あーしさん√はまちがえられない。 (あおだるま)
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やはり彼女は女王である。

 

 悪名高い、とは俺にそこまで似合わない言葉だ。

 

 本来大多数の端っこ、誰の目にもつかない場所こそ俺の立ち位置である。そして俺はそんな自らの立ち位置がそこまで嫌いではなかった。何をするにも一人ではあるが、それは裏を返せばだれにも気を遣わなくてよいし、誰にも無理に合わせる必要がない。自分の好きな時に、好きなことが、自分のためだけにできる。自分の喜びは自分だけのものであり、憂いもまた同じ。ぼっちとはどこまでも自己完結している生き物であり、よりどころを求めず、他者にプラスにもマイナスにもならない、なってはいけない。

 

 しかし周りの人間は、そんなことは知ったことではない。

 

「おはよー」

 朝の喧騒の中、ガラガラ、と俺の後ろでドアが開く音がする。声の主は見なくてもわかる。相模南。彼女は少し立ち止まり、俺の横で聞こえるように「チッ」と舌打ちをする。…毎朝毎朝ご苦労様です。イラつくくらいなら前のドアから入ればいいのではないだろうか。それは彼女のプライドが許さないのだろうが。

 

 まあ相模が何を言おうと、どんな態度をとろうと、あいつは結局俺の見えないところで陰口をたたくか、遠巻きに嫌味をまき散らす程度だ。さほど実害はない。それよりもうっとうしいのは…

 目だけを窓際の後ろの席に向ける。

 

「ちょ、なんで俺だけハブなんだよー。それどこのヒキタニくん?何タニくんだよー」

 

「ハブにするつもりじゃなくても、勝手に一人になってんだから自業自得だろ。戸部タニくん」

 

「ちょ、まじひどいわー。まあ何タニ君と違って部活あるしぃ、忙しい俺がいけないんだけどー。」

 

 あー、おもしろいおもしろい。

 

 俺は文化祭で自らの仕事を完遂させるため、相模にいくつかの言葉を投げかけた。そして彼女は俺の思惑通り実行委員長として壇上に立ち、俺の思惑通りに失敗した。

 その副産物として、不本意だが俺の悪名はそこそこ校内に知れ渡ることとなった。…まあ副産物とはいっても、それは俺がそう求めたことでもある。

 

 そして今、俺の周りはこの通り寒々しい様相を呈している。

 

 窓際では戸部、大岡、大和の三人が大声で話している。どうやら葉山はまだ登校していないようだ。葉山がいなくても彼ら三人が「仲良く」できているのは、俺のおかげかもしれない。

 そう思うと特に腹も立たない。…とはいえ、せめてその必要以上にでかい声はやめていただけるとありがたい。俺に聞こえるように言っているのかもしれないが。

 

 三人が話している近くには三浦が座って携帯をいじり、海老名さんはその近くに立って何やらニコニコしている。由比ヶ浜は男たち三人の近くで後ろ手を組んで「あはは…」と笑い、ちらりとこちらを見る。…別に何か期待しているわけではない。彼女には彼女の立ち位置がある。

 

 三浦はモブ男三人のことなど気にも留めていないらしく、いくら大声で話そうとそちらを見るそぶりもない。大したものだ、と俺は思う。普通同じグループの人間が盛り上がっていたら少しは意識がそちらに向くものだろう。女王としてふるまっているのではない。恐らく彼女は本当に興味がないのだ。彼女にとって重要なのは、彼女に興味があることだけ。その姿勢は万が一彼女がぼっちになったとき、とても重宝されるに違いない。おめでとう。

 

 一人求められてもいない分析を終える。やはり他者の観察は新たな発見もあり、なかなかの暇つぶしになる。本人も思ってもいないその人を俺が勝手に定義づけるのも、遊びとしては悪くない。

 

 本格的に意識を腕の中の漆黒に向ける。…何やら格好良い言い方をしたが、単純に本格的に寝たふりに入っただけだ。

 

 視界は黒くなるが、窓際の三人の声が廊下側の俺まで届く。彼らはまだ俺をネタにして騒いでいるらしく、タニ君タニ君と楽しげに笑っている。タニ君って、もはやまじで誰だよ。

 寝る気など毛頭ないが、流石にこれだけうるさいと周りの人間も迷惑していることだろう。その周りの人間も俺には関係ないのでさして問題ではないのだが。

 

 そう思いつつ周りの様子をうかがおうとすると、教室に冷たい声が響いた。

 

「あんたら、ちょっとうっさい」

 

 携帯をいじる姿勢は全く変わらず、三浦優美子はそうつぶやいた。

 

 そのつぶやきに教室内の空気が一瞬凍る。さすがである。俺だったらつぶやくどころか、目の前の人間に普通の声で話しても気づかれないというのに。もはや俺のステルス能力は念能力の域にまで昇華されている。

 

 彼女の声にモブ男三人は驚き、そしてビビったのか「すまん」と短く誰かが謝罪し、声は急速にしぼんだ。

 俺はというと、そこまで驚きもしなかった。彼女は思ったことを口にしただけだと確信していたからだ。彼女にとって三人の声はうっとうしかったのだろう。それは彼らの声が大きかっただけではなく、そもそも陰口、嫌味といった類のものが彼女とは相いれないからかもしれない。

 そしてそれをこの瞬間に口にしたのは、葉山がいなかったからという一点に尽きる。彼の存在が彼女のストッパーとなり、彼女の女王振り、傍若無人ぶりは制限されているのではないか。

 

 三浦は全く様子を変えずに携帯をいじる。

 

 そんな彼女の様子を横目で伺うと、こちらに興味なさげに視線を送る三浦と目が合う。こ、こわいこわいこわい。すぐに寝たふりを続ける。いや、無理。無理といったら無理。あれと何秒も目合わせたら、俺死ぬよ?恐怖で。

 

 

 

 

「キーンコーンカーンコーン」

 四限終了を告げるチャイムが鳴り、昼休みになる。あれから葉山は登校してこなかった。平塚先生によると、家の事情で休みらしい。俺も家が恋しすぎるという理由で毎日でも休みたいところである。

 

 さて、昼飯を食うか。窓の外を見ると今日は見事な快晴。俺はそそくさと席を立ち、ベストプレイスへと向かった。

 

 

 

 

 

 一人ここで食べる昼飯は、小町と食べる飯の次にうまい。俺はそう確信を持つ。頬を気持ちの良い風が通り抜け、俺は雲一つない青空を見上げる。一つ文句を言うとすれば、今日は戸塚が目の前で練習していないことだけはいただけない。戸塚がいれば飯はそれだけで5倍はうまくなる。(当社比)

 

 最後のサンドイッチをほうばり、俺は立ち上がろうとする。食後のマッ缶のお時間だ。よいこのみんな、マッ缶を飲みきるまでがお食事です。

 

「あ、ヒキオじゃん」

 突然後ろからかけられた声に思わず振り向く。

 

「あんた、こんなとこで何やってんの?」

 

 そこにはウーロン茶とオレンジジュースを両手に持った三浦優美子がいた。

 

「…飯食ってんだよ」

 

 くそ、マッ缶買いに行くタイミングを逃した。さすがに女王を無視して自販機へ向かう度胸は、俺にはない。

 

「は?別に教室で食べればよくない?なんでこんなとこで食ってるし」

 

 以前にも言われたようなセリフを繰り返される。もしかしたらリア充は全員抱く疑問なのかもしれない。

 とはいっても、彼女は由比ヶ浜と違い頭が回らないわけではない。それでもわからないのは彼女の女王気質が、一人で見えないところで飯を食うというぼっちの思考を解さないのだろう。

 

「…こんなとこ、とは言ってくれるな。お前は教室で友人としか昼飯を食ったことがないだろ」

 

 柄にもなくそう小さく反論する。さっきまで至高の場所だと思っていたベストプレイスを、他者に二度も「こんなとこ」呼ばわりされたからかもしれない。または朝の彼女の発言に、少しばかり筋違いの感謝をしていたのかもしれない。…感謝して毒づくって俺ほんとツンデレ☆

 

 言ってから後悔する。しまった、本来学年カースト最下位が、トップにかみつくことなどあってはならない。

 恐る恐る彼女を見ると、彼女は瞠目し、「ふーん」とうなずいている。ちょ、なんですか。や、やんのかこら。

 

「へー、あんた普通に話せたんだ」

 

「…俺のことなんだと思ってたんですかね」

 首に手を当て、答える。いや気づけば三日くらい人と話してねえなぁとかざらだけど。そうなると言葉が出てきづらくはなるけども。

 

「それにあんたの言うことも間違ってはないし。確かにあーしは教室で友達としかお昼ご飯食べたことない」

 俺の発言は完全スルーして、彼女はひとりつぶやく。ちょっと、俺の声ちゃんと耳に届いていますか?

 

 やれやれ。さっさとこんな危険な空間は離れよう。席を立とうとする。しかし。

 

「よ、っと」

 

 三浦優美子は俺の隣に腰掛けた。

 

「ちょ、何やってんだお前…」

 ほんと何やってんのこいつ。なんでリア充って人のテリトリーにずかずか入り込んでくるの?達人の間合いって知ってる?

 

「は?教室で友達としか食ったことないって言ったのはあんたでしょ?だったらそうじゃない場所で、そうじゃない人間との経験もしなきゃ、あーしあんたの言ってることも、この場所も否定できないし」

 

 …やはり、頭の回転は悪くないらしい。それに負けず嫌いだ。雪ノ下を思い出すが、彼女とは明確に違う。彼女は他人と距離を置くが、三浦優美子にはその概念は薄いのだろう。彼女のしたいと思うことが彼女の理屈となり、人との距離は二の次だ。特に、関係が薄い人間には一層その色が濃くなるのかもしれない。

 

 ふぅ。彼女は短く息を吐く。ちょ、近い近い近い。俺は一人分の距離を開ける。

 彼女はそんな俺の行動にも気づかず、オレンジジュースのふたを開け、空を見上げる。風が彼女の金髪をなびかせる。…俺だけ思いっきり意識してるみたいな図になってるんだが。

 

「…へー、こんなとこあったんだ。知らなかったし」

 ゴクゴク、と喉を鳴らし、彼女は嘆息を漏らす。こんなとこ、という言葉も先ほどまでのニュアンスは欠片も含んでいない。

 

「満足したらとっとと帰ってくれると助かるんだが…」

 

 「は?あーしがどこにいようが、あーしの勝手でしょ?なんでヒキオに指図されなきゃなんないわけ?」

 彼女は俺をにらむ。ひ、ひぃ、ごめんなさいぃぃぃぃ。

 

「…じゃあ俺が教室戻るわ」

 

 ここでマッ缶飲むまでが俺の昼飯だというのに。まあ彼女に逆らってまですることじゃない。ここは戦略的撤退をとろう。俺は腰を浮かす。べ、別にビビったわけじゃないんだからねっ。

 

「ヒキオ」

 三浦優美子はこちらに視線を向けず、俺を呼ぶ。

 

「あんた、なんであんなことしたわけ?」

 

「…は?」

 彼女が何についての話をしているのか全く分からない。

 

「だから、文化祭のこと言ってんの。あれ以来、相模はあんたのこと嫌ってる。それは分かる。そんでクラスのやつらも便乗してあんたをたたいてる。それもわかる。だけど、あんたがなんでそんなことしたのか、あーしにはよくわかんない。

 別にあんたが悪くないと思ってるわけじゃない。あーしもあんたが相模にしたこと聞いた時は、最低だと思ったし、そう口にもした。

 でも、隼人は。隼人はあんたのことを、時々すっごい憐れそうに、うらやましそうに、まぶしそうに見てる時がある。…あーしはそんな隼人見たことない。

 それに戸部たちがあんたをネタにしてる時も、隼人はそれとなく話逸らすし。…まあそれがなくて今日はさすがにイラついたから、あーしが口出しちゃったんだけど」

 

 彼女はガシガシと金髪をかく。

 

「で、なんで?」

 

 彼女は最終的に、短く俺に問う。その問いには彼女の知りたいこと以外の一切がそぎ落とされ、彼女の思いだけが俺に届いた。彼女は俺を見てはいるが、その瞳に俺は映っていない。彼女は全く別のものを見ている。

 彼女は俺を通して一人の男を見ようとしている。葉山隼人のことを、知ろうとしている。いつも葉山を見ているからこそ、彼女は俺に対してこんなことを聞いてきたのだ。

 

「…別にお前に言うようなことじゃない。それに、すべて終わったことだ」

 

 彼女から視線を外す。彼女の瞳を、俺はまっすぐに見れない。俺が見るには彼女の瞳はまぶしすぎて、そしてひたむきすぎる。

 

「は?何にも終わってないし。クラスはうるさいし、隼人はおかしいじゃん」

 彼女は食い下がる。

 

 俺はそんな彼女を無視し、立ち上がる。マッ缶を買いに行く時間すらなくなっていた。

 

「ちょ、ヒキオ待てし。まだあーしの質問がおわっ…」

 

 

 その時、ベストプレイスに、いつもの風が吹いた。

 

 ふわり。

 

 彼女のスカートがまくれる。

 

 俺の視界に、三浦優美子のピンク色のそれが焼き付いた。

 

「な、な、な…」

 彼女はスカートを両手で押さえ、徐々に状況が呑み込めてきたのか、顔は耳まで赤くなる。

 

 そんな彼女に俺は死を覚悟したのか、やっぱりこいつ少女趣味だな、とのんきに思っていた。

 

「なに見てんだし!!!こ、殺す!あーし、絶対あんたのこと殺す!!!!!!」

 

 

 比企谷八幡17歳。私の人生はここで終わりました。

 

 

 

 



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やはり彼女は彼を見ている。

 

 女子はなぜスカートを履くのだろうか。

 

 本当にその下に隠された布切れを守りたいのであれば、スカートという選択肢はいささか防御力に欠けるといわざるを得ない。にもかかわらず、義務教育である中学生から、彼女らはそれを履くことを当たり前とし、ただでさえ防御力の低いスカートをさらに短くする。それに宿った防御力はもはや葉っぱや貝殻といったものとさほど違いはなく、そこには見せようとする思惑は感じても、隠そうとする意志はみじんも感じない。

 

 よってこれは冤罪である。

 

「こ、殺す!絶対あんた殺す!」

 三浦優美子は口を開けない俺にそう繰り返した。よくよく見てみれば体を抱きかかえ、若干涙目になっている。いや、俺何回死ねばいいんですか。パンツ見られたくらいで大げさな…。

 

「いや、別にこっちだって、んなもん見たくて見たわけじゃねえしな…」

 頬をかく。これ以上騒がれては俺がいわれのない痴漢冤罪で捕まりかねない。興味ありませんでしたよ、という姿勢を貫く。

 

「は、はぁ!?ヒキオのくせに何言ってんの?まじありえないんだけど」

 彼女はいつもの調子に戻って俺をにらむ。逆効果だったのか、効果あったというべきか。

「な、なんか言うことあんじゃないの?」

 彼女はふんぞり返って俺にそう続ける。言うこと、ねぇ…

 

 俺は顎に手を当て、しばし考える。

「…お前、やっぱ少女趣味だな。」

 

「さっさと死ね!!!!」

 

 昼休み終了の鐘がなる。とりあえずこの一件は俺が武力的制裁を受けることで片が付いた。…冤罪だ。

 

 

 

 最後の授業が終わり、放課後。俺はさっさと支度をし、奉仕部へと足を運ぼうとする。

 

 が、

 

「ヒキオ、ちょっと顔かせし」

 三浦優美子はそう俺をにらみ、顎で廊下を指す。

 

 突然ぼっちに話しかける女王に、クラスが一瞬ざわつく。由比ヶ浜に至っては「あわわ…」と口を手で覆っている。現実世界でそんなわかりやすい奴、おる?

 

「いや、俺これから部活なんだけど…」

 三浦は平然としているが、こっちは周りの視線を集めるのに慣れていない。短く答えるが、声はしぼむ。

 

「はぁ?」

 彼女の額に青筋が浮かぶ。こ、こわいよぅ…。

 

 ふう、と彼女は大きく息を吸う。

 

「あんた結局あーしの質問に答えてないし。それに」

 

 彼女は由比ヶ浜を横目で見て、俺にサディスティックな笑みを浮かべる。

 

「付き合えないっていうなら、結衣にさっきの昼休みのこと話してもいいんだけど」

 

 俺の脳裏にピンクの逆三角形がフラッシュバックする。…あれに関しては制裁も受けたし、そもそも不可抗力だろう。だが、それを由比ヶ浜に知られるのはさすがにまずい。由比ヶ浜に知られるということは、自動的に雪ノ下の耳にも入るということだ。そしてそうなったら…有罪も免れない。

 

 遠目になった俺に彼女は何を思ったのか、俺の頭を鞄でたたく。

「な、なに思い出してんだし!」

 

「いってえな…そもそも、」

 

 さすがに俺が反論しようとすると、横から声がかかる。

 

「ど、どしたの優美子。ヒッキーと話してるとか、なんか珍しくない?」

 

 爪をいじって視線を泳がせながら、由比ヶ浜は問う。流石に挙動不審過ぎるだろ。普段の俺かよ。いや、俺のデフォルトキョドりすぎだろ。

 

「あー、ちょっとヒキオに聞きたいことあんの。だから部活の時間ちょっとこいつ借りるけど、いい?」

 

 彼女は有無を言わせない口調で由比ヶ浜に問う。それは問いというより、彼女の中では既に確定している事項のようだったが。

 

「え?う、うん、別にいいけど…」

 由比ヶ浜は俺の方をチラチラとみながら、何とかそう口にする。いいのかよ。

 

「ほらヒキオ、さっさと廊下出な」

 三浦優美子はまた鞄で俺の背中をぶつ。…あの、俺の行動に俺の意思は反映されないんですかね。

 

 

 

 三浦は堂に入った体で廊下をねり歩き、俺はその三浦の半歩うしろ、どころか2馬身ほどうしろを歩く。彼女は歩くのが早いうえ、俺がすぐ後ろを歩くとどう見ても手下か従者にしか見えない。よってこのポジションをとった。…今度はストーカーに見えてないよね?

 

「…どこ行くんだ?」

 流石に自分の死地くらい知りたい俺は、必要最低限のことだけを問う。

 

 だが彼女はこちらに振り向く素振りすらなく、歩みを止める気配もない。あの、俺の声聞こえてますか?

 

 

 

 

 

 結局俺の質問に彼女が答えることはなく、ようやく足を止めたのは少し歩いた体育館裏だった。

 

「で、ヒキオ」

 彼女は振り向く。よかった、俺の存在ごと抹消されたのかと思った。

 

「あんたが文化祭でしたことの理由、あーしがきいたげる」

 彼女はそう言い放つ。どんだけ高みから見下ろしてんだよ。

 

 俺はため息とともに吐き出す。

「…別に話すようなことじゃない。単純に相模に対して嫌味を言いたくなって言っただけだ」

 

「だったら」

 彼女は俺に声をかぶせる。

 

「だったら、隼人はあんな風にあんたを見ない」

 

  彼女の視線が俺に刺さる。…だめだ。彼女はどこまでも信頼している。話をしている俺ではなく、葉山隼人を。自らの想いを、彼女は信じている。

 

 俺はそれをとても硬く、とても強く、そしてとても脆いと感じた。

 

「…俺は文実の委員だった。相模は文実委員長だった。しかしあいつは文実よりクラスのことを優先していた。そして俺たちに仕事を押し付け、委員会の仕事を著しく滞らせた。俺はそれにひどく腹を立てていた。

 だからろくに仕事をしていなかった相模に、最後につい一言いいたくなってな。わかるだろ?俺は手を抜きつつもやってたんだから、そのくらいは当然だよな。言葉が多少汚くなったのも仕方ないことだ。俺だしな。その結果あいつが閉会式で恥をかいたのも仕方ないことで、自業自得だ。俺のせいじゃない。理由はそれだけだ」

 

 一息に言い切る。

 

 必要なのは真実ではない。彼女が納得する理由だ。とはいえ、これは一部真実を含んでいる。今の彼女をやりこむために、真実を混ぜる以外の方法を俺は思いつかなかった。そしてこの真実は、相模の汚名は、俺がわざわざ悪名を高めてまで隠していたことでもあったが、彼女ならばそれを吹聴して回ることはないだろうと思い、話した。

 

 彼女はそもそも、相模に対して一切の興味がない。興味がない相手に対する彼女の態度は、一貫して無関心。それは朝のこと、これまでの彼女の言動からわかっている。相模は三浦に対してたまに敵意をこめた、あるいは卑屈な視線を送るが、三浦がそれに応じたところは見たことがない。

 

 そして、彼女が葉山のことを見ているのなら、葉山があの時文実に出入りしていることも知っているだろう。葉山はそこで相模の無能ぶりを見ていた。「そういう意味」での事情を知っていた。彼女が彼を信じるなら、葉山の俺への憐みの視線にも納得がいくはずだ。

 加えて三浦は文化祭の時はクラスにいたはず。文実に行かず、クラスで威張り散らす相模の姿は目にしているだろう。

 そして彼女は思い当たる。林間学校の時に俺がした小学生への仕打ちに。そこから自然と行きつくのは、俺のこれまで通りの最低さ。

 

 どうだ。

 

 俺は彼女を見る。

 

「…わかった」

 俺を見ていた目は地面に落ち、彼女はうなずく。

 

 よし。内心ほっとする。決していい気分ではないが、とりあえずパンツの詫び程度にはなっただろう。

 

「わかった。ヒキオ」

 彼女はもう一度繰り返し、顔をあげる。

 

 

 彼女が俺に笑顔を向けたのは、初めてだった。

 

 

「あんたがほんとのこと言うつもりないっていうことは、あーし、よーく分かった」

 

 …少し彼女を甘く見ていたかもしれない。

 

「なに、あんたあーしのこと舐めてんの?そんなんであーしが騙されると思った?

 隼人はあんたのことを、うらやましそうに見ることあるって、あーしいわなかったっけ?誰にでも、どんな最低な奴にも優しい隼人は、あんたに対してだけはそうじゃなくて、一人の男子みたいに接してる。そんなあんたがただの最低な奴じゃないことはわかりきってんの。

 別にあーしはあんたなんかにこれっぽっちも興味ない。ただ隼人のことが知りたい。そして今あーしが隼人のことをもっと知るためには、なんであんただけには優しくないのか、あんな目で見るのか知るのが早いと思った。だから柄にもなくあんたなんかに話しかけたんだけど」

 

 彼女は言葉を切る。厳しい目を俺に向ける。

 

「もういいし。元々教えてもらうなんて、あーしらしくなかった。ここまでして言わないなら、たぶんあんたは本当のこと言う気もないんでしょ。それならそれでいい。あーしはあーしで、あんたのこと見て、勝手に判断する」

 

 彼女は俺の反応など、まるで気にせずにそう言った。彼女の中で俺の放った言葉は虚構だと既に確定されていて、その目はどこまでも俺とその先の人物に向けられていた。

 

「だから、ヒキオ」

 彼女はにやりと笑う。

 

「これから、覚悟しな」

 

 不敵な彼女の笑みは、俺のこれからの高校生活が暗礁に乗り上げることを告げていた。

 

 …終わった。俺の高校生活はここで終わった。

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 終業を告げるチャイムが鳴り、俺は帰り支度をする。

 

 昨日の呼び出しから、嫌な予感とともに授業を受けていたが、今日は葉山がいるためか、彼女が俺に近づくことはなかった。当たり前といえば当たり前ともいえる。葉山のことを知りたい、と彼女は言った。それなのに彼を置いて俺に近づくのは、本末転倒以外の何物でもない。

 

 チラリと三浦を見る。まったく、どこまでいっても俺は自意識高い系である。

 ぼっちゆえの自意識を嘆いていると。後ろから鞄でたたかれる。

 

「あんた何ぼーっと座ってるし。ほら、行くよ」

 三浦優美子はくだらないものを見る目で、決定事項のように言い放った。

 

「…は?」

 

 状況が理解できない。今日、なにもなく平穏に終わったじゃないですか。

 

「は?じゃなくて。覚悟しな、ってあーし言わなかったっけ?」

 

「いや、だって今日は葉山いるだr…」

 言いかけて彼の席を見る。しかしそこに彼の姿はない。

 

「はぁ?あんた何言ってんの?隼人もうとっくに部活行ったし」

 

 …しまった。

 

 そうか。葉山はサッカー部のエース。ただでさえ普段から忙しいだろう。ましてやこの時期に、意図的に時間を作りでもしなければ、放課後まで三浦の機嫌を取ることはできない。

 まったく、こんなことにも気が付かないとはどうかしている。彼女のらしくない笑顔で調子が狂ったのかもしれない。

 

「あー…俺も部活あるから無理だな」

 

 俺は今日も同じ言い訳を繰り返す。奉仕部に入ってよかったと思える数少ない瞬間である。友達の無理な誘いも、この一言で後腐れなく断ることができるのだ!…あ、そもそも友達がいませんでした。てへっ☆ 

 

「…結衣」

 彼女は昨日と同じように由比ヶ浜に呼びかける。これまた昨日と同じようにちらちらとこちらを見ていた由比ヶ浜は、びくっ、と肩を震わせる。

 

「う、うん。なに?優美子」

 

 三浦優美子は大きく息を吸い、宣言する。

 

「今日、あーしもあんたたちの部室行くから」

 

「「は?」」

 俺と由比ヶ浜の声が重なる。何を言っているのか、こいつは。

 

「で、でもゆきのんもいるし…」

 

 その先を言うのははばかられるのか、由比ヶ浜は三浦に上目遣いを送る。そう、部室には当然雪ノ下がいる。俺もわざわざ自ら部室を戦場にしたくはない。

 

「別にあーし、気にしないから」

 

 いや、その論おかしいだろ。

「何言ってんだお前。お前が気にしなくてもこっちが気にするって…」

 

 彼女の女王理論に口をはさむ。そんな暴論が通ってたまるか。

 

「あ?」

 暴論万歳。女王万歳。絶対王政に栄光あれ。

 

 三浦の一にらみで俺は何も言えなくなる。

 

 ため息をついたかと思うと、彼女は俺との距離を縮める。ご、ごめんなさい殴らないで。

 

「だから、雪ノ下さんにもあのこといってもいいんだけどね、あーしは」

 俺に耳打ちをする。彼女の金髪が俺の耳をくすぐる。ちょ、くすぐったいくすぐったい近い近い。

 

 その一言に俺は閉口する。由比ヶ浜が目を丸くしているが、それにかまっている場合ではない。

 

 彼女はあのラッキースケ…ゴホンゴホン!あの不慮の事故のことについて言っている。昨日は突然の呼び出しに動揺し、ついていってしまったが、冷静に考えれば何の証拠があるわけでもない。そもそもあれはスカートを短く着ている彼女に非はあっても、決して俺のせいではない。俺に責任はない。理屈の上では。

 

 しかし。俺の脳裏にあのときの三浦優美子の、女王の涙目が、小動物のように体を抱える様が思い浮かぶ。

 

 はぁ。ため息が出る。パンツの詫びくらいはしたと思ったが、あの彼女を見たツケはまだ払えていないらしい。それにさすがにあんな彼女を見せられ、事故だから、証拠がないから、などとはさすがの俺も胸を張って言えそうにない。

 

「…面倒ごとは、勘弁してくれ」

 

 俺は一言、そう口にしていた。

 

「は?あーしを誰だと思ってるし。雪ノ下さんくらい、ちょろいっしょ」

 彼女はそう言って豊かな胸を張る。

 

 …その威勢が、いつまで持つか見ものだな。

 

 俺は彼女と雪ノ下が横に並ぶ光景を思い浮かべる。

 

 

 戦場ならまだしも、一方的な処刑場だけは勘弁してもらいたい。

 



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彼女は意外とかわいい。

 天敵、とはどの世界にも存在する。

 

 自然界であればネズミの天敵はネコ、カエルの天敵はヘビだ。そしてネズミやカエルは捕食される運命にある。そして捕食の時、被食の時、そのネズミとネコの関係は終わる。

 しかし、人間界ではどうだろう。天敵がいるからといっておいそれと捕食されるわけにはいかない。人間にはルールがあり、なによりプライドがある。「捕食」「被食」という関係性の終わりはなく、そこにあるのは、終わることのない血で血を洗う戦いのみである。

 

 そんな心持で、俺は奉仕部の扉の前に立った。

 

 

「邪魔するし」

 バン。三浦優美子は奉仕部の扉を勢いよく開けた。

 

「…こんにちは、三浦優美子さん。何か御用かしら」

 読んでいた文庫本を閉じ、雪ノ下雪乃は冷たく言い放つ。

 

「あー、別に特に依頼があるってわけじゃなくてだな…」

 できるだけ争いの火種は消しておきたいと思い、俺は三浦の後ろから説明しようとする。しかし、彼女ら二人ににらまれる。

 

「あーしにきいてる――」「三浦さんにきいているのだけど」

 三浦の声に雪ノ下の声が重なる。仲いいですね、お二人。

 

 絶対零度と獄炎の目でにらまれた俺は、蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れない。…俺は犠牲になったのだ。犠牲の犠牲にな。

 

 しかし声が重なった瞬間に二人は俺ではなく、お互いに視線を移す。

 

「別に、あーし依頼に来たわけじゃないんだけど」

 

「では何をしに来たのかしら?冷やかしに来たのなら速やかに帰っていただけるとありがたいのだけれど。あいにくごくつぶしは、そこのぬぼーっとした男だけで間に合っているの」

 

 即返ってくる雪ノ下からの弁舌に、三浦は一瞬言葉を詰まらせる。自らがここに来た理由をどう話せばよいのか迷っているのだろうか。ところで自然に俺をディスるのをやめろ。あまりの自然さにスルーしそうになっただろうが。

 

「そ、それは…」

 三浦はまだ言いよどむ。そんな普段では見られない彼女の様子に由比ヶ浜も疑問を覚えたのか、首をひねる。

 

「そういえばさっきは聞かなかったけど、優美子なんで急に奉仕部に来ようと思ったの?」

 

「別に来ようと思ったっていうか…暇だっただけだし」

 そっぽを向いて三浦はそう吐き捨てる。

 

「あら、さっきごくつぶしはそこの男だけで間に合っているといわなかったかしら。その顔についてる二つの耳はお飾りか何か?」

 

 …さすがに言いすぎではないか?俺は雪ノ下の強硬姿勢に違和感を覚える。もともと水と油だったのは知ってはいるが、ここまでけんか腰だっただろうか。

 

 三浦は何か言いかけるが、続く雪ノ下の言葉にさえぎられる。

 

「それとも、今日ここに来たのはその男と昨日二人で話していたのと、何か関係があるのかしら」

 

 な。

 

 雪ノ下は三浦に向けていた視線を、ちらりとこちらに向ける。俺の視線は自然と落ちる。ぐ、なぜこいつはそのことを。

 

 三浦は唇をかみ、下を向く。

 

「いや、それはだな…」

 

 こと葉山のこととなると、彼女は当てにできない。何を口走るかわかったものではない。俺に都合が悪いことを、彼女自身が知られたくないだろうことをうっかり漏らすかもしれない。

 

「だ、だから!」

 

 しかし俺の弁明は、その三浦に遮られる。

 

「あーし、ヒキオのこと気になってんの!だからここに来ただけだし、なんか問題ある!?」

 三浦は若干震えた声で胸をはる。

 

 …まじかこいつ。

 

 雪ノ下を見ると口をぽかんと開け、俺ら二人を見比べるばかり。由比ヶ浜に至っては手をばたつかせ、何やら騒がしく口を開いているが、何を言っているのかわからない。言葉はまとまってから口にしましょう。これ、幼稚園児に言うやつだからな。

 

 恐る恐る三浦を見るが、雪ノ下をやりこんだと思っているのか、呆然とする彼女を満足げに見下ろす。いや、ただ自爆してるだけですよあなた。…なんでこの女は頭の回転は悪くないしオカン属性なのに、肝心なところでポンコツなのか。

 

 雪ノ下は三浦の視線に気づき、咳払いをする。

 

「ゴ、ゴホン!そ、それはつまり…彼に特別な感情がある、ということかしら」

 彼女は自分で言って顔を背ける。…まともに目を見て話せないのかこの子たちは。

 

「は?」

 三浦は雪ノ下が何を言っているのか理解できないのか、目を丸くする。もしかしたら雪ノ下に言い返すことと、葉山のことで頭がいっぱいになり、自分が何を言ったのかもよく覚えていないのかもしれない。

 

「だ、だから、優美子はヒッキーのことが…その、好き、っていうか…」

 由比ヶ浜が頬を赤らめ、雪ノ下の言葉を引き取る。

 

 由比ヶ浜の言葉の意味をしばし考え、徐々に三浦の顔にも朱色が差し、ぶんぶんと両手を振る。

 

「ち、ちがうし!っていうかありえないし!なんであーしが、こんな男を好…と、とにかく、ありえないし!」

 

 言いかけ、一層頬を赤らめる。やはり。俺は思う。こいつ、少女趣味というより少女そのものである。

 

 彼女は俺を指さして続ける。

 

「大体、誰がこんな最低な奴…そ、そうだし!こいつこないだの昼休み、風が吹いたとか言い訳してあーしのパ……!?」

 

 おいいいいいいいいいいいいいいいいいいい。

 

 俺は彼女の口をふさぐ。ちょっとまて、それを言わない約束でここまで連れてきたんだろうが。さすがに手で触れるわけにはいかないので、彼女の持っていたカバンを彼女の口に押し当てる。

 

「な…――」「ちょ、ヒッキー!!!」

 雪ノ下由比ヶ浜の声が重なる。言いたいことはなんとなくわかるが、ここは彼女らにかまっている暇はない。

 

 俺は二人の声を交わし、三浦を教室の外に連れ出す。余裕がなかったので手首をつかむしかなかったが、制服の上からだからセーフということにしてもらおう。

 

「ヒ、ヒキオ!何するし!」

 

 俺は三浦を渡り廊下まで連れ出し、誰もいないことを確認する。

 

「あのな、それはこっちのセリフだ。…こういっちゃなんだが、お前が雪ノ下と渡り合うのは無理がある」

 

 迷ったが、言う。他にも色々と言いたいことはあるが、ここは今最も必要なことを言う。こいつがあそこにいるなら、ここでわからせておかねばならない。俺と部の平穏のためにも。

 

「はぁ?あーしのどこが雪ノ下さんに負けてるって?」

 

 彼女は俺をにらむ。その態度は先ほどのものとは違い、いつもの女王のものだった。つい土下座しそうになる自分を何とかこらえ、俺は口の端を持ち上げる。

 

「態度はいつものように高圧的なのに、心の中でお前は雪ノ下のことを自分と対等以上だと思っちまってるんだよ。だからあのままあそこにいても、雪ノ下と争いになって、結局負ける。…大体、お前が「さん」付けする人間って、同級生で雪ノ下の他にいるか?」

 

 彼女は「うっ」と顔をしかめる。

 

 俺は彼女のその様子を見て安心する。やはりただの馬鹿というわけではない。少なからず、雪ノ下を苦手としている、ひいては認めているという自覚はあるようだ。ここでまだ開き直られるようであれば、話にすらならない。ならば。

 

 俺は絶対に聞き入れられないだろうことを確信しながら、それでも言う。

 

「だからまあ…何とかその態度、柔らかくできないか?」

「は?」

 彼女はすごむ。ひぃぃぃぃ。だからその態度のことを言っているんですよ。

 

 はぁ。ため息が出る。

 

「どっちかが折れるしかない、って言ってんだよ。例えばお前は川…川なんとかさんのことも苦手だろう?」

 大志の姉ちゃん、名前なんだっけな。川内か川谷あたりだと思うんだが。

 

「川?…ああ、川崎のこと。」

 彼女はしばし考え、視線を落とす。どうでもいい、という風な態度をとっているがその目に一瞬炎がともった気がした。

 

「そう、川崎だ。お前は川崎のことも得意にはしていない。その二人の共通点は、どちらもお前の女王的振る舞いに付き合う気がないことだ。例えば俺はお前に上からものを言われても、どうでもいい。実際お前の方が上だしな。クラスのほとんどの人間もお前をそう認識している。俺は無駄な争いは望むところじゃないから逆らわないが、彼らは今後の人間関係、学校生活を気にして逆らわないのだろう」

 

 チラリと彼女を見る。横槍を入れてくるか殴られるかすると思ったが、何もしてこない。普段彼女もそんなことを感じていたのだろうか。何を考えているのか、うつむいた金髪からは推しはかれない。ところで殴られちゃうのかよ。

 

「しかし彼女ら二人は、そんなこと知ったことじゃないんだろう。二人とも壊れて困る人間関係をそもそも構築していない上、気性が荒い。だからお前の女王的振る舞いを疎ましく思い、歯に衣着せない。徹底的な言い合いになり、そして何より…お前は打たれ弱い」

 

 今度こそ彼女は俺をにらむ。おれはその視線を受け流し、続ける。

 

「そうだろう。お前は雪ノ下に泣かされたことがなかったか?」

 

 さすがに話していて、気が滅入る。今俺は三浦優美子に、「お前はこういう人間だ」と突き付けている。俺が見ているだけの、知っているだけの彼女と彼女の周りの情報で「三浦優美子」を定義づけ、それを本人に語っている。俺はそこまでえらい人間なのだろうか。

 しかし。俺はこぶしを握る。ここでやめたら徒労だし、なにより頑固な彼女に真実以外で納得してもらうことは難しい。雪ノ下に合わせてもらうことなど、より難しい。

 

 だから、俺は続けた。

 

「もう一度、はっきり言う。雪ノ下はお前のことを負かすことができる。だが、お前にはそれができない。だから折れるとしたらお前しかいない」

 

 さすがに怒気のこもった目で彼女は何か言いかける。ここで何か言わせてしまったら行きつく果ては殴り合いか、リンチか。彼女の目は俺が見たことがないほどにつりあがっていた。

 

 だから俺は彼女が口を開く前に、急いで続ける。

 

「そして俺は、そんな三浦優美子は嫌いじゃない」

 

「…は?」

 

 言いかけた言葉を飲み込み、彼女は目を丸くする。その声はいつもの有無を言わせないものではなく、純粋なクエスチョンだった。ここしかない。

 

 俺は彼女が虚をつかれた隙に、畳みかける。

 

「だから、俺はそんなお前はそこまで嫌いじゃない。

 お前は打たれ弱いが、それは優しさの裏返しでもある。自分で気づいているか知らないが、俺は女王としてのお前だけではなく、周りに世話を焼く、姉御肌のお前も知っている。海老名さんのいつもの発作みたいな鼻血の時も、お前は毎回毎回ティッシュを当てて、「黙っていればかわいい」と口にする。それは優しさといっていいものだろうし、おれならあれの相手はそう何回もできない。

 お前は折れることは弱みを見せることだと思ってるかもしれん。それは負けることだと思ってるかもしれん。だがまあその、なんだ。そんなお前も、周りから見ればそう悪いもんじゃないってことだ」

 

 頭をガシガシとかき、そう吐き捨てる。おれがリンチをくらわないために精一杯おだてるつもりが、最後はしっかりと言葉になっていただろうか。不安になる。なぜこんな方法しか思い浮かばなかったのか。まだ彼女の笑顔が脳裏に焼き付いていたのか。 いずれにせよ、俺らしくない。

 

 彼女を見る。目をつりあがらせているだろうか。

 

「……な、なにいってんだし!つ、つーか、ヒキオのくせに、なんでそんな上からなわけ?」

 

 彼女はそわそわと周りを見て、金髪をいじる。その顔に赤みがさしていたのは、夕陽のせいだろうか。

 

 やはり。彼女は「綺麗」「格好いい」といった、女王の自分を褒められることは日常茶飯事だろう。しかし自らのことを「優しい」と称された経験は少ないのだろう。しかも自らが恥としていた、ある種弱みだと思っていた部分がそう言い替えられたのだから、多少は効果はあったのではないか。

 

 彼女の彼女らしからぬ様子を見て、俺は思う。…俺の頬も、夕陽が染め上げてくれているだろうか。

 

「ん、んん!」

 彼女はそうせき込んで、また金髪をいじりながらこちらに上目遣いを送る。ちょ、ちょっと、そういう仕草やめてください。勘違いしちゃうじゃないですか。

 

「まあ、その、なんだし…ヒキオにしては、悪くない、っていうか、なんつーか…ありがと、ね」

 頬をかきながら、彼女は下を向く。

 

 ちがうちがうちがうちがう。動悸が激しい気がするのは女王の前で緊張しているだけだし、顏が熱い気がするのは夕陽を直接浴びているからで、体まで若干熱くなってきたのは張るカイロをしこたま張っているせいである。不純な気持ちではない。決してこれはあれなんかではない。勘違いするな勘違いするな。決して、決して、決して、

 

 三浦優美子がかわいく見えているわけではない。

 

 ふう。一通りいつもの儀式を終え、俺は彼女を見る。オッケー、俺の気持ちは処理完了。彼女は。

 

 あれ、一層顔が真っ赤…?

 

「なっ、か、か、かわ、いい?な、何言ってんだしヒキオのくせに、まじで何言ってんだし、別にそんなことあーしは言われ慣れてるし気にしないっていうかなんつーか…」

 

 耳まで顔を赤くし、彼女は何とか手を腰に当てる。しかしそれはほとんど言葉にはならない。いつも厳しい目は、左右に泳いでいる。

 

 ちょっとまてええええええええええ!!!!!!!!!!!!なにこれ、さっきの最後のが口に出ちゃってましたみたいな、そういうくっそご都合主義ラノベ展開いらないから。俺がやっても都合よくないから。みんなが俺のこと嫌いになってキモがるだけだから。都合悪いまであるからね。読者も臭いって思ってるよ!…あれ、なんかすごいデジャヴを感じる。

 

 まだいつもの様子を取り戻せない三浦に、俺は責任転嫁する。だいたい、こいつもこいつだ。こんなボッチの言うことくらいでいちいち動揺しててどうす…。

 おれはさっきの自分の考えを思い出す。「かわいい」という単語は基本的に自分よりも下、ないしは下にしてもよい状況でなければ出てきづらい。彼女はそんな言葉も言われ慣れてなかったのかもしれない。

 

 俺の後悔をよそに、彼女はようやくいつもの調子を取り戻す。

 

「わ、わかったし!弱みまで強みに変えられるって、やっぱあーしすごいってことだし。雪ノ下さんくらい楽勝っしょ!」

 今度こそ腰に手を当て、言い切る。なにこれ。なんでこの子はわざわざ二回目のフラグ立てちゃうの?

 

「いや、だからちょっとは態度を軟化してくれると助かる。…さっきはお前が負けるからお前が折れろといったが、逆にこっちから折れれば、雪ノ下はそんないつまでも態度を硬化させることはないだろう。由比ヶ浜のいる手前、彼女の友人のお前が歩み寄ってきているのに、それを無碍にするようなことはしないはずだ」

 と思う。心の中で付け足す。だろう、はずだ、と思う。まったく便利な言葉である。

 

「だ、だから」

 彼女は俺の心の声にも気づく様子はなく、横目で俺を見る。

 

「…たまにはあんたみたいな根暗ぼっちの言うこと聞いてみるのも、暇つぶしとしては悪くない、ってことだし。何事も経験、っしょ」

 

 

 彼女はそうはにかんだ。それは彼女の、三浦優美子の女子高生としての等身大の笑顔のように見えた。

 

 

 

 

 

 



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いつの間にか彼女は居座っている。

 

 俺は奉仕部の扉の前で、一人深呼吸をする。

 

 あの説得の後、三浦から「先に行ってな。後で行くから。」という指示を受けたので、先に奉仕部室前まで来た。それについて何の説明もないところが、やはり女王である。…お花摘みかもしれないので、俺も何も言わなかったが。

 

 俺は意を決して、部室の扉を開ける。

 

「悪いな。時間とら、せ…」

 

 

 部室には珍しく来客がいた。金髪のイケメン、葉山隼人と、騒がしい茶髪カチューシャ、戸部。あとついでに大岡と大和。…何しに来たんでしょうか。

 

「あー、ヒキタニくんかー…」

 

 戸部は俺を見て顔をしかめる。だが先日の三浦の教室での注意、というか一声を思い出したのか、葉山を横目で見て、俺から視線を外す。大岡と大和の二人も顔をしかめつつ、黙る。うむ。さすが女王効果である。

 三浦に注意された手前、彼らは大っぴらに俺をネタにしづらいのだろう。別に奉仕部だけならまだしも、ここには葉山もいる。葉山がそんなことを三浦に言うわけはないが、戸部がそんなことまで考えてしまうほど、三浦の言葉は彼らのグループにとって重みがあるのではないか。

 

「あ、ヒッキー、今戸部っちから依頼があってね。実はさ…」

 

 すでに話を聞いている由比ヶ浜が俺に依頼の内容を説明する。どうも要領を得なかったので雪ノ下と葉山の補足は入ったが。…なんでこの子は告白が成功する前提で話を進めちゃうの。

 

 結論。彼の依頼をまとめると、戸部は海老名さんに好意があり、何とか奉仕部に戸部が海老名さんに思いを伝えるサポートをしてほしい、というのが依頼の内容だった。そして結局、由比ヶ浜はノリノリで、雪ノ下はしぶしぶ、俺は嫌々、奉仕部として戸部の依頼を受けることになった。…雪ノ下さん、あなた最近由比ヶ浜さんに甘すぎますよ。

 

 部活がある、といって葉山と大岡、大和の三人は教室を後にした。しかし。俺は少しの違和感を覚えた。最後の葉山の表情は、どこか痛ましさを感じさせる、いつもの彼らしくない微笑みだった。

 

 戸部はその後一人思いの丈を語り、部室を後にした。思いの丈しかわからなかったが、戸部が海老名さんに本気で好意を寄せているということは伝わった。

 

 その後少しの話し合いにより、「京都散策してるうちにいい感じになる。」という由比ヶ浜案が採用された。こう、なんつーかフワッとしてるが、現実的なラインだろう。俺は戸塚と一緒の班が決定したので、文句は全くない。

 

 だが。俺は心中安堵していた。三浦がいなくてよかった、と。

 

 由比ヶ浜が三浦に協力を求めようとしていたが、それはリスキーだろう。もし戸部の告白がうまくいかなかった時。海老名さんは協力した三浦、由比ヶ浜にいい感情はもつまい。由比ヶ浜だけならまだ「奉仕部」としての体裁があるが、三浦にはそれがない。そしてもし三浦がこの場にいたら、葉山がここに来た時点で、彼女はこの教室を出て行かない恐れもあった。そうなると俺の思う危険が回避できないものになる。三浦優美子が、その友人に嫌われる。

 

 彼女の笑顔を、弱さを、実直さを、聡明さを、ほんの少し知った今。そうなることをほんの少しだけ、嫌う俺がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待たせたし」

 三浦は奉仕部のドアをまた勢いよく開ける。そこの不遜さは変わらないのか。

 

 雪ノ下はその声にビクッと肩を震わせ、読んでいた文庫本を閉じる。

 

「あら、ずいぶん遅かったわね。…そういえば、比企谷君。さっきのはどういうことだったのか、教えてもらえるかしら」

 雪ノ下は三浦に目を合わせず、俺に問う。一層態度が硬化、というか冷化した気がするのは気のせいだろうか。

 

「いや、別に大したことではなくてだな…」

 一瞬、俺と三浦がここから出て行っていたことを忘れていた。どう話すか俺が迷っていると、横から遮られる。

 

「こないだあーしが自販機で間違えて飲物買った時、たまたま近くにいたヒキオに押し付けたんだけど、こいつその礼がしたかったんだって」

 

 どうでもいい、という風に三浦は言い、鞄に入れていたジュースを掲げる。

 

「ほら、ついでに結衣と雪ノ下さんの分もあるし。依頼人でもないのに邪魔すんのはこっちだから、飲みな」

 三浦は雪ノ下に紅茶、由比ヶ浜にミックスオレを手渡す。

 

「あ、ありがとう」

 

 雪ノ下は目を丸くしてそれを受け取る。由比ヶ浜は「わ、ありがとう、優美子!」と礼を言い、すでに嬉しそうにジュースを飲んでいる。

 

 なるほど。先に行っていろ、と言ったのはこれを買うためか。

 

 悪くない、と俺は思う。ものを渡す。原始的だしそれ自体は大した物でもないが、それは一つの貸しという事実として残る。雪ノ下も普段だったら受け取らなかっただろうが、慣れない人物からの予期せぬ行動に不意をつかれたのだろうか。

 

 雪ノ下は一口紅茶に口をつけ、息を吐く。

「だから先日の昼休みは、そこの男と一緒にいたのかしら?」

 

 …あれを見られていたのか。

 俺の脳裏にまたピンク色のそれがフラッシュバックする。いかん。首を振ってそれを追いやる。これでは訴えられても仕方がない。

 

「そ。海老名とのじゃんけんで負けて、ジュース買いに行ったの。ボタン押し間違えたんだけど、出てきたのがくっそ甘い缶コーヒーでね。あんなとこにいるのこいつしかいなかったし、こいつなら飲めるでしょ。…あーしは飲めたもんじゃないけど」

 

 うげ、と三浦は顔をしかめる。おい、一つ断っておくが、あれは缶コーヒーではない。缶コーヒーだと思うから飲めないのだ。あれは「マックスコーヒー」だ。原材料に加糖練乳が最初に来て、そのあとが砂糖で、そのあとにようやくコーヒーが来るんだぞ。コーラと同じ糖分量なんだぞ。

 

 にしても。俺は少し感心する。一応の筋は通っている。雪ノ下が俺たちを見たのが昼休みのベストプレイスか、放課後の体育館裏かは分からなかったわけだが、前者の方が場所的にみられる確率は高い。雪ノ下が体育館裏に用事があるとは思えない。

 そして昼休みに彼女と会った時には、確かに飲み物は二つあった。彼女は両手にオレンジジュースとウーロン茶を持っていた。昼休み、あそこにいたのはじゃんけんで負けたから、というのは真実だろう。さすがの雪ノ下でも、どんな飲み物を飲んでいたかは覚えていなかったのか、見ていなかったのか。

 

 だが。俺は少し不思議に思う。こいつ、俺だったらマッ缶飲むって知っていたのか?

 

「そう…。まあそういうことにしておいてあげるわ」

 雪ノ下は俺を一にらみし、三浦にそう告げる。まだ腑に落ちない点はあるのだろうが、とりあえず納得したようだ。三浦がけんか腰ではないからだろう。

 

 由比ヶ浜を見ると、うん、うん、とうなずきながら、三浦と雪ノ下を嬉しそうに眺めている。…この子、頭の中お花畑ですね。

 

「じゃあ、あーしここ座る」

 

 三浦は鞄を机の上に置き、余っている椅子を俺の椅子の横に置く。ちょ、ちょっと、だから近いんだってこの子は。

 

「ちょっと、三浦さん――」「な、何してんの優美子!」

 雪ノ下と由比ヶ浜が声を荒げる。いや、君たちいつも、これよりもっと近い状態で、ゆるゆり空間を繰り広げていますけどね。

 

「別にあーしがどこに座ってもよくない?それとも、ここに座っちゃいけない理由でもあんの?」

 三浦は廊下に出る前までとは違い、余裕の表情で雪ノ下と由比ヶ浜に微笑む。

 

「だ、だから、そもそもここにいてもいいなんて私は一言も…」

 雪ノ下はそこで言葉を切る。しばし無言になり、額に手を当てため息をつく。三浦の笑みが少し深くなった気がする。

 

 俺も少し考え、思い当たる。彼女はすでに紅茶を受け取っているのだ。「依頼人でもないのに邪魔すんのはこっちだから。」という三浦の紅茶を、受け取ってしまっている。それを受け取った時点で、とりあえずここにいることの理は、三浦にある。

 

「じゃ、あーしここ座るし。」

 ドカ、という効果音とともに、三浦は俺の横、正確には斜め前に腰掛ける。

 

 その様子を由比ヶ浜は頬を膨らませて、雪ノ下は冷たい目で見る。

 

 …前途多難って、これのことですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒキオ、お腹すいたし」

 あれから約30分。ケータイをいじりながら、三浦はそう口にする。このアマ…

 

 10分刻みほどの間隔で、この女王様は俺にそんなことを要望する。

「ヒキオ、暇」、「ヒキオ、なんか面白い話しな」、「ヒキオ、あんたちょっと目だけ隠して…ぷ、あっはっは!だ、誰だし、あんた!」

 

 …俺で一通り遊んでいただけたようで何よりです。

 

 はぁ。俺はため息をつく。

「知らん。食い物はあいにくだが持ち合わせてない」

 

「は?なら買ってきてー」

 三浦はまだぶーたれる。

 

「そもそも購買が開いてねえよ、もう」

 

「えー、でもあーしもうお腹すいて我慢できないんだけど」

 三浦は俺をにらむ。その目だけはやめてください何でもしますから。

 

 さすがにそんな彼女の騒がしさに耐えかねたのか、本を読んでいた雪ノ下がため息とともに鞄から何かを取り出す。

 

「…これ、姉さんからもらった茶菓子なのだけれど」

 そう言って机の上にクッキーなどのお菓子を広げる。ケータイをいじりながら、こちらにちらちらと視線を送っていた由比ヶ浜の目が光る。

 

「おー、おいしそう!」

 ダダダ、と音を立て、立ち上がった雪ノ下のもとへ詰め寄る。ぶんぶん振られる尻尾が、揺れる耳が俺には見える。犬ガハマさんェ…

 

「あ、ほんとだ。…雪ノ下さん、あ、あーしももらっていい?」

 三浦はまだ雪ノ下に対して引け目があるのか、横目で彼女を見て、問う。

 

「え、ええ。そのために出したんだもの。別に、かまわないわ」

 雪ノ下も三浦から何かお願いされることになれていないからか、声が少ししぼみ、下を向く。なんですか、この距離とるべきかどうか迷ってる感じ…ここでもゆるゆりで、まさかの三角関係とか勘弁してくれよ。

 

「ほ、ほら、ヒキオも食べるし!」

 雪ノ下からクッキーを受け取った三浦は、これまた慣れないことを慣れない相手に言ったためか、その一つを俺の口に押し込もうとする。ちょっと三浦さん、落ち着いてください。

 

「ちょ、自分で食えるっての…」

 俺は三浦のクッキーを押し返す。だから、なんでこいつは焦るとポンコツなんだよ。

 

「はぁ!?ヒキオのくせにあーしのクッキーも食えないっての?」

 三浦は少し赤くした顔で、俺をにらむ。言ってることが酔っ払いのそれなんだが。

 

 冷静ではない三浦と押し問答を繰り返しつつ、無言の彼女らが気になり、二人を見る。

由比ヶ浜は三浦を珍しく批判するようににらんでいる。では、雪ノ下は。

雪ノ下は下を向き、肩を震わせている。騒がしさについに堪忍袋の緒が切れたか。そう思った。しかし、彼女は。

 

 笑っていた。

 

「ぷ…くっ、くくく…み、三浦さん。あなたそんなに、いえ、思った以上に…メッキがはがれると、大したことないわね」

 そう雪ノ下は三浦に微笑んだ。その微笑みには、いくらか温かみを感じた。

 

「だ、誰が大したことないって!?」

 三浦はさらに顔を赤くし、雪ノ下に怒声を浴びせる。しかしその声はいつもの獄炎ではなく、頬に当たる夕陽ほどの温度しかなかった。

 

「ま、まあまあ、二人とも落ち着いて落ち着いて」

 由比ヶ浜が仲裁に入る。二人は互いに目を合わせづらいのか、三浦は一心不乱にクッキーをかじり、雪ノ下は紅茶から口を離さない。…あほくさ。

 

 俺はクッキーを自らの口に放り投げ、読んでいた文庫本に視線を移す。勝手に新たなゆるゆり空間を繰り広げていてくれ。どこに需要があるかは知らんが。…べ、別にさみしいわけじゃないんだからねっ。

 

 その時、教室にノックが響いた。

 

 雪ノ下が三浦を一瞥する。三浦はふん、と鼻を鳴らし、ケータイを鞄にしまう。

 

「…どうぞ」

 雪ノ下が来客に入室を促すと、扉が開く。そこには。

 

「はろはろー…って、優美子?」

 同じクラスの海老名姫菜が立っていた。

 

「…海老名」

 三浦は少し神妙な面持ちで彼女を見る。が、その先の言葉が出てこない。

 

「三浦さん、依頼人が来たので席を外してもらえるかしら」

 雪ノ下が沈黙を破る。それはそうだろう。彼女は部員ではない。あくまで部外者として、ここに「お邪魔」しているだけだ。三浦もそれがわかっているからか、ケータイをしまった。

 

 だが。俺は少し不安を覚える。そんな言い方では、彼女を刺激しかねないのではないか。

 

「わかったし」

 彼女は俺の予想に反し、すぐに鞄を持ち、席を立つ。海老名さんとすれ違う瞬間だけ彼女を一瞥し、部室を出る。

 

 雪ノ下もその彼女の様子に一瞬違和感を覚えたのか、少し戸惑ったように扉を見つめるが、すぐに海老名さんに目を向ける。

 

「では…どういったご用件かしら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論。彼女の依頼をまとめると…まとめようがないのだが。まあいつものように、ぐ腐腐な空間をまき散らしながらも、「今まで通り仲良くしたい」ということが言いたかったらしい。なんのこっちゃ。

 

 彼女の自然な微笑みに、俺はまた裏を読もうとしてしまったが、止めることにする。そこまで彼女を知っているわけではない。言葉の裏を読もうとしてしまうのは、悪い癖だ。

 

 だが、彼女が去り際に俺に放った、「ヒキタニ君、よろしくね」という声だけが俺の耳に残った。

 

 結局あの後、三浦優美子は奉仕部室に戻ってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしていつものように雪ノ下が部活の終わりをつげ、解散となる。さて、ここからがお楽しみである。

 

 偶然下駄箱か校門で部活終わりの戸塚に会おうものならば、俺は一日を気分よく終えることができる。戸塚ぁ、戸塚ぁ。今日は修学旅行の話で戸塚とお風呂とかお風呂とかお風呂とか、いろいろ考えてしまったので、恋しくなってしまったのかもしれない。

 

 戸塚、いてくれ、と願った下駄箱には…

 

「ヒキオ、おっそい」

 金髪をなびかせた三浦優美子がいた。

 

「…何やってんだよ」

 俺は短く問いかける。くそ、なんで戸塚じゃなくてこいつなんだ。まったく癒されない。

 

「雪ノ下さんが出てけ、っていうから出てっただけだし。なに、話聞いてなかったの、あんた」

 

 三浦は心底俺に見下した視線を送る。そういうことではなくてだな。

 

「なんで俺の下駄箱の前に居んのか、って聞いてんだよ。なに、俺のこと好きなの?」

 ため息とともに自分の靴を下駄箱から出す。

 

「はぁ?何言ってんのあんた。寝言は寝て言いな」

 ゴミを見るような目で俺を見る三浦に、俺は安心する。この程度の距離感が適切だ。

 

「じゃあな」

 短く挨拶をし、駐輪場に向かう。ふ。ぼっちはクールに去るぜ。

 

「待ちな」

 しかし、三浦は俺を呼びとめる。その目は、まっすぐに俺を見ていた。

 

「…海老名、なんて言ってた?」

 

 短く、俺に問う。

 

 俺は少し迷う。あれを依頼と捉えるのであれば、クライアントの情報は話すわけにはいかない。しかし同級生との世間話と捉えるのであれば、ここで話すことは問題ないだろう。

 

 結局、俺は口を開く。あれは奉仕部として、依頼としては処理されなかった。…まあ大した話ができるわけではないが。

 

「なんて、と言われてもな…いつもの腐った空間をくりひろげて、何が言いたかったのかはよくわからなかった。…『みんな仲良くしたい』とか言っていたが」

 俺は自分で言っていて、鼻で笑いたくなる。自分でも何を言っているのかよくわからん。仕方ない、彼女が何を言いたいのか、わからなかったのだから。

 

「そっか…」

 三浦は俺の穴だらけの報告から何を感じ取ったのか、短くつぶやく。

 

「やっぱ…よくわかんないやつだね、海老名は」

 

 彼女はそう笑った。俺はマフラーをまき直し、思う。

 

 その感想には大いに共感できる。

 

 

 



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そうして彼女は甘さを知る。

 修学旅行当日の早朝。俺は小町によってたたき起こされた。

 

「ほら、ごみいちゃん!いい加減起きな!!」

 

 目を開けるとそこには、俺の体に股がった愛しき小町が…などということはなく、ドア越しからガンガン、と俺の部屋のドアを蹴る小町の声が聞こえた。

 

 ベッドから体を少し起こし、俺は小さくつぶやく。

 

「…だめ。千葉の妹としてやり直し」

 布団を頭からかぶる。グーで殴られる、でもいいから憂鬱な朝は妹とのスキンシップがほしい。

 

「は?何わけわかんないこと言ってんの?…お兄ちゃん、いい加減起きないと本当に間に合わないよ。小町知らないからね」

 小町はそう言い残すと、階段を下りていく音だけを残して下に行った。

…いつからあんなに冷たい子になってしまったんだろう。

 

 仕方ない。俺は体を起こす。陰鬱な朝でも、楽しい楽しい日曜の朝も、人には平等に訪れるのである。

 

「お兄ちゃん、ごはん!」

 世の不条理を嘆いていると、下から小町の怒声が聞こえる。…うん、ちゃんと朝ご飯を作ってくれる小町は、やっぱりお兄ちゃん想いだ。

 

 パーカーを羽織り、俺はベッドから出る。これから3日間の厳しい戦いのために、小町のご飯で英気を養っておかなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 俺は合掌する。今日の朝ご飯はトーストにスクランブルエッグ、サラダにはしっかりミニトマトが添えてあった。そっとよけたら、小町に笑顔でピーナッツバターを塗った食パンに乗せられたので、おとなしく食べた。牛乳に入れられる前に食べるのが賢いというものだ。

 

「お兄ちゃん、今日修学旅行でしょ?…どうなの、結衣さんとは同じ班なの?」

 小町は台所で洗い物をしながら、ニヤニヤとこちらに振り向く。

 

「ああ、戸塚と同じ班だぞ」

 

「そんなこと聞いてないし…。にやけすぎて正直キモいし…」

 

 小町は若干体を引く。おい小町、お兄ちゃんにその口の利き方は何だ。いや、戸塚と隣の座席でおしゃべりとか、戸塚と食事とか、戸塚とお風呂とか想像したら仕方ないだろ。若干のキモさは目を瞑ってくれよ。

 

「由比ヶ浜はクラスの仲良い女子と同じ班だ。てか、それ俺に聞く意味あんの?」

 

 女子と同じ班とか、正直無理。いや、マジで無理。常に三歩後ろくらいを1人で歩いて「あいつなんでついて来てんの?ストーカー?」とか思われちゃうのがオチだよ。うん、八幡知ってる。

 

「ごみいちゃんに聞いた小町が馬鹿だったよ…」

 小町は深くため息をつき、やれやれと首を振る。

 

「そうだぞ、小町。馬鹿にならないために、ちゃんと勉強しなきゃダメだぞ」

 とても妹思いの発言だったと思うのだが、なぜか小町に足蹴にされてしまった。うぅ…ひどいよぅ…。

 

 

 

 

 

 

 

 小町からお土産リストを手渡され、起床した父からお土産の酒用のお金を手渡され、東京駅を目指して電車に乗る。総武線はなかなかの混み具合を見せてはいたが、我慢できないほどではない。危うく出発しかけた電車に駆け足で乗り、ふぅ、と息をつく。

 

 すると横から無遠慮かつ不機嫌な声が飛んできた。

 

「ヒキオじゃん」

 そこにはケータイをいじる三浦優美子がいた。こんな呼び方をする人間は彼女しかいないわけだが。

 

「…うす」

 できるだけ目を合わせないようにし、俺は短く挨拶を返す。くそ、だからなんで朝から会うのが戸塚じゃなくてこいつなんだ。

 

「あんた今日は一層、目腐ってるけど大丈夫?生きてんの?」

 

 ケータイをいじりながらこちらを一瞥し、三浦は問う。誰かにメールでも打っているのだろうか。その指はまさしく高速で踊る。俺のタイピングより速そうなんだが、片手なのに両手より速いってどういう魔法なの?女子高生怖すぎない?

 

「この目はデフォルトだよ。…まあ修学旅行一日目の朝なんてこんなもんだろ」

 いやマジでなんなんだよこのイベント。早起きさせられる上に、これから苦行をつまされるとかどういう拷問ですか?俺は今までの修学旅行を振り返り、思わず泣きそうになるのをこらえて何とか答える。

 

「ふーん。…普通に楽しめばいんじゃないの。あーしは隼人がいるならそれでいいし」

 彼女はさも当然、というように表情は崩さずにそうこぼす。

 

「てかあんた」

 三浦は横目で俺を見る。

 

「いっつもそれ飲んでるけど、朝っぱらからはさすがにきついっしょ。見てるこっちが甘ったるい」

 彼女は俺の右手に持たれたマッ缶を顎で指す。わかってねえな、この女。

 

「は?千葉県民のソウルドリンクだろうが。朝こそこのエネルギーがほしいんだよ」

 俺は一息に手に持ったマッ缶を飲みほす。ふう。これで今日もなんとか乗り越えられそうだ。

 

「は?何言ってっかわかんないんだけど…」

 

 三浦は俺に冷たい視線を送る。ふ。わからないものには、一生わかるまい。この練乳飲料のすばらしさは。

 

 俺が三浦との決別を決心していると、電車のドアが開いた。ついに、きてしまった。…ここからが長い。

 

 

 

 

 

 

 

 集合場所に着くと、そこにはすでに総武高校の制服が集団を成していた。見知ったような顔もちらほらいるが、会釈もせずにすべてスルー。俺が知っててもあっちはほとんど俺のことを知らないだろう。…さみしくなんてないし。

 

「八幡!」

 さらに目の濁りを増していた俺の耳に、天使の福音が届いた。俺のアホ毛がピョコンと反応する。

 

「おはよ、八幡。今日も元気そうだね!」

 

 言わずもがな、われらがとつかわいい、戸塚である。戸塚を見て腐った目から思わず満面の笑顔になってしまった俺に、戸塚はそう笑いかける。

 

「おお、おはよう戸塚。戸塚は今日もかわいいな」

 

「も、もう!何言ってんの八幡。また冗談言って…」

 俺のノータイムの返答に、戸塚は頬を染め、下を向く。だが戸塚、冗談ではない。かわいい。

 

「今日はクラスで行動だけど、よろしくね」

 

「ああ、よろしく。つってもな…」

 俺は依頼を思い出し、少し気分が暗くなる。俺に何かできることがあるとは到底思えないんだが…

 

 俺の様子に戸塚は首をひねる。しかし、ほかの友人に呼ばれ、そっちに行ってしまう。戸塚ぁ…行かないでくれ。

 

 悲しみに打ちひしがれている俺の耳に、底抜けに明るい声が響く。

 

「やっはろー!ヒッキー。…調子悪そうだけど大丈夫?」

 戸塚の登場によって感情が激しく揺れる俺に、由比ヶ浜は心配そうに問う。

 

「ああ、問題ない。いつも通り家に帰りたいだけで、他はノープロブレムだ」

 

「まだ修学旅行始まってもないのに、問題大ありだし!?」

 発音よくノープロブレム、と言い切る俺に由比ヶ浜はため息をつく。

 

「そんなんで戸部っちの依頼大丈夫?…結局私が勝手に引き受けたみたいになっちゃったから、無理しないでほしいかも…」

 

 由比ヶ浜は俺に上目遣いを送る。この娘も考えてはいるのだ、と俺は思う。ただその場の空気を読まずにはいられないため、同じグループの男子が全員いて、なおかつ恋の相談となると乗らずにはいられなかったのだろう。まあ実際恋の相談に無責任にノリノリだったという点も否めないわけだが。

 

「ああ、別に問題ねえよ。大体元々俺はそんなに無理するつもりも、働く気もない。何なら「由比ヶ浜がんばってるなぁ」と見守る役を俺に与えてほしい」

 

「なんかおじいちゃんみたいなこと言ってる!?…まあ、とりあえず修学旅行楽しもうよ」

 

 彼女は俺に何の裏も見えない笑顔を送る。俺はまぶしすぎるそれから目をそらし、過去の修学旅行を振り返って、思う。かの有名な古代の歴史家も言っている。

 

 歴史は、繰り返す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 新幹線車内。席決めから始まるが、このあたりから皆の間に不穏な空気が流れる。ここでどの席に、どのタイミングで座るかということも、この三泊四日を楽しく過ごせるかどうかを左右するのだ。スタートでつまずくわけにはいかないのだろう。

 

 俺はそんなことは関係ない。我先に空いている席に座って空気を悪くするか、余った場所に座って空気を悪くするかである。しかし、今回は戸部の依頼の件もある。まずは由比ヶ浜の出方をうかがってから、座る場所を決めたほうが良いだろう。

 

「じゃ、あーしここ座る」

 

 そんな皆の微妙な空気などお構いなく、三浦は早々に後方窓側の席に陣取る。さすが女王である。この空気すら読まないとは。

 いや。俺は思いなおす。彼女がするのは空気を作ることだ。その証拠に、ほかのクラスメイトも彼女の宣言の後、各々座る席が決まってきたようだ。言い忘れたが俺は空気を悪くするだけではなく、空気になることも得意だ。空気になるとかやりたい放題じゃん。やったね!

 

「ヒキオ」

 一人空気になっていると、横から名前を呼ばれる。いや、名前じゃなかった。あだ名だった。いや、あだ名でもなかった。名前知られてないだけだった。

 

「…なんだ」

 冷たい視線を送る三浦に、俺は返す。

 

「ここ、空いてるから座れば?」

 三浦は自らの斜め前、葉山と戸部の間の席を指さす。いやいや女王様、何の罰ゲームですか?

 

 葉山は苦笑いをこちらに向け、海老名さんは「は、はやはち!?とべはち!?修羅場キターーーーーーーーーーーー」と、そのまま座席に倒れこんだ。そのまま一生寝ててくれ。由比ヶ浜は目を丸くしている。

 

「は?何言ってんだお前。こっちから願い下げだ。…だって俺には戸塚が」

 うきうきと俺は振り向く。そこにはいつもの笑顔の戸塚が、

 

 いなかった。

 

 ば、馬鹿な!そんなはずは…。俺はあたりを見渡す。すると、こちらに控えめに手を振る戸塚と目が合う。そのとなりと向かいには、すでにクラスメイトが座っていた。

 どうやら、さっき連れていかれたテニス部か何かの友人と既に一緒に座っているらしい。申し訳なさ気に伏し目がちになる戸塚、かわいい。

 

 まあ仕方ない。別に特に一緒に座ろうと約束していたわけではない。スタートダッシュから見事にずっこけてしまったわけだが、もともと俺がきれいなスタートダッシュなど決められるわけもない。

 

 こうなれば、俺に残された選択肢は一つ。

 

「…余った席に座るから、気にすんな」

 

「は?だから言ってんじゃん」

 三浦は俺をにらむ。朝から胃が痛くなってきた。

 

「ここしか空いてないし。何、あんた目ついてないの?」

 

 もう一度当たりを見渡す。するとほかのクラスメイトは皆座り、俺とは目を合わせようとしない。…当然である。誰もあんな所には座りたくはない。学年一のイケメンと学年の女王様と相席など、並みの神経の持ち主ならばご免被る。当然俺も嫌だ。断じて、嫌だ。

 

 もう一度彼らの座席を見ると、奥から三浦、由比ヶ浜、海老名さん。その向かい側には葉山、そしてなぜか、もう一度言うが、なぜか一席空けて戸部が座っていた。…戸部、お前の精神力には感服する。

 

 わざわざ席を空けてまで好きな女の子の向かいに座ろうとするなど、「空気を読むこと由比ヶ浜の如し」の戸部に普通ならできることではない。…当の戸部は不審げな三浦からの視線にかなり動揺してはいるが、きょどりながらも膝の上で両のこぶしを固めている。すごいぞ!戸部。強いぞ!戸部。…まあそういうわかりやすいことすると、普通裏で女子に「狙いすぎてウケるwwww」「さすがにちょっと引くよね」「やだー、かおり比企谷につきまとわれてんの?超かわいそう~」とか言われるから気を付けような。ソースはH君。海老名さんは言わないとは思うが。

 

「そうだよ、ヒッキー!あ、空いてるんだし…」

 なぜか由比ヶ浜は下を向き、ちょいちょいと自分の前の席を指さす。

 

 はぁ。俺は深い、深いため息をつく。本当に不快である。が、ほかに選択肢がないのなら、仕方ない。さすがの俺でも新幹線の中で立ちっぱなし、などという風情のないことはしたくない。疲れるし。

 

「…じゃあ、邪魔するわ」

 

「どうせ座るなら、最初からそうしろし」

 三浦はそう鼻を鳴らす。あのね、絶対に座りたくなかったんですよそんな場所には。

 

 俺は戸部の膝をまたぎ、戸部と葉山の間、由比ヶ浜の向かいに座る。我慢、我慢だ。俺はそう自分に言い聞かせる。たかが二時間と少し、地獄を耐えればいいだけなのだ。

 

 そう思い、俺は目を閉じ――「ヒキオ、のどかわいたんだけど」「ヒ、ヒキタニ君は通路側と窓側とヒキタニくん、どれが受けだとおも…きゃーーー!!!そんなのきまってるよねっ。」「ヒ、ヒッキー…京都、楽しみだね…」

 

 うるさい。なにこれ、俺は寝ることすら許されないの?

 

 三浦、知らねえよ葉山にでも買ってもらえ。海老名さん、まず選択肢で有機物が俺だけなんだが。由比ヶ浜、楽しみじゃないし楽しくない。

 

 心の中ですべての要望、質問に応え、今度こそ静かに目を瞑る。葉山はさらに苦笑いしてるし、戸部に至っては海老名さんに話しかけてるのに無視されてたじゃねえか。世界の平穏のために、私は眠りにつきます。

 

 そう思い腕を組むと、頭をバシン、とたたかれる。

 

「だから、ヒキオ。あーしのどかわいた」

 

 …このアマ。

 

 ここ数日の事情を知らない由比ヶ浜以外の三人は、特に葉山は、三浦の俺への度重なるちょっかいを不審に思ったのか、瞠目し一瞬固まる。しかしそこはみんなの、三浦の葉山である。

 

「優美子、来る途中に買った紅茶余ってるから、よかったら」

 そう言って葉山は三浦に飲みかけの紅茶を差し出す。

 

「え、え!?それって間接…い、いいし!!ほ、ほら、ヒキオ!」

 三浦はブンブン、と手を振って、俺を一にらみする。やっぱり乙女ですねあなた。

 

 と思いつつ、いい加減俺もあほくさくなってきた。何か一言言ってやろうと思ったところで、朝のこいつとの会話を思い出す。

 

「…わかった。買ってくるわ」

 俺はそう言って席を立つ。ふ、ふん。三浦がそうふんぞり返る声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ヒキオ、なにこれ」

 三浦の額に青筋が浮かぶ。

 

 飲物を無事買った俺は、彼女にそれを差し出す。なに、だと?言わずもがな。

 

「千葉県民のソウルドリンク、マックスコーヒーだが」

 

 葉山と由比ヶ浜は苦笑いを浮かべ、戸部と海老名さんはキョトンとした顔で俺と三浦を見比べる。そして、当の俺と三浦はにらみ合う。俺は彼女の獄炎の視線を柄にもなく、受け止める。残念だったな、三浦。ここだけは引くわけにはいかないのだ。恨むのならば葉山の不意打ちに焦って飲物のリクエストをしなかった自分と、俺の千葉愛を恨め。

 

 ひとしきりにらみ合う。

 

 …や、やばい。三浦の射るような視線を浴び続けて約一秒。俺はすでに限界を迎えていた。一秒て。豆腐メンタルすぎワロタ。

 

「わかった。そこまで言うなら、飲んでやるし」

 引かない俺に諦めたのか、俺から視線を外し、三浦はいつものように高飛車にそうこぼす。プシュ、とマックスコーヒーのふたを開け、顔をしかめる。おい、ぶん殴るぞお前。

 

 ゴク、ゴクとのどを鳴らし、彼女はあたたか~いそれを飲む。

 

「うっ」 

 彼女は一言そう漏らす。おおよそコーヒーを飲んで出てくる声ではない。

 

 どうなることか。俺もドキドキの瞬間である。たとえるならば、自分のおすすめのアニソンをCDに焼いて、女の子に渡した時くらいのドキドキである。なにそれ、ほとんど負けが確定してるじゃねえか。

 

 そんな気持ちで見守る俺を尻目に、彼女は一言、つぶやく。

 

「…悪くない、し」

 

 …え?

 

「意外と悪くないかも。どんだけ甘いかと思ってたけど、クセになる感じだし、あーし甘いの好きだし…」

 

 ど、同志よ!!!!!!

 

 俺は三浦の手を取りたくなる気持ちをぐっとこらえ、心の中で叫ぶ。だって後が怖いし。女子の手握るとか、あ、ありえないし。そういやこいつなんか甘いもの好き、みたいなイメージあるな。

 

 俺はちらりと葉山が持っていたペットボトルの紅茶を見る。『無糖』そこにはそう大きく書かれていた。もしかして。俺は思う。マックスコーヒーバカにしてたけど、なに、あーしさんそんなところまで葉山に合わせてたの?

 俺はあきれるのを通り越して、若干尊敬する。普通女子とはそこまで想い人に合わせることができるのだろうか。

 

 三浦はそのままゴク、ゴクとマックスコーヒーを飲み、結局飲み干していた。飲んでいてそれに気づいていなかったのか、空になった缶を見て彼女はバツの悪い顔をする。

 

「ま、まあ?思ってたより飲めたもんじゃない、ってこともないじゃん」

 窓の外を見てそう吐き捨て、俺に空き缶を押し付ける。捨てるところまでが俺の仕事だったのか…。まあ女王のこの顔が見れたから、このくらいは良しとするか。

 

 空になったマッ缶の飲み口に触れないように気を付け、俺はそれをゴミ箱に捨てた。…リップとか付けた飲物を男に渡すんじゃない。

 

 前途多難を感じ、俺は窓の外の富士山を眺め、遠く千葉にいる小町を思う。

 

 

 

 …この辺で引き返しちゃ、駄目ですか?

 

 

 



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それでも彼女は望んでいる。

 修学旅行一日目。俺たちは京都駅に降り立つ。

 

 新幹線車内では最初はどうなることかと思ったが、あの後戸部はどうやらそこそこ海老名さんに話しかけていたようだ。「え、海老名さんは休みの日とか何してんの?」「秋葉行くか時間あったら池袋まで行くけど…ち、ちなみに戸部君はヒキタニ君と葉山君どっちが本命なの?」「え?」…うん、とってもかみ合ってるね。

 

 

 バスで清水寺まで行くと、胎内めぐりとかいうものに由比ヶ浜に誘われた。暗いところでお堂を回るようだ。依頼のことを考えてもこのチョイスは悪くはないだろう。…海老名さんが暗闇程度で隙を見せるとは思えないが。

 

 海老名さんと戸部、葉山と三浦、そして由比ヶ浜と俺の六人がお堂の前に立つ。なんというか俺、すごく、浮いています。

 由比ヶ浜の仕切りで最初に三浦と葉山、その次に俺と由比ヶ浜、最後に戸部と海老名さんという組み合わせになった。葉山は早く戻れるに越したことはない、と言った。そんなにゆっくりと行くつもりもないし正論なんだが、ならばあとで時間のある時に行こう、という提案がより正しいのではないか。

 

 少しの違和感とともに、俺は由比ヶ浜とお堂の前に立つ。最初に行った三浦の声が暗闇から聞こえる。

 

「ちょ、やばいやばいやばいやばい。暗いってこれやばいやばい。隼人、やばいってこれ」

 …うん、やばいのは分かったから、無駄に後続の不安をあおるのはやめようね。

 

 三浦の声を聞き、案の定不安をあおられたのか、由比ヶ浜がこちらを見る。大丈夫、あの女王様が意外と乙女なだけだから。

 

「…行くか」

 俺はそう短くつぶやき、ポケットに手を入れて階段を下る。

 

「うん」

 なぜか嬉しそうにうなずき、由比ヶ浜は後ろからついてきた。

 

 

 で、俺は暗闇のお堂を歩いているわけだが…

 

「ちょ、ちょっとこれやばいってマジで…ひっ!今なんか冷たいものが足に…」

 

 前からやばいを連呼する三浦の声が響くため、ちっとも情緒を味わえない。そのたびに「そうだな…涼しいし、結構雰囲気あるね」といった葉山の相槌が入るが、それもろくに聞こえていないのか三浦はまた「やばいやばい…」と連呼していた。…大丈夫か、あいつ。

 

 由比ヶ浜もそんな三浦の声を聞き、苦笑を漏らす。まあ、そうだな。あいつにはお遊びでもお化け屋敷も肝試しも誘うわけにはいくまい。

 

 なんやかんや俺たちはお堂を抜けた。いや、なんやかんやといっても、終始三浦の念仏のような声が聞こえてきたため、俺たちは特に風情も少しの恐怖も感じず、外に出た。女王様ェ…。

 

「おい、おまえ大丈夫か?」

 出口ではぁ、はぁ、と肩で息をする三浦に、さすがに俺は一声かける。ていうか、そこにいられると俺と由比ヶ浜が外に出られねえんだよ。

 

「あぁ!?別にヒキオにそんなこと言われる筋合いもなければ、なんの問題もないんだけど」

 彼女は下に向けていた頭をこちらにぐるんとむけ、俺をにらむ。いつもの縦ロールが少し乱れていることもあり、迫力は平常の五割増しである。きょ、きょわい!

 

 そんな彼女に俺は返事を返せず、由比ヶ浜は苦笑とともに彼女を案ずる言葉を二、三かけるのみだった。葉山は尋常ではない三浦ではなく、なぜか俺を見ている気がしたが、完全にスルーした。海老名さんの燃料になるような行動は慎んでくださいね、葉山君。

 

 

 清水の舞台に立つと、少しの感慨を覚えた。さすがに大勢の人間が来たがるだけある。

 そんなことを思っていると、俺はなぜかその場にいた二桁近いクラスメイトと、知らない人の写真を撮ることになった。おい、なんで片言の外人まで俺にカメラ渡してきてんだよ。

 

 

 

 

 

 

 そして場所は変わって、現在俺はホテルのロビーにいる。

 

 あれからおみくじ開封の儀で、大吉を引いた三浦に戸部が空気の読めない発言をして不穏な空気になったりもしたが、大きな問題は起きずにホテルまでついた。戸部と海老名さんはぎこちないながらも、何とか行動を共にしていたようだ。…三浦の視線に一日耐えきった戸部、君は、強い。

 

 部屋につくと俺はすぐに寝てしまい、戸塚とのお風呂タイムを見事に逃してしまった。クソ、クソ!これでは修学旅行に来た意味がない。

 そして俺は材木座と戸塚にウノで負けた罰ゲームで、自販機にジュースを買いに行っている、わけ、だが…

 

「うッ…ひぐっ、う…もうあんなとこ、もどんないし…」

 なんで号泣している三浦優美子が目の前にいるんでしょうか。

 

 俺はどうすればよいかわからず、しばし固まる。な、なんだこいつ。こいつが泣こうが今更特に驚きもしないが、なんでよりによって自販機の横のソファで泣いてんだよ。

 

 俺は周りを見渡し、得心する。ここにはほかに人がいない。少し離れた土産屋には学生らしき人影があるが、ここまでくる人間はそういないのか。誰にも見られたくなかったわけだ。だったらトイレにでも行けばいいのだが、そこまで行くと逃げた気がして許せないのだろう。プライドの高い彼女らしい。

 

 俺は引き返そうと踵を返す。夜は休むものだ。休むべき時にこいつに関わることは、俺の理念に反する。三浦とかかわって俺の気が休まるわけがない。どこか別の場所でジュースは調達しよう。

 

「…ヒキオ」

 びくっっっ。俺の肩が激しく揺れる。下を向いたままの彼女の表情はうかがえない。が、ろくなことにはならない。俺は早足に部屋に戻ろうとする。が、

 

「ヒキオ、ねえ、聞こえてんでしょ?」

 彼女の声にいつもの怒気がこもる。怖い怖い怖い。

 

「な、なんでしょうか。ぼくは何も見てません」

 殺人現場を目撃した三下のようなセリフだ。すぐ殺されそう。だが、俺はそうまでしてまだ死にたくないのだ。戸塚とお風呂に入るその時まで。

 

「…あーし、のどかわいたんだけど」

 彼女は下を向いたまま、そうこぼす。そりゃあ涙を流せばそうなるのは自然の節理だが…

 

「新幹線でお使いに行っただろうが」

 あのマッ缶騒動の後、車内で三浦は俺のことを見ようともしなかった。バツが悪かったのだろう。あの後彼女は「ん。」と一言だけ言ってマッ缶分の金を俺に渡した。だからまあ、文句はなかったが。

 

「あーし、のどかわいた」

 彼女はもう一度、それだけを言う。俺がその願いを聞き入れる義理はないんだがなぁ。

 

 はぁ。ため息が出る。さすがにここまで言われては、後が怖い。いつもの女王に戻った後に何を言われるか、されるかわかったものではない。

 

「…オレンジジュースでいいか?」

 マッ缶がねえ!!そう心の中でで叫びながら、以前昼休み彼女が飲んでいたものをチョイスする。彼女はコクッ、と首だけ縦に振る。…いつもそんくらい大人しければな。

 

 ガタン。ジュースが出る。それを彼女に渡すと、俺は早々にその場を立ち去ろうとする。無理。これ以上は八幡、無理。

 

「ちょっと」

 後ろからそう声がかかる。まだなんかあんのか。俺は振り返る。その瞬間、冷たい感触が頬に伝わる。

 

「飲みな。…新幹線と、今の礼でおごりでいいし」

 彼女はマッ缶もどきのコーヒーを俺の顔に押し付ける。…貸しは作りっぱなしにしておきたかったが。というか、だったら自分で買いなさい。

 

「…おお」

 普段では見られない彼女の顔に、俺は思わずそうつぶやき、少し離れてソファに腰掛ける。いや、おお、じゃねえよ。なに座ってんだよ。俺は安易に座ってしまった自分に悪態をつく。あんな顔をされては、帰るに帰れないではないか。

 

「……」

 

「……」

 

 沈黙が下りる。

 マッ缶もどきを飲む俺ののどがゴク、ゴク、と鳴る。くそ、甘さが足りない。こんな厳しい時間には、甘いコーヒーが飲みたい。

 コーヒーを飲みほし、今度こそ、今度こそ席を立とうとする。が、

 

「ヒキオ」

 彼女はまた俺を呼ぶ。だからヒキオって誰だよ。ここ最近でその呼び名にも慣れ始めた俺は、いかん、俺には両親からもらった名前がある、と思い直す。…最近では両親にすら「小町のお兄ちゃん」と呼ばれることがあるが。

 更に暗い気持ちになるが、反論しようと彼女を見る。だが、先んじてつぶやく彼女に俺は口を開けない。

 

「あんた、何にも聞かないの?」

 俺の視界にはうつむく彼女の金髪だけが映る。

 

「…別に。珍しいことでもねえだろ。俺だって世の不条理を嘆くことはよくある。誰も彼も、いつでも強い人間なんて存在しねえよ」

 ほんとこの世って理不尽だよな、と公園で一人黄昏ているだけでお母様方から白い眼を向けられるこの世は、本当に理不尽である。通報される前に家に帰るが。

 

 彼女は少し驚いたような顔で俺を見るが、すぐに馬鹿にしたように鼻を鳴らし、首を振る。

「隼人なら普通に聞いてくれるのに。あんた最低」

 

「あいにくだな。俺はあんなリア充には何十回転生しようとなることはない。…つーか、なら葉山に泣きつけ」

 口をとがらせる彼女に、俺はそう返す。

 

「は?隼人にこんな顔見せられるわけないじゃん」

 

 そういって、彼女は俺を見る。俺なら別にいいわけね…。そう思いつつ、今一度俺も彼女の顔を見る。泣き顔を見るのは遠慮していたが、向こうが見せようとしているのならばいいだろう。

 

 泣いていたためか風呂上がりだからか、彼女の頬は上気している。金髪はいつもの縦ロールがおさまり、年相応の幼さを醸し出す。瞳は少し赤く、そこにはいつものきついアイメイクも、灯る炎もない。その顔からは化粧も女王としてのメッキも剥がれ落ち、残っていたのは触れれば壊れそうな少女だけだった。

 

「…んなことねえだろ」

 あまりに違う彼女に、俺はそう小さくつぶやいてしまう。

 

「は?何が」

 突然つぶやく俺に、彼女は怪訝な視線を送る。しまった…。

 

 二の句を継げない俺に、彼女は鋭い視線を送る。

「だから、何が。あーし途中でやめられんのが一番嫌いなんだけど」

 

 ひぃぃぃぃぃぃ。前言撤回。化粧がない分その眼光の威力は直接俺に届く。ごめんなさい。

 心の中で土下座し、俺は明後日の方向を見て、焦って口を開く。

 

「いや…いつもの化粧もねえし目も赤いし、客観的に見れば確かに見るに耐えん顔だな、と」

 

「あぁ!?」

 

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。焦って本心が出てしまった。だがそれゆえ、俺は次の言葉も止めることができない。

 

「でもまあ、自分で思ってるよりは今の顔、男から見たら悪くないんじゃねえの。葉山がどう思うかまでは知らんけど」

 

「…は?」

 そう一言だけ発し、彼女の頬はだんだんと染まる。両腕をぶんぶん、とふる。

 

 やってしまった…

 

「だ、だからなんでヒキオごときに偉そうに上から評価されなきゃなんないわけ!?まじで意味わかんないんだけど。…大体」

 

突然彼女の腕は力なくだらりと下がり、その目は下を向く。

 

「隼人はいっつもあーしのことほめてくれる。こんな顔でも隼人は…絶対にほめてくれる。変わらず」

 彼女は小さく、確かにつぶやく。しかしそのつぶやきは今にも消え入りそうなものだった。

 

 それはそうだ。俺は自らの放った言葉の無意味さを思い知る。彼ならば今の彼女にも、いつも通りの賞賛を、慰めをかけるだろう。…葉山隼人であれば。 

 

 沈黙する彼女に俺は言葉をかけられない。別に、かける気もない。…かけるべきは、彼女の望むものは、俺の言葉などではない。

 

 そうだ、戸塚にジュースを買ってやらなければ。

「じゃあな」

 

 俺は戸塚のジュースを買い、そう一言いい残し、今度こそ自分の部屋へ向かう。

 

「ありがと…」そう、聞こえた気がした。なにもしたつもりはないが、女王に貸しを作っておくのも悪くないだろう。

 

 

「は、八幡?我のジュースは?」

 部屋に戻ると材木座が涙目で問いかけてくるが、知らん。女王様の腹の中だ。

 戸塚がそんな材木座に「あ、じゃあ僕が飲んだやつでよければ」という天真爛漫な笑顔を向ける。対照的に材木座の顔は気持ち悪く赤く染まり、「え、ええ!?べ、別に我は戸塚氏が飲んだやつでも全然いい、というかむしろ望むところというか…結婚してください」とどもる。戸塚の安全のために、俺が飲んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 修学旅行二日目。今日はグループ行動の日だ。映画村のお化け屋敷を一通り楽しみ、何とか皆を説得してタクシーに乗った。その後龍安寺で雪ノ下と遭遇し、ホテルについた。いや、いろいろと大変だったんですよ…俺はお化け屋敷を思い出す。

 

 またもや由比ヶ浜の仕切りによってお化け屋敷を回る組み合わせが決められたわけだが、今度は俺と由比ヶ浜の組み合わせに戸塚と川崎も加わった。だが、川崎が意外とビビりなのである。俺の服を引っ張る引っ張る。あの、服伸ばして小町に怒られるのは俺なんだからね。

 戸塚は全く怖がる素振りを見せず、楽しんでいた。やっぱり戸塚は攻めだね☆

 

 そして、三浦である。お堂巡りですらあのざまだったこいつがお化け屋敷などまともに回れるわけもなく、前方の彼女からは常に悲鳴が聞こえ、お化け屋敷を出た後は珍しく葉山が疲れたような顔をしていた。

 …お疲れさん。俺はつい葉山に同情の念を送る。お化け屋敷などというわかりやすい場所ならば、乙女三浦なら葉山に甘えるそぶりを見せるものかと思ったが、どうやら思っていた以上に乙女だったらしい。そんな余裕もなく、結局素を出してしまったのか。涙目になる彼女は、かわいくないこともなかった。

 そんな三浦を見る葉山の目は、いつもとは違ったもののように俺には見えた。

 

 海老名さんと戸部はお化け屋敷の中はいつものテンションで抜けたようだが、土産物屋ではさらにテンションが上がっていた。戸部は木刀、海老名さんは新撰組。…う、うーん、まあ進展、した、のか?

 

 

 そしてタクシーの中。俺は由比ヶ浜から昨晩の三浦の事情を聞かされた。

 

「昨日枕投げしてたんだけど、本気出したサキサキに優美子が泣かされて、部屋飛び出しちゃったの。優美子のことだからあんまりついていかないほうがいいかな、って思ったんだけど…」

 

 彼女はたはは、と苦笑いを浮かべる。うむ、確かにその判断は正しいだろう。俺だって泣いているプライドの高い女王様の逆鱗になど、触れたくはない。昨日は焦るあまり本心が出てけんかを売りかけたが、何とか生きて帰ってこれてよかった。

 

 だが。俺は大きくため息をつく。枕投げで泣かされるって、小学生でもねえだろ。どんだけ打たれ弱いんだよ、あの女王様。心配して損した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてホテルにつき、現在俺は一人でコンビニへ向かっている。雑誌コーナーで足を止め、目当ての雑誌を探す。

 

 サンデーGXはどこかな、と。

 

 すると横から高圧的な声が聞こえる。

 

「ヒキオじゃん」

 横を向くと、そこには雑誌を読んだままの三浦優美子がいた。

 

「おう」

 短く返し、俺はGXを拾いパラパラとめくる。彼女の変わらない様子に、少し安堵する。あんなことがあったから何か言われるか、しめられるかと心配したが、そんなことはないらしい。

 

 しかしGXを読む俺の耳に、また彼女の声が届く。

 

「あんたら、なにコソコソやってんの?」

 

 彼女の冷たい口調に、俺の肩が震える。

 

「…何が」

 俺は一言、そう返し恐る恐る彼女を見る。

 

「だから、戸部と海老名のこと。戸部がおかしい。結衣がおかしい。そんで…あんたも、おかしいでしょ」

 

 彼女は金髪をかき上げ、そう言い切った。

 

 まっすぐに俺を見る彼女に、俺は口を開けない。しかしいつかとは違い、その目からは目が離せなかった。その目は、今度は俺に向けられている気がした。

 

 何も言えない俺に、彼女はため息をつく。

 

「結衣は戸部と海老名を妙に一緒に行動させたがる。普段空気読みつつ、海老名とかあーしの気持ちも考えて行動してる結衣が、あんなわかりやすいことしてんの。おかしくない?あんたもおみくじ結ぶときに、なんか戸部に言ってた。…普段のあんたなら、絶対しないでしょ、そんなこと。

 …まあ、あんたと結衣がおかしいってことは、戸部に協力してくれ、とでも部活で頼まれたんだとわかる。…でも」

 

 彼女は視線を下げる。

 

「なにより、隼人がおかしい」

 

 なんと。俺は少し驚く。三浦も彼の行動に違和感を覚えていたのか。

 

 だが、俺はすぐに思いなおす。いつももっとも近くで、どこまでも彼を見ていた彼女だからこそ、彼のいつもとの違いには気づいて当然だろう。

 

「うまくは言えないけど…隼人、なんか辛そうだった。少なくとも、あーしにはそう見えた。言ってることもいつもと同じで優しいんだけど、いつもより中途半端っつーか。

 それにはたぶん、海老名があんたらの部室に来たことも絡んでるんじゃないの?…海老名のあーしに見せる姿だけは、いつもと変わんないけど」

 

 彼女は自嘲気味に笑い、下を向く。しかし、すぐに俺の方を向きなおす。

 

「ヒキオ。知ってることがあるなら教えてほしい」

 

 彼女らしくない言葉に、彼女らしくない瞳に、俺はまた何も言えない。

 

 たぶん。俺はぼんやりと思う。彼女はなんとなく気づいているのかもしれない。戸部の想いに、海老名さんの願いに、そして、葉山の行動とそこに込められた意味に。

 しかし、それらすべてが絡み合ってできている現状にまでは思いいたっていない。当然のことだと思う。半分当事者の俺ですら、その現状に気づき始めたのはこの修学旅行が始まってから、葉山の行動のおかしさを見てからだ。傍観しているだけの彼女に全貌は分かるはずもない。

 いや。もしかしたら気づいているが、まだそれに踏み込む踏ん切りがつかないのかもしれない。それは、今までの彼女らの関係を、これからの日常を変えかねないものであるから。

 

「さあな。俺にはお前が何を言ってるかよくわからん。よってお前の質問には答えられない」

 俺はそれだけ言って、視線を雑誌に移す。

 

「ヒキオ」

 しかし、彼女は俺を呼ぶ。

 

「あんたが何を知って、どう思ってるのか、あーしにはわかんない。別にわかりたくもない。

 でも、隼人は。あんたと話すときの、あんたを見るときの隼人は、あーしの知らない隼人なの。昨日、今日だけでもそれは間違いないと思った。

 そんで、あーしは。そんな隼人とあーしを、この関係を、変えたい。そう思った。

 …海老名はたぶん、そうは思ってない。変わったら、変えようとしたら、海老名はあーしから離れていくかもしれない。変わるくらいなら、壊れるくらいなら、全部放り投げるかもしれない。あーしだって今の居場所は、好き。この場所でバカやってるのが楽しい。

 でも、あーしは。それでも隼人を、海老名を、みんなを知りたい。今より近づきたい。そう思った。だから」

 

 彼女は言葉を切り、大きく息を吸う。俺をまっすぐに見る。

 

「海老名と戸部は、…あーしと隼人は、べつに、変わってもいい。余計なことだけはしないで」

 

 …彼女らしい。俺を見る彼女に、そう思ってしまう。海老名さんの気持ちも、葉山の願いも、彼女は分かっている。それでも彼女は。三浦優美子は、自分の気持ちを無視できないのだ。殺したくないのだ。わかっていてなお、それを望んでいるのだ。

 

「それに」

 彼女は続ける。

 

「海老名が離れていっても、あーしは地の果てまで追いかける。絶対にあいつの考えてることも、思いも聞き出して…それで、いつか一緒に笑ってやる。変わったかもしれないところで、一緒に。あーしは離さない」

 

 三浦優美子は、そう笑った。…その笑顔を、俺は直視できない。だが。

 

 俺はその意見に賛同できない。

 

「つっても、お前だけの気持ちで物事は進まない。お前が変わってもいい、といってもそうじゃないやつもいるだろう。このままでいたいと思うやつの方が多いだろう。…少なくとも、お前の近くにはそう思うやつがいるかもしれん。

 そして俺は、その気持ちのほうが…まだわかる。だから俺は」

 

 彼女は、強い。それがいかに危うくても、儚くても、彼女は強い。強い、という事実は変わらない。

 

「知ってるし。なんとなく見てたから、知ってる。だから、一応言っただけ。なんとなく釘刺しといただけ。

 大体お願いするなんて、あーしらしくなかった。あーしはあーしで勝手に行動して、あーしの好きなようにする」

 

 彼女はどういえばいいかわからない俺を尻目に、笑う。いつかのような言葉が発せられ、俺はその先に待っている運命をすでに知っているような気がした。

 

「だから、ヒキオ」

 彼女はにやりと笑う。

 

「これから、覚悟しな」

 

 だが。俺は今度は何とか一言、口にする。この程度のことでは俺の弱さは、臆病は曲がらない。

 

「勝手にしろ。…俺は俺で、好きにやる」

 

 

 誰も彼も、彼女のように強くない。

 



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その告白は誰にも届かない。

 修学旅行三日目。

 

 今日は自由行動の日だ。自由行動だったら宿で寝ているのが正義だと思うのだが、由比ヶ浜にたたき起こされ、カフェで雪ノ下と由比ヶ浜と朝食を共にした。朝食時、今日回るルートの提案が雪ノ下からあった。伏見稲荷、東福寺、北野天満宮、嵐山という順に回る。ちなみに北野天満宮は俺の希望だ。…小町、俺はかわいい妹のために学問の神様のところには絶対に行くからな。安心してくれ。今の八幡的に超ポイント高い。

 

 東福寺につくと、早々に雪ノ下は辟易としていた。紅葉のシーズンは外れているとはいえ、確かになかなかの込み具合である。 その人混みの中、俺は葉山ご一行の姿を見つけた。葉山、三浦、戸部、海老名さんの四人で行動しているようだ。彼らに由比ヶ浜も気づいたのか、苦笑いを浮かべる。

 

「…あれじゃいつもと変わんないね」

 

 俺ももう一度彼らを見る。俺の目にはおちゃらけてカメラの前に立つ戸部、明後日の方向を向く海老名姫菜がいた。変えようとしていない人間がいるのだ。変わりようもない。

 

 しかし、俺は違和感を覚える。そのカメラはなぜか三浦が持っていた。

 

「ちょ、あんたらもうちょっと近寄んなって。それじゃ映んないよ」

 彼女は戸部と海老名の二人にそう声をかける。そして葉山はその彼女の様子を呆然と眺めている。確かにそれは本来この中では葉山の役割だろう。女王自らカメラマンなど。

 

 虚をつかれた俺も、もう一度彼女を見る。彼女の顔はいつもと同じく憮然としていたが、その目は幾分いつもより暖かかった気がした。

 

「ほら、隼人も撮ろ」

 一通り戸部と海老名さんの写真を撮った三浦は、少し頬を染め葉山を手招きする。

 

「…ああ、もちろん」

 彼はいつもの笑顔で三浦に応じ、葉山と三浦は三浦の持つカメラで、紅葉をバックに写真を撮る。

 

 俺はふと横にいるはずの由比ヶ浜に視線を向ける。こういった場で無言の彼女はそうみられるものではない。来たからにはきちんと楽しみ、周りも楽しませようとする。それが俺の知る由比ヶ浜結衣という女の子だ。

 

 彼女は瞠目し、じっと三浦優美子を見つめる。いったい何を見ているのだろうか。何を推しはかろうとしているのだろうか。彼女の目に三浦優美子は、今どのように映っているのだろうか。俺の濁った目には彼女はまぶしすぎて、痛々しくて、その姿は正しく映らない。

 

「やあ」

 少しぼーっとしてしまった。突然かけられた声に肩が震える。恐る恐る見る。そこには。

 

「君たちも来てたんだね。これからどこに行くんだい?」

 いつもの微笑みを浮かべる葉山隼人がいた。横には寄り添うように立っている三浦優美子がいる。その目は鋭く光り、雪ノ下と俺に向けられていた。君たちの争いに俺まで巻き込まないでください。

 最も葉山の近くにいた雪ノ下は、俺を見る。目線からして話しかけられたのはあなただと思うんですけど…

 答えられない雪ノ下の代わりに、由比ヶ浜が答える。

 

「いやー、隼人君たちも来てたんだね。…隼人君たちは、これからどこ行くの?」

 いや、葉山の質問には答えてなかった。由比ヶ浜、妙なところで策士である。

 

「俺たちはこれから嵐山行くんだけど…」

 

「あ、そうなんだ。あたしたちも、もうちょっとしたら行くんだ」

 質問を質問で返されたことを気にする様子もなく、葉山はにこやかに答え、由比ヶ浜もそれにいつものように応じる。

 平和だなぁ…俺は横と前から感じる絶対零度と獄炎の視線から目を背ける。三浦と雪ノ下はいつものようににらみ合っていた。そう簡単には仲良くはできないか。…修学旅行に来てまで戦争は勘弁してくれ。

 

 俺は不穏な空気の雪ノ下と三浦に、心の中で願っていると暗い瞳と目が合う。

「ヒキタニ君」

 

 海老名姫菜はそれだけ言い、ふい、と目をそらすと雑踏の中に溶け込んだ。彼女のその行動からある程度の意味は分かった。俺は彼女を追う。俺ほどのステルス能力ともなれば一日誰にも感知されないことも可能だが、あいにく彼女はそれを身に着けるためにはいささか器量がよすぎる。遠目で見ても、彼女が海老名姫菜だとわかる。…その恵まれた容姿は、彼女の望んだものではないだろうが。

 

「さて、ヒキタニ君」

 少し離れて人通りの落ち着いた場所で、彼女はくるりと俺に振り向く。その笑顔は、いつもの海老名姫菜のものだった。

 

「相談、忘れてないよね?」

 いつもと寸分たがわぬ彼女の笑顔に、俺は口を開けない。冗談で返すことすらできない。いつもと変わらない彼女の笑顔は、瞳だけが嫌に暗かった。

 

「どうどう?男の子同士、仲は睦まじい?」

 しかし、次の瞬間には彼女の瞳はいつもの妖しげな光を取り戻す。そうだ。これは俺も、戸部も、皆が知っている海老名姫菜だ。

 

「べつに、んなことねえよ。…そっちのグループは、問題なく修学旅行回ってんのか?」

 距離を詰め俺の顔をのぞき込む彼女に、俺は目をそらし、柄にもなく尋ねてしまう。お、女の子の目見るとか無理だし。

 

 俺の質問に彼女は一瞬固まり、一瞬離れた場所にいる三浦たちを見るが、すぐに下を向く。

 

「そうだね…。みんな仲いいし、元気だよ。…いつもよりも」

 その目は果たしてどこを見つめているのだろうか。彼女の長い黒髪が表情を隠す。

 

「でもね、私いつものみんなが好きなんだ。だから、ヒキタニ君」

 彼女は言葉を切り、顔をあげる。

 

「よろしくね」

 その言葉は俺の耳に重く残った。

 

 その後は予定通り北野天満宮、嵐山に向かい、戸部の告白する場所は灯篭が足元を埋める嵐山の竹林となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして現在。ホテルの部屋にいるわけだが、部屋では戸部が「っべー、っべーっしょこれ、まじで…」と珍しく青ざめた顔をしている。大和、大岡の二人がそれを面白そうに冷やかす。戸塚は戸部の緊張がうつったのか、表情はこわばっている。

 

 そして、葉山は。

 彼は事ここに至ってもこれまでと変わらず、いつもの微笑を浮かべている。しかしその目だけはどこか暗く、いつもと変わらぬ笑顔とは釣り合っていなかった。

 

 彼は変わらない。変わることを望んでいない。わかっていたことだ。俺も、彼女も。…いや、彼女たちも。

 

 葉山は狼狽する戸部に一声かけ、外に出た。俺もそんな彼に続いて外に出る。彼の様子から大体の予測は立っているが、それは予測でしかない。ここから先に俺が動くなら、彼女と対するなら、彼の気持ちを聞く必要がある。

 

 目の前の川を見下ろす葉山隼人の背中に、俺は一声かける。

「やけに非協力的だな」

 

 彼はこちらに振り向き、苦笑を浮かべる。

「別にそういうつもりじゃなかったんだけどな」

 

「じゃあどういうつもりだったんだよ」

 俺は間髪入れずに問う。適切な受け答えを望んでいるわけではないが、適当な言葉は吐くものではない。

 

「俺は今が気にいってるんだ。戸部も、姫菜も、そして…優美子も。みんなでいる時間が好きなんだ」

 臆面もなく、葉山はそう言う。そして俺を見据える。

 

「だから」

 俺はその先の言葉は分かる気がした。

 

「それで変わるものなら、壊れるものなら、結局その程度のものなんじゃねえのか」

 俺も臆面もなく、言う。言わなければならなかった。どの面下げて。自分でもそう思う。

 

 俺には葉山の気持ちが痛いほどわかった。戸部のひたむきな気持ちを知っていた。海老名さんの暗い願いを覗いてしまった。…そして、三浦の瞳を見ることができなかった。

 だから俺はこの言葉を、暗い瞳を俺に向けた二人に、それをわかってしまう俺に言わずにはいられなかった。

 

「…そうかもしれないな。でも、俺は失うのが怖い。そして、得てしまうのはもっと怖い。たぶん、姫菜も同じように考えていると思う。

 でも、優美子は」

 彼は自嘲するような微笑みを浮かべる。しかし、その瞳は俺を見ている。

 

「比企谷君。君の目に今の優美子はどう映る?」

 彼は唐突に俺に問う。

 新幹線での彼女が、暗闇での彼女が、涙する彼女が、脆く、どこまでも強い彼女が俺の脳裏に浮かぶ。…まったく関係のない話だろうが。

 

「今、俺たちはそんな話はしていない。俺とお前の前で今交わされるべき言葉は、戸部と海老名さんの依頼についてのことだろ」

 

「いいから、答えてくれ」

 彼にしては珍しく、そこには正当性が欠如していた。いつも正しく、中立であろうとする彼らしくない言葉に、俺は少し虚をつかれる。…正しい、とは違うかもしれない。彼はまちがうのが怖いのだ。それを必死に避けている。

 

「そうだな…。まあ、いつも通りわがままだわな」

 俺は少しおどけて答える。その声色は、いつもの低さを出せていただろうか。

 

「…そうか」

 彼は俺から視線を外し、小さく息を吐く。

 

「俺は、何も変えたくない。変わりたくない。これからも、これまでの日常を大切にしたい。…失わないことは何よりも大切だと俺は思う」

 

 彼の目は暗い水面を見つめていた。そこには何一つ見えるものなどなかった。

 

「お前の言いたいことは分かった。だが、それなら戸部の気持ちはどうなる」

 そして、三浦の気持ちは。

 言いかけてやめた。俺が今放った言葉は、依頼を受けた奉仕部としての言葉だ。そこにほかの要素はいらない。今そう言ったのは俺だ。

 

「何度か諦めるようにはいったんだ。今の姫菜が戸部に…いや、誰かに心を許すとは思えなかったから」

 うつむく彼に、俺はこぶしを握る。彼の言っていることはたぶん正しいのだろう。俺が、葉山が海老名さんの気持ちを完全に知るすべはないが、少なくとも彼女が今戸部に心を許すとは俺も思えない。そんなことは分かっている。俺も、彼も、彼女も。

 

 だから俺は次の言葉を止められない。

 

「海老名さんの気持ちはわかるんだな、お前は。

 …じゃあお前はお前の気持ちと、お前に向けられた気持ちはわかるのか」

 彼女はそれもわかっていて、なお踏み出すことを望んだ。では、彼は。

 

 葉山は目を見開いて俺を見る。しかし、すぐに諦めたような笑みを浮かべた。

 

「ああ、わかってる。…それでも俺は変わりたくない。失いたくない」

 

 彼は俺を見て言いきる。その瞳を見て、まっすぐに俺と彼と彼女を見る瞳を思い出す。

 

 ああ。やはり俺は。

 

 この意見に賛同する。

 

「わかった」

 一言だけつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 おぼつかない足元を灯篭がまぶしく、どこか儚げに照らす。視界いっぱいに移る竹はまばゆく照らされ、そこには日中とは違った風情が宿っている。

 

 海老名さんと三浦を除く葉山グループ、そして奉仕部の面々は、戸部に呼び出された海老名さんの登場を待っている。彼女が来たらこの舞台の幕は開く。

 

 誰かが少しずつ嘘をついた。由比ヶ浜はどうにかして海老名さんをここに呼び出したのだろう。そして三浦が部屋にいるように取り計らってもいるかもしれない。

 三浦は彼の、彼女の気持ちに気が付いている。しかしこの三日間、表向きはそれに気が付かないふりをした。

 大岡と大和は友を心配する表情を見せているが、そこには面白がる気持ちが混在し、それを押さえようと神妙な表情をしている。

 一人だけなんの嘘もついていない雪ノ下は何を思っているだろうか。皮肉だ。俺は自嘲する。嘘をついている者の気持ちは推しはかれても、まっすぐに前を見る者を俺は見ることができない。その気持ちがたとえわかっても、納得も賛同もできない。

 

 だから俺は戸部に声をかけた。

「おい」

 

「ヒ、ヒキタニ君!?ちょ、マジやばいわー。これかなりきてるわ」

 彼の表情は部屋で見たときと同じくぎこちない。

 

「お前、ふられたらどうする」

 

「告白する前からそんなこと思ってるようじゃ、もともとやんないっしょ」

 戸部はあきれ顔で答える。そりゃそうだ。でも最終確認だ。

 

「でも」

 戸部は俺をまっすぐに見る。

 

「諦めらんないっしょ。俺こんな感じで適当な性格だから、今まで適当にしか付き合ったことなかったんだわ。けど今回はまじっつーか」

 彼は頬をかきながらも、その目は竹林の先に向けられる。

 

「…そうか。なら最後まで頑張れよ」

 俺は本心から、それだけ言って踵を返した。

 

 背中からは戸部の俺に対する「いいやつじゃん、ヒキタニ君」という声がきこえ、眼前からは由比ヶ浜の「ヒッキーいいとこあるね」という笑顔があった。雪ノ下も微笑を浮かべる。しかし、そういうことじゃない。本当に違うのだ。見て推しはかれないなら、それに確信が持てないなら、聞くしかない。そして受け入れるしかない。それだけの話だ。

 

 俺は戸部が振られる、という予感を二人に話した。予感というよりそれは確定している未来だと俺は思う。二人も予想はついていたのか、俺の言葉にうなずく。

 

「一応、丸く収める方法はある」

 俺は下を向いてそう言った。彼女たちは微笑をたたえながら、俺に任せると言ってくれた。なにも聞かれなくてよかった。俺は心中胸をなでおろす。聞かれたい方法ではない。

 

 彼女の登場を待ちながら、反面俺はその瞬間が一生来なければいいとも思う。

 戸部は間違いなく振られる。そしてその先に待っているものはいったい何だろうか。誰かが誰かに気をつかいながらの会話。悟られないための笑顔。楽しい日常はだんだんと歪みが浮き彫りになり、そしてそれが迎える未来は。

 

 だが。俺は自分に言い聞かせる。ここを変えれば、未来は分からないかもしれない。彼女の気持ちが今は彼に向いていなくても、先の気持ちまでは今は分からない。だから彼はこれを回避しようとした。未来のことは分からない、と先延ばしにしようとした。彼女はあんな依頼をした。

 集約される願いは一つだ。彼らは手放したくないのだ。その手につかんでおきたいのだ。

 

 俺の脳裏に、まっすぐに俺を見る彼女の瞳がうつる。だが、彼女は違った。変わってもいいと言った。今ある日常を放り投げて、先に進もうとした。彼らが守りたかったものは、彼女にとっても大切なものだ。しかしそれをなげうってでも、欲しいものがあるといった。

 

 だから。それでも。俺にはこの方法しか思い浮かばない。

 

 

 

 

 

 

 

 そしてその瞬間はやってくる。

 

 竹林の先からいつもの微笑みをたたえた彼女が歩いてくる。その表情から、俺はすでに未来がわかった。彼女が変わることはなかった。

 

「おれさ、その」

 戸部は首に手を当て、何とか海老名さんの方を向く。彼女は戸部にいつもの笑顔を浮かべている。いつもと寸分たがわぬ微笑みが、そこにはあった。

 

 戸部を振られないようにし、かつ海老名さんとグループとの関係も良好にする。

 

 俺にはやはりこの方法しか思い浮かばなかった。

 

「あ、あのさ」

 戸部が何とか続く言葉を口にする。間に合うだろうか。

 

 海老名さんの肩が震える。

 

 戸部と彼女が見つめ合う。

 

 残る距離は、数十歩。

 

 海老名さんの視線が下を向く。

 

 いうなら、今だ。

 

 

 

「ずっと前から好きでした」

 

 

 

 

 海老名さんは目を丸くする。

 

 当然だ。誰だって驚く。

 

 戸部も驚いていた。奉仕部も、葉山グループの面々も。そして。

 

 葉山でさえも。

 

「ずっと前から好きでした。…あーしと、付き合ってください」

 

 三浦優美子は俺に、海老名さんに、その場にいた全員に聞こえる声で、葉山隼人にそう告げた。

 

 葉山はそんな彼女を凝視している。何を見ようとしているのか、何を言おうとしているのか。

 良いざまだ。俺は思惑を外されたこととは裏腹に、そう思っていた。今まで逃げてきたツケが、この期に及んで先伸ばそうとした罰が、今来たのだ。俺も、お前も。

 

 何も言えない葉山を尻目に、三浦優美子の声が飛ぶ。

 

「戸部、あんたもなんか言いたいことあったんじゃないの?」

 しかし彼女のその目は、俺に向かっていた。戸部の半歩後ろに立つ、俺に向かっていた。乞うような、祈るような、そして有無を言わせない瞳が俺に向けられていた。

 

 皮肉なことに、真っ向からぶつかった俺たちがとった行動は、その見た目からすれば似たものだった。俺は海老名姫菜に告白しようとした。それで戸部にわからせようとした。避けようとした。先伸ばそうとした。

 しかし、その行動の中身は対立していた。真実を告げる三浦優美子。嘘でしかない比企谷八幡。彼女はどこまでも気持ちを見ていて、俺はどこまでもそれを置き去りにした、その先を見ていた。

 

 

「あ、ああ」

 我に返った戸部は、もう一度海老名姫菜を見る。海老名さんはまだ驚いた表情で口を開けている。

 

 三浦はその間も、俺を見ていた。見据えていた。射据えていた。その彼女に、俺も目を離すことができなかった。渦の中心に目がいってしまうように。どこまでも強い彼女から今度は目をそらせなかった。逸らしたら、間違っていることを認めてしまうことになると思った。

 

「い、いや、俺こんなんじゃん?本気で人を好きになったこととかなかったんだよね。

 でも、さ。いつも優しく笑ってて、なのにたまに何言ってるかわかんなくて、暴走して、…んでもって、いっつもどこ見てるかよくわかんない海老名さんのこと」

 

 戸部は言葉を切る。大きく、深く、長く息を吸う。それと一緒に彼は一息に次の言葉を吐き出す。

 俺は彼を遮ることができない。葉山が望んでも、海老名さんが願っても、三浦優美子だけがそれを許さなかった。

 

「いつの間にか好きになってました。俺と付き合ってください」

 

 直球に、戸部翔は想いを伝えた。

 

 なるほど。

 

 所詮、小賢しいことだったのかもしれない。

 

 想いを伝えた彼の顔を見て、俺は初めて自らのそれに気がついた気がした。

 



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そうはいっても変わらない。

  

 修学旅行最終日。

 

 皆にとって楽しかったであろう修学旅行も、残すところは新幹線で帰るだけとなった。俺にとってはそうでない出来事も多かったわけだが。…まあ歴代の修学旅行と比べれば、楽しくないこともなかった、のか。

 

 フェンス越しに京都の街並みを見下ろす。現在は新幹線が来るまでの待ち時間であり、自由時間だ。多くの同級生は土産物屋を冷かしていることだろう。しかし俺は一人京都駅の屋上にいた。それもこれもある人物にここに来るように言われたからだが――

 

「はろはろー。お待たせしちゃったかな」

 

 素っ頓狂な声に、俺は振り返る。

 

 屋上に続く扉の前には今回の依頼人の一人、海老名姫菜がいた。

 

「…うす」

 

 俺は彼女を見ることができず、下を向いて短く挨拶を返す。

 

「どしたの、ヒキタニ君。後ろめたいような顔しちゃって。…もしかして、メンズたちでやましいことでもあったのかな?」

 

 彼女はいつもの腐った笑いを俺に向ける。いや、怖えよ。

 

 俺は彼女の発言にいつも通りの寒気を感じつつ、何とか口を開く。

 

「いやそういうことじゃなくてだな…依頼については、何の解決もできなかった」

 

「ああ、そのこと…いいよ、もう」

 

 彼女はいつも通りに笑う。なにも気にしていないのか。少なくとも俺の目にはそうは見えなかった。いつも寸分の狂いもない笑みは、いつもより少し歪んでいた。良いことか悪いことかはわからない。しかし、彼女のそれは確かに変わっていた。その瞳は果たして何を見ているのか。

 

「今日呼んだのはそのことじゃなくて、昨日のことでヒキタニ君に聞きたいことがあったからなの」

 

「俺に答えられることならな」

 

「うん、それは間違いない。っていうかむしろ君にしかわからないよ」

 

 彼女は暗い瞳を俺に向ける。

「あの時戸部っちの後ろに来て、何をするつもりだったの?」

 大体わかるけどねー。彼女はそう続け、横目で俺を見る。彼女なら、そうかもしれない。だが。

 

 「なぜそんなことを聞く?」

 昨日までの彼女なら、そんなことは気にしなかっただろう。彼女は切り捨てると思っていた。少なくとも、三浦の告白の前の彼女であれば。

 

「起こりうるはずだった別の未来も聞きたくなったんだよ。それっておかしいことかな?…だってヒキタニ君、私の依頼の意味、分かってたでしょ?」

 

 彼女は俺の目をのぞき込む。

 

「…まあ、本来なら戸部は告白できなかっただろうな」

 

 黒い瞳から目をそらし、柄にもなく俺は彼女の質問に応じる。依頼を果たせなかった借りがある。この程度は答えてもいいだろう。

 

 彼女は俺の言葉を聞き、声を出して笑う。

 

「そっかそっか。…ヒキタニ君となら、私うまく付き合えるかもね」

 

 しかし、彼女の笑みには今度こそ一寸の狂いもない。

 

「…冗談でもやめてくれ。うっかりほれそうになる」

 

 俺は彼女から目をそらす。そう。

 

 

 昨晩。海老名姫菜は戸部からの告白を断った。

 

 

「ごめんなさい。私今は誰とも付き合う気がないの。誰に告白されてもそれは変わらないよ」

 

 俺はそれを予感していた。だから彼の告白を阻止しようとした。

 

「話はもう終わりかな?」

 

 海老名さんは戸部に問いかける。その声に一切温度はなかった。彼女と彼の間には一本の線が入り、それをまたぐことは到底かなわない。最も、それは元からのことだったのかもしれない。

 

 戸部はあっけにとられたように海老名さんを見る。彼は何も答えることができない。別に彼女が明確に彼を拒絶したわけではない。彼女は彼だけではなく、すべてを拒絶したのだ。

 

 しかし、三浦がその海老名さんの声を遮る。

 

「海老名、まだあーしの話が終わってないんだけど」

 

「…その話、私に何か関係があるのかな?」

 

 海老名さんは突然の横やりに一瞬瞠目するが、すぐにいつもの笑みに戻る。

 

 色のない表情を浮かべる彼女に、三浦は余裕の笑みで返す。

 

「友達の恋愛事に興味もないっての?あんたは」

 

 …むちゃくちゃだ。理由にすらなっていない。

 

 そう思ったのは海老名さんも同じだったのだろうか。目を見開き、今度こそ三浦をまっすぐに見つめる。

 

「…わかった」

 

 海老名さんはそれだけを口にする。

 

 彼女がそこにいることを確認した三浦は、短く息を吐き、震える声で葉山に尋ねる。

 

「で、は、隼人。返事は?」

 

 その瞳からはさっきまでの鋭い光は消え失せ、純粋な不安と期待だけが透けて見えた。

 

 彼の答えは。

 

「…すまない。優美子とはこれからも友達でいたい」

 

 三浦から目をそらしながらも、その声にブレは無かった。

 

 何に対して謝ったのだろう。三浦に対してか、海老名さんに対してか、それとも戸部に対してか。

 

 彼女は彼の答えを聞き、言葉を失う。

 

 しかししばらくして「そっか」と漏らし、うつむく。

 

 どのくらいそうしていたのだろうか。うつむき押し黙る彼女に、その場にいる誰もが身動きが取れない。そして、彼らは。

 

 海老名さんは彼女をただ、見つめている。その瞳からは何も推し量ることができない。

 戸部はこの後どういう行動をとればいいのかわからないのか、すがるような視線を同じ境遇である三浦に送っている。

 由比ヶ浜は心配そうに彼女を見ている。彼女は三浦を心から案じているように俺には見える。

 葉山グループの面々は予想外の展開にあっけにとられている。それはそうだろう。誰だって驚く。しかしそこには、振られた女王がどうするか、若干の好奇の色が混じっていたように見えたのは、俺の悪癖のせいだろうか。

 雪ノ下も三浦を見ていた。少しまぶしそうに、悲しそうに、彼女を見ていた。雪ノ下の気持ちが俺にはわかる気がした。

 

 そして三浦優美子は。

 

 うつむいていた彼女は、いきなり前を向いた。

 その瞳には一杯に雫がたまり、唇は必死に噛まれていた。しかしその雫が涙となって落ちることはなかった。

 

「わかった。…隼人」

 

 彼女は彼を呼ぶ。彼はその呼びかけに、小さくうん、とだけ答える。

 

「隼人の気持ちはわかった。でも、あーしの隼人への気持ちは、たぶん誰にも負けない。そこら辺の奴らより、絶対隼人のことが好きで、一番近くで見てきた自信がある。だから…」

 

 彼女は続く言葉を口にしようとする。しかし、気のせいだろうか。その一言を言うときの彼女は、告白するときよりもよほど勇気を出しているように見えた。

 

「だから、これからも、好きでいてもいい?」

 

 彼女は彼をまっすぐに見つめ、ようやくそう言った。

 

 そんな彼女の言葉を彼はどうとっただろう。彼は珍しく視線を泳がせる。

 しかし結局、彼は哀しげな笑顔を浮かべた。

 

「ああ。それは優美子の自由だよ」

 

 その笑顔は、いつもより数段優しかった。

 

 気づけばなぜか俺の拳は固く握られていた。彼がそう答えることはわかっていた。大体、彼が望んだことに、「変わりたくない」という答えに、俺は賛同した。一方で彼女の望んだことを、俺は受け入れることができなかった。

 

 しかし、今俺は。

 

 うまく言葉にできない。自らの思考の流れがなぜか把握できない。今までさんざん人の思考を先回りした。心情を読んで行動してきた。そして、それは大抵当たっていた。今も周りの人間の思考は想像できる。だが、

 俺は今、自分のそれを理解できない。

 

「わかった。…じゃあ、これからもよろしくね!隼人」

 

 アイメイクが崩れた顔で、彼女自身「葉山だけには見せられない」と言ったその顔で、三浦優美子は彼の目を見て笑った。

 

 俺はその三浦優美子を、やはりかわいいと思った。

 

 

「え、海老名さん!」

 

 今度は戸部が叫ぶ。彼のその顔は、さっきとは違った。そこにはまだ迷いはあったが、それでもその目はまっすぐに海老名さんに向けられていた。

 

 三浦を見ていた海老名さんは、彼のほうを向く。三浦の言葉を聞いた彼女の顔には、今度は表情がついている気がした。

 

「俺も、海老名さんのことが、その…す、好きです。だから…えーっと、な、なんていえばいんだろ、こんな時」

 

 彼はこの期に及んで視線を泳がせる。やはりヘタレである。

 

 泳いでいた彼の視線が俺とぶつかる。俺はいつもの表情を浮かべていられるだろうか。

 彼は俺を少し見つめ、視線をまた海老名さんに向ける。「やっぱ諦めらんないっしょ」小さくそう聞こえた気がした。

 

「だ、だから、俺もこれからも海老名さんのこと好きでいていい?」

 

 何とか、戸部は言い切った。

 

 海老名さんはまた三浦を見る。視線の先にいる三浦は、アイメイクの崩れたひどい顔で、それでも笑っているように見えた。

 

「…うん、いいよ。これからもよろしくね」

 

 彼女も葉山と同じ答えを出した。その言葉に込められた意味まで同じだったか。俺にはわからない。

 

 海老名さんは戸部に小さく微笑むと、踵を返した。来た道を彼女は歩いていった。一人で。

 

 答えを聞いた戸部の顔には笑顔が戻っていた。その瞬間、葉山グループのニ人が戸部のもとに駆け寄った。面白がっているのか、慰めようとしているのか。だが少なくともここで戸部に声をかけるのは、俺の仕事ではない。

 

「いやー、あの答えワンチャンあるべ!」

 

 戸部の後ろから離れる俺に、彼の声が耳につく。脳内お花畑でよかったですね。ワンちゃんとそこで一生遊んでいてくれ。

 だが。最後の海老名姫菜の微笑みを思い出し、俺は思う。案外、間違っていないのかもしれない。

 

 海老名さんがいなくなり、由比ヶ浜も三浦のもとに駆け寄る。由比ヶ浜はいつも通り笑おうとしていた。その笑顔を見て、今三浦の近くにいるべきなのは彼女だと俺は思った。

 

 雪ノ下は俺の横で腕を組んでいる。その目は鋭く俺に向けられる。

 

「…戸部君の横にあのタイミングで出て行って、いったい何をしようとしたのかしら」

 

 こ、怖い怖い怖い。俺が悪かったです。だからその目はやめてください。

 俺は彼女から視線をそらし、照らされた竹林を眺める。わぁ、とってもきれいだなぁ。

 

 何も答えようとしない俺に、彼女はため息をつき、こめかみに指をあてる。

 

「もういいわ。どうせろくなことではないだろうし。でも」

 

 彼女は俺と同じように遠い目で竹林を眺める。

 

「これでよかったのかしらね」

 

 その言葉は、純粋な疑問だったと思う。彼女にはわからなかったのだ。三浦の、葉山の、海老名さんの気持ちが。

 

「別にいいだろ。当初奉仕部が請け負った依頼は達成されている。『戸部の告白の手助けをする。』そこから先は気持ちの問題だ。俺たちが踏み込めることじゃない」

 

 よくそんなことが言えたものだ。俺は言ってからそう思う。気持ちをなかったようにしようとしたのは、俺ではなかったか。

 だが、三浦と海老名さんの笑顔を見た今。この俺の言葉は嘘じゃないと思う。

 

 しかし、雪ノ下からの返答はない。

 

 何か言ってくれてもいいのでは。そう思い横を向くと、彼女は眼を見開いて俺を見ていた。…そんなにおかしなこと言いましたか。

 

 少し頬が熱い。ガシガシと頭をかく。

 

「あー、それに、あれだ。探偵とかも、報酬は労働自体に対して支払われるだろうが。その結果が依頼人の満足いくものじゃなくても、働きはしたんだから問題ねえよ」

 

 「浮気調査をしてくれ」と言われても、調査対象がそもそも浮気をしていなかったらその依頼は真の意味では達成できない。海老名姫菜には戸部に対する気持ちがもともとなかった。それだけの話だ。

 

 仕事観を披露した俺を、彼女はクスクスと笑う。ぐ。焦って出てきただけに、かなり苦しくはあったが。

 

「まあいいわ。そういうことにしておきましょう。…少なくとも、戸部君は後悔していないようだしね」

 

 友人とはしゃぐ戸部を眺め、彼女は微笑む。確かに俺にも彼の顔からは後悔は感じられない。だとすれば、それは何のおかげか。誰のおかげか。

 

「ちょ、結衣、あ、あーしもしかして今顔…」

 

 由比ヶ浜とじゃれあっていた、というより一方的にじゃれつかれていた三浦は、自らの涙に気が付いたのか、顔を指さして青ざめる。

 ええ。それはもう。とっても言いづらいけどあえて一言でいうならば、パンダ、ですかね。

 

 由比ヶ浜は苦笑を浮かべる。はっきりとものを言いなさい。俺は心の中で一喝する。言われたくないことを言わないのが真のやさしさではありません。気分は道徳の先生。さわやか三組。

 

 俺より数段道徳心の強い雪ノ下は、焦る三浦に無言で手鏡を差し出す。

 

「あ、ありがと、雪ノ下さん」

 

 少したじろいで三浦は礼を言う。

 

「いえ、これくらい同じ女子として大したことではないわ」

 

 雪ノ下は今迄に向けたことのないような笑顔を浮かべる。…本当にいい性格してますね、雪ノ下さん。

 

 三浦は恐る恐る手鏡を覗く。次の瞬間。

 

「ギャーーー!ちょ、ありえないし!…だ、誰も見んな!」

 

 そう言ってホテルに続く道を走り去っていった。さすが元テニス部。速い。

 

 由比ヶ浜は突然走っていった三浦をあたふたと追いかけ、雪ノ下も手鏡を持ったままの三浦を追いかける。高級そうだったしな、あれ。

 

 気づくとその場には俺と葉山だけがいた。葉山グループの面々はすでに姿を消していた。さすがに今女王を振ったばかりの葉山と、振られたばかりの戸部は一緒には帰れなかったのか。それとも、彼が自らの意志で残ったのか。

 

 目が合うと、彼は苦笑を浮かべる。

 

「してやられたよ。この旅行の前から、旅行中も少し様子がおかしいとは思っていたんだ。…だけど優美子にあそこまでの覚悟があったとは思わなかった」

 

「ああ」

 

 俺もうなずく。してやられた。彼にとってそうなったのは結果論だが、俺は間違いなくしてやられた。 結局あの時のコンビニでの会話が、俺が何かするということを彼女に悟らせ、そして覚悟を決めせてしまったのかもしれない。

 

「まあ、よかったんじゃねえか。…あれのおかげで少なくともきまずくはならんだろ。お前らのグループも」

 

 彼女があのタイミングで告白したのは、どういった意味を持つだろう。

 

 一つは戸部の気持ちを彼自身に海老名さんに伝えさせること。恐らく三浦は戸部に自分を重ねていた。だからあそこで俺の横やりが入ることを恐れた。

 そしてもう一つ。グループで色恋があってもよいと認知させ、それをオープンにさせること。グループのリーダー的存在の三浦が、戸部と一緒に盛大に振られた。そして彼女は葉山を諦めないと言った。これにより戸部もグループ内での色恋を公に認められるようになり、大っぴらに好きだと言えるようになった。

 よって少なくとも海老名さんと戸部の件でグループが決まずくなる可能性は減っただろう。だから彼は仲間とあの後に笑い合うことができた。言ってみれば「赤信号みんなで渡れば怖くない」理論だが、赤信号を三浦が真っ先にわたっていったら、ついていく者もいるということだ。俺は死にたくないんで行きません。交通ルールは守ろうね。

 

「…そうだな」

 

 彼は俺に笑いかける。

 

「でも俺と姫菜の思惑が外れたことで、少し安心もしてるんだ。君が戸部の横に立って口を開きかけたとき、俺は君が何をしようとしているか分かった気がした。…いや、この言い方は卑怯だな」

 

 その笑みは、自嘲的なものになる。

 

「具体的にはわからなくても、俺は君がどういう方法をとるかはわかっていた。君はそのやり方しか知らないと知っていたから。そしてそれは俺にはできないことだ。だから、君に頼んだ。」

 

「別に、お前が俺に対して悪いと思うことなんて一個もねえだろ。俺は結局お前の依頼も、海老名さんの依頼も達成できなかった。むしろ謝るとしたら俺のほうだ」

 

 俺の言葉を聞き、彼はまた苦笑する。

 

「そもそも、依頼が達成できなかったのは俺たちのグループ自身の、優美子の行動があったからだけどね」

 

 まあ、そのとおりではある。

 

 葉山と海老名さんの依頼は「戸部の告白を防ぐこと」だったか。

 

 それは単なる手段だ。本質は「今の関係を変えたくない」ということだ。そして戸部の告白によって、グループの関係性が変わってしまうことを恐れた。だから俺は戸部の告白を未然に防ぎ、海老名さんの意志を間接的に戸部に気づかせようとした。

 

 しかし、三浦が葉山に告白したあの瞬間。もはやその解消法は意味を失っていたのだ。三浦によってすでにグループの関係性は変わってしまった。だから今更俺がそれをする意味も、理由もなくなった。

 

 …こう考えてみるとなんと不利な対図だろう。彼女が変わりたいと言い、行動した時点ですでに俺は敗北していたのだ。

 

 俺は何をまちがえた。自らの行動と思考をかんがみる。

 

 要するに、俺はもっと気持ちの問題を大切にすべきだった。どこかで彼女のことを甘く見ていた。気づけはしない、行動はできない。彼女の気持ちから目をそむけた結果がこれだ。

 

 いや。そもそも反省も後悔も、もう必要ない。解はすでに出てしまっている。問題はそこで終わっている。

 

 首を振り、葉山に問う。

 

「で、お前はこれからどうするんだ」

 

 彼は俺からの質問が意外だったのか、物珍し気な視線を向ける。俺だってこんなことを聞くのは柄ではないことは分かっている。しかし。

 俺の脳裏に彼女の涙がよぎる。聞かずにはいられなかった。

 

「…やっぱりか」

 

 葉山は下を向き、何かをつぶやく。しかしそれは俺の耳には届かない。

 

「どうするもこうするも、いつも通りさ。それが、俺だ」

 

 だろうな。俺はその答えもわかっていた。彼はどこまでも変わらない。わかっていたことだ。

 

「わかった。じゃあな」

 

 俺は短く言い残し、帰路へと向かう。そう、わかっていたことなのだ。

 

「俺からも、一ついいかな」

 

 背中を向けた俺に、葉山は声をかける。

 

「…なんだ」

 

「そんな嫌そうな顔をしなくても」

 

 俺を見て彼は苦笑を漏らす。彼は俺の質問に答えた。ならば俺も答えなければならないわけだが、正直、嫌だ。

 

「まあいいか。じゃあ俺からも同じ質問を」

 

 彼は俺をまっすぐに見る。

 

「君は、これからどうするんだ?」

 

 彼が何について言っているのか、わかりたくなかった。自分でもよくわからない思考を、心情を、それ以外の俺のなにかを、彼に見抜かれている気がした。だから嫌だったのだ。

 

「別にどうもしねえよ。これまでのぼっちの生活に戻るだけだ」

 

 俺はそれだけ言って、今度こそ彼に背を向ける。

 

「そうか…」

 

 つぶやく彼の顔が、目に浮かぶ。

 

「変わらないな。…君も、俺も」

 

 一緒にするんじゃねえよ。クソリア充。

 

 

 

 

 

 

「ヒキタニ君」

 

 フェンス越しに町を見下ろしながら、海老名さんは俺を呼ぶ。

 

「…私たち、変わっちゃったのかな」

 

 そのつぶやきはいつもの明るい調子でも、底知れないものでもなく、俺と同じ高校生のものに聞こえた。

 

「変わらないものなんてないだろ。形あるものはいつか壊れるし、形がないものは元々の形を誰も知らない。そのままの形で保管することなんてできねえよ」

 

 俺はまた白々しく言う。変わらないようにしても、誰かが変えようとした瞬間にそれはもう変わってしまっている。重要なのは関係でも結果でもなく、それ以前の気持ちなのかもしれない。今回それがよくわかった。

 

「…そうだね」

 

 彼女も珍しく神妙にうなずく。その彼女の顔を見て、俺は金髪の彼を思う。

 

 変わらないのは、お前だけかもな。

 

 

「ねえ、ちょっと」

 

 突然後ろから声がかかる。振り向いた先には。

 

「海老名、そろそろ集合時間だから早く来な。…あとヒキオも」

 

 なびく金髪をいじる三浦優美子がいた。

 

「あ、うん」

 

 海老名さんは彼女の呼びかけに答え、三浦のもとへ向かう。俺は当然動かない。だ、だって一緒について言って「キモッ、なについてきてんの。いたからついでに呼んだだけですけど」とか言われたら八幡生きていけない。

 

「ヒキオ、あんた何やってんの。耳ついてないの?集合時間だっての」

 

 言葉こそいつも通り荒いが、三浦は心底不思議そうに俺に問う。だからこの女王様は…

 

 海老名さんはアハハ、とから笑いを浮かべる。うん、そうだよね。あなたなら俺の気持ちはわかるよね。

 

「別に問題ない。なんなら別の新幹線で一人で帰ったほうが気が楽だ」

 

 俺はそっぽを向く。あれ、というか行きの新幹線の席順を踏襲する雰囲気になってたら、帰りでもあの地獄を味わうことになるの?…これは本格的に一人で帰るまでありますね。

 

「はぁ?何言ってんの」

 

 俺の言葉を無視し、彼女は笑いかける。彼女が俺に笑顔を向けるとき。…いやな予感しかしない。

 

「あんたのせいであーし隼人に振られたんだけど」

 

「は?」

 

 いつもながらの話の飛躍に、俺はついていけない。見れば海老名さんも唖然としている。

 

「だから」

 

 彼女はガシガシと金髪をかく。

 

「あんた昨日戸部の横に行った時、なにしようとした?」

 

 だから、その質問には答えたくないと何度言えば。俺はいい加減、昨日の雪ノ下から始まった同じ質問に辟易とする。

 

 心の声が言葉に出ていたのだろうか。反対に彼女の笑みは深まる。

 

「コンビニでのこと考えれば、どうせ言えないようなことっしょ?あの時あんたが戸部と海老名のところに歩いて行ったの見て…」

 

 しかし、続く言葉が出てこない。彼女は珍しく顎に手を当て、悩むポーズをとる。

 

「な、なに。よくわっかんないけど…体が勝手に動いた、っていうか。

 …なに、その馬鹿にしたような目は。ヒキオのくせに。…あ、海老名までなに見下してんだし!?

 と、とにかく、あんたのせいでしょ。好き勝手動けると思うなっての」

 

 笑みとは裏腹に、彼女の声は震える。その行動原理はとても彼女らしい、が。

 海老名さんと目が合い、お互いに苦笑が漏れる。まさかそんな理由ともつかない理由で、三者の思惑がぶち壊されるとは。

 

「そっか。優美子はやっぱり気づいてたんだね」

 

 何に気づいていたか。海老名さんは言わなかった。ただ優しく三浦に笑いかけた。

 

「ふ、ふん。あーしにあんたのことでわからないことがあると思ってんの?」

 彼女は腰に手を当て、いつも通り豊かな胸を張る。

 

「とにかくあんたのせいだから、ヒキオ」

 

 三浦は俺を指さす。

 

「あーし言ったっしょ。これから覚悟しなって。勝手に逃げれると思うなし」

 

 彼女はその指を海老名さんにも向ける。はぁ…。勝ち誇ったように笑われてもなぁ。

 

 視界の端には額に手を当てた海老名さんが映る。

 

 同感である。さしあたっては。

 

 波乱に満ちていそうな帰りの車内を思い、俺は神に願う。

 

 帰りは戸塚と隣がいいなぁ。

 



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どうも彼女はらしくない。

 

波乱の修学旅行から1週間。

 

俺は今日も今日とてベストプレイスにて昼飯を食べる。空は快晴。頬を気持ちいい風がなでる。正直寒い。湿度は知らん。

 

 なかなか良いコンディションだ。

 

 本日の献立は、ホットドッグにおにぎり二つ。ちなみに具はツナマヨとエビマヨ。なんというか、すごい炭水化物とマヨネーズ。二つがコンビで俺のお腹を襲ってくるぅぅぅぅ。やばい、炭水化物と脂質超うまい。

 

 そして目の前には、ジャージの天使がいる。これを最高といわずしてなんというのか。

 

 …いや違う、天使じゃなかった戸塚だった。もう戸塚と天使の見分けがつかない。こないだはサイゼの天井の絵を見て「裸の戸塚がいっぱいだ」と無意識に思って、自分で引いた。何言ってるかわからないやつは、とりあえずサイゼに行け。ボッティチェリやらラファエロやらの作品がタダで見れるサイゼは、やっぱりコスパ異常。

 

 さて、その戸塚は現在、ラケット片手に必死に黄色い玉を追いかけている。その頬は上気し、玉は確実に彼のラケットに吸い込まれて、声からはいつしか甘い吐息が…やめよう。なんか腐った笑いが聞こえた気がした。

 

 そんなことを思っているうちに、気づけば昼飯を食べ終わる。

 

 クソ、やってしまった。ぼっちの特性の一つとして「飯を食うのが早い」というものが挙げられる。…なんでか?話す人間がいねえからだよ殺すぞ。

 普段であればスマホをいじったりしながら適当に時間をつぶすのだが、戸塚に見とれているうちにすべて食べてしまったらしい。いつもであれば戸塚の練習終わりに合わせて、いい感じで一緒に帰れるようにするのに。…いや別にやましい気持ちはない。これは断じて友情である。みんなも友情を大切にしような。ぼっちの八幡からのアドバイス。

 

 俺はため息とともに立ち上がる。しかたない。マッ缶でも買いに行くか。いつもなら戸塚と一緒に自販機まで行って、戸塚が冷たいスポドリを俺のほっぺたに当ててくるのに。それで「えへへ。…冷たいでしょ」とか笑ってくれるのに。なんなんだよ畜生。午後の活力が足りねえよこれじゃ。…戸塚で何行使うんだよ。いや何行って何だよ

 

 さて、マッ缶マッ缶…

 自販機の前で寂しい財布を広げていると、横からなげやりな声がかかる。

 

「ヒキオじゃん」

 

「さて、マッ缶マッ缶…」

 ん?今なんか聞こえたか?俺には聞こえなかったけどな。ほんとだよ?ハチマンウソツカナイ。

 

「…なに、あんたいつからあーしを無視できるほど偉くなったん?」

 恐る恐る横を見ると、そこには額に青筋を立てた三浦優美子がいた。

 

「ごめんなさい謝るから睨まないで」

 だってこいつの目と口調まじで怖いんだよ。殴られてからじゃ遅いんだよ。

 

「で…お前はなんでここにいんだよ」

 

「は?見てわかんないもんは聞いてもわかんないっしょ。今から紅茶のボタン押すけど、あーしが何しようとしてるかわかる?」

 ふふん、と心底見下した視線を俺に送る。言っていることは的を射ているのが、逆に腹立たしい。しかし。

 おれはジュースのボタンを押す三浦を見る。なにかおかしい。俺をバカにしたように見る彼女に、俺は違和感を覚える。どこがどう、とは言えないが…

 

「な、なにじろじろ見てんだし」

 

 気づけばぶしつけな視線を送ってしまっていたらしい。戸惑う彼女から俺は目をそらす。

「いや、今日も二本買ってんだな、と思ってな」

 

「ああ。これ」

 彼女は紅茶とオレンジジュースを掲げる。

 

「海老名とじゃんけんで負けたの。なに、なんか文句ある?」

 三浦はなぜか胸を張る。いや、別にいいんですけどね…。

 

「さすがにじゃんけん弱すぎでしょ、お前…」

 

 そう、「今日も」彼女はここに来た。

 以前の突然の女王のベストプレイス訪問から、俺は彼女の来訪を警戒していた。その観察の結果、この女はほぼ毎日自販機に来ていることがわかった。

 じゃんけん弱すぎませんかねこの子…おそらく今日は俺が早く昼飯食いすぎて時間がかみ合ってしまったのだろう。

 

「は、はぁ!?別にんなことあんたに関係ないっしょ」

 彼女は少し頬を染めて答える。弱みを見せたとでも思っているのだろうか。いや、いいと思いますよ。そのくらいのほうがあーしさんらしいっすよ!ポンコツ女王。これは流行る。

 

 咳ばらいを一つ。彼女は見下した視線を俺に送る。

「で、あんたはまたあのくっそ甘いコーヒー飲むん?」

「それこそ俺の勝手だろうが…」

 というか、これをうまそうに飲みほしてたのはどこの誰でしたかね。大体マックスコーヒー以外のコーヒーの選択肢は、千葉県民にはない。

 

 いや、そんなことよりも。

 

 俺はようやく違和感の正体に気が付く。確かに俺と彼女は修学旅行の前後、割と言葉を交わした。しかしそれはいつもそうする必要があったからだ。正確に言えば俺にはなかったが、少なくとも彼女は俺に話すことがあった。大抵は葉山関連だったわけだが。

 

 だが、今は。

 

 普段だったらこのように出会ったら、どうなるだろうか。今あるべき俺と彼女の姿をシミュレートしてみる。

 

「ヒキオじゃん」

「おう」

「ピッ…ガシャン」

「じゃあ」

「おう」

 終了である。まて、俺キョドって「おう」しか言えてない。

 

 ともかく、無駄話は俺と彼女に似合うものではない。何を企んでいる。

 ここ数週の彼女の行動を振り返り、俺は警戒する。無駄話と見せかけどんな爆弾が飛んでくるかわかったものではない。

 

 しかし彼女はそんな俺の警戒も素知らぬ顔で、ジュースのふたを開ける。

 

「相変わらず何言ってっかわかんないんだけど。…で、あんたはまたあんなとこでぼっち飯食ってるわけ?」

 

 吹き付ける風に震えながら、俺に問う。その問いには以前のような蔑みは感じられなかった。寒くないか心配してくれるあーしさん、まじおかん。いや、確かに寒いんですけどね。

 

「この季節は閉め切った教室の淀んだ空気で飯食いたくねえしな。…それに別にいつも一人で食ってるわけじゃない」

 戸塚とか戸塚とか戸塚とか。つい見栄を張って余計なことを言ってしまった。俺は戸塚を遠くで眺めているだけなんだけどな。

 

「あんた弁当一緒に食う相手とかいたん?男の友達と…いや、ないっしょ」

 彼女は即座に自分の言葉を否定する。おい、失礼だぞ。俺にだって男友達くらい…ごめんなさい、いませんでした。戸塚は性別を置き去りにしてるし。材木座?なにそれ土建屋?

 

「じゃ、もしかしてあんた」

 俺の返答も待たず、彼女は続ける。

 

「お、女と一緒に飯食ったりしてんの?」

 

 はぁ?何を言っているのだこいつは。

 

 自らの昼休みの現実と彼女の質問の乖離に、俺はまた口を開けない。あんな寒いところで一緒にご飯食ってくれる女子がいたら、即告白して振られてハブられるまでる。あっ、ハブにされてるのは元々でしたね。

 

 あまりの質問に何も言えない俺に、彼女はすぐに付け加える。

 

「だってあんた学校でも男といるより女といる方が多いでしょ?結衣とか雪ノ下さんとか。だからまだ女の方があると思っただけなんだけど…」

 下を向いたかと思ったらいつもの目で俺をにらむ。忙しい奴だ。

 

 これ以上話が面倒な方向に行くのは御免である。俺は両手をあげる。

「ちげえよ、いつも通り一人だ。昼休みはテニスの練習してる戸塚と少し話す程度だよ」

 

「そ、そーなん?別にどうでもいいけど。てか、そんなことくらいで一緒に飯食う相手がいるとか言ってたん?さみしい奴」

 

「うるせえな。俺はそれで充分なんだよ。戸塚は遠くで見てるだけで、いいんだよ」

 

 ニヤニヤと俺を見る彼女に、俺は真剣に答える。いつもは頼りない戸塚のりりしい姿。今やそれを見たいがためにあそこで飯を食っているまである。

 

「は?正直キモイんだけど。そーゆー海老名を暴走させること言うのやめてくんない?」

 彼女はゴミを見るような視線を俺に送る。いや、確かに今のは俺もきもかった。

 

 そうはいっても戸塚のかわいさは伝えておかねばならない。しかし俺が口を開く前に、昼休み終了の鐘がなる。

 

「あ、やば。もうこんな時間だし。あんたとくっちゃべって昼休みつぶすとかマジ最悪なんだけど。…てかあんた、なんで鐘なったのに微動だにしないし?やっぱ耳ついてないの?」

 

「別に…お前こそ早く行ったほうがいいんじゃないか。鐘なってんぞ」

 何度同じようなこと言わせる気なんだよ。頼むからさっさと行ってくれ。勘違いされるとか、あ、ありえないし。戸塚とも話せなかった。最悪である。

 

「はぁ?だからなんであーしがあんたに指図受けなきゃなんないわけ?ほら、さっさと行った行った」

 彼女は目を吊り上げ、俺を足蹴にする。なんでも思い通りにいかんと気が済まんのかこの女王様は。せかされ、仕方なく俺は彼女の前を歩く。

 

 しばし歩くが、無言の彼女が少し気になり振り向く。が、そこには誰もいない。

 

 廊下の端のトイレに金髪の女子が入っていくのが見えた。ああ、トイレ行くのを俺に見られたくなかったんですね。なんなのその女子力。あーしさんマジ乙女。

 

 教室につき、俺は速攻で腕に顔をうずめる。無駄なやり取りで無駄な体力を消費してしまった。いつもなら戸塚でエネルギーを補給するはずの昼休みに、まさかエネルギーの浪費をしてしまうとは。

 

 しかし俺の安眠は、乱暴に開けられたドアの音によって遮られる。

 

 そこには無言で、無表情で教室を見渡す三浦優美子がいた。彼女の瞳には獄炎が宿ってはいるが、その表情はいつもよりどこか頼りない。よくよく見てみると、彼女の目は特定の女子の集団をとらえているように見える。

 

 一通り女子らをねめつけ、自らの席に行き、座る。彼女のとった行為はそれだけだ。

 

 しかし彼女が教室に入ったことで、クラスの雰囲気がすこしだけ変わった気がした。恐らくほとんどのクラスメイトは気が付かない程度に。彼女の視線を追った俺は、三浦をいつもよりもいささか直接的に、軽んじてみている女子たちの視線に気が付いた。

 

 女王である三浦のらしくない表情。女子たちの彼女への視線。

 

 …なるほどな。

 

 まあ、自分で蒔いた種だ。仕方あるまい。

 

 だが、そう単純に割り切れたらどれほど楽だっただろうか。その後の授業はらしくない女王の表情、女子たちの視線が脳裏をよぎりまるで集中できなかった。まったく、俺もらしくない。

 

 集中できなかった現国終了後には、平塚先生から呼び出しをくらった。そこはかとなく、はっきり言ってものすごく嫌な予感がするが、廊下に出る。

 彼女は俺を見るなりため息を漏らす。おい、呼んだのはあんただろうが。

 

「どうだね。最近の調子は。少なくとも今日の授業は集中していなかったようだが。

…修学旅行の件と、何か関係があるのか?」

 

 気づいていたのか。今度は俺が心中ため息を吐く。流石にあの時は少し動きすぎた。

 

「べつに、俺の調子が悪いのは普段通りですよ。それに良い調子が必ずしも良い結果を生むとは限らないでしょう。むしろ調子がいい日なんて、調子づいちまってろくなことがない」

 調子に乗って告白して振られたり、調子に乗って学校に早く行って車に轢かれたり。あれ、俺の人生って…

 

 一生調子がいい日が来そうにない俺の人生を嘆いていると、彼女はいつも通りの苦笑を漏らす。

 

「相変わらずどうしようもないな、君は。…まあたまには軽い雑談でもどうだ。どうせ教室にいても暇なだけだろう」

 

「まあ別にいいですけど。先生も友達いなくて暇でしょうし」

 事実を言う彼女に、俺もつい言い返してしまう。やばい。彼女の眼光が鋭く光ったことを確認した俺は、殴られる前に話を逸らす。

 

「…時に、これは俺の友達の話なんですが」

 しまった。言ってから俺は渋面する。つい先ほどの授業までの思案がでてしまった。

 

「ほう。君がそんなわかりやすい前置きから入るとは。…いいぞ。友達の話、きいてやろう」

 彼女はにやにやと俺を見る。仕方ない。吐いてしまった唾は飲めない。

 

「俺の友達の周りに、最近どうも様子がおかしいクラスメイトがいるそうです。そしてそのクラスメイトの異変に、その友達も関係している。しかし彼は自分から動くわけにはいかない事情があり、気持ち悪さが残る。彼は彼女に対してどうすればいいか、そういう話なんですが」

 

 俺は何とか一息に言い切る。

 

 他人に話せば何かわかるかと思ったが、やはりよくわからない。自分の思考が自分で掌握できない。修学旅行の一件からの自らの気持ちに対する違和感が、どうしても残る。

 

 平塚先生は瞠目し、俺を数秒間見つめる。

 

 整った目鼻立ち。さすがに少し動揺しかけたところで、彼女は破顔する。

「なるほどなるほど。君も少し、成長したようだな」

 

「…別に俺は関係ないですよ。友人の話です。大体今の話に成長する要素がありましたか?」

 彼女とは反対に、俺の顔はゆがむ。

 

 成長だと?これを退化と言わずしてなんというのか。他人の心情どころか、自分の思考すらわからなくなってしまったというのに。

 

「おっと、そうだ友達の話だったな。

…ん、もうすぐ六限目だな。では比企谷、これだけはその友達に伝えておいてくれ」

 

 彼女は優しく俺を見る。

 

「君は今その気持ちに戸惑っていると思う。わかっていたと思っていたものが突然わからなくなったのだから、当然と言えよう。

 だが、それを私は成長だと思う。一度リスクリターン抜きに、今の君の思うままに動いてみるといい。悩みのヒント程度にはなるだろう」

 

 鐘が鳴り、次の授業の教師が教室に入る。

 

 ヒント?まったくわからない。まったく使えない。不敵に笑う彼女を前に、俺は結局それだけを思った。

 

 

 

 

 

「ヒキオ、早く行くし」

 放課後。鞄を肩に下げた三浦優美子が、鞄で俺の頭をたたく。たたくといっても「ポカッ☆」ではなく「ドガッッッ★」である。その後ろにはガタガタと帰り支度をする由比ヶ浜の姿が見える。

 

 修学旅行が終わってからも、三浦は放課後には奉仕部へ足を運んでいる。俺としては雪ノ下と何か問題が起きる前にやめてほしかったのだが、「暇なだけだけど、なに、あんたの許可がいんの?」女王にそうにらまれては、俺が逆らえるわけもなかった。

 

「…だから、先行けっつってんだろ」

 大体俺帰り支度俺より早いって、どういうことなんだよ。授業中教科書机に出してないんじゃないの?そういえばこの女が勉強しているところを見たことがない。

 

「うっさい。さっさとしな」

 彼女はケータイをいじりながら、そうせかす。だから別に先に行ってくれていいんですけど。むしろ行ってくれ。周りの視線が…

 

 そう。一度気になってしまうと違和感はぬぐえない。三浦もその視線を感じたのか、彼女の目はケータイではなく、教室で遠巻きに見ている女子たちをとらえている気がした。彼女は小さく舌打ちをする。

 

 ついに我慢できなくなったか。そう思い三浦の怒声に備えて腰を浮かす。

 

 しかし、彼女は何も言わずに速足で教室を出ていく。ドアが閉まる音だけが空しく響いた。

 

 気づけば俺の横には由比ヶ浜が立っていた。

 

 彼女は俺などよりよほど三浦のことがわかっているのだろう。俺を横目で見るが特に言葉はなく、三浦の後を追った。

 彼女たちが出て行ったのを確認し、俺も席を立つ。気は進まないが仕方ない。俺にも責任の一端がないとも言えない。

 

 

 

 奉仕部での三浦の機嫌は、はっきりとは悪くなかった。

 

 むしろ悪いほうがまだましだったと言えるかもしれない。普段の彼女であれば機嫌の悪い日ははっきりとしていて、その日は由比ヶ浜がなだめ、雪ノ下は衝突を避けるようになった。以前彼女を泣かせたことで、少しは反省しているのだろうか。

 

 しかし今日の彼女の様子は、少しおかしかった。今日の、というのは少しまちがっているかもしれない。昼休みにトイレから戻ってきてからの三浦優美子は、教室でも奉仕部でも負のオーラをまき散らしていた。文句を言うわけでも、突っかかるわけでもない。ケータイをパカパカと開けては閉め、時折何かに対して舌打ちをする。

 

 その三浦に由比ヶ浜はどうすれば良いかわからないのか、ケータイをいじりながらチラチラと俺と三浦に視線を送る。俺に頼られても困る。

 雪ノ下はいつも通り本を読んでいるが、様子のおかしい三浦にそろそろ苛立ちがたまってきているように見える。

 

 雪ノ下は本を閉じ、ため息をつく。

 

「三浦さん、先ほどから正直うっとうしいのだけれど、何かあったのかしら。陰鬱な空気を無駄にまき散らすのはやめてもらえるとありがたいわ」

 

 そろそろそう来ると思った。俺は目線を本に移す。三浦と雪ノ下の言い争いほど無駄なものはない。一生平行線である。下手に関わるよりも嵐が過ぎ去るのを待つのが無難だ。

 

無駄な努力が好きなエアマスター、由比ヶ浜は雪ノ下を全力でなだめている。まあ三浦がうっとうしかったのはまちがっていない。クラスの雰囲気を知らない雪ノ下に、理解を求めるのは不可能だろう。

 

その雪ノ下に対する三浦は。

 

「…別に、あーしなんも悪いことしてないじゃん」

 雪ノ下から目をそらし、ケータイをいじりながら投げやりに答える。

 

「私はあなたが悪いことをしたとは言っていないわ。ただ、空気を悪くされると読書に集中できないからやめてもらえるかしら、と言っているのよ。それが無理なら出て行ってもらってかまわないわ」

 

「ま、まあまあゆきのん。優美子だって悪気があるわけじゃないと思うよ。ただ…」

 仲裁に入った由比ヶ浜は、言いかけてやめる。それに直接触れること自体、今の三浦を刺激するだけだろう。

 

 部室に沈黙が下りる。教室内にピリピリとした空気が流れる。

 

 俺はいったい何度この女に平穏を乱されればよいのだろうか。

 

 雪ノ下と同じくため息を一つ吐き、文庫本を閉じる。この問題の解消は簡単である。悪者を一人作ればよい。女子3人に男子1人の空間。わかりやすいところで言えば。

 

「あー、まああれだ」

 突然口を開く俺に、三人の目線が刺さる。ああ、この目線が数秒後にはおそらく。

 

「誰にだって調子の悪い日くらいあるだろ。例えば女子なら」

 

 一呼吸開ける。

 

「おりものの日とか」

 

 その後の部室の空気は察していただきたい。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜はいつも通りドン引きした目で俺を見ていた。雪ノ下に至ってはどこかに電話をかけていたのが一層怖い。ちょっと、この年で前科もちはきつい。

 三浦は俺が本気でそう言ったと思ったのか、顔を真っ赤にして俺の頭を殴った。しかもグーで。痛い。

 

 その日は俺の献身的自己犠牲…犠牲などと言いたくないが、これは犠牲といっても差し支えないだろう。三浦と雪ノ下の衝突は避けられたが、結局はその場しのぎである。

 

 その後も日に日に三浦の機嫌は悪くなり、比例して部の空気も悪くなった。雪ノ下は何度か三浦に文句を言ったが、三浦は言い返すでもなく、投げやりに返す。その二人を由比ヶ浜が取り持つ。由比ヶ浜のおかげで一応何とかなってはいた。

 

 しかしそれにも限界がある。

 

 

 

 

 三浦の様子がおかしくなった日から一週間。部室でいつも通り本を読んでいた雪ノ下は、今日も不機嫌をあらわにする三浦を見て、こめかみに指をあてる。

 

「三浦さん、あなたいい加減にしてもらえるかしら。何か悩みがあるなら聞くと、そう言っているでしょう。ここは奉仕部なのだから、あなたが助けを求めるなら私たちはできる限りの力になるわ」

 彼女なりに踏みとどまったのだろう。奉仕部の部長としての言葉には、いつもの冷たさは感じられない。

 

 しかし今の三浦にその温かさは届くのだろうか。

 

 三浦は目を吊り上げ、雪ノ下をにらみつける。

「っっ!!なんであんたなんかに心配されて、上から物言われなきゃなんないわけ?あーしを助けようなんて、あんたなに様のつもり…」

 

「優美子!!」

 三浦の怒声を、由比ヶ浜が遮る。

 

「優美子が今どんな気持ちか、なんとなくわかる。どれだけつらいかも、なんとなくだけど、わかる。それでも…この場所を、ゆきのんのことを、そんな風に言わないで」

 由比ヶ浜は消え入りそうな声でつぶやいた。

 

 三浦は言葉を詰まらせ、黙って雪ノ下と俺を見る。

 

「…ごめん」

 

 三浦優美子はそれだけ言って、部室から出て行った。由比ヶ浜だけが彼女を追いかけ、俺は本に目を戻し、雪ノ下は開けられたドアを見つめていた。

 

 

 

 部室の鍵を返しに行った雪ノ下と由比ヶ浜より一足先に、俺は帰路につく。あの後、結局戻ってきたのは由比ヶ浜だけだった。由比ヶ浜は何も言わずに席に座り、雪ノ下も俺も何も聞かなかった。

 

 校門を出て自転車にまたがる。いざ、愛しの小町が待つ我が家へ!

 

 しかし、ペダルを踏んでも前に進まない。

 

 嫌な予感がするが、振り返る。

 

「…乗せてけし。あーし今日歩きたい気分じゃない」

 

 そこには荷台をつかんだ、いつもよりも数倍不遜な三浦優美子がいた。

 

 歩きたい気分じゃないってなんだよ。そんなこと言ったら俺は年中歩きたくないし、学校にも来たくないし、話したくない気分なんですけど。

 

「お前の気分が俺と何の関係があるんですかね…おい、勝手に乗ってんじゃねえよ」

 早くも荷台に乗る三浦に、俺はこれ以上ないくらいに顔をしかめる。

 

「あぁ?さっさと行きな。先生とか来る前に」

 

 俺はあたりを見渡す。問題は教師ではない。

 

 周りにはすでに物珍しく俺たちを見る学生がいた。そうだった、ここは校門だった。目立つのはぼっちの領分ではない。

 

 大きくため息をつく。まったく、この女と関わってからろくなことがない。

 

「…おい、鞄よこせ」

 俺は彼女の鞄を俺の鞄の上に乗せる。二人乗り中に落として「弁償しろ」とか言われたら萎える。

 

「あ、ありがと」

 彼女はしおらしい声を出して礼を言う。自転車をこいでいるから、後ろの彼女の表情までは分からない。

 

「ああ、それと」

 紳士らしく付け加えておかねば。

 

「スカート気を付けろよ。ただでさえ普段からちょいちょい見えてんだか…うっ!?」

 

「うっさい!さっさと行けし!…駅の方で」

 

「ちょ、それじゃおれんち遠くなるんだけど…」

 

「は?こないだから女子にセクハラ発言しまくっといて、何言ってんの?」

 

 彼女は声に怒気を込める。いや、だからそれは少しでも部の空気を過ごしやすいものにするためにですね…

 しかし、確かにセクハラだったのかもしれない。俺としては紳士のつもりだったんだけどなぁ。セクハラとか言われたら紳士的行為の大半ができない気がする。そういうことを許されるのはイケメン(笑)だけである。

 

 俺は大きなため息を一つ、駅へ向かう。

 

 こいつが何をする気かは知らんが、どうもろくなことにならない予感がする。

 

 



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やはり彼女も女子である。

 

 

 彼女の突然の誘いから約二時間。俺は彼女の買い物にひたすら付き合わされた。

 

 付き合わされた、とは本当に文字通りである。ただ後を歩き、荷物を持つ。いや、それだけならよかった。問題は矛先が俺に向いた時である。

 

 彼女が二つのシャツを広げて悩んでいるときだった。ふと彼女は俺を見る。

「そういやあんた、普段服とかどーゆーとこで買うん?」

 

「いや、特にはねえな。…親か小町が買ってきたものをそのまんま着てるって感じか」

 

 というかそもそも、服を選んで買うという概念がなかった。そこに用意されていて、それを適当に着るだけだ。だから正直女子がここまで服選びに時間をかける理由が、俺にはよくわからない。

 

…コスプレは別である。あの時の俺は、すでに死んでいる。

 

「はぁ!?じゃああんた、自分で服選んだりしないわけ?」

 彼女にはどうやら俺の言葉は信じられないものだったらしい。俺にはお前の方が信じられないんだけどな。

 

「ああ。つーか、そんなもんに払う金があったらほかにいくらでも欲しいもんがある」

 ラノベの新刊とか、新作ゲームとか、ブルーレイボックスとか。一瞬で金は飛んでいく。

 

「…へー、言うじゃん。あーしがこんな悩んでんのに、そんなもん、ね」 

 彼女の眉間にしわが寄る。

「服選んだこともないくせに、そーゆーこと言うんだ」

 

 しまった。付き合わされているお返しに嫌味の一つも言いたくなったのだが、彼女が負けず嫌いだということを忘れていた。

 

「わかった。ヒキオ、こっちきな」

 彼女はおいてあった二枚のシャツはそのまま、メンズの服売り場へ向かう。俺も仕方ないのでついてゆく。

 

 彼女は一通り店内の服を見ると、まさに疾風のごとき速さで俺に何点かの服を押し付けた。

 

「これ着て来いし。あそこに試着室あるから」

 

「いや、だから俺服に興味ないって言ってんだろ…」

 

「はぁ?あんたしたこともないくせに、服選ぶこと馬鹿にしたっしょ。…馬鹿にすんのは経験してからだし」

 彼女はにやりと笑う。ぐ…。俺の信条と過去の言葉に首を絞められるとは。確かに経験したことのないものは、判断できない。

 

「…ちょっと待ってろ」

 試着室のカーテンを開ける。びっくり!イケメンになってても知らねえからな。

 

 彼女の選んだ服は暗いカーキのブルゾンに、オフホワイトのパーカー、グレーのタンクトップを裾だしし、ボトムスは黒のスラックス。ご丁寧にブラウンのストールまでついていた。なにこれ、この人あの一瞬でここまで選んでたの?超能力者かなにか?

 

 颯爽とカーテンを開ける。どやっ。彼女に俺の男前ぶりを見せつける。

 

 さて、三浦の反応は。

 

「ぷ…あ、あんた…うん、よく似合ってるんじゃない?ぷ…くくく…」

 

 はい、爆笑でした。

 

 いや俺だってびっくりしたよ、鏡見て。

なんでこんなことになったんですかねぇ。顔はそこそこいいと思ってたから、信じられないイケメンになってたらどうしよう。そんな風に思ってた時期が僕にもありました。

…だから小町と親はいつもああいう服買ってくるわけだ。ユニクロみたいな。

 

 まあなんにせよ、これでおしゃれ<サブカルという図式は証明されたわけだ。当初の目標は達成されたから良しとしよう。…これからの俺はおしゃれが不可能だということも証明されました。おつかれでしたー。

 

「でもなんでだろ…あんた顔もスタイルも別に悪くないんだけど…」

 一通り笑った後、彼女は本気で顎に指を当てて悩みだした。確かに俺もそう思ったんだけどな。たぶんその前に決定的に悪い部分が、八幡あると思うの。

 

「あのー」

 

 一人の女性店員がニコニコと俺と三浦に話しかけてくる。感じの良いお姉さん、という風であまりアパレル店員という印象を受けないところに、俺は好感が持てた。

 

「これとかお試しになられてはいかがでしょうか」

 彼女が差し出したもの。黒い縁にレンズが二つ。

 

 そう。眼鏡である。

 

 俺の店員のお姉さんへの好感度が一気にマイナスに振り切る。いや、だから悪いところは自分でもわかってたよ?

 

聞くところによると、人の顔の美しさというのは足し算ではなく掛け算らしい。いくら輪郭が100点、鼻の通りが100点、口元が100点でも、他のどこか一つが0点だと、総合的には0点になるわけだ。

俺の場合、目が0点どころか、マイナスなのである。なまじ他がいいだけに、掛け算するとマイナスが大変なことになる。はちまん、マイナスとプラスの算数くらいできるよ?

 

「え?…あぁ、なるほど。ありがとうございます」

 三浦は店員からメガネを受け取り、礼を言う。あなたちゃんとした言葉遣いもできるのね。

 

 「これ、かけろし。その腐った目を隠しきれるのかは知らんけど」

 彼女はまた鼻で笑い、俺に眼鏡を押し付ける。思えば生まれてこの方眼鏡などかけてこなかった。物は試し。どうせついでだ。

 

「ほれ、どうだ」

 俺は下を向いて眼鏡をかけ、彼女を見る。鏡を背にしているので、自分ではどんな出来かわからない。

 

 しかし、彼女からの返答はない。目を丸くし、まじまじと俺を見るばかりだ。

 

 おい、着させてつけさせたんだから、せめてリアクションはしろ。

 

「わぁ、とってもお似合いです。お兄さん、イケメンだったんですね!」

 

 褒められるのはうれしいのだが、お姉さん、その言葉にとげがあるどころかぶっ刺さりまくってるのは気のせいでしょうか。

 

 店員の言葉で三浦も我に返る。咳ばらいを何回かし、俺から目をそらす。

 

「ま、まあ、なに?別に悪くないんじゃない。見れるようにはなったし」

 

 褒められてるのか貶されているのかよくわからんが、まあこれでもういいだろう。俺はさっさと眼鏡を外し、カーテンを閉める。まあとりあえず。

 

 誰が二度とおしゃれなんぞするか。

 

 

 

 

 

 彼女の買い物に付き合い、ついでに着せ替え人形にされた後、三浦は俺がまず入らないであろうリア充色150%のカフェに入る。なんでコーヒーに500円も払わなきゃいけないんだ。別に苦いコーヒーが嫌いというわけではないが、マックスコーヒーのほうがうまい。甘いし。

 

 彼女は舌を噛みそうな「なんたらフラッペ」とかいうものを頼んだ。なにそれくっそ甘そう。メニュー見てもよくわからんかったから、とりあえずブレンドにしたが。

 

 そんなことより、である。

 

「で、なんのつもりだ」

 俺はフラッペをほぼ飲み終えた彼女に声をかける。色々と言いたいことはあるが、もろもろ含めての質問だ。

 

「…別に。ただ暇で買い物したかっただけだし」

 彼女はフラッペの残りをストローで吸いながら、窓の外を見る。…あくまで自分から言い出す気はないわけか。

 

 心底面倒だ。俺はガシガシと頭をかく。

「そういうことじゃねえよ。最近のお前の行動、態度全般について聞いてんだよ」

 

「はぁ?そんなのヒキオに関係ないじゃん」

 彼女は俺をにらむ。だが、その目には力がない。

 

「そうだな。俺もそう言えたら楽だったんだが、被害をこうむってんのはこっちなんだよ。部室の空気悪くされて、かき回されて、落ち着いて本も読めない。

 まあそれでも俺はまだいい。目は滑るが、別に少し我慢すればいいだけだ。

 だが…今の言葉、由比ヶ浜にも言えるのか?」

 

 彼女は言葉に詰まる。そこで由比ヶ浜の気持ちを無視して、開き直る女ではないことは知っている。

 

「空気悪くしてることはお前だって自覚があるだろう。だがお前はそれでも部室にきて、そして雪ノ下からたしなめられても、由比ヶ浜からなだめられても態度を改めなかった。…いや、改めることができなかった」

 

 俺は息を吐く。

 

「おまえは、やっぱり助けてほしいんだろうな」

 

 彼女の行動を説明するには、結局この結論しかない。

 

 彼女は部の空気を悪くしていた。それは彼女の機嫌の悪さからくるものだ。そしてそれは奉仕部でだけではなく、教室でもそうだった。彼女は常にイラついているように俺には見えた。

 

 ではなぜ奉仕部に来つづけたか。彼女は何に不満を持っていたのか。

 

 雪ノ下の言っていたことはまちがっていない。三浦は悩みを抱えている。

 しかし、それを相談するのではなく、あくまで気づいてほしかったのだ。だれかに、どこかで。悩みとして相談し、打ち明けることは女王としての彼女が許さなかった。…それは、その悩みの内容が、女王としての彼女を揺るがすものだからに他ならない。雪ノ下に対してそんな自分を見せることができなかったのだ、彼女は。

 そしてそれを望める相手が、彼女の人間関係では奉仕部しかいなかった。本来ならば葉山の仕事ではあるが…この問題は、葉山に話すことはできないだろう。

 

 昼休み、トイレから戻ってきた後の彼女の豹変。女子たちの三浦への視線。導かれる解は。

 

「…誰が誰を助けるって?」

 彼女はらしくない暗い瞳を俺に向ける。そんな目をされても、何の圧力も今は感じない。

 

「別に俺は欠片も助けようなんて思っちゃいないんだがな。部長の意思はお前を助けることらしい。俺としても、これ以上読書がはかどらないのは気持ち悪い」

 

 俺は彼女をしっかりと見返し、大きく息を吸う。

 

 うまく声が出せるだろうか。

 

「『あの女、抜け駆けして葉山君に告ったらしいよ。まあ結局振られてるんだから、女王とか言ってても大したことないよね。その他大勢と一緒じゃん。つーか、流石に調子乗りすぎでしょ』

 …大方こんなところか?」

 

 俺の言葉を聞いた彼女の表情。

 

 怒り、羞恥、そして…恐れも俺には見えた。

 

「あ、あんたきいてたわけ?」

 

「別に聞いてねえよ。ただ状況から判断して、昼休みのトイレで陰口でもたたかれてたんじゃねえかと思っただけだ。教室で女子からあんな目を向けられた経験もないだろうな、お前は」

 

「そこまでわかってんなら…!!」

 

 彼女は言いよどむ。その先は、言えないだろう。

 

 三浦は葉山に告白したことで、女子から陰口をたたかれていた。

 

 それは仕方ない帰結ともいえる。葉山は学年問わず女子のあこがれの的。にもかかわらず浮いた話が持ち上がらないのは、「葉山隼人はみんなのもの」という共通認識がある程度女子の中にあったからに他ならない。…なにより、葉山自身が誰よりもそれを望んでいたのかもしれない。

 

 そして女子たちの嘲笑。以前の彼女なら、女王なら、それを受けながすなり直接突っかかるなりしただろう。

 

 しかし彼女は葉山に一人の女として告白し、普通に振られ、普通に泣いた。普通の女子のように。

 クラスの、学年の、学校の女子たちは今までのように三浦優美子のことを畏れるだろうか?一目置くだろうか?そのカリスマ性は、今まで通りであり続けられるだろうか?

 

 そう、彼女は怖いのだ。三浦優美子は今まで女王だった。男子も女子も彼女に一目置いていた。それは彼女に備わっていたカリスマ性によるものだろう。彼女の迷いのない行動は、そのカリスマ性が土台となっている。

 

 彼女が恐れているのは、女王を疎ましく思う視線ではない。そんなものには彼女は慣れ切っている。

 彼女が怖いのは、一人の女子を、ただの「三浦優美子」を、軽く見る視線。彼女は今それに恐怖している。だから彼女はこのことを奉仕部に相談できなかった。女王として、弱い自分を認めたくなかった。

 

 そして彼女は今日俺を誘った。

 

 理由は二点ほどだろう。一つは、男であり明らかにカースト下位の人間とのやり取りでの自信の回復。加えて彼女が修学旅行での件を俺への貸しだと感じているならば、二つ目はそこからくる、俺が悩みをどうにかしてくれるという淡い期待。そこまで思っては穿ちすぎだろうか。

 

 

 俺は彼女の言葉を引き取る。

 

 「そうだ。どこまでわかっていようが、この問題は本来、俺たちにはどうしようもない。大体本人にどうにかしようとする気がないことまで、俺たちがどうにかできるわけがない」

 

「それでも、あーしはただ、隼人ともっと近づきたい、知りたい、そう思っただけだし…なんつーか、今のままじゃ居心地も悪いし」 

 

 彼女の声はしぼむ。俺たちの間に静寂が下りる。

 

 目の前にいる女は下を向き、俺を見ようともしない。指は意味もなく髪に当てられ、意識はどこにも向かってはいない。

 

 ああ。どこまでも、どこまでも彼女らしくない。これを女王といえるのだろうか。

 

 なぜか無性に腹が立った。らしくない彼女に。拒絶も、許容もしなかった彼に。そして…結局このやり方しか出来ない、俺自身に。

 

 俺は彼女を、それでも鼻で笑う。

 

「なるほどな。自らとった告白という選択の甘いところだけを味わいたい、ってところか」

 

 俺の挑発的な言葉に、彼女は顔をあげる。しかし、俺は続ける。

「さっき雪ノ下に、何様だ、とか言ってたっけな。そういえば俺もずっと聞きたかったんだが」

 

 一息つく。

 

「何様のつもりだ、お前は」

 彼女の眉がピクリと動く。

 

「知りたかっただけ?近づきたかった?

 都合のいいこと言ってんじゃねえよ。

 選択肢のマイナスもひっくるめて、それを選んだのはお前だろうが。ならそのマイナスも受け入れるのが筋じゃねえの?

 受け入れるのが嫌なら逃げ出すなり、また別の選択をとるなり、やりようはいくらでもあるだろうが。不機嫌垂れ流して、周りに気ぃ使わせても、何にもならねえよ。

 由比ヶ浜はいつまでお前の不機嫌に付き合ってくれるんだろうな。雪ノ下だって今は優しいが、最終的にはまたお前が泣かされるのがオチだろ」

 

 俺は最後に、一言だけ付け加える。

 

「いつまで女王様の椅子にしがみついてるつもりだ。…その椅子は、もうお前のもんじゃねえ」

 

「あんた…っ!!」

 黙っていた彼女は何かが爆発したように、テーブル越しに俺の胸ぐらをつかむ。その目には真っ赤な獄炎が宿っている。俺はその目に一瞬ひるむが、何とか口の端を持ち上げる。

 

 そう、この問題はだれにも、どうしようもない。

 

 別に三浦が直接的に被害を受けているわけではない。女子たちに陰口をやめるように言って回ることもできない。

 …本当のことを言えば一人だけ、それを行える人間がいる。しかし彼にそれを求めることは、少なくとも俺にはできない。その義理が彼にはなく、それを彼に求める権利が俺にはない。

 

 だから結局は、彼女の気持ち次第なのだ。それを受け入れるか、気にしないか。

 

 そして自信の喪失した彼女の精神では、それはどちらも不可能に近い。問題をどうにかするには、まずは何かしらの方法で彼女持ち前の気性を取り戻す必要があった。

 

 だから俺はただ言いたいことを言った。彼女に適当な偽りは通用しない。真正面から彼女を挑発することで、女王としての彼女を呼び戻す。加えてさすがにこれで彼女とは疎遠となるだろうから、俺は心の平穏をとり戻し、部の空気の浄化にもなる。最も効率的である。

 この後俺が殴られるのは、修学旅行でのことを彼女への借りとするならば、貸し借りゼロでよいだろう。

 

 しかし。とある日の教師の言葉がよみがえる。リスクリターン抜きに、思うままに。思うままに行動はしたが、どうもどこかにしこりが残る。違和感がどうしてもぬぐえない。自分の思考が、心情が、やはり把握しきれない。

 

 この気持ちは、一体なんなのだろうか。目の前で俺を睨む彼女から、そのヒントを掴めるだろうか。

 その目にはいつもの力があり、怒りがあった。とりあえず、俺の小賢しい目論見は当たったらしい。

 

「お客様、店内でのそういったご行為は他のお客様のご迷惑となりますので…」

 店員の控えめな声が声が横からかかる。

 

 しかし彼女はそちらを見ようともしない。彼女の瞳は今、俺だけに向けられていた。

 

 どのくらいそうしていたのだろうか。彼女は俺の目から何を読み取ったのだろうか。悪意を探して、好意を遠ざけるこの目に、見るべき価値のあるものなどあったのだろうか。

 

「…悪かったし」

 三浦は小さく店員に詫び、さっさとカフェを出ていった。

 

 正直殴られるかと思ったが、どうやら五体満足で帰れそうだ。けんかになったら勝てる気がしない。まあ俺は男女平等主義者だから、二発以上殴られたら一発は返したが。

 

 平和的に終わったことに胸をなでおろし、俺も帰り支度をする。ああ、これで平穏な日々が戻ってくるのか。とりあえず帰ってアニメでも見よう。

 

 …が、

 

 カバンがない。

 

 出口を見る。なぜか俺の鞄は三浦が持っていた。俺の手元には見慣れないストラップがついたセカンドバッグが一つ。どうやら取り違えたことに気が付いていないらしい。やはり、ポンコツである。

 

 どんどんと歩いていく彼女を、俺は追う。つーか歩くの早い。ほとんど競歩じゃねえか。

 

 駅を出て公園に入ったところで、ようやく彼女は足を止めた。手に持った鞄を眺めている。ようやく間違えたことに気が付いたらしい。

 

 彼女は鞄を持ったままたたずむ。こちらに背を向けているためその表情は分からない。そんな彼女に俺は声をかけられない。…鞄置いたりしねえかな。そうすればそっとすり替えるんだが。

 

 次の瞬間。

 

「…ふっっっっざけんな!!!!」

 三浦優美子は俺の鞄をベンチにたたきつけ始めた。

 

「何が何様だ、だし!あーしはあーしだけど。なんなわけあいつ!お前こそぼっちのくせに何様のつもりだっつーの」

 ガン、ガン、とベンチに俺の鞄をぶつけまくる。ちょっと、それ以上はやめてあげて!殴るなら僕にして!

 

「おい、お前いい加減に…」

 さすがに彼女の手首をつかみ、鞄への暴行を止めさせる。突然の制止に振り向いた彼女は。

 

 泣いていた。

 

「ヒキ、オ…」

 俺の顔を見ると彼女の態度は急激にしおれ、瞳からは涙がぼろぼろと零れ落ちる。

 

「なんでついてきてんだし」

 彼女は瞼をこすり俺に背を向け、弱弱しい声でなんとか俺に尋ねる。

 

「そりゃ鞄が取り違えられてりゃ追いかけるし、ズタボロにされてれば声もかける。…んなことしたところで何も解決しねえぞ」

 

「そんなこと、あーしだってわかってる」

 彼女は背を向けたまま、下を向く。

 

「わかってる、あんたなんかに言われなくたって。でも」

 吐き出した言葉は、止まらない。

 

「でも、じゃあどうしろっての?あーしは隼人に振られたの。いらないって、隼人は別にあーしじゃなくていいって…」

 消え入りそうな声で、彼女は続ける。

 

「隼人のことはいまだって、これからだって好き。それは変わらない。

 でも今までの時間は、これまでのあーしの隼人への気持ちは、なんだったの?それって隼人にとっては全部無駄で、どうでもいいことだったわけ?あーしが隼人のこと考えてる時も、隼人はあーしのことなんか考えてもなかったの?ほかの、…大勢の女子と、隼人にとってのあーしは同じだったの?そんなの…やだし。あーしはもう、隼人の気持ちがわかんない。

 なのに周りは勝手にあーしのこと決めつけるし、それに文句の一つも言えない。…なんで?あーしはいつからそんな弱くなったわけ?」

 

 泣きじゃくる彼女を目の前に、今度こそ俺は何も言えない。

 

 

 俺はいったい、何を見ていたのだろうか。

 

 

 彼女の女王としての立場。クラスメイトの彼女への心象。選択のリスクとリターン。周りの視線。すべてが見えていると思っていた。

 

 俺はまた、彼女の気持ちを見ていなかった。

 

 彼女が怖いのは女王としての立場が危うくなり、一人の、ただの女子としてみられることではなかった。

 

 彼女は、自らの気持ちが拒絶されたことが怖かったのだ。

 

 自らの過去を思い出す。俺のあれらの黒歴史で、どの告白もたぶん本物ではなかった。それでも、思いを伝え、拒絶される。好ましく思っていた者に、「お前ではだめだ」と突き付けられる。

 

 ましてや三浦は葉山をあれだけ想っていたのだ。…こたえないわけがない。

 

 そんなときに急に向けられた悪意。弱った彼女は、ただそれが怖かった。

 

 なぜこうも学ばないのか。なぜ誰でもわかりそうなことが、真っ先に出てこないのか。彼女の異変の発端は、その恐怖からきていたのに。

 本当に、何様のつもりだ。さすがに笑えてくる。修学旅行の後、気持ちがまず最初にあると、頭でわかった気になっていた。理解なんて到底できないあいまいなものを、頭で理解しようとしていた。

 

 前提から、根本から、間違っていた。

 

 

「そうだな。過去は取り戻せない」

 しかし、俺は口を開く。俯いた彼女の表情はわからない。

 

 まったく、どの口が言えたものなのか。俺こそ、この期に及んで過去を取り返そうとしている。間違えを取り繕おうとしている。愚かでしかない。

 

 それでも、自らが間違えたことがわかっていても、…いや、間違えていたからこそ、彼女に言わなければならないことがある気がした。

 

 いつも気持ちで動く三浦優美子に、俺は…

 

 なるほど。本当の気持ちは言葉にならない。彼女は、だからそれを誰にも相談できなかった。

 

「なら、今をどうにかするしかねえんじゃねえの。葉山の気持ちがわかんねえなら、一方的に想い続けることが怖いなら、葉山の気持ちを変えちまえばいい」

 

「は?あんた何言ってんの?」

 三浦は瞼をゴシゴシとまたこすりながら、俺に馬鹿にした目線を送る。ああ、アイメイク…いい加減その顔も見慣れた。

 

「だから、要するに」

 俺は頭をガシガシと掻く。

 

「葉山をお前に惚れさせちまえばいい。葉山が惚れるお前に、「三浦優美子」になればいいんじゃねえの。…知らんけど」

 

 今までの海老名姫菜が誰にも心を許そうとしなかったように、今の葉山隼人が何かを選び取るわけがない。なにも見えていなかったおれにも、それには確信を持てる。

 

 そう、前提からまちがっているのだ。理由を三浦に求めても仕方ない。いくら彼女が変わろうと、彼がそのままでは進むはずもない。

 

 ならば、彼を変えるしかない。

 

 …まったく、矛盾している。変わらないことに、選ばないことに賛同したのは俺ではなかったのか。

 

 整合性もくそもない。正しいわけもない。確実性なんて皆無の、100%人任せの案だ。

 

 しかし、ずっとどこかに残っていたしこりは、気持ち悪さは、今は感じない。

 

 

 俺の言葉に、彼女は目を丸くする。

 

「ぷ、くくく…あっはっはー!!ま、まさかあんたからそんな少女漫画みたいなセリフが出てくるとは思わなかったし!」

 

『少女漫画なのはお前の脳内だけだろ』

 そんな嫌味も、羞恥からか発することができない。

 

 くそ、わかっていた。らしくないことは俺自身が一番わかってはいた。だが出てきた答えは、彼女にかけるべき言葉は、こんな陳腐なものしか見つからなかった。

 

「つーか、そんなことできれば苦労ないんだけど」

 彼女は金髪をくるくると巻きながらぶーたれる。いや、俺も自分で言っといてなんだけど、その意見には激しく同意する。しかし。

 

 俺はいつも通り気持ち悪く笑う。

 

「まあ、苦労は買ってでもしろっていうしな」

 

 「あんた、熱でもあんの?」

 本気で心配されてしまった。しかし、彼女の顔には笑みが浮かんでいた。その笑顔から俺は目をそらす。

 

笑っている方が可愛い、などと言っては、それこそ少女趣味が過ぎるだろうか。

 

 



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そして彼女のメッキははげる。

 

「で、ヒキオ」

 三浦に放課後連れ去られた翌朝。登校すると、なぜか俺の机には彼女が座っている。

 

 昨日は時間も遅かったのであの後すぐに各々下校し、事なきを得た。

 いや、俺の鞄という若干の犠牲はあったが、大きな被害ははなかった。血が流れることも一時は覚悟していたので、これはうまくやったと言っていいだろう。

 

「で、」じゃねえよ。

 なんで俺の机に座ってんだよ。

 ぼっちには軽く触れるべからず。

 

 俺はいろいろと突っ込みたいことを飲み込み、無言で彼女を見る。何か言ってもやぶへびになるだけだ。クラスメイトの視線が若干痛いが、三浦にはそれは特に気にならないらしい。

 

「昨日あんたが言ってたことだけど、…な、なに、具体的になんかいい考えでもあんの?」

 彼女はケータイをいじりながら、俺に横目で視線を送る。

 俺は昨日の自分を殴りたい衝動に駆られる。勢いに任せて適当なことを言うものではない。

 

「ん?なんのことでしょうか」

 授業の準備をしながら、俺はとぼける。

 

「はぁ?あんた自分の言葉には責任もてっつーの。…覚えてないとか言ったら、殴る」

 彼女は俺を見て口をとがらせる。本当に殴りそうで怖い。

 

 俺は心中溜息をつく。いや、覚えてるけど。自分で言っといてなんだが、無理があると思うんだよなぁ。

 大体あの葉山隼人を惚れさせられるヒューマンとか存在するの?それこそ戸塚レベルじゃないと不可能じゃないか?…駄目だ、戸塚はやらん!いや、まず女で探そうぜ。

 

「まあ、案がないこともない」

 俺はまた口から出まかせを言う。まあ、未来のことは未来の自分が何とかしてくれるさ。そうやって未来に先延ばしし続けて、彼女の記憶から忘却してくれればいいな!

 

「そーなん?…なんだ、あんたもたまには使えんじゃん」

 彼女は俺の背中をバシバシとたたく。

 ちょっと、痛いって。…おい、痛いよ?…あの、まじで痛いからやめて!

 

 男子ならだれでもあこがれるスキンシップに痛みしか感じなかった。朝からありえない。

 

「じゃ、とりあえず昼休みにあんたが飯食ってるところで話聞くから。どーせあーし海老名にじゃんけん負けるから、ジュース買いにあそこ行くし」

 

 課題にはまさかの期限付き。ありえない。じゃんけん弱すぎ。ありえない。

 

 

 

 

 

「じゃ、あんたが考えてる隼人をあーしにほ…惚れ、させる案、聞かせてもらうし」

 

 昼休み。彼女は本当にベストプレイスにやってきた。ああ、俺の聖域はこいつに汚されてしまった…

 

 しかし、気になることがある。

 

「お前、飲み物はどうした?」

 海老名さんとのじゃんけんで負けて、彼女はここにきている。ならば飲物は二つないとおかしいわけだが、彼女の手に持たれたのは一つのオレンジジュースのみ。

 

「え?ああ、そのこと。あー、それねー…」

 彼女はチラチラと後ろに回した片手を見る。…なんかやばいものでも隠してるわけじゃねえだろうな。

 

 彼女は息を吐くと、俺の頬に何かかたいものを押し付ける。なんかエロイ表現になったが、断じてそんなことではない。

 

「こ、これ、ありがたく飲めし。あんたそのくっそ甘いコーヒー好きでしょ?」

 彼女はそっぽを向きながら俺にマッ缶を差し出した。

 

 …なんのつもりだ?

 

「いや、何言ってんの?お前から施しを受けるいわれがねえよ」

 マッ缶を彼女の手に押し返す。俺は養われる気はあっても、施しを受ける気は一切ない。

 

「はぁ?あーしのおごったジュースが飲めないっての?」

 彼女はすごむが、内容は酔っ払いのそれである。つーかジュースって。いや、間違ってはないんだけどさ。練乳飲料だし。

 

「ま、まあ、なに?一応相談に乗ってもらうわけだし、これくらいは別にいいっしょ」

 彼女は頬をかき、またマッ缶を俺に押し付ける。しかし俺もここは引けない。

 

「どう考えても受け取る理由がねえよ。あれは俺が勝手に提案した、愚策ともいえんほどの皮算用だ。勝手に期待されても困る」

 

 彼女は押し黙る。どうやら俺を見ているようだが、俺は目をそらして昼飯を食う。だって怖いし、この人。

 

 昼休みのひと時を、静寂が支配する。

 

 それを破ったのは

 

「プシュッ」

 缶を開ける音だった。俺は怖いので、まだ横はむけない。

 

「ゴクゴク」

 のどを鳴らし、何かを飲む音がする。

 

「ん」

 

 ん?

 

 目の前には開けられたマッ缶が一つ。

 

「…おい、何のつもりだ」

 

「だから、飲みな」

 

 ここで俺は初めて横を向く。そこには

 

 笑顔を浮かべながら額に青筋を立てる三浦優美子がいた。

 

「…なんで一回飲んだのでしょうか?」

 恐怖のあまり敬語にもなる。おい、リップの跡とか残ってんじゃねえか。無理無理無理無理。いや、無理。

 

「は?嫌がらせに決まってんじゃん。人の好意を、つーか、あーしの気まぐれを受け取らない権利が、あんたにあると思ってんの?」

 

 彼女の顔には青筋が二つ、三つ…

 忘れていた。最近しおらしかったから、こいつが根っからの女王気質だということを忘れていた。ついでに俺がカースト最下層のさらに底辺にいることも忘れていた。女王としてのプライドを傷つけてしまったらしい。

 

 どうすればいい。

 

 俺は怒りが最高潮の彼女からいったん目をそらし、周りを見る。なにかないか。この状況をどうにかできるものは。

 このマッ缶に口をつけるのは、もはや論外。だが彼女の気まぐれは受け取らざるを得ない

 

 と、なれば。

 

「じゃあ、俺からも」

 俺は彼女に飲んでいたパックの牛乳を差し出す。彼女は息を詰まらせる。

 

「なに、遠慮することはない。もらったものの礼くらいは俺だってする」

 

 しかし彼女は少し身を引き、続く言葉は出てこない。ふ。どうやら俺の気持ち悪さは俺が思っていた以上だったか。女王をひるませるとは。さすが俺。

 

「…飲みたくないなら無理にとは言わん。それなら俺もそれを受け取れない」

 

 自分の嫌なことは、他人にしてはいけません。幼稚園で習ったことな。

 

 ぐうの音も出ない彼女を尻目に、俺は気分よく最後のサンドイッチを食す。うむ。サンドイッチと牛乳は、やはりよいな。

 

 残り少しとなった牛乳をとる。これでちょうどよく飲み終わるはず…

 

 しかし、置いたはずの場所に牛乳はない。

 

 チュー…

 

 嫌な音がした。

 

「ご、ごちそうになったし。…で、これであんたも飲むんだっけ?」

 

 頬を染めた三浦優美子は、それでもニヤつきながら飲みさしのマッ缶を俺に押し付けた。

 

 …まじかこいつ。

 

 誤算はただ一つ。彼女の負けず嫌いを甘くみていた。俺としては負けず嫌いよりも「三浦優美子乙女パワー」が勝ると思っていた。そこは恥じらえよ。飲めるか!っていうツッコミいれろよ。

 

 いっそわざとこぼすか?

 

 しかし金色に輝くマッ缶を前に、俺にはどうしてもその選択が取れない。くそ、このマッ缶への海よりも深い愛情が憎い。

 

 仕方ない。

 

 毒を食らわば皿まで。俺は缶ごと食いつくす勢いで、一気にそれを飲みほす。

 

「…ごちそうさん」

 そっぽを向いて、彼女にマッ缶を押し付ける。温か~いマッ缶はやはり、体まで温まる。

 

 おかげで頬まで熱い。

 

 「お、お粗末様、だし」

 

 おい、それ色々とおかしいだろ。

 

 

 

 

 

「じゃあヒキオ、とりあえずどんな案があるか聞かせてもらうし」

 あの後、若干妙な空気になりながらも、彼女はそう切り出した。

 

「どんな、といわれてもだな…」

 俺は言葉を濁す。あるにはあるんだが、これ言いたくないんだよなぁ…

 

「あ?さっき言ったけど、この期に及んで口から出まかせだった、とか言うんだったら」

 彼女はボキ、ボキ、と両拳を鳴らす。おおよそ女子高生が出していい音ではない。

 

「まて、落ち着け。策なら、ないこともないといっただろ」

 俺は両手で彼女を制する。ドウドウ。気分はジョッキー。それかマタドール。

 

「そうだな。まずは形から入ったほうがいいだろうな」

 

「形から?外見からってこと?」

 彼女は珍しくふむふむ、と素直に俺の話を聞く。よろしい。人に教えを乞う時はこういった素直さが肝要だ。

 

「そうだ。ちなみにお前、異性に外見について何か言われることはあるか?」

 

 三浦は頭をガシガシとかきながら、自らを指差す。

「あー、あーしってほら、綺麗じゃん?スタイルもいいし。だから基本男どもはその辺ほめるよ ね。別にどうでもいいやつに褒められたってどうでもいいけど」

 

「…その傲慢さは何とかならんか?」

 

「あ?」

 

 ごめんなさい。つい思ったことが出てしまった。

 

「あー、まあなんだ。つまりあれだ。基本褒められる、と」

 俺はすぐに取り繕う。

 

「ま、そうだし。隼人も大体あーしのことほめてくれるけど?」

 いや、そこでふふん、と胸を張られても。俺としてはその胸とかほめたいところだけど、セクハラになるらしいので止めておく。ガハマさんには勝てないしね!

 

「葉山は大概の奴を褒めると思うけどな。

 …いや、そういうことが言いたいんじゃなくて」

 彼女の眼光が鋭くなり、俺は目を背ける。逆に葉山が貶す相手がいたら、そっちの方が脈アリじゃねえのか?

 

 誰にでも褒められる、ねぇ。問題はやはりそこか。

 仕方ない。言うか。適当なこと言っても一蹴されるし。

 

 俺は意を決して、口を開く。

「…その化粧、どうにかならんか?」

 

「あんた、死にたいの?」

 

 ちょっと、その辺にある大き目の石を片手に持つのはやめてください。ほんとに、死ぬ。

 

 今度は俺が頭を掻く。これ以上険悪にしては話し合いにすらならない。

 

「すまん、俺の言い方が悪かった。別にお前の化粧が悪い、とか言いたいわけじゃない。そもそも化粧のことなんて、俺にはまったくわからん。でもな」

 

 一息に言い切る。言いよどんだら、死ぬ。

「男子高校生は、女子高校生に過度なメイクなんざ求めてないんだよ」

 

 両手で体を抱え、飛んでくるであろう暴力から自らの体を守る。さすがの俺も、失礼なことを言っている自覚はある。彼女は毎日時間をかけてメイクをしているのだろう。それを否定するなど。

 

 しかし、これは真実でもある。そしてあざとい女子なら、というか、普通の女子ならとっくに知っていてしかるべきだ。

 気合いを入れすぎれば、何事も誰かからツッコミが入るからだ。ワックスで頭がテカテカになった中学二年の春を思い出す。誰か言ってくれなきゃ、気づけないんだよ…

 

 しかし、彼女にはその相手がいないのではないだろうか。つまり、彼女に対して面と向かって、気楽に「力入れすぎwww」と言ってくれる相手が。

 

女王としてならばそれでいい。しかし、1人の女子としての魅力を考えるならば。

 

 彼女からは反応がない。恐る恐る目を開けると、そこには目を丸くした三浦優美子がいた。

 

「…そーなん?」

 彼女は心底不思議そうに、俺に尋ねた。俺は胸をなでおろす。

 

「ああ、そうだと思うぞ。社会人ならともかく、高校生でケバイのは普通引かれるだけだろ」

 彼女の眉がピクリと動く。ああ、また余計なことを。彼女と話しているとつい余計なことを言いたくなってしまう。この女王、いちいちリアクションがわかりやすいのだ。

 

 とはいっても怖いものは怖い。俺は一応付け足す。

 

「それにお前自分で言ってただろうが。綺麗でスタイルもいいと。まあ、その自己評価はまちがってねえよ。

 だからその、なんだ。ある程度化粧薄くすれば、葉山にお前の素の良さが伝わって、印象も多少変わるんじゃねえの?知らんけど」

 俺は小石をいじりながら、彼女の方を見ずに吐き捨てる。責任は負いませんよ、の意味の「知らんけど」便利すぎぃ。

 

「だ、だからヒキオのくせに何上から物言ってんだし!…でも、もしかしたらそーかもね。あーし隼人と同じクラスになってからは、特に毎日気合い入れてメイクしてっから…」

 

 あ、そうだったんですね。ほんと乙女、あーしさん。

 

「ま、ヒキオにしては少しはあーしの役に立てたんじゃない?本望でしょ」

 彼女は俺に笑いかける。この笑顔も、見慣れてきた。しかし目は合わせられない。

 

 俺は雲を見ながら、つぶやく。

「ありがたき幸せ」

 

 

 

 

 

 

「…で、結衣。あんたメイクとかどうしてんの?」

 放課後の部室。三浦は持ち前の行動力で、早速由比ヶ浜に化粧について尋ねていた。相談相手の俺の前で臆面もなくこういうことを聞けるのは、この女の良いところだろう。俺ならば自意識が邪魔をしてしまう。

 

「え?あ、あたしの化粧?うーん、たぶん普通だと思うけど…」

 ケータイをいじっていた由比ヶ浜は、突然の質問に言いよどむ。

 

「その普通、ってのがよくわっかんないんだよねー。誰も教えてくんないし、誰かさんはあーしの化粧が女子高生の感じじゃない、とかほざくし」

 俺をぎろりとにらむ。なんだよ、納得したんじゃなかったのか。まだ根に持っていたらしい。

 

 俺は目を合わせないよう、文庫本に視線を移す。

 

「まあ、あなたのその厚化粧は女子高生のそれか、と言われれば確かに首をかしげざるを得ないわね」

 本を読んでいた雪ノ下も話に加わる。やばい、戦争が始まる。

 

 そう直感して本の世界に没入しようとするが、特に怒声は聞こえない。

 

「あー、雪ノ下さんは肌めっちゃ白いけど、どーゆーメイクしてんの?」

 三浦は雪ノ下の発言を特に気にするわけでもなく、直球で尋ねる。

 

 …そうか。恐らく今の彼女にとっては由比ヶ浜や雪ノ下といった、自分よりもモテる同性の意見は貴重なのだろう。

 

「い、いえ。私は基本的にノーメイクだけれど」

 彼女のいつもとは違う態度に、逆に雪ノ下のほうが戸惑う。由比ヶ浜も同じ気持ちだったのか、目を丸くして三浦を見る。まあ、昨日まで不機嫌の絶頂だったしな。

 

「えっ、まじ!?雪ノ下さんそれで化粧してないの?ちょ、うそっしょ」

 彼女は席を立ち、雪ノ下に歩み寄る。雪ノ下は体をこわばらせるが、三浦はそれも一切介さず、雪ノ下の肌を触る。

 

「うっわ、ほんとだし。化粧してない。…てか、流石にスベスベすぎない?雪ノ下さんどーゆー化粧水使ってんのこれ」

 三浦は雪ノ下の頬を何度もこすりながら、まじまじと彼女の顔を見る。

 うわぁ。なんか急に女子の部室っぽくなってきた。

 

「あ、それあたしも気になる!ゆきのんの肌メイクもしてないのにありえないくらい綺麗だから、聞きたかったんだよね」

 今度は由比ヶ浜が雪ノ下のもう片方の頬を撫でる。なんか動物をめでる部活みたいになってますけど…

 

「姉さんがおいていく化粧水を適当に使っているだけだけれど…」

 当の雪ノ下は、突然の出来事にどうすればいいかわからないのか、本を開いたり閉じたりしている。…ほんとアドリブきかないなこいつ。

 

 しかし、散々褒められたことで余裕が生まれたのか、雪ノ下はご高説を垂れ始める。

 

「大体、基本的に肌というのは化粧水云々の問題ではなく、規則正しい生活、栄養バランスの良い食生活、毎日の睡眠によって作られるものではないかしら。そんな一朝一夕でどうにかなるものではないと思うのだけれど」

 ない胸を張って、彼女は二人に力説する。二人とも感心しているが、大事なものが一つ抜けてないか?

 

「おい、「適度な運動」が抜けてるぞ。体力づくりのためにもお前には必須だろ」

 俺の横槍に、彼女は渋面を作り舌打ちをする。

 

「そんなもの、陽に当たるだけ肌にはマイナスだわ。それとあいにく、考えなしに生きているあなたと違って、私のエネルギー消費は頭脳労働だけで間に合っているの。それと、あなたこそもう少し陽に当たったほうがいいかもしれないわね。引きこもり君?」

 

「いや、頭脳労働関係ねえだろ。それにそれだとただの引きこもりだろうが。比企谷だ比企谷」

 

「あら、ごめんなさい。比企谷くん」

 

「おい、読み方「ヒキタニくん」は漢字じゃ伝わらねえからな。あとそれはリアルにやられる間違いだからやめろ。ネタにならん」

 ふう。このくらい喋っておけばよいだろう。

 

 今日もノルマを達成した俺は、今度こそ文庫本に目を落とす。三浦が来てからというもの特に、少しは部室で話しておかなければ自分がなんでここにいるのかわからなくなるのだ。なにそれ哀しい。

 

「で、結衣はどんな感じで化粧してんの?」

 三浦は思い出したように由比ヶ浜に尋ねる。

 

「あたしはほんとに特にないよ。学校に来るときはできるだけうすーくするように気を付けてる、くらいかな?基本アイメイクはしないし。…よっぽど気合い入れた外出くらいじゃないと」

 由比ヶ浜はそわそわと髪の毛をいじりながら答える。気合い入れた外出、ねぇ。彼女のキョドり具合から察するに、ライブかコミケですね。わかります。

 

「やっぱそんなもんなんだ。…あーしもも少しうすくしてみよっかな…」

 

「そっちの方がいいかもしれないわね――」「絶対そっちの方がいいよ!優美子、かわいいし!!」

 珍しく即答する雪ノ下の言葉を、由比ヶ浜が引き取る。

 

 そう。三浦に必要だったのは、こうやって指摘してくれる同性だったのだ。俺にはいなかったけど。…い、いいもん。俺には小町がいるし。中二のある朝、気合い入れて髪型セットする俺に、小町は「それ、キモイ」と一言言ってくれたし。あれ、思い出したら泣きそうなんだけど、あれは小町の優しさだよね?

 

「そ、そう?じゃあ今度試してみるし」

 二人の予想外の反応に若干引きながらも、彼女はうなずく。

 

 話がまとまったところで、鐘が鳴った。本日の部活、もとい女子会は終了である。あれ、俺の存在価値って…

 

 

 

 

 

 

 翌朝。学生の身分である俺は、せかせかと登校し、教室のドアを開ける。クラスメイトたちは何やらいつもと違って、というかいつもより一層騒がしいが、おれはいつも通りである。いつも通り、調子は良くない。目の濁り具合もゲームでほぼ徹夜だったため、むしろいつもよりいい具合だろう。

 

「ヒキオ、あんたくんのおっそい」

 そして、朝からこいつの相手である。

 

 いや、ほんとに勘弁してほしい。まじでせめて机じゃなくて椅子に座ってくれ、椅子に。お前が机で脚組んでいると、目のやり場に困る。その…見えちゃうだろうが。

 

 教室に入ったときから、彼女から、というより彼女の脚から意図的に目をそらし、授業の支度をする。ちょっと、朝からしんどいんだけど。

 

「ヒキオ」

 

 さて、一限目は…よし、数学。睡眠の時間だ。

 

「…ねえ、あんた何無視してんの?」

 

 二限目は…げ、現国。それは聞いてない。二限目現国は聞いてない。これは一時間目に集中して寝ておかなければ。

 

 ドガッ!!

 

 

 Q.これは何の音ですか? 

 

 A.三浦さんが俺のむこうずねを蹴飛ばした音です。

 

 

「ちょ、おま、加減ってもんを知らねえのか…」

 

 俺はむこうずねを押さえながら、毒づく。正直、涙が出るくらい痛い。

 こういう類の暴力って、女がやっても男がやっても大して痛みは変わらない気がするのに、なんで男がやったら絶対悪で女がやったら許されるんだろうな。重ねて言うが男女平等主義の俺としては、そのあたりをもう少ししっかりとしてもらいたい。

 

「は?朝っぱらからあーしのこと無視するあんたが悪いっしょ?」

 

「なら朝っぱらからむこうずね蹴とばすのは許されんのか、よ…」

 顔をあげて今日初めて彼女をみる。が、彼女の顔を見た俺は、続く言葉が出てこない。

 

 あの、どちら様で?

 

「あー、お前、三浦優美子…だよな?」

 

「…よし、あんた朝からあーしにグーで殴られたいってことね」

 

「ごめんなさいむこうずねだけで十分です」

 俺は即謝罪する。うむ。この傲慢さ、野蛮さは確かに三浦優美子のそれである。にしても

 

 俺はもう一度、クラスのざわめきをうっとうしがる三浦に目を向ける。

 …化粧で女は変わる、とはいうが、逆のパターンもあるらしい。

 

「あ?なにじろじろみてんだし。…な、なんかおかしいとこでもある?」

 彼女は手鏡を取り出し、髪型、メイクをチェックしなおす。

 

「別に、問題ねえ。メイク変えておかしくなったら、半分は俺の責任だしな。そうならなくて心底安心した」

 

 彼女は数秒黙るが、次の瞬間にはいつもの不遜さを取り戻す。

「ふ、ふん!ま、あーしだしね。メイクぐらいじゃオーラはゆるがない、っていうか?」

 

 さすがあーし、と三浦は手鏡を見て鼻歌を歌いだす。いや、オーラは正直かなり薄まっているのだが…俺はもう一度目の前の女子を見る。そう、有り体に言ってしまえば

 

 こいつ、こんなにかわいかったか?

 

 いかん。

 

 俺は自らを戒める。血迷うな。これはそう、あれだ。例えるならば、なんとも思っていなかった女子の意外にかわいい私服姿を、街中で見てしまった時の感覚に似ている。いつもとは違うギャップがそう思わせている、一種のまやかしにすぎない。すぐに慣れる。そして慣れれば何とも思わなくなる。

 

「で、お前今日はなんでここに居んの?」

 

「化粧薄くしろって言ったのはあんたっしょ?だから隼人が来る前に責任もって見てもらおうと思ったの。

 …クラスの連中はあーしに近づこうとしないし。結衣はかわいいかわいいって連呼するだけ。海老名は…朝から必死によくわからん本読んでるし。一番普通にあーしに意見しそうなの、あんただけなわけ」

 

 いや、そんな平常心ではなかったけどな。どうやら内心の動揺は隠せていたらしい。

 

 由比ヶ浜を見ると何やら頬を膨らませてこちらを見ている。海老名さんはよだれを垂らしながら机にかじりついて本を読んでいる。…たしかに、あれには関わり合いになりたくない。

 

 では、他のクラスメイト達は。

 

 葉山グループのサッカー部連中ははまだ朝練があるのか、来ていない。それ以外の男子たちの視線は分かりやすい。一割が好奇の視線を送り、九割が下心を持った視線を送っている。まあ男なんてそんなもんだ。俺もその九割だしな。

 

 しかし、他の女子たちの視線となると、なかなか複雑だった。ある者は単純な賞賛の眼差しを、ある者は羨望の眼差しを、ある者は侮蔑の眼差しを、そしてある者は嫉妬の眼差しを向けている。…やはり、女子はよくわからん。

 

 朝から騒々しかったが、ホームルームの時間も近くなり、サッカー部の連中が朝練から戻ってくると、それはより一層のものとなる。

 

「おはー。いやー、まじ今日の練習やばかったわー。いろはす厳しすぎだべー」

 言葉のわりに元気そうに話すのは、言うまでもなく戸部である。

 

「はは、まあ、いろはもよくやってくれてるよな」

 そしてその後ろにいる、朝からさわやかオーラをまき散らすイケメンは、これまた言うまでもなく葉山隼人だ。

 

 さて、どう来る。

 

 三浦も少し緊張しているのか、自慢の縦ロールをくるくる巻きながら、葉山の前に立つ。

 

 だが、口を開いたのは。

 

「あー!あ、あれ?んん?優美子、いつもと違うような…なんかいつもよりかわいくない?あ、い、いっつもかわいいんだけど、今日はいっそうやべー、ってか」

 

 軽薄な茶髪カチューシャ。おまえじゃねえよ。

 

 たぶん、クラス中が戸部にツッコんだ声が俺には聞こえた。なんでこの男は肝心な時に空気読めないのだろうか。

 

 しかしもはや三浦の目には戸部など映ってないらしい。彼女は頬を染め、葉山に上目遣いを送る。

 

「お、おはよ。隼人」

 恐らく彼らの間で何十回、何百回とくりかえされてきたであろう挨拶。三浦にとっては間違いなくいつもとは違うものになったはずだ。

 

 彼にとってはどうだろうか。

 

「ああ、おはよう。優美子。…そろそろホームルーム始まっちゃうし、席に座ろうか」

 彼はいつもと同じ、柔らかい声を三浦にかける。

 

「う、うん。そうだし。…今日朝練大変だったん?」

 三浦もそれに、普通ではまず出さない、女子の声を出していつも通りに応じる。

 

 そうこうしているうちに、鐘が鳴り、平塚教諭が教室に入る。

 

 …これはどうだったのだろうか。元々有効な作戦だったとは思ってはいなかったが。彼女の無理に上げた声のトーンが、耳から離れない。

 

 昼休みが来るのをこれほど嫌に思うことも、ないのではないだろうか。

 

 

 

 



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いまだ彼女は横に座る。

「はぁぁぁぁぁ」

 

「…」

 

「あーあ…」

 

「…」

 

「はぁ」

 

「…」

 

「なんでだし…」

 

「…」

 

 …あの、すごくうっとうしい。

 

 昼休み、ベストプレイスにて。ひたすらため息を繰り返す三浦優美子に、俺は辟易とする。…いや、ここはもはやベストプレイスでも何でもない。安住の地は奪われてしまった。この女に。

 

「おい、せめて昼休みくらいは、ぼっちに落ち着いて飯を食わせてやるくらいの慈悲はないのか?」

 先ほどからため息を連発する三浦優美子に、俺はいい加減一言物申す。

 

 彼女は俺がいることに今気が付いたような顔で、俺を見る。その手には、今日も飲物が二つ。

「…」 

 そのまま彼女は何秒か俺を見る。

 

 俺は先に目をそらす。

 

 いや、それは無理。

 

 今のこの女と目を合わせるのは、今までと違った意味で危険極まりない。あれだけこいつに対して偉そうなことを言ったのに、告白して振られて自爆するのはさすがに情けない。はい、当然振られますけどなにか?

 

「ため息つくと幸せが逃げるぞ」

 バツの悪さをごまかすため、俺は早口につぶやく。

 

「なんで不幸の塊みたいなあんたにそんなこと言われなきゃなんないわけ」

 彼女は俺に見下した視線を送る。…こいつ、俺になら何でも言っていいと思ってないか?言っていることはまちがってはいないんだが。

 

 一転声を震わせ、彼女は俺に問う。

「ねえ、隼人の様子あんたから見てなんかいつもと違ったところあった?」

 不毛な質問だ。葉山に関して、三浦にわからないことが俺にわかる道理はないし、俺にわかるようなことは彼女だってわかっているだろう。

 

「…まあ、少しは驚いてたとは思うぞ」

 俺は柄にもなく、少しオブラートに包む。たぶん三浦を知っている人間で、今日の彼女を見て驚かない者はいないと思う。こいつに興味がない俺でさえ驚いた。

 

「何言ってんのあんた。別にあーしは隼人を驚かせたかったわけじゃないんだけど」

 

「…まあ、そうだろうな」

 飯を食いながら適当に返すと、彼女の拳が振りあがる。俺は頭をガードしながら、早口で付け加える。

 「だけど前に進むためには、今までの印象からある程度離れることは必要だろう。驚くということは今までとは違うから驚いていたわけだ」

 

「でも、マイナスの方に驚いてたらなんも意味ないし」

 彼女はオレンジジュース片手に、投げやりに言う。その通りではあるが。

 

「お前は今日のお前に対するマイナスの評価を、どこかで聞いたり、感じたりしたのか?」

 

 彼女は口ごもる。

「いや、それはないんだけど。…ヒキオ、あーしなんかかわいくなったらしいよ」

 今度はスマホの鏡を呼び出し、自らの髪型をチェックする。いや、俺にアピールしてもどうしようもねえだろうが。

 

「なのに、葉山からはいい反応が返ってこない。だから、よくわからない。そんなところか」

 

「そうだし。何がいけないのかね…」

 三浦はそのままスマホとにらめっこを始める。

 

 …そういう問題じゃねえのかもな。

 彼女が悩んでいる間に、俺はゆっくりと昼飯を平らげる。ああ、上手かった。ごはん食べてる時が一番幸せ、育ち盛りの高校生、どうも比企谷八幡です。

 

「ヒキオ。なんか他にいい案とかないの?」

 俺が、マッ缶を買いに立ち上がりかけたその時、彼女は俺に声をかけた。この女、いいところで…

 

「お前は焦りすぎだ。そんな一日二日で人の心をどうこうできるわけがねえだろ。…大体そんなふうにすぐに変わる気持ちなんて、所詮すぐ離れるんじゃねえの」

 

 彼女は少し面食らったように俺を見るが、すぐにいつもの目でにらみつける。

「ヒキオのくせに、言うじゃん。

 でも、あんたにあーしの気持ちがわかるわけ?あーしは今までさんざん待ったの。もう待ちたくない。今すぐにでもほしい。その気持ち、あんたにほんの少しでも理解できる?」

 

 俺は言葉に詰まる。わかる、などといえるはずもない。俺はそこまで強烈に、切実に何かを欲したことがない。

 

「だから、あんたはあーしと一緒に黙って次の案を考えればいいし。そんな期待もしてないから、何でもいってみな」

 彼女は鼻で笑う。なんで俺が頼んで手伝わせてもらってるみたいになってるんですかねぇ…

 

 まああるにはあるが、これも言いたくないんだよなぁ。というか、これの方が最初の提案よりも言いたくない。彼女の内面にすらかかわることだ。

 

 俺が言い淀んでいると、三浦は俺の目をのぞき込む。

「あんた、なんか思いついてんでしょ?さっさと話せって言ってんの」

 

 彼女ともここ数週間でずいぶんと同じ時間を過ごした。わかってしまうか。そんなに顔に出る方ではないのだが。

 

「…外見で葉山のお前に対する印象は、多少は変わったと思う」

 

 俺の言葉を待っていた三浦は、頬を掻き顔を下へ向ける。

 

「なら次に変えるべきは…内面じゃねえか」

 

 下を向いていた彼女は、顔をあげて俺に厳しい視線を向ける。

「はぁ?なんであーしが自分を変えなきゃいけないわけ?別にあーしは今の自分が嫌いなわけでも、どうにかしたいわけでもないんだけど。大体、偽物のあーしを隼人が万が一好きになったとして、それに何の意味があんの?

 …つーか、さっきも言ったけどあんたにあーしの何がわかるっての」

 

 最後に突き放すように三浦は言う。

 

 厳しい目を向ける彼女とは反対に、俺は笑う。

「ああ、そうだな。俺にはお前のことなんてちっともわからん。…わかるはずもない。そもそも俺とお前は全く違う」

 

 彼女もそれは承知の上だろう。俺と三浦の間に一本の線が入ったのを感じた。それは本来交わるべきではない、あるべき距離感。それがなければ少なくとも俺は息もできない。そう思っていた。

 俺は見慣れない顔の三浦を見て、思う。

 

 カースト最底辺と最上位がかかわりを持つなど、誰が想像しただろうか。少なくとも俺はそんなことがあっていいとは思っていなかった。彼らは俺に関係のない世界で生きていて、俺も彼らに対して特に思うところはなかった。

 しかし。俺は修学旅行とそれにかかわる騒動を思い出す。海老名姫菜のらしからぬ真顔を見た。葉山隼人に哀しい微笑みを向けられた。戸部翔の告白を止められなかった。そして…三浦優美子の見たことのない強さと弱さに振り回された。

 

 少しなら、いいのかもしれない。

 

「だけどな」

 俺は何とか、続く言葉を絞り出す。

 

「…今は別に、お前をまったく知らないわけじゃない」

 とても彼女の顔を見ることができない。

 

 女王からの怒声に備える。調子に乗った庶民には制裁があってしかるべきだ。

 

 しかし、彼女の声は聞こえない。

 

 いったい何を考えているのか。横目で三浦を見る。うつむいた彼女の顔を金髪が隠し、表情から推しはかることはできない。

 

「あー、あれだな、また俺の言い方が悪かった」

 黙ってしまった彼女を前に、俺は取り繕う。無言はやめろ。正直怖い。

「別にお前の性格を変えろと言いたいわけじゃない。

 ただ、お前の葉山に見せる部分を変えたほうがいいと、そう思うだけだ」

 

「はぁ?つまり、どういうことだし。わかりやすく言いな、わかりやすく」

 うつむいていた彼女は顔をあげて俺をにらむ。俺は頭をガシガシと掻いて彼女に告げる。

 

「だからだな、お前の長所をお前がわかってねえってことだ」

 

「…ヒキオ、あーしわかりやすく言えって、そう言わなかったっけ?」

 いよいよ声が低くなった彼女を前に、俺は急いで続ける。確かに俺も回りくどかった。

 

「すまん、煙に巻きたかったわけじゃない。ただ…」

 チラリと彼女の方を見る。ここまで来たら言わなければならない。

「お前は自分の長所をはき違えている。葉山の前で『かわいいあーし』を見せてもしょうがない」

 

 彼女は目を丸くする。いまだに俺の言葉の意味がよくわからないらしい。

「は?あんたなんかにそんなこと言われたくないんだけどそれに、んなこと言うなら…」

 

 彼女はにやりと笑う。向けられたことのない甘ったるい声が俺に届く。

「ヒキオー、ねえ、あーしの長所ってどこだしー?ほら、教えてって」

 

「…だから言ってんだろ。その手のアピールは普通の男には効果があるかもしれん。だが相手は葉山隼人だ。そんなもん慣れ切っている。だから勝負するなら違う土俵のほうがいい」

 彼女の俺に向けたことのない声と目を意図的に意識から外す。平常時ならばなんとかなったかもしれない。重ねて言うが、今の三浦優美子は危険なのだ。そ、そんな甘い声にはこれっぽっちもドキリともしてないし。平常心だし。べ、別に全然かわいいとか思ってないし。

 

 俺から特に反応がなかったことに三浦は不満げな表情を浮かべるが、無視して続ける。

「前にも言ったが、お前の長所は面倒見のいいところだと俺は思う。悪く言えば女王気質だが、よく言えば姉御肌だ。

 そして葉山はそういうお前に慣れていない。お前が見せようとしていたのはお前が自分で作った「かわいいあーし」だからだ。

 だからまあ、なんだ。一回自分を作らず、素のそういうお前で行ってみたらいいんじゃねえの」

 一息に言い切る。女王に意見する底辺。まったく、笑えない。

 

 三浦は瞠目して俺を見る。視線が痛いが、数秒後には彼女からそれを外す。

「だ、だからあんたにあーしのなにがわかんだっての!」

 そうこぼして彼女は俺の背中をたたく。だから、痛いんだって。

 

 たたかれた背中をさすり彼女に恨めしい視線を送る。しかし、下を向いてしまった彼女にそれは伝わらない。

「それに、そんなこと言われても隼人の前だと頭真っ白になっちゃうし…隼人かっこいいし…」

 彼女は指をもじもじといじり、その声はどんどんとしぼむ。だから、そういう仕草はやめろ。

 

「意識しすぎんのもよくねえんじゃねえか?一回フラれてんだから、駄目で元々だろ。葉山を一人の、その辺の男だと思って一回接してみればいい。そうすりゃ多少は作ってないお前が伝わるかもな」

 

「あんたごときにあーしを語られるのむかつくんだけど」

 三浦は下を向いたまま、声を荒げる。しおらしくなったり狂暴になったり、忙しい女である。

「…でもまあ、ここまで来たら、か。確かにあーしじゃないあーし見せてフラれたとしたら、それはそれで納得いかないし

 でも、具体的にはどうすればいいし」

 

 自信なさげに俺に尋ねる彼女から俺は目を背ける。

「そんなことは自分で考えろよ。お前の内面まで具体的にどうしろとは俺には言えん」

 

 「…ヒキオ、ねえ、最後まで責任もてってあーし言わなかったっけ?」

 彼女はこぶしを固める。…理不尽である。

 

 「はぁ。葉山に話しかける時には頭が真っ白になるって言ってたか。…なら」

 俺は何とかわかりやすい案を提示しようと頭を回す。今問題になっているのは彼女が葉山の前に立つと自らの良さが出せない、ということだ。ならば…戦略的撤退しかない。

 

「意識しないようにしても葉山を意識しちまうってことなら」

 三浦の拳が振りかぶったのを見て、俺は急いで言葉を発する。結局こんなものしか浮かばない。

「葉山から一回距離をとってみる、とかな」

 

 俺の言葉を聞いた彼女は眉間にしわを寄せる。

「そんなの本末転倒じゃん。その間にだれかに隼人とられたらどうしてくれんの」

 

「…葉山を目標とするなら、ライバルは学校中の女子だ。そしてお前はその学校中の女子たちの中でもいい位置につけている。葉山隼人の近くに座れている。そして女子たちは一応今でもお前を畏れている。ならそう簡単に手を出しに来ることはないし、万が一手を出してくる女子がいても同じクラスなら気づけるだろ。

 前進したければ変化が必要だと言ったな。今までわかりやすくアピールしてきたお前が急にそれを止める。それは葉山に変化を感じさせるに十分だと思うが。そして葉山から離れればお前も少しは素の自分が出せるんじゃねえの。…知らんけど」

 押してダメなら引いてみる。押しっぱなしの彼女にはこういう手も必要かもしれない。俺はいっつも女子にひかれてるけどね!

 

 俺の提案を聞いた三浦は金髪をかき上げ、目を瞑る。

 

「…わかった」

 三浦によって作られた沈黙は、彼女自身で破られる。

「泥船でも、一回乗ったら降りるなんてみっともないし。あんたの言うこと聞いてあげる。…失敗したら、殺す」

 

 …俺の命は、大丈夫か?正直結構適当に言ったんですけど。

 

 

 

 

 

 

「雪ノ下さんって一人暮らししてるん?」

 放課後。奉仕部室にて三浦優美子はそう切り出した。

 

「え、ええ。そうだけれど。突然どうしたのかしら」

 

「いや、高校生で一人暮らしっていろいろ大変なんじゃない?って思ったんだけど。あーし洗濯とか掃除とか絶対無理だし。なんか雪ノ下さん意外と私生活がさつそうだし」

 彼女はおそらく今度は俺の言った「面倒見の良い三浦優美子」を早速出そうとしているのだろう。だが…俺はため息をつく。なぜいちいち雪ノ下にケンカを売っちゃうのこの子は。

 

 煽り耐性0の雪ノ下雪乃は、案の定三浦の言葉に眉をひそめる。

「あなた、どの口がそんなことをいっているのかしら。言っておくけど私の食生活は甘いものばかり食べているあなたより、はるかに健康的だと思うけれど」

 

「はぁ?別にあーしデブってもないし肌も荒れてないんだけど」

 彼女は自分の顔に手を当て、これでもかと脚を組む。だから、そういうことを女の子がしてはいけません。

 

 そんな三浦を、雪ノ下は鼻で笑う。

「今は良くても、将来痛い目を見ると言っているのよ。以前も言ったでしょう。正しい生活が健康な体を作るの。10年後醜くなりたくなかったら、今から少しでも気を付けなさい」

 

「…雪ノ下さんババアみたい」

 

「今何か言ったかしら」

 ごめんなさい。正直俺も今のはおばさん臭いなと思いました。

 

「優美子は少しでも料理とかしないの?」

 いつも通り由比ヶ浜が二人の間を取り持とうと話題の矛先を変える。

 

「あーし洗濯とか掃除とか、まじ無理だから。なんつーか、所帯じみてるって言うか…あーしには似合わないっしょ」

 彼女はそう言って胸を張る。なんでそこで誇らしげなんだよこいつ。

 

 そんな三浦に雪ノ下は見下した視線を送る。

「あら、あなたに似つかわしい実に中学二年生じみた発想ね。自分の身の回りのことすら自分でできない人間に、いったい何ができるというのかしら」

 かくいう三浦も、煽り耐性は0である。雪ノ下の言葉に声を荒げる。

「はぁ?そんなのやってくれるやつ見つけてやらせればいいじゃん」

 

「だからその考えが幼いと言っているのよ。自分のことは自分で。当たり前のことだわ」

 彼女はそう言って視線を文庫本へ落とす。

 彼女の言っていることはまちがっていない。自分のことは自分にしかできない。俺もそう思う。

 しかし、その理屈は女王に通じるのだろうか。

 

 三浦は怒りよりも疑問符の浮かんだ顔で雪ノ下に問う。

「自分で何でもできる気になってる方がガキじゃないの?自分でできないことがあったら誰かにやらせる。その分あーしもそいつのことやってあげる。それの何が悪いし。

 つーか、自分のことって絶対自分でやらなきゃいけないわけ?雪ノ下さん、あんた一生一人で生きてくの?」

 

 雪ノ下は三浦の弁に言葉を詰まらせる。清々しいまでに対照的な二人を眺め、俺は思わず笑みがこぼれる。

 雪ノ下は一人暮らしで、自分のことは何でも自分でやっている。それは彼女自身が望んだことだ。だが、彼女のその自立性は「親からの援助」という大前提の上に成り立っているという矛盾がある。更に、その生活は家庭環境から逃げた結果でもある。逃げることは決して悪いことではない。しかし彼女自身はそう思えているのだろうか。そして学校生活でも彼女は女王として何にも頼ろうとはしない。その姿は孤高と言っていいだろう。

 三浦の家庭状況は知らないが、反対に彼女は女王として誰かに何かをやらせることになれている。そして彼女自身面倒見がよく、誰かに何かを与えることも彼女にとっては当たり前のことなのだ。

 だからこそ彼女らは反発する。自らの信条に矛盾を抱える雪ノ下雪乃と、それを欠片も疑わない三浦優美子。

 

 さて、泣きをみるのは果たしてどちらか。

 

 絡み合う二人の視線。先に外したのは雪ノ下雪乃だった。まったく、愉快である。あの雪ノ下雪乃が三浦優美子に臆するところなど。

 

 険悪な二人を前に、由比ヶ浜は視線を俺に送り、そ、そうそうと手を打って切り出す。

「ヒッキーは専業主夫志望だよね。料理とか洗濯とかはやっぱりやるの?」

 

「まあな。俺の家事スキルはそこら辺の男とは比較にならんぞ。家事選手権小学生の部であれば、ぶっちぎりで優勝間違いなしだ」

 

「な、謎の自信だ!しかも小学生って…」

「そのレベルで専業主夫志望とは、何を高望みしているのかしらこの男は。今すぐ全国の主夫に土下座で謝りなさい」

 由比ヶ浜と雪ノ下が冷たい視線を送る。だって仕方ないだろ。俺の家事スキルは小町が家事を始めるまでで完成されちまってるんだよ。早熟タイプなんだよ。小学生で家事を極める男。需要ありますか?

 

「へ、へー、あんた家事とかできるんだ」

 いつも通り引いている奉仕部二人とは反対に、三浦は俺に妙な視線を送る。なんというか、いつもより純粋な目で俺を見ている気がする。な、なんだこいつ。

 

「じゃあさ…例えばどんな料理作れんの?」

 彼女は金髪をいじりながら上目遣いで俺に問う。らしくない彼女の瞳を見て、ようやく俺は得心がいく。この女、雪ノ下にあんなことを言っておきながら、料理や家事ができないことがコンプレックスとまではいかないが、それができる人間に憧れがあるのではないか。先ほどの三浦の俺に対する視線には若干の尊敬の念が入っていたのかもしれない。三浦の乙女性を考えれば当然と言えば当然だ。

 

「つっても簡単なもんだけだぞ。カレーとか親子丼とかチャーハンとか、そんくらいだ」

 カレーは適当に具材を切ってルー入れればいいし、親子丼とは卵の火加減さえ間違えなければそう失敗しない。チャーハンもあまりにべちゃべちゃにならなければ、まあ食える。

 

 俺の言葉に雪ノ下はピクリとも反応しないが、三浦と由比ヶ浜が反応する。

「ちょ、ヒキオ親子丼ってどうやって――」「ヒ、ヒッキーってそんなに料理できたんだ…」

 

 しかし二人の声はノックの音にさえぎられる。全員の視線がドアに集中する。

 俺は反射的に時計を見る。完全下校時刻30分前。思わず舌打ちをする。

 

 …残業だけは勘弁だぞ。

 



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やはり彼女は傍若無人である。

「…どうぞ」

 雪ノ下はドアの向こうの来訪者に声をかける。

 

「邪魔するぞ」

 ドアが開け放たれる。そこには手を腰に当てた平塚先生がいた。

 彼女は部室をうなずきながら見渡すが、三浦を見つけると口をぽかんとあける。

 

「…君はなぜここにいる」

 

 直球で問われた三浦は、少しバツの悪そうな顔をする。確かに、彼女がここにいる理由はもはや俺にも明確ではない。しかし奉仕部という空間には彼女の存在はもはや当たり前だったためか、誰も口を開けない。

 

 平塚先生は言いよどむ三浦を、ため息をつく雪ノ下を、苦笑いを浮かべる由比ヶ浜を、そして何も言えない俺を見渡し、さも愉快そうに笑う。

 …うるせえ。理屈で説明できることだったら俺も苦労はない。

 

「依頼人の紹介に来たんだが、いいかね」

 ひとしきり笑った平塚先生は一転真剣な面持ちとなる。

 

 「内容と依頼人によります。私たちが力になれることで依頼人が望むのであれば、手を貸さない理由はありません」

 雪ノ下は当然のことを告げる。

 

「ふ。相変わらずだな。…まあいい。おい、入ってきていいぞ」

 

 平塚先生の呼び出しに応じて、ドアが開く。しつれいしまーす、というほんわかとした声が聞こえる。ひらがなでしつれいしまーす、な。おでこはつるりんと光り、前髪がピンでとめられた女生徒が教室に入る。

 生徒会長の城廻めぐり先輩だ。

 

 そして後ろからはもう一人見慣れない女生徒が。

「し、失礼しまーす…」

 控えめに間延びした声。亜麻色の髪が揺れ、うるんだ瞳がこちらをとらえる。一瞬見慣れた視線をその少女から向けられるが、三浦を見て彼女の顔は歪む。

 

「げ、三浦先輩…」

 

「あ?あんたサッカー部のマネージャーの…一色だっけ。げ、ってなんだし」

 三浦は彼女の言葉に食い掛る。まあ、一色なる人物の気持ちはよくわかる。俺も教室に入ってこいつがいたら同じ反応をするだろう。

 

「あ、えーと、確か三浦さん?三浦さんもこの部活入ったの?」

 今日もほんわかオーラを隠しきれていないめぐり先輩は、三浦に不思議そうな顔を向ける。ああ…今日はめぐりんパワーを注入できたから、きっと頑張れる。八幡超元気。

 

「え、いや、えーと、別にあーし部員とかじゃないんだけど…」

 そんな癒し系100%のめぐり先輩を前にし、三浦は顔を引きつらせて2、3歩後ずさる。羨望、嫉妬、畏敬、好意。そんな感情にさらされている女王も、めぐり先輩のゆるふわオーラとは相性が悪いらしい。

 

「そうなの?じゃあ遊びに来てるとか?」

 めぐり先輩は顎に手を当てて三浦の顔をのぞき込む。そこにあるのは純粋な疑問だけで、なんの裏も感じ取れない。三浦は半歩詰め寄っためぐり先輩から、同じだけの距離をとる。

 

「あ、そうですよー。今からちょっとこの部への依頼についての話するんで、三浦先輩関係ないなら遠慮してもらえますかー?」

 弱みを見せた三浦を前に、一色が満面の笑みを浮かべて追撃する。…いい性格してんなこいつ。

 

「そうだな。私も少々それについては気になっていたんだ。…君たちの席の並びを見る限り、どうも三浦が由比ヶ浜についてきて時間つぶし、というわけでもなさそうだ」

 平塚先生は俺たちの椅子に目を光らせる。席順は長方形の机の両端に俺と雪ノ下。雪ノ下に寄って隣り合う由比ヶ浜。ここまではいつも通りだ。そして三浦は、俺の隣である。…いや、あのゆるゆり空間に入り込めないだけだと思うんだけど。

 

「そ、それは…」

 三浦は今度は少し頬を染め、上目遣いで俺に視線を送る。ちょ、やめろ。俺を面倒に巻き込むな。

 

「あ、ほんとですね。三浦先輩ってこの冴えな…目つきの鋭い人と仲いいんですかー?」

 一色がまたもニヤニヤと三浦を見る。おい、この子今冴えないって言いかけなかった?そのフォローで目つきの鋭い人って、目が腐ってると言われた方がまだましなんですけど。

 

 俺は裏が見えすぎる裏表の激しい一色を前に辟易としつつ、大きくため息をつく。

「その辺にしておきませんか。さっさと依頼の内容を話してください。…残業代は出ないんですから」

 

 壁にかけられた時計の長針は、すでに最終下刻時刻の30分ほど前を指していた。窓の外の景色は赤く燃え上がり、今にも夕闇が教室を飲み込もうとしている。

 

 窓の外を見て吐き捨てた俺に、平塚先生は柔らかい瞳を向ける。

「ほう。…この空間にいる三浦は、君のサービス残業の結果じゃないのかね」

 

 俺はその瞳を横目で見る。しかしそこからは裏も表も読み取れない。やはり、年季が違う。口には出さないが。

 

「…たまにはボランティアもしないと、部も名前負けしますよ」

 

「ふ。らしくなく殊勝なことだな」

 平塚先生は笑いをかみ殺しながら、いつものように高飛車に言う。くそ。何も言い返す言葉が浮かばない。俺は三浦がここにいることに対する正当な理屈を持ち合わせていないのだ。

 

 そもそも。俺は思い直す。どうして俺がここまで頭を悩ませなければならないのだ。今追及されるべきは三浦であって決して俺ではない。

 

 恨めしい視線を三浦に向けると、顔を赤くした彼女と目が合う。

 

「あ…」

 小さく一言発し、三浦は袖を握りしめてうつむいてしまう。そんな彼女を俺もそれ以上見ることはできず視線を逸らす。…やっぱこいつ打たれ弱すぎないか?

 

「むー…」

 

「…」

 

 そんな俺たちを見比べてなぜか由比ヶ浜は頬を膨らませ、雪ノ下からは冷たい視線が刺さる。ちょっと、なんで俺が悪いみたいな雰囲気になってんだよ。俺は悪くない。三浦優美子が悪い。

 

「まあ、そろそろ本題と行こうか」

 何が楽しいのかまだ笑っている平塚先生はちらりと時計を見てこちらに向き直る。だからさっさとそうしてくれと。

 

 

 

 

「話をまとめると」

 平塚先生の話を聞き終え、雪ノ下が口を開く。

 

「不当に生徒会長に推薦された一色いろはさんが当選しないようにすればいい、ということですか?」

 

「まあ大まかなところはそう――」「――そうなんですー。ほら私ってそういう人前に立つのとか無理じゃないですかー」

 平塚先生の言葉を一色が遮る。さえぎられた先生は「フ…」と笑い余裕を見せるが、その額に小さく立った青筋までは隠しきれていなかった。…この人も教師じゃなかったら一色みたいなタイプとは仲良くなれないんだろうなぁ。いや俺もですけどね。

 

「そうなると対抗候補を擁立するしかないわ。ただ…」

 雪ノ下は言葉を濁す。その方法は正攻法で至極理に適っている。しかし。

 

「時間と人材がない。そもそも立候補するようなやる気のある奴がいるなら、もうしてないとおかしいだろ」

 俺は彼女の言葉を引き取る。

 

「ではあなたにはほかにいい案があるというのかしら」

 

「ある」

 少しいらだった雪ノ下の質問に俺は即答する。

 

「一色、推薦人の演説は誰がやるかは決まっているか?」

 突然声をかけられ一色は一瞬肩をビクリと震わせる。…別に話しかけただけなんだが。

 

「いえ、まだ決まってないですよ。…そもそも私を推薦した連中がそんなことすると思いますか?」

 一色は笑顔を崩さないが、厳しい目を俺に向ける。わかっているが一応の確認だ。

 

「なら話は早い。推薦人の応援演説で一色が落ちるように仕向ければいい。それなら一色へのダメージも少ないだ…」

 

「はあああ?」

 

 俺が一息に言い切ろうとした瞬間、予期していた人物からの横やりが入る。

 

「あんた何勝手なこと言ってんの?なんで一色の問題を一色じゃない人間が背負わなきゃいけないわけ?それっておかしくない?」

 

 部室に沈黙が降りる。誰も三浦優美子の言葉に反論できない。

 

 三浦が言ったことはどこまでも正論であり、なによりも正しかった。はっきりとクラスで孤立しているわけではない、むしろ人気者の地位にいる一色がクラスの一部とはいえ、女子の集団からそこまでの恨みを買うのは正常ではない。皆彼女にも何かしら背負う責任があることは分かっているのだ。

 

 しかしそれは普通言えるものではない。それを言ってしまえば一色を、依頼人を傷つけるかもしれない。正確に言うならば、自分が「傷つける役」を担わなければならなくなる。他人を助けるために自らが嫌われるのはわりに合わない。皆そう考える。

 

 やはり似ているのかもしれない。

 

「魚を取ってあげるんじゃなくて、取り方を教える」

 誰かがそう口にした。その誰かに皆の視線が集まる。

 

「ヒ、ヒッキー?」

 

「比企谷君…」

 

 声の正体は俺だった。

 

 そう。それが奉仕部のスローガンだったはず。基本理念だったはず。原則だったはずなのだ。しかし誰もがそれを忘れていた。いや、見ないようにしていた。やってみればわかる。実際に魚の取り方を教えるのは、魚を捕ってやることの何倍も難しく、何倍も面倒なことだった。

 

「な、なに?あーしなんかまちがったこと言った?」

 三浦は周りの突然の注目に慌てる。

 

「いや、お前が正しい。一色にだって責任をとらせるべきだ」

 つい笑いが込み上げる。俺たちが迷って、けん制し合うような事柄がこんなに簡単に片付いてしまうとは。こんな一言でわからされてしまうとは。

 

「そ?ならあーしとりあえず最初にやりたいことあんだけど」

 

「…い、一応聞くだけ聞いておこうかしら」

 不敵に笑う三浦に対して、雪ノ下は震えた声で問う。

 

「まず手始めに」

 

 気づけば全員の視線が三浦に集中していた。主導権を握れたと思ったのか、女王は満足そうに笑う。

「一色のクラス行きたいんだけど。あーしそういうインケンなの大っっっっ嫌いなんだよね」

 

 残念なのは「陰険を」漢字で言えなかったところくらいだろうか。平塚先生は厄介事になる前に出て行ったのか、すでに部室から消えていた。…あの教師。

 

「ちょ、ちょーっと待って。優美子いったい何する気なの…?」

 恐る恐る尋ねる由比ヶ浜に対して三浦は当然のように答える。

 

「殴り込み」

 

 ひええええええええええ。

 

 悲鳴は誰から聞こえてきたものだろうか。恐らく心の中では全員が思っただろう。

 

 もちろん俺も例外ではない。

 

 

 

 

 

「邪魔するし。一色さんを会長に推薦した人たちってこの中にいるー?」

 

 翌日。三浦由美子は一色のクラスを直接訪問した。もちろん俺を伴って。完全にとばっちりである。もう少し策を練ってから行くべきだと思うのだが、彼女の辞書に「精査」という二文字はない。

 

 突然の女王の来訪にざわめいた一年生たちに三浦は優しく微笑みかける。

 

「何ビビってんの?安心しろし。別に取って食うわけじゃないって。ただあーしの男とろうとした一色のこともっと知りたいってだけ」

 

 ヤンキーの唐突な優しさは人の心をほだす。詐欺師が詐欺の時に、不良がカツアゲの時に使うのと同じ手である。最初に脅し、後で優しさを見せる。その落差は高校生程度であれば簡単に落ちてしまう。そのヤンキーが、いやここではさらに上位の存在、女王が自分の味方になりそうなのであればなおさらである。

 さらに言えば、三浦が葉山に告白したことはすでにかなりの範囲で知られているはずの事柄だし、由比ヶ浜によると一色が葉山を狙っているということはさらに広範囲に知られているという。三浦が一色を敵対視する一年生に協力を仰ぐのは何ら不自然ではない。

 

 まだ警戒している様子の彼らに、三浦はとどめの一言を放つ。

 「会長に無理やり一色を推薦してくれたの、ほんとありがたかったよ。その子たちと仲良くなりたいと思ってきただけだし」

 

 普段の彼女からは考えられない猫撫で声に、思わず噴き出しそうになる。雪ノ下を連れてこなかった理由はこれか。

 

「あ、あの、私たち…」

 5人ほどの女子のグループが三浦のもとに集まる。三浦は笑った。恐らく彼女たちにではない。ただ笑いたかったから、上機嫌だったから笑ったのだ。しかしその笑みは憐れな一年生たちには自分たちに微笑みかける聖母のように見えたことだろう。

 

「ねえ、あんたたち」

 集まった一年生たちを眺め、三浦由美子は静かに口を開いた。

 

「一色を会長に推薦したやつほかにだれがいるか知らない?あーしも一色とはその…いろいろあってさ。教えてほしいんだけど」

 

 そのあとは芋づる式だった。

 

 

 

 

 

「邪魔するし」

 

 だから何なんだよその挨拶。部室に入ってきた三浦と俺に、奉仕部の二人と一色、平塚先生の視線が刺さる。

 

「はい雪ノ下さん、これ一色の推薦を根回しした人間たちのリスト…ヒキオが作ってくれたから」

 

「あ、ありがとう…」

 文庫本を読んでいた雪ノ下は三浦を一瞥し短く礼を言う。さりげなくまた仕事をしてしまった。休ませろ。

 

「これ持って職員室行けばさすがに一色の会長への推薦は取り消しになるっしょ」

 

「確かにそうかもしれないわ。しかしそれでは…」

 雪ノ下が言いかけて口を閉ざす。

 

 そう。対立候補が擁立できていない現状、一色が選挙を降りるということは生徒会長候補が不在になってしまうということだ。しかしそれは建前上まちがったことではない。そもそも生徒会など生徒の自主性で発足すべきであり、やる気のない人間がなっても意味がない。しかしそうなると困る人間もいるのだ。

 

 言いにくそうにしている雪ノ下の言葉を俺が引き取る。

 

「選挙までそう時間がない今、他の会長候補を立てるのは難しい。しかしそうなると生徒会選挙という行事自体が立ち行かなくなる。学校は伝統と形式美の塊だ。形だけの選挙でもなくなれば責任問題になる。…ですよね」

 

 俺は横にいる平塚先生に目をやる。彼女の顔が渋くなった。

 

 平塚先生は一色が生徒会長に不当に推薦された旨を話した時、俺たちに言った。「やらかした生徒はこちらで指導しておく」。いじめ問題には異常なほどデリケートな現在、そんなことをやらかせば普通は一色の立候補自体取り下げられるべきだろう。しかし彼女がまず提示したのは「一色を選挙で負けさせること」だった。

 

 つまりどんな形でもいい。「生徒会長」となる人物が必要だったのだ。

 

 彼女はらしくもなく目を伏せる。

「…ああ。私の都合で難題を押し付けてしまってすまない。しかし今年は会長候補が一色のほかにまったく現れそうもないのは事実だった。君たちならばなんとかしてくれるのではないかと頼ってしまった。…教師失格だな、私は。本当にすまなかった」

 

「そ、そんなことないですよ!悪いのは一色さんを推薦した人達ですし…」

 頭を下げる平塚先生に由比ヶ浜がフォローを入れる。恐らく彼女も上の圧力に従わざるを得なかったのだろう。加えるなら伝統とやらを重んじる学校というシステム自体の圧力にも。彼女一人に責任を押し付けるのは確かに正しくない。

 

「しかし現実問題としてここで一色さんを生徒会長候補から降ろしてしまうと、生徒会選挙が立ち行かないのも事実よ。…どうしたものかしらね」

 

「あんたら何勝手に話進めてるし。解決方法なんて最初っから決まってんじゃん」

 こめかみに指をあてる雪ノ下に、三浦は何でもないように言い放つ。

 

「へぇ…そう。そこまで言うからにはそこの男が提示しようとした愚策よりかはましなのでしょうね」

 

「当然っしょ」

 彼女らは不敵に笑い合う。あなたたちの仲が悪いのはどうでもいいんですが、ついでのように俺をディスるのをやめてください。

 

「聞かせてもらおうかしら。その方法を」

 

 改めて聞く雪ノ下に、三浦は当然のように言った。

 

 

「あーしが会長に立候補する」

 

 

 部室にいる全員の目が点になったのは、言うまでもない。

 



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やはり彼女は曲がらない。

「…三浦さん、あなたの提案をもう一度聞かせてもらえる?」

 静寂に包まれた奉仕部室で一番最初に口を開いたのは雪ノ下だった。

 

「だから、あーしが生徒会長に立候補するって」

 

「どうしてその結論に至ったのかしら」

 

「そんなのあたり前じゃん」

 三浦は鼻を鳴らす。

 

「一色が生徒会長やらなくなったら他にやる人間がいない、一色が生徒会長に立候補するのが納得できなくて取りやめさせたのはあーし。…正直だるいけど、やらないわけにはいかないっしょ」

 三浦は当然のように言った。しかし周りは彼女についていけなかった。もちろん俺も。

 

「ただし、そこの一色にも生徒会入ってもらうから」

 

「え、ええ!?なんで私がそんなことしないといけないんですか?もともと生徒会長にならないようにしてくれっていうことで依頼に来たんですけど…」

 

「はぁ?あんた何都合のいいこと言ってんの?」

 口をとがらせて抗議する一色に、三浦は青筋を立てる。

 

「そりゃ悪いのはあんたを推薦させるように根回ししたやつらだけど、あんたにだって悪いとこあったからこんなことになってんじゃないの?あーしはここの部員じゃない。あんたの希望通りに、あんたを手助けするために会長への推薦を取り消そうとしてるわけじゃない。ただそーゆー卑怯なのはあーしがむかつくからやってんの。だからあんたはあんたで自分のこれまでのなんつーか…ふるまい?に対する責任とりな」

 

「…」

 

 三浦の言葉に対する一色の返答はなかった。

 

 彼女の言っていることは要するに「自分が責任をとるのだからお前も当然とるだろう」という自分勝手極まりない理屈だ。しかし言っていること自体はまちがっていない。そもそも自分が「生徒会長立候補する」というリスクを負っているのだ。反論できるはずもない。

 

「待ちなさい」

 

 …一人だけ口をはさめる人間がいたか。至って冷静に雪ノ下は三浦を見据えていた。

 

「なに?」

 

「これはまず奉仕部に持ち込まれた案件よ。一色さんを不当に推薦した連中をあぶりだしてくれたのには感謝しているわ。でもその事後処理を部外者にそこまでさせるわけにはいかない」

 

「だから、これはあーしがやんなきゃ筋が通らないって言ってん…」

 

「では」

 雪ノ下は目の前の冷えきった紅茶に口をつけ、息を吐く。

 

「あなたはあなたの大事なお友達との時間がこれから約一年間、なくなってもよいという覚悟はあるのかしら」

 

 彼女の問いに三浦は今日初めて言いよどむ。

 

 三浦が会長に立候補し、信任投票になれば恐らく彼女は生徒会長に当選する。そもそも信任投票などそう落ちるものではない。半数以上の生徒たちは無関心のまま「信任する」に丸を付けるはずだ。生徒会への関心が薄いことはすでに証明されている。

 そして生徒会に入れば、当然彼女の友人たちとの交流の時間は減る。有り体に言ってしまえば葉山隼人と過ごす時間が減る。つまり雪ノ下は三浦にこう聞いているのだ。「自分の意地と好きな人との時間、お前はどちらの方が大切なのだ」

 

「…そんな覚悟、ないに決まってんじゃん」

 問いに答える三浦の視線は落ちる。

 

「そんなのあるわけない。だってそれってこれまでのあーしの学校生活全部だから。だべったり、休みの日にどっか遊び行ったり、好きな人の話したり。そーゆーのがあーしの時間のほとんどだったから」

 わかるわけがない。俺も雪ノ下も、そんな言葉が理解できるはずもない。しかしなぜだろうか。

 

 彼女の気持ちだけは、痛いほどわかる気がした。

 

「だけど」

 三浦は顔をあげた。

 

「だけど、あーしはこれまで人生で一回だって卑怯なことはしてきてない。あーしバカだけどそれだけは言い切れる。勝手に首突っ込んで、「あとのめんどいことは知らない」なんてことしたくない。だってそれって、超ダサいじゃん。そんなのあーしじゃない。そんなあーしじゃ…隼人の隣に居られない。

 それにそんなことしたらたぶん心の中でバカにするっしょ。あんたと、」

彼女はなぜか俺を見る。みられることには慣れていないのだ。俺はすぐに目をそらす。

 

「だからやんの。あーしがあーしだけのためにやんの。勝手なこと言わないでくれる?雪ノ下さん」

 

「…そう」

 うらやましい。たぶん彼女も俺と同じようにそう思ったのだと思う。

 

「なら私の答えも決まっている」

 不敵に笑う雪ノ下に、何か嫌な予感がした。

 

「私も生徒会長に立候補するわ」

 

 …は?

 

 また部室の空気が凍った。

 

「は、はぁ?何言ってんのあんた。あーしがやるっていってんだから、今更あんたがそんなことする意味ないっしょ!あんたバカなん?」

 

「考えなしに突っ走るあなたに、そんなことを言われる筋合いは全くないのだけれど。…あなたがあまりにも勝手なことを言うものだから、奉仕部としての責任とか、部長としての態度とか考えるのが馬鹿らしくなっただけよ。私はあなたを生徒会長にしたくないし、それなら私の方がふさわしいわ」

 

「ふざけんなし。あーしがやるって言ってんだからあーしがやんの。あんたは黙って座って茶でも飲んでな。そんな無理になるもんでもないっしょ」

 

「別に無理になろうとしているわけではないわ。私は元々生徒会には興味がないことはなかったのよ。姉さんが…」

 喋り過ぎた。彼女はそんなような渋面を一瞬つくり、また三浦に笑みを向ける。

 

「そもそも生徒手帳も開いたことがないようなあなたに、まさか生徒会長が務まると思って?」

 

「…あーしのこと馬鹿にしてんの?雪ノ下さん。そんくらいあーしだって」

 

「そういうセリフはその髪の毛をどうにかしてから言ってもらいたいものね」

 

 三浦は虚をつかれたように目を見開き、ばっと頭を押さえる。うん、やっぱりバカだこいつ。

 

「そ、そんなのあんたには関係ないっしょ!…あーしは降りる気はない。そもそも一色も生徒会はいるから、こいつより下の地位に着きたくないし」

 

「いろはちゃんが生徒会はいることはもう決定してるんだ!?」「私が生徒会入るのはもう決定してるんですか!?」

 約二名からツッコミが入るが、雪ノ下と三浦はそちらを見ようともしない。

 

「あら、それなら心配はいらないわ。私の下にならついてもかまわないでしょう?むしろ私の下で働けることは光栄に値するわ。ねえ、部下ガヤくん?」

 

「俺を万年使い走りみたいな言い方をするのはやめろ」

 雪ノ下にしろ三浦にしろ、絶対人使い荒いからごめんである。

 

「何言ってんの?ぼっちのあんたこそ会長なんて器じゃないっしょ。上に立つ人間には勝手に人が集まんの。あーしの下で雑用がお似合いだっての」

 バチバチバチ。ああ、久しぶりにこの二人の火花の散り合いを見た。怖いなぁ…。

 

「ふふっ」

 部室に笑い声が漏れる。平塚先生は三浦と言い争う雪ノ下に柔らかい瞳を向けていた。

 

「「平塚先生!」」

 笑う平塚先生に雪ノ下と三浦の声が重なる。

 

「あーしは」「私は」

 

「「生徒会長に立候補します」」

 

 たぶん一生この二人は仲良くできないだろうと思った。

 

「うむ、わかった。では二人とも今週中に推薦人を規定人数集め、リスト化して提出してくれ。応援演説を行う人間の選抜も並行して頼む。これは選挙三日前まででいいが、応援演説の内容を考える期間を頭に入れれば早いほうがいいだろう。何か質問はあるかな?」

 

「あ、あのー」

 控えめに手をあげたのは由比ヶ浜だった。

 

「生徒会長選挙で落選したほうも、生徒会に入ることになるんですか?」

 

「恐らくそうなるだろうな。現在生徒会選挙自体に立候補している人間がそもそも一色のほかにいない。だから私も上からの圧力に頭を悩ませていたわけだが…それがどうかしたかね」

 

 由比ヶ浜は少し逡巡し、にらみ合う雪ノ下と三浦を見比べて恐る恐る口を開く。

 

「じゃ、じゃあ私もはいろっかなー、なんて。生徒会に」

 

 …おいおいおい。

 

 唐突な彼女の言葉に、三浦でさえ言葉を失う。

 

「…それは不可能ではない。一色が生徒会に入る以上、君が入ることも問題ではないが…なぜ生徒会に入りたいのかね?」

 

「やっぱり私が生徒会に入ることは確定しているんですね…」

 しかし一色の小さな嘆きに反応する者はいない。かわいそうな子である。

 

「え、えっと…言いにくいんですけど、ゆきのんと優美子絶対ケンカしますよね。そうなったときに間に挟まれるのがいろはちゃんっていうのはちょっと…かわいそう、というか。ほ、ほら、あたしなら全然間に挟まれること慣れてますしっ。むしろそのくらいしかできることなんてないですけど!」

 

「ゆ、結衣先輩…」

 一色は手を合わせて涙ぐんでいるが、俺も泣きそうである。由比ヶ浜はいま一色の代わりに自らを生贄に捧げ、そのくらいしかできないと謙遜してみせたのだ。な、なんて不憫な子…。

 

「なるほど。…実に君らしいな。しかしそうなると」

 平塚先生は部室を見渡す。

 

「この部活も実質比企谷一人、ということになるわけだ」

 

 …あ。

 

 その瞬間、俺の心の中で幸せの鐘の音が鳴り響いた。

 

「で、ですよね先生。だとするととうとう俺の刑務作業も終わりを告げてこれからは…」

 

 好きなだけ自堕落に生活できるのだ。思えばこの半年、放課後は拘束され休みは休めず、人には必要以上に嫌われる。踏んだり蹴ったりであった。ついに俺は…

 

「安心しなさい、比企谷君」

 

 雪ノ下はノートを取り出し、見開きを使って漢字二文字を書いた。

 

「あなたにはこの役職が一生お似合いよ」

 

 その二文字を見た瞬間、平塚先生と三浦がサディスティックな笑いを浮かべた。この二人にだけは一生逆らえる気がしなかった。

 

 …グッバイ、短かった自由な時間。

 

 将来を暗示するような漢字二文字を見て、俺は大きくため息をついた。

 

 庶務

 

 

「さて、ならば由比ヶ浜と比企谷。君たちが雪ノ下と三浦それぞれの応援演説をするのがよかろう。その方が私としても君たちを生徒会の空いた枠にねじこみやすい。一色は「一年生」という枠にねじこめるから問題ない」

 

「…職権濫用スレスレだろそれ」「私の意思は聞いてくれないんですね…」

 

「何か言ったかな比企谷?一色?」

 

「「別に何も」」

 不当に生徒会に入れられた俺と一色の声が重なる。こいつとは仲良くできるかもしれない。

 

「まあ一色さん、あなたは生徒会に入っておいた方がいいでしょうね」

 雪ノ下はとほほ、と息を吐く一色に言う。

 

「どういうことですか?」

 

「おそらくこれであなたが選挙にも出ず、今まで通りの生活をクラスでするなら、あなたを嫌う人たちはあなたを逆恨みするでしょう。もしかしたら嫌がらせはさらに激しくなるかもしれない。こういう陰険なことをする輩ならなおさらね。

 でも生徒会に入れば少し話は変わるわ。嫌がらせをした人間たちの狙いは外れるけれど、一応「生徒会に一色を無理やり入れた」という結果は残る。一応の満足はする。なにより生徒会には三浦さんという圧力が存在している。そう簡単に手は出せないでしょう」

 

「…逃げろってことですか」

 一色は歯を食いしばりうつむく。

 

「目を背けて、平気な振りするよりはましだろうな」

 しまった。つい口に出してしまった。

 

 にらむ一色の目線を受けながす。やはり図星だったか。

 

 彼女の仮面は強い振り。泣きまねは弱い振り。そしてそのどちらも平気な振りだ。それでは問題は解決どころか解消にすらならない。積みあがっていくのみだ。

 

 平塚先生が一色の頭に手を置く。

 

「逃げることは悪いことではないよ、一色。問題は逃げた先に何があるかだ。君が逃げようとしている先は恐らく君にとってプラスにこそなれ、マイナスになる可能性は低いだろう。ここにいる人間も含めて。…私が保証しよう」

 

「少なくとも内申の加点にはなるでしょうね」

 身もふたもないことを言うのは、もちろん雪ノ下である。さすがにお前は空気を読め。

 

「あはは…ま、まあいろんな経験できるんじゃないかな?やってみようよ、いろはちゃん。大丈夫。いざとなったらヒッキーとゆきのんがいるから!」

 

「ゆーいー??あーしはこいつらより頼りないのかねぇ???」

 

「も、もも、もちろん優美子だっているし!!!むしろ一番優美子が頼れるまであるし!!!!」

 声を低くする三浦に、由比ヶ浜は手をぶんぶんと振る。…つくづく疲れそうな生き方してんなこいつ。あと三浦、怖い。

 

 一色は俺たちを見渡し、天井を見上げる。逃れられないとわかったのか、深くため息をつく。

 

「…わかりました。先輩と先生に、騙されてあげます」

 それでも一色はあざとく笑った。

 

 

「では応援演説だが…比企谷、由比ヶ浜。どちらがどちらの応援演説をする?言っておくが応援演説をする人間は演説をするだけではない。当然だが立候補者の選挙活動を全面的にサポートすることになる。ここ数カ月の君たちの様子を見て、私としてはどちらがどちらの応援でも問題ないとは思う。しかし…」

 

 平塚先生は横目で俺を見る。…嫌だぞ、俺は。

 

「先生、建前はいいです。選択の余地などないでしょう」

 雪ノ下は立ち上がり、由比ヶ浜の手を取る。

 

「由比ヶ浜さん、お願いできるかしら」

 

「ええ!?…う、うん、いいんだけど優美子は…」

 

 由比ヶ浜はちらりと三浦を見る。

 

「結衣、あんたが決めな。あーしはあーしで勝手に決めるから。好きな方にしなよ」

 

「…わかった。あたしはゆきのんの応援演説をするよ」

 

「うん。結衣がいいならそうしな」

 

 彼女らは静かに笑い合う。変わったものだ。どちらも。俺は偉そうにもそう思った。

 

「で、あーしだけど」

 三浦は平塚先生い体を向ける。

 

「あーしは、あーしの選びたいやつ選ぶから。「選ばされる」の、あーし嫌いなの。いいっしょ?平塚先生」

 

 …お?

 

「…君はそう言うと思ったよ。もちろんかまわない」

 

 きたああああああああああああああああああああ。

 

「で、でもそれだとヒッキーが…」

 

 やめろ由比ヶ浜。余計なことを言うな。この流れならば奉仕部は自然消滅。流れで俺も退部。更に生徒会にも入らなくてよい。ノーリスクで平穏を…

 

「で、改めてヒキオ」

 彼女は今度は俺の正面に立つ。

 

 夕焼けが照らす部室に、静かに風が入り込む。彼女の金髪をなびかせる。サラサラという音が聞こえた気がした。柔らかい光がその髪に反射する。

 

 きれいだ、などと思ってはいけないのだ。

 

「応援演説、頼んだし」

 

 三浦優美子は当然のようにそう笑うのだった。

 

 



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そして彼女は勝利を望む。

「…なんで俺なんだよ」

 俺は自分を選挙の推薦人に選んだ三浦に、正直な疑問をぶつける。

 

 確かに俺か由比ヶ浜かの選択であれば、雪ノ下の言った通り選択の余地はない。雪ノ下と由比ヶ浜、三浦と俺という組み合わせが最も合理的だろう。

 雪ノ下は物事を完璧にこなし、その事務処理能力とカリスマ性には確かに目を見張るものがある。しかし逆に気持ち、人情というものを理解する力に乏しく、ともすれば人に「冷たい」という印象を与える。そして由比ヶ浜は事務処理能力には欠けるが人望があり、人に同情することができる。

 同じく三浦もカリスマ性はあるが、事務処理能力という点においてはおそらく由比ヶ浜よりはまし、といった程度だろう。彼女は面倒なことを少しずつ片付けるというタイプの人間ではない。更に言えばその気性の激しさ故、エネルギーの向け方によっては単なる暴走になる恐れもある。俺ならば多少の雑務はこなせるし、…その、なんだ。暴走しそうになった三浦を止めることもできるだろう。恐らくほかの人間では彼女に物申すことはできまい。

 

 しかし今三浦に与えられているのは俺か由比ヶ浜かの選択ではない。彼女は「応援演説をする人間は自分で選ぶ」と言った。三浦の人脈ならばほかにいくらでも選びようがあるだろう。

 

 なぜ俺なのだろうか。

 

「別に、大した理由じゃないし」

 三浦は短く息を吐き、口の端を持ち上げる。

 

「あーしがここにいる理由忘れたん?「覚悟しな」って、あーし言ったよね?」

 俺はベストプレイスにて、彼女に見つめられた昼休みを思い出す。彼女は「葉山を知りたい」そう言った。

 

「だからあーしはあんたを知りたい。…今までさんっざん、あーしに好き勝手言ってきたあんたが、あーしのことどう思ってるか、演説で聞かせてもらうし」

 彼女の言っていることは分かる。確かに俺は三浦に対してここ数週間、かなり好き勝手なことを言ってきた。「厚化粧を止めろ」とさえ言った。

 

「わかった?だからあんたがあーしの応援演説をするの」

 わかった。俺には理由が理解できた。女王らしい自分勝手な理屈だ。

 

 しかし、である。

 

「み、三浦さん。知りたいって、なにを言って…」

 

「ゆ、優美子…ヒ、ヒッキーが優美子のことどう思ってるって…」

 

 おいポンコツ、物事には言い方ってものがあるよね。俺は急いで誤解をとこうと口を開く。

 

「待て、誤解だ。今三浦が言ったのは…」

 

「はぁ?別になんも間違ってないっしょ。つーかそのためにあーしヒキオと一緒に昼ご飯ま…」

 

「頼むからあなたは黙っていてくれませんかね!?」

 なぜか胸を張る三浦の口をとっさにふさぐ。前もこんなことあったような…。

 

「随分と仲がいいようだけど、そのコンビネーションならさぞ見事な選挙活動、演説を見せてくれるんでしょうね?…それなら私も全力であなたたちを潰すわ」

 

「…優美子、私ぜっっっったい負けないから。…ヒッキーの馬鹿―――――――!!!!」

 

「ちっ、気分が悪い…リア充爆散しろ。さっさと死ね」

 

「うっそ…なんでこんな冴えな…モテなさそうなひ人がこんなきれいな人たちから…」

 

 雪ノ下、由比ヶ浜、平塚先生、一色はそれぞれ勝手極まりない宣言、呪詛、疑問を漏らす。いや、どう考えても俺が一番被害を受けているんだが。女、怖い。あと一色、それは言い直しても全く意味がない。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜からなぜか詰め寄られている三浦は、二人を振り切って俺を見る。

「だからヒキオ、あーしの応援演説をさせてあげる時の約束は一つだけ」

 

 彼女はまっすぐに俺を見る。

「あんたがあーしについて思ってることを正直に言うこと。約束できる?」

 

「…わかった。約束する。ボロクソに言われても文句言うなよ」

 

「そん時は、あんたの顔の原型がとどまらない程度に半殺しにするから安心しな」

 

 訂正しよう。女ではなく、怖いのはこいつだった。

 

「じゃあこっちからも一つだけ。…なぜ葉山じゃない?」

 彼の名前を出した瞬間、彼女の視線が下を向く。周りもざわめく。三浦のことを考えるのであれば、これはここで聞くべきことではないだろう。しかし、聞くならばここが最後。俺はそう感じていた。

 

 単に勝ちたいのであれば葉山以上の適任はいない。1年から3年まで知名度がある彼が出てくれば、選挙など一気に人気投票になる。それも彼がついた方が勝利確定の。

 

「…隼人は今部活大変な時期だし、毎日時間取らせる選挙活動で邪魔するわけにはいかない。それに、隼人の力だけで雪ノ下さんに勝つのは…なんか嫌だし。それに言ったのはあんたっしょ。隼人から距離取ったほうがいいかもって」

 

「俺のせいで負けるかもしれんぞ。知っての通り俺は」

 最後まで言えなかった。彼女は俺の唇にもっていたリップのふたを当て、

 

「そんくらいのハンデ、跳ね返してこそあーしっしょ」

 偉そうに笑った。

 

 少しだけ、勝ちたいと思った。

 

 

 

 

 

「ヒキオー、これ書いといて」

 

「おう」

 まあこいつ字そううまくないしな。にしてもこういうのパソコンで打ち出したほうが絶対合理的だろ。

 

「ヒキオー、昨日渡された書類持ってきて」

 

「おう」

 こいつが持ってるとゴミと間違えて捨てかねん。選挙ポスターに落書きしようとしてたからな。自分の。

 

「ヒキオー、先生が演説の原稿なおしたって言ってたから後でちゃんと行きな」

 

「…おう」

 俺のおかんかこいつは。平塚先生も直接言えよ。

 

「ヒキオー、あーしのど乾いたからジュース買ってきて」

 

「お…」

 いや、それは自分で行け。

 

 放課後。奉仕部室にいるのは俺と三浦優美子だけだ。雪ノ下と由比ヶ浜は何か選挙に向けての用事があるのだろう。もしかしたら選挙活動に行っているのかもしれない。

 

 にしても、である。

 

「あ?なにじろじろ見てんだし」

 

「…いや、まだ見慣れなくてな」

 

「あんた、次コレに触れたら…わかるね?」

 

『黒髪』の三浦優美子は、静かな笑顔を浮かべた。

 

「ごめんなさい」

 逆鱗であることがわかっていてもつい触れてしまう。さすがの俺もこの変化には度肝を抜かれた。

 

 三浦は息を吐き椅子に体を預けるようにして寄りかかる。

「あー、つっかれた!たく、どいつもこいつも人の髪の色が変わったくらいのことで騒ぎ過ぎだっての。ねえ、ヒキオ」

 

「今その話すんなって言ったのはどこのどいつだよ。つーかバリバリのギャルが急に髪黒くすれば物珍しくてそりゃ…」

 

「あぁ!?なんかいった?ヒキオ?」

 

「…と、とっても似合っていて超絶キュートだったから、皆騒いじゃったんじゃないでしゅかね」

 当然の抗議と解説を入れる俺を三浦が鬼の形相でにらむ。ふぇぇ…こいつほんとに怖いよう…いやマジで。この機嫌の悪さは、今日一日で確かに相当疲れたようだ。

 

「なっ、きゅ、キュートって…べ、別にあんたに褒められたって嬉しくもなんともないし…。調子乗んなヒキオのくせに!」

 褒めたわけでは断じてない。機嫌を取ったのである。それなのになぜのび太くん以来の罵倒をくらわねばならないのか。まったくもって納得いかない。俺はついでのように殴られた肩をさすりながら思う。

 

 …似合っていないことはないが。

 

「ま、まあいいし。あーしにこんだけのことやらせてんだから、選挙に負けたら承知しないからね、ヒキオ」

 

「なんで俺が全責任を背負わされてんだよ」

 

「うっさい!引き受けたからには全力尽くしな。いい?」

 

「へいへい」

 

「ヒーキーオー?返事は?」

 

「はい!!!!」

 世界一いい返事だったと思う。

 

 彼女は今日、黒く染めた髪の毛で学校に来た。生徒会選挙に出るわけだから当然と言えば当然だが、少し意外ではあった。たぶん彼女のその金髪は、葉山と合わせていると俺は思っていたから。つまり彼女にとって髪の色はいささか以上に意味を持つことだと、俺は思っていたのだ。

 その旨を遠回しに、わからない程度迂遠に彼女に問うと、答えはいたって明快だった。

「あんたバカ?さすがにあの髪じゃ信任投票ならともかく、雪ノ下さんには絶対勝てないっしょ?そんなくだらないことで負け確定するの納得いかないし」

 

 彼女は手鏡越しに俺をにらみ、そう言った。…考えすぎだったか。

 

「やるからには勝つ。あーしが一番じゃなきゃダメなの。いい?」

 

「…仰せのままに」

 わがまま女王の従者も楽ではない。

 

 

 

 

 

 選挙活動は思ったよりスムーズに行った。三浦は事務処理能力にはやはり難ありだったが、人に注目されること、人前に立つことには慣れていた。校内での選挙活動の際も彼女が片手間に考えた選挙活動の台本を俺が常識的な方向に手直ししただけで、彼女は堂々と自らの考えを述べ、自然と人を惹きつけた。

 選挙活動というのは突き詰めて言えば「私ならこれができる」「私ならこれを変えられる」と自分を徹底的に肯定し、人々の役に立つことをアピールすることだ。訓練をしなければ、自分に自信のある人間でなければ不可能だろう。その点三浦は必要事項を満たしていた。あふれ出る高圧さは隠しきれてはいなかったが…。人の前よりもやはり人の上に立つ方がお得意らしい。会長は向いているのかもしれない。

 

「…あんた今何か失礼なこと考えなかった?」

 

「いや、別に」

 三浦優美子、つくづく恐ろしい女である。

 

 放課後。今日は部室ではなく帰り道。三浦は例のごとく鞄を俺の鞄の上に乗せ、自身は荷台による。某ジブリ作品よろしく、体を横向きにして乗る。ちょっと待て、これ思ったよりきつい。思ったより安定しない。あ〇さ〇せいじ君すごかったんだな。主にバランス感覚が。

 

「ふーん…ま、いいけど。あんた応援演説できてんの?本番もう明日だけど」

 

「ああ、問題ない。お前こそできてるんだろうな」

 この数カ月彼女を見ていてわかったのは、この女は考えなしで動き、そして抜けているところがあるということだ。

 

「失礼なこと聞くなし。平塚先生にチェックしてもらってOKもらったから大丈夫っしょ」

 

「それは良かったですね。ところで女王様、僕たちは今いったいどこに向かっているのでしょうか。目的がないならめちゃくちゃ重いからどっかで止まり…グハッ!」

 ささやかな文句と事実を言う俺に、後ろから鉄拳が飛ぶ。

 

「だーれが重いって?とりあえず駅行くから、このまままっすぐでいいし」

 

「だから前も言ったがそっち行くと俺んち遠くなるんだけど…」

 

「あーしはお・も・いのかな?ヒキオ?」

 

「…喜んで送らせてもらいます」

 

「ふふん。よろしい。送らせたげる。さあきびきび進め―!おせえぞー!」

 このクソアマ…。人をギャフンと言わせたいと思ったのは初めてだった。しかしこのハイテンション…

 

「今日あーしの好きなバンドのCD発売するから、早く!」

 どうやら杞憂だったらしい。彼女は今日もいつも通りでした。

 

 

 

「さてヒキオ、CDも買えたし次いくし」

 お目当てのCDをご満悦の表情で眺めながら、三浦は俺に促す。と、言われてもだな。

 

「次もクソもねえ。もう帰りたいんだけど」

 

「次いくし」

 

「だから疲れたから明日に備えて…」

 

「…明日全校生徒にあんたにパンツ見られたことばらしてやる」

 三浦は恨めがましい目をこちらに向ける。ふ。そんなもん脅しにもなってねえ。

 

「そんなこと言って印象悪くするのはお前だろうが。ただの自滅だ」

 

「う、うっさい!あんたは黙ってあーしについてくればいいの!…文句ある?」

 

「…はぁ。せめて早めに終わらせてくれ」

 

「それはあーしの気分次第だし」

 ふんぞり返る三浦優美子とは対照的に、俺のため息はさらに深くなる。

 

「お前の気分に付き合ってたら身が持たねえよ」

 

「あ、着いた着いた。ヒキオさっさと来な」

 最初から俺の話を聞く気はなかったらしい。三浦は小走りでお目当ての場所に駆けて行った。…少しは俺の意見を聞いてもいいのではないでしょうか。

 

「というか三浦さん、…ここ、入るんですか?」

 

「あ?なんか文句ある?」

 彼女は文句タラタラの俺に、ついに眉根を寄せて声を低くする。…これ以上逆らうのは命に関わる。

 

「い、いや、別にないでしゅ」

 いえ、別にないです。

 

「ほらヒキオ、あんたも歌えし」

 個室に入るなり怒涛の如く曲を入れ続け歌い続けた三浦は、俺にマイクを向ける。しかしそれはぼっちにとっては脅迫以外の何物でもない。

 

「いや、俺アニソン以外歌えねえしな」

 思えば中学の時。好きなアニソンメドレーをCDに焼いて女子に贈りつけたことは周知のとおりだが、中学の文化祭の打ち上げでアニソンを熱唱し、空気を凍りつけた俺である。リア充とこういった場所に来た場合は、ひたすら「見」。自ら動かない。これが常識だ。

 

「まーたわけわかんないこと言ってるし、ヒキオ」

 しかしそんな微妙な空気を彼女が察するわけもない。また罵倒かよ、こい…

 

「ヒキオもあーしが歌ってる曲どうせ知らないっしょ?あんただって金払うんだし、別に好きな歌うたえばいーじゃん。あーしだって好きなの入れてんだから。ほら」

 …前言撤回。彼女に常識は通用しないのである。

 

「いや、でも俺が歌いたい曲お前知らないだろうしな…」

 

「…ヒキオ、あーしおんなじこと二回言うの嫌いなんだけど」

 

「はいっ、喜んで歌わせていただきます!」

 彼女がまだ穏やかなうちに俺は曲を入れる。ほら、このままだと怒りに目覚めそうだし。目覚めてスーパーあーしさんとかになってまた金髪になったら怖いし。あ、でも穏やかな心持ってないから大丈夫か。私の戦闘力は53万です。

 

 しかしいきなり電波な曲を入れるのは、俺にとっても彼女にとってもきつい。ここはとりあえず無難に。

 

「あ、これあーしも知ってる」

 イントロを聞いた三浦は両手を打つ。それはそうだろう。俺が入れたのは国民的海賊バトル漫画の主題歌だった。

曲が始まり俺はマイクを持って立つ。曲の入り。少々元気な曲なのでしょっぱなから恥ずかしさはあるが、仕方ない。

 

 息を吸う。ままよ。

 

「ありったけの♪」

 勢いよく、三浦は大声を張り上げた。

 

 …おい。

 

「は?何ぼーっとしてんのあんた。ほらほら、次あんたの番」

 

「お、俺の番って、そんなデュエットみたいなこと…」

 

「…早くしろし」

 静かににらむ彼女に、逆らえないことは自明であった。

 

 

 

 

 

「あー、すっきりした!」

 カラオケ店を出た彼女は大きく伸びをする。そのしぐさによりある二つの部分が強調され、俺はとっさに目をそらす。いやこいつ由比ヶ浜よりないけど、下手すれば由比ヶ浜より無防備だから、八幡たまに目のやり場に困っちゃう。

 

「あんだけ歌えばそりゃあな」

 

「いや、んなこと言ってっけどあんただって大概だったっしょ。好きな歌うたえって言ったのはあーしだけど…」

 三浦は俺の歌いっぷりを思い出したのか、笑いを漏らす。…ええ、流石にタガが外れたことは自覚していますよ。古今東西、カラオケで歌いたいアニソンメドレーをしてしまったことについては。

 

「俺の美声に酔いしれたか」

 せめてもの照れ隠しで応じる俺に、三浦は冷たい視線を送る。ちょ、マジレスはやめてくださいよ。

 

「何言ってんだし、きも。歌ってるあんた必死過ぎてきもかったし。感想言うならなんかきもかった」

 マジレスどころではなかった。きもいの連打に、俺の心はハートブレイク寸前である。心臓が重複していることもどうでもよくなるくらいブレイクしてしまった。…もうちょっとオブラートに包んでくれてもいいんじゃないですかね。

 

 しかし涙目になる俺に、三浦は追い打ちをかけるように笑う。

 「…ま、でも割と楽しかったからいいっしょ」

 

 俺の道化振りで笑っていただけたようで何より。彼女らしくないまっすぐな笑顔を見て、俺はそう思うことにした。

 

 

 

 

 

 

「ヒキオ」

 

「なんだ」

 

 落ちる夕陽を眺めながら、俺は彼女の呼びかけに応じる。5時を告げる鐘が鳴った直後、公園で遊んでいた子供たちはどこかに消え、ベンチに二人残された。ブランコは今や乗る人間はいなく、キイキイと子供たちが遊んだ余韻を残すだけとなった。無人の公園はどこか世紀末じみている。ふとそんなことを思った。

 

「こうしてると、なんかこの世にあーしら以外いないみたいだし」

 

「…」

 三浦と思考が被ってしまった。しかし、彼女らしくないロマンティシズムを感じさせるセリフに、頬に若干の熱を感じる。夕陽の角度が少々きつい。俺はそれを振り払うために口を開く。

 

「で、何の用だ」

 

「何が?」

 

「とぼけんな。…意味もなく遊びまわったわけじゃねえだろ」

 こうして公園で差し向いになっていると、あの時の三浦の涙を思い出す。彼女は葉山隼人に好かれる自信がないと言った。女王がこぼした初めての弱音。

 

 …理由の察しはつくが。

 

 三浦はうつむき、俺に問う。

「あんたさ、あーしが雪ノ下さんに勝てると思う?」

 

「…ずっと聞きたかったんだが、なぜそこまで思い詰める。なぜそうまで真剣になる。そんなに会長になることにこだわりでもあるのか?」

 

「質問を質問で返すなっての。…んなわけないじゃん。別にあーしは会長になりたいわけじゃない。あーしがさっきなんて聞いたか、覚えてる?」

 

 俺は彼女の言葉を反芻する。『雪ノ下さんに勝てると思う?』確か彼女は俺にそう聞いた。

 

「雪ノ下に勝てるかどうか、か」

 

「そうだし」

 正直分は悪い。あっちは学年の、学校の有名人だ。能力も高いしカリスマ性も持ち合わせている。名前だけで雪ノ下に羨望の眼差しを送る人間だっているだろう。対する三浦も知名度はそこそこだろうが、いかんせん本人の態度が高慢過ぎる。その噂にはきっと良くないものもある。彼女を好ましく思わない人間もいるだろう。下馬評のオッズは偏る。

 

「ひいき目に見て、勝算は3:7ってところか」

 

「それってあーしが…」

 

「3だ」

 

 三浦は唇を噛み、また自分の陰に目を落とす。しかしなぜだ。俺はまだわからない。

 

「俺からも一ついいか?」

 

「…なんだし」

 三浦は下を向いたまま声に応じる。

 

「さっきの質問の続きだ。なぜそうまで雪ノ下に勝ちたがる。…本当に一番になりたいとか、単に雪ノ下に負けたくないとか言う理由か?」

 違う。俺は自らの言葉を否定する。彼女はそこまで短絡的な人間ではない。我は通すが、ほどほどにリアリストだ。自らの立場と求められるキャラクターは理解しているだろう。

 

 ならばなぜ意味のない勝ちにこだわる。

 

「…隼人がさ」

 三浦優美子は、静かに口を開いた。

 

「隼人が、雪ノ下さんのこと見るの。たまに申し訳なさそうに、たまに憧れるみたいに。それでたまに…あーしが見たことないくらい柔らかい目で、見る。あんたを見る時に近いけど、それよりもっと…」

 

 三浦は落としていた視線を空に向ける。夕焼けが退場しかけ、暗闇が蔓延りつつある空を見る。

 

「だから、理屈じゃないし!なんでとか言われても細かいことはあーしにだってわかんない。ただ、あーしは雪ノ下さんには負けたくない。なんとなく、絶対に負けたくない。だからヒキオ、明日はその…なに、頼んだし。しっかりやれ!」

 空を見続ける彼女は、何かをこらえるようにそう叫んだ。

 

 俺も彼女が見る空を眺める。一番星も見えてきた。冬は空が乾燥し、空気中の水分が減り光が屈折しにくい。気流も安定している。俺たちははっきりとその瞬きが見て取れる。

 金星。彼と、彼に近づきたかった彼女の色。それを変えてまで彼女は勝ちたがった。そんな彼女にかけるべき言葉は。

 来る選挙日前夜。俺も少しハイになっているのだろうか。

 

 ロマンティシズムが過ぎるかもしれない。

 

「…競馬がいつも下馬評通りにいくわけねえだろ」

 

 思わずこぼれてしまった。俺の短いつぶやきに三浦はピクリと肩を震わせる。俺は少しの気恥ずかしををごまかすように頭を掻く。

「…ま、その、なんだ。何事もやってみなきゃわからんってな」

 

「ぷ…なにそれ。あんたにまったく似合わないセリフだし」

 三浦は俺の顔を見て笑う。似合わなくてすいませんね…。あらゆる前向きな言葉はこの目の腐りでネガティブ堕ちするんだよ。ネガティブ堕ちって何だし。いや、何だよ。

 

「ほんとあんたってこういう時に、気の利いた事の一つも言えないよね。どーなん男として」

 

「前も言ったがそういうことは俺じゃなくて葉山あたりに求めろ」

 

「んなこと言ってもしょうがないじゃん。そーゆー時隣にいんの大体隼人じゃなくてあん…」

 あきれたように何か言いかけ、三浦優美子はまた口をつぐむ。こっちに向いていた顔は徐々に視線を落とす。その表情までは分からなかった。俺はいつものように言う。

 

「…まあ、何とかなるだろ。むしろなるようにしかならないまである」

 

「まーた適当なこと言ってるし…ま、でもありがと、ね。明日もその、よろしく、だし」

 

「…おう」

 

 宵の明星も顔色を照らすほど明るくなかったのは、お互い幸運だったのかもしれない。

 

 

 



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ようやく彼は気づき始める。

 選挙当日。奉仕部の三人と三浦は体育館の壇上にいる。

 

 まず全校生徒の前に雪ノ下が立った。演説の順番は雪ノ下→由比ヶ浜→三浦→俺という順番だ。いや、おかしいだろ。なんで推薦人が立候補者の後なんだよ。俺は壇上の下の平塚先生に非難の視線を送るが、非常に楽しそうな笑顔しか返ってこなかった。…大方トリを俺にしたかったのだろう。重ねて言うが、それ職権濫用だからな。

 

 よどみなく選挙演説を進める雪ノ下が、咳ばらいを一つした。その目はまっすぐに群衆に向く。

「さて、最後に一つ。

今までいくつかの公約についてお話をしてきましたが、私が生徒会長になった暁には、もっと重要なことを皆さんにお約束します」

 どよめく群衆を前に、雪ノ下は目を瞑り、大きく息を吸う。

 

「私が皆さんの抱える問題のすべての相談に乗ります。すべてを皆さんが皆さん自身の力で解決できる、そんな学校を私が作ります。そしてご存知のように、私にはそれができるだけの力があります。皆さんは私にすべて任せていただいて構いません。この学校は必ず良い方向に向かうでしょう。

しかしそれを成すには、結局は皆さんのお力添えなくしてはありえません。どうかこの雪ノ下雪乃に皆さんの清き一票を、よろしくお願いします」

 彼女の言葉は短かった。伝えたいことは少なかった。言っていることは傲慢そのものだ。しかしそれには淀みも迷いもなかった。そんな彼女の姿勢に、視線に臆したのか。群衆は静まり返る。

 しかし彼女が礼をした瞬間、喝采が湧く。恐らくこれも群衆が望んでいた雪ノ下雪乃の姿なのだろう。どこまでも強く、一人凛と立ち、よりどころを求めない。彼女なら成し遂げるかもしれない。皆そう期待しているのだろう。

 

 一人でやることは悪いことじゃない。一人の怠慢がすべてをぶち壊してしまうくらいならば、確かに彼女一人がやったほうが効率もいいし、確率も高い。

 

 しかし過去の自分の言葉に、俺は今納得できていない。

 

 次は由比ヶ浜がおぼつかない足取りで全校生徒の前に立った。普段の雪ノ下の紹介と彼女の公約の補足。お世辞にもうまいとは言えない。堂に入っているわけでもない。しかしそれ故彼女の懸命さは群衆の心を掴んだ。雪ノ下の作った張りつめた空気が少しずつ弛緩していく。

 

「えーっと、ちょっと時間余っちゃった…えっとえっと、さっきゆきのんはああ言いましたが、実際のゆきのんはとっても賢くて、とってもかっこよくて、全然素直じゃなくて、たまにかわいい、フツーの女の子です」

 普段の呼び名がこぼれ、雪ノ下の弱点をあげる由比ヶ浜に、会場から笑いが漏れる。彼女は誰でも味方にしてしまうのだろう。その懸命な姿勢で。生まれ持っての素直さで。だから雪ノ下雪乃の隣に立つべきなのは、彼女なのだ。

 

「だからみなさん、ゆきのんに力を貸してください。あたしが大好きな、とってもとっても大好きで尊敬してる雪ノ下雪乃に、清き一票を、よろしくお願いします!」

 深く深く、由比ヶ浜結衣は頭を下げた。会場が湧いたのは言うまでもない。

 

 

 

 二人に作られた空気。会場はいまだにその余韻が残る。恐らく学年でもトップの知名度、人気を誇る二人の演説だ。こうなるのは当たり前だった。では、彼女は。

 

 俺は名前を呼ばれ立ち上がった三浦の顔を見る。そこには不安は見て取れない。昨日までの彼女とは思えなかった。彼女は前だけを見ていた。…その視線の先に、誰がいるのか。想像せずともわかる。

 

 三浦の演説もやはりつつがなく進んだ。事前の選挙活動から考えても、この点は心配してはいない。加えて彼女のかしこまった話し方、染めた黒髪に驚いた人間もいたのだろう。群衆は刺すように彼女を見つめた。

 

「えー、少し時間が余ったので私も…いや」

 三浦は時計を見て、バン、と演説台に手をつく。

 

「あーしも言いたいことを一つ」

 …頼むから余計なことは言うなよ。俺がやりにくい。なぜか笑ったような気がした彼女に、俺は身震いが止まらない。

 

「たぶんみんな知ってると思うけど、あーしは本来こんなところに立つべき人間じゃない。

さっきまでの喋り方だって、公約だって、この髪の毛だってこの日のために頑張って作って、練習しただけ。雪ノ下さんみたいな能力もないし、普段から努力もしてなければ尊敬もされてない。あーしは雪ノ下さんみたいに全部ひとりでやることなんて、絶対にできない。

そんなあーしがここに立ってるきっかけだって別にそんなに大したものじゃない。ただ卑怯なことがしたくなかったから。それだけの理由。

だからあーしが生徒会長になったら、皆にもそういうことはさせない」

 まっすぐに彼女は群衆を捉える。たった一人の視線に、群衆は息をのむ。

 

「あーしが生徒会長になったら、いじめとかそーゆーインケンなことはやらせない。そういう卑怯なこと大っ嫌いだから、それだけは約束する。

でもさっき言った通りあーしには特別に能力があるわけじゃない。あーし一人でできることなんて大してないって、最近よくわかった。

だからあーしが生徒会長になったら、みんなの力を貸してほしい。あーし一人じゃ何もできない。生徒会に課題があったら教えてほしい。クラスで嫌なことがあったら伝えてほしい。問題があれば一緒に悩んでほしい。

あーしは自分のために生徒会長になる。みんなの力を借りる。だからみんなも自分たちのために、自分を大切にできるようにあーしと生徒会を使ってほしい。それがあーしが最後に皆に伝えたかったこと。

だからあーしに。この三浦優美子に。皆さんの大切な一票を、どうかよろしくお願いします」

 

 俺は初めて、三浦優美子が頭を下げる所を見た。その姿はなぜかいつもよりも偉そうで、大きく俺の目に映った。また喝采が湧く。

 

 自分に任せろと言った雪ノ下雪乃。自分を助けろと言った三浦優美子。群衆がどちらを選ぶのか、俺にはもうわからなかった。

 

 しかし、である。

 

 …ちょっと待って、この有名人たちの後に、三浦優美子の後に俺が演説すんの?え?これどういう罰ゲーム?

 名前を呼ばれ選挙台に立つ。全校生徒を目の前に感じ俺は今更ながら思う。今この瞬間の「お呼びじゃない」感、異常です。

 

 しかしそこは慣れたもの。心を閉じ、俺はあくまでも用意したものを読み上げる。事務的な事柄ならば対人でも対物でも変わりはない。

「…ですので三浦優美子さんが生徒会長となった暁には、この学校は確実に良い方向に向かっていくことでしょう」

 作ってある応援演説を読み終えようとし時計を見ると、俺も思いがけず時間が余っていた。自分で思っていたよりも緊張し、早口になっていたのかもしれない。焦る頭で先ほどの彼女らの演説と三浦の俺に対する要求を思い出す。

 

 『だからあーしはあんたを知りたい。…今までさんっざん、あーしに好き勝手言ってきたあんたが、あーしのことどう思ってるか、演説で聞かせてもらうし』

 

 このまま終わったら殴られるんだろうな…。見慣れない黒髪の背中を思い出し、一人静かに震える。

 仕方ない。俺は原稿用紙を置く。時間上限はあと1分ほど。充分だ。殴られるのは嫌だし。

 

 俺はいつものように、口の端だけ持ち上げた。

「えー、俺からも最後に少し個人的なことを。

限りなく少ないでしょうが、俺のことを知っている人もいると思います。ご存知のように俺も本来こんなところにいるべき人間じゃない。はっきり言えば俺は三浦さんと親しいからここにいるわけではありません。別に彼女に好意を抱いているわけでもない。当然でしょう。彼女は有名人で俺は日陰者です。…かかわりなんて持っていいはずもない」

 俺の言葉に群衆はざわめく。よくわからない男が、嫌われ者の男がなにを話すのか楽しみにしている。そんな無責任な期待。ちょうどいい。ただ期待されるより、こっちの方が、汚い感情相手の方がよほどやりやすい。

 

「ただ…無理矢理やらされているわけでもない」

 しかし俺から出てきた言葉は。群衆は静まり返る。

 

「彼女と大して親しくない俺でも、これだけは断言できます。彼女は俺とは違って間違えず、自分の思った道を歩くことのできる人間です。その姿はわがままに見えるかもしれない。傍若無人に見えるかもしれない。実際その通りでしょう。

でもそういう人間にしかできないこともある。そういう姿に救われる人々がいる。それが俺が三浦優美子の推薦人としてここに立っている理由です」

 何を言っている。自らの放つ一言一言に驚きが隠せない。これは俺が言うべき言葉じゃない。俺が言うべきは、これではない。

 しかし、俺の口は勝手に動いて止まってくれない

 

「重ねて言います。本人も言っていましたが、三浦優美子は聖人君子じゃない。品行方正でもない。むしろ問題なんて上げたら両の手でも数えきれない。

だから無理にとは言わない。是非にとも言えない。俺と同じでそんな彼女が会長でもいいと思った人、そんな彼女だからできると思ってくれた人だけでいい」

 

 打算した言葉は、作り上げた表情は、もう出てこなかった。

 

「まっすぐに間違わない三浦優美子に、清くても清くなくても構わない。本物の一票を、よろしくお願いします」

 

 ここ数カ月を振り返る。修学旅行。彼女のせいで俺の告白は届かなかった。誰も傷つけずに終わらせることができなかった。生徒会選挙。彼女のせいで奉仕部はなくなってしまう。俺の日常がなくなってしまう。

 でも彼女は言うだろう。なくなってしまうなら、すでに停滞してしまっているものなら、壊してもっと面白いものを作ればいい。三浦優美子はそういう人間だ。彼女は間違った道に進むことを許さない。彼女がいる時間、俺はことごとく間違えることができなかった。

 

 だからたぶん。俺は少しだけ想像する。彼女が横にいる限り、俺は間違えることができないのだろう。

 

 きっと、これからも。

 

 演説を終え呆然とする群衆を前に、俺は礼をする。席へと戻ろうとした瞬間、背中にポツリポツリと小雨のような音が聞こえる。その小さな粒はだんだんと激しさを増す。

 

 …やはり俺には少しばかり、重い。

 

 

 

 

 

「ねえ、ヒッキー」

 

「なんだ」

 

 放課後の奉仕部室。雪ノ下と三浦は選挙関係のことだろうか。平塚先生に呼び出されて外に出ている。

 

「今日のゆきのんさ…」

 自分から話を振っておきながら、由比ヶ浜は言葉を濁す。なんとなく、言いたいことは分かる気がした。

 

「…ああ」

 今日の演説時の雪ノ下雪乃。彼女は…

 

 俺は由比ヶ浜にかける言葉を見つけられない。それは俺が言ってもいいことなのだろうか。それは本当に雪ノ下雪乃の選択だったのだろうか。

 

 そんな俺の様子をうかがうように、由比ヶ浜は俺に上目遣いを送り、恐る恐る口を開く。

 

「ゆきのんの最後の演説、あんなのあたしたちの打ち合わせにはなかった。ゆきのんが一回決めたことをそう簡単に破るとも、あたし思えないんだ。しかもあんな風に聞いてる人たちに反発されるかもしれないようなこと。もしかしたらゆきのん…」

 

「それはないだろ」

 俺は由比ヶ浜の言葉を即座に否定する。彼女は瞠目して俺を見る。

 

「あいつの負けず嫌いはお前も知ってんだろ。勝負事には真剣な奴だ。引く程な」

 

「…うん。だよね」

 おどける俺に、由比ヶ浜はいつもの笑顔で応じる。

 

「でもヒッキーだって変だったよね。…優美子のことあんな風に思ってたなんて、あたし知らなかったし」

 

「あ、あれは場の雰囲気というか流れというかだな…」

 一転してなぜかジトりとした横目を送る由比ヶ浜に、俺は頭を掻いて答える。いや、だってあーしさんが怖いんですもの。あそこで形式張ったことだけ言ってお茶濁しても、殴られる未来しか見えませんもの。まあだからと言ってあれは、自分でも反省すべきだが…

 

「邪魔するし――」「こんにちは」

 俺が言い淀んでいるその時、聞きなれた挨拶とともに三浦がドアを開け、その後を雪ノ下と平塚先生が続いて部室に入る。

 

「終わったぞ」

 開口一番、平塚先生が俺たちに言い放つ。何のことだろうか。俺と由比ヶ浜が目を合わせると、彼女は息を吐き補足する。

 

「選挙の開票が終わった。彼女ら二人には一足先にその結果を伝えるために職員室に来てもらったんだ」

 

 由比ヶ浜の肩がピクリと動く。俺もそうだったかもしれない。雪ノ下と三浦の様子はいつもと変わらなかった。そんなことがあったとは思いもよらなかった。

 

「そ、それじゃあ結果は…」

 

「まあ待て。もう発表の時間だ」

 平塚先生がそう由比ヶ浜を制した直後。天井のスピーカーから声が聞こえた。

 

「選挙管理委員本部長、伊藤です。本日の生徒会会長選挙結果を公表します。立候補者は二年J組雪ノ下雪乃さんと、二年F組三浦優美子さんの二名です。今回の選挙では投票総数932票。無効票数22票。当選したのは得票数504票で」

 続く名前は。無意識に三浦を見る。彼女の表情は。

 

「三浦優美子さんです」

 

 笑顔だった。

 

「ヒキオ!」

 

「…おう」

 

 らしくなく片手をあげる彼女に、俺もらしくなく応じる。

 

 ハイタッチなど生まれて初めてした。ひりひりとした感触が右手にのこる。ちょ、いてえ。力強すぎるだろ。俺は恨めしい目を三浦に向ける。しかし彼女の笑顔を再度見た瞬間、思い知らされる。なぜだろうか。

 

 その痛みも、悪くないと思えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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今一つ彼も彼女もわかっていない。

 

 立場が人を作る、と言う。

 

 どの状況、どの環境でも同じ振る舞いや信念を突き通せる人間など存在しない。誰しもその時々における環境下で無意識に演技をし、場に合った最適解を導き出している。それこそが社交性とでも呼ぶべきものであり、俺が大体持ち合わせていないものだ。うるせえほっとけ。

それならば常に変わらない人間など存在しないことになる。程度の差こそあれ、人はその環境に合ったそれぞれの人格となると言える。立場が人を作るという言葉の本質はここにある。人は重要なポストに就いた時、その性質や人格の変化が大きくなるからこそ、このような言葉が生まれたのだろう。「人が立場に合わせる」と言った方が正確かもしれない。

 

 そしてそれは彼女にも当てはまるのだろうか。窓の外を見る三浦優美子を眺め、俺はそんなことを思った。

 

 しかしそんな思考も横から飛ぶ軽い声にさえぎられる。

 

「せんぱいー、ここなんて書けばいいか全然わかんないですー」

 一色いろはは甘い声を出し、わざとらしくこちらに体を寄せる。

 

「そこさっき教えただろうが。つーかわかんないことあんなら俺じゃなくて会長の三浦に…」

 

「えー、だって三浦先輩ちょっと怖いじゃないですかー」

 一色はこれ見よがしに俺の袖をつかみ、上目遣いで三浦を見る。そんな挑発的な態度取ると…。俺は恐る恐る三浦を見るが、彼女は頬杖をついて窓の外を眺めていた。会長となり落ち着いたのか上の空なのか。まあなんにせよ助かった。触らぬ神に祟りなし。

 

「一色さん?少し距離が近すぎるのではないかしら?生徒の模範となるべき生徒会が―」

「―そ、そうだよいろはちゃん!ほら、ヒッキーもデレデレしてないで離れて!」

 

 好き勝手にふるまう一色を雪ノ下と由比ヶ浜がたしなめる。しかし当の一色本人の笑みは一層深まる。

 

「別に私たち二人がどんな距離感でも先輩方には関係なくないですかー?せんぱい、別に誰かと付き合ってるわけじゃないみたいですし」

 

「…」

 不敵に笑う一色の言葉に、なぜか三人の視線が俺に刺さる。いや待て、俺は全く悪くない。どう考えても一色が悪い。俺は隣の一色の耳に口を寄せる。近すぎると通報されるので、匂いが届かない程度の距離で。皆も気を付けようね。

 

「…一色、お前絶対楽しんでるだろ」

 

「おっと、せんぱいにはばれてましたか…だってあの2人があんな反応するの、面白いじゃないですか」

 女4人に男1人空間。普段から呼吸をするように男を手玉に取る一色。彼女がとるであろう行動を予想するのは難しくなかった。そしてそれは当然周りの女子達にとっては、見ていて気持ちがいいものではない。だからこそ彼女は同級生の女子達の中に敵を作っているのだろう。

 

「またなんか二人でこそこそ話してるし…」

 由比ヶ浜は少しぎこちない笑顔を一色に向ける。しかし一色の表情は涼しい。

 

「えー、なんですか?先輩と後輩が親睦を深めることがそんなに悪いことですかぁ?」

 

「そういうことじゃなくて、少しは羞恥心と節度を持ちなさいと言っているの。それにそんな男と近い距離に居たらあなたにもよくない噂が立つわよ、一色さん」

 雪ノ下がため息をつきながら一色をたしなめる。いや待て、そう見せかけて息を吐くように俺を傷つけるのを止めなさい。あんまりいじめると泣いちゃうよ?だって女の子だもん。

 

「…噂になるのもいいですね!先輩」

 

「なっ…」

 

 絶句するふたりを前に一色は俺の方を見て、いつもと寸分違わぬ笑みを浮かべる。俺も思わずため息が出る。

 

「おいお前ら、いちいち過剰に反応するからこいつが面白がるんだよ」

 まったく。こんなので勘違いしてしまう男どもの気が知れない。べ、別にさっき上目遣いを送られた時に思わずそのささやかな胸元が見えそうになったとか、なんか髪の毛からいい匂いがするとかそんなことは全然、これっぽっちも思ってませんよ。ええ。

 

「ちぇー、ノリ悪いですよ先輩。自己紹介みたいなもんじゃないですかー」

 

「俺が言うのもあれだが、お前色々人として間違ってんだろ…」

 口を尖らせて机に突っ伏す一色に、俺は呆れるしかなくなる。雪ノ下と由比ヶ浜もさっきまでのきゃるるん☆状態からの落差に驚いたのか、口をあんぐりと開いたままだ。いろはすったら突然低い声出すんだから怖い。中の人怖い。でもかわいい。

 

「とまあ、奉仕部の皆さん。いい加減ネコ被るのも疲れちゃいました。私はこんな感じの女の子です。これから生徒会で1年近く同じ仕事するならいちいち隠しとくの面倒なので、ご了承お願いしますね☆」

 一色はきゃるるん☆と二人に向かって見事なまでの横ピースをかます。かわいいけど全然愛らしいと感じられないのはなぜでしょうか。

 

「は、はは…いろはちゃんすごい子だなぁとは思ってたけど…」

 

「すごいというより、凄まじいというべきでしょうね…」

 由比ヶ浜と雪ノ下はもはやあきれたように一色を見る。その目はどこか別種の生き物を眺めるようなものだった。気のせいかもしれないが、たまに俺に向けられる彼女たちの視線に近い。いや待て、こんな得体のしれない「女子力」(恐怖)を使いこなす生き物と俺を同列に並べるんじゃない。

 

 二人をからかうことにも飽きたのか、一色は由比ヶ浜と雪ノ下に向けていた視線を今度は三浦に向ける。

「奉仕部のお二人の反応は予想通りだったんですが、三浦先輩は随分落ち着いてますね」

 

「…あ?何の話だし一色」

 突然自分に話を振られた三浦は、窓の外に向けていた視線を思い出したように一色に向ける。心なしかその目は険しい。まあいつものことと言えばいつものことだ。しかし一色は最初奉仕部に来た時にはそんな不遜な態度の三浦にびくびくしていたと思うのだが、今はあっけらかんと続ける。

 

「いやー、まあぶっちゃけ三浦先輩もさっきのお二人のような反応をするものだと思っていたんですが…」

 私の見込み違いですかねー。顎に手を当て一色はうーん、とうなる。一色の言っていることが未だに理解できないのか、三浦は怪訝とした視線を俺に向ける。いや、俺に頼られても困るんだけど…。

 

 しかし三浦は俺を見た瞬間にスッと視線を外す。次にいまだに納得のいかない顔の由比ヶ浜と雪ノ下の顔を見て、ああ、とうなずく。

 

「別にあーしはそこの男に興味もないしあんたのおもちゃになる気もない。遊びたいならそこの二人とやってな」

 

「三浦さん、今の発言は聞き捨てならないわね。私は一色さんに遊ばれてるわけでは…」

 

「まあまあ雪ノ下先輩」

 一色はにべもない三浦の言葉を気にするわけでもなく、いつも通りの調子で雪ノ下を制する。しかし三浦の反応から何かを感じ取ったのか、一瞬口角が上がった気がした。

 

「へー、三浦先輩はせんぱいには興味がないんですか。ふーん。へー」

 

「…何あんた、言いたいことあるならはっきり言えし」

 目を細め意味深にうなずく一色に、今度こそ三浦の顔が険しくなる。…俺たちまで面倒ごとに巻き込むのはやめてください。ほら、あーしさんこめかみとかヒクヒクしてるから。眉間にしわ寄ってるから。超怖いから。

 

 しかし一色は余裕の笑みを浮かべ、俺の願いとは反対の言葉が続く。

「いやー、せんぱい選挙の時あんな応援演説してたのに、三浦先輩はほんとに何も思ってないのかなーって思って」

 

 部室の空気が凍り付いた。

 

 あの選挙から一週間。俺のあの演説は奉仕部室の中では一種の「タブー」になっていた。あれはどう考えても俺らしくはない。俺が勝手に黒歴史にするぶんには構わないが、事は三浦も関係している。雪ノ下も由比ヶ浜もそのあたりは察してくれていたのだろう。俺にそれとなくあの演説を非難することはあれど、三浦のいる所では話に出すことはなかった。

 しかし一色いろはは平然とそれを口にした。こいつは軽そうな見た目とは違いバカではない。自ら計算してキャラを演じている。だからこそ最初に奉仕部に来た時、三浦を見て恐縮した。正しく力関係を理解していたからだ。他人の状況や立場、心情を全く想像できない人間ではないだろう。だから恐らく。俺は推察する。何か理由はある。

 

 沈黙を破ったのは由比ヶ浜だった。

「い、いろはちゃん?ほら、その話はいろいろあれだからさ。今ここでするのはちょっとなー、って思うんだけど…」

 

「えー、今ここじゃなかったらいつどこですればいいんですかぁ?というか、私が聞いているのは三浦先輩になんですが…」

 一色はもう一度三浦を見る。三浦は今度は一色から目をそらす。

 

「…そいつが勝手に言ったことでしょ」

 そいつ、というところで俺に目をやるが、またすぐに視線を外す。それを見てまた一色の笑みが深まる。…はぁ。どいつもこいつも後輩に遊ばれて情けなくないのか。ここは俺が一つガツンと、と柄にもなく先輩風を吹かせようとする。断じて照れ隠しではない。

 

「一色、お前さっきから先輩に向かって…」

 

「せんぱいは黙っててください。三浦先輩に聞いてるんです」

 

「はいごめんなさい」

俺は速攻で口にチャックをかける。だっていろはす怖いんだもん。なんか三浦も雪ノ下も由比ヶ浜も全然加勢してくれないし。

 

「三浦先輩、私は三浦先輩がせんぱいの応援演説をどう思ってるのかなーって聞いてるんですよ。別にせんぱいがどう考えてるかは興味ないんです。それこそせんぱいは関係ないんですよ」

 

「…じゃ言い方変える。あんたには、関係ない。これはあーしと…」

 

「三浦先輩と?」

 

「…」

 

続く言葉は何だったのだろうか。何かためらう三浦を前に、一色が手を叩く。

 

「なるほど、わかりました!確かに私には関係ない話です。三浦先輩、失礼しましたっ」

 

 素早くペコリと頭を下げる一色は、すでに視線を三浦から先ほどの書類に向けているが、顔は意味ありげに笑っている。そんな一色を雪ノ下と由比ヶ浜が不思議そうに眺め、三浦のこめかみには青筋立っている。

 

「ちょ、一色、あんたさっきから…」

 

「失礼する」

 

 三浦が一色に再度食いかかる瞬間、生徒会室のドアが勢いよく開く。訪問者は三浦と一色を見るなりおや、と首をかしげる。

「取り込み中だったかな?」

 

「…平塚先生、言っても無駄かもしれませんが、ノックを」

 

「ああ、悪い悪い」

 例によって雪ノ下に咎められる平塚先生は、特に気にする風もなく手をひらひらと振る。いい加減雪ノ下もあきらめが悪い。

 

 平塚先生は俺たちを見渡し、何度か満足そうにうなずく。

「なるほど、面子が面子なだけに心配がなかったと言えばうそになるが、なかなか仲良くやっているようだな」

 

 どこがだ。さっきまでぎくしゃくしていた生徒会室内の空気が初めてまとまった気がした。

 

 

 

「さて、引き継ぎも終わり君たちはこれから本格的に生徒会の仕事に取り掛かるわけだが…早速一件、仕事がある」

そう切り出した平塚先生は会長である三浦に何やら資料を渡す。その資料を俺の左隣にいる一色が身を乗り出すようにしてのぞき込む。ちょ、いろはす近い近い。

 

 生徒会室の席順は、俺と一色が長方形の机の長編に座り、由比ヶ浜と雪ノ下はその向かい、そして三浦は以前の雪ノ下の位置、つまり窓側の席に座っている。いわゆるお誕生日席である。ならば以前の俺も毎日奉仕部室の誕生日席に座っていたわけだ。夏休みのど真ん中、両親はもちろん小町にすら大して祝われない誕生日。わーい。

ちなみにこの席順はすぐに決まった。三浦と雪ノ下、三浦と一色を隣にすれば問題が起こるとわかりきっていたため、彼女たちを少しでも離すように俺と由比ヶ浜が間に座っているわけである。

 

「ほえー…合同クリスマスイベント、ですか?」

 

「そうだ。海浜総合高校と総武高校が合同で、地域の老人と子供に向けたクリスマスパーティーを企画することになった。君たちには総武高校を代表してこの企画に参加してもらいたい」

間の抜けた声を出す一色に平塚先生が説明を加える。俺は内容を聞いた瞬間に帰りたくなった。…なんでそんな面倒なことを。俺は小さく手をあげる。

 

「そのイベントへの参加は決定事項ですか?」

 

「参加するかどうかは君たちの裁量に任せよう。しかし新生徒会になってちょうどいい機会だ。私としてはやってみたほうがいいんじゃないかと思っている」

 

「いや、でもまだ慣れない新体制ですし、失敗した時にその責任が自分たち以外のところに飛び火するような行事に参加するのは…」

 

「そんなことを言うならむこうだって新体制さ。何事にも最初というものはあるものだよ」

 

「でもですね…」

 

「比企谷?」

 まだ食い下がる俺に、平塚先生は優しく笑いかける。わぁ、いい笑顔。

俺はいい加減口を閉じる。こうなったときの彼女相手に、俺に拒否権が存在し得るだろうか、いやない。

くわえて一介の下っ端に拒否権があろうはずもない。俺の生徒会での肩書は庶務。つまり雑用係だ。会長が三浦、副会長が雪ノ下、会計が由比ヶ浜、書記が一色だ。

 まあどうせクリスマスの日も家にいるだけで何か予定があるわけでもない。老人と子供たちを対象にしたイベントならば当日の帰りが遅くなることもないだろうから、小町とのクリスマスケーキも問題なく食べられるだろう。なんなら生まれてこの方クリスマスを小町以外と過ごしたこともないわけだが。なにそれ実質恋人じゃん。

 

「平塚先生、この資料は一見すると海浜総合高校側が作ったようですが、このイベントはあちらから誘われたものでしょうか?」

 

「ああ、そうだ」

 

「ではこのイベントは海浜総合高校が主体で、私たちは彼らの補佐的な役割をすればよいのでしょうか?この資料からは私たちがどのようなスタンスでイベント企画に参加すればいいのか、今一つ不明瞭なのですが」

 雪ノ下の質問に、一瞬平塚先生の表情が苦々し気なものになる。

 

「いや…恐らく君たちは彼らと対等な立場でイベント企画に参加すればいい…だろう。企画打ち合わせ段階から好きなように口出ししてかまわない…と思う」

 

「なんすかそのあいまいな説明は…」

 恐らく、だろう、と思う。なんと便利な言葉だろうか。そう言っておけばとりあえずの責任を回避することができる。普段自分でつかっているだけに嫌な予感を感じずにはいられない。

 

「ま、まああっちも慣れない生徒会業務で戸惑っているのだろう。そのようなもろもろを聞き出すことも仕事のうちだよ。円滑なコミュニケーションから物事は始まるのだから。あははは」

 

 「…」

 部室にまた不穏な空気が流れる。常に面倒ごとしか持ち込まない人間である。いい加減由比ヶ浜も学習したのか、訝し気に平塚先生を見ている。

 

「つーか」

 不穏な空気を破ったのは三浦だった。

 

「話にならないっしょ。あーしクリスマスは…は、はや…だ、大事な予定あるし。そんなことしてる場合じゃないっての」

 三浦は頬杖をついて興味なさげに言う。その顔が一瞬赤くなったが、わざわざ言い直さなくても全員その人のこと知ってると思いますよ、三浦さん。

 

「待ちなさい、三浦さん」

 

「…あ?」

 また窓の外を見る三浦に、今度は雪ノ下が突っかかる。

 

「確かにイベント企画に不可解な点はあるけど、あなたの個人的な理由で生徒会の行動を決めるわけにはいかないわ。初めにそれを認めたら今後も生徒会はあなたの私的な理由で動くことになる。それは正しい生徒会の形じゃない」

 

 早口で言い切る雪ノ下を三浦がにらみつける。しかし雪ノ下も引かない。教室の空気が凍り付く。気のせいか胃がキリキリしてきた。が、俺にはあの戦場に身を投げるような覚悟はない。くわばらくわばらと心の内でつぶやきながら、腕組みをして考えるポーズをとる。横を見ると一色も我関せずの態度で資料を眺めている。やはりなかなか賢いようだ。こいつも俺と同じで「やってますアピール」をしつつ手を抜ける人間だろう。見込みがある。俺の中の一色への評価を一段階上げる。人間としてはろくな評価じゃないけどね!

 

 しかしこの世には無駄な努力が好きな人間もいる。由比ヶ浜は慌てて両手を広げ、まあまあと二人を制す。

「ほ、ほら優美子!平塚先生もやったほうがいいって言ってるし、生徒会の初仕事がイベントごとって、思い出に残りそうでよくない?やってみようよっ」

 

「でも結衣、あーしは隼人と…」

 

「えっ、でも」

 思いつめた顔でつぶやく三浦に、由比ヶ浜は何か言いかけすぐに押し黙る。再び訪れる沈黙を平塚先生が破る。

 

「一色、比企谷。君たちはどうかね。このイベントに参加したいか?」

 

「んー、私は別にどっちでもいいですよ。予定はあると言えばありますけど、どうでもいいおと…家族と夜ケーキ食べるくらいですし。それに一番年下ですから、先輩方の決定に従います☆」

 あざとく言う一色に由比ヶ浜が苦笑するが、俺には平塚先生のこめかみに青筋が立ったのが見えた。…先生、よければ僕が一緒にクリスマス過ごしましょうか?

 

「ひ、比企谷君、君はどうだ?」

 

「クリスマスに家から出たら負けだと思っています」

 

「君は参加、と」

 

「耳ついてますか先生」

 俺の異論を気にすることもなく平塚先生は続ける。

 

「で、どうだ三浦。生徒会では参加が多数派だが、?君の様子だとよほど重要な用事がクリスマスに入っているようだ。よければ内容を聞かせてくれないか?」

 

「うっ…」

 三浦がぎくりとした表情を浮かべ、由比ヶ浜があちゃーと額に手を当てる。…まさか。雪ノ下も思い当たったのか、三浦に恐る恐る尋ねる。

 

「三浦さん、あなたもしかして…まだ誘ってないの?」

 

 雪ノ下の質問に三浦の返答はない。しかしその赤く染まった顔、震える肩から全員が察する。いやまあ、知ってましたよ。この人が乙女だということは。大方葉山から誘われるのを待っているのだろうが、万に一つもあの男は自分からは誘わないだろうし、二人きりの誘いに応じることはないだろう。

 微妙にいたたまれない空気になるが、一人だけ喜色満面で間延びした声をあげる人間がいた。

 

「なぁんだ、三浦先輩、葉山先輩のこと誘ってないんですねー。そっかそっかー」

 言うまでもない、一色いろはである。この後輩も葉山と同じサッカー部にマネージャーとして籍を置いているようで、葉山絡みのことで度々三浦と衝突していた。しかし彼女の場合、三浦と違って 葉山に特別な感情を抱いているというよりは、むしろ…。

 俺は自分の妄想を頭を振って追いやる。自分の知っている情報だけで他人をわかった気になるのは、悪い癖だ。ごまかすように俺は思わず口を開いてしまった。

 

「…なら葉山もそのクリスマスイベントに誘えばいいんじゃねえの。初めての生徒会の仕事だし、もしかしたら手も貸してくれるかもしれんな。あいつだってお前の言うことだったら少しは耳貸すだろ。知らんけど」

 

「…ヒキオ」

 

 ついらしくないことが口をついて出てしまった。どうもこいつがいると調子が狂う。この先生徒会としてやっていくとすると、ずっとこうなのかと思うと気が重くなる。

 

「そ、そうだよ優美子!どうせ隼人君のこと誘えてないんだから、この際だし何気なーく呼んじゃえばいいんだよっ」

 

「…そ、それもありかも、だし」

 

「…まあ三浦さんが仕事をする気になったならそれはそれで…でも結局生徒会を私物化していることに変わりは…」

 

 由比ヶ浜と三浦の顔は少し明るくなり、雪ノ下はまだ何やらブツブツとつぶやいている。隣の一色はなにやら2,3回うなずいたと思えば、俺に耳を寄せる。

「三浦先輩、せんぱいの言うことは素直にきくんですね」

 

「…何が言いたい」

 

「やだなぁ、そんな怖い顔しないでくださいよ。仲いいなー、って思っただけじゃないですか」

 

「目付き顔付きが悪いのは生まれつきだ」

 

「ぷ…。目付きはともかく顔付きって何ですか、顔付きって」

 

「あいにく自分の顔自体は悪いと思ったことはなくてな。…で、なんだ」

 

 俺の言葉に一色はまたくつくつと笑い、からかうように上目遣いを送る。

「せんぱい、小学校の時に気になる子にいじわるしたこととかないですか?」

 

「…なくはない」

 

「じゃあ気になる子になぜかそっけなくしてみたりとか」

 

「男ならないほうが珍しいんじゃねえの、それ」

 小、中学校を思い出すと自分も周りも、男はそんな連中ばかりだった気がする。わざとやっているというよりは気になる異性との適切な距離の取り方がわからないのだ。その結果女子にちょっかいをかけてしまうか、必要以上に何でもないふりをする。

 

 一色は俺の言葉にまた満足そうにうなずき、耳打ちする。

「三浦先輩もせんぱいも、まだまだ子供ですよね」

 

 俺は顔をあげ一色を見る。そこにあるのは大抵の人間が騙されるだろう、穢れのない笑顔。俺には真っ黒にしか見えなかった。

 呑まれそうになりながらも、俺は何とか口をゆがめる。

 

「…バカかお前。男はいつになっても少年の心を忘れねえんだよ」

 

「訂正します。まだまだガキですね、せんぱい」

 

「うるせえ。日曜に早起きしちゃって何が悪いんだよ」

 

「何を言っているかわからないんですが…」

 一色は目を瞑り額に手を当てる。日曜の朝と言えば、あれを見ないと始まらないだろうが。国民的美少女アニメ。あっ、少年だったらライダーものか戦隊ものだったね!

 

一色は小さく咳ばらいをし、続ける。

「はっきり言わないとわかりませんかね。三浦先輩、全然せんぱいの方見ないでしょ?それこそ必要以上に」

 

「もともと仲良しこよしじゃねえよ。カーストトップとワースト、いがみ合うことすらねえ」

 

「まーた話をすり替える…私、先輩には期待してますから、その調子でどんどん三浦先輩と仲良しこよしになっちゃってくださいね。私と葉山先輩のためにも!」

 何か野望に燃えているような一色は、ふっふっふと笑い俺と三浦を交互に見る。自分の中でどんどんと勝手に話を進める一色を見て、俺はため息をつく。

 

 だめだこいつ、早く何とかしないと。

 

 



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やはり彼女は見透かしている。

「今日はこのくらいでいいっしょ」

 

 生徒会としてクリスマスイベントには参加することになり、時計を一瞥した三浦が終業を告げる。一色はお先に失礼します、と早足に生徒会室を出ていく。三浦もいち早く出ていく後輩にあきれながらも、少し急いで帰路に就く。雪ノ下と由比ヶ浜は奉仕部の時と同じように生徒会室の鍵を職員室に返しに行く。生徒会発足から一週間、この光景も少しは見慣れた。俺は薄暗い廊下で一人マフラーを巻き、下駄箱に向かう。しかし今日は横から声がかかった。

 

「寄り道せずに早く帰りたまえ、比企谷。生徒会なら下校時刻は守らねばならない」

 

「それ、生徒会じゃなかったら守らなくてもいいように聞こえるんですが」

 引っかかる物言いをする平塚先生に俺は手袋をはめながら尋ねる。平塚先生はにやりと笑う。

「少しは規則を守らない生徒がいなければ、君たちもやりがいがないだろう?」

 

「下校時間は終業時間ですよ。残業は御免だ」

 

「いい心がけだ。残業など進んでやってもろくなことがない」

 

「そうすね。増やしすぎても就業時間で仕事が終わらない無能だと言われ、本当に必要な時だけ入ればやる気が足りないと小言を言われる。なら最初っからやらないほうがいい。お互い諦めもつく」

 

「…確かに正しいが、それは働いたことのない者の理屈だよ、比企谷。決して進んでやる必要は無いが、残業は、そこにあるものなんだ」

 なぜか遠い目をする平塚先生は仕事の愚痴を始める。俺が適当に相槌を打っていると、下駄箱に着いた。

 

「じゃ、お疲れ様です」

 

「ああ、お疲れ。…比企谷」

 平塚先生は腕時計を眺め、髪をかき上げる。夜の闇と相まって、いつもは見ない仕草に少しドキリとする。もう下校時間を過ぎているからだろうか。薄暗い照明に照らされる彼女からは、「先生」という肩書が少し薄れている気がした。その彼女が次に放つ言葉は。俺は続きを待つ。平塚先生は考え込むように天井を仰ぎ、数秒思案したかと思えば大きく息を吐く。

 

「少し、付き合わないか?」

 

「…はい?」

 間の抜けた声が出た。お付き合いなら結婚前提でよろしくお願いします。専業主夫志望です。

 

 

 

 

「ほれ。飲みたまえ」

 

「ども」

 

 平塚先生からコーヒーが投げ渡される。微糖。その二文字が街灯に照らされる。俺は少し顔をしかめそれに口をつける。苦い。平塚先生の片手に握られたそれを見る。無糖。超苦い。

 学校から少しだけ離れた空き地。自販機の近くに平塚先生は自慢らしいスポーツカーを止めた。俺の自転車もその近くに止めてある。周りは住宅街で、空き地は見捨てられたように雑草が茂っている。平塚先生と愛車、背景の雰囲気がどう考えてもちぐはぐで、妙に落ち着かない。

 

「…で、なんすか。寄り道するなと言ったのは先生ですが」

 俺はその居心地の悪さから平塚先生に話を促す。まさか愛の告白というわけではあるまい。しかし。俺は最近男関係での愚痴が多い平塚先生の様子を思い出す。…ないよね?

 

 彼女はふー、とため息とともに煙を吐き出し、車に寄りかかる。

「正直、驚いたよ」

 

「何のことです?」

 

 今日は特に問題を起こした覚えはないが…俺は過去の所業を振り返り、少し身構える。平塚先生はそんな俺を見て苦笑いを浮かべる。

「別に叱りたいわけじゃない。…三浦と君のことだ。応援演説をすると言った時も驚いたが、まさか君があそこまで三浦に肩入れするとは思っていなかった」

 

「…一応推薦人ですから、受けた分の仕事はしますよ」

 

「あの最後の演説も、お役目分なのかな?」

 俺の目をのぞき込む平塚先生から顔を背ける。俺とてあれは黒歴史の部類に入る出来事だと思っているのだ。理屈も通っていなければ役割分の仕事も果たせていない。口調が固くなるのを自分でも感じた。

 

「時間は有限です。それに終わったことだ。そんなことが話したかっただけなら俺は…」

 

「違う。これはその仕事についての話だ」

 平塚先生は厳しい目を俺に向ける。まあ、聞け。そう諭すように言い、髪をガシガシと掻く

 

「実はな…三浦優美子は生徒会長にはふさわしくないんじゃないか、という声が職員の中から上がっている」

 

「…そんなの」

 

「そうだ。そんなの、いまさら結果に何の影響も及ぼさない。選挙で決まったことだし、生徒会というのは生徒たちが運営していくものだ。だから別に彼女を会長から下ろすなんてことも当然ない。生徒たちの心情的にも、制度的にも、そんなことが許されるわけがない」

 平塚先生は俺の言葉を先回りする。ならばなぜ。

 

「ならなんでそんなことを話すんです」

 

「…選挙前からこうなることは予想していた。彼女の普段の言動、容姿から考えれば当然ともいえる。はっきり言ってしまえば教師の大半は三浦に良い感情を抱いてはいない。どうせ雪ノ下が勝つと大半のものが思っていたから、大きく問題にはされていなかっただけだ」

 平塚先生は車に付いたかすかな汚れに気づき、コートの袖で拭く。それは無意味な時間稼ぎのように見えた。質問の答えになっていない。もう一度同じ質問を繰り返す。

 

「なぜ、俺にそんなことを話すんですか」

 

「…あの演説をした君には、知っていて欲しかった」

 平塚先生は俺を見た。いつもすべてを見透かしているような、なにも見えていないような。底の知れない瞳で俺を見た。

 

「時に比企谷、君は今回の選挙、どうなると予想していた?」

 

「それも終わったことです。今更始まる前のことを話しても不毛でしかない」

 

「まあそう言うな。単なる興味だ。テスト後の答え合わせのようなものさ。意味はなくても、意義はある。…みんな不安なんだよ」

 

 そんな言葉が彼女から出るとは思っていなかった。俺は少し驚く。弱みを見せる彼女は初めて見た気がする。やはり、今の彼女は教師として話しているのではないのかもしれない。

 

「先生も不安なんですか?」

 

「ん?君は私をなんだと思っているんだ?私はしとやかで奥ゆかしい、大和撫子そのもののような女だぞ。怖いに決まっている」

 にやりと口の端を持ち上げる彼女に、思わず肩の力が抜ける。どこが、と小さくつぶやくとアイアンクローをお見舞いされた。まじで、痛い。

 ひりひりと痛む頭蓋をさすりながら、俺は口を開く。

 

「選挙の予想、ですか。…3:7だろうと、三浦には言いました」

 

「3:7、か」平塚先生は俺の言葉を聞いて鼻を鳴らす。「つくづく甘いな、君は」

 

「ひいき目に見て、ですよ。本番前に必要以上に落ち込ませる意味はないでしょう。実際の勝率はたぶん二割もなかった…」

 俺の声は彼女に阻まれる。

「それが甘いと言っている」

 一転、彼女は非難するように俺を見る。今度は教師の顔になっていた。彼女はいつでも、こうやって俺を叱るのだ。今度は茶化すことも、茶化されることもできない。

 しばらくにらみ合い、平塚先生が思い出したように吸いさしのたばこをエチケットケースにねじ込む。

 

「二割、か。ではなぜ三浦は今回の選挙で雪ノ下に勝利することができたのだろう」

 

「…考えられる要因は3つ。三浦が予想以上に選挙活動時、演説時に持ち前の度胸を発揮し、堂々とふるまったこと。彼女の普段とのギャップに生徒たちが驚いたこと。マイナスからプラスへ転じたほうが、インパクトも振り幅も大きいですから。そして雪ノ下が…」

 しまった。俺は口をつぐむ。甘いと断言されたことでつい言い返したくなってしまった。突然黙り込む俺に平塚先生は先を促す。

 

「雪ノ下が…どうしたのかな」

 その目が、適当なことを言うのを許さなかった。ここまで来て、か。俺は選挙後に由比ヶ浜と話したことを思い出す。彼女も疑問に思っていた。恐らく平塚先生も気づいているだろう。俺はなんとか口を開く。

 

「雪ノ下はわざと負けようとしていたのではないか、と」

 

「…君にはそう見えたと」

 

「少なくとも確実に勝ちたかったらあんなことは言わないでしょう」

 最後の雪ノ下の演説。自分がすべての相談に乗ると。自分が一人だけの力でこの学校を変えると。演説後、彼女は確かに喝采を浴びた。しかしそれは生徒たちが彼女に圧倒されただけだ。彼女のカリスマに。彼女の迫力に。支持をした生徒もいただろうが、そうでない者もいた。雪ノ下も三浦と同じで各方面で傍若無人にふるまっている節がある。その不穏分子とでも呼ぶべきものがあの傲慢とも取れる演説で爆発したのではないか。俺が選挙後に考えていたことだ。

 

 適当に平塚先生にそんなことを言うと、彼女はまた鼻を鳴らす。

「なるほど。ではなぜ雪ノ下はあんなことを言ったのだろう。彼女は賢い子だ。その程度のことは分かっていそうなものだが」

 

「それは…」

 それを聞かれると俺は何も言えなくなる。それについてはいくら考えても答えが出なかった。雪ノ下があの場で、全校生徒の前であんなことを発言する意味。元々が勝ち戦だったのだ。それをふいにするかもしれない。そこまでのリスクを負ってあの布告をした意味。その意義。俺にはわからない。

 何も言えなくなった俺に、彼女は今度は微笑んで頭に手を置く。俺は無意識にそれを振り払う。

 

「では質問を変えよう。君はなぜあの演説をしたのかね。君は確実に勝つためにあの内容の演説を作ったのか?」

 

「…いえ」

 俺は小さく首を振る。そもそもあんな内容、原稿に起こしてすらいなかった。言おうとも思っていなかった。口をついて出てきた。それだけだ。

 

「それが私が、きみの二割という予想が甘いと言った理由だよ」

 彼女は今度は俺の額を指で小突く。気安く男に触っちゃいけません。俺は小突かれた額をさすりながら、今度は夜空を仰ぐ平塚先生を見る。

 

「人の心は数字じゃない。これは実際の選挙のような票取りゲームじゃなかったんだ、比企谷。そもそも普通の選挙とは違って絶対数が少ない。対象も無作為に抽出された人間ではない。様々な土地からやってきている、総武高校という学校に入ってきた生徒たちでの選挙だ。年齢も偏っている。結果など感情ひとつでいくらでも変わるものさ」

 

「感情、ですか」

 今一つ要領を得ない。彼女の言わんとすることがはっきりとしない。それぞれの候補者が自らを売り込み、選挙権を持つ生徒たちが自らにとって利のある方に投票する。その利の中には恋愛感情や仲間意識など、俺の思う「感情」も含まれる。それは計算できる。二割という勝率は、彼女の人間関係を把握したうえで俺が出した数字だ。実務、能力、人格で雪ノ下に劣る三浦は、有り体に言ってしまえばコネでしか票が取れないと思っていた。いくら顔が広くても全校生徒の半分以上と親密などということはあり得ない。だから相当甘く見積もっての二割だった。しかし俺の予想はことごとく外れた。平塚先生の言っている「感情」とは違う。彼女は「感情」は計算できないと言った。

 いまだに理解が追い付かない俺に、平塚先生は今度はあきれた声を出す。

 

「君が出した数字は、理屈の上でのものだ。電卓の上でならそれも正しかろう。しかし人は最後は理屈では動かない。君もよく知っているだろう?人は最後は感情で動く。特に君たちのようなまだ若い子たちほどそれが顕著だ。

君が先ほど挙げた三浦が選挙で勝利した理由。あれらは要素であって本質ではない。生徒たちは三浦に、そして君により心を動かされた。だから君たちに票が入った。それだけだ。答えはいつだって君が思っているよりずっと単純で、ずっとよくわからないものなんだ」

 

「…でもそんなあいまいなもの」

 俺はうつむいてつぶやく。そんなもの、どうやったって計算には入れられない。いつだって人に揺り動かされ、感情などというバケモノのようなものに飲みこまれ、そしてそれをよしとしなければならない。俺はそんなわけのわからないものから距離をとりたかった。逃げたかった。いままでの人生、小学校も中学校も俺はそれで失敗した。今度は間違えたくなかった。だから…。

 

 何も言えない俺に、平塚先生は優しく微笑みかける。

「当然、理由付けならいくらでもできる。さっき君が言ったように、雪ノ下の最後の演説も彼女自身の票を落とす結果につながっただろう。加えて由比ヶ浜。雪ノ下の弱点をあげ、壇上で候補者をあだ名で呼ぶのはいくら何でもいただけない。君と三浦。一見相いれないような組み合わせがギャップを生み、その意外性が票につながったのかもしれない。しかし。しかしだ、比企谷。繰り返すがそれらは要素であって本質ではない。なぜ雪ノ下が由比ヶ浜との打ち合わせにない演説をしたのか、なぜ君が三浦の推薦人となり、反対に演説台では推薦人らしからぬ演説をしたのか。私にだって本当のところはわからない。しかしそれでいいんだ。むしろそうでなくてはダメなんだ。それが感情であり、本質であり、本物なんだと私は思う」

 

 彼女はまるで自分に言っているように、言い聞かせているように繰り返した。そういう顔をされると、俺もまた何か言い返したくなる。

「でもあんな演説0点もいいところですよ。本来ならいつもの俺のペシミスティックで説得力のある弁舌をですね…」

 

「バカ者。君の弁に説得力があることは否定しないが、あんな場で厭世的な何かを訴えてどうするんだ。バカな文章は国語の宿題だけで充分だ」

 目を合わせ、ひとしきり笑う。まったく、俺らしくない。平塚先生は続ける。

 

「確かに推薦人としてはあの演説は0点だった。立候補者を悪く言ってどうする。しかも自分とは違う世界の人間だなどと…聞いていて肝を冷やしたぞ」

 

「すいません」

 素直に謝っておく。演説中も怖くて平塚先生の顔は見られなかったのだ。

 

「ただ、比企谷。彼女の近くにいるものとしての言葉であれば、あの演説は悪くなかった。…いや、悪くなかったどころか、褒めてやる。君の弁舌に初めて花丸をあげよう。喜びたまえ」

 

「…別にいらないですよ、あんな破綻してるものに。あれこそ意味のないものの極致でしょう」

 

「そうとも言えるな。君はあれをあの場で言った理由を説明できなかった。意味がない証拠だ。しかし、得てして本物というのは言葉にはし難いものだ。…さっきも言ったかな。意味はなくても、意義はあるものだよ」

 

 してやったり、という風に平塚先生は笑う。俺は思わずため息をつく。

「さっきから使ってるそのフレーズにこそ、意味も意義もない」

 

「おっと、これは失礼した。私は実は国語教師なものでね。無駄な言葉遊びなら死ぬまでだってできる」

 彼女は苦笑いを浮かべ両手をこすり合わせる。俺も付き合い程度に笑う。俺も同じだったからだ。

 

「そういえばまだ最初の質問に答えていなかったな。彼女を問題視する声が上がっていることを君に伝えた理由」

 

「別にいいですよ」

 

「聞くまでもない、か?」

 平塚先生はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。

「彼女を支えてやれ、比企谷。皆、一人で立っていられるほど強くない」

 

「…依頼分の仕事はしますよ。アフターケアも含めて。クレーム入れられても面倒だ」

 

「まったく、君はつくづく社畜の才能があるな」

 いらねえよ、そんな才能。また楽し気に笑う彼女を前に、俺はマフラーを巻きなおす。きつく。いい加減寒くなってきた。

 

「…先生、俺はそろそろ」

 

「ああ。引き留めてすまなかったな。…比企谷」

 

「なんですか?」

 平塚先生は車のドアを開け、屋根の部分に腕と顎を乗せる。気取った仕草だが、妙に絵になっているから美人はずるい。

 

「君が理解出来なかった雪ノ下の演説。雪ノ下はわざと負けたわけではないと思うぞ」

 

「…そうですかね」

 

「ああ、そうだ。彼女の演説も0点ではあったが、君と同じで花丸だよ。…あれだけ負けず嫌いな子もいないだろう?」 

 

 違いない。そう笑って、俺は自転車にまたがる。後ろからは聞きなれないエンジン音がうなりをあげている。挨拶はそれで済んだ気がして、俺はさっさとペダルを踏んだ。

 

 もしかしたら自分で思っているより、俺も負けず嫌いだったのかもしれない。

 



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しかしそこは振り出しではない。

 意識しなければよかった。そう思うことはよくある。

 

 例えばホラー番組を見た日の夜。トイレに立つ。毎日往復する廊下だ。特別なことなど一つもない。行きではホラー番組を見たことすら寝ぼけて覚えていない。しかし寒さで頭が冷えた帰り。ふと今夜見たモニター上の幽霊の顔が目に浮かぶ。一度思い出すともう止まらない。恐怖が恐怖を呼び、再び布団に入りぬくもりを感じるまでそれが収まることはない。例えば甲子園決勝。何千回、何万回と繰り返したであろうゴロの処理。ここまで来るのに血のにじむ努力を重ねてきた。期待してくれる人も大勢いる。プロへの未来がここで開けるかもしれない。そう思う度に体は固まり、小学生でもしないようなトンネルを、プロにも肉薄する技量を持つ高校球児が普通にする。

 どちらも要するに想像力の問題だ。もしかしたらあのお化けが出るかもしれない。後ろにいる気がする。もしかしたら捕球を失敗するかもしれない。失敗したら大勢の期待を裏切る。一度想像してしまえばそれは歯止めが利かなくなり、事が終わるまで収まらない。

 

 俺が彼女に対して感じていることも、彼女の俺に対する態度ををおかしいと感じるのも、つまりそういうことなのだ。俺はクラスの喧騒の中、一人自らを納得させる。「三浦先輩、全然せんぱいの方見ないでしょ?それこそ必要以上に」生意気な後輩の言葉から無意識に想像を膨らましているだけにすぎない。「彼女を支えてやれ、比企谷」お節介焼の独身教師の言葉が脳裏に引っかかっているだけだ。特段意識しているわけでもなければ、彼女も俺も互いに思うところなどない。その証拠に一色と平塚先生の話を聞くまでの一週間、別に俺は特に違和感もなく過ごしていた。すべてが想像の産物。あふれんばかりの十代の妄想力が成す技である。ぼっちの妄想力なめんじゃねえぞ。こっちは17年間妄想とともに生きてきたんだよ。いや、きもいな。

 

 自己の状況を整理し終えた俺は、満足していつものように机に突っ伏す。夏の教室は熱気に包まれているうえ、クラスの連中の喧騒がやかましく、ろくに寝られたものではない。しかし12月も半ばの今、暖房がきく教室内は心地よい温度となっている。廊下際の俺の席は人の出入りさえなければ外気の冷たさも程よく感じられる位置だ。まあ別に本当に寝ているわけではないが。

 平塚先生からイベントについて聞かされた翌週。今日から実際に海浜総合高校と合同で話し合いを進めることとなった。何やら少し聞いた話によると、急遽もう一校学校が参加する運びとなったらしい。リア充ってのはなんで何でもかんでも誰かとやりたがるんですかね…。違う学校に通っている人間、学力も環境も人間関係も違う。集まり過ぎたところで碌なことにならない。まして普段から自分の学校の中だけで生活が完結している人間がほとんどだろう。学校毎の仲間意識がそれぞれの学校を孤立させることになる可能性が高い。…あ、なんか偉そうにのたまったけど、八幡自分の学校でも一人だったね!てへっ★

 

「ヒキオ。ぼーっとしてんな。さっさといくし」

 後ろから三浦の横柄な声がかかり、ついでに俺の椅子の脚が揺れる。

 

「…おう。つーか蹴らなくても言えばわかる」

 文句を言うと同時に後ろを振り向くが、そこには声の主はいない。教室のドアを見ると既に三浦は鞄を片手に下げ、さっさと廊下に出ていた。同じく廊下から由比ヶ浜が苦笑とともにこちらに手を振ってくる。

 

 件の平塚先生と一色の言葉から妙に俺が意識してしまっているだけだろうが、俺は選挙の一件から三浦の俺に対する態度が変わったように感じてしまっている。いや、変わったというより戻ったというべきだろうか。朝三浦が俺に机を独占することはなくなり、昼休みもベストプレイスに来なくなった。カーストトップと底辺のあるべき姿。収まるべき場に収まったというところだ。

 しかし先程のように、完全に無視されているわけでもない。俺としては真綿で首を絞められているような気分である。…いや、別に俺は悪くない。後輩と教師が悪い。

 教室を出てそんなことをつらつらと思っていると駐輪場に着く。寒空の中俺は一人自転車にまたがる。クリスマスイベントの会場であるコミュニティセンターは学校からそう遠くない。徒歩でも10数分、自転車ならものの数分で着いてしまう。俺以外の生徒会メンバー二年一同はどうやら仲良く一緒に向かうらしい。一色は部活に顔を出してから行くこともあるので基本一人で行くという。…別に寂しくなんてないもん。

 

 二つの意味での寒さに体を震わせていると、前から見知った顔が歩いてくる。 

「あっ、せんぱい」

 

「…なにやってんの、お前」

 

 コミュニティセンターはもうすぐ近く。俺の眼前からはコンビニの袋を重そうに持つ一色が歩いてきた。

 

「なにって…今日話合いでしょ?お菓子の一つでも持ってかないと、もしあっちが持ってきてた場合バツ悪いじゃないですか。別に誰も用意してなくてもあって困るものでもないですし」

 

 ほう。俺は心中少し感心する。何事も最初が肝心とはよく言ったもので、こういうことは向こうがやってからではすでに遅い。まず自ら動くことでそこに誠意や努力と言ったものをあちらが勝手に見出してくれるのだ。一色いろは、やはり馬鹿ではない。当然のように俺に言う一色を見て俺は彼女を再評価する。後輩としてそれを率先して行おうというかわいさもあるではないか。

 俺の関心もつかの間、それに、と一色は口を歪める。

 

「主催のあっち側から予算多く引っ張れるんなら、好きなだけこっちで使った方がいいに決まってるじゃないですかー」

 

 …ごめんなさい、俺が甘かったです。俺はまた一色の評価を見直す。こいつかわいくはあっても愛されはしねえ。はっきり言って怖い。ふっふっふと低く笑う後輩を前に、俺は本気で身震いする。

 しかし後輩にやってもらいっぱなしというのもどうも居心地が悪い。俺は一色に手を差し出す。

 

「…は?なんですか?」

 

「…俺が持つ。寄越せ」

 

 俺が手を伸ばした瞬間、一色の体が同じ分だけ後ろに飛びのく。ちょっと、そういうことやられると中学校の時に落ちてる消しゴム女子に渡して、次の時間には憐れ消しゴム、ゴミ箱に直行していた思い出がよみがえるからやめて。警戒体制のまま一色は唸る。ネコかこいつは。

 

「なんですか口説いてるんですか?先輩はそういうわかりやすいことしないと思ってたんですが、私にはすでに葉山先輩という心に決めた方がいるのでまじで先輩の気持ちには応えられません。正直ちょっと引いてます。ごめんなさい」

 

「あほ。単純に女子の後輩に買い出し行かせて荷物まで持たせんのは、俺の世間体が悪いだけだ。気分的にも気持ち良いもんじゃねえ。後輩女子に荷物持たせてるところ三浦に見られたら何言われるかわからんしな。…ほれ」

 

 俺、庶務だしなぁ。小さくため息をつく。あの女、妙なところで厳しいのだ。

 

「…あ、ありがとうございます」

 

 俺が一息にまくし立てると、一色は目を丸くして袋をこちらに渡す。まじでこいつにだけは誤解されたくない。普通に通報されそうなんだもん。恐怖を感じながら袋の中をのぞくと手の汚れにくいもの、個包装のもの、有名どころのものが占めていた。手が汚れないように、容器の心配がいらないように、誰でも食べれるように。…俺なんかより全然仕事できるな、こいつ。第一印象とは少し違う後輩に、つい感嘆の声を漏らす。

 

「お前見た目とは違っていろいろ考えてんだな」

 

「むー、見た目とは違ってってなんですか。…まあ、そうですね。気が利いてしまいますから、せんぱいと三浦先輩、奉仕部のお二方のこともわかってしまいますよ」

 

「…わかってんなら、お前は少し空気を読め」

 そう。こいつは何を考えているのか、事あるごとに俺と三浦を絡ませようとする。はっきり言って迷惑なのだ。そのたびに三浦は俺から目をそらし、雪ノ下と由比ヶ浜の機嫌が悪くなる。反対に一色の笑みは深まり俺の胃が痛む。…性格が悪すぎる。

 

「先輩はもう少し空気を読まず、三浦先輩と仲良くしてくださいよ」

 

「…あほ。生徒会室の空気きついんだよ、お前がかき乱すと。頼むからおとなしくしててくれ」

 

「鈍感も行き過ぎると犯罪ですよ、先輩。って言うかさっきから私に素直になってどうするんですか。私せんぱいのことまじでどうでもいいんですよ。さっさと三浦先輩とくっついてください」

 一色はため息交じりに言う。この一週間、こいつは二人になるとこの話題を出す。そしてそれに対して俺は…いちいち心がざわめく。ざわ…ざわ…。

 

「あんたら!」

 

 コミュニティセンターの前で話し込む俺たちを怒声が迎える。

 

「何無駄話してんの?あっちもう来てんだけど。さっさと中はいれし」

 俺と一色を一瞥し眉を吊り上げる三浦は、顎でコミュニティセンターの中を指す。

 

「あっ、すいません~ん。私コンビニで今日の話し合いのためのお菓子買ってたら遅れちゃって。途中で鉢合わせたせんぱいが親切にも運んでくれてたんですよ~」

 

「…へー?ヒキオ、そーなん?」

 …気のせいだろうか。獄炎の視線が氷点下まで下がった気がする。答えを間違えれば、死ぬ。俺は慎重に言葉を選ぶ。

 

「あ、ああ。一色が執拗に『荷物重いです』アピールするから仕方なくな。荷物もつかどうか押し問答するより早いと判断した」

 

「…ふん。あ、そう。別にどうでもいーけど。さっさとはいれし」

 三浦は興味なさげな半目を送り、踵を返す。一色の文句が後ろから聞こえるが、俺も無視して中に入った。寒かったし。またもや二つの意味で。

 

 

 

 

 

 三浦の後について会議室へ着く。彼女の見慣れない黒髪の背中が何やら圧力を発していて、俺はまともに話すこともできなかった。ふええ…黒髪あーしさん超怖いよう…いや、まじで。

 黒髪の上こいつは今化粧もほぼしていない。その顔は年相応の幼さを演出してはいるが、そこに以前のようなどこか「振りをした」女王らしさはない。金髪だった時よりも彼女は素であった。だから等身大でリアルな彼女は超怖い。

 しかし由比ヶ浜によると、化粧がはげ黒髪になった三浦に告白…まではいかずとも、ちょっかいを出そうとする男子が増えたらしい。確かに一見の親しみやすさは以前とは比較にならないが、だまされるなかれ男子諸君。外見が多少男子好みになろうと、中身は依然として女王のままなのだ。俺は心の中で無謀な男子どもに合掌する。南無。

 

「邪魔するし」

 三浦がノックも無しにドア開けると、見慣れない制服の集団が目につく。海浜総合高校の連中だろう。

 

「あ、優美子戻ってきた。ヒッキーたちも来たんだね」

 

「どーも、おつかれさまです由比ヶ浜先輩。…あっ、お菓子買ってきたんで皆さんでどうぞ」

 

 笑顔で駆け寄ってくる由比ヶ浜は一色の言葉にえっ、ほんと―!?と喜色満面の笑みを浮かべ、俺の手にある袋を奪う。そして楽しそうに一つずつ袋から出し、机の中央に並べ始めた。…あの、ガハマさん。その食欲を抑えてもらわないと無意識のセクハラが終わることはないと思うので、僕が捕まる前にダイエットしてもらっていいですか?

 

「遅かったわね」

 斜め前の椅子に腰かけたままの雪ノ下から声がかかる。

 

「すまん。一色が会議用の菓子を買っててな。手伝ってたら遅れた」

 

「…そ、そう。気が利くのね一色さん」

 雪ノ下も一色の思わぬ面に驚いたのだろうか。少し声を震わせる。まあ驚くわな。褒められた一色はえー、そんなことないですよー、と雪ノ下にすり寄る。当の雪ノ下は、近い…と顔をしかめながらも本格的に嫌がっている様子はない。まったく、世渡り上手が過ぎる。末恐ろしい後輩と同級生のゆるゆりを眺めていると、横から声がかかる。

 

「あれー、比企谷じゃん」

 

「はい?」

 

 めったに呼ばれることのない名前を呼ばれ、無意識に意識はそちらに向く。そして向いた瞬間、後悔の念が俺を襲う。記憶から消去したはずの中学時代。しかし彼女の名前は口をついて出てきてしまった。

 

「…折本」

 

「うわー、超久しぶりじゃない?比企谷中学の同窓会でも全然見ないし。え、何?生徒会なの?てか総武高校?えー、比企谷頭よかったんだー。あんま話さなかったから全然知らなかったー。まじウケる」

 

「お、おう」

 中学の同級生、折本かおりは相変わらず相手の事情を特に考慮せず、息を吐くように話しまくる。やはり彼女は覚えていない。俺は無意識にそう思ってしまった自らの自意識をまた恥じる。

 俺と彼女は一時期学校で言葉を交わすことがあり、メールもしていた。しかし今思えば話かけられたのはいつでも事務的な事柄で、メールはいつでも俺からだった。俺は一人で盛り上がり、告白し、そして振られた。思い出すことすら恥ずべき勘違い。自意識。折本かおりはそういう女の子だったのだ。誰にでも同じように接し、「サバサバ」していることが周知であるような。だからそれが、俺の告白が翌日にはクラス中に広まっていたことも、当然告白の際に俺が考慮しておくべきリスクの一つだった。自らの告白という選択についてまわるリスクマネジメントを俺が怠った。すでに過去の話で、それだけの話だ。

 

「…あんた、ヒキオの知り合いなん?」

 

「う、うん。そうだけど…比企谷、この人は?」

 

 三浦から思わぬ横槍が入った折本は一転、すがるように俺を見る。うんうん、わかるわかる。黒髪薄化粧とはいえ目付き悪いもんなぁ、こいつ。俺は自分の腐った目を棚に上げて折本に同情する。

 

「うちの生徒会長、三浦優美子だ」

 

「か、会長!?この人が!?」

 

「…ああ?なんか文句あんの?」

 もっともな反応をする折本に三浦は声を低くして尋ねる。い、いや、と珍しくどもりながら折本はから笑いを浮かべる。

 

「い、いやー、こんな美人な生徒会長だとは思わなかったからねー」

 ねー、と三浦の機嫌をうかがいつつ俺に助け船を求める折本。いや待て、俺を巻き込むんじゃない。とはいえそこは紳士比企谷君。女の子の必死な視線を断れるはずもなく。というか無駄に血を見て俺に飛び火するのが非常に怖く。

 

「はぁ。まあ見た目こそ今はかわいいかもしれんが、こいつこないだまで金髪縦ロールのギャルだったし、素行だってまともなもんじゃ…げふっ!?」

 

「ひ、ヒキオのくせになに上から目線であーしのこと語ってんだし!か、かわいいって…つーか誰の素行が不良だってぇ???」

 

 だから暴走しそうなお前の機嫌取ってんだよ。俺はたたかれた背中をさすりながら一人悪態をつく。いや、冷静に考えて後半は機嫌損ねてるまであるな。やだ八幡ったら嘘つけないんだから!自分の正直さを嘆いていると、折本は目を丸くさせつぶやく。

 

「…へー。比企谷がまともに話せる女の子、いたんだ」

 

「おい、なんだその男に対する最大級の罵倒は」

 あの、いい加減泣いていいですか?俺は久しぶりに再会する元同級生の女子の言葉に涙目になる。そこに一切の悪意はなく、ただ驚きだけがあったのが俺の傷心に一層の拍車をかけていた。折本は慌てて付け足す。

 

「あ、やー、そういうことじゃなくて、なんかうちと話してる時とかクラスの女子と話してる時の比企谷…いっつもこっちの顔色うかがっててきもかった、ていうか」

 

「…ぐすん」

 まさかの追いうちに俺の心はズタズタとなる。やめて!八幡のライフはもう0よ!

 …た、確かにあの時は女子を意識してたから多少きもい反応になってたかもしれないけど。でも意識しないようにしてる今だってきもいって毎日のように言われてるぞ!過去の俺がきもかったわけじゃなくて現在過去未来すべての俺がきもいんだぞ!中学生の無垢な比企谷少年を守るため、俺は心中叫ぶ。やべ、傷口広げただけだった。やっぱり勝手にきもく在ってくれ、過去の俺。

 

「でも今は、なんて言うか…普通じゃん。普通に面白そうだし、三浦さんとあんたが話してんのまじウケる」

 

「いや別にウケねえから…」

 ため息を吐く俺を折本はまたさも楽しそうに笑う。三浦は何やらブツブツとつぶやいているが、害はなさそうなので放っておく。折本は満足したのか、三浦の追及から逃れたいのか、じゃ、と軽く行い残して自らの学校のグループの元へ戻った。しかし、ここで俺は初めて違和感を覚えた。足りていない。

 

「おい、三浦。確かもう一校参加するんじゃなかったか?」

 

「…ああ、それなら」

 俺の疑問に三浦は軽く顎を動かして答える。俺がそちらを見ようとする直前。

 

「八幡、なに、気づいてなかったの?…ほんとバカ」

 

 そこには天使がおわした。

 

「る、ルミルミ!?なんでここに…」

 

「はぁ?何ルミルミって…超きもい」

 

 突然俺の前に現れたルミルミ…もとい鶴見留美は、心の底から侮蔑の表情を浮かべ短く俺をなじる。ちょ、そんな顔されたら八幡癖になっちゃうから。本格的に気持ち悪いことを考え始めた俺は、それを隠すために咳ばらいをいくつかする。

 生徒会室で俺が本を読みながらなんとなく聞いた話では、もう一校「学校」が参加するとだけ言っていた。それが小学校か中学校か高校かは明言されていなかった。話をしっかり聞いていなかった俺が悪い、か。

 

「あー、なんだ、お前もこのイベントに参加するのか」

 

「うん。呼ばれたから…それと私は『お前』じゃない。…留美」

 

「お、おお…」

 なぜか不貞腐れる留美相手に、俺は何も言えない。彼女は俺の過去のやり方の犠牲者、と言っては少々自意識過剰だが、それに巻き込んでしまった一人だ。俺は彼女の林間学校の際、彼女の周りの人間関係を破壊した。その俺が今更何を言えばいいのだろうか。特に言葉を続けられない俺を尻目に、横から三浦が口をはさむ。

 

「お、あんたあの時の林間学校の子?元気してんの?」

 

「…っ!」

 俺の後ろにいた三浦は留美からは見えなかったのか、黒髪薄化粧となり気づいていなかったのか。三浦に気づいた留美はとっさに俺の後ろに隠れる。瞬間、俺はその行動の意味を理解した。

 

 あの林間学校の夜、俺は三浦たちに「悪役」を押し付けた。三浦たちが留美たち小学生グループを脅す役に仕立て上げた。留美はあの時勇気ある行動を示したが、依然として三浦は留美の中では恐怖の象徴のような存在なのだろう。無理もない。小学生が高校生に恫喝されるなど、そうあることではないのだ。俺は今一度自らが犯した、しでかした、押し付けてしまった罪の重さを知る。恐怖に理屈など関係ない。理屈で片が付くなら人はホラーを怖がらないし、高校球児は落球をしない。俺はその程度のことも理解せず、独りの彼女に自らを重ね、安直に行動を起こした。…自分が責任をとるわけでもないのに。

 

 三浦は身を隠した彼女の様子を見て、差し出しかけた手を引っ込める。俺は三浦にも何も言えない。当然だ。当たり前にすぎる。たぶん俺だけは、なにも言うことができない。

 三浦はあの時、あそこにいる人間として、奉仕部という肩書抜きに確かに鶴見留美の身を案じた。でなければ留美を案じる提案は出てこないし、わざわざ苦手とする雪ノ下とぶつかることもない。ましてやあの時彼女は泣くほど雪ノ下と口論した。留美の問題は「インケンなこと」を嫌う三浦にとって、そう軽いことではなかったのだ。

 

 そんな彼女に汚れ役を押し付けた俺が、なにを言えばいいのだろう。

 

 そして俺はまた己の罪を誰にも責められないように、自分だけは自分を断罪しているとでも言いたげに、自らに言い聞かせている。自らを責めている。まったく反吐が出る。心底そう思う。終わったこと、自分で責任を負うべきこと。それでもまだ俺は誰かに、自分に許しを請うことを止めていない。

 

 だが三浦優美子は。

 

「なんだ、あん時より全然元気そうじゃん。心配して損したし」

 

 痛々しさを隠すように、それがみじんも感じられないように、ただ笑った。

 

 ちっとは強くなった?笑って続ける三浦を前に、留美も俺の後ろから段々と三浦に身を寄せる。うん、うん。声にはしなくとも、ぶっきらぼうにその小さな背中は必死にうなずいている気がした。

 

 小さな自分を守る自分。小さな彼女を思う彼女。

 

 適う気が、しなかった。

 

 

 

 



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それでも彼女は笑っている。

「じゃ、そろそろ始めようか」

 

 会議予定の時間が来て各自が席に座る。各々の自己紹介もそこそこに、海浜総合高校の生徒会長、玉縄なる男子は切り出した。

 

「とりあえず各学校の自己紹介も終わったし、まずは今回の企画をどういったイベントにするか、その主軸を決めるためのブレインストーミングを行おうと思う。各自イベントのコンセプトと内容面での意見があれば自由に出してほしい」

 

 …ん?なんですかそのぶれいんすとーみんぐって。勘違いストーキングならお手の物なんですが。恐らくそこにいた全員に去来した思いだったと思う。…いや、ないな。うまくもないし。

 

 ああいや。俺はすぐに思い当たる。要するにブレストだ。各自がかしこまることなく忌憚ない意見を、と言ったところだろう。俺とともに理解の追い付いただろう雪ノ下が手をあげようとするが、その前に海浜総合高校側から声が上がる。

 

「やっぱり今回は小学生もいるし、高校も二校あるから若いマインド的な部分でのイノベーションを大切にしていきたいと思うんだけど」

 

 うんうん、確かにその通りだ。それに続いてまた向こうから声が上がる。

 

「そうなるとコミュニティ側とのwinwinの関係はもちろん、俺たち高校二校に加えて小学校のシナジー効果を最大限発揮できる形の企画がいいんじゃないかな?」

 

 …うん、どうせみんなでやるんだしね。お互い協力したほうがいいよね。

 

「なら戦略的思考でコストパフォーマンスを確保することが必須じゃないかな?それから三校でコンセンサスをとって…」

 

 …お、おう、そうだな。

 

 なんだこれは。俺は今目の前で行われていることが理解できない。確かに俺もそれっぽいことを言うのは得意だ。なぜならそれが必要な時は確実にあるから。ごまかすべきとき、先伸ばすべきとき。彼らのような言葉は非常に便利だ。「仕事をしている感」を出すことができるから。上っ面でその場をしのぐことができるから。

 しかし今彼らはそんなことをする必要はない。時間はまだあるし、そもそもこれはブレスト。思ったことを自由に言わなければその形をとる意味はない。彼らの言葉はどこまでも借り物のように感じられ、とても自身のアイディアとは思えない。

 

 そんな俺の疑念をよそに、彼らはいまだに話し合いを続ける。どこまでも意識が高い。ふええ…まじでなんなんだこの意識の高さは。このまま雑誌の一面で「今を生きる高校生!」とかいう風に載るのがぴったりなのではないだろうか。横を見ると三浦は何が起こっているかわからない、という風に目を丸くし、由比ヶ浜は苦笑いを浮かべ、雪ノ下は額を押さえている。

 

 よくわからない何も進まない時間が続いて十数分。いい加減飽きたのか、隣の一色から声がかかる。俺は前を向いたまま応じる。

 

「せんぱいせんぱい」

 

「なんだ」

 

「三浦先輩と雪ノ下先輩、どっちが先にキレるか賭けません?」

 

 キレる前提かよ。思わずツッコミそうにはなるが、俺もそう思ってはいたから否定はしない。しかしこいつもどこまで人任せで傍観主義である。

 

「…まあ、暇だしな」

 そんなバカげた提案に乗るほど、俺も暇であほらしくなっていた。

 

「じゃ俺は三浦に」

 あの女王様がこれ以上我慢できるわけがない。

 

「じゃ私は雪ノ下先輩にジュース一本」

 

「おい、賭け対象付きかよ」

 

「当然でしょ。そうじゃなかったら賭けにならないじゃないですか」

 

 もっともか。俺は一色の言葉に小さくうなずく。

「なら俺は…そうだな。そのジュース分の代金で」

 

 あいにく現金以外に持ち合わせがない。

 

「了解です。では…」

 

 アッシェンテ。そう俺は片手をあげようとしたが、一色の声は最後まで続かなかった。

 

「つーか」

 不遜極まりない声が会議室に響き渡る。

 

「なにこれ?何話し合ってっか全然わかんないんだけど。あーしがバカなだけ?」

 

 饒舌に話していた海浜総合高校会長は、文字通り固まった。すぐに雪ノ下が続きを引き取る。

 

「あら、珍しく気が合うわね三浦さん。安心しなさい。確かにあなたは賢くはないけれど、彼らの言っていることは私にも理解不能だったわ。この場で最も知的レベルが高いだろう私にわからないということは、必然的におつむが足りていないのは彼らの方、ということにならなくて?」

 

 お、おお。容赦のないダブルパンチに海浜総合高校側どころか総武高校、小学生たちも困惑している。一色も彼女らがここまで言うとは予想していなかったのか、顔を引きつらせている。

 

「つーかさっきからやってるぶれいんすとーみんぐって、そもそも何?…ヒキオ」

 

 俺に振るな。そう言いたかったが、にらむ三浦に俺は即座に適当な言葉を返す。

「…なんでもいいからとにかく意見出せってことだ。今で言えばクリスマスイベントでやる軸となる出し物について、実現の可否は問わずとにかくやりたいことを言えばいい」

 

 まあ、意識高そうな単語を尋ねるには俺が適任か。高いのは意識だけで実行動は伴わないが。自分で自分を傷つけていると、は~ん、と三浦はにやついて甘い声を出す。

 

「小学生もいるしぃ、あーしは劇とかいいと思うんだけど」

 

「で、でもそれだとこちらが提案している音楽イベントとの兼ね合いが…あ、ああ、ならいっそのこと二つを混合してミュージカルに」

 

「…あなたまさかここから一カ月足らずで、ミュージカルなんていう演技、歌、踊り全てを求められることができると思って?しかもプロや高校のブラスバンドと釣り合うような。小学生どころか私たちにだって不可能よ」

 

 雪ノ下の追撃に玉縄は肩を落とす。にべもない、とはこのことだろうか。一応ブレストの形を取っている以上、これはこれで会議にならん。俺はいい加減話し合いに口を挟む。

 

「ミュージカルにしても口パクなり演技、踊り、歌に子供たちを分けるなりやりようはあると思うが…ま、まあ厳しくはあるな。時間的にも人材的にも」

 俺が間に入ろうとすると、雪ノ下と三浦から鋭い眼光が突き刺さる。こ、こわいよぅ…俺は隣の二人に助けを求める。だってこの二人、合わさったときやばいんだもん…獄炎と氷点下が同時に襲ってきて八幡視線だけで石になっちゃうもん…。

 

「ほ、ほら、なら二部構成にするのはどうかなっ?私たちが小学生たちの劇の準備をして、そっちが音楽隊を手配して、小学生たちが劇の準備の手伝いと実際の演技。二回楽しめる、的な!ね、ね。いいんじゃないかな!?」

 

「で、ですです。それなら三校がイベントに参加できますし、予算的にも無理なくできそうです。さすガハマ先輩です!」

 

 続く一色の言葉を聞いた由比ヶ浜は、え…?と訝し気な視線を一色に送る。い、いろはすったら俺の口調を無駄にトレースしなくてもいいの!ほら、ガハマさんキョトンとしちゃってるよ?それでも三浦と雪ノ下をなだめようとしているが。その空気読み能力、やっぱりさすガハマさんだね!

 

「でもそれだと三校のシナジー効果が…」

 まだ渋る海浜総合高校側に、いい加減俺の疑念も頂点に達する。ここまで来ても海浜総合高校側が何をしたいのか、いや、もちろんそんな大層なものじゃなくていい。どうやって当日を「どうにかしよう」としているのかはっきりとしない。

 たぶん。俺は少し想像する。彼らは怖いのだ。生徒会発足直後の初仕事。自分たちが具体的な決定をしてそれが失敗することが怖い。だからいろんな学校を呼びリスクを分散しようとした。

 気持ちはわからんでもない。だが。俺は小さく首を振る。既にこのイベントには大勢が関わっている。彼らのやり方では下手を打てばイベントに穴が開く。俺はそんな面倒極まりないことは御免だ。資料を眺めて客観的事実から補足を加える。

 

「…即席の何の関係もない学校に、そこまで望むのは高望みだと思うがな。それに共同で一つの演目に当たるとなるとこんだけいる人材に無駄が出るし、何より本番の時間が埋まらねえんじゃねえの?」

 

「う…」

 玉縄は息を詰まらせ、周りを見渡す。しかし彼らも正当な反論を持ち合わせてはいないのか何も言えない。それはそうだ。俺は少し同情する。さっきまで彼らが語っていたのはアイディア出し。実現の可否については問われていない。

 しかしイベントまで一カ月を切っている俺たちに、そもそもブレストなどしている時間はないのだ。加えて老人と子供対象のイベント、奇抜なことも気取ったことも求められてはいない。それよりも重要なのはベタな中身のディティールを詰め、確実に進行できるようにすることだ。それがわかっていたから雪ノ下は的外れなブレストにイラつき、あくまで実現の可否に焦点を絞った。…まあそれでは彼らとは一生平行線だっただろうが。

 

「うだうだ言ってないでさっさとこれでやるし。そもそもこんなことしてる時間自体が無駄なん…」

 本格的にストレスが限界になったのか、三浦は立ち上がり海浜総合側をにらむ。立った三浦をまた由比ヶ浜が慌てて制止する。

 

「ね、ね、それぞれの学校の持ち味も出るし、あたしたちの方から二部構成でお願いしたいんだけど!…どうかな?…だめ?」

 

 最後に勝敗を分けたのは。前のめりになる由比ヶ浜を前に、海浜総合高校側の男子の視線は二つの爆弾にくぎ付けとなった。ただうなずく彼らに、雪ノ下と一色の残念組が蔑むような視線を送り、三浦は満足げにうん、うんとうなずいていた。まあ三浦はこいつらと違って並み以上はあるからなぁ…そんなことを思った瞬間、横から殺気を感じた。…きょ、きょわい!

 

 

 

 

 

 そして無事会議はまとまり、こちらの「音楽と劇の二部構成」という提案は通ることとなった。そのためまずはお互いの高校に別れ、これからの流れを確認することとなった。

 

「…では劇の内容はおおまかにこのようなものでいいかしら」

 

「うん、ま、いんじゃない?ちょっとガキ臭いけど、小学生がやるには十分っしょ」

 雪ノ下の言葉にハン、と鼻を鳴らしながら三浦が応える。また慌てて由比ヶ浜がフォローに回る。

 

「ま、またまたー、そんなこと言って、あたし好きだよ、こういうの!ほんとは優美子だって好きでしょ?」

 

「…別に嫌いってわけじゃないけど」

 のぞき込む由比ヶ浜に、三浦は少し顔を赤らめて答える。…どんだけめんどくせえんだよこいつは。嫌いははっきり言えるのに、好きは口に出すこともできない。誰かを見ているようで思わず軽口も出る。

 

「まあ、女子はこういう少女趣味のものが好きだと相場は決まってる。一般受けするのもこういうわかりやすい物語だしな。しかもこいつに至ってはあんな少女趣味丸出しのピンクのぱんt…」

 

「――――っ!?ス、ストップ!!!!ちょ、ヒキオこっち来い!!!!!」

 

 キョトンとする一同を前に、血の気が引く。…しまった。生徒会室でもすでに日常的に三浦のそれは目にしているから、つい耐性がついてこぼれてしまった。ああ、慣れとはかくも恐ろしきかな。童貞の身分で女子のパンツを見慣れてしまうとは…まあ小町のだったら飽きるほど見てるけど、あんなもんただの布だ。

 

 顔をあげると青筋を立てた三浦がにこやかに笑っていた。…まずい。俺は耳を思い切り引っ張られ、小声で怒鳴られる。

「あんた死にたいの!?つーかパンt…あれ秘密にしてくれって言ってきたの、あんただし!!何をコーシューの面前で暴露しようとしてくれちゃってんだこの変態!!!」

 

 いいえ、「公衆」の面前です。今度はそんな軽口が出る前に三浦からゲンコツをくらう。…オーケー、今回は全面的に俺が悪い。無条件降伏で手を打とう。だから痛いことしないで!

 

 折檻が終わり戻った俺たちを生徒会一同は白い目で、小学生たちはなぜか好奇の目で見る。雪ノ下由比ヶ浜一色の三人は、ゴミを見る目で俺を見ていた。…三浦の努力空しく、下着に類する単語はしっかり聞こえていたらしい。今にも通報しそうな三人から目を離すと、今度は小学生の女の子と目が合う。やだかわいい!つぶらな瞳!八幡ドキドキしちゃう!

 

 しかし俺と三浦を指さした発言は、全くかわいくなかった。

 

「ねえねえ、怖いお兄さんと怖いお姉さんは、付き合ってるの?」

 

「「…は?」」

 ハ行の第一音がきれいに重なった。

 

「ハ、ハァ!?んなわけないでしょうが!つーかなんであんたはそんな意味わかんないこと言いだすし!」

 

「えー、だって前に男子にスカートめくられた時に、お母さんが『下着は好きな人にしか見せちゃだめよ』って教えてくれたもん」

 

 …とんだ英才教育である。俺は心中三浦に詫びを重ねる。ごめんなさい、小学生にもきっちり聞こえてました。しかし三浦は真っ赤な顔で肩をプルプルと震わせるばかり。…いや、本当に申し訳ございません。

 

「そんなことねえよ。さっきのはちょっとしたジョークだ、ジョーク。気にすんな」

 そう笑ってポンポンと女の子の頭を叩くと、わかったー、と言い残して彼女は女子の輪の中に戻っていった。聞き分けのいい子でよかった。ホッと胸をなでおろしていると、今度は横からつつかれる。

 

「八幡と、そこのお姉さん…ほんとに、付き合ってない?」

 

「…ああ。本当だ。そんなことはありえない」

 留美はなぜか不安げな顔で俺に尋ねた。その意図は分からない。しかし茶化すべきではない。それは俺にもわかった。留美は三浦にも確認を取る。

 

「ほんとに?」

 

「…ん、ほんとも何も、そいつも言ったっしょ。…そんなこと、ありえないし」

 つーかあーしらそんな風に見えないっしょ。彼女はそう笑って、留美の頭をくしゃくしゃと撫でる。留美は今度は嫌がるそぶりも、怖がる素振りも見せなかった。

 

「んーん…そうでも、ない」

 それだけ言い残し、彼女も小学生の輪の近くに戻っていった。

 

 

 

 

 

「…あー疲れた!」

 会議が終わりそれぞれ帰路に就く。雪ノ下、由比ヶ浜、一色の三人はバス、電車の時間があるらしく早足で駅に向かった。そして一人徒歩の女王様と言えば。

 

「…なんで当然のように後ろに乗ってんですかね」

 

「は?さっき言ったじゃん。あーし疲れてんの。送ってけし」

 

「俺も疲れているから嫌です。お前重いし」

 

「…あんたとは一回ゆっっっくり話し合う必要がありそうだし。ねぇ?」

 

 静かな怒りをたたえさせる三浦を前に、俺は生まれたての小鹿よろしく震えるしかなくなる。というかこいつ、今日コミュニティセンターに来るまで機嫌悪くなかったか?俺はここ最近の彼女の様子を振り返る。留美と話した後あたりからなぜか小学生たちとも楽しそうに話していて、機嫌もよくなったように見えた。意外に子供好きなのかもしれない。まあ元々オカン属性ありますし。

 

「じょ、冗談だ冗談。…はぁ。お前んちどこだ」

 ホールドアップとともに俺は彼女の家を尋ねる。あれ?これは犯罪にならないよね?駅にも行く気なくてあいつらと一緒に行かなかったってことは、こいつ家行くんだよね?ストーキングで通報されるのがとにかく怖い、どうも比企谷八幡17歳です。

 

 なぜか目を見開く三浦は、思ったより素直に自らの家の場所を言う。なんと俺の下校路を少し外れたところにあった。というかコミュニティセンターから向かうのであればそのまま俺の下校路の途中だ。決まればさっさと帰りたい。俺は三浦の鞄を奪い、かごの中の俺の鞄の上に置く。

 

「ほれ。とりあえず死ぬほど寒いから、さっさと乗れ」

 

「…ヒキオのくせにあーしに命令なんて、100年早いっての」

 

 スネ夫君でももう少しのび太を評価しているのではないか。そう思ってしまうほど不遜な彼女に思わず悪態をつきながら、俺はペダルを踏む足に力を込めた。

 

 

 

 

 

 自転車を走らせること5分。交通量が激しい通りに出る。前からの車のライトがまぶしい。風も冷たく切るようにふいている。そんな夜の街をなぜか三浦優美子とともに走る。なぜだろうか。月並みだがとても、現実感が喪失していた。

 

「ねえヒキオ」

 

「なんだ」

 俺のブレザーの袖をつまむ三浦に、俺は短く返す。さすがにこれほど車の通りが激しい道路では、『耳をすませば』のような二人乗りはお互いにとって危険である。まあ歩行者もこの時間では少ないから、普通の二人乗りでも彼女の少女趣味の下着が見られることはそうあるまい。

 

「…今日、あの子いたし」

 

「ああ」

 

 短く言う彼女に、俺はまた短く、息を吐く程度に答える。そう。彼女は、鶴見留美はあそこにいた。以前とはあまり変わらないように見えるたたずまいで、以前のように触れれば壊れそうな儚さで、一人座っていた。

 俺からは、彼女のことに関して三浦に言えることはない。何一つ、ない。しかし。俺は少し顎を引く。彼女には俺を責める権利があり、そして嘆く権利も当然ある。しかし、三浦優美子は静かに言った。

 

「でも、ちょっと変わってた」

 

 思わずふりむきそうになった。俺はハンドルを強く、固く握る。

 

「あーしの勘違いかもしんない。そもそもあーしはあの子のことなんて何にも知んない。でも…なんか変わってたくない?」

 

「…どうだろうな」

 それすらも、本当は言う権利などなかっただろう。けれど。

 

「林間学校の時はいっつも何かにおびえてるみたいで、ちょっと前の結衣に似てて…それが癪に障ったけど」

 バンバン、と後ろから背中を叩かれる。

 

「いってえな…」

 

「でも、今日のあの子は、やっぱり結衣っぽくもあって、雪ノ下さんみたいで…ちょっとあんたっぽかった気もする」

 

 あーしはあの時、別になんもしなかったけど。そう自嘲気味に続ける。しかし一転、だとしたら、と声を張り上げた。

 

「あんたのおかげで、あの子らしくなれたのかもね」

 

 何も、言えるわけがなかった。

 

 責めて欲しかった。自らのエゴイズムで他者に口も手も出し、全てをぶち壊した自分を。あまつさえその罪を、汚点を他人にかぶせた自分を。なのになぜ。

 

 彼女はいつも言う。どこまでも自分は自分のことを考えているのだと。自分のためだけに自分の幸せを願っているのだと。それは真実であり虚言だ。彼女はいつでも、自らが重要だと思うものだけを見ている。林間学校の件、彼女にとって重要だったのは「傷つける役」を担った自分でも、ましてやそれを押し付けた俺でもない。重要だったのは、鶴見留美の気持ち。そして現在、なのかもしれない。

 

 なぜ彼女の推薦人になったのか。なぜあの演説をしたのか。なぜいまだに彼女のそばにいるのか。

 

 よくわからないだけの本物を、わかったらすぐに形がなくなってしまうそれを、少しだけわかった気になった。

 

「…惚れる…わけにはいかんわな」

 

「…は?」

 

 思わず漏れたつぶやきは聞き逃すには少し大きく

 

「なんでもねえ」

 

 俺はただただ、行き交うエンジン音がそれをかき消してくれたことを願うしかなかった。

 

 

 



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彼と彼女は徐々に近づく。(前編)

 

 クリスマス。この響きから人は何を連想するだろうか。サンタクロース。町に響くジングルベル。月初めから浮足立つ、仏教徒あるまじき人々の姿。なんにせよ多くの人間はどこか普段とは違う、非日常をそれに望んでいるのだろう。

 

 しかしいざ我が身を振り返ってみればこの17年、クリスマスといって特別なことをした覚えはない。恋人とのデートに心ときめかせることもなく、男友達と独り身を愚痴りながら遊びほうけることもなかった。いつも通り家に帰り、いつも通り小町と夕食を済ませる。特別なことと言えば夕食の内容がクリスマス仕様になっていること、食後にケーキが出ることくらいだろうか。いずれにせよ朝夕二回の食事は毎日小町とともにしているのだから特別とは言い難い。

 

 これを悲しいと感じる人間、わびしいと憐れむ人間もいるだろう。しかし。俺は一人拳を握る。逆説的に言えば、妹さえいればクリスマスなど家の中で完結するのである。妹無き寂しき独り身の男ども、私の前にひれ伏すがいい。

 

「…お兄ちゃん、小町今なんかすっっっっごい寒気したんだけど」

 

「ん?受験までもうそんなにないんだから体調管理はしっかりしろよ。小町に風邪なんか引かれたら親父に何言われるかわからん」

 

 日曜の朝。朝食の食パンを咥えながらひしひしと「クリスマス」について考える俺を、台所で洗い物をする小町が青い顔で見る。そ、そんなごみを見るような目で見られたらお兄ちゃん…いや、いい加減きもいな。

 

「小町的にはお兄ちゃんの方が心配だよ…生徒会入ったっていうのも、何事!?って感じだし」

 

「いや、それはまあ紆余曲折あってだな…」

 

「ははーん。雪乃さんも生徒会入ったって言ってたし、どうせまた平塚先生か雪乃さんに押し切られたんでしょ?」

 

「そうだったらまだよかったんだがな…」

 

「え、違うの?」

 

 ない胸を張って見透かしたような澄まし顔だった小町は一転、怪訝そうに俺を見る。妹よ、物事はそう単純ではないのだ。時に自分すら想定していなかった行動を、自らがとることもある。あの応援演説を思い出して思わず俺は渋面を作る。

 

「まあ、いろいろあんだよ」

 

「…ふーん」

 

 いつものように言葉の続かない俺に、小町は口の端を持ち上げる。

 

「それってもしかして、お兄ちゃんが今日ディスティニーランドに行くこととも関係あるの?」

 

「…まて、なんでお前がそれを知っている」

 

「昨日由比ヶ浜さんからメール来たよ。お兄ちゃんが遅刻してこないようにお願いできるかなっって。いやー、流石に未来のお義姉ちゃん候補は違うね!」

 

 うんうんとなにやらしきりにうなずく小町を尻目に、俺は先月での生徒会室でのやり取りを思い出す。冬のディスティニーランド。そんな地獄に俺が赴かなければならなくなった、その発端の日である。

 

 

 

 

「だから三浦先輩、雪ノ下先輩、言い方ってやっぱあるじゃないですか」

 

「あら一色さん、明らかにあちら側に非があるとわかっているのになぜこちらが取り繕わなくてはいけないのかしら」

 

「あーしは別に間違ったこと言ったつもりないし、あっちに合わせる気もない。友達でもないのに指摘してやる必要ないでしょ」

 

 放課後。早々に集った生徒会面々の間―というか三浦と雪ノ下、一色の間―には、のっけから険悪なムードが漂っていた。

 

「だ、か、ら、はっきり言ってやりにくいって言ってるんですよ!…別に私だって海浜総合高校をかばいたいわけじゃないですよ?でも先輩方があっちの高校に高圧的な態度だから、小学生たちも怖がってるんです。だから小学生への指示にもいちいち気を遣わないと…って、聞いてます!?」

 

「ええ、ええ、全然聞いてるわ」

 

「聞いてる聞いてる、続けろし一色」

 

「って、本読んでるし携帯いじってるし、全然聞いてないじゃないですか!…うう、先輩方も一つ言ってやってくださいよ!」

 

 文庫本片手の雪ノ下、携帯電話片手の三浦を前に一色は俺と由比ヶ浜に助けを求める。と言われても。俺も片手にもった文庫本に目を戻す。この三者のいさかいに首を突っ込むのは俺にはいささか荷が重い。そもそもキャットファイトに男がのこのこと現れて、それはどこかに需要があるだろうか?いや、ない。反語とともに俺は首を突っ込む選択肢を消す。由比ヶ浜、後は頼んだ。残された由比ヶ浜はあはは…という苦笑いとともに口を開く。

 

「ま、まあまあいろはちゃん。ゆきのんと優美子も我慢してるとは思うよ?あたしに言う時より二人ともかなり優しめにあっちの高校とも接してるし」

 

「!?ゆ、由比ヶ浜先輩…ごめんなさい!私の配慮が足りませんでした。まさか由比ヶ浜先輩がお二人からそんな扱いを受けていたとは…」

 

「いや待て一色、由比ヶ浜に押し切られるのはいつもこっち側だぞ。むしろ由比ヶ浜こそ俺たち奉仕部を陰で支配していたまである」

 

「いきなりひどい言われようだ!?…ちょ、そんな冷たい目で見ないでゆきのん!た、確かにちょっと二人が引いてるなーって思う時はあったけど、結局最後は二人ともノリノリで付き合ってくれるじゃん!」

 

 ぶんぶんと手を振る由比ヶ浜に、俺は由比ヶ浜に押し切られてきた雪ノ下を思い出す。

 

「おい、誰がいつノリノリだったんだよ。俺はいつでも家に帰りたいと思ってたぞ。なんなら今も全力ダッシュで小町に会いに行きたいと思っているまである。ちなみに「思う」は「想う」で、「会い」は「愛」な」

 

「それは正直、ぶっちぎりで、とびっきりに、本当今すぐ死んでほしい次元で気持ちが悪いのだけれど…まあ、最近は由比ヶ浜さんに押し切られることが多いのは事実ね」

 雪ノ下は遠い目をする俺に白い眼を向けながら、ため息をつく。それを見て由比ヶ浜はまた「うぅ…」と声を小さくする。しかし雪ノ下は、でも、と小さく続けた。

 

「…まあ、楽しくないことはなかった、けれど」

 

「ゆ、ゆきのん!あたしも全部楽しかったよー!今も楽しいし!」

 

「近い…」

 

 顔をほころばせて抱きついてくる由比ヶ浜に、雪ノ下は顔をしかめる。しかし本気で嫌がっているようではなさそうだ。今日もゆいゆきは捗りますなぁ…。されるがままにする雪ノ下を見て、今度は三浦がため息とともに口を開く。

 

「はぁ。いい加減この光景も見飽きたし。ヒキオ、あんた奉仕部の時毎日一人でこんなの見せられてたの?」

 

「おお三浦、わかってくれるか、このゆるゆりを毎日見せられていた俺の気持ちを」

 

「確かにお二人、ちょっと仲良すぎますもんねー。それはもう恋人顔負けなくらいに…って、そんなことではなく!」

 

 うんうん、とうなずき合う俺、三浦、一色の間に妙な連帯感が生まれる中、一色が思い出したように叫ぶ。

 

「だから、先輩方今日こそはあっちの高校側に少しは優しくしてくださいよ!」

 

「嫌よ」

 

「絶対無理」

 

「「即答だ!?」」

 

「邪魔するぞ」

 

 由比ヶ浜と一色のツッコミが同時に入ったところで、平塚先生によって生徒会室のドアが開かれる。生徒会室に入った瞬間、平塚先生はおや、と瞠目し、口の端を持ち上げる。

 

「なんですか、平塚先生」

 

 ノックがないことを咎める余裕もないのか、雪ノ下は顔を伏せ三浦は口をとがらせる。…はぁ。この人はなんでまた挑発するような表情を浮かべるのか。辟易としながら俺はさっさと平塚先生に続きを促す。

 

「で、平塚先生。わざわざここまで来たということは何か用事があったんでしょう。貴重な婚活サイトをめぐる時間を減らしてまで来なければいけない、それはそれは重要な」

 

「よし比企谷、君の今学期の国語の成績が楽しみになったな」

 

「ごめんなさい冗談ですなんでいらっしゃったんでしょうか平塚先生」

 

 不穏なことをいう平塚先生に、俺は一転揉み手をして近づく。他の三人の視線が痛い。媚びるべき時は全力で媚びろ。親父からの助言を俺は実践しているまでだ。なにが悪い。

 

「まあいいだろう。雪ノ下、三浦。どうやら海浜総合高校とはうまくいっていないようだな」

 

「べ、別にそんなことは―」「―べ、別にそんなことないし」

 

 二人の声が重なる。お互いを訝し気に見る雪ノ下と三浦を前に、平塚先生はなぜか満足そうにうなずく。

 

「うんうん、そんなことだろうと思ったよ私は。ということで…じゃーん!」

 

 年代を感じさせる大げさな効果音とともに平塚先生の胸元から取り出されたものは。目を丸くする俺たちを前に、誰よりも早く理解が追い付いた雪ノ下が口を開く。

 

「ディスティニーランドのチケット…ですか?」

 

「ああ、そうだ。さすが話が早くて助かるよ、雪ノ下」

 

「別に、たまたま父の仕事の関係で頻繁に行くので気づいただけで…比企谷君、その腹の立つ憐れむような目は何かしら」

 

「いや、俺もさすがだなぁと思っただけだ。決して他意はない」

 

 こいつパンさん好きだしなぁ。一瞬でそんな俺の感想を見抜いた雪ノ下は、鋭い目を俺に向ける。別に隠す必要もないと思うんだが。バレバレですし。率直にそう思う俺と同じ感想を抱いたのか、今度は三浦が呆れたように言う。

 

「好きなものを好きって言ってなんか不都合あんの?雪ノ下さん。…で、先生」

 

「なにか質問かな?三浦」

 

 三浦の弁に目を丸くする雪ノ下をよそに、平塚先生は三浦を面白そうに見る。

 

「質問も何も、そのチケットなんだし。別に先生が年甲斐もなく男とそんなとこ行く自慢話にはあーしこれっっっっっっぽっちもキョーミないんだけど」

 

「ぐ、ぐはぁ!!!!!!!…み、三浦、君はやはり遠慮がないな…」

 

「年甲斐もなく」「男と」という部分で盛大に膝を折る平塚先生を、由比ヶ浜と一色は不思議そうに見つめる。やめろ、触れてやるな。異性にもてることと外見は必ずしも相関しないのだ。咳ばらいをいくつか、平塚先生は気を取り直したように続ける。空元気と言ってもいい。というか半ばやけくそか。

 

「そ、そうではなくな。優秀なのにうまくいっていない君たち二人、雪ノ下と三浦。君たち生徒会はクリスマスの何たるかを知らないと思ってだな。ここに行って勉強してきてはどうだろうという提案なのだが…」

 

「な、なるほど平塚先生!ろーばしんながら、ってやつですね!ありがとうございます!」

 

「が、がはぁ!?由比ヶ浜…う、うん。君たちから見たら私なんて老婆も老婆だもんな…ただの老害だもんな…わかってたよ?ちょっとジェネレーションギャップあるなぁって。伝わってないんだろうなぁって。でもそんなはっきりと言わなくても…」

 

 平塚先生の思惑がわかった由比ヶ浜の裏表のない言動に、ひざを折った平塚先生は今度は体育すわりでブツブツと何かつぶやきだす。悪意がないことのなんと恐ろしいこと。

 

「で、先生」

 

 しかし、三浦優美子にとってはそんなことは知ったことではない。彼女は自分が知りたいだろうことを平然と質問する。

 

「あーしらにディスティニーランドのチケットくれるってこと?」

 

「…うん、そう。こないだ結婚式の二次会で当てっちゃったから。しかもペアチケット。それも二回も。ははは。同級生にすら言われたよ。「一人で4回行けるね!」…ぐすん」

 

 本気で涙をすするその姿に、流石に同情を禁じえなかった。奉仕部の三人、一色は平塚先生に同情の念を送る。しかし現実は非情。恋する乙女にはそんなことは関係がない。三浦は何か思い当たったのか小さくあっ、と声を漏らし、少し頬を赤らめる。

 

「それ、他の人間も誘ってもいい?」

 

 三浦は普段であればしないだろう上目づかいで平塚先生、生徒会面々に尋ねる。もう一度言おう。俺は乙女三浦を見る周りの暖かい視線を感じつつ、確信を得る。

 

 恋する乙女には、三十路前の女の都合など関係ないのだ。平塚先生からの殺気を感じつつ、俺はひしひしとそんなことを思った。

 

 

 

 

 

 そして時はディスティニーランドへ向かう当日へと戻る。小町にそんな事の経緯を話し終えいち早く集合場所にたどり着いた俺は、早朝から最悪の気分だった。

 

「お姉さん。かわいいねぇ。俺ら暇なんだけどちょっと付き合わない?」

 

「はぁ?なんであーしがあんたらみたいなのの相手しないといけないわけ?目障りだからさっさと消えな」

 

「おーおー、「あーし」だってよ!お姉さん見た目かわいいのに中身は結構きついなぁ。ますます気にいった。ちょっと遊ぼうよ」

 

 集合場所である舞浜駅に一番乗りだった三浦は、のっけからナンパされていた。いつものように携帯をいじりながら、三浦は男たち――人数で言えば5,6人ほどの大学生だろうか――を一瞥し、鼻で笑う。

 

「いっとくけど、あーし男と待ち合わせしてんの。あんたらとは比べ物になんないくらい、いい男と。もう一度だけ言うし。さっさと消えな」

 

「…や、やっぱりきっついなぁ、お姉さん」

 

 早朝。恐らく前日酔った勢いだったのだろう。しかし大学生らしき男たちにもプライドがある。「お姉さん」と言いつつも黒髪薄化粧の三浦は少なくとも成人には見えない。与しやすしと思っていただろう男たちは、はっきりと頬を引きつらせて三浦を取り囲む。

 

「そんなこと言わずにさ。ちょっとでいいんだって。ほら、そこにカラオケあるし、いこいこ」

 

 そしてさっきから話しかけていたリーダー格らしき男は、三浦の腕をつかんだ。

 

 大学の飲みの勢いだったらそれも許されただろう。しかし相手は獄炎の女王。ついでに付け加えるなら恋する乙女である。興味なさげに携帯を見ていた三浦は一転、鋭い視線を男に送る。

 

「…んな」

 

「え?なに?もしかして照れちゃって…」

 

 しかし男の言葉は最後まで続かない。

 

「汚い手であーしに触んなっていってんの!」

 

 それはそれは見事なストレートパンチであった。

 

 パンチをもろにくらった男は倒れこみ、それを見て周りの男たちはますます三浦を取り囲む輪を縮める。

 

「…お姉さん、暴力はいけないなー」

 

「おお、こっわ。これ骨とか折れてるかもよ?」

 

 倒れる男を介抱する男は厭らしく三浦に視線を送る。さっきも言ったが休日の早朝、駅前といえど人通りは多くない。いたとしても休日出勤に勤しむサラリーマンか部活動に勤しむ高校生くらいのものだ。そのどちらもこんな面倒ごとに首を突っ込む暇も度胸も持ち合わせてない。男たちのボルテージはさらに加速する。

 

「責任とってもらわないとね」

 

「…へぇ。どうやって?」

 

 それまでからは考えられない激昂した表情を作るリーダー格の男に、三浦は涼しい顔で問う。またもやじりじりと男たちと三浦の距離が縮まる。

 

「ま、それはあっちにあるカラオケ入ってから考えよっか。ほら、いこいこ」

 

 男たちは今度こそはっきりと三浦を取り囲み、つれていこうとする。集団真理とは恐ろしい。俺は素直にそう思った。恐らく彼らだってここまでする気はなかったのだろう。酔いに任せたほんのお遊び。うぶな10代をからかって楽しむくらいのつもりだったのだろう。しかし思惑はことごとく外され、遊ぶはずの対象に殴られる始末。リーダー格の男は見る限り周りより学年が上のようにも見受けられる。誰も彼の決定には逆らえない。まちがっているとわかってはいても逆らえない。なぜならば誰も逆らわないから。ここで逆らえば攻撃の対象が自分に向くとわかりきっているから。

 

「…だから、うざい、ださい。さっさと離せ」

 

 しかし三浦にそんな繊細な集団真理がわかるわけもなく。

 

「…ガキが、調子乗りやがって」

 

 三浦に殴られた男は思わずこぶしを振り上げる。いつものようにふるまっていた三浦も、圧倒的人数差から思わず目を瞑る。やはり周りの人間には囲まれた男たちからは見えないのか、見えないふりをしているのか。当たり前だ。俺はそう思った。なぜまともに、真剣に生きている人間がこんなくだらないことに首をつっこむ道理があるのか。下手を打てば自分まで痛い目を見る。真剣に養っている家族にまで影響はいくかもしれない。真剣に応援し、心配してくれている親に迷惑をかけるかもしれない。そんな彼らがこんな「無関係」に首をつっむ道理はない。

 

「おはよ、姉ちゃん!」

 

 ならば。無意識に俺は言い聞かせる。真剣に何かに打ち込むわけではなく、「無関係」でもなく、養う対象もいなく、両親にもさほど応援も心配もされていないだろう俺が首をつっこむのは、それは道理ではないか。目を丸くする男たちを前に、俺は三浦だけを見て続ける。

 

「姉ちゃん、何やってんだよ。早くばあちゃんちいかないと、今日墓参り行かないとなんだから…って、この人たちは?」

 

「…君はこの人の弟さん、かな?」

 

 三浦に代わってリーダー格らしき男は俺に問う。表情に少し乱れはあったが、大きく歪んではいない。やはりただの馬鹿ではない。彼らには学歴がある。守るものがある。だからこそプライドがある。自分たちが遊ぶべき頭の軽そうな女にそのプライドを傷つけられた。もはや彼らがここにいる理由はそれだけなのだ。

 

 俺は口をパクパクと開いたり閉じたりする三浦を前に、17年の人生の中で浮かべたことのないような笑顔を彼らに向ける。

 

「す、すいません。お姉ちゃんのお友達ですか?申し訳ないのですが、お姉ちゃん今日は祖父の墓参りに行かなくてはならなくて早朝からここで待ち合わせだったのですが…」

 

「へ、へぇ。そうなんだ。彼女が何も言わないってことはそうなんだろうけど…。でも僕達も彼女に用があるんだ。時間までには「お祖母さん」の所に送り届けるから、ここは遠慮してくれないかな?」

 

 男は少し顔を引きつらせるも、すぐに余裕の表情を取り戻す。俺はまた男の評価を改める。俺と三浦はお世辞にも似てはいないし、こんな早朝から墓参りをする人間はそうはいない。彼は冷静に取り繕いつつも俺にこういっているのだ。「法的つながりがないならしゃしゃり出るな」なるほど正しい。ならば。俺は口の端を持ち上げる。正しい人間ほどやりやすい相手はいない。

 

 一つ息を吸う。そして俺は。

 

「お願いします!今日は姉ちゃんにとっても俺にとっても、家族にとっても大事な日なんです!どうか、どうかここは、その「用事」を済ませるのは後日にしてはいただけませんでしょうか!」

 

 とりあえず、地面に頭をこすりつけて土下座した。

 

 彼は正しい。俺は三浦と血のつながりもないし、親しくもない。俺が呼びかけた瞬間の三浦の表情を見て彼はそれを悟ったのだろう。

 しかし、正しく在る必要がどこにあるのだろうか。正しさなど、世間的には何の役にも立たない。社会は正しくないからこそ機能できる。だから雪ノ下は孤立するし、三浦は選挙に当選した。そしていま世間一般の認識は、「幼い弟が取り囲まれたお姉ちゃんをかばって土下座している」という図だ。通り過ぎている人々もいよいよ俺たちをはっきりと、訝し気に見るようになる。遠巻きに人だかりまでできてきた。そしてそれは、学歴のあるだろう彼らの望むところではない。周りとは無関係だからこそ多少のやんちゃができたのだ。

 

 「無関係」から「興味」に変化した周囲の空気を敏感に察した男は、やはり慌てて取り繕う。

 

「な、なるほど。事情は分かったよ。お姉さんに誘われたのは俺たちの方だったが…そういうことなら仕方がない。お祖母さんによろしくね」

 

「はぁ?あんたら何勝手なこと言ってんの?話しかけてきたのはあんたらの方…」

 

「た、助かります!お姉ちゃんのわがままに付き合っていただいてありがとうございました!また仲良くしてください!」

 

 俺は不機嫌そうに開く三浦の口を強引に抑え、また地面に頭をこする。軽いものだ。俺は心底そう思う。軽い頭だからこそ簡単に下げることができる。侮られても、安く見られてもどうでもいい。なによりも自分を安く見ているのは、他ならぬ自分なのだから。

 

 男たちは今度こそ興をそがれたのか、土下座する俺に周りの視線が怖くなったのか、いくつか捨て台詞を吐いて駅へと向かっていった。彼らの声が聞こえなくなってから俺は頭をあげる。ふう。久々に働いてしまった。社畜特有の達成感を抱く俺を前に、横から震えた声が聞こえてくる。

 

「…なんで?」

 

「は?」

 

 さっきまでいつも通りだった彼女。何分か前まで不遜を代表したかのようだった三浦優美子は。

 

「なんで、あんたは…あんたが…泥を…」

 

 今は、等身大の、幼い、高校生の少女だった。

 

「なんであんたが頭下げてんの?なんであんたが馬鹿にされてんの?あーしは別に、そんなことしてほしかったわけじゃ…」

 

 嗚咽とともに彼女は続ける。もはや彼女にさっきまでの余裕は、男たちと対峙した時の毅然とした姿はなかった。どうして、なんで。彼女の口からはその二つの単語が漏れるばかりだった。

 

 そしてそんな彼女を前に、俺もまた何も言えなかった。なぜか。答えは単純だ。俺もわからなかったから。自分でも理解できなかったから。危険地帯に自ら身をさらした自分が。安いとはいえ、軽いとはいえ自らその頭を地にこすりつけた自分の心中が。

 

 だから、俺は自分の言葉を、想いをコントロールすることができなかった。

 

「それはたぶん」

 

「ん」

 

 一度天に吐いた唾は、戻すことができない。

 

「どうでもいいからだろうな。自分のことが。…たぶん、自分よりお前のほうが」

 

 しかし俺の言葉は続かない。

 

「は?」

 

 言いかける俺に、三浦の眉が釣り上がる。

 

「あーしは、あーしは…」

 

 彼女から続く言葉は。想像することは、俺にはできなかった。

 

「演説の時、あんたが言ったこと、あーしは…」

 

 彼女は、いつでもまっすぐ俺を見る。

 

「あんたのことを。…あんたとあーしのことを、どうでもいいなんて、あーしは思わない。あんたをあーしがどう思ってるか、あんたがあんたをどう思ってるか…勝手に、きめんな」

 

 その瞬間。駅から人があふれた。見知った顔もいくつか駆け寄ってくる。早朝、最も人間が集まるホームだったのだろう。人酔いに当てられたような雪ノ下。何かを期待するような由比ヶ浜。横の男だけを見て目をハートにする一色。なぜか遠い目でこちらを見る葉山。どこを見ているかわからない海老名さん。隣の女子だけを見る戸部。しかし俺は。

 

 そう。ここに俺は再認識したのだ。

 

「あんたはどうでもいい人間じゃない。カッコよかった。…ありがと、ね」

 

 俺の目に映っていたのは、彼女だけだった。

 

 

 

 



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彼と彼女は徐々に近づく。(中編)

 

 黒歴史、という言葉がある。

 

 それの指す意味は今更説明するまでもないだろう。過去の所業に対して現在の自分が身悶えることだ。時に人は過去の自分を悔やみ、疎み、恨むことさえある。

 かくいう俺も人並みに…いや、俺が唯一人並みを大きく上回っているものが黒歴史の数かもしれない。幼稚園、小学校、中学校、そして高校とその一つ一つをいまだに覚えている。夢に出てくることさえあるのだ。そしてそのたびに後悔する。

 しかし。俺はこぶしを握る。俺はそれを一つ一つ、たった一人で乗り越えてきた。時に校舎裏で一人ただただ涙し、時にそそくさと学校を後にし、時に学園祭の打ち上げをすっぽかし。

 …あれ、一個も乗り越えてなくね?

 

「…」

 

「…」

 

 ちょっと待って、もうめちゃくちゃ帰りたい。

 

 早朝の舞浜駅。俺と三浦の間には微妙な空気が流れていた。大学生らしき集団に絡まれている三浦を放っておけなくなり、俺は頭を下げたることで事をうやむやにした。その際に寝起きのテンションも相まって、思い返せば三浦に対していろいろと恥ずべき言動をしたことが思い出される。

 とはいえ俺と三浦がお互い黙っていることは珍しくない。生徒会室で偶然二人になることがあっても、交わされる言葉は多くはない。そもそもまったく接点のない人間同士、特に共通の話題があるわけでもない。沈黙は当然の帰結であろう。しかし。俺はちらりと横に目をやる。

 隣の三浦はケータイをいじっているが、その手の動きにいつもの素早さはない。どこか上の空の彼女とふと目が合う。普段なら「あぁ?」という低い声とともに睨み返す彼女は、その視線をフイと俺から外す。寒さからかその頬は少し赤い気すらする。いや、流石にそれは俺のラノベ主人公脳が見せる幻覚だろう。…と、信じたい。三浦は俺の方をまたチラリとみて、目を見張る。

 

「ちょ、あんた」

 

「…なんだ」

 

 一歩俺に身を寄せる三浦に、思わず身構える。そんな俺を無視して彼女の手が伸びる。突然のことに思わず目を瞑ってしまう。額に柔らかい感触が当たった。

 

「おでこ、さっきので汚れついてるし」

 

 あーあー、服にもついてるじゃん。ぼやきながら彼女はバッグからハンカチを取り出し、俺の服に付いた土を払う。や、やだ、こんなことお母さんにもしてもらったことない!あーしさんマジおかん!あふれる母性に包み込まれちゃいそう!

 しかしそのままにしておくわけにもいかない。そんなことをしてもらう理由もないし、汚れたハンカチの始末にも困る。女の子が「そのハンカチ洗って返しますから!」と言えば好ましく映るだろうが、男が「デュへへ…そのハンカチ、洗って返しますから…」などと言えば110番は免れない。俺にも覚えがある。いや、覚えあっちゃダメだろ。

 

「そんくらい自分でできるし、お前に世話される理由がない」

 

 そ、そんくらい自分でできるしっ!最近雪ノ下に続いて俺の宴会芸レパートリーに加わりつつある三浦優美子の物まねを脳内で披露しつつ、俺は三浦のハンカチを押しのける。固辞する俺に彼女は口をとがらせる。

 

「はぁ?あんたの服が汚れたの、半分はあーしのせいでしょ?このくらいする理由あると思うんだけど」

 

 そう言ってまた三浦は俺の服のほこりを払おうとする。今度は彼女の、その、なんというか、それなりに膨らんだ部分が目につく。…これは気づいてないんだろうな。

 

「いや、だからな…」

 

「まだなんか言ってんの?あんたたまには人の言うこと素直に聞けって…」

 

 彼女はあきれ顔で見上げる。三浦と俺の顔の距離、およそ15センチ。その距離はそのまま身長差ほどしかなかった。

 

「あ…」

 

 また気まずい沈黙が流れる。しかしなぜか目の前の彼女から目を離せない。ハンカチを押し付けないと気が済まないのか、今度こそ彼女も目を離さない。彼女の長髪が俺の鼻をくすぐる。その緑がかった瞳に俺の視線は引き付けられる。自分の顔が彼女の瞳に映るほど近いことに気づき、急激に頬に熱を感じた。そして数秒。彼女の唇が震える瞬間、横から声がかかった。

 

「…三浦さん、比企谷君、おはよう。朝から元気がよさそうで何よりだわ。さぞかし今日を楽しみにしていたんでしょうね」

 

「お、おはよー、ヒッキーと優美子。いやー、待たせちゃってごめんね?ちょっと電車混んでてさー。…で、二人は何してるの?」

 

 声のかかった方向を見ると、奉仕部の二人に加え今日ディスティニーランドに行く一色、葉山、海老名さん、戸部がいた。奉仕部の二人は寝起きなのか俺に向ける目付きがあまりよろしくない。二人ともなかなかの目の腐り具合だ。俺がいうのだから間違いない。一色は意味ありげに笑い、戸部は目を丸くしている。葉山と海老名さんはいつもと変わらない。にやけ面のまま一色が由比ヶ浜と雪ノ下をなだめる。

 

「まあまあお二人とも、三浦先輩とせんぱいがお二人で仲良くしてるんですから、邪魔するのは野暮ですよー」

 

「一色さん、別に私は邪魔とかそういうことではなく、ただ三浦さんが比企谷君によからぬことをされてるんじゃないかと…」

 

「べ、別にあたしもそういうのじゃなくて、優美子がヒッキーになんかえ、えっちなことされてるんじゃないかなって…」

 

「おい、なに朝っぱらから人聞きの悪いこと言ってんだ。…まあちょっと想定外のことがあっただけだ」

 

 というか、女王相手にそんなことする度胸が俺にあると思っているのかこいつらは。まだ冷たい視線を送る二人を尻目に、意外なことに今度は海老名さんが重々しく口を開いた。

 

「そうだよね」

 

 おお、わかってくれるか。なぜか身の危険を感じていた俺は、突然現れた救世主に救いを求める。しかし。

 

「ヒキタニ君の目にはさっきから戸部君と葉山君しか映ってないもんね!大丈夫。私は、私だけは三人の関係分かってるから!私そういうのに理解ある系女子だから!むしろそういうのにしか理解ないまであるからっ!!」

 

 ぐ腐腐っ。笑い声がそう聞こえたのは俺の気のせいだったと信じたい。

 

「ヒ、ヒキタニ君?悪いけど俺そういう趣味ないから…」

 

「いや、戸部。俺も全くないから安心しろ。だからちょっとずつ離れるのを止めろ」

 

 戸部は顔を引きつらせる。なんでこんな時だけ察しがいいんだこいつは。反対に葉山はいつも通り微笑むのみ。おい、お前もしっかり否定しろ。海老名さんの暴走が止まらないだろうが。変わらない葉山に一色が甘い声を出す。

 

「ねえ、葉山先輩。こーんな仲良さそうな三浦先輩とせんぱいの邪魔しちゃ悪いですよねー」

 

「うーん、そうだな」

 

 葉山はあざとい一色に苦笑交じりにうなずいたかと思えば、こちらにいつもの笑みを向ける。しかし続く言葉は。

 

「…ヒキタニ君、ずいぶん優美子と仲がいいんだね」

 

 彼は微笑を浮かべ静かにそう言った。一見すると何も変わらないように見える。しかし彼の心中まで推しはかる術は俺にはない。なぜか三浦が慌てて葉山の前に立つ。

 

「は、隼人、別にヒキオはただ一緒の生徒会入ってるだけで…」

 

「優美子、今はヒキタニ君と話してるからちょっと後にしてもらってもいいかな?」

 

 葉山はそのままの笑みで三浦に笑いかける。いつもと寸分違わない笑みに、三浦は息を詰まらせる。彼は一息つき、何でもないように言う。

 

「比企谷君、今日はよろしくね」

 

「…おう」

 

 その笑顔は、いつもの完璧なそれより少し固かった。

 

 

 

「一色」

 

「…はい?なんですかせんぱい」

 

 場所は舞浜駅から変わってディスティニーランド。クリスマスを直前にしたランドは異様な混みようだった。当然ディスティニーの入り口も長蛇の列ができており、三浦はこれ幸いと葉山の横を陣取っている。三浦との順番制なのか、楽しそうに話す二人を恨めし気に眺める一色に声をかける。…いや、そんな嫌そうな顔で睨まなくても。

 

「なんで葉山たちがいるんだよ」

 

「先輩バカですか?クリスマス前の貴重な休日に、なんでわざわざ仕事の生徒会でこんなとこに来ないといけないんです?どうせ来るなら有意義に過ごさないと意味ないじゃないですか」

 

 一色は心底馬鹿にした目…いや、馬鹿を見る目で俺を見る。言っていることは想い人を射止めようという可愛らしい女の子の言葉に聞こえなくもないが、その目がすべてを台無しにしていた。その全くかわいくない目のまま、一色は俺に笑いかける。

 

「…まあ?せんぱいは朝から三浦先輩と有意義な時間を過ごしてたみたいですから、気が付かなくても仕方ないと思いますけど?」

 

「なんだその腹立つ目は。…別にそんなんじゃねえよ。ただ…」

 

「ただ…なんです?」

 

 一色は俺の顔をのぞき込み、人を食った笑みを浮かべる。…やりにくいことこの上ない。

 

「…黒歴史が一個増えたくらいだ」

 

「ふーーーん?」

 

 その顔、女子じゃなかったら確実に殴っていたことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

「ねえねえねえ、まずどこ行く?メリーちゃんのとこは人多いと思うし、最初は軽くジェットコースター系のパスとり行くべきだと思うんだけど。それともそれともあえて朝方空いてるお化け屋敷とか怖い系行く?あー、でもお腹もすいてるし屋台食べ歩きも捨てがたいかな?ねね、どうする?」

 

 ディスティニーランドの入場ゲートをくぐる。のっけからテンションマックスなのは言うまでもなく由比ヶ浜である。流石に朝から彼女のテンションに付き合うのは厳しい一般人たち(戸部を除く)は、苦笑とともにただただうなずく。そんな由比ヶ浜を雪ノ下がなだめる。

 

「はあ…少し落ち着きなさい、由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下は大きくため息を吐く。しかし次の瞬間。

 

「まずファストパスをとる班、お土産屋に行く班の二つに分かれるのも悪くないわ。お土産屋は最初に回れば混んでないし、ロッカーに預けておけば荷物にならない。ロッカーは大型でも500円程度。お土産を置く程度なら割り勘すれば大した値段にはならないわ。そのうえで各々の好みのアトラクションから込み具合の大きそうなものからパスを取っていけば効率的に回れるのではないかしら。もちろん好みには個人差があるだろうから班分けはそれにあわせてでも…」

 

 いや、まずはお前が落ち着け。

 

 今度は俺が内心ため息を吐く。こいつフリーパスでいつも一人で来るから、ひそかに他人とくるパターン想像してたんじゃないの?そう思えてしまうほど彼女の提案は流れるように出てきた。まあ駅で見たときは人込みで既に死にそうになってたし、やる気なのはいいんですけどね。

 しかし、俺は少しの違和感を覚える。由比ヶ浜と雪ノ下二人だけという状況であれば雪ノ下がこのようなテンションになるのもわかるが、彼女と関係性が薄い人間がいる前でこのように嬉々とした態度をとるとは。俺の視線に気づいたのか、雪ノ下はじろりとこちらをにらむ。

 

「比企谷君、何か文句でもあるのかしら」

 

「いや、俺からは特にない」

 

 ディスティニーランドに対して思い入れのない俺は、どうしても彼女たちと温度差がある。家族と一緒に俺がディスティニーランドに来たのは記憶がないほど前のことだし、小町が物心ついた時は俺が家族で行くティスティニーランドに着いていくこともなかった。必然的にその記憶は修学旅行ものになるが、修学旅行で俺が良い思い出を作れるわけもない。

 

「えー、皆で来てるんだし、皆で回ろうよ。そっちの方が楽しいし、皆で楽しむのもクリスマスっぽくない?ね、優美子?」

 

「あ、あーし?…あーしは隼人と一緒ならどうでもいいんだけど」

 

 由比ヶ浜から話を振られた三浦は、チラチラと葉山を横目で見ながら頬を染める。今日も乙女三浦は平常運転ですねぇ…。葉山はあからさまにすり寄る三浦に苦笑気味に相槌を打ち、由比ヶ浜に同調する。

 

「そうだな。いろはから聞いた話だと、生徒会のイベントに向けてクリスマスを皆で楽しむのが目的だって言ってたから、結衣の言うようにみんなで回るのがいいんじゃないかな。…雪ノ下さん、どうかな?」

 

「…そうね。チケットは平塚先生のご好意でいただいた物だし、先生の顔も立てておくべきかもしれないわ」

 

 平塚先生はイベントに向け、一言で言えば「協調性を持て」という忠告をした。戸部や葉山、三浦がいるこの状況は雪ノ下にとっては確かに協調性なくしてはうまくいかないだろう。葉山の言葉に眉を顰めることもなく、雪ノ下は素直にうなずく。

 

「そーそー、せっかく皆で来たんだし、普段ヒキタニ君とかと遊ぶこともあんまないし、皆で回ったほうが楽しいっしょ!」

 

「そうだねー。これだけ人いると合流するもの面倒だし、皆で回ったほうがいいかもね」

 

 戸部、海老名さんが雪ノ下に続いて同意する。そうだぞ戸部。俺と遊べることなんてめったにないぞ。特別だぞ。スペシャルだぞ。だからお前と遊ぶ機会は大事な時のために一生とっておきたかったです。

 

 戸部に心の中で挨拶をしていると、横の一色が「むー、葉山先輩と二人きりで回るチャンスだったのに…」などブツブツと呪詛の念が聞こえたが、当の葉山の提案に反論する気もなさそうだ。葉山が最後に俺に問いかける。

 

「ヒキタニ君、それで大丈夫かな?」

 

「ああ、それでいい。どっちにしろ俺は後ろからついていくだけだ」

 

「せいぜいストーカーに間違えられて通報されないように気を付けなさい、比企谷君」

 

「通報する可能性があるのはお前しかいないから、お前が我慢すれば問題ない」

 

「あはは…ま、とりあえず最初に行くアトラクション決めよっか」

 

 由比ヶ浜が苦笑いを浮かべつつ、パンと手を打ち、ランドをどう回るかの話し合いを始めた。話合いは主に由比ヶ浜、雪ノ下、戸部のディスティニーランドを楽しみにしている勢によって進められるようだ。一色と三浦は葉山を真ん中に置き、彼の両隣でお互いにらみ合っている。

 俺と同じく手持無沙汰なのか、気づけば隣にいた海老名さんが楽し気に笑っていた。

 

「いやはやー、それにしても意外だったねー」

 

「…まあ、来るとは思わなかった」

 

 俺が戸部をチラリと見ると、彼女はあははー、と珍しく困ったように笑う。

 

 修学旅行、戸部は海老名さんに告白し、そしてフラれた。教室で見る彼らの様子に変化はなかったが、輪の中にいる人間の気持ちは外から見ている分にははっきりとはわからない。所詮俺が見ているのは学校のクラスの中だけの彼らの関係であり、こと学外において一切を知り得るわけがなかった。

 つい漏れてしまった余計な世話ともとれる返答に海老名さんは気を悪くした風もなく、俺にいたずらっぽい上目遣いを送ってくる。

 

「いやいや、私のことじゃなくて。比企谷君、ずいぶん仲いいんだね」

 

「葉山とだったら仲はそんなに良くないぞ。ていうか嫌いだ」

 

「うん、そういうことでもなくて…あれ?まあそういうことではあるんだけど…」

 

 眼鏡の奥に怪しげな光を灯らせるが、またすぐに笑い、葉山の隣の三浦を見る。

 

「私の友達がさ、お世話になってるみたいだから」

 

 友達。少し照れくさそうにはにかんだ彼女に、俺は適当な言葉を返すことができない。おおよそ海老名姫奈という人間から発せられないだろう単語。しかしそれはなぜかそう不自然ではなかった。いつもと少し調子の違う彼女から目を外す。

 

「…生徒会はあと一年ある。波風立てても仕方ない」

 

 あと、あーしさん怖い。心の中で付け足しておく。だって聞こえたら怖いし。海老名さんは意味深な笑顔で何度か頷き、まあでも、と騒がしい一同を見渡す。

 

「似合わないかもだけど、たまにはいいよね、こういうのも。…この人混みだけは疲れちゃうけど」

 

「ああ、よく来ようと思ったな。できればこの時期のランドは一生来たくなかった」

 

 

 次は周りの人込みを見渡し、俺と海老名さんの肩が落ちる。お互いこのようなキラキラ空間の人込みには慣れていないのだ。俺たちが慣れている人混みと言えば、そう…俺が思った途端に彼女は声のトーンを上げた。

 

「でも即売会よりはかなりましじゃない?売り切れ前に急ぐこともないし、いちいちsnsで情報収集する必要もないし」

 

「それは俺たちがディスティニーを楽しんでないからだろ。しかも人混みっつってもこの無秩序なただの人の山とコミケを比べてもしょうがな…」

 

 彼女の言葉に肩をすくめるが、言い切る前に悪寒が走った。海老名さんがにやりと笑う。

 

「やっぱり比企谷君も行くんだね!いつもおんなじサークルのとこばっかりみてたら刺激が足りないよね?なら私と一緒に新しい世界への扉を…」

 

 BがあーだLがこーだ、男たちの花園について海老名さんは朝から熱弁をふるう。ひ、ひぃ!八幡まだそんなアブノーマルな世界知りたくない!知るならノーマルの世界のほうがいい。何ならそっちのほうが知らない。

一人で悲しい気持ちになっていると、暴走しかける彼女の頭を後ろから三浦がはたいた。

 

「だーかーらー、擬態しろし海老名」

 

 三浦と一色のにらみ合いから逃げ出したのか、気づけば葉山は雪ノ下たちの話し合いに加わっている。海老名さんは叩かれた頭をさすりながら口をとがらせる。

 

「うう…だって優美子も結衣も興味ないみたいだし、比企谷君は言うまでもなく逸材だし…」

 

 逸材って何だ逸材って。深く突っ込むのが怖かったので、黙って二人の会話を聞く。

 

「逸材って何の話だし…てかヒキオ、あんたも海老名止めろっての。一回暴走したら誰か止めないと止まんないんだから」

 

「待て、なんで俺のせいになってんだ。そもそも海老名さんと由比ヶ浜の保護者はお前じゃねえのかよお母さん」

 

「だ、誰がお母さんだし!…つーかあんたちょくちょくあーしのことオカン呼ばわりするけど、あーしまじ子供も家事も無理だから。収入も生活も楽させてくれて、格好良くて、子供もいらない人間じゃないと無理」

 

 現実にはあり得ない妄想を指を折って語る三浦を俺は鼻で笑う。何を言ってるんだこいつは。

 

「お前が働かず、家事もしないで暮らせるほどの年収って、一体いくらあればいいと思ってるんだ」

 

「…一千万円くらい?」

 

「30代でも一人で一千万稼ぐ人間は全体の1%しかいない。40台で10%だ。イケメンの爺さんでも探すか」

 

「ジジイはまじで無理。クサイ、うざい、だるい。つーかあんただっていっつも専業主夫とかわけわかんないこと言ってるけど無理ってことじゃん」

 

「俺は専業主夫として家事炊事をやる覚悟はあるぞ。ただ社会で働かずに飯が食いたいだけだ」

 

 全国のお父さんたちに謝れ。俺は三浦の言い分に思わず顔をしかめる。小町に冷たい目を向けられる親父も、いつもなんとも言えない気持ちなのだろうか。まだギャーギャーと何か喚く三浦に適当に相槌を打っていると、ふと海老名さんと目が合う。

 

「仲がいいのは良いことだ。ヒキタニ君」

 

「ぼっちにはそもそも仲が悪くなるような友人もいないけどな」

 

「そういうことにしとこっか。お互いね」

 

 海老名さんはそう言い残し、話合いが終わった様子の戸部に話しかける。戸部が身振り手振りで今から行くアトラクションの楽しさを説明し、海老名さんがそれをニコニコと聞きながらうなずいている。その笑顔を眺め、俺は改めて思う。

 

 あの人だけは、よくわからん。

 

 

 



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彼と彼女は徐々に近づく。(後編)

「け、結構スリルありましたね…」

 

 ジェットコースターから降りた一色は頭を押さえ、青い顔をしている。足取りも若干危ない気がするが、どうやらいつもの計算込みのあざとさではなく素のようだ。そんな彼女を案じた三浦が一色に水を渡すと、一色は礼を言って受け取る。やっぱりお母さんじゃねえか。

 

「そうね、こんな危険なものに子供を乗せる親御さんの気が知れないわ」

 

 そこまで言いますか?雪ノ下は一色の震える声に激しくうなずく。文句を続けようとする雪ノ下を由比ヶ浜がまあまあ、となだめる。

 

「ほ、ほらほらゆきのん、次はパンさんのアトラクションだからさっ」

 

「…別に私は全然楽しみといわけではないのだけれど。ただ由比ヶ浜さんが行きたいというから…」

 

雪ノ下は少し頬を染めぼそぼそと何かつぶやき、由比ヶ浜が困ったように笑う。しかし横からえー、と間延びした声が聞こえた瞬間、雪ノ下は顔を上げた

 

「パンさんてかわいくなくない?あーしおしゃまキャットメリーちゃんのいきたいんだけどー」

 

 命知らずの声の持ち主は言うまでもなく三浦である。はわわわ…雪ノ下のパンさん好きを知る俺と由比ヶ浜は口に手を当てて戦慄する。雪ノ下の猫とパンさんへの愛は由比ヶ浜をして測りがたい。案の定すぐに雪ノ下は三浦に噛みつこうとする。しかし。

 

「ちょっと、三浦さ――」「――えー、そうですか?私も好きですけどね、パンさん。ほら、かわいく見せようとしてないところがかわいいっていうか。ね、葉山せーんぱい」

 

「…うん、そうだね」

 

 あざとくアピールする一色にさえぎられた。この一色の言葉にはさすがの葉山も苦笑いで返すしかなかった。『かわいく見せようとしてないところがかわいいっていうか』。お前、鏡の前でもう一度言ってみろ。おそらく全員の胸に去来した思いだったと思うが、雪ノ下はどうやら一色の言葉で機嫌を直したようだ。うん、うんとしきりに頷いている。…いいのか?それで。

 

 

 

 

 

 パンさんのアトラクションから降り、そこで土産を見ているとすでに昼食をとるにはかなり遅い時間になっていた。まあ時間がかかったのは土産物屋でいつまでも目を輝かせながらお土産を吟味していた人間がいたからだが。雪ノ下さん、いくらなんでも小町くらいあるパンさん人形は流石に持って帰れないと思うの。はしゃぎ回る雪ノ下を前に、一緒に小町へのお土産を選んでいた由比ヶ浜が苦笑いを浮かべる。

 

「あはは…ゆきのんほんとに楽しそうだね」

 

「まあ、いくら何でもはしゃぎ過ぎだとは思うが…」

 

 きょろきょろと周りを見渡し、おもむろにレジ横のパンさん等身大?人形と一人自撮りを撮る雪ノ下を眺め、俺はため息を吐く。それを見て流石の由比ヶ浜も頬を引きつらせる。

 

「た、楽しそうでいいじゃん。こんな楽しそうなゆきのん見るの初めてだし」

 

「確かに楽しそうではあるな」

 はじめから、不自然なほど。俺は心の中でそう付け足す。最初雪ノ下がディスティニーの回り方を提案した時から覚えていた違和感。俺はここではっきりと確信する。これは俺の知っている雪ノ下雪乃ではない。長く奉仕部での彼女を見ていたから昔に比べ多少素を見せることに慣れてはいたが、今は葉山たちもいる。にもかかわらず彼女は年相応にはしゃぎ、葉山の意見を素直に聞き、彼らのグループとも普通に話している。それは俺の知る雪ノ下雪乃像ではない。いつでも一人凛と立ち、よりどころを求めない。それが俺の知る雪ノ下雪乃だ。俺の言葉に含むところを感じたのか、由比ヶ浜は遠い目で雪ノ下を見る。

 

「たぶん、ゆきのんは気づいたんじゃないかな。あの選挙で」

 

「…何にだ」

 

 俺は少し声を固くして尋ねた。あの選挙の話をされるのはいい加減辟易していたから。それもある。しかしそれ以上に、あの選挙で雪ノ下が生徒たちの支持を下げるような演説をした理由が未だにわかっていなかったから。同じ空間で同じ時間を過ごしていたはずの由比ヶ浜だけが雪ノ下の思惑、その心の内に触れているように感じたから。俺だけ、そこから置いて行かれているように感じたから。自然と声が低くなった。由比ヶ浜は彼女らしくもなく、カラカラと見透かしたように笑った。

 

「へへ、ヒッキーでもわかんないことあるんだね」

 

「何を言っている。俺にはあっちもこっちも、わからないことだらけだ。まずこんな時期に俺がなんでこんな所にいるのか、意味が分からん」

 

「えー、いいじゃん。人一杯いるのもクリスマスって感じして楽しいし!」

 

「由比ヶ浜、それは前提がおかしい。なんでクリスマス=楽しいっていう方程式が成り立っちゃってんだよ。俺を論破しようとするならまずその方程式の証明からにしろ」

 

 俺の至極もっともな問いに、由比ヶ浜は呆れたように首をひねる。俺にとってクリスマスとは別に特別な日ではないし、楽しいという思い出もない。だからそんなかわいそうな者を見る目で見ないでください。彼女は少しだけ思案し、はしゃぎ回る雪ノ下、葉山を間に挟む三浦と一色、別々のお土産を見ているにもかかわらず、なぜか同様にテンションマックスの海老名さんと戸部を眺め、ポンと手を打つ。

 

「ほら、こんな楽しそうな皆、普段なら見れないじゃん」

 

 俺が言い返すことのできる言葉はない。なによりも先ほどまで話にあった雪ノ下を見ればそれは証明されている。彼女のらしくないはしゃぎっぷりは、クリスマスの熱に浮かされているものなのだろうか。ううむ、やはり策士、由比ヶ浜結衣。予想以上に難解な答えが由比ヶ浜から返ってきたことに戸惑いつつ、少し考えを深める。黙った俺を見て由比ヶ浜は勝ち誇ったように笑う。

 

「やーっぱり、ヒッキーよりはあたしのほうがわかってるみたいだね!ゆきのんのことと、それにゆみ…」

 

 何か言いかけ、由比ヶ浜は口をつぐむ。しかしすぐにこちらに笑顔を向ける。

 

「優美子も、いつもより楽しそうだし。ほら皆楽しいんだよ!」

 

「結局ゴリ押しじゃねえか…それに三浦なら葉山さえいれば場所とか時間なんて何でも…」

 

「ううん」

 

 彼女の短い否定に、俺の言葉は最後まで続かなかった。

 

「優美子、いつもより楽しそうだよ。…やっぱりヒッキーにはわかんないかもね」

 

「わからなくて結構。あのわがまま娘の気分に振り回されたいとも思わねえよ」

 

「バーカ」

 

 由比ヶ浜はベー、と舌を出す。バカにバカ呼ばわりされるとは、これいかに。しかし確かに俺には分かっていないことを見透かしているような余裕の由比ヶ浜に、俺は返すことのできる言葉を持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 

 その後昼食を取ろうと座れる場所を探したが、レストランやフードコート系の施設はどこも人で溢れかえっており、入った瞬間雪ノ下が卒倒しそうだったので却下となった。しばし雪ノ下はベンチで休み、戸部が屋台で買ってきたホットドッグやらチュロスやらを食した。うむ、うまい。やはり戸部は基本的にいいやつだ。うざいけど。

 

 

 

 

 

 そしてパレードの時間も迫ってきた夕刻。俺と雪ノ下はほかのメンバーと別行動をし、現在はジェットコースターの列に並んでいた。というのもあるアトラクションに並ぼうとしたところパレードの通路確保のロープに遮られ、由比ヶ浜たちと分断されてしまった。そのためアトラクションには別々に並ぶことになった。パレードが近いこともあり待ち時間自体は30分程度で、もうこのままジェットコースターに乗ってしまった方が早そうではあった。そう雪ノ下に言うと、雪ノ下は上ずった声で何度かうなずく。しかしジェットコースターが近づくにつれ顔を青くする雪ノ下に、俺は嫌な予感を覚える。そう言えばこいつ、スぺマン乗ったときも「こんなものに子供を乗せる親の気が知れない」とか言ってたよな…。

 

「雪ノ下、一つ確認していいか?」

 

「なにかしら」

 

 雪ノ下はいつもの毅然とした態度で俺に問い返す。俺も彼女の反応を見逃さないように雪ノ下の目を見る。

 

「もしかしてお前、こういうの苦手?」

 

「…苦手、というわけではないけれど」

 

 雪ノ下はあっていた視線をフイと下に外しうつむく。あー、これはあれですね。最近よく見るダメな方のゆきのんですね。だめのんの方のパターンですね。彼女の様子を見て俺は出口に目を向ける。

 

「お前、そういうの先に言えよ。…出るぞ」

 

「べ、別に乗れないというわけではないわ。大丈夫よ」

 

「得意じゃないんだろ?」

 

 俺がそう問いかけると、彼女は眉根を寄せ、少し語調を荒げる。

 

「大丈夫だと言っているでしょう。乗りましょう」

 

「あほか。そんな意地張るようなことでもねえだろ」

 

「…そういうことじゃないわ。本当に大丈夫だから」

 

 そうつぶやいた彼女は。いつもの凛とした視線は虚空をさまよい、年相応の幼さを醸し出していた。

 

「由比ヶ浜さんと一緒の時は大丈夫だったし…それに、今日は決めてるから」

 

「何をだ?」

 

 思わせぶりに言う彼女に俺は素直に問う。もしかしたら少しおかしい今日の彼女を知ることができるかもしれない。少しの希望を抱いて尋ねた俺に、彼女は当然のように答える。

 

「好きなものは好きだし嫌いなものは嫌い。ただそれだけよ。だからジェットコースターも嫌いということにはならないわ。私が乗りたいと言っているのだから」

 

「…」

 

 明らかに彼女らしからぬ言葉。しかしその笑顔は不思議と不自然ではなかった。

 

 

 

 

 

「…おい、大丈夫か?」

 

 ジェットコースターに乗ると横に座る雪ノ下の顔がとうとう今まで見たことのないほどに青くなる。いや、こいつ絶対ジェットコースター苦手でしょ…。俺は改めてそう思う。彼女はそれを隠す余裕もないのか、乗る前までの態度とは一変、すぐに俺の言葉に首肯する。

 

「本当にこういうの得意じゃないんだな」

 

「ええ…昔ちょっと姉さんがね」

 

「またあの魔王の仕業か…」

 

 俺はかつて雪ノ下がされたであろう悪戯、からかいを想像する。彼女もそれを思い出しているのか、青い顔をさらに真っ青にする。

 

「小さい頃、こういうところに来ると姉さんすごく楽しそうに私にちょっかいを出してきたわ。大人から見たらその姿は天真爛漫にしか映らないでしょうね…」

 

「妹から見たらどうだったんだろうな」

 

 俺の言葉を聞き、雪ノ下はふふっ、と笑みをこぼす。

 

「そうね。今でこそ、その頃の思い出がマイナス方面に増長されて苦手だけど、その時の私は本気で姉さんの悪戯を嫌がっているわけではなかったのでしょうね」

 

「…Mのん?」

 

「今何か言ったかしら?」

 

「何でもありません」

 

 氷点下の視線をこちらに向ける雪ノ下に、俺は口笛で返す。さっきまでの大人しさはどこ行ったんですか。俺が目を合わせないようにすると、雪ノ下は深くため息を吐くと、小さく、普通ならば聞き逃してしまうほどかすかにつぶやく。

 

「姉さんはいつもそう…」

 

 そのつぶやきは何を指していたのだろうか。先ほどまでの彼女の変調の理由さえわからなかった俺に、それを知る術はもちろんない。また返す言葉を失った俺に、雪ノ下は笑って続ける。

 

「だからね、比企谷君。私、今度は決めているのよ」

 

「何を?」

 

 反射で聞き返す俺に、雪ノ下はいたずらっぽい微笑みで返す。彼女らしくない子供っぽい笑みになぜか背筋が凍った。

 

「今度万が一姉さんと一緒にディスティニーに来たら、トラウマが残るくらい一緒に楽しんであげようと」

 

「…あの人にその手の勝負で勝てると思ってるのか?」

 

「問題ないわ」

 

 外面完璧な癖に中身は子供でスペックは雪ノ下と同等以上。おまけに体力無尽蔵。チートもいいところだ。返り討ちに遭うであろう雪ノ下の姿を想像して訊き返す俺に、雪ノ下は前を向き一言だけつぶやいた。

 

「今日も楽しくないことはないもの」

 

 視界が開ける。眼前には人で溢れたディスティニーランドと満点の星空が広がる。浮遊感を覚えコースターが下を向く瞬間、袖口を握られた気がした。思わず横を見る。

 

 彼女は泣きそうな顔で笑っていた。

 

 

 

 

 

「お前、本当に大丈夫か?」

 

 ジェットコースターから降りた後、あからさまに顔色が悪くなった雪ノ下にジュースを渡す。雪ノ下は礼を言いながら値段を尋ねる。

 

「いや、いい。病人から金を巻き上げるのは気が引ける。救急車は料金取らねえだろ」

 

「救急隊員だって正当な報酬を…」

 

 呆れた様子で言いかけながら、雪ノ下は笑いを漏らす。

 

「そういえば前にもこんなことあったわね」

 

「そうだったか?」

 

「店員に取ってもらったぬいぐるみ。どちらが受け取るかで口論した」

 

「…ああ」

 

 確か初めて陽乃さんと会った時だ。雪ノ下も同じことを思いだしたのか、少し苦々し気に続ける。

 

「あなた、初めて会っていきなり姉さんのことを言い当てるから驚いたわ」

 

「ただなんとなく思ったことを言っただけだ。それにあの人見透かされても取り繕わないしな」

 

「…そうね。そんなところも姉さんの魅力なんだと思う。誰もがあの人を誉めそやす。その裏で私は愛想がない、可愛げがない…いろいろ言われていたこと、知ってるの」

 

 雪ノ下は少し視線を落とす。その言葉は俺に向けられたものなのか、自身に向けられたものなのか、それとも別の誰かか。彼女の伏せられた目からそれを推しはかることはできない。

 

 しかし、俺はすでに知っている。彼女は強かで、一人凛と立ち、よりどころを求めない。そんな俺の幻想のような脆い存在じゃない。姉に憧れ、親の期待に応えようと努力し、そして自らの周囲の人間を守ろうと必死に手を伸ばす。そんな不完全で、不確かで、だからこそ俺では届かない、そんな女の子だ。彼女は妥協を許さず、ベターエンドもハッピーエンドも必要としない。トゥルーエンドのみを愚直に求め続ける。その姿は全員のバッドエンドが全体の幸福だと信じていた、今でもそう思っている俺と鏡写しのように重なった。だから俺は彼女に問わずにはいられない。

 

「今でもああなりたいのか?」

 

「いいえ」

 

 予想に反してその返答はすぐに出た。いつの間にか雪ノ下は落とした視線をまっすぐにこちらに向けていた。

 

「私はああはなれない。あんな風に周りのすべてを欺いて、自分すら騙して、それでも自分の信念を貫く。そんなに強く生きることはできない。あなたみたいにすべてを助けようとすることだってできない。…親の望む「私」にだって、ならない。あの選挙で、彼女と一緒にいてそれがわかったわ」

 

 絞るように声を紡ぐ彼女は、俺の知っている雪ノ下雪乃ではなかった。弱く、拙く、小さく儚い。そして彼女はそんな自分を誇っている。そう俺には見えた。雪ノ下は笑って続ける。

 

「あの選挙で私は負けた。あなたと、彼女に負けた。…あなたはなんで私があんな生徒たちに反発されかねないことを言ったか、不思議に思っていたのではないかしら」

 

 俺はあの選挙を思い出す。忘れるわけがない。彼女は言った。自分がすべての相談に乗る。そのうえでそれぞれが自らで自らの問題を解決できる。そんな学校づくりを自分ならできる。自分にはその能力がある。だから自分に投票しろ。彼女は短い言葉で全校生徒に言った。その真意は俺にはつかむことができなかった。平塚先生も、由比ヶ浜も雪ノ下の発言の意図を掴んでいた。しかし俺にはわからなかった。

 

「人ごとこの世界を変える」

 

 彼女は戸惑う俺に短く言う。忘れもしない。雪ノ下雪乃と会ったばかりの時、俺がまだ彼女と友達になれると思っていた時。彼女が俺に言った言葉。その時の彼女のその言葉はどこまでも頑なで誰も寄せ付けず、だからこそ脆い。俺はそう思った。

 

「彼女は…いえ、三浦さんは、確かに私たちの周りを変えた。彼女を見て私は、私がしたかったことを思い出したの。だからそれを言っただけ」

 

「…勝ち戦を落としてでもか」

 

「ええ、その通り」

 

 俺の問いに彼女は当然のように答える。その答えには一片の淀みも迷いもなかった。

 

「だって仕方ないじゃない。それが私が本当に言いたかったことなのだから。本心をぶつけて、その結果が敗北ならそれは仕方ない。…自らを偽って勝つことに意味などないのだから」

 

 何も言えなかった。彼女は誰よりも勝ちたがった。姉に追い付くため、期待に応えるため、自分を偽ってでも勝ちたがった。ルールは守る、正攻法を使う。それは周囲に自らの存在を余すことなく認めさせるため。しかし、今彼女は。

 

「最善を尽くして、それでも生徒たちのニーズにより合致したのが彼女とあなたの演説だった。ただそれだけよ。だから…次は勝つわ。私、意外と負けず嫌いでわがままなのよ」

 

 今度はいたずらっぽい笑みを浮かべる。それに対する返答はすでに確定していた。

 

「いや、それは知ってる」

 

「でしょうね。…あなたは、これからどうするのかしら」

 

 彼女から漏れた小さなつぶやきは、俺の耳に入るには小さすぎた。問いに対する答えを持たない俺は、そう思うことにした。スマホのコールが鳴る。

 

「そろそろ由比ヶ浜たちと合流するか」

 

「ええ、そうね。いつまでも待たせるわけにもいかないし」

 

 抑えきれない敗北感となぜか納得している自分。それすらみない振りをして、俺は雪ノ下の後に続いた。

 

 

 



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彼と彼女は徐々に近づく。(終編)

 

 なぜこんなことになっているのだろうか。

 

「私、葉山先輩のことが好きです」

 

 パレードを見る由比ヶ浜たちに駆け寄ろうとしたその瞬間。一色いろはの声が響いた。彼女らは由比ヶ浜達から離れたところにいて、俺はパレードを見る由比ヶ浜たちと合流する前にその現場に居合わせてしまった。雪ノ下はまだ気分が悪いと近くの手洗いに先に寄っており、遅れて合流することになっている。

 

 一色は俺に気づいていないのか、返答のない相手に声を荒げる。

 

「聞いてますか?…三浦先輩に言ってるんですけど」

 

「…聞こえてるっての。あーしこそあんたにだから何?って聞きたいんだけど」

 

 一色の告白の相手は、三浦だった。彼女たちは差し向いでにらみ合っていた。彼女たちの間を時折パレードのまばゆい光が通り抜ける。

 

「あんたが何言いたいのかわかんないけど、そんなことならあーし早く隼人のとこ戻りたいん――」「――それですよ」

 

 一色は葉山の方を見る三浦に、更に声を荒げる。

 

「三浦先輩、本当に葉山先輩のこと好きなんですか?」

 

「は?」

 

 三浦は一色の意図が読み取れないのか、素っ頓狂な声を出す。

 

「どういう意味?あんただって…修学旅行のこと知ってるっしょ?」

 

 修学旅行。照明が足元を照らす竹林の中、三浦は葉山にフラれた。一色は一つうなずく。

 

「ああ、すみません。私の聞き方が悪かったですね。三浦先輩が葉山先輩のことが好きなのは知ってます。ただ…三浦先輩、葉山先輩よりも好きな人っていませんか?」

 

「…あーしやっぱ戻る」

 

「逃げないでくださいよ」

 

 うつむきその場を離れようとする彼女の手を一色がつかむ。

 

「三浦先輩が目で追ってるのは誰でしょうか。一緒にいて落ち着くのは?今日は誰と話してる時が一番楽しかったですか?」

 

「…ねえ、一色。仮にそうだとして、なんであーしがあんたにそんなこと言わなきゃなんないわけ?」

 

「私も葉山先輩のことが好きだからです。たぶん…本気で。だから、答えてください」

 

 一色の言葉は何も正しくはない。俺にも彼女の真意は分からなかった。彼女が三浦の何を知っていて、何の権利があってそこまで三浦に問いただすことができるのか。しかしその言葉を聞いた三浦の声は詰まる。

 

「じれったいですね。…はっきり、聞きます」

 

 何かを迷い続ける三浦に一色は大きく息を吸い、パレードを見てはしゃぐ由比ヶ浜達を一瞥する。一色が三浦に視線を戻す瞬間、その瞳が俺に向けられた気がした。一色は三浦をまっすぐに見つめる。

 

「三浦先輩は、本当に葉山先輩が好きなんですか?もしもっと好きな人がいるなら、気持ちとか行動とか、もう少しだけ考えてくれませんか?私にも、葉山先輩にも、奉仕部の二人にも、今のままじゃ良くないと思うんです。うまく言えなくて申し訳ないんですけど。…三浦先輩は、誰が一番大事なんですか?」

 

「…」

 

 まっすぐに見つめる一色の視線から逃れるように、三浦は顔を伏せる。今度こそ言いたいことは言い切ったのかうつむく彼女を急かすこともせず、一色は三浦からの返答を静かに待っていた。

 

 そして俺は。その問いに対する彼女の答えを、聞きたいと思ってしまっていた。

 

 三浦は何度か葉山と一色を見比べ、一色の視線を受けて小さく吐息を漏らす。数秒、三浦の目が閉じた。次の瞬間、彼女の口から出た言葉は。

 

 しかし。

 

「比企谷君?何そんなところでぼーっと突っ立っているの?パレードの光はあなたには眩しすぎたかしら」

 

 俺は思わず声のかかった方向に振り向く。手洗いから戻った雪ノ下はどこか呆れ顔でこちらを見ている。俺は早口に彼女に答える。

 

「その程度でノックアウトされるくらいならとっくに帰ってる。…もういいのか?」

 

「ええ。だいぶ気分もよくなったわ。早く由比ヶ浜さんたちと合流しましょう。由比ヶ浜さんも随分と楽しみにしていたようだし、パンさ…彼女の好きなキャラクターもパレードに出るそうよ」

 

「パンさんなら由比ヶ浜が写真撮ってくれてると思うけどな」

 

「…そう。別に私はどうでもいいのだけれど」

 

 雪ノ下はあからさまに俺から目をそらし、由比ヶ浜たちの元へ駆け寄る。パンさんを好きなのは誰なんですかね。

 

 俺も由比ヶ浜達に…いや、三浦と一色に視線を戻す。しかしすでに彼女たちは由比ヶ浜達のところに戻っていた。一色は葉山の隣で笑っている。そして。

 

 三浦は一人、輝く行列を見つめていた。

 

 

 

 

 

「ヒッキー、あたしたちここで降りるね。優美子は…」

 

 ディスティニーランドの帰りの電車。葉山たちはすでに電車から降り、残ったのは生徒会のメンバーのみとなった。何か言いかけた由比ヶ浜を遮り三浦は口を開く。

 

「あーしはもう一つ先で降りるからいい。結衣、今日は楽しかったし」

 

「…うん、あたしも楽しかった!またみんなで一緒にいこ!ね、ゆきのん」

 

「え、ええ。私も楽しくないことはなかったわ」

 

 雪ノ下は満面の笑みを浮かべる由比ヶ浜から目をそらし、小さくこぼす。そんな雪ノ下を見て一色が意味深な笑みを浮かべる。

 

「またまたー、雪ノ下先輩あんなにはしゃいでたくせに、そんな素直じゃないこと…」

 

「一色さん?あなたにはクリスマスイベントで一番きつい仕事をしてもらおうかしら?」

 

 静かな笑みを浮かべる雪ノ下を前に、一色は慌てて彼女の機嫌を取る。二人をなだめる由比ヶ浜が俺と三浦に別れの挨拶をしながらホームへ降りる。窓の外で雪ノ下にヘコヘコと頭を下げる一色と一瞬だけ目が合った。彼女は一瞬悪戯っぽい笑みを浮かべ、小さくウインクをしたように見えた。

 

「…」

 

 残された電車。俺と三浦の間に沈黙が降りる。重ねて言うが俺と彼女の間での沈黙は珍しいことではない。しかし無意識に視線は横の三浦に向かってしまう。彼女は一色の問いに何と答えたのか。一色はその答えをどう受け止めたのか。なぜ三浦は一人でパレードを見ていたのか。そして…なぜ俺はそれを気にしてしまっているのか。

 

「ヒキオ」

 

「おう」

 

 そろそろ降りる駅が近づいてきた。気づけば同じ車両に俺たち二人の他に乗客はいない。携帯をいじる三浦は、その視線を落としたまま口を開いた。

 

「今日、あんた楽しかった?」

 

「…は?」

 

 おおよそ彼女らしくない言葉に俺は困惑した。他の人間がどう感じていようが自分のしたいことをし、自分の気持ちを通す。俺の知る三浦優美子はそういう人間だった、はずだ。彼女はパカパカと携帯をいじりながら続ける。

 

「あんた、今日ディスティニーランド行って楽しかったかって聞いてんだけど」

 

「人がごみのようにいて率直に言えば疲れた」

 

「そんだけ?」

 

「…まあ、小学校の修学旅行よりかはましだったか」

 

 声を低くする三浦に、俺はつい本音が漏れる。はしゃぐ班員の3歩後ろを一人うつむき歩くディスティニーランド。小学校ではクラス替えが二年に一回だったため、六年生のクラスでは修学旅行時点で人間関係は完全に出来上がっており、俺がどうこうする余地はなかった。班員全員で取った写真で俺だけ完全に部外者のようになっていた過去はすでにデリート済みである。そんな過去を思い出したことが表情に出ていたのだろうか。彼女は口を歪める。

 

「あー、あんた小学校の時からぼっちだったん?」

 

「何言ってんだ。俺の魂はスモックを着こなす紅顔の美少年だった頃から孤高なんだよ」

 

「は?あんたこそ何言ってっかわかんないんだけど。キモ」

 

 ぐさり。三浦の短い言葉がどこかに突き刺さる音がする。なんでだよ幼稚園児のスモック姿最高にかわいいだろうが。俺は今一度小町やけーちゃんのそれを思い出し、俺の幼稚園時時代を思い出す。…うん、かわいい女の子が着るからかわいいだけですね。はい。三浦はジトリとした視線を向けたまま独り言のように続ける。

 

「…でも今日はその小学校の時より楽しかったんっしょ?」

 

「楽しくないことはなかった、くらいだな。とにかく人が多すぎて疲れ――」「――それってさ」

 

 ため息とともに出た俺の言葉は三浦に遮られる。俺は思わず横の彼女に視線を向ける。彼女と視線がぶつかった。その瞬間三浦は何かを迷うように目を泳がす。

 ためらう彼女、他者の気持ちをうかがう彼女。らしくない三浦優美子を今日は随分とみている気がする。

 

 そう。一度口にした言葉は、もう戻すことはできない。

 

「雪ノ下さんと結衣がいたからじゃないの」

 

 彼女はもう俺を見てはいなかった。その目は窓のはるか向こうのどこか。視点の定まるところはわからない。俺も何とはなしに窓の外を見る。そこに映るのは何でもない、ただの暗闇。綺麗でも特別でもない。俺も、彼女も。

 

「結衣は、楽しそうだったし。あんたと雪ノ下さんと一緒にいて。あーしはあんな楽しそうな結衣をクラスでも外で遊んでても見たことない。雪ノ下さんもそう。あーしらみたいに、なんつーか…普通に?楽しそうな雪ノ下さん見たことなかった。そんで…あんたも、そうだったし」

 

 問いにすらなっていない。俺は彼女のそれに対する言葉を持ち合わせていない。彼女よりも、誰よりも、その問題を無いものにしようとしていたのは俺だった。彼女たちと過ごした静かな部室。ともに依頼に当たった日々。横並びで歩いた修学旅行。代えられるべくもない。

 

 しかしそこに、彼女はいない。

 

「あんたも楽しそうだった。クラスにいる時、あんたいっつも周り意識して、警戒して、誰と接してる時も…あーしと話してる時も、一線引いてるし。でもあの二人と一緒にいる時、あんたは」

 

「それがお前に」

 

 何の関係がある。しかし続く言葉は出てこない。それはどこまでも正論だ。奉仕部で過ごした時間に彼女は何の関係もない。しかし、だからといって俺が三浦と居た時間が無くなるわけでもない。結局意味のないことだ。それはお互いにまったく交わらないし、その必要がない。自分と過ごした時間以上に楽しい時間を、その人間が他者と送っていないわけがない。それを俺は知っている。俺に優しい人間は誰にでも優しいし、それ以上にだれかを想っている。例えば彼女であれば、彼のことを。

 

「あーしは、楽しかったし」

 

「…は?」

 

 俺の思考は彼女の言葉に遮られる。なぜならそれは俺にとっては当たり前だったから。そうだろう。彼女は楽しかったはずだ。彼と、葉山隼人とともに過ごす時間が三浦優美子にとってどういう意味を持つか、その気持ちを少しでも垣間見た俺がわからないわけがない。ただ。俺は少し恨めしく思う。

 

 わからない振りくらい、許されないものだろうか。

 

「あーしは、楽しかった」

 

「はあ。何回も言わなくても知ってる。つーかその葉山とお前今回進展あったのか?どうでもいいがいつまでもお前の恋路に付き合わされるこっちの身にも――」「――そうじゃなくて」

 

 俺のため息はまた彼女の言葉に遮られる。自分の発した言葉自体に驚いたのか、彼女は少し頬を染め、ブンブンと腕を振る。

 

「ほ、ほら、朝あんたに、その…た、助けられて?普段も色々隼人の事とか付き合わせてるし、なんつーか、生徒会にも道連れみたいに入らせたし、その、悪いと思ってないことはないって言うか、だからって言うか…」

 

「…はあ。だからなんだ。万が一お前が本当にそう思ってたとして、今そんなこと何の関係もねえだろ」

 

「だから!」

 

 袖を引っ張られる。三浦の顔がすぐそこにあった。その長いまつげがパチパチと揺れる。何が起こったのか理解できなかった。それは彼女も同じだったのか、目を丸くしてこちらをじっと見る。

 

「だから、あーしは」

 

 そのまま数秒。三浦は言うべきことを思い出したのか慌てて口を開きかける。しかし、その声は電車のアナウンスにかき消され、彼女は顔をあげる。三浦の降りる駅だ。

 

「…じゃ、あーしここだから」

 

「おう。ま、今度は絡まれないように気ぃ付けて帰ってくれ」

 

「うっさい。別にあんたに言われるまでもないっての。…ヒキオ」

 

 電車が止まった。プシュー、と言う間の抜けた音とともにドアが開く。彼女は席を立ち、ホームに足を下す。その長髪をなびかせて最後にこちらを振り向いた。

 

「あーしも楽しくないことはなかったし。…あんたがいて」

 

 またどこか抜けた音楽とともにドアが閉まる。三浦の顔がガラスの向こう側で歪んだ。彼女はでもね、と儚げに笑ったように見えた。

 

「あんたがいなかったら、こんなに考えなくて…」

 

 バタン。

 

 その声が俺に届く数瞬早く、列車は次の駅へと向かっていた。

 



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やはり彼女はポンコツである。

『明けましておめでと。今年もよろしくしてやるし』

 

 正月の朝。反射的にスマホのモニターをのぞいたことを後悔した。差出人は見なくてもわかる。文面を見た瞬間、あの不遜な女王の顔が浮かぶ。

 

 他にも12時直後に律義に送られた絵文字たっぷりのメール、同級生に送るメールとは思えないほどの堅苦しい新年のあいさつ、そしてとつかわいい戸塚のメールは即刻保護し、中二病全開のチェーンメールは即刻破棄する。

 

 大晦日である昨晩は例年通り、国民的お笑い番組を見ている途中に寝落ちしたので、俺はメールには気づかなかった。…というか送られてくるとは思わなかった。

 

 正月の比企谷家は普段とは少し違う。適当にメールの返信を返しつつリビングに下りると、普段は忙しい両親もこの時期ばかりは家で正月特番を見ておせちを食している。母親は小町と福袋について楽し気に話し合っていて、今年の当たり福袋について考察を交わしている。その中にはここ数年の福袋のデータはもちろん、snsやネット、知り合いの評価までも混じっていて正直言って怖い。

 

 ソファでうなだれる父親はと言えば、元旦にして3日後には仕事だということを嘆いている。…いや、まあ気持ちはわからんでもない。俺も日曜の午前中にもなれば月曜の学校が鬱になるものだ。普段休みなく働いているのだから、正月ともなれば余計そんなことを考えてしまうものだろう。俺はそんな父親を見るたびに将来を誓って詠う。働かない、ああ働かない、働かない。

 

 小町は母親に福袋の希望を伝えたらしく、カマクラをなでながら正月の特番を何とはなく眺めている。どうやら受験のこともあり、今年は福袋争奪戦には小町は不参加のようだ。尤もこの姿を見るとそんなことで受験は大丈夫か、とつい一言いいたくなってしまうが、毎晩遅くまで小町の部屋の電気がついていることは知っている。それに小町は要領で言えば俺よりも良い。心配をしていないと言えば嘘になるが、そこまで悲観的にもなっていない。むしろ高2にもなって全く働く気のない俺の方が問題だろう。誰か僕をお嫁さんにもらってください。

 

「ごみいちゃん、明けましておめでとう。…って、新年から目腐ってるし。正月だからってカマクラみたいにだらけ切って、小町はごみいちゃんの将来が今から心配になってくるよ」

 

 こたつでだらけ切る俺を見て、およよと小町は目頭を押さえながらこたつに入り込む。とはいえ。今度は俺が小町を見下ろしてため息をつく。

 

「兄のことをゴミとか連呼するといつか天罰下るぞ…。俺がだらけ切っていることについては否定しないが、自分の胸にも同じこと聞いてみたらどうだ」

 

 その薄い胸に聞いてみたらどうだ、とはさすがに言わなかった。ゆきのんよりはあるしね!

 

 俺はこたつに全存在を預け、せっせとミカンの皮をむく小町に問う。不機嫌そうな小町とカマクラが俺をにらむ。

 

「小町は先の見えない受験勉強で疲れてるからいいんだよ!…ていうか小町もがっかりだよ。お兄ちゃん年末は結衣さんと雪乃さんとあんなに忙しそうにしてて、ようやくお義姉ちゃんができると期待してたのに」

 

「いや、だから年末はクリスマスで忙しかっただけだっての。そもそも働くこと自体俺の信念に反する」

 

 働かざる者世の頂点なり。

 

「へー」

 

 小町は冷めた目で俺を見る。

 

「じゃ、クリスマスにディスティニーランドに遊び行ったのも『お仕事』の一環だったんだ。…帰ってきてからなんか変だったくせに」

 

「…」

 

 目を細める小町に俺は顔をそらす。

 

 生徒会で事に当たったクリスマスイベント。あのイベントは結局特に大きな問題はなく進行された。雪ノ下と三浦に対して海浜総合高校側はどこかおびえていたように見えたが、その気持ちはよくわかる。俺だって怖いし、なんならあの二人が横並びになっておびえない高校生はいないまである。

 葉山もクリスマスイベントには参加しており、彼の顔を見た瞬間に三浦は大げさではなく「花が咲く」という表現がふさわしい笑顔を浮かべていた。そのつい一分前には作業が遅れている俺を蹴飛ばしていたとは到底思えない身代わりの早さだった。これが一色だったら「計算高い」の一言で済むが、三浦の場合はそこに裏の顔は見えない。だからこそ俺も葉山との扱いの違いに愚痴の一つも言えないわけだが。

 

 加えてクリスマスイベントでは、鶴見留美が三浦と俺にやけに懐いてきた。というよりも、三浦優美子は存外子供たちからのウケがよかった。歯に衣着せぬ物言い、それでいてどこか抜けたところがあるというギャップ、子供に対しても本気になってしまう気性を考えればわからなくはなかった。要は対等な相手としてあれやこれやと遊び相手になり、なおかつ年上として相談を受けていたようだった。恐らくそれは黒髪で薄化粧という要素があるからこそ成り立っていたのだろう。俺が小学生だったら金髪縦ロールの女子高生になつきはしない。

 そして鶴見留美も例によってその中の一人だったようだが、彼女と三浦がなにを話していたかはわからない。それとなく三浦に尋ねたが、ただ一言「ロリコン」と返ってきただけだった。断じて冤罪である。

 

 しかしそれも去年の話。

 

「あー…つまらん」

 

 こたつにまさしく「寄生」しながら、俺は代わり映えのしない正月特番を映すテレビをザッピングする。なぜ日本人は毎年毎年同じようなものを食べ、同じようなテレビ番組を見て、同じようなイベントごとをこなし喜んでいるのだろうか。恐らく様式美を重んじる国民性からきているのだろうが、ただでさえ似たような毎日を送っている身からすればテレビくらいは少し刺激がほしいと思う。だらけきる俺を見て同じくこたつに寄生する小町が呆れてため息を吐く。

 

「むー、お兄ちゃんのくせに小町に隠し事?…っていうかお兄ちゃん、そのセリフ何回目?つまんないなら切ればいいじゃん」

 

「小町よ、こういうのはルーティーンなんだよ。いくらつまらなかろうが人々は変わらない茶番を望み、その変わらないこと自体に安心して憂いなく新しい一年を迎える。また何の心配もなく社会の歯車に戻る。…クソ、働きたくねえ」

 

「…暇だったら結衣さんと雪乃さんでも誘って初詣でも行って来たら?家にいられても小町の勉強の邪魔になるだけだし」

 

「そのだらけ切った姿からは説得力が皆無であることを少しは自覚しろ。大体元旦から初詣とか五分後の未来も見えねえのかよ。家から出た瞬間人混みを前に回れ右で直帰ですお疲れさまでしたー」

 

「疲れる前に帰ってるじゃんそれ…。ていうかそんなこと言ってるからいつまでたっても小町にはお義姉ちゃんができな…」

 

 小町のため息は、スマホの着信音によって阻まれた。小町は目を輝かせて電話をかけてきた人物に応答する。

 

「はいもしもし…。あっ、結衣さん…はい、やっはろーです!…お兄ちゃんですか。もちろんいますよ。いますとも。…ええ、ええ、暇です暇です。間違いなく今この世で最も暇な人間ですよ…はいはい。では、その時間に。小町も兄ともども、とっても楽しみにしてます!」

 

「…」

 

 サラリーマンよろしく電話越しの相手にペコペコと頭を下げ電話を切った小町は、一転ニヤリとこちらに嫌な笑みを浮かべる。俺はテレビに視線を移した。絶対に碌なことではない。しかし小町は構うことなく続ける。

 

「いやー、流石お義姉ちゃん候補だねぇ。ちゃんと小町と思考がシンクロしてる当たり、小町的に超ポイント高いですな。うんうん…というわけでお兄ちゃん。さっさと着替えて10分後に出発ね」

 

「いや何が、というわけでだよ。何一つ説明を受けてねえよ」

 

「いやだってほら、今から初詣行くから」

 

「…」

 

「ふんふんふーん♪」

 

「はぁ」

 

 鼻歌を歌いつつ楽しそうに出かける準備をする小町を見てため息を吐く。まあ年末のクリスマスイベントでは家のことは小町に任せてしまっていたことは確かだし、息抜き位になればいいか。

 

 

 

 

「どーもどーもどーもー、明けましておめでとうございます。兄がいつもお世話になっております!結衣さんも雪乃さんもお久しぶりです」

 

 正月の初詣、学校近くの浅間神社一の鳥居の前。そこにいた二人の人物にはしゃぎながら小町は飛びつく。やだ、小町ったらお兄ちゃんにもあんなことしてくれることないのに…。

 

「あはは…今日も元気だね、小町ちゃん。明けましてやっはろー。…あ、あとヒッキーも」

 

 抱き着かれた由比ヶ浜は苦笑を浮かべながら小町の頭をなで、ついでに俺の方も一瞥した。いや、ついでかよ。ていうかなんだよその挨拶。どこの部族の新年なのん?

 

「そうですとも。小町はいつでも元気ですよ。元気という言葉の正反対にいる兄を持っている身としては、やはり世界の元気を小町が肩代わりしなくてはいけませんので」

 

 その理論だと世界の負の部分を一身に俺が背負ってるみたいでカッコいいな。世界の腐の部分を一身に背負ってる人間もいるし。

 とくだらないことを考えていると、もう一人の人物、雪ノ下も申し訳なさそうに小町に言う。

 

「明けましておめでとうございます。受験勉強で忙しいところを呼び立ててしまって申し訳ないわね、小町さん。新年早々で悪いのだけど、比企谷君がこの世に存在していることとともに謝罪するわ。ごめんなさい」

 

「いや、俺完全にとばっちりだよね?それにこいつまあノリノリだったから別に気にしなくてもいいぞ。…いい息抜きになるだろ」

 

 最後、小町には聞こえない程度につぶやく。しかし対面の彼女には聞こえていたようだった。

 

「あら、少しは『お兄ちゃん』らしいところもあるのね」

 

「それは認識が甘いな、雪ノ下。俺以上に小町のお兄ちゃんが似合う人間もその大役がつとまる人間も存在しない。ちょうど月が地球の周りを常に回るように、千葉県農家にマックスコーヒーがつきもののように、小町のそばに常に俺がいるように、だ」

 

「最後のは例えになっていないのだけれど、あなたの小さい脳みそがやられてしまう程度の小町さんへの愛は理解したわ。…気持ち悪い」

 

「なんかいったか?」

 

「き、も、ち、わ、る、い」

 

「いや、別に聞こえてますけどね。でもそこは流れ的に『別になんでもないわ』と言う所じゃないでしょうかね…」

 

「ま、まあまあゆきのんもヒッキーもその辺で…あ、来た」

 

 いつものように苦笑で仲裁する由比ヶ浜は、駅の方向を見てつぶやく。そんな彼女につられ思わず俺も振り向くと、茶髪のふわふわした女子と、黒髪の目付きの悪いギャルがいた。突然の見知らぬ人物の闖入に小町は目を白黒させる。そう言えば初対面か。

 

「結衣先輩も雪ノ下先輩も、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。…あ、ついでに先輩も。おめでとうございまーす」

 

  あれ、またついで?俺だけ軽くない?適当じゃない?

 

「いろはちゃん、明けましてやっはろー!」

 

「一色さん、明けましておめでとう。今年もよろしくね」

 

「…結衣、あーし眠いんだけど」

 

 一色の後ろで不機嫌そうにしていた三浦優美子はケータイをいじりながら口をとがらせる。まともに挨拶もできんのかこの女は。しかし当の由比ヶ浜と言えば特に気にする様子もなく、笑いながら続ける。

 

「優美子も明けましてやっはろー。ごめんね?急に呼び出しちゃって」

 

「ど―せ暇だったしそれはいいんだけど…つーかその挨拶の方がわけわかんないけど。なに、ヒキオも来てたんだ」

 

 その感想には全面的に同意だ。俺を一瞥する三浦に一応適当に答えておく。

 

「おう。来てちゃ悪いか?」

 

「別にんなこと言ってないし。新年から突っかかってくんなっての。…ま、おめでと」

 

「おめでとさん」

 

 軽く言う三浦に、俺も軽く返す。しかしケータイをながめて何かを思い出したのか、一転不機嫌そうに口を開く。

 

「てか、あーしメールの返信もらってないんだけど」

 

 メール?メールをするような仲ではなかったはずなので、心当たりと言えば今朝の新年の挨拶くらいしかない。俗にいうあけおめメールである。

 

「…あれにどう返信すればいいんだよ。つーか「今年もよろしく」って去年がそもそもよろしくされた覚えがねえよ」

 

「はぁ?あんだけあーしのこと振り回しといて、なんでそんなこと言えるわけ?」

 

 振り回されてたのは俺の方なんだよなぁ。しかしそれを言えば三浦がさらに不機嫌になりそうだったので適当にうなずいておく。ていうか、俺は奉仕部関連以外の女子のメールに対してはスルーする習性が染みついてるんだよ。だってどうせスルーされるんだもん。…なんか涙が出てきた。

 

 やれやれと頭を振りつつ、三浦の視線は俺の横にいる小町に移る。怪訝そうに見る三浦に、なぜか慌てて小町は口を開く。いや、気持ちはわかるけど。だって怖いもんこの人。

 

「新年明けましておめでとうございます。はじめまして、この愚兄の妹をやらせてもらってます、比企谷小町って言います。以後お見知りおきを!」

 

「いや、初めましてじゃないっしょ。夏の千葉村の時もあんたヒキオにくっついてなかったっけ?」

 

「?それはそうですけど…」

 

 困った様子でチラリとこちら見る小町。…ああ、そうか。俺は三浦を一瞥して納得する。あの時とは三浦優美子の見た目が違う。金髪から黒髪。けばけばしい化粧から普通の女子高生のそれ。俺は簡潔に小町に耳打ちする。

 

「三浦優美子。葉山と一緒に去年の千葉村のリア充グループの中心にいた金髪縦ロールのギャル」

 

 記憶をたどっているのか、小町は目を瞑って頭を両手に当てる。得心がいったのか、ああ、と手を打つ。

 

「いや、いや、そりゃ覚えてるけど、どう考えてもこの人とはべつじ、ん…」

 

 しばしの沈黙ののち、小町はギ、ギ、ギと壊れた機械のように三浦の方向へ振り向く。

 

「み、三浦優美子さんですよね!?去年千葉村でご一緒させていただいた」

 

「…なに?あーしのこと忘れてたの、あんた。あーし人から忘れられることそうそうないんだけど」

 

「いいいいいいや、いやいやいや、ほら、あの、ですね」

 

 …いや、察してやれよ。忘れてても仕方ねえだろ。機嫌をさらに損ねる三浦に小町は慌てて手を振る。

 

「前会った時よりも、その、なんというか…ギャルっぽくないというか…丸くなったというか…」

 

「あ?」

 

「ひ、ひぃ!?いえ、そう言うことではなくてですね、え、えーっと…その…そ、そう!とっても可愛くなっていて気が付かなかったというか!」

 

「…は?」

 

 絞り出したような小町の言に今度は三浦が固まる。三浦の様子にさらに焦る小町はまたすがるように俺を見る。…いや、三浦さん顔赤くなってますけど。憤怒とは別方向で。

 

「ね、ねね、お兄ちゃんもそう思うよね?小町気づかなくても仕方ないよね?そうだよね?ね?」

 

 来年小町が総武高校に入学する可能性も考慮すると、確かにここは下手なことは言えない。女王に目をつけられるわけにはいかない。ましてや今やただの金髪ギャルではなく、一応は三浦優美子は俺たちの高校の生徒会長である。

 

 俺も仕方なく合わせる。

 

「…気づかなくても仕方ねえだろ、そりゃ」

 

「あぁ?どういう意味だし、ヒキオ?」

 

 金髪ドリル厚化粧と黒髪ロング薄化粧。例えるなら一般人が悪役令嬢に転生したくらいのギャップがある。…いや、わかりにくいうえに状況は逆だな。小町は同意した俺に、文字通り胸をなでおろした。

 

「そ、そそ、そーだよね!いやはやー、小町も驚いちゃいましたよ。あの三浦さんがこんなに可愛らしくなってるなんて。ねー、お兄ちゃん」

 

「まああの時と比べればそりゃちっとは可愛…」

 

 いつものように調子に乗った小町に俺もついつられてうなずく。あれ、なんかいままずいことを…。

 

「あ、あんたら…」

 

 俺と小町は顔を見合わせ、恐る恐る目の前で震える女子を見る。

 

「…っ、こ、この…バカ兄妹!」

 

 あまりの剣幕に思わず頭を抱える俺と小町をよそに、三浦はピューっと全速力で神社の先へと走っていく。…いや、年下に可愛いって言われたくらいで動揺しすぎでしょあの人…。今日日おっさんですら「かわいい」とjkに形容される日本社会だぞ。おっさんですらかわいいとか愛しのマイエンジェル、戸塚と小町のかわいさと言ったらもう言葉には表せ…

 

「…ねえ、お兄ちゃん」

 

 俺の「kawaii」論は小町の呼びかけで打ち切られた。そろそろ世界にも打って出れそうな「kawaii」を発見できそうだったのに…。

 

「なんだ」

 

「い、いや…三浦さんって、ほんと、いろんな意味であんな可愛い人だったっけ?」

 

「お前、本人の前で絶対そんなこと言うなよ」

 

「むー。流石の小町でも今の見たらそうそう言えないけどさ…。なんか、すごい変わったね」

 

「…まあ、見た目はな。中身は今も、多分今も昔もあんなもんだ。ポンコツだポンコツ」

 

「へー。結構三浦さんのこと知ってるんだお兄ちゃん。…っていうかそれはお兄ちゃんにも言えるんじゃない?」

 

 気分よく女王の悪口をいう俺に、小町は困ったような笑みを浮かべる。…なに、その本気で呆れたみたいな笑顔。

 

「お兄ちゃんが流れとはいえ、『可愛い』とか本人の前で言っちゃうなんて小町驚きだよ」

 

 うぐ。

 

 一瞬言葉に詰まったが相手が小町だからか、いつもの調子で続く言葉は自然と出てきた。

 

「お前それはあれだ、別にあいつは俺が何を言おうがお互いに勘違いの余地がねえんだよ」

 

 カーストトップとぼっち。性格は正反対。そのうえ彼女には想い人がいる。これでは含むところなどあるはずもない。

 

「へ~~~~~。ふ~~~~~~~~~ん。ま、そういうことにしといてあげようかな。今・日・は」

 

 ニヤニヤと腹の立つ笑顔を浮かべる小町を前に、俺はため息を吐くしかなくなる。こうなったら俺の意見なんて関係ないからなぁ。

 

「さあさ、昼が近くなれば余計混んでくるでしょうし、三浦先輩がはぐれても困りますし、そろそろ行きましょうか」

 

「…そうね」

 

「…そうだね」

 

 カラカラと笑う一色。絶対零度の視線を俺に向ける雪ノ下。リスよろしく頬を膨らませる由比ヶ浜。俺はまたため息とともに歩みを早めた。…べ、別にビビったわけじゃないからね!

 

 

 



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彼と彼女は実は似ている。

 

「あー、そう言えば」

 

 参拝への先の見えない行列に飽きたのか、唐突に三浦は口を開いた。

 

「あんた今年うちの学校受験するんだって?」

 

 突然話しかけられた小町は、ビクッっと肩を震わせる。そのキョドり方で「やっぱりこいつ俺の妹なんだなぁ」と再確認する。...正直ちょっとキモイなと思ってしまいました。

 

「は、はい!そのつもりです。…受かるかどうかはわかんないですけど」

 

「はぁ?そんなん当たり前っしょ。わかってたら受験なんていらないっつーの」

 

「…確かに」

 

 そこ納得しちゃうのかよ。なんのこっちゃと言いたくなるやり取りに、内心ついツッコミを入れてしまう。

 

「ま、うちの学校倍率だけは何か高いからそりゃ緊張するか」

 

「…ですね。自分で言うのもアレなんですけど、その…。小町お兄ちゃんほど頭よくなくて、今までそこまで勉強とかしてなくて…でも奉仕部の皆さんが…お兄ちゃんが楽しそうにしてた総武にどうしても行きたくて、それでも点数的には微妙で…」

 

 顔をうつむける小町に、俺はかける言葉を見つけられない。

 

 普段、小町は場の雰囲気を誰よりも重視する。一見無邪気に見える行動も、「空気を読まずに合わせている」という表現が近しい。以前三浦は海老名さんをそう評していた。しかしそれは危ういとも彼女はいった。それは小町にも当てはまるのかもしれない。家を空けることが多い両親。頼りにならないどころか、最近は家にいないことも多い俺。そして小町自身は自分のことだけでなく家事もこなしている。弱音など上手く吐けるわけがない。

 

 その場の雰囲気に合わせる小町が吐く、場違いの弱音。俺はそれがどれだけ重いか知っている。だから、俺は何も言うことが出来ない。軽々しく言えるはずがない。

 

 周りの沈黙に気が付いたのか、小町は流しかけた涙を引っ込め、笑う。

 

「な、なーんて。小町もちょっとナーバスになってるのかもしれませんね!いやはやー、柄にもない。そんなキャラじゃないですしね!まりっじぶるーってやつですかね。子供とかできたらそれこそこんなもんじゃ…」

 

「あーしはあんたのことなんて知らないし、ぶっちゃけどうでもいい」

 

 痛々しく笑う小町に、三浦は冷たく言った。空気が少しだけ揺れる

 

「は、はは。そうですよね。どうでもいい話ですよね、こんなの。…どうでもいいし。どうしようもないです。ほんとに。……ごめんなさい」

 

「そう。どうしようもない。だって、今までのあんたの時間と頑張りを知ってるのはあんただけだけでしょ」

 

「…はい」

 

「でも」

 

 三浦はひざを折り、見下ろしていた視線を小町まで下げる。

 

「あんたが受かるかなんてわかんないけど、あーしが生徒会長なんてやる学校、あーしだって信じらんない。だから、うちの学校が面白いことだけは保証する。安心して、あんたは入ってきな。入ったことは絶対後悔しないから。…あーしが、させないから」

 

 三浦優美子は、総武高校の生徒会長は、そう比企谷小町に笑いかけた。

 

 それは問いに対する答えになっていない。小町の問いは「自分でも合格できるか」しかしそれは答えようがない、と三浦は言う。そんなことは小町もわかっていただろう。

 だから三浦優美子は生徒会長として、「未来の新入生」に笑った。小町が選んだ未来は、少なくともまちがってはいない。そう示したかった。…の、かもしれない。俺に決めつけることはできない。だって、と俺はため息混じりに思う。ただただ小町の話を碌に聞いていない可能性もあるしなぁ、こいつなら。

 

 ポカンと口を開ける小町に、今度こそ三浦は大まじめに続ける。

 

「ま、戸部とか結衣が受かってるくらいだからあんたでも受かるっしょ。心配しすぎんなって」

 

ふむ。

 

「さっきのは答えにすらなっていなかったが、その答えには説得力しかないな。というかなぜそれを一番に言わなかったのか疑問に思うまである。…なんで受かってるんだあの二人?」

 

「ええ、そうね。悔しいけど私も三浦さんに同感だわ。由比ヶ浜さんと戸部君が総武高校に受かったのは総武高校七不思議に数えてもいいほどの珍事と言わざるを得ないもの」

 

「あはは、そう考えればそうだねー。…って、優美子もヒッキーもゆきのんもひどいよ!!!あ、あたしだってちゃんと勉強して総武入ったんだから!まぐれじゃないんだから!…ちょ、小町ちゃんそんなホッとした顔でこっち見ないでー!!」

 

「だ、だって結衣さん小町の数学の宿題わかんなかったじゃないですか…」

 

「あれは習ったのがあまりに昔過ぎて忘れていたというか、そもそも数学が苦手だというか…ってゆきのん!?なんでそんな離れたところにいるの?」

 

「いえ…まさかあなたが中学生の数学もわからないなんて思わなくて…」

 

「ひ、ひどいよ!?ちょ、そんな離れないでよっ!ゆきのーーーーーん!!!!!!」

 

 さっきまでの雰囲気はどこに行ったのだろうか。気づけば小町も雪ノ下達と一緒に馬鹿笑いをしていた。しかし三浦と言えば、またいつものしかめっ面で一人ケータイをいじっている。

 

 その姿は、どこかの誰かと被る気がした。

 

「…悪いな」

 

 つい、そう漏れてしまった。三浦はそれでも視線を落としたまま、こちらを向くことはなく口を開く。

 

「べーつに。あーしは何にもやってないし、言うだけなら誰だってできる。言ったけど、…頑張るのはあんたの妹しかできないでしょ」

 

「それでも、その、なんだ。…助かった。俺にはわからんかったから」

 

 何を言えばいいのか、何を言うのが適切なのか、何を言うべきではないのか。普段わかるはずのことが、こと小町の受験に関して、俺には全く分からなかった。

 

 いつもそうだ。どうでもいいことはいくらでも出てくるくせに、肝心な時にこの口は動いてはくれない。

 

「それでいいんじゃないの?」

 

「…は?」

 

 声に出てたか?一瞬疑問に思うが、声を落とす俺を見て三浦は「だーかーら」と呆れたように口を開く。

 

「あーしはあんたの妹に関して、わかんなくていいって思ってるから適当なこと言えんの。あんただっていっつもそうでしょ。ベラベラ適当なこと言ってんじゃん。それって、別にそいつのことわかんなくてもいいからでしょ。

 だから、そういうことなんじゃない。あんたは妹のことは「わかんなくてもいい」とは思ってないんじゃん。

それって、どんだけみっともなく悩んで、考えて、結局なんにもわかんなくても。「わかりたい」って思ってること自体が大切なんじゃないの。…よくわかんないけど」

 

 ガリガリと頭を掻き、彼女は頬を染める。その姿になぜか俺の頬も熱くなる。さっきも感じた既視感。…床屋で鏡越しに自分の顔を目の前で見せられているような。

 

 その連想に、一層頬の熱が増した気がした。

 

「…なに。なんか言えし。あ、あーしだって恥ずいこといってる自覚あんだから!」

 

「いや、そうだな。悪かった。…ありがとう」

 

「…」

 

「…なんだよ」

 

「いや。妹が絡むと素直になんだなって思って。…キモ」

 

「いやあの、そんな小声で吐き捨てるようにつぶやかれても聞こえてるんですけど」

 

 なんでコンパクトに心をえぐってくるんだよこいつらは

 

「き、も、い」

 

「だからはっきり言いなおすんじゃねえっつうの。聞こえてるから。聞こえてますから」

 

 こいつにしても雪ノ下にしても、俺はため息を吐く。

 

 やはり碌な女子がいない。

 

 

 

 

「結衣は何お願いしたの?」

 

 行列も終わり、雪ノ下以外の面々はいい加減極まりない参拝を済ませたところで、三浦が投げやりに聞いた。

 

「え…ほ、ほら、今年もみんな仲良く過ごせますように、的な?」

 

 いや、疑問形でこっちを見られても俺は何一つわかりませんけど。しかし三浦は違ったようで、得心したようにいくつかうなずく。

 

「ま、結衣ならそっか」

 

「えーと、優美子は何お願いしたの?」

 

「あ、あーし?あーしは…」

 

 …いや、あのね?だから困ったようにこっち見られても何もわからないんですけど。しかし珍しく歯切れの悪い三浦をみて、おもわず俺も一言はさむ。 

 

「ま、願い事なんて口に出したら叶わんもんだ」

 

「…そうね。特に本当の願い事は、ね」

 

 ため息交じりに言うと、雪ノ下もどこか由比ヶ浜と三浦に優しく微笑みつつ、同意する。

 

「え、えー!どうしよう、あたしもう言っちゃったんだけど」

 

 ギャーギャーと叫ぶ由比ヶ浜を、一色がからかい小町がなだめる。

 

「まあまあ由比ヶ浜先輩。大丈夫ですって。少なくとも私は由比ヶ浜先輩と一緒にいるの楽しいですし。ね、小町ちゃん」

 

「そ、そうですよ結衣さん!小町も結衣さんと一緒にいるのとっても楽しいです」

 

「いろはちゃん、小町ちゃん…」

 

 涙ぐむ由比ヶ浜に、一色は調子に乗って続ける。

 

「そうですよー、この中に一般庶民的な常識持ってるの由比ヶ浜先輩だけですしー」

 

「あははー。それちょっと小町もわかるかもです。いっしょにいて安心できるくらい普通で常識的なの、この中だと結衣さんだけっていうか…あ」

 

 一色とともに笑う小町は、目の前の殺気に気づいたのか恐る恐る顔をあげる。そこには

 

 仁王立ちの絶対零度と獄炎の女王がいた。

 

「なるほど。よーーーーくわかったわ。一色さん。小町さん。二人とも私のことは一般常識の欠如した迷惑女だと思っていたのね。…あなたたちとの付き合い方も考えなければならないわね」

 

「一色はともかく、あんたも流石にヒキオの妹だし…。入学したら、覚悟しときな」

 

 一色と小町は顔を見合わせ。

 

「「ごめんなさい」」

 

 真摯な謝罪が人混みの中に響き渡った。

 

 

 

 

 

「ヒッキーヒッキー」

 

 参拝も終わり駅を向かう途中。一歩後ろを歩く由比ヶ浜に遠慮がちに呼び止められ、耳打ちされる。近いしいい匂いするしどこがとは言えないが柔らかい。いや、どこがとは言わないが。

 

「もうすぐゆきのんの誕生日なんだけど、プレゼントどうしよっか?」

 

「あー…そういやそうか」

 

「ヒ、ヒッキーは明日とかどう?」

 

 だ、だからそう言うボディタッチとか上目遣いとかやめてください。勘違いして告白して即刻亡き人になっちゃうじゃないですか。死んじゃうのかよ。

 

「あー、特に用はないが…三浦と一色はどうする?」

 

「あ、あの二人にはもう声かけてあるよ。二人とも明日で大丈夫だって。ゆきのんどんなプレゼントがいいかなー」

 

「あいつならネコかパンさん関連のモン渡しとけば大抵喜びそうなもんだが」

 

 至極まっとうな事実を述べると、由比ヶ浜は決まりが悪そうな苦笑いを浮かべる。

 

「まあ、それはあるかもしれないけどさ。…その人のためにいろいろ考えるのも、プレゼントなんじゃないかな」

 

「…かもな」

 

 瞬間、俺は由比ヶ浜へのプレゼントを思い出す。確かにプレゼントとなるとその人間のことをある程度知っている必要があり、また知った気になってもいけない。…よくよく考えてみればこれ、ぼっちには難易度が高すぎるのではないでしょうか?

 

 改めてことの大きさを思い知った俺は、個別ではなく生徒会で一つのプレゼントを贈る方向に軌道修正しようとする。しかし横から聞こえた思い出したかのような声に阻まれた。

 

「そういえば誕生日プレゼントと言えば。

 

先輩は三浦先輩に何を贈ったんですかー?」

 

 一色いろはは、何ともない風に疑問を口にした。

 

「…は?」

 

「…え?」

 

 俺と由比ヶ浜の擬音が重なる。頬と背中に嫌な汗が流れたのは、このうんざりするほどの人混みのせいだったのだろうか。由比ヶ浜の顔色が若干悪い。

 

「…せ、先輩?まさか…、ええ、まさかとは思ってお尋ねしますが…」

 

 由比ヶ浜に続き、今度はなぜか一色が顔を青ざめる。

 

「三浦先輩の誕生日ってご存知ですか?」

 

「…」

 

 沈黙は金。

 

「…はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。信じらんない」

 

 とはいかなかったようで。

 

 大きくため息をつき頭を抑える一色。一方由比ヶ浜はあたふたと明らかに動揺しながら、何故かペコペコと俺に頭を下げる。

 

「ご、ごめんねヒッキー!優美子の誕生日12月12日なんだけど、その時ちょうどクリスマスイベントの準備でバタバタしてて、あたしは誕生日プレゼントあげたんだけど、ヒッキーにすっかり伝え忘れてて…。一応優美子にも誕生日会しようかって言ったんだよ?でも、『は?このクソ忙しい時にそんなことしてる暇ないっしょ。…つ、つーかそんなこと大げさにやられてもはずいっつーか…と、とにかくやんなくていいから!いい?絶対やんなくていいからね!?』って…」

 

「「うわぁ」」

 

 俺と一色の声が重なる。たぶん、同じ感想を抱いたのだろう。

 

 いつツンデレキャラにジョブチェンジしたんだ。

 

「いや、それでも結衣先輩が謝ることないですよ。この件に関しては、混じりっけなしに100%先輩に非があります。誕生日も把握してないなんて…ポイントだだ下がりですぅ」

 

 だから何のポイントだよそれは。小町然り、女子はどいつもこいつもポイント制を採用してるのん?どこで何と交換できるか教えてくんない?

 

 恨めし気に俺を見てくる一色、なぜか俺に向かって苦笑を浮かべる由比ヶ浜。逃げ場はないか。俺はホールドアップしてため息を吐く。

 

「わかったわかった。12月12日、だったっけか?適当に何とかする方向で検討しとくから」

 

「それ絶対何にもしないフラグじゃないですか…」

 

 俺の弁明にますます一色が暗い声を出す。そこまで言うなら、である。後輩に好き勝手言われるのは面白くはない。

 

「そんだけ言うならお前は、三浦になんか贈ったのか?」

 

「はぁ?なんで私が自発的に三浦先輩に誕生日プレゼントあげなきゃいけないんですか?バカなんですか?」

 

 ええ…。あまりにも潔い開き直りに閉口するしかなくなる。ならなんで俺が三浦に誕生日プレゼントをあげなきゃいけないのかもぜひ説明していただきたいものですね。はい。

 

「先輩は上げなきゃいけないに決まってるじゃないですか。…ねえ、由比ヶ浜先輩?」

 

 俺の問いに、一色はなぜか由比ヶ浜に向かってそう笑いかけた。由比ヶ浜は「あ、あたし!?」と声をあげるも、いくらかの逡巡の末同意する。

 

「う、うん、そうだね。ヒッキーは…あげなきゃ、だよね」

 

 そう言ったきり、由比ヶ浜は黙って先に行ってしまう。空気を読む彼女にしては珍しいが、この自由奔放な後輩に付き合うのが疲れるのは理解できるから仕方ないともいえる。全く自分勝手というか、怖いもの知らずというか。

 

「…先輩、なんか今失礼なこと考えませんでしたか?」

 

「い、いえ、なんでもないでちゅっ」

 

 です。気持ち悪い噛み方をする俺に、一色は軽く身を退き先に行こうとするが、思い出したように言い残した。

 

「じゃあ明日13時に駅前集合でいいですかね。あとで三浦先輩にも伝えておきます。小町ちゃんにも伝えておくのでそのつもりで」

 

「…別に逃げやしねえよ」

 

 取って食われるわけでもあるまいし。というか、すでに小町に言っておけば俺が逃げられないことを把握しているお前が怖い。いろはすほんと怖い。

 

 

 

 

 帰りの電車の中は、行きよりも混み合っていた。隣に立つ女王に肘が当たってしまう度に、不機嫌そうな舌打ちが聞こえる。…いや、俺だって好きで当たってるわけじゃないからね?いくら身を小さくしても接触を避けられない程度に人だらけである。なんならまったく自らの占めるスペースを小さくしようとせず、半ば仁王立ちのままの三浦のせいで当たっていたという方が正しい。少しは遠慮を覚えましょう。

 

 ほかの生徒会一行はすでに電車を降り、小町は何か知らないが用事があるとかなんとか言って電車には乗らなかった。お兄ちゃん、それが男との用事だったら許さないからね。絶対に。

 

 …まあ実際にそんなのはただの言い訳だとはわかっている。いつもの小町の、あれだ。いらぬおせっかいだ。だとしても人選ミスではあると思うが。俺は隣でケータイをいじる三浦を一瞥すると、間が悪いことに目が合ってしまう。こいつと起こりえる間違いなど、何もないだろう。しばし気まずい時間が流れるが、ため息とともに三浦が口を開く。

 

「あんた結衣から明日の買い物のこと聞いた?」

 

「…ああ。明日13時に駅前だろ。耳にタコができるほどきいた」

 

「ったく、結衣がそーゆーの好きだってのは知ってるけどなんであーしが…」

 

 口では苦々し気であっても、その表情は決して嫌がっているようではない。むしろ…。

 

 いやまあ、言ったら殴られそうだし口には出さないが。

 

「その意見には全面的に同意だ」

 

「あーしはあんたが素直に来るのも意外だと思ったけど」

 

「いやそりゃな...由比ヶ浜にやって雪ノ下にやらないってわけにも…」

 

 あれ?

 

 俺は自分の言葉に違和感を覚える。三浦は奉仕部ではない。つまり、俺が由比ヶ浜にプレゼントを贈ったことも、それを雪ノ下と買いに行ったことも知らない。つまり。

 

 恐る恐る彼女の横顔をのぞく。

 

「…それはそうだし。へ、へぇ。結衣には誕生日プレゼントあげてたんだ、あんた。ふーん。そう。別にどうでもいいけど。それは雪ノ下さんにもあげなきゃね。た、たまにはあんたもまともなこと言うんだ。結衣に上げて雪ノ下さんにあげないわけにはいかないよね。…うん。あはは。そうだ、そうだ」

 

 前言撤回。俺は横を見れない。

 

 罵倒されるならばよかった。今は三浦は同じ生徒会だ。俺が「由比ヶ浜にあげたから、雪ノ下にも誕生日のプレゼントをあげる」のであれば、それは当然同じ団体に属する三浦優美子にも誕生日プレゼントをあげなければ整合性が取れない。だから、その俺の明らかな非を罵られるのであれば、甘んじて受け入れることができた。

 

 しかし今彼女は、文句を言うわけでもなく、非を責めるわけでもなく、その…痛々しく笑っているだけだった。

 

 さすがに、これは良くない。

 

「みう…」

 

 俺はとっさに口を開くが、それは言葉にならなかった。その瞬間、電車が揺れた。三浦の体も揺れ、俺はそれを支えようとする。が、

 

「触んな!」

 

 思いっきり、頭突きをくらった。その瞬間アナウンスが流れ、彼女が降りる一つ前の駅に着く。

 

「…あーしここで降りるから」

 

 三浦は悶絶する俺を残し、それだけ言い放って電車を降りた。

 

「…バカ」

 

 降り際、儚げにそう聞こえたの幻聴だったと信じたい。

 

「可愛いんだか、恐ろしいんだか」

 

 やはり、彼女はよくわからない。

 




 


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彼と彼女は彼を見ている。

 

 両手に花、という言葉がある。

 

「青春」を謳うライトノベルの多くでは、主人公はまさにこのような状態になる。つまり自分を好ましく思う女子が周りに複数人いて、主人公はその人間模様に四苦八苦する、というパターンである。

 しかし果たしてこのような状況は本当に主人公にとって好ましい状態なのだろうか。否。俺は自らの問いを否定する。たとえ彼が傍から見れば「リア充爆発しろ」と思われても仕方ない状態だとしても、読者が辟易するほどの難聴系だとしても、本人からすれば自分以外の全員が異性と言うのは多大な疎外感を感じるに足る状況だろう。

 

「先輩おっそーい」

 

 つまり、このような状況である。

 

 真昼間の駅前。正月も二日目にして人々も暇を持て余しているのか、昨日よりも人通りは多い。俺はわざとらしく口をとがらせる一色を一瞥し、ついため息が漏れる。

 

「いや時間ぴったりだろうが」

 

「こういうのは5分前行動が基本なんですー。結衣先輩なんて10分前に来た私より先に来てたのに―」

 

「あはは、あたし電車の時間とか間違えたりするからつい早めに来ちゃうんだよね。でもそんなこと言うならあたしより優美子の方が…」

 

「結衣―?なんか言ったー?」

 

「ななな、何にもいってないよ!?優美子が30分前に来てたあたしより先に来てたなんて!」

 

「…」

 

 由比ヶ浜の言い訳で場が凍る。あいにくうつむいた三浦の顔はその長い髪に隠れてみることはできない。が。…あ、ちょっと震えてますね。肩とか拳とか。

 

 

「…さっさと行くし」

 

 震える彼女はようやくそれだけ言い、さっさと先へ行ってしまう。由比ヶ浜は彼女の後を慌てて追いかけ、俺と一色は思わず顔を見合わせ、どちらからともなくため息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

「しっかし…」

 

 ショッピングモールの一角。ひらひらのトップスを手に、一色がしかめっ面でつぶやく。

 

「こう改めて贈り物をしようとすると、雪ノ下先輩の趣味って全く分かりませんねー」

 

「確かにゆきのん普段何が好きとかわかりにくいもんねー」

 

 そんな一色に由比ヶ浜は苦笑とともに答える。確かに雪ノ下とともに由比ヶ浜のプレゼントを買いに来た時も苦労した覚えがあるが、贈る対象が雪ノ下となるとさらに難易度が高い。なぜならぼっちは他人に自らの趣味嗜好を簡単には教えないからである。…いや、話す相手がいないとか言われたら身もふたもないし、そういうことではない。断じて。

 

 しかしまあ、雪ノ下の場合は自分で思っているよりもはるかに好き嫌いが顔に出やすいわけで。

 

「パンさんが好きと言うのは傍目から見てもわかりますが、かといってあの入れ込みようだとパンさんのグッズなんてもういくつも持ってるでしょうし…」

 

 まあ、こうなる。一色は天井を仰いでため息をつく。当然プレゼントというのは当人に喜んでもらえればもっともよいわけだが、その人間が好きなジャンルのものをプレゼントにする行為は得てして地雷を踏みやすい。

 

 しかしそんなことは知ったことではないのか、三浦は先ほどから次々と服や雑貨を見繕っては由比ヶ浜に見せていた。今度は黒地にピンクの刺繍が入ったスカジャンのようなテイストの上着。…いやいや。

 

「あー、結衣、これとかかわいくない?」

 

「うーん、かわいいし優美子には似合うと思うけど、ゆきのんはどうかな…」

 

「そっか」

 

 スカジャンを自分の体に当てていた三浦は鏡とにらめっこするのをやめない。あの、あなたの買い物してるわけじゃないですよね?それを着ている雪ノ下雪乃を見たくないとは言わないが。

 

「一色も言ってたけど、雪ノ下さんの趣味ってよくわっかんないんだよね。自分のこと全然話さないし。ほんとパンさんが好きってことしか知らない」

 

 …うん、だからまあそうだよね。というかあいつのパンさん好きはどこまで認知されてるんだよ。

 

 堂々巡りにしかならないプレゼント選び。このままではいつ終わるか分かったものではない。俺はさっさと家に帰ってためてあるアニメを消化しなければならないのである。仕方なく口を開く。

 

「まあ、各々好きなもん選べばいいんじゃねえの?あいつなら何もらっても文句は言わんだろ。…下手にあいつの趣味に合わせても既に持ってたりしそうだし」

 

 いや、ゆきのん本当に怖い。ゲーセン行っても屋台を見ても常にパンさんグッズを見逃さないコレクター魂。まじぱねえっす。

 

「まあ、それはあるかもですけど…むしろ雪ノ下先輩、その場では絶対文句とか言わないから、ちゃんとしたもの送っておかないと後々恨まれそうで…」

 

 一色は不安そうに俺に上目遣いを送ってくる。こいつは雪ノ下のことを口うるさい小姑とでも思っているのだろうか。否定はしないが。

 

 あれでもないこれでもないと姦しい三人を尻目に、俺は一人改めて考える。 

 

 雪ノ下の好きなもの、か。

 

 一人が好きである。猫が好きである。パンさんが好きである。猫動画を毎日見ている。

 

 二分の一猫じゃねえか。四分の三動物関連だし。

 

 改めて半年一緒の部活でも大して知らないんだということを再確認する。だとすると。つい視線が横の三浦に向く。たかが三カ月の付き合いだと何もわからなくて当然だと思います。例えば誕生日とか誕生日とか誕生日とか。

 

「ま、先輩が言ってるようにそんな考え過ぎても仕方ない気もします。…私と三浦先輩は結局雪ノ下先輩のことなんてほとんど知りませんし」

 

「それはそうかも。ほら、あーしとか結局部外者だから、結衣以外の誕生日も好きなものも知らないし。…つーか、あーしの誕生日も誰も知らないし?」

 

 その怖い目がこちらに向いていたのは頼むから気のせいだと思いたいです。はい。いやだって僕とあなた、そもそもそんなことするような関係じゃないじゃないですか。なんかたまに顔合わせて気まずくなるくらいの関係じゃないですか。気まずくなっちゃうのかよ。

 

「そうです!全部先輩が悪いんです!まったくまったく、女の子の誕生日忘れるとかほんとポイントだだ下がりどころかもうマイナス方向に天元突破ですよ!…まじで信じられない」

 

 ほんと使えねえなこの男。自然に漏れた一言だったのだろうか。しかし不運なことに、その一言はしっかりと俺の耳に届いてしまった。ねえ、俺一応先輩なんだけど。今更取り繕っても遅いんだけど。俺がお前に求めたものは助けであって決して罵倒ではないんだけど。なんか余計に三浦の怒りにガソリン注ぎ込んでるんだけど。ねぇ。

 

 しかし三浦は一色の戯言に激しく首を縦にふる。ここまでこの二人が団結することも珍しいのではなかろうか。

 

「そーだし一色、信じられる?こいつ結衣にはあげてるくせにあーしの誕生日忘れるとか、ちょっとは楽しみにして…」

 

「へ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。三浦先輩、楽しみにしてたんですか〜」

 

 次々と俺への呪詛の念を送る三浦に、一色は意味深な笑顔を浮かべる。いや、単純に女王の気質としては由比ヶ浜に送っておいて三浦に送っていないことが許せないだけだとは思うが…。三浦さん、顔を赤くしないでください。その感情が憤りだとしても、一色が勘違いして調子にのるだけだ。

 

「…改めてこの男があてにならないってことがわかっただけだし」

 

「やっぱり『あて』にはしてたんだー」

 

「…」

 

 やめて!私のために喧嘩しないで!

 

 黙り込む二人。しかしそれは険悪と表現するには、いささか一色に優位が傾き過ぎていた。あーしさんいざとなったときのポンコツ具合まぢやばい。…いや、そんな睨まないで。まぢこわい。

 

 

 

 

「でも三浦先輩、髪の毛伸びましたねー」

 

「そ?」

 

 雪ノ下の誕生日プレゼントをあらかた選び終えた。現在は雑貨屋のアクセサリーを取り扱う一角で一色に指摘され、三浦は長く垂れた黒髪をかき上げる。恐らく金髪から黒髪になりボリュームが多く見えることも要因ではあるが、実際にその髪は長い。

 

「いや、もうお尻くらいまで届いちゃうんじゃないですか?こんだけ長いと手入れも大変そうですけど」

 

「そりゃそうだけど、染めてた時はもっと手間かかってたから」

 

 三浦は今度は毛先をくるくるといじりながらつぶやく。俺自身髪を染めたことはないが、三浦のような明るい金髪はすぐに地毛が目立ってくるだろうから、労力は想像以上だろう。そこまでして髪の毛の色を染めることに意味があるんですかね…。そう鼻で笑いかけるが、彼女には確かにその意味があったことを思い出す。

 

 彼と彼女の金髪。それを変えてまで彼女が選んだもの。

 

「いやー、やっぱ地毛だと楽ですよねー。それに黒髪っていうだけで真面目そうに見られるから得って言うか。…それにギャップとかで男からの受けもいいですし」

 

「あ?あんたと違ってあーしそんな男に媚びたようなこと考えてないっての。…ま、実際うっとうしいのがちょろちょろと周りに増えたけど」

 

 三浦はちらりと俺を見る。こいつ男に絡まれても逆にケンカ打ってトラブるんじゃないかとお父さん心配ですよ…。前例もあるし。俺はディスティニーランドに行く前の舞浜駅での出来事を思い出す。

 

「でもその長さ、もしかして願掛けでもしてるんですか?」

 

「仮にそうだとしても、あんただけには言わないから安心しな」

 

「そうですかー♪」

 

 にらむ三浦に一色はいたずらっぽく笑う。言えるわけはないが、いつものように一色に受け流される三浦に三蔵法師と孫悟空を連想したのは俺だけではないと信じたい。

 

 そんな通常営業の彼女らを尻目に、俺は少しばかりの焦りを感じていた。言うまでもなく、三浦への誕生日プレゼントが全く決まらないのである。

…いや、俺だって今まで二人(由比ヶ浜と雪ノ下、なお雪ノ下は10分前)の女子にプレゼントを選んだ身ですから?少しは余裕とか慣れとか出てきてはいるんですけど?しかし。俺は見たことのない卑屈な笑顔を浮かべた三浦優美子を思い出す。…適当なモン選んだら殺される。主に一色に。

 

 しかし今俺たちがいるのは雑貨屋のアクセサリーコーナー。こんなところで三浦優美子に合ったプレゼントを絶対的ぼっち比企谷八幡が選べるわけが…。

 

 その瞬間、三浦がなびかせた黒髪で視界が塞がる。雪ノ下の流れるようなものとは違う。金髪の時より緩いウェーブがかかったその髪。

 

 ふと、それは目に留まった。

 

三浦たちの方を見ると、由比ヶ浜がけだるげにケータイをいじる三浦にいろいろなものをつけさせて遊んでいる。…今なら。

俺は一人それをレジまで持っていきかけ、逡巡する。

 本当にこれでいいか?これが正解か?そもそもこれは俺らしくもないし、彼女らしくもない。これで彼女は…

 

「いいんじゃないですか?」

 

 極々軽く、いつのまにか隣にいた一色はつぶやく。

 

「たまにはそんなのも、いいんじゃないですか?…私ならありえませんけど」

 

 ぶっちゃけ先輩センス無いですー。苦々し気に一色は毒づく。

 

「でも」

 

 一色はニシシ、と笑う。

 

「先輩と三浦先輩なら。そんなのもいいと思いますよ」

 

「外してたら一発殴るからな」

 

 俺は男女平等主義者なのだ。

 

 

 

 

 

 

「じゃ、ここでちょっとやすもっか」

 

 由比ヶ浜が某大手コーヒーチェーン店を指さす。のども乾いたし疲れたからそれはいいのだが…小腹もすいたのでサイゼじゃだめですか?

 

 しかし店頭にある新商品のなんたらかんたらフラッペをみて、一色と三浦も由比ヶ浜に続いて店に入っていく。

 

 女という生き物は須らく新製品と期間限定に弱い。出かけるたびに小町が行く先々でそれらを買い求めていることからもそれは分かる。この手の店が毎日期間限定商品を売っている気がするのは気のせいに違いない。

 

 正月から長蛇の列ができていることに辟易としていると、前にいた由比ヶ浜が奥の席を見て目を見開く。

 

「陽乃さん…?」

 

 反射的に、見てしまった。一色もそうなのだろう。しかし彼女からは感想は聞こえてこない。

 

雪ノ下陽乃の向かいには、彼が、葉山隼人が座っていた。笑って相槌を打ち、心底困ったように陽乃さんの話を聞く。彼のそんな顔は、少なくとも俺は見たことがなかった。

 

 ならば、三浦優美子は。

 

「…ごめん、あーしちょっと用事思い出した」

 

 彼女は早足でコーヒー屋を後にした。

 

「…優美子っ!」

 

 由比ヶ浜は三浦の名を呼ぶが、追いかけはしなかった。由比ヶ浜は三浦に向けた視線を俺に向ける。俺はすぐに彼女から目をそらす。

 

 俺でいいのだろうか。

 

「あれー、比企谷君じゃない」

 

 様子がおかしい俺たちに気が付いたのか、気づけば目の前には雪ノ下陽乃と

 

「やあ、結衣、いろは、それに比企谷。今日は生徒会のメンバーで福袋でも買いに来たのかな?」

 

 葉山隼人が、いつもの笑顔を浮かべていた。さっきとは、三浦が去る前とは違う。いつもの笑顔を。完璧な「葉山隼人」が、そこにいた。

 陽乃さんは黙る俺たちを見て怪訝そうにしながらも、すぐにいつもの調子を取り戻す。

 

「比企谷く~ん?女の子を二人も侍らせて買い物とか、いい身分だなぁ。このこの」

 

「いや、そんなんじゃありませんよ。今日は…」

 

 相変わらず近い。肘で俺をつつく陽乃さんから体を引くと、一色がすぐに猫なで声で割り込んでくる。

 

「あ、葉山せんぱーい!明けましておめでとうございます!こんなところで会うなんて奇遇ですね!」

 

「あはは…明けましておめでとう、いろは。今年も元気そうだね」

 

「ほんとですぅ~。葉山先輩と新年から会えるとか、元気になっちゃいますよ…。運命、なのかも、ですっ」

 

 一色はあざとく葉山に上目遣いを送るが、当の葉山は困ったように笑うばかり。陽乃さんは冷ややかな目を一色に向けるが、一色は気にする風でもなく俺に耳を寄せる。

 

「先輩バカですか。こんなとこで油売っててどうするんですか」

 

 一瞬、言葉を失った。

 

 しかし何か返さなくてはならない。それがいつもの俺だったはずだ。

 

「バカっていう方がバカなんだよ。つーか俺が油売ってないことなんかねえぞ。暇な時間なんて専業主夫には売るほど――」

 

「――だから」

 

 一色はその視線を葉山隼人と雪ノ下陽乃に向けたまま、言った。

 

「私、今本気です。...たまには先輩も本気になったらどうですか」

 

 そう言って顎だけを店の外に向ける。三浦が出て行った場所。向かった先は俺にはわからない。俺もつられてみると、今度は由比ヶ浜から声がかかった。

 

「…行ってあげて、ヒッキー。優美子は多分そう思ってると思う。でも、あたしは…」

 

 あたしは。小さくつぶやき、彼女は迷いながらも俺をまっすぐに見た。

 

「あたしは、行ってほしくないから」

 

「すまん」

 

 謝罪だけがなぜかすぐに出た。考えることはあるはずだったのに、それ以外の行動が今は考えられない。

 

 由比ヶ浜に背を向け、俺は店を後にした。

 

 

 



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いつでも彼女は彼を想っている。

 

 三浦はすぐに見つかった。モールを出たすぐのベンチに彼女は腰掛けていた。

 

ベンチに座る三浦はいつも通りだった。…いや、むしろいつもよりも涼しい顔をしていた。眉間に刻まれた縦皺は見えず、冬特有の斜めから照る日差しに時折眩しそうに手をかざしていた。

 

 俺は、そんな彼女の姿を今まで見たことがなかった。

 

 瞬間、俺は自分が何をしに来たのわからなくなる。俺はここに来るべきだと思ってきた。しかし、俺はそんな穏やかな彼女の顔は今まで知らなかった。

 

 迷う俺に気づいたのか、三浦から先に口を開く。

 

「用事あるっつったじゃん」

 

「…その用事ほったらかしてこんなところで何やってんだよお前は」

 

 思わず漏れる俺の言葉に、三浦は顔を伏せる。…黙っていても仕方がない。俺は直前に買ったマックスコーヒーを彼女の横に置き、三浦から人一人分あけてベンチに座る

 

「布教用だ。金はいいし飲みたくなきゃ飲まなくていい。というかむしろ飲むな。俺が飲むから」

 

「こんな甘ったるいもんガバガバ飲んでたら早死にするっての。…ま、もらっといてあげる」

 

 彼女は涼しい顔でそれに口をつけ、少し頬を緩める。

 

「うわ、相変わらずあっま」

 

「人生苦いことだらけだ。コーヒーくらい甘くても罰は当たらん」

 

「…それ、これのcmとか?」

 

「いや、俺が作った」

 

「なんだしそれ…」

 

 三浦は心底あきれ顔で俺を見て、しかしすぐに澄み切る空を見てため息を吐く。

 

「ま、間違っちゃいないかもね」

 

 その言葉を最後に、沈黙が降りる。

 

 そもそも俺は何か言うためにここに来たわけではない。一色にたきつけられ、由比ヶ浜には…止められた。

しかしそれとは関係なく、結局は俺自身が来るべきだと思った。今動くべきだと思った。それだけだ。

 

 悟ったような顔の三浦に何を言うべきか逡巡していると、目の前を走り回る子供たちが通り過ぎる。5,6人くらいの集団だった。後ろからは彼らの親らしき女性たちが半ば笑いながら彼らを注意していた。

 

 横を見ると、三浦はそれを優しい目で眺めていた。雪ノ下陽乃の前の葉山隼人のように、俺はそんな彼女もまた、見たことがなかった。それはまるで…母親のような。

 

 見られていたことに気が付いたのか、三浦はわざとらしく咳払いをする。

 

「やっぱなんも聞かないんだ、あんた」

 

「別に何か聞きたかったわけじゃない」

 

 口をついて出た。そう。何か聞きたかったわけでも、上から目線の同情を押し付けたかったわけでもない。

 

「へー。じゃ、なんで来たわけ?」

 

「まあ、その、なんだ」

 

 俺はつい口ごもる。改めて聞かれると答えに窮する。俺だってそんなことは知らないからだ。むしろ教えて欲しい。

 

 しかし、葉山隼人と雪ノ下陽乃を見た三浦の顔を思い出すとそうも言いづらい。

 だから俺は、一番正直な感想を述べる。

 

「なんもできなくても、サンドバッグくらいにはなれる」

 

 吐き捨てるように言った俺に、三浦は目を瞬かせた。

 

「…っぷ、なんだし、それ」

 

 言ったそばから自分で戸惑う俺に、三浦は笑いを漏らす。いや、だって俺だってなんで来たかわからないんですもの…。

 

「ならとりあえず一発」

 

 俺の戸惑いなどお構いなしに、三浦は俺に向かって拳を振り上げる。反射的に目を瞑るが、衝撃はやってこなかった。

 

力なく拳を振り下ろした三浦は、弱々しく、消え入りそうな声を出す。

 

「別に、泣いてたわけじゃない」

 

 しかし、そのか弱い一言は殴られるよりはるかに響いた。

 

 見透かされているようで、自分のあさましい心を、慰めようとした上から目線を、同情しているような態度を、それらをわかっていると言われたようで。

 

 しかし。自己嫌悪はない。俺はそう思う。俺は彼女に上から目線の同情を押し付けるためにここに来たわけではない。それを俺は確信していた。俺がここに来たのは。理由にならないような理由をつけてまで、由比ヶ浜の願いを振り切ってまでここに来た理由は、それは。

 

 三浦はまた優しく微笑んで続け、

 

「別に、逃げたわけじゃないし、隼人の気を引きたかったわけでも、多分、ない。ただ」

 

 うつむき、つぶやく。

 

「邪魔しちゃ悪いっしょ。あんな楽しそうな隼人、初めてみたから。…あそこにいたら、あーし絶対余計なこと言って台無しにするから」

 

 それは、いつも彼を見ていた三浦優美子だから出てきた言葉だった。雪ノ下陽乃を前に困ったように、呆れたように、付き合いきれないと笑う葉山隼人を、三浦優美子は「楽しそう」と断言した。

そして彼女はそんな彼を思って優しく笑っている。

 

 その像は、俺の知っている彼女ではない。彼女なら怒るべきだった。台無しにして然るべきだった。なぜ彼は自分の知らない顔を彼女にみせるのか詰問するべきだった。

 

だから、俺は自然と尋ねてしまう。

 

「本当に、いいのか?」

 

「ん?」

 

 不思議そうにこちらを見返す三浦。だが、俺は勝手に出てくる言葉を止めることはできない。

 

「…届かないところに行っても、いいのか」

 

 三浦の、俺の知らない葉山隼人。雪ノ下陽乃の前の彼は、それだった。恐らくそれは、三浦優美子が俺に願った、俺程度に懇願した葉山隼人の「知らざる一面」の一つで、それも相当と言って差し支えないほど重大な一面だったのだろう。だから三浦はあそこから飛び出した。

 

 俺は分かったように忠告する。その傲慢を、無恥を笑われてもいい。俺はなぜかそう思っていた。

 

 しかし、彼女は俺を正面に見据え、静かに言う。

 

「だって、しょうがないじゃん。さっきも言ったっしょ。…あんな隼人、見たことなかったから」

 

 そう、彼女は笑った。

 

 一色なら彼女を弱いというのかもしれない。由比ヶ浜なら絶対にあきらめることはしないだろう。雪ノ下であれば振り向かれるように自らを高める努力をより高めるに違いない。

 

 だが妙に納得していた。彼女なら、そうなのかもしれない。自分の幸せを第一に掲げる彼女なら、隣にいる者の幸せこそ願ってしまうのかもしれない。

 

 なぜならば

 

「あーしより好きな奴との時間邪魔しても、あーしが楽しくない」

 

 そういうことなのだろう。

 

 マッ缶に口をつけ、ふう、と彼女は一息つき、ついでのように口を開く。

 

「そういえば、あんたはどう思った?」

 

「何が?」

 

 主語を抜かして話すな。三浦はすっとぼける俺にジトリとした目を向ける。

 

「隼人、楽しそうだったじゃん。…あんたはどう思った?」

 

 彼女の求める答えを、たぶん俺は答えられない。だから俺は仕方なくいつものように言う。

 

「葉山と雪ノ下さんの家は弁護士と議員の関係だ。雇われる側と雇う側、俺たちが想像できないしがらみがあってもおかしくはない。それこそ今は正月だ。恐らく今日も単純に両家の挨拶で…」

 

「ヒキオ」

 

 三浦は俺に厳しい目を向ける。

 

「あーしが聞いてるのは、そんなどうでもいいことじゃない」

 

 どうでもいいこと。俺の提示した事実を、客観を、事務的な事情を、彼女はそう言う。まっすぐに俺を見る彼女に俺は内心一人ごちる。

 

 わかってんだよ、そんなこと。

 

 ため息をついて俺はつぶやく。そういうことなら、仕方がない。

 

「そもそも、それこそ俺にとってはどうでもいい」

 

「…あ?」

 

 三浦は今度はいつもの獄炎をその瞳に宿し、俺を見る。しかし引くわけにはいかない。

 

 たぶん、俺にとってはどうでもいいことじゃない。

 

「俺は別に葉山のことをお前と話し合うためにここにいるわけじゃない」

 

「…あ、そう。じゃ、なんであんたこんなとこで油売ってるわけ?結衣たち待ってるだろうし、さっさと行けば」

 

「そういうわけにもいかん。用事が終わってないからな」

 

 用事って何の…。そう続ける三浦を遮り、俺は少し声を大きくする。

 

「手、出せ」

 

「は?」

 困惑する三浦に、俺は一方的に先ほど買ったものを握らせる。

 

「…何、これ」

 

 俺らしくないし、彼女らしくない。なぜか俺の目に留まったプレゼントは、はそんなものだった。

 

「遅れたが、その…誕生日プレゼントってやつだ。ケバい金髪がいきなり黒くなったら頭も寂しいと思ってだな」

 

 彼女はラッピングをはがし、さらに目を丸くする。

 

 それは、リボンをかたどった赤の細いバレッタ。俺らしくもないし、彼女らしくもない。ついでに女子高校生的にも「ありえない」だろう。

 

 だが、何故か俺は見たいと思ってしまった。

 

「…なにこれ?」

 

「いや、だから一応その、なんだ…誕生日プレゼントというか…」

 

 今更問われても言葉に詰まってしまう。言ってしまえば衝動買いのようなものだったのだ。

 

 だからあまり笑ってくれるな。そう、言おうとしたところだった。

 

「か、かわいすぎっしょこれ!これをあんたが買ってるところ想像すると…ぷっ、どういう顔で買ったしあんた…くくっ…」

 

 はい、綺麗に大爆笑でした。

 

 彼女はそれを何度もまじまじと見ては腹を抱える。…いやあの、俺にそういうセンスがないのは自分が一番よく知ってるから。笑われなくてもわかるから。なんなら笑われるのにも慣れてるから。慣れたくねえよそんなの。

 

 まだ笑い続ける三浦は、涙を拭って言った。

 

「ていうかこんなの、あーしより結衣とかあんたの妹とかの方が似合うでしょ。あーしがこんなの付けてった日にはそれこそクラスで笑いものに…」

 

「いや」

 

 思ったよりも大きな声が出た。そんな俺を三浦が目を丸くして見つめる。…本当に、違うのだ。ただ、俺は。

 

「いや、その…」

 

 しかし、これを言うべきか。言いたいかどうかで言えばとても言いたくない。

 

「ねえ、ヒキオ。あーし、はっきりしないことが、いっちばん、嫌いなんだけど?」

 

 コツコツと彼女はベンチを叩く。ご、ごめんなさい!反射的に心の中で土下座をし、つい口が開く。

 

「流石の俺でも、似合うと思わなかったらそんなもん贈らん」

 

「…」

 

 …あ、あれ?

 

 武力制裁に身構えるが、また衝撃はやってこない。三浦を見ると、彼女は怒りからか肩を震わせている。…こわいよぅ。

 

「ちょ、あんたあっち向いてろし!」

 

 しかし今度は顔を赤くして俺の首を無理やり曲げる。

 

「い、痛い痛い!わかったから。あっち向くから!」

 

 曲げられた首をさすりながら空を見ること数分。肩をちょんちょんと叩かれる。

 

 そこには、その赤い髪飾りをつけた横顔の三浦優美子がいた。

 

「…感想は」

 

 リアルに思った4倍くらい可愛…。

 

 出かけた言葉を自らの首を絞めて葬る。

 

「…ぐっ、ゲホッ!ゲホッ!」

 

 突然の俺の奇行に三浦は少し慌てて近寄るが、それを手で制する。奇行の理由を聞かれてはたまらない。

 

 だから俺は、なんとか口の端だけ持ち上げる。

 

「リボンで傲慢さが見事にカモフラージュされてるな」

 

「…殴っていい?」

 

「ごめんなさい買った時に想像した4倍くらい可愛いです」

 

「え」

 

 あ。

 

 殴られると思った俺の防衛本能は恐ろしい。気づけば頭を抱えながら思ったことを口走ってしまった。やばい。これこそ殴られる。キモイ。うざい。死ね。ヒキオのくせに生意気だぞ。いや、それはヒキオじゃなくてスネ夫。

 

 恐る恐る三浦を見ると、今度はそのバレッタ程度に顔を赤くしていた。…ごめんなさいそんなになるまで怒らないで殴らないで。

 

「…ま、だいぶ遅れたけど今回はギリギリセーフってことにしとくから。次、忘れたら殺す」

 

 やっぱりめっちゃ怒ってた。というか。俺はついため息交じりに聞き返してしまう。

 

「来年もかよ…」

 

「は?当たり前っしょ?ていうかあーしの誕生日忘れてること自体ありえなかったっつーの。それに」

 

 三浦はいくつか咳ばらいをし、上目遣いでこちらを見る。

 

「あーしも…その…覚えてたら、あんたにあげるから」

 

「…ほぅ。そりゃ楽しみだ」

 

「そ。楽しみにしときな。…真っ白なリボンのバレッタあげるから」

 

 自分の黒髪に着けたバレッタをいじりながら、三浦優美子は不敵に微笑む。こいつならやりかねねえ…。そう思って俺は顔を白くするが、その柔らかな笑みをみてつい笑顔が漏れた。

 

「それは勘弁してくれ」

 

 来年のプレゼントはピンクのパンツにしよう。白いバレッタを付けた俺を想像しているのか、不敵に嗤う彼女を前に俺は静かにそう決意した。

 



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意外に彼女は彼を知っている。

 文理選択。高校生は主にどういう理由からそれを決めるのだろうか。

 

 ある者は将来の仕事のために、ある者は学びたい分野のために、ある者は行きたい大学のために、ある者は得意な教科から。

 しかし、もっと俗っぽい理由で決める者だって存在するだろう。例えば…好きな人間がそっちを選ぶから。

 

 身を切るように冷たい放課後の教室。暖房はすでに切られているがその日は多くの人間が教室に残っていた。その理由は

 

「結衣、文理選択どっちにした?」

 

 二年生も終わりに差し掛かり、HRで進路希望調査票が配られた。それについて話すことは尽きないのか、多くのクラスメイトが教室でたむろしている。まったく、文理選択程度で何を話すことがあるのか…

 進路希望調査票とにらめっこする由比ヶ浜に、三浦はその黒髪をくるくるといじりながら問う。

 

「うーん、あたしは文系かなー」

 

「そっか。海老名は?」

 

「あたしも文系だけど…優美子はどうするの?」

 

「…あーしはまだ悩んでる」

 

 海老名さんに問われた三浦はちらりと横の葉山たちをみてつぶやく。少し考えるように顎に手をやり、三浦は彼らに声をかける。

 

「戸部、あんたはどうすんの?」

 

 突然声をかけられたことに少しだけ戸惑う様子を見せた戸部は、三浦の持つ進路希望票を見て合点がいったのか、うんうんとうなずく。

 

「やー、まだちょっと迷ってるけど、もしかしたら理系にするかも」

 

 暗記苦手だからさー、と続けると戸部に、はぁ?まじか?目を覚ませ戸部。周りからは非難轟々である。戸部は英単語とか無理っしょー、頭を掻く。…あの、理系でも英語は受験に切り離せないんですが。むしろ俺からすれば普段お前が使ってる言語の方が英語よりよほど難解だと思うんだが…。

 

 その後も文系は大学で遊べるだの、就職は理系が有利だの、理系は元素記号で掛け算ができるだのなかなかに盛り上がっているようだ。いや、最後のは主に一人しか笑っていなかったが。

 

 しかし、三浦にとってはそれは前フリだったのだろう。彼女はこの話題に乗ってこない彼に話を振った。

 

「隼人は?」

 

「俺は、一応決めてるけど」

 

「ふ、ふーん」

 

 三浦はまだ聞きたそうにしていたが、葉山の微笑みを見て口を閉ざす。その笑みは、いつもより少しだけ冷たい気がした。

 

「えー、隼人君どっちにするか教えてくんね?もうこれ決まんねえし自分で考えるのしんどいっしょー」

 

「俺のを聞いても仕方ないだろ。自分で決めないと後悔するぞ」

 

 心底困り果てた表情の戸部に、葉山は苦笑交じりで答える。事はその人間の将来に関わることだ。その決定に軽々しく他人が介入するべきではない。

 

 葉山に諭された戸部は少し不満げに声をあげていたが、結局は納得したのか「しゃーない、自分で考えるべー」といい机に突っ伏した。

 

 それとともに話題がなくなったのか、一瞬グループが静まり返る。…まあ、実はこのグループ戸部がいなかったら話題膨らませる人間いないからなぁ。葉山と三浦と海老名さんは多分話が続かないこともそんなに問題視していなさそうだし。

 しかし、当然常識人もいる。その雰囲気に気まずくなったのか、大岡がそういえばー、とわざとらしく口を開いた。

 

「噂なんだけど、優美子ヒキタニ君と付き合ってるってまじ?」

 

 …は?

 

 一瞬時が止まり、その直後。たぶん、クラス中の人間が同じ絶叫をした。

 

「…は、はあああああああああああ!?だ、だれがそんなこと!?!?」

 

 当の三浦が顔を真っ赤にしながら、椅子をがたがたと揺らした。由比ヶ浜も初めて聞いたのか目を瞠って大岡を見る。大和と戸部は知っていたのか、特に驚いた様子もなかった。葉山は…彼は、いつもと何一つ変わらない微笑をたたえていた。

 

 かなりの勢いで三浦に迫られた大岡は、少し頬を染めながら彼女の質問に答える。

 

「い、いや、誰って言うか、なんか年明けに二人っきりでいる所をモールのベンチで見たって噂が…」

 

 ああ。俺はそこまで聞いて得心する。あの時は確かに生徒会の人間も他にはおらず、そのように取る人間がいても不思議ではない。そもそも俺らくらいの年代なら、何が起きてもそれを男女の関係に結び付けてしまう。

 にしても…話題に上がっている俺は別の意味で悲しくなる。あの、俺のこと話されてるはずなのに誰もこっち見てないんですけど。誰も俺のこと知らないんですけど。おい、そこの女子、「ヒキタニってだれ」って言ったの忘れねえからな。目の前にいる…いや、ヒキタニって確かに誰だ?

 

 同じように得心がいったのか、三浦も安堵からか胸をなでおろす。

 

「あー、そのこと。それなら生徒会で用事あっただけだし。結衣も一緒にいたし。そんな適当な噂広められるの困るんだけど」

 

「ご、ごめんごめんそういう事情とは知らなくてさ。結衣もいたんだな。すまんすまん」

 

 三浦に睨まれた大岡は由比ヶ浜がうなずくのを確認し、両手を合わせて三浦に繰り返し謝罪する。三浦は何度も「そんな事実ないから」と繰り返し、とりあえずその場は収まった。

 

 場が落ち着くと、大岡と一緒に三浦をなだめていた大和が安心したように息を吐く。

 

「そうだって。大岡は何勝手なこと言ってんだよ。…つーか、ヒキタニ君だぞ?…言っちゃ悪いけどさ」

 

 声を潜め、大和は嗤う。

 

「釣り合わないだろ」

 

 その瞬間、今すぐ教室を飛び出したくなった。中学での記憶がフラッシュバックする。勝手に勘違いし、勝手に盛り上がり、勝手に告白し、そして勝手に傷ついた。

 しかし、今は違う。俺は動きかけた脚を必死に抑える。事は俺個人の問題じゃない。三浦という俺以外の人間も関わっている。しかもこの問題の発端は俺が彼女の後を追ってベンチに座ったせいだ。そのせいであらぬうわさを流され、彼女の評判、女王としてのブランドに傷がつこうとしている。

 ならば。俺は少し唇を噛む。その責任は、俺がとらなければならない。ここからいなくなることは許されない。いざとなれば…。

 

 いくつかの手段を考える俺を、耳障りな声が邪魔をする。

 

「まあ釣り合わないよなー。ヒキタニ君には悪いけど、そもそもあんま喋んねえし、いっつも一人だし、夏休みの千葉村の時も文化祭の時も『アレ』だったらしいし」

 

「あー、そう言えばそうだったな。そう考えると大人しそうに見えて結構やってること陰湿っつーか、卑怯っつーか」

 

 ククク。彼ら二人の押し殺した笑い声が聞こえる。しかしそれについて特に思うことはない。彼らの言っていることはただの真実だ。千葉村では汚れ役を彼らに押し付けてまで小学生にトラウマを植え付け、文化祭では自己満足でいろんな人間を傷つけた。…誰も傷つかない世界など、存在しなかった。

 

 優美子とヒキタニ君とか、最高に笑えるギャグだよな。彼らはまだそう続ける。まあ全部聞こえてるんですけどね。

 …いや。時折見慣れた笑みをこちらに向ける大岡と大和に、俺は思い直す。ああ、そう言うことか。

 

 彼らのグループの人間関係を、「男女」を意識して思い返せば簡単なことだった。

 

 海老名さんは戸部が直接告白しているし、「誰とも付き合う気がない」と公言している。今更グループ内の男は手を出しにくいだろう。

 由比ヶ浜はそもそも学年単位で見ても競争率が非常に高い。見目麗しく、いつでもこちらを肯定してくれる性格の良さがあり、それに、その、言葉は非常に悪いが…男好きする体を持っている。彼女の男人気は俺も普段の生活や文化祭、体育祭を通していやというほど知っている。

 では三浦は。修学旅行でこっぴどく葉山にフラれたことから、付き合うとしても葉山への気遣いは不要だろう。そして三浦が葉山にフラれた事実を知る者はそこまで多いわけではなく、自然と競争率は落ちる。まだ三浦と葉山の関係を誤解する人間もいるのだ。加えて生徒会長になった副産物として、近寄り難かったきつい容姿、言動は近頃はすっかりなりを潜めている。にもかかわらず、普段は無防備な姿を男の前でも見せる(短すぎるスカートも、無造作に組まれた脚も、葉山以外の男はジャガイモ程度にしか思っていないことの証左でしかないかもしれないが)

 

 受験勉強が始まる前の二年生。「落としどころ」としては優良物件なわけだ。最近ちょろちょろしている俺は、彼らの目からはさぞ不快な虫に映っていることだろう。大岡が俺と三浦の話を振ってきたのも、俺への確認とけん制の意味合いが強いのではないだろうか。

 

 頭の中の電卓は、気づけば冷たく結果をはじき出していた。

 

 しかし、ふとかの教師の言葉を思い出す。

 

 心は数字ではない。

 

「ちょっと二人とも、そういう言い方って――」

 

「――そーだし。あんたらの言う通り」

 

 笑い合う大岡と大和に由比ヶ浜がくい下がろうとすると、三浦本人が彼女を遮った。

 

「あーしとヒキオ?何そのありえない噂。わかってんじゃん。ぼっちで根暗でやることなすこと陰湿」

 

 彼女は、彼らをまっすぐに見据え冷たく笑う。

 

「無理でしょ、普通」

 

「だよなー」

 

「流石に優美子にはな」

 

 笑う三浦に大岡と大和はさらに調子に乗って続ける。曰くもっといい人間がいる。曰く優美子にはイケメンが似合う。曰く最近可愛くなったよな。それを聞き、俺は自然と思ってしまった。こんなことを俺が思うこと自体に、俺自身驚いてしまう。

 

 反吐が出そうだ。

 

「そうだし。誰があんなキモイ奴」

 

 あんな奴…三浦はそれをきっかけに何か思い出したのか、わなわなと肩を震わせる。

 

 それを見た大岡と大和は心配するように声をかけるが、三浦の耳には届いていないのか、特に反応はない。

 

「ヒキオは」

 

 周囲の視線が一身に集まる中、三浦優美子は静かに口を開く

 

「卑屈だし、わけわかんないことばっか言うし、気づけばなんか一人で笑っててきもいし、こっちが話しかけてやっても超適当にあしらうし、あーしのパンツ見といて詫びの一つもないし」

 

「…優美子?パンツって…え?」

 

 黙って三浦を見ていた由比ヶ浜が、表情をこわばらせる。

 

 何かスイッチが入ったのだろうか。三浦の目はもう二人の方を向いていなかった。顔を赤くし、膝の上で握り拳をつくる。

 

「あーしがフラれたときも上から目線で説教たれるし、応援演説やらせたと思ったら悪口しか言わないし、小学生にデレデレしててとにかくきもいし、人の誕生日すら覚えられないバカだし。…つーかあーしマックスコーヒーとか別に好きでもないっつーの!あまったるいんだっていい加減気づけ!」

 

 ぐさり。今の一言が一番刺さったかもしれない…あの、あの二人の悪口の五十倍くらい心えぐられてるんで今すぐやめてもらっていいですか。大岡と大和も流石にクラス内のざわつきをまずいと思ったのか、三浦に話しかけようとする。しかし

 

 あふれた彼女の文句は止まらない。

 

「勝手に土下座までして事をうやむやにしようとするチキンだし、人の何倍も打たれ弱いくせにそれすら気づかない振りするし、何にもわかってないふりして急に核心ついてくるし、…あーしがきつい時、そばにいてきもいし」

 

 彼女の文句に、少し、今までのことを思い出す。

 

「だから」

 

 ようやく、三浦は大岡と大和に視線を戻す。

 

「普通、無理でしょ」

 

「…お、おう」

 

「…だよな」

 

 言いたいことは言ったのか、それを最後に三浦は鞄をもって席を立つ。ポカンと口をあけながらまくし立てる三浦を見つめていた由比ヶ浜も、慌てて支度を始める。ああ、それと。席から腰を浮かし、三浦は思い出したようにつぶやく。

 

「一面しか知らないくせに決めつける方が、あーしはダサいと思うけどね」

 

 そういって下を向きながら廊下側のドアに近づいてくる。まずい。俺はすぐに寝たふりをしようとする、が。

 

「…あ、あ、ひ、ヒキオ、あんた…あんた…」

 

 顔を耳まで赤くした彼女と目が合ってしまった。「居たのまじで気づかなかった」彼女の口はそう動いていた気がする。ステルスヒッキーをここまで恨んだことは、人生の中でもなかったことだろう。

 

「お、おう」

 

 いや、他に言うことあるだろ俺。自分のコミュ障をここまで嘆いたこともない。

 

 しかしにらみ合うことも一瞬。彼女はすぐに目を外し

 

「さ、先に生徒会室いってるから!」

 

 ドアを壊す勢いで開けて出て行った。

 

「ま、待ってよ優美子~~~~!」

 

 由比ヶ浜は突然出て行った三浦を追って教室を出ようとする。

 

 しかし、俺の横を通る瞬間。

 

「…パンツって何のことなんだろうね、ヒッキー」

 

 聞いたことのない底冷えする声で、由比ヶ浜はそうつぶやいた気がした。

 




 こういう特定の人間にヘイトを向けるお話が、私は好きではありません。しかしまあ本編でも悪事がうやむやになっていた彼らなので、少しは大目に(笑)

 文理選択からマラソン、バレンタイン。ここからは本編でも結構あーしさんがクローズアップされているお話です。きちんと格好良く、可愛い彼女が描けるかとても気分が重いです。…今回のお話はお嫌いな方もいると思います。文句があれば、ぜひ聞かせてください。そのうえでこれからも我慢してお付き合いいただければと思います!


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実は彼らは劣等感の塊である。

 

 冤罪、という言葉がある。

 

 重犯罪から軽犯罪まで、昔からその存在は問題とされ、現在では裁判所、警察でさまざまな改善が図られている。

 しかしそのような現状においても、主に男にとって世にも恐ろしく、そして身近な冤罪がある。そう、痴漢冤罪である。この冤罪の厄介なところは、多くの場合証拠が残らず、セクハラのようにある程度受け手の印象で話が進んでしまうことだ。

 

「…ヒッキー、パンツって、なんのこと、かな?」

 

 放課後の廊下。先に飛び出していってしまった三浦を追い、俺と由比ヶ浜は生徒会室に向かった。が、その道中。俺は由比ヶ浜から尋問を受けていた。ちらりと横を見ると、由比ヶ浜が光を失った目でじっと、穴が空くほどこちらを見つめている。ひっ。思わず出かけた悲鳴を必死に抑え、俺はなんとか口を開く。

 

「いや、そのだな…なんつーか…不可抗力っつーか、そもそも見たくて見たわけじゃねえし…」

 

「ねえ、そんなの当たり前じゃない?ていうか見たくて見てたら、今頃こんなふうにヒッキーはあたしとおしゃべりできてないよね?ゴタイマンゾクであたしの前にいないよね?ね?」

 

 怖い怖い怖い怖い怖い。え、ガハマさん急にどうしちゃったんですかなんですかそのハイライトの一切ない瞳は。恐怖から思わずゴクリと喉が鳴る。もう一度だけ由比ヶ浜を見ると、少し落ち着いたのか顔付きが柔らかくなっていた。ここだ。俺は観念して両手をあげる。

 

「…はぁ。本当にただの事故で、それだけだ。他意はない。それにその件については一応三浦と話はついてる」

 

 ため息まじりに言う。三浦が奉仕部に入り浸る前。ベストプレイスで、三浦はまっすぐに俺に尋ねてきた。葉山隼人を知ろうとしていた。ほんの数ヶ月前のことだが、今となってははるか昔のことのようだ。…あれ、実際二年近く前のことのような気が…。

 

 どこからか無言の圧力を感じ、俺は背筋を震わせる。由比ヶ浜は俺の言葉に納得がいったのかいかなかったのか、何度か首を捻りながらも、うんうんと頷く。

 

「ま、それはいいや。いいってことにしとく。…ううん、ていうか本当はそんなこと聞きたかったわけじゃないんだ」

 

 それにしては見たことない目になっていたけどね。ガハマさんじゃなくて、某ガハラさんみたいになっていたけどね!

しかしそれを言葉に出すほど、俺も愚かではない。由比ヶ浜は立ち止まり、逡巡するように窓の外を眺める。おとなしく続く言葉を待った。

 

「あたし、羨ましいなって思って」

 

「……なにがだ」

 

「わかってるんじゃないの?ほんとは」

 

 下手なことは言うわけにはいかない。うつむいて声を絞り出す由比ヶ浜に、俺はなぜかそう思った。彼女の視線がまた迷うように虚空をさまよう。

 

「優美子、さっき言ってたよね。えーっと…『卑屈で、パンツ勝手に見てきて、上から目線でロリコンで、誕生日忘れられてて、打たれ弱くて、きもい』」

 

「うっ…」

 

 指を折りながら由比ヶ浜は一つ一つ先ほどの三浦の発言を復唱する。なんかこう、全部ただの事実であることが単純にきつい。今一度思った以上のダメージを受ける俺を由比ヶ浜は笑う。

 

「ゆきのんみたいに正しいわけじゃなくて、ヒッキーみたいな変な説得力もなくて、…あたしみたいに、合わせてるわけじゃない。でも自分の思ってることをまっすぐに言えちゃうのがさ」

 

 由比ヶ浜は、廊下の先の虚空を見つめる。

 

「羨ましいよ」

 

 その顔は何を表していたのだろうか。意図的に背けられるように、横を歩く彼女の表情をその茶髪が隠す。

 羨ましい。由比ヶ浜はそういった。その言葉はどこか彼女との出会いを思い出させる。何にでも合わせ、全てに迎合する。俺はそれを悪いとは思わなかったが、彼女はそんな自分を変えようとしていたのだろうか。その時の俺には判断がつかなかった。

 

 しかし、俺は由比ヶ浜結衣という女の子を、今は少しだけ知っている。周囲に合わせて、空気を読んで、自分よりも周りの調和を優先し、そして何よりも自分の気持ちを大切にする。優しいだけではない。暖かく、芯の強い女の子。

 

 だから、自然と口は開いた。

 

「羨む必要なんてないだろ。あの生徒会長はこの学校の誰よりも正しくねえよ。さっきもなんか知らんけど無駄に俺が傷ついたし」

 

「あはは。確かにそうかもね。…優美子は多分正しくない。あたしだって、正直そう思うよ。あたしは大岡君と大和君を止めようとしたから。『正しく』止めようとしたから、あたしは。                

でもね、ヒッキー」

 

 由比ヶ浜はふっ吐息を漏らし、うつむけた顔をこちらに向けた。

 

「正論って、全然正しくないんだよ。たぶん」

 

 言葉に詰まった。

 

 本当にこれは由比ヶ浜結衣なのだろうか。俺は自問自答する。いや、これが由比ヶ浜結衣なのだろう。彼女は優しいだけではない。

 

「あたしは多分、大和君たちよりはヒッキーのこと知ってる。だから、違うよって言いたかった。あたしが知ってるヒッキーはそんなんじゃない。大して知らないくせに勝手に決めつけないでって。

でもさ、あたしが何を言ってもそれはどこにも届かなくて、多分…その…「結衣は優しいね」で終わったの、きっと」

 

 由比ヶ浜はぎこちなくも続ける。多分そうなるだろうなと俺も思う。彼女は優しいだけではないが、しかし確かに優しい。それは俺でも知っている。

 

「だから、ね。思っちゃったんだ。正しくないことでも言えちゃう優美子が、羨ましくって眩しくって、それで」

 

 いつの間にか生徒会室の前まで来ていた。扉の前で何かを逡巡する由比ヶ浜は、俺の方を見ることはなく、扉に手をかけた。

 

「ずるいなって」

 

 その目は誰よりも強く、前を見据えていた。

 

 

 

 各々雪ノ下へ誕生日プレゼントを渡し、ケーキを切り、そこそこに仕事をして生徒会の業務が終了した。奉仕部の時から変わらぬ風習として、雪ノ下と由比ヶ浜は二人で職員室まで鍵を返しに行った。一色はどこかぎこちない俺と三浦をさも愉快そうに眺めていたが、下校を告げる鐘が鳴った瞬間に生徒会室を飛び出していった。

 

 そして現在、昇降口にて。

 

「げ。ヒキオ」

 

「人の顔見るなり随分な挨拶だな。…じゃ」

 

 いそいそと靴をひっかけ、俺は極力三浦の方を見ずに昇降口を後にする。彼女とは生徒会室でも会話をしていなかった。平常心。平常心である。あの教室での三浦の文句はただの俺への罵倒であり、罵倒されることならば雪ノ下で充分に耐性はついている。いつかは絶対に許さないリスト常連の雪ノ下に復讐をしなければならないとは思ってはいるが、今はとにかくこの場をどうにか…

 

「ちょっと待てし」

 

「ぐえ」

 

 流れるように帰宅する俺の首根っこを後ろから捕まれた。ゲホゲホとせき込みながらも恨めしい目をそちらに向けると…目は、合わなかった。

 

「…あっ、ご、ごめ…そんな締まるとは思ってなかったっていうか…その、だいじょぶ?」

 

 くるくると髪をいじり、三浦の視線は地面に落ちる。昇降口の明かりに照らされたその顔は寒いというのにほんのり赤い。思わず俺の言葉もどもる。

 

「…あー、そ、その、なんだ…なんか用、きゃ?」

 

 なんか用か?陽キャ?陰キャですけど?震える声が変にかすれちゃっただけですけどそれがなにか?盛大に噛んだことに軽く死にたくなりながら三浦を見ると、余裕を取り戻したのか彼女はバカにしたように鼻で笑う。

 

「変なとこで噛むなし…ぷっ」

 

「仕方ねえだろ。普段人間と話さねえから口周りの筋肉が退化してんだよ」

 

「…それ言ってて自分で悲しくならない?」

 

「会話を必要としない究極の自己完結。何なら誇るまである」

 

「反省する気ゼロだし…ちょっとは反省してくれないと困るんだけど」

 

 三浦は今度は視線を合わせ、非難するような目で俺を見る。

 

「いや、そうは言われても別にお前に迷惑かけてるわけじゃねえしな…」

 

「は?」

 

 思わず口を開く俺を、彼女は短く威圧する。

 

「…アレが、迷惑じゃなかったらなんだっての」

 

 アレ。その一言でわかってしまう。彼女は言った。「一面だけ見て決めつける方がダサい」そして彼女は長々と俺に対する文句と不満を口にした。それは裏を返せばつまり、三浦優美子は俺のことを多少なりとも知っているということであり…いや、そういうことではなく、彼女はただ…。

 

「と、とにかく!」

 

 おかしな方向に行きかけた俺の思考が、彼女のはじける声で戻される。

 

「あんたはあーしと違って舐められてんだから、ちょっとは周りのことも気にしろってこと。…一応あんたも生徒会なんだから」

 

「…へいへい。せいぜい足引っ張らないようにしますよ」

 

「ちが…いや、そうだけどそうじゃないっつーか…」

 

 なんもわかってねーしこいつ。小さくそう聞こえた気がするが、これ以上の罵倒は御免こうむる。そそくさと立ち去ろうとする俺に、後ろから声がかかる。

 

「あー、そうだ。…あんたは、どっちにする?」

 

「は?」

 

 何のことだ。俺は言外にそう尋ねると、三浦は少し苛立たし気に続ける。

 

「文理選択。放課後もみんな話してたじゃん」

 

「あいにく俺はその「みんな」とやらに含まれていない」

 

「だーーーから、すぐそうやって話逸らすなっての。いまあーしは、あんたに聞いてんの」

 

 緑がかった瞳が昇降口の明かりに照らされる。その目は確かにこちらを見ていた。

 

「他人に言うようなことじゃねえし、大体…俺に選択肢がないことくらい知ってんだろ」

 

「何回言えばわかんだし。そんなことは今関係ない。…それとも言わない理由があるわけ?あんたに」

 

 三浦は厳しい目をこちらに向ける。まあ、実際俺には葉山と違って進路を隠す理由もない。ついでにこれ以上女王様の機嫌を損ねる必要もない。…怖いわけでは、断じてない。

 

「…はぁ。ま、文系しかねえよ俺には」

 

「そ。ま、どーでもいいけど」

 

 なら聞くんじゃねえよ。ちょっとキレてるかと思ってビビっちゃったじゃねえか。

 

 思わず恨めし気に三浦を見てしまう。しかし当の本人はどこ吹く風なのか、のんきに星が出てきた空を見上げている。この女、いつか痛い目に合うべきだと八幡思います。

 

 しかし、その視線はすぐにため息とともに地面に落ちる。

 

「…隼人は、やっぱり教えてくれなかったな」

 

 小さく漏れたギリギリ聞こえる程度のつぶやき。彼は答えないし、応えない。彼女は知っていたはずだ。そして、それでも彼女は彼に求める。俺はそれを知っていたはずだった。

 

 納得できるかは、知ったことではないが。

 

「知りたいか?」

 

「…うん」

 

「どうしても、か?」

 

「そう、だと思う」

 

 何が、とはお互い口にしなかった。なぜだろうか。慣れ合うことは、誤魔化すことはお互いによしとする性格ではない。そのくらいは知っているつもりだった。

 

 ならば、なぜそれを口に出すのを避けるのだろうか。まったくわからなかった。

 

だから、俺の口は勝手に動いた。

 

「本人にきいても仕方ないなら、別のアプローチを試せばいい。同級生で弱いならもう少し上の立場の人間に聞いてみる手もあるだろう。雪ノ下姉でもいいし、なんなら平塚先生に聞いてもいい。あの人は生徒会の顧問もやってるからいつでも聞けるし、担任だ。妙に口が軽いところがあるから俺からでも聞けば案外すんなり…」

 

「…ッッッ!そんなこと!」

 

 普段ではないほど滑らかに動く口に反して、俺の顔は下を向いていたらしい。突然上がった声に顔をあげると、そこにいる彼女は。

 

「そんなこと、いつあんたに頼んだ?」

 

 何の表情もなかった。

 

「あーし、今あんたにどうにかしてなんて頼んでない」

 

「…そうだな。すまん」

 

 なぜか腹が立っていた。確かに彼女から今、明確に何かを頼まれたわけではない。事は将来に関わることだ。軽々しく、勝手に踏み込んでいいことではない。わかるつもりになるのは傲慢というものだ。

 

 素直に謝るが、反対に彼女は語気を強める。

 

「なんで謝んだし」

 

「いや、なんでって、見るからに腹立てて…」

 

「ほら」

 

 彼女は昇降口に落ちていた石を強く蹴る。俺たち以外いない空間に硬質な音が響く。

 

「なんであーしが苛ついてるか、全然わかってない。あんたは」

 

「…お前もわかってねえだろ」

 

「あ?」

 

 差し向かいでにらみ合う。彼女はいつでも人の目をまっすぐに見る。いつもはその視線に耐えきれないが、今は自然と見ることができた。激情のこもった瞳に、やはり俺は腹が立った。求める彼女に、応えない彼に、そして苛立っている自分自身に。

 

「帰る。お疲れさん」

 

「ちょ、話はまだ終わってな…」

 

 呼び止める彼女を無視し、俺は駐輪場へ向かった。下校時刻を過ぎた駐輪場は不気味なほど静かで、最近調子の悪い自転車からは錆びたような音が耳に付いた。

 

 やはり、余計に腹が立った。

 



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それでも彼は知ることを選ぶ。

前の話覚えてないときついかも(定期)




 三浦と昇降口で別れ、ふと思い立って駅へ向かった。と言うのも、流石に今日は色々なことがあり過ぎた。少しどこかで落ち着きたい。そんなことをつらつらと思いながら、何とは無しに某超有名ドーナッツ店にはいったのが運のツキである。

 

「君もこんなところに来るんだな。少し意外だよ」

 

「…」

 

 ドーナッツ屋には、葉山隼人がいた。

 

 まったくもって今日は厄日だ。そもそもこんな日にまだ外に出ようとしたのが間違いだった。ヒッキーはヒッキーらしく小町の待つ家にヒッキーすることにします。ヒッキーするってなに。

 

「…そこまであからさまに無視されると流石に傷つくな」

 

 回れ右で店を出ようとする俺の前に、彼が立ちふさがる。合わないように伏せていた目を仕方なく上げる。

 

「はぁぁぁ。なんだ、葉山。少なくとも俺にはお前に用はない。…オレ、ツカレテル。ダカラ、イエ、カエル。ワカル?」

 

「いやいやいや、なんで急にカタコトなんだ!?」

 

「あからさまに無視してんのにまったく意図が伝わってないようだから、できるだけわかりやすく伝えたほうがいいと思っただけだ。…じゃ」

 

「とりあえず、そのこれ以上ないほど嫌そうな顔を止めてくれないかな…まあ、座れよ」

 

 葉山は苦笑しつつも引く様子がない。…こいつそんなに俺と並んでドーナッツ食べたいの?ドーナッツ好きなの?それとも俺のこと好きなの?腐海の住人なの?ぱないの?

 

 しかし疲れているのも事実。こんな精神状態で、こんな奴と一緒に居てもろくなことにならないのは目に見えている。

 

「お前がいたら心が休まらないし、そもそも俺は一人が好きだ。なにより俺にはお前に用がない」

 

「いつになくはっきりと言うなぁ。でも俺は比企谷と話があると思ってるし、それに」

 

 葉山はため息まじりに元居たカウンターに座り、頬杖をつく。

 

「君だって本当は、俺にする話があると思うけどな」

 

 その瞬間、なぜか浮かんだのは彼女の顔。想っている男の顔色を窺い、その未来に寄り添おうとしている女の子。彼女は彼に近づけるのだろうか。自然と、知りたいと思ってしまった。

 

 彼女は彼に近づくことを、選ぶのだろうか。

 

「はぁ」

 

 深く、長くため息をつき、仕方なく俺は空けられた席に座る。

 

「…俺はフレンチクルーラーでいい」

 

「たかる気満々かよ、比企谷…まあ引き留めたのはこっちだしね」

 

 施しを受ける気はさらさらないし、借りを作る気もない。借りを作って海老名さんが喜ぶような展開になっても困る。非常に、困る。

しかし。無意識に俺は自らに言い聞かせている。そうでもなければ、ここに留まる理由を俺は見つけられない。

 

「君は文系だろ?」

 

「…断定できるほど俺のこと知らねえだろ」

 

「じゃあ理系か?」

 

 知ったような口をきく葉山にかなり頭には来たが、反面、それ以外の選択肢はないのだと改めて思う。

 思わず閉口する俺の横で、ポンデナンチャラをかじりながら葉山は笑う。…美味そう。思わずそう思う。俺もそっちにすればよかった。

 思わずフレンチクルーラーと言ってしまったのは、懐古厨であり回帰厨の良くないところが出た結果だ。老害を叩くネット民。そのくせ自分たちは事ある毎に昔のサブカルとかネットを語っちゃうところがマジで老害ポイント高い。まぢやばい。…いや、それ以前に。

 

 この会話にフレンチクルーラーは甘すぎる。

 

「比企谷はひねくれてるようでわかりやすいな」

 

「うるせえな。まあ俺には文系以外の選択肢はないが…お前は違うだろ」

 

「そうでもないさ」

 

 自然に葉山の進路の話へもっていこうとするが、彼の一言で一蹴される。思わず横を見る。その選択を聞けるのであれば話は早い。しかし、その横顔はいつも通り、何の曇りもない、「皆の葉山隼人」そのものだった。

 しかし、驚きを表に出すわけにはいかない。彼から聞きださなければならないことがある。俺はいつものように、口の端だけ持ち上げる。

 

「へえへえ。周りの期待が大きいとそれに応えるのも大変か」

 

「君がどう思っているかは知らないが、俺だって人間だよ、比企谷。迷いもするし、悩みもする」

 

「…そうは見えねえけどな」

 

 嫌味なしに、本気でそう思った。彼が悩んでいるとは思えなかった。彼がしていること、それは悩むことでも、迷うことでない。彼はひたすらに後悔している。その後悔は、今の彼に呪いをかけている。変化してはいけない、変わることは許されないという罰を背負わせている。

 彼は「今」を見て悩むことも、迷うこともない。俺はそう思っていた。そんな俺を、葉山は見もせずに鼻で笑う。

 

「それは君に見る目がないだけじゃないか?…このことに限らずね」

 

「…」

 

 先ほど三浦にも似たようなセリフを言われただけに、つい言葉に詰まる。反対に何が面白いのか、葉山はさも愉快そうに、普段見せない嗜虐的な笑みを浮かべる。

 

「だからわかりやすいんだよ、君は」

 

 らしくない歪んだ笑いを、彼はドーナッツ屋に響かせる。黙ってしまってはそれは肯定ととられる。だから言葉で武装する必要がある。そんなことは分かっている。

 しかし、こと彼女に、三浦優美子に関して適当なことを言うわけにはいかない。

 

 何も言えない俺に、彼は元々置いてあったミルクをあおり、パチンと両手を合わせる。

 

「…そうだ。一つ、賭けでもしないか?」

 

「…賭け?」

 

 賭け。表向き誠実な、誠実であると周りに見せる彼であればでてこない単語だ。かくいう俺も賭け事は好きではない。自分にベットできるほど、俺は自分の今までの行いに自信がない。それに賭け事は小町に怒られる。それはなによりも強大で確固とした理由であろう。

 

 迷う俺に葉山は何でもないように、口笛を吹きながら語り掛ける。

 

「そう。俺に訊きたいことがあるんじゃないか?そして君は俺が絶対にそれに答えないことを知っている」

 

 思わず言葉に詰まる。

 

 訊きたいかどうかはともかく、それを訊けるかもしれない。彼女が望むことを、知れるかもしれない。そう思ったから俺はここに残ったはずだった。それは彼女には頼んでないと言われ、わかっていないと罵られたことだ。そして葉山にはことごとく見透かされ、やはり見る目がないと諭された。

 

 俺に見えていないもの、それが何か。わかるようで、わからない。雲をつかむように、霧を掴むように、そこにあるように見えるのに形はつかめない。

 

 それでも。俺は自然と思ってしまう。わかりたい。拒絶されても、気味悪がられても、知りたい。

 

 なぜかは分からないが。

 

 気づけば、俺は彼に問うていた。…いや、縋っていた。

 

「俺の…あいつの訊こうとしていることに、答える気はないんだな」

 

「ないよ、比企谷。…タダではね」

 

 ニヤリと、葉山はまた彼らしくなく嗤う。まったくいい性格をしている。

 まあ。また俺は自分に言い訳をする。他人はともかく、自分のことがわからないのは気分が悪い。俺はいつにも増して深く、長いため息を吐く。

 

「わかった。俺がその賭けに勝ったら、俺の訊くことに答えてもらう。ついでにあれだ…その今すぐ殴りたくなる腹立つ澄まし顔に吠え面もかいてもらう」

 

「それでいいよ、比企谷。吠え面の練習をしておかないとな」

 

 飄々とそう言い切る顔には、焦りなどみじんも見えない。彼は負けたことがない。人間関係は別として、こと勝負ごとにおいては。そんなことは普段の葉山隼人を知っていればすぐにわかる。

 

 しかし、負けるとわかっていても引けないこともある。

 

「じゃあ俺が勝ったら、逆に俺が訊くことに答えてもらおうかな。賭けの内容は…どうしようか」

 

 葉山は困ったように眉尻を下げる。賭けと言った手前、どうすれば自分に負ける可能性があるか、負け得る条件を付けられるか悩んでいる、と言ったところだろうか。

 

 一番勝算が高く、手軽ですぐに思い浮かぶのは、ジャンケンだ。相手がゴンかキルアでもない限り、勝率は常に二分の一。スペックで遥かに彼に劣る俺が賭けで勝とうと思えば、この上なく条件はいい勝負だ。通常であれば。二分の一かつ労力は全くない。リターンが回収できなくてもこれならば問題はない。

 

 しかし、その選択をするには俺はあまりに腹が立っていた。何もかもが気に入らない。彼に進路を、「今」を尋ねたいくせに尻込みする彼女。すべてを知ったような顔をしているくせに何も変えようとしない、進もうとしない彼。そして勝手にそれに不満を抱きながら、誰よりも臆病な自分自身。

 

 とにかく、俺はムカついていたのだ。

 

「サッカーでいい」

 

 気づけば、そう吐き捨てていた。

 

「体育でやってるサッカー。そのチーム戦の勝敗でいい。負けたほうは勝った方の質問に何でも一つ答える」

 

 しまった。そう思わなかったわけがない。何やってんだ俺は運動神経もセンスもこの男の足元にさえ及ばない上なに相手の土俵でケンカ売ってんだこっちの勝負に持ち込んでようやく50vs50だろうがまじであほか。自らへの罵倒で脳みそはいっぱいになる。

 

 しかし、心は、退く気はなかった。

 

 彼は一瞬天井を見つめ思案したかと思うと、また静かに嗤った。

 

「今もしかして、ケンカを売られてるのかな、俺は」

 

「そんなことはねえよ。ケンカなんてものは同レベルでしか発生しない」

 

「その割に負ける気はなさそうに見えるけど」

 

 呆れたように彼は小さくため息を吐く。河原で殴り合った末お互いを理解し、夕陽に向かって走り出す。そんなことが起き得るのは同レベル間の話だ。もっと言えば、フィクションの中だけだ。俺だってそんなことは知っている。本当の人間はそんなことをする前に殴る相手の理解を放棄し、諦める。目の前の相手を無視する。それが合理的で、たぶん正しい。誰も傷つくことはない。まして、やる前から負けるとわかっていれば余計にそうだ。諦めるのが正解だ。

 

「レベルが違うとは言ったが」

 

 しかし。

 

「どっちが下とは言ってねえだろ」

 

 呆けた葉山隼人の顔を見て、俺はすでに勝った気分でいた。

 

 怒りが理性を超えることも、珍しい。

 




体育はマラソンの練習ではなくサッカーで


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珍しく彼は勝ちに拘る。

 

 俺の運動神経は、悪くはない。

 

 スポーツ測定の結果はようやく平均に届くかどうかというところだが、球技に関しては何であれ人並みかそれ以上にこなすことはできる。多分、自分に大したことができないことを知っているからかもしれない。言われたこと以上のことはせず、できるだけ労力の少ないフォームで動くことを意識する。その昔戸塚にテニス部に引き抜かれそうになったことなどいい思い出である。あの時の分岐をまちがえてなければ戸塚√一択だったんだよなぁ…

 

「八幡…八幡?…八幡!」

 

「……結婚してくれ」

 

 俺は戸塚の声で現実に戻される。今は体育の時間。というか、葉山隼人との決戦の日だ。戸塚にもその話は通っている。その心配もあるのか、戸塚は憂うような目をこちらに向ける。

 

「八幡ってば、またすぐそういう冗談を……ていうか、本当に大丈夫?顔色悪いよ?」

 

「顔色が悪いくらいなら至って平常運転だ。そもそも俺の人生で調子が上向いていたことがない。ばっちぐーだ」

 

 憂う戸塚にわざとらしくサムズアップする。彼は俺の心境を知ってか知らずか、乾いた苦笑い浮かべる。

 

「ははは……それでも、やるんだよね、八幡は」

 

「……すまん」

 

「なんで謝るの、八幡」

 

 つい謝ってしまう俺に、戸塚は口をとがらせる。

 

「いや、今回はお前に無理も聞いてもらったから……」

 

「いいの、僕が好きでやってることなんだから」

 

「そうだな。……その、なんだ」

 

 恥ずかしいが、口にするべきだと思う。こんな自分勝手な俺に付き合ってくれる、自分でさえわからない自分の気持ちに寄り添ってくれる、この友人に。

 少しでも気持ちを、伝えるべきだと思う。

 

「ありがとう」

 

「はは。どういたしまして、だよ」

 

 一言、出すのが精いっぱいだった。しかし戸塚は何でもないように気安く俺に応じる。

 その笑みは、いつもより少しだけ楽しそうで、嬉しそうだった。俺らの周辺に幸せな空間が降りる。心地いい。柄にもなくそんなことを思った。

 

 しかし。

 

「はっちっまーーーーーーーーん!!」

 

 迫りくる巨体に、ぶち壊される。

 

「うるさい鬱陶しい暑苦しいくっつくな……ていうかなんでこのクソ寒いのに若干汗かいてんだよ……」

 

 いうまでもなく、迫りくる巨体の正体は材木座だった。相手にされなかった材木座は若干涙目を浮かべ、しかしいつものようにうざい笑みを浮かべる。

 

「ぬわーーーーっはっはっ!我の心はすでに燃え上がっておるのよ。……ククク……ついにあのいけ好かないくそ金髪リア充に鉄槌を下せるかと思うと、今から笑いがとまらんわ!なあ、八幡」

 

「そ、そうだな。今日もお前はそのままいつも通り、最高の気持ち悪さを出し続けることが仕事だ。……よろしく、頼む」

 

「……え?我と八幡、仲間だよね?同じサイドだよね?なんか距離感ない?なんか八幡、我に引いてない?え、気のせい……かな?」

 

 体ごと引く俺に、材木座はテンションを下げる。俺は慌てて取り繕う。なんだかんだ言って、こいつの指揮だよりなのは間違いないのだ。

 

「い、いや、そんなことはねえぞ。材木座、お前だけが頼りだ。今日は皆の士気を最大限にできるよう、前線での扇動期待してるぞ」

 

「……ハッ。お主は我にただ任せていればいいのよ。無能な貴様は我の言うとおりにしていればいいのよ」

 

「へいへい。……まあ、本当に、頼むわ、今日は」

 

 役を演じる材木座に、俺は頭を下げる。材木座は恐らくなんとなく察している。わかっている。俺が無謀な勝負を挑む理由を。なぜこんなことに彼らを巻き込むかを。

 そして彼はそれをわかっていてなお、道化を演じようとしてくれている。

 

 だから、自然に頭は下がった。材木座は重々しくうなずく。

 

「……うむ。正直言えば、だ。我には貴様がやろうとしていることがさっぱり理解できん。そもそもあの葉山相手に、相手の土俵で戦おうとする時点で貴様らしくない。彼奴と勝負する理由も我には納得できん」

 

「……だろうな。正直俺にもわからん」

 

 今回に限って……いや、今回のことだけじゃない。修学旅行から始まり生徒会選挙、ディスティニーランド、誕生日プレゼントと、あの女が、三浦優美子が絡んでから、俺は不合理な行動をとっている。それは自覚している。理由も、なんとなくは分かっている。

 本当はそれを口に出すべきなのだと思う。数少ない、その、友人、に。不合理な頼みごとをするからには、理由を包み隠さずいうべきなのだと思う。

 しかし、まだ俺はその言葉を持ち合わせていない。だからまだそれを俺は彼らに言うことができない。

でも、この賭けでいい加減それをはっきりさせたい。そう思っていた。

 

「まあ、しかし」

 

 黙る俺に、材木座はポキッと首を鳴らす。

 

「八幡。貴様が矮小なことでうじうじと悩むのは今に始まったことではない。……友が困っているのであれば黙って手を貸す程度、我には造作もないことだ!理由など大した問題ではない」

 

 あ、好敵手と書いて友と読むからな。材木座は笑いながらそっぽを向き、そんなことを付け足す。

 

 大雑把な思いが、嬉しかった。

 

「すまん。……助かる」

 

「おうよ」

 

 後ろ姿で材木座はサムズアップする。かっけえ。ついそう思ってしまった瞬間、石にけつまづいて派手に転ぶ。あ、いつもの材木座だ。痛そう。

 

 

 

 

 試合開始の時間となった。俺は葉山と向き合う。彼はこの期に及んでなお、彼はその微笑を崩さない。

 

「今日、でいいんだったよな」

 

「ああ。吠え面の練習はちゃんとしたか?」

 

 葉山が口火を切り、俺は精々ふてぶてしく見えるように返す。そんな俺がおかしかったのか、葉山は笑いをかみ殺すように肩を震わせる。

 

「あれから一週間、毎朝鏡の前でね」

 

「負けたことがない人生も大変だな」

 

「そんなことはないよ、比企谷。サッカーでも勉強でも、俺はいつも負けてるよ」

 

 それは。

 

 それは違う。俺は瞬時にそう思った。彼は負けているわけじゃない。彼は負けない。彼は常に勝ってきた。だからこそ今の彼の人間関係があり、彼の地位がある。

 だから、彼がしてきたのは負けることじゃない。

 

「違うな」

 

 気づけば、それを口に出していた。

 

「お前は負けてきたわけじゃない。戦ってきたわけでもない、お前は」

 

 彼を、まっすぐに見る。

 

「お前は向き合ったことがねえんだよ。なににも」

 

「……なんのことかな」

 

 この期に及んで葉山隼人は答えない。俺の返答もついきつくなる。

 

「それのことだっつってんだろ、だから」

 

「だとしても君に言われたくはないな」

 

 また彼の口からは正論が出てきた。彼の言葉ではない。俺に向けた言葉ではない。正しい。正しいであろう言葉が出てくる。確かに俺も、彼も向き合っていない。問題から逃げている。

 

 しかし俺は、それを彼と共有する気はなかった。なめ合う気はなかった。

 

「そうだな。同じだ、俺もお前も。向き合う気がない。決める気がない。だからこそ、今日は」

 

 本心から、俺は宣言する。

 

「今日は、俺が勝ってもおかしくはねえよ」

 

 負ける気だけは、さらさらなかった。

 

 

 

 某ドーナッツ屋で葉山に遭遇してから一週間。題目がサッカーとなると、流石に俺一人の力でどうにかなるわけがない。体育が一緒である戸塚と、ついでに材木座を頼るしかなかった。

 体育のサッカーは二チームに別れておこなわれ、チーム分けは二人一組のグーパーじゃんけんとなる。葉山のグループや葉山と仲のいい運動部の連中は、どうやら陰キャに話を持ち掛けて葉山と同じチームになるように入れ替わっているようだ。なぜ知っているかといえば、俺も実際にそう言われたことがあったからだ。

「あー、ヒキタニ君?ちょっとチーム変わってくんね?ほら、そっち隼人君いるから……な?」

な、じゃねえよどんだけ葉山のこと好きなんだよこいつらまたどこかから腐った笑い声が聞こえたよ二回連続でぐ腐腐海老名さんはカロリー高いのでおかえりください。

 今回はそれを利用し、事前にグーを出すと決め、戸塚とテニス部の面々、ついでに材木座と同じチームとなるように根回しした。……戸塚には嫌なことをさせてしまったと思う。嘘を吐いたことがない天使戸塚を、俺は汚してしまった。この罪は結婚して償うほかない。不束者ですが、末永くよろしくお願いします。

 しかし運動部の多い葉山側に対して、意思統一のなされていない俺のような帰宅部の寄せ集めでは話にならない。だからテニス部をこちら側に引き入れた。戸塚は笑って引き受けてくれたが、この借りはいつか返さねばならないだろう。ついでに材木座にも。

 

 というわけで、テニス部には話が通っている。無理を聞いてもらう以上、土下座の一つや二つは覚悟していたが、戸塚の人望故か特に俺が問い詰められることはなかった。単純に「比企谷八幡」がどこのだれかわからなかったからかもしれない。泣いちゃうよ、俺。

しかし、そうなると我がチームの半数以上は俺とは何の関係もなく、葉山側に入ることもなかった連中だ。言ってしまえば、モブである。基本性能もモチベーションもはるかに劣っている。

 スペックであちらに劣るなら、士気で勝るしかない。作戦を聞いてもらうためにも、ある程度この集団をまとめなくてはならない。やる気なくコートに集まる連中をテニス部にそれとなく集めてもらい、俺と材木座、戸塚が中心に立つ。

 生憎、俺は扇動役としては不向きだ。ここは流れに身を任せ、ノリに運命を託せる人間に頼むしかない。いつかの体育祭のように材木座に耳打ちすると、材木座はありもしないコートを翻し、なぜか集団に向かって不敵に笑った。

 

「貴様ら、いつまでも負けっぱなしでいいのか?」

 

 ピクリ。大きくはないつぶやきに、ざわつく集団が少し静かになる。

 

「いつまでも部活のサッカーしか能のない連中に頭ごなしに命令されたままでいいのか?サル山の頂点で笑っている下郎どもにバカにされっぱなしでいいのか?「チーム変わってくんね?」と手を合わせられ、愛想笑いとともにやられ役に甘んじていてよいのか?」

 

 プルプルと材木座は拳を揺らし、瞳には揺れる雫が一つ、二つ。

 

「否ッ!我は嫌だ。絶対に嫌だ!へらへらとチームを変わってやるのも、試合中に凄まれてボールを変な方に蹴って笑われるのも、断じて嫌だ!負けた後に愛想笑いを彼奴らに浮かべるのも絶対に嫌だ!

立ち上がるときは今なのだ!下剋上の時は今なのだ!衆人環視の元、彼奴を、リア充の元凶葉山隼人を地に伏せてやろうではないか!……そのための策もある……らしい。皆はどうだ!いい加減勝ちたくはないか!」

 

「お、お~!」

 

 戸塚が控えめに手を挙げる。長袖ジャージの袖を握りながら、寒さからか上気した頬で精いっぱい腕をあげている。材木座によって20%ほど引き上げられた士気は、ここにきて70%ほどの高まりを見せているように感じる。尊い。戸塚尊い。老若男女関係なく尊い。戸塚彩花、そろそろ比企谷彩花になると思う。

 

「うえーーーーーーい!やるからには勝つっしょ!隼人君に勝つとかマジ熱いでしょーーう、これ」

 

 と思ったら、意味不明なウザ男のせいで20%は士気が低下した。

 

「……なんでお前がこっちチームにいんだよ」

 

 俺の前には、なぜかノリノリの戸部がいた。相変わらずノリがうぜえ……。

 

「何言ってんの、ヒキタニ君。チーム分けはグッパーじゃんけんなんだから、ヒキタニ君と同じチームになる確率は常に二分の一じゃん。……もしかして、ヒキタニ君算数苦手な感じ?」

 

 決して偏差値が高くない戸部に、俺は憐れむような視線を向けられる。

その横っ面、今すぐに殴りたい。

 

 まあつまり、こいつは葉山と同じチームになるための小賢しい交渉はしていないということだろう。腹芸ができる人間ではないのは知っていたが。戸部は黙る俺を無視して続ける。

 

「それに、ヒキタニ君すげえ頑張ってたじゃん。……隼人君には悪いけど、今回はあんなに頑張ってたヒキタニ君に勝ってほしいっつーか、さ」

 

 珍しく顔を赤くし、戸部は頬をポリポリとかく。反射的に俺は戸部に世話になった練習を思い出す。

 ……まあ戸部にはあれだけ世話になった。この勝負はもはや俺と葉山だけの問題ではない。材木座も、戸塚も、テニス部も、戸部も、いろんな人間が関わっている。ぶざまに負けるわけにはいくまい。

 

 しかし、俺のモチベーションとは反対に、わがチームの士気は戸部のせいで著しく低下していた。士気というのは理屈ではない。ノリだ。だからこそ材木座に頼んだわけだが、ノリノリの戸部に下げられた士気はだからこそたやすくは戻らない。リア充に呼びかけられるだけで委縮してしまう連中もいるのだ。

 どうしたものか。勝つためには彼らの協力が必要だ。俺は用意していた策からいくつかを吟味する。

 

 しかし、天使の攻撃に、それは無力だった。

 

「これで勝てたら……皆で打ち上げ行きたい……な?」

 

 微妙な空気になった俺たちに、戸塚はうつむいて一言、つぶやいた。

 

 何かが、爆発した。

 

「いくぞやろうどもおおおおおおおおおおおお」

 

「おおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!」

 

 やはり、うちのクラスの男子は馬鹿しかいない。

 





 ここからラストまで6、7話といったところです。頑張って最後まであげます。だから誤字脱字破綻は私にそっと教える感じでお願いします。……お願いします。


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やはり彼のやり方は変わらない。

「本当に逃げなくていいのか?一応サッカー部なんだけどな、俺」

 

「そういうのを死亡フラグという」

 

 グラウンドに整列し、俺と葉山は正面から向き合う。じゃんけんの結果こちらボールからのスタートとなった。珍しく好戦的な葉山に、俺は口の端だけ持ち上げて答えた。

 

 しかし、俺たちを無視して外野から声が飛んでくる。

 

「?なになにー?ヒキタニ君隼人君に勝つつもりなの?」

 

「いや、大岡。流石にそれはないだろ。始まる前から結果わかってる勝負に意味はない」

 

 葉山の横の大岡がニヤニヤと、大和が不機嫌そうに横やりを入れる。俺は意図的に彼らを見ず、葉山に笑いかける。

 

「なんかお前の周りぶんぶんぶんぶんうるさくねえか?人気者は色々とたかってきて大変だな」

 

「……は?」

 

 当然、彼らは俺のつぶやきに乗ってきた。彼らは三浦が俺に近しくなっていることから、元々俺に対して良い感情を抱いていない。挑発してやればこうなるのは分かっていた。

 

「あ……きこえたか?みじめだなって思っただけなんだけどな、俺は。俺たち陰キャに交渉してまで葉山サマのおこぼれにあずかろうとする、その根性が」

 

「比企谷、取り消せ」

 

 俺の方ににじり寄る大岡と大和を制し、文字通り葉山が間に入る。俺は精々ふてぶてしく見えるよう、答える。

 

「比企谷って誰だ?」

 

 ヒキタニ君じゃなかったか、俺は。くつくつと笑う俺に、葉山は押し黙る。そんな葉山の代わりに、今度こそ大岡と葉山を筆頭とした取り巻き数人が俺を取り囲む。

 

「隼人君が優しいからって何勘違いしてんの。わざわざ俺たちに嫌われたいわけ、お前」

 

「っていうかヒキタニ君、もしかして自分が隼人君と対等だとでも思ってる?ならきっしょいから今すぐ改めてくんね?」

 

 ていうかさぁ。大岡が嘲るように俺を上から見る。

 

「ヒキタニ君、優美子が隼人に惚れてるからって嫉妬とかしてんの?……きもいんだよなぁ、ぶっちゃけ。釣り合わないからやめときなって」

 

 助かる。俺は単純な彼らに、内心感謝の気持ちでいっぱいだった。1の挑発が10で返ってくる。それは葉山隼人の普段の人心掌握っぷりを考えれば、特に不思議なことではない。彼らが葉山に恩を売るメリットは十分すぎるほどある。彼ら取り巻きに視線を固定し、俺は退かずに答える。

 

「真正面から罵倒されても、論点をくだらん色恋の妄想にしか持っていけない。目の前の人間とまともに話すこともできない。こんな薄っぺらい連中の相手するのも大変だなぁ、葉山。まあ、俺には関係ないが」

 

「……生徒会入って調子乗ってんの?自分が上になったように勘違いしてんの?ウケるんだけど」

 

 俺を囲む円が段々と小さくなる。葉山の取り巻きたちはつい先ほどまで笑い合っていたのが嘘と思えるほど、厳しい目を俺に向けている。

 

「やめるんだ」

 

 しかし、当の葉山隼人は静かに彼らを制する。

 

「で、でも隼人君、こいつ……」

 

「いい、大岡も大和も、安い挑発に乗るな。……お前らのことは、俺が一番わかってるから。それでいいだろ」

 

「……隼人君」

 

 一触即発のムードを、葉山はすぐに有耶無耶に、いつも通り友情物語に仕立ててしまった。……チッ、ここで殴らせて不戦勝なら話は早かったのに。

 まあでも。俺は内心胸をなでおろす。なんだかんだ殴られるのは嫌だ。痛いし、そんな勝利で収まる程度の気持ちでも、覚悟でもない。

 そう。今回は真正面から勝たなければならない。不合理だが、俺はそう直感していた。そうでなければわざわざこんな勝負を挑んだ意味がない。

 

「いい勝負にしよう。ヒキタニ君」

 

「ああ、よろしくな。引き立て役ご苦労さん」

 

 いつも通りのさわやかな笑みを浮かべる葉山に、俺は低い声で答える。また取り巻きたちが何か言っていたが、俺は後ろの彼らの様子を伺うことなく自陣に下がる。

 葉山に多少有耶無耶にされたが、種は蒔いた。納得してはいても葉山の取り巻きの彼ら、特に大岡と大和は俺に強く当たってくるだろう。それで十分だ。

 

「じゃ、始めるぞ。ほら、整列し直して」

 

 俺たちのやり取りに戸惑いながらも、見学の男子は俺たちを整列させ、ホイッスルを構える。

 

「いくぞ。前半戦15分、後半戦15分だ。……じゃ、始め」

 

 ピィ~~~~。

 

 乾いた音が冬のグラウンドに響いた。

 

 

 

 

 

 

「は、八幡?だいじょぶ?」

 

「……うぬぅ。卑劣な奴らよ。弱いものから狙うとは。兵法の常套手段ではあるが」

 

 前半戦が終わった。俺は息を整えることに精一杯で、気遣ってくれる戸塚と材木座に返事ができない。額から落ちた汗がポタポタと地面にシミを作る。

 ここまでのスコアは0対0。お互いに点が入らない展開が続いた。……簡単に言ったが、この状況を作り出すのにどれだけ苦労したことか。多分俺のぐちゃぐちゃの顔を見れば誰でも推しはかれることだろう。無理、死ぬ。まじで。

 

 そもそもの大前提として、体育の時間は常に葉山のチームが勝つ。むしろ葉山しか勝たない。部活動強豪でもないうちの学校から、スポーツでの推薦をもらいかねないような奴だ。文字通り彼一人で勝ててしまうというのも真実だが、先述の通り彼の周りに運動部が集まるというのも要因の一端である。そして葉山の取り巻きは葉山隼人という存在がいる以上は、それを核とした団結力がとても高い。

 しかし逆を言えば、その団結は一人、二人のエゴによって簡単に崩れるものでしかない。彼らは本質的にチームとしてまとまっているわけではなく、あくまで葉山とのつながりでそれぞれが間接的にまとまっているにすぎないからだ。今年度にあった職業見学など良い例だろう。少し突いてやればその結束はすぐに崩れる。

 

 俺は彼らを挑発したが、それは彼らを高く評価していたからこそだ。大岡は野球部、大和はラグビー部に所属し、他の取り巻きもほとんどが運動部に所属している。彼らの機能を多少なりとも停止させなければゲームにすらならない。

 幸い彼らはチームプレイを多少無視してでも、俺をつぶしに来た。それは葉山隼人を悪く言う俺をつぶし、彼にアピールするための手段だったのかもしれない。単に俺ごときに下に見られているのが気に食わないのかもしれない。そんな過程はどうでもいいが、とにかく彼らの何人かは常に前線にいる俺の近くにいた。

 しかし、それでよかった。「前線にいてボールに絡んでいるように見える俺」に人員を割かせ、逆に俺たちは葉山隼人に人員を割いた。具体的に言えば動けるテニス部の連中全員をさりげなく、徹底的に葉山のマークに回した。ボールを見ず、葉山隼人だけに一定距離でついて行けと指示した。ボール回しに付き合っていたらその道の人間に勝てるわけがない。あくまで運動部の体力と物量で潰すのが狙いだ。

 

 残りの俺筆頭の陰キャ集団は、ゴール前の壁として配置した。ボールを持ったらとにかく外に蹴れと言ってある。葉山隼人は素人の多少のラフプレイは大目に見る。皆の葉山隼人であれば、そうせざるを得ない。

 そして敵チームはゴール前にくるとにべもなく安心安全の葉山サマにボールを渡そうとするが、そこには大量のマークがある。多少服を引っ張ってでも、押してでも、何対何であろうがこちらチームは葉山を止めた。彼らも幾度も物量で葉山を止め、自信がついてきたらしい。今ではなかなかの面構えである。……いや、僕とテニス部が前線のヘイト稼いでるんですけどね……ぼろぼろなんですけどね、すでに。本当にテニス部には何か礼をしなければなるまい。

 

 聞いていればわかると思うが、これは積極的消極戦術だ。日本語不自由かよとツッコみたくなると思うが、まさにそうなのだ。

 つまり、これではいくらやっても点は入らない。前線の俺たちは前線にいるように見せて、ボールに触る気が一切ない。攻めているように見せ、前線をあげ、しかし点を取る気はない。

 

 今はそれでいい。

 

「材木座」

 

「……うん?なんだ?」

 

 今までキーパーの役を与えていた材木座を、他のディフェンスの人間と交代させる。どうせフリーでシュートを打たれたら誰がキーパーでも同じだ。その段階で詰みだ。一点も与えてはならない。

 

「ウォーミングアップは済んでるか?」

 

「おうよ。貴様が「いつものように気持ち悪く汗かいてろ」というから、動き回ってあったまってはいるが……ね、ねえ、八幡。我、いつもそんなに気持ち悪い?そんなに気持ち悪い汗かいてる?ねえ」

 

「よし、それならいい。後半お前はディフェンス陣の少し前で暴れててくれ。ここからはお前がキーパーソンだ」

 

「あいや了解した!キーパーソンたる我にすべてを任せるがよい!もはやキーパーではないがな!」

 

 キーパー……キーパーソン……。うわごとのようにつぶやく材木座を無視すると、材木座は仲間になりたそうな目でこちらを見てくる。いいえ、仲間にしません。スカウトしません。

とはいえ今は材木座の単純さがありがたい。実際こちらがばててくる後半、彼に頑張ってもらわなくてはならない。材木座は重火力を持ってはいるが、スタミナは当然ない。後半戦のここぞの場面での瞬発力を残しておく必要があった。

 

 戸塚にも指示を飛ばそうと探すが、すでに戸塚の目には葉山しか見えていないようだった。肩で息を整え、テニス部と連携の確認をしている。前半ではテニス部のみんなと葉山によく食いついていたと思うが、逆に葉山一人を押さえ切れていなかったのも事実。こういう負けず嫌いな部分を見ると、戸塚も一人の男子なのだと思い知らされる。……いや、葉山とか言う糞野郎に戸塚を渡す気はないけどね!断じて!

 

「後半戦始めるぞ。葉山チームのボールから」

 

 後半戦。ホイッスルが鳴り、あちらボールから始まる。俺は形だけのディフェンスを葉山の前で行い、対話で時間を稼ぐ。

 

「粘るね、意外と」

 

「ああ。粘着質以外の取り柄がないもんでな」

 

 一秒が長い。すでに肩で息をする俺とは対照的に、葉山の息はジョギング程度にしか乱れていない。今もテニス部のマークは外れていないのに、だ。

 

「あれれ、ヒキタニ君、もう電池切れ?」

 

「あんなタンカきってたのに、情けねえ」

 

 大岡と大和が俺と葉山の間に入る。俺はボールを持っているわけではないんだが……。まあ葉山へのポイント稼ぎだろう。野球部、ラグビー部だけあって二人とも体力はある。そっちからきてくれるとはありがたい。俺は口の端だけ持ち上げる。

 

「ま、いいんじゃねえの。非リア充同士、仲良くしようぜ」

 

「……は?お前と一緒にしないでくんね?」

 

「いや、一緒だろ、大体」

 

 鋭い目をこちらに向ける大岡に、俺は笑みだけは保って言い返す。

 

「葉山の後ついてっても、あいつ案外潔癖だろ?」

 

「何のことだよ。隼人君が綺麗好きなのは知ってるし、俺たちの物まですぐ片付けようとするのは……」

 

「そうじゃねえよ、大岡」

 

 こちらをにらむ大岡を、俺は逆に一瞥し、鼻を鳴らす。大和の方は多分俺の話さえ聞いていない。恐らく俺をどう潰すかに集中している。ラグビー部ゆえだろうか。彼の思考は無礼な俺を潰すというより、どうやれば目の前の人間をルールの中で、禍根を残さず潰せるかにシフトしている。その単純さは交渉にも、挑発にも向かない。

 

「葉山のおこぼれにあずかろうとしても難しいだろって話だ。あいつ、そういう浮いた話に意外と縁遠いからな」

 

「……は?隼人君めっちゃモテるから。つーか別に隼人君がいくらモテようが俺には関係ねえし」

 

 大岡は俺から視線を外さず、嘲るような笑みを浮かべる。大和も今はこの会話を続けさせるつもりなのか、横槍は入らない。こうしてる間にも時計は進んでいる。

 

「関係は、あるだろ」

 

 俺は顎だけで葉山を指す。

 

「葉山のおこぼれで童貞卒業しなきゃ、だもんな」

 

 その瞬間、土の味がした。

 

 見れば大和が俺に足を掛けたらしい。バランスを失った俺の体は無様に倒れ、地に伏した。どうやらこいつらの間にも友情はあったようだ。さっきまでよくわからなかった大和の顔は、俺を射すくめんとばかりに見開かれている。大岡は俺を静かに見据えている。睨んでいる。当然だ。俺は現状に静かに満足する。そうでなくてはならない。そうでなくては、俺が報われない。

 エゴのために、自分の目的のために、彼らの劣等感をわざと刺激した。嫌われて、傷つけられてしかるべきだ、俺は。いじめの標的になるくらいは甘んじて受け入れるべきだろう。 

 

 でも、この勝負には勝つ。

 

「ヒキタニ君!……大丈夫か?」

 

 彼が、葉山隼人が俺の元に駆け寄ってくることを、俺は知っていた。彼は駆け寄ってこなればいけない。駆け寄ってくるしかない。皆の葉山隼人は、そうするのが正しい。

 

「っく……ああ。なんとかな」

 

 わざとらしく、俺は長ズボンをまくった。

 近くにいた葉山、大岡、大和は静かに息をのんだ。

 

「ひ、比企谷、これ……」

 

 俺の膝からは、決して少なくはない血が出ていた。

 

「いや、葉山、気にするな。試合中の事故だ。なんてことはない」

 

「で、でもヒキタニ君、その血の量……」

 

「……すまん」

 

 大岡が俺の膝の血に瞠目し、当事者の大和が目を伏せる。それを見て少しばかり心が痛まないことはないが、俺は鈍く痛むであろう膝を押さえて続ける。

 

「いや、大丈夫だ。気にしないでくれ。スポーツをやる以上はこういうこともある」

 

「でも、流石にその出血は……」

 

「このくらいなんでもない。ほら」

 

 俺は強がり、ぴょこぴょこと片足を引きずる。

 

 大岡は青ざめた顔でそんな俺を見て、大和はいつもの無表情を作り目を逸らす。流石にここまでやれば彼ら二人は後半は使い物にならないだろう。

 しかし、ここで俺を下げられても困る。俺は止めとなる一言を発する。

 

「頼む……葉山、大岡、大和。俺は今回、勝ちたいんだ。最後まで勝負したいんだ。このくらいなんともないし、授業が終わったら必ず保健室に行く。……だから、ここは黙っていてくれ。最後までやらせてくれ」

 

 俺の言葉に、三人は押し黙ったままだった。

 

 俺は俺で、血のりを仕込んだビニールがズボンから落ちてこないか、気が気ではなかった。

 

 しかし、そんなわざとらしい小細工も効果はあったのだろう。時間をかなり稼げた上、後半戦は今までマークがあった葉山は変わらないが、大岡と大和を筆頭とした前線は、明らかにあたりが弱くなった。

 それにより、こちらのチームも多少はディフェンスを前線に当てられるようになった。序盤とテニス部が前線を一手に引き受けたのは、葉山の監視下の敵チームのモチベーションに呑まれないためだ。スポーツ慣れしていない我ら陰キャ軍団が葉山チームにフィジカルで当たられたら、その時点で委縮してしまうのは目に見えていた。その士気を材木座と戸塚で何とか上げ、俺がケガをしたようにみせ、何とか「激しく当たる」ことのハードルを下げた。

 

 そこからは勝負らしく見えただろう。

 

 俺とテニス部が前線を食い止め、士気の上がった後衛が気合いでシュートを打たせない。そしてその筆頭は材木座だ。

 

「ぬわーーーーーーーーーーーーーーーーっはっは!我のこの聖なる水!ホーリーウォーターに触れたいんものは、今すぐ我の近くに寄るがよい!」

 

「いや、絶対嫌だけど……」

 

 材木座には最初から、「いつものように気持ち悪く動き回っていてくれ」という指示を出しておいた。その指示にたがわず、材木座は律義にゴールキーパーのをやっていた時から動き回っていたらしい。

 そのおかげで材木座は今や汗をまき散らし、周りに何人たりとも寄せ付けないディフェンダーと化していた。

 

「ピィ~~~!」

 

 あいつがいなければ、ここまでこれなかっただろう。

 

 そうこうしているうちに、試合終了のホイッスルが鳴った。

 

 0対0。俺の思惑通りのスコアで試合は幕を閉じた。

 




まだサッカー編は一話あります


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彼ら彼女らは何をおもう。

全然気づかなかったけど昨日の投稿でちょうど二年でした。早い。


「比企谷、ナイスゲームだった」

 

「ああ、意外といいゲームになったな」

 

 皮肉を言う葉山に、俺は何とか笑顔で返す。敵チームはどうやら納得いっていない様子だが、これも勝負だ。納得してもらうしかあるまい。

 

「で、結局0対0の引き分けだけど、勝負はどうするんだ?俺としては――」「そのことなんだが」

 

 つい、はやってしまった。ここまでは思惑通り。俺が賭けたのはここからだ。いくつか咳ばらいをし、俺は葉山に向き直る。

 

「俺は今回、お前の得意分野で勝負を挑んだ。だよな、葉山」

 

「ああ、そうだな」

 

「お前はこのスポーツを何年も、高密度で鍛錬している。だよな」

 

「その通りだ」

 

 俺は今、彼が本気で取り組んできた活動に、部活動に干渉している。それを人質に取っている。

 

「なら、決着はルールにのっとろうぜ」

 

 だからこそ、最後までそれでやりたい。それで、彼に勝ちたい。とった手段はここまで実に俺らしかった。しかし今俺はらしくなく、そんなことを思っていた。

 

「PKでケリをつけよう。一発勝負だ」

 

 その場にいる全員が、目を剥いて俺を見た。

 

 バカか。身の程知らず。スペックの違い判んないの。彼らの内なる声が聞こえてくる。敵味方問わず、聞こえてしまう。

 俺もその通りだと思う。葉山隼人と俺の間には、どうしようもないほどの実力差がある。ほぼ全員がそう思ったことだろう。しかし。

 

「ヒキタニ君!」

 

 そうは思っていない人間もいる。はじける声に、俺は思わずそちらを向く。

 戸部は思わず声を出してしまったのか、今回の俺の態度の悪さ、付き合った練習を思い出しているのか、その瞳は俺と葉山の間で揺れた。

 結局その気持ちは定まることはなく、彼は俺たち二人の手を取った。

 

「えーっと、その……ど、どっちも頑張れ、っしょ」

 

 結局出てきた言葉は実に彼らしい、ヘタレそのものだった。材木座はわざとらしくずっこけているし、葉山と戸塚は苦笑いを浮かべている。しかしそれは戸部の本心なのだとも思う。戸部に付き合ってもらったPK練習を思い出し、俺は思う。

 

 これは、すでに俺一人の勝負ではない。

 

 最初から俺がチームプレイで葉山隼人に勝てるとは思っていなかった。チーム競技、しかもあっちの土俵となった以上、俺にできることは「負けないこと」くらいだった。無策の彼と全力で引き分けるのが、俺にできる最善の手だった。

 だから、俺はそれを全力で目指した。テニス部を、クラスの連中を、大岡たちの劣等感すら利用して、俺は全力で引き分けた。次はないし、次の次もない。最後の賭けに出る舞台を整えられるのは、ここだけだった。

 

「じゃんけんで攻守を決めよう。PKを決めた方が勝ち、決められた方が負け、その一本勝負だ攻守の交代はない。……お前の得意分野で勝負したんだからこのくらい、いいよな?」

 

 葉山がうなずくのを待たず、俺は宣言する。

負けるわけにはいかないのだ。

 

「俺はグーを出す」

 

 時が止まった。

 

 見ればこちらチームも、あちらチームも表情が固まっている。葉山でさえいつもの苦笑が崩れる中、材木座だけが「うん、とことんクズだなこいつ」と素で引いていた。

 

「ひ、比企谷?これは一応勝負なんだぞ?そんなこと言ってもし俺が……」

 

「いやーーーーーーーーーー、俺は信じてるからさ、お前を、葉山隼人という男を」

 

 さすがの俺も葉山たちの方を見れない。臆面を隠し、早口で続ける。

 

「まさか、サッカー部のキャプテンがたかが素人にサッカーで負けそうになったくらいで、勝ちにこだわったりしないよな?キーパー側でも普通に守ってくれるよな?そのくらいわけないよな?……葉山隼人なら、大丈夫だよな?」

 

「……いいよ、比企谷。それでいい」

 

 後半は彼にすがるような目を向けていなかったか心配だった。彼の得意分野のサッカーで勝負を挑み、自チームの人間が俺に怪我を負わせた手前、要求は通りやすいと思ってはいたが、難所でもあった。彼の勝負ごとに対する潔癖さが問題だった。早い話、雪ノ下なら通じない交渉だということ。葉山隼人はそこまで頭は固くなかったようだ。

 

「じゃ、尋常に」

 

「じゃーーーーーん、けーーーーーーーん」

 

「「ぽん」」

 

 俺はグーを出し、当然葉山はチョキを出した。

 

 道化過ぎて自分で笑ってしまいそうになるが、努めて真面目な顔を作り、葉山に背を向ける。

 

「じゃ、俺の攻撃で一本勝負な」

 

「ああ、それでいい。というか」

 

 後ろから肩を掴まれた。振り返れば葉山からは先ほどまでの苦笑が消え、その目には憐憫が見て取れる。

 

「これでいいんだな、君は。……これできめてしまっていいんだな」

 

「ああ、それでいい」

 

 即答する俺に、葉山はその目を逸らし、吐き捨てる。

 

「正気か。こんな……俺の土俵で。勝てないよ、君は」

 

 その程度のものか、君の思いは。そう、彼は小さく続けた気がした。しかし、それは違う。

 

「そうかな。案外わからんぞ。現にお前は試合で俺に勝てなかった」

 

「これは話が違う。PKに引き分けはないし、今度は一対一の勝負だ。小細工はきかない」

 

「……だから、これを選んだ」

 

 本音を漏らす葉山に、つい俺も小さく答えてしまった。

 

 勝つためだけだったらほかにいくらでもやりようはある。ここまでやれるだけの手を尽くしたが、そもそも彼にサッカーで勝負を挑まなければいい。そんなことは誰でもわかる。今までの俺のやり方を知る葉山であれば尚更だろう。わかっている。

 

 しかし、それでは意味がないのだ。

 

「……そうか」

 

 今度こそ振り返らない俺の背中に、そんなつぶやきが聞こえる。

 納得してもらいたいとは、欠片も思わなかった。

 

 

 

 そもそも、PKというのは圧倒的にキッカー有利な勝負だ。ペナルティキックというくらいだからそうでなければ困るが、その成功率は一般に七割程度とされている。

 しかしこれは『PKはゴールから12ヤード地点より行う』という決められたルールの中での話だ。その成功率はゴールからの距離が短くなるほど当然高くなり、10ヤード、つまり約9メートルを切るとともに飛躍的に上昇する。

 

「この辺でいいか」

 

 俺は無造作にボールを置く。その距離約9メートル弱。こんなお遊びでその距離を咎める者もいない。葉山の方を見ると何度かうなずいていることから、ここでいいようだ。一応これも少し練習はしたが、その必要はなかった。高校にあがりたての頃、無意味に1メートルの歩幅を練習しておいて本当に良かった。中二病を引きずっていた俺、ナイス。

 

「じゃ、いくぞ」

 

 俺はそのまま即シュートの態勢に入る。気負っても成功率が下がるだけだ。外して元々、練習したそのコースだけに狙いをつける。どうせそこにしか蹴れない。キーパーを見るのは集中力を切らすだけだ。

 

 しかし、見たくないものほど目に入る。わかっていたら見ないですむほど、人間は強くない。

ふと彼の常にない、楽しそうな笑みが飛び込んでくる。そんな顔もするのだ。つい感心してしまった。

 そして、呑まれそうになった。その笑みに、勝つことを確信した笑みに。今俺は負け知らずの葉山隼人に、彼の土俵で勝負を挑んでいる。自覚するとともに運動によるものとは違う汗が腋を伝い、体温が下がる気がした。

 

 しかし、その瞬間。

 

「ヒキオ!」

 

 グラウンドに声が響いた。同時に静寂が降りる。

 

 声の方向を見ると、女子たちは離れた場所で陸上をしていた。声の主である三浦は、いつものように由比ヶ浜、海老名さんを連れている。水道にでも休憩に行こうとしていたのだろうか、タオルを持ったままこちらを見て固まっていた。運動で上気したであろう頬は必要以上に赤い。

 呆ける三浦の肩を海老名さんがポンポンと叩く。

 

「どしたの、優美子。……なんか言いたいから声かけたんじゃないの。ヒキタニ君に」

 

「ばっ、海老名、別にあーしはそんなんじゃ……」

 

 三浦は自分が声をあげたことにも今気づいたのか、髪の毛を振り乱し顔を隠し、手を振って否定する。

 

「ヒッキー、頑張れ!」

 

 しかしそんな二人を置いて、由比ヶ浜は気づけば俺のすぐ近くまで来ていた。両拳を胸の前で握り、頑張れと繰り返す。ち、近い。男子の視線が冷ややかに刺さっている気がしたが、俺にはそれより気になることがあった。

 あまりにもわかりやすすぎる。由比ヶ浜はここまでわかりやすく、一人に肩入れしない。まして相手は同じグループの葉山だ。色んな意味で、空気を重視する彼女らしくない。

 しかし、なによりも。応援を繰り返す由比ヶ浜を、俺は見ることができなかった。

 

 その大きな瞳は濡れ、揺れていた。

 

「優美子のため、なんでしょ」

 

 そのつぶやきに答えることも、応えることも、俺にはできなかった。

 

「は、隼人!頑張って。ヒキオ程度に負けるわけないって、わかってるけど」

 

「ああ、優美子。勝つよ」

 

 由比ヶ浜は三浦たちの元へ戻り、三浦は元居た場所、俺と葉山の中間あたりで葉山に声をかけ、彼はそれにいつものように応じる。

 三浦は言葉を詰まらせながら満足げに何度かうなずくと、その場を離れようと歩みを再開する。

 

 そうだ。俺は今更由比ヶ浜の言葉を否定する。俺がしていることは誰かのためなんてものじゃない。いつも通り、これはただのエゴであり、自己満足でしかない。

 

 だから、これでいいのだ。俺と彼女は。

 

「ヒキオ」

 

 しかし彼女は。

 

「勝ったら、殺す」

 

 三浦優美子は背を向けたまま、いつものように毒づいた。

 

 応援はいらない。一人でいい。そう思ったのは確かだ。それでいいし、そうでなくては意味がない。

 

 しかしまさか、罵倒されるとは。

 

 なぜか、肩の力が抜けた。

 

 次こそ俺は葉山と向き合う。ボールを置きなおし、今度は彼を正面から見る。彼の笑みは先ほどより少しばかり固い。

 その笑みに今度は気圧されはしなかった。

 

「行くぞ、葉山」

 

 口の中だけで小さくつぶやき、俺はボールを蹴った。

 

 葉山隼人はそれを見て、横に跳んだ。

 

 キーンコーンカーンコーン

 

 終業の鐘とともに、ゴールネットは静かに揺れた。

 




 疲れた。次こそあーしさん。と、ちょっと葉山。最近のお話海老名さん得なだけじゃん。


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放課後の保健室は常とは違う。

 

「やられたよ、比企谷。まさか君に真ん中に蹴る度胸があるとは思わなかった」

 

「……微妙にディスられている気がするが、まあいい。お前と無駄話してる時間はない。さっさと質問に答えてもらう」

 

 体育終わり。片づけをするクラスメイトを尻目に、俺と葉山は校庭わきのベンチに腰かけていた。

 PKで俺は真ん中、つまり葉山の正面にボールを蹴った。どうせ四隅を狙うような技術はないし、裏をかければ儲けもの程度の気持ちだった。インターネットで調べても真ん中の成功率は悪くはないと言ってたし、戸部との練習ではとにかく思い切りよくそこに蹴る練習だけをしていた。やはりグーグル先生は神。決して葉山隼人の顔にボールをぶち当てたかったなどとは考えていない。多分。恐らく。きっと。

 

「いきなりだな。まあいいよ。何でも聞いてくれ」

 

 葉山は小さく肩をすくめる。彼との賭けの内容と、三浦の願い。俺の質問は、すでに決まっている。

 

「文理選択。お前はどっちにした」

 

「理系だよ、俺は」

 

 即答。間髪入れずに答えた彼の目には、少しの葛藤も迷いもない。俺の質問の意図を確かめるわけでもない。彼は短く言い放った。

 

「……迷わないんだな、お前は、やっぱり」

 

「比企谷、質問は一つじゃなかったか?」

 

 言葉に詰まる。問いに対する答えだけでは解決しない問題もある。要するに、別に俺は彼の進路が知りたかったわけではない。

 彼が見据える道。彼が選ぶ進路。それはいったいどのようなものなのだろう。それは三浦優美子と、彼女の道と少しでも交わるのだろうか。

 

 ただ、それが気になった。

 

 沈黙する俺に、葉山はくつくつとのどを鳴らす。

 

「まあいいや。真正面から負けたサービスってことで、答えるよ」

 

 一息つき、彼は静かに言う。

 

「比企谷、俺は迷わない。俺は君と違って決めてるんだよ。もう」

 

「なにをだ」

 

 聞かずにはいられなかった。彼は常に迷っているように見えた。自分に向けられた気持ちにも、自分が向ける気持ちにも。

 葉山隼人は周囲の期待に応えなければならない。彼はそういう生き方を選んだのだろう。常に周囲の声に応え、それを自らの成功とする。彼の今までの姿勢には、生き方には、それが反映されていた。だから葉山隼人は当然進路に関しても周囲の期待に応える。俺はそう思っていた。

 

 しかし、目の前の男はその口を歪める。

 

「うんざりなんだ、もう」

 

 誰の言葉だったのだろう。信じられずに目の前の男を見る。しかしそこにあるのはいつも通りの完璧な笑み。

 

 やはり俺は、葉山隼人をいいやつだと思いすぎていたのかもしれない。

 

 葉山は腕時計を一瞥し、一息つく。

 

「おっと、そろそろ戻らないとな。三つ目の質問はさすがに受け付けられないよ、比企谷。ただ、ヒントを出すなら」

 

 彼は冬の澄み切った空を仰ぐ。

 

 そしてその目は、目の前の俺とその先を見ている気がした。

 

「優美子が本当に知りたかったのは、俺の進路だったのかな」

 

「……何が言いたい」

 

「別に。そもそも本来、俺が言うことじゃない。でもね」

 

 俺に向けられたその瞳は、既に俺を捉えてはいなかった。彼が見るのは俺のはるか後ろの、虚空のどこか。

 

「比企谷。多分ここが最後だ。決めるならここしかない。君も俺も」

 

「言ったはずだ。俺はお前と違って最初から選択肢はない。文系しかねえんだよ。……今更算数をやる気はない」

 

「はは。そうかもね。何を選ぶかは人の自由だ。それこそ進路なんて自分で決めるものだ」

 

 彼は、本当に俺の学力を、理系の壊滅具合を問題にしていたのだろうか。いや、違う。自ら俺は俺の問いを否定する。

 俺の欺瞞は、常にこうやって誰かに問い詰められるのだ。

 

「だから、君は君の好きにすればいい」

 

 突き放すその言葉に、初めて彼の真実を聞いた気がした。葉山は吐き捨てるように続ける。

 

「俺もそうするよ。そもそも……俺だって、優美子を嫌いなわけじゃない」

 

 かろうじて聞こえた彼のつぶやき。それが嫌に俺の耳にこびりついた。

 

 

 

 

 

「ヒキオ。ちょっとツラ貸して」

 

「さーて、掃除にでも行くか」

 

 波乱の体育が終わり、着替えの時間。その日の体育は6限目で、後の予定はなかった俺は葉山と多少会話をし、彼の取り巻き連中から逃げるようにその場を後にした。今頃は戸塚とテニス部が何とか彼らを食い止めてくれているだろう。ありがたやありがたや。……いや、もはやどうやって戸塚に借り返せばいいんだよ、これ。もうこの借りは結婚して生涯社畜となり戸塚のことを養うくらいしないと無理なのではないだろうか。永遠の愛を誓うしかないのではないか。むしろ借り増やしてますね。ごめんなさい。

 

 しかし俺の逃避行は更衣室に至る曲がり角で、その不遜な声に止められた。三浦優美子は腰に手を当て、額に青筋を立てる

 

「ねえ、ヒキオ。あんたいつからあーしにそんな生意気な口きけるようになったわけ?」

 

「いつからって、割と最初から俺お前のことポンコツって知ってたし……」

 

「ヒキオ?そんなに死にたい?」

 

「ごめんなさい殴らないで蹴らないで殺さないで」

 

 反射的に頭を下げる俺に、三浦は額に手を当ててため息を吐く。

 

「はぁ。あんたと話してると話が長くなる。いいからこっち来いし」

 

「だから俺この後掃除が……」

 

「つーかあんた、今日掃除当番じゃないでしょ。いいから黙ってあーしについてくればいいの」

 

「……いや、なんでお前が俺の掃除の当番把握してんの?」

 

 腰に手を当てため息を吐く三浦の動きが止まる。フリーズすること数秒。咳払いとともに彼女は続ける。

 

「……い、いいから早くこっち来いっていってるでしょ。あんたは黙ってついてくればいい――」「いやー、隼人君あのヒキタニ君にまで花持たせてあげるとか流石でしょー」

 

 俺の疑問と三浦の否定が重なる瞬間。葉山の取り巻き連中の声が聞こえた。俺たちの会話は止まり、彼らの苦笑交じりの声が続く。

 

「普通にやって負けたよ、ヒキタニ君に」

 

「またまたー、謙遜しちゃって。普通にやれば隼人君がヒキタニ君に負けるわけないっしょ」

 

 葉山とその取り巻きの会話だろうか。その声は徐々にこちらに近づいてくる。俺と三浦は今、更衣室前の廊下で話している。そして体育終わりの彼らが向かう場所はどこか。二人で話す俺たちを見て彼らは何を思うか。

 

 まずい。

 

 思うと同時に、体は動いた。触らないように三浦を横の教室に促す。

 

「三浦、悪いけどここは一旦……」

 

「は、はぁ!?あんたまたそうやって都合悪くなると誤魔化して――」「すまん。余裕がない」

 

 ちょ、ちょっと……。三浦の抗議の声を押さえ、俺は目の前の扉を開ける。気づけば彼らは目と鼻の先まで来ている。

 

 三浦を目の前の教室に押し込み、ドアを閉めて耳を押し当てる。葉山グループの声を確認するが、彼らのやかましい声が遠くなったところから察するに、どうやら更衣室に入ったようだ。ドアから耳を話し、胸をなでおろす。それでもまだ彼らの声がやかましく聞こえるのはさすがリア充連中といったところか。ほんと迷惑以外の何物でもない。なんなら公害で訴えられればいいのに。

 

「ひ、ヒキオ……」

 

 しかし、どうしたものか。俺はドアに耳を押し当てたまま考える。ここは位置が悪い。いざここから出ようとしても、早めに着替えを終えた葉山グループ、もしくはさっきのサッカーでの葉山チームに見つかってしまっては俺の身の安全にかかわる。……あいつら葉山に勝ったこと相当恨んでたからな。どんだけ葉山のこと好きなんですかね。腐ってるんですかね。

 

「だからあんた、さっきから近いって……ひゃっ、か、髪さわんなぁ……だし」

 

 よし、今だ。廊下から声が聞こえない瞬間を狙い、俺はドアに手をかける。歩く音すら聞こえない。今、ここには誰もいない。今ならだれにも見られることなく出て行ける。

 

「ヒキオ!」

 

 逃避から現実に向き合っていなかった俺の思考が、その声で戻される。

 

「ヒキオ、ち、近すぎだから。……離れろって」

 

 その声で俺の意識は現実に戻る。目の前には三浦の大きな瞳と、少し荒れた息遣いがある。

 

 泣きそうな上目遣いは、見ていられなかった。

 

「……ッ!すまん」

 

 目の前の濡れた瞳、上気した頬から俺は目を逸らす。別にいい匂いしたとか、思ってたよりすっぴんのまつげなげえなとか、冬なのに唇ぷるぷるだとか思ってない。いや、最後のはいくらなんでも気持ち悪すぎるからまじでやめよう。捕まる。八幡豚箱行きになる。とにかく断じて、そんなことは思っていない。

 

 あくまでアクシデントからだが、近づき過ぎた顔を離して乱れた髪を直しつつ、三浦は口を尖らせる。

 

「たく、妙なとこでいきなり距離詰めてくるなっての……ま、そんなことはいいから、脚出して」

 

 転んだっしょ、あんた。ぶっきらぼうに続ける彼女に、俺は何も言えない。

 

 脚?なんで?俺が?

 

 疑問符で満たされた頭は、次の三浦の言葉で明瞭となる。

 

「いや、あんた転んでたじゃん、さっきの試合中に」

 

 くっそ派手に転んでたじゃん。俺が大和に足をかけられた瞬間を思い出したのか、三浦はさも愉快そうに笑う。

 

「あー……それはだな」

 

 流石に言いよどむ。俺はわざと転んでケガをしたように見せた。決して褒められた手段ではない。むしろ責められるべきだ。俺は大岡と大和の劣等感どころか、罪悪感すら利用した。そうまでして彼らに勝とうとした。

 実際はただの血のりであったのに。

 

「は?いいから、早く。脚見せて」

 

「ば、待てって……」

 

 制止する俺を無視して、三浦は俺のズボンのすそを膝まで持ち上げた。

 

 彼女は血のりを仕込んだ左脚の裾を持ち上げ、目を丸くして首を傾げ、次に右脚の裾を持ち上げた。

 

 左脚の血のりは乾いているし、右脚はただの無傷だ。思わず目を瞑る。

 

 しかし。

 

「……あんた、こんな脚でPKしたの?」

 

「……は?」

 

 三浦は信じられないものを見るように俺の右足を見つめていた。恐る恐る俺もそちらに目を向ける。

 

 そこには痛々しく、見たこともないほど出血している俺の右脚があった。

 

 見ているだけで痛い。

 

 思わず左脚に目を向ける。そこには乾いた血のりと、カピカピに乾いたビニールの血のり袋が一つ。

 

 人間の体とは現金なものだ。自覚するとともに、右脚がずきずきと危険信号を送ってきた。血のりを仕込んだ無傷な左脚。普通に重症の右脚。

 

 保健室に微妙な空気が流れ、三浦が恐る恐る口を開く。

 

「左足はビニールで乾いてて、右脚は乾いてない……これ、もしかして」

 

 三浦は先ほどまでの余裕のない赤面から一点、嘲るように俺を見る。

 

「本当にケガしてたのに気づかないで、わざわざ小細工した無傷のほう見せるって、あんた――」「やめろ、言うな」

 

 言わないでください。本当に。あんだけ格好をつけて、彼らにタンカを切って、けがをしたように見せかけて本当はケガをしていない設定だったのに、本当はまじで逆の脚ケガしてたとか何の罰ゲームですか。俺そんなに悪いことしましたか。もうやめてよ、ほんと。八幡のライフはもう0よ!いや、何言ってるかわかんねえこれ。

 

 いたたまれない空気が保健室に流れる。しかし意外にも三浦は無言で消毒、絆創膏、包帯と事務的に手を動かす。そんな彼女に俺も何も言えない。意外に慣れた手つきであるのは海老名さんへの止血行為の賜物だろうか。彼女は鼻から以外にも出血するのだろうか。いや、それこそどうでもいいな。

 

「……ねえ、ヒキオ」

 

「なんだ」

 

「なんであんなことしたわけ、あんたは」

 

「は?」

 

 説明が少なすぎる。明後日の方向に吐き捨てた三浦に、俺は疑問符を返すことしかできない。

 

「だから隼人にあんな勝負、なんで挑んだのって聞いてんの」

 

 気が付けば俺と三浦の距離はほとんどなくなっていた。

 

「なんでって言われてもな……」

 

「答えて」

 

 彼女はその至近距離のまま俺の目を見て言う。近い。一歩引き、俺は両手をあげる。

 

「大したことじゃない。ちょっと葉山との間にいざこざがあってな。このサッカーでそれを清算する予定だった。それだけだ」

 

「あーしが聞いてるのはそのいざこざってやつの中身なんだけど」

 

「別に、俺とあいつの仲がいいわけもねえだろ。それにお前に言うようなことでも……」

 

「駄目」

 

 三浦優美子は頼りなさげに声を紡ぐ。

 

「言って。なんであんたはあんなことしたの。ケガの小細工までして、男子連中に嫌われて、本当にケガもしてて。……あーしがやめてって、頼んでないって言ったことも無視して」

 

 小さく息を吸い、彼女は俺に向き直る。気のせいか、その瞳は揺れている気がした。

 

「なんで、ヒキオ」

 

 ムカついたから。正直に言えばそれが一番の理由だろう。彼に求める彼女に、応えない彼に、それに苛立つ自分自身に。次に、気になったから。葉山の選ぶ道は、三浦優美子と交わるのかどうか。交わることを彼らは選ぶのか。

 しかし、それでもまだ違う。恐らく限りなく正解に近いが、本心とは程遠い。三浦優美子の瞳に、そのまっすぐな目に、取って付けた正解を押し付ける気にならなかった。

 

 だから今の俺はその問いに答えることができない。

 

「……葉山、理系だとよ」

 

 だから俺は、事実だけを口にした。彼との賭けの対象。それを伝えるべき相手に、三浦優美子に告げることが、俺にできるすべてだった。

 とはいえ、少なからずこれならば三浦の問いもはぐらかせるだろう。これは、葉山の進路は彼女が今知りたい最も重要なことだ。

 

「だから、なに」

 

「……は?」

 

 流石に答えに窮すると思っていた。彼女の問いは止まると思っていた。三浦優美子の関心は葉山隼人にある。それに俺は関係ない。

 

 呆ける俺に三浦はため息を吐きつつ、黒髪をみょんみょんと伸ばす。

 

「だから、今それはどうでもいい。あんたは隼人に勝って、結果隼人の進路を聞いた。あんだけ誰にも言わなかった隼人の進路をあんたが知ってるってことは、そういうことでしょ。それを賭けの対象にしてたから、隼人は進路をあんたに教えた。隼人、約束は守るから。あーしが聞いてんのは、その先。……あんたがなんであんなことしたか」

 

 そもそも、隼人が本当に勝つと思ってたらあんなこと言ってないし。三浦は小さくそう一人ごちた気がした。

 

「これ以上、迷わせるようなことすんなし」

 

 揺れる瞳に、俺は今度こそ何の言葉も返すことができない。

 

『勝ったら殺す』

 

 彼女はあの時、葉山とのPKの時、俺を呼んだ。そうやって短く俺を否定した。

 

 周りも、葉山も、俺でさえ信じかけた葉山隼人の勝利と、俺の敗北。三浦優美子はそれを疑った。

 

 彼女は、あの状況で俺が勝つかもしれないと思っていた。

 

「気になった」

 

 今まで言葉にできなかった言葉は、本心、といってもいいのだろうか。それは自然と口をついて出た。あまりに短い言葉に、反射的に捕捉を入れる。

 

「気になった。多分、お前のことが」

 

 三浦な肩を震わせ、何も言わない。逆に俺はきかれてもいないことを口にしてしまう。

 

「いや、気になるっつっても既にフラれてんのにまだ葉山にアピールするお前の不合理さとか、あんな性格の悪い男のどこがいいんだとか、そういうことじゃなくてだな」

 

「……なんだしその言い草」

 

 俺もパニックになっていたのだろうか。全く言うつもりではなかったし、言わなくていいことまで言ってしまっている気がする。足りない言葉に急いで補足を入れる。

 

「違う。そういうことでもない。ただ、あれだ。別に選択肢は一つじゃねえだろって話だよ」

 

「……」

 

 黙る三浦に、俺は言い訳がましく続ける。

 

「今お前の中では葉山以外の男は考えられんのかもしれんが、長期的に見ればいくらでもお前を好きになる変人もいるだろってこと」

 

 俺たちは、人間はとかく目の前の選択肢だけが唯一のものだと思いがちだ。しかしそんなことはない。世界はそんなに融通が利かないわけがない。一つ目がダメなら二つ目が、それがダメなら三つ目が。替わりはいくらでもある。たとえ替えはきかなくとも、いくらでも代えはきく。完全な替えがきかないなら、代わりの手段を探せばいいだけだ。

 

「……そんなんでいいわけ」

 

「知らん。でもそんなんでもいいんじゃねえの」

 

 短い三浦の問いに、俺も適当に言葉を返し、小さく付け足す。

 

「元々そんな大層なもんでもねえだろ」

 

 俺も、お前も。

 

「そっか」

 

 じゃあ。三浦の息遣いを目の前に感じる。濡れた緑色の瞳がこちらを見る。

 

「あんたでもいいわけ」

 

 そのまっすぐな瞳に、返す言葉を俺はもっていない。

 

「あーしも気になることなら、ある。なんであんたが隼人とあんなことしたのか。……なんで男子連中に嫌われてまで、そんな風に怪我してまで隼人との勝負にこだわったのか。それで」

 

 今度こそ、三浦は俺だけを見て問う。

 

「隼人が理系で、あんたが文系なこと」

 

 その大きな瞳から流れているものの意味は、なんなのだろう。

 

「じゃあ理系行く、なんて、言えなくなっちゃったじゃん」

 

 消毒が終わったのか、三浦は器具をもとの場所に戻し、座ったままの俺の頭に手を置く

 

「あーしは、どっちにすればいいの。教えてよ、ヒキオ。……わかんないよ」

 

 俺と三浦以外誰もいない保健室に、斜めに紅い陽が満ちる。それを疎む振りをして俺は片手を陽にかざし、彼女から目を逸らす。

 

 その答えを、俺もまだ持ち合わせてはいなかった。 

 



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しかし彼らのバレンタインはビターである。

 

 バレンタイン。それは近年急速に市民権を得たハロウィンなるイベントとは一線を画し、ある程度定番のイベントとして日本人の意識に根付いた文化だ。一般には意中の男性に女性がチョコレートを贈る日とされているが、実際には女子同士のチョコレート交換の場となっているケースが多い。去年の今頃も大きな紙袋を抱えながら、クラス間を行き来する女子たちの姿を数多く目撃したものだ。

 そのおこぼれにあずかるのは、戸部のように軽いノリで女子にチョコをねだる人間だけであり、もはやチョコレートの数が男子のステイタスとなる時代は追憶の彼方へと消え去ったのである。よって俺のような女子とのかかわりを意図的に断つ人間がチョコレートをこの手にしないのは当然のことであり、決してもらえないというわけではない。貰えないかわいそうな男子ではない。チョコレートは製菓会社の陰謀である、というようなモテない中学二年生男子のようなセリフでさえ喜んで言っちゃうまである。資本主義の奴隷へ身をやつすことなかれ、モテない男子諸君。

 

「あー、つーか最近寒いしさー、cmとかでもよくやってるじゃん?ほら、あれよ、あれ。……おー、それでしょー、結衣!ほら、チョコね、チョコ。あーいうの見るとうまそうじゃん?つい食いたくなるっしょ。チョコとか、チョコとか……ほら、チョコとか。……ちょこっと、的な?」

 

 放課後の教室。俺がこんな益体もないことを徒然と考えてしまったのは、もちろんクラス一、いやさ学年一のうざさを誇るうざい戸部のうざい一言によってである。それは俺の高速の帰り支度さえも止める程度のうざさがあった。戸部の話を窓際の葉山グループご一行は笑って受け流しているが、ケータイをいじる一人の女王の額に青筋が立つ。

 

「あ?戸部、さっきからうっさいんだけど。つーかあーしがそんなのあげるわけないことあんただってわかってるっしょ。無駄なアピールはよそでやれし」

 

「あ、アピールって、そんなはっきり言うことないでしょ優美子……」

 

 およよ……と目頭を押さえる戸部を、大岡と大和が笑いながら慰める。何かと多忙な葉山はいないようだった。俺は手を止めたついでに彼らの話に耳を傾ける。決して先に生徒会室に行って一色と雪ノ下のやり取りに肝を冷やすのが怖かったわけでも、一色×雪ノ下の邪魔をしたかったわけでもない。一雪が至高、雪一はうまぶり。

 

「ていうか最初っから優美子に貰えるなんて思ってないって……で、でも結衣は、結衣はくれるっしょ!?」

 

 戸部は最後の希望を託すかのように由比ヶ浜へと懇願の視線を送る。あわあわと三浦をなだめる由比ヶ浜はくるりと戸部のほうを向き、満面の笑みを浮かべる。そのいつもの天真爛漫な笑みに男子三人は安堵から胸をなでおろす。

 

「うん、もちろんあげるよ!戸部っちにも大岡君にも大和君にも!」

 

 しかしてその笑みは、天使か悪魔か。

 

「うん、義理チョコなら、ギリギリあげるから楽しみにしててね!」

 

 子供の純粋さは得てしていともたやすく人を傷つける刃物になる。

 

 三人は由比ヶ浜の微笑み一発でいともたやすくコーナーマットに沈んだ。テンカウントはどう見ても必要ないだろう。その瞳に移るものは涙がそれとも心の汗か。あ、これどっちも涙だったね!

 

「そ、それでもありがたいっしょ!貰えるだけ……じゃ、じゃあ!」

 

 戸部はいつになく素早い立ち直りを見せる。というより由比ヶ浜への問いは前フリだったのだろう。彼は由比ヶ浜に向けていた体を、彼女の横で笑顔を張り付けていた海老名姫菜へと向け、下を向きながら小さく零す。

 

「……海老名さんは?」

 

 戸部翔の質問には情報量が圧倒的に欠けていた。しかし海老名姫菜には、自らをずるいと嘯く彼女にはその質問の意図は十二分に伝わっただろう。海老名姫菜はうーん……と顎に指を当て、そのまま人差し指をピンと立てて戸部翔に詰め寄る。

 

「そっか、戸部君やっぱり気になるんだ」

 

「なっ、そ、そりゃ気にならないわけないっしょ……」

 

「実はね、私も気になってて、悩んでることあるんだ」

 

「そ、それって……」

 

 ズイ、と海老名さんは戸部に体を寄せる。戸部の動揺がその赤く燃え上がった顔から、手に取るように伝わった。

 

 沈黙は数秒だった。

 

 そして、海老名姫奈は絶叫する。

 

「戸部君は葉山君とヒキタニ君、どっちにチョコあげるの!?」

 

「……へ?」

 

 疑問符しか浮かばないのは当然といえよう。

 

 しかし彼女はそんな彼にお構いなく続ける。

 

「ううん、わかる、わかるよ。恥ずかしいのはわかる。でもね戸部君、昨今は『強敵』と書いて『ともチョコ』なんていう男同士でのバレンタインが流行ってるし、実は全然ありなんだよ!私的にじゃなくて、世間的にもありなの!ようやく時代が三人の間に……」

 

「海老名、ストップストップ!鼻血ふけし、鼻血!」

 

「あ、優美子ありがと~」 

 

 ぐ腐腐……またそんな腐った笑いが聞こえ、由比ヶ浜の苦笑いと三浦のため息が混じる。なお戸部大岡大和のずっこけ三人組はずっこけるどころか絶賛ドン引き中である。これに付き合うのは確かに大変だろう。がんばれ、戸部。

 

 海老名さんは鼻血を拭いて紅茶で唇を濡らし、ドン引き中の戸部にいたずらっぽく笑う。

 

「でも、もし欲しいって人がいるなら考えなくはないかな、私も」

 

「へ、それって……」

 

 これでも女の子だからね~。ひらひらと手を振りながら、彼女はティッシュを捨てにゴミ箱へ向かう。

 

 その頬が多少赤く見えたのは、気のせいだったのだろうか。

 

 そんな海老名さんをほほえまし気に、眩しそうに由比ヶ浜は見つめていた。彼女は三浦に向き直り、優しく問いかける。

 

「優美子は誰にもあげないの?戸部っちにあげないのはわかったけど」

 

 あ、結衣までそんなこというんかよー。今度は戸部の非難の声があがるが、彼女は由比ヶ浜はその声を笑いながら受け流し、あくまで三浦を見つめる。由比ヶ浜結衣は何かを三浦優美子に求めている。なんとなく、そう思った。

 

「……べ、別に誰にもやらんとはいってないし」

 

「へー、じゃあ優美子もあげる予定あるんだー」

 

「ぐ……う、うっさい!なら結衣は、結衣は誰かにあげる予定でもあんの?義理以外のチョコを!」

 

 うむ、このポンコツ女王、見事に義理以外のチョコを自分が渡す予定があると自白している。由比ヶ浜が聞いたのはチョコを誰かにあげるかだけである。由比ヶ浜が策士なのか、はたまたこいつが残念なのか。恐らく両方だと思われる。

 

 由比ヶ浜は少し目を丸くし、顔を赤くする三浦をあやすように苦笑いを浮かべる。そして、静かに言う。

 

「あるよ、私も。チョコ、あげる予定」

 

「え、結衣、それって……」

 

 由比ヶ浜の言葉に俺の思考も彼らに向く。由比ヶ浜の目は三浦越しに俺を捉えていた、気がした。

 

「だから覚悟しててね、二人とも」

 

 にっこりと、由比ヶ浜は笑った。なぜかその笑みにかの氷の女王を連想したのは俺だけではなかったらしい。三浦は気圧されたように、珍しく「ははは……」と乾いた笑いを漏らすのみである。

 

 俺は蛇ににらまれたカエルとはこんな気持ちなのかと、哀れな両生類への同情を禁じえなかった。

 

 

 

 

 

「先輩って甘いもの好きですかぁ?」

 

「葉山なら何でも喜んで食うと思うぞ」

 

 放課後の生徒会室。あざとく上目遣いで聞いてきた一色は一転、口をとがらせて机に突っ伏す。

 

「なんですかそのかわいげも何もない態度は……あの、先輩も健全な男子高校生ですよね?ならかわいい後輩にこんなかわいい質問されてる時くらい、照れるなり期待するなり面白い反応してくださいよ。まったく、だからモテないんですよ先輩……」

 

「それは因果関係が破綻しているな、一色。モテないからこういう態度しかとれねえんだよ。期待する余地がねえんだよ。取り違えるなよ」

 

「ああ、より重症でしたね……」

 

「ほっとけ」

 

 フン、と一色から目を逸らす。恐らく彼女もそうだろう。全く合わない。分かり合えない。なんなら俺がわかり合えたことがある人間など妹と戸塚以外にいないわけだが。最近は小町も「節操なさ過ぎだよお兄ちゃん……」などと俺に心底見下した目線を向けているが。お兄ちゃん悲しいが。

 

 しょっぱなから険悪な俺と一色の間を、いつものように由比ヶ浜が取り持つ。

 

「ま、まあまあ、いろはちゃんもこんなこと言ってるけどきっとくれるよ。何だかんだ細かいところに気が付いてくれるし」

 

「そーですねー、あげますよー、先輩にも。お世話になってる人たちにも!」

 

「ほ、ほら!」

 

 ね、と由比ヶ浜は俺の方を見るが、お前は学習が足りなさすぎる。一色は低い笑いを浮かべて続ける。

 

「その辺の売り物を適当にデコレーションして、頭悪そうなラッピングに『○○君へ♡』とか添えとけば、それだけで男受け間違いなしです!」

 

「……は、はは、ははは……いろはちゃんってば、ヤサシイナー」

 

「由比ヶ浜、あまり無理をするな。無茶をするな。そいつのフォローをするのは人類には早すぎる」

 

 俺と由比ヶ浜は目を合わせ、苦笑いというより空笑いをお互いに浮かべる。こいつ、本当に碌な死に方しねえだろうな。むしろ刺されろ。と、由比ヶ浜のジト目も言っていた気がする。

 

由比ヶ浜と一色のやり取りを眺めていた雪ノ下は文庫本を閉じ、紅茶に口をつける。

 

「ああ、そういえばもうそんな季節かしらね。バレンタイン。全く学生の本分は勉強だというのに、製菓会社の陰謀でしかないイベントに労力と財力を浪費し、あまつさえ一喜一憂するなんて……」

 

「ゆ、ゆきのん、それはそれでいろはちゃんとは違う意味で問題かも……」

 

「ですねー……なんかむしろ先輩が言いそうなセリフですし、それ。問題です」

 

「枯れてるな」

 

「何か言ったかしら?ゴミ谷君?」

 

「いえ何も」

 

 氷点下の瞳に一瞥され、俺はおとなしく両手を挙げる。悪いのは俺だけじゃない気がするんですけどね……。

 

 雪ノ下の言葉に、今まで興味なさそうにケータイをいじっていた三浦はそれを机に置き、みょんみょんとその巻いた黒髪を伸ばす。

 

「そういえば、雪ノ下さんは誰かにあげたりすんの?」

 

「……ええ。と言っても男女のものじゃなくて、普段お世話になってる人にあげるだけだけれど。それがなにか?」

 

 突然三浦に話を振られた雪ノ下はあからさまに警戒態勢を敷く。これまでの彼女たちの関係を考えれば当然のことではあるが、三浦はそんなことも忘れたのか、顔を伏せて問う。

 

「ふーん。それって売ってるやつ?それとも手作り?」

 

「いえ、手作りを嫌う人がいないことは把握しているから、作ろうとは思っているけれど……何のつもりでそんなことを聞くのかしら」

 

「別に何かってわけじゃないし。ただ雪ノ下さんがそういうの作れるのなんか意外っつーか……この世の甘いもんなんか全部消えろ!みたいなこと思ってそうだし」

 

 ヒクヒクと雪ノ下のこめかみが動いた気がした。こ、こわいよう……。こわのんだよぅ……。ほら、今も睨まれたし。エスパーかなにか?

 

「……あなたたちの中の私の人物像に限りなく誤解があるようだけれど、まあいいでしょう。料理もお菓子作りも本質的には変わらないわ。レシピ通りに作ればレシピ通りのものができる。科学の実験と何も変わらないの。ただお菓子作りの場合は、そのレシピ通りというのが料理よりもシビアなだけね」

 

「シ、シビア?なに?車?」

 

 そこで日産シルビアが出てくる方が、どう考えても女子高生らしからぬ発想である。雪ノ下は額を押さえて由比ヶ浜の素っ頓狂な質問に答える。

 

「……はぁ。シビア、つまり計量が細かいということ。『料理』は多少適当にやっても大雑把に同じものができるけれど、『お菓子作り』は計量を少し間違えるだけで大失敗なんてことになりかねないの。というか、それはあなただって経験済みでしょう」

 

「あ、そうだねぇ、楽しかったねー、お菓子作り!」

 

「もう二度とごめんだわ……」

 

「えー、何でよー、ゆきのん!そんなこと言わず今年もさ」

 

「絶対に嫌。絶対に」

 

「即答だ!?しかも二回絶対って言われた……」

 

 もう一年近く前の話になる。俺にとっては最初の依頼だった。俺も二度と試食係はごめんである。

 

「へ、へー、結衣もおかし作ったことあるんだ。じゃあ……一色は?」

 

 三浦は雪ノ下と由比ヶ浜のやり取りに口を挟み、ぽけーっとお茶を飲む一色に視線を向ける。

 

「あっ、あたしはこう見えてもお菓子作り得意ですからね。伊達に毎年数え切れないほどのチョコを配り歩いてませんよ!」

 

「自慢になってないわそれ……」

 

「はは……」

 

 雪ノ下がまたこめかみを押さえ、由比ヶ浜が苦笑いを浮かべる。しかし三浦優美子だけは思いつめたように下を向き、握り拳を作る。

 

 なんとなく、彼女の葛藤は分かる気がした。

 

 「そっか、皆チョコ、作れるんだ」

 三浦は彼女らのやり取りの一区切りに、意を決したように顔をあげ、口を開く。

 

「……じゃあ、よければあーしに、チョコの作り方――」「――失礼します」

 

 

 ノックと同時に入ってきたのは、青みがかった長髪をポニーテールにした、か…か…川越さん?違う、川上さんだったかな。いや、川谷だった気もするし……とにかくあれだ、川崎京華の姉だった。

 

「失礼します。……今、話いい?」

 

「……どうぞ」

 

 突然の来訪に若干ため息を漏らしつつ、雪ノ下は川なんとかさんを空いている席に促す。今やここは奉仕部ではなく生徒会ではあるが、今は差し迫ったイベントごとはない。多少の相談事程度はきくのも生徒会としてはあるべき姿なのだろう。

 

「えーっと、じゃあ……」

 

 川崎沙希は、少しバツが悪そうに話を切り出した。

 

 

 

 

 

 

 どうやら彼女の話をまとめると、京華にバレンタインに向けてのお菓子作りを教えてあげてほしいらしい。

 

「だからなんか子供でもできる簡単なお菓子とかないかな」

 

「とかいって、あんたが教えてほしいだけじゃないの?……あんたがチョコあげたい相手いるなんて想像できないけど」

 

「は?あんたと一緒にしないでくれる?そんなのあたしには……」

 

 川崎と目が合った気がする。

 

 速攻で目を逸らされる。童貞とは目も合わせたくないということなのか。ギャルってそういう人種なのか。

 

「とにかくあんたみたいな恋愛脳と一緒にされちゃ迷惑って言ってんの」

 

「は?誰が恋愛脳だって?いつあーしが好きな人間にあげたいって……」

 

 三浦と目が合った気がする。

 

 速攻で目を逸らされる。童貞とは目も合わせたくないということなのか。女王ってそういう人種なのか。

 

 一色はにやにやと三浦と俺、川なんとかさんを見比べる。

 

「あれあれ~?三浦先輩も誰かにチョコあげたいんですかぁ?」

 

「べ、別にあーしはそんなこと一言も」

 

「そういえば優美子さっき教室で本命あげるって言ってたね!」

 

「ばっ、ゆ、結衣!」

 

「まあまあ、わかってるからあたしには」

 

 突然の由比ヶ浜の援護射撃に一色はさらに図に乗る。

 

「三浦先輩、私もわかってますよ、ほんとは好きな人に手作りチョコをあげたい、でも恥ずかしいから言い出せない!そんな乙女心を、私だけは汲み取ってますよ」

 

「えっ、なんでわかって……じゃない!本当にそんなことないから……だからそのむかつくにやけ面やめろって言ってんだし!一色!」

 

 えー、照れなくてもいいのにぃ。まだにやけながら続ける一色に三浦は一通り憤り、一息つく。この場では分が悪いと悟ったのだろうか、早々に一色への追及を終え、咳ばらいを一つ、雪ノ下へと向き直る。

 

「ま、まあいいし。話す手間が省けたと思えば……雪ノ下さん」

 

 今度こそ、彼女と目が合っただろう。しかしそれはすぐに外され、三浦は雪ノ下に問いかけた。

 

「チョコの作り方、教えてくれない?」

 

 あんぐりと川崎が口を開け呆け、雪ノ下が目を丸くして三浦を見ていた。由比ヶ浜は微笑み、一色はやはりムカつくにやけ面を浮かべるだけだ。

 

 そして少し、期待してしている自分が恨めしかった。

 



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やはり彼女はクレープよりも甘い。

「明日、か」

 

「そうだし。ったく、別にチョコ作るくらいのことで、海浜総合まで呼ぶほど大げさにしなくてよかったってのに……」

 

「まあ一色の提案だからな、諦めろ」

 

 放課後の生徒会室。少しばかり陽も傾き、俺と三浦の二人しかいない教室は肌寒い。三浦も寒そうに肩をさすり、せこせこと仕事をこなす俺に向かって、時折「ん」とティーカップを差し出してくる。

 ……ええ、淹れろってことですか。寒いから紅茶を入れろってことですか。文句を言っても無駄に終わるとわかっているのでそのたびに無言で紅茶を淹れる。砂糖を二個入れて混ぜる。

 つーかなにが「ん」だよ、長年連れ添った夫婦かよ。しかも男女の役割が逆な気がするし。あ、俺専業主夫志望だったからいいのか。これも花婿修行か。

 いや。俺はかぶりを振って思い直す。社会に出るにも「気働き」なるものは必要か。相手のして欲しいことを察し、それとなく行動に移す。「報告連絡相談もできないの」と「言われなきゃわからないの」はセットで使われるものだろう。いや言われなきゃわかんねえだろ、常識的に考えて。そんなことも言われなきゃわかんないんですか?

 

 三浦は俺から紅茶を奪うようにひったくり、書類に判を押しながらため息を吐く。

 

「どーにも、雪ノ下さん一色の頼みに弱くない?そもそもバレンタイン自体に乗り気じゃなかったのに、あんな頼みきいちゃうなんて」

 

「まああいつが一色に弱いのは確かにそうだろうが、結局お前も了承してるからなぁ」

 

「うっ……いやだって、結衣も乗り気だったし、一応一色はあーしが生徒会に無理やり入れたようなもんだから……」

 

 だから生徒会での願いくらいは聞くべき、か。俯く三浦の言葉を勝手に捕捉し、続きを引き取る。声には出さないが。声に出したらたぶん殴られる。俺は俺で事務処理に意識を戻し、キーボードに向き直る。

 

「ま、バレンタインも明日だし、今更うだうだ言っても仕方ないし」

 

 明日は毒見役ちゃんとやれよー。そう小さく笑い、三浦もまた手元の資料に意識を戻す。三浦、お前はそのチョコの中に、本物の毒物が混ざっている可能性があることをまだ知らない。ガハマさんがいるなら庶務として救急車を事前に手配しておくべきか、少し悩むところである。

 

 

 

 川崎の来訪から一週間。三浦の頼みと川崎の依頼をまとめる形で、生徒会主導でバレンタインイベントを企画することとなった。まあさっき言った通り、結局は一色のバレンタインイベント推しに雪ノ下と三浦が折れ、それを由比ヶ浜が援護して実現の運びとなった。まあイベントという体があれば気兼ねなく葉山を呼べるだろうから、三浦としてはまんざらでもないだろう。

 なにせそれこそ一色の狙いでもあり、彼女らの利害は一致している。一色の海浜総合から予算を引っ張ってこようという魂胆はせこいとしか言いようがないが。さすが俺たちにできないことを平然とやってのける後輩である。そこに痺れる憧れ……ねえよ。

 

 現在雪ノ下と由比ヶ浜は平塚先生にイベントについての報告をしている。一色は海浜総合高校との最終調整の最中だ。海浜側への交渉が主に一色に一任されたのは、前回のクリスマスイベントでのことで三浦と雪ノ下ではあちらの高校側と角が立つのではないか、という平塚先生お達しからだった。あっちの意識高い系生徒会長、結構ビビってたからなぁ。ご愁傷さまです、本当に。

 

 まあ、とはいえそれだけが分業の理由ではない。生徒会の人員は五人、とても多いとは言えない。タスクはある程度割り振る必要がある。俺は現在、明日のイベントについて関係者へのメールと生徒会の本来の事務処理を手掛け、三浦は俺の手掛けた資料のチェックをしつつ決算報告書とにらめっこの最中である。

 

 というように年度末のこの時期、イベントごとだけにかまけている暇はない。ここ数日はそれら業務に忙殺され、すっかりプチ社畜も板についてきた。……といってもそれは平塚先生も同じようで、最近は俺にも勝るとも劣らない腐った目で書類に向かっている。俺ら学生とは比べ物にならない社畜っぷりなのであろう。ああ、社会とか一生出たくない。家から出たくない。

 

 例に漏れず少し疲れた顔で書類に向かう三浦は、渋面を作る。

「げ、これ部活側への確認もいるとかメンド……こっちでチャチャっと済ませといてもばれなくない?」

 

「気にする人間もいるとは思えんが、少なくとも雪ノ下にバレたら大目玉食らうぞ」

 

「……はぁ。しゃーない、後で雪ノ下さんに聞いてからにするっしょ。あの人にバレたら説教長いし。今やれることもうそんなないし、そろそろ終わろっか」

 

 資料を棚に戻し、三浦は大きく伸びをしてのんきにあくびを一つ。その動作と連動して揺れる揺れる、揺れるよあれが。母性の塊が。

 ……あの、そういう仕草を無防備にやられると人並み以上に育った双丘がですね、ええ。どこがどうとは言いませんけどね。チラチラと見てないですからね。役得とか思ってないですから。いやまじで。

 

「ヒキオ、つーか見すぎだから。きっも」

 

 べべべ、別に見てないし。内心の動揺を押し殺し、俺はキーボードをたたく音を気持ち大きくする。タターン!どうですか僕の意識の高いキーボードさばきは。某スタバでマックいじりながらあえてブレンド頼むサラリーマンくらい意識高い。あの人たちマック壊れるくらいの勢いでキーボード叩いてるけど、パソコン大丈夫かなと八幡たまに心配になります。

 

 無視してキーボードをたたく俺を白い目で見て、三浦はケータイを取り出す。

 

「言っとくけどそういうの女子は分かってっからね。結衣もあんたがたまに見てくるって言ってたし」

 

「あの、嘘ですよね、三浦さん。嘘だと言って。いや、ここは嘘ってことにしないか」

 

「……いや、ほんとに見てんのかよ。最低だしこいつ。女の敵。もうシンプルに死ねよ」

 

 はめやがったこのアマ。はめるのは男の仕事なのに。おっと、こういうことを言うとまた白い目で見られる。ここは責任転嫁と論点のすり替えで誤魔化すしかない。

 

「嘘つく方が人としてどうかと思うが。俺以上にどうかと思うが。正直人間性疑うわ」

 

「あっ、じゃあ後で結衣にヒキオがあーしとあんたの胸ガン見してたって……」

 

「ごめんなさい僕が悪かったです見てました認めますだから許して」

 

 痴漢冤罪は百パーセント男が悪いのである。俺は素直に頭を下げる。別にやましいことは考えてないですけどね。はい。

 頭を下げたままでいると、上から偉そうな声が降ってくる。

 

「あーし、駅前のクレープ屋のバナナピーチホイップ520円が食べたい」

 

「……へいへい、喜んで」

 

 俺の返事も聞いているのかいないのか、三浦は既にケータイでクレープ屋のメニューを眺め、鼻歌を歌っている。

 

まあ、口止め料には安いくらいだろう。

 

 

 

 

 

 

「うーん、おいしい!」

 

「見てるだけで胸焼けするんだが……」

 

 三浦は俺がおごったクレープを公園のベンチに腰掛け、うまそうにほおばる。ふと、クレープなんかもう一生食わんかもなと、思った。

 何せ男が、一人で食うものとは最もかけ離れたところに位置する食べ物だろう。男が集団で食っている図すら思い浮かばないのだ。クレープを食す人間のイメージといえばカップルか、家族か、女子同士か。そのような買い手の内、俺はどれにも属していない。なんなら男友達も二人くらいしかいないし、家族のお出かけに参加したことも、ここ数年記憶にない。あれれ、なんか目から汗が……。

 

 甘すぎるであろうクレープと苦すぎる自分の人生に辟易とする俺に、三浦は呆れたようにため息を漏らす。

 

「あんたいっつも練乳そのものみたいなもん飲んでるくせに、よく言うし」

 

「マックスコーヒーか?それはマックスコーヒーのことか?」

 

「あの不自然な甘さより、よっぽど自然な甘さだと思うけどね」

 

「ばっかお前わかってねえな、あの不健全な甘さが暴力的にうまいんだろうが。病みつきになるんだろうが。お前それでも千葉県民かよ」

 

「わかりたくもないし、それなら千葉県民じゃなくていいんだけど……つーかそこまで言うなら」

 

 一人分開いていた距離を、三浦は小さく腰を浮かして詰め、

 

「ん」

 

 手にもったクレープを、俺に差し出してきた。

 

「……なんだ」

 

「なんだ、じゃないし。そこまで言うなら食ってから言えっての」

 

 こんなこと前もあったような……しかし三浦はいつも通り引く気はないらしく、クレープを俺にさらに押し付ける。

 

「いや、だから別に食いたい気分じゃなかったから買わなかったんだけど」

 

「だから、食いもせずに文句言うなって言ってんの」

 

 堂々巡りとはこのことか。三浦はなぜか明後日の方向を向きながら、今度は手だけをこちらに差し出す。

 

「……ほ、ほら、口開けろし」

 

「いや、だからんなこと言われてもな」

 

「い、いいから早く!」

 

 んぐ。彼女の持つクレープを口の中にツッコまれる。やだなんか卑猥……。

 

 そこまで言われると断ったときに後が怖い。仕方なく口を開き、三浦の持つクレープを味わう。パナナピーチという味はなかなか想像できなかったが、そこまで悪くない。生クリームは少々くどいが、バナナとピーチは思ったほどしつこくない。咀嚼しながら感想を述べる。

 

「まあたまになら悪くはないな」

 

「……そ」

 

 三浦は俺に差し出したクレープを手元に戻し、今度はじっとそれを見つめる。……いやいや。

 

「そんなに見つめても味は変わらんと思うが」

 

「う、うぇっ!?そ、そんなのあんたに言われなくてもわかってるし!」

 

 あーしに指図すんなヒキオのくせに。彼女はスネ夫君ばりの文句を口にしつつ、女子らしからぬ大口を開けてクレープにかぶりつく。

 

「……おいし」

 

 三浦は生クリームに覆われた口元をそっと手で隠し、小さく零した。

 

 意識しちゃうからそういう反応はやめて頂けるとありがたい。

 




あまりに中途半端な文字数になってしまったので、二つに分けます。続きは書けてるので明日にはあげます。


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そして彼は選択する。

「ごちそうさん」

 

 クレープを食べ終わった三浦は満足げに嘆息し、夕焼けの空を見上げる。

 

「おそまつさまでした」

 

「別にあんたが作ったわけじゃないでしょ」

 

「それでもお前、俺の親が稼いだ金だぞ」

 

「それ威張るとこじゃないし……」

 

 非難するような目で見られるが、恥じることではない。俺の将来の夢に照らし合わせるのであれば。専業主夫であれば妻の稼いだ金は誇りだろうが!まあ僕は親の脛かじってるだけなんですけどね。

 

「バレンタイン、か」

 

 三浦はクレープを包んでいた紙をいじりながら、声を落としてうつむく。

 

「あんたちなみに、バレンタイン貰ったことあんの?」

 

「おう、毎年貰ってるぞ」

 

「は、はぁ!?それ誰から!?」

 

 三浦の剣幕に思わず身を引く。いや、俺がチョコをもらう相手など一人しかいないだろう。

 

「いや、毎年貰ってるけど……小町から」

 

「……は?小町?お米?」

 

「だから米じゃなくて妹だ。お前も正月に会っただろ」

 

 三浦は思案気に顎に指を当て、ああ、と軽く手を叩く。

 

「ああ、あの子……。つーか家族からのチョコは数に入らないっしょ」

 

「は?妹からのチョコ以外物の数ではないだろうが何言ってんだバカかお前」

 

「いやおかしいのあんただから。普通数に入れないから。……パパがあーしのチョコ数に入れてたら、それこそキモイし」

 

「パパ?高校生のくせにそういう不健全な行為をするのは八幡どうかと……」

 

「黙れ死ねセクハラ野郎」

 

 意味がわかる方もどうかと思うんですけど。こいつ相手だと反応が返ってくる分、ついその手の軽口が出てきてしまう。由比ヶ浜と雪ノ下はガチでドン引きするだけだからね!

 

「で」

 

 三浦は俺に白い目を向けたまま問う。

 

「バレンタインイベント明日だけど……あんたあの修学旅行の時みたいに、余計なことする気じゃないだろうね」

 

 修学旅行での俺のした余計なこと。彼女は俺が戸部の告白を止めようとした、あのことを言っているのだろう。あれは未遂ということで許してほしかったんですが。

 

「依頼もされてねえのに、何で好き好んで下らねえイベントに付き合わなきゃいけないんだよ。俺から動くことはねえよ」

 

「普段の信用の問題っしょ。それに」

 

 三浦は視線を手元に落とす。

 

「あーしにとっては、くだらなくなんてない。……バレンタインは」

 

「……そうだったな」

 

 そうだろう。彼女にとっては、それこそが重要であるはずだ。

 

 葉山を想う、彼女であれば。

 

「ちがう。隼人のことだけじゃない」

 

 しかしほんの小さく、彼女はそう呟く。

 

 見透かされているのだろうか。はっきりと聞こえたそのつぶやきを、彼女は説明もせず、続ける。

 

「あーし、あんたに聞いたよね。どっちにすればいいかわからないって」

 

「……」

 

 思い出されるのは、保健室での彼女のうるんだ瞳。彼女は迷っている。大して他人のことをわかるわけでもないが、今俺はそれを確信していた。

 

 ディスティニーランドの帰りの彼女の迷い、俺が彼女に誕生日プレゼントを渡したあの日の笑顔、保健室での彼女の涙。

 

 彼女が、三浦優美子が何かについて悩んでいることは、俺でもわかった。

 

 しかし、その何かを問い詰める気も思い詰める気も、俺にはさらさらなかった。

 

「あんたは、どう思う。あーしはどっちにすればいいと思う。……保健室の続き、聞いてなかったから」

 

「俺がどう思おうと、どう考えようと、お前には関係ねえだろ。つーか」

 

 問いに対する答えは出ていなかったが、その質問に対する返答は既に決まっていた。

 

「関係したくねえよ、他人の人生の岐路なんかに」

 

 関係したくない。それは紛れもなく俺の本音だと思う。今まで三浦優美子の抱える問題に少しばかり口を出し、アドバイスをしてきたが、これは質が違う。今回の問題は、進路についてだ。

 

 他人の、彼女の人生に口を出す権利など、俺にあるはずがない。

 

「……言わなきゃわかんないほど馬鹿じゃないっしょ、あんた」

 

 拒絶する俺に、三浦は顔を歪める。

 

「それとも、他人のことは分かっても、自分に関係することはわかんないか?」

 

 彼女は平然と、痛いところを突く。

 

「隼人が理系であんたが文系。……そう言ったでしょ、あーし」

 

 その目を、揺れる瞳を見ることができない。見てしまえば期待してしまう。そしてまた自己嫌悪の波に呑まれる。

 

「――ヒキオ」

 

 押し黙る俺と三浦の距離が、不意に縮まる。

 

 なにか、温かいものが重なった。

 

 ベンチに座る彼女の手は、軽く、ほんの触れる程度に、俺の手に重ねられていた。

 

「あーしは、あんたに――」

 

 その、えーっと。迷いながら、つっかえながら、それでも彼女は俺が言えない言葉を口にする。

 

「関係したい。無関係じゃない。……これはあんたと、あーしの問題だって言ってんの」

 

 重ねられた手は、今度は優しく包み込まれる。

 

「はっきり聞くね、ヒキオ」

 

 その温度に、つい身を任せたくなってしまう。

 

「あんたはあーしが隼人にまた告白しても、何も思わない?止めない?あーしが理系に行くって言っても、それでも干渉しない?……いや、違うし。これじゃまたあんたは逃げるか」

 

 三浦は小さく息を吐き、短く、しかし大きく吸う。

 

「あんたは、あーしのこと、好き?」

 

 考えないようにしていた問いは、唐突に突き付けられた。

 

 いや、唐突に見えるだけで、多分俺の中でも彼女の中でも、既に答えは出ていた。それを表に出すことをためらっていただけだ。

 三浦優美子に振り回され、引っ張りまわされ、そして彼女の弱い部分を知って、数カ月。口では面倒だ面倒だと言いながら、俺はそれを、いつでも曲がらず、間違えない彼女を、どこか好ましく思っていたのだと思う。

 それは俺にも、雪ノ下にも、由比ヶ浜にもない強さだったから。俺はそうは生きられない。だから正直に言えば、その生き方が眩しかったし、羨ましかったし、妬ましかった。

 

 最近の葉山や三浦、自分への憤りも、それが理由になっている気がする。彼女に応えない彼に、そんな彼を想う彼女に、そして何もできない俺に、苛ついていただけなのだろう。

 

 だかららしくないことをしてまで、葉山に勝負を挑んだ。彼の意思を聞き出そうとした。

 

 理解できなかったのだ、俺は。なぜ彼が彼女を拒むか、彼女が彼を想うか。

 

 葉山隼人の立場に俺がいたら。何度もそんなことを思ってしまった。

 

 彼女と俺の関係は、想いは、諍いは、常にそれを、葉山隼人を介していた。彼女は彼を想っていた。そして。

 

 俺はそれを、真っすぐに彼を見つめる彼女を、綺麗だと思った。

 

 ならばやはり、曲がらず間違えない彼女に、俺が言えることは一つなのだろう。

 

「三浦」

 

「うん」

 

 隣に座る彼女を見る。俺が迷う間も、その手は俺の手に重ねられていた。何かを確かめるように、そっと、優しくのせられていた。

 陽は傾き、公園に残されたのは俺と彼女の二人だけだ。風は切るように冷たいし、座ったベンチからは冷気が直接伝わり、既に体は芯から冷えている。でも。

 

 心地いい。重なった温もりを確かに感じ、俺は素直にそう思った。

 

 だから俺は正しく、比企谷八幡が考え、出した結論を口にすることができた。

 

「お前は、理系に行くべきだと思う」

 

 その答えは正しいはずだ。しかしなぜか、彼女の顔を見ることができない。今度はすぐ近くの彼女の息遣いさえ聞こえない。彼女がそこに居る証左は、もうその手の温度だけだ。

 

 それすら、少し冷たくなった気がする。

 

「葉山のことを好ましく思うお前の心は、本物なんだろう。多少傲慢なことを言うなら、たかだか数カ月、近くで見ただけの俺でもそう思う」

 

 だから。

 

「お前が本気であの男を、面倒な葉山隼人を離したくないなら、お前はあいつの近くに居るべきだ」

 

 俺は彼女の気持ちを本物だと思う。だから微力ながら、いままで彼女に協力してきた。

 

 その中で俺が彼女に惹かれているのも、多分事実だ。

 

 しかし、だからこそ、俺はそれを口にすべきではない。俺が綺麗だと思ったのは一人を想い続ける三浦優美子であり、一つのことに向かっていける三浦優美子だ。その姿に憧れ、焦がれた。

 

 俺は決して、「俺の隣に居る彼女」を想ったわけではない。そのために彼女を見て、彼女の近くにいたわけではない。

 

 俺は、どこまでも「葉山隼人を想う三浦優美子」を、本物だと思った。

 

 その強い彼女を、俺が焦がれた彼女を、今まで俺が三浦と話した、葉山隼人への彼女の想いを、嘘にしたくない。……いや、より正確に言えば。

 

 葉山を想う彼女の話を聞き、試行錯誤した俺と彼女の時間。それによってつながり、過ごした俺と彼女の時間を、嘘にしたくない。

 

 だから俺は、三浦優美子が好きではない。

 

 言葉にできる気はしない。しかし、この気持ちに嘘はない。

 

「……そっか」

 

 重ねられた手は、静かに外される。

 

「それが、あんたの答えなんだ」

 

「そうだ」

 

 今度こそ、俺はその問いにはっきりと答える。

 

 決心が鈍る前に。

 

「あーしは、あんたのこと――」

 

 三浦は何か言いかけ、しかし小さく困ったように笑い、頬をかき、ため息を吐き、そして、宣言する。

 

「あーし、明日隼人に告白する。……これで、最後」

 

 その笑顔は彼女らしくなく諦観に満ちていて、しかし満足気でもあり、吹っ切れたようにも見えた。

 

 だから、俺も安心して返すことができた。

 

「おう、頑張れ」

 

「頑張っても結果は隼人次第じゃない?あんたならそう言うっしょ」

 

「そりゃそうかもしれんが、頑張らんことにはどうしようもねえだろ、あいつの相手は」

 

 あの面倒な男の相手は。

 

「そっだね」

 

 三浦は神妙にうなずき、うん、うんと何かをかみ砕くように、何度も首を縦に振る。

 

 そして、暮れた空に向かって軽く吠える。

 

「うん、あーしはバレンタインに隼人にもう一回告白する。あんたもチョコくらいは試食させてやるから、楽しみにしとけし」

 

「おう。変なもん入れないでくれると助かる」

 

「は?それは失礼っしょ。結衣じゃないんだから」

 

「お前の方が失礼なんだよなぁ……」

 

 ひとしきり笑い合い、ふと腕時計を見ると、もういい時間になっていた。どちらからともなくベンチから腰を浮かす。

 

「じゃ、あーしそろそろ帰るから」

 

「じゃ行くか」

 

「ううん」

 

 軽く駅に行くことを促すと、彼女ははっきりと首を振る。

 

「ここでいいから」

 

 迷いたくないから。寒さからか震える彼女の唇は、そう動いた気がした。

 

「……そうか」

 

「うん、そうだし」

 

 また、彼女は笑う。

 

 そんな乾いた笑いを、らしくない笑いを聞きたいわけではなかった。

 

 しかし、どうしようもないのだろう。

 

「じゃあね、ヒキオ。……バイバイ」

 

「おう、まあ、しっかりやれ」

 

 これでいい。

 

 振り向くことはなく俺は自転車にまたがる。いくらかペダルを漕ぎ、脚がだるくなってきたところで信号に捕まる。寒さに手をこすり、何とは無しに来た道を振り返る。

 

 そこにはもう、当然彼女の姿はなかった。

 

 




バッドエンドは嫌いなのよ!(コルワ)


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それぞれのバレンタイン。

「あ、先輩、そこに置いてあるチラシ外に貼ってきちゃってください」

 

「比企谷君、ぼーっと突っ立ってるだけなら草でもできるわよ。働きなさい。いえ、酸素を吸って二酸化炭素を吐くだけなら草の方がよほどましね。草に失礼だったわ」

 

「ヒッキー、この材料なんだけど、これだけじゃつまんないからちょっと隠し味にカレーのルゥスーパーで買ってきてくんない?」

 

 猫の手も借りたいとはこのことか。

 

 来るバレンタインイベント当日。今日はクリスマスイベントで使った施設を借りて、海浜総合高校と合同でチョコレート試食会をする予定となっている。明日が高校受験の日となっていることもあり、海浜総合高校の連中も早い時間ではあるが既に揃っていた。俺たちの横には海老名さん、戸部、葉山の姿もある。戸部は憐れなことに、いつも通り一色にこき使われている。いや、後輩にこき使われてるのは俺も同じだが。

 

「あのな、あいにくだが身一つしかねえんだよ、俺は。働き手も男手も俺以外にいくらでもあんだろ」

 

「えー、でも葉山先輩を、その手の雑用でこき使うの申し訳ないじゃないですかー」

 

「俺ならいいわけね……」

 

「はい♪先輩と戸部先輩なら心も痛みません。ただで使えるものは全部使わないと」

 

 こっわ。いろはすこっわ。抜け目ないし全然可愛くない。先輩に当たり前のように指図するところとかほんとに可愛げの欠片もない。雪ノ下も額を抑え、ため息を吐く。

 

「はぁ。まあ実際これだけ人数がいると、そんなにそれぞれに振れる仕事も多くないわ。あなたにもできることといえば、一色さんの言う通りポスターを貼ることくらいかしらね」

 

「人数云々関係なく、お前にはポスター貼るくらいしかできないと遠回しに言われたのは気のせいですかね?」

 

「あら、さっきみたいに直接的に役に立たないと言ったほうがいいかしら」

 

「やめて。八幡のライフはもう0だから。おとなしくポスター貼るから」

 

 シクシク。わざとらしく泣いてみせるが、雪ノ下は動じる様子もない。まあ実際俺の料理の腕は小学生レベルで言えばトップクラスだが、高校生としては落第もいいとこだろう。比べる相手が雪ノ下では相手が悪い。

 

「そっ、そんなことないよ、ヒッキー!ほら、あたしカレールゥ買ってきてって頼んだじゃん。買ってきてくれると助かるよ。あっ、あと隠し味っていうか昨日ネットで見たんだけど、ワームチョコレートとかいうのも面白かった!帰りに虫いたらそれも捕まえてきて!」

 

「……雪ノ下、やはり先に救急車を手配しておいた方がいいだろうか。由比ヶ浜が食中毒で人を殺すところを、俺は見たくない」

 

「あなたにしては仕事ができるじゃない。でも安心しなさい。由比ヶ浜さんには私が指示した以外のことはさせないわ。絶対に。この命にかえてでも」

 

「なんかひどいこと言われてる!?うぅ、わかったよ、ちゃんとゆきのんの言うとおりに作るよぅ……」

 

 虫は冗談でもカレーはいいと思ったんだけどなぁ。不穏な由比ヶ浜のつぶやきを俺と雪ノ下は意図的に無視する。一番怖いのは一色でも雪ノ下でもなく、由比ヶ浜であった。証明終了。

 

 一人でいじける由比ヶ浜に、横から声がかかる。

 

「結衣、そこに置いてある材料取ってもらえる?」

 

 三浦は先ほどから、材料と調理器具の仕分けと各テーブルへの振り分けをしていた。今も材料を計量し、ボウルに移す作業をしている。雪ノ下からの文句が入らない所を見ると、ミスはないのだろう。作業をしながら俺の横にある材料を指さす。

 

「えっと、それならヒッキーの方が近いからヒッキーに取ってもらえば――」「結衣」

 

 三浦は柔らかく笑い、もう一度由比ヶ浜に言う。

 

「あーし、結衣に頼んでるから。取ってくれる?」

 

「……うん」

 

「ありがと」

 

 なぜか渋々、由比ヶ浜は三浦に材料を手渡す。雪ノ下も訝し気に三浦を見る。まあ、三浦が進んでこんな雑用をするのは珍しい。下っ端の仕事が減るから、上の人間は椅子にふんぞり返ってるくらいでちょうどいいと思うのだが。社畜精神も下っ端精神も随分板についてきた。板についちゃダメだろ。

 

 

 

 

 

 各テーブルでチョコ作りが始まった。川なんとかさんと川崎京華も既に来ており、雪ノ下から作り方を教わっている。……よく見たら姉は妹を写真におさめることに必死でチョコなど作ってなかった。必死過ぎる。シスコンの俺ですらちょっと引いちゃうそのシスコンっぷり、まじぱねえっす。

 

 本格的にやることがなく手持無沙汰にそれぞれのチョコ作りを眺め、由比ヶ浜の監視をしていると、一色から呼び止められた。

 

「あっ、先輩」

 

「なんだ」

 

 一色の手元を見ると、スタートしてからそう時間もたっていないのに、既に湯煎まで終わり、机の上には洋酒やフルーツ、デコレーション用の食材が綺麗に並んでいる。お菓子作りが得意だという申告に嘘はなかったようだ。まあこいつの場合、料理の腕以外に甚だ問題アリなわけだが。

 

「えーっと、ちょっと聞きたいことあるんですけどいいですか?」

 

「内容によるな」

 

 一色は少し聞きにくいことなのか、指を顎に当て思案し、頭を抱え、かと思えば髪を掻きむしってこちらを向く。

 

「三浦先輩と、なんかあったんですか?」

 

「別に何もねえけど」

 

 即答する俺に、一色は首を横に振る。

 

「いやいやいや、どう考えてもおかしいでしょ、三浦先輩も先輩も。お互いあからさまに避けてるじゃないですか。なんですか、ついに童貞拗らせすぎて襲っちゃったんですか」

 

「人のこと即犯罪者認定するのやめてもらえますかね。……べつにいつものあれだろ、なんとなく三浦の虫の居所がわりいんだろ。あいつには珍しいことでもねえ。俺は面倒に巻き込まれたくないし、触らぬ神に祟りなしだ」

 

 というか、こいつは童貞を見境のない獣だとでも思っているのだろうか。いまだに少年の心を忘れていないだけだぞ。魂の穢れを知らないだけだぞ。純真無垢なんだぞ。

 

「まあ、三浦先輩がなんとなく機嫌悪いだけならいつものことなんですけど。むしろ機嫌いいから問題なんですよ。ここに来る前も、自販機で私にジュースおごってくれましたし。毒でも入ってるのかと思いました」

 

先輩いろはすの今までの人生の方が心配だよ。どういう生き方してたら、奢ってもらったジュースに毒が入ってると思えるんだよ。なに、キルアなの?暗殺一家なの?拷問の訓練は一通り受けてるの?

 

「それなら余計、何が問題なんだよ」

 

「機嫌よくて雪ノ下先輩とか私にも優しいのに、先輩とは目も合わせようとしないじゃないですか。最近ちょっとおかしいと思ってましたけど、いよいよ今日は変です」

 

 どう見てもおかしいです。一色は三浦を眺め、ブツブツと何かつぶやき、俺に向き直る。

 

「なにがあったんです」

 

「だとしても、お前には関係ねえな」

 

 妙なところで鋭い後輩である。一色は俺の目をのぞき込むようにじっと見つめ、何を読み取ったのか、ため息を吐く。

 

「はぁ。そうですか。ならこれ以上は聞かないですけど」

 

「そうしてくれると助かる」

 

「はいはい、私はできた後輩ですからね。――あっ、先輩、あーん」

 

「ん?」

 

 反射的に一色の方を向くと、作りかけのチョコレートをねじ込まれる。

 

「に、にっが。お前苦すぎだぞこれ。こんなもん出されたら100年の恋も冷める」

 

「めんどくさい先輩方が悪いんですー。ベー。――って、ひぃ!?」

 

「ん?どした」

 

 一色は俺の後ろを見て顔を青ざめ、自らの体を抱く。な、なに?なんか憑いてる?

 

「せ、先輩、私死にたくないので、さっさとどっか行ってください」

 

「いきなりひでえななんだお前」

 

 え、やっぱりなんか憑いてるの?

 

 

 

 

 

「比企谷君」

 

 今度は雪ノ下に呼び止められる。ここではお菓子作りをしたことがない人間が雪ノ下に習うことになっていた。川崎姉妹、由比ヶ浜、三浦、その他の人間にも色々とアドバイスを求められたらしい。彼女の顔からは疲労の色が見て取れる。

 

「おう、お疲れさん。流石にこの人数の相手はしんどそうだな」

 

「いえ、そんなに難しいことはしてないし、一回助言してやって見せれば大概大丈夫だったのだけれど、由比が――いえ、個人を取り上げて大変だったとかいうつもりはないのよ。それでも由比――失礼、誰がどうとかいうわけではなくてね、由比ヶ浜さんの物覚えの壊滅的悪さのせいで本当に疲れたわ」

 

「結局全部言っちゃったし!?」

 

「ははは。冗談よ。上手にデキテタトオモウワ」

 

 由比ヶ浜は雪ノ下のフォローに胸をなでおろす。雪ノ下の笑顔がいつに増して硬く乾いていたのは気のせいであろう。

 

 雪ノ下はトレイに乗せられたチョコを差し出してくる。

 

「で、あらかた出来上がったから、試食してもらえるかしら」

 

「あっ、ヒッキー、あたしのも結構うまくできたから食べてもらえる?」

 

「……………………………………わかった、食う」

 

「何その異常に長い間は!?」

 

「別にそんな無駄に覚悟を決めなくても平気よ。さっきはああ言ったけど、彼女には私が言った以外のことはさせてないし、もちろんカレーも虫も毒物も混入させてはいないわ」

 

「なんだよそれを先に言えよ。いただきまーす」

 

「どっちもひどい!?」

 

 今までの信用の問題だろう。由比ヶ浜が作ったであろう少し不格好なチョコ食べ、その後に売り物でも通りそうな見た目の雪ノ下のチョコを食べる。流石に雪ノ下には劣るが、由比ヶ浜のチョコレートもまずいというわけではなかった。

 

「まあ、普通にうめえな」

 

「そう、よかった。……由比ヶ浜さん、本当に頑張ってたもの」

 

「え、えへへ、そうかな。ゆきのんには迷惑かけちゃったけど」

 

「そんなことあ――ないわよ、由比ヶ浜さん」

 

「まじの言い直しだし……」

 

 雪ノ下にジト目を送りつつ、由比ヶ浜は自らのチョコを味見し、自ら舌鼓を打つ。雪ノ下はそんな由比ヶ浜を眺めつつ、思い出したように言う。

 

「ああ、三浦さんのチョコづくりも私が見ていたから、彼女のチョコも試食してもらえるかしら」

 

「いや、俺は」

 

「安心しなさい。私が教えたし、彼女自身そこまで不器用というわけではなかったし」

 

 つい否定から入る俺に、雪ノ下は多少強引に勧めて、三浦のチョコに手を伸ばす。

 

 しかし、そこには何もなく、三浦もいない。

 

「あら、三浦さんどこに――」「一色、あんたお菓子作り好きなんでしょ?チョコやるから食え。そして感想を言え」

 

 三浦は一色のテーブルにチョコレートを持って行っていた。一色は心底苦い表情で、いやいやと首を振る。

 

「げ、三浦先輩。なんで私がライバルのチョコに感想言わないといけないんですか。嫌ですよ他の人に頼んでくださいよ」

 

「いいから食えし。あんたならまずかったらまずいって言うでしょ?」

 

「なら雪ノ下先輩でもいいじゃないですか」

 

「……いいから食えし」

 

「……雪ノ下先輩にボロクソに言われるの怖いんですね」

 

「う、うっさい!グダグダ言うな!会長命令だし!」

 

三浦と一色はギャーギャーとやり合い、それを見て由比ヶ浜が苦笑を浮かべ、雪ノ下が額を抑える。

 

「味見させることすら拒むとは……はぁ。これは重症ね」

 

「あはは……そーだね」

 

「まったく、あいつらの不仲には困ったもんだな」

 

『え』

 

 由比ヶ浜と雪ノ下は同じように疑問符を発し、俺を見る。なんかおかしいこと言ったか?

 

「……比企谷君も重症ね。何もわかっていない」

 

「ゆきのん、ヒッキーが何にもわかってないのは、今に始まったことじゃないよ」

 

「それもそうね」

 

「ねえ、なんか俺酷いこと言われてない?」

 

 

 

 

 

 

 由比ヶ浜と雪ノ下から白い目を向けられ逃げるように立ち去ると、

 

「おー、比企谷もきてたんだ。あ、そういえば比企谷も生徒会だっけ?ウケる」

 

「いや、ウケねえから・・・」

 

 いつものように軽く、誰相手にも浮かべる笑みとともに、折本は話しかけてきた。

 

「えー、普通にウケるよ。あの比企谷が、女の子だらけの生徒会に入ってるとか、もう中学の連中に話したらニュースになるレベル。しかも皆ウチとか比べ物にならないくらい、美少女だし!」

 

卑屈さをかけらも感じさせない笑顔とともに、折本は生徒会一同を眺める。

 

「比企谷があんなかわいい女の子たちに囲まれてるなんてね」

 

「囲われてるっつってもあれだぞ、包囲されて逃げ場ないだけだぞ。男子の中に女子一人が放り込まれればオタサーの姫となれるが、女子の中の男子一人は肩身が狭いだけだ。女系の家族の中のお父さんみたいなもんだ。狭すぎてもはや家にも職場にも居場所がないまである」

 

「ぶ、あはは、な、なにそれ!きっしょ」

 

 ちょっと、きっしょのところで真顔にならないでくれます?そういう所だから。男子が女子怖がるのそういう所だから。

 

「やっぱウケるわ、比企谷」

 

「いやだからウケねえよ」

 

 折本は一通り笑い転げて満足したのか、息を整え自分のテーブルに向かう。

 

「ま、いいや。そろそろ戻るね……あ、そういえば」

 

 そして戻る瞬間、思い出したようにつぶやく。

 

「あたし、比企谷にチョコあげたことあったっけ?よかったらあげよっか?本命かもよ~」

 

「はぁ。お前冗談でもそういうことを――」

 

 ガシャーン!!

 

 その瞬間、何かが落ちる音がした。

 

 音の主は三浦だった。床には調理器具がぶちまけられ、一色が呆れた様子で拾い集めている。三浦は一色に「ごめんごめん」と軽く謝る。

 

 そして最後に包丁を拾い上げ、なぜかこちらを向き、とても良い顔で笑う。

 

「ごめん、ちょっと手元狂っちゃったし」

 

 嫌な沈黙が降りる。三浦が背中を見せると、ようやく折本が口を開く。

 

「……ひ、比企谷、ごめん、やっぱりチョコはまた今度で」

 

 その青ざめた折本の顔が、なぜか先ほどの一色と重なった。

 

 

 

 

 

 一通り味見は終わり、今は各テーブルで最後のデコレーションや箱詰め袋詰めの時間に入っている。ちなみに散々チョコを期待していた戸部も、しっかり海老名さんからチョコを貰えていたらしい。『BL』とホワイトチョコレートで大きく描かれたチョコを、引きながらも喜んで受け取った戸部、お前は、強い。

 

流石にデコレーションや箱詰めに味見係は必要ない。またやることも無くなり教室の隅の椅子に腰かけていると、葉山が隣に座る。ちょっと、海老名さんに誤解されるからそういうことはやめてください。

 

 俺がどこうかと思ったが、コーヒーを渡され仕方なくそれを受け取り、座りなおす。味見のし過ぎで流石に口が甘ったるくなってきたところだ。

 

「皆楽しそうだね」

 

 コーヒーに口をつけ、葉山は嘆息する。

 

「そりゃよかった。クレーム付くと面倒だからな」

 

「はは、すっかり生徒会として社畜が板についてきてるな。……君は、どうだった」

 

「どうっつわれてもな」

 

 漠然とし過ぎて答えようがない。どうだったかと言われると、甘かったとしか言いようがない。

 

 彼がチョコの感想だけを求めているのであれば。

 

 しかし葉山は俺の返答を待つでもなく、こちらを一瞥して小さく笑う。

 

「何か吹っ切れたような顔をしているけど、随分窮屈そうにも見える。何かあったのは俺でもわかるよ。――君も、優美子も」

 

「それはお互い様だろ。お前ほど窮屈な生き方してる人間も知らねえよ、俺は」

 

「ははは。これは一本取られたかな。……その通りだ」

 

 カラン。空になった缶コーヒーを指で弾き、葉山は視線を前に戻す。

 

「でも、だからこそ、俺にはわかる気がするんだよ。君が考えていることが」

 

「勝手にわかった気になってんじゃねえよ」

 

「ふ、そうだな。君と俺を一緒にしちゃ悪いか。俺は君ほど優しくないからな」

 

「俺が優しいなら、俺以外の人類は全員聖人か何かだろうな」

 

「そうやってすぐ論点をずらそうとする。――まあいい」

 

 彼は、必死にチョコの仕上げをする三浦を顎で指す。つい俺の視線もそちらに向く。

 

 彼が何を話しに来たのかくらいは、俺にもなんとなくわかる。

 

「俺から見れば、窮屈じゃない彼女の生き方は、とても眩しく見えるよ。好きなことを言って、好きに振舞って、隠したつもりの本音は他人にまるわかりだ。あんな風に生きられたら、俺の人生は随分違うものになったと思う」

 

「さあな」

 

 彼は短く相槌を打つ俺に厳しい目を向ける。思わず缶コーヒーを握る手に力が入る。

 

「君も、そうじゃないのか」

 

「……人はそう簡単に変わるもんじゃない。お前がどう思ってるかは知らんが、俺もお前もあいつも、そう簡単に変わらん。もし、だったら、なんて仮定の話をしても意味がない。それに」

 

 口が止まる。喋り過ぎた。いつものように知ったようなことを言う彼に、ついむきになってしまったのだろうか。

 

 しかし、続く言葉を止めることはできない。

 

 俺はそれを選んで、彼女もそうあることを望んだ。それが答えで、結論だ。

 

「俺はもう、関係しないことにしたんだよ」

 

「関係『しないことにした』、か。今更誰に関係しないのか、なんて無粋なことを聞くつもりはないけど」

 

 ククク。葉山は彼らしくなく、低い声で笑う。

 

「関係『ない』とは言わないんだな」

 

「お前と言葉遊びをするつもりはない。ただそう決めただけだし、そういうことになってる」

 

「そうか。じゃあこれ以上は言わないよ。でも」

 

 葉山は今度は暮れ始めた窓の外を眺め、誰にでもなくつぶやいた。

 

「後悔はしないほうを選んだほうがいい」

 

 そのつぶやきに、説得力はまるでなかった。

 

 

「隼人」

 

 

 

 不意に彼の名前が呼ばれる。彼をそう呼ぶ人間と言えば、それは。

 

「……優美子」

 

 彼女はハート型の箱を両手で持っていた。それはどういう意図で作られ、どういう意味を持つのか。誰にでも理解できてしまう。

 

「悪い、邪魔した」

 

 ここに、いたくなかった。聞きたくなかった。

 

「隼人、チョコ、受け取って。――あーしと、付き合って」

 

 その一言は、俺の胸に澱のように深く沈んだ。

 




いい加減走り切ります


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彼女の独白。

 

 王子様に、憧れてた。

 

 あーしを知ってる人間が聞いたら笑うだろう。信じられない、と驚くだろう。馬鹿にされるかもしれない。

 

 でもあーしはずっと、格好良くて、優しくて、困ってたら助けてくれる。そんなものに憧れてた。理由はよく覚えていない。昔見てたアニメに影響されたとか、絵本の王子様に憧れたとか、多分そんなとこだと思う。

 

 だから隼人を見た時、「見つけた」と思った。格好良くて頭が良くて、いつもみんなのことを考えてて、優しい。そんな隼人に、『王子様』にあーしは夢中になった。

 

 そんな隼人の周りには当然、たくさんの女の子がいた。かわいい子もいた。頭がいい子もいた。優しい子もいた。

 

 でもあーしは負ける気も、退く気もなかった。

 

 隼人は多分、あーしの気持ちもわかってたと思う。だけどずっと、あーしは隼人の側に居られた。隼人はあーしを側においてくれた。

 

 だからあーしは、少しは隼人の特別になってると思ってた。他の子より、隼人のことをわかってると思ってた。隼人はあーしのことを、他の子より考えてくれてると思ってた。

 

 でも、その心地いい関係を、ぬるま湯みたいな関係を変えたくなった。隼人にもっと近づきたくなった。だからあーしは、隼人に告白した。好きって伝えた。

 

 多分、断られるのはわかってた。隼人の側に居たからこそ、隼人があーしを見ていないことを、あーしは知ってた。

 

 それでもいいと思った。今はこっちを見てくれなくても、その目にあーしが映ってなくても、いつかは――

 

 あれ?

 

 あーしは少し、自分自身を不思議に思う。

 

 あーしなんで、急に隼人との関係を変えたくなったんだろう。

 

 なんで、いつかは、なんて考えられるようになったんだろう。

 

 

 最近は自分で自分がわからないことが多い。今日も朝から、あーしはおかしかった。

 

 

 結衣と海老名と話してても、何でもない話がいつもよりずっと楽しかった。いつもはクソ生意気なだけの一色だって、差し入れとか雑用とかやってくれてんのが可愛い、とか思っちゃう。雪ノ下さんの料理の腕は本当に凄くて、あーしらしくなく素直に褒めちぎったりもした。

 

 でも、あいつとだけは話せなかった。

 

 つい、目で追っちゃってるのは自覚してた。あいつが一色のチョコ食ってるの見たときはムカついたし、海浜総合の女子とじゃれてるのは見てられなかった。うん、本当はわかってる。

 

 あーしは多分、あいつのせいでおかしくなってる。

 

 でも、もう決めた。あーしも、あいつも、決めた。言葉は足りなかったけど、あいつの言いたいことはなんとなくわかった。あいつもあーしも、筋の通らないことを許せないから。自分の気持ちに筋を通さないと気が済まないほど、バカだから。

 

 だから、仕方ないんだ。もう、迷いたくないから。

 

 

 

 

「隼人」

 

 だからこれを渡すのは、これを言うのは、今。皆が、ヒキオが見てる、今。

 

 じゃないと、諦められないから。

 

 あーしは横のヒキオを見ないように、隼人の前に立つ。

 

「これ、受け取って」

 

 あーしはそのチョコを、わざとらしいほどピンク色で、アホらしいほどハート型の箱を、隼人に渡した。

 

「……これは、ただの試食かな?」

 

「ううん、違うし。わかってるでしょ?」

 

 わかってるくせに、隼人はそういうことを言う。知ってる。隼人がそういう奴だってことも、知ってる。でも、そんなところだって許せる。そんなところもいいと思える。

 

 あーしが隼人を好きなのも、きっと、本当。

 

 だから驚くほど自然に、静かに、あーしは言えた。

 

「隼人、あーしと付き合って」

 

 さっきまでざわついていた調理室から、音が消える。

 

 そういえば修学旅行の時もこんな感じだったな。あの時はあーし、泣いたっけ。思い出し、つい乾いた笑いが漏れる。

 

 今度は、多分泣かないで済む。それを考えれば、少し気が楽になる。隼人はため息を吐き、立ち上がる。

 

「出ようか」

 

「え、ちょっと、できればここで――」

 

 しかしすぐに隼人に手を取られ、声が声にならない。隼人はあーしの耳元まで近づいて、静かに耳打ちする。

 

 あーしにしか聞こえない声で、隼人は言った。

 

「俺を、君が諦める理由にしてもらっちゃ困るんだよ」

 

 冷たい声。いつもの優しい隼人からは考えられない。そこに私が最初に好きになった隼人の要素はない。でも。

 

 皮肉なことにその瞬間、一番隼人を近くに感じた。

 

 

 

 

 

「このへんでいいかな。さて優美子、続きを聞くよ」

 

 調理室を出て、コミュニティセンターの外まで来た。隼人は入口前の段差に腰掛け、そっとハンカチを敷いてくれ、寒いからと言ってコーヒーを買ってきてくれた。

 

 あーしは、隼人のこういう所を好きになったんだ。優しい隼人を好きになったんだ。

 

 たとえその優しさの向かう先が、あーしだけじゃなくても。

 

 だから、想いを言うことに後悔も、ためらいもない。

 

「さっき言った通りだし。あーしと付き合って、隼人」

 

「それは告白ということかな?」

 

「それ以外ある?」

 

「いや、あの時の君と随分違うから、ついね」

 

「……あの時?」

 

 何を言っているんだろう。たまに隼人はよくわからないことを言う。バカなあーしとは頭の回転が違うからだと思うけど、ついていけないことがある。隼人は苛つくわけでもなく、優しく口を開く。

 

「ずっと前から好きでした」

 

 呼吸が、止まった。

 

 修学旅行の時の告白。あーしは必死だった。気持ちはぐちゃぐちゃで、想いはあふれてきて、言葉は全然纏められなかった。でも。

 

 好き。その一言は、自然と出てきた。

 

「あの時はそう言ってくれたと思ったんだけど、今はそうじゃないということかな?」

 

「違う、そういうことじゃない。そんなこと隼人はもう知ってるから、今更言う必要も――」「そんなこと?今更?」

 

 硬い声音に、つい体が揺れた。

 

「優美子にとって、それはそんなことで、今更なんだ」

 

「だから違うって言ってるし!そんなのただの揚げ足取りで、全然隼人らしくない!」

 

「そこまで言うなら、優美子は言える?もう一回」

 

 今度こそ隼人は優しく、いつものように柔らかい声で訊く。

 

「本当に俺に、好きって言えるの?」

 

「そんなの当たり前じゃん、あーしは隼人のことが――」

 

 あれ?

 

 言葉が出てこない。

 

 好き。一言じゃん。あの時は勝手に出てきた言葉だ。それ以前だって、確かに隼人に対してあーしはそう思ってた。その気持ちは嘘じゃない。

 

 なのになんで、なんで、なんで、なんで今は。

 

 あの顔が、猫背が、腐った目が、ちらつく。

 

 またあいつが、あーしの邪魔をする。

 

「言えない?」

 

「そ、そんなことっ!」

 

 でも、どうしてもその先が出てこない。あーしはバカだ。なんで前はできたことができないの。そんなの簡単なことで、当たり前のことなのに。隼人が好きな気持ちは、本物なのに。

 

 どうしても、言えない。

 

 隼人はあーしの顔を見て目を丸くし、バツが悪そうに頭を掻く。

 

「いや、僕が悪かった。もういいよ。えーっと、ハンカチは使っちゃってるから……」

 

 隼人はポケットからティッシュを出す。

 

「はい。使って。泣かせるつもりはなかったんだ」

 

 え。

 

 目に手をやると、確かに濡れてる。泣かないと思ってたのに。今日はフラれても泣けないと、そう確信してたのに。

 

 隼人は優しくあーしの背中を撫で、少し落ち着くと、なぜかため息を吐いた。

 

「ったく比企谷、本当にどうしようもないな君は……」

 

「え?なに?」

 

 そのつぶやきは小さすぎて聞こえなかった。あーしが聞き返したことに気づかなかったのか、隼人は今度こそいつもの優しい笑みを浮かべる。

 

「優美子。やっぱりチョコは受け取れないよ。告白も受け入れられない」

 

「なんで。あーし、本当に――」「待って。聞いてくれ」

 

 隼人はあーしを短く遮る。

 

「優美子は勘違いしているかもしれないけど、俺も君のことが嫌いなわけじゃない。いや、好きか嫌いかで言えば、だいぶ好きなほうだろう」

 

 一瞬、何を言われたかわからなかった。

 

「……え、ええ!?そうなの?」

 

「自分で告白しといて、その反応はどうなんだ……」

 

「だ、だって隼人は、絶対あーしのことなんて見てないと思ってたから……」

 

「そんなことはないさ。特に、最近はね」

 

 隼人は横並びで座っていた段差から立ち上がり、あーしを見つめる。

 

「だから俺は、本当は君の告白を受け入れても構わない」

 

 その言葉は、予想もしてなかった。

 

「なぜそこで止まるのかな、優美子」

 

 何も言えないあーしに、隼人は厳しい目を向ける。でもあーしは、何も言えない。あーしにだってわからないから。

 

 隼人が好きって言ってくれた。それはすごい嬉しいことのはずなのに。

 

 なぜか、胸が痛い。

 

「本当は告白したくなかったように、僕には見えるんだよね」

 

 違う。そんなことない。またとってつけた言い訳が出てきそうになるけど、いい加減こらえる。あーしはそんな安っぽい言葉を言いたいわけじゃない。そんな言い訳を重ねるために、あーしは隼人に告白したわけじゃないはずだ。

 

 あーしには隼人に言うべきことがある。そのためにここにいるはず。そしてそれは、告白以外にないはずだ。

 

 なのに、なんで。

 

「答えられないよね。そんな状態で、君に答えを返すわけにはいかない」

 

 隼人はその視線を下に向け、今度は座ったままのあーしの横に立つ。

 

「優美子、ここが最後だ。ここで君は決めるんだ。さっきも言ったように、俺は優美子のことが好きだ。特にここ最近の……彼と関わるようになってからの君は、俺にはとても好ましく映る。その必死さも、素直さも、弱さも、強さも」

 

 隼人はあーしが思ってるより、あーしのことを見てくれてたんだ。あーしはぼんやりと、そんなことを思う。

 

「でもそう思ってるのは、きっと俺だけじゃない」

 

 またあいつの顔が浮かぶ。どこまでもあーしの邪魔をする。

 

「優美子、選んでくれ。考えてくれ。本当は誰にその言葉を伝えたいか。その結果が俺なら、その時は君の告白を断る理由も、俺にはない」

 

 突き放すようなその言い方は今までの隼人とはとても遠くて、見たことがなくて、冷たかった。

 

「俺は、待ってるよ」

 

 通り過ぎる隼人を、あーしは呼び止めることができなかった。

 



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ミスドは女子の溜まり場となる。

 

 ポンデリングが、美味しくない。

 

 食べかけのそれを眺めて、あーしはいつものような幸せな気分になれなかった。

 

 甘いものは好きだ。甘いものは人を幸せにする。食べても太らないあーしだからそう思うだけかもしれないけど、甘いものならいくらでも食べれる。ミスドだって好きで、ポンデリングはその中でも大好物だ。

 

 でも、今日はおいしくない。なんか甘く感じられない。パパがたまに、今日はビールがうまいとかまずいとか言ってるのは、もしかしたらこういうことなのかもしれない。一回パパにねだって飲んだことがある。あんなのいつ飲んでもクソまずいと思うけど。

 

 でも、だとすれば。

 

 

 甘いものじゃ満足できないなら、あーしはなにで満たされればいいのだろう。

 

 

「優美子……優美子?……優美子!」

 

 ぼーっとそんなことを考えていると、目の前に海老名の顔があった。

 

「ひゃっ!?な、なんだし海老名」

 

「何だってこっちの台詞だよ。どしたの、さっきからボーっとして」

 

「あ、ああ、別になんでもないし」

 

 まさかあんな恥ずいこと考えてたなんて言えない。あーしはテーブルに置いてある飲み物をとっさに飲み、それを誤魔化す。

 

 隼人と話した後は特に問題もなく、バレンタインイベントは終了した。結衣も川崎の妹もちゃんとチョコ作れてたみたいだし、海浜総合も楽しんでたみたいで成功して良かった。あーしと隼人が戻った時、一色があーしのことひたすら睨んでたけど。

 

 イベントが終わっても、外はまだそんなに暗くなってなかった。明日が高校受験の影響で下校時間が早く、イベントのスタートが早かったからだ。

 

 帰るには早い時間ということもあり、あーしは海老名を誘ってミスドにきた。

 

 海老名はあーしの飲んだものを見て、苦笑する。

 

「それ、私が頼んだコーヒーなんだけど」

 

「あ、あれ?……って苦っ!なにこれ苦っ!海老名、あんたよくこんなの飲めんね。人間の飲み物じゃないっしょ、これ」

 

「まさか勝手にコーヒー飲まれた上に、人間であることを疑われるとは思ってなかったよ」

 

 あーしは急いで自分で頼んだ牛乳で口直しする。飲めるかっての、あんなの。海老名はそんなあーしをいつものように笑い、何でもないように言う。

 

「でも優美子、隼人君に合わせてコーヒーとか無糖の紅茶とか飲むの、止めたんだね」

 

「……別に、そんなんじゃないけど。ただの気分だし」

 

「あっそ」

 

 こいつは何も知らないような顔をして、急に核心をつく。ぷはー、とわざとらしく息を吐き、海老名はこっちに向き直る。

 

「まあいいや。そろそろ聞かせてもらえる?なんで私をミスドに誘ったか」

 

「どうってわけじゃないし。ただミスド食べたかっただけ」

 

「さっきまでチョコレート飽きるほど試食したのに?」

 

 まずったし。マックとかにしとけばよかった。海老名は自分のチーズドッグを一口かじる。ミスドでチーズドッグ。甘いもの食い飽きたとはいえ、やっぱりこいつ、変。

 

「ふふ。隼人君と戻ってきてから――ううん、今日朝会った時から、ずっと上の空だよ。優美子。もしかして」

 

 海老名は悪戯っぽく笑う。

 

「ヒキタニ君と、なんかあった?」

 

「……隼人はともかく、ヒキオは関係ない」

 

「えー、とてもそうは見えないけどなぁ。最近はあんだけ仲よさそうだったし、ずっと近くに居たのに」

 

「違う」

 

「嘘だよ。今日なんてあからさまにヒキタニ君のこと避けてたし」

 

「違うし」

 

「違う?なにが違うの?優美子はどう見てもヒキタニ君に――」「だから、違うって!」

 

 思ったより、大きな声が出た。店内に居る客が一斉にこちらを見る。でも今は、そんなことどうでもいい。

 

「違う。あーしとヒキオはそんなんじゃなくて、ただの生徒会の会長と庶務。クラスメイト。接点はそれだけで、それ以上でもそれ以下でもない」

 

「ふーん、そっか」

 

 海老名は一転、興味なさげに視線を外し、苦い、苦いコーヒーに口をつける。あーしもつられて自分の牛乳を飲む。

 

 五分、ほどだろうか。無言で時が流れ、それが妙に居心地を悪くさせる。

 

 思えばあーしはは海老名と居る時、海老名と結衣と居る時、無言になることはあまりない。彼女たちは常に何か話している。海老名は勝手に自分の趣味の話を、結衣はあの性格だから、いろんな話を。

 

 何も話そうとしない海老名は、珍しく暇そうにケータイをいじっている。こうしてみると普通の女子高生みたいに……いや、かなりかわいい女子高生に見える。これを海老名に言うと無言で怒るから言わないけど。

 

 見ていたことに気づいたのだろう。下を向いたままの海老名は、上目遣いでこっちを見て、ようやく切り出す。

 

「じゃあ、べつのことを話そうか。さっきは、隼人君にチョコ受け取ってもらえた?」

 

「……ううん、受け取ってくれなかった」

 

「なんで?」

 

「なんでって、あーしに聞かれたって――」

 

 考える間もなく、海老名は聞いてくる。

 

「そのためにこのイベントを企画して、雪ノ下さんにチョコの作り方教えてもらったんじゃないの?」

 

「それは……そうだけど」

 

「だけど、なに?」

 

 おかしい。あーしはさっきからの海老名の態度を見て、そう思う。家に帰るのも一人になるのも嫌で、海老名をミスドに誘ったのはあーしだ。海老名なら何にも肩入れせず、あーしの味方にだってならないで、話を聞いてくれると思ってたから。こいつのそういうとこは嫌いではあるけど、ありがたくもある。

 

 悩んでる時、辛い時、苦しい時。海老名は上から目線の同情を押し付けたりは、絶対にしないから。こっちを勝手に惨めな奴にしないから。こいつならただ聞いて、ただ頷いてくれる。ひとりごとを聞かせるにはこいつが一番いい。

 

 だから、海老名がここまで人の事情に首を突っ込むとは思わなかった。

 

「まただんまり、か。優美子は適当に話聞かせようと思って私を誘ったんだろうけど、私も優美子に話があるんだ」

 

 海老名はふー、と大きく息を吐き、いつもかけてる眼鏡を外す。それに度が入ってないことは知ってる。だからあーしは、海老名に何度か眼鏡を止めるように言ったことがある。でも海老名は、絶対外さなかった。

 

 あーしは今、見たことのない瞳に見つめられている。海老名は深く、暗く、あーしを見ている。

 

「私、怒ってるの」

 

 そして、耳を疑った。

 

 怒る?誰が?誰に?

 

 海老名は眼鏡を外したまま、あーしから視線をそらさない。

 

「私、怒ってるよ。珍しく怒ってる。自分でも何でこんな腹が立つか理解できないけど、本当に怒ってる。怒髪天をつくよ、逆鱗に触れたよ、仏の顔も三度までだよ、激おこでぷんぷんだよ」

 

「ちょ、海老名、落ち着いて落ち着いて」

 

「言われるまでもなく落ち着いてる、私は」

 

 海老名の顔は、穏やかだった。むしろいつもより優しく笑っているくらいだ。

 

 でもなぜか、その暗い瞳に、背筋が寒くなった。

 

「……あの、え、海老名?」

 

「なに?」

 

「何で怒ってるか、聞いてもいい?」

 

 つい声が小さくなる。海老名は笑ったまま続ける。

 

「別に、なんてことはないよ。そもそも優美子が悪いわけじゃない。それでも、優美子に怒りたいんだよ、私は」

 

「あ、あーしに!?なんで?」

 

 海老名が怒ってるのは、あーしに対してらしい。海老名はあーしが聞き返した瞬間、深くため息を吐く。呆れたというように、付き合いきれないというように。そんなにあーし、海老名になんかしたっけ。

 

「修学旅行、覚えてるよね」

 

「……まあ、うん。それがどうしたし」

 

 忘れるわけがない。皆で色んな所に行って、色んなものを見て、色んなものを食べて。それで――あーしが、隼人に振られた。

 

「私多分、本当はあの竹林で、ヒキタニ――ううん、もういいか。比企谷君に告白されてたと思う」

 

「あー、そんなこともあったっけ……って、えぇ!?」

 

 意味がわかんないし。ヒキオがなんか小賢しいことやろうとしてたのは知ってたし、ヒキオが飛び出した時嫌な予感したからあーしも動いちゃった。それは確かなことで、間違いない。

 

 でも、なんでそんなこと。

 

「私は戸部君に告白されたくなかったからね。今のグループが大事で、それを守ろうと、維持しようとした。多分あの時比企谷君は私に告白して、私に比企谷くんを振らせて、私が誰も好きにならないことを、戸部君に伝えようとした」

 

 少し前のあーしなら、その意味が解らなかっただろう。くだらないと一蹴してたと思う。でもあいつと話して、あいつに助けられて、あいつの考えてることを少し知った今なら。

 

「……そっか、あの時のヒキオのやり方って、そういうことだったんだ」

 

 あのバカは、そういうこと平気でしちゃう奴だ。自分が傷つくのなんて気にしちゃいない。そうやって、あーしのことも守ってくれたから。

 

 だから、そのくらいならわかる。

 

「うん、多分そうだっと思う。でもね、そんな嘘だらけの茶番を、全部根っからひっくり返しちゃった人が居たの」

 

 あ。

 

 考えてみれば、思い当たる節はあり過ぎた。

 

「私が私なりに悩んで、隼人君に迷惑かけて、奉仕部の皆にも旅行中まで気を遣わせて、比企谷くんにいらない決心までさせた。私の事情で周りを振り回すのは、結構しんどかった」

 

 ヤバ、そういうことか。

 

「で、さっき言ったようにその全部をものの見事にぶっ壊してくれた女の子がいて、私は無事、戸部君の告白を正面から断ることになったんだ」

 

 聞いたことある話だし。

 

「その女の子は、自分の気持ちを伝えることに私たちを巻き込んだ。『友達の恋路に興味ないのか』って、私は言われた。

で、その女の子は好きな男の子に一回振られたの。でも彼女は後悔してなかったんだと思うんだ、その時は」

 

 そうだし、あーしは後悔なんてしてない。

 

「なのにね、今になってね、その子が、私の未来を変えちゃったような子がね。私に向き合うことを強制した子が、自分のそれから目を背けてるんだ。見ない振りしてるんだ」

 

 いよいよ、わからない振りもきつくなってきた。

 

「今日なんてどう見ても半端な気持ちで揺れてるくせに、告白する「振り」して一人ですっきりしようとしてた。向き合わなくて何も言わないことが、自分の選択だと思い込もうとしてるんだよ。……私たちに向き合うことを強制したのは、その子なのにね」

 

 もうあーしは、海老名の顔を見れなかった。

 

「ふざけんじゃねえよこのアマって感じだよね」

 

「ご、ごごっ、ごめんなさぃ……」

 

 思えばあーしに悪い所はないような気もするが、謝らずにはいられなかった。マジで怖い。海老名マジで怖い。普段怒らないやつを怒らせちゃいけないって、こういうことか。らしくない、情けない声まで出てしまった。

 

「ん?別にいいんだよ?謝らなくて。最初に言ったよね、これは正しい怒りじゃない。部外者の私が優美子を責める権利なんてない。だから、優美子が悪いと思う必要なんてない」

 

「そ、そう、だし」

 

「ただ、無性に腹が立って、腹が立って、腹が立って、それで……がっかりしただけ」

 

 怒りに任せた言葉はいきなりしぼんで、海老名はうつむく。その髪が海老名の顔を隠す。

 

「がっかり、した?」

 

 腹が立つのはなんとなくわかる。あーしだってこんなウジウジしてる自分自身に、一番腹立ってるから。

 

 でも、がっかり、とはどういうことだろう。

 

「優美子のやり方って、きっとそんなんじゃないから。だから、がっかりした」

 

「あーしの、やり方」

 

 繰り返しても、なかなかしっくりこない。昔のあーしに見えてたはずで、今は見えてないものがある。それは分かる。多分海老名は……隼人も、それのことを言ってる。

 

 でもあーしにはそれが何か、やっぱりわからない。

 

「私は修学旅行までのグループの関係を壊したくなかった。それは本当。あのまま変化せず、何事もなく残り半年が過ぎても、良かったと思う。たぶんそれはそれでとても楽しくて、綺麗な終わり方だったと思う」

 

 あーしも、そう思う。でもそれを台無しにしたのは、あーしだ。考えてみれば、あーしはなんでそんなことをしたのだろう。

 

「それからはね、関係が変化してからは、結構きつかった。もう戸部君の気持ちに気づかない振りはできないし、たまにそれが重く感じることもあった。告白しようとしてくる男子が増えたり、そういうことに巻き込まれやすくなった。私が面倒で近づきたくなかったことが、私に近づいてきた」

 

 それもあーしの責任だ。海老名に重いものを背負わせてしまった。海老名が遠ざけてたものを目の前に突き付けてしまった。

 

「でも、それでもね、優美子」

 

 不意に、その手が重なった。海老名の手はとても冷たい。あーしは体温高いから、余計それを感じる。

 

 でも、あったかい。そう思った。

 

「私、楽になった。見ない振りをして、気持ちを向けられることに怯えるだけだった時より、全然楽になった。それも本当のこと。戸部君と話すことに、笑うことに、胸を痛めることもなくなった。無理しなくても自然に笑えるようになった。もっと言っちゃえば」

 

 そっか。その彼女らしくない顔に、あーしはようやく理解する。

 

「戸部君にチョコ渡すときなんか、体温が上がった」

 

 チョコっとね。海老名姫菜は、普通の女の子のように、頬を軽く染め、笑う。

 

「全部優美子のおかげだよ。怒ってるのは本当。がっかりしたのも本当。でも、これも本当の気持ちだから。今更だけど、言わせて」

 

 海老名は握った手をほどき、深く、深く、頭を下げる。

 

 

「ありがとう」

 

 

 どうすればいいのだろう。

 

 頭を下げる海老名をみて、あーしはそう思う。

 

 あーしは今まで、自分がやりたいことをやって、やりたいように生きてきた。多分その途中で色んな人間に迷惑かけてるし、あーしのこと嫌いな人間も大勢いる。

 

 でもあーしは正直、それを気にしたことがなかった。人は誰かに迷惑かけずに生きてくことなんてできないし、あーしが誰かに迷惑かけられることだってある。あーしにだって嫌いな奴なんて山ほどいる。他人にとっての嫌な部分もあーしだし、あーしにとって嫌な部分もそいつ自身。いちいち気にしてたら、生きるのが面倒になるだけだ。

 

 だから、自分のしたことを振り返ることもなかった。やりたいようにやって、その責任は自分で取る。それでその問題は終わり。その結果が修学旅行での隼人への公開告白で、あーしが生徒会長になった理由。

 

 想像もしてなかったんだ、あーしは。自分のしたことが、他人にどれだけの影響を与えてるかなんて。

 

 大切な友達を、あーしがどう変えたかなんて。

 

 気持ちに向き合ってなかったのは、海老名じゃない。目の前の女の子は、もうそれを知ってる。それを認めてる。

 

 目を背けてたのは、きっと、あーしだ。いや、あーしだけじゃない。

 

 あーしと、あいつだけだ。

 

 隼人はきっと、そういうことを言ってたんだ。

 

 

 あーしは隼人にチョコを渡す時、体温が上がっただろうか。

 

 

「海老名」

 

「なに?優美子」

 

「だめだ、やっぱり抑えられないわ、あーし」

 

「私が知ってる優美子は、抑えようとすらしてなかったよ」

 

 気づけばうつむいていた顔を、必死に上げる。そこにあるのはいつもの何を考えてるかわかんない、深くて暗い瞳。そして人を食ったような笑み。とても器用なくせに、不器用な生き方しかできない女の子。

 

 この子になら、安心して言える。

 

「あーし、やっぱヒキオのこと好きだ」

 

「うん、そっか」

 

 二人で笑い合う。初めて海老名と、ちゃんと話をした気がした。楽しいと、そう思った。あーしはほんとはまだ全然、この子のことなんて知らなかったんだ。同じクラスでいられるのもあとちょっと。時間が惜しい。知るには時間が足りないかもしれない。

 

 でもあーしには、その前にやらなきゃいけないことがある。

 

「ごめん、海老名。あーし行かなきゃ」

 

「おうよ、早く行ってこい。ここの支払いは私が持つ!」

 

 出世払いか、なんなら今度池袋でなんかおごってくれても……ぐ腐腐。いつものように海老名はわけのわからないことで一人、笑う。いや、もう払ってるから。雰囲気で会話するなし。

 

でも多分、それはこいつなりの気遣いだろう。

 

「海老名」

 

「うん?」

 

 あーしは海老名に背を向けたまま、自然と口は開いた。

 

 やっと、戻ってきた気がする。

 

「あーしこそ、ありがと」

 

 返答はない。しかし無言で背中を叩かれた。それが何よりも心強い。それに押されるようにして、店を飛び出した。

 

 

 あーしには、好きな人がいる。

 



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そして彼女らは告白する。(前編)

 

 バレンタインイベントが終わった。

 

 細かいことを言えばいろんな問題があったが、概ね予定通りに進行した。依頼人である川崎の妹、川崎京華も雪ノ下に教わりチョコを作り、姉に写真を撮られ続けてご満悦のようだった。川崎姉が興奮しすぎてカメラの角度がローアングラーを彷彿とさせるものになっていたが、気のせいだろう。そういうことにしておこう。

 

 後片付けが終わると労いもそこそこに、それぞれ帰路に就いた。まだ早い時間だったこともあり、これからどこかに寄る人間も多かったのだろう。海浜総合の面々は打ち上げがあるらしく、カラオケへ向かった。戸部と葉山は用事があるのか駅へ向かい、一色はそれに付いていった。川崎は寝てしまった京華をおぶり、スーパーへ向かった。どこからどう見てもお母さんだった。三浦は海老名さんと話があるのか、二人でどこかに寄るらしい。今日は雪ノ下の家に泊まるらしい由比ヶ浜は、彼女らについていかなかった。

 

 結局、コミュニティセンター前には元奉仕部の三人が残された。

 

「あはは……皆行っちゃったね。打ち上げとかも考えてたんだけど」

 

「仕方ないわ、由比ヶ浜さん。元々比企谷君を筆頭に、協調性の欠片もない人間の集まりだもの」

 

「そうですね。俺とかお前とかを筆頭にな」

 

「比企谷君?誰と、誰が、同じだと言ったのかしら?」

 

「ゆ、ゆきのんはそんなことないよ!?ヒッキーはミジンコほどもきょうちょうせー無いけど」

 

「結局俺だけがディスられてるんだよなぁ……」

 

 ミジンコって何だよ。とうとう微生物になっちゃったよ。存在感はそれ並みだけども。

 

「これから二人はどうする?帰るにはちょっと早いけど、どっか寄ってく?」

 

 ね、ね。由比ヶ浜はなぜか縋るように雪ノ下を見る。ブンブンと振られる犬の尻尾が見える気がした。犬ガハマさんェ……

雪ノ下はそんな由比ヶ浜を見て軽くため息を吐き、しかし優しく微笑む。

 

「まあ、今日は由比ヶ浜さんも頑張っていたものね。どこか行きましょうか」

 

「やった!……ヒッキーも行くよね?ね?」

 

 犬ガハマさんは今度は俺に向かって前のめりになり、うるんだ瞳で上目遣いをこちらに送る。う……それは色んな意味で卑怯である。主にその大きなメロンとか双丘とか膨らみとかおっぱいとか。はっきり言っちゃったよ。せめてパイオツくらいにしておこう。あら余計卑猥。

 

「はぁ、まあ少しなら。駅集合でいいか?」

 

「やった!行こ行こ!」

 

 由比ヶ浜に返事をするとともに自転車にまたがり、俺は電車の二人と別れて駅へ向かった。

 

 

 

 

 駅で集合した俺たちは、一旦雪ノ下の手荷物を置きに彼女の家へ向かった。駅からは大して距離もない。大きな公園のわき道を抜けるとタワーマンションが見えてくる。

 

 横断歩道を渡りマンションの入り口に差し掛かった時、雪ノ下が足を止めた。

 

 彼女の視線の先を見ると、見覚えのある黒塗りの高級車が停まっていた。

 

 そしてそのドアが開き、一人の女性が下りてくる。

 

 艶やかな黒髪をまとめ、着物姿で真っすぐに歩く。その凛とした姿は彼女によく似ている。俺と由比ヶ浜も雪ノ下へのプレゼントを買いに行った後、葉山と晴乃さんと一緒にいた彼女を見たことがある。

 

 雪ノ下雪乃の母親だ。

 

「雪乃」

 

 雪ノ下はその冷たい声音にまた少し肩を震わせる。部外者はいないほうがいいかもしれない。由比ヶ浜に席を外すことを目線で促す。しかし。

 

 由比ヶ浜と、そして雪ノ下は、首を振ってそれを否定する。

 

 なぜだろうか。

 

「母さん、何の用かしら」

 

「何の用って、進路のことよ。もう決める時期でしょう。あなたの話をまだ聞かせてもらってないから、それを話してほしくて。……それより」

 

 雪ノ下母は俺と由比ヶ浜を見て、小さくため息を漏らす。

 

「学生の身でこんな時間から……雪乃、私はそんなことをさせるためにあなたに一人暮らしを許しているわけではないのよ」

 

 雪ノ下は何も返さない。黙って彼女の話を聞いている。

 

「あなたはそういうことをしないと思ったのに……」

 

 そのつぶやきに、彼女と雪ノ下の関係のすべてが込められている気がした。恐らく彼女は全てを諦めているのだろう。その伏せられた目は、失望とともに吐き出される嘆息は、責めるではなく嘆くような声色は、それをはっきりと感じさせる。そんな彼女をみて、雪ノ下にやはり似ていると俺は思った。

 

 しかし。瞬時に脳裏に浮かんだのは、選挙での彼女の演説。ディスティニーランドでの彼女の独白。彼女は言った。一人でもできる。自分も好きなように行動する。そしてしたたかに、彼女は言ったはずだ。

 

 人ごとこの世界を変える。

 

「母さん」

 

 やはりまだ雪ノ下の体は小刻みに震えている。しかし、一歩も引こうとはしない。目を伏せてはいない。その目はまっすぐに雪ノ下母へと向けられている。

 

「母さんの話は聞いたわ。母さんが私をどう思っているか、改めて理解した」

 

「なら――」「だから」

 

 雪ノ下は雪ノ下母の言葉を遮る。

 

「私のことなら、明日話す。必ず話しに行く。私の心は、もう決まってる。……だから、今は帰って」

 

 やはりまっすぐ、雪ノ下は彼女を見る。

 

「私今日はこの二人と、話さなければならないことがあるから」

 

 そんな彼女に、雪ノ下母は瞠目する。

 

 何を言っているか分からないのは俺も同じだ。言い訳に使われているのだろうか。

 

 しかし雪ノ下の瞳に、嘘も後ろめたさも感じはしない。

 

「なにを言っているのかわからないわね、雪乃。あなたは親との進路の話より、ただの同級生との会話の方が大切だとでも言うのかしら」

 

 正しい。雪ノ下母の言葉はどこまでも正しい。子の進路を親が心配するのは当然のことだ。そしてそれを子が親に話すことも当然のこと。雪ノ下の言葉には筋が通ってはいない。そして俺の知る雪ノ下は、それを誰よりも嫌う。

 

 誰にも間違っていると責められないために。周り己を認めさせるために。

 

「ええ、そうよ」

 

 しかし、当然のように雪ノ下は言ってのける。

 

 正しくないことを、彼女は平然と口にする。

 

「親が子供の色恋話に口を出す方が、よほど無粋だと思わない?」

 

 そして、雪ノ下母は凍り付いた。

 

 

 

 

 

 結局あの後、雪ノ下母は凍り付いたまま、雪ノ下と明日会う時間と場所を決めた。……いや、決めさせられた、と言った方が正確だろう。あの後は雪ノ下の言葉にコクコクと頷いていただけだった。どうやら雪ノ下と同じくアドリブには弱いらしい。というより、誰よりも知っていると思っていた娘の、予想だにしていなかった言葉を理解できなかったのかもしれない。

 

 家に荷物を置きに行った雪ノ下になぜか由比ヶ浜もついていき、俺は彼女の家の近くの公園で待っていた。

 

 そして戻ってきた雪ノ下は、大層満足気である。

 

「あんな母さん初めてみたわ……ぷぷ……あ、あの間抜けな顔……写真でも撮っておけばよかった……くっ……ふふ……」

 

「ゆ、ゆきのん、ずっとこんな感じだよ……ちょっと怖いかも……」

 

「いや、ちょっとじゃねえだろ」

 

 普通に怖えよ。ドン引きの俺と由比ヶ浜に気づいたのか、雪ノ下はわざとらしく咳ばらいをいくつか、ベンチに座る俺に向き直る。

 

「さて……比企谷君。邪魔者もいなくなったことだし、少しお話をしましょうか」

 

 その綺麗な笑顔に、なぜか背筋の震えが止まらなかった。

 

「ごめん、ゆきのん。あたしからいいかな」

 

「……いいわ。私も由比ヶ浜さんの話、聞きたいと思っていたから」

 

「急にごめんね。ヒッキーと別れてゆきのんと電車で駅までくる間にさ、話してたんだ……ううん、ていうか、これはただあたしが聞きたいだけのことなんだけど」

 

 由比ヶ浜は大きく息を吸い、問う。

 

「ヒッキー、優美子となんかあった?」

 

「別に何もねえよ」

 

「そっか」

 

 俺が即答すると、沈黙が降りる。由比ヶ浜には関係ないことだ、それは。言う気もなければ言うべき理由もない。

 

 由比ヶ浜はくるりと俺に背を向け、一人ごちるように口を開く。

 

「あたし優美子と仲良くなってから一年も経ってない。ヒッキーとゆきのんとの時間と、そんなに変わらない。

それでもゆきのんとヒッキーよりは、長く一緒にいたよ。

でも、あんな優美子、あたし初めてみた」

 

 由比ヶ浜は俺に向き直る。

 

「優美子は確かに隼人君にチョコを渡した。……付き合おうって言ってたね。

でも、違う。修学旅行の時に告白した優美子と、全然違うよ。あれは、あんな告白、あんなやり方、優美子っていうよりむしろ――」

 

 由比ヶ浜は、なぜか責めるように俺を見る。

 

「もう一回聞くね。ヒッキー。優美子となんかあった?」

 

 彼女は問う。愚直に繰り返す。何かしらの決着を見ない限り、彼女が納得することは無いのだろう。

 これはある程度認めてしまうことにはなる。だが、由比ヶ浜を諫めるには仕方ないだろう。その視線から目を逸らし、俺はため息とともに口を開く。

 

「知らんと言っている。どう聞かれても知らんもんは知らん。それに……たとえ何かあったとして、それがお前に関係あるか?」

 

「あるよ」

 

 思いもよらぬ即答に、俺は二の句を継げない。

 

 踏み込んでは来ないだろうと思った。こう言ってしまえば、彼女は他人の問題に首をつっこむことはない。優しい由比ヶ浜結衣は、他人の問題を、思いを、踏み荒らすようなことはしない。俺はそう思っていた。

 

 もう一度目の前に立つ女の子を見る。よく見ると街灯に照らされた彼女の脚は、先ほどの雪ノ下と同じく震えていた。しかし、彼女は退く気はない。諦める気はない。決して外されることのない視線から、俺はそれだけがわかった。

 

 由比ヶ浜結衣もまた、当然のように言ってのける。

 

「だってあたし、ヒッキーのこと好きだから」

 

 何も、言えるわけがなかった。

 

 由比ヶ浜は、彼女に似つかわしくない不敵な笑みで続ける。

 

「だから、あたしには関係ある。様子が変なヒッキーと優美子に何があったか、知りたいのは当たり前じゃないかな?」

 

 仮にそうだとして、やはり俺は由比ヶ浜に話す必要がない。そう、言おうとした。理屈ではそうだ。これは俺の問題で、それに彼女の気持ちは関係ない。

 

 だが気持ちを言葉にした由比ヶ浜に、その正論を振りかざすことができない。

 

 俺にできないことをやってのける由比ヶ浜に、そんな言葉を吐く気にならない。

 

「あたしね、いろいろ考えた。最近仲良くなった優美子とヒッキー見てて、本当に色々考えた。

でもやっぱりあたし、馬鹿だから、ヒッキーみたいに難しいこと考えられない。自分がこうしたら誰かが傷つくとか、迷惑かけるとか、ヒッキーほど深くは考えられない。だからもうそういうの考えるの、やめた。あたしはヒッキーが好き」

 

 由比ヶ浜は、問いを繰り返す。

 

「ヒッキーは今、何を、誰のこと考えてるの?」

 

 さすがに、ここまで来てはぐらかす気はしない。震える脚で、かすれる声で、揺れる瞳で、それでも真っ直ぐ俺に向き合う彼女に、適当なおためごかしをする気はしない。

 

 だからまずは、その気持ちには答えようと思った。

 

「俺はお前の気持ちに応えられない」

 

「理由、聞いてもいい?」

 

 その顔は、由比ヶ浜の顔はさっきまでと変わらない。まるでこうなることがわかっていたかのように。

 彼女を見て、やはり俺は思ってしまう。

 

「すげえな、お前は」

 

 気づけば、思っていたことが口に出た。俺はまっすぐに俺を見る由比ヶ浜を、羨ましいと思った。

 

 でも、俺にとっての正解はそうじゃない

 

 なぜなら俺もあいつも、それを言わないことを選んだから。これまでの彼への想いを、これまでの自分たちの時間を嘘にしないために、伝えないことを選んだ。

 

 きちんと言葉にできているのか、ただ思っているだけなのか。その境界があいまいになる。そんなひとりごととも言えない言葉を、俺は垂れ流す。

 

「伝えないことが誰にとっても良いことで、あいつにとって幸せなことなんだろう。あいつが今まで想っていたのは俺じゃない。一時の気の迷いで人の想いを捻じ曲げて良いほど、俺は偉くない。

そんな俺が、誰かに想いを向けることは、もうないと思う」

 

 彼女の顔を見ずに、俺は地面に吐き捨てる。

 

「だからお前の気持ちにも、誰の気持ちにも、俺が応えることは無い」

 

 夜の公園に沈黙が降りる。

 

 下がった視界には由比ヶ浜の顔は映らない。彼女はどんな顔をしているのだろうか。なにを思っているのだろうか。酷いことを、意味の分からないことを言っていると思う。でも、出てきたのはそんな言葉だけだった。

 

「あ、そっか」

 

 しかし目の前の少女から飛んできた声は、硬く、冷たい。

 

「ヒッキーは嘗めてるんだ。好きってこと」

 

 嘗めている。その言葉はなぜかストンと胸に落ちる。

 

「あたし、今いっぱいいっぱいなんだ。こうして向き合ってるだけで足が震えるし、声はかすれちゃうし、心臓がうるさくて壊れちゃいそう。目もまともに前を見てくれないし、ヒッキーの返答だって本当は怖くて聞きたくもなかった。あたしは、自信を持って言える。

あたしは、自分の全部をもってヒッキーに告白した。

それをヒッキーが頭の中で考えたことで、ヒッキーの独りよがりで、納得できると思う?」

 

「無理にお前に納得してもらいたいわけじゃないし、理解してもらいたくもない。ただ、それが俺の出した結論だ」

 

「じゃあ」

 

 由比ヶ浜は一歩前に出て、俺を睨む。

 

「ヒッキーはその人に、一度でも好きって言ったの?」

 

「それを言わないことが、俺とあいつの結論だといったはずだが。言葉にできないし、言葉にしても仕方ないことだ」

 

「ふざけないで」

 

 その言葉は静かだった。しかし、彼女が深く憤っていることがその低い声からわかる。

 

「まだヒッキーはその気持ちを、言葉にしてもない。……違うか、ヒッキーは自分の気持ちを認めてすらない。なのに言葉にしても仕方ないなんて、そんなの」

 

 由比ヶ浜は、ためらうように下を向く。しかし、それでも、彼女は泣きそうな顔で言う。

 

「そんなのただの卑怯者じゃん」

 

 卑怯者。その響きに、なぜか頭に血が上った。自然と声が荒くなる。また俺は卑怯な言葉を口にする。

 

「じゃあお前は気持ちを伝えて、それが正解だと、後悔しないと言えるのか?」

 

「そんなわけない」

 

 さも当然のように、彼女は答えられないはずの問いに答える。

 

「あたしは、絶対後悔する。告白したことも、振られたことも、こうやって偉そうなこといってヒッキーに嫌われたかもしれないことも。もしかしたら――ううん、きっとあたしは、泣く。そんなのが正解なわけない」

 

 彼女は俺だけを見つめ、続ける。

 

「でも、あたしは逃げてない。言いもしないうちからすべてを諦めてなんてない。誰かのためなんて言葉で自分の気持ちをごまかしてない。

ここにいるあたしが、ヒッキーのことが好き。止められなかった。言葉にならなくても、誤解されても、嫌われることが心の底から怖くても、勝手に言葉が出てくるんだ。

だからこれが正解とか、あれが誰かのためとか、そんなのじゃ納得できない。あたしはこの気持ちから動けない。

ヒッキー、言って」

 

 由比ヶ浜は大きく息を吸い、真っすぐに問いを投げかける。

 

「ヒッキーが今一番考えてるのは、誰?ヒッキーが好きなのは、誰?――ヒッキーがそれを伝えたいのは、誰?」

 

「俺は――」

 

 彼女の問いに思わず口は開くが、続きは出てこない。由比ヶ浜は今度こそ続きを催促することもなく、ただ黙って待っている。

 

 どのくらい時間が経っただろう。考えても考えても、問いに対する正解は出てこない。どうするべきか、どうあるべきか。それをいつも考えてきた。彼女はそれを訊いてはいない。それでは彼女は納得しない。誰を想っているか、誰にそれを伝えたいか。彼女はそう訊いている。

 

 俺はそれから目を背けてきた。だから俺が彼女に言える言葉は、なかった。

 

 



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そして彼女らは告白する。(後編)

「はぁ」

 

 深いため息によって沈黙が破られる。黙る俺にため息を吐いたのは、雪ノ下だった。

 

「由比ヶ浜さん、彼いくら考えても答えが出そうにないから、先に私の話をしてもいいかしら」

 

「うん、別にいいよ。ていうかごめんね、待たせちゃって」

 

 由比ヶ浜と雪ノ下が俺に白い目を向ける。いやだって、急にあんなこと言われたら無理じゃん。焦るじゃん。

 

 心の中で言い訳を並べる俺に、雪ノ下はまたため息を吐き、俺を見る。

 

「さて、比企谷くん。私もこの機会にちゃんと告白しておこうかしら」

 

 止める間もなく、彼女は言った。

 

「私は、あなたのことが、嫌いよ」

 

 瞬時に決めた覚悟。それは一瞬で水泡に帰す。

 

「は?」

 

 言葉が出てこない俺に、雪ノ下は滔々と続ける。

 

「その腐った目も、背骨がへし折られたような猫背も、ぱっぱらぱーな髪型と頭の中身も、全部嫌い」

 

「ねえ、唐突に人の外見的特徴を取り上げてディスるのやめてくんない?」

 

「外見にこそ性格がにじみ出るものよ。あなたのそのどうしようもない性格はもう治らないのかしら」

 

「ほっとけ」

 

 まったく何が言いたいのだろう。一通りのやり取りに雪ノ下は少し頬を緩め、懐かしむように夜の空を見る。

 

「ところで比企谷君。ディスティニーランドで私が言ったこと、覚えてるかしら」

 

「……ああ」

 

 彼女は言った。姉のようはなれない、あんなふうに強く生きることはできない。弱みを見せようとしなかった女の子は、自分にはできないと言いきった。

 

 そして、彼女には目的がある。

 

「人ごとこの世界を変える」

 

 雪ノ下と初めて会った時も、彼女はそう言った。

 

「今思えばずいぶん傲慢な考え方ね。何も知らない一人ぼっちの人間が、他者と関わらないための言い訳にさえ聞こえるわ」

 

 彼女は自嘲気味に言う。しかしそこに蔑んだ色は薄い。

 

「でも、その信念はまちがっていなかったと、今なら言える」

 

 だって。雪ノ下は穏やかに微笑む。

 

「変わったもの。私も、あなたも、由比ヶ浜さんも」

 

 人は簡単には変わらない。俺はそう思っていたはずだ。

 

「奉仕部にあなたと由比ヶ浜さんが入って、三浦さんが来て、一色さんの依頼を受けて、生徒会が発足した。思えば結構いろんなことがあった一年だったわ。特にここ数ヶ月は」

 

「……まあ、そうだな」

 

「三浦さんには随分振り回された。修学旅行の時も、その後も、生徒会のことも。好き勝手にやられたわ。……まったく」

 

「でも存外、そんなのも悪くなかった。

私は自分が本当は弱いと知って、でも信念が正しいとわかった。最初はあんなに周りのことばかり考えていた由比ヶ浜さんが、こんなにはっきりと思いを口にできるということを知った。あなたは否定するでしょうけど、そんな中であなたも確かに変わった。あの選挙の演説は、正直驚かされた。

彼女との学校生活で、私たちは少しずつ変わった。私と由比ヶ浜さんはその自分を認めてるし、実際私はそう悪くないと思ってる」

 

 雪ノ下は俺の目を見て、彼女と、由比ヶ浜のようなことを言う。

 

「足踏みしてるのはあなただけ……いえ、あなたたちだけよ。向き合えないことを相手のせいにしているのは、あなたたちだけ」

 

「逃げることはそんなに悪いことか?」

 

「逃げる?目をそむけて見ない振りをしてることを、逃げていると言うの?」

 

 雪ノ下は、俺は逃げてすらいないと、それも否定する。

 

「あなたは逃げてさえいない。逃げたいならさっさと逃げればいい。

私はあなたが由比ヶ浜さんの告白を断る理由にも納得してない。彼女の告白にきちんと答えることができないのなら、今すぐにでも由比ヶ浜さんの想いに応えてあげればいい。その想いに逃避すればいい。逃げるってそういうことじゃないの?

あなたは傷つきたくなくて、傷つけたくないから、目を閉じてるだけよ」

 

 雪ノ下は俺の目だけを見て、言い放つ。

 

「その腐った目、いい加減開きなさい」

 

「……はぁ。お前は変わってなんかねえよ。最初から冷たすぎて、厳しすぎる」

 

「あら、それは褒め言葉かしら」

 

 クスリと雪ノ下は口に手を当てて笑う。

 

「私はあなたのことが嫌い。この期に及んでどうしようもなく情けないあなたが、大嫌いよ」

 

「もういいから。もう八幡のライフはゼロだから」

 

「でも」

 

 柔らかく微笑み、彼女もそれを口にする。俺があいつに言えなかった言葉を口にする。

 

「友達になら、なってあげてもいいわ……その程度には、好きだから」

 

「あ、あたしは友達で終わる気ないからね!……いや、今は友達だけど!」

 

 焦るように言う由比ヶ浜に、思わず笑みが漏れる。

 

 俺には勿体ない友人たちだろう。

 

 

 

 

 

「さて、比企谷君」

 

 雪ノ下は咳払いをひとつ、俺に向き直る。

 

「ただでさえ不幸が服を着て歩いているような矮小な存在のくせに、自分から不幸になろうとするなんて、あなたいったい何様なのかしら」

 

「人の幸不幸を勝手に決め付けないでもらえますかね……」

 

「不幸じゃないというなら、いい加減その辛気臭い面どうにかしなさい」

 

「この面はデフォルトなんだよ」

 

 だから外見的特徴を内面と結び付けるんじゃない。雪ノ下は肩にかかる髪を振り払い、俺を見据える。

 

「あなたの友人として、忠告しておくわ。私の友人が自分から不幸になることを、私は絶対に許さない。せいぜい必死に、みっともなく、あなたは幸せを望みなさい。

私はそうすると決めたから」

 

「忠告、痛み入る」

 

 俺は素直に、雪ノ下に頭を下げる。

 

 由比ヶ浜は優しいだけではなくなった。周りに流されるだけではなくなった。自分の気持ちを伝えるために、他人の心に踏み入れるほど強い。彼女は正解のない問いに、自らの気持ちに従い、それでも間違えることは無い。自分の気持ちに嘘を吐くことは無い。

 

 雪ノ下は強いだけではなくなった。完璧故に脆く、誰かに依存するだけではなくなった。自分の行く末を見据え、他者を、自分を赦せるようになった。彼女は迷い、立ち止まり、一人でも、誰かとでも歩いていける。そんなしなやかな女の子になった。

 

 なら、俺はどうだろう。気持ちよりも義務を、全体にとっての正解を求めるだけだった比企谷八幡は。

 

 変わってもいいのだろうか。

 

 

「由比ヶ浜」

 

「うん」

 

 迷って出なかった言葉。横にいる一人の友人を見る。彼女からは笑みが返ってきた。そして目の前の、もう一人の友人を見る。俺なんかにそれを伝えた、もう一人の大切な友人を見る。

 

 彼女には、言いたい。優しく正直な彼女に、俺の口は今度こそ自然と開く。

 

「俺には、好きなやつがいる」

 

「うん」

 

「くそわがままで、傲慢極まりなく、いつでも自分が一番じゃないと気がすまない。そのくせおかしなところで他人のことばかり考えて、それを必死で隠して、でも周りには筒抜けだ。世話焼きの癖に自分のことになると抜けてて」

 

 そう。そんな奴だった。そんなのといる時間も悪くないと、俺は思っていた。気づいてしまえば、閉じた目を開けば簡単にわかる。

 

「なにがあっても自分を曲げない。どうしようもねえ頑固者だ」

 

「うん、知ってる」

 

「由比ヶ浜」

 

「うん」

 

 だから、俺は。

 

「俺は、三浦優美子が好きだ」

 

「あたしより、優美子の方が好き?」

 

「誰よりも、好きだ」

 

「うっ……」

 

 はっきりと言うと、由比ヶ浜は頬を朱に染め、顔を背ける。

 

「そんな顔で言われたら、納得しちゃうよ」

 

「まあそのために言ったからな」

 

「ひっど、そんなはっきり言わなくてもいいじゃん!」

 

 憤慨する由比ヶ浜に、慌てて付け足す。

 

「はっきり言わないと、雪ノ下に生涯恨まれそうだからな」

 

「比企谷くん?何か言ったかしら?」

 

「いえ、何も」

 

 ひとしきり笑い合い、穏やかに時間が流れる。

 

 友人というのも、存外悪くない。

 

 ふと公園の時計を見ると、まだ遅すぎるという時間でもなかった。

 

 まだ帰るには、少し早い。

 

「やりのこした仕事あるから、さき帰っててくれ」

 

「あら、進んで残業とは珍しいこともあるものね。明日は槍でも降るのかしら」

 

「専業主夫しぼーのヒッキーらしくないね」

 

「ほっとけ。……まあ、いってくるわ」

 

 笑う二人に、俺も笑って返す。自転車にまたがると、後ろから声がかかる。

 

『いってらっしゃい』

 

 重なった言葉とともに、俺は思いきりペダルを踏んだ。

 

 



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彼と彼女はようやく出逢う。

「隼人!」

 

「優美子……」

 

「……」

 

 隼人は、一色と歩いていた。たぶん最初は戸部も一緒に居たんだろうけど、一色に言いくるめられて先に帰ったんだと思う。

 

 隼人の居場所は海老名がメールで教えてくれた。ずっとケータイ弄ってるの珍しいなと思ってたけど、どうやら一色に今いる場所、これから行く場所を教えてもらっていたらしい。あーしが海老名からそれを教えてもらった時、ちょっと自分の友達が怖くなった。――いや、どこまで読んで行動してんの、海老名。

 

「あれ~?三浦先輩?どうしてこんなとこいるんですか?私と葉山先輩でこれから買い物行くんで、用事ならあとにしてもらっていいですか?」

 

 隼人の場所を教えてた一色は、いけしゃあしゃあと言う。駄目だ、あーしやっぱりこいつのこと嫌いだ。今日こいつのこと可愛い後輩とか思ってたの、やっぱり気の迷いだ。あっちもあーしのこと嫌いだろうけど。

 

「ごめん、あーし隼人にちょっと話あるから、一色は外してもらえる?」

 

「えー、別にそれに私が従う理由なくないですか?」

 

「うん、ない。ただ頼んでるだけだし。……あんたにディスティニーランドでされた話。あれの答え、今出すから」

 

「そうですか」

 

 思ったよりはるかにあっさりと、一色は隼人の横を離れる。「ごめんなさい~、また今度買い物付き合ってください」と隼人に手を合わせ、あーしの方に向かってくる。

 

 すれ違う瞬間、一色は立ち止まる。

 

「海老名先輩から頂いた情報料は『三浦先輩がやりたいようにやること』です」

 

 思わず一色を見る。でもそこにあるのは、いつもの小生意気でひたすらムカつくだけの笑顔だけ。

 

「この期に及んでうだうだと嘗めた嘘ついたら、承知しませんから。……私を生徒会に入れた時みたいに、好き勝手にやってください。うじうじしてる三浦先輩、見ててうざいです」

 

 それだけ言い残し、一色はその場からいなくなる。やっぱりクソ生意気なだけの後輩だ。

 

 あーしの責任で一色を生徒会に入れた。それも事実で、あーしがやったことだ。あーしの行動で与えた、確かな影響だ。

 

 でも、今それは関係ない。今更何を言われたところで、あーしの行動は変わらない。心の中で生意気で、可愛い後輩に誓う。

 

 あーしは、好きなようにやるから。

 

「隼人、話聞いてくれる?」

 

「うん、いいよ」

 

 ただの道路。駅が近いから車が多く、時折眩しいライトの光があーしの目に入り、隼人の姿は逆光で見えにくくなる。

 そんな場所でも、隼人は話を聞いてくれる。

 

「さっき言われたことの答え、今、言うね」

 

「うん」

 

 隼人は何のことか、と聞き返すこともない。隼人は待つと言ってくれた。こんなあーしに、自分のことすらよくわかんなくなったあーしに、それでも待つと言ってくれた。

 

 だから隼人に、あーしのが好きになったこの人にまず、あーしの答えを伝えなきゃいけない。

 

「あいつと……奉仕部の連中に関わるようになってから、あーしはおかしい。わかってたんだ

最初はただの興味本位だった。隼人の視線を追ってたら、その先にはいつもあいつがいた。暗くてぼっちで何考えてるかよくわかんなくて、嫌いで嫌いで、あーしが絶対理解なんてできないタイプ」

 

「うん」

 

「わざと悪役を引き受けてるような態度が気に食わなかった。それを何でもないように受けいれてる感じなのも腹が立った。そんな奴のことを隼人が考えてるのも意味わかんなかった」

 

「うん」

 

「あいつのやり方を否定しようとした。そうしたら、なんか隼人に気持ち伝えちゃってた。あいつと話して、時にはケンカも売られて、隼人に好きになってもらえるように頑張ろうとした」

 

「うん」

 

「その後はいつの間にかあーしみたいのが生徒会長になって、奉仕部の奴らと一色と生徒会なんてのやるようになった。絶対合わないと思ってたけど、やってみると結構悪くなかった」

 

「……うん、流石にあれは驚いたよ」

 

「そんなことあって、でね。あーしはなんか知らないけど悩んじゃってた。あいつと話して、一色に諭されて、今日なんて隼人にだって説教されて、ずっとぐらぐら揺れてた。気持ちと体がバラバラになったみたいに。自分の気持ちと行動が一致しなかった」

 

「そうか」

 

「でも、やっとわかった」

 

「修学旅行、隼人に告白した気持ちは本当。

でも、それでも。あいつといて、あいつと悩んで、話して、喧嘩だってして。その時間がなかったらここまで隼人のこと知れなかった。隼人のそばに居られなかった。……ここまで悩むことだって、多分、なかった。

その時間だって、あーしにとっての本当なんだ」

 

 あーしは、もう一度隼人を見る。暗い中でも、やっぱり格好いいのはわかる。顔だけじゃない。いつでも優しくて、周りのこと考えてて、何考えてるかよくわかんない。

 

 だから、この人に。大好きな王子様に、この気持ちを伝えなきゃいけない。

 

「隼人、だから、あーしは――」

 

 黙って話を聞いてくれた隼人は、やっぱり優しく微笑んでいてくれた。あーしはその顔を見て、心の底から想う。

 

 この人を、好きになってよかった。

 

 

 でも、その瞬間。

 

 

「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!っていってえっ!?」

 

 ガラガラガッシャーン。そんな擬音が後ろから聞こえてきた。

 

 突然現れたその物体は、あーしと隼人の横の道路の生垣に、自転車ごと突っ込んでいった。

 

 は?なにこれ。なんだこれ。なんなんだこいつ。

 

 あーしの頭の中がハテナで満たされる。目の前の隼人は面白そうに笑いをかみ殺しているように見える。え、なに?

 

「そ、その話の続き、ちょっと待った」

 

 生垣から腕がニュッとはえてくる。こ、こわっ!

 

 でも、その声は聞き覚えのある声で。

 

 ペッペッペッと口の中に入っただろう砂利を吐き出し、全然格好良くなんかない、泥だらけの格好で、そいつは何とか生垣から立ち上がる。

 

 そして、あーしの前に立つ。

 

「待ってくれ、三浦。その前に、俺はお前に話したいことがある」

 

 久々に、こいつの目を見た気がする。隼人を通してじゃない。初めて、こいつだけを見てる気がする。

 

 ダサくて汚くて、王子様とは程遠い。でもその瞬間、あーしは理解する。

 

 体温が上がるって、きっと、こういうことなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 三浦は、葉山に告白する寸前だった。

 

「は、は?あんた何してんの?今あーしは隼人と話して――」

「だから、待ってくれと言っている」

 

 三浦は困惑しているようだった。葉山はいつものように腹立つ薄笑いを浮かべているだけだ。改めてみるとイケメンだなこいつ。腹立つ。俺の今の汗と泥だらけであろう顔を想像すると余計腹立つ。

 

 こいつらの居場所は一色から教えてもらった。情報料は既に貰ってるからいらないらしい。なんのこっちゃ。

 

 なんやかんやで自転車を思い切り飛ばし、何とか間に合った。自転車をこぎ過ぎて足が鉛のように重い。なんかずきずきと脚が痛いし、手はすりむいて結構な血も出てる。

 

 でも、今はそんなことはどうでもいい。

 

「三浦、俺はわかっている」

 

「わ、わかってるって、何が……」

 

 車のライトに照らされた三浦の顔は、耳まで赤い。さっきから俺に目を合わせようともしないし、なぜかもじもじとしきりに下を向いて指をいじっている。朝からのこいつと同じだ。なんか違う気もするが、一貫して目が合わない。同じだ。

 

「三浦」

 

「な、なんだし、そんなあらたまって」

 

 やはり目が合わない。今までそこそこうまくやってきたと思ったが、もう戻れないのかもしれない。そうでも仕方ないことを俺はした。

 

 三浦の視線が下がる。その視界に映るように一歩前に出ると、三浦はビクリと肩を震わせる。本当は言うべきじゃない。

 

 でも、言わずにはいられない。

 

「お前がまた、葉山に告白しようとしているのは分かっている」

 

「…………は?」

 

 三浦の震えがピタリと止まる。顔を上げると、そこには何の感情もない。かろうじて読み取れる感情は、困惑。俺は構わず続ける。

 

「それはわかっている。ただその前に、昨日の質問に答えさせて欲しい」

 

「は?隼人に告白?昨日の続き?あんた、何言って――」

「言いたいことは分かる。邪魔すんなってのもわかる。でも聞いてくれ。これは俺のわがままだ」

 

 俺は彼女を遮る。冷静になられると困る。俺が今していることは、まったく筋が通ってない。こいつの気持ちに割り込むことも、告白を邪魔することも、どう考えても正当ではない。関係ないからどっかいけと言われてしまえばそれまでだ。俺は早口で続ける。

 

「お前は俺に『自分のことが好きか』と聞いた。それに、答えさせてくれ。

お前が葉山のことを好きなのはわかっている。多分、今となっては誰よりも俺はそれを理解している」

 

 

 

「え、え、は?そんなこと言われなくても、あーしはあんたのこと――」

「いや、だからわかってる。言わなくていい。お前が見ているのは俺じゃないことは知っているし、見返りが欲しいわけでも、それに応えてほしいわけでもない」

 

 ビキリと、三浦のこめかみに青筋が立った気がした。まずい。闖入をキレられる前に伝えなければ。俺は早口でそれを伝える。

 

 いま、言わなければならない。

 

「ただ俺は、お前のことが――っていってぇ!?」

 

 想いを伝える瞬間、殴られた。目の前の女に殴られた。え?は?痛い。とりあえず痛い。

 

 殴られた腹を押さえながら見ると、三浦はやはり下を向き、俺とは目を合わせようとしない。また肩が震えているし、握りこまれた拳もプルプルと震えている。俺は舌打ちしたくなる衝動を抑える。やはり先にキレられたか。どっか行けと言われるとこまる――

 

「ねえ、あんた、バカ?何さっきからこっちの話も聞かないで、勝手なことばっか言ってるわけ?」

 

 低く、冷たい声に思考まで遮られる。三浦は一つ一つ言い聞かせるように、言葉を放つ。弱みを見せてはいけない。俺が関係ない闖入者だと気づかれてはいけない。

 

「いや、だから、お前が葉山のこと好きなのはわかってるから、聞きたくないって言ってんだろ。その前にする話があると。お前こそ何言ってんだ。バカか?」

 

 プチン。

 

 その音は、確かに聞こえた。

 

 そして、獄炎の女王は爆発する。

 

「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!ほんっと、あんた、何っっっにも変わってないし!」

 

「な、なにを、俺は全部無視して、お前に気持ちを伝えようと――」

「結局自分のことばっかりじゃんあんたは!あーしの話なんて全然聞かないで!あんたは自分の都合押し付けるだけじゃん!あーしのことなんて考えてないんだ、ヒキオは!」

 

 なぜか彼女はぶちぎれていた。意味がわからない。ここまでキレられるほど悪いことをした気はないが。もしかしたら女の子の日だろうか。

 

「い、いや、お前のこと考えてるから、今こうしてここにいるわけで――」

「うっさいうっさいうっさい!何勝手にわかった気になってんだしこのクソ鈍感!余計なことばっかわかるくせに、なんで肝心な時に何にもわかんないわけ!?」

 

「三浦!」

 

「もういいし!」

 

 三浦は俺から背を向け、ドスドスと不機嫌を足音にし、どこかに行こうとする。行かせるわけにはいかない。とっさに彼女の手首を握る。彼女は俺に背を向けたまま立ち止まる。

 

「お前こそ、俺がなんでお前のこと諦めてたか、わかってねえのかよ」

 

「……え?」

 

 それを聞いた瞬間、激昂していた三浦は俺に向き直り、俺に問い直す。

 

「今、諦めてた、って」

 

「ああ、そうだ。諦めてた。お前のために、俺とお前のこれまでの時間のために、諦めてた。

でも、もうやめだ。それを伝えにここまできた」

 

 うつむく三浦とさらに距離を詰める。もう俺たちの間に距離はほどんどない。少し手を動かせば触れてしまいそうなほど近い。

 

 そして彼女の耳元で、それを言葉にする。

 

「もう俺は、お前を。三浦優美子を諦める気はない」

 

「―――――ッッッッッッ!!!!!!!!」

 

 ボン。そんな音が聞こえるかと思うほど、三浦の顔が真っ赤になる。それはもう、怒りではないのかもしれない。

 

「散々考えた。お前の隣にいて、いくらか助言をして、演説までさせられた。お前はいつでも一つの目標にひたすら向かっていった。その目に映っていたのはいつでも俺じゃなかった。俺はそんなお前が、一つのことだけに突っ走れるお前が羨ましかった。

でも、いつからかそれだけじゃなくなった。傍から見てるだけじゃ足りなくなった」

 

 俺越しに彼を見ていた彼女。嘘を赦さず、彼だけを見て告白した彼女。彼に恥じないために会長となった彼女。

 

 でも、俺はこう思ってしまう自分を結局抑えられなかった。

 

「比企谷八幡だけを、三浦優美子の目に映したいと思うようになった」

 

 だから、俺は。

 

 しかし言葉は続かない。俺の唇に指が当てられる。

 

「あーしだって、言いたい」

 

 三浦は顔を俺に向ける。大きな瞳にはいっぱいに雫が溜まり、今にも零れそうだ。俺はそれを手で拭う。無意識だった。血と泥で汚れていることに気づき、反射的に引っ込めようとする。

 

 しかしその手は、優しく包まれる。三浦の手に包まれる。彼女は顔と手が汚れるのも気にせず、俺の手を弄ぶ。

 

 そして泣き顔のまま、弾けるように少女は笑う。

 

「やっと、つかまえた」

 

 その笑顔は涙でぐしゃぐしゃで、俺の血と泥すら付いて、とても綺麗とは呼べない。でも、俺は心の底から思った。

 

 やはり三浦優美子は、世界一可愛い女の子である。

 

 



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やはり彼女にはかなわない。

 三浦と見つめ合い、手をにぎにぎと握り合い、どのくらいの時間が経ったのだろう。不意に鳴る着信音で意識が現実に戻る。三浦もそれでようやく我に返ったのか、バッと手を放し身をひるがえす。

 

「あ、すまん。電話だ」

 

「あ、あーしこそごめん、ひっついっちゃって……」

 

 三浦は自分のしていたことに気づいたのか、さっきまでつながっていた手をまじまじと見つめ、何やら悶えている。そういう反応は本当にやめて欲しい。こっちまで今更恥ずかしさに気づいてしまう。

 

 誰にでもなく咳ばらいをし、着信画面を見る。電話の主は小町だった。

 

「あー、もしもし?小町か?」

 

『あ、お兄ちゃん?もしかして帰り遅い感じ?』

 

「そうだな、もうちょいかかるかもしれん」

 

『そっかー。小町明日受験なので、先に寝てるからね。悪いけど、ごはんとかは自分でどうにかしてね』

 

「あー、そうだったな、すまん。すぐ帰る」

 

『いいよいいよ、今日バレンタインだし、なんかあったんでしょ?誰とかは分かんないけど……ゆっくりしてきなよ』

 

「いや、すぐ帰るよ。千葉のシスコン兄貴を舐めるなよ」

 

『まーたアホなこと言ってるよこのごみいちゃんは……ま、そういうなら止めないけど。気を付けてね』

 

「おう」

 

 電話を切り、ため息を吐く。そうか、明日は小町の受験日だった。イベントのこと、三浦のことと色々あり、すっかり忘れていた。千葉の兄貴にあるまじき失態だ。

 三浦に向き直ると、白い目で俺を見ている気がする。

 

「……シスコン」

 

「ただの事実だからダメージにならんな」

 

「でも……もう帰っちゃうんだ」

 

 三浦はイジイジと足で土を弄り、上目遣いで俺を見る。うぐ……それは卑怯じゃないですかね。

 

「まあ、同じ生徒会だし別にいつでも」

 

「明日高校受験で休みだけど」

 

「……だから?」

 

「あ、し、た、高校受験で休み。学校、ない。あーし、暇」

 

「……」

 

「……」

 

 沈黙が降りる。達人の間合いと言うやつだろうか。三浦は無言で俺を睨み、じりじりと何かを要求しているようだ。いや、なにを?何を求めてるのこの人?

 

 にらみ合うことしばし。そんな俺たちをみて、どこからか笑い声が聞こえた。俺と三浦は同時にそちらに向く。

 

「あ、ごめんごめん、続けてくれ。……お邪魔だったかな?」

 

 そこには、バツが悪そうに苦笑を浮かべる葉山隼人がいた。

 

 あ。

 

 俺と三浦は顔を見合わせ、流石の彼女の顔も青くなる。俺もそうなっているだろう。

 

「ご、ごめん隼人!さっきの話の続きなんだけど……」

 

「いや、流石にもういいよ。わかったから。とりあえず俺が砂糖もしくは血を吐き出す前に、帰らせてほしいかな」

 

 話の途中に割り込んだのは俺だった。彼は律義に三浦に話の続きをするのを待っていたのだろう。流石に申し訳ないことをした。

 

 だが、三浦はそれを拒む。

 

「それでも、隼人。言わせて欲しい」

 

 今は、彼女の目に俺は映っていない。一歩引き、三浦と葉山が向き合う。

 

「あーし、隼人とちょっと離れて、わかった。皆といて楽しそうなのに、たまにすごい寂しそう。優しいのにゾッとするほど冷たい時もある。そういうのも隼人なんだよね。格好いいだけでも、優しいだけでもないんだ、隼人は」

 

「……どうかな」

 

「ううん、多分そう。隼人だって全然完璧なんかじゃなくて、王子様でもない。よくわかったし」

 

 そうつぶやく彼女の目には、侮蔑の色はない。その瞳は、初めて向かい合ったあの時から、昼休みのベストプレイスから、何も変わりはしない。

 

 彼女は、彼だけを見ている。

 

「だから今度はあーしから、最後に」

 

 ゴホン。黙る葉山に三浦は咳ばらいを一つ。悪戯っぽく笑う。

 

 それは、意趣返しだったのだろうか。

 

「隼人も、ちょっとはわがまま言っていいと思う。もっと好き勝手やっていいと思う。好きな人いるなら、好きって言っていいと思う。我慢しなくていい。あーしに言ったでしょ。隼人だって、ちょっとは好きにやってみろし」

 

 葉山は瞠目する。今まで葉山にとって、三浦は一途に自分を想う、大多数の女子の一人だったはずだ。

 

 だが、今それは変わる。

 

「あーしだって、隼人より好きな奴できたから」

 

 葉山は、笑った。諦めるように、羨むように。ただのイケメンでも王子でもない。その翳のある笑みは、なるほど絵になる程度には彼に似合っていた。

 

「本当に変わったね、優美子。忠告、ありがたく受け取っておくよ」

 

 やっぱり後悔するかもね。そう小さくこぼし、葉山は俺を一瞥する。

 

「比企谷」

 

「なんだ」

 

「君も、ちゃんと言葉にしといたほうがいいと思うよ。君たち二人とも、どう見ても面倒くさすぎるからね。またすれ違わないように」

 

「面倒くさいのはお前も同じだろうが」

 

「ははは。まあ否定はしない。……じゃあね。馬に蹴られたくはないから、この辺で退散することにするよ」

 

「おう。その、なんだ。……色々すまなかったな」

 

「じゃあね、隼人」

 

 三浦と俺の言葉は彼に届いたのだろうか。葉山は後ろ手にひらひらと手を振り、一人街へと消えていく。

 

 その姿に、不覚にも格好いいと思ってしまった自分を、殴りたい。

 

 

 

 

 しかし、俺にもはっきりとさせなければならないことがある。

 

「三浦」

 

「なに?」

 

「俺も、さっきの話の続きだ。昨日のお前の問いへの答え」

 

 葉山に言われたからではないが、俺はまだはっきりと言葉にしていない。それを言うために来たのだ。

 

「やだ」

 

「……は?」

 

 しかし、彼女は俺が口を開く前にそれを拒否する。

 

「やだ。こんなとこで聞きたくないし」

 

「ちょ、おま、何言って……」

 

 三浦は黙って俺を指さす。俺は冷静に自分の現状を確認する。体は泥だらけ、手からは血が流れてて、汗だく。顔はさぞ酷いことになっているだろう。

 三浦はそんな俺を見て嘆息する。

 

「ムードもクソもないじゃん」

 

「……まあ、かもな」

 

 一応、納得する。俺は三浦が存外乙女であるということを知っている。彼女の中には理想のシチュエーションというものがあるのだろう。これは流石にあんまりか。

 

「あんたの妹、明日受験なんでしょ?早く帰ってあげなよ」

 

「ま、それはそうなんだが……その、本当に良いのか?」

 

「うん。それに今言われたら、なんか、雰囲気に流されておっけーしたみたいで、やだ」

 

 三浦は目を伏せ、何でもないようにつぶやく。

 

「あーし、ホントにヒキオのこと好きなのに……」

 

 心臓がつかまれた気がした。

 

 呼吸が早い。鼓動が早い。頬が熱い。三浦を見ると、自分が知らぬうちにつぶやいていたのに気づいたのか、また見る見るうちに顔が真っ赤になる。

 

 こ、この女王様、ポンコツなのも最初から変わっちゃいねえ。

 

「い、いまのなし!なしね!なし!なしだから!わ、忘れろっ!」

 

「わ、わかった。わかったから。落ち着け」

 

 ドウドウドウ。馬をあやすように、ポカポカと俺を殴る三浦を押しとどめる。

 

 全然痛くない猫パンチだった。

 

「と、とにかく!あーし待てるから。今日以外がいい。明日でも明後日でもいい。いつでもいいから。今日以外がいい。安心して。あーしは、変わんない」

 

 彼女は赤い顔を隠すように俺に背を向ける。

 

「明日だって明後日だって、毎日好きだから」

 

「よく言う」

 

 俺も彼女に背を向ける。見ていられない。さっきのは無しと、忘れろって言ったのは誰だったんですかね。

 

 多分、だから彼女も背を向けたのだろう。顔なんて見られない。

 

 彼女は言った。明日でも、明後日でも、毎日好き。反芻すると、胸の奥がかっと熱くなるのを感じる。

 

 ならば。

 

 思うと同時に、体は動いていた。

 

「三浦」

 

「ん?」

 

 気づけば振り向く彼女は、俺の腕の中にあった。

 

 三浦はあわあわと俺の腕の中で困惑する。

 

「ひゃっ、ひ、ヒキオ?だ、だからあーしはいつでもいいって……」

 

「なら、今でもいいだろ。と言うか、今がいい。申し訳ないが我慢できん」

 

「こんなシチュエーションやだって言ったじゃん」

 

「だめだ。俺はお前とは違う。男だ。女ほど我慢強くない。明日なんて待てそうにない」

 

 彼女の肩を掴む。その目は再び俺と会う。

 

 俺にとってのそれは、今だったのだ。

 

「俺は今、お前が好きだ。お前だけが好きだ」

 

 全てが止まった。彼女の揺れる長髪も、行き交う車のライトも、柔らかく照らす月光も。俺と彼女から切り離された。

 

 時が止まったような、気さえした。

 

 止まった時計の秒針が、彼女の笑いによって動き出す。

 

 ニシシ。嫌がっていた割に、その言葉を聞いた三浦は明るく笑う。その笑顔は月よりも明るく、太陽よりも輝いていて。

 

「知ってるし、()()()()()

 

 その瞬間、体に重みと温もりを感じる。長い黒髪が耳をくすぐる。飛び込んできた彼女の体は思っていたよりもずっと小さく、細く、頼りない。しかし誰よりも強い。俺はそれを知っている。そんな姿に憧れた。救われた。

 

 その笑顔を、ずっと見ていたいと思う。

 

「ヒキオ。ずっと、大好き」

 

 やはり俺は、三浦優美子にはかなわない。

 




えー、はい。お疲れさまでした。一応の最終回です。ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。これからは二人のただの学校生活を書きます。

さて、色々思うことがあり、この作品に対して思っていたことを書かせていただきたいと思います。
私は普段、作者が作品に対する言い訳や説明をすべきではない、と考えております。作品と読み手というのは、作者の意思を介入せず、一対一であるべきだと思うからです。作者が読み手にバイアスをかけてしまうのは、健全な読書ではない。

しかし何も言わずに最終回を迎えるには、この作品は長く続き過ぎてしまいました。終わってからなら私の好き勝手言ってもええやろ、という感じです。
だから本当に読まなくていいです。私が満足したいだけです。文字制限のないTwitterみたいなもんです。

では、興味ねえよって方は、この辺で。読んでくれて本当にありがとう。




そろそろ誰も読んでいないでしょうか。はい。では。ちなみに今四本目のストロングを空けました。私は文章を書くときは大抵酒を飲んでいます。

もとはと言えばこの作品は海老名さん√のついでに書き始めたものでした。海老名さんは実は高校生の時から好きなキャラで、少しだけ「こんな話あったらいいな」と妄想していたものです。
と言ってもプロットも何もありません。正月の暇つぶしに筆をとり、思ったより文章を書くことにはまってしまった。それが私の創作の始まりです。

そんな中あーしさんは、大して好きなキャラでもありませんでした。海老名さんは好きでしたけど。こんな女現実にいたら大抵うぜえな、くらいに思っていました。

しかし、一話目から何か手ごたえを感じてしまった。正直、海老名さん√より遥かに手ごたえを感じていました。実際、確かあーしさん√の一話目は二時間くらいでかき上げたはずです。あの時プロットもストックなしで日に二本あげてたのすごいな私。

たぶん、私は少女漫画が好きなのです。恋愛には障害があったほうが燃える。あーしさんの場合、明確な障害、葉山隼人君がいました。一途な彼女だからこそその障害は高かった。

そして書いていく中で、この作品の転機となる話がありました。修学旅行編、「その告白は誰にも届かない」です。

多分、私はここで満足してしまったんだと思います。色んな方面にヘイトの向く話だとは知っていました。でも、ちょっと変わった私の書くあーしさんなら、全部壊してくれる。全部をまちがえずにいてくれる。

実際自分でもうまくかけたと思います。多分、今なら書けないでしょう。だから余計満足し、その後は更新頻度が段々と落ち、なんと半年更新が途絶えてしまいました。本当に本当に本当に、ごめんなさい。海老名さん√の更新が止まったのもほぼこのお話のせいです。重ねて、ごめんなさい。

その後はあーしさんが生徒会長になりました。実は私、ここでも満足してしまったんですよね。ゆきのんとガハマさんと八幡の演説。いや、青春してましたね。ちなみにあーしさんの演説はいまいちだったと思います。上手くまとまらなかった。

選挙後の平塚先生と八幡の会話は、正直悩みました。ゆきのんと八幡の気持ちを説明をさせたかったわけではない。でも書いてみるとやっぱり平塚先生は格好良くて、これまた自分でもよく書けたと思います。

多分このあたりから迷走してんな、と思う人もいたのではないでしょうか。幸いそのようなコメントはあまり見かけなかったのですが。私自身あーしさんが生徒会長になるのはあまり違和感がなかった。

その後、ディスティニーランド編。私は恋愛というのは決定的な何か一つの出来事で決まるわけがない、と思っています。積み重ねた時間や小さな日々の一つ一つから、自然と誰かに惹かれていくものだと思う。
だから、ここでは少し近づいた彼らが書いてみたかった。大学生に朝からナンパされるあーしさん。それを助けてもらったから、八幡に惹かれたのか?多分違うと思います。痛々しいやり方で急場を凌ぐ八幡を、彼女は否定しなかった。それが彼と彼女のその時の距離であり、近づいているのを表現したかった。

それを表現したお話がもう一つ。「意外に彼女は彼を知っている。」八幡の悪口を言う大岡と大和をあーしさんが諫める、という内容にするはずだったのですが、八幡に近づいた彼女は「そんなことない」とそのまま否定するでしょうか?いや、ない。私はそう思い直しました。
彼女は彼が格好良くないことも、卑屈であることも、自分を大切にしないことも知っている。だからこそ、何も知らない彼らが言ったことをどう感じ、考えるか。賛否の多いお話でしたが、あなたにはどう映ったことでしょうか。

そして、サッカー対決。葉山君とサッカーで対決するぞ!というお話です。
ぶっちゃけなんでこうなったか、あんまり覚えてません。確か最初は原作をなぞってあーしさんが元奉仕部に相談し、マラソン大会もやるはずだったんですが、多分あまりに原作にしかならなくて没ったんでしょう。書いた覚えありますから。

よく書いたと思います。正直話の内容には納得していませんが、よく書ききった、と言う方が正確でしょう。自分で言うのもなんですが、私絶対ここで投げると思ってました。
だってサッカーとかやったことないし、葉山君のことも好きでもないですから。あーしさんも出てこないし。
でも、思ったよりあっさり書けた。やはり隼八は至高なの?私は海老名さんの趣味は全く理解できないが。

そして文理選択で物語は加速します。いい加減自分の気持ちに気づき始めたあーしさん。
最初の彼女なら、真っすぐにそれを八幡にぶつけていたでしょう。私の書く最初のあーしさんは、強く、頭が良い。私はヒロインとして彼女をそう設定しました。それは一話から「その告白は誰にも届かない」のあーしさんです。

しかし、彼女は変わってしまいました。告白の後、彼女は女子の視線に怯え、葉山の気持ちが向かないことに挫けそうになります。

ここで問題が発生しました。彼女は強く、真っすぐな「ヒロイン」から、考えて悩む「主人公」になってしまいました。

さて、これは非常によろしくない。私は焦りました。最初の予定だとうじうじ悩む八幡に、あーしさんが「くだらない。あーしと付き合え」くらいで終わらせるつもりだったんですが、どうも彼女はそんな風に格好良く、主人公を救ってくれる「ヒロイン」ではなくなってしまっていたらしい。知らないうちに。

だから、話は長くなってしまいました。主人公が二人に増えたからです。両方が悩み、考えなければいけなくなった。

そして主人公が動くには、多かれ少なかれ、外的要因が必要になります。八幡が動く理由は最初はヒロインであるあーしさんでしたが、ではあーしさんの動く理由は?最初の話と矛盾するように聞こえますが、どうやら恋愛には理由が必要らしい、ということに私は気づきました。

そこで海老名さんが矢面に立ちました。あーしさんは最終的に、友達に言われたから動いた。そう思った人もいるでしょう。しかし、仕方ないのです。彼女はもはや主人公なのですから。理由なしに「八幡が好きだ」というわけにも、気づくわけにもいかなくなった。まあ私自身海老名さん回は満足してるからいいんですけどね。

そこから先は、こうなりました。葉山君には申し訳ないことをしてしまった。でも、彼は今のあーしさんの告白を受け入れるわけがないと私は信じていました。誰よりも本物に憧れる彼なら、そんなことをしない。してくれたらお話終わっちゃうからダメなんですけどね。

さて、タイプする指もだるくなってきました。すこし格好をつけて、二つほど言葉を引っ張ってくることで後書きを締めくくりましょう。

「恋はするものではなく、落ちるものである」と言う人がいます。私もそれを支持したい。そっちの方が楽じゃないですか。人を好きになることに理由なんて求めたって、碌なことにならない。だってその人が自分のことを好きになるとは限らないし。恋がかなわなくたって、運命のせいにできる。落ちるものだから仕方ないや、って。

片や「愛は技術である」と言う人がいます。かの著名な心理学者の言葉です。愛は技術であり、そこには知識も努力も労力も必要である。私は勝手にそんなもんだと思ってます。浅学をお許しください。
多分、これを支持する人は少ないと思われます。私は支持しない。だって、面倒じゃないですか。さっき言ったように、人を好きになったからってその人が自分を好きになってくれるとは限らない。今好きでも、明日にはそうじゃなくなってるかもしれない。ならそこにかけた知識も努力も労力も、全部無駄になる。

だから最初から運命に任せて恋に落ちたほうが合理的である。私はそう思う。

でも、彼らは違います。八幡とあーしさんは、いちいち自分が誰かを好きなことに理由をつける。理屈をつける。そうでなければ動かない。

あれがあれで、こうだから、自分はこいつが好き。そんな理由の一つ一つが、今までの45話のお話です。だから長くなった。二人とも主人公で理由が必要だったから、皆さんをやきもきさせてしまった。最後に言いたかったのはそれです。重ねて、ごめんなさいでした。

五本目のストロングを開ける前に、いい加減終わりましょう。肝臓に悪いし。ここまでこんなつぶやきみたいな文章に付き合ってくれたあなた。マジでありがとう。

このお話は、まだ続きます。イチャイチャした二人の学校生活、私は今から楽しみです。なぜこんなに楽しみなのか。この文を書いていてなんとなくわかりました。

なぜなら、これからの彼らには理由が必要ではないから。

理由のない甘い二人の学校生活。ぜひお楽しみに。


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やはり彼女と彼はお似合いである。

 小町の受験が滞りなく終わり、少しばかり経った、朝の学校の昇降口前。

 

 俺は朝から、危機的状況に立たされていた。

 

「なあ、三浦よ」

「なんだし、ヒキオ」

「いや、なんだしじゃなくてだな」

「……あ?言いたいことあるならはっきり言いな。あーし、煮え切らないの嫌い」

「だから、その」

 

 俺は横でスマホを弄る三浦を一瞥し、目を逸らす。

 三浦の話によると、今日も『偶然』俺の家の前を通りかかり(この偶然は三日目になる)、『気まぐれ』で登校をご一緒してくれたらしい(この気まぐれも三日目になる)。もちろん俺が彼女をチャリの後ろに乗せて。正直こいつ重いから、朝から割と疲れたのは胸の内に秘めておくことにする。

 

「ヒキオ。今なんかうざいこと考えなかった?」

「いえ、滅相もないです女王様」

 

 怖い。あーしさん怖い。心読まないで。

 

「ったく、ぐずぐずすんなし。……早く教室行こ」

 

 昇降口で突っ立っている俺を、三浦は急かす。その手は俺の制服の袖をつまんでいる。葉山にしていたように腕を絡めるのではない。チョコンと、軽くつまみやがっている。

 その常にない控えめな彼女の仕草に、グッとくるものがないと言えば嘘になる。しかしそんな彼女との距離も三日目ともなれば、それなりの問題も生まれてくる。

 

 例えば、後ろで話す女子二人組の会話。

 

「あれ、生徒会長じゃん」

「隣にいる冴えないの誰?」

「なんか最近一緒に居るとこ見る気がするけど……誰だろ」

「ていうかなんか近いよね」

「きゃっ、見てあれ。あの怖い生徒会長が制服の端つまんでるよ」

「うわー、あの人もあんなことするんだね。普通の女の子みたいじゃん」

 

 恐らく、三浦にも彼女たちの声は聞こえているだろう。しかし三浦は気にする様子もなく、右手でスマホを弄り、左手で俺の裾をつまんでいる。

 

 全く色んな意味で、心臓に良くない。

 

「あの、三浦さん?……そろそろ適切な距離に戻りませんか?」

 

 昇降口で上履きに履き替え、未だに距離の近い彼女に一応の提案をする。三浦はちらりと目線を横に流し、またスマホの画面へと視線を落とす。

 

「これが適切な距離っしょ……つ、付き合ってんだから。あーしら」

「……周りにとってはそうじゃねえだろ」

 

 ほんの少し言いよどむ彼女に、俺は当然の反論をする。彼女は少し口を尖らせる。

 

「別にあーし、周りにどう思われても気にしないけど」

「お前がよくても俺が気になる」

「……ヘタレ」

 

 否定できないのが情けない。俺は大仰に肩をすくめる。

 

「美人生徒会長と付き合ってるとかバレたら、男子から殺されかねんからな」

「まーた調子のいいこと言ってるし……」

 

 三浦はため息を吐きつつ、ガシガシと頭をかく。その仕草とともに赤いバレッタが揺れ、黒髪に映える。

 

 それを見て、自然と言葉が口をつく。

 

「やっぱ似合ってんな、それ」

 

 彼女の黒髪に映える赤いバレッタ。それは俺が誕生日に贈ったものだ。つい漏れ出た感想に、今度こそ三浦は顔を背け、先に行ってしまう。

 

「ほんっと、調子だけはいいんだから」

 

 その耳はバレッタと同じ色に染まっている気がした。

 

 

 

 

 

 昼休み。多くの生徒にとって安らぎの時間となり、友人とともに空腹を満たす時間。俺にとってはベストプレイスで時間を消費する時間にしかならない。

 

 しかし、今日は少し違った。

 

 いつも通り席を立とうとすると、一つの変化が目につく。

 

「あれ、優美子今日はここで食べない感じ?」

 

 三浦は昼休みになるやいなや席を立つ。戸部の問いに彼女は何も答えることは無く、教室の中央に位置する席の女子に断りを入れ、その席に座る。

 

 三浦を怪訝な視線で見る戸部、大岡、大和に海老名さんが笑いかける。

 

「なんか優美子今日調子悪いらしくて。皆に風邪移したくないんだってさ」

「……あー、確かに今日ちょっと静かだったべー。了解」

 

 三浦は前だけを見て、弁当箱を開く。由比ヶ浜も葉山も、そんな彼女に何も言わない。海老名さんの説明に戸部も幾度か頷き、葉山とバカ話を始める。

彼らが三浦に触れないならば、大岡と大和も何も触れることはできないのだろう。いくらか訝し気な視線を三浦に送りつつも、弁当を広げて談笑を始める。

 

 そして三浦は教室の中央、一人で弁当を広げた。

 

 恐らく、それは彼女にとって未知の体験のはずだ。同時に我慢ならない状況でもあるだろう。それは常に他人の世話を焼き、他人と関わって生きてきた彼女らしくない。

 

 周りの人間――特に女子生徒――は、三浦に好奇の視線、嘲りの視線、怪訝な視線を向ける。しかしそれでも彼女は周りを気にする様子はなく、黙々と弁当を食す。

 

 では、比企谷八幡は。

 

 どうすればいいか、どうすべきか。頭では当然わかっていた。だからこそ俺はいまだにベストプレイスに行けず、ここにいる。立ち上がることもできず、昼食を広げることもできない。

 

 15分。恐らくそのくらいは経ったと思う。三浦はその間やはり俺を見ず、前だけを見ていた。

 

 俺はまだ、何もアクションを起こすことが出来なかった。それについて三浦も他の人間も、何か言うことは無い。

 

 今まで誰かと談笑しながら飯を食べていた人間が、いきなり独りを貫く。その心境は、恐らく俺の計り知れる所ではない。

 

 しかし。情けなくも、俺は吹っ切れることができない。どうしても最後の一歩が踏み出せない。

 

 生徒会長で、スクールカーストの頂点で、女王。彼女は本来俺などが関わっていい人間ではない……いや、もっと言えば。俺は自らのそれを補足する。

 

 クラスメイトの衆人環視の下、大っぴらに俺が干渉していい人間ではない。

 

 そんな言い訳だけが、ひたすら頭の中を舞い踊った。

 

「ご、ごめんね三浦さん。ちょっと横いい?」

「ん、だいじょぶだし。こっちこそごめん」

 

 言い訳をする俺を、誰が知るわけでもない。三浦の座る席の主の女子が遠慮がちに右側に掛けたリュックを持ち上げ、三浦はその女子に鷹揚に頷く。

 

 そして俺は初めて机の左側の、三浦のブランケットに覆われたそれを見た。

 

 それを見た瞬間。あれだけ動かなかった脚は、自然と彼女へ向かっていた。

 

 俺が座ったのは、三浦の前の席。よって彼女の表情を推し量ることはできない。

 

 しかし、そんなことはどうでもよかった。俺は後ろに座る三浦に、前を見たまま頭を下げた。

 

「……すまんかった」

「謝んなし」

 

 漏れた俺の謝罪に、三浦は間髪入れずに返す。

 

「あーしは、あんたとは違うから」

 

 続く否定に、俺の返答は続かない。前を見るしかない俺に、三浦は静かに続ける。

 

「あーしにはあんたが言う……その、なに。ぼっち?の気持ちがよくわかんない――わざわざ教室から出て、独りで別のとこで飯食う気持ちもわかんない」

 

 もっと言えば。続く彼女の声は、少し震えている気がした。

 

「独りってどういう気分か、あーしにはよくわかんない」

 

 それは、真実だったと思う。珍しく震える彼女の声に、俺はそう確信する。彼女は俺とは違う。彼女には俺の気持ちがわからない。今まで交わる場所にいなかった俺たちにとって、それは当然のことだ。

 

 そして多分。俺は薄々勘付いていた。それが俺と彼女の一番の違いで、溝なのだ。

 

 三浦は常になく、淡々と声を紡ぐ。

 

「ヒキオはさ、なんだかんだあーしに合わせてくれるじゃん。リア充とか色々文句言っても、あーしが生徒会長になるとか言っても、結局はあーしの土俵に立ってくれる」

 

 それは違う。すぐに否定の言葉を重ねようとした。ぼっちは土俵なんて持たない。合わせるのを強制され、いつだって無理やりでも愛想笑いをし、合わせるしかない。

 

 しかし、その言葉は流石に出てこなかった。当然だ。俺は三浦優美子の隣にいるのが、嫌ではなかった――いや。俺は自ら否定する。それすらまだ正しくない。

 

 誰でもない比企谷八幡が、彼女の隣にいたかった。だから仕方なく彼女の横にいたなど、言えるはずもなかった。

 

 思えるはずもなかった。

 

「だからあーしも、ちょっとはあんたに合わせてみたくなったつーか……飯くらい一人で食ってみるのもいいかなって、思っただけ」

 

 それに。三浦は少し口を尖らせる。

 

「ヒキオ、誘っても絶対一緒に食べてくれないから。……『俺なんかと一緒に居たら』って、あんたは絶対に言うから。あんたから来てくれるなら、そんなことないじゃん?」

 

 痛いところを突かれた。思わず視線が下がる。このようなことが無ければ俺は彼女と教室内で近づくことは無かっただろう。俺は彼女を好ましく思っていて、だからこそ彼女に近づけない。

 

 『俺なんか』。その言葉にすべては集約されていた。

 

 だが。

 

「ほんとに、それだけか?」

 

 問いは自然と口をついて出た。見透かされているのが悔しかったわけでも、恥ずかしかったわけでもない。

 

 だが多分、彼女がここにいる理由はそれだけではない。俺はそれも確信していた。ほんの少し、続く三浦の声がつっかえる。

 

「それだけって、どーゆーこと?」

「文字通りだ。俺を敢えて昼飯に誘わず、一人でここに座っていた。それには他の理由もありそうだと、そう思っただけだ」

 

 ここで初めて、俺は彼女の方に振り向く。突然のことに三浦は珍しくその視線を地に落とす。

 

 その隙に俺は、三浦の座る席の左側を覆うブランケットをそっとどかした。

 

「え」

 

 俺の行動を上目遣いで視認し、三浦はその顔を手で覆う。

 

「……言ってくれりゃ」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 ブランケットをどかした俺の手にあったのは、二段の黒色の無骨な弁当箱。どう見ても、パステルカラーの弁当箱を持ち込む三浦の趣味ではない。

 

 その弁当は誰のためにあるのか。今となっては明白だった。

 

「……べ、別にあんたのために作ってきたわけじゃ」

「……そうか。俺のためじゃないか」

 

 彼女の言葉に殊更声を落として答えると、三浦は慌てて返答する。

 

「い、いや、そーゆーわけでもなくて。……一応あーしなりに頑張って……作ってみたんだけど……」

 

 指をもじもじと合わせる彼女に、つい苦笑が漏れる。

 

「弁当作ってきたのにそれすら恥ずかしくて言えないって、お前……」

「……う、うっさいうっさいうっさい!あーしだって碌に料理なんてしたことないし、弁当なんてもっと自信ないし、味も保証できないし、それに……それに」

 

 三浦はこちらに上目遣いをよこし、もごもごむにゃむにゃと口を動かす。

 

「付き合ってすぐ弁当とか、浮かれすぎって思われそうだし……」

 

 その情けない声を聞き、潤む目を見た瞬間。俺の心は容易く決まった。

 

「気遣わせて悪かった。食う」

 

 そう。そもそもその弁当を見た時から。女生徒がどかしたリュックの向こうに掛けられた弁当を見た時から、俺の心は決まっていた。

 

「ちょ、ちょっとまって!!!」

 

 弁当を広げようとすると、三浦は俺の前に手を広げて制止する。

 

「や、やっぱだめ!食ってもらうにしても、もうちょい上手くなってから……人に食べてもらっても恥ずかしくないくらいになってから、だし」

 

 やはり彼女は上目遣いで、大きな瞳を滲ませて俺を見る。

 

 しかし、そんな目をされても俺の心は変わらない。

 

「いい。たまには不味い料理も食いたい気分だし――」「あ?」

 

 一転、刺すような視線が今は嬉しかった。それでこそ三浦優美子だ。俺は勢いに任せて本心を吐き出す。

 

「俺のためにこれから料理が上手くなるなら、その方がずっと美味いし……その、嬉しい」

 

 数秒、三浦はフリーズした。

 

 いくらか経ってその言葉の意味を理解したのか、あわあわと慌てた様子で手を振り、咳ばらいをいくつか、何とか口を開く。

 

「胃袋、つかまれないように気を付けな」

「とっくに惚れてるから意味ないな」

 

 ボン。間髪入れずに答えると、途端に彼女の顔は茹で上がる。

 

「あ、あんたは、すぐ、しょ、そ、そういうくだらないことを――」

 

 休み時間も残り少ない。三浦は真っ赤な顔でパクパクと口を開きながらも、その動きに合わせて弁当の中身を次々と口に放り込む。俺も今度こそ前を向いたまま、三浦の作った弁当を広げる。

 

 前を向いたまま、前後でそれぞれ弁当を食す男女が一組。

 

 とても、周りの級友の様子を窺う暇はなかった。

 



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あーしさんと富士Q

頭空っぽで書きました。頭空っぽで読みましょう。


「いやっほーーーーーーーーー!」

 

 三浦優美子は、コースターの上で絶叫した。

 

 上が下に、下が上に。景色が高速で入れ替わる。コースターは身を切る様な冷気すらも忘れさせ、乗客に絶叫と熱狂を与える。

 

「みて、ヒキオ!」

 

 投げ出されたかと思うほどの浮遊感の中、彼女は跳ねるような声を上げる。目の前に広が

るのは雲一つない青空、悠々と佇む富士の山。

 このコースターの名称の由来となった山だが、なるほどやはり立派だ。見慣れない俺でもなぜか懐かしさを感じるのは、古来から日本人の文化、芸術とともにあったからだろうか。

 

「う、うぐっ」

 

 彼女への返事はまともな声にならない。コースターはそんなことを思う俺も置き去りに、どんどん進む。ちょ、やべえだろこれ、なげえだろこれ。

 

「あ、また来た」

 

「きゃあああああああああああああああ」「ぎゃあああああああああああああああああ」

 

 

 

 

「し、死ぬ。まじで死ぬ」

「ったく、だらしない。あんたそれでも男?」

 

 3分の絶叫コースター後にも関わらずケロッとしている三浦。死にそうな俺。いや、俺にも反論はある。

 

「お前こそこういうのはキャーキャー言いながら男の腕につかまっとくもんだろうが。あーしさんそれでも女?」

「頼りがいないほうが悪いでしょどう考えても……つーかその呼び方、やめろっつったよね?」

「ごべんなさい」

 

 抜けるような青い空、富士の山。ポカリと頭をはたかれる音が響き渡った。

 

 ここに来る経緯を説明するのは簡単だ。12月のとある朝。彼女からのメールである。

 

『勉強でストレス溜まった。絶叫乗りたい。今週末』

 

 寒いだの人多いだの遠いだの、文句はいくらでもい浮かんだ。しかし、結局はどうせ行くことになるに決まっている。大体彼女に逆らえたためしがない。

 

「ほら、早く行かないと。時間ないんだから」

「……別にそんな焦らんでも」

 

 白い息を吐きながら俺を急かす彼女に、疲れとは別に声が漏れた。彼女との交際が始まってもう一年が経とうとしている。付き合うまでも色々とあったが、付き合ってからこれまでも十分すぎるほど色んなことがあった。

 

 今更焦ることもない。

 

 そう思う俺に、引っ張っていた袖の力が少し緩んだ。

 

「だって」

 

 一言漏らし、彼女は少しだけ距離を詰めて俯く。赤く染まったその頬を俯く彼女の黒髪が隠す。寄せられる体温が外気と対比して彼女の存在を強調する。

 

「ちょっとだって、一緒がいい」

 

 頬を染め、視線が落ちる。

 

 パクパクパク。

 

 俺の口は、ひたすら宙を噛むだけだった。

 

 

 

 

 

 浮かぶ観覧車に陽光が斜めに照らし、俺と彼女の間を差す。向かいの女の子はフレアスカートの上で手を弄りながら切り出す。

 

「今日はありがとね、ヒキオ」

「何が」

 

 彼女の絶叫攻めに少々疲れていたし、そもそも特に礼を言われる覚えはなかった。三浦は珍しく苦笑いを浮かべる。

 

「こんな時期なのに連れまわしちゃって。最近遊べてなかったし、気遣ってくれたんでしょ」

「……」

「なんだし」

「いや、やけに素直だなと」

「あ?」

 

 威圧するような声と共に、彼女は拳を上げる。反射的に防御の姿勢をとるが、彼女は力なくその拳を下げて俯く。なにか、おかしい。俺は早口に続ける。

 

「まあそれに、お前が謝ることじゃねえよ……俺こそ悪い。一緒に居られんくて」

「ま、しゃーないっしょ。あーしもあんたも忙しかったし。それとも何、寂しかった?」

「もっと連れまわされると思ってたから、そうでもなくてホッとした」

「今からでも帰れなくしてあげようか?」

「ごめんなさい寂しかったです」

 

 刺激し過ぎるのはまずい、早く謝ってしまうに限る。数少ない親父から学んだ処世術の一つだ。女を怒らせても碌なことが無い。

 

「な、なんだ、寂しかったんじゃん、やっぱ……」

 

 ちょろい、あーしさんちょろい。

 

 三浦は自分の呟きを誤魔化すように咳払いをいくつか、続ける。

 

「どーせ3月で大学生になれば、嫌って程一緒に居られるんだし――浪人はしないんでしょ」

「まあ、な」

 

 どうしても歯切れは悪くなる。

 

 俺たちは高校三年生で、現在は12月中旬。もう一月もしないうちに受験が始まってしまう。そのために互いにこの一年は生徒会に勉強にと、二人で遊ぶ時間は事実ほとんどなかった。

 俺の進路は私立文系で、入学した時から変わらない。受ける学校も二年生の初めの時点で粗方決まっていて、それ故に勉強の方法も固まったものを繰り返してきただけだ。

 

 三浦優美子は、そういう面で言えば俺とはずいぶん違う。

 

 二年生までの三浦の成績は良くはなかったが、壊滅的に悪いわけでもなかった。そもそも勉強に興味がなかったのだろう。授業中には居眠りか携帯を弄り、授業が終われば葉山に夢中。放課後には由比ヶ浜たちと遊ぶ。そんな毎日こそが彼女にとっては重要だった。

 

『どうでもいい』それが三浦優美子の勉学に対する姿勢だった。

 

 しかし、俺と付き合い始めてから彼女は少し変わった。去年の終わり頃から授業をきちんと受け、放課後には教師に質問にも行っていた。元々潔癖気味で、間違いを許せない性分の彼女だ。分からない部分はとことん追求し、文理問わず成績は向上した。

 今年からの成績の伸びは、担任をして目を瞠るものがあったらしい。地元国公立すら視野に入るレベルだ。

 

 つまり俺と違い、彼女には選択肢がある。

 

「大学、近くならいいな」

 

 二人しかいない空間に、俺の空々しい声が落ちる。その言葉への彼女の返答はない。

 

 観覧車だけがジワリジワリと頂点を目指し進んでいく。

 

 ふと窓の外を見ると、3,4歳くらい、だろうか。眼下では女の子を抱いた母親が、子供と一緒にこちらに向かって手を振っていた。三浦は柔らかい目を彼女らに向け、手を振り返す。俺も釣られて手を振る。

 

 そのまま下の人々を見ると、どうやら皆そろそろ帰る時間のようだ。お土産屋によるカップル、最後にアトラクションをねだる子供、困ったような親の苦笑い。

 

 目の前の三浦は、俺の手を握る。

 

「……そっか。あんたには言ってなかったっけ」

 

 優しい声だった。普段からは考えられないし、聞いたこともない。何を話したいか何となくわかる。

 

 ふり絞るように、彼女は切り出した。

 

「あーし、あんたと同じ進路選ぶから」

 

 観覧車はちょうど、頂点を回った。

 

 その言葉を、思いを、予想していなかったわけではない。いや、薄々気づいてはいた。会話の端々から、彼女の解く問題集から、通う塾のクラスから。

 

 だからこそ気づかない振りをしていた。

 

 確かに握っていた手から、自然と力が抜ける。今やその手は彼女に一方的に握られるのみになっていた。

 

 人間関係というのは、時に選択を濁らせる。友情や愛情は、時に個人の行く末を狭めてしまう。

 人生の岐路には、その選択を他人に委ねるべきじゃない。他人に変えられるべきじゃない。誰かに歪められることなど、あってはならない。

 

 だから俺は言わなかった。誰よりも大切な彼女にこそ、自らの進む道を言わなかった。彼女の進む道も聞かなかった。聞けば、言えば。多分俺も彼女も、選択が歪んでしまう。分かっていた。

 

 依りかかりながら選んだ道を、俺は本物だとは思えなかった。

 

 右手に少し痛みが走った。下を見れば赤くなるほど、彼女は強く、強く俺の手を握っていた。

 

「まだ、これは半分。こっからだから、ちゃんと聞いて」

 

 あのね、ヒキオ。彼女は一瞬だけ目を伏せ、何度か深呼吸をし、ふっと呟いた。

 

「あーし、子供に関わる仕事がしたいの」

 

 三浦優美子の目標を、進路に関する言葉を、俺は初めて聞いた。彼女は少し照れくさそうに顔を逸らす。

 

「あーしも最初はこんなこと考えてもなかった。子供ってすぐ泣くし、うるさいし、勝手だし。面倒なだけだと思ってた」

 

 そうだろうか。別に意外じゃない。恥ずかしそうに笑う彼女の顔を見て思う。他人の評価と自分の評価は、一致しない。

 

「でもあーしはそんな子たちを見てるのが、案外嫌いじゃない。そんな子たちと一緒に居るのも悪くない……あんたといて、生徒会長とかやって色んな奴の世話焼いて、そう思った」

 

 思い出したのは、去年の林間学校。三浦優美子は俺によって小学生にとっての悪役にされ、それを気にもしなかった。彼女は鶴見留美と共に笑い、彼女に寄り添った。去年のクリスマス合同イベントではなんだかんだと小学生の相談に乗り、一緒に楽しんでいたように見えた。騒ぐ子供たちに温かい目を向けていた。

 

 存外面倒見がよく世話好きの彼女を、俺は知っている。だからその夢自体に疑問はない。

 

 だが。

 

「それなら、俺と同じ進路を選ぶ必要はねえだろ」

 

 そう。彼女が保育士になりたいにしろ小中高教諭になりたいにしろ、わざわざ私立文系を進路に選ぶ必要はない。国公立でも教育大学でも短大でも、俺と違って今の彼女にはいくらでも選択肢がある。より良い進路がある。

 

 それを今、俺は間違いなく歪めている。想い人の妨げとなっている。これは俺のわがままだろう。独りよがりといえば、その通りなのだろう。ここまで俺を好いてくれる女子を、素直に受け入れるのが正解なのだ。そんなことはわかっている。

 

 だからこそ、その選択を欺瞞だと思ってしまう。彼女にはより適した選択肢がある。

 

 選択は、常に独りであるべきだ。

 

「――あーし女の子。あんた男の子」

 

 忘れてるよ、あんた。耳に入った揶揄うような声色に、視線が持ち上がる。悪戯っぽく笑う三浦は少しばかり眉根を下げ、小さく吐息を漏らす。

 

「多分、あんたの考えてることは分かる。あーしの進路に納得できない気持ちも、理解はできる。

あんただけじゃない、親にも担任にも散々言われたし。もっと夢に合った学校があるし、同じくらいの偏差値で学費半分の国公立だって狙える。そもそも生徒会長の肩書で推薦だってある」

「なら尚更」

 

 その先は言葉にならなかった。俺の唇に人差し指が当てられる。

 

「生徒会も勉強も、あーしはあんたが居たから頑張ってこれた。あんたに推された会長だから必死にやったし、あんたと同じ進路のためなら勉強だっていくらでもできた。進路決めも勉強も生徒会の雑務だって、なんでも一人でやっちゃうあんたにはわかんないかもだけど」

 

 さっきも言ったでしょ。唇に当てられた人差し指は、そのまま俺の額を突いた。

 

「一秒だって長く一緒に居たいの、あーしは」

 

 好きな男の子と、一緒に。

 

 額を突いた指は下に落ち、俺の指に絡みつく。気づけば彼女の体温すらすぐ隣にある。瞳を合わせると、逸らされることは無い。結局俺が根負けし、ため息を一つ。

 

「お前時々思うけど、男らしすぎると思う」

「あんたが女々しすぎるだけ」

 

 彼女の頬が、頬に触れる。

 

「でも、大好き」

 

 八幡。

 

 小さく呼ばれた。潤んだ瞳が目の前にある。

 

「あんたが、好き。だから一緒にいたい。それで充分なの、あーしには」

 

 女の子には。

 

「……ずりいだろ、それは」

「女の子はずるいんだって」

「初めてその言葉の意味が分かったわ」

「賢くなったね、いっこ」

 

 くすくすくす。誰ともなく笑い合う。もう地上は目の前だ。

 

 誰ともなく、唇同士が重なった。

 

 同時に観覧車の扉も開く。アテンドのお姉さんが息をのんだ。

 

 

 

 ラブコメとしては、こんなベタも悪くない。

 

 

 

 



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