バクガールズ! (豆腐J型)
しおりを挟む

1話:あんた、もしかしてまだ皆の名前覚えてないの?

 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 クラスメイト達がバタバタとお昼ご飯の用意を始めた中、黒野昴輝は床に落ちているプリント用紙に気付いた。拾ってみると、とても見覚えのある物だった。

 

「進路調査票」

 

 担任教師から昨日配られた物である。提出期限は来週。昴輝もまだ書いてはいなかった。

 誰の物かと氏名欄を確認しようとして。何度も書いては消した跡のある第一希望欄に注意が行った。消しゴムの跡が酷いが、何が書かれていたのかくらいは分かる。

 

「……声優か」

 

 クラスメイト達の雑談に聞き耳を立てれば、沢山の話題が聞こえてくる。昨日のテレビドラマやネットニュースから、アイドルや音楽、ゲームやアニメ。そうした話題の中には、声優の言葉も頻繁に出ていた。

 簡単に利用できる動画配信サイトの躍進で、映像娯楽はずっと身近なものとなった──らしい。らしいというのは、昴輝がインターネットの話題にとても疎いので、人伝に聞かされた事だからだ。アニメはネット配信が主流となって久しいという話も、アニメーションの業界に興味を持つ十代は年々増加傾向にある話も、昴輝にとっては遠い世界の出来事のように思える。

 でも、声優という職業が、アニメーション業界で花形と呼ばれているのはよく知っている。

 そう、とても深く、知っている。

 進路調査票の氏名欄を見ると、見慣れない名前があった。

 

「多村、瑞希」

 

 この学校──川鳴学園に入学してから三ヶ月が経っているが、未だにクラスメイトの顔と名前が一致しなかった。気軽に話せる友達なんて一人しかいない。とても胸を張って言えるものではないが。

 

「可凛、悪い。今ちょっといいか?」

 

 その気軽に話せる唯一の友達に声をかけると、彼女は談笑していたクラスメイトに一言断りを入れて、とことこと駆け寄ってきた。

 

「なになに?」

 

 西尾可凛。昴輝の幼馴染で、スラリとした長身と、背中を覆う豊かな黒髪が人目を惹く端麗な少女だ。切れ長の瞳とすっと通った鼻梁に、ふっくらと健康的な朱色の唇。顎は細いが、首から下の身体は起伏に富むスタイルを誇っている。

 

「このクラスに多村瑞希って生徒はいるか?」

「……あんた、もしかしてまだ皆の名前覚えてないの?」

 

 可凛が呆れた顔で溜息をつく。

 

「その分だと、友達もいないっぽいね」

「ああ。今のところ、顔と名前が一致するのはお前だけだ」

「もう三ヶ月も経ってるんだから、もう少し学校生活楽しみなよ、もー。中学の時と違って、ちゃんと通えてるんだから」

「いや。それなりに楽しんでいるつもりだぞ。学食は美味いし、授業は新鮮だ。気軽に話しかけられる友達はいないが、挨拶を交わす奴は多い」

「挨拶くらい誰だってするでしょ……それで、瑞希ちゃんがどうかした?」

「ああ。これを拾ったんだが、本人に返したい」

 

 可凛の顔の前に拾った調査票を差し出す。

 

「将来を決める重要な用紙だ」

「何もそこまで堅苦しいもんでもないって。あたし達まだ一年だよ? ただのアンケートみたいなもんよ。でもこれ、消した跡酷いね」

「そうだ。多村という生徒にとって非常に重要なものなのだろう。だから早々に返却したいんだが、俺は肝心の多村を知らない。今教室にいるのか?」

「えーと……うん、いないね」

 

 可凛の視線を追うと、窓際の空席に当たった。どうやらそこが多村瑞希の席らしい。

 

「あ。そういえばあの子、お昼時は演劇部の部室に行ってるんだっけ」

「演劇部?」

「廃部になってて部室だけが残ってる状態らしいけどね。鍵もかかってないから、今は物置みたいになってるって話。お昼が終わる頃には戻ってくると思うから、その時返したら?」

「いや。もしかしたら無くした事に気付いて途方に暮れているかもしれん。できればすぐに返して安心させてやりたい」

「あんた、ホントに変なところで真面目だよね」

「そうか?」

「そうだよ。じゃ演劇部の部室まで案内してあげるね」

「済まない。助かる」

「いーえ。あんたがそうやって別の事に興味持ってくれると、あたしも嬉しいからさ」

 

 可凛に連れられて、昴輝は教室を出た。

 一般教室が入っている教室棟から連絡通路を伝って、特別教室や文科系の部活の部室が入っている特別棟へ。可凛も少し迷った様子だったが、無事に演劇部の部室に到着した。

 可凛が部室の扉を開けようとした時、中から女の子の話し声がした。

 

「あれ。瑞希ちゃんだけじゃないのかな」

 

 そっと扉を開ける可凛。彼女に倣うように昴輝も扉の隙間から部室の様子を窺った。

 物置にされているような広い部室。その中で一人の女子生徒が窓に向かって立っていた。肩幅に足を広げて、右手にコピー用紙を持ち、左手を腹に添えている。首からはデジタルオーディオを提げていて、イヤホンを付けていた。

 その横顔は鬼気迫るものであるが、同時に凛とした緊張感を漂わせていた。絶対に負けられない真剣勝負に挑む勇壮な横顔だ。

 その表情を、昴輝は知っている。良く知っている。

 一年前までは毎日のように見て、そして自分も浮かべていただろう感情だから。

 声が聞こえた。それは台詞だ。

 

 

「────行きます────ッ!」

 

 

 声が、弾む。

 生きた感情が、耳朶を打つ。

 部室にいたのは小柄な女子生徒だ。

 それなのに、違うと感じた。

 

 

「──空を走るって夢から、私は逃げない──!」

 

 

 彼女は一体誰だ。姿形は川鳴学園生徒なのに、違うと錯覚してしまう。自分の認識を信用できない。彼女の言葉は昴輝の胸に突き刺さって、そのまま深い場所へ潜り込んでゆく。腹の底ではなく、脳味噌でもなく、心の奥底に抵抗無く入ってくるのだ。

 だが、声の小ささが惜しい。声量不足だ。横隔膜を使った腹式呼吸ではなく、肺を使った一般的な発声になっている。これでは届けたくても届けられない感情が出てしまう。

 それなのに、昴輝の胸には確かに生きた台詞が届いていた。

 不意に大きな物音がした。可凛が扉に足をぶつけたのだ。

 その音と昴輝達の気配に気付いた女子生徒が、はっとした顔を二人に向ける。

 

「ご、ごめんね瑞希ちゃん。今ちょっといいかな?」

 

 その一言で、女子生徒の雰囲気は一変する。透徹とした気配が消し飛び、頬を真っ赤にして後ずさりしてしまった。

 小柄で大人しそうな少女である。肩口で切り揃えられた綺麗な鳶色の髪が、その下にある童顔をさらに幼く見せていて、下手をすれば中学生以下に見えてしまう風貌だ。垂れた瞳は気弱そうだが、綺麗ではなく、可憐という言葉が似合う子だった。

 

「忙しいところに失礼する」

 

 昴輝は軽く一礼を残して部室に踏み入った。その途端、女子生徒が挙動不審になる。顔がさらに紅潮して、身の置き場に困った様子でおどおどと身じろぎをし始めた。

 

「君が多村瑞希か?」

「は、はい! そ、そそそそ、そうです!」

 

 女子生徒──多村瑞希が、敬礼でもしそうな勢いでびしっ、と背筋を伸ばした。街中で憧れの芸能人にバッタリ出くわしたような反応だった。

 

「これは君のものだろう?」

 

 昴輝が拾った進路調査票を差し出すと、瑞希は慌てた様子でスカートのポケットを探した。だが、何も出てこないらしく、昴輝が持つプリント用紙をまじまじと見つめる。

 

「た、確かに私のです」

「教室で拾った。大事な提出物だが、持ち歩くものでもないだろう。気をつけてくれ」

「わざわざ届けて……あ、ありがとうございます」

「いや。こちらこそ取り込み中のところを邪魔した」

 

 そう言って、昴輝が入口の方で待っている可凛のところへ戻ろうとした時。

 

「あ、あの!」

 

 胸元で調査票を握り締めた瑞希に呼び止められた。

 

「く、黒野君は……声優の櫻井昴輝さんじゃないですか!?」

 

 ──櫻井昴輝。それは黒野昴輝が声優だった頃に使っていた芸名だ。

 

「……そうだが、よく分かったな」

「は、はい! だ、大好きですから!」

 

 満面の笑顔で断言して。すぐに何かに気付いた様子で首を横に振り回した。

 

「ちちちちち違います! れ、恋愛的な好きじゃないです! 憧れているというか、そういう意味での大好きです!」

「そういう意味での大好きです、だって。残念だったねー昴輝」

 

 可凛が脇腹を突いてきた。そんな事は言われなくても分かる、と口の中で呟いておく。

 

「私なんかがそんな櫻井さんを好きだなんて恐れ多いです……!」

「……黒野だ。黒野昴輝」

 

 恐れ多いのはこちらの方だ。そう思いながら、昴輝は瑞希の言葉を修正した。

 何も言わずに引退して一年。それでもこうして好きだと言ってくれている事に、感謝せずにはおられない。

 

「櫻井は芸名だ。それに、もう二度と使う事も無いし、呼ぶなら黒野でお願いしたい」

「そう、なんですか? やっぱり、その……声優は辞めてしまわれたのですか?」

 

 瑞希が固唾を呑んで見つめてくる。憧れているという言葉が嘘ではない純真無垢な視線だ。

 本当の事を言わなければならない心苦しさを覚えながら、昴輝は言った。

 

「喉を潰してしまったんだ。手術とリハビリを重ねて元の声は出せるようになったが、喉を酷使はできない。だから、芝居から足を洗ったんだ。正式に発表していなくて申し訳ない」

「じゃ、ネットで噂になってる引退というお話は」

「ネットはやらないから噂とやらは分からないが、事実だ。続けたい気持ちはあるが、今の喉の状態では、多村のように期待してくれている人達に応えられない。万全の状態で芝居ができない事は悔しいし、待っている人達を失望させるのが心苦しいんだ」

「そう……ですか……」

 

 うつむいて、肩を落として、瑞希は声も小さくしてしまう。

 いたたまれないほどの落ち込みに、昴輝も胸に痛みを覚えた。

 できれば、すぐにでもこの場から去りたいと思う。けれど──。

 

「さっきの演技」

 

 落胆させてしまった事へのお詫びを、何でもいいのでしてあげたかった。

 

「え?」

「演技指導なんて分不相応なのは重々理解しているが、さっきの芝居は良かった。だが、声量が足りていない。声が小さいんだ。今の段階でも台詞は充分に生きているが、声量次第ではさらに芝居の幅が広がる。発声練習をするといい」

 

 瑞希はポカンと昴輝を見上げていた。

 声優を引退した奴が何を言っているのだろうと思われたのかもしれない。そう考えると、昴輝は猛烈な気恥ずかしさに襲われた。

 それ以上何も言えずに、昴輝は可凛と連れて逃げるように演劇部の部室を後にした。

 

 

 

 芸名は櫻井昴輝。

 本名は黒野昴輝。

 一年前までは多くのアニメーションや映画吹き替えに活躍する第一線の声優だった。

 かつては子役として映画やドラマに出演。中学生の頃にアニメーション映画で声優を経験してからは声優へ転向して活躍していた。

 だが、元から喉が丈夫ではなく、声優として喉を酷使した結果、喉を壊してしまった。

 それが一年前で、それ以降は表舞台から姿を消して事実上の引退状態であった。

 正式な発表も無く蒸発するように業界から消えてしまったので、ネット上では今も無責任な噂が流されている。元々大きく売れていた訳ではなかったので、実生活に問題が起こるほどではなかったのは幸いだった。学校生活に支障が出るから、という理由でアニメや声優の専門誌でも顔出し等は極力避けていたのも影響していて、静かな高校生活を送れている。

 

「昴輝の顔を知ってるって事は、瑞希ちゃんって結構熱心な昴輝ファンだったんじゃない?」

「だとすれば余計に申し訳ないな。彼女を失望させてしまったのは間違いない。やはり正式にアナウンスするべきだった。うちの事務所が声優業務をやっていない俳優専門であっても、些か良識を逸していた」

 

 学校からの帰り道である。昴輝は可凛と住宅街の遊歩道を歩きながら反省を口にしていた。

 

「あれー? 引退発表しなかったのはキッチリとリハビリやって復活するつもりだからじゃなかったの?」

「こうやって普通に話すくらいの声を取り戻すのが限界だったんだ。続けたい気持ちはもちろんあるが、多村のような子を失望させたくはない」

「引退が一番ファンを失望させると思うけどな。まぁ、今はそういう事にしておいてあげる」

 

 先を歩いている可凛がにしっ、と笑った。さすがは歳の数だけ一緒にいる幼馴染だ。容赦の無い一言をズバズバ言ってくれる。

 

「ところで、お前はどこに向かっているんだ? 俺達の家に帰るには、さっきの角を曲がるべきだったと思うが」

「事務所だよ事務所。あたしと昴輝が所属している芸能プロダクション」

「……所属と言っても、俺はもう辞めている身だ。現役モデルのお前とは違うぞ、可凛」

「一兄が権力振り回して籍残してくれてるじゃん。なーにを不貞腐れてるかなー」

「そういう言い方はやめろ。それでは一郎兄さんが金とコネをフルに使って芸能界を牛耳っている悪徳事務所の社長に聞こえるぞ」

「物の例えだよ、例え。でも、一兄が社長に言って昴輝の籍を残してくれてるのは間違いない事だしね。一兄的には昴輝に養成所の講師やってもらいたいみたいだよ?」

「その話なら何度か頂戴しているが、無謀過ぎる。俺のような未熟者が講師なんて無理だ」

「でも今日瑞希ちゃんに声が足りてないって指導したじゃん」

「あんなものは指導でもなんでもない。誰だって気付く」

 

 そうこうしている間に件の芸能事務所に到着してしまった。

 背の高いマンションやアパートが林立しているベッドタウン。その中に六階建ての小さな雑居ビルが佇んでいる。一階のカフェの店長が管理している古い建物だ。

 ここの三階から上が、芸能プロダクション『アルト・プロダクション』の事務所である。

 

「それでどうして俺までここに行く事になっているんだ?」

「一兄にお世話になってるじゃん。昴輝が来なくなって寂しいってこの前泣いてたよ?」

「一郎兄さんがそんな事で泣くか。可凛ではあるまいし」

「あ、あたしがどうして泣くんだよ、もう。ほら文句言ってないで入る入る。どうせ家に帰っても暇なんだから」

「勝手に暇扱いしないでくれ」

 

 実際、暇なのは間違いない。現役の頃は、時間が空いては台本読みや役作り、レッスンやトレーニングをこなしていた。喉を壊してからはレッスンも含めて稽古をする必要性が無くなってしまったので、時間は捨てるほど溢れている。

 

「見たい映画が山のようにあるんだ」

「昴輝って本当に映画好きだよねー。アニメは見ないの? 声優やってたのに」

「見ようとは思うが、沢山ありすぎて、どれから見ればいいのか見当がつかない」

「映画だって凄い数じゃん。じゃ、《ラジカルButlerS》って知ってる? ネットでも凄い評判良いんだけどさ」

「いや、知らん。ネットはあまり好まない」

「即答かい。あたしも友達に薦められて見てるんだけど、これが結構面白いんだ。深夜アニメらしく可愛い女の子が沢山出てくるんだけど、熱血青春部活モノというか、そういう空気があってね。良かったら一緒に見ない?」

「ああ、いいぞ。なら今すぐ帰って見よう」

「はいはい急かさない急かさない。一兄にちゃんと会ってから帰ろうねー」

 

 襟首を掴まれてエレベータに乗せられて三階へ。小綺麗な共通通路を進むと、事務所に着く。昴輝にとっては久しぶりの事務所だった。

 入口の扉を開けると、質素なカウンターとパーテーションで仕切られただけの簡素な内装が広がっていた。アルト・プロダクションは弱小という訳ではなかったが、さりとて大手には程遠い中堅俳優事務所として業界では通っている。

 

「やっほー一兄いるー?」

 

 パーテーションの裏側を覗く可凛。

 事務所はそこそこの面積がある。幾つかの事務机が並べられている区画と、来客用ソファ等が用意されている区画と、テレビや簡素な椅子等、書架が置かれている区画。

 そのテレビの前に、結城聡一郎がいた。

 身長百九十センチ近い大柄な青年である。癖っ毛が目立つ三十代だが、子供っぽい顔立ちで二十代にしか見えない。

 その聡一郎の横には、ジャージ姿の青年がいて、二人でビデオを見ていた。

 可凛の声に反応して、聡一郎が彼女に振り向く。すると、可凛の横に昴輝がいる事に気付いて、ぱっと表情を明るくした。

 

「おー! 昴輝! お前やっと来たのかぁ!」

「ご無沙汰しています、一郎兄さん」

「安定の堅苦しさで安心したぜこの野郎!」

 

 肩を抱いて乱暴に小突かれた。子供のような反応と痛みに、懐かしさと心地良さが込み上げてくる。

 結城聡一郎。可凛の叔父で、昴輝にとって頼りになる兄のような存在であり、昴輝が芝居を始める契機の人物でもある。同時に、小規模ながら優秀な役者を多く抱えている芸能事務所アルト・プロダクションに在籍し、業界の第一線で活躍している俳優だ。

 

「お前が休職届け出しに来た以来か?」

「あれは休職届けじゃなくて、退職届けです」

「ああ。だから俺が休職届けに書き直して社長に出しておいた」

「……それは書類改竄、偽造等の罪に問われませんか? またはパワハラでしょうか?」

「俺とお前の仲じゃねーか。まぁお前が正真正銘もうやりたくないって言うなら話は別だがな。リハビリ終えてからまだ半年経ってねーだろ? そんなに答えを急ぐな若人よ」

「急いではいません。厳然たる事実として俺は」

「あー分かった分かった。取り敢えず昴輝、これ見てくれこれ」

 

 聡一郎がばんばん手荒に肩を叩いて、昴輝にテレビを見せた。

 流れていた映像は、舞台稽古の様子だった。アルト・プロダクションの付属養成所の研究生達が、半年に一度行っている中間発表の稽古の模様である。

 アルト・プロダクションは俳優業に特化した事務所だ。中間発表の内容もそれに合わせた現代劇が中心になっている。幾つかの班に別れて、同じ劇目で競い合うのだ。今回の劇目は有名ミステリー小説のようで、映画化やドラマ化もされている人気の作品である。

 聡一郎と一緒にテレビを見ていたジャージの青年が、険しい顔で昴輝を睨む。彼の事は知っている。今の研究生でリーダーを務めている役者志望の男性だ。

 研究生の刺すような視線に居心地の悪さを感じながら、昴輝は稽古の映像に集中する。

 

「皆頑張ってて悪くない仕上がりになってるんだけど、ちょっと俺的に足りねーなーと思うところがあるんだ。昴輝、お前それ分かる?」

 

 そう訊ねる聡一郎の口調には、試すような響きがあった。

 腕を組んでにんまりしている兄貴分と、どこか仏頂面で佇む研究生の間で視線を彷徨わせた昴輝は、最後に助けを求めるように可凛を見た。だが、彼女は我関せずといった風情でソファにだらしなく座ってファッション誌を読んでいる。

 

「俺のような若年者が意見するなんて身の程知らずになります。養成所の講師として、一郎兄さんが言うべき事じゃないんですか?」

「何もそこまで深刻に考えなくていいって。外部からの一つの意見って奴。思ったまま、感じたままでいいからさ」

 

 そんなに簡単に言われても。昴輝は聡一郎を恨めしく一瞥して、リーダーの青年に言った。

 

「この舞台の原作をご存知ですか?」

「ああ、もちろんだ。ミステリー小説だろう? 映画やドラマにもなっていて、舞台にもなってる。映像作品は一通り見てるよ」

「なら、原作はお読みになられましたか?」

「ああ。僕は読んだけれど」

「他の皆さんは?」

「……いや、どうだろう。全員は読んでいないと思う。だが、これは舞台だ。原作の小説をそのまま使っている訳じゃない。この前舞台になった物と同じ台本を使わせてもらっている」

「確かに原作版をそのまま舞台にしている訳ではありません。舞台化された時、話の筋も細かな点は違っていました。ですが、登場人物には改変はありません」

「どういう事だい?」

「役作りで大切なのは、自分の役がどういう人物なのかを知る事です。どこで生まれ、どのように育ち、どのような友を得て、どのような恋愛をしたのか。どのような趣味があって、どのような好き嫌いがあるのか。登場人物を形成する情報から、その人物の像を捉える。忠実にやるのもいいでしょうし、自分なりのアレンジを加えるのもいいでしょう。それが思いもよらない面白さを呼ぶ時もあります」

 

 研究生は眉間に皺を寄せて、腕を組んだ。

 

「つまり、役作りが不足していると言いたいのか?」

「完全に不足している訳ではありません。でも、少し足りない印象を受けました。原作は小説な訳ですから、人物描写や心理描写は事細かくされています。これを役作りに活かさないのは勿体無い。役になり切ろうとしている方に考えを改めてもらう為にも、原作は読むべきです」

「役になり切るんじゃないのか?」

 

 眼を瞬かせる研究生に、昴輝は慎重に言葉を重ねた。

 

「例えば笑い方です。王族、貴族、騎士、平民、奴隷、こうした身分はその人の人間性に直結していますよね? 当然笑い方も変わります。王族なら控えめに、貴族や騎士なら優雅に、平民なら屈託無く、奴隷なら力無くといった具合です。でも、それは俺達の想像だ。歴史書や過去の記録から導き出したただの空想に過ぎません」

「……まぁ、確かに王族や貴族の笑い方の現物を見た人間なんていないが」

「そして、俺達が笑う時はそうした想像のいずれにも当てはまらない。俺は平民でも奴隷でもないし、あなたは貴族でも騎士でもない。俺には俺の笑い方があるし、あなたにはあなたの笑い方があるはずです」

「つまり、貴族や平民になりきって笑うのではなく、自分なりの笑い方で貴族や平民をやれ、という事か?」

「その通り。俺の貴族とあなたの貴族では、きっと違うでしょう。根っこは同じでも、俺が思い描いて培った貴族像と、あなたが考えた貴族像は違わないとおかしい。この差異が自然な演技を呼び、役作りを練り上げる事で生きた感情を引き出せるようになります」

「生きた感情……役作りが足りてない状態じゃ、生きた感情なんて出せないか」

「なり切るという言葉の怖いところです。なるのではなく、作るのです」

「感情を作るのではなく、役を作るという訳だな?」

「ええ。作られた感情は嘘だ。役になろうとしても、その人固有の演技力は発揮できません」

 

 研究生は納得をした顔で肯き、昴輝に頭を下げた。

 

「良い意見をありがとう。これで中間発表の質は上げられそうだ。そこそこの完成度には達していたと思っていたんだが、思い上がりだったらしい」

「いえ、こちらこそ俺のような若年者が生意気言ってすいません。皆さんの本気の気持ちは画面越しにもしっかり伝わってきましたし、少しのズレを修正してやるだけでぐっと台詞が生きてくるはずです。頑張って下さい」

「ああ、ありがとう。じゃ結城さん、僕は稽古場戻ります!」

「おー。俺ももうちょっとしたら行くから、稽古はじめててくれ」

 

 聡一郎に一礼した研究生が駆け足で事務所を飛び出してゆく。

 アルト・プロダクションの事務所は五階と六階が付属養成所の稽古場になっていて、総勢二十名弱の研究生達が晴れ舞台を目指して厳しい稽古に励んでいる。

 研究生がいなくなって昴輝が吐息をついていると、聡一郎が嬉しそうに肩を抱いてきた。

 

「俺が言いたかった事をドンピシャで代弁してくれたな、昴輝」

「いや、正直それくらいしか分からなかったというか。技術的には俺に言える事なんて本当に無いですし」

「ああいう例えをポンと出して説明できるのは簡単にできるもんじゃねーよ。やっぱりお前は人に教える才能あるって。俺も最近映画の撮影が立て込んでて講師の仕事できてねーから、お前がいると助かるんだけどなぁ」

「馬鹿言わないで下さい。俺くらいの奴なんて、その辺りに沢山います。そもそもまだ十六ですよ? 俺みたいな小僧が研究生の方々に何を教えられるんですか?」

 

 俳優業界には徹底した年功序列がある訳ではない。先輩後輩という序列は絶対的にあるが、いつ芽が出るか分からない世界だけに、歳の差は些細な問題だ。

 すると、ソファにだらしなく寝そべってファッション雑誌を読み耽っていた可凛が言った。

 

「あたしもそう思うよー。昴輝の説明はとにかく分かりやすいもん。変に威張ったりしないし、気遣いとかちゃんと分かるからさ。年下だからって反感持たれるのは少ないと思うな」

「適当な事を言ってくれるな。技術的にも未熟で、経験だって声優の方なら三年くらいやっていたが、それだけだ。舞台の方は浅いし、さっきみたいに簡単に伝えるだけなら問題ないが、本格的に指導する側に回るなんて身の程知らずも極まっている」

「昴輝。どうしてお前はそう頭固いかな。学校の友達から堅苦しいって言われねーか?」

「言われません。そもそも学校には可凛の他に友達もいません」

「おいおい、ぼっち宣言を躊躇無くするなよ……って、それマジか?」

 

 聡一郎が可凛を見る。可凛はファッション誌をテーブルに置くと、溜息をつきながら姿勢を正してソファに座り直した。

 

「そうだよ。未だにあたし以外のクラスメイトの顔と名前が一致しないの」

「昴輝。こういう言い方はあれだが、せっかくまともに学校に通えてるんだし、今は普通の学校生活を楽しめよ。ここで学生って身分を満喫しておくと後々の演技に生きるぜ?」

「後々も何も、俺はもう声優も俳優も続けられません」

「でも、芝居は好き。だろ?」

 

 聡一郎が昴輝を下から見上げるように腰を屈める。心の底を見透かすような不躾な視線から逃れるように、昴輝は顔を背けた。すると、その先には可凛が笑顔で立っていた。

 

「うん。さっき説明してた時の昴輝、すっごく生き生きしてたもん」

 

 挟まれてしまった昴輝には逃げ場が無く、仏頂面を浮かべて肩を落とすしかなかった。

 芝居は好きだ。子供の頃からやっていたので、昴輝にとって芝居は呼吸も同義である。

 身体を酷使するレッスンも、睡眠時間を削って読み耽る台本も、知恵熱が出てしまいそうなほど集中する役作りも、オーディションの時の心臓が張り裂けてしまいそうな緊張感も、すべてが楽しさと苦しさが表裏一体になっているこの世界が大好きだ。

 言われるまでもなく、この世界──芝居を続けていきたい。

 特に声優は、声だけですべてを表現しなければならない奥深い世界だ。

 台本を片手にマイクの前に立ち、共演者達と声だけであらゆる世界を創る。時にはたった一人で視聴者を別の世界へ誘う。それがどれだけ困難な事か。そして、これを可能としてしまう声優がどれだけ凄いか。それに大きな魅力を感じて、昴輝は俳優から声優へと転向したのだ。

「俺も、続けられるなら続けたいと思ってます」

 

 芝居の世界に未練が無いと言えば、それは嘘だ。続けない気持ちが無いと言えば、それも嘘である。でも、この喉の脆弱さだけはどうにもならない。

 それに今日。演劇部の部室で、一人で声優の真似事をしていた少女。

 自分に憧れていると言ってくれた彼女の期待に応えたいという気持ちもとても大きい。

 だが同時に、これまでと同じ精度の芝居を見せられない事への罪悪感がある。

 今の喉では、あの少女には失望しか与えられない。それは表現者として看過できなかった。

 可凛の言う、引退する事がファンを最も失望させる行為なのは重々承知しているが、それでも怖いのだ。

 あの少女を落胆させ、その期待を裏切るのも。

 やはりこの喉ではもう駄目だと、自分に絶望するのも。

 

「でも、やっぱり難しいかなって今は」

「……今はって事は、これからどうなるか分からないって受け取っていいかな?」

「さぁ、どうでしょうか。とにかく今は、ちょっと難しいです」

 

 両手を挙げて降参を表現する昴輝に、聡一郎と可凛も追及するのを止めてくれた。

 誰も何も言わない気まずい雰囲気を、聡一郎が手を叩いて一蹴する。

 

「じゃあ俺は稽古前に下のカフェで糖分摂取するかな。お前らもどうだ? 奢ってやるぜ?」

「マジ!? 一兄大好きー!」

「だったらお前もうちっとモデルの仕事請けてくれよ。社長泣いてたぜ? 可凛は気分屋過ぎて専属モデルのお誘いも蹴っちまうって」

 

 可凛は俳優としてではなく、ファッションモデルとしてアルトに所属している。最近では有名ファッション誌にも採用されていて、ファンも多い。

 

「いや、別にやりたくないって訳じゃないんだけどさ。今は学校を優先したいというか」

「中学時代は散々グラビア活動しておいて何を今更って……あーなるほど了解了解」

 

 ニヤリと笑った聡一郎が、顎を撫で回しながら可凛をしげしげと見つめる。

 

「な、なによ、そのレンタルショップでエッチなコーナーに入ってく中年オヤジみたいな顔」

「いや? 別にお前が、自分がいないと昴輝が正真正銘のぼっちになるから仕事は選んでるって言わないよ?」

「言ってるじゃん馬鹿一兄! ほら早く下行こ! 研究生の人達待たせてるでしょうが!」

 

 可凛が聡一郎を引っ張って。聡一郎が昴輝を強引に引き摺って。三人は騒々しく事務所を出た。そのままエレベータを待っていると、聡一郎が何かを思い出した顔で言った。

 

「ところでお前等、ニコンニコン動画って知ってるか?」

「もちろん。コメント投稿できる動画サイトでしょ? ネットやらない昴輝は知らないか」

「ああ、知らん。動画サイトというと、ズーチューブのようなサイトか?」

「あーそういうもんと思ってくれていい。で、最近そのニコ動で面白い動画が流行っててな」

「面白い動画?」

 

 ネットには疎いので、昴輝は動画サイトと言われてもピンと来ない。世界的な知名度を誇るズーチューブも、海外でホームビデオを投稿するような場所くらいにか思っていなかった。

「ほれ、最近アイドル声優ブームが加熱してるだろ? 素人がアフレコごっこして、それをニコ動にアップするってのが流行ってるらしい」

「あ、それ今日学校で聞いた。でもさ、それって違法アップロードにならないの? 著作権的に大丈夫?」

「ニコ動のスポンサーをやってるアニメ製作会社が、素材として提供してる作品なら大丈夫らしい。今は結構な数のアニメが素材提供されてて、その内ネット上で新人声優オーディションができるんじゃないか、って規模にもなってる。実際、ゲーム実況動画じゃ、有名実況者にゲーム会社から実況やって宣伝して欲しいって依頼が結構あるって話しだ」

「なるほど。確かにそれは面白そうですね」

「だろ? それで結構良い芝居をする子がいたんだよ」

 

 聡一郎がスマホを操作して、ニコ動のアプリを起動させて、件の動画を見せた。

 タイトルは《ラジカルButlerSの一話をアフレコしてみた》。

 

「スマホじゃ音質も悪いから、帰ったらパソコンで見てくれ。お前風に言えば、生きた台詞をガシガシ飛ばしてくるぜ」

 

 聡一郎が少年のように、にかっと笑ったところでエレベータが止まった。

 

 

 




こちらに別途投稿中の二次創作の更新速度が亀だった理由の一つ。これをもそもそ書いておりました。
こちらは二次創作メインの投稿サイト様なので、こうした一次捜索、いわゆるオリジナル小説の需要は相当限られているとは感じておりますが、せっかく書いたので、とりあえず投稿してみようかなと。
あらすじでも書いております通り、最後まで書き終えています。普通のラノベ一冊分くらいの分量です。様子を見ながら投稿しようと思っております。

声優がテーマのラノベは結構見るのですが、個人的にこういう声優がテーマのラノベを読みたいなぁと思ったのが執筆動機です。もし気が向けば、またお付き合い下さい。

ありがとうございました。

2013/06/03 一部文書改稿


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2話:なるほどな。無理だ

「昴輝も包丁も結構慣れてきたね」

「俺はお前が料理を嗜んでいた事の方が意外だった」

「そう? だって料理が得意な女子の方が男子的にポイント高くない?」

 

 帰宅後。昴輝は自宅のキッチンで可凛と肩を並べて、夕食の準備をしていた。

 

「肉じゃがが嫌いな男子はいないって言うしねー。昴輝も好物でしょ?」

「煮物全般は好きだな。後は魚介類。ああ、それから今日はサラダを作ろうと思う。可凛はあまり野菜を摂らないだろう? 偏食は良くない。だから定期的にダイエットが必要なんだ」

「い、いきなりズバズタ言われたい放題だ……一兄にも同じ事言われてるんだけどさ、野菜食えって。でも苦いんだもん」

「肉じゃがにはニンジンも玉葱も入っているぞ?」

「ニンジンと玉葱入れないと甘味がちゃんと出ないからねー。よし、じゃこれで三十分は煮込み時間だね。おば様とおじ様は今日も遅いの?」

「ああ。お前が良ければ今日はこのまま食べていかないか?」

「じゃお言葉に甘えて。それじゃ煮込んでる時間に一兄が言ってた動画見よっか」

 

 昴輝の両親は共働きだ。昴輝が喉を潰してしまうまでは一家団欒の時間がほとんど無かったが、今では時間の空いている昴輝が率先して家事をこなすようになっている。最初は卵の割り方も分からなかったが、料理の得意な可凛の指導で簡単な献立なら作れるようになった。

 鍋の火を弱火にしてエプロンを外しながらリビングに戻ると、可凛がいそいそとノートパソコンの準備をしていた。

 

「インターネットは電話線を繋げないといけないんじゃなかったのか?」

「昴輝、あんた一体いつの時代の人間? これwifiだから大丈夫」

 

 可凛が何を言っているのか、昴輝にはまるで理解できなかった。黒野家には父親が仕事で使っているノートパソコンの他に、パソコンは一台も無い。結果、聡一郎が言っていた動画サイトを見る為に可凛のパソコンを借りたのだ。

 ソファの上で胡坐を掻き、膝の上でパソコンを起動させる可凛。そんな幼馴染のだらしなさを注意しながら、彼女の横に腰掛ける。自宅で着替えてきた可凛は制服ではなく、ラフなシャツとホットパンツという身なりだ。

 

「ほ、ほらほら。もっとくっついて。このパソコン、画面小さいんだから」

「いや。何もこんなに密着しなくてもいいだろう」

 

 そんな批難も構わず、可凛はノートPCを操作する。やがてインターネットに繋がって、件の動画サイトにアクセスする。

 

「演じてみただっけ? あたしニコ動ってアカウント持ってるだけで、全然見ないんだよね」

「アカウントというと、ここは会員制なのか?」

「うん。まぁ会員じゃないと絶対に見られないって訳でもないんだけどね。ランキングに入ってたから、そっちから行く方が早いか。ラジバトなら特に分かりやすいし」

「ラジバトとは、《ラジカルButlerS》の略か」

 

 《ラジカルButlerS》。今期どころかここ二、三年の中で最も当たったと評価されている深夜アニメである。ラジカルと呼ばれる飛行ユニットが実用化された近未来が舞台で、三人の少女達が飛行ユニットを用いた高機動空中戦闘競技を通じて成長してゆく過程を描いている。丁寧且つ非常にリアルな空中戦闘の描写が話題を呼び、王道のストーリー展開と個性豊かなキャラクター達で続編の二期が決定している話題作だ。また人気のアイドル声優を多く起用し、OPテーマやEDテーマだけでなく、キャラクターソングも大きなセールスを記録している。

 

「そうそう。その演じてみたって動画見る前に、できれば本家の方見るべきなんだけどね。ネット配信はしてないアニメで、録画したのはあたしの家なんだけど」

「いや。今は一郎兄さんが面白いと評価していた演じてみたとやらの方が気になる」

 

 実際の《ラジカルButlerS》も気にならない訳ではない。だがそれ以上に、聡一郎が面白いと言い、また生きた台詞を聞けると評価したアフレコ動画に興味を惹かれていた。可凛は本物との比較ができないから本編を見た方が良いのでは、と言いたいのかもしれない。だが昴輝としては、自分に演技のイロハを授けてくれた聡一郎が褒めた素人の方が気になるのだ。

「ホント、昴輝は真面目だなぁ」

 

 可凛が苦笑しながら件の動画を発見した。動画のタイトルは《ラジカルButlerSの一話をアフレコしてみた》。再生時間は五分と短いが、再生数はすでに六万回を超えていて、コメント数も一万に達している。

 

「へー。一兄が絶賛するだけあって人気だね」

「このコメントは消せないのか? 気になって仕方が無い」

「あーまぁはじめてだと気になるもんね。じゃコメントは消して見ようか」

 

 再生が始まる。

 雲一つ無い青空が広っていた。そこはすでに成層圏付近だ。青空の青は吸い込まれてしまいそうなほど深く濃い。その超高度を飛行している輸送機の貨物部が開いて、全身に飛行ユニットを装着した少女が姿を現した。

 赤色の長い髪を靡かせた少女が、眼前に広がる青空に掌を翳す。親指と薬指を左右に広げて、人差し指と中指と薬指を綺麗に揃えると、手の甲が前進翼を持つ戦闘機のシルエットに変わった。

 射し込む陽の光に眼を瞑った少女は、前進翼の戦闘機となった手の甲を頭上に掲げて、ゆっくりと左右へと動かす。微かな息遣いが聞こえた。それはイメージトレーニングだ。少女は眠るような顔で、しかし、適度な緊張感を育んでいる。

 少女が眼を開く。貨物室の奥まで駆け足で後退した彼女は、前方を見据える。緊張しているのに、その柔らかな頬を笑顔にするように緩めて。

 そして、カチューシャ型のヘッドセットに叫んだ。

 

 

『────行きます────ッ!』

 

 

 それはただの宣言だ。たったの一言に過ぎない。

 そう。僅か一言。それなのに、この少女の今の心境をすべて曝け出していた。

 困難に立ち向かう緊迫を表現する硬さ。

 上空一万メートルに飛び出す戦慄を想像させる震え。

 興奮渦巻くアトラクションがこれから始まる事を予感させる甲高さ。

 それらが綺麗に調和して、融合して、何一つ相反する事無く一言に収められていた。

 少女が輸送機から飛び出した。大気がほとんど存在しないマイナス二十度の極寒の環境に躍り出た少女は、引力に引かれて音速で落下する。全身を包みながら身体の輪郭を浮き彫りにする飛行ユニットが展開し、少女は気流に乗る。

 輸送機のパイロットとの張り詰めたやりとり。現在高度と位置、ユニットの駆動状況の確認が慌しく行われる。すべて異常無し。少女の眼は飛行ユニットが展開する光学仮想ディスプレイの情報を追い続ける。

 対物レーダーに反応。ほぼ同じ高度を飛行する物体が音速で接近してくる。

 少女は腕部を保護する飛行ユニットに眼を細め、そっと撫でる。

 

 

『さぁ相棒、行こうか。今度は逃げない。眼を背けない。飛びたいって気持ちから、空を走るって夢から、私は逃げない──!』

 

 

 決心の確認と、後悔の反芻と、自身を鼓舞する裂帛の咆哮。

 言葉を噛み締め、身震いを覚えてしまうほどの実感に溢れた声は、一万メートルの空に溶けて誰の耳にも届かない。きっと少女の耳にさえも。

 彼女は笑顔で大気を切り裂き、飛翔する。可変して前進翼を展開した飛行ユニットは、少女の決意に呼応するように力強くアフターバーナーを噴かせた。

 その後、動画は一分ほどの苛烈極まるドッグファイトを描いて暗転、終了した。

 

「……ねぇ、昴輝。この演じてる子の声、聞き覚えない?」

「……台詞も含めて、今日学校で聞いたな」

 

 言われるまでもない。最初の行きます! との一言でピンと来た。

 多村瑞希。今日、昴輝が進路調査票を届けた演劇部の部室にいた女子生徒。

 この動画でヒロインの声を演じた素人の声は、どう聞いてもあの女子の声だった。

 

「声量の足りなさも同じだ。間違いなく多村だろう」

「だよね。いやでも、これ凄いね。あたし、声優のお芝居とかは昴輝の見てるだけでよく分かんないけど、これ、普通にアニメに出てても全然違和感無いよ?」

「昼間聞いた演技よりもさらに良い。確かに、このレベルならアニメのレギュラーの一つや二つは持っていても不思議ではないな」

 

 もしかすれば、本来の声優よりもこのキャラクターを掴んでいるのではないか。そう思わせるほどの演技だ。少なくともプロの声優と比較して遜色が無いし、何の情報も無いままこの動画を見せられれば、違和感は覚えないだろう。

 これだけの演技ができるのに、どうして進路調査票から声優を消していたのだろうか。

 そう感じたのは昴輝だけではなかったようで。眉間に皺を寄せた可凛が言った。

 

「瑞希ちゃん、進路票に何度も消した跡あったけど。これだけできているのに勿体無いね」

「勿体無いどころじゃない。これは才能の無駄遣いだ」

 

 プロのレッスンや演技指導を受ければ、良い役者、優れた声優になれる可能性は大いにある。自力でここまでの役作りを行って演技できているのは非常識とも言えるセンスだ。才能と資質は、昴輝なんて問題にならないレベルを備えている。

 

「たった五分の演技だ。まともな台詞は二つしかない。それなのに、ここまで見ている側の心に訴えるなんて誰だって簡単にできるものではないぞ」

 

 とんでもなく理不尽なものを見せられた感覚に陥る。その才能に嫉妬するなんて低次元なものではない。多村瑞希なら、櫻井昴輝なんて問題にならないレベルの声優になれる。

 見る者の心を掌握し、別の世界へ誘える声だけの芝居。かつて昴輝が目指した声優の完成形。櫻井昴輝にはできなかった事を、この子はできる。これはもはや確信だった。

 だからこそ昴輝は、あの進路調査票の真相が知りたいと強く思わされた。

 

 

 

 翌日、昴輝はいつもより早く登校した。可凛の話では、多村瑞希は誰よりも早く学校に来て、例の部室に朝のホームルームまで篭っているらしい。

 小走りで昨日の部室に向かうと、あの声が聞こえた。

 

「さぁ相棒、行こうか。今度は逃げない。眼を背けない。飛びたいって気持ちから、空を走るって夢から、私は逃げない──!」

 

 あの後、昴輝は例の動画を繰り返し視聴した。そして何度見ても、この台詞が胸に突き刺さる。台詞が内包する真摯さ、必死さ、ひたむきさ。それらが形容できない感情に変化して、心のどこかに居座っているのだ。

 どうすればこんな演技ができるのか。これほどの臨場感溢れる感情を発露できるのか。

 もはや諦めてしまったが、昴輝の役者魂がそれを知れと騒ぐのだ。

 扉をノックする。上擦った声で返事が返ってきた。断りを入れて、部室の中へ。

 そこには、多村瑞希が一人である。突然の来客に身を強張らせていたようだったが、昴輝の顔を見ると途端に顔を赤くして、もじもじと身体を揺らしていた。

 

「おはよう、多村」

「お、おはようございます、櫻井──じゃない、黒野さん!」

 

 元気な挨拶が飛んでくるが、その声と身体は臆病な子犬のように震えている。

 

「毎朝ここで稽古をしているのか?」

「は、はい。ほとんど日課です。も、もしかして外まで響いてますか? ここ、演劇部の部室だったので、壁とか結構分厚いんですけど」

「廊下の前でようやく聞こえるくらいだ、気にする事はない。家では稽古をしないのか?」

「は、はい。ふ、普通のマンションなので、お隣さんに煩いかなって」

 

 頭の裏を掻く多村瑞希。共同住宅での発声練習や稽古はトラブルの元だ。彼女の懸念は実に正しい。昴輝は瑞希に歩み寄ると、不思議そうに小首を傾げる彼女に言った。

 

「君が動画サイトにアップしている演じてみたという動画だが、昨日拝見させてもらった」

 

 その途端、瑞希は世界の終わりみたいに真っ青になって頭を抱えた。

 

「ひぃ!? な、なななな、なんでですかどうしてですか!?」

「恩師から面白い動画があると教わったんだ。良かった。本当に良かった。たった五分に過ぎなかったが、その僅かな時間の僅かな演技なのに、とても心に残った」

 

 劇薬を飲んで死ぬ直前みたいだった瑞希の顔色が、今度は完熟トマトになる。涙眼になってオロオロと身振り手振りで狼狽を表現し、綺麗な髪をクシャクシャに掻き乱した。

 

「櫻井さんに凄いって言ってもらえて、お世辞でも、凄く、凄く凄く嬉しいです……!」

「世辞じゃない、本心だ。俺は沢山の人に教えてもらって、やっとまともな演技ができていたが、君は完全に独力だろう? それであのレベルは絶賛してもいい」

「あ、あああ、ありがとうございます! 中学の時、友達にアニメやゲームの世界を教えてもらって、声優の凄さを知りました! それで私もやりたいなって思って、友達と見様見真似でアフレコとかやっていたんです!」

 

 見様見真似であそこまでできるとは恐れ入る。これは本当に本物だ。

 だからこそ、やはり気になる点は一つとなる。

 

「それだけ好きなのに、あの進路調査票の第一希望を何度も書き直していたんだ?」

「あ……もしかして、あの、見ちゃいました、か……?」

「済まない、意図した訳ではなかったんだが……君は、声優をやりたいとは思わないのか?」

 

 そんな事は無いだろうと、昴輝は質問しながら感じた。消した跡はあっても調査票の第一希望に声優と書き、こうして人知れず演劇部の部室で稽古をし、動画サイトに自身のアフレコをアップロードする。これで声優には全く憧れていません、なんて言われた方がショックだ。

 瑞希がうつむき、コピー用紙の台本をくしゃっと両手で握り潰してしまう。躊躇うような逡巡するような間。やがて決心がついたように、彼女はその強張った顔を上げた。

 

「なりたいです」

 

 搾り出すように、唱えるように。瑞希は言った。

 

「櫻井さんみたいな素敵な声優さんになりたいと思っています!」

「櫻井じゃない、黒野だ」

「あ、あああ! すみません!」

 

 ばっと土下座する勢いで頭を下げる瑞希。面白い少女だと苦笑が堪えられない。

 

「……あ、あの、私でも、声優になれるんでしょうか……?」

「声優や役者には特別な資格なんていらない。今この瞬間に自分で声優と名乗れば、君は声優だ。ただ、仕事をしようと思うとそうはいかない」

「や、やっぱり事務所とか、養成所とか、オーディションとか、そういうの必要ですよね」

「必要だ。君の演技力はズバ抜けているが、だからこそ声量不足が目立つ。適切な指導者のトレーニングやレッスンを受けなければ、宝の持ち腐れになる可能性もある。事務所付属の養成所に入所して、鍛えなければ駄目だ」

「う……む、難しい、ですよね」

「難しいな。何でもそうだが、世の中に絶対は無い。努力すれば必ず報われるのは空想の中だけだ。でも、成功した人達は全員がそれに似合うだけの努力を重ねていた。これは恩師からの受け売りだがな。もし君が頑張ろうと思うなら、俺はその頑張りを助けるつもりだ」

「……え?」

「多村。君は声優になりたいか? なりたくないか? どちらだ?」

 

 腰を屈めて、二十センチは下にある瑞希と同じ目線になって、昴輝は再び訊ねた。

 瑞希はまたうつむこうとして。でも、そういう自分を叱咤するように太腿をぎゅっと抓る。痛みに閉じようとする眼も苦心の末に見開いて、何度も口を開こうとしては閉じて。最後には叫ぶような感じでこう叫んだ。

 

「なりたいです! 私は、声優に、なりたい!」

 

 

 

「なるほどな。無理だ」

 

 心底困った顔で降参を示すように両手を挙げる結城聡一郎に、昴輝は愕然としてしまった。

 その日の放課後。雑居ビル三階のアルト・プロダクションの事務所である。昴輝は瑞希を連れて意気揚々と乗り込み、恩師こと聡一郎に事情をすべて打ち明けた。例の動画──《ラジカルButlerSの一話をアフレコしてみた》で演じていたのはクラスメイトの多村瑞希であり、彼女は声優を志していると。その夢を掴む支援をしたいので、アルト・プロダクションの預かりにして、レッスンや演技指導をして欲しいと。

 そんな願いは、聡一郎の渋面によって、やんわりと否定されてしまった。

 

「まさかあの脅威の素人が昴輝の同級生だなんて思わなかった。世界は狭いな。えーと、多村瑞希ちゃんだっけ? 俺も見たけど、ありゃ大したもんだ。自信持っていいぞ」

「は、はい! ありがとうございますぅー!」

 

 瑞希がびしっと背筋を伸ばす。緊張のあまり顔色が土気色になっていた。

 ちなみに今日の可凛はファッション雑誌の撮影で、放課後になると同時に都内のスタジオに行っていしまって不在である。

 

「一郎兄さん。何故無理なのでしょうか?」

「あれだけの演技を独力で身につけて、お前のお墨付きもある以上は間違いなく逸材なんだろう。俺個人としても面倒を見てやりたい気持ちはある。でも、このまますんなりうちの事務所に入るってのは許可できねー。社長も許さないだろう」

「ですから、何故ですか。可能性がある子なんです。この子なら……!」

「分かってる。でもな昴輝、ちょっと冷静になってくれ。いいか、うちは俳優事務所だ。所属するには付属養成所で半年に一回やってる所属オーディションに合格せにゃならん。養成所に入るのだってオーディションに通る必要がある。お前が認めたからって理由で入れてやる事はできん。それじゃコネ、裏口入学みたいなもんだ」

 

 諭すように言われて、昴輝はようやく思い出した。瑞希という原石と出会えて浮かれていたのか、そうした当たり前のルールを忘れてしまっていた。

 声優や俳優として活動するには事務所に所属しなければならない。事務所とは言わば窓口だ。事務所に所属する為には厳しいオーディションに合格しなければならないし、聡一郎の言う通り、そのオーディションを受けるには付属養成所で優秀な成績を収める必要がある。この養成所には誰でも入れる訳ではなく、これまたオーディションを突破しなければならない。

 

「それともう一つ、お前結構重要な事忘れてるぞ」

「な、なんですか?」

「うちの事務所、アルト・プロダクションだけどな。やってるマネジメントは俳優業のみ。声優業は本来専門外だ」

 

 いけない、そうだった。昴輝は己の迂闊さを呪うように顔面を手で覆った。

 その横でポカンと口を半開きにしていた瑞希が素っ頓狂な声を上げた。

 

「そ、そうだったんですか!?」

「そうだったんですよ多村ちゃん。昴輝の声優活動は特例。俺の知り合いに一人だけアニメのプロデューサーやってる人がいてな。それ経由で昴輝に声優の仕事回してもらってたんだよ。もちろん全部オーディション。うちの事務所、マジでアニメ業界とはパイプねーんだわ」

「では、アルト・プロダクションでは」

「ああ。研究生達が使ってない時に五階と六階の稽古場を貸してやる事はできるが、事務所所属や預かりにはできん」

 

 反論を許さない断言に、昴輝は喉まで来ていた言葉を飲み込んだ。

 子役時代から所属している事務所なので、そうした性質上の事は綺麗に忘れていた。昴輝がはじめて声優の仕事をしたのも、俳優を起用したアニメーション映画で、世話になっている映画監督からの打診だったのだ。それで声優の面白味に気付かされ、聡一郎に相談し、彼の伝手でオーディションを受けて本格的な声優デビューとなっていた。

 大人の事情かもしれないが、これがルールという奴だ。

 瑞希が肩を落として落胆している。いけない、完全にぬか喜びさせてしまった。

 

「だが、条件次第じゃ、社長に掛け合ってやらんでもないぞ?」

「……条件、ですか?」

「昴輝の声優デビューは偶然から生まれたもんで、その後はお前が実力で仕事を取ってきていた。お前の声優としての力は誰しもが認めていたし、事務所としても結構な利益も出ていた。だから社長もお前の特例を認めてた訳だ。同じ事をすればいいんだよ」

 

 そう言って、聡一郎はスマホを操作する。目当てのページが見つかったらしく、画面を昴輝と瑞希に見せた。

 画面いっぱいに表示されているのは、何かのオーディションのホームページだった。

 

「あー! これ知ってます! あれですよね、ラジバトの制作会社のエイトランスが、来年放送予定で作ってる新作アニメのヒロインオーディション!」

「おーよく知ってるな。声優やってたのにアニメもゲームもやらねー昴輝君とは雲泥の差だ」

「一郎兄さん、このオーディションがどうかしたんですか?」

「オーディションは一ヶ月後にある。これに合格すれば、新作アニメのメインヒロインに大抜擢だ。ちなみに一般公募だが、プロの声優にも参加資格がある、まさに弱肉強食の地獄絵図なオーディションになるだろうって業界じゃ言われてる」

「……まさか、多村をこのオーディションに」

「おう。昴輝、一ヶ月で多村ちゃんを鍛えて、このオーディションに合格させろ。そうすりゃデカい箔が付く上に即声優デビューだ。それなら昴輝と同じ待遇でうちの事務所所属になっても誰も文句言わねーだろ?」

「た、確かにそうですが、俺が指導なんて」

「だってお前、多村ちゃんの夢の手助けするって決めたんだろ? だったらこの子育てるのはお前が適任というか、お前の責任だ」

 

 実に正論だ。異論の余地は無い。

 瑞希も何の疑いも無い無垢な瞳で昴輝を見つめて、何かを期待している。犬であれば尻尾を左右に振り回している感じだ。

 

「あの、黒野さん! 私頑張りますから! 是非ご指導のほど、宜しくお願いします!」

 

 額が足につく勢いで頭を下げる瑞希に、昴輝は答えに窮してしまった。聡一郎はにんまりと意地の悪い笑顔を浮かべている。何が楽しいのだ、まったく。

 演技の講師。聡一郎が養成所の研究生にやっているのと同じ事をする。

 自分のような若造が、そんな気軽にやって良いものではない。自分の教えた事が、その人のすべてになるのだ。いい加減な事は教えられないし、間違いを教えてしまえば、その人のこれからをすべて台無しにしてしまう危険もある。その恐ろしさは子役を経験している昴輝がよく分かっている。

 でも、多村瑞希は、声優になるべくして生まれたような少女だ。たった五分の映像、その中でもまともな台詞は二つ。それだけで人の心にあれだけ深く訴える演技がこなすのだ。

 声優になって欲しい。喉を壊した事で諦めざるを得なかった自分の分まで、この道を進んで欲しい。

 その手助けをしたいと思って、すると決めたのではないのか。

 昴輝は瑞希の肩に手を置く。彼女の眼は不安と期待がごった煮になって濡れていた。

 

「俺も不慣れだが、それでもいいか?」

 

 瑞希の顔からゆっくりと不安が消えて。やがて満面の笑顔になって、はいっと肯いた。

 

 

 




2013/06/03 一部改稿


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3話:その憧れの声優に色々教えてもらって一週間経ってるもんね

 昴輝のレッスンは、学校の放課後、アルト・プロダクションの事務所の稽古場が借りて行われる事となった。幸いだったのは、養成所の中間発表が間近に迫っていて、外の広い稽古場を借りていた事だ。養成所の稽古場はほとんど空いていたのだ。

 

「はーい瑞希ちゃん後五回! ほら頑張って!」

「ふんぬぅー!」

 

 稽古をはじめて今日で一週間。何故か可凛も参加していて、瑞希の良きサポーターとして甲斐甲斐しく動いてくれている。

 

「はい腹筋二十回終了ー」

 

 大の字に転がって荒い息を繰り返す瑞希は、すでに汗だくだった。

 

「いやー初日の五回からは大きな進歩だね、瑞希ちゃん」

「あ、あり、が、とう、ござい、ま、す……!」

 

 稽古初日の瑞希は、軽いストレッチで息が上がって、腕立て伏せも腹筋も背筋も五回以上できなかった。身体の硬さも酷く、屈伸では指先が膝から下に行かない始末である。趣味はアニメ鑑賞とグッズ蒐集で、運動が大の苦手だという話なのだから無理も無かった。

 一週間続けて少しは進歩が見られるのは良い事だ。

 

「でもさ昴輝。声優に体力って要るの? 昴輝も昔から筋トレとか色々やってたけど」

「必要だ。特に腹筋や背筋はほどほどに鍛えておかないと、横隔膜を使った腹式呼吸が難しくなる。鍛え過ぎるのも良くないが、多村のように声量が足りていない場合は、腹筋と背筋を鍛える事である程度解決できる」

 

 役者に必要なのは、演技力以前に、長時間の芝居にも耐え得る体力である。そしてリズム感だ。その為、瑞希には筋トレだけではなく、ダンスのレッスンも課している。

 

「ああ、なるほど。昴輝も毎日腹筋背筋ストレッチしてたもんね」

「そういう事だ。しかし可凛、今更だが、どうしてお前も参加しているんだ?」

 

 男子の昴輝では、女子の瑞希の柔軟体操は正直手伝いにくい。稽古だと思えば特に問題も無いのだが、女子の手を借りられるのなら借りたいというのが本音だった。

 

「あたしも最近運動してなかったからさ。夏前に色々絞っておこうかなと」

「エクササイズ感覚か」

「いいじゃない、減るもんじゃあるまいし。それに、女子の手があった方がいいでしょ?」

 

 意地悪く笑った可凛が水分を摂る。そこに息を吹き返した瑞希が言った。

 

「あの、次はなんでしょうか!?」

「発声練習だ。それから今日はボーカルのレッスンもやる」

「ボ、ボーカルのレッスンですか……?」

「最近のアイドル声優は歌うの大前提だからね」

「アイドル声優なんて何を言っているんですか西尾さんアホなんですかバカなんですか!?」

「瑞希ちゃんってテンパると突然相手を罵倒するよね。でも面白いし可愛いから逆に癒される不思議ちゃん。昴輝もそう思わない?」

「小動物的なのは言い得て妙だな。アイドル声優という方向性も悪くない」

 

 顎に指を添えて、昴輝は改めて瑞希の全身を見渡す。顔を真っ赤にした瑞希は小さな体躯を隠すように身を縮めて、批難するように声を張り上げた。

 

「黒野さんまで何故ですか!?」

「うん。昴輝がそういうミーハーな事言うなんて意外を通り越えて心外だね」

「可凛。お前は俺をどんな風に捉えているんだ?」

 

 仏頂面になる昴輝に、可凛はあははと誤魔化すように愛想笑いを浮かべる。

 

「何というか、硬派なイメージかな?」

「わ、私もそう思っていました。アニメ雑誌のインタビューでも自分に凄く厳しそうな人で、ストイックな方だと……」

「それにあんた、売れてるアイドル声優とか知らないでしょ? 佐々木音葉とか、分かる?」

「分からん。誰だ?」

 

 即答すると、可凛は呆れ顔で首を横に振り、瑞希は唖然と口を半開きにした。

 

「……知っていないとまずかったか?」

「仮にも元声優で、瑞希ちゃんをプロデュースしているようなもんなんだから、知っておかないと駄目じゃん」

「そ、そうですよ! どうして佐々木音葉さんを知らないんですか!? 日本の総理大臣は知らなくても、音葉さんは知ってないと駄目です!」

 

 涙眼で訴える瑞希。彼女の中では、日本の総理大臣の知名度はアイドル声優以下らしい。

 

「済まない。今後勉強する。しかし、それほどに人気のある声優なのか?」

「はい! ここ一年くらいで一気に有名になった方で、今絶頂期の超人気声優です! 歌唱力が高くて、歌がとっても上手いんですよ。ラジバトではメインヒロインをやっていて、あちこちに引っ張りだこになってます! ラジオも番組タイアップではなくて単独番組を持っているくらいで、アニメを見ていればその声を聞かない日は無いくらいの方ですね!」

 

 そう語る瑞希の熱気は本物だった。どうやら本当にその佐々木音葉の事を敬愛しているらしい。同性でもそれだけ虜にしてしまうとは、優れた表現者なのだろうと昴輝は感心する。

 

「ラジバトのメインヒロインという事は、多村がこの前アップしていた演じてみた動画の?」

「はい、そうです。あの時私が声を当てていた女の子がメインヒロインですね。私程度が真似をするのは身の程知らずというか何というか」

「なるほど。なら今日終わった後にラジバト本編を見るとしよう。多村との対比を知りたい」

「や、やめてくださいそれだけは! 佐々木音葉さんが元祖ですよ!? 対比どころか私が吊るし上げられるだけじゃないですか! 黒野さんも馬鹿なんですか馬鹿ですよ!」

 

 あれから一週間が過ぎているが、昴輝は未だにラジバトを見ていなかった。あれから瑞希の稽古やレッスンで忙しく、アニメを見ている余裕が無かったのである。

 

「そんなに卑下する事無いと思うけどな。こう言っちゃ瑞希ちゃん怒るかもしれないけど、あの冒頭五分間だけのシーンなら、佐々木さんよりも上手いと思うぞ?」

「じょじょじょ冗談でもそんな事言わないで下さいよバカー!」

 

 瑞希が怒るを通り越えて号泣し始めた。昴輝は意外そうに可凛を見る。

 

「そうなのか?」

「多分ね。あたしは昴輝みたいな観点からアニメを見られないから素人の感想なんだけど。もちろん、佐々木さんが下手とかキャラに合ってないとかじゃないからね?」

 

 可凛が難しそうな顔になる。確かに可凛では演技面で昴輝のような視野でアニメを見られないかもしれないが、昴輝よりも遥かに多くの作品を視聴している。その可凛が感じた事なのだから、そう的外れな意見ではないだろう。

 

「分かった。近い内に見ておこう」

「あ、あの、お願いですから変な風に見ないで下さいね? 私なんて佐々木さんのキャラクターの声を真似るだけでもおこがましいというか何というか。そういうのなので」

「アイドル声優の知識はほとんど無いから、先入観無しで見られると思うぞ」

 

 そこで一度水分補給をした昴輝が、ぱんっと手を叩く。

 

「それでは休憩は終わりだ。発声練習とボーカルのレッスンが終わった後はアフレコの練習も行う。スタジオが無いから本格的に行うのは難しいが、そこは了承して欲しい」

「は、はい! ちなみにアフレコ練習ではどんなアニメを使われるのですか!?」

 

 号泣から一変させて、嬉々として瞳を輝かせる瑞希に、昴輝は鞄の中から台本を教材として用意していたDVDを見せた。

 

「今まさに話題に上がったラジバトの二話だ。収録用のものだから、タイムテーブルが表示される、放送されたものとは仕様が異なるものだ。台本もここにある」

「よくこんなの用意できたね。どうやったの? 一兄の伝手?」

「そうだ。俺が昔世話になった事もある人でな。一郎兄さんを通じて、何か教材用にないかと頼んだら、気前良く台本と一緒に貸してくれたよ」

「なるほど。そういうコネは使える時には使うべきだね」

「あ、あの、その台本、ちょっと拝見しても宜しいでしょうか?」

「その前に発声とボーカルが先だ。君はサ行とラ行の滑舌が怪しいので、そこも重点的に修正してゆくぞ。練習の如何によってはアフレコ練習は来週に延期だ」

「が、頑張ります! 宜しくお願いします、黒野さん!」

 

 深々と頭を下げた瑞希が鞄に駆け寄って、渡していた課題曲の用紙を引っ張り出す。ダンスと筋トレにしか参加しない可凛は稽古場の隅に置かれているピアノの準備を始めた。発声練習とボーカルのレッスンでは、可凛にピアノの演奏を頼んでいる。

 

「可凛、本当に今日も最後まで付き合ってくれるのか?」

「もちろん。昴輝もあたしがいた方が助かるでしょ?」

 

 にしっと悪戯っぽく微笑む可凛に、その通りである昴輝は苦笑するしかない。

 実際、彼女がいてくれて本当に助かっている。

 声優は体力を使う。三十分アニメでも収録時間は六時間から八時間は掛かる。出番の多いキャラクターを担当するなら、スタジオに篭りっぱなしで声出しっぱなしだ。体力が無ければ集中力も持続しない。これがゲームになると辞書並みの台本を二、三冊渡されて三日間スタジオに放り込まれる事もある。最近のゲームはフルボイスが当たり前で、恋愛シミュレーションゲームとなると、その収録音声はとんでもない量となるのが常だ。

 何時如何なる時でも最良のコンディションで仕事に望むには、瑞希は基礎体力に問題があった。だから厳しい運動量を課して鍛えている。可凛がサポートについてくれたお陰で進捗は悪く、一ヶ月という時間制限がある以上、彼女の存在は無くてはならないものだ。

 

「しかし、お前もモデルの仕事はいいのか? 一週間前にファッション雑誌のモデルをやってから、何もしていないだろう?」

「あ、気付いててくれたんだ」

 

 そう言って、可凛は嬉しそうに眼を細めた。ピアノの調子を確かめるように鍵盤に指を走らせる。母親がピアノ教室を開いていた影響で、彼女も一通り以上に弾く事ができる。

 

「社長が、お前が仕事をしてくれないと嘆いていたという話は本当だぞ」

「あーうん。だから定期的にやってるよ? あたしもモデルの仕事は好きだし、高校卒業した後も続けていきたいって思ってるもん」

「だったらどうしてそちらを優先しない?」

 

 心底不思議そうに訊ねると、可凛は眼に見えて不機嫌そうに唇を尖らせてしまった。

 

「分かんない?」

「分からん」

 

 考えた素振りも見せない昴輝に、可凛は溜息をついて肩を落とした。そしてポツリと呟く。

 

「今の昴輝、昔みたいに楽しそうにしてるからさ。近くで見てたいの」

「黒野さん、準備できましたぁ!」

「よし。では可凛、頼むぞ」

「……はーい」

 不満に眼を眇めた可凛は再び溜息をついた。

 

 

 

 発声とボーカルのレッスンは、あまり良い成果が出なかった。

 

「腹筋と背筋を鍛え始めた事で、横隔膜が上手く動き始めたのだろう。声量そのものはこの調子でいけば増えるだろうが、滑舌はやはり宜しくない。サ行とラ行の口径、発声時の口の形を正しいものにするように日々喋る時は意識するようにしてくれ」

「はい……分かりました……」

 

 瑞希の落胆ぶりは、昴輝も思わず同情してしまうほどだった。それでも心を鬼にして、最初に言った通り、今日のアフレコ練習は延期した。

 別にやってしまっても構わなかったのだが、基礎は疎かにしてはならない。特に瑞希の場合、演技の面では昴輝が指導するべき点が少ないのだ。今は基礎を大事に育て、磐石な土台を築くべきである。

 

「もう少し遅くまで稽古できればいいんだけどね」

「仕方ない。一郎兄さんと社長の善意で使わせてもらっているんだ。無理は言えない」

 

 本来であればこうして機材の揃った稽古場を使わせてもらっているだけでもありがたい事なのだ。文句なんて言えば罰が当たる。

 可凛達と稽古場を出た昴輝は、忘れ物が無いかを確認して、扉に鍵をかけた。

 

「今日は残念だったね、瑞希ちゃん」

「いえ、私が駄目なだけです。黒野さんがせっかくラジバトを用意していただいたのに」

「入手に苦労した訳じゃない。気にするな」

 

 共通通路を歩き始める昴輝。とぼとぼとついていく瑞希。そんな二人を眺めていた可凛が瑞希の肩を抱いて昴輝に追いつき、二人を背後から抱き寄せるようにする。

 

「昴輝はどうせこれから暇でしょ?」

「どうせとはどういう意味だ? 帰ったら夕食の支度がある」

「く、黒野さんはお料理をされるのですか?」

「ああ。可凛に教わって、今は練習中の身だ」

「先生と呼びなさい、先生と。それで瑞希ちゃんはこの後お時間ある?」

「は、はい。私は特に用事もありません」

「よーし! じゃ下のカフェでちょっとお茶していこうよ。昴輝の奢りでね!」

「待て。どうしてそこで俺が奢らなければならない」

「そ、そうです。お茶くらい自分で払います」

「昴輝は瑞希ちゃんの先生でしょ? だったら落ち込む生徒を労うくらいはしなきゃ。で、私は自分の時間を潰して手伝ってる訳だし、何か良い事あっても不思議じゃないじゃん?」

 

 エレベータのボタンを押しながら、可凛がさも当然のように言った。

 割と正論である。可凛が手伝ってくれているのは善意からだったはずなので、何やら押し売りな気が。黙考する昴輝に、可凛が笑顔で手を叩いた。

 

「じゃ決定ね? 瑞希ちゃんもお金の心配はしなくていいからねー」

「……分かった。多村、これから少し時間いいか?」

「は、はい! えっと、あの、あ、ありがとうございます!」

 

 ぱっと表情を輝かせて、瑞希はにぱーと笑った。本当にコロコロと顔を変える子だ。

 

「親御さんに遅くなると連絡をしておいた方がいいぞ」

「それなら大丈夫です。独り暮らしですから、遅くなっても構いません」

 

 瑞希がやんわりと言うと、可凛がぱっと眼を輝かせた。

 

「独り暮らしなの? じゃ今度遊びに行っていい?」

「いいですけど、な、何も面白いもの無いですよ? 散らかってますし、何というか」

「アニメのグッズとかもあるんだよね? ラジバトとかも?」

「も、もちろんです。アルキュオーネの抱き枕は普段着版と飛行ユニット版と下着版の三種類揃えてます。コミティ限定販売で始発組でも買えるかどうか微妙な線だったのですが、無事に入手できた我が家宝ですよ! 一つ一万ちょっとでしたが、あれは良い買い物でした!」

 

 玩具を自慢する子供のような顔で熱く語る瑞希に、昴輝と可凛は揃ってポカンした。そんな二人を見て、瑞希は何かに気付いたように息を呑み、顔色を悪くして身を縮めてしまった。

 ちなみにアルキュオーネとはラジバトのメインヒロインで、瑞希が例の動画で演じていた少女の事である。

 

「……今更だけど、瑞希って結構ディープなオタクだよね?」

 

 エレベータに乗り込み、一階へ。

 

「……つい……気持ち悪いですよね、すいません、生まれてきてすいません……!」

「いやいや、何もそこまで言ってないって。人間は誰だって何かしらのオタクなんだから、別に恥ずかしがる事じゃん。でも、ラジバトって抱き枕まであったんだ。アルキュ可愛いし、良いなぁ。遊びに行った時抱かせてもらっていい?」

「はいそれはもうどうぞご自由に!」

「……アニメの抱き枕とは、一体どんなものなんだ」

 

 二人が話す内容が、昴輝にはまるで理解できなかった。

 

「そのままですよ? これ写メした奴です」

 

 そう言って瑞希が見せてきた携帯電話のディスプレイには、三つの抱き枕が寝かされたベッドが映されていた。シーツの柄はもちろんアルキュオーネである。いずれも半裸で大変に肌色率が高く、下着版なんて痴態そのものだ。アルキュオーネは童顔で小柄ながら、成熟した肉質感ある体躯なので、非常に卑猥である。表情も恥じらいに頬を薄桃色にしているし。

 

「多村は、毎日これに埋もれて眠っているのか?」

「さすがにそれは無いですよ」

 

 そうか。良かった。

 

「一週間に一回くらいです」

 

 駄目だった。

 

「君は本当にラジバトが好きなんだな」

 

 呆れを通り越して、昴輝は感心してしまった。一枚一万円の抱く枕シーツを三枚も躊躇無く同時購入は、相当に愛着を持っていないとできない事だ。これまで演技一筋で過ごしてきた昴輝には趣味らしい趣味が無いので、瑞希の感覚は未知の領域である。

 

「それはもう。主人公のアルキュの生き方に憧れてます」

 

 ──今度は逃げない。眼を背けない。飛びたいって気持ちから、空を走るって夢から、私は逃げない──!

 

「……あの冒頭は」

「はい。アルキュの強さをとても上手く表現しているシーンです。ラジバト全話を通して見ても、あれが一番好きなんです。なので、僭越ですが演じさせていただきました。私もああいう風になれたらなぁって、いつも思ってます」

 

 えへへと、瑞希は恥ずかしそうに笑った。

 今更ながら、昴輝の中でラジバトへの感心が強くなった。瑞希をそこまで虜にし、また憧れを抱かれるアニメのキャラクターとは、一体どれだけの存在感を持っているのだろう。

 一階に着いた三人は、そのまま一階のカフェに入り、空いていたカウンター席に座った。

 顔見知りの店員に注文をした後、昴輝は鞄から台本を取り出して、瑞希に差し出した。

 

「今日使う予定だったラジバト二話の台本だが、君に渡しておこう」

「えええぇ!? いいんですかぁ!?」

 

 最高の宝物を見つけた子供のように表情を輝かせた瑞希が、震える手で台本を受け取る。

 

「ああ。アフレコの練習自体は近々必ず行うから、念入りに予習をしておいてくれ」

「瑞希ちゃんの場合、大体の内容はもう分かってると思うけどね」

 

 苦笑する可凛に、爆弾でも扱うような手つきで台本を抱き締めた瑞希が首を横に振り回す。

 

「確かにそうかもしれませんが、台本で読むのとアニメを見るのとは全然違います! 私、他のアニメの台本を懸賞で当てた事があるんですけど、アドリブのタイミングとか演出指示とか声優さんのメモとか細かく書いてあって、なんかもう脳汁が止まりません!」

 

 満面の笑顔で台本の表紙を見た瑞希は、しかし、様子を一変させた。急にガクガクと震え始めて、額には脂汗がびっしりと浮かぶ。

 

「どうした?」

「あの……これってこの台本って……その……!」

 

 瑞希が昴輝に台本の表紙を突きつける。昴輝が怪訝に思いながら台本を受け取って一望した。ラジバトのロゴが大きく印刷されているそれは、よく見れば台本は痛みが多く、四隅はボロボロだった。表紙には配布された日付と、この台本の持ち主で出演していたであろう声優の名前が書き込まれている。

 可愛らしい筆跡で書かれていた名は──佐々木音葉。

 

「これ、佐々木音葉さんが使っていた台本……じゃないですか……?」

「これを見る限りはそのようだな。済まない、何せ急な話だった上に収録自体はかなり前に終わっていたので、製作会社にも新品の予備が無かったんだ。だから回収された出演者用の台本を回してもらったんだ。お古で申し訳ないが、それで我慢して欲しい」

 

 聡一郎にアフレコ練習の教材の相談をしたのは先日である。それでかつて世話になったアニメプロデューサー経由で急遽用意してもらった台本がこれだった。

 こうした台本は収録後に制作側が回収するのが通例である。スマホの台頭で情報伝達の速度に拍車がかかっている昨今、制作会社は資料漏洩に神経を尖らせている。昔は出演声優がそのまま個人管理していたらしいが、昴輝が声優として仕事をこなすようになってからは、ほとんどが収録後に回収されて一括保管されていた。

 それにしても、アルキュオーネと担当した佐々木音葉が使っていた台本が届いたのは、面白い偶然だ。

 

「ががが、我慢だなんてそんな。私みたいなミジンコが、佐々木さんが使っていた台本を使うなんて恐れ多いにもほどがあります。ほらこれこんなに沢山書き込みされてますし……! 佐々木さん大切にしていた証拠です」

 

 瑞希が指で示した通り、台本の中には非常に細かく書き込みがされていた。監督や音響の演出意図はもちろん、テストで共演声優が試したアドリブや演じているアルキュオーネの心情までもがぎっしりとある。何度も読んだ跡もあって、一部のページは落丁寸前だった。

 

「うわ。こりゃビッシリだね。歴史の授業の黒板見てるみたいだ」

「本当に凄いですよ。さすが佐々木さんです。あんなに沢山の作品に出ているのに、一つの役にこれだけ入れ込めるなんて……!」

 

 演出意図や細かな台詞の修正が台本に書き込まれるのは普通だが、演じるキャラクターの心情を加えるのはそうそう無い。少なくとも昴輝が現役の頃はしていなかった。

 痛みの激しい台本からは、この持ち主である佐々木音葉の熱心さとひたむきが伝わってきた。役作りに余念が無く、良い演技をしていたに違いない。

 

「稽古の時に多村も絶賛していたが、良い声優なんだな、佐々木音葉は」

「はい、それはもちろんです。宜しければ佐々木さんが出演されてるアニメの円盤をお貸ししましょうか? ここ一年くらいの作品は全網羅してますよ!」

「……円盤とは、一体なんだ?」

 

 小首を捻ると、可凛が説明してくれた。

 

「DVDやブルーレイの事。ネット上の隠語みたいなもんよ。でもアニメのDVDとかブルーレイとか高くない? 瑞希ちゃん、独り暮らしなのによく全部買ってるね」

「い、一応自由に使えるお金はあるんです。使い過ぎるとお母さんから怒られるんですけど」

 

 もじもじと身じろぎをする瑞希。その声は佐々木音葉について語った熱が無くなってしまっていて、とても小さかった。

 高校生で独り暮らしはなかなかできるものではない。その暗い表情を見る限り、家庭環境が複雑そうだ。

 不意に会話が途切れてしまうが、可凛がにこにこと手を叩いて仕切り直した。

 

「でもさ、そうなるとずっとアニメとか見放題でのんびり趣味に生きられそうでいいなー。ゲームもどれだけ遊んでても文句言う人もいない訳だし。昴輝が出てたアニメの円盤もある?」

「はい、すべて初回限定であります!」

「じゃあさ、《白執事》は? あれの初回限定特典のオーディオコメンタリーに昴輝が珍しく出てたんだけど、もうどこにも初回無くてさ。実はまだ見てないんだー」

「もちろんありますよ。それでは今度遊びに来られた時に一緒に見ましょう!」

「うんうん! その時は昴輝も一緒ねー」

「……断る。自分のコメントなんて聞いていても面白くもなんともない」

 

 昴輝としては渋面を作るしかない誘いであった。《白執事》は昴輝が喉を壊す直前に出演したアニメだ。引退した今では最後の作品になってしまっていて、ちょっと感慨深い。

 

「あれを見るくらいなら、ラジバトを見たい」

「だったら瑞希ん家でラジバト見ればいいじゃん。撮ってあるでしょ?」

「と、撮ってはいますが、あ、あの、黒野さんもうちにいらっしゃるのですか……?」

「待て。まだ行くとは言っていないぞ」

「そうですよね……私みたいなオタクの家なんて来たくないですよね……」

「いや。そんな理由ではない。何というか、男の俺が独り暮らしの女子の部屋に上がる事に気が引けているだけだ」

 

 昴輝としては常識に則った発言のつもりだが、可凛はあからさまに失望した顔になった。

 

「ちょっと昴輝。あんた、あたしの家には普通に来てるじゃん」

「部屋には上がっていない」

「小学三年くらいまでは部屋にも来てた!」

「そんな昔の事を持ち出すな。そもそもお前は家族と暮らしているだろう。多村とは比較するべきではない」

「何かその物言い物凄く癪に障るんですけど。あ、追加注文いいですかー? 自家製ショコラケーキとレアチーズケーキ一つずつお願いしまーす!」

 

 八つ当たりのような追加オーダーに、美人と評判の店長婦人は苦笑しながら了解する。

 

「……太るぞ。稽古に付き合っているからと言っても、それではプラスマイナスゼロだ」

「贅肉付く危険性より、あんたの財布にダメージを与える方を優先したあたしの英断を讃えなさい。ねー瑞希ー昴輝も行っちゃ駄目?」

「だ、駄目なんかじゃありません! でも、その、憧れていた声優さんが自分の部屋に来ると思うと、なんかもうあのオタク過ぎる部屋を爆破したい衝動に駆られたというか。今だって、本当は夢みたいな状況ですし」

「その憧れの声優に色々教えてもらって一週間経ってるもんね」

 

 にゃははと笑う可凛。瑞希はもじもじと身じろぎをしながら、横に座っている昴輝を上目遣いで見上げた。

 

「声優だろうとなんだろうと同じ人間だし、アニメに関しては多村の方が遥かに詳しい。もし良ければラジバトやその佐々木音葉について教えてくれないか?」

「あ。それいいかもね。オーディションに合格したら瑞希は声優の仕事する訳でしょ? で、昴輝はそのプロデューサーみたいな感じに収まる訳だから、今みたいな芝居馬鹿のままじゃ業界についていけないんじゃない?」

「誰が芝居馬鹿だ、誰が」

 

 憮然と可凛の額を小突くが、彼女の言っている事にも一理あった。

 瑞希と喋っていると、自分のアニメ業界に対する知識の浅さを思い知らされる。表現者として声優をやっていたので、今では広辞苑にすら記載されている萌えなる言葉が何を意味しているのかも分からない。ネットをやらないので、さっきの円盤という隠語も分からない始末だ。

 今後を考えた時、可凛が言っている状況が現実に有り得る。いや、例のオーディションに合格すれば、そのまま即座に瑞希の声優デビューが決定する。

 聡一郎が提示した条件はクリアとなって、瑞希はアルト・プロダクション所属となるのだ。昴輝はそのまま彼女の専属講師となって、マネジメントもやらなければならないだろう。アルトは声優業界とのパイプがほとんど無い。昴輝が直接営業なりオーディションの手配をする必要がある。かつて聡一郎が自分にしてくれたように。

 なら、最低限、アニメを視聴している一般層の知識はあった方がいいはずだ。

 

「多村。もし良ければラジバトや佐々木音葉達アイドル声優に関して教えてくれないか?」

「えええ!? 私がですか!? 私なんてホントその辺りにいる普通のオタクですよ!?」

「だから頼みたい。俺にはその普通のオタクの観点が無いんだ。今後君を支えていくに当たって、知識はあった方が良い。役作りの助けにもなるだろう。遺憾ながら可凛の言う通り、俺は芝居馬鹿だから」

「……本当に、私でいいのでしょうか……?」

 

 恐る恐るといった様子で自分を指差す瑞希に、運ばれてきたショコラケーキに舌鼓を打っていた可凛が言った。

 

「もちろん。あたしもそこまでアニメ見てる訳じゃないからね。これでギブアンドテイクになるんじゃないかな?」

 

 瑞希は可凛と昴輝の間で視線を彷徨わせて、同情してしまうほど身体を萎縮させると、小さな声で宜しくお願いします、と呟いた。

 

 

 




2013/06/03 一部改稿、サブタイ変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4話:聞いていた印象と随分違うアイドル声優だな

 佐々木音葉。業界最大手声優事務所マーシャルビジョン所属。歳は十六歳。現在人気絶頂の現役女子高生アイドル声優。デビューして一年弱の新人ながら多くの主役キャラクターを務め、単独ラジオ番組の視聴率も上々。キャラクターソングCDの他に佐々木音葉名義でメジャーデビューも果たしており、最高オリコンチャートは五位を記録している。写真集も発売し、イベントでは派手なダンスパフォーマンスを披露して、眼の肥えた声優ファンの反応も良好。

 まさに破竹の勢いの新人という訳だ。

 

「デビューして一年という事は」

「昴輝が喉を壊した時期と重なるから、多分入れ替わりで声優デビューしたんじゃないかな。あたしもそれまではほとんど聞かない名前だったもん。マーシャルビジョンだっけ? あそこの新人発掘オーディションでグランプリ取って、それでデビューしたって話だよ」

 

 いつもの稽古場である。昴輝は可凛と壁に寄りかかるように座っていて、稽古場の中央で台本を片手に稽古を重ねている瑞希を観ていた。休憩時間なので休むように伝えていたが、瑞希は水分を摂ったくらいで、ずっと練習している。

 台本を手にしているが、その眼は前を見据えて離さない。映像ソフトを買って何度も鑑賞するほどのラジバトのファンである瑞希は、台詞をすべて暗記しているのだ。手にした台本は、佐々木音葉が使っていたという事もあって、半ばお守りとなっているらしい。

 

「昴輝はラジバト本編見たの?」

「多村の家に遊びに行くなら、その時に見ればいいと思ってな。見送っている」

「じゃ、まだ佐々木音葉ちゃんの演技は知らないか」

 

 難しそうな顔になる可凛に、昴輝は眼を細める。

 

「多村が絶賛し、尊敬している声優なのだろう? なら良い演技をするのではないか?」

 

 すると、可凛は改めて瑞希を見遣って、彼女にはこちらの会話が聞こえていない事を念入りに確認した。そして昴輝に顔を寄せて、スマホを操作し始めた。

 

「前にも言ったけど、下手って訳じゃないの。でも、上手いかって言われたら難しいかな」

 

 可凛がスマホの画面を昴輝に見せてくる。

 

「これ、ネット上の佐々木音葉ちゃん関連のまとめブログね」

 

 昴輝も耳にした事がある4chと呼ばれる匿名掲示板のスレッドを纏めたサイトだった。

 佐々木音葉の演技力が足りていない事を示すトピックスがズラリと並んでいた。内容は罵詈雑言とまではいかないが、なかなかに手厳しい書き込みが散見している。擁護もあるが、演技力不足に関しては熱心なファンも認めているようだった。

 

「まだデビューして一年の女の子だから、色々と足りないところがあるのは仕方ないと思うんだけどね。多い時には四本くらいレギュラー持ってた時があったから、目立ってて」

 

 デビュー一年という事は、一年前までは素人だったという訳だ。ならば演技面で至らないところが出てしまうのは無理も無い。それでも多くのレギュラーを勝ち取って、多くのファンを獲得しているのは、この佐々木音葉の実力に他ならないはずだ。

 

「俺が現役だった時も、確かに力不足も否めない新人はいた。だが、短い収録時間の中で力をつけて、一話と最終回では全く違う演技をしていたよ。収録の休憩時間中、何度も練習に付き合っていたな」

「なにそれ。初耳なんですけど。女の子? 可愛い子?」

「声優に可愛いも何も無いだろう。顔が出ないんだから」

「あんた本当に一年前まで声優やってたの!? 世の中アイドル声優が常識になってんの。テレビの向こう側でキャラクターに声当ててるだけじゃなくて、歌って踊れてグラビア写真集だって出さなきゃいけない厳しい世界なのよ」

「……そうなのか」

 

 腕を組んでウンウン肯きながら力説する可凛に、昴輝は言い知れぬ敗北感を覚えて押し黙ってしまった。一年前まで業界にいたのに、何故そんな自分より可凛は精通しているのだろう。いや、自分が無知過ぎるだけか。芝居馬鹿と言われても、まぁ、無理も無い。

 

「その佐々木音葉は声優としては力不足かもしれんが、アイドルとしては優れているのか?」

「世間ではそういう評価だね。特に歌唱力は高くて、メジャーデビューのCDは声優には興味無い層にも売れてるって評判だもん。まぁあたしは純粋な視聴者感覚だから、そんな偉そうに人様の演技に難癖つけられないけど、声優の演技力ってところじゃ、ぶっちゃけ佐々木音葉よりも瑞希ちゃんの方が上だと思うな。あの演じてみた動画も、本家よりずっと良いって評価ばっかりだから」

 

 昴輝は可凛には答えず、練習に集中している瑞希を見遣った。真剣な横顔。眼の前のマイクを見つめているけれど、その緊迫の表情は、ここではないどこかに向けられていた。

 アフレコ練習は、主人公アルキュオーネの他にも、大半のメインキャラクターをやらせている。憧れていると公言するだけあって、最も良い役作りができているのはアルキュオーネだが、他のキャラクターも遜色無いと言えるレベルだ。

 また、発声練習の成果が少しずつ出てきていて、声量に改善の兆しが見られる。もちろんまだまだ足りないが、仮に実際のアフレコ現場に出しても、足りない声量はその驚異的な演技力で補えるだろう。無論、担当する役によっては無理が来るだろうが。

 

「ちょっとずつだけど、声が大きくなってきたね」

「ああ。これでより演技の幅が広がる。さすが学校で自主練をやっているだけはある」

 

 その時、可凛がふと訝しんだ。

 

「そういえば、あんた達、学校だと全然喋ってるとこ見ないんだけど。瑞希にオタク知識教わるって言ってたのに、アイドル声優には無知のままだし」

「多村は昼休みに演劇部の部室で自主練をしている。それを邪魔して話をするのは俺も本意じゃない。放課後はここに直行して、終われば良い時間だ。遅くまで引き止めるのもまずい」

「変な遠慮というかヘタレというか。なに、あんた瑞希ちゃんの事嫌いなの?」

「そんな訳がないだろう。素直で何事にも真摯なあの子を嫌う奴はそういない」

「あんた、それ真顔であの子に言ってやんなさい。多分発熱で倒れるから」

 

 ぷいっと、可凛は憮然と顔を背けてしまう。一体何が癪に触れたというのか。分からない。

 その時、稽古部屋の扉が開いて、聡一郎が顔を出した。その手にはCDROMがあった。

 

「よー。今日も頑張ってるな」

 

 昴輝と可凛が聡一郎に歩み寄ると、それに気付いた瑞希も練習をやめた。

 

「一兄、今日は中間発表の稽古見てるんじゃなかったっけ?」

「そうだったんだが、昴輝からの頼まれ事があったからな。はいこれ、返しとくぞ」

 

 聡一郎が持参したROMを昴輝に渡した。パッケージにはサインペンで《多村瑞希オーディション音声》と書き込まれている。

 

「なにそれ?」

 

 可凛が問う。瑞希も視線でそう訊いていた。

 

「多村のオーディション用音声だ。昨日のアフレコ練習の時に収録しておいた」

「い、いつの間に!? それにオーディション用って、え、どういう意味ですか!?」

 

 しどろもどろになって身体も視線も右往左往する瑞希を、聡一郎が愉快な小動物でもあやすようにその頭をぽんぽん撫でて落ち着かせる。

 

「そのままだ。昔世話になったアニメのプロデューサーがモブの声を探していると一郎兄さんから聞いたので、試しに送ってみたんだ」

「それって、一兄が前に言ってた知り合いのアニメプロデューサーの事?」

「そうだ。藤見鷹也さん、アニメーション製作会社エイトランス所属のプロデューサーだ」

「エイトランスで藤見鷹也さんって、ラジバトのプロデューサーじゃないですか!?」

 

 素っ頓狂な声を上げる瑞希に、聡一郎が感心して肯く。

 

「良く知ってるな、で、そのモブ募集は今度発売するラジバトOVAのモブだ。ついでに言うと、オーディション合格。三日後に大田区にある専門学校のスタジオ借りて収録するらしいから、詳しいスケジュールきたらメールするぞ?」

「はい。お手数をおかけして申し訳ありません。何だかコネ全開になってしまいましたが」

「藤見さんが身内贔屓しない人だってお前も知ってるだろ? オーディションも公平なもんだったし。ただのモブかもしれんが、お前が連れてきたこの子の実力だ。でも、ちょっとタイトなスケジュールになってるから、台本は最悪前日になる。そいつはご了承してくれ」

「そこはこちらで調整します。一郎兄さんもご多忙のところをありがとうございました」

「応援するって言ったからな。可愛い弟分がまた頑張ってるんだから、支えてやるのが兄貴分の勤めだろ? じゃ俺稽古場に戻るからな。いつも通り終わった後は戸締りしてくれよー」

 

 手を振って聡一郎が去ってゆく。

 そんな爽やかな兄貴分とは打って変わって、瑞希は顔面蒼白だった。

 

「い、いきなりそんなお仕事なんて無理ですよぉ……!」

「なにも名前のあるキャラクターをやる訳じゃない。台詞が二つ、三つのモブだ」

「昴輝、モブってなに?」

 

 可凛が小首を傾げる。

 

「モブとはエキストラだ。エンディングのスタッフロールには女子生徒Aと記載されるようなキャラクターだな。佐々木音葉のような例外もあるが、大半の声優はここからスタートする」

 

 例外として件のアイドル声優の名前を出したが、昴輝もその例外に該当していた。もっとも彼の場合、俳優として子役時代から腕を鳴らしていたので、これもまた少ない例外である。

 

「台本は前日になる可能性があるが、多村が何度も見ているラジバトだ。世界観やキャラには精通しているだろう? それほど緊張する事でもない」

「好きだからこそ余計に緊張しますよぉ……私なんかがラジバトに出るなんて……!」

「事前に説明していなかった不手際は済まなかったが、このモブにはちゃんと意味がある。それは現場を体験する事だ」

「現場を、体験?」

「例えば先輩声優への挨拶やスタジオのマナー。マイクへの入り方、タイミング等、現場での注意事項は挙げればキリが無い。今日この後の座学で伝えるが、耳で聞くのと、実際に肌で体験するのとでは全く違う。一ヶ月の練習より、一回の本番だ」

 

 そこで可凛が手を打つ。

 

「そういえば、中学生の頃に昴輝も一兄に同じ事やらされてたよね。知らない間に今の瑞希ちゃんみたいにオーディションに出されてて、前日に結果知らされてあたふたしたの」

「そうだ。その時は何の準備もしていなかったから一郎兄さんを酷く恨んだが、お陰で貴重な体験をできた。それに当然の事だが、はじめての現場という条件は酷い緊張を呼ぶ。適度な緊張感はパフォーマンスを上げるが、緊張し過ぎると逆にパフォーマンスが落ちる。今の内から現場の空気に慣れ、どんな時でも一定の実力が出せるようになっておくべきだ」

「まぁ、瑞希ちゃんは上がり症っぽいしね」

 

 完全に偏見な意見だったが、これまでの瑞希の言動を見ている限り、あながち間違いではないだろう。可凛の言葉を受けて、瑞希は図星をつかれた様子で表情を強ばらせてしまった。

 

「……私に、できるでしょうか……?」

 

 その様子は、昴輝が瑞希に声優になりたいと訊ねた時と同じだった。

 どう答えてやればいいのか。少し迷った昴輝は、瑞希に伝わりやすい方法を思いつく。

 

「君が憧れているアルキュオーネは、一話の冒頭でこう言っているな。空を走る夢から自分は逃げないと。君はそんな言葉を強い決意で呟くアルキュオーネに憧れているのだろう?」

 

 はっとして、何かを思い出したように、瑞希が肯く。

 

「例えアニメのキャラクターの台詞であっても、それは真理だ。夢とは逃げるものではない。逃げるのは自分だ。なりたいと一度でも思ったのなら、逃げるな。できるできないの選択肢など考えるだけ無意味だ。どんな事でもやらなければ成功にも失敗にもならない」

 

 それは聡一郎からの受け売りだった。昴輝が現役の頃、聡一郎は突き放すようにそう言って、励ますような真似は一切しなかった。

 必ずできるとは言わない。

 必ずなれるとも言わない。

 そんな根拠の無い保証なんて無意味だ。無責任に背中を押す事なんてできない。周りがどう言おうが、何と言おうが、最終的には本人がやるかどうかだ。本人にしかできない事だ。

 だから昴輝は瑞希に選択肢の提示しかしない。選ぶのは瑞希だ。そしてその選択には異論を挟まずに、全力で瑞希を支える。それが瑞希に声優という選択肢を提示した昴輝の責任だ。

 うつむいた瑞希は小さな胸でラジバトの台本を抱き締めると、顔を上げた。その眼には強い意志が渦を巻いていた。

 

「やります! 黒野さんが用意してくれたお仕事、不肖多村瑞希、やらせていただきます!」

 

 握り拳を作る瑞希の姿が、聡一郎に鍛えてもらっていた時の自分と重なる。その時も、やるかやらないのかの無慈悲な条件を提示されて、最後にはこうやって聡一郎を見上げたものだ。

 昴輝はかつて聡一郎が自分にそうしてくれたように、瑞希の頭を撫でてやる。瑞希は赤面してまたうつむき、可凛は面白くなさそうにむくれて、ぱんぱん手を叩いて練習再開を促した。

 

 

 

 台本は聡一郎が言っていた通り、収録前日に渡された。

 内容は、ラジバトのDVDとBD最終巻の予約映像特典で、十五分弱の短編アニメーションである。主人公アルキュオーネを含めたメインキャラクター七名が温泉に遊びに行く展開だ。

 

「いわゆる水着回という奴ですよ、黒野さん……!」

 

 ゴクリと唾を飲み込む瑞希に、昴輝は眉間に皺を寄せた。

 

「なんだ、その水着回とは?」

「お色気回です。サービス回とも言いますね。抜群の肌色率で男の子のファンのハートをガッチリキャッチして、円盤の売上を上げる制作側の策略回でもあります。映像特典ですから、地上波放送用の謎の光修正もありませんので、もう色々見えちゃう嬉しい仕様なんです!」

「……女子の君は、女性キャラクターの裸体を見て性的興奮を覚えるのか?」

「む、むしろ黒野さんは覚えないのですか……?」

「さも常識を疑うような眼をしないでくれ。そもそもラジバトの女性キャラクターは総じて露出度が高いぞ。確かメカ少女というジャンルだったか。元々水着のような姿に飛行ユニットを装備しているようなものだ。今更水着回と言われてもファンには物足りないのではないか?」

「そ、そんな事ありません。メカ少女は身体のラインがくっきり見える裸なんかより遙かにエロい格好で重厚なメカを装備しているのが堪らないんです。それに対して水着回ではヒロイン達が普段とほとんど変わらない露出度の水着なのに、いつもよりずっと恥ずかしがるんです。その様子がもう最高に萌えるのです! ブヒれるのです!」

「……それが萌えてブヒるという事なのか」

「黒野さん、萌えとブヒるは同義語です」

「そうか。アニメとは難しいな」

 

 真剣な顔で肯く昴輝は、電車が目的の駅に到着するまで瑞希の熱弁に聞き入った。気付けば周囲の客達が離れて、見えない壁でもできたかのように車内が閑散としていた。何故だろう。

 収録当日である。収録場所は大田区にある声優の専門学校。その筋では最大規模を誇る専門学校で、声優科の他に演劇俳優科等もあり、設備も大変に充実している。自前の収録スタジオを持ち、アニメやゲーム、ウェブラジオの収録が毎日のように行われている盛んな場所だ。

 駅に降りた昴輝は、瑞希を連れて西口へ。騒々しい商店街を抜けて、件の専門学校へ向かう。収録時間まで余裕を持って出てきたので、予定より三十分も早く到着した。

 待ち合わせから電車内までは元気だった瑞希だが、専門学校の校門を潜る時には、眼に見えて覇気を失っていた。絞首台に上る死刑囚みたいな顔で唾を嚥下している。

 この場に可凛がいれば、きっと緊張を和らげてくれただろう。だが、今日の可凛はモデルの仕事に出ていて不在だ。

 

「大丈夫か?」

「は……はい」

 

 カクカクと肯く瑞希。はじめての現場で緊張するなという方が無理だが、上がり症という性格も影響しているようだ。根性論ではどうにもならない問題である。

 それに、彼女が緊張しているのは、何もはじめての現場だからという理由だけではない。

 

「佐々木音葉さんも、い、いらっしゃるんですよね……?」

「アルキュオーネの声優は彼女だから当然だ。そもそも君が今回共演する相手だぞ?」

 

 そう。瑞希が担当するモブと絡むメインキャラは、アルキュオーネである。そうなると、当然彼女の声を担当している佐々木音葉との競演となる。

 すべてがはじめての環境でこの事態だ。神経の細い人間なら、今頃は胃を痛めていても不思議ではない。

 

「……粗相の無いようにしないと……」

「来るのは佐々木音葉だけではないぞ。他にも大勢いる」

 

 ラジバトのメインキャラクターは、主人公のアルキュオーネを除いて六名。その声を担当している大半がアイドル声優だが、中には業界歴十年以上の古参もいる。その古参とは昴輝が現役の頃に何度か一緒に仕事をしていたので、昴輝としては少し気が楽だった。

 実は昴輝も緊張している。こうして現場に足を運ぶのは一年ぶりなのだから。

 校門を抜けて、収録スタジオが入っている校舎へ向かう。今日は土曜日で休校らしく、生徒の姿は無かった。

 スタジオのフロアに入ると、ベンチに座っている男女がいた。女性は台本らしき本をぺらぺらとめくりながら、横に腰掛けた壮年の男性となにやら話をしている。

 女性は黒髪のポニーテールで、整った顔立ちの大人の美人である。壮年の男性の方は髭を蓄えていた痩せ型だ。その眼鏡の奥にある眼が昴輝達を見つけて、驚いたように見開かれた。

 

「よークロスケ。久しぶりだな」

 

 すると、隣の女性も昴輝に気付き、驚きに声を弾ませた。

 

「こーちゃん!」

 

 昴輝は二人に歩み寄ると、深々と頭を下げる。

 

「藤見プロデューサー、高端さん、ご無沙汰しています」

「ホント久しぶりー! 一年ぶりかな? もーあれから音沙汰無かったから皆で心配してたんだからね! 喉はもう大丈夫なの? なになにもしかして藤見さんが言ってる期待の新人ってこーちゃんの事? こーちゃんだと新人じゃないじゃん! でもかすみお姉さん的にはずっと人生の新人でいてくれると嬉しかったなぁ中学生の時のこーちゃんのあの無垢さがハァハァ」

「三十路が女子高生みたいにぎゃーぎゃー騒ぐなバカ。つーか息を荒げるな気持ち悪い、クロスケも困ってるだろうが」

 

 うんざりしたように藤見が言うと、高端は頬を引き吊らせて藤見の後頭部へ丸めた台本を一閃させた。

 

「いてぇ!? プロデューサーの頭ブン殴る出演声優がどこにいるんだよ!?」

「ここにいますけど何か? 歳の話はしないで下さいますか? それに私は三十歳じゃありません。十七歳と百四十四ヶ月です」

「いや俺何もお前の歳断言してねーし。十七歳と百四十四ヶ月歳の高端かすみさんよ」

 

 後頭部を摩りながら、藤見は恨めしそうに高端を睨む。そんなやりとりに、昴輝はどこかほっとできた。二人共変わっていない。こうやって顔を合わせるのは一年ぶりだ。

 

「高端さんも藤見プロデューサーもお変わりないようで」

「こーちゃんも元気そうでなによりだよー。喉は大丈夫なの?」

「その節ではご迷惑をおかけしました。喉は普通に発声する分には問題ありません」

「となると、やっぱ今日モブやってくれる期待の新人ってこーちゃん!?」

「バカ、ちげーよ。クロスケが新人だったら今の声優業界の半分以上が新人になっちまう。で、お前の後ろで生まれたヤギみたいに震えてるのが例の子か?」

 

 藤見が顎をしゃくって昴輝の後ろを示した。そこには瑞希が昴輝の服の裾を両手で握って、彼の背中に隠れながらガクガクと震えていた。

 

「はい。この子が多村瑞希です」

「た、多村、瑞希です。不束者ですが、何卒宜しくお願い申し上げます!」

「あら可愛い。じゃこっちが期待の新人さん?」

「おうよ。お前、最近ニコ動で話題のラジバトの一話を演じてみたって動画、知らね?」

「はい。凄く良い演技をするって皆で話してますけど」

「あれでアルキュオーネの声やってたのがこの子だよ」

 

 その一言で、高端の表情は変わった。静かに息を呑み、改めて瑞希を見る。不躾な視線に身体を強張らせる瑞希は、何事かと眼を白黒させた。

 

「多村、紹介しよう。高端かすみさんと藤見鷹也プロデューサーだ」

「はじめまして。ラジバトでは皆の頼れるお姉さん役の高端かすみです」

「藤見だ。今日は期待してるぞ?」

 

 にっこりと微笑む高端と不敵に笑う藤見に、瑞希は裏返った声で返事をする。憧れのアニメ作品のプロデューサーと出演声優なのだから無理もない。

 

「ニコ動の演じてみた動画、私も見たぞー。あれはもう嫉妬するお芝居だったわ。どこかの劇団とか所属してるの?」

「そ、そんな事ありません! ただの素人です!」

「素人? え、本当に……?」

 

 声優歴十年以上の高端をして、瑞希のあの芝居が素人とは見抜けなかったらしい。聡一郎からもお墨付きを貰っていたが、やはり瑞希の才能──役作りの力は本物だ。

 

「ええ。多村は正真正銘の素人です。実は学校のクラスメイトでして。色々あって、声優を目指す事になったのです」

 

 そりゃ面白い偶然だな、と藤見が苦笑した。高端は瞠目して驚きを露わにする。

 

「目指すったって、あれはもう何も教えなくても一線で活躍できるって演技だよ。あれ自力で身につけたの? だとすると、ここ声優の専門学校だけど、ここの意味無くない?」

「誰もがこの子の才能を持ってればな。それに才能も鍛えなきゃ宝の持ち腐れだし、才能あっても運がねーと声優続けるのは難しいだろ? その道十年超えのベテラン高端さんよ」

 

 藤見は一度言葉を区切ると、声色を柔らかくして昴輝に言った。

 

「クロスケ、お前、やっぱもう復帰はしないのか?」

 

 やはり訊かれるか。

 昴輝にとって、藤見鷹也という男は、ただのアニメのプロデューサーではない。声優に転向した時、一番に自分の芝居を買って、自らが担当している作品に起用してくれたのが彼だ。聡一郎と並んで恩師である。

 彼を失望させたくはなかった。だから声優を辞めると決めた時、藤見に連絡する事が恐くてできなかった。今日緊張していたのは、彼と顔を合わせる事で、こうやって訊かれる事を恐れたからだ。酷く臆病で無様だと自嘲したくなる。

 

「……やりたいのかと聞かれれば、やりたいです。でも、次にまた故障してしまえば、もうこうやって話す事もできなくなると言われていまして。今の状態でも満足な演技は困難です」

「だからこの子、か」

 

 藤見がベンチを離れて瑞希に歩み寄る。泣きそうな顔でぐっとその場に踏み留まる瑞希をじっと見下ろした藤見は、ふっと苦笑して、その肩を優しく叩いた。

 

「まぁしっかりやんな。あの動画がただのマグレじゃないってとこ、見せてくれ」

 

 そのまま藤見は飄々とスタジオに入っていく。尻尾を踏まれた猫のような声で返事をする瑞希。昴輝は藤見の背中を見送った後、小動物な瑞希を観察している高端に向き直った。

 

「ところで高端さんはラジバトで何役なのですか?」

「……ちょっとこーちゃん? 君、もしかしてラジバト見てないの?」

「常々見ようと思っているのですが、今日までずっとバタバタしていて。ちなみに多村はアルキュオーネの抱き枕三種類を確保し一週間に一回は添い寝しているラジバトファンです」

「どどどどどど! どうして今ここでそれを言うんですか黒野さん!?」

「いけなかったか?」

「多村瑞希、ちゃんだっけ? 私がやってるマイヤちゃんの抱き枕は持ってるのかなぁ?」

 

 その瞬間、瑞希は固まった。そして高端はニッコリ微笑み、昴輝は小首を捻る。

 

「持ってない? 藤見さんはマイヤのグッズが一番売上悪いって私に会う度に言うんだけど、どう思う? 確かに私が声を当ててるマイヤはヒロイン中最年長でネットだと《BBA》なる不名誉な愛称で親しまれてるけどね。皆を一歩引いたところから見守るとっても重要な役なの。ラジバトファンなら、そこは分かるよね?」

「……今年の夏コミティは……マイヤの抱き枕も……買わせて、いただきます……」

「うん、その意気その意気!」

 

 ばんばんと瑞希の肩を叩いて高笑いする高端。色々な意味で震えている瑞希に、昴輝はかつての自分をついつい重ねてしまう。

 声優の仕事を初めて間もない頃、高端にはこうやっていじられながら、様々な基礎を教わったものだ。舞台の基本を教えてくれたのは聡一郎だが、声優のイロハを授けてくれたのは高端である。昴輝にとっては頭の上がらない先輩であり、頼りにしている大人の女性でもある。

 

「高端さん。宜しければ、瑞希のフォローをお願いします」

「よ、宜しくお願いします……!」

「はいはーい喜んで」

 

 満面の笑顔で肯いた高端は、出入り口の扉を開けて現れた小柄な少女に大きく手を振った。

 

「おーい音葉ちゃーん」

 

 背後を振り返る昴輝と瑞希。途端、瑞希が赤面して硬直する。その反応は昴輝が進路調査表を部室に届けにいった時とよく似ていた。即ち、憧れの芸能人と出会ってしまった態度だ。

 小柄な少女は小走りで駆け寄ると、眩しい笑顔で礼儀正しく高端に一礼した。

 

「おはようございます、かすみさん」

「おうおはよー。今日も元気だねー」

「今の内からテンション上げておかないと、アルキュは上手く演じられないので。ところで」

 

 少女が横目で昴輝と瑞希を見やる。

 

「こちらの方々は?」

「黒野昴輝君と多村瑞希ちゃん。瑞希ちゃんは今日の収録で声優デビューする新人さんで、こーちゃんは瑞希ちゃんの……えーと、プロデューサーさん?」

「そんなところでいいと思います」

 

 立場上はそれが最も適切な呼び方だ。

 

「黒野昴輝さんと多村瑞希さんですね。私は佐々木音葉です」

 

 佐々木音葉が眼を細めて穏やかに微笑んだ。

 瑞希が憧れ、今絶頂期と言われている例のアイドル声優である。

 艶やかでボリュームのある栗色の髪はツーサイドアップで背中に流し、明るく勝気そうな瞳と相俟って活発な雰囲気を作っている。整った小顔は愛くるしく、なるほど、本場のアイドルとも遜色がまるで無い。身長は瑞希よりも小さく百五十センチにも満たないようだが、細身ながら華奢な印象は無かった。華やかなステージで歌やダンスで観客達を楽しませる為に鍛えているのだろう。

 

「黒野昴輝です。今日は多村がご迷惑をおかけする事になりますが、宜しくお願いします」

「よ、よろしく、お、おねねね、おねがいしま、ふぅ……!」

 

 瑞希の緊張の度合いはもはや同情してしまうほどだった。高端や藤見に対する態度に拍車をかけたようで、油の切れた機械のようにぎこちない動作である。大好きなアルキュオーネの担当声優で、憧れに憧れた人が眼の前にいるのだから、これが当然の反応だろう。

 その時、スタジオの扉が開いて藤見が顔を出した。

 

「おーい高端ー。ちょっと手伝って欲しい事あるんだがいいかー?」

「はいはーい、今行きますー。じゃ三人共、また後でね」

 

 高端がスタジオに向かい、扉の奥に消えた。

 佐々木音葉の雰囲気が一変したのは、まさにその瞬間だった。

 晴れやかな笑顔が消えたと思えば、不快さを隠そうともしない硬い表情に変貌する。一気に温度を下げた冷たい眼差しで、ガチガチに緊張している瑞希をひと睨みした。

 

「多村瑞希、だっけ。そんなに緊張してて大丈夫なの?」

「は、はい!」

「ここ、専門学校から格安で借りてるスタジオだけど、だからこそスケジュールがタイトになってるわ。リテイク連発して藤見さん達に迷惑かけるような真似はしないで。新人だからって大目に見てもられるような世界じゃないの、声優は」

「ご、ごめいわくをおかけしにように、が、がんばり、ます」

「頑張るのは当たり前。あんた、歳いくつ?」

「十六、です」

「私と同い年? それでいきなりラジバトのモブでデビュー?」

 

 眼つきを鋭くする音葉。その堅い口調と合わさって、彼女の態度は生意気だと暗に語っていた。彼女の眼に明確な攻撃の色を感じた昴輝は、瑞希を庇うように二人の間に割って入った。

 

「多村は確かに君と同じ歳だし、君のように事務所主催の大型新人オーディションに合格した訳ではないが、藤見プロデューサーからちゃんとオーディション合格を賜っているぞ」

「……名前、黒野って言った? 高端さんがプロデューサーだとか言ってたけど、何なの?」

「……さ、佐々木さんは、黒野さんを、ご存じないんですか?」

「ご存じも何も、知らないわよ」

 

 恐る恐る訊ねた瑞希に、音葉が吐き捨てるように言った。現れた時の第一印象とまるで違う。高端と話していた笑顔の彼女とはまったくの別人だ。

 人間であれば裏表があるのは当たり前だ。それはアイドルだろうと俳優だろうと同じである。歌っている時は笑顔でも、楽屋では毒を吐く性格の悪いアイドルの話は枚挙暇が無い。それをこうして体験する事になるなんて、昴輝も思いもしなかったが。

 現役の頃も似たような事例に何度も遭遇しているが、さすがにここまで極端ではなかった。

 アフレコ練習用に借りたラジバト二話の台本から読み取れた謙虚さや努力の人という印象は、綺麗に瓦解してしまった。

 

「黒野さんは」

 

 瑞希が何かを言いかける。恐らく喉の故障で引退した元声優である事をバラすつもりだろう。それはそれで面倒になりそうな予感もしたので、昴輝は口を挟んだ。

 

「色々事情があってな。力不足ながら、俺はこの子が声優として一人前になるまで面倒を見させてもらっているんだ」

「……面倒を見る、ね」

 

 納得していない様子で、佐々木音葉は細めた眼を彼に向ける。値踏みをされているようで、居心地は悪かった。

 

「まぁいいわ。とにかく収録の邪魔にはならないようにしてよね。さっきも言ったけど、このスタジオはスケジュールが詰まってて、延長とかできないんだから。あんた、マネージャーだかプロデューサーだか知らないけど、その新人が使えなかった時は責任取んなさいよ」

「もちろんだ」

 

 肯いた時、再びスタジオの扉が開いて、藤見が現れた。同時に音葉から威嚇の気配が消えて、高端がいた時のような笑顔が作られる。

 

「お、我らがメインヒロインのご到着か。つかなんだ、お前また新人虐めてんのか?」

「い、虐めてませんよもー。そんなの私のキャラじゃないです! そもそも私だってまだデビュー一年の新人ですよ?」

「だったらもう少し新人には優しくしてやれよー。多村、泣きそうな顔してんぞー」

 

 名前を呼ばれて慌てて昴輝の背中に隠れる瑞希。そんな彼女を密かに敵視する音葉。

 ──なんだこの図は。これはまったくの予想外だぞ。俺がいない一年間で何があった、この業界。

 

「その子、今日が初仕事なんだからな。お前だってはじめての時はテンパってわーわー泣いてたろ? 収録延びてスタジオ代増えて色々大変だったんだからなー」

「ここここ、こんなところで言わなくてもいいじゃないですか!」

「初心を忘れるなよ、今をときめくアイドル声優。じゃお前達もうスタジオ入れ。ちょっとマイクの調子が悪くてな、調整手伝ってくれや」

 

 藤見が苦笑しながらスタジオに戻ってゆく。昴輝と瑞希が無言のまま揃って音葉を見てしまった。赤面していた音葉はそんな二人の視線に気付き、威嚇する猫のように唸ると、そっぽを向いてスタジオへ入っていった。

 

「……君や可凛から聞いていた印象と随分違うアイドル声優だな」

 

 アイドルであろうと人間だ。雑誌やテレビに出ている時とプライベートでは違うのは無理も無い。声優なら、担当したキャラクターがそのままその声優の人間性に繋がるはずも無い。

 でも、アニメからその声優を知った人間にとっては、担当したキャラクターがその声優の一部分と思うのも自然の流れだ。ファンの一人として音葉を慕っていた瑞希にとって、今の彼女の態度は衝撃的だっただろう。

 

「……はい。ちょっと……びっくりです」

 

 瑞希は新種の生き物を見たような顔で肯いている。今までファンの一人に過ぎなかったのに、この洗礼はなかなかに手厳しい。

 懸念を抱えながら、昴輝は瑞希を連れてスタジオの扉を開けた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5話:罵倒されたと不満に感じるべきか。愛のある駄目だしをされたと喜ぶべきか

 マイクの調整を手伝っている内に、出演声優が揃っていた。挨拶に伺うと、瑞希が例の動画の声の少女だという情報を高端が広めていて、全員に彼女と同じ反応をされた。素人とは思えない芝居をする瑞希に、出演声優達の注目が集まっているのは間違いないようだ。

 だが、音葉だけが全く興味を示さなかった。熱心に台本を読み耽り、準備に余念が無い。

 音響監督達スタッフの準備も終わったらしく、まずテストが行われる事となった。

 

「テストって、えっと、確かリハーサルの事ですよね?」

 

 台本を握り締めながら、瑞希が昴輝に確認する。

 

「そうだ。この前の座学でも説明したが、本番前にまずテストを行う。これで演出修正が入る時もあるし、色々なタイミングを計る事もできる。それで、まずは多村と佐々木の二人のシーンのテストをやるそうだ」

 

 いきなり瑞希からやる、という藤見の判断に、昴輝も異論が無い訳ではなかった。まずは先輩方の演技を見ながら色々と説明をするつもりだったが、その目論見は崩れてしまった。

 だが、今日こうして現場に来て実感した事だが、瑞希はやはり酷い上がり症だ。先日までただのアニメが好きなだけの一般人だったのに、こうして憧れの声優の中で芝居しなければならなくなったとなれば、緊張で腹痛をおこしても無理もないのだが。

 瑞希はそうはならないが、スタジオ入りして先輩声優達に挨拶していた時から、すでに血の気が無かった。青白い顔で今にも倒れてしまいそうなほどである。

 この精神状態のまま出番まで待つのは地獄である。瑞希のシーンから収録しようというのはそうした事情を把握した藤見の配慮だろう。

 

「い、いい、いきなりですか……?」

「救急車を呼んだ方がいい顔色の君をそのままにしておく方が危険だ、と判断したらしい。俺もはじめての時はとにかく緊張したが、君はもう少しリラックスしろ」

「こーちゃんのはじめてって中学の時だよねー。あの時はホント可愛かったなぁハァハァ」

「高端さん、湿った息を耳元に吹き付けないで下さい。気持ち悪いです」

「一年ぶりに会ったんだから少しは優しくしてくれもいいじゃないのこーちゃぁぁぁーん!」

 

 喚く高端。マジ泣きだった。出番待ちの声優達に一斉に冷やかされるが、昴輝は至極真面目な顔のまま高端を他の声優達に押しつける事にする。かつて世話になって、これからも世話になるだろう高端を雑に扱うのは心が痛むが、今優先すべきは瑞希なのだ。

 瑞希は台本をぎゅっと胸に抱く。昨日渡されてから昴輝と二人で読み込み、出番のページには付箋が貼られていた。

 

「……いけるか?」

 

 やるしかない状況だが、昴輝がそう訊ねると、うつむいた瑞希がぶつぶつと何かを呟いている声が聞こえた。

 

「できるできないじゃない……やるかやらないか……に分かってもらう為にも……空を走るって夢から……私がやりたい事から……逃げない」

 

 その時、控え室に音葉が現れ、笑顔で瑞希に声をかけた。

 

「多村さん。テストやりますよ」

「は、はい!」

 

 椅子を蹴飛ばす勢いで瑞希が立ち上がる。音葉に連れられてスタジオ内へ。昴輝はミキサー室まで同行し、ガラス越しに収録ブースを一望した。

 

「一年ぶりの現場はどうだ、クロスケ」

「はじめての収録の時以上に緊張しています」

「収録するのはお前じゃなくてお前がスカウトしてきた子だろ?」

「だから余計にです。それに、多村は佐々木音葉に憧れていて、熱心なラジバトファンです。経験の為に必要な行程ですが」

「音葉が思っていた以上にアレっぽくて不安か?」

 

 苦笑する藤見。どうやら彼は佐々木音葉の猫かぶりを看破していたようだった。

 

「……正直言って」

 

 呻くように答えると、藤見は苦笑を強くする。

 

「音葉の事務所、どこか知ってるか?」

「マーシャルビジョンですよね。声優専門の事務所の中では最大級の」

「まあな。で、最近のマーシャルはアイドル声優の強化に舵切っててな。音葉はその筆頭って事で、事務所が相当力入れてる子なんだよ。一年前まではお前が連れてきた多村と同じアニメが好きな普通の女の子だったのに、今じゃ事務所が総力挙げて持ち上げてる。あれはあれで、結構いっぱいいっぱいなんだ。キツい事言うかもしれんが、大目に見てやってくれ」

 

 藤見が顎をしゃくってブースを示す。ガラス越しに見えるブース内では、音葉と瑞希がマイクの前に立ち、準備を整えていた。

 藤見は音響に代わってブース内の二人に告げる。

 

「じゃテスト行くぞ。多村ー、そんなに緊張してると噛むからほどほどになー。ほらクロスケ、一番弟子に何か一言言ってやれ」

 

 藤見に手招きされるまま、昴輝はマイクに向かった。ガラスの向こう側では、今にも泣き出しそうな瑞希がいる。

 しかし、こういうのは苦手だ。何を言ってやるべきか。緊張すると言っても無意味だし。逆効果になる事だけは避けなければ。

 

「……多村、まずは楽しめ。今、君の横に立っているのは、君が三万円を出して購入した抱き枕のアルキュオーネだ。例え少しであろうと、一週間に一回は添い寝をしているアルキュオーネと話せるんだ。楽しまなければ損だぞ」

 

 スタジオ内は、恐ろしいまでに沈黙した。いかん、何かまずい事を言ってしまったか。

 昴輝が恐れた瞬間、藤見が爆笑した。音響監督や他のスタッフも笑っている。ブース内では瑞希が真っ赤な顔でしゃがみ込んで頭を抱え、横に立つ音葉に何故か謝罪していた。

 その音葉というと、瑞希を蔑む訳でも馬鹿にする訳でもなく、身のやり場に困った様子で身じろぎをしていた。さっきまでの音葉の様子から想像していた反応とは随分違う。罵声が飛んできてもおかしくはなかったのに。

 

「多村。良い演技してくれたら夏コミティに出す予定のアルキュたんの大変にピンクな抱き枕シーツ三種類を進呈してやる」

『ほ、本当ですか!? 頑張ります、超頑張ります!』

 

 赤面したまま鼻息を荒げる瑞希。音響が「収録前からこんなに目立つ新人なんて初めてだよ」と苦笑した。

 

「良いフォローだったぞ、クロスケ」

「はぁ」

 

 自覚は無いが、瑞希の顔からは極度の緊張が抜けたようだった。

 その時、ミキサー室の扉が開き、高端が顔を出した。

 

「すいませーん。私も見学してていい?」

「噂の動画少女のレベルが気になるか」

「それもあるけど、愛しのこーちゃんからフォローしてくれと頼まれてましたから」

 

 悪戯っぽく笑う高端に、昴輝は安心感を覚えた。さすがは面倒見が良い事に定評がある高端かすみである。だが、ブース内の瑞希を見る高端の眼は真剣そのもので、声優として瑞希の実力を見てみたいという気持ちが大きいようだった。

 テストが始まる。アニメーションの絵はすでに出来上がっていて、素人の瑞希にも優しい環境だった。制作進行次第では、口パクのタイミングだけを表示する無機質な絵がモニターに映される場合もあるが、そうならならずに済んだようだ。

 瑞希の台詞は三つで、いずれも一言で終わるような簡単なものだ。今日までこなしたアフレコ練習でも見慣れた画面である。

 だが、口パクのタイミングが合わない、台詞を噛んだりして、ミスを連発してしまう。声も硬く、自分の芝居ができていない。緊張はそこそこ解れているはずだが、どうにも上手くいかない様子だった。

 

「やっぱり上がり症って感じだな」

「ですね。声の小ささはフォローできる範囲ですが」

 

 藤見の呟きに高端が付け加える。両方とも稽古の時から懸案事項だったが、不慣れな環境もあって、本来の実力を発揮できないようだった。これではまともに収録すらできない。

 

「多村、慌てるな。深呼吸をしろ。いつもの君なら問題無くできる」

 

 そんな抽象的なフォローしか入れられない自分が情けない。技術的な部分で指摘してやれる範囲は少ないのだ。

 四回目のミス。瑞希の肩が震えているのを、昴輝はガラス越しに見た。

 あの佐々木音葉と一緒に芝居をしているという非現実感が、緊張と共に彼女を縛っているのだろうか。

 危機感を覚えた昴輝が、テストの中止を申し出ようとした時だった。

 

『多村さん、画面の下に出てるタイムテーブルを見て。口パクの時間は覚えた?』

 

 佐々木音葉が瑞希の肩に手を添えて、モニターを指差す。

 

『い……いえ』

『なら今から言うから台本にメモして。はいボールペン』

『あ、ありがとう、ございます』

 

 音葉の指示に従って、瑞希は台本に書き込みを増やしてゆく。

 その様子を見ながら、昴輝はふと音葉の台本の状態に気付いた。

 付箋が山のように張られて、ページにも痛みがついていた。配布されたのは昨日なのに、相当に読み込んである跡が見られる。

 

『それから、もっと身体を楽にした方がいいわ。胸を張り過ぎてて、声の通りが悪くなってる。完全に脱力するのは無理でも、せめて姿勢だけでも緩くする事』

『こ、こう、ですか?』

『そう、そんな感じ。すいません、もう一回だけテスト良いでしょうか?』

 

 音葉の要請に、藤見が肯く。音響が動いて、最後のテストが始まった。

 収録されるのは温泉宿での一幕である。温泉に飛び込もうと走ったアルキュオーネが転び、脱衣場の清掃をしていた仲居に注意されてしまうシーンだ。その仲居役が瑞希である。

 音響が合図を送る。ブース内とミキサー室のモニターに映像が流れた瞬間、音葉の雰囲気が変わった。

 腰まで届く赤髪を翻した少女──アルキュオーネが脱衣場を飛び出すカット。

 

『やっほぉぉぉぉぉぉ! 温泉だぁぁぁぁぁぁぁ!』

 

 子供のような無邪気な歓声。活発な声は弾けた感情そのもの。その声音はテストとは思えない気持ちの入ったものだ。

 アルキュオーネの愛らしい顔立ちのアップのカット。彼女の背後にある脱衣場に、一瞬だけ仲居の姿が映る。ここに瑞希のモブとしての一言目が来る。従業員として客であるアルキュオーネを気遣いながら、浴場を走る危険行為をしっかりと咎めるのだ。

 モニターに釘付けになっている瑞希は、口を開いて──。

 

『──お客様ぁ!? 危ないので走るのはおやめ下さい──!』

『大丈夫ですよー! これでも鍛えてひゃぎにゃ!?』

『っ!? だ、大丈夫ですか!?』

『だい、じょうぶです……うう、これコブになっちゃうかなぁ……』

『お客様。他のお客様のご迷惑になるにもなりますので、浴場内で走るのはご遠慮下さい』

『は、はーい……あの、飛び込むのも、駄目?』

『駄目です。例え誰もいなくても駄目です』

『うう、はじめての温泉だから試したい事いっぱいあったのに』

 

 浴場にぺたんと座って啜り泣く裸のアルキュオーネのカットを最後に、音葉と瑞希のシーンは終了した。

 ブースの二人に終了の合図を送った音響が藤見を見上げる。藤見はその視線には何も答えず、マイクでブース内の二人に告げた。

 

「おーしそんなもんだ。時間も押してるからテス終了、次本番行くぞ。音葉はそのままで頼む。多村はもう二、三メートル遠くにいる人間と話す感覚でやってくれ」

『分かりました。多村さん、今の藤見さんの指示の意味は分かる?』

『は、はい。遠くにいる人に声をかける感じ、ですよね。やってみます』

 

 音響が準備を終えて、二人に指示を出した。再びモニターにアニメーションが流れ、音葉と瑞希が演技を始める。

 それを眺めながら、藤見が悔しげに呟いた。

 

「これならもっと良いモブ用意しときゃ良かったよ」

「……いえ、これで丁度良いと思います。目立つキャラクターをやらせると、下手をすればメインキャラを喰っちゃうと思います」

 

 高端の意見に、藤見は「そういう見方もあるか」と頭をくしゃくしゃ掻いて、事態を見守っていた昴輝の肩を叩いた。

 

「面白いの連れてきたじゃねーか、クロスケ」

 

 昴輝は無言で首肯して、ブース内を一望した。

 音葉の瑞希のシーンは、なんでもないただのサービスカットだ。素っ裸のアルキュオーネが浴場内で派手に転び、薄く小さなタオルで下半身を隠しているだけである。視聴者はアルキュオーネの裸体に期待するシーンであり、迂闊な彼女を窘める仲居の声なんて気にならないだろう。だからこそのモブだ。

 だが、聞く人が聞けば、仲居がどれだけ従業員として客であるアルキュオーネの身を案じながら忠告したかを理解するだろう。温泉に飛び込みたいと子供のように言われて、立腹する自分を抑えながら、諭すように辛抱強くアルキュオーネを注意するシーンも同じ事が言える。

 ブースの中に、それこそ本当に仲居がいて、浴場内を走る客を注意しているような、そんな錯覚すら覚えてしまう。

 台本を貰った昨日、稽古場をギリギリまで借りてアフレコ練習をしたが、その時よりもずっと良い演技だった。

 

「……オーディションまで、後三週間弱」

 

 経験さえ積ませればいける。昴輝はブース内でOKを貰って座り込んでしまった瑞希を見つめながら、そう確信した。

 

 

 

 高端達他の声優達と入れ替わるように、昴輝は瑞希と音葉と共に控え室に戻った。瑞希の出番はこれで終了だ。音葉はまた出番があるが、台本読みに集中したいとの事で、昴輝達と一緒に控え室に戻っている。

 

「く、黒野さん。あの、お、おトイレ、どこでしょうか……?」

「ここを出て右。突き当たりを左に行ったらすぐそこよ」

 

 昴輝が答えるより先に、椅子に座って台本を読んでいた音葉が、つっけんどんな口調で説明してくれた。瑞希は彼女にお礼を言って飛び出してゆく。

 残された昴輝は音葉の横に腰掛けて、少し迷った後、口火を切った。

 

「収録中、多村を助けてくれて、ありがとう」

「はじめる前にも言ったじゃない。時間の延長はできないって。あんなイージーミス連発されて全員のスケジュールが狂う方がバカだもん。別にあの子を助ける為にやった訳じゃない」

 

 そう答えながら、音葉は台本から眼を離さない。

 

「ああ、分かってる。俺も一年前までいた業界だから」

「……かすみさんもそんな事言ってたけど……あんた、えーと、黒野? 黒野なんて変わった名前の声優、私知らないんだけど」

「黒野は本名だ。芸名は櫻井。櫻井昴輝という名前で声優をやっていた」

「……一年くらい前にいきなりいなくなった、あの櫻井昴輝?」

「ああ、そうだ。分かるのか?」

「まぁ、一応アニオタやってるから。そっか、あんたがあの櫻井昴輝か」

 

 唇を尖らせながら、音葉は何かを反芻するように呟いて、それ以上言及しなかった。

 

「……いなくなった理由は聞かないのか?」

「聞いて欲しいの? 別に興味無い。同い年だし、ライバルが減ってむしろ嬉しいわ。まぁ男と女じゃ全然違うけど」

 

 音葉がどうでもよさそうに言った。

 その反応が昴輝にとっては意外だった。櫻井昴輝を知る同業者に会った時、ほぼ確実に辞めた理由を訊かれていたからだ。今日一年ぶりに再会した高端の反応が自然だったのだ。

 ライバル。確かに昴輝が現役だったのなら、音葉とはそういう間柄になっていても不思議ではなかっただろう。彼女の言う通り、男性と女性では活躍する分野が違うので、ライバルという表現は適切ではないのだろうが。

 ふと昴輝は思う。

 

「なら、どうしてライバルを助けるような真似をしたんだ?」

「あの鈍くさい子の事? さっき言った通りだけど?」

「それにしては、アドバイスには気遣いがあって、さらに的確だった。ただ教えていたという感じには思えなかったな」

 

 だから、今の音葉の言葉は矛盾する。蹴落とすべきライバルと思うなら、あの助言は親身過ぎた。

 音葉は台本を閉じると、どこか恥ずかしそうに鼻先を掻いた。

 

「……私だってはじめて収録した時はあんな感じだったから。あー違う、もっと酷かったかも。その時の自分見てるみたいで、凄くイライラしたの。あんた、あの子の先生なら演技以外も教えてあげなさい」

「いや、俺は先生って訳じゃないんだが……それに、多村には演技の技術は教えていない。あれは、あの子が自分で身につけたものだ」

 

 音葉が静かに瞠目する。

 

「……本当に?」

「本当だ。あの子は十日くらい前までは本当に完全な素人だった」

「じゃ、本当に今日がデビューなの?」

「ああ。今日が正真正銘あの子の初仕事だ」

 

 ポカンと口を半開きにした音葉は、眼を瞬かせた。

 

「……絶対どっかの劇団か何かでやってた子だと思ってた。あの演技でモブキャラがモブの存在感じゃなくなった。本物の仲居さんに怒鳴られたって思ったもん」

「君の演技も多村に引っ張られたな。だから良い演技をしていたと思う」

「……ふん。どうせ私は下手ですよ」

 

 世辞ではない賞賛をしたつもりだったのだが、明らかに地雷を踏んでしまったようだった。音葉は鼻を慣らして眼を眇めた。

 

「あんたもネットの連中と同じで、私がヘタクソだって言いたいんでしょ?」

 

 可凛から聞いていた印象とは随分と違っていた佐々木音葉だが、一つだけ間違っていなかった点がある。

 それが、演技面だった。

 別に彼女が自嘲気味に吐き捨てた通り、下手という訳ではない。発声は基礎ができていたし、イントネーションも綺麗なものだ。滑舌も綺麗である。単純な演技をする為に必要な技術だけで言えば、瑞希よりもずっと上手い。一年前に新人発掘オーディションでデビューするまではただの素人だったと思えば絶賛するべきだ。

 だが、評価を演技だけに限定するなら、瑞希の方が上と言わざるを得ない。

 

「ほーら何も言えない。変に気を使わなくてもいいわ。下手なのは事実だし自覚してる。かすみさんも藤見さんも事ある毎に下手下手って連呼してくるから、もう慣れた」

「別にそこまで下手な訳ではないだろう……?」

「やっぱり下手だと思ってた。最後までそこは気遣いなさいよ。思ってても言うな!」

 

 何だかとても理不尽な事で怒られているような気がする。自覚をしているが言われると嫌だという訳か。なかなか面倒だ。

 その時、瑞希が戻ってきた。走ってきたのか息は荒いが、それを整える事もせず、音葉に駆け寄って深々と頭を下げた。

 

「佐々木さん、あの、さっきは沢山ご迷惑をおかけしました!」

「ホントよ。あんたこのデリカシーの無い男から何勉強してたの? はじめてだからって免罪符が通じる業界じゃないんだからね?」

「は、はい! 次は失敗しないように頑張りますので、ま、またお願いします!」

「頑張るのは当たり前。次があると思ってるから変なミスするの。今に全力出さないでいつ出すのよ」

 

 鼻を慣らす音葉に、瑞希は泣きそうな顔で項垂れる。本当にキツい性格をしていると、昴輝は密かに感心すらしてしまった。

 だが、そっぽを向いた音葉は、ぶっきらぼうにこう続けた。

 

「……でも、演技力の良さは認めるわ」

 

 瑞希は何を言われたのか理解できなかったようで、ポカンと口を半開きにする。やがて憧れのアイドル声優に誉められた事実を実感ができたのか、ぶんぶんと顔を横に振り回した。

 

「そそそそそそそんな事ありません! 佐々木さんの方が……!」

「その謙遜マジでムカつくからやめて。そこから先言ったらぶっ飛ばす」

 

 ドスの利いた声で警告された瑞希は、脅えた小動物のように震えながら押し黙った。

 その時、藤見が控え室に現れた。

 

「おーい音葉ー。そろそろ出番だぞー」

「はい、今行きます!」

 

 表情も態度も一瞬前と変わる音葉。その顔はファン達に見せているアイドル声優としての顔だった。その変わり身の早さは実に大したものだ。

 

「なんだ、もう友達になったのか?」

「ええ。やっぱり同い年の子と一緒にお仕事なんて、なかなかできませんから!」

「まー最近は多いが、それでも珍しいもんは珍しいか。特に生きた台詞吐ける十代なんて滅多にいねーしな」

 

 苦笑した藤見が昴輝を見る。

 

「クロスケ、多村、今日はもう上がっていいぞ。お疲れさん。次会うのはエイトランスの新作オーディションか」

「恐らくは。その時は宜しくお願いします」

 

 昴輝が頭を下げると、音葉が驚いた顔で藤見と昴輝と瑞希を順番に見渡した。

 

「藤見さん。エイトランスの新作オーディションって」

「エントリー終わってるお前なら詳しく言わなくても分かってるだろ? うちの会社がやるはじめてのオリジナルアニメーションのヒロインの声優オーディション。多村もこのオーディションに出るって事で、今は武者修行中なんだとさ」

「……藤見プロデューサー。もしかして、佐々木も」

「ああ、こいつも出るぞ」

 

 藤見が当然のように答えた。

 これは何というか。恐ろしいライバルの出現だ。昴輝が心中で溜息をついていると、音葉の表情が徐々に険しくなってゆく。瑞希を完全に敵視したといった風情だ。

 その時、扉の向こうから藤見を呼ぶ声がした。

 

「じゃあまたな昴輝、それと期待の新人。音葉もすぐ来いよー」

 

 そそくさと戻る藤見。彼がいなくなった後、音葉は髪を掻き揚げて、はっきりと告げた。

 

「あんた達には負けないから」

 

 息を呑む瑞希。音葉は戸口を潜ろうとして、でもすぐに昴輝達に向き直る。

 

「少なくとも、どんなに演技力があったって、今日みたいなミス連発してたり、そのショボくれた発声のままなら私の敵じゃない。イントネーションもまだ不安定だし、ブレスの場所おかしいし、滑舌も駄目。オーディションは公開式のプロアマ関係無いけど、そのままじゃアマ集団に埋もれるわ。後三週間も無いけど、精々そういう欠点を治す努力はすべきね」

「は、はい」

「演技力の高さだけでごり押しできるもんじゃない。そっちの引退声優も、この子の伸ばすとこ間違えないでね」

「……それは心得ている」

「ふん。じゃあね」

 

 ふてぶてしく鼻を慣らして、今度こそ音葉は控え室を出てゆく。

 取り残された昴輝と瑞希はしばらく呆然としていた。

 

「罵倒されたと不満に感じるべきか。愛のある駄目だしをされたと喜ぶべきか」

「あ、愛のある駄目だしですよ! 佐々木さん、ありがとうございます!」

 

 扉に向かって馬鹿正直に一礼をする瑞希であった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6話:ええ。そうなのですが、ちょっと相談したい事がありまして

『つー訳だ。良い知らせを入れてやれなくて済まん』

「謝らないで下さい、一郎兄さん。こちらの実力不足と縁が無かっただけの事です」

『そうは言っても、これで通算六回連続のノーだ。それにな、瑞希ちゃんで実力不足って言うなら、活躍中の日本の役者の半分は実力不足になっちまうぞ? とにかく、今日もこっち来るだろ? それまでに次のオーディションのネタを仕入れとくから』

「忙しいのに、本当にありがとうございます。助かります」

『俺が好きでやってる事だ。気にすんな』

 

 昴輝は溜息をつきながら携帯電話を切った。

 朝の通学路である。すぐ横を行く可凛が、昴輝の表情から残念そうに顔を曇らせた。

 

「今回も駄目だった?」

「駄目だった、通算六回連続だ」

 

 ラジバトのモブの収録から一週間が過ぎた。あれからさらに稽古やレッスンを重ねながら、現場の経験を積ませるべくオーディションを受け続けているが、結果は五里霧中だった。

 どこかの声優事務所に所属していれば結果も変わっていたかもしれないが、そんな泣き言を言っていても意味が無い。今の瑞希の目標は、その声優事務所──所属先はアルト・プロダクションなので、正確は俳優専門事務所になるのだが──に所属する事なのだから。

 今の瑞希は無名で無所属。そんなどこの誰とも知れない新人を端役だろうがモブだろうがガヤだろうが、何の根回しも無く採用しようという物好きは少ない。どれだけ瑞希が演技面に秀でていても、制作側の眼にはなかなか止まらないのが現実だった。

 

「瑞希ちゃん、ラジバトで佐々木音葉と競演してからテンションマックスなんだけどね」

「……そのやる気を発揮させられる場所を作れていないのは自覚している」

 

 ラジバトの収録の時、音葉に言われたアドバイスは実に的確だった。日頃から昴輝が直すよう伝えていた欠点と合致もしている。この叱咤もあって、瑞希の稽古に対するモチベーションは非常に高く、あれから一週間でメキメキと実力を伸ばしていた。

 だが、現場の経験はまだ一回だけだ。

 藤見プロデューサーが進めている例のヒロインオーディションまで二週間と迫っている。プロアマ問わない公開オーディションという特殊条件で、あの上がり症の瑞希が真価を発揮するには、現場を経験させて緊張感に慣れさせなければならない。

 

「ちなみに今回受けたオーディションはどんなのだったの?」

「来年発売予定の恋愛シミュレーションゲームのヒロインだ。タイトルは、ヘンデレ! だ」

「ヘンデレ? 何か凄く色物っぽいんだけど」

「ツンデレ、クーデレ、ヤンデレ等定番属性をすべて排除し、マゾデレ、ヤンキーの意味でのヤンデレ、オドデレ等のニッチな属性のヒロインだけを集めた意欲作、らしい。俺には何がどう意欲的なのか分からんのだが。マゾデレとは一体なんだ?」

「……好きな男の子に冷たくされる事に喜びを感じるデレ……かな。ちなみに瑞希ちゃんは何デレでオーディション受けたの?」

「オドデレだ。他はあまりにも瑞希の性格からかけ離れ過ぎていて、演技そのものに支障を来していたのでな」

「それ、好きな男の子の前だとオドオドしちゃうデレ?」

「そのようだ。さすが可凛だな、俺には何がなんだか分からん世界なのに」

「いや、日頃の瑞希ちゃんから想像できたのがそうだったって話だよ。でも、確かに瑞希ちゃん向けって感じだね。それで落ちちゃったんだ」

「ああ。瑞希の演技力の秘訣はその徹底した役作りにある。性格が近ければより生きた演技のレベルを上げられるから、いけると踏んだんだがな。結局、このオドデレのヒロインには佐々木が選ばれた」

「凄いなぁ。あの子、最近ゲームでも出ずっぱだね。ホント、破竹の勢いだ」

「……まぁ、確かにそうだが」

 

 昴輝は気難しい顔で押し黙る。

 確かに佐々木音葉の人気は凄まじい。瑞希から昨今のアニメやゲーム事情を聞かされて知識が増えてきたので、彼女の声優としてのネームバリューの影響も理解してきた。

 今シーズンのアニメにも三本のレギュラーを持ち、他にもゲストキャラクターの声優にも起用され、その時の反響がかなり大きい。ジャンルに関わらずゲームにも出演。売れ行きは好調。さすがに単独ライブを行えるほどではないが、出演したアニメのイベント等では質の高い歌とダンスを披露して、会場を大いに沸かせている。そのDVDとBDの売上はオリコンに食い込むほどと来ている。

 佐々木音葉は間違いなく一流のアイドル声優だ。

 だが、生きた台詞──瑞希のように、キャラクターがその場に実在するかのような錯覚に陥るほどの演技力が無いのも事実だ。

 

「面白くないって顔だねー。瑞希ちゃんの仕事取られてやっぱ悔しい?」

「実力がすべての業界だ。佐々木に仕事が集中しているのは、彼女の力だろう」

「でも納得してないって顔だよ?」

「表現者という観点からすれば、瑞希は充分に佐々木を超えられる。瑞希がオーディションに合格できないのは、すべて俺の責任だ」

「別に誰の所為でもないと思うな、あたしは。勝負は時の運とも言うじゃん。モデルの仕事だってそうだよ。オーディションで、来てる人みーんなあたしなんかよりずっと綺麗な人達だったのに、どうしてかあたしが合格する事だってあったもん」

「それは審査する側に見る目があったという事だろう。贔屓目無しで、お前は綺麗だ。少なくとも俺が知る同い年の女子の中では群を抜いている」

 

 ぼんっ、と爆発する勢いで可凛の頬が赤色に染まった。鞄を持っていない方の手で鼻から下を隠して、おどおどとうつむいてしまう。

 様子をおかしくした可凛を無視して、昴輝は思索した。可凛は自分の経験談を話してくれたが、残念ながら、その例え話は瑞希には当てはまらない。瑞希をオーディションで落として、音葉を採用した制作側に見る目が無かった訳ではない。こちら側の実力不足が原因としか思えなかった。もちろん、瑞希の実力ではない。

 

「不足しているのは俺の方だ」

 

 それも講師としての力ではない。マネジメントだ。オーディションも、聡一郎が持っている藤見経由の細いパイプに依存している。現状、昴輝は自分の経験上から瑞希の声優としての技術を伝えているだけで、彼女自身の経験を伸ばす分野では力になれていないのだ。

 

「……このままでは駄目だ。もっと現実的且つ具体的に動かなければ……」

 

 頑張るだけでは結果はついてこない。ラジバトの収録の時に音葉も言っていたではないか。頑張るのは当たり前だと。次があると思うから駄目なのだ。今やらなければいつやるのか。

 昴輝は足を止めた。可凛も慌てて立ち止まる。学園の校門はすぐそこだった。

 

「済まんが今日は学校を欠席する」

「い、いきなりどうしたの?」

 

 慌てた可凛が顔から手を離すと、頬を緩めた締まりのない顔が明るみに出た。

 

「何をニヤニヤしているんだ?」

「あ、あんたの所為でしょ!?」

 

 怒鳴られた。何故だ?

 

「まぁいい。そういう事なので、欠席届を出しておいてくれ」

「べ、別にいいけど。何するつもり?」

 

 可凛が訊ねた時、校門の方から瑞希が駆けて寄ってきた。

 

「黒野さん、西尾さん、おはようございます!」

「ああ、おはよう。そしてまた放課後に会おう。俺は今日欠席する」

「え、ど、どういう意味ですか? もしかして、風邪を引かれたんですか?」

「至って健康だ。俗に言うサボリになるな」

「いや、だからあんたなにするつもりよ」

 

 訝しむ可凛に背を向けた昴輝は、肩越しに振り返って告げる。

 

「営業だ」

 

 

 

「で、カッコつけた割に来るのは俺のとこか?」

「……お恥ずかしながら」

 

 藤見鷹也が天井を仰いで爆笑した。もう穴があれば入りたい気分だった。

 アニメーション制作会社エイトランス。その応接室である。エイトランスは設立されて五年と若い制作会社なので、自前のビルもボロくて小さく、応接室と言っても広い作業部屋にパーテーションを置いて囲っただけの開放的過ぎる空間である。

 オーディションを受けるだけではなく、もっと強く瑞希を売り込む。実績皆無でどこの事務所にも所属していない素人が、ただ無作為にオーディションを受けているだけでは駄目なのだ。多村瑞希という可能性の塊を、もっと意欲的にアピールしなければならない。

 そんな大見得を切って学校をサボった昴輝だが、気付けば見知ったアニメプロデューサーにアポ無し突撃していた。

 

「考えとしては面白いし一理あるが、さすがに無計画過ぎるだろお前。しかもアポ無しとか、お前じゃなかったら門前払いだぞ?」

「も、猛省しています。ご迷惑をおかけして申し訳ありません……!」

 

 昴輝はテーブルに額を擦りつけるように頭を下げる。藤見はまた笑うが、その笑いは昴輝の浅はかさを嗤うものではなく、昔を懐かしむような笑いだった。

 

「クソ真面目で猪突猛進、こと芝居に関しちゃ誰よりも真摯で、妥協を知らない。ホント、喉壊す前のお前のままで、俺は嬉しいね。そういう無謀なとこ、俺大好きだよ。だからお前が現役だった頃、オーディションかっ飛ばして指名させてもらってたんだがな」

「その評価は大変に恐縮ですが、俺にボーイズラブの趣味はありません。いや、藤見さんの場合は歳的にBLに該当しないか。この属性は何というのだろう。多村に聞いてみるか」

「真顔で言うなよ俺にもねーわアホか! 字面通りに取るな、そういう意味じゃねー!」

 

 怒鳴って頭を抱えた藤見は、やがて気を取り直すように頭を掻いた。

 

「それでお前は俺の少ねー自由時間を漫才で潰す為に来たのか?」

「滅相もありません」

 

 昴輝が声優として活躍したのは三年にも満たない短い期間だったが、その時懇意にしてくれたのが藤見プロデューサーと、彼が所属しているアニメ制作会社エイトランスである。昴輝にとって、瑞希を使ってもらう交渉ができる相手はここ以外に無かった。

 

「多村にチャンスを下さい」

「それなら今度のヒロインオーディションがチャンスだろ?」

「それに合格する為に現場を経験させてやりたいのです。この前のラジバトのモブのような仕事はありませんか?」

「済まん、しばらくはねー。ラジバトもこの前のBDとDVD初回特典用OVAで一旦終了で、二期の制作はもうやってるが、声優の収録はずっと先だ。他に何か作ってれば紹介してやらんでもなかったが、今はラジバト二期とヒロインオーディションの準備で手一杯なんだよ」

「そうですか……」

 

 何かあれば、と思ったが、落胆せざるを得なかった。声優業界との唯一のパイプにして希望は早くも終わってしまった。

 

「あれ?」

 

 聞き覚えのあるその声に視線を巡らせると、パーテーションから昴輝達を覗き込んでいる少女と眼が合った。ボリュームのある栗色の髪をサイドアップにした愛らしい少女──佐々木音葉である。彼女の横にはカメラを担いだスタッフらしき男性が付き添っている。

 

「佐々木? こんな所で何をしている?」

「黒野さんこそ今日はどうされたんですか、こんな所で」

「……お前等、揃ってこんな所こんな所って連呼してんじゃねーよ。摘み出すぞ?」

『失礼しました』

 

 藤見の底冷えした声に、昴輝と音葉は異口同音で謝罪した。藤見はエイトランス設立に大きく関わっていて、聡一郎の話では、その発言力は社長に並ぶらしい。怒らせるのはまずい。

 

「音葉はラジバトのBDとDVD初回特典の収録中。ラジバトの制作会社を突撃レポートみたいな企画だ」

「先日のOVAが初回特典ではなかったのですか?」

「どんだけ人気出ても、色々おまけをつけねーと売れねーんだよ、円盤は。最近じゃ本体の円盤がおまけになってきてる。ラノベ原作アニメにあると、三百ページ以上の原作者書き下ろしラノベが付くってのもあるからな」

「大変ですね」

「一言かよ。完っ全に人事だな、畜生」

 

 藤見が愚痴た時、彼の携帯電話が鳴る。少しのやりとりの後、電話を切って席を立った。

 

「済まん、クロスケ。呼ばれたんで俺行くわ。力になれんで悪い」

「いえ。こちらこそ無粋な営業をかけて大変失礼しました」

「気にするな。多村の演技を見たら、お前が入れ込む気持ちは理解できるってモンだ。知り合いのプロデューサーやアニメ監督に相談しといてやる。まぁ、あまり期待はせんでくれ。俺以外だと普通にオーディションには参加しなきゃならんだろうし」

「いえ、助かります。ありがとうございます」

 

 藤見が応接室を出てゆく。それを見送った昴輝は、聡一郎にも相談しようと決めて、部屋を出ようとした。

 

「黒野さん、あの、少し良いですか?」

 

 猫撫で声で、音葉が昴輝を呼び止めた。

 

「なんだ? そちらは仕事中だろう?」

「ええ。そうなのですが、ちょっと相談したい事がありまして」

「……俺にか?」

「はい。駄目ですか?」

 

 上目遣いで見つめてくる音葉。今一番売れているアイドル声優が相談事とは、一体なんだろうか。だが、今の昴輝は瑞希の事で手いっぱいである。とても他の事にかまけていられる余裕は無い。

 

「お時間は取らせません。収録ももう終わるので、一階の受付でお待ちいただけませんか?」

 

 表情から昴輝の心情を看破したように、音葉が詰め寄った。

 断るという選択もあったが、以前の収録では瑞希を助けてもらった借りがある。それに、急いで事務所に戻って聡一郎に相談したところで、現状が打開できる訳でもない。

 

「分かった。では一階の受付ロビーで待っている」

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 音葉が小躍りするように跳ねる。付き添いのカメラマンの男性は愛らしい子猫でも見たような和やかな顔になっているが、どうやら音葉が正真正銘の猫かぶりである事を知らないらしい。何だかちょっと哀れな気持ちになってしまった。

 しかし、相談事とは、一体なんだろうか。

 

 

 

「お待たせ」

 

 受付に現れた音葉は、化けの皮を綺麗に脱ぎ捨てていた。笑顔ではなく仏頂面にも見える無表情である。

 

「いいのか、素になって」

「いいのよ。だって誰もいないじゃん」

 

 受付とは名ばかりの空間を見渡す音葉。自動販売機と喫煙所とベンチが置かれた少し広い通路に、カウンターと会社のロゴパネルが設置されているだけの寂れた場所である。受付嬢なんているはずも無く、昴輝と音葉以外には誰もいない。

 壁にはこれまでエイトランスが制作したアニメーションのキービジュアルポスターがズラリと張り出されていて、その中にはもちろんラジバトもあった。

 ポスターの中心には、メインヒロインであるアルキュオーネが飛行ユニットを装備してポーズを決めている。昴輝は、そんな表情豊かなヒロインと、眼前で鉄面皮みたいな顔をしている音葉を見比べてみた。

 

「なに?」

「いや。君も役者だなと思ってな」

「褒めても何も出ないから。というか、評価されてるとこがそういうのだとムカつくだけ」

 

 決して皮肉で言った訳ではなかったのだが。なかなかに難しい少女である。

 

「それで、一体何の相談だ?」

「あ、うん。それなんだけど、落ち着いて話せる場所行かない? 近くにドタバあるからさ」

 

 いつもの遠慮無しな物言いでは無く、言葉を選ぶように音葉が提案した。昴輝としては断る理由も無かったので、連れ立って少し離れた場所のカフェに向かった。

 歩いている間に、音葉は髪を解いて首の後ろで一つに結い、野暮ったい帽子をかぶって黒縁をつけた。服も暗めのコーディネイトで、スニーカーと非常に地味である。

 

「それは変装か?」

「うん。この辺りってエイトランス以外にもアニメ制作会社が沢山あるでしょ? 声優の出入りも結構あるから、目敏く気付く人もいるの」

「写真集まで出している人気声優は大変だな」

「また皮肉?」

 

 苦笑する音葉と席に座る。小さな対面席だ。落ち着いた雰囲気の店内には客も疎らである。

 

「そんなつもりはない。純粋な賞賛だ。それで、相談とはなんだ?」

 

 珈琲を啜りながら、昴輝はテーブルを挟んで向かい合う音葉を一瞥する。音葉はカップを両手で包むように持ち、ホットミルクに執拗に息を吹きかけて冷ます事に躍起になっていた。

 

「……猫舌なら冷たいものを頼めば良いだろう」

「し、仕方ないじゃない、この後収録なんだから」

 

 憮然と眼を眇める音葉に、昴輝はああと納得した。喉を冷やすと声帯が縮み、発声に良い影響が出ないのだ。カフェイン等の刺激物が入っている飲料も同様なので、そうなるとカフェで選べるメニューは限られてしまう。

 役者とは身体が資本であり、商売道具だ。自己管理は非常に重要な仕事である。音葉はそれをしっかり実践しているのだ。台本の読み込みもそうだったが、本当に真面目な少女だ。

 ホットミルクを慎重にちびちびと飲みながら、音葉は様子を窺うように昴輝を見る。その眼はどこか迷っているようだったが、やがて意を決した様子でカップをテーブルに置いた。

 

「この前、あんた、私がヘタクソだって言ったよね?」

「待て、何も断言していないぞ」

「それって遠回しに私が演技ヘタだって認めてるようなもんじゃん」

 

 誘導尋問だった。自分から切り出した話題なのに、音葉は不愉快そうに鼻を鳴らしてテーブルに頬杖をつき、そっぽを向いてしまう。

 どうしたものか。彼女に対する発言は、オブラートに包むと逆効果なのは間違いないが。

 

「ならはっきり言わせてもらうが、確かに上手くはない。演技面だけなら多村の方が上だ」

 

 音葉は無言のまま下唇を噛む。黙っているのは昴輝の意見に同意しているという事だろう。

 

「だが、世間で言われてるほど下手なのかと言われると、そうではない」

 

 そっぽを向いたまま、音葉は視線だけを昴輝に向ける。

 

「声の演技に必要な技術はしっかり身につけている。イントネーションも発声も良好だ。滑舌も非常に聞き取りやすく綺麗だったし、ブレスにも問題は無い。この前の収録では藤見さんや音響監督の注文通りの修正も的確にこなしていた。一年前までは素人だったと思えば、今の君は充分だと思う」

「………………ホントに?」

「ああ。今言ったが、それら良好な技術に支えられているから、演技も言われるほど酷いものではない。特に台本への書き込みの多さを鑑みると、君の演技への意気込みというか、真摯さが伝わってきた」

「……どうして、あんたがその事知ってるの?」

「実は多村のアフレコ練習用にラジバト二話を使ってな。藤見さんに頼んで台本も用意してもらったんだが、予備が無かったらしくてな。君が収録に使った台本が来たんだ」

「な……なんて事してくれたの、あのオッサン!」

 

 首まで赤くした音葉が椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がって怒鳴った。店員も含めて他の客達の迷惑そうな視線に晒された彼女は、慌てて首を竦めて座り直した。

 

「藤見さん、絶対に故意犯だ。人の恥部を晒すみたいな真似しやがってぇ……!」

「アイドル声優がそんな汚い言葉使いをするな。とにかく、多村はその台本もあって君をとても尊敬してな。俺も凄いと感じた。自信過剰は危険だが、自分を卑下していると本来の力も衰えていくぞ。あれは誰もが自然にできるものではない」

「ふ、ふん!」

 

 誤魔化すようにホットミルクを啜るが、まだ熱かったらしく、短い悲鳴を上げて口を押さえる。昴輝は慌てて水を取りに行き、音葉に差し出した。

 

「……あんがと」

「演技面を細かく言うのなら、君は気持ちを作っている事だ」

「そ、それのどこがいけないの?」

「気持ちは作るものではない。作るのは役だ。アルキュオーネになろうとするから、演技が上辺だけになって生きた感情が出ていない。それでは見る者の心に響く声の芝居はできない」

「……どういう意味?」

 

 音葉が眼を瞬かせて小首を傾げた。

 彼女が悩んでいる演技の問題点は、アルト・プロダクションの付属養成所の研究生達のそれと同じなのだ。人によっては研究生レベルか、と思われるかもしれないが、養成所の研究生になる事は非常に難しい。無論養成所のレベルにもよるが、誰でも簡単になれる訳ではない。

 声優として多忙な毎日を過ごしながら、たったの一年で養成所の研究生レベルにまで達した音葉は、もしかすれば、瑞希と遜色無い素質の持ち主なのかもしれない。

 

「佐々木。今君はホットミルクで舌を火傷したな? 耐えられない熱さに顔をしかめて悲鳴を耐え、俺が持ってきた水を飲んで落ち着いた」

「……それがどうかした?」

「今のリアクションをアルキュオーネでやったらどうなる?」

 

 音葉は怪訝顔で天井を見上げる。

 

「アルキュオーネの性格を考えれば、恐らく悲鳴を堪えない。もっとオーバーに騒ぐだろう」

「そりゃ、自分の夢に恋してるような天真爛漫な子だからね。多分もう涙眼でひーひー言っちゃうと思う」

「そうだ。人によってリアクションは変わる。それはアニメのキャラクターであっても同じだ。いや、アニメキャラは極端な性格が多いから、反応はより顕著になる」

「……まぁ、確かに」

「さっき君が舌を火傷した時の反応は、君だけのものだ。だが、アルキュオーネにはアルキュオーネだけの舌を火傷した時の反応がある。それはアルキュオーネでなければ表現できない」

「だからアルキュになりきって……」

「なるのではない。作るんだ。君は君だ、佐々木音葉だ。アニメのキャラクターであるアルキュオーネとは別の人間だ」

「そりゃそうよ。その二次元に命を吹き込むのが私の仕事で……」

 

 そこで音葉は何かに気づいた様子ではっと息を呑んだ。

 どうやらこちらが言おうとしている事を理解してくれたらしい。

 

「人間は別の誰かになる事はできない。だからなろうとすると絶対に嘘が生まれる。生きた感情、生きた台詞は出てこない。良い監督ほど、役者の演技に注文をつける時は気持ちが足りていない、その人物はそんな風に笑わない、という言い方をするものだ。君は今自分の仕事は二次元のキャラクターに命を吹き込む事だと言ったが、キャラクターになりきるという表現で命を吹き込めると思うか?」

 

 音葉が頬杖をつくのを止めて、真剣な表情で静かに首を横に振った。

 

「無理、だと思う。あんたが言った通り、上辺だけで、それっぽくなるだけになる」

「役作りとは、存在しない架空の人物を自分の中で生み出す作業だ。これを疎かにすると上辺だけの薄い偽者しかできない。架空の人物が存在するように思わせるのは、その人物を自分の中で創造するしかない」

「……多村瑞希は、それが上手いのね?」

「ああ。この前のモブは、台本を前日に貰ったんだが、たったの一日で完璧な仲居さんを作ってきたよ。あれには驚いた」

 

 あの日。スタジオのある専門学校に向かう前、アルト事務所の稽古場で朝練をしていた。台本の読み合わせは前日に稽古場が使えなくなるまでやっていたが、なにせ台詞が三つしかない。モブである以上、役作りも何もあったものではないと昴輝も思っていた。

 だから、朝練で瑞希が見せた仲居の演技に驚愕するしかなかった。三行の台詞しかないモブの設定を作って、瑞希はそれに沿って役作りをしたのだ。モブの容姿は台本に若い仲居としか書かれていなかったのだが、そこから瑞希が独自に想像を広げたという訳だ。

 あれには脱帽するしかなかった。だから演技には全く心配はなく、上がり症な彼女が初歩的なミスを連発しないかどうかばかり気になったのである。

 

「あの子、凄いわね。さすがニコ動の演じてみたランキング一位だわ」

 

 呆然と感服する音葉。

 

「あの動画、知っているのか?」

「知ってるも何も、私重度のニコ厨だもん。でも、多村があの動画の人だって知ったのは、この前の収録当日。あんた達が帰った後、かすみさんの奢りでご飯食べに行った時にね。収録中に教えられてたら、イラついてどうしようもなかったと思う」

 

 音葉が苦笑いを浮かべる。

 演技面でコンプレックスを持っている音葉が、自分よりもずっと良いアルキュオーネを演じた瑞希と競演すると知っていれば、きっと我慢しなかっただろう。その性格も考慮すれば、イラつくだけでは済まなかったかもしれない。

 

「ホント、あの子凄いわ。今じゃ絶対あの子のアルキュの方が可愛い。まぁ、今はだけどね」

「……随分と謙虚だな」

 

 正直意外過ぎる反応に肩透かしを受けた気分になる。

 音葉は胡乱な眼を昴輝に向けて、ふんと鼻を鳴らした。

 

「だって事実じゃない。別に人様の意見を全部鵜呑みにする訳じゃないけれど、多村瑞希のアルキュは本当に可愛いもの。悔しいと思う前に萌えちゃったんだから仕方ないじゃない」

 

 確かにそうなのかもしれないが、それを事実として簡単に受け入れてしまうその姿勢は、彼女の素の性格から想像しにくかった。苛烈に批難されそうな予感もあったのだ。

 

「佐々木。君はその性格で損をしていないか?」

「喧嘩なら買うわよ? 多村瑞希の方が上手いってのは認めたけど、悔しくないとかそういうのが無い訳じゃないからね?」

 

 迂闊な質問はまずいようだ。先日の収録日にも感じた事だが、本当に気難しい。

 

「藤見さん、そういうの全部知ってて私と絡むモブに多村を選んだのかな?」

「いや、オーディションだ。まぁ、あの人の性格を考えると、それも有り得る話だが」

 

 飄々としていて人を食ったような人間である。腹の底で何を考えているのかは分からないが、仕事には真摯だ。視聴者に俺の嫁と断言させる女の子を作ると宣言するような人だが、作品作りには妥協しないし、制作スタッフや参加声優にも質の高さを要求する。

 

「でも納得したわ。役作りかー。藤見さんにも散々役作りが甘い、お前のアルキュはオタクの嫁失格だって言われてたけど、腑に落ちたわ。ありがとう、黒野」

 

 不愉快そうな顔をしていたと思えば、今度は素直な礼が飛んできた。

 その殊勝な態度を意外に感じながら、同時に昴輝は疑問を覚えた。

 

「込み入った事情を聞くかもしれないが、君はマーシャルビジョンでレッスンや稽古を受けているのだろう? 今の俺の話も、講師に頼めばもっと早くにされていたんじゃないのか?」

 

 すると、音葉は眉間に皺を寄せて押し黙った。ホットミルクを一口飲み、嘆息をつく。

 

「それができればあんたに相談なんてしないわよ」

「できないのか?」

 

 音葉は額を掻くと、「事務所批判するとかじゃないからね」と念を押して説明した。

 

「今のマーシャルビジョンはアイドル声優の育成に力を入れてて、ボーカルやダンスのレッスンばかりなの。演技指導もあるにはあるし、講師も現役の声優だから内容も凄く濃い。ちなみにその現役声優ってのはかすみさんね」

「それなら確かに良い指導を得られるな。高端さんの面倒見の良さはよく知っている」

「うん。でも、時間が本当に少ないんだ。それに私は学生だから、そっちも手を抜くなって言われてて。現役女子高生アイドル声優ってアオリで仕事してるから。歌うの好きだし、身体を動かすのも嫌いじゃないからダンスも良いんだけど、そっちばっかりだと声優としての演技力が全然身に付かなくて。お客さんが喜んでくれるのはすっごく嬉しいから、歌もダンスも適当にやるつもりは全くないんだけどね」

「………」

「比重の問題っていうのかな。こうやって声優の仕事をやらせてもらってる事には凄く感謝してるし、事務所の期待には応えたいから頑張ってるけど、私はもっと声優として演技を上手くなりたいんだ」

 

 そう言って、音葉は笑った。

 あの相当な書き込み量を誇った台本からも感じた事だが、佐々木音葉は良い表現者だと昴輝は思う。はじめて会った時は瑞希を嘲笑する態度に戸惑い、その猫かぶりに困惑もしたが、声優への情熱は本物だ。器も大きく、さすがは新人発掘オーディションで優勝して、今日までやってきただけの事はある。

 演技では本人が自覚している通りにまだ不足しているが、その謙虚さを忘れなければ、きっと良い声優になるはずだ。

 そうやって密かに感心していると、音葉がまた上目遣いでこちらを見ている事に気づく。

 

「あの、さ。もう一つ、いい?」

 

 スタッフや先輩声優に向けたアイドル声優としての猫撫で声ではなく、恐る恐るといった風情で音葉が訊く。

 

「私の先生になってくれない?」

「は?」

 

 今度は何がくるのかと密かに身構えしまった昴輝は、訳が分からずに聞き返した。

 

「だ、だから、私の声優の先生をやって欲しいって言ったの」

「……俺は一年前に声優を辞めた人間だぞ?」

「今は多村の先生やってるじゃん。そもそもあんたとあの子ってどういう繋がりなの?」

「クラスメイトだが、あの子に声優になってもらう為に稽古やレッスンを監督している」

「ならやっぱり先生だ」

 

 先生というか、プロデューサーというか、マネージャーというか。昴輝は瑞希の可能性を信じて彼女を声優にするべく動いているだけで、肩書きははっきりしていない。講師の真似事をしているので、先生と言えば先生かもしれないが。

 

「あんたの話、藤見さんから色々聞いたの。良い演技してたのに、喉壊しちゃって声優を諦めた惜しい奴だって。さっきのあんたの役作りの話は聞いてて凄く為になった。多村を見るついででいいから、私にも教えて欲しいの」

「待て、俺は本格的に演技指導をできるほど役者としてできていない。多村には演技指導の必要が現状あまり無いから、技術面やボーカルの勉強をさせているに留まっている」

「でも、さっき私が知らない事を教えてくれたじゃない」

「あれは別に大した事じゃない。それに訊くが、俺と君は同い年だぞ。しかも役者を辞めた人間だ。そんな人間から教わるのは嫌じゃないのか?」

「ぜんっぜん。そんな小さなプライド、上達するには邪魔なだけだもん。それにあんたは三年くらい声優やってたんだよね? だったら芸歴って面じゃあんたの方が私より上じゃん。引退してるのなんて関係ない。先輩面して教えられるってモンでしょ?」

「それは一体どんな理屈だ」

「なによ。多村は良くて私は駄目なの? やっぱあの子の方が上手いから? 才能あるから? 可愛さなら負けない自信あるんだけど?」

 

 身を乗り出した音葉が昴輝にずいっと顔を近づける。黒縁の地味な眼鏡の向こう側には、すっかり勢いを取り戻した覇気に溢れる瞳がある。

 

「……私が例のオーディションに出るから、敵に塩を送るような真似はしたくない?」

 

 図星を突かれ、昴輝は呻く。それが音葉の依頼を受けられない最大の理由だった。

 音葉も例のオーディションに出場するという話は、先日の収録時に藤見から聞かされた。今人気絶頂のアイドル声優と戦わなければならないと思うと、暗澹たる気持ちに陥っていた。

 受けない理由はまだある。音葉が日々の稽古に参加するとなると、瑞希一人に集中できなくなるのは明白だ。オーディションに向けた準備が不足している今は命取りになりかねない。

 

「佐々木。収録の時、多村を助けてもらった事には感謝している。できれば協力したいが」

「うん、黒野の言いたい事は分かるよ。確かに私もオーディションに出るからね。ライバルに演技指導なんて普通はしない。だから、化学反応に期待するべきよ。多村の稽古に私を参加させれば、あの子にとっても違う環境になるから、色々変わると思うの」

 

 強引な戯れ言を、とは昴輝も思わなかった。彼女の言葉を客観的に考えてみる。

 瑞希は音葉に深い憧憬を抱いている。瑞希にとって、音葉と一緒に稽古を受けられるという環境は最高にモチベーションが上がるはずだ。

 瑞希に足りていないのは経験だ。上がり症で安定した実力を発揮するのは困難なこのままでは、一般公開となる例のオーディションに合格するのは難しい。だからこそ現場で経験を積ませようとしたが、それも難しい。

 なら、音葉と一緒に稽古やレッスンをさせればどうだろう。憧れの声優と一緒に柔軟体操やボーカル、ダンスのレッスンを受ける。瑞希の事だから緊張でガチガチになるはずだ。そしてなにより切磋琢磨になる。演技面は良い瑞希は、イントネーションや発声、滑舌等の技術面で問題を持ち、それら技術面を音葉はクリアしている。しかし演技面に難を持つ。

 それぞれ教える分野は違うが、一緒にやる事で、音葉の言う通り面白い化学反応が起こるかもしれない。

 

「……分かった。その話、受けよう」

 

 その返事に、音葉は満面の笑顔で満足そうに肯いた。

 

「ちなみにあんたの稽古だけど、今日はあるの?」

「ああ。夜八時まで事務所の稽古場を使えるのでな」

「じゃ、今日からお邪魔するね」

「は?」

「は、じゃない。私は一刻も早く上手くなりたいの。多村ほどじゃないけど、私にもゆっくりしていられる時間なんて無くてね。それとも今日は都合悪い?」

「そんな事は無いが、君はこの後収録だろう?」

「ラジオのゲストの収録だから、そこまで拘束されないわ。最寄りの駅は?」

「川鳴だが」

「OK。問題無ければ五時にはそっち着くから、それくらいに駅に迎えに来てくれない?」

 

 さも当然のように告げる音葉に、早くも昴輝は自らの判断が過ちだったかと思った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7話:やらせて……やらせてください!

 

 

「という訳で、今日から各種レッスンと稽古に参加する事となった佐々木音葉だ」

「よろしくお願いします」

 

 ファンを虜にする満面の笑顔で頭を下げる音葉を前に、瑞希と可凛は言葉を失って呆然としていた。

 

「……稽古中に瑞希ちゃんをあたしに押し付けて出て行ったと思ったら……」

「ど、どういう事ですか? え、どうしてここに佐々木さんがいらっしゃるんですか!?」

「いやー今日エイトランスでバッタリ会っちゃってさー。スカウトされちゃったのよねー」

「何がスカウトだ。どちらかと言えば君が俺をスカウトしたような感じだろう」

「まぁそうとも言うか。だってあんた教えるの上手いんだもん。まぁそういう訳だから、今日から同じ先生に習う者同士、ライバルって事で宜しくね、多村」

 

 ライバルという一言に、瑞希はさらに表情を凝固させた。この前の収録時の時を思わせる顔色になったと思えば、脂汗がダラダラと流れ、熱でも出したかのように真っ赤になった。

 予想通りの反応である。

 

「私が佐々木さんのライバルなんて、お、恐れ多いですよぉ……!」

「なに逃げ腰になってんのよ。この前も言ったけど、あんたは私より演技できてるんだから。少しは自信持ちなさい。じゃないと鬱陶しくて仕方ないわ」

「す、すみません……」

 

 しゅんと肩を落とす瑞希の横で、可凛はさらに唖然と口を開けた。

 

「なんか、イメージと違う」

 

 その胡乱な視線に、音葉はニヤリと笑うと深呼吸を一つ。

 

「──三番機、アルキュオーネ、行きます──!」

 

 音葉の声色を一変させた宣言に、可凛ははっとして眼の色を変えた。瑞希は神様を崇める信者みたいな顔で感涙する。

 

「うわ、マジでアルキュオーネだ。じゃ本物の佐々木音葉……?」

「アイドル声優の偽者なんて誰得なのよ。ところであんた誰? あんたも声優志望?」

「全然違います。あたしは昴輝の幼馴染で、ここの事務所でモデルやらせてもらってる西尾可凛って言います。ここには昴輝の手伝いで来てて、瑞希ちゃんのお世話させてもらってるって感じですかね」

 

 柄にも無く緊張した面持ちで頭を掻く可凛。普段見ているアニメでヒロインをやっている声優が目の前にいるのだから、さすがの可凛も普段通りにはいかないようだ。

 そんな彼女を値踏みするように頭から足まで見渡した音葉は、次に自分の身体を見下ろして、鋭い舌打ちをした。非常に悔しげで、忌々しげに可凛の豊満な胸を睥睨する。

 

「あ、あたしなんか気に障る事しました……?」

「別になんでもないけど、その敬語はやめて。年上に畏まられるのは嫌だもん」

「佐々木さん、西尾さんは十六で、佐々木さんと同い年ですよ」

 

 瑞希が遠慮がちに口を挟んだ。音葉は改めて可凛の全身を嘗め回すように見つめると。

 

「──ちぃ!」

「なんでそんなガンダムのシャアみたいな舌打ちするんですかね……?」

「と、とにかく敬語はやめなさい! 背中が痒くなる! あんたもよ多村! 今日から正式なライバルなんだから、同じ目線に立ちなさい!」

「無理無理無理無理です! 私如きがそんな佐々木さんにタメ口聞くなんてなに馬鹿な事言ってるんですか!? アホですか!?」

「タメ口は駄目だけど罵声は良いのね。結構良い度胸してるじゃない。いいわ、あんたがそのつもりなら、私にも考えがあるから」

 

 腕を組んで鼻息を荒げる音葉に、自らの失言に気づいたらしい瑞希が土下座を敢行した。ライバルで同じ目線に立てと言われたのに。

 そんな二人を前にしながら、可凛が昴輝に囁いてくる。

 

「理由は分かったけど、これ、本当に大丈夫なの……?」

「マーシャルビジョンのマネージャーには許可を取り付けたらしいので問題は無いそうだ」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 

 可凛は、これで稽古になるのかと言いたいのだろう。その心配は今もあるが、こうなってしまった以上撤回はできない。どの道、オーディションを通過できないまま稽古を続けていても、瑞希の上がり症を改善できる余地はほとんど無かったのだ。

 

「今は化学反応に期待するしかない。多村の上がり症を緩和する為にも、憧れのアイドル声優こと佐々木音葉と一緒に稽古を受けるのは効果的だ」

 

 とは言うものの、不安が無い訳でもないのだが。

 

「黒野、早く稽古はじめなさい。足引っ張らないでよ、多村」

「黒野さんに教えてもらえるだけじゃなくて、佐々木さんと一緒にレッスンできるなんて……私なんかが、私なんかが、私なんかががががが……!」

「ネガらないでよ、面倒ね。ほら黒野!」

 

 ずばっと大変偉そうに指差してくるアイドル声優に、可凛は苦笑いを浮かべて、昴輝は頭痛を覚えた頭を横に振った。この選択が英断となるのか自殺行為となるのか──。

 

 

 

 ──それから三日後。

 

「ラジバトで一番ブヒれるのはアルキュですよ、黒野さん!」

「確かにアルキュオーネは素晴らしい。夢へのひたむきさと真摯な姿勢は尊敬に値するし、あの天真爛漫で悩みとは無縁な性格は太陽のような暖かさを感じる。その明るさが崩れた時の儚さ、今まで隠してきた弱さを吐露した時の必死さには言い知れぬ感情を覚えた」

「だったら!」

「だが敢えて言わせてもらおう。弱さを隠す為に自らを偽り続けていたアルキュオーネの心を看破し、夢を諦めかけた彼女を支えたマイヤにこそ、俺はときめきを覚えた。これぞまさしくブヒーという奴だ」

「あの、もしかして、黒野さんは年上萌えなのですか……?」

「そうだな。おおらかで余裕のある年上の落ち着いた女性が好みだ」

「さ、三次元でも?」

「俺の好み、俗に言うブヒれる女性の対象に二次元も三次元も関係無い」

「……どうやって年上になれって言うのよ……そんなの物理的に無理じゃない!」

「何を朝から喚いている、可凛」

「うっさい! 難聴系鈍感主人公は白執事のアルフレッドだけにしといてよ! 現実でやるな馬鹿!」

「どうしたんだ可凛。現実と空想、二次元と三次元の区別はちゃんとつけておくべきだぞ」

「色々思うところはありますけど、黒野さん、物凄くブーメラン発言です」

 

 最近ではこうやって三人で登校する事も珍しくなくなった。瑞希は三駅離れた隣町から電車で通っているが、昴輝や可凛の自宅と川鳴学園は駅を挟んでいるので、昴輝達は毎朝瑞希を拾うような形で登校するようになっていた。

 別に誰からそうしようと言った訳ではない。最初、バッタリ遭遇してから、暗黙の了解のように三人で登校していた。

 

「それにしても、昴輝もやっとラジバト見たんだね」

「ああ、もう五週はしたぞ」

「いや見過ぎだろ!?」

「そうですか? 私は十周してますよ?」

「さすがだな、多村」

「えへへー」

「……昴輝がどんどんオタクになってゆく……」

 

 可凛がうんざりした様子で肩を落とした。

 昴輝もようやくラジバト全話を視聴できた。最初は瑞希の自宅に遊びに行って見る予定になっていたが、稽古が終われば夜も遅くなる。なかなか遊びに行ける暇も無く、最終的に瑞希に録画したデータを貰って、ようやく見る事ができたのだ。

 

「まぁ面白いのは認めるけど、十二話のアニメを五週ってどんだけ時間使ってるのよ」

「一周六時間だから三十時間だ」

「西尾さん、ラジバト信者なら五週は最低ラインですよ?」

「そのラインは誰が決めてるの……?」

「いや、アニメ作品としては俺も二回見た時点で大満足だったぞ」

「え? じゃ、どうして黒野さんは五週されたんですか?」

「佐々木がメインを張っていたからな」

 

 ラジバトに少ない自由時間を使った事には理由がある。もちろんアニメーションとして非常に面白く繰り返して見てしまったのもあるが、それだけ同じアニメを五回も見ない。

 ラジバトは、音葉が出演しているアニメの中でも、最も反響のある作品だ。彼女がメインキャラクターを務めた他作品も見たが、一番良い芝居をしていたのがラジバトだったのだ。

 音葉には演技指導をしなければならない以上、彼女の演技力の限界を知っておかなければならない。アイドル声優、佐々木音葉の現時点での限界値がラジバトのアルキュオーネだ。ここから役作りを徹底するだけでは届かない演技力を得るにはどうすれば良いのか、それを思索する為に繰り返し視聴していたら五週もしていたのである。

 

「俺はまだ佐々木音葉について知らない事が多い。この三日で歌唱力やダンスの実力は把握できたが、肝心の演技力を把握するのはまだ足りない。だから、佐々木の演技力の限界を知りたかったんだ」

 

 すると、瑞希は不満そうな顔になって握り拳を作った。

 

「そ、そのお気持ちは分かりますが、もっとアニメとして楽しんで下さい!」

「もちろんアニメとしても楽しんださ。だが、佐々木からは演技指導の面で頼られている。こちらとしても色々と思惑はあるが、頼られた以上、俺も全力で答えたい。あいつもアルキュオーネと同じで、やりたい事に対して真摯だからな。自分と重なるところがあったから、アルキュオーネの演技がファンから最も好意的に受け取られているのだと思う」

「やりたい事に真摯かー。でも、あんな猫かぶりな子だとは思わなかったけどね」

 

 ここ三日を思い出したのか、可凛が苦笑いを浮かべる。理由は分からないが、音葉は可凛を敵視して、何かある度に彼女に噛みついたのである。特にダンスレッスンでは酷く、脂肪を揺らすな! と激怒していた。しかし、モデル体型の可凛に無駄な脂肪なんて無いのだが。

 

「口も悪く厄介な性格だが、あれでいて収録の時には多村のフォローもしてくれている。恐らくあれがツンデレという奴だろう。多村、佐々木のフラグを立ててデレさせるといいかもしれんぞ。あの攻撃的な口数を減らせる可能性がある」

「私が佐々木さんと攻略するんですか!? セーブできない現実じゃ無理ですよそんなの!」

「あんた達、もっと現実に即した会話をして。特に昴輝、あんたふざけてるのかマジなのか分かんない」

「可凛。俺が冗談を言える性格ではないと知っているだろう?」

「真顔で言うな! 余計に性質悪い!」

 

 怒鳴った可凛は、疲れたように肩を落とす。校舎が近づいてくる中、可凛は口調を改めた。

 

「そのやりたい事に繋がってる話だけどさ。昴輝、進路調査表の提出今日までだけど、ちゃんと書いてきた?」

「無論だ」

 

 昴輝は制服のポケットからプリント用紙を取り出して、可凛に見せた。

 

「大学に進学か」

「先日までは未定で出そうと思っていたが、まぁ、色々と考える事もあった。お前は?」

「あたしも大学進学だよ。ほら」

 

 可凛は照れ臭そうにして、自分の進路調査表を見せる。進学希望先の学校名も書かれているが、その名前に昴輝は首を傾げた。

 

「俺と同じ大学じゃないか」

「な、なに、嫌な訳?」

 

 怒ったような脅えたような、そんな声を上げる可凛。

 

「まさか。まだ先の話だが、お前と同じ大学に通えれば嬉しく思うぞ。その時はまた頼む」

「う、うん。あ、あたしの方こそ、よろしく……」

 

 可凛の視線が泳ぎ、恥ずかしそうに身じろぎをする。嫌がっている素振りが無い事に、昴輝はほっとした。嫌がられたら結構ショックだった。

 進路調査表。昴輝が教室に落ちていた瑞希のあれを拾わなければ、今こうして登校路を歩いてはいなかっただろう。そう思うと、この紙一枚が今を変えたとも言える。

 放課後になるのが待ち遠しく思う事もなかっただろうし、着実に技術を吸収してゆく瑞希に喜びを感じる事も無かった。

 喉を壊してから一年。それは空いてしまった時間であり、持て余してしまった時間だった。

 やりたい事ができなくなってしまった。何をしようかと思っても、何をしていいのか分からなかった。やりたい事が無かったからだ。

 何かしなければ落ち着かない。でも、したい事が無い。退屈でどうにかなりそうだった。

 それが、今は放課後が楽しみで仕方が無い。今も誰かを育てるという行為に恐さや躊躇いが無い訳ではなかったが、楽しさの方が勝っていた。

 やり甲斐がある。音葉も加わって、彼女達の期待に応えられる指導をしなければならない。

 

「ね、ねぇ。瑞希ちゃんはもう提出済み?」

 

 赤くなった頬を掻きながら、可凛が瑞希に水を向けた。

 だが、瑞希は返事をしない。ただ二人を羨ましそうに見つめているだけだった。

 

「……多村?」

「え……は、はい。そういえば、今日提出日でしたね。家に忘れてきちゃいました、調査表」

「あれ提出期限厳守だよ? 昨日先生も言ってたじゃん、忘れたら親に連絡して面倒な事になるぞーって」

「そう、でしたね。すいません、稽古とかレッスンとか、そういうので頭から飛んでました」

 

 謝る瑞希だが、悪びれた様子は無い。家にノートを忘れてきたくらいの軽い感覚だった。

 昴輝はそんな瑞希に違和感を覚えた。あの日拾った調査表を思い出す。

 何度も書いては消した跡のあった調査表。あれには確かに声優と書き込まれていた。

 やりたいのに、やれない。書いた人間のそうした思いが読み取れる紙でもあった。だから演じてみたの動画を見て、それが瑞希だと知った時、彼女に声優にならないかと訊ねた。

 あれから二週間と数日。まだ二週間なのか、もう二週間なのか分からないが、昴輝にとってはもう二週間だ。今は毎日が充実している。大変だが楽しい。

 瑞希は声優になるべきだと思うし、またなりたいと思っている。なれる素質も実力も備えている。後は彼女をサポートすると決意した自分の力量次第だと昴輝は思っている。

 絶対になれる、とは言っていないし言うつもりはない。世の中に絶対なんて言葉は、それこそ絶対に無い。

 瑞希は声優になりたいと強く思い、毎日放課後に頑張っているが、その事を彼女の両親はちゃんと知っているのだろうか。

 そもそも、何故瑞希は進路調査表に声優と書いては消す事を繰り返したのか──。

 

「まぁ先生に言って調査表その場で貰って書いちゃえば済む話か」

「はい。それでなんとか乗り切ります」

 

 可凛の妥協案に瑞希が乗る。どこか翳を刻んだ笑顔で。

 その時、昴輝の携帯電話が鳴った。表示されている番号は知らない番号である。

 

『おそーい。このあたしが朝から電話してやってるんだから、サッサと出ろ』

 

 高圧的な口調で容赦のない不平が耳朶を打った。他の誰でもない、佐々木音葉だった。

 

「どうして君が俺の携帯番号を知っている?」

『あんたの事務所の人、えーと、結城さん? あの人に聞いた』

 

 いつの間に。

 

『トイレに行ってる時に声かけられてねー。そういえばあんたの番号知らないなって思って聞いたら、メルアドも一緒に教えてくれたの。あんたの事宜しくって』

「宜しくしているのは俺の方なんだが。それで、何の用だ?」

『明日土曜日じゃん』

「ああ。それで、君は秋葉原でイベントをやるから稽古には参加できないと言っていたな」

 

 音葉のスケジュールは、学校以外はなかなかタイトに組まれている。今日は七時から来期アニメのアフレコ収録があって、明日の土曜日は有名電気街で来月発売予定のセカンドシングルのお披露目イベントがあるらしい。スケジュールの予定を聞いていると、お前は一体いつ休んでいるのかと聞きたいほどだった。

 

『そー。こっちから稽古のお願いしたいのにいきなり休んじゃってごめん』

「気にするな。君の方こそ、休める時はちゃんと休め。役者は身体が資本だぞ」

『分かってるわよ。でね、今そのイベントのリハ中なんだけどさ、実は問題起こっちゃって』

 

 そう言う割には、音葉の声はあっけらかんとしていて悲壮感も危機感も無かった。だが電話の向こう側では怒声が飛び交い、さらに救急車のサイレンの音が響いている。なかなかに剣呑な状況らしい。

「何かあったのか?」

『ステージが壊れたの。それで崩れたセットにバックダンサーが潰されて怪我しちゃってさ』

「大惨事だな。ダンサーは無事なのか?」

『不幸中の幸いで皆軽傷。心配してくれてあんがとね。でも腕とか足とか、結構大きくやっちゃってて。明日のイベント参加は無理っぽい状況なんだ』

 

 電話口で誰かが音葉を呼ぶ。音葉はすぐに声色を可愛らしい余所行き用に切り替えて、もうちょっと待ってて下さーいと猫撫で声で返事をした。

 

『それでさ、ちょっとお願いがあるの』

 

 猫撫で声のまま告げる音葉に、昴輝は寒気を覚えずにはおられなかった。次に音葉が何を言い出そうとしているのか、可凛から鈍感と言われたばかりの昴輝にも看破できたのだ。

 

『多村と巨乳にダンサーやって欲しいワケ』

 

 

 

 結果からして、昴輝と可凛と瑞希は揃って学校をサボらざるを得ない事態となった。

 

「いやおかしいって絶対! なんであたし達が秋葉原で佐々木音葉のバックダンサーやんなきやいけないの!?」

「大丈夫大丈夫、あんたはすっごく綺麗だし手足長いし運動神経もバッチリだし、今回のホットパンツの衣装に似合うのよねー」

「な、なによそれ誉め殺し?」

「正当な評価よ。ホント見てくれはいいわね、あんたは。その乳とか最高よ、サイッコー」

「……今日帰ったら4chに『アイドル声優の佐々木音葉がすんげー黒かったんだが』ってスレ立てていい?」

「もうあるわよ? ちなみに昨日で五百二スレ目が立ってたわ」

「さ、佐々木さん、ほ、本当にこの服で踊らないといけないんですかぁ……?」

「ホットパンツとチューブトップに丈の短い上着。安心しなさい、うちの衣装担当には文句言っとくから。明日は私も着るし」

「それ答えになってませんよぉ! あ、あの、私本当に運動苦手なんです! そもそも私はお客さんでここに来てたようなアニオタですよぉ!? なのになんでステージに立たなきゃいけないんですか!? バカーアホー!」

 

 涙眼で逆キレ状態に陥る瑞希。突然の事態に大混乱中らしい。

 世界でも有数の電気街である秋葉原。そのイベント会場である。千人は収容可能な場所で、昴輝は客席から壇上で騒ぐ音葉達を一望していた。

 

「仕方ないじゃん。予備のダンサーが来られない状況なんだから。うちの事務所でダンス得意って言ってる面子はそれぞれの仕事で無理で、頼める先が無いんだもの。私のマネージャーも特例だって許してくれたし」

「だ、だからって他にももっと頼める人というか、そういうのあると思うんです……!」

「あーはいはい色々思うところはあるだろうけど、あんた達を貸して欲しいって言った時、快諾してくれたのはあんた達の黒野って事をお忘れなくね」

 

 ステージ上から指差された昴輝は、瑞希と可凛の批難の視線から逃れるように顔を背けた。

 これは依頼という名の徴用だったが、昴輝には断る事もできた。運動神経が良い上にモデルで人前に立つ事も慣れている可凛ならこなせる仕事だが、体力も運動神経も母親の腹の中に忘れてきたような瑞希はそうはいかない。最悪、客の前で転んで失態を演じてしまうだろう。

 

「は、恥ずかしくて死んじゃないそうです……」

「昴輝、あんた、もしかしてあたしや瑞希ちゃんのこういう肌色率の高い格好見たいからってこの話に乗った訳じゃないよね……?」

「公私混同は忌むべき行為だ。もし俺にそのつもりがあるのなら、プールに誘っている」

「真顔で開き直るような発言をするな! とにかく、あたしは別に良いけど、瑞希ちゃんは」

「いや、それでは意味が無いんだ」

 

 強い口調で可凛の打開案を否定した昴輝は、身体を隠すようにして胸を抱いて前屈みになっている瑞希に歩み寄る。ステージ上の彼女を見上げて、静かに語りかける。

 

「多村、ステージ上からは何が見える?」

「え……」

 

 戸惑いながら、瑞希は会場を見た。秋葉原内のイベントホールの中でも、最も大きな規模を誇る屋内会場である。これまでも有名なアイドル声優が使用していて、佐々木音葉のセカンドシングル発売記念イベントにはピッタリな場所だ。

 瑞希が立っているステージは、ライブハウスにあるような小さなものではない。野外フェス等に使われるような本格的なものだ。ここに登るのは簡単ではない。この会場を埋め尽くすほどの観客を集め、声援を浴び、新曲を披露できる人間は果たして何人いるのか。

 

「これまでの多村なら、今君が言った通り、ここにやってくる客の一人に過ぎなかっただろう。だが、今の君は声優を目指して日々稽古を積んでいる。このステージに登壇し、佐々木のように歌って踊るアイドル声優を志している訳ではないが、そうなる可能性も今のアニメ業界では充分にある。仮にそうなった時、君は運動神経が鈍いから踊れないと泣き言を言うのか? 人前で歌うのは恥ずかしいと喚くのか?」

「そ、それは」

「それに、今俺達が合格を目指しているオーディションは公開型だ。会場はこことは比較にならないほど大きく、やってくる客も多い。君はその壇上に上り、最後のオーディションに望まなければならない。佐々木には悪いが、この程度のステージで駄目だというのなら、オーディションは受けるだけ無駄だろう」

 

 瑞希の表情から、徐々に戸惑いが消えてゆく。

 

「俺もこの話は無謀だと思ったが、大勢の人間に見られる中でいつものパフォーマンス能力を発揮するには場数を踏むしかない。俺が君にラジバトのモブをやらせたのは何故だ?」

「……私に、プロの方々の中でお芝居をさせて、現場の空気に慣れさせる為、です」

「そうだ。一ヶ月の稽古より一回の本番だ。ここでは演技をする訳でもなければ、実際に君がメインで歌う訳ではない。振り付けも佐々木の話が本当ならそれほど難しいものではないはずだ。ならば、大勢の前で自分を曝け出すという普通ではまず体験できない経験ができるチャンスだ。それでも君が嫌だというのなら、佐々木には悪いが辞退させてもらう選択もある」

 

 確かにこの環境が、上がり症である瑞希には厳しいのは理解している。だが、この程度で駄目になるようなら、公開型オーディションの会場で最大のパフォーマンスを発揮するなんて不可能だ。

 昴輝を見つめていた瑞希は、もう一度ステージを一望すると、昴輝に視線を戻す。不安に顔を曇らせたままで泣きそうな眼だが、強く顎を引いて、震えながら首肯した。

 

「や……やります。やらせて……やらせてください!」

「それは俺に言う言葉じゃない」

 

 ぴしゃりと断言すると、瑞希は慌てて音葉に向き直って頭を下げた。

 

「失敗してご迷惑をおかけするかもしれませんが、宜しくお願いします!」

「もちろん。もしあんたがミスっても私が取り返すから、あんたはあんたで自分の糧にするといいわ。こんなチャンス、滅多にないんだからね?」

「はい! それでは振り付けを教えて下さい!」

 

 とことことステージから降りてゆく音葉と瑞希。どうやら上手く火をつけられたようだ。

 だが、可凛がまだ納得していないようで、不満げに唇を尖らせていた。

 

「あのさー昴輝。瑞希ちゃんが参加するのはまぁ納得したんだけど。どうしてあたしまで?」

「お前の運動神経と容姿なら、仮に瑞希が失敗したとしても取替えしてくれると確信したからだ。それに、今日まで瑞希とダンスのレッスンも重ねていたし、彼女の呼吸も分かっているだろう? お前が一緒なら、瑞希の精神的負担も少しは軽減できると思ってな」

「……昴輝まで誉め殺し使うなんて……!」

「正当な評価だと思うが。もしや、今日や明日にモデルの仕事が入っていたか?」

「別にそういう訳じゃないけど。瑞希ちゃんを助けるのは、まぁやぶさかじゃないし」

 

 腰の後ろで手を繋いで、爪先で床を蹴ったり、もじもじする可凛。明瞭快活な彼女らしかぬ反応である。

 

「瑞希ちゃんがこのステージで上手く立ち回れれば、あの子の自信になる?」

「恐らくな。例のオーディションでは壇上で演技をしなければならなくなる。その時の予行練習ができると思って、この話を受けた」

「瑞希ちゃんがオーディションに合格したら、昴輝は昔みたいな顔になる?」

 

 可凛がステージから降りて、昴輝にとことこと駆け寄ってきた。

 近くで見た彼女の表情は、何故か不安そうだった。

 

「昔みたいな顔?」

「……喉壊す前と後じゃ、昴輝、全然違う顔してたんだよ? 壊した後は、いつも暗ーい顔しててさ。見てて、結構しんどかった」

「そうだったのか? 確かに役者を続けられないと分かった時は落ち込んだりもしたが」

 

 物心がついた頃から役者をやっていて。声だけで見る者の感情に訴える声優という存在の凄まじさに圧倒されて。自分が貰った感動を別の誰かに伝えたいと思って。それで声優の道に進んだが、それが閉ざされてしまった時は、胸の中にポッカリと大きな空洞ができてしまった。

 あの喪失感と挫折感は、何度も味わいたくはない。

 

「一兄以外の役者友達とも連絡断って、リハビリ終わってもしんどそーな顔してたよ」

「正直辛かったからな、役者をやれている知り合いを見るのは。だが、それも一郎兄さんに筒抜けで、怒られたよ。今のお前が言ったように、辛そうな顔して同情して欲しいのかって」

「そこのとこ、一兄はズバっと言うもんね」

 

 そう言って、可凛は苦笑する。そして続けた。

 

「一兄も辛かったと思う、昴輝が喉壊して声優続けられなくなったの。一兄が一番応援してたし、昴輝に声優の仕事紹介したの一兄だったから。あたしも辛かったよ。あんたのお父さんやお母さんとも、ギクシャクしちゃったし」

 

 可凛が腰を屈めて、下から昴輝の顔を覗き込む。

 

「落ち込むあんたを、自分の好きな事ができなくなった昴輝を見てるのが、あたしは辛かった。つまらなさそうな顔で学校の授業を受けてる昴輝の横顔が、あたしは嫌いだった」

「………」

「でも、瑞希ちゃんと出会ってから、喉壊す前の昴輝に戻ってくれた。瑞希ちゃんに教えてる時の昴輝は、あたしの好きな昴輝だ」

 

 にぱっと頬を赤めて笑う可凛だが、すぐに今の自分の発言の意図に気付いたようだった。大慌てて腕も首も横に振り回して後ずさる。

 

「い、いいいい、今の無し! 今の好きは無し! 仮にあったとしてもそういう意味じゃない! ち、違うから! 誤解しないでよ!?」

「……そうか」

「ど、どうしてそこでションボリするのよあんたはぁ……!」

 

 肩を萎縮させて、涙眼でもじもじする可凛。耳の先まで真っ赤だ。

 そこに音葉の叫び声が木霊する。

 

「巨乳ー! あんたが来ないと三人で振り付けできないの! 早く来て!」

「きょ、巨乳って言うな! 名前で呼びなさい名前で! あたしは西尾可凛だー!」

 

 脇目も振らず、可凛は脱兎の勢いで走ってゆく。

 それを茫然と見送った昴輝は、ステージの修理作業を見守っている訳にもいかず、ダンスの練習の手伝いをする為に可凛達の後を追った。

 

 

 




アニメーション制作会社の社名を『エイトランス』に変更。誤って古い方ので掲載していました。何度か変わってしまっていたようで、混乱させてしまって申し訳ありませんでした。

このお話ももう折り返しを超えました。宜しければ最後までお付き合いください。

評価で一言を下さいました、りん様。
他の投稿作にも好評をいただきまして、ありがとうございます。
正直オリジナルで評価をいただけると、二次とは比較にならない嬉しさがあります。
他が毎度遅れていて申し訳ありませんが、また宜しくお願い申し上げます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8話:私には時間が無いんだから、いつも全力で、自分のやりたい事をやりたいようにやらないと

 

 音葉が最初に言った通り、振り付けはそれほど難しいものではなかった。一日通して練習すればダンス初心者でも形にはできるレベルである。昴輝も含めた四人は控え室の机などを片付けて、ひらすら練習に没頭した。

 

「これなら一夜漬けでも形にはなるか」

 

 それでも運動神経の鈍い瑞希にはハードルが高く、可凛が楽々とこなす場面でも、足が縺れたりしている。足元を見ながらやればできるが、観客が見ている前で自分の足元を確認しながら踊るダンサーなんていない。

 

「多村、姿見で足元を確認しながらやってみて。前を向きながら足の動きが確認できるから、それで頭じゃなくて身体で覚えるの。あんた、運動神経は駄目だけど筋そのものは悪くないんだから。やればできるはずよ」

「はい!」

 

 呼吸を荒くしながら、瑞希は必死についてくる。徐々に身体が覚え始めているようだが、もう緊張してきているようで、その物腰はまだまだぎこちなさい。

 それでも弱音は吐かずに、音葉の評価に応えるように姿見の前でステップを踏む。だが、すでに三時間も休憩無しで練習を重ねているので、体力が厳しいようだった。

 

「一旦休憩を入れよう」

「賛成ー」

「そうね」

「は、はひぃ……」

 

 瑞希は息も絶え絶えで床にペタンと座り込んでしまった。昴輝がタオルと一緒にスポーツドリンクを渡してやる。

 

「できそうか?」

「や、やります。これくらい、できないと、オーディションは、受からないです……!」

「その意気だが、少し休め。無事に終わったらまたスイーツをご馳走してやる」

「あーなにそれ瑞希ちゃんばっかズルイ。あたしもあたしもー。音葉ちゃんもどう?」

「甘いものなら大歓迎よ。奢られてあげる」

「可凛に奢るのはもちろんだが、何故佐々木まで」

「私にだけ自腹切らせるなんて、あんたホントに玉ついてんの?」

「……君のその物言いは果たして本当にアイドル声優なのか?」

 

 呆れる昴輝と、赤くなる可凛と、訳が分からずに首を傾げる瑞希。

 そんな三人を前に、音葉が鼻を鳴らした。

 

「あんたも元声優なら分かるでしょ? 声優ってのは男も女も歳も関係無く下ネタ好きな人多いの。全く駄目って人もいるけどね。ベテランの男性声優の中には、新人のアイドル声優がゲストで来た時に、事務所とファンがマジギレするくらいの間接的セクハラやる人もいるし」

「確かにそういう節もあったが……まぁいい。君には貴重な経験をさせてもらっているし、スイーツくらい奢ろう。ところで」

 

 一度言葉を切った昴輝は、控え室に用意されている化粧台に置かれた音葉の荷物を見遣った。そこには楽譜や歌詞が印刷されているコピー用紙や、当日の進行表の他にデジタルオーディオプレイヤーがある。

 

「君自身の練習は良いのか?」

「やるに決まってるけど、多村がもう少し良くなったらね。あんた達に無理言ったのはあたしだもん。あんた達放り出して自分の事だけやる訳にはいかないじゃん」

 

 無理を言ったという自覚はあったらしい。すると、可凛が手を上げて、音葉に提案した。

 

「あたし、もう大体覚えたから、自分の練習しながら瑞希ちゃんを見てあげられるよ?」

「多村も何とか形にはできているし、俺もいる。明日の主役は新曲のお披露目をする君だろう? 可凛と多村がミスしなくとも、肝心の君が歌詞間違えをやっては意味が無い」

 

 昴輝が同意すると、水分を得て息を吹き返した瑞希が続けた。

 

「そうです。佐々木さんの新曲、私もすっごく楽しみにしてるんですから。是非ご自分の曲に集中して下さい!」

 

 三人に言われた音葉は、迷うような素振りを見せて、昴輝を見た。

 

「……それじゃ、任せてもいいかな?」

「もちろんだ。俺も楽しみにしている」

 

 昴輝の何気ない本音に、音葉は軽く頬を赤めてそっぽを向き、頬を掻いた。

 

「じゃ、お言葉に甘えてあげる。でも、何か分かんないとこがあったら遠慮無く言ってね?」

「君もな」

 

 苦笑してやると、音葉は小さくバーカと嘯いて化粧台の前の椅子に座り、歌詞や楽譜のチェックを始めた。その顔はすぐに歳相応の少女からアイドル声優佐々木音葉の表情に変わり、デジタルオーディオのイヤホンを耳につけ、小刻みにリズムを刻み始める。

 この切り替えの早さにはプロ意識の高さを感じずにはおられない。その音葉の姿を、瑞希が緊張で強張った顔で見つめていた。

 

「どうした?」

「い、今更ですけど、佐々木さんの新曲を生で、しかも一緒のステージで聴けるって実感が湧いてきまして……」

 

 二週間前までただのアニメが好きな女子高生が、今では人気絶頂のアイドル声優と一緒に役者としての稽古を受け、理由はどうあれ同じステージに立っている。実感を伴うには、なかなか難しい現実かもしれない。

 

「セカンドシングルと言っていたな。なら、デビューとなったファーストシングルの発売もこれくらい大々的にやったのか?」

「はい、半年くらい前に、確かここでお披露目イベントをやっていたはずです。行きたかったんですけど、色々あって行けなくて。悔しかったなぁ、あの時は」

 

 半年前を思い出しているのか。天井を見上げて、瑞希がかつての自分を反芻する。

 瑞希ほどの熱心なファンがデビューシングル発売記念のイベントに参加できないとは。余程大事な事情があったのだろうか。昴輝が疑問に感じていると、可凛が代弁してくれた。

 

「そんなに好きな佐々木音葉のイベントなのに参加できなかったなんて、何かあったの?」

 

 問われた瞬間、瑞希の表情が眼に見えて曇った。視線は下を向き、言葉も無くうつむいてしまう。何やら込み入った事情があるのか、地雷を踏んでしまったようだった。

 

「あー……ごめん、聞いちゃいけなかった?」

「いえ、そういう訳ではないんですけども。うちの家庭はちょっと厳しくて。中学校は聖章大付属女子中学って通わされて、温室育ちにさせられていたんです」

「聖章大付属中学っていうと、漫画やドラマに出てくるようなあの超お嬢様中学の?」

「可凛、知っているのか?」

「うん。モデルの友達で通ってた子が何人かいるの。政治家とか一部上場企業とか、そういう良い所の子達が入学するような学校なんだけど、全寮制で隔離施設みたいな場所だって話だよ。え、というか今更だけど、もしかして瑞希ちゃんの家ってお金持ち?」

「いえ、そんな特別という訳ではないと思います。一応おとーさんは会社の社長さんやってますけど、詳しくは知りません」

「……そんな由緒正しき女子高に通っていた君が、どうしてアニメに?」

「寮のルームメイトが腐女子さんだったんです。それで影響を受けて、その」

「婦女子?」

「昴輝、ちなみに普通の婦女子じゃなくて、腐った女子と書いて腐女子だからね。あれだよ、昴輝の最後の仕事になってる白執事。男と男の耽美な世界。ボーイズラブって奴」

「いや。あれは主人公とヒロインの恋愛モノだぞ? BLのダシにされていたという話は藤見さんから聞いたが」

「私も大好きでした、白執事で黒野さんがやってたアルフレッド!」

 

 暗い雰囲気が一変して、瑞希の眼は恋する少女のそれに変わった。

 《白執事》は、未熟な少年執事と、彼が仕える車椅子の少女との不器用な触れ合いを描いた牧歌的雰囲気の深夜アニメだ。一年ほど前に放送されて良好な評価を得た作品で、女性をターゲット層にした少年と少女のボーイ・ミーツ・ガールモノである。

 だが、昴輝が演じた主人公の少年執事アルフレッドと、ライバル役だった青年執事をモチーフにしたBLが大流行し、世間的にはBL作品となってしまったのだ。

 

「白執事は、私がアニメに興味を持って、何でもいいから見たいって思ってる時に出会った作品です」

 

 かつての興奮を抑えた口調で、瑞希がそう結ぶ。

 

「家では、アニメとか漫画とかゲームとか、そういうのはほとんど禁止で、ずっと習い事ばかりだったんです。そういうのの反動で、今はアニメ大好きになっちゃって感じです。佐々木さんのファーストシングルのイベントには、行こうとしたのをおとーさんに見つかっちゃって」

「なるほどね。でも、確か瑞希ちゃんって独り暮らしだったよね? じゃ、その頑固なお父さんは瑞希ちゃんが声優目指して頑張ってるって事は」

「はーいそこの三人」

 

 突然の声に振り向けば、胡乱な眼をした音葉が昴輝達を睨んでいた。

 

「いつまで休憩してんの? 振り付け大丈夫? 明日のイベントはその内ブルーレイになる予定だから、ミスると永劫残るけどいいの?」

「なにそれマジで聞いてない!」

「可凛、多村、やるぞ」

「は、はい!」

 

 昴輝が手を叩き、瑞希と可凛は慌てて姿見の前に移動。スピーカーに繋げたデジタルオーディオを動かして、二人の振り付けの監督を再開した。

 

 

 

 土曜日の秋葉原は人で溢れていた。メイドの格好をした呼び込みや新作ゲームの発売を喧伝する店員等、この街特有の情景がそこかしこで見られる。行列や人垣も珍しくはない。

 その中であっても、駅前のイベントビルの人だかりは尋常ではなかった。デビュー一年目のアイドル声優のニューシングル発売イベントとしては記録的な集客である。当日チケットも若干販売されたが、始発組が購入してすでに完売。予想を上回る来場者のの整理に、スタッフは総動員で動いていた。

 

「しかし、凄いなこれは」

 

 控え室の窓から覗ける会場前の光景に、昴輝は軽い戦慄してしまう。駅前からイベントビルに続く広場が来場者で完全に埋め尽くされている。男性比率の方が高いが、女性も少なくはなかった。

 これが、佐々木音葉がこの一年で獲得したファンだ。もちろんその一角に過ぎない。声優としての演技力は発展途上であろうとも、これは音葉のアイドル声優としての一つの結果だ。

 その音葉はというと、控え室の椅子に座って、ずっと楽曲と歌詞の確認をしていた。時々眼を閉じ、口元で何かを呟き、イメージトレーニングを怠っていない。

 彼女は可凛や瑞希のように踊る事は無く、始終歌に集中する事となっている。

 

「いけそうか?」

「……うん」

 

 音葉が顔を上げる。衣装もメイクも終えた彼女は、いつもよりずっと大人びて見えた。

 

「あれ、多村達は?」

 

 余程集中していたのか、音葉は可凛と瑞希が控え室を出ていった事に気付いていなかった。

 彼女達は野次馬根性丸出しで会場や外の様子を窺いに行っている。いつもなら咎めていただろうが、緊張でほとんど眠れなかったという二人のメンタルを考えれば、少しでもリラックスさせてやる方が良いと考えた。

 

「二人共会場に行ってる。しかし、君は本当にステージで歌うのか?」

「なにそれ、どういう意味?」

 

 意味が分からないという顔の瑞希の横に、昴輝は腰掛ける。

 

「生ライブでも、歌手の多くは激しいダンスによる運動量やミスを考慮して、口パクで済ませる事も少なくない。声優のライブでは少ないが、それでも君は今人気のアイドル声優で、そのセカンドシングルのお披露目だろう? 安全牌を選ぶ事はそう悪いものでもないと思うが」

「あんたもうちのマネージャーと同じ事言うんだね。さすがは多村のプロデューサー」

「そういうつもりで言うほど野暮じゃない。単純な心配だ」

「んー。まぁ、言いたい事は分かるんだけど。ダンスを重視する舞台構成なら、私も口パクにするよ。これまでのイベントでそうした事は何回もあったからね。でも、今日はセカンドシングルの初お披露目だからさ。口パクは嫌だってマネージャーに言ったの」

「生声で歌いたいという訳か?」

「うん。別に口パクそのものを全否定するつもりは無いからね。ほら、アイドルグループのライブだと凄く激しいダンスやるじゃん。あれやりながら歌うのはどんだけ体力あってもキツいわ。ベストなコンディションで歌えないなら、しっかりレコーディングした物を流すのも悪くないから」

「だが、君はそれを良しとしない」

「だって始発でわざわざ来てくれたんだよ、まだデビューして一年の新人声優の歌聴きにさ。だったらその時だけの生の声で歌ってあげたい。私みたいな未熟者を好きになってくれた人達にありがとうって伝えたい。私なんかを応援してくれる人達に大好きだって言いたい。だから私は生で歌うんだ、ダンスも最低限にしてね。マネージャー説得するのも骨折れたわー」

 

 音葉が控えめに笑った。照れ隠しだが、だからこそ、それは本心だ。

 ラジバトのモブの収録の時、彼女とはじめて出会った時に感じた事だが、本当に真面目な少女だと思う。

 

「……君は凄いな」

「煽てたって何も出ないって。私には時間が無いんだから、いつも全力で、自分のやりたい事をやりたいようにやらないと」

 

 その時、昴輝はふと気付いた。以前にも、音葉は『時間が無い』と言っていたが──。

 

「佐々木。君が俺に稽古をつけて欲しいと言い出した時も時間が無いと言っていたが、どういう意味だ?」

「そのままよ。親が声優やるの許してくれなくてさ。中学の時からやりたいって言ってたんだけど、全然聞く耳持ってくれなかったんだー。じゃ自分でお金貯めて専門学校行くって言ったら、普通の大学行って、普通に就職して、普通に結婚してくれって親父に怒鳴られちゃって」

「……君もか?」

「は? なに、黒野の家もそうなの?」

「いや、俺じゃない。多村だ。多村も親が厳しく、アニメや漫画に対する理解が無いそうだ。その所為で君のファーストシングル発売記念イベントにも参加できなかったと嘆いていた」

「子供の夢に無理解な親っているんだねー。ちなみに黒野んちはどうなの?」

「俺の家は放任に近いな。自分の人生だから好きにしろ、それで終わりだが、金を出してやるのは大学までだとも言われてる。ただ俺の場合、可凛の家と昔から家族ぐるみの付き合いがあったから、可凛の叔父の一郎兄さんの影響は大きかった」

 

 そもそも昴輝が役者に興味を持って、その道を進み始めたのは、聡一郎に憧れたからだ。若手俳優としてドラマや映画に出演している彼が、とても眩しく見えて、そしてなによりも楽しそうに思えた。

 そんな聡一郎というモデルケースが近くにあった為、昴輝の両親はそうした業界に対して理解はあった。昴輝の俳優活動は聡一郎が一から面倒を見てくれたし、所属事務所も彼が運営に大きく関わっているような場所だ。安心して任せてもらえる環境が整っていた貴重なケースとも言えるだろう。

 

「羨ましいなー。私もそういう親が良かった。うちのは心配性が酷くて」

「何を言っている。親が子を心配するのは当然だろう。俺が喉を壊した時は、さすがに父さんも母さんも顔色を変えた」

 

 そうなるまでは、昴輝も親の気持ちなんて理解していなかった。好きな事を好きなようにやらせてくれる両親に、時々感謝をしていた程度だ。

 だが、喉を壊して役者を辞めざるを得なくなった時、父親が事務所に怒鳴り込んだ。監督不行届として社長を締め上げてあわや暴力沙汰一歩手前まで発展してしまった。これまで仲の良い友達のような関係だった父親と聡一郎も不仲となって、酷くギスギスしていた事もある。

 

「今でこそアルトの事務所に自由に出入りしているが、喉を壊した直後は近づけさせてくれなかった。俺も役者を続けられなくなったから近づく事も無かったが、可凛が色々気を遣ってくれて、俺も俺の親も一郎兄さんも事務所も、取り敢えずはこれまで通りになったんだ」

「……あんたとあの巨乳女、付き合ってんの?」

「まさか。モデルとして一線級の活躍をしている可凛と俺では釣り合わないだろう?」

 

 真顔で答えると、音葉は胡乱な眼でこれ見よがしに溜息をついてみせた。心底呆れている。

 

「なんだ?」

「べっつにー。ハーレムアニメみたいな鈍感男って現実にいるんだなぁって思ってさー」

 

 そういえばいつぞや可凛も難聴系鈍感主人公がどうのと言っていた。一体どういう意味だろう。今度ネットで検索してみよう。あまり良い意味で言われていないような気がするし。

 

「とにかく、親としては子供には他人と違うような道に進んで欲しくないものなんだ」

「そりゃ分かるけど、私の人生なんだから好きなようにやらせてくれたっていいじゃん。それなのに高校卒業するまでの三年間で結果出なかったら駄目だなんて無茶な条件つけたの。だからマーシャルビジョン主催の新人発掘オーディションに応募したワケ」

「時間が無いというのはそういう事か。だが、今の君はアイドル声優として充分に結果を出しているだろう? これでも駄目なのか?」

「お前がやりたいのはアイドルなのか声優なのかどっちだ!? とか訳分かんない事言われてね。もう難癖レベル。お母さんは分かってくれたけれど。アイドル声優って言葉の意味分かってくれないクソ親父め」

「……俺に演技の稽古をつけて欲しいと言ったのは」

「アイドル声優としてなら、私は事務所も認めてくれるくらいにはなれてるって自覚はある。うちの事務所の方針だし、私も、それはそれで嬉しいし。でも声優としては全然駄目。今はやらせてもらったキャラクターに人気が出てるだけだもん。私は、このキャラクターは佐々木音葉じゃなかったら駄目だったよねって、そう言ってもらえる声優になりたいんだ。じゃないと、クソ親父が納得しないから」

 

 椅子から離れた音葉が窓硝子に歩み寄る。見下ろした外の情景はさっきと変化していて、開場したようだ。にわかにざわめきが大きくなっていて、控え室まで聞こえてくる。

 昴輝は細く小さな背中を見つめて、音葉が椅子に残していった楽曲や歌詞が書かれたコピー用紙に視線を移した。びっしりと書き込まれたメモの量は、ラジバト二話の台本に勝るとも劣らない。これは頑固な父親を納得させられる結果を残して、声優を続けていきたいと考えている佐々木音葉の本気の証左だ。

 

「何度でも繰り返すが、君は凄いな。佐々木」

 感嘆と賞賛すると、彼女はサイドアップの栗色の髪を翻して振り返る。

 髪の奥から現れた彼女は、にかっと満面の笑みを浮かべていた。

 

「そりゃマーシャルビジョンが今一番売り出してるアイドル声優だからね」

 

 その時、控え室の扉が乱暴に開けられて、スタッフが飛び込んできた。

 

「佐々木さん! ちょっと早いんですが準備お願いします! お客さん達が殺気立ってて!」

「はいはーい了解でーす!」

 

 余所行き用の愛らしい声を残して、音葉はスタッフと一緒に控え室を飛び出してゆく。

 昴輝もその後に続くと、廊下には瑞希と可凛が控えていた。

 

「お前達も準備をしてくれ。予定より早くイベントを始めるそうだ」

「う、うん。分かった」

 

 何故か赤面して首まで赤くした可凛がぎこちなく首肯する。それでいてなかなか音葉の後を追おうとせずに、上目遣いで昴輝を見ては横を向くを繰り返す。挙動不審過ぎる。

 

「あ、あの、昴輝。あたしは別に、つ、釣り合わないとか、思ってないよ。昴輝は、その、格好良い、と思うから。そ、そういう訳だから、あ、後でちゃんと話そうね! ぜ、絶対ね!」

 

 可凛はたどたどしいのに一気にまくし立てると、脱兎の如く走ってゆく。

 一体なんだったのか。釣り合わないとかなんだとか言っていたが、もしや、さっきの音葉との会話を盗み聞きされていたのか。しかし、盗み聞きする必要があったのか。普通に入ってくれば良かったのに。自分も佐々木も複雑な家庭の話をしていたので、遠慮したのだろうか。

 その時、昴輝は瑞希がまだその場にいた事に気付く。彼女は誰もいない控え室を眺めて、椅子に置き去りにされていた音葉のコピー用紙を見つめて立ち尽くしている。

 

「多村、君も急げ」

「……佐々木さんって、本当に凄いですね」

 

 呟くように、そう言った。抑揚の無い淡々とした声音。

 それは、これまで昴輝が聞いた事の無い瑞希の声だった。

 

「……はじまりはほとんど同じなのに。私なんかとは、全然、違う……」

 

 その顔には、今の声と同じで、何も浮かんでいない。ここを見ているようで、遠いどこかを見ている感覚。恥ずかしがり屋だが引っ込み思案ではない瑞希が、はじめて見せる物憂げな様子に、昴輝は素直に戸惑う。

 声をかけようとすると、先に行っていた可凛が慌てて戻ってきた。

 

「瑞希ちゃん、早く来て! もう始まるよ! 昴輝も早く!」

 

 左右の手でそれぞれ瑞希と昴輝の手を握った可凛が廊下を走り出す。二人は引き摺られるような形で会場に向かい、ステージ裏に到着した。

 大道具や照明の機材が理路整然と置かれた薄暗い空間では、スタッフ達がわらわらと動き回っている。ステージセットを通して会場の喧騒が聞こえてくる中、登壇する訳ではない昴輝にも、ピリピリとした緊張感が伝わってきた。

 音葉は舞台袖の近くでスタッフと話していた。会場の光に照らされたその顔は、親の無理解を批難する歳相応の少女のそれでなければ、現役女子高生アイドル声優を意識した作り物の笑顔でもない。収録ブース内で台本を片手にマイクに立ち向かうプロの声優の顔だ。

 一年前まではただのアニメが好きなだけの女の子が、誰からも応援されずにたった一人でやりたい事に挑戦して、ここまで来ている。

 昴輝は聡一郎という強力な支援者がいた。好きなようにやっていいと許してくれた両親がいたし、支えてくれた可凛がいた。恵まれていたなと思う。喉を壊してしまうまで自分一人の力でやっていたとは思っていなかったが、音葉は誰からも理解されていない中で頑張っていた。

 瑞希の呟きが耳の中に蘇る。

 ──佐々木さんって、本当に凄い。

 それは事実だ。そして聞く限り、瑞希と音葉は非常によく似た環境下にあったと思って良いだろう。制限時間がある事もそうだ。

 ただ、瑞希の制限時間は、所属事務所をヴァイス・プロモーションに限定した場合だけだ。もっと広い視野で見れば、もっと腰を据えて技術を吸収させて、音葉のように新人発掘オーディションで結果を出すという選択肢も無い訳ではない。

 もしかすれば、それが声優を志す瑞希にとって最良なのかもしれない。

 でも、と。昴輝は我侭を承知で思う。

 できれば、瑞希の声優としての成長は、近くで見ていたい。それが彼女に声優になりたいのかと訊ねて、なりたいと言わせた自分の責任でもあると思う。

 

「多村、西尾、来て」

 

 スタッフとの話し合いを終えた音葉が二人を手招きする。可凛はすぐに駆け寄るが、何故か瑞希は行こうとしない。躊躇っているような素振り。昴輝がその背中をそっと押してやると、彼女は戸惑いながら二人の下へ走り出した。

 

「あんた達には無理言ったけど、形にしてくれてありがとう。正直助かった」

「急に素直になったわね」

「うっさい聞け。今日は始発で来て当日チケットを苦労して買ってくれた人もいるわ。そんな人達の応援に、私は最高のパフォーマンスを見せたい。だから、あんた達の力を貸して」

「もちろん。あーでも、アルキュの声で、名前でそういう事言ってくれるとエンジンバリバリかかるかも?」

「──来てくれた人達、皆みーんな笑顔にしようね、可凛ちゃん、瑞希ちゃん!」

「あいよ、任せな!」

 

 親指を立てる可凛だが、瑞希は反応しない。足元に視線を落として、誰も見ようとしない。ラジバトのアルキュオーネが大好きな彼女なら、可凛なんてものともしない勢いでテンションを上げてもおかしくないのに。

 

「瑞希ちゃん?」

「どうしたの? 緊張でお腹痛くなった?」

「い、え。そういう訳じゃないです。はい、何でもないです」

 

 でも、瑞希は顔を上げようとしない。下を向いたまま、まるで何かに耐えるように衣装のスカートの裾をぎゅっと握る。

 

「私なんかをこんな大事な舞台に呼んでくれた佐々木さんに、ご迷惑はおかけしません」

 

 そこでスタッフから出番の声がかかった。大音量のスピーカーから新曲の前奏がかかる。

 音葉も可凛も、瑞希の様子のおかしさに気付いていたようだが、議論をしている時間も無かった。二人が先に舞台袖から飛び出して、瑞希が後に続こうとして。

 最後に昴輝を一瞥して、舞台へと飛び出していった。

 やはり様子が変だ。何があった。集中していないように見えるが、果たして大丈夫か。

 懸念を抱く昴輝が舞台袖で見守る中、大声援に迎えられてステージに立った音葉は、前奏が終わる直前にマイクに吼えた。

 

「集まってくれてありがとぉぉぉぉぉー! 佐々木音葉セカンドシングル、本邦初公開で飛ばしてくぜぇぇぇぇぇぇぇぇー!」

 

 会場のボルテージがさらに上がる。会場の熱気が熱狂に変わる中、アイドル声優佐々木音葉の歌声に合わせ、彼女の左右に立った可凛と瑞希が軽いステップを踏み、一夜漬けとは思えない綺麗なダンスを披露し始めた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9話:私があんたに演技指導を仰いだ本当の理由、分かる?

 セカンドシングル発売記念イベントは大盛況の内に幕を下ろした。

 漫画やアニメ、ゲームの情報を取り扱うブログでも大きく取り上げられ、ファーストシングルよりも売上は伸びるだろうと音葉のマネージャーも大喜びだった。打ち上げには昴輝達も招かれて、川鳴駅に着く頃には夜も九時を回っていた。

 

「帰ったら今日はすぐに休むように。夜更かしは厳禁だ」

 

 プラットホームに下りた昴輝と可凛が、一人電車内に残っている瑞希に言った。彼女が独り暮らしを営むマンションは三駅隣にあるので、ここで解散だ。

 

「はい。ご心配ありがとうございます」

「じゃ、また明日ね、瑞希ちゃん」

 

 可凛が手を振ると、扉が閉まり、電車が発進する。車内で深々と頭を下げる瑞希を乗せて、電車はホームを滑り出してゆく。

 遠ざかる電車を見送りながら、昴輝は口火を切った。

 

「可凛。多村だが」

「うん。何だかいつもと違ってたね。ダンスは特にミス無くできて良かったんだけど」

 

 ダンスパフォーマンス自体、特に問題は無かった。運動音音痴で体力も無い、振り付けは一夜漬けという劣悪な条件の中ではベストを尽くしたと言える。本業でもない急なヘルプとしてならば充分に及第点だ。音葉のマネージャーからもとても感謝された。

 

「お前が多村を連れて外を見に行く前までは問題無かったはずだ。外で何かあったのか?」

「うんにゃ、全然。凄い人だねー頑張らないとねーって、話したのはそれくらいのもんだったよ。それで控え室に戻ったんだけど、昴輝が音葉ちゃんとちょっと重い話をしてたから、入り難くて立ち聞きしちゃったって感じで」

 

 細い顎に指を添えて思索する可凛。

 となると、やはり自分と音葉との会話が原因なのだろうか。だが、ただそれぞれの家庭環境について話していただけだ。瑞希に関係する話は、彼女と音葉の家庭環境が頗る似ていたというくらいか。

 

「別に重い話をしていた訳ではないぞ?」

「他人からすりゃ充分重いって。でも、音葉ちゃんも親御さんに声優反対されてるのはちょっと意外だったな。あれだけ沢山のお仕事してて、CDも出してるのに、未だに駄目ーなんて、ちょっと頭固すぎると思うんだけど」

「声優は毛色が違うが芸能界に近い。それもアイドル声優となれば、親なら困惑するのが普通だ。可凛だって、グラビアの仕事になるとご両親が難色を示しただろう?」

「まぁ、最後まで反対されたけど。特にお父さんは酷かった」

「そういう事だ。俺だって子役時代に過激な性描写が話題になった昼ドラに出演させてもらったが、親父も母さんも渋り続けたからな。親は子を心配するようにできている」

 

 そう締めると、可凛は納得したように無言で肯いた。

 昴輝が喉を壊してしまった時、可凛はアルト・プロダクションの事務所に殴り込んできた昴輝の父親をその眼で見ている。信用して子供を預けたのに、将来を潰すつもりかと激昂する父親の姿は、可凛の中で鮮烈に残っているのだろう。

 

「……昴輝がそう言うと、なんかこう、実感させられる」

「そう思うなら、自分の親も他人の親も、あまり悪く言うな」

 

 プラットホームを後にして改札を潜り、家のある住宅地に向かう。

 

「でも、瑞希ちゃん大丈夫かな? 凄く思いつめた顔してたけど」

「俺と佐々木の家庭環境の話を、自分の境遇に重ねたのかもしれんが、それにしてもあの気落ちは気になる」

「だよね。それに、瑞希ちゃんが聖章大付属女子出身ってのも驚いたわ。まぁでも、生徒を学校と寮に軟禁するような箱庭中学に子供を入れるような親なら、アニメだの漫画だのに無理解なのも肯けるけど」

「政治家や大企業の子供が入学するようなお嬢様学校か。しかし軟禁とは穏やかじゃないな」

「例えだよ例え。でもほとんどそういう状態だってモデルの友達が言ってた。今時校則で携帯電話禁止とか無いわ。文化レベルが昭和で止まってるって話だもん」

 

 確かに未だに携帯電話を校則で禁止するのは少々過剰だ。無ければ日常生活に支障が出る。

 

「可凛。聖章大付属女子に通っていたというモデルの友達、お前と同い年か?」

「うん、そうだよ。だから瑞希ちゃんと同じ学年のはずだね」

「済まんが、女子中学時代の多村について知っていないか聞いてくれないか?」

「それは構わないけど」

 

 可凛は昴輝の要請の意図が掴めずに眼を瞬かせる。

 

「それ、瑞希ちゃんが落ち込んでる理由と何か繋がってるの?」

「分からんが……進路調査票の件もあるし、もしかしたら、俺や佐々木以上に、色々と事情がある家庭なのかもしれん」

 

 何度も書き直された痕のある進路調査票。その提出期限を意図的に忘れていたような瑞希の態度。音葉が無理解と批難した彼女の両親のように、瑞希の親もまた娘のやりたい事を拒絶しているのかもしれないが、それだけではないような気がする。

 他人の家庭に土足で足を踏み入れるつもりは、もちろん無い。でも、気になるのだ。

 

「俺も、明日本人から聞いてみる」

「うん。明日は日曜日だけど、朝からアルトの事務所の稽古場でいいんだよね?」

「ああ、また頼む。明日は昼から佐々木も合流する予定だ」

「じゃ、早速スイーツ奢ってもらう約束、果たしてもらおうかな?」

「……了解だ」

 

 そうして昴輝は瑞希と別れて帰宅し、いつものように瑞希と、それから音葉の演技指導の計画を練って、日付が変わる前に就寝した。翌日は早々に起床して準備を済ませて、瑞希を誘ってアルトの事務所を訪ねた。

 やがて遅れて瑞希が現れて、昼過ぎには音葉が来て。

 いよいよ近づいてきたヒロインオーディションに向けた稽古を始めたのだが──。

 

 

 

「よし、少し休憩にしよう」

 

 手を叩いて、昴輝は稽古を停止した。練習用の台本を片手に仮設マイクの前に立っていた音葉と瑞希は、驚いた様子で背後の昴輝に振り返る。

 

「どうしてよ。まだはじめて三十分しか立ってないのに。ね、多村」

「は、はい。全然、休憩なんて要りません」

 

 あからさまに不満な顔になる音葉と、うつむきながら小さく主張する瑞希。

 二人の言いたい事は昴輝にも分かる。柔軟体操と発声練習を終えて、ようやく演技指導も兼ねたアフレコ練習を始められた直後だ。昴輝も腰を折りたくなかったが、看過できないところがあったのだ。

 

「多村。調子が良くないようだが、体調が悪いのか?」

 

 射抜くように瑞希を見詰める。彼女はやはり顔を上げずに、下ばかり見ている。

 

「いえ、そんな事ないです。元気ですよ?」

「声に覇気が無い。いつもの君ならアフレコ練習となればどんな台本でやるのか興味津々で質問してくるのに、今日はそれが無かった。それに演技も表面的になっている。君の武器である徹底した役作りが、今日は片鱗さえ感じられない」

「……そう、でしょうか?」

「ああ、そうだ。以前のラジバト収録で見せた、本当にそこに仲居さんがいると錯覚してしまうような臨場感と没入感溢れる芝居が嘘だったかのようだ。一体どうした? 調子が悪ければ今日は見学か、それとも帰るか?」

「だ、大丈夫です。やれます」

 

 瑞希はうつむいたまま固持する。だが、声にも物腰にも覇気が無いのは間違いない。集中力そのものが欠如しているように思える。憧れの音葉といよいよ本格的に一緒に稽古を受けるので緊張しているのか、と言われるとそうでもない。

 心ここにあらずではなく、そもそもここにいたくないというべきか。

 言ってしまえば、やる気が感じられないのだ。

 

「私なんかの為に、黒野さんがご自分の時間を使ってくれている……そのお気持ちを無駄にしたくないし、私なんかに声優の才能を見出してくれた黒野さんに報いたいんです」

「いや、俺も暇な身だ。そんな事は気にしないでくれ。それにこれまでも何度も言ったが、多村の才能は誰しもが持とうと望んで持てるものではない。私なんかと卑下するな」

 

 すると、音葉が肯いて同意した。

 

「ほんっとそう。あんたが自分なんかって言うなら、それこそ私こそが私なんかになるじゃん。一年間養成所で勉強した私よりもズブの素人の多村の方が演技力がある。多村は今日から自己評価を改めろ。じゃないとあんたをライバルだって思ってる私が馬鹿な道化になるわ」

「駄目です! 佐々木さんは私なんかライバルにしちゃ駄目です! 私なんかが佐々木さんと同じ場所に立てる訳ないじゃないですか! そんな過大評価はやめて下さい! 私なんか、私なんかアニメが好きなただのオタクなんです! そんな重いプレッシャーかけないで!」

 

 金切り声による絶叫だった。それは稽古場に静かに響いて、そして消える。

 昴輝は何も言えなかった。こんな風に感情を爆発させる瑞希なんて想像もしていなかったのだ。軽口で発破をかけてやろうと思ったであろう音葉も、驚きのあまり声を失っていた。

 そんな二人を、やっと上げた瞳で認めた瑞希は、あっ、と口を手で覆う。

 誰も何も言わない中、恐る恐るといった様子で音葉が口を開けた。

 

「……ごめん。別にあんたにプレッシャーかけるとか、そういう意味で言ったんじゃないの。ただ、なんというか……その私なんかって口癖みたいに言うのはやめた方がいいって言うかな、だ、だから……あーもー! 黒野パス!」

「いや。俺も言いたい事は同じだ、多村。他人評価が重い時は往々にしてプレッシャーは感じるものだが、だからといって、自分を下に見るのは良くない。自分を貶めるだけだぞ」

 

 私なんて、という瑞希の気持ちも、昴輝は分からない訳ではなかった。

 昴輝も聡一郎から人に教える才能があると評価されているが、そんな才能なんて自分には無いと思っているし、十六歳の若年者が人に何かを教えられるとは思えない。こうして瑞希や音葉に演技指導をさせてもらっているが、自信を持ってやっている訳ではない。

 これは、昴輝自身がやりたい事だから。だから、無理だの何だの言っていられない。

 ともあれ。今日の瑞希は普通ではない。少なくとも、自らを貶めるように私なんてと連呼していなかった。やはりあのイベントの日に何かあったのだ。

 瑞希は昴輝の忠告に何の反応も示さない。また逃げるようにうつむいてしまう。

 

「多村、何かあったのか? 俺で良ければ話くらい聞くぞ?」

「……進路、調査票」

 

 小さな声で、瑞希が呟く。

 

「私は、声優になりたい」

「ああ。俺も多村を声優になってほしい。多村なら、俺が目指した演技──見る者の心を掴んで、違う世界へ連れていける声の芝居ができると思っている。だからあの日君に訊いたんだ、声優になりたいのかと」

 

 瑞希が顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって、しゃくりあげている酷い顔だった。

 

「でも、私じゃ駄目です。黒野さんがせっかく声をかけてくれたのに。私なんかじゃ、黒野さんの後を継げません。佐々木さんのように自分の意思をはっきりと親に伝えて、ちゃんと自分で考えて動いて、それで結果を出せる人には、私はなれません。私みたいな弱虫じゃ、黒野さんのやりたかった事を、継いであげられない……!」

 

 今度こそ、昴輝は声を失った。

 

「私は、アンケートくらいの軽い感じの進路調査票にも、声優って、やりたい事を書けないくらい、勇気の無い弱虫なんです……!」

 

 呆然とする昴輝の前から、瑞希は逃げ出した。一歩遅れて音葉が止めに入ろうとするが、瑞希の足は速かった。丁度扉を開けて入ってきた可凛を突き飛ばして外に飛び出してゆく。

 

「わっとっと! え、瑞希ちゃん? な、なになにどうかした?」

「そんなのどうだっていいからあの子追いなさい巨乳!」

「だから巨乳巨乳連呼するなこのー!」

「ああもういい!」

 

 苛立ちをぶつけるように靴に踵を突っ込んだ音葉が、瑞希の後を追って廊下に走る。

 眼を白黒させてそれを見送った可凛は、稽古場内のただならぬ雰囲気に顔色を変えた。

 

「……どうしたの?」

「正直、こちらが訊きたいくらいだが……」

 

 瑞希を追おうにも、足が動かなかった。何かに縛り付けられてしまったように、昴輝の足はその場から離れようとしない。いや、離れたくないのだ。仮に追って瑞希を捕まえたとしても、かけるべき言葉が無いから。

 自分は、もしかしなくとも、瑞希に過剰な期待を寄せて精神的な重圧を与えていただけなのだろうか。純粋なアニメファンに過ぎなかった少女に、プロの声優の中で演技をさせたり、アイドル声優のバックダンサーをやらせたり、毎日のように発声練習をやらせるのは行き過ぎていたのだろうか。

 多村瑞希なら、昴輝が喉の故障で諦めてしまった声優としての完成形──見る者の心を掌握し、別の世界へ誘える声だけの芝居ができると確信していた。それは、確かにやりたい事を託したという事になるだろう。もちろん昴輝にはそんなつもりはなかった。なかったが、瑞希はそう解釈していなかった。

 でも、それなら進路調査票はどう絡む。あれは昴輝が瑞希を知る前からあったし、書いては消してを繰り返したのは、昴輝と知り合う前の瑞希だ。そして未だに提出していないのも瑞希の意思である。

 分からない。一体どうして。

 

「……混乱してる時に言うのもあれだと思うんだけど」

 

 言い難そうに可凛が口を開く。物思いに耽っていた昴輝は、ひとまず彼女に意識を向けた。

 

「ああ、なんだ?」

「この前言ってた、聖章大付属女子中学校に通ってた友達の話。あれからその友達に頼んで、聖章女子時代の瑞希ちゃんを知ってる子を探してもらったの。それで話が聞けて」

「それで?」

「……この前さ、昴輝は子供を心配する親を悪く言うなってあたしに言ったけど」

 

 言葉を区切った可凛は、その端麗な顔に明確な険を宿して吐き捨てるように言った。

 

「子供の人生を縛り付けて完全に管理するような親を、あたしは尊敬できないよ」

 

 

 

 端的に言えば、瑞希は籠の中の鳥だったという事だ。

 

「一部上場企業の社長の娘が、放り込まれた前時代的全寮制女子中学校で友達の影響でオタク化。卒業して親元に戻った後、アニメ趣味が父親にバレて大喧嘩。母親は味方をしてくれて、その援助でマンションに独り暮らし。何かもう漫画の世界ね」

 

 足を組んで椅子に腰掛けた音葉が辟易と感想を漏らした。

 瑞希が飛び出して行ってから一時間が過ぎていた。三人で手分けして周辺を探したが、瑞希は見つかっていない。荷物は置き去りにされているから戻ってくるだろうと思い、今は三人で稽古場に集まっていた。

 とても稽古を再開できる雰囲気でもなかった。オーディションが迫っているものの、肝心の瑞希がいない。音葉もオーディションには参加するので演技指導しなければならないが、音葉も昴輝と同じような状態だ。

 今は、可凛が友達経由で調べてくれた瑞希の事情に聞き耳を立てる。

 瑞希と同じ例の女子中学に通っていたというモデルの友達は、瑞希の事情にかなり詳しいようだった。

 

「瑞希ちゃんと仲が良かったっていう子の話だと、なんかもう頑固を通り越して潔癖症な父親みたいでね。瑞希ちゃんの話とか聞いてくれるような感じじゃなかったんだって。高校卒業後はコネで用意した一流大学に行かせて、そのままどっかの御曹司と結婚させるって腹つもりだったらしいよ」

「なにそれこわい」

 

 嫌悪感を隠そうとしない音葉に、神妙な顔付きの可凛が肯く。

 

「瑞希ちゃんにとって、川鳴学園が自由に過ごせる最後の時間って訳」

「進路調査票がどうとかあの子言ってたけど、それと何か関係あるの?」

「うん。そもそもあたしや昴輝が瑞希ちゃんと話したきっかけが、昴輝があの子の進路調査票を拾ったからなの。その時、第一進路希望に声優って何度も書いては消した痕があってね」

「そりゃコネで良いとこの大学に放り込んで、卒業したら顔も知らない男と結婚させるような親に、声優になりたいなんて口が裂けても言えないだろうね。期限付きでも自由にさせてくれてるうちの親が仏様に思えるレベルよ」

 

 あって当然の自由という権利が、瑞希には無い。将来は父親によって完全に決められていて、そのレールから外れる事は許されない。子供の将来が心配だとか、そういう次元の話ではないだろう。

 あのイベントの日。正確には自分と音葉との会話を立ち聞きしてから、瑞希の様子が変わってしまった理由が、何となく理解できてきた。

 

「自分なんかとは、そういう意味か」

 

 それまで黙っていた昴輝の呟きに、音葉が続く。

 

「あの子、それ連発してたね。確かに小動物みたいに臆病な子だけど、そんな自虐的って訳じゃなかったじゃん」

「君との差を痛感させられたんだ、佐々木」

「……なにそれ。どういう事?」

 

 唸るような音葉に、昴輝は首を振った。

 

「いや。この事態の責任が君にあると言った訳じゃない。もしそう聞こえてしまったのなら謝る。迂闊だった」

「別にいい。説明して」

「多村瑞希と佐々木音葉、君達の境遇は似ているんだ。将来声優を志しながら共に理解の足りない親を持ち、自由に使える時間には制限がある。スタート地点は同じと言えるな。だが、佐々木は夢を掴む為に具体的な行動に移り、新人オーディションに合格して、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍している超人気アイドル声優だ」

「でも、瑞希ちゃんは違った。お父さんの力が強過ぎて、逆らえなくて、音葉ちゃんみたいに動けなかった」

 

 父親と喧嘩をして、味方をしてくれた母親の支援を得て家を飛び出して、最後の三年間を自由に過ごそうと決めて。でも、やっぱり声優という夢を諦められなくて。大好きなアニメの主人公を自分なりに演じる事で、そんな気持ちを誤魔化そうとした。

 ラジバトのヒロインにして主人公アルキュオーネは、空を駆ける事に情熱を燃やし、それを夢として沢山の仲間達と出会って成長してゆく。自分の夢を誰かに語る事を憚らない。笑われても馬鹿にされても蔑まれても、ただひたすら、ひたむきに空を走る為の努力を重ねる。

 それはきっと、瑞希が思い描く理想の人物像だったのだろう。

 瑞希にとって、アルキュオーネとは、弱い自分を誤魔化す為の虚像だった。アニメのキャラクターの一人に過ぎなくとも、彼女に憧れる事で弱さに蓋をしていたのだ。

 そんなアルキュオーネに命とも言うべき感情──声を与えた佐々木音葉が、自分とほとんど変わらない境遇の中にあって、アルキュオーネと同じように夢に向かって邁進していた。周囲の反対や無理解を蹴散らしてでも自分を貫いた。

 

「自分の弱さを突きつけられて、自覚させられて、それが辛いからって逃げ出したって事?」

 

 音葉が剣呑な声で告げたそれが、恐らく事実だ。

 

「辛辣且つ端的に言えばそうなるが、君なら今の多村の気持ちは分かってやれるはずだ」

「分かるけど……それは、分かるけど……それって、自分のやりたい事からも、夢から逃げ出したって事じゃん。娘を縛ってるクソな父親に負けを認めるって事じゃん!」

 

 音葉が椅子を蹴飛ばして立ち上がる。今にも昴輝に詰め寄りそうな雰囲気だが、扉を開けて現れた聡一郎の存在がそれを止めた。

 

「おー何か殺伐とした空気だな。なんかあったのか若人共」

「なんだなんだ、クロスケを巡った泥沼の三角関係でもやろうってのか? そういうのはハーレムアニメの中でやってるような軽くて緩ーいのにしとけ。現実でやると吐きそうなくらい重くなるだけだ」

 

 聡一郎の後ろからもう一人、壮年の男性が現れる。飄々とした物腰に軽薄な笑み。他の誰でもない、藤見鷹也プロデューサーだ。

 

「ふ、藤見プロデューサー……!?」

「へぇ。マジでクロスケに演技指導してもらってるのか。感心感心。でも歳近い野郎と二人きりになるのはマジ注意しろよ? お前、マーシャルビジョンがイチオシしてる大事な看板なんだから。恋愛沙汰だけはご法度だ」

「だ、誰がこんな冴えない奴好きになるか!」

 

 ずばっと昴輝を指差して口汚く叫ぶ音葉だが、相手が普段は猫をかぶって接している藤見である事を思い出して、真っ青になって口を掌で覆った。

 

「今更猫かぶっても意味ねーぞ。お前がアイドル声優の顔作ってんの、俺や高端も含めて結構な数知ってるからよ」

「っ……そ、それで今日は何しにここまで来たんですか!?」

 

 藤見とはラジバトで散々一緒に仕事をした音葉は、彼の掴み所の無い性格を把握しているのだろう。敬語になるが、開き直って刺々しい口調で訊ねる。

 

「ああ、ちょっとお前に用があってな。クロスケが見つけた例の新人にも関係する内容だから、聡一郎に無理言って連れて来てもらったのさ。で、あの新人はどこだ?」

 

 間が悪いというかどうしようもないというか。昴輝は迷った末に、一旦誤魔化す事を選ぶ。

 

「少し席を外しています。しばらくは戻ってこないと思われますが」

「ふーん、あーそう。まぁいっか。例のオーディションの総責任者の俺から言うより、お前から言った方がダメージ少なさそうだしな」

「……どういう事ですか? それに、佐々木に用があるとも言っていましたが」

 

 全員が見守る中、藤見は瑞希が蹴り倒した椅子を立たせると、大儀そうな物腰で腰掛けた。表情からは軽薄な色が消えて、収録ブースで声優達を見守る時の精悍なものへと変わる。

 

「今日の朝、マーシャルビジョンの社長がエイトランスに来た。いつぞやのクロスケと同じアポ無し突撃でな。うちの社長と俺に直接話したい事があるって触れ込みだ。なんだと思う?」

 

 切り込むような鋭い視線が、音葉に向く。

 音葉は何も言わない。ただ下唇を噛み、視線を背けるだけだ。

 藤見は溜息をつくと、その場にいた全員を見渡していった。

 

「これから話す内容はオフレコで頼むわ。まぁクロスケや聡一郎は口硬いから信用してるが、そっちの巨乳な嬢ちゃんもOK?」

 

 さっと胸を覆って昴輝の後ろに隠れた可凛がカクカクと肯く。

 

「マーシャルビジョンは声優事務所の中じゃ最大手だ。多くのアニメ制作会社、グッズや映像ソフト小売店や関連企業、業界そのものに極太なパイプを持ってる。今のアイドル声優ブームを作ったのは、このマーシャルビジョンって言っても過言じゃねー。で、佐々木音葉はそのマーシャルビジョンがこの一年をかけて売り出してる現役女子高生アイドル声優。他にも同時並行で複数のアイドル声優をマネジメントしてるが、昨日のセカンドシングル発売記念イベントの反響の大きさから、音葉をメインに据える事を決定したってよ」

「……それで?」

 

 底冷えした声で、音葉が先を促す。

 

「今後より派手に売り出す為に箔が欲しいんだとさ。現役女子高生美少女アイドル声優って肩書きだけじゃこれから不安だから、ここで一発デカい仕事をやらせて欲しいとお前んとこの社長から打診された」

「藤見さん。まさか」

 

 世話になった恩師が何を言おうとしているのか、昴輝は理解した。

 藤見は苦笑いをすると、大袈裟に肩を竦めてみせた。

 

「例のヒロインの公開オーディション、あれで音葉を合格させて欲しいってよ。要するに八百長のお願いってこった」

 

 八百長。つまるところ、やらせだ。

 昴輝と可凛が息を呑む中、聡一郎が藤見の言葉を継いだ。

 

「このオーディションは、プロアマ問わない公開方式って事で結構な話題を集めてる。合格すれば映画化すら視野に入れてる大作オリジナルアニメのヒロインに大抜擢だからな。藤見さんの話だと、もう数百人規模で応募が来てて、業界内でも注目されてるそうだ」

「……それだけのオーディションに合格すれば、佐々木の名前にも箔がつくという訳と?」

「ぶっちゃけた話、ラジバトのアルキュオーネ役も同じような感じでゴリ押しされたんだがな。最初は何アホな事言ってんだと思ったが、アルキュオーネをやる前から音葉の名前は売れてたし、声優好きを引き込めるかもしれんとも考えた。キャラソンの売上も一定数望めるし、イベントをやれば音葉目当てでお客も集まる。利益面から考えてメリットは結構大きかった」

「ちょ、ちょっと待って下さい。じゃ、音葉ちゃんは正規のオーディションに合格してアルキュ役をやってた訳じゃないんですか……?」

 

 可凛の動揺に、藤見は首を横に振った。

 

「やったさ、形だけになっちまったがな。その時、音葉より良い芝居をやってた子もいた」

「……そうすると、藤見さんはマーシャルビジョンとの取引に応じた、と」

 

 自然と声が低くなっている自分に、昴輝は気付く。横眼で音葉の様子を窺おうとすると、彼女と眼があった。いつもの挑戦的な眼ではない。あったのは底の見えない空洞のような眼だ。

 

「おいおい何怖い声出してんだ。結果だけ見りゃそうだが、俺は別に音葉は駄目だなんて一言も言ってねーだろ。演技力はギリギリ及第点だったが、技術力と吸収力は大したもんだし、なにより役に対して真摯だ。こいつの台本見たろ? キャラの心情まであんだけ書き込む新人声優見た事ねーよ。歌唱力の良さもポイント高かったぞ。音葉以外がアルキュオーネやってたら、あんなにキャラソンCD売れなかった」

「あ。それあたしも買いました」

 

 そう言って挙手する可凛に、藤見はだってよ、と音葉に顎をしゃくる。

 

「音葉が未熟なのは承知の上で、こいつならアルキュオーネを託せると思ったから採用した。原作者も俺と同じ意見だったし、原作コミックが人気だから二期やるの前提だった。それまでに鍛えれば良い演技するって確信もあったんだ」

「演技力に難のある子を使えば、ネット上では話は面白いけど声優の演技が駄目過ぎて一話で切った、なんて叩かれるのがオチですからね」

「さすがネットでクロスケの評価を気にしていた聡一郎お兄様はお詳しいな。まぁマーシャルの音葉ゴリ押しを受けた方が最終的に良い作品作れるってプロデューサーの俺が判断して今のラジバト人気はある。いやー俺の采配は見事だね。見事過ぎて泣けてくるわ」

「待って下さい、藤見さん。という事は、二週間後のオーディションでも同じ事を」

「そういう打診を受けたって言ったじゃねーか。まだ返事はしてねーけど、まぁ、多分やるだろうな。マーシャルとうちのエイトランスの利害は一致してる」

「……なによ、それ」

 

 可凛である。静かな怒りに声も身体も震わせて、藤見の胸倉を掴む勢いで詰め寄る。

 

「そんな出来レースで誰が納得すんのよ! 音葉ちゃんが一番可哀想じゃない! 最初は猫かぶってたって結構ガッカリしたけど、凄く頑張ってる子なんだよ、音葉ちゃんは! なのに、そういう努力全部無視して、事務所のゴリ押しでオーディション合格とかふざけるな!」

 

 眼前で叫ぶ可凛に、しかし、藤見は取り合わない。膝で頬杖をついて、昴輝を見る。

 

「巨乳ちゃんはご立腹だけど、お前はどうだ、クロスケ」

 

 昴輝は音葉を見る。彼女は昴輝を見ようとしない。でも、瑞希のように下を向く事も無かった。ただ一直線に藤見を見つめている。

 

「俺も可凛と同意見です。佐々木の努力は、佐々木自身によって報われるべきだ。事務所のゴリ押しなど無粋な介入でしかない。それは他の参加者全員を馬鹿にしている行為ではないですか」

「まぁ、そういう意見が至極ごもっともなんだろうが」

 

 藤見は溜息をつき、肩を竦める。まるで我侭な子供に手を焼く大人のような仕草に、昴輝もカチンと来る。飄々とした読めない人だが、こんな他人を小馬鹿にするような性格ではなかったはずなのに。

 だが、その藤見の横にいた聡一郎も、似たような反応だった。

 二人の恩師の態度は、昴輝が想像していたのとは違っていた。冷ややかなのだ。聡一郎や藤見なら、こうした筋を通さない物事に嫌悪感を示す理解ある大人のはずなのに。

 それに、音葉はずっと黙ったままだ。これまでの努力を事務所に否定されているようなものなのに。何故何も言わない。怒らない。

 聡一郎が慎重に、それでいて辛抱強く言葉を紡ぐ。

 

「なぁ昴輝。確かにマーシャルが音葉を売り出そうとしている姿勢はゴリ押しだ。筋の通らない方法で、他にもっと力があるのに、それらを権力に物を言わせて排除した忌むべき行為なのかもしれん。ゴリ押しと言われれば誰しもが眉を顰めるだろう。それについては俺も同意見だ。これでも芝居で飯食ってる身だからな」

「だったら」

「だが、それはマーシャルが佐々木音葉をゴリ押しに足る人材だと判断したからだ。誰もがゴリ押しされる訳じゃないだろう? そこには才能の有無が大きく関わる。事務所はボランティアで俳優やモデルを支えてる訳じゃないんだ。仮に佐々木音葉に才能も実力も無いなら話は別だが、彼女にはマーシャル主催の新人オーディションに合格したっていう大きな実績がある。そして今日まで沢山のアニメで主役を務めて、どれもが悪くない評価だ。例えこれがゴリ押しの末の結果であろうとも、結果は結果だ。今彼女には大勢のファンがいる。それは昨日お前がその眼で見たはずだ」

「それは確かにそうですが、でも、ゴリ押しなどしなくとも、佐々木は自分の実力だけでも」

「声優として成功していたかもしれん。でも、事務所がそこに力を貸せば、その成功はより大きくなる。それにな昴輝。お前はゴリ押しを強く批難できないぞ。お前だって、多村瑞希には才能があるからって理由で、オーディションや養成所を全部すっ飛ばしてアルトに入れてくれって言っただろ? それはうちの養成所で正所属を目指して頑張ってる研究生達を馬鹿にしてようなモンじゃないか?」

「っ……!」

 

 言われてはじめて昴輝は気付いた。聡一郎の言う通りだ。ゴリ押しをされる立場になってはじめて実感した。自分は、瑞希を育てる為にあらゆるコネを使ったではないか。事務所の稽古場の使用も、藤見を通じて瑞希にオーディションを受けさせてラジバトのモブをやらせた事も、音葉のイベントに瑞希を出演させたのも、普通に養成所や専門学校に通っていればまず得られないコネで実現できた事だ。

 

「昔、お前に声優の仕事を紹介した時も、藤見さんに無理言ったんだ。あれもゴリ押しだ」

「あーそんな事もあったな」

 

 昔を思い出したように藤見が笑う。そして、砕けていた口調を改めた。

 

「まぁクロスケや巨乳ちゃんがゴリ押し嫌う気持ちは分かるぜ。こっちは制作側、ゴリ押しされる側の人間だからな。納得いかない人選だってもちろんある。演技経験皆無のアイドルに話題作の映画の主演女優をやらせたり、歌唱力が発展途上のアーティストが容姿を買われて大手レコード会社からデビューってのもよく聞く話だ。まぁそういうのは大体客に全部見透かされて大コケするがね。だからゴリ押しそのものを、すべてを肯定するつもりは俺にもねーよ」

「俺も藤見さんと同意見だ。だがな、昴輝、可凛。小さな頃から実力がすべての業界にいるお前達には分かるはずだ。実力は、その人個人の力だけじゃない。その人を支えるすべての人達、組織も含めての実力であり、魅力なんだ」

 

 聡一郎や藤見の言っている事は分かる。理性では彼等が正しいと理解できる。昴輝も一年前まではいた業界だ。才能や技術だけではどうにもならない世界なのも熟知している。

 それでも感情が納得してくれなかった。

 昴輝は音葉の真摯な姿を知っている。役に対するひたむきさも、傲慢な物言いの裏に隠された謙虚さも、ライバルを見つけて切磋琢磨する事で自らを高めようとした上昇志向も知っている。それは、瑞希が尊敬した佐々木音葉というアイドル声優の、人には見せていなかった頑張っている姿だった。親から与えられた制限時間の中で、自分の力で結果を出そうとひたむきに頑張っていた。

 この一年の間、音葉が積み重ねてきた実績はその賜物ではないのか。音葉はそう実感していたからこそ頑張っていたのではないのか。マーシャルビジョンは、そんな音葉の素晴らしさを蔑ろにしていたのだ。納得しなければならない事だろうが、それでも、納得できない。

 

「……本人が目の前にいるのに、色々言いたい放題してくれるわね、あんた達」

 

 嘆息を漏らして、音葉が口を開けた。

 

「ねぇ黒野。私があんたに演技指導を仰いだ本当の理由、分かる?」

 

 突然、そう訊いた。

 

「それは、君の事務所が歌やダンス等のアイドルとしてのレッスンばかり重視していて、声優としての肝心な演技の稽古が疎かになっているから、それを補いたいと」

「うん、それも理由の一つ。でもね、他にもあるんだ。前に制限時間の話したじゃん。高校卒業までに声優としてちゃんと成功していないと駄目だって父親が言ってる奴。ほら、アイドルって流行り廃りあるからさ。私は今運良く人気出てCDとかも出させてもらってるけど、これがずっと続く訳じゃない。きっともう二、三年もすればもっと歌が上手くてお芝居もできるアイドル声優が出てくる。そこにはもう私の居場所なんてないと思うんだ」

「……だから、それまでに演技力をつけておきたかった、という事か……?」

「私が今売れてるのは、事務所のお陰だもん。知ってたよ、ゴリ押しされてるって。マネージャーは優しい人だからそういうの言わないけど、何となく分かってた。私、お芝居はヘタクソだからさ」

 

 音葉は寂しそうに笑った。

 

「でも、さすがに藤見さんのオーディションまで捻じ込もうとしてたなんて知らなかったけど。ごめんなさい、藤見さん。色々困らせちゃって」

「そこはお前が謝るとこじゃねーだろ。まぁラジバトの時は困ったが、今回はそうでもねーよ、安心しろ。それじゃ音葉、お前この話受けるのか?」

「やらせていただきます。私は声優としてこれからもやっていきたいので。大きなチャンスを逃したくはありません」

「ちょ、ちょっと音葉ちゃん! あんたそれでいいの!?」

 

 可凛の批難めいた声に、音葉は薄く肯く。

 

「納得するしないで言えば、できる訳ないじゃん。私は、私の力だけでこのオーディションに受かりたいって思ってた。でも、マーシャルにとっては私の我侭でしかないもん。いわゆる事務所の意向って奴だね。仕方ないよ」

 

 仕方が無い。確かにこれは仕方が無い事なのかもしれない。世の中には、どんなに努力をしても報われない、望む結果が得られない事の方が遥かに多い。なら過程はどうあれ、自分のやりたい事を続けられる音葉はずっと恵まれていると言える。

 音葉は自分の荷物を拾い、ジャージの上に上着を羽織った。いつか見た黒縁の野暮ったい眼鏡と帽子をかぶって、帰り支度を整える。

 

「ごめんね、黒野、西尾。凄く嫌な思いさせちゃって。もうここには来ないわ。私には黒野からお芝居を教わる資格は無いもん」

「……いや」

 

 それ以上、音葉にかけるべき言葉は無かった。

 演技を教わる資格は無い。そんな事は無いと言ってやるべきかもしれない。だが、事務所のゴリ押しを自覚して、瑞希が声優デビューとアルトへの所属を賭けて頑張っている藤見のオーディションへの八百長合格に同意した以上、ここにはいられないだろう。

 音葉の決断を責めるつもりは無い。例え彼女個人がこの展開を良しとせず、独力でオーディションに合格したいと言っても、マーシャル側がそれを許さない。マーシャルを辞めて別の事務所に移籍する選択もあるかもしれないが、一歩間違えれば声優生命が危ぶまれる。声優として結果を出さなければならない彼女には、無駄に過ごしている時間は無いのだ。

 

「それとさ、多村だけど」

「それは俺達で何とかする。君に迷惑がかかる事は無いから大丈夫だ」

「……そっか」

 

 簡単に準備を終わらせた音葉は、戸口の方で足を止める。そして振り返ると、無言のまま昴輝と可凛に深々と頭を下げて、そのまま出ていった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10話:喉を潰した時の俺は、本当に酷い顔をしていたのか?

 家に帰った後、昴輝は何もやる気になれなかった。精神も身体も弛緩している。思考は纏まらず、何を考えているのかも分からない。ベッドに寝転んで、呆然と天井を見上げている。

 こんなに気分が沈んでしまったのは、一年前の喉が壊れてしまった時以来だった。

 自分には芝居しかない──そこまで極端な考えだった訳ではない。例えば撮影や収録等で学校行事を休まなければならない事も多かったし、それのお陰で同世代の友達がほとんどいない環境には不満が無かった訳ではない。俳優や声優の友達もいない訳ではなかったが、昴輝くらいの歳はやはり少なく、男子の比率はさらに低くなる。喉が故障してからは自ら疎遠になっているので、昴輝の交友関係はほとんど可凛だけに限定されていたのが実情だった。

 喉が壊れてしまった時、そうした自分の環境を変えるには良いチャンスなのかもしれないとも考えた。

 芝居は好きだ。特に声だけで人の感情を大きく揺さぶる事ができる声優の素晴らしさには惚れ込んでいる。俳優界では若手のホープと呼ばれ、多くの後輩から尊敬されている聡一郎のようになりたいと、それを目指していた。

 声優に転向した後も、見る者の心を鷲掴みして、別の世界へ連れていける声の芝居を目指して稽古に励んだ。

 それでもその一方で、普通にも仄かな憧れがあった。可凛はその辺りを上手く棲み分けていて、モデルの仕事もこなしつつ、クラスメイト達としっかり遊んでいる。テスト勉強で悲鳴を上げて、体育祭で日焼けの痕に文句を言い、文化祭ではクラスを先導してメイド&執事喫茶なんて出し物をやった。それには昴輝も借り出されて、《白執事》宜しく特注の白い燕尾服を着させて、腐女子向けメニューなんて酷過ぎるメニューまで作っていた。

 普通になる。平凡な学生としてこれから生きていく。自らの故障という事件で、やりたかった事を取り上げられて。それを受け入れようと思っていた。それも悪くないと思っていた。

 そこに、瑞希が現れた。

 そして、懸命に自分の夢に邁進する音葉と出会った。

 携帯電話が震えた。可凛からの着信だった。

 

「見つかったか?」

『ううん。友達全員にメールしたんだけど、知らないって』

 

 あれから三時間待ってみたが、瑞希が戻ってくる気配は無かった。稽古場を研究生が使う時間が近づいていたので、瑞希の荷物は可凛が預かり、その場で解散となった。

 瑞希は人見知りで、クラスには親しい友達は一人もいない。昴輝や可凛と知り合う前までは、本当に一人でいる少女だった。

 

『……昴輝、大丈夫?』

「正直、少し応えている。たった一日で色々起こり過ぎだ」

『はは、ホントそうだね。昨日までは順調だったのに』

 

 力の無い笑い。本当にそうだ。昨日までは何の懸案も無かったのに。瑞希に自分と音葉の身寄り話を聞かれた事で、何かが狂ってしまった。

 

『でも、昴輝。藤見さんのオーディション、どうするの?』

 

 言い難そうに可凛が訊く。目下の問題はそれだった。

 瑞希の声優デビューとアルト・プロダクション所属を賭けたオーディションは、もう音葉の合格が決まっている。二週間後に行われるのは、公開オーディションという名のデモンストレーションだ。聡一郎が言っていた数百人という参加者は、この盛大な茶番に付き合わされる被害者となる。これが大人の都合という訳だ。

 今も理不尽に感じている昴輝だが、誰が悪い訳ではないのも分かっているつもりだった。

 原因を求めるならマーシャルだが、聡一郎の言う通り、声優事務所はボランティアで所属声優をマネジメントしている訳ではない。音葉を売り出す為の企画として、藤見のオーディションに白羽の矢を立てただけで、音葉にはそれに見合うだけの実力がある。それだけだ。

 オーディションには出るだけ無駄だ。今なら辞退要請も簡単にできる。

 だが、それでは瑞希がアルト・プロダクションからデビューする事ができなくなる。もっとも、アルトに所属する事に固執する必要は無いし、瑞希の力なら、声優専門の事務所に所属する事も難しくない。自らの力で瑞希を育てたいという衝動もあるが、それは昴輝の我侭だ。それで瑞希の将来を潰すような真似はしたくない。

 

「……だが、あの子には時間が無い」

『高校卒業後は大学で管理されるって話だもんね。同じ女としてホント同情する』

 

 高校卒業までの三年間で声優界全体が必要とするほどの声優になっていなければ、瑞希は自分の好きな事を続けられない。父親によって籠の中の鳥にされて、そのままだ。

 今、自分はどうするべきだ。オーディションの事実を伝えて辞退させたとして、その後どうなる。どこかの事務所に所属するのを目指して稽古を積むのか。

 不意に瑞希の悲鳴が耳に蘇る。

 ──私なんて。

 

「可凛。仮にお前が今の瑞希の立場だったら、声優を目指すのは諦めるか?」

 

 返事がくるまで、少し時間があった。

 

『藤見さんのオーディションの件は悔しいと思うし納得できないところはあるけど、あたし達が瑞希にやっていた事も、アルトの養成所の研究生の人達からしたら同じ事なんだよね。だから、オーディションのやらせの所為でやる気が無くなるのは、少し違う気はする』

「なら、続けたいと思うか?」

『あたしならね。今日音葉ちゃんにも言ったけど、ここで辞めたら夢を目指した自分を裏切る事になる。勝手なお父さんが敷いた勝手なレールの上に載る事を良しとしちゃう。まだ最後までやれていないなら、自分が納得できるまでやろうって思うね』

「夢を目指した自分を裏切る事になる、か」

 

 また瑞希の声が耳の中で響いた。いや、今度は瑞希であって瑞希ではない声だ。

 ラジバトの主人公にしてヒロインであるアルキュオーネの凛とした宣言。

 ──今度は逃げない。眼を背けない。飛びたいって気持ちから、空を走るって夢から──。

 

「私は、逃げない」

 

 噛み締めるように呟く。そして瑞希はこうも言っていた。

 ──なりたいです! 私は、声優に、なりたい!

 

「……そうだな。俺も、君に声優になってもらいたい」

 

 あれだけの生きた台詞を自然に言えるのに。何かの所為にしてやらないのは勿体無い。瑞希自身がやりたくないと言えばそれまでだが、もしやりたいと思っているのなら、やらせてやりたい。

 夢を、やりたい事を諦めてしまった自分の分まで。

 でも、それは彼女に重みを背負わせる訳ではない。私なんかでは昴輝のやりたい事を継げないと瑞希は言っていたが、そんなつもりは昴輝には無かった。もしそう思わせてしまったのなら、それは自分のミスだ。自分の未熟さが招いた失態だ。

 

「多村の本心が知りたい」

 

 すべてはそれ次第だ。

 そして、それ次第で、昴輝自身のやりたい事は変わる。

 そう、やりたい事だ。一度は諦めてしまった──やりたい事。

 ここで何もしなければ、瑞希は籠の鳥で終わる。そして自分は彼女の夢を諦めて、そのまま自分を諦める事になるだろう。それは嫌だった。このまま終わるなんて嫌だ。

 やりたい事を諦めなくてはならないという挫折。何度も味わいたくはないと思ったあれが、今肩を叩こうとしている。

 

「可凛。喉を潰した時の俺は、本当に酷い顔をしていたのか?」

『……うん。この前も言ったけど、酷かった』

 

 そんな自覚はなかったけれど。でも、あの時の胸に大きな穴ができてしまった喪失感はよく覚えている。あれは何度も感じたくはない。そして、他の誰にも感じて欲しくはない。

 このままいけば、瑞希があの喪失感に襲われるだろう。

 腹の底で沸々と感情が煮え滾っていた。このまま終わるものか。

 

 

 

『家を出てから半年か。一人では何もできなかったお前が、半年も自活できるとは思っていなかったぞ。食事はどうしている?』

「……ちゃんと自炊しています。この前は肉じゃがを作りました」

『肉じゃがだと? そんなものを作っている暇があるのなら今の内から勉強をしておけ。川鳴学園だったか。そんな三流高校の授業などお前にとって簡単だろう? 身の回りの世話なら使用人を寄越してやるから、将来を見据えて動け』

「自分の事は自分でやります。高校卒業までの三年間はそういう約束のはずです」

『言うようになったな。まぁいい。確かにそういう約束だ。今の内に精々アニメや漫画等という下らぬものを楽しむといい。では少し待て、今、母に変わってやる』

 

 電話口で誰かが動く気配を感じて、瑞希は大きく溜息をついた。生きた心地がしないほど緊張した訳ではないし、電話で話せば顔を見なくて済む分、気は楽だった。

 どうして父親と話すのにこんなに憂鬱な思いをしなければならないのだろう。

 

『はい、どうも。瑞希、元気にしてる?』

 

 耳の奥で木霊するような、そんなくすぐったい声に、瑞希は久しぶりに心から安堵した。

 

「うん、元気だよ、おかーさん」

 

 相手が年下だろうが敬語を標準語にしている瑞希が、世界で唯一普通に話せる相手。それが母親だった。

 

『そう? 何だか元気の無い声をしてるけれど。何かあったの?』

「そ、そんな事無いよ。元気元気」

『さぁ、それはどうかしら』

 

 くすくすと上品に笑う母親に、瑞希は戸惑う。落ち込んだ声は出していないはずなのに。

 

『まぁ、未熟な母だけれど、あなたの母だから。娘の声を聞けば、それくらい分かるわ。ちょっと待って』

 

 母親が父親に席を外すよう言っている。ちょっとした口論の気配が電話口からした。

 

『お父様にはちょっと出て行ってもらったわ。これで安心してお話できるわね』

「……ありがとう、おかーさん」

『それで何かあったの? もしかして生活費足りなかった? でも無駄遣いは駄目よ? アニメのブルーレイボックスの大人買いはさすがに厳しいわ』

「そ、その件ではおかーさんに大変なご迷惑を!」

『いーえ、子供に迷惑をかけられるのも親の務めです。それでやっぱりお金で悩み事?』

「ち、違うの。そういうのじゃなくて」

 

 何て言えばいいのか分からなくて、瑞希は口篭る。

 川鳴町から三駅ほど電車に乗った閑静な住宅街。瑞希が借りているマンションはそこにあった。駅から近い上に防犯設備が整理されている信頼性ある賃貸マンションである。間取りは1LDK。家賃は管理費含んで一ヶ月十五万五千円。

 正直、学生の独り暮らしには些か豪華過ぎる場所だった。母親が一晩で用意してくれた物件で、最初はこんな高い場所には住めないと訴えたものの、父親がこれ以下の場所は物置扱いして許してくれなかったのだそうだ。

 稽古場を飛び出した後、瑞希はそれこそ逃げるようにして自宅のマンションに戻った。荷物はすべて稽古場に置き去りにしてしまったが、偶然にも予備の鍵を入れてある小銭入れがジャージのポケットに入っていたので、稽古場に戻らずに済んだ。

 昴輝や音葉から逃げ出して、もう三日が過ぎていた。あれからずっとマンションの部屋に引き篭もっていて、学校も無断欠席している有様だ。携帯電話も無ければカードを入れた財布も稽古場に放置しているので不自由で仕方がなかったが、引き篭もっている今は関係無い。

 部屋にある電話機に父親から電話がかかってこなければ、無気力のまま、壁を見つめていただけだっただろう。

 最初は無視しようと思った。あの父親と話すのは疲れる。こんな気持ちで話すのは拷問だ。

 でも、実家との連絡は一ヶ月に一回絶対にしなければならない決まり事だった。多分先に携帯電話の方にかけている。それで出なかったからマンションの部屋に掛けた。ここで対応しなければ、娘を手元に置いておきたい過保護な父親が乗り込んでこないとも限らない。

 それに、父親と話すのは確かに疲れるが、誰かと話したかったという気持ちが無かった訳ではなかった。

 母親は黙して何も語らない。その優しさが、瑞希はとても嬉しかった。琴線に触れる。涙腺に触れる。双方共に緩くなる。

 

「おかーさん。佐々木音葉さんって声優さん、分かる?」

『ええ。この前ワイドショーで見たわ。今物凄く人気のアイドルさんですってね』

 

 驚いた。まさか知っているとは思わなかった。ワイドショーで取り上げたのは、恐らく土曜日に秋葉原で行われた音葉のセカンドシングル発売記念イベントだ。まさか母はそのステージに自分がバックダンサーとして出ていたなんて夢にも思わないだろう。

 

「違うよおかーさん。佐々木さんはアイドルじゃなくて、アイドル声優」

『あら、そうなの? ごめんなさいね、お母さんそういうの疎くて』

 

 実際同じようなものなので、混ざってしまっても無理も無い。

 

『確か瑞希と同じ歳なのよね』

「うん。まだデビューして一年ちょっとなんだけど、沢山のアニメで主役やってるの。すっごく可愛い声で、歌も上手くて、格好良いんだ。私の憧れの人」

『そう。でも確かもう一人いたわよね、瑞希が憧れる声優さんで、櫻井昴輝さん』

 

 櫻井昴輝。本名は黒野昴輝。音葉がデビューする直前に突然業界から消えた少年声優。

 それほど名前が売れていた訳ではなかった。ただ、物凄く良い演技をする声優として、聖章大付属女子中学校の友達が大ファンだった。その友達から教えてもらって、櫻井昴輝が出演していた作品を網羅した。

 

『瑞希が何度も話すから覚えてるわ。声だけで人を感動させられる声優という職業に就けた事を誇りに思う、だったかしら? 若いのに立派な子ね』

「……うん。同い年なのに、本当に凄い人だった」

 

 それは、黒野昴輝が櫻井昴輝として受けた数少ないインタビュー記事にあった一文だった。

 舞台や映画では、役者は全身を使って演技をする。そこには感情を最も的確に表現する顔がある。人を抱き締めて労わり、人を殴って傷つける腕がある。全身で観ている者に感情を訴える事ができる。

 だが、声優は声だけですべてを表現しなければならない。声という見えないモノを使って、喜怒哀楽を発露し、観る者に思いを伝えなければならない。

 昴輝はインタビュー記事でその声優の難しさと楽しさと可能性について語っていた。それを追求する為に舞台から転向して声優をやっていて、凄く面白く充実していると言っていた。

 そして彼が目指す声の芝居の完成形──見る人の心を奪い、全く違う世界を魅せるという言葉に、強い感銘を受けた。

 声だけで人の心を鷲掴みできる人。凄いと思った。そんな凄い事を面白いと楽しんでいる昴輝という人に強く憧憬を持った。言いたい事を何一つ言えない自分のような矮小な人間とは違う世界の人間だと思った。

 こんな素敵な人になりたいと思った。思うだけだった。

 思うだけなら、こんな自分でもできるから。

 受話器を耳に添えながら、瑞希はベッドを見遣る。そこには昴輝と同じくらい憧れているアニメのキャラクター──アルキュオーネの抱き枕が鎮座している。

 昴輝という声優を知った。アニメやゲームという今まで知らなかった世界を知った。

 声優の凄さを知れば知るほど、なりたいという気持ちが大きくなった。

 そして、自分と同じ歳の少女声優が声を当てている、このキャラクターを好きになった。

 ──今度は逃げない。眼を背けない。飛びたいって気持ちから、空を走るって夢から──。

 ──私は、逃げない。

 アニメのキャラクターの言葉に影響されるなんて、人によっては空想と現実の区別がついていないと笑うだろう。

 でも、父親にすべてを縛られている瑞希にとっては、自分のやりたい事を誰に馬鹿にされようとも断言できて、それを誇りにして頑張っているアルキュオーネは、本当に眩しかった。

 そして、アルキュオーネに命を吹き込み、彼女に夢を追いかけさせている佐々木音葉という声優が大好きになった。

 そんな大好きな佐々木音葉が自分と同じような境遇で、アルキュオーネと同じようにそんな境遇から逃げずに戦っている。

 佐々木音葉はアルキュオーネそのものだ。音葉が強いから、アルキュは強いのだ。

 動画サイトに投稿したアルキュオーネを演じてみたの動画を昴輝は絶賛してくれたけれど、自分のような弱虫が声を当ててしまった事に申し訳無さが溢れて仕方が無い。

 音葉といると、自分の弱さを痛感させられる。

 昴輝といると、こんな弱い自分でも、声優を続けられなかった彼の夢を継げると勘違いしてしまう。彼の目指した声の芝居の完成形を自分が体現できると思ってしまう。

 だから瑞希は逃げ出したのだ。勇気と誇りを持ってやりたい事をやっている音葉と、自分の才能を信じて、声だけで人を感動させられる術を教えると手を差し伸べてくれた昴輝から。

 なにより、自分のやりたい事から。

 

「私は、佐々木さんや黒野さんみたいにはなれない。なれない、よ。おとーさんに言われるままで、自分がやりたい事も言えなくて、そのやりたい事からも逃げ出して……」

 

 すると、母親は少しの沈黙の後、こう聞き返した。

 

『ねぇ瑞希。あなたはなに?』

「……え?」

 

 意味が分からなかった。母は電話の向こうで悪戯っぽく笑った。

 

『お父さんに満足に言い返せない非力な母親が言える事じゃないけれど、あなたはまだ何にもなっていないわ。何者でもないの。自分を何者にするかは、自分でしか決められないのよ』

「………」

『自分の価値は自分で決めるもの。私でもなければお父さんでもない、ましてやあなたが憧れる声優さんでもない。それでもね、人の価値が絶対に下がる時があるわ』

「……それは?」

『自分に嘘をついた時よ』

 

 とても優しい声で、とても厳しい事を、母は告げた。

 

 

 

 それから母親と何を話したのか、瑞希はあまり覚えていない。他愛も無い、取るに足らない世間話だったと思う。

 頭の中では、母親の優しく厳しい言葉が反響していた。

 ──人の価値を下げる時は、自分に嘘をついた時。

 なるほど。それなら、自分はずっと自分の価値を下げ続けてきた事になる。

 父親に明確に嫌だと伝えてこなかった結果、今こうしている自分が証拠ではないか。

 本当は嫌なのに。自分の人生なのだから、自分の好きなようにさせて欲しいと満足に言えない。本心を押し殺して言われるままに従って、仕方が無いと自分に嘘をついて誤魔化して。キラキラと輝くアニメの世界のキャラクター達に憧れて、そのキャラクターに命を吹き込む声優という職業に憧れた。

 こんな自分に声を当てられては、キャラクターが可哀想だ。

 昴輝が絶賛してくれたアルキュオーネは、あの冒頭の彼女の独白に心の底から共感できて、実感を持てたからだ。だから彼の言う《生きた感情》を吹き込む事ができたのだろう。

 でも、自分の価値の低さを知ってしまった今では、憧れさえ持てない。

 やりたい事に真摯なあの人達と自分では、心の棲む場所が違う。それを痛感した。

 受話器を戻した後、瑞希は昴輝の携帯電話に電話を掛けようとした。

 もう辞める。そう告げる為に。

 

「……何番だっけ」

 

 さすがに十一桁の携帯番号を覚えていなかった。メルアドも同じだ。可凛も同様である。アルト・プロダクションの番号ももちろん分からない。

 そうなれば、学校に行って直接告げるか、アルトの事務所を訪ねるしかない。

 言いたい事だけをぶち撒けて、憧れの佐々木音葉に酷く傷つけた顔をさせて、彼等の前から三日も雲隠れしてしまったのに。顔を合わせて、面と向かって話さなければならない。

 

「……だから私は弱虫なんだ」

 

 それくらい何だというのだ。あんなに優しくしてくれた人達を裏切った癖に。謝罪くらいちゃんと会ってしないと、最低限のケジメもあったものではない。どこまで自分の価値を下げるつもりだ、卑怯者め。

 そうやってどんなに自分を叱咤激励しても、どうしても押し寄せる罪悪感を諌める事ができなくて、そのまま二日も引き篭もり続けて。

 稽古場を飛び出して通算六日目。外は夕闇に沈みかけていた。

 学校は終わった時間だが、アルトの事務所を訪ねようと、ようやく決心が固まった時。

 滅多に鳴らないインターホンが鳴った。

 瑞希の部屋には、ネット通販を届けにきた業者以外に訪ねてきた者はいない。

 慣れない手付きでインターホンに出ると、内蔵ディスプレイにエントランスホールで待っている来客の姿が映った。その見慣れた姿に、息を呑む。

 

『多村瑞希ちゃんの部屋で合ってますかー? もし間違ってたらすいませーん。でも合ってたら出て欲しいなーと思いまーす』

 

 ディスプレイに向かって、西尾可凛がいつもの人懐っこい笑顔で手を振っていた。

 このマンションの場所は教えてないのに。何故彼女がここに。瑞希が茫然としていると、反応が無い事に可凛が焦り始めた。

 

『あれ。もしかして本当に間違えてる? でも先生が教えてくれた住所ここだよね』

「あ、あああ、合ってます! ちゃんと、います」

 

 慌てて答えると、ディスプレイの中の可凛が安堵したように吐息をついた。

 

『あー良かった。ごめんね、瑞希ちゃん。こんな遅くに』

「い、いえ。あの、お迎えに行きますから、待ってて下さい」

『ね、瑞希ちゃん。ちょっとあたしとお出掛けしない?』

 

 藪から棒に、可凛が言った。

 

「……どこに、ですか」

『安心して。アルトの事務所じゃないから』

「なら、どこに?」

『秋葉原』

 

 

 

 川鳴市内から秋葉原までは、京浜東北線で四十分ほどである。乗り込んだ電車は混雑していて、もう帰宅ラッシュの時間だ。瑞希は席に座る事はできたが、一息つく心の余裕も無く、隣に腰掛けた可凛の横顔を盗み見る。

 

「あの、西尾さん。どうしてこんな時間に秋葉原に行くんですか……?」

「それは着いてからのお楽しみ。大丈夫だって、取って喰おうって訳じゃないから」

 

 マンションを出てから電車に乗るまで、可凛は先日の事で瑞希を責めようとはしなかった。今期のアニメについて取り留めのない話をしただけだ。秋葉に向かう事情については、今のようにはぐらかされてしまう。

 昴輝や音葉について触れないのは、きっと可凛の配慮だ。

 そんな優しい彼女も裏切らなければならないと思うと、瑞希の憂鬱は加速してしまう。

 品川駅を通過した時、ふと、可凛が言った。

 

「瑞希ちゃんは、昴輝がどうして俳優から声優に転向したか知ってる?」

「も、もちろんです。声だけで見る人の感情に訴えられる役者──声優に強く憧れたって。声優を知って、その時受けた衝撃と感動を他の誰かに味わって欲しいって」

 

 それは、昴輝が現役の頃に受けた雑誌取材で語った言葉だ。

 

「そうだね。じゃ、どうして昴輝が役者になったかは?」

「それは……」

 

 知らない。昴輝が受けた雑誌取材は片手の指で数え切れるくらいで、瑞希はすべてを網羅していたが、役者になったそもそもの理由はどこにもなかったはずだ。

 可凛は窓から外を覗く。夕日に照らされたビル郡が赤錆色に染まっていた。

 

「一兄いるじゃない。私の叔父さんの結城聡一郎。幼稚園くらいの時、一兄主演の映画の試写会に昴輝の家族と一緒に呼ばれてね。太平洋戦争の映画でさ、あたしは退屈だったんだけど、昴輝はもう夢中だった。作り物の世界で、作り物の人間で、作り物のお話なのに、あいつはそう感じてなくてね。それから一兄に弟子入り宣言して、お芝居の勉強を始めたの」

「じゃ、黒野さんが役者を始めたのは、結城さんに憧れて?」

「そう。元々一兄には懐いてたのもあったんだ。そんな一兄がスクリーンの中でいつもとは全然違う顔をしていたっていうのが凄く衝撃的だったみたいでね。格好良い! って絶賛してた。あの時の昴輝は可愛かったなー」

 

 かつてを懐かしむように、可凛が笑う。

 

「一兄直々に演技指導してもらって、うちの事務所のジュニア部のオーディション受けて合格。それからドラマや映画に出て、業界でも一兄自慢の弟分みたいに言われたんだよ?」

「子役時代の事は、その時の雑誌のバックナンバーとかで読んだ事はあります。期待の子役みたいな感じで可愛がられていたって話ですよね」

「うん。だから声優に転向するって話になった時、うちの事務所の社長も含めて、今まで味方だった人達全員が反対したんだ。声優と俳優、両方やるのはスケジュール的にかなり厳しいの。映画やドラマの制作には、アニメや舞台よりもずっと多くの人達が関わるから。だから」

「どちらか一方を取るしかないって、そういう事だったんですか……?」

 

 可凛が肯く。電車は浜松町駅を通過する。

 

「普通なら俳優をやると思う。声優は貰えるお金も少ないし、立場も俳優と比べて弱い。今はアイドル声優ブームのお陰で少しは改善されてるけど、世間の認知もまだまだだから。だから、皆が反対したのは当然だったと思う。昴輝の味方は一兄だけで、一兄の後押しで、昴輝は声優転向の決心をした。もうドラマや映画の世界には戻らないって決めてね」

「戻らないって……?」

「声優を選んだけど、やっぱり普通の俳優の方が面白いので声優を辞めますなんて、普通に考えても我侭過ぎるでしょ? 両立ができないなら、どちらか片方を切り捨てるしかない。それで昴輝は声優を選んだ。でも」

 

 言葉が潰える。うつむいた可凛は、何かを思い出すように溜息をつく。

 

「元々丈夫じゃなかった喉が壊れちゃった」

 

 それが一年前。彼が何の音沙汰も無く声優の表舞台から消えた。

 

「普通の俳優には引き返せないって覚悟して声優になったけど、たったの三年で、その声優もできなくなっちゃってさ。それまで芝居一筋だったから、ある意味自分のすべてが取り上げられちゃった感じだったと思う」

「で、でも、黒野さんの声は、今は本当に普通だと思います。お話していて違和感とか、そういうのを感じた事は」

「普通に発声する分には問題無いって話なの。でも、ちょっとでも喉に負担をかけるような事をすると厳しいらしいんだ。今度故障したら、二度と声が出なくなる可能性があるってお医者さんから言われた時の昴輝の顔は、ちょっと忘れられない」

 

 眼を細めた可凛の横顔に浮かぶのは、沈痛。

 今更だが、瑞希は昴輝の喉の故障の重さを痛感させられた。昴輝自身が平然と話すので大事ではないと思っていたが、二度と声が出なくなるなんて。

 

「リハビリを続けて、何度か手術をすれば、喉の弱さも改善されるって話なんだけど。それでもまた壊れてしまう可能性はゼロじゃない。もしそうなったら、二度とお芝居の世界には戻れない。続けるのか辞めるのかの瀬戸際で昴輝が選んだのは、辞める事だった」

 

 電車の速度が緩やかになって、プラットフォームに滑り込んでゆく。

 アナウンスが秋葉原駅の到着を告げる中、可凛は瑞希の手を握って席を立った。

 

「ほら、着いたよ。行こ」

 

 手を引かれるまま、瑞希は電車を降りて、電気街口の改札を出た。

 そして、一週間前にも来た場所に辿り着く。

 

「ここって」

 

 茫然と見上げたそこは、先週の土曜日に佐々木音葉のセカンドシングル発売記念イベントを盛大に行ったイベントホールである。今は凄まじい人垣ができていて、新橋からの仕事帰りのサラリーマン達が多い中でとても目立っている。

 

「瑞希ちゃん。今日って何曜日?」

「……木曜日、です」

「その木曜日って、ここで音葉ちゃんが単独ラジオ番組の公開録音してるのは知ってるよね」

 

 知っている。何度も観に来たから。そして今の時刻は公開録音直前だ。

 これまでなら、瑞希はこの人垣の最中にいただろう。

 でも、今は踏み込んでゆく事ができない。足が縫い付けられたように微動だにしない。この先に音葉が収録している硝子張りのブースがあると動悸が荒くなった。

 自分の価値を下げ続ける事しかできないような卑怯者には、そんな資格だってないのではないか。あの演じてみたの動画で、音葉のアルキュオーネを穢した同義なのだから。

 動けない瑞希の手を、可凛がそっと握る。そのまま人垣の横合いを通過すると、見学者達を統制しているスタッフの一人にパスケースのようなものを見せた。すると、そのスタッフはお疲れ様ですと可凛に頭を下げて、彼女に道を譲った。

 

「え、え、え?」

 

 一体何がどうなっている。どうしてさも関係者のような顔で悠々と中に入っているのだ。

 人垣が消えて、硝子で中を見渡せる収録ブースが瑞希の眼前に現れた。何度も観に来ているけれど、ここまで間近で観たのははじめてだった。

 当然だが、ブース内には音葉がいた。イヤホンをつけて、台本や書類や飲み物が置かれた机上のマイクの調整をしている。その姿はこれまで瑞希も何度も見ていた。

 でも、どうして机を挟んだ対面に昴輝が座っているのだろう。

 物凄く緊張した面持ちである。そわそわと台本や他の書類を見返して、何度も飲み物に口をつけている。その落ち着かない態度を音葉にからかわれていた。

 可凛はブースに歩み寄ると、こんこんと硝子を叩く。振り返った音葉は瑞希を連れた可凛に満足したように肯くと、やほーと気軽に手を振ってくれた。

 混乱が加速した。なんだこれは。一体どういう事だ。意味が分からない。

 

「もう始まるね。瑞希ちゃん、こっち来てこっち」

 

 そのまま引き摺られるようにミキサー室に連れ込まれる。ラジバトの収録スタジオを小さく簡素にしたような施設だが、収録ブースが一望できる構造は同じだ。そしてブースを挟んだ先にはスタッフに整理された見学者達の姿がある。

 

「あ、あの、西尾さん、これって何がどうなってこうなってるんですか?」

「ん? あたしと瑞希ちゃんがここにいられるのは、音葉ちゃんの関係者だからって理由。だって先週の土曜日にあたし達二人共音葉ちゃんのバックダンサーやったでしょ?」

「そ、それはそうですけど、だからってここに気軽に入っていい事にはなりません! それに、黒野さんがブースにいたのは……!?」

「それは今回の特別ゲストが、一年前突然業界から蒸発した少年声優、櫻井昴輝だからね」

 

 可凛が得意げに言った時、音響スタッフが開始五秒前の宣言をした。三秒前までカウントを刻み、残り二秒は硝子の向こう側のブースへ指を折って伝えた。

 そして、音葉によるタイトルコールが始まった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11話:どうも、櫻井昴輝です

『佐々木音葉の! TearS Night!』

 

 ギャラリーから一気に歓声が上がった。それは防音設備が整えられている収録ブース内の空気を震わせる。その応援は音葉にも届いていたようで、片手を振って応えてみせた。

 バックBGMに音葉のデビューシングル《TearS》が流れる中、音葉は口火を切った。

 

『はいどうも皆さんこんばんは! はじめての方ははじめまして。そうではない方はお久しぶり! 昨日の夜に腹筋をしていたら腹筋が薄く割れていた事に気付いてちょっと暫く腹筋は自重しようと思った佐々木音葉です! あーちょっとそこ笑うな! いやだってアイドルの腹筋がどこかの戦闘民族みたいにムキムキに割れてたら嫌でしょ!? なんだろうな、女の子としては男の子が割れてたらあーいいなー格好いいなーって思うけどね。私的にはこう、臍のラインにすっと線が入ってるのが扇情的というか、意も言われぬちょっとエッチだけど女の魅力がぷんぷんしてていいなーと思う訳ですよね。皆もそう思うよねー?』

 

 同意を求められた見学者達は、心底そう思っているように深々と肯いて大いに盛り上がっている。一方で収録ブース内のスタッフ達も可笑しそうに笑いながら、互いの腹筋の様子を確かめ合っていた。

 

「ここにいる人達の中で、どれくらいの人が音葉ちゃんの本性を知ってるんだろうね」

 

 苦笑する可凛に、瑞希も同じく苦笑してしまった。自分も実際に音葉に会うまでは、ああいう性格だとは夢にも思っていなかった。

 やがてオープニングトークが終わる。

 

『まぁそんな感じで今日も三十分間楽しくお話していこうと思っていますが、今日も日替わりならぬ週代わりでゲストをお呼びしています! CM後に色々お話聞いていこうと思ってますので、皆さん期待しててねー!』

 

 話を振られた昴輝は、いよいよかと頬を強張らせた。生きては帰れない戦場に向かう兵士のようなその顔は、対面でニコニコと笑っている音葉と比較して、物凄い温度差だった。ギャラリーも昴輝を指差しながら、あれは一体どこの誰だと話している気配が漂ってくる。

 今来ている見学者の中で、黒野昴輝を櫻井昴輝として知っている人間は果たしているだろうか。元々昴輝は雑誌等に顔を載せる事を避けていたし、そもそもそんなに売れていた男性声優ではない。ただ、凄く良い演技をする実力派声優として、一部で人気を得ていたのは事実だ。

 

「あの、どうして黒野さんがゲストで佐々木さんのラジオに出てるんですか……? 黒野さんは声優を引退してて」

「それは、このまま二人の話を聞いていたら分かるよ」

 

 その時、音響がブース内の音葉達にCM終了五秒前を伝えた。やがてラジオが再開される。

 昴輝の緊張はもう臨界らしく、顔色が悪かった。瑞希が知る限り、昴輝がこうしたラジオに出るのは現役の頃を含めてもはじめてのはずだ。あの人でも緊張するんだと意外に感じる。

 

『はい、改めましてこんばんは、佐々木音葉です。さっきCM明けにゲスト紹介しますよーと言いましたが、先に来週発売の私のセカンドシングル《イノセンス》の宣伝をやーりまーすよー。ねぇいいですよね、櫻井昴輝さん?』

『こ、ここで俺に振る……あーいや、振りますか?』

『うは! なんスかその敬語に言い直し! 同い年ですけど声優歴は櫻井さんのが私よりずっと長いんですから、デビュー一年生な私に気なんて遣わないでいつも通りに話して下さい。ぶっちゃけやり難いんですよマジで』

『そうか。なら努力しよう。しかし、君のその変わりようはやはり凄ぬぐぅ!?』

 

 音葉が満面の笑顔を維持したまま、ペットボトルを昴輝の口に突っ込んだ。

 

『もー現場から一年も遠ざかってからって意味不明な事言わないで下さいよー。そんなまるで私がオンとオフで性格切り替えてるみたいじゃないですかー。そんな訳ないですよね。ね?』

 

 昴輝は涙眼でかくかくと肯いた。こんな格好悪い昴輝ははじめて見た。

 いけない、駄目だ。笑いそうだ。

 必死に堪える瑞希の横では、可凛が腹を抱えて爆笑していた。そんな彼女を恨めしそうに睨んだ昴輝は、そこでようやく瑞希が来ている事に気付いたようだった。

 昴輝が窒息する前に彼を解放した音葉は、居住まいを直してギャラリー達に手を振ると、ペットボトルの口元を律儀にハンカチで拭いている妙に紳士チックな昴輝に水を向けた。

 

『何だか本日のゲストが妙にドン臭いので、CDの紹介は後回しにして、まずはゲストと色々駄弁っていこうと思います。本日のゲストは、《白執事》のアルフレッド役でも御馴染みの櫻井昴輝さんでーす』

『えー。ご紹介頂いた作品はもう一年以上前のものなので、アニメ作品としては過去になっていますが、原作は現在も大好評連載です。少年執事と幼い女の子との心温まる触れ合いに興味のある方は是非。BLとして楽しむのも大いにアリです。どうも、櫻井昴輝です』

『ちょっと。なにツラツラと宣伝まで挟んで自己紹介してるんですか? 私、櫻井さんはこういうラジオはじめてだって聞いてたので、頑張ってフォローしようと物凄くあれこれ話題を考えていたんですけど?』

『実は昨日、高端かすみさんからコツを教わった。君の弄り方のご教授も受けてきたので期待してて欲しい』

『あの人は……! でもその割にさっき変な事口走りましたよねー。やっぱり一年ぶりのこうした現場に緊張しちゃいました? 最後に出演した作品が、さっきご紹介した《白執事》でしたよね、確か』

『ああ。実はあの仕事の後に喉を壊してしまって。事実上声優を引退していたんだ。こうして普通に喋るくらいなら問題が無いレベルにまで回復したのが最近だ。佐々木さんが言ったようにこれが約一年ぶりの現場になるので、正直かなり緊張しているよ』

 

 そこでギャラリーの中に何やら興奮した様子で騒ぎ出す女性グループがあった。どうやら少年声優、櫻井昴輝を知っていたらしい。男性アイドルの追っかけがするように黄色い歓声を上げて一心不乱に手を振る彼女達に、昴輝は音葉に小突かれるようにして手を振り返した。

 

「昴輝って、やっぱ女の子に人気あったの?」

「そ、そんなに沢山アニメに出演されていた訳ではなかったんですけど、最後の出演作品になってる白執事で結構増えたようです。雑誌のインタビューには消極的な姿勢も、一部の方々にはストイックだって妄想を駆り立てる要素らしくて」

 

 不安と不機嫌を混ぜたような顔の可凛に、瑞希は精一杯フォローを入れておいた。

 

『そんな病み上がりにこんな新人のラジオに出て頂いて本当にありがとうございます』

『いや、こちらこそお呼びいただいて光栄だ。一昨日決まった時にはマジか、と思ったが』

『いやーそれが予定してた方が別スケジュールで来られなくなってしまって。久しぶりの現場でピンチヒッターみたいな事させてしまってすいませんね。まぁでもほら、出会いは突然にって言うじゃないですか。食パン咥えた美少女にぶつかるのも突然でしょ?』

『その例えはどうなんだ。しかも相当古いだろう。高端さん世代ではないのか?』

『それ、かすみさんに言っておくんで。あの人、自分の歳結構気にしてるんですよ? ラジバトでもヒロイン役の中で三十歳越えてるのはかすみさんだけですからねー』

『では俺は、君が自分のラジオで高端さんが自分の年齢を気にしていて、ラジバトのヒロイン出演者の中で唯一の三十歳で疎外感を覚えていると言っていたと伝えよう』

『疎外感覚えてるなんて言ってないじゃん! 捏造しないで下さいよ!』

『まぁお互いあの人には頭が上がらん訳だから、ここは交渉しようじゃないか』

『くっ……い、いいでしょう』

 

 淀みなくトークを繰り広げる昴輝に、瑞希は意外に感じる。彼と個人的に知り合ってまだ三週間弱だが、こうした軽い会話をリズム良くできるタイプではないと感じていた。それは決して失礼な意味ではなく、インタビューを読んでいて感じたストイックさがあったからだ。

 

「昴輝ね。このラジオに出演が決まってから高端さんの所に通って、色々教わったんだって」

「……それは、どうして……?」

 

 声優を引退した彼が、どうして今音葉のラジオに出演しているのかも含めて、分からなかった。そもそも、ここに自分を連れてきた意図も分からない。こうして一番近い場所で音葉のラジオの公開録音を見られるのはファンとしてとても嬉しく思うが、でも、自分は──。

 

『でも、こうして話すだけなら一度喉を壊したなんて信じられないくらい大丈夫ですね。お仕事には復帰されるんですか?』

『いや。実はつい一ヶ月くらい前までは、芝居の世界とは縁を切っていたんだ。リハビリで普通の発声には問題無いほどには回復したが、本格的な声変わりもしてしまって、もう白執事のアルフレッドのような声も演技もできなくなっていた。これでは俺の声に期待してくれていた人達を裏切るだけだと思って』

『芝居から足を洗っていたと。ふむふむ、なるほどね。櫻井さんらしい凄く真面目で自分に妥協しない姿勢は格好良いと思いますが、それではどうして今回このラジオのゲスト出演にお応えいただいたのでしょうか? やっぱり恋しくなりました、芝居の世界が』

『それもあったのは事実だ。子役を経て中学生の時に声優に転向したが、本当にずっと芝居漬け、役者な毎日だったから。芝居をする事が俺にとって当たり前で、しない方に違和感を覚えるくらいだった。芝居の世界と何かしらの関わりを持ちたいという気持ちはあったし、所属してる事務所の恩師には筒抜けだったよ』

『俳優界の若手のホープ、結城聡一郎さんですよね』

『ああ。それで彼から後進を育てる講師をやらないかと誘われた。だが、俺はまだ十六だ。俺の事務所の養成所に来られている研究生の方々は軒並み二十歳を越えている。俺が誰かに何かを教えられるとは思えなかったからずっと断っていたんだが、この前、凄く良い子と出会って、その考えが変わった』

 

 その凄く良い子が誰を指しているのか。決して思い上がりではなく、瑞希は悟った。

 昴輝がミキサー室の瑞希を一瞥して、口元を緩めて笑った。

 

『その子は素晴らしい演技力を持っているのに、自分に凄く自信が持てない性格でな。自分なんかと卑下して、自分の可能性を貶めていた。だが、俺が用意した無茶な課題に嫌な顔一つせずに取り組んでくれた。人見知りで恥ずかしがり屋で上がり症なのに、周りが先輩しかいないアフレコ現場に放り込んだりもした』

『実はそれ、ラジバトのDVDとBD最終巻に収録される初回予約特典用OVAのアフレコなんです。私も櫻井さんイチオシの子と一緒に収録したんですけど、テストの時はミス連発でどうなるかとヒヤヒヤしたんですが、スイッチが入った時の演技は本物でした。収録ブースにその子がやってるキャラクターが実在してるような感じで、ちょっと嫉妬しましたもん』

 

 音葉もチラリと瑞希を見て、ウインクする。

 瑞希は何も反応できなかった。外のギャラリー達がブースを通して見えるミキサー室の瑞希を指差して、あの子の事ではないかと騒ぎ始めている。

 昴輝は続ける。

 

『その子を見ていたら、理由を並べて、芝居を辞めようとしていた自分に気付かされたんだ』

『それは、さっき言った昔のような演技ができなくなっているから、ですか?』

『ああ。でも、それは建前だった。本音は違う。医者から今度喉を痛めたら、こうやって普通に話すのも難しくなると言われていたんだ。声を失えば、今度こそ本当に芝居の世界には戻れなくなってしまう。俺は、それがどうしても受け入れられなかった』

 

 搾り出すように、昴輝が言った。彼の心境を実感させられる声だった。

 それは櫻井昴輝としてではなく、純粋に芝居が好きな黒野昴輝としての本音だろう。

 

「この前ね、昴輝から聞いたんだ。声優を辞めた本当の理由」

 

 可凛が呟くように言った。

 

「本当の理由? 喉が壊れたからじゃないんですか?」

「手術をすればお芝居もできるけど、今度壊したら、正真正銘声を無くしちゃう。そうなったら、今度こそお芝居そのものを諦めるしかない。でも、手術をしなければお芝居を続けられる可能性は残る。続けられるかもしれないって、そんな風に思って辞めた方が希望は残るって思ったんだって」

「……何だか、黒野さんにしては」

「うん。あいつにしてはすっごく後ろ向きな考えだね。ヘタレだよ、もう」

 

 復帰できるかもしれない。そんな可能性に縋ったような決断を、あの昴輝がしたなんて。

 

「その癖、辞めた後は面白くなさそーな顔してたな。あたしは、そんな昴輝の顔を見てるのが嫌でさ。色々頑張ってみたんだけど、結局どうする事もできなくて。だから瑞希ちゃんと出会って、また芝居をやってた時の顔に戻った時、凄く嬉しかったんだよ?」

 

 本当はあたしが昴輝にそういう顔をさせたかったんだけどね、と頬を赤くして可凛が笑う。

 そんな可凛から、瑞希はブースの中で音葉と話し続けている昴輝に視線を戻す。

 生き生きと覇気に溢れた表情。話す事が楽しくて仕方が無いという横顔。

 瑞希も、今日に至るまで見た事が無い黒野昴輝の嬉々とした感情が、そこにあった。

 

『その子……というと分かり難いか。仮に、そうだな、ミズキと呼ぼう』

『いやあのその。もうそれ仮じゃなくないですか?』

『済まん。こういうアドリブは苦手なんだ、許してくれ』

 

 ミキサー室の瑞希に片手で拝むような仕草をする昴輝。赤い顔で唖然とする瑞希を置き去りにして、昴輝は続ける。

 

『ミズキは色々な事情から、自分のやりたい事をやりたいと素直に言える子ではなかった。だが、俺が声優になりたいかと聞いた時、ミズキははっきりとやりたいと答えた。その時はあの子を取り巻く環境を知らなかったから俺は彼女をこの道に誘う事ができたが、事情を知っていたら、誘うのは躊躇ったと思う。声を失ってしまう事を恐れて、他にもっともらしい言い訳をして、やりたい事から逃げていた俺は、ミズキの気持ちが少しだけど……分かるから』

『やりたい事をやりたいって言えないのは、人によって理由は違いますけど、辛いですよね』

『ああ。でも、どういう事情であれ、ミズキは戦う事を選んだ。俺が与えた課題に精力的に取り組み、苦手な事にも自分から果敢に挑戦して、やりたい事をやろうとした。そんなミズキを見ていたら、芝居から──やりたい事から逃げていた自分が馬鹿馬鹿しく思えたんだ。頑張る事から逃げていた自分に気付かされたんだ』

 

 そんな事は無いと、瑞希は今すぐブースに飛び込んで叫びたかった。やりたい事に真摯に頑張る事を教えてくれたのは昴輝だ。そのチャンスを与えてくれたのは昴輝なのだ。

 身体が震えた。芯から震えた。こんな嘘だらけで誤魔化しだらけで情けない自分を、そんな風に言ってくれる昴輝が眩しかった。そんな瑞希の肩を、可凛がそっと抱き寄せる。

 

『怖がりながらでも一歩一歩前進する。ミズキはその大切さを教えてくれた。俺もミズキのように恐れずに前に進もうと思う。やりたい事、芝居を、声優を、俺はまたやりたい。自分に嘘をつくのはもう辞める事にしたんだ』

『なんだかものすっごく青臭くてクサいですが、まぁ私達まだ十六ですもんね。ちなみにそのミズキちゃんも十六なんですよ。臆病な座敷犬みたいでこれがまた可愛いのなんの』

『座敷犬という観点では君も相当ぬぐあ!』

 

 再びペットボトルが昴輝の口を埋めた。

 

『誰が小さいですって?』

『誰も小さいとは一言も言っていないだろう。とにかく、俺はまた声優をやりたいと自分に対して素直に思えた。この業界に携わっていきたい。講師も将来的には本格的にやっていきたい。やりたい事が色々増えた』

『やりたい事……夢ですね』

『ああ。この夢を誰かに託す事もしない。夢は自分だけのものだ。自分で叶えなければ意味が無い。自分に嘘をつくのは今日限りでおしまいにする』

『いやマジクサい。クッサイ!』

『体臭は別に普通だと思うが』

『そういう意味で言ってないですよ!? さっき青臭いって言ったじゃないですか!』

『今更だが、日本語とは難しいな』

『字面通りに受け止めるからそうなるんです!』

 

 音葉の突っ込みに、ギャラリーとスタッフが一斉に笑った。瑞希も可凛と一緒に笑う。

 そんな周囲と呆れる音葉を不思議そうに見渡した昴輝は、咳払いを挟んで、改めて言った。

 

『とにかく、櫻井昴輝は今日からまた声優をやらせていただく事となりました。しばらくはお見苦しい芝居をやってしまうかもしれませんが、何卒宜しくお願い致します』

 

 席を立った昴輝は、見学者達に硝子越しに頭を下げた。激しい拍手が生まれ、それはミキサー室の中にも聞こえてくる。スタッフも一緒に拍手をしていて、瑞希も震える手で必死に手を叩いた。

 音葉は全員の様子に満足そうに肯いた後、どこか挑戦的な表情で昴輝を見上げる。

 

『それで、これからのご予定は?』

『しばらくは喉と役者のリハビリもしながら各オーディションを受けさせていただくつもりだが、当面の目標はミズキとの競演だ』

 

 瑞希の胸が高鳴る。昴輝が冗談を言える人間ではないのは知っているが、まさかと思う。

 

『それは奇遇ですね。実は私もレギュラーとしてのミズキちゃんと一緒にお仕事したいと思ってるんですよ。本当に勉強になりますから』

『なら、どちらが先にミズキと仕事をするか競争だな』

『いいですよ、受けて立ちます。では青臭い青春な話も一区切りついたところでようやく私、佐々木音葉のセカンドシングル《イノセンス》のラジオ初公開行きますぜー! ちなみに櫻井昴輝さんとは番組の最後までお付き合いいただきますので、後半も宜しくお願いしますね!』

『こちらこそ宜しく頼む』

 

 そうして公開録音は順調に消化された。時々不慣れな昴輝が音葉の裏表の性格について地雷を踏んで、その度にペットボトルを口に突っ込まれていたが、二人共始終楽しそうにトークを続けていた。

 三十分後、収録が終わる。緊張から解放されたスタッフ達がお疲れーと互いを労う中、収録ブースから昴輝と音葉が戻ってきた。相当疲れたようで、額には汗がびっしり浮かんでいる。

 

「お疲れ、昴輝。久しぶりの現場で疲れた?」

「一年ぶりでやった事が無いラジオだからどうなるかと思ったが、佐々木に助けられた。やはり君は凄いな。あれだけ喋れるのは脱帽だぞ。ペットボトルはなかなか効いたが」

「だって櫻井さんが天然で変な事言うんですもん。そこはアイドル声優として精一杯フォローさせていただいた次第です!」

 

 ニコニコと笑顔で音葉はアイドル声優の皮をかぶっている。ミキサー室なのでスタッフの姿がある以上、素には戻れないようだ。

 そんな彼女のプロ意識に感嘆した昴輝は、可凛の横で身を縮めている瑞希に歩み寄る。

 謝らないといけない。そんな強迫観念が瑞希の背中を突き動かす。あんなにチャンスをくれたのに。あんなに買っていてくれたのに。あんなに評価してくれていたのに。こんな自分に手を差し伸べてくれていた人に、自分は後ろ足で砂をかけるような真似をしてしまった。

 可凛の支えから離れた瑞希は、震える太腿を抓って叱咤して、でも、昴輝の顔を見上げる勇気がどうしても出せなくて、うつむいたまま謝罪の言葉を口にしようとして。

 

「瑞希」

 

 優しい声音に、弾かれたように瑞希は顔を上げた。

 

「謝らせて欲しい。君に誤解をさせてしまった」

「え……?」

「色々な事情を抱える君に、俺は気がつかないまま、また荷物を背負わせてしまっていた。俺の夢、やりたい事、声優という居場所を、君は引き継ごうとしてくれていた。要らない負担をかけて、申し訳なかった」

「それは、あああの! 私が……私が勝手にそう思っていただけです! 大好きだった声優さんが声優を辞めないといけなくなって、昔のようなお芝居ができないのが苦しくて待っている人達を失望させるのが辛いって言ってて……! それで、私なんかを上手いって言ってくれて、声優になりたいかって言ってくれて、私、恩返ししたいって思って、だ、だから……!」

 

 口が回らない。言いたい事、伝えたい思い、解きたい誤解、沢山あるのに、滑舌が悪いと言われた舌は思うように動いてくれない。情けなくて泣きたくなる。視界が曇る。

 

「瑞希。少し修正させて欲しい」

 

 苦笑を浮かべて、昴輝が言った。鼻水を啜り、ぐしぐしと眼を擦って、瑞希は肯く。

 

「ラジオでも言わせてもらったが、夢とは自分で叶えるものだ。誰かから引き継ぐものではない。そして、叶えたいと思うから夢なんだ。恩返しをしたいからという理由では叶えられない。それではやりたい事ではない。やらなければならない事になる。それでは辛いだけだ」

 瑞希の肩に手を置いて、昴輝は目線を瑞希と同じ位置にする。

 

「いつか君に言ったと思う。夢は逃げない、逃げるのは自分だと。これは俺自身にも言えた事だった。偉そうな事を言って済まなかった」

 

 瑞希は首を横に振る。そうする度に目頭に溜まっていた涙が散った。

 

「進路調査票を届けた時にも聞いたが、もう一度聞く。今度は何も気にせずに自分のやりたい事を何の気兼ねも無く言って欲しい、叫んで欲しい、やって欲しい。君の周りには、それを笑顔で助けてくれる人達がいる」

 

 肯く。

 

「君は声優になりたいか?」

 

 あの時も、自分に嘘をついた訳ではない。

 でも、自分を評価してくれた昴輝に応えたいと強く思った。

 今回は違う。その思いもあるけれど、それ以上に心の底から思ったのだ。

 声優になりたい。こんな素敵な人達の中で、自分の好きな事をやってみたい。

 

「──はい!」

 

 力強く、瑞希はそう答えた。

 

 

 

 ラジオから間もなくして、オーディションは始まった。正確に言うなら、一次選考とも言うべきデモテープによる書類選考だ。郵送では時間がかかる為に公式サイトから音声データを送信する形で受付が始まったのである。

 この一次選考で参加者は一気に絞られ、通過者には二次選考に必要な資料がメールで送られてくる。

 瑞希は特に問題無く一次選考を突破した。二次選考は送られてきた資料に沿って芝居を行い、その録音データを再度主催者へ送るというものである。

 これも恙無く通過した。あのラジオの後から朝練と称して、朝六時から演劇部の部室で発声、イントネーション、滑舌等を鍛え、放課後になれば事務所の稽古場が使える限り演技指導も行っていたのだ。瑞希が本来備えている演技力も考えれば、これは当然の結果である。

 最終選考の会場の場所や当日のスケジュールのメールが送られてきたのは、二次選考通過が発表された翌日、金曜日である。

 

「最終試験の内容は当日発表、ぶっつけ本番という訳か。あの藤見さんが仕掛け人である以上、何が出されるか分からん。だが、明日の稽古は休みとする。今日までやれる事はやった。結果はおのずとついてくる」

「わ、分かりました! じゃ、明日は溜めに溜めたアニメの消化に当てます!」

「お。じゃ今度こそ瑞希ちゃんの家にお邪魔していいかな? 昴輝も行くよね?」

「ああ。アルキュオーネの抱き枕とやらもこの眼で見てみたいからな」

「く、黒野さんもいらっしゃるんですか……?」

「駄目なのか?」

「そ、そんなションボリしないで下さいよ。大丈夫です、よ? あの、それで佐々木さんをお誘いするのは……?」

「さすがにそれは無理だ。あのラジオ以降、仕事が立て込んでいるらしく、稽古にも参加できていない有様だ。それに日曜日は敵同士となる。それまでは緊張感を持って接するべきだ」

 

 ラジオの公開録音日から、昴輝達は音葉と会っていない。マーシャルビジョンの意向に沿う事を決めた音葉は、あの時昴輝に宣言した通り、稽古には参加していなかった。

 明後日のオーディションが公平なものではなくなってしまった事実を、昴輝は瑞希に伏せていた。もちろん頑張っている瑞希に言うタイミングを逸してしまった訳ではない。敢えて伝えていなかった。伝えたところで、今はモチベーションを漲らせている彼女に水を差すだけになってしまう。

 

「ねぇ昴輝」

 

 稽古場の鍵を事務所に返しに行く時だ。瑞希を一人で待たせた可凛がついてきた。

 

「オーディションの本当の事、瑞希ちゃんには本当に言わなくてもいいの?」

「ああ。下手に事実を伝えても、瑞希のやる気を下げるだけだ。それは避けたい」

「それは分かるけど、でも、それじゃ……」

 

 彼女の懸念は言われるまでもなく分かる。明後日のオーディションは結果が決まっている出来レースだ。参加するだけ無駄と言える。ならば事実を瑞希に話して、今回のオーディションを諦めるという選択肢もあった。

 馴染みの事務員に鍵を返却した昴輝は、可凛を連れて階段を下る。

 

「実はな。例のオーディション、仕様変更があったんだ」

「使用変更?」

「そうだ。応募枠を倍に増やすという以外に詳しい事は不明だが、このオーディションの責任者は藤見さんだ。何を仕掛けたのか分からなくて、電話で聞いてみた」

「電話で!? いいの、そんな事して……?」

「公正なオーディションでなくなるのを藤見さんは認めたんだ。なら、こちらも責任者と連絡を取れるコネを活用してもいいだろう? 藤見さんにそう言ったら、散々渋られたが答えてくれた」

「昴輝も何だか強引になったね。それで、オーディションはどうなるの?」

「詳しくは言えないし、マーシャルの出来レースは変わらないが、出る価値はあると言われた。ただし、結果は保証しない、ともな」

 

 だから瑞希にオーディションを受けさせる決意をしたのだ。

 藤見鷹也は決して腹の底を見せない人間だが、嘘は言わない。彼が結果の決定しているオーディションに出る価値があると言った以上、ただ大規模なオーディションを経験する以上の何かがあるのだ。彼と何度か仕事をした昴輝が確証を持ってそう言える。

 

「俺達が望む結果にならない確率の方が遥かに高い。だが」

「うん。ちょっとでも可能性があるなら、賭けたいね!」

 

 後ろから着いてきていた可凛がどんっと昴輝の背中を押した。昴輝は縺れる足で階段を駆け下りて、待っていた瑞希と正面衝突。危うく押し倒しそうになるが、そこは男子として踏ん張って、瑞希をしっかり支えてやる。

 

「危ないぞ可凛。瑞希は明後日に決戦を控えている身だぞ」

「だ、大丈夫、です。ちょっと、びっくりしましたけど……」

 

 昴輝から解放された瑞希は、半歩彼から距離を取って、もじもじと身じろぎをする。

 

「はーい。ところでさ、ものすごーく今更だけど、昴輝も瑞希って呼び始めたよね」

 

 瑞希の背中に回って彼女の肩を抱き締めながら、可凛がニヤニヤと笑った。

 

「ラジオで言ってから、こちらの方がしっくりくるようになってな。瑞希は嫌か?」

「ぜ、全然嫌じゃないです。それどころか恐縮というか恥ずかしいというか。あ、あの、私の方からも今更なんですけど、あのラジオ、どうして昴輝さんは出る事になったんですか? 復帰宣言の為にって理由は分かるんですけど」

「本来のゲストがスケジュールの都合で来られなくなったという話は本当だ。それで代役を探していたんだが、それが収録三日前で、なかなか見つからなかった。そこで俺が僭越ながら参加させていただいた、という訳だ。どうすれば君に話を聞いてもらえるかを考えていたところ時で、まさに渡し舟だったよ。君なら、佐々木のラジオは確実に聞くと踏んだんだ」

「まぁ、それでも落ち込んでて聞きそびれちゃうかもしれないから、公開録音に連れて行った方が確実だって事で、私がお迎えに行ったの」

 

 可凛がそう結ぶと、瑞希は納得した様子で肯いた後、ご迷惑をおかけしましたと深々と頭を下げた。

 

「まぁでもあれだね。昴輝も宣言しちゃった以上はリハビリ頑張らないとね。ねーねー白執事のアルフレッドやってー」

「わ、私も聞きたいです!」

「無理だぞ。復帰は決めたが、一年もブランクがある。本格的な喉のリハビリもしなければならない。いきなりアルフレッドをやれと言われても今は難しい」

「いや。何もそんな真面目に受け取らなくても」

「……ですよね」

「瑞希ちゃんもそんなにションボリしなくても。あ、ねー昴輝。リハビリ必要なのは分かったけどさ、アルフレッドで瑞希ちゃんにオーディション頑張れって言ってあげるのも駄目?」

「そういう目的ならアルフレッドではなく、黒野昴輝として、瑞希に頑張れと囁こう」

「じじじじじじゃあ! み、みみみ、耳元でお願いしまひゅ!」

「じ、じゃ、瑞希の次はあたしで。あたしもモデルの仕事で色々あるからさー」

「お前は必要ないだろう、可凛」

「……な、なんでよ。あたしだって頑張れって言われてみたいっていうか……」

「高校生になってから仕事を減らしているようだが、やる時は常に頑張っているだろう? 頑張っている人間にさらに頑張れというのは些か無粋だ。雑誌に載っているお前の表情を見ていれば、お前の真剣さは分かる」

「……だ、そうですよ、可凛さん。良かったですねー」

「っ~~~~~~~~~!」

 

 そうして金曜日は終わって。土曜日は瑞希のマンションにお邪魔して三人で遊び倒して。

 日曜日──ヒロインオーディション当日を迎えた。

 

 

 

 会場はお台場ビッグサイト東第一ホール。アニメのヒロインオーディションの場所としては異例の会場である。

 ゆりかもめに揺られて最寄の駅で降りた昴輝達を、すでに集結している大勢の観客達が出迎えた。マスコミらしき人間も多く、アイドル声優が広く認知されている昨今、この前例に無い大規模なヒロインオーディションは世間からも注目されているようだった。

 昴輝達は最終オーディション参加者のゲートから中に入り、控え室となっている広い会議室に通された。すでに多くの参加者達が集まっていて、それぞれ準備を始めている。

 

「大体二十人くらいかな?」

 

 会議室を見渡しながら瑞希が呟く。

 

「時間まで余裕がある。まだ増えるだろう。瑞希、ストレッチと発声をやっておくぞ」

「は、はい」

 

 瑞希が肯いた時、彼女は部屋の隅で軽い発声練習をしている音葉に気付く。

 

「佐々木さん!」

 

 瑞希が駆け寄ると、音葉は嬉しそうにはにかんで彼女を迎えた。

 

「ラジオぶり。元気してた?」

「はい! 佐々木さんもお元気そうで! あ、あの、今日はお互い頑張りましょう!」

「はじめて会った時言わなかった? 頑張るのは当たり前だって」

 

 咎めるように言う音葉。その表情は優しく笑っているが、どこか翳があった。心なしか、声にも覇気が足りていない。それは昴輝にもすぐに見て取れた。

 

「佐々木。今日はお手柔らかに頼むぞ」

 

 昴輝が声をかけると、音葉はさらに憂いを強める。何か大きな罪を犯したような表情で、彼女は声に出さずに微かに肯くだけだった。

 ここまで来て、一体何を気にしているのか。

 

「可凛。瑞希のストレッチと発声練習だが、ここは少し混んでいる。廊下に出てはじめてもらっていて構わないか?」

「うん、もちろん。行こ、瑞希ちゃん」

「はい!」

 

 二人が廊下に出た事を確認した昴輝は、溜息をつきながら音葉に切り出した。

 

「そんなつまらん顔をするな。君は瑞希のライバルだろう? ライバルがそんな事では、瑞希も気になって全力を出せない」

「……あんた、多村にオーディションの事言ってないの?」

 

 肯くと、批難めいた眼で睨まれた。昴輝は声を潜ませて、静かに答える。

 

「藤見さんが、このオーディションには受ける価値があると言っていた。あの突然の仕様変更に何かあるのだと思う」

「だから、それに乗ったって言うの?」

「ああ。そもそもこのオーディションに受かる事が、うちの事務所に瑞希が所属する為の条件だった。マーシャルの横槍が発覚した後、一郎兄さんはこの条件を無しにしてくれたが、どちらにしろこのオーディションに合格するくらいの箔が無ければ、うちのような俳優専門事務所で声優を預かる事はできない」

 

 そう。箔が欲しいのは何も音葉だけではない。瑞希も欲しいのだ。藤見が稽古場でオーディションの八百長を告げた時、聡一郎も瑞希のアルト所属の条件にしていた事を撤回済みである。だから、無理にこのオーディションの合格を目指す必要は、昴輝達には無かった。

 でも、昴輝達はここにいる。

 

「瑞希にはアルト・プロダクションで声優の仕事をしてもらいたいんだ。例えそれが俺の我侭であってもな。近くで見ていたいんだよ、瑞希の成長を」

「……あんたにしては珍しく強情ね」

「ああ。俺も驚いてる。それに、君にとっても瑞希のオーディション参加は悪い事じゃないはずだ。ライバルがいれば張り合いが出るだろう?」

「……それは、そうだけど。でも、藤見さんが受ける価値はあるって言ったとしても」

 

 それは酷く細く小さな声だった。それこそ許しを請う子供のように。

 昴輝は苦笑して、彼女の額を小突く。

 

「そんな弱気だと、会場で下手を打つぞ。どういう仕掛けがあるにしろ、結果そのものは決まっている。だが、その決まっている結果に対して、君が似合うだけの力を発揮しなければ駄目だ。さもなければ、オーディションが終わった後、ネットで大炎上だぞ?」

「な、なによ。もしかして出来レースじゃなかったらあたしが落ちるって言いたいワケ?」

「誰もそんな事は言っていない。ただ、自分の為にこの事態を受け入れると言っていたのに、今はとてもそうは見えないからな。それでは落とされるだろう参加者達に失礼だと言った」

「っ!」

 

 鋭くなる目つき。つり上がる口元。鋭くなる物腰。

 佐々木音葉は昴輝の胸元に指を突き立てると、はじめて会った時のように、低く告げた。

 

「いいわ。この佐々木音葉の実力、全部見せてあげる」

「その息だ。そうでなくては張り合いが無い。君には常に瑞希の先を行ってもらわないと、目標であってライバルがいなくなるから」

「ふん。まぁあたしが先に進むのは当然だけど、あんたもちゃんと追いかけてきなさいよ。じゃないとラジオで言った競争、私の勝ちなんだから」

 

 その時、瑞希がとてとてと戻ってくる。

 

「あ、あの、黒野さん」

「ああ、待たせた。行こう」

 

 瑞希と連れ立って廊下に出ようとすると、今度は瑞希が音葉の前に戻って、宣言した。

 

「負けません! 私は、佐々木さんや黒野さんのような素敵な人達と一緒に、この素敵な声優ってお仕事をしたいから! だから、今日は勝ちます!」

 

 ポカンとしていた音葉は、やがて笑う。今度は憂鬱な翳も無い満面の笑顔だった。

 

 




私が最後に聴いた声優のラジオは、「林原めぐみのTokyo Boogie Night」です。
一番ハマって聴いていたのは、「岩男潤子と荘口彰久のスーパーアニメガヒットTOP10」です。

歳感じるなぁ……(´・ω・`)

アニメガ終わった後に子安武人さんのラジオを続けて聴いて、他にも何か聴いて、3時くらいに寝ていた頃が懐かしい。

ラジオのシーンを書く為に今の声優ラジオはどんな感じなのかなぁと、ガルパンのwebラジオを参照しました。あんまり変わってなくて安心しました(ぉ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終回:私は──逃げない──!

 最終オーディションはまず三次選考から行われる事となった。

 参加者は総勢三十五名。最終選考案内のメールと共に配布されていた約一分間の台本をそれぞれステージ上でこなし、終了後、審査員が投票して最終五名を選出する。審査員は主にアニソンを発売しているレコード会社の重役や出版社の幹部、マーシャルビジョン社長、ベテラン声優、それから藤見鷹也プロデューサーと錚々たる顔触れだ。

 そのベテラン声優が高端かすみであるのは、どういう事なのか。恐らく藤見の差し金だろうが、四十代から上の男性の中で彼女の存在は随分と浮いていた。本人は楽しんでいるようで、審査員の中で最も多くオーディション参加者に質問を繰り出していた。

 三次選考は午前中を使って行われ、投票と休憩を兼ねた一時間後に投開票が実施。名前を呼ばれた五人の候補達が広大なステージに登壇する事となる。

 瑞希は、最終五名の最後の一人として呼ばれた。

 この時点で本人である瑞希も可凛も泣くほど喜んだ。昴輝も表面上は平然としていたが、飛び上がりたくて疼く身体を諌めるのに必死だった。

 その五名の中に音葉がいたのは言うまでもない事である。

 

「残りの三人は、やはり現役声優か?」

「うん。音葉ちゃんほどじゃないけど、三人共凄い売れっ子だよ。それに、確か所属はマーシャルビジョンじゃなかったかな」

 

 だとすれば、これは完全な敵陣だ。昴輝はステージの脇に設けられた審査員席についている業界の重役達に視線を向けた。その中のマーシャルビジョンの社長は満足そうに肯き、横の席の藤見に耳打ちしている。この後の段取りでも決めているのか。さぞやご満悦だろう。

 一方で藤見は、相槌を打っている様子だが、その眼はステージ中央で並んでいる五人の候補達を捉えて離さない。その中の誰を見ているのか。

 瑞希であって欲しい。だが、音葉を除いた三人の現役声優は、いずれも演技力に長けている。正直言って、この中では瑞希は凄まじく地味だ。例え藤見が何かしらの救済措置を用意しているとしても、それは瑞希の為に用意されたものではないだろう。

 

「すべては最終の選考基準次第か」

 

 瑞希の最大の武器は役作りの深さだが、それすらもこの最終選考では頼りにできない。

 台本が無いのだ。事前に用意されるものではなく、説明もされていない。こちらで好きなものを用意できれば良かったのだが、それは高望みでしかなかった。

 

「それでは最終選考について、藤見鷹也さんからご説明を賜ります!」

 

 司会者がマイクを持って審査員席の彼へ駆け寄る。

 可凛がぎゅっと昴輝の袖を掴む。壇上からは不安そうに身じろぎをしている瑞希が昴輝に縋るような眼を向けてくる。昴輝は二人にどうしてやる事も無く、早鐘を打つ心臓と極度の緊張で眩暈を覚えた。

 音葉は、何をする訳でもなく、マイクを握った藤見に注目した。

 

「はいどうも。エイトランスの藤見鷹也です。まずは残った五名、おめでとうございます。正直この規模のオーディションは業界でも稀というか、ほぼ初のはずですね。なので、仮にここで落ちたとしても、あの敏腕プロデューサーの藤見が仕切ったオーディションで最後まで残ったぞーって自慢できます、はい。他に良い事は無いけどね」

 

 会場全体がどっと沸いた。審査員達全員も苦笑して、瑞希や音葉達も苦笑いを浮かべた。

 

「ひ、拾い上げとか無いって事……?」

 

 可凛が絶望を呟く。昴輝も藤見が言っていた価値は拾い上げの事ではないかと思っていたが、宛ては外れた。では一体どういう事だ。

 

「はいはい、笑って緊張も少しは解れたところで最終選考といきましょうか。えーとですね、台本か何か用意しようと思ったんですが、仕様変更で枠を広げた影響でそういうのやってる暇無かったんですよ」

 

 残りの審査員も会場も瑞希達も昴輝達も、全員が絶句した。ビッグサイト東第一ホールが、綺麗な沈黙に満たされる。

 藤見は悪びれた様子も何も無く、頭を掻きながら続けた。

 

『なので、この場で即興をやっていただきます。僕達審査員も含めた会場全員の心をガッチリ掴み、違う世界を体験させて欲しい。生きた台詞、生きた言葉、生きた感情を、君達五人に求めたい。お題は限定しません。既存の物でもこの場の即興でも何でも構いませんよ』

 

 動揺は壇上の五人の候補だけではなく、会場全体に広がった。誰もこんな事は予期していなかっただろう。マーシャルビジョンの社長を含めた審査員全員も困惑した顔で藤見に声を掛けている。

 

「あの人、ホント無茶苦茶なんだね……」

 

 呆れる可凛に、昴輝は無言で同意する。果たしてそんな自分勝手なお題で、新作アニメのヒロインオーディションの最後を飾って良いのか。いや、常識的に考えて良くない。

 声だけの演技で、見る者の心を奪い、別の世界へ誘う。昴輝が目指す声優としての完成形だ。それをこの場でやれ、と言われた壇上の五人には同情するしかない。

 音葉も何も聞いていなかったようだが、それほど動揺はしていない様子だ。藤見とはラジバトで一緒に仕事をしただけあって、その奔放ぶりには慣れているのだろう。他の三人は顔色を変えてあれこれ頭を巡らせている。

 そして瑞希は、口を半開きして放心状態だった。

 

「いかん。混乱を通り越えて頭が回っていない」

「瑞希ちゃーんー! おいコラ瑞希ぃー! 何でもいいから何か考えてー!」

 

 手でメガホンを模して吼える可凛だが、瑞希に復旧の兆しは見えなかった。

 そうしている内に、藤見が続けた。

 

「制限時間は一分。まぁこの場にいるほぼ全員がプロだし、大丈夫でしょ?」

「おいクソジジィ! 瑞希だけプロじゃないでしょうがぁ嗚呼!?」

 

 殺気立った可凛の絶叫は、どうやら藤見に届いたらしい。やほーと笑顔で手を振られてしまった。可凛は声にならない雄叫びを上げて地団太を踏み、周囲を無駄に威嚇する。

 

「今素晴らしいオッパイ女子高生からゾクゾクくる罵声が飛んできました。いいねー現役女子高生に罵声を浴びせられるなんて。僕等の業界ではご褒美です」

「可凛、落ち着け。待て。お前が騒ぐと瑞希が余計にテンパるぞ……!」

「セクハラジジイ! ちょっと降りて来いマジで!」

「彼氏さん、そのままちゃんと押さえてて下さいよ? じゃ時間も無いのでちゃちゃっと進めましょうか。まずは佐々木音葉さん。はじめる前に何やるから教えて下さい」

 

 席を離れた藤見が音葉に歩み寄り、彼女にマイクを渡した。

 音葉は心底呆れた眼で藤見を睨み、溜息を一つ。軽くうつむく。

 そして上げた顔には、歌って踊れるアイドル声優佐々木音葉が常に浮かべていた笑みは無かった。凛と美しく、端麗とした真剣さがあった。

 

「佐々木音葉。お題は《ラジカルButlerS》の主人公アルキュオーネ」

 

 会場が微かにざわめく。でも、それはやがて小さくなっていって、最後には消えた。

 アルキュオーネは音葉の当たり役である。彼女が最も良い芝居ができるキャラクターだ。藤見が公言した通り、生きた台詞や感情を求めているのなら、良い選択だと昴輝は思う。

 軽く深呼吸。唇にマイクを添えて。

 

 

「────行きます────ッ!」

 

 

 明るく、元気に、朗らかに。家を飛び出す子供のように無邪気に。

 佐々木音葉は台詞を紡ぐ。

 それは、決して大きな声ではない。

 マイクは収録用の高感度高精度なものでもない。

 それなのに、その宣言は会場全体の空気を静かに震わせた。

 音葉は眼前へ手を伸ばして指を伸ばす。何かを掴むように。何かを引き寄せるように。

 

 

「今度は逃げない。眼を背けない。飛びたいって気持ちから──空を走るって夢から!」

 

 

 指が何かを引っ掛ける。そして掴む。

 何を掴んだのかは誰にも見えない。分からない。

 でも、音葉は何かを掴んだ。

 昴輝は、ぞくっと背中を震わせながら、そう感じた。

 音葉はすぐに次を継がない。眼を伏せて、顔を伏せて、感情を伏せた。

 息が、詰まる。

 やがて音葉が顔を上げた時、そこには笑顔が花開いていた。

 

 

「私は──逃げないんだぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!」

 

 

 それは、巨大な国際展示場の会場そのものが基礎から震え上がるような感情の絶叫だった。

 足元から眼前へ。眼前から天井へ。顔を上げて叫び上げた音葉は、大きく肩で息をつき、ツーサイドアップの豊かな髪を翻して藤見にマイクを叩きつけるように渡した。

 

「次の人に渡して下さいね!」

「お、おう」

 

 アイドルの笑顔で愛らしく言われた藤見は、鳩が豆鉄砲を食らった顔で肯いた。

 これまで多くのアニメ作品を制作してきた藤見が呑まれてしまうほどの圧倒的な感情は、会場の空気を完全に制圧していた。それだけの決意だったのだ。それだけの楽しさだったのだ。

 アルキュオーネであって、アルキュオーネではない。既存の物であって、しかし違う。

 ラジバトの一話冒頭のアルキュオーネは、これほどの活力に溢れていなかった。

 今の芝居は、佐々木音葉の自分への宣戦布告だ。

 アイドル声優だけではなく、一流の表現者、声優を目指していくという宣言だ。

 昴輝にはそう感じられた。

 そして瑞希も、そう感じていたようだった。

 静まり返った会場に、瑞希が一生懸命叩く拍手の音だけが響く。審査員も含めた会場の関心が、まるで自分の事のように興奮して飛び跳ねながら手を叩いている瑞希に集中した。

 そんな瑞希に、藤見はマイクを差し出すが。

 

「どうして佐々木さんの次が唯一素人の私なんですかおかしいですよバカなんですか!?」

「審査するプロデューサーをバカ呼ばわりとは良い度胸してんじゃねーか」

 

 藤見がごんっ、と瑞希の額をマイクで小突く。鈍い音と悲鳴。額を抱えて蹲る瑞希の首筋にマイクを捻じ込んだ藤見は、高笑いしながら去ってゆく。ようやくダメージから復旧した瑞希が涙眼で立ち上がろうとすると、マイクが背中を通過して、そのままステージの床を一撃。

 甲高いマイクのハウリングと二度目の瑞希の悲鳴が、会場の笑いを呼んで。音葉の芝居の余韻を少しずつ溶かしてゆく。

 

「瑞希! マイクを拾え!」

 

 昴輝は声を張り上げる。横隔膜を使った腹式呼吸は、喉を潰してから約一年ぶりだった。少し錆付いていた。喉が少し痛んだが知った事ではない。

 その声に背中を小突かれるようにして、瑞希は何とかマイクを拾って、いそいそと立ち上がった。会場を一望した彼女は、顔を緊張で紅潮させながら、精一杯笑う。昴輝に笑い、可凛に笑い、最後に同じステージに立っている音葉に笑った。

 

「多村瑞希です。お題は《ラジカルButlerS》の主人公アルキュオーネ」

 

 今度の会場のざわめきは、音葉の時とは比較にならなかった。審査員にも動揺が走る。元祖である音葉がそこにいて、しかもその元祖の演技の直後なのだから当然の反応だ。

 ここで瑞希の判断に納得できたのは、昴輝と可凛と音葉、そして満足そうに顎を撫でている藤見くらいだろうか。

 瑞希は深呼吸をする。音葉のような静かなものではない。これから長距離走に挑む陸上選手のように、全身を使った大きな深呼吸だった。

 一回、二回、三回。

 そして、会場は沈黙する。

 

 

「────行きます────」

 

 

 静かに、噛み締めるように、愛を囁くように。

 多村瑞希は言った。

 佐々木音葉の弾けるようなアルキュオーネではない。

 それなのに、確かな力強さがある。たったの一言に、息吹が秘められている。

 瑞希は眼を伏せ、マイクを握っていない左手を胸元で握る。何かを実感するように。何かを胸へ秘めるように。

 

 

「もう逃げない。自分に嘘をつかない。飛びたいって気持ちから。空を走るって夢から」

 

 

 僅かな台詞の改変は、自覚したものなのか。それとも無意識なものなのか。

 ゆっくりと掌を開けてゆく。そして天井へ掲げる。

 小さな掌には何も無い。誰の眼にも見えない。分からない。

 でも、瑞希は何かを解き放った。

 昴輝は、ぞくっと背中を震わせながら、そう感じた。

 瑞希は離れてゆく何かを眼で追う。

 息が、詰まる。

 やがて瑞希が両手でマイクを持った時、彼女は誰ともなく肯いて。

 

 

「私は──逃げない──!」

 

 

 

 

 

「ごめん遅れた!」

 

 稽古が始まって三十分が過ぎた頃。制服姿の音葉が息を切らせて稽古場に飛び込んできた。

 

「あ。佐々木さんお疲れ様ですー」

「済まんが先にはじめているぞ。今日は仕事が入っていないと聞いていたが、どうした?」

「うちの担任ってホームルーム長いの」

 

 荷物を降ろしながら、音葉はその場で堂々と制服を脱ぎ始めた。

 本格的に音葉を迎え入れて稽古を始めた時、そのあまりの無防備さに、朴訥極まる昴輝も顔を羞恥に赤くしていたものだ。今では全く動じない。何せ制服の下は稽古用の運動服なのだから。Tシャツとホットパンツの出で立ちとなった音葉は、瑞希の横で柔軟体操を始める。

 

「今日は音葉ちゃんも入るし、台本の読み合わせができるかな?」

「ああ。いつものメニューを消化したら読み合わせだ。二人共、それでいいか?」

「はい! もちろんです!」

「当然。瑞希と一緒に稽古できる時間は限られてるし、ぱぱっとやるわよ」

 

 瑞希と音葉が返事をした時、稽古場の扉が開いて、聡一郎が顔を覗かせた。

 

「お。今日は佐々木付きか」

「稽古場お借りしてまーす」

「おう。使えるモンはドンドン使え。ちょっと見学していっても構わないか?」

 

 駄目なはずが無い。昴輝が二つ返事で答えると、聡一郎は椅子に座って準備運動を消化してゆく瑞希と音葉を見遣る。その眼はとても満足そうだった。

 

「それにしても、藤見さんにはやられたな」

 

 反芻するように聡一郎が呟くと、昴輝は深々と首肯した。

 

「はい。ああいう仕様変更だとは予想外もいいところでした」

「マーシャルんとこの社長も寝耳に水だったみたいだしな」

 

 二週間前のオーディションを思い出しているのだろう。聡一郎は肩を揺らして笑った。

 今となっては笑い話だが、あの時は昴輝も生きた心地がしなかった。壇上に立っていた訳ではないのに、自分の事よりもずっとハラハラさせられたのだから。

 

 

 

 五人の演技の終了後、藤見は司会に審査員による結果の協議要請をした。

 時間にして五分。オーディションの規模を考えれば浅慮と言える短すぎる協議の時間に、会場がにわかに喧騒を帯びた。昴輝と可凛はやはり出来レースという結果を変えられなかったのかと落胆してしまったが、壇上の瑞希は登頂したような清々しい表情だった。

 司会からマイクを受け取った藤見は、これまでと分からない軽い口調で口火を切った。

 

「いやーお待たせしました。色々な意味で意見が割れましてね。ちょっと纏めるのに時間がかかりました、申し訳ない」

 

 咳払いを挟み、審査員席を一瞥する藤見。マーシャルビジョンの社長はどこか納得していない顔だが、無言で腕を組んで憮然としている。一方で高端かすみは満面の笑顔だ。

 

「結論をお伝えする前に、ちょっと小話をさせて下さい。また、歯に衣着せぬ物言いになってしまう事を先に謝罪しておきますね。製作側としての意見とお客さんとしての意見、二つの面から色々と言わせていただきます。ネットの某呟くツールを使いたい方はご自由に実況なさって下さい。SNSもガンガン使っていただいて構いません。

 今回のオーディションにはプロも参加可能という事で、半数がプロ、他はほとんどが養成所や専門学校在学生の方々という割合でした。その中でアフレコ現場の経験はあってもほぼ素人で養成所等にも属していないのは、最終五名の中では多村瑞希さん一人だけです。ちなみにその多村瑞希さんの演技ですが、素人としては驚異的です。しかし、この五名の中では特別に図抜けていた訳ではありません。単純な演技の技術に拘るなら、他にも良い方はいらっしゃる。それでも僕は多村瑞希さんを推薦しました」

 

 会場のざわめきは、これまでで最も大きいものだった。

 耳をつんざく喧騒の中、昴輝は歓声を上げて抱き着いてくる可凛を受け止めるので精一杯だった。まさかこんな。これが受ける価値があるという事だったのか。だが、それでは完全な無名素人声優の起用となる。それは果たしてプロデューサーとしての藤見が望むものなのか。

 瑞希は異国語でも聞いたような顔で小首を傾げていて。そんな彼女のこめかみを、苦笑した音葉が乱暴に小突いている。

 会場が少し落ち着くのを待って、藤見は続けた。

 

「本物が一緒にいるのに、ラジバトのアルキュオーネをお題に使う度胸も良い。しかもその本物が演技した後に、その本物とは全く違うベクトルのアルキュオーネを演じた。

 そう、本物。この場合は佐々木音葉さんのアルキュオーネですね。

 彼女が先に演じたアルキュオーネとは違うのに、でも、多村瑞希さんのアルキュオーネもまた本物だった。僕がプロデュースした作品なので間違いありません。既存物に引っ張られない別物なのに本物。二人目のアルキュオーネがいたんですよ。ガッツリ心臓をキャッチされましたよ、僕は。

 多村瑞希さんにはキャラクター性やその心理、性格等を非常に上手く捉える才能がある。それが高い演技力に繋がっている。声優にとって『このキャラはこの声じゃない』と言われる事が一番応えるところですが、彼女には余程声質の違うキャラクターでない限り、合わせられる能力があるんです。これは培って持てる技能じゃない、天性の才能だ。多村瑞希さんになら、僕は新作アニメのヒロインを任せられると確信しました」

 

 いつからか、藤見の声には熱が篭っていた。未だに渋面の審査員達に対してだけではなく、会場全体に訴えるような強さを帯びていた。

 

「一方で、完全無名の声優を新作アニメのメインヒロインに据えるのは、現状のアニメ業界的には色々とリスキーです。この作品の主題歌はメインヒロイン役の子に歌ってもらう予定で作詞作曲をしているので、まず歌唱力が高くなければ困ります。有名声優が歌った方が単品としても売れるでしょうし、リリース予定のキャラクターソングにも同じ事が言えます。無名声優では話題性はありますが、だからといってビジネスとして成立するかは微妙なラインです。なので、多村さんと一緒に候補に挙がっていた佐々木音葉さんも起用しようと考えた訳です」

 

 今度は音葉が眼を白黒させる番だった。自分を指差し、視線で問いかける音葉に、藤見は強く肯く。

 

「今回のオーディションはメインヒロイン選抜のものですが、この作品にはもう一人鍵になる重要なヒロインがいます。まぁあれです、ダブルヒロインアニメです。皆さんだって可愛くて魅力のあるヒロインが二人いた方が萌えられるでしょう? その子を佐々木さんに託そうと考えました。

 さて、如何でしょう皆さん。賛同が得られればこの案でいこうと思いますが、もし駄目なら、お客さんが喜ぶものを提供する側として別の解決策を見つける所存です」

 

 芝居がかった仕草で会場へマイクを翳した藤見の眼には、しかし、どんな反対意見が飛んできてもこの考えを曲げない強い意思が爛々と輝いていた。その強烈な眼が審査員席についている重鎮達を屈服させたに違いない。

 ダブルヒロイン。仕様変更とは、もう一人のヒロインのオーディションも同時に行うという事だったのだ。

 

 

 

「藤見さんが呟きサイトを使った実況を許可した所為で動画まで一気に拡散して、二週間経った今でもネットじゃこの話が尽きないとはね。話題作りとしては藤見さんが狙った通りだな」

「それでも、会場にいた人達全員が拍手喝采で藤見さんの提案に同意してくれたからこそ、こうやってまた瑞希の面倒を見る事ができている。どういう思惑だろうと感謝は尽きません」

 

 藤見の問いかけに、会場に集まっていた客達は盛大な拍手を送った事で、多村瑞希と佐々木音葉の同時合格が決定となった。瑞希が当初予定されていたヒロインを担当し、音葉がもう一人のヒロインの座を射止めた。

 その開催規模から元々インターネットでも大きく注目されていた企画だけあって、その熱気はなかなか醒めない。人気沸騰中のアイドル声優と完全無名の声優の組み合わせは、眼の肥えたオタク達にとっても刺激的だったらしい。

 多村瑞希は聡一郎との当初の約束通り、アルト・プロダクションの所属となった。

 

「面倒見るのは瑞希だけじゃなくて佐々木音葉もだろ? でも、マーシャル的にはこのままでいいのか?」

「オーディション後はさすがに社長直々に駄目だと言われたそうですが、最終選考の時の芝居は俺達と関わったからこそできたと言って、ここに来る事を認めさせたらしいです」

「へー。そりゃまた指導側としては冥利に尽きるってモンじゃないか」

「指導側など滅相も無い。声優に復帰するって、この前言ったじゃありませんか。オーディションで瑞希が見せた芝居、あれが俺の目指す声の芝居の完成形です。俺も、あれができるようになりたいんですよ」

 

 柔軟体操を終えた瑞希と音葉に、昴輝は十分の休憩後に発声練習を行う旨を伝える。可凛が駆け寄って、タオルを渡してやる。

 かしましく騒ぐ三人を眺めながら、昴輝は言った。

 

「瑞希と佐々木からは、自分に嘘をつかない事を教わりました」

「誰かに何かを教えるってのはそういう事だよ。自分も、その誰かから何かを教わってる。でも、無茶はするなよ」

「なら無理をしましょうか。暫くはリハビリをキッチリやるつもりです。可凛が煩いので」

 

 すると、聡一郎は椅子ごと昴輝に向き直って、胡乱な眼で彼を見上げた。

 

「前々から言おうと思ってたんだけどな。お前さ、可凛と付き合ってんの? どうなの?」

「俺にあいつは勿体無さ過ぎます。中学の時、あいつに直接そう言いました」

 

 その時、離れた場所で談話していた瑞希達が素っ頓狂な悲鳴を上げた。

 

「はぁ!? あんた、あいつにフラれてたの!?」

「フ、フラれたとか何というか。中学の時、昴輝がまだ喉壊しちゃう前だったんだけど」

「ここここ、告白したんですか!?」

「う、うん。でも、その時の昴輝は、何というか、自分の夢に恋してるような感じでさ。あたしなんて全然眼中に無くて。俺には勿体無いって言われちゃって」

「でもこのままだと、あいつまた声優始めちゃって、夢に恋しちゃうっぽいけどいいの?」

「いい、かな。昴輝は芝居やってる時が一番格好良いから。あたしは、そんな昴輝が好きになった訳だし。あーでも、喉のリハビリ終わる前には、まぁ」

「可凛さんマジ天使! 私、本気で応援しますよ!」

「……ふーん」

「どうしたんですか音葉さん、心底面白くなさそうな顔してますけど。ま、まさか……!?」

「バ、バカ! アイドル声優が恋愛沙汰なんて死ぬわ!」

「私まだ何も言ってませーん」

「っ!? 瑞希、やっぱあたしを名前で呼ぶの禁止! 先輩と敬え!」

 

 瑞希の胸倉を締め上げる音葉を指差しながら、聡一郎は苦笑いを浮かべた。

 

「だそうだぞ。良かったなリア充」

「すいません、一郎兄さん。今日の演技指導の事を考えていたら何も聞こえませんでした」

「やっぱ難聴系鈍感だ、お前。最近のオタクからはその属性嫌われてるから、気をつけろよ」

 

 ああ。そういえばその難聴系鈍感とやらを調べていなかった。今日こそ帰ったら調べよう。

 そう思っていると、暴徒と化した音葉から逃げ出した瑞希が駆け寄ってきた。

 

「早く稽古はじめましょう、昴輝さん!」

「ああ。今日も厳しく行くぞ」

「はい!」

 

 

 




 ちょっと長いあとがきになります。そういうのが嫌な方はそっと無視していただけると幸いです。


 ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。この作品はこれにて完結です。
 分量的にはほぼ一般的ライトノベル一冊分に相当します。
 これを一気読みしていただけた方もいらっしゃるようで、作者冥利に尽きる限りです。

 二次創作小説の投稿がメインであるハーメルンに、オリジナルを投稿する事に、少し躊躇いはありました。オリジナルの投稿なら理想郷やなろう等、もっとそれ向きな場所があります。しかし、なろうは投稿されている多くの作品が、異世界ファンタジーやVRMMOモノであり、こうした日常モノは埋もれてしまうという恐さがありました。私個人としては辛口意見も求めていたのもあり、理想郷も候補にあったのですが、システム周りで考えた結果、こちらになりました。

 声優を題材にした商業ラノベが何作品もありますが、その中で声優をちゃんとしたギミックとして面白味に繋げている作品は限られます(これはギミックとして活かせていない作品が面白くないと言っている訳ではありません)。それに物足りなさを覚え、声優の専門学校を卒業した経験を活かせないものかと考えたのがこのお話です。
 最初に考えた内容は結構違っていて、音葉が事務所の社長にセクハラされたりと、結構ドロドロしたものでした。瑞希はいなくて、音葉が瑞希の役割も担っていたような形です。
 友人からは嫌な意味でリアルっぽくて楽しくないと言われて、「悪意を持って主人公達の邪魔をするキャラクターがいない」事を一本据えてプロットを練り直した結果、今の話になりました。お陰様で読後は嫌な気分になる事はあまりないと思います。
 最後の瑞希と音葉の二人合格はご都合主義と友人から批難もされましたし、随分前に月刊ライバルで連載されて実写映画にもなった声優ドラマ「神☆ヴォイス!」とかぶってしまうところもあり、少し悩みました。それでも「心地良いフィクション」を目指したので、強引でしたがああいう形にしました。もしご不快な印象を持ってしまった方がいらっしゃったら申し訳ありません。
 ちなみにタイトル「バクガールズ!」は、大場つぐみ先生と小畑健先生のコミック「バクマン。」をもじっています。個人的バイブルです。

 キャラクターの名前は、黒野昴輝は、「機動戦士ガンダムUC」のバナージ・リンクス役等で有名な内山昴輝さんから頂戴しています。多村瑞希は、説明不要の田村ゆかりさん、水樹奈々さんから恐れ多くも頂戴しました。佐々木音葉のCDやラジオ周りの名前も水樹奈々さんからお借りしています。内山昴輝さんの演技が凄く好きなんですよ。特にバナージの「撃てません!」が(趣味な話で申し訳ありません)。

 11話を掲載した時に多くの感想を頂戴して、非常に嬉しかったです。少し言葉が悪くなりますが、「他人の褌で相撲を取る」二次創作とは違って、オリジナルはいわゆる一次創作です。予備知識も無く、また星の数ほど溢れているオリジナルweb小説の中でこのお話を、一体どれだけの人が読んでくれるのか。面白いと言ってくれるのか。かなり恐かったです。そうした経験があまりないので。

 この「バクガールズ!」はこれにて完結で、これ以降の昴輝達がどうなってゆくのかはまったく考えていませんが、西尾可凛視点でちょっと書いてみたいお話はあったので、もう少し続くかもしれません。後日談的サイドストーリーみたいな感じです。というのも、私は西尾可凛が書いていて一番好きな子でしたので(ツンデレ好きです)。

 1500文字近くになる長いあとがきですが、ここまで読んでいただいた事に深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後日談1:西尾可凛の場合

 最近、昴輝がよく笑う。

 家でも、学校でも、事務所でも、稽古場でも、誰とでも自然に笑みを浮かべて話すようになった。ちょっと前までずっと仏頂面で、近寄り難い雰囲気を放っていたのに。お陰で友達はいなくて、西尾可凛を除けば、正真正銘のぼっちだった。

 今では、クラスの男子達と親しげに話している姿を見かける。

 男子だけではなく、女子ともだ。

 もちろん同じクラスの瑞希だけではなく、他の女子である。

 そうした影響もあって、ようやくクラスメイトの顔と名前が一致するようになったらしい。

 これは大変に喜ばしい事だった。

 あのオーディションから一ヶ月が過ぎた頃には、男女の隔たり無く、誰とでも笑顔で話す昴輝が珍しい存在ではなくなっていた。

 

「昴輝さん、毎日楽しそうですね」

 

 昼食の時、一緒に弁当を囲んでいた瑞希が眼を細めて言った。

 可凛は手製の出汁巻き玉子を咀嚼しながら、昴輝の席を見遣る。

 

「黒野、今日は放課後空いてるか?」

「空けられるが、どうかしたのか?」

「この前ダーツ教えるって言ったじゃねーか。どうだ、今日あたり」

「そうだったな。お前が良ければ頼みたい」

「あーそれならカラオケもどうよ?」

「賛成ー。黒野もいいか?」

「カラオケか。行った事は無いが、大丈夫か?」

「おいおいマジかよ。高校生になってカラオケ行ってねーとか希少種過ぎるぞ、黒野」

「歌は得意ではなくてな。発声にも影響が出るので、誘われても断っていたんだ」

「クソ真面目だなぁ。まぁ、お前声優やってるもんな。じゃやめとくか?」

「いや、個人的に興味がある。歌えるかどうか分からんが、付き合おう」

「おっしゃー決まり!」

 

 昴輝を中心とした男子達の喧騒が、可凛の耳を打つ。

 こんな風に同世代の男子達と気兼ねなく喋る昴輝は、本当に貴重だった。

 いや。これまでが貴重だっただけで、これからはこうやって極々普通の光景になってゆくだろう。元々社交性は低くないし、子役時代から今に至るまで、沢山の人間と関わっている。お陰で誰に対しても物怖じせずに話せるし、意外かもしれないが、コミュニケーション能力はそこそこ高いのだ。

 喉を潰してしまってからは、それが鳴りを潜めていただけの事である。

 昴輝にこうした明るい側面を取り戻してくれたのは、可凛の眼前で小さなおにぎりをちまちまと味わっている多村瑞希である。

 

「な、なんですか、可凛さん。私の顔に何かついてますか?」

「ご飯粒がついてる」

 

 教えてやると、瑞希は慌てて頬についていた米粒を取って、口に放り込んだ。

 例のヒロインオーディションから一ヶ月弱。瑞希は佐々木音葉と共にそのオーディションで勝ち取ったヒロインの役作りに没頭している。アニメの脚本はすでに出来上がっている状態だったが、藤見鷹也が瑞希と音葉の意見を元に脚本を修正したらしく、現場はなかなかの修羅場になっているそうだ。お陰で収録が伸びている。そろそろ具体的な日付が決まるという話だ。

 昴輝の稽古にも熱が入っていて、瑞希も音葉も順調に力量を上げている。近々別アニメのオーディションがあって、昴輝は瑞希を参加させるつもりで準備をしていた。

 順風満帆に見えた昴輝の周りだが、音葉が自分のブログやラジオで昴輝との日々を話題にし続けた結果、彼女のファンの間で昴輝との恋愛疑惑が浮上してしまった。

 俗に言う炎上騒動に発展しかけたが、音葉がしばらくの間、昴輝の個人稽古参加を自粛。ブログでも公式に恋愛疑惑を否定して火消しを行った。もっとも、インターネット上では、いわゆるアンチと呼ばれる人達の根も葉もない妄想のような話として受け入れられていたので、大事には発展していない。

 それでも一、二ヶ月はいつものメンバーが揃う事は難しいだろう。

 そんな中、昴輝は自分の準備に余念が無い。

 喉のリハビリだ。週一で通院している。医者からは芝居再開を渋られたが、そこは昴輝が熱意で説得した。現在はリハビリの経過観察中である。

 一年前に傷ついた患部は完治しているものの、元々昴輝の喉は丈夫ではなく、医者はその事を気にしていた。今度潰せば、その時は昴輝の役者人生が潰れる時なのだから無理も無い。

 それでも、昴輝は再び声の役者──声優を志した。

 やりたい事を、やる為に。

 それは、とても喜ばしい。

 また喉を潰してしまったらと思うと恐怖を感じるが、昴輝が決めた事だ。可凛は見守るしかない。

 それに、やりたい事を──役者をやっている時の昴輝の真摯な姿が好きだ。

 今の彼を、もっと見ていたい。

 今の昴輝こそが、可凛が思慕を抱いた黒野昴輝だから。

 それなのに、今は溜息が出る。

 昴輝の喉を心配して出たものではない。そこは今憂慮しても仕方が無い事だ。

 身体も思考を侵食する憂鬱な気分の源流は、もっと別にある。

 

「可凛さん。あの、またご飯粒ついてます?」

 

 落ち着かない様子で、瑞希が頬をペタペタと手探りしている。

 どうやらまた彼女の顔を不躾に見つめてしまったらしい。

 

「あーいやごめん。大丈夫大丈夫。ついてないよ」

 

 手をひらひらさせて謝って。可凛はパックのお茶を飲みながら、昴輝を見る。

 他の男子達と何でもない話をしていた彼は、柔らかく笑っていた。

 飾る事も無く、作る訳でもなく、自然に。

 

「私が、そんな風に笑わせたかったな」

 

 そんな呟きは、誰の耳にも届かず、昼食時の喧騒に掻き消された。

 

 

 

 その日帰宅すると、結城聡一郎が遊びに来ていた。

 

「今日事務所にいないと思ったら。せっかくのオフなのに、こんな所で油売ってていいの?」

「こんな所ってお前。ここ俺の実家だろ。姉貴の飯が美味くてなー。今日はご馳走になりに来た」

 

 にかっと笑う聡一郎。キッチンで遅めの夕食の準備をしていた可凛の母親──聡一郎の姉が苦笑した。歳の離れた姉弟だが、仲が良く、自立した今もこうして遊びに来る。

 

「一兄も早くご飯作ってくれる彼女作れば?」

「俺は役者一筋だからな。そういうのやってる暇も無いし、興味もあんまり無い」

「一兄はそれでいいかもしれないけど、姪として心配です。それに、昴輝がそういうの真似するからやめて下さい」

「おいおい、お前が心配するとこはむしろ昴輝のとこだけだろ? あれから昴輝にコクったのか?」

「お母さん、一兄今日帰るって」

「いやいや帰らないから! なんだよこれくらいでムキになるなよ中学生じゃあるまいし。で、どうなんだ?」

 

 そう訊ねる聡一郎の顔は、恋バナに群がる中学生男子みたいな顔だった。

 こんなのが日本の俳優界期待の星だと思うと、色々と心配になる。

 可凛は聡一郎の質問を無視すると、冷蔵庫からお茶のペットボトルを引っ張り出して、ラッパ飲みした。母親からコップを使えと小言を頂戴するが、洗い物が増えるだけだよと、もっともらしい言い訳を返しておく。

 

「お前、そういうの昴輝の家でやってないだろうな?」

「だ、誰がやるかもう!」

 

 すると母親に、はしたない事をしていると昴輝君も呆れるわよ、と真顔で心配された。

 黒野家と西尾家は祖父母の時代から交流がある。昴輝と可凛はお互いに一人っ子だった事もあって、昔から兄妹のように育った。だから昴輝の事なら彼の親以上に詳しい自信はある。

 そう、自信だ。黒野昴輝を小さな頃から一番近いところで見つめていた自信。

 それなのに──。

 

「なんだ可凛、そのこれ見よがしの溜息」

「別になんでもない」

 

 不貞腐れたように答えた可凛は、着替えるべく二階の自室に向かった。

 電気をつけてカーテンを閉めようとした時、庭を挟んだ先に黒野家が見えた。距離はとても近く、昴輝の部屋を覗こうと思えば覗けるくらいである。

 丁度彼も部屋に戻ったらしく、部屋の照明をつけたところだった。

 眼と眼が合う。可凛は何故かそのままではいられなくて、視線を背けてしまった。頬の熱を自覚する。今更何を恥ずかしがるのか。

 多分、彼が笑ったからだろう。

 無防備な笑顔だった。歳相応の少年の笑みだった。

 可凛はいそいそとカーテンを閉め切って、一息。制服を脱いでラフな普段着に着替える。

 すると、扉をノックされた。

 

「入っていいかー?」

 

 叔父である。からかいに来たのかとも思ったが、さすがに部屋まで追いかけるほど意地の悪い性格はしていない。

 昴輝との事をからかわないのなら、と条件を提示すると、不平を言われたが同意してくれた。まだ弄るつもりだったのか、この役者馬鹿は。

 

「お邪魔しまーす。お、さすがに専属の話が来るモデルの部屋はセンスいいな」

「あんまりジロジロ見ないでよね。一兄でも変質者だって通報するから」

 

 暖色系の色調で統一された室内を一望する叔父に、可凛は釘は刺しておく。いくら家族であっても、不躾に部屋を見られれば気分は悪い。

 

「はいはい、そこは自重しますよーっと」

 

 投げやりに答えながら、彼の視線は机の上の写真立てに注がれた。

 いけないと思った可凛が大慌てで写真立てを伏せた時には、叔父はいやらしい笑みをその顔に貼り付けて、納得した様子でウンウンと肯いていた。

 

「やっぱりあったか。昴輝の写真」

「わわわわわわわわ悪い!?」

「いや全然。写真立てに飾るほどとは思ってなかっただけ。スマホの中も気になるが」

「死んでも見せるか!」

 

 見せるか、というよりも、見せられない。見られたら、多分恥ずかしくて死ぬ。可凛のスマートフォンのメモリには、聡一郎が想像したような写真が何枚も保存されているのだから。

 

「なによ結局こうなるじゃない! 出てけ三十路で彼女無し!」

「はっはー。俺の彼女は芝居だ。そんな事言われても痛くも痒くもないぞ」

「一兄がそんなのだから昴輝までそうなの! 責任取れ!」

 

 というか本気で言っているのか、この人は。なんて寂しい。

 

「そこはあいつの趣味だろ。俺の所為じゃないぞ。こらクッション投げるな。あーそういやここから昴輝の部屋見えるんだっけ。なに、もしかして着替えてる時も見えるとか?」

 

 ああ、もう。どうして今日はそんなに絡むのだ。昴輝との仲について聡一郎から詮索される事は珍しくもないが、ここまで露骨なのも珍しかった。

 ただでさえ気分が沈んでいるのに。もう勘弁して欲しい。

 そう思うと、急に視界が歪んだ。鼻がつんとする。肩が勝手に震えた。

 どうやら、自分は泣いているらしい。

 

「お、おい泣くなよ。悪かった悪かった、済まん謝る。今度美味いスイーツ奢ってやるから」

「……事務所のカフェの」

「え。マジで? まぁあそこ結構イケるけど安くないか?」

「一か月分」

「……はい」

 

 くしゃっと頭を搔きながら同意した聡一郎は、そのままベッドに腰掛けた。可凛を手招きして、横に座らせる。差し出されたティッシュをもらって、鼻をかんで、涙も拭いた。

 どれくらいぶりだろう、泣いたのは。というか、何故泣いたのだろう。別にそこまで腹が立った訳でもなかったのに。

 しばらくの間、聡一郎はぐじゅぐじゅと鼻を鳴らしている可凛の様子を窺っていた。

 やがて、口火を切る。

 

「最近さ、昴輝の奴、よく笑うようになったよな」

 

 首を縦に振る。

 

「でもな、そしたらお前がしょぼくれた」

 

 今度は首を横に振る。

 

「別に、しょぼくれて、ない」

「だったらお前、もう少し嬉しそうにしろよ。昴輝が昔の頃のあいつに戻ったんだから」

 

 そうだ。今の昴輝は、自分のやりたい事を存分にやっていた頃の、喉を壊す前の黒野昴輝に戻っている。いや、その時以上の覇気に溢れていると言えるだろう。これは喜ばしい事だし、可凛としてもとても嬉しく感じている事だ。

 だから、今胸の奥で渦巻く疼痛は、本来感じてはいけないものなのだ。

 とても身勝手で、昴輝に知られれば、きっと幻滅してしまう痛みだ。

 駄目だ。また視界が曇ってきた。鼻水が出る。情けない。格好悪い。

 すると、聡一郎に頭を捕まれた。そのまま大型犬にじゃれつくように、わしゃわしゃと乱暴に撫で回される。

 

「や、めてよ、もー! 髪が痛む!」

「そうだよな、お前の髪すげぇ綺麗だもんな。この前昴輝褒めてたぞ。ほれほれー」

「一兄、あたしに喧嘩売ってんの!?」

 

 叔父の雑な手を振り解く。慌てて手櫛で戻そうとするが、駄目だ。寝起き以上に酷い様である。

 背中を覆い、腰を超えるくらいの豊かな黒髪は、可凛の自慢だ。ケアには気を張っているし、実際、これがモデルとしての西尾可凛最大の武器にもなっている。十六歳にしては成熟している体躯以上に、彼女を綺麗に見せているのが、この艶を保った髪なのだ。

 そんな髪の惨状に歯噛みしながら、可凛は聡一郎を睨みつける。

 本当に今日はなんなのだ。あの藤見鷹也みたいに、何を考えているのかまるで分からない。

 取り敢えず尻を蹴っ飛ばして追い出そうとすると、聡一郎はこれ見よがしにスマートフォンを取り出して、どこかに電話をかけている。だが知った事ではない。このまま家からも叩き出して──。

 

「おー昴輝かー。今暇か? 煮物作ってる? どこの主婦だお前は。まぁいいや。ああ、うん。いや実はな、可凛が髪の手入れに失敗したらしくてよ、今ひでー事になってんだよ。俺も姉貴も手を離せないから、ちょっとお前見てやってくれないか? いやお前じゃないと駄目なんだよ、可凛がそう言ってる。そうそう、じゃ今からそっち行かせるから、宜しくな」

 

 口を半開きにして固まる可凛の眼前で通話を切った聡一郎は、にかっと笑った。

 

「良かったな。今からあいつのところに行ける用事ができたぞ」

「何が良かったなよ! 訳分かんないし! こ、昴輝に髪いじってもらうとか、そんなの……!」

 

 想像した事は、何度かある。

 何かしら言い訳をつけて、真面目な昴輝を巧みに誘導し、櫛を持たせて髪をとかせるのだ。彼を背後にし、背中を預けて。それこそ寄りかかるように、抱かれるように。

 そこまで想像、もとい妄想して。でも、実際にやろうなんて勇気は持てなかった。

 多分、頼めば昴輝はやってくれるだろう。今まで可凛が昴輝にお願いをして、断れた試しはほとんど無い。

 仮に本当に髪をといてくれたとしたら、多分、色々とまずい。そんなシチュエーションに叩き落されたら、きっと、何というか、その。

 

「おい可凛。なんて顔してるんだ、お前」

「え。ど、どんな顔してる?」

「綺麗なお姉さんを見つけた野原しんのすけみたいな顔」

 

 取り敢えず蹴っ飛ばした。

 

「なんで蹴るんだよ! さっきまでのちょっと物憂げで儚げな美少女だったのに! そもそもそういう性質の顔してるって事は」

「それ以上言うな! と、とにかく昴輝が待ってるから行ってくる!」

 

 チェストから愛用の櫛を引っ張り出して、さらに鏡で身嗜みと確認。髪は当然ボサボサだが、他は問題無し。次に服装だが、これが駄目だ。ちょっと普段着過ぎる。いや、普段着で構わないのだが、今の格好は色気が足りない。それでも気合を入れるとおかしい。安物だが、買ったばかりのGUの奴で──。

 

「お前、ホント健気だな」

「な、何が?」

「いや、そういうとこ。難儀な奴に惚れたもんだ」

「一兄だって同じじゃない。昴輝の事、凄く買ってるでしょ?」

「まぁな。BLにならん程度に好いてる」

「気持ち悪い。着替えるから出てって」

「へーへー。人がせっかく貴重なチャンスを作ってやったんだから、ちょっとは感謝して欲しいもんだがな」

 

 勝手にやった癖に何を偉そうな事を言っているのだろう、この叔父は。

 そんな叔父が、また可凛の頭に手を乗せた。可凛も女子としては長身の部類だが、百八十五センチを超える聡一郎からすれば、まだ頭一つ分近く小さい。

 またクシャクシャにするつもりなのかと、可凛はその大きな手から逃れようとする。

 けれど、覚悟した手荒さは来なかった。

 

「昴輝からな、お前が最近元気無いって相談されたんだよ、俺」

「……え」

「多村や佐々木だけじゃなくて、あいつはお前の事もちゃんと見てるぞ。あの二人とは全然違う眼でな」

「……そう、かな」

「そうだよ。そういう不安は、ちゃんとあいつに伝えろ。あいつは確かに酷い難聴系鈍感だけど、クソ真面目だ。面と向かって言えば、逃げずに答えてくれる」

 

 そうだろう。それは知っている。

 だから恐いのだ。

 中学の時のように、自分には相応しくないと、よく分からない謙遜で拒絶されるのが。

 今も、友達以上の感情を抱いてもらっている気はする。思い上がりではなくて、あのオーディションまでの一ヶ月で確かに感じた。

 もしかしたら、と何度も思った。

 でもその度に、もしまた断られたと二の足を踏んだ。

 

「じゃ、朗報待ってるぞ」

 

 笑顔で出て行こうとする叔父を、可凛は引き止める。

 

「ありがとう、一兄」

 

 このお節介は、彼なりの気遣いだ。

 すると、彼は肩越しに振り返って。

 

「可愛い弟と妹にはな、いつだって笑ってて欲しいんだよ」

 

 そうして、聡一郎は出ていった。

 

 

 

 しかし、冷静になってみれば、もう夜もそれなりに遅い。いくら家族ぐるみの付き合いをしているからといって、他人の家を訪ねるには非常識な時間である。

 母に夕食は後にする事を伝えながら、可凛はそんな事を考えていたけれど。

 

「え。いないの?」

「ああ。親父も母さんも、今日は仕事の都合で帰って来ない」

 

 そんな心臓を鷲掴みするような一言を、昴輝は玄関口で可凛を迎え入れながら、事も無げに言った。

 

「しかし、一郎兄さんの言った通り、酷い髪だな。何があった?」

「えー。あー。そのー。ま、まぁ色々あってさ」

「どういう色々だ? だが、俺は誰かの髪を整えるような真似はした事がない。でも、お前は慣れているだろう? 一人でやった方がマシだと思うぞ?」

「こ、ここまで酷くなかったらそうなんだけど。後ろもほら、こんなのでしょ? だからちょっと手を貸して欲しいなって」

「そういう事なら、俺で良ければ手伝うが」

 

 そう言いながら、昴輝の表情は晴れない。そんなに気が乗らないのか。嫌なのだろうか。

 どうやらそんな考えが顔に出てしまったらしい。昴輝は慌てて首を横に振った。

 

「済まん、言い方が悪かった。嫌だという訳じゃない。なんというか、女子は他人に、それも男に髪を触れるのは嫌じゃないか?」

 

 確かに、知らない男に触られるのは嫌だ。

 でも、家族の聡一郎に触られる事に抵抗は無い。

 ましてや、昴輝には触って欲しいとさえ思っている。

 もちろん、そんな事はこの場で口が裂けても言えない。言う勇気も無い。昴輝ならそういう恥ずかしい事を真顔で言ってくるが。

 そんな風に面と向かって言えない可凛は、言葉を慎重に選び、恥ずかしさに負けないように声を搾り出した。

 

「こんな事、昴輝にしか……頼まないよ」

「そうか。分かった」

 

 精一杯の勇気を出して言ったのに、反応はいつものように淡白だった。

 夜も遅い時間に女子が訪ねてきて、しかも自分の両親は帰ってこない状況で顔色一つ変えない。まぁ、これでこそ黒野昴輝なのだが。日頃から不意打ちのように綺麗だと言ってくれる癖に。こう、ドキドキはしてくれないのだろうか。

 家の中に入るよう案内してくれる昴輝に、可凛は人知れず溜息をつく。早鐘を打っていた心臓はすっかり大人しくなってしまった。

 そのまま昴輝の後を追う。すると、彼は二階に続く階段へ足を向けた。

 

「昴輝?」

「大きめの鏡があった方がいいだろう? 俺の部屋に稽古用の姿見があるから、それを使う」

 

 つまり、昴輝の部屋に入るという事か。

 平常運転に戻っていた心臓が、再びトクンと揺れた。

 彼の部屋にお邪魔するのは、いつぶりだろう。

 小学生の頃はよく入っていたけれど。

 昴輝が芝居にのめり込んでいって、それに刺激されるように可凛もモデルの仕事を始めて。顔は毎日のように合わせるけれど、遊ぶ事は無くなっていた。

 昴輝が部屋の扉を開ける。

 

「お、お邪魔します」

 

 七、八年ぶりの昴輝の部屋である。

 八畳くらいの内装には、可凛の記憶と大きな違いは無かった。ただ、ベッドが大きくなって、壁沿いに並ぶ書架には大量の書籍や映画ソフトがぎっしりと詰め込まれていた。それでも収まらないらしく、文庫本が無造作に床に積み上がっている。テレビもそこそこ大きく、最近買ったらしいゲーム機が繋がっていた。その周囲には数本のゲームソフトがあった。

 いずれも佐々木音葉が出演している作品である。

 

「じゃ、少し待っていてくれ」

「え。ど、どうして?」

「煮物を作っていてな。後片付けもある。五分くらいで戻る」

 

 それだけ言って、昴輝は踵を返して出ていった。

 一人残された可凛は、改めて部屋を見渡した。自然と唾を飲み込む自分に気付いて、首を横に振り回した。何を考えているのか、あたし。

 借りてきた猫のような物腰でベッドに歩み寄り、ゆっくりと腰掛ける。シーツも畳まれておらず、寝起きからそのままになっているらしい。枕には使い古された風格があった。

 

「………」

 

 扉の方を振り返る。別に変な事をするつもりはない。ただ、ちょっといけない事をするような気分に陥っているだけだ。

 昴輝が戻ってくるまで五分。深呼吸をした可凛は、思い切ってベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋めて、シーツを手繰り寄せる。

 対外的に大変宜しくない事をやっている自覚はあったが、一度顔を出した邪欲が言う事を聞いてくれないのだ。

 ──大好きな異性の匂いがする。

 

「──────」

 

 一分間堪能する。幸せだ。

 枕に頬擦りしながら、可凛は書架を見た。収められているのは、大半が小難しい演劇関係の書籍である。海外の役者の自伝もあるが、その横に萌え系の雑学本があるのがなんともシュールだった。

 ベッドから離れた可凛は、書架を一望。その後、ベッドの下を見る。

 

「……無い」

 

 いわゆるアレだ。えっちぃ本の事だ。

 難聴系鈍感だろうが、昴輝も思春期の男子だ。無い方がおかしい。

 だが、ベッドの下には埃が落ちているだけで、それらしい影は無かった。書架の中にも、そうした如何わしいタイトルは無い。

 慎重な足取りでクローゼットに歩み寄った可凛は、良心の呵責に苛まれながら、扉を開けた。これは昴輝の趣味嗜好を知る為の行動であって、決してやましい事をしている訳ではない。

 彼は包容力のある年上が好みらしいが、それの裏付けが欲しいのである。知ったところで、彼の好みになるには、物理的に無理なのだが。

 クローゼットの中にも書籍はあった。こちらは雑誌らしい。大半が演劇の大判本で、中には声優の物もあった。

 そんな一貫性のある雑誌の中に、可凛はとんでもない違和感を放つタイトルを見つける。

 

「……これって」

 

 女性のファッション雑誌である。発行部数的にはトップではないが、それなりに売れている雑誌である。

 そして、可凛がモデルとして何度も掲載された雑誌でもある。

 まさかと思って手に取ると、丁度自分が載った号だった。

 見つかったのはそれ一冊だけではなく、他にも何冊も出てきた。網羅はできていないようだったが、いずれも可凛を載せた物である。

 

「買ってくれてたんだ、昴輝」

 

 可凛が載っているファッション誌等は、見本誌が事務所に保管されている。昴輝がそれを読んでいるところは何度か見ていて、その度にくすぐったい思いをした。その度に感想を聞くと、綺麗だと評価してくれて、褒めくれた。

 モデルの仕事をしていて一番良かったと思う瞬間が、まさにその時だった。

 我ながら酷く俗的だと思う。

 その時、不意に強い鈍痛が頭を襲った。悲鳴を上げて振り返ると、発音のアクセント辞書を持った昴輝が胡乱な眼で立っていた。どうやらその辞書で頭を一撃してくれたらしい。

 だが、とても文句を言える状況ではなかった。

 

「可凛。お前は人の部屋で何をやっているんだ?」

 

 淡々とした声。いけない、これは結構怒っている。誰だって無断で自室のガサ入りをされれば怒るだろう。

 どうしよう。誤魔化すか。いや、バレる。昴輝は、そういうところは鋭い。

 迷った挙句、可凛は上目遣いで昴輝を見上げて、素直に白状した。

 

「え、えっちな本の家宅捜索」

 

 すると、彼はキョトンと眼を白黒させて、すぐに頬を赤くした。

 

「……そういうの、持ってる?」

「し、知るか。いいからクローゼットを閉じろ、馬鹿」

 

 そのまま明後日の方を向いて、昴輝は姿見の方に行ってしまった。

 当然だが、やはり怒っている。時間に夢中になってしまっていて、時間を忘れてしまうなんて。これで嫌われたらどうしよう。常識的に考えれば、生理的な嫌悪感を持たれてもおかしくはない。

 そんな風にビクビクしていると、姿見をベッドの前に移動させた昴輝が手招きしてくれた。

 

「ほら、こっちに来い。髪を整えに来たんだろう?」

「う、うん」

 

 誘われるまま、可凛は姿見とベッドの間に座る。昴輝はベッドの縁に腰掛けて、後ろから可凛の頭を見下ろした。

 

「櫛は持ってきているのか?」

「これ」

「よし。取り敢えずどうすればいい?」

「え、えーと。私の手が届き難い場所をといてくれると助かり……ます」

「なるほど。後ろの方か。しかし、なんだその敬語は」

「お、怒ってるかなって思って。さっきの」

「それはもちろん怒るだろう」

 

 憮然とした声。

 でも、頭に触れてくれたその手つきはとても優しかった。

 労わるように、繊細に。

 ゆっくりと指が動いて、髪を撫で、櫛を通し始める。

 ──気持ち良い。

 

「可凛だって、俺がお前の部屋のクローゼットを漁っていたら嫌だろう?」

「………」

「何故黙る」

「え! も、もちろん嫌だよ!?」

 

 ──興味を持ってくれていると思うので、正直、逆に嬉しい──。

 なんて事は、これまた口が裂けても言えない。正真正銘変態である。ベッドに飛び込んで、枕に頬擦りしている時点でなかなかの上級者だと思うけれども。そういうのが許されるのは二次元だ。二次元の女の子が好きな男の子の事を想ってやるから微笑ましく可愛く思えるのだ。

 現実でやれば、色々と洒落にならない。気持ち悪い。キモいではなく気持ち悪い。

 思い出したように自己嫌悪が降って沸いてきた。いくら我慢できなかったにしろ、さすがに色々とルール違反が過ぎた。

 

「ごめんなさい」

 

 消えてしまいそうな顔で、謝罪を紡ぐ。

 けれど、昴輝は追求しなかった。代わりに、言葉を選ぶような間の後、こう言った。

 

「何か見つかったか?」

「……雑誌とか、色々。それから、女性向けファッション誌」

「お前が出ているからな。買い難いが、駅前の書店で買った」

「……いつも、買っててくれたの?」

「分かる範囲で。お前は仕事の事をあまり話さないから」

「じゃ、こういう仕事したって言ったら」

「買う」

「……私が載ってるから?」

 

 肩越しに振り返る可凛に、昴輝はさも当然のように。

 

「もちろんだ。見本誌は事務所にあるが、俺が個人的に欲しいんだ。お前が、俺が出演したアニメの円盤を買い揃えているのと変わらん理由だぞ」

 

 ああ、そうか。なるほど、そういう事か。確かにそういう理由しかないだろう。

 でも、ああ、でも。

 

「顔がニヤけているが、どうかしたか?」

「……嬉しいから。昴輝が、あたしの出てる雑誌買ってくれるの」

 

 そして、ちゃんと自分を見てくれていた事が、嬉しかった。聡一郎の言っていた事は本当だった。

 可凛は眼を細めて、昴輝の指に頭と髪を預ける。他人の髪をとくのははじめてという話だが、絶妙な力加減だ。飼い主に撫でられて気持ち良さそうに眠る犬の気持ちが、痛いほど分かった。

 やがて、昴輝が口火を切る。

 

「最近、何かあったのか?」

「何かって?」

「沈んでいるような顔をするから」

「そう?」

「ああ。お前風に言えば、芝居ができなくなった頃の俺という感じか」

「そこまで落ち込んでたつもりはないって」

「ならいいが。それで、何か嫌な事でもあったのか?」

「嫌な事なんて無いよ。今は毎日凄く楽しい」

「なら」

「だからかな。順調になったから、贅沢な悩みを持っちゃったんだと思う」

「贅沢な悩み?」

 

 どうしよう。言おうか。言ってしまおうか。

 これを言ったら、昴輝はどんな顔をするだろう。どんな反応をしてくれるだろう。

 でも、言いたい。言わないと伝わらないから。特にこの難聴系鈍感男には。

 少し迷った後、可凛はいつか瑞希に言った事を口にした。

 

「昴輝を、今みたいに笑わせたかった」

 

 喉を潰して、やりたい事を取り上げられて。

 毎日を退屈そうに過ごしていた、大好きな男の子。

 何かをしてあげたかった。

 芝居をしていた時の輝いた顔を取り戻して欲しかった。

 一年間、可凛なりに色々やってみた。

 でも、瑞希の進路調査票を拾うまで、昴輝はずっと灰色のままだった。

 瑞希と出会って。音葉と出会って。やりたい事にもう一度挑戦しようという勇気を得て。

 今こうして、昔のように笑うようになった。

 自分が笑わせたかった。

 こうして彼が生き生きとしてくれている事は凄く嬉しいし、そうしてくれた瑞希や音葉には心から感謝している。自分のこの願望は、とても身勝手なものだという事も理解している。

 でも、やっぱり悔しいのだ。

 自分が一年かけてできなかった事を、瑞希と音葉はたったの一ヶ月でやってしまった。

 それに、瑞希と音葉は昴輝と同じ役者で、表現者で、声優だ。あの二人の先生として、一緒にいる事が多い。瑞希は昴輝を兄のように慕っているが、音葉は異性として意識している節がある。

 音葉の性格からして進展する事は無いと思うが、もし仮に音葉が告白するような事態となれば、どうなるだろう。昴輝は音葉の事を非常に認めている。彼と話していて、音葉の話題が出てくるのは珍しくない。

 一年前、昴輝が声優を辞めざるを得なかった時、もう一度告白しておくべきだったのだろうか。夢中になれるものを失って、失意に沈んでいる時なら、受け入れてくれたかもしれない。

 でも、それは弱味に付け入る行為だ。

 可凛が思慕を抱いた黒野昴輝は、やりたい事に挑戦している黒野昴輝だ。

 今の黒野昴輝なのだ。

 

「あたしは、昴輝には何もしてあげられなかった」

「………」

「喉壊して、声優できなくなって、落ち込んでる昴輝に何もできなかった」

「………」

「そんな役立たずな自分が嫌で、だから痛!」

 

 頭に衝撃が走る。彼の指の優しさが余韻も残さず消えてしまった。

 涙眼で振り返ると、再び辞書を持った昴輝がいた。またその角の一撃を見舞ってくれたらしい。

 

「俺が腐らずにいられたのは、お前がいてくれたお陰だ。馬鹿な事を言うな」

「で、でも、あたしは何もできてなくて」

「側にいてくれた」

 

 眼を離さず、言葉を偽らず、昴輝は断言する。

 

「役者友達と連絡を絶って、なるべく芝居の事を考えないようにしていた俺に気を遣って、そうした話はしなかった。鬱陶しいくらい毎日うちに来て、料理だの何だの、時間の空いている俺に色々な事を教えてくれた。色々な場所に連れ出してくれた。お陰でやる事とやれる事が増えて、嫌な事を考えずに済んだ。俺の親父がアルトの事務所に殴り込んで警察沙汰一歩手前になって、一郎兄さんとも不仲になった時も、お前がいてくれたから今も家族ぐるみの付き合いを続けていられるんだ。瑞希の稽古を始めた時も、お前が手伝ってくれたから上手くいった。音葉のバックダンサーも、お前がいてくれたから瑞希は頑張れた。瑞希の家庭事情も、お前の伝手が無ければ分からなかった。藤見さんがオーディションの八百長を話した時、音葉の頑張りを本気で代弁してくれた」

 

 昴輝が一気にまくし立てる。いつも冷静に、淡々と話すのに。それが嘘のように饒舌だった。いや、少し早口になっていて、興奮しているようだった。

 理論家な彼が、感情に突き動かされている。

 だから、これはきっと、黒野昴輝の本音。

 

「お前がいてくれたから、俺は今こうしていられる」

 

 昴輝がベッドを降りて、可凛の前に膝をつき、その肩に手を乗せる。

 距離は近い。可凛の視界が、昴輝の真剣な顔で埋まった。

 

「だから、何もできなかったなんて言うな」

「……本当に?」

「ああ」

「本当の本当に? あたしは、昴輝の役に立ててる?」

「役に立つ立たないなんて次元じゃない。お前がいないと困る」

 

 顔の表面の温度が跳ね上がるのを、可凛ははっきりと自覚した。昔四十度の熱で寝込んだ時以上の熱さだった。

 震える手を、肩に乗っていた昴輝の手に添えた。勇気を奮い立たせて、ぎゅっと握った。

 

「昴輝は、好きな人、いる?」

 

 明日の天気を語るような気軽さで、可凛は聞く事ができた。

 もしいるって言われたら。そんな恐さはある。

 もしそう答えられたら──。

 

「……いる」

 

 眼の前が、暗くなる。

 瑞希だろうか。

 音葉だろうか。

 

「そっか。誰って聞いたら、教えてくれる?」

「……お前も音葉も一郎兄さんも、俺の事を難聴系鈍感だのハーレム系アニメの主人公だの色々と言ってくれていたが、鈍感で言えばお前も相当だぞ」

「……へ?」

 

 訳が分からずに首を傾げると、昴輝は頬を赤くして、ぶっきらぼうに言った。

 

「可凛。お前が俺に告白してくれた時、俺がどう答えたか覚えているか?」

 

 忘れるはずがない。なけなしの勇気で告白したら、昴輝は首でも絞められているような顔で、苦しげにこう答えてくれた。

 

「俺には勿体無いって」

「嬉しかったんだ」

「……何が?」

「お前に告白された事が」

 

 頭をハンマーでブン殴られたような衝撃だった。

 嘘だ。そんな。だって。そう思うなら、どうして応えてくれなかったのか。

 

「お前は綺麗なだけじゃない。常に周りに気を遣って、自分の事は後回しで他人の事を考える。そんなお前に、自分のやりたい事だけをやって、夢中になっている俺は釣り合わないと思ったんだ」

 

 それじゃ。という事は。

 

「俺は、お前の事が好きだ」

 

 ──多分、これまでの十六年間で、一番嬉しい。

 飛び跳ねて昴輝に抱きつきたい衝動を必死に抑えながら、可凛は訊ねる。

 

「……今も、あたしに相応しくないとか、そういう事思ってる?」

「思ってる」

「ばか」

「事実だ。可凛の事は好きだが、芝居も大事だ」

「夢に恋してるもんね、昴輝は。そんな昴輝だから、あたしは好きになったんだ」

「……そうか」

「だからね」

 

 握った昴輝の手を、今度は胸で抱いた。彼は気恥ずかしそうに身じろぎをするが、知らない。今日までその面倒な性格で散々どぎまぎさせられたのだから。

 

「昴輝が、お芝居よりもあたしを好きになってくれるように……頑張っても……いいですか?」

「……こんな面倒な俺でいいのか?」

「そんな面倒なところも、大好きだから」

 

 昴輝は何も答えない。ただ、真っ赤な顔を横に向けるだけだった。

 そんな子供のような所作が、いつもの理性的な昴輝からはかけ離れていて。

 とても可愛くて、愛しくて。

 

「……俺も、お前と芝居を両立できるように、頑張る」

 

 誤魔化す事を知らず、やらず、不器用にでも前を向いてくれるこの人を好きになって良かった。

 可凛はそう思いながら、紅潮している昴輝を可笑しそうに笑った。

 それから昴輝との事を瑞希や聡一郎にひたすらいじられ、音葉とひと悶着してしまうのだが、それはまた別の話である。

 

 




2013/11/09 音葉後日談話との接合性の関係上、一部加筆。

「バクガールズ!」はやりたい事を頑張る少年少女のお話なので、ラブコメ要素はあってもメインではありませんでした。なので、そちらに比重がいかない為にも、昴輝にはヒロイン達の間で右往左往させたくありませんでした。なので、難聴系鈍感主人公ですが、実際には可凛と両想いです。ただ、昴輝が何とも面倒な性格をしており、可凛もまた鈍感だったというだけのお話です。

ラブコメ要素的には、昴輝をヒロイン三人の間で右往左往させた方が面白いんでしょうが、本筋は完結しているので、こういう形で。音葉は最初から勝負にならなかったのです(´・ω・`)
日常系ラノベでも、幼馴染が主人公とくっつく例って稀有じゃないですか。

可凛は、アニメ「ガールズ&パンツァー」の武部沙織というキャラクターをモチーフにしています。誰に対しても気遣いができて、皆の接着剤になれる子という役割を負っています。そういう背景もあり、またラブコメ要員で容姿も私好みに設定した贔屓な子でした。

「バクガールズ!」完結後、大変恐縮な事にランキングで一位になっている時がありました。ご声援を賜り、本当にありがとうございます。メインキャラ四人の後日談が終わるまで、もう少しうちの子達と遊んでやって下さい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後日談2:佐々木音葉の場合

時系列的に「後日談1:西尾可凛の場合」の前にあったお話となっています。ご注意下さい。
またそれに合わせて「後日談1:西尾可凛の場合」を少しだけ加筆しました。




 その日。収録を終えた佐々木音葉がスタッフ達と挨拶を交わしていると、事務所のマネージャーが顔を見せた。

 音葉が業界最大手の声優事務所マーシャルビジョンに入所した時から専属で面倒を見てくれている女性で、名前は上松加奈子。二十代後半で婚期に焦っているとの事だが、現役モデルである西尾可凛にも勝てる抜群のスタイルと端麗な顔立ちで綺麗にスーツを着こなしている様は、少々捻くれている音葉から見ても素直に格好良いと思える。

 彼女と現場で顔を合わせるのは久しぶりだった。藤見鷹也の大規模オーディション以来かもしれない。

 この業界に入ったばかりの頃は、どこに行くにも同行してくれていたのだが、最近はその機会も減っていた。声優としての活動も一周年を迎え、信頼されているのかなと感じていたのだが、なにやら声優ユニットの企画を進めていて多忙らしい。その忙しさは、化粧の上からでも疲労の色が見える顔から想像できた。

 

「収録はもう終わった?」

「あ、はい。もう帰るところですが。何かありましたか?」

 

 すると、加奈子がちょいちょいと音葉を手招きした。どうやら場所を変えたいらしい。

 音葉は改めてスタッフ達にお疲れ様でしたと頭を下げると、スタジオを出た。

 廊下を見渡すと、加奈子はトイレ前に用意されていた休憩所のベンチに腰掛けていた。やはり疲れているのか、重苦しく溜息をついている。あらかじめ買っておいたらしい缶コーヒーを両の掌で挟むように持って、ころころと遊んでいる。

 進めている声優ユニット企画が上手くいっていないのだろうか。状況次第では音葉も参加する可能性のある企画だったので、もし頓挫するのなら残念だ。

 歩み寄ると、加奈子は座るように横を指差した。言われるまま座ると、加奈子がどこからお茶のペットボトルを取り出して、音葉に差し出す。猫舌と喉への影響も考えた、ちょっと温めのお茶だった。

 

「ごめんなさいね、引き止めて」

「いえ、構いません。ただ、もし長くなるお話でしたら、できれば短めにしていただけると」

「……黒野昴輝君の個人レッスンの時間に遅れる?」

 

 缶コーヒーのプルトップを開けて、マネージャーが言った。何故か重々しい口調で。被告人に物的証拠を突きつける検事みたいに。

 そのどこか胡乱な眼に、音葉は加奈子が切り出そうとしている話題を看破した。

 なるほど、そうなると彼女が纏う憂鬱な雰囲気も理解できた。

 

「……お話って、彼との事、ですか?」

「彼? 音葉ちゃん、今あなた、黒野君の事を彼って言ったの?」

 

 いけない。地雷を踏んだ。

 がばっと缶コーヒーを飲み干した加奈子は、暗い眼のまま、音葉の小さな肩を掴む。

 

「確認なんだけど。音葉ちゃんと黒野君は、男女の仲じゃないわよね?」

「も、もちろんです。そんな訳ないじゃないですか。彼──じゃない、黒野さんには公私共にお世話になっていて、表現者として尊敬している方です。それ以上の感情とか、そういうのは無いですよ?」

「その公私の私的な部分が、マネージャーとして、物凄く途轍もなく非常に気になるところなんだけど。この前収録で多村瑞希さんと会った時、黒野君達と遊びに行った事を色々と教えてもらったのよ」

 

 あの馬鹿。今日会ったら昴輝の前でスリーサイズを暴露してやる。ふふ、ざまあみろ。泣け、喚け、そして恥をかけ。

 

「音葉ちゃん、あなたの友達関係にまで口を出すつもりは無いわ。黒野君には《イノセンス》の発売記念イベントの時、凄くお世話になったし、あなたの演技の幅が広がっているのは黒野君のお陰だもの。感謝もしてる」

 

 マネージャーが溜息をつく。言い難そうに視線を下に落として、どこか後ろめたさを感じさせる顔で、でもねと続ける。

 

「黒野君は男の子であなたは女の子。同い年で同じ声優。そしてあなたは黒野君のところに個人レッスンに通ってる」

「あ、あの。なんだかとっても如何わしい言い方なんですけど」

「如何わしく思うかどうかは受けて側次第。今の音葉ちゃんの状況は、そういう事になってる。知ってるでしょ、ネットの噂話は」

 

 うんざりした様子の加奈子に、音葉は彼女が収録現場に現れた理由を察した。

 音葉の冠番組に昴輝がゲスト出演してから、今日で一ヶ月弱。声優に復帰した昴輝だが、まだリハビリ期間として本格的な仕事はしていない。しかし、ネット上のまとめ系ブログサイト等では、昴輝の名前を見る機会が増えていた。

 だが、昴輝は元々そこまで派手に売れていた訳ではなかった。元子役の現役中学生の少年声優で演技派という以外は、とりたてて興味を惹かれるプロフィールは無い。音葉の冠番組にゲスト出演しただけで、まとめ系ブログサイトに取り上げられるようなネームバリューも無い。

 それなのにネット上で噂話になっているのは、他ならぬ音葉の影響である。

 早い話が恋愛沙汰だ。喉の故障で引退した元声優の少年が、音葉との出会いで復帰を果たした。冠番組の突然のゲスト出演も音葉との個人の伝手。音葉の最近の演技力の向上も、元子役で現役時代は演技派であった昴輝の指導に因るもの。昴輝の個人レッスンに足蹴無く通う音葉の姿は連日目撃されているエトセトラ。

 本業のアイドルを比較してテレビや雑誌等の媒体への露出は少なくても、アイドル声優もアイドルである。男女関係に関しては、ファンは鋭敏なレーダーを備えている。その情報網が昴輝を捉えたのだ。

 

「あのラジオのゲスト出演だけならまだ良かったんだけど、音葉ちゃんがブログで何度も彼の事を書くから、色々な噂が流れ始めて、そのまま憶測が憶測を呼ぶ事態よ」

「そ、それに関しては私の認識の甘さでした……」

「……私も検閲して許可出してるから、何も言えないんだけど。お互いに迂闊だったわね。いやだって音葉ちゃんが地を出せる相手が業界にいたって思ったら嬉しくてさー」

 

 溜息をつきながら笑う加奈子。彼女も、音葉の猫かぶりを知っている人間の一人だ。

 これまでも多くのアイドル声優を担当してきた熟練者には、音葉の仮面はハリボテだったらしい。簡単に見破られて、以来、その気遣いには助けられている。

 だからこそ、本来の音葉を受け入れてくれた昴輝や瑞希の存在を、とても歓迎してくれていた。

 

「ネットの噂、どうなってます?」

「社長の耳に入るくらいには広がってる」

 

 音葉はスマホを引っ張り出すと、お気に入りに登録しているまとめ系ブログサイトを確認した。

 ──声優に復帰した櫻井昴輝、佐々木音葉の恋人疑惑。

 そんなアオリの記事があった。今朝見た時には無かったのに。この一週間くらいで広まりを見せていた事実無根の根も葉もない馬鹿な話だ。私があいつを好きになるなんて。同じ声優として、表現者として、強く尊敬はしているけれど。男として好意を持つなんて事は有り得な──。

 

「──い、って断言できない、かな──」

 

 自分の耳にも届くかどうかという囁き。音葉は頬が熱くなっている事を理解する。

 今まで異性をここまで強く意識した事は無かった。瑞希ほどではないが、親が躾に厳しく、門限や佐々木家独自のルールがいくつもあった。そんな厳しい親──特に父親が男女交際を認める事なんて想像できなかったし、持て余していた時間をアニメやゲームに回していたら、その世界に夢中になっていた。

 同い年の男子を触れ合う機会そのものが無いまま今に至って。

 誰かの夢を本気で応援して、優しいからこそ厳しい言葉を投げかけてくれる黒野昴輝は、音葉にとってとても眩しい男の子だった。一緒にいて楽しいし、面白いし、心地良い厳しい態度も取ってくれる。甘やかされると駄目な自分を優しく叱咤してくれる。

 この誇大妄想な記事の通りだったら、なんというか、それはそれで悪くはない。

 というか、良い。

 もちろん、こんな記事の拡散なんてやめて欲しいけれど。

 

「これ、今まさに炎上って奴ですかね……?」

「まだそこまではいってないわね。記事の内容が完全に憶測だけで、ほとんどアンチの妄想だもの。ただ、都内のスタジオから黒野君と一緒に出てきてる音葉ちゃんの写真は取られてる」

「それだったら、私、セクハラで有名な某男性声優と一緒に何度もスタジオを出入りしてますけど?」

「間が悪かったって事。だからその隠し撮りも相手にされてないわ。ただ、個人レッスンの話はただの妄想が実は事実でしたってオチだけど、アルトの事務所に出入りしているようなものだし、これを見つかるとただの憶測妄想が現実味を帯びてきて、アンチ乙で処理されなくなるわ」

 

 そうなった事例を、音葉は知っている。これでも小さな頃からアニメファンをやっている。恋愛沙汰でブログやツイッターが炎上し、仕事が激減してしまったアイドル声優は、過去に何人かいる。

 まさか自分がその矢面に立たされようとしているなんて想像もしなかった。

 記事はマネージャーの言った通り、ただの憶測と妄想による難癖レベルだ。掲載されている某巨大掲示板の反応も冷ややかで、音葉が自身のブログで昴輝との交際疑惑を否定すれば、それで火消しはできるだろう。佐々木音葉というブランドは守られる。

 だが、問題はそこではない。

 この炎上一歩手前の騒動に、今が一番大事な時期となっている昴輝を巻き込もうとしている事こそが、看過してはならない事だ。

 

「……個人レッスンは、やめた方がいいでしょうか?」

 

 小さな声で、音葉は訊ねる。

 加奈子は頭を乱暴に搔き、眉間に皺を刻んだ。

 

「私個人としては、音葉ちゃんに黒野君のレッスンは受けて欲しいと思ってる。黒野君と出会ってからの音葉ちゃんのお芝居の質は甘めに見てもぐっと上がってるし、だからこそ社長も認めていたわ。それに、私はまだ数回しか会って話してないけれど、黒野君は音葉ちゃんをしっかり理解してくれてる。下手な講師やプロデューサーに任せるよりも、ずっと安心できる相手ね」

「でも、このままじゃ、私はあいつに凄い迷惑を」

「そうね。黒野君は今が大事な時期だし、この騒ぎのダメージはあると思う。だからほとぼりが冷めるまでは行かない方がいいわ。今日行った時にちゃんと話しなさい。多分、彼も事情は分かってるだろうから」

 

 まとめ系ブログにも記事が載るくらいだ。昴輝はネットをやらないが、可凛が気付いて教えてくれているはずだ。

 マネージャーが席を立つ。空になった缶コーヒーをゴミ箱へ入れると、疲れた顔に意地悪な笑みを浮かべた。

 

「ちなみに確認だけどね音葉ちゃん。あなた、本当に黒野君の事は男の子だって意識してない?」

「な、何をそんな分かり切った事を。あんなクソ真面目で地味で冗談の一つもまともに言えない面白味の無い奴なんて、す、好きになる訳ないじゃないですか。そもそもうちの事務所、男も女も関係無く恋愛禁止ですよ?」

 

 それがマーシャルビジョンの方針である。事務所を代表するレベルになった声優が不祥事を起こせば、打撃は当事者だけではなく、所属する事務所にも波及する。それに対する予防線として、恋愛禁止の規定が設けられていた。

 

「これはあくまでも持論ね? マーシャルビジョンって会社の社員としてではなく、一人の女としての意見」

 

 そんな前フリをおいた加奈子が、音葉の鼻先に人差し指を突きつけた。

 

「アイドル声優である以上、確かに恋愛はご法度。でも、恋愛はするべきよ」

「……言ってる意味が分からないんですけど」

 

 矛盾発言に胡乱な眼をすると、加奈子は腰に手を遣って笑った。

 

「恋愛の一つもしてない奴が、誰かの心を揺さぶるお芝居なんてできると思う?」

「……それでもやるのが、表現者です」

「そうね。でも、してる子としてない子じゃ厚みは違うわ。どんなに役作りが上手い子でも、若ければ、人生って経験値は少ない。そして人生は何もせずに過ごしてるだけじゃ厚みは生まれない。恋愛ははぐれメタルよ」

 

 それは一体どんな例えだ。

 加奈子は訳が分からずに困惑する音葉の額を小突くと、昴輝との話し合いの結果だけ報告するように言い残して、スタジオを出ていった。

 

 

 

 その日の個人レッスンは、特に問題無く進んだ。

 ただ、マネージャーの話が長くなって電車に乗り遅れてしまったので、稽古の時間にはギリギリで間に合った状態だった。その結果、ネットの噂話に関して、昴輝や可凛と話す事ができなかった。

 さらに言えば、瑞希が収録の都合で参加ができなかったので、音葉が昴輝を独占する形となっていた。お陰でどうにも色々と諸々と意識してしまって、上手く稽古に集中できなかった。

 

「ど、独占って、その表現はまずいって」

「まずい? 何か俺の言い方にまずい点でもあったか?」

「そういうところはちゃんと聞こえてるんだよね、この手の奴って」

 

 帰り支度の手を止めて、音葉は肩越しに振り返る。

 黒野昴輝はいつもと変わらないむっつり顔で、テキパキと稽古場の掃除をしていた。

 

「別に何でもないわ。こっちの事だから」

「そうか。もし何かしら悩みがあれば、俺で良ければ聞くぞ」

 

 例のネットの噂話が悩みと言えばそうなのかもしれないが、むしろこの話は昴輝の方が被害的に大きくなっているはずなのに。もしかして、知らないのだろうか。

 

「今日の稽古の君には、どこか違和感があった。集中していないという訳ではなかったが、いつものような前のめりさが無かった。それが芝居にも出ていたぞ」

「……あんた、俳優や声優オンリーのカウンセラーでもできるんじゃない?」

 

 芝居の質で表現者の精神状態を見抜くなんて。同い年とは思えない洞察力だ。

 可凛が昴輝の事を芝居馬鹿と言っていたが、なるほど、その通りである。

 音葉は溜息をつくと、着替えを詰め込んだ鞄を抱えて、壁に寄りかかるように座った。今日ここに来る前にマネージャーがやっていたのを真似して、昴輝に向かって、自分の横に座るように手招きをする。

 昴輝はそれに従って、音葉の横に腰掛けた。

 その距離はとても近い。袖口が触れ合うかどうか。

 自然と頬が熱くなった。

 

「それで、何があった?」

「……想像つかない?」

 

 やはりネットの騒動を知らないのか。

 胡乱な眼を向けてくる音葉に、昴輝は考えるように腕を組み、やがて納得した顔で肯いた。

 

「インターネットで言われている、君と俺の恋愛話の事か?」

 

 眼を見て切り出した昴輝に、音葉は慌てて顔を背けた。

 捏造で作られた噂話だが、それでも恋愛絡みの話だ。少しは照れるとか恥ずかしがるとか、そういう反応をしてくれてもいいではないか。ああ、もう。

 

「今日の昼くらいか。可凛から教わった。まったく身に覚えが無いが、炎上と呼ばれる状態に近いらしい。一郎兄さんからも心配されたが……そうか、そういう事か」

 

 コクコクと肯いた昴輝は、その態度を改め、音葉に頭を下げる。

 

「君に迷惑をかけた。済まない、佐々木」

「べ、別に私はいいわ。マネージャーには注意されたけど、事務所的には実害出てないし。むしろ、あんたは大丈夫なの? 復帰した直後なのに、こういう噂が流れてさ」

「今のところは何も無いな。可凛や一郎兄さんの話では、件の記事は信頼性に大きく欠けるものらしく、ネット上でもあまり支持を得られていないそうだ。なら、相手にする必要は無い。このまま大きくなるのなら公に否定しなければならなくなると、うちの社長が苦い顔をしていたが」

 

 そうなった時には、マーシャルビジョン側も何かしらのアクションを起こさないといけないだろう。そこまで騒ぎが大きくなっていれば、それこそ不祥事だ。お互いの所属事務所に迷惑をかけるのは明白である。

 復帰した直後の昴輝も、活動を自粛せざるを得なくなる。

 そして、アイドル声優佐々木音葉としても、無視できないダメージを負う。

 その事態は、誰も望んでいないものだ。

 

「謝るのは私の方だよ。ごめんね、今が大事な時期なのに」

 

 膝と鞄を抱え、そこに顎を埋めて。音葉は床を見つめる。

 罪悪感から、昴輝を見る事ができなかった。

 こうなってしまう可能性を、一度も考えなかったという訳ではない。

 第一線で活躍しているアイドル声優が、特定の男性と集中的に会っていれば、交際していると思われるのは当然の流れだ。浮かれてブログに何度も書いたり、ラジオで熱心に語ったり、普通の恋する女子高生みたいな気持ちになっていた事が迂闊だったのだ。

 

「ほとぼりが冷めるまでは、ここには来ない」

 

 視線を上げて。壁の一点を見つめて、音葉は言った。

 自分でも驚くくらいに硬く強張った声だった。まるで自らを納得させるような、そんな響きが込められていた。

 

「あんたに迷惑をかけたくない。私も、このままじゃ事務所に迷惑かけちゃう」

 

 加奈子は、恋愛ははぐれメタルだと言った。素晴らしい経験値になると言いたかったのだろう。だが、この経験値を得るには、今の音葉の立場は厳しい。

 それに、こいつには、昴輝には──。

 

「おーい昴輝ー。一兄が呼んでるー」

 

 下の階の事務所に行っていた西尾可凛が戻ってきた。

 並んで座っている音葉と昴輝に、彼女は眼を白黒させる。

 

「何か込み入ったお話中?」

「まぁ込み入っていると言えばそうだが」

「いい。私は言いたい事言えたから。行ってきて」

「……分かった。戻ってきたら、続きを話そう」

 

 不承不承といった様子で腰を上げた昴輝は、小走りで稽古場を出ていった。

 可凛はそんな昴輝を見送ると、膝を抱えている音葉に歩み寄る。そして、昴輝が座っていた場所に腰を下ろした。そのまま何をする訳でもなくスマホをいじり始める。

 可凛から声をかけてくる様子は無い。

 昴輝が呼ばれたのは、恐らく例のプチ炎上騒動の事だろう。音葉は稽古場に来てからスマホに触れていないが、進展でもあったのだろうか。

 今見ればいいのだが、気が進まなかった。自分に対するネットの書き込みなんて気にしていないが、自分の迂闊な行動で世話になっている人達に迷惑がかかっている現状は辛い。

 

「……色々迷惑かけて、ごめん」

 

 絞り出すように言った。

 すると可凛がスマホいじりをやめて、音葉を見た。

 

「誰も迷惑だなんて感じてないよ」

「でも、あいつが結城さんに呼ばれたのは」

「ああ、違う違う。その話じゃなくて、うちの養成所の生徒さんの事で相談したいって話。心配しなくても大丈夫」

「……ホントに?」

「ホントホント。っていうか、なんからしくないぞ、音葉ちゃん」

 

 苦笑した可凛が、スマホの画面を見せてきた。

 例のまとめ系ブログサイトの、あの記事が表示されていた。コメントの数もかなり増えている。

 

「音葉ちゃんなら、こんな捏造記事くらい、鼻で笑って済ませちゃうと思うんだけど?」

「私一人の事ならいいけど、あいつやこの事務所にも飛び火してるもの。そんな風にできるか」

 

 何をつまらない事で悩んでいるのか──可凛の口ぶりから、そんな風に言われたように感じられた。

 音葉自身も、らしくないくらいに気を落としている自覚はある。でも、多方面に飛び火している問題になっているのは間違いない。これで笑顔になっている方がどうかしている。

 唇を尖らせる音葉。不貞腐れたような顔になる彼女の頭を、可凛は妹を可愛がるように撫でる。

 

「音葉ちゃんのそういうところ、あたしは好きだなー」

「ひ、人を撫で回すな巨乳!」

「……最近ね。昴輝って実は小さい子の方が好みなんじゃないかって思い始めてさ」

「え。あいつ、ちっちゃい子が好みなの? ロリコン?」

 

 西尾可凛という現役モデルの巨乳女子高生を幼馴染に持ち、さらに彼女から大きな好意を寄せられているのに見向きもしない黒野昴輝は、なるほど、確かにロリコン疑惑を持たれるには充分過ぎる。

 音葉は何となく自分の胸を見下ろしてみた。スポーツブラで充分な慎ましいサイズである。身長だって百五十センチ以下で、華奢な体躯はコンプレックスだ。

 それに引き換え、横で項垂れている可凛の身体は、もう熟れた果実である。ああ、くそ。例え昴輝がロリコンで、自分がその好みに合致したとしても、この悔しさは誤魔化せない。

 

「音葉ちゃんさ。しばらくうちに来なくなるとか、無いよね?」

 

 同じように膝を抱えた可凛が訊いてくる。

 彼女の声には、懸念の色があった。

 

「ほとぼりが冷めるまでは来ないわ。ネットの噂話は、私がラジオやブログであいつの事を話題にし続けた事がそもそもの原因だもの。ここに通ってるって事もバレてる。今の状態で通い続けたら、それこそ噂話を肯定するようなものよ」

「それはそうだけど……でも、たかが恋愛話だよね? アイドル声優だって女の子なんだから、誰かを好きになるなんて当然じゃない。ちょっと過剰過ぎる気がするんだけど」

「私も自分がアイドル声優やるまではそう思ってたわ。今も心の底じゃ、そういう気持ちが無い訳でもない」

「……音葉ちゃんは、その、昴輝の事は、どうなの?」

 

 可凛が音葉に訊ねる。恐る恐るといった様子で。彼女の方が身長が高いのに、どこか上目遣いの気配を漂わせて。

 抽象的な質問だったけれど、その真意は分かる。

 音葉は、少しだけ言葉を詰まらせた後、口火を切った。

 

「声優として尊敬はしてる。でもそれだけよ」

「本当に?」

「本当に」

「眼を背けるあたり、何だか凄く嘘くさいんだけど」

「……可凛。あんたもしかして、私にあいつを盗られるかもしれないからって焦ってる?」

 

 妙に絡んでくるので、ちょっとした意趣返しをしてやった。

 どうやら図星だったらしい。可凛は薄く頬を赤めると、視線を彷徨わせて、もじもじと身じろぎをした。

 

「ちょ、ちょっとだけ」

「まーあいつにロリ属性あるなら、あんたじゃなくて、私に来るかもねー」

「……やっぱりそうなのかなぁ」

「いや、冗談だって。生真面目が服着て歩いてるようなあいつがロリコンだなんて爆笑ものよ。っていうか、なにマジでションボリしてんの?」

 

 抱えた膝上に顎を乗せた可凛は、眼に見えて気落ちしていた。さっきまでの明るい雰囲気も、日頃の闊達な横顔も、綺麗に鳴りを潜めてしまっている。

 心配そうに覗き込んでくる音葉を、可凛は横目で見る。

 

「……笑わない?」

「ものによる」

「そこは笑わないって言ってよ!」

「知るか。ほら、サッサと言え。どうせあいつ関係なんでしょ?」

 

 棘のある口調で先を促すと、可凛は囁くような小さな声で言った。

 

「昴輝が元気になったのは素直に嬉しいし、声優を再開したのも、凄く嬉しい。あたしが好きになった昴輝は、ああやって自分の好きな事を、お芝居をやってる昴輝だから。今の昴輝が、あたしが大好きな昴輝なの」

「昴輝って名前がゲシュタルト崩壊起こしそうね」

 

 えへへーとだらしのない笑顔になる可凛にどうしようもない苛立ちを覚えた音葉は、彼女の尻を平手打ちする。くそ、なんて熟れた尻だ。ムカつく。もう一発。

 

「痛いって! もう、そんなに怒らないでよ」

「他人の惚気話がこんなにも腹立たしいものだとは思わなくてさ。で、ゲシュタルト崩壊起こしてるあんたの中のあいつがどうかしたワケ?」

「……昴輝が今みたいになれたのは、音葉ちゃんと瑞希ちゃんのお陰だから。あたしは、何もしてない。あたしが、あんな風に昴輝を笑わせたかった。昴輝をお芝居の世界に戻したかった」

 

 可凛の言葉は、窓から聞こえてくる外の喧騒に掻き消される。

 その横顔には、罪を告白する犯罪人の影があった。

 最近、何となくだが、可凛が笑顔を減らしたなと思っていたのだが。

 なるほど、そういう事か。

 

「嫌な我侭だね」

「あんた、割と独占欲強いわね」

「そ、そうかな?」

「と思う。あいつに重いって言われないように気をつけなさい。次フラれたら諦めた方がいいわよ?」

「い、言わないでよそういう事ー!」

 

 可凛が半泣きで縋りついてくる。軽い冗談だったのだが、そうは受け取ってくれなかったようだ。どうやら彼女が抱えた悩みはなかなかに深いものらしい。

 でも、可凛の立場に立って考えてみると、確かに不安の一つも抱えても不思議ではないかもしれない。今までずっと支えてきたつもりなのに、昴輝を本当の意味で立ち直らせる事ができなくて、知り合って一ヶ月くらいの自分と瑞希が彼を立ち上がらせた。

 予想するだけでも、ちょっとした疎外感と喪失感に襲われる。

 

「あたし、重いのかなぁ」

「そう思うなら、ちょっと距離空けたら?」

「……実は中学の時に一回そうした事があったんだけど」

「結果は?」

「年上の綺麗な女優さんに取られそうになった」

「え。マジで?」

「マジで。ほら、あいつって演技になると色々と甲斐甲斐しいというか。面倒見が凄くいいじゃない? それでまだお芝居に慣れてない女優さんとアニメの映画で共演した時に、なんかこう、色々あったらしくてさ。結局は向こうの事務所がブレーキになってくれて表沙汰にはならなかったんだけど。他にも、新人の女性声優さんに色々教えたって言ってて」

「いや、そっちの方は現場じゃ普通にあるわ」

 

 ベテランが新人にマイクワーク等の基本を教える事は至って普通だ。

 でも、黒野昴輝という少年は、芝居に関しては本当に真摯な性格だ。件の女優にしろ、新人声優にしろ、演技の技術ではなく、芝居の楽しさを伝えようとしたのだろう。瑞希や自分に対してそうだったように。

 

「ホント、クソ真面目で甲斐甲斐しくて……色々と勘違いさせる奴ね」

「他人には嘘つけない性格だからさ」

「なら、あんたも勘違いしてるんじゃない? あんたに対する態度も私や瑞希に対する態度も実は」

「わーわー何も聞こえない聞こえなーい!」

 

 両耳を塞いで頭を左右に振り回し、必死の自衛を図る可凛。音葉はそんな彼女の両手を無理矢理外そうと覆いかぶさる。

 

「黒野昴輝ロリコン疑惑! 巨乳ではなく貧乳派! 好みの身長は百五十センチ未満! 好きな言葉は、『まったく小学生は最高だな!』」

「違う違う違ぁう! こ、昴輝は見た目の好みなんて無いもん! 無いはずもん! 外見で好きな子変わる面食いじゃないもん!」

「だったらあんたのその牛みたいな乳のアドバンテージは無いわ! 草不回避!」

「う、牛!? 牛ってなにさ牛って! そっちこそスポブラで充分な癖に!」

「だだだだだ誰がスポブラで充分だぁ!? これはその、ス、スレンダーなだけよ!」

「あたしと同い年なのにねー最近じゃアイドル声優の写真集も当たり前になってるけど大丈夫ー? 綺麗に撮ってもらえるコツ教えようかー?」

「は! お構いなく! 私はね、乳しか撮ってもらう場所の無い色々と重いどっかの女よりも、遥かに艶かしい腹と臍のラインが武器ですから!」

「下乳は男のロマンだって一兄が言ってた!」

「うちのマネージャーは腋と腰こそ女の美が集まる場所だって豪語してる!」

「おーい女子高生どもー」

 

 ぱんぱんと手を叩く音が音葉と可凛の口論に割って入って。顔を突き合せるように睨みあっていた二人は声のした方へ敵意満載の視線をぶつける。

 稽古場の入口の方では、ニヤニヤとスケベ親父の笑みを浮かべた結城聡一郎と、腕を組んで眉間に皺を寄せた昴輝が肩を並べて立っていた。

 音葉と可凛は雁首を揃えて一時停止。やがて、音葉が口火を切った。

 

「……昴輝。今の話、聞いてた?」

「ああ。俺がロリコンで貧乳派で身長百五十センチ以下の小柄な女性が好みだというところから聞いていた」

 

 昴輝は真顔でそう言った。すると、総一郎がいやらしい笑みもそのままに昴輝の肩を抱いた。

 

「で。実際のところお前の好みの女性ってどんなタイプなんだ? 誰にも言わないから、ちょっと教えろよ」

「明らかに可凛達に筒抜けの状態で何を言い出すんですか。そもそも俺は」

「あー分かった分かった。じゃちょっと事務所言って話そうや。大丈夫大丈夫、俺の口の堅さ、知ってるだろ?」

「ええ、豆腐並みだと存じています」

「まぁ木綿豆腐くらいかな! じゃ女子二人ー後始末宜しくなー」

「ちょ、ちょっと待ってよ何勝手な事言ってんの!? あ、あたしもその話聞くー! ほら音葉ちゃん早く片付け終わらせよう!」

「ガチで必死にならないでよ、そんな事で」

 

 呆れて肩を落としながら、音葉はのろのろと片付けを再開する。片付けと言っても掃除は終わっていたし、備品を元の場所に戻して戸締りをするくらいのものだったが。

 ともあれ、掃除用具をロッカーに戻して、ばたばたと帰り支度をしている時だった。

 何故だかとても懐かしい感覚に囚われた。

 郷愁にも似た感覚だった。

 見慣れた稽古場を、ふと見渡す。別に何か変わったものが増えていたりする訳ではない。入口の方では、可凛が息を切らせて待っている。

 

「音葉ちゃん早くー!」

 

 友達に急かされるまま、音葉は靴を履いて稽古場を出て、一つ下のアルト・プロダクションの事務所へ向かう。その短い移動の中でも、音葉が感じた懐かしさは衰えない。

 何故だろう。何なのだろう。どうしたのだろう。

 そんな風に考えながら事務所に入ると、昴輝が総一郎と肩を並べてソファに座っていて、テーブルを挟んだ対面に、贔屓目無しに美人と言える女性事務員が眼を輝かせて座っていた。可凛の話では重度の腐り具合らしく、昴輝×総一郎で生モノ系同人誌を描いているそうだ。何とも業の深い話である。

 三人の話は、それこそ中高生レベルの恋バナだった。いや、昴輝も可凛も自分も高校生なのだからおかしくないのだが、私生活は中学生男子並みにだらしがない総一郎が会話の中心になっているので、会話の内容がとにかく馬鹿馬鹿しかった。

 この中に昴輝の好みが気になって仕方が無い可凛が加わると、騒がしさが加速した。総一郎は何かと可凛を弄ろうとするので、余計に性質が悪い。可凛も過剰反応するので、余計に総一郎の掌で踊らされる訳で。昴輝の前でぼろぼろと失態を演ずる。

 そんな光景から、音葉は一歩下がっていた。

 懐かしさがどんどん膨れ上がってゆく。

 そうして、何故かは分からないが、高校の入学式の日を思い出した。

 真新しい制服に袖を通して、右も左も分からなくて、友達もいなかったあの日。

 誰もが同じ不安を抱いた新しい日常の始まりは、生憎の雨模様だった。

 まだ見慣れない教室の掃除を、名前を呼び合うのも不慣れなクラスメイト達とぎこちなくこなした。

 あれから十ヶ月近く経っているが、音葉は、まだクラスメイトに慣れていない。

 学校が終われば声優の仕事が待っている。仕事の都合で欠席や早退をする事も少なくない。何とか顔と名前が一致するクラスメイト達と一緒に放課後の掃除をした回数は、決して多くなかった。

 中学三年生も中頃に、親の警告も無視してマーシャルビジョンのオーディションを受けて、結果として声優の活動を始められた。中学の時の友達は皆快く応援してくれて頑張る事もできた。

 でも、高校ではそうはいかなくなった。

 アイドル声優『佐々木音葉』を知るクラスメイト達からは、どう接していいか分からないという顔をされる事も少なくなかった。

 スケジュールの空いている放課後があっても、誰かと遊びに行く事は無い。

 中学生の時はほとんど毎日のように気の合う友達と遊んでいたのに。

 そう──今、こうして眼前で繰り広げられている昴輝達の屈託の無いお喋りも、学校では誰ともしなくなっていた。

 友達と面倒な掃除当番をこなして、教師や親の愚痴を言い合いながらファストフードで平べったいハンバーガーを食べ、ゲーセンやショッピングモールをふらふらと歩き回る事も、今はほとんど無い。

 久しく忘れていた──普通。

 それを感じたから、思い出したから、何とも言えない懐かしさが込み上げてきたのだろうか。

 

「……普通、か」

 

 それが、とても眩しかった。

 そう、普通の恋する女子高生。

 真面目な顔で総一郎の貧乳講座を聞いている昴輝を、可凛はハラハラと見守っている。その横顔は、恋する少女そのものだった。

 正直、そんな可凛が良いなと思う気持ちはある。羨ましく感じてしまう。

 そんな気持ちが、自然と視線と昴輝に向かわせた。

 彼がこちらを向いたのは、その時だった。

 交錯する視線。透徹とした瞳が、一直線に音葉を見つめる。

 心の中を見渡すようなその眼差しに、音葉は不意に思い浮かべた言葉を口にした。

 

「昴輝。ちょっと質問なんだけど、いい?」

「ああ、なんだ?」

「あんた、芝居と天秤にかけられるモノ、持ってる?」

 

 すると、音葉が知る誰よりも芝居に対して真摯で全力で望んでいる黒野昴輝は、見慣れたむっつり顔で答えた。

 

「無い」

 

 そうだろうと思っていた。本当にこいつらしい。

 

「君はどうなんだ、佐々木。君は声優と天秤にかけられるモノを持っているのか?」

「あたし? 今のところは無いかな」

 

 特に悩む事も無く、音葉は即答した。

 そういう事なのだと、音葉は自らの答えに肯く。

 音葉が求めたモノは声優だ。声の役者だ。

 そこには、普通の人と同じ生き方をしていては、絶対に辿り着けない。

 普通の人と同じ喜怒哀楽を求めるには、難しい場所を目指して、全力で走っている。

 過去にも男性との交際問題で炎上した結果、仕事が無くなってしまったアイドル声優はいた。その時には、女なのだから恋愛だってするだろうと思った。どうして誰かに恋をしただけでプロ意識が無いと否定されなければならないのだろうと怒りすら覚えた。

 その気持ちは今も変わらない。声優であろうがプロであろうが人間だ。

 でも、立っている場所は違うのだ。

 自分は声優だ。表現者だ。声の芝居で誰かを楽しませる事を仕事に選んだ人間だ。

 今は特に目立つアイドル声優だ。この場所を殊更に望んだ訳ではないし、やりたいのはもっと先の事だけれど、アイドル声優を踏み台だとも思っていない。この場所で全力を出してトップにならなければ、次の段階に進めるはずがない。

 幸運な事に、沢山のファンに支えられて、自分は頑張れている。

 なら、そのファンが悲しむ真似は、この場所を守る為にもやるべきではない。

 やりたい事は恋愛ではない。声優なのだから。普通の人がして当たり前の事をやっている暇なんて無いのだ。

 やりたい事を──声優を続ける限り、昴輝とは絶対にそうならないだろう。

 自分のやりたい事と天秤にかけるなんてできない。それだけの価値を恋愛に見出す事が、今はできない。

 普通の女の子のような恋愛をする勇気は、音葉には無かった。

 

「加奈子さん。私、はぐれメタルを倒せそうにないです」

 

 苦笑いと共に呟いた音葉は、総一郎主催可凛公開処刑に参加するべく、可凛の横に座った。

 

 

 

 散々可凛を弄り倒した後、夜も九時を回ったので解散となった。

 ビルの共通階段をよろよろと降りてゆく可凛の背中を見送った音葉は、事務所から出てきた昴輝に振り返る。

 

「私がしばらくここに来ないって話だけどさ。いいかな?」

「……色々と複雑な事情が絡んでいるのは把握した」

 

 不承不承といった表情で、昴輝が肯く。

 その不満の原因は、果たして稽古の予定が崩れてしまった事なのか。それとも、しばらく自分に会えない事なのか。間違いなく前者だろうが。

 

「一ヶ月前も私の都合でこうなっちゃったけど……ホント、ごめんね」

「いや。俺の方こそ無配慮だった。期間はどれくらいだ?」

「んーちょっと分かんない。今日帰ったら火消し始めるから、その反応次第かな。元々炎上って言うには微妙なラインだから、多分一、二ヶ月くらいだとは思うけど」

「それくらいか。瑞希には?」

「後で電話しとく。そっちからもフォローしといて。あの子、私と一緒に稽古するの、ホントいつも楽しそうにしてくれてるから」

「もちろんだ。しかし残念だ。一、二ヶ月は長い」

 

 肩を落とす昴輝の姿からは、その言葉が世辞ではない口惜しさが感じられた。

 

「君との稽古やレッスンは非常に有意義だ。飲み込みは早く、伝えている側の俺も楽しくて仕方が無い。この刺激をしばらく得られないのは、残念の一言だ」

「……それは、お世辞?」

「俺はそんな事を言えるほど器用じゃない」

 

 胸を張って言える事ではないだろう──そんな突っ込みも出てこなかった。

 口が裂けても言わないが、昴輝の事は嘘偽り無く役者として尊敬している。彼が出す課題は面白く楽しく、いつも新しい発見がある。だからこそ全力で取り組めているし、彼の予想の上を行く芝居を見せようと頑張れた。

 そんな尊敬する異性から手放しに絶賛される。

 彼から褒められる事は少なくなかったけれども。

 今はなんだか、ちょっと、違った。

 急激に頬が熱くなる。今まで平気だった昴輝の眼を見つめるという事ができなくなった。

 

「人がようやく悶々と考えて自己完結したってのに……こいつは……!」

「なに? 何か言ったか?」

「うっさい難聴系鈍感!」

「またそれか。俺はラノベ原作のアニメで主人公をやった事は無いぞ?」

「そういう意味じゃない!」

 

 こんな奴に心底惚れ込んでいる可凛が本当に可哀想だ。報われればいいのだが。

 頭をくしゃくしゃと乱暴に搔いた音葉は、気を取り返すように大きく嘆息をつき、改めて昴輝を見た。

 不思議そうに眼を白黒させている彼を見ると、また体温が上がって、思わず顔を背けたくなる。

 でも、ぐっと我慢。

 

「問題無くなったら連絡するから。現場で会っても会話は最低限。OK?」

「了解だ」

 

 肯いた後、昴輝は思い出したように口調を改めて続けた。

 

「言い忘れていたが、俺もラジバトに参加する事になった」

 

 澄ました顔で、昴輝は言った。

 

「……は? え、なにそれ初耳なんですけど」

「今日の昼くらいに藤見さんから連絡が来た。劇場版から参加する新キャラで、なんでもアルキュオーネとただならぬ仲になるらしい」

 

 そういう男性キャラクターがいるのは知っている。原作にも登場していて、音葉が演ずる主人公アルキュオーネと友達以上恋人未満となっている。

 しかし、この配役は。

 

「あのクソオヤジ、プチ炎上してるの知ってて決めやがったな畜生……!」

「佐々木。何度も言っているが、アイドル声優がその言葉使いはいけない」

「燻ってる火に嬉々として油ぶっかけられたら誰だってキレるわ!」

 

 今度会ったら絶対に一発入れてやる、クソプロデューサーめ。

 すると、昴輝の様子が変わった。別に表情や様相が変わった訳ではない。ただなんとなく、覇気が失われたというか。怒られた子供のようなというか。ともあれ、そういう雰囲気になる。

 

「君は俺と共演するのが嫌なのか?」

「ば! バカ! 誰も嫌だなんて言ってないじゃん!」

 

 例えアニメの中で与えられた役割であっても、友達以上恋人未満の役を演じられるのは、素直に嬉しい。

 

「そうか。それは良かった。収録は先の話だが、その時は頼む」

 

 そう言って、昴輝は何の気兼ねも無く手を差し出してくる。

 音葉はその手と彼の顔の間で何度も視線を往復させて。おずおずと握手した。

 思ったよりも、大きくて暖かい手だった。

 異性と手を繋いだのは、これがはじめてだった。

 ──恋愛ははぐれメタルだ。

 

「だから自己完結したって言ってんじゃん! 今更色々自覚してどうすんのよ!」

「……今日の君は少しおかしいぞ、佐々木。ちゃんと休んでいるのか?」

「あんたが天然過ぎるからだろ責任取れ! サッサと可凛とくっつけ!」

 

 怒りの赴くままに昴輝の尻を蹴飛ばす。バランスを崩した彼はそのまま階段を落ちそうになって、遅いぞーと階段を上ってきていた可凛を巻き込んで派手に倒れた。

 

「昴輝!? どどどどどどうしたのえええええいやあの胸胸胸胸胸!」

「す、すまん可凛! 今退く……!」

「ちょっと待って今動かれるとあれがこうなってそこにくっついちゃって!」

「なに? 何がどうなってそこがどうなる?」

 

 昴輝に押し潰されるように床に倒れた可凛は、自分の豊かな胸に顔を埋めている昴輝に、顔を真っ赤にしてわたわたとしている。ただ、嬉しそうに頬が緩んでいるのを音葉は見落とさない。

 

「いつかそうなれるといいわねー可凛?」

 

 ふふんと愉快げに鼻を鳴らした音葉は、階段の踊り場で抱き合うような形となっている昴輝と可凛をスマホのカメラで撮影すると、足取りも軽くビルを出た。

 背後から聞こえる可凛の抗議は聞こえないフリをする。

 歩道を出て少し歩いたところで、音葉は足を止めて、アルトの事務所が入ったビルを見上げた。

 

「一流のアイドル声優じゃなくて、一流のお芝居ができる声優になれた時、もしまだあんた達がくっついてなかったら、その時は覚悟しなさいよ?」

 

 誰とも無く呟いた音葉は、帰路についた。

 

 

 




毎度更新が月単位で遅いジェスタです。申し訳ありません。か、艦これ? 知らない子ですね(白目

元々本筋でもこの手の話題は出すつもりだったのですが、少し難しい話題でもあるので、全カットしていました。デリケートな部分もありますし。なので後日談で少し触れられればなと。
ただ、昴輝との恋愛話も絡まないと成立しない話だったので、可凛の後日談よりも数日だけ前に起きた、という事にしました。じゃないと可凛がメチャクチャ嫌な子になってしまうという…(´・ω・`)
合わせて可凛の後日談も少しだけ加筆しています。紛らわしい事をしてしまって申し訳ありません。

今更ですが、このお話、ラノベの新人賞に応募していました。望む結果は得られず、キャラクターが地味、話も地味との評価。残念無念。
話の筋自体はかなり暑苦しい話なので、さくら壮並みにキャラクターは振り切った方が良かったのかなぁと反省はしております。でも、今のキャラクター達には愛着があるので、今更どうしようもないというか。難しいですね。

次は瑞希の後日談です。最後は昴輝ですね。
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後日談3:多村瑞希の場合

 久しぶりに中学時代の友達に電話をしたら、第一声がおめでとうの一言だった。

 聖章大付属女子中学校は、携帯電話すら厳禁という昭和からタイムスリップしたような場所だった。全寮制で学生を軟禁しているような学校である。

 ここの学生寮で相部屋となった友達がオタク趣味でなかったら、今の自分は無かっただろうと、多村瑞希は思う。

 

『本当におめでとう、瑞希』

「はい! ありがとうございます、歩さん!」

 

 携帯電話の向こう側で、かつて相部屋だった友達──藤原歩が、その頃と変わらない淡々とした声で賞賛してくれた。アニメに一人はいる、無口で無愛想で淡白な少女だ。

 いつも眠そうな顔をして、撮り溜めたアニメを黙々と鑑賞している姿は、入学当初アニメに興味が無かった瑞希にとって衝撃的だった。

 聖章大付属女子は寮も含めて漫画コミックの類が持込禁止だが、藤原歩は校則の網の目を掻い潜り、持込禁止品に指定されていないタブレットPCでコミックを読み漁る逞しい性格をしていた。

 ちなみにご他聞に漏れずパソコンも校内持込禁止である。

 本当に前時代的というかなんというか。情報化社会なんて言葉を真顔で教える癖に、自分達はその情報化社会に適応できない人材をクソ真面目に育てているのだから、酷い矛盾だ──というのは、開く口は宜しくない藤原歩の言葉である。

 そんな自分の趣味に素直な少女が相部屋となった為、それまで親から与えられるモノしか触れられなかった瑞希は趣味を広げる事ができたのだ。

 

『もうお仕事はしているの?』

「はいです。ドラマCDのお仕事をいくつか頂戴しました!」

『……佐々木音葉以外で、有名な声優とは、もう会ったの?』

「そうですねー。この前は──」

 

 あの箱庭中学を卒業した後、唯一疎遠にならなかった友達が歩だ。趣味が合うからなのか、それとも歩の趣味に自分が染められたからなのか分からないが、彼女と話しているととても楽しい。

 ちなみに歩は聖章大付属女子高校に進学している。あの抑圧しかない箱庭な空間が嫌いではないと微笑む彼女のタフさを、瑞希は心底尊敬していた。

 

『その人のサイン、欲しい』

「う。いや、それはさすがにちょっと難しい、です」

『冗談。瑞希はお仕事で声優をやってる。そんな公私混同のような真似をさせるつもりはない。でも、櫻井昴輝のサインは欲しい』

 

 歩が一番に気に入っている声優は昴輝である。

 学校のクラスが彼と一緒で声をかけられたと電話で報告した時、今すぐ行くと言って聞かない歩を止めるのに苦労した。結局は寮を脱走しかけて寮監に発見され、一週間の謹慎処分を受けたらしい。

 それ以来、歩には昴輝のサインを強請られている。他の声優のものは今のように瑞希の立場を理解して無理を言わないが、昴輝と瑞希が師弟関係である事が素直に羨ましいようだった。

 

『でも、順調なようで安心したわ。元気そうだし』

「心身共に健康にやらせていただいてます。歩さんもお変わりないようでなによりです」

『お変わりか。そうね。変わっていない事を良しとするかどうかは、諸々によってそれこそ変わるのだけれども』

「? それはどういう事ですか?」

『私の夢、知っているでしょう?』

「はい、それはもちろん。漫画家ですよね」

 

 聖章大付属女子に入学して、学生寮で歩と同室になり、彼女の趣味を理解して自分もその道に足を踏み入れ始めた頃だった。いつもの世間話から、将来の夢の話が出た。

 この学校に入学してくる少女達は、いずれも政治家や大企業のトップの愛娘達だ。彼女達がこの聖章大付属中学で学ぶのは、一般教養や学業だけではなく帝王学であり素養だ。

 藤原歩は、建設業界では指折りの企業の社長の一人娘である。将来的には婿養子を迎えて、その婿に会社を継がせ、歩は『賢妻』としてこの婿を支える事になっている。子会社の社長という別案もあるらしいが、どちらにしろ、歩に漫画家という選択権は無い。

 だが、歩は漫画家への志を捨てようとはしなかった。

 

『ビクシブやニコ動にアップしていたものを見て、連絡をくれた編集がいるの』

「ほ、本当ですか!? 良かったじゃないですか!」

『ありがとう。でも、旗色は良くないわ』

 

 歩の声が沈む。その心情が想像できる声音は、いつも滔々と語る彼女らしくなかった。

 旗色が悪いという事は、連絡をくれたという編集と上手くいっていないという事なのだろうか。歩の作画力は贔屓目無しで絶賛できるのに。

 月曜発売の週間少年漫画雑誌に連載している作家陣でも、歩の画力に勝てる人は多くはない。躍動感に満ち溢れるバトルアクションから、静謐な空気を感じられる一枚絵まで、彼女は余す事無く描写できる。

 

『あなたも知っているでしょう。私は絵は描けても、話作りが苦手な事』

「じゃ、旗色が悪いのは絵じゃなくてお話の方なんですか……?」

『ええ。オリジナリティが薄くて埋もれてしまうと言われたわ。絵の方は問題無いから、しっかりとしたプロットを組もうと言われたのだけれど、これが上手くいかなくてね。アニメや漫画にしか触れてこなかったから、どうしても何かの作品に影響されてしまうの。声優でもあるでしょう? 世間的に受けたキャラクターの演技を別のキャラクターでも求められる例。ガンダムに出てくる、赤くて三倍の速度で動く仮面の役の人が良い例ね』

 

 その話は割と有名な話だ。『国民的ロボットアニメに登場する仮面の人』のお芝居を、この作品とは全く関係の無い作品の役で求められる。どれだけ綿密に役作りをしていっても、収録現場で監督から某仮面の人みたいに演じて下さいと言われてしまう。ちなみに今では開き直って、求められれば『赤くて三倍の速度で動く仮面の人』っぽいお芝居をバンバンやるらしい。

 ようやくスタートラインに立てた瑞希としては遥か雲の上の人の話なので、その大変さはまったく分からないのだが、せったく作り込んだ役をそういう理由で否定されるのはとても悲しい事だと思う。

 

『私の場合、求められていないのに別の役の芝居をやってしまうという感じかしら。今は映画を観て、別の視点を養っているわ。映画なんてジブリやピクサーしか観なかったから新鮮だけど、特にアメコミ映画のデキは最高ね。社長が好き過ぎて海外のアクションフィギュアに手を出してしまったわ』

「しゃ、社長? アクションフィギュア?」

『アイアンマンよ。それにキャプテンアメリカも、あのダサさが一周回って格好良く見えるコスチュームが素敵ね。子宮で恋をしたわ』

 

 日本語として意味不明もいいところだが、とりあえず、歩がアメコミヒーローに心奪われている事は理解できた。

 

『一日映画三本をノルマにしているけれど、まだ編集を納得させられるプロットができないの。時々、これで本当に漫画家になれるのかなって思うわ』

「……それは、多分、編集さんにも分からないと思います」

 

 試験なら合格のラインが眼に見えて存在する。

 でも、漫画家にも声優にも、そうした眼に見えるラインは無い。

 デビューはラインではなく、ラインを超えた先にあるものだ。

 そのラインを超える分かりやすい指標は全く無い。

 どれだけ芝居のできる人でもデビューできない例は枚挙暇が無いし、どれだけ絵が描けても雑誌掲載されない例だっていくらでもある。だからこそ、モチベーションの維持が困難なのだ。そしてそれは時間が経過すればするほど、さらに難しくなる。

 

『ええ、そうね。だからまずは雑誌デビューを目標にしているわ。編集は良い人だし、信頼もできる。私の漫画がアニメ化した時は、主演をお願いするわ』

「はい。その時は是非! 昴輝さんにもお話しておきますからね!」

『もちろんよ。ええ、そうね。そうよ。漫画がアニメ化されれば出演声優にも何の咎も無く会えるわ。サインだって簡単に書いてもらえる。ええ、そうじゃない。どうしてこんな簡単な事に気づかなかったのかしら、私は。フフフ』

「あ、あの、歩さん?」

 

 携帯電話の向こう側で、親友はうっとりと喉を鳴らしていた。

 まさか、自分はもしかしてかなり余計な事を言ってしまったのだろうか。歩の漫画に対する情熱は本物だし、絵を描く事は三度のご飯を食べるよりも好きだ。漫画家は天職をいっても支障は無い。でも、漫画家を目指す理由が好きな声優に会う為、というのに切り替わるのは、果たして健全と言えるのか──?

 

『冗談よ、冗談。そんな俗物に成り下がる訳ないじゃない。フフ』

「……あんまり、冗談に聞こえないんですけど……?」

『まぁ、その内分かるわ。櫻井さんにお言付け、お願いね?』

「お、おことづけ?」

『近い内、アニメの主演をお願い致しますので、その時は原作者としてご挨拶に伺いますと、そう伝えて』

 

 恋する乙女の声だった。いけない、本気だ。瑞希は携帯電話の向こうに、トロンと眼を潤ませた親友を幻視した。

 ここは、昴輝にはもう大切な異性がいる事を伝えるべきだろうか。

 瑞希が本気で迷っていると、歩が話題を変えた。

 

『ところで瑞希。あなたは声優としてデビューした事をご両親にお伝えしたの?』

 

 あのオーディションを経てアルト・プロダクションに所属となり、声優タレントとして活動をするようになった今、両親との──正確に言えば父親との溝が問題だった。

 母親には連絡を取って報告を終えている。瑞希は未成年なので、事務所との所属契約には保護者の承諾が必要だった。その為に事務所まで足を運んでもらい、書類等に一筆貰っている。

 

「おかーさんには言えたんですが、おとーさんには、まだ」

『なるほど。そちらのお父様もお変わりないご様子なのですね。私の父もそうだから、気持ちは分かるわ。私もデビューできたとして、その時どう説明しようか、とらぬ狸の皮算用と分かっていても不安だもの』

「……ですよね」

『こればかりは仕方ないわ。夢ややりたい事はあっても、私達はまだ学生──子供だから。人の事を言える立場ではないけれど、お父様にもお話は通しておいた方がいいわ。下手を打てば事務所にも迷惑をかけるから』

 

 

 

 今の自分は順風満帆だと思う。これからの声優としての活動に不安が無い訳ではなかったが、希望の方が勝った。まだ見ぬ世界にドキドキして、まだ見ぬ物語にワクワクして、まだ見ぬキャラクター達との出会いを焦がれる。

 昴輝の稽古も、はじめた時と比較すれば、難易度が上がっている。昴輝の求めるレベルも高くなっている。それに応えるのは大変だが、だからこそ、やり甲斐がある。挑戦しようと前のめりになれる。

 そんな時だからこそ、父との確執が、不意に思い出されるのだ。

 自分にとって父は何なのだろうかと思う。

 小さな時はいつも笑って頭を撫でてくれたし、慌しい仕事の合間を縫って遊びにも連れ出してくれた。面と向かって父が大好きだと言えていた頃だし、それが本心だった。

 そんな父が、いつからか、瑞希の行動を制限し始めた。

 一大企業のトップの一人娘だ。大切にされるのは当然なのだが、それでも瑞希を縛る父の行動は親馬鹿と微笑ましく済ませられるレベルではなかった。

 そうした行動は果たして愛情から来るものなのか。それとも巨大企業の代表取締役の娘としてあるべき姿に無理矢理填めようとしているのか。瑞希にはよく分からない。

 ただ、母はいつもこう言って父の胸中を代弁していた。

 

「立派な大人になって欲しい、か」

 

 声優として沢山の人達を楽しませる人は、立派な人ではないのか。

 瑞希が知る人達は──昴輝や音葉や可凛は、尊敬できる人達だ。自分のやりたい事にひたむきで、一緒にいると、こんな卑屈な自分でも何かができるような気にさせてくる。そんな昴輝達が尊敬している結城聡一郎は、若手の俳優の中でも随一の演技派として知られている。事務所の人達からも全幅の信頼を寄せられていて、瑞希の相談にも何度も乗ってくれた。彼が立派でなかったら、父親の立派な人の基準は破綻しているとしか思えない。

 デビューした事に関しては、母には父に報告しないように言ってある。自分のやりたい事くらい、自分の言葉で言うべきだと思ったからだ。

 それでも憂鬱な溜息を禁じ得ない。

 

「今日は一体どうしたのよ。溜息ばっかりついちゃって」

「あ、おかえりなさい、音葉さん」

 

 瑞希は席を立って、控え室に戻ってきた佐々木音葉に頭を下げる。

 今日はドラマCDの収録日だった。音葉がメインヒロインを務める作品だが、瑞希も名前のある役で彼女と共演している。今は別撮りのシーンがあった為、音葉一人でスタジオに詰めていたのだ。

 他の共演者達が音葉と入れ替わるように控え室を出て、スタジオに入ってゆく。

 

「あんたはもう収録終わったんだっけ? 帰らないの?」

 

 言われて気付いた。音響監督から、今日の収録は終わったのでもう上がっていいと言われていたのだが、控え室であれこれ悶々と考えている内に帰り損ねてしまった。

 

「なに、悩み事? 昴輝の稽古で上手くいってない?」

「い、いえ。そういう訳じゃないです。昴輝さんの稽古はもうバッチリというか何と言うか。最近はドンドン難しくなってて、できない事が増えてきた有様です」

「マジで? 道理であんたも上達速度も速くなった訳だ。あーくそ、私も早く参加したい」

「まだあの噂で……?」

「下火にはなったけどね。風化するまでは迂闊な事できないもん」

 

 そう言って、音葉は寂しそうに笑う。

 佐々木音葉と櫻井昴輝──正確には黒野昴輝の恋愛騒動。音葉のブログが半ばプチ炎上するまでに発展したが、悪意ある憶測から生まれたような話だったので、今ではほとんど過去の事になりつつある。

 それでもアイドル声優の恋愛は非常にデリケートな話題だ。諸々を考慮して、音葉は昴輝の個人稽古への参加を自粛している。自粛からそこそこ経ったが、再び参加するにはまだ時間がかかりそうだ。

 

「それで、上手くいってるはずのあんたは、どうしてそんな不景気な顔で溜息ついてるの?」

 

 帰り支度を整えながら、音葉が言った。

 そんな顔をしているなんて自覚は無かった。

 

「瑞希。この後は昴輝の稽古?」

「い、いえ。今日昴輝さんはリハビリで病院に行かれているので、このまま帰るだけですが。音葉さんは?」

「あたしもこの後はフリーね。だからさ」

 

 音葉は瑞希が座っていた椅子の下から、彼女の鞄を引っ張り出して、そのまま差し出した。

 

「ちょっと付き合って。美味しいカフェあるから紹介してあげる」

 

 

 

 音葉が薦める喫茶店は、スタジオを出て五分くらい歩いた場所にあった。

 全国チェーン店ではなく、個人経営のカフェらしい。広くはない店内だったが、落ち着いたモダンな内装で、静かに流れているジャズが良い雰囲気を作っていた。

 音葉は慣れた様子でオーダーを済ませ、瑞希はわたわたとメニューを見て、最後には音葉と同じものを頼んだ。店長らしき恰幅の良い男性は不慣れな瑞希に楽しそうに眼を細め、彼女達を窓際の席へと案内する。

 

「これは素敵なお店ですね」

「でしょ? ちょっと前に先輩に教えてもらってね。ほら、都内のスタジオってオフィスビルに入ってる事が多いでしょ? だから近くにOL向けのこういうお店があるのが多いの」

 

 先に運ばれてきたお冷で喉を潤した音葉は、テーブルに少し身を乗り出して、店内を物珍しそうに見渡している瑞希の顔を覗き込んだ。

 

「で。何かあったの? 昴輝や可凛と喧嘩でもした?」

「そ、そんな喧嘩なんてとんでもないです! 良くしていただくばかりで、何もお返しできてない事に死にそうになってるくらいです!」

「何もお返ししてないなんて訳ないじゃん。あんたが声優として活躍すればするほど、あいつらは嬉しいはずよ。特に昴輝なんて、瑞希がいなかったら今も燻ってただろうって言ってるくらいだしね」

「おおおお恐れ多いですよぉ……!」

 

 もじもじと肩を揺らして縮こまる瑞希。すると、音葉は不愉快そうに眼を細めた。

 

「そういう自己評価の低いところ、そろそろマジで直したら? 藤見さんのあのアニメ、間違いなく成功すると思うけど、そうなったらあんたの仕事は今と比較にならないくらい増えるわ。あれ、あんたの当たり役になる。絶対にね。そうなった時、右も左も分からない新人気分でいられると迷惑よ」

 

 その声は冷たく沈んでいて、音葉が本気で怒っている証左だった。

 眇めた眼で萎縮する瑞希を睨んだ音葉は、椅子の背もたれを軋ませて、腕を組む。

 

「謙遜と卑屈は違うの。あんたのそれは卑屈。慢心なんて程遠い性格してるんだから、調子に乗るくらいが丁度いいの。分かった?」

「は、はい!」

 

 言葉は棘だらけで初対面なら間違いなく誤解されそうな発言だが、瑞希にとって、音葉の物言いの鋭さはいつもの事だ。最初の時こそ、その猫かぶりには驚かされたが、佐々木音葉という少女には悪意が無い。

何事に対しても本気で真剣で全力だからこそ、自分にも他人にも厳しくなる。

 だから尊敬できる。同い年とは思えないし、この人に早く追いつきたいと思う。芝居の考え方や技術以上に、人として憧れを抱かずにはおられない。

 

「なによ、怒られてるのにニコニコしちゃって。気持ち悪い。あんたM?」

「そ、そんな事無いです誤解です! 怒られるのが嬉しくて笑った訳じゃないです! ただ、私は音葉さんみたいになりたいなって、改めて思っただけです!」

 

 包み隠さない本音だったが、そう言われた音葉は眼に見えて赤面した。小声で瑞希を罵りながら、店内の様子を窺い、他の客達の視線が集まっている事に肩を小さくさせる。

 

「しばらくここに来られないじゃない、この馬鹿」

「す、すいません……!」

 

 そこに店長が注文の品を運んでくる。他のお客様のご迷惑にならないように、と笑顔で注意されてしまった。

 オーダーしたのはケーキセットだ。自家製ケーキと紅茶のセットで、紅茶の方は店長が葉を厳選したという触れ込みのダージリンティーだ。

 店自慢の紅茶とチーズケーキに舌鼓を打った後、音葉が口火を切った。

 

「それで、あんたはなんで元気ないワケ?」

「別に元気が無いというか、そういう訳じゃないです。ただその、なんというか、上手くいかない事が一つだけあるというか」

「父親と上手くいかない?」

 

 紅茶を口元に運ぼうとした手が止まった。

 視線を上げると、頬杖をついた音葉が、つまらなさそうな顔でケーキを細かく切っていた。

 

「瑞希ほどじゃないけど、私も似たような感じだからさ。あんたほど前時代的じゃないし、今もお前がやりたいのはアイドルなのか俳優なのかどれだ! って見当違いな事で怒鳴るもん」

「……そういう時、どう返してるんですか?」

「別にどうも返さないわ。親父は結構歳いっててさ。いわゆる団塊世代って奴? コードケーザイセイチョーを生き抜いたキギョーセンシだかなんだか知らないけど、型に填まった思考しかできないの。それから食み出た奴はみーんな社会不適合者扱いよ」

 

 肩を竦めた音葉が、一口サイズにしたチーズケーキを咀嚼する。その顔に浮かぶのは、美味さを味わうそれではなく、諦めの笑顔だった。

 

「声優がどういう仕事なのかもちゃんと理解してくれてないし、趣味らしい趣味も無い人だから、私がどう説明したところで意味無いの。だから親父と話す時はいっつも一方通行。親父が怒鳴って、私が適当に流して。まー不健康極まってるわね」

「お母さんは、そんな時、どうされているんですか?」

「そこも瑞希のところと同じ。基本私の味方でいてくれるけれど、親父には逆らえない。私には全然分かんないけど、団塊世代って男尊女卑が凄かったらしいから、そういう思考になっちゃう人が少なくないみたいよ」

 

 肩を竦める音葉の言葉を、瑞希は首肯する。

 彼女の家と瑞希の家では条件や立場は違うが、親の歳の世代はほぼ同じだ。結城聡一郎も言っていたが、その世代の人間には、かなり偏った思考が多いらしい。

 

「口でどう説明しても理解できないのが私の親父。だから私は全力で自分のやりたい事をやって、結果を出すの。口も悪いし頭も硬いし女は男に尽くすものだなんてサイコーの男女差別を家族にぶっ放すクソオヤジが地団駄踏むくらいの売れっ子になる。具体的には、高校卒業までに親父の年収を超えるくらい稼ぐ。それくらいの結果を出せば、あのクソオヤジも納得せざるを得ないはずだからね」

「ぐ、具体的ですね……」

「親父の世代はそういう数字に弱いらしいわよ? あんたもそれくらいやってみればって、あんたの場合はちょっと無理か。うちは普通の一般家庭だし」

 

 瑞希の父親が有名な巨大企業を経営している事は、音葉も知っている。父親の年収を超える金額を稼ぐなんて目標は、瑞希にはとても無理だ。

 そもそも声優の収入は多くない。アニメメーションの業界そのものが低収入という固定観念はすでに過去の事で、アニメーターや声優達の待遇は随分改善されたが、それでも技術職である事に変わりはない。新人であればその分収入も低い。特にランク制度が導入されている声優の新人の経済状況は、今もそれなりに厳しかった。

 だが、音葉もランク的には新人だ。どれだけ売れているアイドル声優でも、新人である以上、収入は高くはない。その条件で父親の年収を超える事を目的としているなんて。

 

「音葉さんは、やっぱり凄いですね」

 

 心底そう思う。そんな現実的過ぎる目的なんて、自分には作れそうにない。

 やりたい事や夢に、お金を直接結びつける事自体が、瑞希にとって衝撃的だった。

 アニメは好きだ。そのアニメに魂を吹き込む声優に憧れた。だからなろうと思った。お金を貰うなんて、考えにはほとんど無かったのだ。

 

「高端さんからは夢が無いって泣かれたけどね。そりゃ私だって生々しい目標だなって思うし、ファンに言えば絶対に幻滅されるって分かってるけど、でも、親父を納得させる為だもん。制限時間内で団塊世代のクソオヤジを黙らせるには、分かりやすい数字があるといいわ」

 

 確かに、アイドル声優が口にするには些か現実的過ぎる話ではある。正直、同じ仕事に就いて、今も音葉が目標である瑞希であっても驚きだ。幻滅なんてするはずもなかったが、とても真似できないと思う。

 でも、自分や音葉の父親のような人を納得させるには、なるほど、優れた方法だと感じた。

 だからこそ、気になる点がある。

 

「あの、ご質問があるんですけど、いいですか? もしかしたら物凄く失礼になるかもしれないんですけど」

「今更遠慮する仲でもないじゃない。なに?」

「……どうして、そこまでお父さんを納得させようとするんですか?」

 

 音葉の方法は凄いと思う。見習えるなら見習うべきだ。

 でも、自分の父親は巨大企業の社長だ。その年収なんて瑞希は聞いた事も無いが、会社の規模からは想像できる。ハリウッドにデビューでもしない限り、父親を超える事なんて不可能だ。

 そもそもお父さんは、私のやろうとしている事を、認めてくれるのだろうか。どんなに頑張っても、どんなに成果を出しても、あの有無を言わさぬ論調ですべて切って捨ててしまうのではないのだろうか。

 子供の遊びだ、と。

 そんな事では立派な大人になれない、と。

 問われた音葉は、残った紅茶を最後まで飲み干した後、あっけらかんと笑った。

 

「だって悔しいじゃん」

「……悔しい?」

 

 小首を捻る瑞希に、音葉はテーブルに身を乗り出して頬杖をつくと、すっと眼を細めて口調を改めた。

 

「私ね、アニメが好きなの。可愛い女の子が沢山出てくる中身空っぽの萌えアニメも、エログロバイオレンスなシリアスアニメも、キャラが哲学的な発言ぶっ放すSFアニメも、ぜーんぶ大好き。絵を繋ぎ合せただけのフィクションだけど、そこに別の世界があって、キャラクターの数だけ物語があるから。その物語が、私は好き」

「私もそうです。私もそうだったから。だから、声優に憧れたんです」

 

 そっか、と音葉は嬉しそうに笑った。

 

「私の親父は、この世界を下らないって一言で切り捨てたの。子供の遊びだって吐き捨てた。『ドラえもん』は他人に頼るだけの駄目な子供を作るアニメだって馬鹿にした。中身を見ようともしないで。知ろうともしないで。私は、それが悔しくて悔しくて仕方なかった。ムカつく以上に悲しかった。だから見返してやろうと思ったの。私が声優になろうとした理由の一つがこれね」

「それじゃ、音葉さんは」

「アニメが好きだった事が最大の理由で、私自身がキャラクターを演じたいって思った事が最初の動機。でも、その動機に火をつけてくれたのが、親父の鼻を明かしてやりたいって衝動だね。だからこの仕事で親父を納得させないと駄目なんだ。それに」

 

 音葉は一度言葉を切ると、窓の外へ視線をやった。

 大通りを挟んで、JRの駅が見える。平日の十六時を跨ぎ、人の波は徐々に増えつつある。そんな行き交う人の濁流の中に、同い年くらいの女子高生達がいた。三人組の少女達は、何やら楽しげに会話を弾ませながら横断歩道を渡ってゆく。

 

「腹立つ事多いけどさ、やっぱ親父だから。小学校の授業参観は仕事休んで全部来てくれて、体育祭も文化祭も私より盛り上がってさ。中学生になってもそういうの変わらなかったからすっごい恥ずかしい目にあったけど、そういうところが、どうしても嫌いになれなかった。だから私は、親父に認めて欲しいんだ。私の好きな事も、やろうとしてる事も、ね」

 

 昴輝達には内緒だからね、と音葉は小声で言って笑った。

 

 

 

 その日。独り暮らしのマンションに帰宅した瑞希は、家事と風呂を済ませた後、自主トレや撮り溜めているアニメの消化を後回しにして、実家に電話をかけた。

 最初に出たのは、小さな頃から面倒を見てくれていた老執事だった。家を出てからはじめて瑞希の方から連絡を寄越した事に驚くと同時に、嬉しそうに声を弾ませてくれた。

 祖父のいない瑞希にとって祖父代わりのような人で、とても懐いていたのだが、こうやって声を交わしたのは久しぶりだった。

 やがて老執事は母を呼び、受話器を彼女に渡した。

 

『あなたからかけてくるなんてはじめてね。どうしたのかしら?』

「あの、おとーさん、いる?」

『ええ。今、夕食を摂られているわ。もしかして、お父さんに?』

 

 母の声に驚きが混ざる。

 瑞希が、自分から父と話したいと言った事は、これまでほとんど無かったからだ。

 

『何かあったの?』

「おとーさんに、私がデビューした事を伝えたいの」

 

 自分でも分かるくらいに震えた声だった。

 でも、母はそれ以上は何も言わず、父を呼んでくれた。

 

『何か用か?』

 

 その強面に浮かぶ仏頂面が想像できてしまうような不機嫌な声。

 瑞希の声も、自然と硬くなる。

 

「用が無いと電話をしちゃいけませんか?」

『また生意気な口を叩くようになったな』

 

 鼻で一笑される。

 昔からこうだっただろうか。

 違う。

 小さな時は違った。頭を撫でてくれた。優しくしてくれた。笑ってくれた。暖かかった。

 でも、いつからか距離ができていた。

 授業参観に来てくれた事は無い。

 体育祭も文化祭も、学校の行事には、ただの一度も来てくれた事は無い。

 いつも母と老執事の二人が来てくれた。

 でも、それで良かった。

 二人は暖かかったから。

 いつからか、父は父なのに、他人のように感じられていた。

 それなのに私の将来を握っていて、進む道も勝手に決める。

 それが嫌だった。

 多分、私は父の事が嫌いなのだ。

 音葉のように認めて欲しいとも思わない。

 父に願う事は、私のこれからに干渉しないで欲しいという事。

 それさえも、父は許さない。父はそういう人だ。だから私は家を飛び出した。残された猶予期間を好きにしたかった。黒野昴輝という憧れの声優と出会い、自分のやりたい事──声優を目指す決意を固められて、これで結果を出して父を黙らせようと思っていた。

 でも、今日音葉と話して、それでは駄目なのだと感じた。

 

「おとーさんは、おかーさんと、どんな風に出会ったの?」

『……なに?』

「だから、おとーさんとおかーさんはどうやって仲良くなったのかなって」

 

 音葉は融通の利かない父を嫌っていない。父がどういう人間なのかを理解して、自分のやろうとしている事を認めさせようと頑張っている。声優やアニメを理解してもらえるように頑張っている。

 だが、瑞希は父が嫌いだ。なんでも自分の思い通りに動かそうとする父が苦手だった。だから対話も放棄したし、瑞希は自分の事を理解してもらおうとも思わなくなっていた。

 多分、それがいけなかった。

 相手の事を分かろうともしないで、自分の事だけを分かって欲しいなんて、例え親子であっても都合が良過ぎる話だ。いや、自分達のように溝のある親子ならなおさらだ。

 

『いきなり何を言い出すんだ、お前は』

「聞いちゃいけませんでしたか?」

『そういう事は母に聞け』

「おとーさんの口から聞きたいんです」

『何故だ?』

 

 父が戸惑っているのが手に取るように分かった。

 はじめて父に対して主導権を握れたのではないだろうか。

 それが少しだけ嬉しかった。

 その嬉しさを勇気に変えて、瑞希は父の質問に答える。

 

「おとーさんの事を知りたいから」

 

 自分のやろうとしている事を、一方的に認めさせるのではない。

 自分も、父を認めなければならない。

 大企業のトップという責任ある立場の父を、瑞希はこれまで知ろうとしなかった。口は悪くて頭は硬い父には何を言っても駄目だと、家を出る時に決め付けていたから。

 まずは、父を知ろう。

 そして、自分を知ってもらおう。

 多村瑞希という、あなたの娘の事を。

 お互いにお互いを知る。その間に、自分のやりたい事で──声優として確かに実績を積んで、第一線で必要とされる表現者になって、声優とアニメの世界を知ってもらう。

 その上でまだ意見が喧嘩してしまうのなら、その時はその時だ。別の手段を考えるまでの事だ。

 暗く下を向いているより、明るく前を向く。

 変わって欲しいと願うのではなく、変えたいと思って動く。

 この電話は、その一歩なのだ。

 

 




悪人不在のお話の中で、唯一の悪人と言えるキャラクターは瑞希の父親でした。
ご感想の中に「瑞希はお父さんと上手くいけたのかな?」というお言葉があって、本筋の中では全くフォローがなかった事に気付きました。完全に見落としていて、やってしまったーとひたすら落ち込みました(´;ω;`) そうした経緯もあって、瑞希の後日談はお父さんとの距離詰めにしました。

音葉の後日談のあとがきにも書かせていただきましたが、このお話自体はラノベの新人賞に投稿する為に書いたもので、読者対象として十代男子を想定していました。なので「親」という存在には苦慮した部分はあります。また声優の収入の部分も、本筋では全く触れていません。
だって夢売る仕事は往々にして収入少なすぎて食べていけないなんて、それこそ夢が無いじゃないですか(´・ω・`) 声優の専門学校に通っていた時にはそうした収入の事なんて視界に入りませんでしたが、今思うと「あーホントに子供だったなー」と思う訳で。とにかく説教臭い内容にはしたくなかった経緯があります。
瑞希の後日談には、個人的な考えが割と多く反映されているので、それでご不快な思いをされた方がいらっしゃいましたら本当に申し訳ありません。

この「バクガールズ!」ですが、「小説家になろう」さんでも掲載し始めました。
そのまま掲載しても面白くないので、途中から少し話を変えるつもりです。筋自体は変更予定がありませんが、後日談には繋がらず、そのまま続いていける話にしようと考えてます。

残るは昴輝だけになりました。またお付き合いいただければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後日談4:黒野昴輝の場合

 もどかしい。

 焦燥が身体を締め付ける。

 もっと出せると。

 こんなものではないと。

 これくらいではないと。

 そうやって思えば思うほど、一度壊れた喉は痛む。

 リハビリでさえこれなのだから、本気で芝居をした時にはどうなるのか。

 痛みは我慢できる。

 でも、それによって芝居の精度が落ちる事は我慢できない。

 だから酷使する。

 もっとできるはずだ。

 もっと声域を広げ、音域を深める事ができるとはずだ。

 そうすればするほど、全盛期とは比較にならない酷い発声しかできない。

 これが今の自分の限界だ。

 前々から分かっていた事だ。

 瑞希の稽古を始めた時から知っていた。

 でも、本気を出せばいけると、心のどこかで慢心があった。

 その慢心が、今焦りになっている。

 リハビリに行く度に、医者から小言を頂戴する度に、かつての自分の芝居を見る度に、不安に駆り立てられる。

 自分は果たして、瑞希や音葉と再び同じ舞台に──同じマイクの前に立てるのか。

 一度固めた決意が、無様にも揺れていた。

 あのオーディションから三ヶ月以上が経った。季節は移ろい、夏から秋へ、秋から冬の気配が都心の空気を冷やしている。特に今年は寒気の足が速いらしく、防寒具の用意は早めにするよう天気予報が連日報道していた。

 窓から眺めた空は、憂鬱な灰色一色だ。朝から一つも変わっていない。ただでさえ気が重いのに。せめて晴れてくれれば、少しはマシなのだが。

 

「天候にまで不満を感じ始めているのは、なかなかに重傷だ」

 

 溜息をつきながら、昴輝は帰りの支度を始めようとして。

 視線が自然と瑞希の席に移動した。

 そこには誰も座っておらず、鞄も無かった。

 瑞希は昼で早退して、新人声優としての仕事をこなしている。最近はそうする場面が増えた。藤見鷹也プロデューサーのオリジナル新作アニメのお披露目が近づく中、今後も瑞希はこうして授業を切り上げて収録に向かう事は増えるだろう。

 自分がそうなれるのは、いつだろうか。

 声優に復帰して、瑞希と競演すると宣言したのに。

 

「これは何とも格好のつかない事態だな」

 

 苦笑いが禁じ得なかった。

 だからこそ、焦燥心が燻っている。

 キャリアを積んで、少しずつ技術も向上している佐々木音葉の芝居を見る度に、自らの不甲斐無さを感じてしまう。音葉とはどちらが先に瑞希と競演するかで競っていたのに、その勝負は早々に昴輝が負けてしまった。これが地味に応えている。

 不安定な空のように憂鬱な思考を引き摺りながら、昴輝は手帳を開いて今日の予定を確認する。瑞希は収録に行っているので稽古は無し。代わりに喉の定期健診とリハビリだ。時間的にそろそろ学校を出なければ間に合わないのだが──。

 その時、日直で職員室まで行っていた西尾可凛が戻ってきた。

 

「ごめん昴輝、お待たせ。今日は定期健診だよね?」

「そうだが、やはりお前も来るのか?」

「うん」

 

 笑顔で肯いた可凛は手早く帰りの用意を済ませてしまう。マフラーを巻いて、鞄を背負い、昴輝と一緒に教室を出た。

 リハビリを兼ねた定期健診には、モデルの仕事が無い限り、可凛も同行していた。来ても暇なだけだぞと言っても、いいからと着いてくる。

 

「そんなにあたしに来られると困る理由でもあるの? 病院に綺麗な看護士さんでもいた? それとも年下好みの女医さん?」

 

 下駄箱で靴を履き替えて昇降口を出た昴輝を、先に外に出ていた可凛が出迎える。腰の後ろで手を繋いで、前屈みになって、頭一つ分背の高い昴輝の顔を下から覗き込む。

 

「昴輝って素直だから年上から好かれそうだよねー」

「俺の主治医は四十代の太鼓腹の男性で、看護士も母さんくらいの歳だ。お前が想像するような事態には世界が引っ繰り返ってもならない」

「でも受付の人、すっごく綺麗な人だった」

「確かに美人だったが」

「だったが?」

「お前の方が美人だ」

 

 贔屓でもなく煽てでもない素直な意見だった。

 寒さで白くなっていた可凛の頬に、鮮やかな桜色が走る。それを隠すようにマフラーの中へ首を埋めた可凛は、嬉しそうに眼を細めて、えへへと笑った。

 なるほど。どうやら誘導尋問されたらしい。

 親友以上恋人未満の幼馴染な関係から一歩先に進んで以降、こうしたやりとりは随分と増えた。昴輝としては、何か眼に見えて自分達の関係が変わったような感覚は無かったが、可凛が嬉しそうにしていると穏やかな気分になれる。

 できる事なら、ずっと笑顔でいて欲しいとも思う。

 昴輝は恥ずかしそうに身じろぎをしている可凛に歩み寄ると、その手をそっと握った。

 細く冷たく柔らかい感触に、心臓が少しだけ跳ねる。

 可凛はびくっと急停止して、前髪の隙間から上目遣いで昴輝を見つめてきた。

 その視線に戸惑いを感じて、昴輝は慌てて彼女の手を離す。

 いけない。いくら恋人であっても突然過ぎた。頬が熱くなっている事を自覚しながら、昴輝は己に猛省を強いる。大切な人だからこそ、今のは不躾過ぎた。

 密かに混乱する昴輝は、可凛が名残惜しそうに手をそわそわさせている事に気付かない。

 

「済まん。厚かましかった」

 

 頭を掻いて謝る昴輝に、可凛は無言で首を横にぶんぶん振る。マフラーに挟まれている艶やかな黒髪が犬の尻尾のように揺れた。

 

「ち、ちがうの。昴輝から、その……そういうの、してくれるって全然思ってなかったから。ビックリしちゃって」

「そうか?」

「そう、だよ。なにか、あったの?」

 

 嬉しさと驚きと、それからほんの少しの心配と。沢山の感情で満たされた可凛の眼が、昴輝を見る。

 確かに、らしくない事をしたのかもしれない。

 それはきっと、可凛が危惧している『何か』──自分が今感じている焦燥から来るものなのだろうか。

 だとすれば、酷く格好悪い。

 

「いや、何でもない。驚かせて悪かった。定期健診の時間に遅れるから急ごう」

「う、うん」

 

 先に歩き出す昴輝。可凛は慌てて昴輝の横に行くと、何度も彼と手を繋ごうとする。でも、恥ずかしくて手は空を切る。それを何度も繰り返す内に、ようやく昴輝の制服の袖を指で摘む事ができた。

 

「……付き合って二ヶ月も経ってるのに、これが精一杯って、あたしもヘタレだなもう……」

「何か言ったか? それと何故袖を摘んでいるんだ?」

「何も言ってないしこれには特に意味なんて無いから気にしないで」

 

 ぷいっとそっぽを向いた可凛に、昴輝は首を傾げながら、行き着けの病院へ向かった。 

 

 

 

 喉の故障と一言に言っても、原因は様々だ。

 深刻なものになると、声帯白班症等、ガンの前段階となるものもある。

 昴輝の場合、生まれつき声帯が弱く、無理な発声練習等を繰り返した結果、声帯ポリープを患った。

 声を使う仕事──特に歌手に多い故障だ。軽いものなら発声を禁止していれば自然治癒も有り得るが、基本的には手術によって血腫を切除しなければならない。また切除したとしても音域に変化が発生する場合がほとんどで、歌手や声優にとって致命傷になる場合がある。

 それでも放置しておけば悪性腫瘍に発展して、ガンになる可能性があった。

 昴輝が医者から通告されていた『今度喉を壊したら』というのは、そういう最悪のケースだ。血腫はすでに切除済みだが、音域や声そのものに変化が出なかった事は不幸中の幸いと言えるだろう。

 それでも次に何かしらの異常が見つかれば、声帯を失うとまではいかなくても、役者としては致命傷となる。健康被害だって避けられない。

 そうした事情もあって、昴輝の声優復帰は両親から反対された。恩師の一人である結城聡一郎も、歓迎こそしてくれたが、胸中が複雑であるのは昴輝にも分かった。

 それでも、もう一度挑戦したい。

 マイクの前に立ち、キャラクターに命を吹き込み、見ている人達を夢中にさせたい。

 可凛曰く、自分は筋金入りの役者馬鹿なのだから。

 診断を終えて、役者復帰へのリハビリの経過は良好だと太鼓判を押された。

 同時に、今が大事な時期なので、極端に負荷のかかる事はやめるようにとも釘を刺された。復帰後も声を出せる時間には制限がつくらしい。気を揉む要項は減る兆しが無かった。

 一時間のリハビリを終えて待合ロビーに戻ると、ソファに座っていた可凛が熱心な顔でスマホを操作していた。横に座っても気付かないので、頬と頬が触れ合うくらいの距離からスマホの画面を覗き込むと、ロビーに響き渡るような悲鳴を上げられた。

 他の利用者達から浴びせられる迷惑そうな視線の集中砲火に、昴輝と可凛は揃って立ち上がって頭を下げるしかなかった。

 

「昴輝。あのね、そういう無防備過ぎるところ、本当に自重してお願いだから」

「お前が気付かなかったからだろう。無防備で言えばお前の方が無防備だ」

「そういう意味じゃない……! へ、部屋とかで二人きりの時なら、良いから。むしろそういう時にこそするべきだからね? いい? 分かった? はいは?」

「……分かった」

 

 チラチラとこちらの顔色を窺う可凛に、昴輝は不承不承肯く。

 無防備で言えば、こうして他人が横に座っても気付かない可凛の方ではないのか。

 そんな疑問と不満は腹に押し込んで、昴輝は改めて可凛に訊ねた。

 

「それで、熱心にスマホを見ていたが、何かあったのか? また音葉のブログが炎上したのか?」

「ううん、そういうのじゃないの」

 

 可凛が肩を寄せてスマホの画面を見せてくる。

 甘い柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。さっきは意識しなかったが、落ち着く香りだ。鼻を利かせていると、可凛は慌てた様子で身を引く。

 

「も、もしかして、あたし汗臭い? 今日はほら、体育あってさ。着替えはちゃんとしたんだけど」

「いや、大丈夫だ。お前の匂いが良くてな」

「ぅ──ぁ────!」

 

 耳の先まで赤くして。可凛は応接椅子に座ったまま顔を右往左往する。その模範的挙動不審者の行動に、再び他の利用者達が不穏な眼を向けてきた。

 居心地の悪い雰囲気の中に、可凛は特に気にする様子も無く、最後には萎縮させた身体を昴輝に寄せた。

 

「だから、そういうことは、いえにかえってからにしてください」

 

 片言で、しかも何故か敬語で怒られた。何故だろう。

 小首を傾げる昴輝に、仕切り直すように首を横に振った可凛がスマホを見せてきた。

 小さな有機ELディスプレイには、アニメ情報専門のまとめサイトが表示されていた。

 その中に、昴輝は見慣れたアニメのタイトルを見つける。

 

「白執事の第二期?」

 

 昴輝が最後に出演したアニメが、足の不自由な少女と性格が不器用な少年執事の交流を描いた『白執事』だ。原作に忠実ながら、原作では描けなかった部分を綺麗に補完する完成度の高さを見せ、さらに良好な作画から、放送終了後直後から第二期を求めるファンの声は多かった。

 

「そうそう。元々DVDとBDの売上も良かったみたいだから、そういう話はあったんだよ。昴輝は知らなかった?」

「ああ。初耳だ」

 

 昴輝にとっては事実上の引退作となっている。

 そうなれば、思うところは他作品よりも多くなる。

 全十二話の1クール作品。スタッフや共演者の仲が良く、原作者も交えて、共同体として良いチームができていた。

 少年執事役の昴輝が最も絡んだ共演者は、少年執事の主人で足の不自由な少女を務めた女性声優だ。

 二十歳前の女性だったが、高校生の頃からこの業界で活躍していて、昴輝に対して先輩風を吹かせながらも、面倒見が良く世話になった。舞台役者でもあり、何度か強制的に観に行かされた。チケット販売のノルマ達成にも付き合わされて、酷い目にもあった。今にして思えば、音葉と少し似ているかもしれない。

 他の共演者達も、ベテランから新人まで、ライトスタッフに恵まれた。

 オーディションから番組終了の打ち上げまで、始終楽しかった。

 だからこそ、引退した後、『白執事』という作品も含めて近づく事ができなかった。

 楽しかった頃を懐かしんでしまうから。

 それが、辛かった。

 アニメが終わっても原作は続いていて、販売部数も伸び、連載されている雑誌の看板作品になっている事は知っていた。瑞希や可凛が原作を買っていて、彼女達から教わった。

 

「そうか。二期をやるのか」

 

 良い事だ。制作スタッフも続投するだろうから、良い作品に仕上がるはずだ。

 ただ一つ残念なのは、自分があの少年執事を担当できない事だろう。

 不意に頬に痛みが走った。可凛が白い指で昴輝の頬を抓っていた。

 

「いひゃいひょ。にゃにおしゅる」

「仲間外れにされて不貞腐れた顔してるから。昴輝の仏頂面って、割と考えてる事が出るよね」

 

 悪戯っぽく笑った可凛が、昴輝の頬の感触を指先で楽しむ。

 その指の冷たさに心地良さを覚えながら、昴輝はやんわりと可凛の手を解いた。

 

「別に不貞腐れてはいない。二期がやるのはめでたい事だ。携われた者として、嬉しく思う」

「だったらどうしてそんな寂しそうな顔してるの?」

「していない」

「してた」

「していないと言ったらしていない」

「してたって言ったらしてた」

 

 その時、昴輝を精算カウンターに呼ぶアナウンスが鳴った。

 昴輝と可凛はお互いに不満そうに睨み合った後、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向き、二人揃って席を立って精算カウンターへ向かった。二人の仏頂面に面食らう事務員に、昴輝は支払いを済ませて外に出る。いつも可凛に合わせている歩調が、ちょっとだけ速くなった。

 別に自分は不貞腐れていないし、寂しいとも感じていない。

 あのライトスタッフ達と仕事ができないのは、この喉の調子からすれば当然だ。バスケットボールで、足に故障を抱える選手にポイントガードやスモールフォワード等を任せないだろう。そうなってはチームそのものに負担を強いて、勝てる試合も勝てなくなる。

 今の自分では、ライトスタッフになれない。少なくとも昴輝はそう思う。意固地になっているとか、そういう訳ではない。客観的な判断だ。藤見鷹也であろうとも同じ判断をするはずだ。

 業界には、自分よりもずっと良い芝居をする声優がいる。あの少年執事の役も、きっとどこかの誰かがこなしてくれる。なら、自分が気を揉む必要も無い。

 そう思えば思うほど、足が重くなっていって。

 後ろから駆け足で追ってきた可凛に、ぎゅっと右腕を抱き締められて。

 そのまま、家とは違う方向へ手を引っ張られた。

 

「おい可凛。どこに行くつもりだ。今日は久しぶりに何も無いから、帰ってビーフシチューに挑戦したいんだが」

「そんなのあたしが作ってあげる。だからちょっと付き合って。怒らせたお詫びに良いもの見せてあげる」

「別に俺は怒っていないぞ。変に気を遣わなくてもいい」

「そう? ならあたしの都合で連れ回しちゃうね」

 

 昴輝の答えなんて待たない可凛は、駅前の繁華街へ続く歩道を強引に突き進んでゆく。昴輝はただ手を引かれるまま、可凛についていった。

 そうして到着したのは、繁華街にあるアニメやゲーム等を専門に取り扱う販売小売店だった。一般書店よりもコミックやライトノベル等の書籍の品揃えが充実していて、さらにアニメ関連のグッズやCDやDVD、BD、ゲームソフトも幅広く揃えている全国チェーンの店舗である。

 店頭の大型ディスプレイには佐々木音葉のファーストアルバムのPVが大々的に流れていて、彼女が出演しているアニメ作品が大量にディスプレイされていた。中でもやはりというか、『ラジカルButlerS』が一番大きく取り上げられている。

 

「今さ、レコーディングで大忙しなんだって、音葉ちゃん」

「ああ。何曲か作詞に挑戦したと瑞希から聞いているが……このPVを見せに連れてきたのか?」

「違う違う、そうじゃなくて」

 

 昴輝を店内に連れ込んだ可凛は、何かに気付いた様子で足を止めた。

 彼女の視線の先を追うと、CDの棚を夢中になって物色している見慣れた少女がいた。野暮ったい帽子に地味な眼鏡と人相が判然としない風情だが、見間違えるはずもない。

 可凛が駆け寄ると、とんとんとその肩を叩いた。

 

「やほー瑞希ちゃん。偶然だね」

「ほへ? あれ、可凛さん? あ、それに昴輝さんも! お疲れ様です!」

 

 ペコリとお辞儀をする瑞希だが、勢いが良かったらしく、帽子も眼鏡も仲良く揃って床に落下した。慌てて瑞希が拾おうとするが、お尻を棚にぶつけてしまい、天板に載っていた新譜のCDの雪崩に巻き込まれてすっ転んだ。

 

「あああああすいませんすいませんすいません生まれてきてすいませんー!」

 

 結局店員達と総出でCDを片付けて、最後には昴輝も可凛も瑞希と一緒に店員に頭を下げた。今日は何かと謝罪する日だ。

 

「……本当にご迷惑をおかけしました……」

「不慮の事故だ、気にするな。今日の収録は無事に終わったのか?」

「はい、そちらは何とか。でも、収録自体はもう少しかかるので、しばらく学校は早退になりそうです」

 

 そう言って、瑞希は肩を落とす。

 元々内向的で友達らしい友達のいなかった瑞希だが、例のオーディション以降、自分から積極的に女子の輪に入っていって友達を増やしていた。オーディションで優勝して声優デビューした要素も大きいが、単純に彼女の純真無垢な人柄が好かれているようだった。

 今は学校に行くのが楽しくて仕方が無いと話す瑞希が、仕事とはいえ早退しなければならないのは、些か寂しいものがあるようだ。

 眼に見えて覇気を無くす瑞希だが、すぐに気を取り直して話題を変えた。

 

「でも、昴輝さんがこういうお店に来られるなんて、ちょっと予想外でした」

「ああ。俺もほとんど来た事が無い。今日は可凛が行きたいというから、無理矢理連れて来られた口だ」

「という事は、放課後デートですか……?」

 

 頬を薄く紅潮させて、もじもじと身じろぎをする瑞希の言葉を、同じように頬を赤くした可凛が慌てて否定する。

 

「そ、それはまた今度かな。今日は昴輝にちょっと見せたいものがあって来たんだ」

「昴輝さんに見せたいもの……? 何かのアニメのグッズですか?」

「ううん、違うよ。じゃ二人共来て」

 

 先頭を切って店内を歩き始めた可凛に、昴輝と瑞希は訳も分からずに着いてゆく。

 店舗が入っているテナントビルは手狭な上、商品が所狭しと乱雑に置かれている為、場所によっては人間一人分くらいしかない通路もあった。可凛と瑞希は慣れているのか簡単に進んでゆくが、こうした店にはほとんど来た事のない昴輝は、見知らぬジャングルに足を踏み入れた気分に陥った。

 店内有線はもちろんアニメソング。壁には最新アニメのPVや映像ソフトの販促PVを流しているモニターディスプレイがズラリと並んでいる。さらにアニメのポスターが一面に貼り出されていて、美少女から美少年まで、なかなかに扇情的な仕草をしていた。これが俗に言う抱き枕の柄であろう。棚に眼を向ければアニメグッズがどこまで続いていた。アニメの知識が乏しい昴輝でも知っている人気作から、タイトルも内容も全く知らない作品まで、基本的な文房具や携帯ストラップ等が雁首を揃えている。

 そんな物量に圧倒されていると、帰宅途中の学生らしき少年少女達が、熱心に商品を物色している場面に出くわした。自分や可凛達と同い年くらいだろうか。耳を澄ませば、雑多な店内でも辛うじて聞こえるくらいに会話が聞こえてくる。

 

「白執事の二期、まさか本当にやるなんて思わなかったわー」

「マジ来年が楽しみで仕方ないね。またアルフ様に会える!」

「でもさ、アルフの声、櫻井さんだよね? 復帰するって結構前にラジオで言ってたけど、あれから全然音沙汰無いし、佐々木音葉と恋愛騒ぎ起こしてるでしょ? 私、櫻井さんのアルフじゃないと観る気しないんだけどなぁ」

「あー確かにそれ不安だよね。大人の事情って奴? そういうのでキャスト変えられるとホント観る気失せる」

「でもさ、アルフレッドと言えば櫻井さんじゃん? ほら、ここ見てよ。原作者もそうだって言ってるし。これなら声優は変えないでしょ?」

 

 かしましい少女達は、やがて棚からお目当ての商品を見つけたらしく、笑顔でその場を離れていった。

 昴輝は瞬きをする事も忘れて、そんな少女達の背中を見送って。

 改めて、彼女達が集まっていた棚に視線を向けた。

 そこは、白執事のグッズコーナーだった。

 アニメの放送はもう一年以上前に終わっているのに、白執事のグッズは、今も他の最新アニメと変わらないスパンを与えられていた。

 そしてなにより眼を惹いたのは、棚の一部に貼り出されていたポスターである。

 白執事のアニメのキービジュアル第一弾のポスターだった。

 所々に痛みが見受けられるが、補強されていて、店員がしっかり手を入れている様子を窺わせる。しかし、色褪せてしまっている部分も見受けられたそのポスターは、販促用としての印象は良くはなかった。

 このキービジュアルポスターが小売店に頒布されたのは随分昔だが、予備が何枚かあるはずだ。それなのに何故変えないのだろう。

 そうした疑問は、ポスターに書き込まれている原作者のコメントを見た瞬間に消えた。

 

「昴輝は白執事の新刊、買ってる?」

 

 可凛に問われて、昴輝は首を横に振る。

 白執事の主人公である少年執事アルフレッド役が決まってから、昴輝は原作本の既刊を全巻買って、役作りに没頭した。漫画はほとんど読まない方だが、気付けば、役作りの為ではなくて純粋な面白さから読み耽っていた。

 でも、喉を壊して以降、原作は読んでいない。

 アニメの人気が呼び水となって連載雑誌の看板作品となっている事は知っていた。

 だが、どうしても読めなかった。

 好きなのに。いや、好きだからこそ踏み込めなかった。

 複雑に絡み合う作品への情緒が、作品そのものを忌避させた。

 形容できない不可思議な感情の流れ。

 それは、喧嘩をしてしまった友達となかなか仲直りをする事ができなくて、やきもきしているような、そうした感覚に似ている。

 

「アニメが終わった後に出た新刊で、作者さんがね、昴輝にアルフを演じてくれてありがとうって書いてたんだ。出版社の都合で、どうしてもちゃんと書けなかったんだって。だからこうやってポスターに書いたらしいの」

 

 満身創意のキービジュアルのポスター。そこに書き込まれていた作者のコメントは、アニメの最終回後に書かれたものらしく、声優やスタッフに対する感謝だった。

 

 ──櫻井昴輝さん、アルフレッドを演じてくれて、ありがとうございました──。

 ──あなただからこそ、アルフはアルフになる事ができました──。

 ──当初、私はアニメ化のお話に乗り気ではありませんでした──。

 ──1クールのアニメで、この作品の世界観をどこまで表現できるのか、不安で仕方ありませんでした──。

 ──商業である以上、アニメ化そのものは喜ばしい事でしたが、心のどこかに不安がありました──。

 ──アルフ達は、私にとって子供も同義です。原作を蔑ろにされるような事にならないかと思っていました──。

 ──でも、櫻井さんのアルフは、そうした私の不安を一掃してくれました──。

 ──モノクロの原稿にしかいなかったアルフが、櫻井さんによって色という魂を与えられて、原作者の私がアルフの新たな一面を知る事ができました──。

 ──アニメ《白執事》は、素晴らしい声優さんと監督さんとスタッフさんに恵まれました──。

 ──その中で、私が一番にありがとうと言いたいのは、櫻井さんです──。

 ──もし二期をやれるのなら、またアルフをお願いします──。

 

「でも、どうしてそのポスターがここに……?」

 

 ポスターを見上げている瑞希が茫然と呟く。

 すると、可凛はおもむろに床を指差す。

 

「原作者さんが商業デビュー前にバイトしてたのがここなんだって。で、昔のよしみで置けませんかって事になって、こうなったらしいよ」

「世間狭過ぎませんか!? 昴輝さんの地元じゃないですか! もしかして原作者さんも川鳴市に!?」

「デビューしてから都心の方に引っ越しちゃったらしいから、さすがにそれは無いね。でも、ファンの一人でも多くに昴輝のアルフは良かったんだって知ってもらいたいって、そういう気持ちでこのポスターに書き込んだらしいんだ。ブログでその事を書いてて、一時期ファンがこのお店に殺到して、ちょっとした騒動になった事もあったの。結構前……それこそ一年くらい前だよ。昴輝が喉を壊しちゃった時くらいかな」

 

 可凛は無言のままポスターを見上げている昴輝に歩み寄ると、挑むように彼を見上げて、不敵に笑った。

 

「で。これだけ原作者から愛されてるのに、櫻井昴輝君はアルフレッド役をどこの誰かも分からない声優に渡すの? 満足のゆくお芝居ができないからって理由で?」

 

 昴輝は何も言えなかった。

 原作者から、これほどまでに信頼されているなんて思っていなかった。

 白執事の収録が始まった時、喉はすでに不調を訴えていた。原作の面白さを少しでもいいから発揮できるようにと意気込んでいたのに、硝子の喉のせいで、満足のゆく芝居ができなかった。

 酷い無力感があった。

 それまでできていた事ができなくなってゆく虚無感に襲われた。

 それでも、共演者やスタッフに支えられて、何とか最終回の収録を終えられた。いつも避けていたDVDとBDののオーディオコメンタリーに参加したのは、アルフレッドを上手く演じられなかった罪悪感からだ。

 番組打ち上げ等も辞退した。原作者とは最終回の収録日に会ったのが最後だった。

 

「昴輝さん。あの、不出来な弟子ですが、宜しいでしょうか?」

 

 瑞希がおどおどと手を上げる。態度こそ昴輝の顔色を窺うような気配があるのに、その眼には強い意志が宿っている。拒否をしても、そのまま強引にでも迫ってくるだろう。

 一度唾を飲み込んだ瑞希は、意を決したように口を開けた。

 

「私を鍛え始めて下さった時、昴輝さんはこう言ったじゃないですか。できるできないじゃない、やるかやらないかだって」

「……そうだったな」

「早くお仕事をして下さい。私、待てませんから。ドンドン先に行かせていただきます。音葉さんとバンバン競演して、もう昴輝さんが入る隙間無くしちゃいますから。それが嫌でしたら、一日でも早く現場に来て下さい。お仕事掴んで下さい!」

 

 今日まで昴輝によって鍛えに鍛えられた発声法を使って、瑞希が断言した。

 広くはない店内に木霊する瑞希の声が、他の客達の喧騒を一掃して。

 何事かと集まってくる客達の中に、瑞希が例のオーディションの優勝者である事を知る者がいて。

 昴輝達は慌てて店内から逃げ出した。

 エレベータを待っている暇は無かったので、店内構造を熟知している可凛が先陣を切って非常階段に飛び出した。店は八階建ての最上階にあったので、強い風が三人を襲う。

 近づく冬を感じさせる乾いた風が、見晴らしの良い非常階段に吹く。夕闇に沈む街並みが一望できる、なかなに良い場所だった。もちろんそんな景観に心を和ませている暇は無く、大慌てで階段を降りてゆく。

 

「生意気言ってすいませんお騒がせしてすいません生意気言ってすいませんお騒がせしてすいません生意気言ってすいませんお騒がせしてすいません生意気言ってすいませんお騒がせしてすいません生意気言ってすいませんひゃー」

「大丈夫か瑞希。ここで足を滑らせると洒落にならないぞ」

「ひゃー昴輝さんの腕の中にー」

「瑞希ちゃんそれ駄目! あたしだってまだやってない!」

「瑞希は足が遅い。このまま抱えてゆく」

「待って待って待って待って下さい昴輝さんそんな事されたら私もう何かがどうにかなっちゃうんでいや本当に死んで詫びますさっきの暴言の責任を取りますから!」

「なに昴輝あんたやっぱり小さい子の方がいいの!?」

「お前達、黙っていないと舌を噛むぞ」

 

 カンカンと甲高い靴音を残しながら非常階段を下りた三人は、息も絶え絶えに路地裏から雑踏な繁華街に出た。

 そして、眼を丸める佐々木音葉と鉢合わせした。

 

「うわああああ音葉ちゃん!? なんでいるの!?」

「なによその化け物にあったような反応は!? つーかあんた達、なんでこんな所にいんのよ!?」

「ここのアニメショップで瑞希が声優だと知っている客がいてな。騒ぎになる前に脱出してきた」

「なんか騒がしいなぁと思ったらそういう事か。で、なんで昴輝が瑞希抱えてんの……?」

「瑞希は足が遅い。緊急措置だ」

「昴輝さん早く降ろして下さい可凛さんが凄く怖い顔してるんです……!」

「あーそうするべきね。でも、このままここにいたらすぐにバレるわよ。あんた達の事務所に避難する?」

 

 雑居ビルを指差す音葉。見れば、入口から何人か息を切らせた客達が飛び出してきた。このままここに長居をしては、今度こそ囲まれてしまいそうだ。

 昴輝はいつもの変装姿の音葉を連れて、路地裏を通り、アルトの事務所に続く遊歩道に出た。

 

「ここまで来れば大丈夫か」

「これでしばらくはあのお店に行けないかー」

 

 げんなりと肩を落とす可凛に、瑞希は頭を振り回す勢いで謝罪する。

 

「本当にすいませんでした……!」

「瑞希はまだ雑誌とかに顔出てないのにね。やっぱあのオーディションの影響か」

「みたいだが、しかし佐々木。ここに来て大丈夫なのか?」

「うん、社長からも許可出たからね。もうほとぼりも充分冷めたから。もちろん諸々に気を遣わないといけないけどね」

 

 にぱっと笑って、音葉が言った。

 こうして音葉と顔を合わせるのは、恋愛騒動が原因でしばらく来ないと彼女の口から言われた時以来だ。なんだか随分昔なような気がする。可凛や瑞希から音葉の近況は聞いていたが、ファーストアルバム発売でさらに躍進しているようでなによりだ。

 

「でも、半年くらいかかるかなぁって思ってたけど、早かったね」

 

 可凛が言うと、音葉は渋面を浮かべて、昴輝を指差した。

 

「だって、こいつがあのラジオから活動らしい活動しないんだもん。もっと派手に声優として仕事してたら話題が尽きないからマジで半年くらい時間置かないといけなかったけど」

「耳が痛い話だ」

「自覚あるなら早くこっちに来なさいよ。あんた、私や瑞希の先生なんだからさ。私達の方が先に行ってるこの環境、男として恥ずかしくないの? シャキっとしなさいよマジで」

 

 喧嘩でも売るような眼とドスの効いた声で、音葉が昴輝に迫る。

 久しぶりに聞いた音葉の声は、以前よりもずっと通る気持ちの良い声音だった。あれから一人で訓練を重ねていた証左である。課題もいくつか出していたのだが、確認をするまでもなくしっかりと消化しているようだ。

 

「何愉快そうに笑ってんのあんた。私の話、真面目に聞く気あるの?」

「あ、あの音葉さん。それ以上昴輝さんにそういう事言わないで下さい……!」

「なんでよ。ホントの事じゃん」

「実はね、さっき瑞希ちゃんがまんま同じ事を言ってるの」

「はぁ? 有人型暴走ウルトラマンが謎の宇宙怪獣と戦うアニメの主人公みたいなビクビクオドオドの瑞希が?」

「あ、あそこまで情けなくないつもりです!」

「どっこがー。オーディションの前に逃げ出した時は旧劇並みにヘタレた癖に」

「あ、あれは仕方ないじゃないですかー!」

 

 半泣きで腕を振り回す瑞希。音葉は愉快そうに眼を細めて、瑞希を小突き始める。

 そんな二人に、昴輝は驚きに眼を丸める。彼が知る二人には、もっと距離感があったからだ。瑞希が音葉に遠慮していてなかなか踏み込めていなかった。瑞希にとって音葉は憧れのアイドル声優だったのだから無理も無かったのだが、稽古ではその遠慮が邪魔になっていた。

 友達で、先輩と後輩で、ライバル。今の瑞希と音葉からは、そんな関係が垣間見える。

 知らないところで、二人はドンドン変わっていっている。

 人として。そして、声優として。

 そんな二人と、同じ声優として、同じマイクの前に立ちたい。

 

「……ああ、そうだな。できるできないじゃない。やるかやらないかだな」

 

 その言葉は、確かにかつて昴輝が瑞希を叱咤する為に使った言葉だ。

 でも、これは受け売りなのだ。

 白執事の主人公アルフレッドが、動かない足の不自由さを嘆き、何もできない自分を嫌う主人の少女を叱咤する時に使った言葉だ。

 

「因果なものだな」

「昴輝。それ十六歳が使う言葉じゃない」

 

 可凛が胡乱な眼で言った。

 さり気なく、手を握りながら。

 確かに、今のは明らかに年寄り臭かったかもしれない。

 でも、そう感じたのだから仕方が無い。

 昴輝が足を止める。手を繋いでいた可凛も止まって、連鎖するように瑞希と音葉も立ち止まった。

 

「瑞希。さっきは叱咤、ありがとう」

「とんでもないです生意気言いましたごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「音葉。どちらが先に瑞希と競演できるかという勝負は負けたが、今後、同じように勝てると思うなよ」

「ふん。そうやって巨乳な恋人と仲良くしてる内は私に勝てないわよ」

「いや、そうでもない。こいつに尻を叩かれて眼が醒めた。俺に可凛は必要だ」

「真顔でそういう事言わないでよもう……!」

 

 やりたい事がある。

 でも、障害がある。

 やりたい事ができない理由がある。

 昴輝は、そうした理由を頑張って探していたような気がした。

 やりたい事に挑戦して、上手くいかなかった時、言い訳ができるから。

 言い訳ができるのなら、仕方が無いと思える。

 自分を守る為の防波堤。

 一度は壊したはずなのに。

 気がつけば、またその防波堤に縋っている。

 乗り越えようとしないのなら、それは本当にやりたい事ではない。

 本当にやりたい事なら、障害という波は、自分の力で乗り越えなければいけない。

 声優を──声の芝居だけで誰かに感動を与えられる人になりたい。

 夢中になれる世界を見せたい。

 彼女達と一緒に。

 

「よし。じゃ事務所に行って稽古をやるか。時間は、まだ少しあるからな」

 

 そう宣言すると、三人の少女達は元気に返事をした。

 

 

 




まず、ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
正直、投稿当初はUAが一万いくとは全く思っていませんでした。
このお話は、ワクワクする異世界ファンタジーでも無ければニヤニヤできるハーレムも無く、緊張感ある戦闘もありません。
『最終回:私は──逃げない──!』のあとがきにも書かせていただきましたが、オリジナルというジャンルで、声優というコアなテーマをどれくらいの人が読んでくれるのか、かなり不安でした。
結果、暖かなご声援を賜り、本来作者の頭の中にしかなかった後日談をこうして書く事ができました。
このお話ができた経緯はこれまでのあとがきで書かせていただいた通りなので、『最終回:私は──逃げない──!』以上の構想は、ただの妄想でしかありませんでした。もっと昴輝達と遊びたかったのですが、次を書かなければいけなかったので、遊んであげる事ができませんでした。なので、四話でしたが、遊んであげられた事がとても楽しかったです。

昴輝の復帰第一弾の仕事がいわゆる『女性向けドラマCD』で、それを聴いた瑞希達がヒャッハーするお話とか、スランプに陥る瑞希とか、アイドル声優について悩み始める音葉とか、やりたい事を頑張っている昴輝達との差に悩んでモデルの仕事について考える可凛とか、色々妄想してます。

でも、ハーメルンさんに投稿させていただいたのは、本来『最終回:私は──逃げない──!』で完結しているお話でしたので、この後日談4で完全に終了させていただきます。

前のあとがきにも書かせていただきましたが、『小説家になろう』さんに掲載させていただいている『バクガールズ!』は、ここの『バクガールズ!』とは違う方向へ向かう予定です。上の妄想話が書いていければいいかなと考えてます。後日談はあちらに掲載予定は無いです。後日談に繋がらないように展開を変えるつもりですので。

ここまでうちの子達と遊んでくれて、好きになってくれた方々に重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。

またどこかで。


リリカル・パニック書かないと…!(´;ω;`)


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。