当たり前の後ろ ~テワタサナイーヌ物語~ (吉川すずめ)
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テワタサナイーヌ以前(1)

オレオレ詐欺の被害がなくなりますように。
人を信じる人が傷つかない世の中になりますように。


「めっちゃ狭い部屋ですね」

 天渡早苗(てわたさなえ)はため息混じりにつぶやいた。

 ここは、千代田区霞が関二丁目1番1号、警視庁本部庁舎の10階にある犯罪抑止対策本部。

「悪く思わないでください。この部屋は、もともと倉庫だったのを事務室に改装したところなんです。だから狭いし採光も考慮されていません。おまけに空調も弱いから、夏は暑く、冬は寒いです」

 天渡を迎えに出た庶務の担当者が申し訳なさそうに説明した。

 犯罪抑止対策本部は、タスクフォースとして発足したという経緯があり、永続的な組織として考えられていなかった。

 だから部屋も倉庫を改装したところで間に合わされていた。

 警視庁で一番人口密度が高い部屋としても知られている。

「葛飾警察署天渡警部補は、犯罪抑止対策本部勤務を命ぜられました」

 天渡は、案内された副本部長室で副本部長を前に緊張の面持ちのまま着任申告を行った。

「副本部長室は大きな窓があって明るいじゃない」

 天渡は、眼球がこぼれるのではないかと思うほど大きなエメラルドグリーンの目で副本部長室の中を素早く一瞥した。

 事務室には小さな窓が2か所あるだけで、どことなく薄暗い。

 それに比べれば副本部長室は格段に明るい。

 副本部長室の窓からは、眼下に皇居の桜田門から半蔵門あたりまでを見渡すことができる。

 今は新緑が鮮やかだが、冬に雪化粧した皇居もまた美しい景色となる。

「天渡さん、よく来てくれました。待っていましたよ。天渡さんには、いま犯抑が取り組んでいる新しい仕事の担当をお願いしようと思っています。よろしく頼みます」

 犯罪抑止対策本部副本部長坂田警視長は、天渡から辞令を受け取ると穏やかな中にも威厳を保ちつつ天渡に訓示した。

 犯罪抑止対策本部という名称は長いので、内部の人間は通常「犯抑」と略称で呼んでいる。

 坂田は、国家公務員Ⅰ類採用のいわゆるキャリア警察官だ。

 犯罪抑止対策本部副本部長であるが刑事部参事官も兼務している。

 警視庁には、総務部、警務部、交通部、警備部、地域部、刑事部、生活安全部、そして組織犯罪対策部の8部がある。

 参事官というのは、警視総監、副総監、各部長に次ぐ地位にあたる。

 犯罪抑止対策本部は、八つあるどの部にも属さない。

 本部長は副総監だ。

 副総監が直接指揮する異端の部署である。

「犯抑が推進している新しい取り組みとはどのようなものですか?」

 天渡は、自分が何か特定の任務を任されるために犯抑に呼ばれたことを知り、それを坂田に質問した。

 通常、着任申告はセレモニーなので、着任者と所属長が会話を交わすことはあまりない。

 もちろん所属長が話しかければ会話をすることもあるが、着任者から所属長に話しかけることなど、まず考えられない。

 物怖じしない、相手が誰であろうとも臆せず話しかけることができるのが天渡の持ち味だ。

「詳しいことは管理官から説明させようと思っていましたが、せっかく天渡さんが質問してくれましたので少しお話ししましょうか」

 坂田は天渡に副本部長室の質素なソファを勧めた。

「失礼します」

 天渡は、坂田がソファに腰を沈めたのを確かめてから坂田と向かい合わせに腰をおろした。

 

 天渡は、外見がとても変わっている。

 髪はミディアムくらいの長さで緑という珍しい色をしている。

 さらに普通の人の耳たぶの付け根あたりから薄茶色の獣毛で覆われた耳が緑の髪を割って生えており、天に向かってぴんと立っている。

 わかりやすく言えば、人間の頭に犬の耳が生えている状態だ。

 顔は細面で顎まできれいなラインを描いている。

 しかし、両犬耳の付け根からそれぞれ両目の下までと、そこから頬を回り込んで喉元までを結んだところが耳と同じ薄茶色の獣毛で覆われている。

 そして、鼻の付け根から口の両側を通り顎の下で交差するラインで囲まれた部分だけが血色の良い肌を露わにしている。

 顔のそれ以外の部分は、犬耳より薄い茶色のごく短い毛で覆われている。

 鼻は、高くもないが低過ぎもせずきれいな形をしている。

 その鼻のてっぺんは褐色で常に湿っている。

 つまり犬の鼻だ。

 形は人間のそれだが、犬並みの嗅覚を持っている。

 獣毛の中に、眼球がこぼれるのではないかと思うほど大きな瞼が開いている。

 その瞳は髪の色をより深くしたようなエメラルドグリーンだ。

 じっと見つめられると吸い込まれそうになる不思議な眼力を持っている。

 ふっくらと柔らかな唇からは、左右一対の発達して尖った犬歯が顔を出している。

 首から下もほぼ全身が獣毛で覆われているが、毛の長さは短く短毛種の犬のようだ。

 ほぼ全身といっても、犬はお腹周りの毛が少ないのと同じように、鎖骨の下あたりから脇の下、両乳房の脇、脇腹から下腹部、そして腿の内側を結んだ範囲の中は、ヒトの肌が見えているという。

 もっとも天渡が腿の内側以外の模様を見せた異性はまだいない。

 天渡は、ヒトとしては規格外の異形といえる。

 しかし、警察官として採用されているところをみると日本国籍を持っていることは間違いないようだ。

 もちろん戸籍もあるので人外種ではない。

 天渡自身、なぜこのような異形となったのか、その理由は知らない。

 天渡には、幼いころの記憶がない。

 天渡の手元には、太陽のような明るい笑顔の女の子が茶色の小さなチワワを抱きかかえている写真がある。

 天渡が育った児童養護施設の職員から、その女の子が幼い天渡だと教えられた。

 児童相談所から児童養護施設に送られてきたとき、天渡が持っていたものはその写真一枚だけだったという。

 いつ、どのような原因で今のような異形となったのか、天渡自身が知らないことはもちろんだが誰もそれを説明してくれなかった。

 天渡は、児童養護施設から都立高校に通っていた。

 ところが、児童養護施設は児童福祉法にもとづいて設置されている施設であるため、18歳未満の子供しか入所できない。

 18歳に達した子供は児童養護施設を出て自立の道を探らなければならない。

 たとえ高校に通っている子供であっても、だ。

 天渡も例外ではない。

 18歳を迎えた天渡は児童養護施設を出てグループホームに入り、そこから高校に通った。

 天渡は、自分は将来警察官になると確信していた。

 警察官になって悪い奴らをとことんとっちめてやりたい。

 そう思っていた。

 単純だが警察官を志望するのに十分かつ強い動機だ。

 高校3年在学中に警視庁警察官採用試験を受験し、みごとに合格した。

 警察官採用試験の受験資格は充足しているはずだった。

 試験成績も優良。

 面接による人物評価も問題なかった。

 普通であればなんの問題もなく合格となるところだ。

 ただ、戸籍上は明らかに日本人であるとはいえ、どう見てもヒトと犬のハイブリッドという外見の受験者を合格させるかどうかについて警視庁は大いに悩んだ。

 前例がない。

 役所は行政の一貫性を重んじる。

 前例踏襲とならざるをえない。

 そのような中で前例にないことをやろうとすると大変な抵抗に合う。

 新しいことをやりたがらない立場からは、「できない理由」が山のように出されてくる。

 結局、事務サイドでは決着がつかず、最終的な決断が警視総監まで持ち込まれた。

「いいんじゃない?試験の点数も立派だし、採用になんの問題があるの?」

 当時の警視総監は即断した。

「ただし、ヒトとして評価できないと受験資格が根本から覆ってしまうから、科学捜査研究所でDNA鑑定をしてもらいましょう。それでヒトのDNAだったら正式に合格とします」

 異例の条件付き合格が出された瞬間である。

 合格通知を受け取った天渡は、夢がかなったと小躍りして喜んだ。

 しかし、同封されていた条件付き合格と科学捜査研究所への出頭通知をみつけ、自分がヒトとして信じられていなかったことを知り小躍りから一気に肩を落とすことになった。

 通知から二週間後、天渡は豊島区目白にある科学捜査研究所に出頭した。

 高校の制服に身を包み、電車を利用してきた。

 チェックのプリーツスカートは、今時の女子高生らしくかなり丈が短い。

 腿の内側の肌を見せないようにスカートの下にはいつもスパッツを履いている。

 腿の内側は、ミニスカートや短パンを履いたときに見えてしまう。

 今までの経験で、腿の内側を露出していると男性から好奇の目で見られることを天渡は知っている。

 運動が好きな天渡は毎日一時間の散歩を欠かさない。

 散歩をしないと運動不足が身体に溜まるような気がしてイライラする。

 自分でも犬のような性格だなと感じる部分だ。

 毎日の運動の甲斐があってか、天渡の脚はほどよく筋肉が発達して、触れると弾き返しそうな弾力を持っている。

 ただでさえ健康的で長い脚が人目を引くというのに、その脚のほとんどが獣毛で覆われ、腿の内側だけ艶やかな肌が露出してるのだ。

 男の目を引き寄せないはずがない。

 三つボタンの紺色ブレザーは、ウエストが絞られ身体に優しくフィットする。

 白のブラウスに紺色のリボンが付く。

 スカートは短いが着崩すことはしない。

 犬のような耳が生え、顔から手足まで獣毛で覆われている女子高生が歩いているのだから、道行く人の注目を集めないわけがない。

 振り返られる、指を差される、写真を撮られるといったことには慣れている。

 とはいっても決していい気分はしない。

 ときには落ち込んで涙することもある。

 自分の外見を恨めしく思わないといえば嘘になる。

「それでは、この綿棒で口の中、頬の裏側のところをこすってください。これで口腔内細胞を採取します」

 科学捜査研究所の研究員が事務的に説明して未使用の綿棒を天渡に差し出した。

 天渡が通された部屋には、明らかに必要以上の研究員が集まっているように見えた。

 今まで報告例のない獣人のDNAを分析しようというのだ。

 結果次第では、世界初の症例報告となる可能性もある。

 研究員が関心を寄せるのも当然だろう。

 天渡は、口の中を綿棒でこすると、その綿棒を研究員に戻した。

 普段、自分の外見を物珍しく見られることには抵抗を感じることがある。

 しかし、ここの研究員たちは、自分の外見より身体の構造、もっと低レベルの細胞やDNAに関心があるということが会話や態度から伝わってくる。

 天渡は、自分の細胞の中をくまなく覗き見され、医学的な研究材料にされることに軽い興奮を覚え、身体の中の深いところが柔らかく熱を帯びるのを感じた。

「結果は、およそ一か月後くらいに警視庁採用センターから通知されると思いますので、それまでお待ちください」

 学術的な興奮から顔面を紅潮させた研究員は、早口で説明するとさっさと別の部屋に検体を持っていなくなってしまった。

「あっちは学術的に興奮してるのに私ってばなにやってんの」

 天渡も頬を赤らめた。

 それから数日後、科学捜査研究所内は天と地をひっくり返したような大騒ぎとなっていた。

 天渡のDNA鑑定の速報が出たからだ。

「世界初のヒトとイヌとの生体キメラです!」

 DNA鑑定を担当した研究員が興奮を隠しきれない様子で所長室に駆け込んできた。

「今回の検体は、ヒトとイヌの遺伝情報を併せ持っています。現在の医学の知見からは説明不可能な現象です。詳細な研究は今後に回しますが今わかっていることは、どうやら元々はヒトだった種に何らかの原因でイヌの遺伝情報が入り込んだのではないかという予測です」

 研究員は一気にまくし立てた。

 研究員には、天渡の幼いころの写真の情報は伝えていないが、研究員の予測は写真の事実と符合する。

「しかも、血液型がDEA4です」

「なんだって!?」

 所長が椅子から腰を上げた。

 DEA4というのはイヌの血液型のひとつだ。

「とんでもない検体を手に入れたな」

「はい、とんでもない検体です」

 所長と研究員は興奮を通り越して薄ら寒い恐怖を感じ始めていた。

 まったく新しいヒト亜種、もしかしたら新しい種の発見となるかもしれないのだ。

「とにかくだ、採用センターからのオーダーであるヒトの遺伝情報を保有しているという結果は返せるわけだな」

 所長は、さっさとその結果を採用センターに返してしまい、じっくり研究をしようと考えた。

 一方の天渡といえば、自分はヒトの突然変異だろうくらいにしか考えていなかったので、多少結果が気になってはいるものの、いつもと変わらぬ毎日を過ごしていた。

 自分が世紀の大発見だとも知らずに。

 天渡がいつものように学校帰りに友達とファーストフード店でおしゃべりをして夕方ころグループホームに帰宅すると、警視庁採用センターと印刷された封書が届いていた。

 自分としてはヒトであることを当然と思っていたので、DNA鑑定の結果、合格が覆るようなことはないと確信していた。

 が、正直なところ少し不安だった。

 自分は誰とも違う化物なんじゃないか。

 物心付いたころからいつも天渡の心の底に澱のように溜まった感情があった。

 今日、その感情と決別できる。

 天渡は、その封書の中に自分の未来があると感じていた。

 平静を保っているつもりだったが封を開ける手が震える。

 無性に喉が渇いて仕方がなかった。

 封を開け中から三つ折りにされた、いかにも役所らしい純白「ではない」再生紙を取り出す。

「学校のわら半紙ほどじゃないけど、もう少しきれいな紙を使えばいいのに。警視庁ってお金ないのかな?」

 関係のないことを考えて緊張をほぐそうとした。

 通知文を持つ手がしっとりと汗ばんでいる。

「まだ受けたことないけど裁判で判決を言い渡される被告人の気持ちってこんな感じかも」

 天渡は、意を決して三つ折りの通知文を開いた。

「DNA鑑定の結果について(通知)」

 開いた通知文の冒頭には、そう表題が書かれていた。

「過日実施したDNA鑑定の結果は下記のとおりです」

 天渡は声に出して読み上げた。

「記」

「あなたの口腔内細胞から採取した検体を鑑定した結果、あなたはヒトの遺伝子情報を保有していることが判明しました」

「これにより、あなたは警視庁警察官採用試験の受験資格を充足しましたので、あなたを合格といたします」

 最後は声にならなかった。

 眼球がこぼれるのではないかと思うほど大きな目から、とめどなく涙が溢れ抱きしめた通知文を濡らした。

「ヒトだったんだ。私、ヒトだったんだ。みんなと同じなんだよね」

 その特異な外見から、疎外感を感じ続けてきた人生に区切りがついた。

 おそらくいじめにあったことも少なくないはずだ。

 「人外」と揶揄されても言い返せなかった。

 これからは胸を張って「私は人間です」と言える。

 心の底に溜まっていた澱が浄化されるのを感じた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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テワタサナイーヌ以前(2)

「短い間でしたけど、お世話になりました」

 天渡はグループホームの施設長にぴょこりと頭を下げて挨拶をした。

 今日から警察学校に入校するためグループホームを退所して東京の府中市にある警察学校に向かった。

 荷物はほとんどない。

 大きめのボストンバッグひとつで十分だった。

 服も学校の制服と数着の普段着しか持っていなかったので、学校の制服を着て入校した。

 警察学校では、制服の採寸があった。

 首から下は普通の人と変わらないので、既成のサイズで間に合った。

 ただ、お尻からぴょこんと伸びるフサフサの尻尾をどうするか、天渡と会計担当者で話し合いがもたれた。

 結局、支給されたパンツやスカートに尻尾を出す穴を開ける加工を施すことになった。

 その加工は天渡が自分でやらなければならない。

 立ったり座ったり、身体の動きに合わせて尻尾の位置も動く。

 うまく穴を開けないと尻尾が突っ張ってしまうことになる。

 天渡は、何度か試行錯誤を繰り返して、ベストな穴を開けることができた。

 まだ問題があった。

 帽子が合わない。

 犬の耳が天を向いてぴんと立っている。

 耳が邪魔になって普通の帽子が被れなかった。

 仕方がないので装備課にお願いして特寸で作ってもらうことになった。

 基本的なデザインは変わりないが、耳の部分だけ帽体に切込みを入れてもらった。

 出来上がった帽子を試着して鏡に写った自分を見たら、今まで見たことがない変な警察官が立っていた。

 自分でもおかしくなって笑ってしまった。

 同期生とも笑いあった。

 同期生には、自分の外見を笑われることに抵抗はなかった。

 むしろ連帯感を感じることができた。

 警察学校での生活は充実した毎日だった。

 身体を動かすことが好きな天渡にとって「訓練」と名のつくものは、さほど苦にならなかった。

 大変だったのは座学で、元々こぼれるほど大きな目をしているので、ちょっとでも居眠りをするとすぐ見つかってしまう。

 大きな耳が天に向かってぴんと立っているので、頭が揺れるとこれまた目立つ。

 よく居眠りしている割に試験の成績は良好だった。

 同期や教官からは「睡眠学習」とからかわれた。

 仲間と過ごす警察学校は、あっという間に卒業を迎えた。

 警察学校の川路広場で教官と助教から最後の指示を受けた。

 警察学校では、指導担当の警部補を教官、巡査部長を助教と呼ぶ。

 教官は、くどくどと長い話をしたが、話が長かったので何を言っていたのか忘れてしまった。

 助教は、たった一言

「死ぬなよ」

 とだけ声を詰まらせ目を赤く腫らしながら力強く指示をくれた。

 その助教は、昭和47年に発生した、共産主義革命を夢見た青年たちにより結成された「連合赤軍」のメンバー5人が浅間山荘の管理人を人質に立てこもり、包囲する機動隊にライフル銃などで応戦した「あさま山荘事件」に第二機動隊の隊員として出動した経歴を持つ。

 あさま山荘事件では、第二機動隊長が犯人の狙撃を受け隊員たちの目の前で壮烈な殉職を遂げた。

 当初、警視庁の第二機動隊は、山荘への突入部隊となる予定だった。

 しかし、指揮官を銃殺された状態で隊員を山荘内へ突入させた場合、犯人を射殺してしまうことが危惧された。

 警察庁からの司令は、犯人の逮捕であって射殺ではなかった。

 そこで、第二機動隊は後方へ下げられることとなり、犯人逮捕により隊長の死に報いることができなかった。

 今でも警視庁本部庁舎2階にある警察参考室に当時出動した第二機動隊員の寄せ書きが展示されていて、そこに助教の名を見つけることができる。

 もう定年目前の年齢で、普通であれば警察学校に助教として在籍していることはないはずだが、この経験を若い警察官に語り継ぐため、特例としてずっと在籍している。

 その助教が言う「死ぬな」は、天渡らに特別の重みを持って伝わった。

 

 警察学校卒業後、天渡は交番勤務から警察人生をスタートさせた。

 物怖じしない、誰にでも話しかけることができる天渡にとって、交番勤務は楽しいものだった。

 巡回連絡で一戸ずつ訪ねては住民と話をするのが好きだった。

 特にお年寄りの家を訪問して、他愛もない世間話をしていると時間が経つのも忘れてしまい、交番に戻る予定の時刻を過ぎてしまうこともあった。

 身寄りがない、幼いときの記憶もない天渡にとって、お年寄りとの交わりは、自分に欠けているパーツを補ってくれるような貴重な時間だった。

 そんな楽しい毎日を送っていたある日、事件は起こった。

 天渡の受け持ちのおばあさんがオレオレ詐欺の被害に遭ったのだ。

 何度も訪ねたことがあるおばあさんで、オレオレ詐欺の話もしていた。

 オレオレ詐欺の手口も説明していたし、そのおばあさんもよく理解してくれていた。

 オレオレ詐欺の手口をよく知っているし、気をつけてねと何度も言っていたので、おばあさんが被害に遭うことはないだろうと思っていた。

 そんな矢先におばあさんは、オレオレ詐欺の毒牙にかかってしまった。

 なぜ?

 あんなに何度も気をつけてねと念を押していたのに。

 天渡は、被害を防ぐことができなかった自分を責めた。

 なにが足りなかった?

 どうすれば被害を防げた?

 いくら自問しても答えを導くことはできなかった。

 しかし、本当に辛いのは天渡ではなく、被害者のおばあさんだった。

 被害に遭ったことを家族に打ち明けたところ

「毎日のようにニュースでもやってるのになんで騙されてるんだ! まったく信じられない。ボケてるんじゃないのか?!」

 と激しく叱責され、そのおばあさんはすっかり鬱ぎ込んでしまい、事件から一か月後「ごめんなさい」と短い遺書を残して自ら命を絶った。

 おばあさんの自殺を知り天渡はひどいショックを受けた。

「被害者が自殺をしなきゃならないなんて間違ってる!」

 お年寄りの老後の蓄えのみならず命まで奪い去ったオレオレ詐欺の犯人に激しい憤りを覚えた。

 それは、今まで感じたことがないほどの強い怒りだった。

 息が荒くなり涙があふれた。

 そのとき天渡の身体に変化が起こった。

 顔面の骨格がギチギチと音をたてて軋み始めた。

 鼻骨が前にせり出し、それに引っ張られるように上顎も前に伸び始めた。

 普段はかわいい八重歯程度の犬歯が大きく伸びて鋭さを増す。

 下顎も上顎と噛み合うようにせり出して、下の犬歯も鋭く伸びた。

 いま、天渡の顔は、マズルが伸びて牙を剥いた狂暴な犬のそれに変貌していた。

 顔面が変化している間、骨格の変形が天渡に激痛を与えた。

 しかし、天渡の激しい怒りがその痛みさえも感じさせなかった。

 天渡は、息を荒らげながら自分の変化に戸惑った。

 鏡を覗くと完全に犬化した自分が牙を剥き今にも噛みつかんばかりの険しい顔つきをしていた。

 このとき、初めて天渡は激しい怒りが自分をより犬に近づけるということを知った。

 自分の変化に動揺し、怒りがかなり鎮まり落ち着きを取り戻した。

「ちょっと待って。この顔って治るの? このままってことはないよね?」

 若干落ち着くと今度は自分の顔の将来が心配になってきた。

「こんな恐い顔のままじゃお嫁に行けないよー」

 天渡は悲しくなった。

「ギギギ、ギシッ」

 また顔面の骨が軋んだ。

 それと同時に天渡の顔に激痛が走った。

「痛ったーーーーーい!」

 激痛のあまり天渡は泣きながらうずくまり両手で顔を覆った。

「痛いよー! ばかーっ!」

 誰に向けていいのか分からない怒りを言葉にして悪態をつき続けた。

 その間に天渡の顔面は、マズルが戻り長く伸びた牙も元の可愛らしい八重歯程度に短くなっていった。

 顔の骨が元に戻り、転げ回るほどの痛みから解放された天渡は、あの鈍く骨の軋む音はもう二度と聞きたくないと強く願った。

「たぶん怒らなければいいのよね」

 今回、顔面の変化をもたらしたのは、激しい怒りだった。

 その経験から、天渡は予防策として激怒しないということを学んだ。

 元々穏やかな性格の天渡にとって、激怒しないという命題はそれほど難しいものではなかった。

 事実、その後天渡が怒りで犬化することは少なかった。

 

 天渡は高卒で警察官になった。

 大学に進みたいと思ったことはあるが、身寄りのない自分は経済的に自立することが先だと考え、就職してから大学に進もうと決めていた。

 天渡は、法律の勉強がしたかった。

 悪いやつらと闘うための武器は法律だと思ったからだ。

 仕事をしながら勉強するためには二部か通信教育がいい。

 天渡は、法学部に通信教育部がある大学を選び入学した。

 通信教育は、与えられた課題に対してレポートを提出する。

 レポートの提出に必要な勉強は自学自習だ。

 しかも、レポートは提出すればいいというものではなく、一定のレベルに達していると認められなければ合格とならない。

 その他にスクーリングといって通学して授業を受けなければならい期間が決められている。

 そのために自分の休暇を使わなければならないので、自分の休みは少なくなってしまう。

 通信教育で大学を卒業するためには、かなり強い意志を必要とする。

 しかも4年で卒業するのはかなり難しい。

 天渡は、これを見事に4年で卒業した。

 卒業の年、天渡は巡査部長への昇任試験を受けることができる資格を得た。

 大学の勉強と平行して昇任試験の勉強にも取り組んでいた。

 天渡は、一次試験、二次試験を順調にクリアした。

 だが、最終の三次試験で不合格となり辛酸を嘗めた。

 翌年の試験で合格を勝ち取り、天渡は巡査部長となった。

 天渡が24歳のときであった。

 高卒の場合、巡査部長から警部補に昇任するための試験を受けることができるまで、3年の実務経験を要する。

 ところが、天渡は大学を卒業したことにより大卒程度の採用区分であるⅠ類の認定を受けていた。

 大卒の場合は、巡査部長から警部補は1年の実務で受験資格が与えられる。

 そのため、天渡も巡査部長に昇任した翌年に警部補昇任試験の受験資格を得た。

 このとき天渡26歳であった。

 この年の試験も巡査部長のときと同じで最終の三次試験で不合格となった。

 三次試験の面接では、面接官に

「天渡さんは、若くて優秀なようですから、また来年も頑張ってください」

 と不合格の引導を渡されていたので不合格のショックはなかった。

 そして、翌年の試験で雪辱を晴らし、合格することができた。

 晴れて警部補に昇任したとき、天渡は27歳になっていた。

 27歳の警部補は、異例の若さといえる。

 当然、同期の中でも一番の早さだった。

 

 警部補に昇任して天渡は葛飾警察署に異動となった。

 そして天渡は、そこである男と出会うことになる。

 生活安全課長代理の山口だ。

 山口は生活安全課で犯罪抑止を担当していた。

 なかなかのアイデアマンで、事件功労以外ではめったにもらうことができない警視総監賞を防犯活動のアイデアで受賞している。

 葛飾警察署で天渡は山口とともに犯罪抑止担当として行動を供にした。

 山口は、よく紅茶を好んで飲んでいた。

 紅茶の銘柄にこだわりはないようだ。

「味の違いが分からないんですよ」

 そう言って山口は笑った。

 それは謙遜でもなんでもなく、本当にそのようだった。

 天渡も面白がって色々な銘柄の紅茶を出してみたが「今日のはおいしいですね」というのが定番の反応だった。

(今日の『は』じゃないでしょ。今日の『も』でしょ)

 天渡は心のなかで突っ込みを入れた。

(味音痴の紅茶党っていうのもあるのね)

 紅茶好きがみんな茶葉にこだわりを持っているわけではない。

 その頃、オレオレ詐欺は振り込みから現金を直接受け取りに来る手渡し型へと変わっていった時期であった。

 天渡と山口も新しい手口に対応するため忙しく街を歩き回った。

 天渡は山口と出歩くのが好きだった。

 父親と言っていいほどの年齢差があり落ち着いた雰囲気の山口といると、自分が穏やかでいられることに気づいたからだ。

「一緒にいればマズルが伸びなくて済むし」

 天渡は、そう自分に言い聞かせていた。

 ある日、山口と外回りをしているとき天渡は自分が初めて変身したときのことを思い出した。

 自分が何度もオレオレ詐欺に気をつけるように注意していたのに、なぜあのときのおばあさんは騙されてしまったのか。

「ねえ代理」

 いつの間にか天渡は山口をため口で呼ぶようになっていた。

 二人の間ではそれが心地よかった。

 もちろん、公式な場では敬語を使う。

「はい。なんですか」

 むしろ山口の方が敬語を使うことが多かった。

「警察も行政もテレビや新聞も、みんなオレオレ詐欺に気をつけてって言ってるじゃないですか」

「そうですね。毎日のように注意喚起されてますよね」

「なのに、なんでまだ騙される人がいるの? 」

 天渡は、長年の疑問を山口にぶつけてみた。

 山口なら自分を納得させてくれる答えを持っているような気がしたからだ。

「テワさん」

 山口は天渡をそう呼ぶ。

「気をつけるって、どういうことでしょう?」

「そりゃあオレオレ詐欺にひっかからないように、電話がかかってきたら相手の話におかしなところがないかよーく気をつけるとかでしょ?」

「いま、テワさんは気をつけるということを説明するために気をつけると言いましたね」

「あっ、本当だ!なんか説明したような気になってたけど、私ってばなんにも言ってない」

「そうでしょう。気をつけるって言葉、実はなんにも言ってない空っぽの注意喚起なんです」

「空っぽなんだ」

 天渡は感心したように山口の言葉を繰り返した。

「それから、気をつけてっていう注意喚起をしていて、それでも被害に遭ってしまったとします」

「あ、私だ」

 天渡は、自分の過去を思い出し、少し暗い気持ちになった。

「そうすると、被害に遭ったのは気をつけていなかったから、つまり被害者の注意が足りなかったからだ。そういうことになります」

 山口はさらに続けた。

「被害者の注意が足りなかったとするのは、警察が犯罪の予防という重要な責務を放棄して、被害者に責任を転化することになってしまいます」

「気をつけなかったあなたが悪いってうことね。確かにそれはひどい話かも」

「だから私は、できるだけ気をつけてという注意喚起をしません」

「被害に遭わないために何をしてほしいのか、逆になにをやらないでほしいのかを具体的にお願いします」

「もちろん、具体的な行動を例示するわけですから、それだけでは足りないということもあります」

「でもそれでいいんです。なんにでも効く薬は結局なんの病気も治してくれない。副作用はあるかもしれないけど、ピンポイントに効く薬の方が効き目は高いんです」

「なんにでも効く薬が気をつけてっていうフレーズなのね」

 天渡は目から鱗が落ちる思いだった。

「ねえ代理」

「はい。なんですか」

「代理はどこでそんなものの見方を覚えたの?」

 天渡は、山口の頭の中を覗いてみたくなった。

「私は母からものごとを相対的に見るということを教わりました」

「お母様から?」

「はい。母です」

「どんなことを教わったの?」

「私が中学生だったころ、勉強に行き詰まり成績が伸び悩んだときがありました」

「へー、代理でも勉強するんだ」

「ずいぶん失礼な物言いですね」

「だって代理はいっつも勉強してるようには見えないもん」

「ばれてましたか。それじゃあかっこつけるのはやめましょう」

「私は、睡眠学習と言われるほど授業中によく寝ていました」

「えっ、代理も睡眠学習だったんですか!? 私もですよ!」

「変なところが似てますね。」

 山口は苦笑した。

「睡眠学習はおいておくとして、とにかく勉強が嫌いだったので好きな教科と嫌いな教科とで成績の差が激しかったんです」

「みんなそうなんじゃない?」

「なので、嫌いな教科の成績は悲惨なものでした」

「ただ、それでも母は叱ったりすることはありませんでした」

「母は、『ビリがいるから一番がいる。ビリがいなきゃ一番もない』と言いました」

「それを聞いて私は、ものごとを相対的に見るということに気づきました。かっこよく言えばクリティカルに考えるということです」

「なんだか難しくてよくわからない」

 天渡は山口が自分の理解を越えた存在だということだけは理解した。

 

 その後、山口は警視庁本部に異動してしまった。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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テワタサナイーヌ誕生

 山口が警視庁本部に異動となり、天渡は物足りない日々を送っていた。

 山口と一緒にいる安心感は、天渡にとって特別なものだった。

 しかし、仕事の手は抜かない。

 山口に教えられたクリティカルに考えるということを実践して、目覚ましい業績をあげた。

 その活躍が人事の目に留まったのか、天渡に異動の辞令が出た。

「犯罪抑止対策本部勤務を命ずる」

 警視総監名の辞令にはそう書かれていた。

 天渡は一瞬自分の目を疑ったが見間違いではなかった。

 犯罪抑止対策本部には山口がいる。

 また山口と仕事ができる。

 まるで恋人との再会のような胸の高鳴りを覚えた。

 

「天渡さん?」

 坂田の呼び掛けで天渡は我に戻った。

 坂田にソファを勧められ、腰を下ろしたところで山口のことを思い出し、しばし意識が飛んでいたようだ。

「あ、はい、すみません」

 天渡は慌てて姿勢を正して坂田にまっすぐ向き直った。

「天渡さんには、いま山口係長が進めている広報活動に加わってもらいます」

 山口の階級は警部。

 警察署では課長代理だが警視庁本部では係長となる。

 坂田が山口係長と言ったのはそのようなわけからだ。

「山口係長とは葛飾警察署でも一緒に仕事をしていました。あの頃から普通じゃないことをする人でしたが、犯抑でも変なことをしているんですか?」

 天渡の本領発揮である。

 天渡は、誰とでも臆することなく話をすることができる。

「そうですね。変なことといえばその通りかもしれません」

 坂田は苦笑しながら肯定した。

「山口係長は、いま警視庁で、いや、全国の警察でも過去に誰もやったことがない、まったく新しい道を切り開いています」

「天渡さんもご存知だと思いますが、役所というのは前例のないことにはものすごい抵抗を示します」

「山口係長もご多分に漏れず、新しいことを拒絶するクラスタからの強烈な逆風に曝されています」

「天渡さんには、たったひとりで逆風に耐えている山口係長の相棒となって欲しいのです」

 坂田の説明は、抽象的でわかったようなわからないような、モヤモヤした気持ちになる。

 山口が何か新しいことをやっているらしく、それが内部の抵抗に合っていることはわかった。

 しかし、山口が一体なにをやっているのかさっぱり分からない。

「状況は理解しました。それで、山口係長は何をやっているんですか?」

 天渡はストレートに訊いた。

「天渡さんはTwitterをご存知ですか?」

「はい。存じ上げています」

「山口係長は、警視庁で初めてTwitterのアカウントを開設しました」

「へー」

 天渡は、感心のあまり気の抜けた変な声が出てしまった。

「そして、役所の広報の掟を破り、個人の発言を織り混ぜるという大胆な試みをしています」

「警視庁の公式アカウントですよね? そんなことをしていいんですか?」

 天渡は少し怖じ気づいた。

 警察学校から一貫して「勝手なことをしゃべるな」と教育されてきた。

 警視庁の公式アカウントで個人的なことをつぶやくなんて危険すぎる。

「それは危ないんじゃないですか?」

 天渡は感じたままを坂田に向けた。

 坂田は小さく頷くと説明を続けた。

「まったくその通りです。今までの我々が思っていた常識からすれば、組織のアカウントで個人が発言するなどあり得ないことでした」

「しかし、山口係長は、我々の常識が通用しない社会になりつつあることを肌で感じ取っていました」

「どういうことですか?」

「ソーシャルメディアが個人と大きな組織の関係に変革をもたらしたんです」

「今までは、組織の発言は広報担当がリリースを練りに練って、一分の隙もない、言い換えれば突っ込みを許さない内容、表現で発表していました」

「しかも、それは『誰』の発言でもない、主体のない無機質なものでした」

「ソーシャルメディアは、個人をエンパワメントしました」

「あ、あの、すみません。エンパワメントってなんですか? 難しくてわかりません」

 天渡は混乱した。

「エンパワメントというのは、簡単に言うと自らの力を自覚して行動できるようになることです」

「余計にわかりません」

 天渡はむっとした表情で坂田を睨んだ。

(ちっとも簡単になってない。これだからキャリアは困るのよね)

 天渡は自分の勉強不足を棚にあげた。

「ソーシャルメディアが発達する前は、マスコミが情報の発信者であり個人はその受け手でしかありませんでした」

「そのような社会で個人が発言したとしても、マスコミが発信する情報の波の中ではまったく無力でした」

「ところがソーシャルメディアの発達により、個人の発言でもクチコミによる拡散が行われるようになりました」

「しかも、それは爆発的な速さで拡散され、マスコミの情報量や速さを凌ぐほどになっています」

「こうなると個人はマスコミが発信する一方通行の情報やCMなどの押し付けられた情報を信用しなくなります」

「そこで重視されるのは共感です」

「どこの組織が発信しているのかではなく、誰が発信しているのかが重要視されるようになりました」

「それをいち早く感じ取ったのが山口係長です」

 坂田は一言ずつゆっくりと説明した。

(ようやく代理にたどりついた)

 天渡は少々疲れた。

 坂田は続けた。

「まださきほどの疑問、個人の発言を許すのは危険じゃないかという問いに答えていませんでしたね」

「山口係長が個人のつぶやきを入れ始めたとき、私たちはその発言について明確なルールをもっていませんでした」

「そんな中で個人の発言を問題視する意見が出されたとき、これでいいんだと反論することができなかったのです」

「それで、一旦山口係長には個人の発言を止めてもらったことがあります」

「そうしたらどうなったと思います?」

 坂田は風貌に似つかわしくない茶目っ気のある表情で天渡に問いかけてきた。

「まったく見当がつきません」

 天渡は正直に白旗をあげた。

「やめないでってものすごい数のメッセージが寄せられたんですよ」

「我々警察の仕事で、都民国民からやめろと言われることはあっても、やめないでと言われることなんてまずありません」

「ところが、山口係長のつぶやきには、そういう意見がどっと押し寄せたんです。これには正直驚きました」

「そのとき私は思ったんです。これは公式アカウントではあるけれども山口係長のメディアだなと」

「ソーシャルメディアの運用は、これでいいんだと直感的に感じました」

「私は山口係長に個人の発言を許容するようにポリシーの改正案を急いで作成するように命じました」

「そしてできあがったのが現在公開しているポリシーというわけです」

 坂田は天渡に一枚のペーパーを差し出した。

 そこには、犯罪抑止対策本部のTwitter運用ポリシーが書かれていた。

 天渡がそれを目で追っていくと、発信する情報の項目に「担当者の発言」と明記されていた。

 さらに「担当者の発言の性質」として一項目が立てられ「担当者の発言は、警視庁としての見解又は方針等を示すものではなく、担当者の日常における経験又は感想等を述べるものとする」とあった。

「うまいこと書きましたね」

 天渡は改めて山口の作文に感心した。

「このポリシーを定めたことで山口係長の発言に根拠を持たせることと公式アカウントの中に個人的な発言を混在させることができるようになったのです」

 坂田もこの一文は気に入っているようだった。

「さて、そこで肝心の天渡さんの任務です」

 坂田は一度姿勢を取り直して天渡に向き合った。

 坂田の真剣な姿勢に触れた天渡に緊張が走った。

「これは、天渡さんと信頼関係ができている山口係長からお話をした方がいいと思いますので」

 そう言って坂田は事務室でモニタを睨んでいる山口を部屋に呼んだ。

 久しぶりの再開に天渡は満面の笑みを浮かべ、目立たないように小さく手を振った。

 しかし、山口は軽く手をあげて応えたものの、いつになく固い表情をしていた。

 山口は坂田に促され坂田の隣に腰を落とした。

 天渡は、山口の表情から、これからの話が何か重いものであることを察した。

 天渡の表情からも笑顔が消えた。

「テワさん」

 応接テーブルに目を落としていた山口が顔を上げ、天渡に話しかけた。

 その目は、やや赤く充血しているように見えた。

 天渡は、山口が昔と同じ呼び方をしてくれたのが嬉しかった。

 これからの話が重いものであっても、山口は自分を昔と同じパートナーとして見てくれている。

 そう思うと天渡はどんな話が来ようとも受けて立つことができそうな気がした。

 

「テワさんにお願いしたいことがあります」

「なんでも言ってください。山口代理のお願いなら断りませんよ」

 天渡は自分に言い聞かせるように答えた。

「犬として道化になって欲しい」

「は?」

 予想外の言葉に天渡は声が裏返った。

「いま、オレオレ詐欺をはじめとする特殊詐欺が猛威を振るっているのはテワさんもよく知っていると思います」

「はい。私もなんとしても被害をなくしたいと思っています」

「そのために私たちはずっと被害者になる可能性の高い高齢者をターゲットに広報啓発をしてきました」

「その結果、オレオレ詐欺などの手口を知らない高齢者は、ほとんどいないといっていいほど情報を浸透させることができました」

「でも、被害はなくなるどころか増える気配さえ見せています」

「私たちは考えました。高齢者に直接訴求することで被害を防ごうとするのは、そろそろ限界なのではないか。高齢者を家庭や地域で支えることで被害を防ぐことも必要なのではないか」

「特に犯人が成り済ますことの多い息子や孫といった世代に訴えていかなければならないのではないか」

「そのためには、ターゲットに合った訴求方法を取る必要がある」

「それが私」

「ですか」

 天渡は消え入りそうな声でつぶやいた。

「警視庁は、こんな異形の私に人としての尊厳を与えてくれました。それなのに今度はその尊厳を自ら捨てて犬になれと命じるのですか。私に見世物になれとおっしゃるのですね。私の存在とは何なんですか?皆さんは私を…… 私を…… 」

 ここまで一気にまくしたてると後は嗚咽で言葉にならなかった。

 重苦しい沈黙が続いた。

 口を開いたのは坂田だった。

「天渡さんのおっしゃる通り。私たちは非道の決断をしました。これは、天渡さんの尊厳を踏みにじるものです。もし、少しでも嫌だと思うのであれば断って欲しい。無理をさせるつもりはまったくありません」

 次に山口が言葉を繋いだ。

「テワさんは、私の大事なパートナーです。誰にも代わりはできません。テワさんがこの任務を受け入れられる日が来るまで私は待ちます。決して勧めはしません」

 山口も泣いていた。

 娘のように育ててきた部下の尊厳を奪おうというのだ。

 

「私、テワタサナイーヌになります」

 

 30分は泣いていただろうか。

 顔の毛を涙でぐしゃぐしゃにした天渡が顔を上げ、強い意志を感じる低い声で宣言した。

 その目に迷いはなかった。

「たとえ仕事の上で犬になっても、私は私です。私の尊厳は私のものです。誰も私の尊厳を奪うことはできません」

「私が犬になることでオレオレ詐欺の被害を防ぐことができるのなら、喜んで道化になります。どうぞ好きにプロデュースしてください」

 天渡は考え方を変えた。

「私は女優なんだ。何者になろうとも私が消えてなくなることはない」

「ところで、そのテワタサナイーヌって何かの名前ですか?」

 山口は礼も言わずに天渡に訊いた。

 天渡が自分で決めたことに他人からあれやこれや言われることを嫌うという性格であることをよく知っていた。

「私の名前です」

「私は今日からテワタサナイーヌですからね。天渡って呼んでも返事しませんよ」

 天渡は名を捨てる決意を明るく表明した。

 自分が自分でなくなることに、科学捜査研究所で検体にされたときに感じた快感に似た熱いものが湧き出るのを感じた。

「テワタサナイーヌという名前はどこから出てきたのですか?」

 坂田がテワタサナイーヌに尋ねた。

「今は、現金手交型が主流です。そして、お金を受け取りに来る受け子は、本当の息子や孫じゃない知らない人です」

「だから、知らない人にお金をテワタサナイという注意喚起と、ほら、私は犬じゃないですか。昔から童謡で親しまれている犬のお巡りさんを掛け合わせたんです」

「それに、本名の天渡早苗と読みが似てるから」

「さっき30分くらい泣いてましたけど、実はそのほとんどの時間は自分のネーミングをどうしようかって考えてたんです」

 テワタサナイーヌはぺろっと舌を出して肩をすくめた。

 

「さあ、明日からどんどん露出しますよ!」

 

 テワタサナイーヌ誕生の瞬間だった。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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生きるために騙される

「もー勘弁して」

 テワタサナイーヌこと天渡早苗は、白い薄手のブラウスの広く開けた胸元を左手でつまみ上げ、右手に持ったテワタサナイーヌうちわで風を送り込んでいる。

 ブラウスが風を孕んで身体との隙間を広げ、中の健康的な丸みを覗かせている。

 今年の夏はひどく暑い。

 全身を獣毛で覆われているテワタサナイーヌは暑いのが苦手だ。

 熱がこもる。

 テワタサナイーヌが所属する犯罪抑止対策本部は、元々倉庫だったところで空調が考慮されていない。

 夏暑く冬寒いという過酷な職場だ。

 おまけに犯罪抑止対策本部は、警視庁でも一二を争う人口密度を誇る。

 涼しさの要素は何一つない。

 テワタサナイーヌは、ちょっと油断をすると血色のいい柔らかな舌がてろんと出てしまう。

 犬であることを受け入れてからというもの、犬化が進んでいることに自分でも気づいている。

「えっと、テワさん」

 山口がテワタサナイーヌに話しかけた。

「なに?」

 テワタサナイーヌは、山口に対してすっかりため口になってしまった。

 いつかがつんと言ってやらないといけないと思っている山口だったが、テワタサナイーヌが娘のようにかわいくて、つい甘やかしてしまう。

「暑いのは分かります。だからって、それはどうなんでしょう」

「胸元が見えすぎだと思うんです。目のやり場に困ります」

「えー、どうせ毛が生えてて素肌が見えるわけじゃないんだからいいでしょ」

「それに、目のやり場に困るとか言いながら、チラッチラ見てますよねー」

「いや、その、動くものが視界に入るから気になって見てしまうだけです」

 山口は必要以上に吹き出す汗をぬぐった。

「ギシッ」

 テワタサナイーヌの鼻骨が軋んだ。

 鼻骨を軋ませながらテワタサナイーヌのマズルが少しだけ伸びた。

「嘘はいけません」

 テワタサナイーヌは、わざと犬の顔を作って山口を睨み付けた。

 以前、激しい怒りのせいで顔面が完全に犬化する第二形態を経験して以来、テワタサナイーヌは少しだけなら自分の意志で顔を変形させることができるようになった。

 ただ、顔の形態変化には激痛を伴うので、あまりやらないようにしている。

「すみません、少し見ました」

 山口は白状した。

「テワさん、さっき毛が生えてると言いましたけど、そこは毛が生えてないところです。やはり隠しましょう」

「なんで私の毛が生えてないとこ知ってんのよ! やらしー、セクハラよー」

 テワタサナイーヌは面白がって山口をからかった。

 山口には無防備な姿を見せてもまったく気にならなかったからだ。

 その後テワタサナイーヌは、鼻を元に戻す作業に入った。

 相変わらず顔の形態変化には激痛が伴う。

 テワタサナイーヌは、泣きながらその激痛に耐えなければならない。

 

 テワタサナイーヌが汗ばむ胸元に風を送り込んでいるうちわは、彼女のファンがこの夏のコミックマーケットで頒布してくれたものだ。

 コミックマーケットは、夏と冬の年二回開催される国内最大の同人誌販売会だ。

 来るものを拒まずの精神で運営されているイベントなので、同人誌以外の多彩なジャンルも集う。

 テワタサナイーヌは、始発のりんかい線に乗り開場を待つ長い列に並び、開場とともに目指すサークルへ一直線に駆けつけた。

 犬のDNAを持ち犬の血が流れる彼女の身体能力は驚異的に高い。

 並の男性ではまったく勝負にならない。

 目指すサークル一番乗りは楽勝だった。

 テワタサナイーヌは、自分がプリントされたうちわを手に入れてご満悦だ。

 そろそろ自分の薄い本が出るのではないかと楽しみにしているのだが、その気配はない。

 やはり警察のキャラクターで薄い本を出すのは二の足を踏むのだろうか。

「先生怒りませんよ」

 テワタサナイーヌは独り言で冗談をつぶやいた。

 その後は、あらかじめ目当てのサークルにマーカーで印をつけておいたサークル配置図を見ながら、欲しい作品を買い回る。

 サークルと購入者双方の負担を軽くするため、なるべく釣り銭のいらないように支払いをするのが暗黙の了解事項となっている。

 テワタサナイーヌも前日までに銀行の両替で大量の五百円硬貨を用意した。

 五百円硬貨を詰め込んだ財布はずっしりと重い。

 買い物を進めていくうちに財布が軽くなる代わりに薄い本を入れたトートバッグが重くなり、テワタサナイーヌの筋肉質ではあるが柔らかい肩に食い込むようになる。

 夏場のコミックマーケットの暑さは半端なものではない。

 見た目を気にしてなどいられない。

 テワタサナイーヌは先ほど購入したテワタサナイーヌうちわで扇ぎながら、柔らかな舌をてろんと出して口呼吸で体温調整を図る。

 彼女は、外見が普通ではないので、とにかく目立つ。

 この日だけで何回写真撮影を求められたか分からない。

 まだテワタサナイーヌの認知は広がっていない。

 ただの面妖な生き物として珍しがったり、よくできた着ぐるみと思った人も少なくない。

 ときおり「テワちゃんだ」と声をかけてくれる人もいる。

 テワタサナイーヌを知る人からはサインを求められることもある。

 テワタサナイーヌのサインは簡単だ。

 メールアドレスなどに使われる「@」の中の「a」のところをひらがなの「て」に替えるだけだ。

 「て」の最後の払いをぐるっと左回りにひと回りさせればできあがる。

 テワタサナイーヌは、これを「アッテマーク」と呼んでいる。

 テワタサナイーヌは、自分の風貌を面白がられることに抵抗がなくなっていた。

 それどころか心地よさすら感じる。

 自分の中の何かが目覚めた自覚がある。

 なので、写真撮影の求めにも快く応じる。

 求められるポーズを取ることにも慣れてきた。

 もちろん、仕事も忘れない。

「警視庁のテワタサナイーヌです」

「知らない人にお金をテワタサナイーヌ!」

 必ず口上を伝えてオレオレ詐欺被害防止の啓発をする。

 そのために自分がいるのだから。

 マスコットキャラクターは、存在自体がメッセージだ。

 テワタサナイーヌは、そう山口から教えられた。

 だから、何か特別なことをしなくてもいい。

「特殊詐欺被害防止のキャラクターなんだから、そういったイベントごとに顔を出すのはいい。だが、本来の趣旨が違うイベントに出演するのは目的外だからダメだ」

 そう言う人もいる。

 だが、その名前や顔を知ってもらうだけで、かなりの部分の目的は達成できている。

 山口は、そういう方針でテワタサナイーヌをプロデュースしている。

 コミックマーケットに参加することをためらっていたテワタサナイーヌに参加を勧めたのも山口だ。

「たくさんの人に見てもらってきてください」

 そう言って送り出してくれた。

 

「コミックマーケット行ってきたよ。たくさんの人とご挨拶できてよかったー」

「でも、ちょっと残念なことがあったんですよ。コミックマーケットでは、ときどき偽造貨幣が使われたり、売り子さんを騙して薄い本を持っていってしまう人がいるんだって」

「参加者がお互いに信用しているから成り立つイベントなのに、ひどいことをする人がいるもんですよね。私、マズルが伸びちゃうかと思った」

 コミックマーケット後、犯抑で山口と顔を合わせたテワタサナイーヌは、腹立たしげに山口に訴えた。

「信用していて裏切られると悲しいですよね」

 山口はテワタサナイーヌに同調して答えた。

「やっぱりあれなのかな。親しい人でもまるっと信じちゃいけないのかな」

 少し寂しげにテワタサナイーヌが俯いた。

「テワさん」

「なに?」

 二人の会話は、いつもこのパターンから始まる。

「人はなんで他人を信じるんでしょう」

 山口がテワタサナイーヌに問いかけた。

「また禅問答? うーん、なんでだろう」

 当たり前に分かっているつもりのことでも、改まって訊かれると説明できないことは意外と多いことに気づく。

「世の中に悪い人はいないと思ってるから?」

 テワタサナイーヌは性善説にもとづくという仮説を立てた。

「そうですね。実際、世の中にはそんなにたくさん悪い人はいません」

「でも、毎日のように犯罪のニュースが流れています。世の中に悪い人がいるということもみんな知っています」

「それでも多くの人は基本的に他人を信じます」

「言われてみればそうね」

 テワタサナイーヌは思考が振り出しに戻ってしまった。

「人が他人を信じるのは、生きるためです」

「生きるため?」

 テワタサナイーヌは訝しげに聞き返した。

「はい。人は他人を信じる生き物なんです」

「私は半分犬だけど、やっぱり人を信じるよ」

「いやいやいや、犬は人間と共生する道を選んだ動物だから人を信じるのは当然でしょう」

 珍しく山口がテワタサナイーヌをからかった。

 テワタサナイーヌは、ぷーっと頬を膨らませて不満げな顔を山口に向けた。

 しかし、尻尾が勝手にパタパタと動いてしまう。

 テワタサナイーヌの感情は尻尾に表れる。

「他人を信じられないと他人に対して常に警戒態勢を維持しなければなりません」

「それは、社会を形成するヒトという生き物として、とても生きにくい状況です」

「だから人は他人を信じるようにできているんです」

「それ知ってる! 杞憂っていうんでしょ!?」

 テワタサナイーヌが元々大きな目を更に大きく輝かせて得意げに口を挟んだ。

「よくご存知ですね。杞憂は、心配してもどうしようもないことを心配するあまり身動きが取れなくなるとか、取り越し苦労というような意味ですから、人を信じられないということとはちょっと意味が違うかもしれません」

「でも、あらゆることを心配しすぎて疲れてしまうのと、人を信じられずに生きにくくなってしまうのは、どちらも結果としては似ていますね」

「いずれにしても、ヒトが野生動物としてではなく社会性を持つ人間として生きるためには、他人を信じる必要があったんです」

「ですから、人は生きるために他人を信じ、それ故、他人から騙されてしまうという悲しい性を持っています」

「そういう心のメカニズムを持っているので、人は基本的に騙されやすいです。騙された人に対して注意が散漫だったとかバカだとか言って非難してみても、なにも解決しません」

 山口はテワタサナイーヌが淹れてくれた紅茶を飲みながら、いつものようにゆっくりと話した。

 相変わらず紅茶の銘柄はわからない。

 テワタサナイーヌは、山口が紅茶の味の違いがわからないことを知っている。

 それでも、そこそこいい茶葉を用意している。

 山口に対する心遣いだ。

 もちろんお茶代は山口に請求する。

「ちょっと待ってください」

 山口はテワタサナイーヌに言うと、役所のデスクには似つかわしくないモニターアームで支持された24インチのモニタに目を移し、手元のキーボードから軽快なブラインドタッチでなにごとか入力する。

 モニタにはTwitterの画面が映されている。

(テワタサナイーヌに淹れてもらった紅茶をおいしくいただいております……)(款)

 そこには犯抑のタイムラインが表示され、山口がエンターキーを叩くとタイムラインにツイートがひとつ追加された。

 山口は警視庁で最初にTwitterの公式アカウントを開設した人物だ。

 犯罪発生情報や防犯情報に山口の個人的な発言を織り交ぜるスタイルが人気を博し、警察アカウントの中では群を抜く14万フォロワーを擁する巨大アカウントとなっている。

 山口が先鞭をつけ、それに続くようにして警視庁では、広報課、災害対策課、採用センター、刑事部公開捜査の4アカウントが開設された。

 他道府県警察からアカウントの運用ノウハウなどの問い合わせや視察が後を絶たない状況になっている。

 山口の運用スタイルに倣った警察アカウントも誕生し始めた。

 大阪府警、神奈川県警、熊本県警、愛知県警、福島県警、宮城県警などが担当者やマスコットキャラクターの発言としてツイートするスタイルを採用している。

 山口は、ピンクレディーという女性デュオのヒット曲「ペッパー警部」をもじり「Twitter警部」と呼ばている。

 これは、本人も気に入っているようで、ときおり自称している。

「ねえ代理」

 テワタサナイーヌは、モニタをみつめる山口と頬が触れるのではないかというくらいの近さに顔を寄せモニタを覗き込んだ。

 テワタサナイーヌの身体からは、ほのかに獣の匂いが漂う。

「なんですか?」

 これくらいの近さに寄られることには、すっかり慣れてしまった山口は当たり前のように答えた。

 山口は犯抑では係長だが、テワタサナイーヌは、山口を代理と呼ぶ。

 これは、前任署である葛飾警察署で初めて一緒に勤務したとき、山口が生活安全課長代理だったことに由来する。

 初めて一緒に勤務したときの印象が強烈だと、その後、その人が昇任や異動で肩書が変わっても、その当時のまま呼びたくなることがある。

 テワタサナイーヌは、それを素直に口にして、まったく直そうという気もない。

「代理のツイートには、必ず最後に(款)ていう字がついてるけど、あれは何?」

 山口のツイートをいつも見ているテワタサナイーヌは、いつか訊こうと思っていたことを質問した。

「あれはですね、私の署名です。つまり誰の発言なのかをわかるようにしているんです」

「なるほど。で、款って何か意味があるの?」

「役所の予算項目を知ってますか?」

「全然わかんない。会計は一度も関わったことがないから」

 テワタサナイーヌは唇を尖らせながら首を左右に振った。

「そうですよね。警察官は会計に関わらない人がほとんどですから、無理もありません」

「款項目節というのは、会計でその用途などに応じて分類するときに使われていたものです」

「款が一番大きなくくりで、それに続いて項、目と細かくなっていき、節が一番細かい、つまり具体的な項目になります。その款です」

 山口が署名に使っている文字の意味を説明した。

「会計はわからないなあ。なんで代理は会計のことなんて知ってるの?」

「実は私、東京都に派遣になっていたことがあるんです。そこでは、都の職員として仕事をしていましたから、入札や契約から始まって、最終的に予算を執行する支出命令を切るまで、一通りやらせてもらっていました」

「へー、なんかすごい」

 テワタサナイーヌは、尊敬の眼差しで山口を見つめる。

 ほとんど自分の頬にテワタサナイーヌの唇が触れんばかりの距離からエメラルドグリーンの瞳で見つめられると、さすがに慣れている山口でも鼓動が早くなる。

「会計に携わってよかったと思うことは、会計をよく知らない警察官は、年度途中で何かやりたい事業ができても、予算組みがされていないと言われるとそれで諦めてしまうんですが、実は予算を使えるようにする方法がいくつかあって、やりたいことを実現することが可能だということがわかったんです」

「へー、へー、へー、そんな抜け道があるんですね」

「いや、抜け道じゃないです。正式に認められている予算の執行です。だから、会計についても知らないより知っていたほうが仕事の幅が広がります」

 テワタサナイーヌは、山口が次々に新しい企画を形にしていく姿を見て、その企画は全部前年から予算要求として上げていたのだろうかと不思議に思うことがあった。

 そのからくりが今明らかになった。

「制度や手続きに縛られるのではなく、それをうまく利用するほうが仕事が楽しくなりますよ」

 テワタサナイーヌの考えていることを察したように山口が付け足した。

「うん、わかった」

 テワタサナイーヌは、娘が父親にするように大きく頷いて山口をまっすぐ見つめた。

 

 窓の外では、アブラゼミやミンミンゼミからツクツクボウシの鳴き声に変わりつつあった。

 テワタサナイーヌにとって厳しい季節は、もうしばらく続きそうだ。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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初めてのデート

 全身を獣毛で覆われたテワタサナイーヌにとって厳しい季節の夏が去り、秋、そして冬となった。

 テワタサナイーヌは、天渡の名を捨てて初めての年末を迎えた。

 名を捨てたといっても、仕事の上で名乗る名前がテワタサナイーヌになったというだけで、本名は相変わらず天渡早苗のままだ。

 上司でありプロデューサーでもある山口は、天渡がテワタサナイーヌを名乗る前からテワタサナイーヌのことを「テワさん」と呼んでいる。

 だから、テワタサナイーヌとしては、山口が自分のことをテワタサナイーヌとして呼んでいるのか、以前からの天渡として呼んでいるのか判別がつかないでいる。

 山口がどちらのつもりで呼んでいるのか、とても気になっているが聞く勇気がない。

 山口に呼んで欲しい自分は決まっているのだが、そうでなかったときの落胆が大きいので聞かない。

 12月に入り、今年はオレオレ詐欺が増えてきている。

 テワタサナイーヌは、その被害防止のため街に出て各署のキャンペーンに出演している。

 今日も一日4か所のキャンペーンに出演した。

 そのため、テワタサナイーヌは忙しく街なかを動き回った。

 犬並みの体力があるとはいっても、やはり一日が終わる頃には疲れが出る。

 今日の結果を報告書にまとめ、明日の予定を確認して警視庁を出ると外はすっかり夜の帳(とばり)が下り、小雪がちらついていた。

 街には色とりどりのイルミネーションが行き交う人の目を楽しませている。

「そっか、今日はクリスマスイブか」

 テワタサナイーヌは、街のイルミネーションでクリスマスイブに気づいた。

 彼女の生活はクリスマスとは無縁だ。

 一緒に夜を過ごす相手もいない。

 テワタサナイーヌも女の子だ。

 恋もしたいしお嫁さんに憧れもある。

 異性に好意を抱いたことも一度だけある。

 だが、自分の外見とDNAが恋に踏み出すことを躊躇させる。

 テワタサナイーヌは、警視庁の玄関から続くスロープを下りながら皇居桜田門を見上げた。

 かじかむ手に息を吐きかけ、警備の機動隊員に挨拶をして、少し背中を丸めながら足早に地下鉄の駅に潜り込んだ。

 植え込みの木に薄っすらと雪が積もり始めていた。

 テワタサナイーヌは、都内の女子寮に住んでいる。

 寮は個室だ。

 29歳で警部補のテワタサナイーヌだ。

 独身寮を出てマンションなどを借りて一人住まいをすることを考えてもいいところだが、今のところそのつもりはない。

 実務経験が豊富なお姉さんとして、寮に住む若い女性警察官や女性の行政職員から頼られる存在となっている。

 相談をもちかけられることも多い。

 自分としては、牢名主のような存在になっているのではないかと、少々気になっているところもある。

「ただいまー」

 テワタサナイーヌは、重くなった足を引きずるように寮にたどり着くと、部屋のドアを開け誰もいない室内に向かって言った。

 肩に袈裟にかけていたショルダーバッグを放り投げるように置くと、テレビの横にある小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルタブを引き抜いた。

 ビールのアテはビーフジャーキーをかじることが多い。

 

「代理が飲めないのがいけないのよ」

 本当は、山口と飲みに行きたいのだが、山口がまったくの下戸なので誘ってももらえないし、自分からも誘いにくい。

 一度だけ所属の飲み会のあと、意を決して二次会に誘ったことがある。

 普段、飲み会のあとはいつのまにかいなくなってしまう山口をその日は首尾よく捕まえることができたのだ。

「いいですよ。行きましょうか」

 テワタサナイーヌは、断られるかと思っていたが、あっさりと許してくれた。

 その日の飲み会は虎ノ門で開かれていた。

「少し歩きましょう。近いお店ですから」

 山口はテワタサナイーヌの背に軽く手を添えてエスコートして言った。

 下戸の山口がお店を知っていたことにテワタサナイーヌは驚いた。

 それより、山口の手が背中に触れたことの方がずっと衝撃だった。

 山口に触れられたことが初めてなのは言うまでもないが、他の男性にも背中に触れさせたことはない。

 驚きのあまりテワタサナイーヌは、びくっと身体を硬直させた。

「あ、すみません。気に触りましたか」

 慌てて山口が手を引いた。

「いえ、そうじゃないんです。嬉しかったんです。ただ、男性からこうしてエスコートされたのが初めてだったので驚いてしまって」

 いつもは山口にため口で話すテワタサナイーヌが、珍しく敬語を使った。

 テワタサナイーヌは、自分のキャラにない初々しさを見せてしまったことに気づき恥ずかしくなり獣毛に隠れた頬を紅く染めた。

「こういうとき獣顔だとばれなくて便利だわ」

 テワタサナイーヌは、自分が赤面しているのを山口に見られずに済んだことを安堵した。

「あのー、代理」

 テワタサナイーヌは、いつになくおどおどしながら山口に話しかけた。

「はい、なんですか?」

 いつものように山口が答えた。

「手を…… 手をつないでもらっていいですか」

「私、父にも母にも手をつないでもらった記憶がないんです。だから、一度だけでいいんです。手をつないで親子のように歩いてもらえませんか」

 テワタサナイーヌの大きな目が潤んでいた。

 一次会で酔っていたからではなさそうな真剣な面持ちだった。

 親子のように手をつないで欲しいというのは言い訳だった。

 嘘ではないが、本当の気持ちは別にあった。

「わかりました。どうぞ」

 山口が右手を差し出した。

 テワタサナイーヌが山口の右手に短い獣毛で覆われた左手を乗せ握りしめた。

 テワタサナイーヌの左手が山口の手に包み込まれる。

「行きましょうか」

 山口が促した。

「はい」

 テワタサナイーヌが頷いた。

 

【挿絵表示】

 

「私たちは、近くの店でもう少し飲んで帰ります」

 山口は同僚にそう宣言した。

 こそこそ二人で抜け出すようなことはしたくなかった。

 いつも親子のようにしている二人を怪しむ同僚はいなかった。

「あ、そうですか。いってらっしゃい。山口係長、飲めないのに珍しいですね」

 そう言って見送ってくれた。

 地下の店を出て虎ノ門交差点を新橋方向から文部科学省方向へ渡る。

 強いビル風がテワタサナイーヌの柔らかな緑の髪と犬耳の毛をなびかせる。

 二人は目を細めながら向かい風に逆らうように横断歩道を渡りきった。

 横断歩道を渡り終わると、二人の歩く速さがぐっと遅くなった。

 この時間を少しでも長く、終わりを遅くするかのように。

 文部科学省の前を横切り、財務省と文部科学省の間の坂道をゆっくりと登っていく。

 辺りの官庁街は、庁舎の明かりがまだ煌々と灯っている。

 だが、この坂道は官庁街の外れにありあまり明るくない。

 テワタサナイーヌは、二度とないかもしれないこの瞬間を記憶にとどめようと、一歩一歩踏みしめるように、そして山口と歩幅を合わせるように歩いた。

 その間、二人が言葉を交わすことはなかった。

 言葉を発することでこの時間を安っぽいものにしたくなかった。

 仄暗い坂道を手をつないで登っていく親子ほども歳の離れた二人は、傍から見たら不倫カップルのようだったに違いない。

「ここを左に曲がります」

 坂を登りきったところでようやく山口が口を開いた。

 そこは警視庁の前から国土交通省の前を通り、溜池交差点を経て六本木に至る広い通りだった。

 目の前には首都高速の出入り口があり、道路の真ん中が広い口を開けている。

 この坂の頂上を左に曲がると霞が関ビルの裏手に出る。

 通りの左側は、ちょうど官庁街が途切れたところだ。

 広い通りを少し歩いたところで山口は何の変哲もないオフィスビルのような建物にテワタサナイーヌの手を引いて入っていった。

 その頃には、テワタサナイーヌも変な感傷はなくなり、父に連れられているようなウキウキした気分になっていた。

 山口は、7段くらいの短い階段を下り、半地下のようなフロアに進んだ。

「飲めないのに行きつけのお店?」

 まったく迷うことなく進む山口を見てテワタサナイーヌは不思議に思った。

 半地下のようなフロアを少し進むと、木製の重厚なドアが目に入った。

「ガスライト」

 テワタサナイーヌは、店の看板を声に出して読んだ。

 ビルの外には一切看板もなく、外から見えない場所にひっそりとその店はあった。

 隠れ家的な店なのだろう。

「官庁街のすぐ隣にこんな店があるとは知りませんでした」

 テワタサナイーヌは目をまん丸にして山口を見つめた。

 山口が木製のドアを開け、テワタサナイーヌの背中に手を当てて店内にエスコートした。

「ありがとう」

 今度はテワタサナイーヌも緊張することなく山口のエスコートに身を委ねることができた。

 店内は、それほど広くない。

 カウンター席と二人がけのテーブル席が三つほどあるだけの質素な作りだ。

 カウンターの中ではバーテンダーがミキシング・グラスに注いだドライ・ジンとベルモットをバー・スプーンで軽やかにステアしているところだった。

 バーテンダーは、バー・スプーンを抜き去るとストレーナーを器用に使ってミキシング・グラスの中身をカクテルグラスに注ぎ込んだ。

 ドライマティーニの完成だ。

 テワタサナイーヌがその一連の鮮やかな作業に惚れ惚れしていると、山口がそっと背中を押して空いているカウンター席に座らせた。

 テワタサナイーヌを座らせると、山口は彼女の左隣に座った。

「いらっしゃいませ。お連れ様には何を差し上げましょう?」

 もう一人のバーテンダーが親しげに山口に話しかけた。

「彼女にはグラスホッパーを」

「かしこまりました」

 ここまでテワタサナイーヌは、一言も発していない。

「なんで知ってるの?私がグラスホッパーを好きだってこと」

 この前の胸の毛がないことといい、今日のカクテルのことといい、山口は自分のことを知りすぎている。

 一体この男は自分のことをどこまで知っているのだろう。

 もしかしたら自分が覚えていない幼少のころのことも知っているんじゃないか。

 テワタサナイーヌはそう思えてきた。

 ほどなくしてテワタサナイーヌの前には淡いグリーンのカクテル、グラスホッパーがバーテンダーの軽やかな手つきで供された。

 山口は、自分で何も注文をしていない。

 バーテンダーも注文を訊いていない。

「えっと、代理は?」

 テワタサナイーヌは山口に問いかけた。

 それと時を同じくしてバーテンダーが山口の前に一杯のカクテルを差し出した。

「プッシー・キャット、お待たせいたしました」

「ありがとう」

 バーテンダーと山口は、当たり前のように会話をしている。

「注文もしないのにカクテルが出てくるなんてすごい! 代理ってば常連さんだったんですか!?」

 テワタサナイーヌは狭い店内に響き渡りそうな嬌声を上げた。

「しーっ」

 山口がテワタサナイーヌの唇に人差し指を当てて制した。

「あ、ごめん。ちょっと興奮しちゃった。本当に常連さんなの?それとも私を連れてこようと思ってあらかじめ仕込んでおいたとか?」

 テワタサナイーヌが唇に当てられた山口の人差し指を右手に包み込み小首をかしげて質問した。

「この店は、そうですね、もうかれこれ30年くらい通っています」

「代理は飲めないんじゃないの?」

「はい。飲めないのはそのとおりですが、誰かと落ち着いて静かに話をしたいときや一人で考え事をしたいときに使わせてもらっています」

「そうなんだー」

「で、そのなんとなく性的な匂いのするカクテルは何もの?」

 テワタサナイーヌが意地悪な表情で山口に詰め寄った。

「ノンアルコールのカクテルです。オレンジジュース、パイナップルジュース、グレープフルーツジュース、それとグレナデンシロップをシェークして作ります。シェーカーがなければステアでも作れますから、家でも飲めますよ」

 山口は、テワタサナイーヌの質問の趣旨には答えず、作り方を答えることでお茶を濁した。

「あ、それから、なんで私が好きなカクテルを知ってるの? さっき、私に訊きもしないで注文したよね」

思い出したようにテワタサナイーヌが畳み掛ける。

「テワさん」

「なに?」

「テワさんは、ひまわり好きですか?」

 山口がテワタサナイーヌに質問をした。

「うん、好き。大好き。たぶん一番好きな花だと思う。太陽に向かって真っすぐ伸びようとして、なんかすっごく一所懸命な感じがして好き。でも、一所懸命なんだけど、なぜかちょっと寂しく感じるときもあるの」

「やっぱりお好きなんですね」

 山口はひとりで納得したように頷いている。

「ていうか、私の質問は無視なわけ!?」

 テワタサナイーヌは忘れていなかった。

 山口がバーテンダーにちらっと目配せをした。

「お代わり、いかがですか」

 バーテンダーがテワタサナイーヌに声をかけた。

 いつの間にかテワタサナイーヌのグラスは空になっていた。

「次はスクリュードライバーでいいですか?」

 山口がテワタサナイーヌに確認した。

 いいも悪いもない、それがいつものテワタサナイーヌの順番だった。

「うん、いい」

 テワタサナイーヌは、山口の口から本当の理由を聞くことを諦めた。

 驚いたり気持ち悪かったりすることはあるが、山口に任せようと思った。

 きっと山口は間違わない。

 自分のことを自分以上に知っているに違いない。

 テワタサナイーヌにとって山口はプロデューサーというより創造主だった。

 山口がなんでも知っているのではなく、山口が自分のすべてを作り出しているのだ。

 そう思えてきた。

 テワタサナイーヌと山口は、カウンター席で2時間ほど語り合った。

 仕事のこと、最近観た映画のこと、Twitterのことなど、他愛もない話ばかりではあったが、テワタサナイーヌにとっては何ものにも代えがたい時間となった。

 ただ、山口はある程度の時期より前の経歴に話が及ぶと、急に口を濁した。

 山口は、警部になってからの経歴はよく話に乗ってくれた。

 しかし、それ以前の経歴に触れられるのを避けたがっている様子であった。

 テワタサナイーヌに警部補以前の山口と仕事での接点はない。

 なので、自分に関わることで何か言いたくないことがあるわけではないだろう。

 テワタサナイーヌは、そう考えて深く追及しなかった。

「チェックを」

 山口はバーテンダーに財布の中からカードを取り出して渡した。

 二人分の精算が済むと、山口はまたテワタサナイーヌをエスコートして店を出た。

 半地下のようなフロアを抜けて外に出ると、夜風が気持ちよく二人の頬を撫でた。

 山口に勧められるまま、スクリュードライバーを数杯飲んだテワタサナイーヌは、かなり酔っていた。

 ウォッカベースのスクリュードライバーは、別名「レディ・キラー」と呼ばれている。

 口当たりは良いが、アルコール度数が高めなので、飲みすぎると足腰に来る。

「歩けますか?」

 山口がテワタサナイーヌに訊ねた。

「だーめー、支えて」

 テワタサナイーヌは、本当は歩けるのに酔ったふりをして山口の右腕に掴まった。

 山口と腕を組んで歩く格好になった。

 山口は、ちょっと困った表情をしたが、そのままテワタサナイーヌの体重と体温を感じながら六本木通りの歩道を溜池交差点に向かって歩き出した。

 溜池交差点でタクシーを停めた山口は、後部座席にテワタサナイーヌを座らせた。

「この人は普通の人ですか?危なくないんですか?」

 テワタサナイーヌの顔を見たタクシーのドライバーは、ぎょっとした表情を隠そうともせず山口に確認した。

「あはは、見た目は犬みたいですけど、おとなしい酔っぱらいです。噛み付いたりはしませんから安心してください」

「釣り銭は、レシートと一緒にこのお嬢さんに渡してください」

 山口はそう説明すると、運転手にテワタサナイーヌの独身寮の所在地を簡潔に伝えて一万円札を手渡した。

 

 テワタサナイーヌは、ビーフジャーキーをかじりながら、山口との初デートを思い出していた。

 いや、テワタサナイーヌにとってはデートだったが、山口にしてみれば単なる部下と飲みに行っただけだったのかもしれない。

「なにニヤニヤしてるんすか」

 不意に後ろから声がした。

 いつの間にか同じ寮に住む後輩が部屋に入ってきていた。

「うっさいわね。ニヤニヤなんてしてないっつーの! 」

「あー、そうですかー。どうせまた山口係長のことを思い出してたんじゃないすか」

 図星だった。

「しっし」

 テワタサナイーヌは後輩を部屋の外に追いやった。

 そのとき、テワタサナイーヌのスマートフォンから「ぽぽいのぽい」という曲が流れた。

 山口からの着信だった。

 ぽぽいのぽいは、山口が作曲しテワタサナイーヌが詞をつけた歌だ。

 山口からの着信だけこの曲に設定しているため、山口からの着信はすぐにわかる。

「はい天渡です」

 テワタサナイーヌはスマートフォンを取り上げて応答した。

 普段の電話応答より声のトーンが高くなっている。

「テワさんですか。遅くにすみません。帰りにお伝えし忘れていたことがありましたので電話しました」

「え、なに? デートのお誘い?」

 テワタサナイーヌはとぼけた。

「そうですね、デートではありませんが、それに近いようなお話になるかもしれません」

「なにそれ!?」

「出張の話が来ています。詳しくは明日お話をしますので、とりあえず心づもりだけしておいてください」

 山口は事務的に話すと電話を切った。

「出張? 私が?」

「でも、ちょっと待ってよ。代理は、デートではないけどそれに近いような話だって言ってたよね」

「ていうことは、代理と二人で出張?」

「よしっ!!」

 テワタサナイーヌは右拳を握りしめ、ガッツポーズをとった。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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ふたり旅

 山口との初デートを回想していたクリスマスイブの翌日、テワタサナイーヌはいつもより30分も早く、軽い足取りで独身寮から駆け出していった。

 前日、山口から電話で出張の話があると予告されていたからだ。

 しかも、デートではないがそのような感じの出張になるかもしれないという話をされてしまったら、テワタサナイーヌとしては期待せざるをえない。

 つい足取りも軽くなろうというものだ。

 じっとしていられず、早く寮を出てしまったというわけだ。

「おっはよーございまーす!」

 いつもの4割増くらいの明るさで警備の機動隊員に挨拶をすると、テワタサナイーヌは警視庁の玄関に続くスロープを早足で駆けのぼった。

「出張、出張、今日は出張~」

 出張は今日ではない。

 テワタサナイーヌは鼻唄を歌いながら玄関のゲートにカードケースをタッチした。

「ぶーっ、ぶーっ、ぶーっ」

 警報音とともにゲートの扉が左右から起き上がり中央で閉じた。

 勢いがついていたテワタサナイーヌは、そのゲートに突っ込んで止まり、あやうく前につんのめりそうになった。

「え? あれ? 私?」

 この手のゲートが閉じたとき、起こった事態が理解できず、思考が回らなくなることがある。

 今のテワタサナイーヌは、まさにそれだ。

「おっかしいなあ」

 テワタサナイーヌはタッチしたカードケースを確かめた。

「! 」

 テワタサナイーヌが手にしていたのは、交通系ICカードを入れた定期入れだった。

「ひーっ」

 悲鳴ともとれない情けない声を発しながらテワタサナイーヌは首から提げた身分証を入れたカードケースをタッチした。

「ピンポーン」

 今度は軽快な効果音を響かせてゲートが開いた。

 テワタサナイーヌは、自分の後ろに長く続いてしまった行列にペコペコ頭を下げながら、尻尾を巻いて逃げるように庁舎内に消えていった。

 後ろに並んだ人たちは、テワタサナイーヌがペコペコ頭を下げるたびに犬耳もお辞儀をするので、それが面白くて笑っていた。

「あー恥ずかしかった」

 階段を昇りながらテワタサナイーヌは顔の火照りを静めようと必死だった。

 テワタサナイーヌは、山口が犯抑のフロアまで階段を使っているのを知り、それを見習って階段を使うようになった。

 テワタサナイーヌにしてみれば、階段を使うのは毎日の散歩の延長のようなもので、まったく苦にならなかった。

 テワタサナイーヌは、10階まで一気に登りきると軽く息を弾ませながら部屋に入った。

 いつもより30分早く出てきたので、まだ誰も出勤していなかった。

 誰も出勤していない静かな部屋に一番乗りするのは気持ちがいい。

 今日は、気分よく仕事ができそうだ。

「よしっ、やるか!」

 テワタサナイーヌは声に出して自分に喝を入れた。

 そして、当番で担当することになっているデスク周りの掃除を自分からやり始めた。

 まずはじめに手を付けるのは山口のデスクと決めている。

 その日の一番きれいな状態のダスターで掃除したいからだ。

 とは言うものの、山口の机の上は乱雑に散らかっている。

 人に見られて困るような書類や資料は片付けられているが、よくわからない本やファイル、そしてフィギュアまである。

 そのフィギュアは、幕張メッセで開催されたワンダーフェスティバルで山口が買ってきたものだ。

 ワンダーフェスティバルというのは、造形物にまつわる展示即売会で毎回多くの参加者で賑わっている。

 その参加者に紛れて山口はテワタサナイーヌのガレージキットを買ってきたのだ。

 ガレージキットなので着色は自分でやらなければならない。

 山口は、自宅で家族から白い目で見られながら、毎晩コツコツと着色をしていた。

「目の前にもっとかわいい本物がいるんだから、本物を愛でろっつーの」

 テワタサナイーヌは、そのフィギュアに向かって悪態をついた。

 悪態に仮装した本音ではあった。

 雑然と散らかった物の隙間を縫うように山口のデスクを拭くと、次は副本部長のデスクに移った。

 

「ここに集った善良な皆さん

お耳拝借 私の講釈

ちょっとでもいいから聞いてって」

 

 テワタサナイーヌは、ゆっくりとしたリズムのラップを口ずさみながら掃除を進めた。

 このラップは、テワタサナイーヌが考えた自己紹介の口上だ。

 イベントなどで登場するときに歌い、観衆の耳目を引きつけるのが狙いだ。

 テワタサナイーヌは続けた。

 

「電車にカバンを忘れたオレ

オレが毎日大量発生

俺はそんなにアホじゃねえ!

でも、ありえなくない

消せない可能性

よく聞け私が授ける起死回生

それは簡単

いとも簡単

まずは一旦

俺のケータイ

元のケータイ

鳴らせばわかるぜ

すぐにわかるぜ

そのオレは俺じゃねえ! 」

 

 次に歌が入る。

 

「私は犬のお巡りさん

子供に泣かれることもあるのよ

私の名前はまたあとで」

 

 そしてまたラップだ。

 

「親の財産いずれは遺産

奴らに渡さん手放さん

詐欺(と)られた金

反映されない国民総生産

父さん母さん

じいちゃんばあちゃん

元気でいてくれ

いつか行こうぜ成田山」

 

 そして、最後に名乗りを上げる。

 

「申し遅れました私は

知らない人にお金を

知らない人にお金を

テ・ワ・タ・サ・ナイーヌ! 」

 

 1分30秒くらいの短い曲なので、口上として使うのにちょうどいい長さだ。

 これを何度か繰り返し歌いながら朝の掃除を手早く済ませた。

 ちょうど掃除が終わった頃にその日の当番が出勤してきた。

「あらおはよう。お掃除しといたわよ。感謝してよね」

 極めて上機嫌だ。

「うわっ、ありがとうございます。どうしたんすか今日は? やたらご機嫌みたいだし、それに、いつにも増してきれいすね」

 その日の当番は、池上という巡査部長の男だった。

 この男、とにかくノリが軽い。

 軽いというか、女をよくほめる。

「いつにも増してきれいすね」

 などというストレートなセリフは、嫌な相手から言われたら即セクハラとして通報するレベルの発言だ。

 しかし、池上は、わざとらしくなく、さらっとほめるからほめられた方は気持ちがいい。

 山口も同じような傾向にあり女性をよくほめる。

 しかも、山口は手練を感じさせるほめ方をする。

 たとえば、テワタサナイーヌが髪を切った翌日など、必ず小さな変化にも気づいてほめる。

「雰囲気が増しましたね」

 山口のほめ方はこうだ。

 前の髪型とその日の髪型、どちらがいいか優劣をつけない。

「雰囲気が増した」

 というわかったようなわからないような言葉だが、言われた方はなんとなく気持ちが良くなるほめ方をする。

 これは、花魁が客をほめるときに使う

「こちら様子がいい」

 という言い方の女性版といえる。

「いつにも増してきれいですね」

「あらありがとう」

 テワタサナイーヌは、左手を頬に当てて大仰に礼を言った。

 彼女は、ほめられたとき変に謙遜しない。

 

 ぞろぞろと、といっても総勢30名にも満たない小さな所帯の犯抑本部員が出勤してきた。

 山口も階段ホールから出てきて犯抑の部屋に入ってきた。

 まだ息が上がっているように見えた。

「おはようございます。私も30歳そこそこのころは、本部の16階まで一段抜かしで駆け上がっても平気だったんですけど、すっかり衰えました」

 山口はテワタサナイーヌに挨拶をして、自身の衰えを嘆いた。

 山口は52歳。

 最近は、老眼も出てスマートフォンを手に持つと、画面と顔の距離が遠くなってきている。

 電車で座っているときなど、気づくとスマートフォンを膝の上に置いて使っている。

「もうおじいちゃんなんだから、無理しないでいつまでも長生きしてね」

 テワタサナイーヌが冷やかしながら山口の肩を揉んだ。

「早苗ちゃんかい。いつもすまないねえ」

 二人の掛け合い漫才で周りを和ませた。

「ストレート、それともミルク?」

 テワタサナイーヌが山口に紅茶の種類を訊ねた。

「今日はミルクティにしてもらえますか」

「やだ。面倒」

「じゃあストレートでお願いします」

「かしこまりましたー」

「あのお、テワさん」

 山口が控えめにテワタサナイーヌを呼んだ。

「なに?」

「ストレートティしか選べないようですけど、ミルクティを選択肢にしたのはなぜですか?」

「愛ですよ、愛」

「全然意味がわかりません」

(わかれよ、この鈍ちん)

 テワタサナイーヌは心の中で罵った。

 もちろん顔は笑顔のままだ。

 山口は、いつも保温のボトルに紅茶を入れて持参している。

 だから職場でお茶をいれてもらうことは通常ない。

 若い職員がお茶をいれてくれる職場もあるようだか、山口は断っている。

 それは仕事ではない、その時間を仕事に回して欲しいと思っているからだ。

 しかし、それを口にして言ってしまうと他の人への嫌味になってしまうので、態度だけで示している。

 自分と同じように考えて行動する人が増えてくれることを期待して、細々と続けているレジスタンスだ。

 そんな山口だが、テワタサナイーヌのお茶だけは断らない。

 断らないのではない。

 断れない。

「私は自分のボトルで持ってきていますから、お茶はいれてくれなくていいです。放っておいてください」

 初めてテワタサナイーヌがお茶をいれてくれたとき、山口は他の人にするように柔かな口調で断った。

「ぎしっ」

 テワタサナイーヌの鼻骨が軋んだ。

「私が代理にお茶を出すのは、ただのサービスじゃないんだから、黙って飲みなさい」

 獣化したテワタサナイーヌに睨まれたら断るという選択肢はなくなる。

「は、はい。すみません、いたただきます」

 二人の力関係は、上司と部下が逆転しているようにみえる。

 山口がテワタサナイーヌに淹れてもらった紅茶を飲みながらTwitterに朝の挨拶を投げる。

「警視庁から各アカウント。おはようございます。ただ今から本日のツイカツを開始します。本日も皆さまのお役にたつ情報の発信に努めます。本日もよろしくお願いいたします。以上、警視庁」

 まるで無線通話でもしているかのような挨拶だ。

 挨拶にある「ツイカツ」は、山口の造語だ。

 ツイッター活動を略してツイカツという言葉を作った。

「今日もよろしく」

 Twitterに挨拶を投げると、山口は目の前のデスクにいるテワタサナイーヌから見えないように、自分のデスクに置いてあるテワタサナイーヌのフィギュアの鼻先を右手の人差し指で軽くつついた。

「くしゅっ!」

 テワタサナイーヌがひとつくしゃみをした。

 

「さて、テワさん」

「出張のことですね! いつ? どこ? 任務は? 代理と二人でしょ? きゃー、ワクワクする!」

 テワタサナイーヌが跳ねるように椅子から立ち上がり早口でまくし立てた。

「うおっ!テワちゃん痛いです」

 テワタサナイーヌの後ろから声が上がった。

 テワタサナイーヌが勢いよく立ち上がったせいで、座っていたキャスター付きの椅子が後ろに座っている池上のところまで転がって、池上にぶつかったのだ。

「あー!ごめんなさい!」

 テワタサナイーヌは、謝りながら池上のところまで椅子を取りに行き、自分の席に戻して山口に向き直った。

「テワさん、もう少し落ち着きましょうか」

 山口が苦笑した。

 しかし、それはテワタサナイーヌを諌めるという雰囲気ではなく、むしろ一緒に楽しんでいるように見えた。

「出張は、まだ決まったわけではありません」

 山口がそう言うと、さっきまで遠足前の子供のように落ち着きなくはしゃいでいたテワタサナイーヌが急におとなしくなった。

「なんだ、そうなの。早く言ってよ」

 テワタサナイーヌが山口に文句を言った。

「テワさんが勝手に早とちりしただけだと思うんですが」

 文句を言われた山口としても、これは納得できないところだった。

 こういうのを世間では逆ギレという。

「実はですね、富山県警からキャンペーンへの出演オファーが来ています」

「富山!北陸新幹線よね。私、まだ乗ったことない!」

「そうでしたか。私は一度だけ金沢まで行ったことがあります」

「なにそれ!?私を置いてひどくない?」

「家族旅行だったのでテワさんはお誘いできませんでした」

「私と家族、どっちが大事なのよ!?」

 テワタサナイーヌが理不尽な突っ込みを入れた。

「今までテワさんがテワタサナイーヌとして他県に出張をしたことはありません」

 山口は、テワタサナイーヌの安っぽい演技に付き合わず、仕事の話に戻した。

「そうね、まだない」

「ですから、まず東京を飛び出して他県で活動することが許されるかどうかということから確認をしていかなくてはなりません」

「私としては、特殊詐欺の被害防止は全国的な重要課題なので、都道府県の枠にとらわれて小さくまとめている場合ではないという認識です」

「テワさんが出張することで、たとえ他県であっても特殊詐欺の被害防止に役立つのであれば出張すべきと考えます」

 山口は、テワタサナイーヌがいれた紅茶を口に運びながら、今回のオファーに対する自分の方針を明らかにした。

「そう! 私もそう思ってた!」

 テワタサナイーヌが元気に乗った。

「本当にそう思っていましたか?」

 山口には、テワタサナイーヌが何も考えていなかったのがお見通しだった。

「ほ、本当だって。全国的な課題だもんね、うん」

 そう答えたものの、こぼれ落ちそうな大きな目が宙を泳ぎ、犬耳が後ろを向いて揃えられている。

「テワさん、耳」

 そう言って山口はテワタサナイーヌの耳をつまみながら笑った。

 犬の感情は、尻尾だけでなく耳にも表れる。

 犬が耳を後ろに向けて揃えているときは、緊張したりストレスを感じているときだ。

「やめてー」

 テワタサナイーヌは、眉をハの字にして困惑の表情を浮かべた。

 だが、耳をつまんでいる山口の手を振り払おうとはしない。

 それはそれで気持ちよかったからだ。

「私の考えはそういうところです。でも、組織としてそう判断されるかどうかはわかりません」

「これから上に上げていきます。行けない可能性もありますから、あまり期待はしないでいてください」

 山口がテワタサナイーヌに念を押した。

「わかった。期待して待ってる」

 テワタサナイーヌと山口の会話は、どこかずれるときがある。

 客観的には会話がすれ違っているのだが、当事者間では通じているらしい。

 山口は、富山県警からキャンペーン出演のオファーが来ていることと、それに対する自分の意見を添えて副本部長の坂田警視長に報告した。

 坂田の判断は速かった。

「初めてのオファーだし、せっかくですから行ってきてください。ただし、旅費は出せません。旅費を先方が出してくれるなら出張を許可します」

 このあたりは妥当な条件だ。

 遠方からの出演依頼を出すのであれば、いわゆる「アゴ(食事)、アシ(交通費)、マクラ(宿泊費)」を依頼元が負担するのが普通だ。

「出張は、テワタサナイーヌ単独でよろしいですか」

 出張の人員について伺いをたてた。

「プロデューサー兼マネージャー兼上司が行かないという選択はないでしょう」

 坂田が明るく山口に告げた。

 もし、坂田の判断がテワタサナイーヌだけの出張ということになれば、山口は休暇を取ってでも富山入りするつもりだった。

 坂田の判断を受けて、山口はオファー元である富山港署の生活安全課長と電話で協議をした。

「キャンペーンに出演することは可能です。ただし、往復の旅費をご負担願えますか? それであればオファーをお受けできます」

「やはり交通費が必要ですか」

 電話の先で富山港署生活安全課長がため息混じりに答えた。

「たった一日だけのキャンペーンのために東京から富山までの交通費をお願いするのは、予算のご都合もあって大変だとは思います。ですが、私たちとしてもぜひ出演させていただきたいと思っていますので、よろしくお願いします」

 山口も会計をかじったことがあるので、このキャンペーンに東京から警察官を招くための予算支出が簡単ではないことをよく理解している。

「わかりました。なんとかします」

 富山港署の生活安全課長は、力強く答えた。

「なんとかしてみます」ではなく「なんとかします」と言い切るところに課長の意気込みが感じられた。

「ところで、なぜテワタサナイーヌにオファーをくださったんですか?」

 山口が課長に疑問をぶつけた。

「実は、私は犯抑Twitterのフォロワーなんです。それで、テワタサナイーヌさんのファンでもあるんです。ですから、どうしてもテワタサナイーヌさんに会いたくてオファーを出しました」

「そうですか。ありがとうございます。そういうことであれば、是が非でも出演させていただきたいです」

 好きを仕事にしている男同士の繋がりが生まれた。

 翌日、富山港署の生活安全課長から電話があった。

「お二人分の交通費を出せることになりました!」

 課長の声が弾んでいた。

「よかったです。キャンペーンを成功させましょう」

 山口も声に張りがあった。

「ところで」

「前泊でいらっしゃいますよね」

 課長が控えめな声で訊いてきた。

 宿泊費まで負担するのは難しいと判断しているのだろう。

 おそるおそるという感じの訊き方だった。

 山口は、電話をしながらパソコンで北陸新幹線の時刻表を出した。

「キャンペーンの開始時刻は何時ですか?」

「キャンペーンは10時からです」

「富山駅から署までは何分かかりますか?」

「だいたい20分くらいです」

「署からキャンペーンの現場までの移動にかかる時間は?」

「車で10分もかかりません」

(署について署長に挨拶をして、テワさんが制服に着替えるのにかかる時間が30分くらい。富山駅に着いてから60分を見積もれば現場に着けるな)

 課長に当日のスケジュールを確認しながら、山口は所要時間の組み立てをしていた。

「富山駅まで迎えの車を出していただけるのであれば日帰りで伺います」

「えっ、日帰りで大丈夫なんですか?」

 課長が驚いたように声を上げた。

「はい、6時16分東京発のかがやき501号に乗れば富山駅に8時27分に着けます。富山駅までお迎えをいただければ、9時には署に着けます。署で署長にご挨拶をさせていただいて、そのあとテワタサナイーヌが制服に着替えて支度する時間を30分としても、10時開始のキャンペーンには十分間に合います」

「帰りも北陸新幹線を使えば、普段の定時と同じくらいに仕事を終えて帰ることができます。富山は十分日帰り圏になりましたね」

 山口が組み立てたスケジュールを課長に説明した。

「ご負担をおかけして申し訳ありません。よろしくお願いします」

 課長が恐縮して言った。

「テワタサナイーヌが好きで呼んでくださる方のためなら苦になりません」

 好きなコンテンツのためなら労を厭わないという山口のオタク気質が垣間見えた。

 

 寒さが最も厳しくなる2月上旬。

 テワタサナイーヌと山口の富山出張の朝を迎えた。

 午前5時50分。

 東京駅21番線ホームに山口の姿があった。

 テワタサナイーヌの制服などを詰め込んだ紫のキャリーケースを側に置きスマートフォンを操作している。

 吐く息が白く凍りつく。

 テワタサナイーヌの姿はまだない。

 山口は、今日の出張をリアルタイムでTwitterに投稿するための写真を撮影していた。

 6時少し前になり、テワタサナイーヌが小さめのボストンバッグを腕にかけ、ヒールの細い靴独特の音を響かせながら山口のもとに駆け寄ってきた。

 その日のテワタサナイーヌは、丈の短いキャメルのトレンチコートに黒のタイトなニーハイブーツという出で立ちであった。

 トレンチコートのベルトをタイトに結んでいるためウエストのくびれが強調されている。

 ブーツとコートの間の脚、いわゆる「絶対領域」(ただし毛が生えている)が見えているところから、コートの下はミニスカートかホットパンツなのだろうと想像できた。

 ブーツのヒールは細く、8センチくらいはある。

 もともと身長が低くないテワタサナイーヌが、8センチヒールのブーツを履くと、楽に170センチを超える。

 身長が180センチ近い山口とその日のテワタサナイーヌが並ぶと、大柄なアベックになりかなり目立つ。

 唇は、ベージュ系の口紅にグロスを乗せて艶を出している。

 まつ毛もファイバー入りのマスカラで相当ボリュームアップさせている。

 マスカラの色は、髪と瞳の色に合わせたハイトーンのアッシュグリーンをチョイスした。

 どう見てもデートに行く格好だ。

 普段の仕事では、ベーシックなパンツスーツが多く化粧もごく薄いので、その日のテワタサナイーヌはイメージが大きく変わっていた。

「テワさん、今日はいつもと違う雰囲気で素敵ですね」

 山口がテワタサナイーヌをほめた。

 山口としては、ほめたつもりはない。

 素敵だと思ったからそれを口に出しただけだった。

「ありがとう。代理と出張なんで頑張っておしゃれしてきた」

「それは光栄です」

「それにしても、いつもうまくほめるよね。このイタリア人め」

 そう言ってテワタサナイーヌはニーハイブーツを履いた脚のひざで山口を軽く蹴った。

 

【挿絵表示】

 

 二人がじゃれ合っていると、21番線にかがやき501号が入線してきた。

 山口がテワタサナイーヌの背中に手を添えてエスコートした。

 テワタサナイーヌもそれが当たり前のように、山口と目を合わせ軽く微笑んで乗車をした。

 山口があらかじめ購入していた進行方向左側の二人がけの席にテワタサナイーヌを案内し、彼女を窓際に促した。

「ありがとう」

 そう言ってテワタサナイーヌは、ベルトを解き、ボタンを外してシュルっと軽い衣擦れの音をさせながらトレンチコートを脱いだ。

 コートの下からは、ぴったりと身体にフィットした縦にリブの入ったオフホワイトのセーターと、モスグリーンをベースにしたチェック柄のタイトなミニスカートが登場した。

 セーターのリブがテワタサナイーヌの身体に沿って曲線を描き、スタイルの良さを強調している。

 脚の毛を見せるため、あえてタイツやストッキングは履かなかった。

 テワタサナイーヌは、自分の獣毛は他の誰にもないセールスポイントだと思っている。

「ポケットには何も入っていませんね」

 山口は、キャリーケースを荷物棚に乗せ、テワタサナイーヌからコートを預かると皺にならないように慣れた手つきでコートを丸め、自分のコートと並べて荷物棚に置いた。

 テワタサナイーヌは、山口のこういった手際の良さというか、エスコート術が好きだ。

 押し付けがましくなく、ごく自然にやってのけるところがいい。

(どこでこういうことを覚えてきたのよ)

 ときどき誰に対してするわけでもなく嫉妬することがある。

 定刻になり発車のベルが鳴り終わると、かがやき501号のドアが締まり、静かに東京駅を滑り出していった。

 流れていく車窓の景色に山口との旅の始まりを感じ、テワタサナイーヌは胸を高鳴らせた。

「テワタサナイーヌとともに富山に向けて出発いたしました」

 テワタサナイーヌの高揚をよそに、山口はTwitterに出発の報告をしていた。

 山口は、その日のスケジュールを簡単にテワタサナイーヌに説明した。

 テワタサナイーヌは、とりあえず聞いている素振りは見せているが、ほとんど聞いていない。

 どうせ現地では山口が細かく指示を出してくれる。

 自分はその指示に従って動けば万事問題ない。

 やはりタレントとマネージャーのような関係だ。

 そうしている間に、かがやき501号は都内を抜け速度を上げていった。

 しばらくすると車内販売が回ってきた。

 山口は軽く手を上げて販売員の女性を呼び止めた。

「アイスクリームをふたつください」

 アイスクリームをふたつ買った山口は、ひとつをテワタサナイーヌに差し出した。

「新幹線の旅といえばアイスクリームです」

「なんで?」

「そういうものだからです」

「わかんない」

 まったく意味のない会話も楽しかった。

「ちょっとアイスクリームを手で持ってください。写真を撮ります」

 山口はそう言うとテワタサナイーヌの手とアイスクリームをアップでスマートフォンのカメラに収めた。

「その写真をどうするの?」

「Twitterにあげようと思います」

「ふーん」

 山口がスマートフォンでなにごとかを入力してTwitterに投稿しているのをテワタサナイーヌは隣から覗き込んでいた。

「時速250kmくらいで移動しながらアイスクリームをいただいております」

 テワタサナイーヌのスマートフォンに山口のツイートが反映された。

「やっぱり意味わかんない」

「そういうものですから」

「ふーん」

「ところでテワさん」

「なに?」

「さっき私のことをイタリア人と言いましたね」

「うん言った。女と見れば誰でもほめまくるし、マメだよね」

「実は、妻にもイタリア人と言われるんですよ」

「奥さんわかってるわー」

 富山に向かう車内では、ほとんどがこういった意味のない会話に時間を費やしていた。

 意味のない会話が楽しく、それで何か通じるものがあるというのは、二人の関係が良好な証だ。

 また、そういうときは時間の経過も早く感じるもので、あっという間にかがやき501号は富山駅に到着した(ように二人には感じられた)。

 荷物棚からテワタサナイーヌのトレンチコートを下ろした山口は、コートの両襟をつまみ、テワタサナイーヌの後ろからコートをあてがい、片腕ずつ袖を通させて着せた。

「ありがとう」

 山口にエスコートされるのが当たり前になっていても、テワタサナイーヌが感謝の言葉を忘れることはない。

 山口は、手際よく自分のコートを着ると通路に出てテワタサナイーヌを先に出口に向かわせた。

 かがやき501号が富山駅のホームに滑り込み、間もなく停止しようというところで、それまでテワタサナイーヌの後ろにいた山口がテワタサナイーヌに軽く目配せをして前に出た。

 ドアが開くと山口は素早くホームに下りて、あたりを一瞥する。

 そして、テワタサナイーヌに向き直って「どうぞ」という表情で彼女に降車を促した。

 今回は新幹線なのでテワタサナイーヌはそのまま降りたが、車のときなどは山口がテワタサナイーヌの手を取ってエスコートをすることもある。

 山口は、テワタサナイーヌの左側、テワタサナイーヌより若干後ろに位置して歩き始める。

 その位置からテワタサナイーヌに行き先の案内をしながらエスコートする。

「なんでいつも私より少し後ろにいるの?」

 テワタサナイーヌは一度訊いたことがある。

「ここが一番テワさんを守りやすいからです」

「ふーん」

 テワタサナイーヌは、どうやら自分は山口に守られているらしいことを知った。

「私だって警察官なんだから逮捕術を習ってるし、体力的には代理よりずっと上だと思うんだけど」

 守られるのは嬉しいが、素直に嬉しがるのも悔しいのでテワタサナイーヌは少し拗ねたふりをして口を尖らせた。

「誰かを守るというのは、体力や武術の優劣で決められるものではないと思うのです」

「守りたいという気持ちがあるから守る。それ以外に動機も目的もありません」

「テワさんの方が私よりずっと強いのはわかっています。でも、私はテワさんを守りたいし、守らなければならない理由があるんです」

 山口がテワタサナイーヌに言った。

「私を守らなくちゃいけない理由って、代理が私の上司だから? 」

 テワタサナイーヌは「守らなければならない理由」が気になった。

「上司だからということではありません。テワさんが早苗さんだからです」

 山口がテワタサナイーヌを守る理由をいつになく真剣な眼差しで説明した。

「テワさんが早苗さんだから……」

「うーん、ちっとも理由がわからない」

「同じじゃないの?どっちも」

 テワタサナイーヌは混乱した。

「このエスカレーターで下に降ります」

 いつもの表情に戻った山口はテワタサナイーヌにそう言うと、ごく自然にテワタサナイーヌの左側を追い越して先にエスカレーターに乗った。

 万一、エスカレーターでテワタサナイーヌが足を踏み外したりバランスを崩すようなことがあっても、自分が下から支えて危険を回避できる。

 逆に上りのエスカレーターでは、山口が後から乗ることになる。

 先にエスカレーターを降りた山口は、テワタサナイーヌが安全にエスカレーターから降りたのを確認してから歩き始める。

 そのときは、いつの間にかテワタサナイーヌの左後ろに位置している。

 バタバタ走り回らずにポジションを自在に替える山口のエスコート術は、いつ見ても惚れ惚れする。

「あそこの改札を出ます。乗車券と特急券は重ねて自動改札に入れるんですよ」

「子供扱いしないでよね!」

 そう言ったテワタサナイーヌの尻尾は左右に元気よく振られていた。

「失礼しました。いつぞやの玄関ゲート定期券タッチ事件があったので、また間違えるんじゃないかと思いまして」

 山口が冷やかした。

「いやーっ!それは言わないで!傷をえぐらないでえ」

 テワタサナイーヌが身悶えして恥ずかしがった。

 

 新幹線の改札を出ると、駅のコンコースに年齢四十過ぎ、身長は山口と同じかやや低いくらい、ネイビーブルーのスラックスに革靴を履き、モスグリーンのMA-1を羽織った短髪の男性が立ち、改札から出てくる人を目で追っていた。

 山口と富山港署の生活安全課長は、お互いに面識はなく、当日の服装なども特に打ち合わせしていない。

 しかし、同業者同士、言葉を交わすこともなく、それが待ち合わせの相手であると同時に気づいた。

 お互いに歩み寄り挨拶を交わす。

「今日はお世話になります。警視庁の山口です。こちらがテワタサナイーヌです」

 山口が課長にテワタサナイーヌを紹介した。

「はじめまして。警視庁のテワタサナイーヌです。本日はお招きくださりありがとうございます。短い時間ですが、よろしくお願い致します」

 テワタサナイーヌは、深々とお辞儀すると丁寧に自己紹介と挨拶をした。

 山口に対する態度とは雲泥の差がある。

 山口は、テワタサナイーヌのTPOを使い分けられる粗雑さが好きだ。

「はじめまして。富山港署の生活安全課長綿貫です。いやあ、Twitterでいつも拝見していて、美しい方だと思ってはいましたが、実際にお会いすると驚くほどおきれいで背も高くて、まるでモデルさんですね」

 綿貫がテワタサナイーヌの頭のてっぺんからつま先まで芸能人を見るような目で見つめながら挨拶をした。

「ありがとうございます」

 テワタサナイーヌは軽くお辞儀をしてにっこりと微笑んだ。

 ベージュ系の口紅に乗ったグロスで濡れたような質感をもつ唇から、鋭い犬歯が覗き独特のフェティッシュな色香を醸し出す。

「やだーっ!返して!」

 女性の悲鳴がコンコース中に響き渡った。

「泥棒!誰かその人つかまえて!」

 山口たちが一斉に声のした方向を振り向くと、コンコースの途中で二十歳くらいの女性が走りながら、その十数メートル前を走って逃げていく男を指差している背中が見えた。

 男の手には、およそ男性が持つとは思えない赤いトートバッグが握られていた。

「カッ!」

 ヒールの細い靴で床を蹴る独特の高い音が響いた。

 テワタサナイーヌがボストンバッグを山口に投げつけると、その女性目がけて走り出していった。

「カッ カッ カッ」

 軽快な音を残してテワタサナイーヌはあっという間に男を追いかけている女性に追いつた。

 テワタサナイーヌの全力疾走を見たのは、山口もこれが初めてだった。

 イヌのDNAを持つとはいえ、あそこまで速く走れるとは思っていなかった。

「なんだよ、あのケモ娘。すげえ速くねえか」

 周りの通行人も驚きを隠せないという表情で事の推移を見守っている。

「警察です。あの男が泥棒ですね。男が持っているのは、あなたのトートバッグですか」

 テワタサナイーヌが走りながら女性に確認した。

「そ、そうです…… たった今、ひったくられました…… 」

 被害者の女性はすでに息を切らしている。

「わかりました。あなたはここで待ってて。あとから他の警察官が来るから!」

 テワタサナイーヌが女性に指示をした。

「ガッ!!」

 テワタサナイーヌは、一段と強く地面を蹴り先ほどよりさらにスピードを上げて犯人の男に向かって走り出した。

 犯人の男も全力で逃げている。

 男とテワタサナイーヌの距離は50メートルくらいはある。

 だが、男はテワタサナイーヌの射程内にあり、一度も見失っていない。

「ぎしっ、みしっ、がり…… 」

 テワタサナイーヌの鼻骨が軋む。

 いつもはチャームポイントの犬歯が牙に変わる。

 犯人の男は、駅の外を目指して逃げているようだった。

 2月の富山。

 外は雪が降っている。

 路面には雪が積もり一面白の世界となっている。

(外に逃げられたらこのブーツじゃ分が悪いわね。コンコース内で逮捕しなきゃ)

 テワタサナイーヌが牙を剥いた。

 さっきまでのエレガントな笑顔はどこにもない。

 完全に獣と化している。

 ブーツのヒールが折れんばかりに地面を蹴り続ける。

 間もなくコンコースから外に出るというところでテワタサナイーヌは犯人の男に追いついた。

 走っているときに相手に組み付くのは得策ではない。

 ふたりとももんどり打って転倒することになるからだ。

 テワタサナイーヌは、男の背後につくと男の背中を軽くぽんと押した。

 背を押された男は、上半身が先行してしまい足が追いつかない状態になり、両手を振り回しながらうつ伏せに倒れ、走っていた勢いで数メートルスライディングして止まった。

「どん!」

「ぐえっ!」

 うつ伏せに倒れた男の背中にテワタサナイーヌの右膝が勢い良く乗せられた。

 左右の肩甲骨の間にあたる場所、和服の紋付きで背中に紋が入っているあたりだ。

 ここを押さえられると身動きが取れなくなる。

 テワタサナイーヌは、左手に着けた腕時計で時刻を確認した。

「午前8時35分。窃盗の現行犯で逮捕します」

 犯人の男は息が切れて言葉も発せない。

 手足をばたつかせてなんとか抵抗しようとするが、テワタサナイーヌに紋所を押さえられてるため逃げることができない。

 タイトなミニスカートのテワタサナイーヌが片膝で男の背中を制圧している。

 スカートの中が見えてしまい、取り囲んだ通行人から写真を撮られている。

(スパッツ履いてるもんねーだ)

 テワタサナイーヌは、職務の執行のためなら下着が見えることも全く厭わないが、その日はスパッツを履いてきて正解だった。

 間もなく駆けつけた制服警察官に犯人の男を引き継ぐと、テワタサナイーヌはすっと立ち上がり服装の乱れを直し、縦にリブの入ったオフホワイトのセーターの中から首に提げた警察手帳を取り出して警察官に示した。

「私は警視庁の警察官です。この男を窃盗の現行犯で逮捕しました。私はこのあと富山港署でキャンペーンがありますから、それが終わったら手続書を作成しに署にうかがいます」

 そう言って現場を離れ、山口らの元に向かって歩き出した。

「かっこいいぞ、ケモミミ婦警さん!」

 現場を取り囲んだ通行人から歓声と拍手が起こる。

 テワタサナイーヌは、立ち止まると節度のある回れ右をして通行人の群れに向き直り、最高の笑顔を作って右手で敬礼をしてみせた。

 私服で挙手の敬礼は行わないが、サービスとしてはアリだと思った。

 ただ、マズルが伸びた獣顔のままだったので、少々強面だったかもしれない。

「代理、マズルを戻したい。どこか人目につかない場所に移動させて」

 テワタサナイーヌは、伸びたマズルを戻すとき耐え難い激痛を伴う。

 その様子は山口以外に見せたくない。

「わかりました。このマズルもかわいくて好きなんですがね」

 そう言って山口は右手の指先をテワタサナイーヌの鼻先に添えた。

「あれっ?」

 マズルの戻り始めに合わせて疼き出した痛みがすっと静まったのをテワタサナイーヌは感じた。

 山口がマズルから手を離すとまた痛みが増した。

「代理、すごい発見したかも。代理に鼻を触ってもらうと痛みが軽くなるみたい」

 テワタサナイーヌが山口に新発見の驚きを伝えた。

「え、そんなことがあるんですか?」

 そう言って山口はもう一度テワタサナイーヌの鼻先に触れた。

「うん、やっぱり間違いない」

 テワタサナイーヌは確信した。

「そのまま触ってて」

「はい、わかりました」

 山口がテワタサナイーヌの鼻先に指を添えていると、テワタサナイーヌのマズルがゆっくりと元に戻っていく。

 鼻骨の軋みもほとんどない。

 鼻骨の変形に伴う痛みが完全になくなるわけではないが、耐えられないほどではない。

 これなら人前でも平気だ。

「少し遅くなってしまいました。急ぎましょう」

 綿貫が二人を案内しながら言った。

 

 綿貫は、二人をコンコースから外のロータリーに誘導し、そこに待たせてあった銀色のミニバンに案内した。

 山口はテワタサナイーヌの手を取り、後部座席の奥に座らせた。

 そして、テワタサナイーヌの隣に乗り込み、ドアを閉めた。

 二人を乗せた車は、駅から富山港を目指して北上する。

 相変わらず雪が舞い、風も強く吹いている。

 冬の日本海側らしい厳しい天気だった。

 駅前を抜けると街なかに突然広い公園が現れる。

 富岩運河環水公園だ。

 ここは、元々あった運河を利用して作られた公園で、舟だまりを利用した水辺空間を中心に、遊歩道や芝生のスロープが配置された都市公園として住民に親しまれている。

「実は、ここに世界一のものがあるんです。なんだかわかりますか?」

 綿貫がもったいぶった言い方で二人に問いかけてきた。

「わかりません。なんですか」

 山口はしばらく考えたが、まったく思いつく答えがみつからなかった。

「世界一景色がいいスターバックスがあるのがここなんです」

 綿貫が誇らしげに答えを披露した。

「へー!」

 山口とテワタサナイーヌが声を合わせて驚嘆した。

「世界一景色がきれいなスターバックスっていったら、スイスとかなんかヨーロッパの方にありそうですよね!それが日本にあるなんてすごい!」

 テワタサナイーヌが興奮した口調で身を乗り出して言った。

「窓際から見る景色がとにかくきれいなんです。特に夕日が地平線に沈む頃や、うっすらと雪化粧したような日は格別です。今日はちょっと雪が降りすぎてますけどね。今度、お時間のあるときにでもぜひ立ち寄ってみてください」

 綿貫が滔々と説明を続けた。

 そうこうしているうちに、車は富山港警察署に到着した。

 署の敷地入り口にはロシア語の看板が掲示されていた。

 署の玄関には、副署長が出迎えに出てくれていた。

 車の後部ドアを開け先に降りた山口がテワタサナイーヌの手を取り安全に降車させる。

「警視庁の山口とテワタサナイーヌです。本日はお世話になります」

 山口が代表して副署長に挨拶をした。

「ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りください」

 副署長は二人を署内へと案内した。

「おぉーっ」

 副署長に先導されてテワタサナイーヌが署内に入ると、長身でスタイルがよくモデルのような出で立ちのテワタサナイーヌに署内からため息が漏れた。

 山口とテワタサナイーヌは、署員に会釈をしながら副署長の案内で署長室に入った。

 署長は、恰幅のいい、いかにも人の良さそうな初老の警察官だった。

 間もなく定年を迎えるくらいだろう。

「警視庁の山口警部です」

「同じくテワタサナイーヌ警部補です」

「特殊詐欺被害防止キャンペーンのため派遣されました」

 二人が署長に申告した。

「遠いところよく来てくれました。お二人の活躍は、綿貫からよく聞かされています。今日は、富山駅でひったくり犯人まで捕まえてくださったそうで、本当にありがとうございます」

 署長はこぼれんばかりの笑顔で二人を歓迎した。

「署長、予定より少し遅れていますので、テワタサナイーヌさんにはすぐに準備に入ってもらおうと思いますが、よろしいでしょうか」

 綿貫が署長に伺いを立てた。

「うん、そうだね。それじゃあテワタサナイーヌさん、山口さん、よろしくお願いします」

 二人は署長室を出て、狭い署内の廊下を幾度か曲がり、生活安全課の部屋に通された。

 部屋の中には大きな石油ストーブがあり、勢い良く炎が舞い上がっている様子がのぞき窓から見えた。

 テワタサナイーヌが室内のデスクの数を数えたところ、生活安全課は課長以下8人くらいのようだった。

「警視庁の山口とテワタサナイーヌです。本日はよろしくお願いします」

 山口が挨拶をした。

「よろしくお願いします」

 生活安全課の課員から元気な挨拶が返ってきた。

「さっそくテワさんは、着替えをさせてもらいましょう」

 山口がテワタサナイーヌに着替えを促して、持参した制服などが入っている紫色のキャリーケースを渡した。

「うん、行ってくる。着替えはどちらですればいいですか?」

「着替えは女性更衣室でお願いします。こちらです。ご案内します」

 女性の警察官がテワタサナイーヌを案内して室外に出ていった。

「署の入り口にロシア語の看板がありました。ロシア人の方が多いんですか?」

 テワタサナイーヌの着替えを待つ間、山口は綿貫に署の入り口で見たロシア語の看板について質問をした。

「そうです。港にロシア船が多く入港するので、ロシア語の表記が多いんです」

 綿貫が答えた。

「そうなんですか。そうすると署にもロシア語の通訳ができる人もいらっしゃるわけですか?」

「はい、通訳できる警察官が3人ほどいます」

「そうですか。港を管轄内に持っていると大変そうですね」

「お待たせしましたー」

 山口と綿貫が話をしていると、着替えを終えたテワタサナイーヌが元気に生活安全課の部屋に戻ってきた。

 きっちり制服を着こなし、今日は特注の耳が出る制帽も被っている。

 最近は、ズボンの制服を着る女性警察官が多くなっているが、テワタサナイーヌの衣装としての制服はスカートだ。

 それも、膝上10センチくらいの比較的短いスカートになっている。

 やはり見栄えが良くなくては、多くの人の目に留まらない。

 膝上10センチのスカートだが、テワタサナイーヌが履くとかなり短い裾丈に見える。

 テワタサナイーヌは、膝から下が長い。

 膝から下が長いと脚が長く見える。

 実際脚が長いのだが、膝下が長いことで脚全体がより長く見える上にスカートも実寸より短く見えるようになる。

「お化粧落としすぎてないかな」

 テワタサナイーヌが山口に恥ずかしそうに訊いた。

 さきほどまでのマスカラとグロスはすっかりオフされ、警察官らしい薄化粧に変わっていた。

「素材がいいから薄化粧が映えますね」

 山口がテワタサナイーヌをほめた。

「さすがイタリア人」

 テワタサナイーヌが尻尾を左右に振った。

「さあ、それではそろそろ出かけますか」

 課長席で事務仕事をしていた綿貫が顔を上げて二人を促した。

 テワタサナイーヌを見た綿貫は、その変わりように少し驚いた表情を見せた。

「あ、いつも見ているテワタサナイーヌさんになりましたね」

 綿貫がテワタサナイーヌを眺めながら感心したようにつぶやいた。

「こっちの私は営業用の私ですけどね」

 テワタサナイーヌがいたずらっぽくウインクしながら綿貫に暴露した。

 生活安全課の部屋を出て、署内の狭い廊下を何度か曲がり、署の玄関に出た。

 玄関前には、駅から乗ってきたミニバンが横付けされていた。

 署長室から見送りに出てきた署長に愛想よく挨拶をすると、テワタサナイーヌは山口に手を取ってもらい車の後部座席に腰を沈めた。

 今回は、乗ったドア側にテワタサナイーヌが座ったため、山口は車の後ろから右側に回り込み、右側のドアを開けてテワタサナイーヌの隣に乗り込んだ。

 署の玄関では、署長以下署員総出で手を振りながら見送ってくれた。

 テワタサナイーヌは、それに深々と頭を下げて応えた。

 テワタサナイーヌと山口を乗せた車は、署を出ると署の前の通りをまっすぐ進んだ。

 綿貫が事前に説明したように、5分ほど走るとキャンペーン会場であるスーパーマーケットに到着した。

 雪が降りしきる午前10時の開店前だ。

 スーパーの駐車場には、まだほとんど車が停まっていない。

「これでキャンペーンになるのかしら」

 テワタサナイーヌは少々不安になった。

「10時を過ぎるとお客さんが集まりだしますから」

 テワタサナイーヌの不安を察したのか、綿貫が説明を加えた。

「それと、今日は富山のローカル局と新聞の取材が入ります」

 綿貫が取材予定を告げた。

「あらっ、じゃあ張り切っていい絵を撮ってもらわなきゃ」

 取材慣れしたテワタサナイーヌがやる気を出した。

「それから、テワタサナイーヌさんと共演させてもらうために、富山県警のシンボルマスコットである立山くんも連れてきました」

 立山くんは、立山連峰を模したような顔の形をして警察官の制服を着用した、いわゆるゆるキャラだ。

 今日は、その着ぐるみを用意したというのだ。

 立山くんの中の人は、署でテワタサナイーヌを着替えに案内してくれた女性警察官だという。

 着替えが必要なため、すでに先に現場に入り待機しているということだった。

 午前10時になりスーパーが開店すると、徐々に客が集まりだした。

「さあ、始めましょう」

 スーパーの中で準備をしていた綿貫が駐車場に停めたテワタサナイーヌたちが乗った車に駆け寄ってきて声をかけた。

「雪で滑りやすくなってますから、足元に注意してください」

 綿貫は、そう言うと顔にかかる雪を手で防ぐようにしながら、また店内に走って戻っていった。

 先に右側のドアから降りた山口が左側に回り込み、後部のドアを開けた。

「テワさんは犬だから、雪ではしゃぎたくなりますか?」

 山口が冗談ぽくテワタサナイーヌに訊いた。

「うーん、その点はまだ犬化してないみたいよ」

 テワタサナイーヌもすっかり自分が犬だということを受け入れている。

「どうぞお嬢様」

 そう言って山口はテワタサナイーヌに手を差し出した。

「ありがとう」

 テワタサナイーヌもにっこりと微笑んで山口の手に自分の左手を乗せた。

 山口は、テワタサナイーヌの乗降時にパパラッチされないよう、身体でカバーをして見えないようにする。

 テワタサナイーヌが車を降りると、山口はテワタサナイーヌと手を繋いだまま、若干テワタサナイーヌの前に出て雪の状態を確かめながら、身体を半身に開いてテワタサナイーヌを見ながらゆっくりと歩いた。

「テワタサナイーヌさん入りまーす」

 スーパーの入口前で山口はテワタサナイーヌに向かって言った。

 テワタサナイーヌの女優スイッチを入れる合図だった。

「やっぱり成り切るスイッチって大事よね」

 テワタサナイーヌが山口の自分の扱いのうまさに感心しながらつぶやいた。

 そこからのテワタサナイーヌは、まるでスーツアクターが入っている着ぐるみのような動きになった。

 身振り手振りを交え、身体全体で感情を表現する。

 夢と魔法の国にいる王子様の恋人のような動きといえば想像できるだろうか。

「富山港署です。知らない人にお金をテワタサナイーヌ!」

「おうちの電話は、いつも留守番電話にしておいてくださいね」

「携帯が変わったと言われたら、息子さんやお孫さんの元の携帯番号にかけ直してね」

 テワタサナイーヌは、通りかかる買い物客に自分から走り寄っては笑顔で話しかける。

 いっときも動きが止まることはない。

 動きを止めてしまうと、自分の外見からお人形さんのように見えてしまうことを知っている。

 テワタサナイーヌの首元に玉の汗が浮かんでいる。

 普段、都内でのキャンペーンでも決して手を抜かないテワタサナイーヌだが、請われてはるばる駆けつけた現場だ。

 いつも以上に動き回り多くの買物客をつかまえては注意喚起をしている。

 真冬だというのに汗をかくほどの運動量だ。

 それだけオレオレ詐欺の被害防止に向けたテワタサナイーヌの気持ちが強いということだ。

 見慣れているはずの山口だが、この光景を見るたびに目頭が熱くなるのを隠せない。

 キャンペーン開始から1時間が経過して予定の終了時刻となった。

 テワタサナイーヌは、この間、一瞬たりとも笑顔を絶やさず全力で走り抜けた。

 山口に手を引かれ、乗ってきた車に戻ったテワタサナイーヌは、山口に支えられながらステップを上ると、倒れ込むようにしてシートに沈んだ。

 呼吸も浅くなっている。

 山口も車に乗り込みドアを閉めると、テワタサナイーヌの制服の前を緩めた。

 制服のボタンを外すと、中で窮屈そうにしていたものが自由になろうとして、弾けるように左右に広がった。

「お疲れさまでした」

 山口は、テワタサナイーヌの汗をタオルで拭い、制帽を脱がすと彼女の頭を撫でた。

 一本の現場でこれだけ消耗する。

 これを一日三本から四本かけもちする日もある。

 テワタサナイーヌの疲労は想像を絶するものがあるに違いない。

「代理、水、水」

 うわ言のように水を欲するテワタサナイーヌ。

「はいどうぞ」

 山口は、用意しておいたペットボトルのミネラルウォーターをテワタサナイーヌに差し出した。

 テワタサナイーヌは喉を鳴らしながらボトルの半分くらいまで一気に水を飲み干した。

「あー生き返った!」

 テワタサナイーヌに生気が戻った。

「代理、どうだった今日のキャンペーン?いつもよりいっぱい頑張ったよ私」

 テワタサナイーヌはほめて欲しかった。

 山口は、自分のことを無条件にほめてくれるのを知っている。

 山口には甘えていい。

 自分を肯定してくれる。

 テワタサナイーヌにとって山口はそういう存在だ。

「素晴らしい活躍でした。泣けてきました」

 山口は感じたことを正直に伝えた。

「もっとほめて。私えらい?えらかった?」

「早苗さん、とってもえらかったですよ」

「でへへへへ」

 キャンペーンのあとは、無条件に山口に甘えさせてもらえるので、疲労困憊するが幸せな時間でもあった。

 むしろこの瞬間のためにキャンペーンで走り回っているとも言える。

 

 キャンペーンを終え、テワタサナイーヌと山口が署に戻ると署長が玄関で出迎えてくれた。

 おそらく到着前から玄関にいて待っていたのだろう、頭と長く伸びた眉毛に白く雪が乗っていた。

 テワタサナイーヌが山口に手を引かれて車から降りると署長が近寄ってきた。

「私も現場を見ていました。すばらしい活躍でした。お陰でキャンペーンは大成功です。本当にありがとうございます」

「粗肴ですがお食事を用意しています。着替えが終わったら一緒に出ましょう」

 署長が感謝の言葉と食事の用意があることをテワタサナイーヌに伝えた。

「ありがとうございます。それでは遠慮なくいただきます」

 テワタサナイーヌは、必要以上にへりくだらない。

 更衣室に入り、制服から私服に着替えて出てきたテワタサナイーヌは、警察官からモデルのようなお姉さんに戻っていた。

 トレンチコートを着ていないので、タイトにフィットした縦にリブの入ったオフホワイトのセーターがテワタサナイーヌの筋肉質な身体の丸みを惜しげもなく見せつけている。

 富山港署側のメンバーは、署長、副署長、生活安全課長の綿貫、警務課長。

 それにテワタサナイーヌと山口の6人が2台の車に分乗して署を出発した。

 10分ほどで目指す料理屋に到着した。

 古風な平屋建ての落ち着いた店構えだ。

 警務課長が引戸を引いて店内に顔をのぞかせた。

「予約していた富山港署です」

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 着物を自然に着こなした中居が出迎えた。

 署長一行は、店内の一番奥まった半個室のような席に案内された。

 全員が席につくと温かいお茶とおしぼりが供された。

 テワタサナイーヌ以外は、思い思いにおしぼりで手や顔を拭いている。

(顔は拭くなよー。私なんか拭ける顔が出てないんだからな)

 テワタサナイーヌが少々がっかりしながら山口を見ると、山口はさっと手を拭いただけで、おしぼりを皿の上に戻していた。

(さすが私の代理は違うわ)

 テワタサナイーヌは、誇らしい気分になった。

 間もなく、松花堂弁当と汁物が運ばれてきた。

「いただきましょう」

 署長がスタートの合図を出した。

「いただきます」

 山口とテワタサナイーヌは、両手を合わせて声を出した。

「ものを食べるときは、必ずいただきますをするんですよ」

 テワタサナイーヌは山口から口酸っぱく躾られ、今では自然に声と動作が出るようになった。

「今日は日帰りということで残念です。一泊されるのであれば、夜においしい寿司屋をご紹介したかったのですが」

 署長が刺身を口に運びながら残念がった。

「ホントに残念です。山口が堅物なもので、日帰りが可能だから一泊しちゃダメって言うんですよ」

 テワタサナイーヌがわざと膨れっ面を作って笑いを誘い、場を和ませた。

「いや、わかります。北陸新幹線の開通で私たちの出張もずいぶん変わりました」

 テワタサナイーヌの冗談を綿貫が引き受けた。

「以前であれば、東京出張は一泊と決まっていたんです。それが、北陸新幹線が開通してしまったもので、今では日帰りになってしまったんですよ」

 綿貫が続けた。

 新幹線の開通は、地方の仕事のスタイルまで変える。

 食後の氷菓が出され食事が済んだ。

「せーの、ごちそうさまでした」

 テワタサナイーヌの音頭でテワタサナイーヌと山口が声を揃えて手を合わせた。

「まるで家族ですね」

 署長が目を細めた。

「大事な家族です」

 山口がテワタサナイーヌの頭に手を乗せくしゅくしゅと髪を撫で回した。

 テワタサナイーヌは恥ずかしそうに俯いて身をよじったが、尻尾は上向きで元気に振られていた。

「そうだ、朝逮捕したひったくりの逮捕手続書を作りに行かないと! のんびりしてたら日帰りできなくなっちゃう」

 テワタサナイーヌが思い出したように声をあげた。

「そうでしたね。急ぎましょうか」

 山口が同調した。

「あー、でも私書類作るの遅いから終電に間に合わないかもしれないなー。ねぇねぇ代理、泊まっていかない?」

 テワタサナイーヌが甘ったるい声で山口にしなだれかかった。

「ダメです。今日中に帰りますよ」

 山口はニコニコしながらテワタサナイーヌの鼻先を指でつついた。

「ちぇ、代理と泊まれるチャンスだと思ったのにー」

「テワさん、もし泊まっても別々の部屋ですから、ただのお泊まり会ですよ」

 山口はテワタサナイーヌの鼻先から指を離して、いつものようにゆっくりと言って聞かせた。

「テワタサナイーヌさんは、山口さんのことを好きなんですか?」

 生活安全課長の綿貫がストレートに切り込んだ。

「好きなんてもんじゃないです。愛してます!」

 テワタサナイーヌが大きな声ではっきりとカミングアウトした。

 山口に対する告白でもあった。

 つい勢いで言ってしまったものの、とんでもないことを口走ったことに気づいたテワタサナイーヌは、急に恥ずかしくなり、顔を下に向け赤面した。

「いえ、あの、愛してるっていうか、その、上司として尊敬しているっていう意味でして……」

 懸命に弁解するが、時すでに遅しだ。

「わかっていますよ」

「えっ」

 山口の声にテワタサナイーヌが驚いて顔をあげた。

 そこには、いつもと変わらない穏和な山口の笑顔があった。

「テワさんの気持ちは受け止めました。私の宝物にします」

「これからも、どんどん投げつけてください。しっかり受け取ります」

 てっきり拒絶されるものと覚悟を決めていたのに、その予想が完全に外れて、テワタサナイーヌはどう反応していいのかわからなかった。

 山口は、自分のどんな感情も受け入れてくれる。

 その投げつけた感情に応えることを求めない限り。

 テワタサナイーヌは、それが山口の愛だと理解した。

「ありがとうございます。これからも全力で愛します。覚悟してください」

 テワタサナイーヌが山口に明るく宣戦布告した。

「望むところです」

 山口も不適な笑顔で応戦した。

「なんだか羨ましいですな」

 二人のやりとりを見ていた署長が嬉しそうに言った。

「私たち警察官は、採用のときから、とにかくあらゆることに自制を求められています。恋をすることも然りです」

「テワタサナイーヌさんのように好きな人、それも妻子ある男性に豪速球の直球勝負を挑むことなど考えられないことでした」

「それをいとも簡単に、そして軽やかにやってくださった。なにか積年の霞が晴れたような気がしました」

「テワタサナイーヌさんにしてみれば、叶うことのない恋です。片思いでしょう。叶えてしまったら不倫という我が社では許されない関係になってしまいます」

「そうならずに、とてもいい関係を築いていらっしゃる。本当に羨ましく素敵です」

「なにより素晴らしいのは、お二人がお互いに反対給付を求めていらっしゃらないということです」

 署長がテワタサナイーヌと山口の関係を分析してみせた。

「反対給付を求めないというのは、どういうことですか?」

 テワタサナイーヌが首を傾げた。

「お二人の間には、『あれをしてあげたのに相手が応えてくれない』ですとか『こんなに想っているのになんでわかってくれないのか』というように、自分が相手に何かをしていることに対する相手からの反対給付を求めることがありません」

「つまり『なになにしたのになになにしてくれない』という、何かをしたことに対する見返りを求めることで相手を束縛しようとする、『のにの束縛』がないのです」

「お二人を見ていると、幼い女の子が父親に対し『お父さん大好き』という感情を抱く時期のような関係に見えて実に微笑ましいのです」

「父親は、そんな娘の気持ちに応えることはできません。しかし、その気持を拒否することもなく受け入れます。娘は、父親に受け入れられている、自分が許される存在だということを知って安定した自我が育つのです」

「本当の親子より親子らしい関係です」

 署長は、テワタサナイーヌと山口の関係を本当の親子より親子らしいと表現した。

「お父さん大好き…… か」

 テワタサナイーヌが独り言をつぶやいた。

「私には父の記憶がありません。なので、お父さん大好きという気持ちはわかりません。でも、代理のことを愛しているという気持ちが、お父さん大好きに近いということに気づきました」

 テワタサナイーヌは、山口をまっすぐに見つめて懸命に自分の気持を伝えようとした。

「署長、今日はお招きいただきありがとうございました。また、私たちの関係に深い考察を加えてくださり感謝します。時間が押してまいりましたので、そろそろ失礼させていただきたいと思います」

 山口が署長に謝辞を述べた。

「そうですか。それでは、一旦署に戻り荷物をおまとめになって、気をつけてお帰りください。逮捕手続書の件については、私から中央署に電話を入れておきます」

 署長が山口に右手を差し出しながら心を込めて挨拶をした。

 山口とテワタサナイーヌが順に署長と握手をして別れを惜しんだ。

 富山港署で帰り支度をした二人は、綿貫に送られて中央署に向かった。

 中央署に着いた山口は、テワタサナイーヌが目を丸くする速さで現行犯人逮捕手続書を完成させてしまった。

「現行犯逮捕は、一番簡単なんですよ。事実をそのまま書くだけですからね」

 山口がいとも簡単に言ってのけたが、事実をそのまま書くということがテワタサナイーヌには難しく感じられ、いつも苦労する。

 中央署で逮捕手続書の作成やその他の手続を終え、署を出たのは午後3時すぎであった。

「これなら定時と同じくらいには帰れそうですね」

 中央署の玄関で山口がテワタサナイーヌに右手を差し出して言った。

「そうね。泊まれなくて残念」

 テワタサナイーヌは、冗談めかして言いながら、差し出された山口の手に左手を重ね、山口を見つめた。

 朝から降り続いていた雪がいつの間にか止み、鉛色をした雪雲の隙間から陽の光が差し込んでいた。

 テワタサナイーヌが山口に聞こえないほどの小さな声で囁いた。

 

「お父さん大好き」




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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突撃ホワイトデー

 富山出張の翌朝。

 警視庁犯罪抑止対策本部の事務室では、山口がいつものようにテワタサナイーヌフィギュアを愛でながら、本物のテワタサナイーヌが淹れた紅茶を楽しんでいた。

 富山で山口に対する恋心を告白したテワタサナイーヌも、その日は何事もなかったかのように紅茶をサービスした。

 二人にいつもと同じ朝の時間が流れている。

 ただひとつ、紅茶の茶葉がそれまでよりいいものになったことを除いては。

 今朝のテワタサナイーヌは、黒のパンツスーツにほとんど素っぴんに近い薄化粧という、いつもと同じ質素で清楚な女性警察官に戻っていた。

 昨日の華やかさはどこにもない。

(それにしても、こうまで雰囲気を変えることができるとは驚いた。どちらが本当のテワさんなんだろう)

 山口は、女性の化け方に感心した。

(昨日、富山港署で制服を着たテワさんが「こっちは営業用の私」と言っていたから、ミニスカにタテセタのテワさんが素なんだろうな)

 山口がぼんやりと考えていると、テワタサナイーヌが隣のデスクから山口の顔の前に手のひらを上にして差し出した。

「代理、お茶代」

「私はお茶代ではありませんよ」

 山口が答えた次の瞬間。

 がば!

 ぐい!

 テワタサナイーヌが山口の顔の前に差し出していた手で山口のネクタイをつかみ、ぐっと上に持ち上げた。

 よくある胸ぐらをつかみ上げるような動作だ。

 山口の顔が恐怖にひきつる。

「あのねお父さん。そんなヘソの曲がった小学校の先生みたいなこと言わないの」

 恫喝しながらも二人だけにわかる昨日の秘密を織り混ぜて遊ぶテワタサナイーヌであった。

「すいません、すいません。払います、払いますから!」

 山口が椅子から落ちそうになりながら謝り倒した。

 どう見ても部下が上司を恐喝している図だ。

 そのとき山口のデスクの電話が鳴った。

 テワタサナイーヌがつかんでいたネクタイから手を離す。

 山口は、ネクタイを直しながら受話器を取った。

「はい、犯罪抑止対策本部の山口です」

「あ、綿貫さん。昨日はありがとうございました。お陰さまで有意義な出張になりました」

 電話の相手は、昨日出張した富山県の富山港署生活安全課の課長だった。

 昨日の礼のために電話をかけてきたようだ。

「え、私たちですか?」

 山口の声が急に小さくなった。

「はい、特に変わったところはありません。はい」

 綿貫に、昨日あのあとどうなったのかを訊かれているようだった。

 普段なら電話の語尾に「はい」という無意味な言葉を遣うことがない山口だが、動揺を隠しきれない様子がテワタサナイーヌからもわかった。

「本当ですか。すぐに見てみます」

「はい、また機会がありましたらご一緒したいです。本当にありがとうございました。失礼いたします」

 山口が電話を切った。

「ふふーん」

 テワタサナイーヌがふんぞり返って顎を突き出し、片方の眉を上げて勝ち誇ったような表情で山口を見下ろした。

 山口はズボンのポケットから取り出したピーポくんの刺繍入りハンカチで額の汗を拭った。

「私もグッズが欲しいなー」

 ピーポくんに対抗意識を燃やすテワタサナイーヌであった。

「もっとメジャーになったら誰かが作ってくれますよ」

 山口にそのあてはなかったが、とりあえず言っておけば実現するかもしれないと思った。

「テワさん」

「なーに?」

 二人の会話は、いつもこの呼びかけから始まる。

 いつもならここから会話が始まるところだが、その日は山口がメモ用紙になにやら書き込んで、それをテワタサナイーヌに手渡した。

「なに、今日はメモなの。なんか中学生にでも戻ったみたい」

 テワタサナイーヌが楽しそうにメモを受け取った。

「二人だけの秘密で遊ぶのは楽しいですが、私たちが親子のようにじゃれ合っているのを楽しんでくれる人ばかりじゃありませんから、あまり目立つことはしないようにしましょう」

 メモにはそう記されていた。

 山口の耳には、二人の関係をよく思っていない者がいるという情報が入っていた。

 テワタサナイーヌは無言のまま山口を見て小さく頷いた。

「ところで代理、さっき綿貫さんとの電話で『すぐに見てみます』って言ってたけど、あれは何?」

 テワタサナイーヌが話題を変えた。

「あれですか、昨日はローカル局のカメラ取材が入っていましたね」

「うん、ずいぶんたくさん撮ってくれた」

「昨日の午後のニュースで放映されたそうです。それが局のwebで動画を見られるそうなんです」

 昨日のキャンペーンには、地元テレビ局のカメラ取材が入っていた。

 テワタサナイーヌと立山くんのコラボということで、キャンペーンの開始から終了までずっと取材をしてくれた。

 それが放送され、webでも見られるという。

「え、見たい!代理のネット端末はモニタが大きいから、それで見せて」

 テワタサナイーヌが弾んだ声で言い、自分の椅子を山口の隣に移動させて腰を掛けた。

「わかりました。いま探しますからちょっと待ってください」

 山口が開いていたブラウザのタブを一枚新規に立ち上げ、富山のローカル局を検索して昨日放映されたニュースを探した。

「あった、あった。これですね」

 ニュースをみつけた山口がテワタサナイーヌに指をさして教えた。

 山口が動画を再生した。

「今日午前、富山市内のスーパーマーケットで特殊詐欺の被害防止キャンペーンが行われました」

 女性アナウンサーがニュースを読み上げた。

「このキャンペーンには、富山県警のマスコット『立山くん』のほか、警視庁犯罪抑止対策本部の特殊詐欺被害防止マスコット『テワサタ……』、『テワタサナイーヌ』も参加して行われました」

 テワタサナイーヌと山口が二人揃ってデスクに突っ伏した。

「アナウンサーでも噛むんですね」

 山口が苦笑した。

「私、自分でも噛む」

 テワタサナイーヌが肩をすくめた。

「やっぱり言いにくいんでしょうか。テワタサナイーヌという名前は」

 腕組みをしながら山口が唸った。

 ニュースでは、テワタサナイーヌのインタビュー場面も放映された。

「オレオレ詐欺は、人が人を信じるという気持ちを逆手に取り、家族の絆をずたずたに断ち切る犯罪です。絶対に許しません!」

 画面のテワタサナイーヌが力強くインタビューに答えていた。

 

「ねえ代理」

「なんですか」

 テワタサナイーヌから話しかける二人の会話は、いつもここから始まる。

「私、インタビューを受けることが多いじゃん」

「そうですね、最近はインタビューを受けることも増えてきました。嬉しいですね」

「あのさ、たまには私がインタビューする側になってみたいんだけど」

「へ?」

 山口は、予想もしていなかったテワタサナイーヌの提案に素っ頓狂な声で返事をしてしまった。

「へじゃないの。私が誰か偉い人かなんかにインタビューをして、そこで特殊詐欺根絶の決意を語ってもらおうっていう企画よ」

 テワタサナイーヌが得意満面に答えた。

「いきなり企画が飛び出しましたね。それはいいかもしれません」

「で、誰にインタビューをしたいんですか? 手始めに副本部長とかですか?」

 山口がテワタサナイーヌに問いかけた。

「高柳さん」

 テワタサナイーヌがこともなげにさらっと言い放った。

「高柳さん?」

 山口が首を傾げた。

「えーっ!?」

 あることに気づいた山口が声をあげた。

「いや、ちょっと待ってくださいよテワさん。高柳さんというのは、総監ですよね。いきなり総監は無理なんじゃないですか。せめて各部長クラスくらいから始めるとか」

 山口が怖気づいた。

 テワタサナイーヌは、誰にでも親しく話しかけられる人懐っこさを持っている。

 それを活かせば総監にインタビューすることも可能だろう。

 それにしても、いきなり警視庁の頂点にアタックしようというテワタサナイーヌの肝の据わり方に山口は平伏した。

「なに言ってるの。私がインタビューするんだもん、総監くらいじゃなくちゃ釣り合わないでしょ」

 テワタサナイーヌは、本当にそう思っている節がある。

「どうしても総監じゃないとダメですか」

「どうしても総監じゃないとダメですよ」

 テワタサナイーヌが言い切った。

 山口はしばらく腕組みをしたまま天を仰いで黙考した。

「なにがなんでも総監ですか」

「なにがなんでも総監ですよ」

 今度は下を向いて考え込んでしまった。

 テワタサナイーヌはニコニコしている。

「私に玉砕してこいとおっしゃる?」

「パパは玉砕しちゃダメ」

「パパはやめなさい」

「はーい」

 つい先ほどの山口の注意がまったく届いていないテワタサナイーヌだった。

 しばらく黙っていた山口が顔を上げ、両手で顔を2回叩いて気合を入れた。

「やりますか」

「総監に突撃をかけるとなると、それなりの大義名分が必要になります」

 山口の腹が決まった。

「やったー! 総監に会える」

 テワタサナイーヌがバンザイをして喜んだ。

「まだ決まっていません」

「代理は、やると言ったら実現させる人でしょ。期待してるから」

 テワタサナイーヌもほめて伸ばすタイプのようだ。

 山口が関係すると思われる部署に問い合わせを始めた。

 総監秘書室。

「ダメです」

 企画課。

「無理ですね」

 広報課。

「やめてください」

 予想していた通りの答えのオンパレードだった。

 この手の話は、下から上げていったのでは、必ず途中で潰される。

 山口は強行手段に出ることにした。

 関係部署に対する問い合わせは、強行手段に出るための理由作りでしかなかった。

 山口は、最初から強行手段しか考えていなかった。

 その日の午後。

 当日の予定表で、今なら犯抑副本部長の坂田警視長と総監の日程が空いているのを確認した山口は副本部長室のドアをノックした。

「失礼します」

 副本部長室に入った山口は、テワタサナイーヌに総監への突撃インタビューを行わせたいということを具申した。

「警視庁のトップがご自身の言葉で特殊詐欺根絶の決意を都民国民に直接訴えるのです」

「プレスリリースのような練りに練られた文では共感が得られません。このSNSの時代に共感を得るには、人間らしい生の言葉が必要です」

「そのためにもテワタサナイーヌのインタビューというくだけた雰囲気の中で、総監に率直なお気持ちをお話しいただきたいのです」

 珍しく山口が熱く語った。

「そうだな。山口さんの言う通りだと思います」

 坂田が言うと山口はニヤリと笑いを作った。

「副本部長、今なら総監のスケジュールが空いています。これから総監にお願いに行きましょう」

「よしわかった」

 坂田も決断すると行動が早い男だった。

 山口と坂田が犯抑を出て1フロア上の総監室に向かった。

「坂田です。総監いらっしゃいますか」

 他のフロアとは明らかに雰囲気の違う総監室の受付に坂田が声をかけた。

 アポなしで警視長の坂田が総監に会いに来たことに秘書は驚きを隠さなかった。

「あ、はい、いらっしゃいます」

「ありがとう。それじゃあ失礼します」

 そう言うと坂田は山口を引き連れて総監室に入っていった。

 あっという間の出来事に秘書は呆気にとられていた。

「Twitter警部の山口係長です」

 総監室に入ると坂田は山口を総監に紹介した。

「山口さんですね。ズボンは大丈夫ですか」

 総監が穏やかな笑顔で山口に話しかけた。

(総監見てたのか)

 山口は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 というのも、その日の午前中、山口がデスクでミカンを食べていたとき、ふとした弾みでみかんの汁がズボンに垂れてしまった。

「みかんの汁がズボンに落ちました」

 そのことをTwitterに投稿していた。

 総監は、それを見ていて部屋に入ってきた山口をからかったのだ。

(総監がTwitterを見てくれているなら話が早い)

 山口は坂田と目を合わせて自分が説明するということを無言のうちに伝えた。

「マスメディアを通さない、都民国民に直接訴求できるTwitterは、強力な情報発信ツールです」

「そこで総監がご自身の言葉でメッセージを発信する意義は大きいです」

「ついては、テワタサナイーヌにインタビューをさせるという形で行わせていただきたい」

 山口が落ち着いた雰囲気の中にも熱のこもった話し方で総監に伺いを立てた。

「いいよ」

 総監は即答した。

「ありがとうございます」

 坂田と山口は声を揃えて礼を述べた。

「場所は総監の執務室でよろしいでしょうか」

「そうだね。そうしようか」

 山口の提案に総監が快諾した。

「具体的な日程などについては、秘書を通じて調整させていただきます」

 坂田と山口は総監室をあとにした。

「副本部長、ありがとうございます」

 部屋へ戻る途中、階段を下りながら山口が坂田に頭を下げた。

「いえ、こういうことはスピード感が大事です。じっくり検討なんてしていると、できない理由ばかり出てきます。方向はつけましたから、あとはお任せします」

 坂田が具体的な内容に関する権限を山口に委ねた。

 坂田は、マイクロマネージメントをしない。

 方針の決定には携わるが、あとは現場に委ねるというスタイルだ。

 このようなスタイルなので、坂田は「聞いてない」という台詞をほとんど言わない。

「Twitterの運用は山口さんにお任せします。いちいち事前に伺いを立てる必要はありません。ですが、なにか問題が起こっても山口さん個人の責任にはしませんので、思い切りやってください」

 山口のTwitterも坂田の方針で自由にやらせてもらっている。

(自由にやらせてもらえるのはいいが、テワタサナイーヌが暴走しないように抑えなければ)

 山口の懸念はテワタサナイーヌの暴走だった。

 高柳総監はフランクな人柄で、多少のおふざけも喜んでもらえるという確信はある。

 ただ、やり過ぎると周りが許してくれなくなる。

 そうならないギリギリのことろを攻めなければならない。

 

「やったわね、代理」

 山口が部屋に戻るとテワタサナイーヌがニヤニヤしながら迎えた。

 坂田と山口が部屋を出て間もなく、総監秘書室から犯抑に電話があり

「いま、副本部長がアポ無しで総監室にお入りになっています」

 と連絡をよこしていた。

 坂田がどこに行ったのかを誰も知らなかったので、電話を受けた庶務の係員も驚いた。

(これだから代理は面白いのよ)

 電話のやり取りを聞いていたテワタサナイーヌが一人で肩を震わせた。

「空中戦をやってしまったので、問い合わせをした企画課や広報課には嫌われることになりました」

 空中戦というのは、事務方を通さず上層部だけのやり取りでものごとを決めてしまうことをいう。

 山口は企画課や広報課のメンツを潰したことになる。

「もともと煙たがられてるんだからどうってことないでしょ」

 テワタサナイーヌは、山口には辛辣だ。

 Twitterで目立っているので、煙たがられているのは事実だった。

「ちょっと待ってて、いまお茶を淹れてあげるから」

 テワタサナイーヌが紅茶を淹れるために席を立った。

 微かな獣の匂いが残された。

 山口は、テワタサナイーヌの獣の匂いが好きだ。

 だが、面と向かって言うことはできないし、匂いをかぐわけにもいかない。

 そうなると、残り香を楽しむくらいしかない。

「はい、お茶。大役お疲れさま」

 山口が嗅覚に集中していると、テワタサナイーヌが紅茶の用意をしてくれた。

「あ、すいません」

 山口は、なにか自分が悪いことをしているような気になって、つい謝ってしまった。

「あら、代理が『ありがとう』じゃなくて、『すいません』て言うの珍しい」

 テワタサナイーヌがそのあたりを見逃すことはない。

「ねえ、なんで?」

「なにか後ろめたいことあるんじゃないの?」

 テワタサナイーヌが畳み掛ける。

「いえ、なにもありませんよ」

 山口がとぼけた。

 山口は、普段ならテワタサナイーヌと目を合わせて会話をするはずなのだが、そのときはパソコンのモニタから目を離さなかった。

「やっぱりあるんだ。言いなさいよ」

 紅茶とお茶請けとして切ってきた栗蒸し羊羹を山口の前に置きながらテワタサナイーヌが笑顔で凄んだ。

「怒りませんか?」

 攻められて守りに入ったときの山口は子供のようだ。

「もー、子供じゃないんだから。怒らないから言ってごらんなさいよ」

 テワタサナイーヌがお盆を両手で胸の前に抱えて呆れ顔で言った。

「わかりました。実は、テワさんの匂い。テワさん、犬の血が入っているわけですよね。だから、微かに獣の匂いがするんです。それが好きなんです」

 山口にしては珍しく理路整然としていない話し方になっていた。

「なーんだ、そんなことだったの」

 おどおどする山口を見下ろしてテワタサナイーヌは楽しそうに笑った。

「全然怒るポイントじゃないよ。匂いフェチって結構多いと思うの。だから普通なんじゃない?」

「それなら」

 テワタサナイーヌがいたずらっぽい目つきで山口に迫った。

「もっと嗅いでいいのよ」

 そう言うとテワタサナイーヌは、緑の髪を掻き上げて短い獣毛の生えたうなじを見せた。

 髪の毛の緑色と薄茶色の獣毛のコントラストが、普通の人にはない不思議な色気を感じさせる。

 山口は、思わず匂いを嗅ぎたくなったが自制した。

「ダメです。ここは職場です。いや、職場じゃなければいいとかそういう問題でもありません」

 山口が落ち着きなく自分に突っ込みを入れた。

「やっぱりダメかー」

「普通に考えてダメでしょう」

「まあいいや。代理の秘密をひとつ知っちゃったから、今晩はビールがおいしそうだわ」

「私をビールのアテにしないでください」

 アテというのは、酒の肴という意味だ。

 山口は、自分を落ち着かせるためにテワタサナイーヌが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。

「さて、テワさん」

「なに」

 いつものようにテワタサナイーヌが答えた。

 これで普段の会話に戻れそうだ。

「総監室で何をしたいですか?」

 山口がテワタサナイーヌに希望を募った。

「ふたつありまーす!」

 テワタサナイーヌは、小学生が授業中に自信満々で先生に指して欲しいときのように元気に手を上げた。

「はい、テワさん」

 山口が先生になりテワタサナイーヌを指名した。

「まずひとつは、総監の椅子に座りたい」

 テワタサナイーヌが一つ目の希望を言った。

「そのあたりは妥当なアイデアですね」

 テワタサナイーヌの一つ目の希望は、山口も考えていたことだった。

「もうひとつは?」

 山口が訊いた。

「執務机で仕事をしている総監の机の下から顔だけ出して写真に撮られたい」

「なんですかそれは?」

 テワタサナイーヌの説明を頭のなかで映像として組み立てた山口は、そのシュールさに脱力した。

「そういうものですから」

 テワタサナイーヌが山口の口癖を盗んだ。

「おそらく総監は、どちらも許してくださると思います。ですが、本当にやるんですか?」

「やるんです」

 このあたりのテワタサナイーヌの胆力というか大胆さには驚くほかない。

「やるんですね。わかりました。その話を総監秘書室と進めるのは私なんですよ」

 山口は先のことを考えて少々げんなりした。

 

 3月14日、ホワイトデー、そしてテワタサナイーヌの誕生日。

 テワタサナイーヌの総監突撃インタビュー実施の日となった。

 ホワイトデーに設定したのは、特に理由があったわけではない。

 その日の朝、山口はテワタサナイーヌに手作りのハンカチをプレゼントした。

 バレンタインのお返しだ。

 バレンタインでは、テワタサナイーヌから山口にこれまた手作りの栗蒸し羊羮がプレゼントされていた。

「もー、作るのめちゃくちゃ大変だったんだから。二度と作らないから心して味わってよね」

 羊羮に似つかわしくないかわいらしいラッピングが施された栗蒸し羊羮をテワタサナイーヌは大事そうに手渡した。

「ありがとうございます。わざわざ作ってくれたんですか。嬉しいです」

「早速いただいていいですか」

「どうぞどうぞ」

 テワタサナイーヌが言うと、山口はラッピングをほどき棒状の羊羮にかじりついた。

 切らずにそのままかじりついた。

「おいしいです!テワさんもいかがですか」

 羊羮を一口頬張って、その味に感動した山口は、テワタサナイーヌにも食べるよう勧めた。

「私、作りながら何回も失敗したやつ食べたからいいよ」

 初めて取り組んだ栗蒸し羊羮作りだったようで、かなり失敗していた。

「そんなこと言わずに、すごく美味しいからテワさんとシェアしたいんです」

 そう言って山口は手に持った羊羮をテワタサナイーヌの口許に差し出した。

「はい、あーん」

「あ、あーん」

 テワタサナイーヌが周りの目を気にしながら口を開けた。

「どうぞ」

 山口が羊羮をテワタサナイーヌの口に運ぶ。

 テワタサナイーヌは、一口かじって羊羮から口を離した。

「うん、なかなかいいじゃない。私ってば天才」

 テワタサナイーヌが自画自賛した。

 そのあと、山口はまたテワタサナイーヌがかじった羊羮を食べ始めた。

「栗蒸し羊羮は紅茶に合うんですよ」

 テワタサナイーヌが淹れた紅茶を飲みながら栗蒸し羊羮を頬張り続ける山口であった。

 栗蒸し羊羮は、10分もかからず山口の胃に落ちた。

「ごちそうさまでした」

 山口が両手を合わせてお辞儀をした。

「一本食べちゃった……」

 テワタサナイーヌが珍しい生き物を見るような目で山口を見つめた。

「どうかしましたか」

 テワタサナイーヌの視線に気づいた山口が不思議そうな顔をしてテワタサナイーヌに尋ねた。

「どうしたもないでしょ。羊羮を一度に丸々一本食べきる人、初めて見たよ」

 テワタサナイーヌがウエットティッシュで山口の口の周り を拭きながら感心したように答えた。

「あ、ありがとうございます」

「皆さん食べないんですか?」

 山口もまだ不思議そうな顔をしている。

「絶対ないから。一本食いは変態だから」

 テワタサナイーヌが断じた。

「変態は困ります」

 山口は、苦笑しながらもまんざらでもない顔をしている。

 変態だったのか。

 そのバレンタインデーのお返しにハンカチをプレゼントしたというわけだ。

 山口がテワタサナイーヌにプレゼントしたハンカチは、薄手ではあるが、しっかりとした上質な生成りのリネン(亜麻)を使い、白の糸でバラの刺繍が刺してある。

 ハンカチの縁は、巻きロックという手法で処理している。

 巻きロックは、普通の家庭用ミシンではできない縫い方で、ロックミシンを使わなければならない。

 その巻きロックは、テワタサナイーヌの髪の色に合わせた緑のロックミシン用糸で仕上げられている。

 山口の家にはロックミシンがあるということだ。

(どこまで凝るのよ、この男は)

 テワタサナイーヌは、正直少し気持ち悪くなったが「そういうものですから」という山口の口癖を思い出して受け流すことにした。

(この人は、そういう人。それでいいの)

 そう思うことにした。

 

「さてテワさん」

「なに」

「そろそろ制服に着替えましょうか」

「うん、わかった」

 総監へのインタビュー時間が迫っていた。

「ねえ代理」

「はい、なんですか」

「今日は、晴れ舞台だから、いつもよりお化粧しっかりしていいかな?」

「いいと思いますよ」

 普段は、ほとんどすっぴんに近い薄化粧のテワタサナイーヌだが、総監に会うということと、その絵を山口がTwitterで発信するというので、しっかりと化粧をしたいというのだ。

「じゃあ行ってきまーす」

 テワタサナイーヌは、足取り軽く更衣室に消えていった。

──20分後

 そろそろ総監室に行かなければならない時間になったが、まだテワタサナイーヌは戻ってこない。

 山口が一眼レフカメラを手に時計を気にしながらウロウロしている。

 女性をよくほめる軽いノリの池上もビデオカメラを用意して、いつでも出られる態勢で待っている。

 

【挿絵表示】

 

「お待たせ!」

 元気な声とともにテワタサナイーヌが部屋に戻ってきた。

 膝上10センチの特注ミニスカートに上着をきっちりと着ている。

 上着は、ぴったりのサイズの支給品のウエストを絞り、身体にフィットするように改造している。

 身体にフィットした制服は、普通にしていても目立つテワタサナイーヌの上半身の凹凸をこれでもかというほどに強調する。

 テワタサナイーヌの制服姿は、いつ見てもため息が出る。

 長身のうえに脚が長くウエストの位置も高い。

 今日は、ヒールの細い黒のパンプスを合わせている。

「では、総監インタビューに行って参ります」

 山口とテワタサナイーヌ、それと池上の3人が副本部長の坂田警視長に挨拶をして部屋を出た。

 テワタサナイーヌと池上は、総監室に入ったことがない。

 警部補や巡査部長が総監室に入ることは滅多にない。

 山口でも総監室に入ることは稀だ。

「犯罪抑止対策本部山口警部以下入ります」

 総監秘書が総監室の入り口ドアを開けて中の総監に入室者があることを告げた。

「あー、どうぞどうぞ」

 中から総監の鷹揚な声が聞こえた。

「テワタサナイーヌさん入りまーす」

 山口がテワタサナイーヌの耳元で囁いた。

 この一言でテワタサナイーヌの女優スイッチがオンになる。

 室内に入ると、カーペットに靴が沈み込む。

 部屋に入るところから池上がビデオに撮影している。

 20畳はあろうかという広い室内に、卓球ができるのではないかと思うほどの大きな机が据えられている。

(あの机をどうやって搬入したのか知りたいもんだわ)

 テワタサナイーヌは、まったく緊張した様子がない。

 制服を着た総監が椅子から立ち上がり、卓球台のような机を大きく回り込んで山口たちの方に歩み寄ってきた。

 総監の制服は、普通の警察官の階級章が付いていない。

 左右の肩章に星が3個ずつ付いている。

「お待ちしていました」

 総監が先に声を出した。

「本日はお忙しいところ恐縮です。よろしくお願いします」

 山口がかしこまって挨拶をした。

「そうかーん、会いたかったです!」

 テワタサナイーヌがいきなり総監の腕に抱きついた。

 これには山口も肝を冷やした。

 山口が部屋の入口近くで様子を見ている総監秘書の方に目を向けると、見ていないふりをしてはいるものの、明らかに不愉快そうな顔をしているのがわかった。

(いきなりやり過ぎたか)

 山口は焦った。

「あなたが噂のテワタサナイーヌさんですか。きれいな方ですね」

 そんな秘書の様子を気にすることもなく、テワタサナイーヌに腕を預けたまま総監が楽しそうに言った。

「そうなんです。きれいなんですよぉー」

 テワタサナイーヌのテンションはますます高揚する。

「総監、インタビューの前に数枚お写真を撮らせていただいてよろしいでしょうか」

 山口が総監に声をかけた。

「わかりました。例のあれですね」

 総監には、テワタサナイーヌのおふざけ企画をあらかじめ説明していた。

「その程度でいいんですか。もっと遊びましょう」

 山口が説明に入ったとき、総監は快く応じてくれた。

 もっと遊ぼうと言われたが、初めてのことでもあり、やり過ぎると今後に悪影響を与えかねないので、提示した二つの企画だけをお願いしていた。

「それでは、まずテワタサナイーヌを椅子に座らせてよろしいですか」

 山口が総監に訊ねた。

「どうぞどうぞ」

 総監がテワタサナイーヌに椅子に座るよう手で促した。

 テワタサナイーヌが卓球台の向こう側に行き、どっしりとした総監の椅子に腰を下ろした。

「思っていたより普通の椅子なんですね」

 テワタサナイーヌが総監に向かって軽口をたたいた。

「そうですよ。座っている時間が長くなるので、あまりふかふかだと疲れてしまうんです」

 総監がテワタサナイーヌに説明した。

 その間、テワタサナイーヌは座ったままお尻を支点に椅子を左右に回してみたり、後ろにのけぞっては前に戻ったりと自由に動いている。

 それを山口は一眼レフカメラで連写している。

「山口さん」

 総監が山口を呼んだ。

「はい!」

 山口が緊張して大きな声で返事をした。

「いや、そんなに緊張しなくていいです。ここで撮った写真はTwitterにあげるんですよね?」

 総監が訊いた。

「はい、部屋に入ってから出るまでを一連の流れとして投稿させていただきます」

「そうですか。それじゃあ打ち合わせになかったシーンを一つ作らせてもらっていいですか」

 総監から提案が出た。

「私が何かを起案してテワタサナイーヌ総監のところに決裁に来たところ、テワタサナイーヌ総監に書類の不備を指摘されて叱られているという図はいかがですか」

 大胆な提案をする総監であった。

「それいい! やりましょう」

 テワタサナイーヌが声を上げた。

「書類挟みひとつ持ってきて」

 総監が入り口で待機している秘書に命じた。

 秘書が慌てて部屋を出て秘書室から書類挟みを持って戻ってきた。

 それを受け取ると総監は、卓球台のような机の前に歩み寄って、書類挟みをテワタサナイーヌに渡した。

「私がここで首をうなだれてしょんぼりしますから、テワタサナイーヌさんは偉そうに書類の不備を指摘するポーズをとってください」

 総監がポーズをつけた。

「おっけー」

 テワタサナイーヌは、椅子に深く腰を掛け脚を組みふんぞり返った。

 書類挟みを左手に持ち、右手で総監を指差す。

 アゴを上げ見下すような表情を作り総監を睨みつけた。

 総監はというと、がっくりと肩を落とし首をうなだれて、すっかりしょげてしまった人になりきった。

 おそらくこんなシーンは二度と見ることができない。

 池上が動画に撮影し、山口はあらゆる角度から写真に収めた。

「ありがとうございます。それでは、次のシーンに移りたいと思います。恐れ入りますが総監は椅子にかけてください」

 山口が次のシーンに移る指示を出した。

「あーん、この椅子は譲りたくない」

 テワタサナイーヌが駄々をこねながら総監に席を譲った。

「そうしましたら、総監は普通にデスクで執務しているようなポーズでお願いします」

 山口は、まさか自分が総監に指示を出すことになろうとは思ってもみなかった。

「はい、それで結構です。そうしたら次はテワさん」

「テワさんは、総監の左隣に立って、一旦しゃがんでください」

「はーい」

 テワタサナイーヌが総監の左に立ち、その場でしゃがみこんだ。

 総監の机を真正面から見たらテワタサナイーヌは机の影に隠れてしまい、総監が仕事をしているようにしか見えない。

「はい、そうしたらテワさんは両手の指だけを机の上に出して、そこを支えに懸垂のようにして顔を出してください」

「懸垂嫌いなんだけど」

 テワタサナイーヌが不満げな顔をした。

 机の上に手がなければ、生首を置いたように見えるところだが、手が出ていることで生きている感じが演出できる。

 このシーンは、総監が執務中、総監室に忍び込んだテワタサナイーヌが机の下から顔を出していたずらしているという図になっている。

 山口は、このシーンだけでも50枚くらいの写真を撮った。

「ありがとうございます。次にインタビューに移りたいと思います」

 山口が指示を出した。

 インタビューは、総監室内にある打ち合わせ用のシンプルなテーブルで行う。

 卓球台のような執務机と違い、本当に普通のシンプルなテーブルとセットの椅子が6脚あるだけだ。

 そのテーブルの角を挟むように総監とテワタサナイーヌが座り、インタビューが開始された。

 ここからは、音声を収録するためビデオカメラは三脚で固定しての撮影となった。

 山口がキューを出した。

「総監、本日はよろしくお願いします」

 まず初めにテワタサナイーヌが挨拶をした。

「最初にお聞きしたいことなんですけど、私はかわいいですか?」

 山口が目を剥いた。

(打ち合わせなしのぶっつけ本番とはいえ、まさかそれを冒頭に持ってくるとは。というか、それを自分で聞くか)

「はい、とてもかわいいですね」

 さすが総監、テワタサナイーヌの無茶振りにもまったく動じることなくさらっと答えてしまった。

「ありがとうございます。よく言われるんです」

「さて、総監。私の名前はテワタサナイーヌです。この名前の由来をご存知ですか」

「知ってますよ。知らない人にお金を手渡さないということと、犬のお巡りさんですよね」

「大正解!総監素敵!」

 テワタサナイーヌは大喜びしてテーブルの上に置かれた総監の手を取った。

「今は、犯人がお金を受け取りに来る現金手渡し型のオレオレ詐欺が主流です。だから、知らない人にお金を手渡さないっていうコンセプトが重要なんです。そこで、総監。オレオレ詐欺は、家族のお互いを信じる気持ちに乗じた犯罪です。この犯罪に対して総監はどうお考えですか。がつんと言ってください」

「がつん」

 総監が一言でボケた。

「そうじゃねーよ」

 テワタサナイーヌが総監に突っ込みを入れた。

「大変失礼しました。オレオレ詐欺は、人が人を信じるという社会を構成するために必要な心の作用を逆手に取ります。オレオレ詐欺にひっかからないようにしようとすればするほど社会が冷たい住みにくいものになってしまいます。そんな社会を作りかねないオレオレ詐欺犯人を警視庁は絶対に許しません。必ず逮捕して罪を償わせます。オレオレ詐欺犯人に告ぐ。お前たちに安息の日はない。枕を高くして眠れると思うな。警視庁は本気だ」

 総監がオレオレ詐欺と対峙する決意を力強く表明した。

 テワタサナイーヌが無言になった。

 総監に見とれていたのだ。

「テワさん」

 カメラの後ろから山口が声をかけた。

「あっ、ごめんなさい。総監があまりにもかっこよかったんで見とれてしまいました」

 テワタサナイーヌが我に返った。

「次の質問なんですけど、よく権力者は孤独だとか言われます。総監も孤独なんですか?」

 オレオレ詐欺とは無関係の質問だった。

「警視総監は、警視庁4万4千人のトップですから強い権限を持っています。ですが、私自身は権力者だとは思っていません。たまたま警視総監という役職に就いているだけで、国民に雇われた公僕のひとりにすぎないと思っています」

「それから、孤独かということに関してはその通りです。自分では何も変わっていない普通の人だと思っていても、周りがそれを許してくれません。どんどん祭り上げられて、人が遠ざかっていってしまいます。ですから、今日のように遊んでいただきたい、そう思っています」

 総監が胸の内を吐露した。

「なるほど、やっぱり組織のトップは孤独なんですね。総監にならなくてよかった」

 テワタサナイーヌが身の程知らずな言葉を発した。

「さて、最後の質問になってしまいました。総監、これからの警視庁は、どうあるべきだと思いますか」

「はい、住民の皆さまの思いを知り息吹を感じること、これに尽きると思います。警察が独善的になってはいけません。住民の皆さまに寄り添った仕事をしなきゃいけない。私たちが守るのは正義ではなく法です。正義というのは、個人や集団、組織ごとにそれぞれ異なった定義を持っています。普遍的な正義はありません。私たちの考える正義を守ろうとすると、それは正義の押しつけになります。あくまでも守るべきものは法であり、その範囲内で形作られている秩序なのです。そのために住民の思いを知り息吹を感じることが重要で、双方向のコミュニケーションが必要となります。そういう意味で、Twitter警部とテワタサナイーヌさんが手を携えてやられているお仕事は、これからの警察にとってとても意義のあることです。生きた言葉で情報を伝える。そして国民都民の声を受け止める。警視庁は、そうなりたいと思っています」

 力のこもった長い答えになった。

「なるほどー。これって、もしかすると正義を人権や権利に置き換えてもいいんですね」

 珍しくテワタサナイーヌが真面目なことを言った。

「そのとおりです。それぞれの正義を主張すると衝突が生じてしまいます。人権や権利も同じです。自分の権利だけを主張すると、他人の権利を排除したり抑圧することになります。そうなると最終的には力での解決になってしまい、弱肉強食の世界になります。それを避けるためにあらかじめルールを決めておき、権利の衝突を調整しようというのが法です」

「ありがとうございます。これからどういう考えで仕事をすればいいのかわかったような気がします」

 テワタサナイーヌが真剣な面持ちで総監に答えた。

「総監、今日はお忙しいところインタビューにお答えいただきありがとうございました。最後にひとつだけいいですか」

「どうぞ」

「本当に私かわいい?」

「はい、かわいいですよ」

 総監が苦笑した。

 テワタサナイーヌがビデオカメラの方に向き直った。

「以上、総監室から突撃インタビューの模様をお伝えしました。インタビュアーは、知らない人にお金を手渡さない、テワタサナイーヌでした。ばいばーい!」

 テワタサナイーヌがカメラに向かって手を振った。

 打ち合わせにはなかったが、総監も笑顔で手を振っていた。

 山口のカットの合図で収録が終了した。

「総監、本日はインタビューにご協力を賜りありがとうございました。また、数々の非礼をはたらき申し訳ありませんでした。お許し下さい」

 テワタサナイーヌがさっきまでの笑顔を真顔へと変え、気をつけの姿勢から総監に対して警察礼式に定められた節度ある敬礼をして謝辞と謝罪の言葉を述べた。

「テワタサナイーヌさんの女優としてのお仕事、すばらしかったです」

 総監は、テワタサナイーヌの非礼な態度が演技であることを見抜いていた。

「おそれいります」

 テワタサナイーヌが恐縮した。

「また遊びに来てもいいかなー?」

「いいとも!」

 テワタサナイーヌと総監が笑顔でやりとりをした。

「失礼致します」

 テワタサナイーヌは、満面の笑みからすっと真顔に戻り、総監に挨拶をして総監室を出た。

(よくこれだけコロコロと表情を変えられるものだ)

 山口は感心した。

 

 事務室に戻った山口は、副本部長の坂田に簡単に報告を済ませると、すぐに一眼レフカメラからメモリーカードを取り出して、撮影した写真データをパソコンに取り込んだ。

 大量の写真の中から一連の流れがわかるものをピックアップして画像解像度やホワイトバランスなど最低限の修正を加えTwitterに投稿した。

 Twitterには、総監室に入るテワタサナイーヌ、総監の腕に絡みつくテワタサナイーヌ、総監の椅子に座りふんぞり返えるテワタサナイーヌ、執務中の総監の邪魔をするテワタサナイーヌ、そして極めつけがテワタサナイーヌに叱られてうなだれる総監の画像が放流された。

 これらのツイートは、フォロワーの注目を集め、あっという間にリツイートが重ねられ拡散された。

「総監なにやってんすか」

「テワタサナイーヌぱねぇww」

「警視庁はじまったな」

 Twitter上には、さまざまなコメントが流され、大きなトレンドとなった。

 web系のニュースサイトなどでも取り上げられ、話題作りは成功した。

「テワさん」

「なに」

 山口とテワタサナイーヌの会話はこの呼びかけから始まる。

「今日は、うまく総監を誘導して言ってほしいことを言わせましたね」

「へへへ、どうやったらバカっぽく見せながらこっちの伝えたいことを言ってもらえるかって昨日の夜も7時間くらいしか寝ないで考えてた」

「しっかり寝てますよね」

「住民の思いを知り息吹を感じるっていうところがミソだと思ったの」

 テワタサナイーヌが何が狙いだったのかを明かした。

「私もそう思います。住民の思いを知り息吹を感じるというのは、実は信頼に深く関わっていると思うんです」

「信頼?私はただ住民のニーズに応えることが大事だからって思ったんだけど」

 テワタサナイーヌが首をひねった。

「テワさんは、警察に対する住民の信頼って何でできていると思いますか」

「え、信頼が何でできてるかって?考えたことない。信頼は信じるってことじゃないの?」

「その説明だと『火事が燃えてる』と同じようなことになりませんか」

「うーん、確かにそうかも」

「角度を変えて質問すると、住民の信頼を獲得するためにはどうしたらいいと思いますか?」

「そりゃあ不祥事を起こさないことでしょ」

 テワタサナイーヌが当たり前だろうという顔をした。

「そうですね。従来、私たちが考えていた住民からの信頼を獲得する方策というのは、不祥事を起こさないこと、それからしっかり仕事をすること、この二つでした」

「従来っていうことは、今は違うってこと?」

 テワタサナイーヌがまた首をひねった。

 山口は、テワタサナイーヌが淹れた紅茶をすすりながら続けた。

「この二つだけを信頼の源泉として考えると、『そこそこ仕事してくれるし、悪いこともしないから、とりあえず非難することもないよね』という消極的な支持しか得られません。非難されないというだけで、積極的な支持ではないんです」

「うん、まあそうよね。じゃあ積極的に支持してもらうためには、どうしたらいいの?」

「それが住民の思いを知り息吹を感じるということです」

「へー」

「信頼に関する比較的新しい学説なんですが、主要価値類似性モデルというものがあります」

「なにそれ?」

「相手を信頼するのは、相手と自分とで主要な価値観が類似していると感じるときだというものです」

「難しい。簡単に説明プリーズ」

「同じ目線、向いている方向が同じ、そういうことです。そういう意味でさっきテワさんが言った住民のニーズを知るというのも一つの要素ではあります」

 山口がテワタサナイーヌの意見を棄却せずに要素として考えると正解であると肯定した。

 山口は、否定から入らずにまずは肯定してくれるから意見が言いやすい。

 テワタサナイーヌが一見傍若無人に振る舞っているように見えるのも、山口のこの肯定から入るという態度があってのことだった。

「なんとなくわかってきたよ。あれでしょ、つまり、いくら頑張って仕事をして、不祥事も起こさなかったとしても、その仕事があさっての方を向いていたんじゃ信頼されないよっていうことよね」

「そうです。そのとおりです。さすがテワさん、賢いです」

「いやーん、またほめられちゃった」

 テワタサナイーヌが相好を崩した。

「そのために、一方通行の情報発信、出しっぱなしのプレスリリースのような無機質な広報ではなく、双方向のコミュニケーションが必要なんです。私たちがやっているTwitterでの交流は、そのためのものです」

「理屈ではそうなるけど、私にはただ遊んでるように見えるけど」

 テワタサナイーヌが疑いの眼で山口を見た。

「えーとですね、そんなことはありません。たぶん」

 山口が弱気を見せた。

「私は、ソーシャルメディアの中を自転車で巡回している駐在さんだと思っています。ソーシャルメディアという地域の中で住民と会話を交わしながら、お互いに理解を深めていきたい、そう願ってやっています。それがソーシャルメディア駐在所論です」

「どうせ後付けの理屈でしょ」

 テワタサナイーヌが鋭い指摘をした。

「まあ確かにそうなんです。最初は、面白ければいいんじゃないかという軽い気持ちだったんです。でも、やっているうちにこういう効果というか、側面があるということに気づいたんです」

 山口もテワタサナイーヌには飾らず実際のところを話せる。

「いずれにしろ、今日はお疲れさまでした。あとでガスライト行きますか?」

 ガスライトは、霞が関の官庁街の外れにある隠れ家的なバーで、二人が初めてデートをした記念すべき場所だ。

 そのときからガスライトは、二人の聖地となっていた。

「わっ、嬉しい。行く行く!」

 テワタサナイーヌが尻尾を振った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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傷だらけの再訓練

 総監に突撃したホワイトデーから早1か月が経過した。

 前代未聞の総監いじりは大変な話題となり、ネットニュースにとどまらず在京テレビ局からも取材を受け、全国ネットで紹介された。

 また、山口が夕日新聞のインタビューを受け、朝刊の「パーソン」というそのときどのキーパーソンを紹介する欄で紹介されたりもした。

 夕日新聞のパーソンは、警視庁関係では警視総監と捜査一課長が就任時に紹介されるだけで、その他の警察官が紹介されることなど皆無に等しい。

「警察人生の足跡として残しておきます」

 山口は、そう言って自分が掲載された新聞を大事に保管してる。

 テワタサナイーヌとしても、自分のプロデューサーであり上司であり愛する人がメジャーな新聞のよく知られているコーナーに紹介されるのは嬉しい。

 なので同じ新聞を寮の部屋に保管してある。

 総監への突撃インタビュー成功に気をよくしたテワタサナイーヌは、もう次のターゲットを決めロックオンしていた。

「総監に行ったんだから、次は知事でしょ」

 テワタサナイーヌのことだ、必ず次は更に上を狙ってくるに違いないと予想してた山口は、知事と言われても驚くことはなかった。

「そうでしょうね、そうきますよね」

 普通のことのように受け止めることができた。

 これに関しては、山口に策があった。

 東京都の成瀬知事は、Twitterのヘビーユーザーとして知られている。

 東京都の各部局にもTwitterの積極的な利用を指示している。

 山口と知事は相互フォローの関係だ。

 なおかつ、時折、山口のツイートを成瀬知事がリツイートをしていることがある。

 成瀬知事が普段から山口のツイートを見ていることは間違いない。

「先日、テワタサナイーヌが警視総監に突撃インタビューを敢行いたしました。これに気をよくしたテワタサナイーヌが、次は都知事に突撃したいと身の程知らずかつ怖いもの知らずなことを言っております……」

 山口がTwitterに投稿した。

 成瀬知事は必ずこのツイートを見る。

 そして、このツイートを見た成瀬知事が何らかのリアクションを起こしてくれれば作戦は成功だ。

 山口の作戦は成功した。

 ツイートを投稿した翌日、東京都の知事本局から電話が入った。

「知事本局の橋本と申します。昨日のことですが、山口さんが知事にインタビューをしたいというようなことをツイートなさったと思います。知事がこれを見まして、インタビューをお受けしたいと言っております」

 山口は、あまりにもストレートな内容の電話であることと、ツイートした翌日という素早い対応に少々驚いた。

「早速のご対応ありがとうございます。それでは、今後、どのように進めればよろしいでしょうか」

 山口が橋本に答えた。

「まずは、一度こちらにお越しいただき、知事に直接ご説明をお願いします。知事がインタビューをお受けするという意向はすでに固まっていますので、どういった内容のインタビューをなさりたいのかをご説明いただければと思います」

 橋本が早口で説明した。

 役人は早口な人が多い。

「知事への説明は、曜日や時間帯、やり方などが決まっています。その資料をお送りしますので、よくお読みいただいて間違いのないようにご対応をお願いします」

「かしこまりました」

(これは急いでもすぐに決まらないだろうから、じっくり進めていこう)

 知事は多忙だ。

 スケジュールの調整だけでも容易ではない。

 山口が若干低い優先度をつけた。

「ねえ代理」

「なんですか」

 二人の会話は、この呼びかけから始まる。

「知事にインタビューできるの?」

 電話を聞いていたテワタサナイーヌがだるそうに訊いてきた。

 山口の電話での受け答えから、すぐに実現できそうにもないことがわかったからだ。

「できることは間違いないでしょう。ただ、日程の調整とこちらの内部での意思決定に時間がかかると思います。だから、優先順位としては低い案件に整理します」

「そうね。別に知事は逃げないもんね」

 テワタサナイーヌが同意した。

 

 4月といえば新年度だ。

 警視庁でも年度が替わって人事異動が行われた。

 犯罪抑止対策本部も例外ではなく人事異動があった。

 山口とテワタサナイーヌは異動することなく、今のままの任務を続けることになった。

 犯罪抑止対策本部には、現金を受け取りに来るオレオレ詐欺の現金受け取り役、通称受け子を現金の受け渡し場所で逮捕する専門組織がある。

 ステルスチームという名前で呼ばれている専門家集団だ。

 なぜステルスなのかというと、街に紛れて犯人から見えないような変装と身のこなしができるようにトレーニングされているからだ。

 チームのメンバーは、明らかにされていないが、誘拐犯の捜査や対テロリズムなどの技能を有する者で構成されているという。

 素人の受け子がステルスチームを見分けることは不可能に近い。

 4月の異動でこのステルスチームから数名が転出した。

 もちろん補充もあるが、1名だけ欠員となってしまった。

 副本部長である坂田警視長が人事課に補充の要望を出したが、今回の異動ではどうしても補充が無理で、次回まで待って欲しいと言われてしまった。

 欠員となったのは、オートバイでの追尾を行う通称カゲの要員だった。

「カゲが欠けるのは痛いですね」

 坂田が犯抑の幹部を集めた会議の席上で発言した。

 なぜカゲが欠けると痛手になるのか。

 現金手渡し型のオレオレ詐欺のバリエーションに、バイク便を利用するものがあるからだ。

 このパターンには、犯人がまったく情を知らないバイク便業者を手配する場合と、犯人とつながったバイク便業者を使う場合、さらには犯人がバイク便を装う場合がある。

 まったく情を知らないバイク便業者を手配する場合以外、つまり現金を受け取りに来るバイク便が何らかの形で犯人と関係があって犯罪に加担しているという自覚がある場合は、現金を受け取ったライダーがオートバイで逃走することがある。

 それを追跡するために私服で追尾可能なカゲが必要になるというわけだ。

「ステルス以外の犯抑本部員で白バイ経験者はいませんか」

 坂田が庶務担当の管理官に質問した。

「全員の経歴を確認してみます」

 庶務担当管理官が部屋を出て行った。

──数分後

「白バイ経験者は二人いました」

 部屋に戻った庶務担当管理官が坂田に復命した。

「誰ですか」

「山口係長とテワタサナイーヌさんです」

 庶務担当管理官が答えた。

「そのコンビでしたか。偶然にしても作り話みたいに都合のいい組み合わせですね」

 坂田が笑った。

 山口とテワタサナイーヌが副本部長室に呼ばれた。

「失礼します。お呼びでしょうか」

 山口とテワタサナイーヌが部屋の入り口で声をかけた。

 テワタサナイーヌが切ってくれた栗蒸し羊羮を食べている最中だった山口は、慌てて飲み込んで席を立ってきたが、まだ栗の粒が口の中に残っていて、それが気になっていた。

「どうぞ掛けてください」

 坂田が二人に椅子をすすめた。

「失礼します」

 山口は、畳んで立て掛けられていたパイプ椅子を2脚広げ、テワタサナイーヌに座らせてから腰を下ろした。

「今回の異動でステルスに欠員が出たのはご存知だと思います」

 坂田が口を開いた。

「はい、存じています」

 テワタサナイーヌが答えた。

 この段階では、二人がなぜ呼ばれたのか、山口にもテワタサナイーヌにも理解できていなかった。

 坂田が続けた。

「実は、その欠員がカゲなんです」

 ここで山口には合点がいった。

 隣のテワタサナイーヌは、まだなんのことかわからないといった顔をしている。

 山口はテワタサナイーヌの経歴を把握しているが、テワタサナイーヌは山口の警部補より前の経歴を知らない。

「次の異動でカゲの補充をしてもらえることになってはいますが、それまでの間、誰かにお手伝いをしてもらおうと思います」

 そう坂田が言ったところでテワタサナイーヌにも事態が理解できた。

 はっとした顔で坂田と山口の顔を交互に見つめた。

「全員の経歴を調べたところ、山口さんとテワタサナイーヌさんのお二人が白バイ経験者でした。そこで、お二人のどちらかにカゲのお手伝いをお願いします」

「いえ、専従でなくていいのです。バイク便が絡んだ現場が立ったときだけ出動してくれればいいんです」

 坂田は、テワタサナイーヌの目を見ながら説得するように説明した。

 山口に話しかけているような様子はまったくなかった。

 それもそのはずだ。

 山口が白バイに乗っていたのは、山口が巡査のときで、もう30年近い昔のことだ。

 今さらオートバイで犯人の追尾をやれと言われても身体が動かない。

 坂田もそれがわかっていたから山口をスルーしてテワタサナイーヌに的を絞った説得をしていた。

「副本部長、お言葉ですが私が白バイに乗っていたのは巡査のときで、もう6年くらい前です。今さらオートバイで犯人の追尾をしろと言われても身体が動きません」

「ぷっ」

 テワタサナイーヌが自分の考えと同じことを言ったので山口は吹き出してしまった。

 ほとんど同じ台詞だったが、白バイを降りてからの経過年数だけが大きく違っていた。

「もう6年と思うか、まだ6年ととらえるかは考え方次第です。山口さんは何年ですか」

 坂田が山口に話を振った。

「私ですか。私は30年くらいになります」

 山口が答えた。

「山口さんは、ブランクの期間や年齢を考えても無理ですね」

 坂田が苦笑しながら山口の可能性を否定した。

「ところで、テワタサナイーヌさんは白バイを続けなかったのですか?」

(それは聞いたらダメだ)

 坂田がテワタサナイーヌに白バイを降りた理由を尋ねたのを聞き、山口が心の中で焦った。

 テワタサナイーヌは、一瞬表情を曇らせた。

「6年前、私は、かねてからの希望であった白バイに乗れて充実した毎日でした。でも、ある日、クイーンスターズに来ないかと声をかけられました」

 

【挿絵表示】

 

 クイーンスターズというのは、交通総務課に所属する女性白バイ隊の通称だ。

 普段は交通違反の取締りに従事しているが、交通のイベントやマラソンの先導などがあれば、赤い乗車活動服に着替えて出動する花形だ。

 テワタサナイーヌは、ルックスのよさから将来のセンター候補として目をつけられた。

「私は、そのお話を断りました」

 その頃のテワタサナイーヌは、自分の外見に自信がもてず、異形であることを面白おかしく扱われることに強い拒否反応を示した。

「今の私からは考えられないと思いますが、その頃の私は、自分の外見を面白おかしく扱われるのが嫌でした。クイーンスターズに入れば、間違いなく外見が注目され見せ物になります。」

「だから断りました」

「一度は断りましたが、また同じ話がくるかもしれないと考えると、もう白バイに乗ることが辛くなり、それで降ろしてもらいました」

「今の目立ちたがりの私からは想像できないと思いますけど」

 そう言ってテワタサナイーヌはケラケラと笑った。

(かなり深い心の傷になっていたはずだが、それを明るく話せるようになるまでには、幾度も自分の気持ちを整理して乗り越えてきたに違いない)

 山口はそう思った。

「そうでしたか。嫌なことを思い出させてしまいすみませんでした」

 坂田がテワタサナイーヌに頭を下げた。

「あ、いやいや、そんな、副本部長が謝ることじゃないです。もう過去のことですし」

 テワタサナイーヌが恐縮した表情で両手を身体の前に伸ばして手を左右に激しく振った。

「私がカゲをやればいいんですね」

 テワタサナイーヌは、もうこの話はどうあっても避けられそうにないと悟り、自分から申し出た。

「やってくれますか」

 坂田が念を押した。

「山口係長がいいとおっしゃってくれればやります」

 テワタサナイーヌが山口に振った。

「山口さん、どうですか。テワタサナイーヌさんがカゲを手伝うとなると、今の仕事に少なくない影響が出ると思いますが、そのあたりも含めて検討してみてください」

 坂田が山口に検討の余地を与えたようにみえるが、山口が断らないというのを見越してのセレモニーだった。

 山口は、テワタサナイーヌがカゲを手伝っても今の仕事に大きな影響はないと考えていた。

 都知事への突撃インタビューの優先度を下げておいたことも正解だった。

 ただひとつ気がかりなことがあった。

 事故だ。

 生身でマシンに跨がるオートバイは、ひとたび事故に見舞われると重大な結果をもたらす。

 殉職者の中に占める割合でも白バイは群を抜いて高い。

 テワタサナイーヌにケガはさせたくない。

 それだけが心配だった。

 山口はテワタサナイーヌの目を見た。

 それに気づいたテワタサナイーヌは、山口が何を考えていたのか察した。

 テワタサナイーヌは、山口に軽く微笑んで左手の親指を立てた。

「心配しないで。私は死なないから」

 テワタサナイーヌの答えだった。

 心配するなというのは無理だ。

(出動のたびに無事の帰りを祈るしかないか)

 山口も腹を決めた。

「異存ありません」

 

「6年のブランクを埋めるのは大変だわー」

 副本部長室を出たテワタサナイーヌは、大きく伸びをして身体を左右に揺らした。

 大変だと言いながら、テワタサナイーヌの目にはいつもと違う力が漲っていた。

 すぐにブランクを埋めるためのブラッシュアップと犯人追尾のために必要な特別の訓練プログラムが組まれた。

 坂田が交通部長に頼み込んで、通常の訓練プログラムにない特別なメニューを用意してもらったのだ。

 翌日からテワタサナイーヌは世田谷区の多摩川河川敷にある白バイ訓練所に通うことになった。

 

──白バイ訓練所

「犯罪抑止対策本部テワタサナイーヌ警部補は、カゲ特別訓練のため白バイ訓練所派遣を命ぜられました」

 青色の乗車活動服に身を包んだテワタサナイーヌが白バイ訓練所長に派遣申告をした。

「テワタサナイーヌさんは、白バイ乗務の経験があるからよくご存知だと思いますが、オートバイは安全な乗り物ではありません。でも、それをわかった上で乗るのであれば、それほど危険な乗り物でもなくなります。このことを忘れないでください」

 所長が訓示した。

 所長は、テワタサナイーヌが白バイ乗務員となる訓練を受けたときの指導員だった。

「いいものを見せてあげましょう」

 そう言って所長はテワタサナイーヌを訓練所の倉庫へと案内した。

 鍵のかかった鉄の扉を開けるとエンジンオイルや機械油の匂いが漂う薄暗い空間が広がっていた。

 所長が庫内の照明をつけ、奥の方へと歩いていく。

 テワタサナイーヌもそれに続いた。

 最も奥まった照明があまり届かない薄暗い棚にヘルメットのメーカー名が印刷された立方体の箱が重ねて置かれていた。

 テワタサナイーヌは、その一番上に、他の箱とは明らかにサイズの違う箱が一つあるのを見つけた。

「あっ、あれ!」

 テワタサナイーヌはその箱を指さして叫んだ。

 所長が両手を伸ばしてその箱を持つと穏やかなな笑顔でテワタサナイーヌに差し出した。

「おかえりなさい。あなたの相棒も帰りを待っていましたよ」

 そう所長が言うが早いか、テワタサナイーヌの目から涙がこぼれた。

 箱の中身は開けなくてもわかる。

 白バイを降りたとき、悔しくて号泣しながら返納したヘルメットだった。

 箱の隅には「天渡」と自分で書いた名前をマジックで乱暴に消した跡が残っている。

 この名前を消して自分も警視庁から消えようと思ったのだ。

 その気持ちを所長、当時の指導員に伝えたときテワタサナイーヌは所長に激しく頬を叩かれた。

「自分の価値を安く見積もるな!」

「たとえ白バイを降りてもお前は白バイ乗りだ」

「白バイ乗りの誇りを自分から捨てるな。お前の誇りはお前だけのものだ」

「お前には見守ってくれる人がいる。今は辛いだろうが、その人を信じろ」

 その所長の言葉で警察官を続けることになった。

 今では所長に感謝しかない。

「待たせたわね」

 テワタサナイーヌは箱を抱きしめた。

「明るいところで開けてみましょう」

 所長がテワタサナイーヌを外に連れ出した。

「さあご対面だ」

「はい!」

 テワタサナイーヌが箱を開けた。

 箱の中には普通のヘルメットには付いていない三角形の突起が二つある。

 テワタサナイーヌの犬耳を収めるための特注品だった。

「テワタサナイーヌさんは、いろいろ特注品で大変でしたね」

 所長が懐かしそうに言った。

「被ってあげてください。6年間待っていてくれた相棒です」

「はい」

 テワタサナイーヌがヘルメットを箱から取り出した。

 ところどころに付いている細かい傷も当時のままだ。

 ジェット型の白い帽体にテワタサナイーヌの耳が収まるように三角形の耳が付いている。

 犬耳のヘルメットは、かわいいと子供たちに人気だった。

 テワタサナイーヌは、左右のあご紐を持ち、両側に引っ張っりヘルメットを広げるようにして片方ずつ耳を収めて被った。

 6年経っても被り方は身体が覚えていた。

 6年前の自分に戻ったような気がした。

「白バイ乗りの正装です。似合いますよ」

 所長が目を細めた。

 その日から訓練が開始された。

 6年間のブランクを埋める訓練は熾烈を極めた。

 テワタサナイーヌは、自分から求めてより苦しい訓練に取り組んだ。

 6年前の情けない自分と訣別するために。

 基礎体力の錬成として行われる腕立て伏せでは、腕の筋肉が炎症を起こし肘を曲げることもできない状態になるまで自分を痛めつけた。

 そうなると食事を自分の口に運ぶことができなくなる。

 テワタサナイーヌは、周りの目を気にもせず犬食いで貪り食った。

 乗車の基本姿勢を身に付けるため、乗車と降車を繰り返す。

 テワタサナイーヌは、食事の時間を除いて丸一日休みなく乗降を繰り返した。

 次の一日は、乗車してステップの上に立ち中腰の姿勢をとりそのままキープする訓練だ。

 筋肉の疲労で膝が笑うように痙攣する。

 テワタサナイーヌは牙を剥き泣きながら苦痛に耐えている。

 指導員がもうやめろと止めてもテワタサナイーヌはそれを拒否し続けた。

 最後は完全に力尽きて気を失い白バイから転げ落ちた。

 転げ落ちた痛みで目を覚ましたテワタサナイーヌは、すがるようにして白バイに乗ろうとする。

 かろうじて左足をステップに乗せることはできたが、右足を振り上げることができず白バイから滑り落ちた。

 これを何度も繰り返した。

 獣毛に隠れて見えないが、テワタサナイーヌの身体は全身痣と擦り傷だらけになった。

 疲労したテワタサナイーヌは、帰宅することもできず、白バイの横にマットを敷いてそのまま泥のように眠った。

 基礎体力と乗車姿勢の訓練を終えると、次は運転訓練だ。

「テワタサナイーヌさん、オートバイで一番難しいことは何か覚えていますか?」

 運転訓練を前に所長がテワタサナイーヌに質問した。

「はい、止まることです」

 テワタサナイーヌは忘れていなかった。

「そうです。スピードを出すのは誰でもできます。でも、止まるのは技術がいります。特に追尾を行うとなると、緊急に危険を回避して止まらなければならない場面が多くなります。ですから、これからの訓練は止まることをメインにやりましょう」

「ただ、ひとつだけ守って欲しいことがあります。法律や規則は破れても法則は破れません。どんなに高度なテクニックを身に付けていても物理法則を超えた運転はできないということです」

 所長が訓練上の注意を与えた。

 今のテワタサナイーヌの状態だと無理をして事故を起こす可能性が高いと判断したからだ。

「テワタサナイーヌさんの熱意は高く評価します。ですが、熱意だけで暴走するのは正しい白バイ乗りではありません。いまの注意を守れないときは、訓練を中止します。いいですね」

 所長の厳しい指示が飛んだ。

 安全が最優先される。

「はい!」

 テワタサナイーヌが姿勢を正した。

 運転訓練は、基本的なパイロンスネークや一本橋、バランス走行や傾斜走行など、一通りの種目をこなす。

 特に力を入れたのが急制動と回避制動だった。

 この二つが訓練種目の中で最も危険といってよい。

 この種目で転倒することは、重傷事故につながる。

 フルブレーキングでは前輪がロックしやすい。

 オートバイは、その構造上前輪がロックするとバランスを維持することが非常に困難になる。

 高度なテクニックを身につけた指導員になると、わざと前輪をロックさせて安全に停止するという見本を見せることができるが、普通は前輪がロックすると大転倒することになる。

 歩いているときに踏み出した足を着地直前に払われるのと同じような状態になるからだ。

 テワタサナイーヌは、全身をプロテクターで固めて回避制動の訓練に入った。

 初めは時速40kmくらいから制動に入る。

 回避制動は、一定の速さで走行して、センサーを通過すると左右の信号が赤又は青のいずれかを示す。

 赤を回避して青の方に進路を変え、指定の距離内で安全に停止するというものだ。

 この種目は、難しく危険なところが二つある。

 まず回避行動をとるところ。

 急激な進路変更を行うため、失敗すると吹っ飛ばされて大ケガをする。

 次は停止するまでだ。

 回避行動の直後、バランスを崩している状態からフルブレーキで指定された距離内で停止することになる。

 前輪ロックやバランスを崩して吹き飛ばされる危険がある。

 テワタサナイーヌは、時速40kmを難なくクリアした。

 そのあとは、時速を5kmずつ上げていく。

 回避が難しくなるだけでなく、指定の距離で止まることも難しくなってくる。

 時速60kmのとき、テワタサナイーヌは回避に失敗して吹き飛ばされた。

 背中から激しくアスファルトの路面に叩きつけられ、しばらく呼吸ができなくなった。

 プロテクターのおかげで骨折は免れたが、全身打撲を負い路面をのたうち回った。

 それでもすぐに立ち上がるとテワタサナイーヌは白バイを引き起こし、身体に染み付いた正しい乗車方法で跨がった。

「痛いっ!!」

 テワタサナイーヌは、全身の筋肉が引き裂かれるような痛みに悲鳴を上げた。

 白バイにまたがったまま、タンクに突っ伏して嗚咽しながら痛みに耐える姿は、見ている指導員も辛かった。

 そのあともテワタサナイーヌは何度となく転倒を繰り返した。

 テワタサナイーヌは、あえて限界を超えた回避と制動を行い転倒していた。

 破れない限界、つまり所長が言った物理法則の限界がどこにあるのかを確かめるためだ。

 テワタサナイーヌは文字通りボロボロになっていった。

 しかし、転倒を繰り返していくうちに回避の限界とタイヤのグリップの限界も体感できるようになった。

 指導員も舌を巻く根性と体得の早さだった。

 

 二週間の訓練を終えテワタサナイーヌが肘や膝など、身体のあちこちに包帯が巻かれた痛々しい姿で帰って来た。

 傷だらけのテワタサナイーヌを心配する周囲に反して、本人は至って明るい表情で嬉しそうですらあった。

「この傷は私の勲章」

 そう言ってテワタサナイーヌは傷口を山口に見せつけた。

 テワタサナイーヌの脇には犬耳のついたヘルメットが抱えられていた。

 ヘルメットには、路面との衝突や擦過からテワタサナイーヌの頭部を守った跡が無数に付いていた。

 これだけ衝撃を受けたヘルメットは、もう使うことができない。

 訓練の記念として持ち帰らせてもらった。

 これからカゲとしてオートバイに乗るときは私服なので白バイのヘルメットは使えない。

 私服用の新しい犬耳付きヘルメットを作ってもらうことになる。

 

「テワさん」

「なーに」

 二週間ぶりの二人の会話もやはりここから始まった。

「本当にお疲れさまでした。明日から一週間休ませるように副本部長から言われています。寮でゆっくりするなり、温泉にでもつかるなりして疲れを癒してください」

 山口がテワタサナイーヌの頭を撫でた。

「ありがとう。できれば代理と温泉に入りたいなあ」

 テワタサナイーヌが山口に色目を使った。

「ダメです」

 山口が少し残念そうに言った。

 

 テワタサナイーヌの古傷の清算と厳しい再訓練が終わった。

 休暇明けからテワタサナイーヌの新しい任務が始まる。

 山口の胃が痛くなる日々と共に。




この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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ぽぽいのぽい

 テワタサナイーヌが期間限定でステルスチームを手伝うことになり、そのための厳しい訓練が行われた。

 テワタサナイーヌの任務は、オートバイで犯人の追尾を行うこと。

 通称カゲと呼ばれている。

 出動がかかるのは、バイク便を利用した現金手渡し型のオレオレ詐欺で現場設定による検挙態勢に入るときだ。

 いつ出動がかかるかわからないので、テワタサナイーヌはプロテクターが内蔵されているライダージャケットとジーンズに短いライディングブーツを身につけて仕事をするようになった。

 ヘルメットも黒いジェット型のものを改造して犬耳を付けてもらった。

 ぱっと見た感じでは、ファッションで犬耳を付けたヘルメットのように見える。

 稀に同じようなヘルメットを見ることがあるので、それほど不自然ではない。

 テワタサナイーヌの場合は、犬耳にしっかり中味も詰まっているというところが普通ではないが。

 ヘルメットには、無線の送受話装置が付き、超小型CCDのウェラブルカメラが仕込まれている。

 出動中は、ジャケットに隠して携帯している無線機で通話しながらウェラブルカメラで撮影する。

 追尾に使うオートバイは、スクーター型とヨーロピアンタイプのものを選ぶことができる。

 テワタサナイーヌは、ヨーロピアンタイプを選んだ。

 排気量1,000cc以上のリッターバイクも選べたが、取り回しの軽快さを重視して250ccにした。

 街中を走るには、これくらいが一番扱いやすいからだ。

「出動ないわねー」

 テワタサナイーヌがカップのアイスクリームを食べながら気が抜けたようにつぶやいた。

 アイスクリームは、山口が売店で買ってくれた。

「食べ物をくれる人はいい人」

 というテワタサナイーヌ基準で山口はいい人に分類されている。

「出動に備えてキャンペーンの出演要請も抑えてきていますから、あまり出動がないと要請を断った署にも申し訳ないです」

 山口が困ったという顔をした。

「私はいいのよ。代理と一緒にいられる時間が増えるから」

 テワタサナイーヌが冗談ぽく言ったが本音だった。

「キャンペーンに出ても一緒ですよ。基本的にいつも一緒です」

「えー、いつも一緒じゃないじゃん。仕事が終わったら奥さんのとこに帰っちゃうじゃん。いやいやいや」

 テワタサナイーヌが今時の昼ドラでもやらないような臭い演技をした。

「四六時中一緒がいいんですか?飽きますよきっと」

 テワタサナイーヌに山口が笑顔で問いかけた。

「一緒にいたいに決まってるでしょ。絶対飽きないから」

 テワタサナイーヌは真剣だった。

「そろそろ出動入りませんかね。無線をウォッチするだけの毎日も疲れます」

 これ以上この話題を盛り上げるのは危険と思った山口は話題を逸らした。

「あー、ごまかしてるー」

 テワタサナイーヌがむくれた。

「あ、そうだ。ウォッチで思い出したんだけど、代理ってもしかして白バイ訓練所の所長と知り合いじゃない?」

 テワタサナイーヌが不思議な質問を発した。

「いえ、知り合いではありませんよ」

 山口がさらっと否定した。

「そうなのね。いや、なんでウォッチでそんなことを訊いたかっていうと、6年前に私がヘソを曲げて白バイを降りて警察官も辞めると言ったんだけど、そのときの指導員、あ、それが今の所長ね。指導員に思いっきりビンタされたのよ」

「おやおや、それは大変でしたね」

「それでね、自分の価値を安売りするなって怒鳴られて、最後に、お前を見守っている人がいる、その人を信じろって言ったの」

 テワタサナイーヌが早口で捲し立てた。

「ウォッチで、今の、見守っている人がいるっていうのを思い出しちゃったわけよ」

「ねえ、その見守っている人って代理よね」

 テワタサナイーヌが確信に満ちた顔で山口を見つめた。

 微かに山口がうろたえたのをテワタサナイーヌは見逃さなかった。

「やっぱりそうなのね」

 テワタサナイーヌは、答えを待つため山口の目をまっすぐに見つめ続けた。

 長い沈黙が続いた。

「女の勘てやつですか」

 山口が口を開いた。

 

「ビー!ビー!ビー!」

 事務室の無線機から警報音が鳴り響いた。

「ステルス出動!ステルス出動!墨田区鶴沢2丁目、バイク便利用オレオレ。現場設定。待機中のA班並びにカゲは現場へ」

 ステルスの出動命令が下された。

「行ってきます!」

 テワタサナイーヌはそう叫ぶとジャケットに仕込んだ無線機とウェラブルカメラの電源を入れ、ヘルメットに犬耳を収めてヘルメットの送受話装置と無線機本体をコネクタでつなぎ、部屋を飛び出そうとした。

「テワさん、グローブ!」

 山口が手袋をテワタサナイーヌめがけて放り投げた。

「ありがとう。愛してる!」

 手袋を受け取ると、山口に向けた投げキスと余計な一言を残してテワタサナイーヌが廊下を駆けていった。

(どうか事故にだけは遭わないでくれ)

 テワタサナイーヌの背中を見送りながら山口は祈った。

(まずは現場に安全に到着すること。途中で事故になったら犯人を取り逃がすことになっちゃう)

 はやる気持ちを抑えてテワタサナイーヌは250ccの覆面オートバイを駆った。

 内堀通りから靖国通りに入り、そのまま国道14号線になる。

 隅田川を渡って墨田区に入りしばらく直進すると錦糸町の駅に着く。

 現場の鶴沢は錦糸町駅から程近いところにある。

 テワタサナイーヌは錦糸町駅北口で待機するよう無線指令を受けていた。

 テワタサナイーヌは、すみだトリフォニーホールというコンサートホールの前にオートバイを停めてイグニッションを切った。

 ヘルメット内のスピーカーからは他のメンバーの動きが逐一聞こえてくる。

 嫌が応にもテワタサナイーヌの緊張が高まる。

 

 ──その日の手口はこうだ

 9:20 甥を名乗る男からの電話

「おばさん?甥のヒロだよ。」

「うん、実はさ、今朝仕事に行く前にコンビニに入ってて、そこに鞄を忘れちゃってさ。店を出てすぐ気がついて取りに戻ったんだけど、もう鞄がなくなってたんだ」

「それでさ、鞄の中に携帯が入っててそれもなくなっちゃったから今会社の携帯を借りて電話してるんだ。番号が違ってるからちょっとメモしてくれる?あ、それから、今日はこのあとこの番号に電話してね。前の番号には繋がらないから」

「あと、もしかしたら落とし物として届けられてるかもしれないから、そっちに連絡がいったら今教えた番号に電話して」

 

 9:30 JR落とし物センターを名乗る男からの電話

「こちらはJR品川駅の落とし物センターです」

「そちらにヒロシ様はいらっしゃいますか。ヒロシ様の鞄が品川駅のトイレで拾われて駅に届けられています。鞄の中にヒロシ様の連絡先がわかるものがなかったもので、恐れ入りますがそちらからヒロシ様にご連絡をしていただけますでしょうか」

 

 9:35 被害者がヒロシに電話をかける

「あ、ヒロシかい。鞄みつかったってよ。なんでも品川駅のトイレに落ちてたって。お前から落とし物センターに電話しておくれ。よかったねえ」

 

 9:40 ヒロシからの電話

「おばさん?いま落とし物センターに電話したんだけど、ちょっと困ったことになっちゃって。」

「いや、実はさ、鞄の中に今日の取引で使う小切手が入っていたんだ。でも、届けられた鞄の中には小切手が入ってないっていうんだよ。その小切手がないと今日の取引がお流れになってしまうんだ。この取引がうまくいったら昇進間違いなしって言われていたのに、このままだと会社をクビになるかもしれない」

「いま、僕の上司が親戚中お願いしてなんとか400万は都合つけてくれたんだけど、あと200万どうしても足りないんだ。おばさん、助けてくれないかな。取引がうまくいけば、明日にはは必ず返せるから」

「いま上司と代わるね」

 

 9:50 上司を名乗る男

「おばさまでいらっしゃいますか。いつもお世話になっております。わたくし、ヒロシさんの上司で勝沼と申します。今回は無理なお願いをいたしまして本当に申し訳ございません。おばさまにお助けいただければ私どもの会社も救われます。その暁には、ヒロシさんも昇進が約束されておりますので、どうかお願いいたします」

 

 9:55 被害者

「わかった!ヒロシのためだもんね。おばさん200万円なんとかする」

 

 同時刻 ヒロシ

「えー!本当!?ありがとう。助かるよ。おばさん本当にありがとう。僕はこれから品川駅に鞄を取りに行かなきゃならないから、また電話するね」

 

 10:00 ヒロシ

「おばさん?ヒロシだよ。今、品川駅に向かってるんだけど、困ったことがあって。今日の取引先が約束の時間に遅れてることをすごく怒ってるんだ。それで、お昼までにお金を用意しないと取引は破談だって」

「鞄の中に、取引に必要な書類が入っていて、それはそのまま見つかってるらしいから、僕は鞄を取りに行かなきゃならないんだ。本人じゃないと返してくれないらしいんだ」

「ちょうどうちの営業で使ってるバイク便がそっちを回っているんで、そいつに行かせるから、おばさん、お金を渡してくれないかな」

「そうそう、いま、オレオレ詐欺とか多いから、銀行に行くとお金の使い道とか聞かれるかもしれないんで、そのときは家のリフォーム代とか、車を買うとか言うといいよ。親戚に渡すとか言うと警察に通報されちゃうから絶対に言わないで」

 

 この一連のやり取りで被害者は銀行に行き、窓口で200万円をおろそうとした。

 窓口では、高齢者の高額取引なので使い道などを確認する。

 最初、被害者は家のリフォーム代と言っていたが、見積を取っていないことや支払いが振込ではなく現金という点を不審に感じた窓口職員が上席に引き継ぎ、地元警察に通報がいった。

 通報で駆けつけた警察官により、被害者が受けた電話がオレオレ詐欺だとわかり、現金を受け取りに来る受け子のバイク便を逮捕すべく現場が設定された。

 

 そしてテワタサナイーヌがいまここにいる。

 

「3から1、犯人と思われるバイク便を捕捉」

 秘匿配置の捜査員から無線が飛んできた。

 受け子が現れたらしい。

 テワタサナイーヌはイグニッションをオンにしエンジンを始動した。

 エンジンと心臓の鼓動がシンクロして緊張感を高める。

 赤色灯とサイレンのスイッチを確認する。

 ウェラブルカメラの動作に異常はない。

 いつでも追尾できる態勢が整った。

「3から各局。犯人はバイクをおりて徒歩で被害者宅方向に進行した」

「2から1。2の目視範囲に見張りの男1名を捕捉。携帯で通話をしながら受け子の動きを注視中。監視を続ける。なお、見張りは原付に跨がりいつでも発進できる状態にある」

「1からカゲ」

「カゲですどうぞ」

 現場指揮官からテワタサナイーヌが呼ばれた。

「カゲは見張りの追尾にあたれ」

「カゲ了解」

 テワタサナイーヌが静かに見張りを視認できる場所に移動する。

「1から各局。受け子は間もなく被害者宅。3、4は捕捉態勢に入れ」

 受け子が被害者の家の呼鈴を鳴らした。

 被害者が玄関を開けて顔を出す。

 見張りは受け子と周りの様子を注視している。

 しかし、見張りの目にステルスチームが捜査員として映ることはない。

 テワタサナイーヌも見張りの動きを完全に監視下に置いている。

「これ、大事なお金だから。間違いなく甥のヒロシに届けてくださいね」

 被害者がバイク便を装った受け子に捜査用の偽札が入った袋を手渡した。

 その様子は、被害者宅の中に潜入していた捜査員も確認していた。

 被害者の音声は、隠して装着したピンマイクによりピックアップされ、無線ですべての捜査員が聞いている。

「はい、間違いなく」

 受け子が被害者から袋を受け取った。

 反転して足早に受け子が現場を立ち去ろうとしたそのとき、どこからともなく3人の男女が現れ受け子を取り囲んだ。

 その中の一人が警察手帳を取り出して受け子に見せた。

「詐欺未遂の現行犯で逮捕する」

 そう告げて受け子に手錠をかけた。

 あっという間の出来事に受け子は言葉も発することもできず、ただ身体を小刻みに震わせるだけであった。

 そのとき、テワタサナイーヌがハンドルに付いている赤色灯とサイレンのスイッチをオンにした。

 フロントカウルに隠されていた赤い高輝度LEDが点滅しながら反転して現れ、秘匿されたスピーカーから高音のサイレンが鳴り響いた。

 それと同時にテワタサナイーヌがフルスロットルで覆面オートバイと一体となり、獲物を狙う豹のように駆け出して行った。

 見張りの男が原付で逃走を図ったのだ。

 原付と250ccのオートバイでは機動力に差がありすぎる。

 しかし、細い路地に逃げ込まれたら小回りの利く原付にも逃げ切れる可能性が出る。

 テワタサナイーヌは、瞬く間に見張りの乗る原付に追い付き、進路を塞ぐようにフルブレーキングで停止して男を睨み付けた。

 突然自分の前に現れたテワタサナイーヌの姿に驚いた見張りの男は、今にも転びそうになりながらどうにか止まった。

 テワタサナイーヌは、覆面オートバイのサイドスタンドをかけ、弾けるように降車すると男に駆け寄り、まずイグニッションをオフにしてエンジンを止めた。

「バイクを降りろ!」

 男の腕を後ろに捻り上げながらテワタサナイーヌが怒鳴った。

「ガードレールに両手をつけ!」

「足を開け!」

「もっと開け!」

 次々とテワタサナイーヌの怒声が飛んだ。

 テワタサナイーヌは、左足を男の右足の内側にあてがい、男の身体捜検をした。

 相手の足の内側に自分の足をあてがうのは、相手が抵抗してきたときに、相手の足を払って転ばせることができるようにするためだ。

 この間、見張りの男は音がするのではないかと思うほど震えていた。

「あんたも見張りでグルでしょ。詐欺未遂の現行犯で逮捕します」

 さっきまでの怒声とは打って変わった落ち着いた声でテワタサナイーヌが男に逮捕を告げた。

 男は震えながらがっくりとうなだれた。

 

 テワタサナイーヌの初出動は成功した。

 逮捕手続きを済ませて犯抑本部にテワタサナイーヌが戻ったのは、夜の9時を回っていた。

 部屋に入ると、もうとっくに帰ったものと思っていた山口が安堵したような笑顔で迎えてくれた。

「代理ー」

 テワタサナイーヌは山口のもとに駆け寄り抱きついた。

 山口もテワタサナイーヌを抱き締めると、ヘルメットで乱れてしまった緑の髪を手櫛で整え、頭を撫で回した。

「無事でよかった」

 山口は心の底からそう思った。

 蒸れたような獣の匂いが山口の性欲を刺激した。

 

 私服に着替えたテワタサナイーヌと山口は一緒に犯抑の部屋を出た。

「ねえ代理」

「なんですか」

 二人の会話はいつもここから始まる。

 山口に寄り添うように廊下を歩きながらテワタサナイーヌが山口を呼んだ。

「今日の犯人は、二人とも17歳の高校生だったよ」

「そんなに若かったんですか」

 山口が驚きの声をあげた。

「まだ若いのにオレオレ詐欺なんかに手を染めて、なに考えてんのかしら。ほんと頭に来る。憎たらしい」

 テワタサナイーヌが憤慨した。

「犯人が憎いですか」

 山口が静かにテワタサナイーヌに問いかけた。

「憎いに決まってるでしょ。私は犯罪者が憎くて、やっつけてやりたいから警察官になったんだもん。代理は憎くないの?」

 テワタサナイーヌは、足を踏み鳴らし憤懣やる方ないといった様子で山口に食ってかかった。

「ちょっと階段で降りましょうか」

 山口はテワタサナイーヌの手を引いて階段ホールに入った。

 二人は一段ずつゆっくりと階段を進んだ。

「テワさん」

「なによ」

 テワタサナイーヌは、まだ腹の虫が収まらなかった。

「オレオレ詐欺みたいな犯罪者は、どうしたらいいでしょうね」

「そんなもの決まってるじゃない。社会から放逐するのよ。ぽいよ、ぽい。ぽぽいのぽいだわ!」

 テワタサナイーヌが大きな声で吐き捨てるように言った。

 今日のテワタサナイーヌは、いつになく荒れている。

「ぽぽいのぽい、ですか」

 山口は少し淋しそうに苦笑した。

「テワさん」

「だからなによ」

「怒ってるテワさんもかわいいですよ」

「ちょっ、代理。なに言ってんのよ。熱でもあるんじゃないの?」

 さっきまでぷりぷり怒っていたテワタサナイーヌが急にふにゃふにゃの笑顔になった。

「やっぱりその笑顔が素敵です」

 山口が嬉しそうに言った。

「テワさん」

「なーに?」

 テワタサナイーヌは、もう怒っていなかった。

「罪を憎んで人を憎まずっていう言葉がありますね」

「うん、知ってる」

「あれって、どういう意味なんでしょう。いろいろな解釈があると思うんですが、テワさんはどう解釈しますか?」

 珍しく山口が長めの質問をした。

「そうねえ、犯した罪を赦してやれっていうことなのかなあ」

 テワタサナイーヌは考えがまとまらなかった。

「なるほど、そういう考え方もできますね」

「代理はどうなのさ」

「私はですね、犯罪者に更正の道を残すべし、と理解しています」

「えー、そんなの甘くない?悪い人なんだから、徹底的にやっつけて思い知らせてやればいいのよ」

「厳しいですね」

 山口が笑った。

 テワタサナイーヌとしても、本当にそこまで思っているわけではないが、それくらいの憎たらしさを感じていることは事実だった。

「テワさんは、犯罪を犯した人が悪いという考え方ですね」

「うん、そう」

「私は思うんです。悪いのは犯罪を犯したその人ではなく、その行いなんだと」

「どういこと?私の考え方とどう違うの?」

 テワタサナイーヌが不思議そうに山口の顔を覗き込んだ。

「テワさんの考え方でいくと、罪を犯したその人が悪い。だから罰を与えようと。そして、人が悪いということですから、一度罪を犯すと、その人はずっと悪い人であり続けます」

 山口が続けた。

「だって悪いんだからしょうがないじゃない」

「そうなるとどうでしょう。一度でも犯罪を犯してしまうと、その後行いを改めても悪い人のままでい続けなければなりません。それは本人にとっても社会にとっても不幸なことではないでしょうか」

「そ、そうね」

「だから、悪いのはあなた自身じゃない、あなたがやった行いなんだと伝え続けたいんです。たとえ犯罪を犯した人でも、その罪を償って行いを改めさえすれば仲間になれる。友達になれる。そう思うんです」

「本当にぽぽいのぽいしなきゃならないのは、人じゃなくて行為です。同じような考えから、刑法でなになにした者はこれこれに処すという表現を『ものは』ではなく『しゃは』と読む学者もいます」

 テワタサナイーヌの手を握った山口の手に力が入った。

「うーん、わかったような、わからないような。なんか騙されてるみたいな気もするけど代理が私を騙すわけないから、たぶん本当なんだと思う」

 テワタサナイーヌが山口の腕に絡み付いて笑いながら答えた。

 山口は、バランスを崩し危うく段を踏み外しそうになった。

「テワさん、階段で絡み付いたら危ないです」

「あら、じゃあ一緒に落ちよっか」

 テワタサナイーヌが潤んだ瞳で山口を見つめた。

 

 庁舎の外に出ると小雨があたりを湿らせていた。

 手を繋いだ二人が街中に消えていった。




この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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ファーストキス

「あの変態男め。自分から誘っておいて遅刻するとはサイテーだな」

 テワタサナイーヌが苛立った。

 晩春の日曜日午後、上野駅公園口にテワタサナイーヌの姿があった。

 白いややルーズな長袖のカットソーにぱっつんぱっつんのホットパンツを履き、足許はぴったりフィットした編み上げのロングブーツだ。

 ホットパンツは、レザーで縫製され、革独特のぬめるような光沢を放っている。

 カットソーは、ルーズなデザインでありながら、テワタサナイーヌの二つの十分に育った膨らみを隠しきれず、タイトにフィットしてしまう。

 テワタサナイーヌは比較的背が高い。

 168cmくらいある。

 犬耳の高さを加えると175cmくらいにはなる。

 それだけでも目立つのに、その日のテワタサナイーヌは、ヒールの高いロングブーツを履いて、筋肉質で程よい張りのある長くまっすぐな脚を付け根まで惜しげもなく晒している。

 

【挿絵表示】

 

 通りすぎる男性のみならず女性も振り返ってテワタサナイーヌを見ていく。

「どんどん見て。私かわいいから」

 見せ物になるのが嫌で白バイを降りたあの頃とは、まるで別人だ。

 あの頃のテワタサナイーヌは、とにかく自分を認めることができなかった。

 自分は異形の化け物だという観念にとらわれていた。

「こうなったのも全部あのイタリア男二人組のせいよ」

 自分を自由にしてくれたイタリア男二人組には感謝している。

 イタリア男二人組とは、山口とテワタサナイーヌの部下にあたる池上のことだ。

 池上は、テワタサナイーヌの下につく巡査部長の男で、とにかくノリが軽い。

 違和感なく女性をほめることができる男だ。

 山口については、言うまでもない。

 この二人と関わる前のテワタサナイーヌは、肌の露出をできるけ抑えた地味な服装を好み、化粧っ気もなく、とにかく目立たないようにしていた。

 目立って他人から見られるのが嫌だった。

 それが、この男たちと出会ってテワタサナイーヌは人生を狂わされた。

(ほんと、人生を狂わされたっていう感じ。それまでの私はなんだったのよ)

「今日も超きれいっすね」

「俺、テワさんの脚めちゃくちゃ好きなんすよ」

「テワさん、なにやってもかわいいっすね。惚れていいっすか」

 池上は、ほぼ毎日この調子だ。

 山口は、テワタサナイーヌのちょっとした変化にも気づいて控えめにほめる。

「おや、今日はちょっと雰囲気が違いますね」

 たいしたことは言わないが、変化に気づいてもらえると嬉しい。

 ほめられ、おだてられしているうちに、徐々にテワタサナイーヌは肌を露出することに対する抵抗感が薄れていった。

「私はこれでいいんだ」

 そう思えるようになった。

 山口の口癖である「そういうものですから」にも強い影響を受けた。

 山口の「そういうものですから」は、斜に構えた感じでも、ニヒリズムでも、シニシズムでもない。

「テワさんは、それでいいんですよ」

 山口は、前向きに肯定してくれる。

 自分のことを受け入れてもらえている安心感がある。

 肌を露出し始めると、見られることが快感に変わった。

 もともと背が高く脚も長い。

 顔立ちも美形だ。

 磨けば磨くだけテワタサナイーヌはきれいになった。

 そして、気づいたらほぼお尻のラインが見えそうなくらいに短いホットパンツまで履きこなすようになっていた。

 しかし、テワタサナイーヌは、どんなに露出をしても背中だけは絶対に見せることがなかった。

 

 ──二週間ほど前

「テワさん」

 池上が後ろの席からテワタサナイーヌを呼んだ。

「んー、なにぃ?私、いまお煎餅食べてて忙しいんだけど」

 テワタサナイーヌが椅子の背もたれに寄りかかり、のけぞるようにして顔だけ後ろを向き生返事をした。

「十分暇そうに見えますよ」

「なっ、失礼な小僧ね」

 テワタサナイーヌは手に持っていた煎餅を池上の口に突っ込んだ。

「で、ご用は?」

 相変わらずテワタサナイーヌは煎餅をかじっている。

「おいしいっすね、この煎餅」

「そうでしょー!高かったのよ」

「もう一枚あげる」

 気をよくしたテワタサナイーヌは、追加の一枚を池上に差し出した。

「ありがとうございます!」

 池上が喜んだ。

「餌付けよ、餌付け」

 テワタサナイーヌ基準で食べ物をくれる人はいい人なので、自分も池上に対していい人になろうという作戦だった。

「割と餌付けされてます。いつもごちそうさまっす」

 池上も餌付けされることに抵抗はないようだった。

「あ、忘れてた。用は何?」

 テワタサナイーヌが話題を戻した。

「あ、はい、えっと、用っつーほどのことじゃないんすけど…」

「なによ、いつもの小僧らしくないわね。すぱっと言いなさいよ、すぱっと」

 テワタサナイーヌがイライラした表情を見せた。

「じゃあ言います。あのですね」

「あー、まどろっこしい!イライラするわねえ。マズルが伸びちゃうじゃん!」

 いつもならずばずばと言葉を発する池上が珍しくしどろもどろになっているのをテワタサナイーヌはイライラしながら聞いていた。

「デートしてください。俺と」

 池上は意を決して単刀直入に言った。

「え?は?え?なに?ちょっと待って、なにそれ?」

 まったく予想もしていなかった言葉にテワタサナイーヌは戸惑いを隠せない。

 池上は顔を真っ赤にしてテワタサナイーヌを見ている。

「えー、えーっ、えーっ!?ちょっと待ってよ。あんた本気?あんたが私とデートしたいって?え、ひょっとしてあんた私のこと好きなの?あ、そう。え、やだ、待って。あり得ないんだけど。だってさ、考えてみなさいよ。私はあんたの上司でしょ。あんたは部下なわけ。その二人がデートとかおかしいでしょ。え、いつも山口係長とデートしてるだろって?うるさいわね、ぶっ飛ばすわよ。あれはお父さんなの。もうおじいさんでしょ、見た目も。人畜無害だから付き合ってあげてんの。それに比べてあんたは若い!人畜有害!そりゃあデートに誘われたら嬉しいよ。うん、ありがと。でもさー、さっきも言ったけど上司と部下じゃん。三流エロ漫画だよ、その展開。黙れっての、読んだことなんかないわよ。そういう感じなのかなーって思っただけ。て、なんであんたが突っ込んでるのよ。分を弁えなさいよ、バカ。あ、ごめん言い過ぎた。ていうかさ、あんたいっつもイタリア人じゃん。なんで今日は奥ゆかしい日本人になってんのよ。こっちが戸惑うっつーの。恥ずかしかったって?言われたこっちの方が一億倍恥ずかしいわよ。まだ顔が火照ってるんだから。見えない?毛が生えてるからだよ!あんたのことなんかね、これっぽちも嫌いじゃないんだからね。あれ?間違えた?いや、いいの。うん。間違えてない。あんたのことは嫌いじゃない。むしろ普通に好き。いや、だから、あそこの人はお父さんだから。いくら好きでもお父さんとは結婚できないでしょ。実の親子関係じゃないんだから大丈夫だ?そんなことわからないでしょー。親の記憶がないんだから。ていうか、あんた何ぼけーっとしてんのよ。いま私なんて言ったか聞いてた?バカねー、もう言わない。そんな、恥ずかしくて好きなんて何回も言えるわけないでしょ。まったくもう」

 明らかに嬉しすぎて舞い上がっているテワタサナイーヌだった。

「ねーねー、代理」

 テワタサナイーヌは椅子をくるっと回転させて山口の方を向いた。

「なんですか」

 二人の会話は、いつもこの呼びかけから始まる。

「ちょっと聞いてよ」

「さっきから大声でしゃべってるから全部聞こえてますよ」

「なら話が早いわ。後ろの小僧が私のこと好きなんだって。でね、デートしたいって言うのよ、でーと。お父さんとしてどう思う?」

 まだ興奮冷めやらぬテワタサナイーヌがまくし立てた。

「まず、お父さんはやめましょう。デートに関しては、いいと思いますよ。池上さんだったら並んで歩いても釣り合いが取れる素敵なカップルになると思います」

 山口は二人の会話を不安げに見守る池上を見て頷いた。

「え、ほんとにいいの?小僧に私とられちゃうかもしれないんだよ?」

 テワタサナイーヌが悪魔のような問いかけをした。

 山口は、本当はテワタサナイーヌを手放したくないと思っている。

 しかし、それを公言できる立場ではない。

 かといって、自分の元を離れて池上と交際しなさいとも言えない。

 テワタサナイーヌを突き放すことになってしまう。

「テワさんが池上さんのところにいってしまっても、早苗さんと私の関係は何も変わりません。大丈夫です、心配していませんよ」

 山口は言葉を選びながらテワタサナイーヌに告げた。

「なんか、お嫁に行く日の父と娘の会話みたい」

 テワタサナイーヌが大笑いした。

 テワタサナイーヌは、椅子を回転させて後ろの池上と向かい合った。

「というわけで、お父さんの許しをもらったからデートしてあげる」

「ほんとですか。やった!お父さん、ありがとうございます!」

 池上が拳を握りしめて喜んだ。

「お父さんではないんですが」

 山口が苦笑した。

「ただし、さっきあんたのことをうっかり好きって言っちゃったけど、順位は低いから。1位はお父さんで、この地位は揺るがないでしょ。で、あんたは暫定2位ってとこ。でも、この1位と2位の間には、ふかーい溝やたかーい崖があって、超えられません。ダメです。それでいいわね?」

 テワタサナイーヌは、永遠の暫定2位宣言を池上に突きつけた。

「テワさん、テワさん」

 池上がテワタサナイーヌを呼んだ。

「なに?」

「暫定2位は了解っす。つきましては、デートの服装でお願いしたいことがあります」

「あんた図々しいわね。いまデートの確約したばっかりで、もう服装の指定するの?」

 そう言いながらテワタサナイーヌはメモの用意をしていた。

「はいどうぞ。聞いてあげる」

「ありがとうございます。俺、テワさんのきれいな脚が好きなんです。だから、デートのときは、その脚をずっと見ていたいなって思ってたんです。なので、できるだけ脚が出てる服を着てきて欲しいんす。あと、ブーツでお願いします」

 池上が恥ずかしそうに言った。

「あらー、あんた脚フェチのブーツフェチだったの。いいわよ、その要望承りました」

 きれいな脚が好きと言われたら見せないわけにはいかない。

 テワタサナイーヌも気分がアガってきた。

 

 そして、上野駅公園口での待ち合わせとなった。

 

「すいません。遅れちゃいました」

 遅れて来た池上が平身低頭謝った。

「初めてのデートなのに女を待たすんじゃないわよ。まったく。で、なんで遅れたの?」

 テワタサナイーヌは機嫌が悪いふりをしていたが、別に気にしていなかった。

 ただ、ここで女を待たせていいと思わせてしまうのは、今後の彼のためにもならないと思い、きっちり躾けることにしたのだ。

「地元でアメリカバイソンの群れと遭遇してしまいまして」

 池上が真顔でテワタサナイーヌを見て言った。

「あんたすごいとこ住んでるのねえ。それじゃあしょうがないわ」

 テワタサナイーヌは負けたと思った。

(この男、案外すごいか果てしないバカのどっちかだわ)

「ところで今日はどこに行くの?あ、あと、今日は上司と部下じゃないから、いつものブロークンな敬語なんか使ったらぶっ飛ばすよ」

 テワタサナイーヌがニコニコしながら池上の顎に拳をあてがった。

「わかりました。じゃなくて了解!」

 池上が挙手の敬礼をした。

「はい、ぶっ飛ばし一回目」

 テワタサナイーヌは池上の背に回り込み右手でレバーにパンチを食らわした。

「いたっ!くない。テワさん優しいっすね」

「二回目欲しいの?」

 テワタサナイーヌがいたずらっぽく笑った。

「いいわよ、あんたがその方が話しやすいっていうならそれで」

(そういうものですから)

 テワタサナイーヌには、山口の顔が浮かんでいた。

「ごめん、余計な話が長くなっちゃった。行き先は決まってるの?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げて池上に訊いた。

「テワさんのそのポーズめっちゃ好きっす」

 池上がイタリア人になった。

「えっとですね、今日は動物園に行こ」

「ちょっと待て!」

 池上がまだ言い終わらないのを遮ってテワタサナイーヌが叫んだ。

「あんたやっぱりまだ小僧ね。私の顔見なさい」

「すっげーきれいっす」

「ありがと。いや、それはそうなんだけど、今言いたいのはそれじゃないの。犬、犬なの私。ちょっとここ嗅いでみなさいよ」

 テワタサナイーヌは山口にしたように、緑の髪を掻き上げて短い獣毛に覆われたうなじを池上の鼻先に差し出した。

 池上は大きく息を吸い込んだ。

 あこがれの女性の匂いを嗅げる機会を逃す手はない。

「実家で飼ってるチワワと同じ匂いがする」

「でしょ。犬の匂いがする私が動物園に入ったらどうなると思う?」

「子供たちに喜ばれそうっすよね」

 池上は本当にそう思った。

「やっぱりあんたは果てしないバカに認定。ちょっとでもすごい人かと思った私もバカでした」

 テワタサナイーヌが膨れっ面をした。

「え、まずかったすか?」

 池上が慌てたように言った。

「今はね、私の匂いの話をしてるの。なんで子供が私の匂いで喜ぶのよ」

「あ!」

 ようやく池上が自分の間違いに気づいた。

「そうっすよね。テワさんが動物園に入ると、テワさんの匂いでなにがどうなるんすか?」

 池上は腕組みをして考え込んだ。

「動物は臭いに敏感でしょ。ちなみに私も犬並みの嗅覚だからね。臭気選別だってできるんだから」

 テワタサナイーヌが余計な自慢をした。

「だから犬の匂いをさせた私が動物園をウロウロしたら、他の動物が敵の侵入と勘違いして騒ぎ出すかもしれないじゃない」

「それによ、飼育員さんに逃走した動物と間違われて捕獲されたらどうすんのよ」

「それやばいっす!」

 テワタサナイーヌはボケたつもりだったが、池上は真に受けたようだった。

 ぐりぐりぐり

 テワタサナイーヌの拳が池上のこめかみを抉った。

「痛いっす。テワさん痛いっす」

 池上が手足をばたつかせて涙目になりながら訴えた。

「いまのとこは真に受けちゃダメなの」

 テワタサナイーヌは抉っている手を緩めずに低い声で池上に言った。

 鼻骨が変形していないところを見ると本当に怒ってはいないようだ。

「行ってみよっか。動物園」

 池上のこめかみから拳を離してテワタサナイーヌが優しく言った。

「え、大丈夫なんすか?」

 池上が心配そうな表情を浮かべた。

「わかんない。私、こんな身体でしょ。だから今まで一度も動物園に入ったことないの。遠足で友達が動物園に行ってるときも私はひとりで学校に残ってた。だから、自分の身体が大っ嫌いだった。恨んだ」

 テワタサナイーヌは、かろうじて残っている小学校時代の記憶を初めて他人に語った。

「寂しかったんすね。ちっちゃいテワちゃん」

 池上がテワタサナイーヌの顔を覗き込んだ。

 固く握りしめられたテワタサナイーヌの拳が小刻みに震えていた。

 大きくこぼれそうな瞳から大粒の涙が一筋落ち、真珠のような玉となってアスファルトに黒いシミを作った。

「でも、果てしないバカのあんた。じゃない、大輔くん。大輔くんとなら行ける気がする。大輔くんなら、飼育員さんから守ってくれるよね?」

 泣き笑いのテワタサナイーヌが小首を傾げた。

「泣いてても、そのポーズはめっちやかわいいっす」

 池上は、心の中で慟哭しながら、あえてバカを演じた。

「ばーか、ばーか!」

 テワタサナイーヌは、人目を憚ることなくぐしゃぐしゃに泣いた。

 しかし、その表情はどこかしら嬉しそうに見えた。

 池上はニコニコしながらテワタサナイーヌに寄り添っている。

 周りから見たら、イケメンがモデル並みのいい女を泣かせてニヤニヤしているという最低な状況だったに違いない。

「テワさんを守りたいんすけど、絶対テワさんの方が俺より強いから、自力で逃げてください」

「やる気ない野郎だな」

 テワタサナイーヌは、泣きながら池上のレバーにパンチを入れた。

「痛っ、くないのかと思ったら今度は痛いっす」

 池上がうずくまった。

「十分泣いたすか」

 立ち上がった池上がテワタサナイーヌの顔を見て言った。

「うん、ありがと。すっきりした」

 またひとつ過去を清算したテワタサナイーヌだった。

「行くよ」

 池上がテワタサナイーヌにため口をきいた。

「うん」

 テワタサナイーヌが池上に従った。

 上野恩賜公園の敷地は広い。

 美術館や博物館を横目に通りすぎ、交番の前で記念撮影をして職務質問され、ようやく動物園の入口に着いた。

 池上が二人分の入場券を買って、一枚をテワタサナイーヌに手渡した。

「テワさんに手渡すって、なんか微妙な響きっすね」

「私もね、誰かになにかを手渡すたびに言われるのよ」

「お先にどうぞ」

 池上がテワタサナイーヌを先に入園させようと、左手でテワタサナイーヌの背中に触れた。

 その瞬間、テワタサナイーヌが右に体をさばいて池上と間合いを取り、右手の手刀で池上の左手を打ち払った。

「背中に触らないで!!」

 テワタサナイーヌが牙をむき叫んだ。

「あ、ごめん。痛かった?」

 すぐに正気に戻ったテワタサナイーヌが池上を気遣った。

「いや、大丈夫す」

 池上が打ち払われた左手をさすりなが答えた。

「それより、こっちこそごめん。まだ触るのは早かったすね」

 池上が謝った。

「いや、背中以外だったらどこ触ってもいいよ。でもごめん。背中だけは触らないで」

 テワタサナイーヌが両手を合わせて懇願した。

「わかった。覚えておくっす」

 池上が敬礼した。

(この男、よっぽど敬礼が好きなのね)

 変なところに感心したテワタサナイーヌであった。

 二人が動物園の入場ゲートを入ろうとすると、ゲートに立っていた係員に呼び止められた。

「あのお、大変失礼なことをお聞きしますが、こちら様はペットではありませんよね?当園では、犬や猫などのペットを連れてのご入場をお断りさせていただいておりますので」

 係員がテワタサナイーヌを示して池上に訊いてきた。

 二人は顔を見合わせた。

「あー!」

 池上が声を上げた。

「この人、俺の彼女す。犬耳や牙が生えてるし、尻尾もあるけど一応人間も混ざってるす」

「ちょっと大輔くん、その言い方はひどくない?」

 テワタサナイーヌが牙をむいて怒った。

「いや、ダメだってテワさん。今、人間かどうか訊かれてるのに牙むいちゃヤバいっすよ」

「すいません。彼女、犬っぽいけど警察官す。だから間違いなく人間す」

 池上が頭を下げた。

 ゲートの係員は、顔を真っ赤にして肩を震わせながら笑いをこらえている。

 二人の掛け合いが面白すぎたのだ。

 テワタサナイーヌが普通に言葉を話しているので、人間だということはすぐにわかった。

 なので、すぐに通ってもらってよかったのに、二人で勝手に盛り上がっていたのでおかしくなったのだ。

「ねえねえ大輔くん」

「なんすか」

「さっきの駅前号泣事件だけどさ、いまの係員さんに言われたことで私気がついた」

「なにを?」

「私が小学生のとき、遠足に連れて行ってもらえなかったのは、匂いのせいじゃなくて動物園に犬猫を連れて入っちゃいけないからだったんじゃない?」

「あ、そうっすね!テワさん頭いいっすね」

(どうもこの男は感心するポイントがずれてるわね)

 テワタサナイーヌも妙なところで感心していた。

「まあどっちにしても連れて行ってもらえないっていうことに変わりはないなんだけどね」

 テワタサナイーヌが肩をすくめた。

「それもそうすね。テワさん、たいして頭よくなかったすね」

「ぶっ飛ばしてもいいかしら?」

 テワタサナイーヌが牙をむいた。

「ママ、あのお姉ちゃんこわーい」

 二人の近くにいた女の子がテワタサナイーヌを指差して泣いた。

「ちょっとあなた、なんてこと。すみません、ほんとに」

 同伴の母親がテワタサナイーヌに謝った。

「あー、ごめんねえ、お姉ちゃん怖い犬じゃないから大丈夫よ。ほら、ね」

 テワタサナイーヌは、女の子に駆け寄ってしゃがみ込み、目の高さを合わせて笑ってみせた。

 女の子は、目に当てた手の隙間からテワタサナイーヌをちらりと見た。

「やっぱりこわーい」

 テワタサナイーヌの眉がハの字になった。

「ときどき子供に泣かれるのよね」

 女の子と別れた後、テワタサナイーヌがしょんぼりとつぶやいた。

「でもしょうがないっすよ。世界中の人みんなから好かれるなんてできないっす。だったら、怖がったり嫌ったりする人たちのために生きるより、好いてくれる人のために生きたほうが楽しいんじゃないすか」

「大輔くん、あなた本当は賢いの?」

 テワタサナイーヌが真剣に訊いた。

「果てしないバカっす」

 池上がさらりと答えた。

 

「うわ、くっさ。夏場に1か月くらいお風呂に入ってない自分が5,000人くらいいるような臭いがする」

 園内に足を踏み入れたテワタサナイーヌが顔をしかめた。

「やったんすか?夏場の1か月」

 池上が食いつくポイントは、どこかずれている。

「やるわけないじゃん。イメージよ」

「たっくさんの動物の臭いがブレンドされたものすごく濃い臭いがしてるのよ。さっき言ったでしょ、私の嗅覚は犬並みだって。特に動物の臭いには敏感なのよ。たぶん野生動物の本能?」

 ヒトには感じられない動物の臭いをテワタサナイーヌは感じていた。

「てことはよ。これに私の匂いが混ざったところで、全然問題なさそうよね」

 テワタサナイーヌは、自分の考えが杞憂だったことに気づいた。

「問題なさそうっすね」

 池上がオウム返しに答えた。

 二人は動物園を満喫した。

 ときどき匂いではなく、テワタサナイーヌが顔を見て吠えられることはあったが、おおむね平穏に見学することができた。

「あれっ?」

 不忍池テラスで休憩しているテワタサナイーヌが鼻をひくつかせた。

「ねえ大輔くん、園内って禁煙よね?」

「そうっすね、たしか喫煙所がひとつだけあったと思うけど、ここからはずいぶん離れてるはずっすよ」

「なんでだろう。タバコの臭いがする」

 テワタサナイーヌがあたりの臭いを嗅ぎ分けながら周囲を見渡す。

「あっ、あれ!大輔くん、あの二人見て」

 テワタサナイーヌが不忍池テラスの一番はずれの席に座っている二人の男を顎で示した。

「あの二人のうちの片方からタバコの臭いが流れてくる」

 テワタサナイーヌの顔が警察官のそれに変わった。

「それがどうかしたんすか」

 池上が怪訝な顔でテワタサナイーヌを見た。

「そいつの服装をよーく見て。歳は若そうよね。だいたい20歳前後ってとこかしら。でね、スーツでしょあれ、一応」

「うん、ほんとに一応って言えるようなスーツすね」

「ジャケットの肩幅が全然合ってないから肩が落ちちゃってずんだれてる。ワイシャツの第一ボタンを外してネクタイを締めてる。いや、全然締まってなくて緩んでるよね。で、極めつけはスーツなのに腰パンよ」

「かっこわるいっすね」

「まるで高校生の着こなしよね」

「あーーーーっ!」

 池上が声を上げた。

「バカ、声がでかい」

 テワタサナイーヌが池上の口を手で抑えた。

「はあ、テワさんの手、いい匂いっすね」

 池上がうっとりしている。

「果てしないバカね、やっぱり」

 テワタサナイーヌが呆れた。

「わかったすよ。あれ、受け子っすね」

「うん、たぶん。受け子は、パチンコ屋でリクルートされることが多いから、身体にしみついたタバコの臭いが漂ってきたんだと思う」

「でも、動物園でなにやってるんすかね」

 池上が不思議そうに言った。

「ライブ・ドロップ」

 テワタサナイーヌが一言だけつぶやいた。

「スパイ映画みたいすね」

 池上もライブ・ドロップという言葉の意味を知っていた。

 ライブ・ドロップというのは、スパイが協力者と情報の受け渡しを実際に会って行うことをいう。

 逆に、顔を合わせることなく情報のやり取りを行うことをデッド・ドロップという。

「おそらく受け子とその上位の人間が接触して、何かを受け渡ししているんだと思う」

「なんですかね」

「今日は日曜日でしょ。金融機関はお休みだから現金の調達は難しい。となると、カード預かり詐欺で騙し取ったカードの受け渡しじゃないかな。キャッシュカードならATMで預金を引き出せるから」

「さすが俺の上司っす」

「まあね」

「惚れていいすか」

「もう惚れてるんでしょ」

「そうす」

「じゃあもっと惚れなさい」

「了解」

 緊張感のある気の抜けた会話を繰り広げた。

「こんなことろで受け渡しをしているとは誰も思わないわよね。悔しいけど、今日はあいつらを引っ張るネタがなにもない。大輔くん、大輔くんのスマホで私の写真を撮るふりして、めいっぱいズームしてあいつらの写真を撮ってくれる。情報としてあげとこうよ」

「よしきた」

 池上は、テワタサナイーヌを挟んでだらしないスーツ男と一直線になる位置に移動した。

 スマホを取り出してカメラを起動する。

 カメラのズーム機能を最大にしてスーツ男の顔と服装を写真に収めた。

 ついでにズームを戻してテワタサナイーヌにピントを合わせた写真も撮った。

「大輔くん、ずいぶん時間かかってるけど大丈夫?」

 池上が手間取っているように見えたテワタサナイーヌが心配した。

「大丈夫っす。ばっちり撮れました。いろいろと」

 この日の情報をもとに捜査が行われ、後日、大規模なカード預かり詐欺グループが一斉に検挙され、グループの壊滅につながった。

 

「大輔くん、今日はほんとにありがとう。楽しかった」

 生まれて初めての動物園を存分に楽しんだテワタサナイーヌが池上に礼を言った。

「我ながら動物園は、いいチョイスだったみたいすね」

「うん、なかなかよかったよ」

 テワタサナイーヌがほめた。

 動物園を出る頃には、日も傾いてうっすらと暗くなっていた。

「テワさん、このあとご飯食べに行きませんか」

 池上が食事に誘った。

「デートだから、食事はありよね。うん、いいよ」

「ちょっと離れるんすけど、お店予約しときました」

「あらまあ、気合入ってるのね」

 池上はタクシーを拾うと、テワタサナイーヌを先に乗せ、あとから乗り込んだ。

「西麻布まで」

 池上がドライバーに告げた。

 西麻布までの道中、テワタサナイーヌと池上は言葉が少なかった。

 今さらだが、今こうして二人でいることが不思議に感じられたからだ。

 金曜日まで上司と部下、それ以外のなにものでもなかったものが、今日は二人の距離がぐっと縮まった。

 池上が案内した店は、西麻布から裏路地に少し入ったところにあるビストロだった。

 そこは、赤を基調とした落ち着いた造りで、パリの路地裏にありそうな店だった。

 あらかじめ下調べをしておいたのだろう、池上は手際よく、ところどころ思い出しながらオーダーをした。

 料理はどれもおいしく、酒も進んだ。

 2時間あまり食事を楽しんだ二人は店を出て西麻布から六本木へ通じる裏通りをゆっくりと歩いていた。

「大輔くん」

「なんすか」

「今日はありがとう。楽しかったし、おいしかった」

「いえいえ、どういたしまして。俺もテワさんと一緒にいられて楽しかったす」

「ひとつ苦言いい?」

「え、俺、なんかした?」

 池上が怯えた。

「ううん、そうじゃない。大輔くんは、すごく頑張ってくれたと思ってる。とっても嬉しいよ」

「でもね、さっきのお店。普段使うようなところじゃないよね。今日のために探したんじゃない?」

 テワタサナイーヌが訊いた。

「そうっす。初めてのデートだから奮発したんすよ」

「ありがとう。そうよね」

「でも、それはちょっとだけ無理してるでしょ」

「うーん、無理ってほどじゃないけど、毎回はできないすね」

「だよね。私はね、大輔くんという、いい男とデートしたくて来てるの。お店とデートしたいなんて思ってないから。デートに必要なのは、大輔くん、あなただけなの。高級なビストロは、お腹は満たしてくれても恋心は満たしてくれないのよ。だから無理なんてしないで。大輔くんと一緒ならファミレスでも居酒屋でも最高のお店になるんだから。ね」

「テワさん…」

 池上が泣きそうな顔をした。

「ただし、その果てしないバカは直しなさい。わかった?」

「了解っす」

 池上が敬礼した。

「わかったら、ほら」

 テワタサナイーヌは立ち止まり、池上に向き合い大きな目を閉じて軽く顎を上げた。

 震えるテワタサナイーヌの唇に池上の唇が合わされた。

 粘膜の摩擦が心地良い。

 かすかに開いた唇の隙間から温かいものが行き交い混ざり合う。

 それがテワタサナイーヌには甘く感じられた。

 長い沈黙の時間が流れ、二人の唇が静かに離れた。

「テワさんの顔、ちょっとチクチクするすね」

 池上が照れ隠しに言った。

「バカっ!!」

 テワタサナイーヌが思い切り池上の顔にビンタを食らわした。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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クラッシュ

 またテワタサナイーヌが苦手とする夏が来た。

 上野動物園での初デートと、その日のうちのファーストキスを経験したテワタサナイーヌと池上は、その後も順調に交際を続け、デートを重ねていた。

 テワタサナイーヌと池上の二人は、職場では相も変わらず上司と小僧の関係であった。

 テワタサナイーヌが山口に交際の進展を知られたくないと池上に頼み込んだのだ。

 テワタサナイーヌは、いつもの夏と同じように薄着で危うい雰囲気を醸している。

 

「おはようございます」

 テワタサナイーヌが事務的に挨拶をして山口に紅茶をサービスした。

「おはようございます。いつもありがとうございます」

 山口は、いつもと変わらない笑顔でテワタサナイーヌに話しかけた。

「係長」

「はい、なんですか」

「今朝はお茶を出しましたけど、明日からはご自分でお願いします」

 テワタサナイーヌが紅茶のサービスをやめると宣言した。

「あ、はい。わかりました」

 山口は、テワタサナイーヌの態度の変化に戸惑いながらも、普段と変わらない答えを返した。

 なぜだろうと疑問に思ったが、あえて理由は訊かなかった。

「食事に行きますか」

 お昼になったので山口がテワタサナイーヌを誘った。

「結構です。お一人でどうぞ」

 いつもは大喜びで腕を取ってくるテワタサナイーヌだったが、素っ気ない態度で山口の誘いを断った。

 テワタサナイーヌの態度の変化をハラハラしながら見ている男がいた。

 池上だった。

(俺のせいで係長に迷惑をかけてしまった)

 テワタサナイーヌの変化が自分のせいだと感じていたからだ。

 池上は自分を責めた。

 テワタサナイーヌはといえば、山口に冷たい態度をとる他は、いつもと何も変わらない明るさで周囲と接している。

「テワさん」

「はい」

 テワタサナイーヌがきっちりとした敬語で返事をした。

「なにかありましたか?」

 山口は疑問を投げかけてみることにした。

「なにもありません。詮索しないでください」

 テワタサナイーヌは、山口と目も合わせずぶっきらぼうに言い捨てた。

「そうですか、失礼しました」

 山口も深追いしなかった。

(そういうものですから)

 山口は、自分に言い聞かせた。

「係長、すみません。俺のせいです」

 テワタサナイーヌの態度に耐えきれなくなった池上は、山口を喫茶室に連れ出して謝った。

 テワタサナイーヌとの約束はあったが、自分達を一番温かく見守ってくれている山口に黙っていることができなくなった。

「俺がテワさんと付き合い出してから、テワさんが係長に突っかかるようになってしまったんです。本当にすみません」

 池上がブロークンではない敬語で謝罪して頭を下げた。

 山口は窓の外を見たまま、しばらく無言で考えていた。

「通過儀礼ですよ」

 山口が口を開いた。

「どういうことですか」

 池上には理解できなかった。

「いずれ池上さんにもお話しする日が来るかもしれません。いえ、来て欲しいんですが、今はまだそのときではありません。ただ一つ言えることは、時間が解決するということです。元のテワさんには戻らないと思いますが、今のような態度はなくなるはずです。それまで見守ってあげてください。そのときにお願いしたいことがあります。テワさんを説得したり、善導しようとしないでください。ありのままのテワさんを受け入れてあげてください。そうすれば、いずれテワさんは自分から戻ってきてくれます。それまで待ちましょう」

 山口はいつもの笑顔で諭すように池上に話した。

「承知しました」

 いつもと違う知性的な顔で池上が答えた。

 それからもテワタサナイーヌは、徹底して山口を避けた。

「触らないでよ!」

 山口がテワタサナイーヌをエスコートしようものなら、テワタサナイーヌは身体を捻って逃げ、大声で怒鳴った。

 山口と手を繋ぐこともなくなった。

 他の人のものは気にせず洗ったが、山口が使ったカップだけは触りたくないといって残した。

 仕事で必要な最低限のこと以外は一切話もしない。

 その間、池上とはデートを重ねた。

 池上といるときのテワタサナイーヌは、いつものテワタサナイーヌだった。

 池上にはテワタサナイーヌがわからなくなった。

 ありのままのテワタサナイーヌを受け入れて見守れと山口に言われていたが、テワタサナイーヌの態度の違いに戸惑いを隠せなかった。

「係長、最近のテワさんがわかんないす」

 池上が山口に相談した。

「お二人の関係はどうですか」

「前と同じっす」

「そうですか。それなら大丈夫です。いま、テワさんも自分が何者かわからなくて混乱している時期です。甘えたいテワさん、大人のテワさん、社会の矛盾に怒っているテワさん、テワタサナイーヌとしてのテワさん、天渡早苗さん。いろんなテワさんが、一人のテワさんの中にいます。しばらくすれば、一人のテワさんにまとまるはずです。もう少しの我慢です。池上さんならテワさんを受け止めてあげられるはずです」

 山口が自分で淹れた紅茶をすすりながらつぶやいた。

「俺にできることはないんすか」

 池上が歯がゆそうに言った。

「娘と仲良くしてあげてください」

 山口は笑いながら背伸びをした。

 

 夏になってもテワタサナイーヌは、覆面オートバイでオレオレ詐欺犯人を追尾するカゲと呼ばれる任務の手伝いを続けていた。

 バイク便を装ったオレオレ詐欺の発生はあまり多くない。

 テワタサナイーヌも待機の日が続いた。

 もちろん、その間にもオレオレ詐欺被害防止のキャンペーンに出演要請があれば可能な限り出演している。

 そのときは、山口と一緒に出かけることになるが、出かけてから戻るまで、一言も口を利かないことも珍しくなかった。

「父親ぶっててうざい」

「いつも子供扱いする」

 テワタサナイーヌは、池上とのデートでよく山口を攻撃した。

 テワタサナイーヌは、日増しに荒れていった。

 山口以外の職員にも食ってかかる姿が目撃されるようになった。

 山口は、犯抑の職員になにごとか説明しながら頭を下げ続けた。

「子供じゃないんだから我がままやらせないでくださいよ」

 ほとんどの職員からは理解を得られたが、中には苦情を寄せる者もいた。

(子供なんだよ)

 そう言い返したいのを飲み込んで、山口は黙って頭を下げた。

 

──7月の晴れた暑い日

「おはようございます」

 ふて腐れたように挨拶をしながらテワタサナイーヌが出勤した。

「あ、おはようございます」

 山口は、以前とまったく同じように笑顔で挨拶を返し続ける。

 テワタサナイーヌは、忌々しそうにそっぽを向いて椅子に腰かけた。

 朝の雑務をこなすとテワタサナイーヌはライダースジャケットとジーンズに着替えてカゲとしての出動に備えた。

 後ろの席にいた池上が、テワタサナイーヌの犬耳に口を寄せて何かを囁いた。

 それを聞いたテワタサナイーヌは、口をへの字にまげて頷いた。

 テワタサナイーヌは、デスクの引き出しからかわいい犬のイラストがついている正方形の付箋紙を取り出した。

 付箋紙にシャープペンで一行だけ記し、その一枚を剥がしたテワタサナイーヌは、隣に座っている山口のデスクに叩きつけるように貼りつけて部屋を出ていった。

「誕生日おめでとう」

 山口は、殴り書きの付箋紙をデスクから剥がすと、仕事用のダイアリーに貼りつけ、丁寧に撫で付けた。

 テワタサナイーヌが彼女を追って部屋を出た池上に連れられて戻ってきた。

「テワさん」

 山口が笑顔で話しかけた。

「はい」

 テワタサナイーヌが山口を見もせずに返事をした。

「ありがとうございます。よくおぼえてくれていましたね」

 山口が礼を言った。

 それに対するテワタサナイーヌの返事はなかった。

 山口は、小さく頷くと事務仕事に戻った。

 後ろの池上から見る山口の背中は、心なしか丸く小さくなったようだった。

「ぶー!ぶー!ぶー!」

 事務室の無線機が警報音を響かせた。

「ステルス出動!ステルス出動!福生市東福生駅。バイク便利用オレオレ。待機中のA班並びにカゲは緊急で現場へ」

 緊張感を持たせながらも落ち着いた声で出動命令が下された。

 緊急で現場へというのは、現場近くまで緊急走行で向かえという意味だ。

 テワタサナイーヌが跳び跳ねるように立ち上がり、無線機やウェラブルカメラをセットした。

「テワさん、まず安全に現場到着ですよ。特に今日の現場は遠いですから」

「わかってるわよ!」

 山口の注意にテワタサナイーヌが叫んだ。

 テワタサナイーヌは、苛立ったように犬耳をヘルメットに収めると部屋を飛び出そうとした。

「テワさん、キー!」

 山口が大きな声でテワタサナイーヌを呼び止め、テワタサナイーヌ目がけてオートバイのイグニッションキーを投げた。

 出動のとき、何かしら忘れるのが恒例となっていた。

「ありがとう!愛してる」

 これもいつもの決まり文句だった。

 テワタサナイーヌは、無意識に叫んでしまったあと、しまったという表情を浮かべ、慌てて部屋から消えていった。

 あとに残った山口は心なしか嬉しそうな顔をしていた。

 テワタサナイーヌは、警視庁の地下2階にとめてある愛車に跨がりエンジンを始動した。

 軽快な4ストローク2気筒エンジンの振動がテワタサナイーヌの腰に心地よく響いた。

 テワタサナイーヌは、イライラを静めるように大きく息を吸って吐いた。

 右ハンドルの前輪ブレーキレバーを握り込み、ステップに乗せた右足で後輪ブレーキを踏みしめる。

 左手でクラッチを握り、右足を地面に下ろして代わりに左足をステップに乗せる。

 左足でリターン式のチェンジペダルを踏み込みギアをニュートラルから1速に入れる。

 こつんと軽い振動が伝わりオートバイ全体に命が吹き込まれる。

 右後ろを振り返り直接目視で安全確認をする。

 安全が確認できたら前に向き直り「よし!」と呼称する。

 白バイ訓練所で叩き込まれた発進の手順だ。

 なにも考えなくても身体が自然に動く。

 テワタサナイーヌは、クラッチをつなぎ滑るように駐車場を出た。

 地上に出て警備の機動隊員に会釈をして桜田通りに入った。

 桜田門前を左折。

 皇居を右手に見ながら正面の国会議事堂に向かってまっすぐ走って行く。

 国会正門の前を左折、外務省の裏手の交差点をまた左折すると首都高速霞ヶ関ランプだ。

 ETCレーンを通り抜け、首都高速中央環状線に合流する。

 ここから緊急走行に切り替える。

 テワタサナイーヌは、サイレンと赤色灯のスイッチをオンにした。

 けたたましい電子音のサイレンが鳴り響き、高輝度赤色LEDがカウルから点滅しながら反転して現れた。

 テワタサナイーヌは走っている車の間を縫うように環状線から首都高速4号線に入り信濃町、代々木と通過していった。

 新宿まではカーブが多く続くので無理はできない。

 自分の腕に自信はあっても他のドライバーのことはわからない。

 もらい事故にも気を配らなければならない。

 新宿から先は大きなカーブもなくスピードを上げていける。

 とはいうものの、250ccのオートバイでは、中央高速を緊急走行するには些か力不足だ。

 街なかでの取り回しやすさを優先したため、これは致し方ない。

 もどかしさを感じながら安全を確保できる最高の速度で八王子インターを目指す。

 調布、府中と通過し、八王子インターで中央高速を降りた。

 そこから国道16号線の外回りを北上する。

 右手に横田基地が見えてきたらもう間もなく東福生駅だ。

 テワタサナイーヌは、無線の指示に従って東福生駅近くの細い路地に入りエンジンを停止した。

 犯人はまだ現れていない。

 テワタサナイーヌは、一旦オートバイのサイドスタンドをおろして降車した。

 緊張をほぐすため、その場で膝の屈伸運動を数回、そのあと腕を前後に振り回した。

 無線は静かなままだ。

 テワタサナイーヌはスタンドをかけたままシートに横向きに座り片足をステップに乗せた。

 静かな時間が過ぎる。

 国道16号線から少し入っただけなのに車の喧騒がほとんどない。

(代理、ごめんね)

 テワタサナイーヌは山口を思い出した。

(一番心配してくれてるはずなのに、会うとイライラして我慢できなくなる)

(本当は甘えたいのに、もうそんなこと恥ずかしくてできない)

 山口のことを思い始めると、気持ちがぐにゃぐにゃにこんがらがってしまう。

(どうにかしたい。助けて代理)

 決して口に出せない悲痛な叫びだった。

「1から各局。犯人と思われるバイク便を国道16号線で発見。現在監視中」

 ヘルメット内から聞こえてくる無線がテワタサナイーヌの意識を現実に戻した。

 テワタサナイーヌは、すっと立ち上がるとハンドルを掴み、オートバイを起こして左足でサイドスタンドを払った。

 いつものように後方の安全確認をしたあと、長く美しい右脚を振り上げて優雅にオートバイに跨った。

(代理、守って)

 本当は出動のたびにいつも怖かった。

 オートバイでの追尾は、常に死と隣り合わせだ。

 一瞬の判断、操作の誤りが死に直結する。

「2から1。国道16号線のバイク便は、携帯で通話しながら周囲の様子を伺っている。見張りは見えない」

「1から各局。バイク便は、青と白のライダースジャケットに黒ジーパン、白フルフェイス、単車はスズキのGSF1200、タンク赤色。タンデムシートに白いボックスを載せている」

 バイク便の特徴が無線で流された。

 標的は絞られた。

「2から1。バイク便が乗車して東福生駅方向に移動を開始した」

 捜査員に緊張が走る。

 東福生駅前には、被害者に変装した女性捜査員が偽札を入れた紙袋を持って待っている。

「1からカゲ」

「カゲですどうぞ」

「カゲは、通過のオートバイに偽装して福生駅前に入り犯人の監視と捕捉にあたれ」

「カゲ了解」

 テワタサナイーヌは、いつもよりゆっくりと東福生駅前に入っていった。

 駅前には被害者役の女性警察官しかいない。

 テワタサナイーヌを追い越してバイク便が駅前に進入した。

(赤のGSF1200ね。間違いない)

 テワタサナイーヌが犯人をロックオンした。

 バイク便は、ゆっくりとした速さで被害者役の女性警察官に近づいていった。

 ステルスチームの捜査員は、徐々に包囲の半径を縮めている。

 バイク便が被害者役の女性警察官の前に止まった。

 バイク便と犯人役の女性警察官は、二言三言、言葉を交わした。

 そして、被害者役の女性警察官が偽札の入った紙袋をバイク便に手渡した。

「それでは、確かに預かりました」

 バイク便は、紙袋をタンデムシートに載せたボックスに放り込んでロックした。

「あのー、預かりの伝票はないの?」

 犯人役の女性警察官がバイク便を引き止めるために声をかけた。

「あ、いまお渡しします」

 そう言ってバイク便はポケットの中を探し始めた。

(まだしばらくあのままいるな)

 捜査員のだれもがそう思った。

 そのとき、突然バイク便がポケットの中から手を抜き出し、ハンドルを掴みエンジンの回転を上げて逃走した。

 バイク便がエンジンをかけたままだったことを見落としていた。

「テワ追え!」

 指揮官の1が無線で怒鳴った。

 その無線指令をうけたとき、駅前方向に向けて停まっていたテワタサナイーヌの右側をバイク便が軽やかに通り過ぎていった。

 バイク便は、追跡がないのをミラーで見て余裕のある走りをしていた。

 テワタサナイーヌは、エンジンの回転を上げ、絶妙な半クラッチで小道路転回をきめてバイク便の追尾を始めた。

 サイレンは鳴らさない。

 このまま気づかれなければ、信号待ちで停止している犯人の横に出て蹴倒すことができる。

 突然、バイク便が急加速で逃走を始めた。

(しまった、ミラーで見られてた)

 犯人は、ミラーでテワタサナイーヌの小道路転回を見ていた。

 テワタサナイーヌの小道路転回がうますぎた。

 小道路転回とは、片側一車線程度の狭い道路でUターンをする技術をいう。

 エンジンの回転と半クラッチのつなぎ具合で倒し込みや起き上がりをコントロールする高度な技術だ。

 これを見事に決めてしまったため、白バイ乗りの技術とばれてしまったのだ。

 テワタサナイーヌは、赤色灯とサイレンのスイッチを入れざるを得なかった。

「カゲ追尾します」

 無線で一報を入れてフル加速で追尾を開始した。

 犯人は東福生駅前の通りから国道16号線を左折した。

 追尾するテワタサナイーヌは、犯人を見失わないようにするため犯人より無理な運転を強いられる。

 国道16号線に出る交差点をタイヤの山をぎりぎりまで使うリーンインで曲がり切り、直線に出る。

 敵はGSF1200、リッターバイクだ。

 すでに100m近く先を走っている。

 250ccのオートバイでは苦しい戦いだ。

 テワタサナイーヌは、フルに加速する。

 エンジンが悲鳴を上げる。

 追尾はフル加速とフルブレーキングの連続になる。

 あっという間に握力の限界を迎える。

 長くは追尾できない。

 テワタサナイーヌは、なんとか食いつくが加速にまさる犯人は決して止まることなく、かつしっかりと安全確認をして信号無視を繰り返す。

(絶対に負けない)

 テワタサナイーヌの鼻骨が軋んだ。

 牙を剥いてスロットルを開け続ける。

「1からカゲ、現在の速度を知らせ」

「140」

 現場の無線通話を事務室で傍受していた山口の顔色が変わった。

(やめろ早苗、打ち切るんだ)

 追尾は追う方が絶対に不利で危険だ。

「1からカゲ、追尾を打ち切れ」

「…」

 応答がなかった。

「1からカゲ、打ち切れ」

「いやです」

 テワタサナイーヌが追尾打ち切りを拒否した。

「必ず捕まえます」

 犯人は国道16号線外回りを北上し続ける。

「1からカゲ、速度知らせ」

「160」

 とっさに山口が無線機のマイクを取りPTTボタンを握りしめた。

 PTTボタンというのは、無線の受信状態と送信状態を切り替えるスイッチのことで、このボタンを押すと送信状態になる。

「止まれ!早苗!止まるんだ!打ち切れ!」

「お前は今度背骨にケガをしたら死ぬんだ!」

「頼む、止まってくれ!」

 山口は必死に叫んだ。

 その頃、テワタサナイーヌは犯人を追って埼玉県との境付近まで来ていた。

 速度は160km以上出ている。

 メーターを見る余裕も無線を聞く余裕もない。

 無線から山口の声が聞こえたような気がして一瞬我に返った。

 そのとき、犯人が信号無視で通過した交差点に青信号で乗用車が進入してきた。

 テワタサナイーヌはまだその交差点の手前にいた。

 目の前に乗用車が迫る。

「ザっ」

 無線に一瞬ノイズが入り、それきりテワタサナイーヌの応答は途絶えた。

「早苗!早苗!」

 山口はマイクに向かって怒鳴り続けた。

 応答はなかった。

 

 ──警視庁通信指令本部多摩司令センター

「はい、こちら警視庁110番。事件ですか、事故ですか」

 正面の壁には巨大な多摩地区の地図が映し出されている。

 110番を受ける受理台と無線指令を行う指令台が並んでいる。

 ひとりの受理係員が重大事案入電を知らせる赤いランプを灯した。

 このランプが灯ると指令センターに緊張が走る。

 指令台が無線を流した。

「警視庁から各局。福生管内交通人身事故。羽村市国道16号線外回り、大型トレーラーと覆面バイクの人身事故。覆面バイクの運転者女性は意識がない模様。近い局は至急臨場せよ」

「福生1から警視庁」

「福生1どうぞ」

「国道16号線の人身事故。覆面バイクが大型トレーラーの下敷きになり大破しています。運転者の女性は救急隊により病院搬送済みですが、意識レベル300どうぞ」

「警視庁了解」

 意識レベルとは、意識の状態を0から300の数字で表すもので、0がもっとも明瞭、300が呼びかけにも応じず痛みにも反応しない状態となる。

 

 ──犯抑本部

 重苦しい沈黙が犯抑本部を覆っていた。

 誰もが最悪の結果を覚悟しつつ、そうではないことを祈り続けていた。

 庶務係の電話が鳴った。

「はい。えっ、事故!?はい。わかりました」

 電話を受けた庶務係員が副本部長室に駆け込んだ。

「テワタサナイーヌさんが事故で意識不明です」

 その声は事務室の山口にも聞こえた。

 予想していたこととはいえ、その衝撃は尋常ではないものがあった。

 このような場合、よく目の前が真っ暗になるという表現が使われる。

 しかし、実際はそうではない。

 見えているものからごっそりと色彩が抜け落ち、モノクロームの世界になる。

 まるで水の中にいるかのように周りの音が鈍く響く。

 山口にとってこれは二度目の経験だった。

「どこの病院ですか!」

 なんとか正気に戻った山口が副本部長室に転がるように入って怒鳴った。

「東京医科大学八王子医療センターに搬送されたそうです」

 庶務係員が言った。

「緊定のバイク貸してください!」

 そう言うと山口は庶務の鍵ボックスから使っていない追尾用の覆面オートバイのキーを取り出し、ロッカーにある適当なヘルメットを掴み走って部屋を出ていった。

(死ぬな、早苗)

 山口は緊急走行で八王子に向かって走っていた。

 目的外の緊急走行だ。

 処分を受ける可能性もある。

(クビにでもなんでもしろ)

 そんなことに構っている余裕はなかった。

 病院までの道のりが異常に長く感じられた。

 山口は車の間をすり抜ける。

 30年のブランクを感じさせない走りだ。

 身体に叩き込まれた基本はそう簡単には抜けない。

 すぐに感覚を取り戻した。

(まずは安全に現場到着)

 山口は、はやる気持ちを抑えるよう繰り返し自分に言い聞かせた。

 不安と緊張と疲労で汗が吹き出す。

(死ぬなよ。待ってろ)

(死ぬなよ)

(死ぬなよ)

 頭に浮かぶ意識はそれだけだった。

 

 病院に到着した。

 山口は、オートバイから飛び降りると、ヘルメットも取らず救急受付ヘ走った。

 走りながらヘルメットを取った。

 救急入口前には所轄署のパトカーが1台停まっていた。

 テワタサナイーヌの容体を確認するための病院調査だ。

「犯抑です!」

 山口は、パトカーに乗っていた制服の警察官に警察手帳を示して窓ガラスを叩いた。

 ガラスを叩く勢いと山口の必死の形相に驚いた制服警察官は一瞬たじろいだが、すぐにドアを開け車から降りてきた。

「早苗、天渡早苗はどこですか!?」

「い、いま、中央手術室で治療中です」

「ありがとう!」

 言い終わらないうちに山口は中央手術室目がけて走り出していた。

 中央手術室の前には、もう一人のパトカー乗務員が立っていた。

「犯抑です。天渡は!?」

 山口が手短に訊いた。

「お疲れさまです。天渡さんはまだ意識が戻りません。医者の説明によると肋骨の開放骨折があって出血が多いそうです」

 山口の顔面から血の気が失せた。

「天渡には医療上特別なケアが必要なんです。医師に説明させてください!」

 山口が警察官に訴えた。

 警察官が病院側に話をしてしばらくしてから、中央手術室の中から青い術衣を着た医師が出てきた。

「天渡の職場の者です」

 山口が警察手帳を示して身分を明らかにした。

「天渡の様子はどうですか」

「事故の際に頭を強く打ったようで意識が戻りません。肋骨の開放骨折があって出血が多いのですが、血液型の判定ができず、輸血ができない状況で血圧が下がっています。輸血さえできれば血圧は戻りますが、輸血ができない状況が続くと生命の危険があります」

 医師が淡々と説明した。

「背骨、背骨に損傷はありませんか!?」

 山口が早口で医師に尋ねた。

「簡易なレントゲン検査の結果では背骨の損傷は認められません」

「そうですか。先生、天渡の血液型ですがヒトの血液型ではありません。DEA4です」

「は?そんなわけないでしょう」

 山口の説明に医師は信じられないという顔をした。

「詳しく説明している暇はないんです、大至急動物病院から供血用の犬を集めてください!DEA4です!」

 山口が叫んだ。

「し、しかし、血液型の判定もできていないのに犬の血液を輸血するなんてできませんよ。責任がもてません」

 医師の言うことももっともだった。

「天渡の血液に関する詳しいデータは科学捜査研究所が持っています。供血用の犬を集めながら平行して問い合わせてください!私も手配します!」

 山口は必死に訴えた。

「わ、わかりました。やってみます。ただ、私たちの病院では動物病院とのコネクションがありません。うまくいくかどうか保証はできませんよ」

 医師が自信なさげに言いながら中央手術室に戻って行った。

 山口はスマートフォンを取り出すと建物の外に出た。

「テワタサナイーヌが交通事故で重症を負いました。輸血に供血用の犬が必要です。血液型はDEA4。ご協力をお願いいたします」

 山口は犯抑のアカウントでTwitterに投稿した。

 そのツイートは14万のフォロワーに届きTwitter界に衝撃が走った。

「テワちゃん本当の犬だった」

「うちの犬連れていくよ」

「テワちゃん頑張れ!」

「供血に協力しよう!」

 山口のツイートは瞬く間に拡散され、トレンドの1位にまでなった。

 病院には、近くは八王子市内や周辺の神奈川県相模原市、町田市、日野市などから続々と供血用の犬を連れた人が集まり始めた。

 山口のツイートを見た獣医師会が動き、そのネットワークによりテワタサナイーヌの血液型に適合する大型犬が多数手配され、獣医師を伴って集められた。

 こうして犬から人間への輸血が開始された。

 犬を院内に入れることはできない。

 敷地内に簡易のテントが張られ、その中で獣医師が供血用の犬から血液を採取する。

 輸血用のパックに採取された犬の血液を中央手術室まで人力で運び込む。

 中央手術室でテワタサナイーヌに対する輸血が開始され、開放骨折の手術が可能となった。

 輸血によりテワタサナイーヌの血圧も上昇し、生命の危険はなくなった。

 この間も犬を連れた人が集まり続け、病院の敷地は犬を連れた人で埋め尽くされた。

 しかし、一般の人が連れてきた犬は血液型がわからない。

 血液型がわからない犬から輸血をすることはできない。

 山口は、一人一人に深々と頭を下げて礼を言い、帰宅してもらうようお願いして回った。

 

 ──手術開始から4時間

 手術は成功しテワタサナイーヌは中央手術室からICUに移された。

 まだ意識は戻らない。

 あとから池上も駆けつけ、山口とともにテワタサナイーヌの意識が戻るのを待ち続けた。

 

 テワタサナイーヌは、夢の中をさまよっていた。

 

 夢の中のテワタサナイーヌは、自分の年齢もわからない。

 ただ、自分であることだけはわかった。

 テワタサナイーヌはフワフワとした毛皮に包まれて明るい陽射しの中で空に向かってまっすぐ伸びたひまわりの花を見ていた。

 とても気持ちのいい昼下がりの昼寝のような気持ちに満たされてテワタサナイーヌは幸せだった。

 突然背中に痛みを感じてテワタサナイーヌは泣き叫んだ。

 背中から真っ赤な血がとめどなく流れ落ちる。

 みるみる毛皮が血に染まりびしょびしょになった。

 テワタサナイーヌは苦しくて息もできない。

 誰かが自分に怒鳴っている。

 顔は見えないが強い怒りを向けられている気がした。

 そのとき、自分をくるんでいた毛皮が動いて自分に怒りを向けている相手に襲いかかった。

 しかし、その相手は笑いながらテワタサナイーヌの大事な毛皮をズタズタに引き裂いてテワタサナイーヌに投げつけた。

 テワタサナイーヌの視界から色が抜け落ち、だんだん暗くなっていった。

「どんどんどん!」

 大きなノックのような音がして知らない男が近づいてきた。

 その男は自分に怒りを向けている相手を力ずくで押さえ込み、どこかに連れていってしまった。

 そこから先は真っ暗な世界がいつまでも続いた。

「ひまわり…」

 テワタサナイーヌの隣で付き添い用ベッドに寝ていた山口が飛び起きた。

 テワタサナイーヌの声が聞こえたような気がした。

「早苗?」

 山口はテワタサナイーヌに優しく声をかけた。

「お父さんなんて大嫌い!人殺し!」

 テワタサナイーヌが叫びながらベッドの上で暴れだした。

 山口はテワタサナイーヌを押さえながらナースコールのボタンを押した。

「天渡さんどうしました?」

 呑気な声がスピーカーから聞こえた。

「天渡が暴れだしました」

 山口がインターホンに向かって訴えた。

 すぐに医師と看護士が駆けつけてくれた。

「やめて!殺さないで!お願い、痛いよ!もうやめて!」

 その間もテワタサナイーヌは叫び続ける。

 医師が看護士に指示をして強力な鎮静剤の注射を用意させテワタサナイーヌに施用した。

 再びテワタサナイーヌは深い眠りについた。

「術後せん妄かもしれませんね。ただ、せん妄が現れるということは、天渡さんの意識が戻った可能性もあります」

 医師が説明した。

 その後、テワタサナイーヌが暴れることはなかった。

 ──手術の2日後早朝

「代理」

 山口は夢の中でテワタサナイーヌから呼ばれた。

「代理。おはよう」

 弱々しい声だが、今度は、はっきり聞こえた。

 夢ではない本当のテワタサナイーヌだ。

 テワタサナイーヌのベッドに突っ伏したまま寝ていた山口が跳ねるように身体を起こした。

 テワタサナイーヌが目を開けている。

 鎮静剤の影響で目に力はないが、テワタサナイーヌの意志は感じられた。

「さっ」

 山口は大声が出そうになったが、テワタサナイーヌを刺激してはいけないと思い、あとの言葉を飲み込んだ。

「おはようございます」

 山口はいつもの笑顔でテワタサナイーヌに話しかけた。

「ごめんね、事故っちゃった」

 数日前に暴れたことがあった関係で動きを抑制されているテワタサナイーヌは、唯一自由に動かせる首から上を懸命に動かして山口に感情を伝えようとした。

「いいんです。テワさんが生きていてくれさえすれば」

 テワタサナイーヌが自分の左手の先を見ながら指先を動かし、目を移して山口を見つめた。

 山口はそっとテワタサナイーヌの手の上に自分の手を重ねた。

「ちょっと待っていてください。テワさん最愛の小僧もきてますよ」

 そう言うと山口は病室を出て待合室のソファーで仮眠していた池上を迎えに行った。

 池上が一人で病室に入ってきた。

 山口の姿はない。

「あー、テワさん生きてたんすね!」

 開口一番、池上が的はずれな言葉を発した。

「あんた、やっぱり果てしないバカね」

 テワタサナイーヌが嬉しそうに泣いた。

「俺、テワさんが退院したら、テワさんにプロポーズするんだー」

 池上が軽薄そうに言った。

「大輔くん、それ死亡フラグ」

「それにね、予告したら感動が半減よ」

 テワタサナイーヌは安心したように再び眠りについた。

 

「ひまわり…」

 テワタサナイーヌが寝言を言った。




この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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雪解け

 その後、テワタサナイーヌは、術後せん妄状態に陥ることもなく、徐々に覚醒し、順調に快復していった。

 経口で食事もできるようになったが、開放骨折した右胸の傷が塞がっていないため、まだ起き上がることはできない。

 開放骨折した部位は、右の乳房を避け、ちょうど身体の右側面だった。

(おっぱい助かって良かったわ)

 自分の乳房の形が気に入っていたテワタサナイーヌは、人には言わなかったが安堵していた。

 山口と池上は、毎日仕事が終わると霞が関から八王子医療センターまで見舞いに来てくれた。

 3人で他愛もない話をして笑えるようになっていた。

 テワタサナイーヌの山口に対する嫌悪感は、完全とは言えないが、相当薄らいでいる。

 その様子を見て池上も胸を撫で下ろした。

 山口と池上が毎日テワタサナイーヌを見舞うためには、残業をしていられない。

 山口は、普段から残業をしない。

 残業を拒否しているのではく、定時前には仕事が片付いてしまうからだ。

 一方、池上は、まだ山口のように要領よく仕事を片付けることができない。

 テワタサナイーヌを見舞いたいがために、池上は必死になって仕事に取り組んだ。

 その姿を見ていた山口も徹底して山口流の仕事術を池上に伝授した。

「いいですか池上さん、仕事はパターンで覚えないでください」

 山口は仕事術の肝となる心構えを伝えた。

「いろんなパターンに対応できた方がいいんじゃないすか?」

 池上が不思議がった。

「そうですね、その通りです。あらゆるパターンを網羅できるのならその方がいいのかもしれません。でも、世の中は想定問答のようには動いてくれません。それに、私たちが相手にしているのは、決定木のようなパターン化されたプログラムではなく、生身の人間です。人間が想定通り動くほうが不思議です」

「そうっすね。じゃあどうするんすか」

「簡単なことです。原理、原則、ルールを理解することです」

 山口がゆっくりと諭した。

「あ、いま係長、『理解』って言葉、わざと使ったすね」

 池上が得意気に言った。

「さすがですね。そうです。『覚える』ではなく『理解する』ことが効率よく仕事をするコツです」

 山口は、池上の理解の速さが気に入っている。

 テワタサナイーヌには、果てしないバカと言われているが、山口には可能性を秘めたバカとして映っていた。

「理解した原理、原則、ルールは、想定外のことに対応できます。パターンで覚えていると、まったく応用がききません」

 山口が力説した。

「そのためには勉強も必要です。法令、内部規則などです。自分の仕事の根拠を探すのです。手間がかかることですが、一度理解してしまえば、その後は爆発的に仕事が早くなります」

「そして、これをやっていれば昇任試験など怖くありません。楽勝です」

 山口にしては珍しく多弁であった。

「あともう一つ付け加えると、法律の解釈に迷ったときは、第1条に戻ってください。たいていの特別法には、第1条にその法律の目的が書かれています。その目的を外れた解釈をしてはいけないということです。これは、昇任試験ではなく、実務で解釈に迷ったとき思い出してください」

 山口は惜しげもなく自分の警察人生で蓄積してきた仕事術を伝授した。

 池上も山口の熱意に応えた。

 その日から、池上は勉強の虫となった。

 仕事をしながら根拠となる法令や規程を探してはノートにメモをとる。

 判断に迷ったら目的に戻って考え直す。

 これらを実行した池上は、どんどん仕事のスピードを上げ、中身も見違えるほど濃くなった。

 まだ山口には負けるが、定時で帰ることが普通になっていった。

 定時で仕事を終えた二人は、八王子医療センターに直行してテワタサナイーヌを見舞った。

 そんな毎日が1か月ほど続いた。

 開放骨折の傷もふさがり、テワタサナイーヌは自力で動けるまで快復した。

 そして、ぐしゃぐしゃになってしまった右胸を元のきれいなラインに戻すため、テワタサナイーヌは形成外科に定評のある東京警察病院に転院することになった。

 転院を一番喜んだのは山口と池上だった。

 見舞いが近くなったからだ。

 仕事を終え、霞が関から八王子まで見舞いに行き、そこからまた自宅に帰ると帰宅は深夜になる。

 さすがにこれを長期間続けるのは辛い。

 警察病院で、何度か修復手術を受けたテワタサナイーヌの胸は、すっかり元のきれいなラインを取り戻した。

 その間、山口流仕事術の研鑽に励んだ池上は、山口を凌ぐほどの力をつけていた。

 元々、「果てしないバカに振れた果てしない可能性を秘めたバカ」と山口が目をつけた男だけのことはある。

 今では「犯抑に池上あり」と言われるまでに成長した。

(池上さんになら後を託せる)

 山口は目を細めた。

 

 事故から4か月が経過した。

 テワタサナイーヌが退院の日を向かえた。

 季節は暑かった夏から冬になろうとしていた。

 ストライプの入ったカットソーに茶色のミニスカートを履き、足元はかわいらしいブーティを合わせ、ファーの付いたダウンジャケットを羽織ったテワタサナイーヌがナースステーションに退院の挨拶とお礼を言っていた。

 

【挿絵表示】

 

 池上がテワタサナイーヌの荷物を持って付き添っている。

 まるで芸能人の付き人のように見えた。

「お世話になりました」

 テワタサナイーヌが笑顔で別れの挨拶をした。

「テワちゃん、元気でね。お大事に。あ、あとお幸せに!」

 入院中、すっかり仲が良くなった看護師が明るく手を振っていた。

 池上はまだテワタサナイーヌにプロポーズをしていない。

 にもかかわらず、その看護師はお幸せにと言ってからかったのだ。

「まだプロポーズされてないよお」

 テワタサナイーヌは恥ずかしそうに答えた。

 病院のエントランスでは、テワタサナイーヌの退院のために自分の車を出した山口が待っていた。

 仕事以外でのテワタサナイーヌのエスコートは、池上に任せている。

 池上がテワタサナイーヌの手を取り、山口のSUVの後部座席にゆっくりと座らせた。

 入院で足腰の筋肉が弱ってしまったテワタサナイーヌは少しふらついたが、池上が抱くようにしてテワタサナイーヌを支えた。

 テワタサナイーヌも池上を信頼して身体を預けた。

 池上がテワタサナイーヌに3点式のシートベルトをかけ、テワタサナイーヌの動きと位置に気を配りながらゆっくりとドアを閉めると、軽快な身のこなしで助手席に乗り込んだ。

「お願いします」

 テワタサナイーヌと池上が声を揃えた。

 二人の声を出すタイミングがあまりにもぴったりだったので、それがおかしくて三人で笑った。

(これが家族なのかな)

 家族で生活した記憶がないテワタサナイーヌには、とても新鮮で温かい空間だった。

 山口が運転する車は、警察病院をあとにしてテワタサナイーヌの寮へと向かった。

「ねえ代理」

「はい、なんですか」

 テワタサナイーヌと山口の会話は、いつもここから始まる。

「お願いがあるんだけど」

 車が環状7号線に入ったあたりでテワタサナイーヌが神妙に話しかけた。

「なんでしょう」

「私を代理の子にしてください」

「えっ!?」

 山口だけでなく助手席の池上も驚きの声をあげた。

「二人ともなに驚いてんのよ。今までだってお父さんみたいなもんだったでしょ」

 テワタサナイーヌがあっけらかんと言った。

「いや、でも係長には奥さんも子供さんもいらっしゃるんすよ」

 池上がテワタサナイーヌをたしなめた。

「子供はいませんよ」

 山口が池上を見て言った。

「えっ!?」

 今度は、テワタサナイーヌと池上が声をあげた。

「嘘!?だって富山に行ったときあっちの署長が妻子あるって言ってたよ」

 テワタサナイーヌが富山出張のときのことを思い出して山口に言った。

「そうですね。確かに署長がそう言ってましたし、私も否定しませんでした」

「だよね。否定しなかったから、そうなんじゃないの?ていうか、お子さんがいるものかと思ってた」

「俺もお子さんがいると思ってたす」

 テワタサナイーヌに続いて池上も意外という顔をして言った。

「あえて否定しなかっただけなんですよ」

「私は結婚指輪をしています。だから結婚しているということは誰にでもわかりますね」

 山口が続けた。

「うん」

 テワタサナイーヌが頷いた。

「そして、私に子供がいるとお二人も思っていた」

「思ってたす」

 池上が答えた。

「実は、ここがオレオレ詐欺のポイントなんです」

 山口が意外なところから変化球を投げてきた。

「なにそれ?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん超かわいいっす!」

 久しぶりに見たテワタサナイーヌの小首を傾げるポーズに池上が大喜びをした。

「惚れていいすか?」

 池上がいつものようにテワタサナイーヌに言った。

「いいわよ。もっと惚れて」

 テワタサナイーヌは、両手を上に向けて手招きをした。

「ごちそうさまです」

 山口も嬉しそうに笑った。

「富山の署長、池上さん、そしてテワさんも私に子供がいると思いました。それはなぜでしょう」

 山口が二人に問いかけた。

「えー、だって指輪してれば結婚していると思うし、結婚してれば子供がいると思って当たり前じゃん」

 テワタサナイーヌが何を言ってるんだという表情で言った。

「そうですね。それが当たり前です」

「普段の生活でもこれと似たようなことが多くあります」

「これこれだったらこう、という思考が自動的に出てくることってありませんか?」

「あるっていうより、それで済ましちゃってることの方が多くない?」

 テワタサナイーヌが考察した。

「テワさん、相変わらず冴えてますね」

 山口がテワタサナイーヌをほめた。

「えへへへ」

 照れくさそうにテワタサナイーヌが頬を掻いた。

「皆さんは普段詐欺犯人を相手にしてますから偽名を使うことが普通になっていると思います。でも、一般の方が偽名を使うことってあるでしょうか」

「まずないっすね」

 池上が答えた。

「そうです。普段の生活で偽名を使う人なんていません。だから、息子や孫を名乗る人から電話があったらどう思いますか」

 山口が問いかけた。

「相手を息子や孫だと思うでしょうね」

 テワタサナイーヌが答えた。

「それはなぜですか」

「自分の周りに偽名を使う人なんていないから、そう思うのが当たり前っす」

 今度は池上が答えた。

(いい夫婦だな)

 テワタサナイーヌと池上が交互に答えるところを見て、山口はそう思った。

「そうです。当たり前なんです。犯人の話術で信じ込まされているのではなく、当たり前のように相手を息子や孫だと思ってしまうのです」

「そうよね!代理すごい!」

 テワタサナイーヌがはしゃいだ。

「なにも考えず、当たり前のように結論が出てしまうわけですから、『息子や孫を名乗る電話に気をつけましょう』という注意喚起は」

「響かないっす!」

 池上が人差し指を立てて自慢げに言った。

「池上さん、果てしないバカから脱しつつありますね。無駄と言わず響かないという言葉がとっさに出ました。注意喚起は決して無駄ではありません。それで防げる場合もあるわけですからね」

 山口は池上をほめた。

「特に高齢者はこの傾向が顕著です。これを専門用語では自動思考というそうですが、わかりにくいので坂田さんと私で『アタリマエの原理』という名前をつけました」

 山口が付け足した。

「アタリマエの原理ね。なんかいろいろ応用がききそう」

 テワタサナイーヌが考えを巡らせた。

 3人を乗せた車は、ところどころ渋滞に巻き込まれながら練馬区に入っていた。

「ところでテワさん」

「なーに?」

 いつもの呼びかけと返答が戻った。

 テワタサナイーヌは笑顔で山口に答えられるようになった自分が嬉しかった。

「私の子供になりたいというのは、どういうことですか?」

 山口が会話のきっかけになったテワタサナイーヌの発言の趣旨を訊いた。

「正々堂々お父さんて呼べるから」

 テワタサナイーヌがキラキラと目を輝かせた。

「ね、お父さんて呼ばせて」

 テワタサナイーヌが手を合わせて山口を見つめた。

「呼ぶだけでいいんですか?」

 少し考えていた山口が意外なことを言った。

「どういうこと?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、かわいい!」

 池上が喜んだ。

「本当の子供としてお迎えする用意はできていますよ。妻も待っています」

 山口が目頭を押さえた。

「山口早苗になりますか?またすぐ姓が変わるかもしれませんけど」

 山口がテワタサナイーヌを養子に取るというのだ。

「お父さん…」

 テワタサナイーヌが窓の外を見ながらがつぶやいた。

 三人が沈黙した。

 テワタサナイーヌは、左手の平に右手の人差し指でなにかを書きながらぶつぶつ言っていた。

「やっぱり山口早苗はダメです」

 テワタサナイーヌがきっぱりと言った。

 池上がうろたえながら二人の顔を交互に見た。

「そうですか。残念ですが仕方ありませんね。ですが、父と呼んでくれるのは構いませんよ」

 山口が静かに、しかし、決して落胆した様子は見せずに答えた。

「画数がよくないのよ」

 テワタサナイーヌが真顔で言った。

 次の瞬間。

「お父さん大好き!!」

 テワタサナイーヌがこぼれんばかりの笑顔で叫んだ。

 その声は、何かを吹っ切ったように弾んでいた。

「ありがとうございます。私もテワさん大好きですよ」

「わっ、お父さんが初めて私を好きって言ってくれた」

「父としてですよ」

「うん、わかってる。今まで、お父さんへの好きっていう気持ちと大輔くんへの好きっていう気持ちの違いがわからなかった。だから気持ちがぐっちゃぐちゃになってたけど、入院してる間にいろんな夢を見て、いろいろ考えて、同じじゃないって気づいた」

 テワタサナイーヌが山口を父として見ることができるようになったことを話した。

 テワタサナイーヌの中の人格が整理された。

 山口がテワタサナイーヌを好きだと言ったのも、テワタサナイーヌが二人の関係を父と娘に整理できたことを感じたからだった。

 池上は、二人の会話をニコニコしながら聞いている。

「ねえお父さん」

「はい。なんですか」

 どことなくぎこちなさを感じる呼びかけで二人の会話が始まった。

「お父さんの奥さんのことを…ていうのもすごく変な感じがするけど、お父さんの奥さんのことをお母さんて呼んでもいいの?」

 テワタサナイーヌが素朴な疑問を口にした。

「早苗さんは、まだ妻に会ったことがありませんよね。会って話をしてみないと、母と呼べるかどうかはわからないと思います。ただ、妻はその用意ができています」

 山口は、安易に答えることを避けた。

 これからのことを決める大事な決定だからだ。

「これから妻に会いますか?」

 山口がテワタサナイーヌに訊いた。

 テワタサナイーヌは少し戸惑った。

 まったく心の準備ができていない。

 しかし、これは避けて通れないのも理解している。

 テワタサナイーヌは、意を決した。

「奥さまに会いたいです」

 

 三人の行き先が変更になり、千葉県下にある山口の自宅へと向かった。

 池上は、自分がいてもいいものか疑問に思いながら、なんとなく成り行きで着いてきてしまった。

 山口の自宅は大きな一軒家だった。

 一見すると木造のようだが、がっしりとした耐震構造のように見えた。

 車が停まると池上がさっと降車して後部ドアを開けた。

 テワタサナイーヌの両脇に手を差し込み、抱き抱えるようにして車から降ろした。

 山口も降車して池上がテワタサナイーヌを降ろす様子を見守った。

「でっかい家っすねー」

 山口の自宅を見て池上が感嘆の声を上げた。

「これで夫婦二人きりですから、広すぎました」

 山口が苦笑した。

 山口が二人を連れて玄関を入ると、奥から山口の妻が出迎えに現れた。

 山口より10歳くらいは若そうに見える長身の女性だった。

 山口の妻は、かけていたエプロンを外しながらテワタサナイーヌ目がけて早足で近づいてきた。

「早苗ちゃん」

 山口の妻はテワタサナイーヌの頬に手を当てて撫でた。

「大きくなったわね」

 そう言うとその場に膝から崩れ落ちて泣いた。

 テワタサナイーヌと池上には事態が理解できなかった。

 なぜ山口の妻がテワタサナイーヌを知っているのか。

 仮に山口から話を聞いていて知っていたとしても、大きくなったと言って泣き崩れる理由がわからなかった。

(奥さまも私の過去を知ってる?)

 テワタサナイーヌは、ますますわからなくなった。

「ごめんなさいね。みっともないところをお見せしちゃって」

 山口の妻はエプロンで涙を拭きながら立ち上がった。

 山口は、二人を応接に案内した。

 テワタサナイーヌと池上が大きな窓に向かって並んで座り、その反対側に山口夫妻が座った。

「改めて紹介すると、早苗さんと池上さん。お二人はたぶん夫婦になります」

 山口が妻に二人を紹介した。

「ずいぶん大雑把な紹介ね」

 山口の妻がくすりと笑った。

「早苗さんは、今日退院したばかりで、本当は寮に送らないといけないんですが、頼み込んで来てもらいました。というのも、早苗さんが私たちの子供になってくれるというんです。それで、弥生さんと話をして欲しいとお願いしました」

 山口が妻に今日の経緯を説明した。

「そう。早苗ちゃん、わざわざ来てくれてありがとう。ここからは、私がお話させてもらっていいかしら?」

 弥生が山口から話を引き受けた。

「なにからお話ししたらいいかしら。30年分のお話だから大変なのよ」

「もう30年前のことよ。私たちは若い夫婦だった」

「私は山口の子供を身籠っていたの。そりゃあ二人で楽しみにしてたわよ。子供が生まれてくるのを」

「でもね、そんな幸せは長く続かないのね。6か月の検診のとき受けた超音波検査で、赤ちゃんの心臓に心配な影が見えると言われてね。そこは産婦人科でしょ。心臓のことは詳しくないから、念のため大学病院で検査してもらってと言われたの」

「私たちは、ちょっと不安になったけど、念のためっていう程度だから大丈夫だろうと思ってたわ」

「それで、紹介された大学病院で詳しく検査、といっても胎児だから超音波で見るだけなんだけどね。まあ検査してもらったの。」

「超音波検査だから、検査の結果はすぐにわかるはずなんだけど、その日はずいぶん待たされたわ」

「ようやく呼ばれて山口と二人で診察室に入ったの。そのときもまだ二人は笑えてた」

「検査をしてくれたお医者さんが、ものすごく神妙っていうか深刻な顔をしてたの。それを見て、なんかよくないことが起こったなとは思ったわ」

「お医者さんは、まず紙に病名を書いたの。エプシュタイン奇形と。私も山口も初めて見る病名だったわ」

「お医者さんはこう言ったわ」

「お子さんの病気は、エプシュタイン奇形、最重症です」

「そう言われても私たちにはなんのことかさっぱりわからなかった」

「お医者さんは、紙に心臓の絵を描いて説明を続けたわ」

「エプシュタイン奇形というのは、右心房と左心室を隔てている三尖弁という弁の奇形です。三尖弁は、文字通り三枚の弁葉でできています。そのうちの何枚かが本来あるべき位置にできず、多くの場合右心室側に落ち込んでいます。そうするとどうなるか。右心室が収縮したとき、本来であればそこから肺に出ていかなければならない血液が三尖弁でせき止められずに右心房に逆流してしまいます。心臓の部屋の収縮する力は、室が強く房は弱いです。収縮する力が弱いということは、部屋の筋肉も弱いということです。そこに右心室の強い力で拍出された血液が逆流すると、右心房は圧力に耐えられず拡がってしまいます。心臓の壁は一度伸びると元に戻ることができません。ですから、右心房はどんどん拡大し続け、胸郭の中で肺を圧迫します。胎児は、肺が未成熟ですから、その段階で圧迫されると生まれた後の呼吸ができなくなります。更に拡大がひどくなると心不全を起こして、最悪の場合胎児死亡となります。もし、分娩までこぎつけられたとしても、出生後、呼吸ができずに死亡します。生まれてすぐにおぎゃーと泣けるかどうか、これが生死を分けます」

「胎児死亡、よくて生まれてすぐ死んでしまうと言われたのよ」

「そのときは、赤ちゃんまだお腹の中で動いてるのよ。元気なのよ」

 弥生はハンカチで涙を拭った。

「それが、いつ死んでしまうかもわからず、もし生まれても呼吸ができないで死んでしまうと言われたの。どっちにしても死ぬと宣告されたわけよね」

「こういうとき、目の前は真っ暗にならないの。色が抜けるの。白黒になるのね」

「病院からの帰りの車の中で私と山口は言葉も出なかった。ようやく絞り出した言葉は『こういうことがあるんだね』ということだけ。まさか自分たち夫婦にそんな事態が降りかかるなんて考えるわけないでしょ」

「それからの毎日は、あらゆるものを恨んだわ。私も山口もよ。私たちにはなんの罪も責任もないのに、なんでこんな目に遭わなきゃならないの?て」

「いずれ死ぬことがわかっている赤ちゃんをお腹の中で育てなきゃならないなんて、なんの拷問よ!」

 弥生が感極まった。

「毎日幸せそうな妊婦さんを見ては心の中で呪ってた。死んでしまえって」

「それでもお腹の中の赤ちゃんは、毎日大きくなっていくし、くるくる動いてかわいいのよ。私たちは産着を用意したわ。一番小さいサイズの純白の産着を」

「白装束よ」

「着せられないことを祈りながら用意する産着っていうのもおかしなものよね」

 テワタサナイーヌと池上も泣いていた。

 山口は、かろうじて感情の堰を押し止めているようだった。

「結局、赤ちゃんは生まれて間もなく死んでしまったわ。産声を上げることもできずに、私の腕の中でだんだん黒くなって、最後に少しだけ痙攣して死んだの」

「3月14日だったわね、その日は」

 弥生が窓から見える青空を仰いでつぶやいた。

 テワタサナイーヌがびくっと身体を震わせた。

「産後だったし、とてもそんな手続きできそうになかったから、山口に出生届と死亡届を出してもらったわ。辛かったと思うわよ」

「その子は、ここにいるの」

 弥生は仏壇の位牌を指差した。

 

 俗名 山口早苗

 

「わた…し?」

 テワタサナイーヌは、なにがなんだかわからなくなった。

 自分と同じ日に生まれた子がその日のうちに亡くなった。

 そして、その子は自分と同じ名前だった。

 それだけだったら偶然として片付けられる程度のことだ。

 しかし、その子の両親と自分がこんなにも深い縁を結び、いま養子になろうとしている。

 どこでつながったのか。

 

「池上さん」

 山口が口を開いた。

「はい」

 池上が姿勢を正して山口を見た。

「早苗さんの命を、人生を引き受ける覚悟はありますか。その覚悟があるのなら、この話の先を続けます」

 山口は穏やかな中にも普段にない力強さを感じさせる話し方で池上に覚悟を質した。

 この問に対する池上の答えが実質的なテワタサナイーヌへのプロポーズになる問いかけだった。

 池上は考え込んだ。

 迷っているのではない。

 自分にはその覚悟はあったが、自分がテワタサナイーヌの人生を背負えるだけの器かどうかの自信がなかった。

「係長」

「はい、なんですか」

「俺は、早苗さんの人生を背負えるだけの男でしょうか」

 テワタサナイーヌは、池上のこれほどまでに真剣で悲壮感を漂わせた顔を見たことがなかった。

 軽々しく覚悟があると言わなかった池上にテワタサナイーヌは器の大きさを感じていた。

(果てしないバカになにがあったの。いつの間にお父さんみたいな男に育ったの)

 テワタサナイーヌは池上を尊敬できると確信した。

「お父さん、私は池上さんに命を託します」

 テワタサナイーヌは、今すぐにでも山口に言いたかった。

 しかし、ここは池上が自分で覚悟を決めなければならない。

 テワタサナイーヌは池上を信じて待つことにした。

(ていうか、私にはなにがあるっていうの?)

 テワタサナイーヌの素朴な疑問ももっともだった。

 自分が知らない自分のことで山口が池上に覚悟を問うという、わけのわからない状況だからだ。

(そもそも、なんでこの男たちは私の命のやり取りしてんのよ?勝手に人の命をやりとりしないでよ)

 テワタサナイーヌは、山口が叫んだ無線の内容を聞けていなかった。

「お父さん質問!」

「はい。早苗さんどうぞ」

「さっきから、私の命がどうのこうの言ってるけど何の話?」

 テワタサナイーヌは我慢できずに訊いた。

「早苗さんの背中の傷のことです」

 山口がさらりと言った。

「あー、この傷のことね」

 テワタサナイーヌが背中に手を回してさすった。

「て、なんでお父さんが知ってるのよ!いつ見たの?変態!」

 テワタサナイーヌが騒いだ。

 重苦しい場の雰囲気を和ませようという意図があった。

「そのなんでが大事な話なんですよ」

 山口がもったいぶった言い方をした。

「早苗さん、聞きたいですか?」

「うん、聞きたい」

「池上さん、聞きたいですね?」

 山口が言葉で池上の背中を押した。

「はい。聞きたいです」

 池上は覚悟を決めた。

「26年前のことです」

 山口が話し始めた。

 

「警視庁から各局。北沢管内子供の泣き声110番入電。場所、世田谷区経堂、アパート富士見荘1階3号室。子供の泣き声と男の怒鳴る声が数分前から続いている。近い局は現場方向へ」

 山口が警部補になり北沢署の地域課で係長をしていたときのこと。

 1月の寒い夜。

 山口は宿直勤務に就いていた。

「今日は静かですね」

 同僚と話していた矢先に110番が入った。

(子供の泣き声か。いつものいきすぎた躾だろう)

 そう思った山口は、特になんの用意もせず軽い気持ちで現場に向かった。

 自転車で現場のアパートに着くと1階の端にあたる3号室から男の怒鳴り声だけが聞こえてきた。

「こんばんは。警察です」

 山口はドアをノックして声をかけた。

 インターホンも呼び鈴もない古いアパートだった。

 中から返答はなかった。

 相変わらず部屋の中からは怒鳴り声だけが聞こえてきていた。

「生意気なんだよ!逆らうような目で見やがって!」

 男は誰かに怒っているようだった。

 怒りの相手が誰なのかは、外からはわからない。

 ぼこっ

 ぐしゃ

 肉を叩くような音が聞こえた。

(なんだこの音は)

 軽く考えていた山口に焦りの色が浮かんだ。

 どん、どん、どん!

 山口がドアを叩いた。

「警察です!開けてください!」

 大声で中の男に話しかけた。

「お巡りさん」

 遠巻きに様子を見ていた近所の住民が心配そうに声をかけてきた。

「はい。なんでしょうか」

 山口が答えた。

「お巡りさんが来る前のことなんですけどね、女の子の声でやめてとか痛いとか言ってるのが聞こえてたんですよ。それがお巡りさんが来るちょっと前に聞こえなくなっちゃったんです」

 住民が女の子の声を聞いていた。

 今は聞こえない。

(まずい)

 山口は事態が緊急を要することを理解した。

 相変わらず部屋の中の男は怒鳴り続けている。

 山口は部屋のドアを叩き続けた。

 ふっと男の怒鳴り声が止んだ。

(開けてくれるんだな)

 山口は安堵した。

「ぐちゃっ」

 何かが肉を割いたような生理的に寒気のする音が部屋の中から聞こえた。

「ぎゃーーっ!!」

 今まで聞こえていなかった女の子の声で獣のような悲鳴が響いた。

「ぐるるるる、ぎゃん!ぎゃん!」

 犬の唸り声に続いて甲高い吠え声が聞こえた。

「開けなさい!ドアを開けなさい!」

 山口は声を枯らして怒鳴り続けた。

「なんだ、このクソ犬!」

「ぎゃん!」

 男の怒声に続いて犬の悲鳴が聞こえ、それきり犬の声は途絶えた。

「室内で児童虐待が行われている可能性が極めて高いです。ドアを破って子供の保護に向かいます」

 山口が無線で報告した。

「待て。なんの根拠で立ち入るんだ?根拠がない立ち入りは違法だぞ。あとで問題になる。そのまま説得を続けろ」

 無線から宿直長の指令が飛んできた。

 その当時の警察は、法律は家庭に入らずといって、家庭内のことへの介入に消極的だった。

(この人は事態が理解できているのか)

 山口は憤った。

 部屋の中の男は大笑いしている。

 尋常ではない。

 山口は警棒を抜くと吊り紐を右手に巻き付け、両手で上下の端を握りしめた。

 警棒を抱えるように数メートル下がると、ひとつ大きく息を吸い込み、まだ男が笑い声をあげている部屋のドア目がけて身体ごと突っ込んだ。

 古いアパートのドアは簡単に破れ、山口は破れたドアとともに室内に倒れ込んだ。

 立ち上がった山口は目を疑った。

 今まで何度も悲惨な現場は見てきたが、それとは比較にならない凄惨な有様だった。

 年齢30歳くらいの男が大笑いしながら仁王立ちしている。

 上半身は返り血を浴びたように大量の血液飛沫が付いている。

 下半身はブリーフ一丁だ。

 男の足元に女の子と思われる三、四歳くらいの子供がうつ伏せに倒れ痙攣している。

 その背中のほぼ中心には刃渡り20cmくらいの鉈(なた)が刺さって立っている。

 傷口から大量の血液が吹き出し、女の子の周りが血の海となっている。

 血の海は徐々に面積を広げ、出血の多さを訴えている。

 そして、鉈が刺さっているところに元は茶色のように見えるが血に染まって黒く光る毛皮の塊のようなものが乗っていた。

 その塊は、まったく動かなかった。

「救急車を呼んでください!」

 山口は外に向かって叫んだ。

 ドアを破る音と山口の叫び声に気づいた男が山口の方に振り返った。

 山口は男に向かって走り出した。

 山口は男に真っ直ぐ突き進まず、男の右側を通り過ぎるようなコースを取った。

 そして、すれ違いざま右腕を鎌の刃のように丸みをもたせ、腰高から振り上げて男の顎下、喉仏のあたりにあてがった。

 山口の右腕は円を描くように山口の足元に向かって振り下ろされた。

 入り身投げだ。

 山口の入り身投げを受けた男は、足が宙を舞い後頭部から床に落ち、衝撃で失神した。

 山口は辺りを一瞥し、失神した男を台所に引きずって行った。

 台所の露出しているガス管に男を手錠で繋ぎ、動きがとれないようにした。

 すぐに痙攣している女の子のところへ走り、救命措置を取ろうとした。

 開いた傷口から鉈が背骨に食い込んでいるのが見えた。

 これを無理やり抜くと脊髄を傷つける可能性があり危険と判断した山口は、なんとか止血の措置を取ろうとした。

 しかし、女の子を動かすこともできず、止血することすら不可能だった。

「おい、聞こえるか」

 山口は女の子に声をかけた。

「ひまわり」

 大量に出血して痙攣しているにもかかわらず、女の子は目を開けずにっこり笑って一言だけつぶやいた。

 そして女の子の顔面から力が抜けた。

 顔面は蒼白で脈もほとんど振れなかった。

(救急車。早く!)

 山口は祈ることしかできなかった。

 女の子の背中に乗っている毛皮のようなものを見たら、どうやら犬だったような形跡がある。

 原形を留めないほど痛めつけられていたが、かろうじて判別できるマズルとそこから続く額の形と毛の長さからスムースコートのチワワのように思えた。

 間もなく救急車が到着し、女の子は病院に収容された。

 男は殺人未遂の現行犯で逮捕された。

 その後の調べでわかったことでは、犯人の男は女の子の父親だった。

 女の子は当時4歳。

 女の子は茶色いスムースコートのチワワを飼っていた。

 名前はヒマワリ。

 女の子が夏の向日葵が好きだったことから付いた名前だった。

 女の子とヒマワリは、いつも一緒だった。

 父親は酒飲みで仕事もせずにいつも酔っ払っていた。

 母親は、生活のため夜の仕事に出るようになった。

 女の子はヒマワリと父親の二人で夜を過ごす日が多くなった。

 父親は夜になると酔っては家で暴れた。

 女の子とヒマワリは、部屋の片隅で震えながら父親の怒りが収まるのを待つより他になかった。

 父親は、躾と称して女の子に手を上げるようになった。

 女の子に性的な暴力を振るうことも珍しくなかった。

 父親の暴力は日を追うごとに激しさを増した。

 殴る、蹴るは日常だった。

 髪をつかまれ引きずり回されることもあった。

 タバコの火を押し付けられることも少なくない。

 事件の当日、病院に運び込まれた女の子の身体には、無数の皮下出血と丸いケロイド状の火傷の痕が認められた。

 その日、昼過ぎに起きた父親は、なぜか機嫌が悪く女の子に当たり散らしていた。

 理由もなく何度も殴られた。

 夜になり、父親は酒を飲み始めた。

 酒を飲むと手を付けられなくなる。

 女の子は恐怖に震えた。

 そんなとき、ヒマワリがトイレの外で粗相をしてしまった。

 それを見た父親の怒りが爆発した。

 女の子は、ヒマワリが殺されると思い、ヒマワリを胸に抱きしめ丸くうずくまった。

 自分の身体でヒマワリを守ろうとしたのだ。

 父親は意味の分からないことを怒鳴り、女の子の背中や顔を蹴り続けた。

「やめて!殺さないで!お願い、痛いよ!もうやめて!」

 女の子は父親を睨んで叫んだ。

 初めての抵抗だった。

「生意気なんだよ!逆らうような目で見やがって!」

 父親の怒りが頂点に達した。

 父親は、押し入れから鉈を取り出して、うずくまる女の子の背中目がけて振り下ろした。

 ぐちゃっ

 肉を破り鉈が女の子の背骨に食い込んだ。

 女の子は悲痛な悲鳴を上げ、苦痛に悶絶した。

 ヒマワリを抱く手の力が緩んだ。

 そのとき、ヒマワリが女の子の腕をすり抜けた。

「ぐるるるる、ぎゃん!ぎゃん!」

 ヒマワリが父親に吠え、飛びかかった。

 まるで女の子を守ろうとしたかのようだった。

 しかし、所詮小型犬のチワワだ。

 簡単に父親に捕らえられてしまい、ものすごい力で背骨をへし折られ女の子に向かって投げつけられた。

「ぎゃん!」

 それが断末魔の叫びだった。

 父親は、気でも違ったのか大笑いしていた。

 そこに山口がドアを壊って転がり込んできた。

 事件の経過は、概略このような流れだった。

 女の子は、病院で懸命の治療を受けた。

 鉈が背骨に食い込み骨髄まで達していた。

 幸い脊髄の損傷はなかったが、骨自体の損傷がひどく、完全な修復は不可能だった。

 医師によると、もし同じ場所をもう一度痛めた場合、最悪死の危険があるということであった。

 

 この事件を受けて児童虐待として児童相談所が介入した。

 女の子はなんとか一命をとりとめて退院し、児童相談所に一時保護された。

 児童相談所で家庭環境などを調査した結果、両親には女の子を育てる監護能力がなく、殺人未遂を犯していることもあり、家庭裁判所が親権喪失の審判を下した。

 そして、家庭裁判所から指名された弁護士が女の子の法定代理人となった。

 事件の捜査の過程で山口は、女の子の名前を知る。

 天渡早苗

 3月14日生まれ(4歳)

 今のテワタサナイーヌだ。

 亡くなった山口の娘、早苗と同じ誕生日だった。

 山口は、天渡早苗をなんとか生かしたい、幸せにしたいと願った。

 山口にとって、天渡早苗は生かしてやることができなかった娘そのものだった。

 山口は、毎日のように病院に見舞いに行った。

 妻の弥生も同伴した。

 夫婦で天渡早苗を自分の子供のように心配して見守った。

 退院後も児童相談所に足繁く通って担当の児童福祉司から様子を聞いた。

「早苗ちゃんをうちにお迎えできないかしら。うちの娘としてお迎えしたいの」

 弥生が山口に相談した。

「いいですね」

 山口も同意した。

 山口は児童相談所に天渡早苗を里子として迎え、いずれは特別養子縁組で実子にしたいと相談した。

 通常、里子のペアリングは、児童相談所が里親と児童の相性などを調査した上で行われる。

 里親が特定の児童を指名することはできない。

 しかし、山口の場合は、背景事情などもあり、特別に天渡早苗とのペアリングが認められた。

「早苗が帰ってくるんだね」

 山口と弥生は手を取って喜んだ。

 ところが、間もなくお試しのお泊りが始まろうというとき、天渡早苗の身体に異変が現れた。

 普通では考えられない量の体毛が全身に生えてきた。

 そして、耳が変形し始め、どんどん大きくなり犬の耳のようになった。

 黒かった髪と瞳は緑色に変色し、犬歯が伸びて八重歯のようになった。

 すぐに天渡早苗は大学病院で検査を受けた。

 しかし、原因はわからなかった。

 形態から、犬のDNAが混在しているのではないかと推測されたが、確証が得られなかった。

 もし、犬のDNAが混入したとすれば、あの事件のとき、骨髄まで達した傷からヒマワリの血が骨髄に入り込んだ可能性があるとされた。

 それでも、犬のDNAと人間のDNAが混在できるというのは、医学で説明できない現象だった。

 この変化を受けて、天渡早苗には特別な医療が必要とされ、家庭での養育は不可能との結論が出された。

 山口と天渡早苗の、里子から特別養子縁組という夢は潰えた。

 

 それでも山口と弥生は、天渡早苗を自分の娘のように見守り続けた。

 小学校、中学校、高校と成長していく天渡早苗を見て、我が子のように喜んだ。

 高校を卒業した天渡早苗が警視庁の警察官になったことは山口にとって望外の喜びとともに驚きだった。

 山口は、天渡早苗の背骨のこと、虐待からの生還者であり心理的にケアが必要であることを天渡早苗の行く先々の所属に説明して回った。

 偶然にも天渡早苗は自分と同じような経歴をたどっていた。

 巡査のとき白バイに乗務したこと。

 高卒で警察官になり通信教育の大学を卒業したこと。

 同期の中でもぶっちぎりの若さで警部補に昇任したこと。

 偶然でもこれだけ自分と重なるところがあると、山口としては運命を感じずにはいられなかった。

 そしてついに葛飾署で山口と天渡早苗は同じ所属になった。

 それだけではない。

 次の所属でも一緒になり、仕事もペアを組んでいつも一緒にいられるようになった。

 人事に関しては、山口の力の及ぶ所ではない。

 まったくの偶然だった。

 

「ざっとこんなところです」

 山口が疲れも見せずに一気に話をした。

「やっぱり当たってた」

 テワタサナイーヌが得意げに言った。

「白バイ訓練所の所長が言ってた、私を見守っている人って、やっぱりお父さんだったんじゃない。なんで隠したのよ」

 テワタサナイーヌが山口の隣に座り肘でつついた。

「隠そうとはしていません。あのときは、続きを話そうとしたら出動が入ってしまって言いそびれてしまっただけです」

 山口が申し訳なさそうに言った。

 

「ところで早苗さん」

「なーに?お父さん」

 二人の呼びかけにぎこちなさがなくなった。

「妻を母として呼んでくれるんですか?」

 山口が大事なことを確認した。

 そのために今日は来ていたのだ。

 テワタサナイーヌは弥生を見た。

 弥生は不安げに下を向いている。

 テワタサナイーヌは、すっと立ち上がると弥生の前に進み、跪いて弥生の顔を覗き込んだ。

 

「お母さん、今日まで見守ってくれてありがとう。これからは一緒に生きようね」

 

 二人は抱き合って泣いた。

 




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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過去からの別れ

 テワタサナイーヌと山口夫妻が三人で市役所に養子縁組届を提出した。

 養子縁組届には、20歳以上の成人の保証人が2人必要になる。

 池上と犯罪抑止対策本部副本部長の坂田警視長に保証人を依頼した。

 二人とも喜んで署名押印した。

 これによりテワタサナイーヌが山口夫妻の養子となった。

 

 山口早苗

 

 亡くなった山口夫妻の実子と同じ名前になった。

 テワタサナイーヌは、寮を出て山口の家に転居した。

 なぜかテワタサナイーヌに池上という付録が付いてきた。

 都内で一人住まいをしていた池上をテワタサナイーヌが半ば強引に連れてきたのだ。

「半ばじゃないっす。テワさんが俺を迎えに来たときは、もうマンションの賃貸契約まで解約して退去手続が済んでたんすよ。俺、来るしかないじゃないすか」

 池上が訴えた。

「あらー、なんのことかしら。全然思い当たらないわー」

 テワタサナイーヌは、セリフを棒読みした。

 山口の家は広い。

 山口夫妻が1階で寝起きし、テワタサナイーヌと池上が2階で暮らすことになった。

 2階にも簡易のキッチンとバス・トイレがある。

 このまま二世帯住宅として使えるように設計されていた。

「娘が長旅から帰ってきたと思ったら、こんなイケメンを連れてくるなんて嬉しいわあ」

 山口の妻、弥生は大喜びして池上を歓迎した。

「お姉ちゃん、ただいま」

 テワタサナイーヌは、亡くなった山口早苗の位牌に挨拶をした。

 同じ日に生まれているので、姉でも妹でもないのだが、なんとなく姉のような気がした。

 自分は亡くなった山口早苗の代替ではないということをはっきりさせる意味もあった。

 もちろん山口夫妻にもその意図はまったくない。

「え、あ、お姉さん、池上っす。よろしくお願いします」

 池上も位牌に挨拶をした。

「お姉ちゃん、大輔くんね、果てしないバカだけど怒らないでね」

 テワタサナイーヌが位牌に池上を紹介して言った。

「ちょ、テワさん。姉ちゃんにその紹介はないっすよ」

 池上がふてくされた。

 そのあと、二人で焼香をして手を合わせた。

「どうぞ2階を見てくれば」

「2階は、二人のものです。好きに使ってください」

 弥生と山口が言った。

 テワタサナイーヌと池上は、階段を上り2階に消えた。

 2階は、きれいに掃除が行き届いていて、長期間誰も使っていなかったような傷みや荒れた様子がまったくない。

 十分とはいえないが、当面生活するのに困らないだけの家財道具は二人分揃えられていた。

 ベッドもクイーンサイズの大きなものが1台寝室に据えられていた。

「テワさん」

「ん?なに?」

「俺が来るって知ってたんすか?係長は」

「言ってないよ」

「なんで家財道具が二人分あるんだろ?」

「あらっ、ほんとだ」

 テワタサナイーヌが部屋を出て階段を下りていった。

「お父さーん」

「はい、なんですか」

 二人の会話は、職場でなくてもここから始まるようだ。

「なんで2階に家財道具が二人分あるの?」

「たまたま買いすぎたんです」

 山口が目を合わせずに言った。

 いつもは必ずテワタサナイーヌと目を合わせて会話をする山口が目を合わせなかったので、すぐに嘘だとわかった。

「願望よ」

 弥生が口を挟んだ。

「願望?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「お父さんね、池上くんのことが大好きなのよ。いつも『あいつは大物だ。あいつなら早苗を任せられる』って言っててね。『どうせ結婚するんだからうちに来ればいいんだ』とか言っちゃって、勢いで家財道具一式二人分買っちゃったのよ。バカでしょー」

 弥生が笑いながら言った。

「お父さんもひょっとして…」

 テワタサナイーヌが言いかけると。

「ええ、果てしないバカですよ」

 普段見せないおどけた態度で山口が開き直った。

「この人ね、外では真面目でクールな感じを装ってるけど、うちでは歌ったり踊ったりしてるのよ。見たことないでしょ?ふふ、いずれわかるわ」

 弥生が山口の秘密を暴露した。

「あー!それは言わないっていう約束です!」

 山口が今まで見たこともないうろたえ方をした。

「ついでにさっさと教えちゃうけど、お父さん、高校は県内有数の進学校だったのよ。当然、みんな大学に進学するんだけど、お父さんは何を血迷ったのか就職しちゃって。みんな進学するのが当たり前の高校だったから、進路先一覧にも載せてもらえてないんだから。でね、進学しなかった理由を聞いたら『勉強したくなかった』ですって。でね、でね、ここからがまたバカなのよ。就職してから勉強が必要だってわかったらしくて、通信教育で大学に行ったのよ。あ、早苗ちゃんも通信教育で大学頑張ったわよね。偉かったわね。でも、お父さんの場合は、ただ自分がバカで大学行かなかったから後で苦労しただけだから。ほんと、果てしないバカでしょー」

 弥生とテワタサナイーヌが二人で爆笑した。

 山口はいたたまれなくなって、そこらじゅうを歩き回っている。

「でもね、バカはバカなりに通信教育でちゃんと大学を卒業したからね。そういうところは立派だと思ってるわ。通信教育で大学を卒業するのって大変なんでしょ?」

 弥生がテワタサナイーヌに話を振った。

「うん。自分で言うのもなんだけど、かなり根性がいると思う」

「へー、お父さん、大学行ってたんだ。なんで内緒にしてたのよ」

 テワタサナイーヌが山口を問い詰めた。

「聞かれなかったから言わなかっただけですー」

 山口は、普段絶対言わないような語尾の伸ばし方でテワタサナイーヌに言った。

「お父さんと大輔くんて、そっくりよね」

 弥生とテワタサナイーヌが同時に言った。

 そして、また二人で爆笑した。

「あ、そうそう。2階にベッドが1台しかないんだけど」

 テワタサナイーヌが思い出したように言った。

「2台あったって、どうせ一緒に寝るんでしょ。1台でいいわよね」

 弥生がくすくす笑った。

 テワタサナイーヌが困惑した表情を浮かべた。

「あら、まだそういう関係じゃなかった?」

 弥生は、普通の世間話のように際どいことを言う。

「う、うん…」

 テワタサナイーヌが小さな声で頷き、上目遣いで弥生を見た。

「あらごめんなさいね。でも、とりあえずベッドは1台しかないから、どうするかは二人で考えてね」

 そう言って弥生は笑った。

(なんか完全にセクハラなのに、まったく湿り気がないから、むしろ気持ちいい)

 テワタサナイーヌは、一見清楚に見えるのにカラッとした下ネタが言える弥生がますます好きになった。

「なんだか納得いかないんだけど」

 テワタサナイーヌは、ぶつぶつ言いながら2階に上がった。

 

 ──その日の夜

 4人揃って1階で夕食をとった。

 初めての一家揃った食事だった。

 池上が一家と言えるのか疑問が残ったが、すでに気にする者は誰もいなかった。

「あ、俺が洗うっす」

 そう言って池上は後片付けを始めた。

「あらっ、なんていい子!」

 弥生が池上の頭を撫でた。

「でもね、食洗機があるから、ほとんどそれで済んじゃうのよ。食洗機に入らないものだけお願いしていいかしら」

 弥生が池上に言った。

「了解す。えっと、係長のうちの洗い物のローカルルールを教えてください。これから長く暮らすことになると思うんで、山口家のルールを知っておきたいんす」

 池上が袖をまくりながら言った。

「あんた偉いわねえ。じゃあ私が教えてあげる」

 テワタサナイーヌが口を挟んだ。

「え、あれ?あ、そうだ、私も知らないんだ!」

 びっくりしたようにテワタサナイーヌが手で口を押さえた。

「いいわ。二人ともいらっしゃい。うちのローカルルールをびしっと教えてあげるから」

 弥生が二人を連れてキッチンに入った。

「上にもキッチンがあるから、二人だけになりたいときは遠慮しなくていいから、上で過ごしなさい」

 洗い物を終えた弥生がエプロンで手を拭きながらテワタサナイーヌと池上に言った。

「あ、このエプロンね。実はお父さんの手作りなの」

 弥生が嬉しそうにエプロンを見せた。

「へー、係長器用っすね」

 池上が感心したように山口を見た。

「ざーっと裁断してがーっと縫うだけですから」

 山口が意味の分からない説明をした。

「職場じゃ絶対こんなこと言わないでしょ」

 弥生が山口を指差して笑った。

「職場にいるときのお父さんからは想像できないなあ」

 テワタサナイーヌが大きく頷いた。

「今も何か作ってるらしいわよ。何を作ってるのか私にも教えないんだから」

 弥生がテワタサナイーヌに耳打ちした。

「なんだろう。お母さん、こっそり偵察しといて」

 テワタサナイーヌが弥生に笑いかけた。

「わかった」

 弥生とテワタサナイーヌは、山口から見えない位置で親指を立てて同盟を結んだ。

「じゃあ上に行くね。おやすみなさい」

「あ、おやすみなさい」

 テワタサナイーヌが池上の手を引いて2階に上がった。

 2階に上がった二人は、なぜか落ち着かなかった。

 二人で夜を越すのは初めてだったからだ。

 何度もデートを重ねて二人の気持ちは確かめ合っていた。

 しかし、テワタサナイーヌの「背中だけは触らないで」という願いを池上はきっちり守り続けていた。

 背中を触れないので、抱きしめることもできず、キスをするときも池上がテワタサナイーヌの両腕を抱える程度に支えるだけだった。

 二人は、どこにいて何を話せばいいのかわからず、うろうろ部屋の中を見て回ったり、椅子に座ってじっと黙ってみたりした。

「お風呂入らなきゃね」

 テワタサナイーヌが言った。

 言った直後、この言葉の生々しさに恥ずかしくなった。

「あ、はい、そうっすね」

 池上もモジモジしている。

「お風呂洗ってくるす」

 池上が腰を上げた。

「あ、いいよ、私が洗うから」

 テワタサナイーヌが池上を制した。

「じゃあ、じゃんけんで決めますか」

 池上が提案した。

「上等よ」

 多少演技っぽいことをやっていないと恥ずかしくていたたまれなかったのだ。

「じゃんけん、ぽん!」

 二人で声を揃えてタイミングを合わせた。

 テワタサナイーヌがチョキ。

 池上がグー。

「俺の勝ちっすね。テワさんは、座って待っててくださいよ」

 池上が風呂掃除に行った。

 お互いの姿が見えていない方がドキドキが少なくて済むので助かった。

「2台あったって、どうせ一緒に寝るんでしょ。1台でいいわよね」

 寝室に1台しかないベッドと、弥生に言われた言葉がテワタサナイーヌに余計なことを意識させてしまっていた。

(私、大輔くんとひとつのベッドで寝るんだ)

 テワタサナイーヌは恥ずかしくて逃げ出したくなった。

 成熟した男女が同じベッドで寝ればなにがあるかは想像できる。

 でも、自分には経験がない。

 池上にその経験があるのかどうかは知らないし、そんなことはどうでもいい。

 恥ずかしさと不安。

 なにより、誰にも見せたことがない背中を初めて池上に見せることになるだろうと考えると、不安の方が大きくなってきた。

(大輔くんは、私の背中の傷を見て気持ち悪がらないかな)

(嫌われたらどうしよう)

 どんどん不安が膨らんでいった。

 テワタサナイーヌの尻尾がすっかり巻かれてしまった。

「お風呂洗ったす。お湯張りますよ」

 池上が元気に戻ってきた。

「ありがとう」

 テワタサナイーヌが池上にキスをした。

 照れ隠しと不安を払い除けたかったからだ。

 風呂が沸く間、やはり二人は言葉が少なかった。

「どっちが先に入る?」

 テワタサナイーヌがおどおどしながら訊いた。

「テワさん先にどうぞ。女の子の方が、お風呂を上がってからやること多いっすからね」

 池上がさらりと言った。

「ねえ大輔くん」

「はい、なんすか」

 テワタサナイーヌと池上の会話もここから始まる。

「大輔くんてお姉さんか妹いる?」

「いないっすよ。実家に兄貴が一人いるっす」

「そうなんだ」

 テワタサナイーヌがにやりとした。

「じゃあさ、女の子がお風呂上がりにいろいろやることがあるって、なんで知ってるの?」

 テワタサナイーヌが池上のちょっとした発言を見逃さず追及した。

「あれ、なんでですかね」

 池上が動揺した。

「まあいいわ。今のは聞かなかったことにしてあげる」

 テワタサナイーヌの不安が少し和らいだ。

(ごめんね。不安だったから少しいじっちゃった)

「じゃあ、私先に入ってくるね」

 テワタサナイーヌがバスルームに入った。

 テワタサナイーヌが入浴している間も、池上は落ち着きなく歩き回っていた。

 テワタサナイーヌがバスルームから出てきた。

「お先でした。大輔くんどうぞ」

 頭にタオルを巻き、薄ピンクの前合わせのシャツを着て、別のタオルで尻尾をタオルドライしながら歩いてきた。

 シャツの胸には、左右に小さな突起が照明を受けて影を作っている。

 そんな状態でもテワタサナイーヌの胸は見事な形を保ち、存在を誇示している。

「テワさん、お尻見えてるすよ」

 池上が軽く言った。

 池上も緊張しているはずだったが、話し方にあまり現れない男らしい。

「しょうがないでしょ。尻尾があるんだもん。外出着は加工して尻尾が出せるようにするけど、部屋着まで加工なんてしてられないわよ。大輔くん、どうせ私のお尻見たいんでしょ。見せてあげるわよ」

 強気を装うことで不安を消したいテワタサナイーヌだった。

「それならしょうがないっすね」

 テワタサナイーヌのお尻から目をそらして池上が言った。

 見ていいと言われても、はいそうですかとは言いにくいものだ。

 次に池上が風呂に入り、Tシャツと短パン姿で出てきた。

 池上と入れ替わりにテワタサナイーヌが洗面所に入り、ドライヤーで尻尾を乾かし始めた。

 尻尾を身体に沿わせるように左から前の方に回し、それを迎えるように左に身体をひねって左手で尻尾をつかむ。

 それに右手で持ったドライヤーで風を当てる。

 これだと、どうしても尻尾の付け根が乾かせない。

 最後は、両手を後ろに回して尻尾の付け根を乾かさなければならない。

 本当は誰かにやってもらった方が楽なのだが、さすがにまだ池上には頼めない。

「テワさん、手伝いますか」

 テワタサナイーヌの気持ちを察したのか、池上が声をかけてきた。

「え、ありがとう。やってくれる?でもお尻触ったら承知しないからね」

 テワタサナイーヌがやってもらう立場にも関わらず池上に脅しをかけた。

 池上は、尻尾の毛の根元から乾かすようにドライヤーの風を当てた。

 毛の流れに沿って手で撫でながら付け根から先に向かって乾かしてくれた。

 テワタサナイーヌは、池上に尻尾を撫でられる眠気のような心地よさに、いつのまにか目を閉じて身を任せていた。

 この日以来、テワタサナイーヌの尻尾を乾かすのは、池上の仕事になった。

 

 池上は、テワタサナイーヌが子供の頃、性的虐待を受けていたことを山口の話で知った。

 性的虐待を受けた記憶がテワタサナイーヌにどんな影響を与えるのかわからない。

 池上は、テワタサナイーヌとの身体的接触には慎重になっていた。

 辛い思いをさせたくない。

 テワタサナイーヌが自分を受け入れてくれるようになるまで、決して急かすようなことはしないと決めていた。

 だから、今晩も同じベッドで寝ることなく、自分は床に毛布でも敷いて寝ればいいと思っていた。

「もう寝ようか。明日仕事でしょ」

 割と気まずい時間を過ごし、そろそろ寝なくてはならない時間になった。

 テワタサナイーヌから声をかけた。

「そうっすね。俺はベッドの横に毛布を敷いて寝るから、テワさん、ベッドで寝てください」

 池上が提案した。

「うん。わかった」

 テワタサナイーヌがベッドに入り、布団をかけて横になった。

 池上が毛布を敷いて寝る用意を整え、寝室の電気を消そうとしたとき。

「大輔くん」

 テワタサナイーヌが池上を呼んだ。

「なんすか」

 池上がベッドサイドから答えた。

「やっぱり二人でいるのに別々に寝るって違和感。大輔くんもこっちきて」

 テワタサナイーヌの本音だった。

 怖かったが、池上と一緒にいたかった。

「いいんすか、ほんとに」

 池上がいろいろな意味を込めて確認した。

「いいよ。きて」

 テワタサナイーヌが布団で顔を隠して答えた。

 布団の端から耳だけがぴょこんと顔を出していた。

 もう一度池上が電気を消そうとした。

「待って!」

 またテワタサナイーヌが制止した。

「大輔くん、座って」

 テワタサナイーヌが池上にベッドに座るよう指示した。

 池上はテワタサナイーヌに促されるようにベッドの端に腰をおろした。

 布団に潜っていたテワタサナイーヌが起き上がって池上に背中を向けた。

(これで嫌われて終わるかもしれない。でも、知ってほしい)

「明るいところでしっかり見て。これが私、早苗です」

 そう言うとテワタサナイーヌは、シャツのボタンを一つずつ外した。

 シャツの前が全部開くと、肩からするりとシャツを落とした。

 テワタサナイーヌは両腕で胸を隠した。

 肩がぶるぶる震えていた。

 池上は息を呑んだ。

 テワタサナイーヌの背中には、短い茶色の毛がびっしりと生えている。

 その毛は、首から腰に向かって毛並みが揃い、美しい艶を放っている。

 池上は思わず触れたくなった。

 しかし、それをためらわせるものがテワタサナイーヌの背中にはあった。

 肩甲骨の間あたりからくびれすぎているのではないかと思うほどの美しい線を描くウエストのあたりまで、長さにして30cmくらいはあるだろうか、毛が生えていない部分があり、そこはひどいケロイド状の傷痕が盛り上がっていた。

 テワタサナイーヌは、背中に何度も手術を受けた。

 一度開いて閉じたところは、内部で癒着が生じる。

 また同じところを手術するためには、癒着を剥離しなければならない。

 それを繰り返したテワタサナイーヌの背中は、ひどい崩れようだった。

 

 沈黙。

 

「ひゃんっ」

 テワタサナイーヌが声を上げて背中をのけぞらせた。

 池上の指が傷痕に触れた。

「ちっちゃいテワさん、いや、その頃は早苗ちゃん。たくさん頑張ったね。痛かったね。生きていてくれてありがとう。早苗ちゃんが頑張って生きていてくれたから、お兄ちゃんはおっきくなった早苗ちゃんに会えたよ。この傷は、恥ずかしいものじゃない。早苗ちゃんが生きてきた証。大事なもの。お兄ちゃんはね、この傷もなにもかも全部好き」

 池上はテワタサナイーヌの中に今もいる、震えて泣き続ける虐待を受けたときのまま時間が止まってしまった早苗にゆっくりと話しかけていた。

「それからね。早苗ちゃんが大好きだったヒマワリがいるでしょ。ヒマワリは、いまおっきくなった早苗ちゃんと一緒に生きてるよ。ずっと一緒。だからもう心配しないで。早苗ちゃんのせいで今のおっきな早苗ちゃんは苦しんでなんかないよ。早苗ちゃんは、自分を許してあげて」

 テワタサナイーヌは、池上の指先から傷痕を通して温かい気持ちが流れ込んでくるのを感じた。

 その温かい気持ちは、自分の心の一番深いところ、真っ暗で覗き込むこともできないところにある悲しみ、怒り、恐怖、自責といった負の感情を包み込んでいった。

 いつしかテワタサナイーヌは、ただ一枚残っている人間だったときの写真の女の子に戻り、ヒマワリと一緒に夏のまぶしい光の中で向日葵の花を見上げていた。

 そこから急に時間が高速回転で流れ始めた。

 辛かった虐待の事実を過去のものとして客観的に見ている自分に気づいた。

 病院で手当を受けている自分も見た。

 ベッドサイドに若い日の山口の姿をみつけることができた。

(あ、お父さんいた)

 そして、記憶が残っている小学生のころで時間の流れは消えていった。

 テワタサナイーヌは今の自分に戻ってきた。

 長い旅をしていたような気分だった。

 その間、ずっと池上の暖かさに守られて、少しも怖くなかった。

 テワタサナイーヌは泣いていた。

 悲しかったのではない。

 むしろ嬉し涙に近かった。

 温かい気持ちで泣いた。

 涙とともに辛かった過去が流れていくのを感じながら。

「抱いてください」

 テワタサナイーヌが泣きながら言った。

 池上がテワタサナイーヌを背後から包み込んだ。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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テワタサナイーヌ復活

「お父さん、お母さん、おはよう」

「係長、奥さま、おはようございます」

 テワタサナイーヌが池上と一夜を過ごした翌朝、テワタサナイーヌと池上が階下におりてきた。

 2階には、まだ食事を用意することができる食材もない。

 山口のところでご相伴に預かるしかない。

「あ、おはよう。早苗ちゃん、寝られた?」

 山口の妻、弥生がテワタサナイーヌに言った。

 山口と弥生は心なしか眠そうな様子だった。

「ドキドキして寝られなかった」

 テワタサナイーヌが恥ずかしそうにしながら正直に言った。

「やっぱりそうよね。私もお父さんと初めて一晩一緒に過ごしたときは、ドキドキしちゃって寝られなかったもの。翌朝、目の下に隈ができちゃって大変だったわ。まあ慣れよ、慣れ」

「ところで大輔くんはどうだったの?」

 弥生が池上に話を振った。

「ドキドキして寝られなかったす」

 池上が胸を押さえながら大げさに言った。

「嘘言うんじゃないわよ。私の隣で熟睡してたじゃないの!耳元でぐーすか寝息立ててたよ」

 テワタサナイーヌが反論した。

「あら、早苗ちゃん、大輔くんと一緒に寝たのね。やっぱりベッドは1台でよかったでしょ。おめでとう」

 弥生は、とても嬉しそうだった。

「あー、あー、あー!」

 自分の失言で藪をつついてしまったことに気づいたテワタサナイーヌは、両手で顔を覆って恥ずかしがっている。

(死ぬ!私、死ぬ!恥ずかしくて死ぬ!でも、なんで?なんか嬉しいよ?)

 テワタサナイーヌは、自分もドMだったのかと思った。

 弥生は、嬉しそうにクスクス笑っている。

「早苗ちゃん」

 弥生がテワタサナイーヌに呼びかけた。

「なに、お母さん」

 テワタサナイーヌは、まだ身悶えをしている。

 恥ずかしすぎて涙目になっている。

「いくら大輔くんが好きでも、ちゃんと避妊はするのよ。望まない子供を作っちゃダメ。あなたたちと赤ちゃん、どちらにも不幸なことだから」

「それから大輔くん。大輔くんも、しっかり自覚なさい。早苗ちゃんを守れるのはあなただけよ。望まない妊娠で傷つくのは女性なんだから」

 弥生は、思春期の交際中の男女に母親が注意するようなことを優しい笑顔で言ってきかせた。

「うん、お母さんありがとう」

 セックスをしていることを前提とした内容であったが、弥生の態度が冷やかしや覗き趣味的なものではない、本当に自分のことを大切に思っていてくれていることが伝わる話し方であったことに、テワタサナイーヌも素直になれた。

 もう恥ずかしさはなかった。

「それからもうひとつ、大事なことを言っておくわ」

 弥生が笑顔から真顔になった。

 真顔の弥生には凄みがあった。

 テワタサナイーヌは少し緊張して身構えた。

「早苗ちゃん、あなた、男の人との距離が近いでしょ」

 弥生がテワタサナイーヌの目を見て優しく語りかけた。

 しかし、顔は真顔のままだ。

ぎゅっ

 テワタサナイーヌは、弥生に心臓を鷲掴みにされたような胸の苦しさを覚えた。

「あなたは、4歳のとき父親に、あ、これは山口じゃない方の父親よ。父親に性的な虐待を受けていた。これは山口の話で知ってるわね。性的虐待は、逆らわなければ優しくされる。でも、逆らうと暴力が待っているの。それを繰り返し受けていると、暴力を加えられないためには、男を性的に満足させてやればいいって思うようになってしまうのよ。これは、思うというより、生き延びるためには、そう選択するしかない状況だからなのね。小さいときの早苗ちゃんも例外じゃないわ。今のあなたが男の人との距離が近いのもその名残よ。いい、早苗ちゃん。あなたの性はあなたが自分でコントロールできるの。していいの。性を提供しなくてもあなたは誰からも攻撃されないわ。今まで、あなたの周りに悪い男がいなかったのが幸運。おかしな男がいたら、たぶんあなたはもっと傷つくことになっていたはずよ。そして、その傷つくことを恐れる早苗ちゃんは、より危険な行動で男の人を誘惑して自分を守ろうとするわ。ひどい悪循環でしょ。でも、これが虐待サバイバーの現実なの。でもね、早苗ちゃんの場合、大輔くんのおかげで虐待の事実を客観視できるようになったはずだと思うの。どう?」

 弥生には、ゆうべ何があったのかすべてわかっているようだった。

 テワタサナイーヌは黙って頷いた。

「だからもう大丈夫。あなたは過去の虐待に支配されていた昨日までの早苗ちゃんじゃなくなったわ。あなたの身体、性はあなたのものよ。大事にしなさい」

 最後は笑顔でテワタサナイーヌの手を握りながら言葉を噛みしめるように諭した。

 弥生は、一番最後の「大事にしなさい」に特に力を込めて伝えた。

「うん。わかった。お母さん、ありがとう!」

 テワタサナイーヌに笑顔が戻った。

「それでね」

 弥生がテワタサナイーヌの耳元に口を近づけた。

「山口もあなたにドキドキしてたらしいわよ。男ってバカよね」

 弥生が囁いた。

 思い起こせば、自分はずいぶん山口を性的に誘惑していた。

 あまり意識していなかったが、山口の関心を引きたいがためにやっていた。

 それが、自分の過去のトラウマから出ていたのだとわかり、過去を恨めしく思ったが、今のテワタサナイーヌは、過去は過去だと思えるようになっていた。

「ねえお父さん」

「はい、なんですか」

 テワタサナイーヌと山口の会話は、いつもここから始まる。

「私にドキドキしてた?我慢してくれてたの?」

 テワタサナイーヌが弥生のようにあっけらかんと訊いた。

「なんですか、いきなり」

 弥生とテワタサナイーヌの内緒話を知らない山口は、きょとんとした顔をしている。

「私がいろいろお父さんを誘惑してたじゃない。よく手を出さないで我慢してたね」

 テワタサナイーヌが笑いながら言った。

「ああ、そういう話を二人でしたんですね。はい、ドキドキでした。道を誤るかもしれないと思ったこともありました。ただ、早苗さんとのことは、すべて妻に話をしていましたから、なんとか自制できました」

 山口が照れくさそうに言った。

「男の人に性欲があることは隠せない事実でしょ。結婚しているから性欲が消えてなくなるなんてことはないのよ。だから、山口が早苗ちゃんに誘惑されてドキドキするのもおかしなことではないわ。だって、早苗ちゃんかわいいし、とってもいい匂いがするから。山口はね、早苗ちゃんの匂いが好きなのよ。匂いフェチだから。それで、そこで我慢するか突っ走るかで男の値打ちが決まるのよ。山口は耐えたわよ。偉いでしょ。まあ、なんだかんだ言っても私のことが好きだからなんだけどね」

 弥生が勝ち誇ったように言った。

 テワタサナイーヌは、ちょっと負けたような気がしたが、負けたのが嬉しかった。

「で、今も早苗ちゃんにドキドキしてるの?」

 弥生が山口を追及した。

「いえ、いい匂いは好きなので楽しませてもらっていますが、ドキドキはしなくなりましたよ」

 山口もあっさり匂いフェチを認めた。

 ただ、以前のようなドキドキはないという。

「山口も早苗ちゃんと一緒に成長したのよ。ただの男から父親になれたってところかしら」

 弥生には、山口とテワタサナイーヌの関係がすべて見通せていたようだ。

「なんか、お母さん、ごめんなさい。私、ずいぶんお父さんを誘惑しちゃってたから、お母さん気が気じゃなかったんじゃない?」

 テワタサナイーヌが弥生を気遣った。

「そうねえ、ちょっと二人に嫉妬したのは事実ね。まあ私も山口と同じで早苗ちゃんのおかげで成長できたんだと思うの。娘に嫉妬する母親っていうのも変でしょ」

 弥生が肩をすくめた。

 池上は、目を丸くして三人のやり取りを聞いている。

「すごい親子っすね。こんなにオープンに話ができる親子って羨ましいっす」

 池上が誰に言うともなく感嘆の言葉を口にした。

「なに言ってるのよ。あなたも私の息子、家族じゃない」

 弥生が池上の頭を撫でながら言った。

 池上の顔がぱっと明るくなった。

「じゃあ、母さんって呼んでいいんすか?」

「いいわよ、呼んでみて」

「母さん」

「なーに、大輔くん」

「うわー、なんか照れるっす」

 池上が地団駄を踏んだ。

 

 長い立ち話のせいで朝食の時間が少なくなってしまった。

 四人は、急いで朝食を済ませるとそれぞれ出かけて行った。

 山口と池上は言うまでもなく犯抑に一緒に出勤した。

 山口の妻の弥生も山口らと同じ路線で出勤した。

 弥生は、山口たちより少し先の駅まで通勤している国家公務員だ。

 テワタサナイーヌは、今日は警視庁本部で産業医の診察を受けることになっている。

 交通事故が公務災害と認定され、復職の可否について産業医の意見をもらうためだ。

 寮に住んでいるときは、有楽町線の桜田門駅を使っていた。

 しかし、事故を起こし休んでいる間に千葉県下の山口の家に引っ越していたので、今日からは千代田線で通勤することになる。

 降りる駅も霞ヶ関駅に変わる。

 久しぶりの中央官庁街。

 地下鉄の駅から地上に出たテワタサナイーヌは、陽の光が眩しくて手のひらで光を遮った。

 今日のテワタサナイーヌは、黒のパンツスーツをきっちりと着こなし、ほとんどすっぴんに近い薄化粧だ。

 それでも十分にテワタサナイーヌの美しさを表現できている。

 肌を露出するのは好きだが、それだけが自己表現ではないと気づいた。

 診察の予定まではまだ時間があった。

 テワタサナイーヌは、山口との聖地となっているガスライトというバーまで足を伸ばすことにした。

 霞ヶ関駅からだと警視庁とは反対方向になるが、懐かしい官庁街の風景を見たかった。

 総務省の前から外務省側へ横断歩道を渡る。

 外務省前の桜並木をゆっくりと歩く。

 警備の機動隊員に軽く会釈して前を通り過ぎる。

 テワタサナイーヌが警視庁の警察官だということは、警視庁の中でも多くの人が知るようになっていた。

 テワタサナイーヌが会釈した機動隊員もテワタサナイーヌだと気づき、笑顔で挙手の敬礼を返してくれた。

 外務省の前から財務省側に道幅の広い横断歩道を渡った。

 財務省の前を通り過ぎると、山口と幾度も手をつないで歩いた懐かしい坂道が見えてきた。

(お父さん、いろいろ我慢しながら歩いてたんだ)

 そう思うと、なぜかおかしくなり、一人で笑ってしまった。

 坂を登りきると、ガスライトが入っているビルが目に入る。

(もうお父さんと二人で来ることはないかな)

 なぜか泣きそうになった。

 テワタサナイーヌは、なにかを断ち切るようにガスライトの入っているビルに背を向けて財務省の裏手の道を皇居方向に歩き始めた。

 そのまま真っ直ぐ、いくつか横断歩道を渡ると皇居の内堀に突き当たる。

 そのまま道なりに右手に歩いていく。

 左手に皇居、右手に警察総合庁舎を見ながら桜田門に至る。

 警視庁正門の警備をしている機動隊員に新品の身分証を見せ、会釈をして門を入る。

 あの交通事故で、携帯していた身分証はかなり傷つき血に染まってしまった。

 テワタサナイーヌが休んでいる間に山口が新しいものと交換してきてくれた。

 一歩一歩確かめるように玄関に続くスロープを上る。

「警視庁」

「東京都公安委員会」

 玄関には、前と同じ二枚の看板が掲げられていた。

(帰ってこられたのね)

 テワタサナイーヌは、生きていられたことに感謝した。

 玄関を入り、ゲート前に立つ。

(ここで定期券と間違えないように)

 自分に言い聞かせて、首から提げた身分証を確かめた。

(うん。間違いない)

 身分証をセンサーにかざすと、軽快な効果音がしてゲートを通過することができた。

「なにあれ!?」

 ゲートを通過したテワタサナイーヌが声を上げた。

 玄関を入ると、副玄関に続く廊下と食堂やコンビニの方に行く廊下の二手に分かれる。

 その廊下が合流する頂点に自分がいた。

(え?え?)

 テワタサナイーヌは小首を傾げた。

「テワさん超かわいいっすね」

 後ろから池上の声がした。

 テワタサナイーヌが振り返ると、池上が満面の笑みで立っていた。

 テワタサナイーヌは抱きつきたくなったが、職場では慎まなければならない。

「大輔くん、あれなに?」

 テワタサナイーヌは、すぐ先にいる自分を指差して訊いた。

「あれっすか。係長が作ってくれたんすよ。等身大パネル」

 池上が説明した。

 そう、テワタサナイーヌのイラストの等身大パネルが展示されていたのだ。

 

【挿絵表示】

 

 制服制帽姿のテワタサナイーヌが笑顔で指鉄砲を作ったポーズを取っている。

「知らない人にお金をテワタサナイーヌ」

 テワタサナイーヌのイラストに沿うように、テワタサナイーヌのキャッチコピーがかわいいフォントで描かれている。

「あのイラスト、見たことないんだけど」

 テワタサナイーヌが初めて見るイラストだった。

「あれ、めちゃくちゃかわいいすよね。あれは、係長がオタクのネットワークを駆使して、お気に入りの絵師さんに描いてもらったそうっす」

「相変わらず変なことには力を発揮するのね、お父さんたら」

 テワタサナイーヌと池上は顔を見合わせて笑った。

「部屋に寄ってく?」

 池上がテワタサナイーヌに訊いた。

「うん。診察が終わったら、その結果を庶務に報告しないといけないから、あとで行くね」

「了解。待ってるす」

 池上が挙手の敬礼をした。

(相変わらず敬礼好きか)

 テワタサナイーヌは池上の敬礼も好きだった。

 

「通常勤務に支障ないものと認める」

 

 産業医の診察結果の所見が出た。

 テワタサナイーヌの復職が決まった。

 テワタサナイーヌは、産業医の意見書を持って10階の犯罪抑止対策本部に向かった。

「犯罪抑止対策本部」

 墨書された木製の看板が、以前と変わりなく部屋の入口に掛けられている。

 テワタサナイーヌは、文字を指でなぞって確かめた。

 なぜそんなことをしているかというと、部屋に入るのが躊躇われたからだ。

 入れば歓迎してもらえることはわかっている。

 父も池上もいる。

 なにも不安はない。

 とは言うものの、やはり長期間の休みの後だ、気後れするのも無理はない。

 テワタサナイーヌは、意を決して入り口から顔だけ出して中を覗き込んだ。

 山口と池上の姿が見えた。

 入口に近い席の職員がテワタサナイーヌの姿に気づいた。

「テワさんだっ!!テワさん帰って来ましたよ!!」

 その職員が大声で皆に知らせた。

 部屋の中の全員が一斉に入口を見た。

 全員の視線がテワタサナイーヌに集まった。

 次の瞬間、部屋にいる人数の倍くらいの人がいるのではないかと思えるほどの大きな拍手が起こった。

 全員が立ち上がって笑顔でテワタサナイーヌを迎えている。

「おかえり!」

 男性職員が親指を立てて歓迎した。

「おかえりなさい」

 女性職員は号泣している。

「待ってたよ」

「おかえり」

「おかえり」

「おかえり」

 テワタサナイーヌは、部屋に一歩入り、深々と頭を下げた。

 拍手は鳴り止まない。

 頭を上げたテワタサナイーヌは、大きなジェスチャーで拍手を制した。

 拍手が止むと、もう一度最敬礼をした。

「この度は、私の身勝手な行いから、皆さまにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。今後は、このようなことのないよう、法令、規則、指示に従うことをお誓い申し上げます。どうか、これからもご指導のほど、よろしくお願いいたします」

 言い終わると、再度最敬礼をした。

 部屋がまた大きな拍手に包まれた。

 テワタサナイーヌは、全員に頭を下げて謝罪をして回った。

 最後に、副本部長の坂田警視長に謝罪と診察結果の報告をした。

「庶務の手続きが間に合えばですが、明日からでも復帰してください。みなさん本当に首を長くして待っていましたよ」

 産業医の意見書を見た坂田が復職の許可を出した。

 テワタサナイーヌは、坂田の指示を庶務に伝えた。

 庶務が関係部署に問い合わせをしたところ、明日からの復職が可能という回答であった。

「明日からオッケーです」

 庶務係員がテワタサナイーヌに結果を知らせてくれた。

「ありがとうございます」

 庶務係員に頭を下げ礼を言うと、久しぶりの自席に向かった。

 自分の席の隣には山口がいる。

 山口は、いつもと変わらない飄々とした表情で仕事をしている。

(もっと大歓迎してくれてもいいのに。職場だとほんとクールなんだから)

 テワタサナイーヌは少し悔しくなった。

 テワタサナイーヌは、山口の隣に歩み寄ると、山口の耳元に口を近づけた。

 唇が触れるくらい、というか触れていた。

「愛してる」

 テワタサナイーヌは、囁いた。

 山口が赤面した。

「いきなりなんですか」

 テワタサナイーヌの唇が触れたことと、愛してると言われたことに驚いて後ずさった。

「ぷっ、冗談よ。お父さんが大歓迎してくれないから仕返し」

 テワタサナイーヌがケラケラ笑いながら言った。

「びっくりしました。そういうのはやめなさいと今朝妻から言われたばかりじゃないですか」

 山口は、まだ動揺が収まらない様子だった。

「誘惑じゃないもん。大丈夫よ、ちょっとからかってみただけ」

「大人をからかうもんじゃありません」

「あー、また子供扱いした。また反抗期に入っちゃうぞ」

「すみません、それだけは勘弁してください」

 山口が頭を下げた。

 テワタサナイーヌの反抗期は、山口にとって相当堪えたようだった。

「ちょっと待ってて、お茶淹れてあげる」

 テワタサナイーヌが心を込めて紅茶を淹れた。

「やっぱりテワさんの紅茶が一番おいしいです」

 山口は満足そうに言った。

 二人のやり取りをテワタサナイーヌの後ろの席から池上が見ていた。

「テワさん」

 池上がテワタサナイーヌを呼んだ。

「なによ小僧」

 久しぶりの小僧が登場した。

「俺には耳にキスしてくれないんすか」

 池上が自分の耳を指差して言った。

「ばっかじゃないのあんた。職場であんたにキスなんかしたらしゃれになんないの。マジなキスになっちゃうからいやらしさ爆発でしょ。ほんとに果てしないバカねあんた」

 そう言いながらテワタサナイーヌは池上ににっこり微笑んだ。

 池上もテワタサナイーヌに果てしないバカと言われるのを喜んでいた。

 それがテワタサナイーヌの愛情表現だからだ。

 

 まだ復職していないテワタサナイーヌに仕事はない。

 早く帰ってもよかったのだが、山口と池上の三人で帰りたかったので、定時までデスクでお茶を飲んだり山口の似顔絵を描いたりして過ごした。

「Twitterで復職の挨拶をしますか。皆さんお待ちですよ」

 山口がテワタサナイーヌに挨拶を勧めた。

「ううん、明日、正式に復職してからにする」

 テワタサナイーヌが断った。

「そうですか。ではそうしましょう」

 山口もテワタサナイーヌの意向を尊重して、それ以上勧めることはしなかった。

 午後5時15分、定時。

 庁内に夕焼け小焼けのメロディが流れて定時を報せる。

 全員が一斉に挨拶をして退庁となる。

 山口と池上は、すっかり帰り支度ができていた。

 池上の仕事のスピードは、もう山口より速い。

「席を替わりましょうか」

 山口が冗談を言うくらいになっていた。

「5時30分くらいまで待ってもらってもいいですか」

 山口が腕時計を見ながらテワタサナイーヌと池上に言った。

「いいよ。あと10分くらいね」

 テワタサナイーヌがブルガリの腕時計を見て答えた。

「さあ、帰りましょう」

 5時30分になり、山口がテワタサナイーヌと池上に声をかけた。

「失礼します」

 三人は、まだ仕事をしている同僚に挨拶をして部屋を出た。

「早苗さん、階段使えますか?」

 部屋を出たところで山口のテワタサナイーヌの呼び方がテワさんから早苗さんに変わった。

 上司から家族に変わったのだ。

「うん、使える。階段で行こう」

 テワタサナイーヌが元気に答えた。

 階段は、池上が先頭、次にテワタサナイーヌ、後尾に山口という順で下りた。

 池上が、今までの山口の役割を担い、テワタサナイーヌの手を取り気遣いながら下りていく。

 山口は、二人の仲のいい姿をニコニコしながら見ている。

 1階に下りたところで、廊下に飾られているテワタサナイーヌの等身大パネルの前を通り、三人で手を合わせた。

「オレオレ詐欺の被害がなくなりますように」

「私、神様じゃないんだけど…」

 三人が笑いながら副玄関から桜田通りに出た。

 総務省の前を横切り、霞ヶ関駅の地下に入る。

 地下の長い通路を歩いて千代田線の改札を入ると、山口がスマホでなにやらメールのやり取りをし始めた。

「弥生は、次の電車に乗って来るそうです。それに乗りましょう」

 山口が嬉しそうに言った。

(どんだけラブラブよ)

 テワタサナイーヌも嬉しかった。

 山口は、同じ路線で通勤する妻と、ほぼ毎日一緒の電車で帰るのが通常だった。

 どこの車両のどのドアから乗るのかも決まっていた。

 午後5時30分すぎの千代田線は、まだ帰宅の人も多くない。

 電車がホームに入り停止してドアが開く。

 車内に弥生の姿が見えた。

「あ、お母さんいたよ」

 テワタサナイーヌが弥生に駆け寄り腕につかまった。

「おかえりなさい早苗ちゃん」

 弥生が優しくテワタサナイーヌに言葉をかけた。

 テワタサナイーヌは、目を閉じて幸せをかみした。

「早苗さん」

 山口がテワタサナイーヌに声をかけた。

「なに、お父さん」

 テワタサナイーヌが答えた。

「えっとですね、大変言いにくいのですが、弥生さんの腕は私のものということで、早苗さんは池上さんとくっついてもらっていいですか」

 職場の山口からは想像もできない発言だった。

「あははは、お父さんかわいい」

 テワタサナイーヌが笑いながら弥生の腕を離し、池上と手を繋いだ。

「すみませんね」

 山口が言うと、弥生が山口の手を握った。

 弥生がテワタサナイーヌと池上に言った。

 

「結婚ていいでしょ。よく結婚が人生の墓場だなんて言う人がいるけど、そういう人は、最初から墓場で結婚してるのよ。あなたたちも私たちに負けないくらい幸せになりなさい」

 

「よーし、負けないよ。ねー」

「お、おう!」

 

 テワタサナイーヌと池上が顔を見合わせて山口夫妻に勝負を挑んだ。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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祝福と懲戒コンボ

「なんか夫婦みたいね」

 テワタサナイーヌが池上の腕に絡み付きながら池上を見上げた。

 山口夫妻と最寄り駅まで一緒に帰ってきたテワタサナイーヌと池上は、駅前で山口らと別れて近所のスーパーマーケットに買い物に来た。

 池上が買い物カゴを持ち、その池上にテワタサナイーヌが絡み付くという図になっている。

「自分的にはもう夫婦す」

 池上がさらりと言った。

「まあそうよね」

 テワタサナイーヌも異論はなかった。

「あ、夫婦で思い出した。私が死にかけてたとき、大輔くんがお見舞いに来てくれて、私が退院したらプロポーズするって言わなかった?私、意識がほとんどないときに言われたからよく覚えてないんだけど」

 テワタサナイーヌは、死の境をさ迷っていたときに池上が言ったことをおぼろげながら覚えていた。

「覚えてないっすね」

 池上がとぼけた。

「えー、ほんとに?」

 テワタサナイーヌがむくれた。

「嘘っす。言いました」

「だよね。それ死亡フラグだって言ったような記憶があるもん」

「二人とも死んでないすね。よかったす」

 池上が穏やかな笑顔で言った。

「で、プロポーズは?」

「必要すか?」

「今さらかしらね」

「今更っすよね」

「じゃあさ、籍入れちゃう?」

 テワタサナイーヌが世間話でもするかのように池上に問いかけた。

「そうっすね」

 二人の結婚が決まった。

 スーパーで食料品や日用品を買い込んで、二人は家路についた。

 家に着くとテワタサナイーヌと池上は、食料品を冷蔵庫にしまい、山口夫妻がいる1階に下りた。

「お父さん、あ、お母さんも聞いて。重大発表をしまーす」

 テワタサナイーヌが陽気に言った。

「結婚するんでしょ」

 弥生がこともなげに言った。

「お母さんダメだって先に言っちゃ。感動がなくなっちゃったじゃない」

 テワタサナイーヌがしょげた。

「あははは。ごめんなさい。じゃあ今のはなしね。もう一度初めから言って」

 弥生が仕切り直しを提案した。

「うん。じゃあいい?言うよ」

 テワタサナイーヌがわざとらしい咳払いをひとつした。

「発表します。大輔くんと私は結婚しまーす!」

 テワタサナイーヌが大袈裟な抑揚をつけて高らかに宣言した。

「やっぱりそうなんじゃない」

 弥生が嬉しそうに言った。

「この二人の重大発表といったらそれくらいしかないですからね」

 山口も驚くことなく当然という顔をしていた。

「ねえ、なんかないの?まだ早いとか、娘は嫁に出さんとかさあ。そういう悶着があるもんでしょ、普通は」

 テワタサナイーヌが不満げに言った。

「あーそうですか。じゃあ、ちょっとは盛り上げましょうか?」

 山口がテワタサナイーヌに気のない言い方で答えた。

 テワタサナイーヌは、黙って2回大きく頷いた。

「池上さん、娘は嫁に出さんぞ。どうしても結婚したいなら、君が婿に来い!」

「これでいいですか?」

 山口がテワタサナイーヌに確認を求めた。

「お父さんよくできました!」

 テワタサナイーヌは喜んで拍手した。

「いいすよ」

 池上がこちらも当然といった言い方で応戦した。

「えっ!?」

 これには他の三人が驚いた。

「俺、山口になりたいす」

 池上はニコニコしている。

 悲壮感は、まったく感じられない。

「あらまあ、ずいぶん奇特な男の子だこと!」

 弥生が歓声をあげた。

「本当にそれでいいんですか?」

 山口が池上に確認した。

「はい。それでいいんじゃなくて、そうしたいんです。俺、父さんと母さんみたいな夫婦になりたいです。だから、山口になりたいです」

 池上が力説した。

「大輔くんの気持ちはよくわかったわ。でもね、その理由は山口になりたい理由になってないような気がするんだけど」

 弥生は苦笑いをした。

「やっぱりそうですか。もっと現実的な理由をつけないといけないですね。俺が山口になれば、このまま一緒に住まわせてもらえるし、表札も懸け替えなくて済むから無駄が省けます。どうですか、お得ですよ!」

 池上は、一層力を込めてプレゼンした。

「素晴らしい。いいプレゼンでした。ですが、山口にならなくてもこのまま住めますから、そこだけ減点で90点を差し上げましょう」

 山口が池上のプレゼンを評価した。

「恐縮っす」

 池上が頭を下げた。

 池上は、敬語とブロークンな敬語を使い分ける基準をもっているらしい。

「表札だけの理由で90点もあげちゃうんだ」

 テワタサナイーヌが苦笑しながらも喜んだ。

「私たちは、二人がどちらの姓を名乗っても構わないわよ。姓がどうだって、二人が私たちの子であることに変わりはないんですから」

 弥生がテワタサナイーヌと池上の手を取って言った。

「ね、旧姓若林さん」

 弥生が山口にウインクした。

 山口は、そっぽを向いて吸えもしないタバコを吸うふりをしている。

「なにそれ、聞いてないよ!」

 テワタサナイーヌが大騒ぎした。

「言ってないですからね」

 山口が相変わらずそっぽを向いたまま答えた。

 今でも結婚して女性の姓を名乗る夫婦は、極めて少数だ。

 山口が結婚した頃は、男性側の姓を名乗るのが当たり前と思われていた。

 その当時に妻となる女性の姓を名乗るというのは、世間の風当たりがかなり強かったに違いない。

 実際、山口は親族から「若林の名を絶やすのか」などと言われていた。

「名前がなんであっても、自分は父と母の子であることに変わりはない」

 こう言って山口は周囲の反対を押し切った。

 なぜ山口は弥生の姓を選んだのか。

「私は変えたくない」

 弥生がそう言ったから。

 それだけだった。

「そうですか。それではそうしましょう」

 山口は、物事を考えているのかいないのか、よくわからない男だった。

 今の池上とよく似ている。

「類は友を呼ぶわね」

 弥生が山口に言った。

「呼んでしまいましたね」

 山口が苦笑した。

「池上さん、それでいいんですね」

 山口が念を押した。

「はい。全然問題ナッシングす」

 池上が親指を立てた。

「そういうことみたいだけど、早苗ちゃんはどうなの?」

 弥生がテワタサナイーヌに尋ねた。

「私もせっかく山口になれたんだから、できれば山口でいたいなーと思ってたところ。でも、ほんとーに、ほんとーにいいの?後悔しない?」

 テワタサナイーヌが池上を気遣った。

「女のひとが姓を変えるといっても、そんなに念押しするすか?しないっしょ。同じっすよ」

 池上は頓着しない性格のようだ。

「大輔くん、いい男だわ」

 テワタサナイーヌが池上を拝んだ。

 こうしてテワタサナイーヌと池上の結婚が正式に承認された。

 

 ──翌日

 テワタサナイーヌが正式に仕事に復帰する日だ。

 始業前に、もう一度全員の前で迷惑をかけたことへの謝罪と復帰までの支援に対する謝辞を述べた。

「謝罪と謝辞で謝謝(しぇしぇ)すね」

 自席についたテワタサナイーヌに、後ろの席から池上が話しかけた。

「面白くない。思いついたことを何の考えもなしに言うんじゃないの」

 そう言ってテワタサナイーヌは大笑いしながら池上の椅子に蹴りを入れた。

「いてっ、テワさん笑ってるじゃないすか」

 池上が恨めしそうにテワタサナイーヌを見た。

「ねえお父さん」

「なんですか」

 二人の会話は、いつもここから始まる。

「私が休んでる間にオレオレ詐欺は、新しい手口とか出てきた?」

 テワタサナイーヌが山口に向き直って訊いた。

「毎日のように新しいパターンが出ていますよ」

「えー、大変。よし、頑張って広報するからね。できるだけたくさんのパターンを紹介しなくちゃ」

 テワタサナイーヌがやる気を出した。

「テワさん、テワさん」

 池上が後ろから呼んだ。

「なによ小僧」

「詐欺もそうっすけど、仕事もパターンで覚えようとすると、新しい手口や想定外のことに対応できなくなるっすよ」

 池上が得意気に言った。

 池上の方に向いているテワタサナイーヌの後ろで山口が紅茶を吹いた。

「お父さん大丈夫?」

 テワタサナイーヌが心配して声をかけた。

「あ、なんでもないです。大丈夫です」

 山口は、むせながらなんとか答えた。

「どういことなの?」

 テワタサナイーヌが池上の方に向き直って質問した。

「原理、原則を理解するんす」

 池上は鼻高々だ。

「そうすれば、想定外のことにも対応できるす。新しい手口にだって対応できるすよ」

 池上は滔々と話した。

「ふーん、小僧が賢くなったのね。で、オレオレ詐欺の原理、原則ってなんなの?」

 テワタサナイーヌが疑問をぶつけた。

「え、それは、ほら、アタリマエの原理っすよ!」

(あんまり考えてないな、こいつ)

 テワタサナイーヌは、池上の答え方で直感した。

「じゃあさ、仮にアタリマエの原理を理解したとするよ。それでオレオレ詐欺が防げるの?」

 テワタサナイーヌの突っ込みが続く。

「いや、たぶん、防げる?のかなか…」

 池上の負けだった。

「係長、助けてください」

 池上が白旗を上げて山口に助けを求めた。

「池上さん、生兵法は怪我の元ですよ。アタリマエの原理は、オレオレ詐欺のメカニズムを説明したものです。それだけで被害を防げるものではないんです」

 山口が笑いながら言った。

「アタリマエの原理だけがオレオレ詐欺の原理、原則ではないんですよ」

「この前、車の中ではアタリマエの原理までしか説明できませんでした。でも、実はアタリマエの原理には、その先があるんです」

「アタリマエの原理で、相手を自分の子供や孫といった親族だと自動的に判断してしまいますね。人は、相手に応じた行動や態度を取ろうとします。ですから、相手が息子や孫だと認識すると、それに対応する自分の地位、それは?」

 山口は池上に質問した。

「親とか祖父母とかっすよね」

「そのとおりです。池上さん、いつも冴えてますね」

 山口が池上をほめた。

「相手が子供や孫だと思うと、これも自動的に親や祖父母として振る舞おうという反応が起きます。そこに、身内の恥は隠したい、穏便に済ましたいという日本的な文化が介在するわけですが、それは置いておくとして、親や祖父母として振る舞おうとするスイッチが入るわけです。これが『親心スイッチ』です」

「アタリマエの原理によって親心スイッチが入ります。しかも、ここまですべて自動です。被害者の考えはほとんど入りません。こうなると、あとは通帳と印鑑を握りしめて金融機関に一直線です」

 山口は、テワタサナイーヌと池上を交互に見ながら説明した。

「なんだか怖い。全自動詐欺じゃん」

 テワタサナイーヌがつぶやいた。

「そうなんです。テワさん、いい表現をしました。まさに全自動詐欺なんですよ。テワさんも池上さんも、オレオレ詐欺の実際の電話を録音したものを聞いたことがありますか?」

「うん、ある。へたっぴだった」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そうでしょう。へたくそなんですよ、演技が。まあ、あれでも犯人グループの中では演技力があると認められた人がやっているそうなんですが。それにしても、客観的に聞いていると、こちらが恥ずかしくなるくらいへたくそな演技です。それでも被害に遭ってしまうんです。演技力で騙されているのではなく、被害者が自動的に犯人の作り出す世界に入ってしまうんです」

 山口がゆっくりと説明した。

「ちょっと待ってよ。そしたら被害を防ぎようがないじゃない!」

 テワタサナイーヌが腹立たしげに吐き捨てた。

 マズルが少し伸びている。

「テワさん、マズル」

 山口がテワタサナイーヌの鼻先に手を当てた。

「あ、お父さんありがとう。いたたた」

 テワタサナイーヌのマズルが元に戻った。

 マズルが戻るとき、テワタサナイーヌには激痛が走る。

 それを山口の手を添えることで軽減することができるのだが、やはり多少の痛みは残る。

「被害を防ぐ手立てはあります。相手が全自動で攻めてくるのですから、こちらも全自動で対抗するのです。全自動に意識で対抗しようとするから負け続けてしまうわけですから」

 山口が続けた。

「被害を防ぐには、物理的に動かせるもの。言い方を変えると、外力で変更を加えることが可能なものを動かしてあげればいいのです。白バイ乗りのテワさんならわかりますよね」

 山口はテワタサナイーヌに話を振った。

 テワタサナイーヌは、腕を組んでしばらく考え込んでいた。

 珍しく難しい顔をしている。

「あっ!」

 テワタサナイーヌの顔が輝いた。

「法則や原理は破れない!だから、アタリマエの原理じゃなくて親心スイッチを攻めるのね!」

「そのとおりです。さすがテワさんですね」

 山口は、二人を別け隔てなくほめる。

「スイッチは物理的に動かせるものですからね」

 山口は、うまいことを言ったという顔で満足げだ。

「間違えて犯人側に入ってしまった親心スイッチを本来の子供や孫の方に切り替えてあげればいいのです」

「でもどうやるんすか」

 池上が首をひねった。

「ご本人に登場してもらいましょう」

「本人を呼んでくるの?そんなことしてる時間はないよ」

 テワタサナイーヌも小首を傾げた。

「テワさん、めっちゃかわいいっす」

 池上が興奮した。

「お二人は、消火訓練をやったことがありますか?」

 山口が質問した。

「消火訓練てあれでしょ。お水が入った消火器で火の絵が描いてある板に水を当てるやつよね」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そうです。それです。あの訓練ですが、実に茶番といいますか、くだらないと思いませんか?」

 珍しく山口が汚い言葉を使った。

「消火器で水を飛ばすんだもん。バカバカしいとは思うよ」

 テワタサナイーヌも同意した。

「火を消すという意味においては、実にバカバカしい訓練ですよね。本当に火を消すわけではないのですから」

「でも、あの訓練は、火を消すことが目的ではないのです。消火器の扱いを体で覚えることが目的です。考えなくても消火器を扱えるようになることです。頭で消火器の使い方を知っていても、いざ本当の火事の場面では体が動きません。実際に動作をして体で覚えたことは、火事という非常事態の中でも再現することができるのです」

 山口の説明に力が入る。

「理屈だわ」

 テワタサナイーヌが感心している。

「オレオレ詐欺の被害防止にも、この訓練が有効だと思うのです」

「そんな訓練があるんすか?」

 池上がテワタサナイーヌの脚を撫でながら訊いた。

 テワタサナイーヌが池上の手をはたき落とした。

「あるから言ってるんです」

「道理だわ」

 またテワタサナイーヌが感心した。

「子供や孫から電話がきたら、とにかく元の携帯電話番号に折り返し電話をかける訓練をするのです」

「あらかじめオレオレ詐欺の手口に沿ったシナリオを作り、それを親子、孫祖父母で共有しておきます。そして、抜き打ちではなく、これから訓練をやるということを予告してから訓練を始めます。インシデント対応の訓練ではありませんからね。まず、子供や孫が親や祖父母に電話をかけます。そして、理由はなんでもいいですから、携帯電話の番号が変わったと言い、新しい番号をメモさせます。それだけです。そこで、通話を終えた親あるいは祖父母には、さきほど電話で言われた新しい電話番号ではなく、元の携帯電話番号に折り返しの電話をかけてもらいます。元の番号に電話がかかってくれば成功です。失敗したらもう一回やってみましょう」

「ここで気をつけてほしいのは、訓練が成功したか失敗したかではありません。折り返し電話の動作を実際にとったということだけが重要となります。水を飛ばす消火訓練で火が消えたかどうかは問題になりませんよね。動作をすること、それが訓練の目的です」

 長い説明を終えた山口は、テワタサナイーヌが淹れてくれた紅茶で口を湿らせた。

「本人と通話をすれば、間違えた親心スイッチは、正しい方に切り替わります。これで詐欺は防げます。ですから、最悪、左手に通帳と印鑑を握りしめて銀行に走り出しても、その途中で右手の携帯電話で元の電話番号に折り返し電話をかける習慣を身に着けておけば、ギリギリ被害は防げます」

 山口が付け足した。

「お父さんすごい」

 テワタサナイーヌが半ば放心状態になっている。

「係長って何ものなんすか」

 池上も顔が上気している。

「私はお二人の父ですよ」

 山口が舌を出した。

 

「復帰初日です。みなさんにご挨拶しましょうか」

 山口がテワタサナイーヌにTwitterで復帰の挨拶をするように勧めた。

「そうだった。忘れてた」

 テワタサナイーヌと山口が席を代わった。

 山口のデスクにしかインターネットに繋がったパソコンがない。

 テワタサナイーヌがTwitterを使うときは、山口と席を代わってもらっている。

 テワタサナイーヌのブラインドタッチは軽快だ。

 山口のブラインドタッチは、どちらかというと力技だ。

 最後のエンターキーを叩く音がうるさい。

 テワタサナイーヌは、パラパラと軽やかなキータッチ音を響かせて、次々とツイートを投稿していく。

「みなさーん、お待たせしました。ゾンビ犬のテワタサナイーヌでーす。事故であやうく死にかけました。みなさんも安全運転してくださいね!」

「実は、私テワタサナイーヌが死にかけたのは初めてじゃありません。2回目なんですよ。しかもしかもしかも、2回とも私の尊敬する上司、款さんが命を救ってくれました。拍手ーっ!」

「一回目は、子供のとき、ある人に殺されかけてたとこを助けてもらいました。二回目は、この前の事故のときです」

「事故の直前に、款さんが無線で私を呼んでくれました。それで私は我に返ってブレーキをかけました」

「あそこでブレーキをかけてなかったら、たぶんもろに車に突っ込んで死んでました。事故って怖いですよね」

「ということで、款さんには二回も命を助けてもらいました。マジ感謝です」

「そしてご報告があります。テワタサナイーヌは、款さんの娘になっちゃいましたよ。びっくり?」

 テワタサナイーヌの復帰にタイムラインが湧いた。

「テワちゃん生きてた!」

「無事でよかった」

「心配してたよ」

「2度も死にかけたなんて最強の死に損ないですね」

「もう一生死なないから大丈夫です」

「おかえりなさい」

「款さんの娘になったの?いいなー、私もなりたい」

「款さん、スーパーマンかよ」

 メンションが思い思いの祝福で溢れた。

 口が悪いのはTwitterのお約束だ。

 悪口も祝福と読むくらいのメンタルでないと、公式アカウントの担当は務まらない。

 テワタサナイーヌと山口は、すごい勢いで流れていくメンションを一つも見落とすまいと、懸命に追っていった。

 祝福のメッセージは、長く続いた。

 ひとつのモニタを二人で見てもテワタサナイーヌが山口に異常接近することはなかった。

 

 ──その日の午後

 テワタサナイーヌ、池上とともに昼食をとり、午後のまったりと時間を過ごしていた山口を副本部長の坂田警視長が副本部長室の中から手招きで呼んだ。

「お呼びでしょうか」

 部屋の入口で山口が声をかけた。

「どうぞ、お入りください」

 坂田はソファを勧めた。

「失礼します」

 坂田が座ったのを確認して、山口もソファに腰をおろした。

「14時になったら総監室に行ってください。テワタサナイーヌさんも一緒に」

 坂田が山口にさらりと言った。

「総監室ですか?」

 山口が聞き返した。

 総監室に警部や警部補が呼ばれることはあまりない。

 あまりないというか、ない。

 それが、総監直々に呼び出されたとなると、どう考えても普通のことではない。

「要件は何でしょうか」

 山口は要件が気になって坂田に訊いた。

「私の立場からは言えませんので、とりあえず14時に総監室に出頭してください」

 普段歯切れのいい坂田にしては、珍しく口を濁した。

「あ、きちんと上着も着て行ってください」

 坂田が付け足した。

 14時

 総監秘書室の待合にスーツを着た山口とテワタサナイーヌの姿があった。

 自分たちが何の要件で呼ばれたのかわからないのは不安だ。

 ふたりとも表情がこわばっている。

 総監秘書が入室の案内をした。

 総監執務室のドアを秘書が開ける。

「犯抑の山口警部、テワタサナイーヌ警部補入ります」

 秘書が中の総監に声をかける。

「どうぞ入ってもらってください」

 中から高柳総監の元気な声が聞こえた。

 高柳総監は、3月14日、テワタサナイーヌの誕生日に突撃インタビューをさせてもらった縁で、顔は覚えてもらっている。

 山口とテワタサナイーヌは、部屋に入ると卓球台ほどあろうかという大きな机の前に並んで立った。

「犯罪抑止対策本部、山口警部ほか1名参りました」

 山口が代表で申告した。

「お呼び出ししてしまい申し訳ありません。今日は、ちょっと厳しいことを言わなければなりません」

 高柳総監は、いつもどおりの明るい声で重大なことを言った。

(総監が直々に言う厳しいことって、どんだけ厳しいことなのよ)

 テワタサナイーヌは膝が震えた。

 総監のデスクには、漆塗りの四角い盆が置かれている。

 その盆の中をちらりと見た山口は、事態を理解した。

「辞令」

 盆の中には、そう書かれた白い紙片が2枚置かれていた。

 問題は、その中身だ。

「山口さん、前にどうぞ」

 総監が山口を呼んだ。

「はい」

 山口が返事をして、総監の前に進み出る。

 総監は、一枚の紙片を手に取り両手で持ち、胸の高さまで掲げた。

 山口はつばを飲み込んだ。

「辞令」

 総監が辞令を読み上げた。

「警部山口博 懲戒処分 減給100分の5(3か月)を命ずる」

 そう読み上げると、総監は辞令の向きを変えて山口に差し出した。

 山口は、いま一歩前に出て両手で辞令を受領した。

 受け取った辞令を一旦引きつけて、左手に持ち替えて気をつけの姿勢を取る。

 元いた位置に戻り、再度、気をつけの姿勢を取った。

「早苗さん、どうぞ」

 総監がテワタサナイーヌを促した。

 テワタサナイーヌの顔がひきつっている。

 テワタサナイーヌは、足が思うように出ない。

 ふらつくように総監の前に進み出て気をつけの姿勢を取る。

 総監が残りの辞令を手に取り読み上げた。

「辞令 警部補山口早苗 懲戒処分 減給100分の10(6か月)を命ずる」

 テワタサナイーヌが辞令を受け取ろうとするが、手が震えてうまく受け取れない。

 総監は、じっと待っている。

 どうにかテワタサナイーヌが辞令を受け取り、元の位置に戻った。

 テワタサナイーヌは、今にも泣きそうな顔をしている。

「敬礼」

 山口が号令をかけ、総監に敬礼をした。

「休んでください」

 総監が休めを勧めた。

「休め」

 山口が号令をかけ、二人で休めの姿勢を取る。

 休めと言われても、まったく休まらない。

「いま、お二人に懲戒処分を行いました。理由はおわかりかと思いますが、改めて説明します」

「まず、山口さん」

「はい」

 山口が返事をした。

「あなたは、山口早苗さんが交通事故を起こした当日、公用の自動二輪車を目的外に使用しました。さらに、緊急走行の要件がないにも関わらず、霞ヶ関ランプから八王子医療センターまで緊急走行を行いました。公用車の無断私用と、要件のない緊急走行を行ったということで、本日懲戒処分としました」

「次に山口早苗さん」

「は、はい」

 テワタサナイーヌの声が震えている。

「あなたは、ステルスチームとして活動中、逃走する犯人の追尾を行いました。その際、現場指揮官の追尾打ち切りの命令を無視し、追尾を続行するという指揮命令違背を犯しました。さらに、命令違背により交通事故を起こし、一般交通に重大な影響を及ぼしました。これは、非常に危険な行いで、場合によっては他人を死傷させるおそれのある行為です。ですから、重い処分を課します」

 テワタサナイーヌは、完全に血の気が失せている。

 貧血で倒れるのではないかと山口が心配になったほどだ。

「説明は以上です」

 総監が説明の終了を宣言した。

「気をつけ」

 山口が号令をかける。

「敬礼」

 二人で敬礼をした。

「さて」

 総監が、今までの厳粛な顔から、以前、インタビューを受けてくれたときの穏やかな顔に戻った。

「そちらに座りましょう」

 総監がインビューをしたときと同じテーブルを指して促した。

「失礼します」

 山口とテワタサナイーヌが並んで座った。

 総監は、山口と角を挟んで座る形になった。

「今回は、おふたりになかり重い懲戒処分を行いました。特に早苗さんには過酷な処分となりました。まずは、事実を受け止め、反省をしてください。」

「規律は組織の命綱です。これが緩むと組織が死んでしまいます。ですから、規律違反には、厳しく対処しなければならないのです。規律違反に温情をいれることは許されません。規律は絶対なのです。曲げてはいけないものです。わかってください。お二人を悪者にしようという意図はまったくありません」

「それはそうと、お二人が親子になられたそうで。おめでとうございます」

 総監が笑顔で祝いの言葉をかけた。

「しかも、同じ所属の池上さんと、近々ご結婚の予定だとか。益々めでたいですね」

「警視庁では、家族が同じ所属で勤務することはできないというルールがあります。ご存知ですね」

 総監が二人を見て言った。

「存じております」

 山口が答えた。

「そうなると、山口さん、早苗さん、池上さんのお三方は、別々の所属で勤務していただくことになります」

「覚悟しております」

 山口はすでに覚悟していた。

「山口さんはTwitter警部として国民に親しまれています。早苗さんも山口さんの相棒としてTwitterやキャンペーンなどで人気です。池上さんも山口さんの後を継ぐ人物として余人をもって代えがたいと坂田さんから報告を受けています」

 総監がにやっと笑った。

「この場合、変わるべきはみなさんの所属ではなく、ルールの方です」

「家族が同じ所属で勤務できないというのは、あくまでも暗黙のルールでしかありませんが、このルールは厳格に守られています。今回、お三方が家族になられた。あ、池上さんはまだ家族ではありませんが、いずれ家族になられます。そして、お三方にこのルールを適用した場合、いま山口さんやテワタサナイーヌさんとしての早苗さんが国民、都民と築いていらっしゃる信頼関係、相互理解の関係が解消されます。そして、山口さんから池上さんに受け継がれるはずのソーシャルメディア活用のノウハウやマインドが途絶えます。これは、警視庁にとって損失といえます。暗黙のルールを堅持するメリットとデメリットを比較衡量した場合、今回はデメリット、つまり警視庁としての損失の方がはるかに大きい。私は、そう判断しました」

「お三方には、現体制現任務続行を命じます」

 総監がにこやかに命を下した。

「例のものを」

 総監が秘書に向かって言った。

 総監秘書が別の盆を持ち卓球台ほどあろうかという大きな机の上に置いた。

「早苗さん、もう一度こちらいいですか」

 総監が自席に移動してテワタサナイーヌを呼んだ。

 テワタサナイーヌは、まだ青い顔をしている。

 よろよろしながら総監の前に進み出て気をつけの姿勢を取る。

 総監が盆の中に置かれたものを手に取る。

「賞誉 警部補山口早苗 君はバイク便を仮装したオレオレ詐欺事件の捜査にあたり、勇猛果敢な採証活動により事件の解決に多大な貢献をした。その功労は顕著であるからこれを賞する。警視総監高柳右近」

「ご苦労様。おめでとうございます」

 そう言って総監は賞状を反転させるとテワタサナイーヌの前に差し出した。

 テワタサナイーヌは、賞状を受け取ると総監に敬礼した。

「早苗さんが命がけで追尾をして撮影してくれた映像が犯人検挙の決め手になりました。本当にありがとう。よく生きて帰ってきてくれました。これからも活躍を楽しみにしていますよ」

 総監は涙ぐんでいた。

「実は、私もテワタサナイーヌさん推しなんですよ」

 総監が笑顔で告白した。

 テワタサナイーヌの顔に血色が戻り、笑顔が出た。

「私からは以上です。早苗さん、いやテワタサナイーヌさん、また遊びましょう」

 そう言って総監は二人を送り出した。

 総監室を出て1フロア下の犯罪抑止対策本部のある10階まで下りる階段で、テワタサナイーヌは脚が脱力してあやうく転落しそうになった。

 山口がいつものように先行してくれていたのでテワタサナイーヌは下から支えてもらえた。

 奇しくも山口に抱かれる形になった。

(ちょっと幸せ)

 テワタサナイーヌは密かに喜びを噛み締めた。

 部屋に戻ると副本部長の坂田警視長に懲戒処分と総監賞受賞の報告をした。

「懲戒処分と総監賞を同時にもらった人は、たぶん初めてじゃないですかね」

 坂田が笑いながら言った。

「懲戒処分は、総監もおっしゃったと思いますが、組織のけじめです。減給を受けると退職金などに響きます。その点は申し訳ないと思いますが、温情で曲げるという恣意的な運用はできません。ただ、今回の懲戒処分が、お二人の今後に不利益とならないようにせよとの総監からの指示を受けていることをお知らせしておきます。つまり、昇任や人事配置には影響ないということです」

 坂田が総監の計らいを二人に伝達した。

「ありがとうございます」

 山口とテワタサナイーヌは、坂田に深々と頭を下げた。

 二人は副本部長室を出て、それぞれ自席に戻った。

「もー、怖くて死ぬかと思った」

 テワタサナイーヌが安堵した様子で椅子の背もたれに体を預けて背伸びをした。

「覚悟はしていましたが、いざ辞令を受けるとなると脚が震えるものですね」

 山口も脚が震えていたという。

「え、お父さんも?」

 テワタサナイーヌが意外という顔をした。

「びびりですから」

「うそつき」

 テワタサナイーヌが山口の椅子をこつんと蹴った。

「テワさん、なにもらってきたんすか」

 池上がわかっていながらわざと知らないふりをして訊いた。

「懲戒処分と総監賞。もうびびったり喜んだりで大変だったんだからね」

「そりゃそうっすよね。懲戒処分は普通所属長から辞令が交付されるのに、わざわざ総監が直々に呼び出して渡したんすから、よっぽどなにか言いたかったんすね」

「私とお父さんが親子になっても同じ所属で仕事していいって言われたよ」

 テワタサナイーヌが嬉しそうに言った。

「よかったじゃないすか。総監、ナイスっすね」

「あ、ついでにあんたが私と結婚してもここにいていいって。ここでお父さんの後を継げ、だって」

「ほんとすか!?いやー、総監わかってるすね」

 池上が腕を組んで頷いた。

「ところで、ついでってなんすか」

 池上が気づいた。

「ついでは、ついでよ」

 テワタサナイーヌが素っ気なくはぐらかした。

「相変わらずツンデレっすね、テワさん」

 池上は楽しそうだ。

 

 その日も例によって四人で一緒に帰宅した。

「お父さんと私からお母さんに見せたいものがあります」

 テワタサナイーヌがキッチンにいた弥生をダイニングに引っ張り出した。

「なんなの?」

 弥生が笑いながら言った。

「じゃーん!」

 テワタサナイーヌと山口が同時に懲戒処分の辞令を弥生に見せた。

「あらあら、ほんとに仲がいいこと」

 弥生は、クスクス笑いながら辞令を読んでいた。

「懲戒処分を受けるようなお間抜けさんでも私の大事な夫とかわいい娘よ。あ、ついでに大輔くんも大事な娘の夫になるかもしれない人で、それなりに大事ですからね」

「やっぱり俺はついでなんすね。しかもそれなりとか」

 池上が苦笑した。

「ふふ」

 弥生が池上の頭を撫でた。

 

 山口邸の窓から、温かい光が漏れていた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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MCイーヌ

 クリスマスイブ。

 暮れの慌ただしさレイヤーにお祭り気分レイヤーが乗算されたような独特の高揚感をもつ。

 去年のクリスマスイブは、寮でビーフジャーキーをかじりながら缶ビールを飲んでいたテワタサナイーヌだったが、今年は交通事故で死にかけ、山口の娘となり、さらに部下の池上と婚約した上、山口の自宅に引っ越して同棲することになった。

 あらゆることが目まぐるしく動いた一年だった。

(しかもよ、30歳になって反抗期を迎えるとは思わなかったわ)

 テワタサナイーヌが一年を回想して、自分の変わりように感心していた。

 

「テワさん、出動ですよ」

 一年を回想してニヤニヤしているテワタサナイーヌに機動隊員が声をかけた。

「あ、ごめんなさい」

 我に帰ったテワタサナイーヌは、荷物を持つと講堂を出て隊庭に走った。

 第九機動隊。

 江東区の東陽町、江東運転免許試験場の裏手にある機動隊だ。

 警視庁には、第一から第九までと、特科車両隊という10の機動隊がある。

 そのうちの第九機動隊にテワタサナイーヌは派遣されていた。

 クリスマスイブの渋谷駅前スクランブル交差点の雑踏警戒のためだ。

 テワタサナイーヌは、第九機動隊と縁があった。

 

 ──6月

 サッカーワールドカップのアジア最終予選が開催され、日本が本大会出場を決めた日。

 本大会出場決定を祝う群衆が渋谷に多数集まった。

 その雑踏警戒のため、第九機動隊が渋谷駅前スクランブル交差点に配置となった。

 交差点の角に指揮官車を停め、屋根の上に作りつけられている折り畳み式の柵を立ち上げ、その上からマイクで群衆に向かって広報する担当者、広報係が登壇した。

 その広報係員は、絶妙のトークで群衆の心をつかみ、見事に雑踏をさばいた。

 この模様がYouTubeなどに投稿され大きな話題となった。

 この担当者は、自然発生的に「DJポリス」と呼ばれるようになった。

 山口のツイートと同じように、都民国民と同じ目線から呼びかける広報に山口が反応した。

「DJポリスとはお友達になれそうな気がします」

 山口がツイートすると、このツイートも大きな反響を呼び、DJポリスとともに新聞に大きく取り上げられた。

 これを山口が見逃すはずはなく、さっそく動いた。

 総監に続く突撃インタビュー企画だ。

 テワタサナイーヌをDJポリスに突撃させようというのだ。

 山口は、DJポリスが所属する第九機動隊に電話をかけた。

 当初、第九機動隊は難色を示していたが、山口が拝み倒して受けてもらえることになった。

 ただし、セキュリティの関係から写真撮影はNGという条件が付された。

「写真撮れないんだったら私が行くことないですよね」

 反抗期のテワタサナイーヌは、ふてくされていた。

「そうなんですが、テワさんが行ってくれないとインタビューになりませんから。なんとかお願いします」

 山口が頭を下げて頼んだことで、ようやくテワタサナイーヌが首を縦に振った。

 反抗期であってもそこはプロだ。

 現場に着くと、いつものハイテンションなテワタサナイーヌに成りきった。

 テワタサナイーヌのハイテンションなレポートにより、DJポリスへの突撃インタビューも好評を博した。

 そのときの縁があって、今回、テワタサナイーヌにクリスマスイブ雑踏警戒への派遣要請が出された。

 DJポリスとの共演により、集まった群衆のハートをつかむ広報を行って欲しいというオーダーだった。

「やるやる!頼まれなくてもやる!」

 テワタサナイーヌは、二つ返事で応じた。

「何を着て行こうかしらー」

 要請が来た12月始めから着ていく服に頭を悩ませるテワタサナイーヌであった。

「何をって制服じゃないんすか?」

 池上がテワタサナイーヌに訊いた。

「制服じゃつまんないじゃん。私が出るんだから、もっと面白がってもらわないとね」

 おそらくテワタサナイーヌは、当日集まる群衆以上に浮かれている。

 すでに目的を誤っている。

(テワさんは、それくらいでいいんです。思い切りやってください)

 山口は、浮かれるテワタサナイーヌを見ながら楽しそうだった。

 テワタサナイーヌがわざとやっていることを理解しているからだ。

 

「テワタサナイーヌさん、いいですか。出発します」

「はい。お願いします」

 午後3時。

 指揮官車に乗り込んだテワタサナイーヌが第九機動隊を出発して渋谷に向かった。

 車中のテワタサナイーヌは、自分の口上を口ずさんでご機嫌だった。

 前回インタビューをしたDJポリスが隣に乗っていることもあり話も弾んだ。

「テワタサナイーヌさん、今日は本当にこれ着るんですか?」

 DJポリスがテワタサナイーヌのコートの下から見えている衣装を指差して笑った。

「ダメですか?ていうか、これしか着てないからダメと言われても手遅れですよ」

 やったもの勝ちの勢いで押し通すつもりだ。

「僕は全然オッケーです。やっちゃいますか」

 DJポリスも乗り気になってきた。

「やっちゃいましょう!」

 テワタサナイーヌが調子を合わせた。

 年末の都内はどこに行っても渋滞している。

 第九機動隊から渋谷に着いたときは、日も傾き夜の気配を感じさせるようになっていた。

 ただ、まだクリスマスイブに浮かれた群衆は見当たらない。

 ところどころに赤い帽子を被った人を見かける程度だ。

 現場では、すでに到着していた部隊がカラーコーンなどを並べて規制の準備を進めている。

 テワタサナイーヌを乗せた指揮官車は、スクランブル交差点の中の規制区域に入って停まった。

 JR渋谷駅側の角にあたる場所だ。

 運転の隊員とDJポリスが降車して屋根の上の柵を立ち上げて広報の準備をした。

「テワタサナイーヌさんのステージができましたよ」

 DJポリスが車中のテワタサナイーヌに声をかけた。

「ありがとうございます。なんにもしなくてごめんなさい」

 テワタサナイーヌが礼を言った。

「とんでもない。お願いして来てもらってますし、女優さんに力仕事をさせるわけにはいきませんからね」

 DJポリスも池上っぽい男だった。

(スパッツ履いてきたわよね)

 テワタサナイーヌは、スカートをたくし上げて確認した。

 壇上に上がるので、必ず下からカメラで煽られる。

 スパッツは必須アイテムだ。

「あとは、別命あるまで待機です」

 DJポリスが車に乗り込みながらテワタサナイーヌに言った。

「別命あるまで待機、了解」

 テワタサナイーヌが復唱して了解した。

 

 夜になり渋谷の街には思い思いのコスチュームを身につけた人々が集まり始めた。

 それに伴ってテワタサナイーヌのテンションも徐々に上がっている。

「テワタサナイーヌさん、この先は朝までの長丁場になります。今からは水分を控えた方がいいです。あと、今のうちにトイレを済ませてください」

 DJポリスがアドバイスを出した。

「わかりました。ありがとうございます」

 そう言ってテワタサナイーヌは、渋谷駅前交番のトイレを借りに行った。

(おかしいわね)

 交番でトイレを借りて指揮官車に戻ろうとしたテワタサナイーヌの目に周囲の風景から浮いている人物が映った。

 紙袋を胸に抱えたおばあさんが、不安そうな顔をしながらあたりをきょろきょろと見回している。

 何かを探しているような動きだ。

(クリスマスイブの渋谷におばあさんが一人でいるなんて変ね。もしかしてもしかするわよ、これは)

 ステルスチームとして勤務した経験がテワタサナイーヌの勘を鋭くしていた。

 テワタサナイーヌは、腰につけた無線機の送信ボタンを押した。

「テワから拠点」

 耳に仕込んだ骨伝導式のイヤホンマイクで機動隊の拠点を呼び出した。

「拠点です。テワさんどうぞ」

 拠点の元気な応答が返ってきた。

「渋谷駅前でオレオレ詐欺の被害者らしき高齢の女性を発見。紙袋を抱え、あたりを見回しているいる状況。至急犯抑のステルスチームを要請願います。ステルスチーム到着まで本職は女性の動向を監視します。どうぞ」

「拠点了解。要請する」

 拠点の通話に緊張感が出た。

(この衣装は失敗したかも。これじゃ走れないよ。コートの中が見えたら陽気すぎだよ、これ)

 テワタサナイーヌは衣装のチョイスを後悔した。

 後悔しても仕方ない。

 テワタサナイーヌは、その女性から目を離さずに、一番監視しやすい場所に移動した。

 女性が携帯電話で誰かと話をしている。

 話をしながらあたりを見回している。

 女性が改札からハチ公象の方に歩き始めた。

 テワタサナイーヌも人の流れに逆らわないようにしながら、女性の動きに合わせて移動する。

 人の流れに逆らうと、犯人に見つかる可能性があるからだ。

 女性は、携帯電話で話をしながら交差点の反対側、井の頭線の駅がある方を背伸びしながら見ている。

(ちょっと、そっち渡らないでよ。戻りにくいんだから)

 井の頭線の方に渡られたら指揮官車に戻るために人混みをかき分けなければならない。

 しかし、そういう心配は、往々にして当たる。

 女性がスクランブル交差点を渡り始めた。

(いやー、渡らないでよ!)

 そう思いながらも身体は反応してしまう。

 女性と一定の距離を保ちつつテワタサナイーヌもスクランブル交差点を井の頭線方向に渡っていた。

(あーあ、渡っちゃったよ)

 テワタサナイーヌは、仕事に忠実な自分を恨めしく思った。

(こうなったらとことんやるしかないわね)

 テワタサナイーヌのやる気に火が着いた。

「テワから拠点」

「テワさん、どうぞ」

「女性はスクランブル交差点を井の頭線方向に渡った。監視を続けます」

「拠点了解」

(早くステルス来てくれないかなあ。て、さっき要請したばっかりだからまだ無理よね)

 テワタサナイーヌは焦りながらも女性の監視を続けた。

 女性は、電話をしながら井の頭線の駅に入っていった。

(げっ、最悪)

 女性が犯人からの指示で井の頭線に乗って別の場所に誘導される可能性があるからだ。

 女性は、切符売り場の料金表示板を見上げている。

(これは乗っちゃうよね)

「テワから拠点。女性は井の頭線に乗る模様。ステルスに連絡願います」

「拠点了解」

 テワタサナイーヌの心配通り女性は券売機で切符を買うと自動改札の手前で立ち止まった。

(どうした?)

 テワタサナイーヌが不思議に思っていると女性が駅員に話しかけた。

「これは、どうやって乗るんですか?」

 テワタサナイーヌから女性までは、10mくらい離れている。

 しかし、犬耳の集音力を最大にして、かすかに女性の声を拾うことができた。

(上京型だ!)

 テワタサナイーヌは確信した。

 オレオレ詐欺は、被害者の自宅までお金を取りに来るのが一般的だ。

 ところが、中には地方に住んでいる高齢者を都内に呼び出して現金を受け取る「上京型」という手口がある。

 テワタサナイーヌが上京型と判断したのは、女性が自動改札の通り方を駅員に質問したからだ。

 自動改札に慣れていない地方から上京した可能性が高いという推理だ。

 ここまで、テワタサナイーヌがステルスを要請してからおよそ20分が経過している。

 女性は駅員に手を引かれるようにして自動改札を通過した。

 テワタサナイーヌもそれに続き、有人改札に警察手帳を提示して駅に入った。

「テワから拠点」

「テワさんどうぞ」

「女性は井の頭線の駅に入った。追尾を続けます」

「拠点了解。なお、ステルスは付近まで来ている模様。どうぞ」

「テワ了解」

(いつものことだけど早いわね。さすが忍者だわ)

 ステルスチームは、身体能力、仮装能力に長けた捜査員ぞろいで、いつの間にか現場に集まっている。

 それは、テワタサナイーヌにも見つけることができない。

 女性は携帯電話で話をしながら、ホームに停まっている各駅停車の吉祥寺行きに乗った。

「テワから拠点」

「テワさんどうぞ」

「女性は各駅停車の吉祥寺行きに乗車。本職も続きます」

「拠点了解」

 テワタサナイーヌは、女性が乗ったドアの隣のドアから乗車した。

 女性には、必ず犯人グループの監視がついているはずだが、テワタサナイーヌからはそれを見つけることができていない。

 女性を乗せた電車のドアが閉まった。

「お疲れ。あとは任せろ。見張りがついてるからこっちを見るなよ」

 テワタサナイーヌの背後から独り言のような男の声が聞こえた。

 ステルスA班の班長の声だった。

「テワさんは、次の神泉で降りろ」

 班長の指示があった。

 テワタサナイーヌは、無言のまま犬耳で頷いた。

「拠点から各局、間もなく規制を開始する。総員配置につけ。以上、拠点」

 テワタサナイーヌの耳に仕込んだ骨伝導式のイヤホンマイクから規制の指令が飛び込んできた。

(やばっ!始まっちゃうじゃない。どうしよう)

 テワタサナイーヌが焦った。

 女性を乗せた電車が神泉駅に到着した。

 ドアが開きテワタサナイーヌが降車する。

 女性は降車する気配がない。

 ドアが閉まり、発車するのを見送ると、テワタサナイーヌは改札に走った。

(ひー、ここからスクランブルまでどうすんのよ)

 テワタサナイーヌは泣きが入った。

 改札に警察手帳を示して駅の外に出た。

 テワタサナイーヌは、あたりを見回した。

(やばい。ここどこ?全然わかんないんだけど)

 テワタサナイーヌは、神泉駅の周辺がまったくわからなかった。

「テワから拠点」

「テワさんどうぞ」

「現在地神泉駅。これからスクランブル交差点に戻りますが、道がわかりません。案内願います。どうぞ」

「拠点了解」

(なに笑ってんのよ、バカ)

 拠点の無線が明らかに笑いを堪えている声だった。

「拠点からテワさん」

「テワですどうぞ」

「駅を背にして見えるものを知らせ、どうぞ」

「美容専門学校が見えます、どうぞ」

「了解。駅を背にして左に進め。すぐ突き当たるので、突き当たりを左折せよ、どうぞ」

「了解」

 テワタサナイーヌが駅を背にして左に進むとすぐ突き当たりになった。

 突き当たりの左角に郵便ポストがあった。

(ここをまた左ね)

 テワタサナイーヌは、突き当たりを左折した。

「テワから拠点。左折しました、どうぞ」

「了解。そのまま道なりに進むと角に防災倉庫のある交差点がある。そこを右折せよ、どうぞ」

「了解」

(まったく、ここらへんは道が入り組んでてわかりにくいわね)

(あ、防災倉庫あった。そうしたら、ここを右折、と)

「テワから拠点。防災倉庫を右折しました、どうぞ」

「了解。道なりに進むと道が左に折れる。その先で突き当たりになるから、そこを左折せよ。なお、そこは、正面に下りの階段があるので、間違えて下りないように、どうぞ」

「了解」

(バカにしないでよね。私が間違えるわけないじゃないの)

(あー、ほんとだ左に折れるわ)

(突き当たり、突き当たり、と)

(あったあった。階段もあるわよー。ここを左折だったよね)

「テワから拠点」

「テワさんどうぞ」

「左折しました、どうぞ」

「了解。そのま道なりに進め。100m先に道玄坂上交番がある。交番前の交差点を左折すると道玄坂だ。道玄坂に出たらあとは一本道である、どうぞ」

「了解」

(なんだ、簡単じゃないの)

 助けを求めておきながら簡単だと言う。

(交番あった!)

(左折ね)

「テワから拠点」

「拠点ですどうぞ」

「道玄坂上交番を左折しました、どうぞ」

「了解。あとは…」

 拠点が一呼吸おいた。

「走れ!」

「ひーっ、了解!」

 テワタサナイーヌは走った。

 下り坂の道玄坂を転げるように走った。

 人の間を縫うように華麗に走りたかったが、人が多すぎた。

 気持ちは全速力なのだが、歩く早さに毛が生えた程度のスピードしか出せない。

(なによこの人混み!)

 クリスマスイブの渋谷を舐めてはいけない。

(このコートが邪魔で動けないのよ!)

 テワタサナイーヌはコートを脱いで脇に抱えた。

「おっ、犬耳のサンタが走ってるぞ」

「すっげーリアルなケモコスだな」

「あれっ、あれテワちゃん?」

 一瞬で周りの注目を集めてしまった。

 

【挿絵表示】

 

 コートの下は、真っ赤なサンタクロースコスチュームだった。

 テワタサナイーヌは走った。

(歩道なんか走れるわけないじゃん)

 テワタサナイーヌは車道に出た。

 車道をスクランブル交差点めがけてダッシュした。

(これ、ダメなやつだよね。また怒られるよね)

(30女がサンタコスで道玄坂を走るとか、どんな罰ゲームですか!)

 テワタサナイーヌは、涙目になりながら走り続けた。

「めちゃくちゃ早いサンタが走ってるぞ」

 周りからそんな声が聞こえた。

 テワタサナイーヌのダッシュは、とんでもなく速い。

 あっという間にスクランブル交差点に戻った。

「はー、はー、すみません。戻りました」

 テワタサナイーヌは息を切らしながら報告した。

「あ、お疲れさま。そんなに急がなくてもよかったんですよ」

 DJポリスが呑気に言った。

「え、そうなの…」

 テワタサナイーヌは絶句した。

「無線で遊ばれちゃいましたね」

 DJポリスが少し申し訳なさそうな顔をした。

「遊ばれたんですか。私」

 テワタサナイーヌは、指揮官車の座席にがっくりと突っ伏した。

「規制が入っても広報を始めるのはまだ先です。しばらく休んで息を整えてください」

 そう言ってDJポリスは屋根の上に登っていった。

(さっきのおばあさん、大丈夫だったかな)

 テワタサナイーヌが発見して追尾した女性は、ステルスの監視により被害に遭うことなく、明大前駅で現金を受け取りに現れた受け子をステルスが逮捕していた。

 

 午後9時を回りスクランブル交差点は、浮かれた群衆で埋め尽くされた。

 いよいよ広報を開始するときがきた。

 初めはDJポリスがごく普通の当たり障りのない広報を行っている。

「こちらは警視庁です。スクランブル交差点をご通行中の皆さん。本日はクリスマスイブで交差点が大変混雑しています。交差点を走ったり、交差点の中で立ち止まったりすると、思わぬケガをする場合があります。現場の警察官の誘導に従って、安全にゆっくり通行してください」

「交差点を走って渡っている方。危ないですよ。交差点では走らずゆっくりと歩いてください」

 DJポリスにとっては喉を慣らす発声練習のようなものだ。

 

 午後10時

「テワさん、いきますよ」

 DJポリスが車内に顔を出した。

「了解。ちょっと手伝ってもらっていいですか」

 テワタサナイーヌがDJポリスに言った。

「なんですか」

「テワタサナイーヌさん入りますって言ってもらえますか。それで女優モードに入れるんです」

 テワタサナイーヌは、山口の「テワタサナイーヌさん入りまーす」の声でハイテンションな女優に成りきる。

 今日は山口がいないので、それをDJポリスに頼んだ。

「了解しました。テワタサナイーヌさん入りまーす!」

 DJポリスが絶妙なノリでかけ声を発してくれた。

 テワタサナイーヌの目が変わった。

「DJポリスさん、私かわいい!?」

「かわいいですよ」

「そうよね。よく言われるもん!」

 テワタサナイーヌは、どんどん自分を上げていく。

 テワタサナイーヌが登壇した。

 真っ赤なサンタクロースコスチュームに真っ赤なサンタ帽を被っている。

 帽子の先端には白いふわふわの玉が付いている。

「おぉー!なんだあれ!?」

 スクランブル交差点から歓声があがった。

「ずんっちゃ、ずんずずんちゃ」

 指揮官車からゆっくりとしたビートが流れ始めた。

 テワタサナイーヌがリズムに合わせて身体を揺らす。

 群衆は、何が起こったのか理解できずにテワタサナイーヌを見つめている。

 テワタサナイーヌがマイクを取った。

 

ここに集った善良な皆さん

お耳拝借 私の講釈

ちょっとでもいいから聞いてって

 

電車にカバンを忘れたオレ

オレが毎日大量発生

俺はそんなにアホじゃねえ!

でも、ありえなくない

消せない可能性

よく聞け私が授ける起死回生

それは簡単

いとも簡単

まずは一旦

俺のケータイ

元のケータイ

鳴らせばわかるぜ

すぐにわかるぜ

そのオレは俺じゃねえ!

 

♪私は犬のお巡りさん

 子供に泣かれることもあるのよ

 私の名前はまたあとで

 

親の財産いずれは遺産

奴らに渡さん手放さん

詐欺(と)られた金

反映されない国民総生産

父さん母さん

じいちゃんばあちゃん

元気でいてくれ

いつか行こうぜ成田山

 

申し遅れました私は

知らない人にお金を

知らない人にお金を

テ・ワ・タ・サ・ナイーヌ!

 

 テワタサナイーヌが指鉄砲の決めポーズを取った。

 一瞬沈黙したのち、スクランブル交差点から大歓声があがった。

「スクランブル交差点のみなさーん、こんばんは!」

「警視庁犯罪抑止対策本部のテワタサナイーヌでーす」

「今日はDJポリスとの共演です。DJポリスに対抗してMCイーヌで登場よ!」

「クリスマス、楽しんでる?」

「楽しんでるのね。そう、よかったわ」

「みんなの楽しい思い出、家まで持って帰ってね。楽しい思い出を枕元につるしておくと、来年もサンタさんが楽しいクリスマスをプレゼントしてくれるわよ!」

「それとも、私のこの手錠が欲しいかしら?」

 テワタサナイーヌが妖艶な笑顔で手錠をくるくる回した。

「欲しいでーす」

 群衆からたくさんの声があがった。

「あーん、逆効果じゃない。ダメよ、悪さしちゃ」

「悪さしない、いい子だけ逮捕して、あ・げ・る」

「逮捕されたい子は、ちゃーんと並んでねえ」

 そう言うとテワタサナイーヌは、指揮官車から軽やかに飛び降りた。

 また群衆から歓声があがる。

 テワタサナイーヌが飛び降りると、すかさずDJポリスがマイクパフォーマンスで群衆をさばいて整列させる。

「はい、逮捕」

「はい、逮捕」

 テワタサナイーヌは、ひとりずつ手錠を掛けては外し、また次の人に掛ける。

 どんどん群衆の中に入っていく。

 その間、テワタサナイーヌの両斜め後ろには、山口と池上がテワタサナイーヌから見えない位置でぴったりと離れずガードしていた。

 山口と池上は、今日、現場に来ないことになっていた。

 このことをテワタサナイーヌは知らない。

 ある程度群衆をさばくと、テワタサナイーヌはまた指揮官車に上がりパフォーマンスを初めから披露する。

 これを何度となく繰り返した。

 テワタサナイーヌがとった手法は、群衆を落ち着かせるのではなく興奮させる。

 警察主導で興奮させ煽りなびかせる。

 常にこちらに注目させ、煽り続けることにより他に目が向かないように仕向けたのだ。

 従来のまったく逆の方法だった。

 

 東の空がうっすらと明るくなる頃、ようやくスクランブル交差点は人通りがまばらになった。

 テワタサナイーヌは、前日の午後10時ころから休むことなくパフォーマンスを続けた。

 最後の方は、指揮官車に登ろうとして力尽きそうになることもあった。

 しかし、テワタサナイーヌは決して笑顔を絶やさなかった。

 任務解除の無線が流れ、長いパフォーマンスが終わった。

 テワタサナイーヌは、指揮官車の後部座席に乗り込み、目を閉じた。

 身体が鉛のように重く、もう自分では立てなかった。

 それでもテワタサナイーヌは幸せそうな笑顔だった。

「お父さん、大輔くん、ずっと守ってくれててありがとう。私、匂いでわかるんだよ」

 そうつぶやくと、テワタサナイーヌは深い眠りにおちた。

 

 その日のニュースには、テワタサナイーヌが指揮官車から飛び降りる姿が繰り返し放映された。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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警察犬イーヌ号

「ねえ大輔くうん」

 全裸のテワタサナイーヌが甘ったるい声で池上を呼んだ。

 クリスマスイブの翌日、テワタサナイーヌは夕方まで熟睡していた。

 池上が帰宅して目を覚ましたところだった。

 テワタサナイーヌは、寝るとき裸が好きだった。

 全裸で脚を抱えるように丸くなり、池上にくっついて寝ると落ち着く。

 もう背中の傷痕を見られることに怯えることもない。

 むしろ池上に傷痕を触られることに快感を覚えるようになった。

 テワタサナイーヌは池上の前では抵抗なく裸になれる。

「な、なんすかテワさん。どうしたんすか今日は?」

 いつも自分を呼ぶときは上から目線のテワタサナイーヌが、甘ったるい声を出したので池上は動揺した。

「私にー、なんかー、謝ることなあい?」

 テワタサナイーヌがものすごく甘ったるい声と艶かしい目で池上に迫った。

「昨日ね、私渋谷にいたでしょ。そしたらね、上京型のオレオレ詐欺の被害者になりそうなおばあさんを見つけたの。でね、おばあさんを神泉駅でステルスに引き継いで、そこからスクランブル交差点に戻ったわけよ」

 テワタサナイーヌは、相変わらずぬめるような艶かしい目で池上を見つめている。

 妖艶なテワタサナイーヌの表情に池上は欲情した。

 しかし、そのマズルが徐々に伸びているのに池上は気づき、戦慄した。

 テワタサナイーヌのマズルが伸びるとき、それはテワタサナイーヌの怒りが激しいことを示す。

 膨らみかけた池上の欲情が一気に萎んでいく。

「でね、道玄坂まで戻ったところで隊の無線であることを指示されたんだけどお、なんだと思うー?」

 声と表情が甘ったるいだけに余計に怖い。

「な、なんすかね」

 池上は後ずさりした。

 ベッドの上で裸のまま四つん這いになったテワタサナイーヌが迫る。

 弓なりに反った背中が美しいカーブを描く。

 背中でひきつる傷痕が別の生き物のようにうごめく。

 毛並みの揃った全身の獣毛が濡れたような光沢を放つ。

 牙を剥き尻尾を立てて這う姿は、まさに狂暴な雌犬だった。

 池上は、恐怖に震えながらもこのまま襲われたいという倒錯した欲望に駆られた。

「こっち来て」

 テワタサナイーヌが池上をベッドに誘う。

「は、はい」

 池上は恐怖で声が裏返った。

 ベッドに腰をかけた池上の耳許にテワタサナイーヌの濡れた唇が迫った。

「謝ることは?」

 テワタサナイーヌは、吐息混じりに囁いた。

 池上がぶるっと身震いした。

「あります!あります!思い当たることがあります!すんません!俺です!俺がやりました!ごめんなさい!だから噛まないで!ビーフジャーキーあげるから許してください!」

 池上は、あっさり自白した。

(この人、犯罪者になれないわ)

 テワタサナイーヌは、内心おかしくて仕方なかったが、マズルを伸ばしたまま演技を続けることにした。

「やったのね」

 耳許に囁き続ける。

「やりました!無線でいたずらしました!」

 池上は青い顔をしている。

「あれで、私がどれだけ恥ずかしい思いをしたか、あなたわかってる?」

「わ、わかってます!ごめんなさい!」

 池上は、動くこともできず謝り続けた。

「あはは、うっそー。怒ってませーん!」

 テワタサナイーヌが普段の表情に戻り、池上に抱きついて大笑いした。

「最初はね、機動隊の人がそんないたずらするはずないのにおかしいなーと思ってたのよねえ。でね、私がパフォーマンスを始めて、群衆の中に入っていくたびに、大輔くんとお父さんの匂いがずっと着いてくるのよ。それで私わかっちゃった。大輔くん、現場に来てたでしょ?」

 池上に抱きついたまま、テワタサナイーヌが池上の顔を覗き込んだ。

「行ってたす」

 池上が観念したように言った。

「テワさんの嗅覚を侮ってたす」

 池上はうなだれた。

「いいのよ、来てくれてありがと」

 テワタサナイーヌが池上に微笑んだ。

「一晩中守ってくれたことで、いたずらは帳消し。ううん、お釣りがくるくらい嬉しかった。それに、大輔くんとお父さん、今日、仕事だったでしょ。徹夜だったのに大変だったね。お疲れさま」

 そう言ってテワタサナイーヌは池上にキスをした。

 二人の影がゆっくりとベッドに倒れ込んだ。

「いったーい」

 マズルを戻す痛みにテワタサナイーヌが泣いた。

 

 ──さらにその翌日の午後

「寒いけど気持ちいい天気ね」

「そうですね」

 テワタサナイーヌは、目黒区内の碑文谷警察署で特殊詐欺被害防止キャンペーンに参加して警視庁本部に戻るため、山口と柿の木坂を東急東横線の都立大学駅に向かって歩いていた。

 テワタサナイーヌは、小さめのショルダーバッグを袈裟に掛け、山口のコートの裾をちょこんと摘んでいる。

 以前であれば、テワタサナイーヌから手を繋ぎにいっていたことろだが、今は人目につくところでは手を求めなくなった。

 甘えたい気分のときは、人目のないところで恥ずかしそうに手を繋いでくることがある。

 山口は、テワタサナイーヌの衣装一式を詰め込んだ紫色のキャスター付きキャリーケースを転がしている。

 テワタサナイーヌは、キャメルのコートを着込んでいるが前を開けて颯爽と歩く。

 冬だというのに相変わらずコートの下はマイクロミニのスカートを履き、真っ直ぐで長い脚を惜しげもなく露出している。

「直りませんね、露出好きは」

 山口がテワタサナイーヌの脚を見ながらぼそっとつぶやいた。

「直らないね。これは虐待のせいじゃなくて私の趣味だから。ていうか、露出好きって言うと露出狂みたいで誤解されそうだからやめて」

 テワタサナイーヌは、自分の被虐待体験を平気で口にできるようになっていた。

「だいたい同じようなものだと思いますが」

 山口が苦笑した。

「あー、父親が娘のことを露出狂とか言っていいのー?ひどくないですかー?」

 テワタサナイーヌが膨れっ面をした。

 

 ぶぶっ

 

 テワタサナイーヌのバッグの中でスマートフォンが震えた。

(ん、なに?)

 テワタサナイーヌのスマートフォンが振動するのは、池上、山口、弥生からのメールとTwitter Alertsのプッシュ通知、それと防犯アプリDigi Policeのプッシュ通知だけに設定している。

 山口は、いま自分の隣で話をしているからメールが飛んでくるはずがない。

 残りの可能性は、池上か弥生のメールとプッシュ通知のどちらかだ。

 テワタサナイーヌは、バッグの中からスマートフォンを取り出して、カバーのフラップを開けた。

「あ、お父さん、Digi Policeだよ」

 テワタサナイーヌが山口にスマートフォンの画面を見せた。

「本当ですね。何の通知でしょう」

「ちょっと待ってね。いま開くから」

 テワタサナイーヌが画面ロックを指紋認証で解除して、青い背景に警察手帳のエンブレムがあしらわれたアイコンのDigi Policeを立ち上げた。

「ひったくり(碑文谷署)」

 プッシュ通知にタイトルが表示された。

「わっ、碑文谷の管内でひったくりだって!」

 テワタサナイーヌが驚いたように声を上げた。

「近くなんでしょうか」

 山口が心配そうに言った。

 テワタサナイーヌが続きの情報をDigi Policeのマップに表示させた。

「えーっ、大変!すぐ近くみたい!」

 テワタサナイーヌが山口に画面を見せて騒いだ。

「12月26日午後3時30分ころ、目黒区柿の木坂1丁目でひったくり発生。犯人は徒歩で逃走」

「まだ10分くらいしか経ってないね」

 テワタサナイーヌが山口に言った。

「場所もここから300mくらいしか離れていません。このまま駅に向かうと現場を通ることになりそうです」

 山口が地図を見ながら言った。

「私たちが役に立つことはなさそうだけどね」

 テワタサナイーヌがスマートフォンをしまいながら山口を見た。

 山口とテワタサナイーヌが都立大学駅に向かって歩いていくと、赤色灯を点灯させたパトカーが2台と取り外し式の赤色灯を屋根の上に載せたセダンが停まっているのが見えた。

「あそこが現場みたいね」

「そうですね。ちょうど採証活動をしているみたいです」

 テワタサナイーヌと山口が現場を通り過ぎようとした。

「あ、靴が落ちてるよ。犯人のやつかな」

 テワタサナイーヌが見ている先では、鑑識の係員が薄汚れたスニーカーに洗面器のようなカバーをかけようとしていた。

「さっきの情報だと犯人は徒歩で逃走となっていました。もしかしたら逃げるときに靴が片方脱げてしまったのかもしれません。カバーをかけているということは、警察犬を要請していて、臭気が散逸するのを防ぐためだと思います」

 山口がスニーカーについて推理をした。

「へー、お父さん物知りね。警察犬てどこから来るの?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

(テワさん、めっちゃかわいいっす)

 山口が頭の中で池上のセリフを再生した。

「警察犬は、東大和市にある警察犬訓練所から来るんですよ。東大和からだとここまで来るのにずいぶん時間がかかりそうですね。年末でもありますし」

「そうよね。1時間かそこいらじゃ来られそうにないんじゃないかな。ねえねえお父さん、警察犬で臭いの追跡をするんだと思うけど、臭いってどれくらい残るものなの?」

 テワタサナイーヌが疑問を投げかけた。

「条件にもよると思いますが、普通は8時間くらいといわれています。でも、繁華街のような人通りや臭いの発生源が多いところでは、1時間くらいで消えてしまうともいわれています」

「えー、じゃあこのあたりは割と拓けてるから、1時間も待ってたら臭いが消えちゃうんじゃないの?」

 テワタサナイーヌが心配そうな顔をした。

「そうですね。さすがに消えてなくなってしまうことはないと思いますが、かなり薄くなってしまうとは思います」

 そう言った山口は何かを思いついたような顔をした。

「テワさん」

「なーに、お父さん?」

「やってみますか?」

「へ?なにを?」

 テワタサナイーヌは、きょとんとしている。

「テワさんの鼻です」

 山口がにやりとした。

「ははーん」

 テワタサナイーヌもにやりとした。

「やったことないからダメ」

 テワタサナイーヌがきっぱりと断った。

 テワタサナイーヌは犬並みの嗅覚を持っている。

 この嗅覚により上野動物園で受け子を嗅ぎ分けて大規模グループの摘発につなげたこともある。

 警察学校時代、警察犬の展示訓練を見学したとき、遊びで臭気選別をやらせてもらったことはある。

 しかし、臭気による追跡は経験がないし、できる自信もない。

「未経験なのは知っています。ですが、警察犬の到着を待っていては、犯人がどんどん遠くに逃げてしまいますし、臭いも薄くなってしまいます。被害者がいるんです。ここはやってみる価値があると思います。いかがですか」

 山口が熱く説得した。

「被害者がいる」

 山口のこの一言がテワタサナイーヌの心を動かした。

(被害者のことを忘れてた。一番大事なことじゃない。なにやってるんだ自分は。バカ!)

 テワタサナイーヌは、自分の不甲斐なさに憤った。

「やらせて。必ず犯人までたどり着いてみせる」

 テワタサナイーヌの目が犬の鋭さを宿した。

 

 二人は立ち入りを規制しているテープの外から、その中にいる刑事課長と書かれた腕章をした私服の刑事に声をかけた。

「犯罪抑止対策本部の山口警部です。臭気追跡のお手伝いをさせてください」

 その声を聞いた刑事課長が二人の方に振り返った。

「犯抑が臭気追跡?所掌事務じゃないだろ」

 刑事課長はつっけんどんに答えた。

「所掌事務ではありません。ですが、東大和から警察犬の到着を待っていたのでは、臭気が散逸するおそれがあります。犯人は片方の靴が脱げた状態で逃げています。そう遠くへは行っていないかもしれません。臭気による追跡が有効と考えます」

 山口が刑事課長を説得した。

「いや、山口さんとやらよ。あんたの理屈はわかるよ。こっちだって一秒でも早く追跡したいんだよ。でも、犬がいなきゃできないんだ。それくらいわかるだろ」

 刑事課長が苛立った。

「犬ならいます」

 山口がテワタサナイーヌを前に引き出した。

「はあ?犬の着ぐるみを着た女じゃないか。あんたふざけてんのか?」

 刑事課長が怒鳴った。

「テワさん、手帳」

 山口も苛立っていたが、できるだけ冷静に話を進めようと努めた。

「テワタサナイーヌこと、山口早苗警部補です」

 テワタサナイーヌが警察手帳を開いて刑事課長に示した。

 刑事課長の顔色が変わった。

「え、あんた着ぐるみじゃないのか。ほんとにこの顔、この耳なのかよ」

 信じられないという顔で、ぽかーんと口が開いている。

 刑事課長がテワタサナイーヌに興味を示したらしく、二人に近づいてきた。

「いや驚いた。こんな女警さんがいたとは知らなかったよ。いや、顔は犬だってわかったよ。けど、能力があるのかい?」

 刑事課長の物言いが柔らかくなってきた。

「彼女の嗅覚は、犬並み、いえ、シェパードと同等です。嗅覚を使った情報収集で警視総監賞を受けています。必要であれば人事に問い合わせていただいて結構です」

 山口が落ち着いた口調で説明した。

 シェパードと同等というのは、山口のはったりだった。

 山口もテワタサナイーヌの嗅覚がどの程度なのかを確かめたことはない。

「わかりました。疑ってすまない。臭気追跡をやってもらえると助かります。手伝ってもらえますか」

 刑事課長が頭を下げた。

「お役に立てれば幸いです」

 山口も頭を下げた。

(マイクロミニはまずったな。パンツ見えちゃうよ、これは)

 テワタサナイーヌは、活動中にパンツが見えるのは厭わないが、見せたいわけではないので、若干の後悔を感じていた。

「どうぞ」

 刑事課長が二人を規制線の中に招き入れた。

「失礼します」

 山口とテワタサナイーヌが刑事課長に続いた。

「これを」

 刑事課長が鑑識係員から使い捨てのラテックス製手袋を2双受け取ると、山口に差し出した。

「ありがとうございます」

 山口は刑事課長から手袋を受け取り、1双をテワタサナイーヌに渡した。

 二人は手袋をはめ、カバーで覆われているスニーカーに近づいた。

「なるべく動かさないようにしてください」

 鑑識係員から注意があった。

「わかりました。テワさん、いいですか」

 山口がテワタサナイーヌの準備を確認した。

「ちょっと待って。鼻の用意をするから」

 テワタサナイーヌの嗅覚は、犬並みの能力を持っているが、普段からその能力をフルに使っているわけではない。

 普段からフルに使ってしまうと、周囲の臭いを拾いすぎて、とてもではないが正気を保てない。

 普段は嗅覚を大幅に抑えた状態で生活している。

 その能力を最大にするには、少しの時間が必要となる。

 テワタサナイーヌは、目を閉じ、鼻をひくつかせ、嗅覚に集中する。

 それまで感じなかった周囲のあらゆる臭いが鼻の神経から脳内に侵入してきた。

 テワタサナイーヌは顔をしかめた。

 正直言って、あらゆる臭いが無差別に脳内に侵入してくるのは不快だ。

 気持ちが悪い。

 だが、そんなことを言っている場合ではない。

 被害者がいるのだ。

 テワタサナイーヌは、悪臭に吐き気を催しながら必死に耐えた。

「用意できたわ」

 テワタサナイーヌの目が光った。

「じゃあお願いします」

 刑事課長が鑑識係員にカバーを外させた。

 テワタサナイーヌは、スニーカーを移動させないようにするため、地面に膝をつき四つん這いになった。

 池上の前以外では見せたくない犬のポーズだ。

 テワタサナイーヌは、大きく息を吸い、その息を吐き切った。

 スニーカーに鼻を近づけ、肺いっぱいにその臭いを吸い込んだ

「!!」

 テワタサナイーヌが言葉もなく地面に突っ伏して苦しんでいる。

「どうしました!?」

 山口が駆け寄ろうとした。

「臭いが混ざるから来ないで!」

 テワタサナイーヌが苦しそうに山口を制した。

(くっさ!くっさ!くっさ!なにこの靴。臭すぎ。一気に吸い込んじゃったよ。死ぬ。気持ち悪い!)

 薄汚れたスニーカーは、ものすごい悪臭を放っていた。

 それを肺いっぱいに吸い込んだものだから堪らない。

 テワタサナイーヌは、吐きそうになり何度も胃の内容物がこみ上げてきたが、なんとか飲み込んで耐えた。

(でも、この臭いを覚えるまで吸い続けなきゃ)

 テワタサナイーヌは、泣きながら耐え難い悪臭を吸い続けた。

(鼻が曲がるって、こういうことを言うんだ)

 本当に曲がるかと思った。

「臭い、覚えたよ」

 テワタサナイーヌが涙目で山口に伝えた。

「追跡できますか」

 山口はテワタサナイーヌが心配で仕方がなかった。

「できるできないじゃないの。やるかやらないかしかないでしょ。やるわよ」

 テワタサナイーヌは、まだ胃の内容物が反芻しそうなのを我慢していた。

 その日は無風。

 臭気追跡をするには好条件だ。

 テワタサナイーヌは、その場に立ち上がると服装の乱れを整えて目を閉じた。

 嗅覚を自分で調節できる最大にした。

(見えた!)

 テワタサナイーヌの脳内に臭いの帯が見えた。

「お父さん、行くよ!」

 テワタサナイーヌが山口に声をかけて歩き出した。

 テワタサナイーヌは、鼻に引っ張られるように現場から八雲通りを西に進む。

(だいぶ薄くなってるけど帯は切れてない)

 ときおり立ち止まっては目を閉じて臭いの帯を確かめる。

(帯が右に曲がってる)

 臭いの帯が八雲通りから細い路地を右折して北上していた。

 テワタサナイーヌは、帯をたどり続ける。

 しばらく帯を追って北上したところでテワタサナイーヌが山口を振り返った。

「臭いの記憶が薄れた。靴を嗅がせて」

 山口が現場に戻り鑑識係員を連れてスニーカーを持ってきた。

 テワタサナイーヌは、スニーカーを入れたビニール袋に顔を埋めて臭いを嗅いだ。

 強烈な悪臭が鼻を突く。

 また耐え難い吐き気が襲ってきた。

(被害者がいる。被害者がいるんだ。私がやらなきゃ被害者が泣き寝入りになる)

 テワタサナイーヌは、被害者のことだけを考えて耐えた。

(しかし、今の私ってば、どんなドMより被虐的だな。自分からこんなに臭い靴の臭いを嗅いでるなんて)

 まだ余裕がありそうなテワタサナイーヌだった。

「ぷはーっ!」

 ビニール袋から顔を出したテワタサナイーヌが大きく息をした。

 テワタサナイーヌが北上を続けた。

 臭いの帯は北に向けて真っすぐ延びている。

「?」

 テワタサナイーヌが鼻を上げた。

「消えた」

 大きな墓地を右手に見るところで臭いの帯がぷっつりと途切れた。

 墓地からは線香の香りが漂っている。

(そんはずない。こんなところで切れるなんて。帯はどんどん濃くなってきてたのに)

 テワタサナイーヌは焦った。

 犯人に近づいている実感があった矢先の消失だった。

 線香の香りで他の臭いがわからなくなっていた。

 テワタサナイーヌは嗅覚を限界まで鋭くして周囲の臭いを嗅ぎ分けようとした。

 しかし、あたりに線香の香りが漂い、その香りがまったく動く気配を見せなかった。

(くそっ、近くまできてるのに)

 テワタサナイーヌは唇を噛んだ。

 悔しさでマズルが伸びる。

 そのときだった。

「あった!」

 テワタサナイーヌの脳に臭いの帯が再び現れた。

 ごく薄い、かすかに見える帯が墓地の塀を乗り越えていた。

 マズルが伸びることで嗅覚が高まったのだ。

「犯人は墓地の中にいる」

 テワタサナイーヌが山口に小声で言った。

「墓地の出入り口をかためて」

 テワタサナイーヌが続けて指示を出す。

 山口が後ろからついてきている刑事課長にテワタサナイーヌの指示を伝達した。

 刑事課長が部下に指示をして墓地の出入り口に刑事を付けた。

「行くわよ」

 テワタサナイーヌが山口に一言残して墓地の塀を乗り越えた。

 途絶えたと思った臭いの帯が墓地の中には濃く残っていた。

 臭いの帯は、墓地の中を幾度も折れて続いている。

 まるで犯人が隠れる場所を探していたかのようだった。

 墓地の奥まったところにある大きな墓碑の裏に帯が入って途絶えていた。

(あの裏にいる)

 テワタサナイーヌは足音を立てないように、ヒールの高いパンプスを脱いで裸足になった。

 ひたひたと墓碑に近づく。

 臭いは鼻を突くほどに濃くなっている。

 臭いで犯人の姿さえも見える。

 間違いなく犯人はこの裏に潜んでいる。

「警察だ!動くな!」

 テワタサナイーヌは、墓碑の裏に飛び込むとドスの利いた怒鳴り声を上げた。

「わあ!」

 突然現れたマイクロミニのスカートを履いた犬耳で裸足の女に怒鳴られて、墓碑の裏にうずくまっていた犯人は驚いて尻餅をついた。

 薄汚れたスニーカーを片足だけ履き、もう片方の足は真っ黒に汚れた靴下を履いていた。

 犯人の手には女性もののハンドバッグが握られている。

 テワタサナイーヌは、犯人の片腕を取り、絶妙な関節の極めで犯人をくるっと回してうつぶせにした。

「あなたがやったのね」

 犯人の紋所に膝を当てて制したテワタサナイーヌが確認の質問をした。

 犯人は苦しそうに無言で頷いた。

「わかりました。窃盗罪で緊急逮捕します」

 テワタサナイーヌが犯人に告げた。

 

「もうやりたくない!」

 碑文谷警察署で逮捕手続を終え、外に出たテワタサナイーヌが泣き言を言った。

「臭かったですか」

 現場でテワタサナイーヌの苦悶の表情を見ていた山口も辛かった。

「臭いなんてもんじゃないよ。ほんと、死ぬかと思った」

 テワタサナイーヌが悪態をついた。

「もうやめましょうね」

 山口がテワタサナイーヌに言った。

 本当にもうやめようと思っていた。

「は?なに言ってんの?」

 テワタサナイーヌが山口を睨んだ。

「え、もうやりたくないんですよね」

 山口が不思議そうにテワタサナイーヌを見た。

「被害者がいるのよ。やるに決まってるじゃん」

 テワタサナイーヌが胸を張った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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褐色脂肪細胞

「いっただきまーす」

 家族4人で過ごす初めての大晦日。

 テワタサナイーヌは、焼肉を前にして満面の笑みだ。

 今日の焼肉は、山口の奢り。

 クリスマスイブ道玄坂走れ事件の首謀者が山口だったことがばれ、罪滅ぼしのために一席設けさせられていた。

「共謀共同正犯だからね」

 カルビを頬張りながらテワタサナイーヌが山口に笑いかけた。

 共謀共同正犯というのは、犯罪を犯す謀議をした者は、たとえその者が実行に加わっていなくても共犯になるという理論をいう。

 要はグルだ。

 山口が池上に無線でいたずらすることを持ちかけたのだ。

「教唆犯です」

 山口が焼き網の上で程よく焼けた肉を弥生の皿に運びながら言った。

「そうっす。だって俺はテワさんにいたずらするなんて発想全然なかったんすよ」

 池上が自分は悪くないというような顔でテワタサナイーヌに訴えた。

 元々罪を犯す意図がない人をそそのかした場合は、共謀ではなく教唆になる。

「ほんとにー?」

 テワタサナイーヌがジト目で池上を見た。

「池上さん、ちゃらいイタリア男ですが、案外真面目なんですよ」

 山口が池上をカバーした。

「わかる」

 テワタサナイーヌも同意した。

「お父さんは、その反対で、渋いイタリア男なのに案外不真面目よね」

 テワタサナイーヌは、山口の目の前の網の上から焼けた肉を奪って口に運んだ。

「あ、私の肉…」

 山口がしょんぼりした。

 テワタサナイーヌは、そんな不真面目な山口が好きだった。

「上カルビ10人前くださーい。塩でね」

「ハラミ5人前。塩で」

「生ビールおかわりー」

「上タン塩5人前!」

「焼肉おいしいよねー。特に奢りだとなおさら」

 テワタサナイーヌは、満足げに生ビールのジョッキをあおった。

 テワタサナイーヌには遠慮というものがない。

 特に山口に対しては。

 山口は、いたずらの代償の大きさに心底後悔した。

「早苗ちゃん、そんなに食べてよく太らないわね」

 弥生が感心した。

「んー、なんでだろ。なんにもしてないけど、なんでか太らないんだよね」

「そういえば、太らない理由で褐色脂肪細胞がどうたらこうたらって言われたことがあるよ。なんかね、犬化のせいで普通はなくなるはずの褐色脂肪細胞が大人になっても残ってるんだとかなんとか」

「それとね、筋肉が犬っぽくて、基礎代謝が高いらしいよ。私って、中身はまるで犬よね。あ、見た目もか」

 テワタサナイーヌの箸とおしゃべりは休むことがない。

「あら羨ましい。そのまま褐色脂肪細胞が消えなければ中年太りの心配もないわね」

 弥生が羨ましがった。

 網の上の肉から油が落ちて炎が上がる。

「焼肉は、おいしくて好きなんだけど、毛皮に臭いが染み付くのよね。あとでシャンプーが大変。ほら、私ってば身体中毛だらけじゃん。洗剤の減りが早い早い」

 そう言ってテワタサナイーヌは身体にぴったりフィットしたTシャツをまくり上げてお腹を見せた。

 Tシャツの中から見事に割れた腹筋が出てきた。

 テワタサナイーヌは、酔っぱらっていた。

「テワさん、ダメっすよ。お腹は毛が生えてないから普通の肌っす」

 隣に座っていた池上が慌てて制止した。

「あははは、そうだった。じゃあどこ見せればいい?」

「そういう問題じゃないっす。それに毛皮は、剥いだあとの製品っす」

 池上が困ったという顔をしてテワタサナイーヌを押さえた。

 

「あーおいしかった。お父さん、ごちそうさま」

 テワタサナイーヌは、池上と繋いだ手を前後にぶんぶん振りながら上機嫌で歩いている。

 ただし千鳥足で。

 テワタサナイーヌは、自分の歩調で手を振っているが、違う歩調の池上は、リズムが狂って歩きにくそうにしている。

「おいしかったねー。幸せだねー」

 テワタサナイーヌが弥生に言った。

「そうね。お父さんにとっては切ない大晦日になったみたいだけどね」

 山口と手を繋いだ弥生が山口の顔を覗き込んで笑った。

 散財させられた山口だったが、その顔は満足そうだった。

 家族揃って笑顔でお腹一杯食べられることが嬉しかった。

 二組の夫婦がそれぞれ手を繋いで仲良く帰宅した。

 家に入ると服や髪に着いた臭いが気になる。

「大輔くんお風呂入ろー。お父さん、お母さんおやすみなさーい。よいお年をー」

 テワタサナイーヌが池上を連れて2階に上がって行った。

「お腹一杯で動けないよー」

 テワタサナイーヌがベッドに倒れ込んだ。

「テワさん、お風呂入るんじゃなかったんすか」

 池上がたしなめた。

「そうだった。早く言ってよ」

(さっき下で自分で言ってたんだけどなあ)

 池上がやれやれという顔をした。

 テワタサナイーヌは、着ていた服をぽいぽいと脱ぎ捨て全裸になった。

「三助ー、行くぞー」

 テワタサナイーヌが池上の手を引いた。

 三助とは、銭湯で客の身体を流すサービスを提供する人のことだ。

「はいはい。わかりました」

 池上がテワタサナイーヌについて行く。

 池上は、三助と呼ばれることに疑問を感じていないようだ。

「はい、じゃあそこに座って」

 池上は、バスルームでテワタサナイーヌを椅子に座らせた。

「はーい」

 テワタサナイーヌは、相変わらずご機嫌だ。

 池上にシャンプーしてもらうのがテワタサナイーヌのお気に入りだからだ。

 池上は、シャワーの温度を確かめる。

「下向いて」

 池上がテワタサナイーヌに指示する。

 テワタサナイーヌは、頭を下げて目を閉じる。

 池上がシャワーのお湯を耳の先から当てていく。

 耳の毛が濡れて見る見る体積を小さくしていく。

 毛がフサフサしていない耳は、意外と小さい。

 耳から髪に移ってお湯をかける。

 池上がポンプ式のボトルからシャンプーを手に取る。

 両手に軽くなじませて左右の耳にシャンプーを付ける。

 耳を揉むように先から付け根に向けて洗う。

 テワタサナイーヌが震えた。

 耳を洗われるときは、いつもゾクゾクする。

 池上がシャンプーを追加して髪全体に行き渡らせる。

 池上のシャンプーは気持ちがいい。

 爪を立てず、指の腹で地肌をマッサージするようにまんべんなく洗ってくれる。

「痒いところはない?」

「うん。ない」

 池上はシャワーでシャンプーを洗い流した。

 次にトリートメントを適量手に取り、耳と髪にまんべんなく揉み込む。

「寒くない?」

「大丈夫。私、あんまり寒さは感じない身体だから。感じないっていうか調節できる」

「犬だから?」

「うん」

 テワタサナイーヌは尻尾を振った。

「犬って言われるの嫌じゃない?」

「前は、すっごく嫌だったよ。でもね、最近は気にならない。特に大輔くんに犬って言われるのは好き」

「なんで?」

「わかんない。大輔くんの前だと犬になってるのかもしれないね」

「テワさんの犬成分は可変なんだ。首輪する?」

「あはは、いいよ」

 そんな会話をしているうちに1分くらいが経ち、トリートメントを流す時間になった。

 池上がトリートメントを軽く流してシャンプーが終わった。

「これでいい?」

「おー、三助ありがとう。あと、背中だけ洗ってくれる?」

「いいよ。今日はトリートメントする?」

「うーん、まあ一年の最後だからトリートメントしてお正月を迎えよっかなー」

「了解」

 池上は、ボディソープを手に取り背中の毛並みに沿って泡立てる。

 池上が初めてテワタサナイーヌの背中を流すとき、シャンプーで洗うべきかボディソープにすべきか迷った。

「どっちで洗えばいいんすか?」

「別になんでもいいんじゃない?」

「そうすか」

(毛が生えてるんだからシャンプーかな)

 池上は、シャンプーで洗ってみた。

 確かにシャンプーで洗うときれいにはなった。

 ただ、毛の油分が抜けすぎてパサついてしまった。

 その経験から、それ以降はボディソープで洗うことにしている。

「あーだめだめ。ぎゃははは!」

 池上が傷痕を洗うとテワタサナイーヌがくすぐったがって身をよじった。

 洗い流した後は、背中にトリートメントをして池上の任務は完了だ。

「じゃあ三助終わりっす」

「いつもありがとねー」

 池上がバスルームを出た。

 

「明けましておめでとうございます」

 大晦日から一晩明け、元旦を迎えた。

 テワタサナイーヌと池上が山口夫妻に新年の挨拶をするため、1階に下りてきた。

 二人ともまだ寝ぼけた顔をしている。

 テワタサナイーヌは、例の薄手のシャツ一枚だ。

 家にいるときは、この格好が普通になっている。

 お尻が見えているが、山口をはじめ誰も気にしない。

(家族って気楽でいいわ)

 尻尾や傷痕に気を遣わなくていいのは、テワタサナイーヌにとって本当にありがたいことだった。

「お父さんたちは、毎年初詣に行ってるの?」

 テワタサナイーヌが山口に訊いた。

「はい、行けるときは行っていますよ」

「へー、どこに行ってるの?」

「近所の神社が多いです」

「明治神宮とか有名なところには行かないんだ」

「あんまり人が多いと神様がお願い事を聞き逃してしまうかもしれませんから」

「なるほどねー。今年は私たちも連れて行って」

「もちろんですよ。おせち料理をいただいて、一息ついたら行きましょう」

「はーい」

 四人が身支度をして家を出た。

 今年の元旦は、例年になく寒い。

 吐く息が白く耳が痛くなるくらいに冷え込んでいる。

 テワタサナイーヌを除いた3人は、完全防寒といった出で立ちで着膨れしている。

 一方、テワタサナイーヌはといえば、相変わらずのミニスカートに生足で、トップスも薄手のカットソー一枚だ。

 それにトレンチコートを羽織っているが、例によってコートの前は閉めない。

 四人は、近くを流れる幅20mくらいの浅底の川に沿って歩いて行く。

 川の両岸が土手になっていて、その土手の上が幅2mくらいの舗装道路で人が歩けるようになっている。

 河川敷は草が霜で真っ白に凍りつき、土の部分には霜柱が立っている。

 テワタサナイーヌは楽しそうにくるくる回ったりステップを踏みながら歩く。

 回転するたびにトレンチコートが広がりテワタサナイーヌに冷気を纏わせる。

 テワタサナイーヌは、そんなことをまったく感じていないかのように楽しそうだ。

 ゆっくり10分ほど歩くと、川沿いに小さな神社がある。

 神社には近所から初詣の参拝客がちらほら集まっている。

「これなら神様もお願いを聞き逃すことはないです」

 山口が三人に言った。

 四人は頭を下げて鳥居をくぐり、手水舎で手と口を清めた。

 次に本殿に進み賽銭を投げ入れ、山口が鈴を鳴らした。

 四人揃って2回拝礼をする。

 そして、手を合わせてお祈りをする。

 

(早苗が元気な赤ちゃんを産めますように)

 山口の願いは飛躍していた。

 

(男二人の果てしないバカが治りますように)

 弥生の願いは切実だった。

 

(大輔くんと仲良く暮らせますように)

 テワタサナイーヌの願いは順当と言える。

 

(今年こそ警部補に昇任できますように)

 池上の願いは、神様にお願いすることではない。

 自分で頑張れ。

 

 それぞれのお願いが済んだら2回手を叩く。

 そして、最後にもう一度拝礼をする。

 二礼二拍手一礼といわれる作法だ。

 

「ねえ大輔くん」

「なんすか」

「大輔くんは、何をお願いしたの?」

 テワタサナイーヌが訊いた。

「俺すか。俺は、警部補に昇任できますようにってお願いしたっす」

「いいねー、いよいよ私に追いつこうっていうのね」

 テワタサナイーヌは嬉しそうだ。

「池上さんは、今年はいきますよ。大丈夫です」

 山口が口を挟んだ。

「え、なんで?」

 山口が自信満々に言ったので、テワタサナイーヌは不思議に思った。

「自分の頭で判断できる男に育ったからです。パターンを丸暗記したりマニュアルに頼らなくてよくなりました」

 山口が理由を説明した。

「パターンがどうのこうのって、聞いたことがあるような…」

 テワタサナイーヌが流し目で池上を見た。

「ごほんごほん」

 池上が咳払いをした。

「ここまで言われたら合格しないわけにいかないわね」

 弥生が少し気の毒そうに池上を見て言った。

「合格してみせるっす」

 池上が宣言した。

「ところで、試験っていつだっけ?」

 テワタサナイーヌは、自分が受験したときのことをすっかり忘れていた。

「お正月明けたらすぐですよ」

 山口が言った。

「えーっ、もうすぐじゃない!大輔くん、家で全然勉強してないけど大丈夫なの?」

 テワタサナイーヌが騒いだ。

「大丈夫です。池上くんは普段の仕事が勉強になっています。そういう仕事の仕方を身に着けています」

 山口が太鼓判を押した。

「そ、そんなに持ち上げられると逆に怖いっすね」

 池上がもじもじした。

 

ごぽっ

 

(なにこの音?)

 テワタサナイーヌの耳に川の水から何かが落ちたような濁った音が飛び込んできた。

 人間の耳にはまったく聞こえない音だ。

 

じゃぽっ

 

 ほんのわずか遅れて空気の振動としての音が聞こえた。

(え、なに?なんか川に落ちた?)

 テワタサナイーヌは嫌な予感がした。

 他の三人は、平然としている。

 聞こえていないようだ。

 

 

ごぼっ、ごぼっ

 

 水の中で暴れるような音が川の水から聞こえてきた。

「誰か落ちた!」

 テワタサナイーヌが大きな声で言った。

 他の三人が驚いたようにテワタサナイーヌを見た。

「水の音が聞こえる。水の中で誰かが暴れてる」

 テワタサナイーヌは、その音が川の上流、下流のどちらから聞こえてくるか確かめようとした。

 右耳を上流に、左耳を下流に向けて聴覚に集中した。

 なかなか音の出どころが特定できない。

 かすかに下流側の左耳に音が入ってきているような気がした。

「あっち!」

 下流の方を指差すと、テワタサナイーヌは走り出した。

 100mくらい下流に走っていくと、前の方に橋がかかっているのが見えた。

 橋の上には男女がいて橋の欄干から身を乗り出して下を見ている。

 その男女の表情はものすごく切迫したように見えた。

 橋から川に目を移したところでテワタサナイーヌは事態を理解した。

 川の中で小学生くらいの男の子が暴れていた。

 暴れているのではなく溺れているのだ。

 おそらく、橋の上の男女は、その男の子の両親で、突然の出来事に声も出せない状態なのだろう。

 川幅は20mくらい。

 男の子は、川のほぼ真ん中にいる。

 その周辺には浮輪のような救命具はない。

(どうする私)

 テワタサナイーヌは走りながら自問した。

 テワタサナイーヌは、トレンチコートを脱ぎ捨てた。

 次に履いていたパンプスを脱いた。

 後から追いかけてきた池上と山口がそれらを拾い集めた。

「テワさん、やめろ!低体温になってテワさんも危ない」

 テワタサナイーヌがやろうとしていることを察した山口が制止しようとした。

「大丈夫!それより救急車!」

 そう言い残してテワタサナイーヌは川に飛び込んだ。

 浅底と聞いていたが、実際の水深がどれくらいかは知らなかった。

 大量の飛沫とともにテワタサナイーヌが水中に消えた。

 すぐにテワタサナイーヌは姿を表した。

「大丈夫。立てる!」

 テワタサナイーヌは、そう言うと暴れている男の子の方に水をかき分けるようにして歩いて近づいた。

 暴れる男の子にみつからないようにして、その背後に回り込んだテワタサナイーヌは、男の子の後ろ襟首をつかんで引き上げた。

 みつかって抱きつかれた場合、救助者ともども溺れる危険があるからだ。

 男の子の顔が水面から出た。

 テワタサナイーヌが男の子を自分の方に引き寄せて呼吸の有無を確かめた。

「げほっ、げほ、おえっ」

 男の子は水を飲んでむせていたが、呼吸も意識もあるようだった。

 テワタサナイーヌは、そのまま襟首を引っ張って山口らがいる岸に向かった。

「引き上げて!」

 テワタサナイーヌが大声で指示した。

「わかった」

 山口と池上が男の子を岸に引き上げる。

 それを追ってテワタサナイーヌが自力で這い上がってきた。

 男の子はむせながら恐怖のため泣いている。

 水中で体温が奪われた上、水上にあげられたことで冷気に晒されて急激に体温が低下している。

 唇がみるみる紫色に変色していった。

 水上に上がったテワタサナイーヌは全身を大きく震わせて、露出している身体の毛についている水を飛ばした。

 そして、すかさず男の子を抱きしめた。

「この子にコートかけて!」

 男の子に自分のコートをかけるよう指示した。

「いや、テワさんも濡れてるから危ないよ!」

 池上が心配した。

「いいから早くかけろ!」

 テワタサナイーヌが怒鳴った。

 池上がテワタサナイーヌのコートを男の子の上からかけ、できるだけテワタサナイーヌにもかかるように引っ張った。

 池上の手には、コートを通してテワタサナイーヌがぶるぶる震えているのがわかった。

「テワさん、無理じゃないすか」

 池上が心配して言ったが、テワタサナイーヌは返事をしなかった。

 そのうち、テワタサナイーヌの身体から白い湯気が上がり始めた。

 テワタサナイーヌの息が荒くなっている。

「早苗、もう無理だやめろ。お前まで低体温になる」

 山口が止めようとしてテワタサナイーヌの肩に手をかけた。

(熱い)

 テワタサナイーヌの身体が明らかに発熱していた。

 テワタサナイーヌが震えていたのは、寒さのためではなかった。

 筋肉を動かすことで熱を発生させていた。

 そうすることで体温が上昇し、水が湯気となって蒸発していたのだ。

 そして、自分の熱を溺れた子供に分け与えていた。

(寒さを感じないって言ってたのは、こういうことか)

 池上はバスルームでのテワタサナイーヌとの会話を思い出した。

 テワタサナイーヌの息が荒くなっていたのは、エネルギーの燃焼に必要な酸素の消費量が増えたためだった。

 テワタサナイーヌに抱きかかえられた男の子は、徐々に唇に血色が戻った。

 ほどなくして救急車が到着して、男の子を病院に収容した。

 男の子は、若干水を飲んだだけで、それ以外はまったく問題なく、すぐに家に帰れたという。

 橋の上にいた男女は、男の子の両親だった。

 男の子は、橋の欄干の上を歩いて橋を渡ろうとしていた。

 それが、ちょうど真ん中の辺りで凍結していた欄干で足を滑らせて、運悪く川側に落ちてしまったのだ。

 川は、テワタサナイーヌの腰くらいまでしか水深がなかったので、その男の子でも足が立つほどだった。

 しかし、落ちたときに水を飲んでしまったことでパニックに陥り、立てる深さであるにもかかわらず溺れてしまったというわけだ。

 

「あーあ、お腹すいた」

「なんか、エネルギーが補給できるおいしいものが食べたいなあ」

 服が濡れてしまったので、コートを着ることができないテワタサナイーヌが元気に言い放った。

 男の子を救急隊に引き継いだ直後のことだ。

 テワタサナイーヌは、まったく寒そうな様子がない。

 全身から湯気を上げて満足げだ。

「わかりました。いい働きをしてくれたご褒美です。なにがいいですか」

 山口は、テワタサナイーヌの要求通りのものをご馳走するつもりだった。

「お母さんのおにぎり!」

「あら、じゃあ早く帰って作らなきゃ」

 弥生が嬉しそうに言った。

「それよりまずはお風呂っす」

 池上が言った。

「そうよね。まずはきれいにしないと。三助、またシャンプーお願いね」

 テワタサナイーヌが池上を見て言った。

「三助?」

 山口が聞き返した。

「そう、三助。大輔くんにシャンプーしてもらうときは、三助なの」

 テワタサナイーヌが当然という顔をした。

「すっかり尻に敷かれてますね」

 山口が苦笑した。

「俺たちは、これでいいんす」

「そういうものっす」

 池上は屈託なく言った。

「そうですね。そういうものですね」

 山口も納得した。

 

「ねえお父さん」

「はい、なんですか」

「靴、履かせてもらっていいかな。足が冷たいの」

「あ、すみません。忘れていました」

 水から上がってずっとテワタサナイーヌは裸足のままだった。

「あのね、身体は熱を出せるんだけど、手足は冷えるのよ。普通に。だからちょっと足が辛いかなーって」

 テワタサナイーヌが足踏みをしながら言った。

「どうぞ」

 山口が靴を揃えてテワタサナイーヌの前に出した。

「ありがとう」

 テワタサナイーヌが礼を言った。

「俺の手袋使うといいっすよ」

 池上が自分の手から手袋を外して差し出した。

「大輔くん優しい!好き」

 手袋を受け取ったテワタサナイーヌは、池上の手袋に手を入れた。

「大輔くんの手、あったかい」

 手袋に残っていた池上の手の温もりが嬉しいテワタサナイーヌだった。

「それにしても早苗さんの褐色脂肪細胞の威力は凄いわね」

 弥生がため息を付いた。

「自分でもびっくりよ」

 テワタサナイーヌも自分にこんな能力があるとは思わなかった。

 寒さを感じないようにある程度コントロールすることはできていたが、気合で発熱させることができるとは知らなかったのだ。

 

「早苗さん」

「なーに、お母さん」

 弥生がテワタサナイーヌに呼びかけた。

「あなたって、根っからの警察官ね。とっても素敵よ」

 お世辞ではなかった。

 弥生は、絶対に自分ではできないようなことをやってのけるテワタサナイーヌを職業人として尊敬していた。

「うん。だってお父さんの娘だもん」

 テワタサナイーヌは誇らしげに山口を見た。

「早苗さん、また焼肉奢ってあげます」

 山口が相好を崩した。

 テワタサナイーヌが池上を見てぺろっと舌を出して肩をすくめた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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ニトログリコール

「ねえお母さん」

 1階のリビングで小さなショーツ一枚だけを身に着けたテワタサナイーヌが椅子の背もたれを抱くように座り、弥生に声をかけた。

 他人が見たらかなり扇情的な絵だ。

 今日は、山口も池上もいない。

 池上は、警部補昇任試験の一次試験を受けに行っている。

 山口は、その試験官として出勤している。

 女同士なのでテワタサナイーヌは服装に気を使う必要がなく、ほとんど全裸に近い格好で2階から下りてきていた。

 弥生もテワタサナイーヌの裸には慣れてしまい、まったく気にする様子もない。

 家族の中では、「テワタサナイーヌ=裸」になっている。

「お母さんたちは、どこで結婚式を挙げたの?お父さん、そういうことを全然話してくれないから」

 テワタサナイーヌが口を尖らせた。

「私たちの結婚式?教会だったわよ」

 弥生が恥ずかしそうに答えた。

「へー、クリスチャンだったの?」

「そうじゃないの。二人ともただのミーハーだったからよ。なんとなく教会の方がおしゃれっていう感じがしない?それだけの理由」

「そうなんだ。教会ってことは、よくある結婚式場やホテルの中にあるチャペルとは違ったんでしょ?」

「そう、結婚式用の施設じゃない街の教会」

「なんか、かっこいい。写真ある?」

「あるわよ。見たい?」

「見る!!」

「じゃあちょっと待ってて。引っ張り出してくるから」

 そう言って弥生は寝室に入って行った。

(お母さんのお嫁さん姿ってどんなだったんだろう。私と同じくらい背が高いから、きっときれいだったんだろうな)

 テワタサナイーヌは、弥生の写真が自分の想像図になると思っている。

「あったあった」

 弥生が数枚のフォトフレームを持って寝室から出てきた。

「はいどうぞ」

 弥生は、テーブルの上にフォトフレームを並べてテワタサナイーヌに見せた。

「おぉー」

 テワタサナイーヌは、思わず声を上げた。

 きれいだろうとは思っていたが、予想以上にきれいな花嫁だった。

 まず目に止まったのは、弥生のウエディングドレス姿のものだった。

 弥生が単独で映っている。

 ウエディングドレスを着た弥生の後ろ、やや高い位置から俯瞰するようなアングルで撮影されていて、ドレスのデザインがよくわかる。

 純白のウエディングドレスを身に纏い、後ろのカメラを振り返るように身体を捻っている。

 元々締まっていたであろうウエストがポーズのとり方でより一層くびれて見える。

 ドレスは、定番のAラインのロングトレーン。

 ノースリーブでレースがあしらわれている。

 トレーンの長さは3mはあるだろうか、美しいドレープ感を見せている。

「すてき…」

 テワタサナイーヌはため息を付いた。

「お父さんが選んでくれたデザインなの」

 弥生が嬉しそうに教えてくれた。

「私が着るものは、お父さんが選んでくれると、だいたい間違いないの」

「お母さん愛されてるね」

「ええ、もちろんです」

 弥生は自信たっぷりに答えた。

「この結婚指輪だって、お父さんがデザインしてくれたオリジナルの一点ものよ」

 弥生は左手の指輪を見せた。

 薬指に輝く指輪は、プラチナ台にプリンセスカットのダイヤモンドが埋め込まれ、その両端に小さいブリリアントカットのダイヤモンドが2個ずつ寄り添うように埋め込まれている。

 普段の生活に支障がないようにと、突起を廃したデザインが山口の配慮だった。

「この世でたったひとつの指輪。同じものは世界中どこを探したってないわ」

 弥生の自慢の指輪だ。

(はぁ、素敵。羨ましい)

 テワタサナイーヌは、毛で隠れて見えないが顔を紅潮させている。

「このドレスってレンタル?」

「いいえ、買ったものよ」

「まだある?」

「あるわよ」

「着てみたいんだけど、私でも入るサイズ?」

「たぶん今の早苗ちゃんとこの頃の私は、ほとんど同じサイズだと思うから着られるはずよ。でも、結婚前にウエディングドレスを着ると、婚期が遅れるっていうけど、いいの?」

「うん、いいよ。大丈夫。大輔くんとなら結婚しなくてもいいと思ってるから」

「え?別れるつもり?」

 弥生の顔から笑顔が消えた。

「あ、ごめんなさい。そういう意味じゃなくて。大輔くんとなら、結婚という形式はどうでもよくて。今のままでも私は幸せっていうこと」

 テワタサナイーヌが両手のひらを弥生に向けて左右にぶんぶん振った。

「あーびっくりした。てっきり別れることを考えているのかと思った」

 弥生が苦笑した。

「そういうつもりはまったくございません」

 テワタサナイーヌも苦笑した。

「着てみる?ドレス」

「うん。着たい」

「ちょうど裸で着やすそうね」

 弥生が笑った。

 弥生がクローゼットから白い大きな箱を運び出した。

「これよ」

 箱を開けると、中から真っ白なドレスが出てきた。

 レースやチュールが豪華さを演出している。

「さ、着てごらん」

 弥生がドレスをテワタサナイーヌに手渡した。

「ドキドキする」

 テワタサナイーヌは緊張していた。

「パニエはどうする?パニエを履かないとスカートが十分に膨らまないけど」

 弥生がパニエを手に持って訊いた。

「それって着るの大変?」

 初めてのドレスなので勝手がわからないテワタサナイーヌだった。

「そうね。ちょっと要領がいるかも」

「そっか、じゃあ今日はドレスだけ着てみていい?」

「いいわよ」

 テワタサナイーヌは、ドレスの中に足から入り、弥生の介添でドレスを持ち上げて腕を通した。

「あ、ごめんなさい。これ着けないと、さすがにスタイルのいい早苗ちゃんでも背中が締まらないわ」

 弥生がコルセットを取り出して言った。

 コルセットでテワタサナイーヌのウエストを限界まで締め上げる。

「ぐえー、結構苦しいよ」

「そういうものなの」

「お父さんみたい」

 二人で笑った。

 ただでさえくびれているテワタサナイーヌのウエストが、不自然なほどくびれた。

 ドレスのジッパーは楽に締めることができた。

「やっぱり早苗ちゃんの方が細いわ。ちょっと悔しい。私はコルセットで締め上げてなんとかジッパーが上がったくらいだもん」

 弥生が少し悔しそうに言った。

 テワタサナイーヌは左右に首を回し陶酔したような目でドレスを眺めている。

 油断したのか柔らかな舌がてろんと出てしまった。

「お母さん」

「なんですか」

「これ着て結婚式挙げたい」

 テワタサナイーヌがうっとりした表情のまま言った。

「あら嬉しい。着てくれるの?あ、でもそれはダメだわ」

 弥生が申し訳なさそうに言った。

「え、どうして?」

 テワタサナイーヌが元の表情に戻った。

「どうしてかは言えないけど、このドレスは着せてあげられないと思うの。たぶん」

 弥生は歯切れが悪かった。

「えー、そうなんだ。残念。素敵なドレスなんだけどなー」

 テワタサナイーヌは、あえて追及をしない。

 自分にも隠したい過去があったように、人には隠したいことがある。

 そういうことを詮索しないのがテワタサナイーヌのポリシーだった。

「でもいいや。着せてくれてありがとう」

 テワタサナイーヌは、笑顔で弥生に礼を言った。

「ねえ早苗ちゃん」

「なに、お母さん」

「早苗ちゃんて、若いとき、あらごめんなさい。今でも若いわね。えっと巡査のときでしたっけ、白バイに乗ってたの」

 弥生がテワタサナイーヌに白バイ乗務の経歴を訊いた。

「うん。そうだよ」

「その頃の写真ある?」

「あったと思うよ。探してこようか?」

「見せてくれる?」

「オッケー」

 テワタサナイーヌが2階に上がって行った。

「乗車活動服の写真あったよ」

 テワタサナイーヌが1枚の写真を持ってきた。

 その写真は、青い乗車活動服を着てヘルメットを被ったテワタサナイーヌが映っていた。

 

【挿絵表示】

 

「ねえねえ早苗ちゃん」

「なーに?」

「早苗ちゃんは、メガネかけてないわよね?写真でかけてるメガネは度付きなの?」

 写真のテワタサナイーヌは、赤いフレームのメガネをかけている。

「あ、これは伊達メガネ」

「オートバイで走ると風を切るでしょ。メガネをかけてないと目にゴミが入るし、風で目が乾いちゃうのよ」

 テワタサナイーヌが説明した。

「そういうことなのね」

 弥生が納得という顔をした。

「でもさ」

「でもなに?」

「早苗ちゃん、目が大きいからメガネのフレームから目がはみ出してない?」

 弥生が笑いながら写真を指差して言った。

「見つかっちゃったか。そうなの。メガネからはみ出すのよ。だから、本当はメガネよりゴーグルの方がいいんだけど、ゴーグルはおしゃれなのがないから、ちょっと目がはみ出してるけどメガネで押し通した」

「目が大きいって、かわいいだけじゃなくて大変なのね」

 弥生はテワタサナイーヌの目をまじまじと見つめた。

 

 弥生が白バイの話を出したのは理由があった。

 

 仕事始めの日、山口は総監秘書室から電話があり総監に呼び出されていた。

(またお叱りを受けるのか)

 山口は気が進まなかった。

「犯抑山口警部入ります」

 総監秘書が部屋の入口で声をかけた。

「あ、どうぞ入ってもらってください」

 総監の明るい声が聞こえた。

「失礼いたします」

 山口は一礼して部屋に入った。

 総監室には、卓球台ほどもあろうかという大きな机と、その脇にシンプルなテーブルセットがある。

 テーブルセットは、打ち合わせや決裁で説明が必要なときなどに使っている。

 その日は、すでに総監の他に1人の幹部がテーブルに付いていた。

 交通部長だった。

(これは恐ろしいところに呼ばれたものだ)

 山口は部屋を出て帰りたい思いに駆られた。

「山口さん、どうぞかけてください」

 総監がテーブルの空いた席を指して言った。

「はい。失礼します」

 山口は、交通部長に一礼して椅子に座った。

 まったく座り心地の悪い椅子だった。

 落ち着かない。

「今日、山口さんに来ていただいたのは他でもありません」

 総監が口を開いた。

「2月に東京マラソンがあるのはご存知ですね」

「はい、存じております」

 山口が緊張しながら答えた。

「その先導をやっていただきたい。お嬢さんと一緒に」

「えっ!?」

 山口は思わず大きな声を出してしまった。

「し、失礼しました。青天の霹靂で驚きました」

「そうでしょうね。わかります。今現在白バイに乗っていない。それだけではなく親子で先導しろと言われたら、誰だって驚きます」

 総監が山口に同情した。

「大変光栄なお話ではありますが、通常マラソンの先導は大会で優秀な成績を収めた方などが務めていると思います。私たち親子のような特に実績もなく一線を退いた者が先導を務めたという話を聞いたことがありません」

 山口は焦った。

「そうです。『今までは』そうでした。ですが、山口さん。あなたは、今まで誰もやってこなかったことを数多く手がけてきています。そのあなたが『先例がない』と言ってしまっていいのですか?」

 総監が山口をからかった。

「おっしゃるとおりです」

 山口が頭を下げた。

「今回、山口さんに先導をお願いするのは、親子で先導という話題作りが表立った理由です。しかも、その親が国民に親しまれているTwitter警部、娘がチャーミングなケモノ娘のテワタサナイーヌさんです。話題にならないはずがありません」

 総監が説明を続けた。

「そして、これは私からの置き土産でもあります」

 総監が笑顔で山口を見た。

「私もそろそろ総監としての在任期間が1年になろうとしています。間もなく次の総監がいらっしゃる頃です。山口さんとテワタサナイーヌさんには、就任後間もないころにインタビューで遊んでいただいた恩があります。その恩に報いたいと思い、今回、私から交通部長に無理を言って先導をお願いしたというわけです」

「は、はあ」

 総監の口から意外な理由が飛び出したことで、山口は何を言っていいのかわからなかった。

 総監がこのような個人的な理由で仕事に関する指揮を執ることは普通では考えられない。

 よほどあのインタビューが印象に残っていたのだろう。

「実は、その他にもう一つ理由があります」

 総監が真剣な表示に変わった。

「いま、毎日のように世界中でテロ事件が発生しています。そのテロの多くは、爆弾を使い、民間人が多く集まり警戒が手薄な場所、いわゆるソフトターゲットを狙ったものです。東京マラソンでもテロが行われる可能性があるという情報も入っています。そのテロを制圧するために、テワタサナイーヌさんの嗅覚をお貸しいただきたいのです」

「爆弾探知です…か…」

 山口が恐る恐る確認した。

「そうです。もちろん一義的には爆弾探知犬が警戒に当たりますし、事前に検索もします。しかし、大会開催中、爆弾らしいものが発見されたとき、緊急に現場に飛んでいける機動力が爆弾探知犬にはありません。その穴をテワタサナイーヌさんに埋めていただきたいのです」

 総監が切々と説明した。

 山口は総監の意図を理解した。

「先導をしながら、状況が発生した場合は、緊急で転進させたい。そういうことですね」

「そのとおりです」

 総監が頷いた。

「もちろん、そのような状況が起こらないのが理想です。最悪、そのような事態になった場合でも、山口さんが残って先導を続けていただけますから大会の続行は可能です」

 交通部長が言った。

「この件について、警備部や公安部は了解しているのですか」

 山口は爆弾探知犬を運用する警備部や情報を担当する公安部の了解が得られているのかどうか気になった。

「もちろん根回し、と言いますか総監の指揮により各部了解済みです」

 交通部長が言った。

「承知いたしました。テワタサナイーヌは、爆弾探知の経験がありません。訓練期間はとっていただけるのでしょうか」

 山口が質問した。

「もちろん警備二課の爆対にやらせます」

 総監が即答した。

「それともう一つ。テワタサナイーヌが爆弾探知をするときは、白バイの乗車活動服です。対爆スーツではありません。かなりリスキーな作業となります。危険手当若しくは事故発生時の手当てを特別に考慮していただけるのでしょうか」

 山口としては、考えたくない可能性ではあったが、やる以上は無視できないことだった。

「当然です。現行法規で取りうる最大の手当てを用意します」

 総監が保証した。

「ありがとうございます。ただ、本人の意向を無視して私の一存でお受けすることはできません。今週末は、娘の婚約者が警部補昇任試験に挑みます。その前にふたりに動揺を与えたくありませんので、お答えは週明けでよろしいでしょうか」

「そうでしたか。そうしてあげてください。お嬢さんの婚約者は池上さんでしたね。試験、頑張るようにお伝え下さい」

 総監が山口の提案を飲んだ。

 その日、帰宅した山口は、テワタサナイーヌと池上が2階に上がったタイミングを見計らって、弥生にマラソン先導の件を話した。

「またとない光栄なお仕事ね」

 弥生は喜んだ。

「爆弾探知だけは心配だけど…」

 喜んだあとに心配顔になった。

「池上さんの試験が終わるまで、二人には言わないでください」

「わかりました」

 

 この会話があったために弥生はテワタサナイーヌの白バイ当時の写真が気になったのだ。

(いつも危険な任務ばかりの早苗ちゃんを守ってあげて。早苗)

 テワタサナイーヌが2階に上がったあと、弥生は亡くなった早苗の位牌に手を合わせた。

 

「ただいま帰りましたー」

 池上が玄関を開けながら元気に挨拶をして帰ってきた。

「おかえり!」

 テワタサナイーヌが玄関で池上を迎えた。

 尻尾が元気に振られている。

 テワタサナイーヌには、誰かが家の門を入って玄関まで歩く足音で、誰が帰ってきたのかわかる。

 今日も、池上の足音に気づいたテワタサナイーヌは、椅子から飛び跳ねるように立ち上がると、尻尾を振りながら階段を駆け下りた。

(犬だよね、私)

 自分でも飼い主を玄関で大歓迎する犬のようだと思った。

「ただいまテワさん」

 池上が尻尾を振るテワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌは、嬉しそうに目をつぶって舌を出している。

「試験、お疲れさま」

「ありがとっす。今回はいけそうっすよ」

 池上が自信たっぷりに言った。

「すごい!頼もしいね」

 テワタサナイーヌが池上に抱きついた。

 

「ただいま帰りました」

 池上より遅れて山口が試験官の仕事を終えて帰宅した。

 池上と山口の帰宅の挨拶は同じだ。

 ただ、池上の挨拶は語尾が伸びるところが山口と違う。

「おかえりなさい」

 弥生が奥から声を上げて迎えた。

「今年の試験は、ちょっと難しそうでした」

 ネクタイを緩めながら山口は試験問題の感想を言った。

「あら、そうなの。さっき大輔くんが帰ってきたとき『今回はいけそう』みたいなことを自信有り気に言ってたわよ」

「そうですか。普段の努力の結果でしょう。期待できそうですね」

 山口は嬉しそうだ。

「あとで二人に先導の話をしないといけませんね」

「そうね」

「早苗さんは、受けると思いますか」

「あの子は受ける。どんな危険があっても自分が必要とされていると思えば必ず受ける子よ」

「そうですね。私もそう思います」

「あなたの子らしいわね」

 

ぶぶっ

 

 テワタサナイーヌのスマートフォンが震えた。

(ん?)

 ほぼ全裸のテワタサナイーヌがスマートフォンを開いた。

「家族会議をします。池上くんと下に来てください」

 山口からのメールだった。

「大輔くーん、お父さんが下に来てだって」

「了解っす」

「家族会議だってよ。今までそんなことやったことないよね」

「ないっすね。なんだろう」

 二人は若干の不安を抱きながら階段を下りた。

「本当に寒くないんですか」

 小さなショーツ一枚のテワタサナイーヌを見て山口が訊いた。

「寒かったら服着てるから。犬はね、基本的に服着ないでしょ」

 テワタサナイーヌが当然だろうという顔で答えた。

(あ、だから私は露出好きなんだ)

 自分の発言で自分の露出好きの理由がわかった。

「そうですね。訊いた私が愚かでした」

「わかればいいのよ」

 テワタサナイーヌが勝ち誇った。

「まあ座りましょう」

 山口が全員に椅子を勧めた。

 テワタサナイーヌは、椅子の背もたれを抱きかかえるように座った。

「早苗ちゃん、その座り方は脚が開きすぎ。男の人がいるときは前を向いて座りましょ」

 弥生が注意した。

「あ、そうね。ごめんなさい」

 テワタサナイーヌが座り直した。

 テワタサナイーヌの家での無防備さは、座敷犬の無防備さに似ている。

「えー、本日お集まりいただいたのは他でもありません」

 山口が家族会議の開始を宣言した。

「堅い」

 弥生がダメ出しをした。

「すみません。家族会議ということでメールをしたのは、理由があります。一度、家族会議というものをやってみたかったからです」

「それだけの理由?」

「それだけの理由です」

「帰っていい?」

 テワタサナイーヌが呆れて2階に帰ろうとした。

「まあお待ちください」

 山口が引き止めた。

「もったいつけてないでさっさと言いなさい」

 弥生が進行を促した。

「はい。それでは本題に入ります。早苗さんにご相談です」

「なによ」

 テワタサナイーヌは、半ば本気で不機嫌になっている。

「来月、東京マラソンがあります。知ってますね?」

「知ってる」

「知ってるっす」

 テワタサナイーヌは不機嫌に、池上はいつもどおりに返事をした。

「その先導を総監直々に下命されました」

 山口が大仰に言った。

「えっ、お父さんが?」

 テワタサナイーヌが驚いた。

「いえ、早苗さんと私の二人です」

「えーーーーーーっ!?」

 テワタサナイーヌが更に驚いた。

「親子で先導したら面白いだろうと総監に言われました」

 山口が総監の趣旨を伝えた。

「そりゃあ話題になるでしょうよ。お父さん有名人なんだから」

 テワタサナイーヌが山口のTwitter警部としての評価に言及した。

「有名なのは私じゃなくて『款』と名乗っている担当者ですから」

「そうだけど、先導やったら絶対紹介されちゃうよ」

「そうでしょうね」

「ところで」

 山口の顔が真面目になった。

「今回の先導、早苗さんにはもう一つ、重要な任務が付与される予定です」

「予定ってどういうこと?まだ決まってないの?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、めっちゃかわいいっす!」

 池上が喜んだ。

「はい、まだ決まっていません。総監から早苗さんの意思を確認するように言われています」

 山口が総監からの下命でテワタサナイーヌの意思を確認することを伝達した。

「なにやらせようってのよ」

 テワタサナイーヌは嫌な予感がした。

「爆発物探知です」

 山口が端的に言った。

「いいよ、やるよ」

 テワタサナイーヌは、こともなげに受けた。

「危険が伴いますよ」

 山口が念を押した。

「わかってるよ。でもあれでしょ。私のこれを使いたいんでしょ。いいよ」

 テワタサナイーヌは、自分の鼻を指差した。

「使いたいって言ってくれる人のためなら何だってやるよ」

 テワタサナイーヌに悲壮感はない。

 それが当たり前と思っている。

「ほらね、やっぱり早苗ちゃんは受けてくれたでしょ。そういう子よ、この子は」

 弥生がテワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌが目を閉じて、てろんと舌を出した。

「ありがとうございます。早苗さんの意向は確認しました。池上さんのご意見は?」

 籍を入れていないとはいえ、実質的な夫である池上の意向も尊重しなければならない。

「俺はテワさんの気持ちを一番にします」

 池上も同意した。

「死ぬこともありますよ」

 山口が再度池上にも念を押した。

「覚悟してます。テワさんは、二度も死にかけてるんです。そう簡単には死にません。俺はテワさんを信じて送り出すだけです」

 池上にも悲壮感は感じられない。

(この二人の信頼関係は尋常じゃないな)

 山口は感心した。

 家族会議は、山口の予想を裏切る平穏な幕引きとなった。

 

──週明けの月曜日

 山口は総監に先導を受けると回答した。

 また、テワタサナイーヌの爆発物探知も喜んで引き受けると併せて回答した。

 白バイの運転に関しては、昔の勘を取り戻すためのブラッシュアップでいい。

 テワタサナイーヌに至っては、夏まで乗務していたので、簡単に再訓練すればいい。

 問題は、爆発物探知の訓練だ。

 通常、犬の場合は、爆発物をみつけるとハンドラーが遊んでくれたり、ほめてくれるという動機づけを行う必要がある。

 しかし、テワタサナイーヌの場合は、自分の意志で動けるので爆発物の臭いを覚えるだけで済む。

 その週の水曜日、テワタサナイーヌは、総監の指示で警備二課の爆対に行き、爆発物の臭いや基本的な取扱いを習うことになった。

「テワタサナイーヌさん、爆弾を扱ったことありますか?」

 爆対の係長がテワタサナイーヌに質問した。

「あるわけないじゃないですか」

 テワタサナイーヌが笑った。

「ですよね。あったら怖いです」

 係長も笑った。

「爆発物探知は、爆発物特有の臭いさえ覚えてもらえればすぐできます。だからテワタサナイーヌさんには、本当に簡単な仕事だと思います」

 係長は爆発物の資料をめくりながらさらっと言った。

「そんなに簡単に覚えられるんですか?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「犬が覚えられるんです。テワタサナイーヌさんにできないはずないですよ」

 あくまでも楽観的な人のようだ。

「軍用爆弾には、条約で『爆発物マーカー』といわれる物質を配合しなければならないと決めれているんです」

「へー、爆発物マーカーですか。それは何ですか?」

 テワタサナイーヌが質問した。

「爆発物マーカーというのは、テロ防止のため、爆発物探知機に反応するように配合させる物質のことです。あ、これはいわゆるプラスチック爆弾に限られます」

「へー、へー、へー」

 テワタサナイーヌは感心している。

 新しい知識が入ってくるのが楽しいようだ。

「要は、この爆発物マーカーの臭いを覚えてもらえれば、軍用のプラスチック爆弾については探知できるというわけです」

「なるほどねー」

「じゃあ軍用じゃない爆弾はどうするの?」

 テワタサナイーヌがもっともな疑問を呈した。

「鋭いですねえ、テワタサナイーヌさん。軍用じゃない爆弾で爆発物マーカーが入っていないものは、探知しにくいです。頑張ってください」

 そう言って係長は笑い飛ばした。

「それでいいんだ」

 テワタサナイーヌも苦笑するしかなかった。

「まあ、あれですよ。ニトログリコールの臭いでも覚えておいてくれれば、だいたい事足りますよ。あ、ニトログリコールも爆発物マーカーですから」

「だいたいなんだ」

 爆対の係長は、かなり大雑把な性格らしい。

「せっかくなんで爆弾、爆発させますか?」

 係長が恐ろしげな提案をした。

「ここでですか?」

 テワタサナイーヌは、怖くなった。

「いや、さすがにここで爆発させたら大事になります。ちゃんとした施設で安全が確保された状態のもとに爆発させます。それで、爆弾の威力を実感して欲しいんです」

 係長は、単に遊びとして提案したのではない。

 爆弾の威力を実感して、爆弾を正しく恐れる姿勢を身につけて欲しかったのだ。

「わかりました。見せてください」

 テワタサナイーヌも趣旨を理解した。

「では、明日、群馬県まで出張します」

「え、都内ではできないんですか?」

「都内に爆弾を爆発させられる場所があると思いますか?」

 係長が笑った。

「そうですよねー」

 テワタサナイーヌも笑った。

 翌日、テワタサナイーヌは爆対の係長に連れられて群馬県下のとある施設で爆弾の爆発実験を見学した。

(爆弾こわっ)

 テワタサナイーヌの正直な感想だ。

「テワタサナイーヌさん、これはどうでもいい知識なんですけど、爆発って急速な燃焼による気体の膨張なんですね。で、この膨張速度が音速を超えるか超えないかで呼び方が変わります。音速を超えないと『爆燃』といいます。音速を超えるものを『爆発』とか『爆轟』といいます。覚えておいて損はないですよ。得もないですけどね」

 そう言って係長は大笑いした。

(変な人だけど信用できそう)

 爆発物でわからないことがあったら、この係長に質問しようと思った。

 

 群馬県下の施設を出たところでテワタサナイーヌはスマートフォンの電源を入れた。

 その施設内は、セキュリティ確保のため通信機器の持ち込みは禁じられていた。

 

ぶぶっ

 

 電源を入れて間もなく、テワタサナイーヌのスマートフォンが震えた。

(はて、なにかしら)

 テワタサナイーヌはスマホカバーのフラップを開けた。

「一次試験合格したっす!ドヤァ」

 池上からのメールだった。

「やった!」

 テワタサナイーヌは、思わず声を出してしまった。

「どうしました?」

 係長がテワタサナイーヌに訊いた。

「あ、夫が一次試験合格したんです」

「おお、それはおめでとうございます!」

 係長も一緒になって喜んでくれた。

 

(もう夫でいいよね。大輔くん)




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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先導

「じゃあ行きますか」

 山口がヘルメットのシールド越しにテワタサナイーヌに声をかけた。

「うん」

 テワタサナイーヌが笑顔で頷いた。

(お父さんと白バイで走れるなんて思ってもみなかったな)

 山口は青い乗車活動服に、テワタサナイーヌは赤い乗車活動服に身を包んでいる。

 二人が駆るのは新車のCB1300P。

 ロングストロークの空冷4気筒エンジンが静かに鼓動を伝える。

 ホンダのCB1300Pは、ホイルベースが長く直進安定性に優れるため、低速で走り続けるマラソンの先導に適している。

「とうけい10001から警視庁」

「とうけい10001どうぞ」

「とうけい10002とともに東京マラソンの先導を開始する。どうぞ」

「警視庁了解」

「以上、とうけい10001」

 山口が無線で先導の開始を報告して東京マラソンがスタートした。

 とうけい10002は、テワタサナイーヌのコールサインだ。

 

──2月の日曜日早朝

 山口とテワタサナイーヌは、東京マラソンのコースを白バイで実際に走って確かめるため都庁前にいた。

 二人は、1月中に白バイ運転のブラッシュアップ訓練を受け、白バイ訓練所長から公道走行可の評価を受けている。

 実際にマラソンの先導を経験している現役白バイ隊員からも具体的な指導を受けた。

 この日は、山口とテワタサナイーヌのほか、東京マラソンの先導以外のポジションで参加する白バイ12台も帯同する。

 白バイの隊列は、山口が先頭、それにテワタサナイーヌが続き、さらにその後ろに他の白バイが追従する。

 山口はクラッチレバーを握り、左足でギアを1速に入れた。

 発進の合図で右のウインカーを点灯させる。

 目視で後方の安全を確認する。

「よし」

 安全確認後、前に向き直った山口が呼称した。

 山口がゆっくりと白バイを発進させた。

 テワタサナイーヌがそれに続く。

 山口は、車線の右側に寄せて走る。

 テワタサナイーヌは、山口の左斜め後方につく。

 テワタサナイーヌに続く白バイは、テワタサナイーヌの右斜め後方に入る。

 これを順次繰り返して隊列を組む。

 上から見ると白バイがジグザグに並ぶことになる。

 千鳥走行と言われる隊列の組み方だ。

 総勢14台の白バイが隊列を組んで走行する様は圧巻だ。

 山口は、ミラーに写る隊列最後尾の白バイにも気を配る。

 途中で信号などにより隊列が切れてしまうことがあるからだ。

 なるべく切れることがないように、交差点に進入する前から信号のサイクルを考えて速度を調整する。

 都庁前をスタートした山口は、靖国通りを東に進み飯田橋交差点を右折する。

 その先は、飯田橋一丁目、西神田、専大前と直進し、須田町交差点で右折、日本橋交差点から左折、茅場町一丁目を左折、浜町中ノ橋を左折する。

 そして、雷門前で折り返し、蔵前一丁目を左折、石原一丁目を右折、門前仲町を通り、富岡八幡宮前を折り返す。

 茅場町一丁目まで戻り右折、日本橋を左折、銀座四丁目を右折、日比谷を左折、芝五丁目を通り品川駅前を折り返す。

 あとは、芝五丁目、日比谷と通過して東京駅前でゴールとなる42.195kmのコースだ。

「あっ、かわいい耳の白バイ!」

 沿道の子供から歓声が上がる。

 テワタサナイーヌは、ヘルメットも犬耳付きのものを新調してもらった。

 テワタサナイーヌは、軽く手を振って笑顔で応える。

 きれいなエメラルドグリーンの瞳が隠れないように、透明レンズのメガネをかけている。

 その様子をミラーで見ている山口も笑顔になる。

 隊列は、ゴール地点の東京駅前に到着した。

 各白バイは解散となり、各々の部隊に帰っていった。

 東京駅前は、日曜日ということもあってたくさんの観光客が歩いている。

 テワタサナイーヌは観光客に取り囲まれ、 記念撮影を求められている。

 テワタサナイーヌは、ニコニコしながら写真に収まる。

 求められるポーズを取るのもお手の物だ。

 長身で脚が長くスタイルのいいテワタサナイーヌをカメラやスマートフォンを持った人が取り囲んでいると、まるでモデルの撮影会でもやっているかのような華やかさがある。

 もちろん、サインの求めにも気軽に応じ「アッテマーク」をさらさらと書いていく。

「お巡りさん、名前はなんていうの?」

「テワタサナイーヌっていうのよ」

「変な名前ー」

 子供が無邪気に話しかける。

「変でしょー。お巡りさんもそう思うのよ。ここにいるお巡りさんがつけた名前なの」

 テワタサナイーヌがひざまずいて子供と目の高さを合わせ、横にいる山口を見て言った。

「えっ、その名前はテワさんが自分で…」

「しーっ」

 山口が言い終わる前にテワタサナイーヌは人差し指を口に当てて制した。

「そういうことにしといて」

「仕方ありませんね」

 山口は納得できなかったが、テワタサナイーヌに言われると逆らえない。

「テワタサナイーヌっていうのは本当の名前?」

 子供は無邪気に追及する。

「ううん、違うよ。私の本当の名前は山口早苗。このお巡りさんの娘よ」

「へー、親子で白バイに乗っているんですね。素敵です」

 子供の母親が羨ましそうに言った。

「えー、でも男のお巡りさんは人間の顔だけど、このお巡りさんは犬みたいな顔してるよ」

 子供が母親に言った。

「あはは。そうよね。全然違う顔してるよね」

 テワタサナイーヌは笑いながら答えた。

「お巡りさんね、本当は捨て犬なのよ。子犬のときにダンボールに入れて捨てられてるところをこのお巡りさんに拾われたの」

 テワタサナイーヌが深刻そうな顔をして子供に話をした。

「え、かわいそう」

 子供も沈痛な面持ちになった。

「嘘よ」

 テワタサナイーヌは、笑いながら子供の頭を撫でた。

(でも、だいたい似たような生い立ちだけどね)

 

 平日は、通常の仕事をしながら、白バイの整備やコースの確認、爆発物の識別訓練をこなす。

 テワタサナイーヌは、だいぶ爆発物を嗅ぎ分けられるようになった。

 爆発物マーカーは、ほぼ完璧に識別できる。

(私の鼻ってすごくない?)

 自分でも鼻高々だ。

 鼻だけに。

「テワさん、話しかけていいすか」

 忙しく動き回るテワタサナイーヌに後ろの席から池上が声をかけた。

「ん?いいよ。忙しくてもあんたの話は聞いてあげる」

 職場では努めてクールを装おうとしているテワタサナイーヌであったが、言葉の端々に池上大好き成分が混ざる。

「さっき副本部長に呼ばれたんす」

「うん。で?」

 テワタサナイーヌは、池上が言いたい用件の見当がついてドキドキした。

「合格っす」

 池上がテワタサナイーヌの耳元で囁いた。

「やったじゃん!おめでとう!やっぱあんたすごい男だわ。さすが私のハンドラー」

 テワタサナイーヌが興奮して尻尾を振った。

 池上が警部補昇任試験の二次試験に合格したのだ。

 二次試験は、論文試験だ。

 単に知識があるかどうかではなく、正しく論を組み立てる能力が求められる。

 山口流仕事術が本領を発揮するのは、この論文試験だ。

 基礎、基本の理論を押さえておけば、ひねった問題でも結論を導き出すことができる。

「お父さん聞いた?小僧が二次試験通ったって」

 テワタサナイーヌが興奮冷めやらぬ様子で山口に話しかけた。

「いま知りました。よかったですね」

 山口も嬉しそうだ。

「これでもし最終合格したら、もう小僧とは呼べないね」

 テワタサナイーヌが池上に言った。

「別にいいすよ。小僧でも。俺は俺すから」

 まったく頓着しない池上だった。

(自信つけたね、大輔くん)

 テワタサナイーヌは、密かに喜んだ。

 その日から、池上は最終の三次試験に向けた勉強と準備を開始した。

 三次試験は面接だ。

 面接では知識の多寡ではない受験者の全人格が観られる。

(池上さんは大丈夫)

 山口は、絶対の自信を持っていた。

 自分が手塩にかけて育てた自慢の部下だ。

 合格しない方がおかしいくらいに思っている。

(緊張のあまり、すーすー言わなければ)

 池上は普段ブロークンな敬語を使い、軽薄を装っている。

 しかし、実は正しい敬語も使えるしっかりした男だ。

 緊張のあまり、ブロークンな敬語が出なければ面接など恐るるに足りない。

「これであんたも果てしないバカから卒業かしらね」

 テワタサナイーヌが意地悪そうに池上を見た。

「俺は、果てしないバカより永遠の暫定2位を卒業したいとこすね」

 池上は、以前テワタサナイーヌに永遠の暫定2位を宣言されていた。

 もちろん1位は山口だ。

「あー、そうだったわね。いつになったら越えてくるのよ」

 テワタサナイーヌが頭を左右に揺らしながら言った。

(やっぱりまだ果てしないバカだな。大輔くんは、とっくに永遠の1位なのに)

「前から思ってたんすけど、『果てしないバカ』って意味がわかんないすけど、インパクトはすごいすよね。よく思いついたすね」

 池上がテワタサナイーヌをほめたのか、けなしたのか、よくわからないことを言った。

「思いつきよ。でも、我ながら言葉としての破壊力はあると思うの」

 テワタサナイーヌが自画自賛した。

「言葉の破壊力って大事ですよ」

 山口が口を挟んだ。

「え?どういうこと?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、超かわいいっす。惚れていいすか」

 池上が騒いだ。

「好きなだけ惚れて」

 テワタサナイーヌも慣れたものだ。

「なんだかよくわからないけど何か凄そうだ。そう思わせるのが還付金詐欺のやり方です」

 山口がテワタサナイーヌを見ながら説明した。

「あら、果てしないバカが還付金詐欺になった」

 テワタサナイーヌが肩をすくめた。

「なんだかわからないけど凄そうだと思うと、人はその相手の言うことを受け入れやすくなってしまいます。『ジンクピリチオン』をご存知ですか?」

 山口が二人に質問した。

「知ってる。あれでしょ。シャンプーとかに入ってるやつ」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そう、それです。ジンクピリチオンという成分が一体なにものか、さっぱりわかりません。でも、なんとなく効果がありそうな気がしませんか?」

「するね」

 テワタサナイーヌが腕組みしながら頷いた。

「それが還付金詐欺にも使われているんです。まず、前提として、日本人の国民性として権威を疑わないという性格があります。それにジンクピリチオンを混ぜるわけです。社会保険庁、証券監視委員会など、なんとなくいかついイメージがあって逆らいにくい雰囲気、つまり権威がありそうな組織名を出します。そういった権威を仮装して還付金や保険料の払いすぎといった、自分では管理できないけど、なんとなくありそうで自分に有利な話を出されると、つい疑うことなく受け入れてしまうんです」

 いつものように山口がゆっくりと説明した。

「ジンクピリチオンねぇ」

 テワタサナイーヌが感心したように繰り返した。

「時代はジンクピリチオンすね」

 池上がしたり顔で言った。

「それ、ちっとも破壊力ないから。やっぱりあんたは果てしないバカね」

 テワタサナイーヌが池上の椅子を蹴飛ばした。

「でも好き」

 テワタサナイーヌが下を向いて小さな声で付け足した。

 

 テワタサナイーヌが池上の合格を祈りながら白バイで東京マラソンの先頭を走る。

 犬耳ヘルメットは、沿道の観衆に大人気だ。

 山口とテワタサナイーヌが乗る白バイのミラーには、セロテープが貼られている。

 マラソンの先導は、ランナーのペースメーカーになってはいけない。

 そのために、排気ガスを吸わせない程度の距離を保ちつつ、先頭ランナーの早さに合わせて走らなければならない。

 一定の距離を保つのは、目視では難しい。

 事前に仮のランナーを配置した状態で、もっとも適した距離を取ったとき、ランナーがミラーに写る大きさと同じ幅に切ったセロテープを貼ってある。

 ランナーがこのテープの中に収まっていれば、適度な距離が保たれているとわかる。

 テレビのアナウンサーが山口とテワタサナイーヌを紹介し始めた。

「今回の東京マラソン。先導は親子の警察官が務めています」

「親子でマラソンの先導をするのは、今までに例がないことだそうです」

「お一人ずつご紹介します」

「まず男性から。お名前は、山口博警部、52歳。所属は、犯罪抑止対策本部です。山口さんは、警視庁で最初にTwitterの公式アカウントを開設した方で、現在14万人のフォロワーがいるということです」

 山口が紹介されるとTwitterが賑やかになった。

「Twitter警部がテレビに出てる」

「款さん白バイ乗りだったのかよ」

「款さん歳ばらされてるし」

 次にアナウンサーは、テワタサナイーヌを紹介した。

「山口さんの次は、女性の白バイ隊員です。真っ赤な制服を着ている女性は、テワタサナイーヌ警部補、30歳。所属は山口さんと同じ犯罪抑止対策本部です。テワタサナイーヌさんは、山口さんの娘さんということです。それにしても不思議な外観をお持ちの女性ですが、科学捜査研究所の鑑定でイヌの遺伝子とヒトの遺伝子の両方を保有するという極めて珍しい遺伝情報をお持ちとのことです。テワタサナイーヌさんは、イヌの遺伝子を持っていることから、身体能力も特殊で、聴覚と嗅覚が犬と同等という高い能力をお持ちです。その能力を活かして、ひったくり犯人を臭いで追跡して逮捕したり、遠く離れた川に落ちた子供を助けたことがあるということです。ヘルメットに付いている耳がとてもかわいらしく、先程から沿道のお客様からたくさんの声援が送られています」

「お二人は、ともに巡査のとき白バイに乗務していたそうで、山口さんは実に30年ぶりの白バイだそうです」

 テワタサナイーヌの紹介でもTwitterのタイムラインが華やいだ。

「テワちゃーん」

「テワちゃん凛々しい」

「親子で白バイとかすげーな」

「款さんとテワちゃん、いつの間にか親子になってた」

「これは、いい親子」

 山口のとき以上に賑やかだった。

 山口とテワタサナイーヌは、ミラーのセロテープに先頭ランナーが収まるよう、絶妙なアクセルワークで速度と距離を調整し続ける。

 

──山口の自宅

 弥生と池上がテレビに釘付けになっている。

「お父さん紹介されたっすよ!」

 池上が興奮しながら弥生に話しかける。

「そうね、そうね。見ればわかるわ」

 弥生も普段にない盛り上がり方をしている。

 弥生の手には亡くなった早苗の位牌が握られている。

(爆弾だけはみつからないで)

 池上と騒ぎながらも、爆弾のことが気にかかる。

「うおー、テワさんすよ!テワさんテレビに映ってるす!」

「やっぱりテワさんかわいいっすね。惚れていいすか!?」

 池上は大騒ぎだ。

「惚れてあげてね」

 弥生も楽しそうに池上で遊んでいる。

 先導の白バイは、先頭ランナーにピントが合っていても、必ずカメラアングルに入り込んでいるので、山口かテワタサナイーヌのどちらかは常にテレビに映っていることになる。

 そうなると、常に池上が騒いでいるということにもなる。

 

 マラソンも中盤を過ぎ、先頭グループが形成され、その中で誰が飛び出すか、熾烈な駆け引きが繰り広げられている。

 誰かがスパートを仕掛けては下がるという状況が続くため、山口とテワタサナイーヌは、その度に速度と距離を調整しなければならない。

(思ったより疲れるな)

 テワタサナイーヌは緊張感を途切れさせないように努めた。

 ヘルメットの中のスピーカーからは、交通規制の状況などの無線通話が頻繁に聞こえてくる。

 しかし、心配された爆弾の情報は、いまのところない。

 

 レースが後半に入り、先頭グループから二人のランナーが飛び出して後続を引き離すという展開になった。

 ランナーのペースも徐々に上がってくる。

「警視庁からとうけい10002!」

 スピーカーから緊張した無線の声が飛び込んできた。

(とうけい10002って誰だっけ?早く応答しなさいよ)

 テワタサナイーヌはマイペースで走り続けている。

 横を走っている山口がテワタサナイーヌの方を見て、盛んにヘルメットを指差すようなジェスチャーをしている。

(お父さんなにやってんの?あ、頭痒いんだ!)

 呑気なテワタサナイーヌであった。

「警視庁からとうけい10002!」

(誰よー、しっかりしないさいよ。無線傍受は警備の基本よ)

「警視庁からとうけい10001」

 警視庁が我慢できずに山口を呼び出した。

「とうけい10001ですどうぞ」

 山口が応答した。

「とうけい10002の無線機が不良の模様。命令の伝達を願いたい。現在、日比谷公会堂前で沿道配置の警戒員が不審者を職質中。所持しているボストンバッグの所持品検査に応じない状況である。とうけい10002は、日比谷公会堂に緊急転進し、嗅覚により爆発物から否かのスクリーニングを実施せよ」

「とうけい10001了解」

 山口は、テワタサナイーヌのすぐ隣にぴったりと白バイを寄せた。

 驚いたのはテワタサナイーヌだ。

 先導がこんなに近くに並ぶことはないからだ。

「早苗さん!無線!」

 山口がテワタサナイーヌに向かって大声を出した。

 テワタサナイーヌは、その声がよく聞こえなかったらしく小首を傾げた。

 

「うわっ、テワさんかわいい!」

 テレビの前で池上が喜んだ。

 

「早苗さん、無線聞いて!呼ばれてる!」

 山口は、精一杯の声でテワタサナイーヌに伝えた。

(無線で呼ばれてる?私が?私のコールサインてなんだっけ?)

(とうけい10002だよね…)

「わあ!!」

 テワタサナイーヌは驚きの声を上げた。

(私じゃん、さっきから呼ばれてたの私じゃん!ひーっ、大変、どうしよう。怒られる。あー、私のバカ!)

 テワタサナイーヌは、青ざめた。

「とうけい10002から警視庁」

「とうけい10002、無線を傍受せよ!現在日比谷公会堂前で沿道の警戒員が不審者を職質中。対象者が所持品のボストンバッグを開披しない。現場に緊急転進し嗅覚による爆発物のスクリーニングを実施せよ」

(げっ、まさかないと思ってたら来たよ)

「とうけい10002了解」

(あーあ、やだなー)

(その近くに爆発物探知犬いないのかね)

 とにかく気が乗らないテワタサナイーヌだった。

(しょうがない。やるか)

 テワタサナイーヌは覚悟を決めた。

 覚悟を決めたテワタサナイーヌは強い。

「とうけい10002から警視庁」

「とうけい10002どうぞ」

「先導をとうけい10001に任せとうけい10002は、緊急で日比谷公会堂に転進する。どうぞ」

「警視庁了解」

 テワタサナイーヌは、右手の手元を確認した。

 すでに赤色灯は点灯している。

 ここでいきなりサイレンを鳴らすとレースの妨げになる。

 テワタサナイーヌは、山口に目配せをして先導から離脱した。

「おや、どうしたのでしょうか。先導の白バイが一台コースを外れました。故障かなにか事故があったのでしょうか」

 中継のアナウンサーがテワタサナイーヌの離脱を伝えた。

 

(任務が入ったのね。早苗ちゃん。しっかりやり遂げるのよ)

 その様子をテレビで見ていた弥生も覚悟を決めた。

 

 ランナーから離れたところでテワタサナイーヌは、自動で反復するサイレンのボタンを押し込んだ。

「ピューッ!」

 けたたましい電子音が響いた。

 テワタサナイーヌは、先程までのゆったりとしたライディングフォームから一転、背を丸めた戦闘的なフォームを取り、交通規制されている日比谷通りを弾丸のように走り去った。

 沿道の観衆がざわめいた。

 テレビのアナウンサーも何があったのかと緊張した声で伝えている。

 規制されたクリアな道路を走ったため、すぐに日比谷公会堂の前に着いた。

 日比谷公会堂の前には六、七人の制服警察官が一人の男を取り囲んでいる。

 男はボストンバッグを胸に抱え、絶対に見せまいとしている。

(胸に抱えられるということは、爆発物だとしても安定しているもの。おそらくC-4とかのプラスチック爆弾)

 テワタサナイーヌは、目の前の状況から考えられる可能性を上げていった。

 テワタサナイーヌは、サイレンを止め、サイドスタンドを下ろして白バイから降車した。

 テワタサナイーヌは、男に向かってゆっくりと自信たっぷりの表情で近づいた。

 男の顔がひきつった。

 テワタサナイーヌのマズルが伸びていた。

 マズルを伸ばすためにヘルメットのシールドを跳ね上げておいた。

 シールドを上げないと、中でマズルがシールドに当たって詰まってしまうからだ。

「こんにちは」

 テワタサナイーヌは、牙を剥きながらにっこりと笑いかけた。

 男の顔は青ざめて膝ががくがく震えている。

 それほどまでにマズルを伸ばしたテワタサナイーヌは怖いのだ。

 にっこり笑われてもまったく和まない。

 むしろ余計に怖い。

「バッグの中を見せてくれるかしら」

 テワタサナイーヌは、優しい言葉遣いで質問した。

 男は泣きそうになりながらも顔を激しく横に振った。

「危ないものを持っているのかしら」

 さらに追及する。

 もうテワタサナイーヌは笑っていない。

 見慣れた池上でも泣き出すレベルの怒りを顕にしている。

 しかし、あくまでも言葉遣いはソフトだ。

 そのギャップが恐怖心を煽る。

 男はボストンバッグをきつく抱えたまま脂汗を浮かべて黙っている。

(一番嫌なのは自爆されることよね。自爆されたら、ここにいる人みんな死んじゃう)

 テワタサナイーヌは、一刻の猶予も許さないと判断した。

「見せてくれないのなら、外から臭いを嗅がせてもらうわよ」

 男の返事はなかった。

「いいのね。いやなら返事なさい」

 それでも返事はない。

「黙認したと解します。これから臭気による爆発物検知を行います」

 テワタサナイーヌが最後の告知をした。

 テワタサナイーヌがバッグに鼻先を近づける。

 何度か場所を変えて臭いを嗅ぐ。

(爆発物マーカーは含有されてない)

 テワタサナイーヌの臭気記憶ファイルには引っ掛からなかった。

(じゃあ何なの?なにを頑なに拒んでるの?)

 テワタサナイーヌは、不思議に思った。

 テワタサナイーヌは、もう一度臭いを嗅いだ。

 さっきより慎重に臭気を選別しようとした。

(アンモニアっぽい?)

(やっぱり爆弾よね、これ。いや、爆弾じゃなくて原料)

「硝安」

 テワタサナイーヌが男に言った。

 男の顔が恐怖にひきつりバッグを落とした。

「わあ!落とした!」

 テワタサナイーヌが後ずさった。

 バッグに変化はなかった。

(強い衝撃は危ないって)

「硝安でしょ」

 テワタサナイーヌが追及した。

 男はがっくりとうなだれた。

「油は!」

 テワタサナイーヌが語気を荒らげた。

「ないです」

 男が口を開いた。

「どうするつもりだったの?」

 テワタサナイーヌは、口調を戻した。

「あとから買うつもりでした」

「そう。正直に話してくれてありがとう。署でちゃんと話すのよ」

 テワタサナイーヌは、男を優しく諭した。

 男は、テロリストではなかった。

 爆弾で自殺しようと思い原料を手に入れたところだったという。

(自殺だろうとなんだろうと、あんなところで爆発させられたらたまんないわよ)

 テワタサナイーヌは安堵した。

 

 レースは、山口の先導により無事にゴールすることができた。

 山口とテワタサナイーヌは、白バイを返納して犯抑に戻った。

「もーいや。疲れた」

 テワタサナイーヌが机に突っ伏した。

「テワさんのおかげで大勢の人が危険から守られました。ありがとうございます」

 山口がテワタサナイーヌを労った。

「ほんと怖かったんだから」

 テワタサナイーヌは涙目になっていた。

「怖かったでしょう。よくやり遂げてくれました」

 山口は、テワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌは、嬉しそうに目を閉じた。

 

「ただいまー」

 帰宅したテワタサナイーヌが元気に玄関を開けた。

「おかえりなさい。早苗ちゃん、頑張ったわね。無事でよかった」

 弥生が泣いた。

「やだなー、お母さん泣かないでよ。爆弾じゃなかったからそんなに危険でもなかったんだよ」

 テワタサナイーヌが照れ隠しに言った。

「レースのあとは、早苗ちゃんの活躍ばっかりニュースでやってたわよ」

 弥生は、喜んでいいのかよくないのか複雑な心境だった。

「やっぱり死ななかったすね」

 池上が階段の上から声をかけた。

「大輔くんが警部補になるまで絶対に死なないんだから!」

 テワタサナイーヌが下から元気に宣言した。

「明日は礼拝行くよ」

「うん!」

 テワタサナイーヌが尻尾を振った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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人生の環(リング)

 東京マラソンの翌日、都内の教会で礼拝に参加しているテワタサナイーヌと池上の姿があった。

 ステンドグラスから柔らかな光が降り注ぐ礼拝堂。

 聖母マリア像の柔和な表情が癒しを与えてくれる。

「いやー、心が洗われるようっすね」

 礼拝を終えて外に出た池上が大げさに言った。

「どんだけ汚れてるのよ大輔くんたら」

 池上の腕に絡み付いたテワタサナイーヌが楽しそうに突っ込んだ。

「あ、そうだ。大輔くん」

「なんすか」

「お母さんの結婚指輪見たことある?」

「指にはめてるとこはいつも見てるすよ」

「どんなデザインか覚えてる?」

「いやあ、そこまでは見てないっす」

「ま、普通そうだよね」

 テワタサナイーヌは、池上が弥生の指輪のデザインを知らなくて当然だと思っている。

「この前、お母さんと二人だけのときにじっくり見せてもらったの。すっごいきれいなんだよ」

 テワタサナイーヌは目を輝かせた。

 ただでさえ大きなエメラルドグリーンの目が、より大きくなった。

「あのね、プリンセスカットっていう四角いダイヤが埋め込んであって、その両側にブリリアントカットのダイヤが3個ずつ、これもやっぱり埋め込まれてるの」

「それでさ、これがお父さんのデザインだっていうから驚きじゃない?すごいよね。しかも、普段の生活に邪魔にならないように、どこも出っ張ったところがないの。気配りがニクいでしょ」

 テワタサナイーヌは興奮ぎみにまくし立てた。

「お父さんすごいっすね」

 池上も感心したように頷いた。

「私も大輔くんがデザインしたリングが欲しいなー」

 テワタサナイーヌが甘ったるい声でねだった。

「大輔くん耳かして」

「あ、はい」

 池上が少しかがんでテワタサナイーヌの口元に耳を差し出した。

「…」

 テワタサナイーヌが何事が囁いた。

「本当にそれがいいんすか」

 池上がテワタサナイーヌに確認した。

「うん。大輔くんの手で着けて欲しいの」

 テワタサナイーヌが赤面しながら言った。

「了解っす」

 池上が親指を立てて笑った。

 

「池上さんと早苗さんは、披露宴はやらないんですか?」

 山口が二人に確認した。

「やった方がいい?」

 テワタサナイーヌが逆質問で返した。

「私はお二人が幸せになってくれれば、それで十分です。披露宴をするかどうかはお任せします」

「披露宴しなくても幸せだよ。私は」

 テワタサナイーヌは、迷いなく答えた。

 山口家では、いつの間にかテワタサナイーヌと池上が結婚する流れになっていた。

「いつ結婚が決まったの?」

 当事者のテワタサナイーヌにもわからなかった。

 ただ、結婚を決定的にしたのは、池上の警部補昇任試験合格だったことは間違いない。

 池上は、最終の面接試験をパスして、警部補昇任の切符を手に入れていた。

 池上の階級がテワタサナイーヌと並ぶことが、二人の結婚へのゴーサインだと四人とも考えていた。

 誰も口に出すことはなかったが、誰も疑っていなかった。

 山口も試験の発表に間に合わせるつもりで去年から続けている作業があった。

「それで、いつ式を挙げるの?」

 弥生がテワタサナイーヌに訊いた。

「3月14日とかはどうすか。テワさんの誕生日だから絶対忘れないす」

 池上が提案した。

「それはまた急ですね。もうすぐですよ」

 山口が驚いた。

「急がなきゃならないことになったの?妊娠したとか」

 弥生が半裸のテワタサナイーヌのお腹を見た。

「妊娠してないよ。お母さんに言われたとおり避妊してる」

「あっ!」

 テワタサナイーヌが手で顔を覆った。

(またやった)

 テワタサナイーヌは恥ずかしさに悶絶した。

「私たちは、その日でも全然構わないわよ。でも、あなたたちの準備が整わないんじゃないの?式場とか写真とか、たくさん決めることがあるのよ」

 弥生が心配そうにした。

「えー、実はそのあたりは全部手配済みだったりします」

 テワタサナイーヌが恥ずかしそうに告白した。

「あらまあ、手が早い、じゃなくて手際がいいこと!」

 弥生が喜んだ。

「ドレスも手配済みですか?」

 山口が恐る恐るといった感じに口を出した。

「うん。ちゃーんとフルオーダーで作ってある」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そうですか」

 山口が寂しそうに言った。

 山口以外の3人は、顔を見合わせてニヤニヤしている。

「お父さんのドレスでお嫁に行かせて!」

 テワタサナイーヌが山口に抱きついた。

「知ってたんですか」

 山口は、なぜという顔で弥生を見た。

「ごめんなさい。私がばらしちゃった」

 弥生が舌を出して謝った。

「そういうことでしたか。いや、いいんですよ。いずれはわかることですから。それに、事前にわかってもらわないと、ドレスの手配がだぶってしまいますからね」

 山口はさっぱりとした表情をしている。

 山口は、テワタサナイーヌと池上が引っ越してきてすぐにテワタサナイーヌのウエディングドレスを作り始めていた。

「自分で縫ったドレスを着せて式を挙げさせたい」

 これが山口の夢だった。

 毎晩、少しずつ作業を進めて、ようやくできあがったところだった。

「じゃあ、私の31歳の誕生日に挙式でいい?」

 テワタサナイーヌが確認を求めた。

「あなたたちがよければ、私たちは異存ないわ」

 弥生が応じた。

「ねえお父さん」

「はい。なんですか」

「ドレス見せて」

「いいですよ」

 山口は書斎兼作業部屋から完成して間がないウエディングドレスを運び出してきた。

「パニエとコルセットは、お母さんのを借りてください。それで合うように作ってありますから」

 山口がテワタサナイーヌに言った。

「すごいきれい」

 テワタサナイーヌは泣いていた。

「二回も命を救ってもらって、その上こんな素敵なドレスを作ってもらえるなんて、私は、私は…」

「幸せです!」

 テワタサナイーヌが号泣した。

「池上さん」

 山口が池上に正体した。

「はい」

 池上が緊張した。

「早苗の命、託します」

「承りました」

「なんでうちの男はこんなにかっこいいのよー。嬉しくって涙がとまんないよー。バカー」

 テワタサナイーヌが号泣しながら喜んだ。

「着てみますか。サイズの調整が必要かもしれませんから。今ならまだ間に合います」

 山口がテワタサナイーヌに試着を勧めた。

「うん。着る」

 テワタサナイーヌは、まだしゃくりあげている。

 弥生が涙でぐちゃぐちゃになったテワタサナイーヌの顔や胸をタオルで拭いた。

「よくまあこれだけ涙が出るわね。目が大きいと涙もたくさん出るのかしら」

 弥生が涙を拭きながら笑った。

 テワタサナイーヌがドレスを纏った。

 ほとんど調整の必要がなかった。

「いつ私の身体を測ったのよ。スケベおやじめ」

 テワタサナイーヌがニコニコしながら山口を罵った

「目測ですよ」

 山口がとぼけた。

 

 その日から池上は宝飾店と革細工の店に通い詰めた。

 挙式の2日前にようやく池上が納得できるものができあがって納品された。

 

──3月14日

 挙式当日。

 テワタサナイーヌと池上は、準備のため山口夫妻より早く家を出た。

 すっきりと晴れ上がった早春の朝だ。

「またあとでね」

 テワタサナイーヌが山口と弥生に挨拶をした。

「いってらっしゃい」

 弥生が送り出してくれた。

 

 教会に着くと、二人は忙しく準備に追われた。

 感傷に浸っている余裕はなかった。

 結局準備は式の直前までかかって、ようやく整った。

 式の参列者は山口夫妻だけだ。

 あとに残したいので写真だけはプロにお願いをした。

 テワタサナイーヌと山口は、礼拝堂の入り口の外で待つ。

 池上は深紅のバージンロードの先でテワタサナイーヌを待っている。

 池上は、警察官の礼服を着ている。

 黒い生地の上下でパンツの両サイドにラインが入っている。

 テーラードのジャケットは四つボタンで肩章に飾緒が付いている。

 帽子も通常のものとは違う。

 

 礼拝堂のドアが開き、山口に連れられたテワタサナイーヌが姿を現した。

 純白のドレスは、オフショルダーのAライン。

 弥生のドレスと同じくらいのロングトレーンがきれいなドレープを作り出している。

 ソフトチュールで作られたベールは、テワタサナイーヌの犬耳だけ出せるようになっている。

 コルセットでぎっちり締め上げられたウエストは、ため息が出るほど細くきれいな線を描いている。

 テワタサナイーヌは、一歩また一歩とバージンロードを歩く。

 今までの数奇な人生を振り返るように。

 山口とテワタサナイーヌが池上の前まで歩み出ると、池上が山口に敬礼をした。

「娘をお願いします」

 そう言って山口はテワタサナイーヌを池上に引き渡し、参列者席で待つ弥生の元へと去っていった。

 司祭が挨拶をし、聖歌を斉唱する。

 続いて司祭が祈り文を唱え福音を朗読する。

 次いで二人の意志の表明と同意の表明を行う。

 そのあと、池上がテワタサナイーヌのベールを上げて後ろに垂らす。

 そして、いよいよ指輪の交換となる。

 司祭は二人を祝福し、指輪に聖水をかけるが、その日は指輪ともうひとつ違うものがリングピローの上に置かれていた。

 池上は、その指輪でないものを司祭から受け取った。

「この首輪は私たちの愛と忠実のしるしです」

 池上が唱えた。

 そして、赤い革製の首輪をテワタサナイーヌの首にしっかりと締めた。

 テワタサナイーヌの目から涙が一筋落ちた。

 その首輪は、池上がデザインし何度も革細工職人と打ち合わせを重ねて造り上げたものだった。

 首輪にリードを取り付けるDカンには、弥生の結婚指輪と同じくプリンセスカットのダイヤが埋め込まれ、その両側にブリリアントカットのダイヤがあしらわれている。

 これが指輪の代わりになる。

 リードをつけることはないので、Dカンを指輪にしたのだ。

 続いてテワタサナイーヌが司祭から指輪を受け取り、池上の左薬指に通した。

 結婚証明書への署名、司祭の祝福、聖歌と続く。

 

 式が終わり、山口と弥生の元に戻ってきたテワタサナイーヌは、幸せそのものという顔をしていた。

 その首には赤い革製の首輪がしっかりと締められている。

 弥生が首輪に付いているDカンを間近で見てため息をついた。

「やっぱりあなたが見込んだ男ね。やることが凝ってるわ」

「早苗ちゃんよかったわね。かわいい首輪がもらえて」

 弥生がテワタサナイーヌを祝福した。

「うん。ありがとう」

 テワタサナイーヌは、うっとりしている。

 

 その日から、テワタサナイーヌはどこに行くときも首輪を外さなかった。

 もちろん仕事も首輪をつけたままだ。

「これが私の結婚指輪なの」

 そう言って自慢した。

 いつしか首輪がテワタサナイーヌのトレードマークになっていた。

 

 そして、山口が大輔にTwitterの担当を引き継ぐ日が来た。

 山口は、テワタサナイーヌと大輔の結婚を報告した。

 次いでTwitter担当を大輔に継がせることを宣言した。

 山口の最後のツイートは、自分のことでも大輔のことでもなかった。

 

 

「テワタサナイーヌは過去を振り返りません。前を向いて歩き続けます」

 

 

 




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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やっちまったな

前回でとりあえず一区切りがつきましたが、お話は続きます。


「大輔くん」

 テワタサナイーヌと大輔が結婚して1か月が過ぎた日曜日。

 山口は、2階に上がりソファに寝そべっていた大輔を呼んだ。

 この日、弥生とテワタサナイーヌは二人連れだって映画を観に行っていた。

 もちろんテワタサナイーヌは、お気に入りの首輪をしっかり締めて出かけた。

「これがないと自分が自分じゃないみたいで落ち着かないのよね」

 首輪は、テワタサナイーヌの身体の一部になっていた。

「あ、はい。すんません」

 大輔は慌てたように起き上がって謝った。

「こちらこそ予告もなしに上がり込んですみませんでした。どうぞ、楽にしてください。別に寝転がっていてもいいですよ」

 山口が笑顔で言った。

 大輔は、山口が社交辞令や建前を言う人ではないのを知っていたので、山口が寝転がっていていいと言うときは、本当に寝転がっていいとわかっている。

(テワさんなら迷わず寝転がるな)

 しかし、さすがにそこまで図々しくなれないので、とりあえずソファに座ったまま応対することにした。

「大輔さんと早苗さんは、なんとなく結婚しました。と言いますか、私と弥生には、そう見えました」

「はい、そうすね。実際なんとなく結婚しちゃいました」

 大輔は否定しなかった。

「もしかして、プロポーズしていないとかですか?」

 山口が憂いを抱いたような表情で訊いた。

「はい。してないっす」

 大輔は、それがどうしたのかという顔をしている。

「ああ…」

 山口がため息をついて頭を抱えた。

「え、プロポーズしないといけないかったんすか」

 大輔が焦った。

「そうなんです。いけないんです」

 山口は大輔の顔を気の毒そうに見た。

「私たちの妻は、性格が似てますよね」

 山口はテーブルセットの椅子に腰かけた。

「そうっすね。結構似てると思うす」

 大輔にとって、怖さではテワタサナイーヌの方が遥かに上だが、基本的な性格はよく似ていると思っている。

「ということは、ある同じ刺激を与えると、それに対する反応も」

 山口が問いかけた。

「同じようなものになる?」

 大輔が疑問形で答えた。

 自信がなかったからだ。

「そうですね。だいたい同じ反応を示すと思います」

 山口が頷いた。

「プロポーズしないとどうなるんすか?」

 大輔はだんだん不安になってきた。

「私たちが結婚したのは、だいたい32年前です」

「テワさんの歳にプラス1くらいすよね」

「そうです」

「実は私も大輔くんと同じでプロポーズをしないまま、なんとなく結婚しました」

「仲間っすね!」

「いやいや、仲間と喜んでもいられないのです」

 山口が大輔をたしなめた。

「結婚して32年経った今でも『プロポーズされてない』と言われています」

 山口はニヤリと笑って大輔を見た。

「ひーっ」

 大輔がムンクの「叫び」のようなポーズと顔になった。

「性格は似てますが、早苗さんの方が行動は強烈ですからね。覚悟しておいてください」

 山口は、椅子から立ち上がってソファでうなだれる大輔の肩をぽんとひとつ叩いて部屋を出ていった。

「お父さん!」

 大輔が山口を追いかけてきた。

「はい、なんですか」

 山口が階段の途中で振り返った。

「お父さんは、プロポーズされてないって言われたとき、どうしてるんすか!?」

 大輔が必死の形相で訊いてきた。

(そんなにビビらなくてもいいのに。ちょっと脅しすぎたか)

 山口は、大輔が気の毒になった。

「私は、言わせないという戦略をとっています」

 山口がにこやかに答えた。

「言いそうになったら口をふさぐんすか?」

 大輔が真面目バカなことを言った。

「やっぱり果てしないバカですね」

 山口は楽しくなってきた。

 大輔はしょんぼりしてしまった。

 山口に果てしないバカと言われるのは、リアリティがありすぎるからだ。

「果てしないバカは冗談です」

 山口が言うと大輔の顔が明るくなった。

「毎日プロポーズしてます」

 山口がさらっと言った。

「へ?」

 大輔がぽかんとしている。

「一日一回は『結婚してください』と言っています。そうすれば、向こうからプロポーズされていないという不満が出てくるスキがなくなります」

 山口は笑った。

「お父さんジーザス!」

 大輔が親指を立てた。

 

「結婚してください!」

 帰宅したテワタサナイーヌに大輔がいきなり言った。

「な、な、なに?どうしたの大輔くん?熱ある?」

 そう言ってテワタサナイーヌは大輔のおでこに自分のおでこを当ててきた。

 そしてついでにキスもした。

「熱はないね」

 テワタサナイーヌは安堵した。

「誰か言う相手を間違えてない?誰かだとしたらひどい話なんだけど」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさんかわいい!」

 大輔が喜んだ。

「いや、あれっすよ。俺、テワさんにプロポーズしてなかったじゃないすか。だから改めてプロポーズをしようと思った次第っす」

 大輔がドヤ顔で言った。

「ドヤ顔で言うことじゃないと思うけどね」

 テワタサナイーヌが苦笑した。

「なんで今日いきなりなの?」

 テワタサナイーヌが疑問を抱いた。

「なんで今日かって言われてもですね。あ、結婚一か月という区切りす!」

 大輔が苦し紛れに適当な理由をつけた。

「またいい加減なことを」

 テワタサナイーヌが大輔のこめかみに拳をねじ込んだ。

「痛いす。テワさん痛いす」

 大輔が手足をばたつかせて痛がった。

「どうせお父さんになんか言われたんでしょ。あんたが突然変なことを言うときは、だいたいお父さんの受け売りだからね」

 テワタサナイーヌは、拳を緩めない。

「助けてください。痛いす」

 大輔が泣きそうになった。

(かわいい。このまま泣かせてみよう)

 テワタサナイーヌのS心に火が点いた。

 テワタサナイーヌは、さらにこめかみを抉った。

「あー、あー、あー」

 大輔は、もう声にならない。

(これくらいにしてやるか)

 テワタサナイーヌが手を緩めた。

「テワさん、痛かった」

 大輔は涙目だ。

「首輪されても全然おとなしくならないんすね」

 大輔がテワタサナイーヌの首輪をくるくる回した。

「ひゃっ」

 テワタサナイーヌが身震いした。

「だ、大輔くうん、それは反則」

 テワタサナイーヌが脱力した。

「テワさんのハンドラーは誰すか?」

「大輔くんです。きーっ、悔しい!」

 悔しがりながら尻尾を振ってしまうテワタサナイーヌであった。

「で、結局さっきのプロポーズはなんだったの?」

「お父さんがすね、32年前結婚したとき、プロポーズしなかったらしいんすよ。そうしたら、いまだにお母さんから『プロポーズされてない』って言われるらしいんす。だから俺も言われるんじゃないかと思って、先制攻撃をしたわけっす」

 大輔が白状した。

「ははーん、やっぱりお父さんの入れ知恵ね。そうねえ、そういえばプロポーズされてないわよねえ。私も毎日言っちゃおうかなー」

 テワタサナイーヌが大輔の耳元で囁いた。

「えー、赦してくださいよー」

 大輔が情けない顔になった。

「しょうがない子ね。じゃあ、毎日必ず愛してるって言って。そしたらプロポーズのことは忘れてあげる」

「お安いご用っす」

 大輔が快諾した。

「じゃあ早速今日の分お願い」

 テワタサナイーヌが手を合わせた。

「テワさん愛してるっす」

 大輔が元気に言った。

「ダメー。もっと心を込めて『愛してる』とだけ言うの」

 テワタサナイーヌが注文をつけた。

「かわったす」

「愛してる」

 大輔がテワタサナイーヌの耳許に囁いた。

「私も愛してる!」

 テワタサナイーヌが大輔をベッドに押し倒した。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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糖鎖

 テワタサナイーヌは目白の科学捜査研究所にいる。

「久しぶりだなあ。13年ぶりくらいかな」

 テワタサナイーヌが科捜研に足を運ぶのは、高校3年のとき、警察官採用試験の受験資格があるかどうかを鑑定してもらうために来て以来だった。

(あのころは、高校の制服着てたんだよな。今でも着られるかな。サイズアウトしちゃってたらやだな)

 帰ったら家に置いてある高校の制服を着てみようと思った。

 今日、テワタサナイーヌが科捜研を訪ねたのは、科捜研に保管されている自分の遺伝子情報を開示してもらうためだ。

 遺伝子情報を開示してもらう目的は一つ。

 妊娠の可能性について知りたいから。

 テワタサナイーヌは、ヒトとイヌの遺伝子情報を併せ持つ。

 この自分が大輔の子を宿すことができるのか。

 それを知りたかった。

 テワタサナイーヌは、ワクワクしていた。

 自分と大輔の子は、どんな外見なのだろう。

 ヒトに戻るのか、イヌ化が進むのか。

 身体能力はどうか。

 そう考えると楽しくて仕方ない。

 自分は、外見の変化はないものの、身体の機能や行動、性格といった部分が徐々にイヌに近づいているという自覚がある。

 そして、イヌに近づいている自分が愛おしい。

 首輪をかけてもらったのもそういった変化の現れだった。

 このままイヌになって大輔に飼われている自分を夢想することもある。

 

「お待たせしました」

 ネクタイを締めたワイシャツの上に白衣を羽織った科捜研の研究員が分厚いファイルを数冊運んできた。

 研究員は、テワタサナイーヌの首輪を見て少したじろいだが、すぐに平静を装ってテーブルに着いた。

「これがテワタサナイーヌさんの遺伝子情報を解析した報告書です」

 研究員は、ファイルの適当なところを開いて見せてくれた。

「さっぱりわかりませんね」

 テワタサナイーヌは苦笑するしかなかった。

 専門用語と塩基配列図のようなものがたくさん書かれているが、内容がさっぱりわからない。

「そうですよね。専門家じゃないテワタサナイーヌさんにはわからなくて当たり前です」

 研究員がページを繰りながら言った。

「今日お伺いしたのは、私が人間の子供を産めるのかということを教えてもらいたいからです。私は夫の子を妊娠することができますか?」

 テワタサナイーヌにとって切実な問題だ。

 真剣な表情で研究員に質問した。

「妊娠できるかどうかですね」

 そう言うと研究員は、しばらく沈黙して資料を見ていた。

 テワタサナイーヌは、どこを見ていたらいいのかわからず、落ち着きのない態度であたりの掲示物をきょろきょろと眺めていた。

 研究員は、時折ボールペンで頭を掻きながら資料のページを繰って、考えを巡らせているようだった。

(なんかずいぶん考えてるけど、そんなに難しいことなのかな)

 テワタサナイーヌは待っているのが退屈になってきた。

「お待たせしてすいません。何分当時の研究員がもう誰も残っていないので、この資料から判断するしかないのでお時間がかかってしまって」

 研究員が資料を見ながら申し訳なさそうに言った。

(あー、散歩行きたい)

 テワタサナイーヌは、上の空だ。

 研究員が顔を上げた。

(お、ようやく沙汰があるのか)

「結論から申し上げます」

 研究員が口を開いた。

「遺伝子情報から判断すると、『わからない』ということしか申し上げられません」

 研究員が頭を下げた。

「わざわざお越しいただいたのに、わからないという回答しかできないのは忸怩たる思いがあるのですが、わからないことをわかった風に言うのは科学的な態度ではありませんので、そう申し上げるしかありません」

「あの」

「素人考えで申し訳ないんですけど、私の染色体数とヒトの染色体数は同じなんですか?染色体数が違うと受精できないっていうことを聞いたことがあるんですけど」

 テワタサナイーヌがおずおずと声を出した。

「そうですね。テワタサナイーヌさんとヒトの染色体数は違います。基本的に染色体数が違うと受精できないというのは間違っていないと思います。でも、例外もありますから絶対に受精しないと言い切ることはできません」

 研究員は慎重に言葉を選んでいるようだった。

「つまり、わからないっていうことですね」

 テワタサナイーヌは笑った。

「そういうことです。ほんと、歯切れ悪くて申し訳ありません」

(信用できる人っぽい)

 わからないことをわからないと言う研究員に好感を抱いた。

「あ、ただ、妊娠の可能性だけを考えるなら、遺伝子や染色体より糖鎖について検査した方がいいと思います」

 研究員が思い出したように話した。

「とうさ?なんですかそれは?」

 初めて聞く言葉だった。

「動物は、基本的に異種交配できないようになっています。それを実現しているのが糖鎖です。動物の卵細胞、人間でいえば卵子ですね。その周りを糖鎖の層が覆っています。精子は、先端から出る酵素で糖鎖を溶かして卵子の中に飛び込みます。そのときなんですが、卵子の糖鎖と精子の酵素の型が合わないと糖鎖の膜が溶けません。つまり受精できません。この型が種によって異なるため、異種交配ができない仕組みになっているんです。ですから、妊娠できるかどうかを知りたいのなら、テワタサナイーヌさんの卵子の糖鎖を検査するのがいいと思います」

 研究員がわかりやすく説明してくれた。

「へー、異種交配ができないのって染色体数の違いじゃなかったんですね」

 テワタサナイーヌが感心した。

「いえ、もちろん染色体数も重要な要素ではあります。でも、染色体数が違う種でも交配できる例がありますから、絶対ではないということです」

「なるほど。じゃあ糖鎖を検査すれば、妊娠できるかどうかを知ることができるんですね」

「そうですね。あくまでも可能性として、ということにはなると思いますが」

 研究員は、慎重だった。

「こちらで糖鎖の検査はできますか?」

「残念ながら科捜研では糖鎖の解析はできません。できなくはありませんが、時間がかかってしまいますし、正確性を担保できません」

 研究員が頭を下げた。

「いえ、ありがとうございます。糖鎖を検査してもらうには、どこに行けばいいか教えてもらえますか?」

 テワタサナイーヌは、糖鎖の検査を受けてみようと思った。

「そうですね、このあたりだと筑波大学がいいと思いますが、テワタサナイーヌさんだったら、どこの大学でも大歓迎してくれると思います。超がつく貴重な検体ですから」

 

きゅん

 

「検体」という言葉に反応してしまうテワタサナイーヌだった。

(たしか高校生のときからそうだったな)

 昔の自分を思い出した。

「わかりました。今日はお忙しいところ、お時間を割いていただきありがとうございました」

 テワタサナイーヌは、礼を言うと科捜研を後にした。

(糖鎖ねえ。知らないことがたくさんあるなあ)

 テワタサナイーヌはそんなことを考えながら科捜研から目白駅まで歩いた。

 

「ただいまー」

「おかえりなさい」

 テワタサナイーヌは、弥生に帰宅の挨拶をして2階に上がった。

「どの箱だっけ?」

 山口の家に引っ越してくるとき、荷物をダンボール箱に適当に詰め込んだ。

 すぐに使わないものが入っている箱は、引っ越してきたときのまま積み上げられている。

 その中のどれかに高校の制服が入っているはずだった。

(何を入れたか書いとけばよかった)

 テワタサナイーヌは後悔した。

 こういうところは、かなり大雑把な性格だ。

 大雑把すぎて後悔することが度々あるが、学習しない。

 テワタサナイーヌは、手当たり次第箱を開けて中身を確かめることにした。

 箱を開けて中身をひっくり返すと、懐かしいものや自分でも存在を忘れてしまっていたものが出てきて、ついじっくり眺めてしまう。

(私、なに探してたんだっけ?)

 本来の目的を忘れて思い出探しになってしまい、時間がどんどん過ぎていく。

(あー、そうそう、高校のときの制服)

 本来の目的を思い出した。

(あったあった。虫食ってないかな)

 一応、定期的に防虫剤を入れ替えてはいたので、虫が食うことはなかった。

(思ったより小さいんだけど)

 箱から出した制服を広げたテワタサナイーヌは、軽いショックを覚えた。

 制服が小さくなるはずがない。

 考えられる可能性はひとつ。

(そういえばこの頃より丸くなったな、私)

 その頃より太ったわけではないが、身体の線がより丸みを帯びて成熟していた。

 白いブラウスに袖を通してみた。

 防虫剤の匂いが少し鼻につく。

 チェックのプリーツスカートは、丈を短く加工した跡がある。

(ウエストがちょっときついのは気のせい)

 息を吐いてウエストを締めた。

(尻尾出ない…)

 高校生の頃は、尻尾をスカートの中にしまって隠していた。

 今は大輔にトリートメントとブローをしてもらったフサフサで自慢の尻尾だ。

 むしろ見せたくて仕方ない。

 ブラウスに紺色のリボンを付けると一気に高校生らしくなる。

 最後に三つボタンの紺色ブレザーを羽織った。

 ブレザーは、ウエストが絞られ身体に優しくフィットする。

 31歳の女子高生のできあがり。

 制服は女子高生だが、決定的におかしなところがある。

 首輪だ。

 首輪をした女子高生というのは、どう考えてもおかしい。

(まだ高校生で通るんじゃない?)

 テワタサナイーヌがかなり無茶な思い込みを抱いた。

(大輔くん、これ見たら喜んでくれるかな)

 テワタサナイーヌは、大輔の帰宅を女子高生で迎えることにした。

「じゃりっ」

(帰ってきた!)

 門を入ってきた大輔の足音にテワタサナイーヌの犬耳が反応した。

 テワタサナイーヌは、尻尾を振りたかったが、スカートの中にしまっているので我慢した。

 階段を駆け下りて玄関で大輔を待った。

「ただいま帰りましたー」

「わあ!どうしたんすかテワさん!?」

 驚いた大輔が後ずさろうとして玄関のドアに激突した。

「えへへ、かわいい?」

 テワタサナイーヌは、玄関にちょこんと正座して大輔を迎えていた。

「めちゃくちゃかわいいっす。それ、学校の制服すか?」

 落ち着きを取り戻した大輔がテワタサナイーヌをまじまじと見た。

「そう。高校のときの」

「高校のときからサイズ変わんなかったんすね。さすがテワさんす」

 大輔は、ほめるポイントを外さない。

「へっへーん。私がいつまでもきれいな方がいいでしょ」

 テワタサナイーヌがスカートの中で尻尾を振った。

「せっかくだから一緒に写真撮っていいすか」

「うん。撮ろう、撮ろう」

 二人は、玄関で写真を撮り合った。

「大輔くん。この写真、Twitterにあげたりしちゃダメだよ。『警視庁の中の人、女子高生と交際か!?』とか書かれちゃうからね」

「面白そうっすね。やってみよっと」

「ダメって言ってるのに」

 そう言いながら楽しみにしているテワタサナイーヌだった。

 予告通り大輔は写真をTwitterにあげた。

 二人とも手で顔を隠して並んでいる写真だった。

「警視庁の中の人、女子高生と交際か!?」

 期待通りの反応が返ってきた。

「これはバカップル」

「テワさん何やってんすか」

「首輪つけてたらバレバレですやん」

「31歳の人妻がはじけとる」

「どこのお店ですか?行きたいです」

「これで二人とも警部補とか笑う」

 こちらも期待した反応だった。

 テワタサナイーヌと大輔は、大喜びしながらタイムラインを追った。

(私も一緒に写りたかった)

 それを横で見ていた山口は、口にこそ出さなかったが羨ましかった。

 

 テワタサナイーヌは、筑波大学にアポを取り、糖鎖の解析を依頼した。

 筑波大学では、せっかくだからということで、卵子以外のありとあらゆる身体のことを検査された。

(検体だもんね)

 ほぼ丸裸に検査されるは嫌いじゃない。

 むしろ軽い興奮を覚える。

 糖鎖を含む卵子を検査してもらった結果、テワタサナイーヌの卵子の糖鎖はヒトと変わりないことがわかり、卵子の構造だけから見れば、受精も可能という所見をもらうことができた。

「ただし、染色体数が違いますから、そちらがどうなるかはわかりません」

 解析を担当してくれた助教も「わからない」という意見だった。

 

「まったく妊娠できない身体じゃないらしいよ。ていうか、犬と交尾しても妊娠しないって。あははは」

 テワタサナイーヌは、大輔に大雑把な報告をした。

「そうすか。じゃあ、あとは俺の精子が染色体数違いの壁を打ち破ればいいんすね。頑張れ俺の精子」

 大輔が気合を入れた。

「ねえ大輔くん」

「なんすか」

「私たちの子って、どんな見た目で生まれてくると思う?まだ妊娠もしてないけど」

 テワタサナイーヌが子供を欲しがっているのが大輔に伝わった。

「そうすねえ。テワさん、半分犬じゃないすか。見た目が。あ、最近は中身がほぼ犬っすけどね」

「うっさいわね。あんたが調教したからこうなったんでしょ」

 テワタサナイーヌは尻尾を振りながら大輔を睨んだ。

「えー、どの口が言うすか。首輪を求めたのはテワさんすよねえ」

 最近は、大輔も負けていない。

「ちくしょー」

 テワタサナイーヌが悔しがった。

「人間の成分で計算してみると、俺が1分の1す。テワさんが2分の1す。精子と卵子は減数分裂で染色体が半分になるから、俺2分の1、テワさん4分の1になるす。それを足すと4分の3が人間成分になるから、テワさんより人間ぽい赤ちゃんになるんじゃないすかね」

 大輔が自分なりの推論を披露した。

「単純に足し算するとそうなるね」

 テワタサナイーヌも同意した。

「足し算でいいのかっていう疑問はあるす」

「それもそう」

 

「お母さーん」

 半裸のテワタサナイーヌが1階に下りて弥生を呼んだ。

「なーに、早苗ちゃん」

 弥生がキッチンから顔を出した。

「私、妊娠していい?」

 テワタサナイーヌが直球を投げ込んだ。

「いいんじゃない。夫婦なんだから誰に遠慮もいらないと思うの」

 弥生が直球を簡単にキャッチした。

「じゃあ妊娠する」

「楽しみね」

「あ、でもさあ、私ってばこんな化け物みたいな見た目してるでしょ。生まれてくる子供もエイリアンみたいなのかもしれないよ」

 テワタサナイーヌが自虐的に可能性について言及した。

 どんな子供が生まれてくるかは、大学の研究施設でも予測不能だった。

「あら、いいじゃない。うちにエイリアンが一人くらいいたら楽しそうよ。うじゃうじゃいたら邪魔だけど」

 弥生は笑い飛ばした。

(お母さんの子でよかった。ありがとう)

 深刻に考えられるより笑い飛ばしてもらえて安心できた。




この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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想像マタニティブルー

 テワタサナイーヌは夢を見ていた。

「かーかん」

 たどたどしい話し方で誰かがテワタサナイーヌを呼んだ。

「なーに?」

 夢の中のテワタサナイーヌは、自分を呼んだ誰かに返事をした。

 その答え方が弥生そっくりだと思った。

「かーかん、しゅき」

 夢の中の誰かは、そう言ってテワタサナイーヌに抱きついた。

「お母さんもよ」

(私、お母さんになってる!!)

 テワタサナイーヌは、夢の中で驚いた。

 自分を呼んだ誰かの姿は見えない。

 しかし、自分の目の前にいることは、はっきりと感じることができた。

 テワタサナイーヌは手を伸ばして夢の中の誰かを抱きしめた。

 暖かい毛皮のような肌触りを感じた。

(娘だ! 私の娘だ!)

 テワタサナイーヌは確信した。

 夢の中の誰かは、テワタサナイーヌの娘だった。

「お母さんよ。あなたは誰?」

 テワタサナイーヌは、夢の中の娘に訊いた。

「ひまわり」

 娘が突然はっきりと言葉を発した。

 その瞬間、テワタサナイーヌには娘に対する説明のしようがない怒りが湧き出した。

(憎い、憎い、憎い)

 娘に対する憎悪はとどまることなく増幅する。

(起きてっ! ダメ! このままじゃ娘を殺しちゃう。私、起きて!!)

 テワタサナイーヌは、必死に自分に呼びかける。

(起きて!誰か止めて!)

 夢はそこで途絶えた。

 あとは漆黒の闇。

 

「テワさん」

 大輔の声でテワタサナイーヌは目が覚めた。

 テワタサナイーヌは、枕元の時計を見た。

 午前1時

(なに、この気持ち悪い感じ)

 テワタサナイーヌの身体は、汗でべたついていた。

 寝汗をかいていたのだ。

 テワタサナイーヌは、大輔の腕にしがみついていた。

「大丈夫?」

 大輔が優しく声をかけてくれた。

「うん。夢を見てた。汗かいちゃったからシャワーしてくる」

 テワタサナイーヌは、大輔の腕から手を離すと起き上がってバスルームに行こうとして急に足を止めた。

「怖い」

 そう言ってその場にしゃがみ込んでしまった。

「私、親になれない」

 テワタサナイーヌが震えだした。

 心配した大輔が飛び起きてテワタサナイーヌのそばに駆け寄って肩を抱いた。

「怖い夢みたの?」

 テワタサナイーヌは、震えながら黙って頷いた。

「私、子供がかわいくて、めちゃくちゃかわいくて、大好きだった。でも、憎くてどうしようもなくて、殴りたくて。殴れば子供が言うことをきいてくれる。そう思った」

「かわいいのに憎くてどうしようもなかったんだね。殴ればよくなると思ったんだね」

 大輔がテワタサナイーヌの言葉を返した。

 テワタサナイーヌは、黙って頷き続けた。

「自分の子供はかわいいのに、どう接していいかわかんない。殴るしか思いつかないの」

 テワタサナイーヌが声を絞り出した。

「ずっと殴られてきたからね」

 大輔はテワタサナイーヌの頭を撫でた。

「大輔くん。なんで怒らないの? なんで自分の子供にこんなひどいことしようとする私を怒らないの?」

 テワタサナイーヌが大輔の顔を見て泣いた。

「俺が怒るのはテワさんじゃない。テワさんをこんな辛い目に合わせている記憶の中の父親だ。テワさんは、父親から殴ることで支配されてきた。テワさんは、子供のとき、その経験しかできなかった。だから、自分が親になったとき、同じように殴ることで子供を支配するしか方法を知らなかった。テワさんに罪はないよ」

「今は、子供への接し方がわからなくて自信がないかもしれない。でも、お父さんが、テワさんに小さいときから思春期までを追体験させてくれてるよ。思い出してみようか。富山に出張に行ったとき、『お父さん大好き』だったね。あの頃のテワさんは、お父さんとテワさん自身の区別も曖昧だった。一体だった。そこから少しずつテワさんがお父さんから離れて、自分が何ものなのか考えるようになった。そこに俺が登場したわけだけど。そして、テワさんに遅い反抗期が訪れた。お父さん、ずいぶん苦労してたよ」

「お父さん大好きからお父さん大っ嫌いまでの間に、お父さんにしてもらったことを思い出してごらん。今度、母親になったときは、それを子供にやってあげればいいんだ。テワさんは、ちゃんと親の愛情をもらって育ったんだ」

 大輔が珍しくテワタサナイーヌに長い話をした。

「大輔くん」

「なんすか?」

「ありがと」

「ん」

 大輔は、テワタサナイーヌをバスルームに連れて行き、首輪を外すとシャワーで全身をきれいに洗い流し、ドライヤーで髪と尻尾をブローした。

「テワさんは、いつも俺と一緒だから。大丈夫」

 そう言ってまた首輪をしっかりと締めた。

 大輔に首輪をかけられると安心する。

「ふがっ」

 大輔がテワタサナイーヌを抱え上げた。

 びっくりして間抜けな声が出てしまった。

 テワタサナイーヌと大輔は、その声がおかしくて笑った。

 重苦しかった空気が一気に和んだ。

 テワタサナイーヌの背中と膝の裏に大輔の腕が回されている。

 大輔がこんなに逞しい腕をしているとは思わなかった。

 テワタサナイーヌは、大輔の首に両腕を回して軽く抱きついた。

「俺がいる」

 そう一言だけつぶやいて大輔はテワタサナイーヌをそっとベッドに寝かせた。

 テワタサナイーヌは、横向きに丸まり、大輔の腕枕で大輔にくっついた。

 大輔は、テワタサナイーヌが眠りにつくまでテワタサナイーヌの背中を軽くとんとんと叩き続けた。

(俺がいる……)

 テワタサナイーヌは、大輔の腕の中で眠りについた。

──朝

「嫌な夢だったよ」

 目を覚ましたテワタサナイーヌが枕元の大輔に言った。

「不安だったんすね」

「うん。今でも不安」

「不安なことを不安だって言えるテワさんは強いっす。大丈夫すよ。助けを求めることができてるじゃないすか」

「そうっすね」

 テワタサナイーヌが大輔の真似をして笑った。

 

「おはよー」

 出勤の支度をしたテワタサナイーヌは、1階の弥生に挨拶をした。

「あ、早苗ちゃん、おはよう。あら、早苗ちゃん、目の下に隈ができてるわよ。寝不足?」

 テワタサナイーヌの顔を見た弥生が心配そうな顔をした。

「うん、ちょっと怖い夢をみたから」

「そう。怖い夢は怖いわよね」

「お母さん。それ『回転が回る』みたい」

「あらやだっ!」

 二人は笑った。

(笑わせてくれてありがと)

 テワタサナイーヌは、弥生の心遣いに感謝した。

「なんかね。妊娠もしてないのにマタニティブルーになってたの。よっぽど心配なのね私ってば」

「そりゃそうでしょう。なんでもない人、こんな言い方したら早苗ちゃんに悪いけど、なんでもない人の妊娠だってマタニティブルーになるんだから、超ハイリスク妊娠の早苗ちゃんがマタニティブルーにならない方がおかしいのよ」

「お母さんもなった?マタニティブルー」

 テワタサナイーヌは、弥生がマタニティブルーになるようには思えなかった。

「なったわよ。たっぷりとね」

 弥生は笑顔でさらりと言ってのけた。

「意外。お母さんは、そういうのに無縁だと思ってた」

「私を何ものだと思ってるの?」

 弥生が苦笑した。

「あ、お父さんと大輔くん。今日は女子チームだけで出勤させて」

 弥生が山口と大輔に声をかけた。

「わかりました」

「了解っす」

 山口と大輔が返事をした。

 弥生とテワタサナイーヌは、駅まで歩く道すがら二人で話をした。

「なんか心配させちゃってごめんなさい」

 テワタサナイーヌが謝った。

「いいのよ。今もまだやっぱり憂鬱?」

 弥生がテワタサナイーヌの具合を気遣った。

「ううん。大輔くんが引っ張り上げてくれたから、今は大丈夫」

「やっぱりいい男ねえ、大輔くん」

「うん。ほんとにそう思う」

「で、大輔くんは、どうやって引っ張り上げてくれたの?」

「『俺がいる』って。あと、不安なことを不安だって言える私は強い。助けを求めることができてるって」

 テワタサナイーヌは、恥ずかしそうに俯いた。

「大輔くん、かっこいいわねえ。惚れそう」

「えー、それはダメ」

「冗談よ」

 二人はゆっくりと歩く。

 いつの間にか二人の歩調が揃っていた。

「ねえ、お母さん」

「なに、早苗ちゃん」

「お母さんは、どうしてお父さんと結婚したの?」

「あら、ずいぶんストレートな質問ね。いいわ、教えてあげる」

 弥生が昔のことを思い出そうと遠くを見た。

「あの人が、警察学校を卒業するとき『寮に入りたくないから一緒に住んでくれ』って言ったから」

「えーっ!」

 テワタサナイーヌは吹き出した。

「そんなプロポーズってあり?」

「あったんだもん。仕方ないでしょ」

「そうよね。それにしても気が利かないプロポーズじゃない?」

「まったくよね。だから今でもプロポーズされてないって言ってやってるのよ」

 そう言って弥生は含み笑いをした。

「お母さんとお父さんは、いつから付き合ってたの?」

「中学生のとき」

「ませガキだ!」

 テワタサナイーヌが喜んだ。

「そう、ませてたのよ、二人とも」

 弥生が懐かしそうな顔で続けた。

「私は中学生のときにちょっとグレちゃってね。山口は進学校に進んだけど、私はまあ普通の高校。それでも付き合いは続いてたから不思議よね」

「私がヤンキーから卒業できたのもあの人のおかげだった。あの人といると、虚勢を張って突っ張っているのがバカバカしく思えてきちゃって。それでやめたの。私は『そういうもの』でいいんだって思ったから。あの人の前では、ヤンキーだろうといい子だろうと、私は弥生でしかなかった。だったら素でいた方が楽ちんじゃない?あの人は、私がバカなことをしたときも、決して私を責めなかった。私がやったことは叱ったけど、私のことは大事にしてくれたし、ほめてもくれたから」

 山口のことを話す弥生は少女のようだった。

(どんだけお父さんラブなのよ)

 テワタサナイーヌも嬉しくなった。

「それ、私もお父さんに教わったよ。罪を憎んで人を憎まずって」

 話しながら歩いているうちに、二人は駅に着いた。

 

「テワさん、おはようございます」

「お父さん、おはよう」

 二人は、二回目の挨拶をした。

 家でも挨拶をしているが、職場でもけじめとして挨拶をしている。

「はい、お茶」

 テワタサナイーヌが紅茶をサービスした。

「いつもありがとうございます」

 山口は、礼を言って紅茶を口にした。

「寮に入りたくないから一緒に住んで欲しいなあ」

 テワタサナイーヌが独り言を言った。

 山口が盛大に紅茶を吹いた。

「あー、書類が!あー、キーボードが!」

「わー、お父さんが慌ててる。珍しい!」

 テワタサナイーヌが大喜びした。

 山口は、あたふたと飛び散った紅茶を拭いている。

「吹いて拭いて大変なんですよ」

 山口がぼやいた。

「朝から悪い冗談はやめてください」

 机を拭き終わった山口がテワタサナイーヌに苦情を言った。

「冗談じゃなくて実話でしょ」

 テワタサナイーヌはニヤニヤしている。

「誰に聞いたんですか。て、弥生さんですね」

「そう、お母さんに聞いちゃった」

「他の人には言わないでください」

 山口が頭を下げた。

「なにやってんすか?」

 事情を知らない大輔は、二人をやりとりをぽかーんと見ている。

「えっとね、お父さんのプロポーズの言葉が判明してね……」

「だーめです!内緒です!」

 テワタサナイーヌが言い終わる前に山口が割って入った。

「えー、いいプロポーズだと思ったんだけどなあ」

 テワタサナイーヌが椅子をくるくる回しながら口を尖らせた。

「あ、そうだ。次回の講演の準備をしましょう」

 山口が話題をそらした。

 

「以上、ごっこ遊びのススメでございました」

 山口は講演を締めくくった。

 

──山口のプロポーズ事件の数日後

 ここは、北区内の大きなホール。

 とある金融機関が高齢の顧客向けに企画したイベントが開催されている。

 山口は、イベントの中でオレオレ詐欺被害防止についての講演を依頼されていた。

 その日は、テワタサナイーヌと大輔も同道して、山口の講演を見学することになっていた。

「北区って、あんまり縁がないところだなあ」

 京浜東北線の車中でテワタサナイーヌが山口に話しかけた。

 テワタサナイーヌは、今日も大輔に赤い首輪をしっかりかけてもらった。

「そうでしたか。実は、私も勤続30年以上になりますが、まだ北区内で勤務したことがないんです」

 山口は、着ているスーツの裾を気にしながら答えた。

 テワタサナイーヌが山口のスーツの裾をちょこんと摘んでいた。

「早苗さん」

「なーに、お父さん」

「大輔さんがいるんですから、大輔さんと手を繋いだらどうですか」

「いいじゃん、今日はお父さんと仲良くしたい気分なの」

「大輔さん、いいんですか?」

 山口が大輔に話を振った。

「いいんす。そういうものっす」

 大輔は平然としている。

「いいんすよねー」

 テワタサナイーヌが大輔と顔を見合わせて微笑んだ。

「それならいいんですが」

 山口が苦笑した。

「あ、着いた。降りるよ」

 電車が王子駅に着いたところで、テワタサナイーヌが山口のスーツの裾を引っ張った。

 山口は、ときどき降りる駅を忘れて乗り過ごすことがある。

「あ、ありがとうございます」

 山口がテワタサナイーヌに続いた。

 大輔も山口に続いて降車した。

 王子駅は、南側に飛鳥山公園と接する閑静な町並みが続く。

 これと対照的に、北側は大きなロータリーがあり、華やかさがある。

 駅を挟んでがらっと景観が異なる。

 山口たちは、王子駅の北口を出ると、線路沿いに北上して大きなホールに入った。

 三人は控室に案内された。

 控室には、お茶と茶菓子の用意があった。

 部屋の壁面には、液晶テレビが取り付けられ、会場内の様子が映し出されている。

 まだ開場前なので、お客さんは誰もない。

 三人は、主催者の挨拶を受け名刺を交換した。

「今日はよろしくお願いします。あ、こちらが有名なテワタサナイーヌさんですね。渋谷でのパフォーマンスと女子高生の制服姿、素敵でした」

「えー、ご覧になっていたんですか。恥ずかしい!」

 テワタサナイーヌは、手で顔を覆って恥ずかしがった。

「今日は、渋谷でやったラップのパフォーマンスもやっていただけると聞いておりますが」

 主催者が山口に言った。

「えっ、聞いてないよ」

 テワタサナイーヌが真顔で山口を見た。

「言ってないですからね」

 山口は涼しい顔をしている。

(はめられた)

 テワタサナイーヌは、山口のいたずらであることを理解した。

「でも、ほら、音源がないじゃない。音源がないとできないよねー」

 テワタサナイーヌが焦りながら言った。

「おや、こんなところにICレコーダーが」

 大輔がスーツのポケットからICレコーダーを取り出した。

「あんたら親子は……」

 テワタサナイーヌが涙目になって二人を睨んだ。

「今日は見学のはずなのに大輔くんがキャリーケースを転がしているからおかしいと思ったのよ。ほら、制服出しなさいよ!」

 テワタサナイーヌが諦めた。

「それではよろしくお願いします」

 主催者は、ニコニコしながら部屋を出ていった。

 主催者が部屋を出ると、テワタサナイーヌは服を脱ぎ捨てた。

 山口と大輔がいるがまったく気にしない。

 山口と大輔の方もまったく気にする様子がない。

「レディが着替えてるんだから、少しは恥ずかしがりなさいよ」

 テワタサナイーヌが吐き捨てた。

「いや、そこまで堂々と脱がれると、恥ずかしいどころか、むしろ清々しいっすよ」

 大輔が応戦した。

 山口は、我関せずといった風で、個包装の羊羹をおいしそうに食べている。

 

「山口さん、お願いします」

 係員が声をかけた。

「はい、わかりました。テワさん、行きましょう」

「はーい」

 散々文句を言っていたが、制服を着るとテンションが上ってしまうテワタサナイーヌだった。

 大輔は、音源をセットするため、先にICレコーダーを持って舞台袖で待機している。

「警視庁犯罪抑止対策本部から山口警部にお越しいただきました。本日は『ごっこ遊びのススメ』と題してご講演をいただきます。山口警部、よろしくお願いします」

 司会者に紹介されて山口が下手からステージに進み出た。

「ただいまご紹介いただきました、警視庁犯罪抑止対策本部の山口です。本日は、ごっこ遊びのススメと題しまして5分、5分だけお耳を拝借します」

「皆さんは、よく『オレオレ詐欺に注意』ですとか『振り込め詐欺に気をつけて』と言われませんか?」

「注意とか気をつけるというのは、頭で考えていることですね。ここにいらっしゃる皆さんは、ほとんどがオレオレ詐欺という言葉や、その手口をご存知だと思います。ですから、オレオレ詐欺に注意もしているし、気をつけていらっしゃる。実際、被害に遭ってしまった方も皆さん注意していらっしゃいました。では、なぜ被害に遭ってしまうのでしょう」

「皆さんは、普段の生活でびっくりしたときなどに、頭が真っ白になる、あ、これは髪の毛の話じゃありませんよ。そういう経験をしたことがあると思います。なんにも考えられない状態ですね。オレオレ詐欺も、導入で皆さんを驚かせます。だいたいは身内の失敗やピンチといった内容です。そうすると、頭の中が真っ白になります。真っ白になってしまうと何も考えられません。ですから『注意』も「気をつける』こともできなくなってしまいます」

「しかも、真っ白になった頭には、相手の言葉はどんどん入ってきて、相手色に染まってしまいます。白無垢を着て詐欺犯人の前に出ていくようなものですね」

「こうなるともう誰にも止められません。通帳と印鑑を持って銀行にまっしぐらです」

「では、どうしましょう。皆さんは、消火訓練をやったことがあると思います。水の入った消火器で火の絵が描いてある板に水を飛ばすあれです。あれは、実にくだらない茶番ですね。本当に火を消すわけではないのですから。でも、あれは火を消す訓練ではないのです。消火器の扱いを身体で覚える訓練なのです」

「頭で消火器の扱いを覚えていても、いざ本当の火事を目の当たりにすると身体が動きません。でも、茶番でもなんでも体を動かして経験していることは、緊急事態を前にしても再現することができるのです」

「これをオレオレ詐欺でやるにはどうすればいいでしょう。息子や孫の元の携帯電話番号に折り返しの電話をかける訓練をすればいいのです。普段から息子や孫から電話があったら、元の携帯電話番号に折り返しの電話をかけるのです」

「そのために、オレオレ詐欺ごっこをしましょう。息子や孫に犯人になってもらい、『携帯電話が変わった』でもなんでもいいです。オレオレ詐欺の真似をしてもらいます。その電話を切った後、息子や孫の元の携帯電話番号に折り返しの電話をかけます。これだけです」

「ごっこ遊びというのは実は重要で、普段経験できないことの動作を体で覚えるために大変効果的です。皆さんも是非、オレオレ詐欺ごっこで遊んでみてください。以上、ごっこ遊びのススメでございました」

「今日は、昨年末、渋谷のスクランブル交差点で活躍したテワタサナイーヌを連れてきています。折り返し電話をすすめるマイクパフォーマンスをご披露いたします。テワタサナイーヌさん、入ります!」

 山口がテワタサナイーヌを紹介した。

 山口の紹介でテワタサナイーヌの目つきが変わった。

 女優スイッチが入った。

 大輔がPAに繋いだICレコーダーで音源を再生する。

 テワタサナイーヌが下手から現れ、ビートに合わせて身体を揺らす。

 

ここに集った善良な皆さん

お耳拝借 私の講釈

ちょっとでもいいから聞いてって

 

電車にカバンを忘れたオレ

オレが毎日大量発生

俺はそんなにアホじゃねえ!

でも、ありえなくない

消せない可能性

よく聞け私が授ける起死回生

それは簡単

いとも簡単

まずは一旦

俺のケータイ

元のケータイ

鳴らせばわかるぜ

すぐにわかるぜ

そのオレは俺じゃねえ!

 

♪私は犬のお巡りさん

 子供に泣かれることもあるのよ

 私の名前はまたあとで

 

親の財産いずれは遺産

奴らに渡さん手放さん

詐欺(と)られた金

反映されない国民総生産

父さん母さん

じいちゃんばあちゃん

元気でいてくれ

いつか行こうぜ成田山

 

申し遅れました私は

知らない人にお金を

知らない人にお金を

テ・ワ・タ・サ・ナイーヌ!

 

 テワタサナイーヌが指鉄砲の決めポーズをとった。

 会場から大きな拍手が沸き起こった。

「ありがとう。みんな長生きしてねー!」

 テワタサナイーヌは、観客に手を振りながら山口を引っ張って下手にはけた。

「あー、楽しかった」

 テワタサナイーヌは、満足そうだ。

「なんだかんだ言ってもプロですね」

 山口がテワタサナイーヌをほめた。

「あったり前じゃない。このために私はテワタサナイーヌになったんだから」

 テワタサナイーヌは誇らしげに言った。

 

──帰りの京浜東北線内

「ねえ大輔くん」

「なんすか」

「ちょっと耳」

「こうすか」

 大輔がテワタサナイーヌの犬耳を摘んだ。

「定番のボケいらないから」

 テワタサナイーヌが大輔の脚を踏んづけた。

「痛いっす。ごめんなさい」

 大輔が耳をテワタサナイーヌの口元に近づけた。

「あのね……」

 

「生理が一週間遅れてる」

 

 大輔の顔が輝いた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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「じゃじゃーん! 」

 テワタサナイーヌが大輔にドラッグストアのビニール袋を差し出して見せた。

 

 テワタサナイーヌの生理は、きっちり28日周期で狂うことは少ない。

 ところが、前回の生理から28日を過ぎても生理が来なかった。

 予定の日から一週間以上生理が遅れたことはない。

 大輔は、すっかりテワタサナイーヌが妊娠したものと決め付けて喜んでいる。

 その段階ではまだテワタサナイーヌは妊娠を疑っていた。

 しかし、生理の遅れが二週間を過ぎたところでテワタサナイーヌも「もしや」と思い始めた。

 とりあえず確かめてみようと思い、仕事帰りにドラッグストアで妊娠検査薬を買ってきた。

「手伝うすか」

「ふざけんな」

 大輔が間抜けな申し出をしたので、テワタサナイーヌは大輔の背中に膝蹴りを入れた。

 いくら犬化が進んで大輔がハンドラーになっていたとしても、おしっこをしているところを見せようとは思わない。

 大輔の精子と自分の卵子は、染色体数の違いを乗り越えて合体することができたのだろうか。

 テワタサナイーヌは、袋から検査薬の箱を取り出して、箱の中に入っていた説明書を広げた。

(女性の体は、妊娠すると胎盤でhCGという名前のホルモンが作られるんだ。で、これがおしっこの中にも混ざって出てくるわけね。それをこれで検出するっていう仕組みか。hCGは、生理予定日ころから出るっていうことだから、二週間遅れてる私は、当たってれば陽性になるはず)

 説明書を読んでいるうちに怖くなってきた。

 どちらの結果が出るにしても、事実を知るのが怖い。

 陰性であれば落胆するし、陽性の場合はマタニティブルーに突入するかもしれない。

 想像マタニティブルーを経験してしまったテワタサナイーヌは、若干臆病になっていた。

 いくら怖がっていても結果を出さないわけにはいかない。

「赤ちゃん、できてなかったらごめんね」

 テワタサナイーヌにしては珍しく弱気な発言をした。

「私が染色体異常だからいけないんだよね」

 テワタサナイーヌは自分を責めた。

「あはは。大丈夫っす。テワさんは妊娠してるっす」

 大輔が自信満々に笑った。

「なに、その根拠のない自信」

 あまりにも自信満々な大輔の態度にテワタサナイーヌもおかしくなって笑ってしまった。

「ぴくっと手応えがあったす」

 大輔が胸を張った。

「手応えって何よ。あんたは出すときに手応えを感じる特異体質なの?それに、いつのやつに手応えがあったの?」

 テワタサナイーヌが笑い転げている。

「いつのって、テワさん露骨な」

 大輔が頬を赤らめた。

「まあいいわ。とにかく『ぴくっ』と感じたのね」

「そうす」

 二人で爆笑した。

(ありがとう。不安が軽くなったよ)

「さあ、トイレに篭るわよ」

 そう宣言してテワタサナイーヌは検査薬を持ってトイレに入った。

(出ない)

 大輔が気持ちをほぐしてくれたが、やはり緊張でおしっこが出にくかった。

(落ち着け自分)

 深呼吸をして再チャレンジする。

(出た)

 検査薬の先端におしっこをかける。

(えっと、確かこれで1分くらい待つんだったな)

(結果をどうしよう。ひとりで見るか、大輔くんと見るか)

(ひとりで見るのは怖いから、大輔くんと一緒に見よう)

 テワタサナイーヌは、パンツを履いてトイレを出た。

 検査薬の判定が出る窓は手で隠している。

「一緒に見て」

 検査薬を大輔に見せた。

「いいっすよ。楽しみっすね」

 大輔は自信満々のまま動じない。

(どっからその自信が来るのよ。ほんとにぴくっと来たのかな)

(ていうか、どこにぴくっと来るの?)

「大輔くん質問」

「なんすか」

「さっき言った『ぴくっ』は、どこに来るんですかー」

 テワタサナイーヌがおどけた態度で訊いた。

「え、それは、あそこすよ」

 大輔がもじもじした。

「わかんない。代名詞じゃなくて名詞でプリーズ」

「テワさん、ドSすか」

 大輔が恨めしそうにテワタサナイーヌを見た。

「その態度でわかったわよ。そこに来るのねピクミンが」

 テワタサナイーヌが吹き出した。

 そうこうしているうちに規定の1分間が過ぎた。

 テワタサナイーヌは、検査薬を隠している手を少しずらして「終了線」を確かめた。

 終了線には、正常に検査が終了したことを表す反応が出ていた。

「正常終了だって。結果が出てるはず」

 テワタサナイーヌが大輔に見せた。

「そうすね。さあ結果を見よう」

 大輔の鼻息が荒くなった。

「ちょっと待って。やっぱり緊張する」

 テワタサナイーヌが数回深呼吸をした。

 二人が横に並んでぴったり密着した。

「いくよ」

 テワタサナイーヌが大輔に声をかけた。

「はい」

 大輔も緊張してきた。

 いつものブロークンな敬語でなくなっている。

「やっぱり怖いから大輔くん見て!」

 テワタサナイーヌは、ぎゅっと固く目を閉じた。

「5・4・3……」

 テワタサナイーヌがカウトダウンを開始した。

「2……0!」

 テワタサナイーヌがフェイントをかけて検査薬を隠していた手を離した。

「どこ見るんすか?」

 大輔は、検査薬の見方を知らなかった。

「ちょっとー、あんたに見せた意味がないじゃん」

 テワタサナイーヌが呆れたように言った。

「結果窓に細い線が2本出てれば妊娠。1本ならハズレよ」

 テワタサナイーヌが検査薬の見方を説明した。

「えっとですね」

 大輔がもったいつけた 。

「早くしてよ。こっちはさっきから心臓がばっくんばっくんしてんだから!」

 テワタサナイーヌが焦れた。

(?!)

 大輔の手がテワタサナイーヌの下腹部に触れた。

「ようこそ、我が家へ」

 大輔が優しい声で囁いた。

「えっ!?」

 テワタサナイーヌが思わず聞き返した。

「妊娠っす!」

 大輔が叫んだ。

「うおーっ!!」

 目を開けて検査窓を見たテワタサナイーヌが雄叫びを上げた。

「どうしたの!?」

 大輔とテワタサナイーヌの大声を聞きつけた弥生と山口が驚いて2階に駆け上がってきた。

「これ見て!」

 テワタサナイーヌが興奮した様子で検査薬を弥生に見せた。

「わ!」

 弥生も声を上げたが言葉にならなかった。

「やりましたね。早苗さん、大輔さん」

 山口が二人を祝福した。

「ばんざーい!」

 山口が万歳をした。

「ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!」

 全員で万歳三唱をして喜びあった。

 普段、あまり感情を表に出さない山口が弥生と手を取り合って泣いていた。

 テワタサナイーヌは、嬉しすぎてどう反応していいのかわからず放心していた。

 大輔は、意味もなく部屋の中をぐるぐる走り回っている。

 テワタサナイーヌと大輔のどちらが犬なのか、わからない状況になっていた。

「これだけじゃ妊娠と言い切れないから、時間を作って病院に行くのよ」

 弥生がテワタサナイーヌの手を握った。

「うん!」

 テワタサナイーヌが大きく頷いた。

「とは言っても、あんまり早すぎると胎芽が小さすぎて超音波で確認できないこともあるから、急ぐ必要はないと思うよ」

 弥生がテワタサナイーヌにアドバイスした。

「とりあえず明日から危険業務は避けるようにしましょう」

 テワタサナイーヌの仕事は、山口が割り振りをしているので、いかようにもできる。

「今日が10月だから、予定日は10か月後の8月すね」

 大輔が予定日の計算をした。

「そっか、男の人は『十月十日』って思ってるのね。間違ってはいないけど、計算を始めるところが違うのよ」

 弥生が大輔に言った。

「早苗ちゃんはわかってる?」

 弥生がテワタサナイーヌを見た。

「うん、知ってる。最後の生理開始日から数え始めるんだよね」

「そう、そのとおり」

 弥生がテワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌは、目を閉じて舌を出した。

「大輔くんも覚えておいて。妊娠期間計算は、最後の生理が始まった日から始めるの」

「へー、そうなんすね。ってきり受精の日からなのかと思ってたす」

「よくある間違いね。第一、受精の日がいつかってわかる?わからないでしょ。最後の生理が始まった日が妊娠0日目、0週目でもあるの。だから、次の生理が来る予定の日は28日後だから、生理が遅れてるなあと思ったときには、もう妊娠4週を過ぎてることになるの」

「早苗ちゃんは、生理が二週間くらい遅れてるから、今日でもう妊娠6週になってるっていうこと」

「えっ、もうそんなになってるんすか。知らなかった」

 大輔が驚いた。

「そう。だから十月十日、つまり42週の妊娠期間は間違ってなくても、計算を始めるときを勘違いすると、4週間以上もずれちゃうことになるのよ」

 弥生が大輔に教えた。

「テワさん、先月の生理はいつだったすか?」

 大輔がテワタサナイーヌに確認した。

「えっとね、確か9月22日」

 テワタサナイーヌが指折り数えて答えた。

「そうすると、9月22日から42週後すね。いつになるんだ?」

 大輔が頭の中で計算を始めた。

「6月29日」

 大輔より先にテワタサナイーヌが答えた。

「テワさん、頭いいっすね!」

 大輔が喜んだ。

「問題は、病院選びですね」

 山口が口を開いた。

「そうね」

 弥生が同意した。

「早苗さんの場合、かなり特殊な胎児と出産になります。どこの病院でも対応できるというわけではないと思います。対応できる病院を探しましょう」

「うん」

 テワタサナイーヌが頷いた。

「場合によっては、出産まで入院になるかもしれません」

 山口は、弥生が妊娠したときの経験を踏まえて、自分なりの予測を述べた。

「現状だと筑波大学に早苗さんの身体に関するほぼすべてのデータがあります。まずは筑波大学から当たってみましょう」

「はーい」

 

 大輔は、筑波大学附属病院にテワタサナイーヌの出産対応が可能かを問い合わせた。

「初めての症例ですし、どのような医療的対応が必要になるかわかりません。もちろん当院で出産のお手伝いをさせていただくことは可能ですし、そうなった場合は関係する診療科すべてで専門チームを結成して対応します」

 筑波大学附属病院は、積極的な回答だった。

「しかし、お宅からだとかなり遠方になります。通院が大変で母胎に与える影響を考えると、もっとお近くの病院がいいと思います。他の病院で出産の対応をなされる場合は、当院で保有しているテワタサナイーヌさんの身体に関するすべてのデータを提供します。お近くですと国立成育医療センターか東京大学付属病院が便利だと思います」

 母胎への影響を考えると遠方より近い方がいい。

 もっともな指摘だった。

「東京大学ですか。懐かしいですね」

 山口がつぶやいた。

「え、お父さん東大だっけ?」

 テワタサナイーヌが意外という顔をした。

「そんなわけないじゃない。ただのたわ言よ」

 弥生が斬って捨てた。

「うちからだと世田谷の成育医療センターより東大病院の方がずっと便利がいいわね」

 弥生は、病院の規模や質よりも通院がテワタサナイーヌに与える負担を気にしていた。

「じゃあ、とりあえず東大病院に当たってみて、対応してもらえそうだったそこにしよ」

 テワタサナイーヌが提案した。

「そうっすね」

 大輔も同意した。

 筑波大学からは、診療情報提供書を作成してもらった。

 肝心のデータは、莫大な量になるため紙ベースではなくDVDに記録したものが交付された。

 テワタサナイーヌと大輔は、筑波大学の診療情報提供書を持って東大病院の産科を受診した。

 東大病院では、まず妊娠の有無について検査を受けた。

 テワタサナイーヌの場合、まだ妊娠初期なので経腹超音波ではなく、経膣超音波検査が行われた。

 検査を担当した医師は、モニタに映った映像を見てすぐに判断した。

「妊娠ですね」

 ベッドの上に寝ているテワタサナイーヌが拳を握りしめて小さくガッツポーズをとった。

「この範囲が胎嚢です。それから、ここに小さな卵のようなものが見えると思います。これが胎芽です。胎嚢の中に胎芽がありますから、正常妊娠といえます。まずは妊娠の第一段階をクリアしています。おめでとうございます」

 医師がにこやかにテワタサナイーヌに説明した。

「ありがとうございます!」

 テワタサナイーヌも笑顔で答えた。

「先ほどお聞きした生理の周期と胎嚢、胎芽の大きさから判断して、現在妊娠8週と診断します。予定日は、来年の6月29日です」

「やっぱり! 予想通りです」

 テワタサナイーヌが喜んだ。

「ご自分で起算なさったんですか?」

 医師が訊いた。

「はい、計算してみたんです」

「すばらしい自覚ですね」

 医師がほめてくれた。

「肝心の出産対応はいかがでしょうか?」

 超音波検査を終えたテワタサナイーヌが大輔とともに診察室で医師に質問した。

「はっきり申し上げると、難しい対応になるのは間違いありません。なにしろ今まで誰も経験したことのないケースです。これに自信を持って『できます』と言えるところはないでしょう。私の一存でお引き受けできるレベルを遥かに超えています。おそらく院全体のカンファレンスで決定されることになると思います。少々お時間をいただいてもよろしいですか。それと、今回の妊娠の経過、出産、そしてお子様の成長について記録を取らせていただき、学会で共有したいと思います。ご了承いただけますか」

「学会での共有は承知しました。カンファレンスの結果がわかるのは、いつごろですか」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そうですね。のんびりしていると妊娠はどんどん進んでしまいます。私から部長に働きかけて、緊急のカンファレンスを要請します。早ければ来週にもお答えできると思います」

「わかりました。よろしくお願いします」

 テワタサナイーヌと大輔は頭を下げた。

 

──翌週

 ♪ぽいぽいぽいぽいぽぽいのぽい

 犯抑で事務仕事をしていたテワタサナイーヌのスマホに電話が着信した。

 テワタサナイーヌは、スマホを持って廊下に出た。

「はい、山口です」

 テワタサナイーヌが電話に出た。

「東京大学病院の産科です」

(きた!)

「あ、はい、お世話になっております」

「先日受診いただいた妊娠の件でカンファレンスの結果が出ましたのでお知らせいたします」

「はい」

「当院として山口さんの出産をお引き受けいたします。関係する科で専門のチームを結成し、総力を挙げてご支援させていただきます。また、今回のご出産に関しては、まったく異例ではありますが、日本獣医生命科学大学との合同チームによる対応といたします」

「ありがとうございます!」

「ただし、ハイリスク妊娠になります。すべてのリスクを排除できるとは保証できませんので、ご了承ください」

「はい、わかっています。よろしくお願いします」

 テワタサナイーヌは、電話の向こうの医師に頭を下げた。

「なんで私が東大に?」

「犬だからーっ!」

 テワタサナイーヌは浮かれていた。

 出産を引き受けてくれる病院が決まり安心した。

 しかも、日本獣医生命科学大学との合同チームまで結成してくれるというのだ。

 ただ、ひとつ気がかりなことがは、弥生の例だ。

 自分にも同じことが起こらないとは限らない。

 しかし、これは誰の力も及ばない。

 祈るしかない。

(お姉ちゃん、赤ちゃんを守って)

 テワタサナイーヌは、亡き早苗に祈った。

「お父さん、病院決まったよ」

 事務室に戻ったテワタサナイーヌは、隣の席の山口に病院決定の報告をした。

「よかったですね。東大病院ですね」

 山口も安堵した表情を浮かべている。

「うん。それだけじゃなくて、日本獣医生命科学大学と合同チームまで作ってくれるんだって」

「それはありがたいですね。テワさんの中身は犬の成分が多いですから、獣医の知見が役に立つこともあるでしょう」

「私の血液型のこともあるしね」

「そうです。分娩時に出血が多かった場合、輸血の必要があります。テワさんには、また犬から供血してもらわなければなりません。獣医の協力が得られるというのは、本当に心強いです」

 山口が力説した。

「あ、ごめん、父親になる人を忘れてた。病院が東大病院に決まったよ」

 テワタサナイーヌが後ろでニコニコしながらこちらを見ている大輔に付け足しで報告した。

「よかったすね。お父さんとの話が聞こえてたから、大丈夫すよ」

 大輔は頓着しない男だ。

 

 その日、テワタサナイーヌは早退して市役所に妊娠届出書を提出した。

「おめでとうございます」

 窓口で対応してくれた職員は、まず最初に妊娠を祝ってくれた。

「ありがとうございます」

 テワタサナイーヌもにこやかに答えた。

 おそらく対応した職員もテワタサナイーヌの笑顔でこの妊婦の社会的リスクが少ないだろうことを察したはずだ。

 届出書には、性病に関する検査の有無を記載することになっている。

(そういえば性病の検査って受けたことない。大輔くんが性病を持ってなければ私も大丈夫なはずだけど)

 窓口では、別にアンケート用紙が交付された。

 

「初めての出産ですか」

(はい、と)

 

「妊娠を知ったとき、どんな気持ちでしたか」

 1.嬉しかった

 2.驚き戸惑った

 3.不安、困った

 4.特に何とも思わなかった

(これは1と2と3かな。いや、困りはしなかったから3はないか)

 

「妊娠、出産、育児について相談したり協力してくれる人はいますか」

(もちろん「はい」)

 

「母親教室を受ける予定はありますか」

(とりあえず受けてみよう)

 

「里帰り出産の予定がありますか」

(毎日里帰りしてるからこれは「いいえ」)

 

「タバコを吸いますか」

(はい。なんて書いたら大輔くん驚くだろうな)

 

「お酒を飲みますか」

(これは「はい」と)

 

「出産に関してご自身で心配と思う病気がありますか」

(病気はないけど、心配なことは山ほどあるよ)

 

「何か心配なこと、相談したいことがありますか」

 1.妊娠中の身体のこと

 2.家事や仕事のこと

 3.出産・育児にかかる費用

 4.パートナーとの関係(経済的なこと、身体的・精神的暴力など)

 5.相談者や協力者が見つけられない

 6.その他

(だいたい大輔くんやお母さん、お父さんに相談できるから、これは全部該当なし)

 

 届出書とアンケートを受理した職員は、テワタサナイーヌを別室に案内した。

 別室で保健師の面接を受けることになった。

「妊娠おめでとうございます。これから妊娠中のことや出産、育児のことについて少しお話をさせていただいてもよろしいですか」

 保健師がにこやかに話しかけた。

「はい。よろしくお願いします」

 テワタサナイーヌも笑顔で応じた。

「大変失礼なことを申し上げますが、山口さんは、遺伝的に特殊な方でいらっしゃいますか。あと、戸籍はおありですか?」

 保健師が申し訳なさそうに訊いた。

「あ、はい。人間に生まれたのですが、その後、イヌの遺伝子が入り込んで半分ヒト、半分イヌになりました。ただ、原因は不明だそうです。だから戸籍もあります」

 テワタサナイーヌは明るく答えた。

「そうなんですね。言いにくことをお答えくださってありがとうございます」

 保健師が頭を下げた。

「いえ、全然かまわないんです。私、こんな自分が大好きですから。ほら、首輪だってしてますし。半分犬であることに抵抗ないんです」

 テワタサナイーヌは、その日も大輔に締めてもらった首輪を愛おしそうに触りながら屈託なく笑った。

「そうでしたか。それを聞いて安心しました」

 保健師もこの先の話がやりやすくなったことで安心したようだった。

「山口さんの妊娠とご出産は、かなりのレアケースで高リスク妊娠となると思いますが、対応できる病院の目処はついていらっしゃいますか」

「はい、東大病院と日本獣医生命科学大学の合同チームが対応してくれることになっています」

「それなら安心ですね」

「はい。私の血が犬の血液型なので獣医さんの協力がないと輸血もできませんから」

「わかりました。それでは、今後の妊娠と出産は、そちらのチームにお任せしてもよろしいですね」

「はい、医療的な対応は専門のチームが対応してくれることになっていますから大丈夫です」

「それでは、市としては妊娠中や出産後の育児についてのご相談に応じることにしたいと思います。保健センターや市の保健師が訪問したりお電話を差し上げることがあると思います」

「わかりました。皆さんが支えてくださると思うと心強いです。ありがとうございます」

 テワタサナイーヌと保健師の面接が終わった。

 テワタサナイーヌは、母子健康手帳といくつかの冊子を受け取り帰宅した。

 

「いよいよ早苗ちゃんもお母さんね」

 テワタサナイーヌは、仕事を終えて帰宅した弥生に母子手帳を見せた。

「うん。母子手帳をもらうと実感が湧くね」

 テワタサナイーヌは、母子手帳を亡き早苗の位牌の前に供えて手を合わせた。

「大輔くん」

「なんすか」

 テワタサナイーヌが大輔を呼んだ。

「あんたも父親になるんだから、いつまでも『すーすー』言ってないで、いい加減落ち着いたらどうなのよ」

 テワタサナイーヌは、大輔の頬を指でつついた。

「え、俺、落ち着てないすか?」

 大輔が動揺した。

「全然落ち着いてない。スースーする」

「いや、テワさん、それはメンソールじゃないすか。まあ、なるべくすーすー言わないように気をつけるっす」

「あんた、気をつけるつもりないでしょ」

 テワタサナイーヌが笑った。

「まったくないっす」

 大輔も笑った。

「でも、子供が生まれたら、ちょっとは直そうと思ってるす。子供が覚えちゃったら困るっすから」

 大輔が補足した。

 

 テワタサナイーヌは、スマホのカレンダーを開いて翌年6月29日に予定を追加した。

 

I will connect our life.




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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未病

「つわりが全然ないんだけど」

 

 テワタサナイーヌが弥生に相談した。

 12月、間もなくクリスマスになろうという頃だ。

 テワタサナイーヌは、妊娠13週を迎えていた。

 テワタサナイーヌのつわりは、ご飯が炊ける匂いに軽い吐き気を覚える以外、まったく体調の変化がなかった。

「あら、いいじゃない。羨ましい」

 弥生はあっさり肯定した。

「でもさ、つわりがないとか軽いとよくないみたなことがネットにたくさん書かれてるでしょ。ちょっと心配になっちゃって」

 テワタサナイーヌがお腹をさすった。

「そうね、ネットの情報を見れば見るほど不安になるわよね。特に初めての妊娠となると、自分の経験で得た知識がないから余計にネットの情報が気になっちゃうでしょうね」

 弥生がテワタサナイーヌの心情を代弁してみせた。

「そう。そうなの。自分で少しでも経験してることなら『そんなことあるわけないじゃん』て笑い飛ばせるんだけど、それができないのよ」

 テワタサナイーヌが眉を八の字にした。

「情報過多の弊害よね。心配になったときは、専門家に訊くのよ。ネットの情報を鵜呑みにすると間違えるから。だから、今度の検診に行ったときお医者さんに訊いてごらんなさい。『全然心配いりません』て言われるから」

 ネットの情報は、玉石混交で有益なものもあれば無益なもの、さらには有害なものまで多種多様だ。

 弥生は、自分で判断がつかないときは、ネットから離れて専門家の意見を訊くようにアドバイスしたのだ。

「それに、早苗ちゃんは半分犬だからお産が軽いのかもしれないわよ」

 弥生が意外な着眼点を提示した。

「あ、そうかも!」

 テワタサナイーヌも合点がいった。

(そっか、私、犬だもんね。お産が軽くて助かるかも)

 テワタサナイーヌは、犬の遺伝子をもらってよかったと思った。

「もうあれよ。早苗ちゃんがめいっぱい安産して、あなた自身が安産のシンボルになっちゃえばいいのよ。犬なんだし、ちょうどいいでしょ」

 弥生も面白がって提案した。

「面白そう。水天宮で巫女さんやったら人気出るかな?」

「公務員は兼業できないからダメ」

「ちぇっ」

 二人は笑った。

 

 テワタサナイーヌの妊娠を大輔はまだTwitterで報告していない。

 エゴサーチをすると、テワタサナイーヌが東大病院の産科に出入りしているところを見たというツイートがあるにはあるが、ほとんど拡散されていないので公知の事実とはなっていない。

 クリスマスも近いということで、テワタサナイーヌがサンタクロースのコスプレをした写真を大輔がTwitterに投稿した。

 赤いサンタコスに赤い革製の首輪が映える。

 どことなく頽廃的な絵になってしまった。

「この人妻サンタはエロい」

「テワちゃん相変わらずかわいい」

「プレゼント手渡してください」

 サンタコスに対しては、好意的な反応が多く返ってきた。

 大輔とテワタサナイーヌは、喜んでタイムラインを見ている。

 その中に一つだけ批判的なものが飛び込んできた。

「警視庁の犯抑は全然わかってない。このTwitterを見てるような人はオレオレ詐欺の被害になんて遭わない。年寄りはここ見ないから無駄」

 ターゲットの年齢層が間違っているという指摘だ。

「うーん、なんかムカつく。大輔くんが一所懸命情報発信してるのに」

 テワタサナイーヌのマズルが少し伸びた。

 テワタサナイーヌは、冬だというのに相変わらずの薄着だ。

 犯抑に着任してしばらくはパンツスーツでおとなしくしていたが、ここ最近はすっかり自分の好きなものを着てくるようになった。

 ロッカーにスーツをしまっているので、必要なときは着替えることができる。

 だいたい短いスカートに薄手のブラウスかカットソーというスタイルだ。

 通勤のときは、コートを着なくても寒くないが、周りを寒くするという理由で着せられている。

「テワさん」

 大輔がテワタサナイーヌに話しかけた。

「なによ」

 テワタサナイーヌが大輔に八つ当たり気味に答えた。

「あ、ごめん。大輔くんが批判されてるのに大輔くんに当たってもしょうがないよね」

 テワタサナイーヌは、すぐに自分の間違いに気づいて謝った。

「テワさん、落ち着いてて偉いっすね」

 大輔がほめた。

「こういうリプライは、『まあそういう見方もあるよね』くらいにしておくといいっす」

 大輔が余裕のある態度でモニタを見ながら言った。

「反論しないの?」

 テワタサナイーヌは、なぜ闘わないのか不満だった。

「反論して有益なものと無駄なものがあるっすよ。これは無駄な分類に入るっす」

「そうなの? なんかすっきりしないけど大輔くんが言うんだから間違ってないんだよね」

 最近のテワタサナイーヌは、大輔を信頼している。

「でもさ、ターゲットを間違えてるって言われてるわけじゃん。私もそんな気はしてたんだけど、それってどうなの?」

 テワタサナイーヌも薄々疑問に感じていたことだった。

「ほら、係長も前に言ってたじゃないすか。お年寄りに直接訴求することで被害を防ぐことは限界にきている。これからは、お年寄りを取り巻く地域や家族に訴求して、お年寄りをサポートする方向が重要だって」

 大輔がずいぶん前に山口から教わったことを思い出してテワタサナイーヌに言った。

「うん。まあね。それもそうなんだけど。実際、うちのツイートを見てたヘルパーさんが、訪問した先のおうちでそこの家のおばあちゃんが電話をしていたらしくて、その話の内容がツイートにあった手口だったんで被害を防げましたっていうリプライももらったことあるけどね。でも、それだけじゃなんか弱いような気がするんだよね。Twitterで若い世代に訴える理由っていうか目的っていうかメリットみたいなものって、もっとはっきりしたものがないのかな?」

 テワタサナイーヌもそれなりに真剣に考えている。

「そうすね。そう言われるとなんかTwitterを使う理由がふにゃふにゃしてくるっすね」

 大輔も自信がなくなってきた。

「こういうときは年寄りに訊くのよ」

 テワタサナイーヌが山口を指差しながら大輔に笑いかけた。

「ねえお父さん」

「聞きたくないことまで全部聞こえてました。年寄りは、そういうところはよく聞こえるんです。Twitterを使う理由ですね。年寄りがお答えしますよ」

 山口が苦笑いしながら二人に向き合った。

「年寄りってやーねー」

 テワタサナイーヌが冷やかした。

「年寄りをバカにするんじゃありません。みんないずれ年寄りになるんです」

 山口がテワタサナイーヌの伸びたマズルを指で抑えて戻した。

「さて」

「テワさん、医療をその考え方や方向性で大きく二つに分けると何と何になりますか?」

 山口がテワタサナイーヌに質問した。

「んー、考え方や方向性? なんだろ。東洋医療と西洋医療みたいなこと?」

 テワタサナイーヌが自信なさげに答えた。

「そうです。そのとおりです」

 山口がテワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌが尻尾を振った。

「漢方医学と西洋医学と言ってもいいかもしれません」

 山口が続けた。

「西洋医療は、客観的で分析された結果にもとづいて施され、病気に対してピンポイントに治療します。これに対して漢方医療は、経験の集積にもとづいて、体全体の調和を図ろうとして、個人の体質や特徴を重視します。この違い、わかりますね」

「うん、わかる」

 テワタサナイーヌが頷いた。

「では、大輔さん。オレオレ詐欺の被害者になる可能性がある高齢者に直接働きかける広報啓発は、西洋医療、東洋医療のどちらになりますか?」

 山口が大輔に質問した。

「狙ったところにピンポイントに治療しようとするから西洋医療すか」

 大輔も少し自信なさげに答えた。

「そうです。西洋医療です。さすが大輔さん」

 山口が大輔もほめた。

「東洋医療の最大の特徴は『未病』も治せるということです」

「未病ってなに?」

 テワタサナイーヌが訊いた。

「未病というのは、今はまだ病気ではないけれど、病気になる可能性のある状態のことです」

「実は、この話の本題に入る前にした会話の中に答えが潜んでいたんですが、お気づきになりましたか?」

 山口がニヤリとした。

「え? なにそれ。全然わかんないよ」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、超かわいい!」

 大輔が喜んだ。

「ありがと。だったらもっと惚れなさい」

 テワタサナイーヌも慣れたものだ。

「この話に入る前、私とテワさんは、どんな話をしていましたか」

「えー、たしか年寄りは悪口はよく聞こえるとか、そういう話」

 テワタサナイーヌが申し訳なさそうに答えた。

「そうですね。それで私はなんと言ったでしょう」

 山口が更に質問した。

「なんだっけ、えっと、えっと、みんな年寄りになるんだとか言ってなかった?」

「そうですね。そう言いました」

「それと、未病を合体させましょうか」

 山口がわけのわからないことを言い出した。

「みんな年寄りになるっていうことと未病を合体させるの?そうするとどうなるっていうの?」

 テワタサナイーヌには、まったく理解できなかった。

「いま、私たちはオレオレ詐欺の被害防止について議論しているわけですよね。そこで、被害の発生を病気の発症と置き換えて未病を考えてみてください」

 山口が二人を交互に見ながらゆっくりと説明した。

「被害の発生を病気の発症に置き換えて未病を考える……えっと、今はまだ被害者になっていないけど、いずれ被害者になる可能性がある状態が未病ってこと?」

 テワタサナイーヌが考えを巡らせた。

「大正解です。テワさん、さすがですね」

 山口がほめた。

「いま若い人もいずれ年寄りになります。ですから、いずれオレオレ詐欺の被害者になる可能性がある未病の状態と言えます」

 山口が謎を解き明かした。

「あ!!」

 テワタサナイーヌと大輔が同時に気づいて声を出した。

「お父さんは、数十年先の被害を防ごうとしてたってわけ!?」

 テワタサナイーヌが思わず大きな声を出した。

「そうです。西洋医療は、いわば対症療法で、いま出ている症状を改善しようとするものです。これに対して東洋医療、漢方は、体質の改善により体全体の調和を図ることで未病をも治療しようとします。私がTwitterでやろうとしていたのは、まさに漢方医療です。若い世代のオレオレ詐欺に対する意識を変容させる、これが漢方の体質改善にあたります。体質改善には時間がかかります。すぐには効果が現れません。一見すると無駄なように見えます。しかし、必ず将来効果が現れます。近視眼的な効果は薄くても、ちゃんと効いているということです」

 山口は、二人に噛んで含めるように説明した。

「短期的な効果しか見ていなかったんすね。俺らは」

 大輔が自分の考えを恥じた。

「いえ、決して恥じるようなことではありません。要は、どう組み合わせて活かすかです。どちらか一方だけが優れていて、片方が劣っているという話ではないのです。各々の長所を組み合わせれば、より高い効果が生まれるのです。最近は、医者で出される処方箋にも漢方薬が入っていることが多いと思います。そういうことです」

「そっかー。今まで私たちは西洋医療的な対策ばっかり重視してきたのね」

 テワタサナイーヌが感心したように頷いた。

「即効性が期待できますからね。無理もないと思います」

 山口が紅茶をすすった。

「じゃあ、今のことをさっきのリプライくれた人にちゃんと説明したらわかってもらえるんじゃない?」

 テワタサナイーヌが鼻息を荒くした。

「そうですね。わかってもらえるかもしれません。ただ」

「ただ?」

「わかってもらえない可能性が高いです。もともとTwitterは、独り言の世界です。議論には向かないメディアなんです。ですから、相手を説得しようという使い方には向いていません。もちろん、災害時などにデマのような明らかに間違った情報が拡散されているようなときは、なにがなんでも打ち消さなければなりません。しかし、個人の考え方に対して、それを論破しようとするのはTwitterの使い方として好ましくないと思うのです。特に、大きな組織の公式アカウントが個人の考えを否定するのはよくない」

 山口が持論を展開した。

「なるほどね。たしかにそうだわ」

 テワタサナイーヌも腑に落ちた。

「大輔さん。これは今までノウハウとしてお伝えしていませんでした。なぜかというと、これも私の考え方にすぎないからです。ですから、これを踏襲するかどうかは、大輔さんの判断です」

 山口が大輔を見た。

「いや、俺も同感す。今の話の路線を受け継がせてください」

 大輔も山口の考えが理解できた。

「ところで」

 山口が大輔に言った。

「なんすか」

 大輔は、更に難しい話が来るものと身構えた。

「テワさんのサンタコスの写真、データもらえませんか」

 山口が意外なオーダーをした。

「オッケーす。未公開分も含めて差し上げるす」

 大輔が親指を立てた。

「ちょっと、お父さん。私の写真どうするつもりなの?」

 テワタサナイーヌが尻尾を振って大喜びしながら追及した。

「いえ、ちょっと、スマホの待ち受けにと思いまして……」

 山口が恥ずかしそうに言った。

「もー、お父さんも私のことが好きなのね。しょうがないなー」

 テワタサナイーヌが満足そうな顔をした。

「ねえねえ、もしかして今の待ち受けも私なの?」

 テワタサナイーヌが山口のスマホを取り上げた。

「あっ、ダメです! 人のスマホを勝手に見るんじゃありません」

 珍しく山口が焦った。

「待ち受けを見るだけなんだからいいでしょ」

 テワタサナイーヌは意に介さない。

「あらー」

 テワタサナイーヌが声を上げた。

「ミクさんじゃない」

 テワタサナイーヌが山口のスマホを大輔に見せた。

 山口のスマホの待ち受けは、初音ミクだった。

「まあ、お父さんらしいちゃらしいわね」

 テワタサナイーヌは納得した。

「返してください」

 山口がテワタサナイーヌの手からスマホを奪い返した。

「まったく、油断も隙もあったもんじゃない」

 口ではそう言いながら、山口は楽しそうだった。

 

「テワさん、大輔さん」

 落ち着きを取り戻した山口がテワタサナイーヌと大輔を呼んだ。

「なーに」

「なんすか」

 二人が順番に答えた。

「年明け第二週の土曜日なんですが、戌の日なので安産祈願に行きませんか。予定が空いてればですが」

 山口が安産祈願に誘った。

「年明け第二週の土曜日ね。なんかあったっけ?」

 テワタサナイーヌが大輔に予定を確認した。

 二人の予定は、大輔が管理していた。

 大輔が管理しているというより、テワタサナイーヌが管理しないので大輔が仕方なくやっている。

「その日はフリーっす」

 大輔が答えた。

「空いてるって」

 テワタサナイーヌが山口に予定を伝えた。

「そうですか。じゃあ行きますか?」

「うん、いいよ」

「戌の日にテワさんが神社にいたら参拝客に喜ばれそうですね」

 山口が笑った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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NST

 12月28日、年末の慌ただしさの最中、官庁が仕事納めを迎える。

 テワタサナイーヌが所属する犯罪抑止対策本部も仕事納めだ。

「本年もお世話になりました。よいお年をお迎えください」

 全員で挨拶をして一年の仕事を終えた。

「テワさん」

 副本部長の坂田警視長が副本部長室から顔を出してテワタサナイーヌを呼んだ。

 テワタサナイーヌが大輔と結婚して山口姓を選択したことで犯抑の山口が3人になった。

「山口さん」と呼ぶと三人が同時に「はい」と返事をするというややこしい事態になったため、坂田はテワタサナイーヌを「テワさん」、山口を「山口さん」、大輔を「山口くん」と呼び分けている。

 坂田がテワタサナイーヌをテワさんと呼ぶようになってから、二人の距離感がぐっと縮んだ。

「なんですか」

 テワタサナイーヌが席も立たずに返事をした。

 坂田も手招きで呼んだとき以外は、それでいいと言ってくれている。

「テワさんも来年はママですね。どんなお子さんが生まれてくるか楽しみです。よいお年を」

 坂田が笑顔で年末の挨拶をしてくれた。

「あ、ありがとうございます。かわいい子犬が生まれると思います。よいお年をお迎えください」

 テワタサナイーヌは、席から立ち上がり坂田に敬礼した。

(犬の妊娠期間って60日くらいじゃなかったっけ?私は普通の人と同じ妊娠期間でいいのかな?)

 テワタサナイーヌは、子犬という発言をしたことで自分の妊娠期間が気になった。

 たしかに病院では来年の6月29日が予定日だと言われている。

 しかし、それは普通の人の場合の妊娠期間という前提で計算されたものだ。

 犬の要素が強い自分もそれでいいのか疑問に思った。

 犬並みの妊娠期間だとしたら、もう出産してしまっていてもいい時期になっている。

 テワタサナイーヌは、自分のお腹をさすってみた。

 ほんの少しぽっこりと出てきたお腹が愛おしいが、まだ出産には程遠い感じだ。

(でもやっぱり気になる。先生に訊いてみよう)

 テワタサナイーヌは、弥生に言われた「専門家に訊け」という教えを思い出した。

「お忙しいところすみません。予約外でしかも遅い時間なのですが、担当の先生はいらっしゃいますでしょうか」

 東大病院に電話をかけ、担当の医師を呼び出した。

「山口さん、どうなさいました」

 担当の医師はまだ病院に残っていた。

「あ、先生、時間外にすみません」

 テワタサナイーヌが謝った。

「いえ、全然かまいませんよ。山口さんの場合は、時間や予約にこだわらなくていいです。いつ何があるかわかりませんからね」

 担当の医師は快く相談に応じてくれた。

「ありがとうございます。実は、妊娠期間の計算について疑問が出たのでお電話を差し上げました」

「妊娠期間ですか? 何かありましたか?」

 医師が(いぶか)った。

「はい。私は、半分が犬でできています。犬の妊娠期間はすごく短くて、だいたい60日くらいだと記憶しています。ですから、私ももっと早く出産を迎えることになるんじゃないかと……」

 話しているうちに段々不安になり、最後は涙声になっていた。

「なるほど。それはもっともなご心配ですね」

 医師は、テワタサナイーヌの心配に共感を示してくれた。

 心配を否定されなかったことでテワタサナイーヌは落ち着きを取り戻すことができた。

「今から病院にいらっしゃいますか? 赤ちゃんの育ち具合を確かめてみましょう」

 医師が時間外の診察を提案してくれた。

「いいんですか? ご迷惑じゃないんでしょうか?」

 テワタサナイーヌとしては嬉しい申し出だったが、年末の忙しいときに自分のために無理をさせているのではないかという気持ちの方が強かった。

「母胎の健康が最優先です。まず、母親が穏やかな気持で妊娠期間を過ごせることが母胎の健康に必要なことです。お時間があるのでしたらいらっしゃい」

 医師は優しく諭してくれた。

「ありがとうございます。すぐに伺います」

 テワタサナイーヌは、大輔と山口に事情を話して東大病院に向かうことにした。

 東大病院には、なぜか大輔と山口も着いてきた。

 あとから弥生も駆けつけた。

(みんなありがと。心強いよ)

 ひとりで診察を受けるのは心細いと思っていた。

 何も言わなくても自分に寄り添ってくれる家族が本当に嬉しかった。

「皆さんでモニタをご覧になりますか」

 医師が超音波検査のモニタを指差した。

「お願いします」

 弥生が即答した。

 医師は、テワタサナイーヌの下半身をカーテンで隠し、他の3人から見えないようにして超音波検査を始めた。

 始めに経膣超音波検査用のプローブをテワタサナイーヌの膣に挿入した。

 モニタに映像が映ったが、テワタサナイーヌたちには何が映っているのか見当がつかなかった。

 しかし、医師が驚いたような顔をしたのは全員が気づいた。

(なにがあった?)

 テワタサナイーヌは不安になった。

 医師は、プローブを抜き去ると、経腹超音波検査用のプローブに持ち替えて、テワタサナイーヌのお腹にゼリーを塗ってプローブを当てた。

 医師は、プローブの角度や位置を変えながら、時おり画像をプリントアウトしたりデータで保存したりしていた。

 その表情には驚きと焦りが浮かんでいるように見えた。

 医師の額には、うっすらと汗が滲んでいる。

 医師が院内PHSを取り上げ内線番号を押した。

「あ、部長、すみません。すぐ診察室に来てください」

 医師が産科の部長を呼び出した。

(あ、なんかよくないことが起こったのね)

 テワタサナイーヌは、緊急事態の発生を感じつつも、どこか予想できていたような覚めた感覚だった。

 診察室の外から重い足音が迫ってくるのが聞こえた。

 速くはないが走っているように聞こえた。

「失礼します。産科部長です」

 大柄の太った男性が白衣を羽織って診察室に飛び込んできた。

「何かあったのか」

 部長が医師に質問した。

「はい。在胎週数に見合わない成長を示しているんです」

 担当の医師がプローブを当ててモニタを示した。

 部長が無言になった。

「信じられん……」

「妊娠期間の計算を間違えてないだろうな」

 部長が医師に詰め寄った。

「はい。山口さんが最後の生理をしっかり記憶していらっしゃいました。間違いありません」

 医師が説明した。

 その間、テワタサナイーヌをはじめ山口、弥生、大輔の4人は、何が起こったのかわからず、呆気にとられていた。

「君は、すぐに入院の手続と山口さんに説明をしてくれ。私は獣医生命科学大の教授に連絡をする」

 部長は慌てたように言い、重い足音を残して去っていった。

(いま、部長は入院って言ったよね)

 テワタサナイーヌは、ベッドに横たわったまま、自分を置き去りに進んでいる事態を他人事のように眺めていた。

「山口さんとご家族の皆さん」

 医師が口を開いた。

 全員が緊張して身構えた。

「現在、山口さんのお子さんは、在胎14週です。この週数ですと、胎児の頭身は、たいだい1対2くらい、つまり三頭身です。ところが、山口さんのお子さんは、1対3、四頭身くらいになっています。四頭身は、新生児とほぼ同じです。体重も500gくらいあり、通常考えられる大きさを逸脱しています。どういうことかと言いますと、非常に成長が速いということです。超音波で見た限りでは、内臓もかなり成熟しています。このペースで成長すると、当初予想していた出産予定日より相当早く出産を迎えることになる可能性が高いです。その速さは、我々にもまったく予測ができません。ですから、すぐに入院していただき、院内でいつでも対応できる環境で妊娠の経過を見させていただきたいと思います」

 医師が興奮気味に説明した。

「あと、付け加えますと、耳殻、あ、耳のことです。耳が非常に特徴的な形をしています」

 医師がテワタサナイーヌを見た。

「これですね」

 テワタサナイーヌが自分の耳を摘んで笑った。

 事態を受け入れたテワタサナイーヌは、笑う余裕ができていた。

「そうです。山口さんと同じような形をしています」

 医師が頷いた。

「先生、性別はわかりますか?」

 テワタサナイーヌが訊いた。

「あ、性別は見ていませんでした。お知りになりたいですか?」

「お願いします」

「わかりました。少しお待ちください」

 医師は、乾いてしまったゼリーを追加してプローブを当てた。

 角度を変えながらモニタを見つめていた医師が口を開いた。

「よく動く子です。普通は、この時期はまだ胎動はほとんどないのですが」

「これだけ動くと胎動を感じるのではないかと思いますが、いかがですか?」

 医師がテワタサナイーヌに言った。

「え、胎動は感じません。なんかお腹がゴロゴロするような感じはありましたけど、もしかしたらそれが胎動だったんですか」

 テワタサナイーヌが驚いたような顔をした。

「よく動いて性器を見せてくれません。やんちゃです」

 医師がプローブで胎児と追いかけっこを始めた。

「おっ、止まった! いい子だ。そのままじっとしてろよ」

 医師が素になっていた。

 医師がプローブをお腹から離して超音波装置に戻し、テワタサナイーヌのお腹についているゼリーを拭き取った。

「わかりました」

「どちらですか」

 パンツを履きながらテワタサナイーヌはワクワクした。

「100%断言することはできませんが、おそらく女の子です」

 医師が自信を持って言った。

「おーっ」

 医師以外の全員が声を上げた。

「急で申し訳ありませんが、今日から入院していただくことは可能ですか」

 医師が済まなそうに言った。

「大丈夫かな?」

 テワタサナイーヌが弥生の顔を覗き込んだ。

「大丈夫よ。職場のことはお父さんと大輔くんに任せなさい」

 弥生がテワタサナイーヌの手を握った。

「ありがとう。お父さん、大輔くん、お仕事お願い」

 テワタサナイーヌが大輔と山口を交互に見た。

「名女優が欠けるのは痛いですが、あとは任せてください。大輔くんが女優になってくれますから」

 山口が大輔を指差して笑った。

「えっ!? 聞いてないっすよ」

 大輔が慌てた。

「いま思いつきました」

 山口が涼しい顔をしている。

「大丈夫です。入院します」

 テワタサナイーヌが医師に返答して即日入院が決定した。

(やっぱり心配なときは専門家に訊くのが一番ってことね)

 弥生のアドバイスが身にしみた。

「大輔くん、スマホの充電器と着替えお願い。スマホが使えないと大輔くんと連絡とれなくて死んじゃう」

 テワタサナイーヌが大輔に甘えた。

「はい! すぐ持ってくるす」

 テワタサナイーヌに甘えられるとデレデレになる大輔だった。

「テワタサナイーヌこと山口早苗です。よろしくお願いします」

 産科病棟に案内されたテワタサナイーヌは、ナースステーションに挨拶をした。

「よろしくお願いします。なんてお呼びすればいいですか?」

 ナースステーションの看護師がテワタサナイーヌに質問した。

「テワでお願いします。本名よりそっちで呼ばれる方が慣れてますから」

「わかりました。じゃあ『テワちゃん』と呼ばせてもらいますね。それにしても、かわいらしい首輪ですね」

「へへ、ありがとうございます」

 テワタサナイーヌが頭を下げた。

(やっぱり犬耳だった)

 病棟の個室に案内されたテワタサナイーヌは、ベッドに腰をかけてニンマリとした。

 自分と同じ犬耳の女の子だ。

 きっとかわいいに違いない。

 どんな毛色をしているんだろう。

 目は何色だろう。

 想像するとワクワクする。

 正月を病院で迎えるのはちょっと残念だが仕方ない。

 仕事柄、正月を家で迎えられないのはいつものことだ。

 病院だとしても職場でないだけマシというものだ。

(手羽先食べたかったなあ)

 仕事納めの後、家族四人で手羽先を食べに行こうと話していた。

(手羽先食べたいから入院を明日にしてくれとは言えないよね)

 テワタサナイーヌは、自分に突っ込みを入れた。

(私、テバサキーヌ……なんちゃって)

 テワタサナイーヌが一人で笑い転げていた。

「あの人、なにやってるの?」

 テワタサナイーヌは、部屋のドアを開けっ放しで大笑いしていた。

 その様子をナースステーションから見ていた看護師が小声で話していた。

 この件から、「テワちゃん=犬耳の面白い人」という評価が定着した。

 

 家に帰った山口は、副本部長の坂田警視長に電話を入れた。

「山口です。夜分にすみません。本日、早苗が入院しました」

「えっ、テワさんがですか!?」

 坂田が電話の向こうで驚きの声を上げた。

「はい、ただ、母胎の容態が悪化したというわけではありません。胎児の成長が予想より速いため、大事を取って出産待機入院となりました」

「そうですか。それを聞いて安心しました」

 坂田の声が落ち着きを取り戻した。

「年明けに改めてご相談したいと思いますが、出産待機入院は特別休暇の対象になりません。年次休暇で対応できない日数になった場合、休職手続きをとらざるを得ないと思います。その際は、よろしくお願いします」

「うん、わかった。テワさんには、仕事のことはいいから出産に専念するようにくれぐれも伝えてください」

「かしこまりました。遅くに失礼しました」

 山口は電話を切って、一つ大きな息をした。

「やっぱり待機入院になってしまいましたね」

 山口が予想通りという顔で弥生に話しかけた。

「そうね。こんなところが似なくてもよかったのに」

 弥生が笑顔で答えた。

「それにしても、あの子と同じ犬耳を持って生まれてくる女の子って、どんな感じなんでしょうね」

 弥生が楽しそうに想像を巡らせた。

「犬耳は超音波でわかりましたが、それ以外のことはまったく想像つきません」

 山口が、スマホの待ち受けに設定しているテワタサナイーヌの写真を見ながら言った。

 

 年末年始の休みの間、大輔はテワタサナイーヌの病室に入り浸った。

 毎日、面会時間いっぱいを病室で過ごした。

 運動制限はなかったので、二人で院内を散策したり、なるべく身体を動かすようにした。

 テワタサナイーヌは、散歩ができないとストレスが溜まる。

 毎日少しでもいいから外に出て歩きたがった。

「あら、テワちゃん、お散歩の時間? いいわねえ」

 二人が病室を出るとナースステーションの看護師が声をかけてくれるようになった。

 テワタサナイーヌも尻尾を振って笑顔で応えた。

 休みの間も担当医師はテワタサナイーヌの様子を見るため回診に来てくれた。

 獣医生命科学大の教授も挨拶がてら超音波を当てに病室まで来てくれた。

 ヒト、イヌ、どちらからの診察結果も異状は認められないということだった。

 ただ、胎児の成長具合がイヌに近いらしいことがわかった。

 大きさはそれほどでもないが、成熟速度が早いらしい。

 正月休み明けに、東大と獣医生命科学大の合同カンファレンスで出産予定日を推定することになった。

 テワタサナイーヌは、つわりもなく有り余る体力を持て余す毎日だった。

 

──正月明け

 大輔は、仕事があるため、毎日病室に入り浸ることができなくなった。

 昼間、大輔が仕事をしているとテワタサナイーヌからメールが山ほど届いた。

「退屈だよー」

「あー、暇」

「寂しいよー」

「グレるぞ」

「早く来て」

(仕事中にメール送ってこられても返せないのに)

 大輔は、昼休みにメールを返すが、それ以外は返せないので心の中でハラハラするしかなかった。

 仕事が終わると、大輔は一目散にテワタサナイーヌを見舞った。

 そして、面会時間終了まで一緒に過ごした。

 この時間があることでテワタサナイーヌも退屈な入院生活を我慢することができる。

(毎日お仕事大変なのにありがとね)

 頭ではわかっていても、大輔が帰ってしまうとまた泣き言のメールを大量に送り付けてしまう。

(私ってば、ほとんどストーカー)

 そう思いながらメールを送信した。

 

 テワタサナイーヌの出産予定日を再設定するため、東大と獣医生命科学大の合同カンファレンスが開催された。

 医師と獣医師の立場から意見を出し合い、熱い議論が展開された。

 このカンファレンスも貴重な資料となる。

 胎児の成長具合と内臓などの器官の成熟度合いから総合的に判断して、出産予定日が大幅に前倒しとなった。

「3月中旬と考えられます」

 担当医師が再設定された出産予定日を伝えた。

「ずいぶん早くなりましたね。未熟児で生まれるんですか?」

 テワタサナイーヌが疑問を抱いた。

「いえ、今の成長具合から考えて、3月で十分成熟するでしょう。未熟児になることはないと思います。ただ、かなり小さな赤ちゃんとして生まれると予想されます」

 医師がカンファレンスでの予測結果を説明した。

「小さいっていうのは、どれくらいですか?」

「そうですね、今のまま推移すると1,200gくらいでしょうか」

「本当に小さいですね」

 テワタサナイーヌが驚いた。

「犬の赤ちゃんをご覧になったことがありますか」

「あります。ちっちゃくって真っ赤で、目も開いてないですよね」

 テワタサナイーヌが答えた。

「そうですね。その状態で生まれてくると考えられます」

「あー、なるほど。それなら納得です」

 テワタサナイーヌが笑顔で左手の平に右の拳をトンと当てた。

「予定日が3月中旬に変更になったよ。犬の赤ちゃんみたいな状態で生まれるんだって。かわいいね」

 回診後、すぐにテワタサナイーヌはカンファレンス結果を大輔にメールで知らせた。

 いつの間にかテワタサナイーヌが何かを知らせるのは、大輔が第一順位になっていた。

「ひょっとしてテワさんの誕生日あたりになるんじゃないすかね」

 大輔から返信が届いた。

(あ、そうだ。3月中旬だと、私とお姉ちゃんの誕生日、お姉ちゃんの命日と私たちの結婚記念日が一度に来てすごいことになるな)

 テワタサナイーヌが想像を膨らませた。

 1月が過ぎ2月になった。

 テワタサナイーヌのお腹もずいぶん膨らみが目立つようになった。

 相変わらずテワタサナイーヌは大輔に甘えている。

 大輔も時間が許す限りテワタサナイーヌの甘えに応えている。

 テワタサナイーヌは、年次休暇を使い果たしたが、それと同じタイミングで産前の妊娠出産休暇を6週間取得することができた。

 ぎりぎりで休職を回避することができ、テワタサナイーヌも山口も安堵した。

 大輔は、まだテワタサナイーヌの妊娠を公表していない。

 テワタサナイーヌも病室からスマホでツイートを飛ばしているので、誰もテワタサナイーヌの入院に気づかなかった。

 お腹の中の子供は、相変わらず小さいが、ひっきりなしにくるくる動き、テワタサナイーヌのお腹を蹴飛ばしている。

「ちょっと、そんなに蹴ったらお腹の皮が伸びちゃうよ」

 テワタサナイーヌが子供に話しかける日が続いた。

 

(痛っ)

 3月に入ってすぐ、テワタサナイーヌは下腹部に張りを伴う傷みを感じた。

「看護師さん、お腹が張って痛いんですけど」

 テワタサナイーヌは、ナースステーションに歩いて行き、お腹の張りを伝えた。

「あら、テワちゃん、お腹の張りが出たのね。ちょっとお部屋で待ってて」

 看護師がテワタサナイーヌに指示を出した。

「はーい」

 テワタサナイーヌは、部屋に戻りベッドに横になった。

「お待たせー」

 看護師が脳天気な声で部屋に入ってきた。

 入院が長くなり、看護師ともすっかり打ち解けた。

 看護師は、NSTという装置を持ってきた。

 NSTは、ノン・ストレス・テストといわれるもので、胎児の心拍数と母体のお腹の張り具合(子宮の収縮)を可視化するものだ。

 看護師は、テワタサナイーヌのお腹にNSTのセンサーを着けた。

 NST本体から吐き出される記録紙を見ると、胎児の心拍数は毎分150回くらいで安定している。

 お腹の張りもほとんど観測されなくなった。

(痛いなあ)

 数時間後、またお腹の張りがきた。

 お腹の張りを示すグラフを見ると、ぐーっと高い数値の方に針が振れているのがわかった。

(陣痛きた?)

 テワタサナイーヌは、ナースコールで看護師を呼んだ。

「はーい、テワちゃんどうしたの?」

 看護師がフレンドリーに応答した。

「お腹痛いでーす」

 テワタサナイーヌも負けじとフレンドリーに応じた。

「先生に連絡しまーす」

 看護師も負けていない。

 病棟の処置室で担当医師の触診を受けた。

「まだ子宮口も開いていませんし、赤ちゃんも下がってきていません。もうしばらく時間がかかると思います。ただ、山口さんの場合は、犬のお産のようにあっさり分娩してしまう可能性もありますから、慎重にモニタリングしましょう。獣医生命科学大には連絡をしておきます。

 医師がベッドに寝ているテワタサナイーヌに説明した。

 

「お腹の張りが来たよ」

 テワタサナイーヌは、大輔に電話をした。

「そうすか! いよいよっすね」

 大輔は興奮した様子だった。

 呼びもしないのに1時間後くらいに大輔が病室に来た。

「まだ早いって」

 テワタサナイーヌが苦笑した。

「いててっ」

 お腹に張りが出た。

「うわっ、生まれる! 大変す!」

 大輔が騒いだ。

「うるさい! あんたが慌ててどうするの。あんたが慌てても子供は生まれないから」

 テワタサナイーヌが大輔を叱った。

「ごめんなさい」

 大輔が肩を落とした。

 その日以降も強いお腹の張りが繰り返し訪れた。

 大輔が病室にいるときは、そのたびに大騒ぎをするのでうるさい。

「あんたが産むんじゃないんだからさ。もうちょっと堂々として。私の飼い主でしょ。しっかりしてよ」

 テワタサナイーヌが呆れた。

 大輔が大騒ぎしてくれると自分の不安が薄れるので助かっているが、それは悔しいので言わない。

「前駆陣痛ですね。もうしばらくこの状態が続くと思います」

 担当医師がテワタサナイーヌに説明した。

「というわけだから安心しなさい」

 テワタサナイーヌが病室から帰りたがらない大輔を追い返した。

 

(この痛いのいつまで続くのかな)

(もう勘弁してよ)

(大輔くーん……)




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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ヒマワリの血

 テワタサナイーヌの前駆陣痛は、一週間以上続いた。

(痛いってば、もー)

 テワタサナイーヌも繰り返されるお腹の張りに嫌気が差していた。

 医師の触診では、胎児が下がってきてはいるが、まだ本格的な陣痛が来る段階ではないということだった。

 テワタサナイーヌの前駆陣痛が始まってからというもの、大輔が完全に浮き足立ち、仕事が手につかない状態になってしまった。

 見かねた山口は、犯抑の副本部長である坂田警視長に相談し、大輔を出産まで休ませることにした。

「とりあえず、予定日になっている中旬あたり、そうですね15日くらいまで休暇を取って休んでください」

 山口が大輔に休暇を命じた。

「えっ、そんな。俺が休んだら係長に負担がかかってしまうす」

 大輔が恐縮した。

「今でも十分負担がかかっています。大輔さん、仕事になってないです」

 山口は、笑いながら大輔の肩を叩いた。

「すんません」

 大輔が申し訳なさそうな顔をした。

「仕事のことは忘れていいです。私が三人分やりますから。大輔さんは、テワさんの側にいてあげてください」

「はい! ありがとうございます」

 大輔が顔を輝かせて退庁した。

「というわけで、お父さんが休みをくれたす」

 病室に着いた大輔が、出産まで休めるようになったことをテワタサナイーヌに報告した。

「あー、またうるさくなるのね」

 テワタサナイーヌがわざとうんざりしたような態度を取った。

 しかし、尻尾が元気に振られていたので、喜んでいるのは明らかだった。

 大輔もテワタサナイーヌの態度がかわいくて仕方ない。

「いつ生まれる気になるすかね。うちのお嬢さんは」

 大輔がテワタサナイーヌのお腹に話しかけた。

「3月14日だよ!」

 テワタサナイーヌが裏声で言った。

「やっぱりそうすか! そうなると、毎年3月14日は忙しくなるすね」

 大輔が喜んだ。

(本当にそうなりそうな気がする。私にとって3月14日は、特別な日だから)

 喜んでいる大輔の様子を見ながら、テワタサナイーヌは確信した。

 

──それから数日

「ちょっとお散歩いこ」

 テワタサナイーヌが大輔を散歩に誘った。

「お散歩行っていいですか?」

 病室を出た二人は、散歩の許可をもらうため、ナースステーションに声をかけた。

 子宮口が開いてきていて、いつ出産を迎えてもおかしくない状態になっていたため、散歩に行くときは看護師に断ってからという条件が付けられていた。

「あ、お散歩ね。どうぞ行ってらっしゃい。でも、お腹の張りが出たら、無理しないで休むんだからね」

 すっかり仲がよくなった看護師がにこやかに送り出してくれた。

「やっぱり一日一回は外に出ないと人間がダメになるわ」

 病棟の外に出たテワタサナイーヌが背伸びをした。

「テワさんの人間がダメになったら、完全な犬になるすかね」

 大輔がボケた。

「あ、そうだね。そしたら優しく飼ってよ」

 テワタサナイーヌは、そうなってもいいと思った。

 3月とはいえ、外はまだ寒い。

 大輔はダウンジャケットを着込み寒そうにしている。

 一方のテワタサナイーヌは、薄い半袖のロングTシャツと短パン姿で、まったく寒そうな気配を見せない。

 胎児が小さいのでマタニティウェアを着る必要がなかった。

「ほんとに寒くないんすか」

 テワタサナイーヌを見ていると、大輔の方が寒くなってくる。

「寒くないからこんなかっこしてるの。別に我慢大会してるわけじゃないよ」

 テワタサナイーヌは平然としている。

「生まれてくる子も寒がらないんすかねえ」

「どうだろうね。それは私にもわかんないよ」

「俺ら、こんなことでもなけりゃ東大に足を踏み入れることなんてなかったすね」

「そうね。まったく縁のないところだと思ってた」

 二人は歩き慣れた病院の敷地をそぞろ歩いた。

「ところで今日って何日?」

 テワタサナイーヌは、入院生活ですっかり日にちの感覚がなくなってしまった。

「今日は13日すよ」

「そう。生まれるのは明日ね」

 テワタサナイーヌが独り言を言った。

「さて、そろそろ部屋に戻るすか」

 大輔が時計を見た。

 散歩に出てから1時間が経っていた。

「うん」

 テワタサナイーヌが従った。

(たっ!)

 テワタサナイーヌが足を止め、右手で大輔の腕にしがみつき、左手でお腹を抱え込むように身をかがめた。

 苦悶の表情を浮かべている。

 今までに経験したことのない強いお腹の張りと下腹部の痛みを感じた。

 テワタサナイーヌは、口呼吸で痛みを逃そうとしている。

 口呼吸をすると、無意識に舌が出てしまう。

「テワさん、大丈夫すか?」

 大輔がテワタサナイーヌの背中をさすった。

「大丈夫くない。痛い」

 テワタサナイーヌが口呼吸をしながら答えた。

「陣痛かもしれないけど、すぐにお産になることはないと思うから、このままちょっと待ってて」

 テワタサナイーヌは、苦しそうに言った。

 大輔は、なにもできない自分が歯がゆかった。

「ふうーっ」

 しばらくするとテワタサナイーヌが大きく息を吐いて立ち上がった。

「よし、部屋に戻ろう」

 お腹の張りが退いてしまえば普通に動ける。

 テワタサナイーヌは、大輔の手を引いて病室に戻った。

「いやー、強烈な張りと痛みが来たよ」

 ナースステーションの看護師に報告した。

「強烈ってどれくらい?」

 看護師が痛みの程度を確認した。

「今までの最高レベル」

 テワタサナイーヌは、どう説明していいのかわからなかったので、とりあえず思いつく表現で説明した。

「それって何分前?」

 看護師がさらに質問した。

 テワタサナイーヌが大輔の顔を見た。

「えっとですね、だいたい10分くらい前す」

 大輔が腕時計を見て答えた。

「そのあと次の張りは?」

「まだないよ」

「わかった」

 テワタサナイーヌと大輔は、病室に戻った。

「きた、きた、きた!」

 テワタサナイーヌがお腹を押さえた。

「大輔くん時計見て」

 テワタサナイーヌが陣痛の間隔を確認するよう大輔に指示した。

「さっきの張りから15分くらいす」

「ありがと。まだね。でも、ナースステーションに教えてきて」

「了解っす!」

 大輔が部屋を出てナースステーションに駆けて行った。

(走ることじゃないんだけどな)

 テワタサナイーヌは、大輔の真剣さが嬉しかった。

「テワちゃん、先生の触診があるから処置室に行って」

 看護師が病室の入り口から顔を出した。

「はーい」

 テワタサナイーヌは、ベッドから起き上がり歩いて処置室に入った。

「子宮口が八割方開いてきました。もうすぐ本格的な陣痛に入ると思います」

 医師が触診の結果を伝えた。

 その後も、陣痛は不規則な間隔で訪れた。

(もうちょっと規則的にならないといけないんだったよね。それにしても痛いな)

 陣痛の間隔を計っていたテワタサナイーヌは、待ちくたびれてきた。

「いただきまーす」

 テワタサナイーヌは、病棟内のラウンジで夕食を摂った。

 大輔は、食事のため院内の食堂に行っている。

「んんんーっ!」

 突然、強い張りと痛みが襲ってきた。

 食べ終わった食器を片付けようとしていたテワタサナイーヌは、思わずトレーごと落としそうになった。

 テワタサナイーヌは、口呼吸をしながら下膳を済ませ、ナースステーションに手と尻尾を振りながらなんとか部屋に戻りベッドに横になった。

 陣痛を感じているときは、この世の終わりかと思うほどだが、痛みが治まってしまうと、それまでの苦痛をすっかり忘れてしまう。

(肝心なときに大輔くんはいない)

 これで出産になったら一生恨んでやろうと思った。

「またきた!」

 テワタサナイーヌは時計を見た。

 陣痛の間隔が10分を切っていた。

 テワタサナイーヌは、ナースコールで陣痛の間隔が10分を切ったことを伝えた。

「テワちゃん、触診しますよ」

 看護師がテワタサナイーヌを処置室に案内した。

「ほぼ全開に近くなりました。陣痛室に入りましょう」

 テワタサナイーヌは、そのまま陣痛室まで歩いて移動した。

(大輔くん、早く帰ってきてよ)

 テワタサナイーヌは、大輔が恋しくなった。

「あれっ、テワさん?」

 病室に戻った大輔はテワタサナイーヌがいないのを不思議に思った。

「山口ですけど、妻はどこにいますか?」

 ナースステーションにテワタサナイーヌの居場所を確認した。

「あ、テワちゃんなら陣痛室に入りましたよ」

 看護師が普通のことのようにさらっと答えた。

「陣痛室ってどこですか?」

「ご案内します」

 看護師に連れられて大輔が陣痛室に入ってきた。

「遅いー」

 テワタサナイーヌが尻尾を振りながら恨めしそうな目で大輔を見た。

「すんません」

 大輔が頭を下げた。

「そうだ、お父さんとお母さんに連絡してくる」

「そうね、お願い」

 大輔が陣痛室を飛び出して行った。

 

──3月13日午後8時

 東大病院の産科病棟がにわかに慌ただしさを増した。

 普段なら恐れ多くて見ることもできないような教授陣が続々と集まり、テワタサナイーヌの状態をモニタリングしている。

 獣医生命科学大からも教授や獣医師らが動物用の器材を搬入し始めた。

 大勢のスタッフが怒声をあげながら病棟内を駆け回る。

 輸血が必要になったときに備えて、供血のための大型犬が病院の敷地に設営されたテントに集められた。

 テワタサナイーヌの出産は、国内のみならず海外の大学からも注目され、ライブ配信されることになっている。

 山口と弥生も病棟に到着し、病室で待機している。

 陣痛室のテワタサナイーヌは、相変わらず10分間隔の陣痛に苦しんでいた。

 大輔は、なす術もなくテワタサナイーヌの側に立ち尽くしている。

(役立たずめ。ていうか、この場面で役に立つ旦那なんていないか)

 苦痛に顔を歪めながらもテワタサナイーヌは冷静な部分を持ち合わせていた。

 陣痛の間隔は、なかなか10分より短くならない。

 医師が触診をしても、子宮口の開き具合に変化が見られなかった。

「もう少しかかるかもしれませんね」

(もー、さっさとしてよ)

 誰のせいでもないが、誰かのせいにしないではいられなかった。

 

──午後10時

 陣痛室では、テワタサナイーヌが陣痛と闘っていた。

 陣痛の間隔は2分から3分にまで短くなっていた。

 病棟内は緊張と興奮が極致となっている。

 医師の触診の結果、子宮口は全開になった。

 いつでも出産できる。

 

──午後11時

 陣痛の間隔が1分又はそれを切るくらいにまで短くなった。

「分娩室に移ります」

 医師が宣言した。

 テワタサナイーヌは、大輔に支えられながら、お腹を抱えるようにして分娩室に入り、分娩台に乗った。

 分娩室には、直接分娩に携わるスタッフのほか、大勢のギャラリーが詰めかけていた。

 分娩に携わるスタッフは、院内で最も優れた技術と知識、そして経験を積んだ者が選抜された。

 ライブ配信のためのカメラ数台と照明器具が設置され、物々しい雰囲気を醸している。

 部屋に入りきれない者もいて、外に設置されたモニタでテワタサナイーヌの分娩の様子を見守っている。

 分娩台の横には大輔がいる。

 テワタサナイーヌは、大輔の手を握り締めている。

 陣痛が来ると思わずいきみたくなる。

「まだいきんじゃダメ!」

 スタッフが語気荒く注意した。

「もー、さっさと出させて!」

 テワタサナイーヌが悲鳴を上げた。

「あ、でも、まだ14日になってないから出ちゃダメ。あーん、どっちにすればいいのよ!」

 テワタサナイーヌは、痛みに耐えながら我が子の誕生日を気にしていた。

 テワタサナイーヌの子宮は、ほぼ休みなく収縮を続け、胎児を外に押し出そうとする。

「大輔くん、いま何時?」

 テワタサナイーヌは切れ切れの息で大輔に時間を確認した。

「11時30分す」

「まだ生まれちゃダメーっ! 赤ちゃん、まだ我慢して!」

 テワタサナイーヌが叫んだ。

「痛いよーっ! 大輔くんのバカーっ!」

 痛みを紛らわそうと叫んでみるが、意味のない言葉しか出ない。

 

ちゅるっ

 

 生温かい液体がお尻を伝って流れ落ちるのを感じた。

 破水した。

 出産が目前に迫った。

 

──午後11時45分

「いきんで!」

 スタッフの指示が飛んだ。

 テワタサナイーヌは、陣痛の波に合わせて息を止めていきんだ。

 思わず背中が反る。

「背中を反らしたらダメよ!」

「お尻を突き出して!」

 スタッフが続けざまに指示を叫ぶ。

「ぐぁい!」

 テワタサナイーヌは、言葉にならない言葉で返事をした。

(もうちょっと、もうちょっと待って、赤ちゃん!)

 あと少しで日付が変わる。

 日付が変われば特別な日になる。

「頭が見えてきたわよ! いきみを止めないで!」

「あーーーーっ!!」

 テワタサナイーヌは叫ぶことしかできなかった。

 テワタサナイーヌに握り締められた大輔の腕は、彼女の爪が食い込み血を流している。

 大輔は、テワタサナイーヌの手を払おうともせず、痛みを共有しようとしている。

「発露した! いきみを止めて短促呼吸!」

 スタッフが次の段階の指示を出した。

「はっはっはっ……」

 テワタサナイーヌは、短い呼吸を繰り返す。

 

ずるっ

 

 胎児が外に出て嬰児となった。

「おお!」

 部屋中から驚きの声が上がった。

「ぎやっ、ぎゃっ、ぎゃっ」

 子供が大きな泣き声を上げた。

 新生児の泣き声は、胎内の循環から離脱して自発呼吸に無事切り替わったことを示す。

 すぐに胎盤が娩出された。

 胎盤は、研究資料として保管された。

 大輔は、放心したように生まれたばかりの子供を見つめている。

 子供は、手のひらに乗りそうなほど小さく、ふるふると震えていた。

 体毛がまったく生えておらず、頭髪すらなかった。

 その肌は薄く、血の色が透けて見えるほどだった。

 目も開いていない。

 そして、なにより特徴的なのは、普通の人の耳たぶのあたりから、側頭部のあたりまである大きな耳だ。

 犬のような耳だが、やはり毛が生えていない。

 腰から尻尾のような短い突起が出て、ぷるぷる震えている。

 そして、鼻の頭が微妙に黒い。

「女の子ですよ」

 スタッフがおくるみにくるんだ子供を、力尽きてぐったりしているテワタサナイーヌの元に運んで見せた。

「触ってもいいですか」

 テワタサナイーヌが訊いた。

「どうぞ、優しく触ってあげてください」

 スタッフが促した。

「かわいい……私とおんなじだ……」

 テワタサナイーヌは、娘の耳を軽く摘まんだ。

 テワタサナイーヌの目には涙が浮かんでいた。

「ふぎゃーっ!!」

 娘が激しく泣いた。

「あーっ、ごめん。嫌だった?」

 テワタサナイーヌが慌てて手を引っ込めた。

 部屋中が笑いに包まれた。

「おめでとうございます」

「おめでとう」

「テワちゃんよかったね」

 部屋にいた教授陣やスタッフから自然発生的に祝福の言葉がかけられた。

「ありがとうございます」

 テワタサナイーヌは、泣きながら笑った。

「ありがとうございました」

 大輔が深々と頭を下げた。

 テワタサナイーヌは、大輔がまた山口に近づいたのを感じた。

 子供は、コットに寝かされ、新生児室に運ばれていった。

 

「ところで時間はどうだった?」

 テワタサナイーヌが気がかりだったことを思い出した。

「わかんないす」

 大輔も時計を見る余裕がなかった。

「ただ、ぎりぎりどっちかっていうところだったと思うす」

「ぎりぎりどっちかだったのね。どっちでもいいわ」

 テワタサナイーヌは、無事に生まれてくれたことで誕生日などどうでもよくなった。

「大輔くん、その傷どうしたの?ひどいケガだよ」

 テワタサナイーヌが大輔の腕についた爪痕に気づいた。

「さっき犬に引っ掻かれたす」

 大輔が笑った。

「ごめーん。全然記憶にない」

 テワタサナイーヌが手を合わせて謝った。

「いいんす。俺も参加した証す」

 大輔が胸を張った。

 

 テワタサナイーヌの出血がほとんどなかったことから、院外で待機していた供血用の大型犬は任務解除となった。

 大輔は、テントを訪ねて獣医師や犬の飼い主一人ひとりに礼を言って回った。

 獣医師や犬の飼い主は、全員がお祝いの言葉をかけてくれた。

 大輔は、最敬礼で応えた。

 

 今後の医療のため一番先にやらなければならないのが娘の血液型の特定だ。

 テワタサナイーヌのDEA4か、大輔の血液型か。

 どちらを受け継いでいるのか、教授陣は固唾を呑んで結果を待った。

 もちろん、テワタサナイーヌと大輔も緊張しながら結果を待っていた。

 東大の教授と獣医師が共同で血液型の判定をするという初めての事態だ。

「お子さんの血液型は、DEA4です」

 担当の医師が結果を発表した。

(勝った!)

 テワタサナイーヌが内心で喝采した。

(あなたもヒマワリよ)

 テワタサナイーヌは、新生児室の娘に心の中で話しかけた。

 自分を守ろうとして死んだヒマワリの血が、父の暴力に勝って命を受け継いだのだ。

 テワタサナイーヌは、それが嬉しく誇らしかった。

 

「元気そうだけど、まだしばらく起きちゃダメだからね」

 仲良しの看護師が病室に戻ったテワタサナイーヌに注意をした。

「えー、全然元気だよ」

 テワタサナイーヌが不満そうな顔をした。

「ダメだってば。Stay!! 」

「わん!」

 看護師とテワタサナイーヌが笑った。

 大輔、山口、弥生も笑った。

 分娩中、外さざるを得なかった首輪を大輔にかけてもらった。

「やっぱり首輪は安心するねー」

 テワタサナイーヌは満足げだ。

「赤ちゃん見てくれば」

 テワタサナイーヌが山口と弥生に新生児室にいる娘を見てくるように勧めた。

「そうね。行ってくるわ」

 大輔の案内で弥生と山口が新生児室のガラス越しに孫と対面した。

「本当に犬耳だったわね」

「本当でしたね」

 弥生と山口はが感慨深げに話しながら孫を見つめた。

「小さいと言われていましたが、本当に小さいですね」

 山口が指で孫の大きさを作って弥生に見せた。

 同じ部屋に寝かされている他の子と較べても明らかに小さい。

 半分あるかないかだ。

「あれで未熟児じゃないんですよね。普通の子と一緒に寝かされてますから」

 弥生も感心したような顔をしている。

 

「はい、これ。おめでとう」

 朝になり、看護師がテワタサナイーヌに一枚の書類を差し出した。

「出生証明書」

 書類のタイトルには、そう書いてあった。

「あ、これで誕生日が決まるね」

 テワタサナイーヌが大輔を見た。

「そうすね」

「どっちだと思う?」

「そうすねえ、俺は14だと思う」

「やっぱり?私もそう思う」

 二人の意見が一致した。

 

「生まれたとき」 3月13日午後11時57分

 

「えーっ!」

 テワタサナイーヌが声を上げた。

「惜しい!」

 大輔が悔しがった。

「あと3分待ってくれればよかったのに……」

 テワタサナイーヌが天を仰いだ。

「ていうか、3分くらいおまけしてもらえないんすかね」

「ダメなんじゃない」

 二人で苦笑した。

「でもさ、人の意見に流されない強い意志を感じるよね。いいと思う」

 テワタサナイーヌが娘をほめた。

「そういうものっすね」

「うん。そういうものだから」

 二人の間には、すでに自分たちの子供は自分たちの所有物ではない、意思を持った人格だという自覚が芽生えていた。

「もう親になっています。さすがですね」

 二人の様子を見ていた山口が弥生の耳元で囁いた。

 弥生が黙って頷いた。

 

「あははは。ねえ大輔くん見て」

 テワタサナイーヌが前開きのシャツのボタンを外して胸を見せた。

「ねえ見てっていうのは変態さんす」

 そう言った大輔が飲みかけの牛乳を吹いた。

「テワさん、おっぱい増えてるっすよ!」

 出産したことで、それまで見立たなかったテワタサナイーヌの副乳も張ってきたのだ。

「おっぱい四つになっちゃった」

 テワタサナイーヌがケラケラ笑った。

 張ってはいるものの、副乳には母乳を作り出す機能はないようだった。

「ホルスタインになった気分だよ」

 テワタサナイーヌは、まんざらでもないという顔をした。

「ねえ大輔くん」

「なんすか」

 いつもの呼びかけが戻った。

「副乳もブラジャーすべき?」

「いつまで張ってるかによると思うす」

「そっか、そうだよね。外に出るようになっても張ってたらブラジャーしなきゃね」

「そうすね」

 大輔が副乳をまじまじと見た。

「そんなに見ないでよ」

 テワタサナイーヌが手で副乳を隠して恥らった。

「いつも裸で歩いてるじゃないすか」

 大輔が反論した。

「そうなんだけど、副乳は、なんでだか恥ずかしい」

「違いがあるんすかね」

 二人が首を捻った。

 

「えー、ただ今から家族会議を始めます」

「昨日生まれた娘の名前を決めたいと思います」

 大輔が病室で家族会議の開会を宣言した。

 娘の名前を決める会議だ。

「あら、あんたすーすー言うのやめたの?」

 テワタサナイーヌが大輔の変化に気づいた。

「親っすからね」

 大輔がドヤ顔で言った。

「変わってないじゃん」

 テワタサナイーヌが突っ込んだ。

「わざとですーすー」

 大輔がテワタサナイーヌに舌を出した。

「小僧のくせに生意気よ!」

 テワタサナイーヌが悔しがった。

「みんなで名前の候補を出し合って、その中から選ぼうと思います。どうですか?」

 大輔が提案した。

「私たちは、大輔さんと早苗さんが決めた名前でいいですよ。ですよね?」

 山口が弥生を見た。

「そうよ。あなたたちの娘だもん。いい名前を考えてあげて」

 弥生がテワタサナイーヌと大輔に優しく言った。

「本当にそれでいいんですか?あとで後悔しても知りませんよ」

 大輔が不敵な笑みを浮かべた。

「ちょっと待て。あんたはどんな名前をつけようとしてるのよ」

 テワタサナイーヌは不安になった。

「あ、冗談です。大人になっても恥ずかしくない、いい名前を考えます」

 大輔が頭を下げた。

 山口と弥生が帰宅した後、テワタサナイーヌと大輔は、二人で娘の名前を考えた。

「いざ名前を決めようとすると、なかなか決められないもんだね」

 テワタサナイーヌが溜め息をついた。

「そうだね。難しいなあ」

 大輔も頭を悩ませている。

「私と娘は、ヒマワリの血を受け継いでるでしょ。だから、夏の太陽に向かって真っ直ぐ伸びる向日葵をイメージして『日向』ってどう?」

 テワタサナイーヌが案を出した。

「ひなた、か。かわいいね」

 大輔もまんざらではなさそうだった。

「やまぐちひなた」

 テワタサナイーヌがフルネームを声に出して呼んでみた。

「リズム感も悪くないんじゃない?」

 テワタサナイーヌが笑顔を見せた。

「漢字で書いても、ほとんどが左右対称で子供でも覚えやすそうだね」

 大輔が補足した。

「これでいいかな」

 テワタサナイーヌが紙に名前を書いた。

「いいな」

 大輔が赤ペンで花丸をつけた。

 

氏名: 山口日向(やまぐちひなた)

 

3月13日生まれ

性別: 女

体重: 1,225g

人型 犬耳 尻尾

能力: 未知数




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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グリーン&グリーン

「いやあ、典型的な安産でしたね」

 担当の医師が回診に来た。

「すっごい大変だったんですけど、あれで安産なんですか?」

 テワタサナイーヌは、安産と言われても納得できなかった。

 彼女は、慣れない手つきで日向を抱き、副乳でない乳房で授乳をしているところだ。

 抱くといっても、片手の上に乗ってしまうほど小さいので、「手に持つ」という表現がぴったり当てはまる。

 日向は、まだ目も開いていない。

 小さい体の小さい口を大きく開けてテワタサナイーヌの乳首に食いついている。

(ちょっとサイズ感が合ってない)

 テワタサナイーヌは、改めて日向の小ささを実感した。

「はい、安産ですよ。陣痛が始まってから赤ちゃんが生まれるまでの時間、お母さんのいきみ方、生まれるときの赤ちゃんの姿勢、会陰切開も不要、新生児仮死にもならず元気に泣けました。どれをとってもお手本になるような安産でした」

「犬みたいに?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げて笑顔で医師を見た。

「あ、なるほど。安産だったのはそういう理由だったんですね」

 医学の常識で考えられない現実と長く付き合っている医師は、医学で説明できないようなことも難なく受け入れられるようになっていた。

「犬って多産じゃないですか。ひょっとして私も双子とか三つ子なんじゃないかと思っていたんです」

 テワタサナイーヌが屈託なく笑った。

「実は私もその可能性を考えました。そうなっていたら、超超ハイリスク妊娠になるところでした」

「あ、やっぱり先生もそう思ったんですね」

「ええ、失礼とは思いながら『犬だから』という理由で」

「全然失礼じゃないです。だって私半分は犬ですから」

 テワタサナイーヌは授乳しながら尻尾を振ってみせた。

「あ、今日からシャワーをしていただいて大丈夫です」

「本当ですか。ありがとうございます」

 授乳しながらテワタサナイーヌが頭を下げた。

「ふぎゃ!」

 テワタサナイーヌが頭を下げた拍子に日向の口から乳首が抜けてしまい、日向が怒った。

「あー、ごめん。抜けちゃったね」

 テワタサナイーヌは、慌てて乳首を日向の口にあてがった。

 日向は満足そうな顔で乳首を咥えた。

「では私はこれで」

 担当の医師は部屋を出ていった。

(ようこそ我が家へ)

 テワタサナイーヌは、妊娠検査薬で妊娠が判明した日に大輔が言った言葉を思い出した。

「お母さん、育児には全然自信ないけど頑張るからね」

 日向の顔を見ながら囁いた。

むきゅっ

 テワタサナイーヌの乳首を咥える口に力が入った。

「お返事なの? ありがとう」

 テワタサナイーヌが笑った。

「べっ」

 日向は乳首を舌で押し出すと満足そうな顔で眠りについた。

 テワタサナイーヌは、日向をベッドに寝かせた。

(まだ生まれて2日しかたってないけど、生まれたときよりずいぶん大きくなってるような気がする)

 生まれたときは、手のひらに乗ってしまいそうな大きさだったが、今日は手のひらからはみ出すほどになっている。

「こんにちは」

 獣医生命科学大の教授がテワタサナイーヌと日向の様子を見に来た。

「あ、先生、こんにちは。日向は、いまちょうど寝てしまったところです」

「そうですか。いやあ大きくなりましたね。この育ち方は犬ですね」

「この育ち方でいくと、おそらく一週間後には体重が生まれたときの倍くらいになりますよ」

 教授が日向の育ち具合を考察した。

「えっ、そんなに大きくなるんですか!?」

 テワタサナイーヌが驚いた。

「はい、個体差はありますが、犬は生後一週間でだいたい倍、三週間で3倍くらいになります。日向ちゃんは、生まれたときが1,200グラムくらいでしたから、三週間で普通の人間の赤ちゃんと同じくらいになるのではないかと予想しています。その後の成長がどうなるかは、私たちにもちょっと想像できません」

 教授が予測を披露した。

「むくむく大きくなる感じですね」

 テワタサナイーヌが嬉しそうに言った。

「はい。犬の赤ちゃんは、むくむく大きくなりますよ」

 教授も嬉しそうな顔をした。

 

「日向が正式に我が家の一員になったよ」

 日向の出生届を提出しに行っていた大輔が帰って来た。

 母子手帳に出生届済みのスタンプを押してもらい、記念に戸籍謄本を取ってきた。

「本当に私たちの子なんだね」

 戸籍謄本を見たテワタサナイーヌが感慨深げにつぶやいた。

「そうだね。元気に育ってくれるといいね」

 大輔が日向の頬をつついた。

「ぷぁ」

 日向が寝ながら大きなあくびをした。

「この子ね、話しかけたり触ったりすると、いちいち反応してくれるの。面白いよ」

「目は開いてないけど、他の感覚は鋭いのかもしれないね」

「いつごろ目が開くんだろうね。どんな目をしてるのか楽しみ」

「目が開く時期は、ずいぶん個体差があるみたいだから、気長に待つとしよう」

「うん」

 二人は飽きもせず日向の寝顔を眺めていた。

 

──生後一週間

「大きくなりましたね」

 面会に来た山口が驚いた。

 山口は、日向が生まれた翌日までしか見ていなかった。

 その後、仕事が立て込んでしまい面会に来られなかったのだ。

「獣医さんの説明だと、一週間で体重が倍くらいになるっていうことだったよ」

 テワタサナイーヌが説明した。

「そうなんですか。今日の体重はどれくらいだったんですか?」

「朝測ったときは、2,300グラムくらいだった」

「やはり倍くらいに増えたんですね」

「うん。犬の育ち方なんだってさ」

「犬並みの安産に犬のような育ち方ですか。でも、見た目は犬耳の付いた人ですから面白いですね」

「尻尾も付いてるよ」

 テワタサナイーヌが日向のお尻を出して見せた。

 薄い茶色の産毛が生えた尻尾がぴょこぴょこと動いている。

 生まれたときは、まったく無毛だった頭と耳にも薄茶色の毛が生え始めた。

 どちらの毛も薄茶色というより金色に近い色と光沢を持っていた。

「ひょっとして金髪なのかな」

 テワタサナイーヌが日向の頭を撫でた。

「ぷごっ」

 日向が寝息を立てた。

 

──生後二週間

 日向の毛が増えてきた。

 毛が生えている部分は、頭、耳、尻尾だけ。

 テワタサナイーヌのように顔や身体には毛が生えてこない。

 頭と耳、それと尻尾に生えている毛は、すべて同じ色をしている。

 ほとんど金色に近い薄茶色だ。

 顔つきも新生児特有の腫れぼったい感じがなくなり、すっきりとしてきた。

 顔に毛は生えていないが、鼻が黒く犬のそれのような形をしている。

「痛っ」

 授乳中のテワタサナイーヌは乳首に痛みを感じた。

「えっ、歯が生えてる!?」

 おっぱいを飲み終わった日向の口の中を見たら下の前歯が顔を出していた。

(これで噛まれたのね)

「おい、歯が生えてきたんだから、優しくおっぱい吸ってくれないと痛いぞ」

 テワタサナイーヌは、日向の頬を両手の指でつついた。

「ふんが」

 日向が声を上げた。

「ん、ちゃんとお返事して偉いぞ」

 テワタサナイーヌが笑った。

「お母さん、ちょっとトイレ行ってくるからおとなしく待っててね」

 日向に言ってテワタサナイーヌは部屋を出た。

「おっ!? おっ!? おーーーーっ!!」

 トイレから戻ったテワタサナイーヌが驚きの声を上げた。

 日向が目を開けていた。

「あらーっ、日向、あなた目が開いたの!? おっきいわねえ!」

 日向の目は、テワタサナイーヌのようにぱっちりと大きかった。

 その大きさも驚きだったが、何より瞳の色に驚いた。

 ディープシーグリーン。

 右目は深海のような濃い緑色。

 緑というより、ほとんど黒に近い深い色だった。

 一方、左目は、テワタサナイーヌと同じエメラルドグリーンだった。

「オッドアイ」

 テワタサナイーヌは、その美しさに魅入っていた。

 まだ視点が定まっていないが、見つめられたら吸い込まれそうな美しさだった。

「ねえねえ、日向が目を開けたの。見てこれ。きれいでしょ!」

 テワタサナイーヌは、日向を抱いてナースステーションの看護師に見せた。

「うわ! すごい。こんなの見たことない!」

 日向の目を見た看護師が口に手を当てて驚いた。

 日向は、目をぱちくりさせている。

 その網膜には、まだほとんど像が結ばれていない。

 ぼんやりと明るさを感じる程度だ。

「きれいな茶髪にオッドアイとか、あなたモデルにでもなるつもり?」

 テワタサナイーヌが日向に冗談を言った。

「んーー」

 日向が応じた。

 

──生後三週間

 日向の体重は、3,000グラムを超え、一般的な新生児と同じ程度にまで成長した。

 オッドアイの目は、ますます大きく開くようになり、きょろきょろと辺りを見回している。

 上顎の前歯も生え始め、授乳のたびにテワタサナイーヌが乳首を噛まれて顔をしかめる回数が増えた。

 金色がかった薄茶色の毛が頭と耳を覆い始めている。

 尻尾も頭と同じ色の毛で覆われた。

 体毛はない。

「日向は、私と毛の生え方がずいぶん違うね」

 テワタサナイーヌは、日向をあちこちひっくり返しながら観察した。

「ぶぎゃー!」

 ひっくり返された日向が怒った。

「はいはい、そう怒らないの」

 始めの頃は日向が泣くと手を引っ込めたり謝ったりしていたテワタサナイーヌだったが、すっかり慣れて、さらっと受け流せるようになった。

「もうちょっと毛が生え揃ったらフォロワーのみんなに報告しようか」

 大輔がテワタサナイーヌに相談した。

「そうね。まだちょっと毛が少なくてかわいそうだもんね」

 テワタサナイーヌは、日向の頭の毛を弄りながら答えた。

 産後、張りが出た副乳もいつの間にか消えてなくなっていた。

 テワタサナイーヌと日向は、まだ病院で過ごしていた。

 産後三週間入院というのは、異例の長さといえる。

 日向が特殊な遺伝子をもつ子供ということで、慎重に経過を観察したためだ。

「東大と獣医生命科学大の合同カンファレンスの結果が出ました」

 担当の医師が病室を訪ねてカンファレンスの結果が出たことを知らせた。

「特殊な遺伝子の影響で予期しない変化が現れるのではないかと心配していましたが、三週間経過しても特に問題となる症状はみられませんでした。カンファレンスの結果、退院してご自宅で過ごしていただけることになりました」

 医師から退院の許可が出た。

「日向を家に連れて帰れるんですね。ありがとうございます!」

 テワタサナイーヌが大喜びした。

「成長が普通のお子さんとまったく異なります。母子手帳に載っている成長曲線や標準的な発達の目安は、参考にしないでください。日向ちゃんは、あるがままの成長を見守ってあげてください。私の方から市や保健センターには連絡をしておきます。ひとつお願いしたいことは、日々の変化をできるだけ詳しく写真付きで記録して欲しいのです。山口さんの記録がそのまま学術的に価値のある資料になりますから」

「わかりました。忘れずに記録します」

 テワタサナイーヌが応じた。

 

──その週の土曜日

 テワタサナイーヌと日向が退院することになった。

 山口が運転する車に大輔と弥生が同乗して迎えに来た。

「長い間お世話になりました。皆さんのおかげで無事に退院を迎えることができました。本当にありがとうございます」

 短パンにタンクトップというラフなスタイルのテワタサナイーヌが薄いタオル地のカバーオールを着せた日向を抱いてナースステーションに挨拶をした。

 大輔、山口、弥生も深々と頭を下げて礼をした。

「日向ちゃーん、元気でね」

 看護師が日向に声をかけた。

「ぶぶ」

 日向が看護師を見て声を上げた。

「テワちゃん、写真撮らせて」

 看護師が写真撮影を申し出た。

「うん。どうぞどうぞ」

 テワタサナイーヌも快く応じた。

 看護師が思い思いにテワタサナイーヌ、日向とともに写真を撮影した。

「本当にありがとうございました」

 テワタサナイーヌが言い、全員で礼をした。

 看護師らが手を振って見送ってくれた。

 テワタサナイーヌは尻尾を振ってそれに応えた。

 カバーオールの中の日向の尻尾も振っているように動いていた。

「あ、ベビーシート付けてくれたんだ」

 山口の車の後部座席には、真新しいベビーシートがシートベルトでしっかりと固定されていた。

「もちろんです。日向に万一のことがあったら困りますからね」

 運転席から山口が後ろを向いて言った。

「その万一を起こすつもりはないよね?」

 テワタサナイーヌが笑いながら言った。

 ベビーシートに寝かされた日向は、物珍しそうにきょろきょろと周りを見回している。

「ぶぎゃーっ!」

 今までの環境との違いに気づいたのか、日向が激しく泣き出した。

「あらあら、気づいちゃった?まあ我慢してね。泣いてもベビーシートから出すわけにはいかないからね」

 テワタサナイーヌは涼しい顔で日向に言った。

 3,000グラムの日向を抱っこして、時速40kmで正面衝突した場合、日向は約210キログラムの重さで飛び出そうとする。

 とても人間の力で抑えることなどできない。

 泣こうが喚こうが、安全には代えられないのだ。

 山口の車は東大病院をゆっくりと出発して自宅に向かった。

 普段から慎重な運転の山口だが、いつも以上に運転が慎重になっている。

 大声で泣いていた日向も、泣いても相手にされないことがわかったのか、ぐずぐず言いながらベビーシートの中で横たわっている。

「ごめんね。でもあなたの命を放り出すわけにはいかないから」

 テワタサナイーヌは、日向に謝った。

「あー」

 泣き止んだ日向が元気な声を上げた。

 

 山口の車が自宅に着いた。

 テワタサナイーヌは、日向をベビーシートから取り上げて胸に抱えて車を降りた。

「ここがあなたの家よ」

 日向を縦に抱いて家を見せた。

 日向は、大きなオッドアイの目をぱちくりさせている。

 玄関を入る。

 日向が黒い犬のような鼻をひくひくさせている。

 匂いを確かめているかのようだ。

 家の中が嗅ぎ慣れた母や家族の匂いで満たされていることを知ると、日向は安心したような顔をした。

 家の中の匂いを嗅ぎながら、日向は犬耳を盛んに動かしている。

 犬耳は、外側が金色に近い薄茶色の毛で覆われ、内側は白いふわふわの毛で満たされていた。

 日向の耳は、何か物音がするとそのその音源の方に素早く向きを変える。

 嗅覚と聴覚は、かなり敏感なようだ。

 しかし、嗅覚にしても聴覚にしても、あまりにも敏感なままだと日常生活に支障をきたす。

 これから徐々に感度を自分で調整する能力を身に着けなければならない。

 これは、テワタサナイーヌにしか教えることができない。

 テワタサナイーヌは、日向を抱っこして、家中の場所を歩き回った。

 家の中の匂いを覚えさせるためだ。

 この匂いがする範囲は、日向にとって安全だということをわからせる。

 家の案内が済むと、テワタサナイーヌは日向を自分たちの寝室のベッドに寝かせた。

 広いクイーンサイズのベッドの真ん中に小さな日向が寝転がっている。

 ベッドが広いだけに日向の小ささが際立つ。

 テワタサナイーヌが日向に布団を掛けたが、日向はすぐに足で蹴って布団をどかしてしまう。

「うーん、この子も私みたいに寒くないのかな」

 テワタサナイーヌが腕組みをして日向の様子を見ている。

「たぶんそうなんだと思うけど、まだなんとも言えないよね」

 大輔も日向がテワタサナイーヌのように寒くない体質なのだろうと思ってはいるが、自信がもてなかった。

「あー、やっと裸になれる!」

 日向をベッドに置いたテワタサナイーヌは、短パンとタンクトップを脱ぎ捨てると、ブラジャーを外して日向の横に寝転んだ。

「よかったですね」

 大輔もテワタサナイーヌは裸でいるのが自然に思えるようになっていた。

 日向はきょろきょろしている。

「たぶん日向も裸族なんだろうけど、テワさんより体毛も少ないし、外では服を着るっていうことを教えないといけないから難しそうだね」

 大輔が日向の方を向いて横になっているテワタサナイーヌの傷痕をつついた。

「あん、傷痕は弱いんだからダメだって」

「そうだね。裸で外に出られたら困るわ」

 テワタサナイーヌが苦笑した。

 

 日向が家に帰って数日。

 産休中のテワタサナイーヌは、終日、日向と過ごした。

 まだ授乳の間隔が短いので、夜も頻繁に起こされ寝不足が続いている。

 日向は、母乳だけでなく粉ミルクも好んで飲んだので、夜は大輔が起きてミルクを与えてくれる。

「テワさんは、昼間も日向と一緒に過ごして疲れるんだから、夜は寝てていいよ」

 そう言って寝かせてくれる。

 ただ、乳房が張ってしまったときは母乳を与えるようにしている。

 大輔も眠いはずだが、そのような素振りは見せない。

 

 大輔が仕事から帰り、ダイニングでテワタサナイーヌと食事をしていた。

 日向は、クイーンサイズのベッドの真ん中に寝かせてある。

「日向もずいぶんおっきくなったよね」

「そうだね、最初は手のひらサイズだったんだけど」

 テワタサナイーヌと大輔が他愛もない会話をしていた。

 

ごんっ!

 

 寝室から何かが床に落ちたような鈍い音がした。

 

「ぎゃーっ!!」

 

 鈍い音から一瞬間を置いて日向が激しい泣き声を上げた。

「どうしたの!?」

 テワタサナイーヌが慌てて寝室に飛び込んだ。

「いやーっ、大変! 日向が、日向が落ちた!」

 テワタサナイーヌが叫んだ。

「あれまあ、日向が落ちちゃいましたか」

 大輔がのんびりと寝室に来た。

 ベッドの脇の床に日向が寝転がって泣いている。

 テワタサナイーヌが抱き上げた。

 日向は火が着いたように泣き叫んでいる。

「どうしよう、どうしよう」

 テワタサナイーヌは、青い顔をしてオロオロしている。

「どれ」

 大輔は、日向の頭を触って外傷がないかを確かめた。

「あー、頭の後ろにたんこぶができてるね。落ちたときにぶつけたんだろう」

 大輔は、あくまでものんびりしている。

「目はどうかな」

 頭の次は、日向の目を確かめた。

「日向ー」

 大輔が日向の前で声をかけた。

 泣いていた日向が一瞬泣き止んで大輔を見た。

「あ、大丈夫。異常ない」

 日向はまた泣き出した。

「えー、なんで異常ないってわかるのよ。たんこぶできてるんじゃない。頭の中で出血とかしてたら大変だよ」

 テワタサナイーヌは、今にも泣きそうな顔をしている。

「たんこぶができてるってことは、外傷性だし、『目は傷を見る』って言って、脳内に損傷があると、目の向きがおかしくなることが多いんだよ。日向は呼びかけにも応じたし、ちゃんと俺の方も見たからたぶん大丈夫。でも、心配なら病院に行こうか」

 大輔が落ち着いていることでテワタサナイーヌも少しずつ落ち着きを取り戻した。

「病院連れて行ってくれる?」

「わかった」

 二人は、山口の車を借りて夜間救急外来のある病院に行った。

 CT検査の結果、脳に損傷はなかった。

「よかったね。これで安心でしょ」

 大輔がテワタサナイーヌに優しく言った。

「うん、大輔くん、ありがとう」

 テワタサナイーヌが日向を抱きしめた。

 日向はニコニコしている。

 

「大輔くん」

「なんですか」

「お父さんに似てきたね」

「そうですか」

「そうよ」

 家に帰る車中、テワタサナイーヌが大輔を見てしみじみ言った。

「でもさ、なんでさっきあんなに落ち着いていられたの?」

 テワタサナイーヌには、大輔が落ち着き払っていたことが、正直腹立たしかった。

 もう少し慌ててくれてもいいのではないか。

 本当に日向のことを思ってくれているのか。

 そんな疑問が浮かんだ。

「いや、本当は焦ってたんだよ。でも、二人であたふたしたら収集がつかないじゃないですか。だから、あえてのんびり構えることにしたんだ」

 大輔が少し恥ずかしそうにした。

「そうだったんだ。大輔くんえらいね。ていうか、ありがとう」

「日向、あんたのお父さん、意外とすごいんだよ」

 テワタサナイーヌが日向に話しかけた。

「ぶぶー」

 日向が声を上げた。

「でも、なんで日向がベッドから落ちた?」

 大輔が思い出したように日向を見た。

「あ、ほんとだ! ベッドの真ん中に寝かせたのにね」

 テワタサナイーヌが不思議そうに首を傾げた。

「相変わらずテワさん超かわいい」

「ありがとう。でも、今はそれより日向が落ちた理由よ」

「寝返りうったとしか考えられないんだけど」

 大輔が推理した。

「そんな。まだ1か月よ。寝返り打つわけないじゃん」

 テワタサナイーヌが否定した。

「そうだよね」

 大輔も納得した。

「帰ったら確かめてみよ」

「そうだね」

 帰宅後、ふたりは日向をベッドの真ん中に寝かせ、それぞれベッドの両脇に座り、日向の様子を観察した。

 日向は、両側にいる両親をきょろきょろと見ていた。

 すると突然くるっとテワタサナイーヌがいる方に寝返りをうってうつ伏せになった。

 そして、もう一度寝返りをうって仰向けになり、テワタサナイーヌを見て笑った。

「寝返りうった!」

 テワタサナイーヌが驚いた。

「寝返りうったよね」

 大輔も信じられないというような声を上げた。

「これなら落ちるわ」

 テワタサナイーヌが笑った。

「サークルの付いてるベビーベッド買わなきゃダメだね」

 大輔がサークルの形を手で作った。

 

「あんた、また学会報告のネタを作っちゃったね」

 テワタサナイーヌが日向の犬耳を摘んだ。

「だー」

 日向が嫌そうに顔を左右に振った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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霞ヶ関

 日向(ひなた)は、金色に近い薄茶色の髪と犬耳、右目が黒に近いディープシーグリーン、左目がテワタサナイーヌと同じエメラルドグリーンの瞳をもつ。

 犬耳は、外側が薄茶色で内側は白いふわふわの毛で覆われている。

 短めの尻尾も頭と同じ金色に近い薄茶色の毛が風になびくくらいに伸びてきた。

 すっかり首も座り、縦に抱っこをしても頭がぐらつくこともない。

 上下に四本の犬歯が生え、上の犬歯が唇からちょっと顔を出している。

 寝返りをうち始め、ベッドから落ちた日向は、ベビーベッドに寝かされることになった。

 今ではサークルの中をくるくると自由に動き回り、起き上がって座りあたりを見回している。

 ときにはサークルにつかまって立ち上がろうとする姿も見られる。

 

 今日は、育児休業中のテワタサナイーヌが日向を犯抑に連れて行くことになっている。

 大輔たちを見送った後、ゆっくりと外出の支度をした。

 久しぶりに着るスーツは身が引き締まる。

 テワタサナイーヌの体型は、出産前と同じくらいに戻っていた。

 出産前のスーツがそのまま着られる。

(あれっ、ちょっと待って。今日は仕事じゃないからスーツを着なくていいんだ)

 テワタサナイーヌが一人で照れ笑いをした。

 スーツを脱ぎ捨て、タイトなジーンズと薄手のカットソーに着替えた。

 まだ授乳中のテワタサナイーヌがカットソーを着ると、もともと大きかった胸がより強調される。

(なにこの巨乳)

 自分でも不思議な大きさだった。

「日向ー、お出かけするよ」

 サークルの中でつかまり立ちをしてお尻を振っている日向を呼んだ。

「んあ」

 日向が応えた。

 赤ちゃんを連れての外出は荷物が大きくなる。

 おむつ、着替え、タオル、ミルク用のお湯、哺乳瓶、粉ミルク、ウエットティッシュなどなど。

 テワタサナイーヌは、たくさんの荷物を詰め込んだリュックサックを背負い、日向を抱っこして家を出た。

「日向は、電車に乗るの初めてだね」

 テワタサナイーヌは、抱っこされている日向に話しかけた。

「あー」

「それは、お返事?」

 まだ言葉は出ないが、意思の疎通はできているような気がした。

 朝の通勤時間帯が過ぎ、上り電車も空席が目立っていた。

「よいしょっと」

 リュックサックを下ろして足の間に挟み、日向を膝の上に座らせた。

「あー? おー?」

 日向が物珍しそうに声を出している。

「で・ん・しゃ」

 テワタサナイーヌが一音ずつ区切ってゆっくりと言って聞かせた。

「だー」

「そうそう、上手に言えたねえ」

 明るい日差しが差し込む車内でテワタサナイーヌと日向は楽しく会話した。

「うおっ?」

 電車が地下に潜った。

 日向が少し驚いたように声を出した。

「そっか、電車が地下に入ると結構大きな音がするよね」

「電車の中は、ちょっとお耳の聞こえ方を絞るといいよ」

 テワタサナイーヌは、自分の犬耳を倒して耳をふさぐようにして見せた。

(まだわかんないかな)

 わからないとは思いながらも、とりあえずきちんと教えてあげようと思った。

 日向は、テワタサナイーヌの真似をしようとするが、まだ耳を自由に動かすことができない。

「やー」

 日向が泣きそうになった。

「いいのよ、まだできなくて。こうするの」

 テワタサナイーヌが日向の耳を手で倒してあげた。

「おー」

 日向が喜んだ。

 

 テワタサナイーヌが日向と遊んでいるうちに電車が霞ヶ関駅に到着した。

「あ、降りなきゃ」

 テワタサナイーヌがリュックサックを手に持ち、日向を抱っこして電車を降りた。

 ホームでリュックを背負い改札を出る。

 長い地下の通路を通って総務省の前で地上に出る。

 地上に出たすぐの歩道上、道路際に「霞が関跡」の標柱が立っている。

 気をつけていないと見落としてしまうくらい目立たない。

 その標柱には、こう記されている。

 

この辺りは、江戸時代、霞が関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。

そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっています。

霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。

今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。

千代田区に霞が関があったとの説は、「武蔵野地名考」という資料の「上古(じょうこ)ハ江原郡に属す今ハ豊嶋郡にあり。」という記述、「江戸名所図会」という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から導き出されています。

また、名前の由来については、「武蔵野地名考」に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されています。

 

 霞が関といえば中央官庁街の代名詞だが、実はそれがどこにあったのか定かでないという。

 テワタサナイーヌは、標柱の存在は知っていたが、そこに書かれている説明は読んだことがなかった。

「ほーら、あそこがお母さんの職場だよ。あそこにお父さんもじーじもいるんだよ」

 テワタサナイーヌは警視庁の建物を指差して日向に教えた。

 テワタサナイーヌは、首から提げてカットソーの中に入れていた職員証を引っ張り出して、門の前に立っている警備の機動隊員に見せた。

 玄関を入り、ゲートに職員証をかざした。

 軽快な機械音がしてゲートが開いた。

(ちゃんと開いてよかった)

 久しぶりなのでゲートが開くかどうか心配だった。

(身体が鈍っちゃってしょうがないから階段で行こうっと)

 テワタサナイーヌは、日向を抱っこしたまま階段室に入った。

 日向を抱っこしているので、万一のことがあってはならない。

 体力的にはまったく問題なかったが、あえてゆっくりと上ることにした。

 

♪ここに集った善良な皆さん

 お耳拝借 私の講釈

 ちょっとでもいいから聞いてって

 

 テワタサナイーヌは、口上を歌いながらゆっくりと階段を上った。

(ずっと休んじゃってるけど、やっぱり私は警察官なんだな)

 口上を口ずさんでいると、すぐにでも仕事に復帰したい気持ちになった。

「あーあー」

 日向もテワタサナイーヌの口上に合わせるように声を出している。

(あら、もう着いちゃった)

 歌いながら階段を上っていたら、いつの間にか10階に着いていた。

 テワタサナイーヌは、階段室を出て犯抑の部屋を覗いた。

 山口と大輔の姿が見えた。

「こんにちはー」

 テワタサナイーヌが入り口から顔だけだして控えめに声を出した。

「あっ、テワさん! お久しぶりです」

 テワタサナイーヌに気づいた係員が声をかけてくれた。

「どうもご無沙汰してます」

 テワタサナイーヌが頭を下げた。

 そのやり取りを聞きつけた大輔がテワタサナイーヌを迎えに飛んできた。

「疲れなかった? 大丈夫?」

 大輔がテワタサナイーヌと日向を気遣った。

「うん。電車も空いてたから大丈夫よ。途中、日向とおしゃべりしてたし。あっという間だった」

 テワタサナイーヌが日向の顔を覗き込んだ。

「お」

 日向が口を丸くしていった。

「こんにちは」

「ご無沙汰してます」

 部屋の奥に進みながら、係員に挨拶をして通る。

「ご無沙汰しています。娘の日向です」

 副本部長の坂田警視長に挨拶をして日向を見せた。

「いやあ、テワさんに似てかわいい女の子です。耳がたまりませんね」

 坂田が目を細めた。

「それにこの目が魅力的です。不思議な力を持っているように見えます」

 日向のオッドアイに魅入られた男が一人増えた。

 テワタサナイーヌは、久しぶりに自分のデスクについた。

「ここがお母さんの机よ。じーじの隣。後ろにはお父さんもいるよ」

 テワタサナイーヌが椅子を回転させながら日向に周りを見させた。

「きゃー」

 山口や大輔が視界に入ると日向は声を上げて喜んだ。

「テワさん、写真撮ってTwitterにあげよう」

 大輔がスマホを取り出した。

「そうだね。もう毛も生えそろったから公開してもいいかな」

 テワタサナイーヌが日向を抱き上げた。

「テワタサナイーヌが第一子を生みました。母親と同じ犬耳の女の子です」

 大輔が写真を投稿した。

「いつの間に出産を!」

「オッドアイすげー」

「やっぱり犬耳なんだ」

「金髪かわいい」

 妊娠、出産を伏せていたのでタイムラインは、驚きの声で溢れた。

 犬耳とオッドアイも衝撃的だったようだ。

「じゃあこれで帰るね」

「もう帰るの? ゆっくりして行けばいいのに」

 大輔が引きとめようとした。

日向(ひなた)、初めての電車だから。空いてる昼間のうちに帰らないと」

「そっか、そうだね」

 テワタサナイーヌは、溜まった配布物の整理や提出する書類の作成などを済ませると、坂田警視長に挨拶をして犯抑の事務室を出た。

 テワタサナイーヌは、日向を抱っこして階段で1階に下りた。

 ゲートに身分証をかざして、副玄関から外に出た。

 警備の機動隊員に挨拶をして総務省前の歩道をのんびりと歩いて霞ヶ関駅に向かう。

「あーあー」

 日向が総務省の1階にあるマルチスクリーンモニタに映る映像を指差して声を上げた。

「テレビがいっぱいあるね」

 テワタサナイーヌは、歩道を外れて総務省の前に近づいてモニタを見せた。

「お、お」

 日向は楽しそうにモニタを見ている。

「もういい?」

 日向に声をかけて駅に向かった。

 階段を降りて地下に入る。

 地下に入ってすぐ改札がある。

 この改札は丸ノ内線と日比谷線の改札だ。

 テワタサナイーヌが使う千代田線は、長い通路を歩いた先にある。

 テワタサナイーヌは、左脇に日向を抱えて改札前を通り過ぎようとした。

「お金を……はい……入れてきました……」

 テワタサナイーヌの犬耳が反応した。

 高齢の女性の声だった。

(こんなところでお金の話?しかもお年寄り)

 テワタサナイーヌは不審に思った。

 犬耳の感度を上げて声の主を探した。

 声の主はすぐに見つかった。

 改札を通り過ぎた先の通路脇にコインロッカーがある。

 そのコインロッカーの前で携帯電話で通話している70歳くらいの女性がいた。

「はい、コインロッカーの前に着きました。どうすればいいんですか」

 その女性は、電話の相手に何か指示を受けようとしている。

(これはまずい)

 テワタサナイーヌは、その女性がオレオレ詐欺の被害者だと直感した。

「え、ロッカーにお金を入れるんですか?そんなことしていいんですか?」

 電話の相手は、女性が持っているお金をコインロッカーに入れさせようとしているようだった。

(ここで止めて被害を防ぐ? それとも一旦お金を入れさせて犯人が取りに来たら捕まえる?)

(でも待って、お金を入れさせて、万一犯人に持って行かれたらまずいよ)

(今からステルス呼んで間に合うかな。とりあえず呼んでみよう)

 テワタサナイーヌは、女性の会話に注意しながらスマホで大輔に電話をかけて、今の状況を伝え、ステルスの応援を要請した。

「わかった、すぐ連絡する」

 大輔が緊張した声で答えた。

 テワタサナイーヌが注視している眼の前で、女性はコインロッカーの扉を開け、トートバッグの中から取り出した茶色の紙袋を入れた。

 女性は、ロッカーの扉を閉め、操作パネルの現金投入口に料金を入れた。

 操作パネルからレシートが吐き出された。

 その間、女性はずっと携帯電話で通話している。

「お金を入れましたよ。レシートが出てきました。はい、ロッカーは5番です。え、レシートに書いてある暗証番号ですか?どれのことかしら……」

 電話の相手は、ロッカーを開けるための暗証番号を聞き出そうとしていた。

「ああ、これですね。えーと、暗証番号は××××って書いてあります」

「あ、はい。これで逮捕されないんですね。ありがとうございます」

 女性が安堵したような表情で電話を切った。

(終わった、声をかけなきゃ。あ、警察手帳がない。預けちゃってたんだ。どうしよう)

 テワタサナイーヌは、カットソーの中から身分証を取り出してその女性に見せた。

「すみません。警視庁の警察官です」

「えっ、お金は払いましたよ。逮捕されないんじゃないんですか?」

 女性が怯えた。

「あ、大丈夫です。おばあちゃん、詐欺に遭っていたんです。どういうお話でしたか?」

 テワタサナイーヌがにこやかに女性に説明した。

「あ、はい。逮捕されないんですね。よかった」

 女性に安堵の表情が戻った。

「いえ、朝方のことなんですけどね。家に証券会社から電話があって『未公開株の購入権が当たった』て言われたんです」

「私、株に興味なかったから断ったんですよ」

「それで、『それでは弊社で購入させていただきますので、お名前だけ貸していただけますか』と言われたんです」

「名前を貸すだけなら別にいいのかなと思って、いいですよって言っちゃったんですよ」

「そうしたら、ちょっと後にまた電話があって『名義貸しはインサイダー取引で犯罪になる。保証金を払えば逮捕されない』って言われちゃったんです」

「もう私怖くなっちゃって」

「それで、どうしたらいいのかって聞いたら、200万円を紙袋に入れて、霞ヶ関駅のコインロッカーに入れろって言われたんです」

「でも、私、コインロッカーなんて使ったことないからわかりませんって言ったんです。そうしたら、駅に着いたら電話をくれ、電話で使い方を教えるからって」

 女性がこわごわ話をした。

「そうでしたか。間違いなく詐欺です。おそらく、もうすぐ犯人がお金を取りに来ます。私は犯人を捕まえますから、おばあちゃんは離れたところで待っていてください」

 そう言ってテワタサナイーヌは女性を有人改札の係員のところに案内した。

 係員に事情を説明して、女性を有人改札脇で待たせてもらった。

 日向を抱えたテワタサナイーヌは、警察官には見えない。

 堂々とコインロッカーの前で犯人を待つ。

 10分ほど日向とおしゃべりをしながら辺りの様子に気を配っていると、昼間の官庁街ど真ん中の駅に似つかわしくないだらしない服装をした大男が、きょろきょろと周りを見回しながら近づいてくるのを見つけた。

 男は、身長190センチはあるだろうか。

 背は高いが、体つきに締まりはない。

 ろくに運動もしていないのだろう。

(宝の持ち腐れだな)

 男はスマホで誰かと電話をしている。

 テワタサナイーヌは、男の会話に聴力を向けた。

 テワタサナイーヌの耳は、聞きたい音を選別することができる。

「はい、5番ですね。暗証番号が××××。了解しました」

(受け子に間違いない)

 テワタサナイーヌが確信した。

 しかし、まだステルスが到着した様子はない。

 もっとも、到着していてもどこに紛れているのかわからないのがステルスなのだが。

(私一人であいつを逮捕か。ま、できるな)

 日向を抱えていても、片手一本で倒せる自信はあった。

 その大男を逮捕することはできるが、問題は見張りがいてそいつにお金を持っていかれないかということだ。

(とにかくお金を持ち逃げされないようにしなきゃ)

 男がコインロッカーの操作パネルの前に立った。

 5番のロッカーを指定して、暗証番号を入力した。

 5番のロッカーが開放された。

 男がロッカーの扉を開け、中の紙袋に手を触れた。

「ちょっといい、警察よ」

 テワタサナイーヌが男の肩を叩いた。

 男がテワタサナイーヌを振り返った。

 その瞬間、男の顔が恐怖で引きつった。

 テワタサナイーヌがマズルを伸ばし、牙を剥いていた。

 日向もテワタサナイーヌの真似をして犬歯を剥き出しにしている。

「詐欺未遂の現行犯で逮捕する」

 テワタサナイーヌが男に告げた。

「ふざけんな!」

 男が自分の肩に置かれたテワタサナイーヌの手を掴んで立ち上がった。

 テワタサナイーヌはすっと重心を落とし、男の懐に入り込むように回転しながら掴まれた右手で男を前に崩した。

 男が前に崩れた勢いを右手で回転運動に換えて振り上げ、刀で切るように振り下ろした。

 回転の動きに乗ってしまった男は、まったく抵抗することもできずに仰向けにひっくり返った。

 呼吸投げ。

 すべての動きに無駄がなく、相手の動きに逆らわない流れるような動作だった。

 テワタサナイーヌは、自分の右手を握っていた男の手を持ち替えて、手首を極めた。

「ほーら、痛いでしょ。折れちゃうよ」

 テワタサナイーヌがニコニコしながら男の関節を締め上げる。

「いてーっ」

 男が痛みから逃れようとして身体を回転させた。

「あーら、自分からうつ伏せになっちゃって。いい子ねー」

 そう言いながらテワタサナイーヌは男の背中に膝を当てて制圧した。

 その間、テワタサナイーヌはずっと日向を左脇に抱えたままだった。

 日向は遊んでもらえたと思い、声を上げて喜んでいる。

「お疲れ。子供を産んでも相変わらずのキレだな」

 テワタサナイーヌの背後から聞き慣れた男の声が聞こえた。

 ステルスの班長だった。

(またいつの間にか来た)

「みんなで見て楽しんでたんでしょ」

 テワタサナイーヌは、声の主を見ず男を注視したまま言った。

「あまりにも見事な逮捕だったんで、俺たちが手を出すまでもないと思ってね」

 班長が笑った。

「被害者は、そっちの有人改札で待たせてるから、あとお願い」

 テワタサナイーヌが有人改札を顎で示した。

「知ってるよ。見てたからな」

「そんなとこから見てたんなら手伝ってよ」

「ははは。テワさんなら一人でやってのけるだろうと思ってさ」

「そりゃあこの程度の男なら片手一本でいけるけどさ。子供抱えてるんだからちょっとは手伝ってよ」

 テワタサナイーヌも笑いながら答えた。

「ぶー」

 日向も声を出した。

 被害者が用意した現金は、無事、被害者のもとに還された。

 

 翌日の新聞、ネットニュースにはテワタサナイーヌが大男を片手で投げ飛ばしている写真とともにオレオレ詐欺犯人逮捕の記事が数多く掲載された。

「犬耳婦警、片手で大男を投げ飛ばす オレオレ詐欺犯人逮捕」

「昨日、千代田区の地下鉄霞ヶ関駅構内で、犬耳の女性警察官がオレオレ詐欺犯人の男を片手で投げ飛ばして逮捕した。

◎育児中、子供を抱いたまま

オレオレ詐欺犯人を逮捕した女性警察官は、警視庁犯罪抑止対策本部の山口早苗警部補(32歳)。山口警部補は、今年3月に長女を出産、育児休業中で、昨日は、長女を連れて警視庁に来た帰りだった。

昨日は、駅のコインロッカーにお金を入れようとした高齢の女性をみつけ、声をかけたところ証券会社を名乗った犯人から名義貸しを持ちかけられ、その後、名義貸しが犯罪になると脅されて現金を用意したものであることを見抜いた。

その後、コインロッカーに入れられた現金を取り出しに来た犯人を詐欺未遂の現行犯として逮捕しようとした。その際、犯人が抵抗したため山口警部補は、長女を片手に抱えたまま、右手だけを使い合気道の投げ技で犯人を投げ飛ばして逮捕した。犯人は、身長190センチメートル、体重100キログラムを超える大男だった。

山口警部補は、聴力と嗅覚が警察犬に匹敵するという特殊な能力を持っている女性警察官で、過去にその能力により警視総監賞を幾度も受賞している。近いところでは、昨年の東京マラソンで白バイによる先導を務めた際、近くの不審者が持っていたバッグの中身を嗅覚で爆弾の原料と見破り、あわや大惨事となるところを未然に防いだことがある。

警視庁は、事件の背後関係や余罪について追及するとしている」

 そして、読者提供写真として、テワタサナイーヌが男を投げ飛ばしている瞬間と日向を脇に抱えて男を背後から膝で制圧している写真が掲載されていた。

「私、かっこよくない!?」

 新聞を見たテワタサナイーヌが歓声を上げた。

「テワさん、すごいよ。超かっこいい。かっこいいだけじゃなくて美しい!」

 大輔がテワタサナイーヌをほめちぎった。

「でしょー、惚れた?」

 テワタサナイーヌが勝ち誇ったような顔をした。

「とっくに惚れてますって」

 大輔が笑顔で答えた。

「それは知ってた」

 テワタサナイーヌも笑顔になった。

「それにしても、警視庁のお膝元で現金の受け渡しをするなんて、ずいぶん舐めた真似してくれるわよね」

 テワタサナイーヌが憤った。

「犯人にしてみれば、現金の受け渡しはどこでもいいんです。受け子が逮捕されようが犯人グループの首領にはなんのダメージもありません。だから、私たちは、使い捨てにされる受け子になる人を一人でも少なくする努力もしなくちゃいけない。受け子になっている人のほとんどは、始めからオレオレ詐欺に加担しようと思ってなんていません。受け子にとっても不幸な犯罪なのです」

 山口が真剣な顔で話した。

 

 そう話す山口が座っている椅子でつかまり立ちをしていた日向が、手を離してひとり立ちしていたのを誰も見ていなかった。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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トースト!

「最近どうしたんですか」

 仕事から帰宅した山口が玄関で出迎えたテワタサナイーヌを見て言った。

「どうしたのって、何が?」

 テワタサナイーヌには何を言われているのか理解できなかった。

「たぶんお父さんは、テワさんが家で裸じゃないってことを言いたかったんだと思うよ」

 大輔が山口の言いたかったことを代弁した。

「え、そういうことなの?」

 テワタサナイーヌが山口の顔を見て小首を傾げた。

「テワさん、超かわいい!」

 大輔が騒いだ。

「うん。ありがと。私のこと好き?」

「もちろん好きですとも」

「あの……」

 山口が申し訳なさそうに声を出した。

「あ、ごめん、ごめん」

 テワタサナイーヌが頭を掻いた。

「私が言いたかったのは、いま大輔さんが言ったことで正解です。最近、テワさんが家で服を着ているからどうしたのかと思いました」

 そう言った山口の足元では、すっかり一人で歩けるようになった日向(ひなた)が尻尾を振りながら山口と大輔の間を行ったり来たりしている。

「うん。日向がまだ家の中と外を区別できないから、私の真似をしないようにと思って」

 テワタサナイーヌは、日向の頭を撫でた。

 日向は気持ちよさそうに目を閉じて柔らかい舌を出している。

「そうね。早苗ちゃん偉い。日向ちゃんは、お母さんの真似をするからね」

 今度は、弥生がテワタサナイーヌの頭を撫でた。

 テワタサナイーヌも目を閉じて柔らかな舌をてろんと出して喜んだ。

「外が暑くなけりゃ服を着てても暑いっていうわけじゃないから平気。日向には、服を着るっていう習慣を身に着けてもらわないとね」

「動物の血が入っていると意外なところに気を遣わないといけないわね」

 弥生が笑った。

「私は、人間に犬の血が入って服を脱ぐようになってきちゃったけど、日向は最初から犬の血だから、今からちゃんと教えてあげれば苦労しないと思うの」

 テワタサナイーヌが日向を抱き上げた。

「きゃー」

 日向が喜んで声を上げた。

「日向は、裸族になっちゃダメだぞ」

 テワタサナイーヌが日向を目の高さに抱え上げ、目を合わせて言い聞かせた。

「らー」

「あら、それは『裸族』の『ら』なのかしら?」

 弥生が日向の頬をつついた。

「あーぃ」

 日向が答えた。

 

 いま、都内では来月に国連常任理事国であるB国大統領の来日を控え、大規模な警備が実施されている。

 B国大統領は、就任後初めての来日のため、国賓としての接遇を受けることになっている。

 外国の要人には、「国賓」「公賓」「公式実務訪問賓客」の三種類がある。

 国賓とは、政府が儀礼を尽くして公式に接遇し、皇室の接遇にあずかる外国の元首やこれに準ずる者で、その招へいと接遇が閣議で決定される。

 公賓とは、政府が儀礼を尽くして公式に接遇し、皇室の接遇にあずかる外国の王族や行政府の長あるいはこれに準ずる者で、その招へいと接遇は閣議了解を経て決定される。

 公式実務訪問賓客とは、外国の元首、王族、行政府の長あるいはこれに準ずる者が実務を主たる目的として訪日することを希望する場合、賓客の地位、訪問目的に照らして政府が公式に接遇し、皇室の接遇にもあずかる賓客で、その招へいと接遇は閣議了解を経て決定される。

「はい、犯抑の山口です」

 デスクの電話が鳴り、山口がいつものように電話に出た。

「沼田です」

「あ、はい。お世話になっております」

(沼田って誰だ?)

 山口は、電話の相手が誰なのか、頭の中の知り合いリストと照合したが思い当たらなかった。

(かといって、「どちら様ですか」と訊くわけにもいかないし。さて、困ったぞ)

「大輔さんと一緒に部屋まで来てください」

 沼田と名乗った男は、大輔とともに部屋に来るように一方的に言って電話を切った。

「大輔さん」

「はい、なんでしょう」

「沼田っていう人をご存知ですか?」

 山口が大輔に心あたりがあるのではないかと思い、確認してみた。

「新総監です」

 大輔が即答した。

「あはは。そうでしたね……」

 山口が右手を額に当てて苦笑した。

「えっ、えっ、総監ですよね!?」

 山口が青くなった。

「総監ですよ」

 当たり前だろうという顔で大輔が答えた。

「一緒に来てください!」

 山口が大輔の襟首をつかんで立ち上がった。

「ちょっ、おとう、じゃなかった係長やめてください」

 大輔は突然襟首をつかまれて慌てている。

「総監に呼ばれました。大輔さんと行って参ります」

 副本部長室に声をかけて山口が大輔を引きずりながら部屋を出た。

「さっき電話で総監から直接呼び出されました」

「え、そりゃ大変ですね。秘書室も通さずに直接呼ぶなんて珍しい」

 山口と大輔が話しながら総監室のフロアに上がった。

「犯抑の山口警部と山口大輔警部補です。総監から直にお呼び出しをいただきました」

 山口が秘書に出頭の理由を説明した。

「え、聞いていませんが……」

 秘書が戸惑った。

「確認してきます」

 秘書が総監室に入った。

「どうぞ、お入りください」

 秘書が山口らを呼んだ。

「犯抑、山口警部、山口大輔警部補入ります」

 山口が入口で申告した。

「あ、山口さんですね。どうぞお入りください」

 低く落ち着きのある声で総監が二人を招き入れた。

「どうぞお座りください」

 総監が二人にテーブルの椅子を勧めた。

「失礼いたします」

 山口と大輔がテーブルについた。

「お仕事中にお呼び立てして申し訳ありません」

 総監が話し始めた。

「いえ、とんでもない」

 山口が答えた。

「お二人にお越しいただいたのは、来月来日するB国の大統領から日本国政府に直々の要請があったからなんです」

 総監が笑顔で言った。

「はあ」

 山口は気の抜けた返事しかできなかった。

 B国の大統領の要請がなぜ自分に関係があるのか、さっぱり見当がつかなかった。

「大統領は、国賓として来日されます。国賓は天皇陛下主催の宮中晩餐会に招かれます。そして、通常、答礼として国賓主催の晩餐会が開催されることになります」

「はい」

 それは山口も知っていた。

「大統領が、答礼晩餐会に山口さんと山口大輔さんをご夫妻でお招きしたいというご意向です」

「は?」

 山口と大輔が間の抜けた声を上げた。

「総監、お言葉ですがB国大統領主催の晩餐会に私たち家族のような市井の者が招待されるというのは、俄に信じがたいのですが……」

 国賓の答礼晩餐会に一介の警察官が招待されるというのは、常識では考えられない。

「それは私も外務省に言いました。ですが、先方からの指名ということであれば外務省でも断ることができないということでした」

 総監が困ったような顔をした。

「たしかに、B国では大統領の招待を断れるのは、旅行で不在の場合など限られた理由があるときのみで『先約がある』では招待を断れないというのが慣行です。それを考えれば、外務省としても断れないとは思います」

 山口が言うと総監も頷いて同意した。

(なんで係長は総監と対等に国際儀礼の話ができるんだ)

 大輔は、話のスケールが大きすぎて、ついていくことができなかった。

「断れないのは理解しておりますが、なぜ私たち家族が招待されたのでしょうか」

 山口としては、招待の理由が気になっていた。

「私も気になって外務省に訊いてみたんです。先方は、はっきりしたことは言わなかったそうですが、どうやら山口さんのお嬢さん、こちらにいらっしゃる大輔さんの奥様でもいらっしゃいます。山口早苗さんの活躍に注目されたようで、一度お会いして話をしたいということのようです」

 総監が山口と大輔の顔を交互に見ながらゆっくりと説明した。

「そういうことであれば納得できます」

 山口は、テーブルの上に置いた手を膝におろしながら答えた。

「それでは、招待に応じると外務省に返答します」

「かしこまりました。それでは、失礼いたします」

 山口と大輔が立ち上がって総監に敬礼した。

「あ、山口さんは、ちょっと残ってください。大輔さんは、お疲れさまでした」

 総監が山口だけを残した。

(嫌な予感しかしない)

 山口は、背中を気持ちの悪い汗が流れるのを感じた。

「失礼いたします」

 もう一度挨拶をして山口は椅子に腰掛けた。

「今回、晩餐会に早苗さんが招待されたのは、もう一つ理由があります」

 総監が本当の理由について話し出した。

「やはりそうでしたか。大統領が早苗に関心を示したというのは、その能力に着目されたのではないですか」

 山口が切り返した。

「おっしゃるとおりです。大統領ご自身が関心を示したのもそうですが、SSが強い関心を示したそうです」

「おおよそ事態が呑み込めました」

 SSというのは、シークレット・サービスの略で、大統領の身辺警護を行う組織のことだ。

「SSは、大統領の行き先を事前にくまなく検索します。爆発物探知犬も入れて検索します。しかし、晩餐会開会中に犬を会場に入れることはできません。そこで、早苗さんが会場内に入れば、万一、爆発物を持ち込まれても早い段階で察知できるのではないかということでした」

「それを確かめたい、と」

「そういうことです」

 総監が頷いた。

「この件は、早苗に伝えるべきでしょうか。それとも伏せておいた方がいいでしょうか」

「教えてあげてください。任務を帯びているということがわかれば、ご自分が招待された理由も理解できると思います」

「かしこまりました」

「一点よろしいでしょうか」

 山口が総監に質問があることを申し出た。

「どうぞ」

「今回、私たち家族四人が招待されると、早苗の娘の面倒をみることができません。通常、子連れでの列席はNGかと思いますが、ご配慮いただけるものでしょうか」

「なるほど、それもそうです。外務省から先方に掛け合ってもらいます」

「よろしくお願いいたします。子連れが不可であれば託児を探します」

 山口が頭を下げた。

「後ほど、B国大使館から招待状が届くことになると思います。ドレスコードなどもあると思いますので、失礼のないようにお願いします」

「承知いたしました」

 山口が総監に敬礼をして退室した。

(早苗さんもワールドワイドになってきたな)

 山口は、階段を下りながら今回の話のスケールの大きさに若干怖気づいた。

「総監に呼ばれ、B国大統領来日時、大統領主催の答礼晩餐会に私たち家族四人が招待されることになりました」

 犯抑に戻った山口は、今あったことを副本部長の坂田警視長に報告した。

「それはまたすごいことになりましたね。山口さんなら失礼なくやってもらえると思いますから、どうぞ行ってきてください」

 坂田が笑顔で出席を許可した。

 

「もうやだー、私ってば社交界デビュー?」

 晩餐会の話を聞いたテワタサナイーヌが興奮した。

「ねえねえ、お父さん。なに着てけばいいの?」

 テワタサナイーヌが興奮しながら山口に訊いた。

「晩餐会ですから、招待状に記載されているドレスコードに従います」

「そうなんだ。普通はどうなの?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「想像ですが、今回は、ブラックタイになると思います」

「ブラックタイ? 黒いネクタイのこと?」

「はい。簡単に言えば男性はタキシード、女性がディナードレスかイブニングドレスになります」

「えー、制服じゃないんだ」

「もちろん制服がある職業人の場合は、制服も正装とみなされますから、制服での列席も失礼には当たりません」

「じゃあ私は制服がいいな。制服の礼服って素敵だもん」

 テワタサナイーヌが目を輝かせた。

「それでは、早苗さんと大輔さんは、礼服を借りるといいでしょう。弥生さんは制服がありませんから、イブニングドレスを借りましょう。私もそれに合わせてタキシードを借りることにします」

 山口が提案した。

「そうですね。そうしたらいいと思うわ」

 弥生も賛同した。

「ところで日向は?」

 テワタサナイーヌが娘のことを思い出した。

「普通は子連れNGです。ですが、いま、外務省を通じて確認してもらっています」

「わかった。国際的な儀礼って大変なのね」

 テワタサナイーヌがため息を付いた。

「それともう一つ、今回は、重要なミッションがあります」

 山口がテワタサナイーヌの鼻に指を当てた。

「またなの?」

 事態を理解したテワタサナイーヌが笑った。

「はい、大統領直々に早苗さんの能力を見たいそうです」

 山口が少し話を膨らませた。

「えーーーーーっ!? 警察庁とかじゃなくて大統領なの!?」

 テワタサナイーヌが腰を抜かしそうな勢いで驚いた。

「はい、大統領とSSが早苗さんに関心があるそうです」

「なんか凄いことになってるんだけど……」

 基本的に物怖じしないテワタサナイーヌだが、さすがにこのレベルになると怖くなる。

「大統領にインタビューできるかな……」

 テワタサナイーヌがぼそっとつぶやいた。

「えっ、まさかやるんですか?」

 山口が驚いた。

「やりたい」

 テワタサナイーヌの目が真剣さを物語っていた。

「怖いもの知らずですね」

「怖いよ。おしっこちびるくらい。でも、こんなチャンス二度とないじゃん。あっちも私の能力を見たいっていうオーダーなんだから、こっちからもオーダーを出してもいいよね」

「言い出したら退きませんよね」

「うん。退かない」

「わかりました。総監から外務省に掛け合ってもらいます」

 山口が腹をくくった。

「早苗がテワタサナイーヌとして大統領にインタビューをしたいと言っています。私も大統領が早苗の能力を見たいというオーダーを出すのですから、こちらからもオーダーを出しても失礼には当たらないと考えます」

 翌日、山口は総監にアポを取り、大統領へのインタビューを具申した。

「ついに世界のトップに突撃しようというのですね。前の高柳さんから申し送りを受けています。テワタサナイーヌさんの突撃インタビューに協力するようにと」

 総監は、予想していたようで驚くことなく応じてくれた。

「あ、それと、子連れ列席の件ですが、今回は特例として許可していただけました」

 総監が笑顔で山口に伝えた。

「ありがとうございます」

 山口が礼をした。

 総監から外務省にインタビューの件を申し入れた結果、晩餐会前の5分間であれば、大統領控室で実施可能という回答を得ることができた。

「大統領がインタビューに応じでくれることになりました」

 山口がインタビュー実施可能という結果をテワタサナイーヌに伝えた。

「やった! さすが大統領。太っ腹だわ」

 テワタサナイーヌが喜んだ。

「日向、あなたは何を着て大統領に会おうかねえ」

 テワタサナイーヌが日向を抱き上げて言った。

「え、まさか日向を連れてインタビューを?」

 山口が不安そうな顔をした。

「当たり前じゃない。私は子育て中なのよ? それを知って晩餐会に招待したり、インタビューに応じるっていうんだから、子供を抱いてて何が悪いの?」

 テワタサナイーヌは、至極当然という顔で答えた。

「たしかに、道理です」

 山口は言い返せなかった。

「そういうことであれば、日向の育ち具合が予測不能ではありますが、私が晩餐会用のドレスを作りましょう」

(毒喰らわば皿まで)

 山口も気分が高揚してきた。

「さーて、鼻を鍛えるかな」

 テワタサナイーヌは、任務のため爆発物マーカーの臭いを覚えなければならない。

 爆発物対策係からマーカーのサンプルを借りてきて、自宅で繰り返し臭いを嗅いで覚えた。

「臭い」

 何度嗅いでも慣れない。

 テワタサナイーヌの隣では、日向も鼻をひくつかせながら臭いを嗅いでいる。

「ちゃい」

 あまりいい臭いはしないので、日向が顔をしかめた。

 

──晩餐会当日

 テワタサナイーヌと大輔は、借りた礼服を着込んだ。

 大輔は、結婚式のときに一度礼服を着ているが、テワタサナイーヌは初めてだった。

 女性警察官の礼服は、上着は男性と同じテーラードのジャケットだが、ウエストが絞られて女性らしさを醸し出す。

 ジェケットの両肩に階級に応じた肩章が付き、右胸の飾緒が華やかさを演出する。

 そのジャケットにミドル丈のタイトスカートが合わされる。

 靴は、エナメルのパンプスにした。

 大輔から贈られた首輪は外さない。

 弥生は、紫のイブニングドレスを借りた。

 山口は、タキシードを借りてきたが、中に着ているウイングカラーのシャツとボウタイは自前のものだ。

 日向には、彼女の髪の色に合わせたシャンパンゴールドのイブニングドレス風衣装を山口が作って着せた。

 五人は、山口が運転する車で迎賓館の通用門を入った。

 通常の招待客は、正門から入るが、今回は警備の任務を持っているため、通用門から入り警備詰所に立ち寄ったのだ。

 警備詰所には、SSのエージェントも来ており、テワタサナイーヌにSS側の無線機を着けさせ、犬耳に骨伝導式のイヤホンマイクを仕込んだ。

「テワタサナイーヌさんの無線は、日本語でお話しできます。なにかあったら日本語で私を呼んでください」

 SSのエージェントが流暢な日本語で説明した。

「はい、わかりました」

 テワタサナイーヌが笑顔で答えた。

 山口は、詰所のSPから挨拶をされたり、自分から挨拶をしていたが、どことなく居心地が悪そうに見えた。

「出たぞ!」

 詰所の無線が慌ただしくなり、一気に緊張感が高まった。

 大統領の車列が宿泊先のホテルを出発したのだ。

 車列は、完全に交通規制された中をノンストップで走ってくる。

 ホテルを出発してものの5分もすれば迎賓館に到着してしまう。

 無線は、車列の位置を細かく伝え続ける。

「迎賓館正門」

「車寄せ」

「降車中」

「到着」

 大統領が迎賓館に到着した。

 周辺の警備が一安心するのと入れ替わりに、迎賓館内の警備は緊張が最高に達する。

 大統領が控室に入り、しばらくしたところでテワタサナイーヌら五人が外務省儀典官室係員の呼び込みを受けた。

 インタビューの準備が整ったのだ。

 インタビューの模様は、冒頭のスチール撮影のみで動画は不可との条件を出されている。

 大輔が一眼レフカメラを抱えて山口に続く。

 テワタサナイーヌは、日向を抱え、弾むような足取りで歩いている。

 五人は、前室に通された。

「テワタサナイーヌさん、入りまーす」

 山口がテワタサナイーヌの耳元で囁いた。

 テワタサナイーヌの目つきが変わった。

「大輔くん、私かわいい?」

「もちろん、かわいいです」

「やっぱりそうよね。大統領も惚れちゃうかな」

「もちろん!」

「そうよね!」

 テワタサナイーヌは、どんどん自分を上げる。

「きゃー」

 テワタサナイーヌのテンションにつられて日向も楽しそうに声を上げた。

「お入りください」

 儀典官が五人を大統領の控室に通した。

「はーい、ミスター・プレジデーント!」

 テワタサナイーヌが大統領に駆け寄って抱きついた。

「Hi, Ms. Tewa-san 」

 大統領が抱擁を返した。

 大輔が写真を連写する。

 山口は、ハラハラしながら様子を見ている。

「ドウゾ」

 大統領が短い日本語でテワタサナイーヌに椅子を勧めた。

「ありがとうございます」

 テワタサナイーヌは、大統領が先に座ったのを確かめてから、笑顔で椅子に座った。

「今日は、私の無茶振りに付き合ってくださりありがとうございます」

 テワタサナイーヌが冒頭の挨拶をした。

 通訳が英語で大統領に伝える。

「いえいえ、国際関係の無茶振りに比べたら、なんでもないことです」

 通訳が大統領の答えを訳した。

「はじめに、私は、かわいいですか?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

(めっちゃかわいい!)

 大輔が写真を撮りながら心の中で叫んだ。

「とてもエキセントリックでかわいいと思います。お子さんもとてもキュートです」

 大統領が日向を見て笑顔になった。

「きゅー」

 日向が手を上げて声を出した。

「時間がないので質問は一つだけ」

「日本では、オレオレ詐欺という犯罪が大きな問題になっています。これと同じような犯罪がB国でもありますか?」

 テワタサナイーヌの質問を通訳が大統領に伝えた。

 大統領は、しばらく考えていた。

「我が国にも、オレオレ詐欺のような犯罪がないわけではありません。でも、日本ほど多くはありません。人が人を信じる気持ちを裏切るのは、国に関係なく忌むべきことです。我が国として、日本警察の捜査に協力できることがあれば、全面的にお力添えをします」

 大統領が力強く答えた。

「今日は、お忙しいところお時間を割いてくださりありがとうございました。今度は、私をB国に招待してくださいね」

「こちらこそ楽しい時間をありがとうございます。テワさんをご招待すること、覚えておきましょう」

 大統領が握手を求めた。

 テワタサナイーヌは、大統領と固い握手を交わした。

 大統領は、日向とも握手をして笑顔を作った。

「See you! 」

 テワタサナイーヌは、友達に言うように挨拶をして尻尾を振りながら部屋を出た。

 大統領の控室を出たテワタサナイーヌは、その場に座り込んだ。

 腰が抜けた。

「怖かったよー。すごいオーラだったよ。あんなこと言って、私消されないかな……」

 テワタサナイーヌは、額の汗を拭った。

「大丈夫です。大統領は、茶目っ気のある方で、あれくらいのお遊びは大好きです。今日は、事前にインタビューの趣旨も説明してありますから、大統領もわかって遊んでくれていたと思います」

 儀典官が説明してくれた。

「そうなんですね。ありがとうございます」

 テワタサナイーヌが安堵した。

 五人は、儀典官室係員の案内で招客の控室である「羽衣の間」に通された。

 羽衣の間では、食前の飲み物が供されていた。

 いよいよ晩餐会が開始となる。

 晩餐会は、レシービングラインでの招客の紹介から始まる。

 レシービングラインは、彩鸞の間で行われる。

 彩鸞の間で主人であるB国大統領夫妻と主賓夫妻がレシービングラインを作る。

 羽衣の間の招客は、名前を呼ばれた順に紹介用の名札を受領したうえ、彩鸞の間に進み、レシービングラインの大統領と主賓に挨拶をする。

 挨拶をすませた招客は、花鳥の間に進んで着席する。

 テワタサナイーヌらも彩鸞の間で挨拶を済ませて花鳥の間で着席した。

「ねえお父さん」

 テワタサナイーヌが小さな声で山口を呼んだ。

「なんですか」

「テーブルマナーってうるさいのかな? 私、自信ないんだけど」

 テワタサナイーヌがテーブルマナーを気にした。

「基本的には、イギリス式に則っておけば無難です。ですが、慣れないイギリス式にこだわるあまり、ぎこちない所作になる方がずっと恥ずかしいこととされます。動作が優雅でありさえすれば、多少の失敗は問題になりません。むしろ、そのような失敗をあげつらうほうが下品です。ただ、気をつけないといけないのは、食べ残しは不可です。洋の東西を問わず、食べ物に対しては感謝の気持ちを抱かなければなりません。テーブルマナーの出発点もここにあります」

 山口が小さいながらも通る声でゆっくりと説明した。

「そうなんだ。マナーに気を使いすぎてぎくしゃくする方が恥ずかしいってことなのね」

「そのとおりです」

「それを聞いて安心した。お父さん、ありがとう」

「いえいえ。堂々と食事を楽しんでください」

「うん」

 料理は進み、デザートが供される番になった。

「ちゃーい」

 それまでおとなしくテワタサナイーヌの膝の上で離乳食をもらっていた日向が声を上げた。

「あら、どうしたの?」

 テワタサナイーヌが日向の顔を覗き込んだ。

「ちゃーい、ちゃーい」

 日向が手足をばたつかせながら繰り返した。

「え、どうしたの?」

 テワタサナイーヌは、なぜ日向が急に声を上げたのかわからなかった。

「ちゃーい」

 日向がテワタサナイーヌを見上げて不安そうな顔をした。

(ちゃーい?ちゃいに何か意味があるの?)

 テワタサナイーヌが自分の頭の中の日向語をサーチした。

(確か前に聞いたことがあるはずなんだけど……)

 もう少しで記憶がよみがえりそうなのだが、そのもう少しがなかなか出てこない。

 イライラする。

「ちゃーい!」

 日向の声が強くなった。

「あっ!」

 テワタサナイーヌの記憶から日向語のリストが一つ飛び出した。

(爆弾!)

 晩餐会に招待されることが決まってから、爆発物マーカーの臭いを自宅で勉強しているとき、日向も一緒に嗅いでいた。

 そのとき、日向が「ちゃい」と声を上げていたのを思い出した。

「日向、ちゃいどこ?」

 テワタサナイーヌが臭いのもとを質した。

「ちゃーい」

 日向がきょろきょろしている。

 食後のデザートが供された。

 デザートには、貴腐ワインが合わされた。

「ちゃい!!」

 日向が大きく目を見開いた。

(え、この給仕さん?)

 日向は、デザートをサービスした給仕を目で追っている。

(間違いない。でも私には何も感じなかった)

 テワタサナイーヌは、嗅覚を最大にした。

 しかし、たくさんの食べ物の匂いが混ざり合っている晩餐会会場では、嗅覚を敏感にすればするほどノイズが大きくなり混乱した。

(でも、とりあえず日向の嗅覚を信用してSSに一報入れておこう。外れても困ることじゃないし)

「テワからSSさん」

「はい、SSですオーバー」

「いま、私の席にデザートをサービスした給仕さんからプラスチック爆弾の臭いがします。確認してください。どうぞ」

「了解!」

「ふぅ」

 テワさんは、大きく息を吸って吐いた。

「SSに連絡したよ。あなたの鼻が当たってるといいね。あ、当たってないほうがいいんだけど」

 テワタサナイーヌは、日向に話しかけた。

「んまー」

 日向はおとなしくなり、テワタサナイーヌから離乳食をもらってニコニコしている。

 デザートが供され乾杯となった。

 主人である大統領がスピーチたのめ立ち上がった。

 立ち上がった大統領にSSの責任者が耳打ちした。

 大統領は笑顔のまま頷いた。

 大統領がスピーチを始めた。

「……です。そして、本日は、日本国警視庁のテワタサナイーヌさんという、世界一のテロ対策官をお招きすることができ、光栄の極みです。テワタサナイーヌさんは、嗅覚により会場に紛れ込んだテロリストを特定してくださいました。ここに杯をあげて天皇皇后両陛下のご健康とご幸福をこいねがうとともに、日本国の繁栄を祈りたいと思います」

「トースト!」

 大統領が杯を掲げた。

「トースト!」

 会場内の全員が唱和して乾杯した。

「テワタサナイーヌさんに拍手を!」

 大統領が異例の挨拶を挟んだ。

 会場内が拍手に包まれた。

 テワタサナイーヌは、日向を抱いたまま優雅に礼をした。

 

 晩餐会が終わり、テワタサナイーヌらが警備詰所に戻ってきた。

 SSのエージェントが現れ、テワタサナイーヌに装着させていた無線機を回収した。

「今日は、すばらしい能力を見せていただき、ありがとうございました。大統領も感激していました」

 エージェントが流暢な日本語で挨拶した。

「いえ、今日、爆発物を識別したのは、私ではなく、娘の日向です。私が爆発物マーカーの臭いを勉強しているとき、隣で同じ臭いを嗅いでいた日向がマーカーを覚えていて、給仕からその臭いを感じて教えてくれたのです。そのことを大統領にお伝えください」

 テワタサナイーヌが日向を抱き上げて誇らしげに言った。

「そうでしたか。すばらしい能力をお持ちのお嬢様です。実は、今日のテロリストは模擬でした。大変失礼とは思いましたが、テワタサナイーヌさんの能力を見させていただくため、爆発物探知犬でも感知できない程度のごく微量のマーカーを塗布した服を着せた給仕を出したのです。お許しください」

 SSのエージェントが頭を下げた。

「そうでしたか。いえ、本物じゃなくてよかったです」

 テワタサナイーヌも笑顔で返した。

 

──迎賓館から帰りの車中

 日向は、チャイルドシートの中で寝息を立てている。

「ちゃい」

 日向が寝言を言った。

「『ちゃい』は、『くちゃい』ってことだったのね」

「あなた、とんでもない力を持っているんじゃないの?」

 テワタサナイーヌは、日向の頭を撫でた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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好きだから

「やはり来ましたか」

 犯罪抑止対策本部の副本部長室で山口は苦笑した。

 B国大統領主催の答礼晩餐会で日向(ひなた)の能力を世界に見せつけた。

「B国政府から、テワさんをSSのエージェントとして招へいしたいとの意向が寄せられました。また、その際、娘さんの日向さんにもご同行願いたいということでした」

 副本部長の坂田警視長からB国政府の意向を伝達されたからだ。

 もともとはテワタサナイーヌの能力に目を付けていた大統領とシークレット・サービスだったが、娘にも母をしのぐ能力があると知り、日向にも関心を示した。

「かなり重い案件ですので、早苗と大輔二人の意向を確認させてください」

 山口は、坂田に返答して部屋を出た。

「大輔さん」

 育児休業中で空席になっているテワタサナイーヌの席の後ろにいる大輔を呼んだ。

「はい、なんでしょう」

 大輔が後ろを振り返った。

「ちょっと喫茶室に付き合ってもらっていいですか」

「あ、はい」

 大輔が戸惑いを見せた。

(父さんが喫茶室に誘うっていうことは、ここでは話しにくいことだろう)

 大輔は、用件を想像した。

(うん。わかんない)

 思い当たらなかった。

 山口は、大輔を連れて喫茶室に入り、皇居と国会議事堂を見渡す窓際の席に着いた。

「いつ来てもこの景色は見事ですね。四季折々の美しさがあります」

 山口が窓の外を眺めながら言った。

 窓の外は、午後の傾き始めた陽射しを受けて、木々や建物が長めの影を落としていた。

「B国永住。しますか?」

 紅茶をすすった山口は、カップを置いて単刀直入に切り出した。

「へ?」

 大輔は、声が裏返った。

 まったく事情が理解できていなかった。

「すいません。なんのことか全然わかりません」

 大輔の眉が八の字になっている。

「先日、迎賓館で日向が驚異的な能力をB国に見せつけました。早苗さんも警察犬並の仕事を何度もやってのけた実績があります」

「はい、自分の妻と娘ですけど、毎度驚かされてます」

「その能力をB国が見逃すと思いますか」

「オファーがあったんですね」

 大輔は、用件を理解した。

 山口は、紅茶を一口飲んだ。

「SSのエージェントとして招へいしたいそうです。招へいですから期間を切った派遣とは違います。おそらくSSに身分を移し、永住することを前提としています」

 山口にしては珍しく相手の目を見ず、手元のカップを見つめながら話している。

「すごい話が来たんですね」

 大輔も窓の外を見たまま返事をした。

 長い沈黙が続いた。

 窓の外の景色は、徐々に影が長くなっていく。

 二人とも次の一言を切り出せずにいた。

「俺は……」

 大輔が口を開いた。

「俺は、テワさんの気持ちを尊重します」

「早苗さんがB国に行くと言ったら着いていくということですか」

 山口が大輔の考えを確認した。

「いえ、俺は日本に残ります。俺は、警視庁の警察官を全うします」

 大輔が重い決断を口にした。

「離婚…… ですか……」

 山口が恐る恐る訊いた。

「そうなるかもしれません。俺は、テワさんを愛してます。でも、俺は、警視庁の警察官です。日本が好きです。日本を守ります。B国には行きません。もし、テワさんがB国に行ったとしても、俺の気持ちは変わりません。離婚するか結婚を続けるかは、テワさんの気持ち次第です。テワさんの気持ちを尊重するというのは、そういう意味です」

 大輔が山口の目を真っ直ぐ見つめて、一言ずつ言葉を選びながら答えた。

 山口は、大輔がここまではっきりと自分の気持ちを表に出したのを今まで見たことがなかった。

「そうですか。よくわかりました。真っ直ぐな気持ちを聞けてよかったです。では、帰ったら早苗さんの意向を聞きましょう」

 山口が席を立った。

 大輔がそれに続いた。

 

「早苗さん、ちょっと大事な話があります」

 帰宅後、山口は2階に上がり、テワタサナイーヌを呼び止めた。

「え、なーに? 大事な話?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

 いつもならテワタサナイーヌが小首を傾げると大騒ぎして喜ぶ大輔が今日は静かだった。

(あれっ、なんか今日は変だな)

 テワタサナイーヌがいつもと違う空気を感じ取った。

「座っていいですか」

 山口がテーブルを指した。

「うん。大輔くん、ちょっと日向をお願い」

 テワタサナイーヌが日向を大輔に預けた。

「あー」

 母親から引き離された日向は、一瞬不満そうな顔をして声を上げた。

「お母さんは、大事な話があるから、ちょっとばーばのところに行こうか」

 大輔は、日向を抱いて階段を下りて行った。

「この前、迎賓館で日向がとんでもない力を発揮しました」

 山口が話の導入を切り出した。

「うん。そうだったね。あれは見事だった」

 テワタサナイーヌがニコニコして答えた。

「その力をB国が欲しいと言ってきました」

「えっ、どういうこと?」

 テワタサナイーヌが大きな目をより大きく見開いた。

「早苗さんと日向さんをB国に招きたいと。特に早苗さんをSSのエージェントとして招へいしたいという意向です」

「すごーい! かっこいい!」

 テワタサナイーヌが手を叩いて喜んだ。

「ただ、期間限定の派遣ではありません。おそらくB国に永住することになると思います」

「あら、そうなんだ。身分換えってことね」

「そうです」

「ふーん。B国に永住か…… なんかかっこいいね」

 テワタサナイーヌがまんざらでもないという顔をした。

「すぐに答えを出さなくてもいいです。大輔さんと相談してください。大輔さんには、今日の午後に伝えてあります」

「あ、大輔くんはもう知ってるのね」

「はい」

 テワタサナイーヌは、腕組みをして考えた。

 考えながら頭を左右に振った。

 大きなエメラルドグリーンの目は、真剣そのものだった。

 

「行かない」

 

 テワタサナイーヌが一言だけ、しかし、はっきりとした意思を感じさせる声で結論を出した。

「私は、本当は死んでいたはずの命。それをお父さんに助け上げてもらいました。そのあとも、国や自治体の社会保障制度に助けられて今日まで生き長らえています。たくさんの方の善意で生かされた命です。まだその恩返しができていません。私は、都民の方々、国民の方々に恩返しがしたい。だからB国には行きません」

 テワタサナイーヌは、山口の目を見て、力強く決意の理由を開陳した。

 その目は自信に満ち、一切の迷いが感じられなかった。

「わかりました。早苗さんの気持ち、しっかり受け止めました。その旨、回答しますが、いいですか?」

「うん。お願い」

 テワタサナイーヌは、笑顔に戻っていた。

「本当はね。私、英語できないから」

 テワタサナイーヌが肩をすくめて舌を出した。

 

「大変光栄なお話ですが、今回はご遠慮申し上げます」

 山口がテワタサナイーヌと大輔二人の答えを坂田に伝えた。

「そうですか。いや、ほっとしました。テワさんにB国に行かれると、警視庁にとって大きな損失ですからね」

 坂田がほっとしたような顔をした。

「結論はわかりました。B国に行かない理由をお聞かせいただけますか」

「はい。早苗は、オレオレ詐欺被害を根絶するためにテワタサナイーヌになりました。それがまだ道半ばです。しかも、B国では、オレオレ詐欺の被害がほとんどないということです。その状況では、テワタサナイーヌの存在意義がないので、今回はお断りするということです」

 山口が、取って付けたような理由を説明した。

「わかりました。そのように先方に伝えてもらいます」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

 山口が頭を下げた。

 こうしてテワタサナイーヌの海外移住はなくなった。

 

「内向きと言われようが、私は大輔くんが好き、日向が好き、お父さんが好き、お母さんが好き。そんな人たちが住んでる日本が好き。だから日本を守るのよ」

 テワタサナイーヌが日向を抱き上げ、晴れ晴れとした表情で言った。

「しゅき」

 日向が尻尾を振って喜んだ。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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伏せ!

「かーかん、すき」

 日向(ひなた)がテワタサナイーヌに抱きついた。

 年末になると、日向が発する言葉の数が増えてきた。

 日向が最初にはっきりと発語したのは「にく」だった。

 生後7か月後くらいには「にく」と言って、肉をねだっていた。

 通常の発達からすると、かなり早い言葉の覚え方だ。

「お母さんもよ」

 テワタサナイーヌが日向を抱きしめた。

(妊娠したばっかりの頃は、ここから悪夢に入っていったんだっけ)

 まだ育児に自信は持てないが、悪夢のように日向に憎悪を抱くことはなかった。

 日向は、すくすく育ち、身長が90センチを超えている。

 黙っていれば、3歳児くらいに見える。

 日向は、いつも山口が作ったテワタサナイーヌの縫いぐるみを脇に抱えている。

 寝るときも一緒のお気に入りだ。

 着ている服も山口が縫い上げたワンピースが多い。

 シンプルなものが多いが、中にはスモッキングの刺繍を施した手の込んだものもある。

 

【挿絵表示】

 

 離乳食も済み、なんでも好き嫌いなく食べる。

 特に肉が好きなのは、さすが犬の血だ。

 歯もすでに永久歯に生え変わった。

 生え変わったあとの永久歯は、全部で42本もある。

 ヒトの歯と違い、肉を引き裂くのに適した犬の歯に近い。

 日向は、今のところテワタサナイーヌのようにマズルが伸びる現象は起きていない。

 

 今日は、年末の恒例となった山口のおごりで焼肉の日だ。

「にく! にく!」

 エプロンをかけた日向が焼き網を前に興奮している。

「かんぱーい!」

「ぱーい」

 大人はビール(ただし山口はウーロン茶)、日向はジュースで乾杯した。

 日向は、目の前に肉を置くと生でも食べてしまうので、焼く前の肉は少し遠ざけておく。

「ビールおいしいねー、お母さん」

「そうね、特におごりだとなおさらね」

 テワタサナイーヌと弥生はご機嫌だ。

「ねー」

 日向も二人の会話に割り込もうと頑張っている。

「すいませーん。カルビ、塩で5人前ください」

「サンチュおかわりー」

「タン塩くださーい」

「生ビールおかわり」

 テワタサナイーヌが立て続けに注文を出す。

「かーりー」

 日向もジュースのグラスを持ち上げてテワタサナイーヌの真似をする。

「いや、あなた、まだ入ってるじゃない」

 テワタサナイーヌが制した。

「かーりー!」

 日向が怒った。

「怒ったってダメよ。全部飲んでからね」

「ぶー」

「はい、お肉」

 テワタサナイーヌが焼けた肉を日向の前の皿に載せた。

「にく!」

 さっきまで怒っていた日向が満面の笑みを浮かべた。

 日向は、ひたすら肉を食べ続ける。

 日向が食べる肉は、山口が焼いて皿に提供する。

 山口は、ほとんど自分で肉を食べられない。

 それでも家族がおいしそうに食べてくれるのが嬉しい。

「せーの」

「ごちそうさまでした!」

「さまー」

 テワタサナイーヌの合図で全員が手を合わせてごちそうさまをした。

「今年もおいしかったねー。お父さんありがとう」

 テワタサナイーヌが山口の腕に絡み付いた。

「ありとー」

 日向が反対側の手を取って振り回す。

「歩きにくいです」

 そう言いながら山口は嬉しそうだった。

「かーかん」

 日向がテワタサナイーヌの首を指差した。

「なーに? これのこと?」

 テワタサナイーヌが首輪をくるくる回して見せた。

「んー、んー」

 日向は、テワタサナイーヌの首輪と自分の首を交互に指差した。

「え、首輪が欲しいの?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、かわいい!」

 大輔が喜んだ。

「毎度ありがと」

 テワタサナイーヌは、大輔ににっこり微笑んだ。

「首輪かあ……首輪を欲しがるとは思わなかったな。アクセサリーだと思ってるのかな?」

 テワタサナイーヌが弥生の顔を見た。

「お母さんがつけてるかわいいネックレスっていう感覚なのかしらね。そうだったら、欲しがっても無理ないかな」

 弥生が日向の頭を撫でた。

「んー」

 日向は、弥生を見ながら自分の首を指差した。

「うーん、首輪は難しいな。私は、自分の意思で着けてもらってるけど、日向に首輪をかけると児童虐待みたいに見えちゃうよ」

 テワタサナイーヌが苦笑した。

「チョーカーならいいんじゃない?」

 弥生が首輪の代替を思い付いた。

「そうだね、代わりとしてはいいかもしれない。でも、それを外せなくなると保育所や学校に行くようになったとき都合が悪くない?」

 テワタサナイーヌは、将来のことを考えた。

「そっか。やっぱりTPOを自分で考えられるようになってからじゃないとダメね」

 弥生が結論を出した。

「自分の当たり前が世間でも当たり前とは限らないってことがわかってからね」

 テワタサナイーヌが日向の犬耳を摘まんだ。

「やーん」

 日向が頭を振って嫌がった。

 

「あら、留守番電話」

 帰宅した弥生が自宅の電話に留守番メッセージを知らせるボタンの点滅に気づいた。

 弥生がメッセージを再生した。

「…… がちゃん ツーツーツー」

 メッセージにはなにも録音されていなかった。

「何の用だったのかしら?」

 弥生が首を傾げた。

「用があるなら録音すればいいのに」

 テワタサナイーヌが口を尖らせた。

「声を残したくない人もいるんです」

 山口が着替えながら二人を見た。

「やましいところがある人ね」

 テワタサナイーヌが指を鳴らした。

「そうです。だから、オレオレ詐欺を防ぐのにも留守番電話が強力な対策になるんです」

 山口は安物のティーバッグで紅茶を淹れ、一口すすった。

「そっか、電話に出なければいいのね!」

 テワタサナイーヌが元気に返した。

「はい、そうです。オレオレ詐欺の電話は、家の固定電話にかかってきます。ですから、固定電話をいつも留守番電話にしておいて、必ず相手の声を聞いてから受話器を取るようにすれば、親心スイッチのオンオフも必要なくなります。詐欺犯人は、自分の声が記録されるのを嫌がります。留守番電話にしておけば、たいていの場合は、さっきのように無言で切るか、それより前の留守を知らせる音声が再生されている間に電話を切ってしまいます」

「なるほど。電話が鳴ると、つい待たせたら失礼だと思って急いで出たくなっちゃうけど、待った方がいいのね。そうすれば、鬱陶しいセールスの電話にも付き合わなくて済むわよね」

 弥生が話を発展させた。

「最近では、電話に出る前に、通話を録音するということを自動で相手に伝える機能が付いた電話機も市販されています。そういう電話機に替えれば、オレオレ詐欺は、ほぼ完全に防げます。警察から提供されたオレオレ詐欺などに使われた電話番号からの着信を自動的に拒否してくれる機能が付いた装置も売られていますね」

 山口が紅茶を飲みながら説明した。

「お父さんもそろそろ必要なんじゃないの?」

 テワタサナイーヌがからかうように言った。

「なんて失礼なことを!」

 山口が笑った。

「あはは。ごめんなさーい」

 テワタサナイーヌが日向を抱いて2階に逃げて行った。

「ごめんあさーい」

 日向が山口に手を振った。

 

──翌日

 山口宅の電話が鳴った。

「はい、山口です」

 弥生が電話に出た。

「おそれいります。わたくし、丸越デパート審査部の速水と申します。突然のお電話で申し訳ありません」

(丸越?取り引きないけど何かしら?)

 山口家では、中島屋デパートとの取り引きはあったが、丸越デパートとの取り引きはなかった。

「本日、あなた名義のカードを使用して買い物をしようとした人物がおりまして、弊社で不審な取り引きとしてピックアップされました。不審な取り引きとしてピックアップされますと、あなた様のあらゆるカード類での取り引きが止められることになります。これは、銀行のキャッシュカードも含まれますので、のちほど銀行協会からもご連絡が行くと思います。よろしくお願いします」

 電話の相手は、一方的に話すと電話を切った。

(ようやくうちにも来た)

 弥生は、これがキャッシュカードを騙し取るオレオレ詐欺だと見抜いていた。

「お父さん、来たわよ。カード預かり」

 弥生は、ミシンに向かって日向のワンピースを縫っている山口を呼んだ。

「来ましたか。どうしてくれましょうね」

 山口が楽しそうに答えた。

「騙された振りをする?」

「今日は、やることもなくて暇なので遊んでみますか」

 山口と弥生は、詐欺犯人を騙して捕まえることにした。

「早苗さん」

 山口は、2階に上がり日向と遊んでいたテワタサナイーヌを呼んだ。

「じーじ!」

 日向が山口に走り寄ってきた。

 山口が日向を抱き上げる。

「なーに?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、めっちゃかわいい!」

 キッチンからカウンター越しに大輔が騒いだ。

「うちにカード預かり詐欺の電話が来ました。騙された振りの現場設定をしようと思います」

 山口が日向の頬をつつきながら説明した。

「わっ、面白そう! やるやる。大輔くん、現場設定だよ!」

 テワタサナイーヌが目を輝かせた。

「早苗さん、現場設定用のキャッシュカードがありましたよね」

「あるある。都市銀全部揃ってる」

「では、それを貸してください。私は、弥生さんと中で対応しますから、早苗さんと大輔さんは、外張りをしてもらっていいですか」

「オッケー」

 任務分担が決まった。

 弥生が被害者役。

 山口は、家の中で待機して、現れた犯人を中から逮捕する。

 テワタサナイーヌと大輔は、家の外で待機して犯人の接近を見張り、万一、犯人が逃げようとしたときは、外から逮捕する。

 日向は、特に任務はない。

 1階の電話が鳴った。

「はい」

 弥生が電話に出た。

「こちらは、全国銀行協会の信用調査部です。先ほど、丸越デパートから通報があり、山口様のカードが不正に使用された疑いがあるとのことでした。このような場合、すべてのカード類を止める決まりとなっております。山口様のキャッシュカードも止める必要があります。その手続きを行うため、二、三確認をさせてください」

 電話の相手は、非常に丁寧な口調で趣旨を説明した。

「あ、はい、そうなんですね」

 弥生は、笑い出しそうなのを必死にこらえて、気弱そうに答えた。

「まず、山口様の口座を確認します。お持ちの口座の銀行名と残高を教えてください」

(きたきた)

 弥生がニコニコしている。

「えーと、銀行の口座ですか。うちの口座は、四菱銀行ですよ。残高はー…… いくらだったかしら? たしかー、200万くらいだったと思いますけど……」

 弥生のとぼけた演技が続く。

「ありがとうございます。四菱銀行で残高200万円ですね。次に、ご本人様確認のため、ご住所とキャッシュカードに設定している四桁の数字の暗証番号を言ってください」

(そうこなくちゃ)

 弥生が山口を見て楽しそうに微笑んだ。

「あ、本人確認なんですね。わかりました。住所は、千葉県…… 暗証番号は、5533です」

「ありがとうございます。ご本人様の確認が取れました。それでは、大至急山口様のカードを止めて口座を保護する必要がありますので、これから銀行協会の者をそちらに派遣いたします。その者にキャッシュカードをお渡しください。それで口座とカードは保護されます」

 犯人が流れるように嘘八百の説明をした。

(だめ、耐えられない)

 弥生は、吹き出しそうになるのを必死に耐えた。

「えっ、これからですか?」

「はい。すでにそちら周辺を巡回している三浦という職員がおります。三浦に向かわせますので、ご自宅でお待ちください」

「あ、はい、わかりました」

 弥生は、電話を切り山口に向かって親指を立てた。

「ばっちり。取りに来るって」

 弥生がウインクをした。

「早苗さん、大輔さん、外張りをお願いします」

 山口が2階で待機していたテワタサナイーヌと大輔に声をかけた。

「うまくいったのね。楽しくなってきた」

 テワタサナイーヌが大輔とともに、日向を連れて外に出ていった。

「三浦っていう人が来るそうよ」

 弥生が山口に伝えた。

「わかりました」

 山口が手にぴったりとフィットする革の手袋をしながら答えた。

 捕物には、革の手袋がいい。

 待つこと約1時間。

 山口のスマホが鳴った。

「はい」

「あ、私。受け子みつけた。電話しながらうちを探してる」

「了解」

 テワタサナイーヌが受け子を見つけた。

 テワタサナイーヌは、山口の家の近くにいて、家族で遊んでいるように振る舞っている。

 テワタサナイーヌの耳には、骨伝導のイヤホンマイクが仕込まれている。

 山口とテワタサナイーヌのスマホは、通話状態のまま、相互に会話ができるようにしてある。

「受け子は、だぼだぼの紺色スーツ。茶色いビジネスバッグを持ってる。頭は、今どきの高校生みたいな感じ」

 テワタサナイーヌから受け子の風体が知らされた。

「入るよ」

「了解。切ります」

 山口が通話を切った。

 

ピンポーン

 

 インターホンが鳴った。

 弥生と山口がインターホンのモニタを確認する。

 テワタサナイーヌから知らされた服装の若い男が落ち着きなく門の前に立っている。

「はーい」

 弥生が応答した。

「全国銀行協会の者です」

 受け子が答えた。

「あ、はい、お待ちください」

 弥生が答えてインターホンを切った。

 山口は、玄関に出るドアの陰に立って、姿が見えないように待機した。

 テワタサナイーヌは、外の少し離れたところから玄関の様子を窺っている。

 弥生は、ニセのキャシュカードを持ってドアを開けた。

「こんにちは。ぼく、全国銀行協会の三浦といいます」

 受け子は、首から提げたネームプレートを見せながら名乗った。

(あらまあ、こんな小道具まで作って熱心だこと)

 ネームプレートには、全国銀行協会のロゴと三浦の架空の役職と名前が印刷されていた。

 ただ、顔写真は刷り込まれていない。

(写真までは無理だったのね)

 弥生が同情した。

「あ、三浦さんですね。わざわざありがとうございます」

「山口さんの口座を保護するんで、四菱銀行のキャッシュカードを預かります。持ち帰って、すぐにカードを止めますんで」

 受け子が慣れない敬語を使いながら、たどたどしく言った。

(まだ高校生くらいね)

「あ、はい、じゃあこれ。よろしくお願いしますね」

 弥生がニセのキャッシュカードを受け子に渡した。

「はい、たしかに預かりました」

 受け子がキャッシュカードをビジネスバッグにしまった。

「警察です。詐欺未遂の現行犯で逮捕する」

 ドアの陰から姿を現した山口が警察手帳を見せながら受け子に迫った。

「えっ!」

 受け子の顔がひきつった。

 

「あっ、日向待って!」

 外で遊んでいたテワタサナイーヌの手を振り切って、日向が山口の家の門に向かって走った。

 テワタサナイーヌと大輔が後を追った。

 

「くそっ」

 受け子は、一言発すると同時に踵を返して荒々しく玄関を開け外に逃げ出した。

「待て!」

 山口が追った。

 受け子は、ビジネスバッグも放り投げて全力疾走で逃げる。

「あっ、日向!」

 弥生が叫んだ。

 

 日向が、山口の家の門の前で止まった。

 玄関から受け子が走ってくる。

「日向!」

 テワタサナイーヌも声を上げた。

 日向は、自分を呼んだテワタサナイーヌの方を振り返った。

 

 受け子は、日向の直前に迫った。

 このままだと日向が受け子に突き飛ばされる。

「日向!」

 テワタサナイーヌ、弥生、大輔が叫んだ。

 

「伏せ!!」

 

 山口が叫んだ。

 その声に日向が反応した。

 その場ですっと四つん這いになり背中を丸くした。

 次の瞬間、全力で走ってきた受け子は、足元で丸くなっている日向に足を取られた。

 日向で足は止まったが、身体は走っているときの勢いのまま前に進もうとする。

 受け子は、走ってきた勢いで前に飛んで道路に叩きつけられた。

「ぎゃっ!」

 倒れ込んだ勢いで顔を道路にしたたかに打ち付けた受け子が悲鳴を上げた。

「ぐぇ!」

 受け子が声にならない息を漏らした。

 追ってきた山口の膝が受け子の背中に勢い良く当てられたのだ。

 受け子は、鼻血を流し、呼吸ができず、泣きながら悶絶している。

 突進してくる人を真正面から止めるのは難しく危険を伴う。

 そのようなときは、突進してくる人の足元で小さくなり、足をひっかけるといい。

 思わず前に飛び出して転ぶことになる。

「早苗さん、110番。弥生さん、傷の手当の用意を」

 山口が指示を飛ばす。

「さあ、起きなさい」

 山口は、うつ伏せになっている受け子の襟首を掴み、ひょいっと起こして座らせた。

「手を後ろに回せ」

 受け子が両手を後ろに回した。

 山口は、ポケットの中からタイラップを2本出した。

 はじめの一本を右手親指に回して締めた。

 次の一本を右手親指についている環に通し、左手親指を締めた。

 これで簡易の両手錠になる。

「立ちなさい」

 山口は、座っている受け子を回すようにしながら上に引き上げて立たせた。

「傷の手当をしましょう」

 そう言って受け子を家の中に入れた。

 

「座りなさい」

 受け子を1階のリビングに通して椅子に座らせた。

 受け子は、震えながら泣きじゃくっている。

「どうもしません。傷の手当をするだけです」

 山口が笑顔で受け子に言った。

 弥生が血を拭き取り、鼻に脱脂綿を詰めた。

 そして、あちこちについた擦り傷の傷口についた石や土などを洗い流した。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 受け子は、泣きながら謝った。

「あなたいくつなの?」

 弥生が傷の手当をしながら訊いた。

「14です」

 受け子がしゃくり上げながら答えた。

「まだ中学生じゃない!」

 弥生が驚いた。

「誰に誘われたんですか」

 山口が優しく問いかけた。

「先輩す」

「そうですか。やっぱり先輩に誘われて断れなかったんですね」

「はい」

 中学生にとって同じ学校の先輩は絶対だ。

 逆らうことなどできない。

 その関係で受け子にリクルートされる少年が後を絶たない。

 間もなく地元警察署のパトカーが到着した。

「今回、受け子になってしまいましたが、これで君の人生は終わりじゃない。悪かったのは、君がやった行いだ。行いを改めさえすれば、君は悪い人じゃない。審判が終わったらうちに来なさい。歓迎しますよ」

 山口は笑顔で受け子を送り出した。

「すいませんでした」

 受け子は、山口に深々と頭を下げ、パトカーに乗せられ連行されて行った。

「立ち直ってくれるといいですね」

 山口が遠ざかるパトカーを見送りながら弥生に言った。

「そうですね」

 弥生がしみじみと答えた。

 

「今回もお手柄は、日向ですね」

 山口が日向を抱き上げてほめた。

「きゃー」

 日向は、わけもわからず喜んだ。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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当たり前

 テワタサナイーヌと大輔が結婚して二回目の正月を迎えた。

「明けましておめでとうございます」

「ござまーす」

 テワタサナイーヌ、大輔、日向(ひなた)の3人が揃って山口夫妻に新年の挨拶をした。

「明けましておめでとうございます」

 山口と弥生も挨拶を返した。

「はい、日向ちゃん。お年玉」

 弥生が日向にお年玉のポチ袋を差し出した。

「なーに?」

 日向は、お年玉の意味がわからず首を捻っている。

「これは、おとしだまといって、日向が一年間元気でいられますようにっていうみんなの気持ちよ」

 弥生がゆっくりと話して聞かせた。

「???」

 日向は、ますますわからず首を捻った。

「とりあえず、『ありがとう』って言ってもらっとけばいいのよ」

 テワタサナイーヌがざっくりと話をまとめた。

「うん!ありとー」

 日向がにっこり笑って弥生からお年玉を受け取った。

「わーい、わーい」

 日向は、ポチ袋を頭の上に掲げて部屋の中を走り回っている。

「意味はわからなくても、もらえたのは嬉しいのね」

 弥生がクスクス笑った。

「新年をお祝いして乾杯しますか」

 山口がグラスの用意をした。

「日向は、何飲む?」

 テワタサナイーヌが日向に飲み物のオーダーを取った。

「んー、ぎうにう!」

 そう言うと日向は冷蔵庫から牛乳のパックを出し両手に抱えて持ってきた。

 牛乳は、日向にとって水代わりの飲み物になっている。

「いれてー」

 日向は、まだコップに注ぐことができない。

 牛乳パックをテワタサナイーヌに差し出した。

「あ、はい、はい」

 テワタサナイーヌがパックを受け取って日向のコップに牛乳を注いだ。

 テワタサナイーヌ、大輔、弥生は缶ビールを開けた。

 山口はジンジャエールにした。

「今年も家族が健康でいられますように。乾杯!」

 山口が乾杯の音頭を取った。

「かんぱーい!」

「ぱーい!」

 全員で杯を合わせた。

「やっぱり家族っていいわー」

 テワタサナイーヌがしみじみと言った。

「家族で思い出しましたけど、大輔さんは実家に行かなくていいんですか?」

 山口が大輔を見た。

「結婚式にも来てくれなかったくらいですからね。行っても門前払いにされるんじゃないかと思うんですよ」

 大輔が苦笑した。

 

──二年前

 正月が明けて間もなく、大輔はテワタサナイーヌを連れて実家にテワタサナイーヌの紹介と結婚の意向を報告に行った。

 大輔の実家は、和歌山県でみかんの栽培をしている農家だ。

 実家には、両親と兄夫婦が生活している。

 みかん農家は、兄が継いでいる。

 テワタサナイーヌとの交際は、すでに電話で話をしてある。

 彼女の外見や生い立ちについても伝えていたので、初めて顔を見ても両親が驚くようなことはなかった。

「初めまして、山口早苗と申します。大輔さんとは結婚を前提としたお付き合いをさせていただいています」

 広い和室に通されたテワタサナイーヌは、座布団をあてずに正座で挨拶をした。

 テワタサナイーヌは、普段ほとんど着ないワンピース姿だった。

「大輔から話は聞いています。よく来てくれました」

 大輔の父が笑顔で迎えてくれた。

「早苗さんは、犬と人間の合の子ということですが、生まれたときからですか?」

「いえ、生まれたときは普通の人でした。小さいときに何らかの原因で犬の血が混ざってこうなりました」

 テワタサナイーヌがにこやかに説明した。

(いい感じのお父さんでよかった)

 大輔の父に受け入れられているようでテワタサナイーヌは安堵した。

「早苗さんも、これから池上の一員としてよろしくお願いしますね」

 大輔の母がテワタサナイーヌに話しかけた。

「そのことなんだけど……」

 大輔が口を開いた。

「ん、どうした?」

 大輔の父が訝しげな顔をした。

「俺、山口になろうと思ってる」

 にこやかだった父親の顔が険しくなった。

「なんだと」

 大輔の父が明らかに怒りを込めた声で大輔を問い詰めた。

 テワタサナイーヌは、場の雰囲気が怪しくなったのを感じとり、なるべく目立たないようにした。

「だから、結婚したら俺が早苗さんの姓を名乗ろうと思ってる」

 大輔が自信に満ちた声ではっきりと宣言した。

「ばか野郎!」

 大輔の父が怒鳴った。

「結婚したら男の名前になるのが当たり前だろ!女の名前になるなんて聞いたことない!お前、池上を捨てるのか?!」

 大輔の父は、今にも殴りかかりそうな勢いで詰め寄った。

「聞いたことがあるかどうかは関係ない。俺は、池上から山口になっても父さんの子だし、家族を捨てるつもりはない」

「ふざけんな!お前は池上も家族も捨てるっつってんだよ!そんな結婚、オレは認めんぞ!出てけ!二度と帰ってくるな!」

 大輔の父は、一方的に怒鳴り散らして部屋を出ていった。

 母は、どうしていいのかわからずにオロオロしている。

「こうなるとは思ってた。嫌な思いをさせてごめん」

 大輔が震えるテワタサナイーヌの肩を抱いた。

「帰ろう。義理は果たした。もうこの家には戻らない」

 大輔は、テワタサナイーヌの手を取り引きずるように部屋を出た。

 玄関を出て門まで歩いたところで大輔は足を止めると、家の方に向きを変え、深々と頭を下げた。

 テワタサナイーヌも大輔とともに頭を下げた。

 大輔の足下に黒い染みがいくつもできていた。

「行こう」

 大輔は、ふらつくテワタサナイーヌの肩を抱いて実家を離れた。

 大輔が実家を振り返ることはなかった。

「これでよかったの?」

 東京へ帰る新幹線の中で、それまで無言だったテワタサナイーヌが口を開いた。

「いいんす」

 大輔は、すっきりしたようないつもの顔に戻っていた。

 その表情に悲壮感はなかった。

「こうなるのは予想してたす。お父さんとお母さんには、俺から説明するす」

 そして、大輔側の参列者が誰もいない結婚式となった。

 

「あのときは、お父さんも興奮してたから振り上げた手をどう下ろしていいかわからず、意地になってたかもしれないでしょ。ずいぶん時間も経ってるし、日向が生まれたこともあるから、とりあえず、電話だけでもしてみたら?」

 弥生が大輔に連絡を勧めた。

「わかりました。あとで電話してみます」

「大輔くん、素直でいい子」

 弥生が大輔をほめた。

「とーたんいいこ」

 日向が弥生の真似をした。

「お、父さんいい子か?ありがとう」

 大輔が日向の頭を撫でた。

 日向は、気持ちよさそうに目を閉じた。

「それにしても『当たり前』って難しいわよね。大輔くんのお父さんにとっては、結婚したら男の姓を名乗るのが当たり前で、それが正しいことなんだもんね」

 弥生がため息を付いた。

「そうですね。当たり前だと思うことは疑うことがありません。そして、それが正しいと思っていると、その当たり前に反することは正しくない、間違っているということになります。だから受け入れられない」

 山口が続けた。

「そういうものですからって思えるといいのにね」

 テワタサナイーヌが山口の言わんとすることを代弁した。

「そうですね」

 山口が頷いた。

 

 大輔は、まず兄に家の様子を聞くために電話をかけてみた。

「あ、兄さん。久しぶり。なんか、いろいろ迷惑かけてごめん」

 大輔は、兄に謝った。

「大輔か。元気そうで安心したよ。実はな、ずっと話したかったんだけど、2年前のこと。お前と早苗さんが家を出て門で頭を下げただろ。あれ、ずっと親父が家の中から正座して見てたぞ。そのあともお前たちが見えなくなるまで見送ってた」

「そうだったんだ」

「それでな、『大輔と早苗さんには悪いことをした』ってずっと気にしてる」

「気にするくらいなら言わなきゃいいのに」

 大輔が苦笑した。

「だから、一回電話してやってくれないか。喜ぶと思うから」

「喜ぶかなあ。父さん頑固だから」

 大輔が頭を掻いた。

(しょうがない。電話してみるか)

 大輔は、実家の父に電話をした。

「あ、父さん。俺」

「俺?どこの俺だ。オレオレ詐欺か?」

 父は、大輔からの電話とわかると不機嫌な声を出した。

「大輔だよ」

「そんなことは最初からわかってる。なんの用だ」

 あくまでも不機嫌を装う父だった。

「実は、去年の3月に子供が生まれたんだ」

「なっ、ほんとか!?」

 父の声が弾んだ。

「あ、いや、そうか。よかったな」

 自分の声が弾んでしまったことに気づいた父は、努めて無愛想にしようとしていた。

(父さん、バレバレだし)

 大輔は、父の不器用さが嬉しかった。

「うん。早苗さんによく似た女の子だよ。犬耳もついててかわいいんだ」

 大輔が日向を紹介した。

「そうか。よかったな」

「こんど連れていくよ」

「二度と帰ってくるなと言っただろ。まあ、孫の顔だけでも見てやるから、来るなら勝手に来い」

(デレてるじゃん)

 大輔は、笑い出しそうだった。

「わかった、お正月の間に行けたら行く」

「そうか」

「じゃあ」

「ああ」

(相変わらずの不器用さだな)

「日向を見たいって」

 大輔は、テワタサナイーヌに電話の結果を一言で伝えた。

「そう。よかったね。明日にでも行っちゃおうか」

「うん。新幹線の予約しなきゃ」

 大輔の帰省が決まった。

「日向、お出かけだよ。初めての新幹線だよー」

 テワタサナイーヌが日向に山口が縫ったワンピースを着せた。

「かけ?」

 日向が首を傾げた。

「そう。もう一人のじーじのところに行くの」

「じーじ?」

 日向は山口を指差した。

「うん、そう。こっちのじーじと、もう一人じーじがいるの」

 テワタサナイーヌがゆっくりと説明した。

「ふーん」

 日向には理解できなかった。

「ってきまーす」

 日向が山口と弥生に手を振った。

「いってらっしゃい」

 山口と弥生も手を振った。

 

「明けましておめでとうございます」

 大輔とテワタサナイーヌが揃って挨拶をした。

「ござまーす」

 日向も真似をした。

「いらっしゃい。さ、上がって」

 大輔の母が三人を出迎えた。

 三人が広い居間に入ると、すでに父が座って待っていた。

 父は、腕を組み、不機嫌そうな顔をしている。

 しかし、その目は、明らかに日向を気にして、チラチラと見ているのがわかった。

「明けましておめでとうございます。ご無沙汰してしまいすみません」

 テワタサナイーヌが深い座礼をした。

「あ、おめでとう」

 大輔の父がぶっきらぼうに答えた。

「こわい」

 日向がテワタサナイーヌの陰に隠れた。

「大丈夫よ。あなたのじーじだから」

 テワタサナイーヌが優しく諭した。

「じーじ?」

 日向がテワタサナイーヌの肩口から顔を出して大輔の父を見た。

 大輔の父は、日向を横目で見ている。

 日向がテワタサナイーヌの後ろから出て大輔の父に歩み寄った。

「おめとー」

 そう言ってぺこりと頭を下げた。

「お、お、おめでとう」

 大輔の父が我慢できずに相好を崩した。

「日向ちゃんかい」

「はい!」

 日向が手を上げて元気に返事をした。

「賢いなあ」

 父は、すっかりデレデレになっていた。

「じーじ、じーじ」

 日向は、胡座をかいて座っている父の足の上に座ってニコニコしている。

 大輔の父も笑顔が消えない。

「父さん。名前の件は、ごめん」

 大輔が謝った。

「まあしょうがない。名前が変わっただけでお前を勘当したら、孫の存在まで否定しなきゃならないからな。日向に免じて勘当は赦してやる。だが、結婚については認めんぞ」

 父の精一杯の強がりだった。

「父さん、ありがとう」

「ありがとうございます」

 大輔とテワタサナイーヌが礼をした。

「け、結婚は認めんと言ってるのに、なんでありがとうなんだ。バカ」

 父は、顔を赤らめた。

「バカ、ダメ」

 日向が父の膝の上から父の顔を見上げて注意した。

「お、あ、ああ、すまない」

 全員が笑った。

「孫はかわいいのね」

 テワタサナイーヌが大輔の耳元で囁いた。

 大輔が無言で頷いた。

「これ、結婚式の写真です」

 テワタサナイーヌがカバンから四ツ切りサイズの写真数枚を出して父に見せた。

 礼服姿の大輔とウェディングドレスのテワタサナイーヌが二人で写真に収まっているもの、テワタサナイーヌひとりのもの、大輔がテワタサナイーヌに首輪をかけているものなどだった。

「つまらん意地を張ると損をするな」

 写真を見ながら父がつぶやいた。

「写真からでもいい式だったことが伝わってくる。その場にいなかったのが悔やまれる。済まなかった」

 父が謝った。

「大丈夫。父さんは必ず許してくれると思ってたから」

 大輔が胸を張った。

「俺は、許すとは言ってないぞ」

 父がうろたえた。

「あー、はいはい」

 大輔が笑った。

 大輔、テワタサナイーヌ、日向の三人は、大輔の実家で穏やかな一晩を過ごした。

 翌日。

「お世話になりました」

 テワタサナイーヌが大輔の両親と兄に挨拶をした。

「じゃあ、また来るよ」

 大輔も挨拶をした。

「またねー」

 日向は、訳がわからないなりに挨拶をした。

「ああ、また孫を見せに来い」

 大輔の父は、あくまでも孫を主に据えた言い方をした。

「俺たちはどうでもいいのかよ」

 大輔が突っ込んだ。

「早苗さんは歓迎するけど、お前は、どうでもいい」

「なんて親父だ」

 大輔と父が笑った。

「それでは、またお邪魔します。いろいろご馳走さまでした」

 テワタサナイーヌが挨拶をして全員で頭を下げた。

「ばいばーい」

 日向が手を振った。

「またおいで」

 大輔の父が日向に手を振った。

 

──その日の夕方

 在来線と新幹線を乗り継いでテワタサナイーヌらが帰宅した。

「おかえりなさい」

 山口がテーブルでみかんを剥きながら三人を迎えた。

「ただいまー。あれ、そのみかんの箱は?」

 テワタサナイーヌがリビングに置かれているみかん箱を指差した。

「あ、これね。大輔くんのご実家から今日届いたの。元日に発送してくれてたみたいよ」

 弥生が荷札を見ながら言った。

「私からお礼の電話を入れておきました。いい感じのお父様でしたよ」

 山口がにこやかに大輔に言った。

「親父……」

 大輔が涙ぐんだ。

「あっ!」

 山口が声を上げた。

「どうしたの!?」

 テワタサナイーヌが訊いた。

「みかんの汁が飛んでシャツに……」

 山口がしょんぼりした。

「あー、お父さん、みかん好きなくせに剥くの下手くそだもんね」

 テワタサナイーヌが呆れた。

「みかんは、和歌山むきっていうのがあって、こうするときれいに剥けるんです」

 大輔がみかんをひとつ取り上げ、あっという間に四つに割って身を取り出した。

「おお、大輔さん、見事ですね!」

 山口が感心した。

「みかんは、ヘタの反対側から皮を剥くのが当たり前だと思っていました」

 和歌山むきは、みかんのヘタの反対側に親指を突っ込み、まず半分に割る。

 次に、その半分を更に半分に割って四つに分ける。

 四つに分けたところをヘタの方から皮を剥くというより、身を剥がし取るようにする。

 そうすると、手早くきれいにみかんを剥くことができるのだ。

「父さん、当たり前には後ろがある。ものごとをクリティカルに考えろって教えてくれたのは、父さんですよ」

 大輔が得意気に言い放った。

「いや、これは参りました」

 山口が頭を押さえた。

「ところで、肝心のご挨拶はどうだったの?」

 弥生がテワタサナイーヌに訊いた。

「うん。ばっちり。お義父さん、日向にメロメロだった」

 テワタサナイーヌが親指と人差指で丸を作った。

「結婚は認めないけど、親子の縁は切らないでいてやるって。そうしないと日向との縁がなくなるからだって。精一杯意地張っててかわいかった」

 テワタサナイーヌが笑った。

「じーじ、ばか」

 日向が言った。

「えっ、私、ばかですか?」

 山口がショックを受けた。

「あ、そうじゃないの。むこうで、お義父さんが大輔さんのことを照れ隠しに『バカ』って言ったのよ。そうしたら、お義父さんの膝の上に座ってた日向が『ばか、だめ』って言ってたしなめたの。たぶん日向は、お義父さんがバカって言ったっていうことを教えたかったのよ」

 テワタサナイーヌが日向の頭を撫でながら説明した。

「そうだったんですか。一瞬生きる希望がなくなるかと思いました」

 山口が胸をなでおろした。

「いや、そこまでのものじゃないでしょう」

 テワタサナイーヌが苦笑した。

「バカ、ダメ」

 日向が得意そうに言った。

「そうね。バカはダメよね」

 弥生が日向を撫でた。

 日向は目を閉じて柔らかな舌を出し、嬉しそうな顔をした。

「親父は、本当に昔気質で、結婚したら男性側の姓を名乗るのが当たり前だと信じて疑わない人でした。それを日向が見事にひっくり返してくれました」

 大輔が日向をほめた。

「日向がひっくり返したのもあるでしょう。でも、お義父さんが2年間かけてご自分で考えた結果なんだと思います。日向は、きっかけにちょうどよかったんですね」

「当たり前と思っていることを覆すのは、並大抵のことではないです。お義父さん、実は、柔軟な考え方ができる方なのかもしれません」

 山口が大輔の父の気持ちを推察した。

「結婚は、認めてもらえなくてもいいんですよ」

 山口が笑った。

「えっ、なんで?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、めっちゃかわいい!」

 大輔が喜んだ。

「ありがとう。結婚したい?」

「結婚したい」

「じゃあ、ちゃんとプロポーズして」

 テワタサナイーヌが大輔を横目で見てクスクス笑った。

「あ、そうそう、なんで結婚を認めてもらえなくていいの?」

 テワタサナイーヌが訊き直した。

「あのね、この人も未だに私の父から結婚を許してもらえてないからなのよ」

 弥生が笑いをこらえながら言った。

「いいんです。結婚は両性の同意のみによって成立するんです」

 山口が開き直った。

「ね、同じようなもんよ」

 弥生が大輔に微笑みかけた。

「なんかあれね。当たり前だと思ってることが、実はそうじゃないって、たくさんあるのね」

 テワタサナイーヌが日向を抱き上げた。

 

「たくさん!」

 日向がはっきりと言葉を発した。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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対数正規分布

 3月。

 日向(ひなた)の保育所入所が決まり、テワタサナイーヌが仕事に復帰した。

 日向は、実年齢は1歳なのだが、身体の成長と発達の度合いから、3歳児クラスに入ることになった。

 お試し保育のときから日向は保育所を嫌がらず、すぐに保育士と打ち解けた。

 多少は嫌がるものと思っていたテワタサナイーヌの方が拍子抜けするほどだった。

「いってらっしゃーい」

 保育士と日向が手を振って送り出してくれた。

「いってきまーす」

 テワタサナイーヌも元気に手を振った。

 

 日向の保育所入所は、あっさりと決まった。

 テワタサナイーヌが市役所と直談判をしたからだ。

 

──1月

 テワタサナイーヌは、市役所の保育課にいた。

 日向が1歳になるのを待って仕事に復帰しようと考えている。

 そのために保育所への入所について相談をするためだ。

 日向は、特殊な身体だ。

 おそらく丸腰で相談に行っても門前払いされるのが目に見えている。

 テワタサナイーヌは、あらかじめ東大病院から「通常保育に支障ないものと認める」という診断書をとっていた。

 日向の血液型は、DEA4で極めて特殊だ。

 だが、そもそも保育所で輸血をするようなことは考えられない。

 血液型が保育を断る理由にはならない。

「山口さん、お待たせしました」

 保育課の職員がファイルを数冊抱えてテワタサナイーヌを迎えに来た。

「こちらにどうぞ」

 職員は、テワタサナイーヌをパーティションで仕切られた半個室に案内した。

「よろしくお願いします」

 テワタサナイーヌが挨拶をした。

「今日は、お子さんの保育についてご相談ということでよろしかったですか」

 テワタサナイーヌの首輪に気づいた職員は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに平静を装って話を続けた。

「はい。娘が1歳になるのを待って保育所に預けたいと考えています。ただ、見ての通り、私も娘も半分が犬という特殊な身体です。これでも保育所で預かっていただけるのかをお聞きしたくて参りました」

 テワタサナイーヌは、丁寧に説明した。

「基本的に住民票がある方のお子さんでしたら、お預かりしています。ただし、通常と異なる特別な対応が必要となるお子さんの場合は、保育をお断りすることがあります。山口さんのお子さんの場合、かなり特殊な身体と推察いたしますので、市の保育所でお預かりするのは難しいと思います」

 職員は、予想どおりの答えを出した。

「そうですか。通常と異なる特別な対応が必要でない場合は、外見が特殊でも受け入れていただけるということですね。つまり、外見は保育を断る理由ではないと解してよいのですね」

 テワタサナイーヌは、論理的に詰め寄った。

「は、はい。そういうことです」

 職員も認めざるを得なかった。

「ありがとうございます。産前から診ていただいている東大病院から、通常保育可能という診断書をいただいています」

 テワタサナイーヌは、クリアホルダから診断書を取り出して職員の前に差し出した。

「診断書は、わかりました。ですが、感染症などのリスクもありますから、この診断書だけでは受け入れられません」

 職員が抵抗した。

「感染症などもすべて検査済みです。必要があれば診断書をお出ししますが」

 テワタサナイーヌの目に凄みが増した。

「あ、そ、そうですか。そういうことであれば、検討できなくはないと思います」

 あくまでも断言をしない、役人のスタイルだ。

「検討していただけるのですね」

 テワタサナイーヌが畳み掛ける。

「はい、検討はさせていただきます」

(結果に責任はもてないという但し書き付きね)

 テワタサナイーヌは、腹で笑った。

「申し遅れましたが、娘の生育歴は、すべて東大に渡します。そして、それがそのまま学術資料となります。もちろん、保育所の入所に関しても学術的に検証されます。賢明なご判断をお願いいたします」

 テワタサナイーヌが頭を下げて部屋を出た。

 その日のうちに市役所から電話があり、日向の保育所入所は問題ないとの回答をもらうことができた。

 ただし、入所定員の関係で空きがない場合は、しばらく待ってもらうことになるかもしれないとのことだった。

(それはしょうがないよね。みんな待ってるんだから)

 テワタサナイーヌも納得した。

「なんとか保育所には入れてくれそうだよ」

 1階のリビングで椅子の背もたれに向かって座ったテワタサナイーヌが缶ビールを飲みながら報告した。

 缶ビールを置いてビーフジャーキーをかじる。

「ちょーだい」

 日向がテワタサナイーヌの肘を引っ張った。

「あ、欲しいの? はい、どうぞ」

 テワタサナイーヌがビーフジャーキーを小さくちぎって日向に差し出した。

「ありとー」

 日向が満面の笑みでビーフジャーキーを受け取ってぺこりと頭を下げた。

「どういたしまして」

 テワタサナイーヌも頭を下げた。

「とても美しいやり取りなんですけど、その座り方はどうなんでしょう」

 山口がテワタサナイーヌの座り方を注意した。

「えー、前は裸だったから注意されたけど、今日は服着てるからいいんじゃない?」

 テワタサナイーヌが不服そうな顔をした。

「はい、露出的には問題ないと思います。でも、日向は早苗さんのコピーですから、いいこと良くないこと、全部真似します。日向が小さいうちは控えたほうがいいような気がするんですが」

 山口は、自分の考えを強制しない。

「はーい、わかりましたー」

 テワタサナイーヌが膨れっ面で椅子を回転させて座り直した。

 

 育児休業明けの初出勤を終えて帰宅したテワタサナイーヌは、1階でビールを飲んでくつろいでいた。

 テレビのニュースでは、女児に対する連続わいせつ事件の発生を繰り返し伝えている。

 この事件は、都内の特定の地区で4歳から8歳までの女児が公園のトイレや団地の薄暗い自転車置き場などに連れ込まれて、性器を弄ぶなどのわいせつ行為を行うというものだった。

 同じような手口での犯行が2か月の間に10件以上連続して発生している。

 被害者の中には、性器への異物挿入で処女膜裂傷の負傷を負わされた者もいて、付近住民を恐怖に陥れている。

 警察も周辺パトロール強化や防犯カメラ映像の確認など、大規模な捜査を行っているが、いまだ犯人の手がかりが得られていないという。

 ただ、犯人はマウンテンバイクを使い、広範囲に移動しているらしいということは判明した。

「これだけ連続で被害が発生しているのに警察は何をやっているんですか。警察は、もっとしっかり捜査をして欲しいですね」

 テレビのコメンテーターが警察に対して辛辣なコメントを発している。

「しっかり捜査していると思うんですが」

 山口がため息をついた。

「聞き込みや防犯カメラでもホシにつながる情報がないんでしょ。もちろん前歴者も洗い出しているよね。他に打つ手はないの?」

 テワタサナイーヌが悔しそうに言った。

「あるにはあるんですが……」

 山口が拳を握りしめた。

 その後も被害は発生し、防犯カメラ映像から犯人らしいマウンテンバイクに乗った男の姿が確認されたが、犯人を特定することはできなかった。

「無能警察」

「これぞまさしく税金泥棒」

 ソーシャルメディアには、警察を非難する声が増え始めた。

「まずいな」

 山口の後を継いでアカウントを担当している大輔がメンションを見て独り言を言った。

 犯罪抑止対策本部のTwitterアカウントに対しても警察を非難するメンションが数多く寄せられるようになったからだ。

「なんか、こう『犯人はこいつだ』ってわかるような魔法みたいな手法はないの? よく海外ドラマとかであるじゃない。プロファイラーが犯人像を特定して、鮮やかに犯人を捕まえちゃうようなやつ」

 テワタサナイーヌがモニタを見ながら拳をデスクに打ち付けた。

「プロファイリングですね」

 山口が応じた。

「そう! プロファイリングで犯人を見つけちゃえばいいのよ!」

 テワタサナイーヌが人差し指を立てた。

「一口にプロファイリングといっても、二つに分けられますから、どちらを指しているかによって話が違ってきます」

「そうなの? 何と何?」

「海外ドラマなどで取り上げられることが多い『犯罪者プロファイリング』と、犯人の居住地や活動拠点を推定する『地理的プロファイリング』に分けられます」

 山口がプロファイリングの分類を説明した。

「へー、そうなんだ。じゃあ、それをやればいいんじゃない?」

 テワタサナイーヌがもっともな疑問を抱いた。

「そうですね。犯罪者プロファイリングは、手口捜査の延長のようなものですから、今の段階でもやっていると思います。それでも犯人につながる情報が得られていないのでしょう」

「じゃあ、地理的プロファイリングで犯人のヤサを見つければいいんでしょ」

「それが、日本では地理的プロファイリングの手法がまだ確立されていないんです」

「えーっ!? そうなの!? 信じられない」

「信じられないことですが、まだ発展途上です。発展途上というか研究者がいません」

「そこにいるじゃないですか」

 副本部長室から坂田の後任として着任していた大森警視長が顔を出した。

「え、どこにいるんですか?」

 テワタサナイーヌが大森に訊いた。

「テワさんのお父さんですよ」

 大森がにこやかに答えた。

「お父さんがですか?」

 テワタサナイーヌが驚きの声を上げた。

「そうですよ。山口さんは、日本でただ一人、山口さんにしかできない地理的プロファイリングの技術を開発した人です」

「なにそれ、聞いてないんだけど!」

 テワタサナイーヌが興奮した。

「刑事部から応援の要請がありました」

 大森が山口に伝えた。

「例の連続犯ですか」

「そうです。力を貸してください」

「かしこまりました」

 山口の顔が上気している。

「地理プロをやるにあたって、必要な環境を整えさせていただくことは可能でしょうか」

 山口が大森に伺いを立てた。

「山口さんが望む環境を提供しましょう」

「ありがとうございます。それでは、ArcGISとそれのプラグインであるSANET、あと、計算ソフトのRを導入した環境をお願いいたします。それから、かなり高負荷な演算を行いますので、できるだけハイスペック、特にメモリをふんだんに積んだマシンをご用意願います」

「わかった。全部提供させる」

 大森が快諾した。

 その二日後には、山口のデスクにミドルタワーのパソコン一式がセットされた。

 パソコンには、山口が要求したアプリケーションがすべてインストールされていた。

「あとは、今までの発生場所を一覧表でご提供ください」

 山口が大森にリクエストした。

「すぐに出させる」

 大森は、その場で刑事部参事官に電話をして、発生場所のデータを山口まで届けるように依頼した。

 10分もしないうちに刑事部の職員が発生場所のデータを記録したUSBメモリを持参した。

「ありがとうございます。早ければ明日には結果をお返しできます」

 山口が礼を言った。

「お父さん、話しかけていい?」

 珍しく真剣な表情の山口にテワタサナイーヌが恐る恐る声をかけた。

「いいですよ。どうぞ」

 山口が作業の手を止めてテワタサナイーヌを見た。

「お父さんは、一体いつ地理プロの技術を開発したの?」

「私が犯抑に来てすぐです。まだテワさんや大輔さんが着任する前ですね」

「へー、そうなんだ。でも、地理プロは、犯抑の主管業務じゃないよね。なんで?」

「少しでも現場の方の無駄を少なくしたいと思ったからです。地理プロというのは、犯人の家がここにありますと予言するような技術ではありません。あくまでも確率論として『このあたりに拠点があると推定される』ということしかできません。それでも、まったく手がかりがない中で、闇雲に広範囲に人を投入するよりも、少しでも優先順位を付けて集中的に人を投入して時間と人的リソースの節約を行ったほうがいいという思想です」

「なるほどー。そういうものなのね。私、プロファイリングって、もっと魔法みたいな神秘的なものなのかと思ってた」

「そういうイメージがありますよね。犯罪者プロファイリングには、なんとなくそんな側面がなくもないですが、地理プロに限っては、完全に統計学というか確率論の世界です」

「お父さん、大学で統計学専攻したの?」

「してません」

「じゃあ、高校のとき数学が得意だったとか?」

「苦手でした。高校1年のときは成績が1でした」

「ダメじゃん」

「そうです。ダメな生徒でした」

「なのに、なんで統計学の世界に首を突っ込んだの?」

「面白そうだと思ったからです」

「そんな理由なんだ」

「面白そうと思うことは、最強の動機です」

「そっか。そう言われてみればそうね」

 テワタサナイーヌが頷いた。

「副本部長が『日本で一人しかできない技術』って言ってたでしょ。あれはなんで?」

「それは、私が開発しただけで、警視庁として正式に採用されたものではないからです」

「つまり、当たらないってこと?」

 テワタサナイーヌが笑った。

「なんて失礼なことを」

 山口も笑った。

「当たりますよ。かなり」

 山口が作業を続けながら控えめに自慢した。

「いま、数理的な地理プロの世界的なスタンダードになりつつあるのが、カナダのバンクーバー市警察に所属していた警察官でキム・ロスモという人が開発したCGTという手法です。私は、これを日本の道路事情に合うように改良したんです」

「どういう風に? ていうか、そもそもCGTって何?」

 テワタサナイーヌが首を傾げた。

「テワさん」

「なーに?」

 二人の会話は、ここから始まる。

「テワさんが、今回の事件の犯人だとします」

「えー、私幼女に興味ない」

「いえ、だから仮定の話です」

「わかってまーす」

「テワさんが、犯人だとして、自分の家の近くで犯罪を犯そうと思いますか?」

「思わない」

「なぜですか」

「知ってる人に見られるかもしれないじゃん」

「そうですね。ですから、犯人の家に近いところで犯罪が行われる確率は低くなります。では、逆にずっと遠くではどうですか?」

「うーん、それも嫌かな。だって戻ってくる間に職務質問や検問に遭うかもしれないでしょ」

「そうでしょう。だから、家から遠くなればなるほど犯罪が行われる確率が低くなります。そうすると、家からの距離が離れるにしたがって、犯罪が行われる確率が徐々に高くなります。そして、一定の距離を境に今度は確率が下がっていくことになります。その確率を図にするとこういう形になります。

 

【挿絵表示】

 

 山口は、手元にあった紙の裏にグラフを書いてみせた。

「こういう形を描くグラフを距離減衰関数といいます。そして、この形を描く現象というのは、自然界に割りと多くて、対数正規分布という確率密度関数で表されることがしばしばあります」

「うん。わかんない」

 テワタサナイーヌがぽかーんと口を開けている。

「難しいことはわからなくてもいいです。今言った対数正規分布を一連の事件に適用して、犯人の住居や活動拠点のありそうなところを推定するのが私の手法です。CGTと違うところは、距離の算出方法と距離減衰関数の式です。CGTでは、距離を縦軸と横軸に沿って計測します。こういう距離の出し方をマンハッタン距離系といいます。海外のように道路が碁盤の目に整備されているところでは、これが最短移動距離になりますから、マンハッタン距離系でうまく当てはまります。ですが、日本では碁盤の目のように道路が整備されているところは少ないです。なので、私は道路を移動する道のりを距離として採用しています。こういう距離の出し方をネットワーク距離といいます」

「ますますもってわからなくなってきた」

 テワタサナイーヌの頭が倒れたまま起き上がらなくなった。

「まあ、そのネットワーク距離と対数正規分布を使って犯人の住居を推定しようというわけです」

「それがキモなのね」

「はい。キモなのです。ただ、犯人の移動手段や罪種によって距離減衰関数のピークをどこにするかという問題があります。そこは、経験と勘の世界です。ケースを積み上げれば何らかの定数が得られるかもしれませんが、今のところはまだ職人芸と言わざるを得ません」

「やっぱり刑事の経験と勘は必要なのね」

「はい。科学捜査が進んでも、刑事の経験と勘が不要になることはありません。プロファイリングは、刑事の経験と勘を補完する役割でしかないのです」

 山口は、テワタサナイーヌと会話しながら休みなくパソコンで演算や地図の操作を繰り返している。

「ここが一番負荷の高い作業になります」

 山口が作業開始のエンターキーを叩いて背伸びした。

「なにをしてるの?」

 テワタサナイーヌが質問した。

「地図の範囲を数十万の細かいメッシュに切ります。そのひとつひとつのセルから各犯行地点までのネットワーク距離を計測して、距離減衰関数に代入します。そして、得られた数値を合計してそのセルのポイントとします。この演算をしてるところです」

「ごめん。聞いた私がバカだった」

 テワタサナイーヌが両手を上げた。

「負荷が高いといっても、ハイスペックなマシンを用意してもらえましたから、もうすぐ終わると思います」

 山口が紅茶をすすった。

「あ、終わりましたね。そうしたら、この結果を各セルに代入して地図表示させればできあがりです」

「えっ、もう終わっちゃうの?」

「そうです。数理的に処理するだけなので簡単なんです」

 山口は、できあがった地図をテワタサナイーヌに見せた。

 

【挿絵表示】

 

「へー、なんかきれいな地図になるのね」

 テワタサナイーヌが感心した。

「この地図の赤くなっているところが高確率域。つまり、犯人の住居や活動拠点があると推定されるところです。高確率のところから順に人を投入するのが効率的といえます」

 山口が説明した。

「なるほどねえ」

 テワタサナイーヌは、感心して言葉も出ない。

「でも、よく見てください。この地図だと川も確率を計算していますから、高確率のところが川の上だったりします。人は道路を移動します。ですから、平面ではなく道路に確率を反映させることで、より具体的なイメージを提供することができるんです。それがこの地図です」

 山口が別の地図を表示させた。

 

【挿絵表示】

 

「うわー、きれい! こっちの方がずっとわかりやすい。道路に色が付いてるもんね」

 テワタサナイーヌが歓声を上げた。

「これを刑事部に提供して、捜査に使ってもらいましょう」

 山口がサンプルをプリントアウトして大森に見せ、データを刑事部に送信した。

 

 

「犯人の部屋からは、大量の児童性愛を描いたマンガやアニメ作品が発見され、警察に押収されました……」

 テレビから連続女児わいせつ犯逮捕のニュースが繰り返し流れてくる。

「お父さんの地理プロが当たったんだって?」

 テワタサナイーヌがテレビを見ながら山口に訊いた。

「はい。私が作った地図の高確率域の中に犯人の家があったそうです」

 山口が嬉しそうに答えた。

「すごいじゃない。ばっちり当たったってわけね」

「今回は、ですよ。すべての事件で当たるわけではありませんから」

 山口が謙遜した。

「日向もこういう男にひっかからないようにしないとね」

 テワタサナイーヌが忌々しそうに画面を見つめる。

「児童性愛ってロリコンのことでしょ? まったく理解できない。なんで子供に萌えるわけ? 変態なの?」

 テワタサナイーヌが吐き捨てた。

「そうねえ、私にも理解不能。ていうか気持ち悪いわよね」

 弥生が頷いた。

「日向を裸にして、あんなことやこんなことをするようなマンガやアニメなんでしょ…… ぎゃーっ、絶対に許せない! ぶっ殺してやる!」

 テワタサナイーヌが怒りをぶちまけた。

「テワさん、テワさん」

 大輔がテワタサナイーヌに声をかけた。

「なによ! 変態!」

 テワタサナイーヌが大輔に当たり散らした。

「いや、俺は犯人じゃないし」

 大輔が苦笑した。

「お怒りはごもっともだと思うんだけど、この犯人が観てたのは、マンガやアニメ作品でしょ。実在の子供を対象にした児童ポルノとは違うよ」

「あ、あんた犯人の肩を持ってる。さては、あんたもロリコン?」

 テワタサナイーヌが大輔を睨んだ。

「ははは。俺はテワさんラブだから。三十過ぎた幼女はいないっしょ」

 大輔は、テワタサナイーヌの攻撃を相手にしないで受け流した。

「うん。わかった。それならいい。でも、なんで犯人の肩を持つようなことを言うのよ」

 テワタサナイーヌは、そこがまだ納得できなかった。

「いや、俺だって犯人に同情できるところはひとかけらもないよ。だけど、その怒りをマンガやアニメに向けるのは、ちょっと筋違いじゃないかなって思うんだよね」

「えー、どうしてよ。そんなもん読んだり観たりしてるからロリコンになって犯罪に走るんじゃない。なくしちゃえばいいのよ」

 テワタサナイーヌの怒りはまだ収まらない。

「まだ収まらないみたいですね」

 大輔が苦笑しながらビールを飲んだ。

「ロリコンのマンガやアニメに触れるからロリコンになるのかな?」

 大輔がテワタサナイーヌに疑問を投げかけた。

「え? どういうこと? 当たり前じゃない」

 テワタサナイーヌがきょとんとした。

「いや、ロリコンものに興味がない人が、ロリコンものの作品を観るのかなってこと」

 大輔が落ち着いた声で答えた。

「観たいと思うから観るんでしょ」

 テワタサナイーヌが憮然とした表情で応じた。

「そうだよね。観たいから観るんだよね。だから、ロリコンものの作品が犯人を作り出したんじゃなくて、もともとロリコン気質がある人だからロリコンものの作品も観るし、子供に手を出すんじゃないかな」

 大輔がゆっくりと説明した。

 大輔の説明の仕方が山口に似てきた。

「んー? 言われてみればそうよね。ロリコンじゃない人がロリコンものの作品を観ても気持ち悪いだけだもんね。そもそも観ようと思わないか……」

 テワタサナイーヌが頬杖をつきながら頷いた。

「そうでしょ。だから、さっきみたいな事件があると、だいたい『犯人の部屋からロリコンものの作品が押収された』みたいなニュースになって、『あ、ロリコンものを観てるやつは犯罪者になるんだな』っていう意識ができるじゃない。つまり、子供に対する犯罪を犯した犯人の部屋には、高い確率でロリコンものの作品がある。ゆえに、ロリコンものの作品が部屋にある人は犯罪者になるっていうことになってしまうけど、それって因果関係が逆だよね。ロリコンという性癖があるからそういう作品を観ているわけで。でも、たいていのロリコンの人は犯罪者じゃない。統計がないから断言できないけど、ロリコンの人の中のどれくらいの割合の人が犯罪を犯すのかっていうことと、非ロリコン群の人の中から犯罪者が出る割合を比べないと、ロリコン=犯罪者とは言い切れないよね」

 普段あまり長々と持論を述べない大輔が珍しく語った。

「大輔くんの言うとおりだわ」

 テワタサナイーヌも大輔の説明が腑に落ちた。

「でもさ大輔くん」

「なに?」

「ロリコンの作品って、そもそも児童ポルノで違法じゃないの?」

 テワタサナイーヌが大輔を見つめた。

 実は、テワタサナイーヌは答えを知っていたが、大輔がどれくらい知っているか確かめたのだ。

「え、ものによるでしょ。二次元だったら児童ポルノじゃないし、三次元だと児童ポルノで違法だよ」

 大輔はすらすら答えた。

「さすが大輔くん。ちゃんと知ってたんだ」

「もちろんでございましょうとも。そこを混同してる議論が多いよね。幼児性愛を描いた作品は、全部児童ポルノだ、みたいな」

「児童ポルノの定義を読めばわかることだけどね。児童ポルノは『児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したもの』っていう定義があるでしょ。で、児童って18歳未満の者なわけ。『者』だから自然人じゃなきゃいけない。そうなると、二次元表現は、児童ポルノに該当しない」

 大輔が児童ポルノの定義を説明した。

「大輔さん、よく勉強してますね」

 山口が口を挟んだ。

「前にも一度言いましたが、法律は第1条をよく読まないといけません。児童ポルノ処罰法の1条には『児童の権利を擁護することを目的とする』と書かれています。つまり、実在の児童を保護することが目的です。それ以外の目的はありません。ですから、実在の児童をモデルとしない二次元表現は、この法律による規制の対象にはならないということです」

 山口が紅茶を飲みながら続けた。

「ロリコンものの作品が気持ち悪いと思うのは否定しません。表現に対する感じ方は人それぞれですから。ですが、『俺が不快に感じるから』という理由で他人の表現を規制しようとするのは乱暴です。それを許容してしまうと、あらゆる表現が規制可能になってしまいます。『俺の表現は規制されるべきでないが、あれは規制されるべきだ』というのは、ただのわがままでしかありません。法律にダブルスタンダードは許されないのです」

 オタク気質の山口は、主観的な基準による表現規制に強い危惧を抱いている。

「これと同じようなことが、子供の成績とスマホ利用時間の相関などでもよく言われます。スマホ利用時間が長くなると、その子供の成績が悪くなる、というような調査結果のときです。成績がよくない子というのは、そもそも勉強したくないんです。だからスマホやゲームをするんです。そういう子からスマホやゲームを取り上げても勉強はしません。他のことをやるだけです。わかりやすい相関関係があるものに目をつけて、それを悪者にするのは簡単です。でも、それが本当の因果関係にあるのかは甚だ疑問です。このように、他に原因となることが隠されているにもかかわらず、あることとあることに相関関係が現れることを擬似相関といいます。これはたくさんありますから統計を読むときによくよく気をつけないと、間違いを犯すことになります」

 山口が力説した。

 

「ということで日向は、勉強好きですか?」

 山口が日向の頭を撫でた。

「しらなーい」

 日向が首を振った。

「そうですね。まだわかりませんね」

 山口が笑顔で応えた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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夏休み(上)

 照りつける太陽に日向(ひなた)は目を細めた。

「あつーい」

 日向は、山口が縫ったトロピカルなプリント柄のワンピースを着て、額の汗を拭った。

 彼女は、テワタサナイーヌのぬいぐるみを小脇に抱えている。

 

 ここは那覇空港。

 山口一家は、夏休みを沖縄で過ごすため、羽田から飛行機で到着したところだった。

 日向は、犬耳の部分を切り取った麦わら帽子を頭に乗せ、くるくると走り回ってはしゃいでいる。

「あー、リゾートはいいわねえ。堂々と裸になれる」

 テワタサナイーヌが背伸びをした。

「テワさん、いままで水着になったことないでしょ。なってもラッシュガード着込んでたし」

 大輔が日向に引っ張られながら言った。

「ふふーん。今回は脱いじゃうよ。背中の傷だって見せちゃうもんね」

 テワタサナイーヌが不敵な笑いを浮かべた。

「早苗ちゃん、変わったわね」

 弥生がテワタサナイーヌに言った。

「背中の傷は、私が行きてきた証だもん。隠したら自分の人生を否定することになっちゃうでしょ。恥ずかしくなんかないよ」

「すっかり自信を取り戻しましたね」

 山口が嬉しそうに弥生を見た。

「では、さっそく……」

 そう言うとテワタサナイーヌは、着ていたTシャツを脱いだ。

 Tシャツの下からは、緑をベースにした鮮やかな色彩のセパレート水着が現れた。

「おーっ」

 大輔が声を上げた。

「おかーさん、かっこいい!」

 日向が喜んだ。

 モデルのようなスタイルのテワタサナイーヌが、白い短パンに緑の水着で歩くと、否が応でも周りの視線を集める。

 しかも、その首には赤い革の首輪がはめられている。

 おまけに、犬耳、獣毛。

 さらには、背中に長い傷痕がケロイド状に盛り上がっている。

 目を引かないわけがない。

 そんな周囲の視線をまったく気にすることなく、テワタサナイーヌは自信たっぷりに歩いている。

「ひなたもぬぐー!」

 日向がワンピースを脱ごうとした。

「ちょっ、あなたは脱いじゃダメ!」

 テワタサナイーヌが慌てて制止した。

「なんでー? おかーさんぬいでる」

 日向が膨れっ面でテワタサナイーヌのぬいぐるみを振り回した。

「日向は、下に水着を着てないから脱いじゃダメなの。ホテルに着くまで我慢して」

 テワタサナイーヌが済まなそうに言った。

「おかーさんだけずるーい」

 日向は、大人と同じように扱われないことに不満をもった。

「ごめん、ごめん。じゃあお母さんもTシャツ着るから」

 テワタサナイーヌは、脱いだTシャツを着た。

「ん」

 日向が満足そうに頷いて笑顔になった。

「抜け駆けできないわね」

 テワタサナイーヌが舌を出した。

「そうね。日向は、早苗ちゃんのことをよく見てるから」

 弥生がテワタサナイーヌの頭を撫でた。

「てへ」

 テワタサナイーヌが気持ちよさそうに目を閉じた。

 

「いいですか。行きますよ」

 大輔が全員のシートベルトを確認してレンタカーを発進させた。

 山口一行は、5人なのでセダンでも乗れるのだが、日向用にチャイルドシートを付けてもらう関係で7人乗りのミニバンを借りることにした。

「お願いしまーす」

 大輔を除く全員で声を出した。

 運転手を除く全員で声を出すのが山口家のお約束だ。

 レンタカーの営業所を出て間もなく、空が真っ黒な雲に覆われ、突然激しい雨が降り出した。

「前が全然見えないです」

 大輔が必死に目を凝らすが、前を走っている車さえ見つけることができない。

「少し止まった方がいいですかね」

 山口が提案した。

「そうですね。でも、こんなに視界が悪いと、へたに止まると追突されるんじゃないでしょうか」

「それもそうですね」

 大輔は、なんとか道路のラインを頼りに走り続けた。

 前が見えないほどの雨は、すぐに上がり、雲の切れ間からまぶしい陽の光が射してきた。

「いやー、怖かったです」

 大輔がほっとしたように言った。

「あれがスコールっていうやつなのかしらね」

 チャイルドシートにくくられた日向の隣からテワタサナイーヌが言った。

「あめ、たくさんだった」

 日向がテワタサナイーヌを見ながら手で雨が降る様子を作った。

「すごかったね」

 テワタサナイーヌが日向に答えた。

 山口一行を乗せた車は、那覇市内から本島を横切り東海岸に出た。

 沖縄本島の東海岸は、西海岸ほどの賑やかさはない。

 車は、東海岸を北上する。

 金武町あたりを過ぎると、あまり営造物もない自然の海岸線が続く。

 山口らの車は、さらに北上を続け、大浦湾をぐるっと周回するすように回り、湾の東側にあるリゾートホテルに到着した。

 そのホテルは、ゴルフコースを持つ広大な敷地の中にある。

 あまりにも敷地が広いため、ホテル内の移動には電動カートを使う。

「じどーしゃ!」

 日向は、カートを見つけて大喜びしている。

 山口らは、2台のカートに分乗して海岸線に建つ客室を目指した。

「うわー! きれいな部屋!」

 カートを停めて部屋に入ったテワタサナイーヌが歓声を上げた。

「素敵な部屋ねえ」

 弥生も部屋の中を見回してため息をついた。

「わーい!」

 日向が天蓋付きベッドに飛び込んだ。

 部屋は、広い窓から海を見渡すことができ、窓の外にはバルコニーがあり、バルコニーには木のテーブルと椅子が置かれている。

 浴室もガラス張りで海を見ながら入浴することができる。

「うみ?」

 日向は、初めて海を見る。

「そう。海よ」

 テワタサナイーヌが日向をバルコニーに連れ出した。

「おかーさんのめ」

 日向が海を指差した。

「あー、そうね。お母さんと日向の目の色と似てるね」

「ひなたのめ?」

 日向が首を傾げた。

「そうよ。あなたの目もお母さんと同じ色なのよ。おいで」

 テワタサナイーヌが日向を部屋の中の鏡台に前に連れて行き、二人で鏡の前に立った。

「あ、おんなじ」

 日向が目を丸くした。

「こっち、ちがうよ」

 日向が鏡に映った自分の右目を指してテワタサナイーヌに言った。

「うん。日向の右目は、ちょっと違う色ね」

「おもしろーい」

 日向が喜んだ。

「みみ、おんなじ。め、おんなじと、こっちちがう」

 日向が鏡に映る自分とテワタサナイーヌの違いを説明した。

「そう。よくわかったわね。えらい」

 テワタサナイーヌが日向の頭を撫でた。

 日向は、嬉しそうに目を閉じて舌を出した。

 

 テワタサナイーヌと日向は、夕日を眺めながらのんびりと入浴した。

「おふろ、きもちいい」

 日向がバスタブの縁につかまり、足をばたつかせた。

「おかーさん」

「なーに」

「ひなた、け、ないよ」

 日向が自分の身体とテワタサナイーヌの身体の違いに気づいた。

「ないねえ。なんでないのか、お母さんにもわからないのよ」

「ふーん。そういうもの?」

「あらっ、日向ったら、いつの間に覚えたの?」

 テワタサナイーヌが驚いた。

「へへ」

 日向が笑った。

「おかーさん、いたい?」

 日向がテワタサナイーヌの背中の傷痕を触った。

「ううん。痛くないよ」

「ひまわり?」

「えっ!?」

 テワタサナイーヌが身体を硬直させた。

(そうか。この子は知ってるんだ)

「そうよ。ここにヒマワリがいるの。撫でてあげて」

 テワタサナイーヌが日向の方を振り返った。

「うん」

 日向が傷痕を撫でた。

 テワタサナイーヌは、傷痕を通してヒマワリと日向が交流しているのを感じた。

「ひまわり、いたよ」

 日向が言った。

「どこにいたの?」

 テワタサナイーヌが言うと、日向はテワタサナイーヌのお腹に手を置いた。

「ひまわりと、おはなしした」

「そう。なにをお話ししたの?」

「うーん。わかんない」

 日向が肩をすくめた。

「いま、ヒマワリはどこにいるの?」

 テワタサナイーヌが訊いた。

「ここ!」

 日向は、下を向いてしばらく考えていたが、ぱっと顔を上げて犬耳を摘んだ。

「ここにいるのね」

 テワタサナイーヌも日向の耳を摘んだ。

 訳もなく涙があふれた。

 いつの間にか夕日が水平線に沈み、夜の気配が空を覆っていた。

 

「まさか日向がヒマワリの記憶を持って生まれてきたとは思わなかったわ」

 カートで移動した別の建物のレストランで夕食を摂りながらテワタサナイーヌが夕方にあったことを話し始めた。

「どういうこと?」

 弥生が首を傾げた。

「さっきお風呂に入っていたらね、日向が私の傷痕を見て『ひまわり?』って訊いたのよ。ヒマワリのことなんて一度も話したことないのに」

 テワタサナイーヌがグラスのワインを口に運んだ。

「でね、お腹の中の記憶を持ってて、お腹の中でヒマワリとお話をしてたって。何を話してたかは覚えてないみたいだけど」

 テワタサナイーヌが続けた。

「お腹の中の記憶を持って生まれてくる子がいるっていうのは聞いたことがあるけど、それがまさかヒマワリだったとは驚きね」

 弥生が感心した。

「そうでしょ。それで、今、ヒマワリがどこにいるかって訊いたら、自分の耳を摘んで『ここ』ってはっきりと答えたの。日向の中にヒマワリが受け継がれたのね」

 テワタサナイーヌが涙ぐんだ。

「にくっ!」

 しんみりするテワタサナイーヌの横では、日向がローストされたスペアリブを手づかみにして夢中でかじりついている。

 日向が食べ終わったスペアリブの骨には、ほとんど肉が着いていない。

「いつもながら上手に食べるわね、あなた」

 テワタサナイーヌが感心したように食べ終わった骨をつまみ上げた。

「にっ」

 日向が犬歯を剥き出しにして見せて笑った。

 

 夕食を楽しんだ山口たちは、ハンドルキーパーの山口と大輔が運転するカートに乗って部屋に戻った。

「今日は、俺と父さんがハンドルキーパーだったけど、明日は代わってくれるんだよね?」

 大輔がテワタサナイーヌに訊いた。

「え、他に誰が運転できるの?」

 テワタサナイーヌがきょとんとした。

「まさか、この旅行中、ずっと俺は飲めないっていうわけ?」

 大輔がショックを受けた。

「お父さんだってずっと飲まないんだから、あんたも我慢しなさいよ」

「いや、父さんは飲まないんじゃないくて飲めないんでしょ」

「あはは、冗談。明日は私が運転してあげる」

 テワタサナイーヌが大輔の肩を叩いた。

「頼むよ」

 大輔が安堵した。

「日向、歯磨きするよ。おいでー」

 テワタサナイーヌが洗面所から日向を呼んだ。

「はーい」

 日向が洗面所に走って行った。

「あなた、もうほとんど永久歯に生え替わっちゃってるから、きちんと歯磨きしないとね。虫歯になると面倒だし」

 テワタサナイーヌが日向の歯を磨いた。

「はい、おしまい。ぐじゅぐじゅして」

 テワタサナイーヌが日向のお尻を軽く叩いた。

「んー」

 日向がコップに水を張って口をゆすいだ。

「にー」

 日向は、テワタサナイーヌに歯を見せた。

「ん、大丈夫。きれいになったよ」

「ありがとー」

 日向がぺこりと頭を下げた。

「どういたしまして」

 テワタサナイーヌも頭を下げた。

「じゃあ日向は寝る時間」

 テワタサナイーヌが日向を天蓋付きのベッドに寝かせた。

「おやすみなさーい」

 日向が全員に挨拶をした。

「はい、おやすみなさい」

 山口が返した。

 おやすみなさいを言ったものの、いつもと違う雰囲気の部屋とベッドに興奮した日向は、なかなか寝付けず、ベッドの上をごろごろと転がっている。

「日向は、私たちがみてるから、二人はバルコニーで飲んでくれば?」

 ソファに腰かけた弥生がテワタサナイーヌたちに声をかけた。

「いい? 大輔くん、飲めるよ」

 テワタサナイーヌが冷蔵庫からオリオンビールを2本取り出した。

「じゃあ、お願い」

 テワタサナイーヌが弥生に軽く頭を下げて、大輔と二人でバルコニーに出た。

「乾杯」

 テワタサナイーヌと大輔が缶ビールで乾杯した。

 バルコニーには、ほのかに月明かりを映す海から波の音だけが繰り返し聞こえてくる。

 二人は無言のままビールを飲みながら星空を見つめた。

「月がきれいですね」

「死んでもいいわ」

 二人が同時に吹き出した。

「お約束ですね」

「うん」

「来世でも結婚してください」

 大輔が空を見ながら言った。

「なにそれ?」

 テワタサナイーヌが笑いだした。

「いや、ほら、現世ではプロポーズできなかったから、来世こそちゃんとプロポーズしようと思って」

「プロボーズの予約っていうわけ?」

「うん。来世でも結婚できたらいいなっていう願望も込みで」

「ふふ」

 テワタサナイーヌが口元に手を当てて小さく笑った。

「はい。来世でも大輔くんのお嫁さんにしてください。そして、また首輪でつないでください」

「やった!」

 大輔が両手の拳を突き上げた。

 

 翌日、テワタサナイーヌと大輔は、日向を連れて海岸に遊びに出た。

 もともとゴルフをすることを前提にしたホテルなので、マリンアクティビティは、それほど充実していないし、遊べる海岸も狭い。

 それでも、初めて海に触れる日向には十分だった。

 はじめは、波が打ち寄せるたびに砂浜に逃げていた日向だったが、少しずつ波にも慣れて、腰ぐらいの深さまで歩いていけるようになった。

 午前中いっぱい波と戯れ、日差しが強くなる昼食後は、涼しい部屋で昼寝をした。

「日向、お洗濯行かない?」

 テワタサナイーヌが昼寝から覚めた日向を洗濯に誘った。

 部屋には洗濯機がない。

 少し離れた建物の中にコインランドリーがある。

「いく!」

 日向が元気に手を上げた。

「じゃあカートに乗って行こう!」

「おー!」

 テワタサナイーヌと日向は、カートでコインランドリーがある建物を目指した。

「ふーっ!」

 坂道を登りメインストリートに出てしばらく走っていると、動物のような声が聞こえてきた。

(猫?)

 テワタサナイーヌは、あたりをきょろきょろ見回した。

「あっち!」

 日向が少し離れた茂みを指差した。

 それと同時にカートを降りて茂みに向かって走り出した。

「あ、日向、待って」

 テワタサナイーヌは、カートを道端に寄せて停め、日向を追いかけた。

「うー」

 日向が両足を広げて踏ん張り、低い声で唸っている。

 日向の視線の先には、痩せた猫が毛を逆立てて威嚇のポーズで日向を睨んでいる。

「ふー!」

「うー」

 日向と猫は睨み合い、威嚇し続ける。

(犬と猫か…… まあしょうがないか)

 テワタサナイーヌは、日向に危害が及ばないのであればそのまま見守ろうと思った。

「がっ!」

 日向は短く吠えると、今まで見せたこともないような俊敏な動きで猫に襲いかかった。

 猫は、逃げる間もなく日向に捕まってしまった。

 激怒した猫は、日向をめちゃくちゃに引っ掻いた。

「うー!!」

 日向が牙を剥き猫の目を睨んで唸った。

「みゃー」

 その気迫に猫が負けておとなしくなった。

「ねこ、かわいいよ」

 日向は、にっこり笑って捕まえた猫をテワタサナイーヌに見せた。

 日向の腕や顔は、無数の引っかき傷だらけになっていた。

「日向、その傷、大丈夫なの?」

「へいきー」

 日向はニコニコしている。

「痛くないの?」

「いたい」

「痛いよね」

「ねこ、かわいいから」

 痛いことより、猫のかわいらしさが勝っているようだった。

「じゃあお洗濯行こ」

「うん」

 テワタサナイーヌと日向は、カートに乗ってコインランドリーに行った。

 日向が捕まえた猫は、日向の膝の上でおとなしくしている。

「お部屋には連れていけないから、さっきいたところに帰してあげるのよ」

 洗濯を終えたテワタサナイーヌが日向に行った。

「はーい」

 日向が、猫をみつけた茂みのところで猫を放した。

「みゃ」

 猫は短く鳴くと茂みの中に消えていった。

「日向、どうしたの、その傷!」

 部屋に戻ると日向の傷を見た弥生が慌てた。

「コインランドリーに行く途中、猫と犬が出会って威嚇し合って、犬が猫を捕獲しました」

 テワタサナイーヌが状況を説明した。

「猫とケンカしたっていうこと?」

 弥生が心配そうに訊いた。

「ううん。ケンカじゃないね。日向が猫を狩ったっていう感じ。この子、狩りの才能もあるみたいよ」

 テワタサナイーヌが大笑いした。

「笑い事じゃないでしょ。こんなに傷になって……」

 弥生が心配した。

「あはは、ごめんなさい。でも、そのあと二人…… ひとりと一匹は、ずっと仲良く遊んでたよ」

 テワタサナイーヌが、狩りの後の様子を話した。

「それならいいんだけど」

 弥生は、心配の種が増えたと思った。

 

 その日の晩は、バーベキューを楽しんだ。

 テワタサナイーヌと日向は、バーベキューに来ていた他の家族に大人気で、何度も写真撮影を求められた。

 テワタサナイーヌは慣れたもので、かわいいポーズ、ちょっとセクシーなポーズなど、自在にポージング決めた。

 日向もテワタサナイーヌの真似をして、自分なりにかわいいポーズを作ろうとしていた。

 日向は、こんがりと焼けたTボーンステーキをもらい、がつがつとかじりついた。

 その間にも写真撮影を求められ、骨付き肉を手に持ったままにっこりと笑顔で写真に収まっていた。

「ゆかり! ゆかり!」

 女性の切羽詰ったような声が聞こえた。

「ゆかり、どこにいるの?」

 その女性は、ゆかりという人を探しているようだった。

「どうしたんですか?」

 テワタサナイーヌがその女性に声をかけた。

「あ、実は、娘がいなくなってしまったんです。バーベキューをしている間、ちょっと目を離したスキにいなくなってしまって……」

 女性は、ゆかりという子供の母親だった。

「どこに行ったか心当たりはないんですか?」

「初めて来たホテルですから、心当たりも何も……」

 女性は泣き出しそうな顔をしている。

(みんなで探せばみつかるかな。でも、このホテルは、やたら敷地が広いから探すのは大変そう)

(あっ、日向だ!)

「あの、お子さんの持ち物とか、身につけていたものとかはありますか」

 テワタサナイーヌが母親に訊いた。

「え、持ち物ですか。あ、汗を拭いていたハンカチが置きっぱなしになってます」

 母親がテーブルの上のハンカチを指差した。

「それ、お借りしていいですか」

「え、ええ」

「じゃあ、ちょっとお借りしますね」

 そう言ってテワタサナイーヌは、ハンカチを取り上げた。

「日向、おいで」

「なーに」

 日向が肉をかじりながら歩いてきた。

「ちゃいするよ」

「ちゃい?」

 日向が首を傾げた。

「そう。このハンカチの臭いを覚えて、追いかける遊び」

「ふーん」

「お肉を置いて」

「えー」

 日向は、不承不承手に持っていた肉を皿の上に置いた。

「ハンカチの臭いを覚えて」

 テワタサナイーヌがハンカチを日向の鼻先に掲げた。

 日向は、鼻をヒクヒクさせて臭いを嗅いでいる。

「いい?」

「うん」

 日向が頷いた。

「じゃあ日向、この臭いを追いかけて」

「はーい」

 日向が元気よく手を上げた。

 日向は、鼻をひくつかせながらあたりをきょろきょろ見回した。

「あっち」

 そう言ってバーベキュー場の外に向かって歩き出した。

 日向は、外に出て臭いを追いかけた。

 ときどき立ち止まっては、周りの臭いを確かめる。

「ねこ、いる」

「え、昼間の猫?」

 テワタサナイーヌが日向に訊いた。

 日向が頷いた。

 テワタサナイーヌには、猫の匂いも泣き声もわからなかった。

 日向が走り出した。

 テワタサナイーヌが後を追う。

 バーベキュー場から少し離れたところの茂みの前で日向が立ち止まった。

「あら、ここは昼間の猫がいたところ」

 テワタサナイーヌが驚いた。

「こっち」

 日向が茂みの奥を指差して、茂みをかき分けて奥に進んだ。

「みゃ」

 猫の鳴き声が聞こえた。

 茂みの中に少し広く開いたところがあり、そこに女の子と昼間の猫がいた。

「ゆかりちゃん?」

 テワタサナイーヌが女の子を呼んだ。

 女の子が振り返って頷いた。

「お母さんが待ってるよ。戻ろう」

 テワタサナイーヌが手を差し出した。

「うん」

 女の子がテワタサナイーヌの手を握った。

「ばいばーい」

 日向が猫にバイバイをした。

「みゃー」

 猫が名残惜しそうに鳴いた。

「ありがとうございます。なんてお礼を言ったらいいか……」

 女の子の母親がテワタサナイーヌと日向に礼を言った。

「いえ、娘の鼻が役に立ってよかったです」

 テワタサナイーヌが笑顔で答えた。

 女の子は、バーベキューに飽きてしまい、両親が見ていないスキに外に出て散歩しているうちに、あの茂みに入り込み、出られなくなってしまったらしい。

「また日向のお手柄ね」

 弥生が日向をほめた。

「おてがら?」

 日向が首を傾げた。

「おてがらっていうのは、すごくりっぱな行いをしたことをいうのよ」

 弥生がゆっくりと説明した。

「ふーん」

 日向にはお手柄の意味がわからなかった。

「あなたの『ちゃい』は、とっても役に立つっていうこと」

 テワタサナイーヌが日向の鼻をつついた。

「やん」

 日向が目を閉じて嫌がった。

 

 部屋に戻ると、ホテルの総支配人が部屋まで来て直々に礼を述べた。

「私も夫も、ついでに父も警察官です。警察官としての責務を果たしただけで、それに娘の鼻が役に立ったということです」

 テワタサナイーヌが総支配人に説明した。

「テワタサナイーヌ様のことはネットニュースなどで存じ上げております。本日は、本当にありがとうございました」

 総支配人は、深々と礼をして部屋を去った。

「沖縄で日向の鼻が役に立つとは思わなかったよ」

 テワタサナイーヌがベッドで寝ている日向の頭を撫でた。

 




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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夏休み(中)

 沖縄旅行3日目。

 山口一行は、大浦湾沿いのホテルをチェックアウトして国道331号線から国道329号線に入り、本島を西海岸へと横切った。

 国道329号線は、沖縄本島の背骨のような山を越えるルートで、両側にジャングルのような鬱蒼とした森林が続く。

 ところどころに米軍基地との境界を示すフェンスが現れては消える。

 西海岸に出ると国道58号線に突き当たる。

 国道58号線を海を左手に見ながら北上する。

 すぐに左手に名護警察署を見つけることができる。

 山口らは、警察署の前に車を停めさせてもらい、記念撮影をした。

 警察署のすぐ先に沖縄で有名なハンバーガーショップがある。

 一行は、その店で休憩を取ることにした。

 テワタサナイーヌは、その店の名物となっている飲み物「ルートビア」を注文した。

 ルートビアは、独特の香味があり、好き嫌いがはっきり分かれる飲み物といえる。

「チャレンジャーですね」

 山口が自分もルートビアを飲みながらテワタサナイーヌに笑いかけた。

「まずいって聞いたことがあるんで、どんだけまずいのか試してみようと思って」

 テワタサナイーヌがグラスに注がれたルートビアの香りを嗅いだ。

「うん、確かに日本的な飲み物じゃない香りがする。かなり鼻を弱く調整しないと鼻がもたないかも」

 テワタサナイーヌが鼻を摘んだ。

「お父さんは、平気なの?」

「はい。私は好きです。ドクターペッパーが飲める人ならいけると思います」

 山口はおいしそうにルートビアを飲んでいる。

日向(ひなた)も飲みますか?」

 山口が日向にルートビアを勧めた。

 日向が興味津々にルートビアの香りを嗅いだ。

「やーん」

 ほんの僅か香りを嗅いだだけで日向はグラスから顔を背けて首を左右に振った。

「ははは。日向には香りがきつすぎましたかね」

 山口が苦笑した。

「なんかさ、木の根みたない香りがするよね」

 テワタサナイーヌが香りの印象を説明した。

「そうですね。いくつかの木の根が香り付けに使われているみたいです。だから『root』という名前がついているんだと思います」

 山口が説明した。

「なるほどねー」

 テワタサナイーヌが感心した。

「ちょっと飲んでみようっと」

 テワタサナイーヌがストローに口をつけた。

「……」

 ストローからルートビアを口に含んだテワタサナイーヌが無言になった。

「なんだろ。まずいんだけど、すごく嫌っていうわけでもない味がする。なにこの不思議な味」

 テワタサナイーヌが混乱した。

「あ、それはたぶん好きになる兆候だと思います。ルートビアを好きになれない人は、最初からまったくダメですから。こちらの世界へようこそ」

 山口が笑いながら手招きした。

「さて、そろそろ行きますか」

 山口が声をかけた。

 ここで運転を山口からテワタサナイーヌに代わった。

 テワタサナイーヌが運転する車は、国道58号線で名護市内を抜け、国道449号線に入り北上を続ける。

 国道449号線は、左手に海を見ながら右手に採石場の荒々しく削られた山肌を眺める。

 採石場がある地帯を過ぎてしばらくすると道路の右手に本部警察署が見えてくる。

 山口一行は、そこでも記念撮影をした。

 警察署の前を通るたびに記念撮影をしているようだ。

 またしばらく北上を続けると、国道449号線の終点である浦崎の交差点に差し掛かる。

 そこを左折してしばらく北上すると、目的地である美ら海水族館に到着する。

 美ら海水族館がある国営沖縄記念公園の中には、頭上と足元からミストシャワーが出る場所がある。

「おさかなー!」

 日向は、ミストシャワーの上に設置されているイルカのオブジェを見て興奮した。

 ミストの中を走り回り、嬌声をあげている。

 日向のワンピースは、ミストでしっとりと湿ったが、気温が高いのであっという間に乾いてしまった。

 美ら海水族館では、上野動物園のときのような「人ですか?」という質問もなく、すんなりと入場することができた。

 本やネット上の情報では水族館を見たことがある日向だったが、実際に足を踏み入れるのは初めてだった。

「おっきー!」

「きれー!」

「すごーい!」

 すべての言葉に感嘆符が付いた。

 中でも巨大な水槽の中を悠々と泳ぐジンベイザメが気に入ったようで、水槽にくっついて離れようとしなかった。

「もう行こう」

 テワタサナイーヌが声をかけた。

「やだ!」

 日向が首を横に振った。

「次の予定があるわけじゃないから、好きに見させてあげよう」

 大輔がテワタサナイーヌの肩を抱いた。

「そうね」

 テワタサナイーヌが大輔にもたれかかった。

「行こう!」

 どれくらい大水槽の前に張り付いていただろうか。

 日向が後ろを振り向いてテワタサナイーヌに言った。

「満足した?」

 テワタサナイーヌが日向に訊いた。

「ん!」

 日向が大きく頷いた。

 その後も、ところどころで日向が停滞しながら、水族館を一周りした。

「たのしかった!」

 水族館から外に出た日向が、陽の光に目を細めながら飛び跳ねた。

「楽しかった?よかった」

 テワタサナイーヌも嬉しそうに答えた。

 テワタサナイーヌにとっても初めての美ら海水族館だった。

「またみんなで来ようね!」

 テワタサナイーヌが山口らを見回した。

「そうですね、また来ましょう」

 山口が頷いた。

 

「お昼を過ぎてしまいました。沖縄そばを食べに行きましょう」

 テワタサナイーヌから運転を代わった山口が後ろに座っているテワタサナイーヌたちに声をかけた。

「さんせーい」

 テワタサナイーヌが手を上げた。

「さんせー」

 日向も真似をして手を上げた。

「では行きます」

「お願いしまーす!」

 山口が運転する車が沖縄記念公園の駐車場を出た。

 本部(もとぶ)で国道449号線をはずれ、山間部に入っていく。

 初めのうちは商店や民家が立ち並んでいるが、しばらくすると何もない山道になる。

 しばらくすると伊豆味という地区の町並みが見えてくる。

 目指す沖縄そばの店は、その町並みの中にある。

 その店は、行列ができることで有名で、駐車場に車を停められたらラッキーというくらいの人気店だ。

 幸いその日は、駐車場に空きがあり車を停めることができた。

「いやあ、すぐに車を停められてよかったです」

 山口がほっとしたようにつぶやいた。

 車を降りて店に行くと、すでに店の外まで行列ができている。

 真夏の昼下がり。

 気温がぐんぐん上がっている。

 テワタサナイーヌと日向は、無意識のうちに舌を出して口呼吸で体温調節をしている。

 大輔は、うちわで自分と日向を交互にあおいで涼んでいる。

 提供しているものが沖縄そばなので、客の回転は悪くない。

 それほど待たずに客席に案内された。

 店内は、四人がけのテーブル席が3つ、座敷に座卓が5つある。

 テワタサナイーヌらは、座敷の一番奥の座卓に案内された。

 店内にエアコンは「一応」ある。

 しかし、古い木造の建物で気密性が高くないため、ほとんど効かないといっていい。

 あとは、いくつもある扇風機に頑張ってもらうしかない。

 5人は、全員ソーキそばを注文した。

 水は、給水器からセルフサービスで準備する。

 10分ほど待つと、ひとつのどんぶりにごろっと大きなソーキ(スペアリブ)が5個も乗ったそばが運ばれてきた。

「にくっ!」

 ソーキを見た日向が興奮した。

「せーの、いただきます!」

 全員で手を合わせた。

 テワタサナイーヌが、まずスープを口に含んだ。

 鰹節の香りが鼻を抜ける。

 味は、ほんのりと甘みがあり、なんとも言えない懐かしさを感じさせる。

「はぁー、おいしい……」

 テワタサナイーヌが目を閉じて至福の表情を浮かべた。

「にくっ!」

 日向は、ソーキの骨をかじってご満悦だ。

 山口と弥生が日向にソーキを2個ずつ分け与えた。

「ありがと!」

「どういたしまして」

 日向の前の骨を置くための小皿は、みるみるうちに骨が積み上げられていった。

 どの骨もきれいに身が削ぎ落とされ、中には形が崩れているものもある。

 この店のそばは、スープも一品の料理のように感じる。

 スープ、そば、スープ、そば、と交互に口に運びたくなる味だ。

 五人は、汗を拭きつつ、残さず完食した。

「ごちそうさまでした」

 最後も全員で声を合わせて感謝した。

 

 店を後にして名護方面に車を走らせる。

 途中、パイナップル畑の中をカートで回れる施設に立ち寄った。

 2台のカートに分乗して園内を一周りした。

 その後は、ショップの中でパイナップルの試食ができる。

 日向は、次から次へとパイナップルを口に運んでいる。

「いくら食べ放題だからって、あんまり食べないでよ。他の人だって食べるんだから」

 テワタサナイーヌが日向を止めた。

「んあーい」

 パイナップルを頬張ったまま日向が返事をした。

「では、この先、ちょっと長い距離移動して、今日の宿に向かいます」

 山口が車を発進させた。

 名護から国道58号線で西海岸を南下する。

 恩納(おんな)村に入り、真栄田(まえだ)岬の近くにある道の駅で「ぜんざい」を食べた。

 沖縄のぜんざいは、かき氷に黒糖で煮た小豆がたっぷりとかけられているものをいう。

「私が思ってるぜんざいと全然違う」

 テワタサナイーヌが氷を口に運んだ。

「んー、きたきた!」

 テワタサナイーヌが頭頂部を手で押さえた。

 アイスクリーム頭痛だ。

「んあー!」

 日向も頭を押さえた。

「なんで冷たいものを食べると頭痛くなるんだろうね?」

 テワタサナイーヌが山口に訊いた。

「なんででしょうね。私もわかりません」

「へー、お父さんでも知らないことってあるんだ」

 テワタサナイーヌが驚いたように言った。

「知らないことだらけですよ。世の中のあらゆることを知るなんて無理です。知らないことがあるから知ろうとする。それが面白いんだと思います」

「なるほどね。たしかにそうかも」

「さて、あと少しで今日の宿に着きます。出発しましょう」

 山口が声をかけた。

 道の駅を出てすぐ、嘉手納基地方面に向かう国道と真栄田岬方面に向かう県道に分岐する。

 山口は、真栄田岬方面に車を走らせた。

 真栄田岬と残波(ざんぱ)岬の間のあたりで左折して細い坂道を登る。

 坂の途中に、白壁の3階建ての建物が目に入る。

「あれが今日泊まるところです」

 山口がその建物を指差した。

 その建物は、海側から見ると3階建てに見えるが、実は5層構造のコンドミニアムだ。

 部屋数は6ですべてメゾネットタイプ。

 1階が各部屋ごとに仕切られた駐車場。

 駐車場にあるドアを入ると2階のリビングに上がれる。

 リビングには小さいキッチンがあり、テラスに出ることもできる。

 階段を上がった3階は、バス、トイレとユーティリティルームになっている。

 最上階の4階がベッドルームだ。

 すべての部屋から東シナ海を望むことができる絶景の宿だ。

 5層構造の最後は、地下にある。

 地下が共用のプールになっていて、各部屋からアクセスすることができる。

「すごい! きれい! 眺めがいい!」

 テワタサナイーヌが興奮した。

「わーい」

 日向は、階段を昇り降りして遊んでいる。

「プール付きってすごいわね」

 弥生が感心した。

「なんだかわからないけどワクワクしますね」

 大輔も興奮気味だ。

「ホテルのようなサービスはありませんけど、こういうところも楽しいと思います」

 山口がエアコンのスイッチを入れた。

「ほんとね。ご飯を自分たちで調達すれば、あとは誰に気を使うこともなくていいわね」

 弥生が同意した。

 

 山口たちは、このコンドミニアムで二泊を過ごした。

 

「今回は、なにも事件がないのね」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、かわいい!」

 大輔が喜んだ。

「おかーさん、かわいい!」

 日向が真似をした。

「あら、ふたりともありがと。やっぱりお母さんがかわいい方がいいでしょ」

「うんうん」

 大輔と日向が繰り返し頷いた。

「そういう回もあります」

 山口が冷やしたさんぴん茶を飲みながら答えた。

 

 翌日は、沖縄旅行を終えて帰宅する予定になっている。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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夏休み(下)

 山口らの旅行が最終日を迎えた。

 東シナ海を望むコンドミニアムを後にして、大輔の運転で那覇市内を目指した。

 最終日は、空港に行く前に那覇市内の牧志公設市場に立ち寄ることにしている。

 市場近くのコインパーキングに車を停め、歩いて市場に向かった。

「すごーい、色々あるねえ。さすが沖縄の食べ物が全部揃ってるっていうだけのことはある」

 テワタサナイーヌがきょろきょろと市場の中を見渡した。

 市場の中の店先には、見たこともない珍しいものがたくさん並んでいる。

「ぶたさん!」

 日向(ひなた)が店先に飾られている豚の頭を指差した。

「わあ! ほんとだ。豚さんだねえ」

 テワタサナイーヌも豚の頭に驚いた。

「この魚は観賞用じゃないですよね。熱帯魚みたいな色してるけど……」

 弥生が鮮やかな青色をした魚を指して店の人に訊いた。

「これはイラブチャー。もちろん食用で、刺し身や酢味噌和えにするとうまいよ!」

 店のおやじがにこやかに答えた。

「そっちが青ならこっちは赤ですよ」

 大輔がグルクンをみつけた。

「これはホテルで食べましたね。たしか刺し身で出されたと思います」

 山口がホテルでの食事を思い出した。

 他にも豚の耳や足、海ぶどうなどたくさんの食べ物が所狭しと並べられている。

「そんなに広くないのに、たくさんありすぎて全部見るのは大変そう」

 テワタサナイーヌがため息をついた。

「そうですね。2階にもお店があります。ちょっと上がってみませんか」

 山口がほかの四人を2階に誘った。

「ここのサーターアンダギーがおいしいんです」

 山口は、2階の一角にあるサーターアンダギーの店を案内した。

「サーターアンダギーって?」

 テワタサナイーヌが山口に訊いた。

「沖縄版ドーナツみたいなものです。砂糖をふんだんに使った生地を油で揚げて作るお菓子です」

 山口が説明した。

 山口は、おみやげ用にパックされたものと、その場で食べるためにばらで5個を買った。

「あら、かわいいぐわー(かわいい子)。牛乳飲むかい?」

 店のおばあが日向をみつけて声をかけた。

「はい!」

 日向が元気に手を上げて答えた。

うさがみそーれー(めしあがれ)

 おばあが日向に瓶に入った牛乳を差し出した。

「ありがとー」

 日向が牛乳を受け取ってぺこりと頭を下げた。

「おいしーねー」

 店の前にある長椅子に腰かけてサーターアンダギーをほおばった日向が笑顔を作った。

「これはおいしいわ。ドーナツよりあっさりしてて好みかも」

 テワタサナイーヌも笑顔でサーターアンダギーをぱくついている。

「ごちそーさま」

 日向が飲み終わった牛乳瓶をおばあに返した。

「ごちそうさまでした」

 全員でおばあに挨拶をして店を後にした。

「そろそろ空港に向かう時間ですね」

 山口が腕時計を見た。

 五人は、市場を出てレンタカーを返却するため営業所に向かった。

「いま、空港は大混乱です」

 レンタカーの営業所で職員が言った。

「え、なにかあったんですか?」

 山口が訊いた。

「はい。航空会社の発券システムがダウンしてしまい、職員の手作業で搭乗者の確認と航空券の発行をしています。そのため、窓口にたくさんのお客様が滞留してしまい、空港発の便に遅れが出ています」

「そうですか。それは参りましたね」

 山口と弥生が顔を見合わせた。

「とりあえず空港に行きます」

 山口が職員に言った。

「かしこまりました。それでは空港までお送りします」

 職員はそう言うと、送迎用の車を準備した。

「あ、これだね」

 営業所から空港に向かう車の中でテワタサナイーヌがニュースを検索して発券システムダウンについて報じているものをみつけた。

「どういう内容ですか」

 山口が訊いた。

「えーとね、JALの発券システムが全国規模でダウンしているらしいよ。システム自体は正常に動いているのに、発券できない状態が続いてるんだって。原因は、不明」

 テワタサナイーヌがニュースをかいつまんで説明した。

「それは、厄介なことになりましたね」

 山口が表情を曇らせた。

「お疲れさまでした。到着です」

 レンタカー会社の職員が声をかけた。

「ありがとうございました」

 山口が代表して礼を言った。

 車から荷物をおろして空港の建物に入ると、出発ロビーは思ったほど混雑していなかった。

 航空会社のカウンターを見ると、大勢の職員が客の対応に当たっており、手作業で確認と航空券の発券を行っていた。

 おそらくあらかじめマニュアル化され、対応の訓練が行われていたのだろう。

 職員の動きには無駄がなく次々と客をさばいていた。

「やはりインシデント対応には平素の訓練が大事なんですね」

 山口がカウンターを見ながら大輔に言った。

「消火訓練ですね」

 大輔が応じた。

「そうです。身体を動かして体感することが重要です。頭でわかったつもりの知識は、いざというときに役立ちません」

 山口が発券待ちの列に並びながら大輔に言った。

「お疲れさまです。おかげさまであまり待ちませんでした。ありがとうございます」

 カウンターで5人分の航空券の発券を受けた山口が対応した職員に礼を言った。

「あ、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 職員の表情に笑顔が戻った。

「飛行機の時間まではまだあります。沖縄最後の食事にあのハンバーガー屋さん、行きますか?」

 山口がテワタサナイーヌに挑戦的な視線を投げかけた。

「あのって、あの飲み物がある、あのお店ね」

 テワタサナイーヌが笑った。

「そうです。あのお店です」

「いいね。行こう」

 五人は、出発ロビーのひとつ上のフロアにあるハンバーガーショップに入った。

「早苗さん、ルートビア飲みますか?」

 山口がいたずらっぽく訊いた。

「うーん、どうしようかな……」

 テワタサナイーヌが逡巡した。

「飲んでおこうかな」

 テワタサナイーヌが舌を出した。

「さっき『厄介なことになった』って言ってたけど、あれはなんで?」

 ハンバーガーをほおばる日向の横でテワタサナイーヌがルートビアを一口飲んだ。

「あれですか、ニュースでわかる範囲での話になってしまいますが、システムが正常に動いているように見えるのに、実際は発券できないという状態だとしたら、システムの管理者権限を奪われている可能性があると思ったからです」

 山口が自分の見立てを披露した。

「外部からの侵入があったってこと?」

「そうです。システムが正常に動いているように見えるっていうことは、ただ侵入してシステムを壊していく愉快犯やいたずらとは違う何らかの意図があるような気がするんです」

「どういうこと?」

 テワタサナイーヌが小首を傾げた。

「テワさん、めっちゃかわいい!」

 大輔が喜んだ。

「おかーさん、かわいい!」

 日向も真似をした。

「ありがとう」

 テワタサナイーヌがにっこりと礼を言った。

「続けていいですか」

 山口が苦笑した。

「あ、ごめん。続けて」

 テワタサナイーヌが手を合わせて謝った。

「システムが正常に動いているように見えるのに、実際は本来提供されるべき機能が阻害されているということは、そのシステムの中に侵入者が身を隠している可能性があるからです」

「え、そんなのすぐ見つけられるんじゃないの?」

「そうですね。普通の状態であれば、誰がシステムにログインしているか、そのシステムに変更が加えられたかどうかをすぐに知ることができます。ですが、あることをされると、それがわからなくなってしまうんです」

「あることって?」

 テワタサナイーヌは、そろそろ話が難しくなりそうな予感を感じた。

「何らかの方法で侵入者にシステムのルートを取られると、そのシステムは侵入者の好きなようにいじられてしまいます」

「ルートって何?」

「ルートというのは『root』と書きます。ルートビアのルートと同じスペルです。要は、システムの根っこ、根本となる権限のことを指します。根っこではありますけど、最上位の権限と思ってください」

「根っこに行ったり一番上にのぼったり忙しいのね」

「ルートを取ると好き勝手ができます。しかし、そのままだと管理者にみつかってしまいます。管理者以外が管理者権限でログインしているわけですから」

「そりゃそうよね」

「だから、管理者から見えないように身を隠すんです」

「どうやって?」

「システムに嘘をつかせます」

「システムに嘘を?」

「はい。侵入者に関する情報をすべて答えないようにシステムを変えてしまうんです。そうすると、たとえ侵入者がシステムにログインしていても、管理者がログインユーザーを調べると、侵入者に関する情報が返ってこなくなります」

「そんなことできるの?」

「できるんです。システムを動かしているOSというのは、一つの大きなプログラムではありません。カーネルといわれるOSの核となるプログラムを通じて呼び出される小さなプログラムの集まりです。ですから、カーネルに嘘の動作を行わせるようなモジュールを組み込んでしまえば、管理者がログインユーザーを調べるコマンドを叩いたとしても、侵入者に関する情報は教えないというようなことができます。そうなると、管理者には何も異常のないシステムに見えるのに、正常な機能が提供できない、おかしな動作をする、といったような事態になります」

「つまり、システムが管理者に嘘をつくようになるんです」

「えー、そんなことができたらやりたい放題じゃない!」

 テワタサナイーヌが憤った。

「こういうことをさせるのを『システムコールのフック』といいます。そして、それを実現するツールを『rootkit』といいます。一回、管理者権限を奪取してrootkitを組み込んでしまえば、管理者から見つかることなくやりたい放題できるのです」

「こうなってしまうと、そのシステム上で侵入者を見つけるのは困難です。なにしろシステム自体が嘘つきなのですから」

「ひっどーい」

 テワタサナイーヌが憮然とした。

「JALのシステムもそういう状態なの?」

「それはわかりません。ただ、正常に動いているように見えるにもかかわらず、正しいサービスが提供できないというのは、rootkitを組み込まれている可能性も考えられます」

「そうなんだ。今は何でもネットにつながる時代だから、ちょっと油断するとすぐに乗っ取られちゃうのね」

 テワタサナイーヌが腕組みをした。

「はい。もう15年以上前のことになります。初代のコンピュータ犯罪捜査官が『いずれ家庭の冷蔵庫から不正アクセスが行われる。だから、我々は、冷蔵庫を差し押さえるときが必ず来る』とIoT社会の到来を予言していました。当時は、ネットにつながるのはコンピュータと決まっていましたから、笑い話だと思っていました。それが、笑い話ではない現実のものになっています」

 あまり過去のことを語らない山口が珍しく昔のことを話した。

「面白い人ね。でも、その予言は本当に当たりそう。ていうか、お父さん、その人と一緒に仕事してたの?」

 テワタサナイーヌが疑問を抱いた。

「はい。一緒に仕事をしていました」

 山口は、淡々と答えた。

「ていうことはよ、お父さんはサイバー犯罪の捜査をやっていた、と?」

「まあ、そういうことになります」

「まあ!」

「韻を踏んだんですか?」

 山口が笑った。

「そういうつもりじゃない。たまたまよ」

 テワタサナイーヌが苦笑した。

「ねえねえ、お母さん」

 テワタサナイーヌが弥生を呼んだ。

「なーに?」

 弥生が日向の口の周りを拭きながら返事をした。

「なーに?」

 日向が弥生の真似をした。

「あなたは呼んでない」

 テワタサナイーヌが笑った。

「お母さんは、お父さんがサイバー犯罪の捜査をやってたの知ってた?」

「夫婦なんだから当たり前でしょ」

「いや、でもさ、仕事のことは妻にも言わないっていう人もいるじゃない」

「この人は、そういう人じゃないわ」

 弥生が山口を見た。

「そうです。そういう人じゃありません」

 山口が調子を合わせた。

「そっかあ。それで、あの、なんだっけ、ルート575だかなんだかも知ってたのね」

「rootkitです。それにルート575は、routeです」

「そう、それ」

 テワタサナイーヌが指を鳴らした。

「お父さんは、サイバーで何やってたの?」

「私は、捜査と各署の指導です」

「へー、指導もやってたんだ。偉かったんだね」

 テワタサナイーヌが山口をほめた。

「偉くはないです。まだサイバー犯罪捜査が黎明期だったので、捜査できる人が少なかったんです。だから私がやっていただけです」

「またまた謙遜しちゃって」

「ほんと、謙遜なのよ」

 弥生が口を挟んだ。

「なにしろ、大手ポータルサイトが運営するオークションサービスを使った詐欺を全国で最初に検挙したのはお父さんですからね。しかも、一人だけでよ」

 弥生が山口の実績を讃えた。

「まあまあ、もう過去のことです」

 山口が残りのルートビアを飲み干した。

 その後、JALの発券システムがダウンしたのは、システム設計のちょっとしたミスが原因だったことがわかり、その旨の発表がなされた。

 

「ねえ、お父さん」

「なんですか」

 テワタサナイーヌと山口の会話は、いつもここから始まる。

「お父さん、サイバーにいたから、こういうのもわかるでしょ」

 そう言いながらテワタサナイーヌは山口にスマホの画面を見せた。

「これは架空請求のメールですね」

「うん、そう」

 テワタサナイーヌが頷いた。

「早苗さんは、このメールを架空請求だと思った根拠はどこにありますか?」

「え、だって、ここに書いてあるようなサービスを使ったことないもん」

「なるほど。では、もし、似たようなサービスを使ったことがあったとします。そうしたらどうでしょう?」

「えー、そうなるとちょっと自信なくなってくるなあ」

 テワタサナイーヌが戸惑った。

「そうですよね。それが相手の思惑です」

「じゃあ、そういうときはどこで見分ければいいの?」

「まず、名宛人の表示があるかどうかを見ましょう」

「なあてにん?」

「そうです。名宛人というのは、受取人として名前を指定された人です。正当な請求書なら、必ず誰に宛てたものなのか明記されています。相手が誰かもわからない請求書を発行するバカな会社はありません。早苗さんが受信したメールはどうですか?」

 山口がゆっくりと話した。

「ちょっと待ってね。えーと、私が受信したやつは『貴殿の』って書いてあるね」

「なるほど、そういう代名詞だけで自分の名前やサービスへの登録名がない場合は、間違いなく架空請求です。誰に送っているのか、送信側もわかっていないから、そういう表現にならざるをえないのです」

「なるほど。言われてみればそうよね」

 テワタサナイーヌが手を叩いた。

「それだけで、たいていの場合は架空請求を見破ることができます。あとは、メールヘッダから架空請求を見破ることもできるのですが、メールヘッダは偽装可能なので過信するのは危険です」

「メールヘッダって聞いたことあるよ。メールが送られてきた経路とかがわかるんでしょ」

「早苗さん、よく勉強してますね。そのとおりです。メールヘッダというのは、読んで字のごとくメール本文の前、ヘッダーに付加される情報のことです。ここに、送信者に関する情報や、メールが送信された経路などが記録されています」

「よくわからないけど、そうなのね」

「はい。そうなんです。メールというのはSMTPサーバにより送受信されています。普通は、プロバイダなどが用意してくれたものを使います。webメールの送受信もSMTPサーバを使っています。ただし、これは自前でサーバを立ち上げることが可能です。SMTPサーバの正体は、sendmailという小さなプログラムで、メールヘッダを付けているのもこれです。これは、オープンソースなので誰でも改変が可能です。ということは、このプログラムを改変してSMTPサーバを立ち上げれば、偽装したヘッダーを付けてメールを送ることが可能になります。

「へー、難しくて全然わからないけど、要は、メールヘッダも偽装することができますよってことでしょ」

「そういうことです。ですから、メールヘッダーを盲信するのは危険だということです」

「なるほどねえ」

 テワタサナイーヌが感心したように頷いた。

「実は、もう一つメールヘッダーを偽装する方法があるんですが、それをここで公開するとセキュリティ上問題になりますから秘密にしておきます」

 山口が人差し指を唇に当てた。

「あと、架空請求で気をつけないといけないことがもう一つあります」

「なにそれ」

「メールでの請求は、無視するだけで済みます。でも、万一、自宅などに裁判所から訴状や期日呼出状などが届いたときは、無視してはいけません。少額訴訟を起こされている可能性があるからです。指定された期日に出頭して弁論を行わないと、相手方の主張を認めたとみなされて敗訴してしまいます。これは、実際に債務があろうがなかろうが関係ありません。訴訟を起こされて無視していると裁判に負けて、もともとなかったはずの債務が確定してしまいます」

「えー、なんか怖い」

「まあ、これは可能性として考えられますが、犯人側に大きなリスクが生じますから、この手口が大流行することはないでしょう」

「そっかー」

 テワタサナイーヌが納得した。

「そろそろ搭乗の時間です。搭乗口に行きましょう」

 山口が声をかけた。

 

「ばいばーい」

 離陸後、日向は、眼下に広がる沖縄の景色に手を振って別れを告げた。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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LE

「それじゃあ私はお金も車も取られ損ってことですか!?」

 50歳くらいの男性が悲痛な声を上げた。

 テワタサナイーヌと大輔は、足立区の西新井警察署でオレオレ詐欺被害防止キャンペーンに出演し、所属に戻るため生活安全課長に挨拶をしているところだった。

「ずいぶんヒートアップしていますね」

 大輔が課長に言った。

「そうですね。ヤミ金からお金を借りてしまったようです」

 課長が説明した。

「あんたの気持ちはわかるよ。でも、借りた金は返すのがスジだし、返済を滞らせたのはあんたなんだから、担保を持っていかれても仕方ないだろ」

 相談を受けている警察官が言い返した。

 相談をしている男性は、服装も薄汚れていて、いかにも生活に疲れた様子が窺える。

 年齢が50歳くらいに見えるが、実際は四十代なのかもしれない。

 対する警察官は、定年間近に見え、痩せぎすでいかにも神経質そうな雰囲気を漂わせている。

「ねえ大輔くん。あの対応は、まずくない?」

 テワタサナイーヌが大輔の耳元に小声で囁いた。

 大輔が無言で頷いた。

「課長、大変僭越で失礼なことを申し上げますが、あの相談対応は、ちょっと問題があると思います。」

 大輔が遠慮がちに課長に具申した。

「えっ、どうしてですか?」

 課長が訝しげな顔をした。

「はい、問題点が二つあります。一点目は、借りた金は返すのがスジだと言っているところです」

「いや、待ってくださいよ。借りた金を返すのは当たり前じゃないですか」

 課長が反発した。

「はい、それは法定利息を守っている契約であれば言えることです。ヤミ金のように違法な高利で貸し付けた場合は、元本も含めて返済の義務がありません」

 大輔は、ヤミ金について最高裁判所が示した判断について説明した。

「利息の支払い義務がないっていうのはわかります。でも、元本も含めて返済しなくていいというのは納得できませんよ」

 課長は、まだ理解できなかった。

「テワさん、判例検索で判例を出してください」

「了解」

 テワタサナイーヌがスマホで最高裁判所のwebサイト内から判例検索を実行した。

「これね」

 テワタサナイーヌが検索結果画面を大輔に見せた。

「ありがとう。これです」

 大輔がスマホの画面を課長に示した。

 大輔が見せた判例は、平成20年6月10日の最高裁判所判決で、要点は二つある。

 一点目は「本件ヤミ金融業者が借主(被害者)に対して行った一連の行為(著しく高利での貸付けや、弁済の名目で金銭を受領した行為)は不法行為となる。借主(被害者)はヤミ金融業者に元利金の弁済として支払った金額全額を損害として、損害賠償請求をすることができる」というもの。

 二点目は「本件ヤミ金融業者が貸付として借主(被害者)に交付した金銭は、不法原因給付に該当するため、本件ヤミ金融業者から借主に対して返還請求することはできない」というものだ。

「ただ、この判例は、利息が年率数百%から数千%にも及ぶ著しい高利での貸付けに関して示された判断です。すべてのヤミ金にそのまま適用されると考えるのは危険ですが」

 大輔が課長に補足した。

「うーん、こんな判例があったとは。勉強不足でした」

 課長が頭を下げた。

「それと、車がどうのこうのという話が聞こえたので、ちょっと気になります。差し支えなければ、話を聞かせてもらってもよろしいでしょうか」

「そうですか。山口さんは、詳しいようなのでアドバイスいただけますか」

 課長が大輔を相談室に案内した。

「はじめまして、警視庁犯罪抑止対策本部の山口警部補です。ヤミ金から借金をされてお困りのようですが、お話をお聞かせいただけますか」

 大輔が男性に挨拶をした。

「あ、はい。よろしくお願いします」

 男性が頭を下げた。

「私は、個人で印刷業をやっていますが、会社の運転資金が足りなくなったのですが、銀行でお金を借りられなくなってしまったので、街金に手を出してしまいました」

「街金は、利息が高くて、よく言われる『トイチ』なんていうのは当たり前で、ひどいところになると10日で5割の利息を取るところもあります」

「普通の街金は、まあ取り立てが厳しいだけですが、今日相談に来たのは自動車金融にひどいことをされたからです」

「今回、私が自動車金融からお金を借りたのは、3か月くらい前になります。あちこちの街金から借金を重ねて、いよいよ資金繰りに困ってしまい、街中にある『車でお金を貸します』という広告を見て、その会社に電話をしました」

「その会社は、ちゃんと事務所も構えていて、対応も紳士的でした。ただ、やっぱり利息は高くて、10日で3割ということでした。借りられるのが10万円で、利息が10日ごとに3万円でした。それでも、日銭が欲しかったので相手の言いなりで契約してしまいました」

「契約するときに、私が仕事で使っている自動車の車検証と鍵を相手に預けました。そのとき、車を相手に譲渡するという書類と名義変更に必要な委任状のようなものに実印をついた記憶があります」

「それでも、私が利息を払い続けていれば、そのまま車を乗り続けることができるということなので、良心的な業者なんだと思っていました」

「ところが、2週間くらい前になって、とうとう利息の支払いもできなくなってしまい、2回分の利息を滞納してしまったのです。そうしたら、昨日の朝、駐車場から私の車がなくなっていたのです」

「相手の会社に電話をしたら、私が利息を滞納したから担保として車を引き上げたと言われました。担保であれば仕方ないのかもしれませんが、車がないと仕事になりませんし、そうなると利息も払えなくなってしまいます。それで、どうしたらいいか教えてもらいたくて相談に来ました」

 男性は、ほとほと困った様子でぼそぼそと話した。

「そうですか。大変でしたね」

 話を聞き終わった大輔が男性に同情した。

「ありがとうございます。何か所かに相談に行きましたが、まず言われるのが『なんでヤミ金なんかから借りたんだ』という説教でした。大変でしたねと言ってくれたのは初めてです」

 男性が涙を拭った。

「ヤミ金からでも借りなければならないほどお困りだったんですよね」

 大輔が男性に言った。

 男性が無言で頷いた。

 大輔がスマホで計算機のアプリを立ち上げて計算をした。

「10日で3割という利息ですから、年利にしたら1,095%にもなります。つまり、一年間利息を払い続けると、元本の10倍の金額になる著しい暴利です」

 大輔が怒りを込めて説明した。

(大輔くん、かっこいい)

 相談に立ち会っているテワタサナイーヌが大輔の対応に惚れ惚れした。

「結論を言うと、あなたはこれ以上、利息の支払いも元本の返済も必要ありません。それだけではありません。これまで払った利息を全額返還請求することができます」

 大輔が男性に結論を伝えた。

 それまで下を向いていた男性の顔が輝いた。

「本当ですか?! 利息だけじゃなく元本も返さなくていいんですか?」

 男性が信じられないという顔をした。

「本当です。最高裁判所が言っていますから嘘ではありません」

 大輔が男性に笑顔を向けた。

 男性の表情からみるみる不安が消えていった。

 

「相談者にも説明しましたが、今回の貸し借りは、貸主側が違法なので利息の支払いも元本の返済も不要です」

 大輔が課長に説明した。

「そうでしたか。ありがとうございます」

 課長が礼を言った。

「あと、今回の件は、いわゆる自動車金融です。これは、譲渡担保といわれる取引になります」

 大輔が今回の取引について説明した。

「譲渡担保? なんですかそれは?」

 課長が首を捻った。

「譲渡担保というのは、民法に明記された典型契約ではありません。判例上認められた非典型担保の一種です。具体的には、自動車や工場の工作機械などを一旦債権者に譲り渡します。つまり所有権が債権者に移ることになります。それを、債務者、これが借主になりますが、債務者がその目的となる物を賃借、つまり借り受けて使用し続けます。そして、その賃料を支払うというものです。この賃料が利息に相当します」

 大輔が譲渡担保について、わかりやすく説明した。

「なるほど、難しいですが、なんとなくわかりました」

 首を捻っていた課長が腕組みをして頷いた。

「そして、ここからが本題になります。普通の担保は、質権を設定してその物を貸主に引き渡します。ですが、譲渡担保は借主がその物を使い続けるところに特徴があります。借主が使い続けるということは、所有権は貸主にあっても、占有は借主にあります。貸主は、所有権を持っていますが、それだからといって譲渡担保を自力で執行することはできません。他人が占有している物を勝手に持ち去れば窃盗になります」

 大輔が譲渡担保の効果を説明した。

「すると、今回の相手方であるヤミ金は、自動車に対する窃盗が成立するということですか」

「おっしゃるとおりです」

 大輔が頷いた。

「なるほど、譲渡担保というのは民法に書いてないから、あまり知られていないんですね。実際、私も知りませんでした。よし、すぐ着手だ! 窃盗は刑事課の仕事だが今回は高金利の出資法違反と抱き合わせで保安がやってくれ。刑事課長には私が仁義を切っておく」

 課長が指示を飛ばした。

 

「大輔くん」

「なんですか」

 署を出て最寄り駅に向かう途中、テワタサナイーヌが大輔に話しかけた。

「大輔くん、いつ譲渡担保なんて勉強したの?」

「いつだっけかな? 父さんに教わったんだ」

「お父さんに!?」

 テワタサナイーヌが目を丸くした。

「それにしても、自動車金融が勝手に車を引き上げちゃうのが窃盗になるって、よく気づいたよね」

「父さんがいつも言ってるじゃない。原則を理解すれば応用が利くって。それだよ。窃盗は、他人が占有している物を盗むことだよね。所有権は要件じゃない。だから、たとえ所有権がある人でも、それを他人が占有していたら勝手に持ち去ることはできないってことだね」

「そっか、そうだよね。さすが大輔くん」

「えらい?」

「うん。とってもえらい!」

 テワタサナイーヌが大輔の頭を撫でた。

 

 捜査の結果、ヤミ金業者に対する逮捕状と事務所に対する捜索差押許可状が発付された。

「警視庁です。窃盗並びに出資法違反の疑いで捜索差押許可状が出ています」

 事件の端緒をつかんた大輔がガサの指揮を任され、先頭で業者の事務所に入った。

「はあ? 警察に用はねえんだよ。勝手に入ってくんな!」

 大輔が事務所にいた業者の男に令状を示すと、男がふてぶてしい態度で挑発してきた。

 捜査員の中にはテワタサナイーヌの姿もあった。

 令状を示した大輔が令状発付の理由となっている犯罪事実を読み上げた。

「ふざけんなよ。こっちは正当な契約で担保にとった車を処分しただけだぞ。利息を払わない奴が悪いんだろ。こっちは被害者だ。俺のせいにすんじゃねえよ、クソポリ公が!」

「お前らはあれか。金を借りて踏み倒すような奴の味方すんのか? 借りた金は返すのが当たり前だろ。俺は、そういう当たり前のことを教えてやったんだよ。むしろ感謝してもらいたいね」

「警察も暇なんだな。こんなちっぽけな零細業者いじめて何が楽しいんだ? あー? もっと他に取り締まらなきゃならない事件がいくらでもあるだろ。やりやすいとこからやってんじゃねえよ。税金泥棒が!」

 業者の男は、大輔と顔がぶつかるくらいに迫り、早口でまくし立てて威嚇した。

「言いたいことはそれだけか?」

 大輔が低い声で言った。

「あー? 言いたいことはそれだけか? ふざけんなよ。こっちは言いたいことなんざ山ほどあるっつーの!」

 男が大声でわめいた。

「言うのは自由だ。勝手に吠えてろ。だがな、俺に指一本でも触れてみろ。ただじゃおかないぞ」

 大輔が挑発に乗らず冷静に警告した。

「あとな。お前、口が臭いぞ。客商売ならエチケットにも気を遣え」

 大輔が冷ややかな笑いを投げつけた。

「な…… くそったれ!」

 男が悔しそうに大輔から離れて椅子に腰かけた。

(大輔くんすごい迫力。いつものへなちょこじゃない)

 テワタサナイーヌがうっとりした。

 事務所の捜索により、顧客台帳や賃貸借契約に関する書類や台帳類、携帯電話、パソコン、大量の自動車のキーなどが押収された。

 捜索を終えたところで、大輔が男に逮捕状を示した。

「窃盗並びに出資法違反で逮捕する」

 大輔が男に逮捕を告げた。

「おい、なんだよ。ふざけてんのか? これっぽっちの利息で逮捕すんのかよ。おかしいだろお前ら。頭、沸いてんのか?」

 明らかに男は動揺していた。

 別の班により、持ち去られた車も転売される直前のところで差押えることができ、無事に被害者の男性に還された。

 逮捕されたヤミ金融業者は、無登録で貸金業を営んでいて、相談に来ていた男性のほかにも多数の顧客に対して違法な高金利による貸付を行っていることが判明した。

 そして、客の利息支払いが滞ると、勝手に担保の自動車を引き上げるということが常態化していたこともわかり、数多くの自動車が借主の元に還された。

 被害男性が支払った利息は全額返還され、元本の請求も放棄された。

 

「俺たちの武器は拳銃だけじゃない。法律が最高の武器になる。向こうから事件が転がり込んでくるのを待っている法の『適用』じゃ足りないんだ。被害に遇っている人、困っている人を助けるために使える法律がないかをとことん考え抜く。そして、法律を駆使して被害の発生を防ぐ。もし被害が発生してしまったときは、その拡大を止めるのが法の『執行』だよ。だから、俺は法の執行者でありたいと思ってる」

 男の逮捕を終えた大輔がテワタサナイーヌに話した。

「それも、お父さんの受け売り?」

 テワタサナイーヌが笑った。

「影響は受けてるけど、気持ちの部分は、俺オリジナル」

 大輔が胸を張った。

「かっこいい!」

 テワタサナイーヌが大輔に抱きついた。

 

 その後の捜査の結果、業者の男は、利息が払えなくなった客に利息支払い猶予の代わりとして携帯電話を新規に契約させて、それをオレオレ詐欺犯人グループに売っていたことが判明した。

「こんなところから犯罪インフラが提供されてたのね」

 久しぶりにテワタサナイーヌがマズルを伸ばした。

「いたたた。お父さん、鼻を押さえて」

 伸びたマズルを戻すとき、テワタサナイーヌには激痛が走る。

 ところが、山口が手でテワタサナイーヌの鼻を押さえると、その痛みがかなり緩和される。

 これは、他の人ではダメで、山口が触れたときだけ効果が現れる。

「はー、ありがとう。助かったわ」

 テワタサナイーヌが深呼吸をした。

「そういえば、日向(ひなた)のマズルは伸びませんね」

 山口が思い出したように言った。

「あの子、基本的に穏やかだから、まだ激怒したことがないんじゃないかな。激しく怒ったらマズルが伸びるかもしれないよ」

 テワタサナイーヌが変形でずれた鼻骨を直しながら予想した。

「顔の骨って自分で直せるものなんですか?」

 山口が驚いた。

「うん。私はマズルが伸び縮みしたあとだけ、ずれた分を直せるみたい。いつも動かせるわけじゃないよ」

「便利なのかそうでもないのか、よくわかりませんね」

 山口が感心した。

「そういうものですから」

 テワタサナイーヌが笑った。




 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません


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円環

「こうして警察人生を全うすることができましたのも、家族の支えがあったからこそです。帰宅いたしましたら、まずもって妻に感謝の意を伝えようと思います。また、素晴らしい娘、そしてその夫である息子は私の誇りとするところです。娘には、命の尊さを、息子には命を慈しみありのままを受け入れる包容力を教わりました。どうか皆さまもご家族を大事になさり、この先の警察人生を有意義なものとしていただきたいと思います」

 

 山口は、定年退職の日を迎え、退職の挨拶を行っていた。

 犯罪抑止対策本部から警察署の生活安全課長として異動後、警視に昇任した。

 その後、生活安全総務課の管理官、警察署副署長を歴任し、最後の職場として犯罪抑止対策本部に戻ってきた。

 犯罪抑止対策本部では、犯罪抑止対策官という理事官職に就いた。

 犯罪抑止対策官というのは、副本部長に次ぐポストで、事実上の責任者といえる。

 その前年、早苗は警視に昇任して、4年間の期限付きで警察庁からB国シークレットサービスに出向していた。

 早苗は、犯罪抑止対策本部在籍当時、B国大統領主催の晩餐会に招かれ、その場で日向の嗅覚により爆弾所持の模擬テロ犯人を特定するという実績がある。

 その能力を請われてシークレットサービスから永久出向の打診を受けたが、一旦は断った。

 しかし、日向が大きくなったこと、オレオレ詐欺被害防止への役割が終わったと判断したことから、期限付きでの出向を受けることにした。

 早苗がオレオレ詐欺の被害防止から離れようと決意したのは、警視庁の方針転換が背景にあった。

 およそ7年前、警視庁では、潜在的被害者である高齢者の意識に働きかけて被害の防止を行うことに限界を見出し、物理的に詐欺の電話を遮断することに注力するようになった。

 以前、山口が言っていた迷惑電話防止機能付き電話機の普及、あるいは常時留守番電話に設定することで犯人からの電話を遮断しようというのだ。

 これが普及すれば、オレオレ詐欺だけでなく、電話を利用した特殊詐欺や悪質商法の被害を相当抑止することができる。

 事実、警視庁が迷惑電話防止機能付き電話の普及を促進し始めてから、オレオレ詐欺の被害は急激に減少していった。

 そのようなこともあり、テワタサナイーヌは、その名前の由来である「知らない人にお金を手渡さない」という注意喚起を訴求する必要性がなくなったと感じ、活動名である「テワタサナイーヌ」の看板をおろして山口早苗に戻ることにした。

 そして、犯罪抑止対策本部で警部に昇任した早苗は、そのまま犯抑にとどまることもできるという選択肢を示されたが、犯抑から離れて新しい道を進むことを選択した。

 一旦、警察署の課長代理として1年間勤務した後、嗅覚による爆発物探知の能力と、それまでの実績が評価され、警備第二課の爆発物対策係長として勤務した。

 爆発物対策係長として、都内はもとより全国の警察で爆発物知識の指導と現場での探知を行い、目覚ましい成果を上げた。

 その成果により「爆弾の山口」として確固たる地位を築き上げた。

 大輔も3年前、警部に昇任した。

 大輔は、山口が開発した地理的プロファイリングの手法を受け継いで研究を続け、実用に耐えうる精度にまでチューニングすることに成功した。

 そして、日本で初めての地理的プロファイリング分野における警察庁指定広域技能指導官に指定された。

 今では、日々の業務の合間を縫っては、全国警察を飛び回り地理的プロファイリングの考え方と手法を指導する立場になっている。

「早苗さん、大輔さん、お二人ともしっかりと専門分野を切り開いて活躍しています。安心して後をお任せできます」

 山口は、退職前日、大輔と一時帰国した早苗を前に涙を見せた。

 首都の治安という重い肩の荷をおろせる安堵感と、自分の警察人生での後悔ややり残した想いが交錯して、山口に涙を流させた。

「お二人は、私のような失敗をしないでください」

「ただ、失敗してしまったときは、言い逃れやごまかしをしないで、きちんと処分を受けてください」

「失敗、つまり過失は処分を受ければ、その責任を果たせます。失敗で職を奪われることは、まずありません」

「ところが、失敗をごまかそうとすると過失ではない故意による不正な行為をしなければならなくなります。そうなると犯罪行為になる場合が多く、過失と比べ物にならないくらい重い責任がのしかかります」

「禁錮以上の刑が確定すると、それだけで自動的に失職することになります」

「過ちは許されます。その責任から逃れないでください」

 山口が一言ずつ噛みしめるように語った。

「お父さんの失敗って何?」

 早苗が山口の顔を覗き込んだ。

「もう明日退職なのでお話をしましょう」

 しばらく黙っていた山口が口を開いた。

「私の失敗は、2回あります。どちらも警護に関わることです」

「警護にかかわること?」

 早苗が小首を傾げた。

「テワさん、相変わらずかわいい」

 大輔が喜んだ。

「ふふ。ありがと」

 早苗が微笑んだ。

「そうです。警護に関わることです。一度目が、私が警護課にいたときのことです」

「えー、お父さん、SPだったの?」

 早苗が驚いた。

「はい。27歳で警部補になった私は、28歳で機動隊の小隊長、そして29歳で警護課に異動になりました」

「めちゃくちゃ若いじゃない!」

「テワさんだって同じようなもんじゃん。どっちもスピード違反だよ」

 大輔が口を挟んだ。

「まあ若い方でした。そのまま何事もなく過ごしていれば、おそらく順風満帆なSP人生だったのでしょう。ところが、自分の失敗で警護課を去ることになります」

「なにしたの?」

 早苗が苦笑した。

「居眠りです」

 山口が恥ずかしげに言った。

「えー、例の睡眠学習?」

 テワタサナイーヌが笑った。

「そうですね。睡眠学習をしてしまいました。それも、絶対やってはいけないシーンで」

「絶対やっちゃいけないシーンってなんだろう……」

 早苗が首をひねった。

「毎年8月15日には、武道館で全国戦没者追悼式が行われます。これには天皇皇后両陛下が行幸啓になります。大変重要な行事です。私は、会場内に配置されました。会場内の座席に座って警戒を行うのが任務です。その式典挙行中、私は居眠りをしてしまいました。両陛下の御前にも関わらず……」

「それ、しゃれにならない」

 早苗が青ざめた。

「そうです。しゃれにならないです。私は、その責任を問われて、警護課を去ることになりました」

「それでもまだ32歳でした。まだまだ十分若い警部補です。新しい所属で心機一転頑張ろうと思いました」

「うんうん。そうよね」

 早苗が頷いた。

「ところがです。その異動先でもまた警護で失敗をしました」

「またなの?」

 早苗が呆れたような顔でビールを煽った。

「そうなんです。私はとことん警護に縁がない男のようです。ある年、某国の外務大臣が来日しました。その公式日程に国内最高と言われる指揮者によるクラシックコンサート鑑賞というものがありました。私がいた警察署の管内にその会場となるコンサートホールがあり、私は、また会場内の座席に配置されました。その日、私は朝から高熱が出ていて、ふらふらするくらい具合がよくありませんでした。それを押して出勤していた私は、オーケストラが演奏中に寝てしまいました。寝たというより意識を失っていたのだと思います。そして、いびきをかいてしまったことで主催者から退場させられるという事態になってしまいました」

「あっちゃー」

 早苗は頭を抱えた。

「そのことが主催者から警視庁に公式な抗議として寄せられました。場合によっては、外交問題にまで発展するかもしれないというところでした。私は、体調不良であったことをありのまま話しましたが、それで責任を免れるはずもなく、懲戒処分を上申されました」

「それでどうなったの?」

「幸い懲戒処分とはならず、署長からの厳重注意という形で決着が着きました」

「よかったじゃない」

「そうですね。しかし、懲戒上申されたという事実は残ってしまいます」

「そりゃまあそうよね」

「そんなダブルパンチがあった関係で、警部補になったのは若かったのですが、その後ずっと昇任できず、長いこと警部補を務めることになりました」

「ははーん、それでお父さんは警部補時代の経歴を話さなかったのね」

 早苗がニヤリとした。

「はい。恥ずかしくて言えたもんじゃありませんから」

 山口が頭を掻いた。

「それでも、警視庁は私を警視にまでしてくれました。きちんと責任を果たせば、必要以上に個人を責めたりしないのが警視庁だと思っています。だから私は、失敗したときは言い逃れせずに責任を果たしてくださいと言っているんです」

「なるほど。経験者は語るっていうわけね」

「経験しないで済むなら、その方がいいんですが……」

 山口は、自分の失敗を早苗たちに話せたことで、長年に渡り喉の奥に刺さっていた魚の小骨が取れたような安堵感を感じた。

「あ! だからB国大統領主催の晩餐会のとき、迎賓館の警備詰所で居心地悪そうにしてたんだ!」

 早苗がかなり昔の話を思い出して手を叩いた。

「そうなんです。あの頃はまだ知っている人がたくさんいましたから。バツが悪かったです」

 山口が苦笑した。

「そうそう。昔のことで思い出したんだけど、お父さんと私が初めてガスライトに行ったとき、私が何にも言わないのに私が注文したいお酒を当てたよね。あれ、どうして?」

 早苗は、初めて山口とデートしたときのことを思い出した。

「あれですか。あれは私の特別な能力でもなんでもありません。早苗さんが葛飾署にいたとき、同僚の女性警察官から聞いたことがあったんです。『天渡さんは、いつもグラスホッパーで始まって、その次はスクリュードライバーなんですよ』って。それだけです」

 山口がこともなげに説明した。

「なーんだ、そういうことだったのね。私は、お父さんて何か特別な能力でも持っているのかと思ったよ」

 早苗が伸びをした。

「これでもう私の隠した過去はありません」

 山口がさっぱりした顔で紅茶を口に運んだ。

 

 一方、日向(ひなた)は、保育所に入ってからも発達が著しく、7歳までには東大病院に保管されている自分のカルテや検査結果をすべて読みこんで理解できるようになっていた。

 カルテや検査結果から遺伝学に興味を持ち、学術書を読み漁る毎日だった。

 言語能力も秀でていて、英語で書かれた原書を難なく読み進めることができた。

 小学校の授業では、日向の知的好奇心を満たすことができず、教諭が日向の求めるレベルの学習を指導することもできなかった。

 一応、学校には通ったが、日向は図書館で自習する毎日だった。

「お母さん、私、自分の遺伝情報を解析したい。だからB国の大学に行かせて。B国なら飛び級で大学に入れるでしょ」

 7歳のとき、日向は、早苗に懇願した。

「そうね。あなたなら飛び級どころか『ギフテッド』で大学から歓迎されると思うわ。それに、生きてる学術資料だしね。でもね、まだ七、八歳の子供を一人でB国に行かせるわけにはいかないでしょ。向こうでの生活はどうするの?」

「うーん……」

 日向が頭を抱えた。

 ギフテッドとは、同世代の子供と比較して、並外れた成果を出せる程、突出した才能を持つ子供のことをいう。

 ギフテッド (gifted)は、贈り物を意味する英語の「ギフト (gift)」 が語源であり、天賦の「資質」、または遺伝による生まれつきの「特質」のようなものだ。

 だから、努力によってギフテッドになることはできない。

「先生、日向がB国の大学に進学したいと言い出しました。先生のお考えをお聞かせ願えますか」

 早苗は、東大病院の教授に相談した。

「そうですか! 実にいいことです。日向さんは日本国内の教育制度では対応できない能力の持ち主です。よかったら、私から国際学会を通じでB国の大学に当たってみましょうか」

 教授は、すっかり日向をB国に行かせるつもりになった。

 B国には、山口日向という7歳のギフテッド女児が留学を希望していること、その女児の母親は、山口早苗といいヒトとイヌの遺伝子を併せ持つキメラであること、また、女児自身もキメラであることが伝えられた。

 この情報をB国のシークレットサービスが見逃すはずがない。

 大学からの返事より早く警察庁を通じて早苗にコンタクトがあった。

「日向さんの留学期間中、シークレットサービスとして招聘したい。そうすれば、日向さんの留学中、一緒に生活することができる。居住地と勤務地は、日向さんの留学先大学により考慮する」

 まさに棚からぼたもちといった内容のオファーだった。

「ねえ大輔くん」

「なに?」

「またSSからオファーが来たの」

 早苗が大輔にシークレットサービスからのオファーがあったことを報告した。

「忘れられてなかったんだね」

 大輔が感心した。

「そうなのよ。でね、日向の留学期間中という条件と、日向と一緒に住めるっていう条件を提示されたの。悪くないと思わない?」

「それは破格に好条件でしょう」

 大輔が身を乗り出した。

「でもね、そうなると大輔くんと4年間は離れて暮らさなきゃならないよ」

 早苗が寂しそうな顔をした。

「うーん、それはあんまり嬉しくない。でも、日向の将来というか、日向自身の知的好奇心を満たしてあげることを考えると、4年間くらいは我慢してもいいよ」

 大輔が4年間の別居に同意した。

「ありがとう。しばらく寂しくなると思うけど、ちょくちょく帰ってくることもできるだろうから、なんとかなるよね」

 早苗が大輔の手を握った。

「うん」

 大輔が早苗の手を握り返した。

 

 話はトントン拍子に進み、日向はハーバード大学に授業料全額免除学生として招かれることになった。

 日向は、生物学を専攻した。

 自分を検体とした遺伝情報の解析に没頭した。

 早苗は、ヒマワリの血が入り込んでから徐々に犬化が進んで行ったが、日向は年令を重ねるごとに犬としての能力が薄らいでいった。

 早苗のようにマズルが伸びることはない。

 今では、「ちゃい」の合図で爆発物を探し当てた嗅覚も人並みになっている。

 ただ、聴覚はまだ人並み外れた能力を持っているようで、大学の仲間からは「歩く集音器」と揶揄されている。

 早苗は、シークレットサービスのマサチューセッツ州事務所に詰めて大統領の身辺警護に当たった。

 英語が苦手だと言っていた早苗だが、日向に教わりながら短期間で日常会話が可能なレベルまで習得した。

 

「最後に一つだけ皆さまにお伝えしたいことがあります」

 山口が退職の挨拶を続けた。

「皆さまは、ぜひ東京の『安全』を守ってください。私たち警察が提供することができるのは、安全です。よくいわれる『安全・安心』の両方を提供することはできません。なぜかというと、『安全』は、客観的に評価することができる『状態』なのに対して、『安心』は、主観的な『印象』だからです。客観的に安全が確保された状態であっても、ある人が『心配だ』と感じてしまったら、それは安心ではなくなってしまうのです。安心には、どれだけ多くの社会的リソースを注ぎ込んでも、決して満たされることがありません。コストは青天井となります」

「どうか、皆さまは、客観的な安全の提供に努めていただきたいと思います。終わりになりましたが、これからの治安の盤石と皆さまのご健勝を祈念いたしまして、私の退職のご挨拶といたします。本日まで大変お世話になりました」

 山口が深々と頭を下げた。

「じーじ!」

 山口が挨拶をしていた犯抑の部屋にB国にいるはずの日向が飛び込んできた。

 日向は、まだ9歳だというのに身長が170cmを超え、体つきもすっかり大人の女性のようになっていた。

 早苗に似て脚がまっすぐで長い。

 ただ長いだけではなく、引き締まった筋肉質で張りがある。

 B国では、研究の合間にモデルのバイトで自分の小遣いを稼いでいる。

「日向さん! どうしたんですか!?」

 山口が目を丸くして驚いた。

「じーじの定年をお祝いしたくて帰ってきちゃった。大学は大丈夫かって? うん、ちょっとくらい授業サボっても全然ついていけるから大丈夫よ」

 日向が山口に小さなブーケを手渡した。

「日向さん……」

 山口が堪え切れずに涙を流した。

「お父さん、今日までお疲れさまでした」

 日向に続いて早苗と大輔が入ってきた。

「お二人まで」

 山口が泣きながら笑った。

 

「本当に、ありがとうございました」

 山口は、大勢の職員に見送られて警視庁正面玄関を出た。

 早苗と大輔、そして日向が随行した。

 山口は、春の穏やかな日差しを浴びながら、玄関の階段を一段一段踏みしめて、長年務めた警視庁を後にした。

 

 早苗は、4年間の出向を終えて帰国した。

 日向は、4年間で大学を卒業し、そのままハーバード大学の大学院に進んで自身を検体とする遺伝学の研究を進めた。

 早苗が帰国した後は、山口夫妻がB国に渡り、日向の面倒を見ることになった。

 日向は、ほとんど身の回りのことを自分でできるようになっていたので、山口夫妻の仕事はなかった。

 毎日が観光旅行のような生活だった。

 日向は、ハーバード大学から博士号を授かり帰国した。

 しかし、そのとき日向はまだ16歳だった。

 普通であれば高校に進学して青春を謳歌している年齢だ。

 日向は、帰国したとき一人の男性を連れてきた。

 日向と共にハーバード大学で博士号とB国の医師免許を取得した恋人だった。

「はじめまして。私はマイケル・マッカーシーといいます」

 男性が流暢な日本語で早苗と大輔に挨拶をした。

「マイクって呼んであげて」

 日向がマイクの腕に絡みついた。

 山口夫妻とは、現地で何度も会い、交流を重ねてきた。

「あ、はじめまして。日向の父です」

「はじめまして。日向の母です」

 大輔と早苗が挨拶をした。

「お父さん、お母さん、私、この人と結婚したい」

 日向が目を輝かせて大輔と早苗に言った。

「あら、そうなの。おめでとう」

 早苗は、当たり前のように受け入れ、祝福した。

 大輔は、戸惑いを隠せない表情をして無言のままだった。

「でもね、私まだ16歳でしょ。普通の女子高生の生活もしてみたいのよ。だから、これから高校に入る。でね、マイクには、日本の医師免許を取ってもらって、こっちで医者をやってもらおうと思うの」

 日向が人生設計を語った。

「これから高校に入るの? 面白いこと考えたわね」

 早苗が笑った。

「うん。女子高生がやりたいから」

 日向が屈託ない笑顔を見せた。

 その表情は、まだ16歳のあどけなさを残している。

「それで、結婚したら彼氏の名前になるんでしょ?」

 早苗が訊いた。

「ぼくがヤマグチになります」

 マイクが早苗に言った。

「えっ!? あなたもそっち系の人なの?」

 早苗が呆気にとられた。

「そっちけいってなに?」

 マイクが日向に訊いた。

「あ、パパもグランパも結婚してお母さん側の名前になったのよ。だから、あなたもそっちを選んだ人なのね、っていう意味」

 日向が説明した。

「なるほど。そうです。ぼくもそっちけいです」

 マイクが屈託なく笑った。

「そうなのね。でも、いいのそれで?」

 早苗が確認した。

「はい。そういうものですから」

 マイクがきっぱりと答えた。

「日向、あなたが仕込んだのね」

 早苗は腹を抱えた。

「ぼくがこちらの医師免許をとって、ヒナがハイスクールを卒業したら結婚したいです」

 マイクが大輔と早苗に頭を下げた。

 来日前に日本式の挨拶の仕方を日向から教えてもらっていたようだ。

「私はオッケーよ。大輔くんは?」

 早苗が大輔に振った。

「ふたりの人生です。ふたりで決めたようにしてください。おめでとう」

 大輔が笑顔で祝福した。

 

 日向の高校生活が始まった。

 日向にとって高校レベルの勉強は、小学生のうちにすべてマスターしてしまっているので、改めて授業を受けるまでもない。

 しかし、日向は、決してそのような態度を取らず、他の生徒と同じように授業を受け、クラブ活動にも参加し、放課後を友達と楽しんだ。

 ひとつだけ違うところは、英語の授業を受け持っていたというところだ。

 英語もほぼネイティブスピーカーで国語も完璧という日向は、生徒たちにとっても貴重な教材だった。

 日向の指導の甲斐あって、その高校の英語は都内でも群を抜いた高いレベルの成績を収めた。

 言うまでもなく日向は、高校を首席で卒業した。

 日向は、高校在学中に警視庁警察官の採用試験に合格した。

 年齢の縛りでⅢ類での合格ではあったが、その成績は警視庁始まって以来といわれる完璧なものだった。

 それ以外にも、高校卒業と同時に東京大学の准教授として招かれた。

 警察官が他の機関の役員になったり、兼業しようとするときは警視総監の承認が必要となる。

 日向は、人事課に兼業の申請を出し、それが認められた。

 こうして、交番で勤務する傍ら東大で教鞭を取る巡査が誕生した。

 同僚からは「教授」と呼ばれたが、日向は、特別扱いされることを嫌がり、謙虚な態度を貫いた。

 

 日向は、約束通りB国から連れてきたマイクと結婚することになった。

 結婚式は、早苗と大輔が式を挙げたのと同じ教会だ。

 日向は、山口が丹精込めて縫い上げたウエディングドレスに身を包んでいる。

 早苗のドレスとよく似たAラインのロングトレーンで、上半身にぴったりとフィットしている。

 

 日向の身長は、180cm近くある。

 細身だが筋肉が発達してメリハリのある健康的な身体をしている。

 金色に近い薄茶色の髪に左右で色の違う瞳をもつ日向は、どこに行っても人目を惹き付ける。

 モデルとしてのオファーを度々受けるが、警察官の仕事を辞めるつもりがないので、すべて断っている。

「ねえ、お母さん」

 式の前日、日向は早苗に声をかけた。

「ん、なーに?」

 早苗が答えた。

「私が小さいとき、お母さんの首輪を欲しがったの覚えてる?」

 日向が幼少期の記憶を披露した。

「えっ、あなた、あんな小さいときのこと覚えてるの? もちろん私は覚えてるけど」

 早苗は驚きを隠さなかった、

「当たり前じゃない。私は天才なの。忘れないの」

「そうよね。あなた天才だもんね」

 早苗が苦笑した。

「あのさ、私ももうすぐ大人になるじゃん。そろそろ、その…… 首輪を…… かけさせてもらっても、いい?」

 日向が珍しくモジモジしながら言った。

「これ?」

 早苗が自分の首を指差した。

 早苗の首には、年季の入った、しかし、手入れの行き届いた赤い革製の首輪がかけられていた。

 早苗は、しばらく考え込んでいた。

「これは、私が大輔くんの犬になると誓った証。命を委ねる覚悟そのもの。あなたに同じ覚悟がある? ファッションとして欲しいなら、この首輪はあげられない」

 早苗は、真剣な眼差しで日向を見た。

 日向は、早苗の真剣な表情と首輪の意味の重さに一瞬たじろいだ。

「あなたは、私より犬らしさが少ない、よりヒトに近い命になったわ。首輪をかけるというのは、犬として生きる覚悟を周りに言いふらして歩くことになるの。無理しなくていいのよ。ヒトらしく生きる道もあるわ」

 早苗が日向に首輪をかける意味を改めて言って聞かせた。

「ふふっ」

 日向が笑った。

「どうしたの?」

 早苗が不思議そうな顔をした。

「お母さん。私の中にもヒマワリがいるの。そのヒマワリが首輪を欲しがるのよ」

 そう言うと日向は、着ていたTシャツを脱ぎ捨てて、上半身裸になった。

 日向がくるりと向きを変えて早苗に背中を見せた。

「えっ……」

 早苗が絶句した。

 日向の背中には、早苗の背中と同じ位置に、早苗の傷痕とそっくりのケロイド状の痣が盛り上がっていた。

「私は、背中にケガをしたことなんかないよ。でも、いつの間にかこの痣ができていたの。これは、私の中にヒマワリが生きてる証拠。いえ、私がヒマワリなの」

「あなたが…… ヒマワリ? どういうこと?」

 早苗が唖然とした。

「私は、自分を検体にして遺伝情報を解析してきたでしょ。私、そしてお母さんが何者なのかを知るために」

「私にはヒトとイヌの遺伝子がある。それぞれの遺伝子がどんな働きをしているか調べたら、面白いことがわかったの」

「私の中のヒトの遺伝子は、身体を作りあげていることがわかったわ。それで、イヌの遺伝子が何をしているかというと、意識と身体機能をつかさどっていることがわかったの。イヌの遺伝子は、ヒマワリ由来で間違いないこともわかったから、私の意識はヒマワリの意識そのもの。そういう風にお母さんお腹の中で作られたの」

「簡単に言っちゃうと、私は、ヒマワリの生まれ変わりってことね」

「身体機能としての犬っぽさは薄らいでも、意識の部分はほとんど犬なのよ。もちろん、ヒトとしての思考や言語も持っているけど」

「だから、私もマイクの犬として生きたい。そう思ったの。自然でしょ?」

 日向が早苗に微笑んだ。

「Ph.D.に言われちゃ私なんかが反論できるはずないわね」

 早苗が苦笑した。

「わかった。この首輪は、ヒマワリの代替わりの印としてあなたに譲る。大事にしてよね」

 早苗が首から首輪を外して日向に手渡した。

「あー、なんか首がスースーして落ち着かないわ!」

 早苗が首をさすった。

「お母さん。ありがとう」

 日向が首輪を抱き締めた。

 

 ベールアップされた日向の首に、マイクが司祭から受け取った赤い革製の首輪をしっかりと締めた。

 日向は、うっとりと目を閉じている。

「20年前を思い出すね」

「そうね。私もあんな顔をしてたんでしょうね。なんか恥ずかしい」

 式に参列している大輔と早苗が顔を見合わせながら囁いた。

 

 式の最後に日向が参列者に向かって挨拶を申し出て司祭に許された。

「私は、自分を産み、育ててくれた両親を、そして、母の命を救ってくれた祖父を尊敬しています。私は、母の命を救った祖父のような人になりたい。救われた命を都民のために捧げようとしている母のようになりたいのです。」

「私は、母が『テワタサナイーヌ』の名でオレオレ詐欺の根絶に尽力したことを知っています。母が自らの尊厳と引き換えに都民の安全を守ろうとしたことを知り、体が震えるような感動を覚えました」

「いま、警視庁は、『オレオレ詐欺に気をつけないオレオレ詐欺対策』として、迷惑電話防止機能付き電話機などの普及を促進しています。その結果、オレオレ詐欺を始めとする電話を使った詐欺が大幅に減少しています」

「母が名乗った『テワタサナイーヌ』のコンセプトである『知らない人にお金を手渡さない』という注意喚起は、もう必要ないかもしれません。いいえ、『テワタサナイーヌ』という名前は、決して現金を手渡さないという注意喚起だけが目的ではありません。母は、もっと広く『人を信じる人が傷つかない社会』を目指したのだと思います」

「私は、母の決意と願いを受け継いで生まれた身。私には、母の意志を絶やしてはならないという使命があります」

 

「今日から私が『テワタサナイーヌ』です」

 

(完)

 

 

 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。




 後に日向はマイクとの子を身籠り、元気な犬耳の女の子を産んだ。
 女の子は「(あおい)」と名付けられた。
 「日向」と「葵」で「向日葵(ひまわり)」。
 早苗を助けようとして命を落としたヒマワリの記憶をいつまでも絶やさないために。



◇◇◇◇◇

 お読みくださってありがとうございます。

 人間が社会の中で生きるために必要なスキル「他人を信じること」。
 このスキルを逆手に取った犯罪の詐欺を根絶したい。
 でも、ただ「詐欺に気をつけましょう」と大声で喧伝したところで、それは被害者の落ち度を際立たせるだけで、根本的な被害防止になりません。
 「これをすれば詐欺の被害に遭わない」という特効薬はないのかもしれません。
 でも、少しでも被害に遭う可能性を減らすことならできるはずです。
 そのための考え方や方法を筆者なりに考えてみました。

 作中に登場するチワワの名前「ヒマワリ」は、大阪府西淀川区女児虐待死事件で亡くなった被害者が今際の際に発したとされる言葉「ひまわりを探しているの」に由来します。
 この事件を題材にした歌があります。
 「冬に咲くひまわり」という題名で木下綾香さんが作詞・作曲して、ご自分で歌っていらっしゃいます。
 YouTubeに動画があります。
 ご視聴いただければ幸いです。
 https://youtu.be/Cp3-aiqXGUo (公式)
 https://youtu.be/_GsoCSa3iNM


 テワタサナイーヌは、直接の使命を終えても、そのマインドは消えません。

 テワタサナイーヌは、過去を振り返りません。
 前を向いて歩き続けます。


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