ある晴れた日に (空潟 聿)
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ある日の童話専門書店

 古い町のあるところに、古びた書店がある。ただの書店ではない。童話を専門に取り扱っている、童話専門書店だ。その店には絵本を始め、多くの古書が並んでいる。しかし、それを手に取る客が大勢いるかと問われると、そうではないと言うしかないのが実情だ。

 古い看板が掲げられたその店が繁盛している雰囲気はない。人の出入りは激しくないどころか、人が出入りしているほうが珍しいくらいだ。

 古い店はうっかりすると見逃してしまいそうなほど、周りの民家と同化してしまっている。店らしい雰囲気が醸し出しているようなことは一切ない。看板があるだけで普通に門が構えてあるし、門から店の入り口までには小さな庭があり、門の外から店の中の様子を窺うことはできない。店に本がずらりと並んでいることなんてここから先も予想することはできないのだ。門からは店の入り口である引き戸が見えるだけなのである。

 古い構えの店の門を叩くには、そこが店であることをあらかじめ認識している必要がある。ちょっとした気分で立ち寄ることのできる店ではない。店が繁盛していないのは、そのせいもあると思われる。

 しかし、その古びた店に人が全く立ち入っていないわけではない。ぽつりぽつり、訪れる客はいるのだ。たとえばそれは童話を専門に扱う学者であったり、学生であったり、あるいは古書好きであったり、童話好きであったり、はたまた店主の友人であったりと様々だ。少なくともその道の人々にはその店はよく知られているようで、たまにその店を訪れては幾つか本を買っていくことがある。

 そのたまに訪れる客たちが長居することは滅多にない。目的の本を買ってしまえば店を出て行ってしまう、そのような客が多い。しかし、例外として長居をしていく人物もいる。たとえば、外套を身にまとった、出生も住居もよく分からない呪術師の女であるとか。

「店主さん、こんにちはー」

「あ、暁空(あきら)さん」

 その暁空という女性に声を掛けられて、やっと店主は顔をあげた。それまで本を読んでいた店主は、読みかけの古い本を自分の傍に置いた。

「今日はどうしたんですか? お仕事は?」

「今終わってきたとこ。今日は簡単なやつだったからねー」

「呪術にも簡単なものとそうでないものがあるんですか?」

「そりゃあ。本だって幼児が読みやすいものから大人が読んでも難しいものまであるでしょ? それと同じだよ」

「分かるようで分からない例えですね」

「ええ? だからつまり」

「いや、言いたいことは分かるんですけど」

「ねえ、せめて最後まで言わせてよ」

「いやいやいや……」

 暁空の言い分を遮り、店主は適当にその場を濁した。

 暁空は外套をひらりと振ると、店主の小机の横に腰をかけた。店主の方へ振り返るような感じのところに暁空は座る位置を定める。

「はー、今日もいい天気だね」

「ほんとうに。お洗濯ものがよく乾くので助かります」

「へー、店主さんも洗濯とかするんだ?」

「しますよ、普通に。最近は乾燥まで洗濯機はやってくれるけど、でもお日様の下で干したほうが私は好きです」

「私も私も」

「そういう暁空さんこそお洗濯なさるんですか?」

「そりゃあするよ。割と好きだよ」

「へー」

 適当な会話。たあいのない会話ともいう。こういう会話の流れは、店主も暁空も嫌いではなかった。

「店主さんは洗濯自分でするの? 文多(ぶんた)くん?」

「洗うのは私です。干すのは文多さん」

「分けてやってるの?」

「最初はどちらも私だったんですけど、文多さんがお手伝いしたいと仰るので」

「ふぅん」

 文多(ぶんた)とは、この古本屋の奥にある店主の家に住んでいる妖のことだ。見た目が四、五歳の白髪の男の子。神狼だという。

「あ、噂をすれば文多くん。こんにちは」

「……」

「あ、お茶くれるの? ありがとう」

「……」

 奥から文多が現れた。文多は、暁空に対して会釈をすると、盆に載せていた湯呑を暁空の近くに置いた。もう一つの湯呑を店主の小机に置く。

「ありがとう、文多さん」

 店主が言うと、文多は店主にも慌てて会釈をして盆を抱えて俯いた。

「そういえば、今日はまれさんは?」

「あー、表の本読んでるって今表に。呼んでこようか?」

 暁空は本屋のほうを気にしつつ文多を見やった。文多は静かに小さく頷いた。

「ちょっと呼んでくる」

 そう言って暁空は立ち上がり、本棚の間を通り抜け、一人の女の子を連れてまた店主のところへと戻ってきた。

「こんにちは、まれさん」

「こんにちは、店主さん、文多くん」

「……」

 挨拶をした女の子に対して文多はまた会釈をする。

「ねー空ちゃん、いつ帰る?」

「えーっと、小一時間はここにいるかなぁ。また呼ぶよ」

「はーい。行こう、ぶんちゃん」

 女の子は靴を脱いで家へと上がると、文多と一緒に襖の奥へ入っていった。

「ここは託児所じゃないんですけど」

「まーまー、まれも文多くんも楽しそうだからいいじゃない」

「それはそうですけど」

 〈まれ〉は、暁空の連れている妖である。暁空の持っている宝石の付喪神で、女児の姿をしているが、見た目は文多より幾分か大きい。文多が五歳前後だとすると、まれは八歳前後くらいだろうか。とにかく、まれは文多よりお姉さんらしく見える。

「それで、お目当てのものはありました?」

 店主は尋ねる。暁空は難しく考えるような顔をしてから、ため息とともにぱっとその緊張を解いてみせた。

「全然。これだけ本が集まってきてるのに、一冊も見つからない」

「そうですか」

 お茶を飲みながら店主も小さくため息をついた。それに伴って湯呑の中のお茶も小さく揺れる。

「暁空さんがここに来るようになってから、もう一年ですっけ?」

「そうだね。そのくらい」

「もうそろそろここに並んでるものは全て読んじゃったんじゃ?」

「そうだねー。全部じゃないけど」

 暁空の相槌。

 暁空は、ほとんど毎日のようにこの古びた童話専門書店を訪れている。そして、本棚の隅から順に、並べられている童話を立ち読みしているのだ。

「でも、ないんですか?」

「そう。ないの」

 ため息混じりの声。暁空はゆっくりとお茶を啜る。

 暁空には探している本があった。それは、暁空がずっと幼いころに親に読み聞かせてもらった本だった。しかし、残念ながら店主もその本を知らなかった。店主は、この本棚の中にはない本だと思っている。

「だからないと思うって言ったじゃないですか」

 一年前、暁空が初めてこの店にやってきたときも店主は「うちで扱っている商品の中にはないと思う」ときっぱり言っていた。しかし、「それでも」と言って探し続けているのは暁空だった。

「でもさ、私が覚えている内容が本当かどうかは定かじゃないし。実は思い違いってこともありえるかもだし。見たらそれだーって思いだすかもしれないから」

「その一冊がこの中に紛れこんでいるかもしれないって?」

「そういうこと。本当の話が見つかれば、店主さんもあーそれだったかーってなるかもね」

「そうですね」

「それに、まだないと決まったわけじゃないから」

 そう言いながら暁空は本棚を見やる。

「もう残り数冊なんじゃないんですか?」

「そうでもないよ。まだ結構ある」

「そうですか」

 幾つ目か分からない相槌を店主が打ったとき、誰かが本屋に入ってくる音がした。その音に店主も呪術師も敏感に反応し、音のするほうをじっと見つめた。

 すると、茶髪のおかっぱ頭の女性と蔓帯紋の羽織を着た女性が店主たちのほうに歩んできているのが見えた。店主と暁空の前におかっぱ頭の女性が立ったとき、相手に伝わるほどの小さな声で店主が「いらっしゃいませ」と言った。

「あの、すみません」

 その女性は一瞬店主を目で捉えた後、辺りをきょろきょろと見回してから店主に尋ねた。

「失礼ですが、ここには妖が?」

「え?」

 おかっぱ頭の女性の質問に店主が質問で返す。おかっぱ頭の女性の質問を聴き取れなかったのではない。彼女の質問を聞き間違えたかと思ったからだ。

 しかし、その質問は聞き間違えではなかった。おかっぱ頭の女性の後ろにいた灰色の髪をした蔓帯紋の羽織を着た女性が改めて店主に尋ねてきたのだ。

「こちらに妖がおいでかと聞いておるのじゃ。答えよ」

「……」

「どうした、申せ」

「……」

 蔓帯紋の羽織を着た女性は立ったまま上から店主を見つめた。店主は座ったまま下から見つめ、沈黙を続ける。

「おい、店主よ。何がそんなに気に入らぬ、わしらはここに妖がおるかおらぬか聞いておるだけじゃ」

「……」

「その質問が不愉快だって言ってるんですけど」

「何?」

 依然黙ったままの店主の代わりに暁空が答えた。

「本屋に来ておいていきなり妖がいるかいないか尋ねるなんて、失礼にも程があるでしょう。最近は妖を嗜みの一種とする輩も増えてますからね、そんなの、ここに妖がいてもいなくても、あなたたちを妖売りだと疑って警戒しても不思議じゃないでしょう?」

「なるほど」

 蔓帯紋の女性が頷く。そして再び口を開いた。

「確かに。わしらのことを言わずしてそなたらのことを教えてはくれまい。失礼した。わしは汰之(たの)朝栄(あさはるの)水分神(みくまりのかみ)。汰の川一帯を治めておる龍神じゃ。こいつは人間のおかっぱ」

「あの、最近越してきたんですけど、歩いてたら妖気を感じて、それで。特に質問に深い意味はなかったんですけど……」

 蔓帯紋の女性の後に続いておかっぱが言った。おかっぱの言葉に店主と暁空はほっと胸を撫で下ろした。

「そうだったんですね」

「はい」

「あの、失礼ですがご職業は?」

「あ、ああ、陰陽師です、一応。あと、副業で在宅の仕事を幾つかしてるんですけど」

「へぇ、そうなんですか」

「店主、そんなに心配せずとも、わしらは妖売りとは通じておらん。安心なされよ」

「あ、いやあ、すみません」

「ま、突然こんな風に現れては疑うなと言うのもあれだがな」

「まあ、はい」

 はははっと声をあげて笑っている蔓帯紋の龍神にぼそぼそと店主が返す。そうは言われても、店主も暁空も突如現れた龍神とおかっぱが怪しいものではないということを信じることができないでいた。

 結局、二人が本当に妖売りに関係のないただのこの辺りに住む住人だということを信じたのは、三十分ほど四人で話してからだった。

「へえ、じゃあおかっぱさんは各地を旅して回っていると」

「まあ、そんなとこかな。朝栄の行くとこ行くとこについていってるだけなんだけど」

「へー、そうなんだ。えーっと、朝栄さんは何してるんですか?」

「わしか? まぁ、時と場合によるが、大抵は雨降らしじゃな」

「へぇ、雨降らし」

「そうじゃ。祈る民の元を訪れ、その願いを聞き、力を貸す。それがわしの役目じゃ」

 自信ありげに龍神が深く頷く。

「それで朝栄が行ったところに住んでる妖に挨拶するって決めてるんだけど、結局ここに妖はいるの? というかいるよね?」

「なんでそんなに断定的なの?」

「いや、分かるから……」

「分かるからって……」

 龍神と同じように自信ありげに言ってみせるおかっぱに暁空は苦笑を浮かべる。暁空の向かい側で同じように店主も二人のやり取りを見て笑う。

「鼻がいいんじゃないんですか?」

 店主が言った。それに「いかにも」と龍神が答える。

「こやつの鼻は驚くほどにいい。その場所に行けば必ずそこに長く住む妖に会うことができる。それが間違いだったことはない。わしとて妖の気を感じることはできるが、こやつの鼻には負けるな」

「だからかー」

 龍神の説明を受けて暁空が納得した。そして、それと同時に襖の開く音がする。

「ねーねー、なんだか騒がしいんだけど、ってお客様?」

 現れたのはまれだった。その後ろで文多も控えめにつっ立っている。二人の姿を見て龍神とおかっぱが立ち上がり、二人に対して一礼をした。

「お初にお目にかかります、汰之朝栄水分神と申します。雨降らしの儀式により朝栄村より参上しました。以後お見知りおきを」

「……」

 龍神の言葉に、文多も正座をして深々と一礼を返した。おまけのようにして、まれも文多の隣に正座をし、続けて頭を下げる。

「これからそなたの住む土地を荒らしてしまうやもしれぬ。予め謝っておこう」

「……」

「すまぬな」

「……」

 文多は二回とも首を横に振った。龍神は優しい微笑みを浮かべ文多と二、三秒見つめ合うと、店主と暁空のほうを向いて挨拶をした。

「会いたい妖に会うことができた。感謝する。店主、あの神狼を大切にしてやれ」

「分かっています」

「うむ。じゃあ、今日はお暇するとしよう」

「え、もうちょっといいじゃん」

「馬鹿を言え。今日は家の片付けもせねばならん。早う帰るぞ」

「そーうだったー」

 龍神に引っ張られておかっぱが歩き始める。

 そして二人は本屋から立ち去った。

「じゃ、キリがいいから私もお暇しようかな」

「えー、もう帰るのー?」

「うん、帰る帰る。帰りに商店街通って帰ろ」

「コロッケ買ってくれる?」

「半分こでいいなら」

「けち」

「金欠なんですー」

「仕方ないなー」

 小さな口喧嘩をしながらまれは靴を履く。

「じゃあね、ぶんちゃん」

「……」

 手を振るまれに文多は手を振り返す。

 そしてまた小さな言い争いをしながら二人は本屋を去って行った。

「……」

「……」

 店主はつっ立ったままの文多を見上げた。文多も同じように座ったままの店主をじっと見つめている。

「……お茶、ほしいの?」

「……お願いします」

「……僕も飲んでいい?」

「じゃあ、縁側に移動しましょうか」

「……お店は?」

「大丈夫でしょ。私、お菓子出しますから」

「……分かった」

 文多は床に転がっている湯呑を手に取ると台所へと向かった。店主も襖の奥に入り文多の後を追った。そして文多はお茶を用意し、店主は戸棚からお菓子を用意して縁側へと向かう。

「いい天気ですね」

「……晴れだから」

「そうですね」

 縁側からは庭の梅の木が見えた。その枝をちょんちょんと跳ね回っている小鳥の姿も見える。今日は、そんな晴れの日。

 



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引っ越しの日のふたり

 

 新しい土地に越してきた者がいた。

「この辺りはやたらと緑が多いね、朝栄(あさはる)

「ああ。この辺は昔とあまり変わってないからねぇ。穏やかでいいところさ」

「ふぅん」

 おかっぱ頭の女性が相槌を打つと、朝栄と呼ばれたその隣を歩く女性は更に言った。

「ふた月ばかりお世話になるんだ。しっかりご挨拶しとかないとね」

「うん」

 田んぼのあぜ道を歩いていると、ゆったりとした風が二人の横を通っていった。おかっぱがその風に気を取られていると、田んぼで作業中の老夫婦に声をかけられた。その声におかっぱは笑顔で返す。その隣で朝栄は会釈を返していた。

「あんたら、旅人ね?」

「はい、あちこちを旅して回ってるんです」

「へぇ。それはそれは、ご立派なもんで。でもってあんた、陰陽師ね?」

「よ、よくお分かりですね!」

「それ格好見たら分かるさぁ。荷物からそんな感じのにおいがする」

「え、もしかして、妖気が分かるんですか?」

 おかっぱが驚き気味に尋ねる。すると老夫婦は笑いながら顔の前で手を振った。

「いやいや、妖気が分かるってもんじゃねぇんだけどよ、長年草花とつきあってると不思議とそんな感じなもんが分かってくんのかなぁ、あんたらがそんな感じのもんを背負ってるっちゅーのがなんとなく分かった」

「へぇ……」

「もしかしたら、自然の神や妖に好かれているのかもしれませんね」

「あー、それは嬉しいねぇ。うん、それより嬉しいこたぁねぇよ」

 朝栄の言葉に老夫婦は嬉しそうに笑みを見せる。

「じゃあ、私たちはこれで。先を急ぎますので」

「ああ。こんなとこで呼びとめて悪かった。いい旅を」

「ありがとう」

 老夫婦に見送られ、二人はまた歩き出す。もう少しすれば町に入るようだった。

「いやぁ、分かる人には分かるんだね。これが妖に関する道具だってこと」

「分かるさ。お前だって、あのご夫妻が妖に好かれていることには気が付いていたんだろう?」

「うん、まあ、それは分かったけど」

「なら簡単だ。前から言っているように、妖に好かれる人間同士は惹かれやすい。ご夫妻は気が付いておらんかったが、それでもその妖気の集合体に何か気配を感じ取るのは至極当然のことじゃ」

「あー、そっかぁ」

「ちょっと急ごうか。今日中にこの地の大妖に挨拶を済ませておきたい」

「うん、そうだね」

 二人は歩む速度を早歩きにする。今までゆっくりと流れていた景色の移り変わりが少し早くなり、それを楽しむようにおかっぱはきょろきょろ辺りを見回しながら歩いた。

「ねぇ朝栄」

「なんじゃ?」

「この地、妖に好かれてるんだね」

「ああ、そうじゃな。まあ、自然が豊かな土地だからな。妖にとっても棲みよい地なんじゃろう」

「そうだね」

 田んぼのあぜ道を歩いていると、気持ちのいい風が吹いてくるのが分かる。緑がさらさらと揺れ、川が流れてる。時折ぷんと土のにおいをさせ、実に気持ちのいい土地であることをおかっぱは実感していた。

 暫く歩き、田んぼのあぜ道を抜けると、ぽつぽつと民家があった後に住宅街が見えてきた。その町並みは少し古びたような、どこか懐かしいような感じがした。そして、住宅街に入った途端に妖気が増すのをおかっぱは感じ取る。

「あ、におうね」

「そうか? あたしにはまだ分からんなぁ」

 おかっぱは鼻がいい。妖である朝栄よりも鼻がいい。一般的に妖が見える人間は妖気を感じ取れるほど鼻がいいとされているが、おかっぱはそれらとは桁違いに鼻がよく、あらゆる妖気をいち早く感じ取る。

「まだまだまっすぐかなぁ。町中に入ったところくらいまで行かないといないかも」

「ほう」

 ずんずんと突き進んでいくおかっぱの後ろを、ゆったりとした足取りで朝栄がついていく。そして町に入ったところで、朝栄も妖気を感じ取った。

「おかっぱ、お前の鼻は本当に嘘をつかんな」

 クスリと笑いながら朝栄が言う。おかっぱは、へへっと自慢げに笑った。

「確かに、この先に妖がおるようじゃな。しかも、この辺りを牛耳っておるようじゃ」

「ちょっと獣くさいね」

「そうじゃな」

「たぬき、きつね、しか……」

「狼、じゃな」

「オオカミかー」

 その妖が何者であるのか、それに関しては朝栄のほうが詳しい。おかっぱは鼻はいいが、特に訓練されているわけではないため、妖の種類を言い当てることはまだできない。単に経験の差で、妖の種類当ては朝栄のほうが勝っている。しかし、それをおかっぱ自身は悔しいとも何とも思っていないようで、おかっぱは妖の種類を言い当てる朝栄を「すごいなあ」くらいにしか思っていない。

「おそらく神狼の類じゃろう。この地で生きた狼が、そのまま神となったんじゃろうな」

「ふぅん」

「とにかく、失礼のないようにしないとな」

「そうだね」

 二人は町の中を歩いていく。町には他の町と同じように商店がずらりと並んでいる。活気に溢れているというわけではないが、人が絶えているわけでもない。これを無理やり言葉にすると、静かに賑わっている、というところだろうか。そこを歩きながら、二人はどうやらこの町の商店街にあたるところにいることに気がついた。

「商店街なんじゃなぁ、ここは」

「みたいだね」

「でもここじゃない」

「うん」

 今はその神狼に挨拶をするのが最優先だ。おかっぱと朝栄は後でまた来ようと約束をし、神狼のにおいを頼りに歩き進めた。

「あ」

「どうした? ここを曲がるのか?」

「うん」

 もう少しで商店街を出てしまうというところにあった横道。そこでおかっぱが歩みを止めた。

「こんな細道じゃぞ?」

「でもここだもん」

 人ひとり入るくらいの細道。おかっぱは朝栄を先に進ませ、朝栄の背中を押す。朝栄は本当にこの道を通るのかと何度もおかっぱのほうを振り返り、問いながら歩いていった。

 そのうちに、朝栄は少し歩くのを速くしたかと思うと、すぐに歩みを止めた。そして、「ここか」と呟くと自身の身だしなみを整えた。それを真似しておかっぱも装いを正す。

「おかっぱ、行くぞ。失礼のないようにな」

「分かってるよ」

 相手はここを牛耳る大妖なのだから。万一失礼なんかをすれば、朝栄のここでの仕事ができなくなる可能性だってある。朝栄の仕事をおかっぱが邪魔するわけにはいかない。

「おかっぱ、先に行ってくれるか?」

「分かった」

 朝栄が外門を開け、そこをおかっぱが通っていく。

 民家に妖が住んでいると思われるとき、おかっぱが先に行って話をするのがふたりの間での決まりだ。なぜなら、それは朝栄が龍神だから。人間に妖は見えない。朝栄の力を持ってして姿こそ人間の姿でいるものの、朝栄の力を持ってしても人によっては見えなかったり声が聞こえなかったりするのだ。だから、おかっぱがその家の人と話している間に、その家の人が妖を見れる人がどうか確認するのだ。

「あの、すみません」

 今回の家は家であるようで店だった。おかっぱは店の奥にいる店主らしき女性に声をかけた。

 

     ◇◆◇◆◇

 

「できそうだね、雨降らし」

「そうじゃな」

 帰路、おかっぱと朝栄は会話を交わしながらこれからの住まいに向かっていた。

「それにしても、大妖にしては小さい妖だったね」

「そうじゃな。が、侮ってはいかん。彼は、確かにこの地を牛耳る大妖じゃ」

「そうなの?」

「そうじゃ」

 朝栄は頷く。それに同意するかのように木々が揺れた。

「何があってあの姿でおるのか不思議なくらいじゃが……まあ、彼がこの地の主であると考えて間違いはない」

「ふぅん……」

 あの妖が本当に朝栄の言う大妖であることを信じきれないまま、おかっぱは相槌を打った。正直に言えば、あの妖が神狼であることすらもおかっぱは疑っている。獣くさいにおいも実は自分の鼻がおかしくなったのかと思うくらい、あの妖はにおい以外に獣くささを放たなかった。

「納得しておらん顔じゃな」

「あ、バレた」

「まあ、いずれ分かるさ」

「ふーん」

 納得しようかしまいか一瞬悩み、それでも納得はできないと思いながらおかっぱはまた相槌を打った。

「あ、でもあの子は付喪神でしょ? あれは分かった」

「ああ、あやつは付喪神じゃ。おそらく、宝石か何か、その類の付喪神じゃろう。いやしかし、あやつも何か足りぬ」

「え? 足りない?」

「そうじゃ。何か、何か足りぬ気がする。今のあやつだけでは成り立っておらぬはずなんじゃが、どうにも分からん」

「なに? つがい?」

「あー、番か。その線も考えられるじゃろう」

「他になにがある?」

「うーん……」

「あ、あれが新しい宿?」

「ああ、そうじゃ」

 話しているうちに、新しく世話になる宿はすぐ目の前にきていた。外見はそこまで綺麗ではないが、かといって汚くもなく、一般庶民の家といったところだろうか。いわば普通の宿屋だった。

「汰の朝栄と申します。鳩に遣いを頼んだ者ですが、よろしいでしょうか?」

「ああ、汰の朝栄様。承っております。二階のほうにお部屋を用意させていただいております。椿の部屋になります」

「ありがとうございます」

「今回はひと月のご予約ですが、よろしいでしょうか?」

「はい。状況によっては早くなったり遅くなったりするかもしれませんが」

「承知しました。その際はご遠慮なくお申し付けくださいませ」

「ありがとう」

「ご飯の時間などを書いた紙をお部屋のほうに置いてありますので、ご一読ください。それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」

 受付で鍵を貰い、朝栄は階段のほうへと歩いていった。おかっぱは受付のほうに一礼し、その後ろをついていった。

「ねぇ朝栄、あの子は?」

 おかっぱは朝栄に尋ねる。受付の妖は何者か、おかっぱは問うたのだ。

「あやつは子鬼。少し大人びて見えるが、生まれてまだ二十年も経っておらんじゃろう。若娘といったところじゃ」

「ふーん」

「ほれ、部屋についたぞ」

「はーい」

 朝栄が鍵を回し、ドアを開けた。ドアからはまっすぐ先の窓が見え、その先に森が広がっているのが見えた。二人がやってきた宿は、ちょっとした森の中にあるのだ。

「綺麗な部屋だね」

「そうじゃな。やはり、妖が多い土地はいい。宿も充実しておる」

「そうだね」

 おかっぱは荷物を床に置くと早速ベッドの上に飛び乗った。

 二人は、雨を降らしに行った土地では妖が経営する宿に泊まることにしている。朝栄がしょっちゅう訪れる土地であれば朝栄が持っている家で生活するのだが、初めて行く土地や滅多に行かない土地ではそれができないからだ。

「おかっぱ、片付けは明日にしよう。おまえも疲れたじゃろう?」

「んー」

「飯を食って、風呂に入って、今日は寝てしまおう」

「そうしよー」

 と言ったものの、そのままおかっぱが寝入ってしまったことは言うまでもない。もちろん、朝栄がそのおかっぱに布団を掛けなおしたことも。

 そうして明日には、おかっぱと朝栄の新たな生活が始まるのだ。

 



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ある日の文屋

 

「あれ、お出かけですか?」

「ああ? あー、イナハのカザミヤの」

山羊(やぎ)です」

「そう、山羊さん。なに? ご依頼?」

「あ、はい。主人から文を預かっているんです。これを」

「あー、アガツマザキのほうね。承りましょう」

「ありがとう。これ、お代です」

「……確かに」

 山羊という女性から代金を受け取った店主は、その代金が、設定されたものより少し多めなのを見てほくそ笑んだ。

 店主の名前は(ほたる)美波間(よしはま)という川沿いの土地で文屋(ふみや)を営んでいる。書かれた手紙を預かり、届けるのが仕事だ。

「それで、どこにお出かけの予定だったんですか?」

「アオグモのほうに行くんですよ。ご依頼があったもんで」

「へぇ……文屋さんって出張みたいなこともされるんですね」

「訳ありでしてね」

 よっこいしょ、と言いながら螢は机に置いていたソフト帽を手に取りかぶった。髪も短く背も高い螢は、帽子までかぶってしまうと男性のように見える。しかし螢自身はそれを悪いようには思っておらず、むしろそうしたいようだった。

「じゃあ、私も出ますので」

「あ、失礼しました」

 螢が店の鍵をちらつかせる。山羊は急いで店を後にした。その後、螢が店を出て鍵を閉める。

「では、文のほう、よろしくお願いします」

「ええ、お任せください」

 どこか気だるげな礼をし、顔を上げると、山羊はにこりと微笑んで踵を翻した。それを見ると螢も自分の行く方向を向いた。そのとき、背後から誰かに抱きつかれる。背中に当たるふっくらとした胸の感触に、それが女性だということが分かった。そして、その女性に思いあたりのある螢は煩わしそうに言った。

「ちょっと、やめろよ」

「えー? あなたが置いていこうとするからじゃなぁい」

「ちょっとアオグモに行くだけだ。貴様の足を借りるほどじゃない」

「そうなの? それならそうと言ってくれればいいのに。でも、一緒に行くわ」

「来なくていい。言う必要もない」

「一緒に行くわよぉ。だって、あの子のところに行くんでしょう?」

「来なくていいって言ってるだろ」

「もーう」

 螢が次第に早足になるのを女も追いかける。その女は螢の家に住み着いている妖であり、雷獣である。白く長い髪を揺らしながら、螢の後をついていくのをやめない。

 そして、彼女は螢の腕をつかむ。

「あたしがいないとすーぐ他の妖にちょっかい出されちゃうくせに」

「……」

「護衛役ってことで」

「護衛なら、護衛らしく少しは離れて歩け」

 螢は雷獣の妖の腕を振りほどいた。ばつが悪いとでも言うように頭の後ろを掻きながら、螢はだるそうに歩いた。その三歩後ろを妖は嬉しそうに歩いている。

 歩いていると川の流れる音が聞こえてくる。ずっと、川沿いを歩いているのだ。少し川を覗けば亀がひょこっと顔だけを出していた。それを見つけて嬉しくなった雷獣は軽い足取りを更に軽くして気だるげに歩く螢の後ろを歩く。

 二人が向かっている青久茂(あおぐも)は、美波間の隣にある町だ。青久茂もまた、美波間のように川沿いにある。住んでいる人はそこまで多くはないが、その分穏やかでいい土地だ。

 歩いて十五分もすれば、依頼があったという家に到着する。それは小さな一軒家で、玄関ではなく庭へ回ると若い男の妖が出迎えた。

「あ、美波間の文屋さん。こんにちは」

「いつもお世話になっています」

 だらんとした螢の礼は、ただの前屈運動のように見える。しかしそんな螢の態度を気にする素振りもなく、男の妖は中へと案内した。

「いつものところにいるから、上がって」

「お邪魔します」

「お邪魔しまーす」

 庭に靴を脱ぎ、二人は縁側から家の中に入った。

「先に行ってていいのか?」

「うん。僕はお茶を入れてくるから」

「気が利くな」

「まあね」

 へへっと笑って男は螢の進む方向と違う方へ向って走っていった。

 彼は、この家に住む妖だ。詳しく言えば、時計の付喪神である。名前を辰儀(ときのり)といい、この家の主の暁海(あきうみ)は、彼のことを「トキちゃん」と呼んでいる。

 螢は迷いなくその家の主の部屋まで歩いていった。何度も来たことのある、いわば常連の家なのである。

「美波間の文屋です、よろしいでしょうか?」

 襖の向こう側にいるであろう家の主に声をかける。「どうぞ」という声が返ってくると、螢は襖に手をかけた。

「こんにちは。遅くなってしまって申し訳ありません」

「いいえ、お待ちしていました。大丈夫ですよ、こちらは急いていませんから」

 暁海は笑って答えた。

「お体はどうですか?」

「悪くないですよ」

「そうですか。それで、ご依頼のほうはいかがしましょうか?」

「ああ、お願いします。すみません、手を煩わせてしまって」

「いえ」

 螢は持ってきた鞄から道具を取りだすと、筆を手にして一枚の紙と向き合った。

「準備は整っています。どうぞ」

「じゃあ、始めますね」

 それを合図に、暁海は「前略」と言って話し始めた。それを螢は聴き取り、書き取っていく。手紙にしているのだ。

 暁海は目が見えない。とはいえ、最初から見えなかったのではない。最近見えなくなってしまったのである。医者曰く、彼女は原因不明の病にかかっているのだ。暁海が病にかかってから、暁海は、家を出た彼女の姉に定期的に手紙を出すようになった。最初こそ暁海自身が書いた手紙を文屋である螢に届けるよう頼んでいたのだが、目が見えなくなってからというもの、こうして螢が暁海の代筆をするようになった。いつも気だるげそうで有名な螢だが、これを提案したのは螢のほうだった。

「目が……目が、見える時間がまた少なくなりました。日の出ている間は全く、月が出ている間ですら、見える時間が短くなってしまいました。けれど、その分きちんとトキちゃんが手伝ってくれています。最近はお裁縫もできるようになったみたいです」

 暁海の最近の事情は、螢が全て知っていると言っても過言ではない。暁海が姉に伝えたいことを全て聞いてしまうのだから、当然と言えば当然だ。しかし、聞いてはいけないことまで聞いてしまっているようで、螢は手紙を書きながら少しばかりの罪悪感を覚える。

「お姉ちゃんも、体には気をつけて。お休みがとれそうだったらまた会いましょう。ではまた、お手紙を書きます。草々」

 暁海の言った言葉通りに螢は手紙を書ききった。草々、と書いて筆を置くと一息ため息をついた。

「お疲れ様でした」

「今日は少し短いですね」

「そうですか? もうちょっと書いてあげたほうがよかったかしら?」

「いえ」

 いつもより便箋が一枚少なく済んでしまったと思いながら螢は書き終えた手紙を封筒に入れた。そして、部屋の中に辰儀が入ってきていたことに気がつく。

「文屋さん、お茶です」

「ありがとう」

「途中で声かけようかと思ったんだけど、喋る口が止まらなかったから。あ、暁海さんにもお茶です」

「ありがとう」

「冷めてるからすぐ口を付けて大丈夫ですよ」

「ありがとう」

 辰儀にしてもらうことひとつひとつに暁海は礼を言う。それに辰儀は頬を綻ばせながら、せっせと暁海に世話を焼いていた。

「じゃあ、文もいただいたことですし、私たちはこれで失礼します」

「もう行かれるんですか?」

「残念ながら。他のご依頼が入って、これからアガツマザキのほうに行かないといけないんですよ」

「まあ、吾妻咲(あがつまざき)に? それは大変ですね」

「いいえ、こいつの足を使えばすぐそこです」

「あ、やっぱり、大人しくしてるけどいらしてたんですね、(ひかり)さん」

「へへ、こんにちはー」

「こんにちは」

 雷獣は答えた。螢は今までその名前で彼女を呼ぶことはないが、彼女を知る者は彼女のことを「光」という名で呼ぶ。

「光の速さで飛んでいくよってね」

「光の速さで行くな。私が置いて行かれる」

 お茶を啜りながら螢が言った。

「あ、そうだ。お代のほうを。トキちゃん」

「はい」

 暁海に言われて、辰儀が懐から封筒を取り出した。差し出された封筒を螢は受け取り、中身を確認する。

「……多くないですか?」

「いいえ、きっかりです」

「そうですか」

 螢は何か言い返そうとしたが、そのまま引き下がった。

「じゃあ、失礼します。次はまた一週間後を予定していますが、何かありましたら遣いを飛ばしてください」

「ありがとうございます」

「またご利用ください。じゃあ」

 螢は立ち上がると、部屋を出た。その後に光も続く。

「僕、表までお見送りしてきます」

 辰儀も立ち上がり、暁海の部屋を後にした。

 歩き慣れた廊下を歩き、入ってきた縁側のほうへ歩いていく螢。家の中に入って脱いでいた帽子を再びかぶり、靴を履いた。螢はこう見えて、ファッションは新しいものを取り入れている。早々に和服を着るのをやめてシャツと羽織という姿にした。最近は靴を購入し、草履より歩きやすく長時間歩くことができると言った。螢は、最近のファッションの利便さを気にいっていた。

「文屋さん、今日はありがとうございました」

 靴を履き、これから出ようとして螢たちの後ろで、辰儀が縁側で正座をして頭を下げた。辰儀に気がついた螢は辰儀のほうへ歩み寄ると、一度懐に収めた封筒を出し、中のお金をいくらか取りだして辰儀に渡した。

「やっぱり、この額は多い。暁海さんはお礼だとおっしゃるかもしれないが、私は受け取れない。そっと、暁海さんのお財布に返しておいてくれないか?」

「え、でも……」

「いいから。頼む」

「承知しました」

 螢にお金を握らせられ、辰儀はそれを受け取った。

「でも、きっと暁海さんは気がつきますよ?」

 暁海は鼻がいい。一度螢に渡したお金を元の場所に返したとして、螢のにおいに気がついてしまうと辰儀は言ったのだ。

「それならそれでいい。そのときは、私がどうしてもと言って引き下がらなかったと言ってくれ」

「では、そのようにさせてもらいます」

 辰儀は折り畳まれ小さくなったお札をちらりと螢に掲げ、言った。

 螢は、辰儀がそうするのを見て踵を翻した。

「ねえ螢、今から行くの? 吾妻咲」

「ああ、この足で行く」

「なんならあたしひとりで行けるけど?」

「ハッ、馬鹿を言うな、貴様におつかいなんざ百年早いわ」

「失礼ね、おつかいくらいできるわよ」

「信頼が必要なんだよ、私の知らないところで何かされたら困る」

「ちぇーっ」

「イナハのカザミヤから預かった文の宛先は初めて見るところだ。自分で行っておきたい」

「あらそう。じゃあ、行きましょう」

 光はきょろきょろと辺りを見回すと、瞬時に獣の姿になった。人間の姿から妖の姿に戻したのである。雷獣である光の妖の姿は二、三メートルはある。螢が背中に乗るには十分の大きさだ。

「早く乗ってよ」

「いつも思うが、妙だよな、これ」

「えー? 大丈夫よ、普通の人には馬に見えるようにしてるから」

「それにしてもだ。足が速すぎる馬に見えていないか?」

「大丈夫、そこまで行くと風に見えてるわ」

「そうは言ってもなあ……」

「仕方ないでしょ。ほんとは空を行きたいけど、人間って生身で空を行けないんでしょ? 地を行くしかないんだから、文句言わないでよ」

「まあ、そうだが」

「ほら、早く乗る」

 光に急かされて螢は光の背に跨った。螢が背に乗ったのを確認するや否や、光がびゅんと走り出す。風を切って走っていくのに、螢は未だに慣れない。目を開ききることができないまま、光の背につかまっていることしかできない。

「アガツマザキは分かるな?」

「分かるわよ。だてにいつも遊び歩いてるわけじゃないわ」

「そうか」

 光の話にツッコミを入れる気力もなく、余裕もなく、螢は光が知っているというらしい吾妻咲へと向かった。

 



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床に伏せる鬼

 吾妻咲(あがつまざき)へ近づいてくると、今までの住宅地の景色とは一変して、色とりどりの花が咲く華やかな景色になった。木々に溢れ、花に溢れた土地。木や花を潰さないように(ひかり)は走り、次第に減速して目的地近くで足を止めた。

「この屋敷だな。仕事をしてくるからそこで待っていろ」

「ついていくわよ?」

「無用だ。むしろ、馬としてそこにいてくれたほうが助かる」

「分かった」

 美波間(よしはま)から吾妻咲は、歩いてくるには不自然な距離だ。歩いてきたと言ってもいいが、これほど立派な屋敷に住んでいる主人なら、馬や籠を用意すると言いかねない。そうすると、光を置いていくことになる。置いていってもいいが、その後の光の拗ねようが正直面倒くさい。それなら、光を馬の姿でここに置いておくのが最も賢い方法だと(ほたる)は思いついた。

 この屋敷は初めて来た。屋敷は大きかったが、螢はその屋敷に住む人の名前は知らなかった。大きな企業の社長でもあれば名前くらい聞いたことがあるはずだが、聞いたことがないのだからそこまで有名な家ではないのかもしれない。もしかしたら、吾妻咲では有名な誰かかもしれなかった。

「御免ください」

 引き戸を叩き、いるのかも分からない家主に声をかけた。

「御免ください」

 返事が返ってくることはなく、誰かが玄関を開けようとする音もしない。今、家主は家を空けているのかもしれない。螢が引き戸に文を挟んでその場を去ろうとしたそのとき、背後から「もし」と声をかけられた。

「どちら様でしょうか?」

 肩ほどまでの黒い髪に、瑠璃色の目。着流しを着たその人は、その家の主だった。

「美波間から参りました、文屋でございます。以後、お見知りおきを」

 螢はその人に向かって一礼した。相手の女性も螢に向かって礼をする。

「イナハのカザミヤ……山羊(やぎ)様より文をお届けに参りました。ご確認ください」

「あっ……ありがとうございます」

 伊南波(いなは)の山羊という人物に心当たりがあるのか、女性は渡された文を手に取った。

「返事の文を山羊様にお送りすることもできますが、いかがいたしましょうか?」

「あ、えっと……」

「二時間程度ならお待ちできますが」

「えっと、その、すぐにはお返事できないと思いますので……」

「そうですか。では、私はこれで」

「あ、あの」

「何か?」

「ありがとうございました」

「いえ、仕事ですから。では、また」

 螢は一礼をすると、その場を去った。

 螢が去っていくのを見て、手紙を受け取った女性、鈴色(すずいろ)は家の中へと入った。

「ただいま帰りました」

 玄関で鈴色はぽつりと呟いた。それに返す声はないと分かってはいるが、鈴色は習慣づいてしまったこれを未だにやめることができない。

 鈴色は自分の部屋に仕事道具を置くと、すぐにその隣の隣の部屋に行ってノックをした。

「鈴色です、入ります」

 部屋の中にいる者の返事を聞くことなく、鈴色はその部屋の襖を開けた。

「なんだ、帰ってきたのかよ」

「ただいま帰りました」

 部屋の中にいたのは、ひとりの男の鬼だった。鬼は布団に横たわったまま、目だけを動かして鈴色を見た。鈴色は鬼の枕元へ行くと、先ほど文屋から預かった手紙を鬼へ見せた。

「靖助さん、届きました。伊南波の山羊家からのお手紙です」

「あ? ああ……」

 鈴色の報告に靖助は眉を顰めた。その手紙を見て驚く様子はなく、煩わしそうに手紙を一瞥して目を閉じた。

「まさか、あの家が返事を出すとはな」

「私も驚きました。仕事にならないような仕事の相手はしないと聞いていたので」

「お前、何かしたんじゃないのか?」

「何かって何ですか? 私は普通にお手紙を書いただけです」

「なら、俺がいかにも奇妙だったってことかねー」

「そんなっ」

「おい、読むならさっさと読め」

「あ、は、はい」

 鈴色の反論に靖助は聞く耳を持たない。鈴色は、靖助に言われるまま手紙に目を通した。鈴色も鈴色で、靖助を言い負かそうなどとは思っていなかった。

 鈴色は、山羊家から送られてきた手紙をじっと読んだ。読み間違いがないよう、読み落としがないよう丁寧に読んだ。何度も何度も同じ文章を繰り返しながら読んだ。

 そして、「ああ」と消え入るような細い声を漏らした。

「どうした? 絶望するような内容だったか?」

「はい……」

「そこで正直に頷くのがお前らしいよ。ちったあ俺のことも気遣ってそこは嘘でも言っておけよ」

「ごめんなさい……」

「ま、いいけどさぁ。お前、外でもそんなんだったらやってけねぇんじゃねぇのか?」

 ぽろぽろと涙を流す鈴色をよそに、靖助はぶつぶつと文句を言う。

「でも、だって、こんな……」

「いいんだよ、別に。最初から期待なんてしてなかった。伊南波の山羊家はそんなもんだ。あそこは力こそ強いが仕事にならん仕事はしねぇからな。ま、返事がきただけアレだったってことだ」

「でも、でも……」

「鈴色、喉が渇いた。お茶」

「はい……」

 鈴色は涙を手で拭ってしまうと、部屋から出ていった。

 鈴色が部屋から出ていくと、靖助はかすかに動く右手で鈴色が置いていった手紙を手に取った。顔を顰めて目を細め、字を読もうとした。ぼんやりと見える文字をなんとか読み、ため息をついた。

「そうか、そうか、これは、治らないなぁ……」

 治ると思っていたわけではない。しかし、治ればいいのにという希望がなかったわけでもない。その一通の手紙が与えた衝撃はそう小さいものではなかった。靖助は口では「期待なんてしていなかった」と言ったが、手紙を読み終えた後の落胆のため息を止めることはできなかった。

「失礼します。靖助さん、お茶を持ってきました」

「ああ」

 何度目かのため息をついたとき、鈴色がお茶とお茶菓子を載せたお盆を持って部屋に入ってきた。靖助は体を起こそうとし、鈴色はそれに手を貸して靖助の上半身を少しばかり起こさせた。靖助の背中側にはクッションが積まれている。

「靖助さん、お茶です」

「悪いな」

 靖助にコップを持たせると、靖助はゆっくりと口に近づけてお茶を飲んだ。

「鈴色」

「はい」

「お前、あの手紙のことは気にするな」

「……」

 先ほど読んだ手紙のことを靖助は話す。

「どうせ、俺はあの手紙を読んだことを忘れるんだろう。それに、俺を痛めつける根源がどれかすら忘れてしまったのに、それを忘れろと言われたってどうしようもねぇ。きっと、俺の中には残っているんだろうが、どうしようもねぇよ」

「でも、靖助さん」

「いいんだ、鈴色。いいんだ……」

 靖助はそう言って鈴色を睨んだ。それ以上は言ってくれるなと言うようだった。

 手紙には、靖助の謎の病を治すには、靖助の痛みの元である一番痛む部分を失くすしかないと書かれてあった。靖助は身体全体に痛みが走る。全身が痛くてたまらないため、日がな一日布団の中で横になっていることしかできないのだ。その上、靖助は自身の記憶も失いつつある。どこから靖助の病が始まったのかということを、靖助自身忘れてしまっていたのだ。

「私、もう一度お手紙を書いてみます」

「鈴色」

「だって、これでは靖助さんは……」

「だからいいって言ってるだろ。いい加減にしろ。いつまで経っても終わんねーだろ」

「もう一度。もう一度だけですから」

「あ、おい」

 そう言いきると、鈴色は靖助のいた部屋を出ていった。靖助は鈴色を呼びとめようとしたが、鈴色が靖助の呼びかけに止まることはなかった。鈴色に閉められた襖を見て靖助は長いため息をつき、再び布団に横になった。見上げた天井は木目色で、靖助の見慣れた天井だった。

 靖助の部屋を飛び出した鈴色は、そのままの勢いで自室へと向かった。手にはあの伊南波の山羊家からの手紙が握られていた。

 鈴色は、あの手紙を読んでぴんときたことがある。それは、靖助の痛みの元のことだ。鈴色には、靖助の痛みの元について思いあたることがあった。しかし、鈴色はそれを靖助に打ち明けることができなかった。なぜなら、鈴色はその靖助の痛みの元を頭か心臓であると踏んでいるからである。

『伊南波 山羊家当主様』

 鈴色は筆を取り、再び文をしたため始めた。

 靖助の痛みの元がもし鈴色の思うように頭か心臓だったなら、そこを失くしてしまうことはできない。他の治療方法はないのか、と鈴色は尋ねる気でいた。

 鈴色は思ったことを書いた。情では動かないとの噂もある伊南波の山羊家だが、また今回のように返事をくれるかもしれない。何か、山羊家の興味を引くようなことがあるかもしれないと、書けることは全て書いた。

 とはいえ、相手に失礼がないようにと何度も手紙を書き直し、手紙を書き終えた頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。鈴色は、手紙を明日出すことにしてとりあえず眠ることにした。眠る前に一度靖助の部屋を覗くと、靖助はもう眠ったようで鈴色の呼びかけに対して答えることはなかった。

 



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雨の前の童話専門書店

「はー、今日もいいお天気だね」

「そうですね」

 古びた童話専門書店。そこにいるのは店主と呪術師。店主は勘定場で本を読み、呪術師は売り場で絵本を漁っている。いわばいつもの光景がそこには広がっていた。

「そういえば、来週から雨が降るらしいよ」

「来週ですか? よくそんな先のことが分かりますね」

「おかっぱさんから聞いたの。昨日たまたま商店街で会ってさ、そこで」

「ああ、おかっぱさんですか」

 おかっぱ。三日前に初めて童話専門書店に現れた旅人だ。おかっぱ頭をした女性で、彼女自身も連れも彼女のことを〈おかっぱ〉と呼ぶものだから、ふたりもおかっぱと呼んでいる。彼女の連れは龍神という位の高い妖である。名前を朝栄(あさはる)という。

 ふたりは三日前にこの地を訪れ、この近くの宿に泊まっているのだという。この辺一帯に雨を降らしにやってきたそうで、この地で術を使うからとこの地に住んでいる妖に挨拶にきたのだった。

 その妖というのが、この童話専門書店に住んでいる神狼で、五歳ほどのヒトの姿をした妖である。名前を文多(ぶんた)という。

「はい、お茶」

「ありがとうございます」

 文多は基本、本屋の奥にある家の中で過ごしているが、たまに店主のいる勘定場に顔を見せては新しいお茶を差し入れていく。

「それでおかっぱさんがさ、来週から雨が続くから傘準備しておいたほうがいいよって」

「そうですか。そうですねえ、傘、どこにしまったかしら」

「最近雨降ってなかったからね。私もどこにしまってるか忘れてる」

 呪術師の暁空(あきら)は笑って言った。

 呪術師である暁空と違って、おかっぱは陰陽師を名乗っている。ふたりともしていることは風水や占いや祈祷が主であるが、術の範囲や方法などの些細な部分が異なっている。暁空は医療やまじないの類を行うが、おかっぱは風や星、相談者の相を読む。

「そういえば、おかっぱさんは陰陽師でしたっけ。陰陽師ってなんです?」

「あー、結構あいまいなんだよね、これが」

「あいまい?」

「そう」

 暁空が読んでいた本から顔を上げ、店主のところまで近寄ると腰をおろして話を続ける。

「やってることはほとんど同じみたいなんだけど、薬草扱ったりまじないとかお祓いとかするのが呪術師で、星とか風とか読んで未来を予想したり相を読んだりするのが陰陽師、って感じかな。でもはっきりそう決まってるわけじゃなくて、名乗った者勝ちみたいなところはあるよ」

「そうなんですか?」

「うんうん。地方によっては逆になってるところとかまとめて陰陽師って言ってるところとかあるみたいだし。呪術師のほうが十分怪しい響きしてるから、あえて陰陽師って言ってる人もいるしね」

「へえ……。そういったお知り合いがいらっしゃるんですか?」

「まあね」

 暁空は言った。

「私の故郷はどちらかというと呪術の教えが根付いてて、呪術師の先生もいるからそこで習ったんだけど、いろんなとこを旅してるとさ、そこにはいろーんな町や村があってさ。根付いてる風習も存在する職業もまばらだし、そこで出会った呪術師や陰陽師を見ると、やっぱり地域によって特性が違うよなーって思う」

「そうですか」

「そういえば、この町は呪術師も陰陽師も通用するんだね。私が呪術師だって言っても驚かれないし、おかっぱさんが陰陽師だって言っても店主さん驚いてなかったし」

「ああ……まあ、この町は自然が多いから住んでいる妖や精霊なんかも多いから、旅する呪術師や陰陽師が中継地にすることも多いみたいですし」

「あー」

 妖や精霊の類が多く住んでいると、その類の者が経営する宿泊施設も増える。宿泊施設が多くあれば、その類の者と協力関係にある呪術師や陰陽師が利用するようになる。よって、この村は旅をする呪術師や陰陽師が旅の中継地点とすることが多いのだ。

「店主さんはこの村から外に出たことはあるの?」

「え? 私ですか?」

 突然の質問に店主が言葉を詰まらせる。そして苦笑を浮かべると言った。

「ないですねえ。生まれてからずっと、この家で暮らしていますから」

「へぇ、そうなんだ。え、出ようと思ったことはないの?」

「……ありません。物ごころついた頃には、もう文多さんがいらっしゃいましたから」

「あ、そうなんだ」

「はい」

 暁空と会話を交わしつつも、店主は読んでいる本から顔を上げることはなかった。店主は本を読んでいるわけではなかったが、どことなく暁空と目を合わせづらかったのだ。

「文多くんは? 昔からあんな感じなの?」

「え?」

「小さくて物静かな感じ?」

「あ、あー、まあ、そうですね。お喋りな妖ではないですね。今も昔も」

「ふぅん」

 暁空が相槌を打つ。店主はそれ以上文多のことについて話しはしなかった。暁空もまた、それ以上文多のことについて聞こうともしなかった。

「そちらこそ、まれさんとはどうなんです?」

 店主は暁空に尋ねる。すると、暁空はにへらと笑い、言った。

「まれはねー、母の形見なんだよね」

「え」

「あの子はね、宝石の付喪神なの。うちにある宝石といったら母のつけてた指輪くらいだったからね、きっと彼女はそれなんだよね」

「へぇ……」

 暁空の言うことに店主は興味深そうに相槌を打った。

「なんでまた付喪神になったかは知らないんだけど、まあ、今は相棒として隣にいてくれるからさー」

「そういえば、暁空さんひとり暮らしされてるんでしたっけ?」

「そうだよ。この町の外れの賃貸宿の個室借りてるの」

「町の外れですか? どうしてまた?」

「妖が営んでる宿なのよ。まれを連れていくにはそれが一番いいからね」

「ああ、そういうことですか」

「うん、そういうこと」

 人間には妖を目視できる人間とそうでない人間がいる。そうでない人間のほうが多く、妖を見える人は少ない。人間が営む人間のための宿を暁空が借りたとして、そこにまれの見える人がいたとしたらややこしい問題が起きてしまう。そのことを案じて暁空は村の外れにある妖の営む宿で生活をしているのだ。

「ほんと、賑やかでいい村だよ、この町は」

 お茶を啜りながら暁空が言った。

「噂にも聞きますが、そんなに賑やかですか、町の外れは」

「そうだね。町の外れには妖がたくさんいるよ。私が住んでる宿にもいろんな妖がいるし、宿もいっぱいあるしね。おかっぱさんが泊ってる宿も私のところとは別のところだし。そのくらい妖はたくさんいるかな」

「へぇ」

「あ、そうだ。今度店主さんも文多くん連れて遊びにきてよ。まれも喜ぶからさ」

 暁空が店主に笑顔を向ける。店主は目を丸くし、ぽりぽりとこめかみの辺りをかいた。するとそれを見て暁空が更に言った。

「出不精なのもほどほどにしないと。店主さんも、文多くんも」

「……いやあ、文多さんが出たがらないもので」

 困ったように店主が言った。気まずい雰囲気から逃れようと店主はそのまま茶を啜る。

「出られないんです」

「え、なにそれ自縛霊なの?」

「いや、文多さんは妖ですから霊ではないかと」

「自縛妖?」

「……まあ、そんなところでしょうか」

「うーん、呪術的にどうにかできたっけなー……」

「ああ、いえ、いいんです、文多さんも気にしてないようですから」

「え? そう?」

「はい」

 店主は慌てて手を振り、暁空の考え事を打ち消そうとした。暁空はそれに反応し、悩むのを止める。

「それに、私だって買い物に行くときは外に出ますから」

「いやぁ、それだけじゃなくてもっと外に出たほうがいいって意味なんだけどなー」

「それは……その、あんまりひとりにすると文多さんがかわいそうじゃないですか」

「あー」

 押し問答。ああ言えばこう言う。そんなやり取りが続き、暁空のほうが先に諦めた。

「じゃあ、まあ気が向いたらおいでよ」

 そう言ってこの話を打ち切った。店主も「考えておきます」とだけ言った。

「それにしても、来週から雨だとは思えない空だね」

「そうですね」

 窓から見える青空を見ながら店主たちは会話を続ける。空は、うっすらと白い雲が流れていた。薄い水色の空が広がっている。とても来週から黒雲が広がる空には見えなかった。そのとき、風が吹き、空を映している窓ガラスが小さく揺れた。

「何か通ったね」

「そう、ですね」

 その風の正体は、妖だった。そのことを店主も暁空も感じとった。

「なかなか大きな妖だったね」

「そう、ですね」

 稀に見る大きい妖にふたりは驚き、顔を見合わせていた。そして、今の風の正体に驚いたまれたちが店主たちのところに姿を現した。

「ねえねえ! 今の妖だよね!? とってもびっくりしたんだけど!」

「……」

 まれに手を引っ張られついてきた文多もどことなく訝しげな顔つきをしていた。

「あ、うん、妖だと思う、けど」

「だよね!」

 あまりのまれの大声に人間も驚き、たどたどしく暁空が答えるとまれはまた大きな声で頷いた。

「あー、びっくりした。おっきい妖だったよね?」

「うん、大きかったね」

 まれは暁空のところに駆け寄り、跳びつく。そのまままれは抱っこをねだり、暁空に抱きついた。

「なんの妖だったんだろうね?」

「さあ、そこまでは分からなかったな」

「そうですね。私も分かりませんでした」

「まあ、あの一瞬じゃね」

「そうですね」

 店主も暁空も、妖を感じ取る力はあれど、強いわけではなかった。一瞬通っていっただけの妖が何者であるのかということはさすがに分からなかった。

「まれも分からなかったの?」

「うん、分からなかった」

「そっかー」

 あからさまに悲しそうな顔をするまれをあやしつつ、暁空は言った。

「来週から雨っていうの、本当なのかもね」

 そう言いながら再び窓の外を見る。そこには先ほどと同じような空が広がっていたが、先ほどは感じなかった奇妙な感覚を覚えた。

「傘、探しておかないといけませんね」

「そうだね。じゃ、そのためにもそろそろお暇しようかな」

 そう言って暁空は膝に乗るまれを立たせ、自分も立ち上がった。店主もふたりを見送るために立ちあがる。

「お気をつけて」

「はーい。またきます」

「さよなら、店主さん」

「さよなら」

 まれと店主は手を振って別れ、まれたちは帰路に着いた。店主と手を振っている間に先を行ってしまった暁空に追いつこうとまれは小走りになる。その小走りの音に気がついた暁空は少し歩くのを遅くし、振り返った。

「空ちゃん、傘探すの?」

「探すよ」

「買わないの?」

「買わないよ。探すの」

「去年もそう言ってなかった?」

「去年は去年。今年は探す」

「ふーん」

「ふーんじゃなくてまれも手伝ってよね」

「えー? 分かった」

「はーい」

 まるで姉妹のように仲睦まじく会話をしながらふたりは歩いていく。ここから自分たちの宿にはまだ暫くあった。

「今日は買い物はしない?」

「うん。昨日のごはんが残ってるからね」

「えー、昨日の残りなの?」

「そうだよ」

「えー、つまんなーい」

「だったらまれがご飯つくってくださーい」

「ごめん、それは無理」

「だったら文句言わない」

「はーい」

 こうなると食べて帰ろうと言っても聞いてくれないだろうな、とまれは心の中で諦めて口に出すことはしなかった。

 それからそのまま適当な会話をしながら宿へと帰った。宿に帰る頃には日が暮れ始め、ふたりは慌てて干していた洗濯物を取り入れると晩ご飯を食べて眠った。傘を探すのはすっかり忘れていた。



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郷からの便り

 朝、部屋の戸を叩かれて暁空は目を覚ました。

「はーい」

 眠い目を擦りながら返事をする。覗き窓から訪ね人を見ると、大家の娘の子鬼だった。暁空が玄関の扉を開けると、子鬼が申し訳なさそうに眉をひそめ、暁空の顔色を窺った。

「おはようございます。すみません、まだお休み中でしたか?」

「あ、ううん、気にしないで。どうかしたんですか?」

「あ、先ほど文屋さんから暁空さんにお手紙が届いたのでお持ちしました」

「本当? ありがとう」

 子鬼から茶封筒を受け取り、差出人を確認した。

「確かに受け取りました」

 茶封筒をちょいと持ち上げ軽く会釈すると、子鬼も暁空に一礼し、その場から去った。

 子鬼が部屋の前から立ち去るのを見て、暁空は玄関の扉を閉める。もうひと眠りしようかと、手紙はあとで読むつもりで机の上に置いた。

 寝室の襖を開けると、布団の中でまだまれが眠っていた。まれがはぐり倒した掛け布団を掛け直してやる。すると、まれは目を覚まし、眠たそうな目で暁空を見つめた。

「おはよう、まれ。起こしちゃった?」

「んーん……おはよう」

 おぼろげな口調でまれは暁空と挨拶を交わした。まれはぼんやりとしたままむくりと起き上がり、暁空に抱きつく。暁空はそれを受け止めた。

「んー? 海ちゃんのにおいがする……」

「え?」

「もしかして、お手紙きた?」

 くんくんと暁空のにおいを嗅ぎながらまれが尋ねた。暁空は「うん」と頷く。

「きたよ。さっきね」

「読みたい」

「もうひと眠りしてからでもいい?」

「えー」

「お願い」

「しかたないなー」

「ありがと」

 暁空はそう言うとまれを抱いたまま布団に横になった。

 とにかく眠たかった。昨夜は夜更かしもしないできちんと床に入ったはずであるのに、眠たくて仕方がなかった。先ほど、子鬼のノックで起こされたからかもしれない。あれがもし自分のタイミングで起きられていたら、目覚めはまだよかったのかもしれない。など、そんなことを思っているうちに暁空は寝入ってしまった。

 スースーと寝息を立て始めた暁空の顔を、まれは暁空の腕に抱かれながらじっと見つめていた。昔、暁空が赤ん坊だった頃のことを思い出していた。あの頃から寝顔は変わらないなと思っていた。

 まれは、暁空の母親の指輪についていた宝石の付喪神である。暁空が生まれる前から暁空の家にあったが、付喪神になったのは最近のことで、指輪だった頃のことをはっきりとは覚えていない。それでも赤ん坊の頃の暁空の寝顔は印象的だったのだろうか、なぜか時々思い出される。

 暁空はよく眠る子で、隣で双子の妹がどんなに泣いていようとのん気に眠り続ける子だった。暁空の母親が暁空の妹を抱き、あやしている傍らで指輪の宝石は寝こけている暁空を見つめていた。のかもしれない。

 まれは、眠ってしまった暁空の腕をすり抜け起き上がった。おなかが空いたのである。

 何か食べるものはあっただろうかと隣の部屋の台所まで探しに行くと、机の上に封筒があることに気がついた。まれはそれを手に取り、においを嗅いだ。

「海ちゃんからだ」

 先ほど寝ぼけているときに暁空からにおったにおいがこれであることにまれは気がついた。

 まれは、その茶封筒を日差しの入る窓にかざしてみる。そのままくるりと一周その場で周り、そして座りこんだ。

 手紙を開けるか否かを迷い、まれはちゃぶ台の上に手紙を戻した。その手紙とにらめっこをする。勝手に開ければ後で暁空に怒られる。しかし、まれは結局我慢できず手紙を封を切った。

 封を切ると、便箋が四枚出てくる。その便箋を一枚ずつ捲ってみる。文字を読むことができないため、まれは本当に便箋を捲っているだけだった。それでも便箋を捲る度に香る差出人の香りが、まれに安心感と充足感を与えた。

「いいにおい……」

 便箋を胸に抱えて、まれは横たわった。親しみを覚える香りに包まれて、まれは再びまどろみ始める。

 

   ◇◆◇◆◇

 

「おはよー、まれ。って寝てるし」

 寝床と居間を仕切る襖を開けてみると、居間で横たわったまれの姿が暁空の目に入った。

「もー、仕方ないんだから」

 まれに毛布でも掛けてやろうと思い、先ほど脱いだばかりの毛布を手にまれのほうに寄ると、まれの腕の中に紙切れがあるのが見えた。暁空はそれが先ほどの手紙であることに気がついた。

「あー、また勝手に開けてる」

 暁空は呟いてまれのおなかの上にある手紙を拾った。

 暁空に届く手紙を勝手に開けてはいけないと、暁空は日頃からまれに言いつけている。まれも普段はその言いつけを守っているのだが、その言いつけを守れず手紙の封を開けることがある。それは、暁空の妹から手紙が届くときだ。まれにとっても特別な人からの手紙であるから、まれも暁空の言いつけを守れず封を切るのだ。

 今日届いた手紙も、暁空の妹からのものだった。名前を暁海といい、彼女たちは双子の姉妹である。

 暁海は、しばしばこうして暁空に手紙を寄こす。謎の病に侵されて床に臥している暁海は、遠い地を旅する姉に自らの近況を報告しているのだ。

 暁空はやかんでお湯を沸かしながら手紙に目を通した。

「……」

 言葉も出なかった。ただただ手紙に目を通し、ため息を漏らすことすらもできなかった。暁空が言葉を発するより先にやかんが鳴いた。暁空は慌ててやかんの火を消した。

 湯呑にお湯を注ぐ。中には珈琲が入っていた。最近の流行り物らしく、童話専門書店の店主から貰ったものだった。一度淹れてみたのだがどうにも口に合わなかったのだと店主は言っていたが、確かに苦さと渋さ、それから酸味のある飲み物だった。幸い、暁空の口には合ったようで、店主からそれを貰ってからというもの頻繁に珈琲を飲んでいる。

 珈琲を淹れるのに専用のカップがあるというのだが、生憎暁空は持ち合わせていなかった。そもそも、暁空は旅人だ。元々荷物が少なく、これ以上荷物を増やす気もない。身軽でいなければ旅立つ時に旅立てないのだと暁空は言う。

「あちっ」

 淹れたての珈琲は熱かった。何度も息を吹いて冷まそうとするが、なかなかそうはならない。暁空は諦めて手に持っていた湯呑を台の上に置いた。そしてその場で膝を抱えて座り込む。立っているのも辛くなったのだ。

「……」

 どうにかしなければ。どうにかしなければ。心の中で何度も繰り返し唱える。しかし、どうしようもないのが現状だ。一刻も早く治療法を見つけなければならないのも事実、しかし、治療法を探している間暁海を独りにしているのも事実。もう暁海が長くないことを知らせる手紙は、静かに暁空を焦らせた。

 そのとき、居間で眠っていたまれが目を擦りながら台所の方へ歩いてきた。

「空ちゃん……?」

 暁空の姿を探して台所までやってきたのだ。そして、台所で蹲っている暁空を見つけたまれが小さな叫び声を上げる。

「空ちゃん! 大丈夫?」

 暁空の方に駆け寄り、しゃがみこむ。背中を摩りながら、まれは暁空の顔色を窺う。

「まれ……?」

 暁空は突然現れたまれを見て驚き、顔を上げた。

「空ちゃん、どうしたの? おなかいたいの?」

「まれ……」

 暁空は隣で心配そうな顔をしているまれを抱き寄せた。ぎゅっとまれを抱きしめる。

「空ちゃん?」

「ねえ、まれ」

 暁空はまれに声をかける。

「なに?」

 まれが尋ねた。

「海ちゃんのとこ、帰ろっか?」

「海ちゃんのとこ? 帰るの?」

「うん」

 暁空は頷いた。きゅ、とまれを抱きしめ直す。

「海ちゃんね、あんまり元気ないんだって。だから、一回帰って顔見せない? そしたら、きっとまた元気になるから……」

「空ちゃん……」

 尻すぼみの声。少しくぐもっている。まれはどうしていいか分からず、とりあえず暁空をそっと抱きしめ返していた。

 暁空は、今会いに帰らなければ暁海と会わないまま別れてしまうことになるだろうと考えていた。暁海の治療法を探すために旅に出てもう何年と過ぎたが、未だに見つかる気配はない。一縷の望みをかけて見つかりもしないものを探し続けた結果大切な妹と会えずじまいで別れることになるくらいなら、もういっそ治療法を探すことを諦めて家に帰り、妹を看取ってやれる方がいいのではないか。そう思っていた。

「空ちゃん」

 まれが少し暁空から離れ、暁空の顔を覗き込む。暁空は一筋涙を流していたが、まれに向かって優しく微笑んだ。

「いいよ。空ちゃんが帰るなら、まれも帰るから」

 そう言ってまれは再び暁空の胸に飛び込む。

「ありがとう、まれ」

 暁空はそれを抱きとめた。

 

 まれと暁空は相談して、二時間後にここを出発することにした。

 元々、荷物は多くなかった。正直、少ない荷物を纏めるのに二時間もはかからないが、ここを出る前に世話になった人に挨拶しておく必要がある。まれと暁空は大方荷物が片付くと、部屋を出て童話専門書店へと出かけていった。

 外へ出ると、珍しく雨が降っていた。そういえば、龍神様が雨を降らすとかなんとか言っていたっけ、と暁空は玄関先に置いてあった傘を手に取った。

「空ちゃん、雨だね」

「そうだね」

「傘、探しててよかったね」

「そうだね」

 一本しかない傘の中に収まるよう、二人はぴったりとくっついて歩く。まれは暁海の左腕に抱きつくようにして歩いている。暁空はそれを歩きにくいと言いながらも払うことなく童話専門書店へと歩き続けていた。

「さすが、龍神様はやると言ったらやるねー」

 このところ一切雨の降らなかった土地に雨が降っている物珍しさ。明らかにこれがお天道様の気まぐれではなく龍神の力であることが分かる。

 久方ぶりに降り注ぐ雨に、街中はどこか忙しない。そこかしこで人々が慌ただしく何かしらを片づけている。それは洗濯物であったり、農具であったり、商売品であったり。中には天に祈りを捧げている人もいる。

 人間たちが忙しなく動いている一方で、妖たちも同じように浮足立っているようだった。雨が降り始めたことを喜び、龍神の力を崇め、龍神の訪れを歓迎しているようで、こそこそ、こそこそ、と妖たちが嬉しそうに話し合っているのが風に乗って暁空にも聞こえてくる。

「まれ、そんなに跳ねないで」

「はーい」

 隣を歩いているまれもどこか嬉しそうで、いつもより足取りが軽い。

 それから十分ほど歩くと、童話専門書店が見えてくる。いつも通り門は閉じられていて、暁空が差していた傘をすぼめる傍らでまれが門を開けた。門から書店のある玄関まではわずか数歩で、手で雨粒を防ぎながら少し駆け足になる。

 玄関を開けると、いらっしゃいませ、という店主の声が聞こえた。

「あれ、暁空じゃん。どしたの?」

 その店主を取り囲むように、暁空の見知った人たちがそこに立っていた。おかっぱと龍神である。

「おー、おかっぱじゃん。いや、ちょっと店主さんに挨拶をね」

「挨拶?」

「店主さんに挨拶したらちゃんと君たちのところにも行くつもりだったんだよ?」

 暁空はそう言いながら店主を囲む輪の中に入っていく。

「いや、挨拶って何の?」

 おかっぱが暁空に尋ねた。暁空は「いやー」と言いながら淡々とした口調で言った。

「これから暫くここを発とうと思って」

「え?」

「それはまた急じゃな」

「今朝決めたからね」

 突然の暁空の告白に龍神までもが目を丸くして驚く。しかし、暁空はその飄々とした素振りを崩さないまま話し続けた。

「実家の妹の調子がよくないみたいでさ。様子見に帰るの。親もいないからさ、独りじゃ寂しいだろうし。というわけで、暫く姿見せなくなるけどそういうことだから心配しないでねっていう挨拶!」

 にかっと暁空は笑う。そんな暁空をおかっぱは不気味なものを見たと言わんばかりに顔を引きつらせている。

「お、おう……お前も気をつけてな」

「分かってるよ。じゃあね、おかっぱ。あ、私が戻ってきたときにはもう次の街に行っちゃうとかある?」

「さあ。お前がどのくらいここを離れるか次第だと思うけど……ねえ? 朝栄」

「そうじゃな。ひと月はここにいようとは思うが、それ以上はまだ何とも言えんな」

「そっか」

 おかっぱと龍神の答えに暁空は頷いた。もうこれで二人と会うのは最後かもしれない。そう思いながら唾を飲み、息を吸って笑顔を作る。

「あ、そうだ、思い出した。龍神様の力って凄いね、ほんとに雨降ってる」

 そう言ったときだった。

「え、あの、龍神様……?」

 龍神が暁空を抱きしめていた。しかしそれも束の間、暁空の慌てようを見てすぐに龍神は暁空を離した。

「お前の笑い顔は太陽のようじゃ。妹御もさぞかしお前に救われることじゃろう」

 龍神は暁空の頭を撫で、微笑みかける。

「もしお前が戻るとき、わしらがここにおらずとも、きっとまたどこかで会えるじゃろうて。同じ旅仲間ならな」

「……うん、そうだね」

「達者でな」

「……うん」

 龍神と暁空が握手を交わす。そのとき、おかっぱが暁空にお守り袋を差し出した。

「これあげるよ」

「え、何これ?」

「絆」

「は?」

「まあ、持っといてよ。お守りだと思ってさ」

 半ば押しつけるようにしておかっぱは暁空にそのお守り袋を握らせる。暁空は渋々そのお守り袋を受け取り、背負っている荷籠の中に入れた。

「店主さん」

「寂しいですね、暁空さんがここを離れるだなんて」

「いつかは戻ってくるから。だからさ、あれ、集めるのやめないでもらえないかな?」

「分かりました」

 一年前から暁空が探している本のお取り寄せ。暁空はそれをしっかり店主に頼み、じゃあ、と言った。

「皆、元気でね」

「お前もな」

「じゃあね」

 手を振り、店主たちに別れを告げる。踵を翻し、店の戸に手を掛けた。

 戸を開けると、まだ雨はぱらぱらと降り続けていた。暁空は傘を差し、まれを隣に呼ぶ。まれは暁空に呼ばれ、いつものように暁空の腕にひっついた。そして、二人は歩きだす。

「空ちゃん、どうしたの?」

 まれは暁空の顔を下から覗きこもうとする。しかし、その瞬間暁空はまれから顔を背けた。

「ねえ、空ちゃん? どうしたの? 泣いてるの?」

「泣いてない」

「悲しいの?」

「悲しくない」

「空ちゃん?」

「大丈夫、大丈夫だから」

 まるで自分に言い聞かせるように。暁空はそう呟いて顔を上げた。

「行こう、まれ。今日中に吾妻咲(あがつまざき)に行ってしまいたいから」

「うん……」

 暁空の実家のある美波間(よしはま)に行くには時間が足りない。夜になれば活発化する妖も増える。妖の被害を受けないためにも、美波間に行くまでの土地で一度夜が明けるのを待つ必要があった。

 雨の中、二人は吾妻咲を目指して歩き続けた。その間、まれはなんとか暁空を元気づけようとしたが、吾妻咲の宿に到着しても暁空は依然元気のないままだった。結局、その日暁空がいつものように笑うことがないまま二人は床について夜を過ごすこととなった。



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