北宇治高校ダブルリードパートへようこそ (言巫女のつづら)
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第1章 滝先生・北宇治高校赴任1年前
第1話 ファゴットからの誘い


《それではただいまより、府内各高校によるサンライズフェスティバルを開催いたします……。一番手は北宇治高校吹奏楽部の皆さんです》

 

「よーし、みんな行くよ!」

『はい!!』

 

 パーカッションが刻み始めたリズムを合図に、自分もフラッグを掲げて右足を踏み出した。

 

 

 北宇治高校からはおよそ九キロ、車を使えば往復でも一時間かからない太陽公園。公園内の緑道は大勢の人でごった返している。まだ時刻は午前九時を過ぎたばかりだ。大半は今日のサンライズフェスティバルに参加する府内の学校の吹奏楽部員だが、早々と鑑賞に訪れた熱心な観客の姿もちらほら目につく。

 どの学校の参加者も出番はまだかという興奮で、観客も目当ての学校のマーチングはいつだという期待で顔が輝いている。

 対照的に、自分の気分は陰鬱そのもの。背後から時たま響いてくる不協和音のせいだ。理由は分かっている。行進の際の振動が唇をぶらつかせて、マウスピースに普段通りの吹き込みをさせていないのだ。マーチングに不慣れな……というより練習不足な団体の演奏ではよくあることだ。この振動を抑える術を会得しないと、座奏でいい演奏が出来ても本来の実力を披露できない。

 

「北宇治だしなぁ……」

「まあ、こんなもんだよな」

 

 できの悪い他人の家の子を見つめるかのような、微笑みと苦笑が入り混じった微妙な表情を浮かべる観客の視線が痛い。

 幸か不幸か、大多数の耳目を集めているのはパレード終盤に登場する立華高校と洛秋高校なので、目につく観客もまばらだ。

 

 ……こういうマーチングパレードでの、午前中の出場は不利だ。

 まだ五月初め。肌寒さの残る屋外とあっては、奏者の調子も上がらない。音の響きも今一つ。そのうえ、楽器の輸送もあるので早朝から学校に出向かなければならない。だから、どこの団体も奏者の調子が上がり、観客も集まる昼過ぎに競って出演したがる。

 誰もが嫌がる貧乏(くじ)を北宇治が引いてしまったのは、端的に言えば前年度の評価が相当低かったせいだ。パレードの出演順は、参加する各団体の要望に応じたものになってはいるが、重複した場合、前年の評価が高い団体に優先権が与えられる。つまり自分達みたいにパレード開催直後、観客もまだ少ない内に出演する団体は、概して低レベルなのだ。

 

「あだっ!!」

 

 個人的によく知っている先輩の景気のいい悲鳴に続いて、金属が地面に落ちる音が聞こえる。もうそれだけで後ろの方で何か起きたのか察した。さっきからトロンボーンの音がどこかおかしかったし、スライドを勢い余って前に吹っ飛ばしてしまったのだろう。

 

「ぷっ」

 

 すぐ後ろのチアリーダー担当の部員が、観客と一緒になって含み笑いの声を漏らしている。内心、頭を抱えた。笑われているのは自分達も一緒なのに。祭り事特有の熱気に頭をやられたのか、羞恥心はどこぞに消え去ったらしい。

 

 

 

 

 自分達のマーチング……と言えるレベルかどうか怪しいものも、ひとまずは終わった。

 楽器の片づけが済んだ後は自由行動。他校のマーチングを見物したり、出店を周ったり、みんな思い思いに行動している。

 

 自分はというと、早朝からのハードワークに疲労困憊。周囲の喧騒をよそに鑑賞スペースでまどろんでいると、傍に誰かが座りこむ気配がした。

 

「おつかれ、蔵守(くらもり)。最後の方のフラッグのトスが怪しかったけど、急ごしらえだったしね。ギリギリ及第点ってとこかな」

 

 そう言って、彼女はペットボトルのお茶を勢いよく口に注ぎ込んだ。

 高校生になって色気づいたのか、中学の頃は首筋までしか届いていなかった黒髪は今や背中まで伸びている。そのボリュームある長髪は緑のシュシュでサイドポニーにまとめられ、風にゆらめいていた。

 

「本当ですよ……。本番前日になってヘルプに来いとか。無茶振りが過ぎます、(おか)先輩」

「しゃーないじゃん。カラーガード(旗振り役)の子が風邪ひいて欠席しちゃったんだから。フラッグ無しなんて見栄え悪いし。去年もガードやってたんでしょ? 何とかできると思ったの」

 

 元々ガードが一人しかいなかったのか、というツッコミはさておく。

 

「あのマーチングの出来じゃ、見栄えどうこうもないと思いますが」

 

 出番が終わってから分かった事だが、やはりというか何というか……行進の足並みも全然揃っていなかった。ガードをまともにこなせていようがいまいが焼け石に水だ。

 

 周囲で無邪気にはしゃぐ部員の声が忌々(いまいま)しい。

 急なヘルプだったとはいえ、なるだけ足を引っ張らない様に昨日今日と必死に練習を重ねた。それなのに当の部員達はこの体たらくだ。

 

「せっかくの休日だし、断った方が良かったかな……」

 

 その(つぶや)きを聞き咎めた岡先輩は、ペットボトルのお茶から口を放して怪訝な表情を向けてきた。

 

「アンタ来年ポンポンやる気なの? 私、男のポンポンなんてキモいの見たくないんだけど」

「そんなの自分だって見たくないですよ。急に何の話ですか」

「だから、来年のサンフェス。マーチングでオーボエ使う訳にはいかないでしょ。そうなるとガードしかやる役ないじゃん。怪我も治ったみたいだし、いい練習の機会だから今度の事も快く引き受けてくれると思ってたのにな~」

「……」

「中学じゃ同じパートだったから目をかけてあげたのに、一年会わない内に随分とドライになったじゃん」

 

 恨めしげな視線を向けてくる岡先輩への返事に窮していると、首筋を襲うひんやりした感触。

 

「冷たっ!」

「まだ病み上がりなんだから、そんな簡単に引き受けるわけにもいかないでしょ。はい、蔵守くん。差し入れ」

喜多村(きたむら)先輩……」

 

 ウェーブがかったオリーブ色のロングヘアーを左肩に一つ束ねにした髪型。それは中学の頃からさほど変わっておらず、岡先輩とは対照的だ。

 手渡されたペットボトルを受け取ると、喜多村先輩は岡先輩の隣に座り込んでため息をついた。

 

「ほとんどの三年生がやる気無いからね。なかなか全体で練習できてなかったの。演奏の方はともかく、行進の練習なんて私達もほとんどやってないんだよ。一年生には真面目に練習しようって意見の子もいたんだけどね」

「行進の話は聞いてましたけど、あれって冗談でも謙遜でもなかったんですね」

 

 急なヘルプ要員の自分にプレッシャーをかけまいと、軽口を叩いたとばかり思っていたのだが。

 

「一発本番とはいえ、ここまでヒドイとは私も思わなかった。ゴメンね、無駄骨折らせちゃって」

来南(らいな)も甘いんだから。後輩なんてパシって何ぼでしょ」

 

 休日を割いて手伝いに来たのに何という言い草。岡先輩も少しは喜多村先輩の爪の垢を煎じて飲むべきだと思う。

 渋面を浮かべていると、岡先輩はスカートについた草をはたきながら立ちあがった。

 

「鬱な話は止めにして、せっかくサンフェスに来たんだし出店周らない?」

「うん、行こう! 蔵守くんも一緒にどう?」

「自分はいいです。二人でどうぞ」

「え~、なんで~」

「この服のまま出歩くのは、かなり気まずいので勘弁してほしいんですが」

 

 今の自分が身にまとっているのはマーチングの際のジャケットそのまま。

 衆人環視の中、コールド負けしたチームがユニフォームそのままで次の試合を観戦するが(ごと)し。気分はさながらピエロ。というか早く着替えたい。

 

「キミもノリ悪いなぁ……。それじゃかわりに私と美貴(みき)の写真取ってくれない? こういう機会でもないと、こんな服着ないから」

 

 写真か……。

 

「香織せんぱ~い。一緒に写真とりましょうよ~」

「もう……優子ちゃんたら。そんなに焦らなくても大丈夫だよ」

 

 周囲を見渡すと、そこかしこで部員同士声をかけあってお互いのチアガール姿を撮影している。

 写真写りに一喜一憂する姿。女子にとってはこれはこれで楽しいものなのだろう。

 

「それ位ならいいですよ」

「よかった。じゃあ、これ」

 

 喜多村先輩が自分にスマホを手渡してきた。

 

「撮り方はわかるよね?そこのボタン押せばいいだけだから」

「後でアンタにも送ってあげようか?」

「いりません」

 

 どうせ代価は高くつく。

 

「撮りますよ。はい、チーズ」

 

 口ではああ言ったものの、先輩達はノースリーブのユニフォームにミニスカートのチアガール姿。ひらひらとしたミニスカートが風になびいて、健康的な脚線美を披露する。体にぴっちり密着したユニフォームは、先輩達のS字にくびれたボディラインを強調している。

 普段のセーラー服とは肌の露出が段違い。なんとも刺激が強い。

 男の自分を前にして臆面もなく脇や太ももをさらけ出す先輩達。その無防備さに内心動揺と不安を感じながら、なるべく直視せずにポーズを次々変える先輩達の撮影を続けた。

 

「……もういいんじゃないんですか? 先輩のスマホ、電池残量ほとんどないですよ」

「え~。もっと撮りたかったのに……仕方ないなあ」

 

 不満気な表情の喜多村先輩にスマホを返すと、彼女はじっと自分の右手を見つめて笑顔を浮かべた。

 

「でも良かった。具合もすっかりよくなったみたいで。これなら来週には部活始められそうだね」

「入学早々、利き手を怪我するなんてドジなんだから。吹奏楽続けるのならもっと体を大事にしなさいよ」

「……はあ」

「何よ、その気のない返事は。今日のマーチングの様子見て入部する気なくしたの?」

「た、確かにウチの吹部あんまり上手くないけど! 個人練習は部員の裁量に任せられてるから。

時間制限もないし、その気があるなら下校時間まで好きなだけ練習していいんだよ!」

 

 喜多村先輩が慌てて吹部のフォローをするが……物は言いようだ。要するにロクな指導もなく、放任されているという事だろう。てか、時間制限て何だ。

 

「……北宇治の吹部が上手でも下手でも、それはどうでもいいんですけどね。ただ、オーボエ一人だとコンクールや演奏会でのプレッシャーが」

 

 高校でもオーボエを続けたい気持ちはある。だけど。

 癒えた右手を左手でさすりながら、中学時代の吹部での日々に思いを馳せた。

 

「ああ、それなら心配いらないよ。オーボエはもう一人、経験者の子がいるから」

「え、そうなんですか?」

 

 吹奏楽では無名に近いはずの北宇治で、オーボエをやってる物好きがいるなんて。一体どんな人か、にわかに興味がわいてきた。

 

「ほら。今日欠席したガードの子が、オーボエ担当の子なの。キミと同じ一年生。でもやっぱり一人だけだと練習中寂しいだろうし、来てくれると嬉しいかな。パートは一緒でも楽器が違うから、何か相談された時に適切なアドバイス送れる自信ないの」

「大人しい子だからさ。壁にぶつかった時、内にこもりそうでちょっと心配なのよ。上手くはあるんだけどね。アンタにその子のパートナーになってもらえないかと思ってるワケ」

 

 そういう事情であれば、断るのも心苦しい。

 

「岡先輩……。すみません、自分誤解してました。先輩もちゃんと後輩の事考えて」

「ついでに私達の雑用係も担当してくれればなおよし」

 

 前言撤回。パートナーとかもっともらしい事言っておいて結局それか。どうせタダ働きさせられるなら、さっきの写真貰っておけばよかったかもしれない。そう思ったが今更だ。

 

「……まあ、吹部に入るにしても、ブランクが空いたままなので週明けすぐにという訳には。以前通ってたスクールの先生にちょっと稽古つけてもらってきます。部活の方に伺うのはそれからでいいですか?」

「勿論! そうだ。学校のオーボエ使えるように先生の方に話を通しておくね。スクールの楽器をレンタルできるかもだけど、どうせ吹部に入ったら学校の使う事になるんだし」

 

 喜多村先輩は本当に気を利かせてくれて助かる。

 

「そうしてもらえると有難いです。任せちゃっていいですか?」

「うん、任されました。高校でもよろしくね」

 

 笑顔で手を合わせる先輩に、姿勢を改めて答えた。

 

「ええ、よろしくお願いします」

 

 

 

 

「……ところで岡先輩。トロンボーンのスライドぶつけられた頭の方、大丈夫ですか?」

「忘れろ」

 

 



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第2話 言葉足らずなオーボエ

伏字は著作権対策です(一応)


「今日から吹奏楽部にお世話になります。蔵守啓介(けいすけ)です。よろしくお願いします」

 

 サンライズフェスティバルから二週間が過ぎ、もう夏の気配が見え隠れし始めた五月下旬。

 顧問の梨花子先生に入部届を提出し、晴れて自分も吹奏楽部の部員となった。

 

 時期外れの新入部員。当然向けられる奇異の視線に気遅れを感じずにはいられなかったが、密度は思った程でもない。自分の自己紹介も兼ねて、音楽室で開かれたミーティングに集っているのは五十人強。サンフェスの時よりも明らかに少ない。

 女子のセーラー服のスカーフをざっと見ても、一年生である事を表す青が最も多く、次いで二年生の緑。三年生の赤となると、ほとんど見当たらない。

 受験勉強でミーティングに遅れているのか、喜多村先輩が言っていたようにやる気がないので欠席しているだけか。

 

 ……同級生の男子はいるだろうか。

 一段高い指揮台から目につく北宇治高校の男子の制服はいわゆる学ラン。なので女子みたいにパッと見で学年を識別できない。

 足元のシューズの色で見分けていくと、自分と同じ青色のが二人。闊達そうな中肉中背の男子と、大柄で威圧感ありそうな眼鏡男子だ。

 部員の中に同級生の男子がいる事にホッと一息ついた。

 

「ねえねえ、キミ」

 

 挨拶を終えるや否や、切れ長の瞳に赤縁の眼鏡をかけた長身の女子が近寄ってきた。

 

「はい?」

「ユーフォニアムやらない? やってみない? いい楽器だよユーフォは」

 

 ユーフォニアム……。

 スカーフは緑色。喜多村先輩や岡先輩と同じなので二年生か。

 

「あ……いえ。自分は」

「ん? もしかしてユーフォ知らない? ユーフォニアムというのはね、ピストン・バルブの装備された変ロ調のチューバなの。それでね、もともとはオイフォニンって呼ばれてたんだけど、この名前はギリシャ語のeuphonos(良い響き)に由来するもので」

「……あの」

「田中さん、蔵守君はオーボエ希望なのよ。貴方の所は一年生が三人も入ったんだから、ここは遠慮しなさい」

「え~そうなんですか? 残念~」

 

 いつ終わるとも知れないユーフォ談義に閉口していると、梨花子先生が助け舟を出してくれた。田中さんと呼ばれた眼鏡の先輩は渋々といった感じで引き下がっていく。

 

「ではパート練習に移ります。喜多村さん、蔵守君をよろしくね」

「はい。じゃあ、早速行こっか?」

 

 頷いて音楽室を後にしようすると、目の前にぬっと立ちふさがる眼鏡…もとい田中先輩。

 

「気が変わったらいつでも低音パートに来てくれていいからね。君と同じ一年の男子もいるから居心地はいいと思うよん」

「はいはい、あすか。いい加減しつこいよ」

「んあ~」

 

 二つ結びのおさげの二年生が、手慣れた様子で田中先輩を連行していく。

 あの人は普段からあんな調子なんだろうか。

 

 

 

 

「やる気無さそうな吹部と思ってましたけど、ああいう人もいるんですね。変人ぽいですけど」

 

 パート練習用の教室へ向かう道中、つぶやいた。

 

「あはは、あの子は田中あすかって言うの。ユーフォがすっごい上手くて弁も立って、リーダーシップあるから三年生も一目置いてるんだよ。ユーフォの事となると周りが見えなくなるのが玉にキズだけどね」

「それはよくわかりました」

 

 初対面の相手に、いきなりユーフォの講釈をするくらいだし。相当思い入れがあるのだろう。

 

「あすかの低音パートにはセクション練習でちょくちょく出かけてんの。低音楽器仲間だからね。で、私達二年の間じゃ、来年の部長は十中八九あすかになるってもっぱらの噂。アンタも今の内からお近づきになっておいた方が何かと好都合よ。ただでさえ女子が多い部活だから」

「頭に入れておきます」

 

 岡先輩の(ぞく)っぽい発言を適当に聞き流していると、喜多村先輩がスカートを翻しながらくるりと振り返った。

 

「ほら、ここ。この三年六組の教室が私達ファゴットとオーボエ、ダブルリードパートの練習場所。で、この先の突き当りの階段を曲がった先の三年三組が低音パートの練習場所だよ」

 

 教室の扉から中を覗いてみるが誰もいない。廊下を振り返っても自分達三人の後に続く部員は見かけない。(くだん)のオーボエ担当の子は休みなのだろうか。

 

「ところで先輩。田中先輩は知らなかったみたいですけど、自分がオーボエ経験者だって事話してないんですか?」

「ああ、それはね……」

 

 喜多村先輩が返答しようとした矢先。

 突き当りの階段をバタバタと駆け昇って、こちらに近づいてくる女子が目に入ってきた。

 右手に持っているのは楽器ケースだろうか。青みがかった髪色のロングヘアーにぱっつんの前髪。その容姿にはどこかしら見覚えがある。

 

「はあ……はあ……。すみません。遅れました」

「みぞれ、遅い! もうミーティング終わったよ」

「まあまあ。新入部員の紹介以外は大した事してないし。三年生はいつもどおりサボリだから別にいいよ。みぞれちゃん、彼が今日から私達ダブルリードパートのメンバーになる蔵守くんだよ」

 

 ミーティングに遅れた部員は、自分の顔を見て目を丸くしている。

 

「なんだ。サンフェスで欠席したオーボエの子って、鎧塚(よろいづか)さんの事だったんですか」

「あれれ? 二人は知り合い?」

「クラス同じなんです。今まで話した事なかったけれど……」

 

 鎧塚さんは不思議そうな表情で自分を見つめると、やおら口を開いた。

 

「蔵守君、楽器なんて吹けるの?」

「……」

 

 面と向かっての第一声がそれか。

 開口一番放たれた失礼な台詞に、つい先ほどまで話していたユーフォニアムの先輩の事など綺麗さっぱり消え失せてしまった。自分の沈黙をどう受け取ったのか、鎧塚さんは更に言葉を続ける。

 

「オーボエもファゴットも難しい楽器。好奇心で吹奏楽部に入ったのなら、いろいろ試して蔵守君でも吹けそうな楽器にした方がいいと思う……」

 

 息を吐くように失言を重ねる鎧塚さんに、苛立ちは募るばかり。

 この人とうまくやっていく自信がない……。

 

 そんな自分達の様子にこらえきれなくなったのか、先輩達が腹をかかえて笑いだした。

 

「みぞれったら、期待裏切らなさすぎ!」

「大丈夫だよみぞれちゃん。彼は経験者だから」

 

 先輩達の口振りから察するに、鎧塚さんがこういう反応をするのは想定内だったらしい。

 

「……自分の事、黙ってた理由はコレですか」

「みぞれって言葉足らずなトコあるから。どう反応するかちょっと見てみたかったしねー」

「ふふ。立ち話しもなんだし、続きは教室に移動してからにしよ?」

 

 きょとんとした表情の鎧塚さん。

 悪意は無いようだが……どうにも釈然としない心持ちで教室の扉をくぐった。

 

 

 

 

「それで、みぞれちゃんもオーボエを中学からやってるんだけど、凄いんだよ!」

「……そんな事ないです」

「謙遜しないでいいって。蔵守も聞いてみたいでしょ? これからの相方の演奏」

「ソーデスネー」

 

 すっかり不貞腐れてしまったので、返事もおざなりになるのは仕方がない。

 

「もー。いい加減機嫌直してよー」

 

 かしましい女性陣に背を向けてオーボエを組み立てていると、喜多村先輩が宥めてきた。

 

「みぞれちゃんの反応を見たかったのはあるけど、みんなにキミの事、喋ってない理由はそれだけじゃないんだよ?」

「……というと」

「中学から部活一緒でパートも同じってバレたら、変な噂が立つかもじゃない。黙ってたのはその対策ってトコもあるんだよ?」

 

 なるほど。

 別段隠すような事でもないと思うが、だからと言ってこちらから言いふらす類の事でもないのも確かだ。その手の話には食い付きがよさそうな年頃の女子ばかりの環境だし。

 

「……私は知っちゃいましたが」

「みぞれは大人しいし、そういう事しゃべんないでしょ」

 

 そもそもバラすような友達も少なさそうだしね。ほとんど初対面と変わらない相手への第一声がアレだし……。

 そんな台詞が頭に浮かんだが、口に出すのは控えた。

 

「それじゃあ、コイツに披露してやんなよ。同じオーボエ奏者としての感想も聞きたいし」

「わかりました」

 

 鎧塚さんもケースを開いてオーボエを組み立て始めた。黒い管体にまとわりつく白銀の装飾が、陽の光を眩しく反射する。学校にあったものとは細部が微妙に異なっていた。

 

「……もしかしてそのオーボエ、鎧塚さんのマイ楽器?」

「うん、そう」

「へえ~。そういうのって一目でわかるものなんだ」

「さっすが同業者」

 

 先輩達が感心したように呟くが、そんな大した事でもない。

 

「いえ、ただの当てずっぽうです。学校のオーボエは全部セミオートマチックでしたから。鎧塚さんのはフルオートマチック。ほら、よく見ると金属パーツが学校のより多いでしょ?」

 

 そう言うと、先輩達がしげしげと鎧塚さんと自分のオーボエを見比べ始めた。彼女は気恥しそうに頬を赤く染めている。

 クラスでもあまり話すところ見ないし、シャイな人なんだろうか。

 

「ホントだ。確かにみぞれちゃんの方が高級品っぽいね」

「実際値段もセミオートより高いんですよ。音色や響きも違います」

 

 セミオートとフルオート。どちらが優れているかは人によって意見が分かれるところだが、金属が多い分重くて、メンテにも気を使うフルオートの方が運用で面倒を伴うのは確かだ。

 経験者である鎧塚さんはそれを承知で購入したはずだから、扱いには自信があるとみえる。

 

 そうこうしてる内に鎧塚さんはチューニングを終え、譜面台に楽譜をのせてオーボエを構えた。

 

「……準備できました。【魔女の宅○便】の【風の丘】を演奏します」

「いつでもいいよ。コイツに力の差を見せつけて叩きのめしちゃえ!」

 

 自分を鎧塚さんのパートナーにする気が全くなさそうな岡先輩の檄を合図に、彼女の演奏が始まった。

 

♪~

 

「……!?」

 

 鎧塚さんのオーボエが奏でられた途端、激しい違和感に襲われた。

 いつも教室で無愛想な表情をしている彼女とは似ても似つかない、抑揚に富んだフレーズ。目の前の自分達の事など、まるで視界に入っていないかのような落ち着いた演奏の様子。

 彼女にとって、この場にいる面々はみな高校に入学してからの知己。気心の知れた相手などいない。その事に全く怖気づいていないように見える。

 オーボエは独奏(ソロ)を担当する事が多い。それで大舞台に場慣れしているのだろう。にわかオーボエ奏者ではこうはいかない。

 

 肝の太さに感心した次の瞬間、彼女は大きく息を吐いた。

 オーボエは、他の管楽器ほどには音出しに沢山の息を必要としない。それ故に奏者はついつい息継ぎを忘れてしまう。

 しかし、彼女はオーボエ独特の呼吸法をしっかりマスターしているようだ。

 

「やるなあ……」

 

 つい口に出てしまった。先輩達が鬼の首を取ったかのような顔を向けてきたのが気に入らなかったけれど。

 鎧塚さんはオーボエの要諦を見事にこなしている。

 中学の顧問がよかったのだろうが、それだけでは三年間でここまで出来ない。地道に修練を重ねてきたのだろう。

 

 演奏が終わると先輩達から拍手があがった。自分も舌を巻いた。

 

「うんうん。みぞれちゃんの脳が蕩けるようなメロディー、いつもの事だけど聞き惚れちゃうよ」

「どーよ、同じオーボエ奏者としての感想は?」

「あー。上手いって聞いてはいましたけど、これほどとは思いませんでした」

「ありがとう……」

 

 そう言って、また赤面する鎧塚さん。演奏中とそれ以外でまるで人が違う。

 彼女の様子をしげしげと観察していると、岡先輩が身を乗り出してきた。

 

「さ、次はアンタの番よ。さっさと準備する!」

「え? 自分もやるんですか?」

「スクールで鍛え直したんでしょ? 十八番(おはこ)くらいは聞かせられないんじゃ話になんないわよ」

 

 サンフェスであんなグダグダ演奏をするレベルの吹部で、十八番を披露する機会などあるまいに。

 

「一年見ない内にどれだけ腕上げたのか、楽しみにしてるね」

 

 喜多村先輩もノリノリなので、始末が悪い。

 

「笑顔でプレッシャーかけないで下さいよ……」

「ふふ。それで、何を吹くの?」

「それじゃ……【NH○連続テレビ小説・あす○】の【風笛】で」

 

 久しぶりの人前での演奏にやや気が高ぶっている。大きく息を吐いて自分を落ち着かせた。

 

「準備はいいね? いくよっ」

 

 喜多村先輩がメトロノームのリズムを調整して手を放す。

 そのテンポに合わせてダブルリードに息を吹き込んだ。

 

♪~

 

 演奏の最中、リードを巡るこれまでの日々が走馬灯のように浮かんでいく。

 

 先輩を通して借りた学校のオーボエを初めて手にした時、思いのほか感覚が残っていた事に驚いた。

 むしろ今日まで苦心したのはリードの方だった。中学の時から贔屓にしてきた店のリードは、北宇治高校のオーボエと相性が悪い。思うような音が出ない。新しい相棒に合うリードを探すために、街じゅうを駆け回った。

 ようやく見つけたリードとオーボエを繋げたら、次は自分の息とリードをつなげる番だ。

 オーボエと自分の口を繋ぐ二枚のリード。その二枚のリードの隙間に適切な圧力のブレスを注ぐ。

 二枚のリードの間隔、そしてブレスの圧力。これは楽器の種類や奏者によって千差万別だ。個人差があるので顧問や講師の指導だけではどうにもならない。試行錯誤を繰り返して自分で見つけるしかないのだ。

 

 ……最後の旋律を吹き終え、大きな息を一つ吐く。

 視線を戻すと、三人とも目を白黒させている。お気に召さなかったのだろうか。

 

「……どうでした?」

 

 その言葉に、我に返ったのか口々に感想を言い出す

 

「凄い凄い! 中学の時よりうまくなってるよ!」

「なんだツマンない。ブランクもあったし、下手になってたら鼻で笑ってやろうと思ってたのに」

「……びっくり、いい音色」

 

 三者三様の反応。一応、好評が過半数を占めているのでよしとしよう。

 

「ま、いいわ。それじゃ蔵守、アンタの入部歓迎会するから何かお菓子買って来て」

 

 自分の入部歓迎会のはずなのに、何でパシられるんだろ?

 岡先輩のこういうところは、中学の時からまるで変わっていない。

 

「お代は……」

「あン?」

「……いえ、何でもないです。じゃがりこでいいですか?」

「アンタね、ビールのつまみじゃないんだから、もっとマシなお菓子買ってきなさいよ」

 

 なんでそこでビールとかつまみとかいう言葉が出てくるんだ。高校生のくせに……

 内心そんな事を思いながら、コンビニへと足早に駆け去った。

 

 



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第3話 無頓着なフルート

「それじゃ、今日はここまで。お疲れさま」

「おつー」

「……お疲れさまでした」

 

 あ、今日はもう終わりか。

 

 鎧塚さんとの初顔合わせを済ませた翌日のパート練習は、心ここにあらずといった状態だった。

 一日経っても自分の耳には、彼女の演奏の余韻が残っている。なんだか無性にまた聞きたくなってくる響き。ついつい彼女の方にばかり視線が向いてしまう。

 

 気を切り替えて、オーボエの手入れに入った。楽器を分解して、管体とキーの水分を抜いて、リードの掃除。オーボエは繊細な楽器だけに、一連の作業に手抜かりは許されない。

 ようやく終えて鎧塚さんの方を見ると、まだキーの水抜きをしている。手入れの手際に関して大した違いはないように思えるが、終わるまで今しばらくかかりそうだ。

 

「やっぱりフルオートだと手入れ大変みたいだね」

「平気。買ってもらう前から分かってた事だから。……それに、こっちの方が音に厚みや響きがでる」

 

 時間のかかる手入れを苦でもなさそうに、優しげな目で手入れを続ける鎧塚さん。その様子を微笑ましく眺めていた岡先輩が口を開いた。

 

「みぞれは偉いんだよ。入部してから、毎日欠かさずに手入れしてるんだから。

シャルロットもご機嫌でしょーね」

「シャルロット?」

「みぞれちゃんのオーボエの愛称だよ。家で飼ってる猫の名前をつけたんだって」

 

 へえ……。

 

「お前はいいなシャル子。鎧塚さんみたいな丁寧に扱ってくれる子が相棒で」

「……私のオーボエに変なあだ名つけないで」

「いいじゃないか。シャルロットなんて貴族っぽい名前より親近感湧いて。あ、それともこの子はオス設定? ならシャル太か」

「……ネーミングセンスない」

 

 ため息をつく鎧塚さんに憮然としていると、喜多村先輩が話しかけてきた。

 

「そういえば蔵守くん。キミはオーボエに名前付けないの?」

「中学の時もそうでしたけど借り物ですから。それに男子は楽器に名前付けないと思いますよ」

 

 自分の周りで、楽器に愛称を付けたという話は聞かない。

 

「なら私が名前つけてあげる」

 

 やな予感。

 

「どんな名前付ける気なんですか?」

「うーん……。パルファンとか、エタニティとかはどう?」

 

 えー。

 

「それ先輩が使ってる香水の名前じゃないですか。絶対嫌ですよ。そんな名前付けられる位なら鎧塚さんみたいにネコの名前の方がマシです。タマとかミケとか」

「……それもどうかと思う」

 

 何故か鎧塚さんの同意が得られない。和風なネーミングのせいか?

 

「むー。せっかく考えたのにー」

「というか、何でアンタが来南の香水の事なんか知ってるのよ」

「パー練中に先輩達二人で延々と香水談義してたじゃないですか。嫌でも耳に入ります」

 

 基礎練そっちのけで化粧に勤しんでたりもしてたし。女子だから仕方ないと言われればそれまでだが。

 

「それよりも、サンフェス終わったんだしもうコンクールの準備始めてるんじゃないんですか? 自由曲は決まってるんですか?」

「ああそうだ。はい、自由曲の楽譜。あとコンクールまでの練習スケジュール」

「ありがとうございます……ってコレ!?」

 

 喜多村先輩から手渡された楽譜を見て目を丸くした。そこに記されていた曲名は【ボレロ】。

 

 ボレロは、最初から最後まで同じリズムが繰り返される独特な曲だ。

 中盤までのメロディーはフルート、クラリネット、ファゴット、オーボエ、サックス、ピッコロの各楽器によるソロで奏でられる。ソロ担当の技量が大きくモノを言う曲でもある。

 

「何でまたこんな難曲を……。冗談ですよね?」

「残念ながら冗談でも何でもなく、ガチでその曲なのよねえ」

「ソロをやりたい人と、あんまり練習したくなくて楽したいって人の利害が一致する曲ないかって事で、それに決まっちゃったの。シンバルなんて、ほとんど出番ないしね」

 

 その分、スネアドラム(小太鼓)の人が泣きを見るが。曲の最初から最後まで休みなし。同じテンポでずっと演奏し続けなくちゃいけない。ある意味拷問だ。

 それに、他の楽器にしても楽が出来るのは中盤までの話だ。

 

「この曲、フルだと十五分はかかったと思いますが。一曲だけで制限時間使いきっちゃいますよ」

「そこはコンクール用に先生が短縮するって」

 

 どんな感じに仕上がるにしても、まともに演奏出来るとは思えない。早くもコンクールの見通しに赤信号が灯ってしまった。

 

 

 

 

 まずい。すっかり遅れた。

 

 焦りつつ、フルートパートが普段パー練に使っている三年五組の教室に急いで向かう。

 今日、自分と鎧塚さんのオーボエ組は、フルートパートとの初めてのセクション練習日。タイミング悪い事に教室の掃除が長引いて、終わった頃には練習開始時間を過ぎてしまった。他パートとの練習なんて入部して初めてなのに、初っ端から遅刻で悪印象を持たれるのは勘弁したい。

 

♪~

 

 幸か不幸か、教室にはまだそれほど人が集まっていなかった。扉の隙間から様子を窺ってみると、鎧塚さんともう一人、フルートの一年生が練習をしている。

 黒髪をポニーテールにまとめた、勝ち気そうな顔立ちをした子だ。

 フルートの人は、何事か鎧塚さんに話しかけている。いつも無愛想な彼女も心なしか表情が明るい。仲がいいんだろうか。

 

 ……と、見とれてる場合じゃない。

 

コンコン。

 

「すみません、掃除で遅れました。オーボエの蔵守です」

「お、噂をすれば何とやら。君がサンフェスの時にみぞれのヘルプでガードやってた男子だね。私は傘木希美(かさきのぞみ)。みぞれとは大吉山南中の時から吹部で一緒でね。見ての通りフルートやってるんだ。同じ一年だし、よろしくね」

 

 笑顔で自分に手を振ってくる。第一印象通りの元気そうな子だ。

 

「ああ、こっちこそよろしく」

「で、蔵守君。早速の頼みなんだけど、くらむーって呼んでいい?」

「は? 何それ」

 

 出会って間もないというのに、また珍妙なあだ名をつけられた。

 

「いいじゃんくらむー。なんかやわらかいっぽい感じで。ほら、みぞれも言ってみて」

「え? でも……」

「ほらほら、早く」

 

 傘木さんが鎧塚さんを急かすと、彼女は困惑しながらも意を決して口を開いた。

 

「え、えと……。くらむ↑ぅ」

 

 声が裏返ったな。

 

『……』

 

 真っ赤になって俯く鎧塚さん。

 

「あはは。みぞれには男子のあだ名呼びはまだ早かったか」

「友達をからかうのは趣味悪いよ。傘木さん」

「あ、傘木って呼び捨てでいいよ。私だけあだ名呼びも悪いしさ」

 

 何ともフランクな人だ。シャイな鎧塚さんとは対照的だ。

 

「それでさ……ものは試し、私と二人で合わせてみない?」

「え?」

「入部当日にソロ演奏したんだってね。なかなかだってみぞれが誉めてたけど……。吹奏楽はみんなでやるものだよ? 合奏で一人突っ走られても困るしね」

 

 それまでの友好的な態度とはうって変わった、どこか挑発や敵愾心(てきがいしん)を含んだ声色だ。

 鎧塚さんが何を言ったか知らないが、友人の新しい相方に釘を刺しにでもきたのだろうか。

 

「曲は、この前演奏したっていう【風笛】でいいよ。私もあの曲好きで個人的に練習してるから。みぞれ、メトロノームの方お願いね」

「うん」

 

 当事者である自分の意見など聞かずに、さっさと話が進められていく。

 

 こんな事してていいのだろうか……。まだフルートパートの先輩達の姿は見えない。

 しかし課題曲でも自由曲でもない曲の演奏なんかしてるところを聴かれたら、何か言われそうだ。

 

 そんな自分の胸中など意に介さず、傘木は不敵な表情で言葉を続けた。

 

「普通に演奏してもつまらないし……この曲テンポ75だけど、テンポ90でやってみよーね」

「そんな無茶な!?」

 

 慣れ親しんだ曲とはいえ、趣味で練習を重ねたにすぎない。他人と合わせた事など無い。そのうえ本来の二割増しのスピードで演奏しろというのか。

 

 傘木が鎧塚さんに合図して、メトロノームの振り子が左右に揺れ始める。

 いつもより慌ただしいリズムを奏でるメトロノームを、しばらく食い入る様に見つめた。

 

「このスピードでやるのは初めて?」

 

 メトロノームの動きから視線を離せずにいる自分を、傘木がニヤニヤしながら眺めてくる。

 

「コンクールには時間制限があるからね。時間内に収める為に本来のテンポをあえて外して演奏する事なんて珍しくないでしょ? 即興でどこまでやれるか期待してるよ」

 

 傘木も勝手な事を言う。

 入部して間もないというのに、何かと自分の力量を測られるような場面ばかりに出くわしている。そんな技量が要求される強豪校でもないだろうに。

 

 いっその事、昼行燈(ひるあんどん)を決め込んでやろうか。そんな不埒な考えが頭をよぎったが。

 

「それじゃいくよ。あ、くらむー。手抜いたりしたら、爪で黒板ひっかきの刑だからね!」

 

 そう言って、左手をわきわきさせる傘木。

 地味に嫌な刑だ。というか二人にも被害がいくがいいのかそれは。

 

 渋々ながらも、オーボエを構えてリードに息を吹き込んだ。

 

 

♪~

 

 ……これは。

 傘木の演奏が始まった途端、フルートの響きに驚倒させられた。

 自分のオーボエより柔らかく、それでいて美しく澄んだ旋律が響き渡る。

 元々の楽器の違いによる影響は勿論ある。しかし彼女の演奏と比べると自分の演奏は……どうしても固く、甲高くてやかましい印象が気になってくる。

 

 

 結局演奏の方はついていくので精一杯。特に終盤は慣れないテンポの影響で、息継ぎがうまくいかなかった。

 とてもじゃないが人様に聞かせるような出来ではない。

 

「どうだった? 私の演奏」

 

 満面の笑みを浮かべながら、鎧塚さんに出来栄えを尋ねる傘木。彼女自身からしても会心の出来なのだろう。

 

「うん。希美らしい、綺麗な曲だったよ」

「えへへ。ありがと~」

 

 気恥しさからか、顔を赤らめている。

 

「……」

 

 一方自分は、軽い酸欠状態に陥って青息吐息。苦しい。

 

「お~い。大丈夫か~い」

「けほっ。……誰のせいだと思って」

 

 恨めしげな視線を向ける自分の事など気にした風もなく、傘木は顔をほころばせた。

 

「途中でへばるかと思ったけど、よく最後までついてきたね。さすがに音は濁ってきてたけど」

 

 やはり振り落とす気だったのか。

 乱暴な力試しをしてくれたものだ。南中ではこういう事は日常茶飯事だったのだろうか。

 

「みぞれなら今のスピードでも綺麗に音を出せるけど……。まあ、そこまで要求するのは無理難題か」

「……傘木も凄かったよ。ウチの中学じゃこんなにフルート吹ける人なんていなかったな。

もしかしたらここの吹部でも一番吹けるんじゃないか?」

 

 フルートの先輩達の演奏は、合奏練習の時に数えるほどしか聞いた事がない。それでも、傘木の方に軍配があがりそうな程の差を感じた。

 

「え~、もうやだな~くらむー。そんなに褒めないでよ~」

 

 照れ隠しのつもりか、バンバンと背中を叩いてくる。痛い。

 

「まだ酸欠状態から復調しきってないからマジでやめてくれ」

「おおゴメンゴメン。……でもくらむーも相当苦労してきたみたいだね」

 

 唐突に、傘木が奇妙な事を口にした。

 

「苦労って、何が?」

「……ううん、何でもない」

 

 傘木の脈絡のない言葉に訝しんでいると、彼女は何か思いついたかのようにメトロノームを手繰り寄せた。

 

「じゃあ次は三人で合わせてみようか? くらむーも思ってたよりいい演奏できてたし」

 

 言うだけ言って、間髪入れずにメトロノームの調整に入る傘木。

 さっきも自分の承諾無しに合奏を始めるし、無頓着すぎるぞ。

 

 ふと教室の壁にかけられた時計を見ると、セクション練習の開始予定時間をかなり過ぎている。なのに他のメンバーはいまだに影も形も見えない。

 

「いつまでも遊んでちゃ駄目だろ……それより傘木、他のフルートの人達は?

掃除とかで遅れるにしても、もう集まってもいい時間だと思うけど」

 

 その言葉を聞いた途端、傘木の表情に影がさした。

 

「あの人達なら来ないよ。ほら……宇治駅の近くに新しいカラオケ店できたでしょ?

そっちで遊んでるみたい」

「三年生がサボリ気味とは聞いてたけど……。フルートは一・二年生もそうなのか?」

「睨まれたくないから歩調あわせてるみたい。ダブルリードはいいよね。三年生いないし」

 

 憎々しげな表情の傘木にかける言葉が見つからず、口を噤んだ。

 

「あの人達はサンフェスの時もそうだったの。

『演奏できてりゃ後はどうとでもなるから行進の練習なんてしなくていいでしょ』

な~んて素でのたまってたし。ありえないよ。演奏の練習だって日に焼けるからって普段通り音楽室や教室でやるし、そりゃあ本番うまくいかなくて当たり前だよ!」

 

 サンフェス近くの放課後になっても、グラウンドに吹部の姿が見えなかったのはそういう理由だったのか……。

 演奏自体は聞こえていたから、てっきり学校の屋上で練習してるのかと思っていたのだが。

 まあ、女の子だしな。日焼けが気になるのは分からなくもない。

 

「屋外での演奏は室内と勝手が違うからなあ。せめて体育館で練習できなかったの?」

「私達もそれは考えたんだよ。で、あすか先輩が音頭取ってくれたの。でも三年生はなんのかんの言い訳してロクに参加しなかったから……。今年は失敗上等、来年のサンフェスへの予行演習みたいな形でおさまっちゃったけどね」

 

 あすか先輩というと……ああ、あのユーフォの2年生か。

 

「梨花子先生も『みんなで仲良く』とかもっともらしい事いって指導はおざなりだし。南中の先生みたくもっとスパルタでしごいてくれればいいのに」

 

 傘木の愚痴が顧問にまで及んだ事に、内心顔をしかめた。

 このあたりでは名の知れた強豪・大吉山南中と弱小の北宇治高校では環境が違いすぎる。単純に指導を厳しくしたところで上手くいくとは思えない。

 

「……立華や洛秋みたいに意識高い人が多いって訳じゃなさそうだしね。コンクールで上を目指すつもりなら指導中に暴言が飛んできたり、練習時間も増やして休日返上で部活に取り組まなくちゃいけないだろうし。先生も部員にそこまでさせる気にはなれないから、部活動を先輩達の裁量に任せてるんじゃないのかな」

 

 そう言い返して、ついこないだ部活をサボりがちな三年を軽くたしなめていた梨花子先生の事を思い浮かべた。

 叱る、と表現するには優しすぎたあの雰囲気。厳しい指導を課して脱落者が出るよりは、と考えているのかもしれない。

 それはそれで、ひとつの見識だとは思う。

 

「それに、三年生となると受験の事もあるし。なおさら部活動に入れ込めなくなってるかもしれないよ」

「そんな殊勝な人達なら、部活とっくにやめてるでしょ。吹奏楽コンクールは一番最初の府大会でも夏休み真っ最中にやるのに」

 

 ムスッと、頬をふくらませる傘木。

 

「内申の問題もあるから、帰宅部っていうのは外聞が悪いんじゃないかなあ……」

 

 オリンピックではないが、サンフェスもコンクールも参加する事に意義がある、といったところか。あまり感心出来るような事ではないが。

 

「……さっきから話聞いてると、くらむーは三年の肩もってばっかりだね」

 

 頬杖をついて考え込んでいると、傘木が剣呑な視線を向けてきた。

 

「いや、別にそういう訳じゃないけど……。高校の部って関西大会行きの枠二つは立華と洛秋で固定されてるようなものだし、中学の時より上に行くハードルは高いだろ? 見込みがなさそうだからムキになって練習する事はない、って考えるのも無理ないし」

 

 自分が知る限り、京都府大会から関西大会への出場枠はここ十年間ずっと三枠だ。

 そしてその内の二枠を府内において頭ふたつもみっつも抜きん出たこの私立二強が確保している。

 残り一つの枠をめぐって他の高校が熾烈な争いを繰り広げている訳だが、今の北宇治ではその競争の土俵にもあがれない気がしてならない。

 

 

ドン!

 

 

 机を叩いた時特有の重々しい音が、見通しの暗いコンクールに考えを巡らせていた自分を現実に引き戻した。

 傘木が拳を握りしめ、いきり立っている。

 

「私はそんなの嫌! 一生懸命、みんなでできる限りの練習してコンクールに出たいの! 全力を出し切った結果なら、銀でも銅でも私は受け入れる! 君は違うの!?」

 

 悲壮な叫び声を上げる傘木に呆気にとられていると、彼女はばつの悪そうな顔をして(うつむ)いた。

 

「ご、ごめん。つい怒鳴っちゃって。別にくらむーが悪い訳じゃないのにね」

「……いや、凄いと思うよ。そういう考え方。去年がああだったから、こんな弱小校に入ったのもそれで心が折れたせいだとばかり思ってた。傘木も鎧塚さんも凄い上手なのに」

 

 彼女達の出身中である大吉山南中は、数年に一度は関西大会にコマを進めるなかなかの強豪校。

 府大会では当然のように金賞をかっさらう姿を見慣れていただけに、去年の銀賞には驚かされたものだった。

 

「まあね。確かに去年のアレには滅茶苦茶落ち込んだよ。高校で吹奏楽続けようって気力もすっかり萎えちゃったし。プロ目指してる訳でもないのに、吹奏楽続けてもしょうがないって思いに囚われちゃってね。おかげで受験勉強に専念できて、受かるか怪しかった北宇治に潜り込めたけどね」

「うん……」

「でもそれって、結局自分をごまかしてただけなんだよね。入学式の時、吹部の下手糞な演奏聞いてたら、なんかこう、沸々と胸の中に暑いものがこみあげてきてさ。気が付いたら、入部届を出してた。それで、ああ、やっぱり私って吹奏楽が好きなんだなぁって思ったの」

 

 狐と葡萄(ぶどう)って奴か。

 傘木の昔語りに、鎧塚さんも自分も真剣な面持ちで聞き入っていた。

 

「だからさ、中学では無理だったけど、高校では全国行ってみたいんだよね」

「は?」

 

 何言ってんのこの人? 弱小もいいところの北宇治高校で全国?

 ついさっきまでの真剣な雰囲気が一気に弛緩してしまった。

 呆れて傘木を見つめると、彼女は慌てて言い直した。

 

「ああ、全国行きたいってのはあくまで夢だよ、夢。さすがにこの部じゃ無理って事はわかってる。でもさ、府大会で金賞取れる位には変えてみたいんだ」

「なるほどね」

 

 中学最後のコンクールの不本意な結果は、今となっては傘木の闘争心の源になっているらしい。

 

「でもよかったよ。みぞれの相方がこんな掘り出し物だとは思わなかった。トランペットには優子もいるし、北宇治の未来も明るいね」

「優子?」

「ああ、くらむーは中学違うし知らないよね。私達と同じ南中出身の吹部の子。ほら、頭におっきなうさ耳リボン付けてる。ミーティングで見かけるでしょ」

 

 そういえば……サンフェスの時にそう呼ばれてた子がいたな。

 

「優子もまあまあトランペット上手いんだよ。今度、機会見つけて紹介するね」

 

 二人の知り合い……。

 

鎧塚さん⇒言葉足らず。

傘木⇒無頓着。

おっきなうさ耳リボンの人⇒?

 

「……そりゃどうも」

 

 またアクの強い人じゃないだろうな。

 そこはかとない不安を感じていると、鎧塚さんが顔を覗きこんできた。

 

「……どうしたの。そんなげっそりした顔して」

「なんでもない。まあ……そういう事なら、傘木の力になれるかどうか分からないけど、真面目に練習する位なら約束するよ」

「ホント!?」

 

 傘木が目を輝かせた。

 

「うん。いい合奏が出来るのなら、それに越した事は無いし」

「そう言ってくれると助かるよ! 頼りにしてるからねっ」

 

 そう言って、思いっきり背中を叩く傘木。

 

「!? だから叩くのやめろっ」

 

 せっかく落ち着いてきたのに。

 またぶり返してきた息苦しさと、悪びれない傘木の様子に、顔をしかめざるを得なかった。

 

 



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第4話 思慮深いチューバ

 六月初め。

 コンクールの出場メンバーが公表され、ダブルリードパートからは岡先輩と鎧塚さんが出場する事に決まった。

 

「それにしても、先輩が漏れたのは意外でした」

 

 静まり返った楽器室。先輩達のファゴットケースを楽器棚に格納しながら、喜多村先輩に内心を吐露した。

 

 途中入部で、鎧塚さんとは練習量に差がついている。

 自分が選外だったのはさして気にもならなかったが、喜多村先輩まで外れたのは腑に落ちない。パート練習で聞く限り、二人の技量にさほどの差はないように思える。

 

「ああ……それはね、去年ファゴットは私だけコンクールに出場したからだよ」

 

 あっさりと先輩は言ってのけた。

 

「オーボエもファゴットも吹奏楽ではオプション扱いだから。ソロの担当役一人ずついれば充分。五十五人の中からダブルリードに枠割くの勿体ないって思ってるんじゃない? 二年生で出れない人も結構いるし。来年は私達も最上級生だから、美貴と二人一緒に出してもらえると思うけど」

「確かに楽器編成のバランス上、自分達の枠が少なくなるのは仕方ないですが……」

「去年もそうだったけど、北宇治って上級生最優先だから。みぞれちゃん以外は一年生出れないんじゃないのかな」

 

 ……それはまた、傘木が腹を立てそうなネタが出てきた。

 

「それじゃ、後はよろしくね。今日は美貴とライブに行くんだ♪ おつかれさま~」

「……お疲れ様です」

 

 先輩もまるで気にしていない様子なので、あえてそれ以上の追及は避けた。

 

 しかし傘木が何と思うだろうか。

 選抜の事情が分かって、真っ先に頭に浮かんだのがそれだった。ただでさえ彼女はやる気のない先輩達に憤懣やるかたない心境でいる。そのうえ出場メンバーの振り分けが、そういう演奏の実力によらない取り決め方では。火に油を注ぐ事になりかねない。

 

 

 

 

「まったくなんなの! あのコンクールメンバー!」

 

 翌日、練習前のミーティング時間の音楽室は喧々諤々(けんけんがくがく)

 ミーティングなんて遅れてなんぼ、と言わんばかりに今日も三年生の姿は見えない。

 これ幸いとばかりに、南中出身と思しき一年生部員の口から放たれるのは選抜された三年メンバーに対する不平不満の嵐。

 一年でコンクールに出場できるのは、結局鎧塚さんだけだった。それとてオーボエ担当の上級生がいないから、おこぼれを頂戴したにすぎない。

 二年生も半数近くの人が選抜漏れで、思うところはあるのだろう。一年から話を持ちかけられる度に相槌を打ってはいる。とはいえ去年も同じ事を経験した身の上。半ば諦めているのかリアクションは薄い。

 

 傘木も険しい顔をして同級生と愚痴りあっているが、自分の顔を確認するやいなや大声を張り上げた。

 

「ちょっとくらむー!!」

 

 他に人がいない時ならいざ知らず、ミーティング前で大勢集まっている時にその名で呼ぶなよ。

そら見ろ。そこかしこで失笑が聞こえてくる。

 

「……なに」

 

 内心の苛立ちを押し隠して、傘木に短く尋ねた。

 

「コンクールメンバーの事! どう思う!?」

「ちょ! 声が大きいよ。三年生に聞かれたら……」

 

 三年生はまだいないといっても、いつ音楽室の扉を開いて姿を現すかわからないのだ。

 

「別に聞かれてもいいじゃない。文句言われて気にするような人達なら、昨日のうちにコンクール出場を辞退してるでしょ」

 

 三年なんか怖くないぞと言わんばかりに、傘木の隣にいた女子がふてぶてしい態度をとる。ベージュ色の長髪の一年生だ。

 

「……ええと、どちらさんでしたっけ?」

 

 その問いがお気に召さなかったらしい。顔をひきつらせて眼前に詰め寄ってきた。

 

「吉川よ! トランペットの吉川優子(よしかわゆうこ)! この前希美に紹介してもらったでしょ!」

「ああそうだ吉川さんだ。ゴメンゴメン。頭のデカいリボンがないから一瞬誰かと思ったよ」

「アンタの中の私の判断基準はリボンなの!?」

 

 がーと吠える吉川さん。でも仕方ないじゃないか。

 あんな分かりやすいのをトレードマークにしない方がおかしい。

 

「今日はリボンないけど、イメチェン?」

「……寝坊してセットする時間なかっただけ。昨日のメンバー発表の事でイラついて眠れなかったから」

「で、どうなの!?」

「いや。それは……」

 

 本心を言えば、ロクに練習しない癖に最上級生というだけでコンクールに出すのはどうかと思う。

 しかしそれをこの場で公言していいものか……。

 

 返答に窮していると。

 

「遅れてごめーん。早速ミーティング始めるよ。席について」

 

 タイミングいいのか悪いのか、丁度その時部長をはじめ三年生がぞろぞろとやってきた。

 

「傘木、吉川さん。この話はまた今度ね」

『むー……』

 

 不満たらたらといった様子の二人を体よく追い返して、自分も席についた。

 

「連絡した通り次の合奏練習から、コンクール出場メンバーは音楽室。

それ以外のメンバーは第二視聴覚室が練習場所になります。間違えないでね」

『はい』

「パート練習は今まで通り各自が使っている教室で、基礎合奏も音楽室で一緒に練習です。でもコンクール出場メンバーの練習の邪魔にならないよう気をつけてね」

 

 ……邪魔にならないように、か。

 思わず吹き出しそうになった。三年の中では比較的まともな部長が言ってもそうなのだ。ロクに練習してない先輩……例えば傘木のとこのフルートの三年がそんな事いったら、へそで茶を沸かしたかもしれない。

 

 

 

 

 音楽室に長居して、傘木達に捕まって話の続きをさせられてもしょうがない。

 早々に楽器室に退散してパート練習の準備に入ろうとした時、奇妙な事に気付いた。いつも通り部屋の棚にしまった自分のオーボエケースが見当たらない。

 

「先輩、うちのタマ知りませんか?」

 

 折よく居合わせた岡先輩と喜多村先輩に尋ねると、二人とも目を丸くした。

 

「タマ!? アンタ学校にネコ連れてきてるの?」

「いいえ。ほら、自分が使ってるオーボエの事ですよ」

「ああ……、結局その名前にしたんだ」

 

 だって放っておくと例の香水っぽい名前で呼ばれそうだし。

 

「ちゃんと片づけたの?」

「ええ、確かにここに。タマのキーホルダーを目印につけてますから。いつもならすぐ分かるんですけど」

「……キーホルダーのタマはオーボエとネコ、どっち?」

「ネコです」

 

 

 先輩達が手伝ってくれたおかげで、タマ(オーボエ)を入れたケースはほどなく見つかった。

 今は使い手がいないので楽器室の片隅によけておいたコントラバスのケース。その真下に、まるで枕がわりのように置かれていたのだ。取りだす為に、重いコントラバスをどけなければいけないのが地味に面倒くさい。

 

「おかしいな……。昨日ちゃんと片付けておいたはずなのに、何でこんな所に。

キーホルダーもなくなってるし、誰かのイタズラかな」

「……ねえ、美貴」

「……うん」

 

 ケースの中身を確認しながら首をひねっていると、先輩達が何事か呟いている。振り返ると二人とも深刻な顔をしていた。

 

「先輩、どうしたんです?」

「多分それ、三年の先輩達の嫌がらせよ。全く陰湿なんだから」

 

 岡先輩が眉間にしわを寄せて、肩をいからせた。

 

「え? 三年生とはさして面識もないし、恨みを買われる覚えなんて無いんですが」

「そうみたいだけど。コンクールメンバーが決まってから、一年の結構な数が荒れてるでしょ。その中の、みぞれと仲良くしてるフルートの子……傘木って言ったっけ? アンタも最近ミーティングであの子とよく話してるじゃん。取り巻きだと思われたんじゃないの」

「駄目だよ。あんまり目付けられるような事しちゃ」

 

「……傘木と距離を置けって言うんですか?」

 

 理不尽な事を言われている。

 苛立っているのが顔に出たのかもしれない。先輩達がいつになくうろたえた様子で見つめてくる。

 

「そこまでは言わないけどさぁ……」

「あの子、サンフェスの頃から結構あけすけな物言いしてたから、三年生もトサカにきてるみたいなの。この前のパーリー会議でも議題に挙がったんだよ。彼女と仲良いのなら伝えてくれない? 気持ちは分かるけどもうちょっと抑えた方がいいって。一年生は来年も再来年もあるんだから」

「……はい」

 

 何か釈然としない思いはあった。しかし先輩達にまで迷惑がかかりかねない事を考えれば、忠告にただ頷くしかない。

 

「……反抗的な人物と親しくしていたというだけで嫌がらせされるのか。傘木の奴、大丈夫かな」

 

 先輩達が楽器室を出たのを見計らって、誰にも聞こえないように独り言を呟いた。

 

 単にやる気がない部活というだけなら、いくらでも身の振り様はあったのに。自ら泥沼に飛び込むような選択をしてしまったのかもしれない。

 そんな気がしてため息をつかずにはいられなかった。

 

 

 

 

 鎧塚さんのその日の演奏は、どこか精彩を欠いていた。

 コンクール出場が決まって緊張感で固くなっている……とも言えない雑な演奏で、翌日の授業中も上の空。そしてそんな彼女を注意する為に先生達から飛んでくるチョーク。

 

 

「今日は厄日だ」

「……ごめんなさい」

 

 放課後の教室、隣の席でうなだれる鎧塚さんに恨み節をぶつけた。北宇治の先生達は揃いも揃ってノーコンだ。席が隣同士だからって、流れ弾が自分に集中するのは一体どういう事だろう。

 

「何か悩み事でもあるの? よければ話してくれないかな……というか、話せ」

 

 明日もこんな調子ではたまらない。主に自分の顔が。

 汚れを拭ってチョークの粉まみれになったハンカチをたたみながら返答を促すと、鎧塚さんは小さな声で呟いた。

 

「……昨日から考えていたんだけど。コンクールメンバー、代わってほしい」

 

 いきなりそんな事をいうもんだから、目を丸くした。

 

「なんで」

「……希美と一緒じゃなきゃ、出る意味ないから」

「そんな……席替えで仲の良い子と隣になれなかったからって、ふて腐れる小学生みたいな事言われても」

 

 理由はさておき、メンバー交代を受けるのは気が進まない。三年生にとっては、出る事が目的になっているコンクールなのだ。それは別に構わないのだが、サンフェスの時の様に巻き添えを喰らいたくはない。

 

「それに周りは上級生ばかり。何となく居づらい」

 

 女子しかいないコンクールメンバーの中に放り込まれる自分はもっと居づらいんだけど。

 

「それは分からなくもないけど、そんな理由でメンバー代わったら先輩達から何か言われるんじゃないかなあ……」

 

 一年生の身で出場できる恵まれた立場にいるのに我儘だと、反感を買いかねない。

 

「……でも」

「それなら、交代じゃなくて辞退という形をとってみたらどう?」

「辞退?」

「二年生もコンクールに出れない人、結構いるし。一年なのに出るのは心苦しいです、とか角が立たない理由つけてさ。クラリネットかフルートの先輩に代行してもらったら?」

 

 それで合奏が上手くいけば先輩に貸しを作る事になるし、駄目なら駄目で公衆の面前で恥をかかずに済む。どちらに転んでも損は無い。

 

「コンクールで楽器の代行なんて認められるの……?」

「さあ。それは先生に聞いてみないと。あまり時間ないから、決めるんなら早い方がいいよ」

「うん。考えてみる」

 

 

 鎧塚さんはそう言って机の方に向き直ると、耳にイヤホンをかけ、手に持ったスマートフォンの画面を覗きこみはじめた。

 

「……部活、頑張ってね」

「あれ、今日は行かないの?」

 

 いつも真面目に部活動に取り組んでいる鎧塚さんらしくない。見たとこ体調が悪いわけでもなさそうなのに。

 

「シャルロットの調子が悪くて……。リペア(修繕)に出したの。楽器店から戻ってくるまではお休み」

 

 昨日の調子がおかしかったのは悩み事のせいだけではなかったらしい。

 

「シャル太って高校入学祝いに買ってもらったんだろ? もう機嫌損ねたのか」

 

 まだ六月。使い始めてからいくらもたっていない。

 

「……シャルロット。不良品つかまされたのかも」

「ちゃんとした店で高いお金払ったんでしょ。そんなヤクザな商売してたら店の方が潰れるよ。練習で酷使したせいじゃないの?」

 

 鎧塚さんは毎日メンテを欠かさず行っているし、梅雨時特有の湿気のせいとも考えにくい。デビュー早々の新米楽器にとっては、彼女の練習量の方が堪えたのだろう。

 

「そうかもしれない。……ヤワな子」

「……」

 

 なんとなく、鎧塚さんのサディスティックな側面を垣間見たような気がして腰が引けた。

 

「……それで、何やってんの?」

「リズムゲーム」

 

 放課後とはいえ、校内でゲームで遊びだすあたり、彼女もなかなかの不良だ。

 

「……遊んでる訳じゃない。リズムゲームで演奏のリズム感つかむ練習してるの」

 

 あきれ顔の自分に気付いていたたまれなくなったのか。うつむきながら鎧塚さんが言い張る。

 

「だったら課題曲の着メロでも聞いてた方がいいんじゃ……」

 

 無関係の曲のリズムをつかんでもどうしようもないだろう、と思っていると

 

♪~

 

 軽快なBGMが流れ出した。鎧塚さんは視線をスマホに戻して、指をカチャカチャと動かしている。

 自分もこれ以上突っ込む気が失せたので、机にしまった参考書を鞄に放り込んで部活へ行く支度を始めた。……のだが。

 

"boo!"

"miss!"

 

 ……結構な音量でプレイしているせいか、さっきから選択ミスと思しきサウンドエフェクトが次々と耳に入ってくるんだけど。

 あ、鎧塚さんの表情が険しくなっていく……。

 あれだけオーボエを吹けるんだから、リズム感がないって事はないはずだが。反射神経鈍いんだろうか。

 

"GAME OVER!"

 

 おいおい。最後まで行かなかったぞ。

 がっくりして机にうつ伏せになる鎧塚さん。

 横から身を乗り出して画面を見やると、そこに浮かんでいたのは

 

"RESULT SCORE 39!!"

 

「……赤点か」

「!? 勝手に見ないで」

 

 顔を真っ赤にして鎧塚さんが睨みつけてくる。いっつも無表情な人なので珍しい。

 

「いつもはもっと取ってる。これは……そう、サーバ遅延のせい」

「ネットゲームじゃないだろそれ」

 

 もう少しマシな言い訳は思いつかなかったのか。

 

「……うるさい。早く部活に行って」

「はいはい」

 

 

 

 

 ……ああいうのを下手の横好きって言うんだろうな。

 教室から追い出されて、音楽室への階段を駆け上がりながらそんな事を考えていると、

 

♪~

 

 早速楽器の音が聞こえてくる。特徴的な重低音。多分チューバだ。

 まだミーティングまで少し時間があるし、サボリ魔の三年生達が時間前から練習しているはずも無し。

 きっと後藤(ごとう)の奴だろう。

 初めて北宇治高校の吹部に顔を出した時に見かけた、二人の同級生男子の片割れ。大きくて重いチューバを吹くのにいかにも適した大柄で堂々たる体躯のおかげで、遠目にも認識できるほどインパクト絶大だった。

 

 ……せっかくだし、様子見てみるか。

 普段自分達ダブルリードパートが練習に使っている三年六組を素通りして、低音パートが使用している三年三組の教室に近づくと予想通り。

 そこには見知った顔が三つ、並んでいた。

 

「ん? くらむーじゃん」

 

 ユーフォニアムを床に置いてくつろいでいるポニーテールの女子……中川さんが自分の姿を確認するやいなや、不快な単語を口にしたので顔をしかめた。

 

「そのあだ名で呼ぶのやめてくれ」

 

 傘木のつまらないあだ名呼びのせいで中川さん達、南中出身の部員にまでくらむー呼びが定着してきている。げに恐ろしきは彼女の影響力。

 

「いいじゃん、希美がそう呼んでたし。私の事も呼び捨てで良いからさ、なんならあだ名でも」

「あだ名ねえ……」

 

 ふと目につくのは中川の頭。ポニーテールのつけ根から、触角のごとく飛び出た2本のアホ毛。

 

「ゴキ……」

「ん?」

「いや、何でもない」

 

 吉川さんのリボンもそうだったけど、中川のセンスもどこかおかしい。

 最近の女子の間ではこういうのが流行りなのかもしれないけど。

 

「それで、何か用? 身一つでこっちにくるなんて珍しいじゃん。今日はファゴットのお姉さま方のお供じゃないの?」

 

 中川がニヤニヤしながら皮肉を浴びせてきた。

 喜多村先輩達がセクション練習で低音パートに出向く際、毎度のように楽器運びを手伝わされている。そのおかげで自分の顔も名前も、低音パートの面子にはすっかり知れ渡ってしまった。

 

「……音がいつもより響いていたから様子見に来ただけだよ。ガラにもなく気合い入れてるのかと思ったけど、なんで廊下で練習してんの?」

 

 そう尋ねると、中川は決まり悪そうに頭をかきながら答えた。

 

「いや……何と言うか、教室から追い出されちゃって」

「は? 追い出されたって、一体何やらかしたんだ?」

「希美や南中の子達がこの前、低音パートに来たんだけどね。その時、先輩達にやる気出して下さいって発破かけたんだけど……」

 

 傘木の奴、金管の方にまで顔出してるのか……。

 合奏練習やミーティング以外では、高音域を担当する木管のフルート組と金管低音組が関わる事はあまりない。飼殺しにされている現状に、よっぽど憤懣やるかたないとみえる。

 

「で、結果は?」

「馬の耳に念仏」

 

 はあ、と中川と一緒にため息をついた。

 しかし傘木達も無茶をする。一年の身で他のパートの先輩にまでちょっかい出すとは。

 目をつけて下さいと言っているようなものだ。

 

「結局希美達は相手にされなかったんだけど、先輩達も塩対応すぎるから私もちょっとカッてなっちゃた訳よ。つい希美達の事を擁護しちゃってね。それがマズかった~」

「先輩達、本当にひどかったからね。私もつい希美ちゃん達の肩を持っちゃったの」

 

 それまで黙って自分と中川のやりとりを聞いていた長瀬(ながせ)さんが、気まずそうに呟いた。

 ふくよかな体つきをした彼女は、どこか場を和ませるところがある。先輩達の楽器運びのついでに二言三言、言葉を交わした程度でしかないが、いつも感じのいい応対をしてくれた。

 その彼女が眉をひそめるくらいなのだから、現場は相当ひどかったのだろう。

 

「ま、決定的だったのは私の一言だったけどね」

「何て言ったの?」

「先輩達、ホント性格ブスですね。って言ってやったの」

「えええ……」

 

 三年生に含む所があるのは分かるが、一年の身でそんな暴言を吐くのはいかがなものだろう。傘木といい中川といい、どうにも南中出身者は行動がアクティブに過ぎる。動機は聞いているので、気持ちは分からなくもないが……。

 

「それで島流しの刑に処されたと」

 

 言動を省みる気などないのか、どこ吹く風の中川に呆れながら呟いた。

 

「……全く。そういう事は声に出さず心の中で舌を出してればいいんだ」

 

 話に加わる事もなく、チューバを吹いている訳でもなく、黙々と楽譜に書き込みを続けていた後藤が苦りきった顔で口を開いた。

 

「同感だ。ところでさっきから何を書き込んでるんだ?」

「指番号」

 

 ぶっきらぼうな後藤の返事に、耳を疑った。

 

「……何でまた。後藤は中学からチューバやってるんだろ?」

 

 指番号は演奏者の適切な指づかいをさし示すものだが、経験者ならば一々それを確認しながら演奏する必要もなくなる。音符をみれば音がわかるようになるからだ。むしろ、見た目に乱雑になるので演奏の邪魔になりかねない。

 

「これは俺が使うんじゃない。長瀬用に書き記してるんだ。長瀬は初心者だから」

「ああ、そう言う事か」

「後藤君は指番号だけじゃなくて、初心者が演奏で陥りがちなポイントとかも書いてくれてるの。凄く助かってるんだ」

「へえ、どれどれ……」

 

 後藤が書き込みを続ける楽譜を、好奇心で覗き込んだ。

 確かに長瀬さんの言葉通り、譜面のそこかしこに指番号だけでなく注釈がつけられている。

 全て黒一色のペンで書かれた、傍目には味も素っ気もない書き込みだ。

 しかし、演奏の際の邪魔にならないよう要点を絞っているのが、細やかな心遣いを表している。

 

「後藤もなかなか面倒見がいいんだな」

「……経験者としてやるべき事をしてるだけだ。先輩達はあてにならないしな。

よし……出来た。ほら、長瀬」

「ふふ、ありがとう。後藤君にアドバイスしてもらった楽譜、大切にするね」

 

 後藤から手渡された楽譜を、長瀬さんは大切そうに抱え込んではにかんだ。

 ……本当に嬉しそうだな。

 そんな長瀬さんの様子を見て、後藤は顔を赤くしながら呟いた。

 

「……礼はいいから。それよりもちゃんと吹けるようになれよ」

「うん!」

 

 ……なんかいい雰囲気だ。お邪魔虫はそろそろ退散した方がいいかな。

 

「じゃあ練習に戻るから……」

「ちょっと待ってよ」

 

 中川に捕まった。

 

「アンタこの空気の中、私一人でどうしろっていうのよ」

「知るか。こうなったのも半分以上はお前が蒔いた種だろ」

 

 せいぜい恋バナのネタにでもしてろ、と言おうとした時。

 

 

「蔵守」

「うん?」

 

 後藤が、まだ無人の三年三組の教室を……低音パートが練習に使っている教室を振り返りながら、話しかけてきた。

 

「傘木達と同じで、俺も今の部活の状態がいいとは思わない。だけど俺達は一年だ。

今は下手に騒がずに、出来る範囲で頑張るしかない。……俺はそう思う」

 

 後藤も中学時代、上下関係で苦労したのだろうか。

 

「……そうだな。その方がいいだろうな」

 

 傘木達のような強硬手段に打って出る気にはなれないが、三年生に対する不満は確かにある。

 後藤の言うように、彼女達とは別な手段で行動に出る時期に来ているのかもしれなかった。

 

 



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第5話 頑張るトランペット (トランペットパート2年・中世古香織 視点)

 自由曲は決まったけれど、吹部の活動は相変わらず低調。

 形ばかりのコンクールの準備に入った六月。

 テナーサックス担当の(あおい)と、途中入部したオーボエ担当の一年生……蔵守君だったっけ。それに私。楽譜係の三人総出で、お役御免になったサンフェスの楽譜の整理に勤しんでいるなか、先輩から依頼が舞い込んできた。

 

「明日までにコンクールの自由曲の楽譜、人数分用意しといてね」

 

 先輩のその言葉に、蔵守君が困惑した表情を浮かべている。

 

「明日まで、と言われましても……。通販で調達するにせよ、楽器店で購入するにせよ、すぐには揃いません。いくらかかるかも分からないし、二、三日時間をください」

 

 本来なら至極当然な彼の発言に、先輩は怪訝そうに言い返した。

 

「何言ってんの? それぞれのパートの楽譜は用意してあるから、あとは印刷室でコピーするだけよ。すぐ終わるでしょ?」

「……部費で人数分、購入しないんですか」

「お金勿体ないじゃない。コピーでいいって」

 

 気乗りしない様子で確認を取る蔵守君に、先輩は平然と言ってのけた。

 

「でもそれは、「わかりました。早速済ませてきます」

 

 彼の言葉を遮った。先輩は正論が通用する人じゃない。

 

「終わったら楽器準備室に置いておきます。……ほら、蔵守君。行くよ?」

「……はい」

 

 ここで先輩とやりあっても意味は無い。

 葵も、それは分かっているので衝突を避けるように蔵守君を促した。彼はまだ何か言いたそうだったけれど、私と葵を一瞥(いちべつ)すると後に続いてくれた。

 

 

 印刷室へ赴く彼の歩調は良くも悪くも男子のそれ。

 本来なら追いつくのは少しつらかったはずだけど、私も葵も足並みを乱す事にはならなかった。

 彼以上に、嫌な仕事を早く済ませたいという気持ちが歩みを速めたのかもしれない。

 

 

 

 

 印刷室の空気は重苦しかった。

 コピー機の、規則正しい稼働音ばかりが耳に響いてくる。

 ひたすら無言でコピーの様子を見守る私と葵を見て、蔵守君も空気を読んだのかもしれない。何も言わず、コピーが済んだ楽譜を手に取っていく。

 ただ、時折困ったような視線を私達に向けて、訴えかけているようにも見えた。

 

 

 こんな事しちゃっていいんですか、ばれたら大変ですよ。  と。

 

 

 そんな彼の視線に耐えられなくなったのか、葵がうめくように口を開いた。

 

「……いけない事だって分かってるよ。でも部費には限りがあるし、北宇治の吹部はここのところ実績残せてないから。学校からでるお金も雀の涙だし」

 

 本当は、楽譜のコピーはやってはダメな事。吹奏楽部の活動で用いるものであってもそれは例外じゃない。

 もっとも……お金の無い学生の悲しさ。何かとお金のかかる吹奏楽の部活動において、厳密に楽譜のコピーを禁じている学校がどれだけあるのかは怪しい。北宇治のような弱小高なら尚更。

 

「皆で集めた大事なお金だからね。他の消耗品に少しでも回す為だから、ね?」

 

 葵に同調して私も言葉を繋げたけれど、消耗品、のくだりで蔵守君の表情に影がさした。

 

香織(かおり)!」

「あっ……」

 

 たしなめるような葵の声色に、余計な事を口走ったのを悟った。蔵守君がうつむいている。

 消耗品の負担、という意味では彼や来南達が担当するダブルリード楽器が最も重い。金管のマウスピースと違って、木管のリードは消耗品。特に、繊細なダブルリード楽器のリードは、サックスやクラリネットのそれよりずっと高くつく。

 自分のせいで私達にこんな事をさせている、と思いこんでいるのかもしれない。

 

「コンクールでいい成績出せれば、学校から出るお金もアップするから。あんまり深く考えないで大丈夫だから」

 

 慌ててフォローを入れたけど、口から出てくるのは自分でも信じていない言葉ばかり。今の部の状況では、府大会銅賞が関の山なのに。

 

「そうですね……」

 

 蔵守君もそれは分かっている。力なく愛想笑いする彼の姿が痛々しかった。

 

 

 

 

 印刷が済むと、蔵守君はコピーした楽譜を一人で抱えて、足早に立ち去ってしまった。話の流れから、この場に居づらくなったのかもしれない。

 

「香織もなかなか賢いね。消耗品の負担を盾に彼の口を封じるなんて」

「私、そんなつもりで言ったんじゃないよ……」

 

 皮肉を口にした葵に、思わず口を(とが)らせた。

 

「知ってるよ。だけど、このほうがいいかもね。下手に口を滑らせちゃうよりは。彼にとっても部にとっても」

「葵……。その事なんだけど、蔵守君には話しておいた方がいいんじゃないかな。私達が調べるようになったのもサンフェスの時の楽譜のコピーからだったし。今度の事で、彼も気付くかも……」

「……止めておいた方がいいと思う。彼、先輩に目をつけられてるフルートの子……希美ちゃんと仲いいみたいだから。下手に知らせたら藪蛇になるよ」

 

 南中出身の一年生達が三年生と角突き合わせている事は、もう部内では周知の事実。

 特にフルートの希美ちゃんを中心とする木管メンバーは強硬で、一昨日も低音パートにまで発破をかけてきたとあすかが言っていた。

 蔵守君を通して彼女達に情報が伝わる事を懸念する葵の気持ちも良く分かる。

 

「でも、もし気付かれちゃったら。どう言い繕っても言い訳としか受け取られないかもしれないよ?」

「気付かないでいてくれる事を祈るしかないよ。私だって本当はあんな事、知りたくなかった」

 

 

 

 私も知りたくなかった。まさか、お菓子代に部費を流用しているなんて。

 

 

 

 ……きっかけは四月末。サックスのリードのストックが枯渇して、葵が三年生の会計係に一括購入のお願いをしに行った時だった。

 楽器準備室の金庫の中、部費が保管されているポーチを開いて、葵がおかしな事に気付いた。

 やたらと一円玉や十円玉が多い。部費は月千円。直近で徴収されたのは新入部員が入った後の四月半ば。

 

「それほど日にちも経っていないのに、一体何に使ったんだろう……」

 

 そう訝しむ葵に、

 

「去年の部費の残りじゃない?」

 

 と思いつきで返したら、葵も納得した。

 だから、その話はそれで終わるはずだった。

 

 不審感が頭をもたげてきたのは、サンフェスの準備を始めた五月初め。

 マーチングに使う楽譜の調達方法にあった。今回のコンクールの自由曲と同じように、勿体ないからと先輩からコピーをお願いされた。

 

「こういう時の為に集めた部費なのに、どうしてそんな事するんですか」

 

 そう言ったけれど、ひと睨みされて二の句が継げなかった。

 消耗品に部費を回す為。目をつぶるしかない。

 そう思って、先輩にそれ以上口答えできないでいる自分を納得させていた。

 

 ただ、腑に落ちない事があった。

 

 楽器準備室の棚に、うず高く積まれたお菓子。

 先輩達が部活そっちのけで雑談に興じる為に買ったもので、私達下級生も時折そのお相伴にあずかったりしている。

 部活動を終えた後の息抜きに甘い物をつまむのは、疲れが取れるし何より楽しい。

 だから一、二年生もついつい先輩達の好意に甘えてしまっているのだけど、楽譜の件を知っている私と葵だけは、その温度差にキナ臭いものを感じるようになるのも時間の問題だった。

 

 部費から出す楽譜代を節約したがるのに、自分達の財布から出すものはどうしてそんなに気前がいいんだろう。普通なら逆なのに。

 

 それから、カマをかけてみた。

 五月の部費の徴収の翌々日。今度はトランペットのメンテ用のバルブオイル購入のお願いをした。

 同行してくれた葵に、ポーチの中身を確認してもらったところ、やっぱり消耗品の購入だけでは説明のつかない不自然な小銭の増え方をしている。

 そして楽器準備室の棚には、真新しいお菓子が並んでいる。

 

 どう考えても、楽譜のコピー代で浮いたお金を菓子代に回しているとしか思えなかった。

 

 お菓子代なんてたかが知れている。一人二人が一度二度使う位ならどうという事はないけれど、吹部には四十人近くの三年生が所属している。先輩達の間でこんな事が常態化しているとなると、事態は深刻だった。積もり積もれば費やされる金額だって馬鹿にならない。

 何より、皆から集めた部費の使い方として健全であるはずもない。

 

 腹が立ったけれど、みんなに知らせるべきかどうかとなると、私も葵も二の足を踏んだ。

 部費が不正に使われているのは、ほぼ間違いない。

 

 でも、事を公にすれば確実に部内が混乱する。

 一年生の中には、年功序列でメンバーが選抜された事に不満を持っている子がかなりいる。

 どうせ出れないのならば……と考えて、北宇治の吹部は自由曲の楽譜をコピーしてますよ、なんて大々的に公表でもされたらペナルティーとしてコンクール参加すら危うくなるかもしれない。

 

 あんな人達でも高校生活最後の舞台、と思うと追及の矛先も鈍る。

 それに……この不正に関わっている三年生はどれだけいるのか、関わっていないのは誰なのか。そこまでは、まだはっきり掴めていない。真面目に活動している三年生まで巻き添えにするのは気が進まなかった。

 関与している人達を見極めたうえで、先生に相談して内々に処理をする。時間はかかるけれど、穏便に事を収めるにはそれしかなさそうだった。

 

「……来年は私達が最上級生。こんな事、止めようね」

「うん。一年生には我慢を強いる事になるけど……」

 

 最上級生。葵が言ったその言葉を、心の中で反芻した。

 こんな悪習、来年は断ち切ってみせる。

 

 

 

 

 トランペットパートが練習に使っている二年六組の近くで、蔵守君を見かけたのは楽譜のコピーを任された翌日の事だった。

 

「……という訳なんだけど、どうだろう」

「いいんじゃねーの? 俺も一枚噛んでみるか」

「すまん、助かる」

 

 地図を広げて、一年生の滝野(たきの)君と何事か話し合っている。二人でどこか遊びに行く計画でも立てているのかな。

 

「どうしたの、蔵守君。二階で見かけるなんて珍しいね」

 

 ダブルリードパートが練習に使っている教室は三階。トランペットは二階。だから何か連絡でもないかぎり、パート練習中に彼の姿を二階で見る事は無かった。

 

「あっ、先輩! ちっす」

「うん。こんにちは滝野君。今日もよろしくね」

 

 元気良く挨拶してくれる滝野君に、私も笑顔で挨拶を返す。

 新入部員の滝野君はトランペットを初めてまだ日も浅いけれど、才能はあるみたいだった。なかなか物覚えが早くて、部活に対する取り組みも悪くない。

 

「こんにちは、中世古先輩。ちょっと滝野に相談に来たんです。お菓子の残りもなくなりそうなので、三年生から買ってこいといわれたのでその件で」

「えっ……」

 

 よりにもよって昨日あんな事があったばかりなのに間が悪い。

 

「そ、そっか。それで、話はまとまったの?」

 

 ま、まあ今から心配してもしょうがないか。よっぽど勘が良くてもすぐ気が付くはずもないし……

 

「はい、学校からはちょっと遠いですけど、隣町にある百均ショップと駄菓子屋で買ってくる事にしたんです。これでお菓子代に割く()()を少しでも減らせるかと」

「ふうん……。って、えええ!!!」

 

 蔵守君も何事でもないように淡々と言っちゃうんだから。危うくスルーするところだった。

 

「おお、いつも朗らかな笑顔を絶やさない先輩がノリツッコミするとは。なかなかレアなもん見れたぞ」

「そうなのか……?」

 

 はしたない大声あげちゃった。だけど今はそんな事に構っていられない!

 

「ど、どうして部費からお菓子代出てる事を知ってるの!?」

 

 そのうち気付かれるかもしれないとは思ってたけど、昨日の今日だよ!? いくらなんでも早すぎだよ!!

 

「どうしてって……。お金は部費から出すから気にするなって三年生に言われましたから」

「ナックル先輩達も、お使いやらされた時に同じ事言われたそうっすよ」

 

 まさかの自爆!?

 頭が痛いよ! 先輩達はほんとうにもう……。喋っていい事とだめな事の区別もつかないのかなあ。

 泣きたくなって顔をくしゃくしゃにしていると、蔵守君が心配げに話しかけてきた。

 

「あの……、中世古先輩? 別にそこまで気にしなくてもいいんじゃないんですか? みんなから集めた部費で買ったお菓子は、みんなのお腹に入ってる訳ですし。ちょっと健全な使い方じゃないなとは思いますけど、まあ栄養費みたいなものだと思えば……」

「余計ダメだよ!! それ裏金じゃない!?」

 

 蔵守君的には、楽譜のコピーよりは許容範囲内みたい。彼の判断基準がわからないなあ。

 

「ま、傘木あたりが知ったら発狂しそうなネタっすよね」

 

 滝野君の軽口に、ハッとした。

 

「そうだ。希美ちゃん! あの子はその事知ってるの?」

「多分知らないと思います。お使いは自分達男子の仕事ですから。ナックル先輩達も傘木達とは中学違うし、接点もないから話してはいないでしょう」

 

 蔵守君の口振りから察するに、彼も希美ちゃんに喋るつもりは無いようなので内心安堵した。

 

「……でも、どういう経緯で隣町まで買いだしに行こうと思ったの?」

「別に深い理由はないです。部費でお菓子買うの止めましょう、なんて言ったって三年生が聞いてくれるとは思えないですし。それなら安物で済ませて嫌がらせ……もとい、節約にご協力いただこうかと」

 

 楽譜係として仕事をしている時は割と真面目な印象があったけれど、今は滝野君と一緒にいるせいか軽口を叩いているのが新鮮だった。

 

「ご苦労な話だね。学校からだと隣町の駄菓子屋まで、歩いていくにはちょっと遠いよ?」

 

 行って行けない距離ではないけれど、荷物を抱えてだとかなりの重労働になる。

 

「楽器を吹くのに必要な、肺活量を鍛えるトレーニング代わりとでも思えばいいんです。今までは校内で鬼ごっこしたりして、それをやってましたけど……。女子から物笑いの種にされる事もあったので(かえ)って好都合ですよ。まあ、やるだけやってみます」

 

 ……屈託無く言い放つ蔵守君に、ただ呆気に取られていた。

 私も葵も、不正をどうやって解決するか、そればかりに気持ちがいっていた。現在進行形で流出し続けるお菓子代はどうすればいいか。すっかり失念していた。

 

「……蔵守君は凄いね。私は部費の流用を解決するにはどうすればいいのか、考えるのはそればっかりだった……」

 

 伏し目がちになる私を、彼はきょとんと小首を傾げながら眺めている。そして、おもむろに口を開いた。

 

「そんな大層な事でもないですよ。これは後藤……チューバの同級生ですけどね、そいつからの受け売りです」

「後藤君の?」

「ええ。一年生が上級生と衝突しても意味は無い。それよりも出来る範囲で状況を改善していこうって……。自分もおおむね、その意見に賛成なので何か出来る事はないか、考えただけです」

 

 その言葉を聞いて、ますます萎縮した。

 

「ゴメンね。気を遣わせちゃって。ただでさえ男子部員が少なくて肩身の狭い思いをしてるのに」

 

 後藤君も、蔵守君も、滝野君も、自分達なりに考えて行動に移そうとしている。

 頼もしく思う反面、そこまで一年生に気を遣わせている事に歯がゆい思いがした。

 

「そんな事ないっすよ!」

 

 いきなりの滝野君の絶叫に、私も蔵守君も目が点になってしまった。

 

「急に大声出すなよ……」

「うるせえ。先輩! 俺は先輩の指導のおかげで、トランペットもそこそこ吹けるようになったんっすよ。だから、そんな事言わないで下さい」

「……滝野君」

「上下関係のしがらみで、今はいろいろと上手くいってないっすけど……。先輩は良くやってくれています。吉川の奴も、きっとそう思ってますよ」

「そ、そうかな……」

 

 ちょっと目頭が熱くなる。

 

「そうっすよ。ナックル先輩達も言ってましたよ。先輩は去年から一番トランペット上手かったって。それなのに去年も今年もソロ奪われるわパシられるわ。コンクールメンバーから漏れた同級生からの妬み嫉みが凄いわで、先輩も鬱憤が溜まってるでしょうに。後輩の事なんか気にしている余裕なんてないはずなのに!」

「……」

 

 なんで私、こんな吹部に入ったんだろう……。

 

「滝野。お前先輩を(はげ)ましたいのか、(けな)したいのか、どっちなんだ……?」

「励ましてるに決まってるだろ。二年生の中では先輩はまともだぞ」

 

 それはつまり、滝野君視点では二年生もまともじゃない人が多いと。

 

「お前こそどう見てるんだ? ダブルリードの先輩の事」

「そうだなあ。身内の事だから色眼鏡かかってるかもしれないけど、()()まともな方だと思うよ。二年の中では」

 

 蔵守君もまた微妙な返答をする。

 知らず知らずのうちに、私達二年生も三年生の色に染まっているのかなあ。部費の事よりも、そっちの方が気になってきた……。

 

「おっと、なんか話が長引いちゃいましたね。滝野には了解を取り付けたんで、後藤の方にも買い出しの件、話してきます」

「あ、うん」

「後で結果聞かせてくれよ。お前を(けしか)けた手前、後藤の奴もまさか嫌とは言わねーと思うけど」

「断られそうになったらそう言ってやろう」 

「もう、無理強いは駄目だよ?」

 

 あまり風通しがいいとは言えない、今の吹部。そんな中でも笑顔で冗談を言い合える二人の姿が眩しく見えた。

 

「出来る事から、か。私も頑張らないと」

 

 一年生に負けていられない。あすかや晴香、葵にも相談してみよう。今からでも、やれる事が見つかるかもしれない。

 

 



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第6話 策士・ユーフォニアム

 嫌な予感はしていた。

 

 滝野との話し合いを終え、今日も廊下で練習しているであろう低音組のところに向かってみると、長瀬さんと後藤の姿が目に入った。

 しかし、明らかに様子がおかしい。

 廊下に膝をついて俯く長瀬さん。そんな彼女の様子を腰を下ろしてじっと見つめる後藤。

 遠目には、二人の表情はよく見えない。それでも、拳を震わす後藤の様子から何かよくない事が起きたのは容易に想像がつく。

 

「後藤」

 

 また何かやらかしたのか、とため息をつきながら声をかけた。

 

「蔵守……」

「二人とも、どうし……」

 

 近寄って、息を呑んだ。

 よくない事、なんて生易しいものではなかった。

 

「長瀬さん、その楽譜……!」

 

 廊下に置かれたチューバの楽器ケース。

 その中に格納されていた彼女の楽譜には、墨汁をこぼしかたかのような真っ黒なシミがデカデカとこびりついていた。これではとても使い物にならない。

 

”やさしく弱く”

”指揮を見て”

 

 かろうじて読みとれた後藤の注釈。その文字の上に、長瀬さんの涙がこぼれた。

 

 

 ……なぜだ? どうしてこんな事になった?

 先輩達の嫌がらせ? いや、それにしては度が過ぎている。

 

 

 ――後藤君にアドバイスしてもらった楽譜、大切にするね――

 

 

 つい先日まで穏やかな笑顔を浮かべながら、

 後藤が楽譜に書き込んだ内容一つ一つに注視して長瀬さんは練習に励んでいた。

 

 

 それなのに。

 

 

「わ、私って鈍臭いから。家に楽譜持ち帰っていればこんな事にならなかったのに。あはは……」

 

 顔をくしゃくしゃにしながらぽろぽろと涙を流す長瀬さんを、まともに見る事が出来なかった。

 

「……っ。誰がこんな事を……」

 

 後藤も悔しさで顔を歪めている。

 

 不意に、甲高い話し声が近づいてきた。明らかに女子の声。

 

「んー? 何やってんの、一年」

「ちょっと……長瀬、アンタ楽譜に何してんの」

「あーあ、そんなに汚しちゃって。駄目じゃない、吹部の部員なら楽譜を大切に扱いなさいよ」

 

 何とも都合のいいタイミングで、低音パートの三年生達が姿を現した。

 ここ最近、部活時間前に低音パートの様子を見に来てはいる。しかし、この時間帯に三年生の姿を見るのは今日が初めてだ。

 

「……長瀬がやったんじゃありません」

 

 やり場のない怒りを抱えた後藤が、かろうじて言葉を紡ぐ。

 

「あ、そうなの?」

「天罰でも当ったんじゃない? 私達に真面目に練習しろって言っておいて、当の本人は後藤とイチャイチャしてるんだもん」

 

『……!』

 

 その一言で全てを察した。

 廊下送りにしても反省の色が見られない後輩に対する、お仕置きというわけだ。

 

「先輩方……、貴方達って人は!」

 

 内心の怒りを押し殺して、低音パートの三年達を睨みつけた。

 厳しい練習をしたくないというなら話は分かる。所詮は部活動。サボるのも真面目にやるのも、それは個人の自由。

 

 だけど。

 上級生に意見したからといって、ここまで陰湿なマネをするなんて。

 腸が煮えくりかえる思いだった。

 

「何、なんか言いたい事あんの?」

「オーボエの一年、アンタも楽譜の保管しっかりしときなさいよ。楽譜係でしょ」

 

 個々人が、今現在練習している曲の楽譜の保管まで、楽譜係の仕事ではない。持ち出しの経緯を記録して、所在を把握しているだけだ。そもそも、そんな事をしたら部活外での自主練もロクに出来なくなる。

 

「……っ」

 

 しかし、自分の口からはそれ以上何の言葉も出ない。

 

 オーボエを隠された。

 その時点で三年生に睨まれている事に気付いていながら、三年生に暴言を吐いた中川達と不用意に接触を重ねた。見方によっては、生意気な連中同士でつるむようになったといえなくもない。

 それが余計に三年の(かん)に障って、今の事態を招いたともとれる。そういう意味では確かに自分の落ち度である。

 ほとぼりが冷めるまでは、大人しくすべきだったのだ。

 

 

 自己嫌悪に陥っていると、背後から異様な気配を感じた。

 

 

「……先輩達がやったんじゃないのか」

「後藤?」

 

 今まで聞いた事のない、腹の底から押し出されたような後藤の低い声。

 

「……!」

 

 後藤の表情を確認して、背筋が凍った。

 

「はあ? 人聞きの悪い事言わないでよ」

「私達がお仕置きしたの根に持って、自分で楽譜に小細工したんじゃないの?」

 

 白々しい台詞を吐き続ける先輩達など、もう眼中に入らなかった。

 腰を下ろして俯いている自分達の顔など、突っ立っている先輩達からは見えない。

 しかし自分には、後藤が凄まじい怒りに駆られているのが分かった。

 

 

「そんな悪知恵が働くくらいなら、初めから先輩達に口答えなんかする訳ないだろうっ!!」

 

 

『!!』

 

 

「よせっ!!」

 

 

 怒号一発、三年生に殴りかかろうとする後藤をすんでのところで抑えつけた。

 なお暴れる後藤を羽交(はが)()めにして必死に宥める。

 

「落ち着け後藤!!」

 

「放せ蔵守!!」

 

「楽譜は書き直せばいいだろう!」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「分かってる! 分かっているとも! それでもだ!!」

 

 状況から考えても、この人達が犯人なのは間違いない。それでも女子に手を上げたらただでは済まない。まして今の後藤は怒りで完全に我を忘れている。冗談抜きで本気の一撃を喰らわせかねない。それで怪我でも負わせようものならことだ。

 

「放せ!放してくれ!」

 

 後藤の目から悔し涙があふれる。

 叶うものなら、自分も後藤と一緒になってこの連中を叩きのめしてやりたい。

 しかしそれをやれば、もう立派な傷害事件。他の部員にも確実に迷惑がかかる。嫌な人が多いといっても三年全員がそうという訳ではないし、二年生は尚更だ。

 

「ぐっ……!」

 

 もがき続ける後藤の動きを封じている両腕がミシミシと嫌な音を立て始めた。額から脂汗が流れ落ちてくる。非力な自分ではこれ以上後藤を止められない。

 

「後藤君! もういいよ、もう止めて!」

 

 理不尽な先輩に対する鬱屈した感情も一緒に爆発したのだろう。長瀬さんの悲痛な叫びも、もう後藤の耳には入っていない。

 腕の痛みに耐えきれず、手を放しかけた時だった。

 

 

「はい後藤。クールダウンクールダウン」

『!?』

 

 

 廊下での騒ぎだ。後藤の怒声と長瀬さんの悲鳴を聞きつけたのか、近くの教室で練習していた部員達もいつの間にやら姿を見せていた。その中から、ユーフォニアムを抱えた眼鏡の先輩が歩み出た。

 

「田中先輩……!」

 

 そうだ。入部の際、頼んでもいないのにユーフォのうんちくを披露してきた先輩だ。

 思いもよらぬ乱入者に目を白黒させる後藤と自分を横目で眺めながら、田中先輩は呆れ顔でつぶやいた。

 

「先輩達もダメですよぉ。頭に血を昇らせてる相手に(あお)るような事言っちゃ」

「な、何よあすか。アンタまで私らがやったって言いたい訳?」

 

 後藤に殴りかかられて腰を抜かしていた三年も、思いの外大事になって慌てたのか体裁を取り(つくろ)っている。

 

「いえいえ~。そんなつもりは毛頭ございません。墨で汚したのなら、証拠も残ってるかもしれませんし。犯人の目星をつけるのは、それを確認してからでも」

 

『証拠!?』

 

 楽譜に墨をぶちまけられた。その事実に衝撃を受けて、そちらの方は考えもしなかった。

 

「よいしょっと。あ、梨子ちゃん。ちょいと楽譜貸して?」

「あ……、はい」

 

 田中先輩はユーフォニアムを床におろすと、長瀬さんから手渡された楽譜をじっと見つめた。そして、ふと何か思い立ったかのように楽譜を裏返すと、目を細めた。

 

「ほらほら♪ この楽譜の裏よく見てください。墨がついた手で触ったせいか指紋がしっかり残ってます。先生にお願いして生徒達の指紋とっちゃえば、誰がやったかすぐにわかると思いますよ」

 

 墨まみれの楽譜が、部員達の前にかざされた。確かに、楽譜の裏面隅っこにちらほらと見受けられる黒い渦巻状の線は指紋特有のものだ。

 低音パートの三年達もそれに気付いて、途端に顔を見合わせる。

 

「とはいえ……全校生徒の指紋調査なんて事になったら、学内外であらぬ噂が立つかもしれませんね~。まさかとは思いますけど……もし部員の誰かが犯人だとしたら、コンクールの出場は勿論、内申にも響くでしょうね~」

 

 そう言って、田中先輩は階段の方に向かって歩み出した。

 顧問の梨花子先生に知らせに行く気なのだろうか。

 

「ちょ! ちょっと待ってよ! そんなおおごとにする事ないじゃない!」

 

 声を上ずらせる低音パートの三年達。もうそれで誰が犯人なのかを自白してるようなものだ。

 これが長瀬さんの自作自演というならば、彼女達には何も後ろめたい事などない。露骨に動揺した素振りを見せるという事は、つまりそういう事なのだろう。

 自分と同じ結論に至ったか、後藤が歯ぎしりする。拘束する腕に力をこめた。

 

「私もそう思わないでもないんですけどね。かといって何もしないままでいたら、同じような事が起きるかもしれませんし」

 

 これ見よがしに、低音の三年達の眼前で楽譜をちらつかせる田中先輩。

 こらえきれなくなったのか、その中の一人が田中先輩の手から楽譜をひったくった。

 

「し、仕方ないわね! 今度の事はパートリーダーの私の管理不行き届き。

私から事の次第を先生に報告しておくわ。長瀬! 楽譜の替え渡すから、ついてきなさい!」

「は、はい……」

 

 事の成り行きについていけず、半ば放心状態でいた長瀬さんがおずおずと三年達の後を追った。

 

「あ~先輩。パー練の事ですけど、もう元通り一年生も一緒でいいですよね。オイタも済んだでしょうし。先輩達と1年の指導で教室と廊下行ったり来たりするのメンドクサイんですよ」

 

 楽譜を抱えて逃げるようにこの場から去ろうとする低音のパートリーダーと三年達の背中に、田中先輩が声をかけた。口調はおちゃらけたものだが、有無を言わせない表情をしている。

 

「……好きにしなさいよ」

 

 田中先輩の気迫に押されて、低音パートのリーダーはそう返事をするのがやっとのようだった。

 全く、どっちが上級生なのかわかりゃしない。

 

「はいはい! これでこの件は一件落着! 皆練習に戻ってくださ~い」

 

 田中先輩の鶴の一声に、それまで固唾を飲んで様子を窺っていた他パートの部員達も蜘蛛の子を散らすように去っていく。

 

 

 後に残ったのは自分と後藤、そして田中先輩だけだった。

 

 

「あーあ、先輩達も大概バカだよねぇ。あーいうイタズラするんなら、ばれない様に手袋つけるくらい頭働かせないと」

 

 部外者がいなくなったのを見計らって、田中先輩がこらえきれないといった感じで吹き出した。まるで他人事としか思っていないようなその様子に、後藤も自分も眉をひそめざるを得ない。

 

「何であんな奴らに助け舟を……! 証拠あるんならそれを先生に突き出せば!」

 

 後藤はまだ興奮冷めやらぬ状態らしく、先輩に対する言葉遣いにも遠慮がない。

 

「後藤……上級生だぞ。でも田中先輩、後藤の言う通りですよ。あの人達の事だから、先生に楽譜を見せる前に指紋を消す位の小細工はします。先輩の口から言いづらいなら、後藤なり中川なりに悪事の証拠を渡しておけばいいのに、なんでそうしなかったんですか!?」

 

 イタズラとは、あえて言わなかった。そういうレベルを明らかに超えている。

 ガタイのいい後藤が青筋を立てて、自分も相当頭に血が昇っている。

 そんな殺気立つ男子二人を相手にしているというのに、田中先輩は涼しい顔でとんでもない事を言い出した。

 

 

 

「だって指紋なんて付いてなかったもん」

 

 

 

『!?』

 

 

 

 指紋がなかった? それならあの楽譜のは一体……。

 自分達の疑問を見透かしたように、田中先輩が答えた。

 

「あの人達、梨子ちゃんの楽器ケースから楽譜引っ張り出してなーにかやってるみたいだったからね。いなくなった後に調べてみたら案の定。それで私が楽譜に小細工したってワケ。本当に指紋調査なんてされたら、私が困るんだよね~」

 

 思いも寄らぬ真相を打ち明けられて、後藤も自分も言葉を失った。

 

「……それならそれで後藤と口裏合わせて、楽譜を新しいのに交換しておく位の機転を利かせてもよかったんじゃ……」

 

 気をとり直して、田中先輩に言い返した。

 そうすれば長瀬さんがあんな風に傷つくこともなかったのでは。ツメが甘いという点では先輩も他人の事は言えない。

 

「ホントの事話した時、さっきみたいに後藤が暴発したら止められる自信ないもん。

私はかよわい女の子だしー」

 

 怒り心頭の後藤を前にしても顔色一つ変えない田中先輩を見ていると、とてもそうは思えない。二の句が継げずにいる自分達に、そうだ、と何か思いついたのか先輩が後藤を手招きした。 

 

「後藤、しばらく梨子ちゃんについててあげて。さすがに今度の事で三年も頭冷やすと思うけど、念の為にね」

「……分かりました」

「よーし。それでそっちの……オーボエの」

「蔵守です」

「そうだ蔵守だ。キミもとんだ災難だったね。楽器隠されたんでしょ?」

 

 あれからまだ何日も経っていないのに、もう情報が出回ってるのか。

 

「ええ、すぐに見つかりましたけど」

「やれやれ。希美ちゃんと仲良いからって、ホント先輩達は見境ないんだから。ま、キミもしばらくは他のパートに顔出さない方がいいかもね。時期外れの新入部員、そして希美ちゃんと仲がいい。悪目立ちする要素が揃ってるからね」

 

 喜多村先輩と同じような事を言われた。傘木の奴、どんだけ三年に睨まれてんだ……?

 自分が無言のままでいると、田中先輩が言葉を続けた。

 

「別に脅してるわけじゃないよ? 混じりっ気なし、純度百パーセントの忠告だよ? キミ自身はあんまり三年生と波風立ててないみたいだし。私、物分かりの良い後輩は嫌いじゃないからさー」

 

 そう言って、先輩はユーフォニアムを抱えて教室とは反対方向に歩み出した。

 

「先輩、どこへ?」

「こんな状況じゃパー練なんてできないでしょ。個人練行ってくる。後の始末はよろしくね~」

 

 軽やかな足取りで先輩が姿を消すと、どちらともなく言葉が漏れだした。

 

「……なんなんだろうな、あの先輩は」

「……さあな」

 

 自分も後藤も、毒気を抜かれてただその場に(ただず)むしかなかった。

 

 



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第7話 傷だらけのオーボエ

「……それで、長瀬の方は大丈夫なのか?」

「全然駄目だ。後藤がつきっきりで傍にいるけど……長瀬さん、ちょっとナーバスになってる。後藤の奴も低音の三年としばらく顔をあわせたくないって言ってるし。気持ちが落ち着くまで当面は部活に顔を出さないと田中先輩に連絡したそうだ」

 

 音楽室を後にして、それぞれの教室へパート練習に出向く途中。小声で話しかけてきた滝野に、声を潜めて答えた。

 

「……そうか。にしてもさっきのミーティングはひどかったな。三年は三年で、一年は一年でまとまってロクに話もしねえ」

 

 楽譜の一件は、間接的な原因である自分の口から打ち明けるのを躊躇(ためら)っている内に、途中から様子を見ていた部員達により数日経たずして部内に知れ渡ってしまった。

 経緯を一から十まで知ってる訳ではないので、ある事ない事、話に尾ひれがつきまくっている。

 三年に暴言を吐いた一年が悪い、意地の悪い真似をする三年が悪い、お互いひそひそ声での陰口の叩きあい。二年生は間に挟まれて居心地の悪そうな面持ちだ。

 

「俺、吹奏楽部ってもっと賑やかで楽しいところだとばかり思ってた。男にとっては仲間少なくて居心地悪い事は覚悟してたけどよ……」

「ここまで酷くは無いだろうが、どこの吹部も大なり小なりドロドロしてるとは思うぞ」

「そんなもんか」

 

 入部直後は女子だらけの華やかな部活環境に心躍らせていたという滝野も、最近は部内における女子の暗闘に困惑と苛立ちを隠せないでいる。

 

「部活を真面目に頑張りたいって思ってる傘木達の悪口を言いたくは無いけどよ……。ウチの吹部ってそんなガチな部活じゃねーみたいだし。今度の事だってあいつらが他のパートにまでちょっかい出さなければ、中川の奴がもう少し言葉を選べば、長瀬があんな目に遭う事もなかったんじゃないか?」

「……今更それを言っても仕方がないだろう」

 

 愚痴をこぼす滝野をなだめる自分の声にも力がない。

 自分自身、空気を読まない行動を取り続ける傘木達に思うところがない訳でもない。

 彼女がなぜ弱小の北宇治高校の吹部に入ったか、そのいきさつを知っている自分でもそうなのだ。他の人はもっとだろう。

 そして三年生も三年生で、傘木達のコンクールに対する熱意に目を向けようとしない人ばかりだ。最上級生という立場と数の圧力で、反対意見を封じにかかる。

 

 お互いの価値観が根本からして違うから、どうしようもない。

 結果的に、長瀬さんがとばっちりを喰らう羽目になった。

 

「トランペットは中世古先輩が色々とフォローしてくれてるおかげで、吉川も大分大人しくなってるけど……。他の連中は大丈夫なのかねえ」

「とっくに孤立してる」

「……傘木の方は、そんなにヤバいのか?」

「初めてフルートパートと練習した時点で、傘木以外誰も来なかった。最近じゃ、隣の教室からは先輩達の気配すらしない」

 

 こうるさい傘木の相手をするのに疲れて、他の空き教室に移動して駄弁っているのだろう。

 今にして思えば、自分が入部する前からパート内では相当浮いた存在になっていたと分かる。

 

「鎧塚さんが心配して様子見に行ってるが、かなりキツそうだ」

 

 傘木に限った事ではないだろう。

 最近、南中の面子が自分との距離を露骨に縮めている。今まではさして接点もなかったのに。

 喜多村先輩も言っていたが、どうも自分は傘木のシンパと見られている節がある。

 それぞれのパートで孤立感を深めているなか、立ち位置が近いと思っている同級生を一人でも仲間に加えたいと考えているのかもしれない。

 

「それなら、いっその事お前のとこと一緒に練習するとかはどうなんだ?」

「……さすがに先輩達が許さないだろう」

 

 滝野の提案にかぶりを振った。

 先輩達からだけでない。田中先輩からも目立つ事はしない方がいいと釘を刺されたばかりだ。

 パート練習中に他のパートと一緒に活動なんて勝手な真似をしたら、三年に目をつけられるくらいでは済まない。自分は勿論だが、鎧塚さんや先輩達も。

 

「ダブルリードの先輩もつれないな……」

「よせよ。お前のとこの先輩が物分かりが良すぎるだけだ」

 

 中世古先輩は、楽譜の件で三年の暴走を止められなかった事に良心の呵責を感じているらしい。既に決まっていたコンクール出場権を放棄して、南中出身の一年と三年の対立解消に奔走している。

 

――楽譜係である私の管理不行き届きのせいだから、責任を取らないといけません――

 そう言って先生に出場辞退を申し出たと聞いた時、翻意を促したが中世古先輩は(かたく)なだった。

――これが、今の私に出来る事。せめてもの償いだから――

 そう力なく答える先輩の姿は何とも痛々しかった。

 先輩にそう言われては、同じく楽譜係である自分もこの件で声を大にする訳にもいかない。

 

「中川の奴も、すっかり元気なくしちまったしなぁ……」

 

 元々真面目とは言い難いところもあったが、彼女も今回の件で心が折れてしまったようだ。勝気な性格もすっかり影を潜めて、部活に居残る時間もめっきり減った。

 

「同じ金管の初心者同士、そっちはお前がなんとかしてくれ。後藤も長瀬さんの事で手いっぱいだろうし、傘木はこっちでなんとかするから」

 

 どこを向いても、気が塞ぐような事ばかり。今更ながら、ろくでもない部活に足を踏み入れたものだと嘆息した。

 

 

 

 

「なんか音が刺々しいよ」

 

 パート練習の時間も終わり、先輩達も早々にいなくなって閑散とした三年六組の教室。

 ままならない部活の現状に対して、鬱憤(うっぷん)を晴らすかのようにオーボエを吹いていると、陽気な口調で傘木が教室に入ってきた。

 

「お疲れくらむー。今日も精が出るね!」

 

 ……またパート練習、一人でやってたんだな。

 

 傘木の目は、泣き腫らしたように真っ赤だった。

 気丈に振る舞ってはいるが、声のトーンも微妙に低い。

 

 傘木は教室を見まわして、自分一人しかいないのを見て首を傾げた。

 

「みぞれは?」

「鎧塚さんなら今日は風邪で早退したよ。連絡入ってないの?」

「え、ホント!?」

 

 傘木は慌ててポケットからスマホを取りだして細々と操作しだしたが、すぐにがっくりと肩を落とした。

 

「ヤバい。充電するの忘れてた」

「フルートの先輩達は今日もサボリなんでしょ? 早めに帰宅して連絡いれてあげたら」

「まあそうなんだけど……できれば今日あたり、二人に話したいと思ったんだけどな」

「話?」

「あの三年達のこと! くらむーはどう思う?」

「……話っていうのは三年の愚痴?」

 

 だとしたら御免こうむりたいのだが。

 長瀬さんの一件以来、三年生にはもう嫌悪感しか沸かない。

 

 あの事件が起きるまでは、三年生にもまともな人はいる。

 その人達の手を煩わせるべきではない。気長に状況が改善するのを待つつもりだった。

 

 今はもう違う。

 

 悪質な同級生を放置しているという時点でまともとは言えないのではないか。

 

 事件の顛末が頭をよぎる。

 ……結局、低音パートの三年達は予想通り指紋を消して、証拠不十分でうやむやにされた。そればかりか、パートリーダーの人は私の管理不行き届きだと言い出したのが(いさぎよ)いと、逆に梨花子先生から褒められたらしい。

 それを聞いた時は流石に憤慨した。

 事情を知らない先生は別にしても、あの場には低音パート以外の三年生の姿もあったのだ。誰か一人でも、同級生の悪行を諌めようとは思わなかったのか。

 

 ……どうせ話題に昇るのはロクでもない事ばかり。気分を悪くするだけなので、もう耳にしたくもなかった。

 

「ああ、ちょっと違うの。私はもう三年の事は堪忍袋の緒が切れてね。決起する事にしたの。話ってのは、くらむーにそのお誘いをしにきたの」

 

 また不穏な言葉がでてきた。

 

「決起って。一体何をしようっていうんだ?」

「ふふん、これを見て!」

 

 彼女が自分の目の前に広げたノートには、一年生の吹奏楽部員の名前が並んでいた。

 

「トロンボーンの羽丘、サックスの岸、クラリネットの小浜に湯浅、安藤……」

「そのノートに書いてるのは決起に賛同してくれたメンバーよ。ま、全員南中の部員だけどね」

「十人以上もいたのか……」

 

 吹部の一年は二十七人いたはずだから、南中出身者だけで三分の一を超える。

 

「決起の実行タイミングは明日の基礎合奏。今までもそうだったけど……、どうせチューニングも不十分でテンポも合ってないまま惰性でやるに決まってるからね。そこで三年生を注意するから私達と口裏を合わせてくれないかな」

 

 一瞬、耳を疑った。

 

「基礎合奏!? 正気か!?」

 

 基礎合奏は、大勢の部員が音楽室で一堂に会して行う。

 三年生の数の圧力の前に、文句はあっても口に出すのが最も(はばか)られる時間でもある。

 

「勿論。パー練の時に発破かけても、らちが明かないからね。みんなの前で声をあげれば、きっと二年生も立ちあがってくれるよ!」

 

 確かに意表は突けるだろうが、上手くいくかとなると話は別だ。

 四十人近い三年生部員の大半が、部の活動方針は今のままでよしと考えている。

 一年の総意というのであれば、傘木の思惑通り二年生も翻意してくれるかもしれない。しかし実際の所、南中出身の部員と、それ以外の部員の間には微妙な温度差が存在する。

 ノートに記載された連中に、数こそ多いが傘木の身内しかいない事がそれを明確に語っていた。十数人程度では逆に握りつぶされるかもしれない。

 

「……そう上手くいくかなぁ」

 

 独り言のようにつぶやいたつもりだったが、耳聡く傘木に聞き咎められた。

 

「なによー。二年生は同意してくれないとでも言いたいの?」

 

 やはり傘木は、良い意味でも悪い意味でも強豪校のOGだ。骨の髄まで、ハードスケジュールをこなす事・実力順をよしとする部活スタイルに染まっている。

 それはそれでいいが、物事をなあなあで済ませたがる人もいるという事を分かっているのかいないのか……。

 

「傘木。コンクールメンバーの選抜基準って知ってるか?」

「何を今さら……。三年生優先でしょ」

「三年生になれば確実にコンクールに出れる。二年の人達がそれでいいと考えてるとしたら、三年の反発買ってまで無理に一年に同調しようとするかな」

 

 コンクールメンバー発表の翌日。落ちたにも関わらず、まるで意に介さない様子だった喜多村先輩。多分あれが、大半の二年生の偽らざる心情なんだろう。

 

「……」

 

 自分の言葉に、傘木の表情が歪んでいくのがはっきりと分かった。

 

「とにかく、やるだけやってみようよ! もう皆に声かけちゃったし、今更引き下がれないよ!」

「……分かった。だけど、口裏を合わせるだけだ。それ以上の事はできないぞ?」

 

 そこが妥協できるラインだった。

 気乗りはしない。長瀬さんの楽譜の件があったばかりだ。

 あの時と同じ様に、今度は先輩達や鎧塚さんが巻き添えを喰らう事になりかねない。

 そう思う一方で、傘木が苦しんでいるのに何の手助けも出来ずにいる事に後ろめたさもあった。

 

 自分のパートの事だ。自分が目を光らせておくしかない。腹を据えた。

 

 

 

 

 翌日の部活。

 不十分なチューニングが繰り出す音のうねり。それが修正される事もなく続けられ、バンドとしてのまとまりをつくるという本来の体を成さない基礎合奏。悪い意味でいつも通りだ。

 

 そんな中、自分に目配せしてくる傘木に無言で頷いた。南中出身の部員同士で試みられるアイコンタクト。

 それに気付いた周りが不審の目を向けるが、これから何が起きるかを知ればその程度のリアクションでは済まない。

 

 傘木がフルートを膝に下ろして、声を張り上げた。

 

「先輩達、音あってませんよ。ちゃんとチューニングしないと」

 

 音楽室がざわついた。

 傘木達が部活の現状に強い不満を抱いている事は、もう誰もが知っている。だが、まさかこのタイミングで声を上げるとは思いもしなかったのだろう。三年生ばかりか、二年生も目を丸くしている。

 

「そうですよ。それに本番は大ホールでやるんですから、今の音量じゃ響かないと思いますよ」

「クラリネットは音出し過ぎ。フルートは逆に音足りないです。全体のバランスが取れてません」

「これじゃ全員で集まって練習する意味ないですよ……」

 

 傘木の後を受けて、南中の面子が口ぐちに文句を言い立てる。

 彼女達が一通り不平不満を言い終えたのを見計らって、自分も言葉を繋げた。

 

「先輩方。コンクールは他の学校の人も聞くんですから、傘木達の言う通りもうちょっと真面目に練習した方がいいかと。笑われにいくようなものですよ」

 

 ざわめきが、更に大きくなる。

 吹部のあり方について、本心はどうあれはっきり異議申し立てをしてきたのは南中の人間だけだった。これまでは。そこに自分が加わった事は、いささかの驚きをもって迎えられた。

 

「ちょっと蔵守……」

 

 背後から岡先輩の非難がましい声が聞こえてきたが、今回ばかりは無視する。

 南中出身の部員達の不意打ちに面喰っていた三年も、次第に剣呑な表情へと変わってきた。

 

「あのねー。ワタシらって別に上目指してるワケじゃないの。毎年府大会銅賞常連の吹部なんだから、そこんとこ言わなくてもわかるでしょ? なのにアンタ達事あるたびに練習練習ってウルサイのよ。楽しめればいいの」

「それはわかりますが……」

 

 声を荒げる三年に、どう言葉をかけるべきか。

 内心悩んでいるうちに、たまりかねたように南中出身の部員から怒声が放たれた。

 

「じゃあ香織先輩みたいに、コンクールメンバー辞退すればいいじゃないですか!!

あんな下手糞な演奏で、あわよくば金や銀取れるかもなんて夢みてるんじゃないでしょうね!!」

「何ですって!!」

「何が楽しめれば、ですか! 練習して音揃えなきゃ楽しめるものも楽しめないでしょーが!!」

「私達一年だけならまだしも、真面目にやってる二年の先輩達まで出さない事に良心が痛まないんですか!?」

「二年の先輩達もそれでいいんですか!」

『……』

 

 一様に複雑な表情を浮かべている二年生達。

 内心思う所があっても三年に逆らうのが怖いのか、それとも自分達に火の粉がふりかかってきたのにとまどっているのか、迷惑に思っているのか。

 ただ一つ、はっきりしているのは傘木達に諸手を挙げて賛同する二年は誰もいないという事だ。

 

『せ、先輩……』

 

 そんな二年の様子を絶望的な表情で眺める傘木達。対照的に三年は満足げな笑みを浮かべている。

 

「二年生達は特に文句ないみたいよ。これでわかったでしょ。部をひっかきまわすのはいい加減にしてよね」

「一年の癖に生意気なのよ。少しは空気読んで大人しくしてなさい」

「……なーるほど、二年生も半分腐ってる訳か。よくわかりました! こんな部にこれ以上居残っても時間の無駄ですね!」

 

 南中出身の部員達の暴言は止まらない。三年生達もさすがに顔色を変えはじめた。

 

「お前ら、言葉を……」

 

 選べ、とたしなめる暇もない。

 

 三年生達が頭に血を昇らせて椅子から立ち上がったのだ。

 

「言わせておけば……! 一年の癖して!」

「何よ! この性悪!」

 

 そこから先は売り言葉に買い言葉。遂にはキャットファイトに陥った。さすがにこれはマズい。

 

『先輩! 抑えて下さい!』

「傘木も落ち着け!」

 

 滝野、それにナックル先輩達二年の男子部員も止めに入る。

 自分も、取っ組み合うフルートの三年と傘木をひき離そうと慌てて間に入った。

 

「一年坊は引っ込んでなさいよ!」

「蔵守どいて!」

 

 お互いヒートアップしてるので、自分を振り払おうとする動きにも遠慮がない。

 腕力のないもやしっ子の悲しさ。情けないことだが、力一杯突き飛ばされてしまった。

 それだけならどうという事もなかったが、二人の自分を突き飛ばすタイミングと方向が一致してしまったのが、運が悪かった。自分の体は勢いよく、すぐそばの壁に激突した。

 

 

「がっ!!」

 

 

 後頭部と右肘(みぎひじ)に激痛が走る。立ちあがろうとするが体に力が入らない。そのまま突っ伏してしまった。

 

『!!』

『きゃああ!!』

「頭から血が出てる! ヤバいよこれ!」

「早く! 誰か保険医呼んできて!」

「お、おい蔵守! 大丈夫か!! しっかりしろ!」

 

 ナックル先輩が必死に呼びかけてくるが、意識が混濁して声が出ない。どうも打ち所が悪かったようだ。

 そういえば傘木に呼び捨てされたな。……なんてどうでもいい事を考えながら意識が途切れた。

 

 

 

 

「……ん?」

「! よかった…気がついたんだね」

 

 目が覚めると、そこには喜多村先輩と岡先輩の姿があった。

 

「ここは……保健室?」

「そうよ、ナックル達が運んでくれたの」

 

 ベッドに横になっていた体を起こそうとすると、喜多村先輩に慌てて制止された。

 

「まだ動いちゃだめ。保健の先生は大事ないって言ってたけど、このまま安静にしていて。

今、先生がキミのお母さんに連絡してる。今日は一緒に車で帰りなさいって」

「ごく軽い頭部打撲と右肘の捻挫だって。出血もすぐに止まったし、良かったじゃん。ま、一応病院で確認してきたら?」

 

 気絶していた間、処方の手伝いでもしていたのか、岡先輩が湿布の切れ端をゴミ箱に捨てながら呟いた。右肘に貼られた湿布のひんやりとした感触が、ほどよく痛みを中和する。確かに大した怪我ではなさそうだ。

 

「それにしても、アンタもヤワね。女子二人に突き飛ばされてノックアウトとか。もうちょっと体鍛えなさいよ」

 

 心底呆れた表情で、岡先輩がため息をつく。

 

「返す言葉もありません……」

 

 確かに今回の事は我ながら情けない限りだ。穴があったら入りたい。

 

「美貴も言い過ぎだよ! 女子が相手だったんだから本気出せる訳ないじゃない!」

 

 それは買い被りです。

 

「……にしても、大変な事になっちゃったわね」

「そうだ! 先輩、あれから傘木達はどうなったんですか?」

「キミが怪我した事で、みんな頭を冷やしたみたい。今は大人しくなったけど……。梨花子先生と松本先生が、それぞれ三年生と一年生に事情を聞いて回ってる」

 

 ……それから先は親が来るまで、大人しくしてろと言ったのに人の話聞かないんだからとか、(なだ)めろと言ったのにミイラ取りがミイラになってどうすんのとか、岡先輩からネチネチ嫌味を飛ばされた。その間、喜多村先輩がずっと浮かない顔をしているのが気にかかったが。

 

 

 翌日の金曜日、念の為病院で精密検査を受けたが異常はなし。右肘の痛みも大分和らいだ。

 結局その日も大事をとって学校を休むことになったので、部活に顔を出すのは翌週の事になってしまった。

 

「お早うございまーす」

 

 始業前。軽く朝練をこなす為に音楽室のドアを開けながら挨拶したが、いるのは病み上がりの鎧塚さん一人だけ。

 おかしい。コンクールが近い事もあって、ここ最近は岡先輩も真面目に練習してはいたのだが。

 

「もう登校してきたの……。頭大丈夫?」

「……」

 

 鎧塚さん。その言葉足らずなところ、直した方いいよ。

 怪我の事心配してくれてるのはわかってるけど。その言い方じゃ自分が頭おかしい人みたいじゃないか。

 

「ああ。病院の先生からも、頭の怪我も右肘も両方とも異常ないってさ」

「そう、よかった。先輩達から話は聞いた。私が休んでる間、いろいろあったみたいだけど……」

「まあね。先輩達は、まだ来てないの?」

「ううん。松本先生に呼び出されてお話し中」

「話?」

「今度の事で、先週から部員一人一人個別に呼び出されてる。貴方も呼ばれると思う」

 

"一年一組の蔵守啓介君、松本先生がお呼びです。四階音楽室前準備室まで来て下さい"

 

「ほら」

 

 ……どうも自分が休んでいる内に、思った以上に大事になってしまっているようだ。

 

 

 

 

「まずは座れ。事の経緯は他の部員達から大体聞いている。お前は今度の件での被害者だ。よって、教員会議で決まった事を特別に伝えるが当面の間は黙っていてくれ。与えるショックが大きいだろうからな」

 

 頷いて席に着くと、松本先生から関係者に処分が下る事を聞かされた。

 今回の件は、学校側も捨て置く訳にはいかなかったらしい。

 結果的に自分に怪我を負わせた当事者二人……傘木とフルートの三年生は、今年のコンクール出場権剥奪(はくだつ)の上、部活動一ヶ月停止。他に喧嘩に加わった一年と三年も同様にコンクールの出場権剥奪という事になった。

 一年生はともかく、三年生の方はコンクール前に実質的な引退勧告を出された格好だ。

 

「……もう少し寛大な処置は取れないんでしょうか」

「お前の気持ちはわからんでもない。だが故意でないにせよ部活動で傷害事件が起きた以上、お咎めなしという訳にはいかん」

 

 先生は困ったような表情をして、ひとつ息を吐くと内心を吐露してくれた。

 

「……実を言うとな。教員会議で、今年のコンクール出場辞退も検討されたのだ。あくまで一部の部員の暴発という事にして、それは抑えたが……。実際の所、今回の件は氷山の一角のようなものだ。一・二年から話を聞いた所では、三年に反抗的な一年がいじめられたり、無視されたりしていたそうだな」

「はい。自分達一年の方にも言い方がまずかった所はありますが……」

「うむ。私はな、今の吹部の(ぬる)い方針には反対なのだ。たかが部活、されど部活。学生時代に一生懸命やり抜いた事は一生ものの思い出になると思っている」

 

 そう言うと、先生は椅子から立ち上がって窓から校庭を見つめた。松本先生は北宇治のOGと聞いている。高校時代を思い返しているのだろうか。

 

「先生がめったに部活に顔を出さないのは、指導方針の違いで梨花子先生と仲が悪いからだって部内じゃ噂になってますが」

 

 こうして松本先生とサシで話すのも、今日が初めてだった。

 自分達コンクールメンバーから漏れた面子は、文化祭で演奏する曲の練習を行っている。先生はその場にたまにしか顔を出さない。そしてその時は、きまって不景気な表情をしていた。

 

「そりゃ仲は悪いとも。だがそれ抜きにしても、副顧問の私が出ずっぱりにならなければいけないほど、お前たちは練習してる訳でもあるまい」

 

 ごもっとも。

 

「……それでも、生徒達がそういう部活を望んでいるなら、致し方ないが認めるつもりでいた。部活動が厳しくなれば吹奏楽を嫌いになってしまう子がでるかもしれない。コンクールメンバーを実力順にすれば三年間頑張っても出場できない子が出てくるかもしれない。それで本当にいいんですか? 子供たちはプロを目指してる訳じゃないんですよ? そう彼女に問われると返答に窮してな」

 

 梨花子先生の考えは、なんとなく理解出来る。完全な実力順となると、割を食うのは高校から吹奏楽を始めた初心者だ。コンクールに向けて練習を重ねても、その成果を披露できない。結果が出ない努力ほど続けて空しいものはない。

 大成した人は皆、努力を続けるのが大事と言う。だけど、最初からなにもしないロクデナシなんてそうそういない。結果が出ないから努力をしなくなるんだ。

 

 梨花子先生も全くの善意から、今の部の体制を構築したとは思う。高校から吹奏楽を始めた初心者にも楽しめる環境を提供しようと。

 ……それがどうして、上級生が下級生を食い物にするような環境へと変化してしまったんだろう。

 

 ため息をつく自分をじっと見つめながら、松本先生が声を発した。

 

「だが! こういう事が起きてしまった以上、もう手をこまねいてはいられん。彼女には今年いっぱいで吹部の顧問を辞めてもらう事になるだろう」

 

 管理不行き届きで梨花子先生にも処分が下るという事だろうか。

 

「……松本先生が顧問になるんですか?」

 

"自分は北宇治では一番厳しい教師である事を誇りにしている"

 なんて事を公言して(はばか)らない人だ。この人が顧問になったら、また別の意味で部員達は大変な目に合いそうな気もするが。

 

「いや、形ばかりとはいえ副顧問だったのだからな。私にも責任の一端はある以上そうはいかん。北宇治の(たる)んだ空気に染まっていない指導者を外部から招聘しようと思っている」

 

 松本先生にも減給処分が下されるそうだが、副顧問から降ろされる事にまではならないらしい。

 その後は長瀬さんの楽譜の件の説明を求められ、一通り話して先生との面談は終わった。

 

 

 

 

 処分が周知されるのは今週末になるという事だったが、それを待たずして傘木達は退部した。

 涙ぐみながら自分に平謝りする傘木が言うには、今回の件に対して責任を取りたいという事だった。

 

 勿論自分を怪我させた事について申し訳ないという思いはあるのだろう。

 しかし、それはきっかけにすぎない。

 三年生だけでなく二年生もアテにできない。もうこんな部に居たくないという思いの方が強いのは容易に想像がついた。

 

「……怪我も大した事なかったし、気にしなくていい」

 

 傷心の彼女に、それ以上かける言葉は見つからなかった。

 

――頼りにしてるからねっ――

 

 結局、自分は最初から最後まで何の力にもなれなかった。

 

 

 傘木達が去った後、三年生達もさすがにバツの悪さを感じてか、形ばかりとはいえ頭を下げて謝ってきた。

 

「でも傘木達も、自分らの都合ばっかりで部活を振り回そうとしなきゃ丸く収まったのにねえ」

 

 この期に及んで、この人達はまだそんな事を言うのか。

 

 確かに傘木達は部の空気を乱したが、真面目に部活に取り組もうという動機自体は非難されるような事でもない。怪我をさせた事についても、三年への言い訳がましい事は一言も口にせず、ただ謝るだけだった。

 

「先輩方も、自分達の都合で部活を振り回しています。それは問題ないと思ってるんですか?」

 

 自然と皮肉が口からこぼれた。

 部員達の視線が集まってくるのも、音楽室の空気が凍りついていくのもまるで気にならない。

 言葉を失う三年生達を一顧だにせず、帰り支度を始めた。

 

「……今日はもう帰ります。お疲れ様でした」

 

 無念の思いで吹部を去った傘木達にしてやれる、これが自分の精一杯だった。

 

 




 
落ちるところまで落ちたら、後は這い上がるだけだ。



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第8話 ささえるトランペット

「綺麗に紅葉が咲いちゃったね」

「アンタも生傷が絶えないわねー。お祓いにでも行ってきたら? ああ、でも男子的にはこういうのご褒美なんだっけ」

「……自分にはそういう趣味はないです」

 

 喜多村先輩の率直な感想に続く、岡先輩の茶化しに顔をしかめた。実際、分かりたくもない境地だ。

 熱を持ち、少しばかり腫れあがった右頬をつまみながら、つい先程の音楽室での出来事を思い返した。

 

 

――アンタねえ! 先輩に向かってなんて口叩いてんのよ!!――

 傘木が退部した翌日の部活。音楽室に入って早々、罵声と共に吉川さんから往復ビンタを頂いた。比較的小柄で、筋肉質という訳でもない彼女のビンタはさほどの威力もない。大して痛くもなかった。傷害事件があったばかりだし、あるいは手加減していたのかもしれない。

 むしろ、はたいた手をさすりながら顔をしかめる彼女の方が被害は大きそうだったが。

 

 

「でもあれはリボンちゃんのファインプレーだったと思うよ? あの人達の事だから、あそこまで言われて何にも無いとは思えないし」

「ま、アンタのあの暴言には私らもスカッとしたけどね。後でどうなるか怖いところはあったけど……、あれで三年連中も溜飲が下がったんじゃないの」

 

 先輩達の言う通り、吉川さんのフォローには本当に助かった。

 勢いとはいえ、昨日は後先考えない暴言を吐いたものだと思う。中川の事を責められない。言った事を後悔してはいないが、そのツケがどれほどになるのか。内心戦々恐々としていた。

 

 あの後、更に追撃をかけようとした吉川さんを三年生の方が止めに入った位だ。多少なりとも気は晴れたのだろう。ビンタ1発で事が収まるなら安い取引だった。

 

「軍曹も目を光らせるようになったしね。めったな事にはならないと思うけど」

 

 岡先輩の言葉に、無言で頷いた。

 松本先生は昨日、そして今日と吹部の活動をしっかり見張っている。

 長瀬さんの楽譜、そして自分の怪我。もう次は無いぞ、と無言のプレッシャーをかけてくる。三年生も今までの様な好き勝手は出来ないだろう。

 

 

 その時、不意に教室の扉が開いて、鎧塚さんが入り込んできた。肩で息をして、いつもは感情が読みとれない彼女の顔に珍しく動揺の色が見える。

 

「……先輩、蔵守君」

「あ、鎧塚さん。遅かったね」

 

 合奏練習はかなり前に終わって、岡先輩もとっくに教室に戻ってきていた。

 音楽室で気になった部分の練習を続けていたのだろうか。

 

「……さっき優子から聞いたんだけど、希美が部活やめたって本当?」

 

 鎧塚さんのその言葉に、自分も先輩達も訝しんだ。

 

「ああ、本当だけど。……傘木から聞いてないの?」

 

 瞬間、鎧塚さんの表情が強張った。彼女の表情が蒼白になっていくのを見て、自分が余計な事を口走ったのを悟った。

 

 

 

 

 それから始まったパート練習は、全然うまくいかなかった。

 

「みぞれ、また音とりこぼしてるよ」

「……。すみません」

 

 岡先輩の指摘に、鎧塚さんは力なく頷く。

 

 ……まるで別人だ。

 集中力を欠いているのもそうだが、普段の無表情な彼女の素がそのまま出たような、面白みのない単調な演奏。初めて演奏を聞いた時のような、抑揚に富んだフレーズがまるで感じられない。

 

「みぞれちゃん、調子悪いみたいだから今日はもう上がっていいよ? 今のままじゃ練習続けてもしょうがないし」

「はい……」

 

 喜多村先輩がやんわりとフォローを入れて、教室から鎧塚さんが姿を消すと岡先輩が呟いた。

 

「みぞれったら、なんか暗くなったよね。もしかしなくても友達が退部しちゃったせいなんだろうけど」

 

 それは勿論あるに違いない。傘木の力になれなかった事には自分も忸怩(じくじ)たる思いがある。ただ……。

 

「吉川さんから退部の件を聞いたって言ってましたけど、傘木の奴……鎧塚さんには話してないみたいですね。そっちの方がショックだったんじゃないんですか」

「意外と薄情だね、その傘木って子も」

 

 岡先輩も渋い顔をする。

 自分を怪我させた事に対する負い目で、今はそこまでする精神的余裕が無いだけかもしれない。

 とはいえ、退部を考えるくらいなら、友達である鎧塚さんに連絡の一つはあってもよさそうなものだが。嫌な思いは(かす)かに残る。

 

「そうかな。気を遣ったんじゃない?」

「気、ですか?」

 

 初夏とはいえ、六月中旬とは思えない猛暑日。衣替えを済ませた夏服でも暑さを感じるのか、手団扇(てうちわ)で胸元を扇ぎながら喜多村先輩が答えた。

 

「蔵守くんは男子だから、そういうトコ分かんないよね。女子ってね、男子と比べると言葉に含みを持たせるトコロあるの。額面通りには受け取れないんだよ」

「下手に退部する事を知らせたら、私も辞めるからみぞれも部活やめない? コンクール辞退しない? ……そう受け取りかねないのを心配したって来南は言いたいワケ?」

「うん。ありえなくもないと思うよ。実際南中出身の子、ほとんど辞めちゃったし」

 

 岡先輩も納得したように頷く。

 人数以上に、やる気のある彼女達が抜けた事で、他の教室から聞こえる音量もめっきり減った。

 

「そういう言外の圧力をかけるのを気にして、あえて黙っていたのかもしれないよ。他の子と違って、みぞれちゃんはコンクールメンバーだから」

 

 女子の心の機微(きび)は、自分にはよく分からない。真相は先輩の言う通りなのかもしれない。

 ふと、田中先輩の事が頭に浮かんだ。

 あの人が吹部の部員のなかでも特に大人びて見えるのは、そんな風に相手の言動を深読みする癖がついているからだろうか。

 

「……先輩達にも、そういうところはあるんですか?」

 

 不躾(ぶしつけ)な質問だったかもしれない。喜多村先輩は困ったような笑みを浮かべた。

 

「美貴と仲良くなるまではね。この子はストレートに言わないと話が通じないんだもん」

「うっさいなー。私は回りくどいのが嫌いなの」

 

 そういうさばさばしたところは、岡先輩も吉川さんと似ている。自分にとっては話しやすいが。

 

「それで美貴。合奏練習の方は、みぞれちゃん大丈夫なの?」

「まーね。調子落としてるとはいっても、もともとよく吹けてたし。吹ける吹けない言い出したら他のパートの方がもっとひどいからね」

 

 それもどうなんだろう。もうコンクールまで、あと一ヶ月ちょっとしかないのに。

 

「みぞれも心配だけど、アンタもよ。最近、音が小さくなってる。塞ぎ込みたくなるのも分かるけど……、気持ち切り替えなさいよ」

 

 そう言って、岡先輩が自分の背中を叩いた。先輩も先輩なりに、自分に気を遣ってくれているらしい。内心、おかしくなった。

 

 

 

 

 結局、鎧塚さんは翌日・翌々日の授業中でも抜け殻状態。

 そしてそんな彼女を注意する為に、ノ―コン先生方からやっぱり飛んでくる流れ弾。

 またしてもハチの巣にされるところだったが、今度の事態は想定内。

 あらかじめ机に置いておいたハンドタオルを盾代わりにかざして、被害は最小限にとどまった。

 

 「……どうしたものかなぁ」

 

 放課後。流し台でハンドタオルを水洗いしながら物思いにふけった。

 本当は楽器を吹いた時、管体から出てくる(つば)を抜く為に用意したのだが、ここ数日はおかしな使い方をすることになっている。

 喜多村先輩の推測を鎧塚さんに伝えるのもいいが、それを真に受けてこのタイミングでコンクール辞退されるのも困る。

 傘木も落ち着けば鎧塚さんと話をするだろうし、今は下手に手を出さない方が無難かもしれない。とはいえもう梅雨はあけたのに、相方がいつまでもじめじめとした雰囲気だとこっちまで気が滅入ってくる。

 結局部活をサボって、ストックが切れかけているリードの補充に楽器店へ行くことにした。

 

「いらっしゃい。お? 北宇治の坊主か」

「お邪魔します。親父さん、いつものリードお願いします」

「あいよ」

 

 顔馴染みの店員さんとの挨拶を済ませて、早速注文を切り出した。

 店内には真新しい楽器がそこかしこに陳列され、生来の楽器好きの購入意欲を刺激する。実際には高いから買えないが。

 リードの用意が出来るまで適当に店の中をぶらついていると、あるチラシが目に入ってきた。

 

"初心者から中級者へステップアップ!! 

オーボエ・ファゴット奏者の皆様、リードを自作してみませんか!?

申込は○○○-△△△△-××××まで"

 

「待たせたな。ん? どした」

「親父さん、これ……」

「ああ、ウチの店を懇意にしてくれてるプロの人が、今度この辺で演奏会を開くんでな。それでしばらく宇治市に滞在するからボランティアでって事らしい。興味があるなら手続きしとくぞ?」

 

 取るものも取り敢えず、チラシをひったくった。

 

「このチラシ。タダですよね!? 一枚貰ってもいいですか?」

「あ、ああ。それは構わないが……。そんなに急いで何処に行く?」

「学校!」

 

 今から戻れば、部活が終わるまでにまだ間に合う。

 

 

『リード製作講習会?』

 

 学校に戻るや否や、いつもどおりパート練習を行っていた三人に話を切り出してみた。

 

「ええ。今週末の土曜に、町はずれの楽器店で開かれるそうなんです。鎧塚さん、行ってみない?」

 

 自分はコンクールに出る訳でもなし。部活にいても気が塞ぐ事ばかり。渡りに船だった。

 

「……でも」

「いいんじゃない? 行ってきたら、みぞれ」

「いい経験になると思うよ、こんな機会そうそうないから。みぞれちゃんが自分で作ったリードでどんな演奏するか、私も聞いてみたいかな」

 

 土日も自主練に精を出す事が珍しくない鎧塚さんだ。本来なら休日出勤も苦にはならないはずだった。しかし思った以上に調子が悪いのかもしれない。気乗りしない様子でいる鎧塚さんの背中を、先輩達が押している。

 

「先輩達もどうですか? ファゴットのリード製作講習会も別にありましたよ」

「ゴメンね。興味はあるけどその日は外せない用事があるの」

「そうですか……。岡先輩はどうです?」

「メンドイから私もパ……」

 

 先輩、空気読んで下さい。自分と二人きりなんて展開になったら鎧塚さんも行きづらいでしょ?

 

 そうアイコンタクトを試みた。

 しかし、底意地の悪い笑顔を浮かべる岡先輩から返ってきたのはとんでもない爆弾発言だった。

 

「そーね。みぞれと二人でデートがてら行ってきたら?」

「ちょ!」

「……蔵守君と二人で?」

 

 いつも通りの無表情だけど声色から嫌そうなのが丸分かりだ。

 そりゃあ好きでもない同年代の男子と外歩きなんて嫌だろうけどさ。どんな噂が立つか、わかったもんじゃないし。

 

「別に友達と一緒でも構わないよ。あんま広い所でやる訳じゃないから、大勢連れてこられても困るけど」

 

 とはいえ、タイミングがタイミングなだけに傘木がついて来るとは思えない。

 

 登下校、そして部活。

 普段と変わった行動は何一つとっていないが、あれから傘木とは一度も顔を合わせていない。鎧塚さんに会いに来た時のついでで、クラスで一緒に世間話する事もなくなった。

 あんな事があって、今は顔をあわせにくいのだろう。どうも避けられている様に感じる。

 

「……少し考えさせて」

「ああ、うん」

 

 鎧塚さんの態度ははっきりしなかったが、無理に勧める気にもなれずそこで話を打ち切った。

 ……こういう押しが弱いところが、自分の欠点なのかもしれない。購入したリードの具合を一つ一つ、確認しながらそう思った。

 

 

 

 

 講習会当日。楽器店の最寄りのバス停前は、休日とはいえ閑散としている。やはり町はずれだからか、道路沿いに設置されたベンチに腰掛けているのも同僚1人だけ。すぐ近くの自販機で購入した注文のオレンジジュースを、彼女に手渡して声をかけた。

 

「吉川さん、今日はよろしくね」

「よろしく。みぞれの付き添いだから、別にアンタと絡む気はないけどね」

 

 つっけんどんな対応をとる吉川さん。今日も相変わらず、頭にサイズ間違ってるリボンがのっかっている。

 おかげで遠目にも、すぐに彼女と分かったけど。

 

「でもちょっと意外だったよ。中学の吹部から一緒だとは聞いていたけど、二人って話してる所はあんま見なかったから」

「まーね。みぞれはお喋りなほうじゃないから。たまたまあの子が悶々としていたのを見つけたの。それで勢いで理由を聞き出して、一緒についてくから参加してみたらって言っただけ」

 

 自分の事といい、吉川さんも大概世話焼きだな。

 

「私はみぞれが心配なの。あの子、私達一年で一人だけのコンクールメンバーだから。合奏練習の手伝いついでに様子見てたけど……最近のみぞれ、どこかおどおどしてる。私はああいう弱いみぞれを周りに見せたくない。本当はもっといい演奏できるんだから」

「お前は鎧塚さんの親か何かか」

 

 思わずツッコミを入れたが、弱さを見せたくない、というのはむしろ男子部員である自分の方が切実な問題かもしれない。

 ただでさえ女所帯の部活で軽く扱われがちなのだ。好き好んで格好悪いところを見せて、舐められたくはなかった。

 

「パー練の方は、みぞれどんな感じ?」

「元々上手いから大きな問題にはなってないけど、以前と比べるとちょくちょくミスをするのが目立ってきてる。心ここにあらずって感じなんだ」

「やっぱり希美が退部したの引きずってるのね。今日の講習会で少しでも気分転換できればいいんだけど」

「そうだね。傘木、今どうしてるんだろ……」

「……何で希美の事なんか気にしてるの?」

 

 吉川さんの頭の大きなリボンがピンと張り詰めたように見えた。表情もどこか苦々しい。

 ……どうしたんだ? コンクールメンバーの件では一緒になって愚痴りあってたし、仲が悪い様には見えなかったのに。

 

「何でって。そりゃああんな事になったんだから、気にはなるよ。吉川さんは違うの?」

「……希美なら市民楽団に入団する事を考えてるみたい。謹慎中だし、活動を始めるのは今しばらく自重するつもりらしいけど」

「そっか、良かった。フルート続ける気ではいるんだ」

 

 社会人、大学生、高校生。多種多様な立場の人が集う市民楽団は部活動と随分勝手が違うだろうが、それでも傘木にとっては今の吹部に留まるよりはマシかもしれない。

 

「むしろ私はアンタの方が心配。あんな大口叩いて。希美達の後を追って退部するんじゃないかと思ってた」

 

 その節はお世話になりました。具体的には右頬が。

 

「実際あの時はそのつもりだったよ。もういい加減北宇治の吹部には愛想も尽きたしね。でも……今ここでやめたら、自分に向けられるはずの三年の鬱屈の矛先が鎧塚さんや先輩達に向かいかねない。三年が引退するまでは止められない」

 

 吉川さんのフォローがあった。松本先生も目を光らせてくれている。

 とはいえ、万が一という事もある。暴言を吐くだけ吐いて、後足で砂をかける訳にもいかない。三年の引退までは居残るつもりでいた。

 傘木と違い自前の楽器を持たない以上、それでオーボエから手を引く事にならざるを得ないのは残念だが仕方ない。

 

 バス停の時刻表を見つめながら思いの丈を打ち明けると、隣から視線を感じた。吉川さんがじとっとした目を向けている。

 

「……三年生が引退しても、退部するなんて許さないわよ」

「え?」

「あんな大口叩いておいて逃げるなんて許さないから。卒業したってOGとして何のかの文句つけてくるかもしれないのよ。悪いと思ってるなら、来年も部活に残って弾除け役引き受けなさいよ。香織先輩や私と一緒に吹部立て直すのに協力しなさいよ」

 

 そういって、そっぽを向く吉川さん。心なしか顔が赤い。

 両手を上げて降参した。

 

「……わかったよ。もう少し、頑張ってみる。楽譜の件じゃ中世古先輩には迷惑かけたしね」

 

 トランペットパートからは、結局一人も退部者は出なかった。中世古先輩の人徳だろう。あの人が最上級生になって吹部を引っ張れば、部の風通しはずっと良くなるのは間違いない。

 

"お降りの際は、お忘れ物のないようお気をつけください"

 

「あ、鎧塚さん来たみたいだ」

 

 停留所に止まったバスから、見覚えのある人物が降りて小走りに駆け寄ってくる。

 

「みぞれ、こっち!」

「……お待たせ、二人とも」

 

 これで三人揃った。だがしかし。

 

「ちょっと二人に尋ねておきたい事あるんだけど」

『?』

「何で二人とも制服で来てんの? 休日なのに学校で自主練でもしてたの?」

 

 一人だけ私服の自分が、あからさまに浮いてるんだけど。

 

「……動きやすくて良いよ?」

「そりゃそうだろうけど」

「アンタに私服姿を見せるほど、私もみぞれも安くはないわよ」

「……」

 

 二人の私服姿がどんなものか、好奇心をそそったのに。

 特に吉川さんは、リボン1つ取ってもセンスが明後日の方向に飛んでるし。

 

 滝野達との雑談ネタが一つ潰えた事を残念に思いながら、二人を行きつけの楽器店に先導した。

 

 

 

 

「これで全員揃ったようですね。では、始めましょうか」

 

 楽器店の奥、講習会の為に用意されたと思しきブースには、既に自分達以外の参加者が集っていた。パッと見ても明らかに年上の人ばかり。時間に遅れた訳ではないが、自分達が一番最後に来た事もあって気遅れを感じた。

 

「これがリードの素材となる(アシ)の丸材です。アシ自体はそこら辺の河原でも見かけられますが、オーボエのリードに使う葦は人手を介して栽培したものでないと使い物にならないんですよ」

 

 講師の人が参加者に手順書を配り終えると、製作工程の実演に移った。

 人差し指程の長さの木化(もっか)した(くき)が、自分達の前に掲げられる。それが楽器のリード用に加工された葦で、更にカンナをかけて削られていく。

 

「この葦の丸材を(まき)割りの要領で縦に三つに割って、長さを揃えたものがカマボコ型ケーン」

 

 机に立てられた丸材が、ナイフで真っ二つに断ち割られた。

 その片方、大きな方に再度ナイフが押し当てられて、三つのかまぼこ状の木片になる。

 

「このカマボコ型ケーンを二つ折りにして、舟の形に整形したものが舟形ケーン」

 

 思いの外、簡単に折り畳まれた。木化したといっても元々は草。強度はそれほどでもないようだ。

 

「この舟形ケーンと、楽器本体と接続するチューブを、糸で巻きつけて固定する。これでようやくオーボエ用のダブルリードの出来上がりです」

 

 講師の人が手際良く、サンプルを完成させた。しかし、一通り眺めていただけでも細かい手作業が多いのがわかる。

 実際に製作に取り掛かりながらも、作り方を問題無く習得できるか不安がよぎった。

 

 隣に視線を移すと、鎧塚さんが葦の丸材を机に()()()、ナイフで三つに割る作業に入っている。しかしどうにも手際が悪く、怪我しそうで見ていてハラハラする。

 

「葦……、うまく三つに割れない」

「力足りてないんじゃないの? みぞれ、ちょっと私にやらせて」

 

 鎧塚さんから受け取った丸材を、机に()()()()ナイフを振り下ろす吉川さん。……って、ちょっと待て。

 

バキッ!!

 

「出来た! 綺麗に三等分」

「優子、それ違う……」

「薪割りの要領で縦に割れって言われただろ。大根じゃあるまいし、輪切りにしてどうすんだ」

「あ、あれ? そうだっけ」

 

 親指未満の長さに化した寸詰まりな丸材に、もはや修復の余地はない。

 ため息をついてゴミ箱に放り投げると、いつの間にか講師の人が自分達の様子を眺めているのに気づいた。

 

「ははは、面白い子達だね。君達は学生だね?」

「は、はい。高校生です」

 

 恥ずかしい所を見られてしまった。

 人あたりの良い笑顔を浮かべて話しかけてきた講師の人に、慌てて頭を下げた。

 

「そうか、オーボエのキャリアはどれ位?」

 

「自分は今年で五年目になります」

「……私は四年目です」

「私も四年目!……トランペットを」

「誰も聞いてないぞ」

「うっさい」

 

 ガラにもなく、おちゃらけて顔を赤くしている吉川さんに突っ込みを入れると、講師の人が笑いを噛み殺している。

 

「仲が良いみたいだね。そういう事ならアシやかまぼこから作るのはまだハードルが高いかもしれないな。舟形ケーンとチューブを糸で巻きつけるところからやってみようか」

「はい」

 

 ケーンの糸巻きもなかなか面倒な作業だったが、要はケーンとチューブを糸でしっかり固定できればいいのだ。何度も繰り返している内にコツが掴めた。

 

「よし、出来た」

「……私も」

「へえ。君達、なかなか筋が良いね」

「ありがとうございます。……でも欲を言えば丸材を加工する所からリードを作れるようになりたかったです」

 

 リップサービスが入っているんだろうな、と思いつつ素直に心情を吐露すると、講師の人はうんうんと満足そうに頷いている。

 

「学習意欲旺盛でよろしい。ただ、学生がイチから製作するには時間も手間もかかるからね。

リードの事に気を取られて、オーボエの練習時間を削るようになってしまったら本末転倒だ。

リード作りに慣れてくれば、市販の完成品の簡単な修正もこなせるようになる。

当面は今日学んだ事を忘れずに、しっかりマスターできるように頑張るんだよ」

『はい!』

 

 本当は鎧塚さんの気晴らしに誘った講習会だったが、終わりの方は二人をそっちのけで夢中になってしまった。

 

 

 

 

 講習会が終わってから週明けの月曜までは、早く自作のリードの具合を試したくて興奮状態。

 部活の時間まで待ち切れずに早朝から音楽室に駆けこんだ矢先、先客とバッタリ出くわした。

 

「鎧塚さん、早いね。そっちも昨日作ったリードを試しに来たの?」

「……ううん。家で試してみたけど、私のオーボエには合わなかった」

 

 出端(でばな)をくじかれた。

 

「そ、そうなんだ。ゴメン、せっかくの休日に時間とってもらったのに」

 

 冷静に考えてみれば、コンクールまでもう時間はない。

 たとえ相性良く仕上がっていたとしても、このタイミングで使い慣れてないものに変えるのは抵抗があるだろう。

 

 意気消沈していると、鎧塚さんが珍しく慌てた様子で声をかけてきた。

 

「気にしなくていい。一発で合うものが作れるなんて初めから思ってなかったから。それに……」

「?」

「リード作りって大変だけど楽しい。自分で音をアレンジできるのが実感できるから。誘ってくれてありがとう」

「あ、ああ。どういたしまして」

 

 まだどこか陰を残しながらも、沈みがちだった彼女には最近見られなかった微笑み。

 それが思いの外、眩しく感じられた。

 

 



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第9話 落胆するスネアドラムと楽天的なティンパニ

二人とも別に専任じゃないだろ、的なツッコミは無しの方向で


 リード製作講習会から一ヶ月が過ぎ、いよいよ吹奏楽コンクール府大会当日。

 あれから鎧塚さんも幾分調子を取り戻したようだった。

 

 結局、彼女はコンクールにそのまま出場する事になっている。

 傷害事件の影響で、コンクールメンバーにかなりの入れ替えが生じたのが影響していた。

 謹慎処分の三年に代わってほとんどの二年生が出場資格を得たので、例の言い訳では苦しくなったのか。あるいは楽器の代行自体が認められなかったのか。

 楽譜の件で出場を自粛した中世古先輩。繰り上げで出場資格を得たが、同様に自粛した斎藤先輩。あとは、こんな弱小部では飾り物以外の何物でもないファゴットの喜多村先輩くらいしか二年で漏れている人はいない。

 もっとも、コンクール間近になってのメンバー交代。棚ボタで出場機会を得た二年の先輩達も、嬉しさよりも困惑の色が濃かったが。

 

 

 コンクール会場である京都コンサートホール。その楽器搬入口では、ベリーショートの髪型に眼鏡をかけた女子部員が、自分達選抜落ちメンバーに打楽器搬入の指示を出している。

 

加山(かやま)先輩、ナックル先輩から連絡きました。今ホールに着いたそうです」

「そう、よかった。……ったく、ナックルもよりにもよって当日になって寝坊なんてドジ踏まなくてもいいのに」

 

 打楽器も、これで意外とデリケートなので、運び方一つ間違えても調子がくるってしまう。普段の練習から不真面目な三年生がその辺りの事を満足に心得ているはずもない。貧乏くじを引かされた加山先輩は目を三角にしている。

 

「こっちはもう大丈夫です。先輩も控え室の方で準備に入った方がよくありませんか?」

「管楽器みたいにチューニングするわけじゃないんだから、行っても意味ないっしょ」

「イメトレとか……」

 

 大太鼓(バスドラム)を運んでいる長瀬さんと後藤が、おずおずと加山先輩をなだめている。二人も最近になってようやく落ち着いたのか、部活に顔を出すようになっていた。

 

「あの喧騒を聞いたでしょ。こっちにいた方がよっぽど精神統一できると思わない?」

「それもそうですね」

 

 皮肉交じりの笑みを浮かべる加山先輩に、素直に頷いた。

 

 舞台近くの保管場への搬入作業が済んでしまえば、後は本番直前の打楽器の設置まで裏方業務はなくなる。連絡ついでにチューニングが行われているはずの控え室に出向いた時は、何とも脱力させられたものだった。

 

 ――え~と、チューニングA(アー)? チューニングB♭(べー)?――

 ――もー、B♭に決まってるでしょ。吹奏楽なんだから――

 ――あー、リードを水に漬けすぎたぁ! 替え持ってない?――

 ――えー!?――

 

 ……聞いていて頭を抱えたくなるような発言がそこかしこでなされていた。

 本番前のリハーサル特有の緊張感など微塵も感じられない。悪い意味で。

 準備不足のドタバタ感ばかりが漂っている。

 

「今日が本番なのに、こんな状態で一体どんな演奏をしようっていうのかしらね」

 

 加山先輩のつぶやきに、誰もが苦笑いするしかない。

 選曲を間違えてる段階でロクな合奏にならないとは思っていたが、土俵に上がる前から早くも前途多難な状態だった。

 

 

 

 

 舞台裏。メンバー落ちした自分達一年生十四人、そして中世古先輩達二年生三人。それぞれが固唾(かたず)をのんで見守る中、北宇治の演奏は始まった。

 課題曲の方は不真面目なりに早くから取り組んでいた事もあり、まだ聞かせられるレベルに落ち着いていた。

 

♪……↓↓

 

 しかし自由曲のボレロの方は出だし、フルートが受け持つ最初の主旋律(メロディー)から不安を煽ってきた。

 音が弱々しすぎる。楽譜上では、確かにこの部分を静かに奏でるように指示されてはいる。しかしそれを考慮に入れても音量が小さい気がしてならない。

 

「なんかよく聞こえないね」

 

 喜多村先輩が困惑した様子で(ささや)いてきた。

 

「ええ。曲が曲だから許容範囲かもしれませんが……。あ、そろそろ主旋律(メロディー)がフルートからクラリネットに移りますよ」

 

♪~!!↑↑

 

 あれ? 一気にボリュームが上がった。

 

「クラリネット……、音響かせすぎじゃないかな」

「うん、フルートの音が小さかったから余計そう感じる」

 

 中世古先輩と斎藤先輩も苦々しい表情でつぶやいている。

 

 ボレロは序盤から終盤に向かって、段階的に盛り上がっていく曲である。言い換えると序盤は大人しい曲なので、主旋律(メロディー)の引き継きで音量に差ができると違和感ありまくりだ。やはり練習不足が響いているのだろうか。

 

♪~

 

 クラリネットの後をうけて、主旋律(メロディー)は岡先輩のファゴットに移る。ここは割と高音。低音楽器であるファゴットには辛いところではある。

 正直なところ出来は今一つだったが、後を受け継いだ鎧塚さんのオーボエの音色は見事だった。

 ここまで微妙な流れだっただけに余計に彼女の演奏の上手さが際立っている。

 

「……よかった。みぞれ調子を取り戻したみたい」

 

 吉川さんが満足げに目を細めている。

 どこか怪しい感じだった合奏も、鎧塚さんのオーボエを軸にして持ち直してきた。

 この調子ならなんとか……。

 

 

"ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっ,ぽぽぽぽっ, ぽぽぽぽっぽっ"

 

 

 !? なんだなんだ?

 

「ホルンの音がデカすぎる。それに音もあってない」

「自己主張しすぎだよね……。もっと抑えないと」

 

 合奏が持ち直してきたと思えたのもつかの間。

 耳に飛び込んできたのは規則正しい鳩の鳴き声……というかホルンのリズム。

 後藤も長瀬さんも、開いた口が塞がらないでいる。

 せっかく鎧塚さんが軌道修正してくれたのに、甘かった。

 ホルンはチューニングがおざなりなまま本番に挑んだらしい。

 

"ポポポ↑ポッ↑ポッ↑≪ぽ↓≫ポポポポッ↑ポポポポッ↑"

 

『!?』

 

 主旋律(メロディー)を奏でるトランペットとフルートの影が薄れる程に、大音量でリズムを取り続けているホルンが思いっきり音を外した。

 みんな思わず吹き出している。

 

「うわ……ひどいなー」

 

 中川のつぶやきに心の底から同意しつつ、笑いを噛み殺している内に主旋律(メロディー)はサックスに移る。そしてピッコロとホルンの二重奏(デゥエット)。次はここまで全く出番がなかったトロンボーン。ボレロの最難関部分を担当する。とはいえマーチングでの前科もあるのでもう嫌な予感しかしない。

 

"ぱぉぉお~ん,ぱぉぱぉぱぉぱぉぱぉぱぉ,ぱぉっぱぉっぱぉっぱぉ~"

 

『……』

 

 鳩の次は象が乱入してきた。先輩達はうつむいて顔が見えないが、背中を小刻みに震わして膝を叩きながら必死に笑いを堪えてる。自分もそろそろ限界だ。腹筋が。

 

「ちょっと慧菜(けいな)海松(みる)。そっちのパートの先輩達ひどすぎない?」

「なによー。木管だって序盤は大概だったじゃん」

 

 井上・島のフルート・クラリネット一年組と、岩田・岸辺のトロンボーン・ホルン一年組が互いの粗探し。先輩達が静かにしなさいと(なだ)めている。

 自分は遠巻きに様子を眺めるだけ。こんな所で女子同士の諍いに巻き込まれるのは御免だ。

 

「いやー、どっちも五十歩百歩と思うけどねー」

「……サックスもね。さっきのところ、音が裏返っているせいでエキゾチックというか……かなり前衛的な雰囲気を(かも)し出してたぞ」

 

 呑気な口調で他人事のように軽口を叩くサックスの平尾に、ジトっとした視線を向けた。

 そうこうしている間にも、トロンボーンの公開処刑はなお続く。

 

"ぷぁ~,ぷぁぷぁぷぁぷぁぷぁぷぁぷぁぷぁぷぁ,≪ぱお…ぱお…≫"

 

 九連符の後で息が続かないのか、本来なら一息に吹き続けなければならない所がコマ切れになっている。まるで死にかけの象の鳴き声みたいだ。

 

 ……そこから先は、先輩達も開き直って笑いを取りにでも行ったのか滅茶苦茶な演奏。

 田中先輩や鎧塚さんの個人レベルでの抵抗も空しく、ひたすら聞くに堪えない音楽を拝聴する羽目になった。

 こんな合奏を披露する位なら、傷害事件で出場停止になってた方が恥をかかずに済んでよかったのでは……。

 そう思ったが、もはや後の祭りだった。

 

 

 

 

「はあ……」

「先輩、そこまで落ち込まなくても。先輩は頑張ったと思いますよ」

 

 トラックへの楽器の積み込みも一通り終わり、後はバスに乗って学校への帰路につくばかり。合奏後からずっとうなだれたままのナックル先輩に声をかけた。

 この人もたいがい生真面目だ。軌道修正しようもなくなったあの状況でも律儀に小太鼓(スネアドラム)でリズムを取り続けていた。

 曲の初めから終わりまで先輩が小太鼓(スネア)を叩く回数、四千回超。

 これを普段の合奏練習からやっているのだから、本番前に腕がおかしくならないか気が気でなかった。

 

「合奏は中盤からどうにもならなくなってましたし、他の先輩みたいにふっ切れても文句言われなかったと思いますけど」

「……そうだろうけどな。そういうわけにもいかねえんだよ」

 

 悔しそうに拳を握りしめる先輩の筋肉質の腕に、血管の筋が微かに浮き出ている。

 打楽器を叩く時の邪魔にならないようにしているのか、ナックル先輩はいつも制服の袖をまくっていた。

 

「退部した連中にとっちゃ面白くなかっただろうけどな、俺は吹部の方針の事を問題だとは思ってなかったんだ。実力順なら実力順で、今とは別な意味でギスギスするに決まってるからな。だから三年の言うように、楽しめればいいと思ってた。下手なりに合奏が出来ればいいと思ってた」

 

 ナックル先輩の言葉は、どれも過去系だった。

 

「だけどこんな風に合奏の体をなしてないとな。さすがに違うんじゃないかと思えてくる」

 

 ナックル先輩はうなだれていたが、口調はしっかりしていた。

 先輩本人が練習をしっかりやってきたのは自分も知っている。

 ……当日になって遅刻した事はいただけないが。

 

「見ろよ。立華の連中を」

 

 先輩の視線の先には、立華の生徒と一目で分かる青色のブレザーの集団があった。

 自分達と同じで、帰りのバスに乗車しようと整列している。

 

「さすがに京都屈指の強豪ですよね。同じ高校生なのにこうも違うのかと気遅れするくらい、凄い合奏でした」

「いや……それもあるが、そうじゃなくてだな。よく見ろ。歩道に一列に並んで乗車待ちしてるだろ。俺達はどうだよ。好き勝手に仲間内でバラけてお喋りしてるじゃないか。歩行者の迷惑なんて考えちゃいない。強豪校ともなると演奏技術だけでなく、そのあたりの事もしっかりしてんだろうなあ」

 

 言われてみれば、自分達と立華のバスの乗車待ちの様子は対照的だった。

 バスの待ち方ひとつでその学校の吹奏楽の力量が分かる、という訳でもない。

 しかしこの行儀の悪さが、北宇治の吹部の(たる)みきった現状を示唆していると言えなくもなかった。

 

「どいつもこいつもやりきった。そんな感じの満足げな様子だし、合奏もしっかり一つにまとまっていたな」

「……先輩も変な所で鋭いですね」

 

 良くも悪くも細かい事は気にしない。打楽器奏者にはそんなイメージがつきまとっているので、ついついナックル先輩の事もそういう目で見てしまっていた。

 自分は、立華の乗車待ちの様子を見ても、ただ綺麗に並んでいるなと思っただけだ。

 

「来年はもう少しまともな合奏をしたいもんだな、蔵守」

「ええ、そうですね」

 

 残念な出来の合奏ではあったが、きっちり制限時間内には済ませたので銅賞を獲得する事は出来た。何の慰めにもならないその事実に唇を噛み締めながら、バスに乗り込んだ。

 

 

 

 

 大コケしたコンクールの影響で、元々乗り気な人も少なかった夏休み中の部活動は開店休業状態。

 音楽室から、ぽつぽつと楽器の音が鳴り響くようになったのは二学期も始まってからだった。

 

♪~

 

「ホルン。音合ってないよ。チューナー使っていいから合わせて」

 

 指揮台の上に立っている二つ結びのおさげの先輩……小笠原先輩の、芯の通った声が音楽室に響き渡る。三年生が引退して姿を見せなくなってから、早々と新部長の就任要請を受けた彼女が基礎合奏の指揮をとるようになっていた。

 自分もそうだが、本人も部長役は田中先輩あるいは中世古先輩あたりに決まると思っていたらしい。急に舞い込んできた引き継ぎ業務で、休み明けしばらくはあたふたしていた。

 

 そんな彼女の指摘を受けて、ホルンパートの二年生達が慌てて音程の修正に入っている。

 さすがにコンクールで痛い目を見ただけに、そのまま続ける気にはなれないらしい。

 

 ……本当は、チューニングは基礎合奏の前に各自で済ませておくものだ。

 そうでなければこの時間に本来すべき、音の出を揃える為のリズム感作りや音程の統一を目的としたハーモニー練習が十分にできなくなる。

 それでも直そうとしているだけ、夏休み前よりずっとましだった。

 

 

 そんな風にゆっくりと少しずつではあるが、吹部の活動はまともになりだした。

 他方、部活外はというと。

 

「あ、傘木。久しぶり」

「く、くらむ~!? コンクール、散々だったみたいだけど来年頑張ってね、それじゃ!!」

「お、おい……」

 

 ……たまに学校で鉢合わせしても、そそくさと逃げ去られてろくに話もできない。相変わらず傘木には避けられる日々が続いていた。

 

 

 

 

 時も過ぎて進級間近になった三月。パート練習中に岡先輩が厄介事を押し付けてきた。

 

「蔵守。四月からはアンタがダブルリードのパートリーダーね」

「は?」

 

 なんでやねん。俺一年。思わず変な声を出してしまった。

 

「これまでは私達がパーリー代行してたでしょ。四月から晴れて受験生だしぃ。楽をさせてよ」

「……この緩い部活で楽をしたいと言うほど、パーリーの仕事は重かったんですか?」

 

 まずい。つい皮肉が口からこぼれた。

 

「お? ナマ言うようになったじゃない。いつから私に向かってそんな口が叩けるようになったの?」

 

 岡先輩が笑みを浮かべながら、自分の頭を拳で挟んでくる。

 

「痛い痛い! 謝りますから頭グリグリはやめて下さい!! 先輩と違って自分の頭は出来がいいんだから!!!」

 

 どうも今日は口がよく滑る。前の怪我の後遺症だろうか?

 

「きさまー!!」

「駄目だよ美貴。人にものを頼む時はしっかりと頭を下げてお願いしないと。

……という訳で蔵守くん。来年のパーリー、よろしくお願いします♪」

「……」

 

 逆上する岡先輩を宥めると、喜多村先輩はスカートの裾をつまみ上げて、仰々しく腰を折った。

 北風だろうが太陽だろうが、仕事を押し付けているのに変わりは無い。

 礼儀を尽くして迫っている分、断りにくくなったのでタチが悪い。

 

「要は先輩達、パーリーをやりたくないんですよね。なら鎧塚さんに任せても」

「嫌」

 

 この上なく冷淡に言い放つオーボエ第一人者。

 四月からは本来のパーリー業務よりも、この三人のご機嫌取りで四苦八苦する未来しか見えない。

 部費で胃腸薬代おりるだろうか。ふとそんな事を思った。

 

 

 弱小校のパーリーという、内申の肥やしにもならない名ばかり管理職。

 その就任の件を小笠原先輩に伝えに行くと、田中先輩と中世古先輩と一緒にいる所にバッタリ出くわした。

 小笠原先輩はなにやらしかめっ面をして、ご機嫌斜めな様子。

 

「……というワケで自分がやる事になったんですが、上級生がいるのに下級生がパーリーって問題ないんですかね」

 

 キミがパーリー!? と目を白黒させる先輩達に一部始終を話し終えると、中世古先輩が顔を曇らせた。

 

「美貴達が冗談半分に蔵守君をパーリーにって話してたのは聞いてたけど……本気だったんだね。ごめんね、二人にはそれとなく(たしな)めておくから」

「あ、いえ。愚痴のつもりで言ったんじゃないんです。上下関係とかで問題無いかちょっと確認を取っただけで。今年は先輩達が切り盛りしてたのは事実ですし。来年は楽をさせてもいいかなとは思ってるので」

 

 一年生絡みのトラブルが続いただけに、下級生に負担を被せる事に神経質になっているのかもしれない。真顔でつぶやく中世古先輩に慌てて弁解している内に、つい心にもないおべっかが口から出てしまった。そして人の良い先輩はそれを素直に受け取ってしまう。

 

「ふふ。優しいんだね。同じパートだし、二人の手綱の取り方はもう心得ちゃったかな。蔵守君がやってもいいと考えてるなら、私は良いと思うよ」

「ほらほら、一年生もパーリーやるって覚悟決めてるよー。晴香もいつまでも部長嫌だとか誰か代わってとか情けない事いってないで、しっかり吹部引っ張ってちょうだいよ」

 

 田中先輩がねっとりとした視線を小笠原先輩に向けた。

 機嫌が悪いように見えたのは、意に沿わない部長仕事で鬱憤が溜まってるせいか。

 そう見当をつけていると、小笠原先輩の周囲から禍々しいオーラが漂ってきた。

 

「……ふんだ。どうせ私は部長って柄じゃないよーだ」

 

 あ……、まずい。

 

「私だって別に好きで部長になった訳じゃないもんサックスのパートリーダーってだけでも大変なのに三年生はあすかを指名したのにあすかが断ったのがいけないんだよ誰も他に部長やろうとしないし仕方なく私が生贄になったんだよみんなそこんとこわかってるのかなあもう少し私を労わってよ香織もずるいよ吹奏楽部のマドンナとか言われてるくせに部長も副部長もやらないんだもん普通貴方達二人が人望的にもやるべきでしょいつも二人と比較される私の身にもなってよ」

 

 またスイッチ入ったか。

 

 部長に就任してからというもの、壁にぶつかる度に発動する小笠原先輩の鬱モード。

 愚痴を聞かされる身としてはたまったものじゃない。

 

「……部長、その癖直した方がいいですよ。自分達一年はもう知ってますから取り繕ってもしょうがないですけど、四月から入ってくる新入部員に舐められますから」

 

 田中先輩や中世古先輩みたいな才媛なら、こういうポンコツなところも可愛く見えるんだろうけど。

 

「そうだよ。私達は最上級生になるんだから。もっと堂々としないと」

 

「蔵守君も厄介事押し付けられた者同士私の苦労わかってくれると思ってたのになあ来南や美貴が羨ましいよパシリにできる後輩がいて私は人望ないから去年の件でサックスパートからも結構退部させちゃったしでも私も葵や香織と一緒になって後輩の為に出来るだけの事はやったつもりだよそれなのに香織の方だけ退部者ゼロとか私のプライドはもうズタボロだよ」

 

 自分と中世古先輩の声が聞こえていないのか、尚も呪詛の言葉を吐き続ける小笠原先輩。

 愚痴の矛先を自分に向けてくるのもいい加減勘弁してほしい。三年に暴言吐いた件でも散々小言を喰らったし。

 

「ほらほら、後輩に絡んでるんじゃないの。いつもの晴香にもどれ~」

 

 田中先輩がそう言いながら小笠原先輩の頭を斜め四十五度上方から叩く。部長は昭和のテレビか。

 

「絡んでにゃい! 先輩として後輩に忠告したの! パーリーやるんならいろいろと大変になるにきまってるんだから!」

 

 本人はもっともらしい事いってるつもりかもしれないけど、どもってしまったせいで何とも締まらない。さすがに恥ずかしかったのか顔を真っ赤にする小笠原先輩の頭を、田中先輩が撫でている。

 

「耳まで真っ赤にしちゃって~。晴香ったら可愛いんだから~」

「うう……」

 

 満更でもなさそうに頬を染める小笠原先輩。

 田中先輩が部長の機嫌を直すのも、もうすっかり恒例行事。

 

「……コホン。それじゃ早速だけど、ひとつ仕事を頼むね」

 

 場をとりもとうとしてか、咳払い一つして自分の方に向き直る小笠原先輩。格好つけても手遅れな気もするが。

 

「何をすればいいんでしょうか?」

「難しい事じゃないよ。新入部員の楽器振り分けの前に、楽器紹介するから適当なスピーチを考えてきてほしいの」

 

 楽器紹介か。ファゴットの方は先輩達に任せるとして、オーボエは自分がやるしかないな。

 どう考えても鎧塚さんはこういう事に向いてなさそうだし。

 

「それじゃ任せたよ。私達は入学式に向けて【暴れん○将軍のテーマ】の練習に入るから。裏方業務の方は後で連絡するからよろしくね」

「あ、はい」

 

 屋外の演奏という事もあって、新入生歓迎の演奏に関してダブルリードはノータッチ。

 打楽器の後片付けや部員勧誘用の看板づくりを担当する事になる。

 ……しかしまたけったいな曲を選んだもんだ。

 小笠原先輩達も選曲センスの無さに関しては、三年生からしっかり受け継いだらしい。

 

 

 

 翌々日のパート練習の時間。とりあえず形になった原稿片手に、鎧塚さんに早速披露してみた。

 

「オーボエは色々と扱いが難しい駄々っ子のような楽器です。まず音を出せるようになるまでも大変ですが、それをクリアしても思い通りの音にコントロールするまでまた一苦労。楽器自体も繊細な構造で温度変化に弱く、迂闊に屋外に出そうものならすぐ調子がおかしくなって楽器店での修理コース直行。リードの調整もこれまた手間で……」

 

――十分経過――

 

「……そのくせ、吹奏楽では存在感が薄くいらない子扱いされていますが、管弦楽(オーケストラ)には欠かせない楽器で需要も多いので潰しは効きます。独奏(ソロ)を担当する事が多いので、目立ちたがり屋な人にもお勧めです。難しい楽器ですが、やりがいはあるので、一緒にやってみませんか?

……こんな感じで楽器紹介しようと思うんだけどどうかな」

 

 ひと呼吸おいて鎧塚さんを見やると、当の本人はこっくりこっくり舟を漕いでいる。

 

「すぅ……」

「おい」

「……ん? ええと、それで問題無いと思う」

「嘘つけ、寝てただろ。……全く。無駄な所や退屈な所があったのなら、その時点で遠慮なくバッサリ言ってくれればよかったのに」

「全部」

「 」

 

 思った以上にあっさり言ってのけられて言葉を失った。

 

「長い。三行でまとめなさいよ」

 

 横目で様子を窺っていた岡先輩からも駄目だしされた。

 

「蔵守くんが入部した時の、あすかのスピーチみたい」

 

 喜多村先輩が苦笑交じりにつぶやく。失敬な。

 

「あんなウィキペディアの文を丸コピペした安直なスピーチと一緒にしないで下さい。

今のスピーチは一言一句、ゼロから考えた自分の……」

「はいはい。キミのオーボエ愛はわかったから。延々と担当楽器について語られても引かれるだけだよ」

 

「……大変参考になりました。早速修正します」

 

 パートメンバー三名全員から不評。内一名はちゃんと聞いていたかどうか怪しいが。

 田中先輩みたいだとまで言われたのには相当凹んだ。

 これでも短くてオーボエの魅力を説明しきれてない気がするのに。

 

 

 

 

 それから一週間後の入学式。田中先輩の指揮の元、合奏は滞りなく行われた。出来はまた別問題だったけど。

 

「今日の演奏も今一つだったよね」

「まあね。でもあのコンクールの頃と比べれば、随分まともになった方だよ」

 

 歩みを止めて聞きいる新入生の反応から察するに、素人目にもおかしいと感じるほど酷くはないようだった。吹部目当てで北宇治に入学してくる酔狂な経験者なんてそうそういないだろうし、素人にはそれなりに聞こえるものになっていたのかもしれない。

 

「ほい、マレットケース。小太鼓(スネア)はそこに置いといて、片づけとくから」

「あーいいよ。私がやるから」

 

 先輩達が無駄に凝って造った勧誘用の看板を楽器準備室の壁に立てかけてから、遅れて入ってきたローポニーテールの同級生の側に円筒形のケースを置いた。

 ベルトがついていなければ、ちょっと高級なゴミ箱と勘違いするかもしれない。

 

「何度見てもゴミ箱っぽいよね、そのマレットケース」

「あはは。私の中学の吹部だと、本物のごみ箱をマレット入れに代用してたからね。だから間違ってゴミ入れる人は勿論いたよ」

 

 いいのかそれで。

 ケース共々ぞんざいな扱いをうけるマレットを不憫に感じるのは、オーボエというヤワな楽器を扱っているせいか。

 彼女の無頓着さに閉口していると何か思い出したのか、スカートのポケットから白い紙を取り出して自分に見せてきた。

 

「そうそう。昨日の夕方ね、家にクラス表届いたんだよ。ほら、今年は私と鎧塚さん、蔵守君と一緒のクラスだよ」

「え、そうなの? こっちにはまだ届いてないな」

 

 今日中には届くだろうけど。それにしても、また鎧塚さんと一緒か。一々連絡の為に、他のクラスに足を運ばずに済むのは有難いが……。

 

「という訳で……不肖、大野美代子(おおのみよこ)。これから一年間よろしく! なーんて」

 

 このまるで悩みのなさそうな楽天家の彼女と、いつも無口で無愛想な鎧塚さんがうまくやっていけるのか、他人事ながら心配だ。

 

「こちらこそ。……と言っても部活でいつも顔合わせてるからあんま変わらない気もするけど」

「あはは、そうだね」

 

 打楽器の片付けに一区切りつけて、気分転換に窓から校庭を眺めた。入学式が始まったのか、先ほどまでの各部の熱心な勧誘の声も聞こえず静かなものだ。

 

「新しく赴任してくる顧問ってどんな人かな。パーリー会議で先輩達、何か言ってなかった?」

「なんにも。ただ……田中先輩の言うところじゃ、三十代から四十代。もしくは五十代の男性あるいは女性教師だってさ」

「なにそれ。何にも分かってないって事じゃない」

「そうともいう」

 

 どうせ程なく分かる事。あの人のつまらない冗談もその場は適当に聞き流していた。

 

「まあいいけどね。今年は何人吹部に入ると思う?」

「自分らの時と同じ位の数は来るんじゃないの? 何人残るかは知らないけど」

 

 今年から顧問が変わると言っても、そんなのは新入生の知った事ではない。一昨年と実績が変わっていない以上、新入部員の数も例年通りに落ち着くだろう。

 退部した連中から中学の後輩に、吹部の悪評が広まる可能性もなくは無い。とはいえあの事件があろうとなかろうと、ここ十年ずっと鳴かず飛ばずの弱小校がそもそも進学先に挙がるのか疑問だし。

 松本先生は、今の吹部の弛緩した空気を一変させる為に外部の人を招くと言っていた。

 しかし、その言葉もどこまで期待していいものやら。新任の顧問がアテに出来ない場合は、また一定数が部活の方針にそぐわず退部することになりかねない。

 

「……やっぱり上級生優先だと、やる気なくす経験者の人とかでちゃうのかなあ」

 

 去年の事が頭に浮かぶのか、大野さんの言葉にも覇気がない。

 

「ウチは強豪でもないし新入部員の皆が皆、経験者って訳じゃない。下手でも頑張ってる人にチャンスを与えようっていう考えなら、別に上級生優先でもいいとは思うんだけどね」

 

 現実は、約束されたコンクールメンバーの席に胡坐をかいて下級生の頭を抑えつける人がほとんどだったが。

 

「それならそれで、今年はコンクールメンバーの選抜方針とか、部活のスタイルとかを早めに一年に教えた方がいいと思うんだ。暗黙の了解というか……不文律みたいなのは無くしたい。去年みたいな、お互い意見の食い違いでトラブルが起きないように」

 

 やる気ある後輩に、傘木達と同じ思いを味わわせるような事はしたくなかった。

 

「言葉を飾ってもしょうがないと思うけどね。先輩達も通った道なんだから一年くらい我慢しなさいって率直に言っちゃえば? 蔵守君も神経質だよね。まだ希美ちゃん達の事気にしてるの?」

 

 大野さんの無神経な一言にカチンときた。

 

「……傘木の決起に同調しなかったのはそれが理由?」

 

 努めて平静を保ちながら言葉を紡いだが、声色の低さまでは隠し通せない。

 しかし大野さんは鈍感なのか肝が太いのか、気にした風もなかった。

 

「そうだよ? さっき言ってたけどウチみたいな弱小校だと、上級生優先っていう方針は別に珍しくないじゃない。蔵守君だって義理で希美ちゃん達に協力したトコロあるんじゃないの? あんまりコンクールに固執してた様には見えなかったけど」

 

 平然と言い放つ大野さんに反論できず、言葉に詰まった。

 確かにコンクールを第一に考えていたのなら、こんな学校の吹部に入ってはいない。

 

「いじめや無視してくる三年生達にはさすがにどうかなと思ったけど、希美ちゃん達も場違いな高校に来ちゃったなあって思っちゃうもん。嫌な先輩もいなくなったし、復帰の誘いかけてものれんに腕押しだし」

 

 それも否定できなかった。

 小笠原先輩達は去年の三年を反面教師として、まともな部活にしようと精力的に活動しているように自分には見える。しかし、未だに退部した連中が出戻ってくる様子がないところを見ると、強豪校出身の彼女達にはまだまだ生ぬるい部活に映っているのかもしれない。

 

「晴香先輩に香織先輩、葵先輩は去年の三年生に比べればずっと良い人達だよ。それに出場枠にも結構空きがあるじゃない。無理に実力優先にしなくてもいいと思うけどな」

 

 確かに今年の新入部員は恵まれている。幸か不幸か、去年の傷害事件と三年の引退を経て、今現在の部員は四十三名に激減した。コンクールメンバーの上限が五十五人だから、一年生にもかなりの数の出場枠が保証されている事になる。

 

 ……それはそれとして。

 

「さりげなく自分のパート(パーカッション)の上司を"良い人"からはずしたな。後でナックル先輩と加山先輩に言いつけてやる」

「ちょっとお! やめてよー」

 

 大野さんとふざけあいながら、再び部屋の窓から外を覗いた。入学式はもう済んだのか、校舎の陰から新入生が歩いて来るのが目に入ってきた。

 黒髪のロングヘア。北宇治の女生徒にはあまり見かけない黒のニーソックスを穿いている。北宇治の冬服特有の、温かみのある茶系を基調としたセーラー服には、去年卒業した三年と同じ赤色のスカーフが纏わりついていた。

 それがいやに不快感を覚えて、打楽器の後片付けに戻る事にした。

 

 



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第2章 滝先生・北宇治高校赴任1年目・4月
第10話 物怖じしないシンバル


 入学式から二週間が過ぎ、体験入部期間も終わりを告げた。

 音楽室には吹部の部員達の他に、ま新しい制服に身を包んだ一年生達が集っている。分かってはいた事だが女子が圧倒的に多く、男子の姿は二人しか確認できない。

 

「今年の新入部員は二十二人かあ。まあこんなものかな」

 

 小笠原先輩がほっとしたような表情をした。

 去年より減ってはいる。それでも弱小校である事を考えれば、まとまった人数が確保できたのは喜ぶべき事だろう。もっとも、隣にいる田中先輩は不満気だが。

 

「もっと気合い入れて勧誘すれば、三十人の大台に乗ってたかもしれないのに~。晴香は新入生が緊張するとかもっともらしい事いって勧誘はおざなりだし。後藤達は揃いも揃ってトンズラするし」

 

 滝野、それに後藤と顔を見合わせて肩をすくめた。

 

――暴れん坊将軍の練習しないで楽してたんだから、二年男子共は新入生のクラスをまわって勧誘してこい――

 

 田中先輩がミーティングでそんな命令を下すつもりでいる事を後藤経由で耳にするやいなや、三人揃って一目散に逃げ出したのだ。

 

「あのですね、田中先輩。高校から吹部に入ろうとする男子なんて、そうそういませんよ。そうなるとターゲットは女子を中心にするしかないんですが、見ず知らずなのに馴れ馴れしく話しかけてくる男子ってどう思います?」

「……あはは」

 

 光景が浮かんだのか、なんとも複雑な表情をする小笠原先輩。

 トロンボーンの野口先輩みたいなイケメンなら、まだ好感触を得られるかもしれないが。自分達が声をかけたところで引かれるだけだ。軟派な男子と思われるくらいで済めばまだいいが、校内であらぬ噂でも立てられたら目も当てられない。

 

「そうっすよ。俺は野口先輩みたいに、そこまでイケメンってワケじゃないんすから」

「……謙虚なふりして図々しいぞ」

 

 そういう後藤もイケメンというよりは武骨者。これはこれで筋肉好きな女子に需要があるんだろうが。

 

「まあ、滝野が客観的に見てイケメンという枠に収まるかどうかはともかく、そういう仕事に男子をあてるのはミスキャストなんですよ。どうしてもというなら後藤に一任すべきだったんです」

「だな」

 

 腕を組んで頷く滝野に、後藤が渋い顔をする。

 

「……なんで俺だけ」

「何かあっても一番ダメージが少ないからに決まってるじゃないか」

 

 一年生がいる手前、はっきり口にはしなかったが後藤と長瀬さんは去年の冬から付き合うようになっていた。

 普段の練習から何かと親身になってアドバイスを送る後藤に、長瀬さんも好感を抱いていたのは間違いない。そこに例の楽譜の一件だ。災い転じて福となす。我を忘れるほど怒ってくれた、それからも何かと気をかけてくれた。

 それですっかり長瀬さんのハートを射止めたらしい。……うまい事やりやがって。

 

 それはさておき。何か誤解が生じても、滅多に敵を作らない彼女が間に立てば下手な事にはならないのも確か。そういう意味では自分や滝野より適任ではある。

 

「三人とも淡泊なんだから~。初心者はこれからしばらく基礎練の毎日なんだし、今の内くらいおだてて夢見させる程度の腹芸出来なくてどうすんの」

「体験入部という名のお客様接待期間ですね分かります。それならなおの事、他の部員をあてて下さい」

 

 そういう役目こそ、口達者で抜け目ない田中先輩が適任だろうに。

 

「ほらほら二人とも、一年生が見てるよ。お喋りはそれ位にしてね」

「あ、すみません」

 

 いつの間にか、一年生の間からクスクスと笑い声が漏れ出ている。

 小笠原先輩はそんな新入部員達を見て人あたりの良い笑みを浮かべながら、部員達の前に歩み出て簡単な自己紹介を行った。

 

「……それでは一年生の皆さん、お待たせしました。これから担当楽器の振り分けに移ります。初心者もいると思うので、まずは楽器の説明をしていきます。そのあと各自、希望の楽器を担当する先輩達のところに集まって下さい。じゃあまず、トランペットから」

 

 小笠原先輩の言葉を合図に、楽器紹介が始まった。

 中世古先輩のトランペットに続いてホルン、トロンボーン、クラリネット、フルート、パーカッション、サックスと次々に各楽器の紹介は進み、いよいよ自分達ダブルリードの出番がまわってくる。

 

「じゃあ次。オーボエとファゴット、宜しくね」

 

 新入生の視線が集まってくるのに内心緊張しつつ、口を開いた。

 

「ダブルリードパートリーダーの蔵守です。このパートでは、オーボエとファゴットの二種類の楽器を使っています。オーボエというのは、この通りクラリネットに似た形をしていて……」

 

 オーボエの紹介は、身内から散々ケチつけられてすっかりやる気なくしていたので、味もそっけもないものになった。自分の後を受けて、喜多村先輩がファゴットを抱えて前に出る。

 

「ファゴットはこれでーす。お菓子のトッポを思いっきりでっかくした感じの楽器です。実は……今この楽器はストックがなくてメンバーの募集はしていません。やってみたかった人はゴメン!」

 

 北宇治高校のファゴットは二つしかストックがなく、先輩達の分で埋まっている。まさか百万は下らないファゴットを持参してウチに入部してくるような奇特な新入生はいまい。

 

「一応どんな楽器か説明しておくと、オーボエと同じで吹奏楽だと影が薄い! ファゴットなくても合奏できる曲なんて珍しくないし、オーボエみたいにソロをやる事なんて滅多にないし、音量も小さいから本番で吹き真似しててもそうそうバレないし、だから楽でいいよ!」

『……』

「あ、あれー?」

 

 どことなく白けた空気が音楽室に広がるのを察して、喜多村先輩に話しかけた。

 

「先輩、もしかしてファゴット嫌いなんですか?」

「そ、そんな事ないよ!?」

 

 じゃあ今の紹介は一体何なんだ。

 

「……もういいです。オーボエの方もストックが一つしかないので、オーボエのみ一名の募集になります。勿論、自前の楽器がある人はこの限りではないので是非希望してください」

 

「で、では次。低音の紹介です」

 

 微妙に(ゆる)んだ音楽室の空気を立て直そうと声を張り上げる小笠原先輩に、待ってました! と言わんばかりに田中先輩が飛び付いて部員の前に出てきた。

 

「低音パートリーダー兼副部長の田中あすかです! 楽器はユーフォです!」

 

田中先輩が銀色のユーフォを掲げる。後藤の話じゃ、アレって先輩の私物なんだっけ。

 

「ユーフォニアムというのは、ピストン・バルブの装備された……」

 

 田中先輩は去年自分が入部した時と全く同じ、またウィキペディア丸コピペのユーフォ紹介だ。楽器に対する愛情が感じられない。自分自身の言葉で語りましょうよ先輩。

 

「……などでは、指導者の方針により、ドイツ式バリトンやユーフォニアムなども……」

 

 と思ったら去年より長くなってる。原稿用紙十枚分だと!? どうやら原文の方を訳してきたらしい。

 田中先輩、訂正します。貴方のユーフォに対する愛情は安っぽくなんかない。でも歪んでる。

 

「それで、日本ではイギリスで発展したピストン式ユーフォニアムが一般的で」

「……はいカット。次お願い」

 

 最上級生二人のイレギュラーな楽器紹介に、小笠原先輩も苦々しい顔をしている。

 次は後藤のチューバ。

 

「チューバは低音で……メロディーがあんまりなくて……あと、重いです」

 

 綺麗に要点をまとめたな。でもそれじゃ希望者出ないぞ。

 後藤の正直すぎるチューバ紹介に、田中先輩が口を挟んだ。

 

「ちょっと後藤! それじゃチューバの魅力が全然伝わらないでしょ!」

「……いや、変に夢持たせても後で大変になるだけですし」

 

 中学の時のチューバ担当も、大きくてかさばるし重いとグチっていたのを思い出す。リズムを刻んだり重低音を長く響かせる地道な作業がメインの楽器なので、女子ウケは悪い。シミュレーションゲームとか、数値をコツコツいじるのが好きなタイプの男子には合うかもしれないが。

 

「貴方達! もっとまともなスピーチ考えてきてよ!」

 

 とうとう小笠原先輩から雷が落ちた。

 

「あ、あのー」

『?』

 

 小笠原先輩の怒号に小さくなっている低音パートの二人に、ふわふわした猫っ毛のちっこい一年生がおそるおそる話しかけてきた。

 ちなみにもう一人の戦犯は自分の背中に隠れてる。人を盾代わりにするの止めてくれませんか?

 

「ここの吹部には、コンバス無いんですか?」

「いんや、担当者いないから紹介後回しにしてたんだけど……。なに、もしかして経験者!?」

 

 目を輝かせる田中先輩に、一年生の子は真剣な表情で食いついてくる。

 

「はい、聖女でやってました」

『聖女!?』

 

 部員達が目を丸くする。自分も危うく腰を抜かしそうになった。

 聖女といえば、毎年吹奏楽コンクール全国大会に顔を出しては金賞をかっさらう中学屈指の超強豪校。自分の母校は言うに及ばず、傘木や鎧塚さんの南中と比べても格が違う。

 二十人も新入部員がいれば一人二人は突き抜けたのが出てきても、別におかしくないのかもしれない。去年はたまたまそういう手合いが多かっただけか。

 他に誰もいないコントラバス担当に立候補するあたり、相当に肝が太い彼女を眺めながら、そんな思いに囚われた。

 

 

 

 

「それじゃあ一年生のみんな、それぞれ希望のパートのところに並んで下さい。ただし、希望が多い楽器は選抜テストになるからね」

 

 部長の指示に従って、一年生が思い思いのパートにちらばり始めた。自分と鎧塚さんも愛用のオーボエを机の上のスタンドに立てかけて、希望者がやってくるのを待ち構える。

 しかし……

 

プゥー。

 

「一年生、来ないね」

 

 先輩達はファゴットを片付けに行ったまま戻ってこない。どこぞで油を売ってでもいるのか。

 ストックがないので、新入部員の勧誘をやらなくていいとはいってもパートは同じ。オーボエの勧誘を手伝ってくれてもいいのに。

 

「……見た感じ、経験者もいない。難しい楽器だから無理に誘う事もないと思う」

 

プゥー。

 

「……それより、さっきから何してるの?」

「見て分かんない? 風船膨らましてるんだよ。肺活量強化の練習にもなるし」

 

 管楽器を演奏する上で一にも二にも大事なのが肺活量。それを鍛えるトレーニング方法はいろいろあるが、自分は風船を利用している。

 風船を膨らませては(しぼ)ませる手順を繰り返す事で、肺からより多くの空気を勢いよく、長時間にわたって吐き出せるようになる。

 しかし今回は、膨らませるだけに(とど)めた。

 

「そうじゃなくて。どうして今そんな事を……」

「高校からオーボエやろうっていう気合い入った子が来たら、プレゼントしてあげようかと思ってね。……よし、体の方はこんなもんでいいか。

頭の部分に" ・・ "つけて、

それから" ∞ "つける」

 

 風船をねじり込んで、後ろ足、胴、前足を形作っていく。さらに頭を形成して、油性ペンで目と鼻を書き込めば、後は最後の仕上げを残すだけ。

 

「……?」

「次。小さい風船をねじって輪っかにして、頭に被せてと……。出来た、即席ポンデライオン」

 

 たてがみ代わりにポン・デ・リングを取り付けたマスコットキャラが出来上がる。

 本当はこんな遊び半分では効果は薄いが、今日は特別だ。

 目を丸くする鎧塚さんに、ポンデライオンを見せびらかした。

 

「欲しい?」

「別に。欲しくない」

 

 そう言って鎧塚さんはぷいっと顔を背けたが、ちらちら視線をポンデライオンに向けてくる。

 素直じゃないな。

 

「あはは。愉快な先輩ですね」

「ん?」

 

 背中から声がしたので振り返ると、栗色の髪を肩まで伸ばした一年生が、口元に笑みを浮かべて自分達の様子を(うかが)っていた。初対面の、それも先輩相手に物怖じせずに話しかけてくるあたり、なかなか元気そうな子だ。

 

「君、オーボエに興味あるの?」

「全然ないです♪ 先輩達が面白そうな事してるので気になって」

「あ、そう……」

 

 そこまではっきりきっぱり言われると、オーボエ担当としてちょっと傷つくぞ。

 苦笑いする自分を意に介さず、一年生の子はポンデライオンを手にとって可愛いと(つぶや)いている。

 

「これってバルーンアートって言うんですよね。他にも何か作れるんですか?」

「そうだね……。出目金とか、花を模したブレスレットとかなら」

「ダメ金?」

 

 耳が遠いのか何なのか、隣から不愉快な単語が聞こえてくる。

 中学時代三年間ダメ金すら取った事ない自分へのイヤミか?

 

「……ははは。とりあえず鎧塚さんは耳掃除でもしてて。あと、イヤホンつけてリズムゲームするのもほどほどにしときなよー。耳悪くするし、どうせ大した点数叩き出せてないんだし」

「む……。余計なお世話」

「あ、あの~。先輩?」

『?』

 

 やや険悪になりかけた空気にびびったか、一年生の子がおずおずと尋ねてきた。

 

「厚かましいとは思うんですけど、よければこのポンデライオンもらってもいいですか?」

「ああ、別に構わないよ」

 

 見た感じ、他にオーボエやろうって子もいないようだし、手元に残しておいてもしょうがない。

 

「やった!」

 

 随分と気にいってくれたようだ。満面の笑みで即席ポンデライオンを抱きかかえながら、名前どうしよ~と(つぶ)いている。

 そういえば。

 

「まだ君の名前聞いてなかったね」

「あ、申し遅れました。私は井上順菜(いのうえじゅんな)っていいます。中学も吹部で、シンバルやってました。こっちでも続けるつもりです」

 

 シンバルか。

 ナックル先輩や加山先輩が大喜びするだろうな。ただでさえ人手不足なところに経験者がやってくるんだから。

 でもウチのパートには来てくれないのか。ちょっと残念。

 

 

「ウチのパート、サファイアちゃん以外まだ1人も来てないんだけど……」

 

 ん?

 

「ウチのパート、サファイアちゃん以外まだ1人も来てないんだけど……」

「ウチのパート、サファイアちゃん以外……」

「あ、あの。何で三回も言うんですか……」

「君鈍いのかにゃ~。私は勧誘しているのだよ君のコト!」

 

 まだ希望する楽器が決まっていないのか、音楽室の真ん中に残っていた一年生を田中先輩が籠絡(ろうらく)してる。去年自分を勧誘した時と変わらない、相変わらず相手の意向を全く気にしない人だ。

 

 ……ふむ。

 

「井上さん。ウチのパート、君以外まだ一人も来ていないんだよ」

「あ、そうみたいですね」

「……ポンデライオンあげたのに来てくれないの?」

「え!? ええっとお……」

「……ウチのパート、君以外まだ一人も来ていないんだよ」

「わ、私はシンバル続けたいかなー。なんて……」

「そうかそうか、つまり君はそういう奴だったんだな?」

「あわわ……。私は悪漢ということに決まってしまいました!」

 

 ノリ良いな、この子。

 言葉ほどにはうろたえた様子を見せない彼女と、もう少しやりあってみるのも悪くない。

 

「女なのに悪漢とはこれいかに」

「じゃあ悪女ですか? うわ、高校生なのに悪女って凄いビッチみたいでやらしいんですけど! ……それはともかく、あの話って主人公の方が悪くありません?」

「確かにね。他人の標本盗んで壊しておいて、一番大事にしてた自分の標本を譲らずに、まずおもちゃで片をつけようってあたりはちょっとね。エーミールも性格悪いとは思うけど」

「ですよねー。そもそもあの主人公、他人の家に断りなく立ち入って」

「不法侵入だよね」

「標本盗んで」

「窃盗だよね」

「そして壊しちゃうんですよね」

「器物損壊だよね」

 

 一晩で三件もの犯罪行為をこなすとは、とんだ悪童である。あげく、いい年した大人になってそんな黒歴史を他人に語ろうとするんだから、もともと頭のネジの一本くらいは抜けていたのかもしれない。

 

 それからしばらく彼女と雑談に興じた。絶え間なく話を繋げて、時間の経過を気付かない様にさせながら。

 振り分けの残り時間は、あと()()

 

「……井上さん。そろそろ振り分け終わる。シンバルやるなら早くパーカスに行った方がいい」

「はっ! そうでした、このままここに居残ってちゃオーボエやらされちゃう!」

 

 ちっ。鎧塚さんも余計な事を。

 

「危うく丸めこまれるところでした。もー、先輩も油断ならないなあ」

「ひとたび網にかかった獲物は逃さない主義だから。今回は見逃してあげよう」

「ひえっ。なんかクモみたい」

 

 後ずさる井上さん。そんなマジに怖がらなくてもいいじゃないか、軽いジョークなのに。

 

「まあ冗談はこれ位にして、シンバル続けるって決めてるんでしょ? なら今からいっても間に合うよ」

「……ホントに冗談だったんですか? それで……蜘蛛守(くももり)先輩?」

蔵守(くらもり)、ね。何?」

「ホントにこれ、(もら)っちゃっていいんでしょうか。なんか貰い逃げみたいになっちゃいますけど」

「全然いいよ。手間かけさせたちゃったしね。お詫びがてら、もっていってちょうだい」

 

 

 裏切り者には作ってあげないけどね。

 

 空気読まない相方にそう(ささや)いたら、捨てられた子犬みたいな顔してら。

 

「わーい! ありがとうございます!」

 

 はしゃぎながら井上さんが向かった先では、ナックル先輩達が打楽器のデモンストレーションを行っている。

 小太鼓(スネアドラム)大太鼓(バスドラム)・ティンパニ・シンバル・木琴(シロフォン)鉄琴(グロッケン)・チャイム・タンバリン・トライアングル。およそ思いつく有名どころの打楽器が一つ所に並べられた様は圧巻で、毛色の異なる楽器一つ一つの紹介は素人目にも大変そうだ。

 

 誰にもらったの、とでも聞かれたのだろうか。同じパーカス希望の一年生……頭に赤いリボンを付けた子と眼鏡の子にポンデライオンを見せびらかしていた彼女が、自分の方に向き直った。

 目が合ったので軽く手を振って愛想笑いすると、一年生の子達も軽い会釈を返してくれる。

 

 眼鏡の子の方はどうという事はないが、高校生にもなって頭からはみ出る大きなリボンをした子はちょっと少女趣味じゃないのかと思う。

 ま、あれの三倍は少女趣味なデカリボンつけてるのがウチの部にはいるしな、似合ってるし深くは考えまい。

 

「なんか初々しくっていいね」

「……そう」

「パーカスの新入りは三人か。一気に人手不足が解消だね、いいなあ」

「……そう」

「……」

 

 すっかり意気消沈してる。ただでさえ暗いのが三割増し状態なので鬱陶(うっとう)しい事この上ない。そんなにポンデライオン欲しかったのか?

 

 

 

 

「で、結局今年はゼロと。もうちょっと頑張れない?」

「そう思うんなら、少しは勧誘手伝って下さい」

 

 どこぞで駄弁っていた先輩達は戻ってくるやいなや、がっくりと肩を落とした。

 音楽室では女子に人気の楽器……フルートやサックスの選抜テストから漏れた子達が、第二志望の楽器に群がっている。

 でもダブルリードパートには寄ってこないんだなこれが。

 

「惜しかったんですよ。あとちょっとで一匹ゲットできそうだったんですが」

「一匹って。やっぱりパートに加えるつもりだったの……?」

「だって他の子来なかったし」

 

たしなめるような口調の鎧塚さんを、適当に受け流した。

 

「経験者だし……素直にシンバルやらせた方が良いと思う」

「どうせ今年のコンクールも府大会で終わるだろうし、何やらせたって一緒だよ。

なら後継者を確保しておいたほうが良いと思わない?」

 

 だいたいあの入学式の演奏を聞いたうえで吹部に入ろうとしているのだ。

 経験者なら、コンクールでは上にいけそうにないって事も察しているだろう。

 それなら違う楽器に転向させるのも悪くない。

 後輩にしたって、顔も知らないOBやOGより先輩に指導された方が良いに決まっている。

 

「それだけ?」

「え?」

 

 岡先輩がニヤニヤしながら話に割り込んできた。

 

「本当はパシリが欲しいとか思ってんじゃないの?」

「……正直なところ、それもちょっと。男子が来てくれれば言う事なかったんですが、贅沢は言ってられませんから」

 

 今年の新入部員男子二人は、それぞれトロンボーンとサックスにおさまってしまった。どちらのパートも去年辞めた部員が多いだけに、こちらに回してくれとは言いにくい。

 

「でもあの子……井上さん、シンバルやりたがってた」

「ま、シンバルなんて叩くだけだし。いざとなれば初心者にやらせりゃいいしね」

 

 岡先輩が暴言を吐いた。

 慌てて周囲を見渡すが、幸い他のパートのメンバーは一年生との歓談に花を咲かせているようだ。聞かれた様子は無い。

 

「岡先輩……、何てこと言うんですか。ナックル先輩達に聞かれたら殺されますよ」

「そんな事言って。アンタもそう思ってんじゃないの?」

「冗談で済まないから、あえて口にはしなかったんですが」

 

 一見簡単そうに見えるのは確かだが、あれで叩き方の強弱の付け方とか結構大変らしい。実際にやったことはないのでよくは知らないが。

 

 

「……さ~て。ユーフォやってたのに黙ってた理由、とっとと吐いてもらおうか」

「いや、その、だってユーフォって吹奏楽とかマーチングくらいにしか使えなくて潰しがきかないし、後ろのトロンボーンの人からスライドぶつけられるし、地味だし」

「言うに事欠いてそれかぁ! 地味な顔しておいて!!」

「意味わかりません!!!」

 

 田中先輩のところには新入部員が三人。先程捕まっていた子も結局先輩の舌先三寸で丸めこまれたらしい。何やら大声で言い合いつつも他のパートに移る様子は無い。人気のない低音楽器のはずだが、しっかり頭数を揃えるあたりさすがに先輩は敏腕だった。

 

「……それにしてもびっくりだよ。コンバスの子、聖女出身だなんて」

 

 口やかましい低音パートの面々を横目で眺めながら、喜多村先輩が机に腰掛けた。

 あまり羨ましそうでないのは、やはり超強豪校出身のサラブレッドとなると扱いが難しいのが容易に想像できるからだろう。

 

「ホント、今年もまた場違いなのが入ってきたよね。去年みたいな事にならなきゃいいけど」

「さすがにそれはないでしょう。傘木達の時みたいに団体様ご一行で来たワケじゃないんですから」

 

 岡先輩の心配はさすがに杞憂だ。低音パートは田中先輩の縄張り(シマ)。長瀬さんや後藤もいる。

 来そうもない学校からやってくるあたり、ワケありなのは間違いないが。

 

 

 

 

「鎧塚さん、そろそろ移動しないと授業に間に合わないよ」

「待って、今行く」

 

 楽器振り分けの翌日の昼休み。

 読書に夢中になっているのか、席を立つ様子がない彼女に声をかけると、慌てて読みかけの文庫本を閉じて駆け寄ってきた。

 

 移動教室の時間になると、そそくさと自分の後について来る。

 鎧塚さんがそういう行動を取り始めたのは去年の二学期初めからだった。

 

「大野さんから聞いた? 今日から新しい顧問の人が来るって。滝先生って言うらしいよ」

「うん。そう聞いてる」

 

 無言でいるのも気まずいので適当に話を振るが、鎧塚さんも口達者な方ではないし、自分も彼女が喰い付いてきそうな話題などわからない。部活から離れて普通の学生生活に戻れば、彼女とはそこまで頻繁に言葉を交わしてはいない。自然と、いつも部活関係の話題に終始した。

 去年のクラスは吹奏楽部員が他にいなかった。それで特に気にも留めずにいたが今は大野さんがいる。ことさら自分と一緒に行動する必要はないはずだが。大野さんは大野さんで、仲がいいねと冷やかしてくるし。

 

 ふと、先程までの本を読んでいる鎧塚さんの姿が頭に浮かんだ。

 

「さっき何読んでたの?」

「グリム童話の、星の銀貨」

「ああ、主人公の女の子が困ってる人達に持ち物を分け与えて最後にはマッパになっちゃうあれか」

 

 子供心に、画面に映される下着姿の女の子を見て、あんなの公共の電波で流していいのかと思ったが。

 

「鎧塚さんも、案外ムッツリだね」

 

 そうからかったら、無言で小突かれた。

 

「……むぅ」

「ごめんごめん。で、夢中になっていたのはどの辺り?」

 

 主人公も年頃の女の子だし、自分自身に身を置き換えてたりでもしていたのだろうか。

 

「あの話の最後。女の子は集めた銀貨で裕福に暮らしたというくだりで幕を閉じてるの」

「確かそんな感じだったね」

 

 もうあまり細かい事まで覚えていないけれど。

 

「結局世の中お金がないとままならない、そう伝えようとしているのが琴線に響く」

 

 本当はドライ、グリム童話。

 

「善行は報われる、どうしてそう素直に受け取らないかなあ……」

 

 思わずため息が出た。

 鎧塚さんも(ひね)くれている。この人はいつもこんな風に(しゃ)に構えて本を読んでいるのだろうか。

 

「良い事をすれば神様がご褒美をくれたり、頑張れば結果がついてくるとか、現実はそううまくはいかないから」

「……」

 

 中学最後のコンクール。文字通り部活漬けの毎日を送っていたにもかかわらず銀賞で終わった事が、鎧塚さんを変に屈折させているのかもしれない。

 そのあたり、傘木の方は高校で金賞とれればいいと割り切っていたようだが。

 

「そういえば、傘木とはどう? なんか去年の事で自分とは顔合わせづらいのか、クラスにも顔見せに来なくなったし」

「……LINE(ライン)で近況は教え合ってる」

「ふうん。直接会ってはいないんだ」

 

 何か含んだ物言いだったが、鎧塚さんは口数が少ない。スマホ上での絵文字やスタンプを介したやりとりの方が話は盛り上がるのかもしれない。

 

「……市民楽団の方で忙しくて、学校終わったらすぐ家に帰ってる。集まって練習できるのは休日だけで合奏練習しか出来なくて、それまでに自分が吹く所は形になってないとダメだから。邪魔しちゃ悪い」

「そっか。社会人の人も大勢いるだろうし、部活みたいに毎日パート練習って訳にはいかないか。鎧塚さんはそっちに移ろうとは思わなかったの?」

 

 二人は仲が良かったし、コンクールが済んでしまえばもう後腐れもない。二学期以降は傘木のいる楽団に籍を移すとばかり思っていたが、今の今まで吹部に居残る理由を聞けずにいた。

 

「……オーボエの定員、埋まってたから」

 

 微かな違和感を感じた。

 フルートは横に構えて演奏する優雅なスタイルから、女子の人気が高い楽器だ。

 楽器自体も比較的安価と言う事もあって、楽団ではどこも供給過剰気味と聞いている。フルートの枠が空いているのに、為り手が少ないオーボエの方が足りているなんて珍しい。傘木は古参メンバーが引退した枠にでも潜り込んだのだろうか。

 

「なら仕方ないか。こっちはこっちで銀賞目指して部活頑張ろう。オーボエの枠が空いた時になって移りたくなっても、練習足りなくてブランクできてたら不味いしね」

「……うん、銀賞、取る」

 

 冷めたもので、どちらからも金賞という言葉は出てこない。それでも、銀賞という言葉は出る。

 それが去年のコンクールが終わってから八ヶ月、万年銅賞の吹部が地道に軌道修正を積み重ねた末の収穫と言えば収穫だった。

 

 



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第11話 フランク過ぎるチューバ

今回ちょっとR-15?要素入るので気分を害されたらすみませんm><m


「皆さん初めまして、今季から顧問を任されました滝昇(たきのぼる)です。若輩者ではありますが、よろしくお願いします」

 

 楽器振り分けの翌日の部活。音楽室に姿を見せた新しい顧問の先生は、そう言って深く腰を折った。先生という(くく)りで見れば確かに若い方だろう。それでも自分達から見れば十は年上の人、そんなに礼儀正しくされてしまうと恐縮してしまう。

 

「イケメンだよねー。蔵守くんはどう思う? 男子から見て」

「まあ……ハンサムじゃないんですか?」

 

 始業式で生徒達に姿を見せてから、女子の間では格好いい先生だとチラホラ噂にはなっていた。間近で見ると、確かに整った顔立ちをしているのがはっきり分かる。喜多村先輩が黄色い声をあげるのも無理もなかった。

 

「皆さんと一緒にいい音楽を作っていきたいと思っていますが、何分私も吹部の顧問を担当するのはこれが初めてです。補佐や副顧問は何度かやってきたので、技術的な指導に関しては自信がありますが、部活の方向性をどうするかについては(つか)みかねています」

 

 滝先生はそう言って顔を上げると、音楽室の黒板に近づきチョークを手に取った。

 

「そこで、皆さん自身で今年の吹部の進む方向を決めてほしいのです」

 

 先生が黒板に書き込んだその文字を見て、思わず目を丸くした。

 そこにあったのは、"全国大会出場" と "思い出づくり" の二組の六文字。

 

「本気で全国大会出場を目指すか、楽しい思い出づくりで済ませるか、を」

「思い出づくり、というのは具体的には……」

 

 滝先生の大雑把すぎる二択に、誰も言葉を返せないでいる。部長としての責任を感じたのか、小笠原先輩が困惑した表情で尋ねた。

 

「そうですね。私としては……思い出づくりで十分だというのなら、出場メンバーを選抜してまでわざわざコンクールの練習に力を入れる必要はないと思っています。文化祭や地域のお祭り、野球部やサッカー部の応援。そういう全員で参加できる舞台での演奏を気軽に楽しめる範囲で、今年のスケジュールを組むつもりです。コンクールには形だけの参加、という事になるでしょう」

 

 ひと呼吸おいて、滝先生は言葉を続けた。

 

「逆に、全国を目指したいのであれば、練習もコンクールに焦点を当てた厳しいものになります。私としてはどちらでも構わないので、皆さんで決めて下さい」

 

 音楽室がざわめく。

 思い出づくり、というのはまだ分かる。万年銅賞の吹部が、部員をふるい落としてまでコンクールに出る意味があるのか。時間をかけてコンクールの為だけに練習する意味があるのか。去年のコンクールが終わってから、ずっと考えていた事だった。

 しかし全国大会出場とは一体どういう考えだろう。今年から北宇治に来た先生とはいえ、顧問を引き受ける位だ。少しくらいは吹部の事を調べていると思っていたが、ここ数年の吹部の低空飛行っぷりすら把握していないのか。

 決めろと言われても、現実的に考えると選択肢などありはしない。思い出づくり一択だ。サンフェスや定期演奏会のように、部員全員で参加できるイベント中心にスケジュールを組んだ方が、よほど有意義に決まっている。

 

 ……いや、それ以前に。

 

――中学では無理だったけど、高校では全国行ってみたいんだよね――

 

「その二択、両極端すぎじゃないですか?」

 

 喜多村先輩の言葉に、はっと我に返った。至極もっともな意見に、三年生の面々から口々に同意の声が上がった。

 

「では、去年と同じように指導は適度なレベルで抑えて、コンクールに出るという選択肢も追加しますか」

 

"去年と同じ"

 

 何気ない様子で黒板に追加されたその五文字に胸を突かれた。音楽室の空気が重くなっていくのがはっきりと分かる。

 口振りから察するに、どうやら滝先生は去年の事を知っているようだ。おおかた松本先生から聞いたんだろうが、それならもう少し言い方を考えて欲しい。内心、舌打ちした。

 先輩の方から(やぶ)をつついたとはいえ、そんな選択肢、上級生で選ぶ人はまず出ない。経緯(いきさつ)を知らない一年生にしたって、去年が銅賞だった事ぐらいはもう知っている。好き好んで同じ道をなぞろうする子などいるはずもない。

 出会い頭に恥部を公にされたようで、この先生に対する心象は良くなかった。

 

 

「……では今年は、全国大会出場を目標に活動していく事になります」

 

 部活の方向性をどうするか。

 部員の数が多い事もある。田中先輩の鶴の一声で決まった多数決でも、やはり去年の方針を継続しようという人はいなかった。

 思い出づくりを希望するのは斎藤先輩に自分、そして鎧塚さん他、ごく少数。

 結局消去法で、全国大会出場を目標にする方針が大勢を占めた。といっても、勢いよく手を挙げた吉川さんや中世古先輩に引き摺られるような形で挙手する人がほとんど。どこまで本気なのかは疑わしい。

 

「ご苦労様です」

 

 小笠原先輩の言葉を受けて、それまで様子を見守っていた先生が満足げに部員を見回した。

 

「思い出づくりを希望する方もいましたが、あまり気を落とさないで下さい。みなさんのやる気次第で、コンクール以外でも演奏する機会を積極的に作っていくつもりですから。お互いが決めた目標に向かって、これから頑張っていきましょう」

 

 先生のその言葉を聞いても、斎藤先輩の表情が晴れたようには見えなかった。

 

「では早速ですが、今現在の皆さんの技量がどれほどのものか、テストしたいと思います。これから海兵隊の楽譜を配りますので、今日を含めて四日で仕上げて下さい」

 

 四日!?

 さすがにぎょっとして、滝先生を見つめた。いくらなんでも短すぎる。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい! 一年生には初心者もいますし、とても部活動の時間内では仕上がりません」

「初見の方は演奏に参加しなくて結構ですよ。経験者の方や上級生は一度はやった事があるでしょうから、それだけあれば十分でしょう?」

 

 本気で全国を目指すのならば確かにそうだろう。

 慌てふためきながら悲鳴をあげる小笠原先輩だが、それに対する滝先生の返答は素っ気ない。

 

「でも……」

「自信がないのなら、部活の時間外に自主練でも何でもやって構いませんよ。手続きの方は私が済ませておきましたので。全国を目指す位なのですから、その程度は苦でもないでしょう?」

 

 尚も言い募ろうとする小笠原先輩の機先を制して、滝先生は反論を封じてしまった。言質を取られた事を悟って先輩達は一様に苦い顔をしている。

 滝先生はそれで話すべき事は全て話したと言わんばかりに、さっさと音楽室を後にしてしまった。

 

『……』

 

 重苦しい空気が立ち込める音楽室。誰が言い出すまでもなくミーティングはお開きになり、各自それぞれのパートに分かれていった。

 

 

 

 

「大丈夫なんですか先輩。全国大会出場なんて目標にしちゃって……」

 

 パートメンバー四人揃って教室へ練習に赴く道すがら、思わずため息をついた。

 去年の最悪の状態と比べれば、吹部はマシになってはいる。ならばコンクールで上を目指せる見込みがあるかというと、全然そんな事はない。全国出場なんて冗談にしても笑えなかった。見栄を張っている場合ではないと思うのだが。

 

「心配しなくても、本気で全国行こうなんて誰も考えちゃいないわよ。一握りのバカを除いて」

 

 へっ、と岡先輩が鼻で笑った。……この人、中世古先輩や吉川さんに何か含むところでもあるんだろうか。

 

「手を上げた理由は別のトコ。一年の時に出場できた来南はともかく、他の三年にとっては去年のコンクールが初めてだったでしょ。それなのに結果がアレだし。審査員にどう評価されるかは別にして、自己満足できる程度の合奏はしてみたいじゃない」

「形だけの参加って事になったら、また去年みたいに先生の指導もおざなりになっちゃうかもだしね。……聞いてる分には、面白かったけど」

「……おい。私も演奏してたんだぞあの時」

 

 去年の喜劇?を思い出してか、軽く吹き出す喜多村先輩の襟首(えりくび)を掴んでヤキ入れる岡先輩。手と顔にダメージを与えないあたり、吹奏楽部員としての常識は心得ている。そして悲鳴をあげる喜多村先輩を見ても、我関せずの態度を貫く鎧塚さん。彼女もだいぶダブルリードパートの空気に染まってきた。

 

「それは分からなくもないんですけどね」

 

 ほとんどの三年生は、未だにコンクールの舞台で日の目を見ていない。そんな先輩達にとって今年は最初で最後のチャンス。花を持たせたいという気持ちは自分にもある。

 ただ、先生の言葉を一年生達がどう受け取っているかが気になった。真に受けて、変な夢を見なければいいが。あれが呼び水となって、またぞろ部内で対立が生まれるのは勘弁して欲しかった。

 

「にしても……、妙な成り行きになりましたね。今の時期に全員揃って海兵隊の練習なんて」

 

 部活の方針について、それ以上考えるのは止めにした。決まった事にグチグチ言ってもしょうがない。

 

「うん。大して難しい曲じゃないけど、それでもこの短期間で仕上げるのは難しいかなぁ」

 

 喜多村先輩も復活したようだ。先生から手渡された楽譜を眺めながら、呟く先輩に頷いた。

 事前に楽譜を用意していた事といい、時間外練習にあたっての手続きを済ませていた事といい、手回しが良過ぎる。どちらでも構わないと言ってはいたが、先生の頭の中ではどういう指導をするか、既に固まっていたとしか思えない。

 

「……サンフェスも海兵隊で行くんですか? あまり時間ないですけど……」

 

 自分の後ろについてきた鎧塚さんが、楽譜をファイルにしまいながら喜多村先輩に尋ねてきた。ファイルは楽譜でパンパンになっている。彼女の中学時代の部活動が活発だった事が一目で見て取れた。

 

「どうかなぁ。別にダメって事はないけど、ああいう場ではもっとセンスいい曲を披露した方がいいと思うけどねー」

 

 海兵隊。吹奏楽経験者なら誰でも一度は演奏したであろう曲だけに、知名度に関しては問題無い。初心者用の曲というのが微妙に引っかかった。

 コンクールのように、上の大会への出場権を賭ける訳ではないといっても、サンフェスは京都各地の吹部が集まる一大イベントだ。何十人も部員がいれば、他校の目が気になる人も当然出てくる。それなりに体裁がつく曲を選ばないと、練習する上でのモチベーションにどう響いてくるか分からない。

 

「先生は時間外練習してもいいって言ってましたけど……どうします。今日から早速やりますか?」

 

 ミーティングが長引いた事もあり、腕時計の短針は五に達しようとしている。部活を普段通りに終えるのであれば残り時間はいくらもなかった。

 

「え~、嫌だよ。今日はいつも通りに終わらせよ? 今日のミーティング、あの先生のおかげでなんかピリピリしてたし疲れたよー」

「四日しかないんですから、今日の内に一通り吹いてみた方が良いと思うんですが」

「サンフェスで海兵隊やるにしても私らはチアリーダー、アンタはカラーガード(旗振り役)。肩肘張って演奏の練習するなんて馬鹿馬鹿しいと思わない?」

「それはまあ。確かに……」

 

 喜多村先輩からも岡先輩からも、色よい返事は得られない。二人とも、海兵隊を通り越してサンフェスの方に気が向いているようだった。

 とはいえ、先輩達の言葉に(うなず)けない所もない。どうせサンフェス本番で、自分達ダブルリードは演奏はしないのだ。

 

 腕を組んで考え込んだ。去年と違い、後輩への指導もある。先々の事を考えると、今のうちにフラッグ()捌きの一つでも見直した方がいいかもしれない。先輩達はポンポンの準備とダンスパフォーマンスの指導で忙しくなるだろうし、鎧塚さんも去年は病気欠場。カラーガードの指導に手落ちがあれば自分の責任になりかねない。

 

「……じゃあ、海兵隊の練習は明日からで。それとサンフェスの方、各自出来る範囲で準備お願いします」

「おっけー。でもあのセンセーも、本気で全国行こうなんて考えてんのかねー? 吹部の顧問をするのは初めてとか言ってたけど」

「その内嫌でも分かりますよ。顧問ですから」

 

 首をかしげる岡先輩に生返事をしながら、滝先生の姿を思い返した。淡々とした口調、穏やかな表情。どちらかも知的な印象を受けただけに、あんな現実離れした発言をするとは思いもしなかった。指導に自信があるのか、大口を叩いただけか、あるいは先生も北宇治に来たばかり、教師達の間で見栄でも張りたいのか。

 とりあえずは、様子見するしかなかった。

 

 

 

 

 滝先生と部員達の初会合から二日後の放課後。部活が始まるまでのわずかな時間、クラスの窓際の席でまどろんでいるとスマホに着信音。岡先輩からだ。この後すぐ顔を合わせるはずなのに、わざわざ連絡を入れてくるあたりロクな用事ではない。頭の中で警戒警報が鳴り響く。

 

 "今日、私が腹式呼吸の指導役なんだけどさ。お腹痛くて……。ちょっと重い日みたいなんだよね。そう、アレなの。あ~、大丈夫大丈夫。部活休む程じゃないってば。ただ、あんまり立って動きたくないの。うん、それじゃ指導代わりにやってくれる? ありがとねー"

「……」

 

 岡先輩は言うだけ言って、一方的に通話を打ち切った。重い日とかアレとか、一応ぼかしてはいたが、ガードの緩さもここまでくると重症だ。中学そして高校と、吹部という極度に男女比が不釣り合いな環境で過ごしたせいだろうが。

 それはさておき、面倒な仕事が回ってきた。指導自体は別にいい。相手は右も左も分からない初心者。対して自分は腐っても楽器経験六年目。一人でも滞りなくこなす自信はある。が、新入部員は大半が女子。ここは同性のサポートを頼んだ方がよさそうだ。

 

「……」

「イチ、ニ。イチ、ニ」

 

 教室を見渡すと、鎧塚さんはきりのいいところまで読み終えたのか、文庫本を閉じて部活の支度中。大野さんは、何故か教室の中で反復横飛び。……サンフェスは来月頭。北宇治のユニフォームはボディラインがくっきり浮き出るし、ダイエットのつもりなんだろうか。(ほこり)が飛ぶからそういうのは外でやってほしい。

 

「鎧塚さん、悪いけど一年の腹式の指導、手伝ってくれないかな」

「あれ、今日はそっちの先輩の番じゃなかった?」

 

 鎧塚さんが返答するより前に、大野さんが口を挟んできた。ここのところ、大野さんとはあまり喋っていない。どことなく話に混ざりたがっている様にも見えた。

 

「お腹痛くて動きたくないってさ」

 

 さすがにストレートに○○とは言えないが、そこは女子。二人共すぐに察したようだった。が、彼女達は少し口元に手を当てて思案顔。ややあって、二人そろって生温かい視線を向けてきた。

 

「……本当に○○と信じたわけですか。ピュアですねえ」

「……知らぬが仏」

「は?」

 

 珍しく呼吸を合わせる二人を(いぶか)しんでいると、中庭の方から騒ぎ声がする。窓際に片肘(かたひじ)をついて階下を見下ろすと、見知った一年生がちらほら。熱心な事に、もう準備に取り掛かっている部員がいるようだ。もたもたしてはいられない。

 

「やばい、急がないと。で……鎧塚さん。どうかな?」

「……いいよ」

 

ほっと一息ついて支度を始めると、大野さんがふくれっ面をして睨んできた。

 

「蔵守君たら、さっきから鎧塚さん鎧塚さんって言ってばっかり。私には頼まないんですかー。同じクラスの吹部仲間なのにー」

 

 ハブられたと思ったのだろうか。彼女は打楽器担当なので、ハナからアテにしていなかっただけなのだが。

 

「そんな事言われても……。大野さん管楽器の経験ないんだろ。腹式呼吸の指導できるの?」

「できないよ?」

 

 ふんっ、と腰に手を当てて仁王立ちする大野さん。何を威張ってんだか。

 

「でもそこは一言声だけでもかけてほしいかな。まあ断るんだけどね」

「大野さんも大概ヒネくれてるよね……」

 

 そう呟きながら、ちらりと横目で鎧塚さんを見やった。以前の、グリム童話のやりとりが頭をよぎる。

 

「……何?」

「なんでも。一年生待たせてるし、行くよ?」

 

 これからひと仕事こなさなくてはいけないのに、なんだか頭が痛くなってきた。

 どうして自分の周りには、こう面倒くさい性格の女子しかいないんだろう。

 

 

 

「あ! 風船先輩だ」

「今日は風船先輩が指導役ですかー?」

 

 希望者のみ参加という事になっていたはずだが、多数の一年生が待ち構えていた中庭。昇降口からそこに足を踏み入れた途端、女子部員から珍妙なあだ名を拝命した。楽器振り分けの時の、井上さんとのやり取りが一年生の間で広まったのは想像に難くない。相変わらず女子の噂は出回りが早い。

 

「……良かったね。早速あだ名もらって」

「欲しければ譲るけど。風船も一緒に」

 

 フランクに接してくれていると言えば聞こえはいいが、もう少し先輩としての威厳も含ませて欲しい。去年のはまだ愛称と言えなくもなかったが今年は風船。モノ。地味にランクダウンしているのも(しゃく)(さわ)る。

 

「準備はできてるようだし、早速始めるよ」

『はい!』

 

 腹式呼吸の指導は、難しい事はなかった。前日の担当役だった中世古先輩の指導が行き届いていた事もあって、おおまかな手順はみんな心得ている。軽くおさらいをして、細かな所の手直しをするくらいしか仕事はない。

 

「風船は使わないんですかー?」

 

 既に一年生達の間では、自分はそういうキャラで固定されているのだろうか。

 

「中世古先輩が、吹き戻しを使った方法を教えたって聞いてるからね。まずはそっちをマスターすること。いいね?」

『はいっ』

 

 教えるのも(やぶさ)かではないが、初心者相手に無闇に選択肢を与えて迷走させるのも(はばか)られた。これから学んでいかなければいけない事は、他にもたくさんある。

 

「鎧塚さんからは、何かない?」

 

 スカートに手を添えながら、てくてくと自分の後ろをついてきた彼女に確認をとった。心地よい春の風が吹いているが、それでスカートが(めく)れるのを気にしているのかもしれない。

 

「一つだけ。腹式呼吸は部活外でも、普段の呼吸から意識して行って」

 

 いくらか考え込んだ後、鎧塚さんは一年生の方に向き直ってそう答えた。

 

「実際に演奏している時、呼吸の取り方を意識してる余裕なんて無い。お(うち)でも出来る事だから、暇を見つけて練習してほしい」

『はい!』

 

 確かに演奏中は、指揮者の一挙手一投足・キーの指使いにどうしても神経が集中してしまう。呼吸の事まで気が回らない。さすがに鎧塚さんは強豪・南中出身だけあって、後輩へのアドバイスも一家言あった。心なしか後輩達の返事も、自分の時より大きい。

 

「じゃ、練習を続けるよ。肺に出来るだけ多くの空気を入れてー、ゆっくり出してー」

 

 リズムを取りつつ、一年生一人一人(ひとりひとり)の具合を確認しながら見回った。

 腰に手をあてて、息を吸っては吐いての繰り返し。やり方は覚えても、慣れないうちは体が持たない。何度か続ける内に、息の続かない子も出てくる。それで新入部員の誰が経験者で誰が初心者か、申告されずともおおよそ見当はついた。経験者の一年生については指導する必要も無さそうだったが、同級生と行動を共にするあたりに、女社会な吹部の側面が垣間見える。

 今一度、一年生を見渡してそれぞれの顔と担当楽器を頭の中で符号させていく。さすがに打楽器の井上さん達や、コンバス担当の聖女の子までは参加していない。木管・金管の一年生は一人を除いて、全員が集っていた。

 

「……トランペットの綺麗な子、いない」

「いや、あの子は来る必要ないと思うけど」

 

 楽器振り分けのあの日。思わず目を見張るようなトランペットの演奏を披露した子がいた。一度聞いただけで、並の腕前ではないと分かるその響き。中世古先輩のものとも、また違う。

 時間も押していたし、他の希望者もいた。演奏は一瞬の事で、その後に喜多村先輩達が音楽室に戻ってきた事もあってすっかり失念していたが、トランペットの子は入学式の日に見かけた一年生に間違いなかった。

 あれだけ吹ける子が周りと歩調を合わせても、嫌味に受け取られるかもしれない。そう割り切って参加していないのであれば、なかなかさっぱりしている。

 

「私もそう思う。だけど、優子が目をつけてたから。気になって」

「……そっか。吉川さんも南中出身だからね」

 

 強豪校で(しつけ)られただけに、上下関係にうるさい所はあってもおかしくない。中世古先輩がいるから滅多な事にならないとは思うが。

 

「先輩達が話してるのって、高坂(こうさか)さんの事ですよね」

 

 たまたま近くにいた、ショートカットの元気そうな子が、自分と鎧塚さんの会話に喰いついてきた。(くだん)の、風船呼ばわりしてきた腹式呼吸慣れしていない一年生の一人。つい先程までは息苦しそうにしていたが今は持ち直している。体力はあるようだった。

 

「そうだけど。君は確か低音の……」

「はい! チューバの加藤葉月(かとうはづき)です! で、こっちがユーフォの黄前久美子(おうまえくみこ)。久美子と高坂さんって、同じ大吉山北中の吹部出身なんですよ」

 

 なるほど……、それでか。南中とはライバル関係にある強豪の北中出身なら、あれだけ吹けるのも納得がいく。

 久美子と呼ばれた、どことなくタコを彷彿とさせるもっさりした癖っ毛の一年生にも見覚えはある。田中先輩の口八丁で低音パートに籠絡(ろうらく)されていた子のはずだ。彼女が申し訳なさそうに、おずおずと頭を下げてきた。

 

「すみません……。高坂さんトランペット滅茶苦茶上手くて。北中でも上級生達、高坂さんに頭が上がらなかったんですよ。生意気に思われるかもしれませんけど」

 

 そういう彼女も、北中吹部の出身だけあって苦もなく腹式呼吸をこなしていた。実力はありそうだが、練習に参加しているのは周りの目が気になるからか。

 つまらない事を気にしている。そう思わなくもなかったが、下手に個人行動をとらせて陰口を叩かれる原因を作るのも馬鹿げていた。本人の意思で参加しているのなら、余計なお節介をかける事もない。

 

「別に気を悪くしてないよ。なかなかの強心臓だなって思っただけだから。トランペットは吹奏楽の顔だし、それくらい肝が太い方がいいのかもね」

 

 口ではそう言ったものの、頭の中では様々な思いが錯綜(さくそう)した。

 北中とて強豪。そこの上級生達も一目置くレベルとなると、高坂さんとやらのトランペットの腕前は相当なものなのだろうか。

 遅かれ早かれ、頭角を現してくる。予感というより確信に近い。吉川さんも、新入りが中世古先輩とソロの座を競い合いかねないと懸念しているのかもしれない。

 中世古先輩は三年生の中でも特に良心的な人ではあるが、人望があるのも()()しだ。先輩の立場を(おびや)かしかねない相手だからといって、周囲が勝手に警戒心を(つの)らせてしまっている。

 

「おっ? 話が分かりますね、バルーン先輩!」

「は、葉月ちゃん!」

「……」

 

 フランクなのと、馴れ馴れしいのはイコールではないはずだ。

 先輩への敬意が見えない後輩に、即興で膨らました風船の破裂音をお見舞いして、その日の指導を終える事にした。

 

 

 



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第12話 ないすばでぃなバリトンサックス

 新入部員達に腹式呼吸の指導を行った翌日。……というか、海兵隊の合奏日前日。

 

 本気で合奏するつもりなら、いつまでも個人練やパート練で時間を潰してはいられない。さっさと他のパートとも合わせてみた方がいいと思うのだが、どのパートもエンジンのかかりが鈍い。木管と金管の低音組ばかりで合わせる事になったのがようやくこの日になってからだった。

 全く呑気(のんき)な話だが、それもこれも来月頭にサンフェスを控えたこの時期、こんな曲をやらせる先生の意図が分からないからだ。綺麗にまとめるつもりなど更々(さらさら)なく、どのパートにも適当な所で切り上げてサンフェスの練習に移ろうという空気が漂っている。

 

 

「ねえ晴香。臼井(うすい)くんと純子(じゅんこ)は来ないの?」

 

 小笠原先輩に問いかける喜多村先輩の声が、すぐ耳元で聞こえた。

 先輩達のファゴット、小笠原先輩のバリトンサックスと並んでもう一種類。低音域を担当する木管楽器にバスクラリネットがある。しかし、低音パートの面々が待ち構える三年三組に向かう面子に、バスクラ担当の先輩達の姿は無い。

 

「一応声かけてはみたんだけどね。クラリネットの方、まだまとまってないみたい。ほら、クラは人数も多いから。臼井君はやる気はありそうだったけど……今日は見送った方がいいかなって」

「なら臼井だけでも引っ張ってこればよかったのに。相変わらず部長は気が弱いんだから」

 

 悪口にならないよう、言葉選びに苦慮する小笠原先輩。

 しかしそんな配慮なぞ、犬に食わせろと言わんばかりに岡先輩が本音をぶちまけた。

 

「仕方ないですよ。クラ大勢いるのに一人だけ別行動取らせるのもどうかと思いますし」

 

 数少ない男子部員仲間、それも先輩という事もあってどうしても弁護の口調になってしまう。

 クラリネットはトランペットと並んで主旋律(メロディー)を担当する事が多い楽器だが、トランペット程には音量は大きくない。その分は人数で補う事になるが、今のクラリネットパートは新入部員を含めて十三人。北宇治高校の吹部では一番の大所帯だ。

 そのくせ男子は臼井先輩ただ一人。自分よりずっと女子に気を遣わざるを得ない立場だけに、和を乱すような行動を取りたくないと思ってるのは容易に想像がつく。

 多分、小笠原先輩もそれを気にして無理強いはさせなかったのだろう。

 

「そうなの! 私が気を遣ってるのにみんなして早くサンフェスの練習にうつろーとか実力テストならありのままの状態見せればいいじゃないとか言いたい放題言うんだよそりゃ四日で仕上げろなんて無茶だと私も思うよでも合奏が滅茶苦茶だったら先生から怒られるかもしれないんだよそして矢面にたたされるのは部長の私なんだよちょっとは私の立場も考えて練習に身を入れてよ野口君なんか連絡に行ったときパー練ほったらかしで愛衣とイチャイチャしちゃってさあリア充爆発しろってのそう思わない蔵守君!?」

「……ですね」

 

 我が意を得たりと、急に口を(なめ)らかにして自分に愚痴をぶつけてくる小笠原先輩。お世辞にも気を遣っているとは言い難い行動だ。今は主治医の田中先輩がいないし、ちょっと始末に負えない。

 適当に相槌を打ちつつ、早く処方(しょほう)してもらおうと低音パートの教室へ歩みを速めたが。

 

「そういう晴香はサックスの方、ほっといて大丈夫なの?」

 

 同級生なので耐性は自分よりもついているらしい。鬱モード一直線な部長を意に介さず、喜多村先輩が含み笑いしながら軽口をたたいた。

 

「ほっとくって。人聞きが悪いなあ。葵が滞りなくやってるから大丈夫だよ」

 

 正気に戻った小笠原先輩はふくれっ面を見せてから、じっと自分の方に視線を向けてきた。

 

「……何でしょうか、部長」

「蔵守君はどうして低音パートに向かってるの? いや、何となく想像はつくけど」

「お察しの通り荷物持ちです。カタが付いたらすぐ戻りますよ」

 

 今の自分は喜多村先輩と岡先輩のファゴットのケースを背中と右手に抱えながら歩いている。ファゴットと楽器ケース合わせて、ゆうに七キロは超える。それが二組もあるのだから重たくてしょうがない。

 

「相変わらずこき使われてるみたいだね」

 

 小笠原先輩が苦笑する。

 片方ぐらい先輩達が持っていけばいいのに。そんな意図も込めて刺すような視線を向けるが、当の本人達は素知らぬ顔だ。

 

「ごめんねー♪ でも蔵守くんにはいい運動になるでしょ?」

「そーそー。あすかのとこのゴーレムと違ってコイツはヤワだから。こき使って鍛える位がちょうどいいの」

 

 ゴーレムって。もしかしなくても後藤の事だろうけど。あいつも変なあだ名つけられたな。

 

「まあ、去年があんなだったからね」

 

 小笠原先輩の何気なさそうな一言も、ナチュラルに心を(えぐ)ってくる。

 

「……先輩達。低音パートには一年生もいるんですから余計な事言わないで下さいよ」

「わかってるって」

 

 岡先輩がケタケタと笑い声をあげている。

 はあ、とため息をついて一人ごちた。

 

「もういい加減、去年の事で茶化されるのは勘弁してほしいです」

 

 去年の傷害事件の後しばらくは、経緯が経緯だけに腫れものにさわるような扱いをされてきた。

 とはいえ、喉元過ぎれば何とやら。三年も引退して部活に顔を見せなくなったのを境に、例の一件は先輩達からのおちょくりのタネにされた観がある。怪我が思いの外軽かった事もあって、女子にノックアウトされたという事実ばかりが部内でひとり歩きしていた。なんとも不愉快な話だ。新入部員にまでその噂が広まったらと思うと気が気でない。

 

「大丈夫だよ。私達も去年の事は一年生にあんまり話したくないし。みんな今までみたいなノリで(いじ)ったりはしないと思う。あれは……蔵守君への気遣いだよ、皆なりの」

「はい?」

 

 何をどう解釈すればそういう結論に至るのか。小笠原先輩の電波な見解に懊悩(おうのう)としていると、先輩はぽつりとつぶやいた。

 

「ほら、去年は私達、三年生が怖くて結局何も出来なかったじゃない。皆その事を申し訳なく思ってるけど、二人みたいに同じパートじゃないから。どう接すればいいかわからないと思うの。かといって何もしない訳にもいかないでしょ。爆弾がついた子は、放っておくといつ爆発するか分からないし」

 

 ときメ○かよ。というか自分は爆弾魔(ボマー)扱いか。そりゃ去年はいろいろあったけど。

 楽器隠されるわ、陰険な(いじ)めを目撃するわ、喧嘩の巻き添えを喰らうわ、聞くに堪えない曲を聴かされるわ。

 

 ……こうして思い返すと、ロクな思い出がない。

 

「先輩達もそうでしょうけど、自分にとっても古傷を抉られる気分なので、もう放っておいてくれという心境なんですが」

 

 悪気は無いのは分かったが、それにしても嫌な気の遣い方だ。

 仏頂面を浮かべると、小笠原先輩が子供をあやすかのように(さと)してきた。

 

「そうかもしれないけど。こういうのって本人よりも周りが気にしちゃうから」

「……それは自分も同じです。結局傘木の力にはなれませんでした」

 

 仲間が困っている時に助けられなかった、という点では同じ穴の(むじな)。先輩達から気を遣われる(いわ)れは無かった。あれから傘木に避けられてばかりの自分は、彼女を気遣ってやる事も叶わない。

 

「も、もう過ぎた事を悔やんでもしょうがないよ! 建設的な話をしよう! ……例えば、復帰を考えてくれるように南中の子達を説得に行くとか」

 

 塞ぎ込んだ自分を見て地雷を踏んだとでも思ったのだろうか。急にあたふたしだした小笠原先輩があらぬ事を口走ったので、三人揃ってギョッとした。先輩の事だから全くの善意での発言だろうが、いくらなんでもそれはない。岡先輩が慌てて翻意を促した。

 

「止めなよ部長。不発弾の処理だけでも面倒だったのに」

 

 不発弾とは自分の事だろうか。

 

「え、どうして? やっぱり活動がゆるいから?」

 

 その返答も、ちょっと的外れだ。

 拒否されるとは思っていなかったのか、ぽかんとする小笠原先輩の様子に喜多村先輩が頭を抱えている。

 

「そういう事が問題じゃなくて……。ああ、そっか。晴香は去年、南中の子達の慰留(いりゅう)に熱心だったからね。私達とはちょっと感覚が違うのか」

 

 左肩に束ねた髪をいじくりながら喜多村先輩は何か考え込んでいたが、ふと思い立ったようにこちらに話しかけてきた。

 

「蔵守くん、君が吹部の三年から苛められたとするね。それを私や美貴が見て見ぬふりをして何もしないでいたら、苛めがなくなった後も今まで通り付き合える?」

「……状況にもよりますが、多分無理です」

 

 自分とて男。先輩達に守ってもらおうとは思わないが、間接的にせよ何のフォローもないとなれば、さすがに悪印象がつくのは避けられない。中学からの知己であるから尚更だ。割り切れるかどうか、微妙なところだ。

 

「だよね。いじめを受けてる側の心理ってそういうものだもん。そりゃあ、私達も下手に南中の子達をかばって上級生に睨まれたくなかったって言い分はあるけど……。吹部での活動を棒に振る羽目になったあの子達が、そういう事まで気を回してくれるかなあ」

 

 小笠原先輩や中世古先輩の様に、南中出身の部員達のフォローに回っていた先輩は少数だ。その先輩達のお願いとあらば、多少は心動かされるかもしれない。だが、いざ復帰となれば、対岸の火事を決め込んだ部員達とも嫌でも顔を突き合わせる事になる。

 

 

 

 

 ……実際のところ、喜多村先輩が指摘している事も、問題になる時期をとうに過ぎていた。

 

 

 新入部員の仮入部期間中、大野さんと吉川さんが退部した打楽器(パーカッション)の子を復帰させようと、説得に行った事があったのだ。時期的に、戻り易いと考えたのかもしれない。

 自分はたまたまその現場を通りかかって一部始終を眺めていたのだが、結果は惨憺(さんたん)たるものだった。

 

――もうあれから半年以上経つんだよ。私達は軽音部でバンドを組んで、それぞれにやりがいを見出してる。やる気ある先輩達と同級生、みんな一丸になって一生懸命練習して、その成果を披露して。どれも去年、吹部に居たままじゃ出来なかった事。吹部ではサンフェスや演奏会には出場できても、練習量が足りないから音がバラバラ。合奏になってない。コンクールにはそもそも出場する事が出来ない。勝負の土俵に立てない――

 

 嫌な先輩達もいなくなったし、戻ってこない? 二人が最後まで言い終わらない内に、彼女はそう答えた。去年の嫌な思い出が脳裏をよぎるのか、言葉の一つ一つに熱がこもっている。最後の方は声がかすれていた。

 

――もう軽音部にいる期間の方が長いんだよ。軽音部で(つちか)った思い出。人脈。いろんなものを捨ててまで、嫌な思い出しか残ってない吹部に戻りたくない。たとえ吹部の体質が改善しても。絶対に!――

 

 毅然(きぜん)とした物言いに、大野さんも吉川さんも返す言葉が無いのがひしひしと伝わってきた。

 二人は以前から退部した面々に復帰の誘いをかけていたのだが、言を左右されて承諾を得られずにいた。そこに、この一件だ。

 結局このパーカッションの子を最後に、二人が退部した面々とそれ以上接触をもったとは聞いていない。彼女達の心が完全に吹部から離れたのを悟ったのだろう。これ以上の接触は、お互い嫌な思いをするだけだ。

 

 

 ……流石にこんな事を先輩達には言えない。特に、部長には。過剰な良心を痛める事にしかならない。

 

 

 

 

 

「部長。こっちから話を振っておいて何ですが、傘木達の事はもう考えてもしょうがないですよ。これまでの吹部の実績を考えても、南中の頃より環境が悪い事は入学前に見当ついてたと思います。あいつらにも全く落ち度が無い、ってワケでもないんですから」

 

 部の雰囲気までは無理でも、過去の実績程度なら調べ上げるのは造作もない。

 去年の三年の肩を持つような事は言いたくなかったが、南中出身の部員達の強硬な態度が問題を(こじ)らせたのも確かだった。

 私立であり、他県からも腕利きが集まる立華や洛秋は彼女達から見ても雲の上の存在。しかしこの二校に及ばずとも、万年銅賞の北宇治よりはマシな吹部を擁する学校なんて、いくらでもある。

 傘木以外の南中の面々が北宇治に進学した理由は分からない。あるいは弱小部を自分達の手で変えようという考えからか。それならそれで、一年の時ぐらい我慢して自己鍛錬に励んでいればいいものを、と最近は思わないでもなかった。

 自分も北宇治の吹部で活動していくうちに、思考が毒されてきたのかもしれない。

 

「うん……」

 

 初めは他愛ない雑談だったはずが、なんとなく湿っぽい話題に移行して自分も先輩達も口を閉ざしていく。

 そんな気まずい空気の中、低音パートが練習に使っている教室から単調な音の伸びが聞こえてきた時、何故か救われた思いがした。

 

 

♪~

 

「あすか、お待たせ。練習に来たよ……ってあれ?」

「どうしたの?」

「鍵、かかってるみたい」

 

 首掛けタイプのストラップにぶら下がったバリトンサックス。それを片手に小笠原先輩が再度扉を開こうとするが、なるほど先輩の言葉通り扉はビクともしない。

 首を傾げていると、中から田中先輩の芝居がかった声が返ってきた。

 

「……この三年三組の教室は開かずの間。何人たりとも入れぬぞ……」

「その開かずの間にいる先輩は何なんですか」

 

 一瞬の静寂。ややあって中から返答。

 

「……えっと、妖怪?」

 

 確かに田中先輩は突拍子もない言動を繰り返すし、妖怪じみてはいる。

 

「もう約束の時間よ。馬鹿な事やってないで入れてよ」

 

 小笠原先輩が呆れ顔で、扉向こうのいたずらっ子に鍵を開けるよう促すが。

 

「ちょっと待った! 入りたいなら合言葉を述べよ」

『合言葉?』

 

 何の事か分からず、先輩達と顔を見合わせていると、出し抜けに三つの数字を口ずさむ田中先輩の声が聞こえてきた。

 

「81、60、83」

 

 ……聞き覚えのある三種の数字。頭に浮かぶのは六時限目の化学の授業、先生が雑談半分で話していたある種の元素。

 

「レアメタル?」

「晴香のスリーサイズだね」

 

 確か原子番号81がタリウムで、60は……なんですと?

 

 喜多村先輩の返答はしっかり正解だったようで、教室の扉がガラガラと開く。

 そして未だかってない加速で教室に飛び込む小笠原先輩。顔は真っ赤っ赤。

 

「ちょっとあすか! 男子がいる前で何言ってるのよ!?」

「いや~他のパートとのセクション練習って、一年生達は今日が初めてでしょ? 親しみやすい先輩って感じのアピール、みたいな?」

 

 スリーサイズをアピールする事で得られるようなものなんだろうかそれは。

 

「おっぱい部長……」

「憧れのCカップ……」

 

 ものほしそうな様子で小笠原先輩の胸を凝視する、聖女の子と黄前さん。その一言で、彼女達のカップサイズもなんとなく見当がつく。揃いも揃ってプライベートな情報をぶちまけすぎじゃなかろうか。部長はともかく、新入部員二人に関しては身長とか誕生日とか、好きな食べ物とか趣味とか、そういう無難な個人情報をすっ飛ばして最初に手にした情報がカップサイズである。

 後輩達の視線を察してか、小笠原先輩がバリサクで胸を隠しながら田中先輩を怒鳴りつけた。

 

「もう! 合奏は明日だよ! 遊んでる暇なんて無いんだから、真面目にやってあすか!」

 

 部長。口喧嘩してる暇も、本当はありません。

 

「はいはい。こっちは準備できてるから、いつでも合奏できるよん」

 

 言い争いを続ける我らが幹部二人を尻目に、教室に入って後藤と長瀬さんと軽く挨拶を交わした。低音パートはほとんど全員揃っている。中川の姿だけがない。もう帰ったのだろうか。

 空いている机にファゴットケースを置いて一息つくと、背後から騒ぎ声。先輩達は一年生との初顔合わせで早速盛り上がっているようだった。

 

「低音には一年生が三人入ったんだよね。楽器振り分けの時に聞いたと思うけど、改めて自己紹介するね。私は喜多村来南。来南でいいよ」

「私は岡美貴乃(みきの)。名前は美貴乃だけど美貴でOK。ぶっちゃけ美貴乃って名前あんま好きじゃないの。語呂も悪いし」

 

 お相撲さんみたいですもんね。

 

「み、美貴先輩!」

 

 そんな事を思っていると、聖女の子が急に岡先輩に駆け寄ってきた。

 

「ん? なに?」

「私、川島緑輝(サファイア)っていいます! 私もサファイアって名前で呼ばれるのが嫌なので、みどりでお願いします!」

「う、うん。わかった……」

 

 ふんっ、と鼻息を荒くする川島さんの気迫に、若干引き気味の岡先輩。

 それにしても凄い名前の子だ。名前のせいで小中学校ではいじめられたりしなかったのだろうか。ご両親はどんな考えでこんなキラキラネームつけたんだろうか。そもそもサファイアというと青のイメージだが。

 どこからツッコむべきか悩んでいると、岡先輩がこづいてきた。

 

「ほら、蔵守も自己紹介する。まだこの子とは話してないんでしょ?」

 

 岡先輩に腕を引かれながら、こちらをじっと見上げる川島さん。楽器振り分けの時も思ったが、本当にちっこい子だ。

 

「いや……自分オーボエですし、全体練習以外じゃ低音パートとあんまり一緒になる事ないですよ」

「どうせ今後も荷物持ちで顔合わせるんだから、ちゃんと覚えてもらった方がいいじゃない」

「今年も荷物持ちさせるのは決定事項なんですか」

 

 思わぬ臨時収入もあった事だし、ここは辛抱しておくか。

 我ながらさもしい思いを抱えながら、表面上はにこやかに川島さんに接した。

 

「昨日の腹式の指導で黄前さんと()()は知ってると思うけど改めて。自分は蔵守啓介。聖女みたいな強豪とは縁遠い中学に通ってたから、機会があれば練習方法とか聞いてみたいな。よろしくね、川島さん」

「はい! よろしくおねがいします、蔵守先輩!」

 

 ちゃんと名前で呼んでくれた事に何故が胸が熱くなる。当たり前の事なのに。

 

「……なんで久美子とみどりはさん付けで、私は呼び捨てなんですかー」

「さあなんでだろうね」

 

 人を風船呼ばわりする後輩に、敬称をつける必要性は感じない。

 

「それじゃ自分はこの辺で。練習に戻りますね」

「ああ、蔵守。戻る前に一度合わせるから聞いてってよ。気になったトコあったら教えてちょーだい」

 

 雑用も済んで教室を後にしようとしたところ、田中先輩に引き止められた。

 

「え? 鎧塚さん待たせてますし、指導なら畑違いの自分より田中先輩の方が適任でしょう?」

「まぁそうだけど。たまには別な視点から意見聞きたいの。そんなに長くはかからないからさ」

「一度だけですよ」

 

 メトロノームのテンポを調整し、机に置かれた予備の楽譜を開きながら席についた。

 たまには低音パートの練習に参加するのも悪くない。この短期間で、どこまで形になっているか興味もある。

 合奏の準備が出来たのを見計らい、机を指先で叩きながらリズムを取った。

 

「一、ニ、三、ハイッ」

 

 

♪~

 

 

「……まあいいんじゃないんですか? 自分的には特に問題無いように思えます」

 

 合奏を一通り聞いた後、つぶやいた。

 さすがに田中先輩の御膝元だけあって、低音パートは真面目にやっているらしい。

 喜多村先輩と岡先輩も、細かいところは別として明らかなボロは見受けられない。

 

「みんなうまいです……。私は全然思ったように吹けないのに」

「葉月ちゃんは初心者だからしょうがないよ。私だって去年の今頃はそんな感じだったよ?」

 

 初心者まで合奏に参加する必要は無い、とは滝先生の言でもある。自分の隣で一緒に鑑賞していた加藤がため息をつくと、長瀬さんがすかさずフォローした。今この場にいる面子の中で、加藤以外に高校からの吹奏楽スタート組は彼女しかいない。初心者だった頃を思い起こさせて、放っておけないのだろう。

 

「でも~、私演奏以前に音もまだ安定して出ないんですよ」

 

 やる気が空回りしているのか、加藤が顔を曇らせる。まだ入部してからいくらも経っていないのだから、気にせず気長に取り組めば良いと思うが。

 ……少し、稽古つけてみるか。

 

「ほら加藤。笑顔笑顔! そんな暗い顔してちゃ出る音も出なくなるぞ」

「いえ、今はそんな気分じゃ……」

「先輩命令。四の五の言わずにとっととやる!」

「は、はいぃ! これでいいですか?」

 

 即座に返事をしてくれる加藤。昨日のオイタが効いたようで大変結構。だがまだ笑顔が固い。

 

「そうじゃなくて、こう。頬の筋肉をしめて口角(こうかく)をちょっと上げて。……そうそう、微笑むみたいな感じで」

「こ、こうですか?」

「よし。その顔のまま、正面に向かって吹いてみて」

 

 加藤は狐につままれたような視線を向けながらも、チューバを抱えて大きく息を吸い込んだ。

 

♪~

 

『おおー』

「で、出た! 出ました!」

「葉月ちゃんすごいです!」

 

 自分と加藤のやり取りを面白そうに眺めていた外野から感嘆の声が漏れ出す。

 友達がぶち当たった壁を突破して、気分が高揚しているのだろう。川島さんが我が事のように満面の笑みを浮かべて、加藤の手をとってブンブンと振り回している。

 

「うん、いい音だったよ。笑顔って、口周りの筋肉がもっとも柔軟に動いてる状態だからね。吹く時はそのあたりを注意するといいよ」

「はい、ありがとうございます!」

 

 上手くいけば儲けものと思っていたが、これで少しは先輩の威厳を見せられたかもしれない。

 ふと視線を感じて振り返ると、田中先輩が怪訝(けげん)そうな面持ちでこちらを見つめていた。

 

「……」

「田中先輩? どうかしました?」

「えっ? ああ、ううん。しかし蔵守もやるねぇ。ここのところ後藤も『音が出ないからって唇に無理に力を入れるな』とか『息を下向きに』とか、つきっきりでレクチャーしてたんだけどなかなかうまくいかなくてねー」

「手間かけさせてすまん……。俺の教え方が拙かったのかどうも上手くいかなくてな」

 

 つきっきりで、というあたりが世話焼きな後藤らしかった。

 自分ならそこまで面倒は見ない。自然に近い口の形で、いろいろ吹いてみろと言うだけで、後は放っておく。口の形が人それぞれ違うように、楽器の吹き方のコツも人それぞれ違うのだ。最後は自分自身でベストの方法を見つけるしかない。

 

「長瀬さんの時はそれで上手くいったんだろ? 別に後藤の教え方が間違ってた訳じゃないさ。加藤の場合はたまたま自分の教え方の方が合っていただけで」

 

 責任を感じているのか、うつむいた後藤の肩に手を置いて慰めた。

 

「それに、今のやり方も加藤にとっては多分ベストって訳じゃないから。他の金管パートとの練習の時に、先輩達に『楽器の吹く時の口の形ってどうしてるんですか?』って聞いて参考にするのがいいんじゃないかな。な、後藤」

 

 ここから先は木管の自分が事細かに指導するよりはいいだろう。そう思って確認を取ってみたが、後藤の顔色は冴えない。

 

「いや。そっちはあんまりアテにしない方がいい」

「うん……。私達はちゃんと練習できてるけどね」

 

 長瀬さんも奥歯に物が挟まったような口振りだ。

 

「どうしたの長瀬さん。『私達は』って」

「えっとね。セクション練習のこと、一昨日のうちにホルンにも知らせてたんだけどね。なにか煮え切らない反応で」

「私がさっき呼びに行った時は、教室はもぬけの殻でした」

 

 黄前さんがバッサリ言ってのける。

 

「ああ、そうなんだ……」

「帰ったんだろ。もう五時だし」

 

 教室の時計を確認すると、後藤の言葉通り。確かに五時を過ぎている。部活の時間を過ぎている以上、引きとめる理由もなかった。

 

 今の吹部の活動時間は平日の放課後、午後四時から午後五時までのわずか一時間。朝練や休日練習なんて勿論無く、時間外の練習は個人の裁量に(ゆだ)ねられている。

 吹部の活動時間としては明らかに短いのだが、何十人も部員がいれば部活に対する温度差も相当なものになってくる。去年の温度差については思い出すまでもないが、今現在もこの問題は解決しているとは言い難い。部員の皆が皆、強豪校のように意識が高い訳でもないので仕方のない事だった。

 とはいえ吹奏楽が団体競技である以上、それを放置したままでは去年の失敗を繰り返す事になる。先輩達だって、そこは考えている。

 数度にわたるパーリー会議の結果、束縛時間を短くして、限られた時間だけでも真面目に練習しようという事に落ち着いた。

 そういう事情があるので、コンクールで使う曲の練習ならともかく、サンフェスに使うかどうかも分からない海兵隊の演奏が形になっていないから部活時間外も練習しましょう!……とはとても言えるような事ではなかった。下手をすれば去年の二の舞になる。

 

「あすか先輩、明日は合奏なのに大丈夫なんでしょうか?」

「どーだろーね。部活時間中はちゃんとやってるんだし、無理にやらせてもしょうがないし」

 

 長瀬さんが不安そうに尋ねるが、田中先輩もフォローする気はないようだ。

 先輩の言うように、部活時間中はちゃんと練習しているだけまだマシだ。去年はそれすらできていなかった。ただ、問題は。

 

「それなんですけど、五時帰りってのをあの先生がどう思ってるんでしょうか」

 

 前々から思っていた不安を口にした。

 忙しいのか、滝先生は初顔合わせの日から部活に姿を見せていない。が、五時を過ぎれば途端に大人しくなる音楽室や各パートの教室の様子に、気付いていないはずはない。居残りは強制では無いとはいえ、演奏が形になっていなければ何と言われるか。

 

 合奏よりもその後の展望の方が、不安でたまらなかった。

 




 
小笠原先輩のスリーサイズは公式記録が無いので(当たり前だ)、適当です
 


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第13話 歯に衣着せないコンダクター

 一夜明けて、海兵隊の合奏当日。今日はいよいよ本番という事もあって、放課後の音楽室に向かう途上で見かける面々はどれも吹奏楽部員ばかり。みんな早めに部活の支度に取り組もうとしているようだった。

 階段を駆け上がった先の廊下では、一年生部員達が音楽室から机を運び出しているのが見える。合奏に先立って音楽室のスペースを確保しているのだろう。部活前の雑用という事で、去年は自分達も通った道だ。

 懐かしさに目を細めていると、うんしょうんしょと机を運んでいた一年と目が合った。風になびく栗色の長髪。本人の希望通りシンバル担当に収まった井上だ。

 

「あ、蔵守先輩こんにちは」

「ああこんにちは」

 

 何もおかしなところは無い社交辞令。しかし何故か井上の機嫌を損ねたようで、彼女は机を置いてジトっとした視線を向けてきた。

 

「なんですか、その芸の無い挨拶は。面白くなーい」

「ただの挨拶にどんなリアクションを期待してるんだ君は」

「楽器振り分けの日みたいに、笑いを取ってくれないとつまんないですぅー。私達関西人なんですから!」

「……関西人というより大阪人の発想だな」

 

 そういえばあの時も愉快な先輩とか言ってきたな。と思い返して首を捻った。どこら辺が彼女の笑いのツボに入ったのだろう。にわかに好奇心が湧いてきたので尋ねてみたくなった。

 

「それにあの時、別に笑いをとってたつもりはないんだけど」

「またまた御冗談をー! 高校生にもなって人前で風船膨らましてる男子って普通いませんって。もうその存在自体がギャグです」

 

 高校生にもなって、風船細工貰って喜んでた彼女にだけは言われたくない台詞だ。確かにちょっと子供っぽかったかもしれないが。

 

「いや、あれは勧誘ついでにやってただけだから。言われなくても普通は人前でやらないから」

「鈍いですねぇ。新入部員には吹奏楽知識ゼロの初心者もいるじゃないですか。吹奏楽部員が風船膨らます事は変じゃないですけど、風船膨らましてる吹奏楽部員って部外者から見ると変なんですよ。だから初心者の子、だーれもダブルリードパートに寄りつかなかったんじゃないんですか?」

「なん……だと……」

 

 衝撃の発言に打ちのめされて、思わず背後の壁に背をついた。

 そう言えばあの時、ちらちら様子を窺っていた何人かの一年生の、自分を見る目がどこか生温かったような。興味はあるけど変な先輩がいるパートはちょっと、と思われて敬遠されてたのか……? あれ、もしかして自分って凄い戦犯だったり?

 

「と、ところで井上」

 

 合奏前からメンタルがボロボロになりかけそうになるが、彼女に注意しておかなければならない事がある。冷や汗をかきつつも気を取り直して話しかけると、彼女は露骨に顔をしかめた。

 

「わ。もう先輩風吹かせてるこの人。まだ打楽器(パーカス)の先輩達にも呼び捨てされた事ないのに! まあ先輩ですからいいですけど。それでご用件は何ですか?」

「その風船の件だよ。同級生達に面白おかしく吹き込んだだろ。おかげで変なあだ名が定着しちゃったし、どうしてくれるんだ」

 

 そもそもの原因を作った事はあえてスル―。

 

「私は何もしてませんよ。ホルンの子と話した時にちょっと先輩の事喋っただけで。そしたらその子があっという間に広めちゃって……。あだ名になったのは私のせいじゃないですー」

 

 言い訳がましく呟いて、井上は背中の机にもたれかかった。

 噂がひとり歩きしているのは、彼女にとっても不本意だったのかもしれない。とはいっても噂なんて、たいていそんな感じに広がるものだろう。

 

「そんな事より、足元に火がついてると思いますけど。今日の合奏、大丈夫なんですか先輩?」

「……ナックル先輩が、何か言ってた?」

「新入部員の指導もあって今は忙しい。俺は他のパートの面倒まで見てる余裕ねーぞ。って」

 

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるあたり、井上も合奏の見通しを危うく感じているのだろう。そしてナックル先輩はサジを投げたか。最上級生の先輩がフォローする気がないのなら、二年の自分が口出ししたところで結果は見えている。無駄に反感を買ってはいられない。

 

「そう。それなら井上も、自分自身の仕事をこなす事だけ考えればいいよ」

「……先生から何か言われると思いますよ。一度痛い目を見た方が良いって事ですか?」

 

 頼りにならない先輩達だ、と言いたげな様子の井上から視線をそらした。

 今以上に状況を改善できるものなら、はじめから部長達と相談してなんとかしている。

 多少は妥協しなければならない。本音を隠さずぶつかり合えば、去年みたいに揉めてみんな傷つくだけだ。温度差なんて、どこにでもある。いちいち目くじらを立てていられない。

 コンクールで活躍するのを目指す事ばかりが、吹奏楽の楽しみでもないはずだ。そう自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

 井上との雑談からほどなくして、音楽室に部員全員が勢揃いした。

 まずは滝先生の指示の元、合奏に先立って軽くチューニングが行われる。微妙に音がずれていた。それでも、去年の荒波のごとくうねりまくるチューニングのような何かと比べれば、格段の進歩といっていい。

 ここまでは良い。ここまでは。

 

「では、最初から一通りやってみましょうか」

 

 滝先生の腕が上がり、みんな一斉に楽器を構える。それを見届け、先生は手を振り下ろした。

 

「さん、しっ」

 

♪~ スーッ! ♪~ スーっ!

 

 合奏が始まってまもなく、フルートの特徴的な息漏れ音が耳にこびりついた。他の木管楽器がリードやマウスピースを口に咥えて演奏するのに対して、フルートは吹き込み口に下唇を乗せるような形で演奏する。だからどうしても息漏れは発生してしまうが、少しあからさま過ぎだ。周りの音に負けまいと、必要以上に吹き込み口に息を吹き込んでしまっている。

 

キィィィィー!!

 

 黒板を引っ掻いた様な、耳障りなノイズが隣のアルトサックスから飛び出た。口に力が入り過ぎで、リードがうまく振動していない。

 思わず顔をしかめていると、後方のトロンボーンが音をはずした。これはもう耐性がついている。

 構わずオーボエと唇をつなぐリードに息を吹きこんで演奏を続けたが、今度はホルンがリズムを崩して他のパートの混乱を誘う。

 土台をしっかり支えてきた低音パートと打楽器(パーカッション)も、その上ではしゃぎまくる中高音域の楽器達につられて調子を崩した。

 

「はい、そこまで。皆さんの実力は、よく分かりました」

 

 どう見ても合奏の体を為さない状況に陥っている。そう判断したのか滝先生が指揮を止めた。

 

「技量も(つたな)ければ、一生懸命さも無いので感動もできない。そんな合奏ですね」

 

 滝先生は穏やかな表情を浮かべたまま、率直かつ簡潔な評を述べた。温厚な人ほど逆鱗に触れた時の怒りは凄まじい。どんな罵声(ばせい)が飛んでくるかと内心ビクついていたが、滝先生は叱責する時も冷静に言葉で相手を追い詰めるタイプらしい。これはこれで、胃が痛くなってくるが。

 滝先生は、各パートのリーダーを槍玉に挙げて、滔々(とうとう)と問題点を指摘し始めた。

 

「……最後にクラリネット。鳥塚ヒロネさん」

「は、はいっ」

 

 鳥塚先輩がびくっと身を縮めた。

 その様子が、日頃から自慢している小顔と、もみあげを輪郭に沿って垂らした触角ヘアーとあいまって、三年生にしては小柄な先輩をいっそう幼く見せている。

 

「弱いです。音が全然弱い。クラリネットは人数が多くてまとめるのが大変なのは分かります。ですが貴方がやるべき事は、パートメンバーの尻拭いではなく、尻を叩く事だと思いますよ」

 

 瞬間、鳥塚先輩が凍りついた。譜面台の隙間から、スカートを握りしめる先輩の左手が、がくがくと震えているのが見える。

 尻拭いって何の事? と音楽室のそこかしこでひそひそ声が聞こえた。

 

「尻拭いだなんて……私はそんなことっ」

「ではクラのところ、一人ずつ吹いてもらえますか?」

「……」

「どうしました?」

 

 どうやら滝先生はクラリネットの音が弱い原因について、目星は付いているようだった。

 鳥塚先輩は無言のまま、涙目になってうつむいている。滝先生は彼女に向かって呆れたようにため息をつくと、矛先を小笠原先輩に転じた。

 

「部長」

「は、はい!」

 

 小笠原先輩の震え声が後ろから聞こえてきた。これから我が身に降りかかるであろう叱責を恐れて、彼女が青ざめていくのが振り返らずとも分かる。

 

「私、言いましたよね? 海兵隊を四日で仕上げて下さいと。自信がないのなら、部活の時間外に自主練してよいと」

「はい……」

「その結果がこれですか」

「すみません……」

 

 部長である貴方の管理不行き届きですよ。とでも言いたげな滝先生の言葉に小笠原先輩の声が萎んでいく。

 矛先が自分に向かってこないように頭垂(こうべた)れたまま、視線を左右に泳がせた。さすがに誰もがうつむいて、小笠原先輩を視界に止めようとしない。本来自分達が受けるべき叱責を、部長に被らせている後ろめたさがあるのだから。

 

「皆さん、合奏って何だと思います?」

 

 皆で一緒に演奏する事。そう返したところで、全然一緒に演奏出来ていませんよ、と叱咤されるのは目に見えている。藪蛇になるのを恐れてか、滝先生の問いかけに誰も答えようとしなかった。

 

「私は、合奏とは聴いてくれている人達に感動を与える時間だと思っています。音というのは、出た瞬間にどんどん消えていってしまいます。そして合奏が終わった後、物理的には何も残りません。だけど心には不思議な充足感で包まれる。そういう時間であるべきです」

 

 音楽室を包む嫌な沈黙を破って、滝先生は言葉を(つむ)いでいく。今の合奏が、先生が考えているものに(かす)りもしないのは明らかだ。

 

「全国に行くためには、技術は勿論ですが観客に感動を与える合奏ができなくてはなりません。だからこそ一回一回の合奏を、常に本番のつもりで全力投球でやってほしいのです。下手なら下手なりに、一生懸命さを見せて下さい」

 

 滝先生が言う、一生懸命さを見せろとは何を指しているのか。思い当たる所があるのだろう。皆、居心地の悪そうな表情を浮かべている。

 

「今日まで、各パートの練習風景をそれとなく観察させてもらいましたが、短い時間を惰性で練習して過ごしているだけで、一生懸命さのかけらも見えません。長々と練習したくないのなら、その分集中して取り組んでもらわないと困ります。貴方達は全国へ行くと決めたのですから」

 

 やはり滝先生に練習の様子を見られていたのか。

 おかしな行動を取ったつもりはないが、まだこの先生の気性を把握しきった訳ではない。不安は残った。

 

「この演奏では指導以前の問題です。私の時間を無駄にしないで(いただ)きたい」

 

 口調は淡々としているが、容赦のない滝先生の言葉に誰もがうなだれた。顧問からの叱責なんて中学の吹部では見慣れた光景だったが、二年間ぬるま湯に浸かっていた三年生達には相当こたえたようだった。泣きだしてる人までいる。

 

『……』

 

――下手なのは自覚している。練習量が足りないのも分かってる。でもサンフェスを来月頭に控えた忙しいこの時期に、本番で使うかどうかもはっきりしない曲の練習で時間を潰さなくてもいいじゃないか――

 全国大会出場を目標にした手前がある。そう言いたくても口には出せない同級生や先輩達の、鬱屈(うっくつ)した心の声が聞こえてきそうだ。

 

「来週、再度海兵隊の合奏をします。それで及第点にも届かないような出来なら、遊んでいる暇もありませんね。サンライズフェスティバルも出場を辞退して、じっくり一からコンクールに向けて鍛え直しましょう」

 

 その言葉に、思わず冷や汗が出た。

 不出来な合奏についての叱責は仕方が無い。過失は自分達にあるのだから。

 だがそれに重ねて、このままならサンフェスには出場させないという滝先生の言い草は、さすがに面白くない。昨年度の出場では精彩を欠いたものの、サンフェスは基本的にお祭り。下手な演奏でも愛嬌(あいきょう)で済まされるし、可愛い衣装を着られる数少ない機会とあって、楽しみにしている女子は多いのだ。

 案の定、事ここに至って大半の部員達は表情から不快感を隠そうともしなくなった。

 

「なによアイツ……」

「サンフェス出ないとか、ありえない!」

 

 滝先生が音楽室から姿を消すと、練習不足が招いた過失でもある事も忘れて三年生達は先生への文句を言いつのった。一年生達はそんな雰囲気に呑まれておどおどするばかりだ。

 

「はいはい! この大人数で文句言いあっても収拾つかないでしょ。先生に駄目だしされた部分も直さなくちゃいけないし。練習ついでにそれぞれのパートに分かれて、意見まとめて明日のパーリー会議で話し合おうよ」

 

 普段はみんなをまとめる田中先輩の鶴の一声も、すっかり悪くなった部の空気を覆すには至らない。もう練習する気力も沸かないのか、各自が練習に使っている空き教室に戻って話合うのも手間なのか、みんな音楽室のそこかしこに固まって愚痴るばかりだ。

 

 負の空気が充満する音楽室にこれ以上居たくない。ひとり席を立って音楽室の扉を開いた。隣の席に座っていた鎧塚さんの視線を背中に感じる。何か小声でつぶやいてきたような気もしたが、振り返りはしなかった。

 

 

 

 

 やはり傘木達が退部したあの時に、自分も辞めた方がよかったのかもしれない。

 

 パート練習に使っているいつもの教室に移動しながら、そんな事を思った。廊下に響くのは自分の足音ばかり。耳障りで仕方が無い。

 

 傘木達のやり方では上手くいかなかった。だからこそ小笠原先輩や中世古先輩達に従って、なるだけ穏便な手段で吹部の改善に取り組んできた。まだまだ問題はたくさんあるが、そのかいあって去年とは見違えるように平穏な吹部になったのに。

 それをあの先生は引っ掻き回してくれた。女子が多い上に、これまで緩い環境だった部活なんだ。デリケートな指導が必要なんて事くらい、大人なら言われなくてもわかるだろうに。

 賽の河原で少しづつ積み上げた小石を鬼に崩される気分とは、こういうものなんだろう。これでは何のために、今日まで吹部に居残ったのか分からない。

 

 人っ子一人いない教室にたどりついて、誰もいないのを確認してから大きなため息をついた。去年のように荒れること確実な明日からの部活を思うと、気が重い。

 こういう時は、自分なりの方法でストレスを発散した方がいい。鞄から取り出した【風笛】の楽譜を譜面台にセットして、オーボエをじっと見つめた。

 

 黒色の管体は、古びてところどころ色あせている。十年以上前、北宇治の吹部が全国大会常連だった頃に調達されたと聞いているが、無名になってからは(ろく)に扱われる事もなかったらしい。楽器棚の奥に埋もれたオーボエのケースを初めて見た時は、何とも言えない気分にさせられた。

 

 ……このオーボエとも、今後の部活の荒れ次第ではお別れする事になるかもしれない。

 それなら、今は悔いのない演奏をしよう。

 一切の雑念を頭の隅に追いやり、オーボエに取り付けたリードを(くわ)えて、思いっきり息を吹き込んだ。

 

♪~

 

 ……去年、傘木と初めて会った時の事が走馬灯のように浮かぶ。

 彼女は、フルートで同じ【風笛】を演奏してみせた。

 それからというもの、この曲を吹いている時は、いつもあのフルートの音色を思い出してしまう。

 あの日あの演奏を聞くまでは、自分もそれなりに吹けていると思っていたから。

 だけど彼女の演奏を聴いてみると、自分の演奏にはそこかしこに(ほころ)びがあるのがはっきり分かる。

 自分もあんな風に吹いてみたい。

 勿論、オーボエとフルートではそもそもの音色が違う。真似をすればいいという物ではない。それでも、もっと優しく、柔らかい音色を。そんな思いが頭にこびりついて離れなかった。

 

 普段は適当な所で切り上げるのだが、鬱憤(うっぷん)が溜まっていたせいかもしれない。珍しく最後まで吹きあげた時、背後から声がした。

 

「いい音色ですね」

「?」

 

 振り返ると、いつのまにか滝先生が教室の扉を開けて(たたず)んでいた。

 

「ええと、貴方は確かダブルリードのパートリーダーの」

 

 顧問になったばかりで、部員の名前と顔が一致しないのだろう。部員達の情報でも記載してあるのか、滝先生は手に抱えた大学ノートをめくりながらダブルリードの子は……とつぶやいている。

 

「……二年の蔵守です」

「そうでした。なかなか堂に入った演奏でしたが、蔵守君はいつもその曲を練習しているのですか?」

「はい。合奏よりも一人でオーボエを吹いている方が好きなので。今日みたいに最後まで吹くのは気分が乱れた時、気持ちを切り替える為にですが」

「なるほど。確かに音楽にはリラクゼーション効果がありますからね」

 

 気分が乱れたのは先生のせいでもあるんですよ、と暗に匂わせたつもりだが通じないようだ。

 

「海兵隊を演奏している時よりもずっと表情が輝いていましたよ。曲選びを誤りましたかね」

 

 さして悪びれもせず、滝先生はそんな事を言い出した。確かに気合いを入れていたが、普段とそこまで変わっているとは思えない。

 

「演奏している時の表情を見て、貴方は本心から音楽が好きなんだなとわかりましたよ。思い出づくりを希望したのは、練習が厳しくなる事で音楽が嫌いになるかもしれないと不安に思っているからですか?」

 

 先生が、いきなりおかしな事を言い出した。

 

「違いますよ。全国大会出場を目標とした練習スケジュールがどんなものか、自分は知りませんし、そんなのやってみないと分からないじゃないですか」

「そうですね。やってみないとわかりません。それならば一度、そういう経験を積んでみるのも悪くないと思いますよ」

 

 自分が返答につまっていると、先生は窓際の椅子に腰かけて話を続けた。

 

「ダブルリードパートの様子も見させてもらいましたが、正直意外でしたよ。貴方は全国大会出場という方針に正面切って反対しましたから。あまり吹奏楽に熱意はないのかと思ってました。ですが、腹式の指導や低音パートとの練習では、親身になって新入部員の指導に当たっていました。今の演奏もなかなか良い。やる気がないと言う訳でもなさそうですね」

 

 思いもよらない事で褒められて、急に体中がむず(かゆ)くなる。こういうのは苦手だ。慌てて話題を変えた。

 

「先生、ちょっといいですか」

「何です?」

「部活のことで単刀直入に聞きたいんです。先生は本気で全国を目指すつもりなんですか?」

「ええ、そのつもりですよ」

 

 滝先生は一瞬面喰ったような表情をみせたが、すぐに人あたりのいい笑顔を浮かべて返事した。その(てら)いの無い笑顔が自分の神経を逆撫でする。去年の事は知っている癖に吹部の実績のチェックの方はさっぱりなのか。

 

「今年から北宇治に来た先生はご存じないかもしれませんが、ここの吹部は府大会銅賞常連ですよ」

「ええ、勿論知っています」

 

 目眩(めまい)がした。近年の実績も知っていて、あんな大言を吐いたというのか。

 

――顧問を担当するのは初めてですが――

 

 滝先生が初めて部活に顔を出したあの日の言葉が頭に浮かぶ。初めての顧問、しかも北宇治に来たのは今年から。部員一人一人の事もまだ良く分かっていないはずだ。

 

「吹奏楽コンクールに出場して上を目指す事ばかりが、吹部で活動する意義ではない。貴方はそう思っているのかもしれませんね。私もそういう考え方を否定するつもりはありませんよ」

「それなら」

 

 全国を目指すなんて夢を見させず、初めから思い出づくり一本でいった方がよかった。その方が自分達の身の丈にも合っている。

 そう言おうとしたが、滝先生に手で制された。

 

「ですが。吹奏楽コンクールほど日本全国の吹奏楽関係者が一堂に会して、それまでの長期間に渡る努力の成果を披露しあう場もないのも事実です。予選を通過できなければそれまで。そのシビアな舞台で、日頃から培ってきた技量を一生懸命披露しあう姿。その緊張感あふれる姿勢に、人は魅了されてしまう。そして俺も私も同じような体験をしてみたい。そういう思いに駆られてしまう。野球に例えるなら、甲子園のようなものですかね」

 

 そういう考えも、理解できなくはなかった。理解できるのと、賛同できるのとではまた違う。

 

「私が去年まで副顧問を務めていた学校の生徒達も、そんなコンクールの空気にすっかり染まってしまいましてね」

 

 滝先生はノートをめくり、写真を取り出して自分に手渡してきた。

 (いぶか)しりながら手に取った写真には、"祝 小住中学校 京都府吹奏楽コンクール金賞"の横断幕を笑顔で掲げる学生達の姿が映っている。写真の隅々にまで目を通すと、多数の学生達に混じって、顧問と思しき初老の男性と、眼鏡をかけた若い先生の姿もある。

 若い先生の方は見間違えようも無かった。自分の目の前にいるのだから。

 

「……滝先生は、小住中にいたんですか」

 

 小住中が金賞を取ったと知ってもピンとこない。つい一昨年前まで自分の母校と変わらない、吹奏楽コンクールでは大した実績を残せずにいた弱小校のはずだった。

 

「蔵守君、副顧問を幾つかの学校の吹部で担当した私の経験から言わせてもらいますとね」

 

 滝先生の目が光った。

 

「吹部を変えられるかどうかは最上級生である三年生の動向にかかっているんですよ。部を変える。その為にはそれまでの二年間、慣れ親しんだ部の空気を変えなければいけません。普通なら、それにストレスを感じて三年生はなかなか言う事を聞いてくれません。最上級生が言う事を聞いてくれないなら、下級生達は従いたくても従えません。そうなると時間をかけて鍛え直すしかないんです。顧問の指導力があっても、直ぐにどうこうできるというものではないんですよ」

 

 上下関係が幅を利かせる吹奏楽部。最上級生が動いてくれない事にはどうにもならない。それは去年の活動で痛感していた。

 滝先生に対する見方を変えたほうがいいかもしれない。うっすらと夕焼け色に染まる空へ視線を移す先生を見つめながら、そう思った。この先生も相当の修羅場をくぐり抜けてきたんだろう。実体験に基づいたものと思われる言葉は、自分に対してだけではなく、先生のかつての教え子達にも向けられているように感じた。

 

「正直な話、北宇治高校の吹部の立て直しも、それなりに長期計画で取り組むつもりでした。ですから驚いたんですよ。今まで私が見てきた銅賞常連の吹部よりずっと状態が良い。これならコンクール前までには鍛え直せます。部長の小笠原さんは随分と頑張ったようですね」

「それは、去年いろいろありましたから。その反動で」

「ええ。皆さんやる気があるようで、その点でも好ましい事です」

「あの合奏で!? ……ですか?」

 

 この人は皮肉を言っているのか? 他ならぬ先生自身、一生懸命さが無いとダメだししたはずだ。

 

「私が副顧問を務めていた吹部のなかには、勉強なり遊びなりを理由に、コンクールに出たいと思う子の方が少数派なところも珍しくありませんでしたよ。しかし北宇治の子達は、周りに流されてとはいえ全国大会出場を目標にした。それは去年の(てつ)を踏みたくない、そう思う程度には上級生たちもコンクールで頑張りたいと考えている。違いますか?」

 

 違わない。

 

「合奏は皆でやるものです。個人レベルでどれだけ熱心な人がいても大多数がついてこないようではどうしようもありません。ですが皆さんに最低限のやる気があるのなら。あとはそれを伸ばすのが顧問の仕事だと、私は思ってますよ」

「……遅い、と思います。全国を狙う強豪校の部員達は、一年の頃から厳しい練習を重ねているんです。例え今から一丸になって練習に取り組んだって、周回遅れの自分達じゃ対抗馬にもなりません」

 

 声を震わせながらそう呟いた。声がうわずっているのが自分でも分かる。

 

「その遅れを取り戻す為の練習スケジュールは私が考えましょう。思い出づくりを希望した貴方にとっては、楽しい事ばかりとはいかず辛い事もあるかもしれませんが……。あとは吹部の皆さんが私の指導についてこれるかにかかっています」

 

 ふと、頭に疑問が浮かんだ。この先生は、一体何をしに来たんだろう。まさか自分の演奏を聞きに、わざわざ教室までおしかけてきた訳でもあるまい。

 

「コンクールに向けて頑張りなさいと。先生はそう(うなが)しに来たんですか?」

「いえ、そんなつもりはありません。思い出づくりも立派な吹奏楽の活動だと思いますよ。だだ、吹奏楽は集団競技ですからね。活動方針はまとめなければなりません。そうですね……これはアフターケアみたいなものと思っていただければ」

 

 どうにも相手を煙に巻くような発言で、滝先生の本心がどこにあるか分からず、すっきりしない。ただ、心変わりさせる為に来た訳ではないらしい事は察せた。

 

「ああいう大勢が見ている場で、消極的だと受け取られかねない提案を支持した貴方と、話をしてみたかったんですよ。お互いの本音をぶつけあえば、見えてくるものもあるかと思いましてね」

 

 先生みたいな大人が、自分みたいな一介の高校生と本音でぶつかり合う事に、どれほどの意味があるというんだろうか。少し意地の悪い質問をしてみたくなった。

 

「それで、何か見えたんですか?」

「勿論です。貴方が単に楽をしたいという考えで、思い出づくりを選択した訳ではないと分かりましたから。大きな収穫でしたよ」

 

 まさかの即答。 

 格好良い事を言ってるだけか、そう思って放ったビーンボールをあっさり弾き返されて、ただ呆然とするしかなかった。

 

 

 

 

「お邪魔しましたね。では、オーボエの練習頑張って下さい。私はこれから、他の子達のアフターケアがありますので」

 

 滝先生がそう言い残して教室を去ったのと、滝先生への悪口も出尽くしたのか喜多村先輩と岡先輩が戻ってきたのは、ほぼ同時だった。

 戻ってくる途中に近くのコンビニに寄ってきたのか、二人はジュースや菓子がつまったレジ袋を引っさげている。早めに戻っていて正解だった。音楽室に残っていたらパシられていたに違いない。

 

「岡先輩、鎧塚さんはどうしたんですか?」

「ついさっき、滝先生に鉢合わせして隣の空き教室に拉致られた。なんか話したい事があるんだってさ」

 

 自分だけでなく鎧塚さんもとなると、本当に滝先生は思い出づくりを希望した部員全員のアフターケアに回るつもりらしい。

 まだお(かんむり)状態の岡先輩は、手近の椅子にどっかりと座りこんで菓子パンを頬張り始めた。先生に叱責されたイライラを、やけ食いで発散しようとしてるのが手に取るように分かる。太りますよ。

 

「あのメガネ……音楽室の時みたいに言葉責めして、みぞれを傷つけでもしたらただじゃおかないんだから」

「……暴力沙汰は止めて下さいよ。二年連続で傷害事件はマジでシャレにならないんで」

「でもさー。なんかイケメンなのにキツイ人だよね。怖くてやだなあ」

 

 そう言って、喜多村先輩も目の前の椅子に座って足を組んだ。黒のハイソックスとスカートの間から、素肌がさらされた太ももが覗いて見える。先輩のスカート丈はどちらかというと短い方なので、そういう姿勢を取られると目のやり場に困る。

 

「こら、スカート(のぞ)くんじゃないの! エッチ……」

 

 男子の本能。一瞬視線がそちらに向いてしまったのを目敏(めざと)く見つけた先輩が、慌ててスカートを抑えた。

 

「覗いてません。というか、男子の視線が気になるならスカート伸ばせばいいじゃないですか」

「そんなことしたら脚短く見えるし、おしゃれじゃないもん」

 

 めんどくさい人だ。 

 そう思いながら、片付け半分だったオーボエからリードをはずして、小箱にしまった。去年の講習会から、はや十ヶ月が経つ。自作のリードは、まだ実戦で使える域に達していない。

 

「……にしても、ヒロネは何が原因で怒られたんだろ?  確かにちょっと音が小さいかなーとは思ったけど、それだけって訳でもなさそうだし」

 

 音が小さい。その事に気付いた岡先輩はまだましな方だろう。先生に指摘された時のあの様子では、よく分かっていなかった人もいるに違いない。

 

「鳥塚先輩は、結局だんまりを決め込んだんですか」

「そ。なんか好奇心で聞けるような雰囲気じゃなかったし」

 

 まあ、わざわざ喋りたくは無いだろう。男勝りなところがある岡先輩だが、そのあたりのデリカシーはちゃんと心得ている。

 一通りオーボエの手入れを終えてケースにしまった後、おもむろに口を開いた。

 

「クラの先輩達の何人かなんですけどね、楽譜にばかり目がいってテンポの変わり目でも指揮を(ろく)に見てなかったんですよ。多分、吹き真似がばれない様に目を皿にして音符を追いかけてたんだと思います。裏目に出たみたいですが」

 

 音楽室では、指揮者から見て一列目にクラリネット。二列目にフルート・ピッコロ・オーボエ・アルトサックス。三列目にバスクラリネット・ファゴット・バリトンサックス・テナーサックス。四列目以降に金管・打楽器が並んで合奏する。

 自分はすぐ後ろで演奏しているだけに、クラリネットのメンバーのおかしな仕草が嫌でも目についた。勿論、クラリネットの目の前で合奏の指揮をとる滝先生も、それに気付かなかったはずがない。というより、全国を目指すならそれ位見破れる顧問でないとお話にならない。コンクールでは、門戸の狭い音楽業界で生き抜いている海千山千の審査員を相手にしなければならないのだから。

 尻拭いとは、吹き真似をするパートメンバーを(とが)めず、カバーに回ろうとした事を指しているのだろう。のんびりした人達には、その方が練習練習と口を酸っぱくするよりは角もたたない。そして、これまではそれで問題なかった。

 

「なるほどね。それで一人一人演奏させればボロが出るってワケか。アンタもなかなか目敏いじゃん」

「今年の定期演奏会で、指揮者に立候補してみたら?」

 

 先輩達の軽口は自分に向けられるばかりで、クラリネットに対する苦言は一言も無い。

 中学の頃の先輩達はこうじゃなかった。顧問の前で後輩や同級生が駄弁っていると、素早く(たしな)める位の事はしていた。顧問の機先を制してくれたおかげで、事無きを得た局面も一度や二度ではない。

 先輩達との意識のズレが思いの外進んでいる。その事に愕然(がくぜん)として、思わず苦言を呈した。

 

「顧問の()わり(ばな)の合奏で、あんな小細工をやらかすクラの先輩も大概(たいがい)ですけど。それをマズいとも思わない先輩達も結構ヤバいですよ。知らず知らずのうちに去年の三年生の色に染まってるんじゃないんですか?」

 

 モチベーションが低い人が少なくない吹部だ。滝先生もその辺りの事情を考慮してマイルドに指導して欲しかったが、先輩達もいささか緊張感に欠けている。

 わざとらしく頭をかかえると、二人とも心外だと言わんばかりに噛みついてきた。

 

「ちょっと。それ、どういう意味よ?」

「私達、あんな性悪じゃないよ!」

「……そうは言いますけど、音を外すわ小細工をするわ。あんな合奏とも呼べないレベルのものを素面(しらふ)で披露する人ばっかりですから。顧問は変わったんですよ。去年までの梨花子先生みたいに、下手な演奏しても怒られない保証なんてないのに。中学の頃は、気の抜けた演奏したら顧問から指揮棒が飛んできたり、雷落とされたりなんて日常茶飯事だったじゃないですか」

 

 吹奏楽部顧問のヒステリーは、部外者の想像を絶する。音楽界という、やや浮世離れした世界に身を置いた人が多いせいもあるかもしれない。そういう意味では、前顧問の梨花子先生は腰が強かった。どれだけ下手な演奏をしても、部員達に罵声をかけるような事は決してなかったのだから。

 

「それは……そうだけど」

 

 昔の嫌な思い出が頭をよぎるのか、二人とも顔を歪めた。

 

 滝先生が言っていた「三年生が言う事を聞かない」というのは、こういう事なんだろう。

 これまでの緩い部活環境に慣れて、ほとんどの三年生は緊張感がすっかりマヒしてしまっている。去年より状況は改善されているはずなのに、この体たらくなのだ。このままなら、来年の今頃は自分だって同じように堕落しているのかもしれない。

 

――これならコンクール前までには鍛え直せます――

 

 吹部はこんな状態なのに、あの先生は今の北宇治より悪い状況の部を立て直してきた事を匂わせた。しかし、今年の府大会までもう半年を切っている。本当にそんな事が可能なのか。

 心の中では、疑念ばかりが湧きあがっていた。

 

 

 



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第14話 クールでドライなユーフォニアム

「サンフェスを人質に取るなんて酷い!」

「ウチらの都合全無視じゃん!」

 

 翌日。自分の教室で開かれたパートリーダー会議は、滝先生の一方的な通知に対する憤懣(ふんまん)やるかたない先輩達の激高で幕を開けた。

 私の時間を無駄にするなと、のたまった翌日に悪口雑言が飛び交う会議なんてやっていると知ったら、滝先生も顔をしかめるに違いない。ただ、反発する先輩達にも一応の言い分はあった。練習期間の問題だ。

 北宇治の吹奏楽部の場合、新入生の体験入部期間が終わって、本格的に部活動が始まるのが四月中旬。そして今年のサンライズフェスティバルが開催されるのは五月頭。与えられた時間は半月程度。その間にサンフェス用の曲を完璧に暗譜(あんぷ)して、行進の練習もして、片手間に初心者の指導もやらなければならない。特に、行進の方は去年ほとんどやっていない。練習がスムーズに進むなんて、誰も思っていないだろう。練習期間が短くなればなるほど、サンフェスで演奏する曲の選択肢も狭まっていく。気ばかり焦って海兵隊の練習に身が入らないのも無理は無かった。もし事の初めから、サンフェスの練習に取り組む事になっていれば、先輩達だってもう少し真面目にやっていたはずだ。

 

「でも、滝先生に逆らって練習拒否したら、本当に出場できなくなるかもしれないよ。それでいいの?」

「それに、サンフェス出ないのはあくまで一週間後の合奏の内容によっては、という事だし」

「こんな曲の練習に、これ以上時間使ってられないじゃない!」

「そうだよ香織。去年の二の舞になるよ」

 

 中世古先輩とナックル先輩が、やんわりと妥協を促すが鳥塚先輩達はおさまらない。二人もつらいところだろう。部活の現状に思う所はあっても、頭ごなしに直言すれば却って反発されるだけ。それを分かっているので、発言もなあなあになる。

 

 どうにも意見がまとまらない。そう判断した中世古先輩は、しばしの休憩を提案して皆の頭を冷やさせた。円卓を形作るように並べられた上座も下座もない九つの座席から、各パートのリーダー達が一息つきに出払っていく。

トランペットと低音、そしてダブルリードのパートリーダー……つまり自分を残すのみになった段階で、小笠原先輩が深いため息をついた。

 

「はぁ……。このままじゃあどうにもならないよ」

「そうだね……。蔵守君、何かいいアイディアないかな? 今は私達四人しかいないから。思ってる事、遠慮なく言っていいよ」

 

 書記として会議の内容を……書き留める意味もあるのか分からない愚痴と慰撫(いぶ)の応酬を、惰性でノートに(つづ)っていた自分の筆が思わず止まった。

 二年生のパートリーダーは自分一人なので、パーリー会議はただでさえ居心地が良くない。おまけに昨日があんなだったので、先輩達のほとんどがピリピリしている。会議中、小笠原先輩から意見を求められても、興奮状態の先輩達を刺激しないよう、煮え切らない発言に終始するしかなかった。

 中世古先輩には、それを見透かされていたのかもしれない。小笠原先輩もそうだねと相槌を打ってくる。休憩を取る事を提案したのは、意見がまとまらないからだけでなく、自分の本音を引き出そうとしてか。考え過ぎかもしれないが、一息つきに席を立つとしたら、書記の自分が最後になるはずだ。

 二人が、どういう意見を求めているか、しばし考えた。

 滝先生は、この吹部を鍛え直せると言っていた。お手並みを拝見する意味も込めて、今は先生の指示に従った方が良い。頭の中ではそう結論づけていたが、それを口にしても二人と同じ意見を主張する事にしかならない。それでは駄目だから会議がまとまらないのだ。

 ノートとにらめっこしていた頭を上げて、中世古先輩の方に目をやった。(つや)やかな黒髪の中に、今まではなかったはずの若白髪が数本見える。

 部活での気苦労が原因と断じれるほどに、先輩は精力的に吹部の立て直しに取り組んでいた。先輩が会計係になり、財布の紐を縛るようになって、不健全な部費の流用はすっかり影を潜めている。部費は金庫の中に保管され、鍵は先輩が、暗証番号は副顧問の松本先生のみが保有し、二人の立ちあいのもとでなければ利用できない。消耗品の購入の度、職員室にお伺いを立てる事になる。先生からついでに小言をもらう事が何度もあったので、このやり方は部内での評判は良くなかった。

 それでも去年の事を思えば、中世古先輩がそうしたくなる気持ちは分かる。だから面と向かっては、何も言わなかった。皆が皆、品行方正なら面倒な部費の管理をせずに済むのだ。

 

 部費。

 そこまで物思いに(ふけ)って、ひとつ考えが頭に浮かんだ。

 

「あまり、気乗りしない提案になりますが」

 

 そう前置きして、滝先生の意向を無視して部員達だけでサンフェスに出場してはどうか、と先輩達に告げた。つまり、ストライキである。

 どんな曲でサンフェスに挑むにしても、ダブルリードは演奏する立場から離れる。他のパートに先んじて、片手間に行っていたサンフェスの準備の最中、目を通した参加規程。そこには顧問に関する類の文言は、一切言及されていなかった。

 それを伝えながら、鞄から取り出した今年のサンフェスの資料を先輩達に手渡すと、二人とも食い入るように資料を見つめ出した。

 

「勿論その場合、滝先生のサポートは期待できないので、出場手続きとかは全部自分達でやるしかないですね」

「衣装の調達や参加書類の作成、当日の足となるバスや楽器を運ぶトラックの予約、その他諸々の事務手続き。全部私達でこなさなくちゃいけないのかあ。うーん」

 

 小笠原先輩が頭をかかえるが、そっちの方はあまり問題とは思わない。かなり面倒な作業になるのは確かだが、吹部には新入部員を含めて六十人以上の人手があるのだ。全員に仕事を割り振れば、一人一人の負担はそこまで重くはならない。やってやれない事でもないだろう。参加費用も、会計係の中世古先輩が出所となる部費をしっかり管理しているので問題無い。もともとは吹奏楽部員のお金なのだ。松本先生にも嫌とは言わせない。無駄遣いしなくなったので、部費の蓄えは十分ある。

 そう説明すると、小笠原先輩も幾分か落ち着きを取り戻したようだった。

 

「でも……。私達だけでサンフェスに出場する事を勝手に決めたら、滝先生いい顔しないよね」

「はい。だから、これは最後の手段です。当面は滝先生の指示に従って、どうにもならなくなったら、こっちにも考えがあるぞと、アピールするしかないかと」

 

 こんな脅迫まがいの提案をする事に馬鹿馬鹿しさを覚えたが、ある程度は鳥塚先輩達の意向に沿う提案をしなければならない。そうしなければ、まとまるものもまとまらない。

 

「田中先輩の方がいい知恵、出してくれるんじゃないんでしょうか」

 

 滝先生に従って、海兵隊の練習を続けるにしても部員から不満は出る。サンライズフェスティバルに備えて、マーチングの練習に移るにしても先生の不興を買う。どちらに転んでも一悶着起きそうなので、どちらに転ぼうか、頭を悩ませるだけ時間の無駄に思えた。もう成り行きに任せて、結果を素直に受け入れるしかない。

 そんな事を考えながら、先程の会議では自分と同じく中立派に属し、隣の席で呑気に午睡(ごすい)を楽しんでいる副部長に意見を振った。それにしても、今日の田中先輩は全然発言していない。会議中も頬杖をついて天井をじっと眺めているばかりだった。皆の発言をちゃんと聞いてたのかすら疑わしい。部内では特に親しくしている、ように見える中世古先輩と小笠原先輩が困っているのだ。普通に考えればフォローに回ってもよさそうなのに。クールというか、ドライというか。

 そう思っていたのは自分ばかりではないようで、しびれを切らしたかのように小笠原先輩が口を開いた。

 

「ダメダメ。あすかったら、昨日の帰り道で会った時は私の忠実な部下とか言ってたのに、会議ではロクにサポートしてくれないだもん」

「自分のあずかり知らぬところで、二人は裏取引でもしてたんですか?」

「私もいたんだよ?」

「吹部最強トリオでも、処理に困る問題を振られても」

 

 吹部一の実力者と、吹部一の人格者と、吹部の部長。この面子でも手に余る問題を、一体自分にどうしろと。

 

「昨日の合奏の後に、あすかが助け舟出してくれたのも、私の事よりユーフォの練習時間割かれるのが嫌だっただけでしょ。部長を頼まれたときだってそうだよ。私よりあすかの方が優秀なのに、部長の器じゃないってあすかは断ったけれど本当は面倒なのが理由だってわかってるんだから! あすかは頭がいいから、いっつも安全な立ち位置を確保して気ままに傍観者のままでいる。それがあすかなの! 香織はともかく、なんであすかみたいのが男子に人気なのか訳わかんないよ! 顔なの? それとも体なの?」

 

 小笠原先輩の愚痴の内容も、約束を破った恨み節から私怨に変わりかけている。同意を求めるというより、憂さを晴らす為に文句を言う事自体が目的になってきた。いつもの事なので、はあそうですねと適当に相槌を打つ回数が両手の指では足らなくなった頃。

 

「……ぐちぐちうるさい女子が、男子に好かれる訳ないでしょーが。気ままな傍観者でごめんねぇ」

 

 何時の間にやら起きていた田中先輩が、きっぱりと言い切った。どうやら狸寝入りしていたようで、先程の悪口を一言一句違いなく(そら)んじている。狸の皮を被った虎の尾を踏んだ小笠原先輩は、あたふたするばかり。

 

「ででもあすかのそういうところ、ストイックでちょっと格好いいなとは思ってるし。というかあすかって美人で文武両道だから何やっても絵になるし。ああすかの何考えてるかわからないとこもミステリアスで男子を惹きつけるのかなあ!」

「今更おだてても遅いわぁ!!」

 

 もはや鬱ってる場合でもないようで、小笠原先輩が椅子から立ち上がって逃げ出した。怒鳴り声をあげながらその後を追う田中先輩。校則を心得ている良識的な先輩方は、廊下は走らず教室内を駆け回る。舞い散る(ほこり)

 ……ここ、一応自分の教室なんですが。後始末するの自分なんですが。

 

「何かあると、時々ネガティブに走っちゃうのが玉にキズだけど」

 

 鬼ごっこを続ける二人の様子を、苦笑しながら眺めていた中世古先輩が呟いた。

 

「なんだかんだいっても、部長役を今日まで引き受けてくれたんだし。晴香は人一倍責任感あるから、今のままでも十分魅力的だと思うけどなあ」

「男子目線から言わせてもらうと、短所のある女子の方が完全無欠な女子よりとっつき易いし、庇護欲を掻き立てられる所があるんですけどね」

 

 美人かつ才媛な田中先輩と中世古先輩。二人みたいな高値の花と面と向かっていると、どうしても気後れする。

 

「あと、昔のトラウマとか暗い過去を背負っているのが、短所を生んだ理由になると一層おいしいかと」

「あ、それ分かるよ! 少女漫画でもそういう展開、定番だよね。家庭環境に問題あって荒んでいたクラスの男の子を、犬猿の仲だったヒロインが真相を知って優しく癒していく、みたいな」

「中世古先輩は何か知ってませんか。部長が闇落ちしがちなのを正当化できそうな暗い過去とか」

「うーん……。晴香とは中学違うけど、同じパートの上級生からコンクールメンバーの席を奪った事がきっかけで、人間関係がうまくいかなくなって心に傷を抱えたり。それで心機一転、高校デビューする為に同じ中学の子が少ない北宇治にやってきたとか。吹部的にはありそうだね」

「中学三年、最後の集大成の年。練習に励みに励んだのにコンクールで金賞取れなかったばっかりに、捻くれたまま北宇治に流れ着いたとかもありそうですよね」

 

 傘木とか、鎧塚さんとか。

 

 中世古先輩もこういう話題が好きなのか、話が盛り上がってきたので二人で思いつくかぎりの展開を語り合っていると、背後からぬっと忍び寄る二つ結びの暗い影。

 

「二人揃って私の過去を勝手に捏造しないでよ!!」

『!!』

 

 小笠原先輩から、二人仲良く後頭部にデコピンを見舞われた。痛い。

 いつの間にか鬼ごっこは終わったらしい。

 

「香織にも蔵守君にもがっかりだよ! 北宇治の吹部を、そんなはぐれ者の行き着き先みたいな印象持ってたなんて!」

「全くだよ。この子にそんな都合のいい設定があるわけないでしょーが。だいたいね。北宇治の吹部がそーいう中学生にして負け組に振り分けられた連中の集合先なら、そこからあぶれた希美ちゃん達は負け組の中の負け組じゃない!」

 

 ……不本意な退部の後も、田中先輩におちょくられる傘木達が不憫でならない。いや、冗談だと分かっているけど。ついでに止めを刺された部長の再起動は中世古先輩に任せて、かつての同胞達の擁護を試みた。

 

「負け組のままでいるのが嫌だったから、早めに見切りをつけたんじゃないんですかねぇ……。それぞれ新天地でうまくやってるようですよ」

 

 復帰の誘いをかけていた大野さんから、退部した面子の近況はおおかた聞いている。

 彼女達が退部したのが去年の六月上旬の事、結局吹部には二ヵ月足らずの在籍で三行半(りえんじょう)を突き付ける事になってしまった。それからは軽音部に移籍してインストバンドを組んで、それぞれにやりがいを見出している。少ない人手でやれる分まとまりもあるようで、人数ばかり多くてもチグハグな吹部とは、天と地ほどの開きがあった。

 一人市民楽団に移った傘木の動向はよく分からない。彼女が忙しい以上の事を鎧塚さんが話さないので、こちらからもそれ以上聞いていない。

 

「というか、田中先輩が狸寝入りしてなければ、話が変な方向に逸れる事もなかったんですが」

「悪いけど、結果が見えてる会議に加わるほど私は酔狂じゃないの」

 

 その一言で、先程までの弛緩(しかん)した空気が一気に張り詰めた。自分も含めた、この場にいる全員の視線が、机にもたれかかる田中先輩に集まる。

 

「だってそうでしょ? 滝先生のやり方に反感を持っていても、なら私達で自主的にどうこうしようって意見、三年生からはだーれも出てこない。昨日からみんなの意見を聞いてても、どこもかしこも愚痴ばかり。技術的な指導を適度にしてくれて、私達のやり方を束縛しない顧問でいてほしい。みんなそう考えてる。だから、さっきの蔵守の提案も上手くいかないよ。やらなくてもいい仕事が増えるし、面倒抱え込むだけだから」

 

 にわか作りの提案で、名案だとはハナから思っていない。駄目だしされても別に腹も立たなかった。むしろ、自分が腹の中で思っていた事を表に出してくれたのが、心地よくすらある。

 

「それは、今すぐはみんな面倒くさがって受け入れないかもしれないけど。最後の手段としてなら、確かにありだと思うよ。来週の合奏まではとりあえず練習して、それでも滝先生からサンフェスの出場許可が下りなければその時こそ抗議の意味を込めて」

「来週まで待ってたら、もっと面倒くさくなるって言ってるの」

 

 田中先輩が、薄ら笑いを浮かべて小笠原先輩の言葉を切った。

 

「一週間経ったら、もう五月だよ? 期間が短くなればなるほど、一人一人に割り振る作業も重くなる。締切だって短くなる。ただでさえ少ない残り時間を無駄にするだけ。それくらいなら今すぐ蔵守の提案を実行できるように、ヒロネ達を説得した方がずっと楽じゃない」

 

 理屈では、そうだった。それが不可能な事も分かっている。

 

「だけど自分達から何かやり出すほどの気力もないから、今すぐのストライキなんて同意は得られない。始めから答えは一つしか用意されてないの。当面は滝先生の方針に従うしかない。違う?」

「それで来週の合奏が、駄目だったらどうするのよ?」

「そうならないように、気合い入れて練習するしかないね。もともとそんな難しい曲じゃないんだし、私達もパーリーとして、キリキリ練習させればなんとかなるっしょ」

 

 練習は、させなかったのではなく、させられなかったのだ。

 無理に練習を強制すれば、また去年の様に刺々しい空気になりかねない。楽器に親しめれば、それでいい。そう思っている人も、少なくない。そういうのもひとつの吹部のあり方として、間違っているとはいえない。

 ただ。今は、部員達の鬱憤が滝先生に集中している。やる気ある部員とやる気無い部員のぶつかり合い。という去年の形から、顧問と部員のぶつかり合い。という形に変わっている。部員同士の溝を作らずに、緩い吹部の現状を締め付ける好機なのは間違いなかった。

 

「ヒロネ達に、私と蔵守の提案どっちがいいか。多数決取らせてもいいよ? ストライキするよりは楽で済むと思うけどなあ、私は」

「そうですね。鳥塚先輩達も一息ついて頭が冷えたと思います。きっと田中先輩の提案に賛成してくれますよ」

 

 ほんとうのところ、自分の提案に(かぶ)せる形で「こちらの方が楽じゃない?」と相手を懐柔するやり口は、釈然としない。意見があるなら、はじめから言えばいい。田中先輩に都合よく利用された。そんな気がしないでもないが、ストをやらずに済むなら、それに越した事は無い。

 

「そうそう。蔵守もさっきの意見が採用されるかどうかなんて、どうでもいいと思ってるんでしょ?」

「二年生なので。求められれば意見は出しますが、最後の判断は先輩達に従います」

「そうやって丸投げできるのも、どうでもいいと思えるからでしょ。この狸め」

 

 なら田中先輩はさしずめ狐ですね。とはさすがに口には出さず。皮は狸で中身は虎。

頭脳は狐と、本日は実に凶悪なオーラを(かも)し出している。(ぬえ)かアンタは。

 

「まあ、意見を出してくれた後輩の顔を立ててあげようとするのが、晴香の優しいところだけどねー」

「うるさいなー」

 

 言い負かされてふて腐れていた小笠原先輩も、優しいと言われていくらか機嫌を直したようだった。顔を赤くして、照れているのが隠しきれない部長に田中先輩がじゃれつく。

 

「もー。可愛いんだからー」

「いいなあ……、晴香は」

 

 そんな二人の様子を何故か羨ましそうに見つめる中世古先輩と、白けた視線を向ける自分に気付いて、田中先輩が向き直った。

 

「ちょっと喋り過ぎちゃったかな。蔵守、陰口っぽくなっちゃた所はオフレコでお願いね。無駄に部員同士で波風立てたくないし」

「……言われなくてもバラしたりしませんよ」

 

 ため息をつきながら答えた。上級生すら手玉に取る田中先輩相手に、自分ごときが太刀打ちできるはずもない。この人を敵に回す方が、鳥塚先輩達をまとめて敵に回すよりずっと恐ろしかった。

 それにしても……。

 田中先輩の顔、から視線を上にずらして頭を見た。

 この人の頭は、一体どういう構造をしているんだと思う。

 長瀬さんの楽譜の時とは違う。今回は小細工する時間も無かった。無いはずだ。だから、ただの偶然に違いないのだ。田中先輩をアシストするような提案を、都合よく自分が出す事まで、予想できるはずもない。超能力者じゃあるまいし。そもそも自分が出した提案はその場の思いつきだ。

 しかし、結果だけ見ると、どちらも田中先輩の都合のいい方向に事が進んでいる。長瀬さんの楽譜の時は、先輩達の弱みを握って、低音パートの問題を一応にせよ解決した。今回は、自分の提案を間に置く事で、労せずして己の提案を通した。

 悪い人ではない。それは吹部で約一年間、一緒に活動して分かっている。

 しかし、付き合いが長くなるほどに、(そば)に居たくないという気持ちが強くなる。嫌悪感は無い。自分のやる事為す事全て見透かされているのではないか、そういう恐怖感を覚えてしまうせいで。

 

「よろしい。お姉さんとの約束だゾ?」 

 

 かと思えば、今みたいに茶目っけのある眼を向けてくる。

 冷徹な田中先輩。茶目っ気のある田中先輩。女は二つの顔を持つと言うが、ここまで両極端な人はそうそういないだろう。というか、いてほしくない。

 こういう個性的な性格を形成するあたり、暗い過去を持っているとしたら、それは小笠原先輩ではなく、むしろ田中先輩のほうではないのか。

 

 無駄に長引く会議に抗議するかのように、壁の時計は二つの針でへの字を作っていた。

 

 



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第15話 本領発揮! コンダクター 前編

 結局、パーリー会議のほうは田中先輩の読み通り。滝先生の指示に従うという流れで落ち着いた。滝先生の方針に反発していた鳥塚先輩達も、休憩中に名案は浮かばなかったらしい。渋々ながら承諾して、それで会議はお開きになった。

 今までのやり方でも、追加で一週間もあれば合奏は立て直せる。そう見ていたので、その決定について異論はなかった。海兵隊の合奏に時間をかけたしわ寄せは、当然サンフェスの方にいく。だが、そちらの方まで気を回す余裕は無い。というより、考える気も起きない。

 

 諦観(ていかん)、とでも言うのだろうか。傘木達の退部、コンクールの大失敗。その後は大きな失敗こそなくなったが、かといって目に見える成功もなく。吹部の状態は低空飛行だった。そして先日の海兵隊。

 こうも上手く行かない事が続くと、どこか冷めた目で物事を見るようになってしまう。コンクール銀賞でショックを受けて、斜に構えるようになった鎧塚さんの気持ちが分かる気がした。

 

 これから、会議の結果を皆に伝えに行かなければならない。

 先輩達は一足先に、今の時間はまだ駄弁(だべ)っているであろうそれぞれのパートメンバーが集う空き教室へ向かっていった。自分は散らかった教室の後始末をする為、一人残っている。

 パーリー会議の為に崩した座席を元に戻していく最中(さなか)、会議の経緯を記したノートに目が向かった。惰性で書きつづった愚痴と慰撫の応酬。何の生産性もない。

 

――パートリーダーになってから、お前がやってきた事などこれと同じだ。何もしていない――

 

 ノートが、自分に語りかけてくるような錯覚に囚われた。確かにその通りだった。

 代替わりしても、北宇治の吹部が立華や洛秋のようになりきれないのは、技術より何より、まず部員達の意見をまとめるところで手間取るからだ。何かやろうとしても打算や感情から、反対意見が出る。そこで妥協して、ひとつにまとまる。

 みんなの意見を尊重すると言えば聞こえはいいが、そのせいで何をやるにしても方向性が曖昧(あいまい)になる事が多かった。

 去年のようになるわけにはいかないからそうしている。間違った事をしているつもりはない。ただ、これでいいと胸を張れる事も出来ていない。

 

 頭を振って、極力ノートを視界に入れないようにして目線を教室の隅に移した。そこにある教卓に置かれた花瓶には、鎧塚さんが持ち込んだ赤い花が活けられている。そういう気配りは、男子には出来ない事だった。飾りっけのない、地味な色ばかりが視界を覆う空間で、そこだけポツンと異彩を放っている。教卓に向かい合う先頭の机の引き出しには、教科書か、あるいは参考書と思しき厚めの書籍が埋まっている。高校生になって、学ぶ科目はぐんと増えた。科目ごとの教科書、参考書、ノート。それら全てを、授業のある日毎(ひごと)に持ち運んで家と学校を往復するのは、地味に重労働と言える。置き勉する人もいるのだろう。鎧塚さんの机の引き出しには、少なくとも遠目に見える範囲では、何も無かった。

 

(みの)りのある会議は出来ましたか?」

 

 先日、聞いたばかりの穏やかな声。おさまりの悪い黒髪とは対照的に整った顔つき、眼鏡をかけた音楽教師。そこまで言えば誰でも察する。我らが顧問が扉の前に立っていた。

 滝先生とまたしてもサシの場面に出くわしたのは偶然でも何でもない。自分のクラスであるこの教室は、職員室から音楽室までの最短ルートに面している。何がしかの理由があって、避けて遠回りするのでもなければ、部活に出向く先生や同級生と自然にすれ違う。

 

「小田原評定でした。先生のやり方にとりあえず従うしかないのを再確認しただけで」

「そうでしょうね。人というのは上手くいかない事が重なると、どうしても消極的になってしまうものです」

 

 負け犬根性が染みついている。自分には、先生がそう言っている様に聞こえた。

 にこやかに微笑む滝先生は、パーリー会議でこれといった結果が出なかった事に、大して失望している風でもない。吹部の面々が、部活の状況を自力で改善していくことなどハナからアテにしていないのだろう。

 

「まあ欲を言わせてもらえば、無駄な事に時間を割かずに、自主的に合奏の改善に取り組んで欲しかったのですが。今の時点でそれを求めるのは無理でしょうね」

 

 結果が見えているとか、無駄とか。田中先輩や滝先生みたいに周りを気にせず言いたい放題言えれば、どれだけ気が楽だろう。下級生がそういうスタンスを貫いた末路は、去年の事でよく分かっていた。

 

♪~!

 

 出し抜けに、窓際からトロンボーンのくぐもったような音が聞こえた。

 三者面談で、今週は早めに部活が始まっているとは言っても、放課後しばらくは雑談混じりの暖機(だんき)運転の時間帯。こんなに早くから揃って練習に入っているのも珍しい。

 滝先生を見返してやろうと、気合いを入れているのかもしれない。ただ。失地を回復しようと張りきっているのはいいが、音はバラバラ。本来の海兵隊の曲とはかけ離れた音色なうえ、リズムも揃っていない。そして何より、昨日の事を引き摺ったままの、負の感情を隠しもしないぶつ切れのメロディーは、聞いていて気持ちのいいものではなかった。

 居心地の悪さを覚えて視線を左右にうろつかせていると、滝先生は無造作に髪を掻き上げながら口を開いた。

 

「小笠原さん達にも聞くつもりですが、あんな感じでは最初の合奏が上手くいかないのは、やる前から分かっていたのでしょう? それなのに、なぜ貴方達パートリーダーは手を打とうとしなかったのですか?」 

 

 分かりきった事を、先生は尋ねてきた。 

 (かす)かにほほ笑んだその表情からは、叱責するつもりで言ったのか、本当に分かっていないのか判断がつかない。

 

「吹部は、人が多すぎるんです」

「それは多いでしょうね。部長さん一人では、とてもまとめきれない。だからこそ、貴方達パートリーダーが補佐しなければいけないのでしょう?」

「……やる気がある人は、こっちから何か言わなくてもちゃんとやってくれます。そうでない人には、言えば言うだけ煙たがられるだけです。真面目にやっている人の背中を見て、それに(なら)ってくるのを気長に待つしかないじゃないですか……。親に勉強しろと言われて、素直に従うような物分かりのいい人達ばかりなら、誰も苦労しませんよ」

 

 本当にやる気ある人は吹部のあり方がどうであれ、周りに流されずに己を律する。田中先輩や中世古先輩のように。

 しかし、ほとんどの部員は、そこまでの境地に達しきれない。勉強や遊び、アルバイト。そういう他の時間を犠牲にしてまで部活に入れ込む人は、この吹部には多くない。それでいいと思っている人達に練習を強制させるのも、何かが違う。

 パーリー会議で自分が口を出すのは、部員の間でトラブルが生じそうになった時だけだ。去年の様な、陰湿な(いじ)めが横行するような部活にだけは、絶対にさせたくなかった。

 

「なるほど。部員同士では、まとめきれませんか。やはり、私が鍛え直さなくてはなりませんね」

 

 指導を厳しくしても、いい合奏が出来れば部員もやる気を出す。

 滝先生はそう考えているのかもしれない。事はそれほど単純ではなかった。

 

「滝先生。北宇治の吹部が、強豪でも何でもないという事を忘れないで下さい。自分も、今の状況を何とか出来ないかとは思ってます。だけど、難しいんです。この吹部には、興味本位で高校から吹奏楽を始めようと入部する人もいれば、熱意はそこまでないけど、中学で吹部だったから惰性で高校でも続けようとする人。弱小を強豪に鍛え上げようと気合いを入れて門を叩く人。そんな風にみんなバラバラなんです。緩い環境を望む人もいれば、厳しい環境を望む人だっている。どうしたって、不満を持つ人は出て来ます」

 

 部員一人一人の温度差が大きい現状では、結局どうにもならないのだ。

 小笠原先輩も、中世古先輩も、二人に従う自分も、結局その問題を解決できなかった。お茶を濁す程度の対応しか取れなかった。

 去年は、同級生の褒められない行状をなぜ改めさせないのかと、卒業した三年生を軽蔑しきっていた。今なら、あの人達の心境も多少は分かる気がする。状況が改善する見込みもなければ、誰だって相手の尻を叩くのに躊躇(ちゅうちょ)する。憎まれ役になりたくないのだ。

 

 そんな自分の胸の内など知る(よし)もなく、滝先生は言葉を(つむ)ぐ。

 

「そんな吹部でも、貴方は見捨てようとはしない。それは何故ですか? オーボエが好きだから。本当にそれだけが理由ですか? それならば吹部は吹部、自分は自分と、もっと割り切ってもいいでしょう。何故二年生の身でパートリーダーを続けているのですか?」

「それは」

 

 吹部は吹部、自分は自分。そういう人の事なら、よく知っている。

 

「忠告は頭に入れておきましょう。貴方もなかなか、気苦労が絶えないようですからね」

 

 忠告したところで先生の指導が丸くなるとも思えないし、そんな期待もできない。

 ただ一言、言っておかずにはいられなかった。

 

「それでは蔵守君も、部活の準備に入って下さい。まずはダブルリードから、チェックさせて欲しいのです」

「分かりました……」

 

 机に置いたままのノートを閉じ、(かばん)に放り込んだ。片付けただけで、鞄を持っていくつもりはなかった。楽器準備室にあるオーボエケースの中に、基礎練の教本も、海兵隊の楽譜も挟んである。鞄の中に、部活に持っていかなければならないものは何も無い。

 

「綺麗な花ですね」

 

 教室の扉に佇んだまま、滝先生が(つぶや)いた。先生の興味は、自分から教卓の花瓶に移ったらしい。

 

「鎧塚さんが持ってきたんです。ベゴニアという名前らしいですが」

「ベゴニアですか。いかにも女の子らしいチョイスですね。知っていますか? この花の花言葉は"片思い"なんですよ」

「……そうですか」

 

 今の自分に精神的な余裕は、あまりない。普段なら好奇心をくすぐられたかもしれないが、鎧塚さんが誰に片思いしていようが、構っていられなかった。

 

 

 

 

「二人は、まず楽器を抱える姿勢から直しなさい」

 

 ダブルリードパートが練習に使う三年六組の教室では、喜多村先輩と岡先輩がファゴットの構え方を矯正されている。

 素人目には異様に長い、丸太のような楽器を、両手で脇に抱えるようにして持つ。それが普段であれば、見ているはずの先輩達の姿だった。

 滝先生の最初の指導は、どこから持ってきたのか、本物の丸太を抱えさせるところから始まった。いい演奏をする為に、姿勢を是正するという着眼は普通だが、その手段が普通ではない。

 

「なんでこんな事を……」

「楽器を落として壊されでもしたら、困りますからね」

 

 先輩達の顔が、苦痛にゆがむ。

 当たり前のことだが、首なり両肩なりに通して楽器を支えるストラップなんてものは、丸太に無い。両手にそのまま、楽器の重みがのしかかる。指だけで、ファゴットサイズの丸太を掴むように支えなければならない。

 始めのうちは、重さに負けて先輩達は背中を丸めていた。それが滝先生の度重なる横槍で、次第に直立気味の姿勢になる。

 ほどよく姿勢が改善されたところで、先生は丸太をファゴットに持ち替えさせた。

 もちろんストラップは付いている。

 

「そう。ファゴットを構える時、ストラップに頼って猫背になると身体に良くない。かといって、手に負担をかけ過ぎるのも良くありません。まず右足の太ももと左手で楽器を支えて。そしてストラップに楽器の重さを預けて。身体全体でバランスを取る事を意識しなさい」

 

 全体と言っても、身体には脚のように丈夫な骨とたくましい筋肉で守られた部位もあれば、首のように骨も華奢(きゃしゃ)なら筋肉も薄い部分もある。もろい部分への負担を抑え、頑丈な部分がそれを肩代わりする。それで身体の負担は、真の意味で均等になる。

 言葉にするのは容易いが、実際にやるのは簡単ではない。

 幾度となく駄目だしを出され、教室から響く喜多村先輩と岡先輩のうめき声は止む事が無かった。

 

「……先輩達、しごかれてる」

「ああ、そうだね」

 

 お互い、横目で教室を見やりながら呟いた。オーボエは軽い音程の修正で済んだので、鎧塚さんと一緒に廊下に出ている。

 先輩達が先生から叱責を受けている場からは、離れていたかった。年下の自分がフォローしたところで、先輩達にはかえって侮辱にしかならない。それより何より、居心地が悪い。

 

「練習、しよ? さぼってると、私達も先生に怒られる」

「……そうしようか」

 

 廊下に椅子と譜面台を持ち込み、即席の練習場を確保し、基礎練に取りかかった。先生が先輩達への指導を終えるまでは、それ位しかやる事がない。椅子に座り、オーボエの先端に差し込まれたリードに息を吹きこんだ。管体のキーを指の腹で叩く。

 "ド"の音を8拍(8秒)吹き続け、4拍(4秒)休む。次いで"レ"の音を同じように8拍鳴らし、4拍休む。その繰り返しで、次の"ド"まで続ける。

 これがロングトーン。文字通り音を長く伸ばすだけ。

 面白みの無い単調な作業だが、オーボエを始めた時からずっとこんな調子でやり続けて、もはや(なら)(せい)と化している。つまらないと思っていても済ませておかないと、どこか落ち着かなくなってしまう。

 

 一通り吹き終え、一息ついた。ふと視線を感じて隣を向くと、鎧塚さんがじっと見つめている。

 

「いいね……、楽しそうで」

「楽しそう?」

 

 こくり、と彼女が頷いた。

 

「いつもそう。蔵守君ってオーボエを吹いてる時、楽しい事してるって顔してる。十八番の曲を演奏してる時は、特にそう」

 

 昨日も、滝先生から似たような事を言われた。

 それは楽器が好きでもなければ、問題だらけの吹部に居続けようとは思わないが。傍から見て、そんなにはしゃいでいるように見えるのだろうか。

 

「鎧塚さんは」

 

 あんまり楽しそうじゃないね。

 

 話の流れで、そう言いそうになる口を、寸前で必死に(こら)えた。

 傘木が吹部を辞めた直後に比べれば、だいぶ良くなっているのは確かだ。それでも、初めて彼女の演奏を聴いた時と比べると、まだどこか見劣りするように思える。演奏中の表情も、能面(のうめん)のままだ。

 他の部員達は完全に復調したと思っているようだが、自分は同じオーボエ奏者。無意識に対抗意識が働いて、粗でも探そうとするからそう感じてしまうのか。

 

「あ……」

 

 自分の心の声が聞こえたはずもないだろうが、不遜(ふそん)な事を考えていたのとほぼ同時に、楽譜をめくろうとした鎧塚さんが姿勢を崩した。スカートのポケットから生徒手帳が転げ落ち、自分の足元に一枚の写真が滑り込んでくる。

 拾い上げた写真には、河原に座りこむ私服姿の彼女と、スマホに向かってウインクする傘木が写っていた。髪型が今と違う。背丈から見て中学時代のものだろうか。

 

「返して」

 

 物珍しさに物色していると、鎧塚さんが常ならぬ敏捷な動きで写真をひったくる。そして自分の指が写真と触れていたあたりを手で払った。

 ……俺はバイ菌か何かか。

 憮然として、口を開いた。

 

「なんでそんなものを手帳に」

「……そんなもの?」

 

 鎧塚さんの眉間にしわが寄った。が、こちらも雑菌扱いされた不快感が尾を引いている。憎まれ口の一つも叩いてみたくなる。

 

「随分大事そうにしてるから。わざわざ外に出して持ち歩くのは迂闊(うかつ)じゃないのって思って。今みたいに、何かのきっかけで紛失するかもしれないし」

「……肌身離さず持っていたいから」

「ふうん。……でも、その写真の鎧塚さんって、髪短いね」

 

 写真に写っていた彼女の後ろ髪はうなじに届く程度。顔の両側に垂らした触角のごとき前髪も、先っぽがようやく肩にかかるくらいで、今より短い。

 

「中学二年生の、野外活動の時の。髪を伸ばすようになったのは、それから。お母さんに、髪を伸ばして女の子らしく身だしなみに気をつけなさいって言われて」

「そっか。今の長い髪も似合ってるけど、そういう短いのも可愛いと思うよ」

「……何、言ってるの」

 

 思わず歯が浮くようなセリフを吐いてしまったが、鎧塚さんの目が一瞬泳いだ。

 誉められる事に耐性が無いのかもしれない。相変わらずの無表情ながら、オーボエのキーに意味もなく、そしてせわしなく指をかけ直す仕草から、うろたえているのが見て取れた。

 

「傘木と鎧塚さんなら、写真なんていくらでも撮る機会あっただろうね。それが一番お気に入りなの?」

「ちょっと違う。希美は友達多いから。二人だけで写真に収まってるのなんてこれくらい」

「……他の人が混じってるのは嫌なんですかそうですか」

 

 会話の選択肢を間違えた。

 最初の剣呑な雰囲気から、いい具合に和んできたと思ったら、何時の間にやらドロドロ昼ドラ路線一直線。

 

「……気持ち悪いでしょう。こんなふうに友達に執着するなんて」

「いや、別に気持ち悪いとまでは……。そういうのって大なり小なり誰にでもあるものだし。こじらせ具合がヤンデレ予備軍の域に入ってそうなのは気になるけど」

「ヤンデレ?」

「……もうこの話やめようよ」

 

 友達でこれじゃ、傘木に彼氏でも出来た日にはどうなることやら。世の(はかな)さを哀れんで、身投げでもしそうだ。

 

 暗い話はそこで打ち切って、練習を再開した。いつもとは違う教室の外で練習していると、見えないものも見えてくる。例えば、音の響きの違いが。鎧塚さんも、きっとそう感じているだろう。同業者だ。普段より念入りに基礎練に取り組む彼女を見れば、それくらいは察せる。

 

 既に放課後。人気(ひとけ)は少ないが、廊下を行き交う生徒は皆無とは言えない。

 本来なら、そういう人達の好奇の目は廊下で練習している自分達に向く。そうならないのは、緩い部活には不似合いな、先生と先輩達の不協和音が教室から響いてくるからだ。

 大抵の場合、名前も顔も知らないので通り過ぎるのを横目で見守るだけだが、時たま身元がはっきりしているヤジ馬まで姿を見せたりする。そういう時は、一言いれる。

 

「黄前さん、加藤、何やってるの?」

『ひゃい!? く、蔵守先輩!』

 

 先輩達がしごかれている教室の扉にくっついて、聞き耳を立てていたショートカットの子と印象的なタコヘアーの子が、弾かれたようにとび上がった。

 確か、田中先輩とこの一年だったか。黄前さんは分かりやすくていい。ああいう髪型の子は、この吹部には他にいないし。

 ……と、変な事に感心してる場合ではない。

 

「立ち聞きとは趣味悪いぞ」

「タ、タチギキナンテシテマセンヨ? 座って聞いてただけで」

 

 同じ事だろ。

 つまらないとんちを披露する黄前さんを黙らせるかのように、加藤が前に出た。

 

「立ち聞きするつもりはなかったんですよ。ただ、マウスピース洗いに来たら先生の指導が耳に入ってきたので様子見に……」

「それならさっさと練習に戻った方がいいぞ。初心者は初心者なりに、経験者は経験者なりに真面目に練習してきたかどうか、あの先生しっかり見極めてくるから」

『は、はい!』

 

 脱兎のごとく逃げ出した一年生達を見やりながら、鎧塚さんが首を傾げた。

 

「名前呼んでたけど……あの子達のこと知ってるの?」

 

 危うくずっこけかけた。つい三日前に顔を合わせたばかりなのに。

 

「腹式呼吸の指導の時に自己紹介してくれたじゃないか。ユーフォの黄前さんとチューバの加藤だよ」

 

 ああ……と、鎧塚さんは他人事のようにうそぶく。

 オーボエの才能ほどに、彼女の記憶容量は深くはないらしい。

 

「ごめんなさい……でも興味ないから」

「興味なくても名前くらい覚えておこうよ……」

 

 そんな印象悪いと、今後の交友にも差し障るぞと言いかけそうになる。

 彼女とは吹部でクラスで、一緒になって一年弱。相変わらず他人との距離の取り方がずれている。最近は大野さんとちょくちょく話をするようになったものの、傘木との交流が途絶えてからの鎧塚さんのクラスでのありようは、良く言えば孤高。悪く言えばボッチ。

 パーリー会議や、他のパートとの練習スケジュールの調整で、四人でいる場から自分だけ席を外す事はしばしばあった。そういう時、彼女が喜多村先輩や岡先輩とうまくやれているのか、時々心配になる。

 

 

 

 低音パートの先遣隊が去った後も、近くの教室で練習しているクラリネットやフルートの一年が姿を現しては慌てて戻っていく。

 岡先輩は、わざと大声を上げている。言い争いになっても、ここまで甲高い声を出す人ではない。滝先生との指導のやり取りを、他のパートの部員が様子見に来ているのを、とうに気付いているのだ。

 廊下にも響くような大声を上げて、部員達に注意を喚起している。滝先生の指導はヤバいぞ、今の内に準備を整えておけと。不器用だが、そんな風に仲間を気遣うところが岡先輩にはあった。

 ただ、その声がだんだんと弱々しいものになっているのが気にかかる。

 

「二人とも、お待たせしました。全員揃ってのトレーニングに移るので戻って下さい」

 

 練習雑談練習雑談の繰り返しで、他の部員をどうこう言えるほど自分達も真面目じゃないな。そんな事を思いながら、波に乗り切れないまま練習を続けていると、ようやく滝先生から呼び出しがかかった。

 教室の中の先輩達は、やはりというか、すっかり憔悴(しょうすい)しきっている。

 机の上に突っ伏して、男子には無いゆるやかに膨らんだ胸部が机の端とこんにちは。春にしては、強い日差しが先輩達の横顔を照らしている。首筋に汗の粒が浮かび上がっているが、それを(ぬぐ)おうとする余力すら残っていないらしい。腕も重力に任せるまま、だらりと垂れたままだ。

 

「うう……」

「……この駄目だしメガネ……」

 

 何が凄いって、そんなボロボロの状態になってもまだ捨て台詞を吐ける岡先輩が。

 受験生なのに素行不良で面接アウトになるんじゃなかろうか。いったん口喧嘩を始めると、先輩は目上の人相手でも一歩も引かない。

 そして先生も、先輩の暴言にもまるで意に介した風でない。

 

「ほらほら、いつまでそんなだらしない格好しているつもりですか。後輩達が見ていますよ。貴方達は、一つ前の先輩達とは違うのでしょう?」

 

 滝先生の発破に先輩達は顔をしかめつつ、亀の如くのたのたとした動作で立ちあがる。

 喜多村先輩と岡先輩だけでない。今の三年生部員の少なくない数が、去年の三年生と同列に扱われるのを何より嫌う。先輩達はその一心で、気力だけで身体を奮い立たせている感じだった。

 

「貴方がたの状況を一通り確認させてもらいましたが……。技術はともかく、四人とも若干集中力に欠ける所がありますね」

「ぐ……」

 

 基礎練ばかりだと、どうしても飽きが来る。

 廊下でついつい雑談にふけってしまった事を、滝先生の耳は聞き逃していない。

 

「そこで、まずは集中力を高める訓練をしましょう。集中力が切れた状態で練習してもしょうがないですからね。まずは楽器を置いて下さい」

 

 指示に従い、それぞれ楽器をスタンドに立てかけて、横一列に並んでいく。

 ちらりと横目で三人の顔色を(うかが)った。疲労感、警戒心、無表情。三者三様の顔つきを、正対した滝先生に向けている。

 

「これから皆さんに、"始め"と合図を出します。その合図を聞いたら、目を閉じて耳に神経を集中して下さい。そして私が"終わり"と言うまで、聞き取った音を覚えておいて下さい。どんな音が聞こえたか、後で発表してもらいますよ」

「……先生は、これからの練習に『サウンドスケープ』を取り入れるつもりですか?」

 

 サウンドスケープ?

 鎧塚さんの口から聞き慣れない単語が出てきた。

 

「その通りです。さすがですね」

 

 強豪校では普通に行われている練習法なのだろうか。滝先生が感心したように(うなづ)いた。

 

「鎧塚さん、サウンドスケープって?」

「身近な環境音に耳を傾けて、集中力と聴力を育成する手法。南中でも基礎練の一環で取り組んでる。滝先生が今言った方法とは、少し違うけれど……」

「特に準備が必要な練習ではありませんよ。今日は一通りやり方に慣れてもらえれば、それで十分です。聞き取った音が何の音か、わからなくても構いません。ゴリゴリとかバサーとか、擬音(ぎおん)のまま答えていいですよ」

 

 直感のままに、割と手軽に出来る練習方法らしい。先輩達もいくらか表情を和ませ、興味津津といった風になった。その様子を見て、滝先生が目を細める。

 

「準備はいいですね。では、始め!」

 

 滝先生はそう言って、パンと手を叩いた。それを合図に、皆慌ただしく姿勢をただし、目を閉じる。室内に、静寂が広がった。

 体内時計で、十秒ほど経過した頃だろうか。風が頬を打った。教室の窓は空けたままだった。天気は良かったが、風は微妙に冷たい。校庭の木の葉も、吹きぬける風を嫌がるかのようにざわめいている。小鳥のさえずる音も聞こえる。

 考えてみると、放課後はいつも部活で音だらけの環境に馴染んでいる。こんなふうに、演奏以外の音をじっくり聞く事は久しくなかった。

 がたん、ごとん。がたん、ごとん。

 列車の通過音。規則正しく刻まれるリズムが、眠気を誘う。

 

 

 ぐぅ~~~~~~~~。

 

 

……。

 

「……終わりです。どんな音が聞こえましたか?」

「……小鳥のさえずりが」

「……電車の通過する音が」

「来南の腹の虫の鳴き声が」

「……」

 

 頬を真っ赤に染め上げ、両腕でお腹を隠す喜多村先輩の様子が、その言葉の真偽をこれ以上ないほど明確に現していた。

 

「喜多村さんは、お昼を食べていないのですか?」

「……サンフェス近いので、ダイエットしてるんですぅ」

「去年のユニフォームを部活の時に着てみたら、お腹まわりが相当怪しかったもんね」

 

 岡先輩が、ニヤニヤしながら言う。

 それは腹式のトレーニングのマラソンもおざなり。重い楽器運びも相変わらず人任せだし、食うもの食ってれば出るところは出るだろう。

 しかし一つ、疑問が残る。

 

「部活の時は先輩達といつも一緒だったのに、そんな暇、いつあったんですか?」

「だから、アンタに一年の腹式指導任せた時」

 

 人に仕事おしつけて、何やってんだこの人達は。具合が悪かったんじゃなかったのか。

 

「……ファゴットのお二人は、もう一度やりましょうか。今度は一人につき最低十種類の音を答える事。重複は許可しません。できなかったら出来るまで繰り返し。いいですね」

 

 滝先生が提案した意趣返しに、自分も鎧塚さんも一も二もなく賛同し、それから十分間、サボリ魔達は徹底的にしごかれた。

 

 

 

 

「では、ほどよく集中力も高まったところで、音大生の海兵隊の演奏を聞いてみましょうか」

 

 そう言って、滝先生は教卓に置いていたノートパソコンを操作し始めた。

 

「今からオーボエの旋律、そしてファゴット、最後に合奏の順で流します。自分達の演奏とどこに違いがあるか、よく見極めて下さいね」

 

 模範演奏を聴いて、曲の雰囲気や流れをつかむ。それは自分にとって、特に真新しいアドバイスという訳でもなかった。ただ、緊張感を失うと、普通に聞いているだけの状態と何も変わらない。全神経を演奏を聴く耳、楽譜を眺める目に集中させる。緩い部活で過ごしている内に、そういうところは若干おざなりになっていた。

 

♪~

 

 ノートパソコンから、曲が流れる。

 こうして楽器別に聞いてみると、息継ぎ、アクセントのポイントは良く分かる。ただ、どうすれば模範演奏のように吹けるか、聞いているだけでははっきりしないところがある。そちらは練習を積むしかないのだろう。

 

「貴方達の演奏は、どこか足りないか分かりましたか?」

「今の段階では……音の強弱の付け方が自分達とは違うとか、それくらいしか分かりません」

「ええ、今はそれだけ分かれば十分です」

 

 滝先生が、僅かに目を細めた。

 

「楽譜の上ではフォルテもピアノも五線譜に記された、ただの強弱記号にすぎません。実際に演奏を聴く事で、音楽記号だけでは分からない所も見えてきます。フォルテではどれくらい音を強く響かせるか、ピアノではどのくらいの弱さが適当か。クレッシェンドやデクレシェンドでの強弱の変化の付け方に違和感はないか。それを把握するだけでも、貴方達の演奏は必ず生きたものになります。いい音を出すには、まずいい音を知る事です。そうやって型を学んで、自分の演奏を作っていってください」

 

 滝先生はノートパソコンからDVDを取り出して、自分に手渡してきた。そして、当面の間はDVDの演奏を繰り返し聞いてみる事、DVDの演奏に合わせてそのまま楽器を吹いてみる事……などを、事細かに注文をつけてきた。

 

「では、ダブルリードパートの指導はここまで。お疲れ様でした。ああ、それと蔵守君。これから私は他のパートの指導に向かうので、貴方も付いてきてもらえますか?」

 

 何故に。

 

「あの、どうして自分が」

「私はこの学校に来て、さほど経っていませんから。部員達の事をよくは知りません。松本先生から一応話は聞いていますが、やはり現場に居る子の第三者視点から、指導の反応を聞きたいのですよ。ダブルリードは一年生もいませんし、貴方はパートリーダーです。後輩の指導代わりのお仕事という事でお願いできませんか?」

 

 まさかこんな形で、新入部員を勧誘できなかったツケを払わされるとは思わなかった。

 そして滝先生は言外に言っている。今こそパートリーダーとしての職責を果たせと。

 

「……分かりました」

 

 嫌な仕事が増えた。それも、肉体的ではなく、精神的に疲労を感じずには居られない仕事になる。理屈では正しくとも、滝先生の指導に他のパートの先輩達が大人しく従うとは思えなかった。場が荒れるのは目に見えている。

 小笠原先輩が務める部長職ほどではないにせよ、パートリーダーの肩書きも、思いのほか重い。

 

 

 

 




写真の中学生みぞれの髪型は、宝島社の「響け!ユーフォニアム」特設サイトにあるみぞれみたいなイメージです





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第16話 本領発揮! コンダクター 後編

「言いつけどおり、キーボードを持ってきました」

「ご苦労様です。では早速参りましょうか」

 

 足取りも軽やかに、滝先生は廊下を歩きだす。今日まで(ろく)に使われず、音楽準備室の置物と化していたキーボードを抱えながら、自分も後に続く。丸太に比べれば、今度は随分とまともな道具を指導に使うつもりらしい。

 滝先生は、大学ノートをめくりながら呟いた。

 

「気になっていたのですが、クラリネットの二年生は島さん一人しかいませんね。去年、南中の子達以外も結構入部していたそうですが……みなさん上級生に潰されたのでしょうか?」

 

 なんでそんな物騒な言い方をするんだろう。

 

「……まあ当たらずしも遠からずです」

 

 どうやら、次のターゲットはクラリネットパートになるようだ。スマホで注意喚起しておきたいところだが、あいにく今は手が塞がっている。

 

「やる気がある先輩はそこそこいたんですが、クラはとにかくまとまりがなくて。ついていけないと感じた同級生が、多かったみたいです」

「というと?」

「込み入った話になりますが……要約すると内輪もめが絶えなかったんです」

 

 脳みその片隅から去年の記憶をひねり出して、滝先生に去年のクラの事情を大まかに説明した。

 

 ……そもそもの原因は、クラリネットパートに部長とパートリーダーが混在していた事にあった。部長がパートリーダーを兼任すれば良さそうなものだが、中間管理職の雑用は嫌がる癖に、自分自身より下手な(少なくとも、当人にはそう見える)相手に対して、世話を焼きたがる人はどこにでもいるらしい。部長も当初は、指導面の負担が減ると、単純に喜んでいた。

 破局は、わりと早く訪れた。初心者からすれば、よほど冠絶(かんぜつ)した実力差があるならともかく、あるかなきかの部長とパーリーの間で意見が食い違うと、どちらが正しい事を言っているのか分からない。よくしたもので、部長とパーリーも「私の方が上手!」と思っているのでなかなか譲らない。

 かくして、初心者部員は空気の悪さを嫌って一人また一人と(くし)の歯が欠けるように消えていき、傷害事件で元南中の経験者がごっそり退部する前から、クラリネットパートは半壊状態の様相を呈していた。

 

「ほう。そんな居心地の悪いなかでも、部活を辞めなかった島さんは、なかなか根性がありそうですね」

「根性があるというより、パーリーの鳥塚先輩に恩を感じていて、困っている先輩の力になりたいと考えているみたいですが」

 

 島も入部直後はトランペットを希望していたそうだが、音出しでしばらくの間、(つまづ)いていたという。うまく音が出せない状態が長く続くのは、経験が足りないからではなく、適性がないからだ。それは、鍛えてどうにかなるようなものでもなかった。口と楽器を繋ぐリードが、音の発信源になる木管楽器に対し、金管は奏者の唇周り。身体そのものが発信源になる。つまり身体的特徴に大きく左右されるのだ。

 ハンデを抱えた初心者が選抜を勝ち抜くには、トランペットは人気楽器でありすぎた。数少ないパイの奪い合いに敗れた島はすっかり落ち込んで、塞ぎ込んでいるのを鳥塚先輩が見かねてクラリネットに誘ったと聞いている。それからは鳥塚先輩が手取り足取り親身な指導を行って、島はすっかり先輩の信者になってしまっていた。病気の深さでは、中世古先輩信者の吉川さんといい勝負だろう。

 

「なるほど、美しい師弟愛ですね」

「……だから、今度はあまり鳥塚先輩に強い言葉をぶつけないで下さい。正直この前の合奏の時も、島が暴発するんじゃないかと気が気でなかったんですから」

「善処しましょう」

 

 善処。本来の意味を離れて、これほど信用が持てない言葉もない。たいていの場合は単なる口約束に終わる。

 内心そんな事を思っている内に、クラリネットパートが練習に使っている教室にたどり着いた。去年の顛末の説明でいささか時間を潰したものの、嫌な事を後回しにしたい心境にあっては、パートの説明だけで部活が終わっても一向に差し支えなかったが。

 

「お邪魔しますよ」

 

 滝先生が扉を開いて挨拶をした途端、教室の中から突き刺さってくる剣呑(けんのん)な視線の集中砲火。挨拶を返す人は、一人もいない。先生の好感度の低さが良く分かる。

 

 その余波を浴びる形で、教室に入った自分を鳥塚先輩が(いぶか)しんだ。

 

「なんで蔵守もいるの?」

 

「先生から指導の手伝いを頼まれたんです。邪魔にならないようにするので、自分の事は気にせず、路肩の石みたいなものと思って下さい」

「ふうん……?」

 

 ざっと教室の中を見回した。後方に居座るクラリネットパートの部員達に沿って、譜面台が整然と並んでいる。雑談も聞こえなかった。吹き真似を見破られたのがこたえたのか、真面目にしている。ただ、一部の部員達は、どこかやけっぱちになっている様にも見えた。

 

 鳥塚先輩は手近にいた一年生の楽譜に何ごとか書き込みをしていたが、それを中断して近寄ってきた。

 

「先生、あれからちゃんと練習し直しました。ご指導、お願いします」

『……お願いします』

 

 礼儀正しく鳥塚先輩が頭を下げて他の部員も追随するが、型どおりの挨拶にもどこか重苦しさがつきまとう。

 張り詰めた空気のなか、固い表情で今や遅しと演奏の用意を整えているクラリネットの面々。

 そんな相手に向かって、滝先生はまたしても水を差す一言を投げかけた。

 

「演奏は、まだしなくていいです」

 

 先輩達が石像のように固まる。が、それも一瞬の事で、滝先生に向かって目を()いた。

 

「貴方達はまず、楽譜を暗記するところから始めて下さい。実際に吹きこむなり、頭でイメージするなり方法は任せますが、明日までにはちゃんと暗記しているように」

「どうしてですか! あれからちゃんと練習しました!」

 

 ひとりがそう言い出すと、(せき)を切ったようにみんな文句を言い始める。気合い入っているところを、あっさりと受け流されたクラリネットの面々からは非難轟々だ。

 十中八九、指導の場は荒れると思っていたが、初手から躓く事になってしまった。

 

「どれだけ練習しても、方向が間違っていればゴールから遠ざかるだけだからです。貴方達は基礎がなっていません」

 

 その一言で、みんな水を打ったように静まり返った。

 

「蔵守君。早速ですがキーボードの準備をお願いします」

「はい」

「それと、高野さん」

「! はいっ!!」

 

 先ほどまで鳥塚先輩と一緒にいた初心者の一年生が、名指しで指名されてびくつく。

 

「音符の下にドレミを書くのはやめなさい。貴方達はまず、書き込みに頼らずに楽譜を読めるようにするところから始めなさい」

「え、でも……」

「貴方は英語の教科書に、カタカナで読みがなを振るのですか? 英文でなく、読みがなを見て発音するのですか?」

「いえ、そんな事しませんけど。でも……」

「貴方がやっている事は、そういう事ですよ。音符よりもドレミの書き込みに目がいくと、いつまで経っても楽譜が読めるようになりません」

「……わかりました」

 

 初心者の一年生が楽譜の書き込みを消していく。そして申し訳なさそうに鳥塚先輩の方を見た。

 鳥塚先輩は不服そうにしている。それも道理で、目の前で自身のやり方を否定されて面白いはずがない。誤りを正すにしても、もう少し言い方があるはずだ。

 滝先生が、こちらをちらりと見た。

 

「蔵守君、キーボードの用意はできましたか?」

「はい。いつでも」

 

 この張り詰めた空間では、キーボードを机に置く音ですら怒気を刺激しかねない。なるだけ静かに準備を整え、視線をキーボードに下ろして誰とも目を合わせないようにした。

 

「ではドレミファソラシドのドから、私の合図に合わせて一音ずつお願いします。いきますよ。一、二、三、四」

 

♪~

 

 先生の合図に合わせて、キーボードを指先で叩く。ドレミファソラシドの音を一つ一つ出す。その音に合わせて、クラリネットのメンバーが声を出していった。

 

「今ので一音一音の違いを確認しましたね。では、海兵隊のクラリネットの旋律を、同じようにドレミで歌ってみて下さい」

 

♪~

 

 また先生の合図に合わせてキーボードを叩いたが、今度は耳にノイズが入り込んでくる。

 一年生の初心者の子は無理もなかったが、三年生の中にも音を外す人がいるのだ。やはりこの前の合奏で崩れたあたりから、(あら)が目立つ。先輩達も、これと似たような練習を経験した事があるに違いないが、楽器を演奏するのに何故こんな事をするのか。それが分かっていないと、この手のトレーニングは身が入らない。その差が露わになっていた。

 

「蔵守君。聞いていてどうでした?」

 

 それを自分に言わせるのか。ここで下手な言い方をすれば、クラの面々の恨みを買いかねないのに。

 先輩達の顔をざっと見回した。同じ木管楽器。ちょくちょく一緒に練習もするので全員見知った顔だ。それだけに何を考えているか、顔を見ればおおよそ見当はつく。

 

――ちょっと。分かってるよね――

 

 そんな先輩達の氷点下の視線が痛かった。しどろもどろになりつつも、どうにか言葉を取り繕う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええと……。途中までは綺麗に歌えていたと思います」

 

 

 

 

 

 嘘は言っていない。

 

 

 

 

 

「その先は?」

 

 袋小路に追い詰められて、玉虫色の返答も許されない。

 

「すみません。ボーとしてて聞き逃してしまいました」

 

 臆病者とでも何とでも言え。和を以て貴しとなす。NOと言わない日本人素晴らしい。

 

「物見遊山に貴方を連れてきたわけではありませんよ。次はちゃんと聞いていなさい」

「はい……」

 

 クラリネットの指導なのに、自分が真っ先に槍玉にあげられるのは気に入らないが、ここで馬鹿正直に感想を述べでもしたら、たぶん先輩達にフクロにされるくらいじゃ済まない。

 せいぜい恐縮しきった(ふう)を装って、滝先生の叱責の矛先がクラの面々に移るのをただ眺めた。

 

「途中から崩れたのは、貴方達も分かっていたでしょう? それは周りの音に合わせるだけの余裕が、今の貴方達にはないからですよ。楽譜に頼り過ぎてはいけません。楽譜に書かれた情報など頭の中で(そら)んじて、一緒に演奏しているみんなの音を聴く余裕くらいは持ってもらいたいのです」

 

 ドレミファソラシド。吹奏楽用語で言う所の、いわゆる音階(おんかい)を用いて曲を歌うのは、楽譜の旋律を頭に叩き込む為の、初歩の初歩である。クラリネットパートは、それすら出来ていない事に衝撃を覚えた。鳥塚先輩の怠慢に驚いている訳ではない。クラは基礎の指導も思うに任せない状況にあるのか、という驚きで。自分が知っている鳥塚先輩は、教本の教えに沿った、手堅い演奏をする人だった。

 部長とパーリーの間の(いさか)いで、去年の新入部員の少なくない数が去り、残りも元南中部員の退部に引きずられる形で、結局残ったのは島一人だった。そのままではパートとして成り立たず、吹奏楽の核となるクラリネットの人員を補充する為、他のパートから多数がコンバートした。

 慣れ親しんだメンバーの下から離れて、新天地に向かうのを承知したはいいが、他のパートに比べて一体感に欠けるのは否めない。意思疎通に齟齬(そご)が出てしまうのは多少は仕方無い面もあり、パートリーダーと言えど鳥塚先輩が強い態度で出られない事情もあった。

 ああいう形で、合奏する事になったのは先輩にとっても不本意であったはずだ。

 

「基礎の基礎ですよ。何年も貴重な時間を割いて、この部活に()ててきたんですよね?」

『はい……』

「それで今の様な合唱しか出来ないというのなら、それこそ時間がもったいない」

 

 先輩達が項垂(こうべた)れる。

 合奏の時の方が、まだ言葉を選んでいた。今のは、やるだけ時間の無駄だと言っているようなものだ。

 去年だけではない。おそらく一昨年も、卒業した先輩に頭を抑えつけられて、今の三年生は不本意な思いをしてきた。そこに居丈高(いたけだか)な顧問がやってきたのだ。言いたい事の一つもあるだろう。

 

「ですが……!」

「鳥塚さん。人が多いから合わせるのが大変。練習時間が足りない。そんなことは、やる前から分かりきっていた事でしょう。分かっていたのなら、なぜそれを改善しようとしないのですか? 方法が思いつかないなら、私に聞いてきてくれてもよかったのですよ」

 

 何か抗弁しようと、口を開きかけた鳥塚先輩の機先を制する形で、滝先生が追撃をかけた。

 本当にこの人は、息苦しい正論をぶつけてくる。人が、そんな理屈通りに行動できるのなら世間を騒がす問題の半分は消え失せるだろう。部活動とて人が集まって活動する以上、人付き合いと無縁ではいられない。十六年生きただけの青二才に過ぎない自分でも、人付き合いは理屈より感情が優先される事ぐらい肌で感じている。女子が相手の時は特にそうだ。

 まとまりのないクラリネットパートの取り仕切りだけで四苦八苦しているであろう鳥塚先輩に対して、滝先生の言葉はあまりに思いやりがない。

 

「言われる前に、行動できるようになりなさい。貴方が反省すべきは、まずそれです」

 

 鳥塚先輩は何も言わない。体を震わせつつ、口をへの字にして、両目から涙がこぼれそうになるのを必死にこらえていた。見ていて、いたたまれなくなる。昨日の合奏そして今日と、後輩達の眼前での叱責だ。自尊心も相当に傷つけられただろう。さすがに表情からは負の感情を隠しようもない。それでも逆上せずに、ひたすらかしこまっているのは、いっそ立派なものだった。

 

「ヒロネ先輩を悪く言わないで下さい! 先輩はちゃんと私達に指導してくれてます!」

 

 たまりかねたように、それまで黙っていた島が細い眉をつりあげながら大声で叫んだ。彼女の両目に、憤怒の炎が揺らめくのが見える。同級生や後輩以上に、先輩が叱責されている場面など見ていて気持ちのいいものでもない。それが親しい先輩なら尚の事で、島が心穏やかでいられるはずもなかった。

 

「では島さん、その成果を見せてもらえますか?」

 

 滝先生も飄々(ひょうひょう)としたもので、島の突然の激高にも動じた様子はない。突然の、といっても彼女の気性を知る自分などからすれば、話の流れからこうなるのは時間の問題に思えたが。とにかく煽られた形の島は、憤然としてクラリネットを構えた。

 構え方なら、自分も知っていた。クラリネットパートとは何度も練習を重ねている。楽器を交換し合ったりするのは遊びの様なものだ。高校から始めたとはいっても、島も今年で二年目。もう初心者とはいえない。クラリネットの構えは様になっていたが、ただそれだけだった。それ以上でもそれ以下でもない。

 

「どうしました? その堂に入った楽器の構えは見せかけですか? 喧嘩なら、見せかけだけでもひるむ相手はいるかもしれませんが、音楽はそうはいきませんよ」

 

 この前の合奏の吹き真似を皮肉っている。ひっ、と周りから悲鳴が上がる。

 島は負けん気を先生にぶつけて、半ばやけくそ気味にクラリネットを吹き出した。

 

♪~

 

 直訴するだけあって、さすがに島は楽譜通り音を外すことなく吹けていた。リズムもおかしくない。しかし音色が微妙に汚い。

 目を閉じ、腕を組んで彼女の演奏を聴き入る先生も、頻繁に首を(ひね)る仕草を見せる。リードと楽器の相性が良くないのだ。オーボエのリードを買いに行く時に、ついでで何度かクラリネットのリードも買ってきてと彼女に頼まれる事があった。どのメーカーのものが欲しいか、指定こそしてきたが、眉をひそめざるを得なかった。

 

――ちゃんと楽器店に行って、リードを選んだほうがいいぞ――

 

 それを年明け、そしてこの四月。時を置いて二度、言った。三度言う気はなかった。くどいと思われるだけだ。

 鳥塚先輩も、どのメーカーのリードが島の楽器に合っているか。それ位は指導しただろうが、所詮リードはナマモノ。当たり外れはある。買い替えの度に、面倒でも楽器店に楽器を持っていって試し吹きをする。その過程を踏んだ上でリードを購入すればベストだが、そこまで手間をかけているようではなかった。

 

「上手くいかなくても、最後まで演奏しなさい」

 

 先生だけでなく、隣で見守る自分まで微妙な空気を醸し出しているのに心が折れたのかもしれない。誰に言われるでもなく途中で演奏を止めた島に、滝先生は更なる追撃をかける。

 

「昨日の合奏は途中で止めてたじゃないですか!」

「あの時は皆さんの実力を把握するのが目的でしたから、途中まで聞けば十分でした。今は違います。最後まで演奏しないと、分からない事もあるのですよ」

 

 滝先生の言葉は、いちいちもっともではあった。部分的に演奏した時はできていたのに、合奏では息が続かずバテてしまってうまくいかない。そういう事は往々にしてあり、全体を通して演奏して初めて気付く。

 嫌味な口調の中にも、聞くべきことは混じっている。

 

「私は、確かに上手くありません! でも、真面目にやっています!」

「上手くもなく、遊び半分で全国を目指している吹部なんて、私は知りませんが」

「ぐっ……! この……!」

 

 滝先生の言葉は嫌味以外の何物でもなく、島の態度も恐れ入るようなものとは程遠い。

 

「この、粘着イケメン悪魔!」

 

 反論というより怒号だな、とはたから見ていて思ったが、とにかく先生の詰問(きつもん)が島の反論を呼び、それが怒号に変わるまでさしたる時間は要さなかった。

 これ以上滝先生をこの場に留めても、今までとは逆の意味でまともな練習が出来るはずもない。先生の頭の中にどれだけ高尚(こうしょう)な指導理論が内包されているのかは知らないが、さしあたって今は、怖いもの知らずの調教師が猛獣に鞭打つ所業をとどめる段階にきていた。

 

「……あの、先生。クラへの宿題が楽譜の暗記だけでいいなら、ここら辺でお暇しませんか? まだ他のパートも回らなくちゃいけないんですし」

 

 二人のやり取りにおそれをなして取り成すと、上級生と顧問の修羅場にびくついていた一年生達が救われたような表情を浮かべた。

 滝先生は、クラリネットパートの部員達を一瞥(いちべつ)すると、ふう、とため息をついた。

 

「そうですね。ではキーボードを置いていくので、しっかり楽譜の旋律を頭に入れて下さいね」

 

 それを聞いて、へたへたと膝をつく一年生。うつむいたまま、ぽろぽろと涙をこぼす鳥塚先輩。いろんな意味で痛ましい光景だが、しかし同情している余裕はなかった。今日だけでも、こんな光景を推定あと四、五回は見守らなければならないのだろうから。

 早くも付き合いきれなさを覚えながら、いっそ傘木の後を追って市民楽団にでも隠居しようかと、半ば本気で考えた。

 

 

 

 

 

 

「もう来るなぁ!」

 

 般若と化した島の怒声に追い立てられるように教室を後にして、しばし無言だった。

 制服のポケットにしまったままのスマホが、振動を続けている。島と滝先生が言い合いになったあたりからだ。部活動中の携帯電話の使用は校則で禁じられているが、状況が状況だ。校則を守る気があろうとなかろうと、状況確認せずにはいられないのだろう。

 そして手加減を知らない当の人物はというと、小憎らしいほど平然としながら話しかけてくる。

 

「良いタイミングで、話の腰を折ってくれましたね。私も少しばかり、口が滑らかになってしまったようです」

 

 あれで少しか。ここに鏡があれば、自分は苦虫の十匹は噛み潰したような顔をしているだろう。

 

「あそこまで言う必要、あったんですか?」

 

 次なる生贄を求めて、軽快な足取りを重ねる滝先生の背中に恨み節をぶつけた。先生は前にいた学校と同じ指導をこなしているつもりかもしれないが、ここは前の学校ではない。これまでの部活とは内容が180度違うスパルタ指導は、先輩達にとって過酷なものであるはずだ。

 まさかこの調子で他のパートも炎上させるつもりなのか。その度に火消しをさせられるのはたまらない。そんな事を思いつつぼやいた。

 

「先生がキツい言い方して、みんなから突き上げをくらうのは勝手ですけど。巻き添えは勘弁して下さい」

 

 滝先生の太鼓持ちと、誤解されるのは御免だ。

 

「ああ、それなら心配いりません」

 

 滝先生が、涼しい顔をして口を開いた。

 

「鳥塚さんを(かば)おうとして火に油を注いだ島さんよりも、火の元を余所に移そうとした貴方の方が、一年生達には有難かったでしょう。貴方もなかなか抜け目が無いですね。顧問と同級生をダシにしてポイントを稼ぐとは」

 

 火の元を余所に移すってなんだ。まるで自分が放火魔の片棒を担いでるみたいじゃないか。爽やかな笑顔とは対照的に、滝先生の口から出てくる言葉は不穏極まりない。

 

「誤解を招くような事は言わないで下さい。何処の壁に耳があるかわかったもんじゃないのに。……というか、早速出歯亀が一匹ついてきてますよ」

「ひゃい!?」

 

 入学して間もない一年生は、まだ校内を把握しきっていない。廊下のつきあたりの壁一面に据え付けられた大鏡に注意が向かなかったのが運のツキ。柱の角から突き出たタコ足が丸見えだ。戻って練習しろと言ったのに、人の話を聞かない後輩である。

 

「あ、あはは……。ばれちゃいました」

 

 雑な隠れ方をしていた黄前さんが申し訳なさそうに柱の陰から姿を現した。笑ってごまかそうとしているが、自分の言い付けを破った事に言い訳の一つもないのか。

 

「黄前さん。どうして貴方が此処にいるのですか?」

 

 滝先生が笑顔で問いただすが、それが逆に怖い。もしかしたら怒っていないかもしれないが、叱る時でも微笑みを浮かべている人なので油断できない。

 それにしても、ついこないだ入部したばかりの一年生の名前を滝先生はちゃんと覚えている。昨日、自分が先生とサシで会った時は、名前を咄嗟(とっさ)に出せずにいたのに。あれから一夜漬けで、部員全員の名前と顔を丸暗記したのだろうか。凄いと思うが、それならそれで自分が付き添う必要性を感じない。

 

「さっきはマウスピースを洗いに来てたね。今度は楽器丸ごと洗いにきたの?」

 

 ちらりと廊下の片隅の流し場に目をやりながら、黄前さんに聞いてみた。

 

「いえ。今丸洗いしなくちゃいけないほど、ユーフォの状態はひどくありませんよ?」

「そう」

 

 流し場に歩み寄り、蛇口を捻って水を張った。北宇治高校の流し場は幅広い。十分浸かりそうなスペースはある。

 

「……あの、どうして水を張るんですか? 今の会話の流れで」

 

 それは水に浸すのは楽器ではないからであって。

 

「うん。人の話を聞かない一年は、水に浸からせてしばいてやろうかなと」

「ひええ!!」

「蔵守君も、冗談はそれくらいにしておきなさい。それで、黄前さんは何故ここに?」

 

 滝先生に諭されて、彼女を土左衛門の刑に処すのは断念した。無論冗談ではあるが、あまり勝手に動き回らないように釘をさしておくのが黄前さんの為にもなる。去年よりは随分マシになっているとはいえ、旧態依然とした上下関係をよしとする気風は、今なお吹部に残っていた。

 

 それはさておき、滝先生は黄前さんがここにいる理由を再度問いただすものの、

あたふたしたままの彼女の返答は

「あすか先輩が怒って出て行って」だの

「後藤先輩と梨子先輩が怯えてて」だの

「みどりも滝先生の指導を見に行きたかったです!」だの

いまいち要領を得ない。一呼吸置いた方がよさそうだ。

 

「落ち着いて黄前さん、ゆっくりでいいから時系列に沿って話すんだ。はい深呼吸」

「そ、そうですね。スー、ハー。すぅー、はぁー」

「……」

 

 深呼吸しても胸部に大した膨らみは確認できない。やはりAか……。

 

「ふむ、そうですね。では落ち着くまで15秒の猶予を与えましょう。13、11、7、5、3、2、ゼロ。はい時間切れです」

「うぇぇっ!?」

「……滝先生も黄前さんで遊んでるじゃないですか」

 

 思わず口を尖らせた。

 素数を数えても一向に落ち着く気配を見せない黄前さんは放っておく。

 

「おっといけません。吹奏楽部の空気に染まってない新入部員が純真に見えて可愛くて。あとひと月もすれば生意気になっていくと思うと、ついついいじりたくなるのですよ。こんな事ではいけないと思うのですが」

「思ってても言わない方がいいですよそういう事」

 

 楽器の持ち方も知らない初心者が、一通り手ほどきを済ませて、簡単な曲の一つでも吹けるようになる頃には生意気になる。自分もそうだったから、滝先生の言う事も良く分かる。

 とはいえイケメンでなければキモいと引かれる事請け合いの発言でもある。先生にもこんなお茶目な面があったのかと関心しつつも、関心している場合ではない。混乱状態のままの黄前さんを、先生と自分で合わせて三度目の(なだ)めにかかった結果、「滝先生の指導ぶりを練習の参考にするから、よく観察してきて」と田中先輩から派遣されてきたらしいという事は分かった。

 ようやく落ち着いたらしい黄前さんは、胸に手を当てながらつぶやく。

 

「ふー、答えるの待ってくれて助かりました。教室に居ても苛々するから個人練行ってくる。出番近づいたら連絡寄こせなんて本当のこと先生にバラしたら、後であすか先輩から使えない奴ってネチネチ嫌味言われそうですし。かといって黙ってたら私が先生に怒られちゃうし。あらかじめ教えられた言い訳を思い出す暇もなく返事を急かされると、どう答えていいかパニクッちゃいますよね」

「全部バラしてくれてありがとう。そういう事情だったのか……」

 

 黄前さんはまだ平静に戻っていないのか、それとも普段から思っている事をそのまま口に出してしまう性分なのか。胸以外隠れんぼに向いてなさそうな体躯といい、田中先輩もとんだミスキャストだ。

 時期もまだ五月前。直属の新入部員が使えるかどうかのテストも兼ねているのだろうか。……あの人ならやりかねない、という気もするが。

 

「何故このタイミングで田中さんは機嫌を損ねて個人練に出たのでしょう?」

「……そりゃあ、楽器の音より部員の悲鳴怒声が廊下や隣近所の教室まで飛び交ってて、気が散るからでしょう」

 

 個々のパートが使っているのは普通の教室で、音楽室のような防音は無い。

 やんわりと叱るのならばいざ知らず。あそこまでくそみそに(けな)して、部員の悲鳴怒声を生み出している元凶のあり得ない質問に、若干やけくそ気味に返答した。

 

「では田中さんが落ち着くまで、低音パートは後回しにして他を先に回りますか。せっかくです。黄前さんもついてきなさい」

「うぇぇっ!?」

 

 滝先生の勧めに、黄前さんが本日何度目になるか分からない奇声を上げる。まったくもって、割のいい役目でないのは確かだ。先生と先輩達の間で何かあれば、怒りの余波を向けられかねないのだから。そんな役目を押し付けられる彼女も可哀そうだが、このさい自分としては、弾除け役が増えるなら良心を居眠りにつかせてでも賛成したい心境だった。それに木管ならともかく金管の事となると、(さわ)りしかよく分からない。

 

「でもいいんですか? 新入りの私がそんな出しゃばって」

 

 ふむ、と滝先生が(あご)をさする。先生が部員の顔と名前を一夜漬けで覚えても、さすがに部内の人間関係まではまだ手が及ばない。

 

「蔵守君。そこのところ、貴方から見てどうですか?」

「田中先輩から頼まれたと言えば、誰も文句は言わないと思います。自分も、異論はありません」

 

 滝先生の問いに太鼓判を押した。肩書こそ副部長でも、部内ヒエラルキーの頂点に立っているのは田中先輩だ。その田中先輩の意に異議申し立てをして、好き好んで波風を立てようとする人など、この部にはいない。

 

「あすか先輩って、人望あるんですね」

「……ま、それについては黄前さんもおいおい分かると思うよ」

「?」

 

 首をかしげる黄前さんから目をそらして、これ以上この話題に深入りするのを避けた。

 田中先輩は確かに人望はある。あるけれど。それは中世古先輩のように人柄の良さから来るものばかりともいえない。頭が良いから。演奏が上手いから。そういう能力の高さからくる、よく言えば頼りになる、悪く言えば敵に回さない方が利口な類の人望もかなりを占める。

 そしてそれを、黄前さんも今後の部活動で思い知る事になるだろう。

 

 

 

 

 




長らく更新が滞り、申し訳ありませんm(_ _;)m
創作意欲が下がっている訳ではないのですが、スランプ状態が長引いており、
投稿開始時のような頻度で投稿するのが難しくなっています。
今後も亀更新が続くと思いますが、ご理解頂ければ幸いです。


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第17話 漢気あふれるトランペット

 木管、金管、打楽器。それぞれのパートですったもんだのあげく、ようやく全てを一回りして滝先生の指導が終わった頃には陽が暮れようとしていた。

 心身ともにくたびれ果てた背中に投げかけられたのが、

 

――明日もお願いしますね――

 

という滝先生からの有難いお言葉である。

 初日の指導の大トリを担った低音パートの教室で一息ついていると、長瀬さんがチューバの表面についた指紋を拭き取りながら話しかけてきた。

 

「一年生の面倒見なくて済むっていう借りと、滝先生の付き添いで針の(むしろ)になるという貸しって、どっちが大きいのかな?」

「貸しの超過だよ。これを一週間続けるのか……」

 

 その超過分の疲労がどっと押し寄せてきて、すぐにダブルリードの教室に戻る気にもなれない。しばらくは何もやりたくない気分だったので、低音パートの面々が楽器のお掃除をする様子を黙って見つめた。その中でもひときわ目立つのが、長瀬さんのチューバだった。

 彼女のチューバは傍目(はため)にも古めかしく、楽器の光沢など、とうの昔に絶えて久しい。それが金色に光り輝く楽器が集う低音パートにあって、田中先輩の銀色のユーフォとは別の意味で目を引いた。楽器に刻まれた、"Nicckan"のロゴ。楽器メーカーとして日本国内は言うに及ばず、世界レベルで見ても絶大な知名度を誇るヤマ〇において、1987年以前まで存在していたブランドだ。彼女が使っている楽器は、調達から三十年近くは経っている計算になる。

 

「俺も手伝えればいいんだが」

「後藤も爺さんのメンテがあるんだろ。気晴らしにもならない仕事を回せるか」

 

 長瀬さんほどではないにせよ、後藤のチューバも二十年越えと相当に古い。こまめな手入れは欠かせなかった。もっとも、チューバに限らず北宇治高校にある金管楽器は十年超えの代物ばかり。金管楽器の寿命についてはいろいろ言われているが、自分の周りでは大体十年が目安と聞いている。つまり耐用年数的にレッドゾーンに突入している楽器ばかりなのだ。

 

「チューバって、大きいし金属で出来てるんですよね? そんなにメンテって必要なんですか?」

 

 自分達のやり取りを興味津々といった風で眺めていた加藤が、後藤に質問してきた。

 

「ああ。いつも衝撃を与えてるから」

「衝撃?」

 

 何の事か分からず、加藤が抱えていたチューバから音を鳴らす。入部間もない初心者の彼女は、まだ楽器の手入れの仕方が身についていない。片づけは二人の楽器のメンテが済んでからだ。

 

「その音。どうやって出てるか、加藤は分かるか?」

「後藤先輩も馬鹿にしないでくださいよー。唇を震わせて、その振動で音出してるくらい、勉強しました!」

「そう、それだ。その振動が、楽器にダメージを与えるんだ」

「ええ!! これが!?」

 

 加藤が慌ててチューバのマウスピースから口を放す。きょとんとしたり怒ったり驚いたり、彼女のリアクションは傍目から見ていても忙しい。

 

「そういうこと。だから葉月ちゃんも、手入れの仕方をちゃんと覚えないと駄目だよ?」

 

 加藤は慌てて長瀬さんの(そば)に寄って、チューバの手入れをする彼女の一挙手一投足を食い入る様に見つめ始めた。楽器の外の汚れは、すぐわかる。中に溜まった水抜きが曲者だった。管の穴から水分を出して、布を通す。一度通せば十分だが、わざわざ布を二枚用意して二度通す。そうやって水分をしっかり抜く手間を、長瀬さんは惜しまない。共働きでも、確実に夫に手作り弁当を作るタイプとみた。

 振動による金属疲労で楽器がすぐに駄目になるという事はないが、楽器に使われている真鍮(しんちゅう)はあまり丈夫な金属ではない。メンテナンスがいい加減だと、手汗や皮脂で楽器が錆びて十年持たずに大穴が空いたりする。そういう意味では、後藤の脅しも言い過ぎという訳ではない。

 災い転じて福と為すというが、傘木達が退部したので楽器はかなり余りがあり、特に状態の悪いものまで使わざるを得ない局面には至っていない。ただ長い目で見ると、放っておいていい問題でないのも確かだ。だから誰の目にもはっきりと分かる実績を残して学校から予算を下ろして貰おう。……というある意味もっとも切実で、もっともリアリストな観点から、全国大会出場の方に手を挙げたのが後藤と長瀬さんだったりする。二人共もともと楽器の扱いは丁寧だったが、付き合うようになってからは考え方まで所帯(しょたい)じみてきた。

 

 そんな仲良し夫婦+1の仲睦まじい光景を横目に見やりながら、どっこらせと腰を上げて田中先輩に近づいた。同じ教室で練習しているのに、先輩はまるで他者を寄せ付けない様に教壇近くにポツンといた。低音パート内で音を合わせる時以外は、いつもそうしているという。

 

「田中先輩、黄前さんに頼んでたっていう滝先生の観察ですけど、彼女がぐったりしてるので代わりに報告します」

「ん? ああ、そう言えば一仕事頼んでたね。で、どうだった?」

 

 田中先輩が、スマホを片手にいじりながら(つぶや)いた。

 

「低音とトランペット以外は惨々たるものでしたよ。口から出てくる言葉に、相手への遠慮とか気遣いとかが全く無くて。あの先生は、良心が鉄で出来てるみたいですね」

「人並みに心の痛みを感じてなさそうってワケかあ」

 

 乾いた笑いが、教室内に広がる。ざっと低音パートの面々を見回しても、異論反論は出てこない。海兵隊の合奏で見せた滝先生のインパクトはそれだけ大きく、一度の指導が大過なく終わったくらいで好転するはずもなかった。

 

「……滝先生、凄かったですもんね。いろんな意味で」

 

 滝先生と先輩達の板挟みで青息吐息の黄前さんが、片づけ半分のユーフォニアムに覆い被さりながら呟く。強豪出身の彼女をして、凄いと言わしめる先生なのだ。他の部員の目にどう映ったか、推して知るべしである。

 もっとも、道中の黄前さんは遠慮がちに先輩である自分の後ろについてくるという、後輩の特権をフル活用して陰に隠れていたので、口論になった時の仲裁に関して何一つ役に立ちはしなかったが。

 援護率0%。何しについて来たんだよ。

 

「先生に連れていかれたんですよ」

 

 そうでした。

 

「まあいいや。今回の反省を(かて)に、黄前さんも次頑張ってもらうとして……」

「次あるんですか!?」

「さあね。ただ次が無いという事は、滝先生が(さじ)を投げたという事になるのを忘れないでくれたまえ」

「う……」

 

 それはとりもなおさず、北宇治の全国行きを断念するという事である。

 滝先生のめぼしい指導内容を一通り伝え終えると、田中先輩は欠伸(あくび)を一つして呟いた。

 

「大体分かったよ。うちとトランペット以外は全然ダメだから、あの手この手で叩き直されてるってワケね」

「そうみたいです。それでこの情報、役に立ちそうですか?」

 

 先輩の視線はスマホの画面から動いていない。この話題に、大して興味無さそうに見える。

 

「うんにゃ、初めから何もする気ないし」

「あ。やっぱり練習の参考にするっての、混じりっ気なし純度100%の言い訳だったんですね」

 

 黄前さんの立場も考えてお(とぼ)けに付き合ってきたが、どうやらその必要もなかったようだ。あるいは気が変わって本当に何らかのアクションを起こすのでは、と思っていたのだが。

 

「当たり前じゃない。ま、付け加えるなら私は頑張ってますアピールかな。次の合奏でしくじったら、副部長の私も何か言われそうだし。予防線張った方が良さそうだったからね。それに今は滝先生が仕切ってるのに、私が横槍入れる必要ある?」

 

 自身の利害が絡みさえしなければ、対外的な行動はたいそう控え目になる田中先輩であった。

 

「黄前さんはその為の使い捨てですか。先輩の血は何色ですか」

「頭脳労働は幹部の仕事。肉体労働はヒラの仕事だよ」

 

 駄目だこの先輩。早く何とかしないと。

 

「だいたいねえ。私の副部長だって押し付けられたようなもんだし。なんでもかんでも私が前面に出るのを期待されるのも困るのよ」

「そうは言っても、仕事は出来る人のところに降り積もるのが宿命だと思うんですけどね」

 

 田中先輩が非凡なのは、誰しも認めるところである。だからこそ先輩が吹部を引っ張っていけば、滝先生の手を借りずとも状況は良くなっていくのにと思うし、自分も全面的に従うつもりでいるのだが、それを言ってものらりくらりと(かわ)されるだけだろう。

 一息ついて、田中先輩への追及はそこで止めにした。

 

「ただ今日一日ついて回って、滝先生の凄い所も分かりました。先生の吹奏楽の知識は確かです。そしてそれを、具体的な言葉で説明出来てもいる」

 

 「もっとハートを乗せて吹いて」とか、「(つや)のある音を出して」とか。どうとでも受け取れる抽象的な指示なら反論のしようもある。滝先生の言い方は不愉快であっても、具体的で説得力があるので、誰も言い返す事が出来ないでいるのだ。

 

「確かに、正攻法の口論では勝てない先生みたいだねえ。で、みんな言い返せなくてムカついてるから滝先生に一泡吹かせようと、今三年生総動員で先生の弱みを調べようよって話になってんだけど」

 

 さっきから、スマホをいじって何してるのかと思ったら。

 

「そんな事してる暇あるんですか。大体、具体的にどうやって」

「滝先生が担任のクラスの子を総当たりしたり、滝先生の音楽の授業受けてる子を総当たりしたり、滝先生が顧問してる部の子を総当たりしたりとか。そんな感じにやるみたい」

「……先生が顧問してるのって、この吹部しか無いですよ」

 

 最先端の文明の利器で連絡を取り合った結果が、ただの人海戦術ときた。

 

「総当たりしないとここの吹部って、情報沸いてこないんですか。風通し良くないですね」

「コミュニケーションに問題あり、ですね」

 

 やめてくれ黄前さん川島さん。現部員としてその台詞は地味に効く……。

 

「……そもそも滝先生は今年赴任したばかりだろ。総当たったところでロクな情報にありつけるかどうか」

 

 後藤が正論を吐く。

 

「それよりもー、"【粘着イケメン】滝昇【吹部顧問】"とかのタイトルでSNSに掲示板立ててみた方が前の学校の教え子さんから、情報が手に入りそうな気がしませんか?」

「タイトルで出所を特定されるからダメ」

 

 加藤がいかにも現代っ子的なアイディアを披露するが、ネットに情報を上げるのは諸刃の剣なので却下した。

 

「じゃあ、"【もっと罵って!】滝昇【興奮しちゃう!】"とかどうです?」

「お前はうちの吹部を変態の巣窟にしたいのか?」

 

 前の学校にも風評被害が及んでしまうではないか。

 

「下手くそな上に変態な吹部……。うん、イロモノここに極まれりって感じだけど、その路線でいくのもいいかも。何が流行るか分からない世の中だし、去年のコンクールもバラバラだったし。いっそ今年も不協和音ネタ合奏枠でウケを取りにいこうか?」

「どうしてコンクールに出てまでやらないといけないんですか……? そんな寸劇を」

 

 見ている分には笑えるだろうが、自分がピエロになるのはごめんこうむる。

 この人が音頭を取り出すと、割と冗談で済まされなさそうなのが怖い。

 

「それより何度もふざけた合奏続けてたら出禁になるんじゃないか……?」

「主催者側としては凄く嫌な団体だよね……」

 

 ふざけるのはいい(よくないけど)。しかしそれも時と場所を弁えるべきだろう。

 それはさておき、この場に集う二年生三人の全会一致で、田中先輩の提案は否決された。なお、滝先生の指導後すぐにバックレるという、相変わらずの付き合いの悪さを発揮した中川は無効票の扱いである。

 中川といい、鎧塚さんといい、居残った南中の面々はいつになったら復調するんだろう。去年の事件が残した爪痕は、今なお吹部に生々しく残っていた。

 

 

 

 

 

 

「はあ……」

 

 校舎の一階、自販機が並ぶ渡り廊下のベンチにもたれながらため息をついた。部活の合間、息抜きに吹奏楽部員がよく訪れるこのスポットも最近は人気(ひとけ)が無い。それも道理で、飲み物片手に(にぎ)やかにくつろぐには、ここは人目につきすぎた。長居していれば滝先生に何を言われるか分かったものではない。

 

 三日目の指導は先ほど終わった。今日のお遍路(へんろ)巡りも、自分にとってなんら建設的な意義を有するものではなかった。先生は先生で、大半の女子部員の敏感な痛覚神経をことさら刺激する発言を重ねるばかり。大半の部員も、怒声と悲鳴でよくそれに応じた。顧問に対する従順など犬に食わせろとでも言わんばかりである。

 滝先生の口撃で、泣かされた人は初日から数えて十人にのぼる。反発して口論になった回数は二十まで数えた。それ以上は面倒になって数えるのを止めた。こんな調子では、コンクールどころかサンフェスを待たずして潰される部員が出てくるのではないか。去年とは逆の意味で部活の先行きに赤信号が灯りそうで、不安でたまらない。

 加えて自分には、滝先生について回って、先生の舌が滑らかになり過ぎたら退場させるという過重労働がオプションとしてついている。頼りにならない黄前さんは二日目にして付き添いからバックレるし。滝先生も「私のパシリは貴方一人で十分です」とか言うし。神も仏もいないのか。

 気分転換にベンチの(かたわ)らに置いた小箱から、作り途中のオーボエのリードを取り出した。

 

 純粋なオーボエの腕前では、自分はどうしても鎧塚さんに一歩遅れを取っている。一歩どころか二歩三歩は遅れてるだろうとは吉川さんの言だがそれはさておき、技量で追いつけないなら道具でその差を補えばよい。

 そういう訳で空き時間を見つけてはリードの製作に熱を入れている。鎧塚さんもリード作りはそれなりにやっているが、この分野では自分の方が長じている。リードの製作技術に関しては、鎧塚さんはまだまだだった。刃物の扱いが得手(えて)でないのもそうだが、いつまでもいじりすぎるのだ。

 

 オーボエの先端に差し込むリードの表面は、本来ならなだらかな凸面で見た目に粗は無い。そこまでものが出来るようになれば、あとは教えようがないと講習会の講師さんは言っていた。(あご)の形。歯並び。呼吸筋(こきゅうきん)。唇の筋肉。そういう一人一人異なる物が、干渉し合って音を出す。作る数をこなして、リードを自分に合わせていくうちに、ある日いいものが出来るらしい。ある程度までは経験がものをいうが、そこから先は調整という名のローラー作戦。

 自分のオーボエに最適化されたリードが出来るのは、一体いつの事になるだろう。頭を下げて、リードをいじり続けた。

 

 しばらくして、かつんかつんと、足音が近づいてきた。自分の鼻孔(びこう)を、さわやかで清浄な香りがくすぐる。男ではない。

 ままならない部活の状況から、現実逃避してリード作りに逃げていたせいもある。よく見知った顔が陰気な雰囲気を漂わせたまま自分の手前に立ち止まるまで、誰なのか気付けなかった。

 

「……?」

 

 足音は、島と、フルートの井上だった。

 フルートの井上調(しらべ)は自分と同じ二年生。シンバルを任されることになったパーカッションパートの井上と同姓だが血縁関係はない。全くの赤の他人で、出身中学も違う。特に親しくしている訳ではない。喧嘩している訳でもないが、傘木の件がしこりを残していた。

 フルートパートは傘木に対する卒業生の無視に心ならずも加担してしまった後ろめたさで、自分は力になれなかった無力感で、お互いひどくやりづらい。鎧塚さんも鎧塚さんで、フルートとの練習が決まるといつも困ったような顔をする。嫌とまでは言ってこないが、普段から重い口はますます重く、目をキラキラさせて一番いい表情を見せる時が、練習後の雑談を早めに切り上げて暇乞(いとまご)いするタイミングなのだから救いがない。

 そんなのを毎度毎度見せつけられるフルートパートもたまったものではないだろう。自然、オーボエとフルートだけで同席する場は極力減り、同席せざるを得ない時も至極あっさりした時間にする。それが今のオーボエとフルートの間の、暗黙の了解だった。

 

「……ちょっといい? 話、あるの」

 

 部活時間外に、直接会わないといけない用事なのか。苦い表情をして見つめると、井上は全身を(すく)ませた。もともと、気の小さい方だ。傘木のように、上級生に反抗するなど考えもしない。

 

「話? 木管だけで合奏練習の相談でも?」

 

 そんな話にはならないだろうと思いつつも、わざと的外れな返事をした。今は自分の事で、手一杯だった事もある。

 

「違うよ……。滝先生の事なの。もう私、ついていけないよ」

 

 か細い声で、井上が(つぶや)いた。泣き落としなら、する相手を間違えている。本当に耐えられないなら、フルートの先輩に相談すればいい。大して親しくもない自分にこういう事を言ってくるという事は、つまり愚痴なのだ。それで自分が滝先生に対して何らかのアクションを起こしてくれれば儲けもの、という事だろう。

 

「私も、もう耐えられない! 何なのあの顧問! パワハラじゃない! ヒロネ先輩また泣かされたのよ! 何とかしてよ!」

 

 (から)め手で攻めてくる井上に比べれば、島の率直で遠慮のない言動は、いっそすがすがしい。

 

「二人の言いたい事は、よくわかる。自分だって、先生のやり方に諸手(もろて)を上げて賛成してるわけじゃない」

「それなら……」

「だけど多数決で、全国大会出場を目標とする方針に二人とも反対しなかったじゃないか。だったら、ここは我慢のしどころじゃないのか?」

 

 型どおりの返答に、二人は失望しているようだったが、ここで安請け合いしようものなら、それが前例になる。それでなくても二年生ゆえに末席とはいえ、ただ一人のパーリーという事で同級生から何かと突き上げを喰らう身の上だ。

 

「我慢できなくなったら?」

「先輩達に、もう限界ですと。相談したのか?」

「言える訳ないでしょう! 先輩達だって我慢してるんだから!」

 

 それもそうだ。二人にも体面や見栄がある。そういうものを気にしている余裕があるうちは、島も井上もまだ耐えられる。

 そうと分かって、二人の滝先生に対する非難……島は率直に、井上は回りくどいやり方でまくし立ててくるのを適当に聞き流した。言うだけ言えば、二人も多少は気が晴れる。

 

 反省すべき点があるとすれば、せめて表情だけでも真剣に聞いている風を装う事だったのかもしれない。しかし今の自分は心身ともにくたびれていて、ポーカーフェイスを正す気力すら失われていた。

 

「ねえ、ちゃんと聞いてるの!?」

 

 島からすれば、自分の応対はいかにものんびりしたものだったのだろう。業を煮やした彼女は、これまた型どおりの突き上げを仕掛けてきた。

 

「蔵守は私達二年生のなかでただ一人のパートリーダでしょ? それなら私達の代弁者として何かすべきじゃないの?」

 

 パーリーと言っても、二人とはパートが違う。二人から突き上げを喰らう義理なんて無い。そう言ってやりたかった。多分それは正論だ。その正論で突き放す気が起きないのは、正論で相手を容赦なくやり込める滝先生を(そば)で見ていたせいだ。あの人と、同じようなやり方はとりたくない。

 

「だからもう少し様子を見るべきだと言ってる。どうにもならないと思ったら、二人から言われるまでもなく、自分から滝先生に直談判しに行くよ」

 

 どこまでいっても、話は平行線。

 

「……もうっ! ホント二股なんだから」

「なに?」

 

 非友好的な態度を取り続けてきた島の口から、非友好的な言葉が飛び出てきた。

 

「どこのパートでも先生と先輩達の口論の間に入って(なだ)めてる。それって滝先生にも先輩達にもいい顔しようとしてるって事でしょ。それを二股って言わないで何て言うの」

 

 去年、卒業した三年に楽器を隠されたが、あれはまだ悪戯という範疇(はんちゅう)だった。ここまで率直に悪意をぶつけられるのは初めての事で、島が何を言っているか、すぐには吞み込めなかった。

 井上が言い過ぎだよと(さと)すが、口元は笑っている。それを見て、ようやく怒りが湧き上ってきた。

 こいつらは、二股云々の発言はそのまま己自身にはね返る事に気づいていないのか。

 怒りだけでなく、悔しさもこみ上げてくる。二股かけてると受け取られる様なことをやっている自覚はある。しかしそれは、去年みたいに吹部がバラバラにならない為にやっている事だ。

 二人も去年は、大なり小なり嫌な思いをしてきたはずだ。だから自分のやり方も、どこかで分かってくれている。そう考えていた。それは甘い考えだったのか。

 

 

 

 本音をそのままぶちまけてやろうかと、立ち上がろうとした時だった。

 

「二股って聞こえたんだけど」

 

 渡り廊下の先から、この場にいる誰のものでない声がした。頭にのせた、大きな黄色いリボンが風に揺らめいている。

 

「蔵守の事を二股って言ってるように聞こえたんだけど、何かの罰ゲーム? マジで言ってるなら、アンタたちも相当に(つら)の皮が厚いわね。化粧のし過ぎじゃない?」

 

 腕を組んだまま近づく吉川は、唇の端を()り上げ、いかにも相手を小馬鹿にしたような表情で、島に近づいた。

 

「りえ。アンタ今年の吹部の方針を決める多数決の時、どれにも手を上げなかったじゃない。全国を選ぶこともなく、思い出作りを選ぶこともなく。だからどちらの方針で問題が起きても、私はその方針を支持してないからって言い逃れできる。自分はそういう保険をかけてるくせに、蔵守のやってる事を二股って言ったりするんだ」

「……!」

 

 吉川が、唇を噛み締めて睨みつけてくる島に向かってふんと鼻息を鳴らした後、井上に向き直った。

 

「調、アンタは去年やる気にあふれる希美がハブられてるのを見殺しにしておいて、今年は全国を目指す方に手を挙げた。そうよね?」

「な……。優子だって傷害事件の時、最後の最後で怖くなって喧嘩に加わらなかったでしょう!? 希美の決起に参加しておいて……」

 

 あのとき吉川が怖気づいた、という見方は正しくはないだろう。傷害事件に先立つ長瀬さんの虐めの責任を取る形で、中世古先輩がコンクールを辞退した。それが吉川の心に引っかかって、最後の最後で自制心を働かせたのかもしれない。

 

「そうよ。私には香織先輩が居てくれたおかげで、部内で孤立せずに済んだ。だから香織先輩みたいな人がいなかったフルートで、アンタが保身を優先した事に文句を言う気はないの」

 

 吉川の発言が、危険な水域に差し掛かり始めた。彼女は言外にフルートパートの先輩は頼りないと、よりにもよってフルートの部員相手に放言している。

 

「自分は保身を優先してる癖に、他人が保身を優先しようとするのに文句をつけている。そのダブスタっぷりが気に入らないの。確かに私も希美を(かば)いきれなかった。その上で今年、全国を目指そうなんて目標を掲げてることにいくらか後ろめたさを感じてる。だから他人を二股呼ばわりなんて、恥ずかしくてできない」

 

 一つ一つ、言い訳の余地を潰していく吉川を相手に、井上はもう泣きそうだ。一方、島は(うめ)きながらも(なお)言い募る。

 

「滝先生のやり方に文句言ってるのは、私達だけじゃないんだから! みんなそう言ってる。私はそれを、伝えに来たの」

「みんなって、だれ?」

「クラリネットと、フルートのみんな! トロンボーンやホルンだって、そう思ってる人、きっと多いはずなんだから」

「そこまで意見をまとめてるなら、蔵守を通してなんて面倒くさい事してないで、りえが滝先生に直接言えばいいじゃない」

「蔵守から言った方が、まだ効果を期待できそうじゃない。何だか知らないけど、滝先生は蔵守の事を連れまわして気に入ってるみたいだし」

「なら私が、滝先生に直談判してくる。ちゃんとした答えをもらえるまで。もちろん、先生のやり方に誰がどう文句を言っているかもはっきりと伝えてくる。まさかとは思うけど、蔵守に頼むのはそこら辺をぼかした上で矢面に立ってくれると期待してるからじゃないでしょうね?」

 

 その言葉に、二人がひるむ。確かに、名指しで誰彼がこれこれああいう理由で先生のやり方に不満を持っていますよ、なんて言えない。自分の性格がどうこうというより、吹部男子という立場の弱さがそうさせる。パートリーダーの肩書など、都合のいい時に持ち上げられる(かざ)(びな)でしかなく、むしろ邪魔だ。

 

「もういい。吉川も、それくらいにしてくれ……」

 

 吉川は、ものをはっきり言いすぎる。それが良い方向に運ぶ時も、悪い方向に運ぶ時も、極端なくらい進展を見せてしまう。良い方向に進めば何も問題ないが、悪い方向に進めば取返しがつかなくなる。吉川が話に割って入ったのは、自分を庇おうとしてか、あるいはまた別の理由か。いずれにせよこれ以上の口論は同級生部員同士の溝を深める事にしかならない。

 

「なにを……」

 

 そこまで言って、吉川も黙った。俺が、彼女の事を呼び捨てにしているのに気付いたらしい。これまでは、常に彼女の事をさん付けで呼んでいた。

 

「クラリネットやフルートが、苦しい状況なのは良く分かった。だから明日、いや明後日までに先生になんとかならないか、はっきり言ってくる。だから二人も、もう少しでいいから我慢してくれないか」

「まだそんな事言って……」

「島、井上」

 

 二人の事も、声色を低くして睨みつけた。二人が、顔色を青くして黙った。

 

「俺が思い出作りに手を挙げていた事、忘れるなよ」

 

 今の部活の方針に当初から反対していた俺も我慢している。あの時、反対しなかったお前達が我慢できないとは言わせない。

 暗に、そう伝えた。

 

 

 

 

 

 

「……私は、アンタが分からない」

 

 二人が、まだ何か言いたそうにしつつも大人しく引き下がってくれた後、吉川が呟いた。

 

「俺は、他人の事にそこまで怒れる吉川が分からない」

 

 中世古先輩の事ならまだしも。

 

「茶化さないでよ。この際だからはっきり言っておくけど、私はアンタのそういう生温いところが嫌いなの。何よ、いつも優等生ぶって。アンタだって、本当は言いたい事溜まってるんでしょう!言いたいことがあるなら、言えばいいじゃない」

「全国を目標にしていなければ、俺ももう少し言いたい事を言ってる」

 

 吉川も傘木と同じように、弱い吹部を強くしたいと思っている。そういう情熱は、全国に行くためには必要なものだ。ただ今は、その情熱を外に向かって吐き出しても空回りするだけだろう。

 

「また去年みたいな事になるって言いたいの!?」

「違う。ただでさえ自分達は、練習量で他校に(おく)れを取っている。たとえ滝先生の指導がうまくいったとして、まともな練習が出来るようになったとしてもだ。それでようやく他校との差が今以上に広がらなくなるだけにしかならない。追いつくために、少しでも多くの時間を、皆一丸になって練習に取り組まなくちゃいけないだろう。それなのに部員同士のまとまりを欠いて、どうして全国に行けるっていうんだ? 仲間割れなんてしてる場合じゃないだろう」

 

 自分の言葉に、逃げが入っているのは分かっていた。結局のところ、自分がやっている事は、吉川の逆を張っているだけでしかない。衝突を避け、お互いに落としどころを作って妥協する。事態が決定的に悪化しないかわりに、劇的に改善もしない。それが自分の限界だと自覚するようになっても、一度身体にこびりついた習性は容易に改まりはしなかった。

 

「喜多村先輩に岡先輩、中世古先輩に小笠原先輩、田中先輩、斎藤先輩、ナックル先輩。三年生にとっては今年が最初で最後のチャンスなんだ。特に中世古先輩には去年迷惑をかけた。自分が我慢すれば済むことで、先輩の足を引っ張りたくはない」

 

 中世古先輩の名を出されると吉川は弱い。つい先ほどまでの鋭い舌鋒も、目に見えて鈍り始めた。

 

「ふうん……。蔵守も蔵守なりに考えてるんだ……」

 

 言わないでいい事まで言ってしまったかもしれない。吉川の身なりに目を注いだ。

 トランペットの管に当たる人差し指に、マメでもできたのか絆創膏が張られている。唇はさすがに手入れが行き届いて傍目には荒れていない。ただ口の中に、小さな腫れ物でも出来ているのか、たまに喋りづらそうにしている。本気で全国に行くために、厳しい練習を己に課しているのだろう。全国を目指す吹奏楽部員としては、吉川の方が正しいあり方のはずだった。

 

「……あんまり鵜呑みにするなよ、俺個人の考えだから」

 

 温い考えに吉川が影響される事は、毒になっても薬にはならない。彼女がストイックな姿勢で他の部員を引っ張るのなら、それでいい。引っ張る糸がほつれかけた時、自分が結び直せばいいだけだ。

 

 吉川が落ち着いてきたのを見計らって、話を練習内容のほうに切り替えた。アインザッツ(音の出だし)の揃え方のコツ、リズムを担当する打楽器と旋律を担当する自分達とのバランスの取り方。そういう話になれば、吉川は本来の明晰(めいせき)さを良い方向に発揮する。こちらの質問にひとつひとつ的確な答えを返し、逆に吉川の鋭い質問には何度も言葉を詰まらされた。さすがに強豪校出身なだけはあり、指摘はいちいちもっともで、学ぶところが多い。

 

「滝先生って、指揮棒使わないから打点(だてん)が分かりにくいのよね……」

「一本の指揮棒より、五本の指で指揮した方が表現豊かにできるって言うけど、分かりにくさも五倍だな」

 

 吉川と、吉川が持ってきた楽譜に、視線を交互に向けながら言葉を交わした。滝先生の指導に賛成していると言っても、吉川も何から何まで先生のイエスマンに徹している訳ではない。指揮棒無しの先生の指揮に対する不満では、お互い意見の一致を見た。

 配布されてまだ半月も経っていないのに、使いこまれた吉川の楽譜はところどころ破れて、テープで補修されている。注意書きも繰り返し書きこんだようで、白かったはずの楽譜は真っ黒になっていた。書き込みが繰り返された楽譜というのは、本人以外理解不能なものになっている事が多いが、夜の(とばり)が落ちてくる今時分は一層判別を難しくしていた。

 

「……そろそろ戻らないか?」

「もうちょっとだけつきあって。今は教室に戻りたくないの」

 

 吉川が、なぜタイミングよくこの場に姿を現したか、それでおおかた察した。

 

「高坂さんの放言、まだひきずってるのか」

「そっちもそっちで険悪な雰囲気になってたでしょ。お互い様よ」

 

 

 

 真面目さ度合い……というより、パーリーを中心にひとつにまとまっているという点では、トランペットパートは低音パートに勝るとも劣らない。初日そして二日目の指導も、あっさり済んでいた。

 雲行きが怪しくなったのは今日、滝先生が日頃の練習量について尋ね始めてから。今更誤魔化しようもないし、事実をありのまま伝えると先生は高坂さんに向き直った。

 

 ――高坂さんは、北中ではどれくらい練習していました?――

 

 強豪の北中が、北宇治より練習量が多いなんて聞くまでもなく察しはつく。露骨な誘導尋問だ。

 貴方たちは中学生に負けている。そういう言葉を引き出して発破をかけたいのは分かるが、何も一年生を生贄にしなくてもいいじゃないか。滝先生も気が利かない。彼女も足りないと内心思っているに違いないが、話の流れ的に先輩達のいる前で答えにくいだろう。

 自分なら適当にとぼけるが……

 

 ――自主練込みでも、中学の時の半分くらいです――

 

 んが。

 彼女は、臆面もなくそう言ってのけた。腹式呼吸の練習に来ない辺りから強心臓とは思っていたが、高坂さんとやらは、どうもそういうレベルでは収まりきらない存在らしい。傘木といい彼女といい、毎年この学校の吹部には釣り合わない人がやってくるものだ。

 

 

 

「……あの子って普段の練習からあんな調子なのよ。そのくせ口調は丁寧だから慇懃無礼(いんぎんぶれい)な事この上ないし」

「美人で、トランペットの実力もあるのに、愛想が追い付いていないのか」

 

 楽器振り分けの時の試し吹きでも、演奏の上手さを誉められたのに型通りの感謝の言葉を短く述べるだけ。確かに顔色一つ変えていなかった。

 

「それにちょっと前まで中学生だった癖に、たっかそーなモデルのトランペットをマイ楽器にしてて何て贅沢な……」

「……愚痴に私怨が混じってるぞ。その位にしときなよ」

 

 高坂さんを話題に出したのは失敗だった。吉川が愚痴りたくなる気持ちは分かるが、後輩の悪口を言い合うのは去年の三年と同レベルに堕ちたような気がして何となく嫌である。当たり障りの無い返答で済ませようとしたが、彼女は引き下がらなかった。

 

「ほら、そういうとこよ」

「?」

「こういう愚痴を言ってる時はね、素直に合わせてくれればいいの。今みたいに高坂の顔も立てようとするから、二股なんて言われるのよ」

 

 思わず苦笑した。

 新入部員達が各パートに振り分けられて、まだいくらも経っていないのにそうとう鬱憤(うっぷん)が溜まっているらしい。彼女の鬱憤をぶつける相手として、自分が適当かどうかは知らないが、まさかパートメンバーにぶつける訳にはいかないのだろう。人の良い中世古先輩の耳に入ろうものなら、いい顔をするはずがないのは分かりきっていた。

 

「あの様子じゃ、トランペットはピリピリしてそうだしね。自分は別のパートだからまだいいけど、部活の間、四六時中顔を合わせてる吉川は大変だろうな」

 

 愚痴という名の気晴らしに付き合うにしても、後輩を悪しざまに罵るよりは吉川を持ちあげる方が気は楽だった。学校の中だ。何処の壁に耳があるか、分かったものじゃない。

 

「そうよ! 私や香織先輩があの子の手綱(たづな)引くのに苦労してんだから、ちょっとは接待しなさいよね!」

「はいはい。ではお嬢様、お飲み物は何に致しますか?」

 

 自販機の前に立って、小銭で膨らむ財布を開いた。この時間まで練習していれば、喉も渇いているはずだ。

 

「もう少し練習するからミネラルウォーターで」

「了解」

 

 口が商売道具なだけに、練習中は飲み物も自由にならない。十分に冷えたボトルを手渡した。ん、と受け取りながら吉川は一気に飲み干す。少し落ち着いたようだ。

 

「あんたにはこれあげる」

 

 素早くボタンを押して、有無を言わせず吉川が放り投げた缶ジュースを受け取った。

苦手なトマトジュースだ。飲み物なのにどろどろしていて、いつまでも喉に残って、生のトマトにはない塩味も悪い意味でアクセントをつけている。つまり不味い。おごってやったんだから早く飲みなさいよという無言の圧力に抗しきれず、お愛想で一口つけて軽く顔をしかめた。

 吉川は、してやったりといった表情で話を再開した。

 

「コンクールで上を目指すのなら、今までのやり方じゃどうにもならない。それは私も分かってる。だから本当の事言うと、高坂の事、ただイラついてるってワケじゃないの。あの子、すごく練習熱心だし。だけどさ、もう少し言い方ってものがあると思わない?」

「ああ。それは良く分かる」

 

 本心から(うなず)いた。高坂さんは、先生の問いに素直に返答しただけだ。ただそこに至る過程で、先輩の顔を立てるという発想が出てこない。少なくとも、傍目にはそう見える。あるいは部活の為を思う情熱が言わせたのかもしれないが、明らかに(いさ)み足である。先輩の前であろうと言いたいことをはっきり言って、それで後から憎まれたり、困った事になったりするかもしれないと考えもしないのだろうか。孤立しても自分自身の力でどうとでも泳ぎ切れると思っているのだろうか。本気でそう考えているなら高坂さんは余程の大物か、救いようのない馬鹿か、どちらかだ。

 

「好かれる必要なんて無い。とでも考えてるのかしら」

「だとしても、敵に回さない程度の配慮をするに越したことはないと思うけどな」

 

 今後も角突き合わせるであろう二人の間に入って(たしな)める中世古先輩の姿が目に浮かぶ。もし高坂さんが自分達と同級生だったとして、去年の劣悪な部活環境に揉まれても同じ調子でいられるだろうか。

 そこまで考えて、苦笑した。

 今年の新入部員達には、去年の傘木達のような目に合わせたくないと思っていたのではなかったのか。一年生が先輩相手にも忌憚(きたん)なく発言できるのは、むしろ良い傾向ではないのか。それなのに、いざ先輩という立場になると生意気だと思ってしまうのだから。我ながら勝手なものだ。

 

「高坂さんも、一体何を考えてウチの吹部に来たんだろうなあ」

 

 今の吹部は、一人二人凄腕がいたところで、それを生かす事が出来ない。だから上手さを競い合う事に、あまり関心はなかった。興味はもっぱら、上手くない人の底上げか、やる気に欠ける人にどうやる気を出させるかに寄っていた。

 

 吉川はふと何か思い立ったように、財布を開きながら自販機に近寄った。

 

「あれ、おかわり?」

「ううん。みんなの分。みんな頑張ってるから差し入れ」

 

 自販機に千円札を投入して、吉川はミネラルウォーターのボタンを叩いた。ゴトン、とペットボトルが落ちる音がする。

 取り出し口から出てきたミネラルウォーターを、自分に寄越してきた。

 

「運ぶの手伝って」

 

 吉川がボタンを押す。自分がペットボトルを自販機から取り出す。そんなルーチンワークを六度繰り返した。既にある吉川の分と合わせればミネラルウォーターは七人分。トランペットパートのメンバーは全員で七人だ。自然と顔がほころんだ。いつもの、世話焼きな吉川に戻っている。

 

「あとで半分払うよ」

「はあ? いらないわよ。恩着せがましいわね」

「チームワーク、部員同士のまとまりを大事にする。素直に好意を受け取れよ」

「う……ありがと」

 

 やり返されたのが悔しかったのか、ぷいと自分に背を向けて、吉川は渡り廊下から校舎へ戻っていく。

 腹に据えかねる事があっても、それを抑える。そういう事については、自分よりも彼女の方が大変だったろう。時々なら、吉川のガス抜きの相手をするのもいいかもしれない。

 ペットボトルを抱えながら、憎めない同期の後をついていった。

 

 



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第18話 よみがえれクラリネット 前編 (クラリネットパート3年・鳥塚ヒロネ 視点)

 むかしむかし、あるところに竹取のケー・イスケというバンドマンがおりました。野山に混じりて竹を取りつつ、よろづの楽器をつくりだす青年でした。

 ある日の事です。またぞろ新しい楽器でも作ろうかと青年が竹藪に入り込むと、きらきらと黄金色に光輝く竹が見つかりました。

 青年は喜びました。

 

――これは素晴らしい楽器の素材になるに違いない――

 

 竹をただ楽器の材料にする事にしか頭に無い青年は、中に何かあるのではなんて考えもしません。力いっぱい竹を切り倒します。切り倒した瞬間、何やら悲鳴が上がったような気もしますが気にしません。

 ところが帰り道、けもの道を踏みしだき、渓流(けいりゅう)にかかるウマクナリタイ橋を渡っていた時の事です。足元が不安定なせいもあったのでしょう、青年はうっかり渓流に大事な竹を落としてしまいました。取り戻そうにも雪解け水で増水し、流れも急になっている渓流に飛び込むのは自殺行為です。青年の(なげ)きようは大変なものでした。

 そんな彼を哀れんだのでしょうか、突然渓流の中から、それはそれは見目麗しい美少女が現れました。女の子の大事なところはしっかり隠した渓流の美少女ミゾレはこう言ったのです。

 

 ――……貴方が落としたのは、この金の竹? それともこの銀の竹?――

 

 ここで正直に答えれば、もしかしたら両方ゲットできたかもしれませんが、熱に浮かされたように美少女を見つめる青年にとってはもはやその竹が銅であろうが鉄であろうが構いません。というより、竹なんかもうどうでもいいのです。

 

――いいえ、私が落としたのは、ハートです。どうか私と、添い遂げてください――

――……――

 

 とんでもない展開になりました。うろたえた渓流の美少女は、下流のナカヨシ河にいるご両親のナツキとユウコに事の次第を報告します。目に入れても痛くないほどに娘を可愛がっている二人は、堅気(かたぎ)の仕事についていない男に大切な一人娘をやれるかと、結婚を断じて認めません。

 それならばと、青年は発奮しました。五年の内に定職に就き、子供二人は産んでも育てていくに困らないくらい稼いでみせる。だからあと五年は、独り身でいてほしい。青年は、二人とそう約束を取り交わしました。

 

 村に戻った青年は、しばらくしてお隣のテーオン王国の王女サファイアが、背を高くしたがっていて、その願いを叶えたものには金銀財貨を望みのまま与えるというお触れを聞きつけます。一刻も早く結納金を稼ぎたい青年は早速アングラサイト"リューグウ.com"に繋いで「成長促進剤」で検索します。すると都合よく「ウチデノハンマー」と「タマテボックス」の二件がヒットしました。が、ウチデノハンマーはとてつもなく高く、庶民の彼には手に余ります。仕方なく、格安のジャンク品であるタマテボックスを購入しました。

 このタマテボックスなるもの、なんでもウチデノハンマーの気体版ということで、一回限りの使い捨てだそうです。ウチデノハンマー同様、生物の成長を促進させる効果があるそうですが、効果の個人差があまりにも激しく、どうしてそうなったのか分かりませんが、人間が鶴になった事例まで発生したので生産中止になったそうです。その在庫が闇サイトで捨て値で売られているのでした。そんなのを一国の王女に投与して大丈夫なんでしょうか。青年もその点に留意しないでもありませんでしたが、

 

――どうせ使うのは自分ではないのだから別にいいや――

 

 そのように割り切って、早速隣国の王宮に向かいます。鬼畜。

 

 謁見の許可をもらった青年は、王女の身に何かあったら自分の首が文字通り飛ぶかもしれない事など考えもせず、サファイア王女に向かってタマテボックスを開いて煙を浴びせます。するとあら不思議。サファイア王女が三人に分身したではありませんか。王女は単細胞生物だったのでしょうか。

 背を大きくするという王女の願いは叶いませんでしたが、一人っ子だった王女も、王女一人しか子がいなかった国王アスカもこれはこれで大喜び。特に、一人娘に何かあった時の王国の行く末を不安視していた国王は「補欠要員、ゲットだぜ!」と、ことのほかお喜びです。髪が赤い以外は王女とうり二つな娘をルビー、髪が銀色の方はプラチナダイヤモンドと名付け、末永く可愛がったそうです。青年には両手に余るほどの金銀財貨が与えられ、三人になった娘の誰かと結婚しないかとも持ち掛けられましたが、それは丁重にお断りしました。もう想い人がいるので仕方ありませんね。

 

 それから青年は、アスカ国王から頂いた金銀財貨を元手にテーオン王国で畑を買って、野菜の種をまいては空まで届く豆の木に登って巨人ゴトーの秘宝を手に入れてと、まったく堅気でない仕事ばかりで大金をせしめる山師(やまし)ぶりですが、とにかく孫の代まで食うに困らないだけの財産を見事築きあげました。

 いざ年来の悲願である渓流の美少女との結婚の承諾をもらうため、青年は昔懐かしいナカヨシ河に向かったのですが、なんということでしょう。その時既に彼女は月の王子ノゾミの妻になるため、光の階段を昇って月に旅立ったというのです。

 

――どういう事だ、俺を騙したのか。だいたい年中水場で暮らしてるあんたらがあんな水っ気も何にもないとこで暮らせるわけ無いだろう――

 

 娘さんを殺す気かと(なじ)る青年に、娘の両親も困惑気味に返しました。

 三年前、青年のバンド仲間を名乗る同郷の女性が、彼からの伝言を頼まれてやってきたというのです。君と離れて月日が経つうちに心も離れてしまった。君は君でよろしくやってもらいたい、と。

 バンドマンなど女好きの家庭嫌い。そんな偏見にとらわれて、青年が地味で堅実な家庭を築き続ける事に耐えられなくなると信じて疑わない娘の両親です。普通の人間が水の中で暮らしていけるのかという方は考えもしません。なんせ水っ気も何にもない月に、年中水場暮らしの娘を送り出すような親ですから。本当に大事にしてたんでしょうかね。

 とにかく待たせるだけ待たせて、身勝手な陳謝の言葉を自ら伝えるどころか仲介者に頼むという、イメージ通りの卑劣極まりない行為に憤慨すると同時に喜びました。相手が娘から気が離れたというならそれで結構。行き遅れないうちに娘の相手を見繕うことにしよう。そういうことでした。

 当然の事ながら、バンド仲間の背信行為は青年の激昂によって報われました。村に戻った彼は文字通り相手を絞め殺すつもりで問い詰めましたが、向こうもさるもの。飄々(ひょうひょう)とした態度で受け流します。

 

――キミの事を騙っちゃってゴメーン。でもよーく考えて? ちょっとそれっぽい話をしただけで、あの人達は私を貴方のバンド仲間と簡単に信じて、貴方が彼女から気が離れた事も簡単に信じた。貴方の事を良く思っていなかったご両親だけでなく娘さんもだよ。事の初めから、彼女は貴方の事を何とも思ってなかったんだよ――

 

 それはそうでしょうね。出会っていきなりの愛の告白なんて、ちょっと引きます。まずはお友達付き合いから始めて好感度を高めないといけません。

 返す言葉をなくした青年に、二重人格の悪女オ・カトー・キタ・ムーラは畳みかけました。

 

――私はアンタの事が好き。愛してる。だから彼女がアンタをどこまでも信用するのなら諦めるつもりでいた。でもそうじゃなかった。だから奪い取る事にしたの。諦めなさい、貴方は私と一つになるしかないのよ――

 

 ……本当に愛してるんでしょうかね。彼が築いた財産目当てな気もしますが。

 紆余曲折はありましたが、結局青年はバンド仲間の猛烈なアタックに根負けして彼女と結婚する事になりました。ただし結婚にあたって、彼女に一つ条件を付けたそうですよ。

 なんでも、二人の間に女の子が生まれたら、名前を"ミゾレ"とするというのです。

 ええそうです。それは、青年の初恋相手である渓流の美少女の名前でした。

 

 

 

 

問題:ミゾレが月に旅立つ際に昇って行った光の階段とは何を指しているか述べよ

 

 処女だった彼女が月の王子とあんなことやこんなことして、大人の階段を上った事を示す暗喩

 

 

 

 

「……そう書いたら先生に怒られた。納得いかない」

「いやいやヒロネ先輩、私達高校生なんですから。R-18的な回答は自重しなくちゃと思うんですよ」

「じゃー某青狸の世界で販売中止になったどこでもガ〇とでも書けばよかったの?」

「それもどうでしょう」

 

 休日の学校で。

 私こと鳥塚ヒロネは、先日行われた国語の小テストの設問のクソさ加減を後輩相手に愚痴っている。髪を短く切り揃えたショートボブの女の子が、あんまりストレートな発言は止めた方がいいですよ的な事を言ってるけど、これでも自重したんだよなあ。生々しい表現はぼかしてるし、R-15レベルの回答に収まってると思うんですが、そこんとこどうでしょう後輩クン。

 

「どこかで聞いたような名前ばかりが出てくるのはおいといて……。自分的には終盤の、何が何でも男と添い遂げたい女のエゴと、かなわぬ初恋の相手の姿を実の娘に重ねて、心の穴を埋めようとする男の倒錯した心理の方がヤバく感じるんですが」

 

 君もまだまだ青いね。こういうのは日本でもっともノー〇ル文学賞に近いと言われる作家・村〇春樹が得意とする作風だよ。それに今は野菜の化け物がセンター試験に出てくる時代だよ。これまでの常識が通用しない時代だよ。いくら何でも性的描写のある作品が出てくることはあり得ない? 世界レベルの大作家のネームバリューはその幻想(ハードル)をぶち壊す……!

 

「それで、正解は何だったんですか?」

「虹の橋」

「設問の回答まで北欧神話のパクリですか。無茶苦茶ですね」

 

 そうだろうそうだろう。光ってるとこしか共通点ないじゃないか。虹を匂わせる要素、どっから湧いて出た。そもそもあんなどこかで聞いたような童話をごった煮にしたカオスな物語の真面目な感想を書けという方がおかしいのだ。私は空気を読んでちょっとおしゃまなジョークの一つをかましただけだ。うん、私、悪くない。

 

 愚痴を言うだけ言うと、気分は晴れるが喉も乾く。ペットボトルに入ったミネラルウォーターを一息で飲み干してから、机に置いたクラリネットを手に取った。今更だけど、別に愚痴を言う為だけにわざわざ休みの日に学校に集まった訳ではない。ふざけるのはここら辺で止めにしないとね。

 

 「さてと、それじゃそろそろ練習を再開しようか」

 

 (ほこり)臭い空き教室に置かれたメトロノームのテンポを曲に合わせて、二人に合図を取った。二人とも頷き、真顔になって姿勢を正し、クラリネットを構える。休憩していい時と、そうでない時のオンオフの切り替えは出来ている。最初の休符が切れるタイミングで、キーにかかる二人の指が楽しげに躍動(やくどう)し始め、クラリネットの音色が響き渡る。弱々しく、しかし不規則な旋律。時々、急に早くなったかと思うといきなりゆっくりになったりする。これが今度の定期演奏会で演奏する曲の特徴だ。

 最後まであと少し。そう思った瞬間、虚空(こくう)に響き渡るクラリネットの旋律のかけらが途切れた。

 

「やっぱり、息が続かない?」

「はい……。どうしてもこの辺でへばってしまいます」

 

 後輩クンが申し訳なさそうに項垂れる。そんなにしょんぼりしなくてもいいんだけどな。経験者といっても楽器が違えば勝手も違う。急場しのぎの促成栽培だから、限界があるのは初めから分かり切っていた事なのに。

 

「だけど何かおかしいんですよ」

「おかしいというと……具体的には?」

「なんというか吹き始めから微妙に苦しくて。それでこのあたりで息苦しさがどうにも我慢できなくなる感じで。息が続かなくなるという感じとも、少し違う気がします」

 

 後輩クンは、まじまじと手に持ったクラリネットを見つめている。

 

「それに。言われた通り普通に吹いてるはずなのに、何か音が小さい気がします。これ……、あの三年生が使ってたやつですよね? メンテもおざなりでどこかおかしくなってるんじゃないんですか」

 

 日中の陽光を弾き返す光沢も失われた彼のクラリネットは確かに古い。もともと年代物でくたびれている。それに加えて、事実手入れが行き届いていたとは言い難いので、古いというより貧相という印象が濃かった。

 でも、音が出ないように感じてしまうのは、そういう理由でもないんだけどね。

 私は苦笑しながら、席を立った。

 

「楽器のせいじゃないよ」

 

 私は後輩クンに近づいて、自分の目を指さす。

 

「クラは一番指揮者に近いところで演奏するでしょ。だからこの目。奏者の目と、譜面台と、指揮者の指揮棒で形作る三角形の角度がキツくなっちゃうの。他の楽器よりね」

 

 私は人差し指であごを押して、軽く頭を下げる。いわゆる、あごを引くという奴だ。そしてその姿勢のまま上目遣いになる。

 

「指揮を優先して見るようにすれば何も問題ないんだけど、楽譜を暗記できてないうちはそうもいってられないよね。だからこんな風にあごを引いて譜面台と正対して、上目遣いで指揮を見るようになっちゃうの。この姿勢で楽器を吹くと、息の圧が足りなくて音が小さくなったり、それでも無理に音を出そうとして息苦しくなったりするんだよ」

 

 そして私は彼の肩に手を置いて、黒板の方を指差す。

 

「最前列でクラを吹くコツは、顔はまっすぐ、譜面台とも指揮棒ともぶつからず。目線の上げ下げで、楽譜と指揮の確認をすませるの」

 

 私は指揮棒代わりのペンを右手に取って、彼の正面に立った。

 

「物は試し。そこら辺気を付けてもう一回やってみようか」

 

 後輩クンの準備が出来たのを見計らって、私はペンを振り下ろす。しんと静まり返った教室に、ゆっくりと旋律が流れ出した。区切りの良いところで、私は空いていた左手で女子生徒とコンタクトを取る。彼女は即座に私の意図を理解して、クラリネットに息を吹き込んだ。それで、楽器が温まる。温まった楽器は目を覚まして、まともな音色を出すようになる。ほどなくして旋律が重なり、心地よいメロディーが教室に響き渡った。

 私や一年の女子生徒とは違う、にわかづくりのクラリネット奏者にしては、彼は良くやっていた。人前で気に呑まれるという事も無い。わずかに体の動きが硬いあたりに、私のアドバイス通りにしようと意識しているのが伝わってくるけれど、この調子なら自然にできるようになるまでそうかからないだろう。

 洗練されてはいない、けれどどこか心温まる音の余韻を残したまま、合奏は終わった。

 

「うん! なかなか飲み込みが早いじゃない。言われて直ぐ修正出来るなんて。君って頭がいいのかな。それともスジがいいのかな」

「ヒロネ先輩の教え方がいいんですよ!」

「あははっ。そうかな」

 

 後輩クンが何か言いだすよりも早く、女子生徒が断言する。もうクラリネットパートには、彼女しか一年生は残っていない。一人だけになってもこうして休日まで部活に来て、私を慕ってくれいているのが健気なんだよなあ。

 

「ありがとうございます、鳥塚先輩。これで今度の定演、何とかなりそうです」

「お礼を言うのはこっちだよ。今は人手が足りないから仕方ないけど、無理にヘルプを頼んでるんだから」

 

 心地よい光景だった。私の事を慕ってくれる後輩と、一時のレンタルだけど鍛えがいのある後輩に囲まれて。

 いつまでも、こんな日が続いてくれればいいな。本心から、私はそう願った。

 

 

 

 

 

 

 ……なんだか、ひどく懐かしく、暖かいものに包まれる夢を観た気がする。

 

 先生が一人ぼそぼそと話すだけの、単調この上ない本日最後の授業。眠りの呪文の従弟分(いとこぶん)くらいは名乗れそうな説法に根負けしてうとうととしている内に、私は過去の記憶の海原を漂っていたらしい。クラスメイトはみな部活なり予備校なりに行ったのか、たまたまそういうタイミングだったのか、放課後の教室には人気が無かった。

 まだ(まぶた)が重い。心地よかった夢想の余韻を楽しもうと二度寝したくなるのをなんとかこらえる。部活があるんだから、いつまでも居眠りしてちゃ駄目だ。

 重い瞼をこすりつけて、おぼろげな視界を洗浄していると、教室の扉を叩く音がする。

 

「鳥塚先輩、いますか?」

「……ご用件の人物は、現在電源が入っておりません。ピーという発信音のあとに、ご用件だけ話しておとといきやがれです」

「もう約束の時間ですよ。あと寝起きなんでしょうがキャラ崩壊してますよ先輩」

 

 約束。脳裏をかすめるその言葉に、私は慌てて姿勢を正す。そうだ、これから蔵守との打ち合わせがあるんだった。手鏡を出して自分の顔をのぞく。寝癖は……、無い。涎も……、垂らしてない。よし。

 

「いいよ。入って後輩クン」

 

 夢の中に出てきた頃より、いくらか成長したのか声色が低くなった蔵守の事を、咄嗟(とっさ)にそう呼んでしまった。教室に入った彼は一瞬目を丸くしたが、すぐに納得したように独り()ちる。

 

「そのあだ名で呼ばれるの、かなり久々です」

「夢を見てたの。定演前のころの。そのせいだよ」

 

 あの頃からだったかな。ヘルプ要員としてクラに入り浸るようになった後輩クンを、普通に呼び捨てにするようになったのは。

 

「疲れているのなら、クラの演奏聞くのはまた明日にしますか?」

「ううん、今お願い。鬼の居ぬ間に、おかしなところは押さえておきたいの」

 

 職員会議と研修会で放課後の予定が埋まっている滝先生は、今日の部活には顔を出せない。だからといって気は抜けない。休みの間に何ら為すところがなければ、無策を非難されるのは分かり切っていた。だから緊張感を以て練習に取り組むつもりでいるが、もう一つ。予防線を張っておく必要がある。

 そこで毎日先生と一緒になってクラに来ている蔵守に白羽の矢を立てた。クラの演奏を聴いてもらって、なにがしかの有用なアドバイスがもらえればそれでよし。得られなくとも、無為に過ごしてた訳ではないという証明ぐらいにはなる。

 

「了解です。でも本当にいいんですか? 島やクラの先輩を差し置いて、違うパートの自分がこういう事をするのは……」

 

 筋が違う、と言いたそうだった。この約束も、その点を懸念した彼を説得して実現したものだ。気を回し過ぎる。と思わなくもないけど、唯一の二年生パートリーダーという特異な立ち位置のせいで、実際何かとめんどうな配慮をさせている。

 

「いいんだよ。味見はし過ぎると、味が分からなくなってくるんだから」

「聞きなれた身内の評価は当てにならないって事ですか」

 

 頷いて、ラジカセにクラの演奏を録音したCDをセットした。本当はみんなの、生の演奏を聴いてくれた方がいいのだけど、それをやれば彼は必ず私達の顔色を窺ってくるだろう。そういう性分の後輩だ。

 

 ♪~

 

 曲が流れる。蔵守は耳を傾けながら、真剣な表情でクラリネットの楽譜に記された音符を追う。最後のフレーズが奏でられる。そして私はラジカセのスイッチを切り、対面に座する彼に声を掛けた。

 

「どう……かな?」

「……最初の合奏の時と比べたら、格段の進歩だと思います。ボリュームも人数相応のものになっていますし、大人数なのに一人一人のテンポもずれてない」

 

 そう言いつつも、蔵守の表情はいまいち冴えない。隠し事のできない後輩だな、と思う。本当は気になるところがあるんだろうけど、先輩相手だとそれが言いにくいんだろうなあ。ここは私の方からリードしてあげないとね。

 

「ここには私と後輩クンしかいないんだから。気になるトコは思う存分しゃぶっちゃっていいんだよぉ」

「は……? 何を?」

 

 あ゛あ゛あ゛あ゛あっ!? 寝起き間もないせいかろれつが回らないっ!? なんかいかがわしい台詞になっちゃったよ! 

 

「ちっ違、これは違うんだよ! 今のクラの演奏で気になったトコあれば、怒らないから思うまま言ってくれていいって意味で!!」

「アッハイ」

 

 ッッッッィィィィイイイイヨッシャアアアアァァァァ!!!! 軌道修正できた!

 

「では遠慮なく言わせてもらいますけど……鳥塚先輩、最近のクラ、お互いに話が出来ていないのではありませんか?」

「おっふう」

 

 ブラウンのセーラーブレザーに隠されたブラウスが汗ばむ。

 思いのまま言わせたらクリティカルヒットをくらっちゃいました。洞察力が鋭すぎだよ後輩クン。一番知られたくない事を気づかれたよ。

 

「……どどどうして、そう思うのカナ?」

 

 動揺を隠しきれないので、かわゆく言ってみる。うん、自分でも何言ってるのか分かんない。

 

「今言った通り、音自体は前よりずっと良くなってます。でも何かしっくりこないんです。一人一人は前より仕上がってて、テンポがズレてる訳でもないのに、パート全体の旋律としてみると、どこかまとまりがなくて」

 

 賞賛、疑問、不審と、蔵守は忙しく言葉と表情を交代させる。

 

「どうしてそうなるのか考えてみたんですけど。みんな一人で練習してばかりで、楽譜の微妙なところをそれぞれの解釈で吹いて、そのせいで微妙なズレが生まれてる。……という感じが一番しっくりくるんです。自分の事しか見えてなくて、周りの音が聴けてないというか、曲のイメージをパート全体で共有できてないから、そうなってしまうのではと」

 

 私は、はあ、とため息をついて椅子に寄りかかった。

 

「蔵守に見破られるようじゃ、滝先生やあすかに聴かれたら絶対突っ込まれるよね……」

「みんな自力で何とかしようと頑張ってるんですよね? それはそれでいい事だと思いますけど、そのせいで意思疎通に齟齬(そご)が生じるんじゃあ意味ないですよ」

 

 同じパートなのに、コミュニケーションが取れていない。そのことを、蔵守は心配しているようだった。

 各自の状況報告は、一応は上がっていた。あくまで一応で、正確な報告が過不足なく上がってくる事はない。まだ多くを求められない初心者や、一部の中学で鍛えられた経験者を除くと、みんな、滝先生のレッスンだけで疲弊しきってしまうのだ。それで、部活の終わりにパート内で行うミーティングは活発なものになりえない。部活の初めの方にミーティングを持ってきても、同じ事だった。至らない点を責められたくない。それを思えば、自然と口調も歯切れが悪くなる。

 無理にでも口を開かせようという気力は、とうに私から失われていた。落伍(らくご)しかかっている人がいたとしても、かつてのようにフォローにまわれるほど、今の部活動は甘くない。

 

「このこと、滝先生に言っちゃう?」

 

 我ながら卑怯な言い方だ。先生につくか私につくか、そういう言い方をされて私を(そで)にできるような人間ではないのは分かっている。

 

「……まさか。でも、黙っていても問題の先延ばしにしかなりませんよ」

「問題が起きるたびに報告していたら、私はこれからも毎日叱責される羽目になるよ」

「滝先生に報告しにくい空気がある、というのは良く分かります」

「どっちみち怒られるにしても、そこから攻めれば私も反撃のしようがあるんだ」

 

 そもそも先生の「何年もやっているのにこんな事もできないんですか?」的な態度がよくないのだ。そういう出来ない事を馬鹿にするような態度を取られたら、誰だって馬鹿にされたくなくて、相談しにくい。そして(だま)し騙し行動している内に、だましきれなくなってポカをやらかす。それでは誰も得をしないではないか。

 私が胸の内を切々と語ると、蔵守は神妙に頷く。

 

「滝先生って、そういう人の心の機微に疎いみたいですからね。ネガティブな反応がくると思えば、報連相しなくちゃと理屈で分かっていても、気持ちの方がついていかないでしょうに」

「ほんとそう。音楽界の偉人達って奇人変人が多いけど、滝先生もご多分に漏れず、パラメータの割り振りが常人のそれと異なるのよ」

 

 割り振り可能な数値の量も、常人に比べて膨大というわけではないらしい。音楽方面に数値を特化させた代償に、普通の大人なら育っていて当たり前の分野が、どうにも伸び悩んでいる感じがする。

 

 そんな事を思っていると、強い日差しが顔にかかった。正直眩しい。

 

「カーテン、閉めますね」

 

 私の仕草に気づいた蔵守が、立ち上がる。

 

「いいよ。眩しいけど、ちょっと日に当たりたい気分だから」

 

 私も立ち上がって、窓際の席に座り直した。ちょうど一週間後の発表の折り返し地点に差し掛かった事もあり、今日は進捗状況の確認を兼ねて(とお)しの合奏がある。正直、気が重かった。思うように練習スケジュールは進まず、どう言い訳をすればいいかも分からない。

 

――いっそ受験に逃げてしまおうか――

 

 北宇治は、一応は進学校だ。特に受験を控えた三年生は、格好がつく退部の理由に不自由していない。封印しかけていた禁断の誘惑に、ここのところ魅了されかかっている。

 

「鳥塚先輩、どうしました?」

「えっ?」

「いえ、なんか急に怖い顔になって……」

「怖い顔ってなんだよ。女の子に対して失礼だぞ」

 

 私は頬を膨らます。そりゃあ楽器を吹くからリップは普段からつけてないし、化粧だって学校にいる間はろくにできない。吹奏楽部に入ってからというもの、女としてのみだしなみはいくらか捨てている。ただ、女としてのプライドまで捨てているかと言われると、それはまた別問題なわけで……。

 

「もっとこう、物憂げな顔してますよとか。言い方あるでしょ」

「じゃあそれで」

「なめんな」

 

 ファゴットの岡直伝の頭ぐりぐりで蔵守にヤキ入れてやる。岡によると、これを今年に入ってもう二桁単位でやっているらしい。そんな風に(いじ)り合えるダブルリードパートの距離の近さに、羨ましさを覚えもする。

 

「丸パクリしてないで、ちょっとはアレンジなさい」

「えー……。そんな事に労力使いたくないんですが」

 

 心底嫌そうな顔をしちゃって。女の顔の事をそんな事とか言うのよくないぞぉ?

 

「テンプレに従っておけば、少なくともセクハラだのキモいだの言われずに済みます」

「そんな事言わないから。セクハラだと思ったらまた頭ぐりぐりして、キモいと思ったら蹴りいれるだけだから」

「逃げ場がない……」

 

 蔵守はぽりぽりと頭をかいて、考え込む仕草をしてから前言に化粧をかけ直した。

 

「……そんな不景気な顔して、どうしたんですか先輩? せっかくの綺麗な顔が台無しですよ」

「はいセクハラ」

「なぜに!?」

「女の顔をどうこう言うなと言ったばかりじゃないか……全く、重ね重ね失礼だね君は。この美肌がなまじの努力で維持できると思うのかい? 朝起きたら手入れして夜寝る前に手入れして、休みの日はお昼も手入れして。男の吹きさらしほったらかしのガサガサ肌とは訳が違うんだよ」

 

 化粧はただの飾りじゃないんだよ日焼け止めと同じなんだよ若い内からちゃんと手入れしてないと急速に劣化するんだよ君だってどうせ女を頭より顔と体で選ぶんでしょそれなら女がどれだけ身だしなみに心を砕いているか分かってよと、マシンガン説教を喰らわしていると、開け放たれたガラス窓からふわっとした風が教室を吹き抜けて私の髪を揺らす。閑散とした教室の窓から覗く中庭では、テニス部の新入部員と思しき子達が、熱心に素振りを繰り返していた。

 

「テニス部って、毎年男子が大勢入るんだね」

 

 テニス部も吹奏楽部も、女子が率先して男子部員の勧誘に励むのに、前者は入れ食い状態で後者は雀の涙。この差は一体何なんだろ。

 

「あはは、そりゃそうですよ。胸が強調されるテニスウェアを着て、短いスコートをひらひらさせて、笑顔で女子テニス部員が手招きしてきたら、大抵の男子はふらふらってついていきますよ」

 

 邪気の無い笑顔で蔵守が言う。悪びれないんだから。

 

「まったく、男子はバカばっかりだね」

「同じ男としては、ああいう目に毒な服装で勧誘してくる女子もどうかと思うんですがねえ。眼福だから面と向かっては言いませんけど」

 

 目に毒と言えばサンフェスで纏うユニフォームも、なかなかに煽情(せんじょう)的だった。頭では分かっていたつもりでも、男子からそういう目で見られていますよと改めて言われると途端に羞恥心が込み上がる。

 熱をもった顔を振り回しながら苦言を呈した。

 

「……あのねえ。そういう男の本音は、男だけの場だけにして欲しいんだけど」

「男だけだったら、もっとどぎつい事を平然と言い合ってますよ」

 

 一瞬、背中に氷河期が来た。

 ぎょっとして蔵守の事を見つめ直したけれど、彼の表情も口調ものんびりしたもので、咄嗟にどう返すべきか判断に迷った。殊更(ことさら)に偽悪的な発言を繰り返すのも、愚痴や不満を滅多に表に出さない彼の、内に(こも)った屈折した心理の表れなのかもしれない。

 

「それに誘いに引っかかってきたら、女子だって私に魅力あるんだと誇らしい気分になりませんか? 男子は眼福。女子は自尊心をくすぐられる。win-winじゃないですか」

 

 蔵守は女の面倒な心理も分かっていない。魅力的だと思われたいのと、性的に見られたいのはイコールじゃない。

 

「吹部も、そんな風に出来たらいいですよね」

「え?」

 

 蔵守は窓辺に両肘(りょうひじ)をついて、どこか遠い目をして(つぶや)いた。

 

「先輩が後輩に楽器の吹き方を教えて、後輩は教え通りにちゃんと吹けるようになる。後輩は今まで出来なかったことが出来て嬉しい。先輩は教え方に自信を持てて嬉しい。難しいフレーズを吹けるようになったら嬉しい。みんなで合わせられるようになれれば、もっと嬉しい」

「……」

「去年の吹部は、コンクールまではホント滅茶苦茶で。代替わりしてからもしばらくは混乱してました。けど、定期演奏会では久々にそういう機会を持てて、結構楽しかったです」

「クラに代打要員で居座ってた頃だね。あの頃は人数が激減してたからね」

 

 担当楽器が変わって文字通りゼロからのスタート。砂が水を吸うように、教わった事を次々と身に着けていく彼とのレッスンの日々は、確かに私も教え甲斐があった。

 

「一生懸命指導してもうまくいかない事に、指導する側が自信をなくしたり。指示通りに出来ない事をなじって教わる側が委縮したり。そういうのって、どちらにとっても不幸ですよね」

 

 前者はさておき、後者が何を指しているかはおおよそ察しが付く。

 

「蔵守は、さ。滝先生のやり方に反対なの……?」

「指導内容それ自体は、理に適ってると思うんですけどね……」

 

 そこまで言って、蔵守は語尾を濁す。

 声には出さないが、後に続く言葉もまた滝先生に対する評価というわけだ。

 

「でもきっと、誰が顧問になってもこんな惨状になってたと思いますよ。本気で全国に行こうとするのなら」

 

 中庭で素振りを続ける女子テニス部員を睥睨(へいげい)していた蔵守が、ちらりと私に視線を投げかけた。

 

「滝先生の指導を見ていて思ったんです。府大会銅賞の吹部を一年で、いや全国行きを決定する関西大会は夏休み末だから実質四ヶ月弱か……。それだけの時間で、全国に行こうなんて無茶ですよ。その無茶を現実のものにしようとするから、どこかで無理が出てしまう」

 

 感情が読めない表情をして、じっと私を見つめてくる蔵守の視線から逃げたくなった。あの多数決で、全国を目指す方に手を挙げた貴方は、その無理に耐える覚悟はあったのか。そう訴えかけてくるように感じて。

 確かに考えが浅かった、でもこんな事になるとは思わなかった。そんな叫びを誰かが聞き届けてくれてもいいのではないか。

 私は去年から初心者のりえちゃんに指導したり、今年も新入部員に手ほどきはしている。去年までの三年に比べれば、私はずっと仕事している。だから、滝先生にパーリーとしてクラリネットをまとめきれていないとなじられても、どうしてもっと自発的に行動しないのですかと詰め寄られても、頭はともかく心の理解が追い付かない。どうして滝先生は、私のことをもっと分かってくれないのですかと。

 

「……手間取らせちゃったね。私もそろそろ練習に取り組まないと」

 

 蔵守に背を向けて、扉の方へとぼとぼと歩いた。これ以上この場にいたくない。

 

「先輩、どちらへ? もう部活始まりますよ」

 

 進行方向が音楽室とは真逆な事に、目ざとく気づいた蔵守が(いぶか)しむ。

 

「……ちょっと一息ついてくるだけ。大丈夫、合奏の時間までには戻るから」

 

 廊下に出た途端、急に嘔吐(おうと)感が込み上げて、視界がぼやけた。

 

 




竹製の楽器は実在します


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第19話 よみがえれクラリネット 後編 (クラリネットパート3年・鳥塚ヒロネ 視点)

 ……やっぱりダメだよ。

 

 鬱屈(うっくつ)した感情を抱えたまま入った部活。

 副顧問の松本先生の立ち合いの元、音楽室で行われた合奏の結果は、あまりよろしくない。

 

 いや、滝先生にダメだしされた最初の合奏と比べれば、随分と曲らしいものにはなっている。ただ、これでも合格点はもらえないと思うのだ。

 四日前の最初の合奏では、まとまっているパートと、そうでないパートの落差が激しく、それが合奏の(てい)を為さなくさせていた。今日の合奏では、その落差はかなり埋まっている。だけど今度は、音に生気を感じない。フルートにホルン、そしてトロンボーン。滝先生に厳しくダメだしされたパートほど、そういう傾向は顕著だ。

 どうして音に生気が無いと感じるのか。それは先生に指摘された部分を修正しているだけだからだ。そうでない部分は、ただ機械的に音を強くしたり弱くしたりしているだけ。フレーズにまるで感情がこもっていない。

 

「……あれはサボタージュですね」

「ったく。ガキじゃあるまいし……」

 

 合奏が終わった後、重苦しい空気が漂う中で蔵守がため息をつく。ナックルも苦々しさを隠さない。消極的抵抗に打って出た部員が続出したのは、二人に指摘されるまでもなかった。フルートにホルン、そしてトロンボーンは滝先生をもはや敵とみなしている。理屈では勝てないから、反発の方法もそれだけ陰にこもるという訳だ。

 音楽室に、もう部員はほとんどいない。パートリーダーばかりが、現状の課題を話し合う為に居残っている。といっても、まず課題に挙げるべきは誰の目にも明らかで、問題は誰がそれを指摘するかにある。晴香の視線が泳ぐ中、結局終着点は我らが最高権力者に行きついた。

 

「さて。フルート、ホルン、トロンボーン? 何か言う事あるよね?」

『……』

「黙ってちゃ、何にも分かんないよ」

 

 あすかの声が不快感にとがった。もともと部長の打診を断り、副部長の就任も再三の依頼に根負けして渋々と引き受けた経緯がある。面倒を押し付けた方にも任命責任というものがあるはずだが、その責任を自覚するどころか、非協力的な態度を取る相手に好意的でいられるはずもない。普段であれば、いたずらに人間関係にひびを入れるような酷薄な言動は決してしないけれど、自らの足を引っ張るような真似に対しては、見ていて背筋が寒くなるほど厳格になってしまうのだ。

 

「荒れてますね、田中先輩……」

 

 蔵守が、ナックルに小声でつぶやく。

 

「滝先生のレッスンを順調に消化してる低音は、会議に参加しても何の得にもならないからな」

「損もしないのでは?」

「時間を無駄にするだろ」

 

 確かに、そういう事をとりわけ嫌う子ではある。

 

 今は、滝先生から与えられた課題をこなすしかない。そんな現状で、それぞれの進み具合を先生に報告するならいざ知らず、内輪(うちわ)で報告し合っても余り意味がないように思えた。他のパートは順調なのに、私のパートは遅れててマズイとか、そういう事で焦りを感じるような心境では既にないからサボタージュなどが起きるんだ。

 

「まったく、間に挟まれた俺らはいい迷惑だぜ」

 

 男二人、肩をすくめて愚痴り合っているが、内緒話にしては声が高すぎた。いよいよ烈気を増したあすかの視線が、ぎりぎり糾弾の外側にいるはずの二人にも向いてくる。

 

「蔵守、ダブルリードの状況はどう?」

「え? あ、はいっ。これまでの練習方法の問題点の洗い出しとその改善策の提示。それについては滝先生から了解を得ています。喜多村先輩と岡先輩は姿勢の矯正。自分は独学でやっていた時についた癖の修正、鎧塚さんは……」

「あのね。私が聞きたいのは、パー練が順調かそうでないか"だけ"なんだけど」

 

 あすかがピアノにもたれかかりながら、台を爪先で弾いた。苦笑しているその表情からは、苛立ちを(のぞ)かせない。ただ、ピアノを叩く音の強さに、わずかに感情が滲み出ていた。

 蔵守は即座に失策を詫びて報告し直したものの、彼に続く進捗報告ははかばかしいものではなかった。現状のままであれば、どうにか滝先生から合格点をもらえそうなパートが三分の一、ボーダーライン上で予断を許さないのが三分の一、なお改善の余地を多く残す落第点が三分の一といったところだった。

 後者になればなるほど報告は陰気さを増し、口調も錆びついた歯車のように歯切れが悪い。あすかの瞳に静かに、だが確実に充満していく怒気の電光が私を捉えた。

 

「で、クラはどうなの? 一人一人は前より仕上がってるみたいだけど、何だかまとまりがなかったよ」

「……さあ、私には分からないかな。みんなの進み具合を全部は把握しているわけじゃないから」

「……? 自分のパートでしょ。分からないって言い草はないんじゃない?」

 

 半ば投げやりに放った私の言葉に対して、驚き三割呆れ七割といった感じの表情をしたあすがが混ぜ返してくる。

 

「……だから、全部はと言ったでしょ。クラは両手に余る人手を抱えてるんだから、他のパートみたいにはいかないの」

「はあ?」

「田中先輩、それなんですが……」

 

 覚られた時点で隠し立てしても無意味と判断したのだろう。私とあすかの間に漂い始めた険悪な空気を察して、慌てて蔵守が間に入って事情を説明し始めた。

 その様子をどこか他人事のように眺めながら、私の心中は複雑だった。言い訳するのも億劫な私に代わって、事情を過不足なく説明してくれている感謝の念と、頼んでもいないのに出しゃばるなという苛立ちが交差している。最近は、こんな風に相反する感情が同居する事が多くなっている。

 

「……というわけで、クラは人手が多いだけに鳥塚先輩の一存だけではどうにもならないようです」

 

 彼がクラリネットパートが割れている状況を伝えはしたものの、あすかの表情は納得がいったというほどでもなかった。私も、何が何でも苦しい胸の内を分かって欲しいという気分でもない。面倒事ばかりで、きっかけさえあれば何もかも投げ出したい心境だった。

 

「クラはもうダメだよ」

「そんな事言わないで、頑張ろうよヒロネ」

 

 励ましているつもりなのかもしれないが、晴香のその言葉に私の神経がささくれる。パートリーダーになってから、私はずっと頑張ってる。あすかのように思慮分別をわきまえてもいなければ、香織のように良い子でもないこの私に、これ以上一体何を頑張れというのか。私の中のどす黒い感情が、私の体を支配していく。殺気立っていく私を、私が止められない。

 

「……頑張ろう、かあ。そんなありきたりな慰め、晴香にかけてもらえるなんて思いもしなかったよ。晴香も部長を頑張って来たけど吹部はこのありさま。何とかしようとしても何ともならなかった人に慰めてもらうのもおかしな話だよね」

 

 どうしてそんな酷い事を言えるのか、自分でも分からない。晴香は吹部をよくしようと、必死に頑張って来たのに。何もできなかったのは、私も一緒。共に理不尽な日々を耐え抜き、滝先生が来てからは共に厳しい日々に耐えてきた晴香を傷つけなければいけない理由なんて、どこにもない。

 心でそう思っても、出てくる声は晴香を口汚く(ののし)る言葉ばかり。

 

「滝先生流に言えば、無能者同士の傷の舐め合いになるのかな」

「いいんじゃないの? 傷の舐め合いでも」

 

 暴走するもう一人の私を止めたのは、やっぱりこの子だった。

 

「舐め合いついでにお互い情報交換するなりストレス発散するなりした方が、まだしもマシじゃないの? 個々別々に殻に閉じこもって、どうにもならなくなるよりは」

 

 さらりと言ってのけたあすかが、私と晴香の間に立ちはだかる。それだけで私の首筋から背筋にかけて冷たい汗が流れて、思わず二歩後ずさる。

 だめだ。私とあすかでは役者が違い過ぎる。

 

「違う?」

 

 舌禍(ぜっか)の応酬はあすかに軍配が上がった。

 追い詰められていたとはいえ、晴香のこれまでの部長としての頑張りを全否定するかの(ごと)き言動を弄した報いを、私は即座に受ける事になった。

 泣き崩れる晴香と、それを慰める香織を除く全員が、私に冷ややかな視線を向けてくる。その視線から逃れたくて、私の頭は弱々しく沈む。沈んた頭は床と正対し、潤んだ瞳から滴がこぼれ落ちた。自分のバカさ加減への呆れと、晴香を傷つけてしまった申し訳なさで。

 

『見損なったよ、ヒロネ』

 

『見損なったぞ、鳥塚』

 

「見損ないました、鳥塚先輩」

 

 全方位から襲い掛かる非難から逃れたい。なのに体が動かない。うずくまって頭を抱えるしかなかった。もう死にたい。叶うものなら消えてなくなりたい

 

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

 

 お願い。謝るからもう許して。

 そう言いたいのに、言葉が出てこない。

 

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

 

 もうやめて。もう許して。

 

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

――見損なったよ見損なったぞ見損ないました――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もうやめてっ!!」

 

 休眠していた声帯がようやく再起動して、声を枯らすほどの叫びをあげた瞬間、目の前にありえない世界が飛び込んできた。

 周りの視線から逃れたい。そんな願いを叶えるかのように、視界いっぱいに衝立(ついたて)が覆っていて、外からの視線を遮断している。振り返ると背後は壁。そして両手にかかる布の感触。ベッドシーツを握りしめ、私はベッドに横たわっていた。

 ベッドに視界を覆う衝立。とくれば、まず思い浮かぶのは学校の保健室しかない。 

 誰かが、私をここに運び込んだ?

 ベッドから身体を起こし、気を取り直して、今に至るまでの状況を冷静に振り返ってみる。

 

「……こういう場合だと、ストレスで気絶してるうちに保健室に担ぎ込まれた。っていうのがよくあるパターンだけど」

 

 確かに泣き出したくなるような失態だったけど、そのせいで気絶するほど体調が急に悪くなったという覚えは無かった。……むしろ覚えが無いといえば、私はいつの間に合奏に参加していたんだっけ。

 まず今日の放課後、蔵守にクラの演奏を聴いてもらって、彼と話をして、それから教室を出ようとして、気分が悪くなって……。

 うん、そこまでははっきり覚えてる。……その後、彼にどこかに連れていかれたような気もするけど。

 ダメだ。そこから先、音楽室で合奏するまで何をしていたのか、どれだけ頭をひねっても思い出せない。

 

「先輩、大丈夫ですか?」

 

 思考の迷路を彷徨っていると、衝立の向こう側から人影と共に声がした。蔵守の声だ。つい先ほどの、私に対する非難の一翼を為していたその声色に、思わずびくりとする。

 

「凄い悲鳴がしましたけど、入っても?」

「あ……うん、いいよ」

 

 中に入ってきた彼は、具合はどうですかと、はなはだ独創性を欠く気遣いの言葉で会話を切り出して、つい先ほどやって来た晴香と相談して、今日は大事を取って私を休ませようという話になったのを伝えてきた。

 

「今、部長がみんなに伝えに行ってるはずです」

 

 そんな事は、どうでもよかった。晴香の泣き顔が、私の脳裏をかすめる。その場で起こしてくれれば良かったのに。と、理不尽な怒りに駆られる。

 

「晴香に謝らないと……」

 

 私のつぶやきを聞いて、蔵守が首を傾げた。

 

「謝るって何をですか? 部活を休む事ですか? 仮病でサボる訳じゃないんですから誰も文句は言いませんよ」

「蔵守も聞いてたでしょ! 私、晴香に酷い事を……」

 

 私の暴言に対する意趣返しで、とぼけてでもいるのか。シーツを握る手に力がこもる。しかし蔵守は、ますます言っている意味が分からないと言いたげな表情をして口を挟んだ。

 

「吹部に入ってそろそろ一年になりますけど、その間、鳥塚先輩が部長の悪口を言ってるのを耳にしたことなんて一度もありませんよ」

「そんなはず……! だってさっき……! ……あれ?」

 

 何かひっかかる。どこか話が噛み合わない。

 今日は大事を取って私を休ませよう。

 確かに蔵守はそう言った。でもその言い方はおかしい。合奏が済んだ時点で部活は九割方終わっている。まるで部活が始まっていくらも経たないうちに、私は休む事になったような言い方だ。

 

「……ねえ、私って一体いつ倒れたの? そこら辺、ちょっと記憶が混濁してよく思い出せないの」

「自分との話を終えて、教室を出ていってすぐでした。出ていく時の様子がおかしかったので、気になって後を追ってみたら先輩がうずくまっていて。それで保健室に連れて行ったんです。覚えてませんか?」

 

 そういえば、そうだったような気もする。前後不覚になりながらも、どこかに連れていかれた事はおぼろげながら覚えてる。という事は、そこから先は全部夢?

 

「精神的なストレスからくる立ち眩みだそうですよ。ちゃんと休養を取ればすぐに良くなるはずです」

「それじゃ、今日やるはずだった通し合奏は?」

「先輩がこんな状態で合奏もないでしょう。明日以降に延期になるはずです」

 

 本当に夢だったんだ。

 私は、ほうっと心の底からため息をついた。

 見舞いも、病み上がりのところに大勢押し掛けてはかえって私の気が塞ぐだろうと今日はスマホからに留めてくれるらしい(りえちゃん辺りは、ダメって言っても会いにきそうだけど)。

 明日はその分、大勢押し掛けてくると思うので覚悟して下さいよと冗談交じりに蔵守が言ってくるが、その心遣いが今は有難かった。

 

「さっきは随分取り乱してましたね。部長に謝らなきゃって言ってましたけど、今度の夢見は悪かったんですか?」

「……まあね」

 

 このまま横になって寝ていてもよかったけど、またあの夢の続きを見るのだけは勘弁したい。晴香が戻って来るまでの間、雑談で時間を潰すのも悪くなかった。

 

「……という訳なの」

「それはまた、強烈な夢でしたね……」

 

 悪夢を語り終えて、ちょっと喉が渇いたのでペットボトルの緑茶に口を付ける。

 少しは水分を摂った方がいいと彼が寄こしてくれたのだけど、保健室での飲食を勧めてくるのもどうなんだろ。

 

「暴言吐いて晴香は泣かせるし。あすかには説き伏せられるし。みんなからは白い目で見られてヘイト稼ぎまくりだし。人間追い詰められたときに本性が出るって言うけど、私ってここまで嫌な女だとは思わなかったよ」

「夢の中の話じゃないですか」

 

 蔵守が苦笑する。

 

「どうだかね。都合よく体調崩してなければ、本当にそうなってたかも。多数決で全国を目指す方に手を挙げたのに、厳しい事言われるとすぐ前言撤回して反発しちゃうし。あーあ、こんなダメダメな人間、いなくなった方が吹部のためになるかなあ」

「ダメって事もないでしょう。先輩達はこれまで二年間、緩い部活でやってきたんですから。いきなり厳しくなったら音をあげるのも無理ないですよ。だらしないのはみんな一緒です」

 

 ……それは、いわゆるアレなんだろうか。下には下がいるから安心しろ的な。

 どうせ私なんて……的な自嘲が半分、下手ななぐさめはいらない的なやさぐれた感情が半分。つまり100%ヤケになっている私の心境を知ってか知らずか、随分と引き籠った論法でなだめにかかってくるのが小賢しい。

 

「急に部活がしんどくなった時に夢見が悪かったから、先輩はちょっとメンタルやられただけですよ。今日はゆっくり休んで、また明日から頑張りましょう」

 

 頑張ろう。蔵守の言葉が、夢の中の晴香のそれとリンクする。水際で抑え込んでいた鬱屈した感情が、また決壊の気配を見せる。

 

「……結果の出ない頑張りに意味はあるの?」

 

 まただ。心の中の黒い部分が勝手に表に出てしまう。やっぱり夢と同じじゃないか。傷つける相手が変わっただけだ。

 

「結果は出てるじゃないですか」

「じゃあそれを言ってみてよ。どんな結果が出てるのか」

 

 根拠のない気休めなら、口にしないで。もう一人の私を、勢いづかせるだけだから。

 滝先生に何度も論理的にやり込められ、反論もままならない状況に追い込まれている内に、私は先生の発言一つ一つを、注意深く聞き取るようになっている。いい事だと、肯定しきれない。先生の発言の穴を突こうと手ぐすね引いて待ち構えている姿勢が、根っこにあるから。

 普段からそんな後ろ向きな心理でいるので、気分次第で攻撃対象は無差別に拡散する。そういう状況での根拠のない気休めは、私の神経を逆撫でする事にしかならない。

 顔をしかめ、震える声色に僅かに怒りを滲ませたが、蔵守はひるんだ様子もなく口を開いた。

 

「鳥塚先輩、去年のコンクールで北宇治は銅賞でした」

「……? それが?」

 

 どうせ適当な言葉でお茶を濁す。そう思っていた。

 それが案に相違して、いきなり話が去年に飛んで私は混乱した。目の前の後輩が何を言わんとしているか、ぜんぜん分からない。

 

「でも誰も、その事を悔しいとは思ってません。みんな、やる前から諦めてましたから。練習不足でどうにもならない。勝てるはずない。負けても仕方ない。そんな気持ちで、勝負の舞台にあがったようなものでしたから。先輩も、そうですよね?」

 

 (しばら)く考え込んでから、ゆっくりと(うなず)いた。

 

「だけど、今はそうじゃない。滝先生に尻を叩かれてとはいえ、みんな一生懸命、海兵隊の練習をしています。先生にキツイ事言われても、みんな今日まで踏みとどまってるのはこのままやられっぱなしじゃ悔しいから、勝負を諦めてないからじゃないですか? ……部活前は、話の流れでクラはまとまりがない事ばかり問題視する形になっちゃいましたけど。それ込みでも全体としてはずっと良くなってますよ。この調子なら滝先生の鼻を明かしてやれますよ。先生との勝負に勝てますよ。そこまでクラが形になったのは、鳥塚先輩やクラのみんなも諦めずに頑張ったからじゃないですか?」

 

 急に、視界が(にじ)んだ。私の頑張りを認めてくれる人が、ここにいる。私の頑張りを見ていた人が、ここにいる。

 目尻に溜まった(しずく)を制服の袖で繰り返し拭き取るが、後から後から涙は出てきて止まらない。

 

「うっ……、ぐすっ……」

「ちょっ……先輩、なんで泣くんですか。俺、何かまずい事言っちゃいました?」

「泣いてなんかない! これは汗! そう、汗なんだから!」

 

 心配そうに顔をのぞき込んでくる蔵守の頭を掴んで、ベッドシーツに額を擦りつけてやった。

 

「……痛いんですが」

「今は顔見られたくないから、しばらくそうしてて。それとも足で踏みつけられた方がいい?」

 

 なんか今、とてつもなくイケナイ事を口走ってしまったような。さっきまでの負の感情が一気に発散された影響だろうか。

 ……そうか。私は今、嬉しいんだ。嬉しくてたまらないんだ。これは嬉し涙なんだ。

 

しばらくご無沙汰だった心地よい感傷に浸っていると。

 

「ヒロネ先輩ッ!」

 

 保健室の扉が轟音と共に開いて、やはりというかなんというか、りえちゃんが息せき切って駆け込んできた。よっぽど私の事を心配してたのか、血相変えて突っ込んでくるし。私は逃げも隠れもしないんだからそんな慌てなくてもいいのになあ。

 

「きゃう!?」

 

 って、言ってるそばからつまずいたし。そのまま体勢を崩して慣性の赴くまま突進してくるし。

 ……突進?

 え、なんでそんな猛スピードで近づいてくるのそして後輩クンもどうして避けるのちょっと待ってってば。

 

 ボコッ!

 

 ベッドの上の鯉状態の私は、勿論とっさに避ける事も受け身を取れるはずもなく。脳内に投げやりな肉と肉の衝突音が響く。

 

「ぐげふっ」

 

 ……これは、鳩尾(みぞおち)に直撃っぽい。

 また気を失いかけそうになるけど、そこは踏ん張って意識を集中。深呼吸して一息つくと、漂白されていた視界も元通り。そして目の前には加害者のりえちゃんが涙目になって私の手を取ってる。

 いつの間に。

 

「先輩が倒れたって聞きましたけど大丈夫ですかあの粘着イケメン悪魔のせいですか

コイツに保健室に連れてかれたって聞きましたけど何か変な事されてませんかお母さまに連絡しましょうか帰るなら(かばん)持ってきましょうかいえ持ってきますのでどうかご許可を」

 

 りえちゃん、私いま一応病人なの。気を遣ってくれるのは嬉しいけど、それならまずダメージを与えてこないで。

 

「……島、先輩は聖徳太子じゃないんだぞ。質問は一つ一つに、だな」

 

 後輩クンも、気を遣ってくれるならまず私の盾になって。

 そんな事を想いながら、早口でまくし立ててくるりえちゃんの質問に一つ一つすらすらと答えて見せる。伊達に北宇治吹部随一の大所帯であるクラリネットのパートリーダーはやっていないのだ。

 

「むう……、さすが鳥塚先輩。人伝(ひとづて)に先輩は耳が良いと聞き及んでいましたが、これほどとは」

 

 確かに私は耳が良いけど、そういう良いじゃないんだけどなー。

 

「ヒロネ先輩」

「うん?」

 

 りえちゃんが、泣き腫らして赤くなった瞳をめいっぱい開いて、背筋を正した。

 

「私、先輩が吹部を辞めるなら、一緒に辞めようと思うんです」

「おい島、いきなり何を……」

 

 りえちゃんは彼を一瞥してから、言葉を続けた。

 

「ここで部活を辞めれば、先輩の事を全国目指す方に手を上げたのに根性無しとか、後に残される人の迷惑考えろとか言い出す人が絶対出てくると思うからです。これまでの先輩の頑張りなんか知らずに! 自分の練習だけじゃなくて、後輩の指導とかパーリーとしての練習の調整とか。そういうのひっくるめてヒロネ先輩以上に頑張ってる人がこの吹部にどれだけいるって言うんですか! それを認めないで陰口叩くような部活なら私も辞めます。先輩だけ、悪者にはさせません!」

 

 りえちゃんがぷるぷると震えて、絶叫にちかい声で叫んでる。自らの言葉にこらえきれなくなったのか、眼を伏せるとまた涙が一滴、音を立てて床に落ちた。

 

「……でも、もしも先輩が部活を続けようと思うなら、私、少しでも先輩が楽できるように何でもやります! だから何でも命令してください! あと、私、バカですけど。バカなりに先輩が楽できるように率先して行動します!」

「……生意気言うんじゃないの。初心者のクセに」

 

 りえちゃんが、私の事を慕ってくれているのは前々から察していた。でもここまで捨て身になってくれるほどとは思わなかった。また涙腺が緩んできそうになって、私の声にもいくらか嗚咽(おえつ)が混じる。でもそれを指摘するほど無粋な人も、この場にいない。もちろん、負の感情からくる嗚咽じゃない。

 

「もう二年目です。先輩はいつまで私を初心者扱いするんですか」

「そうだねえ」

 

 膨れっ面のりえちゃんに微笑みながら、ベッドから起き上がった。

 私の事を見てくれる後輩がいる。私の事を案じてくれる後輩がいる。もしかしたら、それは凄く恵まれている事ではないだろうか。

 私の為に力を尽くしてくれる人達の為に、私も力を尽くしたい。

 底の底まで沈みきった私の闘志に、再び火がついていく。

 

「さて、それじゃ部活に行こうかな」

 

 私がそう言うと、二人が目を丸くして互いの顔を見合わせた。

 

「無理しないでください。もう連絡は出してありますし、今日は大事を取って休んだ方が」

「そうですよっ!」

「大丈夫。合奏が延期になっただけで時間は無いんだし。ほら、二人も私の事を気にしてる暇あるんならさっさと部活行くっ!」

『は、はい!!』

 

 左手で後輩クンを、ふしくれだった右手でりえちゃんを保健室から押し出しながら、子供のころ気紛れに読んだ本の一節を思い出した。

 虎は、どうして美しさと強さを兼ね備えていられるのか。それはもともと強いから。

 弱いものが強くなるには、自らをいじめ傷つけ、鍛えぬくしかない。

 もう一度、自分の右手をかえりみる。クラリネットを支える右親指は度重なる修練で太くなり、腫れあがって女性的なたおやかさのかけらもない。凡人でしかない私が、あの先生のやり方についていこうとすれば、この手はもっと醜くなるだろう。

 でもそれでもいいんだ。コンクールのためじゃない。二人の為に、もっと強く、もっといい演奏がしたくなったから。

 

――ホントに何もしてないのよね?――

――してないっつーの。人目があるのに変な事できるか――

――人目がなかったらやってたの!?――

――突っかかるな!!――

 

 眠っている内に、夕焼け色に染まった廊下に伸びる影は長い。

 やいのやいの言い合いながら駆け去ってゆく二人の後ろ姿を眺めながら、私は口角を上げた。

 

「ありがと。私の、最高の、後輩たち」

 

 




没ネタ
――鳥塚ヒロネと島りえの馴れ初め――

一年前。楽器振り分け後、某教室でのやり取り。

「これからよろしくお願いします……(トランペットを出来ない事を引きずってる)」
「そんなかしこまらなくていいよー。ところでりえちゃんは初心者だったね。誰から教えをウケたいかな? ちなみに私のおすすめは怖い先輩か意地悪な先輩なんだけど、どっちがいい?」
「……」
「あれ、顔が固まっちゃったよ。どっちも嫌だった? じゃあ滅多に喋らない先輩と、滅多に教えてくれない先輩ならどっちがいい?」
「何でさっきからロクな形容がつかない先輩しか紹介してくれないんですか!? 普通の先輩をお願いします!」
「普通? じゃあ、頭の悪い先輩か、どんくさい先輩が好みなの?」
「何でそれが普通になるんですか!?」
「りえちゃん。頭が良いとか、要領がいいとか、もうその時点で普通じゃないっ!」
「……う。そ、それはそうですけど! じゃあ頭がそこそこで、器用とも不器用ともいえない先輩をお願いします!」
「そんな都合のいい先輩、こんな弱小部にいるわけないじゃないかっ!」
「威張るような事かああああ!」

こうしてりえちゃんは、ヒロネ先輩に篭絡されていくのです( ^∇^)σ)゜ー゜)






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第20話 めざせコンサートマスター 前編

 鳥塚先輩はどうにか復調を果たしたが、翌日の部活は綱渡りの状態が完全に改善されたわけでもなかった。

 

 もう今では、滝先生の側でも部員の側でも、明らかな暴言は影をひそめている。吹奏楽の知識に加えて、口の悪さも天下一品の滝先生が得意とする土俵に持ち込まれても勝ち目がない事をみんな悟ったからだが、それでも意図が不明な練習を行う度に、「なんでこんな事するんですか」という意見は出る。それに滝先生が即座に明確な理由を返し、「何年もやっているのにこんな事も知らないんですか?」と(あざけ)りの声(先輩視点)を返す。

 こんな具合で、勉強不足練習不足(滝先生視点)の部員達に対する滝先生の採点は相変わらず辛いが、部員の方でも理論武装して対抗しようとする人も出てきていた。

 見ようによっては、いい傾向と言えるのかもしれない。もっとも、付け焼刃の知識で再反撃したところでたかが知れている。結局その全てが返り討ちに合っているのだが。

 

 いずれにせよ言い負かされた鬱憤は内に溜まっていくばかりで、気力体力ともに摩耗(まもう)しきった部活の後に、それを発散しようとする気はなかなか起きない。多くの人は、「私、疲れてるから話しかけないで」と言わんばかりに前かがみになりながら黙々と家路につく。

 そういう訳で、積もりに積もった不平不満をお互い思い切りぶつけ合う機会には意外と恵まれない。憔悴(しょうすい)したまま家に帰り、食事と睡眠をとり、一夜明けて、ようやく気力も体力も十分に取り戻して登校するころに、不安といらだちがはけ口を求めて彷徨(さまよ)うのだ。どうやら前世の自分は大した功徳(くどく)を積んでいなかったらしい。幸運の女神につれなくされて、不景気な表情を浮かべた登校途中の吹奏楽部員と駅前で運悪く鉢合わせ。朝っぱらからクレーム処理という、およそ爽快感とは無縁な一日の始まりとなっていた。

 

「つまり滝先生の指導が、もう少しなんとかならないかと言いたいんだろ?」

 

 疲れていたとはいえ、一昨日の島と井上に対する応対はまずかった。

 その反省もふまえて、今度はしっかり相手の目を見て相手の言葉にうなずき、相手の言いたい事を要約してちゃんと聞いていますよアピールする。

 

「そう! 分かってるじゃない」

「抗議はしてみる」

 

 結果までは保証できないが。

 

「頼んだからね!」

 

 以上。マシンガンの如く次々に飛び出たクレームの処分完了。

 「滝先生をなんとかしろ」たったこれだけの事を言いたいがために、朝っぱらから十分も潰す方はそれでも気が晴れたようで、せいせいした表情をして去っていく。

 そして貴重な朝の十分を潰された方はげっそりする。

 

 授業が始まってもそれは変わらず、休み時間の度に人の形をした不平不満が教室にやって来ては宥め、廊下に呼び出されれば出向いて諫めの繰り返し。

 言うまでもなく滝先生についていけないという声が多い。当たり前の事で、まだ頑張れる。こういうやり方嫌いじゃないです。そういう人はそもそもやって来ない。弱音を吐く層に対して反感を抱いて、わざわざ愚痴を言いに来るのはごく少数だ。

 それにしても授業の合間ごとに女の子をとっかえひっかえしていると思われて、クラスの男子から妬み嫉みの目で、女子からは冷ややかな目で見られるというのはあまりぞっとしない光景だった。

 こちらの事態も決定的に悪化する前に図書室に逃げ込んだのも、単純に自己防衛の念に駆られたからであって、ことさら勉強意欲に目覚めたわけでもない。だいいち、自分にはまず先んじて片づけるべき課題があった。

 

 

 

 

「……若い内の苦労は買ってでもしろと言うけど、リミッターでも設定してもらわない事にはとても賛同できないな」

 

 昼休み、利用者のいない図書室のカウンターで、そう独りごちた。これは図書当番だからという大義名分がある。教室の椅子よりは上等な、図書室のカウンターの椅子に腰を落ち着けての応対は、いつもであればいい気晴らしになるはずだった。いつもと違うのはカウンターの机の様子で、平積みにした書籍の山である。無論、テスト勉強の為のではない。意見書の校正に使えそうな本を片っ端からかき集めたのだ。

 山積みにされた書籍の中から、"美しい意見書の書き方! ~最初の原稿が下品に、書き直しが過激になってしまう人の為の、上品で穏健な推敲テクニック~"という酔狂なタイトルの本を取り出し、ぺらぺらとめくる。ペンを構え直して、ノートに筆を滑らせる。みるみる内に紙面が文字で埋まっていくのは、滝先生について回ってクレーム処理に忙殺されたせいに他ならない。おかげで部員達の心情やら各パートの現状やらはよく把握しており、理論武装する為の素材には不自由しなかった。

 

 コンコン

 

 一息つこうと筆をおきかけた時、控えめのノック音がした。職員室でもないのに、わざわざする必要もない行為と共にガラス扉を開いて入ってきたのは馴染みの顔である。

 

「ああ、鎧塚さん。いつもの席なら空いてるよ」

 

 気軽に声をかけると、彼女もこくりと頷く。

 図書室奥の、杭のように片方だけ突き出たスペースは、カウンターや他のほとんどの座席から死角になる。そこが、鎧塚さんのお気に入りの場所だった。昼飯時の教室の喧騒から逃れて、ひとり静かな世界に埋没したがっている時の彼女は、普段であればそこに直行する。しかし今日の鎧塚さんは、本棚の森を越えることなくカウンターの正面に突っ立って、こちらをじっと見つめてきた。

 

「ん? 何? 顔に何かついてる?」

 

 今は一分一秒でも惜しい。学食の炒飯を口いっぱいに頬張ったまま図書室に駆け込んだので、ほっぺに米粒の一つもついてるかもしれない。

 

「……ううん。(目も鼻も口も輪郭も)大したものは、ついてない」

「大したものじゃなければついてるって事?」

 

 口周りをさすっても、特に何かついてる感触はない。気を取り直して鎧塚さんに話しかけた。

 

「でも鎧塚さんもお昼食べるの早いね。昼休みになってから、まだ少ししか経ってないよ」

「……一人でご飯食べてると、周りからいろいろ言われて嫌だから。早く食べる習慣ついたの」

 

 切ない事を言ってくる。食事時の談笑相手に恵まれなかった鎧塚さんは、そのほっそりとした肢体には似つかわしくない健啖家ぶりを披露して、教室からの即時撤収を果たしたようだった。

 

「吉川や、大野さんとお昼一緒にしないの?」

「……勿論してもらう時もあるけど。二人にもお付き合いがあるから。毎日は一緒にいられない。……それに、私は貴方ほど社交的じゃないから」

「うぐ」

 

 鎧塚さんから、冷ややかな視線が注がれる。本来であればポジティブな意味で用いられる言葉が、皮肉なのは明らかだ。

 

「いや、あのですね。社交とは衆に交わると書きまして。今日の、投げてくるボールを受け取るだけのアレは交わるとはとても言えないものでありまして」

 

 なんだか浮気がバレた亭主のような心境で、もごもごと弁解を試みた。

 

「それより返却手続き。早く」

「あ、そうだった。ごめん」

 

 彼女が両手に抱えていた本を受け取って、貸し出しカードをひとつひとつ確認する。一枚、二枚……。鎧塚さんは一度に五冊も借りていた。

 

「一度に随分借りるんだね。ああ、これも滝先生の指導の一環だったか」

 

 鎧塚さんのオーボエの技量は、高校生としては十分な領域に達していた。去年の、神業のような演奏を知る自分等からすれば、若干の物足りなさを覚えはする。だがそれでも、ただ演奏するだけで相手を圧倒させる域にあった。

 滝先生も太鼓判を押していたが、あの人はそれだけでは満足しなかった。

 

――貴方にはそれだけの力があるのですから、ただ吹くだけでは勿体ありませんね――

 

 滝先生はそう言い、鎧塚さんに空き時間を見つけて読書をするよう勧めた。

 

――ただ流し読むのだけではダメです。自分とは性格も、置かれた環境も違う物語の主人公の気持ちになって読みなさい。作曲者がどういう想いで曲を書いたか、楽譜をなぞるだけでなく貴方なりに想像を膨らませて演奏できるように、挿絵の無い小説を、情景を想像しながら読んでみなさい――

 

 指導の仕方にも、いろいろあるものだ。鎧塚さんに手ほどきする滝先生を眺めながら、感心した。

 これがどうしようもない人なら「今の貴方の演奏は、何かが足りてないね」と口を滑らせるだけで終わる。足りない「何か」が、一体何なのか。具体的に伝えられない事には、相手も修正のしようもないし、自らの演奏を否定されたようで、言われた方は愉快なはずもない。言葉で表現するにせよ、実際に演奏して見せるにせよ、足らざる所を相手に伝える術を持たないなら、黙っていた方がマシというものだ。

 

「で、具合はどう?」

「まだまだ。登場人物の立場になるって、思ったより難しい。普通に読み進めるより時間がかかる。今はこれをメインに読んでるんだけど……」

 

 そう言って鎧塚さんが貸し出しカードと共に提示したのは、栗〇薫女史執筆、グ〇ン・サーガ。……の第一巻。

 

「……本編外伝合わせて百五十巻に及ぶ大長編をチョイスするとは、気合の入った事だね」

「……図書委員さんから薦められたの。そういう事なら登場人物のいろんな側面が見れる、ボリュームある方がいいって」

 

 ボリュームあり過ぎである。誰だ鎧塚さんにこの本を薦めた奴は。

 

「今年のコンクールに間に合うかなあ……」

 

 一日一冊読破するにしても、全巻読破は五ヶ月後。じっくり読み進めるとなると、もっとかかるだろう。中途で挫折するか、コツを掴むか、どちらが早いのやら。

 

「あと、これも。こっちは興味本位で読んでみただけ」

 

 そう言って鎧塚さんが差し出したライトノベルのタイトルは

 

"築5分・駅から5年のマイホーム。田舎で始めるスローライフ"

 

 どんな家だ。いや、どこにあるんだその家は。

 

「おかしいでしょう。こういうタイトルの本って、思わず手を伸ばしたくなる」

「ふうん。鎧塚さんって童話系が好きそうで、そういう軽いノリの本はあんま読まないかなと思ってたけど、割と雑食なんだね」

「もちろん童話も好き。でもそんなに選り好みしない。それに、一番好きなのは希美の卒業文集。次が、希美と班が一緒だった時の交換日記。どちらも希美と私の、吹部での思い出の日々が詰まってるの。あと、希美の自分史。南中では毎年三年生がやっているんだけど……、頼み込んで希美のをコピーさせてもらったの」

 

 本なのか? それは。

 二人が知り合ってからどれだけ経つか知らないが、鎧塚さんはこれまでに溜めこんだ傘木絡みのアイテムのことごとくを紹介しだした。頬杖をつきながら彼女の語る様を眺めていくうちに、紙面に文字という最低限の本の体裁もすっ飛ばして、アルバムやら卒業式で傘木と一緒に食べた紅白饅頭やらにまで話は飛んでいく。

 

「いやな事、辛い事があっても、おうちに帰ってそれを眺めていると気分が落ち着くの」

「ふーん。傘木との思い出が詰まった品は、鎧塚さんにとって宝物なんだ」

 

 上の空で相槌を打った。

 こくり、と頷き目を閉じて胸ポケットに両手を当てる鎧塚さん。きっとその中には、傘木と彼女の二人きりの写真が納まった生徒手帳が入っているのだろう。ちょっと愛情が重いかな、と思わなくもないが。そういう一途な思いを見守ってあげたいとも思う。遠くから。

 

「うん、だから何もなくても毎日眺めないと落ち着かないし、少し苦しくなる」

「一度病院で診てもらった方がいいんじゃないの」

 

 もはやストーカーの一歩手前である。そのうち傘木の古着をどこからか調達して、くんかくんかしたりして。

 

「傘木の事が好きすぎてしょうがないんだな。鎧塚さんって、ほんとどうかしてるよ」

「……どうかしてる。そうかも。希美は明るいから、私がこんな重い女だってわかったら嫌われる」

「今まさに自分の中で、鎧塚さんがいまだかつてないほど重い女だと刻まれているけどな」

 

 もっとも当人にとっては、傘木以外の人物からどう見られようと興味はないのだろう。

 おそらくは中途で(さじ)を投げた読者の方が多かろう大長編の第一巻から第三巻。吹奏楽関連の書籍一冊。そして船も通わぬ離島にテントでも張って暮らすのか気になるラノベの返却手続きを済ませていると、鎧塚さんのつぶやきが聞こえてきた。

 

「……一冊だけ、残ってる」

 

 彼女の視線は、カウンター脇の新刊コーナーに移っていた。

 

「ああ、あれはタイトルが童話っぽいから。あんまり興味をそそられないみたいなんだ」

 

 北宇治の図書委員の特権に、四半期ごとに問屋で調達する新書について、自分達の希望の書籍を選べるというものがある。無論、事前に司書の目が入るので、漫画やエロ本なんか希望してもその場ではじかれるが。書籍化したばかりの人気単行本は図書館でも予約待ち。買おうにも高くて興味本位で手を出すのは躊躇(ちゅうちょ)する。かといって安価な文庫本が出回るまで待てない。そんな中途半端な本好きにとっては、懐を痛める事なく中身を物色する好機でもあった。そしてその手の本は、いの一番に調達した図書委員が借りていくのだ。余り物は、ついでで適当に購入した本ばかりになる。

 それでも新刊となれば、図書室にやってくる生徒達の目を引くはずなのだが、図書室でずっとベンチを温めたままの様子を見る限り、かの本は一般的なティーンエイジャーのストライクゾーンから外れているようだった。

 

「……リズと、青い鳥」

「鎧塚さんの好みには合いそうだけど、借りてく?」

「……ううん。また今度でいい」

「了解。返却手続きは終わったから、ごゆっくりどうぞ」

 

 そう告げて、書き途中の書類に目を向け直した。が、目の前から人の気配は消えない。というか、むしろ濃くなったような。

 視線を上げると、鎧塚さんがカウンターに身を乗り出してこちらをのぞき込んでいた。近い。ちかい。思わずのけぞる。

 

「……鎧塚さん。いくら綺麗な顔でもね、その無表情を至近距離で見るのは怖いからやめて」

「……蔵守君、何で書類に埋もれてる?」

「書類に埋もれてるのが分かってるのに何でと聞くか。モノ書きしてるからに決まってるだろう」

 

 顔を紙面に戻して、筆先を滑らせながら呟いた。当番といっても、やる事は貸し出し返却の手続きだけ。拘束時間は長いが、手が空いている時はわりと自由が利く。

 

「何、書いてる?」

「滝先生のスパルタ指導への意見書。もう限界に近い人も少なくないから。そろそろ本格的にガス抜きしないとまずい」

「……それって、蔵守君がやらないといけない事?」

「みんなの不平不満が、パーリーを素通りして滝先生に向いてる訳じゃないからね」

 

 ヒラ部員から突き上げを喰らっているパートリーダーは、自分だけにとどまらない。五十人以上も同じ部活に人がいれば、そりの合わない相手の一人や二人は出てくる。それでも平時であれば、愛想という名の厚化粧が緩衝材になって、なんとか一枚岩になりえたはずだった。今現在のように部が荒れてくると、お互い愛想を振りまく余裕もなくなり、仮眠していた負の感情が鎌首をもたげてくる。

 幹部という立場にいる事。それだけでそりの合わない連中からすれば「パーリーでしょ!」とか「パーリーのくせに」とか、突き上げという名の、難癖につける枕詞に不自由しないでいられるのだ。

 そんなわけで面倒くささ半分、あきらめ半分、つまりほっといてもツケは回って来るんだからやるしかない的な心境で雑用に精を出さざるを得ないのであった。

 

「……抗議しても、どうにかなるとも思えないけど」

「これ以外にも、ガス抜きの案は別に用意したから、それであと二日三日は何とかなると思う」

「……どんな?」

「サンフェスでは、みんな衣装を着るだろ? これまでは顧問がどんな衣装にするか決めてたけど、今年は自分達で好きなように選ぶのはどうですかって言ってみたんだ。そしたら小笠原先輩が飛びついて即採用」

 

 自分達で選んだ可愛い衣装を着れるとあれば、いくらかでもモチベーションは上がるだろう。そう思いついての提案自体は好評で受け入れられたのだが。

 

――それいいね! じゃあ手ごろな値段のを調べ上げておいて! その中からどれにするか決めるから――

――え。自分が調べるんですか……?――

 

 女物なのに。

 口は禍の元。また雑用が一つ増えた。ビバ中間管理職。

 

「……滝先生の、許可はあるの?」

「無いよ」

 

 筆を止めずに呟いて、裏工作である事を素直に認めた。

 

「いいの……? 許可が下りてないのに、そんな事して」

 

 鎧塚さんは驚いているのか、抑揚(よくよう)に乏しい普段の口調が珍しく波打つ。

 

「鎧塚さんも頭が固いなあ。市販品から選ぶならともかく、セミオーダーの衣装にしたいなら今の内に決めておかないと。海兵隊にOKが降りてからじゃ間に合わないよ。これはみんなのモチベーションを維持する為の必要悪だから。仕方が無いの」

 

 手段を選んでいる場合でもなかった。このままモチベーションが低下するに任せて辞めると言い出す三年生が出てきたらどうなるか。それがきっかけで雪崩を打つかもしれない。残っている二年生は数が少なく、一年生の半分は吹奏楽のイロハもしらない素人でしかない。そんなのは少数精鋭とも呼べない、ただの少数だ。スパルタに耐えられない弱者など要らぬ、無駄な部分は削ぎ落し、精鋭を以てコンクールに挑めばいい。……などどいう論法が通用するほど、北宇治の吹部の層は厚くない。

 

「……蔵守君、最近滝先生に反抗的になってる」

「そう見える?」

 

 筆を止めて鎧塚さんを見上げると、彼女はこくりと頷いた。

 

「別に好きで逆らってるわけじゃないんだけどなあ……」

 

 頭を掻きながら呟いた。自分が特に教師に反抗的とは思わないが、部活という村社会にいると、本来の意に沿わない仮面をかぶらざるを得ない局面もある。今現在のように、顧問と部員が対立している状況だと尚更だ。パートリーダーという立場もそれに拍車をかける。幹部になっても、それに比例して口が自由になる訳でもない。

 自分よりオーボエが上手い癖に、ヒラ部員という身軽な立場でいる相方が恨めしい。

 

「パーリーになって、いろいろ雑用をこなしていくうちに分かった事が一つある」

 

 視線を書類に戻して、口を開いた。

 

「……なに?」

「周りに出来ることは周りにやらせる。自分に出来る事も、周りにやらせる。そうじゃなきゃ、何かドジ踏んだら責任取らされるのは自分なんだし、馬鹿馬鹿しくてやってられないよ」

「……蔵守君、最近あすか先輩に似てきてる」

「お褒めに預かり恐悦至極」

 

 じとっとした視線を向ける鎧塚さんに、うやうやしく一礼をほどこした。

 

「褒めてない。でも……ふふ」

「? どうしたの」

 

 唐突に、鎧塚さんが安心したように微笑みだした。にわかに鼓動が早まる。

 苦笑いも、愛想笑いも滅多にする事なく。いつも無表情でいる事を己が使命に課しているような彼女も、時として表情筋が反乱を起こして明るさを覗かせる。そのたまにしか見ることができない彼女の笑顔は可愛いから侮れない。

 

「うん。最近は、蔵守君と少し話が続くようになって。それがなんだかおかしくて」

「ああ、そうかもね」

「……私、人と話すのが苦手。だから、この図書室、お気に入り」

「鎧塚さんは、静かなのが好きそうだもんね」

 

 彼女が、こくりと頷く。

 

「でも静けさも、その場の人数による。一人なら気持ちいい静寂。二人だと話が続かなくて気まずい沈黙」

 

 とても詩人ぽい言い回しである。早速読書の効果が出ているのだろうか。

 

「三人なら……」

「三人なら?」

「……」

 

 鎧塚さんが、唐突に黙り込んだ。程なくして、ぼそぼそと口走る。

 

「……私がいなければ、残り二人は私に気を遣う事なく盛り上がれるだろうから、疎外感感じる」

「……そりゃそんな事を常日頃から考えているのかと思うと、相手する方も気が重いだろうな」

 

 誰かこの根暗娘をなんとかしてくれ。

 鎧塚さんは、いつも通りの無表情に戻ってしまった。精一杯好意的な表現をすれば、ぼうっとしてるといったところか。彼女の事をしみじみと見つめた。ほっそりとした体つきをしているし、大きな瞳に長い睫毛。整った目鼻立ち。ほつれ一つない(つや)やかな青髪。温かみのあるブラウンの制服。その胸元に蝶結びされた紺色のスカーフも、物静かな彼女によく似あっている。十人に問えば十人ともまず美少女の域に収まっていると言うだろう。

 そんな恵まれた容姿も、愛想の無さで台無しだ。

 

「……ひどい。ああ、急いで食べたお昼ごはん、吐きそう」

「おいやめろ」

 

 これが漫画やアニメなら、大浴場のライオンよろしく口から綺麗な滝が流れるだけだが、現実は無修正グロ画像である。急いでカウンターから立ち上がって、うずくまる鎧塚さんの背中をさすった。最近になって分かった事だが、彼女はちょっと気分が悪くなっただけで吐き気を催す。根暗な上にゲロインとか、ほんとこの子ってば全力で容姿の良さを打ち消しにかかってるよ。

 

「……蔵守君は、こんな私を相手にしていて疲れない?」

 

 鎧塚さんが、(すが)るような目つきで見つめてくる。

 

「別に、それほどでも。鎧塚さんが人見知りなのにももう慣れたし。いつも無口なら何考えているか分からないから相手していて疲れるかもしれないけど。でも今みたいに時おりゲロ……じゃなくて本音を吐いてくれるし。それっていくらかは自分の事を信用してくれるようになったって事でしょ。むしろ嬉しいよ。それに何より、同じ楽器やってるからね。オーボエの音色で、その時々の鎧塚さんの気分が最近は(つか)めるようになってきた気がするんだ。何となく、だけどね」

 

 演奏が終わった後なら、いくらでも足りない所を言葉で指摘し合えるが、演奏中はそんな暇はない。テンポが急すぎると思ったら、それとなく演奏をゆるめたり、逆ならば早めたり。お互いの音色で、何を言いたいか、相手に伝える。一年も一緒にいると、そういう言葉によらないコミュニケーションもサマになってくる。

 そう言った瞬間、鎧塚さんの頬に赤みがさした。

 

「……そう、なんだ」

「うん。音楽っていいよね。言葉にしなくても、伝わるものがあるし」

 

 鎧塚さんは、他人との距離を縮めるのが、普通の人より慎重なだけなのだ。

 それは決して悪い事では無いはずだし、自分達は同じ楽器を通してお互いの意思を疎通し合える。さしあたっては、それで十分でなかろうか。

 

 にこっと柔らかい笑みを向けると、鎧塚さんが慌てて視線をそらした。

 

 

 

 

「……なるほどー。先輩ってそんな風に、下げてから上げて女を落とすタイプなんですね」

 

 うず高く積み上げた資料の陰から、もぞもぞと(うごめ)き出した後輩の図書委員が、んーと両手を掲げて胸を反らした。

 

「人聞きの悪い事を言うなよ、眠り姫」

「おはようございます。くももり先輩」

 

 蔵守だっつーの。自分の事をこんな仇名で呼んでくる後輩は、今のところ一人しかいない。

 

「……ええと」

 

 鎧塚さんが困惑した様子でいる。それもそのはず。黄前さん達の事を覚えていなかった彼女がコイツの事を覚えているはずもなく。

 

「鎧塚さんと直に対面するのは楽器振り分け以来になるかな。シンバル井上だよ」

 

 小柄な体躯に、栗色の長髪を片方だけ肩に垂らしたおくゆかしい自己アピール。北宇治の自由な校風に触発されてエキサイティングな……もとい、個性あふれる髪型をしてらっしゃる女子が集う吹部にあって、見た目だけは模範的正統派美少女然しているのが彼女である。

 もっとも気性の方は見上げたもので、図書当番を先輩である自分に丸投げして居眠りを決め込むくらい図太い神経をしている。滝先生のスパルタ指導にも、今日に至るまで音をあげる兆候すら示さなかった。

 

「売れない芸人みたいなあだ名つけるの、やめてくださいよね。まあそれはそれとして」

 

 井上は寝起きの体をストレッチしながら図書室のカウンターから立ち上がって、そそくさと鎧塚さんの傍に寄った。

 

「鎧塚先輩も気を付けないと駄目ですよ。先輩みたいな文学少女って、さっきみたいなシチュエーションにめっぽう弱いんですから」

「そうなのか?」

「そうですとも! 私が読み漁ってきた少女漫画がそう言ってます」

「少女漫画の読みすぎ……」

「ヨ ワ イ ン デ ス ヨ」

「お、おう……」

 

 お前は黙ってろと言わんばかりに、底冷えする声で威嚇されて小さくなっていると、井上は一人で盛り上がる。

 

「言葉巧みに篭絡(ろうらく)された鎧塚先輩は、一夜の熱に浮かされて蔵守先輩の成すがまま。手を繋いで、キスされて、胸揉まれて。(自主規制)(ピー)されてっ! ……あ、蔵守君。はずかしい……。うぶなフリしちゃって、鎧塚さんのアソコは正直だよ。そうら、オーボエの運指(うんし)で鍛えた俺様の指使いで、楽器みたいに鳴かせてやんよ。……蔵守君、キャラ変わってる。あ、あん……そこは……! そして二人はくんずほぐれつ……なーんちゃってなーんちゃって! ぶっはっ!! 鼻血出ちゃいました……」

 

 こいつが読んだのは、本当に少女漫画か? もしや噂に聞く薄い本ではあるまいな。

 ため息をつきながら、不等号みたいな目をして悶絶(もんぜつ)してるおっさん女子高生の頭にポケットティッシュを放り投げた。

 

「大丈夫か井上、顔悪いぞ」

「血が出ちゃいましたからね。そのぶん顔の血色が……って、誰が不細工ですか!!」

「いやそこまでは言ってない。ただ、エロい妄想してたせいで、顔が酷く歪んでいただけで」

「フォローになってませんよそれ。あーでもこのティッシュ、先輩の、男の人の匂いがするぅ」

「嫌なら使わなくていいぞ」

「そうじゃなくて。先輩の匂いに私の血を融合させたら、このティッシュ妊娠しちゃうかもです」

「そんなわけあるか」

 

 こいつがおかしいのは顔だけじゃなくて頭もか?

 勝手に人生(というか紙生)の岐路に立たされたティッシュで鼻をかむと、井上は胸ポケットのシャーペンをじっと見つめ始めてにんまりした。

 ……また何か良からぬ事を考えてるな。

 

「シャーペンの先っちょから芯出すのって、なんか出産しちゃったみたいな、そんな気分になりません?」

「ならんならん」

 

 シャーペンへの熱い風評被害である。

 

「くっくっくっ。無駄に数打ちす(芯を入れすぎ)るから種無し(芯詰まり)になるのにねえ」

「……無生物にそこまで妄想たくましくできるのは世界広しといえどお前だけだろうな」

「ご謙遜を。軍艦をわざわざ擬人化して欲情できる男ほどではありませんよ」

「……」

「そのうち、文コレ! みたいの出るかもしれませんね」

「そうだね」

 

 気の無い返事をしたものの、実際に出たら男の本能に負けてチェックするんだろうなと思ってしまう自分もかなりどうしようもない。

 

「まあとにかくだ。鎧塚さんとはただの友人同士だから。井上が妄想するような事はまだ何一つないぞ」

 

『まだ!?』

 

 ……あ、墓穴。不用意な発言に、二人の声がハモる。

 

「……そうだよね。……蔵守君も男の子。……やっぱり……そういうこと、したい……?」

「え。いや、それは……」

 

 鎧塚さんは頬を染め、両手を股間に押しつけて、やや内股気味になってうつむく。うつむきながらもチラチラと上目遣い仕掛けてくるの止めてくれませんか。まだ午後の授業も部活もあるし、そういう色っぽい仕草されると。……その、自分とて木石じゃないのでいろいろと処理に困るノデスヨ?

 

「えと……その……。蔵守君の事は嫌いじゃない。……むしろ、……私みたいなつまらない人間に、いろいろよくしてくれて助かってる……。だから好意は無いわけじゃないけれど……。でも、えっと……」

「おやおや? これは脈アリですかね」

 

 いつまでもモニョモニョし続けている鎧塚さんを見て、井上が仲人務めてあげてもいいですよーとか血迷った事を言い出す。いろいろすっ飛ばしすぎじゃないのか。

 

「煽るだけ煽っておいて、なに言ってんだ。鎧塚さんも鎧塚さんだよ。本命は傘木じゃなかったのか?」

「なんと! 三角関係でしたか!? それでそれで、その傘木って誰ですか!?」

「鎧塚さんの親友。同い年。南中から一緒」

「ほうほう」

 

 元吹部という情報は伏せておく。

 

「あと、女」

 

「女!? 三角関係な上に鎧塚先輩は両刀ですか。いよいよ混沌極まってきましたね」

「お前少しは口を慎めよ。先輩に向かって……」

 

 デコピンでも喰らわした方がいいのだろうか。右腕を上げかけた自分に目ざとく気づいた井上が、慌てて後ずさる。

 

「きゃー蔵守先輩の鬼畜! 鎧塚先輩だけじゃ飽き足らず私まで鳴かせるつもりですか!?」

「泣かすの意味が違うわ!!」

 

 なおも詰め寄ると、井上は鎧塚さんの背中に隠れて泣きついた。

 

「みぞれおねーちゃん。おにーちゃんがいじめるー」

「縁もゆかりもない赤の他人だろう」

「実は! 鎧塚先輩と蔵守先輩と私、腹違いの兄妹だったのですよ!」

「つがいも違うのに、腹違いも糞もあるか」

「人類みな兄妹ですよ!」

「やかましい」

 

 喧騒はご禁制であるはずの図書室に、腹式呼吸で鍛えた低音と、かしましい高音がのたうち回る。つまりうるさい。こういうノリに鎧塚さんは当然の事ながらついていけず、押し黙って目を左右に動かしている。いつもの隠れ家が騒がしくなって居づらいのだろう。五月蠅くしてしまった事を反省しつつ、井上にも自制を促した。

 

「どうでもいいけど井上、ここは音楽室じゃないんだから。声のボリューム、もう少し抑えてね」

 

 壁に貼られたテンプレ標語「図書室では静かに」を指さしたが、彼女の反応は鈍い。

 

「固い事言わないでくださいよお。まだ誰もいないからいいじゃないですか」

「あのな……。ここをどこだと思ってる。図書室だぞ? 静けさを愛する本の虫達にとって第二の故郷。人がいようといまいと静かにだな……」

「なるほど。本の虫って陽の当たらない第二の故郷に入りびたってるから、ダニみたいに色白なんですね」

 

 井上は全国の読書愛好家を敵に回すような暴言をのたまう。

 

「こういう天気がいい日は、外に出ないと駄目なんですよ! お布団だって天日で干さないとダニがたかるし、二人の顔も天日干ししちゃいましょう!」

「俺は図書委員の仕事があるからパス。女同士で紫外線を浴びまくってこい」

 

 既に井上の眼中に、図書委員の仕事を真面目にこなすという選択肢は無いらしい。クビに縄つけてやろうかと思わなくもないが、とりあえず図書室が静かになるのならそれはそれでよしとしよう。

 

「……私、肌弱いから。日中はあんまり外に出たくない」

「そんな取ってつけたようなお嬢様設定なんて聞きませんよっ! さあ、透き通るような黒さになるまで、肌、焼きましょう!」

「どんな黒さだよそれ……」

「それはほら、コ〇・コーラ瓶みたいな?」

 

 肌弱い設定のお嬢様、心底びくつく。今時ガングロは流行らないと思うが。

 

「わ、私は蔵守君の、意見書書く手伝いしないといけないの」

 

 そういえばまだ校正の途中だったな。と思い直し、カウンターに戻って腰を落ち着けた。カウンターの向こうでは、腕を引っ張って外に連れ出そうとする井上に対して、鎧塚さんが何時になくきっぱりといやいや言いながら首を振っている。

 鎧塚さんも南中では顧問にしたたか鍛えられたはずで、滝先生のやり方に耐えられないとも思えないのだが。そんなに嫌か。外に出るのが。

 

「意見書って何の話ですか?」

 

 井上が小首をかしげて、(あご)に人差し指をのせる。女の子にしか許されない、かわいいあざといポーズである。

 

「パーカスはさほどでもないみたいだけど、フルートとか、クラとか、ホルンとか。滝先生へのヘイトが高まってるんだよ。それを何とかする為のガス抜きだ」

「ああ、蔵守先輩たら、これまでサボり半分で吹奏楽やってた人達の意向を忖度(そんたく)して面倒事引き受けちゃったんですね。私は今度の事、いい薬だと思ってますから。ほっときゃいいのに」

 

 これまでサボり半分で図書当番やってた奴が、きいた風な口を叩く。

 

「井上は一年で、何も知らないからそんな気軽な事が言えるんだ。近年ロクな実績もない上に傷……、おっと。去年は新入部員も少なかったのにどうして今年の吹部にそれなりのお金が下りたと思ってる? 中世古先輩が生徒会を言いくるめ……もとい、説得したからこそ、何とかなったんだぞ。それで今年も心証を悪くしたら、寛大な措置を裏切った罰も含めて来年はペナルティー待ったなしだ。吹部にいる限り、井上もツケを支払わされる羽目になるんだぞ」

「ツケってなんです?」

「具体的には、学校から吹部への補助金カット。その穴埋めで、部員が月々に支払う部費の大幅アップは堅い」

 

 う゛っ、と井上が(うめ)く。

 

「そうなるのに比べれば、予防接種の一発や二発の手間くらいなんだ」

 

 

「捨て身ですねぇ。なるものじゃありませんね、中間管理職って」

「まあな」

 

 軽く頷き返した時、ポケットが小刻みに震えだした。

 

「……と、またガス抜き依頼がやってきたのかな」

 

 滝先生に抗議するという話は、既に連絡網を通して部内を駆けまわっている。ここぞとばかりに、あそこをこうしてここをああしてという依頼が飛び込み、日頃惰眠(だみん)をむさぼるスマホは有史以来最大級の稼働状態にあった。

 興味津々と言った感じで覗き込んできた井上が、感嘆の声を上げる。

 

「おお……、びっしり先輩達からのメールで画面が埋まってる。これは凄いですね。

先輩達どんな事言ってるのか、覗いちゃってもいいですか?」

「……あ、私も見たい」

「別にいいけど。誰のが見たい?」

 

 とりあえず、導入は無難な線からいきたいという良く分からない井上の理屈で、部長からのメールを覗かれた。

 

――くれぐれも、穏便にね?――

 

「毒にも薬にもならない、テンプレ発言ですねー」

「……そうでもない。面倒事はなあなあで済ませて、本格的な問題解決は後進に任せる。社会常識に則ってる」

「お前ら部長に何か含むところでもあるのか」

 

 次の要求は田中先輩だった。

 

――ついでに低音パートが使ってる教室を防音にするか、他のパートが使ってる教室をまとめて防音にするかしてと言っといて――

 

「清々しいくらい自分達の事しか考えてませんね」

「良くも悪くも、ストイックな人だからな」

 

――滝先生は凄い人だから。馬鹿にしたら許さないから――

 

「誰ですこれ?」

「……わからない。差出人も不明」

「部員の中に、先生の親戚でもいるのかな」

 

 田中先輩や、この出所不明の言動はまだ大人しい方だ。先生の靴に画鋲を仕掛けてやるから手伝えとか、美人局(つつもたせ)()めてやるから手伝えとか。共犯の持ちかけは自分の神経をとことんすり減らした。たとえテンプレであってもまともな返事を寄こしてくれるのがどれだけ有難いか、お分かりいただけよう。

 そしてつい今しがた届いてきたのも、岡先輩からの弔電(ちょうでん)だった。

 

――ほねはひろってやる――

 

「いい先輩と一緒で良かったですねー」

 

 半ば棒読みの井上に、力無く頷く。

 漢字変換も面倒くさいのか、投げやりっぽい先輩からのエールが妙に心にしみたのであった。

 

 



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第21話 めざせコンサートマスター 中編

2021年7月3日追記
あすかが図書室に登場するあたりから退出するまでのやり取りを若干アレンジしました。


 図書室にいる自分のもとに、エゴむき出しの要望に混じって気になる知らせが舞い込んできた。

 

――最近、少し気分が優れないの――

 

 そういう連絡が一人二人で済んでいるうちは、自分もさして気にはしなかった。似たような連絡が無視できない数に上り、さすがにおかしいと中身を精査してみると奇妙な共通点にぶつかった。

 まず症状が共通している。体を動かしたり、何かに意識が集中していたりする時は何ともないが、ぼんやりしている時や、くつろいでいる時に、何かどこか体の調子が微妙によくないと感じるという。体を休めている時の方が具合が悪いというのは、風邪や、急に厳しくなった部活動で溜まった疲労によるもの、という理由では説明がつかない。そして不調を訴える人も、滝先生に反発している層よりも、むしろそういう人達と滝先生の(いさか)いで板挟みになっている大人しい人に多かった。

 

「先輩、心当たりはあるんですか?」

「多分だけど、心身症かノイローゼのどちらかだろう」

 

 一人一台スマホを持っているのが当たり前の昨今、ちょっとした調べものなら手持ちの端末に向き合った方が手間もかからず、精度も高い。ひとたび世に出回った後は内容が更新される事もなく、時を経るごとにインテリアと化していく事典に羽箒(はねぼうき)をかけていた井上の手が止まる。

 

「心身症? 何ですそれ」

「平たく言えばストレスに起因する体調不良。真面目な人や気が弱い人に多いそうだけど、ストレスが限度を超えて蓄積されていけば誰にでも起こりうる病気だよ」

 

 もっともらしく井上に説明してみせるが、これは鳥塚先輩がダウンした時、代わりに受けた問診から保険の先生が推測した受け売りでしかない。とはいえ大人しい人に症状が多いのも、何もしていない時の方が具合が悪いのも、それならば理屈は通る。滝先生にひるまず言い返せる人の方が、それで多少なりとも抱えた鬱屈を発散できるし、手持ち無沙汰でいる時のほうが余計な事を考えてしまうのだろう。

 図書室では飲食禁止だが、だれも見ていないのをいいことに学食で買ってきたクロワッサンにかぶりつく。男の自分は食事でストレスを打ち消すことにさしたる抵抗もないが、体重や体形が気になるお年頃の女子はなかなかそうもいかない。

 

「それって、ノイローゼと何が違うんですか?」

「どちらもストレスが原因だけど、それによって身体に病変ができるのが心身症で、精神に病変ができるのがノイローゼだそうだ。もっとも、本当に身体に病変がなくとも息苦しさとか目まいとか、身体的症状がでてくるノイローゼもあるから、素人が見分けられるようなものじゃないな」

「へぇー。いずれにしても、放っておけませんね」

 

 自分の説明(保険の先生の受け売り)に納得したのか、仕事を再開しながら井上が呟く。ちなみに彼女が真面目にしているのは、罰ゲームだから。嫌がる鎧塚さんを紫外線ビーム顔面ぶっかけに執拗に誘うもんだから、それならトランプで勝ったら好きにしていいぞと助け船を出してみたら、井上は快諾。結果は言うまでもなく、常時ポーカーフェイスを維持した鎧塚さんの圧勝。基本365日同じ顔してるのも妙なところで役に立つ。

 

「心身症かノイローゼかの判断はできなくとも、ストレスが原因なのははっきりしてるんだ。だからストレス因子を消してしまえれば手っ取り早いんだが……」

「滝先生や、声ばかり大きい人を消す訳にもいきませんしねえ」

「現代社会とストレスは双生児だからな。ストレスの根絶なんてできっこないさ。ここは穏便に、対処療法でいこう」

 

 とりあえず小笠原先輩と中世古先輩、そして田中先輩の三幹部にスマホを通して現状を説明し、その処方も提案してみる事にした。

 

 

差出人:蔵守啓介

送り先:小笠原晴香、田中あすか、中世古香織

件名:ストレス注意報

本文:心身症ナイシ、ノイローゼ患者多数発生。療養ノタメ相談窓口開設ノ必要アリト認ム

 

 

  以上。

 

 

「いきなりこれだけ言われても伝わりませんよ!?」

「しょうがないだろ、事細かに説明したら文字数制限に引っかかるんだから」

「先輩の携帯はどんだけオンボロなんですか……」

 

 詳しくはwebで、ならぬ詳しくは自分まで。という事で、どういう事なのか井上が詰め寄ってくるので一から十まで説明した。

 と言っても事が精神的な問題に起因しているので、体調を崩した相手の苦悩に耳を傾けるくらいしか対処は思いつかない。ただ今度のような件は、これからも続発する可能性が高い。今後に備えて、苦しい胸の内を打ち明けるに足る、信頼できる人物なら誰でもいいが、そういう相手に相談できる窓口のようなものを作る必要があるだろう。気軽に相談できるよう、匿名で利用できる形にできればなお望ましい。

 

「そういう事でしたら、すでにクレーマー窓口と化している先輩がそのまま担当するのはダメなんですか?」

「俺はダメだな、男だから」

 

 井上の提案に首を振った。たとえ匿名でも、女所帯の部活で男の自分がこの種の仕事に関わるには限界がある。男子が苦手で吹部に入る女子など珍しくもないのだ。そういう人たちにとって、異性に相談するという事自体、ハードルが高かろう。

 

 そんな時、ポケットの中のスマホに着信が入った。早速この件に関する返信か。画面に表示された新着メールを開いてみると、やはり田中先輩からだったので井上に転送する。

 

 

差出人:田中あすか

送り先:蔵守啓介

件名:今日から健康強化週間だ!

本文:十分程たったらそっちに行くよ

 

 

「見ての通り先輩がこっちに来るそうだ。井上、直ちに(ほこり)取りを中断して配置につくように」

「配置ってなんですか。それに今すぐ来るとは書いてないじゃないですか」

「甘いな。メールには10分後に来るとあるが「たのもー!!」……こういう人だから」

 

 いたずらっ子な先輩め、図書室の出入り口近くまで来てからメールしたな? でも自分にはフェイントなんて通用しませんよ? もう貴方と一年も同じ部活にいるんですから。

 

「わっ、もうあすか先輩がやって来ました!」

「こんちはー、先輩」

「わわっ、もうあすか先輩がやって来ました!!」

「なぜ二回言う?」

 

 そうじゃない井上は、ゲーム開始直後にクリボーが画面端から出てきたかと思ったらクッパでした! なんで!? みたいな顔してテンパってるけど。いや、そんな顔自分も知らないけど。要するにそれだけ不意をうたれたってこと。

 

「おんやぁ? 蔵守だけかと思ったら新顔がいるね」

「はわわっ、あすか先輩。ちかい、近いですっ!」

 

 出入口近くにいた井上は、田中先輩に壁ドンされて目を回してる。だから安全距離(ソーシャルディスタンス)を確保しろと言ったのだ。

 

「そーいえば、ナックルんとこにいたっけこんな感じの一年生。ストレートロングで、正統派美少女ぽくて」

「……えっ。や、やだもーあすか先輩ったら! そんな本当のこと言っても何も出ませんよぉ」

 

 ちょっと社交辞令を言われただけでのぼせ上がる、お前もホント簡単な女だな井上よ。鎧塚さんの事をどうこう言えないぞ。

 

「舐めたら美味しそうで」

「ふぇ!?」

 

 こっちはこっちで輪をかけてヤベェ人でした。

 

「つい最近まで純朴な中学生だった井上を変な色に染めないでくださいね先輩」

「私ももう高3なのにヒト科のオスに縁がなくてねえ。一周回って同性でもいいかと思うのよ」

 

 同時刻、学食。

「!」

「ど、どうしたの香織? いきなり立ち上がって」

「う、うん。なぜか、望ましい未来が急に開けたような気がして」

「……は?」

「それより晴香、後で蔵守君にメールの事聞かなきゃね」

「……どうして電報風なんだろね。ろくでもない事なのは伝わってくるけど」

 

「ほとんど女子の吹部でひたすら部活に励んで、誰ともフラグ立てないルート選択しといて何血迷ったこと言ってんですか」

「あー、いますよねぇ。恋愛ゲームなのに女の子そっちのけで、どーでもいいパラ上げに勤しむ人って。さしずめガチ部活勢のあすか先輩は吹奏楽パラSランクってとこですか」

「やだねー井上ちゃん、私はAランク、Sランクなんてもんじゃないよ」

 

 それでも相応の実力者である事は否定しない、謙遜しない現代っ子なあたりが田中先輩である。いつもの事とはいえ、この人と話していると神経がささくれる。そのうち誰かから刺されるんじゃなかろうか。

 

「Sランクっていうのは、滝先生にダメ出しされまくってる子らを言うのよ」

「ふぇ!? あの人達ってあすか先輩より上なんですか? 真の実力者しかわからない秘めたる才能、未完の大器って奴ですか!?」

 

 思いっきり話に食いつく井上に、ちがうちがうと(なだ)めながら田中先輩がカウンターに置いたままの袋からクロワッサンをほおばる。ちょっと、それ俺のですよ。

 

「いつからSがトップランクと錯覚していた? アルファベット順通りで、てめぇらSはEよりずっと下だぁ!」

「な、なんですとぉ!?」

 

 驚きで目をむく井上を尻目に、田中先輩は「あの子達は下手すぎる」だの、「ばらばらしてる」だの、「ピッチもあってない」だの、Sランク部員のダメダメな点を列挙しだす。そりゃ自分も、へたっぴな上にさぼりーな人達に、もう少し頑張ろうよと思わなくもなかったが、今回ばかりは言ってあげたい。そこまで言う事ないだろと。

 

「意地悪なアヒル(三年生)もいなくなったし、みにくいアヒルの子も白鳥に準ずる存在になるだろうと思ってたけど、期待外れだったよ。所詮アヒルの子はアヒルだねぇ」

 

 とまあ、こんな感じで(さじ)を投げた田中先輩の手でSランク部員は戦力外通告されるか、あるいはSランク部員の方が酷評に逆上して田中先輩を吊るし上げるか、どっちかの展開しか思いつかないレベルで見限られてしまっている。

 

「……ちなみに私はあすか先輩基準でどのくらいのランクなんでしょうか?」

 

 やや腰が引けた井上がそれとなく、話をSランク部員から自らに移そうとする。黒化した先輩の言は、これ以上聞かぬが仏と判断したのだろう。適切な対処と言えた。

 

「そうだねえ、井上ちゃんはDランクってとこかな」

「D……。まだまだってことですね。よぉし蔵守先輩! あすか先輩には敵わないまでも少しでも近づけるよう一緒に頑張りましょう! 私がDなら先輩はせいぜいEってとこですから!」

 

 なんだとお。

 

「……井上、貴様には少しばかり(しつけ)が必要なようだな。あとで校舎裏に来い」

「え。いやぁん先輩ったら。吹部が美少女ぞろいだからって、悶々(もんもん)とした気持ちを夜な夜な一人慰める日々が続くのが辛いからって、私との告白イベント決行するには好感度足りてませんよぉ」

「そうじゃねーよ」

「え? それじゃ吹部の女子をとっかえひっかえしてるヤリチン野郎なんですか? 近寄らないでくださいこの種馬!」

「殴るぞ」

「やだねー井上ちゃん、蔵守は女遊びするようなタマじゃないよ」

 

 田中先輩が俺の尊厳を守ろうとするなんて。何か変なものでも食べたんですかと恩知らずな事を考えてしまったのは、先輩の日頃の言動のせいだ。

 

「そもそもここら辺に女と夜遊びできるスポットなんてないでしょ」

 

 田中先輩が宇治の尊厳を(おとし)めようとしている。いや、健全でいいのか?

 

「あー、先輩? なんか話が脱線しまくっちゃいましたけど。健康強化なんたらの件ですが」

「その質問に答える前に、私の質問に答えてもらわないと。あの不親切すぎるメールは一体何?」

 

 やっぱり説明が足りていなかったようなので、改めて経緯を事細かに報告した。ついでに自分が立ち会った各パート練習の進捗具合も説明した。自分で言ってて何だが、多少の改善傾向は見られるものの全体としてはどうにも悲観的な報告が多い。一部の例外を除いて、滝先生が求めるレベルに達していないのが現状なのだ。

 

「ほぼ分かったよ。要するに状況は絶望的なのね」

「そこまでひどくありませんよ!?」

「そう思いたいんだね?」

「そう確信しています!」

「それ気のせいだよ」

 

 くっそ。自分らの部活の事なのに、他人事みたいに突き放した態度を取りおって。ダメダメだと思うんなら私がなんとかしようとか考えないのか。低音パートだけよければいいのか。これが格差社会か。それとも個人主義か。強者と弱者の格差放置は社会不安の母ですよ?

 

「で、健康強化週間の件だけど」

 

 一通り自分の報告を聞き終えると、田中先輩はメールの返信について語り始めた。要約すると、ストレス溜め込んで体調崩す人が続出してるのなら、これ以上症状が悪化しないよう部活以外で不健康な生活するのを止めよう!と言いたいらしい。

 その為にまずは運動不足の解消。これから毎日部活前に全速力でトラック一周。まあ、それはいい。続いて禁酒、禁煙。取り締まる意味あるんですかねこれ。うちの学校そこまでの不良はいないと思うけど。そして最後に食べ過ぎも良くないという事で、クロワッサンを取り上げられた。勘弁してくださいよぉ。

 

「代わりにこれあげる。別に貴方のために作ったんじゃないんだからね……っ」

「……台詞だけ見れば意中の相手に手作りプレゼント渡そうとするツンデレヒロインなんですが、このペットボトルに入った毒々しい色の液体はいったいなんなのでしょうか」

「栄養ドリンクでカクテル作ってみた、っていう動画を参考に見様見真似で作ってみたの。飲んでみて」

「嫌ですよ!? 絶対混ぜちゃいけないものまで混ぜてるに違いないし! っていうかどうしてボコボコ泡まで吹いてるんですか!?」

「人体に入る前から栄養分がハッスルしてるのよ」

「破裂する前に捨ててくださいそんなもん!」

 

 無理強いする気はないのか、田中先輩はあっさり引き下がる。

 

「残念……、蔵守のリアクションを録画して動画再生数稼いでやろうと思ったのに」

 

 俺は芸人じゃないんだが。

 

「じゃあ飲まないでいい代わりに交換条件。私の方でもこみいった問題にぶつかってね。蔵守の手を借りたいんだけど、一緒に楽器準備室まで来てくれない?」

「うっ……」

 

 なんてこったい。お願いの重ね掛けなんて聞いてない。はじめからそっちが本命だったに違いないが、二度も続けて頼みを断るのはさすがに外聞が悪い。OK出すはずもない依頼に先陣を切らせておいて本命を二の矢で継いでくるなんて、まるきり詐欺師の手口ではないか。

 とはいえ悪賢い田中先輩からの頼み。しかも面倒な問題という。一筋縄で解決できるはずもなく。内心警戒警報出まくりである。無駄な事だと思いつつも、とりあえず抵抗を試みる。

 

「……今からですか?」

「うん」

「昼休み潰れちゃいますよ?」

「私は平気だよ?」

 

 遠まわしに嫌だと言ってるんだけどな。

 仕方ない。手遅れになってから処理を押し付けられるよりはマシと、無理やり好意的に解釈して渋々ながらも協力要請に応じることにした。……のだが。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいよっ!」

 

 書類を抱えて図書室を後にしようとすると、井上が必死の形相で腕を掴んできた。

 

「先輩がいなくなったら、誰が図書当番するんですか!?」

「お前が。他に誰がいる?」

「私のお昼寝タイムはどうなります!?」

「井上」

 

 井上の肩をぽんと叩いて、真剣な表情で見つめるとなぜか彼女が赤くなる。

 

「な、なんですか……。そんな常ならぬ漢らしい顔しちゃって。ギャップ萌えなんかに負けませんよー」

「図書当番として、俺が井上に教えてやれることはもう何もない。それだけお前は成長したって事さ……」

「なに良い話風にまとめようとしてんですかぁぁぁ! 先輩に図書当番の段どりを教わった覚えなんてこれっぽちもありませんし、そもそも貸し出し返却の手続きなんて教わるまでもなく誰でもできる仕事でしょうがぁぁぁ!」

「ほう? 誰でもできるとぬかしたな。それなら井上に任せて何の問題もないわけだ」

「しまった!? 罠だっ!!」

「あと任せたぞー」

(はか)ったなー!? せんぱぁーいっ!!」

 

 かくして、引継ぎが問題なく済んだことを確認して図書室からトンズラこく自分(と田中先輩)。背中に井上の怒声が響き渡るが、そんなのは無視して楽器準備室に急ぐ。

 ちなみに、あまりの騒々しさに指定席からひょっこり顔を出して、うるさくしないでオーラを放っていた鎧塚さんは後日「……やっぱり蔵守君はあすか先輩に似てきてる」と吉川に語ったそうである。

 

 

 

 

 図書室から楽器準備室までは遠い。図書室は南棟西側の一階にあるが、楽器準備室は北棟東側の四階に音楽室と並んで併設されている。世間一般の例に漏れず、防音対策で辺境に左遷された特別教室へ、ほとんど校舎を突っ切らなければならなかった。

 ようやく目的地にたどり着いて扉をくぐると、楽器棚にはちらほら空きが見える。自主練で持ち出した人が少なからずいるのだろう。昼休み中まで気合を入れて練習する人など、これまでは田中先輩をはじめ片手で数えられるほどしかいなかった。

 いい傾向だ、とも言いきれない。滝先生に皮肉を飛ばされるのが嫌で、無理に気力を振り絞っているように見えるところがあるからだ。そして、そういう無理は往々にして長続きせず、どこか別の場所で緩みを生じる。

 

「今日も荒れてますね、楽器準備室は」

 

 少し前までは、楽器ケースはそれなりに整然と、楽器ごとに陳列されていた。それが今では、規則性も何もなく、空きが合ったら放り込めといった感じで雑に格納されている。床に置きっぱなしの楽器ケースも少なくない。

 

(あるじ)を失って、この部屋で眠ったままの楽器も多いのに……」

 

 自然とため息が出てしまう。楽器ごとに所定の場所に格納するのは、そういう誰も使っていない楽器の紛失や盗難が起きても、直ぐ分かるようにする意味合いもあるのだが、これでは何か起きても直ぐには気づけない。

 

「こういうことは、私たちがフォローすればいいんだよ。なんたって、楽器係だもんね」

 

 パーリーとは別に、今年度から楽器係に就任した田中先輩と自分は二日に一度、楽器準備室を綺麗に整頓している。そのせいで、置いておいた場所と違う、勝手に動かすなと理不尽なクレームを受けたりもするのだ。みんな、心にゆとりがなくなっている。

 

「いつも通り、掃除をすればいいんですか?」

「それもあるけど、蔵守を呼んだ本題はこっち」

 

 田中先輩は、小さな卓に置かれた楽器ケースを開いて、自分を招き寄せた。

 

「これを見てもらいたかったんだ」

 

 ケースの中にあるのは、何の変哲もないアルトサックスだった。しいて言うならそこそこ年代物で、ラッカーの禿(はげ)も目立つ。もっとも、その程度の古びた楽器など、この吹部では珍しくも何ともない。

 

「このサックスがどうかしました?」

「どうも湿気にやられたみたいでね」

「湿気?」

 

 田中先輩の言葉は()しかねた。湿気にやられたみたいと言うが、今はまだ四月だ。例年に比べて、ここまで特別雨が多いという事もない。

 

「ほら、タンポが湿ってる」

 

 そう言って、田中先輩がサックスに穿(うが)たれた穴を開け閉めする機械仕掛けの(ふた)を拭き取る。タンポというのは、この蓋の裏側に取り付けられた、指代わりに穴をふさぐ為の動物の革のことだ。楽器に穿たれた穴を開け閉めすることで音が変化するのは、普通の笛も吹奏楽で使う木管楽器もかわりはない。ただ後者は、より多彩な音色を表現できるように穴を大きくしたり多くしたりした結果、両手の指では塞ぐのが追いつかないので機械の力を借りるわけだ。金属ではないので、当然、湿気に弱い。いかに古い楽器といえど、こうなる前に気づけなかったのか。そう思ったが、口には出さなかった。これも、精神的余裕の無さが為せるわざだろう。

 

「滝先生にバレる前に、修繕(リペア)に出した方がいいですね」

 

 放っておいたら整備不良のかどで、また滝先生にぺしゃんこにされる部員が出てしまう。

 

「だいじょうぶだいじょーぶ。楽器の一つや二つ、ちょっとおかしくなったくらいでガタガタいう人じゃないよ。メタメタにされるかもしれないけど」

「より悪いですよ!?」

 

 ガタガタ言われるよりメタメタにされるのが嫌だからかどうかは分からないが、幸い調子がおかしい楽器は他に見当たらなかった。しかし、これまでは何もなかった楽器がおかしくなりだしている。嫌な感じだった。

 

「サックスパートは、メンテをちゃんとやってたんでしょうか……」

「今まで通り、ちゃんとやってるって、言ってはいたけどね」

 

 その「ちゃんと」とは、世間水準でいう「適当」と違うのだろうか。

 何が起き始めたか、何となく見当がついた。中途半端なご機嫌取りを続けてきたが、とうとう楽器諸兄もストライキに入り始めたということだろう。これまでは重役出勤で定時帰りの楽器たち。だからこそ、だましだましのメンテでもさしたる問題は起きなかった。それがここにきて、いきなりの酷使。単純計算でも、練習時間は三倍に伸びている。心なしか、棚に陳列された楽器から、労働環境の変化が急過ぎるぞという怨念が立ち上っているようにも見えた。

 

「直ぐにでも、楽器のメンテ方法を見直すべきです。それも、念入りに」

「勿論、そうするつもりだよ。だけど、メンテナンスが中途半端な事だけが原因なのかな?」

 

 肩にかかる長髪をいじりながら田中先輩が(つぶや)いた。先輩は、自分とは違う見解を持っているらしい。

 

「というと?」

「練習量は増えているのに、メンテは今までと変わらずおさなり。そのせいで楽器の調子がおかしくなった。一応、筋は通っているかもしれない。だけど、それにしても変化が急過ぎないかな?」

「確かに、ちょっと異常だとは思います」

 

 おざなりといっても、メンテ自体をサボっていたわけではないのだ。大なり小なり不具合の兆候を見逃すはずがない。少なくとも、修繕(リペア)に出さざるを得ないほどに状況が悪化する前に、普通は気づく。

 そう思っていると、田中先輩が自分の横をすり抜けて、準備室の扉をしっかりと締め直してから呟いた。

 

「私は、吹部の誰かが故意に楽器をいじって、調子をおかしくさせてるんじゃないかって思ってる」

 

 それは、冗談としてはタチが悪く、事実であればより深刻なものだった。

 

「楽器をいじるって……何の為にそんな事を!?」

「理由なんてすぐに思い浮かぶよ。滝先生のスパルタで、少なくない数の部員が鬱憤を抱えてる。でも先生には正攻法では太刀打ちできない。だけど過酷すぎるレッスンの影響で楽器も調子がおかしくなったという事になればどうなると思う? 楽器だって調子を崩すんだ。私達だってついていけない。そんな風に、先生への反撃手段を欲している人達に、大義名分を与える事にならないかな?」

「それは日頃のメンテが十全に行われていれば、の話でしょう。不十分なら逆に管理責任を問われて藪蛇になりますよ」

「どうかな。うちの楽器はボロばかりだし、部品のそこここも(もろ)くなってる。メンテがしっかりしてるかしてないか以前の問題かもしれないよ?」

「……だとしても、いじった事がバレたらタダじゃ済みませんよ。だいたい、この通り先輩に感づかれてるじゃないですか」

「バレても、それはそれで構わないと考えてるんじゃない? 去年の傷害事件から、先生達は吹部の扱いにデリケートになってる。滝先生の厳しい指導がこういう事態を引き起こした。生徒をそこまで追い詰めた滝先生にも問題がある。先生達の間でそういう意見になったら、顧問の首くらい飛ぶかもしれない。かなり捨て身だけど、そういう展開になっても悪くないと思ってるかもね」

 

 まさか、そんな大胆かつ手の込んだ裏工作を思いつくような人が、吹部にいるはずが……。

 いや、一人いる。目の前にいる田中先輩だ。この人なら、それくらい思いついてもおかしくない。

 でも、動機が無い。田中先輩は滝先生のやり方に積極的に賛成しているわけではないが、反対している訳でもない。

 となると、容疑者は先生のやり方に反感を持っている人に限られる。が、こんな悪知恵を働かせそうな人などいない。

 脳内の人名録から吹奏楽部員の容姿と名前と、性格と履歴をつぶさに見直しても大胆不敵な知能犯の目星をつけられずにいると、田中先輩が(もう)(ひら)くかのように声をかけてきた。

 

「証拠は無いけど、こんな事思いつきそうなの、一人だけあてがあるよ。その子は、滝先生のやり方に積極的に反対はしてないけど賛成もしていなくて、過去の実績からいっても、なかなか悪知恵が回る子だから」

「いったい、誰です?」

「……蔵守って、思ったより自己評価低いのかな。ここまで言っても分からない? それとも、とぼけているのかな?」

 

 芸の無い返事がお気に召さなかったのか、田中先輩は形のいい眉を崩して苛立ちの表情を見せた。

 

「私だけじゃなく、晴香や香織も、蔵守のことは頼りになる後輩だと思ってるよ。去年も、三年生が部費をお菓子代に流用していた時、蔵守は小細工をして浪費を抑えようとしてくれた。今度も、滝先生の厳しい指導でみんなのモチベーションが下がっていくのを食い止める為に、サンフェスのユニフォームを許可なく調達しようと裏工作してくれている」

 

 裏工作。そこまで言われて、全身の血が引いた。

 

「……もしかしなくても、主犯はお前だろうと疑われてるわけですか」

「おまけに楽器係という立場上、準備室に入り浸っていても何もおかしくないし、部屋はこの通りの散らかりよう。他人の楽器ケースをいじっても、整頓のついでで中身を確認してるんだと言えば誰も不審に思わない。疑わせるような材料が、ばかに多いじゃない」

 

 犯人に目星をつけたにしては、先輩の口調には奇妙なほどに熱意や敵意が欠落していた。

 

「でも蔵守がやったにしては、バレた時の跳ね返りが大きすぎるのよね。滝先生を吹部から追い出すまでは百歩譲っていいとしても、後任の顧問にまともな人が入ってくるとは限らないし。美知恵先生も顧問に上がれない現状じゃあ、尚更、ね」

 

 自分も、苦々しい思いで過去を振り返った。

 去年の傷害事件の後、吹部顧問の人事は難航を極めた。梨香子先生の後任の顧問がなかなか決まらなかったのだ。当時の顧問だった梨香子先生は管理不十分という形でその座を追われた。表向き産休という形を取っているが、顧問として立場上の責任を取ったのか、取らされたのか、いずれかである事は明白だった。その後の教員会議で、そのまま副顧問の松本先生を繰り上げで顧問に据えたらどうかという意見も出たそうだが、何人かの教員の反対で流れたらしい。副顧問など、どこの学校でも名のみの存在でしかなく、実際に部活動に関与している方が珍しい。そういう意味では傷害事件について重い処罰を負わせるほどでも無いという点で見解は一致したそうだが、しかしそれでも在任中の不祥事だ。現職の副顧問を昇格させるのは対外的にいかがなものかという危惧に抗しきれなかったという。

 

「だから動機は滝先生のスパルタにブレーキをかけるとかじゃなくてさ。吹部を良くしようと張り切ってた希美ちゃん達を守れなかった後ろめたさから、今更部内改革なんて成功しても……っていう感じの引きこもった動機かなあとも思ったんだけど」

「……そういう動機なら、自分に限らず今の吹部の上級生全員が対象になるでしょう」

 

 ずっと頭にちらついていた、去年の事は。傘木達の力になれなかったのに、今更全国もないだろうと。ただ、そういうエゴに、何も知らない一年生達まで付き合わせて全国を目指すのを諦めさせていいのかとなると、それはまた別の話だった。

 そしてみんなも口には出さないだけで、傘木達の事は大なり小なり気にしているに違いないのだ。

 

「私はそこまで希美ちゃん達を守れなかったこと、気にしてないけどね」

「……そうですね、田中先輩はそういう人ですよね」

 

 去年の時点で田中先輩と傘木は二年生と一年生。低音パートとフルートパート。学年も違えばパートも違う。同じ吹部だからといって、縦にも横にも繋がりの薄い相手の面倒まで見ていられるか、というのが本音なのだろう。

 ただ、そういう本音を今のように隠しもせず、露悪的に振る舞うところが田中先輩にはあって、自分などはもう少しオブラートに包んだ方がいいのではと思ってしまう。

 

「そうじゃないよ」

 

 田中先輩の目が、すっと細くなった。思わず視線をそらした先にあった先輩の手が、ヒビとあかぎれだらけだった事に気づく。水仕事を多くこなした人間特有の手だ。

 

「部活の外でも吹奏楽を続けられる環境を持てる人なんて、そう多くないんだよ。私はただ、ユーフォを続けたいんだよ。コンクールなんてどうでもいい。だから我が身を危うくしてまで、希美ちゃん達を(かば)おうという気にはなれなかった」

「……? 先輩のユーフォは、自前のものじゃないですか」

 

 田中先輩の言っている意味が良く分からなかった。ほとんどの楽器は、まともなものであれば子供の小遣いで買えるような代物ではない。つまり自前の楽器を持てる時点で、吹奏楽に対する親の理解が存在する。コンクールがどうでもいいというなら、傘木のように家庭で練習を重ねつつ、市民楽団で活動する道を選択しても一向に支障はないはずだ。

 

「どれだけやる気のない人が多かろうが、意地の悪い先輩がいようが、好きな時に好きなだけユーフォを吹ける場所がある。それは私にとって、何ものにも替え難いものだから。私には、希美ちゃん達みたいに、吹部をやめるなんて選択肢、始めから用意されてないから」

 

 そう言って、田中先輩は自分の手首をつかんできた。

 

「ヒロネの件は聞いたよ。私も助けを求めたら、蔵守は助けてくれるのかな?」

「……どんな事でも人並み以上にこなす先輩が、自分なんかに助けを求める事態なんて想像できませんが、その時は微力を尽くして」

「……脈が乱れてるよ」

「……先輩が腕に触れてるせいですよ」

 

 せいぜい落ち着いて返答したが、内心かなりドキマギしている。気恥ずかしさで熱を帯びていく自分の顔色とは対照的に、田中先輩の表情は憎たらしいほど澄ましたままだった。

 

「可愛いところもあるもんだね」

 

 田中先輩の声が和らぎ、自分の腕から先輩の手が離れた。

 

「私は今度の事、蔵守がやったんじゃないと思ってるけど、焦っちゃいけないよ。私は使える人間って好きだから。つまらない事で失いたくないんだ」

 

 焦ってなどいなかった。滝先生のやり方が吉と出るか凶と出るか。今度の合奏でケリがつく。

 去年の三年が引退してから既に半年。たとえ亀の歩みであろうと、吹部が一つになるのを辛抱強く待ち続けた。次の合奏まで、残り時間はあとわずか。これまで待ち続けた時間に比べれば、待つというほどの事もなかった。

 





順菜「やっぱり女の子をとっかえひっかえしてるじゃないですかー! 私ルートも狙ってやがりますねっ!?」
蔵「一期二期合わせても台詞が片手で数えられるようなモブにそんなんあるかっ」
順菜「な、なにおうっ!?」

アニメモブがもっと喋るシーン見たかった……(´・ω・`) 三期に期待


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第22話 前門の虎、後門の狼、中門のユーフォ(ダブルリードパート2年・鎧塚みぞれ 視点)


容疑者:前回&前々回、図書室で騒いだシンバル井上ちゃん(と主人公)
被害者:みぞれ


 その日は朝から、いまひとつ具合がよくなかった。熱っぽく、一人で食べたお昼ご飯の味も匂いもよく分からない。食後の落ち着き先の図書室でも喧噪(けんそう)に悩まされ、頭まで痛くなってくると泣きたくなってくる。

 あの手この手で(いじ)め抜いてくるタチの悪い風邪に、顔色を悪くして口元にハンカチをあててうずくまっていると、5時限目の予鈴が鳴っても私が教室に戻ってこない事に心配したのか蔵守君がやってきた。

 そこからの彼の対応は素早かった。最近ストレスで体調を崩してる部員が多いせいか、躊躇(ためら)いなく手際よく、おぶられて保健室に運ばれそうになった。風邪がうつるから一人で行くと言ってもきかない。

 

「一人じゃどうにもならないから、ここでこうしてうずくまっていたんだろ。病人が、やせ我慢してる場合かよ」

 

 蔵守君は、普段とは似つかわしくない強い口調で、早く背中に乗れと促してきた。実際、蔵守君であれ誰であれ、救いの手が差し伸べられるのはありがたい事だった。熱はともかく吐き気が酷く、安静にしていようと思えば、冷たい床に座り込んでじっとしている他なかったのだから。

 

「……でも、蔵守君にうつしたら」

 

 それでもまだ、私が断を下せずにいると。

 

「大丈夫だって。鎧塚さんがかかってるのは多分、知恵熱の従弟分みたいなやつだから。今日は鎧塚さんにしては随分とおしゃべりしてたし、普段使ってない事に脳みそ使ったから脳がびっくりしたんだよ、きっと」

 

 なんて、安心させようとしているのか(けな)しているのかよく分からない答えが返ってくる。どうも症状を悪化させた(かもしれない)自覚が無いようで、かなり図々(ずうずう)しい。

 

「……蔵守君のばか」

 

 さすがに抗議しようかと思ったけれど、悪態をつくだけにとどめた。蔵守君の目尻に、それまでは無かったはずの隈が浮き出ていたから。

 渋々ながら彼の背中に身を寄せ、首に腕を回した。急いでやってきたのか、蔵守君の背中は熱をもってほんのり暖かい。

 

「ごめん。汗臭いかもだけど、保健室までちょっとだけ我慢してね」

「……大丈夫、気にしない」

「そこは気にならないと言ってもらえると嬉しいんだけどね?」

 

 蔵守君は苦笑いしながら軽口をたたくと、私を背負い直して歩き出した。いつもより歩調はゆっくり。私の具合を出来るかぎり悪くさせないように注意している事が分かった。保健室に辿り着くまで、すれ違う生徒達から好奇の目に晒されたが、今は体調の悪さの方が勝る。

 私は黙って目を閉じ、蔵守君の首筋に顔をうずめて、彼の肩越しに感じる揺れに身をまかせながらつぶやいた。

 

「……蔵守君」

「ん?」

「ありがとう。来てくれて」

「……どういたしまして」

 

 蔵守君の声には、どこか照れたような響きがあった。

 

 

 

 

 保健室で体温計を借りて測ると38度近くあった。平熱の低い私には結構な高熱だ。ベッドに横になって休ませてもらうと頭痛はいくらか収まってきたけれど、倦怠感(けんたいかん)が強くて体が重い。

 養護教諭の女の先生に解熱剤を出してもらい、早退の手続きが済むまでしばらくベッドで休ませてもらう事になった。

 その間、蔵守君は私に付き添ってくれて、とりとめのない話を振ってきた。ほとんどが、部活の事だった。このところの彼の関心は、滝先生の指導中の部員のメモ取りで、人によって目に見えて筆の動く量が違ってきたという。

 そんな事を語る彼の目がどこか優しげだったのが腑に落ちなかったのか、早退の手続きをしながら先生が話に混じってきた。

 

「滝君の言葉を真剣に聞いている人と、そうでない人がいるようにしか聞こえないが、君はそれでよしと思っているようだね。訳でもあるのかい?」

「いい事だからですよ。うちの吹部は立華みたいに腕利きが大勢いるわけじゃありませんが、それでも中学から吹奏楽を始めたりして、それなりのキャリアを積んだ人はそこそこいます。つまり、既に分かっている事ならあえて筆を動かす必要もないわけで」

「これまではそんな事も考えず、ただ惰性で行動していたというわけか」

 

 先生が、納得したように頷いた。

 ことさら反抗的な姿勢を取っているわけではなく、自分達が今出来る事と出来ない事をアピールする。それは、今までの受け身のままの姿勢でいるよりはずっとよかった。

 蔵守君も、疲れているはずなのに見るべきところは見ている。

 

「それとね、今度のサンライズフェスティバルのユニフォームの候補も決まったんだ。ありがたいことに、ギリギリまで待ってくれるというから、滝先生に断りなしの独断調達はやらずに済みそうなんだよ」

 

 どうやら掘り出し物を見つけようで、心の底から嬉しそうに、蔵守君はスマホを操作して衣装の見本を見せてくれたけど、私は思わず眉をひそめた。

 白のロングブーツと赤のグローブ。そして目を引く羽根付きベレー帽。ここまでは何も問題ない。だけど。ちょっと動いたらお尻が見えそうなプリーツスカートに、へそ出しコスチュームはどうにも扇情的すぎて、ちょっとどころじゃなく恥ずかしい。*1

 

「……どうしてこの衣装を選んだの?」

「業者さんが良い人でね。これにすれば格安にまけてくれるそうなんだ」

 

 それはまけてくれるのではなく在庫処分したいからでは、と思うんだけど。

 

「……これはちょっと、露出が多くて恥ずかしい」

「おいおい。鎧塚さんだって南中の吹部で鍛えられたんだろ。合奏コンクールやら何やらで、さんざ観客から注目されるのに慣れた身が、今更この程度の露出で恥ずかしいとはどういうことだ」

「……それとこれとは話が違う。だいたい、まだ4月なのにこの衣装は寒そう」

「それなら鎧塚さんの方から、部長なり田中先輩なりに異議申し立てをしてくれよ。たまの女子のおしゃれの機会に、寒そうだから止めようとか。虎の尾を踏みたくはないなあ」

 

 余計なお世話だと言われそうだし、と衣装の変更に蔵守君は気乗りしない様子でいる。私も、嫌だけど何が何でも衣装を変えてほしいというほどでもなかったので諦めようとしたら、先生がまた私達の間に割って入ってきた。

 

「ふむ……。確かに今の時期のへそ出しルックは健康面からみて感心せんな。それにだ。大事な彼女の艶姿が、鼻の下伸ばしたカメラ小僧の慰み物になるのも面白くなかろう?」

「鎧塚さんは彼女じゃないですし、先生の言い方の方がよっぽどやらしいですよ。でもまあ、また保健室送りにしちゃうのも確かによくないかな……」

 

 当初の方針にぐらつきが生じたのか、蔵守君は腕組みをして考え込み始める。そんな彼の様子を見て、あと一押し必要かと呟いた先生は意地悪そうに微笑んだ。

 

「ところで話が変わるがね。男女がセックスする場所は、彼氏や彼女の部屋が定番だそうだ」

『!?』

 

 なんてことを言うんだ。

 喉の渇きを癒そうと口に含んだコップの水が気道に入ってむせ返る。

 

「ゲファッ、ゴフッガハッ」

「せ、先生。いきなり何を……」

 

 われながら、はしたない咳。

 でも幸か不幸か、蔵守君は先生の爆弾発言に注意が向いて私の事はスルー。こういうのを放置プレイと言うんだろうか。嬉しさ半分寂しさ半分。

 

「それで、男がいざ行為に及ぼうとすると、女は(あか)りを消して、暗くしてから受け入れるそうだ」

 

 先生はわざとらしく保健室の灯りを消し、カーテンも閉じ、不敵な笑みを浮かべてベッドに腰掛ける。なぜか、蔵守君のすぐそばに。

 

「私も処女だった頃は、灯りを消して行為に及ぶのはきっと裸を見られるのが恥ずかしいから。そう思っていたんだよ」

 

 暗くなった室内で、先生の吐息と衣擦(きぬず)れの音だけが聞こえる。蔵守君もごくり、と唾を飲み込んだ気がした。

 

「思ってた、って事は今は違うと?」

「うむ。性欲丸出しの男などお猿さんみたいなものだ。いやらしくてだらしなくて、残念な彼氏の顔を直視して、惚れた男に幻滅したくないからだと悟ったのだ」

 

 そう言って、先生はタイトなミニスカートに網タイツで装飾された美脚を組み直す。つい先ほどまで、そんなコケティッシュな仕草を見せつける先生のおみ足をさりげなく、しかしねっとりとした視線で窺っていた蔵守君は試されていたと気付いて顔が引きつってる。

 

「鎧塚はお前の大事な相棒だろう。ならば彼氏ですらない猿どもの、残念という形容詞すら用いるにおこがましい視線から守ってやるがいい」

 

 

 

 

「ヘソだけはなんとか死守してみせます」

「そうしたまえ。うまくいった暁には、ご褒美にスカートめくりくらい許してもらえるかもしれんぞ」

 

 ……おヘソで済んだ方がまだよかったかもしれない。

 私が咄嗟(とっさ)にスカートを押さえて抗議する間もなく、蔵守君は両眼に固い決意の色をはしらせ、慌ただしく保健室から出て行った。これから早速、衣装の調整に入るんだろう。サンフェスに出場ができればの話だけど、60人以上の衣装ともなるとすぐに用意はできない。選び直すなら直ぐに取りかからないといけない。

 とはいえ彼がリストアップした他の衣装は、ヘソ出し衣装よりはいくらかマシといったレベル。もっと別のから選んでほしかったけれど、また雑用を増やしてしまった事を思うと、これ以上注文をつけるのは(はばか)られた。

 

「鎧塚も分かったかね。嫌だと訴えても、男は嫌よ嫌も好きの内と勝手に脳内変換してなかなか気を変えたりしない。男を翻意させるにもやり方というのがあるのだ。たとえば今度のように、自分の彼女の肌色率高めな姿をどこの馬の骨とも知らぬ男共のよこしまな視線に晒してたまるかとか、欲情のはけ口にされてたまるかとか、独占欲に訴えてみるといい」

 

 女性はいくつになってもこの手の話になると食いつきがよくなるのだろうか。饒舌になった先生が有用だけど、前提からして明後日の方向を向いてるアドバイスを披露してくる。

 

「……私と蔵守君は付き合っているわけではないんですが」

「結構結構、鎧塚はまだ高校生なのだからな。心は売っても身を売ってはいかん」

 

 もう水は飲みほしていたので、今度はむせないで済んだ。でも中身ごと先生の顔に吹き飛ばしても問題ないような気もする。

 

「まあ、それは置いといてだ。私のもとにも噂は届いているぞ。移動教室の度、鎧塚は蔵守にくっついて離れようとしないとな。しかもクラスも部活も一緒で距離もそう遠くないとくれば、年頃の女の子が妄想たくましくしない方が無理というものだ」

 

 さすがに、噂がそこかしこに広まっている事は知っていた。

 どうして蔵守君と一緒に行動しているか、本当の理由は言いたくない。本当は、彼の陰に隠れていないで■■に会いたい。でも、会うのが怖くて仕方ない。

 

「奥手な鎧塚が、彼氏でもない相手になぜそこだけは積極的になるのか、私は知らんがな。噂の種になる行為だと自覚はあるだろう。問われるたびに一々違うと言ってもキリがないぞ」

 

 それでも別によかった。望んでやっていることだから。私は我慢するだけで済む。ただ、蔵守君に迷惑をかける事になるのは申し訳なかった。

 

「事情はどうあれ、好きでないなら、思春期真っ盛りの男子を勘違いさせるような行為は慎む事だ。……ま、蔵守も蔵守で、周りの事は良く見えるのに、身近な女の子の事は見えていないようだがな」

 

 私を見舞っている間、蔵守君は私の体調の事など気にかけず、部活の話ばかり振ってきた。それが先生には(いびつ)に映っているようだったけど、私はそうは思わなかった。人見知りの激しい私は、優子以外から部内の情報が入ってくることは、あまりない。そういうことを、彼は気にしていたのかもしれないから。

 あれが、蔵守君なりの見舞いの仕方なんだろう。

 

 

 

 

 家に帰って、夕方までベッドで寝ていると、お母さんが薬と一緒にお(かゆ)を持ってきてくれた。

 

「みぞれ、調子はどう?」

「……うん。明日は学校に行けると思う」

 

 頭痛は完全に引いて、体温もようやく平熱。汗をかいたパジャマと下着の着替えを手伝ってもらっていると、お母さんが何故かニヤニヤして私の顔を(のぞ)き込んでくる。

 

「ついさっきね、吹部の子が……ほら、みぞれと同じオーボエ吹いてるって子が見舞いに来たのよ。ほら、これ」

 

 そう言って、お母さんが手さげ袋から2冊の大学ノートと薄い冊子を取り出す。ノートの方は午後に受けるはずだった授業のもので、冊子の方は30分ほどで終わるオーボエの基礎練習の教本を書き写したものだった。

 幸か不幸か、今年はオーボエに新入部員は来なかったけれど来年もそうとは限らない。私達も、もう上級生。後輩の指導も仕事のうちに入る。北宇治の吹部に入ってくる子は、中学では吹奏楽未経験だった初心者も珍しくない。そういう子にも技術や理論を伝える為に、誰にでも伝わる言葉で噛み砕いて説明する必要があった。

 これはその時に備えて、教本にある理屈や理論を分かり易い言葉で他人に伝える練習だった。教本を読んで説明どおり出来たとしても、どこか感覚だけで理解しているところはある。そういうところは、うまく言葉に出来ない。自分なりに冊子にまとめていると、嫌でもそういう部分と向き合う事になる。南中の吹部では代々受け継がれてきた練習の一つで、私が紹介すると蔵守君も嬉々として練習カリキュラムに取り入れた。

 それ以来、私と蔵守君は、お互い別々の教本を基に、本業に影響が出ない範囲でこういう事をやって、ちゃんと相手に説明できるかの訓練を続けている。

 

「……蔵守君が」

 

 私は冊子を覗きながらつぶやく。そこかしこに教本の記述と一致しない文言が見つかった。ただそれが間違いという訳でもない。長ったらしい文章を、彼なりの短い言葉に書き換えたり、具体的な例を付け加えて分かりやすくしようと試みたりしているのだ。つまり、内容は理解しているという事が伝わってくる。

 

「わざわざ来てくれたんだし、玄関で挨拶だけさせてとんぼ返りさせるのも何だから、みぞれの様子を見に部屋に上がったらって誘ってみたんだけど」

「……嫌!」

 

 自分の部屋に同い年の男の人を入れる。嫌悪感よりも恐怖心から本能的に悲鳴を発してしまった。お母さんがあからさまに顔をしかめる。

 

「みぞれったら、第一声がそれ? そりゃ年頃の男の子を部屋に入れたくはないでしょうけど、見舞いに来てくれた子に、それも知らない仲でもない子に、いきなり嫌はないでしょう」

 

 いつまでたっても男の子に耐性ができないんだから、とお母さんは肺が空っぽになるのではと思うほどの大きな溜息を吐く。

 

「向こうもそう言われると思ったんでしょうね。嫌がるでしょうからって、すぐ断って帰ったわよ」

 

 そう言われると、さすがにばつが悪い。お母さんから視線をそらして、逃げるように冊子をめくっていると、最後のページに一枚のメモ用紙が挟まれていた。寄せ書きだった。

 

喜多村先輩から

「ゆっくり休んで元気になって戻ってきてね☆ *イ`^ᗜ^リ」

岡先輩から

「気合いよ`Д´)」

優子から

「薬、飲んだ? 安静にしてる? やる事ないからって、スマホ眺めてばっかりは目によくないからほどほどにね(◉ω◉`)」

……お母さんかな?

 

 そしてもう一つ、端っこの方に小さく「今日は図書室でうるさくして(m´・ω・`)m ゴメン…」

 

 ……気にしてたんだ。こういう形で謝ってくるのは、ちょっとズルい。

 今度はノートを開いた。最近は見なくなった、綺麗な字で授業の内容がまとめられている。2年生になって、授業の進みも早くなって、蔵守君のノートの字も次第に速度優先の乱雑なものになっていた。わざわざ、書き直してくれたのかもしれない。手間をかけさせてしまった事への申し訳なさと、細やかな心遣いへの嬉しさが相半ばする。

 

「ねえ、みぞれ。同じ楽器やってるそうだけど、あの子とはうまくやれているの?」

「……分からない」

 

 嫌われてはいないと思う。蔵守君はなにかと私に優しくしてくれる。ただそれが、去年の事での同情から来る行為なのか、また別の理由からなのか、はっきりしない。

 

「蔵守君は、同じ楽器を一年も一緒にやってれば、言葉にしなくても伝わるものがあるって言ってくれるけど……」

 

 今日の図書室での顛末(てんまつ)を話してみると、お母さんがわざとらしく肩をすくめた。

 

「あらあら、根暗なみぞれを甲斐甲斐しくお世話するなんて、物好きな男の子もいたものね」

 

 確かに私は人好きがするような性格ではないと自覚している。でもそれにしたって実の娘にその言い草はないんじゃないかと思う。

 

「彼は人が良いんでしょうね。そのせいで余計な重荷まで背負っているようだけど」

 

 どう返答していいか分からなかった。お母さんは、手放しで蔵守君の事を誉めている訳ではない。人が良いとは、扱いやすいの裏返しでもあること。そのくらいのブラックユーモアを解する分別は、私にも身についていた。

 

「同じ楽器を介した意思疎通か……。私はそういうコミュニケーションの取り方はよく分からないけど、素敵だと思うわ。だけどね」

 

 お母さんは穏やかな顔をして、ベッドの上に腰掛けた。造りの良いベッドは、私とお母さん、二人分の体重を受けても嫌な音一つ立てない。

 

「はっきり言葉で言わなきゃ、伝わらないものもあるのよ」

 

 息を吞む私を意に介することなく、お母さんはお粥を小皿によそう。

 

「言葉では伝わらないものもある、なんてのは言葉を尽くした上で、初めて言える台詞よ」

 

 そう言って、お母さんがお茶請け代わりに食していた、軽く塩茹でしたそら豆を差し出してきた。咀嚼(そしゃく)した瞬間、口内に苦みが張り付く。

 

「……っ」

「塩っ気がきついでしょう? 横着して冷めたままの作り置きを食すと舌がそう感じるのよ」

 

 私は舌がひねくれてるからこっちの方が好きだけどねと言いつつ、お母さんは一旦部屋から出て、温め直したそら豆を持ってきた。今度は味わいがまろやかで、食もすすむ。ほどよく濃い目に落ち着いた味付けが、疲れた体に染み渡る。

 

「おいしい……」

「お料理も手間を惜しめば本来の味から離れてしまう。言葉だって交わさなければ、だんだんと疎遠になってしまうものよ。彼の事をただのクラスメイト、ただの部活仲間以上の人と思えるのなら、みぞれの方からも動かないと駄目よ。私はね、大事な人がいなくなってから後悔するみぞれを見たくないの」

 

 だから蔵守君とも仲良くね。そう付け足してお母さんは笑って、お夕飯の下ごしらえに出ていった。

 

「……私は、蔵守君と仲良くなりたいのかな」

 

 一人だけになった部屋で、私は布団に潜り込んで呟いた。

 

「私が仲良くしようとしたら、蔵守君は嬉しいのかな」

 

 私みたいな面白みのない人間が距離を縮めようとしても、迷惑じゃないのかな。マイナスに進む思考を振り払うように何度か寝返りを打ち続けていると、壁に貼り付けた吹部の連絡網が目に入った。蔵守君の一つ上、そこにあるのはあすか先輩の名前とメールアドレスだった。

 

「……あすか先輩なら、きっと遠慮なく本音を言ってくれる」

 

 本音を聞きたい、でも本音をぶつけられたくない。私は少しばかりの小細工を施して、スマホを叩いた。

 

 

 au 4G
➤100%

吹部幹部限定グループトーク 

「誰もクラス委員をやりたがらず長引く帰りの会にキレた先生に貧乏くじを引かされた、泣き隊」 

≡ 

 

 

田中あすか

 
   性格暗くて、友達もろくにいない僕ですが、メル友になってくれませんか? 

 

田中あすか

 
   ……ってな感じの迷惑メールが来たんだけど 

 

田中あすか

 
   見ず知らずの相手に開口一番、マイナス面をアピールしてくる男ってなんなの 

 

田中あすか

 
   本気で出会い求める気あるのって感じなんだけど 

 

蔵守啓介

 せんぱいせんぱい、それはアピールじゃなくてふるい分けですよ 
   

 

蔵守啓介

 「そんな事ないです。貴方にもいいところ、きっとあります」 
   

 

蔵守啓介

 ……みたいなこと言ってくれる包容力のある女性を選別するための 
   

 

田中あすか

 
   包容力ねえ  

 

田中あすか

 
   今時そんなのいないでしょ 

 

小笠原晴香

 あすかはすれてるよねぇ……  
   

 

小笠原晴香

 では、そんなあすかとは対極に位置する吹部のマドンナに模範回答をご提示いただきましょう 
   

 

小笠原晴香

 香織、アンサー 
   

 

中世古香織

 
   えっ!? わ、私!? う、う~ん。私も知らない人にそこまで親切には…… 

 

中世古香織

 
   変なメールがきて怖いな、って思っちゃうかな 

 

蔵守啓介

 不審者に対して隙を見せず、なおかつか弱い乙女アピール。さすがです、中世古先輩  
   

 

中世古香織

 
   そこまで計算してないよ!?  

 

小笠原晴香

 あすか聞いた? これが世の男子が期待する反応というものよ 
   

 

田中あすか

 
   ふーんだ。どうせ私は可愛げの無い女ですよー 

 

蔵守啓介

 すれた先輩がすねた 
   

 

田中あすか

 
   うっさい(((((;`Д´)≡⊃)`Д)、;'.・ 

 

中世古香織

 まあでも、男の人に可愛く振舞うあすかっていうのもちょっと気持ち悪いかな 
   

 

田邉名来(ナックル)

 
   ヒョエ…  

 

鳥塚ヒロネ

  黒香織……  
   

 

中世古香織

 
   じょ、冗談だよ!? 

 

田中あすか

  香織のなかで私のイメージがどうなってんのか、小一時間問い詰めたい件  
   

 

田中あすか

  全く心外だよ。私だって人並みに異性への愛想というものがあるんだけどね 
   

 

田中あすか

  それが証拠に、この迷惑メールにも返事してあげたんだから  
   

 

中世古香織

 
   ……え、返事しちゃったの? 迷惑メールに? 

 

中世古香織

 
   あすかも変なところで律儀だね。それで、内容は何て? 

 

田中あすか

  友達つくりたいなら、もっと第一印象を良くしないとダメでしょ  
   

 

田中あすか

  ほんとにネクラなんだから、と  
   

 

小笠原晴香

 
   ネクラのくだりはいらないよね 

 

田中あすか

  ぼっちなんだから、の方が良かった?  
   

 

小笠原晴香

 
   言葉の刃で追い打ちかけるの止めろって言ってんのよ!(#・∀・) 

 

田中あすか

  あとそれとね  
   

 

蔵守啓介

 
   まだあるんですか 

 

田中あすか

  君みたいな子は好きじゃないけどもっと自分に自信持ちなさい!  
   

 

田中あすか

  そしたら好きになるかもよって言ってみた  
   

 

蔵守啓介

 
   田中先輩が男前すぎる件 

 

小笠原晴香

 そんなだから男より女にモテるのよねえ…… 
   

 

 

⊡ ◰ Aa       θ

 

*2

*1
誓いのフィナーレのサンフェス衣装みたいなものと思ってください

*2
LINE形式は、テン‌プラ氏のLINEテンプレートをベースにさせてもらいました






おまけ
――優子とみぞれの電話でのやり取り――

 あすか先輩にメールを送ると、ほどなくしてスマホから着信音。先輩からの返信にしてはいくら何でも早すぎだろうと覗いてみると、優子からだった。

「みぞれが体調崩したのって蔵守のせいなの!?」

 ……やってしまった。
 通話中、私が迂闊(うかつ)にも蔵守君の寄せ書きについて口を滑らすと、優子は濡れ衣とも言い切れない濡れ衣について問いただしてきた。即座に返答できないでいると

「やっぱりアイツのせいなのね! 明日学校で会ったら〆てやるんだから!」

と優子は怒髪天を()く勢い。これはいけない。

「ち、違うの。私が気分悪くなったのは蔵守君のせいじゃない……とも言い切れないところも無きにしも非ずとも限らないというか……」
「何よその奥歯に歯垢ためまくったような言い方! ……ああ分かった。要するにアイツがうるさくしたせいもあるかもだけど、体調崩した原因はそればかりじゃないって事なんでしょ?」
「……優子、すごい」

 香織先輩が絡むと途端に暴走してしまう優子だけど、香織先輩が絡まない事では驚くほど的確に状況判断を下す。香織先輩は良い人だけど、優子は先輩とは距離を置いた方がいいんじゃないかなあ、と思った。

「あ……、先輩から返信きてる」





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第23話 めざせコンサートマスター 後編


周囲から煽られたみぞれは乱心し、主人公は指導者の哲学を叩き込まれる、というおはなし


 その日の鎧塚さんは明らかに妙だった。むしろ変だった。なんといっても教室での、出会い頭の第一声がこれである。

 

「はろー、蔵守君」

『!?』

 

 すわ、周回遅れの高校デビューかとみんなびびっていたし、もちろん自分もひるんだ。その日は朝から、鎧塚さんのイメチェンで持ち切りとなった。

 

「おーい、蔵守、サッカーしようぜ!」

「おー」

 

 ここのところ頭の中を占めているのは部活の事ばかり。いいリフレッシュになるだろうと二つ返事で席を立とうとすると、鎧塚さんがトコトコ寄ってきて

 

「……私もやる」

「えー? またまた御冗談を」

 

 俺は手を上げた猫のAAみたいな顔して(どんな顔だ)やんわり断ろうとしたが、鎧塚さんはほっぺを膨らませてぐずる。

 ……え、本気?

 

「ほーい、パス」

「……きゃっ」

 

 ……断っておくが、何も難しいボールを送ったわけではない。どう見てもサッカー慣れしているようには見えなかったので、ごく弱めに転がしたのにボールを蹴る為に出す足が先か、駆ける為に出す足が先か悩んでいるような覚束ない足取りで、ドリブルのようなものをしていくらも経たないうちに(つまず)いてしまったのだ。

 

「よし! 勝ったぞ!」

 

 でもなんだかんだでゲームには勝利。

 

「……いえーい」

 

 鎧塚さんが無表情でぴょこぴょこ跳ねてる。気がふれたのかな?

 

「ああ……。あの鎧塚さんみたいの、もっと跳ねたらスカートの中のパンツ見えないかな」

「おい。あの……鎧塚?がハイタッチしたがってるみたいだぞ」

 

 普段が普段なのでチームメイトからは本人と認識されず、というか信じてもらえずにいる鎧塚さんらしき人の求めに応じて、恐る恐るハイタッチすると鎧塚さん(仮)は嬉しそうに微笑んだ。そんな彼女の、ふわふわ柔らかい優しい手の感触にドキっときたけど、それ以上にコレジャナイ感が凄い。

 

 そして極めつけはお昼休みのこの一言、

 

「……蔵守君、お弁当つくってきたんだけど、一緒にお昼にしない?」

『なにぃぃぃ!?』

 

 その言葉に、黄色い歓声と野太い怨嗟で教室が埋め尽くされる。部活中ならいざ知らず、休み時間に鎧塚さんの方から声をかけてくるのは珍しい。ましてそんな彼女が男子をお昼に誘うなど未だかつて無かったことだ。

 

「え、自分と?」

「……うん。蔵守君、いつもお昼は学食。 用意してないなら、私のを食べてほしい」

 

 そう言いつつ、返事を待たずに鎧塚さんが机をくっつけた。どういうわけかやたらと積極的な彼女に、またまた歓声と怨嗟の声が上がる。

 

「蔵守君、最近疲れてるみたいだから。特製の料理を作ってきたの」

 

 明日は槍でも降ってくるのだろうか。あのシャイな鎧塚さんがここまで積極的に絡んでくるとは……。いやまあ、別に悪いことでもない。せっかくの厚意、遠慮なくいただく事にしよう。

 口角を上げて、鎧塚さんが弁当箱を覆う風呂敷を開く。なんとも自信ありげな様子だ。

 

【料理ができる私を見て♡】

 

 みたいな(こび)売ってる感じじゃない。

 

【私の渾身の料理、とくと味わえ(ドヤァ)】

 

 くらいの迫力を今の彼女から感じる。これは期待していいのかもしれない。

 

「それでは遠慮なく、いただき……まっ!?」

 

 弁当箱を開けた途端、自分の目を疑った。

 3つに仕切られた弁当箱には右半分に炊き込みご飯が、左上半分は粉吹き芋が。そして左下半分には褐色で、形は米粒のように見えなくもないがそれにしては大きすぎて、等間隔で(ふし)が入っていて、明らかに植物的ではないものが……。

 より具体的に言えば、どこからどう見ても虫の幼虫としか思えないモノが、仕切り一杯に詰められていた。

 

『ヒィ!?』

 

 バリトン、テナー、アルト、ソプラノ。各種取り揃えた悲鳴を上げるクラスメイト達。かくいう自分も顔を引きつらせることしかできない。

 

「え、えーと。鎧塚さん、コレは……一体何かなあ?」

「スズメバチの幼虫で作った蜂の子。見た目は悪いけど、とっても栄養満点。お好みで、ご飯によそって食べてみて」

 

 食べて、と言われても……。

 食べるのか? コレを? もとい……食べられるのか? コレが?

 すっと、視線を周囲に泳がせる。つい先ほどまで弁当の中身に注目していたクラスメイトの誰も彼も、自分と目を合わせようとしない。

 

『……』

 

 沈黙の間、長引く。

 

「蔵守君、どうしたの? ……食べないの?」

 

 そんな捨てられた子犬みたいな顔しないでくれませんかね。

 鎧塚さんの口調は疑問形だが、「……もしかして私のお弁当、口に合わない?」的な含みがありありと。

 身長は155センチ弱。女子高生としても比較的小柄な彼女が上目遣いで、自分に(すが)ってくるようなモーションを仕掛けてくるのはかなり乙女チックでゾクゾクきたのは事実だが、だからといってコレを食すのは代償が大きすぎる気がしてならない。

 今一度、視線を周囲に泳がせる。SOS的な意味で。しかし返ってくるのは、普段見せない彼女のレアな御尊顔に頭をやられたクラスメイトのだらしない笑顔ばかりだった。ファック!! こらそこ、鼻血流してスマホでパシャパシャ撮影してるんじゃありませんっ!

 いかん、どうにかしてこの窮地を脱しなければ。しかし誰に何を言えばいいのか。咄嗟(とっさ)に思いつくのは、成り行きを見守っていたもう一人のクラスメイト兼吹奏楽部員しかいなかった。

 

「い、いや。そういうわけでは……。ただ、鎧塚さんの手料理を自分だけ独り占めするのは気が引けて……そうだ! 吹部仲間どうし、大野さんにもお裾分けするのはどうかなあ?」

「おいィ!?」

 

 花も恥じらう乙女らしからぬ悲鳴を上げる彼女だが、今はなりふり構っていられない。が、しかし。だがしかし。敵もさるものひっかくもの。

 

「……蔵守君は優しい。でも今日は、今日だけは、蔵守君にだけ食べてほしい」

 

 そう言って微笑む鎧塚さんからは、こんなブツを作った人間と同一人物とは思えないくらい清楚なオーラが放たれていた。綺麗なバラには棘があるとはこういうことを指すのだろう(錯乱)。

 

「食べてくれる……よね?(上目遣い)」

 

 ……圧がすごい。

 

「くっ……」

 

 覚悟を決め、震える箸の先で、問題のブツを摘まむ。

 

 

 

 プチ。

 

 

 

 ……なんか皮が破けて、体液みたいなの出てきたんですけど。

 漬け汁とかタレとか、そういう方向性の奴だと信じたい。

 ほんとに食べて大丈夫なのかコレは。

 

「くっ……(take2)。い、いただきます!!」

 

 目を閉じ、脂汗を流しながら無心で咀嚼(そしゃく)する。

 かくして、鎧塚さんのプライドは守られた。

 自分の胃腸は、死んだ。

 

 

 

 

「今日のみぞれちゃん、なんかおかしいよねえ」

「……人間、死線をくぐると人が変わるという。鎧塚さんも生と死の境目を漂い、それまでの半生を省みているうちに、何か思うところがあったのかもしれないな」

「や、死線をくぐるも何も、ただの風邪だったんでしょ」

 

 ところ変わって男子トイレ前。便器と吐しゃ物をこんにちはさせて、口周りをよく洗い流して一息ついていると、心配そうな顔をした大野さんがやってきた。

 

「言動もそうだけど。弁当の中身もねえ。私も時々みぞれちゃんとお昼取るけど、蜂の子なんて持ってきたの初めて見たよ」

「……滋養強壮や肉体疲労に効果あるとか言ってたが、あれを食べてからどうも腹の具合が」

 

 鎧塚さんの笑顔と引き換えに食した(させられた)野戦料理は、ほどなく胃腸から盛大なブーイングをもってむかえられた。急用を思い出したといって中座する自分を、親指立てて見送ったクラスメイトが憎らしい。あとで鎧塚さんの上目遣いとか笑顔の写真とか、送ってもらおうと心に決める。

 

「……なんかゲテモノは残らずこの体から出ていけって感じで、まだ吐き気が酷いんだが」

「素人は手を出さない方が無難なんだけどね。ああいう食肉性の蜂の幼虫って、腐肉も食べる上に老廃物を体外に排出する仕組みが無いから。だからいわくありげな食材のなかでも、さらにいわくありげな部分が時間経過もあいまってそれはもうカオスな状態になってるのを体内に溜め込んでるわけで」

「一体何を食わされてるんだ俺は……うっぷ」

 

 余計な事実を知ったせいで再びぶり返してきた嘔吐感とともに、なにか見えてはいけないものまで見えてきた。朦朧(もうろう)とする視界に浮かんでくるのは見渡す限りの大河。……ではなくなぜか中世ヨーロッパ風の建築物。危うく異世界に転生させられるところだったが、そこは食事前とっさに服用した胃腸薬のおかげでなんとか現世に踏みとどまる事に成功した。

 

「昆虫食にあたって異世界転生とか、絵面がひどくてウケないと思うよ」

「そもそも、そんな何十代も前のご先祖様に親近感持たれそうな死に方は遠慮したい……」

 

 とまあ、こんな感じにアホなことを考えるだけの余裕が生まれたあたりで、とりあえず峠は越せたようであった。胃は相変わらずシクシク泣いていたが。

 ちなみに、つけあわせの粉吹き芋も緑がかった皮がこびりついていて、これもこれでイレギュラーな品だったりする。

 

「……あれにも毒があるんだけどなあ」

「え、ジャガイモって毒あるのは芽の部分じゃないの?」

「もちろん芽にも毒あるけど、動物が簡単に掘り返せるような浅いところで育ったやつは皮も毒をもつようになるんだぞ」

「へー。そっちは私も知らなかったよ。芽を取り除けば大丈夫と思わせて皮で食あたりを狙ってくるなんて。ジャガイモ、手ごわいね」

「そうだね。ジャガイモはどこでも育つ根性入った野菜だから。簡単に食われないように少しは進化したんじゃないの」

 

 幸い、自己防衛の為に進化したジャガイモはテイクアウトということで逃げを打てたが、弁当箱の底に敷かれたメッセージカードの方はどうにもならなかった。

 

――明日もつくってくる。がんばる( *`ω´*) ≡3――

 

「……次こそ俺の腹に穴あける気か」

「あはははは」

 

 朗らかに笑う大野さんだが、こちらとしては笑いごとではない。お昼の度に現世と異世界を行き来するわけにもいかなかった。今回は初回特典お試しツアーで済んだが、次は片道切符になるかもしれないのだ。何とかしなければ。

 

「要するにだ。受け身に終始して、後手後手に回るからいけないんだ。明日は既に先約を取られてしまったが、明後日からは何もできないようにしてやる。こちらから先手を打って鎧塚さんの動きを封じることにしよう」

「うわー、蔵守君たら、悪人面してるー」

 

 大野さんがケラケラ笑う。悪の組織の幹部のような台詞を口にした自分は、彼女にそう思われても仕方がないかもしれぬ。だが、このままではいつまで経っても平穏な日々が戻ってこないのだ。

 

「それで、具体的にはどうするの?」

「今のところ、弁当攻勢以外実害はないんだ。なら弁当を作らせないようにすればいいだけだ。明後日からはこちらから二人分の弁当を作ってこよう。これで鎧塚さんを傷つけることなく、俺も毒弁当を食わずに済むぞ」

えぇ……(お昼のお弁当作り合うとか、ノリが完全にカップルのそれなんだけどなあ……。もしかしてみぞれちゃん、それを狙ってわざと毒弁当作ったとか……いやいや、ないか)」

 

 大野さんが何かブツブツ言っているが、よく聞こえない。自分が難聴系主人公だから、というわけでは決してなく、トイレの水音にかき消されたせいである。

 

 

 

 

 さて、鎧塚さんの問題はとりあえずにせよ片が付き、(かね)てからの懸案事項に取り掛かる時がやってきた。スパルタ指導を続ける滝先生との話し合いである。この件に関しては早くも「蔵守が遂に動いた!」とSNSを通して部内に情報が駆け回り、職員室への道中、さっそく田中先輩とエンカウントした。

 

「相手は滝先生。 事前の対策は必要だね!」

 

 と、いうことで当然想定されうる毒舌攻撃への返し技虎の巻をいただいた。チラシの裏に書かれて随分と安っぽい感じだが。

 

【問:なぜ人間には耳や手足は二つあるのに口は一つしかないか、分かりますか? 誰かに何か指示されたとします。それについて文句を言う倍は行動しなければいけないからですよ】

 

 滝先生なら言いそうだ。さて、これに対する返し技は?

 

【答:確かに文句言うより、殴るなり蹴るなりしてその減らず口を叩けないようにした方が生産的ですねwww(煽り気味で)】

 

 草を生やすな、草を。こんな返しをしたら、冗談抜きで血の海を見る事になりそうじゃんか。却下だ却下。……あ、もう一つあった。

 

【答その2:いつもいつも減らず口をうるせえんだよ!! その口、縫い付けてやる!!(キレ気味で)】

 

 返し技とは一体。

 先手を取るか、挑発させて(あと)(さき)を取るかの違いくらいで、結局リアルファイトに訴えるスタイル、好きじゃないし嫌いだよ。

 役に立たない虎の巻で紙飛行機を作って飛ばしたら、これも話を聞きつけて通りかかったらしい鳥塚先輩にぶつかった。

 

「抗議じゃないの?」

「話し合いです」

「抗議してくれないの?」

「しません」

「ガツンと抗議してくれたら、来年の部長に推薦してあげてもいいんだけどなあ」

 

 鳥塚先輩からは、とんでもない交換条件を出されて煽られる。いや、そもそも当代の部長からして誰もやりたがらなかったので、渋々就任した経緯がある事を思えば交換にすらなっていない。不良債権の押しつけだ。

 

 鳥塚先輩と別れると、今度はトロンボーンとホルンの先輩達に出会った。とりわけ滝先生に対して敵愾心を募らせている両パートの手により、たまりにたまった鬱憤を新しい不良債権(虎の巻)の余白に書き込まれた。話し合いで使え、ということだろう。

 

「勘弁してほしいなあ……」

 

 自分がやるのは滝先生への抗議ではなく話し合いだと、何度も説明したのだがまったく理解してもらえない。言いたいことは星の数ほどあるけど矢面に立つのは嫌。そういう人達からすると先生に向かって誰かが何がしかのアクションを起こすというその一点だけでたまらなく嬉しいらしい。

 

 もっとも、滝先生を積極的に支持する層からすれば逆に面白くないわけで

 

【ウザイウザい! うっとうしいー!!】

 

「語彙力……」

 

 ただの罵倒メールがやってきた。多分、滝先生は凄い人云々という差出人不明のメールを寄越してきたのと同一人物だろう。推し先生を(けな)すなと前にも増して脊髄反射気味な文章である。これでは返事のしようもない。相当ヒートアップしているのが携帯ごしにもはっきり感じられるので何を言っても無駄だろう。

 

「……随分と滝先生にぞっこんみたいだし、詫び石がわりに滝先生のスナップ写真でも送ってみるか」

 

 なぜ野郎が野郎のスナップなんて持ち歩いてるのか。

 それは別に自分にソッチの気があるからではなく、来年の部活紹介のために、絵になりそうな写真を集めていたからだ。何せ滝先生はあの通りのイケメン。来年は中世古先輩も田中先輩もいなくなるし、下手に吉川や鎧塚さんをメインに据えるより華はあったりする。まあ、それもこれも滝先生の来季の続投が決まればの話だが。

 

 それはさておき、めぼしい画像を数枚送りつけた途端、執拗に送り続けられた吠えメールはぷっつり止んだ。どうやら、効果は抜群だった模様。

 ボスとの対決を前にして余計な労力を割かれたが、邪魔があらかた消え失せたところでようやく職員室に辿り着いた。

 

 

「失礼します」

 

 扉を開いて職員室を見回した。教員はほとんど出払っていて、片手で数られえるほどしか残っていない。なるべく大事にはしたくない。ひそかに話し合うには好都合だった。

 

「あの、滝先生……」

 

 声をかけたが返事は無い。

 滝先生は、窓際の座席に座って腕を組んでいた。机の上に置かれた紙面に注がれる、滝先生の真剣な目。容姿が整っているだけに、そういう仕草の一つ一つが同性から見てもサマになる。何か仕事の途中だろうか。近寄っても気づかないほどに集中している時に声をかけるのが躊躇われて、ただじっと立ち尽くした。

 

「滝先生、また音楽の研究ですか」

 

 滝先生が気付くまで待つべきか、出直すべきか悩んでいると、場に居合わせた年配の教頭先生が、滝先生に声をかけてくれた。顔には皺が刻まれ、声もよる年波を隠せないしゃがれ声だったが、それがかえって威厳というものを感じさせる。また、という言葉からすると、職員室で先生がこうしているのはもう珍しくも何ともないのだろう。

 

「ええ、そろそろ切り上げようと思ってはいたのですが」

「熱心なのには頭が下がりますが……、生徒が声をかけづらそうにしていますよ。ほどほどにね。私どもは部活の顧問である以前に、まず教師なのですから」

 

 そこでようやく、滝先生は自分の存在に気付いたようだった。申し訳なさそうに、先生が頭を下げてくる。

 

「あ、いえ。先生には部活の事で話にきたんです」

 

 助け船を出してくれた教頭先生に軽く一礼し、こちらに向き直った滝先生に話しかけた。

 

「滝先生は、何をご覧になっていたんですか?」

「音楽指導についての論文ですよ。見てみますか?」

 

 滝先生が差し出してきたのは、フランス語で書かれた論文らしきものだった(トレビアン、という単語があったのでそうと分かった)。紙面のところどころに五線譜が散見され、何やら音楽について書かれている事はなんとなく分かるが、それ以上の事となるとよく分からない。

 

「最近発表された論文なのですが、吹奏楽にも通じる内容なので、目を通していたのです。常に新しい情報を頭に叩き込んでおかないと、ライバル達に追いつかれてしまいますからね」

 

 吹部の指導の参考にするため、勉強していたという事だろうか。

 

「先生は、以前も弱小吹部を立て直したそうですが、その時もこういう事をなさってたんですか?」

 

 滝先生は直ぐには答えず、甘い香気を漂わせるコーヒーカップをデスクからとりあげた。ミルクたっぷりで、すっかりココア色に染まったコーヒーをすすって悦に浸る姿は、少なくとも吹部での顔を知らない一般の女生徒の顔を赤くする程度の効用はあるかもしれない。

 

「勿論ですよ。強豪と弱小の違いは、生徒一人一人の意識の差もありますが、積み重ねた練習量の差もあります。意識の差は、何かきっかけがあれば埋まりますが、練習量の差は、そう簡単には埋まりません。だから、未だ世間には広まっていない、新しい指導理論について、アンテナを張っているのですよ」

「新しい指導方法を取り入れれば、練習量の差は埋まるのですか?」

「立華も洛秋も、強豪と呼ばれるようになったのは今の顧問の代ではありません」

 

 はぐらかすかのような滝先生の返事に、先生が何を言おうとしているか、はかりかねた。

 

「部活ですから。結果を残しても顧問の代替わりは避けられません。強豪といえど、いえ強豪だからこそ、結果を残した顧問のやり方に固執するのはよくある事です。新しいやり方を取り入れるということは、これまでのやり方を変えるという事で、それは顧問にとっても部員にとっても、手間でしんどい。これまでのやり方で結果を残してきたのであればなおさらです」

「確かに、今現在のやり方で上手くいっているなら変える必要を感じませんし、変えて今以上に結果を出せるのか、上手くいかなかったらどうするんだと反発する人もいるでしょうね」

「ええ、それが普通なのですよ。ですから成功している、結果を残している組織ほど変化を嫌う。部員だけでなく、顧問もね」

「つまり、強豪校には強豪校なりの縛りがある、と?」

 

 滝先生は、我が意を得たりという感じで、笑顔で頷いた。

 

「ええ。ダークホースには結果が、実績が無い。それゆえにそういう縛りから自由でいられます。私はそこに、北宇治が躍進する鍵があると思っているのですよ」

 

 同じやり方を漫然と続けるだけでは、進取の精神にあふれるライバルや新興勢力に遅れを取って先細りになる。だから滝先生はいつも新しいやり方を取り入れる事を考えている、という事なんだろう。

 

「先生の言う通りなら、他の弱小校も顧問がやり方を工夫すれば飛躍できるのではありませんか?」

「勿論です。ですが、先程教頭先生がおっしゃられたように、私達は部活の顧問である以前に教師ですから。ただやみくもに新しい事をすればいい、というものでもありませんし、工夫には大変な労力と時間が必要になります。私のように、学生時代に経験した競技の顧問になれて、フリーの時間まで部活の事を考えるのが苦にならない教師というのは、とても恵まれているのですよ」

 

 曖昧にうなずいた。一生徒の身の上では、教師の勤務実態など想像の範囲を超えている。

 

「最近は多少見直されてはいますが、部活の顧問というのは教師にとって基本サービス残業ですからね」

 

 タダ働きという訳か。なるほど、それでは好きでもなければ腰を据えてやってなどいられない。

 急に、後ろめたさがこみ上げてきた。部活の顧問が、義務でもなければ給料もつかないというのであれば。善意でやってもらっているものであれば。そのやり方がいささか手厳しいからといって、あれこれ文句をつけるのはいかにも子供の振舞いであるように思えたからだ。

 だが。先生が善意でやってくれているのなら。尚更生徒の立場から意見したほうがいい事もある。滝先生がどれだけ熱意をもって指導しようが、部員達に伝わらなければそれまで。もし追い詰められた部員が早まった事をすれば、ひとたび間違いが起きたら。その時は、どう弁解しようと独りよがりのものでしかなかったと断罪される事になりかねない。それは滝先生にとっても不幸なはずだ。

 

「おっと。私ばかり話してしまいましたね。それでは、蔵守君の用件を伺いましょうか」

「……いえ。先生もお忙しそうですし。急ぎの用という訳でもないので、また出直してきます」

「そうですか?」

 

 あせる事はない。事態はそこまで切迫していない。

 出てくる言葉はいつも悪いが、先生は先生なりに誠意をもって吹部の指導に取り組んでいる。ならば自分も、今しばらくは滝先生とみんなを繋ぎとめる労を惜しむべきではないのではないか。

 背中で、今日この日の為に綴った書面を固く握りしめた。

 

「では、明日の合奏に向けて、皆さんの総仕上げに取り掛かる事にしますか」

 

 

 

 

「いや、みなさん本当に上達しましたね」

 

 各パートでのレッスンをひとしきり終え、練習に使った備品を片づけに準備室に向かうなか、滝先生が感嘆の溜息をもらす。自分も、その見解には素直にうなずいた。

 滝先生のレッスンが始まる前は二人で合わせるのがやっとだったリズムが、四人でも崩れない。三人では不揃いだった音程が、六人でも違和感無く耳に溶け込む。今までとは見違えるような演奏ができているという感触を、誰もが得ている。

 

 ただそれは、あくまで滝先生のスパルタ指導開始前と後という相対評価の話であって、絶対評価ではまた違った見方になる。

 

「みんな、よくやってます。でも先生が求めているものは、この程度ではないのでしょう?」

 

 夕焼けが差し込む廊下を、滝先生と隣り合わせに歩いた。

 レッスンにくたびれ果て、眠りこけている部員たちの寝息が、そこかしこの教室から聞こえる。時間以上に密度の濃い練習をこなしているのだ。放っておいたら、下校の時間まで死んだように眠っている。つまり、限界まで気力を振り絞っている。それでも先生が言うようなダークホースには、到底仕上がらない。短い時間で高いものを望み過ぎる、と思った。

 

「私も、言ったことを皆さんが全部こなしてくれるとは思っていませんよ。そうですね……、今の時点では私の要求の3割もクリアできれば上出来です」

「!?」

 

 聞き捨てならない発言に、俺はびっくりして訊き返した。

 

「それならどうして過剰なノルマを課したんですか? 必要十分なレベルのハードルに設定しておけば、先生だって無駄にヘイトを買う事もなかったでしょうに」

 

 スパルタ指導の影響で、ごく軽度とはいえ体調を崩した部員が続出しているのだ。無用な酷使でそうなったというなら、奮闘している部員たちが浮かばれない。

 

「あれはよくあるフェイクですよ。最初に厳しい要求を突き付けて、本命であるそれなりの要求を通らせる。十円借りる為に、悲壮な顔して千円貸してと言うようなものです。どうです? 千円は無理だけど、十円なら貸すどころかあげてもいいという心境になりませんか? 人によっては百円頂けるかもしれんませんね」

「……」

 

 開いた口が塞がらない。こんなやり方、ありなのか。

 驚き呆れる自分を尻目に、滝先生は涼しい顔をして続ける。

 

「ハードルは、少なくとも表向きは、高くなくては意味がありません。簡単に突破できるハードルでは、緊張感が持続できない。緊張感が持続できないと、才能ある人間でも羽を伸ばして、思わぬ落とし穴にはまってしまうものです」

「各パートを指導する順番を固定しないのも、緊張感を維持させる為ですか」

 

 気を取り直して、滝先生に尋ねた。

 こうも毎日一緒に行動していると、滝先生の気まぐれなところも見えてくる。二日目は、音楽室に近い教室で練習しているパートの順。三日目は、メンバーが多いパートの順。今日に至っては、大学ノートにあみだくじを書き込んで指導の順番を決めている。まるで規則性が無い。そして、どこのパートに指導に出向くかを、パートリーダーにも自分にも事前に言わない。直前になるまで分からないのだ。

 だから、指導が済むまで気が休まる事は無い。

 

「緊張し過ぎてガチガチになられるのも困りますが、ある程度は気合いを入れて練習してもらわないと良い合奏はできませんからね」

 

 滝先生は、さらりとそう言ってのけた。俺は何とも言えない気分になる。どうやら俺のような青二才と大人の先生とでは、ものの考え方が根っこから違うらしい。

 

「とはいえ、ただハードルを上げればいいというものでもありません。誰にも限界というものはありますから。脱落者など認めない、死ぬ気でこなせとは、とても言えない。ともすれば挫けそうになる仲間を支える、かすがいのような存在がいなければ困る」

 

 滝先生が足を止め、急に振り返って頭を下げた。

 

喧々諤々(けんけんがくがく)のぶつかりあいの中、今日まで脱落者を出さずに済んだのは貴方のおかげです。本当に助かりましたよ」

 

 大の大人が、いち高校生の自分に頭を下げているのだ。まだ校内に残っていた生徒達が、何事かと足を止めて目を見張っている。

 

「ちょっ……。滝先生、みんな見てますよ。恥ずかしいから頭を上げてください」

「いいえ、本当に感謝しているのですよ。私もその方面に関しては鈍感で、気を付けても、少しやり過ぎてしまうところがありますから」

「少し……?」

 

 滝先生がパート練習の陣頭指揮を取るようになってから、各パートに轟く阿鼻叫喚の嵐が頭に浮かんだ。先生の頭の中にある「少し」という概念を完全にゼロにして、一からインストールし直したい気分にかられたが、本音はそれとして建前というものは残る。

 

「だからこそ、貴方にはコンサートマスターとして、私の至らぬ点を補佐してもらいたいのです」

「コンマス? ですがそれは」

 

 一瞬、耳を疑った。

 指揮者の指揮棒や身振り手振りだけでは伝えきれない指示を、指揮者に代わって、いち演奏者の立場からみんなに伝える。それが管弦楽(オーケストラ)におけるコンサートマスターの役割だ。

 しかし音以外にも弓の動きで情報を伝えられる弦楽器と異なり、楽器ごとに奏法も大きく異なる管楽器は、外部に伝達できる情報は限られる。それゆえ吹奏楽においては、せいぜい合奏前のチューニングを先導するくらいしかコンマスの仕事はなく、実質的には名誉職に近い。

 

「貴方が懸念している通り、合奏での指揮者の補助とか、そういう技術的な面での仕事を期待しているわけではないのですよ」

 

 自分の考えを読んでいたのか、滝先生は静かに微笑んで言葉を継ぐ。

 

「常に周りに気を配り、部員の些細な調子の変化にも気づいてフォローする。これまで貴方がやってきたことも立派にコンマスの仕事で、それをこなすにはただ優しいだけでは駄目で、感性が鋭くなくてはいけない」

 

 静まり返った廊下に、滝先生のテノールが響き渡った。

 

「貴方は、音楽をつくる人ではなく、音楽を支える人だ。そういう人を、私は探していたのです」

 

 

 

 

 翌日の海兵隊の再合奏は、滝先生の思惑通りに事が運んだ。

 

 滝先生の手が降り下ろされた瞬間、一斉に楽器が鳴り響く。自分の手前から湧き起こるクラリネットの音色が、目前の壁に跳ね返されて音楽室全体に広がる。フルートの管体には、奏者の口から針の如く細く圧縮された呼気が吹きこまれる。行進曲らしく、リズムよくシンバルが鳴る。自分も集中する。銀色のキーを、指先の腹で抑える毎に、オーボエに送り込まれた呼気は管体の中で出口を求めて複雑にうごめき、楽譜に記された音を奏でる。五十を超える種々雑多な楽器群が整然と鳴り響く。音の波が隙間なく音楽室を埋めていく。

 

 合奏は終わった。

 緊張の糸がほつれたか、あるいは疲労しきったのか、みんな椅子に寄りかかって動かず、ロクに口も開こうとしない。滝先生は合奏の余韻に浸るように目を閉じていたが、やがてゆっくり目を開き、全員の顔を見回した。

 

「いいでしょう」

 

 たった一言。だけど先生は満足そうに微笑んで、言った。

 

「まだまだ気になるところはありますが……皆さんは今、合奏をしていましたよ」

 

 釘を刺しつつも送られた賞賛の言葉に、張り詰めていた空気が一気に緩む。

 安堵のため息をつく人達がいる。互いに労をねぎらう人達もいる。何かの聞き間違いではないかと、まだ驚きで目を見張っている人達もいる。

 それもそのはず、つい先日まで相変わらず先生からダメ出しを喰らっていた人も少なくない。まさかOKが出るとは思ってもみなかったに違いない。

 

「それでは、これから早速サンフェスの練習に取り掛かります。サンフェス本番まで残された日数は多くありません。ですが、皆さんが普段若さにかまけてドブに捨てている時間を……」

「ゴホンゴホン!!」

「……おっと。失礼」

 

 滝先生がまたいつもの調子で毒舌を発動しかけたので、わざとらしく咳払いして待ったをかける。デリケートな人もいるのだから少しは言葉を選んでほしいと思いつつも、無理だろうなと思わずにもいられない。そこは先生のご要望通り、自分が目を光らせる事になるのだろう。

 

「サンフェスはお祭りではありますが、有力校の演奏が一度に聞ける大変貴重な場でもあります。今の皆さんに足りていないのは何か、彼ら彼女らの演奏を通して今後の糧とし、そして貴方達も、今年の北宇治はひと味違うと彼ら彼女らに見せつけるのです」

「見せつけるといっても、今からじゃ……」

 

 小笠原先輩が弱気の声を上げると、周囲もそれに同調する。しかし滝先生は、そんな誰しもが思う懸念を、挑戦的で屈託のない笑みで吹き飛ばした。

 

「私は出来ると思っていますよ。なぜなら、私達は全国を目指しているのですから!」

 

 身の程知らずか、それともとてつもない大物か。それは今の時点では分からない。

 ただ一つだけ、皆も気が付いたはずだ。この先生は本気だという事を。

 





市販の蜂の子はちゃんとフン処理されている(はず)ので安心してご賞味ください
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第24話 やかまシンバルの、もっとなかよし作戦です! (打楽器パート1年・井上順菜 視点)

はっちゃけシンバルちゃん回。うちのシンバルちゃんはどうしてこういう子になってしまったのか、詳細は後書きで。


 その噂を耳にしたのは、毎年やってくる憎いあんにゃろう(スギ花粉)の活動シーズンも終わりに近づく5月を目前に控えた日。部活の休憩時間の雑談での事でした。

 

『鎧塚(先輩)と蔵守(先輩)がデキてる!?』

 

 重かったり嵩張(かさば)ったりする打楽器を無駄に動かして傷つけないよう、打楽器パートが根城にしている音楽室に絶叫が響き渡ります。でも場所が場所だけに防音効果は抜群。外に漏れる事はありません。内緒話をするには絶好の環境です。

 

「いや、あの、今は二人が互いに弁当を作る事になったってだけで、必ずしもそういう訳では」

 

 少なくとも恋だの愛だの、そういう甘ったるい展開に入ったようには見えないし、R-18指定が入るような展開に入ったわけでも勿論ない。……と、あのお二方とクラス一緒な大野先輩はおっしゃいます。弁当のつくりっこしてて、甘ったるくないって事もないのではと思いますが。

 

 詳しく話を伺うと、そもそものきっかけはこのところ疲労困憊(こんぱい)気味の蔵守先輩に、鎧塚先輩が滋養をつけようとお弁当を作って来た事に始まるそうな。

 

「確かにこの前の図書当番の時も、ちょっと顔色よくありませんでしたねえ……」

 

 その原因も直ぐに思い当たります。滝先生が真価を発揮し始めたので今はそれほどでもありませんが、少し前までは先生に反発する声が強く、先輩もそれをなだめるのに苦心していました。反発を抑えてもらう見返りに先生への抗議も引き受けたようなので、先生を支持する人達からの受けもイマイチよくありません。日和見を決め込んでるに違いないという陰口もチラホラ耳にします。

 

「先輩も大変ですねー。部活の為に身を砕いてるのに叩かれて」

 

 何を根拠に、違いないなどと言えるのでしょうか。自分がその状況に置かれたらそんな風に行動する、という深層心理が働くからでしょう。つまりその人のこれまでの人生で(つちか)われた品性そのものが現れるのです。こういう時に、育ちというのが出るのでしょうね。

 

「まあ、みんな滝先生の事を認め始めたから。そっちの方は収まってくると思うけど、蔵守君にはまた別の頭痛の種ができちゃってね」

 

 そんな蔵守先輩を思いやって、鎧塚先輩がお弁当を作ろうとしたまでは良かったのですが、その結果出来上がったのは箸にも棒にも掛からぬ世紀の駄弁当。残当ながら食あたりにあった蔵守先輩は恐れおののきつつも、鎧塚先輩を傷つけないよう「お礼に俺も弁当つくってくるよ」と如才(じょさい)なさを発揮して大野先輩を呆れさせたそうです。

 

 むむむ。図書室でのやりとりから怪しいなーとは思っていましたが、これは想定外の方向に事態が進行していますね。私はてっきり、蔵守先輩がじりじりと距離を詰めて、頃合を見計らって一気にガブッ!と行くのかと思っていましたが。

 それにしても。あの寡黙に寡黙を重ねたような鎧塚先輩が攻めで、蔵守先輩が受けですか。

……自分で言ってて、ちょっとイケない想像をしてしまいました。うへへ。

 

「私的には被害が拡大する前に、逃げを打っただけだと思うんだけど」

「たとえ今は食あたりから逃げているだけでも、そこから恋に発展しないとは限らないじゃない!」

「アッハイ、ソウデスネ……」

 

 大野先輩は食あたりから始まる恋もある、というシナリオがホントに謎なのか、考える事を止めた模様です。恋バナが三度の飯より好物な我らが打楽器パートの裏番、ボーイッシュな短髪にキリリとした目つきがちょっとコワい加山先輩はめっちゃ食いついてますが。

 ま、せっかくのおいしいネタです。鎧塚先輩と蔵守先輩には悪いですが、今日はお二人を肴に大いに盛り上がる事にいたしましょう。

 

「そういえば井上も、蔵守と図書当番一緒だったよね。いいのかなー? 愛しの先輩を取られちゃっても?」

 

 そんな不埒(ふらち)な事を考えた報いでしょうか。加山先輩が私に話の矛先を向けてきました。

 なんですかもう。私を当て馬にしないでくださーい。

 

「だって……ねえ? 委員会一緒になるのは普通にあり得るにしても」

「同じ部活の男子と当番が一緒って、普通は嫌じゃない? あらぬ噂を立てられかねないし」

 

 加山先輩に続いて、大野先輩まで悪ノリしてきました。あらぬ噂って何でしょうね。言ってくれないとわかりませんよ?

 ……ええ本当は分かってますよ、分かってますとも。要するに私が先輩のこと憎からず思っているから当番一緒になるのをOKしたと、そう言いたいんでしょう? よろしい。まずはその思い違いを吹き飛ばしてご覧に入れましょう!

 

「ふふふ、私を恋バナのネタにするとは身の程知らずな。 海よりも深く、山よりも高い事情なんてないので心して訊いてくださいね」

「期待するなって事は伝わってきたよ……」

「あれは……そう。技や知識、(うた)として後世に遺る事を選んだ仲間達を、新たに出迎える日の事でした」

「何だって?」

「ですから、技と知識と詩のお出迎え」

「……大野、井上語の翻訳お願い」

「たぶん、この頃にやってる新書の仕入れ作業の事だと思います」

 

 大野先輩、正解です。さすが、よくわかっておいでですね。

 

「うちの学校はふところ深くて、ラノベもOKなんですよ」

「持って回った言い回しから一気に俗っぽくなったよ……」

「ラノベにもいろいろありますけど、悪役令嬢モノっていうのもあるじゃないですか」

「あるね」

「悪役令嬢モノって、文字だけ見たらAVのジャンルみたいにも見えません?」

 

 なんかこう……くっくっく。この性悪が、散々足蹴(あしげ)にしてくれたなぁ、お前なんて親の後ろ盾がなければただの小娘よ。これまでの仕打ち、お前の身体に百倍にして返してやる。くっ悔しい! でもk(以下略)みたいな……。

 

「そう言ったら、みんな私と当番組むの嫌がるようになったんです。しくしく」

 

 みんなマジメですか。私達くらいの年頃ならそのテの話の二十や三十くらい耳にしてるでしょうに。思春期なんですよ、女子だってアウトローに憧れるお年頃なんですよ。刺激の少ない生活を送っていると魔が差してしまうことだってあるんです。

 

「井上ちゃんはホントぶれないよね……」

「いやあ、それほどでもありますよ」

「別に褒めてないんだけどね」

 

 まあそんなわけで。

 

「蔵守先輩とは図書委員会でも、清く正しく先輩後輩としてお付き合いしているわけですよ」

「要するに「お前んとこの後輩だろ、早く何とかしろよ」って押し付けられたんだね……」

 

 そんな人を訳アリジャンク品みたいに……。大野先輩がわざとらしいため息をつきます。

 ひどいです。私のピュアなハートはブレーク寸前です。誰か慰めてくれないと立ち直れません。

 

「わーん万紗子ぉ! 先輩達がいじめるぅ!」

「ひゃあ!」

 

 なので、さっきから携帯ゲームをポチポチやってる同級生に泣きつきました。両肩のあたりまで伸ばした黒髪に、頭の後ろに結び目がくるように結んだ大きな赤リボン、そして人畜無害そうで罪作りな顔立ち。

 え? それどんな顔だって?

 要するに美少女といってよい顔だけど気は強くなさそうで、ちょっと優しくされたら男子が勘違いして次々とアタックするけど、本人にはその気がないので玉砕しそう。そんな顔ですよ。

 そんなパッと見清純系美少女な万紗子ですが、休憩時間で自由行動が認められてるからといって、周囲と親睦を深めない姿勢はいただけません。実益と教育的指導を兼ねた行動です。

 

「な、なになに? いきなり抱き着いてこないで!」

「そんな事言わずに慰めてよー」

 

 ぐすっとわざとらしく涙声で訴えながら、私は頭をぐりぐり押し付けます。万紗子は出るべき所が出て引っ込むべき所が引っ込んでいる、実に女の子らしいスタイルの持ち主さんです。抱きしめ心地抜群。羨ましい限りです。そんな彼女の柔らかな胸に顔をうずめて、優しく頭に手を添えられるのって最高に癒されま―。

 

「は・な・れ・て」

 

 ぺりっと引き剥がされてしまいました。うう。万紗子のいけず。仕方ありません。押してダメなら引いてみろ理論で、ここは一旦引き下がることにいたしましょう。

 

 それにしても……。

 

「じー」

「な、なに?」

「むむむ。やっぱり、私よりおっきいな」

 

 胸囲の格差社会がここにはありました。

 

「!?」

「バストの神様、胸囲の神様、私もこんな風になれますようにー」

 

 パンパンと柏手を打って、万紗子を拝みます。より厳密に言えば、万紗子の胸部あたりを。「バストと胸囲で名乗りが重複してる……」と先輩達の(つぶや)く声が聞こえますが、そんな細かい事気にしてると男にもてませんよー。

 

「よぉしっ! これできっと多少はご利益が!」

「な、無いんじゃないかな!?」

「ならその手を貸せー! 貴様自ら揉んで大きくするがいいわー!」

 

 前言撤回、やっぱり押しまくる事にします。揉んで揉んで揉みまくって、おっぱい大きくしたに違いない万紗子の黄金の手の力を借りる事にします。

 

「いやぁー!?」

「ああもういいなぁ。万紗子、どうやったらそんなに育つの?」

「知らないっ、勝手に育ったのっ!」

「勝手に育った……だと?」

 

 それはつまり、揉んだりバストアップ体操したり、豊胸手術したりすることもなく、何の努力も金もかけずに恵まれた体躯を手に入れたということ。なんてうらやまけしからん奴でしょう。許せません。

 

「加山先輩、大野先輩、ジャッジを」

『ギルティー』

 

 満場一致で有罪判決。先輩方が絶対零度の視線を万紗子に投げつけます。さっきまでゴミを見るような目を私に向けてた気もしますが。

 

「では判決を言い渡します。被告人・堺万紗子、脂肪が都合のいい部分にだけ集中しているご都合主義により死刑!」

「え、待って、なんでそうなるの!? なんで先輩達まで両手をわきわきさせて近づいてくるの!?」

「大丈夫、痛くしないから……たぶん」

「たぶんって何!? え、ちょ、いやぁー!!」

 

 こうして万紗子は、私達にかわるがわる「ぎゅー」「わしわし」される事になりました。

 後日聞いた話によると、その時の万紗子の悲鳴は音楽室の防音レベルを飛び越えて学校中に響き渡ったそうです。

 

 

 

 

 その日その後。

 

 

「だからゴメンってばー。ゆるしてよー」

「もう知らないっ!」

 

 さすがにやりすぎました。

 あの後、私は先輩方からたっぷりお説教を受け(なぜでしょう? 先輩達もやったのに)、音楽室から逃げ出した万紗子を追いかけ平謝りすることになりました。しかしここまで機嫌を損ねるのは、ちょっと想定外です。ぷんすか、といった擬音がこれほど似合う姿も無いでしょう。男にされたらセクハラなので、ガチギレするのも分かるんですが。*1

 人通りの少ない廊下を速足で進む万紗子を、私はひたすら追いかけます。

 

「ほ、ほら! アイスおごるから機嫌直して♡」

「……」

「じゃあじゃあ、ハーゲンダッツ! ハーゲンダッツ買ってきてあげようか?」

「……」

 

 返事がありません。税込み351円程度では万紗子の機嫌を直す事はできないようです。仕方ありません。ここは切り札を使う事にしましょうか。

 

「という訳でー。取り出だしたるは万紗子がさっきまで遊んでた携帯ゲーム機こと、ニンテ〇ドー3DS」

「ちょ!? いつの間に盗んだの!?」

「盗んだとは人聞きの悪い。抱き着いた時にくすねただけだもん」

「それを盗んだって言うんだよ!?」

 

 やっと反応してくれた万紗子がDSを取り返しにかかりますが、私はのらりくらりと(かわ)します。そんなに慌てなくても事が済んだらちゃんと返してあげますよ?

 ではでは、スイッチオン。

 

♪~

 

 OP映像が流れます。舞台は中世ヨーロッパ的な雰囲気に魔法を加えたよくある世界観。そこでテニスみたいな何かに命を懸ける男とそれを見守る女たち。登場人物が現れては消え、現れては消えていきます。生意気そうな年下系イケメンとか、金持ちのボンボンの俺様系イケメンとか、あなた絶対サバ読んでるでしょ的な老け顔系イケメンとか、肩に羽織っただけなのに何故か落ちない上着装備系イケメンとか。

 ……イケメンしかいませんね。要するに女性向け乙女ゲームなのでした。

 

「返して! 返してよぅ!」

「まあまあ。こっからが面白いとこだから」

 

 OP映像をスキップして、タイトル画面に移ります。ちなみにこのゲーム、私もプレーしてるんですが、タイトル画面にお気に入りの男ヒロインを設定できるという地味に嬉しい機能があります。

 

「ほほー、万紗子はこのキャラが好きなんだ」

「うわぁぁぁぁ! やめてぇぇぇ!」

 

 万紗子は真っ赤になって顔を覆ってしまいました。かわいい。

 さて、それでは万紗子に止めを刺す事にしましょう。音楽室を出る前に細工は完了、あとは仕上げを御覧(ごろう)じろ。

 

 ツンツン、ツンツン

 

「……何してるの?」

「万紗子のお気に入りキャラを、タッチペンでツンツンしまくってるの」

「そんな汚れたことやめてよ!?」

 

 万紗子の制止を無視し、ツンツン、ツンツンし続けます。すると……

 

―やめろよ……////

―オレ、もう我慢できないよ……

―お前が欲しい……

―いいだろ……誰も見てないからさ……

 

「!?」

「このゲーム、ある条件をクリアしてタイトル画面の男ヒロインに触り続けると、イケボで反応してくれるようになるんだよねー」

「……!」

 

 万紗子が驚いて目を見張ります。やっぱりこの裏技の事は知らなかったようですね。

 

「知りたい?」

「し、知りたくない!!」

 

 無理しなくてもいいんですよー? さっきのお詫びにタダで教えちゃいます。

 

「そのある条件とはー、魔女の呪いイベントで子供を産めない体にされた主人公(♀)に、プレイヤー(神様)が "私の力で、貴方が元気で可愛いお子さんを(さず)かれるようにします!" とマイクに喋るというものでー」

「……! はうう……」

 

 あらら、目が><みたいになって気絶しちゃいましたよ。全くしょうがないですねえ。まあ確かに、ちょっとセクハラ入ってる発言といえなくもないですが、それだけで真っ赤っかのゆでだこ状態で気絶してしまうものなのか、と思うでしょう?

 

 私が言うのもなんですが、この子めっちゃピンク色なんですよ、頭の中。

 気絶するに至るまで、いったい何を考えていたのか、それはたぶんこうです。

 

私の力で、貴方が元気で可愛いお子さんを授かれるようにします!

元気で可愛いお子さん 私が産めるようにします!

私が可愛い子産みます!

私の体で子づくりしてください!

 

 こんな感じに、自分で自分に言葉攻めして自爆してしまったのでしょう。とりあえず、このまま万紗子を放置しておくわけにもいきません。近くの教室にでも寝かせておきましょうか。

 都合がいい事に、目の前の教室は3年6組。渦中の先輩達、ダブルリードパートの根城です。

 

「すみません、せんぱ…」

 

――希望通り強めでいくので、痛かったら我慢しないで言って下さいね――

――うん。大丈夫だから思いっきりやっちゃって?――

 

 ……なんでしょうか。今教室から聞こえてきた怪しい台詞は。

 扉の隙間からのぞいてみると、(くだん)の蔵守先輩と、楽器振り分けでファゴットを紹介してた喜多村先輩の姿が。でもなんか二人の距離がやけに近いです。

 うう。譜面台と机が邪魔になって、二人が何してるかよく見えない……。

 

――じゃあいきますよ。力抜いてくださいね? せーのっ――

――あっ、やっぱだめっ。そんなにしたら壊れちゃうよぉ――

 

「……」

 

 聞き耳を立てなくても響いてくる喜多村先輩の嬌声。もしかしなくてもお二方は大人の階段の~ぼる~的なアレのようでした。

 

――お楽しみのところ失礼しましたああぁぁぁ!!!!――

 

 私は心の中で絶叫して、ドアを静かに締めてその場を離れようとしました。

 

 が。

 

 そこで重大な問題に気付きました。どう見ても18歳未満お断りな行為の真っ最中なお二人はすっかり失念してるようですが、ここは学校。こんな事が先生にバレたら退学……まではいかずとも何らかの処分が下るのは確実です。

 

「……仕方ありません。ここはひとつ、私が一肌脱ぎましょう」

 

 決して私も混ぜて的な意味ではありません。秘密を守る的な意味です。貸しイチですよ先輩。

 手始めに、私はのびたままで目覚める様子がない万紗子を隣の教室に廃棄処分。もちろん何の変哲もない北宇治の教室は、普通に前後に扉があるので本当は猫の手も借りたいところなのですが、起こして状況説明してもまた妄想こじらせて寝直すだけだと思うので、やるだけ無駄でしょう。それに扉を両方ともガードするのも「見られたら困ることやってます」感アリアリで、露骨に怪しいし。なので前の扉は「ワックス塗りたて、後ろからお入りください」と貼り紙して、私は後ろの扉に寄りかかってDSをプレー。カモフラージュ完了です。

 さあ誰でもかかってきなさい! そして色ボケコンビは速やかに事を済ませて私を自由にしてください!

 

「……ここで何やってんの、練習は?」

 

 そんな私の願いを、意地悪い神様は歪んだ形で叶えてくれたのでしょうか?

 折悪しくやってきたのは、この教室の放課後のヌシ。ゆるふわウェーブした黒髪はサイドポニーにまとめられ、スタイルも均整がとれていて、脚も黒タイツで完全武装。どこに出してもクラスカースト上位は固そうな、垂れ目のイマドキギャルといった雰囲気全開のもう一人のファゴット担当・岡先輩と、いま一人は図書室でのなんだかんだで割と顔見知りになった鎧塚先輩でありました。

 ……これは困りました。「今ダブルリードの人は全員留守で、楽器をいじられたり盗まれたりしないよう見張ってるの」とか、それっぽい言い訳は考えたのですが初手でガチ関係者は反則です。まだ何にも思いついてません。

 

「そこ退いてくれる? 教室に入れないんだけど」

「い、今は入らない方が。台風で堤防が決壊したとかなんとか……、あわわ」

 

 パニック状態の私の口からあらぬ言葉が。自分で言ってて何ですが、なんでしょうこの微妙に生々しい言い訳は。

 

「ああ、そういう事」

 

 要領を得ない私の返答でしたが、岡先輩は察してくれたみたいです。

 

「手間かけさせたね、後は私に任せて」

 

 そう言って、先輩はいい笑顔で私の肩を叩きました。身内の不始末を察しても何ら慌てる様子を見せず、泰然自若。不測の事態において年長者はかくあるべし。2歳しか違わないはずなのに、大人の貫禄を感じます。

 この人なら任せられる。この人なら何とかしてくれる。

 そう思ってました。

 

 

 だから。

 

 

 だから先輩の爆弾発言に大声をあげたのはワザとじゃないんです。

 

「1年にはまだちょっと刺激強いかもね~。アタシも混ざろっと」

「混ざる!?」

 

 まさかの3〇!? ダブルリードパートの風紀って一体どうなってるの!?

 ただれまくった先輩達の関係にドン引きする私の事などお構いなしに、岡先輩は教室の中へ姿を消していきました。

 

――おつー。蔵守、私もお願い――

――お疲れ様です。なんか大声しましたけど、外で何かありました?――

――何にもないよー。ほら早く早く――

 

 今度は岡先輩の方がリードするの!? まさかの姉女房!?

 いったい何なんですかこの人達!? 先輩と先輩と先輩が×××して△△△で〇〇〇なんてっ! えっちい事はいけないと思います! いやでももう高校生なんだし、これはこれでアリかも。後学の為に見学していたい……。

 ああ、頭の中で天使と悪魔が駆け巡ってます。

 

 いろんな意味で傍観者でいるのに堪えられなくなってきた頃、それまで無言を貫いていた鎧塚先輩が口を開きました。

 

「何か勘違いしてるみたいだけど……別にやましい事はしてない。蔵守君は先輩達の肩揉みしてるだけ」

「肩揉み?」

「ファゴットは結構重い。それを首にストラップかけて支えているから、長い時間そのままだと肩や腰に負担がかかる」

「……なるほど」

 

 言われて再度、教室を覗きこみました。岡先輩が譜面台をどかしたのか、視界はずいぶんすっきりしました。そこには岡先輩の肩に手を掛ける蔵守先輩の姿が。なるほど確かに肩もみです。

 

 ですがそれにしても……

 

――最近胸が痛むんだよね。オッパイ大きくなってるのかなー?――

――先輩、猫背気味でしたから。胸部の筋肉が圧迫されてたせいだと思いますよ――

――マジレスやめて――

――それも滝先生に矯正されましたし、すぐ良くなりますって――

――だといいけど――

 

「ファゴットの先輩達も男子に触られてるのに頓着(とんちゃく)しませんね」

 

 なんかあやしいなー。

 

「……3人とも、中学から一緒に吹奏楽やってたそうだから。距離感近く感じるのはそのせい」

「へえ~」

 

 それはそれで、おいしいネタを掴んじゃいました。

 

「……みんなに喋っちゃ駄目。噂になると困るから」

「はう」

 

 私の内心を見透かしたかのように、鎧塚先輩が釘を刺してきます。あれ、でも……。

 

「私には話しちゃっていいんですか?」

「妄想(たくま)しくしてたみたいだから、事情を説明しない方が危険」

 

 鎧塚先輩も、無気力そうな顔して鋭いなあ。

 でもこうしてじっくり見ていると、ファゴットのお姉さま方ってホント美人ですよねえ。なんといいますか、大人になりきれない可愛さと、大人の色気が入り混じっているというか。可愛さなら私や万紗子も負けてないと思いますけど、(つや)っぽさに関しては分が悪い気がします。

 そんな美人さん達のガードがああも緩くなるなんて。蔵守先輩は早くも女運を使い切ってる疑惑が浮上です。

 

「本当に仲いいみたいですね」

「うん。……ああいう気張らない関係って、ちょっとうらやましい」

 

 うらやましい?

 羨望の眼差しで教室を覗く鎧塚先輩の姿に、私は違和感を覚えました。

 鎧塚先輩には傘木先輩という親友がいる。

 数日前、図書室で蔵守先輩は確かにそう言っていましたし、鎧塚先輩もそれを否定しませんでした。

 

「鎧塚先輩は、傘木先輩とあんな風になったりしないんですか?」

 

 鎧塚先輩は少しの間、黙り込んで、小さな声で呟きました。

 

「……たぶん、私と希美は、あんな風にはなれない」

「どうしてです?」

「私が希美に依存してるから」

 

 それだけ言って鎧塚先輩はまた口を閉ざし、私がその言葉の意味を訊ねる間もなく、教室の中に消えていきました。

 私、何かまずい事聞いちゃったんでしょうか。

 

 

 

 

「……というわけなんですよ」

「へえ。鎧塚さん、傘木の事を話したんだ」

 

 翌日。

 私は先日の鎧塚先輩の言葉がどうも引っかかったので、思い切って蔵守先輩に事の次第を打ち明けてみる事にしました。

 

「あんな思わせぶりな言い方されたら、気になって図書室でのお昼寝も浅くなって、困っちゃいますぅー」

「結構、結構。その調子で本の整理を頑張ろう」

「ぶー」

 

 脚立の上でぶー垂れる私に対し、両手に本を山と抱えた先輩はにこにこ顔。読んだあと適当に戻されて、整理番号*2順の並びからところどころ逸脱した本を元に戻すという、そんなの究極にごちゃごちゃになってから片づければいいでしょと思うような作業なのに、妙に張りきっています。図書委員になるくらいですから、とにかく本と関わる仕事は何でも楽しいのでしょう。異端な私には理解しがたい性癖です。

 

「はっきりした事は分かりませんけど、どうもお互いの熱量に偏りがありそうな事を匂わせていましたし……」

「鎧塚さんはあの通り大人しい性格で交友関係は……それほどは広くない。そして傘木は社交的で交友関係も広い。だから鎧塚さんの傘木に向ける熱量が、傘木の鎧塚さんに向けるそれより重くなっちゃうのは無理もないさ」

「あえて狭いと言わない辺りに愛を感じますねぇ」

 

 要するに友達がほとんどいない鎧塚先輩にとって、傘木先輩は文字通りナンバーワンでオンリーワンなのでしょうが、友達が多い傘木先輩にとって鎧塚先輩はナンバーワンでもなければオンリーワンでもないという事なんでしょう。それで鎧塚先輩は傘木先輩にしがみつく。あまり良い状況とは思えません。鎧塚先輩の望みと傘木先輩の望み。もしそれが対立する時がきたら、先輩はそのジレンマに苦しめられるのではないのでしょうか。

 

――傘木を大切に思うのはいい、でも時にはぶつかってもいいんだよ――

 

 そんな風に鎧塚先輩を支える第2、第3の友人が現れないものでしょうか。

 

 

「かといって鎧塚先輩みたいなタイプがポンポン友達を作れるとは思えないし……。いや、それなら傘木先輩の友達を減らせばいいのかも?」

「発想が単純で黒い……」

 

 冷や汗を流す蔵守先輩。いいじゃありませんか。シンプルイズベスト。

 まあ後者は最後の手段として、現実的には前者でいくしかないですね。友達をポンポン量産するのは見込み薄ですが、少数精鋭方針なら目当てがない事もありません。一応その有力候補が目の前に突っ立っていますから。何と言っても弁当作られるぐらいですから全く気がないって事もないでしょう。

 

「というわけで先輩はこれまで以上に鎧塚先輩と仲良くなってください。それが鎧塚先輩の為になるのです」

「どうやって」

「それはですね……」

 

 

 

 

 耳打ちする為に脚立から降りようとしたら、

 

 ぐらっ。

 

 足を滑らせてしまいました!

 

「ぎゃー!?」

「危なっ……ぐげっ」

 

 間一髪。すんでのところで私の下敷きになってくれた先輩が、潰れた蛙のような声を出しました。

 

「……大丈夫ですか?」

「……大丈夫なもんか。背中打ったぞ今」

 

 先輩は痛みに顔をしかめながら、背中を床から起こそうとします。自然と先輩の身体の上に乗ったままの私と、至近距離で目が合いました。

 あ、今気付きましたけどこれ、先輩を押し倒して馬乗りになってる体勢ですよ。しかも私のスカートの中がちょうど、その……、股間の上に乗っかっておりまして。

 

「あああすいません先輩今のなし忘れてください!」

 

 慌てて飛び退こうとして。

 

 ガッ

 

「ふおおおおおお!」

 

 倒れた脚立の角に盛大に足首をぶつけた私は、悶絶してその場でのたうち回ります。

 

「いたひ……」

「だ、大丈夫か?」

「だいじょばないですぅ……」

「どっちだよ……ちょっと待ってろ。今、湿布貰ってくるから」

 

 程なくして戻って来た先輩は、涙目の私を心配そうに覗きこんできます。

 ……ちょっと距離が近くありませんかね?

 ですが先輩は非常事態にそんなの気にしてる場合かと言わんばかりに躊躇(ちゅうちょ)なく、そっと私の足首に触れました。触れられている部分が熱い。じんわりとした痺れに似た痛みを知覚して、なんだか妙に恥ずかしくなりました。

 

「動くなよ。すぐ終わらせるから」

「はい……」

 

 先輩は言葉通り、手早く湿布を貼ってくれました。先輩の大きな手が優しく患部を包んでいるのを意識すると、それだけでどきりとしちゃいます。

 

「手間かけさせちゃって、すみません……」

「いいよ。自分が脚立の上に立てばよかったんだし」

「遠まわしに仕事任せられないダメな奴って言われた気がする……!」

 

 どうせ私なんてぇと落ち込んでいると、先輩が私の頭に手を乗せて、くしゃくしゃと髪を撫で回してきます。

 

「そんなつもりで言ったんじゃないから。ほら、元気出して」

「もうっ。先輩は子供扱いしてぇ」

 

 髪型崩れるからホントはやめて欲しいんですが、醜態を晒した手前、我慢して受け入れることにします。……と思ってたんですが。コレ、意外と悪くありません。先輩の手がぬっくいせいでしょうか。されるがままに頭を預けてしまいます。男子の手ってあったかいんですね。女子の方が冷え性に悩まされるのが分かった気がします。

 しばらくこのままでいたかったんですが、やがて先輩の手が離れていきました。

 

「あー、湿布ってスーッとするんですよねぇ。きもちーですぅー」

 

 ちょっと名残惜しいですが、そういう事はおくびにも出しません。

 ここで「先輩……もっと撫でて♡」などと言い出したらどこに出しても恥ずかしいチョロイン免許皆伝です。私はそこまでやすい女じゃありません。

 

「それは良かった。じゃ残りの作業、頑張ろうか」

「はーい。がんばりまーす」

 

 先輩に手を引かれて立ち上がり、作業に戻る私。そんな私の心の中では、ほのかな感情が芽生えていました。私はチョロくありません、これくらいで熱に浮かされたりしません。だけど。

 

 ……鎧塚先輩。あんまりぐずぐずしていると、私も本気になっちゃうかもしれませんよ?

 

 

 

 

「……みたいな展開になれば、鎧塚先輩も焦って先輩との距離を縮めたりすると思うんですよ」

「……さすがに出会ってひと月足らずの女子相手にナデポはちょっと」

 

 恋愛小説を読み込んで読み込んで読み込んだ私渾身の作戦をドヤ顔で披露しましたが、返ってきたのは絵に描いたような草食系男子の言い訳。そんなだから少子化が進むんですよ。ヤらないで後悔するよりヤって後悔したほうがいいって偉い人も言ってるじゃないですか。

 

「肝心なところでヘタレないでくださいよ。ここぞという見せ場で一発決められないカタログスペック通りのフツメンに一体誰が惚れるというんですか。最弱とか凡人とか言っておいて、いざ蓋を開けて見れば最強でしたと腹立つほどスペック詐欺な、なろう系主人公を少しは見習ってください」

「井上は俺をけなす事が一番楽しい生き物みたいになる時あるよね……」

「はて、何のことでしょう?」

 

 てへぺろ☆

 

「可愛いけど可愛げがない……」

「ふふーん。褒めても何も出ませんよ?」

「褒めてないよ!?」

 

 こうして。

 

 私と蔵守先輩の、和気あいあいとした時間が過ぎていきました。これも私の計画通り。プランBは成功です。

 相手がこちらの思い通り動いてくれない? NPCじゃないんですから、そんなの当たり前。策士たるもの、二の矢三の矢を用意しておかねばなりません。

 

「……」

 

 いつも通り、本の返却に来た鎧塚先輩が、図書室の出入り口から少しだけ頭を出して。ちょっと寂しそうな、入りづらそうな様子でいるのも、私は全部知っていたのです。

 

 

 

*1
女でもセクハラだよ?

*2
背表紙にある「た 1 1」とかです





本作で、なぜシンバルちゃん達がこんな風になってしまったかというと……。

シンバルちゃんやバスドラちゃんも、自分の作品で出したいな

でも無闇に登場人物増やしても、キャラを書き分けられず没個性化しそう……。でも出したい。

二人とも元々モブキャラで台詞も(アンコンまでは)片手で数えるほどしかないし、性格なんてあってないようなものだったから、好きなようにアレンジしてもいいか

……とまあ、こんな流れで本作の構想段階から「こういうキャラでいこう」と決めていました。なので「この作品ではシンバルちゃんはこういうキャラなんだな」と割り切っていただけると幸いです。


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前日譚
ファゴットの邂逅 前編 (ミッションスクール中等部・岡美貴乃 視点)


タイトル詐欺にならないための、ファゴットコンビ主役回(今更)


 わたしはひとりっ子。おとうさんもおかさんも、ともばたらき。

 がっこうからかえったら、おゆうはんまで、わたしがおうちのおるすばん。

 おとうさんもおかあさんも、わたしのために、いっしょうけんめいはたらいてる。

 だからもんくをいっちゃいけない。もんくをいうのはわるいこだ。

 ともだちだってちゃんといる。ここちよいしずけさがわたしのともだち。

 

――みきちゃん、あたらしいげーむかったんだけど、あそびにこない?――

――ごめん、きょうはだめなんだ。またこんどね――

 

――みきちゃん、がっこうおわったら、こうえんでおにごっこしない?――

――ごめん、おうちであそばなくちゃだめだっておかあさんが……――

 

――みきちゃん、つきあいわるーい――

――みきちゃんのおやは、きびしいね――

 

 わたしはわるくない。いいこだもん。おとうさんもおかあさんもやさしいもん。だからもんくをいっちゃいけない。もんくをいうのはわるいこだ。もんくをいうのはわるいこだ。もんくをいうのは……

 

 ……いい子であろうとした、昔の思いが頭をよぎった。ひとりでいるのはつらいなんて、ひと昔前の考えだ。そう考えるのは、きっと私以外にもいる。今の時代、一人っ子なんて珍しくないんだから。大抵の事なら、人は慣れてしまう。孤独な時間が長ければ、孤独に慣れる。

 

――このバッグ、いいよねー――

――ねー――

――(あー、中身ペラペラな雑談、ダッル……)――

 

 ……私は、ひとりでいる時間が長過ぎたと思う。

 

 

 

 

「岡先輩って、いっつも音楽室でお昼摂ってますよね。一人で」

 

 私以外誰もいない音楽室は、貸し切りみたいで気分が和む。心地よい静寂に浸りつつ、お昼代わりのサンドイッチを頬張るのが、私が学校に居て二番目にくつろげる時間。

 そんな時、いつもの時間にいつも通り姿を見せた後輩は、型通りの挨拶を済ませた後にそんな台詞をのたまった。

 なんか似た様なこと、前にも言われた気がする。

 

「なに、バカにしてんの? 倒置法でことさら一人で、ってとこ強調してんの先輩舐めてんの? マジ名誉棄損で訴訟も辞さない案件なんだけど」

 

 そうだ。確かあの時も、こんな感じに返していたと思う。

 それも仕方ない。クラスに友達いないんですかあ? とでも言いたげな言葉をぶつけてくるんだから。後輩の癖に生意気。

 一人でいる事を別につらいとは思わないけど、友達いないのと見なされるのは、悪意がなくてもイラッとする。ましてそれが下級生からなら尚更だ。気分を害したので(にら)みつけてやると、後輩は慌てて機嫌を取りつくろうとした。

 

「いえいえ! この学校って給食ないですからね。別にここでとってもおかしくないですよね」

「そーそー。このしょーもない学校には食堂もないんだから」

 

 家庭で弁当を作るのも、親子のコミュニケーションである。

 カトリックの教義だがなんだか知らないが、そんなありがたい言葉のおかげで、この学園の中等部には給食もなければ学生食堂もない。申し訳程度に購買でお惣菜を売っているだけだ。

 見栄で子供を入学させたはいいが、今は夫婦共働きの時代。毎日の弁当づくりに根を上げてしまう親を持つ生徒も少なくない。かくいう私も、その一人。

 

「今日も購買は大変な盛況でしたよ」

「知ってる。このサンドイッチも、そこで買った奴だから」

「あ……、そうでしたか」

 

 後輩は不器用にも話題を逸らすのに失敗して、音楽室脇に設置された楽器棚の方に逃げた。たいして強くも無いこの学校の吹部で、昼練の為に音楽室に顔を出す部員なんて、片手で数えるほどしかいない。

 そんな環境にあって、この男子の後輩は律儀に昼練に取りかかろうとしていた。どこの吹部も男子は少ないだろうが、昨年共学化したばかりのこの学校は殊更(ことさら)少ない。小六からオーボエを始めたというけど、腕前の方は要領よくサボる3年生に最近ようやく追いついた程度。

 つまり才能は大してなく、真面目なのがとりえ。どこにでも、こういうタイプは探せば一人位いるものだ。

 その後輩が、楽器棚から引っ張り出してきたケースには、猫をあしらったキーホルダーがくくり付けられている。キーホルダーといっても男子が携帯しているものなので飾り気が無く、余分なものはついていない。猫のデザインも可愛いというよりは格好いい感じで、前足に剣を構えた紋章風。どこかの国旗に、あんな感じのあったっけ。

 

 そんな事を考えている内に、後輩は机に置いた楽器ケースを開いて中身を確認し始めている。私も机に近づいて、キーホルダーを手に取ってみた。

 端っこに、"蔵守"と名前を書いたシールが貼ってある。

 

「蔵守は、こういうのが好みなんだ。センスはまあまあじゃん」

 

 片手でキーホルダーを弄りながら、皮肉でも何でも無く本心からそう言った。自然と口元がほころぶ。蔵守は、そんな私の反応を見て笑顔で頭を下げたが、すぐに真顔に戻った。

 

「岡先輩。耳障りなのは百も承知なんですが、あまり面白くない伝言が」

 

 せっかく私の方から機嫌を直してあげたのに、コイツは馬鹿なの?

 無意識に机を指先で二度、三度たたいた。苛々(いらいら)が募った時の、私の癖だ。蔵守も、これが癇癪(かんしゃく)の前兆である事を知っている。この状態の私を刺激するような事は、普段はしない。

 一睨みしたが、先程とは対照的に、蔵守の目に怯みの色は無い。声は震えているあたり、導火線の上で踊っている事は分かっていても、なお伝える事があるという事なんだろう。確かに、面白くない話になりそうだ。

 蔵守に背を向け、少し歩いて音楽室の窓の手すりに寄りかかった。

 

「顧問から、クラスでお昼を取るように伝えろとでも言われたの?」

「違います」

 

 違うんだ。

 それなら良かった。お昼休みの音楽室は、私の居場所だ。それを取られるのだけは、嫌だった。

 

「昨日の帰り、シスターから愚痴られたんですよ。また岡さんが聖書の朗読をサボったのよって。で、風紀委員ならなんとかしなさいと、先輩にひとこと言っとくよう頼まれて」

 

 要するに、同じ吹部の縁で面倒事を押し付けられた訳だ。気弱さと小狡(こずる)さが同居したような、シスターの表情を思い浮かべた。生意気な後輩は気に食わないが、風紀委員だからといって後輩に仕事を押し付けるシスターはもっと気に入らない。

 

「言いたいことあるなら、直に言いにくりゃいいのに。アンタもアンタで律儀に引き受けちゃって。相変わらず人が良いんだから」

 

 私の皮肉にも、後輩はさしたる痛痒(つうよう)を覚えてないようで、ただ肩をすくめるだけだった。

 

「誉めてませんよね?」

「勿論。手間賃代わりに一つ教えてあげる。人が良いって、扱いやすいの裏返しだから」

「なに中学生の癖に、悟った様な事言ってるんですか……」

「女はね。男より早く大人になるの」

 

 蔵守が、じっと私の体を見つめてきた。なんかやらしい目だ。思わず両腕で胸を隠した。

 

「ちょっと、何見てんの」

「……いえ、先輩はどこでそういう人生訓を学んでくるのかなあ、と思いまして」

「私には大学1年の従姉がいるの」

「初耳です」

 

 言ってないからね。

 

「で、その従姉には年上の彼氏がいたんだけど」

「いた、って事はもう別れて?」

 

 私は頷く。

 

「付き合い始めの頃は、それはもう耳タコレベルで熱々っぷりを聞かせられたの。でもその人は交際開始時点から浪人で、一昨年も去年も滑って、いっぽう従姉は見事志望校に合格して、とうとう席次が逆転」

「oh……」

「私が傍にいればあの人を変えられる。そんな妄想は、私が傍にいたんじゃあの人は大人になれない。そんな現実の前に敗れ去ってしまったの。アンタも女を泣かせる男になるんじゃないわよ」

「お言葉、しかと心に刻み付けました」

 

 蔵守は神妙に頭を下げたが、喉元過ぎれば何とやら。忠告した私にしても、絶対に従姉の二の舞は演じないと言い切れるか。(はなは)だ怪しいところではあった。

 

「それはそれとして、聖書の朗読は」

「やんない」

 

 蔵守が顔をしかめる。

 

「内申に響いても知りませんよ」

「蔵守、どうして今年から、朝会終わりから一時限目までの時間、聖書を朗読させられることになったか分かってる?」

「そんなの、ここがミッションスクールだからじゃないんですか?」

「それは建前よ。シスターも、もう若くないおばさんばっかだから。朝っぱらから私らがキンキン声で喧しくしてると精神衛生上よくないのよ」

「ははあ、なるほど」

 

 蔵守は、ようやく合点がいったようでニヤリとした。

 

「確かに先輩は、うるさくしてませんからね」

「共学化して、このお嬢様学校もうるさくなった。でもそれは私のせいじゃないし、要は静かにしてりゃいいんでしょ。シスターにはそう伝えて」

「それはいいですけど」

 

 蔵守は、そこで一旦間を置いた。そして、深刻そうな表情をして私を見つめてくる。

 

「そもそもこんな話、学年の違う自分にまで回って来るなんておかしいですよ。……大丈夫なんですか?」

 

 多分、クラスメイトにも私に諫言するように、シスターも話はしたんだろう。それでは埒が明かないと判断したから、蔵守にまで話が飛んだ。ただそれだけの事だ。

 正直な所、クラスに私の居場所は無い。不良だのギャルだの、陰である事ない事言われているのも知っている。クラスメイトは、誰も私の相手をしたくないのだ。

 嫌われている訳ではない。ただ苦手に思われているだけだ。今更、そういう態度を修正して欲しいとも思わない。こちらも近づかなければいいだけの話だ。

 

「大丈夫ってわけでもないけど、我慢できないってほどでもないから。どうせこの学校ともあと少しでおさらばだし。合わないなりに三年間過ごして、愛着も全く無いってワケじゃないからね。下手に事を大きくしたくない。最後は綺麗に終わりたい」

「……やっぱり、高等部には進まないんですか」

「この学校は息が詰まるの。もっと普通の子が通う普通の高校ではっちゃけたい」

 

 そこまで言うと、蔵守が黙り込んだ。

 

「葉月ー! 早く弁当食べちゃいなさいよ! テニス部のミーティング始まるよ!」

「ちょっと待ってよー!」

 

 不意に、開け放していた音楽室の窓から、陽気な笑い声が聞こえた。

 

「東中の人達は、元気ですね」

「そうね」

 

 蔵守は、うるさいとは言わず、元気と言った。

 窓に寄りかかる私の視線の先には、大吉山東中学校の校舎がそびえ立っている。東中とうちの学校は、片側一車線の道路を挟んで向かい合っていた。あちらも昼休みのようで、まるで悩みの無さそうなどら声がこっちにまで響いてくる。それが羨ましかった。公立と私立の違いがあるとはいえ、こんな近くに学校を隣接させなくてもいいじゃないかと思う。

 今更後悔しても遅いが、私は変な見栄はらないで東中に行くべきだった。あっちの学校なら、まだしも周りに合わせる努力が出来ただろうから。

 

 

 

 

 そもそも、この学園に入学したのは必ずしも私の本意じゃない。いい年してミッション系に憧れる母の勧めで、記念受験のつもりで受けたら本当に受かってしまった。母は浮かれていた。私も舞い上がっていた。……小学校からのエスカレーター組と、私みたいな中学受験組とでは、そこはかとない格差が存在する事を知っていたら、呑気に喜んでばかりもいられなかったのだけれど。

 

 入学式で、先生生徒総出で賛美歌を歌うあたりはさすがミッション系だと感心していられたのも束の間、左を見ても右を向いても皆手ぶらで賛美歌を(そら)んじるところから違和感が生まれた。私と同じで、外部入学の子もいるはずなのに。こんなの教養の範疇だろと言わんばかり。教室に戻っても、はやりのラノベや漫画、アニメの話をしたりなんかしない。そんな彼女達と一緒のお昼は、息が詰まって仕方がなかった。

 

 どこか人目につかないところで、一人で食事をしたい。そんな気分になるまで時間はかからなかった。出来ればみじめな気分にならずに済むところがいい。さすがに便所飯はいやだ。

 そして、格好の穴場を見つけた。

 この学校に入学して、唯一よかった事は屋上が解放されている事。遠目に見える大吉山を眺めながらランチタイムとしゃれこめる。学校に居て、一番解放感に浸れる時間になった。

 お昼になったら弁当片手に教室を飛び出し、屋上へとつながる階段へ一直線。

 

 そんな日々が半月ほど続いた頃、変化は訪れた。春とはいえ、まだ肌寒さが残る時分。私みたいに屋上でお昼にする物好きはそう多くない。貸し切り気分で屋上に備え付けられた長椅子に座って、もごもごとサンドイッチを咀嚼していると、クラスメイトの喜多村が不愉快な言葉を投げつけてきたのだ。

 

「岡さんって、お昼屋上で摂ってたんだあ。一人で」

「なに、文句あんの? 倒置法でことさら一人で、ってとこ強調してんの同輩おディスリあせばせてんの? 奥歯ガタガタ言わせたろうかコラ」

 

 一人で悪いか。そばに誰かがいる方が、私はわずらわしい。

 一人でいる時間が長いと、他人との距離の取り方が分からなくなってくる。私の場合は、それが素の攻撃的な言葉使いになって現れてしまった。

 

「あ、気に障ったらごめんね! ついうっかり、思春期真っ盛りで絶賛ひねくれ中のうちの愚舌が失礼な事を。こらっ、口! 頭が高いぞ!」

「零距離フォースグリップ」

「首絞め! ただの首絞めだからそれ!!」

 

 暗黒面に堕ちた私の必殺技を間一髪で喜多村はかわす。教育的指導を避けきれなかった空間が衝撃波となって彼女の首筋をなでる。

 

「チッ……」

「舌打ち!? いま明らかに『外した』的なニュアンスで舌打ちしたよね?」

「……」

「無言の圧力!? そして目を逸らすという露骨な話題転換!!」

 

 ああもう、うざいなあ。いちいちリアクション大きいんだよコイツは。

 

「あーはいはい。じゃあそういうことで」

「待ってよー。折角話しかけてるんだから、もっとこう、会話を楽しもうよー」

「…………」

「ほら、無視しないで」

「…………」

「おーい、既読スルーするなー」

「…………」

「ふえぇ……ブロックしないでよぅ」

「…………」

「…………(胸元チラチラ)♡」

「おい」

「返事してくれた! 嬉しい!」

「何してんのアンタ」

「岡さんが全然反応してくれないから、つい出来心で」

「通報しました」

「やめて!?」

 

 私は携帯端末をポケットにしまって、改めて喜多村の顔を見る。

 喜多村 来南(きたむら らいな)。コイツの事は、校内でもちょっとした噂になっている。この学園の生徒は、おかっぱとか三つ編みのおさげとか、校則にひっかかりようもない大人しい髪型の子ばかり。そんな中で、喜多村はただ一人校則とおしゃれとのせめぎ合いを楽しんでいる、ように見えた。

 同性から見ても思わず嫉妬したくなる綺麗な髪を、左耳下で束ねた彼女のルーズなサイドテールに、校則ギリギリまで丈を切り詰めたスカートから伸びるスラリとした足。どちらも確かにこの学園の雰囲気にそぐわない。お嬢様というより、むしろギャルに近い奔放(ほんぽう)な態度に、教師も頭を痛めているという。

 嘘か真か、欧米人の血が入っているハーフだなんて噂まである。確かに他の子達を比べると、身長が高く、肌が白く、彫が深い。いわゆる美少女を構成するパーツ一つ一つを見ていると、あながち嘘とも思えない。

 

「それで、なんでまた私に話しかけてきたわけ?」

「シスターに、岡さんの話し相手になってあげてって言われたの!」

 

 あのババア、余計な事を……。

 

「その言い方だと、まるで私がぼっちみたいじゃない。ていうか普通に傷つくんですけど」

「ぼっちちゃんのつまらないプライドは捨てた方が身のためだよ。はーい、それじゃ友達と二人一組になってー」

「やめんか!! 私は気の合わない子と顔突き合わせてるより、こうして一人でいる方がよっぽど楽なんだ!」

 

 禁断の呪文に耳を塞ぐが、実際この学園に限らず、学校生活では集団でいないと面倒な事が多い。逆に言うと、そのデメリットを受け入れても良いと思うほどに、追い詰められてもいた。そんな私の内心などお構いなしに、喜多村は妙に感心したような表情をした。

 

「私は初等部からの繰り上げだからよく知らないけど、外の子って岡さんみたいなタイプ珍しくないんだろうね。一匹狼みたいで、勇気があって、格好いいなあ」

「……いや、私も別に勇気があるってわけでもないんだけど。一人でいるのはこの学校じゃ浮いてるからだし」

「そうだね。岡さんってば言葉遣いは荒いし。いつまでたっても賛美歌覚えないから、本当にこの学園に受かる頭があるのか怪しいし。ここもあったかくなったら人が増えるし、もう他に一人で居られるとこがないからって便所飯とか冗談抜きでやりそうだし。私もこの学園では浮いてる方かなって思ってたけど、岡さん見てるとまだまだだなあって思えて安心しちゃうし。こんな人私の周りに今までいなかったなあ」

「ほっとけ」

 

 コイツは人が気にしてる事をポンポンと……。

 それに一人でなきゃ絶対嫌ってわけでもない。言葉使い位なら妥協して周りと合わせられる。話題だって、何とか勉強して合わせる。

 金銭感覚の違いは、どうにもならなかった。

 今日は美術館、明日はコンサート。彼女達の高尚な遊びに付き合った結果、五月を待たずして、私の財布の中身は秋の気配を帯び始める始末。まだ春だってのに。

 

 ♪~

 

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響いた。この後は睡魔と戦う聖書の授業。眠気覚ましに、聖書の中のやらしい単語漁りでもしようかな。

 

「そろそろ教室に戻らないと。アンタはもうお昼取ったの?」

「うん。部活の、吹奏楽部の子達とだけどね」

 

 部活。自分の身の落ち着き先を探すのにいっぱいいっぱいで、すっかり頭から抜け落ちていた。もう体験入部期間も終わってしまう。

 

「あ、あのさ。岡さん」

 

 教室に戻ろうと、腰かけていた椅子から立ち上がると、喜多村が私のスカートの(すそ)を引っ張ってきた。

 

「もうちょっとだけ、ここにいない? 予鈴鳴っても、授業まではまだちょっと時間あるし」

「それは別にいいけど。なに、クラスに戻りたくないの?」

「……うん、ちょっとね」

 

 もじもじして、一向に話を進ませようとしない喜多村にいらついて、飲み干したイチゴ牛乳の紙パックを手近のゴミ箱に放り投げた。紙パックは綺麗な放物線を描いて、フレームにぶつかる事もなく網かごの中に収まった。ストライク。

 気分を良くしたのもつかの間、喜多村がう゛っと喉を潰したような(うめ)き声をあげて抗議してきた。

 

「岡さん! そういうの、良くないと思う」

「何よ。ちゃんと燃えるゴミのかごに入れたでしょ。牛乳パックは燃えないの?」

「牛乳パックは資源ごみだよ……って、そうじゃなくて! ゴミを投げたりするの、はしたないよ」

 

 これだ。これだから、この学校の連中とそりが合わないんだ。何でもかんでも、いつでもどこでも品性ある振る舞いをしろとうるさい。先生のいない所でくらい、気を緩めたっていいじゃない。

 私が顔をしかめると、喜多村はしょんぼり視線を床に落とす。

 

「このおせっかいな所がいけないのかなぁ。喧嘩になったきっかけもそうだったし」

「喧嘩? クラスメイトと?」

「うん。聞いてくれる?」

「聞くだけなら」

 

 (そば)に座られたまま無言の空間で居るのも億劫だ。つまらない話なら、まだ生覚えの聖書の一節を暗記ついでに脳内で唱えてやり過ごそう。そう決めて、私は喜多村のちょっと昔語りに耳を傾けた。

 

 

 事の起こりは、一週間前。下校時の事だったらしい。

 

「私達の学校って、平等院の方から通学してる子は宇治川を渡らないといけないじゃない」

 

 喜多村の言葉に、二つ返事で頷いた。宇治川を挟んで、平等院とは向こう岸にあるうちの学校に通学するには、いくつかの道がある。平等院の南側にある喜撰橋(きせんばし)を渡るか、あるいは北側にある橘橋(たちばなばし)を渡るか。どちらの道も中州を経由して、さらに朝霧橋(あさぎりばし)を渡る事になる。

 どちらを使うかは、その日の気分次第だった。

 川沿いに北へ進んで、宇治橋から向こう岸へ渡る、というルートもなくはないけれど、登校時に使うには遠回りになる。せいぜいが下校時、たまに気分転換したい時に通るくらいだ。

 

「私がクラスの子達と一緒に、喜撰橋を渡ってた時なんだけどね。小学生の女の子達二人が喧嘩していたの」

「小学生が? アンタ達じゃなくて?」

「うん、その時まではね」

 

 それから、喜多村は整然と事情を語った。

 クラスメイト達が喧嘩の様子を遠巻きに見守る中、喜多村はお節介な事に喧嘩を止めさせようと、なだめに入ろうとした。話を聞くと、どうも橋の手すりについての意見の食い違いが原因らしい。

 

――橋を渡るのって、怖いよね。手すりから転げ落ちたらどうしようって思っちゃう――

 

 栗色をしたセミロングの癖っ毛の、どことなくタコを連想させる髪型をした方の子が、橋を渡るときに、そんな事を言ったそうだ。

 その子は小学5年生だったらしいが、なるほどそれにしては背が高い方で、そう思うのも無理はなかったという。

 ただ、もう片方は一目で平均身長よりも背が低いと分かる子で、そういう感覚がいまひとつ掴めなかったらしい。

 かみ合いそうにない話は切り上げて、別の話題に移れば何も問題なかった。が、タコっぽい髪型の子はあいにくそこまで器用で無かった。というか、はっきり言って不器用だった。

 

――……ちゃんは、ちっちゃいもんね――

 

「……小学生達が喧嘩になった事情は分かったけど、それで何でアンタがクラスメイトと喧嘩する事になったの?」

「それは私が背が高いのが原因なの」

 

 喧嘩に至った経緯が経緯なので、聞き耳を立てていたクラスメイト達もタコ(面倒くさいので以下省略)の失言を揃ってたしなめたそうだ。

 

「その子も悪気があった訳じゃないんだから、そこまで責め立てなくてもいいじゃないって思ったの」

 

 喜多村は、自身のコンプレックスをその子に重ね合わせたんだろう。同級生達と比べると、彼女の身長は高い。背の高さにまつわる嫌な思い出があったのは、容易に想像がつく。先程までの淡々とした語りとはうって変わって、言葉に熱がこもり始めた。

 結局、喜多村だけタコの肩を持って、それがきっかけで今度は喜多村とクラスメイト達の喧嘩に発展した。つまり、そういう事らしい。

 

「……お嬢様達も、割としょうもない理由で喧嘩するんだね」

 

 私は苦笑した。なんか、この学校に入学して、始めてここの連中に親近感を持てた気がする。

 

「しょうもなくないもん」

「それで。もう一週間経つのに、まだぎくしゃくしてんの。独りで頑張るね」

「私的には、譲れない線だから」

「身長が?」

「ううん、尊厳」

 

 何だかよく分からないけど、自分の信念を貫く所だけは凄いと思った。そこに痺れもしないし憧れもしないけど。

 

「でも、仲直りはしたいんでしょ?」

「うん。だけどどうしたらいいか分からない。」

「じゃあ、私が仲直りの秘訣を教えてあげるよ」

「本当!?」

 

 私の申し出に、喜多村は目を輝かせた。別にコイツには義理も何もないが、周りから浮いてしまった者同士、親近感が湧かないこともない。何より本人が望んでいるのなら、手助け位してやってもいいだろう。

 

「何も難しいはないよ。アンタ吹奏楽部なんでしょ? 仲直りしたい気持ちを言葉で表現し辛いなら、音楽で表現すればいいじゃん」

 

 




ギャルっぽい上に、気の強そうな岡先輩とみぞれがひとつところで上手くやっていく絵面がどうにもこうにも想像できなかったので、昔はわりとボッチだったという設定にしてみました。同病相憐れむってやつです


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ファゴットの邂逅 後編 (ミッションスクール中等部・岡美貴乃 視点)

「ぼっちちゃんに友達絡みのアドバイスを期待した私がバカだった……」

「ただの思いつきなのは否定しないけどさ、さすがにその言いざまはあんまりだと思うわよ!?」

「あんまりなのは岡さんの電波なアドバイスだよ……」

「別に仲直りのタイミングでBGM流せって言ってる訳じゃないわよ。吹奏楽部で小コンサートでも開いて、喧嘩したクラスメイトを招待したらどうって言ってるの。お嬢様達にはお似合いの、高尚な遊びでしょ?」

「むむむ……」

 

 音楽は平和を運ぶ。なんて、月並みな言葉を私も信じている訳じゃない。ただ、お気に入りの音楽を聞いていると心が和む。それは日頃から実感しているのでよく分かる。そもそも喧嘩のきっかけが些細な事なら、仲直りのきっかけも些細な事でいいはずだ。

 我ながらナイスアイディアとは思ったものの、当の本人はイマイチ気乗りしないのか、放課後になっても教室の机に突っ伏したまま。うーうーと唸っていたが、他に妙案も思いつかなかったのか観念して立ち上がった。

 

「……わかった。先生に相談してみる」

「よし、いってらっしゃい」

 

 私は手をヒラヒラと振って、喜多村の健闘を祈った。

 

「岡さんも来るんだよ!」

「なんでよ!?」

「言い出しっぺでしょ!」

 

 雄弁はなんとやら、私は喜多村に音楽室まで引っ張られる羽目になった。

 とはいえ、この学園は広い。幼小中高一貫教育という事もあり、敷地内の設備も充実している。伝統ある学校という事もあってか、敷地面積は私が通っていた小学校とは比較にならないだろう。校舎から音楽室のある棟まで移動するだけでも一苦労だ。

 

「喜多村。アンタいつもこんな苦労して部活行ってんの……」

「これもある意味、吹部のトレーニングみたいなものだから……」

 

 喜多村は息も絶え絶えになりながら答えた。

 吹奏楽部と、運動部の真似事みたいなトレーニング。2つのパズルが私の中で噛み合う事はなかったが、私も余力はなく敢えて追及する気にもなれない。そしてようやく目的地に到着。喜多村が音楽準備室をノックすると、室内から「入りたまえ」といういささか芝居がかった女性の声が返って来た。

 

「失礼しまーす……」

 

 喜多村に続いて足を踏み入れる。音楽準備室に入るのは初めてだ。奥には、ピアノが1台鎮座している。その周りを囲むように、楽器棚や譜面台が所狭しと置かれている。まるで音楽の城塞だ。音楽関係の施設なんだから、当然と言えば当然だが。

 

「すまないね。今さっきまでピアノの手入れをしていてね。こういう時でなければ私の方から扉を開けて招きいれるんだが」

 

 ピアノ椅子に陣取った女の先生が申し訳なさそうな顔をして声をかけてきた。おそらくこの人がお目当ての吹部の顧問なのだろう。黒い髪を後ろできつく束ねあげ、濃い目の黒服でほっそりした体型が強調されている。綺麗というより格好いいという印象が先に来る人だった。

 

「ともあれ我が城へようこそ。喜多村くんは今日も校則ギリギリのスカート丈からのぞくすらりとしたおみ足がまぶしいね。遵法精神など歯牙にもかけぬ君のささやかな中二病の発露は、後進達が私もかくありたいと思うレジェンドへと育つのか、ああはなりたくないものだと思われる黒歴史へと育つのか、はたまた凡人のごとく萎んで消え失せてしまうのか。未来は神のみぞ知るといったところかね」

 

 え、なにこの人。私目的地を間違えた?

 私は一旦部屋を出て教室のプレートを確認する。音楽準備室。間違いない。

 また部屋に入る。中にはピアノや譜面台、楽器棚には楽器がずらり。間違いない。

 

「絵に描いたような美しい"私、場所間違えた?"ムーヴをありがとう。しかしメガネをかけていないせいであっさり淡麗風味すぎるね。50点だ」

「先生は相変わらず採点が厳しいです」

 

 喜多村はこの変なのの事は承知しているらしく、苦笑するばかりだ。

 

「これでも一年生には甘めに採点しているうもりだがね。それよりも喜多村くん。君はこの子に私の事をよく教えないまま不意打ちを喰らわせたようだね。気分はさしずめドッキリ成功、してやったりといったところか。このいたずら小僧ならぬいたずら小娘め。タチの悪い悪戯(いたずら)は友達を無くしかねんぞ」

「それは大丈夫です。私も悪戯は時と相手を選んでやりますから」

「ほう、それでは彼女が噂の岡くんかね」

 

 先生はピアノ椅子から立ち上がって私の前に歩み寄ってきた。背が高い。180cm以上はあるだろう。私は少し気圧(けお)されながら、軽く頭を下げた。

 

「……岡 美貴乃(おか みきの)です。喜多村とはクラスメイトです」

「私は中等部の吹部の顧問をしている橋本 正子(はしもと まさこ)だ。はしもっちゃんと呼んでくれていい。君の噂は伝え聞いているよ。周囲の愚劣な社会や人々に対して背を向けた、孤高の狼。躾の行き届いたチワワ達は関わり合いを恐れてただ遠巻きに見守るだけだとね」

「いや愚劣だなんて思ってませんけど。場違いなところに来てしまったとは思ってますけど。ぐれて不良化したと思われるのは心外なんですけど」

「まだ青い君にひとつ、人生訓を垂れてあげよう。不良というのは非行に走る分かり易いタイプと、協調性の欠如から孤立して斜に構えるようになるタイプに二分されるのだよ。君はどちらかと言うと後者だろうね」

「こ、孤立してねーし!」

「私も後者だったから案ずるな!」

「先生、それは全く自慢になりません」

 

 喜多村が突っ込む。

 うちの吹部の顧問が変人過ぎる。……なんてラノベのタイトルみたいな言葉が浮かんだ。ここまで癖の強そうな先生を見たのは初めてかもしれない。

 

「私も後者だったから案ずるな!」

「何で2度言う!? だから孤立してねーって!」

「休み時間は、用があるふりをして校内を徘徊しているのにかね? そんな小細工したところで、ぼっちである事を隠し続けるにも限度があるぞ」

「ストーカーかあんたは!?」

「今も昔もぼっちの考えることなどそうそう変わらんということだ。経験者を見くびるな」

 

 見くびるとか以前に、人間としてどうかと思う。この教師。

 とりあえず分かった事がある。このセンコーは根本的に相容れないタイプだ。私の中で、この女は要注意人物とマークをつけた。

 

「それゆえ必要とあらば私自ら矯正に出向くところであったが……、どうやら杞憂だったようだ。こうして吹部の顧問である私のもとに、吹奏楽部員である喜多村くんと一緒にやって来たという事は、つまりそういう事だと解釈していいのだね?」

「違います」

 

 別に吹奏楽部に入る為に来たわけではない。

 

「なんだ、違うのかね。このままではいけないと、自発的に動く内はまだ救いがあるものを」

「吹奏楽部に、一働きしてもらいたいことがあってきたんすよ」

 

 私が投げやり半分にそう言うと、橋本先生は目を丸くした。

 

「……ふうむ。確かに私は君の事を見誤っていたようだね。吹奏楽部員でもない一年坊が、吹部をパシらせようとは。これはよほどの大物か、それともどうしようもない身の程知らずか。君の思惑を、しかと拝聴させてもらおうではないか」

 

 私はここに来た経緯を橋本先生に伝えた。先生は私の話に一々頷き、やおら口を開いた。

 

「話は分かった。喜多村くん、今日のミーティングで、今年の部活の方針を決める事になっているのは無論知っているね」

「はい」

「今の話も今日のミーティングで、合わせて(はか)ってみよう。喜多村くんの力になれるかどうか、それはミーティングの結果次第だが、おそらく大丈夫だろう。私の可愛い子供達はみな人が良いからね」

「先生は、吹奏楽部の部員の事を私の可愛い子供達っていうの」

 

 喜多村が、私の耳に(ささや)いた。

 

「ああそれと。岡くん、君もオブザーバーとしてミーティングに参加したまえ」

 

 なんでよ。本日2回目。

 

「まだどの部活に入るか決まっていないのだろう? ならば丁度いい。吹部の活動をその目に焼き付け、後日の検討材料とするがいい」

 

 

 

 

「はーい、みんなちゅーもーく」

 

 放課後の音楽室。結局流されるまま、私も吹奏楽部のミーティングに参加する羽目になった。部員が揃ったのを見計らって、吹部の部長と思しき人が音楽室の前方に置かれた指揮台に昇って手を叩く。

 

「今日は、今年の吹部の方針を決めたいと思います。具体的には、コンクールで上位進出を目指して厳しくやるか。それとも気楽にやるか。どちらかです。これから一年間の活動の指針になるので、皆さんよく考えて下さい」

「コンクールは、吹奏楽部にとっての一大イベントなの」

 

 喜多村が、吹奏楽のすの字も知らない私向けに教えてくれたところによると。

 コンクールでは、主催側が指定するいくつかの課題曲の中から好きな曲を一つ。コンクールに参加するそれぞれの吹奏楽部が自分達で選んだ曲を一つ。二曲合わせて15分以内の合奏を行うという。

 大会の流れは、最初の都道府県大会が7月末から8月初め。支部大会が8月下旬。全国大会が10月下旬、という感じでかなり長期間に渡っている。

 コンクールで演奏する二曲の練習に取りかかるタイミングは学校によるらしいが、部活動のかなりの時間、コンクールの練習につぎ込む事になるのは間違いない。まともに参加する気なら。

 私は飽きっぽい。たった二曲。合わせても15分で終わるものを、何ヶ月も繰り返し練習するのかと思うと、よくも気が続くものだと呆れ感心する。

 

「岡さんは、気楽にやる方、厳しくやる方、どっちがいいと思う?」

「どっちでもいいよ。私は」

 

 喜多村の問いかけに、投げやりな返事をした。そもそも私は部外者だ。吹奏楽部にヘルプをお願いしただけで、吹部の方針など知った事ではない。

 一方の部員達の反応はどんなものかと、ざっと音楽室の中を見回してみたが、ある事に気付いた。入部間もないわりには、どこか覇気が感じられない同級生が少なくない。この学園の中等部は、部活は全員参加。帰宅部は家庭の事情などの特例を除いて認められていない。他に興味がある部活もないので仕方なく、といった感じで無理に駆り出された雰囲気があった。

 そんな新入部員達を前にして、それまで音楽室の隅に寄りかかっていたあの先生が声を上げた。

 

「決を採る前に、私から言わせてもらっても良いかね?」

 

 新入部員達の視線が橋本先生に集中する。上級生達は心得た様子で、どうぞと先を促した。

 

「まずは新一年生の諸君。吹奏楽部への入部おめでとう。私は、いや、我々吹奏楽部は諸君を歓迎する」

 

 そう言って橋本先生は拍手した。歓迎というわりには、表情も声音も笑っていなかった。

 

「一つだけ確認しておきたい。諸君も小学校でリコーダーや鍵盤ハーモニカぐらいは習っただろうが、トランペットやクラリネット、サックスなど、吹奏楽で使う楽器までかじった人はいるかね?」

 

 橋本先生の質問に一年生同士、顔を見合わせては首を振る仕草を繰り返す。

 

「私はミーハーだから。興味本位の入部なの」

 

 喜多村が、ぺろりと舌を出して呟いた。まあ、部活の入部理由なんてそんなもんだろう。一年生達の反応は、先生にとっては想定の範疇だったらしく、特にこれといって気にする様子もなかった。即戦力になりそうな新人を漁ろうとしたわけではないらしい。

 

「まあそんな酔狂な人間はそうそうおらんだろうな。吹奏楽は、諸君のように中学にあがってから始める人がほとんどだ。別にがっかりしている訳ではないぞ。新入部員の経歴の確認は、毎年やっている事でね。例年と比べて、諸君の経歴にあまりにも偏りがあるようだったら、余計な発言になるかもしれないから黙っているつもりだったのだ」

 

 そう言って、橋本先生はぐるりと音楽室を見回した。

 新入部員達は先生の発言の意図を(はか)りかねているようだった。ただならぬ気配を察してか、不安げな顔をしている者もいる。

 

「私は、吹奏楽初心者の諸君に、コンクールの為に長い時間練習させるつもりはない。いや誤解しないでくれたまえ。コンクールに参加する事自体を認めない、と言っている訳ではないのだよ」

 

 橋本先生の発言は、私や喜多村が予想していたよりも斜め上だった。先生は、驚きざわめく一年生達を尻目に、音楽室の黒板に"60%の演奏"という短い言葉を書き込む。

 

「60%の演奏。これが私の吹奏楽に対するモットーだ。吹奏楽の世界に入り込んだばかりの雛鳥である諸君は、コンクールで演奏する曲にせよ、別の機会に演奏する曲にせよ、がっつり100%完璧に仕上げる必要はないのだよ」

 

 それから橋本先生は、黒板に絵を描いた。下手な絵だった。それでも、その絵がトランペットを楽しそうに吹いている子と、辛そうに吹いている子を描いている事は分かった。

 

「今ここにいる上級生の中には、演奏が上手い子もいれば下手な子もいる。初心者の諸君も、夏になるころには出来る子と出来ない子で分かれてくるだろう。だが私は、吹部を、出来ない子にとって肩身の狭い空間にするつもりは更々ない。部員全員で出来る事をみんなで考えてやりたいのだよ。一緒になってつくる音楽の楽しさを、まずみんなに知ってほしいのだよ」

 

 音楽室が静まり返っている。みんな橋本先生の言葉に聞き入っている。どうやら、この変人教師は音楽に対するこだわりだけはいっぱしのものを持ち合わせているらしい。私もいつの間にか、先生から目を離せなくなっていた。

 

「だから、全体としては60%の演奏でいい。そこまで出来たら、新しい曲の練習に入る。そうやっていろんな曲に親しみ、演奏を楽しんでもらいたい。長い時間をかけて、一つ二つの曲に真剣に取り組み、観客を感動させる音楽も勿論ある。だがそういうのは、吹奏楽の強豪校や高等部に進学してからでも遅くはない。高校生になってから思いっきりやってほしいのだ。というのも……」

 

 それまでとくとくと持論を展開していた橋本先生が、急に重苦しい雰囲気を漂わせ、沈鬱な視線で私達一年生を見やった。

 

「やる気に溢れて吹部の門を叩いてくれた新入生諸君に水を差すような事を言って、本当に申し訳ないと思っているよ。だがコンクールでいい賞を取りたい。それがどれだけ大変な事か、深く考えず周りに流され、厳しい活動についていけず吹部から去っていく子を、吹奏楽を嫌いになってしまった子を、私は何人も見てきたのだ。君達にはそんな風になって欲しくない。私からは以上だ」

 

 長話をよく聞いてくれたねと、橋本先生は深々とお辞儀して音楽室の隅に引っ込んだ。

 座はしんと、静まり返ったままだ。喜多村もただぼうっとして、先生を見つめていた。

 この先生は、部活の顧問よりアジテーターの才能があるんじゃなかろうか。コンクールに力を入れる方向性も否定はしない。口ではそう言うが、相手を懐柔して自身の意見を通そうという油断無さが垣間(かいま)見える。今のスピーチを聞いて、コンクールに力を入れる方向性に票を入れようという子が、どれだけ出てくるというのか。

 先生の話は長くてくどかった。だけど、先生の熱意と言いたい事は素人の私にも、いや、多分、新入部員全員に伝わったと思う。

 

 それから10分ほど、一年生同士で意見を交換し合ってから部の方針を決める決が取られた。

 

 多数決にならなかった。

 

 先生は事前に理論武装をしている。一方、興味本位で入部した一年生に、吹奏楽に対する深い考えなんてない。もっともらしい意見を提示されれば、草の様になびく。声に出して先生の主張に賛意を表明する人、頷く人、手を上げる人。表現は人それぞれだが、一年生全員、先生の考えでよしとした。

 吹部の先輩達は先輩達で、やはりこうなったなという感じの苦笑いをしている。

 

「おやおや。いくら大人しい子揃いの学校と言えど、毎年一人や二人くらいは捻くれた子が出てくるものだがね。今年は特に素直な世代なのか。可愛い奴らめ」

 

 嬉しさの発露か、橋本先生は気色悪く腰をくねらせる。自重しろオバハン。

 

「捻くれた子も、先生に籠絡(ろうらく)されちゃいましたけどね」

「人聞きの悪い事を言うのはやめたまえ。私の真摯な思いが通じたにすぎんさ」

「はい先生、お~い〇茶」

「感謝感謝。私ももう若くないのかね、長話すると喉にこたえるよ。でも緑茶よりほうじ茶の方がいいかな」

 

 部長の皮肉にも、橋本先生は(しゃく)に障った様子もなく軽々と受け流し、部員の差し入れにも、遠慮なく我がままを言う。自由な空間だった。そしてそういう自由さが、私は嫌いではなかった。

 

「では吹部の方針も決まったことだし、さっそく私の可愛い子供達に、お披露目の機会を与えようではないか。新入部員の喜多村くんにオブザーバーの岡くん。お願いできるかね?」

「はい!」「は~い」

 

 2人そろって、返事した。橋本先生の扇動にあてられたか、喜多村は興奮気味に。私は肩をすくめながら。毒を喰らわば皿までだ。私は喜多村と横並びで指揮台に立ち、深呼吸した。

 

「実は――」

 

 

 

 

 2年前。吹部入部前の、懐かしい日々に思いを馳せていると、慌ただしい足音と共に音楽室の扉が開いた。

 

「遅れてごめん美貴! あれ……蔵守くん今日もいないね?」

 

 蔵守が音楽室から去って間もなく、来南が入れ替わりにやってきた。

 

「ついさっき出てったよ。来南の気配を察知して」

 

 実際のところは、気配でも何でもない。三年に進級して、来南とクラスが別々になってからも、月曜に限って音楽室で一緒にお昼を摂るようにしている。息がつまる学園生活の中で、数少ない癒しの時間だった。

 いつも昼練に来る蔵守も私のスケジュールを把握して、隣の教室で練習するようになった。私と来南の二人の時間を、邪魔しないでおこうとでも考えてるのかもしれない。

 まったく、小賢しい後輩だ。だけど、そういうところは嫌いじゃない。

 

――月曜だけ一緒に食事なんて、別居夫婦みたいですね――

 

 あらぬ言葉を口走った時は、一発かましてやったが。

 

「気配て。彼にはセンサーでも付いてるの?」

「付いてんじゃないの? 香水検知センサーとか」

「私そんなに匂う!?」

 

 来南は慌てて制服の(そで)を鼻にあてて、すんすんと嗅ぎだした。袖からは、綺麗に爪先を切り揃えた手がのぞく。出会った頃は、いかにも苦労知らずな、お嬢様風のしなやかで繊細な手だった。それなりに重いファゴットを両手で抱える時間が長くなり、いくらか指先に肉がついたような気もする。それでも私の指と比べれば、やはり細い。

 

「世間知らずのお嬢様にアドバイス。自分の匂いなんて、自分じゃ分かりはしない」

「むー。それ位、私だって知ってるもん」

 

 来南が膨れっ面をしながら、隣の椅子に座った。

 

「遅れたお詫びに購買で買ってきたゆで卵、一つあげる」

 

 味ついてて美味しいよ、と喜多村が寄越したゆで卵の殻は簡単に剥けた。家庭科で聞きかじったところでは、茹でた卵を冷たい塩水でもどすと、浸透圧やらの関係で味がつき、殻も剥けやすくなるらしい。私は一口で頬張って咀嚼(そしゃく)した。ほどよい塩味が舌に心地よい。思わず口角が上がってしまう。

 

「美味しそうだね」

 

 私の様子をしげしげと眺めながら、喜多村もゆで卵の殻をむき始めた。

 

「天にまします我らの父よ。命を繋ぐ為とはいえ、生命の根源たる卵を食す私の罪をお許しください。アーメン」

 

 ぎょうぎょうらしく十字を切った後、喜多村は剥き上げたゆで卵にかぶりつく。やっぱりお嬢様は世間知らずである。

 

「それ無精卵だから。食っても命を奪った事にはならないわよ」

「むせいらん?」

 

 卵を頬張ったまま、喜多村が首をかしげる。はしたないぞ。

 

「ヒヨコが生まれてこない卵のこと。鶏って、つがいがいなくても卵を産めるの」

「へー。(かえ)ってもこない卵を産むなんて、ニワトリも生産性の無いことやってるねえ」

「鶏がじゃなくて、人間がそうさせてんのよ。食べようと卵割って育ちかけの雛とか出てきたら、食欲が減退するくらいじゃ済まないから」

 

 そんな私も小学校に上がりたての頃は、スーパーの卵を四六時中懐に抱え込んで温めたのに孵ってこない事にわんわん泣いた事がある。あの頃は私も青かった。

 サンドイッチを摘まみながら、私は呟く。

 

「用があったのなら、別に無理して来なくてもよかったんだけど。一人で気楽に食事ってのも悪くないし」

「あー。美貴ったら。またそういう捻くれた言い方するんだから。少しは丸くなったけど変わらないね、そういうとこ」

 

 2年前の、クラスメイトと来南の、ぎくしゃくした関係も吹部の活躍で元鞘に収まっていた。友達付き合いなんて面倒くさい。ずっと一緒だと息が詰まる。負け惜しみでもなく本気でそう思っている私は、これでようやく一人に戻れると思っていた。

 そんな時にニコニコ顔で喜多村はやってきた。

 

――はい。吹部の入部届! 余計なところは私が書いといたから、後はサインするだけだよ?――

――……――

 

 橋本先生のあの演説を聞く前だったら、間違いなく来南をしばき倒していただろう。あれが、どこか私の心を震わせるところがあったのも確かだ。他に入りたい部活もなかった。気が付いたら、私はサインしていた。

 

 吹部という居場所ができてから、私も多少は丸くなったと思う。前よりも表情が柔らかくなったね、と吹部仲間にも言われた。

 だけど根っこの部分までは、そう簡単に変わらない。

 サンドイッチを頬張りながら、部活の事、それぞれの家の事と、とりとめのない話を繰り返した。クラスで孤立している事を匂わせるような話題は、慎重に避けた。来南に余計な心配をさせたくないというより、心配してくる事自体が、私にとっては重荷だった。そういう雰囲気を感じ取ってくれるのか、噂くらいは耳に入れているはずの来南もクラスの事は切り出してこない。

 

 後輩の、蔵守の事が話題に昇る頃には、昼食もほぼ食べ終えてしまった。

 

「最近は毒を消したり、呪いを解いたり、情けない冒険者を生き返らせたりで、いろいろ動き回ってるよね。彼」

「一年のお(もり)で忙しいだけでしょーが」

 

 ミッション系だからといって、蔵守はどこぞのRPGの神父の真似事をしているわけではない。新入部員の指導で忙しいのだ。最初の内は二年生全員に持ち回りでやらせたものの、蔵守の代は特に不器用なのが多かった事もあって、すぐに問題が続出した。

 中学から始めたのだから無理もないけど、どうしても二年の指導は片手落ちなものになって、やり直しになる。二度手間になってしまうのだ。この分野では同級生より1年アドバンテージがあるせいか、意外な才覚を発揮した蔵守に任せるのが一番良いと分かり、それ以降はアイツに初心者指導を全権委任する流れになっている。

 

 最後に残ったサンドイッチのかけらを口に入れた。口の中に、マヨネーズの酸味が効いた爽やかな味わいが広がる。

 椅子に背中をあずけて、半分仰向けになりながら天井を見上げた。口を拭おうと、引っ張り出したティッシュペーパーの余りを顔の前にかざして、息で吹きあげる。吹きあげたティッシュは、いくらも経たずして顔面に被さった。

 

「私なら、もっと長く吹きあげられるよ」

 

 来南は、私の視界を覆うティッシュを摘むと、同じように天井に向かって息を吹きあげた。ティッシュを落とさないようにするのはなかなか大変だが、来南はこれが好きだった。余計な事を考えずに集中できるかららしい。

 

 ……十三、十四、十五秒。ようやくティッシュが来南の鼻に落ちる。

 

 その間、来南は椅子に座ったままで、首を動かすだけでティッシュの動きを調整してみせた。確かに上手い。同級生では、このやり方で十秒超えられるのは数えるほどしかない。せいぜい七、八秒が関の山だった。来南はやや上気した表情で、呼吸を整えながら私を見返してきた。

 

「どう?」

「はいはい、凄い凄い。その肺活量を本番でも生かしてちょうだい」

 

 担当する楽器がファゴットに決まっても、一年時の春先は腹式呼吸の練習が続いた。肺活量を鍛える為らしい。他の楽器を担当する同級生達は、それでいい音が出るようになったと口を揃える。私は音が小さいとよく言われるので、そんな実感はわかない。

 腹式呼吸の練習は、「10人いれば10の個性があってそれでいい」という先生の方針の基、様々な方法が提示された。そして、みんなそれぞれ自分に合うと思った方法で好き勝手にやっている。

 ただ、来南は本番ではどこか硬くなるところがあって、せっかくの能力を生かしきれてないふしがある。人前での演奏なら、私は来南に負けていない。

 

「ぐぬぬ。……ところで、二人で何を話してたの?」

 

 旗色が悪くなったのを察してか、来南は強引に話題を変えてきた。

 

「進学先の事を、ちょっとね」

「そっか。外に出るなら、そろそろ考えておかないといけないからね」

 

 来南には、もう高等部には進まない事は伝えてある。

 必要はなかったけど、橋本先生にも伝えた。飽きっぽい私が今日まで部活を続けられたのも、吹部の、というより先生の吹奏楽に対する方針が水にあったからだ。吹部の居心地は、悪くない。もう三年生なのに、未だに馴染めずにいるこの学園にあって、唯一落ち着ける時間だった。吹奏楽部員という事で、音楽室でお昼を摂っても文句を言われないのもありがたかった。

 

「あっちは北宇治に進学する人、多いんだってね」

 

 来南が、窓から東中の校舎をのぞいて呟いた。

 

「うん。今のところは北宇治も候補かな」

 

 断りを入れた時に先生からは、吹奏楽を本気で続けたいなら北宇治はやめておきたまえと言われた。もっとも私はそこまで本気で取り組むつもりは無い。だから選択肢の一つとして消えずに残っている。そもそもこの学園の中等部の吹部だって、コンクールの方は大した成績を残せてはいないのだ。偉そうなことを言える立場ではない。

 

「北宇治に行くとしたら、美貴は何したい?」

「そだね。いろいろあるけど、まずは髪を伸ばしてみたいかな」

 

 私の髪は緩いウェーブのかかったくせっ毛。ロングにした方が良さそうに思うんだけど、ここの校則は肩下まで。よく調べずこの学園に来た事に懲りたので、そこら辺の事前調査に抜かりはない。

 あと、タイツも履きたい。腰を浮かして、足で踏ん張る演奏を続けてる内に、心なしか脚も太くなった気がする。以前までは気にならなかった男子の視線も、最近は気になってきた。

 

「うん。美貴はそっちの方が似合うと思うよ」

 

 来南は屈託のない笑顔で、私の髪を撫でてくる。……コイツはこういう調子で、他の子ともグイグイ距離を詰めていくんだろうなあ。どうでもいいけど。

 

「吹奏楽は続けるの?」

「ファゴットがあればね。弱いくせに上下関係厳しいみたいだけど、それで居場所は作れると思うし」

 

 中学の吹部は、皆ゼロからのスタートだからいい。高校は、そうではない。私みたいな偏屈者(へんくつもの)が吹部の中で居場所を確保するには、演奏の上手さという誰にでも分かる吹奏楽部員としての威厳が必要になってくる。つまり、一度手に入れたキャリアは捨てられない。

 

「私も、北宇治に進学しようかなあ……。高等部はなんかゴタゴタしてるみたいだし」

「中等部で橋本先生の信者になった先輩達が、高等部の吹部の方針に噛みついてるって噂?」

 

 私の返事に、来南は二つ返事で頷いた。

 私が高等部にそのまま進学したくないのは、学園の雰囲気に馴染めないからばかりじゃない。

 この学園の高等部の吹部は、中等部とは対照的なところがある。新入生の入学式が終わってすぐ、4月の早い段階から長い時間をかけてコンクールに向けての練習に取り組んでいる。コンクールの課題曲は前年度には公表されるので、早い学校だと進級前から課題曲の練習を始めるところすらある。そういう学校に負けまいと、毎日の活動も厳しく、脱落する部員も後を絶たないという。飽きっぽい私には、とてもついていけそうにないスタイルで、心の底から敬遠していた。

 同級生達の間でも、あれが音に聞くブラック部活かとまことしやかに語られている。まあ、そういうスタイルの部活が根絶できるはずもないが。ブラック部活に対する世間の目は年々厳しくなっているそうだが、ブラックでないうちの吹部が世間から賞賛されたこともない。ブラックだなんだと言っても、結果を残せば学校にとって広告効果は高いだろうし、強い子上手い子が越境入学して、来年以降も結果を出すための原動力となってくれる。その繰り返しで知名度は上がる一方だ。結果を出さないホワイト部活はコストパフォーマンスが悪いのだ。

 理事長が代わってから、金食い虫のくせに結果が出ない吹部に対する学園側の視線も陰に陽に厳しくなって、先生の信者も焦っているのだろう。

 

「橋本先生はまず吹奏楽に親しんで欲しかったから、そこまで厳しくしなかっただけなのに。先生の考えを絶対視してるみたい。ちょっと怖いな」

「それは橋本先生のせいでもあるでしょ。あのアジ演説は毒が強すぎたと思う」

 

 あれがあったからこそ、覇気の無い同級生が一つにまとまった。私も今日まで、吹奏楽を続ける事が出来た。だけど物事には常に表と裏がある。今、先生のカリスマ性は悪い方向に出てしまっている。

 

「その点だけは北宇治なら大丈夫そうだよね。昔は強豪だったみたいだけど、もうずっと埋もれちゃってるし」

「一人二人は物好きなのが来るかもしれないけど、多数派にはならないだろーからね」

 

 私が軽口をたたくと、隣の教室から聞き覚えのある音色が聞こえてきた。

 2年前、来南とクラスメイトの仲直りに用いた曲は、去年今年の新入生歓迎会にも流用され、後輩達は少なからずお気に入りにしている。春の心地よい風が、穏やかに背中から吹き付ける。その勢いが徐々に強まり、しかし穏やかさを失わずに背中を押す。そういう趣きの曲だった。

 

「私も吹こうっと」

 

 うがいに出ていって、手早く準備を済ませた来南がファゴットを吹き始める。隣の教室の蔵守も気づいたのか、いくらかテンポを落として来南に合わせ始めた。

 喜多村と蔵守の、部屋越しのアンサンブル。こういうのも、悪くない。

 

 




前日譚終了

麗奈や希美とは、130度ほど違う主人公の吹奏楽に対するスタンスは
この中学時代に形成されていきました


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