…………」

「だから分かるんだ、あいつらの気持ちが。――みんな寂しくて、苦しくて、辛くて、助けを求めてた」

「…………」

 

 あやめはその表情を一切変えることなく、黙って明の話を聞いている。

 

「だけど俺じゃ、あいつらを助けてあげられなかった。幽霊が見えるといっても、所詮俺のできることなんて話を聞いてやるくらいだけだったし」

「……それで、私に除霊を教わりたいと?」

 

 あやめの問いに、明は首を縦に振った。

 

「除霊って、この世に留まっている幽霊をあの世に送ってあげることだよね? それができるようになれば、俺もあいつらを助けてあげられると思うんだ。それに……」

「それに?」

 

 あやめが首をがしげて尋ねるが、明はなかなか答えようとしない。先程までまっすぐ彼女を見つめていたのに、急に顔を紅く染めてチラチラと視線を泳がせている。

 そして、

 

「安倍さんを手伝えるかな、て……」

 

 やがて明は、顔を俯かせてポツリとそう呟いた。

 それに対するあやめの返事は、

 

「…………」

 

 これだった。

 しばらくの間、沈黙が2人を包み込んだ。明がチラチラとあやめの様子を伺うが、彼女は目を閉じたまま口を開こうとも動き出そうともしない。

 やがて、そろそろ次の授業の時間じゃないか、と明が心配になってきたそのとき、

 

「佐久間さんの言いたいことは分かりました。――それでは」

 

 あやめはそれだけ言うと、クルリと明に背を向けて階段を降り始めた。

 明が慌てた様子で「待って!」と彼女の背中に呼び掛けた。

 

「な、なんで認めてくれないの!」

「この前も話したじゃないですか、下手に素人が関わると危険だって」

「も、もちろん教わってすぐに実行しようとは思ってないよ! ちゃんと安倍さんの指導を受けて、しっかり腕を磨いてから――」

「そういうことじゃないんですよ。それに、どうしてわざわざ私が指導しなきゃいけないんですか? 私こう見えても、結構忙しいんですよ」

 

 あやめが再び歩き出した。階段に足を掛け、1段1段ゆっくりと下りていく。

 と、そのとき、

 

「俺、練習したんだ!」

「――――練習?」

 

 明の言葉に、あやめは足を止めて振り返った。その表情は、胡散臭さを隠そうともしていない。

 

「そ、そう! 松山さんの話だと、安倍さんは除霊をするとき、何か術みたいなのを使ってたんだよね! 金縛りみたいに誰かを動けなくする、みたいな!」

「ええ、確かにそうですが。まさか、それが使えるようになったとか言うつもりではないですよね?」

「た、確かにそこまではできなかったけど……。この1週間、色々と考えてたんだ。同じように幽霊が見える俺だったら、安倍さんみたいな術を使うための“力”が備わってるんじゃないかって」

 

 明はそう言うと目を瞑り、右手をスッと前に差し出した。掌を上へ向けると、意識を落ち着かせるためか何回も深呼吸をする。

 始めは半信半疑でそれを眺めていたあやめも、次第に真剣な眼差しへと変わっていく。

 そして、

 

 ――こぅっ。

 

 明の手がほんのりと、しかしハッキリと青白く光った。それはまさしく、あの夜にあやめが術を行使するときに見せていたあの光だった。

 

「…………」

 

 しかしあやめは特に口を開くこともなく、ただじっとその光景を眺めているだけだった。しかし明には、手が光った瞬間に彼女の目がほんの少し見開かれたように見えた。

 そうこうしている内に、光がフッと消えた。時間にして数秒ほどだったが、彼の額には球のような汗が浮かび、ハァハァと息を乱して肩を上下させている。どうやら光を維持するためには、かなりの集中力が必要のようだ。

 明は袖で額を乱暴に拭うと、あやめへ向き直ってニコッと笑ってみせた。

 

「どう、安倍さん? 独学でこれだけ使えるようになったんだから、術の使い方さえちゃんと教えてくれれば、俺でも安倍さんの手伝いくらいは――」

 

 ペラペラと喋っていた明だったが、突然自分に向かって右手をかざしてきたあやめによってそれは遮られた。

 明は自然と、彼女の右手に注目する。

 そして、まったく無表情のまま、あやめは手を軽く握って、開いた。

 

 ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――!

 

「―――!」

 

 あやめの手が青白く光った。いや、輝いた。

 それは炎のように激しく、太陽のように強烈だった。その眩しさに、明は思わず腕で自分の目を庇うほどだった。

 それと同時に、あやめの立つ場所から爆風が吹き荒れた。明が腰を落として立っているのがやっとという風の中を、彼女はその長い髪をバタバタと靡かせながらも、眉1つ動かすことなく平然と直立している。

 そして唐突に、風が止んだ。あやめの掌にあった光が、いつの間にか消えていた。あれほど騒がしかった踊り場が、途端に静かになる。

 まるで先程の出来事は幻だったんじゃないかと疑うほどの変わりように、明はポカンと口を開けてあやめを見つめていた。

 そしてそんな彼に、あやめは、

 

「これくらいできなきゃ、術は教えられませんね。――それでは」

 

 冷たく言い放ち、再び踵を返して階段を降りていこうとする。

 

「…………、ま、待って!」

 

 しかしそれでも、明は諦めなかった。背後から呼び掛けられた声に、あやめはゆっくりとした動きで振り返った。その表情には、いい加減にしてほしいという呆れの感情がありありと見て取れた。

 

「今度は何ですか……」

「お、俺が力不足なのは分かったけどさ! それでも、あいつらを助けてやれる力が目の前にあるのに、あいつらを助けてあげられないなんて辛いんだ! 何かこう、上達するためのヒントみたいなものって無いかな?」

「……素人が関わるな、と何度も言っているつもりですが」

「頼む! この通り!」

 

 明はそう言うと、再び腰が直角に曲がるほどに深く頭を下げた。傍目には必死に頼み込んでいるように見えるが、あやめにとっては、了承の返事以外は一切聞き入れないという意思表示のようにも感じた。

 あやめは大きな溜息を吐くと、

 

「清音さんから“あの夜”の話を聞いているなら、その幽霊がガラスを割って襲い掛かってきたことも、当然聞いていますよね?」

「う、うん」

「それは一般的には“ポルターガイスト”と呼ばれるもので、一切手を触れることなく物を動かしたりする心霊現象です。除霊師の術にも、似たようなものがあります」

「うん……」

「では、除霊師の術など学んでいないはずの彼女が、なぜそれを使えたのでしょうか?」

「それは……」

 

 顎に手を当てて考え込む明だったが、いくら考えても答えが出てこなかった。

 降参の意を込めてあやめへと視線を向けると、

 

「それだけ、彼女の“想い”が強かったんですよ」

「“想い”……?」

「そう。彼女は小林先生に対して、並々ならぬ恨みを抱えていました。それが結果的に、そのような現象を起こす原動力になったんです。たとえ恨みという負の感情だとしても、想いは想いですからね」

「想いが、原動力に……?」

「後は、自分で考えてください」

 

 あやめはそう言い残して、階段を降りていった。

 やがて彼女の姿が見えなくなり、踊り場には明1人だけが取り残される。

 

「……想い、か……」

 

 授業開始の時間を知らせるチャイムが鳴り響いた後も、彼はそこから動く様子もなく、ポツリとそんなことを呟いた。

 

 

 *         *         *

 

 

「まったく、何してるんでしょうね……」

 

 忙しなく廊下を走り教室へと駆け込む生徒達の喧騒に紛れて、あやめはふとそんな言葉を漏らした。誰に対する言葉なのかは、言った本人しか知り得ない。

 そしてあやめは、先程の出来事を思い返していた。

 

 先程はあんな意地悪な対応をした彼女だったが、正直なところ明の芸当は、除霊師である彼女から見ても目を見張るものだった。1週間で、しかも専門の知識を一切持たずに独学であそこまで霊力を操れる時点で、彼に除霊師としての才能があると認めざるを得ないだろう。それとも認めるべきは、彼自身の“想い”の強さだろうか。

 しかもあやめの見たところ、彼の持つ霊力の高さもかなりのものだ。もしちゃんとした訓練を受ければ、ひょっとしたら優秀な除霊師になれるかもしれない。

 なのであやめは、明に対してそのことを正直に打ち明けても良かった。

 

 たった1つの“懸念”さえ無ければ。

 

「…………」

 

 ふと、あやめの脳裏に彼の姿が過ぎった。

 自分の力になりたいと言ったときの、彼の真剣な表情が。

 

「まったく、迷惑な……」

 

 ポツリと、あやめは忌々しげに呟いた。



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迷惑な人々(4/5)

 そして、その日の昼休み。

 一緒に昼食を摂ることがもはや日常となったあやめと清音と春は、春が自分の椅子を2人の席に持ち寄る形で集まり、それぞれ弁当を広げていた。

 

「ねぇ、そのおかず、昨日も見た気がするんだけど」

 

 あやめの弁当を横から覗き込んでいた清音がそう問い掛けると、あやめは何でも無いかのように頷いた。

 

「はい、昨日と同じですよ。スーパーで安売りしていたのを大量に買ったんで、後1週間はこれが続くと思います」

「……安倍さん、そのおかずとこれ、交換しよ?」

「ありがとうございます」

 

 そんな遣り取りで始まった昼食は、いつものように清音が喋り倒し、それに春が突っ込み、あやめが黙ってそれを聞いている、という図式になっていった。

 そして3人の弁当の中身が半分にまで減った頃、

 

「あ、そういえば」

「どうしたの、清音?」

 

 何かを思い出したように唐突に声をあげた清音に、春が問い掛けた。

 しかし清音は彼女にではなく、あやめに対してニヤニヤと気味の悪い笑みを向けた。彼女の言葉を無視して弁当を食べようとしていたあやめも、さすがにそこまでされて無視することはできない。

 あやめが清音へと視線を向けたのを見計らって、清音は口を開いた。

 

「佐久間くん、早退したんだって」

「……へぇ、そうですか」

 

 それを聞いて、あやめは先程の彼との会話を思い出した。

 術を教えてほしいという明に、それを拒否するあやめ。その代わりにあやめが与えた、術を成功させるためのヒント。

 そして、その直後の明の早退。

 もしも彼の早退の原因に、先程の会話が関係するならば、

 

「どうしたの、あやめ? 気になる?」

 

 清音の質問にあやめは答えず、いそいそと弁当を片づけ始めた。弁当をいつもの巾着袋に入れると、席を立って教室を出ていこうとする。

 清音と春は慌てて自分の弁当を持つと、彼女の後を追い掛けていった。

 

「どうしたの、安倍さん?」

「いえ、たまには気分を変えて、屋上で食べようかと思いまして」

「屋上?」

 

 確かにこの中学校は屋上に鍵が掛かっておらず、弁当は教室で食べなければいけないという校則があるわけでもない。なので屋上で昼食を摂る生徒の姿もよく見掛けるが、今日は何だか空模様が怪しくいつ雨が降るか分からないため、わざわざ屋上へ行こうとする者はいなかった。

 そしてあやめは、たとえ雲1つ無い快晴の日でさえ、わざわざ屋上まで足を運んで昼食を摂るようなタイプではなかった。

 

「ねぇねぇあやめ、私達も一緒に来て良いかな?」

 

 清音の申し出に、あやめは少しだけ考える素振りを見せて、

 

「別に、構いませんよ」

 

 それを聞いて満面の笑みを浮かべて礼を言う清音に、不思議そうに首をかしげる春。

 そんな2人を後ろに引き連れて、あやめは屋上へ続く階段を昇っていった。

 

 

 *         *         *

 

 

 学校から歩いて30分ほどの場所にある、ごくごく平凡な住宅街。平日の昼間という時間帯もあり、小学生以上の子供の姿はほとんど無く、せいぜい母親に手を引かれたりベビーカーに乗るほどに幼い子供しか見掛けない。

 ところが或る電柱の根本にて、Tシャツに短パンというラフな格好をした小学校低学年くらいの少年がひっそりと佇んでいた。それだけでも珍しいというのに、あろう事か彼の頭から真っ赤な血が滲んでいた。

 そんな少年を見掛けたとなれば、何かあったのか事情を訊いたり救急車を呼ぼうとするだろう。しかし先程から彼の前を何人もの大人が通り掛かっているというのに、誰1人彼の方へ視線を向けることすらせず、何事も無かったかのようにその場を去っていく。

 

 しかし、けっして彼らを冷たい人間だと責めてはいけない。

 なぜならその少年は、普通の人間には見えないからである。

 

 その少年が死んだのは、今から1週間ほど前。家族と車で出掛けたときに事故に遭い、そして全員が死んでしまった。それとほぼ同時に家族達はあの世へと旅立っていったのだが、どういう手違いがあったのか、その少年だけが取り残されてしまったのである。

 つまり彼は、死して尚この世に留まったままの幽霊である。既に死んでいるので痛覚は無く、見るからに痛々しい頭の怪我を本人がまったく気にしていないことがせめてもの救いだった。

 そんな少年の幽霊は、暇そうにあくびをしながらボーッと遠くを眺めていた。目の前を通行人が横切ったとしても、こちらの存在に気づかずに通り過ぎる彼らに意趣返しでもするかのように、少年が彼らに目を向けることは一切無い。

 

 そんな彼の耳に、こちらへと近づく足音が聞こえてきた。

 すると今まで散々通行人を無視してきたはずの彼が、途端にハッとしたように生気を取り戻し、頻りに辺りをキョロキョロと見渡した。

 そして彼の目が、1人の少年を捉えた。中学生くらいのその少年は、まっすぐこちらを見つめながら、まっすぐこちらへと歩いてきていた。普通の人間には絶対に見えない、幽霊である少年に向かって。

 その瞬間、少年の顔にはち切れんばかりの笑みが浮かんだ。

 

「明兄ちゃん!」

 

 そしてその少年の名前を叫ぶと、喜びを体で表すように彼の下へと駆け寄った。そんな彼を明は笑顔で出迎え、彼の頭を優しく撫でてあげた。普通の人間ならばまず触れることなどできない幽霊の頭を、である。

 

「兄ちゃん、最近全然来てくれなかったじゃん!」

「ごめんごめん、ちょっとやることがあってね」

「兄ちゃんが来てくれないから、オレ退屈で死にそうだったんだからな!」

「いや、もう死んでるじゃんか」

 

 ワシャワシャと髪を掻き混ぜられながら満面の笑みではしゃぐ少年に、そんな彼を見て優しく微笑む明。傍から見たら、とても仲の良い兄弟のようである。もっともそれは幽霊の見える者がその光景を見たらの話であり、普通の人間からしたら何も無い空間に手をかざして1人笑みを浮かべる怪しい中学生が立っているだけだ。

 元々人通りは少ない方だったが、周りの通行人は彼に対する奇異の目を隠すことなく、露骨に彼と距離を取って通り過ぎていく。そのせいもあって、彼らのいる道路には人っ子1人いなくなってしまった。

 

「それで兄ちゃん、除霊師の姉ちゃんから何か教えてもらえたの?」

 

 明の服の裾を掴んでそう尋ねてくる少年に、明はピタリと少年を撫でる手を止めると、先程まで浮かべていた笑みを消して小さく首を横に振った。

 

「そっか……。で、でもオレ、兄ちゃんと話すの結構楽しいからさ! 別にこのままでも構わねぇぜ!」

 

 そう言ってニカッと笑ってみせる少年だったが、ハの字になった眉が残念だと思う彼の本心を何よりも物語っていた。

 しかし、そんな少年の頭を、明は今までで一番強い力で撫でた。

 

「大丈夫だって。俺が、家族の所まで送ってってやるから」

「……できるの?」

「おう。俺を信じろ!」

 

 明は自分の胸をドンと叩いて、高らかに宣言した。そのあまりにも自信たっぷりな態度に、少年は思わず吹き出した。

 少年の顔に、笑顔が戻った。

 

「じゃあ、お願いね」

「あぁ、任せとけ」

 

 明のその言葉に、少年は静かに顔を俯かせて目を閉じた。明は少年の額の辺りに、そっと右手をかざす。

 目を閉じて、集中する。

 

 ――「除霊師の術など学んでいないはずの彼女が、なぜそれを使えたのでしょうか?」

 

 頭の中で、あやめの言葉を思い起こす。

 

 ――「それだけ、彼女の“想い”が強かったんですよ」

 

 想い。

 今からやることが成功するかどうかは、自分がどれだけ“想い”を強く持っていられるかに掛かっている。もちろん、除霊師としての鍛錬を積んできたあやめとは比べるまでもなく未熟ではあるが、不可能すらも可能にする力が自分にはあるのだと強く信じた。

 

 故に、明は想った。

 この子を家族のもとへ送りたい、と。

 この子を助けたい、と。

 

「おっ」

 

 すると明の右腕に、青白い光がポッと宿った。それはじわじわと輝きを増していき、やがて少年の体を包み込んでいく。明は知る由も無いが、その様子はあやめが『葬』を行ったときのそれと酷似していた。もっとも、スピードは向こうの方が段違いに速いのだが。

 上手くいっていることを手応えで感じ取った明は、さらに意識を集中させた。彼の右手から生まれた光はさらにその輝きを増し、少年の姿を曖昧にしていった。青白い光に溶け込み、そのまま消えていきそうな少年の姿に、明は「ひょっとしたら成功するかもしれない」と淡い期待を抱き始めた。

 

「よし、この調子なら――」

 

 

「ガアアア――」

 

 

 *         *         *

 

 

「来ましたか」

 

 学校の屋上(職員室から鍵を借りなければいけないため、生徒の姿はほとんど無い)で清音や春と弁当をつついていたあやめが、突然そう呟いて箸を置いた。

 

「来た? 何が?」

「?」

 

 スッと立ち上がったあやめに、おにぎりを頬張っていた清音が尋ねた。ウィンナーを咀嚼している春も、不思議そうに首をかしげている。

 

「もしかしたらと思って、念のために警戒してたんですが……。まったく、悪い予感というのは当たるものですね」

 

 あやめは若干不機嫌そうにブツブツ呟きながら、足早に屋上の柵へと歩み寄った。その柵に手を遣ってその向こう側に顔を向けるその姿は、屋上からの景色を眺めているように見える。学校の近くには大きな建物も無く、学校自体も小高い丘の上にあるため、かなり見晴らしは良い。

 

「あのとき、下手にアドバイスしなければ良かったですね……」

 

 しかしあやめはその景色を眺めている訳ではなく、むしろ目を瞑っていた。それでも彼女は目を瞑ったまま、グルリと辺りを見渡すように首を横に動かしている。

 その様子を、清音と春が後ろから眺めていた。

 

「何かまた面白そうなことが起こりそうな予感がする。これはついていかなくちゃ!」

「止めた方が良いんじゃない? なんか深刻そう」

 

 あやめの邪魔をしないように、2人がヒソヒソとそんなことを話していたそのとき、

 

「見つけた」

 

 あやめはそう呟くと、突然屋上の出入口に向かって走り出した。

 

「あ、待って! 私達もついてって良い?」

「駄目です。死にたくないでしょ?」

 

 あやめの後をついていこうとした清音だったが、彼女のその一言でその足をピタリと止めた。

 その隙にあやめは出入口へ駆け込み、その姿を消した。

 

 

 *         *         *

 

 

「ん? 明兄ちゃん、何か言った?」

「え? ――あぁ!」

 

 突然の少年の問い掛けに集中力を切らしたのか、少年を包み込んでいた青白い光が一瞬揺らめいたかと思うと、そのままスゥッと跡形も無く消えてしまった。

 

「せっかく上手くいってたのに……」

「でも、確かに聞こえたんだよ。何かの動物の鳴き声みたいな……」

「動物?」

 

 明は訝しげな声をあげるが、ビクビクと怯える少年の只ならぬ雰囲気に、明も真剣な表情で周囲を見渡した。

 と、そのとき、

 

「ガアアアア――」

「――――!」

「――――!」

 

 今度は明の耳にも、ハッキリと聞こえた。

 それと同時に、明は頭上から何かがいる気配を感じ取った。それは大きな手で上から押さえつけられていると錯覚しそうなほどに大きなもので、明の背中に今まで感じたことのない寒気が走るほどに不気味なものだった。

 明は恐る恐る、顔を上げた。

 

「な――!」

 

 少年の背後にある家の屋根に、そいつはいた。

 体高は明の2倍以上で、筋肉の盛り上がった蒼い体にライオンのようなたてがみ、そしてこめかみの辺りからグニャリと曲がった2本の太い角が生えている。四つん這いでいるそいつの手足はどれも太く、明の胴回りの何倍もあった。

 そして何より明の目を惹いたのが、その顔である。そいつのそれは、能などでよく見る般若の面によく似ていた。明らかに普通の生物ではない、まさに“バケモノ”という言葉がピッタリな風貌である。

 そいつは血のように赤い目(人間でいうところの黒目の部分が、どこにも見当たらない)で2人を睨みつけると、

 

「ウゴアアアアアアアアアアアァァァァ!」

 

 空に向かって高らかに吠えた。たったそれだけのことで、明の体がビリビリと震えた。

 

「――――」

 

 明は一目見て、そいつが幽霊の類であることを感じ取った。それと同時に、幽霊などとは比べるまでもなく危険な存在であることを、明の第六感が必死に告げていた。

 

 ――逃げなきゃ、まずい。

 

 本能的にそう思った明は、少年を小脇に抱えると全速力で走りだした。

 

「ウガアアアアアアアアアアアァァァァ!」

 

 バケモノは再び空に吠えると、その巨大な体躯からは想像できない軽やかな動きで屋根から飛び降り、どしいいいぃぃん! と大きな音をたてて着地した。幽霊であるはずなのに、アスファルトの道路にはバケモノを起点とした亀裂が放射状に深々と刻まれている。

 そしてそのまま、ドシドシと地響きをあげながら2人を追い掛け始めた。バケモノが1歩1歩踏みしめる度に、まるで地震のように明の足元を揺らしていく。

 それでも明は、その揺れに足元を取られそうになりながらも、少年を抱えて必死に逃げていた。

 

「明兄ちゃん! 何かあいつ、追いかけてきたよ! ねぇ、あいつ何なの!」

「んなの、俺が知るわけねぇだろ!」

 

 バケモノの動きは意外に素早く、2人と1頭の差は一向に縮まらなかった。それどころか少しでも気を抜くと、あっという間に追いつかれてしまいそうな勢いですらある。

 明は息も絶え絶えになりながら、近くの公園に逃げ込んだ。赤いシーソーや黄色い滑り台などがある極めて平凡なその公園には、幸いなことに人の姿は無かった。

 そのことに明がホッと息を吐いた、まさにそのとき、

 

「ガアアアアアアアアアアア!」

 

 想像以上に近くから聞こえてきたバケモノの雄叫びに、明はサッと顔を青ざめて後ろを振り返った。

 いつの間にかすぐ近くまで迫っていたバケモノが、力任せに腕を振り下ろそうとしている真っ最中だった。

 

 ずどおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉん!

 

「うわっ!」

 

 腕自体は明を逸れて地面にぶち当たるだけだったが、まるで爆発でも起きたかのような音と衝撃が2人に襲い掛かった。明は紙くずのようにあっさりと吹っ飛ばされ、数メートルほど宙を舞った後、背中を強かに打ちつけた。

 一瞬意識が遠のきかける明だったが、何とか気合いでそれを押し留めると、すぐさま体を起こして少年の行方を探した。

 

「明兄ちゃん!」

 

 声のした方へ顔を向けると、少年はすぐに見つかった。

 少年は、バケモノのすぐ足元に転がっていた。

 そしてバケモノは、その少年に向けて今にも腕を振り下ろそうとしていた。

 

「危ない!」

 

 明が叫ぶが、腰を抜かしてしまったのか、少年はバケモノを見上げて震えるだけで動けそうになかった。

 

「た、助け――!」

「ウガアアアアァァァァ!」

 

 バケモノの雄叫びと共に、樹齢数百年もある大木のような腕が、少年へと襲い掛かった。



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迷惑な人々(5/5)

 があああああああああああぁぁぁぁん!

 

 けたたましい音が公園を越えて辺り一帯に鳴り響き、ビリビリと空気が震えるほどの衝撃の余韻が明の体に鈍く伝わってきた。腕が振り下ろされる直前に思わず目を閉じてしまった明は、絶望的な表情を浮かべながらガタガタとその体を小刻みに震わせている。

 しかし、いつまでもそうしている訳にはいかない。明は覚悟を決めて、顔を真っ青に染めながらもその目をゆっくりと開けた。

 

「……あれ?」

 

 しかし明の目の前に広がっているのは、彼が想像していた最悪の光景とは違うものだった。

 少年はバケモノの腕に潰されることなく、明が目を閉じる直前にいたときと寸分違わず存在していた。

 しかし明が目を閉じる直前までとは違い、その空間だけを切り取るように青白い透明な壁が彼の周りを取り囲んでいた。そしてバケモノの腕はその壁に阻まれ、少年まで届いていなかった。壁に囲まれている少年は訳も分からず戸惑っており、バケモノの方も(般若のような顔から感情が読み取れないものの)同じように戸惑っているように見える。

 つまりその壁は、少年とバケモノ、そのどちらかが出した訳ではないということだ。

 

「もしかして……、これが『界』ってヤツ?」

 

 驚きの表情でその光景を見つめていた明だが、ふと思い出したようにそう呟いた。それは先日、清音からあやめの除霊についての話を聞いたときにも出てきた、何かを閉じ込めたりするときに使う除霊師の術だったはずだ。

 

「ま、まさか……」

 

 明はワナワナと震えながら、自分の両手をじっと見つめた。

 

「これが……、俺の力?」

「そんな訳ないでしょ」

 

 容赦の無いそのツッコミは、明のすぐ背後から聞こえてきた。

 彼が振り返ると、そこにはよく見知った顔がいた。

 

「安倍さん!」

「とりあえず、間に合ったみたいですね」

 

 あやめは少年の様子を確認しながら、無表情ながらもホッとしたように溜息を吐いた。

 ホッとしたのは明も同じであり、むしろ明の方がそれは大きいようで、ほとんど泣きそうになりながら彼女の下へと駆け寄っていった。情けない姿だとは彼も思っているものの、殺されそうになったのだから仕方ないだろう。

 

「あ、安倍さん! あ、あの鬼みたいなバケモノは何なの!」

 

 そしてあやめの傍に来て安心したのか、明は先程までの恐怖を全て吐き出すように、バケモノを指差して叫ぶようにそう尋ねた。

 するとあやめは、若干驚いたように目を丸くして、

 

「よく分かりましたね。佐久間さんの言う通り、あいつは“鬼”ですよ」

「……えっ? 本当に“鬼”なの……?」

「はい。幽霊の中には時々、その想いの強さから極端に霊力の大きい人がいます。しかしそういう人は大抵、その霊力に自身が耐えられないんですよ。そうやって霊力に自我を呑み込まれてしまった霊の成れの果てが、あそこにいる“鬼”です」

 

 あやめが一通り説明したところで、そのバケモノ――あやめの言うところの“鬼”が彼女の存在に気がついた。

 そして動物としての本能か、先程までの明達にはけっして見せなかった“警戒”の色を浮かべながら、“鬼”は彼女へと向き直り、頭を低くして今にも跳び掛かりそうな体勢となった。よく耳を澄ませてみると「グルルルルル――」といった唸り声も聞こえてくる。

 

「気をつけて、安倍さん! そいつ――」

「分かってますから、静かにしてもらえますか?」

 

 視線を“鬼”から外すことなく、ほんの少し刺々しい声でそう言い放ったあやめに、明は咄嗟に口に手を当てて黙り込んだ。バケモノを目の前にして、怖がったり興奮したりせずに平常心のままでいる彼女に、明はすぐさま思い至った。

 今まで彼女がどれほどの場数を踏んでいるのか、を。

 と、そのとき、

 

「ウガアアアアアアアアァァ!」

「――――!」

 

 ビリビリと空気を震わせるほどの“鬼”の咆哮が、あやめ(と隣にいる明)に襲い掛かった。明がそれに怯んだその僅かな合間に、“鬼”が大木のように太い腕や脚の筋肉を一気に盛り上がらせると、地面を思いっきり蹴りつけてあやめとの距離をほとんど一瞬で詰めた。

 そしてその勢いのまま“鬼”は右腕を振り上げ、それを彼女の頭めがけて振り下ろしてきた。

 しかしあやめはその一連の動作を、“鬼”と対峙したときの姿勢のまま、ただじっと見つめているだけだった。

 

「――安倍さん!」

 

 明が思わず叫んだ。それでもあやめは、まったく動こうとしない。

 “鬼”の右腕があやめの頭を捉え、力任せに地面に叩きつける、

 まさに直前、

 

 がっ――。

 

「え……」

 

 自分よりも何倍も大きな“鬼”の拳を、あやめは左手だけで受け止めた。その動きはまるでキャッチボールで山なりの緩い球を受け止めたときのようにあっさりとしたものだが、“鬼”の右腕はピタリと止まり、それ以上進むことは無かった。

 

「え……、え?」

 

 明が驚きのあまり、意味の無い声を漏らすのみだった。青白い壁越しにそれを見ていた少年も、ポカンと口を開けていた。

 

「ウ、ウガアアアアアアァァァ!」

 

 “鬼”は一瞬戸惑う様子を見せたが、今度は左腕を振りかぶって横殴りに薙ぎ払ってきた。猛烈な風を纏った、幅だけであやめの胴体はありそうな腕が、彼女に容赦無く襲い掛かってくる。

 しかし、

 

「無駄ですよ」

 

 あやめが右手で“鬼”の腕を下から小突くだけで、それはあっさりと軌道を変え、彼女の頭上を豪快に振り切った。

 

「あ……あの……、安倍さん……?」

 

 その声に、あやめは視線だけをチラリと後ろへ向けた。そこにいた明は、目の前の光景が信じられないとでも言いたげに口をあんぐりと開けている。

 あやめは呆れたように溜息を吐いて、

 

「念の為に言っておきますけど、私が特別力持ちという訳ではありませんよ」

「へっ? そ、そうなの?」

「こんな(なり)をしていますが、“鬼”も所詮は幽霊です。その運動能力や破壊力は、全て霊力に依存します。つまり、相手が殴りかかってきたのなら――」

 

 説明の最中であるあやめに、“鬼”の右腕が容赦なく振り下ろされた。しかし彼女はそちらに目を向けることもなく、右手だけで何の苦も無くそれを受け止めた。

 

「――それ以上に大きな霊力で、捻り潰してやれば良いんですよ」

 

 そして“鬼”の腕を受け止めたときには、あやめの左手に青白い光の球が出来上がっていた。それは手の平で覆えるくらいに小さなものだが、そこから感じる力は、あのとき階段の踊り場で見せたときのものとはまるで違う、とても禍々しいものだった。

 

「――『砲』」

 

 あやめが小さく呟くと、それは“鬼”に向かってまっすぐ放たれた。

 それは一瞬で、そして的確に“鬼”の鳩尾にめり込むと、ぱぁん! と音をたてて破裂した。

 

「ガアアッ!」

 

 音自体は爆竹のような軽いものだったが、“鬼”が苦悶の声をあげ、その体は完全に宙に浮いた。そのまま10メートルほど吹っ飛ばされると、豪快な地鳴りと共に背中から叩きつけられた。その際、子供達に人気の黄色い滑り台が巻き込まれて鉄屑と化した。

 仰向けになったその姿勢でもがき苦しむ“鬼”の姿に、

 

「なかなかしぶといですね」

 

 あやめはポツリとそんな感想を呟くと、両手を青白く光らせた。一瞬で、その両手に先程と同じ光の球が出来上がる。

 

「――『砲』」

 

 そしてあやめは、それを“鬼”に向かって投げつけた。2つの光の球はまっすぐ“鬼”へと飛んでいったかと思うと、突如空へと跳ね上がって“鬼”の真上辺りで静止した。

 そして重力で引っ張られるように、2つの光の球は高速で地面へと落ちていった。

 つまり、高速で“鬼”の鳩尾へとぶち当たった。

 

「ウガアアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 1発目で“鬼”は苦痛にもがいてその腕を空へと伸ばし、2発目で腕をビクンッ! と引き攣らせた。

 そして数秒ほど経った頃、“鬼”はその腕を地面へと投げ出し、ピクリとも動かなくなっていた。

 

「……鬼だ」

 

 明が、ポツリと呟いた。

 

 

 

 

 真昼の公園で、1頭の“鬼”が青白い光となってあの世へ旅立っていった。

 明は離れた場所から、その光が空へと昇っていき消えていく様子を、そしてその光に照らされるあやめの後ろ姿を眺めていた。明が見惚れてしまうほどに、それは幻想的な光景だった。

 

「さてと、次は――」

 

 あやめはそう呟くと、少年へと顔を向けた。それは“鬼”と戦っていたときとまったく同じ、感情の読み取れない無表情なものだった。だからなのか、少年は僅かに体を震わせて怖がっていた。

 と、そのとき、

 

「安倍さん、待って」

 

 明が、躊躇いがちに声を掛けてきた。

 

「何ですか?」

「その子の除霊、俺がやっても良いかな?」

「駄目です」

 

 即答だった。それでも明は食い下がる。

 

「頼む。俺が送っていってやりたいんだ」

「あなたには無理です」

「そ、そんなことは無い! さっきだって、途中まではできたんだ。あのバケモノが邪魔しなければ――」

「“鬼”が邪魔をしてきた、というのが問題なんです」

 

 あやめの言葉に、明が首をかしげる。

 

「……どういうこと?」

「あの“鬼”は、あなたが力を使い始めた途端に姿を現したものです。実際、私はそのときまであの“鬼”の気配を感じ取れませんでした」

「……つまり?」

「あのとき、あなたの霊力を見せてもらったときからそんな気はしていたのですが、今回の騒動で確信しました。――どうやら、あなたの霊力には“災厄”を呼び寄せる力があるみたいです。あの“鬼”は、あなたの霊力に釣られてやって来たのでしょう」

「そ、そんな――」

「今回はたまたま私が間に合ったから良いですが、次に襲われることがあったら、今度こそ死ぬことになるかもしれませんよ。ひょっとしたら、あなたの大切な人達も巻き込まれるかもしれませんね」

「…………」

 

 明はショックを隠せない様子で、唇を噛みしめて顔を俯かせていた。少年のためにやったことが逆に少年を危険に晒す結果となったのだから、無理もないだろう。

 一方あやめも、そんな明に何か声を掛けるでもなく、ただじっとその様子を見つめている。

 そんな中、

 

「あ、あの……」

 

 2人の遣り取りを見ていた少年が、遠慮がちにあやめに声を掛けてきた。あやめが少年へと視線を向ける。

 

「オレは……、明兄ちゃんに、除霊してもらいたい、です……」

 

 その言葉に、あやめは目を細くする。

 

「……私の方が早いですし、確実ですよ?」

「そ、それでも……、明兄ちゃんに、してもらいたいです……。ずっと1人で寂しかったとき、話し相手になってくれたのは、明兄ちゃんだけだったから……」

 

 あやめは視線を、少年から明へと移した。少年の言葉を聞いて尚、明は迷うような表情を浮かべている。

 それを見て、あやめは大きく溜息を吐いた。

 

「佐久間さん、やってみますか?」

 

 あやめのその言葉に、明は大きく目を見開いて驚きを顕わにした。

 

「え……! で、でも、良いの?」

「良いも悪いも、彼がそれを望んでいるのですから、仕方ないでしょう」

「で、でも、さっき無理だって……」

「邪魔が入らなければできるんでしょう? でしたら私が傍で監視してますし、何か起こったときは即座に対処します。――ですから、何があっても絶対に集中力を切らさないでくださいよ?」

「わ、分かった!」

 

 明は満面の笑みを浮かべて、力強くそう言い切った。傍で2人の遣り取りを見ていた少年も、パァッと晴れやかな笑顔を見せる。

 そんな2人の姿に、あやめもフッと笑みを漏らした。

 

 

 

 

「――『葬』」

 そして公園にいた3人は、2人になった。

 

 

 *         *         *

 

 

 そして、次の日。

 通学路で、校門で、校庭で、昇降口で、廊下で、そして教室で、あやめは擦れ違う大半の女子から睨まれていた。なんであんな奴が、といった声が漏れ聞こえてきたりもした。

 

「……なんででしょうか」

 

 あやめが戸惑いながらも席に着くと、今日は先に来ていた清音と春が、あやめの傍へと駆け寄ってくる。

 

「おっはよー!」

「おはよう、安倍さん」

「おはようございます」

 

 挨拶もそこそこに、清音がズイッとあやめへ顔を近づけてきた。

 

「で、あれからどうなったの?」

「何がですか?」

「もぅ、とぼけちゃってー。あれから、佐久間くんのところに駆けつけたんでしょ? それで、何があったの?」

 

 途端に、教室中がにわかに騒がしくなった。教室だけでなく、廊下で遠巻きにあやめを睨んでいた女子生徒達も、ザワザワと何かを話している。

 

「……清音さん、そのことを誰かに話しましたか?」

「いや、私が広めた訳じゃないよ? たまたま私が話してたのを、偶然近くにいた子に聞かれちゃって。そしたらバァッと噂が広まっちゃったんだよ」

 

 清音は、何の悪びれも無くそう答えた。

 あやめは無表情のまま、右手に青白い光を溜め始めた。

 

「安倍さん……?」

 

 しかし、春の怯えたような声に、あやめはその光を静かに消した。

 と、そのとき、廊下がさらに騒がしくなった。あやめがうんざりした様子で目を遣ると、教室の入口に明が立っているのが見えた。そして例のごとく、ニコニコとあやめに手を振っている。

 

「ほらあやめ、王子様が呼んでるよ」

「――清音さん」

「ごめんなさい」

 

 あやめは見るからに面倒臭そうに立ち上がると、明の前へと歩み寄った。噂の2人のツーショットに、周りの女子達から小さな悲鳴があがる。

 

「何か、用ですか?」

「うん、えっとね……」

 

 明はしばらく言い淀んだ後、用件を話し始めた。

 

「駅前の大通りから1本裏に入った所にさ、女の子の幽霊がいるんだよね。何とかならないかなぁ、って……」

「…………」

「ほ、ほら、俺は自分の力で除霊はできない訳でしょ? でも、こうして安倍さんに伝えれば、その幽霊達も助けられるかなぁ、なんて……」

 

 あははは、と笑う明を、あやめは睨みつけるようにじっと見つめていた。その表情には怒りや呆れ、そしてある種の諦めにも似たものが混ざっていた。

 

「……分かりました。放課後にでも、そこに行ってみようかと思います」

「良かった、ありがと! それじゃ、放課後に校門で待ってるから!」

「はい? あなたも来るんですか?」

「うん、まぁ、俺にできることなんて道案内くらいだけどさ、少しでも安倍さんの力になりたいから……」

「ならなくて良いです。1人で行けますので、ご心配なく」

「そうだ! 俺が安倍さんのボディーガードになるよ! いくら術が使えるとはいえ、女の子1人で裏通りを歩くなんて危険だからね!」

「いえ、あの――」

「大丈夫! 昨日はあれだったけど、俺空手習ってるから、腕には自信あるんだ! ――それじゃ、また放課後に!」

 

 言いたいことだけ言って、明は猛スピードでその場を走り去っていった。自分の教室に入っていく明の姿を、あやめはじっと眺めていた。

 周りに目を遣ると、今にも噛みつかんばかりにこちらを睨みつける女子生徒達の姿が目に入る。

 後ろを振り返ると、清音がニヤニヤといやらしい笑みを浮かべてこちらを見ていた。隣にいる春も、若干頬を紅らめて苦笑いを浮かべている。

 あやめは今までで一番大きな溜息を吐くと、ポツリと呟いた。

 

「まったく、迷惑な……」

 

 そして、あやめは願った。

 願わくば、明のクラスよりも先にホームルームが終わりますように、と。



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彼の分まで生きる(1/3)

 北斗駅から車で10分ほどの距離にある市立北斗中央病院は、日本でも有数の大きさを誇る病院である。

 小高い丘を丸々1つ使った広大な敷地の中に、オフィスビルかと見紛う全面鏡張りの建物が幾つも隣接している。そんな巨大な建造物の中には全部で30以上もの科が存在しており、それぞれに最新式の設備を取り揃えている。そこで働く医師もかなり優秀で、中には世界にその名を轟かせる者もいるくらいである。

 しかし、充実しているのは医療だけではない。敷地内にはコンビニや銀行や郵便局などはもちろん、果てはエステなんてものまで完備している。それはまるで、この病院自体がさながら1つの街のようだ。 

 食事面もかなり充実している。喫茶店から本格的なレストランまで、様々なジャンルの料理が幅広く揃っている。これらは主にお見舞いに来た人向けのものであるが、食事療法の対象外である患者ならば利用できるし、病室までデリバリーすることも可能だ。

 

 さて、これだけ充実した病院ともなると、当然利用客もかなりの数になる。現にどこのテーマパークかと思うくらいに広い駐車場は午前中にも拘わらずほとんど埋まっているし、駅から無料で出ているシャトルバスも入れ替わり立ち替わりで駅と病院を往復している。

 そして今も、駐車場から、そしてバス停から多くの人々が病院の入口へと向かって歩いており、長い行列を作っていた。どこかしら具合の悪い人が集まっていることもあり、その足取りはやけにゆっくりだ。

 

 そんな中、その人々の間を縫うように颯爽と歩く1人の少女がいた。

 染み1つ無い白い肌に艶やかな長い黒髪の映える、まるで高級な日本人形のような少女だった。今はどこかの学校の制服を着ているが、さぞ着物が似合うだろうと、見たこともないのに確信できてしまう。そんな美少女が肩で風を切って歩く姿は、それだけで絵になる光景だ。

 そんな美少女・安倍あやめは、入口の大きな自動ドアを潜り抜け、吹き抜けとなった開放的なロビーを歩いて受付へと向かった。この受付もかなり立派なもので、一流企業のそれと何ら見劣りしない。

 

「すみません。松山清音さんの友人なんですが、病室はどちらでしょうか?」

 

 あやめの言葉に受付の女性は「少々お待ちください」と言って、目の前のパソコンに文字を打ち込んでいった。一瞬にして画面が切り替わり、入院患者のリストが表示される。

 

「3005号室です。正面をまっすぐ進んだ先にエレベーターがあるので、3階まで上がってください」

「ありがとうございます」

 

 あやめは優雅な所作でお辞儀をすると、女性の言った通りにロビーを抜けた先にあるエレベーターに乗って3階まで上がった。

 エレベーターの目の前は多くの看護師が忙しなく行き交うナースステーションであり、彼女はたまたま目の合った看護師に会釈してからその場を離れた。チラチラとドアの脇にあるプレートに目を遣りながら廊下を歩いていくと、やがて“3005”と刻まれたプレートの貼られたドアの前までやって来た。6人が入れる大部屋だが、現在は1人しかいないようだ。

 そこには、“松山清音”と書かれていた。

 あやめはそれを確認すると、軽くノックをしてそのドアを開けた。

 

「清音さん、大丈夫ですか?」

「おぉ、来てくれたんだね、あやめ!」

 

 あやめの呼び掛けに応えたのは、聞いているこちらが脱力しそうな程に気の抜けた声だった。

 

「いやぁ、入院って本当に暇なんだねぇ! これだと、怪我が治る前に退屈で死んじゃいそうだよ!」

「骨折なんですから、当たり前でしょう。その調子だと、怪我の具合は深刻ではなさそうですね」

「まぁね。1週間くらい安静にしていれば、普通に退院できるみたい」

「そうですか。何よりです」

 

 あやめはそう言いながら、清音の右腕に装着されているギプスに視線を移した。

 清音が怪我したことを春から知らされたのは、昨日の夜のことだった。

 昨日の夜は強い風を伴った強い雨が降り注いでおり、そのせいで清音の自宅の屋根に取りつけられたアンテナが曲がって、テレビが観られなくなったらしい。普段はそのような修理は父親の役目なのだが、すぐにテレビを観たかった清音が屋根に上って修理しようとし、うっかり足を滑らせて腕を骨折したという訳だ。

 

「いやぁ、骨折って初めての経験だけど、すっごく痛いんだね。救急車で運ばれてる間、ずっと叫んでたよ」

「ですが、大事でなくて良かったですね」

「おっ、ひょっとして心配してくれたの? ありがとう、あやめ!」

 

 そう言って抱きついてきた清音を、あやめは両腕で突っぱねながら「はいはい」とぞんざいな返事をした。

 と、そのとき、病室のドアがガラリと開かれ、見知った顔の少女が入ってきた。

 

「あっ、安倍さん来てくれたんだね」

「おはようございます、春さん」

 

 おそらく一足早く清音のお見舞いに来ていたであろう春が戻ってきた途端、清音が大きく手を挙げて「ねぇねぇ!」と大声で呼び掛けてきた。

 

「せっかく3人揃ったんだからさ、ここじゃなくてどっか別の場所に行かない? この時間テレビは面白いのやってないし、病院だからケータイも使えなくて暇なんだよ」

「うーん……、安倍さんはどうする?」

「良いですよ。腕の骨折なので、多少歩くくらいなら問題無いでしょうし」

「よしっ! そうと決まればレッツゴー!」

 

 普段から学校でも騒がしい彼女にとって、入院生活は想像以上に過酷なようだ。

 おおはしゃぎする清音の姿に、春とあやめは顔を見合わせて笑みを漏らした。

 

 

 *         *         *

 

 

 いくら腕の骨折とはいえ入院患者である清音が自由に外を歩き回れるはずもなく、病室を出た3人は清音の案内で病院内を歩き回ることとなった。たかが1日病院にいただけなのに大丈夫か、とあやめは最初思ったが、実際彼女はその1日で建物が幾つもある広大な病院を完全に把握したらしく、地図も無いのに迷うことなく案内してみせたのには2人も驚いた。

 病院の中も、外観に負けず素晴らしいものだった。最新の設備が整っていることもそうだが、それ以上に患者を第一に考えた手厚い医療システムが目を惹いた。例えば1階には“総合診療科”と呼ばれる場所があるが、ここはどの科で受診すれば良いか分からない人のために、最初に簡単な問診を受ける場所である。これにより、原因が分からずにあちこちの科をたらい回しにするといった事態がほとんど無くなったそうだ。

 現在あやめ達3人は、その総合診療科の前に置かれたソファーに並んで座り、自動販売機で買ったジュースを飲んでいるところだった。そこには一度に300人くらいは座れそうなほどにソファーがズラリと並んでいるが、そのほとんどが人で埋まるほどの盛況っぷりだ。

 

「それにしても、今まで来たこと無いから分からなかったけど、この病院ってこんなに大きかったんだね。まさか銀行とか郵便局まであるなんて……」

「私も看護師さんから聞いたんだけど、実際この病院って結構凄いみたいだよ。最新のヤツが揃ってるから、市内だけじゃなくて県外からも患者さんが来るんだって」

 

 清音の言葉に、あやめは缶のウーロン茶を口にしながら周りへと目を遣った。確かに清音の言う通り、ざっとロビーを見渡しただけでも多くの人々の姿を見掛けることができる。

 看護師に呼ばれて診察室に入っていく人。

 それの順番が回ってくるまで、ソファーに座って手持ちぶさたに待っている人。

 右腕に繋がっている点滴をからからと動かして散歩する、ここに入院しているのであろうパジャマ姿の人。

 それとは別のパジャマ姿の男性と一緒に喫茶店でコーヒーを飲んでいる、彼を見舞いに来たのであろう人々。

 先程ここの駐車場を“テーマパーク”と形容したが、ひょっとしたら、ここはそれ以上に賑わっているのかもしれなかった。

 

「確かに、この病院はかなり有名ですからね。私もここに引っ越してくる前から、この病院の評判は耳にしていましたよ」

「へぇ、そうなんだ?」

「はい。実際にこうして見てみると、この病院はかなりのものですね。設備も整っていますし、病院自体の規模もかなり大きい。それに何より、患者に対する配慮が隅々まで行き届いているのが見て取れます。こんな素晴らしい病院、私は初めて見ましたよ」

「ふーん、小さい頃からこの街に住んでるから、そういうのは全然気にしなかったなぁ。まさかここが、こんなに凄いものだったとはねぇ……」

 

 感心したように頻りに頷く春を横目に、あやめは再び周りへと視線を移した。

 その表情には、傍目には分からない程に微かな影が差していた。

 

 彼女は先程、この街に来る前からこの病院をのことを知っていた、と話していた。

 それは当然だろう。なぜなら彼女は、この病院があったからこそ、この街を修行の場として選んだのだから。

 

 日本でも有数の大病院であるここは、春が言った通り、周辺の街に住む患者を一手に引き受けている。外来患者数、入院患者数、稼働率、どれを取ってもこの病院は他のそれを圧倒的に上回っている。

 だからこそこの病院には、そしてこの街には、他の街に比べて桁違いに多いものがある。

 それは、死人の数である。

 大きな病院ともなると、扱う患者の数もかなりの数に上る。すると必然的に、死亡する患者の数も他の病院に比べて多くなる。そうすると当然のように、成仏せずに現世に留まる幽霊の数も多くなる。

 除霊師としての経験を積むには、数をこなすのが一番だ。ならば、幽霊の数は多いに越したことはない。だから除霊師が修行を行うとき、よく人が死ぬ場所を選ぶのである。ちょうど、この街のように。

 とはいえ、“大きな病院があるから”というのは、死人が多い理由としてはまだマシな方だろう。大抵は“自殺の名所だから”とか“昔そこに処刑場があった、または今もあるから”なんて縁起の悪い理由が大半なのだから。

 

 あやめはこの街に来る前、除霊の対象である幽霊に言われたことがある。

『おまえら除霊師は、死んだ人間をタネに飯を食っているハイエナだ。おまえのやってることは、単なる死者の冒涜だ』

 まったくその通りだ、とあやめは思わず鼻で笑った。

 

「――さん! 安倍さん!」

 

 ふいに体を揺さぶられる感覚がしたかと思うと、耳元で思いっきり名前を叫ばれた。いつの間にか思考に気を取られてしまい、知らず知らずの内に2人の声を無視してしまったらしい。

 

「……どうかしましたか、春さん?」

「安倍さんこそ、どうしたの? 急に黙っちゃって。こっちが話し掛けても全然返事してくれないし」

「ごめんなさい、考え事に夢中になっていました」

 

 あやめがそう言って頭を下げると、清音が申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「……えっと、ひょっとして疲れてる? そうだよね。あやめは学校だけじゃなくて、夜は除霊師の仕事もしてるんでしょ? だったら、せっかくの休日くらいゆっくり眠りたいよね……」

「大丈夫ですよ。普段から体調管理には気をつけているつもりですし、今日は何の予定も無かったので、むしろ良い暇潰しになりました」

「ちょっとー! 私のお見舞いは単なる暇潰しだったの? ひどいなぁ」

 

 あやめを責めている口調ではあったが、清音の表情はホッと胸を撫で下ろしたようだった。

 

「それで、何の話ですか?」

「いや、大した話じゃないんだけどね。そろそろお昼だし、せっかくだからこの病院のレストランで何か食べようか、って思って」

「ここって凄いんだよ! 和食とか中華とかイタリアンとか、色んなレストランが揃ってるの! どっかのショッピングモールかってくらい!」

「そうですね。もう正午をとっくに過ぎていますし、せっかくですからここのレストランにでも――」

 

 どこか嬉々とした様子でそう話していたあやめだったが、突然、その声が途切れた。不思議そうに眉を寄せた春と清音が、あやめの顔を覗き込む。彼女は険しい表情で、或る一点を凝視していた。

 その視線を追うように、2人もそちらへと視線を移す。

 そこには、少年と少女がいた。

 歳は2人共10歳前後で、顔つきが似ているのでおそらく兄妹だろう。2人共車椅子に乗っていて、そして2人共気が抜けたようにぼんやりと前を見ていた。

 

「大丈夫。リハビリを続けていれば、絶対にまた歩けるようになるから」

「そうよ。そしたら、また2人でいろんなところに自由に行けるようになるんだから、それまで一緒に頑張ろう」

「…………」

「…………」

 

 そんな2人の車椅子を押しながら、2人の看護師が明るい声で少女達に話し掛けていた。しかしそれを聞いているのかいないのか、2人からの返事は無かった。

 4人が、あやめと春の前を通り過ぎていく。

 そのとき、少女とあやめの目が合った。あやめはただその少女を見ていただけなのだが、少女はその視線から逃げるようにすぐさま目を逸らしてしまった。

 やがて4人は角を曲がり、あやめ達からは見えなくなった。

 

「どうしたんだろう、今の子。何だか“心ここにあらず”って感じだったけど……」

 

 ぽつりと呟いた春の疑問に、あやめは答えなかった。腕を組んで、何かを考え込むように目を瞑っている。

 

「あやめ、どうしたの?」

「いえ、今の2人、変だなと思いまして」

「変? どこが?」

 

 清音と春の見たところ、特に変わった様子は見受けられなかった。確かに少し虚ろなようにも思えたが、リハビリが上手くいかなくて落ち込んでいると考えれば何ら不思議は無い。

 

「何なんでしょうね、この違和感は……」

「……ひょっとして、幽霊が取り憑いてるとか?」

「いえ、そうではありません。この違和感は、むしろ逆ですね」

「逆?」

 

 ますます訳が分からなくなって混乱する2人を尻目に、ふいにあやめが立ち上がった。その足は、先程少女達が曲がっていった角へと向けられている。

 

「あやめ、ひょっとして、あの2人のことを調べるの?」

「はい。どうにも気になるので。――2人は気にせずに、お昼を食べてて大丈夫ですよ」

 

 そう言ってその場を立ち去ろうとするあやめに対し、清音と春の2人もソファーから立ち上がって歩き始めた。

 2人の足は、あやめと同じ方向を向いていた。

 

「…………」

「ねぇあやめ、私も一緒についていって良い?」

「……私が席を外してほしいと頼んだとき、素直に応じてくれますか?」

「うん」

 

 力強く頷く2人に、あやめは小さく溜息を吐いた。

 

「それならば良いですよ。行きましょうか」

 

 あやめはそう言って、先程4人が曲がっていった角へと向かう。

 除霊師としての経験を積むために。



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彼の分まで生きる(2/3)

 敷地内に幾つかある建物の屋上は空中庭園となっており、患者達にとって、そして病院を訪れた人々にとっての憩いの場となっている。

 足への衝撃を和らげるために特殊なゴムが使われてた散歩道は、その両隣が花壇となっていて、四季によって違う顔を見せて人々の目を楽しませてくれる。中央にある噴水は水の流れる音が人々の心を落ち着かせる効果を生み、子供達が走り回っても禿げることのない芝生はたとえ転んでも怪我から人々を守ってくれる。

 なのでそこはよく、ここに入院する患者達のリハビリの場としても使われていた。

 

 噴水からほど近い場所で2人の看護師に付き添われている少女と少年も、その例に漏れずリハビリに励んでいた。今はちょうど自分の足で立ち上がる訓練をしている最中であり、看護師の1人が少女の両手を取って慎重に立ち上がらせようとしている。

 しかし少女の腰が車椅子から離れた瞬間、彼女は膝から崩れ落ちるようにして前に倒れ込んでしまった。看護師が慌てて彼女を支えて、ゆっくり車椅子へと戻す。少年の方も結果は同じであり、2人は先程からそれを何回も繰り返していた。

 そして2人が倒れ込む度に、看護師は「大丈夫、焦らなくて良いから」とか「きっと立てるようになるから落ち込まないで」などの励ましの言葉を努めて明るい声で掛けている。しかし2人の反応はどうにも薄く、2人共ぼんやりした表情のまま口を開こうとしない。

 そんな4人の様子を、あやめ・清音・春の3人が少し離れた所にあるベンチに座って眺めていた。

 

「うーん、なかなか上手くいってないみたいだね……」

「ねぇ、あやめ。さっきから見てるけど、特に変なところは無いよ?」

「……いえ、私はどうにも違和感を覚えて仕方ありません。でも確かに、ここからじゃ詳しいことは分かりませんね。直接話ができれば良いのですが……」

「あぁ、それじゃ私が取り次いであげよっか?」

 

 何てことないかのように言う清音に、あやめが訝しげな表情を彼女に向けた。

 

「清音さん、取り次ぐって……どうするんですか?」

「どうするも何も……、ただ真美ちゃん達に2人を紹介すれば良いんじゃないの?」

 

 清音の言葉に、あやめの訝しげな表情が驚きに変化した。

 

「……清音さん、あの2人のことを知ってるんですか?」

「ここに入院してから知り合ったんだよ。私の病室と同じ階でね、もう4ヶ月くらいここにいるって言ってたかな?」

「……清音さんが入院したのって、昨日の夜でしたよね?」

「そうだけど、それがどうかした?」

「…………」

 

 あやめは清音の質問には答えず、春へと顔を向けた。たったそれだけで春には彼女の言いたいことが読めたらしく、苦笑いを浮かべて口を開く。

 

「清音はね、いつもこうなんだよ。私と違ってすぐに知らない人とも仲良くなれるから、友達の数ももの凄く多くて。2人でいるときに私の知らない人が声を掛けてくるとかしょっちゅうだし」

「それでも私の一番の親友は春だよーん」

「はいはい、ありがと」

 

 ふざけるように抱きついてくる清音に、春は軽く彼女の頭を叩きながら棒読み気味に答えた。しかしその口元は微笑んでいるので、まんざらでもなさそうだ。

 

「知り合いなら話は早いですね。清音さん、お願いできますか?」

「オッケー! 任せなさい!」

 

 清音は親指を立てて威勢良く返事をすると、すぐさまベンチから立ち上がって少女達4人の所へ駆けていった。反応の遅れたあやめと春が、若干慌てた様子で彼女の後に続く。

 

「やっほー、紳二くんに真美ちゃん! 元気にやってる?」

 

 入院しているのだから元気な訳ないでしょう、とあやめと春は思ったが口には出さなかった。

 

「あっ、清音さん……。こんにちは」

 

 清音の声に反応した少女・真美がフッと顔を上げ、口元に微かな笑みを浮かべて軽くお辞儀をした。それはあやめと春が初めて見た、彼女の人間らしい表情と行動だった。一方、紳二と呼ばれた少年は先程と変わらず、車椅子に座ったままぼんやりと前を見つめている。

 2人の看護師はそんな彼女達の様子を見て、「少し休憩しようね」と言ってその場から離れていった。真美達のためにも、清音達と話して気分転換をした方が良いと判断したのだろう。

 

「どう? 歩けるようになりそう?」

「……いえ、まだまだです」

「うーん、見た感じだと、すっかり治ってるんだけどねぇ。神経が傷ついてたりしてるのかな?」

「……分かりません。お医者さんも不思議がってました」

「まぁ私も応援してるから、一緒に頑張って怪我を治そうね!」

「はい、ありがとうございます。――ところで後ろの人達は、清音さんのお友達ですか?」

 

 真美はそう言って、2人に視線を遣りながらそう尋ねた。知らない顔ということで多少の警戒心を覚えるのは仕方ないが、特にあやめに対してそれが強いように見える。

 

「安倍あやめといいます。よろしくお願いしますね」

「わ、私は飯田春っていうの。よろしくね、真美ちゃん」

「……よろしくお願いします」

 

 若干不審そうな表情を見せるも、真美はペコリと頭を下げた。

 

「この2人はね、リハビリを頑張っている真美ちゃんと紳二くんの姿に感動したんだって! それでぜひお友達になりたいなって言ってたから、こうして連れて来たんだよ!」

「そ、そう! 何だか応援したくなっちゃって! だから、色々とお話を聞かせてほしいなって思ったんだ!」

 

 清音が口から出任せで言った言葉に、春が若干どもりそうになりながらも乗っかった。あやめはそれを横で聞きながら、そんなに慌ててると変に思われますよ、と心の中で苦笑している。

 それをおくびにも出さずに、あやめが口を開く。

 

「真美さん達は、どうして怪我をしたんですか?」

「えっと……、半年くらい前に、事故に遭ったんです……。2人で一緒に家に帰ってる途中に、トラックに突っ込まれて……」

「成程……、2人で巻き込まれたんですね……」

 

 あやめは意味深に呟くその横で、春が眉を寄せて首をかしげた。

 

「あれ? さっき清音から、ここにいるのは4ヶ月くらいだって聞いたんだけど」

「ええと、最初は別の病院に入院していたんです。だけどお父さんが『ここのお医者さんは腕が良いから、ここで治してもらおう』って言って……」

「おお! 真美ちゃん達が住んでたところでも、ここの病院は有名だったんだね!」

「はい、テレビで紹介されてるのを見たことがあります。“世界でも最先端の医療を受けられる場所”だとか――」

 

 春と真美と清音が話に夢中になっている隙に、あやめはこっそりと真美の観察を始めた。

 先程清音が言っていた通り、見た目には怪我らしき怪我も見当たらず、すっかり治っているように見える。今すぐに車椅子から立ち上がって歩き出したとしても、何ら不思議は無いだろう。

 次にあやめは、真美のすぐ傍にいる紳二へと視線を向けた。こちらも真美と同様に、怪我はすっかり治っているように見える。

 

 しかしあやめはそれよりも、別のことが気になって仕方がなかった。

 紳二の反応が、あまりにも薄すぎるのである。

 すぐ傍で結構うるさく話しているにも拘わらず、紳二は一切反応することなく、ただぼんやりと前を見つめ続けている。それどころか、少なくともあやめが見つめている間、指一本ピクリとも動かさず、瞬きすらしない。

 

 本当にこの子は起きているのだろうか?

 いや、生きているのだろうか?

 

「紳二くん。起きてますか?」

 

 反応は無い。

 

「……紳二くん?」

 

 反応は無い。

 

「紳二くん」

「――はい、何ですか?」

 

 ようやく反応があり、紳二はこちらへと顔を向けた。彼の声を聞くのは、これが初めてだった。

 あやめは視線だけを真美へと向けた。

 彼女は変わらず清音や春と会話をしていたが、視線だけはこちらを向いていた。

 そしてあやめと目が合った直後、彼女は逃げるようにあやめから目を逸らしたのである。

 

 ――成程、だからですか。

 

 真美のその行動で、あやめは確信を得た。そう考えれば、自分の抱いていた“違和感”にも説明がつく。

 だとしたら、危険だ。

 今すぐにでも、止めさせなければならない。

 

「清音さん、春さん。彼女達と大事な話をしたいので、席を外していただけませんか?」

「――――!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、春は表情を強張らせた。ここに来る前にあやめと約束したことを思い出し、そしてあやめが“違和感の正体”に気づいたことを悟ったのだろう。

 

「うん、分かった。――それじゃ2人共、また後でね」

 

 そして清音も同じことを悟ったのか、真美達に手を振ってからその場を離れていった。正直彼女は何だかんだ理由をつけてここに居座るかもしれないと思っていたあやめは、あっさりとこの場を離れた彼女に意外感を覚えていた。むしろ春の方が未練がましく、建物へと歩いていきながらもチラチラとこちらを振り返っていた。

 こうして、噴水の近くにいるのは、あやめ・真美・紳二の3人だけとなった。

 

 あやめが真美の顔をじっと見つめると、彼女もあやめをお返しとばかりに見つめ返した。いや、眉間に皺の寄ったその表情は、見つめているよりも“睨んでいる”の方が近いかもしれない。

 そして紳二は真美の横で、相変わらず一切の反応を見せる様子も無く、前だけをぼんやりと眺めている。

 3人の、というより2人の間に、重々しい空気が流れる。

 それを破ったのは、真美の言葉だった。

 

「あやめさん、でしたっけ? あやめさんは、本当に私と友達になりたいんですか?」

 

 声量を抑えた落ち着いた声だったが、明らかにトゲが含まれていた。

 しかしあやめはそれに物怖じした様子はまるで無く、それどころか、何が面白いのか口元に笑みを浮かべて真美を見つめていた。

 

「なんで、そう思ったんですか?」

「私を見るときのあやめさんの目、まるで監視してるみたいでしたから」

 

 真美の言葉に、あやめはほんの少しだけ目を見開いた。

 

「まだそんなに小さいのに、そこまで周りに目を配れるんですね。でしたら、もう少し注意した方が良いんじゃないですか?

 

 ――紳二くんの“操作”が、疎かになっていますよ?」

 

 あやめの言葉に真美は目を丸くし、愕然とした。紳二は先程と変わらず、瞬き1つせずにぼんやりしている。

 

「……あやめさんは、何者ですか?」

 

 そう尋ねる真美の声は、震えていた。膝に添えられた両手をきつく握りしめ、何かに耐えるように口を引き結んでいる。

 真美のその反応に、あやめは大きな溜息をついた。ショックだと言わんばかりに嘆いてみせるが、どこか芝居がかって見えるのは、おそらく真美の気のせいではないだろう。

 

「そんなバケモノを見るような目で私を見ないでくださいよ。私はただの人間なんですから。――幽霊の類が、他の人より多少見える程度のね」

「幽霊……」

 

 ごくり、と真美の喉が鳴った。

 そんな真美に、あやめが容赦の無い一言を放つ。

 

「紳二くんは、すでに死んでいますね?」

「…………、はい……」

 

 数拍おいて、真美は静かに頷いた。

 

「それを周りに知られないようにするために、自分の魂の一部をとっさに紳二くんに移して、生きているように見せかけた。そうですね?」

 

 真美は、再び頷いた。

 

「1つの体にちゃんと1人分の魂が入っていないから、思ったように上手く体が動かせない。だから周りの人達には、いつまで経っても怪我が治らないように見えてしまう。そうですね?」

 

 真美は、三度(みたび)頷いた。

 その返事に、あやめはこれ見よがしに大きな溜息をついた。今度はけっして演技などではない、心の底からの呆れから零れたものだった。

 

「なんでそんなことしたんですか?」

「だって、あんまりでしょ!」

 

 突然、真美が叫んだ。涙の溜まった目であやめを睨みつけ、握りしめるその手はプルプルと震えている。

 

「お兄ちゃんは、まだ大人にもなってなかったんですよ! やりたいこととかいっぱいあったはずなのに! それなのに、突然事故に遭って、突然死んじゃって!」

 

 がしゃ、と彼女の乗る車椅子が揺れた。もし彼女が普通に立てたとしたら、そのままあやめの胸倉でも掴みそうなほどの剣幕だ。

 

「私達が事故に遭ったとき、お兄ちゃんが呟いてたんです。『お父さん、お母さん、ごめんなさい』って……。多分お兄ちゃんは、自分が死ぬことでお父さんやお母さんが悲しむのが嫌だったんだと思います……」

「…………」

「本当は自分だって、もの凄く痛かったはずなのに……。死んじゃうことが、もの凄く怖かったはずなのに……。お兄ちゃんは泣きながら、『ごめんなさい』って呟くんです……。何回も、何回も……」

「…………」

「だから、私は決めたんです……。お兄ちゃんを生き返らせることはできなくても、()()()()()()()()()()()()()()んだ、って……」

 

 真美はそこまで言うと、声を殺して泣き始めた。今までむりやり抑えていた感情が溢れ出した、といった様子だった。そしてあやめはそんな彼女を、感情を一切読み取ることのできない無表情で眺めていた。

 泣き声が少し落ち着いた頃、あやめが口を開く。

 

「いくら紳二くんの体が生き続けても、中身が紳二くんでない以上、それは紳二くんではありません。真美さんのやっていることは、紳二くんが悲しませたくなかったお父さんやお母さん、さらには周りにいる全ての人達に対する、れっきとした裏切りです」

 

 あやめの声は、ひどく淡々としていた。余計な感情の一切籠もっていない、事実のみを伝えるものだった。

 一方真美はあやめが話をしている間も、涙を零し、時折鼻を啜るだけだった。彼女の言葉が耳に入っているのかすらも分からない。

 しかしあやめはそれを気にする様子も無く、さらに話を続ける。

 

「それにこのままだと、2人共死にますよ」

「えっ?」

 

 真美が顔を上げた。彼女が泣きだしてからの、初めての反応だった。

 

「ど、どういうことですか!」

「専門的な知識も技術も無い真美さんが、1つの魂を2つに分けてそれぞれの肉体に入れるなんて無茶なことができたのは、それだけ“想い”が強かったからです。しかし、“想い”なんてあやふやなものは、いつまでも維持できるものではありません」

「そ、そんなことありません! ずっとこうしていたい、って思っていれば良いってことでしょ! だったらやってみせます!」

「いいえ、無理ですよ。――現に真美さんは、今まさに迷ってる」

「――――!」

 

 真美の体が、ビクリと震えた。どうやら図星のようで、彼女はあやめの視線から逃れるように顔を俯かせた。

 そしてそのまま、消え入りそうな声で呟くように尋ねる。

 

「……もし、“想い”が少しでも途切れたら、どうなるんですか……?」

「肉体からむりやり切り離されて、それでもバラバラになった魂が1つになることはできなくて、一切の自由が利かないまま、中途半端に意識を残したまま現世を彷徨い続けることになります。そうなると、私達でもお手上げですね。どうしようもありません」

 

 あやめは事も無げにそう告げた。正直、真美はそれを上手く想像することができなかったが、それがとても異様なことであることだけは感じ取れた。思わず背筋が凍ってしまうくらいには。

 いったいどうすれば良いのか、と真美が頭の中で葛藤を始めたそのとき、

 

「――さてと、それでは私はここで」

 

 ふいにあやめがそう言って踵を返すと、建物の中へ向かおうと歩き始めてしまった。

 

「ま、待って! 私はどうすれば良いの!」

 

 真美が縋りつくように必死に引き留めようとするが、それでも彼女の足は止まらない。

 

「今ならまだ簡単ですよ。紳二くんの中に入ってる魂の一部を、自分の体に戻すだけで良いんです。そうすれば、魂は自然と1つになりますよ」

「で、でもそれじゃ、お兄ちゃんが――」

「真美さん」

 

 真美の言葉を遮って、あやめが彼女の名を呼んだ。今までとは違う、思わず口を閉ざしてしまう程の威圧感を纏ったその声に、真美は息を呑んだ。

 あやめが足を止めて、真美へと振り返る。

 

「真美さんは先程から、紳二くんが死ぬことで、両親を悲しませたくないと言っていましたね。ですが――」

 

 あやめはそこで1拍置いて、続けた。

 

「あなたの両親は、紳二くんと同じくらい、真美さんのことを愛しているんです。そんな人達が、いつまで経っても歩くことのできないあなたの姿を見て、何も感じていないと思っているんですか?」

「――――!」

 

 真美は目を見張った。

 

「それでは、私はこれで。お体、お大事に」

 

 それだけ言い残して、あやめは病院の中へと入っていった。

 “1人”取り残された真美は、今にも泣き出しそうな沈痛な面持ちで、隣に座る紳二をじっと見つめていた。

 噴水から湧き出る水の音が、ただただ静かに響いていた。

 

 

 *         *         *

 

 

 あやめが建物の中に入ってきたとき、入り口近くの壁に寄り掛かって立っていた清音と春が彼女を出迎えた。

 

「2人共、わざわざ待っててくれたんですね」

「そりゃそうだよ! 3人でお昼食べに行くんだから!」

「行こ、安倍さん。今だったら、多分レストランも空いてると思うよ」

 

 2人の言葉にあやめは小さく頷き、3人はそのまま並んで歩き始めた。

 その道中、呟くように春が尋ねる。

 

「……あの2人は、どうなったの?」

「それは彼女次第でしょうね。たとえ私がむりやりしたとしても、おそらく意味が無いでしょうから」

「……何があったのか、教えてくれないんだね」

「すみません」

 

 謝罪の言葉に含まれた拒絶をきちんと読み取ったのか、春はそれ以上何も言わなかった。

 そしてそんな2人の遣り取りを、清音は口を閉ざしたまま横で聞いているだけだった。

 それが少し気になったあやめは、清音に尋ねてみた。

 

「珍しいですね、清音さん。普段のあなたなら、何としてでも聞き出そうとしてくると思ってたのですが」

「……うん、まぁ、あやめが話そうとしないってことは、部外者の私達が立ち入るものじゃないってことでしょ? だったら無理に聞き出すのもアレかなって思って。……それに真美ちゃんと紳二くんとは、出会ってまだ少ししか経ってないけど、友達だと思ってるから」

「…………そうですか」

 

 3人の無言は、レストランが並ぶ区域に辿り着いて、どの店に入るのか議論を始めるまで続いた。



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彼の分まで生きる(3/3)

 清音のお見舞いに行ってから、1週間ほど経った頃。

 退院を許可された清音が、久しぶりに登校してくる日。

 2年4組の教室にて、あやめは自分の席について、春はその前の席を借りて座り、雑談に花を咲かせていた。

 2人の話題は自然と、これからやって来る清音のことになる。当初は、未だに松葉杖が手放せない彼女のために一緒に登校することになっていたのだが、前日に彼女から電話で『1人で大丈夫だから』と妙に暗い声で言われたために、2人はこうして教室で待っているのである。

 

「それにしても、1週間か……。長かったような、短かったような……」

「やはり清音さんがいないと、穏やかな気持ちで毎日が過ごせますね」

「はは、そうだね」

「それも今日で終わりかと思うと、少々憂鬱になりますね」

「そんなこと言って、安倍さんだって本当は嬉しいんで――ん?」

 

 2人がそんなことを話していると、ふいに廊下が騒がしくなってきた。耳をそばだててみると、しきりに体の調子を心配したり、何かあったら自分に頼るように、といった声が聞こえてくる。

 どうやら、清音がやって来たようだ。そして怪我をしている彼女を友人が心配している、といったところか。

 

「随分、慕われているみたいですね」

「学校中に知り合いがいるようなもんだからね」

 

 そしてしばらくして、清音が松葉杖をついて教室に入ってきた。入口のすぐ傍にある自分の席(つまりあやめの隣の席)にリュックを置いて腰を下ろす。

 

「やっほー、清音。久しぶりの学校だからって浮かれてるんじゃ……」

 

 そんな清音に軽口を叩こうとした春だったが、清音の顔を見た途端、そんな思いはみるみる萎んでいった。

 清音の表情は、沈んでいた。

 たったそれだけのことだが、2人にとっては異常なことだった。普段から明るく賑やかで、入院しているときもヘラヘラと笑っていた彼女が、今はどんよりとした表情で顔を俯かせているのだから。

 しかしあやめは、春ほどの驚きを見せてはいなかった。それは彼女よりも感情を表に出すタイプではないから、という理由だけではなかった。

 清音がそんな表情で登校してくることは、あやめにとって想定内のことだった。

 

 ――さすがの清音さんも、身近な人間が亡くなれば落ち込みもしますか……。

 

 心の中でそう思いながらも、彼女は清音に尋ねる。

 

「どうしたんですか、清音さん? 随分と落ち込んでるようですけど」

「そ、そうだよ、清音。せっかく退院したんだから、もっと嬉しそうにしないと」

「……うん、分かってるんだけどさ、どうにも手放しで喜べない事情があるわけよ……」

 

 ここで初めて、清音が口を開いた。普段の彼女からは考えられない、まるで覇気の無いその声から、精神的に相当参っていることが分かる。

 そんな彼女に事情を説明させる心苦しさを若干感じながらも、あやめは若干目を鋭くして彼女に尋ねた。

 

「――ひょっとして、真美さん達のことで何かあったんですか?」

 

 びくり、と清音の体が反応した。それは清音だけではなく、隣で聞いていた春も同じだった。

 しばらくの間、清音はバツが悪そうに目を泳がせていた。しかし無言で視線を向けるあやめと春に根負けしたのか、やがて重々しく口を開いた。

 

「……やっぱり、あやめには分かるんだね」

 

 清音のその反応に、あやめは真美が何かしらの“決断”をしたという確信を得た。そしてあやめはその内容を『真美が魂を1つに戻し、紳二が亡くなっていた事実を皆に知らせる』というものだと考えた。

 いや、もう一つ可能性がある。

 それは真美が自分の魂をすべて紳二に移してしまった場合だ。こうなると傍目には真美が死んだことになり、紳二が生きていくことになる。もちろん、その中身は真美だ。

 

「な、何かあったって……。ま、まさか、真美ちゃん達……!」

 

 すると春が、声を震わせながら清音に尋ねた。言い方は悪いが、渡りに舟だった。

 

 ――さぁ、どっちですか……!

 

 あやめも表情には出さないが、固唾を呑んで彼女の答えを待つ。

 しかし返ってきた言葉は、あやめが想定していたいずれでもなかった。

 

 

 

「いや、真美ちゃん達は大丈夫だよ。2人共、立てるようになったし」

 

 

 

「――――へ?」

 

 思わず漏れた間抜け声は、あやめのものだった。

 それに気づくことなく、清音は話を続ける。

 

「2人がお見舞いに来た次の日にね、2人共突然立てるようになったんだよ。よっぽど嬉しかったんだろうね、真美ちゃんったら泣いて喜んでたよ」

「そ、そうなんだ、良かったぁ……! でもなんで急に立てるようになったんだろ? あの日までは全然立てなかったんでしょ?」

「うん、お医者さんも凄い不思議がってたよ。――でもまぁ、別に良いじゃん。2人が無事に治ったんだからさ」

 

 いいや、良くない。

 あやめは2人の話を聞きながら、混乱しかかっている頭で必死に考えを巡らせていた。

 魂を2つに分けながらも2体共完璧に操作できるようになった、ということだろうか。いや、それでは真美が泣いて喜んだという部分が些か不自然だ。

 自分の体に魂をすべて戻してそこから紳二の死体を操る、というのはどうだろう。いや、無理だ。熟練の除霊師ならまだしも、真美がそんな芸当をできるはずがない。

 まさかどこかから別の魂を引っ張り出して、むりやり紳二の体に押し込めたなんてことは――

 

「――あやめ、……あやめ?」

 

 どんどん発想が飛躍していくあやめだったが、清音の呼び掛ける声でハッと我に返った。

 

「……すみません、考え事をしていました。どうかしましたか?」

「いや、真美ちゃんから、あやめ宛の手紙を預かったんだよ」

 

 そう言って清音が差し出したのは、ピンク色の可愛らしい封筒だった。

 あやめはそれを引ったくるように受け取ると、すぐさま封を開けていく。

 

「……まさか、中身は読んでいませんよね?」

「いくら私でも、そこまで非常識じゃないよ」

 

 それを聞くと、あやめは文面を目で追い始めた。

 

 

 *         *         *

 

 

 あやめさんへ。

 この前は、わたしを心配していろいろとアドバイスをくれて、本当にありがとうございました。

 あの後、わたしなりにいろいろ考えて、自分のたましいをすべて自分の体にもどすことにしました。お兄ちゃんと別れるのはさみしいけど、きっとそれがわたしやお父さんお母さんのためだと思ったからです。

 なのでその次の日に、わたしは自分の体にたましいをすべて戻しました。もう二度と動かないお兄ちゃんの体を見つめながら、ナースコールを押しました。

 だけどそのとき、信じられないことが起こりました。

 お兄ちゃんが、帰ってきたんです。空っぽだったはずのお兄ちゃんの体がいきなり起き上がって、わたしの名前を呼んで笑ったんです。

 お兄ちゃんの話だと、自分がゆうれいになっているのに気がついてすぐに、ジョレーシとかいう変な男の人に追いかけられたそうです。それでやっとの思いでその人を振り切って病院に行ってみたら、もうわたしたちがいなくなっていて、今までずっとわたしのことを探し回っていたそうです。

 わたしはうれしくて、お兄ちゃんに抱きついて泣いてしまいました。

 今はこうして2人で立てるようになったけれど、これからはあやめさんが話してくれたあのことを胸にしまいながら、お兄ちゃんと2人、せいいっぱい生きていこうと思います。

 本当に、ありがとうございました。

 

 真美

 

 

 *         *         *

 

 

 手紙を読み終えた後も、あやめは呆然とそれを眺めていた。

 半年前に死んだはずの人間が、突如生き返る。

 普通だったら、まず有り得ないことである。人間が死んで魂が抜けたとき、機能を停止したその体は途端に腐敗が始まる。そうなると、その魂が元の体に戻ることは不可能だ。

 しかし今回の場合、真美が自分の魂の一部を紳二の体に入れていたために、紳二の体は生前と何ら変わることなく存在し続けていた。

 つまり、真美が取ったあまりにも危険な行動が、逆に紳二を生き返らせる要因となったのである。

 

「…………」

 

 口を噤んだままのあやめを余所に、春が清音に問い掛けた。

 

「そういえば、結局清音の言ってた“手放しで喜べない事情”ってのは何だったの?」

 

 すると清音は、途端に教室に入ってきたときと同じ憂鬱そうな表情へと戻り、

 

「私が退院するときさ、真美ちゃんから退院祝いにお土産を貰ったんだよ。事故に遭う前に行った家族旅行で買ったやつなんだって。それで昨日、早速食べてみたんだ」

「それで?」

「……もしかしたら悪くなってたかもしれない。さっきからお腹痛い……」

「ちょ、大丈夫なの? 保健室行く?」

「――くく」

 

 そのとき、どこからか噛み殺すような笑い声が聞こえてきた。清音と春は顔を見合わせ、辺りをキョロキョロと見渡す。

 そして隣へと顔を向けたとき、2人共驚きに目を見開いた。

 

「ふふ――、くくく――」

 

 普段は冷静沈着で滅多に感情を表に出さないあやめが、机に突っ伏して肩を震わせて笑っているのである。

 

「ちょっと、あやめ! いくら可笑しいからって、笑わなくたって良いじゃん! こっちはまた病院に逆戻りするかどうかの瀬戸際なんだよ!」

 

 清音は怒ったようにそう言ったが、戸惑いがあるためか、いまいち迫力に欠けていた。

 やがて笑い声が幾分か落ち着いてきた頃、あやめは顔を上げて目に溜まった涙を指で払った。その口元は、にやついてしまうのを必死に堪えるように歪んでいる。

 

「いえ、くく……、清音さんを笑っているのではありませんよ。ふふ……、何ていうか……、“まんまとしてやられた”と思いましてね……」

「してやられた? 何を?」

「内緒です。ふふ……」

 

 楽しそうにそう言って笑うあやめに、2人はただただ首をかしげるばかりだった。



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愛の力(1/3)

 太陽が地平線の向こう側へと姿を隠し始め、空も街も真っ赤に染まる黄昏時。

 街と同じ真っ赤に染まった制服姿のあやめが、家路を大股で歩いていた。彼女の足元から伸びる長い真っ黒な影が、彼女に合わせてヒョコヒョコと揺れ動いている。

 

「まったく、随分と遅くなってしまいましたね……」

 

 あやめは呆れたようにそう吐き捨てると、歩くスピードをさらに速くした。帰宅部であるために授業が終わるやすぐに学校を出て自宅に向かう彼女にとって、こんな遅い時間に下校するなんてことは今まで一度も無かった。

 ではなぜ今日はこうしているかというと、色々と事情が重なったのである。

 例えば今日、あやめはクラスで日直だった。学級日誌を書いたり明日の授業の準備をしたり、日直には放課後にも幾つか仕事があるので、ある程度帰りが遅くなることは彼女も覚悟していた。しかし日直は通常2人1組で行われるものであり、仕事を分担すれば普通そこまで時間は掛からないものである。

 しかしあろう事か、もう1人の日直である女子生徒が放課のチャイムが鳴って早々に下校してしまったのである。自分が日直だったのをド忘れしていたのか、はたまた憶えていてわざとサボったのかは知らないが、結局彼女はその仕事を1人でやる羽目になった。

 そしてやっとの思いで日直の仕事を終え、さて帰ろうとあやめが思い立ったその瞬間、担任の森田にプリントの整理を手伝うよう頼まれてしまった。一応彼も「何か用事があればそちらを優先して構わない」と言っていたが、大量のプリントが机に所狭しと並べられている光景を見てしまっては、テキトーな理由をでっち上げて帰るなんて彼女にはできなかった。

 結局その仕事も手伝うこととなり、終わった頃にはすっかり外が真っ赤になっていた、というわけである。

 

「とりあえず今日は依頼も無いですし、帰ったらのんびりと過ごすことにしましょう……」

 

 もう少しで辿り着く自宅までの気力を奮い立たせるためか、あやめは無意識にそんな独り言を呟いていた。夕食はレトルト食品で済まして、ゆっくりとお風呂に入って、毎週チェックしているドラマを観て、と頭の中でこの後の予定を組み立てながら、真っ赤に染まる道路の端っこを歩いていく。

 そうこうしている内に、彼女の自宅が視界に飛び込んできた。女子中学生が1人暮らしをするには少々広すぎるように思える、ファミリータイプの一軒家である。

 

「ん?」

 

 そんな自宅の入口辺りに目を遣ったあやめは、思わず疑問の声をあげた。

 門扉の傍――『除霊屋』と書かれた看板の真下に、(うずくま)るようにして座る男がいたからだ。

 

「…………」

 

 あやめは嫌な予感がしながらも、渋々といった表情で彼に近づいた。というより、そうしなければ家に入れないのだから、近づく以外の選択肢が無かった。

 彼女の足音に気づいたのか、その男がふいに顔をあげた。歳は若く、20歳前後のように見える。しかしその顔には生気が無く、無精ひげの生えた頬は少しやつれている。着ている服がよろよろにくたびれて汚れているところから、何日も家に帰っていないのかもしれない。

 できることならば、関わり合いになりたくない見た目である。しかしあやめは彼のそんな姿を見て、自分の嫌な予感が当たったことを悟った。なぜなら彼女の家を訪ねてくる依頼者は、怪奇現象に悩まされているせいで彼のようにやつれている場合はほとんどだからである。

 

「あの……、あなたが……、ここの……?」

 

 男が掠れた声で、看板を指さしながら訊いた。

 あやめは口を開きかけて一瞬迷う素振りを見せたが、すぐに「はい、そうです」と答えた。

 その瞬間だった。

 

「お願いします! 助けてください!」

「――――!」

 

 あやめの答えを聞いた直後、男は目で追うのがやっとの速さで立ち上がってあやめに詰め寄り、どこにそんな力が残っていたのかと思うような強さであやめの肩を掴んできたのである。

 予想外の反応に、さすがのあやめも警戒して体を強張らせた。

 

「あ、あの――」

「追われてるんです! 殺されそうなんです! 助けてください!」

 

 男は必死の形相で叫びながら、今度はあやめの肩をガクガクと揺らし始めた。

 それに合わせて、彼女の首も一緒にガクガクと揺れた。

 

「あの、ちょっ、と、止め、て」

「お願いします! お願いします!」

「良、いか、らち、ょっ、とや、め」

「お願いします! お願い――」

「やめてください!」

 

 痺れを切らしたあやめは、思いっきり男を突き飛ばした。男は吹き飛ばされながら地面に倒れ込み、がごんっ! と大きな音をあげて後頭部を強く打ちつけた。

 あやめは肩で息をしながら、乱れた襟元を正した。そして、倒れたまま動かないでいる男を睨みつけて、

 

「……落ち着いたら、中に入ってください」

「……はい」

 

 男はバツが悪そうにゆっくりと立ち上がって、深々と頭を下げた。

 あやめは溜息をついて、先程まで頭の中で思い描いていた予定を掻き消していった。

 

 

 *         *         *

 

 

「少しは、落ち着きましたか?」

「はい。先程は本当にすみませんでした」

 

 男を家に上げた後、あやめは着替えるために一旦席を外した。これからのことを考えると、制服のままでいるのは色々と都合が悪いからである。

 男はその間、リビング兼事務所のソファーで縮こまるように座って待っていた。

 

「あの……、除霊師さんは――」

「安倍です」

「あ、はい。――安倍さんは、ひょっとして、学生なんですか?」

「ええまぁ。中学生です」

「へぇ、その歳で……。それは凄いですね」

 

 驚いたように目を見開いて、男はそう言った。

 あやめはその反応を見て、意外そうにほんの少しだけ目を見開いた。言葉だけならばこれまで幾百回と聞いてきた有り触れた反応だが、大抵は不審や奇異といったネガティブな感情が含まれているものである。しかしその男にはそういった感情が一切無く、純粋に感心しているように見えた。

 その事実が、あやめの緊張を幾分か和らげた。

 

「あの、私のことよりも、あなたのことを訊きたいのですが」

 

 あやめの言葉に、男は「すみません」と言って頭を下げた。教師に叱られた生徒のようなその行動に、彼女は溜息をつきそうになって、咄嗟に止めた。

 

「先程、あなたは『追われている』と仰っていましたよね?」

「はい」

「誰に、追われているのですか?」

「幽霊にです」

「…………」

 

 それはそうだ。むしろそれ以外の用事でここに来る者はいない。もし追いかけてくるのが生きている人間だとしたら、男が行くべきなのはここではなく警察だ。

 

「……どのような人ですか? 年齢だったり、見た目の特徴だったりとか」

「分かりません」

「…………はい?」

 

 思わず変な声をあげてしまったあやめだが、男はそれに構う様子も見せず話し続ける。

 

「残念ながら、と言えば良いんでしょうか、今まで1回も姿を見たことが無いんです。でも、頭の中から直接呼び掛けてくるように、はっきりと女性の声が聞こえてくるんです」

「……それで、それがどうして幽霊だと?」

「そいつが僕に言うんです。『あなたも“こっちの世界”においで』って。“こっちの世界”って、つまり“あの世”ってことでしょう! だから僕、怖くて怖くて!」

「…………」

 

 あやめは、判断に困っていた。

 全ての幽霊には独特の気配、いわゆる“霊気”が発せられており、除霊師はこれを感知することで幽霊の存在を確認する。一般的に“霊感”と呼ばれる能力であり、あやめはこれが他の除霊師と比べても格段に優れていた。

 しかしそんなあやめをもってしても、目の前の男からは、そのようなものは一切感じなかった。つまり、少なくともこの男は幽霊と接触していないことになる。

 そこから導き出される結論は、可能性としては次の3つ。

 1つ目は、この男が嘘をついている場合。こういう仕事をしていると、面白半分で相談に来る輩というものは割といたりする。それでも相談料だけはしっかり貰えるので、あやめ自身としては別に問題ではない。

 2つ目は、怪奇現象だと勘違いしている場合。実はこれが一番多かったりする。そんなときは親身になって話を聞いてやり、相手を納得させれば良い。これも彼女は慣れたものなので、別に問題は無い。

 しかし一番厄介なのは、精神的に病んでいる場合である。これが一番面倒臭く、いくら病院に行くことを勧めても聞く耳を持たない。そういう人間ほど、自分を正常だと思い込んでいるからだ。

 あやめはとりあえず、話を続けることに決めた。

 

「その声が聞こえたのはいつからですか?」

「えっと、大雨のあった日ですから……、確か4日くらい前ですね」

「その声は、どれくらいの頻度で聞こえてきますか?」

「まちまち、です。5分おきに聞こえるときもあれば、何時間も聞こえないときもあります」

「そのとき、体に何か異常はありますか? 頭が痛いとか、変に動かしづらいとか」

「特にはありません」

 

 ――何だか、精神科の診療をしているみたいですね……。

 

 ふとそんな考えが頭に浮かび、あやめは思わず口元に笑みを浮かべそうになり、すぐさま引き締めた。

 

「『殺されそう』というのは?」

「え?」

「目に見えない何かに話し掛けられて、殺すのを仄めかされたとしても、大抵は気のせいだと放っておくのが普通です。“逃げる”という行動に移ったということは、実際に何かされたということなんですか?」

「僕に何かした、というのはありません。でも、間接的には、あります」

「間接的、というのは?」

 

 あやめが尋ねると、男は一瞬だけ話しづらそうに顔を俯け、すぐに顔を彼女に向けて口を開いた。

 

「僕が外を歩いていたときに、そいつが『早く“こっち”に来てくれないと、私、こうしちゃうから』って言ったんです。そしたら次の瞬間、僕の傍にあったショーケースがいきなり割れたんですよ!」

 

 そのときのことを思い出したのか、男は体の震えを抑えつけるように自分を抱きしめた。

 あやめはそれを、どこか冷めたような視線で見つめていた。

 

「偶然とは考えられませんか?」

「3回も起きたんですよ! 偶然なんてことはありえません!」

 

 男はあやめの目をまっすぐ見据えて、力強く言い切った。

 

「そうですか……」

 

 今の男の様子で、彼が嘘をついているという可能性は消えた。また状況的に、何かを勘違いしているとも考えにくい。

 ということは、

 

 ――まさか、本当に心を病んでいるなんてことはないですよね……。

 

 どう対応すべきか、あやめは悩んでいた。このまま男の話を聞くべきか、それとも早々に切り上げて病院へ行くことを勧めるべきか。そして彼女は、今度の休みに精神療法に関する本を買うことを秘かに心に決めた。

 

 異変が起きたのは、そんなときだった。

 

 がたんっ!

 

「――――!」

 

 突然、あやめのすぐ傍で大きな音がした。あまりにも突然の出来事に、怪奇現象に慣れているはずの彼女は思わず肩を震わせた。

 音のした方へ顔を向ける。すると、男がソファーから転げ落ちて床に尻をつき、怯えたような表情で辺りをキョロキョロと見渡していた。

 あやめはそれを、完全に呆れたような視線で見つめていた。

 

「……どうしたんですか?」

「聞こえた……」

「え?」

「幽霊が僕に話し掛けてきたんです!」

「…………」

 

 もちろんあやめにはそんな声は欠片も聞こえなかったし、幽霊らしき存在がいる気配も感じなかった。

 その気になれば街中の幽霊の動向を即座に把握できるほどに霊感の高い彼女が、である。

 

「……何て、言ってるんです?」

「『その女は誰だ』って……」

「そう、ですか……」

 

 あやめは先程よりも集中して、感覚を研ぎ澄ませてみる。しかしこの部屋どころか、周囲数百メートルの範囲内ですら、霊気は一切感じ取れなかった。

 

「あの、ここに幽霊はいないんですけど……」

「そんなはずありません! 今まさに、僕に話し掛けてきてるんですよ! しかも何だか、かなり怒った感じに!」

「いや、そう言われても――」

 

 ばりぃん――!

 

「――――!」

「――――!」

 

 突然の音に、あやめと男はほぼ同時にそちらへと顔を向けた。

 庭へと通じる大きな窓が粉々に割れ、大きな穴がぽっかりと空いていた。夜になって冷え込んだ空気が、風に乗ってそこから吹き込んでいる。

 しかし、それだけでは終わらなかった。

 

 ばりぃばりん! ばりぃん!

 

 リビングから見える位置にある窓が次々と、先程と同じように割られていく。

 それも傍目には何の力も加えられることなく、まるで窓が自分の意思でそうしているかのように。

 

 ばりぃん! ばばりぃばりばりぃん!

 

「ひぃっ!」

 

 さらにそれは目に見える範囲の窓を割った後も収まることなく、別の部屋や2階からも窓の割れる音が聞こえてきた。ひょっとしたら、家中の窓が割れているのかもしれない。

 

「ちょ、ちょっと! 何とかしてくださいよ!」

 

 男は涙目になりながら、怒鳴るようにあやめに縋りついた。女子中学生に助けを求める成人男性という、何とも情けない光景だったが、生憎2人共それに構っている余裕は無かった。

 あやめは腰にしがみつく男を引き剥がしながら、険しい表情で周囲を隈無く睨みつけている。しかしいくら探しても、霊気らしきものは見つからない。

 しばらくそうしている内に、窓の割れる音が鳴り止んだ。男が、ほっと胸を撫で下ろす。

 

 しかし次の瞬間、

 

 がたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがた――

 

「――――!」

「う、うわぁ!」

 

 まるで巨大地震が来たかのように、家全体が激しく揺れ始めた。しかしその揺れは地震のような自然災害のときのじわじわ来るそれとは違い、いきなり大きく横に揺れるものだった。それはまるで、ビルほどもある巨大な生き物が家を揺らしているようだった。

 あまりの大きな揺れに、あやめは立っていることができずその場にしゃがみ込んでしまった。

 

 がたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがた――

 

 揺れはますます大きくなり、煽られた本が棚からばらばらばらと零れ落ちていく。台所でも同じように食器が棚から飛び出し、ガシャガシャと激しい音をたてて崩れていく。

 

「やめてくれ! 助けて!」

 

 畳み掛けるように起きる異常現象に、男はとうとう床に蹲ってしまった。何も見たくないと額を床に擦りつけ、何も聞きたくないと両手で耳を強く塞いでいる。

 

「ここは危ないです! 一旦逃げますよ!」

 

 あやめは男の腕を引っ張ってそう呼び掛けるが、彼は完全にパニックになっており、まったく動こうとしなかった。

 

「いい加減にしてくれ! なんでこんな思いをしなきゃいけないんだ!」

「ちょっと! 今はとにかくここから離れて  」

「僕が何をしたっていうんだよ! 何が目的なんだ!」

「いいから、早く動いて――」

「もう嫌だ! こんな思いをするくらいなら、いっそ――」

「ああもう!」

 

 次の瞬間、ばしんっ! という小気味良い音が、周りに負けないくらいに大きく響き渡った。あやめが、男の頬を思いっきりひっ叩いたのである。

 突然の痛みに、男はようやく落ち着きを取り戻した。彼の力が弱くなったのを見計らって、あやめが彼の腕を引っ張り上げてむりやり立たせる。

 

「逃げますよ」

「……はい」

 

 すっかり大人しくなった男を連れて、あやめは未だに揺れの激しい家から這い蹲るようにして何とか外へと出た。

 そしてその瞬間に、足元の揺れが収まった。後ろを振り返ると、あやめの家は巨大地震に襲われたようにガタガタと家全体が揺れ動き、中から皿や窓などが割れる音が鳴り響くのが聞こえているというのに、近所の家はそれとは対照的に平然としており、いつも通りの夜を過ごしている。

 もちろん自然の地震ではありえない、その界隈では“ポルターガイスト”と呼ばれる心霊現象である。

 

「まったく、訳が分かりませんね……」

 

 あやめは眉を寄せて忌々しげに呟くと、すっかり暗くなった住宅地を男と共に走り抜けていった。



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愛の力(2/3)

「ここなら、とりあえず大丈夫でしょう」

「……はい、そうですね」

 

 あれから2人は、あやめの自宅のある住宅街とは別にある公園へとやって来た。腰の高さほどの植え込みで囲まれたそこは、滑り台やブランコなど定番の遊具が一通り揃っている、しかし特に他の公園と代わり映えのしない有り触れた公園だった。

 昼間は多くの子供が遊んだり主婦や年寄りの話し声で賑わうそこも、夜になると人っ子1人見当たらず、耳鳴りがしそうなほどにしんと静まり返っている。あやめがここを逃げ場所として選んだのは、人がいないために話を聞かれる危険性が無く、周りが開けているために対処がしやすいからである。

 

「さて、とりあえず、あなたが嘘をついていないことは分かりました」

「……やっぱり、疑ってたんですね」

「私達の仕事は、疑うことから始まるので」

 

 あやめはそう言い放つと、ブランコに腰を下ろした。錆びついた鎖がキィッと音をたてた。

 一方男はあやめと向かい合うように、ブランコの周りを囲う低い柵に体重を掛ける。

 さて、とあやめは口を開いた。

 

「訊きたいことがあります」

「何ですか?」

「あなたに話し掛けている幽霊に、心当たりはありますか?」

「いえ、ありません」

 

 即答だった。あまりに早すぎるので、本当にちゃんと考えたのかと勘ぐってしまいそうになる。

 あやめは呆れたように大きく溜息を吐いて、

 

「もっとよく考えてみてください。あなたのことを殺そうとしている人物なんですよ? それだけの恨みを抱かれるようなことを、過去にしたということではないですか?」

「まさか、そんな訳がありません! さっきから思い出そうとしてますけど、まったく身に覚えがないんですよ!」

「無意識の内に相手を傷つけていた、ということもあるでしょう? 少しでも思い当たることは無いのですか?」

「僕は今まで普通に暮らしていたんです。友人も大勢いましたし、そりゃあ多少の喧嘩はありましたけど、それだってすぐに解決しました。ですから、今になって僕を殺そうとするような奴なんて、いるとは思えません」

きっぱりと言い放つ男に、あやめは切り口を変えてみることにした。

「ならば……、あなたに話し掛けてくるとき、幽霊はどんな様子でしたか?」

「どんな様子、ですか……?」

 

 男は顎に手をやって俯いた。途中、一瞬だけ顔をしかめたのは、幽霊に襲われたときの恐怖が蘇ったからかもしれない。

 すると男は、ふいに何かを思いだしたように「そういえば……」と呟いた。

 

「何かありましたか?」

「怒ってました。あのときだけ」

「あのとき?」

「あの家にいたときですよ。――今までは優しく語り掛けてくる感じだったのに、そのときだけは、とても怒ってました」

「……そのときは確か、『その女は誰だ?』と言っていたそうですね?」

 

 男は無言で頷いた。

 それまで穏やかだった女性が、男と自分が一緒にいたときには怒っていた。“その女”という言葉から、どうもその幽霊が自分のことを忌々しく思っていたようにも取れる。

 

「それにしても、『その女は誰だ?』ですか……」

 

 ぽつりと呟いたあやめの言葉に、男が反応する。

 

「どうかしましたか?」

「いえ、何かまるで、彼氏の浮気現場でも目撃したみたいだな、と思いまして……」

 

 彼氏の浮気現場。

 あやめは自分で言ったその言葉を頭の中で何回も唱えると、男へと顔を向けた。

 

「少し、プライベートに関する質問をさせて頂きます。――今まで、女性と付き合ったことはありますか?」

「えぇっ! 付き合ったことですか!」

 

 男はその質問にひどく狼狽えていたが、あやめの真剣な目に圧されたのか、すぐに静かになって呟くように答えた。

 

「……お恥ずかしいことに、一度も……」

「……そうですか」

 

 しかし、この考えはあながち間違っていないような気がする。

 そう思ったあやめは、再び男に尋ねてみた。

 

「それでは、今まであなたに好意をもっていた女性はいますか?」

「好意、ですか? そんなことを言われましても……、多分いなかったと思いますけど」

「最近ではないかもしれません。例えば、学生の頃とか」

「学生、ですか……」

「何でも良いんです。誰々があなたのことを好きかもしれないとか、どんなに小さな噂話でも構いません」

 

 しばらくの間、男は腕を組んでうんうんと唸り続けていたが、やがて「あっ!」と大きな声をあげて、ぽんと手を叩いた。

 

「中学生のとき、友達からそんなことを聞いたことがある気がします。そのときは冗談だと思ってたから、まともに取り合いませんでしたけど……」

「その子のこと、思い出せますか?」

「うーん……、何かきっかけがあれば、思い出せるかもしれませんが……」

「きっかけ、ですか? 例えば?」

「まぁ、卒業アルバムとか……」

「それは今、どこにありますか?」

「多分、僕の家にあると思いますけど……」

「そうですか。では、行きましょう」

「はい。――はい?」

 

 あまりに自然な流れで言うものだから、聞き流してしまうところだった。

 戸惑う男を尻目に、あやめは立ち上がった。その拍子にブランコが少し揺れ、キィキィと耳障りな音をたてる。

 そのままスタスタと歩き出すあやめに、さすがの男も焦った。

 

「え? ちょっと待ってください!」

 

 男は慌てて柵から腰を浮かすと、大急ぎであやめの前に立ち塞がった。

 

「行きましょうって……、今からですか?」

「はい」

「僕の家に?」

「当然でしょう」

「え、でも、僕が取りに行けば……」

「何を言っているのですか? その間に幽霊に襲われでもしたら、対処ができないじゃないですか」

「そ、それでも、こんな時間に女の子が一人で異性の部屋に行くのは……」

「あなたは、私に何かするつもりなのですか?」

「そ、そんな訳ありません!」

「なら良いではないですか。案内してください」

 

 事も無げに言い放つあやめに、男はとうとう観念したように深い溜息をついた。何だか疲れているような気の抜けた声で「こっちです」と言って、公園の出口へと歩いていった。

 彼の後ろを、あやめがついていった。

 

 

 *         *         *

 

 

 築30年は経っている、古い木造アパート。外壁の塗装はところどころ禿げていて、表の鉄階段は錆びてボロボロになっている。トイレは共同で、風呂は無い。

 そんな家賃の安さだけが取り柄のようなアパートの一室が、男の住まいである。足を下ろす度に沈み込む不安定な表階段を昇り、一番奥のドアに差し掛かった辺りで男は足を止め、ポケットから鍵を取り出してドアノブに差し込んだ。

 そして彼はそこで動きを止めた。そして、先程からずっと彼のすぐ傍を寄り添うようについてきているあやめへと顔を向ける。

 

「あの……、汚いですよ?」

「大丈夫です。気にしませんから」

 

 こっちが気になるんです、と男は言いかけて、代わりに深い深い溜息をついた。鍵を持った手を捻ると、がちゃり、という音と共に錠が外れる。

 ドアを開けて、すぐ脇にあるスイッチに手を伸ばす。途端に部屋の照明が灯り、中の様子が明らかとなった。

 入ってすぐ右側にキッチンがあり、左側にはおそらく水回りに繋がるドアがある。そしてそこからまっすぐ進むと(といっても数歩程度だが)リビングに突き当たる。背の低いテーブルと小さなテレビ、そして床に敷かれた布団だけで息苦しくなってしまう程に、そのリビングは狭かった。

 そして男が言っていた通り、そこはとても汚かった。溢れんばかりの雑誌やらコンビニ弁当のパックやらが、足の踏み場も無いほどに散乱している。一応キッチンにゴミ箱は置いてあるものの、それも様々なゴミでいっぱいになっており、紙屑一つ入る隙間も無い。

 

「……気にしてませんから」

 

 玄関からそれを眺めていたあやめが、明らかに気にしているような表情でそう言った。

 

「……えっと、今探してきますから、そこで待っててください」

 

 男はそう言うと靴を脱いで、部屋の中へと進んでいった。ゴミを気にせず踏みつけていくので、べきべきべき、という音が何回も聞こえてくる。

 

「確かここだった気がするな……」

 

 男はそう呟きながら、リビングの横にある押し入れを開けて、両腕を中に突っ込んでがさごそと何かをまさぐり始めた。どうやら、玄関から見えないところも散らかっているらしい。

 何もすることの無いあやめは、初めの内はそれを眺めていたが、二分ほど経った頃には飽きたのか、部屋中を観察するように見渡し始めた。

 キッチンには油汚れなどが一切無く、まるで新品のようだった。それは男がキッチンだけは綺麗にしているからではなく、単純に一度も使っていないからだろう。

 あやめは次に、床いっぱいに広がるゴミの山に目をやった。彼にとってゴミ出しはそんなに重労働なのでしょうか、と同じく1人暮らしにも拘わらずゴミを溜め込んだことのない彼女は、実に不思議そうに首をかしげた。

 単純に物臭(ものぐさ)な性格なのでしょうね、とあやめが考えていたそのとき、

 

「あ、あった」

 

 そう言って男が取り出したのは、大判サイズであまり厚くない、青いハードカバーの本だった。長い間放っておいたからか、それは薄く埃をかぶっていた。

 あやめは靴を脱いで、男のもとへと歩いていく。しかし彼女は男と違ってゴミが気になるので、バレリーナのように爪先からそっと足を下ろして歩いていく。当然、そのスピードはひどくゆっくりとしたものとなる。

 やっとの思いで目的地に辿り着くと、あやめは後ろからその本を覗き込んだ。

 どうやらそれは、中学時代の卒業アルバムのようだった。現在男が見ているのは、見開きでクラスメイト全員の顔写真が並ぶページである。

 

「どうです? 何か思い出せましたか?」

「うーん……」

 

 男はそのアルバムをじっと眺める。少ししてぱらりとページを捲り、しばらくそこを眺める。ぱらりと捲り、そこを眺める。

 そして4つ目のクラスに差し掛かったとき、

 

「あ」

 

 男が、唐突に声をあげた。

 

「いましたか?」

「はい。思い出しました、僕に好意を持ってくれてた人」

「どの人ですか?」

 

 男はあやめにも見えるようにアルバムを向けると、たくさん並ぶ写真の1つを指さした。

 セミロングの黒髪をもつその少女は、他の生徒が満面の笑みを浮かべているのに対して、はにかんだように小さく頬を緩ませていた。その見た目から、物静かな優等生という印象を受ける。

 

「友人からあの噂を聞いた後は、僕もこの子のことを意識するようになったんです。でも結局碌に会話をすることもなく、卒業してしまいました」

「彼女は中学を卒業した後、どうしたんですか?」

「……さぁ、そこまでは……」

「卒業してから一度も、彼女とは顔を合わせていないのですか?」

 

 あやめの問い掛けに、男は明後日の方へ視線を向けて「うーん……」と唸り声をあげながら考え込んだ。

 そして数秒後、唸り声が止んだ。

 

「……いえ、1回だけあります。この間、中学の同級生と同窓会を開いたんです。直接は話しませんでしたけど、多分そこに彼女もいたと思います」

「その同窓会というのは、いつ行われましたか?」

「……4日前です」

 

 それはつまり、謎の声が男に呼び掛け始めた日でもあった。

 

「あの、安倍さん……、もし例の声の正体が彼女だとしたら、もしかして彼女は、もう死んでいるということですか……?」

「それは判断できません。もしかしたら“生霊”(いきりょう)という可能性もあります」

「……それじゃ、もし彼女が死んでいた場合、僕は――」

 

 そこまで言ったところで、突然男の言葉が途切れた。

 不審に思ったあやめが、男へと顔を向ける。

 彼は限界まで目を見開いたまま、表情をぴくりとも動かさず、瞬きすらせずにじっとどこかを見つめていた。顔中の筋肉が強張っているその表情に反して、体はまったく力が入っていないように腕をだらりと垂らし、ただ突っ立っているだけである。

 あやめがその視線の先を追う。

 玄関脇のキッチンがあるだけで、特に変わったものがあるようには見えなかった。

 普通の人間から見ても、あやめから見ても。

 

「どうかしましたか?」

「…………」

 

 声を掛けるが、男の反応は無い。

 

「ひょっとして、例の声が話し掛けてきたのですか?」

「…………」

 

 あやめの声が聞こえていないのだろうか。

 それとも、聞こえてはいるが答えられないのだろうか。

 いずれにしても、今の男は普通ではなかった。しかしあやめにとって、この反応はあまりにも見慣れたものだった。

 

 ――まるで、幽霊に取り憑かれたようですが……。

 

 しかし当然ながら、男には幽霊など取り憑いてはいない。もしそうだとしたら、あやめが真っ先に気づいているはずである。

 あやめが辺りを見渡した。相変わらず幽霊の姿どころか、気配すら感じない。普段とは勝手の違う相手に、さすがの彼女も焦りの色を見せ始める。

 

 ――勝手の違う相手、ですか……。

 

 あやめは顎に指を添えると、そっと目を閉じた。そして頭の中で、今までの出来事を振り返ってみる。

 本人に直接手は出さない。

 その代わり、彼の近くにある窓ガラスなどは容赦なく破壊する。

 家を揺らすほどの大きな力を持つのに、こちらが霊気を探知することができない。

 つまりそれは、こちらが探知できないほどに遠い場所に幽霊が潜んでいる、ということなのだろうか。

 しかしあやめは即座にその可能性を否定する。除霊師の術や幽霊の怪奇現象というのは、距離が離れれば離れるほど精密な操作がしにくくなる。遠くからとなると、あやめの家だけを揺らすなんて器用な芸当はできない。

 幽霊は確実に、自分達のすぐ傍に潜んでいるはずなのである。

 自分達の、すぐ傍に――

 

「まさか――」

 

 あやめはそう呟くと、散乱する雑誌やパックなどを横に押し退け、その場に四つん這いになった。露わになった床に掌を押し当て、そっと目を閉じる。

 

「やっぱり……」

 

 床から、霊気を感じた。

 正確には、床板の中から。

 あやめは立ち上がると、床のゴミを踏みつけるのも気にせずに、壁へと駆け寄った。そして同じようにそこに掌を押し当て、目を閉じる。

 先程と同じように、壁材の中から霊気を感じた。

 

「もしかして、囲まれてる……?」

 

 それはまるで、あやめが普段除霊のときに使う『界』のようだった。

 もしそうだとするならば、あやめ達はこの部屋に閉じ込められたことになる。さらに言えば、いくらこの部屋で何が起きようと、周りには一切気づかれない。

 

「まずいですね。ここは一旦外に逃げ――」

「行かなきゃ……」

 

 そのとき、先程まであやめが横で色々としていたときですら何の反応も示さなかった男が、突然言葉を漏らした。

 男は手に持っていたアルバムを床に落とした。がしゃん! と床のパックが潰れる音にも構うことなく、おぼつかない足取りで歩き出した。

 

「外に出るんですか?」

「…………」

「聞こえていないんですか?」

 

 あやめが男の腕を掴んだ瞬間、彼女は驚愕で目を見開いた。

 どう見ても彼の腕には力が入っているように見えないのに、まったく動かすことができなかった。成人の男性と女子中学生ということを差し引いても、尋常でない力の差だった。

 

「…………」

 

 男はあやめの方を向くこともなく、彼女の手を振り払った。その強さに彼女は思わず足をふらつかせ、床の雑誌を踏みつけてバランスを崩し、がしゃん! と大きな音をたてて倒れ込んだ。

 

「ちょっと!」

 

 あやめの呼び掛けに、男は一切反応しない。

 その行く先にあるのは、キッチンだった。

 

「まずい!」

 

 あやめの脳裏に、最悪のシナリオが過ぎった。何とかそれを阻止しようと、手足に力を入れて立ち上がろうとする。

 しかし、体はまったく動かなかった。

 

「なんで――」

 

 先程転んだときに、彼女の手足が床に散乱するゴミに埋もれる形となった。そして現在、ちょうどその辺りのゴミが、薄ぼんやりと青白く光っていた。

 いくらあやめが懸命に動かしてみても、手足はゴミの山に固定されたかのようにびくともしない。

 

「このっ!」

 

 彼女がそれに悪戦苦闘している間にも、男は流し台の下にある戸棚に手を掛けていた。

 そのときに一瞬見えた彼の目には、光が宿っていなかった。

 

「この! 離しなさい!」

 

 あやめは埋もれている手足に意識を集中させ、莫大な霊力をそこに注ぎ込んだ。その瞬間、ぱぁん!という音と共に、彼女の手を抑えつけていたゴミの山が飛散した。

 あやめが男へと視線をやる。彼は戸棚から、おそらくここ半年は使っていないであろう綺麗な出刃包丁を取り出していた。

 あやめは即座に立ち上がった。そしてそのまま駆けていっても間に合わないと判断したのか、『砲』を放つために両手に霊力を貯め始める。

 一瞬で充分な量の霊力が貯まり、男が持つ出刃包丁へと放ちかけた、

 まさにその瞬間、

 

『邪魔しないでよ。今良いところなんだから』

「え――」

 

 突然脳内に話し掛けてきた女性の声に、あやめは思わず一瞬だけ動きを止めてしまった。

 その一瞬が、文字通り命取りとなった。

 

 どすっ。

 

 出刃包丁が、男の左胸に深々と突き刺さった。

 

「――――!」

 

 息を呑むあやめの目の前で、男は倒れた。倒れるまでの時間が、彼女には嫌に長く感じられた。

 男の額には脂汗が浮かび、微かに開いた口でか細い息をたてている。胸に刺さった出刃包丁は鈍く光り、根本から赤黒い染みが広がっていく。

 

「待ってください! 救急車を――」

 

 スマートフォンを取り出そうとしたあやめの足首を、男がむんずと掴んだ。今にも離してしまいそうに弱々しいものだが、それでも懸命に掴もうとするその手に、彼の確固たる意思を感じるような気がした。

 

「何をしてるんですか! 早くしないと――」

「“あの子”が、待って……るんです……」

「何を言って――」

「僕なんか……を……、待って……」

 

 男はそう言って、ゆっくりと目を閉じた。

 そして、動かなくなった。

 

「…………」

 

 あやめは男をじっと見ていた。傍目には単なる死体に過ぎないが、彼女には、眩しいくらいの青白い粒子がその死体から抜け出し、天井へと消えていくのが見えた。

 最後の一粒が消えたとき、あやめはふいに壁の方へ顔を向けた。そしてゆっくりとした足取りでそこに近づくと、静かに掌を押し当てた。

 霊気は、感じ取れなかった。

 

「用が済んだらさっさと退散、ですか……」

 

 あやめはそう呟いて、自嘲気味に微笑んだ。

 そして、思いっきり壁を殴りつけた。



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愛の力(3/3)

 あの出来事から、数日後。

 自分の部屋のベッドで仰向けになって寝っ転がっているあやめは、特に何かをすることもなく、ぼんやりと天井を見つめていた。今日は日曜日なので学校へ行く必要は無く、“除霊屋”の仕事も無いのでゆっくりと体を休ませることができる。

 しかし、体は休まっても、心が安まることはなかった。ふとした拍子に、自らの心臓を突き刺す男の光景が浮かんでくる。

 

「…………」

 

 あやめは小さい頃から除霊師としての仕事に携わり、数多くの依頼を受けてきた。もちろんその全てが滞りなく達成できたわけではなく、特に技術的にも精神的にも未熟だった頃には数々の“失敗”を経験してきた。今でも未熟であることに変わりはないが、以前よりも除霊師としての実力はついてきたと自負する程度には成長しているつもりだった。

 しかしながら“自分の依頼者が自分の目の前で死ぬ”という結末には、さすがのあやめも数日間引きずってしまうほどに圧倒的な敗北感に襲われていた。ここまでの屈辱を味わったのは、ここ数年の間では一度も無かったと断言できるほどである。

 それこそ、“あのとき”以来の――

 

「テレビでも見ますか……」

 

 いらないことまで思い出しそうになったあやめは、小さく首を横に振って頭の中を切り替えた。反動をつけてベッドから起き上がり、リモコンに手を伸ばしてテレビの電源を点ける。

 そのチャンネルではニュースをやっていて、ここからそれほど離れていない場所で起きた出来事が報じられているところだった。その内容とは、この前の大雨が原因で山道で土砂崩れが発生し、たまたまそこを通り掛かっていた車がそれに巻き込まれた、というものだった。そしてつい先程その車が掘り出され、その中に運転手と思われる人の死体が見つかったらしい。

 

『亡くなったのは、東京都に住む――』

 

 キャスターがそう言うと、被害者の映像が画面に大きく映し出された。しかし画面の字幕では成人女性と表記されているにも拘わらず、肝心の写真は中学校の卒業アルバムに載っているような幼いものだった。おそらく、最近の写真を手に入れることができなかったのだろう。

 

「えっ――!」

 

 そしてそれを見た瞬間、あやめは驚愕した。転がるようにベッドから降りて、立ち上がる時間も勿体ないとばかりに四つん這いでテレビの前まで移動した。

 セミロングの黒髪をもつその少女は、はにかんだように小さく頬を緩ませていた。その見た目から、物静かな優等生という印象を受ける。

 それは紛れもなく、あの部屋で男が指さした写真の少女だった。

 

「…………」

 

 すると突然、画面を見るあやめの目つきが険しくなった。

 いや、視線こそ目の前のテレビ画面に固定されているが、意識は既に別の場所に向いていた。

 

「成程、あなたの仕業だったんですね?」

「――――はい」

 

 画面に映る中学生の少女を見つめたままあやめが問い掛けると、彼女の背後から若い女性の声で返事が聞こえてきた。もちろんこの部屋には、先程まであやめ以外誰もいなかったはずだ。

 しかしあやめはそれを疑問に思うこともなく、後ろを振り返らずそのまま話し始める。

 

「最初は不思議で仕方がなかったんですよ。『なんで霊気を感じ取れなかったのか』という疑問もありましたが、それ以上に『なんで直接襲い掛かってこなかったのか』という疑問の方が大きいものでした」

「…………」

「霊気については、霊力が壁や地面を伝って移動していることから、霊気が壁などに閉じ込められている状態だったんだと理解できました。――しかしもう1つの疑問については、彼が死んだ後もその理由がまるで分かりませんでした」

 

 でもやっと分かりました、と言って、あやめはテレビの画面を指さした。

 そこには、土砂崩れで完全に埋まってしまった道路が映されている。

 

「土砂崩れで体ごと魂を捕らわれたから、地面や壁から抜け出せなかった。だから壁を伝ってもできる“ガラスを割る”という行動しかできなかったんですね」

「あのときはごめんなさいね、家中の窓ガラスを割っちゃって。てっきり恋人かと思って、頭に血が上っちゃって……。あなたはまだ中学生なんだから、恋人なはずがないのにね」

 

 ようやく女から返事が返ってきた。言葉とは裏腹に、その声からは申し訳ないという気持ちが微塵も感じられなかった。

 

「別に気にすることはありませんよ。結構高くつきましたけど」

 

 あれだけのお金を一度に使うことはしばらくないでしょうね、とあやめは密かに思った。

 

「それで、聞かせてくれますか? どうしてあんなことをしたのか」

「……悔しかったのよ」

 

 女の声のトーンが、先程よりも少し落ちた。

 

「中学生のときに一度も声を掛けられなくて、ずっと後悔してた。忘れようと思って色々なことに打ち込んだけど、それでも忘れられなかった」

「…………」

「同窓会で久しぶりに会ったとき、凄く嬉しかった。あのときと全然変わってない、無邪気で、優しくて、素敵な人のままだった」

「…………」

 

 あやめは無言のまま、女の話に耳を傾ける。

 

「でも、結局そのときも話し掛けることができなくて、ずっと遠くから眺めてることしかできなかった。帰ってからずっとそのことで悩んで……。それで、気づいたの」

「……何をですか?」

 

 ふふふ、という女の含み笑いが聞こえてきた。

 

「『やっぱり私は“この人”が好きなんだ。それ以外の人じゃ駄目なんだ。そして、遠くから眺めてるだけじゃ“想い”は伝えられないんだ』ってね」

 

 弾むような明るい声で、女は答えた。

 しかし次の瞬間に、それは沈んだものとなる。

 

「私ね、決心したの。この人に自分の“想い”を伝えるんだ、って。だから普段使わない車に乗って、あの人の家に向かったの。――でも、あの山道を通ってたときに……」

「土砂崩れに巻き込まれた、と……」

 

 あやめが言葉に、女は「そう」と涙声で答えた。

 

「悔しかった。悲しかった。『なんで今なの! 伝えた後ならまだ我慢できたのに! 伝えることすら許されないの?』って、暗い暗い土の中で何度も思ったわ」

「そして、その“想い”が今回のことに繋がった、ということですか……」

 

 あやめは溜息混じりでそう言って、ようやく後ろに顔を向けた。

 ベッドの上に、その女は浮かんでいた。写真の少女に比べて幾分か大人っぽく、しかし一目で本人だとすぐに分かるくらいに面影が残っていた。

 

「“この人”は、私の“想い”に応えてくれた。少し遅れちゃったけど、最初からこうなるべきだったのよ」

 

 嬉々とした表情でそう答える女の隣に、その男はいた。

 紛れもなく、あやめの目の前で自殺した依頼者だ。

 しかしその表情は、自殺する直前のときと同じ、感情も自我もまったく宿っていないものだった。

 

「とても、幸せそうですね」

「ええ、本当に幸せ」

 

 女は満面の笑みを浮かべてそう答えると、男の腕に力いっぱいしがみついた。二度と離さない、と言わんばかりに。

 男の反応は無かった。

 あやめは肩を竦めると、彼女に尋ねる。

 

「ところで、どうしてわざわざここに来たんですか? ひょっとして、そのことを自慢しに来たとか?」

「いえ、違うわ。――除霊してほしいの」

「……はい?」

 

 一瞬、彼女が何を言っているのかあやめには分からなかった。幽霊の方から除霊を頼まれるなんて、初めての経験である。

 女は、ふふ、と小さく笑って、

 

「この世界にいたら、今度はどんな理由でこの人と離ればなれになるか分からないわ。でも“あの世”に行けば、この人と永遠に一緒にいられるのよ。それって、凄く素敵なことだと思わない?」

 

 弾むような声でそう言うと、男にしがみつく力をさらに強めた。随分と息苦しいだろうに、男からは何の反応も無かった。

 あやめはそんな2人をしばらく眺めると、

 

「分かりました」

 

 そう言って、2人へと向き直った。

 腕をかざすと、掌が微かに青白く光った。

 

「――『葬』」

 

 あやめが呟いた途端、2人の体が彼女の掌と同じ青白い光に包まれた。女は一瞬驚くが、満足したように笑って目を閉じた。

 

「2つ、訊きたいことがあるんですが」

 

 ふいに、あやめが女に尋ねた。女が目を開けて「何かしら?」と微笑む。

 

「どうやって、私や彼に話し掛けたり、暗示を掛けたりしたのですか? 生物に干渉するのは、単なる物を操るのに比べて格段に難易度が跳ね上がります。そんな芸当を、壁に閉じ込められたあなたができるとは到底思えないのですけど」

 

 あやめの質問に、女は「うーん」と小さく唸りながら、しばらく考え込んだ。

 やがて、女があやめへと視線を向けて口を開いた。

 

「“愛の力”かしら?」

「……成程。それじゃもう1つ。あなた、土砂崩れに巻き込まれたとき、『彼の家に向かっていた』と言っていましたよね?」

「ええ、言ったわ」

「どうやって、彼の家の住所を知ったんですか? 彼の話だと、同窓会のときには一言も話さなかったと聞いていたのですが、誰かから聞いたのですか?」

「ふふ、それこそ、“愛の力”よ」

「……そうですか」

 

 あやめはもはや、何も言い返す気にならなかった。そんな彼女の反応に、女は不思議で仕方ないといった風にキョトンとした表情で首をかしげた。

 青白い光が、より一層強くなった。

 

「じゃぁね、あやめちゃん」

 

 その瞬間、2人の体は青白い粒子となって、弾けた。それらは上へと昇っていき、天井を抜けて空へと消えていった。

 あやめ以外誰もいなくなったその部屋を、彼女はしばらくぼんやりと眺めていた。

 

「あなたがこれから行く“あの世”が、あなたの思う通りの世界だと良いですけどね……」

 

 あやめがぽつりと呟いた言葉に、答える者はいない。テレビはいつの間にか芸能人の話題に変わっていて、幸せそうに薬指の指輪を報道陣に見せているカップルの姿が映っていた。

 そしてそれをスタジオで見ていたコメンテーターが、「所詮結婚なんて、人生の墓場ですからね」などと冗談交じりにコメントしていた。

 

「お幸せに」

 

 あやめはそう言って、テレビの電源を消した。

 テレビから流れてきた笑い声が途切れ、部屋が再び静寂に包まれた。



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