シンデレラガールズ・オブ・ザ・デッド (電柱保管)
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 ~プロローグ~

 

 

 ほいほーい、入っていいよー。

 

 おー、おつかれー。ってキミのことだから、疲れてなんかないよ、とかつまんない冗談言うんでしょうけど。

 

 え? 差し入れ? うん、ありがと。そのへんに適当に置いといて。あとで一緒に食べよ。

 

 それよりさ、持ってきてくれた? 例のあれ。

 

 おっ、これこれ、これがほしかったんだよねー。さすが我が優秀な助手クン! 仕事が早いね。

 

 クンカクンカ……。うーん、いいねいいねー、いい匂い。これだけでもうトリップしちゃいそうだよ。

 でも……本番はこれから。

 

 楽しい化学の時間の、はじまりはじまり~。

 

 まずは……っと。

 

 こいつを一本もぎとってー、刻んですりつぶしてー、ソックスレーちゃんで成分抽出してー。

 でもって、こっちのフラスコに投入。エイヤ!

 

 さあ、どうだー……?

 

 黒から白へ……問題はここからだよ。

 

 こいっ、こい……っ。

 

 ……きた! きたよ! ついにきた!

 

 赤!

 

 赤の妙薬!

 

 あ~ん、もう、嬉しすぎてフェロモン出ちゃいそうだよー! 

 

 ふぅん……、いいフレグランス! このご褒美があるから、調合はやめられないよねー。

 

 え? これ? これはね~……、まあ、エリクサーってやつ? 

 

 なんのためって……、そんな野暮なこと、あたしの口から言わせる気?

 

 ていうかさ、ほら、飲んでみてよ! 

 

 え? なんでって、だから、実験よ、実験。ジンタイ実験♪

 

 ささ、ぐぐ~っ、といっちゃってよ!

 

 大丈夫、大丈夫。副作用とかはないと思うからさ……たぶん。

 

 まあ、さ。なにかあっても、あたしが介抱してあげるからさ、だから安心して?

 

 というわけで、あたしと一緒にトリップ……しちゃおっか?

 

 

 1

 

 

「ムムム、ムンッ!」

 

 堀裕子がカッと目を見開いた、その瞬間。

 

「……ブホッ!」

 

 星輝子が抱えていた鉢植えのキノコから大量の胞子が噴出した。

 輝子は気の毒なことに舞い上がった胞子を鼻からも吸い込んでしまったのか、ゴホゴホとむせかえる。

 

「輝子ちゃん……大丈夫?」

「フヒッ……」

 

 心配する小梅をよそに、輝子はなぜか嬉しそうな笑みを浮かべた。まるで変な薬でも飲んだみたいな反応だが……ただのキノコだし、まあ害はないだろう。

 

 小梅は輝子のボサボサの頭に積もった白い粉を払い落としてやりながら、向かいのソファでつくろいでいる面々をうかがった。

 

「お、おおっ」

 

 みな一斉に驚きの声を発していたが……これは輝子のもとで起こった異変に対してのものではない。みなの注目は、同時に起きた別の珍事のほうに集まっていた。

 

「??? い、いったいなにが?」

 

 輿水幸子が床に仰向けに倒れ、目を白黒させていた。自分の身になにが起きたのか、本人がいちばんよく分かっていない様子である。

 

 ……事の次第はこうだ。

 

 裕子の掛け声とほぼ同時に、幸子が掛けていたスツールの脚がポキリと折れたのである。そのせいで必然的に、座っていた幸子が床に投げ出されてしまったというわけだ。

 

 不幸中の幸いと言おうか、幸子はどこも痛めてはいないようだった。プロデューサーとの接見に備えて丁寧に整えたショートボブの髪が乱れてしまったくらいか。椅子から転げ落ちてその程度で済んだのなら、やはり不幸中の幸いと言うべきだろう。

 

「ご覧ください! これが噂に名高いサイキックアイドル堀裕子の超能力です!」

 

 いまだ倒れたままの幸子へわざわざ近づき、テレビの実況放送みたいにおおげさに声を張ったのは、本田未央。毛先に少しシャギーを入れたショートヘアがよく似合う、みんなのムードメーカーである。

 

 未央はマイク……に見立てたビニール傘を裕子に差し向ける。

 

「さあさあ、ユッコさん! これはいったい、なんという超能力なのですか!?」

「い、いえ! これはおそらく偶然です! そもそも、私が見せたかったのはテレポーテーションですし!」

 

 裕子はあわててかぶりを振った。高い位置で結んだポニーテールがピョコピョコと左右に揺れる。

 

 小梅はひそかに苦笑した。嘘でも「これがハンドパワーです」なんて言い張っておけばいいのに……。

 

「あわわ……、だ、大丈夫ですか? 幸子ちゃん」

 

 未央と裕子がコントめいたやりとりを続けるさなか、幸子の介抱に向かったのは、島村卯月である。

 眠たげな目で瞬きを繰り返し、いまだ訳が分からないといった様子で天井を見上げている幸子を、卯月はそおっと抱き起こした。

 

「あ、頭……大丈夫ですか?」

 

 ……悪気はないのだろうけど、その訊き方はいかがなものだろう……。

 

「し、心配はいりません。なんたってボクは、世界一カワイイですからね」

 

 幸子は後頭部を押さえながらも不遜な笑みを卯月に返した。なるほど、本当に頭は大丈夫らしい。いつもどおりの幸子だ。

 

「おかしいですね……。ビンビンきてたはずなんですけど……」

 

 他方で裕子は、首をひねりながらもまた「ムンッ、ムンッ」と、彼女の言うサイキックパワーを発動させようと試みていた。小梅は隣の輝子に目をやるが、今度は謎の胞子噴出が始まる気配はない。

 

「ある意味、イマジンブレイカーだな……幸子のほうが」

 

 ソファから遠巻きに事態を眺めていた神谷奈緒があきれたように鼻を鳴らした。本人はうまいこと言ってやったと思ったらしく、太めの眉をくいと持ち上げて、となりに座る渋谷凛をちらりとうかがう。

 

「イマジン……なに?」

 

 だが凛は眉をひそめる。奈緒のオタクネタは残念ながら通じなかったらしい。

 

 それにしても……端正な顔立ちの凛が眉間にしわを寄せると、どうしてもおっかない印象が強くなる――小梅はなんとなく、伸びすぎた前髪で視界を遮った。

 

 クールで大人びた雰囲気の凛に対し、小梅は少しだけ苦手意識を抱いていた。凛から邪険に扱われたとか、威圧的な態度をとられたとか、そんな覚えはまったくない。それでも彼女を前にするとなぜか、小梅はいつも以上におどおどした態度をとってしまう。

 

 仲良くなれたら、とは思っているんだけどなあ……。

 

 ショートカットのくせに伸ばしすぎた前髪に隠れて凛をうかがっていると、彼女が壁にかかった時計を何度も見上げていることに気づいた。

 

「まだ来ないのかな……プロデューサー」

 

 ああ、そうか……。凛は、プロデューサーのことを気にしていたのか。

 

「そういや遅いね」

 

 凛の漏らしたつぶやきに、未央が反応した。いつのまにか始めていたスプーン曲げの真似事をやめて、未央も時計を見上げる。

 

「用事済ませたらすぐ行くって言ってたのにね」

「お仕事、忙しいんでしょうか?」

 

 卯月は心配そうに眉を曇らせた。

 

 いっぽう奈緒は、むっつりとした表情で同室している面々を見渡した。

 

「そもそも、なんで集められたんだ、あたしたち?」

 

 本田未央、島村卯月、渋谷凛、神谷奈緒、星輝子、堀裕子、輿水幸子、そして白坂小梅。この八名が今回プロデューサーに呼ばれたメンバーだった。

 

 仕事の打ち合わせをしたいから、休憩室で待っていてほしい――小梅たちが担当プロデューサーからそう声をかけられたのは、今日のレッスンが始まる直前だった。

 

 レッスン終了後、小梅たちは更衣室へ向かうほかのメンバーと別れ、この休憩室へ入った。すぐに向かうと言ったプロデューサーの言葉を信じ、レッスン着のまま着替えもせずに待つことにしたのだ。

 

 しかし待つこと三十分――現在時刻は午後七時五分。

 

 プロデューサーはまだ姿を現さない。

 

 すぐ行くと言っていたわりには、たしかに遅い。

 

「ま、怒られるわけじゃなさそうだし、待つのは別にいいんだけどさー」

 

 未央は革のソファにどっかりと腰を降ろした。新人アイドルにあてがわれた部屋の調度にしては豪奢だが、じつは事務所内の別の接客室で使っていたもののお下がりである。

 

「未央はなんの話か聴いてるの?」

 

 向かいに座っていた凛が少し身を乗り出した。

 

「いや、私も仕事の打ち合わせだとしか聴いてない」

 

 未央は頭の上で手を組んだまま首を振った。

 

 あ――。

 幸か不幸か、この点に関して、小梅には思い当たる節があった。

 

 凛と言葉をかわすチャンスである。

 

「あ、あの……」

 

 小梅がおずおずと手を挙げると、凛と未央が同時にこちらを見た。当たり前のことなのだが、小梅は少し緊張した。

 

「なに? 小梅」

 

 凛に訊き返され、小梅は無意識に目をそらしてしまう。声も、自然と小さくなる。

 

「映画……みたいですよ」

「え?」

 

 凛の眉間にしわが刻まれるのが目に入り、小梅はあわてて言葉を足す。

 

「あ、あの、プ、プロデューサーさんの、お話です。映画……の撮影がどうとかって……」

「ああ……」

 

 凛は大きくうなずいたあと、キリッとした目でふたたび小梅を見返した。

 

「ホントなの、それ?」

「あ、い、いえっ、プロデューサーさんが電話でそんな話をしているのを立ち聞きしただけなんですけど……」

 

 答える声はだんだんとしぼんでしまう。別に責められているわけではないと、頭では分かっているのに。

 

 救いだったのは、未央と卯月が会話に割り込んできてくれたことだ。

 

「へえ、映画かあ」

 

 楽しげに目を輝かせたのは未央。

 

「え、映画……ですか」

 

 対象的に、卯月は少し不安げな表情をのぞかせた。

 

「お芝居なんて……私、自信ないです」

「それ以前にさあ、映画って、このメンバーでかぁ?」

 

 奈緒も話が耳に入っていたらしい。怪訝そうに片眉を上げつつ集まった面々をあらためて見渡した。

 

「……言われてみればたしかに、めずらしい組み合わせかも」

 

 凛が一瞬こちらを見た気がし、小梅はとっさに前髪で顔を隠した。

 

「まあねえ、映画っていうよりはバラエティ向きの面子だよね」

 

 未央におどけた口調で切り返されると、凛は反応に困ったのか、苦笑を浮かべてセミロングの美しい黒髪を耳に掛けた。

 

 小梅のほうを見ては――いない。

 さきほどの視線はやはり、気のせいだったのか。

 小梅はひそかにほっと胸をなでおろした。

 

 いっぽう未央は、おもしろい話題を見つけたと思ったらしい。

 

「しかし、しまむー……、このメンバーだと、私たちは必然的にツッコミに回らざるをえないよ」

 

 未央は腕を組み、真剣な面持ちで卯月を見る。

 

「ツ、ツッコミですか? あわわ……私、うまくできるでしょうか……」

 

 どう考えても冗談なのに、卯月は真に受けてしまったらしい。あいからわず素直だ。

 

「ご心配でしたら、ここはひとつ、私の予知能力で未来を占ってみせましょうか!?」

 

 おろおろする卯月に、裕子がここぞとばかりに超能力を押し売りを始める。

 

「え、ええっと……」

 

 らんらんと目を輝かせて迫る裕子をいなしきれず、卯月は視線で未央に助けを求めた。

 

「しまむー、ツッコミ、ツッコミ!」

 

 未央が小声で返したのは、そんな非情な指示だった。業界用語で言うところの無茶振りというやつである。

 

「え、ええっ!?」

 

 卯月は当然、うろたえるばかり。まあ、未央もそれを狙っていたのだろうが……。

 

「フッフーン! ツッコミならこのボクに任せてください! 世界でいちばんカワイイこのボクが、どんなボケにも完璧なツッコミを入れてみせますよ!」

「いや、さっちーはどう考えてもボケだから……」

 

 薄い胸に手を当ててふんぞりかえる幸子に、未央がすかさずツッコミを入れた。

 

 ……なんか本当にこのメンバーでバラエティ番組ができる気がしてきた。

 

「……」

 

 ちなみに凛は、とばっちりを避けるためだろう、さりげなくソファの端まで逃げ、未央から懸命に目をそらしていた。こういうところは、ちょっとかわいいのだ。

 

「……輝子ちゃんはどう? バラエティ番組、出てみたい?」

 

 小梅が水を向けると、輝子は立派なキノコが生えた植木鉢を胸元に抱き寄せた。

 

「バラエティ……、ど、どう考えても、ぼっち向きじゃない……危険。うう……」

 

 ぼそぼそとつぶやくと、輝子はふらりと体を傾け、談笑の輪から外れた。

 

「し、輝子ちゃん? どこか行くの?」

 

 輝子は振り返って、小梅にひきつった笑みを見せる。

 

「ト、トモダチが恋しくなった……。ち、ちょっと様子を見にいく」

 

 輝子はそう言って、胸に抱えている鉢植えに目を落とした。

 

 トモダチ――輝子は趣味で栽培しているキノコ類をそう呼んでいる。

 

「でも……もうすぐプロデューサーさん、来るかも」

「う、うん……。でも、トモダチがいるのはプロデューサーの部屋だし、と、途中で会えるかもしれない。そ、それに、ちょっと気になることもあるし……。す、すぐ戻るから」

 

 輝子はやはりぎこちなく微笑むと、小梅に対して親指を立ててみせた。

 

 プロデューサーと入れ違いになる可能性もあるけど……まあいいか。これが今生の別れになるわけでもないし。

 

「分かった。じゃあ、いってらっしゃい」

「あっ、ハイハイ! 待ってください、私も行きます!」

 

 小梅が輝子を送り出そうとした矢先、会話が聞こえていたのか、裕子が元気よく手を挙げた。

 

「それなら私も一緒に出ます! じつはずっとトイレに行きたかったのですよ!」

「生理現象だからしかたないけどさ、アイドルが大声で発表しちゃっていいのかね? そういうこと……」

 

 未央が苦笑しつつツッコんでいたが、裕子は特に気にするそぶりも見せず、軽やかな足取りで輝子の横に並んだ。

 

「途中まで一緒に行きましょう、輝子ちゃん」

 

 輝子はこくりとうなずいた。輝子は小梅に負けず劣らずの人見知りだが、裕子とは不思議と仲が良い。

 

「それではみなさん、またのちほど」

 

 妙におおげさな台詞を残し、裕子は輝子と連れ立って休憩室から出ていった。

 

 それから五分ほど経った頃だろうか。

 

 ドンドン、と、外からドアをノックする音が聞こえた。

 

「あっ、プロデューサーさんでしょうか?」

 

 真っ先にソファから腰を上げたのは卯月だった。

 

 輝子たち、やっぱり入れ違いになっちゃったかあ……と思いつつ、小梅は来訪者を出迎えに向かう卯月を目で追った。

 

 それにしても――。

 

 ドンドンドン!

 

「ひゃっ……!」

 

 小梅は思わず肩をすくめた。

 

 ノックがやけに乱暴な気がした。

 

「はあい、開いてますよ」

 

 卯月も急かされたようにドアへ駆け寄り、誰何もせずにノブを引いた。

 

「あっ、お疲れさまです、プロデューサーさん」

 

 ドアを開けた卯月は、床を舐めるような足取りでぬっと入室してきた人物に、明るい声で挨拶をした。

 

 ダークトーンのスーツを着た若い男性。背丈はわりと高いほうで、太りすぎても痩せすぎてもいない。顔立ちもなかなかに端正。黙っていれば好青年に見えなくもない――小梅たちを担当するプロデューサーで、まちがいなかった。

 

「お疲れさまです」

 

 卯月につづいて小梅たちも立ち上がって挨拶をした――のだが。

 

「……プロデューサーさん?」

 

 なにか――様子が変だった。

 

 いつもならば陽気に応答するはずなのに――今日のプロデューサーは、無言のままでうつむいていた。

 

 うつむくどころか――頭を異様なまでに下げ、両手もぶらんと下ろしている。

 

 生気がない。

 

 なにか様子が――変だ。

 

「大丈夫……ですか? プロデューサーさん」

 

 彼の目の前に立っていた卯月も異変に気づいたらしく、心配そうに彼の顔をのぞきこもうとした。

 

 そのときである。

 

「プ、プロデューサーさん!?」

 

 彼はいきなり卯月の両肩を正面からつかんだ。見様によっては卯月に迫っているかのようだ。卯月がうろたえるのも当然といえた。

 

 プロデューサーの思いがけない行動に小梅たちも呆気にとられていたのだが――おもてを上げた彼を見て、今度はぎょっとした。

 

 せざるをえなかった。

 

 緑。

 どす黒い緑色。

 プロデューサーの顔色の話である。

 

 生気がない――どころの騒ぎではない。

 

 緑――である。

 

 人間の顔の色じゃない。

 

 人間じゃ――ない。

 

「う、卯月さんっ!」

 

 小梅はとっさに叫んだ。

 

 離れて――と続けようとした。

 

 しかし、それよりも早く。

 

「ヴがヴヴぉがげぐごげがぁっ!」

 

 プロデューサーは大口をあけ、卯月に襲いかかった。

 



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【修正】部屋の明かりが戻りました。(2017年1月11日修正)


「き、きゃあっ!」

 

 卯月の悲鳴が室内に響きわたった。

 

「ガアハヴゼッバヴアッ!」

 

 ()()()()、卯月の首筋に噛みつこうと迫るプロデューサー。

 それを必死に押しとどめる卯月。

 

 小梅たちはそんな光景をただ呆然と眺めてしまっていた――なにが起きているのか、理解が追いつかない。

 

「プ、プロデューサーさん、やめっ、やめてくださいっ!」

 

 卯月の拒絶の声を聞いて、ようやく凛がハッと我に返る。

 

「な、なにしてんのよ、あんたッ!」

 

 凛はキッと眉をつりあげ、ずんずんとプロデューサーに詰め寄った。

 

「ヴガァッ!」

 

 胸を突き飛ばされたプロデューサーは、よろよろとバランスを崩し、そのまま床に尻もちをつく。

 

「え……? ち、ちょっと……」

 

 彼があまりにも簡単に倒れたものだから、凛は少々あわてたようだ。嗚咽を漏らす卯月の肩を抱き寄せながらも、凛は倒れたプロデューサーにおそるおそる声をかけた。

 

「あ、あの、大……丈夫?」

「ウウウ……」

 

 プロデューサーはうずくまったまま、まともな返答を寄こさない。

 

 凛の顔に困惑の色がにじむ。

 

 気まずい雰囲気に――助け舟を出したのは、未央だった。

 

「ちょ、ちょっとちょっと~、いくらなんでも冗談キツイってー、プロデューサー」

 

 未央は軽口を叩きながらプロデューサーに近づいていく。

 座り込んだプロデューサーの前まで来ると、未央は少し腰をかがめて手を差し出した。

 

「愛の告白ならさー、もっとロマンチックにやらないと」

「ウヴ……」

 

 プロデューサーは緩慢な動作でおもてを上げた。

 

 彼の緑色の顔が見えて――小梅はようやくゾッとした。

 

「未央さん、ダメ!」

「え?」

「ウガぁッ!」

 

 間一髪だった。

 

「っ!?」

 

 プロデューサーに噛みつかれそうになった瞬間、未央は反射的に手を引っ込めていた。

 

 ガチン、と、歯を噛み合わせる硬い音がやけに明瞭に響いた。

 ほんの一瞬でも回避が遅れていたら、どうなっていたか――恐怖が一気に室内を支配する。

 

「おいおい……、だ、だから、冗談キツイって……」

 

 未央は笑みを引きつらせ、じりじりとあとずさる。

 

 凛と卯月も肩を寄せあいながら、困惑と恐怖が入り混じった目をプロデューサーに向けていた。

 

 怯える彼女たちをにらみつけるプロデューサーは――手足を大きく開いた四つん這いの体勢で床にはいつくばっていた。

 

 まるで獣だ。

 

 いや――化物だ。

 

「な……っ、なになに!? なんだよ、おい!?」

 

 ソファでは奈緒が、危険から逃れたい一心なのか大慌てで座面にのぼった。

 

「プ、プロデューサーさん……なんですよね?」

 

 こちらはソファのうしろに身を隠した幸子が、こわごわと尋ねた。

 

「ガアッ!」

 

 返ってきたのは咆哮だった。

 

 小梅たちは一斉に身をすくめた。

 

 言葉は分からなくても、答えは分かる。

 

 目の前の恐ろしい存在はたしかにプロデューサーではあるが――小梅たちの知っている彼ではない。

 

「み、みなさん、一旦外へ――」

 

 小梅がとっさに避難をうながそうとした、そのとき。

 

 バチン、と火花が爆ぜるような音とともに、突然部屋の照明が落ちた。

 

「きゃあ!」

 

 甲高い悲鳴が誰からともなく上がる。

 

 小梅も混乱しかけた――が、なんとか気を確かに持つ。暗い。だが、窓から差し込む明かりのおかげでかろうじて視界はある。彼がいた場所へ目をやった。

 

 が――いない!

 

 上!?

 

 気配を感じ、小梅は視線を跳ね上げた。

 

「ブヴォワッ!」

 

 宙を舞う彼の姿が見えた。跳び上がったのだ。

 

 赤い目が光った。小梅を見ていた。少なくとも小梅にはそう思えた。

 

 やられた!

 

 息が詰まった。足がすくんでいた。動けなかった。小梅にできたのは、目を固く閉じ、両手で頭を守ることくらいだった。

 

 ああ――っ。

 

「ガッ!?」

 

 にごった悲鳴に続いて、なにかが倒れるような大きな物音。

 

 目を開けるとすでに明かりが戻っていた。そして――小梅の足元でプロデューサーがうずくまっていた。小梅は驚き、息を呑んだ。

 

「なにしてるの! 早くこっち!」

 

 固まっていた小梅の腕をとったのは、長い髪のシルエット。凛だった。

 

「あ、ご、ごめんなさい」

 

 なぜか謝ってしまった。こんなときにまで彼女に対する苦手意識は消えないのか――。

 

「いいから! 逃げるよ!」

 

 凛は有無を言わさず小梅の腕を強く引いた。見れば、彼女の右手にはビニール傘が握りしめられている――そうか、あれでプロデューサーを殴りつけたのか。

 

「きゃああああっ!」

 

 さっきから暗い室内にこだましている甲高い音がみなの悲鳴だと、小梅はようやく気づいた。みな、さきほどの争うような物音で恐慌をきたしていた――我先にとドアに殺到している。

 

「ウ……ウウ……」

 

 プロデューサーはまだ側頭部を押さえ、床でもだえている。逃げるなら今しかない。

 

「は、早く早く!」

 

 ドアが開くと、みなは押し合いへし合いしながら廊下へとまろびでた。

 

「ト、トレーナーさんっ! た、助けてくださいっ」

 

 切羽詰まったような幸子の声が聞こえた。

 

 小梅と凛も急いで廊下へ出る。

 

 幸子たちの肩越し――廊下の先に、ジャージ姿の女性が見えた。

 

 彼女は()()()()()()()()()()()()()()()()()()、廊下の真ん中に突っ立っていた。

 

 小梅たちのレッスンを担当している女性トレーナー……なのだが――。

 

「トレーナーさん、き、来てください! プロデューサーさんがなにか変なんです!」

 

 後ろ手で休憩室のドアを指さしながら訴えると、知り合いに会えた安心感からか、幸子はトレーナーへ寄っていこうとする――ダメだ!

 

「幸子ちゃん、待って!」

 

 小梅がとっさに幸子の腕をとった、その刹那。

 

「ビヒャアウアァッ!」

 

 トレーナーは怪鳥の泣き声のような奇声を発し、おもてを上げた。

 

 その顔の色は――どす黒い緑。

 

 プロデューサーと同様に、人間離れしていた。

 

「ひ、ひいっ!」

 

 幸子があげたそんな悲鳴を聞きとがめたのか。

 

「ビャアッ!」

 

 トレーナーはキッと小梅たちを見据えたかと思うと、ダン、と音を立てて床を蹴った。こちらへ向かってくる!

 

「う、うわあああっ!」

 

 恐怖の叫びをあげただけで――小梅たちはその場で固まってしまった。

 

 押しくら饅頭をしているように全員で身を寄せ合ってしまい、身動きがとれない――!

 

 トレーナーがぐんぐんと迫って――鋭く爪を立てたその手が、最前列にいた幸子に向かって伸ばされた!

 

「ひ、ひいいいっ!」

 

 幸子は頭を抱えてしゃがみこみ――トレーナーの右手が幸子の頭上で空を切る。ほとんど反射的な動作だったのだろうが、幸子はトレーナーの一撃をかろうじてかわした。

 

「グガッ!?」

 

 攻撃を空振りさせたトレーナーは、勢い余ってそのまま右肩から床に転倒。

 

「ひっ!」

 

 足元に転がったトレーナーにひるみ、みな一斉に半歩うしろへ飛びのいた。

 

「に、逃げろ!」

 

 未央の掛け声で退路――廊下の先を見やった小梅たちは、しかしそこで、絶望的な光景を目にすることとなった。

 

「なっ――!」

 

 スーツ姿の男性の集団が廊下を塞いでいた。十数人。男たちは廊下の端から端まで隙間なく並んでおり、さらに後続まで列が続いている。

 

 そして小梅たちを恐怖させたのは――あきらかに普通でない彼らの雰囲気だった。

 

 彼らの肌はひとりの例外もなく、緑色をしてただれていた。

 

「ちょっ……!」

 

 小梅たちは反射的に廊下の反対側へ視線を振り向けた――が、そちらも状況は同じだった。化物じみた男たちが行く手を塞いでいる。しかも彼らは――。

 

「ちょっ……ちょちょちょっ!?」

 

 ゆっくりとだがこちらへ向かって行進しているようにも見えた。

 

 小梅たちはせわしなく左右に首を振るしかなかった――そうこうしているうちに。

 

「ウウウ……ッ」

 

 片肘をついてゆっくりと上体を持ち上げるトレーナーに小梅は気づいた――身を起こそうとしている!

 

 小梅の背筋に悪寒が走った。

 

「も、戻って!」

「だああああっ!」

 

 まず休憩室へ飛び込んだのは奈緒だった。続いて卯月、凛、未央が次々とドアをくぐる。

 

「幸子ちゃんも早く!」

 

 小梅はとなりにいた幸子を突き飛ばすようにして休憩室へ押し込んだ。

 

「こ、小梅さん!」

 

 幸子が伸ばしてくれた手をつかみ、小梅も室内へ飛び込んだ。が――。

 

「ヴガァッ!」

 

 とうとう立ち上がったトレーナーが、小梅の背後で威嚇するかごとく両手を振り上げていた。

 

 このままでは室内に踏み込まれる――!

 

「~~っ!」

 

 小梅は決死の覚悟でトレーナーの懐をかいくぐり、ノブをつかんだ。全力でドアを引く。

 

「ヴァッ!?」

 

 閉まりかかったドアはトレーナーの指を無惨に挟んだ。

 トレーナーが反射的に手を引っ込めた――そのわずかな隙に。

 

「むうんっ!」

 

 小梅はもういちど勢いよくノブを引いた。

 

 今度は完全にドアが閉まる。

 

「か、鍵!」

「分かってます!」

 

 奈緒の声に怒鳴り返すと、小梅は急いでサムターンを回した。その刹那――。

 

「ケキャアッ!」

 

 ドアの向こうから、けたたましい奇声。さらになにかを引っ掻くような不快な音。

 トレーナーがドアに爪を立てているのだと、容易に推察できた。

 

「オオオ……オオオ……」

 

 加えて聞こえてきたのは、低く、ぐぐもった声の重なり。魑魅魍魎が奏でているようなオーケストラ。廊下にいたあの連中までもが、ドアに群がってきたにちがいない。

 

「いやあっ!」

 

 恐怖に耐えかねたのか、卯月などは両耳を押さえてうずくまってしまった――しかし。

 

 この部屋に残されていた危険は、小梅たちに現実逃避を許さなかった。

 

「……グ、ヴグググ……」

 

 獣じみたうなり声に引きつけられるかのように、小梅たちは一斉に振り向く。

 

「あ、あ……」

 

 恐怖に口元が震えた。

 

 プロデューサーが立ち上がっていた。



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「あ、あ……」

 

 プロデューサーは部屋の中央付近に立ち、小梅たちの隙をうかがっていた。

 

 小梅たちはすくんでしまいそうになる足をなんとか動かし、彼から距離をとろうとあとずさる。

 

 が、すぐに行き止まり。

 背後は壁。

 そしてその向こうには気配があった。

 

「オオオ……オオオ……」

 

 魑魅魍魎たちの気配が。

 

 逃げ場は――ない。

 

「グガァアァ……」

 

 追い詰められた小梅たちをあざ笑うかのように、プロデューサーは気味悪く蒼ざめた唇をゆっくりと開く。唾液が糸を引いていた。()()()()が鼻をついた――その矢先。

 

「ヴァウ!」

 

 犬のように吠えたプロデューサーは、しかし二本の足で床を蹴った。

 

 こっちに向かってくる!?

 

「う、うわあああっ!?」

 

 小梅たちは叫び声をあげながら、蜘蛛の子を散らすように左右へ逃れた。

 

「ガウッ!」

 

 プロデューサーは小梅たちがいなくなったドアへ飛びつく。

 

「しまっ――」

 

 小梅は自分たちの失策に気づいた。

 あのドアの向こうにはトレーナーたちがいる。

 プロデューサーはまさか――トレーナーたちを室内に引き入れるために小梅たちを蹴散らしたのか!?

 

 ――ところが。

 

「グルルル……ッ」

 

 彼は目の前のドアにはまるで興味を示さず、小梅たちのほうへ振り返った。

 

「え――?」

 

 どういう……ことだ? プロデューサーと外にいる連中は、仲間ではないのか?

 

 しかし、怪訝に思っている余裕はなかった。

 

「グァッ!」

 

 プロデューサーは左右に振っていた視線をとめ、見つけた獲物を威嚇した。

 

 狙いは右手に逃げたふたり――卯月と凛だ。

 

「き、きゃああっ!」

 

 悲鳴をあげ、両手で頭を守る卯月に、プロデューサーが襲いかかる――!

 

「――このっ!」

 

 しかしプロデューサーは卯月の手前で体をくの字に曲げた。

 彼の前に立ちふさがったのは凛。

 凛は間一髪、彼の腹に蹴りを食らわせたのだ。

 

「グゥッ!?」

 

 倒れたプロデューサーはそのまま床に仰向けになる。

 

 凛は腰を抜かしていた卯月のほうに振り返って叫ぶ。

 

「卯月、逃げて!」

「ひ、ひゃいぃっ」

 

 おろおろと逃げ出す卯月と入れ替わるようにして――。

 

「うああああっ!」

 

 未央がプロデューサーの枕元へ駆け込んだ――剣のように握ったビニール傘を大きく振りかぶる。

 

「てりゃああっ!」

 

 未央はプロデューサーの顔面を狙って一気に傘を振り下ろした!

 

 が――。

 

「ヴアッ!」

 

 プロデューサーはカッと目を見開いたかと思うと、すばやく横に転がった。

 

「ッツ!」

 

 床を叩いてしまった未央が、手のしびれに顔をしかめる。

 

「ヴァワッ!」

 

 横向きに数回転したプロデューサーは、追撃に備えたのかすばやく身を起こした。

 

 その機敏さに――小梅は目を見張った。

 

「さっきよりも動きが軽くなってる……?」

 

 アクション俳優さながらの身のこなしだ。最初は凛に胸を押されていただけでよろけていたのに……。

 なんというか、持て余していた体の使い方を、徐々に覚えていっているような――。

 

「ガウッ!」

 

 鋭い咆哮が耳をつんざき、小梅はハッと我に返った。

 

 プロデューサーが小梅の目前にまで迫っていた。

 

「ひゃっ!」

 

 小梅はとっさにうしろへ飛び退き、プロデューサーの手刀をかわした。

 

 勢い余ったプロデューサーはたたらを踏んだが――それでも下からキッと小梅をねめつけた。

 まだこっちを狙ってる!?

 反射的に身構えた小梅に、プロデューサーの手が伸ばされ――。

 

「――うりゃあああっ!」

「アッ!?」

 

 しかしプロデューサーの姿が突然視界から消えた。

 足元で大きな物音。

 奈緒がプロデューサーのともに床に倒れていた――横からプロデューサーに体当たりしたのか。

 

「奈緒、どいて!」

 

 凛の声。

 奈緒は目を見開き、床を転がってすばやくプロデューサーから離れた。

 取り残されたプロデューサーの横っ面を――。

 

「――このっ!」

 

 凛はおもいきり踏みつけた!

 

「ガッ!」

 

 しかし――凛の足の裏が顔に届く寸前で、プロデューサーはその足を片手で受け止めた。

 

「なっ――!?」

 

 ひるんだ凛の足を、プロデューサーはぐいと押し返した。

 

「きゃあ!」

 

 凛はバランスを崩し、後方に尻もちをつく。

 その隙に――。

 

「ウクェャッ!」

 

 プロデューサーは背中を弾ませただけで起き上がり、さらにその勢いのまま高く跳び上がった!

 

「あっ――」

 

 小梅たちは一斉に彼を仰いだ。

 

 あまりに鮮やかな挙動に圧倒され――身動きがとれない。

 

 プロデューサーはにやりと口元をゆがめて小梅たちを見下ろしていた。

 

 今度こそやられる――絶望的な考えが頭をよぎった、その刹那。

 

「ガッ!?」

 

 ゴンッ、と鈍い音が響き、部屋がわずかに揺れた。

 

 高く跳び上がったプロデューサーは――その勢いを殺しきれず、天井に頭をしかかたにぶつけたのだ。

 

「え――?」

 

 呆気にとられた小梅たちの前に、崩れた建材とプロデューサーの巨体が落ちてくる。

 

「わっ!」

 

 驚いて一斉に飛び退いた小梅たちは、建材のかけらをかぶって横たわるプロデューサーをしばらく呆然と見つめた。

 プロデューサーは白目を剥いて口を半開きにし、ピクピクと体を痙攣させていた。

 

 動く気配はない。

 

 えと……どうすれば――?

 

 いちはやくハッと我に返ったのは凛だった。

 

「み、未央っ! 早くっ!」

「え――あっ!」

 

 凛に急かされ、未央はようやく自分が握りしめている武器に視線を落とした。

 

 すばやく構え直した未央は、持ち手の部分を上にして、ビニール傘を大きく振りかぶる。

 

「プロデューサー……ごめんっ!」

 

 言うが早いか、未央はおもいきり傘を振り下ろした。

 

「ガッ!?」

 

 未央の一閃は今度こそプロデューサーの顔面をとらえる。プラスチック製の硬い持ち手に前歯を砕かれ、プロデューサーはまな板に乗せられた魚のようにビクンと体を跳ねさせた。

 

「やっ……た!?」

「まだっ!」

 

 未央と入れ替わるように前に出たのは――凛だった。

 

「うあああっ!」

 

 プロデューサーの枕元に立った凛は、陶器の花瓶を頭上に掲げていた。近くのキャビネットに置かれていたものだ。

 

 凛はキッとプロデューサーを見下ろすと――。

 

「こ……のおおおっ!」

 

 ためらいを振り切るように叫び、凛はプロデューサーの顔面におもいきり花瓶を投げ落とした。

 

 ガシャンッ!

 

 派手な音をたて、花瓶はプロデューサーの額で砕けた。

 

 強烈な一撃をくらったプロデューサーは――。

 

「ヴ……ウ……ヴォ……ッ」

 

 ガクリと頭を落とし、ついにぴくりとも動かなくなった。



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「せえ……のっ!」

 

 小梅と凛が彼の両脚を押し込むと同時に、奈緒がロッカーの扉を無理やり無理やり閉じた。

 

 念を押すように両手で扉を押さえたあと、奈緒は小梅のほうに振り向いた。

 

「鍵って……あったっけ?」

「さあ……、で、でも、中からは扉を開けられないんじゃないでしょうか……」

「そっか……うん」

 

 奈緒は自分自身を納得させるように深くうなずいた。

 

 小梅はプロデューサーを閉じ込めたばかりのロッカーを再度見つめた。こうして扉が閉められているかぎり、何の変哲もないロッカーにしか見えない。それだけに、中身を知っていると余計にまがまがしく感じられてしまう。

 

 凛によって()()()をさされたプロデューサーは――しかしまだ息があった。

 

 もとより小梅たちは、彼の命まで奪うつもりはなかった。しかし、彼が意識を取り戻してまた暴れだしてはたまらない。話し合いの末、小梅たちはとりあえず彼を拘束しておくことに決めた――彼がつけていたネクタイとベルトで手足を縛ったうえで、掃除用具入れとして使われているロッカーに閉じ込めておく、という手段で。

 

 無論、室外へ追い出すことができればよりよかったのだけれど――。

 

「ひっ!」

 

 ()()()外から乱暴にドアを叩く音が聞こえて、幸子は耳をふさいでその場にしゃがみこんだ。

 

 トレーナーをはじめとする例の連中だ。彼らはまだ廊下を徘徊しているらしく、小梅たちがプロデューサーの手足を縛っている最中から、時折ああしてこちらを威嚇していた。ドアを開けた途端、やつらは一気に押し入ってくるだろう――プロデューサーは室内のロッカーへ入れるしかなかった。

 

「……ドア、なにかで塞いでおいたほうがいいかな……? バリケード……って言うのかな?」

 

 乱暴なノックの衝撃できしむドアを見て、凛がつぶやいた。

 

「お、おお、そうだね。あのソファとか使おうよ」

 

 未央はうんうんと相槌を打つと、三人がけの大きなソファのもとへ走った。

 

「わ、私もお手伝いします」

 

 卯月に続き、凛と奈緒もソファの両端へ散った。

 

 もちろん小梅も作業に加わったのだけれど――。

 

「なんでなんでなんで……? あんなの……プロデューサーさんじゃない。お家帰りたい帰りたいどうすれば帰れるの……?」

「……幸子ちゃん」

 

 幸子だけは窓際で座り込み、駄々をこねる子どものようにブツブツとなにかつぶやいていた。

 

 無論、そんな幸子の姿にはみなも気づいているだろう。しかし無理強いをしようとする者はいなかった。こんな状況だ。混乱してもしかたない。今はとにかく、動ける者が動かなければ。

 

 怯える幸子を横目に、小梅たちは協力してソファを運び、ドアにぴったりと押しつけた。

 

 バリケードと呼ぶにはいささか心もとないが、なにもしないよりはマシだろう。

 

 廊下にいる連中がこちらの動きをどこまで察しているかはわからないが――ドアが叩かれる頻度は、さきほどよりも少なくなってきた気もした。

 

 ようやく人心地つけた――のか。

 

 そう思った矢先――。

 

「――あっ!」

 

 未央が突然、大きな声をあげた。

 

 一同はびっくりして身をすくめる。

 

 しかし未央はかまわず大きく目を見開いてみなを見渡した。

 

「ケータイ! 助けを呼ぶんだよ、誰でもいいから!」

 

 未央の言葉に、一同はハッとした。

 

 目前の危険への対処に追われ、外部に救助を求めるというごく当たり前の発想が、すっかり頭から抜け落ちていた。

 

 みな一斉に自分の懐に手をやった。しかし――。

 

「あっ!」

 

 みな、ほぼ同時に声を詰まらせた。

 

「ケータイ、更衣室だ……」

 

 未央がガクリと肩を落とす。

 

 ほかの者もみな一様に唇を結んだ。

 

 小梅たちは今日、レッスン後、着替えもせずにこの休憩室に直行している。

 私物を仕舞ったバッグは、下の階にある更衣室に置いたままだ――携帯電話も、当然その中に入れている。

 

「ど、ど、どうしましょう!?」

「おちついて、卯月! とりあえず、なんとか外と連絡をとる手段を――」

「あ、ああっ!」

 

 凛の言葉をさえぎったのは、幸子だった。

 

 幸子は窓に張りつくようにして階下を凝視していた。

 

「どうしたの、幸子ちゃん!?」

「あ、あ、あれ……」

 

 振り返った幸子は、歯をカチカチと鳴らしながら窓を指さした。

 

 小梅たちも急いで窓に駆け寄る。

 

「な、なんだよ、あれ……!」

 

 そう漏らしたきり絶句してしまったのは奈緒だが――残りの者もほぼ同様の反応を示した。

 

 窓から前庭を見下ろすと――のろのろとあたりを歩きまわる群衆が、外灯のつくるうすぼんやりとした明かりの中に浮かび上がっていた。

 

 その数は少なく見積もっても数十人。

 

 いや、果たしてあれを「人」と呼んでいいものか――。

 

 どこへ向かうでもなく、てんでばらばらに徘徊する彼らの姿からは、およそ理性や知能といったものを感じ取れなかった。人間の集団ならば備わっていてしかるべき最低限の秩序さえ保たれている気配がない。

 

 遠目にもはっきりとわかる。彼らがかもしだす異様な雰囲気は、プロデューサーやトレーナーのそれと同じ種類のものだ。

 

「な、なにが起きてるのよ、いったい……?」

 

 凛の言葉に反応し、ハッと顔を上げたのは未央だった。

 

「そうだ、テ、テレビ!」

 

 言うが早いか、未央はガラステーブルの上に置かれていたリモコンをひったくり、壁際に置かれた液晶テレビへ向けた。

 数秒の間を置いて――液晶画面に映像が映し出された。

 

「おおっ」

 

 誰からともなく短い歓声があがった。

 

 が――小梅たちはすぐに眉を曇らせる。

 

「――た、たいへんな事態になっています!」

 

 画面には緊迫した表情でマイクを握りしめた男性が映っていた。テレビ局のレポーターのようだ。

 

 薄暗く見にくい映像のなかで、男性はしきりにうしろへ振り返りながら、早口でまくしたてた。

 

「と、東京都内、……駅前です! ごらんください! 暴徒と言うのでしょうか、大勢の人々が駅前で暴れまわっています! 警察の制止もきかず……いや、暴徒のなかには、警察官らしき姿もあります! なにが起こっているのか、まったく理解できません! 危険です! 非常に危険な状況です! わけがわかりません……うわっ!」

「あっ!」

 

 一同が声をあげたのは、テレビ画面のなかで思いがけない出来事が生じたからだ。

 

「う、うわっ! ちょっ……、や、やめっ、やめてください……っ! と、突然人が私に襲いかかって……っ、こ、このっ、やめろっ! 痛い!」

 

 暴徒が――背後からレポーターにのしかかっていた。

 

「か、噛むなっ、この! いたっ! やめなさい……、やめろ……っ、ぐはっ!」

 

 ()()()で首筋を狙ってくる相手を必死で引き剥がそうとするレポーター。

 

 そんな攻防を映していた画面が、突然大きく揺れた。

 

「な、なんだ!?」

 

 奈緒を筆頭に、一同は思わず身を乗り出した。

 

「ちょっ、やめ――こっち来んな! こっち来んなって! 痛って! ふざけんな……っ、ちょっ……、わ、わ、わ……っ」

 

 レポーターとは別の声だった。まさか……カメラマン? カメラマンも襲われているのか!?

 

「ひ、ひっ! た、助けっ! 助けて! うわっ! ぎ、ぎゃああああっ!」

 

 暴徒の集団に引き込まれていくレポーターの姿が一瞬映しだされたのを最後に、画面は突然ブラックアウトした。

 

「な……っ!?」

 

 凛と奈緒は絶句してその場に立ち尽くしてしまった。

 

「ひ、ひいいっ!」

 

 一方、両手で顔を覆い、画面に背を向けたのは、幸子と卯月のふたり。

 

「ちょっ……!」

 

 未央はあわててリモコンのボタンを押す。

 チャンネルが次々と切り替わるが――そのたびに変わらず画面に映し出されるのは「現在放送をおこなっていません」という白抜きの小さな表示だけだった。

 

「そんな……テレ東すらやってないのかよ……」

 

 奈緒が愕然とした表情で漏らした。

 

「な、なんなんだよぉ、いったい……」

 

 未央がしゃがみこみ、頭を抱えた。その疑問に答える者はいなかった。

 

 しかし――小梅はひとり、思考を巡らせていた。

 

 冷静に――努めて冷静に、状況を整理する。

 

 プロデューサーが突然、気でも狂ったかのように自分たちに襲いかかってきた。

 事務所内やその周辺にも、彼と同じように理性を失った人たちがあふれかえっている。

 そして街中でも、ここと似たような混乱が生じているようだ。

 

 異常としかいいようがないこんな現実を、まともに説明しろというほうが、無理な相談だろう。

 

 しかし、まともでない説明ならば、どうか?

 

 これまで観察された事実を説明しうる仮説が、小梅の頭にひとつだけ浮かんでいた。

 

「あ、あの……」

 

 小梅が意を決して切り出すと、黙り込んでいたみなが顔を上げた。

 

 みなの視線が小梅に集まる。小梅は伸びすぎた前髪の隙間から一同をうかがいながら、突拍子はないがそうとしか考えられない結論を口にした。

 

「これ……、ゾンビ、じゃないでしょうか?」



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 ホラー映画の鑑賞。

 

 それが、白坂小梅の趣味だった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()を見ているときがいちばん幸せ、と公言するほどに、小梅はホラーが好きだ。ホラー映画ならば、洋の東西を問わず数え切れないほどの本数を鑑賞してきた。世の中を見渡しても、小梅ほどホラー映画に造形の深い十三歳はそうはいないだろう。

 

 もちろん、ゾンビものもホラー映画のいちジャンルである。

 

「ゾ、ゾンビ? って、あの、映画とかに出てくるやつ?」

 

 小梅が前髪に顔を隠しながらうなずくと、訊いた未央はぽかんと口を開けて黙ってしまった。

 

 ほかの面々も一様に怪訝な表情を浮かべていた。やはり、すんなりと受け入れてもらえるような話ではない。小梅自身、自分がホラー映画のような事態に巻き込まれることなど、さすがに想像していなかった。

 

 だがこれはまぎれもない現実なのだ。

 

 小梅はプロデューサーを閉じ込めているロッカーへ目をやった。

 

「みなさんも見ましたよね……? プロデューサーさんの、変な肌の色」

 

 沈黙が返ってきた。みなうつむいている。小梅たちは彼の手足を縛り、ロッカーまで運んだのだ。彼の異状に気づかなかったとしらばっくれることはできない。

 

「青白い……を通り越して、緑がかっていました、プロデューサーさんの顔……。血の気がないというより、()()()()()()()が体のなかを流れているような……。皮膚も、ところどころただれていました」

「うっ……」

 

 卯月があおざめた顔になって口元を押さえた。余計なことまで言ってしまったか。いたずらに恐怖を煽るつもりはなかったのだけれど……。

 

「人間じゃない……ってこと?」

 

 未央の問いかけに、小梅はあいまいに首を振る。

 

「……ゾンビの正体については諸説あります」

 

 ゾンビが「生ける屍」と呼ばれていることは、あえて口にしないでおいた。プロデューサーは生きていると、小梅も信じたい。

 

「ただ、ゾンビには一般的に、仮死状態で、本能のままに行動し、生きた人間を襲うという特徴があります。ちょうど、さっきのプロデューサーさんみたいに……」

 

 小梅はそこで天井を見上げた。天井には穴が空いていた。

 

「ゾンビになって身体能力が上がるというか、脳のリミッターが外れる例もありますから、プロデューサーさんはそのタイプだったのかもしれません……」

 

 人間離れした跳躍力だった。そのせいで彼は天井に頭をぶつけてしまい、小梅は難を逃れたというわけだ。

 

「そ、そういえば、トレーナーさんもめちゃくちゃなスピードで走ってました……」

 

 その光景を思い出したのか、幸子がぶるっと身を震わせた。

 

「そ、それじゃあ……」

 

 卯月がこわごわと廊下のほうをうかがった。

 

「プロデューサーさんだけじゃなく、外の人たちもゾンビ……になっているってことですか?」

 

 小梅は重々しくうなずいた。

 

「そう考えるしかない……と思います。感染したんです、きっと。どちらが先なのかは、わからないですけど……」

「ここだけじゃなく、街も同じ状況ってことか……」

 

 奈緒の言うとおりだろう。

 さきほどのテレビ中継で垣間見えた街の様子は、悲惨としか言いようがなかった。

 

 突然発生した停電もこのパニックの影響だろう。窓から見える街はところどころ灯りが消えているようにも思えた。電線が切られたか、あるいは発電所や変電所が壊されてしまったのかもしれない。いずれにせよ、ゾンビ発生による混乱は広域に広がっていると見てまちがいなさそうだ。

 

 小梅は自分たちを照らす電灯を仰ぎ見た。

 

「この電気は、事務所ビルに備えつけられている自前の予備電源からでしょう。停電が起きたときに自動で切り替わったんです、きっと。でも、これもいつまで保つか……」

 

 小梅はうつむいて唇を結んだ。

 

 すでにインフラの破壊が始まっているとなると、感染はもうかなりの規模で広がっていると考えざるをえない。このパニックがいつ始まったのかは定かではないが、感染のペースも早そうだ。となるとやはり、血液を介して感染するタイプの――。

 

 そこで小梅の脳裏に恐ろしい考えがよぎった。

 

「み、みなさんっ、怪我はないですか!?」

 

 小梅があわてた声を出すと、みなは一斉にぎょっとした顔を返した。

 

「え、ええと、はい……。どこも痛いところはないですけど……」

 

 プロデューサーに最初に襲われた卯月が、戸惑いながらもみずからの手足を眺め回した。

 

「あたしらも別に……なあ?」

 

 奈緒が視線を送ると、凛と未央は揃ってうなずきかえした。

 

「幸子ちゃんは!?」

「え!? わ、私も大丈夫だと……思います」

 

 ぎょっとしつつもうなずいた幸子を見て、小梅はほっと胸をなでおろした。

 

 感染――。

 

 そう、ゾンビパニックにおいてもっとも恐れるべき事態は、これである。

 

 ゾンビに噛まれたり傷を負わされたりした者は、みずからもゾンビになってしまう。ゾンビとは一種の感染症なのだ――それも、極めて感染力の高い。

 

 とはいえ、小梅たちがプロデューサーとの攻防を終えてから、すでに三十分以上は経過している。もしも誰かが彼の、あるいは廊下にいる連中の凶手にかかっていたとすれば、そろそろゾンビ化の兆候があらわれていてもおかしくない。それがないということは――とりあえずはひと安心と言っていいはずだ。

 

「な、なあ、なんかマズイことでもあるのか? どっか怪我してたら……?」

 

 奈緒から不安げなまなざしを向けられ、小梅はあわてて首を振った。

 

「い、いえ……、薬や包帯もないですし、治療が難しいかなと思っただけです……だ、だから、みなさん、今後も、き、気をつけてください」

 

 へたに脅すこともはばかられ、小梅はとっさにそんなふうにごまかした。

 

「まあ……それもそっか」

 

 奈緒たちは互いに顔を見合わせ、あいまいにうなずきあった。

 

 なんとかごまかせたかと思ったが――。

 

「……小梅」

 

 ただひとり、小梅を鋭く見返してきたのは、凛だった。

 

「えっ、あっ……」

 

 小梅は途端に緊張で胃がきゅっとしぼんだ。ごまかしたことを見抜かれた? きっと叱られる――。

 

「――アンタは、大丈夫なの?」

「……え?」

 

 思わず目を閉じてしまった小梅が聞いたのは、しかし予想とは違った言葉だった。

 

「だから小梅、アンタはどこも怪我してないのかって訊いてるの」

「えっ……? あっ! は、はい、わ、私も……だ、大丈夫、です」

 

 しどろもどろになりながらも答えると、凛はつっけんどんに「そう」と言って、小梅から顔をそらした。

 

 え……?

 ひょっとして心配……してくれたのか?

 

「とりあえず、これからどうするかだね……。小梅ちゃん」

「え? あっ、は、はい」

 

 名前を呼ばれ、小梅はあわてて未央を見返した。

 凛のことを考えていたのを見抜かれてやしないかと、少し顔が熱くなる。

 

「なんでも言ってよ。できるかぎり協力するからさ」

「あっ……」

 

 気づけば未央だけでなくみなが小梅に視線を集めていた。

 

 小梅はとっさに前髪のうしろに隠れてしまう。

 

 弱ったな……。

 なまじゾンビにくわしいところを見せてしまったから、リーダー扱いをされてしまっているらしい。

 

 リーダーになるならきっと凛さんのほうがふさわしいのに――小梅は前髪の隙間から凛の様子をうかがうが、もちろんそんな考えを口に出せるはずもない。

 

 小梅はほんのわずかに嘆息したのち、おもむろに口を開いた。

 

「……外の状況も正確にはわかりませんし、今へたに動くのは危険です。だから……とりあえずここに留まって救助を待ちましょう」

 

 みなからうなり声が返ってきた。

 

 待機――小梅の出したその案は、きっとみなの期待に応えるものではなかったのだろう。

 でも――。

 

 ほかに選択肢がなさそうなこともまた、きっと誰もが理解していた。



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「うーん、やっぱり電波来てないかあ」

「アンテナのほうに問題があるのかもしれませんね……」

 

 小梅が応えると、奈緒は眉根を寄せ、テレビのリモコンでこめかみのあたりを掻いた。

 

「ラジオとかもなかったし、やっぱ今のところ外の様子はわからないか……」

 

 肩を落とした奈緒に目顔で応じると、小梅は背後から聞こえてきた物音に振り向いた。

 

「よいしょ、っと。うん、こんなもんか」

 

 未央がちょうどテーブルでドアを押さえつけているところだった。ひと仕事終えた未央は、深く息を継いで額の汗を拭う。

 

「大丈夫でしょうか? これで……」

 

 未央の横で、不安そうなまなざしをドアにそそいだのは卯月。

 その肩を凛がうしろから叩いた。

 

「これだけやれば充分じゃないかな。向こうからドアを破られることはないよ、きっと」

 

 ドアの前には、先に運ばれていたソファにくわえ、テーブルや小型のキャビネットが積み上げられていた。

 三人がかりで取り組んでいた作業も、どうやら一段落ついたようだ。

 

 救助を待つ。

 

 そう決めたものの、ただじっとしているのはやはり不安だった。

 

 だから小梅たちは誰からともなく腰を上げ、今できることを探し、その作業に没頭していたのだ。奈緒はテレビの修理、未央たちはバリケードの強化、そして小梅は部屋の探索。

 

 小梅は時計を確かめる。まだ午後九時を少し回ったところだった。動きだしたのが八時半ごろだから、それからまだ三十分ほどしか経っていない。……夜は嫌になるほど長い。

 

「なんとか映るようにならないかなあ」

 

 テレビの裏側をのぞきはじめた奈緒を尻目に、小梅は部屋の端に置かれた冷蔵庫へ向かった。中からさっきの探索で見つけておいたものを取り出し、未央たちを労いに行く。

 

「お、お疲れさまでした……。あ、あの、これ、よかったら……」

 

 小梅が差し出したのは栄養ドリンクの小瓶だった。千川ちひろがいつか差し入れてくれたものだ。

 

「おっ、スタドリか。サンキュ」

 

 小梅からドリンクを受け取ると、未央はさっそく蓋を開けて瓶を傾けた。

 

「……ふぅ。生き返るわぁ」

 

 満足げな未央に微笑みかえし、小梅は体の向きを変えた。

 

「卯月さんと……り、凛さんも、ど、どうぞ」

「わあ、ありがとうございます」

 

 屈託のない笑顔で瓶を受け取る卯月。

 

 対して凛のほうは――。

 

「……ん。ありがと」

 

 そっけなく瓶を受け取ると、すぐに小梅に背を向けてしまった。

 

 それだけで小梅は、なぜか申し訳ないような気持ちになってしまう。ありがた迷惑……だったかな。

 

「小梅ー、アタシも一本もらっていい?」

 

 呼び声に振り返ると、いつのまにか冷蔵庫の前にいた奈緒が、栄養ドリンクの小瓶を顔の横で振っていた。

 

「あっ、は、はい、もちろん」

 

 返事を聴くやいなや、奈緒は小瓶の蓋をひねり、ドリンクをあおった。

 

「……プハッ」

 

 半分ほどをひと息に飲みくだした奈緒が、しかめっ面で窓を見た。

 

「しっかしまさか、こんな時間まで事務所にいるハメになるとはなあ」

 

 小梅もつられて窓へ目をやる。

 

 空はすっかり闇に覆われていた。

 

 外はどうなっているだろうか。

 

 テレビ中継で少し見ただけでも、()()が大変な勢いで増殖していることは容易にうかがいしれた。今はさらに数を増していることだろう――彼らはきっと、夜の闇の中でこそ活発になるのだから。

 

 だとすれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――。

 

 ぼんやりとそんなことを考えていた小梅の視界に、ふと小さな人影が映った。

 

 カーテンを握りしめ、不安げな表情で窓から庭を見下ろしている少女――幸子だ。

 

「……」

 

 少し悩んだあと、小梅はドリンクの瓶を手にゆっくりと幸子へ近づいていった。

 

「なに……見てるの?」

 

 ためらいがちに声をかけると、幸子はびくりと肩を震わせた。

 

「こ、小梅さんでしたか……。い、いえ、別になにも……」

 

 振り向いた幸子は、あからさまに笑みを取り繕っていた。痛々しくて、小梅はつい幸子から目をそらしてしまう。

 

 小梅たちが忙しく動きまわっているあいだからずっと、幸子はひとりで窓の外を――庭を徘徊するゾンビたちを眺めていた。

 

 もちろん、ただ退屈をしのいでいたわけではなかろう。幸子がどんな気持ちで彼らが占拠する庭を見下ろしていたのか、小梅にだって想像くらいつく。

 

 ほかのみなもそうなのだろう。だから誰も幸子を作業に誘わなかったのだ。けれど……。

 

「幸子ちゃん、これ……」

 

 幸子に向けて栄養ドリンクを差し出した小梅は、背中にみなの視線を感じた。口には出さずとも、みんな幸子のことを気にかけているのだ。

 

「飲んで……。幸子ちゃんの分、だから」

「はい……ありがとう、ございます」

 

 幸子は案外素直に小梅からドリンクを受け取った。

 

 しかし両手で瓶を握ったままいつまでも口をつけようとせず、そのうちに幸子の顔はまた窓のほうを向いてしまう。

 

 そんな姿を小梅は見ていられなかった。

 

「……外はあんまり見ないほうがいい……と思う」

 

 幸子はいたずらをとがめられた幼子のようにまたびくりと身をすくめた。

 

「え、ええ……そ、そうです、よね……」

 

 ぎこちなくうなずいたものの、しばらくすると幸子はやはりチラチラと窓を気にしはじめる。

 

 小梅は急に、そんな幸子が不憫に思えてきた。

 

 幸子を責めたって、なにも解決しない……。

 

「……ごめん」

 

 消え入るような声でつぶやき、小梅は前髪のうしろに隠れた。

 

 ……幸子のことは、しばらく放っておこう。小梅はそっと幸子から離れた。

 

 とぼとぼと戻ってきた小梅に声をかけたのは、未央だった。

 

「ね、ねえ、小梅ちゃん、ちょっといいかな?」

 

 妙に明るい声なのは、幸子とのことを察して、気を遣ってくれているのだろう。

 

「……はい、なんですか?」

 

 小梅も精一杯表情を取り繕って応じた。

 

「えっとさ、これどうしようかって話してたんだけどさ……」

 

 未央の手には平たい缶の箱があった。中身はクッキーである。これも小梅がさっき見つけたものだ。

 

「これ、かな子ちゃんのものですよね……?」

 

 卯月が遠慮がちに缶に目を落とした。

 

 アイドル仲間の三村かな子は甘いものが好きで、みなによくお菓子を振る舞っている。このクッキーもその残りだろう。

 

 卯月としては、かな子に断りなく食べてしまうのはどうかと心配しているのだろう。彼女らしい気遣いだなと思い、小梅は少し心が和んだ。

 

「非常時ですから、遠慮なくいただきましょう。かな子さんもきっと許してくれます」

「ま、人数分は充分ありそうだしなあ」

 

 小分けにされた包みをひとつつまみあげた奈緒に、小梅はうなずきを返した。

 

「あとで分けましょう。ただ……すぐに食べてしまわないほうがよさそうですね」

 

 未央たちは目顔で小梅に同意を示した。()()()()()()()()()、食料を残しておくに越したことはない。

 

「……でも、さ」

 

 ボソリとつぶやかれた声に、小梅はハッとして振り向いた。

 

 うしろにいたのは凛だった。

 

()()()()、食べ物や飲み物、もう少し確保しといたほうがいいよね?」

「あ……」

 

 廊下のほうへ向けられた凛の視線で自分の()()に気づいて、小梅は呼吸を詰まらせた。

 

 凛の言うとおりだ。

 

 休憩室にこもるこの状況がいつまで続くかわからない。()()()()()()()()()()()()()、食料の確保は当然考えてしかるべきだ。栄養ドリンクとクッキーだけじゃ何日も保たないだろう。だとすればこの先、どこかへ食料を探しにいくことも検討しなければならない――。

 

 そうしたことをちゃんと考えているのか?

 

 凛の鋭い視線は、自分にそう問うているように、小梅には思えた。

 

 胃が――きゅっと痛む。

 

「あ、あの――」

「あ、あと!」

 

 凛に応えようとした小梅の声は、卯月があげた素っ頓狂な声によってかき消された。

 

 みなの注目は卯月に集まった。卯月は少し恥ずかしそうにみなを見返した。

 

「お、おトイレもどうしましょう……」

 

 そのひとことを聴いて、奈緒がぶるっと身を震わせた。

 

「やば……、ちょっと行きたくなってきたかも……」

 

 問題は――山積みだった。

 

 食料のことも。

 

 トイレのことも。

 

 外部との連絡のことも。

 

 幸子のことも――。

 

 結局――なにひとつ解決できていないし、その見込みもない。

 

 うつむいた小梅の視界の端に、部屋の探索で見つけ、壁際に寄せておいた品々が映った。懐中電灯にハサミ、それにボールペンが何本か。

 あとはビニール傘と、掃除用具入れから出してきたモップとほうき。

 

 武器になりそうなものもあるが……道具があるだけじゃ、状況の打開にはつながりそうもない。

 

 せめて廊下でうろついている連中をなんとかできれば――。

 

「――あ、ああっ!」

 

 素っ頓狂な叫び声に沈黙を破られ、小梅は思わず身をすくめた。

 

 驚いたのは小梅だけではなかったようだ。

 

「な、なんだよ、おい!?」

 

 目を瞬かせた奈緒につられ、小梅たちも一斉に振り向いた。

 

 窓際――震える指で窓をさし、唇をわななかせていたのは、幸子だった。

 

「み、み、見てください、あれ!」

 

 小梅たちは急いで窓に駆け寄った。

 下か――直感的にそう判断し、小梅たちは窓から庭を見下ろした。

 

「な、なに? なにがあるの!?」

 

 大きく視線を振って、あいかわらず無数のゾンビが徘徊する庭で異変を見つけようとする未央。

 

 幸子はもどかしそうに未央の袖を引っ張った。

 

「あそこですよほら! あそこの、木のあたり!」

 

 小梅は幸子の言う「木のあたり」に目を凝らした。塀に沿って植えられた桜並木の付近だ。

 

「う……」

 

 一本の桜の木に、二、三体のゾンビが群がっているのが見えた。その異様な風体は遠目にも目立つが――ん?

 

 視界にとらえた一体のゾンビの姿形になにかひっかかりを覚えた。

 

「……あっ! あ、あれって、トレーナーさんじゃないですか!?」

 

 いちはやく声をあげたのは卯月だった。

 

 一同はすぐさま幸子に視線を集めた。幸子は少し頬を紅潮させてこくこくと首を縦に振った。幸子が小梅たちに告げたかったことは、やはりこれだったらしい。

 

「マ、マジ……?」

 

 未央に続き、ほかの者も庭に視線を戻した。

 

 かなり遠目ではあるが……並木のそばで灯る外灯に照らされていることもあって、なんとか確認をとることができた。……言われてみればたしかに、服装や髪型に見覚えがある。

 

「トレーナーさんですよ!」

 

 幸子が声を張って断言した。みなの疑念をかき消さんとするかのように。

 

「あ、ああ……。アタシもありゃたしかにトレーナーさんだと思うけどさ……」

 

 奈緒が階下の人影と幸子をとまどい気味に見比べた。

 

「えっとそれで……、トレーナーさんがあそこにいると、つまりどういうことになるんだ?」

「そ、それは……」

 

 返答に詰まった幸子の代わりに口を開いたのは凛だった。

 

「トレーナーがそこの廊下から下へ移動した……ってこと?」

 

 その言葉でようやく事態を把握した一同は、ハッと互いの顔を見合わせる。

 

「そ、そうです! そうですよ!」

 

 幸子は逸る気持ちを隠そうともせずにせかせかとうなずいた。

 

「トレーナーさんだけじゃなく、ほかの人たちもですよ! 廊下には今、誰もいないんです! つまり、今ならこの部屋から出られるんですよ!」

 

 一気にまくしたてた幸子は、興奮した顔つきのまま、廊下のほうを指さした。

 

 場は、一瞬しんとなった。

 

「マ、マジかよ……」

 

 奈緒がぎこちなく首を回し、廊下側の壁を見つめる。

 

 言われてみればたしかに、外からドアを叩く物音は、いつのまにか聞こえなくなっている。

 壁の向こうに化物の気配は感じられない……気もする。

 

 でも本当に、外に出て大丈夫なのか……?

 

「大丈夫ですよッ!」

 

 小梅の懸念を見透かしたかのように、幸子はまた大声で叫んだ。

 

「みなさんも見たでしょう!? トレーナーさんは今、下にいるんです! だったら廊下は今こそ安全なんです! 動くなら今しかない……。ここで助けを待っていたってラチがあきませんよ!」

 

 声を荒げてみなに訴えかけていた幸子が、不意にきびすを返した。

 

「出ましょう! 逃げるんですよ、ここから!」

「ま、待って!」

 

 ドアへ向かって駆け出そうとした幸子を、小梅はあわてて引き止めた。

 

「な、なんでっ」

 

 腕を取られた幸子は、振り返って小梅をにらみつけた。

 その形相に小梅はひるんだが、なんとかみずからを奮い立たせて言葉を紡ぐ。

 

「じょ、状況がちゃんとつかめてないのに動くのは危険……だよ」

 

 幸子から返ってきたのは、焦燥に失望を混ぜたような、それまでいちども見たことのなかった瞳だった。

 

 小梅はその瞳を見ていられなかった。鉛のような感情が腹の底に沈む。小梅の手は幸子の腕からするりと外れた。

 

「じゃ、じゃあさ!」

 

 柏手の音とともに、わざとらしいほど威勢のいい声が部屋に響いた。

 

 小梅と幸子に近づいてきたのは未央だった。ふたりのあいだに立った未央は、それぞれの肩に優しく手を置いた。

 

「とにかくさ、廊下が安全かどうか、確かめてみようよ。話はそれから、ってことでさ」

 

 未央はいつもどおりのはつらつとした笑顔を小梅に振り向けた。

 

 視線を上げると、未央の肩越しに、不安そうな卯月の顔と気まずげな奈緒の顔が見えた。

 

 そうか……気を遣われているのだ、自分たちは、今。

 

「……はい。それがいい……と思います」

 

 小梅の返事を聴くと今度は、未央は今度は幸子へ顔を向けた。

 

「さっちーもいいよね? それで」

「……はい」

 

 不承不承といった雰囲気を出しつつも、幸子も未央の提案を受け入れた。

 

「よし、決まりだね!」

 

 未央は小梅と幸子の背中を軽く叩くと、ドアのほうを見て腕まくりをしはじめた。

 

「それじゃあまずは、バリケードをどかさないとね」

「あっ、て、手伝います」

「ア、アタシも」

 

 未央がドアの前に積まれたバリケードへ近づくのを見て、卯月と奈緒があわてて後を追った。

 

 小梅は申し訳ないような気持ちで彼女たちを見送った。

 

 ああ……。

 幸子だけじゃなく、みんなにも嫌な思いをさせてしまったな……。

 

「――小梅」

 

 不意に名を呼ばれ、小梅は重くなりかけていた頭をハッと持ち上げた。

 

 いつのまにか小梅のとなりに並んでいたのは、凛だった。

 

「……平気なの?」

 

 ボソリとつぶやいた凛は、しかし小梅のほうは見ずに、バリケード撤去を進める三人の姿を眺めていた。

 

「え、と……?」

 

 小梅は思わず目を瞬かせた。

 

 凛はなぜ自分に声をかけてきたのだろうか?

 いったいなにを――気にしているのだろうか?

 

「そ、そうですね――」

 

 真っ白になりかけた頭で、小梅は返すべき答えをとっさに見繕った。

 

「も、もし彼らがいなくなっていても、し、下まで降りるのは難しい……と思います。で、でも、階段をバリケードで塞げれば、少なくとも今いる階の安全は確保できるんじゃないか、と……」

 

 振り向いた凛から返ってきたのは、なぜか苦笑だった。

 

「そういう意味じゃなかったんだけどな……」

「え……、え?」

 

 困惑する小梅にやはり苦笑を寄こすと、凛はすぐに顔を前へ戻した。

 

「卯月、そっち、私も持つよ」

 

 凛はそう言って、ひとりでソファの片側を持ちあげようとしていた卯月のもとへ向かった。

 

 残された小梅はますますとまどいを濃くせざるをえなかった。今後の展望を訊きたかったわけじゃなかったとしたら、凛がわざわざ小梅に声をかけてきた理由とはいったい――?

 

「よし、こんなもんか」

 

 未央の声で小梅は我に返った。

 

 見れば、いつのまにか未央たちは作業を終えていた。

 

 積み上げられていたソファやテーブルは脇にのけられ、あとはノブを引くだけでドアを開けられる。

 

 未央がみなに先んじてドアの前に進み出た。

 

「……いい? 開けるからね?」

 

 ノブをつかんだところで、未央は振り返ってそう念を押した。緊張した面持ちだ。

 

 一同が揃ってうなずきかえすと、未央は前に向き直って、いちど深呼吸をする。

 

「き、気をつけて、未央ちゃん」

 

 たまらず声をかけた卯月を尻目に、未央はゆっくりとノブをひねった。ガチャリと音が鳴る。そろりそろりとドアを引き、開いた隙間に、未央は慎重に頭を入れた。

 

「お願いしますお願いしますお願いします……」

 

 未央が廊下の様子を探るあいだ、幸子は念仏を唱えるように祈りの言葉を繰り返していた。

 

 そして、ゆっくりと戻ってきた未央の顔を見て――。

 

「やった……!」

 

 幸子は小さく快哉を叫び、喜色をじわりとその顔に広げた。



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 休憩室を出た一同がまず足を向けたのは、廊下の突きあたりにあるトイレだった。

 

「いい? 開けるよ?」

 

 背後にいた面々がうなずくと、凛は勢いよくドアを開け放った。

 

 一同は武器を構えながらトイレ内部へなだれ込んだ。

 

 視界に飛び込んできたのは、正面の割れた窓。

 

 荒廃した世界を象徴するような光景ではあったが――()()の気配はなかった。

 

「中も大丈夫みたいだぜ」

 

 個室をのぞいた奈緒が、振り返って安堵の表情を見せる。

 

「わ、私っ、行かせてもらっていいですか?」

 

 卯月がほうきを凛に預け、慌ただしく手前の個室へ駆け込んだ。緊張が緩んだためか、急に催してきてしまったらしい。

 

 残された面々も、おのおの手にしていた武器――モップやビニール傘を収め、小さく嘆息した。

 

「私たちも……す、済ませておきましょう」

 

 小梅の提案に、一同はうなずきを返した。

 

 みなはみっつ並んだ個室へ順番に入っていく。しかし、そんななか――。

 

「……」

 

 幸子はひとり、二の足を踏んでいた。

 

「さっちー、次、空いたよ?」

 

 最後に個室から出てきた未央が、動かない幸子を怪訝そうに眺めた。

 

「い、いえ!」

 

 幸子は、あわてて笑みを取り繕った。

 

「ボ、ボクはまだ大丈夫ですので……」

「ふぅん……そっか」

 

 なにか言いたげな顔つきにも見えたが、未央は生返事をしただけで幸子から視線を切った。幸子はほっとため息をつく。問い詰められなくてよかった。個室でひとりになるのが怖いとは、口が裂けても言えない。

 

「それで小梅ちゃん、どうするよ? このあとは」

 

 未央は小梅のほうへ体を向けていた。未央の言葉をきっかけに、ほかの者も小梅に注目を集めはじめる。

 

「えっ、は、はい、そ、そうですね……」

 

 ぼんやりしていたのか、小梅は目を瞬かせて一同を見返した。

 

「や、やっぱり、階段を塞ぎに……いきましょう」

「え……っ」

 

 思わず不満の声が漏れてしまった。

 

 一同の視線が今度は幸子に向く。

 

「い、いえ、あ、あの……」

 

 目を泳がせながら、幸子はとっさに言い訳を考えた。

 

「そ、そう! 食べ物! 食べ物は探しにいかないのかな、と……」

 

 ほんの思いつきだったのだが、幸子のひとことは意外にもみなをうならせた。

 

「……たしかに食料はなんとかしたいけど……どうしよっか、小梅ちゃん?」

 

 未央から意見を求められた小梅は、かすかに眉を曇らせた。

 

「食料を探しにいくのは……バリケードを築いてからにしましょう。安全に動ける範囲もまだはっきりしませんし……」

「まあそうだよなあ……」

 

 渋面を作りながらも未央は深くうなずいた。

 

「あいつら、どこから湧いてでてくるかわかんないしな……」

 

 奈緒も太眉を曇らせて未央に同調する。

 

 ほかの者も異論はないようだ。

 

「……」

 

 だが幸子は納得がいっていなかった。

 

 小梅たちはまだ事務所にこもるつもりなのか? ()()()()()が近くにいない今こそ、安全確保なんて悠長なことを言っていないで、一刻も早くここから逃げ出すべきなんじゃないのか……。

 

「……幸子ちゃん、ど、どうかした……の?」

 

 その声で幸子は我に返った。

 

 小梅に顔をのぞきこまれていた。

 

 しまった。不満が顔に出てしまっていたか。幸子はあわてて笑みを取り繕った。

 

「い、いえ! なにもないですよ! そ、そうですよね、食料を探しにいくのは、あとにしましょう」

「……」

 

 少し声は裏返ってしまったけれど、なんとかごまかせたと思う。幸子はきびすを返し、率先して休憩室へ向けて歩きはじめた。

 

 ……こんなところで駄々をこねるほど、ボクは子どもじゃありませんよ。

 

 念のため同じ階のほかの部屋も見回り、やつらがいないことを確認してから、一行は休憩室へ戻った。

 

「さて……それじゃあ、一丁やっちゃいますか」

 

 息つく暇もなく、、未央が腕まくりをして室内の家具を見渡し、作業の算段をたてはじめた。

 

「とりあえず、ソファなんかは持っていったほうがいいよね?

 

 未央は心なしか活き活きしているようにも見える。呑気なものだ。

 

 いっぽう凛は、眉根を寄せて目の前のソファをじっと見ていた。

 

「でもさ、単純に階段の前にこれを置いただけじゃ、あいつら簡単に乗り越えちゃうんじゃないの? どうするの? 小梅」

 

 小梅が少しあわてた様子で振り向く。

 

「あっ、ええと……、通り抜けられるような隙間さえ作らなければ問題ない、と思います」

「え? そうなの?」

 

 意外そうに目を丸くしたのは未央だった。

 小梅は未央のほうを向いて答える。

 

「は、はい。知能の退化したゾンビなら、目の高さ以上の障害物を乗り越えてくることはほとんどありませんから……。ですから、あとはなにか上に乗せるもの――椅子とかを持っていけば足りるんじゃないかと」

 

 ……本当なのか?

 

 みなが感心したようにうなずくなか、幸子はひとり眉をひそめていた。

 

 みんなすっかり小梅のことをゾンビの専門家のように扱っているけれど、小梅の知識なんて所詮は映画から得たものにすぎないじゃないか。そんな見解を全面的に信用してもいいのだろうか? 自分たちが今直面しているのは、まぎれもない現実なのに……。

 

「よし、それじゃあまずは、こっちのでかいソファを運ぼう。ふたつもあれば充分でしょ」

 

 しかし未央たちはなんの疑いもなく運搬作業にとりかかりはじめた。

 

「……」

 

 納得しかねてはいたが、幸子もソファを取り囲むみなの輪に加わった。

 

 無闇に揉め事を起こそうなんて気は――ないのだ。

 

「えっと、どっち行く?」

 

 先頭で扉を出た未央が左右を見回した。階段は廊下の両端にある。

 

「右――エレベーターホール側へ行きましょう」

 

 小梅は顎をしゃくって進行方向を指示した。

 

 狙いはわかる。エレベーターホール付近の階段は逆側の階段と較べて幅が広いのだ。だからそちらを優先して塞いでおこうという考えなのだろう。

 

 休憩室から階段までは数十メートル。さほどの距離ではないともいえるが、女子だけで大きなソファを抱えていくのは、かなりの重労働だった。

 

 しかもまた、同じ作業をさらにもういちど繰り返したのだ。ふたつめのソファを運びおえ、休憩室に引き返す頃には、幸子の細腕は疲労でしびれはじめていた。

 

「次は椅子とスツールだね。これはひとり一脚ずつ持てるでしょ」

「今度は少し楽ですね」

 

 ……楽なものか。卯月さんは少しのんきすぎる。どうしてこんな、引っ越し作業みたいな真似をしなければならないのか。一刻も早く家に帰りたいのに。ふかふかのベッドに入って、ママに頭を撫でてもらいながら、安眠を貪りたいのに……。

 

 そう、家に帰るのだ。帰らねばならないのだ。

 

 今はそのために必要なことをすべきじゃないのか?

 

 たとえばそう、携帯電話で家に連絡し、誰かに迎えにきてもらうとか――。

 

「あっ――!」

 

 廊下に出たところで幸子は重大な事実に気づき、思わずスツールを取り落としそうになった。。

 

 みなの目を盗みつつ、進行方向とは反対をうかがう。

 

 曲がり角。その先には狭い階段がある。ひとつ階を下れば、自分たちの手荷物が置いてある更衣室へ行くことができる。

 

 手荷物。中には携帯電話もある。助けを呼ぶことができる――!

 

「……ちゃん、幸子ちゃん?」

 

 呼び声が不意に耳に入り、幸子はびくりと肩をすくめた。

 

 急いで振り返ると、小梅が不審げな目つきでこちらをうかがっていた。

 

「幸子ちゃん……、なにか気になることでも……あるの?」

 

 小梅さんに気づかれちゃダメだ――幸子はとっさにそう判断した。

 

「え、ええ、ち、ちょっと……く、靴紐! そうです、靴紐が、ほどけてしまったみたいで!」

 

 幸子は抱えていたスツールを置き、すばやくしゃがみこんだ。

 

「大丈……夫?」

「し、心配無用ですよ!」

 

 幸子はスツールのうしろから首を伸ばした。

 

「小梅さんは先に行ってください! ボクもすぐに追いつきますから」

 

 ほかの四人はすでに先に進んでいる。みな椅子を運ぶのに一生懸命らしく、幸子たちの出遅れにはまだ気づいていないようだった。あとは小梅を遠ざければ、なんとかなる。

 

「……そう」

 

 靴紐を結び直すふりをしながら待っていると、小梅がこの場から離れる気配がした。ようやくだ。

 

「じゃあ、先……行ってるから」

 

 そう言い残すと、小梅は椅子を抱えなおし、よたよたとした足取りで前の四人を追いかけはじめた。

 

「……」

 

 小梅はしかし、まだ時々こちらを振り返っていた。幸子は逸る気持ちを抑え、靴紐を結ぶふりを続ける。まだだ。慎重にチャンスを待つんだ。

 

「小梅ー、これって単純にソファの上に乗せりゃいいのかあ?」

「あ、は、はい、そうですね――」

 

 奈緒に呼ばれ、小梅が先を急ぎはじめた――今だ! 幸子はすかさず腰を上げ、小梅たちとは反対方向へ駆け出した。

 

 息を殺し、なるべく足音を鳴らさないようにしながら廊下を急ぐ。

 

 突きあたりで右手に折れ、曲がり角へ飛び込んだ。不意にちくりと胸が痛んだ。ここまで来てしまった。小梅たちを出し抜いて。……もう引き返せない。行くしかない。

 

 幸子は重い気分を振り払うように、狭い階段を一気に下った。下の階に着く。不思議と恐怖は感じていなかった。

 

 すぐ右手にドアが見えた。更衣室である。幸子はほとんど反射的にノブに飛びついた。

 

「やった……っ」

 

 無人の室内を見て、幸子は小さく快哉の声を上げた。

 

 所狭しとロッカーが並んでいる。幸子はすぐさま自分の荷物を入れたロッカーへ駆け寄った。扉を開ける。やった! バッグは無事だ。スマートフォンもある! 歓喜が胸を突き上げ、幸子は思わず声を上げそうになった。

 

 そのときである。

 

「――っ!?」

 

 ドアをノックするような音が聞こえ、幸子は途端にすくみあがった。

 

 振り向くと、ゆっくりと開くドアが見えた。

 

 小梅さん――!?

 

「す、すみませんでした、勝手な真似をして! で、でも、わ、私もなにか力になりたかったっていうか――」

 

 気づけば言い訳が口をついてでていた。

 

「ほ、ほらっ、見てください!」

 

 幸子は右手に握ったスマートフォンを突き出した。これを見せれば小梅も許してくれるはずだ。

 

「こ、これです! これを探してたんですよ! これで外と連絡がとれ、ます、よ……」

 

 ドアの隙間から現れた人影を見て、幸子は眉をひそめた。

 おかしい――背丈がある。

 小梅さん――じゃないのか?

 

「り、凛さん……?」

 

 その推測も違っていた。

 

 ところどころ破れた緑と白のジャージ。

 

 そんなもの、凛は着ていなかった。

 

「ガウゥグァ……ッ」

 

 低いうなり声とともに室内に踏み込んできた彼女の、真っ赤に充血した瞳に射すくめられた幸子は――。

 

「へ、へへへ……」

 

 なぜだか口元にひきつった笑みを浮かべた。

 

 

 *

 

 

 

 ちょうどエレベーターホールに達したときだった。

 

「……幸子ちゃん?」

 

 声が聞こえた気がして、小梅は振り返った。

 

「小梅ちゃん? どうかしましたか」

 

 隣にいた卯月が小梅の動きに気づいた。

 

「いえ、幸子ちゃんが……」

 

 いない。

 

 休憩室のドアの前には、小さなスツールだけがポツンと残されていた。

 

「あれ? 幸子ちゃん、おトイレですか?」

 

 卯月が小首をかしげた。

 

 小梅も廊下の先にあるトイレの入口へ目をやった。幸子はあの中にいるのか――?

 

 そのときである。

 

「……ルゲガヲォァッ!」

 

 けたたましい叫び声が遠くから聞こえてきた――今度ははっきりと、。

 

「な、なに、今の!?」

 

 未央たちも異変に気づき、ソファにスツールを積み上げる手を止めて一斉に振り返る。

 

「幸――」

 

 小梅は顔をこわばらせた。

 

 寒気が背筋を駆け抜けた。

 

「幸子ちゃん!」

 

 気づけば小梅は、スツールを放り出して床を蹴っていた。

 

「ちょっ……、ま、待って!」

 

 背後からの呼び声にかまうことなく、小梅は走った。

 

 休憩室の前を通りすぎ、突きあたりのトイレが迫る。ここか? 違う! とっさの判断で角を曲がった。下の階だ!

 

 狭い階段を駆け下りる。廊下。すぐ右手のドアが開いていた。

 

 大きな物音。

 

「幸子ちゃん!」

 

 小梅はためらうことなく更衣室へ駆け込んだ。そして――。

 

「さ……っ!」

 

 衝撃的な光景を目にした。

 

「グウ……バフゥ……」

 

 白と緑のジャージを着た()()()()()()()()が、真っ赤な血の海の上で仰向けに倒れる小さな人影に覆いかぶさっていた。

 

 抱き合うような格好だが、上に乗った化物は、倒れた人物の首筋に顔をうずめ、小刻みに頭を上下させていた。

 

 むしゃ、むしゃ、と咀嚼音が聞こえてくる気さえした。

 

 食べているのだ。

 

 幸子を。

 

「い……いやあああぁっ!」

 

 金切り声が耳をつんざき、小梅は我に返った。

 

 ひと足遅れて追いついた未央たちが、小梅の肩越しに更衣室のなかをのぞいていた。

 

「なっ……、なっ……!?」

 

 絶句したのは未央と凛と奈緒の三人。卯月はその場にしゃがみこみ、両手で顔面を覆っていた。さっき悲鳴を上げたのは彼女だったらしい。

 

「さ、さっちー!? さっちーなの!?」

「ダ、ダメ! ダメです!」

 

 血相を変えて更衣室へ踏み込もうとする未央を、小梅はとっさに押しとどめた。

 

「で、でも!」

「未央っ、助けにいったらあんたまでやられる!」

 

 背後から未央の腕をとったのは――凛だった。

 

「残念だけど、幸子はもう……」

 

 凛が表情を暗くすると、未央を含めた一同は、ゆっくりと正面へ視線を戻した。

 

 さっきまでビクンビクンと跳ねていた幸子の脚が、今はもうピクリとも動かなくなっていた。

 

「……ち、ちくしょう!」

 

 吐き捨てるように叫ぶと、未央は勢いよくドアを引いた。

 

 ドアが閉まりきる直前、小梅が最後に見たのは――化物の肩越しにこちらへ向かって伸ばされた、幸子の小さな手だった。



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「ひっく、ひっく、うう……」

 

 休憩室には卯月の泣き声だけが響いていた。

 

「……」

 

 更衣室での惨劇を目撃してから十分少々――小梅たちは衝撃からまだ立ち直れずにいた。

 

「……トレーナー」

 

 床に座り込んでうなだれていた未央が、ぽつりと口を開いた。

 

「戻ってきちゃってたのかな、いつのまにか……」

「幸子を襲ったやつ……のこと?」

 

 壁を背にうつむいていた凛が顔を上げると、未央は重々しくうなずいた。

 

「……いや、たぶん、別のやつだ」

 

 答えたのは、窓から外をのぞいていた奈緒だった。

 

「トレーナーなら、まだ下にいるから……」

 

 奈緒が言っているのは、幸子が庭に姿が見えると主張したゾンビのことだろう。

 

 小梅たちは、一旦庭へ降りた彼女がまた事務所内へ戻ってきたのだと、おぼろげながらにそう考えていた。

 

 ところが彼女は、あいもかわらず庭で樹木に爪を立てているという。

 

 凛がはっと目を見張った。

 

「じゃあまさか……、更衣室にいたのは、妹さんのほう?」

 

 凛の言葉に、奈緒は神妙にうなずいた。

 

 346プロダクションでは、四人のトレーナーが所属アイドルのレッスンを受け持っている。四人は実の姉妹であり、顔立ちも体つきもよく似ている。それなりに長く接している所属アイドルでさえ、いまだに見間違えることがあるくらいだ。

 

「はは……、じゃあ、姉妹揃ってゾンビになっちゃってる、ってことかい……」

 

 未央が力のない笑みを浮かべた。笑えない冗談だと、自分でもわかっているのだろう。

 

 もちろん、ゾンビになったのは姉妹のうちふたりだけで、残りのふたりは無事という可能性はある。しかし、そんなことはどちらでもいい。

 

 幸子が襲われた。

 

 それだけだ――いま受け止めるべき現実は。

 

 小梅は固く拳を握った。

 

「私の……せいだ」

 

 自責の念は無意識に口から漏れていた。

 

「私がちゃんと幸子を見ていれば……」

 

 幸子の様子がおかしいことには気づいていた。

 

 しかし小梅は怯える幸子になにもできなかった。なにもしてやれなかった。

 

 それはたぶん、幸子の気持ちに薄々勘づいていたからだ。

 

 幸子は幻滅していた――現状に対してなんの手立ても打てない小梅に。

 

 怖かったんだ。幸子になにか言って、これ以上彼女から嫌われてしまうのが……。

 

「わ、私は……、自分の身可愛さに、幸子ちゃんを見殺しにした……んです……」

 

 罪悪感を言葉にした途端、涙がこみ上げきて、ぐしゃりと顔が歪んだ。

 

 このまま泣きわめいて、()()()()()()。そんな衝動に駆られた、そのとき。

 

「小梅」

 

 足元に影が差し、小梅はおもてを上げた。

 

「り、凛さん――!?」

 

 パン――ッ!

 

 鋭い痛みが頬に走り、小梅は驚いて目をしばたたかせた。

 

 凛が突然、小梅の頬を張ったのだ。

 

「そんなふうに自分を責めて……()()()()()

 

 混乱しながら見返すと、怒鳴った凛は、目に涙をためて小梅をにらんでいた。

 

 凛の叱責に、小梅だけでなくほかの者も驚かされたようだ。みな一様に困惑の表情を浮かべ、凛と小梅を交互にうかがっていた。

 

 しかし凛はそんな周囲の視線にかまうことなく、小梅の両肩を正面から強くつかんだ。

 

「そんなふうにひとりで責任を感じて、自分だけで完結しようとしないでよ! 私たちだってあんたの力になりたいだ! 私はもっと……あんたと話したいのよ……っ!」

 

 肩をつかむ手にぎゅっと力が込められ、凛の声は揺れた。

 

 小梅は驚いた。

 

 私と話したい……? 凛さんが?

 

 そんなふうに思っていただなんて……。そんな、それじゃあ――。

 

 私と……同じじゃないか。

 

「あ、あのさ、小梅ちゃん」

 

 未央は咳払いをすると、なぜか小梅をじっと見つめた。

 

「え……? あ、あの……」

「小梅ちゃん……、私もその……ごめん!」

 

 とまどう小梅に向けて、未央は突然、勢いよく頭を下げた。

 

「えっ!? え……?」

 

 未央は少し体を起こし、ばつが悪そうな表情を浮かべて小梅を見返した。

 

「さっちーのこともそう……だけど、さ。私たち、ほかにもいろいろ、小梅ちゃんに押しつけてた。ホント……ごめんっ」

 

 未央はふたたび深々と頭を下げる。

 

「えっと、その……」

 

 返答に困り、小梅が視線を泳がせると、今度は未央の背後にいた奈緒と目が合った。

 

「そう……だよな」

 

 奈緒もまた、小梅を見て苦々しい表情を浮かべた。

 

「アタシらのほうが年上なのに、いつのまにか小梅に頼りきりになってたよ……。ごめんな、小梅」

 

 奈緒は小梅のほうに向き直り、未央と同じように深々と頭を下げた。

 

「あ、あの……」

 

 どう反応していいかわからず、小梅が前髪のうしろに隠れようとしたそのとき――頭にそっと手が乗せられた。顔を上げる。

 

 そこにいたのは、穏やかな顔つきの凛だった。

 

「……泣いていいんだよ、小梅」

「え……?」

 

 見返すと、凛は優しげに目を細めた。

 

「でも泣くならさ、悲しくて泣こうよ。自分を責めるためじゃなくて、さ……」

「っ……!」

 

 凛の言葉に、思わず胸が詰まった。

 

 その刹那、脳裏に浮かんだのは、幸子の顔だった。

 

 目頭がじんと熱くなる。

 

 小梅は直感した。

 この涙は、まぎれもなく哀惜の涙だと。

 

「幸子ちゃん……っ」

 

 嗚咽を漏らしはじめた小梅の肩を、凛はやさしく抱いてくれた。

 

 しばらくすると、別の手が小梅の肩に重ねられた。

 

 泣きはらした目の卯月が小梅にそっと微笑みかけた。

 

「お祈り……しませんか?」

「お祈り……?」

 

 卯月は静かにうなずく。

 

「ええ、幸子ちゃんが安らかに眠れるように、祈るんです」

 

 幸子ちゃんのために――その思いがすとんに胸に落ちて、小梅は鼻をすすりながら卯月にうなずきかえした。

 

「はい……、しましょう、お祈り」

 

 目を細めて応える卯月の隣で、凛は小梅の背後へ視線を投げた。

 

「やろう、みんなで」

「そう……だね」

「うん……、祈ろう」

 

 呼びかけられた未央と奈緒は、口々に言って、小梅たちのもとに寄ってきた。

 

 小梅たちは互いにうなずきあってから、各々顔の前で手を組んだ。

 

 誰からともなく目を閉じる。

 

 祈り。

 

 たしかにそれが、それだけが、今、自分たちが幸子のためにできることだと思えた。

 

「……階段のところのバリケードを完成させにいきましょう」

 

 一分ほど黙祷を捧げたのち、小梅は目元を拭ってそう切り出した。

 

 もう悲しんでばかりはいられない。

 

 これ以上の涙はもう、幸子のためにはならない。

 

 全員で生きてここから出られるように、最善を尽くす。

 

 幸子の犠牲に報いるにはそうするしかないと、小梅は思った。

 

 小梅の提案に反対する者はいなかった。

 

 小梅たちはすぐにエレベーターホール付近の階段へ向かい、途中だった作業を再開させた。

 

 階段の手前に置かれたソファを前にして、奈緒が振り向く。

 

「あとは上に椅子を乗せるだけ……でいいんだよな?」

 

 小梅はうなずいた。

 

 簡単に乗り越えられない障害物があれば、知能が劣化したゾンビたちは進んでこられないはずだ。

 

「なるべく隙間を作らないように置いていきましょう」

 

 一同はうなずきあうと、捨て置かれていた椅子やスツールをソファの座面へ積んでいった。

 

 足りないぶんの椅子は同じ階のほかの部屋から調達し、十五分ほどかけて、小梅たちは下りと上り、両側のバリケードを完成させた。

 

「あっち側は……どうする?」

 

 凛が廊下の反対側へ目をやった。突きあたりのトイレを曲がった先には、もうひとつ階段がある。無論、そちら側も塞いでおきたいところではあるが……。

 

「向こうは……諦めましょう」

 

 小梅はそう答えた。下の階にはまだ幸子を襲った彼女がいるかもしれない。もしバリケードを築いている最中に襲われてしまったら、それこそ本末転倒だ。

 

「仕方ないね……。こうしてるあいだにも、いつトレーナーが上がってきてもおかしくないし……」

 

 廊下の先を見た未央は、ぶるりと身を震わせた。

 

 小梅たちも急に恐怖を思い出し、みなでいそいそと休憩室へ引き返した。

 

 最後に入室した未央は、きっちりと施錠をすると、ドアにもたれかかってそのまま床に座り込んだ。

 

「せめて朝までなにもなきゃいいけどなあ……」

 

 未央のつぶやきを聴いて、小梅は壁にかかった時計を見た。

 

 時刻はもう午後十時を過ぎていた。いや、まだ十時と言うべきなのだろうか……。

 

 今は静かだが、階段を片側しか封鎖できていない以上、ゾンビたちがまたこの階に押し寄せてくる可能性は捨てきれない。結局、食料も連絡手段も確保できていないが、この状況下でまたこの部屋から出ていくのは危険だ。いましばらくは、この部屋にこもって様子見を続けるしかない。しかし――夜は長い。

 

 とりあえずの安全は確保できているとはいえ、来る見込みもない救助をただ待っているのは、やはり辛いものがある。

 

「はあ……」

 

 小梅が思わずため息を漏らすと、凛が「ねえ……」と声をかけてきた。

 

「あいつらってさ、朝になればおとなしくなったり……するのかな?」

 

 小梅は不安げな表情の凛に向けて、あいまいに首を振った。

 

「……わかりません。日の光を嫌うタイプのゾンビはたしかにいますけど、彼らがそういったタイプなのかは、実際に朝を迎えてみないことにはなんとも……」

「そっか……」

 

 凛はうつむいて、長い嘆息を漏らした。不安な気持ちを少しでも鎮めようとしているのだろう。

 

 沈黙が部屋に流れる。

 

 それを嫌ったのか、奈緒が「ああ、もうっ」と苛立たしげに声を上げた。

 

「じっとしてたらホント気が滅入っちまうよ! アタシ、テレビ直らないか、もう一回見てみる」

 

 奈緒は腕まくりをしながら壁際に置かれたテレビへ近づいていった。

 

「わ、私も手伝います」

 

 すかさず手を挙げた卯月が奈緒のあとに続いた。

 

 テレビの裏側をのぞきこみはじめたふたりを見て、残された三人は互いの顔を見合わせた。未央がぽつりと漏らす。

 

「私らもなんか考えよっか……今できること」

 

 異存はなかった。気を紛らわせるには、やはり無心で体を動かすことがいちばんだと思えた。

 

「でも……なにをしようか?」

 

 凛に問いかけられ、小梅は少し思考をめぐらせる。

 

「これからやらなきゃいけないことといえば……、寝床の用意……でしょうか?」

 

 意外だったのか、未央と凛は揃って「ああ……」と感心したようにうなずいた。

 

「たしかに大事だよね、寝床……。夜通し起きてるってのもしんどいもん」

 

 未央が腕を組んでうなる一方、凛は小梅のほうを見てわずかに目を細めた。

 

「小梅……やっぱり頭いいね、あんた」

「えっ……、な、なんですか、急に……」

 

 思いがけない褒め言葉をもらい、小梅はどぎまぎした。

 

 頭がいいだなんて……凛にそんなふうに見られていたのかと思うと、なんだか気恥ずかしくなって、小梅は前髪で顔を隠してしまう。

 

 そんな小梅を見て、凛はまた頬を緩めるのだった。

 

「ん? どうしたの、ふたりとも。なんか嬉しそうな顔してるけど」

 

 きょとんと首をかしげる未央に、凛はそらぞらしく答える。

 

「なんでもない。それより、寝床。どうする?」

 

 ……ひょっとして凛にからかわれているのだろうか? それで彼女の気が紛れるのなら、まあいいけれど……。

 

 ちょっとだけ唇をとがらせた小梅を尻目に、未央は室内をぐるりと見回した。

 

「ソファは持ち出しちゃったから、人数ぶんはもうないよね……。あとは、杏ちゃんがいつも使ってるクッションを借りるかあ」

「それだけあれば充分じゃない? 全員が一斉に寝る、ってわけにもいかないだろうし」

「ああ、そっか。見張りはいたほうがいいもんね……。それじゃあ、二、三人ずつ交代で寝る……ってことでいいのかな? 小梅ちゃん」

「えっ!? は、はい、そうですね」

 

 急に話を振られてあわてる様子を凛に笑われた気もしたが、小梅は咳払いをしてなんとか気を取り直す。

 

「こ、交代で寝ることには賛成です。でも、眠るにしても、仮眠にとどめておきましょう」

「仮眠? なんでまた?」

 

 未央が眉根を寄せた。

 

「深く眠ってしまうと、すぐ起き出せなくなるおそれもありますから……」

 

 小梅はそこで、窓のほうをちらりとうかがった。

 

「彼らは夜にこそ活発になります。万が一なにかあってもすぐ動けるように――」

 

 小梅が顔を正面に戻した、そのときだった。

 

 ――ガタガタッ!

 

 突然室内に大きな物音が響き、小梅たち三人に揃って振り向いた。

 

 部屋の隅にあるロッカーが揺れていた。音はそこかららしい。

 

「な、なんだ!?」

 

 テレビの修理にいそしんでいた奈緒と卯月も、異変に気づいて同時に振り向く。

 

 ロッカーは、()()()()()()()()()()()ようだった。

 

 その様子を見て、小梅たちは即座に思い出した。

 

 あの中には今、()が押し込められている。

 

「み、未央っ」

「う、うん!」

 

 凛と未央は近くにあったほうきを急いで拾いあげた。ふたりは顔をこわばらせ、ロッカーに向けて()()を構える。

 

 一同が注視するなか、ロッカーは再度ガタガタと音を立てて揺れる。

 

 小梅たちは息を呑んだ。

 

 まさか……飛び出してくる気か!?

 

「く……っ、この……っ」

 

 未央が先手必勝とばかりにほうきを振りかぶった。

 

 未央の気勢に応えるようにまたも小さく揺れたロッカーから返ってきたのは、しかし――。

 

「あ、あの~……」

 

 思わず拍子抜けしてしまいそうになるほどに弱々しい、()()()だった。



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【修正】奈緒と未央の武器を修正しました。


 その声はたしかにロッカーの中から聞こえてきた。

 

 小梅たちはしっかりと閉ざされているはずの扉を見つめる。

 

 そこには不思議と人の気配が感じられた。

 

「す、すみませーん、どなたか、い、いらっしゃいませんか?」

 

 不安げな声がまたロッカーの中から発せられる。今度こそ意志のある呼びかけだ。

 

 一同のあいだに緊張が走る。

 

「この声……、プロデューサーさんか?」

 

 自然とそうなったのか、奈緒は声をひそめていた。

 

 何度か目配せをしあったあと、凛がおそるおそるといった声音でロッカーにいる人物に呼びかける。

 

「プロデューサー……なの?」

 

 ガタリとロッカーが揺れた。

 

「お、おお、その声は渋谷さんですね! おひとりですか!?」

「わ、私だけじゃない。ほ、ほかにも、いるよ」

「そ、そうですか! よかったぁ……」

 

 安堵の声を聴いて、小梅たちはすぐに角を突き合わせた。

 

 奈緒がみなをちらちらと見ながら切り出す。

 

「普通にしゃべってる……よな?」

 

 うなずかざるをえなかった。

 

 ここまでの受け答えに不審な点は感じられない。会話が成り立っている。つい数時間前、獣じみた咆哮を上げていたときとは、あきらかに様子が異なっている。

 

「ど、どうする?」

 

 凛が小梅に助言を求めた。

 

 小梅は一瞬沈思してから答える。

 

「……もう少し様子を見ましょう。なんでもいいので、なにか声をかけてみてください」

「わ、わかった」

 

 凛は息を呑むと、あらためてロッカーのほうへ体を向けた。

 

「あ、あんた、その……大丈夫、なの?」

 

 返事はすぐにあった。

 

「は、はい、大丈夫……でもないのかな? いつつ……、なんだか体のあちこちが痛くて……。んっ! え、ええと、どうも手と足が縛られてるみたいなんですよね。暗いし、狭いし……いったいどうなってるんですか、僕?」

 

 しゃべり方を聴くかぎり――いつものプロデューサーの口調に思えた。記憶は一部失っているようだが、自己認識はあるようだ。

 

 一同は顔を見合わせた。

 

 本当にプロデューサー……なのか?

 

「プロデューサーさんですよっ」

 

 声を押し殺しつつそう主張したのは、卯月だった。

 

 意表をつかれて驚く小梅に、卯月はぐいと詰め寄ってくる。

 

「正気に戻ってくれたんですよ、きっと!」

 

 卯月の鼻息がめずらしく荒い。

 

 小梅は困って凛に助けを求めた。

 

「……ありうるの? ゾンビが人間に戻る……なんてこと」

 

 凛の尻馬に乗って、卯月は期待に満ちたまなざしを向けてくる。

 

「あ、あるんですか!?」

 

 小梅は咳払いをしつつ答えた。

 

「ゾ、ゾンビ感染から回復した、という例は、案外少なくありません」

 

 みなの顔に軽い驚きが広がった。

 

 奈緒がハッと目を見開く。

 

「そ、そういえば『アイアムアヒーロー』でもヒロインの子が人間に戻ってた!」

「あれは外科的処置が功を奏して正常な意識を取り戻したという感じですが……、ウイルス性の感染で、完全なゾンビ化を免れている場合であれば、回復もありえる……のかも」

「じ、じゃあプロデューサーは、完全なゾンビにはなってなかった、ってこと?」

 

 未央の問いかけには即答できなかった。小梅は天井を見上げ、彼がそこに空けた穴を見る。ただの人間が天井に届くほど跳び上がれるとは到底思えないが……。

 

「お話ができるってことは、大丈夫だったんですよ、きっと!」

 

 なおも小梅に迫ろうとする卯月の腕を、凛が引っ張った。

 

「卯月! 気持ちはわかるけど、ちょっと落ち着きなよ」

 

 たしなめられて多少でも頭が冷えたのか、卯月はバツが悪そうに目を伏せた。

 

「す、すみません。でも私……」

 

 卯月の目線はやはりロッカーのほうへ吸い寄せられる。プロデューサーが無事であってほしい。その気持ちは小梅にも痛いほどよくわかる。

 

 けれど凛の言うとおり、ここは慎重な判断が求められる局面だ。

 

 小梅は息を整えてからおもむろに口を開いた。

 

「ゾンビ化すると、大半は知性や理性を失います。けれど、なかには言葉を話すタイプが存在することもたしかです」

 

 ぼそりと返事をよこしたのは奈緒だった。

 

「たしかに、『さんかれあ』とか『これゾン』とかでしゃべってたな……」

「ええ……。正確にいえば『不死身』と『ゾンビ』は状態として異なりますが……」

 

 奈緒が挙げた例はどちらかといえば「不死身」の側面が強いといえそうだ。

 

「それじゃあ――」

 

 今度は凛が小梅に問う。

 

「そいつが()()ゾンビかどうか見分ける方法とかってないの?」

 

 小梅は少し記憶を探った。

 

「『しりとりや簡単な計算をさせる』という方法が提案されてはいますが、確立された方法とまでは……」

()()()()()がいてもおかしくない……のか」

「それに、人間的意識の存在証明とかになってくると、それこそ哲学的なアポリアになってしまいますし――」

「あ、あの~……」

 

 深みにはまりかけた議論を止めたのは、遠慮がちな男の声だった。

 

 小梅たちは一斉に振り向く。

 

 そのタイミングを見計らったかのように、ロッカーの中の彼は言葉を重ねてきた。

 

「僕、今、閉じ込められてるんですよね? できればその、外に出していただけませんか?」

 

 ついに来た! 

 

 一同はふたたび角を突き合わせた。

 

「……とりあえず問題は、今のプロデューサーが安全かどうか、ってことだよ」

 

 未央の言葉に、奈緒が反応した。

 

「さっき小梅が言ってたあれ、やってみるか? しりとりとか計算とか」

 

 奈緒は小梅をうかがう。

 

 しかし小梅は渋い表情を返した。

 

「無意味ではないとは思いますが、すでに問題ないといえるレベルでコミュニケーションが成り立っていますからね……」

 

 小梅の返答を受けて、みな押し黙ってしまった。ほかに打つ手がなにも思いつかないのか? いや――。

 

 小梅は横目でロッカーをうかがった。彼からの催促はない。その沈黙は、こちらの決定を待つという意志表示なのだろうか。

 

 視線を戻すと、みなと目が合った。小梅たちはちらちらと互いをうかがう。全員の意見がひとつの結論に傾きかけていることはあきらかだった。

 

 やがて切り出したのは、未央だった。

 

「開けて……みる?」

 

 もちろん、反対する者はいない。

 

 小梅たちは念押しをするかのごとく、互いに視線を交わしあった。

 

 最後に未央と凛と奈緒の三人が顔を見合わせてうなずきあってから、慎重な足取りでロッカーへ近づいていった。

 

 途中で奈緒が、床に転がっていたほうきを拾い上げる。

 

「念のため……な」

 

 それを見て未央と凛も、それぞれビニール傘とモップを手に取った。

 

 三人がロッカーの前で足を止めると、中から小さな物音が返ってきた。三人の気配を感じ、彼が中で身じろぎでもしたのだろう。

 

 三人は目配せをしあい、ロッカーを取り囲んだ。向かって右側に未央、左側に奈緒、そして正面に凛。

 

 未央がロッカーの取っ手に右手をかけ、ふたりに振り向く。

 

「……いくよ」

 

 凛と奈緒が重々しくうなずくと、未央はひと呼吸おいて、勢いよく扉を引いた。

 

 扉が開けはなたれるやいなや、背中を丸めた状態の男がゴロンとまろびでてきた。

 

「ぷはぁっ!」

「……っ!」

 

 三人は即座に武器を構えた。

 

 が、プロデューサーは体をくの字にして横臥したまま、かすかに身じろぎするだけ。

 

「うう……」

 

 手はネクタイでうしろで縛られ、足首にもベルトが巻かれている。

 

 そんな彼の姿を見て、未央たちはゆっくりと武器を降ろした。

 

「とりあえず大丈夫……かな?」

「そうだな……」

 

 未央と奈緒が安堵のため息を漏らす一方、小梅はプロデューサーの観察を続けた。肌の色はあいかわらず緑がかっている。しかし、血の気はうっすらとだが感じられる。額には汗がにじんでいる。だいぶ衰弱しているようだ。

 卯月もプロデューサーの容態を見て取ったのか、心配そうに眉を曇らせた。

 

「だ、大丈夫ですか? プロデューサーさん」

「う、うう……」

 

 プロデューサーは苦しげに首を縦に動かした。意識は保っているようだ。

 

「な、なにか飲み物でも持ってきましょうか?」

 

 卯月は彼の顔をのぞきこもうと、少し身をかがめる。

 

 しかしその動きを凛が制した。

 

「卯月、ちょっと替わって」

 

 凛は彼の枕元に片膝をついた。

 

 「自分がなんで縛られてるか、わかる?」

 

 プロデューサーは首を横に振った。

 

「だったら、しばらくはそのままでいてもらうよ。いろいろと訊きたいこともあるし」

 

 毅然とした態度でそう告げると、凛は小梅に目線を送ってきた。

 

 小梅は凛にうなずきかえし、プロデューサーのほうへ一歩近づいた。彼に確かめなければならないことは、やまほどある。

 

「プロデューサー……さん。小梅です……、白坂小梅。わかり……ますか?」

「ああ、白坂さん。そうか、白坂さんでしたか……」

 

 彼は目一杯首を回し、背後に立つ小梅を見ようとした。

 

 小梅は思わず眉うひそめた。今の返答……小梅の存在を認識していなかったのか? しかし彼は最初のやりとりでも小梅と対峙しているはずだ。それを覚えていないというならば、やはり記憶が混濁しているのだろうか? それとも――。

 

 ……とにかく、探りを入れてみるしかない。小梅は慎重に言葉を選んだ。

 

「……覚えているかぎりで結構です。これからする質問に、答えていただけますか?」

「ええ……了解しました」

 

 プロデューサーはふたたび小梅に背中を向けると、、もぞもぞと身をよじりはじめた。縛られた手足が気になっているのだろうか。

 

「い、痛むんですか?」

 

 痛みを感じるならば、それもまた人間の証ではあるが……。

 

「いえ……大丈夫です」

 

 プロデューサーは長く息を吐き、少し間を取った。

 

「……白坂さん、僕からもひとつ、確認させていただいてもよろしいですか?」

「え? は、はい、な、なんでしょう?」

 

 虚を突かれ、小梅は目を瞬かせた。

 

 その隙をつくかのように――プロデューサーはぼそりとつぶやいた。

 

「こんなちゃちな――」

「え?」

「――こんなちゃちな縄で、僕を拘束できたとでも思っているんですか?」

「え――?」

 

 小梅が眉間にしわを寄せた、その刹那――。

 

 バチン!

 

 なにかが弾けたような大きな音が部屋中に響き渡った。

 

 「っ!」

 

 小梅たちは反射的にすくみあがった。

 

 そして、気がついたときにはもう――。

 

 プロデューサーの姿は、小梅たちの前から忽然と消えていた。



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10

「えっ――!?」

 

 プロデューサーが突然目の前から消えた。

 

 混乱したのは無論、小梅だけではなかった。

 

「なっ……!?」

 

 プロデューサーを取り囲んでいた一同は、彼を探して周囲を見渡した。

 

 が、気配がしたのは――。

 

「う、上ですっ!」

 

 小梅がとっさに視線を跳ね上げたときにはもう、プロデューサーは小梅たちの目前にまで()()()()()()()

 

「き、きゃああっ!」

 

 甲高い悲鳴を上げながら、一同は蜘蛛の子を散らすように四方へ飛びのいた。

 

 プロデューサーは小梅たちが輪になっていた場所へ四肢を広げて着地――と思いきや。

 

「ふんっ!」

 

 ぐっ、と身を沈めると、プロデューサーはすぐさま垂直に大きく跳び上がった。そして空中で器用に体を反転させ、両手両足を使って天井に張りつく。

 

「ス……!?」

 

 信じがたい光景に、奈緒はぎょっと目を剥いた。

 

「ス、スパイダーマンかよ!?」

 

 もはやゾンビの域さえ超えている――そんな格好のまま、プロデューサーは首だけをぐるりと回し、小梅たちを一瞥した。

 

「ここからだとよおく見えますよ、みなさんの恐怖に歪む顔が」

 

 にやりと笑ったプロデューサーは、またも器用に体をひねり、スカイダイビングのような格好でこちらへ向かって飛びかかってきた。

 

 狙いは、ほぼ真下にいた凛。

 

「きゃあっ!」

 

 凛はとっさにうしろへ飛び退き、突然の強襲をなんとか回避。

 

 が、床に着地したプロデューサーはバネ仕掛けのおもちゃのようにすぐさま跳び上がり、今度は正面から凛に襲いかかった。

 

「ぐがぁっ!」

 

 右肩を掴まれた凛は、凶手を振りほどこうと必死に身をよじる。

 

「い、いやあっ!」

 

 悲鳴を聞いた奈緒はハッとして、すぐに両手でほうきを握り直す。

 

「は、離せよ、このっ!」

 

 背後からプロデューサーに殴りかかる奈緒。

 

 いささかでたらめな太刀筋ではあったが、ぶん回した一撃は運良くプロデューサーの肩口あたりをとらえた。

 

「ガッ!?」

 

 プロデューサーは弾かれたように背を反らし、凛から手を放した。

 

「きゃっ!」

 

 難を逃れた凛だったが、勢い余ってその場に尻もちをついてしまう。

 

 小梅はすぐさま凛に駆け寄った。

 

「だ、大丈夫ですか!? 凛さん!」

「あ、危ない!」

 

 凛の切羽詰まった声に反応して振り向くと――。

 

「ガアッ!」

 

 態勢を立て直したプロデューサーが、またこちらへ迫っていた。

 

 床に膝をついた今の態勢では、とっさに回避行動がとれない。まずい――! そう思った矢先。

 

 小梅とプロデューサーのあいだに人影が割り込んだ――未央だ。

 

 未央はビニール傘をバットのように振り回し――。

 

「てやあっ!」

 

 プロデューサーの胴へおもいきり打ち込んだ。

 

「ぐう……っ!」

 

 みぞおちを叩かれたプロデューサーは、体をくの字に折って苦しげに身悶える。

 

 未央も手ごたえを感じたようだ。

 

「や、やった!?」

「……なあんてね」

「え?」

 

 未央の表情が凍りつく。

 

 おもてを上げたプロデューサーは、余裕の笑みを浮かべていた。

 

 そして自らを襲ったビニール傘をつかむと、プロデューサーはそのまま左右に身をひねりはじめた。

 

「う、うわっ!」

 

 振り回された未央は、遠心力に耐えきれず、とうとう傘から手を放してしまう。乱暴に薙ぎ払われ、未央は踏ん張ることすらできず床に転がった。

 

「み、未央ちゃん!」

 

 卯月が倒れた未央のもとへ駆け寄ろうとした。

 

 しかしプロデューサーはそれを足止めするかのごとく、卯月の足元へビニール傘を投げ捨てた。

 

「ひっ!」

 

 ひるんだ卯月を見て、プロデューサーは「ハハッ!」と短く哄笑を漏らした。

 

「元気がいいですねえ、みなさん。おかげで僕も、いい具合に肩慣らしができましたよ」

 

 軽口を叩くと、プロデューサーはちらりと背後をうかがった。

 

「どうしたんです? 神谷さん。いつでも仕掛けてきてくださいよ」

「ぐ……っ」

 

 背後からの接近をプロデューサーに気取られ、奈緒は逆に動きを封じられてしまう。なんとか相手に切っ先を向けつづけてはいるものの、攻勢に転じる気配はなく、むしろ無意識のうちにじりじりと後退させられてさえいるようだった。

 

 勝ち誇ったような笑みをたたえたプロデューサーは、散り散りになった小梅たちをゆっくりと眺めまわしたあと、おもむろに右手を上げた。

 

「っ!」

 

 小梅たちは即座に警戒を強めたが、プロデューサーはなにもしてこなかった。が、おびえる小梅たちをにやにやと眺めながら、彼はこれみよがしに右手を軽く振った。

 

 彼の手首にまとわりついていた細長い布切れのようなものが、するりと足元に落ちる。

 

「あ――」

 

 小梅はそこでようやく、彼が自分たちになにを見せたかったのかを悟った。

 

 プロデューサーの手首から落ちたもの――あれは、彼の手首を縛っていたネクタイだ。

 

 より正確にいえば、ネクタイの()()である。

 

「いやあ、僕もまさか、担当アイドルにネクタイで縛り上げられる日がくるなんて、思ってもいませんでしたよ」

 

 プロデューサーはわざとらしく手首をさすってみせると、窓際へ目をやった。

 

 釣られて視線を動かすと、目に入ったのは落ちていた黒っぽい紐状のもの。すぐにその正体にも気がついた。ベルトだ。こちらはプロデューサーの足首を縛っていたものだが、ネクタイと同様、無惨にも真ん中あたりでズタズタに引きちぎられていた。

 

 小梅の脳裏に、プロデューサーが暴れだす直前に聞いた派手な物音が蘇る。

 

 あれは、彼がネクタイとベルトを力任せに引きちぎった音だったのだ。

 

「し、信じられない……」

 

 小梅の口からついてでた言葉を聴くと、プロデューサーはいたずらを成功させた悪ガキのようにニタリと笑ってみせた。

 

「言ったでしょう? こんなちゃちな縄じゃ僕を縛ることはできないって」

 

 聴きようによってはクサイ台詞を吐きながら、プロデューサーは足元に落ちたネクタイの切れ端をわざわざ拾い上げ、紙でも破るかのようにびりびりと引き裂きはじめた。まるで、自らの力を誇示するかのごとく。

 

 本当に信じられなかった。ネクタイだけならまだしも、革製のベルトを一発で引き切ってしまうなんて……。

 

「に、人間業じゃねえ……」

 

 驚愕に息を呑む奈緒を見て、プロデューサーはますます気を良くしたようだった。鷹揚に腕を広げ、あらためて小梅のほうに向き直る。

 

「さて、と……。なにか僕に訊きたいことがあるんでしたっけ? このとおりなにもしませんから、どうぞ心置きなくなんでもお訊きください。僕にわかることなら正直に答えますよ」

 

 心置きなく――か。質疑応答を終えたら即座に襲ってやると言われている気もしたが、黙り込んでもどうせやられるだけだろう。小梅は腹をくくった。

 

 訊きたいこと――訊くべきことは、やまほどある。

 

「痛みを……感じないんですか?」

 

 いろいろ考えたが、まずは軽く探りを入れることにした。少しでも痛みを感じてくれていれば勝機もあるのだが……。

 

 こちらの思惑を知ってか知らずか、プロデューサーは少し悩むようなしぐさを見せたから答えた。

 

「まったく痛くないわけじゃありません。もっとも、みなさんのようなか弱いお嬢さんにいくら殴られても、蚊に刺された程度の痛みしかありませんですが」

 

 プロデューサーは皮肉げな視線をちらりと奈緒に向ける。

 

「ぐ……」

 

 悔しげに歯噛みする奈緒を横目に見ながら、小梅は冷静に頭を働かせた。

 

 プロデューサーの、あの余裕ぶった態度。虚勢を張っているわけではなさそうだ。

 

 本当に痛みを感じていないらしい。

 

 痛みに対する過剰なまでの耐性。感覚の異状――。

 

 やはり彼は、ゾンビになってしまったのだ。

 

 小梅は沈みそうになる気持ちを必死に奮い立たせ、にやにやとした顔で次の質問を待つ彼を見返した。

 

「……私たちのことは、覚えているんですか?」

 

 プロデューサーはあざけるように鼻を鳴らす。

 

「おかしなことを訊きますね。もちろんじゃあないですか。僕はあなたたちのプロデューサーですよ?」

 

 背後から憎々しげな舌打ちが聞こえてきた。

 

「なにがプロデューサーよ……、私たちをあんなひどい目に遭わせておいて……」

 

 凛の恨み言を聞き流し、小梅は質問を重ねた。

 

「私たちをここに呼び出したことは?」

「どうでしたかねえ? じつは今日一日の記憶にあいまいな部分がありまして」

 

 小梅がいぶかしげな視線を向けると、プロデューサーはわざとらしく胸の前で両手を振ってみせた。

 

「とぼけてなんていませんって。本当に記憶がおぼろげなんです。夕方頃、一ノ瀬さんに会いにいったことはなんとなく覚えているのですが」

「一ノ瀬? 一ノ瀬志希?」

 

 小梅は思わず眉をひそめた。なぜここで彼女の名前が――? 

 

 だが、小梅が問いただすよりも先に、奈緒が身を乗り出してプロデューサーに詰め寄った。

 

「おい! あんたまさか、志希にまで手を出したんじゃないだろうな!?」

 

 食ってかかられたプロデューサーは、心外そうに顔をしかめた。

 

「ですから、よく覚えていないんですよ。でも、襲ったりはしてないと思うけどなあ」

「し、信じられるかよっ、そんなこと! トレーナーにだって襲われたし……、あ、あんたもあいつらの仲間なんだろうが!?」

 

 奈緒は口から泡を飛ばしながら窓のほうを指さした。窓の外――前庭には大量のゾンビがたむろしている。

 

「仲間?」

 

 プロデューサーは突然真顔になると、次に小さく鼻を動かして、臭いをかぐしぐさを見せはじめた。

 

「……なるほど。僕と似た人たちが近くにたくさんいるみたいですねえ――おや? これは……」

 

 ひとりごとをつぶやいていたプロデューサーが突然、悪巧みでも思いついたように口元をゆがめた。

 

「な、なんですか?」

 

 思わず訊き返した小梅に、プロデューサーは楽しげに笑いかけた。

 

「いやね、いいことを思いついたんですよ」

 

 そんなことを言うと、プロデューサーは小梅たちの顔をひとりずつ見回した。

 

「どうでしょう、みなさん。みなさんも、僕の仲間になりませんか?」

「は?」

 

 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。

 

 そろって怪訝な顔になった小梅たちを見て、プロデューサーは愉快そうに口元をゆがめた。

 

「ですからね、みなさんにも、僕と同じ力を持っていただきたいんですよ。なあに、不安に思うことはなにもありません。僕に少し噛まれれば、みなさんもすぐ()()()()に来られるんでしょう?」

 

 舌なめずりをしたプロデューサーを、凛が嫌悪感たっぷりににらみかえす。

 

「この変態……っ」

 

 プロデューサーはキザっぽく肩をすくめた。

 

「それはひどい言い草だなあ。なにも、()()()()()()ってわけじゃないのに」

 

 そう言ってプロデューサーはすっと表情から笑みを消した。

 

 その顔を見た途端、小梅の背筋にぞくりと悪寒が走った。

 

 プロデューサーはふたたび不敵な笑みを口元にたたえ、ゆらりと体を左に傾けた。

 

「でしたら残念ですが、少々手荒な真似をさせてもらうしかないですね」

 

 次の瞬間だった。

 

 プロデューサーは、たん、と軽く床を蹴ったかと思うと――瞬間移動のごとき速度で、まっすぐ小梅に飛びかかってきた。

 

「っ!?」

 

 一瞬のうちに目前まで迫られ、小梅は息を詰まらせてその場に固まってしまう。

 

「小梅っ!」

 

 とっさに小梅を助けたのは凛だった。上から両肩を押さえつけられた小梅はいやおうなしに身をかがめることになり、そのおかげでプロデューサーの不意打ちは小梅の頭を上をかすめるだけに終わった。

 

「チッ――」

 

 悔しげに舌打ちをしたプロデューサーは、すぐに体勢を立て直した。鬼のような形相で小梅たちをにらみつける。第二撃がくる――!?

 

「うああああっ!」

 

 が、先にしかけたのは凛のほうだった。凛は小梅をおしのけるようにして前に出ると、体う斜めにして、プロデューサーに渾身のショルダータックルを食らわせた。

 

 助走がなかったとはいえ、勢いは十分だった。が――。

 

「嬉しいですねえ。渋谷さんから僕の胸に飛び込んできてくれるなんて」

 

 凛に体ごとぶつけられても、プロデューサーはびくともしなかった。

 

「なっ――!?」

 

 驚いて目を見開く凛にニヤリと笑い返すと、プロデューサーは凛の両肩をがっちりとつかんだ。

 

「ちょっ……! やめ……っ、離してよ!」」

 

 凛はプロデューサーの手から逃れようともがくが、プロデューサーは余裕綽々といった面構えで暴れる凛を抑えつけていた。

 

「さ、楽にしてください、渋谷さん。僕に任せてくれれば、すぐに終わりますから――」

 

 言い終わるが早いか、プロデューサーは大口を開けて凛の首筋に顔を近づけはじめた。

 

 凛の顔が恐怖にゆがむ。

 

「い、いや……っ」

 

 小さな悲鳴を聞いて、奈緒がハッと目を見開いた。

 

「こ、このっ……、やめろ!」

 

 奈緒は凛に迫るプロデューサーをキッとにらみつけると、その背中をほうきでおもいきり殴りつけた。

 

 遠慮のない強烈な一撃。普通の人間ならば悶絶してもおかしくないが――。

 

「……不思議だなあ。本当に全然痛くないや」

「なっ……!」

 

 余裕の笑みを浮かべて振り返ったプロデューサーを見て、奈緒は言葉を失った。

 

 やはり単純な打撃では傷ひとつ負わせることもできないのか――しかし。

 

「は、離せっ!」

 

 凛は奈緒の攻撃が誘発したプロデューサーの油断を見逃さなかった。彼が目を離している隙に、強引に腕を振りほどき、強く胸を突いて彼の懐から逃れる。

 

「おっとっと」

 

 不意の抵抗にあったプロデューサーは、さすがにバランスを崩し、少しよろめく。

 

 これをチャンスと見たのが、未央。

 

「く……このっ!」

 

 未央はかたわらに落ちていたビニール傘をすばやく手に取り、それを腰に構えてプロデューサーへ突進した。鋭く突き出した先端で狙うのは、彼の腹部。

 

「やっ!」

「おっと、危ない」

 

 が、プロデューサーは闘牛士のような身のこなしで未央の打突を難なくかわす。

 

「あっ!」

 

 それどころか、いなされた未央のほうが逆にプロデューサーに背中を見せる格好になってしまう。プロデューサーがにやりとほくそ笑む。

 

 このままでは危ない――が、すかさず奈緒が助けに入る。

 

「させるかよっ!」

 

 奈緒は上段に構えたほうきをプロデューサーの額を狙って振り下ろした。しかし――。

 

「ふん!」

 

 顔面に向かってくるその一閃を、プロデューサーは片手だけで受け止めてしまった。

 

「なっ……!?」

 

 驚く奈緒。

 

 だがまだだ。

 

 今度は凛がモップでプロデューサーの頭を狙う。

 

「このっ!」

「っと、危ない危ない」

 

 言葉とは裏腹に、プロデューサーは凛の攻撃も片手で簡単に受け止めた。さらには――。

 

「ふんっ!」

 

 ぐ、と歯を食いしばったかと思うと、プロデューサーは両脇のふたりを同時に自分のほうへ引き寄せた。

 

「う、うお!?」

「きゃっ!」

 

 不意に引っ張られた奈緒と凛は、なすすべなく互いの肩をぶつけあう。

 

「はっはー、いけませんねえ、アイドルがこんなものを振り回しちゃあ」

 

 プロデューサーはふたりから武器を奪い、後方へ放り投げた。ほうきとモップはちょうど真後ろにあったテレビにぶつかったらしく、ガシャンと液晶画面の割れる音が室内に響き渡った。

 

「う……あ……」

 

 まだビニール傘を握っていた未央はいちおう構えをとっていたものの、仕掛ける気配はもはやない。完全に及び腰になっている未央からそっと武器を取り上げると、プロデューサーは力の差を見せつけるかのようにそれを未央の足元へ投げ捨てた。

 

 ビニール傘が床に落ちると同時に、プロデューサーは小梅のほうへ振り向いた。

 

「さ、次はどうするおつもりで? 白坂さん」

「に――」

 

 プロデューサーの問いかけを聴き終えぬうちから、小梅そのひとことを口にしかけていた。

 

 打てる手はもう、これしかない。

 

「――逃げて!」

 

 振り返ると、みなの体はもう出口のほうを向いていた。

 

「きゃあああっ!」

 

 口々に悲鳴を上げながら、一同は一目散に出口へ向かう。

 

 さいわい、ドアを塞ぐバリケードはもうない。いちばん早くドアの前に到着した奈緒がノブをひねる。

 

「あ、あれ? 開かない!」

「奈緒! 鍵! 開けなきゃ!」

「そ、そっか!」

 

 凛に急かされ、奈緒はあわててサムターンをつまんだ。

 

 しかし、そんなふうにもたついている時間など、いまの小梅たちにあるはずもなかった。

 

「きゃあっ!」

 

 背後で甲高い悲鳴が上がり、小梅は弾かれたように振り返った。

 

「ひどいなあ、僕を置いてみなさんで出かけようだなんて」

「う、卯月さんっ!」

 

 最後尾にいた卯月がプロデューサーに捕まっていた。

 

「い、いやっ、いやですっ! は、離してくださいっ!」

 

 腕をつかまれた卯月は、必死の抵抗もむなしく部屋の奥へ連れ戻されていく。

 

「そんなつれないことをおっしゃらずに、僕と楽しく踊りましょう」

 

 プロデューサーはそれこそ社交ダンスでも始めるかのごとく、卯月を自分の胸元にぐいと引き寄せた。

 

「や、やめて! やめてくださいっ!」

 

 拘束から逃れようと、プロデューサーの腕の中で暴れる卯月。

 

 しかしプロデューサーのほうは、そんな卯月の抵抗を楽しんでいるようにすら見えた。

 

「ふふ、いい顔してますよ、島村さん」

「い、いやあっ!」

 

 泣き叫びながら激しく首を振る卯月。

 

「う、卯月さん……っ」

 

 いますぐ助けにいきたかった。しかし、小梅の足はどうしても動いてくれなかった。まるで目の前に見えない壁でもあるかのように、最初の一歩を踏み出すことができない。

 

「ぐ……っ!」

 

 小梅以外の者も同様の状態らしく、みな一様に歯噛みしながらもドアの前から動けずにいた。

 

 プロデューサーは小梅たちの様子を横目でちらりとうかがってから、涙でぐちゃぐちゃになった卯月の顔をあらためて見つめた。

 

「さあ島村さん、楽にしてください。怖がる必要はありません。少しチクっとするだけで、すぐ気持ちよくなりますから」

 

 気色の悪い台詞を言い終えるやいなや、プロデューサーは卯月に向かってゆっくりと唇を近づけはじめる。

 

「い、いやあああっ!」

 

 卯月の悲鳴が小梅の胸に突き刺さる。

 

 幸子の最期の姿が脳裏をよぎった。あのときと同じように、自分はまたしても、目の前で起きようとしている惨劇をなすすべなく見ていることしかできないのか……!

 

「た、助けてっ……神様」

 

 弱々しい卯月の声が聞こえ、小梅が唇を強く噛み締めてうつむいた――次の瞬間だった。

 

「ぐ……っ!?」

 

 男の苦しげなうめき声が耳に入り、小梅は思わず顔を上げた。

 

「え……?」

 

 我が目を疑った。

 

 プロデューサーが、胸を押さえて苦しがる様子を見せていたのだ。

 

「うぐ……っ、ぐあ……っ!」

 

 うめき声を上げるプロデューサーはとうとう卯月から離れ、窓際のほうへよろよろと後退しはじめる。

 

「な、なに……?」

 

 未央たちもそろって眉根を寄せ、いぶかしげな視線をプロデューサーに注ぐ。

 

「え……え?」

 

 間近で彼と接していた卯月ですら、なにが起きているのか理解できていないらしい。()()()()()()()()()()()()()()()()()、目を白黒させていた。

 

 これもまた例のごとく悪ふざけなのか? いや、しかし……。

 

「げ、ゲホッゲホッ! い、息が……息が苦しい……っ!」

 

 とうとう窓際まで下がってしまったプロデューサーに、卯月がおそるおそる声をかける。

 

「プ、プロデューサー……さん?」

「ぐう……っ、や、やめ……っ、そ、それは……それだけは……っ!」

 

 プロデューサーは震える指を卯月のほうへ向けた。卯月がなにかしているのか? 

 

「は、はい!?」

 

 しかし卯月自身に心当たりはないらしく、素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。

 

 小梅の目にも、卯月がプロデューサーへなにか攻撃をしかけているようには見えなかった。卯月自身か、あるいはその近くにあるなにかがプロデューサーを苦しめているのはたしかだと思えたが、それがなにかがわからない。そうである以上、うかつに踏み込むこともできない。

 

「う、卯月、とにかく、こっちへ」

「は、はい」

 

 凛にうながされ、卯月はあわてて小梅たちのもとへ駆け戻ってきた。

 

 すると、どうだろう。

 

「……はっ! ぐ……っ、この……!」

 

 プロデューサーは突然持ち直し、怒りに満ちた形相で卯月をにらみつけた。

 

「ひ、ひいっ!」

 

 おびえた卯月は、身を守るかのように()()()()()()()()()()()()

 

 その瞬間だった。

 

「うっ! ぐ、ぐわ……っ!」

 

 プロデューサーはまた息を詰まらせ、がくりと膝を落とした。

 

 気づいたのは、みなほぼ同時だっただろう。しかし、いちはやく卯月の手元を指さしたのは、未央だった。

 

「しまむー! それだよ、それ! 手、組むやつ!」

「え? え?」

 

 卯月はとまどいながら自分の手元に目を落とす。

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

「祈り――?」

 

 小梅の口からぽつりと漏れたその言葉に反応してしまったのか、プロデューサーは顔を上げてこちらをうかがった。

 

「ぐあァッ!」

 

 ちょうど正面にいた卯月の姿を見た途端、プロデューサーは視界を遮るように両手で顔を覆った。

 

「目が、目があっ!」

 

 祈りのポーズをとる卯月が、プロデューサーにはまぶしく見えるらしい。

 

 いったいどんな理屈なのかはよくわからないが――そういうことならば、今やるべきことはひとつだ。

 

「み、みんな!」

 

 未央の切羽詰まった呼びかけを待つまでもなく、小梅たちは卯月を真似てみずからの両手を胸の前でがっちりと組み合わせた。

 

「え、えい!」

 

 祈り――と呼ぶには穏やかならぬ気勢を挙げ、未央はプロデューサーへ向けて組んだ拳を突き出した。

 

「ぐあッ!」

 

 途端、プロデューサーは透明の弾丸にでも打たれたかのように、胸を押さえておおげさに体をのけぞらせた。

 

 効いている。奈緒もそう判断したらしく、苦しげに身悶えるプロデューサーをキッと見据えると、一気に彼の真正面へ踏み込んだ。

 

「くらえこの……バルスッ!」

「ガッ!?」

 

 一瞬全身をこわばらせたあと、プロデューサーはついにがくりと膝から崩れ落ちた。

 

「わ、私たちもいくよ!」

「は、はい」

 

 凛のかけ声で、卯月と小梅も急いでプロデューサーの元へ向かう。

 

「グッ……ガッ……!」

 

 いよいよ獣じみたうめき声を上げはじめたプロデューサーを、小梅たちは祈りのポーズをとりながら取り囲んだ。まるでエクスシストである。

 

「バ、バルス!」

 

 奈緒は繰り返しそう叫んだが、この怪物に通じているのはもちろん崩壊の呪文ではない。

 

 神様への祈りだ。

 

「グウウッ……ウッ!?」

 

 床にうずくまったプロデューサーがびくんと体を跳ねさせたのを見て、未央はその場にしゃがみこんだ。そこにはちょうど、さきほどプロデューサーに奪われてしまったビニール傘が落ちていた。未央はすばやくそれをつかむと、ためらうことなくプロデューサーの枕元へ向かった。

 

「やっ!」

 

 未央はプロデューサーを蹴り上げて仰向けの体勢にさせると、先端を下に向けてビニール傘を頭上高く振りかぶった。

 

「いいかげんもう……眠ってよ!」

 

 無防備にさらされた胸部を狙って、未央は鋭く尖った金属の先端を振り下ろす。

 

 惨劇を察知して、残りの者はとっさにその瞬間から目をそむけた。

 

「ガッ! ……ハッ!」

 

 断末魔の叫びが耳に入り、小梅はおそるおそるまぶたを開ける。

 

 左胸を貫かれたプロデューサーは、驚いたようにカッと目を見開いていた。

 

 体をくの字に曲げてしばらく固まっていたかと思うと、プロデューサーは突然、糸が切れたようにばたりと手足を床に落とした。

 

「う……」

 

 直後、彼から漂ってきた臭いに、小梅は思わず顔をしかめた。鼻をつく嫌な臭いではあったが――それは不思議と、嗅ぎなれた臭いであるような気もした。



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11

 プロデューサーが沈黙してから三十分ほどが経ってもなお、室内には重苦しい雰囲気が垂れ込めていた。

 

 小梅たちはドアの近くに固まり、膝を突き合わせて坐していた。窓際にはまだプロデューサーが倒れたままでいる。小梅たちは硬い表情のまま、いたずらに時を過ごしていた。

 

 しかし、時計の針が午後十一時三十分を回ったころ。

 

「……」

 

 凛がおもむろに腰を浮かせ、一同の輪から抜けた。彼女が向かった先は、倒れているプロデューサーの元。一メートルほど距離をあけたところから彼の顔をおそるおそるのぞきこんだのち、凛はこちらへ振り向く。

 

「……この人、まだ生きてるよ。……たぶん」

 

 凛の視線は未央へ向いていた。

 

 未央は膝を抱えたまま小さくうなずく。

 

「うん……」

 

 しかし未央はうつむいたまま、プロデューサーのほうをけっして見ようとはしなかった。わずかにのぞく表情は硬い。いつものはつらつとした笑顔はすっかり鳴りをひそめていた。

 

 未央が塞ぎ込むのも無理はない。()()によってプロデューサーを追い詰めたのはここにいる全員だとしても、彼の左胸にビニール傘を突き立て、とどめを刺したのはまぎれもなく未央なのだ。

 

「元気……出してください、未央ちゃん。ええと……」

 

 未央にかけるべき言葉を探し、卯月は視線を宙にさまよわせる。

 

「み、未央ちゃんはその……、私たちを助けてくれたんですから……」

「……うん」

 

 未央は小さくうなずいたものの、それ以上はなにも答えようとはしなかった。やはり罪悪感拭いされないのか。

 

 自分の膝に顔をうずめる未央を卯月は悲しそうに見つめた。

 

「未央ちゃん……」

「……卯月」

 

 卯月の肩を叩いたのは凛だった。

 

 泣きそうな顔で振り返った卯月に、凛はゆるゆると首を振る。

 

 未央のことはしばらくそっとしておこう。口にこそ出さなかったが、凛の神妙な顔つきはそう語っていた。卯月は唇をかみしめてうなずいた。

 

 小梅もそのほうがいいと思う。しかし、となると問題は……。

 

 小梅は横目でプロデューサーの様子をうかがった。傘を抜かれた左胸からは泥のような色の血液が流れ出て、床に血溜まりを作っている。心臓を貫かれたにしては出血が少ないようにも思えたが、見るに堪えない光景であることに変わりはない。

 

「……せめて上からなにかかぶせておきませんか?」

「まあ……、あのままにはしておけないよね……」

 

 凛は未央のほうも気にしつつそう答えた。

 

 小梅たちとしても、プロデューサーの無惨な姿がいつまでも目に触れているのは辛い。

 

「……布団とか毛布とか、どこかにありましたっけ?」

「うーん、どうだろう……。奈緒、わかる?」

 

 水を向けられた奈緒は、太眉を寄せて少し考え込むしぐさを見せた。

 

「布団か……。なんかあった気もするけど……あっ」

 

 なにか思い当たるふしがあったようで、奈緒は大きく体の向きの変えた。目をやったのは、壁際に並んだ大型のキャビネット。

 

「ライブグッズのブランケットが、たしかあそこに」

 

 小走りでキャビネットに駆け寄った奈緒は、下段の引き出しを開けて中を探りはじめた。

 ほどなくして小梅たちのほうへ振り向いた奈緒の手には、俵型のビニール袋があった。

 

「あった、これだ」

「ああ、前回のライブで売ってたやつか」

 

 凛が苦笑を返す。小梅たちのようなアイドルが出演するライブイベントでは、いろいろなオリジナルグッズが会場で販売される。このブランケットもそのうちのひとつである。おかげさまでグッズは完売することが多いが、サンプル品がいくつかこうして残されていることがある。

 奈緒はいささか乱暴に包装を破り、小梅たちに向けてブランケットを広げた。

 

「どうだ? 使えそう?」

「うーん……、ちょっと丈が足りないかな……?」

 

 凛が眉を寄せて小梅をうかがう。

 

 ブランケットは長方形だが、ライブグッズとあって長いほうの一辺でも百センチメートルほどの小ぶりなもの。たしかにこれ一枚ではプロデューサーの全身を覆うことはできそうもない。

 

「でも……とりあえず顔は隠せます」

 

 小梅の言葉に、凛もうなずく。

 

「まあ、二枚使えばなんとかなるんじゃない?」

「あっ、そういうことなら」

 

 奈緒は広げたブランケットの向こうからひょい顔をのぞかせる。

 

「ほら。まだ中にあったぜ」

 

 ブランケットを凛に渡すと、奈緒はまたキャビネットの引き出しに向かった。

 

「あと何枚かあるみたいだ」

 

 奈緒は同じビニールの包みを引き出しから取り出し、今度は小梅と卯月に向かって放った。ふたりは少し慌てながらも両手で包みをキャッチする。

 

 小梅はなにげなしに包みへ目を落とした。中に見えるブランケットの柄になっているのは、ライブ用にデザインされたロゴマークだ。

 

「なんか……懐かしいね」

 

 同じように手元のブランケットを見つめていた凛がぽつりと漏らした。

 

「ええ……本当に……」

 

 前回のライブがあったのは、つい数ヶ月前だ。しかし今はそれもはるか遠い過去の出来事のように思える。

 

 戻るべき日常は果てなく遠いのか……。心が折れそうになったが、小梅は懸命にこらえて顔を上げた。

 

「……もしこれから冷えてくるようなら、私たちもこれを使いましょう。なるべく体力を奪われないようにしておかないと」

「……うん、そうだね」

 

 凛はブランケットをぎゅっと握りしめた。その表情は少し硬い。彼女にも思うところがあるのだろう。

 

 小梅が視線を前に戻すと、奈緒と卯月がちょうど包みからブランケットを取り出したところだった。

 

「さて……と。じゃあ、この二枚がプロデューサーさん用、ってことでいいか?」

「は、はい、そうしましょう」

 

 奈緒の提案にこくこくとうなずくと、卯月はブランケットを胸に抱いた。

 

「私たちも」

「はい」

 

 凛と小梅は目配せしあい、ふたりのあとに続く。

 

 四人はプロデューサーのかたわらに並んだ。

 

「う……あらためて見ると強烈だね……」

 

 血の海に浮かぶプロデューサーを前にして、凛が顔をしかめた。となりにいる卯月の顔も心なしか青ざめているように見える。

 

「な、奈緒ちゃん、早くプロデューサーさんにこれ、掛けてあげましょう――奈緒ちゃん?」

 

 横の奈緒を見て、卯月が首をかしげた。奈緒がプロデューサーを見つめ、なにやら難しい顔をしていたのだ。

 

「どうかしたの? 奈緒」

 

 凛も奈緒の様子に気づき、怪訝そうに眉をひそめた。

 

 振り向いた奈緒は、困ったように頬をかいた。

 

「いや、さ……。いちおう手を合わせるとかしたほうがいいのかなって」

「あ……」

 

 凛と卯月がそろって口を開けると、奈緒はすぐさま「たださ、ほら」と続けた。

 

「プロデューサーさん、そういうの嫌がってたじゃん……?」

「ああ……」

 

 奈緒の懸念を理解したらしく、卯月はすぐに憂い顔になった。奈緒は、プロデューサーが祈りによって苦しめられていたことを気にしているのだろう。

 

 一方、凛は、顎に手を当ててじっとなにか考え込んでいた。

 

「……ねえ、そういえばさ」

「ん?」

 

 今度は奈緒が眉根を寄せた。

 

 凛は奈緒の視線を受け流し、横目でプロデューサーをうかがう。

 

「プロデューサー……、なんで()()であんなに苦しんだんだろう……?」

「え? なんだって?」

 

 質問の意味がよくわからなかったのか、奈緒は怪訝そうに瞬きを繰り返した。

 

 だが、小梅には凛の言いたいことがすぐ理解できた。

 

()()()()()()()()……ですよね?」

 

 凛と奈緒、それに卯月も小梅に視線を集める。

 

 こくこくとうなずく凛を見て、小梅はおもむろに口を開いた。

 

「……肉体的な痛みすら克服していたプロデューサーが、なぜ祈りなどという攻撃ですらないものに苦痛を感じたのか――」

 

 その点については、じつは小梅もずっと気になっていた。

 

 考えられる理由としては――。

 

「ゾンビが特定の刺激――音や象徴に対して過敏な反応を示す、という例は、ないわけではありません」

「そ、そうなのか?」

 

 いぶかしげな相槌を打った奈緒に向けて、小梅は神妙に首肯した。

 

「たとえばゾンビが大きな音のするほうへ寄っていくというのはよく知られた話です。ほかにも、ゾンビは匂いや特定のしぐさに敏感だという説もあります」

「あっ……ゾンビが背丈以上の障害物を越えてこない、っていうのも、ひょっとして……?」

 

 勘のいい凛に、小梅は照れ笑いを返した。凛の言うとおり、たしかにバリケードも彼らの習性を利用したものだといえなくもない。提案した小梅もはっきりとそれを意識していたわけではなかったから、あえては口にしなかったのだが。

 

「まあ、あれか……、吸血鬼が十字架やら大蒜やらに弱いってのと似たような話か……」

 

 腕組みをしてうなった奈緒に続いて、凛も顎に手をやって思案顔になった。

 

「ゾンビもたしか、なんか宗教がらみの怪物だったもんね……」

「ブードゥー教ですね」

 

 凛も意外によく知っている。ただ……。

 

「ただ、今回に関しては、吸血鬼……の一部のように、宗教的な要素が効いたわけではないとは思います」

「どうして?」

「たしかにゾンビのルーツはハイチのブードゥー信仰にあると言われていますけど、今回のゾンビ化現象は血液感染によって広がっているようなので――」

 

 ――あれ? 

 

 ふとなにかが引っかかり、小梅は思わず口を止めてしまった。

 

 ひとつの疑問が頭に浮かぶ。

 

 そういえば――プロデューサーさんって、いつ、誰からゾンビを移されたんだろう……?

 

「あ、あの――」

「ま、宗教がらみじゃないなら、気にしすぎることもないってことか」

 

 折り悪く小梅と同時に口を開いたのは奈緒だった。小梅の弱々しい呼びかけは、奈緒の声でかき消されてしまう。

 

「そういうことなら、せめてもの供養ってことで」

 

 奈緒はそう言うと、プロデューサーへ向き直って姿勢を正した。

 

「申し訳ないけど、しばらくおとなしくしててくれよな」

 

 奈緒はパンパンと柏手を二度打ってから、頭を垂れてプロデューサーを拝みはじめる。

 

 微妙にお参りの作法も混じってしまっている気がしたが、凛と卯月も手を合わせていたので、小梅も素直にみなに倣った。

 

 例の疑問はまだ頭に残っていた。が、もうみなに相談する雰囲気でもなくなっている。小梅は固く目を閉じて、脳裏にこびりついた考えを振り払うことに努めた。

 

 しばしの黙祷を終え、奈緒が「うしっ」と声を発して頭を上げる。

 

「それじゃあ、毛布かけてやるか。卯月、足のほう頼むな」

「あっ、はい」

 

 卯月がブランケットを広げながらプロデューサーの足元に向かうと、奈緒は頭のほうからゆっくりと反対側へ回り込んだ。どうやら、二枚のブランケットで大柄の彼の全身をなるべく隠せるように、いろいろ試してみるようだ。

 

 ふたりの作業をぼんやり眺めていると、となりにいた凛が「ねえ」と硬い声をかけてきた。

 

「あの手……祈り、さ。プロデューサー以外のゾンビにも通用する……のかな?」

 

 歯切れの悪い言い方から、凛もおおかた答えを予想できていると知れた。

 

「……可能性はありますが、現段階ではまだなんとも……」

「……そっか」

 

 凛はため息を飲み込むような間を置いて、小さくつぶやいた。

 

 このまま救助を待つにしても、思いきって逃走を試みるにしても、ゾンビへの対抗手段を持っておくに越したことはない。凛としてはそう考えていたのだろう。

 

 が、プロデューサーの一例だけをもって拙速な行動に移るのは危険だ。せめてもう少しサンプルを集めてから状況を判断したい。

 

「……外が今どうなっているかわかれば、いろいろと考えやすくなるとは思うのですが……」

「外か……」

 

 凛は眉を曇らせながらテレビへ目をやった。

 

「結局、ニュースみたいなのをちょっと見られただけだもんね……」

 

 天井を見上げた凛は、こらえきれなかったのかとうとうため息を漏らした。

 

 弱気になった彼女を少しでも励まそうと、小梅は凛の服の裾をキュッとつまんだ。

 

「なにか良い手が見つかります……きっと」

 

 凛からはぎこちない、しかし優しげな笑みが返ってきた。

 

 ふたりはどちらからともなく視線を外し、卯月たちのほうへ目を戻した。

 

 どうやら、ちょうどプロデューサーにブランケットをかぶせる段取りが整ったところのようだ。

 

「こっちは大丈夫ですけど……、奈緒ちゃんは?」

「ああ、あたしのほうも問題ない――ん?」

 

 プロデューサーの腹のあたりにブランケットを置きかけたとき、奈緒がなにかに気づいてその手を止めた。

 

「奈緒? どうしたの?」

 

 凛が声をかけると、奈緒は困惑したような顔を返してきた。

 

「いや……なんかあるみたいなんだよ、背広のポケットの中に」

「ポケットの中?」

「ちょっと待って……くっ」

 

 奈緒は少し顔をしかめながらも、わずかにはだけたジャケットの内側にそろりと手を入れた。手探りでポケットを漁ると、奈緒は中からなにかを引き抜いた。

 

 自分がつかんだものを視認した瞬間、奈緒の顔色が変わる。

 

「お、おい、これ!」

 

 奈緒が突き出した右手に握られているその物体を見て、小梅と凛はほぼ同時に目を見張った。

 

「あっ!」

「ス、スマホ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げたのは卯月だった。

 

 それに釣られるように、凛まで柄にもなく大きな声を出す。

 

「そ、そうか! プロデューサーがいつも使ってるやつ!」

 

 小梅にも見覚えがあった。たしかにこれは、彼が私用で使っていた機種である。

 ある意味では盲点だった。小梅たちはレッスン着のままこの部屋に閉じ込められてしまったため、自分たちの携帯電話を持っていなかったわけだが、プロデューサーはスーツ姿、つまり仕事着姿である。ならば、通信機器のひとつやふたつ、携帯していないほうがおかしいというものだ。

 

 その可能性に今まで思い至らなかったのが不思議なくらいであるが、メタリックに光るこの平たい物体がスマートフォンであることは疑いない。

 

 思いがけない僥倖に、小梅は脳内でアドレナリンが一気に放出されたような興奮を覚えた。

 

 こうなれば、今の今までプロデューサーの持ち物を探ろうともしなかった自分たちの間抜けさを呪うのはあとでいい。

 

「つ、使えるんですか、それ!?」

 

 卯月が前のめりになって訊ねると、奈緒はあわてた様子でスマートフォンを握り直した。

 

「ま、待って! 試してみるけど、まだ画面暗いから……」

 

 奈緒は端末側面の電源ボタンに指をかけた状態で、ごくりと喉を鳴らした。そうだ……。もしセキュリティロックなど掛けられていようものなら、自分たちでは端末そのものを使用できないことになる。せっかくの通信機器も、使えなければ宝の持ち腐れだ。

 

「い、いくぞ……」

 

 奈緒はわざわざそう宣言してから、慎重な手つきでボタンを押し込んだ。緊張の一瞬――。

 

「……よし! 画面開いた!」

 

 液晶画面が明るくなるやいなや、奈緒は快哉を叫んだ。さいわい、セキュリティロックは設定されていなかったらしい。

 

 小梅たちも一気に色めきたつ

 

「電話は? つながるの?」

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 凛に急かされると、奈緒は今度はすばやくタッチパネルで三桁の番号を打ち込んだ。一一〇番に掛けたらしい。通話ボタンを押し、端末を耳に当てる。しかし――。

 

「……くそっ! ダメだ!」

 

 今度はいまいましげにそう吐き捨てて、奈緒はスマートフォンを耳から離した。スピーカーから、無機質な機械音が漏れ聞こえてくる。

 

「ほ、ほかの番号は? 救急車とか……」

 

 卯月に要請されるまでもなく奈緒は別の番号でも通話を試みていた。だが、その表情はやはり険しいままだった。

 

「ダメだ……、どれもつながらない……」

「そんな……」

 

 卯月が落胆の声を漏らしたが、諦めるのはまだ早い。

 

 小梅は奈緒の手からスマートフォンを奪うと、すばやく画面を検分した。

 

「……電波は届いているみたいです。それなら……」

 

 小梅はタッチパネルを操作し、ウェブブラウザのアイコンにタッチする。

 

「そ、そうか、ネット!」

 

 小梅の目論見にいちはやく気づいた凛に、小梅は力強くうなずきかえす。

 

「誰かと直接やりとりできなくても、掲示板サイトとかになにか書き込みが残っていれば……」

 

 ただそれも、サーバーなどのインフラがダウンしていると接続できないのだが、今は一縷の望みに賭けるしかない。

 

 小梅はあらためてスマートフォンに目を落とした。液晶画面には、検索サイトのトップページが表示されていた。一見、きちんとネットに接続されているようにも見える。しかしこれはウェブブラウザにキャッシュが残っているためだろう。問題はここからだ。次の画面に行けるか。小梅は検索窓にキーワードを打ち込み、祈るような気持ちでエンターキーを押す。

 

 緊張のためか、知らず知らず目を閉じていた。息を呑みながらまぶたを開け、視界に飛び込んできたのは――。

 

「……や、やった!」

 

 小梅は思わず声をはずませた。

 

 液晶画面には、検索結果を示すページが映し出されていたのだ。

 

「つ、つながった!」

 

 小梅の横から画面をのぞきこんだ凛も安堵の声を上げた。

 

 奈緒と卯月の顔にも喜色が浮かぶ。

 

 小梅だってもちろん、期待感を一気に膨らませていた。しかし逸る気持ちを抑え、咳払いをひとつ入れる。

 

「ネット回線は生きているようですが、今回の件に関する情報が上がっているとは限りません。もう少し調べてみないと……」

 

 凛は一転して表情をこわばらせた。

 

「ど、どうするの?」

「ネット掲示板を当たってみましょう。非常時の情報源として速報性は高いですから。外の状況がわかる書き込みが残っているかもしれません」

 

 全員がうなずくのを確認して、小梅は有名なネット掲示板のサイトへ入った。サイト内の検索窓にキーワードを打ち込む。「ゾンビ」と。

 

「……あった」

 

 検索結果を目にして、思わず唖然としてしまった。あった。「ゾンビ」をタイトルに含むスレッドが大量に。しかもその大半が、今日の夕方以降に最新の書き込みが行われたものだった。

 

「マ、マジで!?」

 

 奈緒たちは一様に目を剥いて驚いていた。

 

 ゾンビの大量発生はまごうことなき現実なのだ……! 不謹慎だとは思いつつも小梅はひそかに胸を高鳴らせた。

 

「か、書き込みを調べてみます。い、いいですか?」

 

 小梅は息を呑みつつ、検索結果のトップに表示されたスレッドへのリンクを押した。

 

「す、すごい……!」

 

 書き込みにざっと目を走らせただけなのに、めまいがしそうになった。

 

 今、目の前にゾンビがいる。こっちに向かってくる。いや、もう襲われた。助けてくれ……。誰のものとも知れないそんな書き込みが、ログの下方まで連綿と続いていた。なかには悪ふざけや虚偽もあるのだろうが、少なくない数の本物が混じっていることはまちがいない。だって、自分たちがまさにゾンビに遭遇しているのだから。

 

「か、貸して!」

 

 震える小梅の手からスマートフォンを奪い取ったのは凛だ。凛は食い入るように液晶画面を見つめはじめた。

 

「『【最新情報】現在確認が取れているゾンビ発生場所。渋谷、新橋、お台場、六本木、日比谷、浜松町』……? なにこれ……?」

 

 凛の声に絶望の色がまじる。

 

「東京中でここと同じようなパニックが起きてるってこと……?」

「お、おい、凛! なにか役に立ちそうな情報はないのかよ!?」

 

 奈緒の声でハッと我に返った凛は、ふたたび液晶画面に焦点を合わせた。

 

 険しい表情の奈緒と不安げに口元を押さえる卯月に見守られながら、凛は血眼になってスレッドの書き込みをさかのぼっていく。

 

「……あっ!」

 

 大きく目を見開いた凛は、困惑と驚きが入り混じった表情を奈緒たちへ向けた。

 

「て、手を合わせて念仏を唱えたらゾンビが苦しみだした、って書いてある!」

 

 その内容は即座に、先刻の出来事を思い出させた。宗教的な趣の違いはあるが、祈りによってプロデューサーを撃退した小梅たちの経験とよく似ている。

 

「こ、小梅!」

 

 みなの視線が一斉に小梅に向けられた。

 

「え!? は、はいっ」

 

 ようやく我に返ったものの、小梅の胸はまだ騒ぎつづけていた。口をぱくぱくと動かすのが精一杯で、凛たちに言葉を返すことができない。

 

「これってやっぱり、あの方法でゾンビを撃退できるってことじゃないの!?」

 

 凛が興奮気味にまくしたてた。彼女としては、懸案だったゾンビへの対抗手段がついに見つかったと考えたいのだろう。

 

 小梅は浅い呼吸を何度か繰り返す。なんとか冷静さが戻ってきた。

 

「ス、スマホを……」

 

 凛から突き返されたスマートフォンを握り、小梅は再度ログを眺めていく。

 

「……残念ながら、祈りそのものが有効というわけではないようです」

「ど、どうして!?」

 

 凛が即座に小梅に詰め寄った。

 

 小梅は前髪のうしろから凛を見返す。

 

「赤い布を振り回したら逃げていったとか、頭を隠していれば襲ってこないとか、逆に貴金属を身に着けた人ばかりが襲われているとか、いろいろな情報が上がっているんです……。もちろん、すべてが本当じゃないのかもしれませんが、あまりにも一貫性がなくて、ここから具体的な撃退法を導き出すのは危険です……」

「そんな……」

 

 落胆の表情を浮かべる凛を、小梅は心苦しく眺めるしかなかった。

 

 一方、卯月と奈緒はまだ期待を捨てきれていないようだった。

 

「で、でも、ゾンビの皆さんにはそれぞれ、なにか苦手なものがある、っことですよね?」

「そ、そうだよ! 急所っていうか、弱点があるんだったら、そこを突けば倒せるんじゃないのか!?」

「……ダメなんだよ、奈緒」

 

 凛が小梅を制して、執拗に食い下がる奈緒に向けて重々しく首を振った。

 

「な、なんでだよ!? さっきプロデューサーにしたみたいに、祈りかなにかをしてやればいいんだろ!?」

「だから、そのなにかを、私たちはどうやって見分ければいいの?」

「そっ! それは……」

 

 奈緒は勢い込んで答えようとしたものの、あとが続かなかった。

 

 そうなのだ――ゾンビにはそれぞれに苦手なものがあるとわかっていても、それを割り出す手段がない。プロデューサーに祈りが効くと判明したのは、本当にたまたまの幸運だったのだ。

 

「……ゾンビたちの『苦手なもの』は――」

 

 答えに窮した奈緒を前髪のうしろから覗き見ながら、小梅は重い口を開いた

 

「おそらく人間だったころの生活習慣や文化的背景、記憶などが反映されているのでしょう……。あるいは、トラウマ……と言ってもいいかもしれません。生活習慣くらいであれば、よく見知った人ならある程度想像もつけられるでしょうけど、心の傷のようなものとなると……」

「……マヨナカテレビにでも入んなきゃ無理、なのか……」

 

 奈緒はそんなふうに小梅の言葉を引き取ると、長いため息とともに肩を落とした。

 

 卯月も事態を理解したようで、神妙に唇を引き結んだ。

 

 無論、相手が人間であろうとゾンビであろうと、心の中をのぞきこめる装置など、現実には存在しない。

 

 たとえ身近にいる者同士であっても、互いのすべてを理解しあうことなどありえないのだ。毎日のように顔を合わせていたプロデューサーがクリスチャンだったことを知らなかったように。あるいは、小梅と凛が互いにもっと親しくなりたいと思っていた胸の内を知らなかったように。

 

 人間は、そういうふうにできている。

 

 そしてそれは、ゾンビになっても変わりはしない。

 

 つまるところ――インターネットという通信手段を手にしてもなお、小梅たちは()()()()()()()()()()()()()()()を見つけることができなかったわけだ。

 

「かぁ~っ、くそっ! 一発であいつらをやっつける方法が見つかったと思ったのによぉ!」

 

 奈緒がいらだたしげに頭をかきむしった。

 

 自分が悪いわけではないのに、小梅は申し訳なくなって目を伏せてしまった。

 

「奈緒」

 

 凛が奈緒をたしなめる声が聞こえた。小梅を気遣ってくれているのだろう。

 

「あ……、ごめん……」

 

 奈緒の気まずげな謝罪の声を聴いて、小梅は顔を上げた。

 

「……いえ、いいんです。……ほかになにか役立つ情報がないか、もう少し調べてみますね」

 

 精一杯の作り笑顔をみなに返すと、小梅はすぐスマートフォンへ目を落とした。新たな情報などもはやないのかもしれない。しかし今は、みなの沈んだ顔を見ているのは辛かった。

 

「……あたしらはプロデューサーのほう、済ますか」

「はい……」

 

 ひそひそ声に続き、静かな物音が小梅の耳に届く。ちらりと盗み見ると、奈緒と卯月に今度は凛も加わって、三人でプロデューサーの体をブランケットで覆う作業についていた。

 

 プロデューサーの顔面に、凛がそっとブランケットをかぶせる。いろいろあって引き伸ばされてきた作業も、ようやく完了を迎えるようだった。

 

 三人が仕上げにブランケットを整えはじめたところで、小梅はなにげなしにスマートフォンへ目を戻した。三人の作業を眺めるあいだも指はそぞろに画面をスクロールしつづけていたのだが――。

 

「……あ」

 

 ふと目に飛び込んできた文言に、小梅は思わず間抜けな声を上げてしまった。

 

 ちょうど作業を終えた三人が、一斉に小梅に目を向ける。

 

「小梅、なんか見つかったの?」

「なんだあ? ゾンビのグロ画像でも落ちてたか?」

 

 ひと仕事終えて緊張も解けたのか、凛と奈緒が気安く尋ねてきた。

 

「い、いえ……、え、ええと……」

 

 小梅はとっさにふたりから目をそらしてしまった。小梅が見つけたものは、もっとおぞましい可能性なのだ。

 

「小梅ちゃん……? 大丈夫ですか? なんだか顔色が悪いですけど……」

「え、ええ……大丈夫、です……」

 

 心配してくれる卯月に向けて小梅は笑みを取り繕った。

 

 が、それも長くはもたなかった。表情がみるみるこわばっていくのが、自分でもわかる。

 

 ひとりで抱え込むのは、もう限界だった。

 

「……み、見つけたのは、ゾンビの……息の根を止める方法……です」

「えっ……」

 

 震える声で告げると、一斉に眉をひそめた。

 

「い、息の根を止めるって――」

「そ、その方法は――」

 

 小梅は奈緒を遮った。真偽について問答している余裕はない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ゾンビの息の根を止める方法は――頭を……脳を完全に破壊することです」

 

 三人の表情が瞬時に凍りついた。

 

 重い荷物を吐き出したというのに、小梅の気持ちはまるで軽くならなかった。



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12

 脳を完全に破壊する。

 

 ネット掲示板に上がっていたのは、思えばゾンビ撃退法の定番とさえ言える、そんな単純なやり方だった。

 

 神経がウイルスに侵されることでゾンビ化が生じているのだとすれば、神経系の中枢が壊されることでゾンビは息絶える――理屈としては至極まっとうであろう。

 

 しかし、理屈を口にするのはたやすくとも、それを実行に移すのは容易ではない。映画やゲームでは、襲いかかってくるゾンビの頭に弾丸を打ち込む、なんてシーンもよくあるけれど、あれはあくまでフィクションだ。現実には難しい。たとえ銃器がこの場にあっても、動きまわる相手の頭部へ的確に弾をヒットさせるのは至難の業だろう。

 

 いや、本当の問題は手段の困難さではない。

 

 真に問題なのは、心情のほうだ。

 

 ゾンビとはいえ、相手は人のかたちをしている。そんな相手の頭をかち割って、中に詰まった灰色の塊をぐちゃぐちゃに潰す――人間として、そんな真似ができるのか。問われているのは、そういうことだ。

 

 しかもそれが親しい者相手だとしたら――。

 

「……い、いやいやいやっ! いくらなんでもそれは……なあ!?」

 

 奈緒がやけに騒がしくわめきたてた。重苦しい沈黙に耐えかねたかのように。

 

 しかし、明るい口調とは裏腹に、奈緒の笑みはひどく引きつっていた。

 

 ふたたび重い沈黙が流れる。

 

 次に口を開いたのは、凛だった。

 

「……でも、今だったら、簡単にできるよね……?」

 

 凛に釣られて視線を横に動かした小梅たちは、見てしまった。頭からブランケットをかぶされてもなお眠りこけている、プロデューサーを。

 

「ちょっ……、り、凛! それは……っ」

 

 奈緒がぎょっと目を剥いた。

 

「プ、プロデューサーさんが死んでもいい、っていうのかよ!?」

「そうじゃない! そうじゃないけど……」

 

 すぐさま言い返したあと、凛は自分の肘を強く抱いた。

 

「でも……、このまま放っておくわけには……いかないじゃない」

「それは……、そうだけどさ……」

 

 消え入るような声でつぶやくと、奈緒はそのまま口をつぐんだ。

 

 また沈黙が場を支配する。

 

 小梅は横目でプロデューサーをうかがった。

 

 彼は以前にも、意識を取り戻して小梅たちに襲いかかってきた。祈りのポーズで撃退できたものの、次もそれが効く保証は実のところどこにもない。

 

 そう考えると、今のうちにプロデューサーの息の根を完全に止めるという選択肢も、十分にありえるのだ。しかし……。

 

「あ、あの……」

 

 卯月の弱々しい呼びかけで、みなはうつむけていた顔を一斉に上げた。

 

「ほ、本当なんでしょうか? その……インターネットで言われてることって……?」

 

 卯月は探るような目つきで小梅をうかがった。

 

 脳を破壊すればゾンビは死ぬ――その情報じたいが間違いならば、なるほど悩むことはなにもない。しかし――。

 

 小梅はゆるゆると首を振るしかなかった。

 

「……たしかに、確証があるわけではありません。ただ、今回のゾンビ化の様態を考えると、可能性は高いといわざるをえません……」

「そ、そんな……」

 

 卯月の表情が一気に暗くなる。

 

 またも沈黙が流れかけたが、それを嫌うかのように奈緒が大きく身を乗り出した。

 

「か、可能性があるってだけなら、つまり試してみなきゃわからないってことだよな!? だ、だったらさ、無理にやらなくても――」

「……試してみようよ」

 

 くぐもった声が割り込んできた。小梅たちは一斉に振り向いた。

 

 部屋の隅に立ち、暗い表情でこちらを見据えていたのは――未央だった。

 

「試してみればいいじゃん……その人のこと、()()()()()()()()()()……」

 

 ゆらゆらと左右に体を揺らしながらこちらへ向かってくる未央は、途中で落ちていたビニール傘を拾い上げた。

 

「み、未央ちゃん……、な、なにを……?」

 

 恐怖に息を呑む卯月に、未央は不気味に笑い返した。

 

「頭を潰せば……いいんだよね? いいよ、私がやってあげる……」

 

 うつろな瞳に仄暗い覚悟をにじませた未央が、脇をすり抜けていく。小梅たちはその異様な雰囲気に呑まれ、誰も彼女を止めに入ることができなかった。

 

 とうとうプロデューサーの元へたどりついた未央は、迷いなくブランケットをはぎとり、彼の胴をまたぐ。

 

「脳を完全に破壊……だっけ? へへ、どうすればいいだろうね……? 額からめった刺しにすればいい? それとも、口から傘を突き刺して、中身をぐちゃぐちゃにかき混ぜたほうがいいかな?」

 

 未央はもう、小梅たちのほうを見てはいなかった。狂気じみたそのまなざしは、眼下のプロデューサーにだけそそがれている。

 

「み、未央、お、おちついてよ、ねえ……」

「お、おい、未央……。じ、冗談だよな?」

 

 凛と奈緒が、おそるおそる未央に手を伸ばしかける。が――。

 

「うるさいっ!」

 

 未央は突然、ヒステリックにふたりを怒鳴りつけた。

 

 首をすくめた凛と奈緒を――いや、卯月と小梅も含めた全員を、未央は鬼気迫る形相でにらみつける。

 

「殺さなきゃ……っ、殺さなきゃいけないじゃん! ボコボコに殴られて、いっぱい血ぃ出して苦しんで……、人間じゃなくなって! 私がプロデューサーをこんなふうにしたんだ! 私が! だから、私が殺すしかないじゃんっ!」

 

 未央の叫びは途中から、涙声になっていた。泣き腫らして真っ赤に充血した瞳に、またじわりと涙がにじむ。

 

「未央さん……」

 

 言い分は無茶苦茶だったが、なぜか心情は理解できる気がした。未央は、プロデューサーを傷つけた罪悪感を、さらに罪を重ねることでかき消そうとしているのだ。

 

「殺す……っ、殺すんだ……っ!」

 

 ふたたびプロデューサーのほうに向き直った未央は、うわごとのように繰り返しながらゆっくりとビニール傘を振り上げた。

 

「み、未央ちゃん、もう……や、やめてくださいぃ……」

 

 卯月が泣いて頼んでも、未央はもう振り向かなかった。もはや、ビニール傘の尖った先端をいつ振り下ろしてもおかしくない雰囲気だ。

 

「く……っ」

 

 すぐに止めに入るべきだ――頭ではそうわかっているのに、小梅はなぜか一歩を踏み出せずにいた。たぶん、凛も奈緒も卯月も同じ状態だ。

 

 自分たちは心のどこかで、未央の支離滅裂な言い分を受け入れてしまっている。誰かがプロデューサーを殺して()()()()()いけないと考えている。そして、その役回りをあわよくば未央が引き受けてくれればいいと思っている。

 

 ずるい――と小梅は思った。

 

 でも、やはりなにもできなかった。

 

「う……ああああああああっっっっ!」

 

 心にこびりついた躊躇を削ぎ落とすかのごとく、未央は叫んだ。

 

 ビニール傘を目一杯まで振り上げる。

 

 小梅たちは思わず固く目をつむった。それでも、見るに堪えない、おぞましいイメージが一瞬脳裏をよぎる。

 

 次の瞬間、ガギンッ、という鈍い金属音が部屋にこだました――。

 

「……ひっく、う、う、ううう……」

 

 聞こえてきたのは、かすかなすすり泣きの声だった。

 

 小梅たちははっとして顔を前に戻す。

 

 未央が、プロデューサーの上にぺたんと座り込んでいた。

 

「できない……、やっぱりできないよお……っ」

 

 プロデューサーの胸にうずくまるようにして、未央は嗚咽を漏らしはじめた。

 

 ビニール傘は、プロデューサーのかたわらに転がっている。骨が折れ曲がっているものの、()()()はいない。

 

 無論、プロデューサーの顔面も無事だ。

 

「み、未央ちゃん!」

 

 真っ先に未央に駆け寄ったのは卯月だった。

 

「未央ちゃん……、ごめん、ごめんなさい……っ、私、私……っ」

 

 未央をきつく抱きしめ、涙ながらに謝罪の言葉を繰り返す卯月。

 

「う……わああああんっっ!」

 

 未央のほうも卯月を抱きしめかえし、堰を切ったかのごとく大きな泣き声を上げはじめた。

 

「……」

 

 小梅たちは泣きじゃくる未央と卯月をしばらくのあいだ気まずげに眺めた。

 

 やがて、しだいに泣きやみはじめた未央から、ぽつりと言葉が漏れる。

 

「助けられない……かな」

「え……?」

 

 思わず反応してしまった小梅に、未央の視線が向けられる。

 

「助けられないかな……プロデューサー」

 

 涙に震えた声で、今度ははっきりと告げられた。

 

「それは……」

 

 小梅はとっさに顔を横にそむけた。

 

 彼を助けたいという思いは、もちろん小梅にもあった。

 

 でも、どうやって?

 

 どうしたら、彼を「助けた」ことになるのだろう?

 

 このままの姿で生かしておくことは、はたして彼を救うことを意味するのだろうか? ゾンビのままで生かしておくことが……。

 

「たしかに、殺すってのはやっぱり気が乗らないけど……」

 

 奈緒がためらいがちに凛のほうをうかがった。

 

 凛は苦渋に満ちた顔つきでうつむく。

 

「でも……、プロデューサーがあいつらみたいになるのなんて、私、これ以上見ていられない……」

「私も……っ、私もです!」

 

 涙ながらに叫んだ卯月は、小梅に訴えた。

 

「なにか……なにか、ないんでしょうか……? プロデューサーさんを……治す方法が……」

 

 小梅は目を伏せた。

 

 やはり、わからない。

 

 こんな状態になったプロデューサーを救う方法など――。

 

「……治す?」

 

 ふいに天啓にうたれたような気がして、小梅はハッとおもてを上げた。

 

 助ける――じゃない。

 

 ()()――んだ。

 

「ゾンビを……治す……」

 

 言葉にしてみると、一気に視界が開けていくような気がした。

 

「え?」

 

 みなの視線が小梅に集まる。

 

 小梅はみなの困惑した顔を一瞥してから、口を開く。

 

「あるかもしれません……ゾンビを治療する方法なら」

「え!?」

 

 みなの目が今度は驚愕に見開かれる。

 

「マ、マジ!? 小梅、ゾンビを治せるのかよ!?」

 

 勢い込んで詰め寄ってくる奈緒を、小梅は片手を上げて制した。

 

「私では無理です。でも、この事務所ならひとり、それができるかもしれない人がいると思うんです?」

「この事務所に? 誰?」

 

 今度は凛が訊き返してきた。

 

 もったつけるつもりはない。小梅は怪訝そうな表情のみなを見返すと、頭の片隅にずっと引っかかっていたその名を口にした。

 

「志希さん――一ノ瀬志希さんです」



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13

「志希……?」

 

 小梅の返答を受けて、凛はますますいぶかしげに眉を寄せた。

 

 彼女からしてみれば、唐突に飛び出した名前だったのだろう。

 

 しかし小梅とて、思いつきで一ノ瀬志希の名を出したわけではない。

 

「みなさん、覚えていませんか? プロデューサーさんが志希さんの名前を出していたこと」

 

 みなは首をかしげた。

 

 奈緒などは志希の名前を出したプロデューサーに食ってかかっていた気もするが……、まあ、その直後に戦闘が始まったから、記憶が飛んでいても無理はないが……。

 

「あ……、覚えてる……かも」

 

 はっと目を見開いたのは、未央だった。

 

「たしか……、プロデューサー、今日、志希にゃんに会ったって言ってた……!」

 

 未央は小梅に視線を送ってくる。その顔にはようやく覇気が戻ってきていた。

 プロデューサーを傷つけたショックからは立ち直りつつあるようだ。小梅は安堵し、少し表情をやわらげた。

 

「ええ。プロデューサーはおそらく、ゾンビ化する以前に志希さんと会っていたんだと思います」

「え? こうなったあと、じゃなくて?」

 

 未央はゆっくりと立ち上がり、またがっていたプロデューサーから離れる。

 

 卯月に肩を支えられながらこちらに近寄ってくる未央に、小梅は神妙にうなずく。

 

「はい。プロデューサーさんの話を信じるなら、ですが……」

「でも、志希がプロデューサーさんと会ってたとして、それでどうなるんだ?」

 

 話に割り込んできた奈緒が太眉を寄せた。

 

 卯月も続けて話に入ってくる。

 

「どうしてプロデューサーさんがああなったのか、志希さんがなにか知っているってことでしょうか……?」

 

 小梅は小さく首を振った。

 

「それもありますが、今重要なのは、志希さんが今日、事務所に来ていて、まだゾンビに襲われず無事な可能性があるということです」

 

 言わんとするところが伝わりにくかったのか、卯月たちはそろって眉をひそめた。

 

 が、凛がいちはやく小梅の思惑に気づいた。

 

「ひょっとして、志希に治してもらおうっていうの? プロデューサーのこと」

 

 小梅がこくりとうなずくと、みなはごくりと息を呑んだ。

 

「た、たしかに、あいつは天才だもんな……」

 

 奈緒がううむとうなる。

 

 一ノ瀬志希。

 

 小梅たちと同じくここ346プロダクションに所属するアイドルである志希は、一方でまた別の顔も持っている――天才的な頭脳を持つ科学者なのだ。海外に留学していた頃は飛び級で大学に通い、アイドルとして活動するようになってからも、独自に研究を続けてきたらしい。

 

「……今回のゾンビ化は、なんらかのウイルスへの感染によって引き起こされていると考えられます」

 

 小梅がおもむろに切り出すと、みなはぐっと身を前に乗り出してきた。

 

「みなさんがゾンビを『治す』と言ってくれたおかげで思いいたったんですが――」

 

 小梅は少し表情をやわらげて卯月たちを見返した。

 

「ウイルスが原因ならば、それを無効化することでゾンビを人間に戻すことができると考えられませんか? インフルエンザが治るみたいに」

「ウイルスを無効化……、薬かなんかを打つってことか?」

 

 奈緒に続いて、卯月がハッと目を見張った。

 

「あっ、それで志希ちゃんなんですね!」

 

 小梅は深くうなずいた。

 

 志希が大学で専攻していた分野は化学だったらしい。また、薬剤の調合は彼女の趣味でもあり、今でも日々、オリジナルの芳香剤や栄養ドリンクの開発に取り組んでいるという。噂では有名な製薬会社にも開発データを提供しているそうだ。

 

 彼女ならば、ゾンビの治療薬を作れるかもしれない。

 

「でもさ……、そもそも作れるの? ゾンビを治す薬なんて……」

 

 凛が不安げに疑問を投げかけた。その懸念はもっともだと思う。

 

「確証があるわけじゃありません。ただ、傍証ならあります。気絶して起き上がってきたとき、プロデューサーは理性を取り戻していましたよね? この点から判断するに、プロデューサーの体内で抗体が作られはじめていて、ゾンビ化の症状が薄れているとも考えられるんじゃないでしょうか」

「コウタイ?」

「体内に入った細菌やウイルスの働きを弱める分子のことです。いわゆる免疫反応に関係する物質ですね。もちろん、人間離れした身体能力はあいからわずでしたから、抗体ができているというだけでは必ずしも快方に向かっているとはいえないでしょう。でも、免疫系が機能しているのだとすれば、体外でゾンビウイルスを培養して抗ウイルス剤やワクチンを作り出すことも不可能ではないはずです――えと……みなさん?」

 

 みながぽかんと口を開けていることに気づき、小梅は不安になった。説明にどこかおかしな箇所でもあっただろうか……?

 

 みんなして顔を見合わせたあと、奈緒が代表して口を開く。

 

「いや……、小梅、ずいぶん難しいことを知ってるんだなと思って……」

 

 虚をつかれた小梅はパチパチと瞬きを繰り返したが、急に恥ずかしくなって、前髪のうしろに表情を隠した。

 

「え、いえ、その……、え、映画や本からの受け売りです……」

「それでも、やっぱりすごいです、小梅ちゃん!」

 

 卯月に尊敬のまなざしをそそがれ、小梅はますます面映ゆくなった。

 

「あ、あの……あくまでも私の思いつきですから……。全然見当外れかもしれませんし……」

「いや、私は信じるよ、小梅のこと」

 

 穏やかな声に顔を上げると、凛が優しげにこちらを見つめていた。

 

「未央は……どう思う?」

 

 凛に問いかけられると、未央は振り返ってプロデューサーをちらりとうかがった。

 

 

 「薬を作ってもらうってことは、志希にゃんを探しにいかないとダメなんだよね? ここを出て……」

「ええ、そうなりますね……」

 

 小梅は自分に対する問いかけと判断して応じたが、ほかのみなの顔にも一斉に緊張が走る。

 

 この部屋を離れる。それはつまり、とりあえずの安全地帯を捨てるということにほかならない。

 

「でも、その薬でプロデューサーが本当に治せるかどうかも、まだわからない……んだよね?」

 

 遠慮がちな未央の指摘に、小梅は重々しくうなずいた。治せる治せない以前に、凛が言ったとおり、ゾンビ治療薬などというものを作れるかどうかも、よくよく考えるまでもなく怪しい。いや、もっと言えば、志希がこの事務所内に無事でいるかどうかすら、わからないのだ。

 

 そう思うと、自分の考えのすべてが砂上の楼閣のように思えてきた。ここからどこへ行くにしても、ゾンビの大群をくぐり抜けていかねばならないだろう。なんの根拠もない、あやふやな憶測でみなをそんな危険にさらしていいのか? もともと大きくもなかった自信が、風船から空気が抜けるようにみるみるしぼんでいく。

 

「あ、あの、やっぱりもう少し考えさせて――」

 

 ください、と小梅が口にしかけた、そのとき。

 

「試して……みようよ」

 

 ぼそりとした、しかしよく通る声が、小梅の言葉をかき消した。

 

 小梅は驚いてそちらに視線を向ける。

 

 未央がまっすぐに小梅を見つめていた。

 

「試してみようよ。プロデューサーを本当に人間に戻せるかどうか――、試してみなくちゃ、ダメかどうかもわからない」

 

 小梅はハッと胸を打たれた。

 

 試す。

 

 未央は、プロデューサーの命を奪おうとしたときも、その言葉を発した。だが同じ言葉が今度は、希望に彩られている。

 

「そう……ですね」

 

 決意を瞳に宿す未央に、小梅はやわらかな笑みを返した。

 

「治療薬を作れるかどうか、志希さんに相談する――いや、まずは志希さんを探すところからですか。とにかく、やってみましょう」

 

 未央が大きく息を吸い込み、顔に喜色が広がる。一時は気が動転していた彼女も、完全に自分を取り戻したようだ。

 

「よし……決まりだな!」

 

 小梅と未央のやりとりを受けて,奈緒が気勢を上げた。もちろん、反対する者はいなかった。みな、覚悟はできているようだ。

 

「じゃあ、とっとと準備にかかっちゃおうぜ。すぐに出たほうがいいんだろ?」

 

 奈緒に問いかけられると、眠りつづけているプロデューサーをうかがった。たしかに、彼がいつまで小康状態を保っていられるかわからない。

 

「そうですね。なるべく急ぎましょう」

 

 奈緒が気合を込めるように拳を打ち鳴らす。

 

「うっし……、とりあえず、武器は必要だよな」

 

 奈緒はそう言って、近くに落ちていたほうきを拾い上げた。軽く素振りをして感触を確かめる。

 

「私は……いや、私もそれ……かな」

 

 未央はプロデューサーのかたわらに落ちていたビニール傘に一瞬目をやったものの、結局もう一本のほうきを選んだ。ビニール傘は骨が折れて使い物にならないということもあるけれど、やはり心情的にももういちどは手にしづらいのだろう。

 

「武器はこのくらいでいいんじゃない? 小梅と卯月は、なにか持っていくもの、ある?」

 

 モップを手に取りながら、凛はふたりのほうに振り向いた。

 

 卯月はライブグッズが保管されたキャビネットから、ナイロン製のトートバッグを引っ張りだしてきた。

 

「あ、あの、薬をもらうなら、なにか容れ物があったほうがいいんじゃないかと思って……」

 

 首尾よく志希に会えたとしてすぐに治療薬の現物を出してはもらえないだろうが、バッグが必要というのはそのとおりだろう。

 

「途中でほかの医薬品や食料が見つかったら、それも入れましょう。念のため、ブランケットとドリンクも持ってください」

「わ、わかりました」

 

 卯月は小梅の指示どおり、ブランケットの包みとエナジードリンクをトートバッグに詰めはじめる。このバッグもライブグッズの余り物なのだが、ナイロン製で容量もそれなりにあるから、底が抜ける心配はしなくていいだろう。

 

「私は……これを借りていきます」

 

 小梅は手の中にあるスマートフォンを見つめた。電話もメールも通じないし、ネットサイトの更新もすでに止まっているようだが、やはりなにかの役には立ちそうだ。

 

 控え室を経つ準備は、これで整ったように思う。

 

「さて、と……、で、ここを出て、いったいどこを目指せばいいんだ?」

 

 ドアにつま先を向けたところで、奈緒がはたと立ち止まった。そういえば、一ノ瀬志希を探しにいくという目的を決めただけで、具体的な捜索場所はまだ話していなかった。

 

 だが、小梅はすでに志希の居場所について、目星をつけていた。 

 

「とりあえず、志希さんの実験室へ行ってみませんか?」

「実験室……って?」

 

 眉間にしわを寄せた未央のほうへ、小梅は体を向ける。

 

「志希さん、事務所の一室を自分専用の化学実験室として借りているんです。事務所へ顔を出すときは、たいていそこへ寄るんだとか」

 

 というより、レッスンや打ち合わせの以外の時間は、ほとんど実験室にこもっているようだ。何日も泊まり込むこともあるみたいだから、事務所内の実験室はさながら志希の別宅である。

 

「ああ……なんか噂は聞いたことあるかも」

 

 凛が顎に手を当て、少しだけ視線を上げた。フランクな性格の志希は事務所に間借りしていることを別に隠してもおらず、ほかのアイドルを自分の実験室に誘うこともある。じつは小梅も何度かお邪魔したことがある。

 

「志希さんの実験室は、こことは別の棟――中庭を挟んだ建物のなかにあります。なかからはつながっていないので、向こうへ行くには、一旦外へ出る必要があるんですが……」

 

「前庭と、それに中庭も通っていかなきゃいけないってことか……」

 

 奈緒が窓のほうを見て、憂鬱そうにため息を落とした。

 

 もう嫌になるほど窓から外を見下ろしたが、前庭にはあいかわらず大量のゾンビがうごめていた。このぶんでは中庭のほうも悲惨な状況になっていることだろう。

 

「中庭の奥には、カフェテリアもあるんですよね……。ちょうど、向こうの建物への入り口の手前なんですが……」

 

 カフェテリアといえば、ショッピングモールに次いでゾンビの巣窟になりやすいスポットのひとつである。ゾンビというのは基本的に、日常で賑わいを見せるところに集まる傾向がある。

 

「でも、そこを通らなきゃ志希の実験室には行けないわけでしょ?」

「はい……」

 

 問いただしてきた凛に、小梅は消え入るよう声で返事をした。裏からぐるりと迂回するルートも考えられなくはないが、外は今やどこもゾンビだらけであることに違いはない。だったら最短ルートを通ったほうがまだマシなはずだ。

 

「ええと、つまり……」

 

 卯月がおずおずと手を挙げて、発言の許可を求めた。

 

「ここから向こうの建物の入り口まで、私たちはゾンビさんたちに襲われないように、なんとか避けていかないといけない、ってことですよね? えと……、そんなこと、できるんでしょうか……?」

 

 その問いかけに小梅は押し黙るしかなかった。

 

 ゾンビは人間を見つければ襲い掛かってくる。これは彼らの本能的な行動で、知性を持たないがゆえ、制止することもままならない。動きは鈍いが、あれだけの数がいるとなると、囲まれたりすれば一巻の終わりにもなりかねない。しかも中庭に出て別棟入り口へ至るまでは身を隠せる障害物もほとんどなく、彼らに見つからず移動することなど不可能に近いのではないか?

 

 最悪、強行突破も覚悟しなければならないのか――そんな考えも脳裏をかすめた、そのとき。

 

「……あのさ」

 

 未央がぼそりと沈黙を破った。

 

 小梅たちの注目を集めると、未央はいささか緊張した面持ちで一同を見返した。

 

「あいつらの注意を引けばいいんだよね……? 私、ちょっと思いついたことがあるんだけどさ……」

 

 そう言って未央が目を落としたのは、小梅が右手に握っていたスマートフォンだった。



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14

 作戦は決まった。

 

 小梅たちはそれぞれの持ち物を確認したのち、控え室から廊下に出た。しんと静まり返る廊下には、まだゾンビたちの気配はなかった。

 

 ドアを閉める直前、ブランケットを掛け直されたプロデューサーの姿が目に入った。

 

「プロデューサーさん、ごめんなさい……」

 

 置き去りにしていくことに引け目を感じたのか、卯月が小声で謝った。

 

 それに気づき、凛が卯月の肩を優しく叩く。

 

「仕方ないよ。薬が手に入ったら、助けに来よう」

「……はい」

 

 卯月は涙をこらえたような表情で前を向く。

 

 一同の視線の先にはがらんとした廊下が広がっていた。

 

「小階段のほうから降りるんだよね?」

 

 未央が小梅に確認をとる。

 

「はい。エレベーターホール側の階段に作ったバリケードは、残しておきたいですから」

 

 小梅はちらりとうしろを振り返った。今現在この廊下にゾンビがいないということは、自分たちが築いたバリケードはちゃんと役立っていると考えていいだろう。ならば残しておいて損はないはずだ。

 

 廊下の突きあたりで右に折れ、小梅たちは小階段に入った。

 

「……幸子ちゃん」

 

 下の階にさしかかったとき、幸子が襲われた更衣室のドアが目に入った。幸子はどうなってしまったのだろうか。ドアは閉まっていた。いっそあのまま更衣室に閉じ込められていてほしいとも思った。人肉を求めて醜く徘徊する怪物になりはててしまうくらいならば。

 

 非常灯の薄明かりを頼りに、小梅たちはとうとう一階まで階段を下った。

 

 壁に身を潜めつつ、奈緒が角の向こうの廊下をうかがう。

 

「……よし。あいつら、いないみたいだな……」

 

 奈緒は背後に控えていた小梅たちに目配せをする。

 

 一同はわずかな間を置いて、鈴なりに廊下へ飛び出した。

 

 狭い廊下を抜けて現れたのは、広々としたエントランスホール。西洋の城のような概観を誇る瀟洒なホールだ。普段はせわしなく人が行き交う事務所の玄関口だが、人っ子ひとりいない今は、不気味な静寂に包まれていた。吹き抜けの壁高くに掲げられた大時計が時を刻む音だけが、小さく鳴り響いている。

 

「あいつら、全員建物からは出払っちゃったのかな……?」

 

 ゾンビもいないホールを見渡し、凛がいぶかしげにつぶやいた。たしかに、数時間前はこの事務所の社員――いや、元社員とおぼしき人たちが所内を徘徊している気配があったのに。

 

「……もう深夜ですから、()()()()()()退()()()()のかもしれません……」

「え?」

 

 小梅の妙な言い回しに、凛が目を瞬かせた。

 

 小梅はぎこちなく凛に笑い返す。

 

「知性を失ったゾンビは、人間だったころの行動パターンをなぞることがあるんです。勤め人だったゾンビならば、もう帰宅の途についていてもおかしくはないかと……」

「ああ……」

 

 凛はどこか呆れたような相槌を打った。

 

 奈緒も引きつった笑みを浮かべる。

 

「終電前のご帰宅ってか……? へへ、助かったのかな、この事務所がブラック企業じゃなくて」

「それならいっそのこと、おとなしく家に帰っててくれればいいのにね……」

 

 笑えない冗談に付き合うと、未央はエントランスのガラス越しに外をうかがう。ここからでも、おびただしい数のゾンビが前庭を行き来しているのが確認できる。そのほとんどが、この事務所の元社員だろう。

 

「みなさん、やっぱりこの事務所が好き……なんでしょうか……?」

 

 卯月がぽつりとつぶやいた。冗談なのか本気なのか判断しかね、小梅たちは笑うに笑えなかった。

 

「……とにかく、油断せずにいこう。ここからが本番だよ」

 

 凛がみなを一瞥したあと、エントランスの方向を顎で示す。小梅たちは気を引き締めなおした。

 

 なるべく足音をたてないようにして柱から柱へと移りながら、一行はエントランスに近づいた。

 

 エントランスは両開きの自動ドアである。

 

「非常電源になっていますから、たぶん手で開けられると思います」

 

 小梅がそう告げると、凛と奈緒が目で合図を送りあった。

 

 身を低くして自動ドアに近づいたふたりは、わずかに開いていた隙間から指を入れ、足を踏ん張ってドアを引く。

 

 はたして、ドアはゆっくりと両側に開いていった。

 

「よし……行くよ」

 

 未央が合図を出し、卯月と小梅を従えてドアをくぐる。

 

 ドアを開けてくれた凛と奈緒も続いて外に出た。

 

 小梅たちの目前に広がる、見慣れたはずの前庭は、普段とはその趣をすっかり変貌させていた。

 

「あ、あんなにたくさん……」

 

 ゾンビであふれかえる前庭の様子を見て、卯月が口元を押さえる。上から見て状況は把握していたとはいえ、こうしてあらためて目の前で接すると、想像以上におぞましい光景である。

 

 エントランス付近を徘徊しているゾンビは、ざっと見積もっただけでも十数体。もう少し遠くまで見渡せば、さらに多くのゾンビの存在が確認できる。もしも彼らが集まってきたら、最悪の場合、小梅たちは身動きがとれなくなることだってありうる。

 

「ど、どうする? 小梅……」

 

 奈緒が小梅に指示を仰ぐ。

 

 小梅は少し考えてから、返事をした。

 

「見たところゾンビたちは、それぞれ決まったルートを行ったり来たりしています。おそらく、なにか刺激を与えないかぎり、同じ行動をとりつづけるのでしょう。それならば、大きな音をたてたりしないかぎり、彼らに襲われることなく進めるはずです」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()――思いがけずそう口にしたことに気づき、小梅は未央のほうをうかがった。未央は思いつめたような面持ちでうつむき、押し黙って宙を見つめていた。

 

「……とにかく気をつけて進みましょう。()()()()を用いなければならないとは、まだわかりません」

 

 小梅は未央だけでなく全員に向けて言った。緊張をはらんだ視線が返ってくる。

 

「……とりあえず、中庭まで行こう。壁伝いに進めばそう目立たないと思う」

 

 凛の提案に反対する者はいなかった。

 

 小梅たちは壁に背をつけ、横歩きで中庭へ向かって歩を進める。ひんやりとした感触が背中を襲う。しかし小梅には、それがガラスの冷たさなのか、恐怖によるものなのか、よくわからなかった。

 

「うう……」

 

 暗闇の向こうからときおり聞こえてくる低いうめき声に怯えつつも、小梅たちは建物の端まで移動することに成功した。追ってくるゾンビはいない。

 

 先頭の奈緒が角の向こうに広がる中庭をうかがい、即座に顔をしかめた。

 

「……くそう、うじゃうじゃいやがるな、こっちにも……」

 

 中庭はさながら縁日のごとき賑わいを見せていた。練り歩いているのはもちろんすべてゾンビなのだが。

 

「それに、こんなに明るいなんて……」

 

 凛が中庭に並ぶ外灯の一本を見上げて唇を噛んだ。

 

 外灯は中庭を取り囲むように等間隔で設置されていた。そのおかげで、中庭全体が真夜中とは思えないほど明るく照らされている。これではここまでのように暗闇に乗じて動くことはほぼ不可能だろう。

 

「いますね……カフェテリアのほうにも」

 

 卯月の声につられて、一同は斜め前方へ目を向けた。

 

 カフェテリアは、小梅たちのいる地点から中庭を挟んだ斜向いにある。ここからでは店の中までは見通せないが、軒先に作られたオープンテラス席を見ることはできた。さすがに座ってお茶を飲んでいるゾンビはいなかったが、十数の個体がテーブルの間を縫うようにしてうろついていた。その周辺にはさらに数がいる。やはり、カフェテリア周辺は連中の影がひときわ濃いように思えた。

 

 凛が不安げに眉根を寄せる。

 

「どうしよう……。あいつらがいなくなるまで、しばらく待つ……?」

「……いや」

 

 ぽつりと答えたのは未央だった。

 

 未央はゆっくりと大きく息を吐くと、小梅に向かって右手を差し出した。

 

「ここで待っていてもジリ貧になるだけだよ。……例の作戦をやろう。小梅ちゃん、スマホ、貸してくれる?」

「は、はい、でも……」

 

 小梅だけでなく、みなが憂わしげに未央を見返した。

 

 しかし、未央の決意は固いようだった。

 

「向こうの建物に入るには、どのみちあいつらの群れのなかを抜けていくしかない。誰かが道を作るしか……ないんだよ」

 

 硬い口調で言うと、未央はなおもためらう小梅の手からすばやくスマートフォンを取り上げた。

 

「あ……」

 

 思わず手を伸ばした小梅に、未央は頼もしげな笑みを返した。

 

「大丈夫。ある程度まであいつらを引きつけたら、私も急いで逃げるからさ。こう見えても私、鬼ごっこには自信があるんだ」

 

 冗談めかして言うと、未央はみなに背を向けてスマートフォンを操作しはじめた。

 

 未央の背中越しに見えるスマートフォンの画面では、音楽プレーヤーアプリが起動しはじめていた。

 

 

 *

 

 

 大音量で音楽を鳴らして、ゾンビたちを引きつける。

 

 それが、未央がみなに提案した作戦だった。

 

 プロデューサーが持っていたスマートフォンには、音楽再生用のアプリケーションがインストールされていた。彼はこれを使って、担当アイドルがライブなどで歌う予定の楽曲を試聴していたらしい。

 

 知能の衰えたゾンビは大きな音に反応する習性をもつ。これは小梅がみなに教えたことだった。未央はそれを思い出し、音楽を使って彼らを誘導する作戦を思いついたようだ。

 

 大勢のゾンビの動きを一挙に操ることができれば、たしかに別棟の入口へ至る道筋を開くことも可能だろう。

 

 だがこの作戦にはいくつか、大きな問題があった。

 

 そのひとつは、誰かが音源となるスマートフォンを持ってゾンビの群れに近づかなければならないということだ。

 

「……やっぱり、遠くからスマートフォンを投げる、ってわけにはいかないんですか?」

 

 卯月が不安げにたずねると、未央はゆるゆると首を横に振った。

 

「それだと最悪、スマホが壊れちゃう危険があるからね……。やっぱり、誰かがあいつらのそばまでいって、プレーヤーを再生させてくるのが、確実だよ」

 

 未央は自分の手のなかにあるスマートフォンを握り込んだ。言うでもなく、自分がその危険な役を請け負うという意志表明だ。

 

 控え室で作戦を提案したときから、未央は自分が囮になることを買って出ていた。

 

「いい? 絶対に、無理しちゃダメだよ。危なくなったらすぐに引き返してきて」

 

 準備を整えた未央に、凛がそう念押しした。

 

 小梅もたまらず未央の袖を引いた。

 

「あの……プロデューサーさんのことは、私たち全員の責任です。だから、自分ひとりで抱え込もうとは……しないでください」

 

 未央はふっと相好を崩した。

 

「大丈夫だよ。もう、大丈夫だから」

 

 小梅の頭をくしゃくしゃと撫でると、未央は表情を引き締め、前を向いた。

 

「さて、と……。それじゃあ、ひとっ走りしてきますか」

 

 未央が建物の陰から少し身を乗り出すと、その背中に向かって奈緒が最後に声をかけた。

 

「た、頼んだぜ、未央。絶対戻ってこいよ」

 

 振り向いて目だけで答えると、未央はひとり、中庭へと飛び出した。

 

 未央は周囲にいるゾンビたちを警戒し、はじめは忍び足でカフェテリアの方向へ移動を始める。いちばん厄介なのは、やはりカフェテリア付近にいて別棟への道筋を塞いでいるゾンビたちだ。だから未央は、できるかぎりカフェテリアに近づいてから、彼らの注意を引きはじめるつもりなのだろう。

 

「……行きましょう、私たちも」

 

 未央に少し遅れて、小梅たちも中庭に足を踏み入れた。

 

 中庭をまっすぐ横切ろうとする未央に対し、小梅たちはなるべく端を通って別棟へ近づこうとしていた。

 

 とはいえ、中庭の周囲に並んだ外灯付近にはゾンビも集まっているので、ぴったりと壁伝いではなく、やや内側に進路をとって横断を試みる。

 

 意外なことに、未央も小梅たちも、彼らに見咎められることなく目的地への中間地点あたりまで進むことができた。ひょっとしてこのまま最後まで気づかれずに行くことができるのか――。

 

 しかし、そんな甘い考えが脳裏をかすめた、その矢先。

 

「……ガウァッ!」

 

 未央の目の前を通り過ぎようしていた一体のゾンビが、突然振り向いて牙を剥いた。

 

「っ……!」

 

 未央はとっさにバックステップで飛び退き、敵との距離をとる。

 

 が、その足音のせいで、未央は周囲にいたゾンビたちにも存在を気づかれてしまった。

 

「ガウオッ!」

 

 数体のゾンビが一斉に未央に向かって吼えたのを見て、卯月が悲鳴に近い声をあげる。

 

「み、未央ちゃん!」

「ダメですっ、大きな声を出してはっ」

 

 小梅に言われ、卯月はあわてて自分の口を押さえた。その目にはじわりと涙が浮かぶ。

 

 さいわい、ゾンビたちは卯月の声にはまだ反応しなかった。近くにいたゾンビたちはみな、先に見つけた未央のほうに注意を向けているようだ。

 

 未央はちらりとこちらをうかがい、小梅たちに目配せをする。今のうちに急げ、と。

 

「く……っ」

 

 小梅は断腸の思いで別棟への行進を再開させた。ほかの者も小梅に続く。今度はさきほどまでよりやや足早になるが、全速力で駆け出すのはまだ危険に思われた。

 

 自分に向かって迫りくるゾンビのほうへ注意を戻した未央は、スマートフォンを握った右手を高々と頭上に掲げた。

 

「存分に聴きなよ! 特別先行公開だよ!」

 

 未央の指がスマートフォンの画面に触れる。

 

 すると、やや間があって、軽快な音楽が大音量でスマートフォンから流れはじめた。次回のライブでお披露目される予定になっている新譜である。

 

「ヴァ?」

 

 未央を取り囲んでいた数体のゾンビ、さらには周囲にいたほかのゾンビたちまでもが、一斉に未央が持つ音源を見上げた。その隙を突いて、未央が機敏なスタートを切る。

 

「ほら、こっち!」

 

 駆け出した未央は、ゾンビたちを誘導するかのようにスマートフォンを掲げたまま、弧を描くような進路をとってカフェテリアのテラス席へ向かっていく。

 

「ヴヴヴ……ウウウ……」

 

 未央の目論見は、どうやら的中したようだ。ゾンビたちは蜜の匂いに引き寄せられる虫のごとく、未央を――未央の手の中で鳴る音楽を追いかけていく。

 

 やがて未央は、十体近くのゾンビを引き連れて、オープンテラス席の手前に到達した。

 

「ほら、あんたたたちも!」

 

 未央はテラス席近辺を徘徊していたゾンビたちに向かってスマートフォンを突き出した。鳴り響く音楽が、ゾンビたちの気を引く。

 

「グググ……ッ」

 

 それまではバラバラに歩き回っていた数体のゾンビが、一斉に未央のほうへ体を向けた。彼らは音楽を請い求めるように未央へ這い寄っていく。

 

 別棟の入り口へ続く道筋を塞いでいた数体のゾンビも、わらわらと未央のほうへ向かいはじめる。求めるルートが開いた。

 

「よし……っ、やった!」

 

 奈緒が小さく快哉を叫んだ。

 

 が、まだ安心はできない。

 

 未央はまだ、ゾンビの群れの中心にいる。音楽は鳴りつづけている。

 

 やや離れた位置にいたゾンビたちも音に気づきはじめた。集まってくる。

 

 未央の周囲にはとうとう、二十は下らない数のゾンビが群がりだしていた。

 

「み、未央! に、逃げて!」

 

 凛がたまらず叫んだ。

 

「わかっ……てる!」

 

 未央はその場で身をかがめると、スピーカーの口があるほうを上にして、スマートフォンを地面に置いた。

 

 今回の作戦のもうひとつの問題、それは、ここでスマートフォンを失ってしまうということだった。

 

 ゾンビたちを音に引きつけておくためには、その音源であるスマートフォンを彼らの只中に置いてこなければならない。取りに戻ることはもう不可能だ。

 

 小梅たちとしてはやっと手に入れた通信手段を手放すことになってしまうが、背に腹は代えられない。後ろ髪を引かれる思いも多少はあったが、全員で納得して出した結論だった。電話やメールは通じないし、インターネットで調べるべきこともすでに残っていない。この決断にまちがいはないはずだ。

 

「未央、急げ! やつら、どんどん来てるぞ!」

 

 次々に押し寄せるゾンビを見て、奈緒があわてて呼びかけた。

 

 ゾンビの壁に阻まれて未央の姿を見失い、小梅たちは一瞬ひやりとしたが――。

 

「く……おおおおっ!」

 

 ゾンビの群れの隙間から、威勢のいい雄叫びが聞こえてきた。

 

 体勢を低くしてゾンビの壁を割ってきたのは、もちろん未央だ。

 

「よし……っ」

 

 こちらへ向かって駆け出した未央を見て、小梅たちは一瞬、気を緩めた。

 

 それを油断と呼ぶのは、あまりに酷な話だろう。

 

「あっ――」

 

 短い声とともに、未央が突然、大きく体勢を崩す。ガタガタと派手な物音があたりに響く。未央は倒れていた椅子に足を引っ掛け、転んでしまったのだ。

 

「未央さんっ!」

 

 しかしそれだけならばまだ、たいした問題ではなかっただろう。すぐに起き上がって逃げればいい。

 

 本当の誤算は別のところで生じた。

 

「え――?」

 

 ぶつりと。

 

 けたたましく鳴り響いてた曲が、突然途切れた。音楽がいきなり止んだのだ。

 

「え? え?」

 

 混乱した小梅たちはやみくもに周囲を見渡した。なにが起きた? どうしてここで音楽が途切れる? スマートフォンの電池が切れたのか? いや、でも、充電はまだ十分に残っていたはずだ――。

 

「……あっ!」

 

 奈緒がなにかに気づき、倒れた未央の方向を指さした。

 

 しかし、その指先が示すのは、未央ではない。さらに奥――大量のゾンビが群がる付近だ。その足元だ。

 

「ふ、踏まれ……っ!?」

 

 小梅は驚愕に目を見開いた。

 

 一体のゾンビの足が、スマートフォンを踏みつけていた。

 

 狙ってスマートフォンを破壊したわけではないのだろう、きっと。本能の赴くままにみんなで押しくら饅頭をしたせいで、あのゾンビは期せずして享楽の源泉を壊してしまったのだ。

 

 ゾンビたちに踏まれ、蹴飛ばされたスマートフォンは、液晶画面が割れ、ボディもひしゃげていた。スマートフォン本体が壊れてしまっては当然、音楽プレーヤーとしての用をなさない。いやたとえ壊れていなくても、ゾンビたちの足で小石のように蹴飛ばされつづけているスマートフォンを拾い上げ、もういちどプレーヤーを再生させるなどほとんど不可能に近い。

 

 こんなかたちで作戦が失敗に終わるなんて……! 小梅の頭は真っ白になった。どうする? どうすればいい?

 

「う、うわあっ!」

 

 未央の悲鳴が、小梅を現実に引き戻した。

 

「こ、こっち来るなって!」

 

 いまだ尻もちをついた状態の未央が叫ぶ。

 

 数体のゾンビが未央に接近していた。

 

 音楽が途切れたせいで、今度は近くにいた未央の匂いにでも反応したということか。付近にいたほかのゾンビも、餌を求めるかのごとく未央のもとへ近づいてきていた。

 

「み、未央! 早くこっちに――っ!?」

 

 未央を助けに向かおうとした凛の足が、すぐに止まる。数体のゾンビが目の前に立ちふさがったのだ。

 

 もちろん、連中が示し合わせてこんな行動をとっているわけではなかろう。が、なにせ数が数だ。個々が勝手に動いているだけでも、小梅たちにとっては連携プレーで壁を作られているに等しかった。

 

「未央ちゃん! 未央ちゃんっ!?」

 

 卯月がゾンビたちの肩越しに呼びかけるが、向こうからは必死に難を逃れようとする声しか返ってこない。続々と押し寄せるゾンビに取り囲まれ、未央の姿はもう見えなくなっていた。

 

「う、嘘だろっ!? おいっ!」

 

 奈緒が絶望的な悲鳴をあげる。

 

 もうだめだ――。小梅も固く目を閉じ、最悪の場面を覚悟した――そのとき。

 

「こっちだぜ、おまえら!」

 

 威勢のいい声と軽快なギターの音が小梅の耳朶を打った。

 

「え!?」

 

 一同は驚いて音のしたほうへ振り向く。

 

 カフェテリアの入口あたり。

 

 そこに、アコースティックギターを構えたリーゼント頭の少女がさっそうと現れていた。

 

「な、夏樹ちゃん!?」

 

 名前を呼んだ卯月に一瞬だけ流し目をくれると、夏樹はまたギターをかき鳴らした。

 

 するどい弦の響きに反応し、未央を取り囲んでいたゾンビたちが一斉に夏樹のほうへ顔を向けた。

 

「おまえら、今だ!」

 

 夏樹が叫ぶと同時に、彼女の背後からふたりの少女が飛び出してきた。あれは――。

 

「輝子と裕子!?」

 

 奈緒だけでなく、小梅たちはそろって驚きに目を見張る。ボサボサ髪の小柄な少女と、シュシュでポニーテールを結わえたスレンダーな少女。あれはまちがいなく、ゾンビ騒動が起きる前に別れた星輝子と堀裕子だ。

 

 ふたりとは、ゾンビ騒動が起きる直前に離れ離れになっていた。どうして彼女たちがここに――? 理解が追いつかない小梅たちを尻目に、ふたりはひきめきあうゾンビたちの前に駆け込み、持っていた筒状のものを彼らに向けた。

 

「くらえっ、パイロキネシス!」

 

 裕子のいささか間の抜けた掛け声とともに、彼女の手元がまばゆく光る。彼女が持っているもの――あれは、懐中電灯か!

 

「ガッ!」

 

 顔面に強い光を照射されたゾンビは、まぶしがって大きくのけぞった。

 

「サイキック……パワーッ!」

 

 裕子は近くにいたゾンビたちの顔へ次々に懐中電灯の光を当てていく。

 

 となりにいる輝子が手にしているのも、もちろん懐中電灯だ。

 

「え、えいやー……」

 

 気の抜けた掛け声だったが、輝子も近づいてくるゾンビの顔面を懐中電灯で的確に照らしていた。

 

「グウッ……、アゲ……コッ!?」

 

 光を当てられたゾンビたちは、まるで槍でつつかれたかのようによろめきながらあとずさる。ゾンビの密集が、徐々にほどけていく。

 

「く、くあっ!」

 

 潜水から戻ってきたスイマーのような息継ぎとともに、未央がゾンビの群れのあいだからまろびでてきた。

 

「よしっ、こっちだ!」

 

 待ち受けていた夏樹がすかさず未央を助け起こし、ゾンビの群れから引き離した。

 

「み、未央ちゃん! 大丈夫ですか!?」

 

 恐怖に身を震わせている未央に卯月が駆け寄ろうとする。が、夏樹はみずから未央の肩を支えた。

 

「心配するのはあとにしろ! 今はとにかく逃げるぞ! こっちだ!」

 

 夏樹は大きく手を振って、小梅たちを誘導した。

 

「え……ここ?」

 

 凛が案内された先にある()()を困惑ぎみに見上げた。

 

 看板にはデザインされた「Cafe」という文字が踊っていた。

 

 夏樹が小梅たちをいざなった場所――そこは、カフェテリアの店内だった。



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15

「こっちだ! 入れ!」

 

 バックヤードへ続く間口の前まで来たところで、夏樹は振り返って小梅たちに先をうながした。

 

「はあ、はあ……」

 

 小梅たちが間口へ駆け込むと、夏樹は脇にのけてられていたテーブルを抱え上げ、壁に立てかけるようにして間口を塞いだ。

 

 小梅の視線に気づくと、夏樹はニヒルな笑みを返してきた。

 

「連中、どういうわけかこっちまでは入ってこねえけど、ま、念のためな」

 

 夏樹は小梅の背中を優しく押し、バックヤードの奥へエスコートした。

 

 いかにも業務用然としたキッチンを抜け、一行は奥の部屋へ。

 

 室内に入るなり、未央は倒れ込むようにして近くにあったパイプ椅子に腰を落とした。

 

「未央、大丈夫!? どこも怪我してない!?」

 

 凛が未央の肩を揺さぶった。

 

「あ、ああ……。とりあえず、大丈夫みたい」

 

 未央がぎこちない笑みを返すと、凛は安堵のため息を落とし、うなだれた。長い髪がはらりと垂れる。

 

 小梅も未央の全身にざっと目を走らせたが、怪我を負っている様子は見受けられなかった。

 

「念のため、服の下も確かめておいてください。噛まれたり引っかかれたりしてないか……。小さな傷があるだけでもゾンビウイルスに感染するおそれはありますから」

「う、うん、わかった」

 

 未央は少し顔をこわばらせると、いそいそとジャージの上着を脱ぎはじめた。

 

「背中……あたしが見るよ」

 

 奈緒がそう買って出て、未央の背後に回る。

 

 あわただしく動きまわる小梅たちを見て、夏樹が憐れんだように目を細める。

 

「たいへんだったみたいだな、おまえらも」

 

 夏樹は部屋の隅に積まれていたダンボール箱のほうへ向かった。中から取り出したのは、小型のペットボトルだ。

 

「ほら、これ飲んでおちつけ」

 

 夏樹は未央と凛に一本ずつ緑茶のペットボトルを差し出した。

 

「小梅ちゃんたちもどうぞ。たくさんありますから、遠慮なさらず」

 

 裕子も同じダンボールからペットボトルを抱えてきて、一本ずつ小梅たちに配る。

 

 それを受け取るやいなや、卯月が瞳をうるませた。

 

「ぶ、無事だったんですね、裕子ちゃんも輝子ちゃんも……。よかったあ……」

 

 裕子は弾けるような笑顔を返す。

 

「はいっ、危ないところでしたが、私のサイキックパワーで敵を一蹴したのです!」

「夏樹さんが……助けてくれた」

 

 ポーズを決める裕子の隣で、輝子があっさりと真相を暴露した。

 

 小梅たちの顔は自然とほころんだ。こんな気の抜けた雰囲気も久しぶりな気がする。

 

「えっと、ここって……?」

 

 ジャージを着直しながら、未央が室内を見回す。奈緒も同様に殺風景な室内に視線を巡らせている。どうやら未央はどこも怪我をしていなかったようだ。

 

「このカフェで働いていたやつらの休憩室だったみたいだな」

 

 夏樹がパイプ椅子に腰を下ろしながら答えた。

 

 休憩室、と言われるとたしかに納得できる。部屋の中央には中央に長テーブルと数脚のパイプ椅子が並び、小型のパイプワゴンの上には電気ポットが置かれていた。壁に掛けられたホワイトボードに目を凝らせば、アルバイトのシフト表などのようなものも書かれている。

 

「ふふん、なかなかいいところでしょう?」

 

 裕子がまるでここが我が家とでも言わんばかりに、自慢げに胸を張る。

 

()()()()()も入ってこないですし、飲み物も食べ物もたくさんあるので、夏樹ちゃんに助けてもらってから、私たち、ここに隠れていたんですよ」

「さっきも言ってたけど……夏樹に助けてもらったって?」

 

 凛は裕子ではなく、輝子のほうを向いて訊いた。

 

 輝子は凛から微妙に視線を外しながらも、ぼそりと口を開く。

 

「み、みなさんと別れたあと……、私と裕子ちゃんは、一緒にト、トイレへ行った」

 

 輝子が語りだすと、小梅たちは思わず身を乗り出した。輝子たちが控え室を出た直後ということは、まだ事務所内に多くのゾンビの徘徊していた頃のはずだ。そんな危険な状況を輝子たちはどう切り抜けたというのか。

 

 輝子はいつのまにか、小型の植木鉢を両手に抱いていた。彼女がいつも持ち歩いているキノコの鉢だ。輝子はそのキノコにしゃべりかけるようにして話を続ける。

 

「ト、トイレを済ませて、そ、それから……プロデューサーの部屋へよ、寄った……」

「え――」

 

 思わぬ名前が飛び出し、小梅たちは一様に目を丸くした。

 

「プ、プロデューサーの部屋って……?」

「はい。上の階にあるお部屋です」

 

 ハキハキと応じたのは裕子だった。上の階というのはもちろん、今いる建物ではなく、小梅たちがもともといた建物の上階という意味だ。小梅たちのプロデューサーをはじめ、数人の事務所スタッフのデスクが置かれている一室がある。ここにいる者はみな、いちどは訪れたことがあるはずだ。

 

「ト、トモダチの様子を見に……行ったんだ」

 

 輝子が口元をひくつかせる。こう見えても微笑んでいるのである。

 

「あ……プロデューサーさんの机でキノコを育ててるんだっけ、輝子ちゃん」

 

 小梅が思い出して言うと、輝子はこくりとうなずいた。

 

「せ、正確には、机の下、だ……。みんな、ジメジメしたところが好きだから……。あ、あと、キノコじゃなくて、トモダチ……」

「あ、うん……ごめん」

 

 小梅が素直に謝ると、輝子は満足げに口元をひくつかせた。輝子は自分で栽培しているキノコ類を「トモダチ」と呼んでいる。会話もできるらしい。

 

「そ、それで……、大丈夫だったのかよ? あの人の部屋なんか行って……」

 

 奈緒が息を呑む。そのときすでにプロデューサーがゾンビ化していたら……と考えたのだろう。

 

 しかし輝子は不思議そうな顔つきで奈緒を見返した。

 

「へ、部屋のなかには誰もいなかった……んだ。トモダチも元気だったから、ひ、控え室に戻ろうと思った。そしたら……」

「廊下で、あの人たちに出くわしたんです……」

 

 話を引き継いだ裕子は、そのときのことを思い出したのか、めずらしく表情を暗くした。

 

 それだけで、彼女たちの身に起きたことは容易に想像できた。小梅たちと同じように、裕子たちもゾンビに襲われていたのだ。

 

「最初はどこかで会議でもあったのかなって思ったんです。みなさん、事務所の社員さんだってことはわかりましたから……。けど、なんか様子が変で……。こう、みんな青白い顔をしてて、それで、私と輝子ちゃんを見つけたら、訳のわからないことを言いながらみんなしてこっちに押し寄せてきて……」

 

 身振り手振りをまじえて恐怖の場面を再現する裕子を見て、卯月が憂い顔を浮かべる。

 

「よく……ご無事でしたね……」

 

 裕子は卯月に力なく笑いかえした。

 

「もうダメかと思ったんですけど、ちょうどそのとき、下の階から大きな物音がして。あの人たち、そっちが気になったのか、みんなして階段のほうへ行っちゃったんです」

「大きな物音?」

 

 小梅は眉をひそめた。

 

「ええ、なんていうか……大きな物が倒れるっていうか、壁に物がぶつかった、みたいな?」

「あ……ひょっとして……」

 

 小梅はようやく、裕子が聞いたという物音の正体に気づいた。

 

 下の階で壁――というか、大きな物体が天井にぶつかった出来事に、ひとつ思い当たるものがある。

 

 あのときはまだ理性を失った状態だったプロデューサーが、目一杯に跳び上がって、天井に頭をぶつけた――。

 

 ……あの音が期せずしてほかのゾンビをおびき寄せていたのか。それによって裕子たちが九死に一生を得たというのなら、皮肉というか、奇遇な話だが。

 

「ヤ、ヤツラが気をそらした隙に、わ、私たちは廊下の反対側に……、は、走って逃げた」

 

 輝子がその後の行動を説明すると、裕子が続きを引き受ける。

 

「あの人たちみんなエレベーターのほうへ向かっていたので、私たちは反対側の階段から下に降りたんです。いったんみなさんのところへ戻ろうと思ったんですが……」

「あいつらがいたせいで、廊下を通れなかったのね?」

 

 凛が先を急ぐと、裕子は深刻そうにうなずいた。

 

「仕方なく、私たちは外に出ることにしました。そのほうがまだ安全だと思ったんです」

「でも、庭のほうにもたくさんいたでしょう……()()()()()

 

 卯月が心配そうにたずねた。裕子は苦笑いで応じる。

 

「ええ、まあ。ただ、廊下よりは道が広くて動きやすかったですから、なんとか逃げられたんです。でも、正門のほうにはいっぱいいて抜けられそうになかったので、裏へ回ろうと、中庭へ向かったんです。ですが……」

「ここからはアタシが話そう」

 

 渋めの声が割り込んできた。夏樹だ。

 

 そういえば裕子たちは、夏樹に助けられたと言っていた。

 

「ちょうど、アタシがギターでヤツラに応戦しはじめたころだったな。裕子がヤツラに囲まれてるのが見えた。それで、あわてて助けに入ったってわけだ」

「ちょ、ちょっと待って」

 

 凛がとまどいぎみに夏樹の口を止める。

 

「ギターで応戦って……どういうこと?」

「ああ、悪い。アタシのほうも最初から話したほうがいいのか」

 

 夏樹は咳払いを入れて調子を整えると、訥々と語りはじめた。

 

「アタシは今日、ライブの打ち合わせがあって事務所に来てたんだが、仕事が終わったあと、中庭でギターを弾いてたんだ。いつもどおりな」

 

 木村夏樹は自他ともに認めるロックミュージック好きのアイドルだ。本人の言葉どおり、ふだんからよく中庭のベンチに座ってギターを鳴らしている。

 

「まあ、アタシはいつもと変わらず気持ちよく()()と遊んでたんだが、そのうち、カフェのほうに妙な動きをする連中がいることに気づいてな」

 

 夏樹は中庭のほうを振り返った。

 

「最初はたいして気にしちゃいなかったんだが、アタシがお気に入りの一曲を弾いてるあいだに、いつのまにか妙な連中の数が増えてたんだ。気がつきゃ、中庭はヤツラであふれかえってるありさまさ」

 

 夏樹は肩をすくめた。多少は誇張もあるのだろうが、中庭の状況を思い起こせば、夏樹の語るゾンビの急増は実際に起きた現象なのだろう。

 

「そ、それでよく無事だったね、夏樹……」

 

 未央が呆れとも感嘆ともとれる複雑な表情を浮かべる。たしかに気がつかなかったとはいえ、目の前をゾンビが闊歩する状況下でギターを弾きつづけるとはたいした肝の座り方である。

 

 だが夏樹は苦笑いを未央に返す。

 

「まあ実際、まわりを囲まれて、危ないところだったけどな。でも、あいつらがギターの音に反応するってわかったおかげで、なんとか逃げ出せたってわけさ」

 

 そこで、奈緒がはっと目を見張る。

 

「ゾ、ゾンビは音に反応する!」

「やっぱり、おまえらも気づいてたか」

 

 夏樹は奈緒に不敵な笑みを返すと、すぐ脇の壁に立てかけてあったアコースティックギターを手に取った。

 

「アタシも偶然に気づいたんだが、どうもあいつら、()()()()()()()()()らしいな。こっちのコードだと気に入って寄ってくるし、こっちだと反対に嫌そうな顔して離れていっちまう」

 

 夏樹は二種類の和音を弾きくらながらそう説明した。

 

 その説明を聴いて、小梅は面食らう。

 

「ち、ちょっと待ってください。今の話、本当なんですか? 音の違いによってゾンビの反応の仕方が変わるって……」

「なんだ、おまえら? それを知ってたから、音楽を鳴らしてあいつらを撹乱しようとしてたんじゃないのか?」

 

 小梅たちはとまどいを隠しきれない互いの顔を見合わせた。

 

「いや、私たちはあいつらが音のするほうへ寄ってくるとしか……」

 

 凛が恥を忍ぶようにして告白すると、夏樹はなにか得心がいったのか、大きく頭を縦に振った。

 

「なるほどな。だからさっき、未央があいつらに囲まれちまってたのか」

 

 そのとおりだった。面目ない気持ちになり、小梅は目を伏せる。ゾンビのことならなんでも知っているような顔をして、その実、中途半端な知識がすべてだと思いこんでいただけだった。夏樹の話で、それを思い知らされた。

 

「ごめん……なさい」

 

 なんだかいたたまれなくなって謝ると、夏樹は驚いたように目を見張ったあと、ぷっと小さく吹き出した。

 

「別に謝ることじゃねえだろ。こんな訳のわからねえ状況じゃ、誰もなにも知らなくて当然だろうよ」

 

 あっけらかんと言うと、夏樹はギターを丁重に壁際へ戻した。

 

「さっきも言ったが、アタシだって気づいたのはたまたまだ。まあ強いて言えば……助かったのは、こいつのおかげかな」

 

 夏樹は愛用のギターを慈しむように見つめた。

 

「そう……ですね」

 

 小梅はようやく頬を緩ませた。たしかに、ゾンビと遭遇したときに楽器を携えているなど、そうあることではない。幸運――いや、夏樹にとっては、めぐりあわせとでも言うべきか。

 

「わ、私たちも……、な、夏樹さんのギターに……助けられた」

 

 輝子が話を本筋に戻すと、それを受けて、裕子が少し顔をこわばらせた。

 

「私……中庭に駆け込んだところで、なにかにつまずいて転んでしまったんです。それであの人たちに囲まれてしまって……。でもそこに、夏樹さんがさっそうと現れたんです!」

 

 その場面を思い出したのか、裕子は鼻息を荒くして拳を固めた。小梅たちは、ついさきほど、未央の窮地に現れた夏樹の姿を思い出していた。

 

「すごかったんですよ、夏樹ちゃん! ギター一本であの人たちをバッタバッタとなぎ倒して! あれはまさに、サイキックパワーでした!」

 

 キラキラと目を輝かせる裕子。

 

「だから、別に超能力とかじゃねえって言ってるだろ」

 

 賞賛された夏樹のほうは対照的に苦笑を浮かべた。きっと同じやりとりが何回かおこなわれているのだろう。

 

「あ、超能力といえば――」と、ここで妙な連想を働かせたのは、奈緒だった。

 

「さっきの、あれ。輝子と裕子が懐中電灯であいつらを倒してたやつ。あれはいったいどういう仕掛けなんだ?」

 

 夏樹がひょいと奈緒のほうに顔を向けた。

 

「ああ、あれはな―-」

「サイキックパワーです!」

 

 釣られて裕子のほうを向いてしまった一同をコツコツと指で机を鳴らして呼び戻すと、夏樹はあらためて奈緒の疑問に答えた。

 

「連中、強い光を当てられるとひるむみたいでな。アタシのギターに加えて、あいつらを追っ払うときに使ってるのさ」

「そうだったんだ……」

 

 小梅は素直に感心した。ゾンビが光の刺激に弱いこともあまり意識していなかった。むしろ外灯などの光に集まるものと思っていたくらいだ。音の件もそうだが、彼らには刺激に対する閾値みたいなものがあって、弱い刺激は好むけれど、度を超すと今度は逆に忌避するようになる、ということかもしれない。

 

 凛も感心しきりといった顔つきで夏樹たちを眺めた。

 

「でも……よく気づいたね、それも。懐中電灯なんて、別に持ち歩いてたわけじゃないでしょう?」

「ああ、それはな……」

 

 夏樹はなぜか少しバツが悪そうに視線をそらし、人差し指で眉を掻いた。

 

「……ここに逃げ込んだあとも、ちょくちょく外へ出て、見回りをやってたんだ。誰かほかに逃げまわってるやつらがいないか、探してな」

「え――」

 

 小梅は大胆な行動に驚いただけだったのだが、夏樹は照れくさそうに目を伏せた。恥ずかしがる理由もないと思うが、勇んで人助けに向かうことだったり、あるいは自分の活躍を自慢げにひけらかすことだったりが、夏樹にとってはあまり格好のいい真似には思えないのだろう。

 

「もちろん私もお手伝いしましたよ! サイキックパワーを駆使して!」

 

 裕子が片手を前に突き出す。……夏樹とはずいぶん価値観が違うようだ。まあ、夏樹は美学の違いくらいで他人と仲違いするほど了見の狭い人ではないと思うが。

 

「私たちのことも、それで見つけてくれたの?」

 

 凛が訊くと、夏樹ははにかんだ顔を返した。

 

「そういうことだ。ちょうど出かけようとしてたところだったけどな。そうしたらおもてのほうが騒がしくて、音楽も聞こえてきたからあわてて出ていったら、おまえたちが泡食ってるところだったってわけさ」

「あ――その節は、本当にありがとう、夏樹。本当に助かったよ」

 

 未央が改まって頭を下げる。

 

 夏樹はまた照れくさそうに顔をそむけ、ひらひらと手を振った。

 

「礼なんていいって、別に。アタシらが勝手にやったことだ。それより――」

 

 夏樹は顔を前に戻し、表情をあらためて小梅たちを見渡す。

 

「今度はおまえらの話を聴かせてくれよ。裕子たちの話を聴くかぎりじゃ、おまえらも今までずっと向こうの控え室にこもってたわけだろう? それがなんでまた、急に外に出てきたんだ?」

 

 小梅たちは互いの顔を見合わせた。別に隠す必要はない。無言の相談をすべき事柄は、誰の口から説明するかという一点だけだった。

 

「少し長い話になりますけど……」

 

 結局、なんとなくうながされて小梅が切り出した。裕子たちが出ていったあと、あの部屋で自分たちの身に降りかかった出来事。小梅はそれをあますところなく夏樹に語って聴かせた。

 

「そ、そんな、プロデューサーが……」

 

 プロデューサーがゾンビになって襲いかかってきたという話を聴いて、裕子の顔には目に見えて動揺の色が広がった。無理もない。日頃世話になっていた恩人が凶暴化したなど、聞くに堪えない話だろう。

 

「さ、幸子ちゃん……」

 

 輝子は幸子の最期を知って、かなりショックを受けていた。もともと小梅たちと一緒にいたはずの幸子の姿がなかったから、うすうす勘づいてはいたのだろうけれど、あらためて不幸を聴かされると、やはり堪えるものがあったらしい。輝子はうつむいて、きつく唇を噛み締めていた。

 

「……なるほどな。それで、志希の実験室へ向かってたってわけか……」

 

 小梅たちの目的を知って、夏樹が考え込むしぐさを見せる。冷静さを装ってはいるが、もちろん彼女とて少なからず動揺しているはずだ。その証拠に、小梅の話を聴くあいだに組み合わせていた脚が、少し前からずっと小刻みに震えていた。

 

「……志希の実験室は、となりの建物の中にあるんだよな?」

 

 夏樹がわずかに視線を動かす。小梅はうなずいた。

 

 夏樹は「そうか」とつぶやくと、うつむいて眉根を揉んだ。

 

「アタシらも一階までは見回りに行ったんだ。明かりが消えてて暗かったから、上までは行けずに引き返してきたんだけどな」

「そ、そうだったんですか」

 

 思いがけない情報に、小梅は目を瞬かせた。夏樹たちは本当に、この周辺をくまなく探索していたらしい。

 

「明かりがなかった――ってことはつまり、向こうの建物では、非常電源がうまく働いてないってこと?」

 

 凛が顎に手にあてて、眉間にしわを刻む。

 

 つづいて卯月が、不安げに視線を揺らしつつ考えを口にする。

 

「で、でも、中には入れた……ってことですよね?」

「あいつらはいなかった……ってことか?」

 

 奈緒がたずねると、夏樹はこくりとうなずいた。

 

「アタシらが行ったのは、日が落ちてだいぶしてからだったからな。ヤツらがいた痕跡はあったが、アタシらが入ったときにはもう姿は見当たらなかった。ここもそうだが、暗くなってからは連中、なぜか建物の中までは入ってこようとしねえんだ」

「あっ、あれか……、ゾンビは人間だったころの習慣を引きずる……だっけ?」

 

 確認を求める奈緒の視線に気づき、夏樹も小梅に目を向けてきた。

 

「習慣? なんだ、そりゃ?」

「え、ええと、ゾンビの習性……みたいなものです。おそらく、人間だった頃の潜在的な記憶が残っていて……と、とにかく、もともと社員だった人たちは、就業時間を過ぎると事務所から引き払ってしまうようです」

「はあ、なるほどな」

 

 夏樹は小梅の説明を聴いて、興味深そうにうなずいた。

 

 けれど、こうも素直に納得されると、こちらのほうがかえって自信が揺らいできてしまう。

 

「こ、これも私の推測にすぎないんですけど……」

「いや、おもしろいぜ。アタシらにはなかったからな、そういう発想は」

 

 夏樹は組んでいた脚を崩し、前かがみの姿勢をとった。足元はもう震えてはいなかった。わずかにのぞく口元は、不敵に歪んでいるように見える。

 

「夏樹……さん?」

「ああ、悪い」

 

 顔を上げた夏樹の口元には、まだ微笑みが残っていた。

 

「ちょっと、うらやましくなっちまってな」

「うらやましい?」

 

 いぶかしんで訊き返すと、夏樹は苦笑いを浮かべ、窓のほうを見やった。

 

「いや、おまえらがプロデューサーを助けるって言ってるのがさ……。なんていうか……希望があるじゃねえか。アタシはさ、格好つけて見回りなんてやってきたけど、正直なところ、不安で仕方なかったんだ。いつまでこんなこと続けりゃいいんだ、こんなイカれた世界に未来なんてあるのか――って。口では無事なやつを探すんだなんて息巻いてたが、実際のところ、アタシはあてもなくうろついてるだけだった。でも、おまえらは違う。ちゃんと行くべき場所があって、やるべきことを見つけてる。こんな世界だっていうのにな。そういうのが、なんかいいな、って思ったのさ」

 

夏樹は小梅へ目を戻し、屈託なく笑ってみせる。

 

「な、夏樹さん、それは――」

 

 自分たちだって、ほんの少し前までは同じ気持ちだった。そう告げようとした。しかしその刹那、背後から肩にそっと手を置かれた。

 

「小梅」

 

 振り向くと、優しげな目をした凛が小さく首を横に振った。

 

「あのさ」

 

 視線を感じて顔を正面に戻すと、夏樹が居住まいを正してこちらを見つめていた。

 

「プロデューサーを治すって件、アタシにも手伝わせてくれないか? ちょっとおかしなやつではあったが、プロデューサーにはいろいろ世話になったから、アタシもなんとか力になりたいんだ。頼む」

 

 夏樹は膝に手を当て、深々と頭を下げた。

 

 それを見た輝子と裕子が、そろって一歩前へ出た。

 

「私も……プ、プロデューサーを助けたい……。トモダチ……だからな」

「ぜひ加勢させてください! 今こそエスパーユッコの秘められし力を見せるとき!」

 

 言い回しは三者三様だったが、気持ちは十分に伝わった。小梅たちは互いに視線をかわした。難色を示す者など、当然ひとりもいなかった。

 

「こちらこそ……夏樹さんたちのお力、ぜひ貸してください」

 

 頼もしい仲間が増えた。小梅は心からそう思った。

 

 



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16

 準備が整い次第、すぐにでも志希の実験室へ向かうことになった。

 

「夜明けを待って……と言いたいところだが、そうもいかねえんだろ? プロデューサーに薬を飲ませるってことなら」

 

 夏樹は愛用のギターをストラップで肩にたすきがけすると、小梅のほうへ振り向いた。

 

「そうですね……あまり猶予はないと思います。でも……、どうやって向こうの建物まで行きますか?」

 

 小梅はわずかに視線を動かした。目指す別棟の入口はもう目と鼻の先とはいえ、そこに至るまでの道は左右を建物に挟まれている。もたもたしていたらゾンビに襲われる危険もある。

 

「アタシのギターで追っ払う……のも限界があるかもしれねえな。なにより、この大人数じゃ目立ちもするだろうし」

 

 夏樹はこの場にいる一同をうかがった。小梅、凛、未央、卯月、奈緒。加えて裕子と輝子、そして夏樹。計八人もの大所帯となれば、たしかにゾンビの目にもつきやすくなってしまうだろう。

 

「あっ、だったら」

 

 なにかひらめいたのか、奈緒がぽんと拳を打ちつけた。

 

「さっきのあれ、懐中電灯でゾンビをひるませる、だっけ。みんなであれをやりながら進めばいいんじゃないか?」

 

 しかし夏樹は渋い顔をした。

 

「もちろん懐中電灯も持っていくが……あいにく、ここには今使ってるふたつしか用意がなくてな」

「ふたつか……。みんなの安全を確保するには、ちょっと少ないな……」

「……わかりました」

 

 そう言って膝を叩き立ち上がったのは裕子だった。

 

「隠れ蓑の術を使いましょう。八人分だとかなりのサイキックパワーを消耗するでしょうが、このエスパーユッコ、なんとか持ちこたえてみせます!」

 

 裕子は「ムンッ」と気合を放つと、右手の掌を前に突き出した。

 

「……ブホッ」

 

 輝子が抱えていたキノコからぷしゅっと胞子が吹き出た。

 

 ……沈黙が流れた。

 

「……うだうだ考えてたって仕方ねえな。とにかく、警戒して進むってことで」

「……向こうの建物に入れば、とりあえず安全だもんね」

 

 棒読みのような口調で言うと、夏樹と凛はすたすたとドアのほうへ歩き出した……裕子を無視して。

 

「え、ち、ちょっと、夏樹さん、凛さん? サイキックパワーは? みなさん?」

 

 裕子はおろおろとみなを呼び止めるが、ほかのみなもぞろぞろと移動を始めていた。

 

「ま、まあ……あたしはパーティーにひとりは必要だと思うぜ? 裕子みたいな……お笑い担当? MMRで言うとナワヤ的な?」

「ゆ、裕子ちゃん、その……気を落とさずに! 私も頑張りますから!」

「ヒィャッハーッ! したくなったら……いつでも、言ってくれ。付き合う……ぞ……ブホッ」

「は、ははは……」

 

 思い思いに慰めの言葉をかけながら、裕子の前をとおりすぎていく奈緒、卯月、輝子、未央。……ちょっと気の毒だったが、小梅も四人の後に続いた。

 

「ゾンビがいるくらいだから……サイキックもある……んじゃないかな? ……隠れ蓑の術は、忍法だと思いますけど……」

「そ、そんなあ……」

 

 泣きっ面になった裕子は、しょんぼりと肩を落としながらも素直に後を追ってきた。

 

 ……まあ、みんなの緊張をほぐせたのなら、サイキックと言ってもいいんじゃなかろうか。

 

 

 *

 

 

 休憩室をあとにした小梅たちは、まずはバックヤードの出口までやってきた。先頭の夏樹がバリケードに身を隠しながら、オープンテラスの様子をうかがう。目指す別棟の入口へ到達するには、オープンテラス席を横切り、カフェテラスが入った建物の脇を通り抜けていかねばならない。

 

 

「……よし、いまのうちだ」

 

 忍び足でバリケードから出た夏樹に続いて、小梅たちも慎重にテラスへ足を踏み入れた。テラスを徘徊していたソンビの群れは、折よく中庭の中央付近へ向かっているところだった。

 

 小梅たちは一列になってテラスを横切る。付近にいるゾンビは、ざっと見ただけでも十数体。彼らに勘づかれ、一斉に襲いかかられたら、かなり危険だ。息をひそめ、慎重に歩を進める。

 

「ウウ……ウウ……」

 

 のろのろとテラスを歩きまわるゾンビたちは、さいわいまだ小梅たちに気づく様子はない。このままとりあえず建物の角まで到達したいところだが――。

 

「……あっ」

 

 小梅の背後で、小さな声が上がった。

 

 とっさに振り向いた小梅は、一瞬にして心臓が凍りついた。

 

 最後尾を歩いていたはずの輝子の姿が、消えていたのだ。

 

「し、輝子ちゃん?」

 

 周囲に目を走らせる。輝子はすぐに見つかった。

 

「ま、待て……」

 

 輝子は腰を低くし、なにかを追いかけていた。あれは……植木鉢か!

 

 つまずくかなにかして、大事にしている植木鉢を落としてしまったのだろう。緩い弧を描きながら転がっていく鉢を追いかけるのに夢中で、輝子は小梅たちからどんどん離れていってしまっていることに気づいていない。

 

「し、輝子ちゃん、ダメ、そっちは――」

 

 警告を発したときには、もう遅かった。

 

「つ、捕まえた……」

 

 ようやく植木鉢に追いつき、顔を上げた輝子のすぐ目の前に――。

 

「……あ」

 

 一体のゾンビが立っていた。

 

「し、輝子ちゃん!?」

 

 たまらず叫んだ小梅の声で、先行していた一行も振り返り、事態に気づいた。

 

「ちょっ……! なにやってるの!?」

「な、夏樹っ、ギ、ギター!」

「お、おうっ!」

 

 未央に急かされ、夏樹はすぐに背中に背負っていたギターを下ろそうとした。しかし――。

 

「しまっ……!」

 

 ストラップが引っかかってしまい、胸の前でギターを構えられない!

 

「ヴ、ヴ、ヴ……」

「お、おい……、よ、よせ……」

 

 焦る夏樹をよそに、ゾンビはすり足で輝子に近づいた。輝子は腰を抜かしているのか、依然として尻もちをついたままだ。

 

「サ、サイキックビーム!」

 

 構えを取った裕子を見て、未央がハッとした。

 

「そ、そうか! 懐中電灯!」

 

 未央はストラップで首から提げていた懐中電灯をすかさずつかみ、輝子に襲いかかろうとしているゾンビに向けて突き出した。強い光を当てればゾンビはひるむはず。だが――。

 

「な、なんで!? つかない!」

 

 未央がスイッチを押しても、懐中電灯は反応しなかった。照射口内部の電球は弱々しく点滅しただけで、すぐに消えてしまう。何度スイッチを押し直しても駄目だ。

 

「も、もう一個の懐中電灯は!?」

 

 奈緒がみなに向かって叫んだ。

 

 卯月が前方を指さす。

 

「し、輝子ちゃんです!」

 

 そうだった。ふたつある懐中電灯のうち、ひとつを輝子が持っているのだった。しかし輝子自身がそのことを忘れているのか、あるいはそんな余裕すらないのか、首から提げた懐中電灯を手に取ろうとしない。

 

「あ、う……」

 

 這うようにして逃げようとする輝子に、ゾンビもじりじりと迫っていた。

 

「グアァ…ッ」

「し、輝子ちゃん!」

「くっ……!」

 

 このままでは輝子がやられる。そう思ったのだろう、凛が決死の表情で輝子を助けに飛び出した。ところが――。

 

「……グウ」

「え――?」

 

 ゾンビが突然きびすを返したのを見て、凛は急ブレーキを踏んだように足を止めた。輝子に背を向けたゾンビは、そのままなにもすることなく、中庭の中央へ向かって立ち去っていった。

 

 唖然としたように立ち尽くす凛の背中に、未央が呼び声をぶつけた。

 

「し、しぶりん!」

 

 ハッと肩を震わせた凛は、ふたたび輝子のもとへ駆け出した。急いで輝子を助け起こすと、凛は切羽詰まったまなざしをこちらに送ってきた。

 

「ほかのやつが来るかも! 急いだほうがいい!」

「仕方ねえ……、一気に突っ込むぞ!」

 

 夏樹の掛け声で、一同は別棟の入口めがけて駆け出した。先刻までの慎重な足取りとはうってかわってバタバタとうるさく足音がたったが、もうなりふりかまっていられない。さすがに近くにいた何体かのゾンビが振り返ったが、小梅たちはかまわず全速力で狭い通路を走り抜け、雪崩を打ったように別棟へ駆け込んだ。

 

「はあ、はあ……っ」

 

 最後尾になった奈緒が入口のドアを閉ざした。

 

「ぜ、全員無事か!?」

 

 一同は荒い息をつきながら奈緒にうなずきかえした。その中にはきちんと、凛と輝子の姿もあった。

 

「輝子、怪我はない?」

 

 凛の問いかけに、輝子はぎこちなくもこくこくとうなずいた。

 

「あ、ああ……、だ、大丈夫……だ。ト、トモダチも……」

 

 輝子はしっかりと胸に抱いたキノコの植木鉢を見下ろした。輝子のトモダチはみな、植木鉢のなかで元気に傘を張っていた。

 

「……勘弁してくれよな、輝子。心臓に悪いぜ」

 

 夏樹が額に浮かんだ汗を拭う。ギターを使えず、本気で焦っていたのだろう。

 

「う、うう……す、すまん……」

 

 輝子のほうも本気で反省しているのだろう、めずらしくしょんぼりとした顔を見せていた。

 

「まあ、とりあえずよかったじゃん。あいつ、キノコちゃんには気づかなかったんだな」

「ですね」

「……」

 

 未央と卯月はそんなふうに話していたが、小梅は先ほどのゾンビの行動に拭いがたい違和感を覚えていた。

 

 あのゾンビは、確実に輝子の存在に気がついていたはずだ。あんな至近距離にいて視界に入らなかったということはないだろうし、()()()()()()()()()()。なのになぜ、彼は輝子を無視したのだろう――?

 

「――小梅ちゃん、どうかしましたか?」

 

 ハッと我に返ると、少し離れた階段の手前で、裕子がこちらを振り返っていた。ほかのみなはもう階段をのぼりだしている。小梅が考え事をしているあいだに、みなは出発していたらしい。

 

「い、いえ、なんでもありません」

 

 小梅は小走りで裕子たちに追いついた。

 

 ……考えるのはあとだ。

 

 今はとにかく、先を急がねばなるまい。

 

 

 *

 

 

「くっそう……、これ、もう使えないのかなあ?」

 

 小梅のひとつ前を進む未央は、さっきから何度か懐中電灯のスイッチを押していた。

 

 志希の実験室がある階は夏樹たちにもすでに伝えてある。さきほどと同じく夏樹を先頭にした隊列を作って、一同は非常階段を上っていた。

 

「……電池切れだと思います。でも、電池は温めることで蓄電が少し回復しますから、いちど抜いてポケットに入れておきましょう」

「おお、そうなの?」

 

 小梅がゾンビ映画で知った知識をもとにアドバイスを送ると、未央はさっそくそれを実行に移していた。

 

「……すみません、私たちが調子に乗ってサイキックパワーを使いすぎたのかもしれません……」

 

 うしろから小梅たちのやりとりを見ていたのだろう、裕子がしゅんとして謝ってきた。きっと、裕子たちがしていたという「見回り」で、それなりに懐中電灯を使用していたのだろう。

 

「仕方ない……ですよ。もともと電池が切れかかっていたのかもしれませんし……」

 

 ゾンビから身を守る手段として懐中電灯を使っていたのだから、誰も裕子たちを責めることなどできない。

 

「でも、やっぱり暗いですね、ここ……」

 

 未央の前を歩く卯月が、周囲を気にしながら言う。もうひとつの懐中電灯は輝子から小梅の手に渡っているが、節約のため、そちらも今はつけていない。小梅たちは非常灯の弱い明かりだけを頼りに、慎重に階段を上っていた。

 

「まあ、真っ暗よりはいくらかマシだろ……おっ、次じゃないか」

 

 奈緒が踊り場に掲げられた階数表示を指さした。もうひとつ階段を上がれば、志希の実験室があるフロアだった。

 

「小梅、どこかわかる?」

 

 廊下に出ると、凛が小梅を振り返った。以前に訪問したことがあるので、小梅は志希の実験室の詳しい場所を知っている。

 

「右手に進んで、左側のふたつめの部屋です」

 

 みなが一斉に息を呑むのがわかった。目的の場所が想像以上に近くにあったせいだろう。

 

「……ドアを開けた途端ヤツらが……ってこともありうる。油断は禁物だぜ……」

 

 焦りを抑えるためだろうか、自分自身に言い聞かせるようにうなずくと、夏樹は先陣を切って問題のドアへ近づいていった。小梅たちもあとに続く。

 

 夏樹は忍び足でドアの前を一旦通り過ぎ、すぐ脇の壁に背につけて、小梅たちをうかがった。

 

「……誰か、そっちからドアをあけてくれ。私が中の様子をのぞく。あいつらがいる気配がしたら合図を出すから、すぐにドアを閉めてくれ」

「わ、わかった。私がやる」

 

 凛が進み出た。夏樹の反対側に回って、ドアノブに手をかける。

 

 小梅たちは正面からドアを取り囲み、不意の襲撃に備えた。あまり考えたくはないが、もしドアをあけた途端ソンビが飛び出してくるようなことがあれば、なんとしても夏樹の身を守らなければならない。

 

 奈緒と未央がほうきを構えたのを確認し、凛と夏樹は互いに視線を送りあった。間合いをとるようにうなずきあうと、凛がドアノブの握る手に力を込め、慎重にドアを引いた。

 

「う……っ!」

 

 わずかに開いた隙間から室内をのぞいた夏樹は、すぐに顔をしかめ、口元を押さえた。

 

 連中がいたのか!? 小梅たちは身構えたが、夏樹は片手を挙げてこちらの動きを制した。

 

「……大丈夫だ。ただ、臭いがな……」

 

 臭い?

 

「……うっ」

 

 凛の手でドアがゆっくり開けられた途端、小梅たちは夏樹が息を詰まらせた理由を理解した。部屋の中から、生臭い異臭がただよってきたのだ。

 

「は、入っても……平気なんでしょうか?」

 

 鼻をつまんでいるらしく、裕子の声は少しくぐもっていた。

 

「とりあえず大丈夫……だと思います」

 

 毒ガスかなにかが発生しているという可能性も考えたが、それならばとっくに体の異状を覚えていてもおかしくはない。それに、たしかに独特の臭いではあるが、慣れてくるとそこまで嫌な臭いという気もしなかった。

 

 念のためハンカチや服の袖で口元を押さえながら、小梅たちは志希の実験室へ足を踏み入れた。

 

 室内は暗かった。かろうじて非常灯がひとつ灯っていたが、視界はほとんどきかない。

 

「小梅、照らして」

「は、はい」

 

 凛の要望に応え、小梅は懐中電灯のスイッチを入れた。ビーム状に射出された光で、ゆっくりと室内を照らしていく。部屋の中央には頑丈そうな長テーブル。その上には試験管やシャーレ、顕微鏡などの実験器具がところせましと並べられていた。壁ぎわの戸棚の中に収まっているのは……薬品の瓶だろうか。戸棚の横に置かれた大きな機械は計測や分析に使う装置と思われる。小梅が以前訪れたときよりも、化学実験室としての本格度が増しているように思えた。

 

「志希さん? いませんか?」

 

 おそるおそる呼びかけてみるも、応答はない。

 

「お出かけしてる……んでしょうか?」

「逃げてる……のほうが、まだ希望が持てるけどね……。奥の準備室にいないか、探してみよう」

 

 卯月と未央がそんな言葉をかわしながら、テーブルを頼りに部屋の奥へ進む。

 

 ふたりのあとに続いていた裕子は、テーブルの上に置かれていた本に手を伸ばしていた。

 

「ずいぶん古めかしい本ですが……志希さんのものでしょうか? ヒ、ヒエロ……? う……まったく読めません……。が、外国の本? サイキック関係の書物ではなさそうですが……」

 

 一方、夏樹と凛は、実験テーブルの上に残されていた試験管やビーカーを手に取っていた。

 

「中身が入ってるな……。においのもとはこれか?」

「なにかの薬品……かな?」

 

 これも志希が残していったものだろうか。しかし、いくら失踪癖があるといっても、化学者でもある志希がこんなふうに薬品を無造作に放り出してどこかへ出かけるとは考えにくい。そうなるとやはり、なにか不測の事態が生じて――。

 

「う、うわぁぁっ!」

 

 突然大きな悲鳴が上がり、小梅たちは一斉にその場に凍りついた。

 

「ど、どうした!?」

 

 いちはやく反応した夏樹に続き、小梅も声のしたほうへ懐中電灯を向ける。

 

 夏樹と凛のいる実験テーブルの、ちょうど向かい側だった。そこで、輝子が尻もちをついて、唇をわななかせていた。

 

「し、輝子ちゃんっ、ど、どうしたの!?」

「あ、あれ……」

 

 輝子は震える指で実験テーブルを差した。テーブルの上になにか……いや、下か! テーブルの下だ!

 

 小梅は身をかがめ、実験テーブルの下を懐中電灯で照らした。

 

「っ!」

 

 光に照らし出されたシルエットに、さすがの小梅もぎょっとした。

 

 人が、いた。

 

「なっ……、し、志希!? 志希なのか!?」

 

 反対側から回り込んできてテーブルの下をのぞきこんだ夏樹も、驚きに目を見張った。

 

 実験テーブルの脚にもたれかかるようにして、髪の長い女性が体を丸くしていた。なぜか白衣は足元に脱ぎ捨ててあったけれど、まちがいない。一ノ瀬志希だ。

 

「く、癖で、テ、テーブルの、し、下を……の、のぞい、たんだ。そ、そしたら……」

 

 いつも以上に言葉を詰まらせながら、輝子が志希を見つけた状況を説明した。ひょいとのぞいたテーブルの下に人が倒れていたら、おとなしい輝子がめずらしく悲鳴を上げるのも無理はない。

 

 遅れて集まってきたほかの面々も、変わり果てた志希の姿を見てまずは言葉を失った。

 

「お、おい、ぶ、無事なのか!?」

 

 奈緒にうながされるまでもなく、夏樹は志希の手首を取り、脈を確かめていた。しかし、夏樹は志希の手をそっと下ろし、重々しく首を横に振った。

 

「残念だが、もう……」

 

 卯月が「ああっ」と悲しげな声を上げて、顔を両手で覆った。

 

「そんな……せっかく志希を見つけたのに……」

 

 凛は悔しげに眉を曇らせる。

 

「し、志希にゃんも、ゾンビにやられちゃったってこと?」

 

 未央の問いかけに、小梅は小さくうなずいた。

 

「おそらくは……。あれを……見てください」

 

 小梅はお腹の上に重ねられた志希の右腕へ懐中電灯の光をあてた。肘の少し下、前腕のあたり。そこにうっすらと、歯型のような傷が見えた。

 

「噛まれたのか……」

「はい……。ただ、少し変……かもしれません」

「変?」

 

 小梅にみなの注目が集まった。小梅は志希から光を外し、みなのほうへ向き直った。

 

「もしも志希さんがゾンビに噛まれたのなら、ここで眠ったままでいるのは変です。ゾンビウイルスに感染したなら、目を覚まして動きまわっているはず……」

「あ……」

 

 小梅の指摘に、一同はハッと目を見張った。

 

「たしかに妙だな……。アタシが確かめたかぎりじゃ、たしかに脈がなかったんだが……」

「顔とかも綺麗なままだしね……」

 

 凛がちらりと斜め下を見てつぶやく。凛の言うとおり、志希の顔にゾンビ特有の皮膚のただれなどは見られなかった。苦しんだ様子もなく、表情だけ見ればまるで眠っているだけのようにも思えた。首から下も綺麗なもので、少なくとも服の上からでは腕の歯型以外目立った傷跡は見当たらなかった。どのくらい前に息絶えたのか定かでないにせよ、ゾンビ化の兆候がまったくうかがえないのはやはり妙だ。

 

「ゾ、ゾンビにはならずにお亡くなりになった……ってことでしょうか?」

 

 裕子がおそるおそるたずねた。

 

「その可能性もありますが……やっぱり気になります。志希さんが襲われたときの状況もわかるといいんですが……」

「わかった。探してみようぜ」

 

 奈緒の掛け声で、一同はまた室内を探りはじめた。

 

 が、発見は意外に近くでなされた。

 

「お、おい……、これ……」

 

 声を上げたのは、志希が倒れているテーブルの下にもぐりこんでいた輝子だった。小柄な体格を活かしてテーブルの下を探っていたらしい輝子は、なにかを手に持ってはいでてきた。あれは……?

 

「……キノコ?」

 

 円柱型の容器に傘状の物体がにょきにょきと生えていた。キノコを植えられた、プラスチック製の鉢だ。もともと持っていた植木鉢は脇に抱えているから、それとは別のものである。

 

「ト、トモダチ、だ……。い、いなくなってた……」

「いなくなってた?」

 

 なんの話かわからず、小梅は眉をひそめた。

 

「あっ! ひょっとして、プロデューサーさんのところからなくなってたと言っていたやつですか!?」

 

 こちらの様子に気づいて口を挟んできたのは裕子である。小梅が裕子と輝子を交互に見比べると、輝子のほうが口を開いた。

 

「す、少し前から、プロデューサーの机の下に住まわせてたトモダチが……、ひ、ひとり行方不明に、な、なってた……んだ。プ、プロデューサーに訊いても、し、知らないって言うから……、さ、探してたんだが……」

「それが……その、鉢……なの?」

 

 輝子はこくりとうなずいた。

 

「は、鉢の底に、トモダチになった日付と、あと名前が書いてあるから……ま、まちがいない」

 

 輝子は鉢を傾け、小梅に底を見せた。たしかに、マジックペンの書き込みがある。数字は株を植えた日付だろう。名前というのは、輝子の署名かと思っていたが、そうではなくてどうもキノコに与えられたものらしかった。

 

「どうした? なんか見つかったのか?」

 

 小梅たちのやりとりに気づき、夏樹が声をかけてきた。ほかの者も家探しの手を止めてこちらへ振り返る。

 

「あ、いえ、輝子ちゃんが探していたキノコが見つかったんですよ。志希さんのいたテーブルの下から」

「キノコ? そりゃまあ探し物が見つかったのはいいが、今はそんな場合でもないだろ」

「いえ……、ちょっと待ってください」

 

 しかし小梅はなにか引っかかりを覚えた。

 

「輝子ちゃんのキノコが、どうして志希さんのところに……? これ、輝子ちゃんが志希さんに預けたとか……じゃないんだよね?」

「あ、ああ……。ま、前に何回か、志希さんが、じ、実験に使いたいって言ってきたから、わ、分けてあげたことはある……。レ、レンキンがどうとか……。け、けど、こ、この子はまだ成長途上だから、わ、渡してなかった……はず」

「キノコを実験に……?」

 

 小梅は妙な胸騒ぎを覚え、室内を視線を巡らせた。キノコを使った実験……? ひょっとして、さっき夏樹と凛が見ていた試験管に入った薬品がなにか関係しているのか? いや――。

 

「……ん?」

 

 窓際に置かれたライティングデスクに、小梅は目を止めた。デスクの上にノートパソコンがある。液晶ディスプレイは開かれたままで、なにも映っていないが、目を凝らすと電源ランプが点滅している。休止モードになっているようだ。

 

 小梅がノートパソコンに近づくと、凛も近くに寄ってきた。

 

「小梅、それは?」

「なにか記録が残っていないかと思って……。使えるようになっているといいんですが……」

 

 小梅は凛に応えつつ、ノートパソコンの電源ボタンを押した。ディスプレイにログイン画面が表示される。パスワードが必要か、と思ったが、ノートパソコンはそのまま休止モードから復帰した。

 

「よかった。自動ログインの設定になっています」

「なにかある? 手がかりになりそうなもの?」

「ええと……」

 

 デスクトップ画面に目を走らせる。すると、画面の中央付近にぽつんと置かれていたテキストファイルに目を引かれた。

 

「confesion……?」

 

 凛が英語のタイトルを読み上げた。

 

「告白……いや、懺悔、でしょうか?」

 

 奇妙な名を与えられたそのファイルを小梅はダブルクリックして開いてみる。

 

 小梅と凛は、開かれたテキストになにげなく頭から目を通したのだが――。

 

「ち、ちょっと、これ!」

「っ!」

 

 冒頭の数行を読んだだけで、ふたりは驚きに目を見張った。

 

「お、おい、今度はどうした?」

 

 バタバタと駆け寄ってきた夏樹たちに、凛は今見たことを説明しようとしたようだが、唇を動かすのが精一杯で、言葉が出てこないようだった。たしかに、この衝撃的な内容を口にするのは難しいだろう。

 

 それでも小梅は、なんとか気を鎮めて、みなの顔をゆっくりと見回した。

 

「み、みなさん、おちついて聴いてください。ノートパソコンにあったメモは、やはり志希さんが書いたもののようです」

 

 そこで一旦言葉を切ると、みな一様にごくりと喉を鳴らした。

 

 小梅も動揺を抑え、志希が打ち明けてくれた内容をみなに伝える。

 

「志希さんはおそらく……、今回の一件を引き起こした張本人です」



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17

 これが読まれてるってことは、きっとあたしはもう死んじゃってるんだろうな。

 ……なんてありきたりな書き出しになっちゃったけど、実際そうなんだと思う。

 時間――あたしに残された時間、って意味だけど――もないから、結論から言うね。

 きっと今、バケモノみたいなのがそこらじゅうに溢れかえってると思う。

 あいつらが生まれたのは、あたしのせいなんだ。

 

 ごめん。

 

 ……懺悔を聴いてもらったついで、ってわけじゃないんだけどさ、これを見つけて読んでくれてるキミに、ひとつ頼みたいことがあるんだ。

 

 あたしのせいで壊れたこの世界を、キミに救ってほしい。

 

 ……あたしの話、聴いてくれるかな?

 

 順を追って話すね。

 

 まず、あいつらの正体。

 

 あいつらのことを学術的に定義するなら、「薬理作用によって中枢神経系に異状をきたしたヒト様生物体」ってところかな。

 簡単に言うと、クスリで頭がイカれた人間……人間だったもの、だね。

 あいつらを詳しく検査したわけでもないから、あくまであたしの所見だけど。

 でも、そんなに外れてはないと思うよ。

 なにせ、あいつらの一匹目は、この部屋で、あたしの目の前で、生まれたんだから。

 

 この部屋を訪ねてきたのなら知ってると思うけど、あたし、化学の実験が趣味でさ。わがまま言って貸してもらったこの部屋に実験器具を持ち込んで、薬品の調合やらなにやらやってたんだ。もちろん、薬って言っても、怪しいやつじゃなくて、栄養剤や芳香剤みたいなものだよ。あたしが作った新薬のデータを事務所が製薬会社に売ったりもしてたみたい。ま、家賃代わりだと思って、あたしはその取引には口を挟まないようにしてた。

 

 ただね、ひとつだけあたしから事務所にお願いしてたことがあるんだ。

 それは、ある古書を探して買ってきてほしい、ってこと。

 かなりレアな本で、普通のルートじゃまず手に入らない代物だから、組織の力ってやつを頼るしかなかったんだよね。

 事務所の人たちは、あたしの無理なお願いを真摯に聴いてくれたみたい。

 半年くらい前だったかな。

 海外の、いわゆる闇オークションにあたしが欲しがってる本が出品されているのを事務所の人が見つけて、落札してきてくれた。

 

『Hieroglyphs allegorica』

 

 これがあたしが欲しかった本。ヘンなタイトルでしょ? 『象形寓意図の書』ってタイトルで邦訳書も出てるみたいだね。でも、あたしが手に入れたのは、十五世紀に書かれたラテン語の原著。今普通に出回ってる現代語訳版はどれも、後世に作られた偽書を底本にしていて、重要な記述が省略されちゃってるからね。

 

 この本の著者はニコラ・フラメルっていう中世の錬金術師なんだけど、まず錬金術ってわかるかな? 簡単に言うと、卑金属から貴金属を人為的に作る技術のこと。たとえば鉛を金や銀に変える、みたいなね。科学史的なことを言えば、ヨーロッパの錬金術研究は近代化学の母体となったって説もある。

 で、ニコラ・フラメルは、錬金術を使って実際に水銀から金を作り出したとされる、伝説的な錬金術師。近代力学の祖、かのアイザック・ニュートンが自然科学研究のかたわらひそかにおこなっていた錬金術研究でもフラメルを参照してたって話だから、まあその筋じゃかなり影響力のあった人物と思ってくれていいよ。

 そのフラメルが、長年の研究で掴んだ錬金術の極意を書き残した秘伝書とされるのが、この『ヒエログフス』ってわけ。具体的には、『アブラハムの書』ってカバラの秘法書に記された寓意画の解読結果が記されてる、ってことになってる。まあ、「水銀から金を作った」なんて話は眉唾ものだし、そのほかのほとんどの内容もオカルトの域を出ないって感じだね。

 

 ただね……ひとつだけ、あたしにとって気になる内容が書かれてあったんだ、この本には。

 

 賢者の石。

 

 錬金術では、貴金属を生成する際に使われる、いわば触媒のようなものとされている物質だね。ラメルが成功させた水銀から金を作る実験も、この賢者の石を使っておこなわれたとされてる。

 

 だけどあたしにとって興味深いのは、賢者の石が持つ、また別の側面。

 

 賢者の石はね、不老不死の妙薬であるとも言われてるんだ。

 

 フラメルと彼の夫人も、賢者の石の力で不老不死の肉体を手に入れたって伝説が残ってる。永遠の命を得たフラメル夫妻は世界史を裏で操りながら現代まで生き残り、今もひそかに世界を支配している……なんてのはさすがに与太話だけど。おもしろい話だとは思うけど、さすがに荒唐無稽なファンタジーだよね。

 

 でもね。

 

 賢者の石が不老不死の妙薬になるって話は、化学物質の合成法を象徴的に示唆してるんじゃないか、って説もあるんだよね。それも、現代でもまだ知られていない、未知の物質の。

 まあ、これだってオカルトマニアのあいだでまことしやかにささやかれてるってだけの説なんだけどさ。

 でも個人的にいろいろ調べてみた結果、これがあながちデタラメな説でもないんじゃないか、って気がしてきてさ。

 だから、実際にフラメルの本を手に入れて、本格的に検討してみたいって思ってたわけ。出回ってる偽書じゃなく、フラメルの原著にもとづいてね。

 

 で、『ヒエログラフス』を手に入れたあたしはさっそく、フラメルの記述を現代の科学理論にもとづいて読み解いたうえで、その内容にそって実験をやってみた。

 そうしたらさ、これ、うまくいけばマジにまったく新たな薬が開発できそうじゃん! ってなって。はじめは半信半疑だった志希ちゃんも、俄然ワクワクしてきちゃったんだよねー。

 

 それにさ……。

 ……ここからはバカな話として聴いてほしいんだけどね。

 

 あの人――あたしたちのプロデューサーが、さ。

 

 最近けっこう疲れてるように見えたんだよね。

 ほら、少し前からあたしたちの出る映画の企画を動かしてるとか言って、忙しく働いてたじゃん? 

 その合間にもCD発売だとかライブのプロモーションだとか、ほかの仕事もふつうに立て込んでたしさ、かなりのハードワークをこなしてたみたいなんだよね、ここ数ヶ月。

 あの人、あたしの実験室にもときどき顔を出してくれてたんだけど、会うたびになんかやつれてくような印象もあって。

 少しは休めば? って言ってもみたんだけど、みなさんのためですから、なんて言って全然聞く耳もってくれなくてさ。ほんとバカだよね、あの人。

 まあでも、自分たちのため、なんて言われたらむげにもできないし、だったらせめてなにか精のつくものでも差し入れてあげたいな、なんて思っちゃったんだよね。

 

 不老不死とは言わないまでも、とびきり元気になれるなにかをさ。

 

 フラメルの残した記述をもとに製造できる薬、それは、良質の栄養剤だと、あたしは見立ててた。

 あたしはその新薬を、賢者の石の伝説にちなんで、「エリクサー」と名付けることにした。エリクサーってのは賢者の石の別名なんだ。

 

 三ヶ月前くらいからかな。

 あたしはエリクサーの開発にとりかかりはじめた。

 開発は順調に進んだよ。もともと中世の知識や技術の水準で作られてたものだからね。当時は希少だった物質も今なら簡単に手に入るし、最新の機器を使えば大幅に時間を短縮できる工程も少なくなかった。

 

 でもひとつだけ、精製の最終工程で不可欠なのに、どこをどう探しても見つからない物質があってね……。

 

 フラメルは「ある種の山菜から得られた成分である」なんて書いてるんだけど、説明されてるその成分が、どう考えても現代の化学じゃ見つかってないものだったわけ。

 こりゃ困ったな、これマジに、魔術かなにかを使わなきゃエリクサーなんて作れないわけ? とか途方にくれちゃったよね。

 でも、なかば諦めかけてたとき、ふと見かけちゃったんだよね。

 

 裕子ちゃんが念力をかけてる横で、輝子ちゃんの持ってるキノコがぼんって胞子を吹き出すところを。

 

 なぜかピンときたんだよね。あっ、これかも。フラメルの書いてた山菜って、キノコのことなんじゃないの? って。

 それで、輝子ちゃんの鉢からキノコを欠片を失敬して、ちょっと調べてみたんだ。

 

 結論を言えば、当たりだった。

 

 輝子ちゃんのキノコから抽出した成分は、フラメルが言ってる成分と特徴が完全に一致してた。科学的に検討してみても、それがエリクサー精製に必要な成分であることはまちがいなさそうだった。

 

 ただ不思議だったのは、その成分、ふつうのキノコからはまったく抽出できなくて、裕子ちゃんが横で念力をかけた輝子ちゃんのキノコにしか含まれてていみたいなんだよね。

 

 もう笑うしかなかったよ。だって信じられる? 念力をかけただけでキノコの成分が変化しちゃうなんてさ。それこそオカルトだよ。フラメルも裕子ちゃんみたくキノコに向かって念を送ってたのかもなんて考えると、それも傑作だよね。

 

 もちろん、ちゃんと対照実験をしたわけでもないから、裕子ちゃんの超能力が本当にキノコの成分変化を引き起こしてるのかはわからない。でも、エリクサー精製に使えそうなのは、とりあえず裕子ちゃんが超能力をかけた輝子ちゃんのキノコしかない、これだけはたしかだった。

 

 あたしには、この事実だけで十分だった。

 

 だから、あたし、あの人に頼んだんだ。輝子ちゃんからちょっとキノコを借りてきてくれない、って。輝子ちゃんがあの人の机の下でキノコを育ててることは知ってたからさ。

 プレゼントを贈る予定の相手にそのプレゼント作りを手伝ってもらうなんて、それもおかしな話なんだけどさ。でも仕方なかった。エリクサー精製に必要な成分は、どうも放っておくと自然に分解しちゃうみたいで、裕子ちゃんが念力をかけてからすぐに持ってきてもらわなきゃならなかったから。あの人なら、輝子ちゃんの目を盗んでキノコを持ち出すことも可能でしょ?

 

 輝子ちゃんと裕子ちゃんに直接協力を頼まなかったのは、あたしがこんな実験してるってことを知られたくなかったから。恥ずかしかったし……いや、違うね。

 

 あたしは、プロデューサーを元気づけてあげる役目を自分だけのものにしたかったんだ。だからほかの誰にも、あたしがあの人のための薬を作ってるって知られたくなかった。ひとことで言えば、独占欲、ってやつだよ。

 

 ホント、バカだよね、あたしって。

 

 輝子ちゃんと裕子ちゃんがこれを読んでるかどうかわからないけど、謝らせてほしい。お友達を勝手に持ち出したり、超能力をおかしな実験に利用したりして、ふたりには本当に悪いことをしたと思ってる。

 

 ごめんなさい。

 

 あと、あの人は全然悪くないから、彼のことは責めないであげてほしい。悪いのは全面的にあたし。あの人はあたしに言われるがままにやっただけ。裕子ちゃんが横で超能力をかけた直後のキノコを持ってくるように指定はしたけど、なんに使うかとかは教えてなかったし。薬が完成するまで黙っておいて、あの人のことを驚かせたかったんだ。バカだよね、ホント。

 

 だからどうか、あの人のことだけは許してあげてほしい。

 

 ……そろそろあたしも辛くなってきたから、ちょっと急ぐね。書くべきことは、もうそんなに残ってないと思うから,もう少しだけ付き合って。

 

 あの人に持ってきてもらった輝子ちゃんのキノコを使って、あたしはエリクサーを完成させた。

 それが、一昨日のこと。

 あたしはさっそくこの部屋にあの人を呼び出して、できたてのエクリサーを渡した。特製のスタミナドリンクだって言って。

 わざわざ目の前で調合の最終工程まで実演してみせたりしてさ。自分でも、完全に浮かれてたと思うよ。

 あの人、なんだかんだ優しいからさ、効果もはっきりしない薬なのに、その場で小瓶一本分、なにも訊かずに飲み干してくれたよ。

 余った分は別の小瓶に分けておいたから、疲れたら飲んで、って言ってあの人に持たせた。ちょうど一ダース分あったかな。

 ……人が良いあの人のことだから、たぶん、仕事先とかでほかの人にも配ったんだと思う。

 飲んじゃった人もいるんだろうね。

 

 次にあの人がこの部屋を訪ねたきたのは、今日の夕方ごろだった。

 そのときにはもう、あきらかに様子がおかしかったよ。足元はふらついてるし、苦しそうに胸を押さえてるし。

 驚いて駆け寄ったあたしに、あの人は突然抱きついてきた。あたしはバカみたいに一瞬だけドキっとした。

 でもそのままあたしを床に押し倒したあの人は――なんにも言ってくれずに、あたしの右腕に噛みついた。

 痛いと思うより先に、混乱したよ。

 だってあの人の顔つきが、あきらかにふつうじゃなかったから。死人みたいに青白い顔色のくせして、目だけは真っ赤に血走っててさ。

 あの人の吐く息から、キノコの臭いがした。

 それであたしは直感した。エリクサーのせいだ、って。

 あたしはのしかかってくるあの人を突き飛ばした。まだ肉体の変化になじんでなかったみたいで、あたしでもなんとかまだ抵抗できた。

 言葉もまだ話せるみたいだった。体中が熱いとか女の子を見たら無性に食べたくなるとか、苦しそうにうめいてた。

 なんとかしてあげたかった。

 でも、どうしようもなかった。

 あたしはあの人に殺されてもいいと思った。あの人の食べ物になってもいい、と思った。

 それであの人が苦しまずにすむのなら。

 だけどあの人は、そんなことはできないって言って、この部屋から飛び出していった。たぶん、最後に残った理性を振り絞ったんだと思う。

 あたしはあの人を追いかけようとした。だけどそのとき、右腕がズキリと痛んだ。自分の腕に、彼の歯型がついていた。血が滲んだその傷跡を見て、あたしは嫌な予感がした。いそいでネットをつないで、外の状況を調べた。あたしの予感は、当たってしまった。

 そのときにはもう、あの人と同じような症状を呈した人たちが、ほうぼうで周囲の人に噛みつく騒ぎを起こしていた。

 ネット上に似たような報告が次々と上がってきて……なにが起こってるのか、それだけでもだいたい分かったよ。

 

 血液感染するウイルスによる感染症。

 そのパンデミック。

 

 あたしが軽い気持ちで作った薬が、世界を混乱に陥れようとしてた。

 

 この部屋にひとり取り残されて、仰向けになって白い天井をぼんやり眺めながら、あたしは考えた。あたし、どうすればいいんだろう、って。

 

 ふと、右腕についた歯型が目に入った。あの人の歯型。傷跡から少し血がにじんでいた。あたしはその血を舌で舐めた。

 

 あの人の匂いがした。気のせいかもしれないけど。

 

 あたしはゆっくりと身を起こした。しなきゃいけないことは、もうわかってた。

 

 あたしはまず、エリクサーの成分を解析し直すところから手をつけることにした。手間がかかっても、薬理作用を阻害する方法を考える手がかりになると思ったから。

 自分にはもうあまり時間がないことはわかってた。あの人に噛まれたあたしも、いずれ近いうちに彼と同じ症状を発症する。それまでになんとか治療薬開発の糸口だけでも……と思って、あたしはがむしゃらに分析と調合を繰り返した。

 

 奇跡、って言っていいのかな。

 

 エリクサーの効果を中和できる、言ってみれば解毒剤を、手持ちの材料だけで調合することができたんだ。

 

 二番テーブルの試験管に入ってる液体が、その薬。

 

 ただ、この薬に効果があるのか、その時点ではわからなかった。血液感染によって引き起こされた症状を治療できる見込みに至っては、まったくないと言っていい。症状を引き起こしてるウイルスが人体に寄生するうちに変異していたら、この解毒剤はまったく効果がないかもしれない。

 

 実際に試してみる必要があった。そういう意味では、あたしがあの人に噛まれてたのは、ある意味でラッキーなことだったのかもしれない。どこかから被験者になれる人を探してくる手間が省けたのだから。

 

 あたしはできたばかりの解毒剤を飲み下した。迷いはなかった。

 

 ……エリクサーだってあの人に飲ませる前にまずあたしが自分で試せばよかったんだよね。そうしたらあの人は苦しまずにすんだのに。ふたりで作った薬をあの人にいちばんに飲んでもらいたいなんて、あたしの子どもっぽいわがままが、今回の件のすべての元凶なんだね、きっと。

 

 解毒薬を飲んでから、今で二時間くらい経ってるかな。

 あたしはまだ発症に至っていない。だけど本当に効果が出ているのかどうか、正直まだわからないんだ。いちおう三十分ごとに採血をして、あとで経過を解析する用意は整えてあるけど……まあ無責任な話だけどさ、実験データが取れたとして、あたし自身が薬を完成させるのはもう無理かなー、って思ってるんだよね。

 体にはまだあの人みたいな症状はあらわれていないけど、だんだん体力が落ちてきてる気がするのもたしか。結構呼吸が苦しくなってきてるし、眠気も強くなってきてる。解毒剤の副作用ならまだいいけど、これが感染したウイルスによる症状かもって思うと、そのほうがぞっとする。

 

 いずれにせよ、たぶんあたしはもう助からないと思う。

 

 だからあたしはこれを読んでくれてるキミに、バトンを受け取ってほしいと思ってる。

 

 エリクサーとその解毒剤の成分データと調合法、それらを服用したあたしの体に現れた所見。これらは一冊の実験ノートにまとめてある。

 薬の実物ももちろん残してあるし、採取した血液サンブルもある。

 あとは、あたしが参考にした『Hieroglyphs allegorica』の原典。

 

 これだけのものをしかるべき機関に届けてほしいんだ、キミには。

 

 届け先の候補も、実験ノートにいくつか書いておいたから、参考にしてほしい。どこもあたしが知ってる優秀な科学者がいる研究機関だから、信頼できると思う。少なくともあたしよりは、ね。

 

 実験ノートは二番テーブルの引き出しに入れておくね。目印として『ヒエログラフス』をテーブルの上に置いておくよ。エリクサーと解毒剤、それに血液サンプルは、奥の準備室にある冷蔵保管庫に仕舞っておくことにした。全部バッグにまとめて入れてあるから、それをそのまま持ち出してくれればいいよ。

 

 それと、できればあたしの体も届け先の機関に回収してもらえるよう頼んでくれないかな。たぶん、体細胞やらなんやらが検体として使えるから。

 

 感染が拡大して、万が一にも、治療薬を開発できる研究機関までやられちゃったら手遅れになりかねないから、なるべく急いで動いてくれると助かるな。こんな長々とした告白文に付き合わせたあたしが言うことじゃないのかもしれないけどさ。

 

 ああ、これでなんとか、書くべきことは全部書けたみたい。途中で発狂して中途半端になっちゃったらどうしようって、これでも結構ヒヤヒヤしてたんだよ? 錬金術の真似事なんてしようと思った時点でおまえは狂ってたんだって言われたら、反論のしようがないけど。自分が学者だなんて胸張って言えたことなんてなかったけど、今日ほど自分には白衣をまとう資格がないと思った日はなかったよ。こんなこと、人生の最後の最後まで気づかないなんて、あたしってほんとどうしようもないよね。

 

 ひょっとしたらこの部屋の外はもうひどい状況になってるのかもしれないけど、キミならきっと切り抜けられると、あたしは信じてるよ。これを見つけてくれてるとしたら……小梅ちゃんあたりかな? 単なる勘だけどさ。違ってても気を悪くしないでね。

 

 ……最後にあとひとつだけ。

 

 できればさ、あの人のことも助けてあげてほしいんだ。

 あの人こそ、バカなあたしのいちばんの被害者だから。

 

 あたしの最後のわがまま、聴いてくれると、嬉しいです。

 

 

 Dear my friend

 Shiki ICHINOSE

 

 

 *

 

 

「に、二番テーブル! って、どれだ!?」

「本が置いてある……あれか!」

 

 志希の告白文を読み終えるやいなや、一同は古めかしい本が乗った実験テーブルへ急いだ。そこは奇しくも、志希が下で眠っていたテーブルだった。いちはやく到着した凛が引き出しを開け、中を探る。

 

「あっ! こ、これじゃない!?」

 

 目的のものは難なく見つかった。凛がページを開いた大学ノートを、小梅たちは両隣から覗き込む。英語と日本語が入り混じったメモ書き、日付や時刻、気温とおぼしき数字、それに化学式らしきものが見て取れた。そして、最後のページには、大学の研究室や製薬会社の研究所と思われる名称がいくつか走り書きされていた。

 

 小梅はノートから目を上げ、重々しくうなずいた。

 

「……間違いないと思います。これが、志希さんが残した実験ノートでしょう」

 

 もちろん書かれた内容までは理解できないが、状況から見て、これしかないだろう。やや丸みを帯びた文字に見覚えがある。

 

 ただ、終わりに近いページになると、かなり筆跡に乱れも見られた。まるで、苦しさに耐えながら書きつづったみたいに。……志希は最後の力を振りしぽって、自分たちにこのノートを残してくれたのだ。そう思うと、ぎゅっと胸が締めつけられた。

 

「ヒエロなんとかってのは、こいつか……」

 

 夏樹が古書を手に取り、ページをめくっていた。紙はかなり茶色く変色しているが、厚手の表紙はあまり傷んでいない。中世の書とのことだが、おそらく後世に装丁などは修復されてきたのだろう。

 

「あ、あとは……そうだ! 薬! 奥の部屋!」

 

 弾かれたように振り向いた未央は、部屋の奥にあるドアへ飛びついた。この部屋はもともと会議室だったらしく、隣接する応接室とは中の扉からも行き来できるようになっている。志希はその小部屋を実験準備室として使用していた。

 

 準備室へ入った未央は、小梅たちの追随を待たず、すぐに戻ってきた。その手には平たい箱のようなものを持っている。

 

「冷蔵庫みたいなの中にあった! たぶんこれだよね!? 志希にゃんが言ってた、薬を入れたバッグって!」

 

 未央は持ち出してきたものを実験テーブルの上に置いた。ジュラルミン製のアタッシェケースのようだった。サイズは一般的なビジネスバッグと同程度。表面はくすんだ青色に塗装されている。

 

 小梅はみなに目で合図を送ってから、ロックを外してケースの蓋を開けた。

 

「これが……!」

 

 中に入っていたものを見て、小梅は息を呑んだ。中にはウレタン製の内部ケースがあつられられており、格納用の溝に小さな筒のようなものがいくつか収まっていた。薬品を入れるサンプル容器だろう。赤褐色の液体が詰まったものと、翡翠のような緑色の液体が詰まったものが、それぞれ三本ずつあった。ケース内部には保冷剤かなにかも入っているようで、ひんやりと冷たい。

 

「……これが、エリクサーってやつと、その解毒剤?」

 

 薬品サンプルへ目を落とし、凛が言った。

 

「おそらく……。赤いほうがエリクサー、緑のほうが解毒剤でしょう」

 

 容器にはそれぞれラベルが貼り付けられていた。これもアルファベットで書かれていたが、赤褐色の薬品のほうに付された「elixir」という綴りくらいは読み取ることができた。

 

「てことは、こっちは……」

 

 薬品サンプルと並べて収められていた小型のチューブに、奈緒が目を移した。チューブは計八本あり、それぞれに、番号と日時と思われる数字を記したラベルが貼られていた。

 

「血液サンプルです。志希さんの……」

 

 一同は押し黙った。親指大ほどの小さなチューブに小分けにされた赤黒い血。そんなもの、志希本人とは似ても似つかないはずなのに、小梅の脳裏にはなぜか、子猫のようにいたずらっぽく笑う志希の顔が浮かんだ。

 

 まるで黙祷を捧げているかのような沈黙が少し続いたあと、やがて輝子が重たそうに口を開いた。

 

「わ、私のトモダチが……す、すまない……」

 

 志希のエリクサーの精製には、輝子が育てているキノコが使われていた。輝子が胸を痛めるのも無理はない。

 

 沈痛な面持ちでうつむく輝子を見て、裕子も胸を詰まらせたように小さく叫んだ。

 

「そ、そんなことを言ったら、私だって……っ!」

 

 志希の告白文には、裕子の力もエリクサー精製に関係していると書かれていた。真偽のほどは自分たちには判断できないが、裕子が責任を感じてしまう気持ちはわかる。だけど……。

 

 小梅はふたりに近づく、そっとその手を握った。

 

「起こってしまったことは不幸だけど……でも、これはきっと誰のせいでもない……よ。輝子ちゃんのせいでも裕子さんのせいでも……志希さんのせいでも」

「小梅ちゃん……」

 

 裕子はまぶたに涙を溜め、小梅を見返した。輝子も涙をこらえたような表情で小梅を見つめていた。

 

 夏樹が背後からふたりの肩に手を置いた。

 

「小梅の言うとおりだ。おまえらのことを責めるやつなんざいねえさ。万が一そんなやつがいたら……安心しな。あたしがぶっ飛ばしてやるさ」

 

 夏樹は白い歯を見せて笑う。

 

 それを見た裕子は、いちどうつむいて右腕で目元を拭い、勇ましく顔を上げた。

 

「そうですよね……落ち込んでなんていられませんよね! 志希さんも書いていたとおり、私たちはこの世界を救わなきゃいけないんですから!」

「世界を救うって……そんな大げさな話だったか?」

 

 奈緒が苦笑まじりに返し、少し場が和んだ。ずっと気を張り詰めていたから、なんだか少し気持ちが軽くなった。

 

「でも……あながち大げさじゃないかもね、世界を救うっていうのも。もしこの薬でゾンビを治せるのならさ……」

 

 凛がそうつぶやくと、卯月が少し不安げな表情を浮かべて小梅を見た。

 

「このお薬、ちゃんと効果があるんですよね……?」

「……私たち素人ではなんとも判断できません。でも……」

 

 小梅は目線を下げ、テーブルの下で静かに眠る志希を一瞥した。

 

「ゾンビに噛まれたからなのか、それとも薬の副作用かなにかのためなのか、志希さんの死因はわかりませんが……ただ、志希さんの体にゾンビ化の兆候が現れていないことはたしかです。解毒剤の効果に……希望を持ってもいいと思います」

 

 自分自身に言い聞かせるように、小梅は語気を強めた。今はとにかく、可能性に賭けるしかない。

 

 みなも異論はないようだった。夏樹が全員の顔を見渡してから、薬と血液サンプルが詰められたアタッシェケースの蓋をそっと閉じた。

 

「じゃあ、こいつを志希が勧めてる研究機関ってやつに届ける。それでいいな?」

 

 首肯をためらう者はいなかった。ここまでくればもうあとには引けない。

 

「志希が命賭けて残してくれたもの……だもんね」

「プロデューサーも、この薬で元通りにできるかもしれないしね……」

 

 凛がそうつぶやくと、卯月が少し不安げな表情を浮かべて小梅を見た。

 

「このお薬、ちゃんと効果があるんですよね……?」

「……私たち素人ではなんとも判断できません。でも……」

 

 小梅は目線を下げ、テーブルの下で静かに眠る志希を一瞥した。

 

「ゾンビに噛まれたからなのか、それとも薬の副作用かなにかのためなのか、志希さんの死因はわかりませんが……ただ、志希さんの体にゾンビ化の兆候が現れていないことはたしかです。解毒剤の効果に……希望を持ってもいいと思います」

 

 自分自身に言い聞かせるように、小梅は語気を強めた。今はとにかく、可能性に賭けるしかない。

 

 みなも異論はないようだった。夏樹が全員の顔を見渡してから、薬と血液サンプルが詰められたアタッシェケースの蓋をそっと閉じた。

 

「じゃあ、こいつを志希が勧めてる研究機関ってやつに届ける。それでいいな?」

 

 首肯をためらう者はいなかった。ここまでくればもうあとには引けない。

 

「志希が命賭けて残してくれたもの……だもんね」

「プロデューサーも、この薬で元通りにできるかもしれないしね……」

 

 凛と未央が口々に言った。

 

 そうだ。この解毒剤を完成させれば、プロデューサーを救えるかもしれない。小梅たちはもともとそのために志希を探していたのだ。その志希こそがプロデューサーをゾンビにしていたことには驚かされたが、だからこそ志希もまた、プロデューサーの回復を願っている。

 

 同じ未来を夢見ているのだ。志希も含め、ここにいる全員が。

 

「ああ、そういえばさ――」

 

 奈緒がテーブルの下へ目をやった。

 

「志希のことは……どうする? さっきのメモには検体がどうとかって書いてあったけど……」

 

 志希は、血液サンプルを提供するだけでなく、死後は自分の体を病理解剖に回すことも希望していた。解毒剤の開発に役立ててほしいというのだ。ただ……。

 

 小梅は志希のかたわらにしゃがみこみ、彼女が脱ぎ捨てた白衣を手に取った。

 

「……私たちだけでは、さすがに連れていくことはできません。心苦しいですが、後日遺体を回収してもらえるよう頼むしか……」

 

 凛がすっと隣に座り、小梅の肩を抱いた。

 

「つらいけど……そうするしかないね。でもせめて、どこか広いところへ寝かせといてあげない? ここじゃ、志希も安心して待っていられないでしょ? きっと」

 

 優しげに目を細める凛に、小梅も穏やかな笑みを返した。

 

「はい……そうですね」

 

 志希の遺体は、みなで協力して奥の実験準備室へと運び込んだ。当然ベッドなどはなく、結局のところ床に寝かせるしかなかったのだが、控え室から持ってきていたブランケットを敷いて、なんとか格好をつけた。胸の前で手を組ませ、上からもブランケットをかぶせてやり、一同はしばらくのあいだ祈りを捧げた。

 

 最後に、小梅は志希がいつも羽織っていた白衣を彼女にかけてやった。

 

「志希さん……あなたは最後まで立派な科学者でした。必ず迎えにきますから、少しだけ待っていてください」

 

 穏やかな表情で目を閉じる志希は、かすかにだけれど、微笑んでいるようにも見えた。



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18

 準備室を出ると、裕子がいつになく思いつめた表情でみなを見つめた。

 

「あの、お薬のケースですけど……私に持たせてもらえませんか!?」

「裕子ちゃん……」

 

 彼女の気持ちはよくわかった。無自覚だったとはいえ、このゾンビ騒動の発端には裕子もおおいに関わっていた。やはり思うところもあるのだろう。

 

 そんな裕子の思いを汲み取ったのか――。

 

「……ほらよ」

 

 夏樹は解毒剤の入ったアタッシェケースを裕子に向けて突き出した。

 

「い、いいんですか?」

 

 かくもすんなりと願いが聴き入れられるとは思っていなかったらしく、裕子はきょんとした表情を浮かべた。

 

 夏樹はふ、と笑みをこぼす。

 

「おまえが持ちたい、って言ったんだろうが。あたしら全員の希望が詰まったモンだ。しっかり守ってくれよな……自慢のサイキックパワーってやつでさ」

 

 胸元に拳を突きつけられた裕子は、その顔にみるみる喜色が広げていく。

 

「は、はいっ! このエスパーユッコにおまかせあれっ。ムムムムンッ!」

 

 裕子はアタッシェケースをしっかりと抱きかかえると、梅干しを丸呑みしたときみたいにぎゅっと顔をしかめた。念を込めているつもりらしい。

 

 夏樹はというと、なんだか照れくさそうに裕子から顔をそむけていた。

 

「意外とツンデレだよなあ、夏樹も」

 

 仲睦ましげなふたりを見て、未央が苦笑を漏らした。

 

「じゃあケースのほうはユッコちゃんに任せるとして……ノートと本のほうはどうする?」

 

 未央は志希から託された残りの品、B5版の薄い実験ノートと古書をテーブルから取り上げ、小梅をうかがった。

 

 ノートと古書を受け取った小梅は、くるりと体の向きを変えた。

 

「これは……卯月さん、お願いできますか?」

「わ、私ですか?」

 

 卯月は自分の顔を指さし、パチパチと目を瞬かせた。

 

「ええと、まとめてバッグに入れておいてもらえると……」

「あっ、そ、そうですよねっ」

 

 卯月は自分がトートバッグを肩に提げていることをようやく思い出したようだ。細かな品をまとめておける容れ物といえばあれくらいしかない。

 

「それと、念のためこのノートパソコンも持っていきましょう。中に参考になるデータが残っているかもしれません」

 

 小梅はノートパソコンの電源を落とし、ノート、古書に続けて卯月に手渡した。

 

 託された品々を慎重にトートバッグへ収めると、卯月はいささか緊張した様子で、両手を胸の前で握った。

 

「裕子ちゃんみたいな超能力はないですけど……わ、私も頑張ります!」

 

 聴きようによっては間の抜けた卯月のセリフに、未央は小さく吹き出した。

 

「うん、頼んだよ、しまむー。それじゃあ私は……」

 

 未央は小梅たちに背を向けると、なぜかまた準備室のほうへ入っていった。なにをするのだろうと不思議に思っていると、ほどなくして戻ってきた未央の手には、透明のビニール傘が握られていた。

 

「あ、それ……」

「さっき志希にゃんを運んでるときに見つけたんだ。志希にゃんの私物かな? これやっぱり、武器になるかなって」

 

 そう言いながら未央は、片手で持ったビニール傘を軽く振った。手への馴染み具合を確かめるように。

 

 そんな未央を、卯月が不安げに見つめる。

 

「で、でも、未央ちゃん……、平気……なんですか?」

 

 ビニール傘。未央にとってそれは、嫌な記憶を呼び覚ましかねないもののはずだ。未央はこれとよく似た傘でいちど、プロデューサーを手に掛けようとしたことがある。卯月が心配する気持ちは痛いほどよくわかる。

 

 未央は右手に握ったビニール傘にふと目を落とし、憂い顔を浮かべた。

 

「たしかにあんまりいい思い出はないけどさ……でも、もう大丈夫だよ。変な話だけど、私はほうきよりもこっちのほうがしっくり来るんだよね。剣士! って感じでさ」

 

 未央はビニール傘を構え、気丈におどけてみせた。しかしその表情はすぐにまた、まじめなものに変わる。

 

「……それにさ、情けないことも言ってられないでしょ? プロデューサーを助けにいくならさ」

 

 未央は精一杯作ったような笑みを小梅たちに向ける。

 

「……わかりました。でも未央さん……、決して無茶はしないでください」

 

 小梅が心からそう告げると、未央は穏やかに目を細め、うなずいた。

 

「わかってる。もうみんなに心配かけるような真似はしないって誓うよ」

 

 未央は小梅の頭を優しくなでると、もともと持っていたほうきを小梅に託した。

 

「こっちは小梅ちゃんにあげるよ。使い方は……奈緒にでも訊いてよ」

 

 自分の名が耳に入ったのか、奈緒がこちらへ振り向いたが、未央はなんでもないと目だけで返した。

 

 小梅は譲り受けたほうきをしっかりと握りしめた。未央の思いも引き継げるように。

 

「そろそろ出ようか。みんな、準備はいい?」

 

 頃合いを見計らって、凛がみなに声をかけた。その凛はあいかわらずモップを携えている。準備は万端なようだ。

 

 ほかの者ももうやり残したことはないようだったが、そんななかでひとりだけ、おずおずと片手を上げる者がいた。

 

「あ……、す、少しだけ待ってて、も、もらえないか? すぐに済む……から」

 

 輝子だった。輝子は志希のいたテーブルに駆け寄ると、そこに置かれたままだったキノコの鉢を手に取った。プロデューサーの手で持ち出され、志希のもとに持ち込まれていたほうの鉢だ。

 

「そっか……、トモダチも一緒に連れていかなきゃね」

 

 しかし輝子は、小梅の言葉に首を振った。

 

「い、いや……。連れていくけど……、こ、この子は、く、薬と一緒に、が、学者の先生に調べてもらおうと……思う」

「え……?」

 

 小梅は一瞬耳を疑った。たしかに、薬の精製に使われたこのキノコも重要な資料には違いないだろうが……。

 

「いい……の? ずっと探してて、やっと見つけたトモダチなのに……」

 

 輝子はこくりとうなずいた。

 

「い、いいんだ。げ、解毒剤を作るなら……きっとこの子も、必要になる……だろ? それに……」

 

 輝子は小梅たちに背を向けると、準備室のドアの前へ行き、もともと持っていたほうの植木鉢をそこに置いた。まるで、ドアの向こうで眠る志希に花を手向けるかのように。

 

 振り返った輝子は、ぎこちなく口元をほころばせた。それは彼女にとっての、精一杯の笑みだ。

 

「ど、どんなに離れていても、どんな姿になっても……、ト、トモダチは、トモダチ……だ」

 

 その言葉の宛先は、さまざまな方面に及んでいるように、小梅には思えた。

 

 

 *

 

 

 志希の実験室を出て下りの階段にさしかかったところで、小梅はそばにいた卯月に向かってぽつりと漏らした。

 

「……輝子ちゃんが準備室の前にキノコの鉢を置いたのは、正解だったかもしれませんね」

「え? どういうことですか?」

 

 小梅は前を歩く輝子の背中を見ながら続ける。

 

「卯月さん、この建物に入る前、輝子ちゃんがゾンビに襲われかけたときのこと、覚えていますか?」

「え、ええ、もちろん……」

 

 卯月は表情を曇らせた。あのときの恐怖を思い出しているのだろう。ゾンビは結局輝子に襲いかかることなく離れていき、事なきを得たのだが。

 

「でも、それがどうかしたんですか?」

「不思議だったんです。あのとき、あのゾンビはどうして目の前にいた輝子ちゃんを無視したんだろう、って……。その理由が、志希さんの告白文を読んでわかりました」

「えっ、本当ですか?」

 

 卯月は目を丸くした。この様子だとやはり、輝子のキノコの秘密に気づいたのは自分だけだったようだ。小梅は先を続けた。

 

()()()のせいじゃないかな、と思うです」

()()()?」

「ええ、()()()()()()()です。ゾンビ化は血液感染によって引き起こされてますが、志希さんによると、()()()()()ゾンビ症状を発症させたエリクサーの精製には、輝子ちゃんの育ててキノコが使われています。ですから、ゾンビ化した生物の体液や体臭にも、ほんのわずかではあってもキノコの成分が残っているんじゃないでしょうか」

 

 思い起こせば、小梅たちは今日、さまざまな場面でこのにおいを嗅いできた。倒れたプロデューサーが吐いた息も、今から思うとキノコ臭がしていた。志希の実験室に足を踏み入れたときに鼻をついた異臭も、エリクサー精製に使われたキノコの香りだったのだろう。そういえばあのとき、輝子だけは平気な顔をしていたようにも思う。普段からキノコに囲まれている輝子は、においが気にならなかったのだろう。

 

「つまりゾンビさんたちは、キノコのにおいをさせている、ってことですか?」

「はい。もちろん、血液感染をしたゾンビのキノコ臭は、普通の人間では嗅ぎ分けられない程度でしょうけど。ただ、ゾンビは普通の人間よりも五感が鋭敏になっているようですから、私たちには嗅ぎ取れない微弱なにおいも嗅ぎ分けているんだと思います。獲物のにおいや、同類のにおいを……」

「獲物と……同類」

「輝子ちゃんはあのとき、エリクサーの原料に使われたものと同じ種類のキノコを手にしていました。だから、あのゾンビは、自分たちと同じにおいを発する輝子ちゃんを獲物だとは認識できなかったんじゃないでしょうか」

 

 いや、おそらくあのときだけではない。輝子はキノコの鉢を肌身離さず持ち歩いていたはずだ。そういえば、一緒にいた裕子がゾンビに囲まれたとは聴いたが、輝子に関してはそうした話は聴かなかった。夏樹と合流したあとも、再三見回りをしながら無事でいられたのも、もちろん夏樹と裕子の活躍もあったとはいえ、輝子のキノコがゾンビの鼻をごまかしていたことも大きいのだろう。

 

「あっ、なるほど。あのキノコがゾンビさん除けになるなら、準備室の前に置いておけば、あとでゾンビさんが実験室まで入ってきても志希ちゃんを守ってくれるってことですね。蚊取り線香みたいに!」

 

 卯月のあいかわらず妙にほのぼのとしたたとえには苦笑させられたが、理解としては間違っていない。

 

「志希さんの遺体を回収してもらう前に、ゾンビに持ち去られでもしたら大変ですからね。効果のほどは……期待していいと思います」

 

 というより、信じるしかなかった。なにより、安らかに眠る志希がゾンビによって蹂躙される場面など、想像したくもなかった。

 

 そんな話をしているあいだに、小梅たちは建物の一階エントランスホールまでたどり着いていた。一行はそこで一旦足を止める。

 

「薬やらなんやら一式をどっかの研究機関に届けるってことは、今からこの事務所から出てく……ってことでいいんだよな?」

 

 夏樹が小梅にたずねた。問いかけというよりは、確認に近い口ぶりだったが。

 

「ええ……。アタッシェケースには保冷剤も入れられていますけど、そう長くは保存できないはずです。あとで成分を調べてもらうことを考えると、なるべく早くしかるべきところに預かってもらったほうがいいと思います」

 

 そうでなくとも、すでに急速な広がりを見せているゾンビ感染を食い止めるためには、一刻の猶予も許されないだろう。

 

「でも、どうやって移動するの? 今は建物のなかであいつらはいないけど、門のところにはうじゃうじゃいるし、外に出ればもっとひどい状況になってるかもしれない」

 

 凛の言うとおりだった。ゾンビ感染が拡大しているというこの現状じたいが、小梅たちの行く手を阻む最大の障壁になっているのだ。

 

「あっ、輝子ちゃんのキノコに守ってもらったらどうでしょう」

 

 卯月が突拍子もないことを言い出したと思ったのか、みなは怪訝そうな表情を浮かべた。小梅はあわてて卯月に話した説をみなにも伝えた。

 

 話を聴き終えると、夏樹は顎に手を当てて考え込むしぐさをとった。

 

「……なるほどな。しかし、そのキノコの効果ってのは、確実に全員の身の安全を保障できるものなのか?」

 

 核心をついた指摘だった。小梅は目を伏せざるをえなかった。

 

「いえ……。ゾンビの入室を妨げるだけならまだしも、ゾンビの群れをかいくぐるとなると、やはりこれだけでは心もとないと思います……。ゾンビだって、鼻だけじゃなく、目も耳も利かせているでしょうから……」

「……ま、そうだわな……。てことは、あたしのギターもどこまで通用したもんか怪しいってことだな……」

 

 本人の手前、わざわざ口にはしなかったが、夏樹の言うとおりだろう。彼女のギターでゾンビを操るという手も、あまりに多数の敵相手では限界がありそうだった。

 

 小梅だけでなく、みな一様に押し黙ってしまった。誰もいい手を思いつけずにいるのだろう。小梅たちがギターとキノコのほかに今手にしているゾンビへの対抗手段といえば、ほうきとモップとビニール傘、あとは懐中電灯くらいだ。こんな装備で大量のゾンビが闊歩しているに違いない街中へ向かうのは、あまりにも無謀に思えた。

 

 なにかほかに打つ手はないのか? 小梅がなんとか頭をひねろうとしたとき――。

 

「……しゃあねえなあ……」

 

 夏樹がぽつりとつぶやき、首筋を掻きながらため息をついた。

 

「なんか思いついたの? 夏樹」

 

 未央の問いかけに、夏樹は渋面を返した。

 

「ひとつだけ思いついちまった……。正直、あんまり自信はないんだがな……」

「な、なに?」

 

 未央がやけにもったいつける夏樹を急かすと、ほかの面々も一様に緊張に息を呑んだ。

 

 夏樹はそんなみなの顔を見渡すと、おもむろに口を開いた。

 

「要は、全員が安全に移動できればいいわけだろ? だったら……地下へ行こう」

「ち、地下?」

 

 未央たちがいぶかしげに眉間にしわを寄せると、夏樹はライダースジャケットのポケットへ手を入れ、中からなにかを取り出した。

 

「ああ、地下()()()だ。()()()()()()()()

 

 夏樹がみなに見せたもの、それは、自動車のキーだった。

 

 

 *

 

 

 小梅たちが今いるビルの地下は屋内駐車場になっている。事務所職員の自家用車や来客の車のほか、事務所所有の社用車やロケバスなども停められている、広い駐車場だ。

 

 通常、小梅たちが事務所からロケバスなどに乗る際はおもてまで車を回してもらうことが多い。だから地下まで降りていく機会はそれほどなかった。だが、自分のバイクで事務所に乗りつけることも少なくない夏樹は、普段からよく地下駐車場を利用しているそうだ。エレベーターを使わず非常階段から地下へ降りるルートを、夏樹は小梅たちに案内してくれた。

 

「車って……夏樹のじゃ、ないよね?」

 

 凛が、非常階段に響く自分たちの足音を少し気にしながら、先頭を行く夏樹に問いかけた。

 

 夏樹は前を向いたまま答える。

 

「……ああ。これはたぶん、ロケバスのキーだ」

「どうしてわかるの?」

 

 夏樹が一瞬だけ返答をためらったように見えた。

 

「……裕子たちと合流する前、中庭で偶然会った知り合いの運転手が落としていったんだ。……その人はもう、ゾンビになってたがな」

「……」

 

 かけるべき言葉を見つけられなかった。

 

 気まずげな面持ちを浮かべるみなに、夏樹は振り返って気丈な笑みを見せた。

 

「言っとくが、さっきキーを出し渋ったのは別に、こいつに嫌な思い出があるからってわけじゃないぜ。そりゃ、あんな姿になった知り合いがいたのには驚いたけどよ……。あたしが心配してるのは運転だ」

「運転……?」

「単車は普段から転がしてるが、さすがに四輪を走らせたことはまだないからな。……よし、この先が駐車場だ」

 

 夏樹は目の前に現れた鉄扉を押し開け、地下駐車場へ足を踏み入れた。

 

 扉の向こうには、無機質なコンクリートの空間が広がっていた。ここも非常灯がともっており、かなり薄暗いがなんとか視界はききそうだ。目が慣れてきたところで、夏樹が左右を見渡して体の向きを変えた。

 

「ロケパスが停まってる区画は……たぶんあっちだ」

 

 夏樹が指差した方向へ、一同は歩きはじめる。

 

 等間隔に立つ太い柱を懐中電灯で照らすと、そこには、アルファベットと数字が大きく書かれていた。区画表示だろう。小梅たちはそれを頼りに、目的の場所を探して奥へ進んだ。

 

 カツーン、カツーンと、自分たちの足音がコンクリートの広い空間に反響する。不気味な雰囲気に怯え、気がつけば一同は隣の者と互いに袖を掴み合うようにして身を寄せて歩いていた。

 

 不安と恐怖に苛まれながら歩くこと、数分。

 

「あ、あれか!?」

 

 白抜きの文字で「E3」と書かれた柱を奈緒が指差した。

 

 その区画の、壁に面した駐車スペースに、ロングバンタイプの乗用車が数台並んで停められていた。

 

「いつもロケに行くときに乗る車ってあれだよな!?」

 

 小梅も見覚えがあった。事務所から仕事現場へ移動する際などに何度か乗ったことがある。

 

 一同は小走りで車へ近づいた。が、ずらりと並んだロングバンはどれも同じデザインで、見分けがつかない。卯月がおろおろと視線を左右にさまよわせる。

 

「ど、どの車でしょう?」

 

 夏樹が片手を挙げた。

 

「キーについてるタグにカーナンバーが書かれてる。一台ずつナンバープレートを確かめていきゃ――」

「――おっと、そこまでですよ」

 

 やけによく通る声が、夏樹の言葉を遮った。

 

 カツーンと不気味に響く靴音に吸い寄せられるように、小梅たちは一斉に振り返った。

 

 いったいいつからそこにいたのか――小梅たちの数メートルうしろで、男がひとり、ニタニタとした笑みを浮かべていた。

 

「おやおや、みなさんお揃いで、いったいどちらへ? ひどいなあ、僕を置いてみんなで出かけようだなんて」

 

 ボロボロになったビジネススーツに、緑がかって皮膚がただれた頬。

 

 見間違えようもなかった。

 

 控え室で気を失っていたはずのプロデューサーが、そこにいた。



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19

「な、なんであんたがここに……!」

 

 驚愕に目を見開いた凛に、プロデューサーは楽しげな顔を返した。

 

「もちろん、みなさんを追いかけてきたんですよ。じつは僕、鼻がきくんです」

 

 プロデューサーは鼻の頭を指先でつついた。まさか……、こちらのにおいをたどってここまでたどり着いたというのか。

 

 小梅は警戒心のこもった目で彼をうかがう。

 

「いつ……目を覚ましたんですか?」

 

 プロデューサーはわざとらしく考え込むしぐさを見せた。

 

「ほんの三十分ほど前ですよ。起きたら部屋の中にみなさんがいないものだから、あわてて出てきたってわけです」

 

 プロデューサーはきざっぽく肩をすくめた。少しもあわてていたようには見えない。

 

「お、おい……、あんた、本当にプロデューサーなのか?」

 

 夏樹がおそるおそるといったふうに問いただした。そうか……。夏樹、それに裕子と輝子は、こうなったあとのプロデューサーとは初対面になるのか。変わり果てた姿に驚くのも無理はない。中身は人間だったころとあまり変わっていないのだが。

 

「ご無沙汰してます、木村さん。お元気そうでなによりです」

 

 皮肉めいた挨拶に、夏樹は口元をゆがめた。

 

「へっ、そりゃどうも。あんたのやんちゃ振りも、こいつらから聴かされてるぜ」

 

 夏樹は顎を振って小梅たちを指した。同時に、背負っていたギターを慎重に胸の前に構える。機を見てギターを鳴らし、音でプロデューサーの動きを止めようという魂胆だろう。

 

 だがプロデューサーはピックを握った夏樹を見て、ニヤリと口角を持ち上げた。

 

「ゾンビは音に反応する」

 

 いきなり低い声で告げられ、弦を弾こうとしていた夏樹の手がびくりと止まった。

 

 驚いた夏樹の顔を見て、プロデューサーはおかしそうに肩を揺らした。

 

「自分たちの体のことですから、そりゃあわかります。いや、だんだんとわかってきた、と言うべきでしょうかねえ。たとえば、こんなこともできるようになったんですよ?」

 

 そう言うと、プロデューサーは大きく息を吸い込み、雄叫びでもあげるかのように大口をあけた。

 

「な、なに!?」

 

 一同はとっさに自分の耳を塞いだが、おかしなことになんの声も音も聞こえてこなかった。小梅たちはそろって怪訝な顔つきになる。

 

「あんた……いったいなにしたのよ?」

 

 警戒心を露わにする凛を前に、プロデューサーは愉快そうに肩を揺らした。

 

「ステージの準備ですよ。あなたたちにもじきにわかります。さて――舞台が整うまでにもう少々時間が掛かりそうです。それまで、みなさんにはちょっとレッスンを受けていただくことにしましょう」

 

 レッスン――? 小梅たちが言葉の意味を理解するより先に、プロデューサーは頭上でパチンと指を鳴らした。

 

 その合図を待っていたかのように――。

 

「……ググルルルル……ッ!」

 

 プロデューサーの背後にある柱の陰から、ぬっと人影が現れた。

 

 長い黒髪に、白黒柄のTシャツ。見覚えがある――いや、知り合いだ。

 

「ト、トレーナーさん!?」

 

 卯月が驚きと恐怖が入り混じった叫び声を上げた。小梅たちにとっては、最初に控え室を出て廊下で襲われたとき以来の再会だった。

 

 まさか……プロデューサーはトレーナーも仲間に引き入れていたのか?

 

「彼女だけじゃありませんよ。ここまで生き残ったみなさんには、346プロの総力を上げてレッスンをしてさしあげねばなりませんからね」

「あ……っ!」

 

 プロデューサーの言葉で、小梅たちは別の柱や近くに停まった車の陰から、さらに三つの影が這い出てきていることに気づいた。

 

「う、嘘だろ、おい……!」

 

 奈緒が驚愕に染まった顔になり、言葉を失う。

 

 姿を現した、よく似た顔立ちの四つの人影をまなざし、未央が唇を震わせた。

 

「ル、ルキちゃん……、それに、お姉さんたちまで……」

 

 青木四姉妹。ここ346プロダクションで、小梅たち所属アイドルの歌や踊りのレッスンを担当しているトレーナー陣である。その名のとおり四人とも実の血縁者であり、美人姉妹としても知られていた。

 

 しかし目の前に現れた彼女たちに、往時の面影はもはやない。服はところどころ破れ、髪の毛も乱れ、皮膚はただれ――人としての体裁を保っていない。ゾンビだった。

 

「グルググググゥ……ッ」

 

 獣じみたうなり声を上げながら、小梅たちのほうへにじり寄ってくる四姉妹。

 

 プロデューサーは軽くバックステップを踏んで彼女たちの背後に下がると、薄闇のなかで不敵な笑みを浮かべた。

 

「さあ、レッスンを開始しましょう。来たるべきステージのためのね」

 

 プロデューサーがパンと手を打ち鳴らすと――。

 

「ヴォオォッ!」

 

 四姉妹の目の色が変わり、こちらへ威嚇するかのように短い咆哮を放った。

 

「きゃあっ!」

 

 ひるんで身を縮こまらせた卯月を、夏樹が背中で背後へ押しやる。

 

「く……そっ、付き合ってられるかっての!」

 

 夏樹は近づきつつある四姉妹に背を向け、卯月と小梅をぐいと向こうへ押した。

 

「逃げるぞ! 車に乗り込んじまえばこっちのもんだ!」

「お――おうっ!」

 

 一瞬だけ二の足を踏んだ一行だったが、いちはやく動き出した未央を先頭に、ロケバスが駐車されているスペースへ向けて駆け出そうとした。

 

 だが――。

 

「おっと、そうはさせませんよ!」

 

 叫ぶと同時、プロデューサーは地面を蹴って空中に跳び上がった。助走もなしのジャンプ。にもかかわらずプロデューサーは小梅たちの頭上を軽く飛び越え、先頭を行く未央の目の前に着地した。

 

 突然行く手を塞がれた未央はつんのめるようにして足を止めた。後続の小梅たちも玉突きのようにストップさせられる。

 

 プロデューサーはといえば、着地の衝撃によろめくこともなく余裕の構えを見せていた。

 

「おいおいおい……っ、前よりもジャンプ力上がってないか!?」

 

 奈緒の素っ頓狂な声を聴き、プロデューサーはクツクツと笑いを漏らした。

 

「そうかもしれませんねえ。自分でも不思議なんですがね、以前よりも身軽になっているみたいなんですよ。どうも、やられて意識を取り戻すたびに体力が上がっているようですね」

「な、なんだよそりゃ!? サイヤ人かよ!?」

 

 ……ウエイトトレーニングの分野では、傷ついた筋繊維が修復される過程でその強度を増す「超回復」という現象があるらしいが、それと似たようなものだろう。いや、ゾンビ化したことで、身体能力の強化度合いも飛躍的に向上しているのかもしれない。

 

「話には聴いてたが……、想像以上のバケモンだな、あんた……」

 

 夏樹がひきつった笑みを浮かべて、皮肉めいた感想を漏らした。

 

 プロデューサーは愉快そうに口の端を持ち上げる。

 

「お褒めいただいて光栄です。でも、レッスンさえ積めば、あなたたちもこのくらいの芸当は朝飯前になりますよ」

 

 意味深なセリフとともに、プロデューサーはすっと片手を上げた。

 

 小梅たちは即座に、背後に迫る気配を感じ取った。

 

「ギガァ……ッ」

 

 すぐさま振り返ると、トレーナー四姉妹が数メートル先まで迫ってきていた。逃げ込もうとしていたロケバスへの道はプロデューサーに塞がれている。完全に挟み撃ちにされてしまった。

 

「くそ……っ」

 

 数回前後へ視線を振った夏樹は、とうとう小さく舌打ちしてギターを構えた。

 

「……やるしかねえ!」

 

 その言葉に呼応し、ほかの者もそれぞれの武器を構えた。

 

「ようやくやる気になってくれましたね。ふふふ、嬉しいですねえ」

 

 凛と小梅のふたりから切っ先を向けられているというのに、プロデューサーはにやついた面構えを崩そうともしない。

 

「卯月と裕子は下がってて!」

 

 凛がかたわらにいたふたりに向かって怒鳴った。

 

「は、はいっ」

 

 卯月と裕子はそれぞれの荷物を胸に抱いて凛の背後へ隠れた。

 

 ふたりが守るように隠した荷物――トートバッグとアタッシェケースを覗き込もうとするように、プロデューサーはわざとらしく首を伸ばした。

 

「ほう? それはひょっとして、一ノ瀬さんからの預かり物ですか?」

「あ、あんたには関係ないでしょ」

 

 凛が硬い声でごまかすと、プロデューサーはそれをからかうようにクククといやらしい笑いをこぼした。

 

「安心してください。そんなものに興味はありません。僕が欲しいのは、あなたたちだけです」

 

 聞きようによってはくさいセリフを吐くと同時に、プロデューサーはパチンと指を鳴らした。それを待っていたと言わんばかりに――。

 

「ガウッ!」

 

 トレーナー四姉妹が、一斉に夏樹たちへ飛びかかった。

 

「うあああっ!?」

 

 一直線に向かってきた相手を、奈緒はとっさにほうきを横にして食い止めた。あれは三女の青木明だろうか。飢えた犬のようにほうきの柄に噛みついているその歪んだ形相には、穏やかだった彼女の美貌はもはや見る影もないが。

 

「く……っ!」

「ちっ……!」

 

 未央と夏樹も、ビニール傘とギターで、向かってきた相手の攻撃をそれぞれ防いできた。輝子はとっさに懐中電灯をともして相手をひるませたようだ。未央が次女の聖と、夏樹が長女の麗とそれぞれ相対している。輝子が退けたのは末の妹、慶だ。

 

 四姉妹にはプロデューサーのような理性は戻っていない様子だが、その敵意は明らかだった。それが本能的なものなのか、プロデューサーの命令によるものなのかはわからない。いずれにせよ――。

 

 小梅が叫ぶと、プロデューサーはにやりと笑みを浮かべた。やはり彼の狙いはこれなのか――彼は小梅たちに()()()()()()()()()つもりなのだ。

 

「く……そ野郎がぁっ!」

 

 夏樹も敵の狙いを察したか、両足を踏ん張り、ギターに噛みついていた長女・麗を力任せに押し返した。さらに腹へ前蹴りを入れて相手との距離を取ると、右手ですばやく弦を押さえる。

 

「へっ……、歯ギターが許されるのはジミヘンだけだぜ? おしおきに、これでも食らいやがれっ!」

 

 叫ぶと同時に、夏樹はギターをかき鳴らした。力強い和音がコンクリートの空間にこだまする。おそらく、夏樹が独自に発見したという、ゾンビの動きを止められる旋律なのだろう。

 

 ところが――。

 

「グウウウゥ……」

 

 麗はまったく動じることなく、鋭い目つきで夏樹を睨みつけながらふたたび前進してきた。

 

「な……!?」

 

 予想外の出来事に夏樹はうろたえた。が、すぐに気を取り直し、もういちど左手を弦に振り下ろす。さきほどと同じ音色があたりに響き渡る。

 

「……ヴォウ!」

「なっ……!?」

 

 だが、麗はやはりまったくひるむことなく手を出してきた。夏樹は驚愕しつつも、とっさにギターを持ち上げて麗の右手を防いだ。彼女の爪が弦を弾いたのか、間延びした不協和音があたりに響く。

 

 コンクリートを伝って遠ざかっていく音の余韻のなかで、プロデューサーがクククと噛み殺したような笑いを漏らした。

 

「残念でしたねえ。彼女たちはもう、木村さん、あなたのギターじゃ()()()くれませんよ」

「なんだとぉ……?」

 

 夏樹は顔をしかめて背後のプロデューサーをちらりとうかがったが、周囲の状況に気づき、愕然として立ちすくんだ。

 

「うはぁ!?」

「く、来んな来んな来んなっ! このっ!」

「う、ううっ……!」

 

 未央も奈緒も輝子も、襲いかかってくる敵を必死の体でしりぞけていた。トレーナーたちは誰ひとりとして苦しがる様子を見せていない。夏樹のギターは、さっきたしかにあたりに鳴り響いたというのに。

 

 プロデューサーはふたたび人を小馬鹿にしたような笑いをこぼした。

 

「言ったでしょう? 僕たちが音や光に敏感なことには気がついていると。それに、そちらに木村さん、あなたがいることはにおいでわかりましたから、事前に手を打っておいたのですよ」

「手……だと?」

「ええ。ギターの音を聴いても反応しないように、ちょっとここをいじらせてもらいました」

 

 そう言ってプロデューサーは、人差し指を自らのこめかみに当て、指先をぐりぐりとこねてみせた。

 

 そのしぐさの意味を理解した途端、小梅の背筋に怖気が走った。

 

「なんてことを……!」

「狂ってる……!」

 

 小梅と凛から非難の目を向けられても、プロデューサーは愉快げにこちらを見返すだけだった。……本当に、狂ってしまったとしか思えない。

 

「さ、おしゃべりはここまでです。みなさん、そろそろ本腰を入れてレッスンに励んでください」

 

 プロデューサーは小梅たちから視線を切ると、四姉妹のほうを見やりつつ軽く手を叩いた。その途端、四姉妹の目の色があきらかに変わり――。

 

「ガウオウアッア!」

 

 次の瞬間、四姉妹は揃って激しい咆哮を放ち、一斉に目の前の獲物へ飛びかかった。

 

「う、うわっ!」

「あ……っ!?」

 

 それまではなんとか互角に応戦していた未央と奈緒も、今度ばかりは相手の勢いに負け、後方へ弾き飛ばされた。尻もちをついたふたりに、聖と明がすかさず覆いかぶさる。

 

「未央! 奈緒!」

「おっと、木村さん。よそ見はいけませんよ?」

「ガウァッ!」

「っ!」

 

 わずかに目を離した隙に飛びかかってきた麗の手刀を、夏樹はまたもギターを盾にして防御した。しかし今度は――。

 

「くそっ、弦が……!」

 

 ネックから髭のように横に飛び出た弦を見て、夏樹はいまいましげに舌を打った。麗の鋭い爪で弦が切られてしまったらしい。

 

「フハハハッ! これでどのみちギターはもう使えませんね!」

 

 プロデューサーは高笑いを上げたのち、手駒に指令を下す将軍のごとく、右手を前に突き出した。

 

「さあ、慶さんも、遠慮はいりませんよ!」

 

 四つん這いの体勢で輝子の隙をうかがっていた四女は、プロデューサーの命を受け、輝子めがけて獣のように地面を駆け出した。

 

「ひ、ひ……っ」

 

 輝子はあわてて懐中電灯を向けるが、猫のようにすばっしこく動く慶の顔にうまく光を当てられない。光のビームをかいくぐった慶が輝子の胸元めがけて飛びかかる!

 

「っ!」

「輝子! ……このっ!」

 

 慶の牙が輝子の腕に達する寸前――とっさに振り向いた凛が、ふたりの間にモップを突き入れた。モップの柄に歯をぶつけた慶は、奇声を上げながら後ろ向きに地面を転がった。しかし慶はすぐに体勢を立て直し、血まみれになった歯茎を剥き出しにして輝子と凛を睨み返した。

 

「ほほう、なかなかやりますね、渋谷さん。でも油断は禁物ですよ? こう見えて、慶さんは姉妹のなかでもいちばん打たれ強いみたいですから」

 

 

 プロデューサーがにやにやと薄笑みを浮かべて言う。なにが「こう見えて」だ――。彼女たちをこんなふうに壊したのは、自分のくせに!

 

 しかし、怒りに身を任せる余裕すら、凛たちには与えられていなかった。

 

「うわああっ!」

「は、離れろっ、この……っ!」

「ちくちょうめが……っ」

 

 それぞれの敵と交戦していた未央、奈緒、夏樹の三人が、相手に押しやられてじりじりと後退してきた。互いの背中がぶつかる。気づけば小梅たちは、追い詰められて一箇所に固まっていた。

 

「ヴァガゥアァゥア!」

 

 四姉妹は猛り狂ったかのように咆哮を上げながら、ひっきりなしに攻撃を仕掛けてくる。夏樹たちは傷を負わされないよう必死で身を守る。たしかに押されぎみではあるものの、夏樹たちもよく応戦しているように思われた。だが――。

 

「――ハアッ! ハアッ! くそっ!」

「おやぁ? 木村さん、もう息切れですか? そんなことでは()()()()()()()()は乗りきれませんよ?」

 

 息を切らしはじめた夏樹を見て、プロデューサーが高らかに哄笑を上げた。

 

 苦悶に表情を歪ませていたのは、夏樹だけではない。残りの姉妹と激しい交戦を繰り広げていた未央、奈緒、凛の三人の額にも、一様に玉の汗が浮かんでいる。

 

 一方、彼女たちに猛攻を仕掛ける側のトレーナー四姉妹の勢いは、一向に衰える気配もない。

 

 彼我の違いが、なにに由来するのかはあきらかだった。

 

「人間とゾンビ――()()()()()ですよ」

 

 プロデューサーはがらりと声を低くして言った。

 

 小梅は歯噛みした。自分の思考を彼に悟られたからではない。実際に、人間とゾンビとの埋めがたい身体能力の差を痛感してしまっていたからだ。

 

 ゾンビと化した四姉妹には、無尽蔵の体力がある。対する自分たちには、動けば動くほど疲労が溜まる貧弱な体しかない。このまま攻防を続けたとして、どちらが最後まで立っていられるかは――火を見るよりもあきらかだった。

 

 プロデューサーがまた小梅の考えを読んだかのように、にやりと口の端を歪めた。

 

「どうです? 素晴らしいでしょう、この肉体は。あなたたちも、早くこちら側に来ればいいのに」

「くっ……」

 

 ギリッと奥歯を噛み締めた小梅の背後で、夏樹が荒い息をつきながら「チッ」と忌々しげに舌を鳴らした。

 

「このままじゃ埒が明かねえ……小梅っ」

 

 一瞬だけ振り向いた夏樹は、後ろ手で小梅になにか硬いものを握らせた。

 

「……いざとなったら、卯月と裕子を連れて、おまえらだけでも逃げろ――」

 

 言い終えるが早いか、夏樹は目の前に迫ってきた麗をキッと睨み返し――。

 

「うおおおおっ!」

 

 どすのきいた怒声を上げながら、麗に向かって突撃した。

 

「ダヴァ!?」

 

 夏樹が盾にしたギターを顔面に押しつけられた麗は、自分自身の突進の反動もあってか後方へ弾き飛ばされた。

 

「うらぁっ!」

 

 あおむけに倒れた麗に、夏樹はダメ押しとばかりにギターを叩きつける。そして、相手が自分を見失った一瞬の隙をついて体の向きを変え――。

 

「うぉぉおらぁぁっ!」

 

 今度は、プロデューサーめがけて頭から突っ込んでいった。

 

「なっ……!」

 

 夏樹の頭突きを腹にくらったプロデューサーは、不意打ちにさすがに驚いたのか、ほんのわずかだがよろめいた。夏樹はその隙を見逃さず、プロデューサーの腰にすがりつく。勢い任せにプロデューサーを押しやりながら、夏樹は小梅たちに向かって叫ぶ。

 

「逃げろっ、おまえら!」

 

 小梅は大声に一瞬だけ肩をすくめたが、すぐに卯月と裕子に目配せを送り、ロケバスへ向かって駆け出す。

 

 夏樹さん――っ。

 

 小梅は断腸の思いで、揉み合うプロデューサーと夏樹の脇をすり抜けようとした。

 

 しかし――。

 

「この――小癪なっ!」

「つっ!?」

 

 プロデューサーは大きく身をひねって夏樹を振りほどくと、さらに裏拳で頬をぶって夏樹を地面に転がした。

 

「夏樹さんっ――!?」

 

 反射的に足を止めた小梅の視界に、次の瞬間、いきなり影が差した。プロデューサーが一瞬で間を詰めてきた――と気づいたときにはもう遅かった。

 

「はぁぁっ!」

 

 プロデューサーは小梅の小さな頭を片手で鷲掴みにすると、その勢いのまま背後に停まっていた車の側面に小梅を押しつけた。

 

「っ――!?」

 

 車の装甲に強く後頭部を打ちつけた小梅の意識が、一瞬遠のきかける。しかし次の瞬間に襲ってきた割れるような痛みに無理やり目を覚まされ、小梅は地獄のような苦痛を味わうこととなった。指一本動かすことさえままならず、車体に背中を預ける格好でずるずると地面に尻を落とした。

 

「こ、小梅ちゃん!?」

「ふんっ!」

 

 とっさに小梅のもとに駆け寄ろうとした卯月を、プロデューサーは乱暴に腕を振るって遠ざけた。

 

「……なかなかの連携プレーでしたよ、今のは……。僕も少々焦らされましたよ……」

 

 プロデューサーは()()()()()()()()()()()()()小梅を見下ろした。言葉とは裏腹に、その顔には余裕の表情が戻っている。

 

「う、うう……」

 

 小梅はプロデューサーの声を聴きながら、彼の脚の向こうへ目をやった。夏樹が左肩を押さえながら立ち上がるのが見えた。よかった……あの様子なら、プロデューサーのさっきの反撃でゾンビに感染したということはなさそうだ。断続的に後頭部を走る痛みに耐えながら考えたのは、そんなことだった。

 

 知らず知らずのうちに弱々しい笑みを浮かべていた小梅に、プロデューサーがすっと顔を寄せ、優しげに目を細める。

 

「苦しそうですね、白坂さん……。さあ、今、楽にしてあげますよ――」

 

 プロデューサーは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()大口を小梅の首筋に近づけた。鋭い牙が小梅の生白い首筋に刺さる――その寸前。

 

「うおっ!?」

 

 まばゆい光が横合いから差し込んできて、プロデューサーをひるませた。

 

 光を遮るように顔の前に手をかざしたプロデューサーは、すがめた目で光源の方向をにらみつけた。

 

「こ、小梅ちゃんから……は、離れろ……!」

 

 少し離れた位置からプロデューサーに懐中電灯を向けていたのは、輝子だった。

 

「だ、だめ……、に、逃げ……」

 

 小梅はかすれた声で警告するが、輝子は恐怖に顔をひきつらせながらもプロデューサーへにじり寄る。懐中電灯の光でプロデューサーをひるませようという魂胆だろうが――。

 

「ちっ……、あれは少々厄介ですね」

 

 片手でまぶしさに耐えつつ、プロデューサーはもう一方の手をスラックスのボケットに突っ込んだ。その手を抜いたと思った刹那――。

 

「あっ!」

 

 バリンという甲高い音とともに、輝子が驚きの声を発した。

 

 光は消えていた――輝子の足元に割れたガラスの破片と、コインのようなものが落ちているのが見えた。プロデューサーが指でコインを弾き飛ばして、懐中電灯の照射口を破壊したのか――小梅はなぜか冷静にそんな分析をしていた。痛みのせいか、妙に頭が冴えてきたのだ。

 

「ああ……ううう……っ」

 

 唯一の対抗手段を失い、相棒のキノコを抱いて後ずさる輝子。もちろん、こんな至近距離ではキノコのにおいも隠れ蓑になりはしない。しかしプロデューサーは輝子ではなく、離れた位置で聖と戦っている未央のほうへ目を向けた。未央の首にも、輝子が持っていたものと同じ種類の懐中電灯が提げられている。

 

「……まあ、あちらはなんとでもなるでしょう」

 

 プロデューサーは小声でつぶやくと、右手で摘んでいたコインをポケットの中へ戻した。この距離からではさすがに未央の懐中電灯を狙い撃つのは難しいと判断したのか、あるいは聖が戦闘の中で自然と破壊してくれることを期待したのか。どのみち、あの懐中電灯は電池切れで、もはや無用の長物と化しているのだが。

 

 あと、自分たちに残された対抗手段といえば――。

 

「プ、プロデューサーさん!」

 

 不意の呼びかけででプロデューサーを振り向かせた卯月の手は、口の前で固く組み合わされていた。祈り――だ。

 

 ゾンビには、人間だったころの信念や、あるいはトラウマなどによってそれぞれ「苦手なもの」がある。ある種のボーズだったり象徴だったり言葉だったりと、「苦手なもの」は個体ごとにバラバラらしいが、プロデューサーのそれは偶然だが小梅たちはすでに突き止めていた。祈りのボーズだ。

 

「お、お願いします、プロデューサーさん! お、おとなしくしてくださいっ」

 

 精一杯の脅迫めいたセリフを口にしながら、卯月はそれこそ祈るような目つきでプロデューサーを見つめる。

 

「そ、それは……っ!」

 

 プロデューサーは瞠目し、一歩だけ後ろに下がった。効いているのか――。

 

「――なんてね」

 

 プロデューサーは底意地の悪い声を出すと、一足飛びに卯月との間合いを詰め、驚く彼女を突き飛ばした。

 

「きゃっ!」

 

 プロデューサーはあっけなく転倒した卯月を見下ろし、せせら笑うかのように鼻を鳴らす。

 

「言ったでしょう? 僕はパワーアップしたと。まあ正直なところ一瞬焦りはしましたが――その攻撃にも、どうやら耐性がついているみたいですね」

 

 ああそうか――と小梅は納得した。信念やトラウマに苦しめられるというのは、考えてみれば人間的な反応だ。ゾンビに成り果てたこの人に通用しなくなっていてもなんら不思議ではない。

 

 小梅はそれを悲しいと思った。

 

「さあ、お遊びもここまでにしましょう。そろそろ特訓の時間です。さあみなさん、ひと思いにやっておしまいなさい!」

 

 プロデューサーが声を張ると、四姉妹は即座に短い雄叫びを返した。言葉を理解しているとは思えないが、プロデューサーがなんらかの合図を送っているのだろう。

 

 最初にアクションを起こしたのは、長女の麗だった。

 

 すでに起き上がっていた麗は、自分を押し倒した夏樹を見つけるやいなや、蛙のように跳び上がった。交戦中の三組をひとっ飛びで跳び越え、一気に夏樹にのしかかるつもりか。はたして、麗は空中で一回転したのち、いまだ膝を笑わせている夏樹めがけて落下してくる――。

 

「夏樹さん!」

 

 とっさに動いたのは、裕子だった。

 

 地面を蹴った裕子は、麗が夏樹に覆いかぶさる直前、その足首をつかんでぐいと引っ張った。

 

「ガブァ!?」

「っ……!」

 

 ガチン、と歯を打ち鳴らす音が響く。反射的に胸の前で腕をクロスさせていた夏樹は、歯を剥き出しにして引かれていく麗を声も出せずに見送った。

 

「ムムム……ムンッ!」

「ギャッ!?」

 

 裕子が最後まで足を離さなかったせいで、麗はバランスを崩し、受け身もままならず額から地面に落ちた。その反動で裕子も投げ出され、派手に尻もちをつく。

 

「った!」

「ちっ、無駄な抵抗を……」

 

 プロデューサーは忌々しげに顔をしかめた。が、すぐに余裕の表情を取り戻す。すっと右手を上げると、再度麗に向けて指令を下した。

 

「さあ、麗さん、もういちどです! 今度こそとどめを刺してあげなさい!」

 

 指揮官の命を遂行すべく、麗はうつぶせの状態から身を起こ――。

 

「……グ」

 

 いや、()()()()()()()

 

「……は?」

 

 余裕の笑みを凍りつかせたのは、プロデューサーだ。彼は、腕で地面を押して起き上がろうとするもすぐにバタリと倒れ込む麗を呆然と眺める。あきらかに、なにが起きているのかわかっていない。

 

「な、なにをやっているんです? ほら! 早く立ってとどめを!」

 

 プロデューサーは続けざまに指を鳴らすが、ベテラントレーナーの反応はやはり鈍い。ようやくよろよろと立ち上がったものの、その足元はどう見てもおぽついていなかった。

 

「お、おい、どうなってんだ? こりゃあ……?」

 

 夏樹は怪訝そうに眉をひそめた。相手は虫の息のようにも見えるが、本当に手出ししていいものか、まだ迷いがあるようだ。

 

「ウウ……ウウ……」

 

 額が割れているのか、麗の顔面は()()()()で染まっていた。彼女がふらつくたび、その血はぼたぼたと地面に飛び散る。ぐらぐらと頭を揺らすその姿は、まるで酔っ払っているか、脳震盪でも起こしているかのようだ――。

 

「あ……たま……、そ、そうか……」

 

 ()()()()()()()()()()()。小梅は歯を食いしばって立ち上がり、痛みに耐えて声を振り絞った。

 

「み、みなさん、頭です! 敵の頭を狙ってください!」

 

 真っ先に反応したのは、やはり夏樹だった。

 

「うおおっ!」

 

 夏樹はレスリングのタックルのように目の前にいた麗の腰へ体当たりをかまし、相手を地面に押し倒した。

 

「このっ、このっ!」

 

 そのまま麗に馬乗りになった夏樹は、彼女のこめかみのあたりを両手で押さえて、後頭部を繰り返しコンクリートの地面に叩きつけた。

 

「ガッ!? グゥァ!? グヴォ……」

 

 何度も後頭部をぶつけた麗は、やがてばたりと手足を地面に落とし、動かなくなる。

 

 夏樹はすかさず、未央たちに向かって叫んだ。

 

「頭だ! どんなやり方でもいい! 一発でも頭に入れりゃ、こいつら、フラフラになるぞ!」

「くうっ!?」

 

 しかし、防戦で手一杯の未央たちに、反撃に移る余裕はなさそうだった。

 

「私におまかせをっ!」

 

 そこで動いたのは裕子だった。

 

 裕子は未央が相手取っている聖の背後に駆け込むと、サッカーのシュートでも打つかのように片足を振り上げた。

 

「サイキック……キック!」

 

 裕子が放った鋭い蹴りは、聖の足首へ見事にヒット。

 

「グォ!?」

 

 足を引っかけられた受けた聖は、バランスを崩してたたらを踏む。

 

 よろめいて前かがみになり、無防備にさらされたその頭部に――。

 

「て……りゃあっ!」

 

 未央はすかさずビニール傘を打ち下ろした。鈍い音。

 

 「ヴポォ……ッ」

 

 聖はぐりんと首を一回転させたのち膝から崩れ落ち、そのまま地面に倒れ込んだ。

 

「はっ!」

 

 裕子は倒れた聖を華麗に飛び越し、今度は明と奈緒の元へ駆け込む。

 

「サイキックもう一丁!」

 

 その掛け声どおり、裕子はさっきと同じ要領で背後から明の足を払った。奈緒もこの好機を見逃さない。

 

「はっ!」

 

 奈緒はほうきを横薙ぎに振るい、体勢を崩した明の側頭部を叩いた。明もまた、カッと目を見開いたかと思うとあっけなくその場に倒れた。

 

 最後に残った慶は――。

 

「グエッ!」

 

 凛にモップで腹を突かれ、数歩後退した。すばしっこいその足が止まったのを見るやいなや――。

 

「ああああっ!」

 

 凛はモップを打ち捨て、慶にタックルをかました。慶の腰に抱きつき、凛は自分の体ごと彼女を後方へ押しやった。

 

 慶の背後にあったのは、コンクリートの太い柱。

 

「グホァッ!?」

 

 慶の悲鳴と同時に、ごつんと鈍い音があたりに響く。凛がゆっくりと身を引き剥がすと、白目を剥いた慶はだらりと柱を滑り落ちた。

 

「はあ、はあ……っ」

 

 荒い息をつきながらも、凛はモップを拾い上げ、その切っ先をまっすぐプロデューサーへ向ける。

 

「さあ、これで残すはあんただけだよ!」

「なっ……! バカな……っ!?」

 

 プロデューサーは愕然とした顔つきであとずさった。うろたえるのも無理はない。圧倒的に思えた戦況を一挙に覆されたのだから。

 

 一対八――今度こそこちらが優位だ。小梅たちはプロデューサーを取り囲むように、じりじりと間合いを詰めた。

 

「ど、どうして、こんなことが……っ」

 

 落ち着きなく前後左右へ体の向きを変えるプロデューサーに、小梅は疑問の答えを返した。

 

「……策に溺れたんですよ、あなたは」

「なんですって?」

 

 困惑に歪んだプロデューサーの顔を、小梅はまっすぐに見返した。

 

「トレーナーさんたちの脳に細工をしたと言っていましたね? そのために彼女たちはたしかに、ほかのゾンビと違って夏樹さんのギターに反応しなくなっていました。でも、弱点である脳をいじられたことで、さらに衝撃に弱くなってしまっていたんです」

 

 だからトレーナーたちは、たった一撃で意識を刈り取られてしまった。無論、まだ息はあるだろうが、起き上がってくる気配はなさそうだ。

 

 あちこちで伸びている四姉妹をすばやく見渡すと、プロデューサーは観念したかのようにゆっくりと小梅のほうへ向き直った。

 

「あの状況下で形勢逆転の糸口を見つけるとは……ふん。白坂さん、やはりあなたは聡明な方だ」

 

 皮肉げにつぶやいたプロデューサーは、ジャケットの懐にすっと手を入れた。

 

「っ!」

 凛たちは警戒して一斉に武器を構えた。

 

 だが小梅は片手を挙げてみなの動きを制し、プロデューサーの前へ進み出る。

 

「もうひとつ気づいたことがあります。プロデューサーさん……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「え……?」

 

 目を丸くしたのは仲間たちのほうだった。プロデューサーは懐に手を入れたまま、じっとこちらをうかがっている。小梅は負けじと彼に対峙した。

 

「……さっき私を捕まえるために暴れたあと、あなたは()()()()()()()()()()

 

 プロデューサーの眉がわずかに動いたのを見て、小梅はみずからの推測に自信を深めた。

 

「以前、控え室で私たちに襲いかかってきたときは、あなたはひとりで凛さんたち三人を相手にしていました。あり余る体力をむしろ持て余しているような感じでしたけど……。ところが今回あなたは、トレーナーさんに私たちを襲わせました。それに、以前の実力があればいつでも私たちを手にかけることもできたはずなのに、なぜかそうしなかった。レッスンだとかうそぶいていましたけど、下手に反撃をされて力が落ちていることが露見するのを恐れたんじゃないんですか?」

 

 プロデューサーとトレーナー四姉妹。小梅たちは彼らを絶望的な包囲網のように感じていた。しかしなんのことはない、プロデューサーのところがじつのところいちばんの穴だったのだ。

 

「……いやはや、うまく騙せていると思ったんですがねえ」

 

 プロデューサーはフッと鼻で笑うと、懐から手を抜いて、両の手のひらをこちらを向けた。やはり小梅の読みどおり、武器など隠し持ってはいなかったようだ。

 

「で、でも! あんたさっき、おもいっきりジャンプしてただろ!?」

 

 奈緒に疑問をぶつけられると、プロデューサーはクククと忍び笑いを漏らした。

 

「あなたがたを欺くには、あのくらいは見せておく必要があると思ったんですよ。おかげでかなり膝にきました。じつは今も立っているのがやっとなんですよ」

 

 そこまではさすがに信用できない。ここから逃げ出せるくらいの体力は戻っているはずだ。

 

「……起きたら力が増す、っていうのは?」

 

 凛がいぶかしげに問いただす。

 

「それは本当です。実際、閉じ込められていたロッカーの中で目を覚ましたときは、意識を失う前よりも力がみなぎっていましたからね。ただ、時間帯もあるのか、今回は少し回復に手間取っているんですよ。彼女たちになんとか時間稼ぎをしてもらいたかったんですがね」

 

 プロデューサーは小梅たちの向こうへちらりと視線を投げた。おそらくは、小梅たちが事務所から脱出しようとしていることを()()()で知り、体力の回復を待たずにあわてて後を追ってきたのだろう。

 

「さて、これからどうしますかねえ……」

 

 プロデューサーはふぅと息を吐き、天井を仰いだ。

 

「き、聴いてくださいっ、プロデューサーさん!」

 

 彼が観念したと見たか、卯月が身を乗り出した。

 

「治せるかもしれないんです、プロデューサーさんのこと!」

「治す?」

 

 プロデューサーがぴくりと眉を動かした。

 

「そ、そうです! 志希ちゃんがお薬を作ってくれて、私たちはそれを学者さんのところへ届けに行くところなんです!」

 

 卯月が目配せすると、裕子は解毒剤の入ったアタッシェケースをあわてて顔の前に掲げた。

 

 プロデューサーは神妙な顔つきでアタッシェケースを見つめた。

 

「一ノ瀬さんが……?」

「志希ちゃん、最後まで心配してました、プロデューサーさんのこと……。自分のせいでプロデューサーさんを苦しめたから、せめて治すお薬を、って自分の体まで実験台にしたんです。だから……」

 

 卯月が声を詰まらせると、プロデューサーもしんみりとつぶやいた。

 

「そうですか……。そこまでしていただかなくても、僕は一ノ瀬さんには十分感謝しているのに……」

 

 卯月は感涙をこらえるような表情で身を乗り出す。

 

「だったら、行きましょう! 私たちと一緒に――」

「……ええ、感謝しているんですよ、僕は――こんな素晴らしい肉体を与えてくれた、一ノ瀬さんに」

 

 プロデューサーの顔が邪悪に歪む。

 

「……え?」

 

 希望の色が広がっていた卯月の表情が、途端に固まった。

 

 そんな卯月をにたにたと眺めつつ、プロデューサーは両手を大きく広げてみせた。

 

「だって、素晴らしいじゃあないですか、この体は! いくら動きまわっても苦しくない! 眠らなくても疲れが溜まらない! 体の底から力が湧き出してくる! 汲めども尽きぬパワーの泉で水浴びをしているかのようだ! これなら好きなだけ仕事ができる! スタミナドリンクを飲まなくたって永遠に働ける! お金の心配も時間の心配もしなくていいんです! まさに最強のプロデューサーですよ!」

 

 プロデューサーは恍惚とした目つきを宙を見つめ、高らかな笑い声を上げた。恐ろしいというより異様な姿だ。

 

 一同はあっけに取られていたが、やがて凛がぼそりと口を開いた。

 

「……狂ってるよ、あんた」

 

 蔑むように睨みつける凛を、しかしプロデューサーを冷ややかに見返した。

 

「そうかもしれません。でも、()()()()()()なんてものは浜辺の砂に描いた肖像画だと僕は思いますけどね。世間の波にさらわれてしまうそんなちんけな存在になりさがるなんて、こちらから願い下げですよ。僕は人間を超えたんです」

「人間を超えた? やめた、の間違いでしょ?」

「そうとらえるなら、それでも結構です。真のトップアイドルになるのも、ある意味では人間をやめることだと僕は思いますよ?」

 

 肩をすくめて減らず口を叩くプロデューサーに、凛はなおもなにか言い返そうとしていたが、小梅はそっとそれを制した。今の彼にはなにを言ってもたぶん無駄だ。

 

「……あなたの考えはわかりました、プロデューサーさん。でも、私たちの意志は変わりません。私たちはこの薬を持って事務所を出ます。邪魔をするなら……力づくでもここを通してもらいます」

 

 小梅はほうきを正段に構えた。弱った彼ならば、非力な小梅でも十分に太刀打ちできるはずだ。

 

 しかし、小梅に続いて未央や奈緒も武器を構えたというのに、プロデューサーは失笑して肩をすくめる。

 

「な、なにがおかしいんですか。あなたひとりじゃ、私たちを食い止めることなんてできませんよ」

「そうでしょうね。でも、()()()()()()()()()()()()()?」

 

「っ――!?」

 

 不意に背後に気配を感じ、小梅は反射的に振り向いた。

 

 暗闇の向こうから、なにか巨大な塊のようなものがこちらに近づいてくる。

 

「あ、あ……っ!?」

 

 一緒に振り返った凛たちも、驚愕のあまり声を詰まらせていた。

 

 カ、カ、カ、カ……ザ、ザ、ザ、ザ……ド、ドド、ド、ドド――。

 

 最初は小さかった足音はまたたく間に数を増し、重なって、地鳴りのような重低音に変わっていく。

 

 薄闇の中に、無数の眼光が浮かび上がる。

 

 ひとつ残らずすべて、見覚えのある顔だった。

 

()()()()()……!?」

 

 椎名法子、奥山沙織、中野有香、五十嵐響子、水本ゆかり、福山舞、今井加奈、小日向美穂、持田亜里沙、三村かな子、安部菜々、間中美里、緒方智絵里、柳瀬美由紀、桃井あずき、横山千佳、櫻井桃華、西園寺琴歌、江上椿、前川みく、長富蓮実、関裕美、松原早耶、工藤忍、太田優、棟方愛海、藤本里奈、赤西瑛梨華、遊佐こずえ、井村雪菜、小早川紗枝、大原みちる、栗原ネネ、楊菲菲、兵藤レナ、大沼くるみ、丹羽仁美、相原雪乃、白菊ほたる、宮本フレデリカ、柳清良、双葉杏、安斎都、涼宮星花、月宮雅、道明寺歌鈴、古賀小春、日下部若葉、リュ・ヘナ、榊原里美、浅野風香、村松さくら、大西由里子、クラリス、佐久間まゆ、早坂美玲、有浦柑奈、乙倉悠貴、原田美世、池袋晶葉。

 

 高垣楓、塩見周子、橘ありす、西川保奈美、三船美優、ライラ、脇山珠美、岸部彩華、服部瞳子、瀬名詩織、東郷あい、岡崎泰葉、水木星來、氏家むつみ、成宮由愛、藤居朋、速水奏、古澤頼子、鷺沢文香、荒木比奈、森久保乃々、綾瀬穂乃香、梅木音葉、大石泉、松尾千鶴、神崎蘭子、高橋礼子、木場真奈美、小室千奈美、佐城雪美、八神マキノ、北条加蓮、松本沙理奈、望月聖、鷹富士茄子、松永涼、篠原礼、上条春菜、吉岡沙紀、高峯のあ、ケイト、佐々木千枝、和久井留美、浅利七海、ヘレン、伊集院恵、柊志乃、多田李衣菜、ジョニー、相川千夏、結城晴、桐野アヤ、水野翠、黒川千秋、藤原肇、川島瑞樹、新田美波、アナスタシア、大和亜季、二宮飛鳥、桐生つかさ。

 

 相葉夕美、浜口あやめ、高森藍子、沢田麻理菜、財前時子、衛藤美紗希、十時愛梨、上田鈴帆、冴島清美、佐藤心、南条光、浜川愛結奈、日野茜、諸星きらり、市原仁奈、海老原菜帆、及川雫、小関麗奈、向井拓海、野々村そら、片桐早苗、西島櫂、槙原志保、的場梨沙、仙崎恵磨、イム・ユジン、依田芳乃、首藤葵、イヴ・サンタクロース、相馬夏美、杉坂海、若林智香、城ヶ崎美嘉、城ヶ崎莉嘉、並木芽衣子、龍崎薫、松山久美子、真鍋いつき、難波笑美、斉藤洋子、矢口美羽、キャシー・グラハム、メアリー・コクラン、赤城みりあ、ナターリア、喜多日菜子、愛野渚、大槻唯、三好紗南、姫川友紀、喜多見柚、北川真尋、小松伊吹、村上巴、土屋亜子。

 

「さあ――」

 

 総勢二百名に迫ろうかという数のアイドルを出迎えるかのように、プロデューサーは両手を広げた。

 

「ステージの幕開けです」



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20

 戦慄の光景を前にして、小梅たちは言葉を失っていた。

 

 約百八十名弱。

 

 小梅たち八人を取り囲むには充分過ぎる数の人影が、扇状に広がって隊列をなし、一歩、また一歩とこちらへ近づきつつあった。

 

「フハハハッ! どうです、壮観でしょう? ()()()()()()()()()()!」

 

 プロデューサーが興奮気味に声を弾ませた。

 

 百八十人弱の346プロ所属アイドル――今、小梅たちの目の前にいるのは、彼女たちだ。しかし彼女たちはもう――。

 

「ヴヴヴ……ウウ……」

 

 地下駐車場に響く、幾重にも重なったくぐもったそのうなり声は、もはや誰のものとも知れない。非常灯の下にぼんやりと浮かぶその相貌には、ありし日のかわいらしさや美しさはは見る影もなかった。誰もかれも血の気を失った土気色の肌をして、まぷたは寝不足の病人のように落ち窪んでいる。衣服もところどころ破れ、汚れ、ボロ布のようになっていた。かろうじて人の形を保ってはいるが、生気は感じられない。彼女たちは――。

 

 ゾンビとしか、言いようがなかった。

 

 今、目の前にいるのは――百八十体弱のゾンビだ。

 

「……さっきの呼び声は、このためだったんですね……?」

 

 小梅は振り返り、みずからの迂闊さを呪いながらプロデューサーを睨んだ。

 

 プロデューサーが自分たちの前に姿を現してから彼が放った、声なき咆哮。あれはてっきりトレーナー四姉妹を呼び寄せるためのものだと思い込んでいた。しかしそうではなかったのだ。プロデューサーが本当に呼んでいたのは、()()()()だったのだ。

 

「ええ、超音波というやつですよ。あなたたちには聞こえないでしょうが、僕たちは()()でコミュニケーションが取れるんです。と言っても、言語のように複雑な表現はできませんが――おっと、渋谷さん。そんな怖い顔をなさらないでください。別に僕が彼女たち全員を()()()()()()わけじゃありませんよ」

 

 自分に向けられた憎悪の視線に気づき、プロデューサーはわざとらしく胸の前で手を振った。

 

「ああ、それと、彼女たちが事務所に集まってきたのも、彼女たち自身の意志ですよ。もともと事務所内にいた方もいますが、仕事場から帰ってきた方もいるみたいですね。一種の帰巣本能というやつですか」

 

 ……ゾンビは人間だったころの行動を繰り返す。悔しいが帰巣本能という言葉は言い得て妙だった。アイドルにとって所属事務所は戻るべき家と言って過言ではなかろう。とはいえ――。

 

「こ、こんな、みんなを使ってまで……なんだってあんたはそうまでしてあたしらを外に逃したくねえのかよ!?」

 

 奈緒が困惑の混じった怒声をプロデューサーにぶつけた。たしかにプロデューサーがこれだけの数のアイドルをこの場に呼び寄せた目的が判然としない。小梅たちを足止めするためだとしても、少々度が過ぎるようにも思える。

 

 当惑する小梅たちを、プロデューサーは鼻白んだような顔つきで見返した。

 

「だからさっきから言っているでしょう。ステージをやるんですよ」

「ふざけないでっ!」

 

 凛から叱責されても、プロデューサーはむしろ心外だと言わんばかかりに顔をしかめた。

 

「本気ですよ、僕は。納得できないようでしたから、もう少し正確に言い直しましょう。僕はね、ここにいるみなさんで、フェスをやっていただきたいと考えているんですよ」

「フェス……?」

 

 いぶかしむ小梅たちとは対照的に、プロデューサーは興奮を抑えきれないといった様子でカッと目を見開いた。

 

「アイドルフェスですよ! 346プロ所属アイドル総出演の、オールスターライブ! 大勢の、いろんな個性を持ったアイドルを一同に集めて、何日間にも渡って開催される大規模フェス! 僕の長年の夢だったんですよ」

 

 プロデューサーの声のトーンがふと下がった。

 

「しかし、実現は困難でした……。二百人規模の出演者のスケジュールを何日間も押さえることが難しいという理由もありましたが、いちばんのネックは体力の問題です。何十時間もぶっ続けでステージに立ち続けられるアイドルも、それに付き合える観客もいるわけがない……そんな常識に縛られて、僕も自分の願望を押さえ込んでいたんです。しかし――気づいてしまったんですよ、僕はッ!」

 

 プロデューサーは突然声を張ると、自分の胸を拳で強く叩いた。

 

「この体なら――みんながこの体を手に入れれば、できるッ! スタッフもファンも、そしてアイドルもこの疲れ知らずの肉体を持ってさえいれば、僕の夢は叶うんです! いくら働いても死なない肉体! 永遠に歌い踊りつづけられる肉体! 飲み食いも忘れて声援を送りつづけられる肉体! 肉体、肉体、肉体っ! 何日だって、何年だって、永遠にだって! アンコールは繰り返される! ステージは終わらない! みんな倒れるまで――いや、倒れることすら忘れて、世界中が熱狂しつづけるんです!」

 

 プロデューサーの絶叫のあと、あたりは不気味にまでに静まり返った。あまりに荒唐無稽な彼の夢に――いや、あまりに荒唐無稽な()()に、小梅たちは言葉を失わざるをえなかった。

 

「……やっぱマトモじゃないよ、あんた。みんなゾンビになってライブだなんて、そんなこと本気で言ってるわけ?」

「疑り深いですねえ、渋谷さん。本気でなきゃ、倒されるリスクを冒してまでみなさんを迎えにきたりはしませんよ」

 

 迎えに――やはり彼は、残された小梅たちもゾンビにして仲間に引き入れるつもりなのだ。

 

「ふ、ふざんけんなっ! あたしは絶対イヤだからな! ゾンビになってステージに立つなんてっ」

「神谷さんが言うとただのフリにしか聞こえませんが……まあいいでしょう。どのみちこの包囲網は抜けられませんよ」

 

 プロデューサーが片手を挙げた。その刹那、背後でザクっと地面を踏む音がした。反射的に振り返ると、周囲を取り囲んでいたアイドルたちが兵隊のように足並みを揃えて進軍を始めていた。

 

「な……っ、お、おい!?」

「ファンの喜ぶ顔が見たい、華やかなステージの上で輝きたい――そんな夢を抱くあなたたちをプロデュースしたい。それが僕の本心ですよ」

 

 振り返ると、プロデューサーの姿はもう、さきほどまで立っていた場所にはなかった。あわててあたりを見回すと、アイドルたちの陰へすっと消えていく彼の姿が一瞬だけ見えた。

 

「野郎! 逃げる気か!」

 

 夏樹がプロデューサーのあとを追おうと足を踏み出した。だが――。

 

「ヴニァウ!」

「う、うお!?」

 

 隊列のなかのひとりがすかさず飛び出してきて、夏樹の前に立ちふさがった。とっさに足を止めた夏樹は、相手の正体に気づいて愕然とする。

 

「だ、だりー……!」

 

 多田李衣菜。夏樹とは公私ともに付き合いの深いアイドルのひとりだった。

 

「はっはーっ! どうせなら、お友達にお相手してもらったほうがいいでしょう?」

 

 どこからか響いてくるプロデューサーの声とともに、さらに数名が隊列から飛び出してきて小梅たちを取り囲んだ。

 

「か、加蓮……っ」

「お、おい、嘘だろ、比奈……!」

「し、雫ちゃん!?

「茜ちん……っ!」

「美穂ちゃん、そんな……っ」

「ボ、ボノノちゃん……」

「蘭子ちゃん……」

 

 絶望の声しか出なかった。

 

 北条加蓮、荒木比奈、及川雫、日野茜、小日向美穂、森久保乃々、そして神崎蘭子……。みな、それぞれが過去に仕事をしたり、プライベートで交遊のある仲間たちだった。

 

「グルルル……っ」

 

 敵意を剥き出しにしてこちらとの間合いを詰めてくる蘭子たち。

 

「うう……っ」

 

 気圧された小梅が一歩下がると同時。

 

「ガァッ!」

 

 蘭子は牙を剥いて襲いかかってきた。

 

「くっ……っ!」

 

 小梅はとっさにほうきを構え、蘭子の突撃を食い止めた。が、狂犬のごとくほうきの柄に噛みつく彼女の力はすさまじく、押し返すことなどとてもできそうになかった。

 

「小梅っ!」

「ガウッア!」

 

 小梅を助けに入ろうとした凛の機先を制して飛びかかってきたのは、加蓮だ。加蓮は鋭く伸びた爪で凛を引っ掻こうとした。

 

「ヤッ!」

 

 凛はモップで加蓮の手を弾き飛ばし、なんとか防御。しかし加蓮は続けざまに左右のフックを繰り出してくる。その対応に追われ、凛は小梅のそばから引き離された。

 

 ほかの者もおおむね同じような苦境に陥っていた。

 

「ウワアアアっ!?」

「ひいいっ!」

「くそっ……来るなッ、この!」

「てやぁ……てやぁっ!」

「や、やだっ、ちょっ……!?」

「ひ……ひ……っ」

 

 武器を振り回して応戦する者。持ち物で身を守る者。必死で逃げ回る者。対処はさまざまだったが、やはり誰も反撃には移れそうになかった。相手のパワーやスピードに圧倒されていたということもある。しかし真に反撃を不可能こしているのは、そんなものではない。

 

「んんんっ!」

「ギャッ!」

 

 小梅がやみくもに振り回したほうきが、偶然にも蘭子の片目を突いた。蘭子は目を押さえてうずくまった。頭部はがら空きだ。しかし――。

 

「あ、う……」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。両手で握ったほうきを、まるで重石でぶらされげられているかのように、どうしても持ち上げることができない。

 

「おやぁ? どうしたんですか、白坂さん。神崎さんはお友達だから殴れないとでも? けれどそれはまた身勝手な話ですねえ。僕やトレーナーさんたちのことは散々殴りつけたくせに」

 

 群れのどこかから響いてくるプロデューサーの声に、小梅はなにも言い返せなかった。身勝手だと罵られれば、グウの音も出ない。しかし仕方がない。頭では分かっていても、体がどうしても言うことをきかないのだから。

 

 だが敵は小梅のそんな葛藤など斟酌してはくれなかった。

 

「ガヴォアッ!」

 

 潰された右目から緑色の血を流しながらも、蘭子はまた小梅に襲いかかってきた。視界が半分になったぶん距離感がつかみにくくなったのか、攻撃の精度はがくんと落ちていたけれど、それでもやはり小梅は反撃に打って出ることができなかった。

 

「んんっ……!」

 

 凛たちも同様に、たとえ相手が隙を見せても有効打を繰り出せずにいるようだった。仲間を手にかけることへの無意識的な抵抗感。やはりそれが、小梅たちの足かせになっているのだ。

 

「フハハハッ! やはり愚かですねえ、人間というのものは! この期に及んでまだ他人の心配とは……。ゾンビになれば余計なことを考えずに踊り狂えますよ?」

「う……うるさいっ!」

 

 凛はモップを薙刀のように横に払って加蓮を遠ざけると、どこに隠れているとも知れぬプロデューサーに向かって怒鳴った。

 

「誰があんたの思いどおりになんてなるかっ!」

 

 ため息が響いてくる。

 

「……素直じゃないですね、渋谷さんも。まあ、いいでしょう。今にそんな強がりも言っていられなくなります」

 

 プロデューサーのそんな言葉に呼応するかのように――。

 

「オ、オ、オ、オオオオオオォ……ッ」

 

 控えていたアイドルゾンビの大群が、四方からじりじりとにじり寄ってきた。生贄を求める亡者のような彼女たちの接近で、小梅たちを取り囲む包囲網はあっという間に狭められる。気づけば小梅たちは、互いに背中をぶつけあっていた。一箇所に固められた小梅たちに、涼たちがのしかかる。

 

「く……っ」

「お、おい小梅っ! なんかないのかよ!? こいつらの動きを止める方法!」

 

 ライダースジャケットを盾にして李衣菜と力比べをする夏樹が叫んだ。

 

「ぐ……っ!」

 

 しかし顔を寄せてくる涼を押しとどめるだけ手一杯だった。いや――。

 

 それ以前に、なにも思いつかなかった。

 

 キノコのにおい、音による誘導、光や武器による攻撃。そして祈り――。手持ちの対抗手段はすべて封じられてしまっている。それに、だ。

 

 迫りくるこの百八十体弱の()()()たちを一挙に足止めする方法など、ありそうもなかった。

 

 プロデューサーにしたように、祈りを捧げてみるか? しかしあれはプロデューサーにだけ有効なボーズだ。目の前にいる全員が同じトラウマを持っていることはまずありえないだろう。

 

 そもそも、この百八十体弱は、あまりに()()()だ。生まれも育ちも趣味も特技も、癖も歳も好きなものも嫌いなものも、ひとりひとりてんでバラバラ。ゾンビが人間だったころの習慣を引きずるのだとすればなおさら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()など、なにもないように思える。

 

 万策つきた。

 

「く……そおおおおおっっ!」

 

 徐々に李衣菜に押し込まれた夏樹が絶叫を轟かせた――その直後だった。

 

「――と、撮りまーすっ!」

 

 裏返った大声があたりに響き渡った。

 

 あまりに場違いで、小梅は一瞬、その言葉の意味を理解しそこねた。

 

「え――?」

 

 小梅の首元に噛みつく寸前だった蘭子が、小梅からすっと身を引き剥がし、なぜかその場に立ち尽くした。そして――。

 

「ガヴィヴィボバヴェヲッ!」

 

 肩幅より少し広く脚か開いて体を斜にし、指を開いた手を顔の前でかざすお得意のポーズ。

 

 蘭子はそれを、まっすぐ前だけを見据えて、決めてみせた。

 

 そしてそれは、ほかの者も同様だった。

 

 ザザザッと地面を踏む足音がととどろいたかと思うと、百八十名弱のゾンビたちが、一斉に思い思いのボーズをとって静止した。もちろん夏樹たちを襲っていた面々も、まるで自分の使命を忘れたかのようにそれぞれ違ったボーズを決めていた。

 

「は――?」

 

 小梅たちはあっけに取られるほかなかった。目の前の状況をまだうまく飲み込めない。いったいなにが起きているというのだ?

 

 しかしそんななかにあってひとりだけ、必死に声を振り絞る者がいた。

 

「え、笑顔です!」

 

 さっきと同じ声――卯月だ。

 

 卯月は百八十名弱の群れ全体に届かせるように、大声で触れまわった。

 

「み、みなさーん、笑顔をくださいっ! ここはグラビア撮影の現場です! 雑誌の巻頭カラーページに載せますから、とびきりの笑顔をお願いします!」

 

 卯月が触れまわったそんなシチュエーション説明を逐一理解しているとは思えないが――蘭子たちは、ぴくぴくと頬を引きつらせた。まるで、シャッターが切られるのを今や遅しと待ち構えるかのように。

 

「な……っ! ど、どうしたというのです!?」

 

 群衆の中からあわてた声を響かせたのはプロデューサーである。いや声だけではなく、今度ばかりはその姿も見つけることができた。まわりが止まっている中で、ひとりうろたえて左右を見回すその姿は、いやおうなしに目立つのだ。

 

「みなさん! ほ、ほら、言うことをききなさい! ど、どうして……!?」

 

 プロデューサーは何度も指を鳴らすが、アイドルたちは頑なに動こうとしない。ゾンビとして命令をきくよりも優先すべきことがあると言わんばかりだ。

 

「そ、そっか……」

 

 小梅はようやく、彼女たちの行動の理由を理解した。

 

()()()()……だから」

 

 いつの間に忘れてしまっていたのだろう。

 

 皮膚が醜くただれようと、ボロ布を纏おうと、血肉を求めてよだれをたらそうと――。

 

 どんな姿になって、どれだけ人間離れしようと、彼女たちはまごうことなき、アイドルなのだ。

 

 だから、写真を撮ると声をかけられれば、愛想を振りまいて、ポーズを決める。レンズの向こうにいる大勢のファンにむけて、とびきりの笑顔を届けようとする。それが、アイドルだから。

 

 プロデューサーは、彼女たちをゾンビとして操ろうとした。

 

 しかし卯月は、卯月だけは、彼女たちがアイドルであることを片時も忘れなかった。

 

 アイドルへの思いの差が、勝敗を分けたのだ。

 

「……っ! 車! 乗るぞ!」

 

 ハッと我に返った夏樹が、ロケバスが停まる駐車スペースへ向けてきびすを返した。

 

 夏樹は小梅からキーを奪い返すと、ボーズを決めるアイドルたちの脇をすり抜け、並んで駐車されている数台のロングバンのナンバープレートへ目を走らせた。

 

「あった! こいつだ!」

 

 夏樹が駆け寄ったのは、なんのことはない、いちばん手前に停まっていた車両――小梅がプロデューサーに頭をぶつけられた車だった。

 

「おまえらも急げ!」

 

 後部座席のドアを開け、夏樹が小梅たちに向かって叫ぶ。ドアのロックは元から外れていたようだ。

 

「お、おう!」

 

 返事をした奈緒を筆頭に、裕子、輝子、卯月、凛と、マネキンのように静止するアイドルたちの間をこわごわとかいくぐって、続々と車両へ駆け込んだ。未央は助手席に乗り込み、夏樹は運転席へ回った。

 

 小梅ももちろんあとに続こうとしたが――。

 

「く……っ、ま、待ちなさい!」

 

 パスを目前にして、小梅はうしろから強く腕を掴まれた。小梅を捕まえたのはもちろん、あとを追ってきたプロデューサーだ。

 

「っ!」

「小梅っ!」

「させませんよっ」

 

 凛があわてて車両から飛び出そうとしたが、プロデューサーは小梅の腕をぐいと引き、体勢を入れ替えた。同時にもう片方の手を乱暴に振るい、助けに入ろうとした凛を牽制した。

 

「こうなれば白坂さん! あなただけでも残ってもらいますよ!」

「は、放し――」

 

 今度こそ間髪入れず小梅の首筋に顔を寄せてきた。やられる――!

 

 だが、小梅が息を呑んだ、そのときだった。

 

「しぶりん、どいて!」

 

 鋭い声と同時に、小梅とプロデューサーの顔面が、強い光でカッと照らされた。

 

「ぐわっ!?」

 

 弾丸が当たったかのように大きくのけぞったのは、プロデューサーのほうだった。小梅もまぶしさに目を細めはしたが、視界はすぐに回復する。だがプロデューサーのほうは両手で目元を覆い、もだえるようにして小梅から身を離した。

 

 助手席から半身を乗り出していた未央の手には、懐中電灯が握られていた。照射口の中の豆電球が放つ光は、その役目を終えたと言うようにすう、と消えていく。そうか……。未央は、いつか小梅の指示に従って懐で温めておいた乾電池を懐中電灯に戻したのか。乾電池は温めることで一時的に充電が回復する。

 

「ぐ……っ、こ、小癪な真似をっ!」

 

 うずくまっていたプロデューサーは、目元を押さえたまま腕を振るったが、その先は小梅とはまるで逆方向だった。ただでさえ五感が鋭敏になっているゾンビは強い光に弱い。この分では、もうしばらく視界は回復すまい。

 

「小梅、早くっ!」

 

 凛が後部座席のドアから半身を乗り出し、小梅に向かって手を伸ばした。

 

 しかし小梅はその手に背を向け、プロデューサーへ向けて足を踏み出した。

 

「小梅!?」

 

 心配そうな顔をする凛に、小梅は振り返って微笑みかけた。大丈夫。決着をつけにいくだけです。小梅はほうきを握り直し、明後日の方向へやみくもに腕を振るっているプロデューサーの背後に立つ。

 

「……プロデューサーさん」

 

 静かに呼びかけると、プロデューサーはびくりと肩を震わせて小梅のほうへ振り返った。

 

「し、白坂さん……? あっ!」

 

 やはりまだ視界がきかないのか、プロデューサーは振り向いた拍子に足をもつれさせ、その場にひざまずいてしまう。

 

 懺悔でもするかのような体勢になったプロデューサーを、小梅は優しげに目を細めて見下ろした。

 

「プロデューサーさん……、私は、たとえあなたがゾンビになったとしても、あなたのことをプロデューサーさんだと思っています。その思いは、ここにいるみんなも――いえ、()()()()()()()()()()()()()、同じだと思います」

 

 小梅の脳裏に、いくつもの顔がよぎった。この夜の恐ろしい状況をともに切り抜けてきた凛たち、幸子、トレーナーさんたち、志希、数多くの同僚アイドルたち――。

 

 そして、プロデューサー。

 

「白坂……さん」

 

 ようやく光の刺激から回復しつつあるのか、プロデューサーは薄くまぶたを開いた。小梅は彼に微笑みかえす。

 

「……プロデューサーさん。あなたには、すごく感謝しています。()()()()()。ゾンビになっても……。でも――」

「白坂さん……」

 

 その瞳に一瞬、希望の光をたたえたプロデューサーに満面の笑みを返すと、小梅は天井に向かってほうきを高々と突き上げた。

 

「でも――今のあなたは、許せません」

 

 小梅が力いっぱい振り下ろしたほうきで脳天を割られると、プロデューサーは糸の切れた人形のように地面に崩れ落ち、それきり動かなくなった。

 

 



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21

 小梅が後部座席に乗り込むとすぐに、夏樹は車を発車させた。

 

 通路を塞いでいたアイドルたちをギリギリで避けながら車を走らせると、夏樹は案内板を頼りに、地下駐車場の出口へ向けてハンドルを切った。

 

 やがて車は、地上へ続くスロープへさしかかる。

 

「へっ、いつの間にか朝になってやがるじゃねえか……」

 

 さして長くもない傾斜の先から差してくる薄明に目を細めながら、夏樹がつぶやいた。小梅たちを乗せたロングバンは、白々とした光の中へ飛び込んでいく。

 

 スロープを上りきった車は前庭を一気に突っ切り、門を抜けた。ついに事務所から脱出したのだ。

 

「……あいつら、いなくなってるな」

 

 車両の真ん中あたりの窓際に座っていた奈緒が前庭のほうを振り返ってぼつりと漏らした。

 

 たしかに、前庭を徘徊していたゾンビの姿が消えていた。陽の光を嫌ってどこかへ隠れてしまったのか、それとも生前の記憶に従って別の場所に移動したのか……。

 

「なんだか、いつもどおりの朝、って感じですね……」

 

 小鳥の鳴き声さえ聞こえてきそうな静かな街の風景を眺めて、裕子がしみじみとつぶやいた。無論、世界は大きく変わってしまっている。しかし、そう言いたくなる気持ちも分かる。

 

 夜は明けた。そして朝が来た。

 

 小梅たちの長い戦いは、ついに終わったのだ。

 

「あとはこれを届けるだけか……」

 

 凛が、隣に座る裕子の膝の上に置かれたアタッシェケースを見つめた。志希が残した、ゾンビ症状を回復させるための薬である。

 

「そういや、これからどこへ向かえばいいんだ?」

 

 運転席の夏樹がちらりとうしろを振り返って尋ねた。とりあえず道なりに車を走らせてはいるが、たしかに目的地を定めていない。

 

 小梅は少し考えてから口を開いた。

 

「委託先の候補は志希さんがリストにして挙げてくれていますが……とりあえず近くの大きな公共施設へ行くのが得策じゃないでしょうか。そのほうがリストにある機関にも連絡をとりやすいでしょうし」

「公共施設? 役所か警察か?」

「び、病院とか、学校でも……いいんじゃないか?」

 

 輝子が口を挟むと、卯月があっと小さく声を上げた。

 

「この先にたしか、大きな大学病院がありませんでしたっけ?」

「ああ、あそこか。たしか――」

 

 奈緒が有名な大学の名を諳んじた。たしかにそこならば、医者も化学者もいるだろう。薬や実験ノートを見てもらう人材を探すなら最適な場所といえた。

 

 後部座席で互いにうなずきあう小梅たちの雰囲気を察したのか、夏樹は「よし」と快活に相槌を打った。

 

「決まりだな。まずはその大学病院へ向かう。未央、カーナビの操作、頼んでいいか?」

 

 夏樹は助手席の未央へ目配せを送った。

 

「オッケー、任せといて」

 

 未央はすかさず身を乗り出して運転席との間に備えつけられた機器をいじりはじめた。

 

「ええと……、たぶんここを押せば……よしっ、設定完了!」

 

 手際よくカーナビの操作を終えた未央を、夏樹が横目でちらりとうかがう。

 

「おっ、ずいぶん手慣れてるじゃねえか」

 

 未央は得意気に鼻をこする。

 

「へへ、家族で車乗るときにさ、たまにいじらせてもらってたんだよね。そういや夏樹も、不安とか言ってたわりにばっちり運転できてるじゃん、車」

「まあな。オートマだし、車体感覚に慣れちまればバイク転がすのとそう変わらねえよ」

「へえ、そういうもんなんだ。……ね、あとで運転代わってよ。私もやってみたい!」

「バカ言え。おもちゃじゃねえんだぞ。だいたいおまえ、免許も持ってねえだろ」

「えー、それ言い出したら夏樹だってそうじゃーん」

 

 夏樹と未央はその後も、そんな楽しげな会話を続けていた。

 

 一方、後部座席のほうでもリラックスしたムードが流れはじめていた。

 

「あ~~~っ、疲れたあ!」

 

 けだるげな声を出し、シートにだらしなく身を沈めたのは奈緒だ。

 

 しかめっ面で目頭を揉む奈緒を見て、隣の席に座っていた凛が少し頬を緩める。

 

「今日……じゃなくて昨日か。レッスンが終わったときには、まさかこんなことになるとは夢にも思ってなかったもんね」

「ホントだよな。仕事の話とやらが終わったら急いで帰ろうと思ってたのにな――あっ!」

 

 いきなり大声を上げたかと思うと、奈緒はあわてたようにシートから身を起こした。

 

「ど、どうしたの奈緒!?」

 

 ぎょっとして身構えた凛に、奈緒は愕然とした表情を返した。

 

「昨日放送分の深夜アニメ、録画してないじゃん! 帰ってから見られると思ってたから!」

 

 奈緒の大真面目な顔つきを見て、凛はハァと大きなため息を落とした。

 

「なんだ、そんなことか……」

「いや、やばいんだって! 今期の覇権アニメだったんだって!」

 

 なぜか凛に対して窮状を訴える奈緒。そんなふたりに、通路を挟んだ席に座っていた卯月が口を挟んだ。

 

「あの~、奈緒ちゃん。私思うんですけど、こんな状況じゃ、そもそもテレビも放送してないんじゃないですかね?」

「あっ、そっか」

 

 卯月の指摘で、奈緒はあっさりと納得した。

 

「だったらあらためて放送するよな。よかったー」

 

 安堵したように汗を拭う奈緒を見て、凛はふたたびため息をつく。

 

「緊張感ないわね、ホント……」

「あ、あはは……」

「まあまあ、凛ちゃん、卯月ちゃん。いいことですよ、楽しいことが待っているというのは」

 

 卯月の隣から、裕子がにゅっと身を乗り出してきた。

 

「おふたりはにかないんですか? 家に帰ってからやりたいこととか」

 

 裕子に問いかけられ、凛は少し考え込むしぐさを見せた。

 

「私はそうだね……、家族と、あとハナコに会いたいな」

 

 大切な家族の顔を思い出したのか、凛がふと優しげに目を細めた。ハナコというのは、彼女が可愛がっている飼い犬の名前である。

 

「私も、パパやママたちに会いたいです……。おばあちゃんも大丈夫かな……」

 

 卯月が膝の上で不安げに拳を握ると、裕子はその上にそっと手を重ねた。

 

「きっとご無事ですよ、みなさん。あっ、なんなら私が千里眼で様子を探ってあげましょうか!? ムムムンッ!」

 

 筒のように握った両手を目に当てて、窓のほうへ体を向ける裕子。

 

 窓にひっついてうなり声を上げる裕子を眺め、卯月と凛は苦笑を浮かべた。

 

「あ、ありがとうございます……」

「う、うん……。でも、超能力は遠慮しとくよ……」

「え? そうですか……。それは残念……」

 

 やんわりと断られた裕子は、しぶしぶといった様子でシートに体を戻した。……あいかわらずだが、凛も卯月も、裕子の明るさにきっと救われているはずだ。

 

 会話が途切れかけたところで、卯月と裕子のひとつうしろの座席に座っていた輝子がぼそりと口を開いた。

 

「わ、私は、部屋で留守番してるト、トモダチの様子を……見に行きたい」

 

 トモダチというのは、言うまでもなく例のキノコのことだ。

 

「輝子ちゃん、寮でもキノコを育てているですね」

「よければ私の千里眼で――」

「い、いい」

 

 すかさず自分の超能力を売り込もうとした裕子だったが、輝子にすげなく拒絶され、コントみたいにがくっと肩を落とした。……まあ、いいんじゃないだろうか。

 

「うう……、帰ったら私もさらにトレーニングに励まねば……。もっとみなさんから頼りにされるエスパーになれるように……、そう、さっきの卯月ちゃんみたいに!」

 

 唐突に名前を出され、卯月は目を丸くした。

 

「え、ええ!? 私ですか!?」

「はい! だって、お手柄だったじゃないですか、最後のあれ。『撮りまーす! 笑顔でーす!』ってやつ! あれだけの人数を瞬時に手玉にとってしまうとは……まさにサイキックパワー!」

 

 きらきらと目を輝かせて拳を握る裕子とは裏腹に、卯月はあわてふためいた様子で両手を振る。

 

「い、いえいえっ! あ、あれはその、ただ無我夢中だっただけで……」

「でも実際、あれには私も驚いた。卯月、じつは本当に超能力者だったりしてね」

「そ、そんなあ。凛ちゃんまで……」

「フフフ」

 

 困った顔になる卯月を見て、凛がめずらしく失笑した。彼女もやはり、緊迫した戦いから解放されて気が緩んでいるんだろうか。でも、あんな笑顔の彼女も、悪くないな。

 

 そんな視線を感じ取ったというわけでもないだろうが、凛が座席の上から顔を出し、最後列の席にひとりで座っていた小梅に声をかけてきた。

 

「小梅は? 寮に帰って、なにかやりたいことある?」

「わ、私ですか? 私はやっぱり――」

 

 いのいちばんに頭に浮かんだことを口にしようとしたが、小梅はすんでのところで言葉を止めた。

 

「小梅? どうしたの?」

「あっ、いえ……そうですね、私はお風呂に入りたい……かな」

 

 小梅がとっさに思いついたあたりさわりのない答えを返すと、奈緒がすぐに反応した。

 

「あー、たしかに。昨日からずっとレッスン着のまんまだもんなあ。かなり動き回ったし、もう汗だくだよ」

 

 汗ばんだ自分のジャージを不快そうに見下ろす奈緒。ほかの面々も汚れた自分の身なりに気づいたようで、それぞれ顔をしかめて衣服を摘んでいた。

 

 ……よかった。うまくごまかせたみたいだ。うん、これでいい。小梅が本当にやりたいことを言っても、今はまだブラックジョークにしか聞こえないだろう。

 

「ああ、そういえばさ、このあいだちょっと小耳に挟んだんだけど、私たち主演の映画を撮るって話が――」

 

 話題を変えてしゃべりはじめた未央の声を聴きながら、小梅はシートに背を預けた。

 

 車の天井をぼんやりと眺める。

 

 ……やりたいこと、か。

 

 疲れを癒やしてくれそうなのは、あれかな。いや、なにも考えずに楽しめるという意味では、あっちでもいいかもしれない。そうだ、思いきって凛たちを誘ってみようかな。

 

 楽しげな情景が脳裏をかすめると同時に、不意に眠気が襲ってきた。頭が重くなり、小梅はこくりといちど、大きく船を漕いだ。

 

 そのときだった。

 

「――っ!?」

 

 チクリ、と――。

 

 すねのあたりに走った鋭い痛みで、小梅は強制的に覚醒させられた。

 

 なにが起きたのか――起きているのか、すぐには理解できなかった。

 

 小梅はゆっくりと視線を下げる。みずからが座る座席の下へ。

 

「ヴ、ヴ、ヴ……ッ。ヴォ、ヴぉくが……」

 

 あ――。

 

 声を上げたつもりだったが、実際それは声になっていなかった。

 

 座席の下から頭をのぞかせた()()は、小梅の脚にまとわりついていた。

 

 彼女は噛みついている。歯を立てている。犬が骨をしゃぶるように、あるいは、赤ん坊が母親に甘えるように、小梅のすねを食んでいる。

 

「ヴォ、ヴォ……ヴォクがいちばん……、せ、世界うぃちカ、カワイイにきま、決まってまズ……」

 

 薄暗がりのなかに浮かび上がった顔――。

 

 ほんの数時間前に別れたばかりだというのに、なんだかとても懐かしい気がして、小梅は目を細めた。

 

()()……」

「ヴォクがイチバン、ヴォグガァ……」

 

 膝をつたってはいあがってきた幸子を、小梅は胸元に抱き寄せた。幸子は小梅の腕の中でもなおモゴモゴと口を動かしていたが、小梅はかまわず彼女を強く抱きしめた。

 

 噛まれた足の傷跡もズキズキと痛んだが、そんなことはもう気にならなかった。ただ愛しい気持ちだけが胸に込み上げる。

 

 さみしかったんだね、幸子。私たちと一緒といたかったんだよね? だからこの車の中で待ってたんだね、ずっと……。

 

 前方では、未央たちが談笑を続けていた。

 

「あの、みなさん――」

 

 小梅の弱々しい呼びかけは、いちどで前まで伝わり、みなを振り向かせた。

 

「え? どうしたの、小梅――」

 

 小梅は幸子を胸に抱き締めたまま、前髪から顔を出して、仲間たちに微笑みかけた。

 

「――寮に帰ったら私、お気に入りのゾンビ映画をみなさんと観たいです」

 

 

(THE END――)

 




※本編はまだ続きます。引き続き次話をお読みください。


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~Curtain call~

※この最終話はこれまでの物語全体の種明かしが含まれます。前話まで未読の方はご注意ください。


 THE END――。

 

 血文字風のフォントでつづられたエンドマークが消え、スクリーンが暗転すると、試写室には二時間半ぶりに灯りがともされた。

 

 客席からまばらな拍手の音が聞こえてくる。みんな、観終わったばかりの作品をどう評価していいものか、まだ迷っているようだ。

 

 しかしそんな中へ、自信に満ち満ちた小気味いい拍手が飛び込んできた。

 

「はい、みなさん、お疲れ様でしたー。どうでしたか? なかなかの出来栄えだったでしょう?」

 

 映写室とつながるドアから現れたのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 

 最前列の席に並んで座っていたうちのひとりが、あきれたような目つきでプロデューサーを出迎える。

 

「……ていうか、これ、本気で公開するつもりなの?」

 

 渋谷凛だ。今回の映画におけるメインキャストのひとりである。

 

「そりゃあ、もちろん。我が社が、というか僕がメインで企画した映画ですからね。どーんと全国ロードショーにかけようと考えていますよ!」

 

 予想外の大風呂敷を広げられ、あわてだしたのは島村卯月だ。

 

「あわわ……。い、いいんですかね? 全国なんて……。わ、私、台詞棒読みじゃなかったですか!?」

「いやいやー、なかなか良い演技してたよ、しまむーは。世界のクロサワもうならせる熱演だったと思うよ、うん!」

 

 調子よく返したのは、本田未央だ。腕組みをし、満足げにうんうんとうなずいている。そういえば未央は誰よりもノリノリで撮影に臨んでいた。

 

「本田さんのおっしゃるとおりです。みなさんのおかげで、大変すばらしい映画に仕上がりました」

 

 プロデューサーは誇らしげな笑顔を浮かべた。皮肉でもなんでもなく、本心から作品の出来に満足しているのだろう。

 

 映画を撮る――プロデューサーからそう告げられたのは、今から半年ほど前のことだった。

 

 その時点で台本はすでに出来上がっており、撮影現場やスケジュールの調整もぬかりなく整えられていた。本編で見たとおり、今回の映画では346プロダクションの事務所がおもな舞台となっている。撮影は実際の事務所ビルでおこなわれた。今回の映画のために346プロが自社ビルを全面的に貸し出したのである。

 

 実際の撮影期間は約一ヶ月。もちろんほかの仕事とも平行しておこなわれたから、思った以上にハードなスケジュールだった。撮影じたいは結構楽しかったが。お芝居は緊張したけれど。

 

 そして今日、編集作業を終えて出来上がった映画本編が、ここ346プロダクション内の試写室で披露されたというわけである。エンドロールなどはこれから入れるとのことで、いわゆる「完パケ」品ではないようだけれど、作品としてはたしかにいちおう完成していた。

 

 しかしまあこれは……わかってはいたこととはいえ、じつにベタベタのゾンビ映画が上がってきたものである。

 

 しかも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その点にまだ納得がいっていない者もいるようで……。

 

「お、おいっ! なんだよ、あたしのあのキャラは! なんで随所でアニメネタ入れてんだよ! あれじゃあたしがオタクみたいじゃねえか!」

 

 たいそうな剣幕でプロデューサーに食ってかかったのは、神谷奈緒である。……まあ、自分の名前が使われている以上、この手の文句を言いたくなる気持ちもわからないではない。

 

 しかしプロデューサーはしれっとした顔で首をかしげる。

 

「そうですか? 僕としては、神谷さんの隠しきれないガチオタっぷりが引き出されたいい映像だと思いましたが……」

「誰がガチオタだよ!?」

 

 プロデューサーさん、完全にわかって言ってますよね……。まあ、こういう分かりやすい反応を見せるから、奈緒は毎回毎回いじられてしまうのだと思うが。

 

 そして、自分の役どころに不満を抱いているらしい者がもうひとり。

 

「ボ、ボクも納得いってませんよ!」

 

 輿水幸子はスクリーンを指さしながらわめき散らした。

 

「やっぱりゾンビじゃカワイくないじゃないですか!? 『編集したら大丈夫だから』って言うから渋々あの役を引き受けたんですよ!? なのに……、やっぱり全然カワイくなってないじゃないですか!」

 

 こちらもなかなかの剣幕だ。同志を得たと思ったのか、奈緒が抗議に加勢した。

 

「そうだそうだ! もっと言ってやれ、幸子!」

「なんですか、あのメイクは!? あんな恐ろしげな顔を日本全国に晒せるわけがないでしょう!? 今すぐにモザイクをかけてください!」

 

 ゾンビ映画で、ゾンビの顔にモザイクって……。そんなものが公開されたら前代未聞の珍事である。撮影のたび数時間かけて施した特殊メイクも形無しだ。

 

 しかしプロデューサーは、やはりしれっとした顔で幸子の無茶な訴えを受け流した。

 

「いやいや、それはもったいない。なんたって輿水さん、あなたの演技は今回の映画でもひときわ光ってましたからねえ。重要な役をきっちり演じきってくれたと思います。これはアカデミーも見えてくるなあ」

「え? そ、そうですか?」

 

 あからさまなおべっかを使われて、険しかった幸子の顔が、わかりやすく緩む。

 

「これは授賞式に臨む準備もしておかないとなあ。あっ、今度一緒に授賞式用のドレスを見に行きましょう」

「ド、ドレスですか? そこまで言うなら……仕方ないですね! プロデューサーさんには特別に、世界一カワイイボクのエスコートをさせてあげましょう!」

 

 鼻の穴を広げ、上機嫌にふんぞりかえる幸子。

 

「ちょっ、幸子!?」

 

 甘言を弄する敵にあっさりと陥落した同志を見て、奈緒はぎょっと目を剥いた。なんというか、不憫だ……ふたりとも。

 

 まあとはいえ、なんだかんだ文句を言いつつも幸子が全力で役を全うしたのはたしかだ。アカデミーはともかくとして、幸子が今回の映画で果たした功績は大きいと思う。実際、登場シーンはそれほど多くないにもかかわらず、幸子の役は強く印象に残っている。

 

「オ、オイシイ……ってやつだ」

 

 浮かれる幸子のすぐそばで、星輝子がぼそりとつぶやいた。……うん、間違いじゃないんだけど、その言い方だと微妙にニュアンスが変わってきちゃうから。

 

 輝子と言えば、彼女がこの映画で果たした役割も大きい。役者として演技を頑張ったのはもちろんだが、それ以外にも輝子は、小道具の提供というかたちで制作に貢献している。その小道具とは、言うまでもなくあのキノコである。作中に登場したあのキノコ、あれらはすべて、輝子が実際に栽培しているものだ。そのため、映画のエンドクレジットにも「キノコ提供 星輝子」と出る予定らしい。輝子もなんだかんだ言ってノリノリだったよね……。

 

「その節はどうも、お世話になりました、星さん」

 

 今日も映画に出演したキノコの鉢を持参している輝子にお辞儀をすると、プロデューサーはその隣にいたふたりに目を移した。

 

「木村さんと堀さんはいかがでしたか? 撮影の感想など」

 

 木村夏樹が、格好良く組んでいた足を崩して、プロデューサーのほうを向く。

 

「アタシか? アタシはそうだな……、まあ楽しかったぜ。ギターをぶっ壊すのはアタシの趣味じゃないが、アクションシーンなんかはなかなかイカしてたぜ」

「私はもっとサイキックパワーをお見せしたかったですけど……でも全力は尽くしましたよ!」

 

 夏樹の横でムンッと手を前に突き出したのは堀裕子だ。夏樹はともかく、裕子も作中の役柄が普段とそう変わらなかった組のひとりだろう。

 

 なお、裕子はエンドクレジットに「サイキック提供」で名前を載せてもらえるようプロデューサーに直訴していたが、これは却下されたようだ。……残念ながら、といちおう言っておこう。

 

「そういや、志希のやつはどうした? あいつも今日、試写を観に来るっつってた気がするんだが」

 

 夏樹が会場を見回して、プロデューサーにたずねた。

 

「その予定だったのですが、あいにく一ノ瀬さん、また失踪してしまいまして」

「……ああ、なるほどな」

 

 プロデューサーの返答を受けて、夏樹は諦めたような苦笑を浮かべた。「失踪」というと物騒に聞こえるかもしれないが、気まぐれにどこかへ出かける志希の習癖が事務所内ではそう呼び習わされているのだ。

 

「こんな大事な日に顔を見せないとは。ふん、一ノ瀬も困ったものだな」

 

 そんなふうに会話に入ってきたのは、夏樹たちのうしろの席に座っていた妙齢の女性である。プロデューサーは彼女に向けて、ぺこりと頭を下げる。

 

「麗さんたちも、ありがとうございました。いや~、みなさん、素晴らしい熱演でした」

「ふん、礼には及ばん」

「これも仕事だからな」

「緊張しましたけど、楽しかったですよ?」

「精一杯頑張りました」

 

 プロデューサーに順々に言葉を返したよく似た顔立ちの四人は、トレーナーの青木四姉妹である。ご覧いただいたとおり、彼女たちも今回の映画にゾンビ役として出演している。本来は裏方であるはずの彼女たちの出演は、プロデューサーのたっての希望だったらしい。プロデューサーいわく,「事務所内で発生したゾンビパニックという設定にリアリティをもたせるためのキャスティング」だそうだ。その思惑がうまくいったかどうかは判断しかねるが……彼女たちの演技じたいは迫力満点だった。

 

「いやー、もう、主役を食いそうなくらいのお芝居でしたよ。ゾンビだけに」

 

 ……つまらない冗談はさておくとして、今回の映画でプロデューサーは、世界観のリアリティにかなりこだわったらしい。アイドル役を実名で登場させたこともそうだが、プロデューサーの尽力で実現したシーンが、もうひとつある。

 

 346プロ所属アイドル全員の、ゾンビ役での出演だ。

 

「みなさんも、あらためて撮影お疲れさまでした。おかげさまでいいシーンが撮れました」

 

 プロデューサーが試写会場全体に向けて声を張ると、思い思いの歓声が即座に返ってきた。言葉の内容はてんでバラバラだが、この個性が346プロ所属アイドルの魅力に違いない。さすがに出演した全員が今日の試写に出ることはできなかったが、それでも二十人を超す仲間がスケジュールの都合をつけてこの会場に駆けつけてくれていた。

 

 総勢百七十三人のソンビアイドルが地下駐車場へ押し寄せるクライマックスシーン。あのシーンの撮影は、文字どおり一日がかりでおこなわれた大掛かりなものとなった。なにせ、百七十三人だ。ひとりひとりにゾンビメイクを施すだけでも相当な時間がかかる。そのうえでリハーサルに本番。アクションも代役をたてず、すべて自分たちでこなしたから、撮影当日までにおこなった殺陣の練習時間なども含めれば、かなりの手間隙がかかっている。

 

 だが苦労の甲斐あって、あのシーンはたしかに迫力あるものに仕上がったと思う。トレーナーさんたちも大活躍したし、まさに346プロの総力を結集したひと幕になったといえよう。

 

「いやあ、ここまでくると、ちひろさんには出ていただきたかったんですがねえ」

 

 プロデューサーが残念そうにため息を漏らした。ちひろというのは、この事務所のアイドル部門で事務員を務めている千川ちひろのことである。プロデューサーはちひろにもゾンビ役での出演を打診したものの、()()()断られたそうだ。……そのシーンがなによりも怖く感じられてしまうのは気のせいだろうか。

 

「ふん、それは無理だろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()他人に出てもらおうなど、そんな虫のいい話があるものか」

 

 わざとらしく肩を落としているプロデューサーに、ベテラントレーナーの麗が皮肉を言った。

 

 そうなのだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 プロデューサー役だけはなぜか、オーディションで選ばれた本業の俳優が務めることが当初から決まっていた。その重役を務めてくれた彼は、今日の試写会にも駆けつけてくれている。最後列の席に座っている彼にプロデューサーが会釈をすると、彼も愛想のいいお辞儀を返していた。

 

「彼を起用したのは大正解だったでしょ? それにほら、やっばり僕が画面に顔を出さないのは世の理っていうか」

 

 よく意味のわからないひとことを漏らしたあと、プロデューサーはあらためて会場全体へ向けて声を張った。

 

「さて、みなさん。それでは、『シンデレラガールズ・オブ・ザ・デッド』完成披露試写会も、そろそろお開きにしたいと思います。本日はお忙しい中お集まりいただき、本当にありがとうございました。最後になりましたがここで、今回の映画で見事に主演の大役を果たしてくださった白坂小梅さんに、ひとことご挨拶を頂戴したいと思います」

「えっ、わ、私……?」

 

 いきなり指名を受け、小梅は目を白黒させた。しかし会場ではすでに自分を迎える拍手が起こっている。と、とにかくなにかしゃべるしかなさそうだ……。

 

 小梅は渡されたマイクを両手で握り、まずはぺこりと一礼をした。

 

「え、えと、し、白坂小梅……です。き、今日はこんなにたくさんの人に集まってもらって、と、とても嬉しい……です。わ、私は映画に出てくる小梅ちゃんみたいに賢くないし、じ、自分に役が務まるか不安で、と、とても緊張しましたけど、なんとかやりきることができたのは、さ、撮影でみなさんに助けてもらったから……だと思います。で、できればゾンビ役もやってみたかったけど……」

 

 ぼつりと漏らした言葉に、会場から笑いが返ってきた。結構本気だったのだが。

 

「で、でも、大好きなゾンビ映画を、みんなで一緒になって作ることができて、すごく楽しかったです。この映画が、た、たくさんの人に観てもらえたら、う、嬉しいなって思います。み、みなさん、それに、か、監督さんやスタッフのみなさん、プ、プロデューサーさんも、本当にあ、ありがとうございました」

 

 小梅が深々と腰を折ると、会場からあたたかな拍車が返ってきた。文句を言う者もいたけれど、もちろんみんな本気で嫌がっていたわけじゃない。みなで一丸となって取り組んだ作品だ。完成を喜ばないはずがない。

 

「白坂さん、ありがとうございました。映画界広しといえど、ゾンビに造詣の深いアイドル役で白坂さんの右に出る役者はいないでしょう。もちろんみなさんもそれぞれが最高の演技を見せてくださったと思います。一般公開のあかつきには多くの方にこの作品を届けられるよう我々スタッフ一同精一杯努力いたす所存です。宣伝などでまたお力添えいただく機会もあるかと思いますので、その際はよろしくお願いいたします。それではあらためて、主演の白坂さんに盛大な拍手を!」

 

 プロデューサーがそんなふうに促すやいなや、試写会場はまた、割れんばかりの拍手の音で満たされるのだった――。

 

 

 *

 

 

 こうして試写会は盛況のうちに幕を閉じ、集まった出演者やスタッフは、三々五々会場をあとにしはじめていた。

 

「わ、私たちもそろそろ行こっか……」

 

 小梅が輝子を誘って席を立った。このあと、予定が空いている者で簡単な打ち上げをおこなうらしい。小梅と輝子もそれに参加するつもりだった。

 

 と、そこへ――。

 

「ああ、星さん、ちょっと」

 

 輝子が急に呼び止められ、小梅は思わず一緒に振り返った。

 

 そこにいたのは、プロデューサーだった。

 

「すみませんね、こんなときに。いやね、星さんにちょっと、折り入って相談したいことがあるんです」

「そ、相談? な、なん……だ?」

 

 輝子は少し怪訝そうに眉をひそめる。小梅もなんだろうと思った。映画の話ならもう終わったはずだけど……。

 

 小梅たちが小首をかしげていると、プロデューサーは輝子の手元へ、ちらりと視線を落とした。

 

「キノコ――なんですけどね」

 

 そして、言った。

 

「星さんが僕のデスクの下で栽培してるキノコ、あれ、ひと株分けてもらえませんかね? なんか、一ノ瀬さんから実験用に欲しいって、頼まれちゃって」

 

 

(――THE END?)



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