哀歌 (ニコフ)
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1話 今日はいい日

「あら、おはよう」

 

 AM8:32、土曜日の朝、阿笠邸。萩原伊吹(はぎわら いぶき)は目を覚ました。寝起きの頭をぽりぽりと掻き、窓から差し込む日差しに目を(しばたた)かせながらリビングに顔を出すと、室内はコーヒーの心地よい香りに包まれていた。陽の光を弾くような鮮やかなブラウンの髪をした少女、灰原哀がカップにコーヒーを注いでいる。

 

「おはよ……」

 

 コポコポという耳触りの良いコーヒーサイフォンの音と、向こうから小さなテレビのニュース番組の声が耳に届く。眠い目をこすり欠伸を噛み殺しながら、こちらに気がついた彼女と朝の挨拶を交わした。

 

「哀くん、朝食の準備が出来たぞ。おぉ、伊吹くんも起きておったか」

 

 キッチンからお腹がぽっこり出た髪の少ない眼鏡の男性、阿笠博士が出てきた。

 

「おはよう、博士。朝ごはん俺の分もある?」

「うむ、3人分用意しておるぞ」

「その前に顔洗ってきたら」

「うぃ」

 

 顔を洗い寝巻きを着替えテーブルに着く。机には焼きたてのトーストと目玉焼きにコーヒー、苺ジャムの瓶が置かれている。

 

「では、いただこうかのぉ」

「いただきます」

「まーす」

 

 伊吹がサクサクとパンをかじっていると、コーヒーを飲みながらニュースを見ていた灰原が苺ジャムの瓶を差し出しながら声をかける。

 

「それで、今日はどうするの」

「ん? はひか、ほほもはひはふふんはほ」

「飲み込んでからから喋りなさいよ」

「ん……。確か子供たちが来るんだろ?」

「あなたも一緒に行くの?」

「約束だからなー。ていうか俺が引率だろ、一応。てか、この瓶固いな。誰が締めたんだ」

「あなたよ」

「わしは今日、発明の発表会があるからのう」

 

 伊吹は先日、近所の子供たち「少年探偵団」を近所の動物園に連れて行く約束をしていた。

 

「ほんと、平和ね。あなたが組織の人間だってこと、たまに忘れるわ」

「潜入だ。どっぷり組織の人間じゃない。それに今のところ“ベルモットに個人的に雇われている”って形であって、潜入も完璧にできてないよ」

「でも、仕事はしてるんでしょ」

「そりゃ信用されないとダメだからなぁ。ベルモット経由でそれなりに受けてはいる」

 

 食事を済ませた灰原はソファーに腰掛け、テレビをBGMにファッション雑誌をめくる。コーヒーを飲み終えた伊吹も追いかけるように隣に座る。

 

「ま、危害が無い限りはいいけど。忘れないでよね、あなたが間違いを犯すと私たちまで巻き込まれるんだから」

「うっ……」

 

 隣に座る伊吹をジトっとした目で睨みつける。思わずとたじろぐ伊吹。見かねた阿笠博士が苦笑いを浮かべながら助け舟を出す。

 

「ま、まあまあ哀君。伊吹くんも哀君を守るために、こうして一緒にいてくれてるんじゃから」

「頼んでないわよ」

「朝からキツいなぁ。こいつ、なにかあったの?」

 

 博士の言葉を不機嫌そうに突っぱねる灰原。いつも以上にご機嫌斜めなその様子に、何かあったのかと振り返り博士に尋ねる。

 

「あー、まぁ、実はのぉ……」

「別に、なんでも無いわよ。それより、食べ終わったなら支度したら? 朝から出発するんでしょ。あの子たち来ちゃうわよ」

 

 遮るように口を挟み、パタンと雑誌を閉じる。そのまま立ち上がりパタパタとスリッパを鳴らしながら地下室へと消えていった。

 

「どしたの、あれ」

「あぁ、なんでも夢見が悪かったらしくてのぉ。起きてからずっとあの調子じゃ」

「やだなー。噛み付かれないように大人しくしておこう」

 

 ソファから立ち上がり、二杯目のコーヒーを注いでいると、室内にインターホンが鳴り響いた。伊吹はカップを片手に玄関の戸を開ける。

 

「おはよう、伊吹お兄さん!」

「おーい、早く動物園いこーぜー!」

「まだ開いてませんよ、元太くん」

「はぁ……ったく」

 

 順に吉田歩美、小嶋元太、円谷光彦、江戸川コナン。少年探偵団御一行の到着である。

 

「おはよう、みんな。準備するから中で待ってな」

「「はーい!」」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「今日は猛犬注意だぞ」

 

 リビングのソファにくつろぎ、テレビを観る探偵団。ダイニングのテーブルには博士とコナン、伊吹がコーヒーを飲みながら話している。

 一口すすった伊吹がおもむろにコナンに話しだした。

 

「猛犬?」

 

 背もたれに体重を預け椅子に胡坐をかき、両手を後頭部に添えて頭を支えるコナンがジト目の呆れた顔で聞き返す。

 

「哀だよ」

「灰原? あいつがどうかしたのかよ」

「機嫌が悪い」

「いつものことじゃねーか」

「いつもより悪い」

「別に、悪くないわよ」

 

 ぬっ、と横から現れ、会話に口を挟む灰原。着替えをし身支度を整えて、準備万端の様子。

 

「それより、そろそろ出たほうがいいんじゃない」

「あ、あぁそうだな。そろそろ出るか」

 

 チラリと時計を見て、仮面ヤイバーに夢中の探偵団に声をかける。

 

「おーい、そろそろ行こっか」

「ちょっと待ってください!」

「今いいところなの!」

「いけ! ヤイバー!」

 

 ソファーから身を乗り出し拳を握りながら、テレビの中のヤイバーの活躍に夢中の子供たち。

 

「録画なんだからいつでも観られるだろうに……」

「はぁ……まったく、ヤイバーなんて観せるからよ」

「いや、勝手に観始めて、俺が観せたわけじゃ……」

 

 本日何度目かの灰原のジト目が伊吹に突き刺さった。

 

「それじゃあわしは研究の発表会に行ってくるかの、夕方には帰るからの」

 

 いつもの白衣ではなくフォーマルな服で大きなお腹を包んだ博士が、伊吹たちへ声をかける。

 

「こっちも夕方には戻るだろうし、博士も一緒にみんなで夕飯でも食べに行こうか」

「おー、いいのぉ。じゃあまた戻る頃に連絡入れるかの」

「いってらしゃい」

 

 テレビに夢中の子供たちには無視され、伊吹と灰原、コナンに見送られ出かける博士。

 「さて」と一息つきながら食器を片付け、子供たちへ声をかける。

 

「じゃ、テレビはそれくらいにして俺たちもそろそろ行かないと」

「「はーい」」

 

 テレビを消し戸締りを確認する。玄関を開けると青い空が視界に広がり、暖かい日差しと爽やかな風が頬を撫でていく。

 

「お出かけ日和のいい天気だねぇ」

「……」

 

 空を見上げつぶやく伊吹に釣られるように、空を見上げる灰原。寂しそうに眩しそうに目を細める。吹き上げた風が少し髪を乱した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 電車で少し足を伸ばすと、それなりの規模の動物園に到着する。言わずもがな動物園には様々な動物がいた。休日の園内には家族連れやカップル達で溢れている。

一行が着いた時にちょうど、大きなアフリカゾウが何かショーを行っていた。

 

「すごいすごーい!」

「感激ですね!」

「でっけえなぁ!」

 

 年相応にはしゃぎ象の芸に夢中になる探偵団。

 

「あの子一頭を飼育するのにどれだけの食費がかかってるのかしら」

「一日に2〜300キロの草と100リットル以上の水が必要だからなぁ」

「お前らも小学生なんだから素直に象さんを楽しもうや……」

 

 年不相応にはしゃがない灰原とコナン。

 

「わー、すごいね! 象もかわいいかもー!」

「象って頭いいんだなぁ」

「あんたよりお利口なんじゃない?」

「俺の方がまだマシだよー」

 

 隣ではしゃぐカップルの声に、灰原はふと視線を向ける。恋人達は手を結び顔を近づけて笑い合う。その光景になにを思っているのか、彼女にしては珍しくぼーっとしながら眺める。

 

「お兄ちゃん待ってよー」

「ほら、早くおいで」

 

 後ろから聞こえた声に灰原が振り向くと、青年が少女の手を引いて目の前を通り過ぎていった。年の離れた兄妹のようだ。

 

「…………」

 

 灰原は去っていく兄妹の後ろ姿の、繋がれたままの手を見つめていた。

 

「灰原、次行くぞー」

「……」

「おーい哀、どした。次行くぞ」

「……っ! え、ええ⋯⋯、行きましょ」

「「……?」」

 

 ぼんやりしていた灰原がコナンと伊吹の声で我に返る。象のショーは終わり、探偵団は既に次の動物の元へと駆け出していた。

 怪訝な顔で自分を見てくる伊吹とコナンの視線を受け流し、灰原は子供たちを追いかけていく。

 

「ちょっと、あなたたち、迷子にならないでよ」

 

 すっかりいつもの、子供たちの保護者へと戻っていた。

 

「どうしたんだろ、哀のやつ」

「どうって、朝から機嫌が悪いんだろ、お前がそう言ってたじゃねえか」

「ああ、うん、まぁ……。けど今のは機嫌が悪いっていうより……」

 

「キャーーーーーー!!」

 

 灰原の背中を見つめる伊吹が何かを口にしようとした時、園内に耳をつんざくような女性の悲鳴が響き渡る。

 振り返りいち早く駆け出すコナンと伊吹。それを追いかけるように駆け出す灰原と探偵団。悲鳴の聞こえた現場は少し離れた建物内のフードコーナー。悲鳴をあげた女性は腰が抜けたのかその場に座り込み、一人の太った男性が倒れていた。男性の腹部に刃物が突き刺さり、服は血に濡れている。痛みにうめき声は上げるものの動くことはできない。

 

「止血する、大丈夫だ、落ち着けおっさん、俺を見ろ。そこのあんた! 綺麗なタオルを持って来い!」

「灰原、警察と救急車だ! お前たちはそこを動くな!」

「ええ、わかったわ!」

 

 伊吹はすぐさま男性へと駆け寄り応急処置に取り掛かかり、係員に清潔なタオルを持って来るよう指示を飛ばす。コナンは灰原に救急車と警察の手配を頼み、探偵団たちには現場に近づかせないように一喝する。その後すぐさま係員と警備員に現場の人間に動かないよう指示を出させる。

 周りの人達がざわつく中、止血作業を行う伊吹に灰原が駆け寄って来る。片手には携帯を握り救急車の要請をしているようだ。

 

「どんな状態かわかる範囲で聞かせて欲しいってっ」

 

 灰原が慌てた様子で伊吹に状態を尋ね、救急隊との連絡役を買って出る。

 

「対象は4、50代男性。目測で身長165前後、体重80前後。腹部右側、恐らく刃渡り20センチ程の刃物が5から10センチ刺さっている。幸い出血はそれほど多くはない、腹部大動脈は傷ついていないだろう。とりあえず刃は抜かず救急隊が来るまでタオルで圧迫する。おいおっさん! 大丈夫か!?」

「うぅっ……あ、ああ、痛え……」

「ああ、だろうな! 意識はしっかりしている、出血も多くはないから脳の低酸素症もない。この厚い脂肪のおかげだろう。救急車が遅れなければ十分間に合う」

 

 男性に大声で話しかけながらも、淡々と落ち着いた様子で隣の灰原へ状態を報告する伊吹。それを一字一句違わず電話越しに伝える灰原。

 コナンは忙しく現場を動き回り、探偵団たちは警備員と一緒に出入り口に立ち、建物への客の入退場を規制していた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 救急車と警察が駆けつけ、辺りは騒然とし始めた。建物及び園内の入退場は規制され、伊吹と少年探偵団も現場から追い出される。が、いつものようにコナンは捜査に首を突っ込んでいるようだ。元太、光彦、歩美の三人は現場の規制ラインから中の様子を伺おうとしている。

 伊吹は血で汚れた手を洗い、灰原と一緒に現場から少し離れたベンチに座る。

 

「さすがね、落ち着いた応急処置だったわ、状況の報告も。救急隊の人が助かったって」

「結局傷口押さえてただけだし、大したことしてないよ」

「その知識や技術も、CIAで訓練されたのかしら」

「あー、まぁね……」

「人を殺す訓練しか受けてないと思ってたわ」

「キツいなぁ。今日はどうしたんだよ、今朝言ってた夢が原因?」

「別に」

「さっきもなんかボーっとしてたし」

「……」

「そりゃあ今の哀を護衛してるのは組織でもCIAの命令でもなく、俺の勝手でしてることだけどさ。研究者時代は正式に哀の、というか志保の護衛だった訳だし。それなりの付き合いだから何かあったらすぐわかるよ。少なくとも何か様子がおかしいなってくらいは」

 

 ベンチの下まで届かない脚を組んで、頬杖をつく灰原。目を細めて前を見つめている。視線の先では馴染みのある目暮警部や高木刑事がコナンと話し、他の捜査官が慌ただしく動き回っている。

 灰原は彼らを視界に捉えてはいるが、見てはいなかった。今朝の夢のことや、かつて体が小さくなる前、伊吹と共にいた頃のことを思い出していた。

 

「それに……ほら、俺と志保、じゃなくて哀は、なんていうか。一応、恋人……な訳だし」

 

 伊吹も目線は現場を捉えたまま灰原の方を見ようとはせず、右手で髪をかき上げ頭をかく。照れているのか、中身がどうあれ見た目は小さい小学生の女の子相手だからなのか、バツが悪そうに歯切れが悪く呟く伊吹。

 

「あら、まだそうだったの。私はてっきりこの体になった時に、私が脱走した時にその関係は終わってると思ってたわ」

 

 灰原も視線を前から逸らさず、伊吹を見ようとはしない。つまらなさそうに、ぷらぷらと組んだ足を揺らしている。

 

「脱走には俺も手を貸しただろ。それで終わりにするつもりなんてないし、死なせたくないから手伝ったんだよ。まぁ小さくなってるのは予想外だったけど。おかげで探すのに手間取ったよ」

「あなたいくつだったかしら」

「さぁ、実年齢はわからないけど。確か今のIDでは17だったかな」

「17歳の男と7歳の女の子、犯罪ね」

「まぁ、そこだけ言われると……」

「……」

「……」

 

 隣同士の二人の間は30センチ程度の距離。しかし二人を包む沈黙はその距離をより長く感じさせる。二人の視線の先では、コナンの無邪気さを利用した推理に目暮警部たちが驚いている様子が見えた。

 

「今朝……」

「ん?」

「昔の夢を見たわ」

「どんなの?」

 

 ポツリポツリと呟くように話す灰原に、呟くように聞き返す伊吹。

 

「昔、一緒にいたけど、仕事以外に二人で出かけることなんて滅多になかったわ」

「まぁ、仕事柄な」

「こんなところにも来なかったしね」

 

 ふう、とため息をつく灰原の横顔をチラリと横目で見た伊吹が、ふと先ほどのことを思い出した。手を繋ぐ恋人同士を見る灰原のどこか寂しそうな顔である。

 空を仰ぎ見、少し考えた伊吹が灰原に自身の右の手を差し伸べる。

 

「手、繋ぐ?」

 

 灰原は少し目を細め、じとりとした目で伊吹を見つめる。右手では頬杖をついたまま軽く嘆息し左手を伊吹の手に重ねる。

 

「……この歳の差だと、まるで兄妹ね。全然様にならないわ」

「まぁ、確かに」

「このまま歩いても、兄に手を引かれる妹ね」

「気の強い妹が兄貴を引っ張る図、だろ」

「……」

 

 無言でキッと伊吹を睨む。思わず目を逸らし、再度現場の方へ目を向ける。短い溜息のあとに灰原も視線を戻した。

 現場では容疑者と思しき男性が警察、もといコナンに追い詰められてた。

 

「一件落着、かね」

「みたいね」

 

 お互いに目を合わせることはなかったが、手は繋いだままの二人。気まずいわけではないが、会話の途絶えたむず痒い空気が二人を包む。

 ぼんやりと現場を見ていると、先ほどの容疑者が観念したようにうなだれていた。かと思うと突然に隠し持っていたナイフを取り出し暴れ、野次馬をかき分け走り出した。

 

「あっ、コラっ!」

「待たんかっ!」

「萩原ぁ!!」

 

 慌てる高木刑事と目暮警部。コナンが慌てて伊吹に向かって叫ぶ。呼ばれたのは名前だけだが、「捕まえろ」という意味なのは明白だった。

 

「仕事よ」

「あいあい」

 

 犯人は伊吹と灰原のいる方へと走ってくる。どちらかともなくお互いは手を離し、伊吹は両手を膝につきやれやれと言わんばかりに立ち上がる。

 

「怪我、気をつけてね」

「俺が? まさか」

「相手にさせないように、よ」

「あ、はい」

「どけどけーっ!!」

 

 後ろから聞こえる怒号に、灰原から目を離して振り返ると、犯人がもうすぐそこまで迫っていた。頭に血が上っているのか顔は赤く、息は荒い。キョトンとした表情のまま動こうとしない伊吹に斬りかかるようにナイフを握った右腕を振り上げる。

 身長180近い決して小さくない伊吹に対して頭一つ背の高い犯人が、上から振り下ろすように刃物で切りつける。その瞬間、伊吹の目つきが鋭く研ぎ澄まされ、鈍く光る。刃物を持った男の右腕を左手でいなし、がら空きのボディへ右拳の一閃が走る。

 

「ぐぉっ! うぐぅっ……!」

 

 男は口から胃液を吐き出し体をくの字に折り曲げる。目玉が飛び出したかと錯覚するほどの激しい衝撃と、骨が砕け内臓が潰れたかのような鈍い痛み。息を吸うことも吐くこともできず、悶えながら尻餅をつくように体が沈んでいく。

 顎が引かれ下がった頭に流れるような右膝が叩き込まれる。

 

「ぁがっ……!」

 

 トドメと言わんばかりの一撃に顎が跳ね上がり天を仰ぐ。鼻血を吹き出し仰向けのまま倒れこむ犯人。

 一連の、あまりに衝撃的な出来事に辺りが静まり返る。

 

「……確保ぉっ!!」

 

 目暮警部の一喝に我に返った警官たちが一斉に動き出した。もっとも、完全に伸びた犯人が逃げ出すことはなかったが。

 

「よしっ」

「よし、じゃないわよ。やりすぎよ」

「ったく、むちゃくちゃしやがる」

 

 コナンと灰原が半ば呆れたように、伊吹に責めるような視線を送る。

 

「いや、だって、刃物持ってたし……かなり手加減はしたんだけど」

「萩原くん、協力してくれてありがとう。しかしちょっとやりすぎたかのぉ、改めて事情聴取ね」

「えー……」

 

 後日、伊吹は目暮警部に少し怒られた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「いやー、にしてもすごかったですねー伊吹さんのパンチ!」

「ねー、あゆみびっくりして目つむっちゃったもん!」

「こうぼかーん! どーん! ってな!」

 

 夕暮れ、一行は園内の喫茶店のテラス席で一服していた。事件も解決しそろそろ帰ろうかと言うところだが、探偵団たちの熱はまだ冷めないようだ。

 

「オレも強くなって、バーンと悪い奴をぶっとばしたいぜ!」

「だめよ。あんな野蛮なものに憧れるもんじゃないわ」

 

 グッと拳を握り締め目を輝かせる元太に灰原が鋭く諭す。

 

「野蛮って……キツい」

 

 苦笑いしながら会計を済ませた伊吹が戻ってくる。

 

「じゃあそろそろ帰ろうか。今日は博士と合流して夕食だから、待たせると悪いし」

「わーい! あゆみお寿司食べたーい!」

「オレはうな重」

「ボクはイタリアンな気分ですねえ」

「あんまり博士の財布をいじめないであげて」

「あなたも出せばいいじゃない」

「それはちょっと……」

 

 夕食談義に花を咲かせながら喫茶店を後にする。コナンと元太、光彦、歩美が先導して歩き始め、その少し後ろを灰原と伊吹が並んで歩く。

 

「……」

「……」

 

 犯人確保の騒動でうやむやとなったが、先ほどまで手を繋ぎ、何とも言えない雰囲気だった二人。微妙な気まずさに沈黙が降りる。

 伊吹がチラリと横目で灰原の顔を確認するも、灰原は何も気にした様子もなくすまし顔である。

 

「あの、手でも、繋ぐか?」

 

 みんながいる手前、ダメ元で自身の左手を灰原へ差し出す。何を考えているのかわからないが、いつものすまし顔を崩すことなく伊吹を見つめ返す灰原。二人の視線が静かに絡み合う。

 灰原がふっと視線を前に戻し、談笑する探偵団を見つめる。『人前じゃ嫌がるか』と手を下ろそうとする伊吹の手のひらに、黙って自分の右手を重ねる灰原。少し驚いた伊吹だったが、灰原の手を優しく握り返す。

 伊吹は改めて記憶よりも小さくなった灰原の手に、灰原は改めて大きく感じる伊吹の手に、互いの距離を感じた。

 

「まるで兄妹ね」

「さっきも聞いたぞ、それ」

「はぁ、⋯⋯様にならないわ」

「それも聞いた」

「私は7歳なのよね」

 

 寂しげに、虚しげに呟く灰原。

 

「いつか元に戻れるよ、そしたら一応哀が年上になる。戻る気が無くても俺は気にしない。そのまま大きくなるのを待つさ。互いに歳食ったらいい。世の中10歳差くらいそこらにゴロゴロいる」

「今の私は何もできないわよ。あなたを満足させることも、恋人として出かけることもね」

 

 悲しげな瞳のまま、伊吹を見上げる。

 

「まあ、俺はこのままでも気にしないよ」

「あら、それは犯罪じゃないの」

「いや、別に犯罪行為をするつもりはないよ。ていうかそんな体じゃ興奮しない」

「……」

 

 灰原の瞳から悲しさは消え、怒気を孕んで睨みつける。

 

「いや、睨むなよ。そこは仕方ないじゃん。まあでもデートくらいはできるんじゃない。哀が言ったように、周りが仲良し兄妹だと思っても、俺たち本人が納得してるなら関係ないし」

「仲良しとは言ってない」

 

 はぁ、と今日何度目かのため息を吐く灰原。その嘆息に怒りや悲しみ、寂しさが溶け込み、体から抜けていくのを感じた。

 ざわめく周りの音も、先ほど起こった事件の血生臭さも忘れてしまうような爽やかな風が吹き抜ける。灰原のブラウンの髪が風に揺れ、夕日に照らされてキラキラと光る。赤く照らされた横顔が優しく微笑んだ。

 

「ま、いいわ。今日のところはそういうことで」

「素直じゃないなぁ……結構いいこと言っただろ?」

「そうね……悪くなかったわ」

 

 微笑みはすぐさま消え、いつものすまし顔へと戻る。しかし伊吹はその一瞬の微笑みを脳裏に焼き付けていた。そして繋がれた手も離される様子はない。

 

「あー! 哀ちゃん伊吹お兄さんと手繋いでるー!」

 

 後ろでコソコソとする二人に歩美が気づき、声を上げる。釣られてコナンたちも振り返る。キョトンとする元太に、面白そうだとニヤつくコナン。嫉妬混じりの視線で見つめる光彦と歩美。

 

「おいおい、灰原さんよー、甘えちゃってんの? 普段はそんなことしねーのに」

「今日はいいのよ、今日は。なに? なにか文句あるの?」

「あ、いえ……なにも」

 

 灰原の弱味を見つけたと言わんばかりにからかうコナンに対し、慌てて手を離すでもなく、怒りも照れもせず、さも当然かのように聞き返す灰原。あまりの素の対応に逆にたじろぐコナン。

 

「哀ちゃんずるーい! あゆみも伊吹お兄さんとお手て繋ぎたい!」

「そうですよ、ボクも灰原さんと、じゃなくてその……」

 

 頬を膨らませて訴える歩美と、何かを言いかけて口ごもる光彦。

 

「ダメよ。今日は、私だけ。ごめんなさい、吉田さんはまた今度ね」

「えー、そんなぁ」

「灰原さぁん……」

「あーもう! そんなのどうでもいーから、さっさと行こうぜ! オレ腹減ったよー!」

「そうだな、博士も待ってるし、さっさと行こう」

 

 我慢していた元太が大声で訴える。手繋ぎ騒動はうやむやになり、一行は博士の待つレストランへと向かう。歩美と光彦の羨望の眼差しを背に、レストランに着くまで伊吹と灰原の手が離されることはなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「いやー、ここの食事はうまいのぉ!」

「そうね、悪くないわ」

「悪くないわ、だってよ」

「気取ってらぁ」

 

 コナンと伊吹のからかいをキッと睨みつけて黙らせる灰原。

 

「でね、でね、伊吹お兄さんすごかったんだよ博士!」

「こうドーン! ってな!」

「まさに疾きこと風の如し! 一瞬でしたよ!」

「またその話か、もういいよ」

「あなたがあの子達の前で暴力振るうから」

「暴力って、俺はただ」

 

 一行の談笑は尽きることはない。

 

「しかし、なにやら哀くん機嫌も直ったようじゃし、よかったのぉ」

「別に、最初から悪くなかったわよ」

「悪くなかったわよ、だってよ」

「気取ってらぁ」

 

 二人のからかいを無視して、食後の紅茶を楽しむ灰原。カップを片手に香りを楽しむように目を閉じる。口元には薄らとほほ笑みが浮かんでいた。

 

「別に朝から機嫌が悪かった訳じゃないわ。ちょっと考え事してただけ。今日はむしろ……」

 

 紅茶を一口すすり、カップを置く。開いた瞳には悲しさも寂しさもなく、優しげな暖かい光が浮かび、チラリと伊吹の様子を伺ったあと博士に視線を戻す。

 

「今日はむしろ、なんじゃ?」

「今日はむしろ……悪くない日だったわ」

「?」

 

 朝とは打って変わったその表情。今日彼女に何があったのか、博士には知る由もなかった。

 

 

 

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少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。


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2話 夢見る少女じゃいられない 前編

 

「で、なんで俺に言うの?」

 

 某日、陽も傾き始めた午後5時頃、帝丹高校2年B組でその密談は行われていた。

 

「本当は工藤君に頼もうかと思ったけどいないし。それに萩原君って大層な腕っ節だそうじゃない」

「だったら俺じゃなくて蘭ちゃんでもいいじゃない」

「私は家で夕飯の準備とかしないといけないし」

「男の方が効果あるって、この園子様が知恵を絞ったってわけ」

 

 茶髪のショートヘアにカチューシャで前髪を止めている女性、鈴木園子。艶やかな黒いロングヘアの毛利蘭。彼女たちが帰宅の準備をする萩原伊吹の机を囲んでいる。

 

「まぁ、とりあえず相談に乗るくらいならいいけど」

「OK、それでいいわ。じゃあ明日のお昼休みに中庭のベンチ集合ね。よろしくー」

「ごめんね、萩原君。じゃあ明日、よろしくね。ちょっと待ってよ園子ー」

 

 手を振りウィンクを残し颯爽と去っていく園子と、追いかける蘭。ぽつんと一人残された伊吹は2人が去っていった廊下に目をやり、ため息を吐く。

 なんの気なしに窓の方へ目を配る。放課後の教室には校庭からの運動部の掛け声が響き、雲が眩しいオレンジの陽に染まり、空は薄らと紫色に侵食されていた。

 

「ストーカー、ねぇ……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「で、この子が昨日話してた椎名深月(しいな みつき)ちゃん」

「空手部の1年生。私の後輩なの」

「ん。よろしく」

「あ、あの、よろしく、お願い……します」

 

 翌日の昼休み。約束通り3人は帝丹高校内の中庭に集まり昼食がてら昨日の話をしている。話題の中心は1人の女の子、椎名深月。黒曜石のように深い黒髪を肩口に切りそろえ、前髪は目が隠れるほど長い。背は低く体は華奢で声は小さい。おどおどした態度はとても蘭の後輩の空手部員とは思えない。

 

「それで、相談って? ストーカーがどうのこうのって聞いたけど」

 

 花壇のレンガに座り込む伊吹。ストローを吸い紙パック入りのカフェオレを飲みながら、あまり興味なさそうに尋ねる。眠たそうな半眼はぼんやりと足元の蟻を追いかけていた。

 

「そうなのよ。彼女、少し前からストーカー被害にあってんの。こんないたいけな少女を怯えさせるなんて許せないわ!」

「なんでも学校の行き帰りとか、休みの日とかも誰かにつけられてるみたいで。メールや電話もすごいんだって」

 

 ベンチに座り弁当箱を膝に乗せた園子が、右手に箸を握り締める。隣の蘭も弁当を食べながら詳しく説明を付け足す。

 

「ふーん。で、どうなの?」

 

 チラリと蘭の隣でもそもそと食事をとる深月を見る。

 

「あ、あの、はい……そうです。め、メールとか、電話とか、すごくて……無言で。み、見られてる、気がする、といいますか……実際、変な人を、お、同じ人を……何度も、見てて」

 

 慌てたように俯きながら話す深月。見られることに慣れていないのか、恥ずかしがるように顔を朱に染め前髪で隠そうとする。手元のレモンティの紙パックが握りつぶされており、中身があれば飛び散っていただろう。

 

「んー、まぁ最近はそういうのにも厳しくなっているし、高木刑事とかに相談してみたら?」

「もうしたわよ! 生活安全課だかなんだか担当の部署に話を通すとか言ってたけど、毎日つきっきりで守ってくれる訳じゃないでしょ?」

「それは俺もだよ。俺だって四六時中一緒にいられるわけじゃないし」

「それは百も承知よ。むしろ萩原君に四六時中一緒に居られたら、そっちも危ない気がするわ」

「おいおい」

「その無駄に鍛えられた筋肉を使うチャンスよ」

「無駄……」

 

 人にお願いする立場でありながらハッキリとものを言うのは園子の良いところでもある。

 

「あ、あの、私は、その……だ、大丈夫です……」

 

 自分を抜きに話が進んでいく様子をオロオロしながら見ていた深月だったが、意を決したように声を上げる。両の手を膝の上で握り締め、プルプルと震えながら今にも泣き出しそうに訴える。

 

「……」

「……」

 

 蘭はそっと彼女の頭を撫でながら伊吹を見る。園子も何かを訴えるような目で伊吹の方を見つめてくる。

 先日に引き続き、今日も伊吹は大きなため息を吐いた。

 

「はぁ……えっと、よろしく、深月ちゃん、だっけ?」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ほう、ストーカーとはまた物騒じゃのう」

「それで、どうしたの?」

「了承したよ。なんか可哀想だったし、ほんとに被害に遭ってるみたいだったし」

 

 その夜、阿笠宅のダイニングには伊吹と灰原、阿笠博士が美味しそうな夕食を囲っていた。コンソメスープにオニオンサラダ、ペペロンチーノとスライスされたフランスパンが並んでいる。伊吹が腕を振るったようだ。

 

「まあ警護って程のものじゃないし、休日まではどうしようもないし。一緒に登下校するくらいだよ。万が一には警察が何とかしてくれるだろ」

「……ま、あなたの無駄に鍛えられた筋肉を見たらそのストーカーも逃げ出すんじゃない」

「無駄……」

「その警護はいつまでする気?」

「うーん、ストーカーが消えたら?」

「曖昧ね。いつ居なくなるかも分からないし、居なくならないかもしれない。そうなったらずっと続ける気かしら」

「いや、ずっと続けたりはしないけど」

「そう……」

 

 静かに食事を続けながらも、どこか刺のあるような灰原の口ぶりに頭を傾ける伊吹。博士は余計な口を挟むまいと黙々と食事を続けている。

 心なしか食卓はいつもよりも冷たい空気に包まれている。

 

「あと、パンをスープに浸して食べるのやめてくれない?」

「……結構いけるんだけど」

 

 灰原の冷たいジト目の奥に僅かな嫉妬が見え隠れしていることを、伊吹は見抜けなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「随分と早いのね」

 

 翌日の朝。今日から椎名深月の警護として登下校を共にするため、いつもより早く起床した伊吹。制服に着替え準備を整えた彼が欠伸を噛み殺しながらリビングに顔を出すと、既に目を覚ました灰原がコーヒーを沸かしていた。

 

「今日から行くって約束したから。そっちこそあくび娘の割に早起きだね」

「別に、たまたまよ」

 

 キッと睨みながらも二つのカップにコーヒーを注ぐ灰原。寝巻きから着替えてはいないが、少し前から起きていたようだ。

 二人がダイニングに向かい合わせで座り、香り立つ淹れたてのコーヒーをすする。

 

「うまいね。哀はコーヒーを淹れるのが上手だなぁ」

「そう、光栄ね」

 

 昨日の雰囲気を思い出した伊吹がよいしょするも、華麗にスルーする灰原。

 

「今日は何時に帰るのかしら?」

「彼女の部活が終わるのを待って、家まで送らないといけないし。彼女の家が少し遠いから……7時半は回るかも」

「あら、もう家まで知ってるのね」

「大体の場所を聞いただけだよ」

 

 テレビで今日の天気を確認しながら灰原の方は見ずに仕事用の携帯電話をチェックする。伊吹のいつもの習慣である。

 

「夕食はいるの?」

「そりゃ、いるよ」

「そう」

 

 当然だと言うように答える伊吹の返事に、灰原は薄らとどこか満足そうな笑みを浮かべる。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 夕方6時30分。帝丹高校、空手部の道場の前で伊吹は待機していた。じきに部活が終わるため深月を待っているのだ。

 空はほとんど日が暮れ、濃紺に染められている。橙の光に照らされ浮かぶ雲は幻想的でもありながら、言い知れぬ不気味さも混在していた。

 購買に売っているお気に入りのカフェオレを飲みながら何をするでもなくぼーっと彼女を待っている。眺める校庭では運動部が用具を片付け始めていた。

 

「あ、あ、あの……お、お待たせ、しました。す、すみません、こんな、時間まで……」

 

 弱々しいか細い声が背後からかけられる。振り向くと鞄を両手で持ち、自信なさげに背中を丸めた椎名深月が立っていた。俯きがちに内股で立つ彼女を見ると、どうしても先程まで空手部で汗を流していたとは信じられない。空手部の見学でもしていればよかったと、伊吹は少し後悔した。

 

「じゃあ彼女のことよろしくね」

「はいよ」

 

 深月の隣に立っていた蘭はそういって彼女を伊吹に預け、急ぎ足で帰っていった。ぶつぶつと聞こえた呟きによればタイムセールが終わりそうだとか。

 

「朝も言ったけど、そんなに畏まらなくてもいいよ、気楽にさ。園子様いわく、俺みたいなやつが友達か恋人かと思わせてビビらせるって作戦だそうだし、自然体でいないと」

「は、はい、そ、そうですね……」

 

 隣を付かず離れずの距離で歩き、話しかける度にビクッと反応する彼女を見て内心「この作戦はうまくいくとは思えない」とため息をつく伊吹だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 米花駅に着く頃には彼女の小動物のような態度も少しはなりを潜め、徐々に笑顔も見られるようになっていた。

 2人の手には伊吹の奢りで買ったアイスが握られている。アイス片手に笑顔で話しながら歩く2人の姿は仲睦まじく、恋人同士にも見える。小さく控えめに笑う彼女も、伊吹と一緒に過ごすこの時間はまんざらでもないようだ。

 

「あー、伊吹お兄さんだ!」

 

 自分に向けられる女の子の声に振り向く伊吹。隣の深月は少女の声にビクッと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。

 伊吹を指差す少女は歩美、その後ろには少年探偵団と阿笠博士がいた。

 

「おー、お前ら。こんなとこで何してんの、良い子は帰る時間だよ」

「悪いことはしてませんよ! ヤイバーショーを見てきた帰りです」

「伊吹兄ちゃんこそ何してんだよ」

「もしかして、デート?」

「ははは、違うよ。あゆみちゃんはおマセさんだなぁ」

 

 どこか悲しそうな顔で尋ねてくる歩美に思わず苦笑いを浮かべてしまう伊吹。

 

「お、お知り合い、ですか……?」

「うん、近所に住んでる知り合いの子達だよ」

「そ、そうですか。あ、あの、し、椎名深月と、いいます。は、萩原先輩の、後輩です……。は、はじめまして」

「姉ちゃん声ちっせえなー」

「ちょっと元太くん! 失礼だよ、そんなこと言っちゃあ」

「そうですよ、初対面の女性にそんなこと」

「うぅ……す、すみません……」

 

 挨拶した深月だったが小学生からの無垢な指摘にへこみ、さらに小学生に庇われたことに傷ついていた。

 

「お姉さんは伊吹お兄さんの恋人さん?」

「えぇっ、ち、違いますよぉ……」

「違うわよ」

 

 歩美の質問に慌てて否定する深月と、さらりと否定する灰原の声が重なる。思わぬ所からの声に全員の視線が灰原へと注がれる。

 

「なーんでお前ぇが知ってんだよ?」

「別に……なんとなくよ」

 

 灰原はコナンの質問にも目を閉じ腕を組んだままクールに返答する。

 

「ふーん、じゃあ恋人さんでもデートでもないんだね! よかったー」

「あゆみちゃんは可愛い反応するなぁ、誰かに見習わせたいよ」

「……」

 

 頬を少し朱に染めながら笑う可愛らしい歩美の頭を伊吹は思わず撫でてしまう。目を閉じて嬉しそうに撫でられる歩美。腕を組んだままの灰原の鋭い目には気づかないフリをする。

 

「それじゃあ、そちらが例の?」

「うん、そう。今から送ってくるから、また後でね」

 

 博士の質問に対し、子供たちに深く聞かれないようさらりと答えその場を離れる。

 

「じゃあね、伊吹お兄さん! ばいばーい!」

「まったなー!」

「またですー!」

 

 探偵団の元気な声に振り返らずアイスを持った手を挙げて応える。2人の背中は駅の人混みへと消えていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 米花から3駅ほどで彼女の最寄駅へと到着する。改札を抜ける頃には日は完全に沈み、夜の帳が訪れていた。彼女の駅は住宅街の方であり、駅周辺は賑わってはいないが、帰宅するサラリーマンや学生の姿は多かった。

 彼女の家は駅から少し歩く必要があり、道には街灯が立ってはいるものの暗がりが多く人通りは少ない。気の弱い彼女が暗い中この道を帰るのは心もとないだろうと伊吹は納得していた。ましてやこの道を誰かが尾けてくるなら尚更である。

 そして伊吹は既に、駅から何者かが後を尾けて来ていることに気がついていた。

 

「あ、あの……き、今日は、あ、ありがとう、ございました……」

「……」

「あ、あの……」

「……」

「せ、先輩……?」

「……っ、あぁ、ごめんごめん。いいよ、気にしないで。俺が引き受けたことだし、それに……本当に必要だったみたいだし」

 

 伊吹の眼が鋭く鈍く光る。脇の隙間から携帯のカメラをそっと覗かせ音を鳴らさないように撮影する。フラッシュをたいていないため画面は暗いが、伊吹にはハッキリとその姿が確認できた。間違いなく何者かがつけてきている。

 

「尾行は稚拙……素人か……やはりただのストーカー……」

「せ、先輩、ど、どうか、しましたか?」

「深月ちゃん、次の角を右折だよね……?」

「は、はい、そ、そうです……」

 

 次の角にカーブミラーが無いことを確認する伊吹。曲がってもすぐには相手に見られない。

 

「深月ちゃん……」

「は、はい……?」

「いくよ……っ!」

「へ……? きゃぁ……っ!」

 

 角を曲がり相手の死角に入った途端に深月の腕を引き抱きかかえ走り出す伊吹。相手が曲がり角に到達してこちらを覗き込むまでの僅かな時間に、伊吹は更に先の角を曲がりすぐの家の塀へと隠れる。

 僅か数秒の間に、いわゆるお姫様抱っこで抱えられ風のように走り出し、ふわりと降ろされた時には隠れていた。深月はなにが起きたのか頭が追いつかない。

 

「あ、あぁ……あ、あのあの……」

「しっ、静かに……」

 

 深月が確かに覚えているのは自分を抱えても全く軸のぶれない伊吹の体幹と、屈強な体と逞しい腕の安心感。静かにするよう自分の唇に当てられた指の温かさである。彼女は場違いな胸の鼓動と顔に集まる熱を感じていた。

 伊吹はそんなことを全く気にすることもなく、変わらない鋭い眼で塀の外の様子を伺っている。次第に荒々しく走る足音が聞こえてきた。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……あれ、どこだ……?」

 

 月明かりに照らされて姿を見せたのは中肉中背の男だった。額に脂汗を流し、走ったことで息が上がっている。深月を見失い焦ったのか憤ったのか、隠れる素振りは見せない。

 徐々に近づいてくる男を仕留めようかとも思った伊吹だったが、現状その男がストーカーである証拠もなく、警察に突き出すこともできないため、この場は一先ず息をひそめるだけにした。

 しばらくすると男は舌打ちをし、駅の方へと引き返していった。どうやら今日は諦めて帰ったようだ。

 

「行ったか」

「……」

「しかし、ほんとにストーカーだったとはね」

「……」

「おーい、深月ちゃん大丈夫?」

「あ、は、はいっ……、だ、だいじょぶで、す」

 

 どこかボーっとした様子の彼女だったが、伊吹の声に我に返る。無意識に両手を頬に当てて赤い顔を隠そうとしている。

 

「とりあえず今日のところは大丈夫だと思うけど、家までは送るよ、念のため回り道してね」

「は、はぃ……よろ、よろしく、お願い、せます……」

 

 少し打ち解けてきたと思ったが、なぜか最初よりも言葉が詰まっている彼女を見た伊吹は、よほど怖かったのだろうと見当はずれの納得をしていた。

 念のため回り道をして彼女の家へと到着したが、男の姿は影も形もなかった。

 

「やっぱり今日は大丈夫みたい」

「は、はい……あ、あり、ありがとう、ございます……」

「明日は休みだし、俺は来られないけど、まあ暗い時間に出かけなかったら大丈夫だと思う。警察に突き出せるよう証拠集めもするから」

「は、はい……よろしく、お、お願い、します……です」

「うん、じゃあまた、月曜日に迎えに来るから」

「は、はい、お、おや……」

「ん?」

「おや……すみ、なさい……です」

「うん、おやすみ」

 

 深月が家に入っていくのを確認してから、伊吹は帰路についた。深月は部屋のカーテンから顔を覗かせ、去っていく伊吹の背中を見送った。恥ずかしそうに手を振りながら。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 空は更に暗くなり、かすかに見える星と大きな満月を見上げながらトボトボと歩く伊吹。

 阿笠邸の前に差し掛かる頃、家の前に小さな人影が見えた。時期的には寒いほどではないものの、夜はまだ冷える。

 

「哀じゃん。何してるの、こんなところで」

「別に、買い物の帰りよ。偶然ね」

 

 彼女の手には近所のコンビニの袋が握られており、中には女性向けのファッション雑誌と清涼飲料水が見える。

 

「あー。晩御飯はある?」

「用意してるわよ。私と博士は食べたけど」

 

 灰原からコンビニの袋を受け取り、家の中へと入っていく。その時、伊吹は灰原の手がひどく冷たくなっていることに気づいた。

 

「おー、哀君おかえり。お、伊吹くんも一緒じゃったか」

「博士ただいまー」

「ただいま」

 

 哀と伊吹は揃って洗面所で手を洗いうがいをする。リビングへと戻った哀に、博士が夕食を温め直しながら声をかける。

 

「それにしても哀君、随分と遅かったの。どこのコンビニまで行っておったんじゃ?」

「博士っ、頼まれてた飲み物買ってきたわよ」

「お、おぉこれじゃこれじゃ、ありがとう哀君」

 

 制服を着替えに自室へと戻ろうとする伊吹の後ろから灰原と博士の会話が聞こえたが、何も聞かなかったことにして伊吹は自室へと消えていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 部屋着へと着替えた伊吹が博士に温め直してもらった夕食にありつく。

 

「それで、どうじゃったんじゃ? ストーカー事件の方は」

「あー、どうやら本当っぽいね。困ったことに」

 

 伊吹と博士はダイニングテーブルを囲んで話している。博士の手にはコーヒーカップが握られ、灰原は紅茶のティーカップを片手に隣のリビングのソファに座りニュースを見ている。

 

「物騒じゃのう。どうするんじゃ?」

「とりあえず本当だった以上、無視はできないし、登下校の警護はするよ。ちょこちょこ証拠を集めて警察につき出す」

「そうじゃの。ただ、警察が動いてくれるだけの証拠が集められればいいがのぉ」

「まぁ月曜から何とかしてみるよ。明日は休みだし、暗い時間に出歩かなきゃ大丈夫だろうし」

 

 食事を取りながら話す伊吹の表情は晴れない。どうしたもんか、と悩んでいるようだ。

 

「あら、随分と浮かない顔ね」

 

 灰原が軽く振り返り、横目に伊吹の顔を捉えて2人の話に参加する。

 

「そりゃ、まあ。言っちゃ悪いけど、被害妄想とか気のせいじゃないかって可能性も少しは疑ってたからな。なんとなく悪かったなぁってのと、正直面倒なことになったなぁって」

「あら、その割に楽しそうに見えたけど」

「なにが?」

「今日の帰り道。鼻の下が伸びた締りのない顔してたわよ」

「そんなことないだろ」

「どうだか……」

 

 灰原は伊吹から半眼のジト目を外し、買ってきた手元の雑誌へと視線を落とす。博士は2人のやり取りを苦笑いを浮かべて見ているしかできない様子。

 

「機嫌が悪いの?」

「別に」

 

 夕食を食べた伊吹がグラスのお茶を飲み干し、灰原の方へと振り返る。椅子にまたがるように座り、背もたれに両腕を起き顎を乗せている。そんな伊吹には目もくれず、灰原は雑誌をぼんやりと見つめている。

 

「明日さ」

「……」

「哀」

「……なに?」

「明日休みだし、どっか出かけようか」

「どこへ?」

「どこでもいいけど、どこがいい?」

「そうね……買い物かしら」

 

 灰原が雑誌のページをヒラヒラと後ろの伊吹に見せながら言う。

 

「子供用の服って高いんだよなぁ」

「……」

 

 灰原はキッと、いつものキツい目つきで伊吹を睨む。

 

「冗談だよ。それで、買い物だけ?」

「服を見て、本屋へも行きたいわ。あとは食事でも行って……デザートも欲しいわね」

「はいよ。なに食べたい?」

「なんでもいいわ。でも、デザートはジェラートがいいわね」

 

 伊吹は食後のコーヒーをカップに入れて灰原の横へと座る。灰原は気にした様子もなく再び雑誌を眺めている。

 

「ジェラート、ってどんなだっけ?」

「……アイス、みたいなやつよ」

「あーはいはい。……なんでまた」

「ただの気分よ」

「ふーん……」

 

 互の気持ちを知ってか知らずか、気づかぬふりをしているのか。2人はそれぞれカップを片手にテレビを見始める。

 

「この新婚はうまくいきそうにないな」

「どうかしら」

 

 2人で同じ脚を組み同じタイミングでコーヒーを飲む。揃ってテレビのゴシップの話をしながら夜は更けていった。

 



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2話 夢見る少女じゃいられない 後編

 

 とある土曜日の午後、喫茶店には灰原と伊吹の姿があった。前日の約束通り2人は街へと買い物へ赴いていた。既に伊吹の足元にはいくつかの紙袋がある。

 

「それで、これからどうする?」

「そうね、服はもういいわ。あとは本屋さんね」

「じゃあそろそろ行くか」

 

 2人は席を立ち、飲み干した容器を片付ける。伊吹は片手に紙袋を、片手に灰原の手を握る。

 

「あら、この手はなにかしら」

「嫌だった?」

「別にいいけど。せいぜい誘拐と間違われないことね」

「それは哀が誘拐されるほど小さい女の子ってことか」

 

 悪態をつきながらも伊吹の手を握り返す灰原。互いに相手を小馬鹿にしながらも顔には笑みが浮かんでいた。

 陽も傾き空が薄暗くなってきた頃。2人はデートのようなものを楽しみ、リーズナブルなレストランで夕食をとった。デザートとして注文したのはベリー系のジェラートを1つだけ。そんなに甘いものを食べられないという共通の意見からである。

 

「おいしそうね」

「こういうの好きだったっけ?」

「別に。今日は食べたかったのよ」

「そうかい。気に入ってくれてよかったよ」

 

 運ばれてきたジェラートに顔を綻ばせる灰原。その顔は何かに勝ち誇っているかのように見えた。

 

「はい、あーん」

「……」

 

 冗談めかしてスプーンを差し出す伊吹を呆れたように見つめる灰原。言外にどういうつもりか、と聞いているようだ。

 

「たまにはいいじゃん。照れなくても、仲のいい兄妹にしか見えないよ、幸か不幸かさ」

 

 灰原はふう、とため息を1つ吐いてから伊吹の差し出したスプーンを咥えてそっぽを向く。いつもの澄ました表情は変わらないが、照れているのか顔を合わせようとはしなかった。

 

「もう一回、あーん」

「もういいわ」

「そう言わずに」

「い・い・わ」

「あ、はい……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 2人が半分ほどジェラートをつついた頃、伊吹のポケットから電子音が鳴り響いた。ふと画面を覗き込むと、ディスプレイには毛利蘭の文字が。伊吹がなんの気なしに電話に出ると、受話器の向こうからは蘭の焦った声が響く。

 

「はい、萩原だけど」

『あ、萩原君? 今深月ちゃんと一緒にいる?』

「え、深月ちゃん? 知らないけど、どして?」

「……」

 

 電話をする伊吹の方を鋭く見つめる灰原。心なしかジェラートをつつく回数が増えている。

 

『深月ちゃんが家に帰ってないみたいで』

「おいおい、昨日は送ったよ。狼になんてなってないよ」

『それはわかってる、今日のお昼に出かけてからまだ帰ってないらしくて……もう暗いし、深月ちゃんここ最近は休みの日に出かけることもなかったらしいのに』

 

 伊吹は嫌な予感がしながらも考える。昨日は暗くなってから出歩かないようにと警告をしたし、本人も出かけないようにしていたらしい。昨日の今日で日が暮れても1人で出歩いているとは考えにくい。

 

『それに変な話も聞いて、深月ちゃんの家の近所を走っていた車の中に深月ちゃんを見かけたとか』

「それは確かな情報か?」

『うん……、はっきりとはわからないらしいけど、本当なら、どうしよう……』

「小五郎さんとコナンは?」

『今日はポアロのマスターと出かけてて、携帯も繋がらなくて……コナン君は博士の家に行ってるはずだけど……』

「わかった、俺が何とかする。蘭ちゃんは家で待機してて、大丈夫だから」

『う、うん……』

 

 会話を終えると即座に灰原を見つめる伊吹。灰原は既に察したように、いつもよりつまらなさそうな顔をしながらジェラートをぱくつく。

 

「問題が起きた」

「なにかしら」

「彼女の行方がわからない、今から捜索及び場合によっては救出に当たる」

「はいはい、行ってらっしゃい」

「悪いな、哀。続きはまた今度。荷物が多いから博士に連絡して車で迎えに来てもらえ」

「そうするつもりよ。この荷物じゃ1人寂しく帰ることもできないわよ」

「悪かったって、また今度なっ」

 

 それだけ言い残すと伊吹はお金を机に起き、駅へと駆け出した。突風のように去ってゆく彼の背中を見送りながら、灰原は小さくため息を突き、携帯を取り出した。

 

「博士、米花駅近くの新しくできたレストラン、あるでしょ。ええ、そこよ。そこまで車で迎えに来てちょうだい。ええ、そう。今、すぐに、よっ」

 

 通話を終わらせた彼女の目には、伊吹に対する苛立ちと仕方ないという諦めが混じっていた。それを発散するように残りのジェラートを頬張る。空はいつの間にか曇り始め、寒くはない季節だが、1人で食べる夜のジェラートは、まだまだ体を冷やした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 月夜に佇む1人の男。その眼は鋭く鈍く光っている。

 蘭に出来るだけ細かく聞いた拉致現場へと伊吹は駆けつけていた。常に持ち歩いている頑丈なペンライトで車道を照らしながら歩く。ふと立ち止まり地面を詳しく調べ、比較的新しいタイヤ痕から情報を読み取る。車種、運転技術、進行方向、重量、速度。アクセルとブレーキ、ハンドルの動きから運転手の焦り。地面に接着するほど視点を低くし、靴跡や吸殻などから犯人の人数、性別、身長、体重までも見当をつける。

 自身に備わる工作員としてのあらゆる技術と知識をフルに活用する。地獄のような訓練で身につけた標的を追いかけ、追い詰め、殺すための技が今、人助けのために使われようとしていることに伊吹は皮肉めいたものを感じていた。

 影が伸びるように静かに立ち上がった伊吹。その眼には日頃のID「萩原伊吹」としての能天気なのんびり屋の色はない。獣のように荒く、深海のよに暗く、狩人のように鋭い視線。心は深夜の野原のように不気味にざわつく。

 一台の車が過ぎ去り、ヘッドライトが道を照らした時には、既に彼の姿はそこになかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「はぁ、はぁ……やっと、だ。やっと深月と結ばれる時がきたんだよ」

 

 とある山中。町並みからは想像もつかないような深く暗い森の中。米花からそれほど離れていないはずだが、街の賑わいとはかけ離れた静謐があたりを包む。そこに一台の車が止まっている。森と車内に響くのは脂にまみれたような粘りつく男の声と、くぐもった少女のうめき声。

 深月は男に連れ去られ、両の手足は縛られ、口には猿轡を噛まされている。大声を出すこともできない。拉致される際に抵抗したのか、その体を包む衣服は少し破れ、体は薄らと傷ついている。

 

「ずっと深月を見てたんだ……、ずっとこうなることを願ってた。遠くから深月を見て、自分を慰めていた……はぁはぁ、たまに見せる深月の、怯えた顔が……たまらなかった!」

 

 男は服を脱ぎ捨て、汗でてかる体で深月へと近づいていく。涙を浮かべた深月は髪を振り乱し、顔を振りながら何とか男から遠ざかろうともがく。しかし狭い車内ではすぐに壁へと追いやられた。

 

「なのに……なのにっ……、なんだ、あの男はぁ……っ! なんなんだ、あの嬉しそうな顔はァっ! ぼ、ぼくの……僕の深月ちゃん、はぁはぁっ」

 

 男は息を荒立てて血走った眼で深月に手を伸ばす。深月の涙も絶望する態度も、恐怖で歪む表情も、男を興奮させる。

 

「あぁ、いい……いい顔だよぉ、深月……その顔で僕を見てくれ、はぁはぁ、最後まで、その顔でね……。あぁ、縛ったままじゃ脱げないね、邪魔だね、ほどいてあげるよ……」

 

 男の手が深月の体へ触れる。深月はビクッと体を震わせ、その衝撃で涙がさらに溢れる。その態度に男は顔を歪ませて悦び、深月の脚を縛るロープを解く。

 窮鼠猫を噛む。脱兎のごとく。それを体現するように、ロープを解かれた途端に逃げ出す深月。火事場の馬鹿力か両足で繰り出した蹴りは男の顎を捉え、体を反対側まで飛ばす。後ろ手にドアを開け、転がり落ちるように車外へ飛び出す。

 いつの間にか降り出した雨に地面はぬかるみ、滑るように駆け出した。男が追いかけてくる前に山道から反れて森の中へと突き進んでいく。靴は履いておらず、草木を踏んだ足からは赤い血が流れ出している。走る中で猿轡は緩み、首へずり落ちた。

 

「はぁっ、はぁっ、うぅっ……うぇえっ、いや、もうやだよぉっ」

 

 走ったことと、緊張と焦りから鼓動が激しく体内に鳴り響く。顔は涙と汗と雨に濡れ、長い前髪が張り付きぐしゃぐしゃになっている。

 なぜ自分がこんな目に遭うのか、誰か助けて欲しい……、親兄弟友人の顔が脳裏を駆け抜けていく。最後に願ったのは、昨日も助けてもらった彼の顔。彼女は心中で必死に願う、助けて、助けてと。

 

「いいよぉ、深月ー、もっと抗ってごらん、はぁはぁ、その怯えた表情が、僕をさらに、高ぶらせるよぉ」

 

 ナタを振り回し邪魔な草木を切り払いながら男が後ろから追ってくる。愉悦に歪み雨に濡れた表情は不気味な笑みを浮かべている。

 2人が分け行った森は、誰が見ても“誰かが通った”とわかる程に荒れていた。

 

「きゃっ、あぐッ……!」

 

 走りながら手を縛るロープを解こうとし、雨と落ち葉に足元をすくわれ転んでしまった深月。ロープは解けたが、体を打ち付けて全身が痛む。

 

「うっ……ぐぅ、ぅう……」

 

 涙を押し殺して立ち上がろうとするも、右の足を挫いたようで上手く立てない。よろめき、木の幹を支えに何とか立ち上がるも、目の前にはナタを持った怪人が笑いながらこちらを見ていた。

 

「見つけたよぉ、追いついたよぉ、深月ぃ……あぁ、いい顔だねぇ、最高だよぉ」

「うぁ、ぁぁ……あぁ……うぅ」

 

 絶望と恐怖に顔を染め、涙に鼻水によだれに顔をぐしゃぐしゃにし、雨と泥で全身を汚した深月だが、その顔に僅かな覚悟が見えた。

 片足を庇いながら立ち、構える。彼女は一矢報いる覚悟を心に決めた。弱い自分を鍛えるために、強くなりたくて始めた空手。痛みに怯え、大声に恐怖し、なかなか身につかなかったが、それでも強い人たちに憧れて続けていた。その成果を少しでも発揮し、目の前の男に叩き込む。自分が怪我をしても、辱められても、例え殺されても、ただでは済まさない。その覚悟の炎が涙で揺れる彼女の目に宿る。

 

「あぁ、深月、怒っているね、はぁはぁ……そんな顔もかわいいよぉ、空手頑張ってるんだね、それで僕に抗うんだねぇ、ああいい……殴っていいよぉ、その華奢な腕で一生懸命抵抗して……一発くらいなら、受けるからさぁ、殴ってよぉ……はぁはぁ」

 

 男の歪みきった性欲に震える両足。緩みそうな膀胱に力を入れ漏らさないようにする。痛む足も気にせず力強く踏み込み、深月は男へと駆け出した。

 

「ぅ、ぅあーッ!」

「いぃっ! さあ、殴ってぇ!!」

「じゃあ、遠慮なく」

「えっ……?」

 

 男の左頬を鉄拳が貫く。その体がきりもみ回転しながら数メートルの距離を吹っ飛んでいく。

 

「……え?」

 

 覚悟を決め突き出した自身の拳に相手は微動だにしない。恐る恐る目を開いた彼女の前には恋に焦がれて待ちに待ち望んだ、彼の顔があった。なんど助けてと願ったかわからない人が、助けに来てくれた。先程までとは違う、暖かい涙が彼女の頬を濡らした。

 駆けつけた伊吹がまさに殴られようとしている男の肩を掴み、驚き振り返った顔面へと拳をお見舞いしたのだ。

 

「に、にぁんらぁ、ほまへはっ!? ほはのやひゅらは!?」

 

 倒れた男は顔を起こし話そうとするも、顎が砕けてうまく喋られない。しかし伊吹がここに現れたことに驚いているようだ。

 

「お前ら畜生の反吐が出そうな匂いを追ってきた。くせえ車を見つけたよ。そこからはお前が作ってくれた道を通って来たんだよ。山道の入口にたむろしてた連中は寝てる、多分生きてるんじゃね」

 

 男は金と女を餌に荒事専門の別の男たちを連れていた。しかし素人に毛の生えた程度の集まりでは、伊吹には取るに足らない障害だった。

 

「あ、あぁ……」

 

 男は怯え足を滑らせながらも慌てて立ち上がる。ナタを拾い上げて伊吹へと向き直る。

 

「ほろひへやふ……」

「は、萩原……先輩」

「大丈夫だ、そこにいろ。漏らすなよ」

 

 ナタを振り上げて突っ込んでくる男。自暴自棄になった男の目には確かな殺意が映る。

 

「さっきのは手加減した。お前を一発で気絶させるわけにはいかない。痛みを感じるまま地獄を見せてやる」

 

 言うやいなや、伊吹はあっさりとナタを持つ男の右腕を左手で掴み、右の拳を腹へと叩き込む。

 

「うぉえぁっ……!」

 

 空気と胃液を吐き出す男。膝が折れ沈みそうになるが、伊吹は腕を離さない。無理やりに引っ張り上げて更に一発叩き込む。気絶しないように手加減はしているものの、その拳は非常に重く、アバラをへし折る。

 

「あぁぁッ! うぁっ……!」

 

 それでも許すまいと伊吹は男を引き上げ右手で頭を掴み、顔面へ膝を見舞う。歯が飛び散り、鼻が砕け血を吹き出す。その一撃でついに男の意識は刈り取られた。全身の力は抜けてダラリと垂れ、伊吹に掴まれた右腕だけで体は支えられている。

 顔に飛んだ男の血が雨に流され垂れてくる。鬱陶しそうにそれを拭い、興味を失ったように男を投げ捨てる。

 伊吹が振り返ると深月はビクッと肩を震わせた。しかし、一連の凄惨な光景を見たにも関わらず、近づいてくる伊吹に恐怖は感じなかった。

 

「すまない、遅れた。大丈夫か?」

「は、はい……うぅ、せんぱいぃ……うぁぁ」

「大丈夫? 漏らしてない?」

「あぁぅ……もら、漏らして……ませぇ、んっ」

「じゃあ良かった。警察を呼んでるから、もう大丈夫だから」

 

 急激にこみ上げてくる安堵感から大泣きしてしまう深月。伊吹は彼女の頭を撫で、優しく体を抱きしめた。自身の上着を彼女に羽織らせ、冷えた体を摩って温める。大きな樹の下で雨を凌ぎながら警察を待った。

 彼女は伊吹の大きな腕の中で泥だらけの体を丸め、糸が切れた様に眠りについた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「大丈夫か?」

 

 駆けつけた救急車と警察で静かな森の中は喧騒に包まれていた。雨に濡れた木々の葉が赤い回転灯を乱反射する。夜の曇天はますます辺りを暗く沈めていた。

 救急車の中で毛布に包まって座り込む深月に伊吹が声をかけながら隣に腰をかける。

 

「はい……警察の人とか、来てくれて、少し落ち着きました。特にあの、女性の刑事の方が……」

「ああ、佐藤刑事ね」

「すごく親身に対応していただけました」

「でしょ、名指しで呼んでおいて正解だった」

「……」

「……」

 

 2人の沈黙の間に雨の音だけが割って入る。雨粒が葉を叩く音や救急車の上で跳ねる音が、やたら大きく聞こえる。

 深月は暖かいココアの入ったカップを両手に持ち、何かを言いたげに、視線を彷徨わせている。伊吹は彼女が話し出すのを待つように黙っている。

 

「あの、先輩……」

「ん?」

「ありがとう、ございました……来ていただけて、助かりました。本当に……」

「どういたしまして。というか、俺の責任な部分もあるし」

「そんな、とんでもないです……悪いのは、全部あの男で……」

「まあ、ね」

 

 カップを強く握り直し、彼女は意を決したように話しだした。

 

「あの、先輩って、強いんですね」

「無駄な筋肉じゃないからね」

「なんか、すごかったです……人間離れしてるっていうか……普通の、人じゃない、みたいで、……!」

「……」

 

 彼女が伊吹の“何らかの秘密”に指をかけようとした時、先程までの伊吹の優しい微笑みは消えた。背中を氷の爪で引っ掻かれたかのような恐怖が彼女を襲う。とっさに、聞いてはいけない事なのだと察する。

 慌てて目線を落とし、カップのココアを見つめる。

 

「あ、あの、それで、その……これから、私、どうなるんでしょうか」

「んー、まあとりあえず怪我の治療だね。そのあと事情聴取。大丈夫だよ、あの佐藤刑事が気を使ってくれるから」

「先輩は、どうなりますか……?」

「さあ。とりあえず俺も事情聴取だろうけど、そのあとはどうなるか」

「捕まったり……?」

「するかもね」

「そ、そんな! 先輩は私のために! そ、それに相手はナタ持ってましたし、それに、それに……」

 

 思わず立ち上がり必死に訴える深月。その姿に思わず笑みがこぼれる伊吹。

 

「冗談だよ。多分、大丈夫。怒られるだろうけどね」

 

 その言葉に安心した深月は胸を撫で下ろし、また座り込む。

 チラリと横目で伊吹の横顔をのぞき見ながら、頬を染めつつ話し出す。

 

「それで、あの……先輩は、これからも、その……私のこと……ま、守ってくれたり、なんかは……」

「これからは警察が世話をしてくれるよ。ちゃんと守ってくれる。もっとも、ストーカーは捕まったけど」

「あ、あの……わ、わたしは……っ!」

 

 ゴクリと唾を飲み込み、深月は伊吹をしっかりと見つめる。頬はより赤みを帯び、瞳は潤んでいた。唇はふるふると震え、何かを言いたげに小さく開閉する。車外の喧騒は遠くなり、自身の激しい鼓動だけが全身を反響する。

 意を決した彼女の邪魔をすまいと、伊吹は黙って彼女を見つめる。

 

「私は……、私は、萩原先輩の、こと……、先輩、に……、守って、もらいたい、です……」

 

 か細く消え入りそうな声で告げる深月。今にも泣き出しそうな顔をしながら、椅子に手を着いて隣の伊吹へと身を近づける。今の深月に伝えられる精一杯の想いだ。

 寒さではなく緊張と、さっきまでとは違う恐怖に肩が震える。堪えきれない一筋の涙が頬を伝う。

 彼女の頭に手を置き、優しく撫でる伊吹。優しさと、彼女の気持ちに応えられない申し訳なさに顔が歪む。その顔を見たときに、深月は伊吹の心中を察してしまい、思わず俯く。手の甲に涙の雫が2粒落ちる。

 

「申し訳ない。もう、君を守ることはできない。俺は今回のストーカーの件に関してのみ、警護を引き受けたんだ。任務は完了した、これで終わりだ」

「うぅ……」

 

 下唇を噛み締めて声を押し殺す深月。

 

「あの女刑事さんは頼りになるから。まあ、また何かあった時には俺も相談には乗るし。ただ、少なくとも、今回の警護は終わり。君は日常に帰って、俺と君は学校の先輩と後輩に戻る。俺は普段の日常からずっと君のそばにいることはできないんだよ」

 

 諭すような柔らかい口調で彼女に告げる伊吹。深月は顔を上げて伊吹を見つめる。

 

「先輩のそばには、もう……誰かが、いらっしゃるのですか……?」

「うん、いる。そばにいたい人が、守りたい人がいるんだ。俺の日常はそいつを守るためにあるから。今回が特別だったんだ。それにその子が素直じゃなくてね……俺は1人守るので手一杯だよ」

「そう、ですか……」

 

 先程までの深月を気遣って、彼女を傷つけないように選んで喋っていたものではない。伊吹のはっきりとした言葉と自身を力強く見つめ返してくる瞳に、深月は何も言えなかった。

 溢れる涙を腕で拭い、精一杯の笑顔で伊吹を見つめ返す。泣きすぎて眼は赤く腫れぼったい。

 

「わかりました、先輩は、その子を守ってあげてください。ただ、先輩に、憧れていても、いいですか……?」

「憧れ?」

「はい……。先輩の、すっごく強かったので、それを目標に……私も、強くなりたくて。弱い自分を、自信のない、臆病な性格を変えたくて……」

「俺でよければご自由に。って言いたいところだけど、もう深月ちゃんは変わってると思うよ」

「え……?」

「しっかり話せるようになってるし、相手の目をしっかり見てる。自分の言いたいことを伝えられたし、最初の頃とはえらい違いだよ」

 

 ハッとしたように今の自分の姿を思い返す深月。確かに今回の一件で何かが大きく変わったようだ。

 

「変われた、でしょうか……。けど、もっと先輩に近づきたい、ので、アドバイスください」

「そうだなぁ。まず髪を切るといい、可愛いんだから顔出しなよ。あともっと声を大きくして、堂々と。腹の底から“押忍ッ”って。そんでもっと強くなって、いろんなもの怖がらないように。私なら大丈夫、って自分に自信を持ってみな。そしたら、多分、きっともっといい事が起こるから」

「…………はいっ!」

 

 彼女の満面の笑みは明るく朗らかで、大きな返事は優しくも確かに伊吹の心に届いた。

 気づけば雨粒の弾ける音は聞こえなくなり、雨雲は払われて綺麗な月が顔を覗かせていた。彼女の微笑みは、柔らかくも闇を照らすその月の光とよく似ていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 水たまりを避けながら1人夜道を帰路につく伊吹。警察での事情聴取が終わり阿笠邸の近くまで戻る頃には日付が変わろうとしていた。

 見上げる空には雲間から月が浮いていた。上空の風に流される雲の動きは眼で追えるほどに早く、雨上がりの夜風は冷たく、骨身に染みる。

 足元を見ながら一つため息を吐いた伊吹が顔を上げると、阿笠邸の前には小さな人影が見て取れた。

 

「ごめん、遅くなった」

「高木刑事から博士に連絡があって、概ねの事情は聞いてるわ」

 

 塀にもたれかかり、ぼんやりと空を見上げていた灰原。伊吹の存在に気がつくと慌てた様子もなく伊吹へと近寄る。

 

「てか何してるの、こんなところで」

「別に、買い物の帰りよ。偶然ね」

「手ぶらみたいだけど」

「……なにも買わなかったのよ」

「……そっか」

 

 咄嗟にそっぽを向く灰原。だが2人はどちらからともなく手を繋ぎ、家へと入っていった。雨上がりの夜風にも、繋がれた手だけは暖かかった。

 

「哀君、あまり長く外にいると風邪を……おぉ伊吹君、無事じゃったか!」

「ただいま、博士。無事も無事。けどお腹空いたよ、ご飯ある?」

「哀君が腕を振るってくれたカレーが山ほど残っておるぞ。今温めるから先に風呂にでも入ってきたらどうじゃ?」

「そうする、さすがに雨に打たれて冷えたよ」

 

 いそいそとカレーを温め直す博士に、何も言わずソファに座り込む灰原。伊吹はその後ろで服を脱ぎながら声をかける。

 

「哀も一緒に入るか? 冷えてるだろ」

「別に。そこのコンビニまで行っただけだから」

「哀君は……」

「博士っ……、調理中は火から目を離さないでよ」

「あ、あぁ、了解じゃ」

 

 灰原の睨みにさっさとキッチンへ引っ込んでいく博士。じゃあ1人で入るか、と伊吹は着替えを持って浴室へと消えていった。

 しばらくするとシャワーの音が小さくリビングに聞こえてくる。すると灰原が静かに立ち上がり、リビングを出ていこうとする。

 

「哀君、どうしたんじゃ?」

「博士、火」

「あぁはいはい」

 

 博士に言外に何も聞くなと釘を刺し、パタパタとスリッパを鳴らしながら浴室の方へと向かった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 頭からシャワーを浴び体を温める伊吹。目を閉じてはいるが、浴室のドアのすぐ外に誰かが居ることには気づいていた。忍び寄る足音と気配から、無意識に相手の背格好や性別、体重、重心の動きまでも読み取ってしまう。そこまで考えるまでもなぐ、そこにいるのは灰原だ。

 

「哀? どうした?」

「声を出さなくてもわかるのね」

「まあ、なんとなくね」

 

 扉越しのくぐもった声で会話を重ねる。脱衣場の電気は消したままの灰原、浴室の明かりは当然灯されており、すりガラスの向こうでは伊吹であろう肌色が動いている。

 

「それで、どうだったの、今日は」

「どうって、多分高木刑事から聞いたままだよ。女の子が拉致られて、追っかけて、犯人をボコって、やり過ぎだと怒られたよ」

「そこじゃないわ」

「じゃあ……え、なに?」

 

 灰原が何を聞きたいのか察しのつかない伊吹。顔に張り付くシャワーの湯を拭い目を開ける。シャワーは開けたまま体を温めている。

 脱衣所の壁にもたれて立つ灰原。すりガラス越しの浴室の明かりが彼女を左側から照らす。静かに目を細める灰原はどこを見るでもなく、足元へ視線を落とす。

 

「彼女よ。その被害者のこと」

「あぁ、深月ちゃんね、あの子がどしたの」

「彼女と……なにかあった?」

「そりゃあ何かあったってもんじゃないよ、今日は」

「だから、事件のことじゃなくて」

 

 故意か天然か、話をはぐらかす伊吹に少し苛立った声で尋ねる灰原。

 

「彼女に、なにか……言われたんじゃないの?」

「……超能力者か」

「そんなんじゃないわ。ただの勘よ」

「女の勘か、すごいね」

「そうね。それで?」

 

 伊吹のおとぼけも軽く受け流す灰原。腕を後ろ手に組み、顔を上げて薄暗い天井を見やる。

 何かを察したように伊吹もシャワーを止め、すりガラス越しに灰原の方を見る。多くの古傷が目立つ屈強な伊吹の体に水が滴る。

 

「守ってほしい、って言われたよ」

「……」

「今回の件は解決したけど、これからもそばにいて、守ってくださいって」

「……そう」

 

 伊吹に聞こえないほどの小さなため息を吐く。何かを羨むようなその表情には、話に聞く深月の素直さが眩しく写っているようだ。

 聞きたいような、聞きたくないような、素直になれない自分の心に思わず苦笑いを浮かべながら、灰原はいつもと変わらない声色で尋ねた。

 

「あなたは、なんて答えたの……?」

 

 顔が見えるわけでもないが、灰原は浴室の方へ視線を向け、伊吹を見つめる。一滴の水音もしない静かな空間は、一瞬を長く長く感じさせる。

 

「ごめんな……」

 

 浴室に反響する伊吹の言葉に思わず目を見開き驚いてしまう灰原。たった一言で、言いようのない虚無感が胸を襲い、風穴を空いたかのような錯覚を受ける。

 

「って、言ったよ。俺にはもう、守りたい人がいる、って」

「……え?」

 

 思わず間の抜けた声で聞き返してしまう灰原。

 

「だから、俺にはもう守りたい人がいるって言ったんだよ、彼女に」

「……そう」

 

 伊吹の言葉を頭で理解し、心の穴が塞がるのを感じる。思わず安心したようにほっと息をついてしまう。

 

「俺は一人守るので手一杯だって言っといたよ。いかんせん、その一人が素直じゃなくて手を焼いてるって」

「……」

 

 微かに浮かべていたほほ笑みは消え、いつもの鋭い目つきとなる灰原。何も言わずそっと浴室へと近づき……電気を消して脱衣所を出て行った。一切の躊躇いのない流れるような所作であった。

 

「あ、ちょっと、哀、なにすんのさ。冗談だって、電気つけて。……哀? あれ、いない……?」

 

 後ろで喚く伊吹を無視してリビングへと戻ってきた哀に、キッチンから顔を出した博士が声をかける。

 

「おぉ哀君、カレーを温め直したんじゃが何やら味が落ちてしまっていてのぉ。どうしたもんかの」

「私がやるわ、博士はゆっくりしてて」

 

 小さく微笑んだ哀が博士を押しのけるようにキッチンへと入り、エプロンをつける。腕まくりをした彼女の目にはやる気に満ちているようだ。手際よくカレーを作り直し味見をし、上出来だと言わんばかりに満足そうに頷く。鍋をかき混ぜる彼女はご機嫌な様子で沖野ヨーコの歌を口ずさんでいた。

 カレーは美味しく出来上がり、伊吹は真っ暗な中で黙ったままシャワーを浴びていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「深月ちゃん元気にしてるかな」

「大丈夫よ、あの子なんだか明るくなってたし」

「そうね。部活もすごく頑張ってたしね」

 

 あのストーカー事件からしばらく経った頃、深月は事件の事もあり、よその街へと引っ越していった。彼女の送別会には蘭や園子をはじめ、空手部の部員やクラスメイトも数多く駆けつけた。事件後の彼女は人が変わったように明るく元気になり、男女問わず人気を博していたからだ。彼女の真価を見抜けなかったことに涙を流し悔やんだ男子もいたそうな。

 別れの時に園子が「私の作戦のせいで、ごめんね」と泣いて謝っていたのは記憶に新しい。

 

「萩原君、何かしたの?」

 

 膝に乗せた弁当箱を突っつきながら園子が尋ねる。隣の蘭も気になっていたのか箸を止めて伊吹の様子を伺う。

 

「別に、なにも。深月ちゃんのイメチェンじゃないの」

 

 お気に入りのカフェオレを飲みながら、とぼけた様子もなく答える伊吹。紙パックに差したストローをズココッと吸い込む。

 いつもの花壇に腰掛け、足元をちょこまかと動き回る蟻の前に菓子パンのクズをこぼして遊んでいる彼を見て、「ま、そうよね」と呆れたような顔の園子。

 伊吹が見上げた空には白い雲と、大海のような綺麗な青色が広がっていた。

 

「……今日は綺麗な月が見えそうだなぁ……」

 

 伊吹の呟きに釣られるように空を見上げる園子と蘭。吹き抜ける一陣の風が頬をくすぐり、雲を押し流していった。

 

「あ、そうだ。今日って私たち昼までじゃない? それでさっきクラスの子たちとカラオケ行こうかって話になったんだけど、萩原くんも来る?」

 

 思い出したように伊吹の方へと向き直り話しかける園子。その声が届いていないかのように伊吹は空を見上げたまま答える。

 

「いや、今日は……ちょっと寄るところがあるから、パス」

「あ、そう」

 

 相変わらず掴みどころのない彼に呆れたような目で見る園子と苦笑いの蘭。伊吹は鼻から大きく息を吸い、口から吐き出す。深呼吸のあとでゆっくりと立ち上がりグッと伸びをする。

 

「今日はうちのお姫様を迎えに行こうかと思ってね」

「「?」」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「「せんせー、さようならー!」」

「はい、さようなら。みんな車に気をつけてね」

 

 帝丹小学校に響く子供たちの元気な声。お昼を回って少しした頃、一年生は帰路へつき始めた。

コナンや灰原をはじめ、少年探偵団が一緒に校門へ出てきたとき帝丹高校の制服を着た男の姿が目にとまった。

 

「伊吹お兄さん!」

「伊吹の兄ちゃんじゃねえか」

「こんなところで何してるんですか?」

 

 子供組がわらわらと伊吹の足元へと集まってくる。ガードレールに腰掛けぼーっと空を眺めていた伊吹も子供たちに気づいたようだ。

 

「おー、元気かお前らー。今日はちょっと哀を迎えになー」

「哀ちゃん?」

「うん」

「だってよ、お迎えが来てんぞ灰原」

「……」

 

 照れているのか呆れているのか、関わりたくないと言わんばかりに目を閉じてスルーし帰ろうとする灰原。立ち去ろうとするその手をさっと掴む伊吹。

 

「迎えに来たんだし、一緒に帰ろうよ」

「はぁ……別にいいけど、手は離してね」

「えー、いいじゃん」

「嫌よ」

「近くにいないと守れないじゃん」

「……」

 

 様子を伺うように伊吹の顔を睨みつける灰原。数秒ほど黙って見つめ合う2人。根負けした灰原が何度目かのため息をついて、大人しく手を握り返す。

 

「あー、ずるーい、あゆみもー!」

「ぼ、ぼくも!」

「お、おい、まってくれよ!」

「おいお前ら」

 

 手をつないで歩く2人の後を探偵団が追いかける。伊吹の空いてる右手には歩美がしがみつき、灰原の隣に光彦が歩み寄ってもじもじとしている。そのあとに元太とコナンが続く。

 何気ない話題は尽きることなく、楽しい日常が過ぎていく。その日常の中では、伊吹の隣には灰原の姿があった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 数日後、阿笠邸にて。

 リビングのソファに座りテレビを観ている灰原の隣で伊吹の携帯が鳴る。当の本人はトイレへと篭っていて出てくる様子はない。なんとなく興味が惹かれたのか、灰原は伊吹の携帯を覗き込む。どうやらメールの着信のようだ。

 

「……」

 

 チラリと廊下の奥、トイレの方に目をやる。彼はまだ帰ってくる様子はない。灰原が不意に携帯に手を伸ばしメールを開く。そこには写真が添付されており、写真にはショートカットの女の子が快活な笑みを浮かべ、黄金に輝く大きなトロフィーを掲げながらカメラに向かってVサインをしていた。

 

『先輩へ

見てください! 小さな大会ですが、私優勝しましたよ! 少しづつですが先輩に近づいていけたらと思います。これからも日々精進で頑張ります。隣じゃなくて遠くからでいいので、見守るくらいは、してください。今からまた練習です、押忍! それではまた、いつか会える日を願っています。 深月より

PS.その時は私が先輩を守れるくらい強くなってますから、先輩を守る側として、となりに居させてくださいね♡』

「…………」

 

 伊吹に関わった人が一皮むけて成長することは、一緒にいる灰原にとっても誇らしいことであった。メールを読む彼女の表情も朗らかで、優しい笑みさえ見て取れた。

 しかし最後の追伸を読んだ彼女の顔からは笑みが消え、視線は鋭く研がれた氷の刃のようだった。彼女の機嫌を斜めにさせた決定的なものは、追伸の最後に書かれているハートマークだった。可愛らしい赤いハートが二つ並び、ピコピコとリズムよく揺れている。

 灰原はそっとメールを閉じ携帯をソファへ投げ出すと、怒りの籠った冷たい目のまま立ち上がる。スリッパを鳴らしながら真っ直ぐトイレの方へと向かい……電気を消した。一切の躊躇いのない流れるような所作であった。

 

「えっ、ちょっと、哀? なに、え、なんなの!?」

 

 真っ暗なトイレから響く声は、イヤホンで音楽を聴く灰原の耳には届かなかった。

 これは彼らの日常である。

 

 



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3話 人を助けるために 前編

作中に登場する「フナチ」はアニメオリジナルのキャラクターです。知らないという方も特に問題はないと思います。


 

「江戸川様! 後生であります! どうか再びこのフナチをお助けください!」

 

 休日の朝、阿笠宅に少年探偵団が遊びに来ていた。みんなでテーブルを囲んでゲームでもしようかというところに、その珍客は来訪した。

 明るいブラウンに染められたセミロングの髪を、左右の高い位置にリボンで縛っている。鼻にかかったような甲高い声で鳴きながら、フリルの付いた可愛らしい服に身を包み、口元は猫のように曲がっている。子供っぽい声色やファッションとは裏腹に、その体つきは大人のそれだ。

 玄関で彼女を迎え室内に連れてきたのは伊吹だが、普段は飄々としている彼も彼女のキャラクターに押され気味のようだ。

 

「誰?」

「いや、なんかコナンに用があるとか玄関で喚いてたから、案内したんだけど」

 

 見知らぬ女性の登場に灰原の突き刺すようなジト目が向けられる。伊吹は気まずそうに頭をポリポリとかいて答える。

 

「別に怪しくはないと思ったんだけど……」

「どう見ても怪しいじゃない」

 

 2人のやり取りを背にフナチと名乗る女性はコナンの元へと駆け寄り、足元に跪いてソファに手をかけ改めて懇願する。

 

「どうか! どうかフナチに救いの手を!」

 

 やたらテンションの高いその珍客にコナンは苦笑いを浮かべ、灰原はみるみる機嫌が悪くなっていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「はじめまして皆々様。申し遅れました、わたくし中居芙奈子(なかい ふなこ)と申します。よろしければ、フ・ナ・チとお呼びください!」

 

 ニコニコと明るい笑顔を浮かべ、右手の人差し指をピンと立てて自己紹介する芙奈子。流れるような早口で舌が回っている。

 

「ふなちさん?」

「さんは不要です」

 

 きょとんとしながら名前を聞き返す歩美に即座に訂正を入れる。

 

「ちなみにフナチとは某有名乙女ゲームで「蜃気楼の君」様をお慕いするヒロインの名前から拝借したものでして、そこには……」

「そ、それで! フナチは僕になんの用で来たの?」

 

 以前の経験から「長くなる」と直感的に察知したコナンが、すかさず言葉を挟んで芙奈子の語りを遮る。

 探偵団の子供組はまるで珍しい動物でも見るかのように様子を伺い、灰原は既に我関せずといった具合に瞳を閉じて腕を組む。伊吹は席を立ちキッチンでせっせと各人の飲み物の準備をしはじめた。

 

「はい、実はですね……重大な事件なのであります」

「事件?」

 

 伊吹が立った席に腰を下ろし、芙奈子は伏し目がちに語りだす。隣の灰原はチラリと横目で彼女を確認し、少し鬱陶しそうな表情を浮かべる。

 先程までの高すぎるテンションから一変して急に重苦しく口を開く彼女に一同は思わず耳を傾ける。実際、彼女は以前にとある事件に関わっており、コナンもそのことを知っているから尚更だ。

 

「はい、実は…………今日はアニメショップにて某有名乙女ゲームの限定グッズの発売日なのであります! 一人一つしか購入できない、中身は完全ランダムの運任せ! フナチはその数あるシークレットの中から「蜃気楼の君」様を救出しなくてはならない使命があるのでございます!」

「……」

 

 拳を握り、何か決意を固めたように斜め上を向く芙奈子。その目はキラキラと少女のように輝いて、背中には燃え盛る覚悟の炎が見えるかのようだ。

 事件と聞いて少しワクワクしていた子供たちはゲンナリとし、コナンは思わず頭を抱える。灰原はため息をついて席を立ち、キッチンへと向かった。

 

「おー、哀は紅茶でいいよな。フナチちゃんはどうしよか。オレンジジュースかな」

「彼女の分は要らないわ。すぐに帰るでしょうし」

「え、そうなの?」

 

 リビングから避難してきた灰原がダイニングテーブルへと腰掛け、右手で頬杖をつく。伊吹はお湯を沸かしながら灰原の言葉を聞き、顔だけをひょこっと突き出してリビングを見やる。何やら揉めているようだ。

 

「お願いです江戸川様! フナチが頼れるのは江戸川様しかいないのです!」

「そういうのは友達に頼めばいいんじゃないかな」

「本日わたくしの学友は皆忙しいようなのです……しかしあのグッズが購入できるチャンスは今日しかない次第でして……」

 

 内股気味に両膝を閉じ、手をその間に挟みながらしょんぼりと落ち込むフナチと苦笑いのコナン。博士はその様子を眺めるのみで、子供たちに至ってはもう興味をなくしたのかゲームに勤しみ始めた。

 

「前に知り合った、彦根さんだっけ? あの人に頼んでみたら?」

「はい、彦根様にもお声がけさせて頂いたのですが、執筆のお仕事の方が忙しいらしく、協力は難しいと……」

「……」

 

 彦根とは以前にある事件でフナチと友人になった男性である。

 正直面倒だと思いながらも、仕方ないから手伝ってやろうかと思案するコナン。その向かいで落ち込んでいた様子の芙奈子だったが、テレビから聞こえてくる耳慣れた音楽に思わずピクリと反応し、ガバっと顔を画面へと向ける。

 

「やややっ! それはもしや累計売上本数が100万本を突破し、未だに販売本数を伸ばしている神ゲー「タイタン・ハンター」ではありませんか!?」

「なんだおめー知ってんのか?」

「もちろんでございます小嶋様、僭越ながら助言をさせていただきますと、そやつは尻尾の先が弱点で御座いますゆえ、そこを狙うとよろしいかと」

「フナチのお姉さんすごーい!」

「フナチさんもタイタンハンターをしているんですか?」

「さんは不要ですよ、円谷様。わたくしこう見えましても既にハンターランクをカンストしておりますゆえ、お手伝いいたしましょう」

 

 子供たちが徹夜でやり込むほどにハマっているゲームソフト「タイタンハンター」をどうやら芙奈子もプレイしていたらしい。そして様々な助言やテクニックを披露するうちにすっかり探偵団の心を掴んだようだ。

 

「コナン! フナチを手伝ってやろうぜ!」

「ええ、助けていただいたのでお返しをしなくてはいけません」

「困っている人を助けるのも少年探偵団のお仕事だもんね!」

 

 芙奈子の肩を持ち協力を買って出る子供たち。コナンはやれやれと言った具合に肩をすくめる。

 

「帰らないじゃん」

「……みたいね」

 

 芙奈子を含め人数分の飲み物を用意した伊吹が灰原と共にリビングへと戻ってくる。ジュースに釣られた子供たちもソファへと座り、芙奈子も席つく。

 みんなの前に飲み物を置いた伊吹が自身の席がないことに気づくと、当然と言わんばかりの自然な動作で灰原を膝に乗せて座ろうとする。

 

「ちょっと」

「あ、だめ?」

「だめ」

 

 間髪いれずに灰原に拒否された伊吹は、そそくさと歩美の方へと移動し彼女を膝に乗せて座る。

 

「えへへ」

「あゆみちゃんは素直で可愛いなー」

「……」

 

 経験と慣れにより、伊吹は灰原のじとっとした目をスルーするスキルを身につけつつある。

 

「それで、結局そのフナチちゃんは何しに来たの?」

「あのね、フナチお姉さん買い物に行きたいんだって」

 

 伊吹の質問に対し歩美が顔を上げて伊吹を覗き込みながら答える。伊吹は彼女の髪をくすぐったそうに抑えて撫でる。

 

「そっかー……え、勝手に行けば?」

「なんでも一人一個の限定販売だそうで」

「オレたちも一緒に行って買ってやろうって思ってんだ!」

 

 すっかり彼女の仲間となっている子供たちが話の流れを説明する。興味なさそうに目を半分ほど伏せた伊吹がコーヒーを片手に聞いている。

 

「なるほどねー。じゃあ探偵団諸君、手を貸してあげたまえ。俺はパス」

「私もパス」

「えー、伊吹お兄さん行かないの?」

「灰原さんもですか?」

 

 あっさりと断りを入れる伊吹と灰原。その言葉にショックを受けたような歩美と光彦。

 

「お願いであります萩原様! 灰原様! どうか、どうかご助力くださいませ! 可能性を、蜃気楼の君様救出の可能性を高めるためには人海戦術しかないのです!」

「伊吹お兄さん、哀ちゃん……」

「……」

 

 あまりにも必死に懇願する芙奈子と歩美の潤んだ瞳に気圧されて、伊吹は頭を縦に振らざるを得なかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「おめーはパスするんじゃなかったのかよ?」

「別に。よく考えたら暇だったからよ」

 

 少年探偵団と伊吹が芙奈子に引っ張られるように買い物へと出かける。結局灰原も伊吹に釣られて付いてきたようだ。

 

「フナチお姉さん、そのグッズってどんなのなの?」

「よくぞ聞いてくださいました吉田様! これは某有名乙女ゲームのキャラクターグッズなのであります。その中でもわたくしが狙うのは「蜃気楼の君」様のグッズコンプリート! 各キャラに一つずつ存在するシークレットグッズも含めてであります!」

「それで、その蜃気楼の何とかって、なんなの」

 

 灰原は興味なさそうにも、話のタネに芙奈子へ尋ねる。芙奈子は頬を染めながら両手を当て、クネクネと体を揺らして早口に喋る。

 

「蜃気楼の君様でございます! 某有名乙女ゲームに登場するミステリアスでクールでスタイリッシュな殿方で御座いますよー。その緻密に考えられた世界観と時代設定なども然ることながら、この作品の最大の魅力はキャラクターなのであります! あぁ蜃気楼の君様……」

 

 恋に焦がれているように頬を染め、両手の指を組んで潤んだ瞳で空を見上げる芙奈子。口からは「はふぅ」と吐息が漏れている。

 

「蜃気楼の君ねえ……」

 

 興味なさそうに呟いた伊吹の方へ向き直る芙奈子。その体を上から下までじっくりと観察する。

 

「萩原様はご立派な体をしておられますね」

「まあ、鍛えてるから」

「それは一体何のための筋肉なのでしょうか。顔はよろしいのですから、もう少し細くなられてはいかがでしょう。今時筋肉系キャラは「噛ませ」にしかならないかと」

「これは……一応、人助け? のための筋肉で……」

「この平和な日本でその某少年漫画の主人公のような、世紀末を生き抜けそうな筋肉はどう見ても火力過多なのではありませんか。細マッチョ程度なら人気を博すること間違いなしかと思いますよ、とフナチなりに助言させていただきます」

「そうか……ダメか」

「一女子大生としてフナチが言わせていただくならば、“なし”かと思われます」

 

 芙奈子の辛辣な酷評に肩を落とす伊吹。腕を組みながらそのやり取りを見ていた灰原が「ふう」とため息をついて口を開く。

 

「あまりゲームばかりするのはお勧めしないわ。現実との区別がつかなくなるから。あと、現実での男を見る目も養われないみたいだし」

「伊吹お兄さんの筋肉はかっこいいよ!」

 

 落ち込む伊吹をフォローをする歩美と、芙奈子へ辛辣なカウンターを返す灰原。「ぐぬぬ……」と唸る芙奈子と視線をぶつけて火花を散らす。

 さっさと帰りたい、場の空気に1人そう思うコナンだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「蜃気楼の君様―!!」

 

 買い物へ行った全員が一つずつグッズを購入し、阿笠宅へと帰ってきた。伊吹の買った袋から無事芙奈子のお目当ての商品が出てきたようで、家中に彼女の甲高い絶叫がこだまする。恐らくお気に入りのキャラクターを模して作られたと思われるぬいぐるみを両手で持ち上げ、その場でくるくると回る。

 

「よかったね、フナチお姉さん!」

「はい! ありがとうございます吉田様! 皆々様! フナチはこのご恩を一生忘れません!」

「オーバーな」

 

 朝と同じように一同はリビングで寛いでいる。違うのは伊吹がキッチンで昼食を作っていることだ。

 

「本当に皆様ありがとうございました。長々とお邪魔するのも申し訳ありませんので、利用するだけして帰るようで気が引けますが、フナチはこれにて失礼しようと思います」

「えー、フナチお姉さんもう帰っちゃうの?」

「一緒にゲームしようぜ!」

 

 購入した他のグッズを自身のキャリーケースへと詰め込み帰り支度を進める芙奈子に別れを惜しむ子供たち。そこへ調理をしていた伊吹が顔を覗かせて声をかける。

 

「フナチちゃんのご飯も作っちゃったし、食べてけばいいじゃん」

「そ、そうですか……、ではお言葉に甘えさせていただきたく存じます!」

 

 芙奈子は右手で小さく敬礼をする。

 全員でリビングのテーブルを囲むには人数が多すぎるため、伊吹と灰原はダイニングの方で食事をとる。お皿の上には可愛らしく黄色い卵に包まれたオムライスが乗っかっている。

 

「むむむっ! こ、これは……非常に美味ですっ! シェフを呼んでくださいませ!」

「伊吹お兄さんが作ったんだよー」

「伊吹兄ちゃん、これうめー!!」

「ありがとう」

 

 伊吹の作った料理に舌鼓を打つ一同。芙奈子は握り締めたスプーンを持ち上げて叫ぶ。そのテンションの上がりっぷりは相当なものだ。

 

「料理の作れる殿方はポイント高しですよ、萩原様!」

「それを食べて現実の男を見て、少しは見る目が養われるといいわね」

「ぐぬぬ、しかし筋肉は料理に関係ないかと……」

 

 ふふん、と少し得意げな顔で芙奈子を見ながら嫌味を零す灰原。芙奈子はブツブツと呟きながらもスプーンを口に運ぶたびにその瞳は輝いていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「夕食までご一緒してしまい、恐悦至極でございます!」

 

 結局昼食のあとも芙奈子は帰ることなく、子供たちとゲームで遊んでいた。

 部屋が薄らと暗くなり始め、2階の窓から西陽が差し込み始めた頃、博士がみんなで夕食を食べに行くことを提案した。はじめは遠慮した芙奈子だったが、子供たちの懇願と博士の「ご馳走する」という言葉には断りきれなかった。

 日が完全に暮れる頃には一同は目的のレストランへと到着し、注文を済ませていた。最近できたビルの4階部分に位置するイタリアン料理店である。

 

「博士、こんなところ来て金は大丈夫なのか?」

「はっはっは、実はの、福引でこの店の無料食事券を当ててのぉ」

 

 コナンの質問に待ってましたと言わんばかりの笑顔を浮かべて答える博士。右手にはひらひらと食事券が見える。

 

「博士といい蘭ちゃんといい、引き運強すぎる……っ!?」

「「!!?」」

 

 伊吹が呆れたように博士を見ながら突っ込もうとしたとき、脳と内臓を揺らすような轟音と、ゴメラが尻餅でもついたかと思うほどの地響きが一同を襲った。

 床と壁にヒビが入り、どこからか地鳴りのような音がする。咄嗟に動いた伊吹は灰原を抱えて転がるようにテーブルの下へと飛び込む。しかしコナンや伊吹でも、即座に事態の全容を把握するのは難しかった。

 

「キャーー!」

「うう、うわあ!」

「なな、なんなんですかっ!!」

「君たち大丈夫か!?」

「あわわわ! なな、何があったのですか!?」

 

 博士と子供たち、芙奈子はその場で体を縮こませるしかできない。灰原に「ここにいろ」と指示を出した伊吹がテーブルから抜け出していく。コナンと並んで窓の外を確認すると、ビルの足元が赤く輝き、道路にかかる大きな影が揺らめいていた。

 

「くそっ、火事だ!」

「さっきの衝撃からして下の階で何かが爆発したな」

「爆弾か!?」

「C4……いや、爆薬の類いじゃない、恐らくガス爆発かなんかだろう」

 

 2人は外の状況を確認するとすぐさま振り返り、店内の消防設備と非常口を確認する。

 

「諸君、どうやら下で花火を打ち上げた馬鹿がいるみたいだ。火の手が回る前に急いで脱出するぞ。えー、みなさんも! 俺が誘導しますから、口にハンカチか何か当てて身を低くして付いてきてください!」

 

 伊吹はテーブルの下から灰原を引っ張り出し、探偵団と芙奈子へ状況を説明する。そして未だ何があったかわからず困惑する他の客と従業員へ指示を出す。

 非常階段にはまだ火の手は回っていないようで、避難は順調に進んだ。しかし爆発現場と思われる2階に近づくに連れて壁や床はボロボロになり足を取られそうになる。黒い煙が辺りを包み込み視界も悪い。爆発の規模が大きかったのか、天井も下から押し上げられたようにヒビが入り、スプリンクラーはひしゃげてその力を発揮できていない。折れた水道管からは申し訳程度の水が垂れている。

 

「うらぁっ!!」

 

 曲がって変形してしまい開かなくなった非常ドアを力ずくで突破する伊吹。思わず他の客や従業員から拍手が上がる。

 

「いや、どうもどうも」

「いいから、早く行って」

 

 照れくさそうに拍手に応える伊吹を睨みつける灰原。「あなたと違って一般人には余裕がないの」と伊吹の前を通り過ぎざまに吐き捨てる。

 全員が扉を潜ったとき、2回目の爆発がビルを揺らした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「うへー、たすかったぁ」

「ぼく、もうダメかと思いました」

「あゆみもぉ」

 

 服や肌が多少すすで黒く汚れてはいるが、全員無事に脱出することができたようだ。その場で座り込む子供たちに博士とコナンが寄り添う。

 外には未だ救急車や消防車は到着していない。ビルの炎は更に激しさを増し、辺り一帯を赤く染めている。

 

「……」

「大丈夫よ、どこも怪我なんてしてないわ」

 

 何も言わずに灰原の手足や体、顔を触って確認する伊吹。灰原は少し呆れ顔ながらも、どこか嬉しそうに無事を伝える。それを聞いて安心した伊吹がほっと胸を撫で下ろす。灰原の頭へと手を伸ばすと、彼女は目を閉じて珍しく黙って撫でられる。少しすると灰原がポケットからハンカチを取り出し、集団の先頭を歩いていたために人一倍黒く汚れている伊吹の顔を拭く。

 そんなふわふわとした2人の空間を少女の声がかき消した。

 

「あれ、あれれ!? フナチお姉さんがいないよ!」

「フナチー!?」

「フナチちゃん!?」

 

 歩美がキョロキョロと辺りを見回したあと、慌てたように声を上げる。伊吹やコナン、博士が立ち上がり辺りを見渡すも、服も髪も目立つはずの彼女の姿はどこにも見えない。大声で辺りに呼びかけても、あのテンションの高い早口は聞こえてこない。

 全員の考えが一致し、伊吹の「まさか」という声と共にビルを見上げる。炎は上へと登り、3階部分も完全に飲み込んでいた。

 

「すまん、哀。ここで待ってろ」

「……」

 

 そう伝えると伊吹は灰原へハンカチを返し、近くでバケツリレーをしていた列からそれを奪い頭から水を被る。停めてあったバイクからフルフェイスのメットを拝借し、それを身につけて止める間もなくビルへと飛び込んで行った。

 

「伊吹お兄さん行っちゃった……」

「大丈夫でしょうか、火もどんどん強くなってますよぉ」

「うへぇ」

「現状で彼女を救出できる可能性があるのは、彼だけじゃからのぉ」

 

 子供たちと博士の不安と期待の籠った言葉は野次馬たちの喧騒へと飲み込まれていく。

 

「……ばか」

 

 ハンカチを持った右手を胸元で握りしめ、不安に揺れる瞳で燃え盛るビルを見つめる灰原。彼女の小さな呟きは彼の耳には届かなかった。

 

 

 

 

 



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3話 人を助けるために 後編

「あわわわわっ、どうしましょう、どうしましょうっ! これはもしやフナチ、ピンチなのではっ!?」

 

 未だ芙奈子は4階のレストランにいた。伊吹に率いられて避難しようとしたとき、レストランに例のぬいぐるみを忘れてしまったことに気がついた彼女は「すぐに戻れば大丈夫だろう」と取りに戻ってしまったのだ。

 無事にグッズを回収した芙奈子だったが、非常口に戻ろうとした時に2回目の爆発が彼女を襲った。思わず目をつむり尻餅をついてしまった彼女が顔を上げると、非常口のドアは大きく曲がってしまっていた。女性の、ましてや比較的細身である彼女の華奢な腕ではビクともしない。

 

「あわわわわっ、あわわ、どうすれば、どうすれば……」

 

 オロオロとドアの前で右往左往する芙奈子。地鳴りのような音が定期的に響いてくる。それが更に彼女の不安を煽り、みるみるうちに顔色が悪くなる。

 ひび割れた床や歪んだ扉から白と黒の煙が侵入してくる。伊吹の言葉を思い出した芙奈子が慌てて身を低くしてハンカチを口に当てる。煙が沁みたのか、恐怖心が膨らんできたのか芙奈子の瞳に涙が滲んできた。

 石ころほどの瓦礫が天井から落ちてくる。それを避けるように床を這ってテーブルの下へと非難する芙奈子。両膝を抱えて丸まり、三角座りで俯くように顔を膝に埋める。体が震えて止まらない。冗談では済まない状況に置かれていることを頭が理解し、心を蝕んでいく。恐怖は止めどなく溢れ出して涙となってこぼれる。

 

「うぅ……ぅぁあ……」

 

 彼女にとっていつ以来か、本当の恐怖による涙。出来るだけ楽しいことを考えて気持ちを紛らわせようと、ぬいぐるみを抱きしめてお気に入りのゲームとそのキャラクターに思いを馳せる。しかし、少し落ち着いたところに追撃となる3度目の爆発。

 

「ひぃっ!」

 

 目の前に人一人分あろうかという大きな瓦礫が落ちてくる。激しい音と衝撃が彼女の内臓を震わし、風が前髪とスカートを揺らす。テーブルに落ちてきていたなら、ひとたまりもなかった事は容易に想像できた。

 落ち着きかけた心はまた恐怖に染められ、ぬいぐるみは形が変わるほどに抱きしめられる。

 

「助けて……誰かぁ……」

 

 お気に入りのキャラクターや、少女の頃に憧れた白馬の王子様の姿が頭の中で浮かんでは消えていった。全身の震えは止まらず、歯がガチガチと鳴る。

 炎はついに4階にも達し、芙奈子の体を赤く照らし出す。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「うおらぁッ!!」

 

 邪魔な瓦礫を力ずくで押しのけながら、4階までの最短ルートを突っ走っていく伊吹。目の前の扉を開けるために積み重なった瓦礫を片付けようとしたとき、3度目の爆発がビルを揺らす。天井からコンクリートの塊が降ってくる。普段なら回避することもできたかもしれないが、爆発の揺れと足元の瓦礫にバランスを崩した伊吹は直撃を免れなかった。

 伊吹の埋もれた瓦礫の山はピクリとも動かず、辺りは黒煙と炎に包まれていく。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 それほど長くない時間も芙奈子には永遠に思えてくる。テーブルの下で膝を抱えたまま動かない彼女は、顔を伏せて耐えることしかできない。誰かが助けに来てくれることを祈りながらも、彼女の精神は摩耗し、消耗しきっていた。既に室内にまで達している黒煙と激しい炎、自分を押しつぶすように降ってくる瓦礫。死に直面する恐怖は、ただの女の子にはあまりにも辛すぎた。涙も枯れたのか、彼女の乾いた目は焦点が合わず、ボーっとしている。

 そんな疲れきった彼女に、場違いな程に落ち着いた声がかけられた。

 

「白、か」

「……?」

 

 空耳かとも思ったが、確かに声が聞こえた気がした。彼女がゆっくりと顔を上げると、燃え盛る炎に照らされて揺らめく黒い影が目に映る。熱気と煙に揺れる姿はどこか非現実的で幻想的にも見えた。

 

「蜃……気楼……」

「残念だけど、クールでミステリアスな男じゃない。筋肉キャラの方だ」

 

 その言葉にハッと我に返る芙奈子。ヘルメットを外した伊吹の顔を見た瞬間、助けに来てくれたのだと理解し、乾いた瞳が思わず安堵の涙で潤む。

 

「で、白いのが丸見えだけど」

「……!!」

 

 伊吹が何を言っているのか分からなかった芙奈子だが、ぼんやりしていた頭が覚醒すると同時に顔が真っ赤に染まる。火に照らされた赤色とは違うようだ。

 三角座りの足を崩して女の子座りにし、ガバっとスカートを抑えて伊吹を見つめる。

 

「あのあのっ、乙女のスカートを覗くとは何事でありましょうかっ!」

「よし、意識はしっかりしてるみたいだな」

 

 芙奈子の前にしゃがみ込み顔を見つめる伊吹。安心したように、そして安心させるように優しく微笑む。その笑顔に心の不安が取り払われ、落ち着いていくのを感じる芙奈子。しかし伊吹の体を見て思わず息を飲んでしまう。

 

「は、萩原様っ! 服が、体がボロボロではありませんかっ! そんな、あぁっ、大丈夫でございますか!?」

 

 伊吹の服は瓦礫に裂かれ、端々が焦げている。濡れた服には血が滲んで黒く変色している部分もあった。

 

「大丈夫、ちょっと転んだだけ。それより火と煙の回りが早い、急いで脱出する」

「は、はひっ!」

 

 伊吹は急ぎながらも優しい手つきで芙奈子の髪に触れてリボンを解く。メットを彼女の頭にかぶせ、まだ湿っている自身の服を羽織らせると、伊吹は芙奈子の脇に手を入れてふわりと持ち上げた。

 

「立てるか?」

「は、はいっ……、あ、あれ、力が、入りません……」

 

 芙奈子の足はガクガクと震えてしまい、踏ん張ろうと力を込めるが立つことが出来ない。腰が抜けてしまっているようだ。「仕方ない」と伊吹は一度芙奈子を座らせる。

 その時、4度目の一際強烈な爆発が彼らを襲った。

 

「きゃああっ!!」

 

 激しい揺れに仰向けで倒れこむ芙奈子。その視界に焼け焦げた天井の破片が黒煙を纏いながら迫ってくる。

 思わず悲鳴を上げて両腕でメットの顔部分を塞いでしまう。頭によぎるのは今日何度目になるか分からない死の予感。だが、覚悟していた衝撃は一向にやってこない。その代わりに感じるのは、震える両腕に垂れてくる生暖かい液体の感触。ポツポツという、水の打つ音がヘルメットの中に響く。

 

「……大丈夫か?」

 

 聞くものを安堵させるような、テノールのように低く、力強くも優しい声がメット越しに芙奈子の鼓膜を揺らす。

 ゆっくりと瞳を開くと、先ほどと同じようにこちらを安心させるような優しい笑顔があった。違うのは背中から焦げたような匂いがすることと、頭から血を流していること。そしてメットの視界に広がる赤い液体。

 

「は……萩原、様……」

「大丈夫そうだな。立てないなら仕方ない、担いで行くぞ」

 

 芙奈子に怪我がないことを確認した伊吹は彼女のメットに落ちた血を拭い、彼女の膝と背中に手を回しお姫様抱っこで持ち上げる。しかし立ち上がることはせず中腰を保ち、極力煙を浴びないように非常口へと進んでいく。

 

「は、萩原様、扉が……」

「大丈夫だ」

 

 芙奈子をそっと降ろして扉の前に立つ伊吹。炎で熱されたドアノブを顔色一つ変えずに握り締める。手から肉の焼けるような音が聞こえた。

 

「萩原様! 手が! と、言いますかもう全身がぁ……」

「大丈夫だから」

 

 あわあわ、オロオロ、と痛そうな顔で伊吹を見つめる。そんな彼女に力強く返事を返す伊吹。強がりではなく、その言葉の裏には確固たる自信があるようだ。

 

「うらぁっ!」

 

 腕周りを中心に全身の筋肉が隆起する。芙奈子ではビクともしなかった扉は、激しい金属音を立てて勢いよくこじ開けられる。

 恐怖や申し訳なさ、様々な感情が芙奈子の心を満たしていたが、それを忘れてしまうほどに目の前の出来事は非現実的だった。

 扉を開けた伊吹は再び芙奈子を抱きかかえる。手のひらには更に新しい火傷の跡が増えているが、そんなこと全く気にした様子もなく、伊吹は煙と炎を避けながら非常階段を駆け下りていく。

 彼に抱えられ、下から見上げる芙奈子。火傷を負い、怪我をして、血を流し、すすと汗で泥だらけになりながらも命懸けで助けに来てくれた彼。自分が必要ないと、何のためにあるのかと言い放った彼の逞しい筋肉。人助けのためと言った彼に冗談めかしたことしか言えなかった自分が恥ずかしくなってくる。

 炎の明かりに揺れる伊吹の顔を見つめながら、「筋肉男子もありかも」とトキメキ、場違いなことを妄想してしまう芙奈子。

 

「い、いけません、そんな……。わたくしには、蜃気楼の君様という心に決めた殿方が……! あぁ、でも、そんな……」

 

 腕の中でブツブツと何かを呟く芙奈子。ヘルメットにくぐもって何を言っているのかはわからないが、いつもの調子に戻ったということは心に余裕が出てきたのかと安心する。

 2階に繋がる階段へ到達したとき、伊吹はその軽快な歩みを止めた。目の前には鉄筋やコンクリートなど多くの瓦礫が積み重なっており、伊吹の力でも突破するのは難しそうだ。更にその奥には炎が猛々しく燃え盛り、真っ黒の煙に満ちている。ここを抜けたとしても、芙奈子の体ではその先に耐えられそうにない。

 伊吹はほんの数秒ほど考え込んで、芙奈子へ尋ねる。

 

「フナチちゃん、絶叫ものとか、平気?」

「あぁでもでもっ、そのようなことを言われたらフナチはー……え、あ、はい。フナチは遊園地に行っても必ず絶叫ものを避ける程に苦手分野でございます。今まで一度も乗ったことはありませんが」

「……何事にも初めてはある」

「ふぇ?」

 

 そう言うと伊吹は来た道を逆走し、一気に階段を駆け上がり3階へ繋がる扉を力技でこじ開ける。3階フロアも炎と煙に包まれてはいたが、2階よりかは幾分マシだ。

 伊吹は窓辺へと駆け寄り下を覗き込む。しばらく視線を彷徨わせた彼の目が一点で止まる。その先には一台のワンボックスカーが停まっていた。

 抱きかかえる芙奈子と目を合わせてニヤリと笑う。一連の行動を見ていた芙奈子の脳裏に嫌な予感がよぎった。

 

「あの、まさか、萩原様……ま、まさかとは思われますが……」

 

 顔を青くしながら伊吹へと尋ねる。そんな芙奈子を安心させるように、伊吹は渾身の優しいほほ笑みを投げかける。歯がキラリと光ったような気がした。

 

「い、いやです、無理です! そんな笑顔で見られても多少心がときめいたとしても! それとこれとは別の話でありましてっ、フナチにそれは無理です! 怖いです!」

「焼け死ぬよりましだろ。大丈夫、助けるから」

 

 ワンボックスカーまでの距離は微妙に遠く、伊吹は窓から離れて助走距離をとる。芙奈子を抱っこする形に抱きしめなおす。

 

「あ、あのあのっ、こ、こんなことをされましてもフナチはですねっ」

「舌噛むから口を閉じてな」

「へ?」

「行くぞっ」

 

 芙奈子を抱えたまま窓へ駆け出す伊吹。物のように抱きかかえられた芙奈子は宙ぶらりんの状態だ。窓は何度目かの爆発で既に飛び散り風通しが良くなっている。

 疾風の如く伊吹の速度が増していく。芙奈子の視界には伊吹の厚い胸筋しか写っておらず、何が起こっているのか正確には分からない。しかし持ち上げられた体に感じる重力から、紐なしバンジーが始まったことを理解した。

 伊吹は窓のヘリに足をかけ、走る勢いそのままに全力で飛び出す。

 二人の体が重力から解き放たれた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「キャーーーーーーーーー!!!!」

 

 なかなか戻らない伊吹と、更に起こる爆発。灰原は拳とハンカチを握り締めて不安げに燃え盛るビルを見上げる。炎は既に5階へと達している。子供達や博士、コナンも伊吹の帰還を信じて待つしかない。ついに歩美が泣き出してしまったその瞬間、一同の上からくぐもった甲高い女性の悲鳴が降り注いだ。

 それが何かを理解するよりも早く、それは停まっていた白いワンボックスカーの上に叩きつけられるように落下してきた。車のフロントは飛び散り、屋根はぐしゃりと潰れている。野次馬をかき分けて探偵団一行がたどり着くと、そこでは待ち望んだ男がうめき声を上げていた。

 

「うぅ、ぁ……さすがに痛いな……」

「……」

 

 芙奈子を抱きかかえたまま上半身を起こす伊吹。彼女の方は目を回して気絶しているが無事なようだ。伊吹が芙奈子を抱きしめたまま自身の背中を下敷きにして着地したため、怪我もない様子。

 

「ちょっと、大丈夫っ!?」

 

 珍しく慌てた様子を隠す余裕もなく灰原が車に駆け寄る。真っ先に駆けつけた彼女に続くように探偵団たちも集まる。伊吹は気絶した芙奈子を抱えて車を下りる。

 

「あー……痛い。けど動ける程度には、大丈夫」

 

 ぐったりする芙奈子を小脇に抱えてゆっくり動く。一先ず無事そうな彼を見てほっと胸を撫で下ろす灰原。しかしそれも束の間、よくよく彼の体を見ると全身に火傷や出血が見て取れる。いつもより鋭い目つきで彼を睨みながら珍しく声を荒げる。

 

「怪我してるじゃないっ、なにやってるのよっ!」

「あ、いや、でもこっちは無傷だよ」

「そっちはどうでもいいのよ!」

「えー……」

 

 抱えた芙奈子を得意げに見せる伊吹に益々怒りがこみ上げる灰原。探偵団や阿笠博士も気圧されているようだ。

 

「あなたがっ……! あなたが……、その子を助けに行って命を落としたら、私はその子を許さないわ。あなたが誰かのために命を落としたら、私は絶対にその誰かを許さない」

「……」

「……」

 

 いつもより鋭く睨みつけてくる灰原を見て、本気で怒っていると察した伊吹は申し訳なさそうに笑みを浮かべて、彼女の頭に手を置く。

 

「わかった……ごめん。哀がそこまで言うなら、命をかけるのは哀のためだけにするよ」

「ちがっ、私は別に……っ」

 

 そんなやり取りをしていると、救急隊員が駆け寄ってきた。それに気づいた伊吹が芙奈子を差し出す。

 

「お、救急車。ちょうど良かった、この子を頼むよ」

「あなたが先よっ!」

「え、あぁ、そうか」

 

 大きなため息を吐いて伊吹を救急車に押し込む灰原。しかし伊吹は寝台に芙奈子を寝かせ、自分は同伴者用の椅子に腰掛ける。怒りと呆れの混じった目で伊吹を見つめながら、自分も椅子に座る灰原。

 

「私も行くわ」

「そう。じゃあみんな、またね」

 

 救急車後部の窓から火傷がくっきりと見える手を振る伊吹。救急車は米花中央病院まで去っていく。彼の飄々とした態度と、強靭な肉体に、残されたメンバーは唖然とするしかなかった。

 

「じゃあわしらはタクシーを呼んで病院まで行くかの」

「「はーい」」

 

 ビルの炎は夜風に吹かれて更に激しさを増していった。もうしばらく鎮火しそうにない。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あの時はもうダメかと思いましたー」

「あれくらいの高さなら平気だよ、筋肉キャラだからね」

「…………」

 

 コナンたちが病院に着くと、既に伊吹と芙奈子の治療は終わっており、病室のベッドに座り談笑していた。2つ並んだベッドに伊吹と芙奈子がそれぞれ向い合わせに座り、灰原は伊吹の隣に座っている。

 しかし笑いながら話しているのは伊吹と芙奈子のみで、灰原の機嫌はすこぶる悪いご様子。芙奈子が頬を赤く染めるたびに灰原の頭に怒りのマークが浮かんでいく。

 

「あ、博士にみんな、わざわざ来てくれたんだ」

「うむ、どうやら2人とも大丈夫そうじゃのぉ」

「皆々様っ! 大変ご心配とご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんっ!」

 

 深々と頭を下げる芙奈子に無事でよかったと子供たちが駆け寄る。そんな彼女の様子を見ながら、灰原が先程までの苛立ちをぶつけるように口を開く。

 

「それにしても、あなたが無駄と言ってた筋肉に命を救われたわね」

「はいぃ、それに関してはお詫びのしようもございません……。それに、本当に命を助けていただいて、感謝の意を表しきれない次第であります……」

 

 ショボンと落ち込み俯く芙奈子が、申し訳なさそうに上目で伊吹の方を見つめる。

 

「いいよ、気にしてないさ。役に立てたならよかったよ」

 

 伊吹が芙奈子の頭を軽く叩くと、いつもの明るい笑顔が彼女に戻る。2人に漂うそこはかとない甘酸っぱい雰囲気にさらに怒りマークが増える灰原。腕組をして指先を苛立たしそうにトントンと動かす。組んだ脚先も落ち着かないように動き続ける。

 

「それにしても本当にすごい筋肉ですねー。……あの、触ったりしてもよろしかったりなんかしたりしますでしょうかっ!?」

「あ、うん。別にいいよ」

 

 あっさりと了承を得て伊吹の胸筋や腹筋、腕の筋肉などを指先でつつく芙奈子。「ふわぁ」と息を漏らしながら遠慮しがちに触っていたが、徐々に手のひら全体で触れ、最後は鼻息を荒げながら両手で撫で回す。

 灰原の目つきは悪鬼の如く釣り上がり、背後には先ほどの火事にも負けないような激しい炎が見え、髪の毛が揺らめいているような気さえする。探偵団一同はその幻視に思わず怯えてしまう。

 

「そ、それで、2人は今日はどうするんじゃ?」

 

 見かねた博士が咄嗟に話題を振る。触ることに夢中になっていた芙奈子はハッとして自分のベッドに座りなおす。思わず垂れていたよだれをじゅるりと拭った。

 

「今日は俺もフナチちゃんも入院だよ。明日には帰るけど」

「おいおい、大丈夫なのか、一日だけの入院で」

「医者と同じこと言うな、コナン。大丈夫だよ、平気平気」

「博士、私も今日は付き添いでここにいるわ」

 

 目を閉じた灰原はさも当然と言わんばかりに告げる。

 

「え、哀も泊まるの?」

「あら、私がいるとなにか不都合でもあるのかしら」

「いや、ないけど。ただ、他のベッドは勝手に使っちゃダメだろうし、寝るところないよ?」

「一緒に寝ればいいじゃない」

「!?」

 

 あっけらかんと、まるで「いつもそうしてるでしょ」といった含みを持たせた言い方だ。思わず反応してしまう芙奈子。そんな彼女の様子をチラリと伺う灰原。勝ち誇った笑みを浮かべる灰原と、どこか悔しそうな羨ましそうな芙奈子の視線がぶつかり合い火花が飛び散る。

 もはや関わるまいと博士とコナンは子供たちを連れて帰り支度をする。

 

「じゃ、じゃあもう遅いし、わしらは帰ろうかの。2人ともお大事に、哀君よろしく頼むぞ」

「じゃあ、せいぜい気をつけるんだな」

 

 苦笑いを浮かべる博士に意味深な言葉を残すコナン。子供たちは手を振りながら病室をあとにした。残った病室には静かな沈黙が残される。

 

「哀も別に帰って大丈夫だよ」

「いえ、帰らないわ。あなたの身が危なそうだし」

「怪我なら問題ないけど」

「別の意味でよ。ね、お姉さん」

「! ふ、フナチはそんなふしだらな女ではありませんっ!」

 

 敵意を隠そうともしない挑戦的な視線を投げつける灰原。彼女の言葉の意味を理解したのか、芙奈子が顔を真っ赤にして反論する。彼女らの言葉の水面下での牽制は消灯時間まで続けられた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 暗くなった病室のベッドには3つの影が横になっている。2つの大きな影が寝息を立てた頃、小さな影の瞳が静かに開かれる。音もなく体を起こし、隣で眠る男の顔を覗き込む。

 

「……ぁぁ、ぅ……ん」

 

 寝言を漏らし、目を覚ます様子はない。そんな彼の顔を見ながら優しく微笑む少女。男の髪をそっと撫でて頬に指を滑らせる。そして彼の顔へゆっくりと自分の唇を近づけていく。

 窓から差し込む月明かりに伸びる2つの影が、ゆっくり静かに重なった。暗い病室に浮かぶ少女の顔が青い月光に照らされる。彼女の顔は満足そうに微笑んでいた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「皆様! 萩原様! 大変お世話になりましたっ! フナチは、フナチは旅立ちますっ!」

 

 翌日、米花駅に退院した芙奈子を見送るため、伊吹と灰原をはじめ、博士や探偵団が集まっていた。

 

「お大事にのぉ」

「バイバイ、フナチお姉さん! また遊ぼーね!」

「またタイタンハンター教えてくれよなー」

 

 しゃがみこんで子供達と抱き合い、大げさに別れを惜しむ芙奈子。チラリと伊吹の方を見上げる。

 

「じゃあまたね、フナチちゃん」

「は、はひっ、あ、あの……フナチはいろいろ失礼なことを言ってしまいました! そして命を助けてもらいました! これ以上わがままを言うのは気が引けてしまいますが、しかしここで勇気を振るわねばフナチの後悔は大時化の荒波のごとく押し寄せると思われますので言わせていただきたく存じますっ!」

「は、はい、どうぞ」

 

 早口にまくし立てながら立ち上がり、両手を胸の前で強く握り締めて伊吹へと迫る彼女。思わず片足を引いてたじろぐ伊吹。

 

「れ、連絡先を、教えていただきたく……」

 

 先程までの勢いはどこへやら、尻すぼみに声のボリュームは落ちていく。それに合わせるように顔は俯いていき、顔は耳まで赤くなる。

 

「い、いいけど」

「っ! あ、ありがとうございますぅっ!」

「……」

 

 鋭い灰原の視線を浴びながら伊吹の連絡先を手に入れた芙奈子は、ほくほくした顔で携帯を握り締める。灰原と目が合うと昨夜の続きのように火花が散る。

 そして芙奈子は名残惜しそうに何度も振り返り、元気いっぱいに手を振りながら駅の人ごみへと消えていった。

 彼女が去っていったことを確認して、腕を組んで目を閉じた灰原が溜まっていたストレスを吐き出すように一際大きなため息を着いた。

 

「ため息を吐くと幸せを逃すよ、哀」

「そうね、最近悩みの種が増えていくわ」

「へー、どしたの」

「……」

 

 呆れ顔で伊吹を見上げる。全く原因に心当たりがない彼に対して、「あなたのせいよ」という言葉を飲み込んだ。

 

「にしても、フナチちゃん面白い子だったね」

「……そうね、愉快な子だったわ。本当に」

「なー。元気いっぱいで可愛かったよ」

 

 その言葉を聞いた灰原はそっと伊吹の背後へと回り込み、振りかぶった手を背中に打ち付ける。

 

「痛いっ!」

 

 思わず背筋を伸ばす伊吹の足を踏み抜きさらに追い討ちをかける。体を弓ぞりにして悶絶する彼を無視してさっさと帰っていく。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ、哀。あいたた、どしたのさ……おーい」

「……ばか」

 

 呼びかけても歩を緩めることなく去っていく灰原。その背中を困惑しながら追いかけていく伊吹。突き抜けるような高い青空の下で、気まぐれな猫とそれを追いかける子供のように、お互いがその距離を楽しんでいるかのような2人。

 吹き抜ける爽やかな風にかき消されて、彼女の小さな呟きが彼に届くことはなかった。

 



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4話 『ばか』 前編

 

「3丁目のお化け屋敷ぃ?」

 

 本日全ての授業が終了した帝丹小学校1年B組の教室に、帰り支度をするコナンの訝しげな、呆れたような声が聞こえる。

 

「そうです、あの薄暗い雑木林の前に佇んでいる洋館ですよ。もう何年も前から人が住んでいないらしいんですが、裏口に小さな抜け穴を見つけまして」

「おー! 面白そうじゃん! 行こうぜ行こうぜ!」

「えー、なんだか怖いなぁ」

 

 少年探偵団一行がコナンの机を囲み、光彦が「本日の探偵団の活動」について話しを切り出す。乗り気な元太に対して怖がる歩美。コナンの隣では灰原が興味なさそうに耳を傾けている。

 

「やめとけ、やめとけ、そんなとこ行くの。誰の敷地かもわかんねえし、危ないだろ」

 

 コナンが片手をパタパタと扇ぐように振りながら子供たちに計画の中止を勧める。しかしコナンのその態度は益々子供たちのやる気に火をつける。

 

「ばっかやろ、コナン。あぶねえからオレらが確認しに行くんだろ!」

「そうですよコナン君。なにやら最近あの屋敷には妙な噂もありますから、近隣の方々に安心していただくためにもボク達で調査するんですよ!」

 

 元太が右の拳を握りしめて唾を飛ばしながらコナンへ熱く語りかける。光彦も両手をコナンの机につき、説得するように話しかける。歩美は2人の言葉に「うーん」と悩んでいるようだ。

 こいつ等は止めても行くな、と察したコナンは子供たちだけでは危険と考えたのか「しゃーねーな」と共に行くことを渋々承諾した。

 

「灰原さんも一緒に行きましょう!」

「そうね……」

「灰原も少年探偵団の一員なんだから来いよなっ」

「だってよ」

「まあ、特に用事もないし、構わないけど」

「哀ちゃんが行くならあゆみも行く!」

 

 終始興味なさそうな雰囲気で眠たげな目をした灰原だったが、子供たちに付き合うのも悪くないと言うように肩を竦めて小さく微笑み、共に屋敷探索へ行くことにした。保護者としての責任感のようなものも、彼女の中にあるのかもしれない。

 

「「ようしっ、少年探偵団、レッツゴー!!」」

 

 子供たちの無邪気な掛け声が、まだ高い陽の光が差し込む教室に響き渡った。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ここか?」

「おうっ」

「ですっ」

「やっぱり、あゆみちょっと怖いかもぉ」

 

 コナン率いる少年探偵団が下校途中に噂の廃墟へと立ち寄ったのは、まだ日も傾き始めて間もない夕前の時刻。まだ明るい時間にもかかわらず、洋館の後ろに佇む雑木林は暗い影を落としている。木々が風になびく音が洋館の悲鳴のようにも聞こえる。その様相に怯える歩美が灰原の裾を握り締めた。

 

「で、最近この屋敷にある妙な噂ってなんだよ?」

 

 コナンが話のタネに光彦へと尋ねる。

 

「はい、実は誰も住んでいないはずのこの屋敷に、最近複数の人間が出入りしているとか何とか」

「なにそれ、こわーい……」

 

 光彦の案内で一同が雑木林へと足を踏み入れ、建物の敷地の裏へと回り込むように歩きながら“妙な噂”について話す。敷地は高い塀に囲まれていて中の様子を窺い知ることはできない。

 

「ここです、ここ」

 

 光彦の指差した先には、確かに子供1人が通れそうな小さな穴が塀に空いている。穴の奥は洋館の裏庭へと繋がっているようだ。

 いざとなって少し腰が引けたのか、元太と光彦に押されるようにコナンが先陣を切って中へ潜入を試みる。光彦、歩美、灰原と続き、元太が穴につっかかりながら強引に通り抜ける。

 子供の視点で見上げる洋館は、入口の門から見るよりも遥かに高く不気味さが際立っている。足元は雑草が生い茂り、アスファルトの所々が砕けている。一同は屋敷の内部へ侵入できる場所はないかと、裏庭から正面へと回り込みながら調べまわる。

 

「くっそ、ここもダメかよ」

「ダメです、こっちも開きませんねー」

 

 元太と光彦が屋敷の窓やドアの鍵が開いていないかと小まめに探っている。さすがに窓ガラスを叩き割ってまで入ろうとは思わないようだ。

 コナンは興味深そうに周りの様子や洋館のなりを眺めている。ここまで来ても特に興味のなさそうな灰原は欠伸をしながら男子陣の後を付いて歩き、歩美はまだ灰原の裾を掴んだまま不安そうにキョロキョロしている。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あ、噴水だー!」

「走ると危ないわよ」

 

 一行が屋敷の周りを塀沿いにぐるりと周る。もうすぐ一周し入ってきた穴のある場所まで戻って来るかというところで歩美が声を上げる。侵入してきた時には気づかなかった小さな枯れた噴水を見つけたらしく、駆け寄っていく。灰原が歩美に注意しながら心配そうに後を追いかける。

 噴水の奥には屋敷の裏の雑木林へと繋がる、錆びて赤茶色に変色した裏門が存在した。

 

「あれ……?」

「どうしたの?」

 

 枯れた噴水に入りはしゃいでいた歩美が、ふと視線を上げて門の方を見たときに、キョトンとした声を上げる。釣られて灰原も様子を窺う。

 

「あの林の方に誰かがいた気がしたんだけど……」

「あ、ちょっと」

 

 歩美の指差す先には薄暗い雑木林が続いている。元は細い林道があったようにも見えるが、草木が生い茂り獣道程度にしか分からない。眉間に小さなしわを寄せて、その林のさらに奥を見つめる歩美。確認しようとゆっくりと門へ近づいていく彼女を止めるように一緒に付いて行く灰原。

 ギギギという錆びた金属の軋む音と共にゆっくりと門が開かれる。続く獣道のような林道は雑草や落ち葉が踏みしめられ、つい最近誰かが通ったような跡がある。その痕跡に灰原も気づいたようで、先程までの眠たげな顔が険しくなる。

 ゆっくりと林道の奥へ進もうとする歩美。そんな彼女を庇うように灰原は歩美の前に立ち、歩美よりも先に歩を進める。彼女らの軽い体重にも、足元の乾いた枯れ木は音を立てる。

 洋館からいくらか進んだ先で、動く人影が彼女らの視界に入る。木々の葉に陽の光は遮られ、黒い影だけがうごめいている。

 

「あの、誰かいるの……っ!」

「……っ!」

 

 歩美がその人影に声をかけながら覗き込む。しかし歩美は言葉の最後を詰まらせ、目を見開いて恐怖と驚愕の色を顔に浮かべる。灰原も思わず息を飲んで驚きを隠せない。

 暗い林の中で彼女らと目が合ったのは眉間に黒々とした風穴を開けられた遺体の、光の宿さない虚空の瞳だった。しかしそれよりも問題なのは、その遺体が2人の男に担がれていることだ。

 驚きを隠せない2人の少女の方を、男たちもまた驚いた様子で見ている。

 

「キャーーーーーー!!!!」

 

 少女の悲鳴が静かな林にこだまする。大きな木々に阻まれて遠くまでは届かないその声だが、周りの人間がアクションを起こす合図には十分だった。咄嗟に灰原が歩美の手を握り、体を翻して来た道を戻るように駆け出す。男たちは死体を手放して落とすように投げ出し、2人を追いかける。

 草木をかき分ける荒々しい音が少女2人の後ろから迫ってくる。子供の足では逃げ切れそうにない。そして男の手が歩美に届きそうになったとき、洋館の方から飛来した鋭いボールの一閃が男の顎を捉えた。思わず倒れこむ男をもう1人が支えて足止めを食らう。

 

「2人とも大丈夫か!?」

 

 ボールを蹴ったコナンが元太、光彦と一緒に肩で息をする灰原と歩美を迎える。歩美の悲鳴は生い茂る木々に邪魔をされながらも洋館にいるコナンたちには聞こえたようだ。

 

「お前らは先に行け! 早く!」

「お、おう!」

 

 コナンは立ち上がる男たちの足止めをするためその場にとどまり、子供たちを侵入してきた穴へと向かわせる。男たちの方へ向き直り、身をかがめて再びキック力増強シューズに指をかける。ボール射出ベルトのボタンを押そうとした時、コナンの背中に低い男の声がかけられた。

 

「動くな、坊主」

 

 慌てて後ろを振り返ったコナンが目にしたのは、さらに別の男3人。1人が元太を押さえ込み、1人は光彦と灰原の腕を後ろ手に抑える。最後の1人の手には拳銃が握られ、その銃口は歩美の頭に押し当てられている。黒々とした拳銃が木の葉の隙間から差し込む陽光に鈍い光沢を反射させる。

 元太は抵抗したのか顔に殴られた痣が出来ており、光彦はすっかりと怯えてしまっている。苦虫を噛み潰したように忌々しそうな顔をする灰原。歩美は少し小突かれただけでも零れそうなほど、両目一杯に涙を溜めている。

 

「こ、コナン、わりぃ……」

「コナンくん……」

 

 コナンはゆっくりと立ち上がり、抵抗する意志が無いことを示すように両手を上げる。誰1人として声を上げることなく、男たちが探偵団を連れて屋敷の中へと消えていった。

 薄暗い雑木林の前に建つ不気味な洋館。誰もが気味悪がり近づこうとはしない。そこで行われる凶行に誰一人として気づくものはいなかった。鬱蒼とした木々の葉鳴りの音だけが変わりなく響いていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 眩しい西日に空が鮮やかなオレンジに染まる頃、伊吹が阿笠邸へと帰宅した。鞄をソファへと投げ出し、ネクタイを緩めながら室内に声をかける。しかし彼を迎える返事は返ってこなかった。

 伊吹がお茶でも飲もうかとリビングへ足を踏み込んだとき、ふとダイニングのテーブルの上に置かれた博士の書置きを見つける。

 

「んー? 『発明品が故障したという連絡が来たので、少し修理に行ってくる。夜には帰るので、悪いが哀君、夕食の準備をよろしく頼むぞ。伊吹くんも夕方には帰るじゃろうし』ねぇ」

 

 さらっと手紙を一読した伊吹が辺りを見回す。明かりを点けていない室内は窓から差し込む西日だけに照らされている。どこにも人の気配はなく、灰原のランドセルも見当たらない。玄関にも灰原の靴はなかった。

 

「哀に宛てた手紙だよなぁ……けど、いないみたいだし。寄り道でもしてんのかね。普通の小学生の生活をしてるようで、結構、結構」

 

 独り言を呟きながら自室で制服を着替える。キッチンへと戻ってきて腕まくりをし、黒猫のイラストが描かれたエプロンを着ける。灰原や博士がいつ帰って来てもいいよう先に夕食の準備に取り掛かろうとする伊吹。冷蔵庫を開けて残りの食材を確認する。

 

「カレーかなぁ。けどこの前もだったし、シチューかな」

 

 玉ねぎを片手にメニューを思案する。おもむろに、テーブルに放置していた携帯を手に取り灰原へと電話をかける伊吹。「ホワイトかなぁ」と呟く彼は、灰原にシチューの種類は何がいいか尋ねようとしているようだ。

 

「……あれ?」

 

 何度かコールするも、冷めた彼女の声は聞こえてこない。思わず画面をチラリと覗き、電話をかけた相手を確認する。そこには間違いなく「哀」と表示されているものの、彼女が電話に出る気配はない。一度呼び出しを切り、再びかける。それでも電話から愛しい声は聞こえなかった。

 

「……」

 

 伊吹は心がざわつくのを感じた。頭によぎる嫌な予感、心の草原を撫でる不安の風。右手に持った玉ねぎをその場に置き、窓辺へと近寄る。見上げる空のオレンジは次第に濃紺に塗りつぶされていく。自身を落ち着かせるようにソファへと腰を掛けてニュース番組をつけた。

 携帯を片手に視線をテレビに向けながらじっと考える伊吹。思い返せば彼女が電話に出ないことは珍しかった。何かしら電話に出られない状況があっても、着信を確認すればすぐに折り返してくるのだ。その折り返しに期待して少し様子を見ることにする伊吹。

 しかし、30分ほど待っても彼女からの電話はない。両手を組んで口元に添え、前かがみになるように肘は両膝についている。テレビを見ながらも、その視線はチラチラとテーブルの上に置かれた携帯に向けられている。

 ゆっくりと暗い影に染められる部屋に煌々と光るテレビ画面。もう待っていられない、と伊吹は携帯を手に取り、三度(みたび)彼女へ発信する。それでも彼女が電話に出ることはなかったが、伊吹は諦めず「電話に出るまでかけ続ける」と言わんばかりに何度も何度も電話をかけた。

 何度目かの発信。数回のコールのあと、ようやく電話が繋がった。伊吹が声をかけようとしたとき、受話器の向こうから聞き覚えのない男の怒鳴り声が聞こえてきた。

 

『だから誰なんだッ!!』

 

 その声に伊吹の眼が鋭く鈍く研ぎ澄まされた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「死体の方は処理したか?」

 

 薄暗い廃墟と化した洋館内の一室。電気は止まっており、所々ひび割れた窓ガラスから差し込む西陽だけが館内をオレンジに照らす。中には3人の男と子供たちがいるが、誰一人として声を上げない重苦しい沈黙が場を満たしていた。探偵団が壁際に並んで座らされており、1人の男が子供たちを見張るように近くの椅子に腰掛け、手には拳銃が握られている。

 子供たちは両手を後ろ手にガムテープで縛られ、両足首もぐるぐる巻きにされている。口こそ塞がれていないものの、大声を出したところで誰にも届かないことはわかっていた。

 2人の男がホコリの溜まった薄汚れたソファに腰掛けており、室内の沈黙に歩美の涙をしゃくる音だけが聞こえる。すると、唐突に電子音が室内に響き渡る。灰原のランドセルに入った携帯電話が鳴っているようだ。だが彼女がその電話に出られるはずもなく、男たちも音のするランドセルの方を一瞥しただけでそれ以上反応はしない。コール音が切れると間髪いれずにもう一度鳴る。しかし、その電話に出るものはやはり1人もいなかった。

 しばらくすると外に出ていた2人の男が汗と泥に汚れた姿で屋敷内に戻ってきた。そしてリーダーと思しきソファに座った男の内の1人が声をかける。

 

「あぁ、大丈夫だ。かなり深く埋めた上にコンクリもたっぷり使った」

「野犬に掘り返されることもねえだろうよ」

 

 先ほど歩美と灰原が見かけた死体の話しだろう。戻ってきた2人の男が足元に置かれたクーラーボックスから缶ビールを取り出し煽る。

 コナンたちが屋敷の敷地内に侵入した時にはまだ明るかった空も、男たちが死体を埋めている間に日が傾き始めたようだ。かれこれ数時間、子供たちは監禁されている。

 

「しかし、このガキ共をどうするか」

「顔も見られてるんだ、殺すしかねえだろ」

 

 ソファに座った2人の男たちの会話に、「ひっ」と息を呑む子供たち。コナンと灰原の顔にも焦りが見える。

 

「そもそも何でこんな子供がいるんだよ。お前が借金の形に頂いた土地だから大丈夫って言うからここにしたんだろう」

「知るか。近所の悪ガキの行動までわかるかよ」

 

 子供たちの傍の椅子に座る男が握った拳銃をヒラヒラと動かしながら、ビールに舌鼓を打つ片方の男へ困ったように声をかける。

 話しかけられた男は2本目のビールのプルタブを開けながら苛立たしそうに答えた。

 

「おい、お前らどっから入って来やがった?」

 

 拳銃を持った男が探偵団の方を向き直り、一番近くにいた光彦に銃口を突きつけながら尋ねる。しかし恐怖に体が竦んだ光彦は答えることができない。咄嗟に口を開いたのはコナンだ。

 

「裏庭の塀に子供が抜けられるくらいの穴があるんだよ」

「やっぱりあそこじゃねえか! お前が猫くらいしか入って来ねえって言うから!」

「だったらお前が塞ぎゃよかったじゃねえか!」

「やめろ、喚くな。こうなった以上、今更理由なんぞどうでもいい」

 

 コナンの言葉に男たちが声を荒げて言い合う。リーダーと思しき男が静かな声で男たちを制する。それだけで舌打ちをして黙り込む男たちを見るに、この男がリーダーと見て間違いない、と確信するコナン。

 5人の男が顔を付き合わせて今後の動きを話し合う。子供たちの顔には恐怖と疲れが見て取れた。コナンは男たちを睨み、聞こえてくる会話から何とか情報を得ようとするが、肝心な現状を抜け出す打開策が見当たらず焦っていた。そんな中、最も落ち着いていたのは灰原だった。少なからず疲労の色や、緊張が見られるものの、その表情はいつものように澄まされたものだった。彼女の心を落ち着けているのは、つい先程からまた鳴り出した彼女の携帯のコール音である。

 コナンが隣の灰原の落ち着いた様子になにかを察し、小声で話しかける。

 

「……おい、まさか、この電話……?」

「ええ、彼ね」

「なんでわかるんだよ……?」

「……」

「……おい」

 

 コナンの質問に不意に口をつぐむ。そんな彼女の様子を窺うように見つめるコナン。

 

「なんでこの電話が萩原だってわかるんだ……?」

「……こんなにしつこいのは彼だけよ」

「……それだけで?」

 

 自分の顔を覗き込むコナンと目を合わせないように前を向く灰原。何やら言いづらそうに口を動かす。普段と変わらない薄い表情からはハッキリと察せないが、どこか恥ずかしそうにも見えた。

 

「……この着信音は、彼からよ」

「……あー……」

「なに、悪い?」

「いや、別に……」

 

 彼女の言葉に察し、思わずニヤつきそうになるコナン。そんな彼を忌々しそうに睨む灰原が冷静な声で問いかける。コナンは苦笑いをし、それ以上の追求をやめた。どうやら彼女は伊吹からの着信音のみ別のものに変更しているらしい。

 

「あぁ、さっきから鬱陶しいなこの電話ッ!」

 

 1人の男が子供たちの方を、正確には子供たちの横に置かれたランドセルの山に振り返る。そしてランドセルを漁り、音源である灰原の携帯電話を引っ張り出す。

 

「この電話無視していいのかよ!?」

 

 携帯を掴んだ男が残りのメンバーへ向き直り、電話を見せながら尋ねた。

 

「放っとけ、どうせガキどもの保護者からだろ」

「だったら出ねえと、親がサツに連絡して騒ぎになるんじゃねえのか!?」

「日が暮れてきてはいるがまだそんな遅い時間じゃねえ、そうそう騒ぎになるかよ。第一、電話に出てどうすんだ。知らねえ酒やけしたオッサンの声が聞こえてきたらそれこそ騒ぎになるだろ。子供たちに出させても、喚かれたら面倒だ。今は無視するのが最善だ」

 

 リーダーの男の落ち着いた状況説明に、携帯を持った男は舌打ちをするも、それ以上反論はしなかった。そして男がふと手元の携帯の画面を見たとき、「なんだこりゃ?」と不思議そうな声を上げた。

 男は思わず探偵団の方に画面を見せながら尋ねる。

 

「おい、こりゃなんだ? 誰からの電話だ? 親じゃねえな」

 

 そこに表示されている発信者の登録名を見て、灰原は静かに、そして安心したように頬を緩める。コナンは最初、その登録名が誰なのか分からなかったが、灰原の反応と先ほどの会話から発信者は伊吹であろうと見当をつけ、ニヤリと笑う。

 子供たちも頭に「?」を浮かべて考えていたが、こちらも灰原の表情から電話の向こうの相手を察したようだ。

 

「あ、哀ちゃん。これってもしかして……?」

「ええ、彼よ」

 

 尋ねてくる歩美の瞳を力強く見つめ返して、答える灰原。その言葉に疲労と恐怖で沈んでいた子供たちの顔に光が差し込む。思わず笑みがこぼれる。

 

「だから、誰からなんだ?」

 

 イラつくように催促する男。コナンがその男を見ながら、そして後ろでこちらの様子を窺っている他のメンバーを見ながら不敵に笑った。眼鏡のレンズが沈みかけた夕日の光を反射する。

 

「くくく、はっはっは」

「あぁ? なにがおかしいんだ、坊主?」

 

 携帯を持った男がコナンと向き合うようにしゃがみこむ。男は腰のベルトにかけていた拳銃を引き抜き、声を出して笑うコナンの額に銃口を突きつける。しかしコナンはそれに怯えた様子も見せず、男の顔を見返す。

 

「おめーらの一番の失敗を教えてやろうか?」

「あ?」

 

 不敵な笑みを浮かべたままのコナンが目の前の男と、その後ろに控える連中に聞こえる程の声で話し出す。

 

「おめーらは、絶対にやっちゃならねえ事をしちまったんだよ」

「……面白い小僧だな、その状態でそんな口が聞けるとは。どうせ日が暮れるまでここに居るつもりだったんだ、その“俺たちの失敗”とやらを聞かせてくれよ」

 

 リーダー格の男が汚れたソファに座り、コナンへと聞き返す。暇つぶしと言わんばかりに、ニヤつきながらコナンの顔を見る。周りの男たちも声を上げる様子はない。

 そんな男達に気圧されることもなく、コナンは淡々と語りだす。

 

「おめえらはさっさと逃げるべきだったんだ。俺たちを縛ったまま放置して、さっさと逃げてりゃ、もうしばらくは捕まることもなかったかもな。それがどうだ、俺たちを監禁して、今もこうして一緒にいる。これはまずい」

「ほう。どうしてお前らガキどもを監禁してるとまずいんだ?」

 

 コナンはチラリと隣の灰原の方を見ながら言葉を続ける。

 

「この茶髪の女の子いるだろ、こいつが厄介だ。こいつに手を出したのが、一番の失敗だった」

 

 男たちの視線が灰原へと向けられる。怖がる様子もなく、いつものように澄まし顔の彼女。どこからか、「助かる」という確信が溢れているようにも見える。周りの男たちが話半分で聞く中、リーダーの男だけが胸中に不穏な影を感じた。

 

「その嬢ちゃんに手を出したら何なんだよ?」

 

 携帯を持ったままの男が半笑いで聞き返す。

 

「こいつに手を出すと、おっかねえのが来るんだよ。どんだけ離れていても、隔離されていても、地球の裏側からだって来る。未来から来た殺人ロボットみたいなやつがな」

 

 そのコナンの言葉に思わず笑い出す男たち。子供の戯言、ヒーローの登場を夢見る少年の妄言。そう感じた男たちは、コナンの“忠告”に耳を傾けない。そんな中で1人笑みを零さないリーダーの男が冷たい声で聞き返す。

 

「そうか。そいつは怖いな。だったら、さっさとお前らを殺してずらかるとするか」

 

 暗い目をしたまま、ボロボロの机に突き刺していたナイフを引き抜いて立ち上がる。再び怯えた顔をする子供たちに対し、コナンの笑みは消えない。

 

「いや、殺しちゃダメだ。俺たち、ましてやこの子を殺そうものなら、お前らは地獄の底まで……いや、地獄にいきたいと思える程に酷い目に遭うよ。だから、お前らは俺たちを放置して逃げるべきだったんだ。それが最善手だった」

 

 脅しても、確信に似た余裕の色がコナンの顔から消えることはない。その自信に満ちた声と表情に、隣の全く怯えた様子を見せない茶髪の少女に、先ほど見せた子供たちの明るい笑顔に、男たちの心中は落ち着かなくなっていく。

 リーダーとコナンの目が合い、お互いが相手を見透かすように視線を交差させる。いつしか笑い声は消え、緊張の糸が室内に張り巡らされていた。

 そんな中、その空気を乱すように、何度目になるか分からない携帯のコール音が鳴り響いた。全員の視線が携帯を持った男に降り注ぎ、男はゆっくりと携帯の画面を確認する。そこには先ほどと同じ、何度もかかってくる発信者の名前が。

 

「その電話だよ。その電話がかかってくる前に、そいつから電話が来る前に逃げるべきだった」

 

 コナンの瞳には哀れみさえも見え、声色には同情さえも含まれていた。そんなコナンの態度に携帯を持った男が声を荒げる。

 

「だからッ、この電話はッ、誰からなんだッ!?」

「だから、その電話が、さっきから話してるおっかねえヤツからだよ」

「だから名前を言えッ! どこのどいつだッ!」

「焦んなよ、そのうちここに来る」

 

 余裕綽々のコナンの態度に一層腹を立て、携帯と拳銃を振り回すように腕を動かしながらコナンに詰め寄る。

 

「だから誰なんだッ!」

『お前が誰だよ』

「「!?」」

 

 血の通っていない腕で心臓を鷲掴みにされたような、臓物の内側から凍えさせるような、冷たい声が電話から聞こえた。携帯を持つ男の指先が画面に触れ、通話状態となってしまったようだ。

 

「萩原っ!」

「伊吹お兄さんっ!」

「助けてください!」

「伊吹の兄ちゃん!!」

「黙れぇッ!」

『……』

 

 ニヤリと笑ったコナンが離れた電話の向こうまで聞こえるように大きな声で叫んだ。それに釣られるように子供たちも口々に「助けてくれ」と喚き散らす。男たちが焦ったように子供たちへと怒声を浴びせる。全員の大声が絡み合い、受話器の向こうの伊吹には雑音としてしか届かない。

 何度も電話をかけ、ようやく出たかと思ったら見知らぬ男の声がした。その上、その後ろから子供達と思われる喚き声が小さく聞こえる。「何かあった」容易にそう察した伊吹は少しでも情報を集めようと目を閉じ、静かに受話器の向こう側に集中する。しかし聞こえてくるのは何を言っているかも分からない騒ぎ声のみ。

 子供たちが必死に声を上げ、男たちが黙らせようとする。そんな中、1人落ち着いた様子で静かにしていた灰原が大きく深呼吸をし、さらにもう一度目一杯に大きく息を吸い込んだ。

 

「キャーーーーーーー!!」

 

 彼女の吸い込んだ息は、耳を(つんざ)くような金切り声となって室内の隅々にまで反響する。その声にその場にいた全員が驚き、思わず黙り込む。そして電話の向こうにも、彼女の助けを求める悲鳴は確かに届いた。

 

『わかった、すぐに行く』

 

 彼女の悲鳴の意味を伊吹は確実に読み取った。灰原は1人、満足そうに微笑んだ。

 

 



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4話 『ばか』 後編

「おい、どうすんだッ! 誰だか知らねえがここに来るぞッ!」

 

 携帯を握ったままの男が振り返り、リーダーの男へと慌てたように相談する。リーダーはナイフを片手にソファへ座り直し、慌てる男に落ち着いた声で話す。

 

「大丈夫だ。小僧の話と今の電話から察するに、相手は一人だけだ。こっちは五人、武器もある」

「あの男がサツを呼んでたらどうすんだッ!?」

 

 男たちは電話の向こうの男の行動が読めずに浮き足立つ。その時、電話の男からの呼び出しが再び室内に鳴り響く。

 携帯を持っている男から、リーダーが携帯を奪うように取る。通話ボタンを押す前に画面を見たリーダーが「何だこりゃ?」と首をかしげた。しかし気にした様子もなく、電話に出ると、受話器の向こうから淡々とした、機械のように無感情で無機質な声がする。

 

『もうすぐだ、もうすぐ着く』

「てめえ……」

 

 リーダーが受話器の向こうの男に脅すように低い声で釘を刺す。

 

「てめえが誰だか知らねえが、このガキ達が大事だって事はわかった。もしお前がサツを呼んでいるなら、こいつらの命は」

『大丈夫だ、俺1人で行く。警察を呼ぶのはお前の鼻っ面へ一発ぶち込んでからだ』

「……」

 

 リーダーは相手の言葉の真意を読み取るように思案する。そこに大人びた少女の声が聞こえた。

 

「彼は1人で来るわ」

「あぁ? お嬢ちゃんにそれがわかるのかい?」

「ええ、その電話の彼は、そういう人だから」

 

 リーダーは携帯を耳に当てたまま、灰原を睨みつけ、今度は彼女の真意を読み取ろうとしているようだ。しばらく灰原の様子を窺ったあと、リーダーは通話を切り別の男へ携帯を投げ渡した。

 

「この子達を残してずらかった方がいいんじゃ?」

 

 慌てて電話を受け取った男が提案する。その言葉にまたリーダーは冷静に言葉をつむぐ。

 

「いや、俺たちが高飛びするための飛行機が出るまでまだ時間がある。空港で足止めを食らうのは避けたいところだ。いや、空港に限らず、人目につくとこに長時間いるのは避けたい。ギリギリまでここにいる」

「じゃあこのガキ共だけでも今のうちにバラしてッ」

「それもダメだ。人数でも武器でもこっちが有利だろうが、人質ってのは切り札になる。わざわざ捨てるこたねえよ。バラすのはいつでも出来るんだ」

 

 リーダーは「それに」と続ける。

 

「わざわざここに1人で乗り込んできてくれるって言うんだ、人目につきにくくバラしやすいココによ……。俺はあの手のヒーロー気取りが大嫌いなんだ。あいつもそうさ、急に自首だのなんだの正義漢ぶったことを言い出すから、殺っちまったんだよ」

 

 ほとんど日も暮れ、室内に暗い影が広がる中、リーダーの男がナイフをギラつかせながら子供たちを一瞥する。ここで電話の男を迎え撃つ、そう話がまとまったようだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「お前はガキ共が入って来た穴だ。お前は反対側にいろ、塀を乗り越えるかもしれねえ。お前は正面だ、真正面から来るとは思えねえが、念のためだ。お前は俺と一緒にここで人質の監視だ。やつが来たら構いやしねえ、ぶっぱなせ。ここらなら大して音も響かねえ、殺した奴は分け前を増やしてやる」

 

 リーダーが傍らに置かれた鞄の中から乱雑にトランシーバーを取り出し、3人の男にそれを渡しながら指示を出す。彼らはそれぞれ自身の拳銃を取り出し、装填を確認する。男たちは右手に拳銃を、左手にトランシーバーを握りしめて持ち場へと向かった。

 部屋の中には探偵団と2人の男が残され、外に出た他の男たちも自身の持ち場で辺りをキョロキョロと見回している。

 その時、暗い部屋に電子音が響いた。ボロボロの机に置かれた灰原の携帯のようだ。リーダーが携帯の明かりに忌々しそうな表情を浮かべながら電話を取る。

 

「てめえ、舐めてんのか……?」

『今着いた』

『――――めん――だッ!』

 

 電話の向こうから淡々とした声が聞こえた瞬間、トランシーバーからはザザッというノイズ混じりに男の困惑したような、慌てた声が聞こえた。

 

『――こいつ、正面から――ッ!』

 

 その言葉を最後に声は途絶えた。最後に一瞬聞こえたのは、何かが殴られたような骨身に響く重たく鈍い音だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 空はほぼ闇に覆われ、遠くの方に僅かな橙が見えるのみ。日の高い昼間ですら薄暗かった雑木林は一層に黒を濃くし、風にざわめく木々の音は不気味な泣き声にも聞こえる。コナンたちが侵入してきた穴の周囲を警戒していた男は、奥に佇む林を見て思わずゾッとする。

 どこかから聞こえてくるカラスの鳴き声が、落ち着き無くこだまする。何かに怯えるように群れをなして、屋敷の上空を飛び回っている。思わずそのカラスの群れに気を取られる男の耳に、ノイズ混じりの声がトランシーバーから聞こえた。

 

『――やつは正面だッ!』

 

 リーダーからの連絡を受けた男はハッとして、弾かれたように屋敷の正面へと駆け出した。屋敷には電気が通っておらず、光の漏れている部屋はない。塀の向こうは雑木林であり、街灯などは存在しない。辺りには当然光源となるものはなく、屋敷の敷地内といえど視界は悪かった。そんな中を男は前だけを向いて走る、急いで正面まで駆けつけようとしているのだ。

 すると唐突に、生い茂った真っ暗な草の中から2本の豪腕が伸びてきた。その2本の怪腕は男の首に絡みつき、男が声を上げる間もなく、何をされたのかも理解できぬまま、意識を闇に溶かした。

 男の意識が飛んだことを確認した伊吹は両腕を外し、その体を乱暴に捨てる。ゆっくりと顔を上げ、白く輝く月を眺める。その目は鋭く鈍く光り、顔には一切の感情がなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あいつはッ、どこだッ!?」

 

 もう1人の男が反対側から屋敷の正面へと回り込んでくる。拳銃を構えながら辺りを警戒するも、そこに探している獲物の姿はなく、仲間も見当たらない。暗闇に1人残される男。不気味な風が足元を吹き抜けていく。思わず生唾を飲み込み、体に汗が滲んでくるのがわかった。

 

「!?」

 

 後ろから聞こえてきた足音に慌てて男が振り返る。抜き足ではない、隠す様子もない堂々とした歩みだ。見えない洋館の角から近づいてくる、その方向へ銃口を向けたまま男は待ち構える。

 影から姿を現したのは、筋骨隆々な青年。服の裾から除く手足や首、顔に残る傷跡にカタギの人間ではないと察する。なによりその冷たい機械のような顔は、並の修羅場を潜ってきただけでは出来ない。男は不意に、眼鏡の少年の言葉を思い出した。

 

「未来から来た殺人ロボット……か」

「……」

 

 伊吹はチラリと男の手元を見る。その拳銃を一切気にすることもなく、その足を止めない。

 

「動くんじゃねえよ……」

「……」

 

 男の声も無視して進んでいく伊吹。そんな彼の態度に腹を立てた男は、こめかみに血管を浮かせて拳銃を握り締める。ためらいなく引き金にかけた指に力を込めた。

 しかし、弾丸が射出されることはなかった。

 

「な、なんだ、この銃ッ、どうなってんだッ」

「それじゃあ撃てない」

 

 弾が発射されないことに焦る男は自身の拳銃を睨みつける。止まることなく歩み寄る伊吹。

 

「トカレフは……」

「!?」

 

 伊吹の声がすぐ目の前から聞こえ、慌てて顔を上げる男。目の前の男は拳銃の銃口に自身の左手のひらを押し当ててくる。その手に風穴を開けてやろうと急いで引き金を引くも、やはり火薬は炸裂しない。

 

「トカレフは装填してあっても、撃鉄が起きていないと撃てない」

「ぅあぁッ!」

 

 淡々とそう告げた伊吹は左手で男の拳銃を掴み、一気に上へと捻り上げる。男の呻き声をよそにその手から銃を奪う。痛む右手を抑えながら男は伊吹を睨みつける。伊吹は銃から弾倉を抜き捨て、薬室に装填されている1発も、銃をスライドさせて排莢する。空になった本体を落とすようにその場に捨てる。

 その声や表情と同じように淡々と戦う伊吹の姿に、男の心には恐怖心が芽生える。その恐怖をかき消すように、痛めた腕に構わず決死の思いで殴りかかった。だがそれすらも、伊吹は淡々と処理する。

 男は自分の身に何が起きたかもわからず、気づいたときには視界が反転していた。自分が倒れているのだとわかったときには、伊吹の姿はそこになかった。脳がシェイクされたように目が回り、視界が端から暗くなり意識が徐々に遠のくのを感じる。最後になんとかトランシーバーを掴むも、うめき声しか上げることはできなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『ぅぁ――あぁ……――』

「おい、どうしたッ、返事しねえか!」

 

 リーダーがトランシーバーに向かって声を荒げる。しかし最後にうめき声だけを残して、誰とも連絡がつかなくなった。例の“やつ”を殺した知らせも、ましてや銃声の一発も聞こえてはこない。僅かに焦りの色を見せるリーダーが、室内に残っていたもう1人の仲間を見る。その男はリーダーの意図を読み取ったように頷くと、銃を片手に部屋をあとにした。もはや月明かりしか頼りがないほど暗くなた部屋には、険しい顔付きのリーダーと黙り込む探偵団が残される。しかし子供たちの表情は、男たちの連絡が途絶えるたびに明るくなっていった。

 

「最悪手ね」

 

 これまでのリーダーの采配を見ていた灰原の声が、静まり返った室内に鈴を鳴らしたように響く。手足を縛られた状態で三角座りをしたまま目を閉じている彼女。もはやその姿に一切の焦りや緊張は見られなかった。

 

「あ? なんだって?」

「最悪手、って言ったの」

 

 苛立たしげに灰原へと聞き返すリーダーに、間髪いれずもう一度伝える。

 

「あなたたちは全員一緒にいるべきだった。ここで彼を待ち構えるにしても、迎え撃ちに行くとしても。5人がかりでいけば、息の一つくらいは乱せたかもしれないわ」

 

 目を半分ほど開き、ぼんやりとひび割れた窓から空を眺めて呟く。隣のコナンも、呆れたような表情を浮かべている。同じことを思っていたようだ。

 

「ま、束になっても結果は同じだったでしょうけど」

 

 その灰原の言葉に怒りが込み上げるリーダー。月明かりに照らされた男の顔は眉間にしわを寄せ、目が見開かれる。顔は怒りに染められ、手にはナイフを握り締め灰原の方へと近づいていく。

 男の雰囲気に怯える子供たちに対し、「なにか用?」とでも言いたげな澄まし顔を向ける灰原。男が右手に握ったナイフに力を込める。それをゆっくりと振り上げたとき、左手に握り締めたトランシーバーからノイズが鳴る。

 

「どうだッ!? ヤツはどうしたッ!?」

 

 慌ててトランシーバーに話しかける男。しかし、聞こえてきたのは、男にとって最も聞きたくない声だった。

 

『――あとはお前だ』

 

 影に溶けるような暗い部屋の中に恐ろしく静かな、それでいて激しく燃える怒りがくべられた様な、冷たい炎のような低い声が溶け込む。男は自分の背中に冷たい汗が伝うのを感じた。

 

「……」

 

 先ほどの怒りとは違い、恐怖と焦りに染まった顔で、男は灰原へと向き直る。男の腕が彼女に伸びた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 コツ、コツ、という靴の鳴る足音が聞こえてきた。扉の前に人の気配を感じる。子供たちは期待の籠った瞳で扉の方を見る。蝶番を軋ませながら、ゆっくりとドアが開けられた。

 扉の奥の闇の中から、何者かが近づいてくる。足元から少しずつ月明かりに照らされていく。脚を、体を、腕を、そして照らされた顔は、子供たちが、そして灰原が待ちに待った者の姿だった。

 

「動くんじゃねえッ」

 

 伊吹が室内で目にしたのは両手足を縛られ、並んで座らされている子供たち。そして、灰原の腰に腕を回して持ち上げ、その首元にナイフを突きつけた男の姿だった。

 

「てめえ、何もんだ……ッ」

「……」

 

 男の質問が耳に届いていないように無視する伊吹。周りの状況を窺い、子供たちの怪我の具合や、他に仲間がいないかなどを確認する。

 

「無視してんじゃねぇッ! てめえがこのガキの保護者だって事はわかってる。ガキの首裂かれたくなけりゃそこをどけッ!」

 

 伊吹の態度に声を荒げる男。腕の中の灰原は「保護者」という言葉に反応し、思わず不機嫌そうな顔を浮かべる。

 そんな灰原と伊吹は視線を合わせアイコンタクトを取り、彼女は伊吹の考えを読み取った。

 怒れる男がナイフを灰原の首元から離し、伊吹の方へと切っ先を向けたとき、灰原は深くお辞儀をするように思い切り体を曲げる。男が「なんだ」と言葉を上げる間もなく、振り子のようにスイングされた灰原の後頭部が男の鼻っ面へと直撃する。後頭部を使ってのヘッドバッドだ。

 

「がぁッ……!」

 

 小さな女の子の力だが、固い後頭部を使った顔面への渾身の一撃は男を一瞬怯ませるには十分だった。思わず赤い鼻をナイフを持った右手の甲で抑え、顔を仰け反らせる。すかさず灰原は、今度は屈伸するように両足を曲げて体を丸める。そしてその体を一気に伸ばし、その勢いで縛られた両足を使いドロップキックのように男の腹を蹴り抜く。

 

「うぐぁッ……!」

 

 子供といえど両足を使った全力の蹴りが、油断した腹に突き刺さる。思わず口が開き、痛みに目は閉ざしてしまう。灰原は蹴った勢いのまま男の腕から逃れる。しかし両手足を縛られた彼女は受身も取れないまま床へと落ちていく。

 

「このガキッ……っ!?」

 

 思わず痛む腹を抑えて体を曲げ、灰原を手放してしまった男が、怒りと苦しさからこめかみに血管を浮かばせ、顔を赤くし、ナイフを振り上げる。足元に叩きつけられたであろう灰原を切りつけようと目を開いたとき、男の視界には落下する少女をすんでのところで抱きとめた伊吹の姿があった。

 驚愕に一瞬、男の体が固まる。その一瞬で伊吹は灰原を滑らせるように横に避難させる。男が構わずナイフを振り下ろす。伊吹は振り返りつつ立ち上がる。男のナイフを左手で捌き、立ち上がる勢いそのままに、男の顎へと右の硬い拳を叩き込む。決して軽くはない男の体が、人形のように宙を舞った。

 吹っ飛んだ男の体は転がるように部屋の奥の影の中へと消えていった。暗い中かすかな明かりで見えたのは、飛び散る男の歯と、口から吹き出す血飛沫だった。「子供たちに見えなくてよかった」と伊吹は1人安堵した。

 

「子供だからって、舐めないでよね」

 

 得意げな灰原の声も、暗闇の中で意識の途切れている男の耳には届かなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「やっぱりすごかったぜ! 伊吹兄ちゃんのパンチはよ!」

「哀ちゃんもすっごくかっこよかったよ!」

「はいぃ! 戦う灰原さんもワイルドで素敵でした!」

「あんな状況になってたのに、元気だねー君たちは」

 

 伊吹が最後の男を木の葉のように殴り飛ばしたあと、他の気絶しているメンバーもまとめて縛り付け、警察へと通報した一同。警察での事情聴取は明日に行われることとなり、今は帰宅の途についている。そう深い時刻ではないが、すっかり日は沈み、空には明るい月と星が瞬いている。

 一同の話のネタは先ほど目撃した伊吹と灰原の勇姿について。前を歩く子供たちは目をキラキラと輝かせながら楽しそうに話をする。コナン、灰原と並んで後ろをトボトボと歩く伊吹は切り替えの早すぎる子供たちに苦笑いを浮かべる。

 

「てかおめー、どこであんな動きを?」

「昔、彼に少し教えてもらっただけよ」

 

 コナンの質問にさらりと答える灰原。何かあった時のために伊吹は灰原に少しだけ、護身術もどきを手ほどきしていた。「まさか役に立つ時がくるとは」と伊吹が呟く。

 

「それにしても哀ちゃん、伊吹お兄さんのあの名前は可哀想だよー」

「いいのよ、別に」

「あー、あれな……」

 

 歩美が振り返って困ったような笑顔で灰原の方を見る。その言葉に同意するようにコナンも苦笑いを浮かべる。光彦や元太も、どこか伊吹を同情するような目で見ている。灰原だけは澄まし顔のままだ。

 

「え、なに、名前ってなんなの?」

「いや、実は灰原の携帯に登録されてるおめーの名前がよ」

「別に。何でもないわ」

 

 なんの話か分からない伊吹はキョトンとしながら尋ねる。コナンが半笑いで伊吹に教えようとするが、すかさず灰原が遮る。彼女は両手を後ろに組み、伊吹の方へ顔は向けず、目はいつものジト目のまま前を向いている。

 

「なんだよ、なんて登録してんのさ、「伊吹」とかじゃないの?」

「ええ、そうね。「伊吹」よ。気にしないで」

「えー、ダーリンとか?」

「……そういうことを言うあなたにピッタリの名前よ」

 

 灰原が呆れた顔で伊吹を見上げる。伊吹が本当は何なのかと尋ねるも、彼女は「ひみつ」といたずらっぽく小さく微笑むのみだった。

 そして翌日の事情聴取にて、子供たちは屋敷に侵入したことをこっぴどく叱られ、伊吹はすぐに警察に通報しなかったことを説教された。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 数日後、晴れ渡る空の下、近所の公園でサッカーを楽しむ少年探偵団。一通り動き回ったメンバーが園内のベンチへと腰を掛け休憩をとる。そして先日の事件のことや仮面ヤイバーの話、学校での出来事など他愛もない雑談に花を咲かせる。

 すると灰原のポケットから例の着信音が聞こえた。特に慌てている様子も見られないが、どこか素早い動きで携帯を取り出す灰原。

 

「もしもし? ええ。公園よ。……そう、わかったわ」

 

 電話の向こうの声は聞こえなかったが、着信音からコナンには電話相手が誰なのか察しがついていた。頭でサッカーボールを弾ませながら、ニヤニヤとからかうような笑顔を浮かべてコナンは灰原に問いかける。

 

「萩原がどうかしたのか?」

「……」

 

 キッといつにも増して鋭い目でコナンの方を睨みつける灰原。思わず「うっ……」と言葉が詰まる。

 

「……近くで買い物してたらしいから、こっちに寄るそうよ」

「そ、そうか。ていうかおめー……なんか電話に出るの早くねーか?」

「そうかしら、別に普通よ」

 

 鋭い目閉じて、携帯を仕舞いながら淡々と告げる。コナンは灰原の電話に出る動きに何やら違和感を覚えるも、受け流されてしまう。

 コナンはとりあえず着信音の件でからかう事はやめようと、先ほどの灰原の目を思い出していた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ほれ、ジュースだぞ諸君」

 

 買い物袋を手にした伊吹が公園に姿を現したのは10分ほど経ってからだった。サッカーをして汗をかいた子供たちはジュースを取り合う。灰原は「なんで同じのを買ってこないのよ」と伊吹の買い物に愚痴をこぼしながらも子供たちの仲裁をし、世話をしている。

 その光景を見ながら伊吹とコナンは少し離れたベンチに腰掛け、特に意味もない雑談を交わす。「そういえばよー」とコナンが話題を振る。

 

「灰原ってなかなか電話に出ないよな。携帯持ってんのに機嫌が悪いと無視しやがるし」

「……? 哀はそのへん律儀だから電話にはすぐ出るぞ?」

「……」

「出られないときは必ず後からかけ直してくるし」

「あー……それか」

 

 コナンは伊吹の言葉に、先ほどの灰原に感じた違和感の正体を理解した。コナンの記憶では、灰原は機嫌が悪いとき、特に朝方などはほぼ確実に電話に出ない。普段でも何度かコールで呼び出してようやく、といった具合である。それが先ほどの灰原は着信後すぐに電話をとっていた。そこに違和感を覚えていたのだ。そして、その差の理由が何なのか推理するまでもなく分かっているコナンは、「アホらし……」と引っかかっていた自分に対して苦笑いを浮かべる。

 

「あー……灰原はすぐ電話に出るのか?」

「ああ。俺にもすぐに出るよう言ってくるし。出られなかったらかけ直せって」

「あ、そう。まあ疲れない程度に付き合えよ」

「んん?」

 

 呆れたような顔をしながらぼーっと青い空を見上げるコナン。彼が何の話をしているのか分からず頭に「?」を浮かべる伊吹。

 伊吹は子供たちのジュースと一緒に買ってきたカフェオレを飲みながら、子供たちの世話を焼く灰原を眺める。雲一つない青空の下で、子供たちに優しい笑顔を向ける彼女の横顔を見て、伊吹は心が暖かくなり、くすぐったくなるような感覚がした。思わず自分の顔に笑みが零れるのを感じる。

 子供たちが元気な笑顔でこちらに駆けてきて、その後をゆったり歩きながら付いてくる灰原。爽やかな風に揺らされる髪の毛を、目を細めて少し鬱陶しそうに右手で抑える彼女。子供の姿ながらも大人っぽいその仕草に、伊吹の胸が思わず高鳴る。

 

「参ったな……今は小学生なのに」

「あん?」

 

 伊吹の小さな呟きが聞こえなかったコナンがキョトンとした目で聞き返す。

 

「ま、哀といて今まで疲れたことは、一度もないさ」

 

 そう言って立ち上がる伊吹が子供たちの頭を撫でる。そして後ろから来る灰原の目を見つめる。

 

「なに?」

「なんでも。これからもよろしくって話だよ」

「……?」

 

 風に乱れた髪を手ぐしで整える灰原。セットし直した灰原の頭を、くしゃくしゃに撫で回す伊吹。そんな彼の行動に、頭に「?」を浮かべる。また髪が乱されることに鬱陶しそうな表情を浮かべるも、彼女がその手を払うことはなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 午前10時、阿笠宅。パソコンを操作していた阿笠博士が、リビングから聞こえる携帯の着信音に作業する手を止める。いつもならすぐ止まるその着信音が、今日は鳴りっぱなしだ。博士が席を立ち音に釣られるようにリビングのソファまで来ると、その上では灰原が丸まって静かな寝息を立てていた。布団の代わりとでも言うように、ソファにかけられていた伊吹の上着を着込んでいる。彼女の頭の上に置かれた携帯が音源のようだ。

 

「哀君の携帯じゃな」

 

 博士が興味本位にその画面を覗き込む。

 

「はて、これはいったい……この音は伊吹君かの」

 

 発信者の名前では誰だか分からなかった博士も、何度も耳にしている着信音で相手の見当をつける。電話の音にも起きない灰原をそっとして、苦笑いを浮かべたまま作業に戻る博士。

 どんな夢を見ているのか、猫のように丸まった彼女の顔には笑顔が浮かんでいた。そして、鳴り止まない携帯の画面には、「ばか」の二文字が浮かんでいた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんで俺の服着てんの?」

「…………別に、布団の代わりよ」

 

 帰宅した伊吹に起こされた彼女は、寝ぼけた目を擦りながら周囲を見回す。ぼーっとした顔で伊吹の方を見上げた時、彼女は現状を把握し目を見開いて驚いた。すぐにいつもの澄ました顔に戻ったが、その頬は僅かに赤みがかっているようにも見えた。

 

「てか、ベッドならそこに」

「黙って」

「……え?」

「黙って」

「……はい」

 

 彼女の瞳には微かな恥じらいと有無を言わせぬ迫力が浮かんでいた。

 

 



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5話 マーキング 前編

 夜の帳もすっかり落ち、街中が静まり返る深夜2時頃。伊吹は繁華街から離れた、人通りの少ない港沿いの道を1人歩く。薄い雲がかかった空には、ぼんやりと朧げな三日月が浮かんでいる。

 

「Hi,Coke(コーク)!」

 

 伊吹が音もなく港の中へ入っていくと、積まれたコンテナの影から声をかけられた。色気を含んだ、耳に絡みつく砂糖のような甘い声色だ。

 

「ベルモット……」

 

 そこには止めた愛用のハーレーダビッドソン・VRSCに腰掛け、体のラインが目立つライダースーツを着込み、胸元を大胆に開いた女性が。ウェーブがかった長いプラチナの髪を右手ですくい、細くしなやかな白い左手の指にはタバコが挟まれている。しばらく時間を潰していたのか、足元には何本かの吸殻が踏み消されていた。

 港から見える海は暗く、静かな波の音だけが聞こえる。港は黒々とした影に包まれ、闇の中をポツポツとオレンジ色の街頭のみが照らしている。そんな薄暗い中でもハッキリと見えるほど彼女の肌は白く美しかった。

 

「急な呼び出しで悪いわね。ちょっと厄介そうだからあなたを呼んだのよ」

「いえ、仕事なので。いつでも」

 

 伊吹にいつもの飄々とした態度はない。その屈強な体は真っ黒なスーツに包まれており、下には灰色のシャツを着込んでいる。ネクタイも縁起の悪そうな真っ黒なものを身に付け、まさに全身“黒ずくめ”だ。

 その口調も畏まったものであり、目の前の女性、ベルモットに頭を下げる。

 

「ふふっ、相変わらず堅い子ね。そんなに認めてもらえないのが不服なの?」

「……」

 

 伊吹はCIAの任務として組織の内部へ入り込もうとしているが、まだ現状では“ベルモットに雇われている便利屋”止まりである。ベルモット以外のメンバーに認められなければ、これ以上の潜入は難しく、そこに歯がゆさを感じていた。もちろんベルモットには潜入のことなどは言わず、「早く正式に認められたい」と、当たり障りのない部分だけを伝えている。

 そんな彼にも仮のコードネームが与えられている。伊吹に与えられているのは「Coke(コーク)」。まだ正式に組織の一員として迎えてはいないという意味から、彼には酒の名前が与えられていない。また、17という年齢から“この国ではまだ飲酒が出来ない”という皮肉めいた意味も込められたものだった。もっとも、それを聞いたベルモットは「酒と相性はいいんだから」と色っぽい悪戯な笑みを浮かべていたが。

 

「それで、今日は?」

「私を警護してちょうだい」

 

 タバコを落としかかとで踏み潰すベルモット。フルフェイスのヘルメットを被り、用意しておいた伊吹用のメットを彼に投げ渡しながら仕事内容を告げた。

 メットを受け取った伊吹がそれを被りながら彼女へと歩み寄る。するとベルモットは、メットと一緒に用意していた消音器付きの拳銃を伊吹へと手渡す。

 

「穏やかじゃないですね……」

「まあね、用心しておくに越したことはないわ」

 

 銃を腰の後ろに来るようベルトに差し込む伊吹。ベルモットをチラリと見ると、彼女は顎でバイクを指す。これが「あなたが運転して」という意味だということを伊吹は知っている。彼がハーレーに跨りハンドルを握ると、その後ろにベルモットが座った。

 何が入っているのかは分からないが、後部座席の側面には小さなアタッシュケースが固定されている。

 

「そんなに引っ付かなくても」

「落ちると危ないわよ?」

 

 伊吹の背中にぴったりと体を貼り付けて腕を前へと回し抱きしめるような体勢のベルモットに、少し振り返って困ったように苦笑いを浮かべる伊吹。ベルモットが彼にメットを近づけて囁く。

 

「飛ばすでしょ? 落ちたら大変」

「まあ……いいですけど」

 

 スーツ越しの背中に感じる彼女の体温と、絡みつくような引き締まった体。甘く囁かれる言葉と微かに香る甘い香水に思わず反応してしまいそうになる自分を制し、伊吹は平静を装う。そんな彼の姿をベルモットは心底楽しそうに微笑みながら見ていた。

 伊吹がバイクのエンジンを吹かせ、海岸線を目的地まで走らせる。暗い深夜の公道を闇に溶け込むような黒い影が駆け抜けていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「じゃあ、これで取引は終了ね」

 

 空の暗さが一層増す中、ベルモットと伊吹の姿は薄暗い工場地帯にあった。彼らと向かい合うように3人のスーツを着込んだ男が立っている。警戒心を隠す様子もなく伊吹たちを鋭い目で睨む。

 ベルモットは色っぽい余裕の笑みを浮かべたままバイクに固定していた例のアタッシュケースを男の1人に渡し、引換に封筒に入った何かを受け取ると、それを豊満な胸の谷間へと挟むように仕舞う。その薄さから見るに、現金の類ではないようだ。

 伊吹はベルモットから少し離れた位置に手を組んで待機しており、彼の後ろではバイクのエンジンがパチパチと音を立てていた。

 

「じゃあ私たちはこれで失礼するわね」

 

 ベルモットがその綺麗なプラチナの髪を翻しながら、(きびす)を返す。振り返った彼女がその青い瞳で伊吹を見る。彼女のアイコンタクトの意味を伊吹は容易に理解した。それは「相手が手を出してくるなら、やれ」という至極シンプルなものだった。

 ベルモットが後ろを向いた途端、取引相手の男たちが懐に手を伸ばして“何か”を取り出そうとする。その瞬間、伊吹の目が鋭く鈍く研ぎ澄まされた。その“何か”が見えるよりも早く、自身の腰から銃を引き抜き、両手でしっかりと構え発砲する。

 右手は震えぬ程度にグリップを握り込み、左手は銃底に添える。銃口の跳ね上がりを考慮し照準は目標のやや下を狙い、反動は肩で受け流す。消音器と亜音速弾によって抑えられた銃声は強力な炭酸が抜ける程度にしか聞こえない。6回連続する空気の抜ける音は非常に素早く、飛び出した弾丸は的確に相手を捉えた。

 後ろで懐に手を入れた男2人の右腕に1発ずつ撃ち込み武器を抜かせない。手前にいる、ベルモットからアタッシュケースを受け取った男の右肩と左足に1発ずつ撃ち動きを封じる。再び後ろの男たちに銃口を向け、それぞれの右太ももに鉛をお見舞いする。この間に数秒と費やしておらず、まさに瞬きする間の出来事だった。

 弾丸が横をすり抜ける中、ベルモットは瞳を閉じその笑みを崩すことなく腕を組み、事が終わるのを待っていた。

 体に開けられた風穴の痛みに悶えながらその場に倒れこむ男たち。傷口から真っ赤な血を垂れ流し呻き声を上げている。

 

「残念だわ、取引は不成立のようね」

「うぅ……ぁ、くそ……」

 

 そう言ってベルモットは再び男の方へと振り返り、男が落としたアタッシュケースを拾い上げる。ケースを奪われた男は痛みで眉間にシワを寄せ、額に汗を滲ませながら左手で右肩の傷を押さえ込む。手のひらは瞬く間に赤く染まり、指の隙間から血が滴り落ちている。

 青白いぼんやりとした月明かりを背にして立ち、愉快そうに目を細めて男を見下ろすベルモット。その口角が愉悦に歪む。見上げる男の目に写った彼女の姿は驚く程に妖艶で色香が溢れ、彫刻のように美しかった。しかしそれと同時にその麗しさは、見る者の心臓を冷たい指先で撫でるような、全身の血の気が引いていくほどに冷たく感じるものだった。

 ふっと興味をなくしたように男から視線を外して伊吹へと振り返る。伊吹は消音器に籠った熱を冷ますように銃を上下に振っていた。

 

「お仕事は終わり。帰るわよ」

「はい」

 

 伊吹は銃を再び腰へと戻し、ヘルメットを被る。バイクに回収したアタッシュケースを固定したベルモットに彼女のメットを渡す。2人はバイクに跨ると再び伊吹の運転で、エンジンの爆音だけを残し、闇の中へと消えていった。後ろに座るベルモットは来た時と同じように、その体を伊吹へ密着させ腕を伊吹に巻きつけ、楽しそうに笑っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「さすがの早業だったわ、私が見込んだだけのことはあるわね」

「恐縮です」

 

 2人は最初に待ち合わせた港のコンテナへと戻ってきていた。先ほどと変わらず暗い影にオレンジの明かりが灯っている。

 バイクを止めた伊吹はメットを外してふう、と一息吐く。ベルモットもメットを外しハンドルへかけると、タバコに火を点けコンテナにもたれ掛かりながら一服している。なにかを考え込むような細い目で月を眺めている。

 自分のメットをバイクへ固定し、銃をベルモットへ突き返す伊吹。それに手をかけて先ほどの伊吹の技を素直に褒める彼女。

 

「だけど、誰も殺さなかったわね?」

 

 銃を返す伊吹の手ごと握り締め、自身の方へと力強く引っ張る。鼻先が触れそうなほどに近い距離。ベルモットの青い瞳が伊吹の心を見透かすように研ぎ澄まされる。見つめ返す伊吹の表情に動揺は見られず、機械のように無機質だった。

 伊吹の瞳の奥をしばらく見つめたベルモットだったが、全く揺るがない彼の表情から本心を読み取るのは難しいらしく、彼女は顔を離し小悪魔のような笑みを浮かべながら銃を受け取る。

 

「なにか思うところでもあったのかしら?」

 

 口から煙を吐き出し、銃を右手に持ったまま伊吹へ問いかける。答えによってはその銃口が自身に向けられることは容易に想像がついた。

 彼女の問いを聞いた伊吹の頭の中には、少年探偵団や学校の友人、米花町での生活の中で関わってきた人、そして灰原の姿が思い描かれていた。それを悟られないように大きく一息吐き、静かに口を開く。

 

「特に意味はありませんよ。殺すと死体の処理が面倒なだけです」

 

 ベルモットは伊吹の言葉を聞いているのかどうか、視線は手元の銃へと注がれている。その瞳が妖しく月明かりを反射する。

 

「やつらもまともな人間じゃない。生かしておいても警察に駆け込むことはできません。また手を出してきたときは、殺します」

 

 無機質で無感情な声のまま、淡々と喋る伊吹。光の宿っていない彼の目は真っ直ぐベルモットを捉えている。数秒ほどの沈黙が2人を包み、聞こえるのは波がコンクリートにぶつかる水しぶきの音だけだ。

 しばらく値踏みするように彼の様子を見ていたベルモットが、瞳を閉じて呆れたような笑みを小さくこぼし、銃を仕舞う。

 

「ま、それでいいわ」

 

 そう言うとベルモットはタバコを投げ捨てバイクに跨る。彼女を見送ろうと待機している伊吹に、「忘れてたわ」と彼女が声をかけた。

 

「あなたに渡すものがあったのよ」

「なんでしょうか?」

「こっちに来て」

 

 ベルモットがバイクに跨ったままメットを小脇に抱えて、ちょいちょいと伊吹に手招きする。ふぅ、と小さくため息を吐きながら彼女へ近づく伊吹。バイクの脇まで来た伊吹に対し「耳をかせ」と言うように指を動かし、更に顔を近づけさせる。伊吹は軽く腰を曲げて彼女に顔を寄せる。するとベルモットはいきなり彼のネクタイを掴んで顔を引き寄せ、自身の色気溢れるバイオレットの唇を伊吹に重ねた。

 

「あら、失礼ね」

「そちらこそ急に何を……」

 

 ベルモットの唇が自身の唇と重なりそうになった瞬間、咄嗟に顔を逸らした伊吹。右の頬に彼女の唇が落とされた。瞬きするまつ毛がこそばく感じるほど近い2人の顔、伊吹の耳元で不満げに囁くベルモット。その声にピクリと体を反応させながら伊吹は呆れたような声で聞き返した。

 

「まあいいわ。じゃあまた、仕事を頼むときは連絡するわね」

 

 彼の体の反応に対して、満足そうに微笑むベルモット。伊吹のネクタイを離してヘルメットをかぶる。バイクにエンジンをかけたところで、伊吹も数歩下がる。

 

「Bye,Coke!」

 

 先ほどの血なまぐさい惨劇や、恐怖すら感じる妖艶さを忘れてしまうほどに、明るく軽快で子供のような雰囲気で手を振る彼女。伊吹が軽く頭を下げると、彼女はエンジンの音と赤いテールランプの残像だけを残して、深い夜の中へと去っていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 1人、尾行に注意しながら徒歩にて帰路につく伊吹。見上げた空は既に瑠璃色に染まっていた。直に朝日が昇ってくるだろうが、今は最も暗い時間に差し掛かっていた。

 湿気を含んだ深夜の冷えた空気を肺いっぱいに吸い込む。深いため息を吐いて気持ちの整理をする。彼は仕事の度に、自分の中で萩原伊吹とCokeの気持ちを切り替えている。先ほどベルモットに詰問された際に、一瞬頭の中に「萩原伊吹」としての思考や感情が吹き出してしまった。そのせいか先程から頭の中に僅かなモヤがかかっている。それを取り払い、吐き出すように、深呼吸を繰り返す。

 しばらく歩いていると阿笠宅が見えてきた。大きな溜め息と共に玄関の扉を開けた伊吹だったが、途端に驚きの表情を浮かべビクッと肩を震わせてしまった。深夜か早朝か分からないが、こんな時間に灰原が起きており、玄関口で腕を組んで仁王立ちしていたからだ。伊吹は、夜中にひっそりと外出したため自分が出て行ったことには気づいていないはずだが……と気まずそうに笑いなが思考を巡らせる。

 

「こんな時間にどこ行ってたのよ?」

「いや……ちょっと、仕事……」

 

 目尻を釣り上げて伊吹の顔を睨みつける灰原。その真っ黒なスーツと、仕事という言葉から、灰原は内心「組織絡みのことだろう」と察しはついていた。

 伊吹の頭の中はだいぶ落ち着いているが、まだその声色と表情にはCokeとしての無機質さが見え隠れしている。そんな彼の声と微かに漂う“奴ら”の雰囲気を感じ取り、灰原は少し寂しげな目をする。

 

「……なにそれ?」

「ん? ……あっ……拭いたのにっ」

 

 伊吹の顔を見つめていた灰原が、彼の右頬にバイオレットの何かが付着しいていることに気づいた。よく見れば彼の手の甲にもすり伸ばされたような同じ色が付着している。伊吹は自分の顔を不思議そうに見てくる不機嫌な灰原に、なんとなく玄関に置かれた鏡を覗き込む。そして自分の顔に残されたベルモットの痕跡に、つい慌ててしまう。

 ジトっとした目で何かを疑うように見つめる灰原。彼の慌てた様子と、見たところ口紅のようなその塗料、そして綺麗だが毒々しくも見えるバイオレットの色、組織と関わってきたであろう彼、それらのピースが灰原の頭の中で一本の線に繋がる。「あぁ、あれはあの女の……」と煮えたぎるような怒りと言い知れぬ不安が胸の内に湧いてくるのがわかった。

 慌てて自分の頬をこすっている伊吹を恐ろしく鋭く、どこか心配しているような目で睨みつける灰原。先程から睨むだけで文句の1つも言わない彼女に、伊吹は言い知れぬ恐怖を感じていた。

 

「と、とれた?」

「……」

 

 気まずそうに苦笑いしながら、灰原に右頬を向け確認してもらう伊吹。灰原は何を言うでもないがその鋭い視線を閉じる。それで許しが出たかとほっと胸をなで下ろした伊吹は、靴を脱いでネクタイを緩めながらリビングへ向かおうとする。彼が灰原の横を通り過ぎたとき、彼女の鼻腔を甘い香水の香りとタバコの匂いが刺激した。

 

「ちょっと」

「はい……」

 

 そそくさと逃げるように部屋に戻ろうとする伊吹に、彼女の凍えるような冷たい “待て”がかかる。間髪いれずに返事をする伊吹。思わず顔は真顔になっている。

 彼女は閉じていた瞳をもう一度開き、眉間に深いしわを寄せて不愉快そうな顔で伊吹を見つめた。

 

「あなた、すごく臭いわよ」

 

 彼女から辛辣な言葉が投げつけられ、伊吹は困ったような顔で自身の体を嗅いでみる。

 

「え、そう? 別に汗もかいてないはずだけど。……硝煙の匂いも別にそんな」

「いえ、臭うわ。今すぐにシャワーを浴びて着替えなさい。洗濯するから」

「そう? そう言うなら頼もうかな。洗えるスーツでよかった」

「そうね、本当に。……こんな匂いが家に漂ってると我慢ならないわ」

 

 リビングでひん剥かれるように服を脱がされた伊吹は、灰原に押し込まれるように浴室へ連れて行かれる。何やら勢いに流されるままにシャワーを浴びることになった伊吹だが、あそこまではっきり“臭い”と言われれば傷つく心も持っている。大人しく体を入念に洗うことにした。

 脱衣所では洗濯機がフル稼働していた。灰原が一秒でも早くと言わんばかりに、伊吹の脱いだ服を洗濯機へ叩き込み、流れるような早業で洗濯機を回したのだ。ぐるぐると回る服を見つめる彼女の眉間には深いシワが刻まれ、その瞳はガラス玉のように無感情で氷のように冷め切っていた。

 灰原の心中は穏やかなものではなかった。洗われるスーツの向こうに見えるのはプラチナの髪を靡かせる女の姿。思い出すベルモットの顔に恐怖と怒りと、焦りが込み上げてくる。自分の心の奥に刷り込まれている彼女に対する恐怖心と、自分から大切なものを奪おうとしている彼女への激昂。そして奴らにまた大切なものを奪われるんじゃないかという焦りと不安。

 複雑に揺れる感情に、彼女は両手を握りしめて俯くしかなかった。浴室から漏れ聞こえてくる彼の鼻歌が実に腹立たしく感じた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 翌日、正午を過ぎてから伊吹はリビングに顔を出した。彼が眠りについたのは明け方だったため、この時間に目が覚めたらしい。すっかり高く昇った太陽の強い日差しが窓から差し込み、網戸越しに吹き抜ける爽やかな風が寝起きの頭をスッキリとさせていく。すっかり綺麗になったスーツはハンガーに吊られていた。

 リビングではソファの上で三角座りした灰原が膝に立てかけるようにファッション雑誌を開き、コーヒーカップを揺らしている。博士の姿は見当たらない。

 

「おはよ。……あれ、博士は?」

「工藤君のところに行ってるわ」

「へー。なんでまた?」

「さあ」

 

 自分のカップにコーヒーを注いで灰原の隣に座る伊吹。お昼のバラエティ番組を見ながら呑気に笑っている。そんな彼の横顔をチラリと覗き込み、小さくため息を吐く灰原。そんな彼女に気づいた伊吹が灰原の方へと向き直る。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ん? どしたの?」

「……」

 

 両手でカップを持った彼女は、いつもの澄ましたものでも冷めたものでもなく、ジトっとしたものでもない、困ったような不思議そうな目で伊吹を見つめる。

 

「いつものあなたね」

「そりゃ、……俺だけど?」

 

 彼女の言葉の真意を掴めない伊吹はキョトンとした顔で聞き返し、熱そうに顔をしかめながらコーヒーをひと啜りする。程よい苦味が口と喉を潤し、心地よい香りが鼻を抜けていく。

 彼から視線を外した灰原が、前のテレビ画面を見つめながら言葉をつむぐ。

 

「昨日帰って来た時のあなたの顔、いつもと違ってたわ」

「……」

 

 昨夜の事を思い出すようにソファにもたれかかり、ボーっと天井を見上げる伊吹。昨日の帰り、自身の頭の整理がついていなかった事を覚えている。

 

「誰かを殴ったりする時も、また違う顔になってるわ」

「……」

 

 諜報員としての技術を行使するとき、自分の中でスイッチが入ることを自覚している伊吹。そのことを言っているのだろうと察しがつく。

 

「でも今は、いつもの能天気なあなた」

「能天気って……」

「本当のあなたはどれなの?」

 

 前を向いたまま淡々と話していた灰原が、静かに伊吹の方へ向き直る。責めるでもなく、興味津々といった雰囲気もない。ただ何となく聞いてみた、でも答えを聞くまで逸らさない、そんな想いが彼女の瞳に写っている。

 伊吹も困ったような顔でその目を見つめ返し、小さなため息を零す。

 

「本当の自分ってのは……正直俺にもわからない。物心ついたときには訓練を受けていた。誰かに指示された任務をこなしてるだけだ。CIAでも、組織の仕事でも」

「……」

 

 彼の話を聞いた灰原がそっと手元のコーヒーカップに視線を落とす。伊吹もなんとなく窓辺で揺れるカーテンに目をやる。涼しい風が乾いたアスファルトと草木の匂いを運んでくる。コーヒーを一口すすった伊吹が「ただ……」と続ける。

 

「ただ、前にも言ったけど、哀のそばにいることは誰かに指示されたものじゃない。俺の意志だ。多分、これは、本当の俺ってやつだと思う」

 

 独り言のように話す彼の言葉に引き寄せられるように顔を上げる灰原。見上げる彼の髪の毛が風に揺れ、2人の間を柔らかいそよ風が吹き抜けていく。

 彼の言葉の真偽を確認するような灰原の目を、迷いのない瞳で見つめ返す伊吹。しばらく彼を見つめた灰原が小さな笑みを浮かべて目を伏せる。満足そうに「そう」とだけ応えた彼女が一口静かにコーヒーをすすり、雑誌へと視線を落とした。

 彼女の声に伊吹も小さく笑い、テレビへと視線を戻す。「あはは」と笑う彼の横顔を、優しく暖かい瞳でちらりと見つめる灰原。彼女の笑みは一層深くなる。

 力強くも暖かいお昼の日差しの中で、2人は目を合わせなくとも、微笑み合っていた。

 

 

 



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5話 マーキング 後編

 

 その夜。夕食も食べ終わり、穏やかな時間と紅茶の香りが漂う阿笠宅。せっせと洗い物をする博士に、ダイニングで食後の一服を堪能する灰原。伊吹はリビングのソファで脚を組みアメリカからの輸入物である雑誌を眺めていた。

 じっくりと文字を追うでもなく、軽快にページをめくっていた伊吹の指がピタリと止まった。そこには金髪碧眼のグラマラスな美女が水着姿でポーズを決め、こちらを色っぽい目で見てくる。伊吹が目を細めてそれを見つめているのは、写っている女性が好みだとかいう理由ではなく、その女性の明るい金髪と青い眼にベルモットの事を思い出したからだ。

 彼女と仕事をした昨夜の事を思い返す伊吹。そこで彼女に詰問されたこと、自分が敵を射殺できなかったこと、そしてあの時一瞬頭によぎった灰原の悲しげな顔が頭の片隅に蘇る。

 

「信用を勝ち取れ……判断を間違えるな」

 

 無意識に、ぼそっと零すように呟く伊吹。「潜入任務に自分は不適格かもしれない」と、グラビアのページをぼーっと眺めながら考えていた。

 伊吹が背後に気配を感じハッと振り返ると、そこには冷めた半眼で伊吹を見つめながら立つ灰原の姿が。伊吹は昨夜の事を思い出して物思いに耽っていた訳だが、灰原からは“セクシーなブロンド美人の水着姿に鼻の下を伸ばしている”ようにしか見えない。彼女が何を思っているのか、その氷のような目から察する伊吹。

 

「どうしたの、続けなさい」

「いや、違う。そういうのじゃなくて」

 

 彼女の軽蔑するような視線と底冷えするような声に、慌てて誤解を解こうとする伊吹。そんな彼の言葉を無視するようにそっぽを向いて視線を外し、不機嫌そうな力強い足音と共に自室へ戻ろうとする灰原。伊吹が雑誌を片手にその後を追う。

 

「いや、多分誤解してる。哀が考えてるようなのじゃなくて、ベルモットのこととか思い出してて」

「……っ!!」

 

 その一言に鋭く目尻を吊り上がらせて、憤怒に染まった怒りの顔で振り向く灰原。「あ、違っ」と、あたふたする彼の手に掴まれた女の写真が視界に入る。伊吹を一度睨んだ灰原は、一言も言葉を発することなく部屋へと入り、投げつけるように目一杯の力で扉を閉めた。伊吹はその不機嫌さを表したような大きな音に思わず目を瞑り、風圧に前髪がそよぐ。

 

「あのー……」

「……」

 

 恐る恐る発せられる彼の力ない声に、彼女の返事は返ってこなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 数日後の休日のこと。青い空に緩やかな風が吹くお昼前の時刻。人気のない河原には阿笠博士と少年探偵団が集まっていた。それぞれの手には各家から持ち寄ったと思われる古い新聞や雑誌がある。

 

「焼き芋するには季節外れじゃねえか?」

 

 コナンが呆れたような声で、今回メンバーの招集をかけた灰原へと尋ねる。

 

「いいのよ。博士の発明の実験が目的なんだから」

「焼き芋、楽しみだねっ!」

「おう! 食うぞー!」

「元太くんは、食べ物のことになると特にパワフルですね……」

 

 阿笠博士が研究中の発明品とは、ものを燃やした際に発生する“煙の流れを制御する”というもの。その実験を兼ねて、せっかくならということで、子供たちを集め焼き芋をすることにしたのだ。

 

「みんなの家から燃えそうな古新聞なんかのゴミを持ち寄ってね。うちにもちょうど燃やせそうなゴミがあったから」

 

 灰原が淡々と話しながら持ってきた雑誌の束をドスンと置く。その態度にはいつもよりも不機嫌さが見えていた。

 博士がキャンプ道具を使い慣れた手つきで焚き火を起こすと、小さな煙が立ち上る。

 

「ようし、それじゃあみんな、持ってきた燃えるものを入れていくぞい」

「「はーい!」」

 

 火が安定したところで博士がアルミと牛乳パックにくるんだ芋をセットし、子供たちがはしゃぎながらそれぞれが持ち寄った雑誌や新聞などをばらして投げ込む。

 そんな中、不機嫌そうな半眼の灰原が広げた雑誌の山に全員の視線が集まった。それは紛れもなく伊吹の部屋にあったものであり、その中には先日の夜の雑誌も含まれている。雑誌には決して18禁となるようなものは含まれていないが、表紙や中のグラビアにはきわどい水着を着た金髪のセクシーな外国人女性の写真が多数掲載されていた。

 その雑誌をどこから持って来たのか知っている博士と、すぐに察しのついたコナンは苦笑いを浮かべ、子供たちは思わず顔が赤らむ。

 

「……」

 

 一言も発することなく、無表情のまま灰原が黙々と雑誌を火にくべていく。次々に入れられる雑誌に焚き火は勢いを増し、大きく膨らむ。しかし冷え切った彼女の顔を溶かすことはできない。

 全ての雑誌を火に投げ入れた灰原が木の棒を片手にしゃがみこみ、変わらぬ無表情と冷め切った目で焚き火をつつく灰原。棒を頻繁に動かして突き刺すその動作は芋の焼き上がりを待つというよりは、ゴミに対して「さっさと燃えろ」と言っているかのようだ。

 

「哀ちゃん、怖い……」

 

 思わず呟く歩美の言葉に一同が頷いた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「おー、ここでやってたんだ」

 

 ゴミも一通り燃え尽き焼き芋が出来上がった頃、煙の匂いに釣られるように土手沿いの道から買い物袋を片手に持った伊吹が現れた。博士とコナンの苦笑いが彼を迎え、灰原はどこかスッキリしたような満足気な顔で両腕を組み燃えカスを見下ろしている。伊吹の登場で先ほどの雑誌を思い出したのか、子供たちは思わず顔を赤らめる。場のおかしな雰囲気を察するも、全く身に覚えのない伊吹に歩美が詰め寄る。

 

「伊吹お兄さんさいてー!」

 

 伊吹の顔を見て先ほどの雑誌の写真をより鮮明に思い出したのか、顔をさらに赤く染めた歩美が伊吹の心を抉り、フンっとそっぽを向く。

 

「ええ、なに、どしてっ?」

 

 現状を把握できずおろおろと両手を動かしなが困っている伊吹に「可哀想に」と同情するコナン。

 

「あ、ほら、ジュース買ってきたよ、うぇっ、げほっ」

 

 物で釣ろうと袋の中を漁る彼に、焚き火の煙が襲いかかった。緩やかな風に乗って漂うところを見るに、博士の発明は失敗したようだ。

 しばらく燃え続けた焚き火の跡から転がすように焼き芋をほじくり出し、素手でも持てる程度に冷ましてから灰原へと差し出す伊吹。

 

「ほれ、ホクホクに焼けてるぞ」

「要らないわ、焼き芋が目的じゃないから」

「え、じゃあなんで焼き芋してんの? 季節外れじゃね?」

「……博士の発明品のテストよ」

「へー」

 

 まぶたを閉じて腕を組んでいた灰原はチラリと伊吹の顔を見つめ、「ゴミを燃やすため」という言葉は飲み込んだ。

 その日の夜、暇つぶしに雑誌でも読もうとした伊吹だったが、自室を探しても一冊も見当たらない。「あれー?」と頭を抱えながらリビングへ顔を出し、灰原に雑誌の所在を尋ねた。しかし彼女はソファの上でうつ伏せに寝転がり、肘をついて雑誌を見ながら「知らないわ」と言うばかり。パタパタと足を動かしながら、いつものつまらなさそうな顔に薄らと満足そうな笑みが浮かんでいたことを伊吹は知らない。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 深夜2時、街は静まり返る丑三つ時。虫の声も聞こえない静寂の中で伊吹は真っ黒なスーツに着替えていた。音で同居人を起こさないように細心の注意を払いながら自室のドアを閉める。チラリとリビングの方に目を配ると、室内に薄暗い明かりが灯されていることに気がついた。足音を殺してそっとリビングへ入ると、そこには寝巻き姿で眠たそうに目をこする灰原が水を飲んでいた。

 

「起きてたんだ」

「……トイレにね」

「ちょっと出かけてくる」

 

 彼の言葉と着込んだスーツ、こんな時間にこそこそと出ていこうとする様に、外出の目的と密会するであろう相手に見当を付ける灰原。玄関で黒光りする革靴を履く彼に「ちょっと待って」と呼び止め、パタパタと駆け足気味に自室へ戻る。1分と待たずに戻ってきた彼女の手には、なにかの液体が入った小瓶が握られている。真剣な顔つきでそれを伊吹へと吹き付けると、辺りは爽やかな柑橘系の香りに包まれていく。どうやら彼女の香水のようだ。

 

「こんなにかけるものなの?」

「ええ」

 

 この手のことに疎い伊吹でも「かけすぎでは?」と疑問に思うほど、灰原は香水をプッシュして伊吹に浴びせる。

 自分についた香りを嗅ぎながら困惑したような表情を浮かべる伊吹。香水を吹きかけただけでは安心できないのか、灰原の顔は晴れない。彼女は不安そうに少し眉を垂らし、何か言いたげな顔で伊吹を見上げる。灰原は指先でそっと伊吹の裾をつまんで引っ張り「しゃがんで」と小さく囁く。伊吹がゆっくり腰を下ろし、その場にしゃがみこんで灰原と目線を合わせる。すると彼女は糸が切れた人形のように力なく、倒れこむように伊吹へもたれかかった。それをビクともせずに軽々と支える伊吹。

 腕を伊吹の後ろに回すことはなくダラリと垂らしたまま、伊吹の右肩に自分の口元を当て、その体温を楽しむ。

 そっと頭を動かして顔を上げる灰原。揺れた髪と彼女の吐息がくすぐったいと思ったのも束の間、伊吹は首元にチクリとした痛みを感じた。灰原の唇が伊吹の首元に吸い付いている。彼女の暖かい口と濡れた舌が伊吹の首から離されると、そこに真っ赤な“マーキング”が施されていた。

 彼の体をぐっと押すようにして、自分の足で立つ灰原。その両手は伊吹の厚い胸板に触れたまま、彼を上目遣いに見上げる。恥ずかしげに薄らと頬を朱に染め、目は満足そうにキラキラと光り、口角は楽しそうに吊り上がっている。照れたような、勝ち誇ったような、いたずらっぽい表情を浮かべ、珍しく感情をクールに隠しきれずに溢れ出しているようだ。

 

「いってらっしゃい」

「い……いってきます」

 

 首元を押さえてキョトンとする伊吹だったが、普段見せない灰原の感情豊かな顔に思わず心がドキリとして暖かくなるのを感じた。思わず口篭ってしまう。

 満足そうな笑みを浮かべて手を振る彼女に、伊吹は思わず手を振り返してぼーっとした表情のまま阿笠宅を後にした。

 彼を見送った灰原はドアの鍵をかけ、玄関の電気を消す。もう一度寝ようかとも思うが、自分でも意外だった自身の行動に驚き、目は完全に覚めてしまった。微かに熱を感じる頬に右手を当て、瞳を閉じて自分を落ち着かせるように一息吐く。しかし鼻をくすぐる爽やかな柑橘の香りに気づくと、彼から移されたものだという事実に先ほどのことが更に鮮明に思い出され、頬の熱は一層に増す。彼とお揃いの香りだということと、その香りに包まれて首に赤い印のついた伊吹を見たときの“あの女”の顔を考えると、思わずニヤつきそうになる。

 そんな自分の頬を両手で包み、吊り上がりそうになる顔を落ち着かせるようにマッサージしながら、リビングのソファに座り込む灰原。今の自分の顔は彼にも、誰にも見せられないと思いながら、落ち着くまでリビングで頭を冷やすことにした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 午前3時頃、先日と同じ港沿いの道を1人歩いている伊吹。眠りについた街は静まり返り、信号は赤く点滅している。

 伊吹は先ほどの灰原との出来事にぼーっとする頭を冷やすよう深呼吸を繰り返す。静かな街に自分の心臓の音だけがやたら大きく聞こえた。ベルモットに会う前にスイッチを切り替えなければと、ざわつく心を落ち着かせる。誰もいない歩道に1人立ち尽くし、しばらく俯いていた伊吹がゆっくりと顔を上げたとき、その顔は無機質な“Coke”のものへと変わっていた。

 

「Hi,Coke! 今日も時間ピッタリね」

「どうも」

「あら……?」

 

 先日と同じ港のコンテナ横で落ち合った伊吹とベルモット。前と同じように暗闇が辺りを包み、オレンジの照明だけが辺りを照らしている。ベルモットは今日もボディラインが強調されたライダースーツを着込み、後ろにはハーレーが停まっている。足元にはまだ1本も吸殻は落ちていない。

 音もなく港に入って来た伊吹に気がついた彼女が、変わらぬ甘い声で呼びかける。タバコを投げ捨てて彼を見ると、すぐにその首元に赤いマーキングがあることを目ざとく見つける。

 どこか気に食わないような顔でニヤつきながら、しなやかな足取りで伊吹へと近づく。1m程の距離まで近づいたベルモットが両足を広げて堂々と立ち、腰に両手を当ててお辞儀するように体を曲げる。伊吹の首元や顔を下から覗き込むように見上げる。

 

「ふーん……、……あら?」

「……」

 

 目を細め広角が上がってはいるものの、ベルモットの表情は愉快そうなものではない。彼の首の痣を見ていた彼女が何かに気づいたように鼻をヒクつかせる。もう半歩近づき、伊吹の腰辺りから首元まで顔を滑らせながら匂いを嗅ぐ。先程までのニヤついた笑顔は消え、彼女の眉間にシワが寄る。隠す気もない不快そうな顔はまるで不機嫌な犬か狼のようだ。

 

「あなた……すごく臭いわよ?」

「え……、そうですか」

 

 思わず自分の匂いを嗅ぐ伊吹。すっかり自分の鼻は慣れてしまっているが、やはり香水を付け過ぎなのではと心配になる。

 そんな伊吹に目を細めて小さく微笑むベルモット。どこか挑戦的な表情が伊吹の顔を捉える。正確には彼の香りの向こうにいる女の影に、その目は向けられているようだ。

 舐めるように見つめてくる彼女の瞳にどこか気まずさのような、居心地の悪さを感じる伊吹だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ちょっと走らせてくれない?」

「ええ、いいですけど」

 

 今夜の取引では前回のようなトラブルもなく、滞りなく終了した。取引相手もベルモットの色香に、気持ちだらしのない顔をしていた。しかし表情にこそ出さなかったが、今夜の取引中ベルモットはやけに不機嫌に見えた。いつもの余裕の微笑みも、目は深く冷たい深海のようだった。

 仕事を終えた2人が颯爽とバイクに跨り、夜の帳へと消えていく。伊吹が運転をし、ベルモットとタンデムで車通りの少ない海岸線を猛スピードで駆け抜けていく。真っ直ぐ最初の港へと戻ろうとバイクを走らせる伊吹に、メット内のマイク越しに囁くベルモット。仕事終わりにそのまま軽くツーリングというのも珍しいことではなく、伊吹は慣れたことのようにエンジンを力強く回転させた。

 身も心も冷やすような深夜の海風に、ベルモットはさらに腕に力を込めて伊吹を抱きしめた。それは誘惑するような触れ合いではなく、愛する者を包容するような優しい手つきだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そうだ、あなたに渡すものがあるのよ」

「……またですか?」

 

 ベルモットが満足するまでバイクを走らせたあと、例の港まで戻ってきた2人。メットを外し、彼女を見送ろうと少し離れて手を組んで待機している伊吹に、この前と同じように声をかけるベルモット。見透かすような青い瞳を挑発的に細め、口元は小さく微笑んでいる。前回の夜のことを思い返して、思わず伊吹はベルモットの艶やかな唇に目を奪われた。

 色気のあふれる目で、人差し指を曲げながら自分を呼びつける彼女に警戒心を見せる伊吹。ゆっくりと彼女へ歩み寄る。ベルモットは彼の手を掴むと自身へと引き寄せ、この間の夜のように顔を近づけていく。伊吹は思わず体に力を入れて踏ん張ってしまう。そんな彼の反応に楽しそうに悪戯な笑みを浮かべるベルモット。

 

「ふふっ、冗談よ。渡したいのはこれ」

 

 伊吹を引き寄せる力を緩め、掴んだままの彼の右手に小さな小瓶を乗せる。辺りのオレンジの光を乱反射するガラスの瓶は、薄暗い港の中でもやけに輝いて見える。中には透き通った薄紫の液体が揺れていた。

 

「やっぱりあなた、酷い匂いがするわ。今度来るときはそれを付けてきなさい」

 

 キョトンとした顔で手元のガラス瓶を眺める伊吹に、楽しそうな笑顔を浮かべたまま命令するベルモット。手渡したのは彼女が愛用している甘い香りの香水のようだ。「はあ……」と生返事をする伊吹へウインクを残して、ベルモットは愛用のハーレーに跨り颯爽と港を去っていった。

 1人残された伊吹は手元の香水を珍しそうにしばらく眺めたあと、ポケットへと仕舞い帰路へとつく。街灯に照らされた薄暗い帰り道で、伊吹は深い深呼吸を繰り返しスイッチを切り替える。途端に自分を包む柑橘系の香りと、まだ熱い気がする首元に意識が持っていかれる。熱を冷ますように首をさすりながら空を見上げると、夜明けの近い蒼い空に白い半月だけが煌々と輝いていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 遠くの方で太陽が重い腰を上げようとしている午前5時頃。途中で買った缶コーヒーを片手に阿笠宅まで帰って来た伊吹。音を立てないようにそっとドアを開けてこそこそと帰宅する。玄関に灰原が待ち構えていないことにほっと胸を撫で下ろし、ネクタイをほどきながらリビングのドアを開ける。すると薄ぼんやりと照らされるソファと、その上でうたた寝するように丸まっている灰原を見つけた。彼女の体はテレビの画面に照らされ、世界の天気予報と一緒に流れてくるクラシックの音楽が心地いいのか、穏やかな笑みを浮かべている。

 

「風邪引くよ……」

「……」

 

 伊吹が小さく声をかけるも、灰原は全く起きる気配を見せない。ジャケットとネクタイを脱いだ伊吹が、彼女を起こさないようにそっと抱き上げベッドへと運んでいく。彼に抱かれた瞬間、一瞬彼女の顔が歪められたような気がした。

 数時間後、カーテンの隙間から差し込む日の光に、顔をしかめて起きる灰原。目を覚ました彼女はまだ眠り足りなさそうにまどろみ、なんとか重たいまぶたを持ち上げる。ベッドの上で女の子座りのまま何もない空間をぼーっと見上げ、意識を覚醒させていく。確か昨日は彼を待っていてそのままうたた寝を……、と頭が冴えていくのと同時に自分の昨夜の行動が思い返される。左手で布団を口元まで持ち上げ、右手で頭を押さえる。薄らと頬を染めながら目を閉じて困ったようにため息を吐く。不安と焦りと対抗心に駆られて、思わず衝動的な行動をしてしまったことを反省する。

 いつもの澄まし顔へ戻すように手で両頬を叩く。パチパチと小さな音をたてながら、彼女は思わず鼻をヒクつかせた。自分の体を包む柑橘系の香りの中に、微かに甘ったるい別の匂いが混じっていることに気がついた。ハッとした彼女が慌てた様子は見せないものの、早足気味に伊吹の部屋へと向かった。

 

「んん……ぁぁ……」

「……」

 

 ベッドの上では伊吹が寝言に口をむずむずと動かしながら、間の抜けた顔で寝息を立てていた。そんな彼の枕元に立ち腕を組んで呆れたような目で見下ろす灰原。小さなため息をついて彼の体に鼻先を近づけ、気配に彼が起きないよう注意しながら匂いを嗅ぐ。帰宅した際にシャワーを浴びたのか漂うのは微かな石鹸の香りだけだった。

 伊吹から顔を離した灰原は不思議そうな表情を浮かべている。彼女が部屋に入った時から確かに感じる嫌な匂い、原因は伊吹かとも思ったがどうやら違うようだ。部屋の中をぐるりと見回す灰原の視線が、ハンガーにかけられているスーツで止まる。

 疑うようなジトっとした目で睨みながらスーツへと近づいていく。伊吹のスーツを抱きしめるように持ち上げ匂いを嗅ぐ。自分の行動に「変態では……」と苦笑いしながらも、しっかりと服の香りを確認する。自分が昨夜吹きかけた柑橘系の匂いの中に確かに別の匂いがし、灰原は思わず顔をしかめた。

 日は完全に登りきり、カーテンの色を透かすように強い日差しが差し込むも、伊吹は未だ起きる気配を見せない。小さくため息を吐いた灰原は彼を起こすことなく、スーツを抱えて脱衣所の方へと姿を消した。先日と変わらない流れるような早い動きで洗濯機の中へスーツを叩き込む灰原。すると、コトンと何か硬いものがスーツのポケットから床へ転がり落ちた。「なにかしら」とその瓶を拾い上げる。脱衣所の照明を反射してきらめくガラス瓶の中には薄紫の綺麗な液体が揺れていた。彼女がそれを香水だと理解するのに数秒とはかからず、そっと鼻を近づけて嗅いだその甘い香りに、それが誰のものなのかも理解する。

 灰原の顔からスッと表情が抜け落ち、細められた目は冷たく手元の香水を見下ろしている。ひび割れそうなほどに力強くガラス瓶を握り締めていた。

 伊吹は未だ、間の抜けた顔で惰眠を貪っている。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 時計の短針が12を回った頃、伊吹が腹を掻きながらリビングへと顔を出した。ぼんやりする頭には寝癖がついており、眠たそうに目をこすっている。

 開いた窓からは今日も爽やかな柔らかい風が吹き込み、部屋に心地よい緑の香りを連れてくる。なびくカーテンは日差しに照らされ白く輝き、部屋は心地よい涼しさに満たされている。

 

「あれ、……スーツが干してる。哀が洗ってくれたの?」

「ええ」

「あー……ポケットになにか入ってなかった?

「何もなかったわ」

 

 ソファに腰掛け脚を組み、リモコンを片手にニュースを眺めている灰原。昨夜の“贈り物”を思い出した伊吹が、スーツを洗濯したという彼女にその所在を尋ねるも、間髪いれずに知らないと拒絶される。

 寝ぼける頭をかきながら「おかしいなあ」と首を傾げる伊吹。その場で目を閉じてボーっと立ち尽くし、しばらく考え込んだあと「まあいいか」とどうでもいいかのように彼は忘れることにした。

 チラリと後ろの伊吹の様子を窺っていた灰原だったが、彼のその“贈り物を重要視していない”どうでもよさげな態度に小さく口元を綻ばせた。

 

「こっちにいらっしゃい、寝癖がひどいわよ」

「うぃ」

 

 沸いているコーヒーをカップに注いでいる伊吹に、灰原が空いている自分の右隣をぽんぽんと手で叩きながら招く。伊吹はその言葉に引っ張られるように、コーヒーをすすりながら隣に腰掛ける。

 寝ぼけ眼でぼんやりとしている彼の頭に腕を伸ばし、手櫛で髪をといていく。まるで猫のように、心地よさそうに目を細める彼の顔に思わず笑みが零れる灰原。子供をあやすかのような優しい瞳と、いざという時とのギャップに呆れたような小さなため息を零す。寝癖をとく手ぐしの動きはその内、彼の頭を撫でるものへと変わっていた。

 

「あ、そうだ」

「ん?」

 

 彼女が忘れていたというように声を上げ、テーブルに置いていた真新しいガラスの小瓶に手を伸ばす。オレンジがかった綺麗な液体が入ったそれは、先日彼女が伊吹に吹きかけていた香水と同じ物のようだ。

 

「これ、あげるわ。使いなさい」

「あぁ、ありがとう。……そんなに臭い?」

「いえ、今は大丈夫よ。ただ……外に出るときは付けるといいわ」

「んー、わかった。じゃあ試しに」

 

 伊吹の大きな手のひらにちょこんと乗っかる可愛らしい小瓶。伊吹がその新品の香水を開け、爽やかな柑橘系の香りを楽しむ。両の手首にすりつけ、首元にもこすりつける。

 ソファの手すりに肘をかけて頬杖を突きながら満足そうにこちらを見つめていた灰原に、「どう?」と首と手を差し出してみせる伊吹。「いいんじゃない?」と興味なさそうにしながらも思わず口角が吊り上がり笑みが零れる灰原。そんな彼女の反応に伊吹も満足したように笑い、小瓶を興味深そうに眺める。

 香りに釣られるように彼の首元に目をやった灰原が、昨夜自分が付けた赤黒い痕跡に気がついた。慌てて目をそらし、テレビへと視線を振る。思わず泳ぎそうになる視線を画面へと縛り付け、火照りそうになる頬を頬杖で隠す。そんな彼女に気がついた伊吹が、不思議そうに声をかけた。

 

「どしたの、哀」

「……何でもないわ」

「熱でもあるの」

「いいえ、平気よ。気にしないで」

「ほんとに?」

「え、ええ……」

 

 心配そうに灰原の顔を覗き込む伊吹。急に視界いっぱいに彼の姿が広がり、首元の痣が目の前に来る。さっと目を逸らした灰原。特に体調が悪い様子もない灰原に「ならいいけど」と伊吹は優しく微笑み彼女の頭に手を置く。

 その暖かい手のひらと優しい笑顔、そしてほのかに漂うお揃いの爽やかな香りに、更に顔に熱が集まるのを感じる灰原。咄嗟に顔を伏せ、頬についていた手を額に当て、その顔を見られないように隠す。

 

「おいおい、ほんとに大丈夫か?」

「大丈夫だから」

「んー、そう?」

「大丈夫だから、ほんとに」

 

 未だカーテンを揺らし部屋を吹き抜けるお昼の爽やかな風。微笑みながら灰原を見つめる伊吹と、顔を見られまいと必死に俯き隠す灰原。のどかな午後の室内は暖かい空気に包まれている。

 

「……見ないで……」

「ん?」

 

 消え入りそうな彼女の小さな呟きは、窓の外から聞こえる葉擦れの音にもかき消されそうだった。

 

 

 



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6話 捕鯨 前編

 

「それで、ご依頼というのはなんでしょうか? マドモアゼル」

 

 まだ朝も早い毛利探偵事務所では、ここの主である毛利小五郎が応接用のソファに腰掛け、ダンディな面持ちと、いつもより渋く低い声で目の前の依頼人と思われる女性へ声をかける。いつものヨレヨレのものとは違うキッチリとしたスーツを着込み、髪もしっかりとセットしているようだ。

 まだ登校する前の蘭やコナンも小五郎の側に立ち依頼人の話に耳を傾けている。

 

「はい、私の名前は一ノ瀬清美(いちのせ きよみ)と申します、こちらは娘の桜です。実は……毛利さんに身辺の警護をしていただきたく」

「……」

 

 依頼人は鳩尾程まである長さの栗色の髪をゆったりと巻き、ナチュラルな化粧に落ち着いた格好の清楚な女性だった。目尻は優しそうに垂れ下がり、眉は不安そうにハの字になっている。特に強調されているわけでもない胸元でも、やけに大きく見えるほど体は出るところが出ている。

 彼女の隣には探偵団の子供達より少し小さいくらいの女の子が無愛想に座っている。艶々な黒髪をボブカットにされており、水色の可愛らしいワンピースに身を包んでいる。一言も喋らない少女はまるで人形のようだ。

 

「警護ですか。いいでしょう、もう手とり足取り何取りお守りしますよ!」

 

 小五郎は依頼人の右手を自身の両手で包み込むようにしっかりと握り締め、テーブルに膝をつき身を乗り出して食いついている。綺麗な女性が相手となると俄然張り切る小五郎を冷ややかな目で眺める蘭。

 小五郎の勢いに若干怯えたようにビクついた清美だったが、仕切り直すように「こほん」と咳払いし、申し訳なさそうに続きの言葉をつむぐ。

 

「ただ、その……事情がありまして、すぐに報酬の方がご用意できない状況でして……」

「と、言いますと?」

「はい。実は夫に先立たれ、その遺産の相続で揉めておりまして、私とこの子の身が危険にさらされる可能性があり……」

 

 清美が心配そうに隣の桜の頭を撫でる。少女は無愛想ながらも心地よさそうに目を瞑る。

 

「はぁ、それで報酬が遅れるというのは、もしかして?」

「はい……、報酬はその相続した遺産からお支払いすることになりますので、揉め事が落ち着いて相続されるまでお支払いは難しく……」

「具体的には、いかほどに?」

「数ヶ月は、かかるかと……」

「すっ、数ヶ月ぅッ!?」

 

 清美の言葉に驚き仰け反るように自分の席へと座る小五郎。美人相手の仕事は受けたいが数ヶ月もの間報酬が支払われないのは困るようで、膝に肘をついて頭を抱えてしまっている。

 

「い、いやー、流石にそれはちょっと……」

「……」

 

 額に汗を流しながら申し訳なさそうに断ろうとする小五郎。それを雰囲気から察した彼女が今にも泣き出しそうな顔で見つめる。その顔に「うっ」と言葉を詰まらせてますます汗を流す小五郎。しかし小五郎もタダ働きはできないと、ここは心を鬼にして断る。

 

「す、すみません……この件はお受けできかねます」

「そう、ですか……。こちらこそ無茶なことを依頼してしまい、申し訳ありません」

 

 申し訳なさそうな顔で頭を下げる小五郎に対して、清美も同じく申し訳なさそうにお辞儀をする。娘の桜の手を引いて力なく事務所を出て行った。扉が閉まるときに、桜が小五郎に無愛想なまま舌だけを突き出して「あっかんべ」を残していった。

 

「お父さん……」

「しょうがねえだろ、こっちもボランティアじゃねえんだし」

 

 蘭が母娘の去っていったドアを見ながら何か言いたげに小五郎に声をかけるも、小五郎も母娘を何とも言えない気まずさと罪悪感の中で見送るしかなかった。

 

「はぁ……どうしましょう」

「ママ……」

 

 事務所を出た清美が階段を降りながらため息を吐く。彼女には不安そうに見上げてくる娘の頭を力なく撫でることしかできない。

 

「お姉さん」

 

 後ろから小さな少年の声に声をかけられ振り向くと、そこには事務所にいたメガネの男の子、コナンが両手を頭の後ろに組んで立っていた。

 

「僕が頼れる人、紹介してあげよっか?」

「頼れる……人?」

「……」

 

 自分の知る頼れそうな知人には全て声をかけ、ここをはじめ探偵事務所や警備事業所も訪ねたが、どこもダメだった。困り果てた清美は、ダメ元でその少年の言葉に乗ってみることにした。

 朝の清らかな日光が彼女たち母娘を暖かく包み込む。気のせいか、目の前の影が少し照らされていくような気がした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「灰原、今日ちょっとお前の家行ってもいいか?」

「いいんじゃない」

 

 帝丹小学校1年B組、まだ1時間目の授業が始まる前の時間。欠伸を噛み締めながら登校してきた灰原に気づいたコナンが、すぐさま本題を振る。めんどくさそうに目を細めながらランドセルの教科書を取り出していた灰原がどうでもよさそうに答え、博士にメカの修理でも頼むのだろうと当たりを付ける。

 

「萩原に用があんだけど」

「どんな?」

 

 コナンが伊吹に用があるというのは珍しいことではない。しかしいつもは勝手に家に来るため、わざわざ事前に断りを入れるコナンに何やら嫌な予感がする灰原。

 

「いやー、ちょっと頼みごとっていうか。客を連れて行くんだけど」

「……どんな?」

 

 灰原の目が半眼のジトっとしたものに変わる。嫌な予感も然ることながら、見知らぬ他人を余り家に入れたくないという思いもあった。

 

「ま、まあそんな怪しい奴を連れて行くわけじゃねーからさ」

「……」

 

 苦笑いを浮かべるコナンを訝しそうに見つめる灰原。伊吹に用があって、誰かを連れてくる。彼女の嫌な予感は益々増していった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ただいまー。ん?」

 

 ゆっくりと日が傾き始め、街が徐々にオレンジに染められる頃、伊吹はお気に入りのカフェオレを鞄に入れて阿笠宅へと帰って来た。鍵を開けて玄関に入ると、見知らぬ靴が2足。白く清楚なハイヒールと、同じく白くフリルのついた小さな可愛らしい子供の靴。

 誰かお客さんでも来ているのかとリビングを覗き込む。照明は点けられてない室内はまだ少し高い西陽の光だけで照らされている。そこにはソファに座りテーブルを囲む博士とコナンと見知らぬ女性と子供、そして不機嫌そうに半眼でテレビを見ている灰原がいた。

 

「おぉ伊吹君、帰ったか」

「ただいま、博士。コナンも来てたんだ」

「ちょっとおめーに話があってな」

「ふーん。で、こっちの美人さんとお嬢さんはどなた?」

 

 制服のネクタイを緩めながらテーブルの方へと近寄り、ソファの脇に立ったまま会話を重ねる。彼の何気ない社交辞令も耳を大きくして聞き逃さない灰原。不愉快そうな顔は更に恐くなる。

 

「はじめまして、私は一ノ瀬清美と申します。こっちは娘の桜です」

「……」

「あぁ、どうも、萩原です」

 

 相変わらず困ったような顔の清美が自己紹介をする。釣られて伊吹も答えるが、桜は無愛想に伊吹を見上げるだけだった。

 

「それで、どしたの?」

「ああ、実はな……」

 

 コナンは母娘が今朝事務所に来たこと、そこで頼まれた依頼、そして代わりに伊吹を紹介しようと思って連れてきたことなど、一連の流れを説明した。聞こえていないかのようにテレビを見る灰原だったが、ソファを叩く指の速度は徐々に上がっていく。

 

「だいたい話はわかった。とりあえずもう少し詳しく話が聞きたいんだけど」

「はい。私の夫は一ノ瀬源蔵と申し、日本の経済界にもそれなりに顔の効く人でした」

「おぉ、一ノ瀬源蔵といえば有名な資産家の、ついこの間亡くなったとニュースで……」

 

 博士が顎に手を当てて天井を眺めながらぼんやりとニュースの内容を思い出す。

 

「はい、その一ノ瀬源蔵が私の夫です。夫が亡くなったことで私と娘の桜には莫大な遺産が残されました。ただ、私の親戚たちというのが、その……我の強い人たちでして、何とかしてその遺産を自分のものにしよう、と」

 

 顎に指を当てて困ったような表情で、言葉を選ぶように呟く清美。向かいに座って話を聞いていた伊吹は大体の話の流れの見当がついたようだ。

 

「なるほどね、それでその我の強いというか欲の強い親戚連中が、あんたら母娘をどうこうして、遺産を自分たちのものにしよう、と」

「はい……」

「金持ちも大変だねぇ」

 

 背もたれに寄りかかって呆れたような表情でため息を吐く伊吹。

 清美は俯き、両手を膝の上で強く握り決めながら涙をこらえて言葉を続ける。

 

「私はまだしも、娘にもしものことがあると思うと……それで有名な毛利探偵にもお願いした次第で」

「で、支払いをその遺産から出すから、相続ができるまで数ヶ月報酬が支払えないってなって、断られた、と」

「はい……親戚たちの妨害もあり、なかなかことが運ばず……。そのごたごたの間に私たちは消されるかも……」

「ママ……」

 

 その目から涙をポロポロと零し、雫を胸元に落としながら訴える清美。隣の桜が心配そうにその顔を見つめる。室内は痛々しい沈黙に包まれ、彼女のしゃくる声だけが響く。

 伊吹が優しい笑みを浮かべながらそっとハンカチを彼女に差し出す。

 

「子供の前で無闇に泣くものじゃない」

「あ、ありがとう……君、いくつなの?」

「えと……17、だけど」

「そう……。ふふっ、大人っぽいのね」

 

 伊吹の歳不相応な対応に思わず歳を尋ねる清美。彼から受け取ったハンカチで涙を拭っている。先程までの涙を流す清美の姿に灰原の怒りの表情も消えていたが、今の2人のやり取りに漂う暖かい雰囲気に、思わずこめかみに怒りが浮かぶ。

 

「お姉さんは幾つなの?」

「今年で30になるわ」

「三十路ね」

 

 なんとなしに質問したコナンに、「もうおばさんね」と涙で目を充血させながら笑って答える清美。興味なさげにテレビを観ていた灰原がすかさず辛辣な言葉を投げかける。「うぅ……」と泣く清美の涙は先ほどと違う理由のようだ。

 

「そんなお金持ちの家にいるなら遺産を相続しなくてもお金はあるでしょ。それに物を言わせて警備でも雇えばいいんじゃないの」

 

 顔はテレビ画面を捉えたままジト目の目線だけを清美に向け、ぶっきらぼうに先程から思っていた疑問をぶつける灰原。「それは俺も思っていた」と伊吹やコナンも同じことを考えていたようだ。そんな面々に、「それが……」と申し訳なさそうに話す清美。

 

「家にある資産などはほぼ全てが夫名義のため、私が自由に使えるお金はほとんどありません……毛利探偵に報酬をお支払いすることも、専門の警備を雇うこともできないのです……」

「まあ細かい事情はともかく、お金が用意できないみたいだし。伊吹兄ちゃんなら無料で何とか出来るんじゃないかと思って連れてきたんだ」

 

 コナンが外行きの顔と声色で、笑顔を伊吹に向ける。そんなコナンを半眼で睨みながら「余計なことを……」と目で訴える灰原だった。

 清美は泣き崩れるように伊吹の足元へと縋りつく。伊吹の膝に両手を重ねて置き、その豊かな胸元を押し付けるように身を寄せ、涙で潤んだ瞳で見上げる。

 

「あ、いや、その……」

「……」

 

 ベルモットとはまた異なるその色気に思わずドギマギとしてしまう伊吹。灰原は視線だけでなく、顔や体ごと伊吹と清美の方へ向け、怒りの瞳で彼らを睨む。困ったように声を上げるだけで彼女から離れようとしない伊吹に、こめかみがヒクつき眉間にシワが寄る。

 灰原が「ゴホンッ」と咳払いをすると伊吹がハッとしたように彼女を見る。その表情と背後に燃え盛る炎の幻影に思わず顔を青くする。慌てて清美の両肩を掴んで体から引き離す。足元に座り込む彼女の目をまっすぐ見つめる伊吹に、先程までのドギマギした様子はない。彼女を諭すように静かに話しかける。

 

「あなたは可哀想だと思うし、同情もする。だが、遺産を相続して正式に警備を雇うまでの数ヶ月もの間、あなたたち母娘に張り付いて警備することは無理だ」

 

 伊吹は申し訳ないという罪悪感を感じながらも、決して彼女から目を逸らさない。

 

「俺には守るべき人がいる、そいつを放っておくことはできない」

 

 伊吹の力強く、照れる様子もなく言い切る姿に灰原は腕を組んで瞳を閉じ、満足そうな笑顔を浮かべる。

 彼のその言葉には一分も隙はなく、これ以上はどう頼んでも無駄だと理解する清美。思わずまた溢れそうになる涙を見られないように俯き、そっと拭う。

 

「いえ、……お話を聞いてくださって、ありがとうございました。私たちはこれで失礼します……」

「……」

 

 指で目尻を拭った清美がそっと立ち上がり、深くお辞儀をして桜の手を引き玄関へと向かう。

 

「お姉さんちょっと待って」

 

 帰ろうとする母娘を呼び止めるコナン。振り返った清美に連絡先を聞いているようだ。

 

「万が一何かあった時のために、ね。伊吹兄ちゃんも交換しておきなよ」

「ん? んー、まあ万が一何かあった時に手を貸せそうなら……」

「必要なの?」

 

 コナンに言われたまま伊吹も念の為に連絡先を交換する。灰原の低い声がソファの方から聞こえた。

 

「それでは私たちはこれで失礼します……」

「力になれなくて悪いね」

「いえ、お話を聞いていただけただけでも……ありがとうございました」

「……」

 

 玄関まで母娘を見送る一同。桜に愛想なの無い目で睨まれながら「あっかんべ」をされる。

 

「持ってきな、選別だ。美味いぞ」

「……」

 

 そんな少女に伊吹がお気に入りのカフェオレを渡す。桜は無愛想なままだったがそれを受け取り、じっと伊吹の顔を見つめる。感謝の意なのか小さな頭をこくんと頷かせて、母親に手を引かれていった。

 玄関の扉を開けると足元を冷やすように外気が流れ込み、伊吹が帰宅した時よりもオレンジがかった西日が見えた。影は長く伸び、空は徐々に夜に飲み込まれていく。夕闇の中に消えていった母娘の背中は影に暗く染まっていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「博士っ! 萩原はいるか!?」

 

 あの母娘の訪問から数日ほど経った休日。日がまだ頭の上まできていない午前10時頃、コナンが慌てた様子で阿笠宅に飛び込んできた。

 眉間にシワを寄せ肩で息をしながらリビングにいた博士に伊吹の所在を尋ねる。騒がしいその様子に、何事かとソファでコーヒー片手に寛いでいた灰原が目を細めて振り返る。

 

「伊吹君なら直に起きてくるんじゃないかの」

「まだ寝てんのか、まるでオッチャンだな。灰原、叩き起してきてくれねーか、“万が一”が起こるかもしれねえ」

「なんなのよ」

 

 コナンに追い立てられるように伊吹の部屋へと送られる灰原。イラつくように頭をかくコナンの様子を見て「仕方ないわね」と呆れ顔のままキッチンに立ち寄り、伊吹を起こしに行く灰原。

 遮光カーテンの締め切られた伊吹の部屋は眩しい外の日光に微かに照らされながらも、暗い影が部屋を満たしている。彼はベッドの上で気持ちよさそうにぐっすりと眠っていた。灰原は呆れ顔で彼を見下ろしながらため息を零した。そのジトっとした目のまま両手に握り締めた金物を頭上に振り上げた。

 

「何なんだ一体。……俺の至福の時間を邪魔しないでくれ」

 

 目に涙を浮かべて大きな欠伸をしながら伊吹がリビングへと顔を出す。後ろから付いてくる灰原の手にフライパンが握られていることから、よほど不愉快な起こされ方をしたのだろう。

 リビングのカーテンが開かれた窓から、明るい外の様子を眩しそうに目を細めて見つめる伊吹。穏やかな風が吹く陽気な青空と、庭で跳ねるスズメたちに平和な休日を感じているようだ。

 

「おい萩原、この間来た母娘がいただろ。彼女らが殺されるかもしれねえ」

「なんじゃと!?」

「……寝起きから物騒だなぁ。何があったの?」

「これを見てくれ」

 

 コナンの真剣な顔に、意識を覚醒させて頭を働かせる伊吹。コナンが向けてくる携帯の画面を覗き込む伊吹と博士、そこには清美からのメールが表示されていた。

 

「清美さんからのメールじゃん」

「……あなたは連絡とってるの?」

「いや。なんかあのちっさい子が清美さんの携帯使って他愛もない連絡とかしてくるけど」

「そう」

 

 灰原は元いたソファに腰掛けテーブルに置いていたコーヒーカップを拾ってひと啜りする。伊吹を起こしただけでそれ以上は我関せずといった様子の灰原だったが、清美からのメールに反応した伊吹に思わず「あなたはどうか」と鋭い目で尋ねてしまう。特に気にした様子もなく答える伊吹の言葉に「子供ならいいわ」と言わんばかりに視線をテレビへ向ける。

 

「んなこたぁどうでもいいから、これを読んでみてくれ」

「どれどれ」

 

 コナンから携帯を受け取り目を通す。そこには自分と娘が殺されるかもしれないという内容が書かれていた。たまたま盗み聞いた親戚たちの会話によると、普段はお互い(いが )み合っている連中が「とりあえず、まずはあの母娘を消す」という事で意見が一致したらしい。そしてただでさえ金を持っている親戚連中が金を出し合い、1人当たりの負担を減らして殺し屋を雇ったという内容。そして会話の中で「白鯨」という言葉がぼんやりと聞こえたという。

 

「……!?」

「なんだ、どうした」

「……どうしたの?」

 

 携帯画面の上を流れるように動いていた伊吹の目がその「白鯨」という言葉に釘付けになり、見開いて露骨に反応する。珍しく深刻な顔をする伊吹に気がついたコナンが嫌な予感に顔を曇らせ、灰原も伊吹へチラリと視線を向ける。

 

「……いや、まさか」

「博士、『白鯨』ってのが何者なのか調べてくれ」

「あ、ああ、わかった」

 

 口元で左手を握り締め、何かを考え込むように黙り込む伊吹と横目で見つめる灰原。コナンは咄嗟に博士へ「白鯨」なる人物の調査を頼み、博士は慌てた様子で膨らんだお腹を弾ませながらパソコンへと駆けていく。

 携帯を片手に宙を見つめて突っ立ったまま動かない伊吹を呆れたようなジトっとした目で見る灰原が、彼の服の裾を引っ張りソファへと座らせる。伊吹は抵抗する様子もなく、されるがまま灰原の隣に腰掛けた。

 相変わらず黙り込む伊吹と、向かいに座って頭をかくコナンの様子に「やれやれ」と言わんばかりの小さなため息を吐く灰原は、興味なさそうに目を閉じて一口コーヒーを口に含んでほのかな苦味と芳醇な香りを1人楽しんでいた。

 

「わかったぞ、新一!」

 

 印刷した資料を片手に慌てて戻って来る博士。机に叩きつけられるように並べられたその情報に目を通すコナン。真剣だった表情は益々険しくなっていく。

 伊吹もゆっくりと反応を示し、コナンの携帯をテーブルに置くとソファの背もたれに体重と頭を預けてぼんやりと天井を眺める。

 

「ICPOの犯罪者情報にアクセスしてみたところ、『白鯨』という通称の殺し屋の情報が出てきおったわ」

「白鯨は10年ほど前にアジア一体で暗躍し、かつては伝説とまで謳われた殺し屋、か」

「ああ、じゃが関連する情報はいくつか出てくるが、それ以上はわからん。詳しい情報は深いところにあるようじゃ」

 

 資料を手に眺めていたコナンだったが、詳しい情報が無いとわかると頭をかいて伊吹の方へ視線を向ける。何か知っていそうな彼に「情報をくれ」と目で訴える。

 ぼんやりしていた伊吹がその視線に気づくと、小さなため息をついてゆっくりと呟くように話しだした。

 

「俺も白鯨(やつ)に関しての情報はCIA(うち)の資料で見たことがある程度にしか知らないけど、10年くらい前に前線を退いた殺し屋だよ。本人の性癖か矜持かなんか知らないけど、殺り方はこっそり暗殺なんてもんじゃなくて、素手で殺すことを好んでた」

「素手で殺し屋稼業を?」

 

 体を起こして前屈みになり怪談話を聞かせるような小さくも低く響く声で話す伊吹に、思わず生唾を飲み込む博士。無関心を貫いていた灰原も聞こえる話の内容に興味を持ったのか、彼らの方へ振り返る。

 コナンの問いに小さく頷いた伊吹が宙に視線をさまよわせて、頭の片隅にある情報を引き出すように言葉をつむぐ。

 

「その殺しのスタイルから銃火器の入手所持使用が比較的難しいアジア圏で重宝されて名を馳せた。もっとも欧米でも仕事はしてたみたいだけど。生で見た事はないが写真とデータを見る限りでは筋骨隆々のロシア人。その巨体と肌の色から「白鯨」って呼ばれてるんだろ」

「また随分と目立ちそうな殺し屋じゃのう。アジア圏では特に」

「ああ、だが空港の金属探知機だろうが職質されようが関係ない、丸腰だからな。巨漢で逮捕はできないよ、博士。殺し方も暗殺じゃなくて正面から行く奴だから隠れる必要ないしな」

 

 どこか嫌そうな顔を浮かべていた伊吹だったが、なにか思い出したようにキョトンとした顔で「でも……」と続ける。

 

「さっきも言ったけど白鯨は10年くらい前に前線を退いたはずだ。一部では死んだとか言われてるし、生きていたとしてももういい歳のはずだ、隠居してると思ってたけど」

 

 これ以上の情報は無いと言うように再び背もたれに体重を預けて目をつむる伊吹。彼の話しにコナンの眉間には更にシワが刻まれていく。

 ふっと静かにまぶたを開いた伊吹がどこか悲しげに瞳を揺らしながら、西日の中に去っていったあの母娘の姿を思い出していた。

 

「とはいえ、もし本物の白鯨を金に物言わせて引っ張ってきたとしたら、警護もロクにいないあの母娘にはどうすることもできないだろうなぁ……」

 

 伊吹の呟きに室内は沈黙に包まれる。顎に手を当てて考え込むコナン、「弱ったのぉ」と同じく悩む博士。いつもの澄まし顔を崩さず目を閉じて無関心そうな灰原。

 

「とりあえず警察に通報するかの?」

 

 真剣な顔で黙り込むコナンと半眼で天井を見上げる伊吹に博士が提案する。

 

「いや、なにも証拠がない。あの母親が話を聞いたといっても録音も何もないし、立ち聞きしただけでハッキリと聞いたわけでもない」

「それに、日本の一刑事が「白鯨」なんて知らないだろうしね。調べりゃわかるだろうけど、コナンの言う通り証拠は何もないよ」

 

 顎に手を置いて視線を落としたまま答えるコナンと、それに付け加えて、無気力げに右手をふらふらと振る伊吹。

 顔を上げたコナンが「どうする?」と、ぼんやり宙を眺める伊吹に尋ねる。

 

「あの母娘が可哀想だと思うし同情もするよ。でも俺に彼女たちを助ける義理はない。この間断ったところだし」

 

 両膝に手をついて立ち上がった伊吹は慣れた手つきでキッチンのコーヒーを注ぎ、カップから立ち上る湯気の香りで鼻を楽しませる。一口すすり、いい出来だと言わんばかりに小さく微笑み、ソファへと振り返る。左肘をキッチン台に乗せて体重を預けながら口を開いた。

 

「それに、もし白鯨を相手取るなら俺も相応の覚悟がいる。彼女たちのためにこの命はかけられない」

 

 伊吹はあの母娘を思い同情するように、何かを諦めたような小さなほほ笑みを浮かべて上を見上げる。彼の言葉を聞いていた灰原のクールな瞳にも、微かな同情と罪悪感が見て取れた。

 ハッキリ言って赤の他人である母娘のために命をかけられないという伊吹の言葉に、文句を言うことができないコナンと悔しそうに顔をしかめる博士。

 静まる部屋にはどこか遠くから聞こえるようなテレビの音と香ばしいコーヒーの香りに包まれる。明るい朝の日差しが差し込む2階の窓に、絵画のように切り取られた群青が見えた。青色を反射する伊吹の瞳にも、言葉には出さない罪悪感と歯がゆさが写っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 どこからか博士のいびきが聞こえてくる暗い深夜の阿笠宅。明かりも点けられていない室内は窓から差し込む月明かり照らされ、深い蒼色に染められる。

 耳鳴りがしそうな静寂の中、伊吹は1人ダイニングの椅子に腰掛け右手で携帯弄びながら眺めている。画面のバックライトは彼の顔をぼんやりと照らし、影を壁に映し出す。

 

「わたしがママを守る……か」

 

 彼が見つめる携帯には、清美の携帯から送られてくる娘の桜と交わしたメールが表示されている。

 カフェオレのお礼のメールから始まった何気ない会話のやり取り。その日の夕食や家での出来事、お母さんとのおままごとや好きな動物の話。そして自分たちに迫る危機的状況と、健気にも自分が母親を守るという言葉。

 携帯の光を反射する伊吹の瞳には画面の向こうにいる少女の、近いうちに潰えるかもしれない未来を思い描く。無垢な少女に紡がれる、ひらがなの文章に伊吹の心がチクリと痛んだ。

 

「起きてたの」

「あぁ……哀か。ちょっと目が覚めてね」

 

 伊吹の後ろから小さな足音が聞こえた。振り返ると小さな少女の姿が青白い月明かりに照らされて影の中から姿を表す。伊吹はその灰原の姿に一瞬、桜が重なって見えた気がした。

 伊吹と向かい合って座る灰原。彼の物憂げな表情と手元の携帯を見て何を考えていたのかを察する。灰原自身も気づかぬうちに視線を落とし、暗い表情を浮かべてしまっていたようだ。伊吹が慰めるような小さな頬笑みを灰原へと投げかける。

 

「……行っていいわよ」

「ん?」

「あの母娘のこと、考えていたんでしょ」

「まあ……」

 

 伊吹の困ったような顔に目を向けてその小さな唇から言葉を零す。言葉を濁して視線を彷徨わせ、どこか煮え切らない彼に対し灰原は小さく息を吐く。彼女もまた物憂げな、罪悪感を感じているような表情を浮かべている。

 

「あなたがこのままあの2人を無視できるような人間じゃないことは知っているわ」

「……殺し屋の始末は俺の任務じゃないんだけどな……」

「諜報機関の工作員としては失格ね」

「ははは……かもね」

 

 目を閉じて呆れたように笑う灰原に、何かを考えるように視線を静かに泳がせ「弱ったな」と苦笑いを返す伊吹。

そんな彼を慈しむように細められた優しい瞳で見つめる。

 

「……でも、私はそういうあなただから……」

「ん?」

 

 彼女の吐息を漏らすような小さな囁きは静寂の中でも伊吹の耳に届くことはなかった。

 間の抜けたような顔で聞き返してくる伊吹に、いつもの冷めたジト目を向ける灰原。一つ咳払いをして呆れた半眼にいたずらな笑みを浮かべ、挑発的に彼を見つめながら、「それに」と続ける。

 

「あなたじゃなきゃ、どうにもできないんでしょ?」

「……ああ、俺ならなんとかできる」

「……、ただし」

 

 いたずらな彼女の目を力強く見つめ返し、同じく挑発的な笑みを口元にたたえる伊吹。いつもの調子に戻った彼に対し、釘を刺すようにキッと目を鋭くし真剣な顔で右手の人差し指を立てる灰原。

 

「……必ず帰ってくること」

「……ああ、もちろんだ」

 

 鼻先に突き出される灰原の手を両手でしっかりと握り返し、前屈みに乗り出して顔を近づける伊吹。その視線は一切のためらいも恥じらいもなく彼女の瞳の奥を見据える。

 

「哀以外のために死ぬつもりはない」

「……」

 

 見ただけで嘘偽りないとわかるような誠実な彼の双眼。窓から差し込む蒼い月光が彼の優しい頬笑みと精悍な眼差しを照らし出し、低い穏やかなテノールが灰原の鼓膜を心地よく揺らす。

 その様に灰原は思わず胸が高鳴る。頬に熱が集まるのを感じ、握られる右手が熱い。差し込む月明かりが弾けるようなその赤みがかった眩いブラウンの髪を揺らし、赤くなる顔を見られないように、慌ててそっぽを向く。

 逸らした視線はいつものジトっとした半眼で暗いリビングを泳ぎ、窺うような横目で伊吹の顔を盗み見る。こぼれる小さなため息は、真っ直ぐな目で歯の浮くようなセリフを言い切る彼と、そんなものに反応する自分自身の体に呆れているようだ。

 伊吹が暗い影の中でもハッキリと見えたのは、彼女の歳相応な愛らしい横顔だった。その姿は伊吹の目に焼き付けられ、彼の心に覚悟の炎を灯した。

 

「ちゃんと戻ってくるから」

「……当然よ」

 

 雲一つかからない空に満天の星が瞬き月が輝く夜。繋がれた2つの影はしばらく離れることはなく、静寂な部屋には囁くような会話と漏れるような笑い声だけが聞こえていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 翌朝、珍しく早く起きた伊吹は清美に連絡をとり家へ訪問する約束を取り付けた。そそくさと身支度を整えてリビングのドアを開けたとき、目の前に現れた少女の声に止められる。

 

「ちょっと」

「ああ、おはよう、哀。珍しく早起きじゃん。どこかお出かけ?」

「私も行くわ。とりあえず話をしに行くだけなんでしょ」

「……まあ、今日は、いいけど」

 

 ちゃっかりと寝巻きを着替えて外出の準備をしている灰原は、両腕を組んで目を閉じ壁にもたれ掛かるように玄関で待ち構えていた。伊吹の許可は最初から無視するつもりだったのか、歯切れの悪い彼を無視してさっさと靴を履く。

 

「なにしてるの、行くわよ」

「あ、はい」

 

 玄関の扉を開けた際に吹き込んだ風がふわりと彼女の髪を撫でた。鬱陶しそうにするその顔には、どこか敵意が見え隠れしていた。

 

 

 



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6話 捕鯨 中編

 

「赤い屋根の大きなおうちだ……」

 

 清美と桜の家へとやって来た伊吹は、その洋風な屋敷の大きさに思わず呆気にとられてしまった。使用人がいなければ掃除もまともに出来なさそうだが、呼び鈴を鳴らして出てきたのは相変わらず気弱そうな顔をした清美と無愛想な桜だった。

 伊吹の姿を見た途端に晴れる母娘の表情。その大きな胸を弾ませながら駆け寄ってくる清美に、思わず鋭い白い視線を向ける灰原。清美に案内され、桜に手を引かれながら大きな屋敷の小さな一室へと連れて行かれた。絢爛豪華な外観とは打って変わって室内に余計な派手さはなく、白を基調とした落ち着いたものだ。土足で上がってもいい割に、その床にも目立つ汚れはない。

 

「やつが来るとしたらこの3日以内、でしょうね」

「やはり……そうですか」

 

 伊吹が高そうな革張りのソファに腰をかけ、灰原がその隣に座る。清美は向かいに、桜は灰原とは反対側の伊吹の隣で、無愛想なまま伊吹の顔を見上げている。

 清美の話を聞くところによると、これまでは夫の葬儀関係や遠方の友人などがひっきりなしに家に訪れ、来客用の部屋で泊まっていくことが多かったらしい。しかし今日から3日間は狙ったかのように一切の来客の予定がなく、こちらから声をかけても不自然に断られるという。恐らく親戚一同が裏で手を引いたのだろうと清美は少し悔しげに語った。

 

「間一髪、間に合ってよかった。あなたと、……この子の未来を守れる」

「……」

「本当に、ありがとう御座います……」

 

 よほど気に入ったのか、先日伊吹があげたカフェオレと同じものを今日も飲んでいる桜。伊吹は隣に座り無愛想にストローを吸う少女の、艶やかな黒い頭を撫でる。心地良さそうに目を閉じ、小さな笑みを浮かべる。灰原もそんな桜の反応に優しい頬笑みを向ける。

 

「白鯨に依頼して既に数日が経っている。そして狙ったようなこの3日間。十中八九、このタイミングでやつは来ると思われます」

「はい……。ですが、どうすれば?」

「俺が3日間ここに泊まり込みます。あなたたちを他所へ逃がしたいところだが、盗聴器や隠しカメラの類でそれがバレれば白鯨はここに来なくなる。それじゃあ俺がここに来た意味がないので。……逃げても意味がない、まあ逃げ続けるなら話は別だが」

 

 真剣な表情で両手の指を組み、前屈みに語りだす伊吹。泊まり込むという単語に思わず灰原の耳がピクリと動く。

 そして低くドスの効いた声で、語りきかせるように伊吹は言葉を発した。

 

白鯨(殺し屋)を迎え撃つ」

 

 清美から見れば伊吹はまだまだ若い子供だが、その威圧と風格には相対する相手の心臓を鷲掴みにするような恐怖と、その頼もしさには言い知れぬ魅力があった。

 

「というわけで、哀はお帰り」

「どういうわけよ」

 

 清美との話を終えた伊吹が灰原へと向き直り、一言帰りを促す。それに腕を組んでいつものジト目で見つめ返す灰原。いまいち納得していないようだ。

 

「私がいるとなにか不都合なことでもあるの?」

「ある」

 

 嫌味を込めた灰原の質問に、彼女の目を見つめながら間髪いれず答える伊吹。思わず驚く彼女に伊吹は淡々と言葉を連ねる。

 

「俺は哀を大切に思っているけど、弱点でもある。もし本当に白鯨が来たとして、やつが噂通りの使い手だった場合、万が一にも哀が人質に取られたら俺は手も足も出せなくなる」

「……」

「哀には安全な場所で帰りを待っていて欲しい。俺の体の心配をしてくれるのは嬉しいけど」

「……そうね、あなたの体が心配だわ。いろんな意味でね」

 

 昨夜と同じく、自分を見つめてくる彼の目には嘘偽りがなく誠実なものだった。呆れたような、諦めたような顔で小さくため息を吐いて席を立つ灰原。伊吹と清美、桜に屋敷の門まで見送られる。

 

「昨日の約束、忘れないようにね」

「ああ……ちゃんと帰る」

「……」

 

 正門を出たところでくるりと振り返った灰原が、ジトっとした目で釘を刺すように伊吹へと声をかける。彼の力強い返事を聞き、彼女は満足そうに微かに顔を綻ばせた。

 去り際に清美の顔をキッと睨みつけ、灰原はまだ明るい街の中、1人帰路についた。小さくなる背中を見送る伊吹の瞳はどこか寂しそうで、去っていく灰原の姿を目に焼き付けているかのようだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「わぁ、すごく美味しいです! ね、桜」

「うん……おいしい」

「ありがとう」

 

 その夜、清美宅では伊吹が腕によりをかけ、得意のパスタを振舞っていた。清美は思わず顔を綻ばせ、いつも表情の薄い桜の目もキラキラと輝く。彼女たちの疲れきった顔や、悲しげな表情しか見ていなかった伊吹も、その明るい声に嬉しくなる。

 料理に舌鼓を打つ母娘に伊吹が真剣な目を向ける。

 

「では、もう一度確認しておきます。これから3日間はお2人とも一切の外出をしないようにお願いします。家の中でも常に2人でいるように。俺も付きっきりで傍にいます」

「はい……」

「……」

 

 彼の言葉に真剣な顔を浮かべる清美。伊吹は彼女の目から視線を外し、手元のグラスに揺れる水を見ながら「もっとも……」と続ける。

 

「恐らく奴が来るのは3日目、最後の夜だと思いますが。緊張と恐怖で精神を摩耗させ、母娘2人だけの夜がもう直に終わると安堵したところに、来る」

 

 脅かすような伊吹の言葉に思わず清美が生唾を飲み込んでしまう。伊吹がグラスをゆっくりと傾けて一口水を飲んでからニヤリと挑戦的な笑みを浮かべ目の奥に闘争心を宿す。

 

「そこを叩く」

「……」

 

 彼の仕草の一つ一つが頼もしくも見え、恐ろしくも思えた。静かな室内には一時間毎に鳴る時計の鐘の音と、桜がパスタを吸い込むちゅるりという音だけが聞こえていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「お兄ちゃん……いる?」

「ああ、いるよ。大丈夫だ」

「ほらね、安心でしょ」

 

 浴室からシャワーの音と共にくぐもった声が聞こえてくる。清美と桜が入浴する間、伊吹はドア一枚隔てた脱衣所で待機していた。微かに漏れてくる湯けむりに混じったシャンプーの香りが伊吹の鼻腔を湿らせる。

 伊吹が浴室のすりガラスに目をやると、清美と思しき大人の肌色が動いていた。慌てて視線を外した伊吹だったが、逸らした先の脱衣カゴに清美の下着を見つけてしまい、また気まずそうに俯いて頭をかく。その顔に照れや恥じらいは見られないが、どうにもやりにくそうだ。

 

「あの……よろしければ、伊吹くんも入られますか?」

「お兄ちゃん……おいでー」

「いやいや、そういう訳にはいかないでしょう」

 

 シャワーは止められ、母娘が湯に浸かる小さな水音だけが脱衣所に聞こえる中、清美が誘惑めいた提案を出す。それに「ははは……」と気まずそうに笑いながら受け流す伊吹。

 

「恐らく3日目だとは言いましたが、絶対じゃないので。警戒は怠れませんよ」

「では伊吹くんは後で?」

「入浴は隙ができるので、まあ、後でカラスの行水程度に」

「一緒に入れば側で警戒していただけます。しっかりと暖まれますし」

 

 浴室の戸を開けて顔を覗かせる清美が「ね?」と、甘えるような、頼るような目で伊吹を見つめる。大きなタオルを胸元で押さえて体を隠し、戸の隙間から柔らかな肉付きの脚と滑らかな鎖骨を見せる。首元に張り付く髪からはお湯が滴っている。彼女の足の横から桜も顔をひょっこりと出して手招きしている。

 縋るような目で見てくる清美の表情と、隠していても漏れてくる不安に震える体。伊吹は少し顔を(しか)めて聞こえないようにため息を吐く。「仕方ない」と自身の服を脱ぎ捨てる伊吹。その体の屈強さと生々しい傷跡に思わず清美は息と生唾を飲み込んだ。

 

「お兄ちゃん、ムキムキ……」

「おう、ちゃんと守ってやるからな」

 

 伊吹は左手に掴んだタオルで下半身を隠し、曲げた右腕に桜をぶら下げる。無愛想な少女の顔にも薄らと笑みが見える。じゃれ合う2人の姿を細めた優しい目で見つめながら清美は再び大きな湯船へと浸かり、心に巣食っていた残りの不安がお湯に溶けていくような気がした。思わず色っぽい深いため息が彼女の口から漏れ出した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 直に日付が変わろうかという時刻。屋敷の2階にある母娘の寝室では小さな少女が静かな寝息を立てていた。腰の裏に枕を置いてベッドに座る清美の太ももに頭を預け、桜の意識は夢の中だ。

 伊吹はベッドの脇に置かれた椅子に腕を組んで腰掛け、穏やかな桜の寝顔を憂うように眺めている。

 

「この子のこんな安心したような寝顔を見るの、久しぶりです……。あの人が亡くなってから、周りから向けられる敵意を子供ながらに感じていたのでしょうね……」

 

 自分の非力を悔やむような、申し訳なさそうな表情を浮かべて桜の頭をそっと撫でる清美。痛みもない綺麗な黒髪が清美の指の隙間から零れ落ちる。

 

「子供は敏感ですから。その子がメールで言っていましたよ、わたしがママを守るって」

「……こんな小さな子に、気負わせてしまっていたのですね……母親失格です」

「まあ、この状況は、一般的なものじゃないですし。普通の家庭であればあなたは十分に母親をこなせていると思いますよ」

 

 腕組んだまま瞳を閉じて呟く伊吹。彼女に対する慰めではなく、ただ純粋に思ったことを淡々と口にしているようだ。そんな彼の方へ暖かな視線を向ける清美。

 

「伊吹くんには、本当に感謝しています……」

「……感謝するのは、面倒な刺客を排除できてからにして下さい。現状ではまだお二人を守りきっていないので」

「いえ、既に感謝しているのです。誰に助けを求めて手を伸ばしても、払われていたこの手を……あなたは掴んでくれましたから。それだけで救われた気がしました」

 

 右手をそっと胸元で握り締め、憂いを帯びた目を細める清美。膝で眠る桜を見つめたあと、その視線を再び伊吹へと向ける。彼女の瞳には安堵と喜びと感謝が滲んでいるが、それと同時に諦めや悲しみ、罪悪感のようなものも薄らと見て取れた。

 

「だから、もし、どうにもならなくて……最悪の結末になったとしても……どうか、あなたは自分を責めないでください。今ここにいてくれたこと、それだけで私たちは、もう、十分……」

「俺がここに来たのはあなたと、その子の未来を守るためです。押し寄せる障害は確実に排除します」

 

 清美の諦めの混じった声色を、伊吹が冷静ながらも力強く響く声で遮る。ゆっくりと開かれた目は逸らすことなく清美を見つめ、強がりではない確信にも似た自信が彼女を射抜く。

 時折見せる、見るものを安心させるような伊吹の笑顔が、清美の心を落ち着かせ溶かしていく。

 彼に期待してもいいのか、殺し屋なんて非日常なものが来るならもう期待するだけ無駄なのか、必死に祈るべきか、傷つかないよう心を沈めるべきか……。伊吹が来てくれると聞いてから頭をぐるぐると巡っていた思考。それが沈殿するように静かに心の奥へと消えていくのを感じる清美。

 

「……ありがとう」

 

 彼女は消え入りそうな声でそう呟いた。

 清美が睡魔に抗えないように横になると、伊吹がそっと電気を消す。彼女にとっていつぶりかの深い眠りへと落ちていく。

 直に満月になりそうな丸々と太った月の光が寝室の窓を透き通る。椅子に腰掛けた伊吹が何度目かの時計の鐘の音を聞いたとき、桜がむくりと体を起こした。熟睡する清美は目を覚まさない。

 

「おしっこ……」

「わかった、連れて行こう」

 

 ふらふらと足取りのおぼつかない桜の手を引いてトイレへと案内する伊吹。極力2人から目を離したくはなかったが、幸い2階のトイレは寝室のすぐ近くにあった。チラチラと寝室の方を気にしながらトイレの前で待機する伊吹。

 

「お兄ちゃん……いる?」

「ああ、いるよ。安心して」

 

 桜の声は無愛想に平坦だったが、微かに不安に揺れているようだった。そんな彼女を安心させるように抱っこで寝室へと戻る伊吹。桜は小さな唇を伊吹の耳元へ近づけると、どこか照れくさそうに囁く。

 

「お兄ちゃん……」

「ん?」

「……ありがと」

「……ああ。どういたしまして」

 

 大きな屋敷は静寂に包まれており、夜空に溶け込むような暗い廊下は星明りに照らされ、まるで世界から切り取られたかのように幻想的だった。

 1日目の夜は穏やかに、平和に、何事もない日常のように過ぎていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんか今日は一段と機嫌悪くねえか、あいつ」

「ほれ、伊吹君が昨日から例の母娘の家に泊まっておるから」

「あいつは納得してないって?」

「いや、一応納得はしているようなんじゃが……」

 

 伊吹が清美の屋敷に泊まった翌日の午後8時。2日目の夜となるこの日、阿笠宅には少年探偵団が集まっていた。夕食を食べ終えた食器と、部屋に充満しているスパイシーな香りから察するにカレーパーティーを行ったようだ。子供たちの荷物を見る限りではこのままお泊り会もする様子。

 ムスっとした顔でパソコンとにらめっこする灰原はいつも以上に不機嫌そうだ。キーボードを叩く指が気持ち強く見える。コナンと博士は関わるまいと遠巻きに様子を窺う。

 

「博士、砂糖入れすぎるとまたメタボるわよ」

「あ、ああ、そうじゃの……」

 

 食後のコーヒーにこっそり角砂糖を入れていた博士に鋭く言葉を投げつける灰原。こっちをチラリとも見ずに話す彼女に「バレていたか」と苦笑いの博士。灰原が八つ当たり気味に声を上げたのは明らかだった。

 

「そ、そういえば福引でこんなものを貰ったんじゃが、みんなで遊ばんかの」

 

 灰原から逃れるようにそそくさとリビングの隅へ逃げていく博士。そこに立てかけていたボードゲームを子供たちの前に広げる。

 

「『生涯ゲーム・大人のブラック版』ですか?」

「へー、面白そうじゃん!」

「大人だって、あゆみやりたーい!」

「コナン君と灰原さんも、みんなでやりましょう!」

 

 有名なボードゲームのようだが、全体的に黒を基調としたそれは何やら穏やかでない雰囲気を醸し出している。乗り気の子供たちに引っ張られるようにコナンと灰原も参加することに。

 灰原はイライラを忘れるように小さくため息をつき、肩をすくめて子供たちとゲームを囲む。食後のジュースとコーヒーを持ってきた博士も参加するようだ。

 様々な色の車に模したコマを各人1つずつ配され、自身の分身であるピンを運転席に差し込む。伊吹がいればきっと左側にピンを差し「俺のは外車仕様で」なんて子供みたいなことを真剣にするだろうなと、思わず笑みが零れる灰原。

 お金に模したアイテムを配り、それぞれがルーレットを回しコマを進める。細かいルールは様々あるようだが、要約すればすごろくに職業やお金などを絡ませて、より大金を稼いでゴールしたものが勝ちというものらしい。だが大人版と銘打っているだけあり職業には『水商売』やら『売人』なるきな臭いものもチラホラと。止まったマスにも不倫やら罰則金やら何かと黒いものが多かった。

 何巡目かの後、自分の順番が回ってきた光彦がルーレットに手をかける。

 

「では次はぼくですね、えーと『お金持ちの未亡人に誘惑される、プレイヤーが男性の場合は5万$貰い一回休み』ですか……まあお金が貰えるのは嬉しいですけど、やけにディテールが細かいですね……」

「……」

「灰原……?」

「……なに?」

「ほら、ゲームなんだし」

「別に、なにも言ってないけど」

 

 光彦の止まったマスを冷ややかな目で見る灰原に、苦笑い気味にコナンが声をかける。ジトっとした目をゆっくりとコナンに向け、怒気を孕んだ低い声を漏らす灰原。コナンは「めんどくせえ」と言わんばかりの表情でため息をつくしかなかった。

 

「じゃあ次はあゆみだね。えーっと、1、2、3……『我慢できずにワンナイトラブ。口止め料として3万$支払う』? ねえねえ、ワンナイトラブってなあに?」

「うーん、一夜の愛、ですかね?」

「ロクでもないことよ、覚えなくていいわ」

「てか博士、小学生にこのゲームはダメだろ」

「貰い物じゃから、まさかこんな内容じゃったとは」

 

 呆れ顔のコナンに、薄い頭をかきながら苦笑いを返す博士。灰原は目を伏せたまま、頭に「?」を浮かべて頭を傾ける子供たちに鋭く吐き捨てる。

 

「じゃあオレだな、1、2、3、4……びじょと、びじょ、ん? なんて書いてあんだ?」

「どれどれ、『美女と混浴。プレイヤーが男性の場合、英気を養い一回休み』じゃな。元太くんは温泉に入って一回休みのようじゃな」

「ほえー。光彦、えいきって、なんだ?」

「え、ええと……元気、とかですかね」

「綺麗な姉ちゃんと温泉入ったら元気になんのか?」

「いや、それはじゃのお……」

 

 口ごもる博士に灰原の冷たい半眼が突き刺さる。コナンが空気を変えるようにゴホンと咳払いをしてルーレットを回す。

 

「えーっと、なになに、『いけない恋に火が灯る。結婚相手を車から降ろし、慰謝料として2万5千$払う』……。なんだよ、たまたまだろ、このマスに止まったのは」

「……別に、何も言ってないわよ」

 

 先程から止まるマスがことごとく灰原に“嫌なこと”を思い出させる。ムスっとつまらなさそうに頬杖をつく彼女に、気まずそうなコナン。

 不貞腐れた猫の様に気だるい様子でルーレットを回す灰原。

 

「……『伴侶の浮気が発覚。慰謝料として2万$貰う』……」

「「……」」

 

 灰原がマスの指示を読み上げると、コナンと博士は思わず視線を逸らして黙り込んでしまう。めんどくさいと言わんばかりに引きつった笑みを浮かべるコナン。博士は気まずそうに額に汗を流す。

 灰原は顔を伏せたまま自分の車から結婚相手の男性ピンを引き抜き、無言で投げ捨てる。垂れる前髪でその顔は見えないが、その目が不機嫌そうに吊り上がっているのは火を見るより明らかだ。

 

「だから、ゲームなんだし」

「……なに?」

「ほ、ほれ哀君。結婚相手を降ろすとは書いておらんし……」

 

 灰原が投げ捨てたピンを拾って手渡す博士。それを忌々しそうに受け取った灰原は音もなく、しかし力を込めて差し込む。車がミシリと音を立てたような気がした。

 それからしばらく順番が巡り、そろそろゴールが見えてきた頃。何度目かの灰原のターンがやってくる。

 

「そろそろ誰かゴールしそうじゃのう」

「このままじゃコナン君が勝っちゃうよー」

「おめーズルしてんじゃねえのか?」

「このゲームでどうやってズルすんだよ」

「私の番ね。えっと『不慮の事故で……伴侶が亡くなる。結婚相手を降ろし保険料として8万$貰う』……」

 

 灰原の声は尻すぼみに小さくなっていく。先ほどまでの苛立ちによるものではなく、どこか寂しげにその瞳を細める。なにも言わずに静かに自分の車から伴侶のピンを抜き、つまんだその小さな彼を指先で転がしながら眺める。物思いに耽る視線は、ピンの向こうの誰かを見ているようだ。

 

「どうしたの、哀ちゃん?」

「腹でもいてーのか?」

「っ! ……なんでもないわ、ごめんなさい。次は博士よ」

「う、うむ……」

「……」

 

 灰原は子供たちに安心させるよう小さく微笑むも、その眉は悲しげに垂れ下がっている。

 その後も続けられたゲームは結局コナンの勝利で終わった。子供たちは悔しがりながらも最後まで楽しんでいたようだ。灰原も楽しそうな笑みを浮かべてはいたものの、その顔に微かにかかる不安の霧が払われることはなかった。

 そのゲームから数時間後。みんなが寝静まり時計の日付も変わろうかという頃になっても、灰原は眠れずにいた。ベッドに対し横向きで、子供たち5人が並んで眠っている。

 一番端で仰向けになる彼女の視界には、高い天井と2階の窓を透過する星明りが映る。暗闇に慣れた目には静まり返った部屋の温度や音まで見えるようだった。

 

「……そんな心配しなくても、あいつなら大丈夫だろうよ」

 

 部屋の影から声がかけられる。反対側の端で寝ているコナンが目を閉じたまま呟いた。

 

「……そうね」

「じゃあ早く寝ろよ。明日もみんなで出かけるんだろ」

「……ええ」

 

 コナンの言葉に答えてはいるものの、彼女の瞳が閉じられることはなく、憂いの浮かぶ瞳にはキラキラと白い月光が揺れていた。

 ほんのわずかに欠けた月は流れる雲に見え隠れしながら、暗い空におぼろげに佇んでいた。

 



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6話 捕鯨 後編

 『白鯨』が来ると伊吹が予想した3日目。様々な人の不安や焦り、恐怖……それらを無視するように時計の針は止まらず、夜は冷たい風と不穏な暗雲を引き連れてやってくる。屋敷の中は海の底に沈んだかのような静寂に包まれ、肌に張り付く空気も昨日より冷たいようだ。

 この日、伊吹は清美と桜の側から一切離れることなく過ごした。だが何気ない会話も日が傾くに連れて口数は減り、日付が変わる頃には全員が口をつぐんでいた。

 家の電気は全て落とされており、伊吹と母娘の3人が集まっている2階の寝室も照明は落とされ、曇った空は月の明りも通さず、室内にはぼんやりとした薄く長い影だけが微かに見える。

 腕を組んだ伊吹が窓辺に立ち口を開く。

 

「この部屋の明かりだけを点けていれば白鯨(やつ)はここに確認に来ざるを得ないでしょう。誘き寄せて迎撃することができる。なので、清美さんと桜ちゃんには他の部屋で暗くして、息を殺して待っていて欲しいのですが」

「いえ、ここで待ちます。伊吹くんが……負けてしまったときには、どこに隠れていても同じことです」

 

 うとうとと眠たそうに目をこする桜を膝に乗せ、椅子に腰掛けている清美。慈母のような優しい目をして、暖かい手で桜の頭をそっと撫でる。伊吹からの提案にゆっくりと顔を上げて、彼の目を力強く見返えす。彼の言葉をハッキリと拒否し、「それに」と続ける。

 

「守りに回るのは構いませんが、逃げるのは好きではありません」

 

 その双眸は今までの弱々しかった彼女のものではなく、鋭く研ぎ澄まされ、口元には小さな笑みさえ見え隠れする。彼女の目と声には富豪の妻に相応しい気迫が込もっていた。

 

「わたしも……いっしょに、いる。ママを守る」

「桜……。散々ご迷惑をお掛けし申し訳ありませんが、どうかもう一つだけ、わがままをお聞きください」

 

 ぼんやりと話を聞いていた桜が清美にしがみつく。清美は改めて伊吹へと向き直り、深々と(こうべ)を垂れる。胸元にかかる栗色の髪がふわりと垂れ、薄暗い室内に吐息が漏れる。桜も清美を真似るように、慌てて頭を下げる。

 2人の前で曇天を背に立つ伊吹。彼女らの言葉と態度に小さなため息を吐き、まぶたを伏せ、観念したように苦笑いを浮かべる。

 

「わかりました。ただし、俺の指示を必ず聞いてください」

「もちろんです。誰にも守っていただけなかったこの命。警護を引き受けてくださったあなたに絶対の信頼をおいております。私たちはあなたを信じていますから」

 

 影に埋もれる部屋の中でも暖かく輝いて見える、聖母のように優しくも自信に満ちた清美の笑顔に、場違いにも思わずどきりとしてしまう伊吹。

 伊吹は頭をかきながら余計な意識を振り払う。向き直った彼女たちに1つだけ指示を出す。それは実に単純明快なものだった。

 

「部屋の外、廊下で奴を迎え撃ちます。……なにがあっても、ここを動かないでください」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 日付が変わり3度目の鐘の音が聞こえたのは少し前。時刻が午前3時を回る頃、伊吹は寝室の前で扉にもたれかかり、辺りを警戒しながらも物思いに耽っていた。

 目の前には廊下の大きな窓が広がり、月は空に浮く黒い雲の向こうに隠れてしまっている。月光の遮られた廊下は濃い闇と溶け合っていく。

 阿笠宅のベッドの上で寝息を立てているであろう灰原の姿が脳裏に蘇る。彼女の手料理が食べたい、話がしたい、声を聞きたい、頭を撫でたい、からかいたい、呆れられたい、怒られたい。枯れ井戸に水が湧き出すように、様々な思いが溢れてくる。いつの日かのやり取りを思い出して、小さな笑みが零れる。

 やっぱり帰ったら自分が彼女に手料理を振舞おう。そんなことを思っていると静謐な屋敷の廊下の奥から重い足音が響いてきた。右の廊下から聞こえてくるその音に、顔を向ける伊吹。もたれていた背を起こし、廊下の真ん中に堂々と仁王立ち、相手を待ち構える。

 

「……」

 

 近づいてくる男は雲の影の中に埋もれ姿は見えない。しかし、ぼんやりと浮かぶその輪郭はとてつもなく大きく、体や四肢の太さがわかる。

 その足音が伊吹から数メートル離れたところで止まった。暗闇の中でも見えたその男の肌は白く、元々金に近かったであろう色素の薄いその髪は老いによる白髪が混ざり、ますます白く見える。2メートル近くはあろうかというその巨体と丸太のように太い手足。肌から髪まで白いその風貌はまさに『白鯨』の名に相応しかった。伊吹は男と向き合ったとき、その風貌はもちろん、押し寄せる気迫とプレッシャーから相手が本物の『白鯨』だと察する。白鯨もまた、佇む伊吹の姿を視界に捉えたとき、心がざわつき背中に冷たいものを感じていた。そしてこの男は自分の障害であると認識する。

 2人が立会い相手の姿を視認したとき、互いが互いに「この相手は自分を絶命させるに至る力量を持っている」ことを悟る。白鯨はゆっくりゆっくり、体を丸めて拳を上げる。まるで流氷のように冷たく、感情の無い青白い眼が伊吹を捉える。伊吹もまた身をかがめ、その足の筋肉は隆起し、解き放たれるのを待っている。研ぎ澄まされた日本刀のように、眼は鋭く鈍く光っていた。

 重く伸し掛るような暗雲から溶け出した雨粒の一番槍が、どこか遠くて葉を打った。それは張り詰めた緊張の糸を弾き、2人の超人が激突する合図となった。

 

「うらァッ!!」

「……ッ!」

 

 伊吹は溜め込んだ両足の筋力を爆発させるように駆け出す。大理石の床は薄くひび割れ、突風だけがその場に置き去りとなった。獣のような慟哭と共に、残像を残すような速度のまま全体重と膂力を乗せた右の拳が白鯨の顔面へと飛ぶ。しかしその鉄拳は白鯨の太い両腕の盾に防がれた。鋼のような肉体がぶつかり合い、人間の体から聞こえるものとは思えないような、まるで巨大な銅鑼を打ったかのような低く響く轟音が廊下に轟く。

 右足を引き踏ん張る白鯨の体は滑るように床を後退しながらも、ガードした両腕で伊吹の鉄拳を弾き体制を崩す。即座に右腕を振り上げ、その大槌のような巨大な拳を伊吹の頭に振り下ろす。

 

「ッ!!??」

 

 豪快な風切り音を伴いせまる拳に、咄嗟に両腕を持ち上げ受け止める伊吹だったが、その大男の体重と筋量の乗せられたハンマーの重さに押しつぶされるように片膝をついてしまう。信じられない程の怪力に思わず伊吹の顔には驚愕の色が浮かぶ。

 流れるような白鯨の左脚が襲いかかる。低い位置へのローキックだが狙いはしゃがみ込む伊吹のボディだ。再び両腕を盾にガードする伊吹だったが、薙ぐように蹴り抜かれる一撃に、まるで巨大なナタで叩き切られたような錯覚すら覚える。そして決して軽くない、ましてやしゃがみ込み重心が低くなっている伊吹の体がふわりと浮き上がり、蹴られた勢いのまま壁へと叩きつけられる。

 

「ぅぐッ……!」

 

 ぶつかった壁にはヒビが入り伊吹の体の衝突点を中心に大きくへこみ、頭上の窓は衝撃で砕けて飛び散る。降り注ぐガラスの破片は容赦なく伊吹の体を切りつけた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 まるで猛獣がぶつかり合うような激しい戦闘音は寝室の中にも届いていた。

 

「ママ……お兄ちゃん、だいじょうぶ?」

「ええ、大丈夫よ。きっと、大丈夫……。伊吹くんを信じて……待ちましょう」

「うん……」

 

 廊下から聞こえる爆音は寝室そのものを揺らしている。壁越しに届く振動は清美の体を震わせる。それを押さえ込むように桜をギュッと抱きしめる。椅子に腰掛けたまま、ただ黙して祈る。桜もまた、恐怖に体を震わし清美の胸にしがみつく手に力を込める。

 本格的に降り出した雨粒は大きくなり窓を殴りつける。遠くで木々たちが風に悲鳴を上げていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 白鯨の強烈な脚力にも怯むことなく、伊吹は立ち上がりと同時に左の拳を下から叩き込む。白鯨は咄嗟に左腕で顎を守るも、腕と足の力を乗せた伊吹の拳はその腕ごと鯨の顎を打ち抜いた。歯が折れたか口を切ったか、唇の隙間から血が飛び散る。

 

「らァッ!!」

「ぐぅッ……!!」

 

 思わず大男の頭が弾む。伊吹の眼光はその隙を見逃さない。ガードの空いた大木の幹のような白鯨のボディに渾身の右膝を突き刺す。白鯨の岩石のような腹筋に阻まれるも、無傷ではいられない。内蔵を震わす一撃に思わず呻き声を上げ数歩下がる白鯨。

 さらに追撃をしようと踏み込んでくる伊吹に対し、右の豪腕を振り抜いて先ほどとは反対の壁に叩きつける。頭蓋を砕いてやろうと壁際の伊吹の頭に左のストレートで殴りかかる。しかし伊吹の姿が視界から消える。伊吹は咄嗟に足腰の力を抜いて崩れ落ちるように白鯨の左拳をかわしたのだ。空振る白鯨の左腕は壁を貫いて壁に埋め込まれる。足元にしゃがみ込んだ伊吹は眼前にある白鯨の股間に右のアッパーをぶちかます。重たい白鯨の足が一瞬浮き上がる程の一撃だが、目の前の大男は顔色一つ変えずに振りかぶった右膝で追撃してくる。

 

「ッ……!!」

 

 伊吹は左に小さく転がるように回避、その膝から逃れる。白鯨の膝は壁に大きな亀裂を入れる。白鯨は伊吹へ向き直り、伊吹は慌てて立ち上がる。わずかに体勢を整えるのが早かった伊吹が追撃のために再び白鯨へと踏み込んだが、白鯨はそれにカウンター気味に前蹴りをお見舞いした。脚を踏み込む瞬間に貰ったその蹴りに伊吹は踏ん張ることができず、数歩分後ろに飛ばされてしまう。蹴り自体は腕で受け止めたものの、殺しきれない衝撃に背中まで突き抜けるような鈍い痛みが伊吹の体を襲う。

 

「あぁ……くそ……バケモンかよ」

「……」

 

 2人はお互いの射程圏外まで離れている。思わず深刻に、どこか呆れたような声で愚痴を零す伊吹。両者の体はどちらのものかわからない血で赤く染まり、痛々しく変色している打撲痕が見て取れる。

 割れた窓ガラスからは大粒の雨が吹き込み、廊下の大理石に水が溜まっていく。壁は両側ともにひしゃげて陥没し、無残な状態だ。

 仕切り直しと言わんばかりにお互いが仁王立ちで向き合い、伊吹が口を開く。

 

「金的ガード入れてんな」

「キンテキ?」

「プロテクターだよ。日本語分かるか?」

「……ああ、わかるよ。アジア圏の言葉はの」

 

 忌々しそうな目のまま小さく笑みを浮かべる伊吹。改めて目の前の大男を見やる。自分よりも2回り近く大きな体に老いを感じぬ屈強な体、多くの白髪の混じる頭髪。

 

「あんた、しばらく前に前線を退いてんだろ。今何歳だよ」

「……さあなぁ、ワシにもわからん。60だったか70だったか」

騏麟(きりん)も老いては駄馬に劣ると言うが……あんたは年老いて尚精強のご様子で」

「褒めてもなにも出んよ」

 

 彼らの言葉はひどく穏やかなものだった。口元には笑みさえ見て取れる。しかし2人の眼は戦いの最中から変わっていない。伊吹の眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭く鈍く、白鯨はシベリアの夜空のように白く冷たい。

 

「ワシもお主を知っておる」

「……」

「何年も前に西で仕事をした時にお主を見た。白頭鷲(アンクルサム)の太鼓持ちじゃな」

「別に、合衆国万歳ってつもりもないけど」

 

 白鯨が見下ろすように細めた目で伊吹を見つめ、口角の上がった口元は小馬鹿にしているようでもある。彼は伊吹がCIAの人間だということを知っているようだ。

 伊吹は苛立たしげに白鯨を睨みつける。そんな自分を落ち着かせるように小さく息を吐く。

 雨と血と汗に濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。既にボロボロになっている服を掴み、引きちぎるように脱ぎ捨てる。足元の踏ん張りが効かない。靴と靴下も脱ぎ、足に引っ掛けて蹴り捨てた。

 伊吹の体もまた筋骨隆々であり、血管は押し上げられるように浮き上がっている。そこには数多の古傷も見て取れる。

 首を鳴らし肩を回す。

 

「じゃあ第2ラウンドだ、おじいちゃん」

「お主は面白いのぉ」

 

 挑発的な伊吹の態度に、さらに口角を吊り上げる。先程までの小馬鹿にしたものではなく、心底闘争を楽しんでいる、そんな笑顔だった。伊吹もまた、久しく感じていなかった命のやり取りに、心の底で血湧き肉踊るのを感じていた。

 伊吹と同じく服と靴を脱ぎ捨てる白鯨。人間離れした2体の怪物が再び激突する。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 深夜の雨は闇に溶け込み見ることができない。雨だとわかるのはガラスの無い窓から聞こえる雨粒が叩きつけられる音と、漂ってくるどこか甘ったるい雨に濡れたアスファルトの匂いがするからだ。

 全てのものが眠りにつく時間に、その2人の超人は血みどろの争いを繰り広げている。雨に冷える気温も、彼らの周りだけは熱気に満ちていた。

 互いの体には打撲痕、擦過傷、裂傷、骨折……多くの真新しい傷が目立つ。汗と泥と雨にまみれ、血潮を飛び散らせながら殴り合う2人。それは喧嘩というほど生易しくなく、武術というほど端正なものではなかった。

 

「ぅぁ……ぐぅ……ぁ」

「もう……終わりじゃろう」

 

 白鯨の渾身の右肘が伊吹の顔面を捉える。伊吹の顔が宙を舞い廊下を転がるように吹き飛んでいく。天を仰いで呻き声を上げる伊吹。

 白鯨は「もはや動けまい」と構えを下げる。伊吹から視線を外し警戒を解こうとしたその時、床の大理石が砕ける音がした。

 

「……っ!?」

「ああ、ぐそ、痛え……」

 

 伊吹の足の指が大理石を抉るように床を掴んでいる。そしてまるで逆再生されるかのように、床を掴んだ脚を軸にゆっくりと体を起こして立ち上がる。

 伊吹の異常なまでに発達した背筋と体幹がこの異様な動きを可能にしている。筋骨隆々とはいえ自身と比べて2回りも大きな白鯨の体を殴り飛ばせているのも、その常人とは異なる肉体のなせる技だった。

 

「お主……面白い体をしておるの」

「あんたも大概だよ……あぁ……痛え」

 

 鬱陶しそうに口をもごもごと動かす伊吹が、真っ赤に染まった2本の奥歯を吐き捨てる。口内に溢れる血も忌々しげに吹き出し、口元を拭う。彼の目は未だ死んではいない。

 再び足に力を込め腰を落とす。白鯨を睨みつけ、一気に距離を詰めた。

 先ほどの一撃は確実に入った。未だに脳は揺れまともに立つことも困難なはず。それでも最初と変わらぬように迫ってくる伊吹。全身に傷を抱え、疲労も蓄積しているにもかかわらず一層増すその気迫に動揺した白鯨は、思わず後ずさりしそうになる。

 

「逃がすかッ!」

「ッ!!?」

 

 しかし伊吹はそれを許さない。踏み込む左足で、後退しようとする白鯨の右足を踏みしめる。大理石をも砕く伊吹の足の握力に縫い付けられ、ガクンと体が停止する白鯨。固まったその一瞬に伊吹の右拳が唸りを上げた。

 

「ぁがッ!」

 

 その一撃が白鯨の鼻っ面に突き刺さった。軽く3桁はあるだろう白鯨の体が弾かれたように大きく仰け反り、伊吹に踏まれる右足が引っかかるように仰向けに傾いていく。

 たが白鯨はひしゃげた鼻から血泡を吹き出しながらも右腕を地面に着き、腰を捻るように左足で伊吹の右側頭部を蹴り抜いた。

 咄嗟に左手で防ぎ直撃を免れた伊吹だが、殺しきれない威力のせいで再び壁に激突する。更に窓ガラスは弾け飛び雨が吹き込む。裸足の足が散らばったガラスや大理石の破片を踏み足元に血が滲むことも構わず、伊吹と白鯨は立ち上がろうとする。

 しかし今回は白鯨の方が一歩早かった。伊吹が姿勢を整える前、中腰の状態に白鯨の踏み抜くような一撃が浴びせられる。

 

「がッ……!」

 

 その一撃が胸に直撃してしまい伊吹は一瞬呼吸を失う。更に二発、三発と白鯨の豪脚が伊吹を襲う。このまま伊吹を沈めようと白鯨も決死の覚悟で攻める。振り下ろす両手の拳は砲撃のごとく、踏み抜かれる足と膝は爆撃のように激しい。伊吹は暴力の嵐に曝され全身の怪我はより深刻なものになる。

 血みどろになる視界から微かに見えた、大きく振り上げる白鯨の拳。その大振りになる一瞬の隙を穿つように伊吹の右の拳が一閃となって走る。だがそこに立ちはだかるは培ってきた経験の差、読み切ったのは白鯨だった。

 

「ぅぐッ……!」

 

 迫る伊吹の拳を捌くように掴み捻り上げ、持ち上がった伊吹の左側頭部に渾身の膝蹴りを食らわせる。その威力を利用してそのまま廊下の奥へと投げ飛ばす。右の肩と肘を壊された伊吹が受身もままならぬ状態で床を転がる。

 

「この……ッ!?」

 

 這い蹲る姿勢から頭を上げた伊吹の視界に広がったのは、スローに見える白鯨の右足だった。

 本来、人間の頭蓋骨からは聞こえるはずもない音を立てて伊吹の体がきりもみして吹き飛ばされる。そのまま壁を突き破り寝室の隣の部屋へと床を滑るように消えていく。

 

「はあ、はあ……頑丈な子だ」

 

 一気呵成に攻め立てた白鯨が肩で息をしながら、突き破られた壁から中を覗き込む。薄暗い影の中で伊吹はピクリとも動かず天井を仰いでいた。

 穴の開いた壁の側では花瓶が転がり、こぼれ落ちた花が力なく横たわっていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 廊下から聞こえていた鈍い音は静まり、寝室には窓を叩く雨の音しか聞こえない。桜は怯え、震えながら清美の胸元に顔を埋めて服に涙のシミを作る。彼女を守るように清美は桜の体を強く抱きしめ、なにも喋らず頭を撫で続ける。

 

「ま、ママ……」

「……」

 

 廊下から足音が近づき、蝶番を軋ませながら寝室の扉が静かに開かれた。

 

「ママぁ……ぅぅぁ……」

「……」

 

 暗い暗い影の中から、傷だらけの大男がゆっくりと姿を表す。真っ白だったその肌と髪は、誰のものかわからない真っ赤な液体に塗れていた。

 その姿に更に恐怖する桜が縋り付くように清美の腕の中でもがく。震えは増していき、今にも失禁してしまいそうだ。そんな桜を庇うように、自分の体で隠すよう抱く清美。その表情は恐怖で歪むこともなく、ただ凛と男を見つめ返す。

 

「ワシを恐れぬか、女」

「私はあなたを怖がるほど臆病ではありません」

「ほお……。では逃げぬのだな」

「彼を信じておりますので」

「っ! ……ッ」

 

 声が震えないように自分を制しながら淡々と話す清美。「彼を信じる」その言葉にハッとしたように、桜もまた涙の浮かんだ瞳で白鯨を睨みつける。袖で目をこすり、震える唇を噛み締めて、ただ睨み返す。

 

「彼にここを動くなと言われた以上、私はここで待ちます。それに……もし、彼がやられたのなら、どこに行っても逃げ切れないでしょう。私は背中に傷を負って死ぬつもりはありません」

「……そうか。楽でいい」

「お前なんか……お前なんか……ッ」

 

 母娘の目の前に迫る白鯨。睨みつけてくる2人から目を逸らすことなく、その冷たい目で見つめ返す。伊吹との戦闘で傷だらけとなった右腕をゆっくりと振り上げる。皮膚も筋肉も骨もボロボロになっているが、母娘の柔肌を抉る程度は訳ない。

 頭上に振り上げられる手刀の構え。桜は悔しげに唇を噛んでギュッと目を閉じ、清美は観念し受け入れるかのように静かにまぶたを閉ざす。

 

 

 凶手が振り下ろされたその瞬間、寝室の壁が轟音と共に弾け飛んだ。

 

「さらば……ッ!!?」

「「!!??」」

「ゥオァァアッ!!」

 

 部屋を震わす獣のような慟哭。

 伊吹が体当たりで隣の部屋から壁をブチ抜き現れ、左の豪肩がその猛牛の如き勢いのまま白鯨へと突き刺さる。

 

「ぁがァッ!!」

 

 右腕を振り上げていたためガラ空きとなっていた右脇腹。そこに迫る思いもよらない強襲に白鯨は反応できず、伊吹の全体重、全筋力を乗せた渾身の一撃を一切の守り無しに受けてしまう。その大木のように巨大な体が真横にくの字に曲がる。既にヒビの入っていたアバラは完全に砕け、臓物が体内で暴れまわる。口から血と息を吹き出し、眼球さえも飛び出した錯覚を覚える。

 

「伊吹お兄ちゃん……っ!」

「……ふぅ……」

 

 目の前で交通事故が起こったかのような衝撃に目を見開き驚くことしかできなかった清美と桜だったが、猛スピードでぶつかってきたそれが、祈り、信じて待っていたあの人だと理解するのに、時間はかからなかった。

 希望と喜びに満ちキラキラと輝く桜の瞳。安心したような小さな息をつき、嬉しさと溢れかけた恐怖を必死に押さえ込むような清美。だが、無意識に握り締められた拳の震えは恐怖によるものではなく、隠しても隠しきれない喜びのものだった。

 

「ああァァッ!!」

 

 伊吹は突進の歩を緩めることなく、白鯨を壁に叩きつけぶち破り、反対側の部屋まで押し込む。更に脚力のエンジンを奮い立たせて白鯨ごともう一枚壁を突き破った。

 寝室から2つ隣の部屋でその豪脚はようやく止まり、白鯨は瓦礫と共に宙を舞う。伊吹は一気に距離を詰め、落下する白鯨に追撃するよう拳を振り下ろす。白鯨の頭蓋が堅い床と頑強な拳に挟まれるように殴りつけられ、床には亀裂が走る。倒れた状態から何とか反撃しようと手を伸ばす白鯨に、更にカウンターの左拳。白鯨の視界にはもはや揺れる天井しか見えない。沈みかける大男に更に右の一激。顔、首、胴、止むことのない疾風怒濤の暴力の暴風雨が白鯨を飲み込む。

 痛みさえも感じなくなった白鯨は、視界が端から黒く染まるのを感じ、自分の意識が遠のいていくことを理解した。

 天井に突き上げられた白鯨の手が力なく床に垂れ落ち。ついにその巨軀は地に沈んだ。

 白鯨が一瞬のブラックアウトから意識を覚醒し、視界に光が戻ったとき、その眼前に広がっていたのは天高く足を振り上げる伊吹の姿だった。このままあの怪物のような脚力が、自分の顔面か首を踏み潰すように振り下ろされればひとたまりもないと、ぼんやりとする頭で思考する。だが体は指の一本すら動かすことは叶わず、避ける術はない。ここまでか、と白鯨は死への覚悟を決め、永遠の眠りに付くために瞳を閉じる。

 修羅の如き形相で脚を振り上げる伊吹の脳裏に、愛する少女の姿が蘇った。

 一瞬のためらいの後、その稲妻のような必殺の一撃は振り下ろされた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 同時刻、深夜の阿笠宅。この家の住人たちも普段はすっかり寝ている時間。しかし、今日は誰も眠りについていない。月明かりもない暗い室内には淡いオレンジの間接照明だけが灯っている。静寂の中で先程から聞こえるのは雨の音だけだ。

 灰原はソファに三角座りをし、立てた両膝に口元を乗せて寂しげな目をする。心配するような、考え込むような、物憂げな、切なげな、祈るような……彼女の瞳を薄らと涙のカーテンが包み、宝石のように柔らかい照明の光を反射する。彼女が頭を動かす度にお風呂上がりのサラサラな髪が頭を滑り、オレンジの明かりが小さく弾ける。

 ダイニングに腰掛ける博士は灰原にかける言葉が見つからず、ただ共に、伊吹の帰りを待つことしかできない。

 ソファのテーブルの上には伊吹のマグカップが置かれている。先程まで灰原がコーヒーを飲んでいたが、中身が半分ほど残ったまま冷めてしまっている。それを流そうと灰原がカップに手をかけるも、弱々しい手から滑り落ちてしまう。

 

「あっ……」

「哀君、大丈夫か?」

「え、ええ……怪我はないわ」

 

 床に砕けるカップの欠片と、血のように広がっていく黒い液体。その破片を拾う灰原の瞳は、言い知れぬ不安に揺らいでいた。

 窓を打つ雨の音は次第に弱くなっていく。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「殺さんか……アメリカの犬も、牙が抜けてしまったか……」

 

 伊吹の止めの一撃は白鯨の顔の横を踏み抜いていた。床は陥没し、大理石はひび割れ盛大に砕けている。

 外れた訳ではなく、意図的に外したことは明白だった。

 

「そうだな……俺が人を殺すと悲しむやつがいる。お前を殺すには、大切なものが増えすぎた」

 

 気がつくと地面に叩きつけられる雨の音は止み、雲は駆け足に流れていく。暗雲払われた瑠璃色の空に、大きな満月が白く優しく輝き出す。月光が窓から屋敷に光を差し込み、蒼く幻想的に染め上げていく。

 月明かりに照らされる伊吹と、影の中で倒れこむ白鯨の姿は、今宵の闘争の雌雄を決しているかのようだった。

 大の字で天を仰ぎ動けない白鯨。汗や血で顔に張り付く髪を鬱陶しそうにかき上げる伊吹は、彼を指差して言葉を吐き捨てる。

 

「白鯨、お前を逮捕する」

 

 キョトンとした目で伊吹を見つめ返す白鯨は、呆れたように小さく微笑んだあと、瞳を閉じて「そうか」とだけ呟いた。再び開いた彼の瞳に、流氷のような冷たさはもうなかった。

 抵抗の意思はないと感じ取った伊吹は、大きなため息と共にその場に座り込んで、疲れたと言わんばかりにまぶたをギュッと閉じて天井を仰ぐ。伊吹が心の内を吐露するようにポツポツと言葉をこぼし始めた。

 

「……あんたと闘ってみたいって欲求もあったんだと思う。大切な人に心配かけて、誰かを助けるためにって偽善者ぶって、どこかであんたと拳を交えてみたいって気持ちが……少なからずあったんだ」

 

 伊吹がどういう経緯で今宵自分の障害となったかは、白鯨の与り知らぬことだが、伊吹の言葉に黙って耳を貸している。

 

「お主も、暴力の因果に囚われておるのぉ。気をつけることだ……人を傷つける度にお主の心もまた傷ついていく。それは多くの小さな傷の一つとなってお主の中に残る。暴力の渦の中では痛みを感じることのなかったその傷が、穏やかな平和の中でどのように……膿んで(ただ)れていくのかを、若いお主にはわかるまい」

 

 白鯨の言葉に、伊吹もまた黙って耳を傾ける。

 

「大切な者がおるなら、その者と共にいることだ。そうすればお主の心の傷も、次第に癒えていくこともあるだろう……」

「……なんであんた今回の殺しを受けたんだ」

「……殺し屋が殺す理由など、金が必要なだけだ。何の為かなど、どうでもよいこと」

 

 伊吹の質問に自傷気味な笑顔を浮かべ、心底どうでもよさそうに答える白鯨。そして視線だけを伊吹へと向け、今度は子供のように笑う。

 

「ところで、強いなぁ、お主は」

「……悪いが俺も、近接戦闘(ステゴロ)では負けたことないんでね」

 

 伊吹もまた、子供のように笑って答える。

 

「……あの母娘が待っている。行ってやるといい。……ワシは逃げん。いや、動けんから安心せい」

「ああ、わかってる」

 

 手を膝について「あー、痛え」と呻きながらゆっくり立ち上がる伊吹。ふらつく覚束無い足取りで、突き破ってきた穴から寝室へと戻る。

 目に涙を溜め慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべる清美と、今までで一番の満面の笑みを浮かべて伊吹にしがみつく桜。2人に迎えられる伊吹の顔もまた、優しい笑みが浮かんでいた。

 先程までの豪雨が嘘だったかのように空には星と月が輝いている。雨によって空気は澄み、夜明け前の蒼い空はいつもよりも綺麗に見えた。

 

「あーあ……こんなにボロボロじゃ、また怒られるなぁ……」

 

 目を吊り上げながら冷たい声を荒げて怒る少女の姿が頭に浮かぶ。

 その呟きも、雨上がりの湿った空気の中に溶けていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……」

「哀君?」

「……博士、寝ましょうか」

「あ、ああ。哀君が眠れるならいいんじゃが」

「ええ、大丈夫よ……」

 

 窓から瑠璃色の空を見上げる灰原。彼女の顔はどこか安心したように見える。その瞳に大きな満月を浮かべ、口元を小さく綻ばせる。

 

「なぜかしら……もう、大丈夫な気がするから」

 

 月の光を背にそっと振り返り微笑む彼女の姿は、どこか神秘的で、幻想的で。まるで月の女神のようだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「その子、そんなに愛想良かったかしら」

「あれ以来懐かれちゃってね。可愛い妹ができたみたいだ」

「はい……お兄ちゃん、飲んで」

 

 白鯨との激闘から数日。爽やかな風と明るい太陽光の降り注ぐとある休日の午後。

 阿笠宅には頭や肩、肘、指、胴体、脚……全身包帯まみれ傷だらけの伊吹と灰原、博士とコナン。そして清美と桜、この一件に関わったメンバーが一堂に会していた。

 ソファに腰掛ける伊吹の隣には桜が座り、お気に入りのカフェオレにストローを差して右手の使えない伊吹の口元に持っていく。伊吹以外には無愛想な態度は変わらないが、彼に対してはすっかり心を開いているようだ。伊吹が空いている左手で桜の艶やかな黒いショートボブの髪を撫でると、くすぐったそうに目を細めて笑顔を浮かべる。

 反対の隣に座る灰原は2人のやり取りを微笑ましそうに見つめて「お兄ちゃん、ねえ」と零す。彼女の中で子供は問題ないようだ。

 

「それで、結局例の事件はどうなったんじゃ?」

「ああ、ざっくりとは前にも話したけど、白鯨は取り押さえて公安のツテを通して日本警察に引き渡したよ、俺の名前は出さないようにしてね。そんで清美さんの親戚連中の悪事もバレて、全員揃って殺人教唆やらなんやらで逮捕だってさ」

「はい。伊吹くんには本当にお世話になりました。感謝の意はお言葉などで表しきれるものではありません。本当に、本当にありがとうございました」

「お兄ちゃん……ありがとう」

「どういたしまして」

「……伊吹くん? 清美さん?」

 

 最初に出会った日のように、伊吹の向かいに座っていた清美が畏まって深々と頭を下げる。桜も釣られるように隣で頭を下げる。伊吹が優しく目を細めながら桜の頭を撫でる横で灰原が半眼のまま訝しがるような声を上げる。

 

「邪魔をする連中もいなくなったし遺産の相続も無事済むでしょう。そうすればもう命は狙われないし、警備も雇える。もっとも親戚たちは捕まりましたけど」

 

 桜の突き出すカフェオレのストローを一口すする。

 

「これで、任務完了ですわ」

「……本当に、ありがとうございます」

「それにしてもあなた、最初の弱々しい雰囲気はどこにいったのかしら」

 

 当初この家に来たときとは打って変わって凛とした清美。灰原は腕を組んでジト目で清美に問いかける。

 

「これでも私はしたたかな女ですので」

「涙ながらに弱々しさを演じて同情を買おうとした、と」

「ええ、ごめんなさい」

 

 苦笑いを浮かべる伊吹に、そっとカップを持ち上げてコーヒーの香りを楽しむ清美が、申し訳なさそうにイタズラっぽい笑みを浮かべる。そんな彼女に対して苛立たしげに深いため息をつく灰原。

 

「お兄ちゃん」

「ん? どした?」

 

 伊吹の服の裾をくいくいと引っ張る桜が、伊吹に顔を近づけて小さな声で恥ずかしそうに話す。色白の頬は赤みがかっている。

 

「さくらが大人になったら……お兄ちゃんのお嫁さんにしてね」

「そうだねー、桜ちゃん可愛いからなってもらおうかな」

 

 小首を傾げサラサラの髪を揺らしながら照れくさそうに笑う桜。無邪気な甘えに思わず癒され笑みが零れる伊吹。ついつい彼女の頭を撫で回してしまう。

 コナンが様子を窺うようにそっと灰原の方を見るも、彼女もまた桜の無垢さに口元に笑みを浮かべて優しく見守っている。コナンはほっと息をついた。

 

「じゃあ私もお嫁さんにしてもらおうかな」

「ママはダメー」

「……」

「あ、哀君……?」

 

 コナンがほっとしたのも束の間、上品に口元を手で隠しながら話す清美の冗談めかした言葉に灰原の機嫌は急転直下。自分の冗談に照れてしまったかのように、ほんのり頬を染める清美を灰原は流氷のような冷たい目で睨みつける。おろおろする博士の言葉も耳に届いていなようだ。

 

「お兄ちゃん……またおうち、来てもいい?」

「もちろん。なあ、哀」

「……っ、え、ええ。もちろんよ。いつでもいらっしゃい」

「じゃあ私も」

「あなたはダメ」

 

 薄い表情ながら眉を少し垂らして不安げな顔をする桜に、優しく微笑みかける灰原。小さな子供であることと、特殊な経験と境遇による共感からか、その笑顔は普段より柔らかい。しかし続く清美には変わらず鋭い氷の刃のような目を向ける。髪は警戒する猫の尾ように逆だっている。灰原の気迫に「あらあら」と微笑みで返す大人の女。心なしか室温が下がっていく気がする。

 清美が小さく口元を綻ばせた余裕の笑みを浮かべ、大人の色気が溶け込むような目を細めて伊吹を見つめる。長いまつげがパチパチと弾んだ。

 

「伊吹くん」

「ん? なんでしょ?」

「ふふっ、また一緒にお風呂入りましょうね」

「……ッ!」

 

 キッと鋭く冷たい灰原の眼光が伊吹へ向けられる。

 少し傾けられた顔にかかるブラウンの髪が目元に影を落とし、目を反射する鈍い光りが突き刺さりそうなほどに尖る。言葉こそ出してはいないが、彼女の目はまさに口ほどに物を言っていた。「なんだそれは」と。

 視線を合わせることのできない伊吹は下手くそにとぼけるように、明るい窓の外を眺める。白いカーテンを揺らすそよ風と、部屋を洗うように流れる少し冷たい空気。名も知らぬ草が庭でそよぎ、小鳥がさえずる。懐かしいような、胸が心地よく締めつけられる感覚がする。

 灰原の鋭い視線と穏やかな光景。伊吹はどこか、自分の中の小さな傷が癒えていくような気がした。「ああ、この感じが……、あのじいさんの言ってたことなのかな」と、ぼんやり考える。

 何気ない日常が自分を癒していくことに、彼は気づいた。それが本当に白鯨の忠告を理解したからなのか、信じられない形相で自分を睨みつける灰原から逃れるための現実逃避なのかはわからないが。

 

「いい天気だ……」

「……は?」

 

 彼女の声もまた、容赦のない冷たいものだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「伊吹兄ちゃん大丈夫かよ!?」

「ひどい怪我ですねー……ミイラ男みたいになっちゃってますよぉ」

「伊吹お兄さん、痛そう……」

 

 清美と事の顛末を話した翌日。阿笠宅からは少年探偵団の声が聞こえていた。

 

「大丈夫、大丈夫。これくらい平気だよ」

「病院で大人しくしとけよな」

「前にも似たようなこと言ってなかったか、コナン。病室で寝込んでいるよりこうやってこの子らの相手してる方が、元気が貰えていいんだよ」

「にしても、改めて見るとこりゃまた酷くやられたもんじゃのぉ」

「日が経って腫れや痣が目立ってきたのね」

 

 リビングのソファに腰掛ける伊吹。向かいに座る子供たちがボロボロの彼を痛そうな表情を浮かべて恐る恐る見ている。伊吹の隣には呆れたようなコナンの顔。博士はキッチンから持ってきたジュースとコーヒーをテーブルに並べる。

 コナンと反対側の隣に座る灰原も呆れ顔で伊吹の頬をつつく。

 

「いてっ……。あれ? 俺のマグカップが新しい」

「ああ、前のは哀君が……手を滑らせてのぉ。それは哀君が代わりに新しく買ってきたものじゃよ」

「へー」

「……」

 

 伊吹のコーヒーが注がれたカップには可愛らしい黒猫のイラストが描かれている。それを珍しげに眺めていた伊吹が、ふと隣でコーヒーをすする灰原へと向けられる。彼女の小さな手が持っているカップにも別の種類の黒猫がプリントされていた。

 

「哀のも新しくなってるね」

「ええ、ついでにね」

 

 興味なさそうに目を閉じ、澄まし顔でコーヒーの風味を楽しんでいる灰原。

 

「同じ種類のカップだね」

「……そうね」

「なんでまた」

「……セットで買うと安かったのよ」

「ふーん……」

 

 2人は並んでお揃いのカップでコーヒーを味わう。同じ豆の同じコーヒーだが、2人にはいつもよりも美味しく感じる気がした。

 

「熱いコーヒーなんて飲んで、口は痛くないの」

 

 伊吹を横目に見ながらポツリと零す灰原。

 

「歯の折れたのは左だから、気をつければ……」

「なんと、歯も折れておったのか?」

「うん。まあこれくらいで済んでよかったよ、博士。左の奥歯上下が2本、左手の小指と薬指。あとはアバラがバキッとね。それと右肩と肘と手首をグキッといかれて、左足首もゴキッとかな」

「あ、アバウトな表現じゃのぉ……」

「目も耳も2つあるし、玉も潰されてない。内臓も無事で骨折も少し、大金星だよ」

「……」

 

 無邪気に「よかったよかった」と笑う伊吹に、灰原は不機嫌そうに呆れたような大きなため息をつく。

 傷だらけでもいつもと変わらない伊吹の態度に、今度は興味津々に尋ねる子供たち。

 

「伊吹さんはいったい、なにと戦ったんですか?」

「ちょっと動物とじゃれてただけだよ」

「象か!? キリンか!?」

「ライオンさん? トラさん?」

「あー……鯨さん」

 

 からかうような笑みで話す伊吹に子供たちは、はぐらかされたと文句を言う。思わず灰原は小さく笑みをこぼし、コナンと博士は苦笑いをする。

 

「あ、そうだ博士、伊吹さんもいますし、この間のゲームしましょうよ!」

「さんせー!」

「あゆみもやりたーい!」

 

 子供たちの言うゲームとは例の『生涯ゲーム・大人のブラック版』である。そのアダルティな内容を思い出して博士は困ったように笑う。コナンもゲンナリしたような顔をし、灰原は「仕方ないわね」と肩をすくめるも、どこか楽しそうだ。なんのことかわからない伊吹は流されるままにゲームに参加する。

 様々な色の車に模したコマを各人1つずつ配され、自身の分身であるピンを運転席に差し込む。伊吹はそれを自分のコマの助手席側に突き差した。

 

「じゃあ俺のは外車仕様で」

「…………」

「……え、なに?」

「……別に、何でもないわ」

 

 視線を感じた伊吹が隣に目をやると、どこか驚いたようなキョトンとする灰原と目が合う。普段の彼女であれば、こんな伊吹の子供っぽい行動なんて無視するか、呆れたような目で見てくるかだ。機嫌が悪いと「くだらない」「バカみたい」と吐き捨てられることもある。こんな反応は初めてで、思わず伊吹の方もキョトンとしてしまう。

 ハッとしたようにいつもの澄まし顔をする灰原。頭に「?」を浮かべる伊吹だったが、気にした様子もなく準備を進める。そんな彼を横目に、思わず頬が緩んでしまう灰原。上機嫌な笑顔に沖野ヨーコの鼻歌をハミングさせる。

 

「やけに上機嫌じゃねーか」

「そうかしら」

 

 訝しげなコナンの質問をさらっと受け流すも、明るい笑顔が消えることはない。

 

「さて、今回は負けないわよ」

「灰原さんも今回はやる気ですね! コナン君をギャフンと言わせましょう!」

「哀ちゃんご機嫌さんだね!」

「灰原が、明るく笑って、遊んでる」

「お、職業にヒットマンなんてあるじゃん」

「おいオメーら、順番決めっからさっさとルーレット回せよ」

 

 平穏な日常の中に楽しそうな声が響き渡る。子供たちの笑い声も吸い込むような青空には、雲一つ見当たらない。

 テーブルの端に寄せられたカップ達の中で、2匹の黒猫は仲良く寄り添い、差し込む暖かい日差しにできた持ち手の影は、愛の形に重なっていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なあ、哀」

「なに?」

「ちょっと……俺に怒ってみてくれない」

「……嫌よ」

「……そうか」

 

 2人並んでソファに座りテレビを眺めていたが、彼女の「意味がわからない」と言いたげな冷たい目が伊吹の方へと向けられる。

 ぼんやり画面を見つめている伊吹の「まあ、その目で見られるのもいい」という呟きに、灰原は呆れたように目を閉じる。小さくため息を吐いたあと、少し恥ずかしげに口を開いた。

 

「……バカ」

「…………ん? え、なに。まさか、今の怒ったつもりなの?」

「……」

「そうそう、それが怒っている人の目だよ」

 

 からかう伊吹と呆れて怒る灰原。そんな2人の穏やかな時間に伊吹の心は癒えていった。そしてそれは、灰原も同じように……。

 

 

 



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7話 神様の言うとおり 前編

 

『ああ、まだ帰れそうにないかなぁ。早くてもあと2、3日はかかりそう』

「そう。じゃあ1週間くらいになりそうね。まあせっかくなんだし、里帰りでもしてきなさい」

『いや俺はアメリカ(こっち)で生まれたかもわかんないよ』

 

 眩しい朝日が差し込む阿笠宅のリビング。ソファの上で三角座りをし、気だるそうに背もたれに頭を預けて電話をしている灰原の姿が見える。受話器から聞こえるのは海の向こうにいる伊吹の声。アメリカからの国際電話のようだ。

 

「ところで、あなたが急にそっちに行っちゃったから聞きそびれたんだけど、どうしてアメリカに?」

『この間の白鯨の件だよ。数年なりを潜めていたとは言え、仮にもICPOの国際指名手配犯とやり合った訳だし。CIA(うち)でも問題にされてさ』

「工作員失格ね」

「おんなじこと言われたよ。“お前の任務はなんだ”とか、“お前は情にほだされるところがある”とかね」

 

 困ったような伊吹の声にからかうように返す灰原。あくびをしながら閉じた目に涙を浮かべ、口元は楽しそうにほころんでいる。

 

「笑い事じゃないよマジで。まだ怪我も治ってねえのに呼びつけられて……」

『あなたの体ならすぐに治るわよ』

「治んないよ。化物じゃないんだから」

 

 「十分化物じゃない」という至極真っ当なツッコミを彼女は飲み込み、代わりに大きなため息をつく。「差し歯も増えたし……」と耳元で愚痴を続けそうな伊吹の言葉を遮る。

 

「ところで、例のもの、よろしくね」

『あー……ニジムラのバッグ、だっけ?』

「……フサエブランドのポーチよ」

『はいはい』

「おーい哀君、そろそろ準備せんと」

 

 背後からかけられる博士の声に頭だけで軽く振り返り、小さく手を挙げて答える灰原。ソファから立ち上がりスリッパを鳴らし、電話片手に何やら外出の準備をしている。

 

『どこか行くの?』

「ええ。今から探偵団でキャンプよ」

『あー、そっちは朝か。てかキャンプ好きだねー』

「あの子達は私と違って普通の小学1年生なんだから、なんでも楽しいのよ。」

『擦れてるなぁ』

 

 大きな鞄を担いだ博士が玄関に腰掛け靴を履いている。上機嫌でまだ電話を切りそうにない灰原にちらりと目を合わせ、「そろそろ出んと」とアイコンタクトを送る。

 

「そろそろ出るわ」

『楽しんできな』

「……それじゃあね」

『はいよ。出来るだけ早く帰るから』

「……」

『……』

「……」

『……いや、切ったら?』

「……ええ。またね……」

『ああ、また』

 

 最後の言葉を残してブツリと躊躇いなく切られる電話。聞こえる途切れとぎれの機械音を聞きながら、灰原は納得がいかないような顔で目を細めて受話器を見やる。

 

「哀君、もうみんな外まで来とるぞ」

「……ええ、行きましょ」

 

 心なしか強めに電話の子機を置き、大きな鞄を肩にかけて灰原はそそくさと出て行ってしまった。

 玄関を開けた時にその柔肌を撫でた空気は日に日に冷たさを帯びていくようで、日差しの暖かさが嬉しくなる。玄関前に止められている博士のビートルにはコナンをはじめ、子供達が集まっていた。

 ふと視線を横に流すとビートルの隣には伊吹の愛車である黒を基調とした傷だらけの「ハーレーダビッドソンFLSTFファットボーイ」が停まっている。伊吹の運転で自分も後ろに乗ることは多いが、彼女はそのバイクの轟音があまり好きではなかった。だがバイクが目に付いたとき、今自分の隣には伊吹がいないことを改めて思い知る。それはどこか心許ない、久しぶりの感覚だった。

 

「灰原おせーぞー、寝坊かー」

「元太くん、時間ぴったりですよ」

「あーあ、伊吹お兄さんいないんだぁ。今日はあゆみの番だったのになぁ」

 

 見るからにウキウキとし、早く早くと博士を急かす子供たち。歩美だけは拗ねるように唇を尖らせてつまらなさそうにバイクを見つめる。

 キャンプなどの遠出する時は博士の車では小さいため、伊吹はよくバイクに乗って付いていく。その際に乗ってみたいとせがむ子供たちがローテーションで後ろに座っている。順番的に今回はあゆみの番だったようだが、それは次回までお預けとなった。

 

「……ッ!?」

 

 小さな欠伸をこぼして眠たそうに車のドアを開ける灰原だったが、不意に感じた視線に振り返る。感じたのは隣の工藤邸の2階の窓からだ。訝しげにその窓を睨む灰原の目に映るカーテンは、微かに揺れているようだった。

 不安げな表情で窓を睨むように見つめる灰原。以前から隣人に対しては快く思っていなかったが、コナンの自信ありげな「あの人は大丈夫」という言葉と、実際に彼と関わることで出会った当初ほどの不信感も薄らいでいた。なによりすぐ隣で自分を守ってくれる超人がいたため、安心できていた。しかし彼のいない無防備な今、消えかかっていた隣人へのモヤモヤとした感覚が再び、微かに湧き出してきたようだ。

 

「おい、大丈夫か、お前?」

「……ええ、隣人の不快な視線を感じただけだから」

「あん? だから昴さんなら大丈夫だって」

「……そうね」

「お前、もしかして萩原がいねーから恐がってんのか?」

「そんなんじゃないわ」

 

 ふっと興味なさそうにコナンから視線を外して目を閉じ、車の後部座席に乗り込む灰原。扉を閉める前に刺すようなジトっとした目でコナンを見つめ、吐き捨てるように口を開いた。

 

「私、そこまで彼に依存してないから」

「ははは……素直じゃねーな、ほんと」

 

 力強く閉められた扉の前で苦笑いを浮かべるコナン。心なしか家から出てきた時から機嫌の悪そうな灰原。睡眠不足だけが原因じゃなさそうな彼女の姿に、この先が思いやられそうだとため息を零す。

 白い日差しに照らされる高い群青色の空を、飛行機がまっすぐの白い尾を伸ばしながら横切っていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「哀ちゃん元気ないね」

「そうか? いっつもあんなだろー」

「元太くんには女性の心の機微がわからないんですね」

 

 博士の黄色いビートルが山中の山道を駆け抜けていく。舗装はされているも道は細く、片側は圧迫感のある山の壁面が続き、反対側は崖になっておりガードレールの下は深い森が広がっている。

 車内の後部座席には子供達と灰原が少し狭そうに座っている。その左端、助手席の後ろに座る灰原は頬杖をつきながら窓を流れる景色をぼんやりと眺め、彼女から距離を取るように少し離れた子供たちがヒソヒソ話をしていた。

 山の木々で陰る社内はひんやりとしており、先程まで暖かな日差しに照らされていた車には少し冷えるほどだ。灰原は無意識にその細く白い二の腕を手でさすっていた。

 すると唐突に、タイヤが石にでも乗り上げたのか、車が大きく揺れだした。

 

「おっ、な、なんじゃ……!?」

「は、博士ブレーキ! ブレーキ!」

 

 博士がコナンの言葉に慌ててブレーキを踏み抜く。タイヤがアスファルトの上を滑るように止まり、煙と共にアスファルトに黒い筋を残す。

 

「な、なんなんですか……?」

 

 子供たちは突然の恐怖体験に顔を歪ませ、光彦が涙目でポツリとこぼした。博士が「ふぅ……」と深いため息をつき、コナンは額に汗を浮かべて呆れたような表情を浮かべる。

 博士とコナンが車から降りてタイヤの様子を窺う。左前タイヤを見ていたコナンが「博士、ここだ」と鬱陶しそうに声を上げた。2人の視線の先ではタイヤの空気が抜け、車の重さに潰れていた。

 

「パンクかのぉ」

「おいおい、こんな山の中でどうすんだよ」

「代えのタイヤは持ってきてないの?」

 

 頭をかかえる博士とコナンに、窓から顔を出した呆れ顔の灰原が声をかける。子供たちも灰原の後ろから覗き込んでいる。

 

「荷物が多かったからのぉ、予備のタイヤを積んでおくスペースが無かったんじゃ」

「しゃーねえ、昴さんに頼んでスペアタイヤと工具を持ってきてもらうか。今日は家にいるみたいだし」

「……」

 

 面倒くさそうにコナンは頭をかきながら携帯を取り出す。その言葉を聞いた灰原は何も言わなかったが、腕を組んで不服そうにまぶたを伏せて座席に背を預けた。

 

「ああ、もしもし昴さん? 実は……」

 

 その電話を聞きながら灰原は静かに薄らと目を開き、複雑そうな顔で窓枠に切り取られた空を見上げていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「うわー、たっけーなー」

「落ちたらひとたまりもないですねぇ」

「こわーい……」

「これこれ、あんまり近づくと危ないぞ」

「へ、へっ……えっくしょんッ!!」

「うわわわっ! あ、危ないじゃないですか元太くん!」

 

 コナンが昴と連絡をとってしばらく経った頃。子供たちが大人しく車で待っておけるはずもなく、辺りを散策し始めた。

 ガードレールの下に広がる崖を覗き込み、高い空へと吹き抜けていく風に前髪を揺らし鼻腔をくすぐられはしゃいでいると、山道の向こうから赤色の車「スバル360」が近づいてくるのが見えた。

 

「あ、昴お兄さんだ!」

「昴の兄ちゃんおせーぞ!」

「すまんのぉ、昴君。わざわざこんな所まで来てもらって」

「いえ、今日は暇を持て余していましたので。ドライブもできてよかったです」

 

 申し訳なさそうな笑みを浮かべる博士に、気さくな笑顔を向けながら早速代えのタイヤを持ち出す昴。

 博士のビートルの側まで歩み寄って来た昴が車内をチラリと覗き込むと、開いた窓から見えたのは興味なさそうに腕を組み目を閉じて車の整備が終わるのを待つ灰原の姿のみ。昴の気配に気づいたのか、灰原はジトっとした半眼で昴の顔を一瞥するも、あくびを一つこぼし眠たそうに再び目を閉じてしまう。

 そんな彼女の態度に昴は少し困ったような顔を浮かべながら小さく息を漏らす。辺りをぐるりと見回した昴が、「おや……」と不思議そうに呟いた。

 

「そういえば彼の姿が見えませんね」

「彼って、伊吹お兄さんのこと?」

「ええ。いつも灰原さんと一緒にいる屈強な青年です」

「別に、いつも一緒にいるわけじゃないわ」

 

 目を伏せたままサラリと質問に答える灰原。キョトンとした昴が「そうですか」と微笑み、受け流しながら博士へと視線を向け、言外に伊吹がいない理由を尋ねる。

 

「えと……伊吹君はちと野暮用でのぉ。日本を離れておるんじゃ」

「海外ですか、いいですね。……さぞ、お忙しいことでしょう」

 

 その意味深で小さな呟きは近くにいた灰原にしか聞こえなかった。彼女がその言葉の真意を確かめようと窓から顔を覗かせると、昴は既にしゃがみ込み、子供たちに囲まれながら博士と共にタイヤの整備にあたっていた。灰原は子供たちに笑みを浮かべながら工具をいじる彼に疑うような視線を向けていた。

 

「これでパンクは直りましたよ。古いタイヤは僕の車に積んでおきますね」

「すまんのぉ、ワシの車には積めんから助かるわい」

「そうだ。彼がいないのでしたら、僕がキャンプに参加してもよろしいですか?」

「昴さんが?」

 

 昴の提案にキョトンと聞き返す光彦、子供たちも珍しそうに彼を見ている。

 

「ええ、彼ほど屈強な体はしていませんが、キャンプでの力仕事くらいはできますよ。博士1人で子供たちを見るのも大変でしょうし……この子達の安全くらいなら、僕が見ますよ」

「別に、ただのキャンプ、自分の身くらい自分で守れるわよ。あなたに守ってもらわなくてもね」

 

 灰原は目を閉じたまま、ひっそりと敵意のようなものを含ませて言葉を返す。

 昴は細い目を更に細くし、口元に優しい笑みを浮かべる。微かに鋭い目を開き、ビートルの中で無関心に待っている灰原の様子を窺うように見つめる。

 

「うーむ、そうじゃのう。昴君がそう言ってくれるなら」

 

 顎に手を置く博士が昴の提案を飲もうとしたとき、小さくも耳に届く電子音が鳴り響いた。「失礼」と断って電話の主である昴がポケットから携帯電話を取り出し、一同から少し離れてから通話する。

 誰かと小声で話す昴の後ろ姿を、灰原はサイドミラー越しに眺めていた。その目に明確な敵意こそ見て取れないが、あまり快くも思っていないようだ。

 

「すみません、急用が入ってしまいました」

 

 電話を終え戻ってきた昴が申し訳なさそうに眉を下げて博士に話しかける。

 

「こちらから提案しておいて申し訳ないのですが、僕はこれで失礼しますね」

「そうか、残念じゃのぉ」

「また今度ご一緒させてください。タイヤと工具は持って帰りますので」

 

 そそくさとパンクしたタイヤと持ってきた工具を自分の車へと乗せる昴。チラリとビートルから出てこない灰原を一瞥し、「それに」と続ける。

 

「僕では彼女の御眼鏡に適わないようなので」

「……」

「それじゃ、僕はこれで失礼します。楽しいキャンプを」

「ばいばーい、昴お兄さん!」

「またなー!」

 

 そう言い残し昴は赤い愛車を走らせて山道を去っていった。小さくなる車に手を振る子供達と、車内でバックミラー越しにどうでもよさそうに見送る灰原。コナンの小さなため息と博士の苦笑いを残し、一行も調子を取り戻したビートルで昴とは反対方向に車を走らせていった。

 再び窓の外を流れ出した緑の木々と青い空を眺めながら、灰原の頭には先ほどの昴の「彼女の御眼鏡に適わない」という言葉がモヤモヤと離れずにいた。

 別に昴が付いてくることに反対する気などは微塵もなかったし、彼が自分を含めて子供達を守るという言葉に不満もなかった。だが、昴の言葉を聞くに、自分の態度は“あなたでは満足しない”と言っていたようだ。無意識に“伊吹()がいたら……”とでも考えていたのだろうか。

 

「別に……誰でも……」

 

 自分は思っていたよりも伊吹に執着していたのかもしれない、と頭を抱える灰原。小さなため息を零して自分に呆れるように目を細める。そんな灰原を見ながら子供達は顔を突き合わせて再びヒソヒソと話す。

 

「やっぱり哀ちゃん元気ないね」

「そうか? いっつもあんなだろー」

「いえ、先ほどよりも沈んでいるように見えますよ」

「伊吹お兄さんがいないからかな」

「悔しいながら、ありえますね」

「だな、だな」

 

 彼女自身が気づいていないその気持ちは、子供たちにも筒抜けだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「うまかったー!」

「もう食べたんですか元太くん!?」

「元太くん、ちゃんと噛まないと体に悪いんだよ?」

「うっせーなぁ、次はちゃんと噛んで食うよ」

「次って、まだ食う気かよ……」

 

 空が夕暮れの橙に染められる頃、キャンプ場に無事到着した一同は夕食のカレーに舌鼓を打っていた。

 元太が何杯目かのおかわりを皿に注いだ時に、博士が思い出したようにスプーンを立てて声を上げた。

 

「そうじゃ、ここの近くの神社で今日祭りがあってのぉ。このあと食休めに一服してから、みんなで行ってみるかの」

「あゆみ行きたーい!」

「いいですね!」

「まじかよっ! 祭りの食い物あんのにカレーいっぱい食っちまったよ!」

 

 はしゃいで目を輝かせる子供たち。灰原は興味なさそうに黙々とカレーを食べながらも、無邪気に喜んでいる子供たちに小さな笑みを向けていた。

 呆れたように確信をつくコナンに、博士は困り顔で抗議する。

 

「博士、元太で散財しないためにわざと腹いっぱい食わせてから祭りの話したな」

「ええ、せこいわね」

「し、仕方なかろう、祭りの露店は割高なんじゃ」

 

 食事を終えて後片付けをしたあと、まだ一休みしたいという博士を引っ張って、子供たちは祭りへと繰り出していった。

 当初はテントで待っておくと言った灰原だったが子供たちに執拗に誘われ、仕方がないと肩を竦めながらも共に出かけることにした。

 空はすっかり日も沈み、米花では見られない満天の星空が広がっている。

 

「あー! ヤイバーのフィギュアだー!」

「すげー! 欲しいぜ!」

「しかも去年の劇場版限定モデルですよ!」

 

 それほど大きな神社ではなかったが、現地の人々と観光客が集まるらしく、祭り自体の規模はなかなかのものだった。綺麗に澄んでいる夜の空気に露店から立ち上る美味しそうな煙が絡み合い、鼻腔をくすぐる。辺りは人々の熱気と活気に賑わい、雑踏の中に周りの笑い声や掛け声が混ざり合っていた。

 歩美がチョコバナナを片手に射的の景品を指差して声を上げる。唐揚げを頬張る元太と焼き鳥を食べる光彦も釣られて景品を見つけ、興奮しているようだ。

 

「博士! これやらせてくれよ!」

「うーむ、それじゃあ1人一回ならチャレンジしてもよいぞ」

「「わーい!」」

 

 子供たちのおねだりに博士が3人分の料金を支払う。歩美、元太、光彦が横に並びコルク弾を銃に装填して構える。その格好だけは一丁前だ。

 片目を閉じて舌をペロリと出す。ポンッという小気味よい音と共に3人の銃から次々と弾が発射されるも、目的の仮面ヤイバーのフィギュアにはかすりもしなかった。

 

「あー、失敗しちゃいましたぁ」

「俺も、全部外しちまった……」

「あゆみも全然ダメだった」

「まあ、そう甘くはないのぉ」

 

 子供たちが残念賞の10円駄菓子を片手に、悔しそうな目でコナンと博士を見つめる。

 

「おいコナン、おめーやってみろよ」

「そうですね、コナン君はこういうの得意そうですし」

「コナン君、お願い」

 

 その言葉を受けチラリと博士を見上げるコナン。博士はどこか嫌そうな顔を浮かべるも、渋々料金を支払う。コナンは肩を竦めて「期待すんなよ」と呟いてから、狙いを定めコルクを撃ち出した。

 景気のいい発射音とは裏腹にコナンの顔は晴れず、その手には駄菓子が握られていた。げんなりと落ち込む子供たちにコナンは「しゃーねーだろ」と菓子を頬張る。その光景に博士は苦笑いを浮かべ、灰原は愉快そうに口角を上げる。

 

「だいたい見てみろ、あのヤイバー。固定なんかはされてねえみてえだけど、“フィギュアを立たせる”って名目で足元に台を置いてやがる。あれを倒すにはあの小さな頭か突き上げた手を撃ち抜くしかねえよ」

 

 食べた菓子のゴミを博士の持つゴミ箱代わりの紙コップに入れ、コナンは屋台の人形を親指で指し呆れたような目を向けながら、「それに」と更に続ける。

 

「景品が豪華な分、距離もだいぶあるし、まっすぐ飛ぶとは限らないコルクであんなピンポイントに当てるのそうそう出来やしねえよ」

「あなたが……、ぁっ」

「あん?」

 

 負け惜しみではなく、淡々と事実を伝えるコナンに一層落ち込む子供たち。

 それを見ていた灰原が何かを口走る。隣にいた博士が頭に「?」を浮かべ、コナンも彼女に振り返った。

 灰原は「しまった」と言わんばかりに口元に手を当ててそっぽを向き、博士とコナン2人の視線にどこか恥ずかしそうに目を閉じる。

 

「なんだよ灰原、なんか言ったか?」

「哀君?」

「……別に、何でもないわ」

 

 灰原はつい「あなたがやってあげれば?」と、居もしない伊吹に声をかけそうになったようだ。とっさに口を閉ざしたものの、自分でも信じられないほど自然に出そうになった言葉に、思わず頭を抱えてしまう。彼が隣にいることがこれほど自分の中で当たり前になっていたのか、と。そして無意識に話しかけてしまうほど、自分の中で彼の存在が大きくなっていたことに気恥かしさを覚える。

 胸の奥がもどかしいように暖かくなるのを感じるも、それを危うく露見してしまうところだったと、灰原は胸を撫で下ろす。

 

「どうしたの、哀ちゃん? 頭痛いの?」

「灰原さん、車の中でも調子悪そうでしたし」

「拾い食いでもしたのか?」

「え、ええ大丈夫よ。小嶋君と一緒にしないで」

 

 騒ぐ子供たちに囲まれている灰原を眺めながらコナンは不思議そうに頭をかいていた。

 

「なんだ、灰原のやつ」

「さあのぉ、伊吹君のことじゃとは思うが」

「あいつ萩原にべったりだからな」

「哀君と伊吹君がこれだけ長い時間離れたことは記憶にないからのぉ」

 

 灰原の胸の奥にくすぶる想いはコナンと博士にもすっかりバレてしまっていた。いまいち気づいていないのは本人だけらしい。

 

「あー! ラブリーみくじだ!」

「なんだぁ、ラブリーみくじって? 食いもんか?」

「いや、おみくじですって、元太くん」

「おいおい、ラブリーみくじってまさか……」

 

 祭り会場内をぼちぼちと歩き、石畳を鳴らしながら本殿へと向かっていた一行。すると、りんご飴を片手に声を上げた歩美が今度は本殿を指差す。その先には可愛らしい文字で「ラブリーみくじ」と書かれた看板が掲げられていた。

 ラブリーみくじとは都内にある「乱舞璃(らんぶり)神社」が毎年酉の市に出す女性限定の恋愛おみくじである。コナンは前に蘭や園子と一緒に、その乱舞璃神社でとある事件に巻き込まれ、そのおみくじのことを知っていた。

 コナンが苦笑い気味に改めて神社について確認してみると、この神社はその乱舞璃神社の分社であり、こちらの神社では観光客相手に常時このおみくじが設置されているらしい。

 

「あら、知ってるの?」

「ああ、前に蘭と園子に付き合わされて行った神社にもこのおみくじがあったんだよ。確か、女の子限定で、好きな男性の好みのタイプが分かるとかなんとか……」

「歩美引いてみたーい! 哀ちゃんもやろうよ!」

「え、いや、私は別に」

 

 恋愛事に興味津々な歩美。目をキラキラと輝かせてほんのりと頬を染めながら女性限定だというラブリーみくじへ、有無を言わさず灰原の手を握って連れて行く。特に興味なさそうな灰原だったが、歩美に引っ張られ石段に躓きそうになりながら本殿横のおみくじへと駆けていった。

 

「うーん、なにが出るかなぁ」

「……ほら、こういうのは直感で引くのよ。おみくじなんだから」

 

 たかがおみくじだと思っていた灰原だが、隣の歩美があんまり真剣に悩んでいるため、思わず笑みを零してしまう。彼女は歩美と一緒に引いたおみくじを開くことはせず、そのままそっとポケットにしまった。

 

「あ、あゆみちゃん! ど、どんな内容でしたか!?」

「教えろよ、あゆみ!」

「えへへ、ひみつー!」

 

 思わず歩美に詰め寄る光彦と元太。歩美は照れくさそうに笑いながらくじをポケットに入れる。

 

「哀ちゃんには後で教えてあげるから、哀ちゃんのも教えてね!」

「え、ええ」

 

 天真爛漫な笑顔を向けられる灰原は、無意識にポケットの中のくじを指先で握りしめてしまう。たかがくじびきと思う反面、どこか見るのを躊躇っている自分がいることに気がつく。彼女の頭の片隅に、脳天気に笑う伊吹の姿がチラついて消えなかった。

 ざわつく喧騒に高鳴る胸を打つような祭囃子の音が遠くから聞こえてくる。みんなの視線が音の方へと集まる中、灰原だけは視線を落としてそっと取り出したくじを見つめる。手の中で小さく折りたたまれたそれを眺める彼女を、夜空に凛と佇む三日月がまた見下ろしていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あーあ、もうキャンプ終わりかよぉ」

「仕方ないですよ。土日の一泊二日ですから」

「そうよ、元太くん。明日も学校があるんだから」

「あーあ、カレーと祭りしか覚えてねーよ、オレ」

「まあ、実際それくらいじゃったからのぉ」

 

 キャンプ場で一泊した翌日。昼食をキャンプ場で食べ、探偵団一行は帰路についていた。昨日と同じ青空には薄い雲がかかり、開けた車の窓からはひんやりとした心地いい風が吹き込んでいる。

 ビートルが前日パンクした山道に差し掛かる頃、助手席に座っていたコナンが何か思い出したように振り返り、自身の後ろにいる灰原にからかうような声色で話しかける。

 

「そういや灰原、おめーが昨日引いたおみくじ何て書いてあったんだよ?」

「あ、あゆみも聞いてない! 哀ちゃん、どんなだったの?」

「……まだ見てないわ」

 

 身を乗り出してニヤつきながら後部座席を覗き込むコナンに冷たい視線を返す灰原。小さなため息を吐いて興味なさそうに頬杖をつき、開いた窓から流れていく外の景色を眺めながら車内に響く音楽を聞き流している。

 

「えー、なんで見てないの? 哀ちゃん気にならないの?」

「なんで灰原見ねえんだよ、せっかく引いたのによ」

「そ、そうですよ灰原さん、その、ぜひ見てみるべきかと……」

 

 子供たちからの素朴な疑問がぶつけられる。相変わらずからかうように見てくるコナン、博士もどこか気になるようだ。

 みんなの意識が向けられることに辟易するように大きなため息を吐いた灰原は「わかったわよ……」と半ば諦めたようにおみくじを探る。鬱陶しそうに引っかかるシートベルトを外し、ポケットに手を入れ小さく折りたたまれた可愛らしい紙を取り出した。

 子供たちはワクワクしながら読み上げられるのを待ち、コナンもからかうネタができたと言わんばかりにいやらしい笑みを浮かべている。

 灰原の目が静かに紙の上を流れ出した。

 

『飄々としてどこか掴みどころのない彼の心を射抜くには素直になること。本心を隠して冷静に装っても、あなたが彼にべったりなのは筒抜け! たまには開き直って、素直に思う存分に甘えれば、そのギャップに彼もイチコロのはず!……』

 

「…………」

「黙読じゃなくて読み上げろよ!」

「あゆみが読んであげる!」

「あっ、ちょっと!」

 

 半分ほど目を通した灰原だったが、途中で紙を歩美に奪われてしまう。目をキラキラと輝かせながら声に出して読み上げようとする歩美。

 

「えっとね、うーん……なんとかして、『どこか』……なんとかの、『彼の心を』、えっと……」

「歩美ちゃん貸して! 俺が読むから!」

「ダメよ、江戸川君には見せちゃっ……きゃッ!」

「「うわあっ!」」

 

 灰原のラブリーみくじを巡って騒然とする車内。歩美の手からコナンに渡ろうとしたそれを灰原が慌てて奪取したとき、博士がアクセルを踏んだのか、ビートルの速度が急に上がった。

 

「お、おい博士っ、なに飛ばしてんだよ!?」

「い、いや、後ろの車がのぉっ」

 

 慌てる博士の言葉に振り返るコナン。リアウィンドウから後ろを覗き込むと、見るからにごついアメリカ車「ハマー」が煽るように接近してきている。迷彩柄のその車がビートルの後ろを蛇行しながら追従し、今にもぶつかりそうな距離に迫ってくる。

 

「な、なんですかあの車!」

「ぶつかっちまうぞ!」

「こ、こわーい……」

 

 コナンに習って後ろを覗き込む子供たちが口々に文句を零す。

 

「ったく、危ねえなぁ。こんな山道で煽ってくんなよな」

「ああいう手合いは痛い目に合わないと反省できないのよ」

「しゃーねえ。博士、この先の直線で脇によって先に行かせてやれよ」

「ああ、そうじゃのぉ」

 

 もうしばらく続くやんわりとしたカーブ。そこを抜けてから道を譲ろうと考えたコナンと博士だったが、次の瞬間にはその表情が驚愕に染まった。

 

「おいおい、ここで追い越す気かあの迷彩ハマー!」

「危ないのぉ、まったく!」

 

 カーブを抜けきる前に後ろの車が対向車線にずれ、速度を上げてビートルを抜き去ろうとする。煽られていた博士の車も速度が出ていたため、それを追い越そうとするハマーはさらに速く走り出す。

 呆れと怒りの混じった声をあげるコナン。さっさと行かせようと博士が速度を落とそうとしたその瞬間、唐突に激しい衝撃がビートルを襲った。

 

「「うああああ!」」

「キャーーー!!」

「なな、なんじゃ!?」

 

 ハマーが博士のビートルを追い越そうと横に並ぶ。その時突如カーブの先から現れた対向車に驚いたハマーが、それを避けようと咄嗟にハンドルを切ったために、博士のビートルの土手っ腹にぶつかってきたようだ。

 金属の衝突する轟音とタイヤがアスファルトを滑る甲高い音が山道に響き渡り、山にこだまする。対向車もハンドルを切ったらしく反対側の山の側面へと突っ込んでいく。一瞬速度を落としたハマーだったが、すぐさまアクセルを吹かし走り去ってしまった。

 博士のビートルは右側からぶつかられたことで、速度をそのままに車体の左側をカーブするガードレールに激しくぶつけてしまう。車は激突により強制的に急停止され崖下に落下する事は免れた。だが、ガードレールに車体を叩きつけられる激しいクラッシュ音の中で1人の少女の声だけがやけに大きく車内に響き渡った。

 

「きゃっ、ふぁあっ……!」

 

 その声に自然と全員の視線が集まった。みんなの目には、車の衝突する勢いで開いた窓から外へと吹き飛ばされ宙を舞う灰原の驚いたような、キョトンとした表情が写っていた。

 彼女の目にも驚愕する子供達とコナン、博士の顔が見えていた。一瞬の内に様々な光景が走馬灯のように頭をよぎり、視界を流れる全てがスローモーションに見える。「シートベルトを外したから……」ぼんやりそんな事を考えたとき、彼女の体は重力に引っ張られて崖下の森へと落下し始めた。

 

「……哀ッ!!!」

 

 次々襲ってくる突然の出来事に全員の思考が追いつかない中、くぐもった力強い男の叫び声だけが聞こえてきた。一瞬遅れて更なる金属音が鳴り響き、ビートルの横を横転したハーレーダビッドソンが滑るように現れガードレールに激突した。

 いち早く動いたコナンが助手席から身を乗り出して崖下を見ると、落ちていく灰原とそれを追いかける伊吹の姿が見えた。

 

「灰原ッ!! 萩原ッ!!」

 

 深い森に飲み込まれる前に伊吹は灰原に追いつき彼女を抱きしめたようだが、そのまま深緑の中へと飲み込まれていき、コナンの視界から消えていった。

 

「な、なんじゃ、いきなり!? なにがどうなって、あ、哀君は!?」

「哀ちゃん!!」

「灰原さーん!」

「灰原ー!!」

 

 車から降りた一同が慌ててガードレールから下を覗き込むも、既にそこに彼女の姿は影も形もない。事態の急展開に全く頭が追いついていないようだ。そんな彼らをコナンが落ち着いた口調で諭す。

 

「多分、灰原なら大丈夫だ。萩原が追っていったから」

「なんじゃと、伊吹君が来たのか!?」

「ああ。ほら、そこのハーレー見ろよ、あいつのだ」

 

 コナンが指差した先には横転しガードレールに引っかかったままタイヤをくるくると回している伊吹のハーレーがあった。子供達や博士はコナンに言われてようやくその存在に気がつき、徐々に事態が飲み込めてきたようだ。

 

「確かに一瞬黒い影が落ちていったような気がしたが、まさか伊吹君じゃったとは」

「で、でもでも、この崖すっごく高いよ……?」

「ええ、この高さから落ちたら流石に怪我では済まないんじゃ……」

「伊吹の兄ちゃんヤベーんじゃねーか!?」

「あん? 多分そっちは大丈夫だって。それより、俺たちはあの車の人のためにも、救急車と警察を呼ばないと」

 

 反対側にぶつかって動かない車の運転席ではエアバッグに倒れこみ気を失っている男性の姿が見えた。それを指差すコナンは落ちていった伊吹達を信頼しているのか、それほど心配はしていなようだが、その眉間にはシワが寄っており、怒りの表情を浮かべている。

 

「萩原なら無事に灰原を連れて戻ってくるさ。俺たちは、さっきの車をぜってー逃がさねえ」

「……ええ、もちろんです!」

「絶対に捕まえるもん!」

「ただじゃおかねーぞ!!」

 

 コナンの自信ありげな言葉に子供たちも灰原と伊吹の無事を信じる。そしてコナンと共に、例のハマーに対する怒りで燃え上がっていた。

 伊吹と灰原が落ちていった森の木々は、静かに風に揺れていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 灰原を襲ったのは激しい衝撃と、無重力体験だった。自分が車から投げ出されたのだと理解した時には体は急速に崖下へと吸い込まれていく。

 天を仰ぎ、背中から地面へと落ちていく。思わず空に手を伸ばしても、手は空を切るばかりでどうにもならない。視界には青空がいっぱいに広がり、白い雲が呑気に漂っていた。

 午後の高い日に目が眩み細めたとき、自分を呼ぶ彼の声が聞こえてきた。空耳かとも思ったが、太陽を背負った黒い何かの影が迫ってくるのが見えた。

 

「伊吹……」

 

 暗い逆光の向こうに見えたのは、無意識にもこの一週間考え続けてしまった伊吹の姿。思わずポツリと彼の名前を呟き、こちらに伸ばされる屈強な腕に自分の手を絡ませた。その手を力強く握り返されたとき、どこかぼんやりとして現実味を帯びなかった彼女の頭がハッとする。気づいた時には灰原の小さな体は伊吹の体躯に包まれるように抱きしめられていた。

 身を翻した伊吹によって2人の位置が入れ替わり、伊吹は自分の体をクッションにするように灰原が上にくるように抱きかかえる。何かを言いたげな彼女の口を塞ぐように自分の胸板へと押し付ける。灰原の体が自分の体からはみ出さないように注意しながら、伊吹は生い茂る木々を緩衝材にしながら森に飛び込んでいった。

 

「ぅぐぅッ……!」

「……ッ!!」

 

 走行するハーレーから飛び降りた勢いと高所から落下する勢いそのままに伊吹の体は木々の枝葉をへし折って落下し、斜面へと叩きつけられる。咄嗟に体を捻り転がるように受身をとることで衝撃を極力受け流していく。ライダースーツは体中いたるところが破れて出血し、泥と血にまみれて転がり落ちる伊吹。しかしその腕から灰原を離すことはなく、自身の背面のみを地面に打ち付ける。

 伊吹は相当な距離を転がり、滑り落ちたあと、一際大きな大木に背中を打ち付けてようやくその動きが止まった。

 

「ぁぁ……ぅぐっ……」

「ちょ――しっ――い――ッ!」

 

 背中と共に、メット越しとは言え後頭部を激しく打ち付けた伊吹の視界はブラックアウトしていった。耳鳴りのする中、遠くの方から聞こえるくぐもった灰原の声が頭の中にこだましていた。

 

 



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7話 神様の言うとおり 後編

「……ほんとに……ったく」

 

 気絶する伊吹の腕を押し退けてもぞもぞと抜け出した灰原は、意識なくぐったりと倒れる伊吹のヘルメットを慌てながらもゆっくりと脱がし状態を確認する。だが、彼がただ気を失っているだけだと気づくと、その頑強さに呆れたように、安心したように小さな笑みを零した。

 ふっ、と木々の隙間から見上げた崖は自力では到底登れるものではなく、伊吹を置いて行くわけにもいかないと、その場にそっと座り込む。

 眠っているかのような伊吹の頭をそっと撫でる。灰原の顔には喜びや感謝と共に、少し寂しげなどこか切なそうな色も浮かんでいた。その小さな唇がポツリポツリと動く。

 

「私のためなら平気で自分を犠牲にするあなたに……素直に気持ちを伝えたりしたら、ますます怪我が増えそうじゃない……。素直になるのも、難しいものよ」

 

 一人先ほどのおみくじを思い出して困ったように笑う灰原。しかし何気なく探ったポケットにはそのくじはなく、どこかに落としてしまったようだ。

 彼女の大きなため息に反応するように、伊吹がうめき声を上げて意識を取り戻した。

 

「あぁ……ぅぐ、……どれくらい寝てた?」

「ほんの5分くらいよ」

「うぅ……いてて。……怪我は?」

「ええ、お陰様で無事よ。……ありがと」

 

 ちょっと寝違えた、と言わんばかりに起き上がる伊吹に、呆れたようなジト目を向ける灰原。その眼には伊吹の人間離れした肉体に対する疑問も含まれていたが、一番は「なんであなたがここに居るの」というものだった。目を合わた伊吹はその彼女の疑問をすぐに察する。

 

「俺の体はちょっと特殊で……」

「そっちじゃないわ」

「……あー、ちょっと前に帰ってきたんだよ。それでツーリングがてら迎えにでも行こうかとバイクで来たんだ。キャンプ場のパンフレットがテーブルにあったし、道も何となくわかったし」

「それで、なんで飛び降りた訳?」

「そりゃ哀が落ちていくのが見えたから」

 

 腕と肩を回し、首を捻りながら話す伊吹。灰原からの質問に、キョトンとした顔で至極当然のことのように答える。

 その言葉に額に手を当てて小さなため息をつく灰原。彼の身を案じて文句を言いたいが、彼のおかげで助かったのも事実なため、何も言えないもどかしさがあるようだ。

 木々の葉に揺れながら差し込む日差しに引かれるようにゆっくりと空を見上げ、ぼんやりと考えを逡巡させた灰原は、「少しだけ、素直になってみようか」などと考えていた。

 

「体は大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないよ、まだ本調子じゃないのにまた吹っ飛ばされてさ。一張羅も破れてるし、こんなに擦りむいちゃ風呂もしみるだろうなぁ」

「あの崖、どうする?」

「ああ……、まあ、あれくらいなら哀を担いで登れるかなぁ」

 

 なんでもないかのようにサラリと呟く伊吹。灰原はもはや驚くまいと目を伏せる。再びその目を開いたとき、彼女の目は微かに恋慕に揺れており、頬は薄らと朱色に染まっていた。

 

「じゃあ……おぶってくれない?」

「……」

「……なに?」

「……あ、いや、うん。いいけど」

「なにか言いたそうね」

「いや……うーん、別に。……ほれ」

 

 どこか恥ずかしそうな表情を浮かべてお願いする彼女に、一瞬呆気にとられる伊吹。何かが引っかかったのか、軽く頭をかきながら不思議そうな顔をする伊吹だったが、「まあいっか」と流すことにした。

 念のため灰原にヘルメットをかぶせ、しゃがみ込み背中を向けながら乗れとジェスチャーする。灰原は自分から頼んでいながら、あるいは自分から頼んだからか、少し照れながら伊吹の背中にもたれかかる。灰原が乗っても全く苦にすることなく立ち上がる伊吹。優しく握られる彼女の腕を掴んで少し振り返って背後の彼女へ声をかける。

 

「ちゃんとしがみついておけよ、落ちると危ないから」

「ええ、大丈夫よ。離さないから……絶対に」

「……う、うん。ならいいんだけど」

 

 伊吹の首元に回された灰原の腕にグッと力が込められる。どこか冷えるような、意味深に聞こえる彼女の言葉に伊吹は思わずたじろいでしまった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「おいおいマジかよ、灰原おぶって崖登ってきてんぞ、あいつ」

「超人的ですねー……」

「伊吹の兄ちゃんすっげー!」

「かっこいいー!」

「てかあいつこの間までギプス付けてなかったか?」

 

 灰原を背に乗せて崖をよじ登ってくる伊吹に気づいた子供たちがその様子を眺めている。そのあまりに非現実的な光景はまるで映画のようで、思わず他人事のように感想を漏らしてしまう一同。

 道路まで崖を登りきった伊吹は灰原をそっと降ろし、疲れを抜くかのように低い声を漏らしながら腰と首を捻る。現場には既に地元の警察が到着しており、辺りは騒然としていた。戻ってきた伊吹は博士や子供達と軽く挨拶を交わすと、すぐに警察から話を聞かれることとなった。

 

「哀ちゃん大丈夫?」

「お怪我はありませんか?」

「ええ、大丈夫よ。心配かけてごめんね」

「まあ悪いのはあのぶつかってきた車だからな」

「全くじゃ。早く捕まってくれんかのぉ」

「大丈夫だよ、博士。ナンバーこそハッキリと見えなかったけど、タイヤ痕に剥がれた塗料、割れた部品の欠片まであるんだ。すぐに見つかるさ」

 

 息をつきながらメットを脱ぎ髪を整えるように頭を振る灰原。子供たちは彼女を囲んで心配そうに声をかける。

 例の衝突してきた車についてコナンと博士が話していると、歩美が思い出したかのように灰原に話しかけた。

 

「そういえば哀ちゃん、おみくじにはなんて書いてあったの?」

「ああ、あれね。落ちるときに何処かへ無くしちゃったみたい」

「えー、あゆみ気になってたのにぃ」

「そうね、私もちょっと……」

「え?」

 

 眉を垂れ下げて残念そうにする歩美から視線を外した灰原は、おみくじを無くしたであろう崖下へと視線を落とす。風にそよぐ木々を見つめながら、どこか切なげな目をした彼女は「気になっていた……」という言葉をそっと飲み込んだ。その顔にはさっさと最後まで読めばよかったと思う反面、下手に心乱されずに良かったという安堵も見て取れる。

 

「あーあー、またボロボロだよ。まあ動くみたいだからいっか」

 

 警察から解放された伊吹が倒れていた自分のハーレーを運びながら子供たちの元へと戻ってきた。バイクのボディはアスファルトに削られて大きく傷ついていたが、運良く走行には問題ないようだ。

 止めたバイクの側にしゃがみこんで具合を確認している伊吹へ灰原が静かに歩み寄り、困り顔の彼を見つめる。その視線に気がついた伊吹が振り向くと、灰原は自分のハンカチをペットボトルの水で濡らし、彼の手足や顔などに付いた血や土をそっと拭う。

 

「痛っ……」

「動かない。じっとしなさい」

「うぃ、ありがと。でも自分でやるよ」

「私がするから」

「大丈夫だよ。ほら、貸して」

「嫌よ、あなたの手油まみれじゃない。ハンカチが汚れるわ」

「いや、拭いたらどっちにしろ汚れ……」

「私がしたいの。黙って拭かれなさい」

「……はい」

 

 灰原が半ば強引に手に持った水の滴るハンカチを伊吹の汚れた顔に当て、伊吹も文句は言わず大人しく身を任せている。彼女の表情は満足そうな笑みを浮かべ、可愛い子供をあやすような慈愛に満ちた優しい顔だ。彼女なりに素直に自身の気持ちを伝えたのが恥ずかしかったのか、伊吹におぶられている時のように、ほんのりと頬を赤らめている。

 灰原に口元を拭われ、「うぐぐ」と籠った声を出しながら伊吹は博士やコナンたちに問いかける。

 

「それで、今からどうすんの?」

「簡単にじゃがもう警察との話は済んだし、今日は帰ることになったんじゃが……」

「車があの状態だからな。タクシーでも呼ぶしかねえな」

 

 コナンが面相臭そうな顔で博士のビートルを親指で差す。車が大きくへこまされ、挙句高くつくだろうタクシー代を考えて博士はしょんぼりと落ち込んでいた。

 

「ですが、タクシー1台ではこの人数は乗り切れないのでは?」

「じゃあ、あゆみ伊吹お兄さんのお膝に乗る!」

「いや、仮にそれで乗れても法的にのぉ」

「俺のバイクなら問題なく動くし、俺はこいつで帰るよ。1人後ろに乗っけて帰れば大丈夫でしょ」

「はい! あゆみが乗るー!」

 

 灰原に一通り拭かれた伊吹は立ち上がり、博士に借りたタオルで手の油を拭いながら顎で自身のバイクを差す。彼の提案に真っ先に手を挙げて元気に立候補するのは歩美。そこに、鈴の音のような冷たく澄んだ声が待ったをかける。

 

「……私も、乗りたいわ」

 

 両腕を組み伏し目がちに答える灰原はいつもの澄まし顔だったが、どこか有無を言わせぬような雰囲気があった。思わず「うっ」と躊躇う歩美を見て、コナンは灰原へ呆れたような半眼を向ける。

 

「おいおい、歩美ちゃんに譲ってやれよ」

「バイクで帰るならタクシーより早く着くでしょ。私と彼で先に戻って、みんなで食べる今夜の夕食の準備をしておくわ」

 

 効率的でしょ、と言いたげにコナンを見つめ返す灰原。何故か今日は頑固で譲ろうとしない彼女。先ほどの伊吹とのやり取りを見ている限りでも、なにか様子がおかしい。触らぬ神になんとやらと、コナンは無理に理由を聞かず苦笑いのまま距離を取ることにした。そして一緒にタクシーで帰ろうと優しく歩美を諭す。

 伊吹はバイクのエンジンを吹かせながら調子を確認している。話はまとまったようで、隣に立つ灰原に別のヘルメットを渡し、自分は先程まで被っていた傷だらけのメットを被る。灰原の手を引っ張り上げて後ろに座らせ、腕を体に巻きつけるようにしがみつかせる。

 

「じゃあ先に帰ってご飯作っておくから、タクシーでのんびり帰っておいで」

 

 博士たちを一瞥したあと、メット越しのくぐもった声でそう言い残すと、伊吹は軽く手を振ってバイクを翻し山道を後にした。

 

「なんか、灰原さん様子が変でしたね」

「哀ちゃん機嫌悪かったのかな?」

「いっつもあんなんだろ」

「いや、むしろ機嫌良さそうだったけどな」

「そうじゃのう、何やら楽しそうじゃったわい」

 

 灰原が去り際に見せた、メットの奥の笑顔をコナンと博士は見逃さなかった。

 彼らが吹き飛ばされた森の中には、土に汚れた小さな紙が一枚、風に舞って流されていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「しかし意外だな」

「なにがよ」

 

 風を切って走っていた伊吹と灰原は途中のコンビニで小休憩をとっていた。お気に入りはなかったのか、いつものとは違うカフェオレを飲みながら伊吹は何となくポツリと呟く。灰原の手にも、彼と同じカフェオレが握られている。

 

「いや、てっきり哀はこのバイクが嫌いだと思ってたよ。うるさいって」

「ええ、そうね。あんまり好みじゃないわね」

「じゃあなんで乗りたいって言ったの?」

「別に、早く帰って夕食を……」

 

 伊吹の素朴な疑問に、灰原は先程コナンに言ったことをそのまま話そうとする。しかし、それは彼女にとっての本心ではなかった。灰原の頭に一瞬おみくじの内容が蘇り、思わず額に手をついてしまう。

 

「夕食?」

「いえ、その……えっと」

 

 なにか言いづらそうに口ごもり、視線を落として泳がせる灰原。紙パックを掴んだ右手は垂らしたまま、左手は口元に当てる。駐車場のポールにもたれるように腰掛けて足先を小さく組んでいる。

 落ち着かない彼女の視線は微かに潤みを増し、うまく言葉にできないのか、それとも口に出すのが躊躇われるのか、頬は火照り桜色に染まる。

 

「私は、あなたの後ろに……一緒にいたかったのよ」

「おーよしよし、可愛いやつめ」

 

 精一杯の灰原の言葉は伊吹の耳には届いていなかった。彼の口から漏れ出している愛撫の声は灰原に向けられたものではなく、彼の足元にじゃれつく人懐こい三毛猫にかけられたものだった。

 思わず少し肩を落とし、冷たい半眼で彼を睨んでしまう灰原だったが、その愛らしい猫の姿には嫉妬心や呆れも溶けていき、思わず笑顔が零れてしまった。

 

「ん? ここか、ここが撫でられるのがええんか。素直で可愛いやつだなお前は」

「……」

 

 それでも伊吹の何気ない言葉に、大きなため息をついてしまうのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 大きな屋敷の中に携帯電話の電子音が響き渡る。山道でコナンたちが事故に見舞われて少し経った頃、工藤邸では人相の悪い屈強そうな大男、アンドレ・キャメルが顔をしかめながらパソコンを操作していた。

 FBI捜査官である彼は同じくFBI捜査官である赤井秀一、もとい沖矢昴の指示で工藤邸にて待機していた。手元に置いていた携帯が鳴り、画面に赤井秀一の登録名を確認すると同時に、キャメルは弾かれたように携帯をとる。

 

「はい、キャメルです」

『キャメルか、少し手を貸して欲しいことがある。こちらに合流してくれ』

「了解です。ですが、今日帰ってくる例の、隣に住んでいる少女はよろしいので?」

 

 受話器の向こうからは沖矢昴ではなく赤井秀一の声が聞こえてくる。赤井は先日の電話の要件か、何やら諸事情で工藤邸を離れているようで、自分が留守の間キャメルに灰原の警護を頼んでいたようだ。

 

『ああ、彼女なら問題ない。優秀な番犬が戻ってきたようだ』

「番犬、ですか?」

本国(ホワイトハウス)の首輪に繋がれてはいるが、彼女を守ることに関しては、右に出るものはいないだろう』

 

 受話器から聞こえてくる赤井の声はどこか愉快そうに弾んでいた。話の内容がうまく掴めないキャメルは「はあ」と生返事しか返すことができなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 一同がキャンプから帰宅して数日後。伊吹はまだ完治しない体に鞭を打って学校へと通っていた。

 夕日も沈みはじめる下校途中、西日に照らされた長い影を地面に落としながら伊吹は阿笠宅の近くをトボトボと歩いていた。彼が工藤邸の前を通りかかったとき、道の向こうからスーパーの袋を片手に提げた買い物帰りの沖矢昴の姿が見えた。

 お互い相手の存在に気づいていないかのように、会釈も挨拶も視線を合わせることもなく2人は静かにすれ違う。数歩ほど離れたときに、どちらからともなく彼らは足を止めた。沖矢昴、もとい赤井秀一は薄らとその鋭い目を開き、甘く重たい赤井秀一の声で話しかける。

 

「戻って来られてなによりだ」

「心にも無いことを。CIA(私たち)が邪魔でしょうに」

 

 伊吹もまた静かに口を開き、テノールのような低い声で答える。その目は鋭く鈍く研ぎ澄まされており、瞬間的にCIA工作員としてのスイッチが入る。

 

「それはお互い様じゃないか。CIA(お前たち)FBI(我々)を邪魔だと思っているのだろう。だが、我々の敵は同一だと思うが」

「……」

 

 赤井が軽く振り返り、伊吹の背中へと語りかける。

 

「水無玲奈も我々と協力関係にある」

「らしいですね。ですが、CIA(私たち)も一枚岩ではないので。敵の敵は味方という単純な話でもないでしょう」

 

 伊吹も静かに振り返り、赤井の鋭い瞳を見つめ返す。

 

CIA(私たち)合衆国(ステイツ)の利益のために行動しています。FBI(あなたがた)正義の味方とは根本的に異なるのです。CIA(私たち)にとっては組織(奴ら)を潰すことが最大目標ではありません。静かに、気づかれず、悟られず、組織(奴ら)の中に根を張り、生かさず殺さず操り利用し、利益を搾取する。場合によってはFBI(あなたがた)と敵対することもあるでしょう」

 

 伊吹の言葉を聞いた赤井の目は一層に鋭さを増す。そこに怒りなどの感情は見られないが、警戒心のようなものが写っている。

 対する伊吹の目にもまた、敵対心のようなものは見えないが、相手の様子を窺っているようだった。

 

「まあ、もし上が決めれば、FBI(そちら)とも仲良しこよしで頑張りますが。……だが少なくともあいつは……哀に関しては、立場も仕事も関係なく、俺が守る」

「……そうか。お前が絶対の味方となるなら心強いと思っていたのだが」

 

 赤井の瞳の鋭さは消え、残念だと言わんばかりにため息を零す。赤井の言葉を聞き伊吹の脳裏には灰原やコナン、子供たちの笑顔が思い返されていた。

 

「そうですね。私もできることなら、そちらに協力して組織(やつら)を潰したいですよ」

「……」

 

 それだけ言うと、話は終わったと言わんばかりに伊吹は振り返って歩き出す。少し進んだところで何かを思い出したように再び立ち止まる。今度は振り向かないまま、言葉を紡いだ。

 

「私の一存では決められないので。……ですが、私のいない間に(あいつ)の警護をしてくれたことには、感謝します」

 

 伊吹はそのまま歩を進める。去っていく彼の背中を見ながら、赤井はどこか敬意を込めたような声色で、少し大きく声をかけた。

 

「白鯨を素手で仕留めたそうだな」

「……」

 

 伊吹は背を向けたまま片手だけを振って応えた。そのまま夕闇に溶けるように、阿笠宅へと消えていく。

 去っていく伊吹を見つめながら、赤井は小さな笑みを口元に浮かべる。

 

「……戻って来られて何よりというのは、本音さ。彼女のこと、よろしく頼む」

 

 日が傾き冷気を帯びた風に髪をなびかせながら、赤井、もとい沖矢昴は工藤邸へと姿を消した。隣同士の家に、小さな明かりが灯った。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「灰原おせーぞー、寝坊かー」

「確かに、今日は遅れてますね灰原さん」

「今日は伊吹お兄さんいるから歩美が乗せてもらう!」

 

 あのキャンプから一週間後の休日。少年探偵団はまだ陽が登りきっていない時間から阿笠宅へと集合しており、伊吹が帰ってきたことと、前回の口直しと言わんばかりに、再びキャンプへと出かけるようだ。

 ちなみに、例のハマーの運転手はあの後すぐに逮捕され、巻き込まれた車の運転手も大した怪我もなく助かったらしい。

 

「お前らキャンプ好きだねー」

「えー、だってせっかく伊吹お兄さんが帰ってきたんだし。コナン君はキャンプ嫌いなの?」

「そうだぞコナン。今日は仮面ヤイバーのリメンジだしな!」

「それを言うならリベンジです、元太くん。それにもうお祭りは終わってると思いますよ」

 

 事故に巻き込まれた博士のビートルは幸いなことに致命的な損傷もなく、ボディを修復するだけで済んだ。無事帰って来た愛車に博士は涙を流し喜んでいたとか。

 コナンたちはそのビートルにもたれ掛かるように博士と灰原、伊吹が出てくるのを待っている。

 

「いやー、遅れてすまんのぉみんな」

「博士おせーぞ!」

「あれ、灰原さんは?」

「伊吹お兄さんもいないよ?」

「それが哀君が全然起きんくてのぉ。伊吹君が起こして後からバイクで追いかけてくるそうじゃ」

「えー、じゃああゆみ、今日も伊吹お兄さんのバイクに乗れないの?」

「ああ、伊吹君がすまんと謝っておったわい。また帰りにの」

 

 ムスっと膨れる歩美を諭しながら一同はビートルへ荷物を詰め込み、乗り込んでいく。

 博士たちが車を走らせて阿笠邸を出て行った頃、伊吹は未だ起きる気配のない灰原のベッドに腰掛け、暖かな笑みを浮かべ彼女の寝顔を見つめていた。そっとその頭を撫でる指の隙間からは、痛みのない艶やかで鮮やかなブラウンの髪が零れ落ちた。

 

「んん……ぅ……」

 

 撫でられるのが心地よいのか、眠りながらに頬を綻ばせる灰原。薄く開けられた薄桃色の小さな唇から吐息混じりの声が漏れる。

 2階の窓から差し込む日差しに照らされる姿は、まるで彼女自身が優しく輝いているかのようにも見えた。

 

「んんぅ……、ん……?」

 

 伊吹の手の感触とまぶたを照らす日の光に、眉間をしかめながら目を覚ます灰原。鬱陶しそうに寝返りを打つように頭を動かしながら、腕で目元を隠す。彼女が動くたびに流れる茶髪は光の粒が弾けるように綺麗だった。

 

「目が覚めた?」

「……おはよう」

「おはよう」

 

 まどろみの中でぼんやりと天井を眺めていた灰原だったが、ハッとしたように伊吹の存在に気がつき、彼の顔をぼーっと見つめる。年相応の小さな子供を可愛がるような頬笑みを向ける伊吹。

 

「キャンプだよ」

「……ん」

「コーヒー淹れとくから、さっさと顔洗ってきな」

「……ん」

 

 伊吹の声が聞こえているのかどうか、気の抜けたような生返事だけを返す灰原。彼女の脇に手を入れふわりと持ち上げ、ベッドから降ろして立たせる。灰原は右手の甲で目元を擦りながら覚束無い足取りで洗面所へと向かう。

 伊吹は寝ぼける彼女をからかおうかと思ったが、後が怖いのでやめとくことにした。

 

「なんで起きなかったんだよ、この前は電話する余裕もあったのに」

 

 顔を洗いシャキっと目を覚ました灰原がスリッパを鳴らしながらリビングへと来ると、明るい日差しに照らされる室内で伊吹が朝食の準備をしていた。テレビからは朝のニュースが流れ、辺りはコーヒーの香りに包まれている。

 彼女がダイニングテーブルに座ると、伊吹は手際よく彼女の前に皿を並べた。

 

「別に、ちょっと夜更かしして眠たかっただけよ」

 

 彼女は瞳を伏せてコーヒーを飲みながら、イチゴジャムの瓶を差し出す。いつものことなのか、伊吹は何も言わずその瓶を開けて彼女へと返す。

 既に食事を終えている伊吹はコーヒーだけを飲みながら、目の前でこんがりと焼かれたパンをサクサクとかじる灰原を眺めている。

 未だ眠そうに時々目をつむりながら食事していた彼女だったが、半分ほど食べたパンを静かに皿に置いた。そしてゆっくりとまぶたを持ち上げて伊吹を見つめ返し、「いえ、違うわね……」と自傷気味に呆れたような笑みを浮かべる。

 

「あなたと一緒に行きたかったから。また、あのバイクの後ろに乗って、あなたと2人で、行きたかったから……わざと寝坊したのよ」

 

 その眼にはもう恥じらいはなく、頬を赤くすることもない。いつもの澄ました顔で、落ち着いた声色で、ただ淡々と事実を語るように言葉を紡いだ。

 彼女の穏やかな青い海のように綺麗で、陽の光を反射してきらめく瞳に見つめられ、その吸い込まれるような目に伊吹は一瞬言葉を失った。

 

「……あ、ああ。そう。じゃあ、さっさと行こうか、一緒に」

「……そうね」

 

 いつもより素直な灰原の態度と言葉に、どこかぎこちない様子を見せるも、いつもと同じような反応を返す伊吹。そんな彼に灰原は怒るでもなく呆れるでもなく、しかしどこか悲しそうに目を伏せるだけだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……ここ最近、私になにか思うところはない?」

「え、なに急に」

 

 伊吹と灰原はキャンプ場へと向かう途中、前回と同じコンビニの前で休憩をとっていた。灰原は隣でカフェオレを飲む伊吹を、いつものジト目で見つめながら業を煮やしたかのように問いかける。

 伊吹はよくわからない質問に間の抜けたような顔で彼女を見つめ返してしまう。

 

「いや、別に……」

「……」

「いつも通り……可愛いなぁ、としか」

「……はあ」

 

 灰原が意図していたものではなかったが、当然のことのように出てきた伊吹の言葉に思わず頬を薄らと桃色に染めてしまう。その反応を伊吹に悟られないように、顔を伏せて大きなため息を吐く。

 頭に「?」を浮かべながら見つめてくる伊吹に、軽く顔を傾けたまま恥じらい気味の半眼を向ける灰原。彼女のよくわからない態度に、キョトンとしながら無邪気に笑いかけるしかない伊吹。灰原は伊吹から視線を外し、つまらなさそうな顔で前をぼんやりと見つめる。駐車場に設置されているポールにもたれるように腰掛け、組んだ脚の先をぷらぷらと揺らす。

 

「全然ダメね……ラブリーみくじ……」

「ん? なに?」

「別に、何でもないわ。いつまでも休憩してないで早く行きましょ、ますます遅くなるわ」

「誰のせいで遅くなったと……」

「なに?」

「いえ、なにも」

 

 恥じらいつつも恋慕に揺れる瞳ではなく、いつもの冷めたジト目を向けてくる灰原。彼女にヘルメットを差し出しながら、伊吹は嬉しそうな微笑みを向ける。

 

「素直な哀も良かったけど、やっぱりいつもの哀もいいなぁ」

「なっ……に、あなた、わかって……っ!?」

「さあ、なんのことか」

「……――ッ!」

 

 彼の言葉にこの一週間ほどの自分の言葉や態度が一気にフラッシュバックされ、その恥ずかしさから耳まで一瞬にして赤くなる灰原。

 自分が素直になってみても態度の変わらない伊吹に感覚が麻痺し、最近は照れもなく本音を零していた。しかしその全てが彼に楽しまれていたと思うと、頭を抱えてうずくまって身悶えしそうになる。

 恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にする灰原は、それを隠すようにヘルメットを被り、つま先で伊吹の向こう脛を蹴り飛ばす。ビクともせず笑う伊吹の足を執拗に踏んづけていた。

 傍から見れば恋人同士のじゃれ合いには見えない、意地悪なお兄ちゃんが妹をからかっているような、主人が飼い猫をおもちゃで弄んでいるような光景が、朝の田舎町のコンビニ前で繰り広げられていた。

 犬の散歩をしながら過ぎ行く老夫婦が優しく2人を見つめている。太陽を反射する、傷だらけのハーレーが、やれやれと肩をすくめるようにハンドルを傾かせて佇んでいた。

 

「なにも本気で蹴らなくても」

「……」

 

 伊吹と灰原の2人がバイクを走らせ、狭い山道を駆け抜けていく。伊吹がメット内のマイクで話しかけるも、灰原は黙り込むばかりだった。まだほんのりと染まっていた顔は吹き抜ける風に冷やされていくも、その鋭く凍えるような瞳はより一層冷たさを増すばかりだった。

 傷だらけのハーレーダビッドソンが例の崖の道へと差し掛かる。事故でひしゃげたガードレールは一時的に補強されていた。

 2人が落ちていった崖の下の森には、泥と黒ずんだ血で汚れた1枚の紙が枯葉や枯れ枝に混じってポツンと落ちていた。ボロボロのそれはおみくじのようで、爽やかに木々の隙間を抜けていく風に揺らめくそこには、厳かな文字が綴られていた。

 

『飄々としてどこか掴みどころのない彼の心を射抜くには素直になること。

本心を隠して冷静に装っても、あなたが彼にべったりなのは筒抜け!

たまには開き直って、素直に思う存分に甘えれば、そのギャップに彼もイチコロのはず!

もし彼の態度が変わらなくても落ち込まなくて大丈夫。彼はもうこの上なく、あなたのことが大好きなのでは?』

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ヤイバーまだあるぞ!」

「ここの神社はいつまでお祭りをしているのでしょうか」

「なんでも今月の土日はずっと祭りしてるみたいだぞ」

「そういえばそんなことパンフレットに書いてあったかのぉ」

「あゆみ、もう一度チャレンジしたい!」

「オレもオレも!」

「僕もです!」

 

 一同は夜、再び祭りへと繰り出していた。そこには前回子供たちがことごとく敗れ去った射的場も存在していた。子供たちはリベンジに胸を高鳴らせ、祭囃子に合わせて軽くなる足取りで屋台へと向かっていく。が、コルク銃の景気のいい音と共に子供組のリベンジは5分で終了した。

 

「あなたがやってあげれば?」

 

 隣でりんご飴を齧る伊吹に、挑発的な視線を向ける灰原。

 

「そうだぜ! 伊吹の兄ちゃんやってくれよ!」

「お願いします伊吹さん!」

「お願い伊吹お兄さん!」

 

 屋台の前で必死に格闘する子供たちの頑張りを微笑ましく見ていた伊吹だったが、灰原の言葉と子供たちのお願いに、「よーし」とわざとらしく腕まくりをする。

 5回の銃声と共に、5つの景品が落下した。驚愕の顔を浮かべる店主を背に、子供たちにフィギュアをプレゼントする伊吹。ついでに落としたコーヒーの豆を博士に、小さな猫のキーホルダーを灰原へと渡す。

 

「ほれ、ついでにとった景品、あげる」

「おー、これは良さそうなコーヒーじゃのう」

「ま、貰っておいてあげるわ」

「俺にはねえのかよ」

「わりぃ」

 

 はしゃぎ回る子供たちを背に、手元にちょこんと置かれた猫を見つめる灰原。どこか満足そうに小さく笑って、それを大事そうにポケットに仕舞う。

 

「あ、そうだ哀ちゃん、もう一度ラブリーみくじ引く?」

「うーん、そうね……やめておくわ」

「えー、どうして?」

「……神様の言うことも、あんまり当てにならないものよ」

 

 目を閉じて呆れたように皮肉っぽく笑い、本人に気づかれないよう優しく伊吹を見つめる。おみくじなど関係なく、今彼が隣にいるだけで彼女は満足そうだった。

 そんな彼女をまた、まるで神様の悪戯な笑顔の口元を思い出させるような、薄い雲にかすれる三日月が見下ろしていた。

 

 



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8話 いつか、エンゲージ 前編

「プレゼントがあるんだ」

 

 大きな手のひらにちょんと乗った小さく上品な箱。それが笑っちゃいそうなほどに不釣合いで、思わず吹き出しそうになる。ぎこちなく慣れない手つきで彼はその箱をそっと開いた。

 

「なに、それ?」

「帰りにたまたま見かけて、__に似合うと思って」

 

 月明かりのような優しい白銀色に輝く指輪に、小さくも上品にきらめく薄紫のアメジストがあしらわれている。凝ったデザインが施されているわけでもないが、そのシンプルな形状は元々化粧っ気の少ない彼女によく似合いそうだった。

 彼は無骨な指でそのリングを摘むと、彼女を見つめる。彼女も分かっていたように、少し意地の悪い笑みと共にその両手の指をそっと彼に差し出した。彼は困ったように頭をポリポリとかき、少し迷った後で彼女のその柔く美しい右手を静かに引き寄せた。

 「意気地なし」と小さく呟く彼女に、彼はどこか照れ臭そうにそっぽを向く。

 その綺麗な右の薬指にはめられた指輪は面白いほど彼女によく似合い、ごく自然に、ずっと前から付けていたかのように彼女に馴染んでいた。

 

「柄じゃないけど、たまにはいいかなって」

「……そうね、たまには、というより初めてね。こんなのくれたの」

 

 彼が恥ずかしそうに部屋の隅を見ながら呟く。彼女は左手で頬杖をつき、右手の甲をかざしながら少し物珍しそうに自身の指にすんなり収まっている指輪を眺める。指の隙間から見える彼の照れ笑いが、無性に愛おしく見えた。

 

「あんまりアクセサリーとか好きじゃなさそうだから」

「薬品とか付いちゃうかも」

「あ、そっか、やっぱりダメだったかな」

 

 自身がそれほど興味がないというのもあるが、仕事柄あまり手にアクセサリーの類をつけない彼女。よく考えてみればネイルひとつとってもシンプルで女性のたしなみ程度のものしかしていない。それさえも彼と時間を共有するようになってから少し興味を持ち付け始めたほどだ。

 しまったと頭に手をやる彼を見ながら彼女は小さく微笑んだ。

 

「……いえ、ありがとう。大切にするわ」

「……う、うん」

 

 愛おしそうにその指輪を優しく撫でて自身の口元へとあてがい、抱きしめるように手で包み込む。陽光に照らされ、白く淡く輝くその姿と仕草に思わず目を奪われて、生返事しかできなかった。

 「そうだ」と彼女が何かを思い立ったように化粧台へと向かう。引き出しの中を少し探した彼女が「あった」と呟き何かを持ってくる。

 

「こうしたら、どうかしら?」

「うん、すごく似合ってる」

 

 彼女は彼と共に過ごすようになってから購入したネックレスのチェーン部分を持ってきた。そのネックレス自体はそのうち付けなくなってしまい仕舞いこんでいたが、そのチェーン部分に指輪を通し首にかけてみせた。

 

「それなら薬品がつくこともなさそうだ」

「ええ、指にはまた、別の機会に、……別の指につけて」

「あ、いや、それは、その」

「ばかね、冗談よ」

 

 窓の開いた部屋には暖かい春風が草木の香りを連れて吹き込んでくる。白いレースのカーテンがヴェールのように揺れ2人の影を映し出す。

 

「あら、内側になにか文字を刻印しているの?」

「ああ、それは俺なりの気持ちというか、誓いというか……」

「なにそれ」

 

 優しい日差しの中で彼らの談笑は尽きることはなく、暖かいその空間と時間はまるで現実から切り離されたように2人を包んでいた。

 どこか遠くで機械音がする。その音がだんだんと近づいてくるに連れて、懐かしくて愛しい目の前の光景が少しずつ遠のいていった。

 

 

 

*****

 

 

 

 ピピピピピッ、ピピピピピッ。

 遮光カーテンの隙間からは曇天の鈍い明かりが微かに差し込む。頭の上でけたたましく鳴り響く目覚ましの針は午前7時少し前を指していた。

 

「ん……、んん……」

 

 ベッドの上にはミノムシのように丸まった布団が転がっており、室内を反響する不快な音から逃れるようにもぞもぞと動いた。しばらくしても止まらないその音に観念したように、布団からすっと白く柔らかい絹のような肌をした細腕が伸びてきた。

 少し雑に、その手が目覚ましの頭を叩く。

 

「……、夢……」

 

 目を覚ました部屋の主、灰原はベッドに座り込み、両手で目覚まし時計を持ったまま、ぼーっと部屋の天井を見上げて頭の覚醒を待つ。黒いノースリーブシャツとクリーム色のショートパンツ姿では少し冷えるようで、座ったまま掛け布団だけを背中に被っている。

 ポツリと零れた一言は頭の中を反響し、先程まで見ていた懐かしくも心地よい夢の内容を思い出す。胸の中が満たされて暖かくなるような、心地よい目覚めに思わず目覚まし時計を抱きしめて瞳を閉じ、口元には笑みが零れてしまう。

 

「指輪……」

 

 昔を思い起こし、幸せなこそばゆい想い出に耽っていた灰原だったが、何かを思い出したようにベッドから立ち上がる。暖をとっていた布団をほっぽり出し、そのまま足元のスリッパも履かずに自身のデスクへと向かう。

 そこに置かれた小さな木箱を持ち上げる。一見オルゴールのようにも見えるそれは、上品ながらも繊細な装飾が施されており、さながら彼女にとっての宝箱のようだった。そっと開けた箱の中から取り出したのは先程夢に見た、月のように綺麗な銀に淡い紫のアメジストが装飾されたリングだ。

 チェーンに繋がれたそれを持ち上げて思い馳せるように見つめる。

 

「久しぶりに、たまには……ね」

 

 両手でそっと握り締めたそれを灰原は慣れた手つきで自身の首へとかける。

 それは自身が小さくなってから、彼、伊吹と再会するまではお守りのように毎日身につけていたものだった。組織を逃げ出した彼女が唯一持ち出すことができ、唯一手放したくないものだった。

 組織を抜け出し1人となった自身の冷たく寂しい虚空の心が、それを付けていれば少し紛らわすことができた気がしたからだ。

 彼と再会してからは気のせいではなく確かに心が満たされていったから、自然と付けなくなり、自室に大切に保管していたのだ。もっとも、それを身につけているところを見られようものなら彼になんと言ってからかわれるか分からないから、というのもあるが。

 

「哀、起きてる? 朝だよ?」

「っ! え、ええ、大丈夫よ。すぐに行くわ」

「はいよー」

 

 突如としてノックされたドアの向こうから聞こえてくる伊吹の声。ドキッとした灰原はあたふたと慌てながら首にかけたネックレスを服の中へと隠す。彼がドアを明ける前に返事を返し、何とか見られずに済んだようだ。

 

「危険かしら……」

 

 パジャマ越しに胸元のリングに手をあてがい、ドアの方を様子を窺うように見る。廊下を遠のいていく彼の足音を確認すると、襟元を広げパジャマの中のリングもう一度見る。

 少し悩んだ彼女だったが、パジャマを着替えたあとも、その服の中にはリングが輝いていた。

 曇りの空は暗く、リビングではカーテンを締め切られ、朝から蛍光灯が室内を照らしていた。まだ雨は降っていないようだが、どんよりとした暗雲は今にも溶け出し落ちてきそうだ。

 

「おはよう、哀」

「ええ、おはよう」

『先日、都内宝石店に強盗が押し入り数千万円相当の貴金属類を――』

 

 テレビの向こうでは快活そうな女性アナウンサーが深刻な顔でニュースを読み上げる。何の気なしにそれを眺めながら伊吹が淹れてくれた朝の紅茶を楽しむ灰原。その香りと味に思わず笑顔がほころんだ。普段はご機嫌斜めのあくび娘が今日は朝からご機嫌なご様子。

 

「どうしたの?」

「別に。どうして?」

「なんだか機嫌が良さそうだから。何かいい夢でも見た?」

「……そうね、それなりにね」

 

 伊吹の問いかけに微かな沈黙の後、まぶたを閉じて小さく笑う彼女。含みのあるその言い方に伊吹と阿笠博士は目を合わせ肩をすくめる。いつも通りのつもりの彼女だったが、その口元に浮かぶ笑みが消えることはなく、小さな桜色の唇からは微かに沖野ヨーコのハミングが聞こえてきた。

 彼女もなんだか、空は曇っているのに今日は暖かい気がして、心も軽かった。

 

 

 

*****

 

 

 

 少年探偵団が揃って帰路へとつくまだ夕刻よりも早い時間。朝から続く空の厚い雲は切れ間を見せることもなく、今にも雨が降りだしそうな曇天は陽光を遮り湿気を含んだ甘い香りを辺りに漂わせ、既に街を暗い影で覆い灰色に染め上げる。

 沈むように暗い天気を気にする様子もなく、子供たちの元気な声と、5つのランドセルが道を行く。

 

「哀ちゃん、今日はなんだかご機嫌さんだねっ」

「え、そうかしら」

「なにかいいことあったの?」

「別に、なんでもないわ」

「えー、ほんとに?」

 

 湿気に乱れる髪を少しうっとうしげに手ぐしで整えていた灰原に、歩美が嬉しそうに声をかける。今日の灰原の機嫌は子供たちから見てもバレバレなほどよかったらしい。もっとも、歩美にそのことを聞かれるも、いたって普段通りのつもりの本人はなんてことないように応える。

 

「オイ、アレ見ろよッ」

「なんだよ?」

 

 少女2人の話を遮るように前を歩いていた元太が振り返ってみんなに声をかけた。コナンが答えながら元太の指差す方向に視線を送る。釣られるように光彦や少女2人もその方向へと目を向けた。

 

「高木刑事?」

 

 そこにはよく知った顔の男性、高木刑事が非番なのか私服姿でそわそわしながらお店の前に立っていた。ショーケースの商品を見つめたと思うと何かを考え、頭をかきながらまた見つめる。悩むように顎に手を当て目を閉じ、片目でちらっと覗くも、やはり値札は変わらないようだ。

 

「高木刑事なにやら挙動がおかしいですね」

「なにか悩んでるの?」

「ゼッテーアヤしい」

 

 ポストの陰に隠れるようにしながら高木刑事の挙動を観察する少年探偵団たち。しばらく様子を見ていると、何か意を決したような顔つきで高木刑事は店の中へと入っていった。

 

「んん?宝石店に入りましたよ」

「オイ、まさか宝石ぬすむ気じゃ……」

「ばかね、男が宝石店に入るときは大概、プレゼントを買うためよ」

 

 訝しげに宝石店を見つめる子供たちに、灰原が小さくため息をつきながら呆れたように呟いた。

 

「贈る相手は母、姉、妹、妻。色々あるけど、顔を赤くしてそわそわしながら入ったとなると、その相手は……、ま、恋人ってとこだろうぜ」

「恋人って」

「ことは……」

「つまり……」

 

 コナンが高木刑事の不審な行動に対する推理を披露すると、灰原は小さく微笑み、子供たちは目を輝かせる。探偵団の頭の中には高木刑事の恋人である女性刑事、佐藤刑事の姿がありありと思い浮かんだ。

 

「ようしっ、だったら今日の少年探偵団の活動は決まりだなっ」

「ですねっ」

「高木刑事のお手伝いだねっ」

「お、おい、お前ら」

 

 おーっ、と手を掲げて店へと向かう子供たち。置いていかれたコナンの声は全く聞こえていないようだ。隣にいた灰原も「ま、いいんじゃない」といつもより乗り気な様子で子供たちの後を追う。

 「実際ちょっと見てあげないと、あの人、センスなさそうだし」という辛辣な言葉にコナンも思わず苦笑いを浮かべながら宝石店へと向かった。

 

 

 

*****

 

 

 

「はぁ……、8万かぁ。高いよなぁ、やっぱり……。前に買った指輪のローンも残ってるし……」

 

 宝石を前に深くため息をつきながら呟く高木刑事。げんなりした表情で思わず財布を見つめてしまう。懐に余裕のなさそうな彼だったが、先日恋人である佐藤刑事と仲の良い警視庁交通部交通執行課の婦警、宮本由美から「間違いないって、美和子にはこれがおすすめ! 絶対気にいるからー」とこの宝石店の情報を聞かされていたのだ。

 どうもいいように使われている気がするなと思う高木刑事だったが、あそこまで自信満々にプッシュされれば頑張って買ってあげようかという気にもなってしまう。

 

「あの、よろしければ直接お手にとってご覧になられますか?」

「あ、い、いえ」

「お子様への贈り物ですか?」

「お、お子様……?」

 

 店員の女性が柔和な笑みをたたえて尋ねる。まだ買うと決心がつかない高木刑事は慌てていたところに思わぬ質問が飛んできた。店員さんの視線に釣られるように横を見てみると、そこには少年探偵団たちの姿が有り、子供たちがショーケースの向こうを指差しながら騒いでいた。

 

「コレコレ、ダイヤがいっぱい付いてんのがいいんじゃねぇか?」

「でも、佐藤刑事にはゴージャス過ぎませんか?」

 

 困ったように「君たちいつの間に……」と呟く高木刑事を他所に探偵団たちは宝石選びに盛り上がる。

 

「そういえば佐藤刑事、4月生まれって言ってたよ」

「4月の誕生石はダイヤ」

「じゃあやっぱコレじゃんか!」

 

 思い出したと、ぽんと手を叩く歩美にコナンが続ける。元太のオススメはダイヤがふんだんに散りばめられたネックレスのようだ。

 高木刑事が腰を降ろし、目線を下げて子供達に困ったように笑いかける。

 

「あのね、僕はまだ佐藤さんに送るなんて一言も……」

「あら、違うの?」

「その通りです……」

 

 この期に及んで濁そうとする高木刑事に、腕を組んだ灰原がジトっとした半眼で鋭く尋ねる。これには思わず目が点になりながら素直に認めるしかない。

 子供たちも素直に高木刑事と佐藤刑事の事を思い、嬉しそうに笑顔が浮かぶ。

 

「すみません、じゃあこのネックレスを見せていただけますか?」

「はい、こちらですね、どうぞ」

 

 高木刑事が指差したネックレスを取り出す。高級そうな小さな箱にはいくつかのダイヤが散りばめられ、豪華ながらも品のある美しいものだった。

 

「うわー、けっこーすげぇじゃん!」

「デザインもイケてます」

「わー、いいなぁ、佐藤刑事」

「そ、そうかな」

 

 子供たちに素直に褒められて気をよくする高木刑事。灰原も「ま、なかなか悪くないわね」と一言評すると、なんの気なしに他の装飾品へと目をやる。

 わいわいと盛り上がる一団を背に店内を見て回る灰原だったが、ふっとその視線が止まった。見つめるショーケースの中には濃淡様々な紫色をたたえるアメジストが飾られていた。思わず胸元の手を当て服の下にあるリングに触れてしまう。

 

「お、お嬢さん、お目が高いわね」

 

 後ろからかけられた声に振り返ると、そこには灰原よりも明るめの茶色に髪を染めた若い女性店員が人あたりの良さそうな笑顔で灰原とアメジストを見ていた。

 

「私もアメジスト好きよ、石では一番。綺麗でしょ?」

 

 敷居の高そうな店にしてはサバサバとフレンドリーに話しかけてくる店員に少し面食らってしまったが、彼女の言葉で視線は再びアメジストの方へと向けられる。

 

「ええ……。でもこうして見ると、透明度の高いものは淡くて、少し、儚げな気がするわね……」

 

 何かを思い返すように寂しげな瞳で石を見つめる灰原。「そこが綺麗なんだけどね」と笑いながら灰原の隣へとしゃがみ込み、どこか悲しそうな顔をする灰原の横顔をうかがう。

 その表情に少し驚いた店員だったが、そのまま優しく微笑むと、灰原へそっと呟いた。

 

「アメジストの素敵なところはね、宝石言葉と、石そのものの意味にあるのよ」

「意味……?」

 

 店員の言葉に惹かれるように振り向く灰原。そんな彼女に店員はパチリとウィンクを1つ残して教える。

 

「アメジストの石にはね____」

「……!」

 

 彼女の話を聞いていたとき、店内に乾いた音が1発鳴り響いた。

 

「キャーー!」

「喚くんじゃねえっ! この中に宝石を詰めろ、ありったけだ!」

 

 そこには顔の見えないフルフェイスのメットにコートを着込み、手袋をつけた男がその手に持った拳銃を店員に突きつけていた。いくつかの鞄を店員に投げつけ貴金属を中に詰めるように要求する。

 先ほどの音は男が脅しで撃った1発のようだ。天井に空いた風穴を見るにそれは本物のようで、灰原はコナンの元へそっと近づき小声で問いかける。

 

「麻酔銃は……?」

「ダメだ、フルフェイスのメットに厚手のコートと手袋、麻酔針が通らねえし、本物の拳銃を握ってやがる。下手に刺激はできない」

 

 忌々しげに状況を整理するコナン。すると探偵団を庇うように高木刑事が前へと踏み出し強盗犯へ声を上げる。

 

「警察です! 今ちょうど巡回中で仲間の刑事が側に大勢います! 諦めて、銃を捨てたほうが身のためですよ!」

 

 警察手帳を相手に突きつけながら説得を試みる高木刑事。しかし強盗犯は見透かすようにスモークのかかったメットの下でニヤリと笑った。

 

「んな気合の抜けたラフな格好でガキ連れて巡回か? オラッ、さっさとしろ!」

 

 悔しげに犯人を睨む高木刑事。だが確かに今の自分はとても巡回中の刑事には見えないし、相手が実銃を持っている以上迂闊に手出しはできない。

 

「おい、ちょっと待て、その鞄はそこに置け」

 

 店員たちが3つの鞄にそれぞれ店内の貴金属を詰め込み、犯人へと渡そうとする。しかし犯人は鞄を1つ受け取ると、銃口をクイッと動かし残りの2つの鞄をカウンター前の床へ置くように指示をする。

 

「おい、そこのお嬢ちゃん2人、その鞄をこっちに持って来い」

「なッ!? よせッ、子供たちは関係ないだろう!」

「保険は多いに越したこたねえだろう、刑事さんよ」

 

 犯人が指したのは灰原と歩美の2人。高木刑事の言葉をあざ笑うかのように、少女達に貴金属の詰まった鞄を自分のもとへ持ってこさせる。

 恐怖で怯える歩美を庇うように灰原が2つの鞄を持って犯人へと近づく。彼女の肩を掴み隠れるように後ろにつく歩美。

 

「いい子だ、そのまま鞄を持って外の車まで運べ。こっちのお嬢ちゃんは、こう使うとするか」

「きゃッ!」

 

 フルフェイスに隠れた顎を動かし、鞄を持つ灰原に外の車までの運搬を命じる。すると何も持っていない歩美からランドセルを下ろさせ、その体を持ち上げる。高木刑事や店員へと向けられていた銃口を、少女の額へとあてがう。歩美を人質にこの場を逃げ出す気のようだ。

 

「付いてくんじゃねえぞ、サツの姿を見たらガキどちらか1人は殺す。嬢ちゃん、車に乗りな」

 

 銃口を歩美のこめかみに突きつけ、店の目の前に止めていた黒いワンボックスカーに灰原を乗るよう促す。

 灰原は犯人の腕の中で涙を浮かべる歩美の様子を確認し、彼女に危害が加わらないよう犯人に抵抗することもなく、そのまま車へと乗り込む。

 フルフェイス越しに犯人を一瞥する灰原。忌々しげにその冷たい視線を犯人へと向けた後、車に乗り込む直前にチラリとコナンへ視線を配った。彼女の意図をコナンも読み取ったように小さく頷いた。

 宝石店の前にはすでに銃声と騒ぎを聞きつけた野次馬が集まりつつあった。それを意に介する様子もなく犯人は歩美と灰原と共に後部座席へと乗り込む。元々エンジンがかけられたまま止まっていた車は、フルフェイスの男が乗り込むと間髪入れずに発進した。

 

「た、大変だ、と、とにかく僕は警部に連絡をするから君たちは大人しく……って君たちっ!?」

 

 慌ててポケットから携帯を取り出した高木刑事がコナンたちへと振り返ると、そこにはすでに臨戦態勢の彼らがいた。

 

「大人しくなんかしてられっかよ! あゆみたちが連れてかれたんだぞ!」

「そうですよ! 僕たちも犯人を追いかけましょう!」

「だ、駄目だよ! 相手は拳銃を持っているんだ、君たちまで危険な目に遭う!」

 

 元太と光彦をいさめる高木刑事。彼らのやりとりをよそにコナンは1人顎に手を当て考え込む。そして静かに顔を上げると深刻そうな表情を浮かべ呟く。

 

「フルフェイスの男が後部座席に乗り込んですぐに車が発進したから犯人は少なくとも2人以上。そして俺たちはたまたまこの現場に居合わせたんだ、灰原と歩美ちゃんを人質に取ったのは予定外のはず。あれだけ大胆な犯行を犯す奴らだ、人質なんて取らずに身軽に動きたいはず。それでも人質を取ったのは刑事がたまたま居合わせてしまったから、ここからより安全に逃げるため」

 

 つまり、と続けるコナンに一同の視線と、嫌な予感が集まる。

 

「逃げた後、人質はもう用済みになる……ッ!」

「「!?」」

「とにかく! 犯人の車のナンバーは覚えているし、早く検問を! 歩美ちゃんたちが危険だってことも警部さんに!」

「あ、ああ、もちろん!」

 

 高木刑事が上司の目暮警部へと連絡を取り、深刻な表情で電話の向こうとやりとりをする。犯行状況や現在の状態、相手が実銃を所持していること、そして少女が2人が人質とされていることなどを事細かに報告している。

 少しして電話を切った高木刑事が、店内で未だに混乱している店員や他の居合わせた客に落ち着くように声をかけ、状況の説明をする。

 

「千葉たちがたまたま別の事件の捜査で近くにいるみたいだ。僕は合流するから少し店を離れるけど、すぐに戻ってくるから、君たちも大人しくしているんだよ! いいね!」

 

 宝石店を出て行きざまに少年探偵団へと声をかける高木刑事。子供たちの返事を聞くこともなくそのまま急いで店を後にする。

 

「今のうちだ、いくぞ」

「オ、オイ、どうすんだよッ!」

「と、とりあえず警察の検問で犯人が捕まるでしょうか!?」

「バーロ、白昼堂々宝石店を襲うような連中だ、なにか逃走経路を用意してるはず。そう簡単に捕まるかよ。車だってもう乗り捨てられてるかもしれねえ」

 

 コナンの深刻な状況説明に顔を青くする元太と光彦。

 少し顎に手を当て辺りを見ながら考え込むコナンだったが、そこに捨て置かれた歩美のランドセルに視線が止まる。何かに気がついたようにコナンは素早く携帯を取り出すと画面を操作し、誰かに電話をかける。しかし、しばらくコール音が鳴るものの電話は繋がらず、電話の画面をチラリと見て小さく舌打ちし呼び出しを切る。すぐさま別の番号へと電話をかけると、今度はしゃがれた男性の声が聞こえてきた。

 

『おお、新一、どうしたんじゃ?』

「ああ博士っ、大至急米花駅前まで車を回してくれッ!」

『ああ、それは構わんが、一体何事じゃ?』

「説明は後だ、とにかく一刻を争う状況なんだ!」

『わ、わかった。すぐに向かうから待っておれ!』

 

 電話の向こうの阿笠博士は慌てるコナンの言葉に、状況はわからないものの車で駆けつけてくれるようだ。

 

「俺は博士と合流するからお前らは……」

「オレたちも行くぞっ! あゆみたちが連れてかれちまったんだ!」

「ええ、コナン君ばかりいい格好はさせられませんよ!」

「……しゃあねえな、行くぞっ」

 

 電話を切ったコナンが子供たちに釘を刺すよりも先に、元太と光彦がコナンを制する。ここで言い合っていても時間がもったいないし、何より今までの経験からコイツらは引かないなと知っているコナンは、小さくにやりと笑い、2人を連れて宝石店を後にした。

 

 

 

*****

 

 

 

「で、でもコナン君、どうして、博士を駅前にっ? 宝石店でも、よかったんじゃっ?」

「バーロっ、宝石店にはすぐにパトカーが駆けつけるしっ、高木刑事たちも戻ってくるっ、そうなったら博士も近づけないしっ、俺たちも離してくれねえよっ」

「ひーっ、ひーっ……っ!」

 

 探偵団が息を切らせながら駅前まで走る。日は照っていないものの、湿気を多く含んだ空気は肌にまとわりつくようで、不快な汗が流れてくる。特に歩美のランドセルも担いでいる元太は息も絶え絶えだ。

 しばらく走ると米花駅が見えてきた。平日の駅前には人がまばらにいる程度で、博士の目立つビートルを見つけるのは容易かった。

 そのまま休む間もなく車へと乗り込む少年探偵団。慌てる彼らからことの事情を聞いた博士が車を走らせながら焦るように隣のコナンへと尋ねる。

 

「し、しかし、しんっ……、コナン君、犯人たちがどこへ向かっているのかはわかっておるのかっ!?」

「ああ、歩美ちゃんと灰原の探偵団バッジの信号がまだ犯人追跡メガネで追える範囲内にいる」

 

 コナンが自身の眼鏡に手を当てると、その縁からアンテナが伸び信号を受信する。レンズには2つの赤い光が離れたところで点滅している。

 

「うむ。それで、このことを伊吹くんには?」

「そうだぜ、伊吹の兄ちゃんに、言った方が」

「で、ですね……」

「さっきから電話してるけど帝丹高校はまだ6限目の授業中だ」

 

 博士と後部座席で肩で息をする元太と光彦が伊吹への連絡の有無を尋ねるが、コナンは忌々しげに頭をかく。携帯電話片手に話すコナンは先ほどから何度も伊吹を呼び出しているようだが、彼の声は聞こえてこない。しかしコナンは落ち着いたように続ける。

 

「灰原はランドセルを持ったまま連れて行かれた、ってことは携帯を持っているはずだ。あいつらは携帯のGPSをオンにしてりゃお互いの居場所がわかるアプリを入れてるって、萩原から聞いたことがある」

 

 手元の携帯で地図を開き、眼鏡の発信器の信号と照らし合わせるコナン。犯人の目的地を絞り込むように推理しながら淡々と続ける。

 

「灰原が犯人の車に乗せられる時、口パクで「け・い・た・い」って言ってたからな。オンにしてるのか、こっそりオンにしたのかはわからねえけど、萩原が異変に気づけば携帯のGPSから追ってくるはずだ」

 

 その言葉に阿笠博士と子供たちの顔が明るくなる。

 

「もっとも、それまで犯人が人質に手を出さなければ、だがな」

 

 深刻な表情のコナンの眼鏡が、キラリと反射した。

 

 

 

*****

 

 

 

「そのガキどもはどうするんだ」

「あの宝石店に刑事がいたんだよ。逃げるのにちょうどよかったからな、人質だ。追えば殺すとも言っておいたぜ」

 

 人気のない廃雑居ビルの一室。室内には錆び付いたロッカーや仕事机、割れた花瓶に古い電化製品などがほこりをかぶって散乱しており、元々倉庫の代わりに使われていたようだ。

 都心から離れ比較的郊外に位置する廃ビル。さらに通りから外れた室内には、どこかから水漏れした水滴の音が聞こえるほどの静謐が辺りを包む。

 逃走車を運転していた犯人が着けていたサングラスを外し、ほこりのかぶったまま放置されていたオフィスソファに腰掛けもう1人の男に問いかける。メットを外したフルフェイスの男がふぅと深く息を吸う。

 倉庫の壁際では目に涙を浮かべ今にも泣き出しそうな歩美と、冷静に犯人の様子をうかがっている灰原が、その辺に放置されていたガムテープで雑に手足を拘束されている。

 灰原の警戒するような鋭い視線が男の手に握られた拳銃を捉える。

 

「あ、哀ちゃん……」

「……っ」

 

 空に浮かぶ厚い雲はますますその色を濃くし、もうすぐ傾く西日を微塵にも通さない。この状況に希望の光が差し込まないかのように。

 

「……」

 

 視線を落とし、無意識に胸元に触れているリングの感触を意識する灰原。そしてそっと瞳を閉じる。まるで自身の願いがこの暗雲を貫いて、どこかにいる誰かに届くことを祈るように。

 

 

 

*****

 

 

 

 コナンの犯人追跡メガネに点滅する2つの赤い点が動きを止める。

 

「止まった!」

「どこじゃ!?」

「河川沿いだな、かなり郊外の方……。確かこの辺りは地震による地盤沈下が原因で避難指示が出されて今は無人の封鎖地帯のはず。その辺りの建物に居座ってんのか」

「確かにそこなら人目につかんじゃろうな」

「やっぱり車は検問で止められるからさっさと乗り捨てて、新しい車を用意してんのか」

 

 地図を片手に灰原たちの居場所を特定したコナンたちは急いで車を走らせる。犯人たちは極力同じ車での移動時間を削るため、比較的近くの避難指示地帯に潜伏しているのがせめてもの救いか、ほんの20分程度で到着できそうだ。

 

「ここで追いつかねえと、これ以上は犯人追跡メガネの電池が保たねえぜ、博士」

「いそげよっ! 博士!」

「犯人はもう目の前ですよっ!」

「わ、わかっとる!」

 

 探偵団に急かされる博士がアクセルを踏み込み、少女たちの元へと急ぐ。

 

 

 

*****

 

 

 

 曇天の空から溶け出した雨粒がどこかで葉を打ち、次第に大きくなるそれは窓を濡らし、廃ビル裏を流れる川に数多の波紋を広げる。比較的浅かった河川はみるみる増水し、砂利道の続く河川敷にまで届きそうなほどだ。

 辺りは雨雲の薄暗さと宵闇に飲み込まれ、すっかり闇の中に沈んでいる。廃墟には当然電気など通っているはずもなく、室内を照らすのは男たちが持ち込んだキャンプ用の電気式ランタンの明かりだけだ。

 

「……傘……」

「どうしたの、哀ちゃん?」

「え、あ……何でもないわ」

 

 倉庫の窓からとうとう降り出した空を見上げてぽつりと呟く。こんな状況にも関わらず、「今日彼は傘を持って行っただろうか」などと考えてしまう灰原。いや、こんな状況だからこそ彼のことを考えているのかもしれないと、自傷気味に呆れたように笑ってしまう。

 

「チッ、降ってきやがった。いつまでここにいるんだよ?」

 

 拳銃を握った男が忌々しそうに窓の外を眺めながら舌を打ち、もう1人の男へと苛立たしげに詰め寄る。

 

「落ち着け、この宝石を買い取ってくれるやつがいる。高飛び用の飛行機も押さえている。直に連絡が入るはずだ」

 

 その言葉に拳銃を持った男は再び舌を打ち、手持ち無沙汰に辺りをぐるりと見渡す。その視線が灰原と歩美を捉えると、訝しがるように2人へと近づく。歩美が小さな悲鳴をあげ、縛られた手足をもぞもぞと動かし男と距離をとろうとする。しかし男が興味を持ったのは灰原の方で、その首に光るネックレスのチェーンを目ざとく見つけたようだ。

 

「なんだ、ガキが大層なもんつけてんじゃねえか」

「あっ、ちょっとっ!」

 

 男が灰原の前へしゃがみ込み、その首元へ手をかけると、その銀色の細いネックレスチェーンを引き出し灰原が服の中へ隠していたリングを手に持つ。

 しゃがんでいるとはいえ男との身長差により首を少しと持ち上げられる灰原。不快そうにしながらも彼女は臆することなく男へと鋭く凍てつくような視線を向ける。そしてその声は底冷えするような静かで深く冷たい怒気を孕んでいた。

 

「……その汚い手を離しなさい。これはあなたみたいな人間が気安く触れていいような物じゃないわ」

「ああ? んだとっ、ガキが色気づきやがって」

 

 灰原の態度に腹を立てた男が彼女の首から引きちぎるように強引にネックレスを奪う。

 

「返しなさいっ!」

「っせえなッ!」

「あ、哀ちゃん……っ」

 

 倉庫内に乾いた音が響き渡る。指輪を奪われ思わず声を上げてしまう灰原の顔を、男が平手で叩き飛ばす。その勢いに思わず倒れ込む灰原は手足の拘束のせいで受け身もとれず、堅い床に額を打ち付けてしまう。

 彼女の安否を確認するように近づく歩美に「大丈夫よ」と小さく告げると、彼女の鋭い刃物のような視線は再び男へと向けられる。

 男は指輪を摘まむと、ランタンの明かりにかざしてしげしげと見つめる。しばらく眺めた男がつまらなさそうに口を開いた。

 

「刻印が入ってんな、石もアメジストか? たいした額じゃ売れねえな」

「満足したなら返してくれるかしら? それはあなた達が求めているような物じゃないわ」

「……確かにこの指輪は金にはならねえが……」

「ちょっと、なにする気!? やめなさいっ!」

「憂さ晴らしにゃなる」

「……ッ!!」

「哀ちゃん!」

 

 そう吐き捨てると男は灰原の制止も無視して指輪を投げ捨てる。チェーンのついた指輪が廃ビルの窓から綺麗な放物線を描いて飛んでいく。

 縛られた足をもつれさせ転倒しながらも窓辺へと駆け寄る灰原。開けられた窓枠へと身を乗り出して外を見る。吹き込む雨風に晒されながらもそれを気にする様子もなく必死に指輪の行方を追う。

 しかし目の前に広がるのは無情にも雨で増水した河川だった。茶色く濁ったその川か、草木が生い茂る泥と砂利にまみれた河川敷か、指輪の行方は全く検討もつかなかった。

 

「オラッ、大人しくしてろッ」

「キャッ」

 

 窓へと身を乗り出す灰原を男が引っつかみビル内へ引き込む。窓枠から落ちるように室内へ戻された彼女は再び堅い床へと叩きつけられた。手足を縛られた状態で額を床に当てたまま動かない彼女に、心配そうに近づく歩美。不安そうに顔の見えない灰原へと声をかける。

 

「哀ちゃん……大丈夫?」

「吉田さん……そのまま、聞いて」

 

 体は動かさず小声で答える灰原。男たちはオフィスソファに座り込みチラリとこちらを見たが、特に気にする様子もない。

 

「ここから逃げるわよ……」

「え、で、でも、どうやって……?」

「私に考えがあるわ……」

「でもでも、哀ちゃんケガしてるし……コナン君や伊吹お兄さんたちが助けに来てくれるの、待った方が……」

 

 灰原の提案に不安を隠せない歩美。しかし灰原もコナン同様、自分たちにいつまで人質としての価値があるかわからないと考えていた。このまま男たちの言う宝石の売買が終わるまで生かされている保証はない。それならばいっそ自分たちで逃走を考えるべきだと。

 

「……」

「哀ちゃん? どうしたの?」

「……ごめんなさい、吉田さん。これは私のわがまま……」

 

 そして何より、一刻も早く、指輪の行方を追いたいと切望しているのだ。逃げることを良しとする理由は数あれど、そのどれもが言い訳のような気がした。

 

「あれがないと……彼に合わせる顔がないわ……」

「……うん、わかった……! あゆみ、いっつも哀ちゃんに助けてもらってばかりだから……、あゆみも哀ちゃんのためにがんばるっ」

 

 いつになく不安げで困ったような、どこか呆れたような、それでいて親に怒られるのが心配でバツの悪い少女のような顔で呟く灰原を見て、歩美も力強く頷いた。

 2人は犯人に気づかれないようにゆっくりと室内を移動する。そして灰原は床に散らばっている割れた花瓶の破片を後ろ手に掴むと、手に小さな切り傷を作りながら自身を拘束するガムテープを切り裂いた。足の拘束も解くと今度は歩美のテープも切り、自身のランドセルから携帯を抜き取った。。

 灰原と歩美は視線を合わせ小さく頷くと、男たちの目を盗み、音を立てないように室内を後にする。

 外の雨は一層に強さを増していく。まるで大切な物を隠してしまうかのように。

 

 

 



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8話 いつか、エンゲージ 後編

「くそっ、電池が切れた!」

「ええー!」

「まじかよコナンっ」

「しかしこの辺りのどこかにいるはずじゃ」

 

 目的の赤い点滅が停止した近くまで駆けつけたコナンたち一同だったが、いくつか乱立する廃ビルのどれに灰原たちが捕まっているのかを見つけ出す前に、犯人追跡メガネの電池が切れてしまった。

 コナンたちはビートルから降りると、ビルとビルの路地裏をのぞき込み、顔に降り注ぐ雨粒に顔をしかめながら各ビルの窓を見上げる。

 

「とにかく探すんだ! この辺りのビルのどれかに2人は捕まっているはずだ! 鍵のかかったビルまでは探してる時間がねえ! 入り口が開いているビルを見つけるんだ!」

「は、はいっ!」

「おうッ!」

 

 コナンの大声の指示も降りしきる雨音にかき消されてハッキリとは聞こえない程だ。幸い犯人たちの耳にも届いていないだろう。

 一同は手分けをして辺りの廃ビルの入り口を調べる。何枚目かの扉に手をかけたとき、コナンは一同に集合をかけた。

 

「あったぞっ!」

 

 大きなガラス製の扉は所々割れており、ひびも入っている。ビル内へと音が反響しないよう静かに戸を開け、様子を窺いながら中へと侵入する一同。

 顔を伝う雨水の水滴を鬱陶しそうに拭いながら、コナンは辺りに人のいる痕跡を調べる。後ろをついて歩く阿笠博士と元太、光彦も辺りをキョロキョロと見渡す。

 しかしそれらしい痕跡は何も見つからないまま上の階、上の階と上っていく。古いビルで1フロアごとの天井こそ低いものの、建物自体は10階程にまで届く。しかし各階層をくまなく調べても、灰原も歩美も犯人も見当たらないままついに屋上まで到達してしまうコナンたち。

 

「ぜんぜんいねえじゃねえかよ! コナン!」

「犯人の痕跡もありませんでしたね」

 

 コナンは小さな舌打ちと共に屋上を見渡す。念のために全員で屋上周りの調査を行っていたとき、ふっと見ると向かいのビルで何かが動いたような気がして、コナンは屋上のフェンスまで駆け寄った。

 

「いたぞっ! 2人だ!」

 

 その一言に全員がフェンスへとへばり付くように向かいのビルを覗き込む。同じく10階ほどある向かいのビル。屋上から見下ろした7階フロアの廊下を灰原が歩美の手を引き駆け抜ける姿が一同の目に飛び込んできた。

 

「まずいぞ! 犯人に追われている!」

「灰原さんっ!」

「あゆみぃッ!」

「2人とも! 逃げるんじゃ!」

 

 必死に呼びかける声も雨にかき消され、裏路地一本を挟んだ向こうのビルまでは届かない。犯人の凶手が容赦なく2人へと迫る。

 

 

 

*****

 

 

 

 灰原は歩美を連れて犯人たちのいた監禁部屋から抜け出した。手には小さな切り傷から赤い血が滲んでおり、引かれる歩美の手にも痛々しく血がつく。

 

「あ、哀ちゃんっ、血がっ、だい、じょうぶっ?」

「ええっ、平気よっ」

 

 逃げ出すのに何も小細工もしてこなかったのだ、犯人たちに気づかれるのも時間の問題だった。そのため灰原は歩美の手を引いてビルの出口まで一目散に走る。

 10階はあるビルの7階まで降りたところだろうか、古いビルは所々シャッターが降りていたり、防火用の扉が閉まっていたりと、一筋縄ではいかない。息も絶え絶えになった2人が休息も兼ねて一室へと逃げ込む。

 

「吉田さん、大丈夫っ……?」

「はあ、はあ、う、うんっ……、だいじょうぶ」

 

 走ったことと緊張とで、心臓の鼓動がバクバクと和太鼓のように激しく脈打つ。

 薄暗い部屋の中、誇りのかぶったオフィスデスクの陰でぼんやりと明かりがつく。灰原が捕まっていた部屋から持ち出した自身の携帯電話の画面を確認する。電話をかけようとする灰原だったが、携帯を操作する手をピタリと止め、眉をひそめた。

 犯人がすでに自分たちを探し始めている可能性が高いと考え、声を出すのは危険だと判断する。困ったように少し視線を泳がせる彼女だったが、何かを確認するように改めて携帯を操作する。

 

「哀ちゃん、それなあに?」

「これは……切り札、ってところね」

 

 彼女が歩美を安心させるよう少し得意げに微笑み、でもどこか申し訳なさそうに眉尻を下げて画面を見せる。歩美がそれを覗き込もうとしたとき、近くで荒々しい足音が迫ってくるのが聞こえてきた。二人分の足音、犯人たちのようだ。

 咄嗟に画面を消し歩美を引き寄せ闇に紛れる灰原。歩美が一瞬見えた携帯の画面には地図のような物が写っていた気がしたが、それがなんなのかはわからなかった。

 

「近いわね……」

「だ、大丈夫かな……」

「しっ、静かに……」

 

 しばらく息を殺していると、ドタバタと走り回る足音が徐々に遠のいていった。

 それを確認した灰原が部屋の戸を開け廊下の様子をチラリと覗き込む。そこには自分たちを人質としていた男二人の姿が見えた。何やら男たちは言い合いをしながら廊下の奥、突き当たりにある階段から階下へと降りていったようだ。

 

「行くわよ」

「う、うん……」

 

 おそらく犯人はそのまま自分たちを探しながらビルの1階まで向かうはず。そう考えた灰原は犯人たちと付かず離れずの距離を保ち、1階までは犯人たちに背後をとられないように進もうと考えた。

 歩美の手を引きながら廊下を静かに、それでいて犯人たちの居場所を見失わないように素早く進んでいく灰原。

 2人が廊下の突き当たりへともう少しで到達するかという、ちょうどその時だった、廊下の突き当たりの角から雨に濡れたずぶ濡れの姿でアタッシュケースを手に持ちコートにハット姿という見覚えのない男が姿を現したのは。

 

「ッ!!」

「っ!?」

 

 驚きを隠せないのは男の方も同様だった。灰原は相手を見るやいなや咄嗟に頭を回転させる。見覚えのない男、このビルにいる理由、何らかの荷物、先ほどまで雨に降られていたであろう濡れた姿。恐らくこの男が犯人たちの離していた「宝石の買い手」なのだろうと。

 

「吉田さんっ! 走ってっ!」

「話に聞いてた人質かッ! 動くなッ!」

「きゃぁっ!」

 

 状況がわからず未だ驚きで止まってしまっている歩美の手を掴み踵を返す灰原。来た廊下を反対方向へと駆け出す。7階まで降りてきてこのビルの階層構造は大体把握できており、この廊下の両突き当たりには階段があるはずだった。

 何が何だかわからないまま手の引かれるまま走るしかない歩美。彼女の後ろで大きく乾いた炸裂音がしたと思ったら、足下に捨て置かれていた金属製のキーボックスがはじけ飛ぶ。男が発砲してきたことは振り向かずとも理解できた。

 

「ちッ、ガキが俺に手間をかけさせるな……ッ」

 

 銃を持った男が二人の後ろから迫る。灰原は歩美を連れて走りながらも通り過ぎる各部屋の扉をチラリと確認していた。鍵の開いた部屋があれば中に逃げ込むことも考えたが、どの扉も鍵がかかっているようだ。

 

「ッ!?」

 

 廊下の奥にある階段から階下へと逃げようとした2人だったが、そこには防犯用のシャッターが下ろされており、錆び付いたそれは子供の力ではビクともしなさそうだった。

 廊下の奥からは拳銃を構えた男が、こちらが逃げられないことを察したようにニヤニヤと笑いながら迫ってくる。目の前の階段は抜けられない。近くの部屋のドアは鍵がかかり逃げ込めない。飛び降りるには高すぎる。

 

「あ、哀ちゃん……」

「……っ」

 

 灰原は歩美をその背に隠すように庇いながら男と対峙する。後ろの歩美は目に涙を浮かべ灰原の服の裾をギュッと握りしめる。灰原は苦々しい顔に鋭い目で男を睨み警戒するも、その顔には焦りと不安を隠せない。背中に冷や汗が伝うのを感じた。

 

「ああ、見つけたぞ。何だ、もういいのか。せっかく当たらねえように撃ってたのによ」

 

 荷物を足下へ置き懐から取り出した携帯電話でどこかと連絡を取り合う男。自分たちのことをさっきの犯人たちと話していることは明白だった。そして次に向けられる銃口は間違いなく自分たちへと向けられ、その銃弾が威嚇では済まないことも、明白だった。

 

「じゃあ、消しておく」

 

 そう告げた男が通話を終えると、その銃口を改めて灰原たちへと向けた。

 怯える歩美を改めて自分の背へと隠す灰原。現状の打破、相手と犯人の特徴、今日1日の出来事、探偵団のこと、今朝見た夢、無意識に様々な方向へ巡る思考の渦が濁流のように灰原の脳内へと押し寄せる。

 淡い紫色をしたアメジストの指輪が彼女の思考をよぎったとき、ふっと彼女の視界に隣のビルが写った。そこにはこちらを見つめながら何かを叫ぶコナンや博士たちの姿があった。

 男が引き金にかけた指に力を込めたとき、そのビルから迫る黒い影が見えた。

 

 

 

*****

 

 

 

「これ、なにを刻印したの?」

「別に、読めないならいいって」

 

 ダイニングテーブルの向かいに座る彼に、目を細めていたずらに微笑む彼女。首にかけられた指輪を眺めながら彼へと尋ねる。

 手元のリングには何やら英語の筆記体が小さな文字で刻まれており、細めのリングに刻まれたそれを彼女はまじまじと見つめながら解読しようとしていた。

 

「P? Prot……?」

「いいってば。メッセージとかじゃなくて、俺の勝手な言葉っていうか」

「プレゼントでしょ、私には知る権利があるわ」

 

 彼は焦ったように彼女の手元のリングへと手を伸ばす。照れくさそうに笑いながら指輪を彼女の視界から遮ろうとする。そんな彼をひらりと躱すように椅子から立ち上がり澄まし顔で自身の権利を主張する彼女。

 

「……」

「……あっ……」

 

 彼が椅子から立ち上がろうとした時には、彼女はその刻印をじっと見つめていた。黙ってそれを見た後、少し愛おしそうにその指輪をそっと指先で撫で、小さく薄く、しかし満足そうに微笑んだ。

 

「誓い、だったかしら?」

「……まあ、そんなところ」

 

 からかうように明るく話す彼女に、彼は窓の外を眺めながら呟いた。そしてどちらからともなく目を合わせ、優しく馬鹿馬鹿しく2人は笑い合った。

 

 

 

*****

 

 

 

「灰原ッ! 逃げろッ!!」

「あゆみぃッ!!」

「灰原さんッ!」

「いっ、いかんッ! 二人とも逃げるんじゃッ!」

 

 隣のビルで行われる凶行にただただ声を上げるしかない一同。しかしフェンスを揺らし大声を上げるも向こうに声は届かない。激しい雨に揺れる向こうで、男が銃口を少女たちへと突きつける。

 

「はいばッ……らッ?」

「うぉッ!?」

「なんですかッ!?」

 

 コナンが今一度向かいのビルへ叫ぼうとしたその時だった。彼ら一同が掴む高さ2.5mはあるフェンスがガシャンという大きな音を立てて激しく揺れた。

 自分たちの横を巨大な獣が駆け抜けたような気がして、音につられて上を見やるとそこには1人の男がフェンスの上に足をかけていた。

 

『!!?』

 

 一瞬の出来事だった。その黒い影が萩原伊吹だと気がつく前に、彼は全速力で駆けてきた勢いそのままにフェンスへと飛び乗り、その剛脚にありったけの力を込め、踏ん張ったフェンスがひしゃげるほどの勢いで飛び出したのだ。

 跳んだ。いや、まるで飛んだかのように宙を舞う伊吹は身をかがめ全身を丸め、まるで砲弾のように向かいのビルへと突き進む。そのまま向かいのビルの7階、灰原たちのいる階層の廊下の窓を突き破り着弾する。

 

「きゃあっ!」

「ッ!?」

 

 灰原たちに銃を突きつける男の目の前に飛び込んだ伊吹。窓ガラスは飛び散り、転がるように着地する彼の体を切りつける。その衝撃に歩美は思わず目を閉じてしゃがみ込む。

 灰原も驚いていたが、その目はどこかきょとんと拍子抜けしたように見開かれ、体の緊張は自然とほぐれていた。

 

「んだッ!? お前はッ……!」

 

 飛び散るガラス片がゆっくりに見え、雪結晶のように降りしきるその中で彼は静かに立ち上がる。その眼は刃のように鋭く鈍く研ぎ澄まさせれいる。

 突然目の前に現れた男に犯人は驚愕を隠せない。慌てて銃口を向けようとした瞬間、その手首はあらぬ方向へと曲がり、銃は伊吹の手の中にあった。

 何が起きたかわからないまま、眼前に迫る鉄拳を躱すすべを持たない犯人は塵芥のように宙を舞い、勢いそのまま床を滑るように廊下の奥へと転がっていった。

 

「……大丈夫か? 哀」

「…………、え、ええ」

 

 くるりと振り返った彼がゆっくりとこちらへ向かってくる。眼前でこちらを心配そうに見つめてくる彼。思わず返事に詰まったのは、昔もこんな風に助けられた気がして一瞬思考が思い出の中を泳いでいたのと、大切な物をなくしてしまって合わせる顔がないから。

 

「怪我してる。もっと早く来られたら……、ほんとにごめん。歩美ちゃんは、怪我してない?」

「大丈夫よ、これくらい……ありがとう」

「あ、あゆみも大丈夫っ! 伊吹お兄さんありがとうっ!」

「無事ならよかった。……哀?」

 

 伊吹が2人の様子を確認する。彼が心配そうに灰原の頬を撫で、その手につけられた薄い切り傷にハンカチを縛り付ける。伊吹に顔を覗き込まれて思わず顔を背けてしまう灰原に、心配そうに声をかける伊吹。灰原が何かを告げようと顔を上げたとき、廊下の奥から誰かが走ってくる足音が響いてきた。

 

「残党があと……二人ってとこか。ここで待ってて、すぐに片付けてくるから」

 

 そう言うと伊吹は灰原と歩美の頭をひとしきり撫で、安心させるように微笑むと、散らばったガラスを踏みしめ力強い足取りで廊下の奥へと消えていく。

 傷だらけの体、こちらに向けられるその大きな背中、弛緩する自身の緊張、この上ない安心感、心に湧いてくる暖かい感情。そんなことを感じながら、灰原は今朝の夢と、宝石店での店員の言葉が重なって思い起こされた。

 

『――アメジストの石には、――『誠実』と『真実の愛』の石言葉が。それとね、アメジストは悪いものからあなたを守ってくれる、『愛の守護石』でもあるのよ』

 

 どこか階下から聞こえてくる銃声とガラスの割れる激しい音。釣られるようにふらふらと灰原が廊下を歩く。後ろから心配そうにかけられる歩美の声も聞こえないように、足下に飛び散る窓ガラスの破片を拾い上げる。そこには真新しい真っ赤な鮮血が付着しており、それは伊吹が飛び込んできた時に彼の皮膚を切り裂いてついたものだった。

 それを両手で包み込むように掴み、祈るように自身の額へとあてがい、ギュッとつむる

 彼が指輪に刻んだ刻印、あれは確か……。確か……。

 

 胸が刺されたように痛いのは、きっとそれを無くしたからだ。彼の誓いを無碍にしてしまったような気がするからだ。この流された彼の血に報いることができないからだ。

 彼女の流せない涙を代弁するかのように雨は未だ強く降りしきる。

 

 

 

*****

 

 

 

 残りの犯人をあっという間に無力化した伊吹。犯人一味を縛り上げ、コナンたち一行と救出した灰原と歩美が合流し、伊吹が助けに来た経緯を話し出す頃にはパトカーがサイレンを鳴らして到着した。

 博士のビートルの中で濡れた体を温め休む一同に伊吹が声をかける。

 

「じゃあ俺はあの犯人たちを渡してそのまま事情聴取みたいだから、みんなは先に帰って休んでな」

「俺たちの聴取は?」

「疲れてるだろうから明日以降にしてもらうよう言っといた」

 

 警察の聴取に向かう伊吹にコナンが尋ねるも、伊吹の答えと隣で盛大にくしゃみをする元太の様子を見て納得する。

 じゃあね、と残して伊吹がパトカーへと乗り込むのを確認すると灰原は1人ビートルから下車する。

 

「じゃあわしらも帰ろうかの、って、哀くん? どうしたんじゃ? 濡れてしまうぞ」

「灰原?」

 

 彼女の行動に阿笠博士とコナンを始め男性陣は皆頭に「?」を浮かべる。その様子を見ていた歩美だけが心配そうに灰原を見つめる。

 

「ごめんなさい、私ちょっと忘れ物しちゃったから⋯⋯、少し待っててくれるかしら」

「忘れ物? ランドセルなら萩原が回収してきてんぞ?」

「それじゃないわ。……ごめんなさい、すぐ戻るから」

「って、お、おい! そっちはビルじゃねえぞ!」

 

 訝しげなコナンにそう言い残すと彼女は雨の中を駆けだしていく。捕まっていたビルの中へとは向かわず、もっとも警察が入れてくれないだろうが、ビルの側面から河原へと下っていく灰原。

 

「あ、哀くん! 川は増水しておって危険じゃぞ!」

「ったく、なに考えてんだあいつ」

「トイレかー?」

「いやですよ、元太くんじゃないんですから」

「…………」

 

 一同が灰原の行動に首を傾げながらビートルで待機する。すると彼女を心配そうに見つめていた歩美が、じっと俯いたまま黙り込む。

 

「歩美ちゃん? どうかした?」

「……。っ! あゆみも忘れものっ!」

 

 その様子に気づいたコナンが声をかけるとバッと顔を上げ、車を飛び降りた歩美が灰原の後を追っていく。

 

「あゆみぃーッ! なんだよ忘れもんってーッ!」

「哀ちゃんの大切なものーっ!」

 

 走り去る彼女に窓から顔を出した元太が大声をあげる。それに負けないような声で返事を返す歩美もまた、河原の方へと向かい一同の視界から消えていった。

 

 

 

*****

 

 

 

 河川敷は今も降り続ける雨に水嵩を増し、茶色い濁流は勢いを増して下流へと流れていく。この中に落ちていたらもう回収することは不可能だと灰原は冷静に考えながらも、河川敷に落ちている可能性にかけ、手も靴も服まで泥にまみれ雨に打たれながら大切なものを探し続ける。

 暖かくなってきた時期だが、それでも雨はまだ冷たく、その滴は容赦なく少女の体温を奪っていく。両手をすり合わせて吐息で指先を温め辺りを見回していたとき、土手の上から明るい声がかけられた。

 

「哀ちゃん! あゆみも手伝う!」

 

 歩美は転びそうになりながらも土手を駆け下り、灰原の両手に受け止められる。

 

「吉田さん、大丈夫よ。雨も降ってるし、車に戻ってていいわよ」

「ううん、あゆみも手伝う。あゆみも哀ちゃんのためにがんばるって言ったでしょ!」

「吉田さん……」

「オレたちも手伝うぜ!」

「はい、僕たちは少年探偵団の仲間ですからね!」

 

 更に土手の上から声がかけられる。そこには他の探偵団メンバーに阿笠博士まで、彼女の捜し物を手伝いに来てくれたようだ。

 

「みんな……」

「ま、そういうことだから、なにを探してんのか説明してくれよ、まずは」

 

 ぽんと肩に手を置かれると、そこにはどこか呆れ顔のコナンが足下の石を蹴りながら辺りを見渡していた。「どうせ萩原関係だろ」とからかう彼に、珍しく灰原は嫌みも鋭い目も向けることなく、小さく「ありがとう」と呟いた。

 

 

 

*****

 

 

 

 空を覆う厚い雲のせいで辺りは徐々に闇の中へと飲み込まれていく。曇天の向こうの太陽はもう完全に沈みきってしまったようだ。

 未だ捜し物が見つからず辺りの草木を払い泥をすくう灰原。これだけ探しても見つからないため、一同の心中にはもう諦めの色が滲み始めていた。

 降り止むどころか一層強くなってくる雨に、コナンと博士がこれまでと切り上げを灰原に告げようとしたとき、その空気を察したように灰原が静かに、力なくその場に立ち尽くす。川の方を眺める彼女の表情はみんなから窺うことはできない。

 

「哀ちゃん……?」

 

 心配そうに、彼女の様子を窺うに歩美が声をかける。しばらくの沈黙の後、灰原は「ふぅ……」と小さくも長く深いため息を吐いた。彼女は振り返らずに続ける。

 

「……いいわ。これだけ探しても見つからないなら、仕方ないわね」

 

 なんてこと無いように、いつもの澄ました鈴の音のような声色で淡々と呟く灰原。

 

「雨も強くなってきちゃったし……。ごめんなさいね、付き合ってもらって。風邪引いちゃうわ、車に戻りましょう」

 

 振り返った彼女は俯いたまま、その表情を見せない。本人はいつも通り平静に振る舞っているつもりだが、灰原のこんな姿は探偵団も博士も見たことがなく、かける言葉を持ち合わせていなかった。

 誰にも見せないその表情は寂しげで、どこか悲痛に満ちていた。彼女の頬を伝った水滴は降り続ける雨の滴か、それとも彼女の溶け出した心の一滴なのかは彼女自身にもわからなかった。

 帰り道のビートルの中、暖房の効いた暖かい車内の後部座席で子供達は泥のように眠っている。助手席に座る彼女は頬杖をつき暗い窓の外をなにを言うでもなく、ただ眺めていた。窓に流れる雨水の線を目で追いながら、心の中がぽっかりと空いてしまったかのような感じがして、彼女の心は上の空だった。

 

 

 

*****

 

 

 

 探偵団とコナンをそれぞれ家まで送り届けたあと、博士と灰原も自宅へと戻ってきた。伊吹は未だ帰っていないようだ。

 冷えた体を温めるために浴室へと向かう灰原。頭から暖かいお湯を浴びながら頭の中は無くした指輪のことでいっぱいだった。

 彼が帰ってきたときにどんな顔をすればいいのか。彼は指輪を無くしたことを知らない、黙っていたらわからないだろうか。そもそもあの指輪のことを覚えているだろうか。頭の中を様々な思考の波が寄せては返す。

 

「伊吹くん、遅いのう」

 

 浴室を出てからパジャマに着替え、とっくに髪を乾かし、簡単な夕飯を済ませても伊吹はまだ戻っていなかった。

 暖かい紅茶の入ったマグカップを両手に、灰原が心配そうに雨の打つ窓の外を見やる。そわそわとする胸中を沈めるように紅茶を一口すすったとき、バイクのマフラーを震わせる低い重低音が雨音に混ざって外から響いてきた。すると玄関の戸が開けられ、気の抜けたいつもの声が聞こえてきた。

 

「うぃー……ただいまー」

 

 マグカップをリビングに残し、パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関まで出迎えると、そこには全身ずぶ濡れで靴は泥だらけ、ズボンや服の裾まで泥にまみれた伊吹の姿があった。

 

「ちょっと、ずぶ濡れじゃない。大丈夫っ?」

「土砂降りの中バイク回収してきたからね。傘持ってなかったし」

 

 絞れそうな程に濡れた上着を玄関先でバサバサと払い、濡れた前髪を鬱陶しそうにかき上げる。両手をぷらぷらと振りながら水を払う伊吹。濡れ鼠のその姿に灰原も思わず声を上げてしまう。

 

「今タオル……」

「ごめん博士、このままシャワー浴びるけど、とりあえずタオル持ってきてほしいかな」

「う、うむ、ちょっと待っておれ」

 

 灰原がタオルを取ってこようとすると、それを制するように伊吹が困ったような笑顔で阿笠博士にお願いする。灰原のどこかバツの悪そうな表情と伊吹の言葉に、何かを察するように博士はそそくさと玄関を後に洗面所へと消えていく。

 伊吹の顔色を窺うようにチラリと視線を送る灰原。いつもと変わらない彼と目が合うと思わずさっとそらしてしまう。自身の右手で強く左腕を抱きしめ、そわそわと心が落ち着かない。そんな彼女の姿を少し悪戯っぽく、しかし優しく見つめる伊吹がそっと彼女の前にしゃがみ込む。

 片膝をつき彼女と同じ目線で、小さく微笑み、呟くように口を開いた。

 

「プレゼントがあるんだ」

「えっ……」

 

 思わぬ伊吹の言葉に返事を返せない灰原。思いがけない一言だが、聞き覚えのある一言。

 伊吹が自身のポケットの中をごそごそと探り、取り出したのは月のように白く淡く輝く銀の指輪のネックレス。

 

「帰りにたまたま見かけて、哀に似合うと思って」

 

 濡れた彼の手は冷え切っており、氷のように冷たい。手先には小さな傷がついており、爪の隙間まで泥にまみれていた。説明などなくても、それが今日無くした大切なものだということは、すぐにわかった。

 そして彼が冷たい雨に打たれ、泥だらけになってそれを探してくれたことも。

 

「柄じゃないけど、たまにはいいかなって」

「……っ」

 

 胸の中にこみ上げてくる感情をどう表したらいいのかわからない彼女は、思わず顔を伏せてしまう。

 その揺れるブラウンの髪を撫でながら、伊吹はネックレスをそっと灰原の首へとかける。

「うん、似合ってる」

「……」

 

 さげられたネックレスの指輪を両手ですくい上げる。手の中できらめくそれには微かな傷と汚れがついていたものの、今朝見た時よりも、一層輝きを増しているかのように思えた。

 うつむきなにも言わず指輪を見つめる彼女の頭を少し荒っぽく撫でる伊吹。くしゃくしゃと揺れる頭に灰原は抵抗しない。

 

「伊吹くん、とりあえずタオルを持ってきたぞ」

「ありがと、博士」

 

 様子をうかがっていたのか、博士がタオルを持って玄関へと顔を出す。

 

「じゃあこのまま風呂入るよ」

 

 受け取ったタオルで体の水滴を拭った伊吹がそのまま浴室へと向かう。チラリと振り返り未だ玄関で立ちすくむ灰原の後ろ姿を見て、小さく微笑んだ。

 

「哀くん?」

「……。……大丈夫よ、博士。すぐ戻るから」

「う、うむ。体を冷やさんようにするんじゃぞ」

 

 心配そうに灰原に声をかける博士だったが、彼女のいつもと変わらない声色に押し返されるようにリビングへと戻る。

 浴室からはシャワーの音が聞こえる。リビングでは博士が伊吹の分の夕飯を温め直しているだろう。周りに人の気配がしなくなったとき、灰原は糸の切れた人形のように壁へともたれかかり、ずるずるとしゃがみ込んでしまう。

 両手で包み込むように指輪を強く握りしめ、額へ押しつける。ギュッと目をつむり静かに一人喜びを噛みしめる彼女。

 空気が抜けるように自然と口から吐息が漏れた。それが見つかったことと、見つけてくれたこと。覚えていてくれたことと、思い出させてくれたこと。それが嬉しくてたまらなかった。彼女の瞳に喜びの涙が浮かんでいたかどうかは、彼女のみが知っている。

 

「目赤いけど、大丈夫?」

「……寝不足なの」

「あら、そう」

 

 お風呂上がりの伊吹に対して、彼女のいつもの澄ました態度が戻っていた。伊吹は満足そうに笑い、彼女は少し照れくさそうに彼を横目に見上げ、ため息を吐いた。

 彼女の首で揺れる指輪の内側には、小さな筆記体の文字が刻印されていた。

 

『Protects you no matter what』

(何があってもあなたを守ります)

 

 

 

*****

 

 

 

「あなたにプレゼントがあるの」

 

 あの一件からすぐの休日のことだった。リビングでコーヒーを片手にソファでぼーっとワイドショーを眺めながら休日を満喫していた伊吹に灰原が声をかけた。いつもの澄まし顔ながらどこか楽しそうで、上機嫌のご様子。

 あの日以来灰原は例の指輪を再び自身の宝箱にしまい込み、二度と無くさないようにと大切に保管していた。それを珍しく今日は首からさげていた。

 

「ん? プレゼント?」

 

 彼女が詰めろと言わんばかりに目の前で腕を組んで見てくるものだから、伊吹はそそくさと横になっていた体を起こし、ソファに一人分のスペースを作る。そこに腰掛ける彼女は無意識にも彼と足が触れあいそうなほど近くに座り足を組む。

 手に持つ小さな箱を伊吹の大きな手のひらへと乗せ、その上で小さなリボンをほどき、彼に見えるように箱を開ける。中には暗雲の隙間から顔をのぞかせる月のような黒色に鈍く輝く金属の輪っかがあり、その中央に添えられた石は淡い青色をしている。

 

「指輪? なんかすごく高そうだけど」

「別に。ただのお守り、みたいなものよ」

 

 手のひらに乗る箱をしげしげと見つめる彼に、いつもの澄まし顔で瞳を閉じてなんてことないように話す彼女。伊吹の手から取ったコーヒーを一口すすり、意地悪そうなジト目で彼に告げる。

 

「どの指につけるかは、あなたに任せるわ」

「え、ええ⋯⋯」

 

 困ったように指輪を摘まむ彼に「冗談よ」と笑いかけながらネックレスチェーンを渡す灰原。

 

「あなたよく暴力振るうし、指輪が曲がっちゃうわ。これで首からさげておきなさい」

「暴力って語弊があるような」

 

 納得いかないという表情で灰原から受け取ったチェーンに指輪を通し首へと下げる伊吹。「どうかな」と尋ねる彼を横目に確認して「いいんじゃない」と澄まし顔で答える灰原。しかしその口角はつり上がり、隠しきれない気持ちが溢れているようだ。

 

「ありがとう。……哀の次に大切にする」

「……大げさね」

「いやいや。……ん? これ何か刻印してる?」

 

 首にかけた指輪を嬉しそうに眺めていた伊吹が、ふっとそのリングの内側に刻まれた文字を見つける。

 その一言にピクリと反応する灰原だったが、一口コーヒーをすすり唇を湿らせると、なんてことないように口を開く。

 

「……ええ」

「でも読めないな……。これ何語?」

「ラテン語」

「ラテン語ッ!? ……よ、読めない」

「別に、読めなくてもいいわよ。どこの言語にでもある、普遍的なただの定型文みたいなものだから」

「そうなの?」

「…………ま、私なりの気持ち、かしらね」

 

 小さな声でそう言い残すと彼女はそそくさと席を立ち、パタパタとスリッパの足音を残して自室へと戻っていく。チラリと振り返り、指輪を片手に首を傾げる伊吹に、いたずらな、それでいて恋慕に揺れるような微笑みを残して。

 

「なんて書いてんだろ。……調べるのは野暮、かな?」

 

 携帯で検索をしようとした彼だったが、なんとなくやめておくことにした。それを知っても知らなくても、そのお守りは彼にとって何より大切なもので、その言葉は彼女が残した女の子らしい暗号のような気がしたからだ。

 答えはいつか彼女の口から直接聞こうと、指輪を見つめて楽しみだと小さく微笑んだ。

 

『Apud me sis. seculo seculorum』

(あなたが私のそばにいますように。ずっと、いつまでも)

 

 

 

*****

 

 

 

「で、これいくらしたの?」

「……ちょっと奮発したくらいよ」

 

 

 



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9話 ピーナッツバターとブルーベリージャム 前編

「それじゃ、また明日ね」

 

 帝丹小学校、ある日の放課後。まだ日は高く空には雲一つない青空が広がっている。

 退屈な授業から解放された子供たちの声で教室が騒がしくなる中、灰原は落ち着いた声で一言だけ残し一人そそくさと教室をあとにする。去っていくその後ろ姿を少年探偵団は訝しげな表情で見送っていた。

 

「哀ちゃん、今日も先に帰っちゃったね」

「ですねぇ、ここのところずっと一人で先に帰っていますね」

「さては1人でうまいもん食ってんじゃねえのか」

「そんな元太くんじゃないんだから」

 

 どうやらここ数日、灰原は少年探偵団とは別に一人で下校しているようだ。とはいえ特に切羽詰った様子も、怯えた様子もなく、何か事件に巻き込まれているような気配もない。一人で帰っていること以外は普段と変わらないためコナンも特に心配してないようだ。

 

「ようし、今日の少年探偵団の活動は灰原のあとを追っかけるぞっ!」

「素行調査ですね」

「うーん、ちょっといけないような気もするけど、哀ちゃん心配だし……」

「おいおいやめとけよ、どうせ大したことじゃねーんだから」

「コナンくんは哀ちゃんが心配じゃないの?」

「いや、別にそういうわけじゃ……」

 

 コナンの抵抗もあっさりと流され、今日の探偵団の活動は灰原の尾行に決まったようだ。まだ日の高い午後の教室。引かれたばかりのワックスの匂いと、外から吹き込んでくる若草の懐かしいような香りが満ちる小学校の教室に、子供たちの「おー!」という掛け声が響いた。一人面倒くさそうな声も混じっていたようだが。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「こっちは灰原さんの家とは違う方向では」

「哀ちゃんどこに行くんだろう」

「さてはこっちにうめえもんが」

「おめーらもう少し静かにだな」

 

 四人の小さな影が電柱から電柱へ、路地から路地へと移動しながら、1人の少女を追いかける。すれ違う通行人に怪しまれ、尾行とは思えない騒々しさを伴って探偵団は灰原の後をつけていた。

 時折なにかを警戒するように立ち止まっては後ろを振り返る灰原。その度に慌てて身を隠す探偵団達だったが、灰原の鋭い視線は確実にその物陰へと向けられていた。

 

「あれ、この道さっきも通りませんでしたか?」

 

 ふと気づいたように光彦が声を上げる。それに釣られて歩美と元太も辺りをキョロキョロと見回す。誰かの「あっ」という声にみんなが気づくと、既に灰原の揺れるブラウンの髪は見えなくなっていた。

 

「あいつ、撒きやがったな」

「ええ! ぼくたちの尾行がバレていたってことですかぁ?」

「あれだけ騒いでりゃあな」

「うえぇ、完璧な尾行のはずだったろぉ」

「元太くんのお腹が見えてたのかも」

「ちょっとあなたたち、なにやってるの」

 

 失敗した素行調査について少年探偵団が反省会をしていると、後ろから鈴のように澄んだ声がかけられた。聞き覚えのあるその声に思わずびくりと肩を震わせる一同。

 

「は、灰原さん……」

「こそこそと人をつけ回してなんの用かしら」

「ご、ごめんね哀ちゃん」

「おめーの方がこそこそとしてるからだろ」

 

 腕を組んでいつもの鋭いジト目で探偵団を、正確にはコナンの方を見ながら問い詰める灰原。それに対してコナンも開き直った様に両手を頭の後ろで組み反論する。

 灰原はやれやれといった様子でふぅと小さなため息をつき、腕を組んだまま目をつむっている。

 

「はぁ、まあいいわ。付いてきたいなら好きにしなさい」

「あ、おい灰原!」

「灰原さぁん!」

「哀ちゃん!」

 

 呆れたような諦めたような態度で腕を組んだまま探偵団の横をすり抜けていく灰原。

 黙々とただ前を歩いていく灰原の様子はどこか不機嫌そうにも見え、探偵団はバツが悪そうに目を合わせながらもその後ろをついて行くしかなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ここって、帝丹高校じゃねえか」

 

 探偵団が半ば不機嫌気味な灰原に気を遣いながら歩いていると、たどり着いたそこはコナンのよく知る場所だった。

 小学校は下校時刻になっていても帝丹高校はまだまだ授業の真っ最中のようで、校門周りに人影は見えず、校庭からは体育の授業中と思しき掛け声が聞こえてきていた。

 灰原は腕を組んだままジトっとした目でその校舎を見上げていた。

 

「哀ちゃん伊吹お兄さんをお迎えに来たの?」

「いいえ、違うわよ」

「じゃあなんで帝丹高校に? 蘭に用でもあんのか?」

「ないわ」

「わかった! ここにうまいもんがっ……」

「違う」

 

 探偵団の疑問をサラリと受け流す。その質問に答えながらも視線は校舎に向けられたままだ。ここからは見えていないはずだが、その何かを疑うような半眼は“どこかの教室”の“誰か”をじっと見つめているように逸らされない。

 探偵団一同が頭に「?」を浮かべたまま、灰原に視線が集まる。灰原は校舎を見上げていた目線を降ろして目を閉じる。小さく息を吐き、仕方ないと探偵団に振り返り、微かに疑惑の念が滲んだその視線をみんなに向ける。

 

「彼の素行調査の為に来たのよ」

「「?」」

 

 端的すぎるその説明は、探偵団にはよくわからなかった。

 コナンが詳しく事情を聞いたところ、ここ数日伊吹の帰宅時間がいつもより遅く、何やらコソコソしていて素振りが怪しいらしい。

 

「最近、週に2、3日くらい帰ってくるのが遅いのよ」

「はあ。⋯⋯それで何をしているのか突き止めるためにここ数日、萩原の尾行をしてんのか?」

「ええ」

「小学校が終わってから高校が終わるまで、ずっとここに?」

「ええ」

「帰りが遅いから?」

「ええ」

「……」

「なに?」

 

 コナンは疲れたようにげんなりした顔で、ため息と共に頭に手をつく。それをキッと睨むような鋭い視線を向けながら灰原は淡々と答えていた。

 

「哀ちゃん伊吹お兄さんの帰りが遅くて心配なんだね」

「……ええ、そうね」

 

 無邪気な笑顔を浮かべる歩美に対して、「ある意味ね」という言葉を飲み込み再び視線を校舎へと戻す。何かを疑うようなその目は、再び見えない伊吹を捉えたようだ。

 

「週に2、3日帰りが遅いって言ったでしょ。今週は今のところ早く帰ってるし、今日あたりまた遅くなりそうで怪しいのよ」

「それで今日も尾行すんのか?」

「ええ」

「それじゃ、今日の探偵団の活動は伊吹お兄さんの素行調査に変更ですね!」

「おっし、今度こそオレたちの完璧なビコーをすっぞ!」

「あゆみも伊吹お兄さんが心配だし……」

「別にいいけど、さっきみたいな粗雑なのはやめてよね。私の数百倍は鋭い相手よ」

「いやそれもう無理だろ……萩原を尾行とか」

 

 灰原を他所に盛り上がる探偵団。本日の探偵団の目標が更新されたようだ。不機嫌な灰原、楽しそうな元太と光彦、心配そうな歩美に呆れたようなコナンの視線が、見えない校舎の向こうにいる伊吹へと向けられた。

 

「ん……寒気……?」

 

 まどろみの中で授業を受ける伊吹の背中を、冷たい何かが走ったという。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「お、きたぞ」

 

 西の空が薄らとオレンジに染まり始め、東の空にはまだ青色が残っている夕刻前の頃、待ちくたびれた探偵団はボールで遊んだり携帯をいじったりと、各々暇を潰していた。

 授業を終えた学生たちの姿が少しずつ増えていく中、校門前を見張っていたコナンがポツリと呟いた言葉に、探偵団がそそくさと集まってくる。

 

「1人のようね」

「うん。哀ちゃん伊吹お兄さんが誰かと一緒だと思ったの?」

「……ちょっとね。けど、1人でよかったわ。本当に」

「行くぞっ」

 

 路地の陰に隠れながら伊吹の様子を窺う探偵団。彼が帝丹高校から出たとこを少し距離をとってから、コナンの合図で行動を開始する。

 ところが意気込んで尾行を開始したのも束の間、ほんの2、3回ほど角を曲がられたところであっさりと子供たちは撒かれてしまった。

 

「あ、あれれっ、伊吹お兄さんがいないよっ?」

「おかしいですねえ、確かにこの角を曲がって行ったはずなのですが」

 

 あまりにあっさりと伊吹の姿を見失ったものだから探偵団も困惑を隠せない。灰原はこうなることは分かっていたと言わんばかりに、腕を組んでため息を吐く。

 

「気づかれたな。そもそもあいつを尾行なんて無理だっての。帰るぞ……」

「「はーい……」」

 

 呆れたようなコナンの言葉に全員が大きなため息を吐く。この数分のために何時間も待っていたことに、言い知れぬ虚しさと虚脱感を感じる一同だった。

 夕暮れに染まる茜色の空を、カラスが1羽、馬鹿にするように鳴きながら飛んでいった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんだか今日の帰り、可愛い生物(いきもの)に尾けられてるような気がしたんだけど、哀なにか知ってる?」

「さあ。心当たり無いわ」

 

 その日の阿笠宅の夕食、博士と灰原と伊吹が食卓を囲んでいる。揚げたてサクサクの唐揚げを1つ箸で摘みながら伊吹が何気なく灰原に問いかける。その言い方から察するに、子供たちが自分の後をつけていたことは既に分かっているようだ。そして伊吹が自分たちの尾行に気づいていることを当然灰原も気づいている訳だが、伊吹と視線を合わせることなくテレビを見る彼女はどうやら素直に答える気はないらしい。

 

「ま、なんの遊びかしらないけど、ほどほどにして早く帰りなよ。最近不審者の目撃情報とかあるみたいだし」

「ええ、そうね。早く帰るわ……心配事がなくなったらね」

 

 小さく呟いた灰原は箸で持ち上げた少量のご飯をその小さな口で咀嚼しながら、そっと向かいに座る伊吹の様子を窺った。美味しそうに唐揚げを頬張る彼はいつもと変わった様子もなく、今日の尾行を責めることもない。後ろめたいことは何もないようだが、事実ここ最近帰りが遅いことがある。胸中にモヤモヤとしたものを感じながら「最近帰りが遅いけど、誰とどこでなにしてるの?」とは素直には聞けない。

 そんな自分に半ば呆れるように、瞳を閉じ何度目かのため息をこぼす。

 

「どしたのさ?」

「別に、何でもないわ」

「……?」

「……あげた香水、つけてる?」

「え、ああ、うん。せっかくだしいつもつけてるけど。匂いしてるだろ?」

「……指輪は?」

「寝るとき以外はずっと首につけてるよ」

「そう。ならいいわ」

 

 灰原へとグッと体を乗り出し、自身の服の襟元をパタパタと仰ぐ伊吹。帰宅後まだ入浴をしていない首元からは、その太さと古傷には似合わないほのかな柑橘系の香りが漂ってくる。

 その首元にはネックレスのチェーンも見え、服の下に忍ばせたリングを引き出して彼女へ見せる。

 灰原は少し安堵したように小さく微笑んだが、それを隠すようにそっとグラス傾けお茶を飲むのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「で、まーた今日も萩原の尾行かよ」

「別に付いて来てほしいなんて頼んでないわよ」

「しゃーねーだろ、あいつらがやる気満々なんだから」

 

 翌日の昨日と同時刻。少し肌寒い中、少年探偵団の姿は今日も帝丹高校前の路地にあった。灰原が今日も伊吹の尾行のために帰ろうとしたところ、リベンジに燃える少年探偵団に捕まったようだ。

 

「しっかし今日は……」

「ええ、まさか遅い理由が下校途中に何処かへ寄っているんじゃなくて……」

「ぜんぜんこねーじゃんかよー!」

「昨日姿を見せた時間からもう1時間以上は経過してますねえ」

「あゆみちょっと寒いかも」

「ほら、これ着ときなよ、歩美ちゃん」

「うぅ……」

 

 どうやら今日は伊吹がなかなか校舎から姿を見せないようだ。これは灰原も予想外だったのか、いつもの面倒くさそうなため息を吐きながら路地の壁にもたれかかり腕を組む。

 日中は暖かかったためか子供たちは皆薄着で、歩美は半袖から露出された二の腕をさすっている。咄嗟にコナンが自身の上着を差し出し、それを光彦が悔しげな表情を浮かべながら見つめていたとき、校舎の奥から伊吹が姿を現した。

 昨日よりも慎重に伊吹の後を追いかける探偵団だったが、2つ目の角を曲がったとき、そこには塀にもたれ掛かりながら腕を組み一同を待っていた伊吹の姿があった。

 

「まーた今日も、なんの遊びなの?」

「「い、伊吹お兄さんっ」」

「まあ、バレてるよな」

「……」

 

 責める様子もなくキョトンとした顔で尋ねる伊吹。

 

「あのね、哀ちゃんが伊吹お兄さんの帰りが遅いって心配……」

「晩御飯、用意するのか要らないのかわからないのよ。最近連絡もなく遅くなることが多いから」

 

 小首をかしげて伊吹を見上げる歩美が尾行の意図を喋ろうとする。それをどこか慌てた様子で遮るように口を挟む灰原。歩美の声をかき消すように心なしかボリュームが大きくなっている。

 

「まあ、ちょっと居残る用事があるだけだよ。そんな心配しないでも」

「だからあなたの心配じゃなくて夕飯の」

「いつも帰って食べてるだろ?」

「……ええ、そうね……」

 

 膝に手をついて灰原と視線の高さを合わせて喋りかける伊吹。まっすぐ見つめてくるその視線に胸中に潜む小さな罪悪感と、気恥ずかしさからさっと目をそらしてしまう。

 

「その居残る事情って、なに?」

「それは、その……今はちょっと」

「なに、言えないようなことなの?」

「まあ、その、……そのうちな!」

 

 灰原の鋭い視線から逃れるように目を泳がせる伊吹だったが、この話はお終いとでも言うように大きな声で下手に誤魔化す。

 当然納得する様子のない灰原が食い下がろうとしたとき、くしゅんという可愛らしいくしゃみが聞こえた。

 

「大丈夫か? あゆみぃ」

「冷えちゃいましたかね」

「ううん、大丈夫だよ」

 

 それから自然と話が逸れてしまったため、これ以上追求するタイミングを逃してしまった灰原。疑うような視線を伊吹に向けながら、なにかを言いたそうに唇をむずむずと動かすしかなかった。

 

「あれ、君たち?」

「あ、高木刑事と佐藤刑事!」

 

 伊吹の引率の元、帰路につく一同の前を偶然にもよく知る2人の刑事が通りかかり声をかけてきた。子供たちの姿を確認するとすぐに柔和な笑顔になったものの、スーツ姿で眉間にしわを寄せ険しい表情で何やら相談していた様子を見るに、どうやら職務中だったようだ。

 

「小学生が下校するにはちょーっと遅いんじゃない?」

「で、でもでも伊吹お兄さんがいますし!」

「だから平気だもん!」

「悪いヤツなんかぶっとばすぜ!」

「ぶっ飛ばさないよ」

「ぶっとばすでしょ」

「……多少は」

 

 佐藤刑事が意地悪く子供たちをからかうと、子供たちが慌てて抗議の声を上げる。その姿を可愛らしく思い面白そうに見ていた2人の刑事に、コナンがいつもの調子で質問する。

 

「佐藤刑事、高木刑事、なにか事件でもあったの?」

「最近この辺で不審者の目撃情報が出てるでしょ? それと先日起きた居直り強盗事件」

「その強盗で目撃された犯人像が不審者情報とよく似ていてね、調べていたんだよ」

 

 2人は視線を交わし、教えるべきかと一瞬逡巡するも、ついいつもの調子で口を開いてしまうのだった。

 子供たちは佐藤刑事の口から出た聞き慣れない言葉に思わず視線を合わせる。誰も答えを知らないようで、歩美が刑事2人に質問する。

 

「居直り強盗ってなあに?」

「ああ、居直り強盗って言うのは、空き巣なんかが家主に現場を見られて、逃げたりせず咄嗟に家主を脅迫して強盗したりすることだよ」

「文字通り開き直って強盗する悪いやつのことよ。追い詰められてたり無計画だったりする分、普通の強盗より危険だったりするの」

 

 佐藤刑事がピンと人差し指を立てて子供たちに脅かすように教える。そして小さくため息を吐くと腕を組み、怒ったような困ったような顔で続ける。

 

「今回の事件もただの空き巣が家主に見つかって居直り強盗。ナイフで脅してそのまま切りつけちゃったんだから。ただの空き巣が強盗致傷、もしかしたら殺人未遂かもね」

「さ、佐藤さん……」

 

 後ろで困ったように苦笑いを浮かべる高木刑事に、「あ、いけない」と思わず口元を手で隠す佐藤刑事。「このことは秘密よ」と子供たちに念を押しておく。

 

「ま、他に事件と言ったら……」

 

 先ほどまでの血なまぐさい話を誤魔化すように、佐藤刑事がじとっとした怪しむような目つきを高木刑事へと向けながら少し不機嫌そうに呟く。

 

「最近高木くんがなーんかコソコソとしてるのよね。なにか隠し事してるみたいで、せっかくの非番で家で待ってても帰ってくるのが遅かったりするのよね」

「浮気ね」

「なぜ俺を見る」

 

 探偵団の後ろで控えていた灰原が間髪入れずに口を開き、瞳を閉じたまま両の腕を組み切り捨てるように言い放つ。そして疑惑の念を隠す様子もなくジトッとした半眼で、チラリと横目で隣の伊吹へと視線を送る。

 

「でしょー? そう思うでしょ? 私もそんな気がしてるのよね」

「ええ。こそこそして、帰りが遅くて、説明はなし。疑わしいわ」

「そそ、そんなことあるわけ無いじゃないですか!」

「う、疑うのよくないよ」

 

 灰原と佐藤刑事の冷たい視線に慌てる男が2人。視線を泳がせながら慌てている様子を見るにどちらも何かを隠しているのは間違いないようだ。

 

「さ、佐藤刑事、そろそろ聞き込みに戻らないと……」

「さて、俺たちももう遅いから帰るよー」

 

 話を反らそうと高木刑事が佐藤刑事に仕事の続きを促し、伊吹はパンッと手を叩いて子供たちに声をかける。

 仮にも職務中の佐藤刑事、仕事の話をされれば引き下がらざるを得ない。子供たちも話の内容がよく分からないまま、キョトンとした顔で「「はーい」」と返事を返す。

 

「怪しい……」

「ええ……」

 

 2人の女性の鋭い目つきは、最後まで男たちを射貫いていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 2人の刑事と遭遇した翌日の夕刻。今日も今日とて灰原は帝丹高校前で1人張り込んでいた。ランドセルを背負っていない姿を見るに、どうやら下校後一度帰宅してから来たようだ。

 先日の反省から薄手のブラウスの上にカーディガンを一枚羽織っている彼女の手にはコンビニの袋が下げられており、どうやら長丁場に備えて買い出してきたようだ。

 帝丹高校から本日最後の授業の終わりを告げるチャイムが聞こえてからしばらく。彼女が携帯を覗き何度目かの時間を確認したとき、校舎の奥から1人の男が姿を現した。

 

「ッ!」

 

 彼女の目が驚きに見開かれたのは、その男、伊吹が見知らぬ女子生徒と仲睦まじく話しながら出てきたからだ。伊吹のその古傷に似合わない愛想のいい笑顔はいつもと変わらないが、相手の女子生徒はほのかに頬を染め、その表情には特別な感情が含まれているように思えた。

 その光景に少し苦しくなる胸の違和感を誤魔化すように、大きく息を吸いため息を吐く灰原。とたんに虚無感と虚脱感、寂しさと疲れが彼女を襲い、なんだか自分の行いが馬鹿馬鹿しくなり力が抜ける。路地の塀にもたれかかり、足下の小石を小さく蹴り飛ばした。

 

「……」

「哀?」

 

 彼女の姿を見つけた伊吹が先ほどの女生徒と校門前で別れ、灰原の元へと駆け寄ってきた。彼女の雰囲気に少し気まずそうに声をかける。もう隠れる気も無かった灰原は、チラリと横目に伊吹を見上げ、少し嫌みっぽく不機嫌を混ぜ込んだ声色で返事を返す。

 

「あら、あの子は放っておいていいの?」

「別に、帰る時間が被っただけだから。他意は無いよ」

「……向こうはどうかしらね」

 

 小さくそう呟くと、フイッと興味がなさそうに向こうへと振り返り1人で先に帰ろうとする灰原。彼女の態度に困惑するように後に続く伊吹。

 

「……哀?」

「……」

 

 後ろから声をかけても振り向かない彼女。その態度に思わず距離を詰めて肩に手をかける伊吹。

 不機嫌そうに振り返った彼女は返事を返さなかったが、そのジトッとした半眼には「なに?」という冷たい返事が映し出されていた。

 

「いや、あの、多分誤解を」

「……?」

「って、え、なに?」

 

 伊吹が何やら困ったように慌てて言葉を紡ぐも、何かに気づいた様子の灰原はそれを無視して伊吹の服へと顔を近づける。

 目を閉じてすんすんと鼻を鳴らす彼女はどうやら伊吹の服の匂いを嗅いでいるようだ。しばらく確認した後、彼女はそっと顔を離し、ますます不機嫌そうな顔と声色で伊吹へと詰問する。

 

「あなた……甘い匂いがするわ」

「え?」

 

 その一言に伊吹も思わず自身の制服を鼻先へ引っ張り上げて匂いを確認する。

 確かに彼からは以前灰原から貰った柑橘系の香水の爽やかな香りの中に甘い匂いがした。それはベルモットの薔薇のような「女性」の甘さではなく、砂糖のような「女の子」らしい甘い香りだった。

 

「それ、なんなの?」

「あ、いや、これはその……えっと……」

 

 口ごもり答えに困窮する伊吹。逃げるように灰原から外された視線は足下をうろちょろと泳ぐ。静かに冷たい瞳で彼の答えを待つ灰原。その目に映り込む自分が見ていられなくて目を閉じた彼が、開き直ったように胸を張って答えた。

 

「お、俺にも、いろいろあるんだよ」

 

 その一言に、灰原の瞳は静かに揺れる。不機嫌さの中にはどこか寂しげで、悲しげな色が混ざっていた。

 

「……そう。別に言いたくないならいいわ」

 

 そう言い残すと再び向こうへと振り返り、1人で帰ろうとする彼女。それを追いかけるように歩く伊吹。

 帰路につく2人の間には微妙な距離があり、伊吹がチラチラと灰原の表情をうかがうも彼女は前を見るばかりで、会話が交わされることはなかった。

 西の空にはすでに夕日の姿はなく、地平線に微かに残る橙色が寂しげに街を黄昏に染めていく。それはまるで彼女の心情のようで、最後の抵抗のように残されたわずかなオレンジの空も2人が家に着く頃にはすっかり沈みきり、辺りは宵闇に包まれていった。

 

 

 

 



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9話 ピーナッツバターとブルーベリージャム 後編

「灰原さん、どうしたんでしょうね」

「なんかすっげー不機嫌だよな」

「うーん、怒っているっていうより……なんだか悲しそう」

「まあ、一昨日の様子からして萩原のことだわな」

 

 翌日の帝丹小学校の教室ではそんな会話が交わされていた。今日一日の灰原の様子を見ていた少年探偵団がひそひそと密談しているようだ。

 本人はいたって普段通りにしていたつもりだが、子供たちには感じるものがあったらしい。放課後になっても様子の変わらない灰原に、コナンが「しゃーねえな」と呆れたように声をかける。

 

「今日は萩原の尾行はいいのかよ?」

 

 その一言は静かに、しかし確実に彼女の地雷を踏み抜いてしまったようだ。思わず鋭い視線をコナンに浴びせながら彼女が不愉快そうに口を開く。

 

「別にいいわ、彼にもイロイロあるんでしょ」

 

 冷静な声色で答える彼女だったが、ランドセルに教科書を詰め込んでいた手つきは若干荒々しくなっていく。

 地雷を踏んだことに気づいたコナンが困ったように頭をかく。そして子供たちに聞かれないよう灰原へ顔を寄せてひそひそと話す。

 

「なんでもいいけどよ、あんまり態度に出すなよな、あいつらも困ってんぞ」

「そんなつもりは……。……そうね、ごめんなさい」

 

 言い返そうとする灰原の視界にこちらを心配そうに見つめている子供たちの姿が映る。自分に呆れたように小さなため息を吐いた彼女が、申し訳なさそうに子供たちへと話しかける。

 

「ごめんね、みんな。大丈夫だから心配しないで」

「哀ちゃん、なにか嫌なことでもあったの?」

「大丈夫よ、ありがとう吉田さん」

 

 眉尻を下げて心配そうにこちらを覗き込む歩美に、灰原は静かに答えた。彼女の無垢な瞳から反らされたその視線は窓の外の青く高い空を捉える。まるで遠くの誰かを見つめるかのように。

 

「なんだかわかんねーけど、今日は灰原もいるから、もう一度あの秘密基地に行こーぜ! 昨日はコナンも灰原もいなかったからな!」

「いいですね!」

「哀ちゃんも行こっ!」

「え、ええ」

 

 元太の一言から、今日の探偵団一同の活動が決まったようだ。子供たちに背中を押されるように教室を後にする灰原。先ほどチラリと見えた携帯電話のメッセージの着信には、なんとなく気づかないフリをしてしまった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんだかやけに騒がしいですね」

「パトカー沢山だねー」

 

 秘密基地へと向かう一同の横をサイレンを鳴らしたパトカーが何台か通り過ぎていく。見覚えのある刑事の顔がちらほらと見えたらしく、子供たちは去って行くパトカーを見送る。

 

「昨日、例の居直り強盗がまた強盗したらしいぜ。しかも今度は家主を殺害して強盗殺人だ」

「今日の午前中にもあったみたいね、もうネットニュースになってるわ」

 

 コナンが騒動の原因に心当たりがあるようだ。居候先の毛利のおっちゃんにでも聞いたのだろう。それを聞いていた灰原が操作していた携帯の画面を一同に見せる。

 画面をまじまじと見つめる一同に少し離れた路地の隙間から顔を覗かせた元太が声をかけた。

 

「おーい! こっちだぞ!」

 

 元太の案内の元たどり着いたのは柵と塀に囲われた古い雑居ビルだった。ビルの入り口にはシャッターが降りていたものの、締め切られておらず僅かな隙間があった。子供なら楽に入れそうなその隙間を元太が得意げに指さす。

 

「昨日オレたちが見つけたんだぜ。 昨日中に入ってみたら誰もいねーし、少年探偵団の秘密基地にしよーぜ!」

「おめーらなあ、ここは来週には取り壊されるみてーだぞ」

「ええー、じゃあ今週いっぱいの秘密基地ですねー」

「こんなところ、危ないわよ」

 

 コナンの忠告も灰原の注意もどこ吹く風で、子供たちはす既にビルの中へと侵入していた。コナンが仕方ないと、ため息と共に後を追いかける。その後に続く灰原はビルに入る前にチラリと携帯を確認するも、そのままランドセルの中へと片付けてしまう。メッセージの着信を告げるアイコンは、1から2へと増えていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ほい、元太みっけ。これで後は歩美ちゃんだけだな」

 

 一同は拾ってきた空き缶を使い、ビルの中で缶蹴りをしているようだ。今度の鬼はコナンのようで、既に元太、光彦、灰原は見つかっている模様。灰原の「大人げない」という一言は無視して、残りの歩美の捜索へと乗り出すコナン。

 ビルの入り口に放置されているランドセルのそばで、見つかった灰原たちは休憩している。ふっと窓から外を覗いた光彦が少し慌てたように声を上げた。

 

「もうずいぶんと暗くなっちゃってきましたね」

「そうだな、そろそろ帰るか」

 

 電気のついていないビル内は外よりも薄暗くなりはじめ、建物の隙間から差し込んでくる西日だけが頼りになっている。

 腕時計を確認したコナンが探偵団バッジを取り出し歩美へと集合を呼びかけようとしたとき、先に向こうから歩美の小声が聞こえてきた。

 

「コ、コナンくん……? なんかこのビル、変な音がするよ?」

「歩美ちゃん、今どこにいる?」

「ご、5階だけど……部屋の中から物音が……」

「わかった、すぐに行くから待ってろ!」

 

 歩美の報告に険しい表情で告げるコナン。その様子を見ていた子供たちが不安げに声をかける。

 

「ど、どういうことでしょう、このビルには誰もいないんじゃ?」

「お、おう。昨日オレが見たときは誰もいなかったぜ?」

「わからない。昨日のお前らが帰った後に誰かが入り込んだか……」

「とにかく、吉田さんの元へ」

 

 灰原の言葉に一同は急いで階段を駆け上がっていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 薄暗いビルの通路に1人立ち尽くす歩美。例の部屋からは未だ物音が聞こえてくる。怖くなった歩美が音を立てないようにそっと後ずさり距離を取る。しかし、廊下の壁伝いに動いていた歩美は足下に放置されていた消化器に気がつかず、そのまま蹴り倒してしまった。

 カーンッという甲高い金属音が静かな廊下に反響する。それと同時に、部屋から聞こえていた物音がピタリと止まった。

 誰かがいる、誰かいるからこそ廊下の物音に反応して動きを止めたんだ。幼い少女にもそれくらいのことは理解でき、歩美の表情には恐怖の色が浮かぶ。

 ギギギと蝶番が悲鳴を上げる。鈍い音と共にゆっくりと開かれた扉から何かがぬっと出てきた。最初に見えたのは、錆び付いているかのように赤茶色の何かが付着した刃物。そして、それを握りしめた長髪に無精髭を生やした男。

 夕闇の影に浮かび上がる病的に青白い顔色。見開かれた両の目は血走っており、その双眸が歩美を捉える。

 

「キャーーーッ!!」

「ッ!!」

「歩美ちゃんッ!!」

 

 堰を切ったかのような歩美の悲鳴に、男が慌てて飛び出したのと、コナンたちがたどり着いたのは同時だった。

 新たな子供たちの声に男は驚き、首をぐりんと捻り、コナンたちを視界に捉える。目の前で尻餅をつく怯えきった少女は後回しだとでも言うように、男は踵を返しその刃物を逆手に持ちコナンたちへと駆け出す。

 コナンが手に持っていた空き缶を投げ出し、キック力増強シューズに指をかける。バチバチと音を鳴らしながら振り抜かれたコナンの蹴りは空き缶を的確に捉え、それは男の顔面へと真っ直ぐに飛んでいく。

 

「っ……!」

「なッ!?」

 

 だが、たまたま、男の足がもつれた。悪運の強い男が意図せず体勢を崩したことでその空き缶は男の顔面を外れ、廊下の壁と天井を跳ねまわり虚しい音を立てて夕闇へと飲み込まれていった。

 床に手をついていた男が再び立ち上がりコナンたちの眼前へと差し迫る。幸い4人もいる子供たちに男の刃先は迷い、その振り下ろされた凶刃は空を切った。

 

「うわああっ!!」

「元太ッ! 光彦ッ!」

 

 上手く男の横をすり抜けるように動いたコナンと灰原に対し、元太と光彦は男に背を向け来た廊下を戻ろうとする。男は咄嗟に逃げ出そうとする二人を追いかける。

 こんな時に修理に出しており、ボール射出ベルトが無いことに舌打ちをしたコナンが、2人の救出のために男を追いかける。

 

「灰原は歩美を連れて逃げろッ! 外に出てなんとか警察に通報してくれッ!」

 

 コナンはそれだけを言い残すと男の後を追い廊下突き当たりの角を曲がり、灰原と歩美の視界から消えていった。

 走り回る音が階下へと消えていくなか、灰原は歩美に寄り添い彼女を立たせる。

 

「ほんと、犯罪者って廃墟とか廃ビルとか、陰気な場所が好きよね」

 

 苛立たしげにそう吐き捨てた灰原が歩美を庇うように、前方の安全確認をしながら廊下を進む。

 

「ちょっと……!」

「そ、そんなあ……」

 

 時折聞こえてくる物音に注意を払いながら、遠回りをしつつ1階の入り口へと辿り着いた灰原たちだったが、その顔に驚愕と焦りの色が浮かぶ。あの男が先回りし、シャッターを完全に下ろしたあげく無理矢理に鍵を閉めたらしく、とてもじゃないが出られそうになかった。

 更に辺りにはランドセルの中身が散乱しており、携帯電話が見当たらない。それも男が持って行ったようだ。

 苦虫を噛みつぶしたように忌々しげな表情を浮かべる灰原。辺りを見回しながら別の脱出手段を考えるも、ビル内の窓は高い位置にあったり、鉄線入りの嵌め殺し窓であったりと、簡単には抜け出せそうにない。

 腰に手を当て小さくため息を吐く灰原。何か役に立つものはないかと散乱した自分の荷物を物色し始めたとき、見えない廊下の角から足音が響いてきた。

 

「あ、哀ちゃ……」

「しッ、静かに……」

 

 その足音に歩美も気がついたようで、不安げな声色で困惑したように灰原へと声をかけようとする。人差し指を立ててそれを制する灰原が、歩美の手を引いて壁際へ背を向けて隠れる。

 そっと頭を少し覗かせて奥を確認する灰原。そこには何かを探すように辺りをキョロキョロと見回しながら徘徊する男の姿があった。幸いこちらには気がついていないようだ。

 

「こっちよ……」

 

 男に悟られないよう細心の注意を払い、歩美の手を引いて男とは反対の方へと逃げる灰原。男が1階まで降りていたことを考慮し、音を立てないように上の階へと避難する。

 

「吉田さん、大丈夫……?」

「う、うん……」

 

 最上階の一つ下、5階まで逃げてきた灰原が、肩で息をする歩美の背中をさする。極度の緊張と、音を立てないように行われる有酸素運動は、少女の体力を削るには十分だった。

 どこかの室内に避難することも考えたが、最悪の場合逃げ道がなく追い詰められる可能性があったため、灰原は廊下の奥の曲がり角で一息吐くことにした。ここならばいざという時、上にも下にも同階の奥まったところにも逃げられそうだ。

 

「元太くんと光彦くん……大丈夫かなあ」

「向こうは江戸川くんがついてるから、きっと大丈夫よ」

 

 刃物を持った狂人に真っ先に追いかけられた2人のことを思い、心配そうに呟く歩美。それを慰めるように肩を抱いて優しく微笑む灰原。「それよりも」と先程と同様に廊下の角から頭を少し覗かせて鋭い瞳で奥の様子を確認する。人の気配がしないことを確認してから再び歩美へと向き直る。

 

「とにかく、なんとか助けを呼ばないとまずいわ」

「じゃ、じゃあ伊吹お兄さんを呼べばいいんじゃ……」

「そうね……。でも携帯がないし、GPSは普段オフにしてるし……彼は探偵団バッジを持っていないのよね……」

「GPS?」

「いえ、なんでもないわ」

 

 困ったように手で口元を隠しながら独り言のように呟く灰原。淡々と伊吹に救難信号を飛ばせない理由を述べていく。それは冷静に現状を分析しての言葉だったが、「それに……」と続ける彼女の瞳には昨日と同じような、寂しさが滲み出す。

 

「彼は……来てくれるかしら……」

 

 静寂に包まれる廃ビルの中でも聞きそびれそうなほどに小さく、力なく、その呟きは彼女の口からこぼれ落ちた。

 

『お、俺にも、いろいろあるんだよ』

 

 先日の彼の言葉が彼女の脳内を反響する。その時思わず彼から視線を反らしてしまい、あのとき彼がどんな顔をしていたのかは覚えていない。しかしその拒絶ともとれる一言は確かに彼女の中にしこりとして残り続けていた。

 額に手をあてがい自傷気味に呆れたように小さく失笑する灰原。「柄にもなく傷ついているのかしら……」と胸の中で呟き、感情の整理がつかないようだ。

 

「大丈夫だよっ」

「……えっ?」

 

 誰に言ったでもない言葉だったが、歩美には確かに聞こえていた。

 今朝から元気のなかった灰原の様子。力なく笑う彼女の不安そうな仕草。いつもよりも弱々しく、風に吹かれ今にも折れてしまいそうな花のように儚げな表情。

 幼い少女には、彼女に何があったのか推し量ることはできなかったが、それでもただ一つ、自信を持って言えることがあるようだ。

 

「大丈夫だよ、哀ちゃん! 伊吹お兄さんは助けに来てくれるよ!」

 

 屈託無く笑う少女には微塵も疑念を持っている様子はなく、心の底から断言しているようだ。

 

「だって、哀ちゃんが困っている時はいつでもどこでも、伊吹お兄さんが来てくれるもん! 絶対!」

「……そうね」

 

 自分と彼のことなのに、なぜか自分よりも自信満々に答える少女の姿を見て、思わず笑みが零れてしまう灰原。今日初めて、いつもの優しい灰原の笑顔が見られたことに、歩美も「えへへ」と嬉しそうに照れくさそうに笑った。

 

 カランカランッ。

 

「ッ!」

 

 すぐ後ろの方で空き缶の転がる音がした。自分たちの声を聞きつけた男が来たのだと咄嗟に判断した灰原が、ビクッと驚いたまま体を硬直させてしまい動けない歩美の腕を引っ張り、音と反対の廊下の奥へと駆けだした。

 彼女の判断は素早く、子供と大人の足では追いつかれることも理解していた。だからこそ、音を認識したとき、それがなんなのかを確認するよりも早く駆けだしたのだ。少しでも素早く動き男と距離を保つために。

 しかし彼女が歩美の腕を引き廊下の半ばまでさしかかった頃、その奥の角の死角から思いもかけない音が聞こえてきたのだ。

 

「哀ちゃんっ、これって!」

「……ッ!」

 

 慌てて足を止める少女2人。聞き覚えのあるそれは携帯電話の着信音のようで、少しずつこちらに迫ってくる。

 間違いない、それは灰原の携帯にかかってきた、()()()()()()()()()だった。そして彼女の携帯電話を今持っているのは……。

 

「吉田さんッ! こっちッ!」

 

 影からヌッと姿を現したのは刃物を片手に、血走った眼球で子供たちを探しビル内を徘徊するあの男だった。男のポケットの中が暗闇にぼんやりと光り、布越しのくぐもった着信音を辺りに響かせる。

 先程の空き缶の音は自分たちを物陰から飛び出させるために男が用意した罠。そう理解するよりも早く、灰原は踵を返し、歩美の腕を引きながら来た廊下を戻る。

 少女たちを見つけた男も逃がすまいと激しい足音を立てて2人を追いかける。

 先程から繰り返される激しい運動に、幼い少女の体力は限界に近かった。このままでは追いつかれてしまう。しかし先程から鳴り止まない着信音は確かに、彼女たちに希望をもたらした。

 廊下の突き当たりに明かりの点っていない緑色の標識を見つける灰原。暗闇に紛れて先程までは気がつかなかったが、どうやらビルの側面に備え付けられた非常階段へと出られる非常口のようだった。

 もう限界だとすがりつくようにその扉へと辿り着いた2人。歩美はもう動けないと、両膝に手をついて激しく呼吸を繰り返す。灰原も肩で息をしながら非常口に手をかけた。

 

「非常口が非常時に開かなくてどうするのよッ!」

 

 無情にもその扉が開放されることはなかった。内側から古いつまみタイプの鍵をガチャガチャと動かすも壊れているようで、鍵はかかったまま動こうとしない。

 見上げる非常口にハマった磨りガラスから微かな西日が差し込む。力なく扉を叩いても、彼女の力ではどうすることもできなかった。

 

「哀ちゃんっ!」

「ッ!!」

 

 歩美の悲鳴にも近い呼びかけに振り返る灰原。そこには眼前に迫る男の姿が。すでにその腕は振り上げられ、後はその切っ先が迫るのみ。

 歩美はその場にしゃがみ込みギュッと目をつむり両腕で頭を抱え込む。血走った男のいかれた眼球に睨まれた灰原の体を生理的な恐怖が貫く、まるで蛇に睨まれた蛙のように体が硬直してしまう。

 男が振りかぶった凶刃を振り下ろすその瞬間、鳴り響いていた着信音が止まった気がした。

 

「伏せろッ!!」

 

 扉越しに聞こえてきた声。窓と非常口、そして廊下全体を震わせるようなその大きな一声に反応できたのは、灰原ただ1人だった。男にも歩美にも声は聞こえていたが、それがなんなのか脳の処理が追いつかない。灰原のみが聞き慣れたその声に、聞き続けてきたその声に、理解するよりも早く体が反応したのだ。

 灰原がしゃがみ込む歩美を押し倒すようにその場に伏せ、咄嗟に上着を頭から被る。

 大声にビクリと体が固まってしまった男。時間にしてほんのわずかな間だったが、彼が彼女を救うには十分過ぎた。

 非常口の窓ガラスが激しい音を立ててはじけ飛ぶ。丸太のような屈強な腕が非常口の磨りガラスを突き破る。そのあまりに速い剛拳に、宙に舞うガラス片が拳へと突き刺さる。しかしその大砲のような一撃は、そんなこと意にも介さず、激しい風切り音と共に男の顔面へと叩き込まれた。

 

「ぅぶぅぇッ……!!」

 

 その強烈な一撃は的確に男の顔面を正面から捉え殴り飛ばす。鼻がひしゃげ歯の砕かれた男は声にならないうめき声を上げ、血潮を吹き出しながら吹き飛ぶ。廊下を転がった男は力なく倒れ伏し、意識が刈り取られたのか白目を剥いたまま動くことはなかった。

 カランッ、と男の持っていた刃物が硬いタイルの床に転がる音が反響し、静寂が辺りを包んだ。

 

「ふぇっ、な、なに!? どうしたの!?」

「ふぅ……」

 

 被っていた上着にこぼれ落ちてきたガラス片に気をつけながら、むくりと体を起こす灰原。歩美は現状を未だ理解できていないらしく、あわあわと周りを見渡す。

 金属が引きちぎられるような歪な音が聞こえると、非常口が開いた。

 

「だ、大丈夫か!?」

「ええ……。おかげさまでね」

「伊吹お兄さん!」

 

 2人の前にしゃがみ込み心底心配そうな伊吹。歩美は伊吹の姿を確認するとパッと笑顔を浮かべその胸に飛び込んでくる。灰原は小さくため息を零していつもの澄まし顔で服についたほこりを払う。

 大丈夫そうな2人に伊吹も安心したように小さく微笑み、頭をわしわしと撫で回す。助けられたことに素直に感謝を述べたいけれど、昨日のこともあってか素直になれない灰原。今できるのは、その手を払わないでいることだけだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「もうお前ら、廃ビルで遊ぶのはやめておけ」

 

 あの後、男を拘束してから警察へと通報した一同。例のごとく廃ビルに侵入したことや、犯人を伸したことを説教された後、詳しい聴取は後日と言うことで帰された。

 先日のように伊吹の引率の元、帰路につく。さすがにぐったりする子供たちに伊吹も思わず忠告してしまう。

 

「伊吹お兄さんすごかったんだよ!」

「やっぱり伊吹の兄ちゃんはつえーなー!」

 

 今日の事件のことでわいわいと盛り上がる子供たち。どうやらコナンたちも犯人とかくれんぼをしていたところ、無事伊吹に保護されたようだ。

 

「それで、あの男の人はなんだったんですか?」

「ああ、高木刑事から聞いたけど、前に言ってた居直り強盗だってさ。また強盗をして今度は家主を殺害したらしくて、あの廃ビルに逃げ込んでたらしい。薬もやってたとかなんとか」

「こわーい……」

「だからもうああいう所には勝手に入ったりしないようにな」

 

 伊吹がことの次第を説明し、怯える子供たち。伊吹が指を立てて子供たちに注意すると、さすがに今日の体験は子供たちも参ったようで、素直に「「はーい」」と答えるのみだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 子供たちを送り届けた頃には日は完全に沈み、空には青白い月と微かに見える星々が輝いていた。

 事件が解決してからというもの、一団の最後尾を歩き、なにも喋ろうとはしなかった灰原。伊吹と2人きりになってからも口を開こうとはしなかったものの、先日とは違い彼の隣を歩いていた。

 伊吹も困ったようにチラチラと彼女の俯く横顔を眺める。彼が何か当たり障りのない話題を探していたとき、いつもの鈴の音のような涼しい声が聞こえた。

 

「今日はありがとう。……助かったわ」

「え、いや、いいよ。哀に何かあったら、困るから」

 

 思わぬ一言に、返事に困ってしまった伊吹。自身の心中を素直に言葉にする。それを聞いた彼女の足が思わずその場で止まってしまう。釣られるように伊吹も2、3歩歩いてから彼女へと振り返る。

 俯いたままの灰原が申し訳なさそうに口を開いた。

 

「携帯のメッセージ……返事返さなくて、ごめんなさい」

「いいよ。あんな状況だったし」

 

 気にしてないよと笑う伊吹。そんな彼の態度にチクリと彼女の胸が痛んだ。無視していたのは事件に巻き込まれたからではなく、ただ自分が子供みたいに拗ねていたからだと、灰原は口に出せなかった。ただそんな暗い気持ちが顔に出ていたのか、沈痛な表情を浮かべる灰原の態度に困ったように頭をポリポリとかく伊吹。

 そんな彼が「仕方ない」と、何かを観念したように鞄をごそごそと探り始める。少し鞄を漁った後、伊吹が何か白く小さな小包を灰原に突き出した。

 

「……なに、これ」

 

 彼の思わぬ行動にキョトンと、その小包と伊吹の顔を交互に見てしまう灰原。伊吹が彼女の手を取り、その小包をそっと乗せる。

 

「まあ普段の感謝の気持ちというか。……いつもありがとうって、やつかな」

 

 少し照れくさそうな笑顔を浮かべて彼は言った。なにがなんだか分からない様子の彼女に、「開けてみて」と催促する伊吹。その言葉に操られるように包み紙をそっと開く灰原。

 

「これ……ピーナッツバター……?」

「と、ブルーベリージャム」

 

 すっかり冷めてしまっていたが、その包み紙からは甘い香りがふわっと広がり、灰原の鼻腔をくすぐる。甘いブルーベリージャムとピーナッツバターの、彼女にとってはどこか懐かしさも感じる香りだった。

 

「ほんとは帰ってから渡そうと思ってたんだけどさ」

「これを、私に……?」

「うん。哀にはいつも感謝してる。だから、俺からの贈り物」

 

 こちらを真っ直ぐに見つめてそう告げてくる伊吹。未だに状況が完全に飲み込めていない灰原に、説明するように続ける。

 

「こないだ調理実習で女子がお菓子作っててさ、その時の手作りブルーベリージャムが美味しくて。哀にも食べさせてあげたくなって」

 

 そっと彼女の前にしゃがみ込み、その手の中の包み紙を覗き込む。焼き菓子を一つ取り出してその出来映えを確認するようにまじまじと見つめる。灰原の視線も釣られるようにそのお菓子へと向けられる。

 

「でも俺お菓子とか作ったことないし。たまたま調理実習に参加してたクラスの知り合いに料理部の子がいてさ、教えて貰ってたんだよ」

「……あぁ……そう」

 

 少し申し訳なさそうに笑う彼の言葉に、最近の彼の行動に合点がいき、思わず脱力してしまう灰原。お菓子の入った紙袋を大事そうに抱え込みながらその場にしゃがみ込んでしまう。

 心配そうに様子をうかがってくる彼に、不機嫌なような不満をぶつけるような、しかしどこかホッとしたような、いつものジトッとした半眼を向ける灰原。

 

「じゃあ、この前一緒にいた子は?」

「その教えて貰ってた子」

「服の甘い匂いは?」

「多分、お菓子の……」

「……『俺にもいろいろある』っていうのは?」

「サプライズしたくて……うまい言い訳が思いつかず、つい」

 

 灰原の確認を取るような詰問に、思わず尻すぼみになりながら答える伊吹。彼女が怒っている理由が何となくでも分かるからこそ、伊吹は素直に頭を下げるのみだった。

 一度俯いて大きなため息を着いた灰原が、そっと立ち上がる。

 

「ほんとに、あなたって人は……」

「ご、ごめん……」

 

 苦笑いを浮かべて謝罪する彼に、灰原の視線は弱々しくなる。不安は怒りと呆れに変わり、そして安堵へと変化していく。心底安心したようにもう一度大きなため息を吐く灰原。胸の中に押さえ込んでいた不安の泉が溢れるように、心情を吐露していく。

 

「あなたが思っている以上に、私は……不安になるの。ただの()()()()も、 小学生()の私には()()に見えるのよ……」

 

 こんなこと言うつもり無かったのに、と思っても言葉は堰を切ったように止めどなく溢れてくる。不安と寂しさに揺れる瞳が伊吹を捉え、彼は何も言わずに彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「あなたにとってはただの年端もいかない()()()かもしれないけど……私には……」

 

 そう言うと、彼女は俯いて言葉を詰まらせた。そんな少女の体をそっと引き寄せて、壊れそうなほど小さなその体を、彼はやさしく抱きしめた。

 

「哀に嘘は吐きたくないから、上手く誤魔化せないんだ。……俺ってサプライズが下手だな……、ごめんな」

 

 灰原の心を和ませるように「あちゃー」と笑いながら話す伊吹。その言葉に、彼の胸の中で小さく頭を振る灰原。

 本当のことをもっと早く強引にでも聞き出していればよかったものを、それを怖がって、「もしも」を考えて不安になっていた自分が馬鹿らしくて。でも、その不安や恐怖は彼を信じていないような気がして、それが申し訳なくて。その気持ちが彼の謝罪を素直に受け取れない理由だった。

 

「ほんと、ばかね……」

 

 彼の胸の中で呟いたそれは、誤魔化すのが下手なのに一生懸命にサプライズをしようとしていた彼に言ったのか、自分自身に言ったのか……。

 もぞもぞと伊吹の胸板に押しつけられていた自身の顔を上げ、下から彼を見上げる。

 

「嘘は吐かないで。……でも、秘密もやめて」

 

 それは彼女なりの精一杯の本音。

 

「だな、俺も哀に隠し事するのは得意じゃないみたい」

 

 彼ももうこりごりだと、小さく笑った。

 月明かりに照らされる2人の1つの影はしばらく離れることはなく、彼らを甘いピーナッツバターとブルーベリージャムの香りだけがそっと包み込んでいた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……ちょっと待って。女子生徒が調理実習で作ったお菓子が美味しかったって……、あなた誰かの手作りのお菓子を食べた訳ね?」

「それは、その……」

 

 口ごもる彼の顔を灰原のジト目がにらみつける。視線を泳がせながら申し訳なさそうに彼は白状する。

 

「そりゃ、くれるって言うから、無碍にはできないし……」

「……あなたのお菓子を食べた人は?」

「それは、いないけど」

「……お菓子作りを教えてくれたっていう子は?」

「感謝は伝えたけど、お菓子は哀のためだけに作ったんだ」

 

 頬をポリポリとかきながら灰原の顔色をうかがい、気恥ずかしそうに告げる伊吹。その言葉に、そっぽを向きながら「……そ。じゃあ、いいわ」と興味もなさそうに澄ました態度で応える灰原。

 そっぽを向いたのは、思わず口角が上がってしまそうになるこの表情を彼に見られないようにするためだ。先を歩いて帰るのは、彼が後ろにいてくれることを信じているからだ。

 

「甘い……」

 

 袋から取り出したお菓子を一口かじった彼女が、唇の端にブルーベリージャムをつけたまま一言、そう呟いた。

 



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10話 ハートの行方 前編

 

 

 朝日が微かにその姿を見せ、薄暗い街並みをじわじわと照らしだし、朝霞が音もなく消え始める。自己鍛錬の一環である長距離の走り込みから戻った伊吹がシャワーで汗を流していた頃、リビングでは阿笠博士が朝食準備を進めていた。

 

「うぃ、さっぱり」

「…………おはよう」

「……いやん」

 

 体にまとわりつく湯を雑に払い前髪をかき上げながら伊吹が浴室から出てくると、眠たげな半眼をこすりながらパジャマ姿の灰原が歯を磨いていた。

 チラリと横目に伊吹を確認した彼女は歯を磨く手をピタリと止め、彼の古傷だらけの筋骨隆々な裸体をその眠たそうな目で下から上へと見上げる。ふっと視線を自身の写る鏡へと戻し、何事もなかったかのように朝の挨拶を交わした。

 

「……風邪引くわよ」

 

 自身の体を腕で隠しながらふざける伊吹の言葉は誰にもキャッチされず、彼女は口をゆすぎ、顔を洗ってさっさと出て行ってしまった。

 

「……もうちょっと、なんかさ」

 

 一人残された彼の呟きだけが洗面所に残された。

 なんてこと無い澄まし顔でダイニングテーブルに座る灰原だったが、思わぬ朝の刺激的な光景に手元のコーヒーを飲む前から目は完全に覚めていた。

 二三口そのコーヒーの香気を楽しんだとき、リビングから聞こえる音に誘われるように、彼女の視線はテレビへと向けられる。

 

『都内を恐怖に陥れていた連続爆弾犯が先日逮捕され――』

「博士、あんまり付け過ぎちゃ駄目よ」

「あ、味気ないのぉ」

 

 博士へと釘を刺し、手元の食パンにジャムを塗りながら何となく耳だけをニュースに傾けている灰原。

 

「いい匂い。俺もパン食べたいな」

 

 髪を乾かし制服を着込み、朝の身支度を整えた伊吹がリビングへと顔を出す。その顔をチラリと覗いた灰原だったが、なにも言わずに彼の食パンをトースターへとセットしスイッチをいれる。

 さっきのことが気になってか、彼女の視線はチラチラと落ち着き無く動きどこを見ればいいのか分からないように宙をさまよう。その視線を隠すように瞳を閉じる彼女。まぶたの裏には焼き付いた彼の肢体が思い浮かび、それを振り払うように彼女は思わず頭を小さく振った。

 

『あの名探偵、眠りの小五郎こと、毛利小五郎さんの活躍により――』

『これまでのハイライト! 今大ヒット中のドラマ――』

 

 伊吹が自身のコーヒーをカップに注いでいると、博士がいそいそとリモコン片手にテレビのチャンネルを変更する。

 

「あっ、ちょっと博士、ニュース見てたんだけど」

「す、すまん哀くん、ちょうど今からプレイバック放送する時間なんじゃ、先週見逃してしまっての」

「ああ、このドラマ今流行ってるらしいね。クラスの女子が騒いでたよ。弁当がどうのこうのって」

 

 テレビから聞こえてきたのはドラマの内容を紹介する女性タレントの声と、主題歌と思われるBGM。灰原が伊吹の言葉に釣られるようにテレビを見ると、彼女も名前くらいは聞いたことのあるドラマが紹介されていた。

 

『今、女性たちの間ではドラマの影響で愛妻弁当ブームが巻き起こっていますね』

『仲睦まじくて、素敵な流行ですね――』

 

 「ふーん……」と興味なさそうに、灰原は小さなため息を零してコーヒーカップを傾ける。

 

「こぼすわよ」

「おっとと」

「……まったく」

 

 テレビを見ながらパンを囓る子供のような伊吹の姿に、先程の古傷だらけの屈強な体を重ね合わせ、そのギャップに思わず気づかれないよう小さく笑ってしまう彼女だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そういえば捕まりましたね-、例の爆弾犯」

「小五郎のおっちゃんが捕まえたんだよなっ!」

「コナンくんも一緒にいたの?」

「え? ま、まあな」

「ほんとはあなたが捕まえたんだものね」

 

 日差しは暑いくらいに眩しく、それでも風はひやりとする心地よい朝の通学路。少年探偵団の話題は今朝捕まったと報道されていた爆弾犯についてだった。

 彼らに付き添うように後ろから歩く伊吹が大きなあくびを噛み殺したとき、見覚えのある男性が彼らの前を歩いていることに気がついた。

 

「あれ、高木刑事?」

 

 伊吹の言葉に子供たちも前を見やると、足取り軽く今にもスキップし出しそうな上機嫌な高木刑事が満面の笑みを浮かべていた。仕事用と思われるビジネスバッグとは別に、小さな冷蔵バッグのような小包を大事そうに抱えており、時折頬ずりするかのようにそれを顔に近づける。誰の目に見ても不審な光景だった。

 

「高木刑事なにしてるんだろ」

「怪しいですねえ」

「すっげー不審者だな」

「高木刑事、なにしてるの?」

 

 訝しがる子供たちを尻目に声をかけるコナン。ビクリと肩を振るわせた高木刑事がゆっくりと振り返る。

 

「や、やあ君たち。な、何でも無いよ!」

 

 さっ、と慌てて後ろ手に小さな包みを隠す高木刑事を、目を細めて怪しげにじーっと見つめる子供たち。

 

「なにを後ろに隠したんですか?」

「あやしいー」

「なんかうめーもんか?」

「い、いやあ、何も隠してなんか、あっ、あーっ!」

 

 子供たちの追求から逃れるために手を振りながら額に汗する高木刑事。片手で持つには荷物が多すぎたのか、その手から小包がこぼれ落ちた。

 アスファルトに叩きつけられたそれを慌ててしゃがみ込んで必死の形相で拾う高木刑事。ジッパーを開けると中から可愛らしい薄いピンクと白地の巾着が出てくる。それを更に開くと中から小ぶりな二段弁当が姿を見せた。

 具材がこぼれている様子はなく、弁当が無事だと確認した高木刑事が心底ホッとしたようにため息を零す。そんな彼を逃げられないように囲み、じーっと音が聞こえそうなほど細めた瞳で見下す子供たち。

 

「あ、いや、これはその……」

「言い逃れはできねえぜ、兄さんよ」

 

 しゃがみ込んで高木刑事の肩を叩き、ため息と共に頭を振る伊吹。観念した犯人のように高木刑事はがっくりと肩を落とし、真相を語り始めた。

 

「「佐藤刑事の手作りお弁当ーッ!?」」

「あ、ああ、まあね」

 

 高木刑事の思わぬ自供に子供たちもつい大きな声を上げて驚いてしまう。ざわめく子供たちに照れたように頭をかく高木刑事。

 

「佐藤刑事のお弁当いいなー!」

「うんまそーだなー! 一口味見してーなー」

「だ、ダメダメ! これは絶ッ対に渡せないよ!」

 

 キラキラと輝く目で見つめてくる子供たちから遠ざけるように弁当を持ち上げて必死に死守する高木刑事。

 

「これは今流行の、愛妻弁当ですね」

「愛妻弁当ー!」

 

 顎に手を当てた光彦が目を閉じにやりと笑い、得意げに告げた。歩美が「愛妻弁当」という言葉に両手を頬に当て、一層目を輝かせて高木刑事を見つめる。少女には憧れのようだ。

 

「い、いやあ、愛妻って結婚してるわけじゃないけど、あはは」

 

 光彦の言葉にまんざらでもなく頬を染め照れ笑いながら後頭部をかく高木刑事。締まりの無い顔に伸びきった鼻の下は喜びを隠しきれない様子。

 高木刑事が子供たちに肘でつつかれていると、灰原が携帯を確認して一言呟いた。

 

「どうでもいいけど、お仕事なら早く行った方がいいんじゃない。私たち小学生と違って、遅刻するのはよくないでしょ」

「ああっ、もうこんな時間! じゃあ君たちも車に気をつけてね!」

 

 そう言い残すと高木刑事は子供たちと別れ、青色に点滅する歩行者用信号を駆け足で渡っていった。彼の気持ちがそうさせるのか、足取りの軽いその姿はどこかいつもよりも爽やかに見えた。

 

「そういえばあゆみのお母さんも、今朝お父さんにお弁当渡してたよ」

「なんでも今流行のドラマの影響で愛妻弁当がブームになっているとかなんとか」

「いいなぁ、オレもアイサイ弁当くいてーぜ……」

「元太くんは弁当なら何でもいいんじゃないですか」

 

 朝っぱらから景気のいい音を響かせる元太の腹。すると今度は一団の後ろからよく知った声がかけられた。

 

「よっ、ちびっ子たち。朝から元気だねー」

「おはよう、みんな」

 

 振り向くとそこには鞄を肩にかけ快活そうに声をかける園子と、両手に鞄を持ち腰を曲げ子供たちに目線を近づけ優しく微笑む蘭の姿が。

 

「あ、蘭お姉さん!」

「おはようございます」

 

 子供たちの挨拶もそこそこに、さっそく話題に先程の高木刑事で盛り上がり始める。

 

「ええ! 佐藤刑事が高木刑事に、愛妻弁当!?」

「マジッ!?」

「うん! すっごく美味しそうだったよ!」

 

 刑事2人の恋の行方に興味津々の乙女2人の食いつきはすごかった。しゃがみ込む彼女らと歩美ちゃんのガールズトークは盛り上がる。女性陣の中で1人灰原は特に興味もなさそうに携帯を触っている。

 

「愛妻弁当かぁ……」

「ああ、もし新一がいれば、私の愛情いっぱい特製お弁当を作ってあげるのに……って顔してるわよ蘭ったら」

「し、してないわよっ! そんな顔!」

 

 何かを、いや誰かを思い浮かべるようにぽつりと吐息混じりに呟く蘭。そのどこか寂しげな瞳を浮かべる蘭を横目に見ながら、からかうように肘で突っつく園子。

 

「園子だって京極さんのために、お弁当の一つでも作れるくらいはしてた方がいいんじゃないのー?」

 

 仕返しと言わんばかりに園子の肩を肩で押しながら意地悪な目を向ける蘭。それに返ってきたのは園子の深い溜め息だった。

 

「私も料理の一つくらい覚えてお弁当も作れるようになりたいけどさ、京極さんったらまた武者修行の旅って行って出かけちゃったからなぁ」

 

 頭に手を当て心底困ったようなその姿に蘭も思わず苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

「美味しいお弁当を作るには、まずは料理を覚えないとね」と茶化し合う彼女たちの言葉に、それまで話を聞いていた伊吹が独り言のように呟いた。

 

「まあでも、愛妻弁当は男としては嬉しいよ」

 

 腕を組み何かを思い浮かべるように、青空を漂う白い雲を眩しそうに眺める。

 

「不思議と、晩ご飯の残りでも、冷凍食品でも、簡単なものでも、嬉しいものだと思うよ」

 

 何かをぼんやりと想像するように、どこか遠くを見ていた伊吹だったが、ふっとその目の焦点が戻ってくる。そして「多分ね」と肩をすくめて笑う彼の様子を、携帯を片手に灰原は横目で静かに見つめていた。

 彼女が誰にも気づかれないように1人見ていたのは、白やピンクが可愛らしく表示されたいかにも女の子らしいネットのサイト。

 「知った風にー」と園子にからかわれる伊吹の姿を灰原は1人静観していた。

 

「どした? 灰原」

「別に。ほら、あなた達、そろそろ行かないと遅刻するわよ」

「あッ! やっべ!」

「急がなきゃ!」

「もうこんな時間ですか!?」

 

 灰原の言葉に慌ただしくなる一同。帝丹小学校に向けて駆け出す子供たち。別れを告げた伊吹たちも帝丹高校の方向へと消えていく。

 灰原がポケットにしまった携帯の画面に写っていた内容に気がついた者は誰もいなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 その夜。阿笠邸のリビングのテレビには例のドラマが映し出されていた。この家では博士だけがハマっているようで、夕飯の後からコーヒーを片手にソファに座り込み、いそいそと視聴する準備を進めていた。

 伊吹も付き合うようにアイスティ片手に、ソファの空きへと腰掛ける。ドラマに対する興味は薄そうで、ソファの肘掛けに片手を立て頭を支える。

 彼の持つグラスからカランと氷の崩れる涼しげな音が聞こえたとき、リビングの扉が開いた。熱気を含んだ微かな蒸気と、シャンプーやボディソープの心地よい香りが室内に漂ってくる。濡れた髪の毛を優しくタオルで包み込むように拭きながら灰原が浴室から出てきた。

 

「お風呂空いたわよ」

 

 テレビに齧り付く2人の前に回り込み、その視界を遮るように告げる灰原。呆れたようなジト目を向けてくる彼女は、子供に言い聞かせる母親のようにも見える。

 

「博士?」

「う、うむ。伊吹くん、先に入ってよいぞ、今ちょうどいいところなんじゃよ」

「そ、そう。じゃあ」

 

 灰原の視線にも耐え、動こうとしない博士に伊吹も苦笑いを浮かべてソファを立つ。何も言わずすっと手を出す灰原に自身のアイスティを渡して浴室へと消えていく。伊吹が座っていたソファに腰掛け足を組み、アイスティ片手に博士と一緒にドラマを視聴する灰原。

 

「な、なんで二人はすれ違うんじゃ……」

「……」

 

 冷めたような目で興味もなさそうに見ていた灰原。ドラマの中では主人公だろうか、喧嘩した男女がすれ違いお互いの気持ちに不安を抱くも、女性が毎朝作っていた愛妻弁当を喧嘩した翌日も変わらず作っていてくれたことで、お互いに素直になることができ、円満に戻るといったありふれた話だった。1話完結で毎話異なるシチュエーションの話がそれぞれ「愛妻弁当」をキーとして展開される形式らしい。

 

「手作り弁当ねぇ……」

 

 グラスを傾けアイスティを口に含み、火照った体を冷やす灰原。思いのほかガムシロップが強かったようで、構内に広がる甘みに思わず眉間にしわが寄る。チラリとリビングの扉に目を向け、浴室で鼻歌交じりにシャワーを浴びる伊吹の方へと目を向ける。

 一口飲んだだけでグラスをテーブルに置き「後で注意しないと」と彼の糖分過多に目を光らせる灰原が、ふっとテレビに目を向けるとドラマの中ではヒロインと思しき女優が一生懸命にお弁当を作っていた。

 それを見て何となく朝の出来事を思い出す。佐藤刑事に歩美の母親、蘭と園子の会話。そういえば小学校に着いたら担任の小林先生も白鳥刑事に作ってあげたって惚気てたっけ。

 

「……お弁当作ってもらうのがそんなに嬉しいものなの?」

 

 組んだ足に肘を立て、手で頬を支えながら興味もなさそうに尋ねる灰原。しかしその声色と態度は、何かを確認しようとしているようにも思えた。

 

「そりゃあそうじゃ。お弁当は自分が食べるためではなく、相手に食べてもらうためだけに作るもんじゃからのぉ。貰った側からしたら深い愛情を感じるじゃろうし、喜ぶもんじゃよ」

 

 博士は人差し指をピンと立て「特に愛妻弁当はの」と、なぜか得意げに答える。

 自分がお弁当を作って貰う想像でもしてか、嬉しそうな笑顔を浮かべる博士。それを横目にジトッと見つめる灰原。その視線に気づくと博士はゴホンと一つ咳払いをしてから、目を細めて目尻を下げ、にんまりとしたイヤラシい笑みを浮かべ、からかうように小さく呟いた。

 

「……もちろん、伊吹くんもの」

「……」

 

 特に肯定することも否定することもなく、灰原はその半眼の視線をテレビへと戻した。普段以上に無愛想になるその横顔の頬に微かに差された朱色はお風呂上がりの火照った体のせいか、それともまた別の理由か。

 誤魔化すようにテーブルに置いたグラスを手に取り、少し氷の溶けて水の層が浮くアイスティを口に含むと、忘れていたのかその甘みが口に広がる。

 

「甘いもの好きだったかしら……」

 

 隣の博士にも聞こえないようにそう呟くとソファから立ち上がり、ダイニングテーブルの隅に置きっぱなしにしていた自身の携帯を手に取る。チラリと後ろを振り返り、ドラマに夢中の博士に見られていないことを確認してから画面を覗き込む灰原。そこには今朝、自分が何となく見てしまったあの可愛らしいネットのページが。

 

「あぁー、さっぱり」

「っ!!」

 

 画面に夢中で伊吹が浴室から出てくるのにも気がつかず、突然開けられたリビングの扉にビクリと肩を震わせる灰原。

 慌ててケータイの画面を消す灰原。なぜか焦っている彼女の姿に、伊吹はバスタオルで髪を拭きながら、きょとんと尋ねる。

 

「どしたの?」

「べ、別に。何でもないわ」

 

 「風邪ひくわよ」そう言い残すと、彼女はすれ違いざまにアイスティのグラスを伊吹へと押しつけ、携帯を片手にパタパタとスリッパを鳴らして自室へと去って行った。その携帯に写された内容を早く確認したいかのように、駆け足気味に。

 

「あんまり糖分を摂り過ぎないようにしなさいよ!」

 

 地下の自室の扉を閉める間際に、思い出したかのように上階の伊吹へと声をかける。「うぇーい」という気の抜けた返事を確認する前に部屋へと入っていく。

 伊吹はそんな彼女の姿を不思議そうに見つめながら、喉を鳴らしてアイスティを呷るのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 濃紺が西の空へと追いやられ、瑠璃色を経て東の空が徐々に鮮やかな青に染まり始める頃。街はまだ静かな眠りの霧に包まれ、朝霧に白む路地を新聞を配達するバイクが1台走り抜けていく。

 カーテンの閉め切られた早朝の阿笠邸はまだ薄暗く、そんな中にキッチンランプのみがぼんやりと灯っている。

 独特な構造をした阿笠邸では、キッチンはそのままダイニングやリビング、就寝用のベッドと一体となった構造をしている。すぐ近くでは博士が大きないびきを立てながら熟睡しており、起こさないようにキッチンの明かりも気を遣われているようで、手元を照らす程度の最小限にされていた。

 

「えっと……確かここに……」

 

 そんな中で1つの小さな影が揺れていた。薄ぼんやりと灯された明かりにも、その痛みのない赤毛混じりにブラウンヘアは鮮やかに揺れる。

 そこには灰原が眠たげな目をこすり、あくびを噛み殺してキッチンの収納棚で何かを探していた。数回のあくびを堪え彼女の瞳の端には涙が薄らと浮かぶ。しばらく棚の中を漁っていた彼女が奥から引っ張り出したのは黒色の四角い容器。それは男性用の弁当箱のようだった。

 しばらく前に何かのついでに買っていたが、子供たちとピクニックにでも行った時に使って以来しまい込まれていたそれを丁寧に洗う灰原。

 眠気に耐えかねた彼女が、ふぁ、と大きく口を開いてあくびをこぼす。すると途端に眠気が襲ってくる。頭がうつらうつらと船を漕ぎそうになるも、それを追い払うように頭を振り払い濃いめに淹れたコーヒーを一口飲み睡魔を追い払う。彼女の半眼はいつも以上に眠たそうだ。

 

「ふーん……」

 

 レシピか何かを確認しているのか、キッチンに置いた自身の携帯と睨めっこをしながら準備を進める彼女。卵の焼ける心地よい音と香ばしい匂いが辺りを包み込むと、それに気がついたのか博士がベッドからのそりと起きてきた。

 

「哀くん、こんな朝早くからどうしたんじゃ……?」

「は、博士。ごめんなさい、起こしたかしら」

「いや、それは構わんのじゃが……」

 

 少し焦ったように自身の携帯を隠すも、キッチン周りの状況を全て隠し通せはしない。灰原がお弁当を作っていたのは誰の目に見ても明らかで、博士もその後継にしばしの沈黙の後、気がついたようだ。

 

「これは、えっと」

「伊吹くんには、なにも言わんよ」

「別に彼は関係……」

 

 なにかを誤魔化すように口ごもる灰原に対して博士は全てを察するように頷くだけだった。

 邪魔しては悪いと言うように、博士は水を1杯飲んでトイレから戻ると、布団を頭から被ってもう一眠りすることにしたようだ。

 灰原も息を大きく吸って溜め息を吐いてから、コーヒーをもう一口味わってその香気で自身を落ち着かせる。

 再び博士のいびきが聞こえてきたのを確認すると、彼女はポケットにしまった携帯を取りだしお弁当作りを続ける。彼女が時折確認するその画面には、普段彼女が見ることのないような可愛らしいサイトが表示されていた。熱心に確認するそれを、彼女は参考にしながらお弁当作りに励むのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんか今日の朝ご飯は豪勢というか、手が込んでるね」

 

 伊吹がリビングに顔を出すと、そこには珍しく既に身支度を整え学校に行く準備を整えたあくび娘の姿が。博士と彼女が座るダイニングのテーブルの上には、普段のトーストではなく炊きたての白米が3人分盛られており、味噌汁に玉子焼き、ウインナーとサラダ、野菜ジュースがグラスに注がれている。

 一般的な普通の朝食かもしれないが、ジャムを塗ったトーストと牛乳くらいで済ませる普段の食卓と比べると確かに手が込まれていた。

 

「哀くんが用意してくれたんじゃよ」

「ほえー、珍しい」

「別に。たまたま早く起きたから、用意しただけよ」

 

 何かを言いたそうな笑顔を浮かべる博士に、いつもの澄まし顔で目を閉じたまま野菜ジュースを飲む灰原。

 どこか楽しむような博士のその笑顔に灰原はキッと鋭い半眼を向ける。その刺すような眼に思わず額に汗し苦笑いで誤魔化す博士。そんな2人を尻目に朝食に手を付ける伊吹の顔が、驚いたように明るくなる。

 

「あ、すっごい美味い」

「……そう、よかったわ」

「味噌汁もインスタントじゃないの?」

「ええ、違うわよ」

「哀くんが朝からうんと愛情を込め」

「博士」

 

 伊吹の素直な感想に思わず心が暖かくなり、無意識に笑みを浮かべてしまう灰原。

 博士の言葉には「余計なことは言うな」と視線に込めて横目に制する灰原。博士も彼女をからかいたい訳ではなく、娘か孫の成長を見ているようで素直に心底嬉しいのだ。それで余計な口を出してしまい釘を刺される。その姿は本当の親子のようだった。

 博士がポロリと零した言葉を聞こえたか、聞こえなかったフリをしたのか、伊吹は嬉しそうに微笑んでもう一口味噌汁をすする。

 

「美味しいよ。ありがとう、哀」

「……どういたしまして」

「うむ、ありがとうの、哀くん」

「博士はウインナー無しね」

 

 笑い声の絶えない一家団欒の朝食で会話に花が咲き、気がつけば家を出る時間が迫る。伊吹が慌てて残った野菜ジュースを飲み干し、「やばいやばい」と上着と鞄を手に玄関へと急ぐ。

 

「ちょっと、待って」

「ん?」

 

 そんな彼を灰原が呼び止める。その声色はいつものような鈴の音のように涼しく落ち着いたものだったが、彼女といつも一緒にいる者がよく聞かないと分からないくらい微かに、緊張の色が滲んでいた。

 それを感じ取ったのか、靴を履き玄関の取っ手に手をかけた伊吹が、わざわざ体ごと彼女へと向き直る。

 玄関口で両手を後ろに彼を呼び止めた灰原の視線が左右に揺れる。無意識に背中に隠しているお弁当を両手でいじる彼女。チラリと視線を彼に向けると、目が合ってしまい、ますます渡しづらくなる。顔が少し熱くなる気がする。

 「えっと……」と呟いてからなにも言わない灰原を心配するように伊吹がしゃがみ込んで、彼女と視線を合わせて「どうした?」と優しく尋ねた。

 目の前で半ば無理矢理顔を合わせてくる伊吹に思わず一歩下がってしまう灰原だったが、自分だけが意識しているこの状況に少し腹が立ってきたようで、いつものジト目を彼に向ける。

 

「ちょっと渡す物があるの」

「これって……」

 

 ずいっと、目の前に突き出されたのは紺色の小さな保冷バッグ。体を横向きに反らしながら、こちらに差し出された保冷バッグ。どこかいつもより鋭い気のする半眼の横目に少し赤みがかった彼女の頬。伊吹もそれがなんなのかはすぐに察しがついた。

 伊吹が両手を差し出すと、その上にぽんと置かれる。それを少し見つめた後、思わず彼女とバッグを数回見比べてしまう。

 横を向いた彼女は腕を組み、相変わらずのジト目で彼の様子をうかがう。

 

「なに?」

「いや、えっと……俺に?」

「あなた以外に誰がいるの」

「弁当を?」

「ええ」

「哀が?」

「そうよ。……いるの、いらないの?」

 

 面倒くさそうに溜め息交じりに聞いてくる灰原に、伊吹は音が聞こえそうなほど勢いよく頭を縦に振る。

 

「いるいる、すっごいいる!」

 

 そのバッグを両腕で大切そうに抱きしめる伊吹が、心底嬉しそうに瞳を細めて微笑む伊吹。おもちゃを買って貰った子供のように無邪気なその笑顔に灰原も思わず、嘆息混じりの小さな笑みがこぼれる。

 

「ほら、遅刻するわよ」

「あ、ああ、そうだった」

 

 灰原がいつもの澄まし顔で忠告すると、伊吹は慌てたように立ち上がる。出て行く前に灰原の頭へと手を伸ばし、その光の粒が弾けるような鮮やかなブラウンの髪を古傷だらけの大きな手のひらで優しく撫でる。

 ひとしきり撫でた彼がありがとうと一言残して駆けだしていった。それを見送った灰原が面倒くさそうに自身の乱れた髪を手櫛で整えて大きなあくびを1つ零す。しかし彼女の顔には、満更でもなさそうに微笑む。

 窓辺に差し込む陽光は暖かく、今日も1日いい天気になりそうだと、灰原は群青の空を眺める。たまにはこういうのも悪くないかなと、1人満足するのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ふぁ、……ぅん」

 

 今日も1日小学生としての生活を終えた灰原が、探偵団と共に帰路につく。彼女が堪えきれないように口元に手を当てて、今日何度目かになるの大きなあくびをこぼした。まだ高い日の光が心地よくてますます眠気を誘ってくる。

 

「今日の哀ちゃんすっごく眠そうだね」

「まあ、ちょっとね」

「おめー、普段よりも目つきが鋭いぞ」

 

 頭の後ろで両手を組むコナンの言葉にその鋭い目を向けると、先日と同じ知った声が子供たちにかけられた。

 

「よっ、ボーイズアンドガールズ」

「みんな今帰り?」

 

 下校途中の園子と蘭が声をかけてくる。子供たちの元気な挨拶に手を上げて応える蘭だったが、その視界に灰原を捉えると、その顔にパッと笑顔を咲かせ両手を合わせてどこか嬉しそうに声をかける。

 

「あっ。哀ちゃん、今日萩原くんすっごく嬉しそうだったよ!」

「っ!」

 

 思いがけないその一言に、先程まで1人後ろで目を閉じてあくびを噛み殺していた灰原の瞳が驚きに見開かれる。

 

「あー、すんごいウキウキしてたわね」

「いや、ちょっとっ」

「蘭姉ちゃん、園子姉ちゃん、萩原兄ちゃんがどうかしたの?」

 

 蘭たちにその話はやめろと言わんばかりに両手を伸ばして、焦ったように誤魔化そうとする灰原を制してコナンが尋ねる。子供たちはそんな彼女と蘭たちを交互に不思議そうに眺めている。

 

「あれ? 聞いてない? 今日哀ちゃんがお弁当を作ってくれたってもうすっごく喜んでいたんだよ、萩原くん。一日中ニコニコしてて」

「昼休みまだかな、まだかなって、ヤツはガキかっての」

 

 思い出して話してるこっちが恥ずかしくなると言わんばかりに、蘭が照れくさそうに報告する。隣の園子も学校での彼の姿を思い出してか、呆れるような苦笑いを浮かべる。

 

「にしても、メガネのガキンチョと並んで生意気な子供かと思ってたけど、ちゃんと女の子らしいところあんじゃない」

 

 腰を曲げて視線を下げ灰原の顔を覗き込む園子が、にやりとからかうようにイヤラシい笑顔を向ける。鬱陶しそうなジト目を園子に向けてから、目を閉じ腕を組んでそっぽを向く灰原。いつもの澄まし顔には微かに恥じらいが見える気がする。

 

「別に、たまたま気が向いただけよ。朝食を作ったついで」

「でも本当に嬉しそうだったよ」

「あのガタイの古傷だらけの男が一日中ニコニコしてると逆に怖かったわ」

 

 指を立てて今日の伊吹の様子を念押しで伝える蘭と、またも今日の伊吹の姿を思い出して自身の肩を抱いて身震いしながらげんなりする園子。

 その報告を聞く灰原はいつもと変わらず、最後に「そう」とだけ返事を返した。そっぽを向く彼女の明るい笑顔と、微かなハミングは誰にも見えなかった

 

「あ、そういえば蘭姉ちゃん、ボクおじさんのお迎えに行ってくるね」

「いいけど、あんまり邪魔しちゃ駄目よ」

「コナンッ! 今日の少年探偵団の活動はどうすんだよッ!」

 

 コナンが何かを思い出したようにそう告げる。小五郎は例の爆弾犯の事情聴取に付き合って警視庁へと赴いているのだ。コナンもそれが気になっているようで、お迎えの名目で様子を覗きに行きたいのだろう。

 

「じゃあ私も、今日はお買い物に行かなきゃいけないから」

「ええ、灰原さんまで?」

 

 コナンと同様灰原も用事があるらしく、不満の抗議を上げる子供たちに謝罪しながらも家へ帰ろうとする。

 

「哀ちゃん、どこまでお買い物行くの?」

「そうね。夕飯と明日の……。えっと、駅の方のセルフリッジまで行こうかしら」

 

 何かを考えるように視線を上げながら話す灰原が、途中で口をつぐむ。話を変えるように目的地を告げた。そこは米花町にある多種多様な商業施設を内包する少し高級なデパートだった。

 歩美が「あそこのケーキ屋さん美味しいよ」と笑顔でおすすめしていると、コナンが腕時計をチラリと覗いて駆け足気味に去って行く。

 

「じゃあなおめえら! 探偵団の活動はまた明日な!」

「あッ! コナン!」

「じゃあ私も暗くなるまでに帰りたいし、行くわね。また明日」

「灰原さあん」

 

 さっさと行ってしまう2人を不満げに見送る元太と光彦。そんな子供たちを見かねてか、蘭が自宅でケーキでも食べようと誘ってくれた。途端に機嫌がよくなった子供たちは両手を突き上げて毛利探偵事務所へと駆けだしていく。

 

「そういえば、伊吹お兄さんは?」

「萩原くんなら確か今日は掃除当番だったかな」

 

 歩美が何となく尋ねると、蘭と園子が目を合わせて確認する。ふっと振り返った歩美が道の向こうに小さくなっていく灰原の背中を見送る。なんだかよく分からないけど、ちょっと、嫌な予感が少女の胸中を吹き抜けた。

 

 

 



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10話 ハートの行方 後編

 米花駅からほど近いデパートの中に灰原の姿があった。一度家に寄ったのか背中にランドセルはなく、小さな黒猫がプリントされたエコバッグを肩から提げている。

 平日だがまだ日の高いこの時間帯には、主婦や学校帰りの学生などの姿も見て取れた。

 地下の食料品売り場が目的地だが、せっかく近所のスーパーではなく大きなデパートまで来たのだからと、色々なお店のウィンドウショッピングを楽しむ灰原。

 貴金属や化粧品など、女性向けであり尚且つ少し高級感の漂うエリア。彼女のお気に入りの柑橘系の香水が今も取り扱われていることを確認して、満足そうに上階を目指す。上には衣服類を扱うコーナーが設けられており、鼻歌交じりに服を見て回る彼女。

 

「……」

 

 綺麗な生地や可愛らしいデザイン、いくつかの服を思わず手にとって眺めてしまう彼女だったが、ふと寂しげな表情で拗ねるようにパッと手を離す。どうせ今の自分には着られないのだから、と。

 昔、シンプルな服と白衣ばかりを着ていたような気がする。こんな姿になるんだったら、もっとお洒落しておけばよかったかな、そして彼と一緒に出かけたりして……。

 

「⋯⋯なんてね」

 

 自身の思考を吹っ切るようにそう一言呟いてから、小さな嘆息を零す。

 子供服でも見ようかと思ったけれど、なんだかそれは悔しいような気がしてパス。女性用の服を横目に見ながら彼女が地下を目指そうとすると、エレベーターは他の多くのお客さんたちでごった返していた。人混みをあまり好まない彼女は小さく鼻から息を吐いて、エスカレーターのへと向かう。6階から地下までエスカレーターを乗り継いで行くつもりのようだ。

 今晩の献立は何にしようか、明日のお弁当にはなにを入れてあげようかな、と思考を巡らせていると自然と笑顔を浮かべていることに気がつく灰原。思いのほか今日の彼の反応に自分も浮かれているのだと思い知らされるも、素直になれない彼女は恥ずかしそうに頬を染めていつものジト目を浮かべる。

 小さく息を吐いて体内に響く鼓動を落ち着かせると、彼女はポケットから携帯を取りだし伊吹へと電話をかけた。ほんの数回のコールの後、向こうから心地よいテノールの声が響いてくる。

 

『はいはい、もしもし?』

「私だけど、今日の夕飯の……っ、えっ、きゃっ……!」

『哀っ?』

 

 彼女がエスカレーターに足をかけた時だった、突然の地響きが辺りを襲い、地鳴りのような轟音と共に足下が激しく揺れる。地震よりももっと近くで感じるような振動。それが何なのかを理解する前に今度は店内の照明が落とされ真っ暗な影に包まれる。

 明かりの中で収縮した瞳孔は暗闇に咄嗟には対応できず、手の先も見えないほどの闇に飲み込まれる。エスカレーターも停止し、つまずくように灰原もその場にとどまる。慌てて手すりに捕まり体制を整えた彼女がほっと一息吐いたとき、今度はすぐ近くから大きな爆発音が聞こえた。

 その轟音に灰原が咄嗟に振り返ったとき、彼女の体を熱い突風が襲った。彼女の軽い体はいとも簡単に煽られる。足場の悪いエスカレーターを踏み外した彼女の体がより深い階下の影の中に飲み込まれるように落ちていった。

 

「うぅっ……!」

 

 体が打ち付けられるような鈍い音を上げながらエスカレーターを転がり落ちた灰原。咄嗟にできる限りの受け身を取り大きな怪我は避けられたものの、最後に頭を打ち付けたらしく見えない視界がぼんやりと滲んでいく気がした。

 遠くから他の客の悲鳴と子供の泣き声、その子供を探す親の絶叫など阿鼻叫喚の声があちこちから反響して聞こえてくる。真っ暗闇のデパート内が途端に戦場と化した気がした。

 取りこぼした携帯電話が視界の隅で転がっている。その向こうからこちらを呼びかける彼の声が聞こえる気がするも、体が動かずそれに答えることができない。

 ちゃんと眼を開いているのか、閉じているのかも分からない中で、眠りに落ちるように灰原の意識は遠のいていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ん?」

 

 帝丹高校に残り掃除を済ませた彼がカフェオレのパックを片手に帰路につく途中、ポケットの中で携帯が震える。画面に表示された文字を確認すると、彼は嬉しそうに電話に応える。

 

「はいはい、もしもし?」

『私だけど、今日の夕飯の……っ、えっ、きゃっ……!』

 

 愛しい声が受話器の向こうから聞こえると、思わず空のお弁当箱の入った保冷バッグを握ってしまう伊吹。しかし、彼女の言葉は最後まで紡がれることなく、小さな悲鳴へと変わる。そして直後に聞こえたのは爆発音のような激しい雑音。

 

『哀っ?』

 

 電話の向こうの彼女に呼びかけるも応答はない。彼女が何かに巻き込まれたのは明白だった。しかし情報を得ようと耳を澄ましても聞こえてくるのは変わらぬ雑音と遠くに響く悲鳴のみ。

 

「哀っ!? どこにいる!? 何があったっ!?」

 

 その問いかけも独り言のように中に消える。耳を刺すような一際大きな雑音が入ったかと思えば、通話は途絶えてしまった。再び灰原へと電話をかけるも、その耳元に彼女の鈴の音のような澄んだ声は聞こえてこない。

 

「……」

 

 やけに辺りが静かな気がした。人気がないと言うよりも、人の気配がどこかに流れていくような感覚。そして、午後の穏やかな風にふわりと、似つかわしくない、しかし嗅ぎ慣れた火薬の匂いが混ざっていることに気がつく。

 帰路についていた足は自然と自宅の方向から逸れていく。流れる人の気配を追っていくと、徐々に辺りがざわめき出す。胸中を覆う不安の影を振り払うように、飲み干した紙パックをゴミ箱へ投げ捨て自然と足は駆け出した。

 導かれるように彼が辿り着いたのは黒煙を噴き上げる大きなデパートだった。

 確証はない。しかし、彼の眼は自然と鋭く鈍く研ぎ澄まされていく。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「最後の爆弾はどこだッ! どこに仕掛けたッ!」

 

 どこか寒々しく冷たい印象を受ける取調室の中では手錠をかけられた男が刑事に詰め寄られていた。マジックミラー越しに目暮警部と小五郎がその取り調べの様子を苦い顔をしながら見つめていた。

 

「おじさんっ、どうかしたのっ!?」

「あっ、このガキはまた勝手に……!」

 

 小五郎を迎えに来たコナンだったが、取調室周辺の物々しい様子に気がつく。突如現れたコナンを捕まえようとする小五郎だったが、それよりも取調室の犯人の様子が気になるようだった。

 コナンも取調室のマジックミラー越しの窓にしがみつくように中を覗き込む。

 

「あれ、この前逮捕した爆弾犯だよね。どうかしたの?」

「ああ、ヤツが盗んだ火薬の量が全然足んねえんだよ」

 

 小五郎も取調室の爆弾犯を睨みながら、ついいつものように答えてしまう。その小五郎の言葉に驚愕を隠せないコナン。

 

「目暮警部、実際に今行方の分からない火薬というのはどれくらいなんですか?」

 

 小五郎も隣の目暮警部へと詳細な情報を尋ねる。コナンも気になるようで、深刻な表情を浮かべる。顎に手を当てた目暮警部が一瞬の逡巡の後に重たい口を開いた。

 

「うむ……。ここ数件の爆弾騒ぎで実際に使用された火薬の量は、ヤツが盗んだ分の半分にも満たないんだ。残りの量から換算するに、一度に使用されれば……ビルの一つくらいは吹き飛ぶ」

「なんですってッ!」

 

 帽子をぐっと深く被り直す目暮警部が、その帽子の影から微かに眼を覗かせて神妙な面持ちを浮かべる。

 想像以上の規模に、コナンと小五郎も目を見開く。彼らがしばらく問答していると、沈黙を守っていた取調室内の男が何やらごそごそと動き出した。

 

「刑事さん、今何時だい? 俺、時計も取られちゃってんだよ」

 

 テーブルに片肘をつき、半身を乗り出した男が挑発するように尋問する刑事へと声をかけた。訝しがりながらも、刑事は腕時計を確認し、男へと教える。

 

「午後、5時ぐらいだ。それが何だ」

「5時を回ってんのかい? まだかい?」

「なに?」

「いいから、早く教えてくれよ」

「……回っている。5時3分だ」

 

 時間を聞かれた刑事の背中を冷たい汗が伝い、嫌な予感がする。刑事の言葉に男は光の宿らない死んだ動物のような瞳まま心底楽しそうに表情筋を愉悦へと歪め、勝ち誇ったような高笑いが取調室内に反響する。性根の腐ったようなその捻くれた笑顔に思わず刑事が詰め寄ろうとしたとき、男が手錠のかかった両手を前へと突き出し刑事を制する。

 

「野郎、なにを笑ってやがる」

 

 取調室の外から覗いていた小五郎たちも男の異変に気がついた。時間を確認する犯人にコナンもまた、最悪の事態を連想する。しかしそれを確認するには、この男から話を聞き出すしかなかった。

 男が右手の人差し指を立てて刑事を指さし、「無能」と一言呟く。怒りに思わず立ち上がる刑事を尻目に、今度はマジックミラーの方へと指を差し、自分を見ているであろう刑事に対しても「無能」と吐き捨てた。

 

「野郎ッ!」

「落ち着けっ、毛利君」

 

 男の挑発ともとれる行動に思わず眉間が引きつる小五郎と、それを制する目暮警部。

 男がぐっと身を乗り出して立ち上がった刑事を下から覗き込む。ニヤリと口元を歪めながら男が淡々と口を開いた。

 

「もう頃合いだ、教えてやるよ。最後に用意した()()()()()は、セルフリッジだ」

 

 椅子に深く腰掛け背を預けながら男は続ける。表情から笑みは消えていき、徐々に冷たさを帯びていく。最後は抑えきれない憎しみをその瞳の奥に宿らせる。

 

「あそこは幸せの集まる場所だ……。デートに着ていく服か? 夕飯の食材か? 大切な人への贈り物? あそこは色んな幸せが集まってくる場所だ……。俺は他人の幸せが大嫌いでね、全部吹っ飛ばしたくなるんだよ」

 

 男の独白を前に取調室外の小五郎たちは焦り手のひらに汗が滲み、コナンが忌々しそうにガラス越しの男を睨みつける。

 

「セルフリッジって言やあ、あのデパートかっ!?」

「あんなところで残りの火薬を爆破されたらどれだけの被害が出るか! 大至急爆弾処理班を向かわせ現場を封鎖するんだ!」

 

 焦る目暮警部の怒号にも近い指示が飛ぶ。「怪我人が出る前に!」そう張り上げる目暮警部の声が聞こえたのか、取調室内の男が一言「もう遅えよ」と呟いた。

 その一言にコナンが振り返ったとき、目暮警部の携帯に緊急の連絡が入る。

 

「なにっ!? 都内で……、デパートセルフリッジで爆発だとっ!?」

 

 その連絡に小五郎の舌打ちを漏らす。コナンがハッとして急いで携帯を取り出すと灰原へと連絡を入れる。しかしその通話口の向こうから聞こえるのは、相手の携帯の電源が入っていないことを告げる音声のみだ。

 コナンは電話を切り、今度は伊吹へと電話をかける。数回のコールの後、向こう側からどこか静かで重たい伊吹の声が聞こえてきた。

 

「萩原っ、今セルフリッジって駅近くにあるデパートに爆弾が仕掛けられてる! そこに灰原が行ってるかもしれねえ! お前今どこにいるっ!?」

 

 少しの沈黙の後、彼は静かに淡々と答えた。

 

『大丈夫だ。今、目の前にいる』

 

 それだけ言い残すと彼は通話を切った。現場へと急ぐ刑事たちに小五郎とコナンも同行する。男も手荒く取調室から連れ出され、現場へと連れて行かれるようだ。

 現場へと向かう途中のパトカーの中からも、遠くに上る煙がよく見えた。風の少ない明るく陽気な天気は、その足下で巻き起こる事件とは裏腹に、のどかで平和そうに、白い雲を漂わせていた。

 コナンたちがデパートの前に辿り着く頃には、辺りは一層騒然としており、建物内に親しい人が取り残されている人々や、外で被害に遭った人を保護する救急隊員、火事を消すための消防隊、そして爆弾処理班などがごった返していた。

 警官が野次馬を下がらせようと声を張り上げたとき、何度目かの爆音が辺りを揺らした。降り注ぐ瓦礫とガラス片に辺りからは悲鳴が上がる。

 

「中の民間人の救出はっ!?」

 

 目暮警部が現場にいたレスキュー隊に尋ねるも、首を振るばかり。建物に入ろうにも、出入り口はことごとく爆発による瓦礫などで塞がれていたり、入り口そのものが吹き飛ばされており、それらを撤去し道を作らねばならないため中に入るには時間がかかりそうだった。

 

「下がってください! 危険ですから下がって!」

 

 警官に押されるように現場を離れる野次馬たちだったが、その中の1人の男性が困惑したように声を上げた。

 

「あ、いや、でもさっき……、男の子が一人、入っていきましたけど」

 

 その言葉に警官やレスキュー隊、目暮警部や小五郎たちもが驚愕の顔で建物を見上げる中、爆弾犯の男がニヤリと、不気味に笑っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ん……っ、ぁ……」

 

 灰原が目を覚ますと、そこは先程と変わらないデパートの中だった。悪い夢じゃなかったのねと彼女が体を起こすと、同じく爆発に巻き込まれたであろう若い女性に声をかけられた。

 

「気がついたのね、大丈夫? どこか痛む?」

「え、ええ。大丈夫よ。ありがとう、お姉さん……」

 

 この女性が気絶していた自分を介抱してくれたということは、灰原もすぐに察しがついた。

 真っ暗だった暗闇の中にポツポツと小さな明かりが灯っていることにも気がつく。他の巻き込まれた客たちが自分の携帯やライターを使って辺りを照らしているようだ。客たちの中には肩を寄せ合う者や、うろちょろと動き回り出口を探す者、壁際でうずくまる者、泣きながら携帯で電話する者など様々だったが、いずれにも疲労と不安が見て取れ、言い知れぬ緊張が辺りを包んでいた。

 詳しいことは分からないが、なにかが爆発し、それに巻き込まれたことは想像できた。幸い火や煙は回っておらず、少し休むとぼーっとしていた頭も徐々に冴えてくる。自身にも大きな怪我はないようだ。

 

「携帯……」

 

 ふっと自分の携帯の存在を思い出した灰原が、少しふらつく足に力を入れ煤のついた体を払って立ち上がると、寝起きのぼんやりする頭を押さえながらエスカレーターの下を探す。確か自分はここに倒れていたはず、と辺りを見回すと、そこには確かに灰原の携帯が転がっていた。

 それを拾い上げ助けを呼ぼうと試みるも、その液晶には大きなひびが入り、いくら操作しようとも電源はつきそうになかった。溜め息と共に辺りを見回し通路をいくつか確認するも、そのどれもが瓦礫に邪魔されていたり、扉がひしゃげており出られる箇所はなさそうだった。

 仕方ないと再び女性の元へと戻り壁にもたれるように座り込む。

 

「ついてないわね……」

 

 天井を見上げて小さく零す灰原。

 

「大丈夫? なにか見つけた?」

「いいえ。どこも通れそうにないし、ここで助けを待つしかないわね」

 

 その言葉に女性の表情が暗く沈む。そんな彼女に助けて貰ったほんのお礼のつもりか、灰原は元気づけるように、こんな状況なんてことないとでも言うかのように、暗闇の中で微かな笑みを浮かべた。

 

「大丈夫よ、きっと助けが来るから」

「でも、こんな状況だと、警察もレスキュー隊もなかなか……」

「大丈夫。もっと頼りになるのが、そのうち来るわ」

 

 薄暗い中で見えた少女の横顔に、思わず尋ねてしまう。

 

「それって、だれ?」

「…………私の……騎士(ナイト)ってところかしら」

 

 悪戯っぽく微笑む少女の声色は、どこか自信と確信に満ちており、なぜか信用できる気がした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「入って行ったのって、体の大きくて傷だらけの男の人?」

「あ、ああ、そうだけど。学生服だったけど、あれは堅気には見えなかったよ」

「こ、コナン君、まさか中に入っていったのって」

「うん。間違いなく伊吹兄ちゃんだと思うよ。そして恐らく灰原も中に」

「な、なんだって……っ」

 

 野次馬の証言から中に入ったのは伊吹だと確信するコナン。それを聞いた目暮警部や小五郎も驚くばかりだ。

 

「レスキュー隊を早く! 救出せねば!」

 

 目暮警部の言葉と同時に、レスキュー隊が瓦礫の一部を撤去し1本の通路を確保する。メットのライトを点灯し、レスキュー隊員が通路へと足を踏み込んだときだった。通路の側面が小規模ながら爆発しはじけ飛ぶ。先頭を歩いていた隊員が右足を負傷し、他の隊員に引きずられるように避難する。

 その一部始終を見ていた犯人の高笑いが辺りに響き渡る。

 

「お前たちが()()()()()()()()()()は作っておいてやったぜ。気をつけろよ、そこはブービートラップだらけだ」

 

 男がにやつきながら目暮警部と小五郎を挑発する。男の嘲るような言葉は止まらない。

 

「辛抱たまらず入っていったっていう兄ちゃんも気の毒だなぁ、楽に死ねてればいいが、今頃片足が吹っ飛んで芋虫みたいに這いつくばってるかもなぁ」

「テメェッ……!!」

「よせっ、毛利君っ」

「しかしッ、警部殿ッ!」

 

 思わず男の胸ぐらを掴み上げる小五郎の肩を掴み押さえる目暮警部。小五郎をなだめる警部の目にも怒りの炎は燃えたぎっていた。

 

「この男は法の下に裁かれる。こんな男を殴って君が罪を被る必要はないっ」

 

 自身の肩を掴んでくる目暮警部の手にも力が加わり痛いほどだ。小五郎も目暮警部の胸中を察し、男から手を離す。しかし男はますます挑発するように、口を開く。

 

「この建物に仕掛けた爆弾が吹っ飛べば、この周りの野次馬共もくたばるだろうぜ。()()()()()()に爆弾を仕掛けた。できるだけ大きな被害が出るような場所にな」

「テメェでまかせをっ」

「別に信じてくれなんて言ってねえよ。だがな、もう調べはついてんだろ警部さんよ。このデパートの設計者は俺の爺さんだ。俺にも建築の心得がある。この建物のどこに、どれくらいの爆薬を仕掛けりゃいいかはよーく分かってるぜ」

「爆弾をどこに仕掛けたッ!? 解除方法はッ!?」

 

 小五郎がパトカーのボンネットを激しく叩きながら犯人へと詰め寄るも、男は楽しそうに不気味な笑みを浮かべるだけだ。

 

「誰が教えるかよ。俺は死刑だろう、ありったけの幸せをぶち壊して死んでやる」

 

 べろりと下を垂らす男は小五郎や警察の怒りを逆なでする。

 

「ほら、早くしねーと、6時になったらドカンッ、だぜ。さっさと中の奴ら見捨てて逃げねーとよお」

 

 その言葉に一同が咄嗟に時計を確認する。時刻は既に5時30を回っており、タイムリミットが迫っていた。

 建物の中からまた数回の爆発音が聞こえ、辺りにガラス片と悲鳴を振らせる。一同が焦りの表情でデパートを見上げる中、男は口角を吊り上げ、不気味な笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 赤い液体が転々と瓦礫だらけの通路に続いている。その先には右肩から吹き出す鮮血を左手で押さえながら眉をひそめ歯を食いしばり、苦悶の表情で奥へと突き進む伊吹の姿があった。

 初弾のブービートラップの直撃をすんでのところで咄嗟に回避した伊吹だったが、その広範囲に飛散する破片を全て避けることは適わず、右肩と右大腿部側面から激しい流血が見て取れた。

 右足を引きずるように歩く伊吹の歩調は決して早いものではなかったが、その目に宿る活力の光は暗い通路の中で輝いて見えるようだった。

 

「うぉらッ……!」

 

 目の前に倒れ込む大きな瓦礫の破片を、その両腕で押しのける。力んだとき太ももと肩から赤い鮮血が筋骨に押し出されるように飛び散る。

 どうにもならない道は道中に解体し、回収したトラップの爆薬を利用して、即席の簡易爆弾で無理矢理に切り開いていく。しかし即席の荒削りな爆薬に安全性など考慮されているはずもなく、ましてや先を急ぐために最速で深部を目指す伊吹がその都度安全な距離まで避難することもしないため、爆発のたびに熱風と爆破片が彼の体を傷つけていく。

 

「ああ、くそ……」

 

 鋭いガラス片か何かが伊吹のこめかみを掠める。深くはない傷だったが、頭部の傷の出血量は多く、顔に垂れ視界を深紅に染める流血を鬱陶しそうに拭う。

 違和感は感じていた。確かに無理矢理に突き進んできた箇所もあったが、明らかに自分が今突き進んでいる道には作為的な何かが感じる。あらゆる所にトラップが仕掛けられているのではない、確実にこの通路にだけ狙って仕掛けられているのだ。

 犯人に誘導されていることは薄々分かってはいるものの、灰原の居場所に当てもない伊吹は奥へと進むしかなかった。

 思わず足下がふらつく伊吹が体を支えるように壁に手をつく。赤黒い手形がハッキリとそこに残され、力が抜けるように壁にもたれかかりずるずると引きずるように、その歩みを止めない。

 鉄かガラスかコンクリートか、何か分からないが確かに体内に残る破片が傷口の奥で疼くのを感じる。思わず指を突っ込んで引き出してやろうかと考えてしまう。

 そんな彼が引きずる右足が瓦礫に取られ、体制を崩し床に左手をついて体を支えようとしたときだった。金属の擦れるような音と、張り詰めたピアノ線がはち切れるような痛々しい乾いた音がすぐそばで聞こえたのは。

 

「ッ……」

 

 伊吹の舌打ちの音が誰もいない通路を反響し、一瞬の静寂が辺りを包んだかと思うと、(まばゆ)い閃光が彼を襲い、爆音がすぐそばで彼の耳を(つんざ)いた。

 煙る黒煙が散り、新たな瓦礫が崩れ落ちる中、そこには青年が1人、倒れ伏していた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「今の、結構近いわね」

「は、離れましょうか……」

 

 灰原と女性がもたれかかっていた壁のすぐ奥から内臓を震わせるような振動を感じた。チラリと壁面を確認した2人がそこから距離を取るように離れる。

 それから数回の爆発音。それは徐々にこちらに近づいているようで、ついに壁1枚を隔てた隣で何かが爆発したようだ。血の気のひいた青い顔を浮かべる女性と、壁を睨み付ける灰原。周りにいた一般人も何事かと様子を見ながらも離れていく。

 ふっと、途端に爆発音が止まった。そのままの爆発の流れでこのフロアが吹き飛ばされるかと汗ばむ手を握りしめる灰原に、あの声がかけられた。

 

「……哀?」

「っ!」

 

 切迫したこの状況でも、相手を安堵させるように優しくそっと、慈しむようにかけられるその声は、彼女の待ち望んだそれだった。コンクリートの壁だったが、幸いにも所々が砕け隙間ができており、そこから声が聞こえていた。

 その声が聞こえると弾かれたように慌てて壁際へと駆け寄る灰原。両手を壁につき、必死に向こうへと声をかける。

 

「ここにいるわ!」

「よかった……。ちょっと壁から離れてて。()()()()()

 

 彼の言葉の意味は分からなかったが、彼が()()と言ったのだから《来る》のだろうと、灰原はその言葉に尋ね返すことはせず、言われたとおりに距離をとる。

 壁の向こうで彼が何やらごそごそと動いたかと思うと、数秒の沈黙の後、壁面の壁が爆風にはじけ飛んだ。

 足下にコロコロと転がってくるコンクリート片。生暖かい風に前髪が揺れた。黒い爆煙と白い粉塵の向こうに立つ男は、威風堂々と佇み、彼女を目にとめると、血みどろの姿の痛みをこちらに想像させないかのように、小さく微笑んだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「いででっ」

「我慢しなさいっ」

 

 最後のブービートラップも体を捻りギリギリのところで避けた伊吹だったが、左腕が犠牲になったようで、今は両の手をだらりと垂らして流れる出血を止めるすべもなかった。

 彼の派手な登場にしばらく呆けていた灰原だったが、その全身に滴る液体が彼の血だと分かるやいなや、その鋭い目をキッと吊り上げ語気を強めて彼を叱咤する。

 よほど怪我の具合を心配したのか、その瞳の端に微かな涙が浮かんでいたようにも思えたが、暗闇の中では誰にも気づかれずに済んだようだ。

 微かな明かりの下で伊吹の傷口を確認し、可能な限りの処置を施す。といっても今できることは辺りに散乱した衣類の布で、これ以上出血しないように強く縛って圧迫する程度のことだった。

 傷を手当てしてくれた灰原の頭を血のついた手で撫で、立ち上がる伊吹が何かを探すようにフロアを散策する。彼女も心配するようにその後ろをついて回る。

 

「ここに来るまでの道のりはやけに作為的なものを感じた。もし犯人の目的がここに救助に来た者をおびき寄せることだったんだとしたら、恐らくここには……」

 

 振り返りはしなかったが、後ろにいる灰原に説明するように続ける伊吹。彼の言葉をただ静かに聞いている灰原の眉間にもしわが寄り、嫌な予感が胸を覆っていく。

 ピタリと足を止めた伊吹が暗闇の中で見つけたのは、壁と一体になっている非常ボタンと、それと一緒に備え付けられた消火用散水栓のカバーだった。

 幸い歪みのないその金属製の扉は容易に開くことができそうだ。伊吹は後ろへ手のひらを突き出し灰原に少し距離を取らせると、何かを警戒するようにそっと開いた。

 

()()がある」

 

 嫌な予感が当たったと言うように、困ったような声色で独り言を零す伊吹。そこにはティッシュ箱よりも一回り大きな黒い金属製の箱が安置されていた。

 カバーのような蓋がされており、伊吹はそれをそっと優しく、極力刺激を与えないように取り除いた。そこにはデジタル時計のような文字盤が表示されている。暗闇の中でぼんやりと光るその数字は、時計とは異なり、1秒1秒確実に数字を減らしていく。誰が見ても分かる、それはカウントダウンであり、残りの時間は10分を切っていた。

 

「それって」

「ああ、こいつが本命だな」

 

 離れて見ていた灰原が伊吹の背中越しに覗き込む。そこに刻まれた数字の減少していく文字盤に、彼女もそれが何なのか察しがついた。

 

「制御盤の裏から配線が伸びている。コナンの話じゃ犯人はこの建物を午後6時に吹っ飛ばす気らしいから、残りの制限時間から考えてコレがその爆弾のタイマーだろうな」

 

 手元を携帯のライトで制御盤を照らし、懐から取り出したフォールディングナイフを器用に操りネジを外す。制御盤の外装を剥がしながら淡々と説明する伊吹。

 辺りの一般人たちも状況を察し始めてかざわつきはじめた。

 

「この配線が各階に仕掛けられた爆弾に繋がってるんだろう」

「解除できるの?」

「……まずは中を覗いてから」

 

 そう答えると伊吹はそっと外装の天板部分を持ち上げる。中には予想通り多くの配線がこんがらがっていたが、一つ伊吹の予想を反したことがあった。中を縦横無尽に伸びるコードは、全てが同一の黒色だったことだ。

 このフロアに到達するまでに解除した爆弾は、どれも配線の色が異なっており、伊吹も多少手こずったものの、解除は可能だった。

 

「……っ」

 

 思わず言葉を失う伊吹。その額を汗か流血か分からない液体が伝い落ちる。

 爆弾の配線は製作した者が自分で分かるように、作成時に誤爆などしないよう色分けしていることが多い。そこからいくらか推測し解体するわけだが、目の前の基盤にはそれがない。ただでさえ暗い周囲に溶け込むような黒い配線は視認しづらく、ましてやそれを解除しようなど、あと10分足らずで出来るようなことではなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あれは俺の最高傑作だ。そう簡単に解体なんざできねえ……」

 

 建物の周囲では民間人の避難が進んでいた。駅の近くと言うこともあってか、野次馬は溢れかえるように増えていき、ごった返している。しかしそんな野次馬も警察たちの怒号のような避難指示に気圧されるように離れていく。

 駅も電車の乗り入れが制限され、辺りは物々しい雰囲気に包まれていく。デパートから吹き出す黒煙が、紫色に染まっていく空に、不気味なほど高く上っていった。

 警官に押さえられながら下がらされた犯人がぽつりと呟いた一言は、コナンの耳にだけ届いたが、コナンにも今できることは、あの超人をただ信じることのみだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 伊吹の額に汗が滲む。痛みと出血で鈍くなっていく両手の感覚を極限まで研ぎ澄まし、その配線を丁寧に1本ずつ処理していく。

 残りの時間が10分を切っていた時点で、他の一般人を率いてトラップだらけの道を引き返すことは不可能だった。

 残された選択肢が解体のみだと判断した伊吹の動きは素早く、上着を脱ぎ捨てネクタイを外した。痛みに顔を歪ませながら袖をまくり、ナイフ片手に作業へと取りかかった。

 隣では灰原が携帯で彼の手元を照らす。彼の額を伝い落ちる汗や血をハンカチで拭い、その揺れる瞳で彼の横顔を見つめる。

 だが、トラップや切る順番に気をつけながら配線を半分ほど切断した頃だろうか、背をかがめて解体していた伊吹がふっと、そのナイフを持ち上げて体を起こした。

 よほど集中していたのか、呼吸が荒くなる。目の前の爆弾は刻一刻と時を溶かしていく。残りの時間は僅か5分を切ろうとしていた。

 

「ちょっと、大丈夫?」

 

 彼の見開かれた眼に滲む汗、黙ったまま俯き床に視線を落とす。何かに怯えているのだ。この状況ではない、爆弾にではない、命の危機にではない、このままでは()()()()()()()()()()()()()()()という事実に。ほんのあと、5分足らずで。

 そんな彼の姿に灰原も心配そうにそっと背に手を当てて尋ねる。

 その声に引っ張られるように伊吹の顔がゆっくりと持ち上がる。彼女の瞳を見つめた彼が、ナイフを落とし灰原の両肩を力強く掴んだ。

 

「……俺の入ってきた道を戻れ。多少崩れていても小さい哀の体なら抜けられるかもしれない。隙間に逃げ込めば助かるかも」

 

 いつになく焦った様子で灰原へと迫る伊吹。その様子から、爆弾の解体が間に合わない可能性を察した灰原。彼女の手と唇が微かに震える。しかし、その怯えを心の奥底に隠すように、彼女は自身の両手を強く握りしめ、俯いて唇を噛む。鼻から大きく息を吸い込んで深呼吸を繰り返したかと思うと、次に顔を上げたとき、彼女はいつもの呆れたような、ジトッとした半眼で彼を見ていた。

 震える指先に気づかれないように、彼の額を人差し指でトンと突く。

 

「ばかにしないで」

 

 そして、慈愛に満ちるような優しい瞳で彼を見つめる。

 鈴の音のような凜と澄んだその声は、伊吹の頭を驚くほどクリアに落ち着かせた。灰原の肩を掴んでいた両手から力が抜ける。

 だらりと垂れる彼の手を、灰原が両手で握りしめ、その胸に抱き寄せる。奥深くに微かに青みがかったその双眸が伊吹の両の目を真っ直ぐに見つめる。ぼんやりと灯る明かりの中でもハッキリと見えるほどに白く美しい肌と、その桜色の薄い唇が微かに動いた。

 

「あなたのいない世界を一人で生きるなら……私は、あなたと一緒に……」

 

 その言葉を聞いたとき、ハッとした伊吹が指先でそっと彼女の唇を塞ぐ。彼女にその先の言葉を紡がせてはならないと、そう思ったからだ。

 乱れる呼吸は静かに落ち着いていく。唇をきつく結び、彼の目から絶望と怯えは消え去った。伊吹が一度大きな深呼吸をすると、いつもの飄々とした調子で応える。

 

「二人のいる世界を、二人で生きよう」

「……。⋯⋯まるでプロポーズね」

「しまった。だったらもっとロマンチックな言葉を選んだのにな」

 

 彼の顔を横目に見つめながらからかうように微笑む灰原。その告白に、頬に微かな朱色が差す。彼も照れくさそうに困ったような笑顔を浮かべる。

 

「病める時も、健やかなる時も、ってやつだ」

 

 彼が床に置いたナイフを拾い上げてそんなことを呟いた。

 

「候補は絞ってる。正解の1本を切ればタイマーは止まる」

「もし、外したら?」

「……愛は奇跡を起こすって、相場が決まってるだろ」

 

 伊吹がその刃先を制御盤の配線の上で揺らす。残り時間は1分を切った。チャンスは一度だけだった。

 

「これ」

「オッケー……」

 

 灰原が伊吹の手ごとナイフを掴み、1本の配線の上でその刃先を止めた。確証も理由もない、本当の運任せだった。

 思わず灰原が生唾を飲み込む。伊吹の手にも力が入る。彼女の肩を抱き寄せた。痛いくらいのその力に灰原が笑う。

 

「あら、怖いの?」

「まさか」

「ほんと?」

「まあ、多少は……」

 

 緊張を誤魔化すように軽口を叩き合う2人。

 

「もし、無事に戻れたら……?」

 

 伊吹の目を見つめて灰原が何となく尋ねた。本気で聞いているわけでも、大した答えを求めている訳でもないその一言に、伊吹は一瞬考えてから、子供のように微笑んだ。

 

「……もう一度、哀の弁当が食べたいな」

「……ばかね、そんなこと。……腕にうんとよりをかけて作ってあげる」

 

 ナイフの刃先が配線の1本を引っかける。2人の手に力が込められた。ぷつりと、命をかけるにはあっけないほど簡単にそれは切り離された。

 

 

 

 

 

 

「……ありがとう」

 

 彼のその一言に、思わず体の力が抜けた彼女が、ぐったりとその胸板へともたれるように倒れ込んだ。

 さすがの彼も手で体を支えるようにぐったりと座り込む。大きな一息を吐いてから、小さな少女の体を優しく抱き寄せ、ぬくもりと鼓動を感じるのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「萩原くん今日もお弁当なんだね」

「哀が作ってくれたんだよ」

「はいはい、よかったわね」

 

 爆弾事件から数日後。伊吹は体にいくらか包帯を巻きながらも通学できる程には回復していた。彼の超人じみた体には最早誰も驚きはしなかった。

 そして今日は灰原があの日の約束通り、またお弁当を作ってくれたらしく、伊吹は朝から上機嫌で怪我を思わせないほど足取りも軽かったという。

 

「なんか、おっきくない? その日の丸」

 

 伊吹が弁当箱を開けると、そこには確かに巨大な日の丸がご飯の上に乗っていた。弁当を覗き込んだ園子が思わず聞いてしまうのも無理はない。

 

「今朝、弁当を持って行こうとしたら凄い剣幕で止められて、なんかキッチンでごそごそしてから渡されたなぁ」

「なんか失敗でもして誤魔化したのかもね」

 

 顎に手を当て天井を見上げながら「そういえば」と思い出す伊吹に、ニシシとからかうように笑う園子。

 1人じーっと弁当箱を覗き込んでいた蘭が、何かに気がついたようにパッと笑顔を咲かせる。「そっか!」と両手を叩き、照れるように頬を染めて目を輝かせながら園子に何やら耳打ちをする。頷きながら聞いていた園子が改めて弁当箱を覗き込み、彼女も頬を染めて「そっか、そっか」と両手で頬を包んで気恥ずかしそうに笑う。

 

「ね、ね、絶対そうだよ!」

「よっ、色男っ、よかったわね!」

 

 女子2人が互いの手を取り合ってキャッキャと盛り上がる。1人状況が分からないまま頭に「?」を浮かべて腕を組んだまま首を傾げる伊吹。

 

「きっと哀ちゃんの気持ちがうんと込められたお弁当だよ」

 

 口元を手で隠しながら心底嬉しそうに伊吹に教える蘭。

 

「いや、おかずも別にこの前とそんな変わらないけど……」

 

 玉子焼きを端でつまみ上げながら困惑する伊吹に、「「鈍いなぁ」」と2人の声が重なった。

 午後の帝丹高校の教室では、傷だらけの超人が1人、頭を抱えていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 朝日が重い腰を上げるよりも早い時間。街は今日も朝靄の中に未だ眠っている。昨日と同じように新聞配達のバイクだけが住宅街を抜けていく。東の空が蒼い蒼い瑠璃色から徐々に白ずんだ水色へと染まっていく。

 眠たげな目をこすりながら灰原が阿笠宅のキッチンに立っていた。黒猫のプリントされた子供用のエプロンを身につけ、壊れてしまったあの携帯の画面を思い出すように顎に手を当てる。今日も今日とて眠気覚ましの濃いコーヒーからカフェインを摂取しつつ、調理を進めていく。

 一通り完成し、腰に手を当てドヤ顔で弁当を見つめる灰原。要領を得たのか、どうやら今日のは前回以上に自信作のようだ。その弁当に蓋をしようとしたとき、灰原の手がピタリと止まる。

 両手に持ったお弁当の蓋で口元を隠しつつ、斜め上を見つめる視線は何かを思いついてどうしようか悩んでいるようだ。振り返った彼女が冷蔵庫の中から取りだしたのは、鮮やかな桃色の桜でんぶだった。

 片手に持つ桜でんぶを振りながら半眼でそれを見つめる。なにをしようとしているのか、その顔も恥ずかしげに薄らと桜色に染まっている。

 

「…………」

 

 意を決したように桜でんぶをお弁当のご飯の上へと乗せていった灰原だったが、丁寧に形を整えてそれを乗せきったとき、いつものジト目でその弁当を見下ろしていた。

 そこには鮮やかな桜色のハートが、白米の上で輝いていた。

 この前の事件の時に腕にうんとよりをかけてなど言ってしまったから、つい浮かれてやってしまった。これはだめ、さすがにやり過ぎた。そう自問自答しながら1人恥ずかしくなり、思わず自身の顔を両手で覆ってしまう。

 つい気合いを入れてしまったと反省しながら、誰かに見られてはいないかと警戒する猫のように辺りをキョロキョロと見回して確認してしまう。

 

「……」

 

 彼女の震える手が弁当箱の蓋へと伸ばされる。緊張するように固唾を飲み込み、その蓋を閉めるか閉めまいかと逡巡する。

 

「うぅむ……、哀くん、今日も作っておったのか」

「はっ、博士っ!? え、えっと、お、起こしちゃったかしらっ!? ご、ごめんなさいね」

 

 物音に気がついた博士がベッドからのそのそと起きてきた。その声に慌てて弁当を隠すように蓋を閉めてしまった灰原。

 それから目を覚ましてしまった博士の手前、怪しまれないように冷蔵庫に片付けた弁当には触れることが出来なかった。そして灰原も慣れない早起きのせいでまどろみ、リビングのソファの上でうつろうつろ船を漕いでしまう。

 落ちそうになる意識の向こうで伊吹の声が聞こえたような気がした。

 

「じゃあ、行ってきます」

「っ!」

 

 玄関から聞こえた伊吹のその言葉に灰原の意識は唐突に覚醒した。慌ててソファから駆け下り玄関の彼を呼び止める。

 

「あ、起きた? 今日もお弁当ありがとう」

 

 彼がそう言って笑いながら手に持った保冷バッグを見せつけてくる。灰原は咄嗟にそのバッグを両手で引っ掴む。

 

「ええっ、なになに?」

「ちょっと待って」

「え、いやでも」

「いいから、ちょっと待ってなさい」

「はい……」

 

 目尻を吊り上げて顔赤く染めながら呼び止める彼女には有無を言わせない迫力があった。伊吹から弁当を奪うと彼女はキッチンへと駆け込み、博士に見られていないことを確認してから急いでそのお弁当に踊るハートの上に追加の桜でんぶをふりかけ、それを隠すように無理矢理大きな日の丸へと変えてしまった。

 

「……はい、持って行っていいわよ」

「う、うん。ありがとう」

 

 何が何だかと首を傾げる伊吹がそそくさと出て行く。朝から多大な疲労感を感じる灰原がぐったりと、リビングのソファに座り込んだ。

 

『――座の人の今日のラッキーアイテムは、ハートのお弁当! 愛する彼のために――』

 

 テレビから流れてくる今朝の占いコーナーに、人の苦労も知らずに今更なんだと、無性に腹が立つ灰原だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「はあ……」

 

 帝丹小学校の休み時間。灰原は眩しい陽光にその綺麗な瞳を細め、高い空を見上げながら今日何度目になるか分からない溜め息を吐く。朝から心がモヤモヤとして落ち着かない。

 

「哀ちゃん、どうしたの?」

「トイレがまんしてんのか?」

「違うわよ」

 

 子供たちの声もどこか上の空で、ぼんやりと考え事をしてしまう。

 もし、もしあのまま渡していたら、彼は喜んでくれたのだろうか。どんな反応をしたのだろうかと、想像が頭の中をぐるぐると止めどなく巡っていく。

 

「はぁ……」

「また溜め息ついてるね」

「どうしたんでしょうね、灰原さん」

「腹減って給食が待てねーんじゃねーの」

 

 明るい太陽の日射しの反射か、憂うような期待するような眼差しが瞳に浮かび、空をのんきに漂う雲を反射する。その雲に飄々とした彼の姿が重なって、汚れのない白い彼女の頬が少し、桜色に染まっていた。

 

「はぁ……」

「あ、また」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あ、それ俺と同じ機種だよ」

「あら、そうだったかしら」

 

 後日、あの事件で携帯が壊れてしまったため、新しい携帯を探しに来た灰原と付き添いの伊吹。彼女が「デザインが気に入った」と手に取ったのは伊吹が使用しているモデルの色違いだった。

 

「データは大丈夫?」

「携帯には大したデータは入れていなかったし、バックアップも取ってあるから大丈夫よ」

「そ、ならよかった」

「……あ」

「どしたの?」

「……残念なことといえば……一つだけ。……あなたとのメッセージのやりとりが見返せなくなったことかしら」

 

 連絡先のバックアップはとっていた灰原だったが、過去のメッセージのやりとりまでは保存していなかったらしい。

 

「それこそ、大したこと話してないから大丈夫でしょ」

 

 なんてことないように言う彼にどこか不満そうな、不服そうな目を向ける灰原。横目の半眼で彼を見上げる。

 

「わかってないのね。……大したことないから、大切なのよ」

 

 「ま、仕方ないわね」と新しい携帯を片手に先を歩いて行く灰原。彼女は時折、思い出したように、彼とのメッセージをのやりとりを見返していたらしい。

 「そういえば」と後ろからついて行く伊吹が何かを思い出したように報告する。

 

「ネットのお気に入り登録は引き継がれてるらしいよ」

「そう」

 

 彼女がチラリと振り返り伊吹の顔を覗いてから、確認するように自身の携帯を操作した

動物系のサイトやニュースサイト、BIG大阪関係のスポーツサイトと並んで一番新しくお気に入り登録したサイトが目に止まった。

 画面を傾けて伊吹にから覗かれないようにして振り向く灰原。彼の呑気な笑顔を見つめて、微かに染まる頬に気づかれないように再び前を向き直る。

 ちょっと呆れるように小さく笑った彼女がそっともう一度、画面を確認する。そこには白やピンクの配色が可愛らしい、いかにも女の子らしいサイトが表示されていた。

 

 

 

 

――『彼氏に褒められる! おいしいお弁当の作り方』――

 

 



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11話 きつねのお宿とアイの言葉 前編

『僕は君を、愛しているんだ!』

『私も……、私も愛してる!』

 

 阿笠宅のソファで寛ぎながら、昼食後のコーヒーを片手にドラマの再放送を鑑賞する伊吹。隣にはあくびをしながらファッション誌をめくる灰原の姿が。

 テレビから熱烈な愛の言葉が聞こえてくると、彼女はどこか鬱陶しそうにチラリとその半眼を画面へと向ける。

 

「安っぽい台詞ね」

「そう?」

 

 伊吹が高い天井を眺めながら何かを思い出すように「うーん」と唸った。

 

「こう⋯⋯、せき止められずに心から溢れ出した想いって、意外とシンプルなものなんじゃないの?」

「このドラマがそこまで深く考えられてるとは思えないけど」

 

 興味もなさげに手元の雑誌へと視線を戻す灰原が吐き捨てる。

 

「言葉は言霊。己の魂を削って言の葉に紡ぐものよ。使えば使うほど軽くなるし、()()()()なんて言葉はむやみやたらと言うものじゃないわ」

「哀くんは手厳しいのぉ」

 

 自身の分のコーヒーを片手に博士も椅子へと腰掛けるやいなや、灰原の辛辣な意見に思わず苦笑いが漏れる。

 

()()()()、ねぇ」

「……っ、は、博士、あんまりお砂糖入れ過ぎちゃだめよ」

 

 頬杖をついて独り言のようにポツリと零した伊吹の呟きを聞いて、なにやらハッとした灰原が慌てて話を逸らす。思わず「う、うむ」ときょとんとする博士を余所に、灰原は小さく咳払いをして雑誌へとパラパラとめくった。読んでいるのかいないのか、ページをめくる速度はいつもより早かった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 そんな話をしたのが先週の休日。

 

「よー、諸君。待ってたよ、入りたまえ入りたまえ」

「「おじゃましまーす!」」

 

 暖かく眩しい陽気が差し込む土曜日の午後、いつものように少年探偵団が阿笠宅を訪ねてきた。晴天の青空にも負けないほどに元気で明るい子供たちの声が阿笠邸の玄関口から聞こえてくる。

 子供たちを出迎えた伊吹はTシャツにスポーツジャージという極めてラフな格好をしている。リビングの方から漂ってくるコーヒーの香りからして、随分とくつろいでいたようだ。

 

「哀と博士がちょうど買い出しに行ってるところだよ。もうしばらくしたら帰ってくるかな」

「わーい! カレー楽しみ!」

「おかわり用にいっぱい買ってきてもらわねえとな!」

「元太くんはもう少し遠慮というものをですね」

 

 家主の博士と灰原は買い物へと出かけているらしく、伊吹は留守番をして子供たちを待っていた。博士の家では今夜、子供たちを集めておなじみのカレーパーティーが開催されるらしい。

 

「はい、ジュース」

「ありがとう、伊吹お兄さん」

 

 子供たちをリビングへと通し適当なソファへ座らせる。この家には飲み手のいない、子供たちのためだけに買い置かれているオレンジジュースをグラスに注ぎ彼らの前へと差し出す。

 伊吹も自身の飲みかけのコーヒーカップを手に向かいの椅子へと腰掛けると、嬉しそうに喉を鳴らす子供たちを微笑ましく見つめていた。

 

「あれ? コナンのヤツ、いねーじゃんかよ」

 

 一気にジュースを飲み干した元太が辺りをキョロキョロと見回して、そう言えばと声を上げる。

 

「コナンなら、小五郎さんの仕事について行くとかなんとか。夜のカレーパーティーまでにはこっちに来るってさ」

「なーんだ。コナンくんと哀ちゃんにも聞いてほしかったのになー」

 

 伊吹が思い出すようにそう告げると、歩美が少しつまらなさそうに唇を尖らせ足をぷらぷらと振っている。元太も光彦も何も聞いていなかったのか、不思議そうに彼女を見つめる。

 

「どうしたの?」

「うん、実は昨日の夜ね……」

 

 コーヒーを一口すすった伊吹が尋ねると、深刻な表情を浮かべて歩美が口を開いた。先程までの元気な明るい声とは対照的にその表情は暗く、何かを思い出すように足下に視線を泳がせる。

 

「歩美がお母さんと一緒にお外で晩ご飯を食べた帰りにね……」

 

 歩みが恐る恐る語り出したのは昨夜経験したという怪談話。幽霊の正体見たり枯れ尾花と言わんばかりに、その恐怖体験の真相をすぐに察した伊吹が種を明かそうとしたが、真剣に話す歩美とそれを聞いて顔を青くする元太と光彦の純粋な反応に、なにも言うまいと微笑ましく見つめるのだった。

 

「じゃあ次は伊吹お兄さんの番だよ!」

「うーん、そうだなぁ」

 

 いつの間にか灰原たちが買い出しから戻るまでの暇を怪談話で潰すことになった。光彦と元太も拙いながらそれぞれに怪談を披露した。最後は伊吹の番になったようで、子供たちのどこか期待しているような視線が集まる。

 

「じゃあ前に哀と京都へ行った時の話でも……」

「えー、ずるーい!あゆみも行きたい!」

「自分たちだけうまいもん食ってきたんじゃねえのか」

「ぼ、僕も灰原さんと京都に……」

「わかったわかった、今度みんなで行こう。話の腰を折るんじゃない」

 

 何杯目かになるコーヒーのカップをテーブルに置いて、伊吹が記憶を探るように阿笠邸の高い天井を眺めながら呟くと間髪入れずに子供たちが反応する。

 それをなだめながら伊吹が一度、咳払いをする。そして静かに重たく口を開き、足下のカーペットをぼんやりと見つめて一つ一つの出来事を思い出すように、ぽつりぽつりと語り出した。

 

「あれは、少し前の連休の日だった……。博士が発明の発表会だかで留守にするもんだから久しぶりに二人で出かけようって話になったんだ……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あなたとこうして二人で遠出するのは久しぶりね。いつもは博士や子供たちがいるもの」

「そういえばそうだっけ? 昔は海外にも行ったけどなぁ」

「あれは仕事でしょ」

 

 歴史と情緒を感じる風情ある街並みを眺めながら古道を散策し、古都・京都の趣ある雰囲気を楽しむ二人。旅行用の大きな荷物はロッカーにでも預けたのだろうか、身軽な様子で観光パンフレットをまじまじと見つめる灰原と、どこで買ったのかアイス最中(もなか)をパクつく伊吹。もう片手にはまた別の和菓子を携えている。

 

「あんまり甘いものばっかり食べちゃだめよ、糖尿病になっても知らないわよ」

「旅行なんだから旅先で美味しい物食べないと、今日くらいは特別だろ?」

「博士みたいにお腹、出るわよ……」

「まあまあ、ほれ」

 

 小さくなった最中をひょいと口に放り込むともう一つの包みを広げ、ジト目で釘を刺してくる灰原の口元に爪楊枝に刺した抹茶風味のわらび餅を差し出す。彼の手元と顔をいつもの半眼で何度か見つめた後、少しの間を置いてそれを受け入れる灰原。「悪くないわね」とそっぽを向いて観光マップに視線を戻す彼女だったが、その一言に込められた真意を伊吹は知っている。その澄ました顔の裏で、目には見えない尻尾がご機嫌に揺れているような気がした。

 

「それでどこに行くの?」

「そうね、まずは……」

 

 それからしばらくはガイドブックに記載された観光地を巡っていた二人だったが、灰原が人混みに疲れたようで観光地からは少し離れた竹林の木陰で休憩を挟むことにした。

 竹の葉が風に揺れる度にきらきらと煌めく木漏れ日が心地よく肌を温め、吹き抜ける緑の香りの風が鼻腔をくすぐれば、頭の中が洗い流されていくかのようにすっきりと冴えていくのを感じる。

 観光スポットから離れたそこは辺りに人影もなく、小さな石垣に腰掛ける灰原が瞳を閉じて深呼吸を繰り返す。耳に届くのは乾いた葉擦れの音のみで、その心地よい静謐に浸っていく。

 

「……こんなの、いつ振りかしら」

 

 頬杖をついて白い雲が堂々と漂っている白群(びゃくぐん)の空を見上げて呟く灰原。直に夕暮れに染まるであろう西の空には、既に僅かばかりの橙が差しつつあった。

 日頃の面倒なことや悩み事、頭の片隅に常に残る恐怖心と焦燥感が風に乗って霧散していくのを感じる。しばらくぼんやりとしていた彼女の視界に、遠くから戻ってくる伊吹の姿が見えた。

 

「ほい、お茶でよかった?」

「ええ、……ありがとう」

 

 疲れた彼女を休ませ少し遠くまで飲み物を買いに行っていたらしい。大きな通りから離れたここは周りに自動販売機も何も見当たらず、それなりの距離をなにも言わず買いに行ってくれた彼に、灰原も思わず口元が綻ぶ。

 

「稲荷大社はちょっと人が多かったな、時期的なのもあるのかね」

「ええ。でもあの鳥居の数は圧巻だったわね」

 

 二人が先程まで巡っていた観光地の話に花を咲かせていると、ペットボトルのお茶を煽るように飲む伊吹がなにかに気がついたようで、灰原の頭上の向こう側を指さす。

 

「ここも神社なんだ」

 

 灰原の腰掛ける石垣の横には緑色に苔むした古い石階段が森の奥に飲み込まれるように高く続いていた。その上の方に見える表面が剥がれ、くすんだ朱色の古めかしい木製の鳥居がかろうじてここが神社であることを示していた。

 周りを背の高い竹林に囲まれた山道は太陽が少し雲の向こうに隠れるだけで暗い影に覆われ、木々の間で冷やされた空気が汗ばんだ背筋を撫でるように吹き抜け、思わず身震いしてしまう。

 

「行ってみる?」

「……」

 

 伊吹の問いかけに少し訝しげな顔をした灰原だったが、もう階段に一歩足をかける彼に、「仕方ない」と言わんばかりに小さな溜め息を零して付いていくのだった。

 

「結構広いな」

「年季は入っているけれど、きちんと掃除はされてるのね」

「ああ、奥に人がいるみたいだし」

 

 急な階段を登り切った二人。入り口の細く長い階段からは想像していなかったが、そこは思いのほか広く、古くも立派な(やしろ)があった。その広場に置かれた石にはかすれながらも辛うじて稲荷と書かれていることだけは読み取れた。

 伊吹が指さす奥にはここの神主と思しき初老の男性が竹箒で参道を掃いていた。男性は伊吹達に気がつくと顔をほころばせ小さく会釈をするので、伊吹達もつられて頭を下げる。 興味深そうに辺りをキョロキョロと見回していた灰原が社の隣の社務所の前に並べられているなにかに気がついた。

 

「あれなに?」

「お守りって書いてるけど」

 

 伊吹の上着の裾を引っ張り問いかける灰原が指を差す。これもまたしばらく放置されていたであろう日に焼け色の変わったのぼりには「御守り」の文字が反転してはためいていた。

 なんとなく興味を引かれて様子を見に行くと、広げられた木製の台の上には御守りらしき物は見当たらない。売り切れかと辺りを見ていた伊吹に後ろから神主が声をかける。

 

「今はそこにあるだけですわい、御守りの数が少ないんじゃよ」

「え、御守りって……」

 

 声をかけられ振り返った伊吹だったが、神主の言葉に再び視線を台の方へと向ける。そこには所謂(いわゆる)、普段目にするような御守りは見当たらず、あるのは無造作に転がっているどんぐりだけだった。

 

「どんぐり、よね」

「どんぐり、だな」

 

 思わず独り言のように零してしまう灰原に、伊吹も小さく頷いた。

 

「昔はその御守りも、神様から直々に頂けたんじゃがのぉ。今では儂が裏にある、神社の敷地の森に拾いに行く有様ですわい」

「え、今拾ってくるって言ったよね」

 

 伊吹の声も聞こえていないのか、ふぉっふぉっふぉ、といかにもな笑い声を上げながら再びほうき片手に掃除へと戻っていく神主。

 

「大きくて立派で綺麗などんぐりを選んでるみたいだけど、これって詐欺?」

「神社の敷地に生えているどんぐりを神主が拾って売って、それを買って僅かばかりでも気持ちが晴れる人がいるんなら別にいいんじゃない」

 

 御守りのどんぐりを一粒摘まみ上げた伊吹がそれをまじまじと眺めながら問いかけると、灰原は少し呆れたように嘆息混じりにそう吐き捨て、既に興味をなくしたように腕を組んでまぶたを閉じる。

 

「どんぐりって、狸の神様かな」

「お稲荷様、狐ね」

「狐ってどんぐり好きなの?」

「さあ」

 

 そんなとりとめのない会話でもなんだか楽しくて、休憩がてらの覗き見のつもりがつい長居をしてしまったらしい。深い森の奥では背の高い木々が陽光を遮ってしまうため随分と日の入りが早く感じる。気がつくと太陽は既に頭上から姿を消し、辺りは薄ぼんやりと夕闇の影に染まりつつあった。

 

「……ん?」

 

 敷地内のベンチに腰掛け土と木々の緑の香りに深呼吸し、時折吹き抜けるそよ風に前髪を遊ばせる灰原。

 伊吹の方はと言うと、まるで子供のように辺りの散策をしている。すると境内の裏手に奥の森へ入っていく小道を発見した。神主が言ってた森か? と、ちょっとした好奇心で奥を覗いてみる。

 休んでいる灰原に一言声をかけてからその奥へ足を踏み入れた彼だったが、枯れ枝を踏みならしながらしばらく進んだところで、辺りが急に影に飲み込まれたかのように暗くなった。

 思わず脚を止め辺りを見渡す。ひんやりとするそよ風が背中を撫でていき、ぞくりとするような、どこか異質な空気が辺りを包んだような気がした。ただ先程よりも一層高い木が生い茂っており、その葉が日の光をほぼ完全に遮ったからだと伊吹の思考は巡るも、どこか周囲に纏わり付くような違和感は拭えなかった。

 彼の逡巡する思考を遮ったのは、なにかの震えるようなか細い鳴き声が聞こえてきたからだ。

 獣道のような細い小道から逸れた森の奥に、この薄ぼんやりとした木々の中であってもほんの微かに差し込む茜色の陽光に煌めく、銀とも純白ともとれる美しい毛皮の狐を見つけた。しかしその後ろ左足の白銀は痛々しい赤に染まり、狩猟用の罠が骨身に食い込むように狐の脚を捕らえていた。

 

「おいおい、大丈夫か? 外してやるから待ってろ」

「……」

 

 伊吹が思わず駆け寄ると、狐は怯えた様子も逃げる様子も見せない。それはまるで伊吹には危害を加える気がないことを察しているかのようだった。

 伊吹がその罠に手をかけると、金属のひしゃげる音と共に()()()()金属片は粉々に分解され使い物にならなくなった。

 脚を解放された狐の傷は思いのほか深くはないようだ。しかしその小さな体には傷が痛むのか、震える脚でなんとか立とうとするもその場に倒れ伏してしまう。

 

「待て待て待て」

 

 伊吹が慌てたように狐をそっと抱き寄せ、その傷口を調べる。いくら綺麗でも野生の狐と言うこともあり、噛みつかれたりしないように細心の注意を払っていた伊吹だったが、そんな心配などどこ吹く風で狐は大人しく治療を受ける。まるで手当てしてくれていることを理解しているかのようだ。

 伊吹が飲みかけだったペットボトルの水で傷口を洗い流し、近くの野草から少しでも効果のある薬草を見繕いそれを傷口に処方する。骨の様子から骨折はしていないようだが、念のため添え木をして自身のハンカチで縛り上げる。

 

「よく見ると美人さんな狐だなぁ。毛は、アルビノか?」

 

 通常の野生動物ならば怪我をしていても罠を外した瞬間になんとしてでも逃げようとするだろうに、大人しくお利口に治療を受けていた狐の頭を「偉い偉い」と撫でる伊吹。狐もその大きく暖かい掌が気持ちよいのか抵抗する様子はない。

 狐と向かい合うようにあぐらをかく伊吹に対し、狐もまた澄まし顔で伊吹の前に座り込んでいる。

 

「ちょっと、――、どこまで行ってるの、――?」

 

 改めて一際目を引く狐のその美しい毛並みを眺めていると、後ろの方から少し不機嫌そうな灰原の呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「おっと、悪いね連れが待ってるんだ。もう罠にかかるなよ?」

 

 そう言ってもう一度狐の頭をなで回した伊吹が手を振って別れを告げる。分かっているのかいないのか、狐はそこに座り込んだまま伊吹の背中が遠のいていくのを見送っていた。

 彼がいなくなると狐は自身の手当てされた脚を眺め、尻尾を小さく振っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そういえば夕方の神社、あの奥に狐がいてさ」

「狐?」

 

 二人が宿に着いたのは日も沈みきってからの事だった。ホテルではなく純和風の旅館を選んだのはせっかくの京都だからだろうか。決して安そうには見えないその館内は老舗ながらも綺麗にリニューアルされていた。

 「未成年だけでも宿泊できるのね」と灰原がいつものジト目で伊吹を横目に見上げ少し意地悪そうに小声で呟く。受付で従業員と話をしていた伊吹がどこかバツが悪そうに「まあ、やりようはある」と苦笑いを浮かべる。

 彼がどんな手を使ったのか、あるいはその容姿から未成年と思われなかったのか、それを聞くことはせず、灰原は肩をすくめてやれやれと笑みを零すのみだった。

 客間で荷を下ろした灰原が持ってきた旅行鞄の中を漁って必要な物を取り出す。彼女が家から持ってきたお気に入りのシャンプーとトリートメントを取り出すと、座椅子に座り込んでだらけていた伊吹が、リモコン片手にテレビをザッピングしながら夕暮れのことを思い出す。

 

「アルビノかな。綺麗な白銀色の毛並みの狐だよ」

「アルビノなら毛並みは白のはずよ」

「白というより、銀混じりに輝くような……。あの神社の神様かも」

「アルビノは昔から神の遣いとされてたりするわ」

 

 灰原は対して興味もなさそうに荷物を整理しながら適当に答える。

 

「毛皮とか高く売れるんだろな」

「……」

 

 伊吹の呟きに振り替えった灰原が呆れたように少し不機嫌そうな視線を向ける。それに気がついた伊吹が慌てて両手を振った。

 

「違う違う。そうじゃなくて、その狐が狩猟用の罠にかかってたんだよ」

「大丈夫だったの?」

「まあ応急処置はしたし、傷もたいしたことなかったから大丈夫だと思うけど」

「そう。ならいいけど」

「でもあんな所で狩りなんてな……」

 

 そんな話をしながらニュースをぼんやり眺めていた伊吹がふっと灰原へと視線を向けると、彼女はクローゼットから当旅館の浴衣を取り出してサイズを吟味してる。

 

「温泉、行きましょ」

 

 Sサイズの女性用浴衣を体の前にあてがいながら、上機嫌に小さく微笑む彼女がそう提案した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「Sサイズでもかなり大きかったな。やっぱり子供用でないと」

「…………」

「なにふてくされてんのさ。女の子用の浴衣可愛かったじゃん、ピンクの花柄でさ」

「……屈辱だわ」

 

 翌日には宿を後にした伊吹と灰原。二人分の荷物を担ぐ伊吹が、不機嫌そうに腕を組みながら隣を歩く灰原へと笑いかける。その()()()()は彼女が望んでいるものとは毛色が違ったようで、どこか拗ねたようにそっぽを向いて伊吹とは反対の方へと視線を向ける。

 

「よしよし、お菓子食べるか?」

「……子供扱いしないでくれる?」

 

 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながらからかうように、先程購入したみたらし団子を差し出す伊吹。そんな彼にジト目の半眼をチラリと向けた彼女の眉がピクリと動き、頬もむくれているように見える。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「いつになったら怖い話になるんだよっ!」

「先程から灰原さんとの旅行記ばかりで羨ま、じゃなくて、全然関係ない話じゃないですか!」

「いいなー、歩美も京都行きたーい」

「こらこら、話の腰を折るんじゃない。どんな話にも前振りはあるもんだ。細かく聞いた方が想像できるだろ?」

 

 しっとりと丁寧に語る伊吹の話に痺れを切らした子供達が抗議の声を上げる。しょうがないなと冷蔵庫からおかわりのジュースを持ってきた伊吹がそれを空のグラスへと注ぐ。

 子供たちをお菓子とジュースで大人しくさせると、伊吹は再び口を開いた。雰囲気作りのために遮光カーテンの引かれた室内は日の光が遮られ、青空の広がる朝とは思えないほど暗く影に沈み込む。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あれ、萩原君に哀ちゃん、なんでこんなところに?」

 

 次はどこに行こうかとしゃがみ込んだ伊吹が広げる観光案内を覗き込む灰原。そんな二人の後ろから聞き慣れた声がかけられた。

 そこにはよく見慣れた女子高生におじさんと小学生男子、コナンご一行の姿があった。いつもと違うとすれば、そこに珍しい二人組が。

 

「なんや、萩原やんけ。こんなところでなにしとんのや」

「あ、哀ちゃんやん、久しぶりやねー」

 

 西の高校生探偵こと服部平次とその幼馴染みである遠山和葉である。彼らの姿を見るやいなや、灰原は困ったように少しの溜め息を零した。

 

「こっちは観光だけど、みんなこそ勢揃いでどうしたの?」

「俺達はちょっと事件の調査でな」

「さっき解決したとこや。ほんでこれから依頼主が解決のお礼に紹介してくれた旅館でええ飯食って、温泉でも入ってゆっくり疲れでも癒やそか言うてたところや」

 

 伊吹が不思議そうに尋ねると小五郎と服部が答える。よほどいい依頼料が貰えたのか、それとも上等な旅館へと招待されているのか、自慢げに襟元を正す小五郎。すると蘭がそうだと手を叩き「よかったら二人も来ない?」と提案する。和葉もその誘いに「ええな!」と同調し、気分の良くなっている小五郎も気が大きくなっているのか、二人の参加をがははと笑って快諾する。

 

「どうする? 特に予定も決めてないし、今日帰る予定だったけど」

「……」

 

 いつものように腕を組んだまま肩をすくめる灰原。その仕草が「どっちでも」という意味だと知っている伊吹は、「じゃあせっかくなら」とその高級旅館とやらへ同行することにした。

 

「おめー、よかったのか……?」

「別に。彼の言うとおり今日帰る予定だったし、もう少し無料(タダ)でこの京の都を楽しめるなら構わないわ」

 

 こっそりと灰原へ声をかけるコナン。小旅行をもう少し続けられることに対しては素直に喜んでいるようだったが、そこはかとなくご機嫌が斜めに見えるのは、伊吹と二人だけだった空間に割って入ってこられたからだろうか。

 ――彼も少しくらいは自分と同じ気持ちにはなっていないのか――と、いつにも増してジト目で伊吹を見つめる灰原。気にした様子もなく、いつものように愛想良く蘭や和葉と会話する伊吹の姿に溜め息が零れた。

 

「その旅館、浴衣はあるの?」

「そりゃ旅館だから、あるんじゃねーか」

「そう……」

 

 なにを聞いているんだときょとんとするコナンを尻目に、灰原は何やらリベンジに燃えているかのようだった。

 

「でもその旅館に行く前に買い物に行きたいわ」

「買い物ってなに買うの?」

 

 そうだと思い出したように希望を出す灰原。伊吹の疑問にどこか呆れたような視線を送る。

 

「着替えよ。今日帰る予定だったから替えが無いのよ。荷物少なくしたかったから予備もないし」

「別にちょっとくらい同じの着たって」

「嫌よ」

 

 伊吹の発案にぴしゃりと断りを入れる灰原。「下着なんざちょっと換えなくたって」と続ける伊吹の太ももを軽くつねったとき、唐突に後方から男の怒号が聞こえてきた。

 

「どけーッ! 邪魔じゃーッ!!」

 

 ざわつく観光客たちが徐々に慌ただしく動きだし左右に分かれるように道を作ると、その向こうから鞄を小脇に抱えた男が駆けてきた。その右手に握られた文化包丁に周りの人々も避けることしかできない。引ったくりや泥棒など、怪しい言葉が後方の人混みから聞こえてくる辺り、この男が盗みを働いて逃走中なのは火を見るより明らかだった。

 男は真っ直ぐに伊吹達一同の方へと走ってくる。その男の、自棄(やけ)になったように刃物を振り回す姿を見て伊吹が少し呆れたように息を吐く。

 

「どけッ、どけってッ……!」

 

 仕方ないと拳を握りしめる伊吹だったが、刃物を突き出しても微動だにしないその姿に臆した男が思わず脚を止める。その場で足踏みする男は自身を取り囲む観光客達の視線に晒され思わず頭に血が上っていく。血走った目で辺りをキョロキョロと見回した犯人はとっさに人質を取ろうと近くにいた女性の腕を掴み引き寄せた。

 

「道開けろやッ! この女の首かっ切んぞッ!!」

「いや、それはやめといた方が……」

 

 男が女性の首元に刃物を突きつける。それを見たコナンが思わず人質ではなく犯人の方を心配するように声をかけてしまう。

 

「ふぅー……、はあッ!」

「え? ぐへぇッ……!」

 

 犯人が引き寄せたのは蘭の腕だったようで、彼女の肘鉄砲を腹部にもろに受けてしまう。一瞬呼吸が止まってしまうような痛烈な一撃によろめきながら後退する犯人だったが、性懲りも無く今度はチラリと横目に捕らえた別の女性を引き寄せる。

 

「くっそッ、なんなんだよッ……!」

「いや、そっちもやめといた方がええんちゃうか……」

「えぇいッ!」

「あん?……んァッ!」

 

 今度は服部の哀れみを含んだ声がかけられるも、犯人がそれを理解するよりも早く視界の上下が反転する。引っ掴んだのは和葉の腕で、自身が力を込めたかと思うと不意の脱力感と浮遊感が犯人を包んでいた。

 鞄などとうに投げ捨てられ、刃物片手に倒れ込んだ犯人が呻き声と共に起き上がる。ぐらつく脳と視界を鎮めるように何度か叩くと、目の前に一人の少女を見つけた。

 

「くそッ、くっそッ!! あーッ、どけッ! 道開けろっつてんだよッ!」

 

 最早盗みなどどうでもいい、この訳の分からない状況から無事逃げ出したいと切に願いながら犯人はその少女を担ぎ上げ包丁をかざす。

 

「「あ、いや、それ最悪……」」

 

 男の最悪手に三度、コナンと服部の呆れたような哀れむような声が重なった。犯人が担ぎ上げた少女、もとい灰原もその顔に怯えた様子は一切無く、それどころか憐憫の表情で犯人の顔を見上げていた。

 

「おい」

 

 耳にした者の腹の底を内臓から震わせるような、静かに煮えたぎるマグマを思わせる憤怒の込められた声。

 

「一度だけの警告だ。……その手を離せ」

 

 犯人の後ろにいた伊吹の眼光が鋭く鈍い光をたたえ、ぽんとその大きな左手を犯人の右肩に置く。

 肩に手を置かれただけなのに、まるで銃口でも突きつけられたかのように犯人は体が硬直してしまう。壊れたブリキ人形のようにギギギと首を軋ませながら後ろの青年を見るや、脳の奥に微かに残る野生の本能が抵抗することを拒否しているかのように、震える手足から力が抜けていく。無意識のうちにその手に握られた刃物と少女を解放した。

 

「はい…………、すみません……」

 

 漏らしそうになる下半身を締め上げて、そう絞り出すのが精一杯だった。

 

「はいはい、一体どないしたんです、この騒ぎは」

 

 一連の騒動にざわつく野次馬の向こうから聞き覚えのある甘ったるい男性の声が聞こえてきた。引き締まった細身の体躯に野次馬から頭一つ飛び出す身長、撫でつけられたオールバックの髪型に整えられた小ぶりな眉毛。京都府警捜査第一課の切れ者、綾小路文麿警部だ。

 

「あれ? 毛利はん?」

 

 以前京都で起きた事件に際し小五郎とは面識のあった綾小路警部は、珍しいものを見るように一同へと声をかけた。

 

「誰?」

「綾小路、だったかしら。京都府警一課の警部さんよ」

 

 腰を落とし、こっそりと灰原に耳打ちで尋ねる伊吹。彼女はこそばゆそうに耳を払った。

 

「ああ、綾小路警部、偶然ですね。丁度よかった、今引ったくりを捕まえたところで――――」

 

 小五郎が事情を説明すると綾小路警部は部下に指示を出し、手際よく犯人の連行と周囲の野次馬の解消を取り仕切る。

 駆けつけたパトカーに犯人が乗せられ連れて行かれると、取り囲んでいた人々も次第に散っていった。

 

「ところで、綾小路警部はこんなところで何してるの?」

 

 騒ぎが一段落したところでコナンが背の高い綾小路警部を見上げながら尋ねた。そういえばと小五郎達も視線で問いかける。

 

「ええ、まあ、仕事です。ちょっと事件の調査をしとりまして」

「いったいどんな事件で?」

「それは言えまへんよ、毛利はん」

 

 綾小路は困ったように苦笑いを浮かべて小五郎の問いかけを流そうとするも、事件と推理が三度の飯より好きな二人組は逃がそうとしない。

 

「ここであったのもなんかの縁やで、警部はん。せっかくなんやから天下の名探偵毛利小五郎の意見でも聞いてったらどうや?」

「そうそう、おじさんが聞いたらすぐに解決できちゃうかも」

 

 小五郎の名を餌に事件の概要を聞き出そうとするコナンと服部。「そ、そうだな」と満更でもない小五郎は意気揚々とネクタイを締め直す。

 そんな彼らの視線に耐えかねた綾小路警部はどこか諦めたように溜め息を一つ吐くと、ジャケットの内ポケットから取り出した手帳をめくっていく。お目当てのページで手を止めると渋々と言った具合に事件のあらましを説明し始めた。

 

「リスだ」

「……リス、ね」

「ほら、リスだよあれ」

「わかってるわよ」

「いや、なんでみんなスルーなの? 刑事がリス連れて捜査中だよ? ねえ」

 

 手帳の中身を確認する綾小路警部の胸ポケットからひょっこりと顔を覗かせるシマリス。他のみんなはその存在を知っているのか驚く様子はなかったが、初見の伊吹は驚いたように灰原の頭をぺしぺしと叩きながら興奮気味に伝える。

 灰原も初めて見たのか少し驚いたようにしながらも、「変な刑事が多いわね」と言わんばかりに呆れたような視線を向ける。

 

「やめて」

 

 頭をはたく伊吹の手を鬱陶しそうに払って、事件の話にも興味なさそうに携帯を取り出す彼女に伊吹は一人、未だシマリスの驚きを隠せないでいた。

 

「そういうわけで、最近ここらで問題になっとる密猟犯を追っとる訳です」

「せやけどなんで密猟を一課の綾小路警部が捜査しとんのや?」

 

 事件のあらましを聞いた服部が何の気なしに尋ねると、綾小路警部は困ったように眉尻を下げ頬を掻く。そっと小五郎や服部へと口元を近づけ内緒だと言わんばかりに手を口元にあてがい囁くように口を開く。

 

「実は……猟銃で殺されたと思われる遺体があがっとります」

「なるほど、それで綾小路警部が……」

「はい。遺体の身元は――――」

 

 このまま事件の話を続ければ服部たちがしばらくここを離れそうもないのは火を見るよりも明らかだった。

 綾小路警部が「まあ、こんなところです」とひとしきり説明し終わり話を区切ったタイミングで、服部が「そんなら」と意見交換を始める前に和葉が間に割って入った。

 

「事件のことはよーわかったな! ほなあとは警部はんらに任せてウチらは早く宿行くで! ほらほら、はよせな日ぃ暮れてまうで!」

「ちょ、待たんかコラ、話はまだ終わっとらんで」

「でも実際、まだ警部さん達もなにも掴めていないみたいだし、情報も無いんだから名探偵たちの出番はまだちょっと先じゃない」

 

 早く行こうと背中をぐいぐいと押してくる和葉に不平の視線を送る服部だったが、聞いていないようで何となく話を聞いていた伊吹のポツリと零した言葉に、頭を掻きながら諦めたように嘆息する。どこか不満げなその視線は未だ事件の話を諦められないようだった。

 

 

 

*****

 

 

 

 

「しっかしおっちゃん、今時ナビも付いてないような車よう借りてきたもんやで!」

「ほんま、逆に凄いわ」

「うっせえ! 人ができるだけ安い金で見繕ってきた車だってのによ」

 

 鬱蒼と茂る森の奥深くに、一同を乗せたワゴン車の姿があった。小五郎が安金でレンタルしてきたその車は値段相応なようで、外装には補修されていない傷が目立ち、カーナビも付属していないらしい。座り心地の悪い硬い椅子はタイヤが小石に乗り上げる度に少女達の柔いお尻を容赦なく叩きつける。

 深い竹林の間を縫うように奥深くまで伸びる道路は舗装されておらず、車幅ギリギリの道幅はハンドル操作を誤れば深い谷に転がり落ちてしまいそうだ。

 

「しかもここ、携帯も圏外になっちゃうみたいだよ」

「ちょっと、どうするのよお父さん! 携帯があればナビなんか要らないって言ったのお父さんでしょ!」

「わわっ、バカっ、今慎重に運転してんだ!」

 

 助手席のコナンが携帯の画面を叩いた後に、半ば呆れながら報告する。蘭も焦るように後部座席から身を乗り出して運転する小五郎へと詰め寄る。

 

「……最悪ね」

「まあまあ、空気は綺麗だし、いいところだよ」

 

 最早引き返すことも容易ではない細道を一同が進んでいくと少し開けた場所へと出た。そこで一度車を止め休憩及び作戦会議を行うらしい。

 最後部座席に座っていた灰原と伊吹も気分転換に車外へと降り立ち伸びをしながら大きく深呼吸する。

 かなりの時間道に迷っていたようで、日は既に傾きはじめていた。それでも街ではまだ明るい時間だろうが、この背の高い竹林に囲われた森の中ではあっという間に日の光は届かなくなり、冷やされた空気がぞくりと背筋を撫でていく。辺りには不気味な影と静謐が広がり、僅かな笹の乾いた葉擦れの音のみが聞こえてくる。

 

「そうね、素敵な自然だわ。でもそれを楽しめるのは文明の利器が通用する間のみよ」

 

 伊吹の呑気な言葉に辛辣な言葉を返しながら灰原はしばらく携帯と睨めっこしていたが、やはり電波は届かないのか諦めたようにため息を吐いてそれをポケットへと押し込む。

 小五郎は車のドアへと寄りかかり懐から取り出したタバコを吸いながら一服する。服部とコナンはどうしたものかと辺りを散策しながら頭を抱え、蘭と和葉は森の雰囲気に尻込みしてしまい、お互いに手を取り合って車の中から出てこようとはしない。

 みるみるうちに竹林は影に覆われ、太陽は山の向こうへと姿を消そうとしている。竹林の細い隙間から見えたのは、血のように鮮明な赤い色をたたえた太陽の残滓だった。

 

「……ん?」

 

 ()()に真っ先に気がついたのは伊吹のようで、目を細め眉間に皺を寄せて竹林の奥を睨み付ける。

 

「あれ、なんか灯りが見えない?」

 

 伊吹が訝しげにそんなことを呟いて竹林の奥を指さすと、釣られるように一同の視線もその奥へと集まる。

 先程までは気がつかなかったが、辺りが暗い影に沈めば沈むほどにその灯りはハッキリと存在を主張してくる。細い竹林の狭間からほのかに、しかし確かに、夕日とは異なる暖かな赤みを帯びた提灯のようなものが見える気がした。

 伊吹が一同へと振り返る。皆も顔を見合わせた後、宛てもない現状では行ってみるしかないと思ったようで誰からともなく重たい足取りでその灯りの方へと竹林を進んでいった。

 

「……宿?」

 

 鬱蒼と茂る竹林をかき分けながら先頭を歩いていた伊吹の視界に飛び込んできたのは、辺りの深い山々や森からは想像もつかないほど綺麗に開けた場所。明らかに人の手によって作られたその空間のど真ん中には思わず見上げてしまうほどに大きな和風建築の建物が存在した。

 伊吹が思わず口にしたのは、その建物の門にこれまた年季の入った木製の板に厳かな文字で『月灯庵』と書かれた看板が見えたからだ。

 

「こんなところに、宿?」

「旅館やろか……?」

 

 後ろの方に控えていた蘭と和葉は辺りを警戒し未だ怯えた様子。コナンと服部が周囲を見回し人がいないか確認する。

 

「おいおい、もしかしてここか? 依頼人が紹介してくれた旅館ってのは」

「まあ、提灯が灯っているし、一応営業中なのかな?」

 

 黄昏時の空を背に佇むその宿は、門前に吊された提灯こそ灯っているものの建物自体に光はなく人の気配もしない。暗闇の中にぼーっと突っ立ているかのように佇む宿は異様な存在感を放ち、得も言われぬ不気味さを醸し出していた。

 小五郎はげんなりとした表情でがっくりと肩を落としうなだれてしまう。

 伊吹が中の様子を窺おうと門へと近づく。灰原も何度か当たりを見回しながら伊吹の後へと付いていく。

 伊吹が建物の敷地内には足を踏み込まないように、お辞儀をするように頭だけ門をくぐらせ中を覗こうとしたその時だった。急に辺り一帯が明るい光に包まれる。

 

「ッ!!」

「きゃっ……」

 

 その周囲の異変に反応した伊吹が咄嗟に、自身の足下にいた灰原を小脇に抱えて飛び退く。門からある程度の距離を取ってから彼女をそっと下ろし、片膝で立つ自身の背に灰原を隠す。

 その光の正体は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、宿の門から周囲へと広がるように順番に、辺り一帯の提灯や灯籠に火が灯ったからだ。

 ぽんぽんと未だ周囲に広がり灯っていく。それは暗闇に沈む廃墟のような宿を暖かい橙色に染めあげ、周囲の竹林にも所々に石灯籠が灯っていきぼんやりと森の中を照らしていく。不気味だった一帯の雰囲気は一瞬でかき消され、どこか儚げな幻想的な空気へと染め上げていく。

 計ったかのようなそのタイミングはまるで彼らの到着を待っていたかのようだ。

 

「な、なんなん? 急に明るなったで?」

「と言うか、こ、こんなに提灯とか灯籠なんてあったっけ?」

 

 和葉と蘭がお互いの両手を合わせて握り合う。周囲の明るさに幾分か恐怖心は和らいだようだ。小五郎がチラリと腕時計を確認する。

 

「時間を指定して自動で点灯されるようにしてたんだろうよ、ちょうど今六時だ」

「灯籠は暗くて見えてへんかっただけとちゃうか」

「なんだよ営業時間外だったのか」

「いや、飯屋ちゃうんやで。旅館が夜六時からしかやってないなんて聞いたことないっちゅうねん」

 

 小五郎と服部がそんなことを話ながらコナンを連れて特に気にした様子もなく宿に入ろうと門をくぐっていく。この得体の知れない宿に入ることより、この場に取り残される方が怖かったのか、蘭と和葉も慌てて彼らの後を追いかけた。

 

「どうしたの?」

「え? ああ、いや。……なんでもない」

 

 なぜかその鋭い眼光を宿の方ではなく竹林の方へと向けていた伊吹に、灰原も警戒した様子で、少し心配そうに声をかける。

 彼女の声にハッとした伊吹が安心させるように微笑んで頭を撫でる。納得してなさそうな灰原の手を取って二人もまた宿の中へと消えていった。

 

 

 



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11話 きつねのお宿とアイの言葉 中編

「ようこそ、月灯庵へ。当旅館は芳醇な山菜に新鮮な川魚、森の豊かな食材で彩られた美味しいご飯。暖かい源泉を贅沢に貸し切った大自然の露天風呂、上質なふかふかの布団、都会の喧騒とは無縁の静謐に川のせせらぎ、竹林の緑の香りに包まれて、心ゆくまでお寛ぎいただけます』

 

 一同が厳かな門をくぐり舗装された石畳を歩いて行くと、宿の入り口に人影が見えた。足下から見上げる宿は外から眺めるよりも一際大きく感じた。

 入り口に立っていた人影は着物を着た女性の姿だった。落ち着いた濃紺の地に鮮やかな花が美しい上品な着物を身に纏い、一同を迎え入れるかのように丁寧にお辞儀をする。

 肩口で切りそろえられた艶やかな黒髪は吊り下げられた提灯の明かりを反射しほのかに橙に染まる。大きくも細く切れ長の瞳は小さな輝きを湛え、目が合えば吸い込まれそうなほど妖艶で絡みつくような深い墨黒をしている。

 口角はそっとつり上がり、常に笑顔を絶やさない口元は楚々なれどどこか怪しく、肌は東の空から薄らと顔を覗かせはじめた月明かりにも透けそうなほど白く滑らか。

 控えめなその胸元は着物をより映えさせ、それに対して大きく突き出された臀部は男心をくすぐるように扇情的で艶かしい。

 年の頃は二十の後半か三十の前半か、潔癖な清純さの中に得も言われぬ色香が醸し出されている。

 

『…………』

 

 和の美を人の形に押し込めたようなその艶のある美しさに、男性陣も開いた口が塞がらないようで、微かに頬を朱に染め思わず見とれてしまう。

 

「ゴホンッ……!」

「……ハッ!」

 

 灰原の咳払いはまるで男性陣を取り巻く空気を吹き払うかのよう。伊吹を筆頭に我に返った男性陣がハッとして女性陣へと振り返る。伊吹に至っては声に出してしまったようだ。

 

「…………」

 

 女性陣の突き刺すようなジトッとした視線が男達を貫く。

 

「あ、いや、客じゃないんだ。道に迷ってしまいまして、ちょっと教えていただけませんか」

 

 蘭からの視線に耐えかねた小五郎が父親の威厳を取り戻すべく真面目に話を切り出す。女将と思しき女性と小五郎が何度か会話を重ねると女将は困ったように頬に手を添え眉尻を垂らした。

 

「あら、困りましたなぁ。ここいらには他に宿なんかあらへんし、今から戻るにも大きな通りに出る頃にはもうとっくに夜も更けてしまいますえ」

 

 小五郎と女将の会話を余所に、服部は隣のコナンと伊吹にポツリと声を漏らす。

 

「にしてもえらいべっぴんやなぁ」

「あぁ……」

「確かに……」

 

 言い知れぬ女将の色香に当てられたように半ば無意識に同意の声を上げてしまう伊吹とコナン。彼らの小さな呟きも聞き漏らさなかった和葉と灰原の視線が研ぎ澄まされる。

 

「なんか怪しない? この旅館」

「ええ、すごく怪しいわ」

 

 目尻を吊り上げ不満を隠そうともせず、和葉が訝しげな表情で蘭と灰原に同意を求めると、間髪入れずに肯定する灰原。彼女らのあからさまな態度に蘭も思わず苦笑いを浮かべる。

 

「ほなお前、野宿でもするか?」

「ええ、そんなん嫌や」

「それともこの人数で車中泊?」

「……最悪ね……」

 

 「文句あんのかい」とでも言いたげな視線で和葉に問いかける服部と、わざとらしく「困ったなぁ」と顎に手を添えながら提案する伊吹。額に手を突き溜め息を零す灰原の言葉がむなしく虚空へと吸い込まれていった。

 

「えっと、女将さん、この辺に宿はないって言いましたよね?」

「ええ、ここらにはこの月灯庵しかありまへんで」

 

 小五郎がなにかピンときたように指を鳴らし女将へ尋ねると、どこか照れくさそうに確認を取る。

 

「あのー、もしかして、芦名さんの紹介してもらった宿ってここでしょうか?」

「芦名?」

「今回の依頼人の名前や」

 

 聞き慣れない名前の登場にぼそりと確認をとる伊吹。

 

「……あ……ええ、はい。そうです、アシナ様からお話は聞いとります。えっと、確かお名前は……」

「毛利です! 天下の名探偵、毛利小五郎と申します! いやー、よかった! 実はこの宿を探して道に迷ってしまいまして」

 

 頭に手を添え「たはは」と安心したように高笑う小五郎。「それはよかった」と、口元を手で隠し上品にくすくすと微笑む女将の細い切れ長の瞳が、薄らと妖しい光を孕んだような気がした。

 

「毛利、小五郎様ですね。えっと……、はい、確かに毛利様()()()で承っとります」

「……」

「どうぞ中の方へ、足下お気をつけて」

 

 よかったよかったと脳天気に笑う小五郎を連れて宿の中へと案内していく女将。その後ろ姿を鋭い視線で見送る伊吹とコナンと服部。

 

「聞いたか? 今の」

「ああ」

「確かに、七名様って言ったね」

「なんや、それがどないしたん?」

 

 男性陣の会話を聞いていた和葉が後ろから疑問の声を上げる。どこか呆れたような表情で頭だけ振り返る服部。

 

「アホ、俺達はおっちゃんらと俺らの五人で事件を解決して、その宿っていうのを紹介してもろてんで」

「なのに、あの女将さんは確かに今七名様で話を聞いてるって言ったね」

「ボクたちが伊吹兄ちゃんと灰原と合流したのは事件解決の後な訳だから、そこから依頼主に連絡もしていなかったのにどうして女将さんはボクたちが七人だって知ってたのかな」

 

 服部の言葉に伊吹とコナンが続く。話を聞き不安げに顔色を変えていく和葉と蘭。腕を組んだ灰原が目を閉じていつものようにそっと続けた。

 

「つまり、この宿は例の招待された宿なんかじゃなくて、怪しさ満点の別の建物って訳ね」

「ええっ、ど、どうするん平次?」

「どっちにしろ俺らに宿が無いんは事実や。泊めてもらうしかないやろ」

 

 平然と答えると服部は荷物を担いで宿の中へと向かう。蘭と和葉が不安そうにお互いを見つめ、言外に「どうする?」と確認をとっているようだ。

 

「それに、なんかあってもまあ大丈夫やろ。こっちにはごっつい用心棒もおるんやから。なあ?」

「え、俺?」

 

 からかうようにニヤリと笑い伊吹へと視線を向ける服部。すると和葉が眉間に皺を寄せ不安を押し殺すように怖い顔を浮かべながら伊吹へと詰め寄りその両手を取る。

 

「ほんまやっ、伊吹君がおるやん! これなら百人力や、なんかあったら頼んだで!」

「え、ああ、うん。大丈夫だと思うけど。あの女将さんからは敵意というより、むしろ……」

 

 和葉に手を取られたまま真剣な眼差しで女将の消えていった宿の入り口を見やる伊吹。すると先に行っていた服部がずかずかと戻ってきて伊吹の肩を組むと強引に和葉から引き離した。

 伊吹の後ろに控えていた灰原もそっと二人の間に割って入る。

 

「お前、ちょーっと図体デカいからってあんまり調子に乗るなよ」

「なんなんだよ、お前が振ってきたんだろ」

「ほんと、あんまり調子に乗らないことね」

「だから、なんなんだよ」

 

 二人のどこか鋭い視線に辟易しながらも、伊吹は先程感じた女将の雰囲気について一人考察していた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『ようこそ、月灯庵へおこしやす』

 

 石畳をとんとんと渡り赤い提灯の横を過ぎ、古くさくもどこか厳かな老舗宿の中へと入ると、複数人の従業員が彼らを招き入れた。

 女性従業員はみな先程の若女将に引けを取らない麗しい容姿に涼しげな切れ長の瞳。男性従業員も皆一様に人目を引く端整な容姿をしている。

 宿の内装は外観と相違なく、創業何百年という時の流れを感じさせるような作りながらも汚れやガタは見て取れない。

 

「お部屋の方にご案内させて頂きます、こちらへ」

 

 すかさず従業員が荷物を持ち、女将の先導で客室へと案内されていく。

 柔和な笑みを浮かべる従業員達。落ち着いた雰囲気ながらも絢爛な内装はどこか怪しく、通路に灯る蝋燭はまるで生き物のように辺りにゆらゆらとうごめく影を投影する。

 「柳の間」「楓の間」と書かれた戸の前で女将がその白くしなやかな指先をそろえて部屋を指した。

 

「大所帯ですので二部屋ご用意させていただきます。内装は変わりまへん、部屋割りの方はどうぞご自由に」

「まあ適当に男女で別けといたらええんちゃうか」

「こんなとこで女の子だけにするんか!」

「こんなとこって……」

 

 服部の提案に思わず声を上げる和葉。伊吹の一言に思わず「あっ」と手で口を覆う。女将さんは聞こえていないのか気にしていないのか、その笑みを崩さずに小首を傾げた。

 そんな彼女の姿に和葉の警戒心もいささか緩和されたのか、それ以上の異議申し立てはなく、柳の間に男性陣が、楓の間に女性陣が宿泊することとなった。

 

「それでは皆様、長いこと道に迷われてお疲れみたいですし、さっそく当宿自慢の温泉でゆっくり休んできて下さい」

「そうだな、せっかくだし飯の前にひとっ風呂浴びるか!」

 

 女将の提案に小五郎もご機嫌な様子。

 

「哀ちゃん一緒に入ろなー」

「コナン君ちゃんと体洗うのよ」

「う、うん」

「なんや工どっ、コナン君、自分で背中洗えんのかいな」

「うっせーな、洗えるっつうの」

「哀のシャンプーとトリートメントってこれ?」

「それはボディソープって書いてあるでしょ」

「買ってきた着替えは?」

「ちょっと、人の下着を漁らないで、自分で出すわよ」

 

 皆長旅に疲れていたようで、ここにきての温泉にテンションも上がっているようだ。

 

「皆様によう似合う浴衣も用意しとります、よければ是非」

「っ!」

 

 浴衣、その言葉に思わず反応する彼女の明るいブラウンの髪がピクリと揺れた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「にしても、あの女将もさることながら従業員一同美人揃いだったなぁ。これで風呂上がりにビールを飲んで、美味い飯が出るなら最高の宿だぜ」

 

 脱衣所を抜けると少し鼻を突く水場独特の匂いの漂う簡素な屋内温泉。そこで体を流せば扉一枚隔てた向こうに大きな露天風呂が広がっていた。

 空はほとんど夜色に染まり、西に広がる竹林の隙間から微かな力ない橙の色が見える程度。東の空には既にいくつかの星々が見えて、日が沈みきれば満点の星空が見えることは想像に難くなかった。

 頬を撫でていく風は、湯に濡れた体を程よく冷やし、露天風呂の湯加減を絶妙な物へと変えていく。

 湯船を取り囲む岩肌に背中を預ける小五郎が頭にタオルを乗せながら呻る。服部やコナン、伊吹たちも湯船に浸かるとお湯の中に疲労が溶け出していくような気がして思わず「うぃー……」と声が漏れた。

 

「にしても自分、相変わらずえげつない体しとんのぉ」

「お前も相変わらずえげつない黒さだな」

「じゃかあしい、色黒なんはじっちゃん譲りなんじゃ」

 

 服部と伊吹の掛け合いの声もどこか力なく、心地よい湯加減に脱力してしまっているようだ。

 組み細工のような繊細さでありながらも、見るからに頑強そうな太く立派な竹の壁が男女の露天風呂を隔てる。男湯の雑談は女湯にまで聞こえていたようだ。

 

「あ、平次らも露天の方におるんや」

「お父さんたちと萩原君もいるみたいね」

「……」

 

 打って変わって女湯の方では皆大人しく湯船の温もりに身を預けていた。「向こうに声かけたろか」と、和葉が悪戯な笑みを浮かべ大きく息を吸ったとき、壁の向こうから聞こえた会話に思わず声が詰まってしまった。

 

「ところでお前らもあの女将に随分と見とれてたじゃねえか、ガキのくせに色気づきやがってよ。ああいうのが好みか」

「あほか、もう酔っ払ってんのか、おっちゃん」

 

 小五郎がからかうように悪態を吐く。「好みか」その一言は平次に尋ねられたようで、和葉は思わず口を噤みそっと息を殺して仕切りの壁へと忍びより耳を寄せる。

 

「そういう――は、――工藤――も」

「新一……?」

 

 男湯の方から聞き覚えのある名前が聞こえてきて、蘭も湯船を上がると思わず和葉と並んで聞き耳を立ててしまう。

 

「か、和葉ちゃん……」

「蘭ちゃん、ちょっと静かに、大事なとこなんやから」

 

 真剣な眼差しで口元に人差し指を立ててしーっとジェスチャーする和葉に、蘭も思わず真剣な眼差しでこくりと頷いた。

 

「……」

 

 バスタオル一枚を身に纏い男湯へ聞き耳を立てる二人の姿を冷ややかな半眼で横目に見つめる灰原。あほらし、その一言を口には出さなかったものの、彼女の口から漏れるため息には呆れの色が滲んでいた。

 

「お前はどないやねん、萩原」

「っ!」

 

 ハッキリと聞こえたその名前に思わず反応する灰原。ピクリと跳ねる体にぱしゃりとお湯が弾む。

 内心あの二人に呆れていた手前、自身もその壁に耳を寄せるのはどうにも憚られる。しかし壁向こうの会話が気になって仕方が無いようで、ちらちらと男湯の方へと無意識に視線が流れてしまう灰原。

 

「……」

 

 すーっと、音もなく湯船を移動すると、蘭と和葉の元までは行かずとも湯船の中で最も男湯に近い位置に陣取り、瞳を閉じて耳に全神経を集中する。

 

「俺は――ない、好み――い、だよ」

 

 断片的にしか聞き取れないその会話がもどかしく、――今の自分が酷く滑稽な姿だと分かっていながらも――思わず立ち上がって壁へと耳を寄せてしまった。

 

「あ、哀ちゃん?」

「しっ、大事なところなの」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そういうお前はどないやねん、萩原。なんやあの女将のことよう見とったみたいやけど」

「あれはそういうんじゃない」

 

 服部が百も承知の上でからかってくるのに対し、伊吹は面倒くさそうに答えた。

 伊吹が頭に乗せていたタオルで顔を拭い、湯船の外で一絞りしてからスパンと肩にかけた。傷だらけの屈強な両腕を伸ばすように岩肌へと広げ、星の輝きだした空を見上げながら滔滔(とうとう)と口を開いた。

 

「俺の好みはもっと理知的でクールな雰囲気の中に時折顔を覗かせる可憐さとあどけなさを併せ持ってて、良識があって良妻にして賢母。素直になれないところが玉に瑕だけどそれがまた愛おしく思えるくらい隠しきれない愛情に溢れているような子で、冷ややかな目元に時折混じる恋慕の熱い視線とか、落ち着き払って何でもそつなくこなせるのに爬虫類とか虫とかが苦手な女の子らしさとかがあったり。気丈に振る舞っても心の奥では寂しがり屋で、そんな弱みを自分にだけは見せてくれたり。人前ではツンケンしてて大人ぶってても実はすごいヤキモチ焼きで独占欲が強くて、構ってあげるとそっぽむくのに放っとくと構って欲しそうにする猫みたいな子が好みかなぁ。なにより、何をおいても守ってあげたくなるような子、かな」

 

 聞いてる側が嫌になるほど淀みなくすらすらと出てくる言葉に、聞いた服部も頭を抱える。

 

「つまり俺の好みはあ――」

「わかったわかった、よーわかった。聞いた俺がアホやった」

 

 

 

*****

 

 

 

「萩原君、やけにディテールが細かかったけど」

「あれはもう好みやのおて、誰か個人のことを言うてんのとちゃう。誰のことやろ」

「…………」

「哀ちゃん大丈夫? 顔が赤いよ、のぼせちゃった?」

「え、ええ、少し……のぼせたみたい。先に上がっておくわ」

 

 そう言い残すと屋内のシャワーで汗を流しに戻る灰原。そんな彼女の後ろ姿を見送りながら和葉がポツリと零した。

 

「お湯から上がっとったのに、なんでのぼせたんやろ」

 

 

 

*****

 

 

 

「うぃー、いいお湯じゃった。あれ、哀もう上がってたの?」

「ええ。……ちょっとのぼせちゃって」

 

 バスタオルを首元にかけた浴衣姿の伊吹が男湯から出ると、男女風呂の入り口に備え付けられた椅子に灰原が腰掛け携帯をいじって時間を潰していた。

 伊吹の声に顔を上げ彼の姿を見て一瞬言葉が詰まったのは先程の会話が脳裏を過ったためか、それともお風呂上がりの水に濡れた彼のはだけた浴衣姿を見たからだろうか。

 

「ちょっと、しゃがんで」

「ん、ああ、こう? ぐうぇ」

 

 薄い青みがかった浴衣に濃紺の帯を締める伊吹は随分と温泉で暖まったようで、熱気を追い出すようにその胸元をゆるめ胸筋に薄ら浮かぶ汗をタオルで拭う。

 そんな彼を目の前に座らせた灰原が無言でその襟元を締めた。

 

「あ、ありがとう。けど暑いんだけど」

「我慢しなさい。……虫除けよ、変なのが近づかないようにね」

 

 伊吹の浴衣を整えた灰原が「よし」と満足そうに胸元を叩く。

 

「哀も浴衣にしたんだ」

「ええ、せっかくだったし」

 

 伊吹がしゃがんだままの視線で灰原の浴衣姿を見やると、灰原は身に纏う若紫色の浴衣や桔梗色の帯を変なところはないかと腕を伸ばし足下から袖まで確認する。

 どうかしらと言わんばかりに彼の前で回って見せる灰原。

 

「すごく、似合ってる。ほんとに綺麗だよ」

「……ふふっ」

 

 なんの混じり気もないその言葉が彼の飾らない本心であることは、それを聞いた者が一番よく分かっているようで、少し勝ち誇ったように小さく笑うと彼女はくるりとそっぽを向いてしまった。

 その火照った顔をのぼせたからと言い訳するには、少し時間が経ちすぎていたようだ。

 

「なんだおめー、随分とご機嫌だな。なにかあったのか?」

「ひ・み・つ」

 

 皆が集合したところでコナンが上機嫌の灰原へと尋ねると、彼女は浴衣の両袖を口元へと当てがい、なにかをこっそり独り占めするかのように笑みを零した。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

「おほー! これは凄い!」

「美味しそー!」

「むっちゃ豪華やん!」

 

 温泉を満喫した一同が一息吐いて休んでいると、女将に大広間へと案内された。

 「宴」という木札の掲げられた戸が開くとなんともいい香りが辺りに漂い、山の幸をふんだんに使った素朴ながらも食欲を大いにそそるご馳走がずらりと並んでいた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 特に絶品だったのが肉じゃが。ほくほくのジャガイモに素材の甘さを引き立てたにんじん、シャキシャキとした食感に爽やかな青い香りの残るサヤエンドウ。タマネギは溶け出さない絶妙な塩梅で煮込まれトロトロの甘みが口いっぱいに広がる。ぷりっぷりの糸こんにゃくの一本一本の隙間にもつゆが絡みつくようで、かじるとじゅわっと甘みのあるお(つゆ)が溢れ出してくる。その(つゆ)がまた甘辛くてどこか懐かしい母の味と、料亭で出されても文句無いような上品さが相まっていて、一口含めば息を吸うだけでもう香りが美味しいんだ。最後に使われているお肉が良いのか板前の腕が良いのか、はたまたその両方か、肉のいい脂がほんのり残りながらも脂っこくもしつこくもなく、肉の線維にまで味が染みているようでもう手が止まらない。微かに使われた料理酒が全体をまとめ上げていて全ての食材と調味料を理想の形でつなぎ止めていた、どこを食べても、どう食べてももう美味しくて。

 

「ちょちょ、ちょっと待って下さい。なんだかやけにディテールが細かくないですか?」

「なんかすんげーうまそうな肉じゃがだな!」

「歩美も食べてみたーい!」

「まあまあ落ち着け。それくらい絶品だったんだよ」

 

 饒舌に語り聞かせる伊吹がグラスの麦茶を一口飲み口元を湿らせると、再び滑りの良くなった口を開く。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そういえば女将さんはええっと」

「あ、申し遅れました。うち、当宿の女将、倉山 美子(くらやま みこ)と申します」

 

 お猪口を片手に小五郎が窺うように声をかけると、女将、美子は慌てた様子で名乗り畳に手を着いて頭を下げた。

 彼女が正座のまま綺麗な姿勢で頭を垂れると、その足下の着物が少しはだけた。

 

「その足、どうかされたんですか?」

 

 先程まで気がつかなかったが、微かに見えた彼女の足首には包帯が巻かれているようだった。ちらりと視界の隅にそれを捉えた伊吹が何の気なしに尋ねると、美子は慌てて隠すかのように自身の着物を正した。

 

「い、いえ、大した怪我やありまへん、お気になさらず」

 

 誤魔化すように小五郎へとお酌をする。深く聞くこともできず、一同はまた別の話題に花を咲かせた。

 

「ああ、それなら俺もみんなと合流する前に綺麗な白銀の毛並みをした狐を見かけたよ」

 

 露天風呂で見た星空の話からここら一体の自然の豊かさへと話は流れ、伊吹も古びた神社で見かけた綺麗な狐のことを思い出したらしい。

 

「はー、そりゃ珍しいな、なんの種類や」

「さあ、見たこともない感じだったけど。狩猟用の罠にかかっててね、一応助けはしたけどさ。そりゃもう綺麗だったよ、今まであんな綺麗なのを見たことないくらい」

 

 伊吹と服部の会話を聞いていた美子が、がしゃりと小五郎の徳利を倒してしまう。

 

「あ、ああっ、申し訳ありまへん、ぬ、濡れてまへんか?」

「いえいえ、大丈夫ですよ。もう飲んでしまった後なので」

 

 慌てて徳利を起こす美子が小五郎の浴衣を確認すると、一言謝り部屋の外にいた従業員に追加の一本を持ってくるように指示を出す。

 

「そ、それはここいらの神さんです。昔はもっとおったんですが」

 

 ごほんと咳払いをして仕切り直すようにそう語り出す美子。

 

「ぎょうさん狩られてしまったみたいです」

 

 そう呟くと、美子は遠い記憶を辿るように憂いを帯びた瞳で、窓の外に浮かぶ月を見上げる。ほのかに揺れる瞳には涙に潤んでいるのか、ろうそくの火の揺らめきなのか分からなかった。

 

「み、美子さんは昔からこの辺りに?」

 

 どこか沈痛な空気を変えようと小五郎が美子に話を振る。

 

「そうです、うちは産まれも育ちも、ここ……、この辺りが地元です」

「はー、にしてもこの立派な宿を美子さんが取り仕切ってるんですか? まだお若いのに」

 

 美人とお酒を前に思わず鼻の下を伸ばしてしまう小五郎だったが、彼女の言葉に思わず口を噤んでしまった。

 

「家族はみんな、失ってしもて」

『……』

 

 一同の責めるようなどこか冷ややかな視線が小五郎へと集まった。

 美子は窓から夜空を眺めたままでその表情は見えなかったが、ぽつりぽつりと、思い出を一つ一つ拾い上げるように丁寧に、言葉を紡いだ。

 

「いってらっしゃい、気をつけて、早く帰ってきてね。それが最後の言葉でした。まさかそれが最後の会話になるやなんて、誰が想像できますか」

 

 着物姿の彼女は凜と背筋を伸ばし、清く美しい様を表すように正座のまま、月を見つめたまま。その姿を前にすると「相手はどなた」などと尋ねることも憚られた。

 

「言いたいこと、伝えたいことは伝えとかなあきまへん。いつそれが、最後の言葉になるやもわかりまへんから……。大事なその人が明日も変わらずそこにいてくれるのは、ほんまに奇跡みたいで、素敵なことなんよ」

 

 静かに振り返った彼女は青い月光を背に、淡いろうそくの灯火に照らされ、目を擦れば消えてしまいそうな程に儚くも、確かに力強くそこに存在していた。

 

「お持ちしました」

 

 戸の外から聞こえた小五郎の冷酒を持ってきた従業員の声が皆をハッとさせる。美子がそれを受け取り小五郎へとお酌する。

 

「いややわ、こんな暗い話してもうて。久しぶりのお客さんやから浮かれてしもたんやろか」

 

 頬に手を当て困ったように笑う彼女に、一同も深く聞くことはなかった。

 

「せや、さっきの露天風呂から見えた小川。あの上流の方はこの時期蛍が見えますよ。よければ行ってみて下さい」

「蛍やって! 蘭ちゃん見に行こ!」

「うん! 哀ちゃんも!」

「そうね」

 

 清流のせせらぎに漂う蛍の光を想像して女性陣が盛り上がり、さっそく出かける準備をしようと部屋へと戻って行く。

 彼女らだけで行かせる訳にもいかず、服部とコナンも重い腰を上げて外出する準備をするために部屋へと戻る。

 

「俺は行かねえぞお」

「わーっとるわい。そんなべろべろの酔っ払いに着いてこられても面倒見切れんで」

「んだとこの色黒探偵坊主ぅ!」

「まあまあ毛利はん、もう一本どないです?」

「おっ、いいっすなあ!」

 

 したたかに酔いの回ってきた小五郎が、顔を赤くしながらおぼつかない呂律で服部へと食ってかかるも、美子のお誘いにすっかり上機嫌となり、がーっはっはっはと高笑いをする。

 美子が手を叩くと数名の女性従業員が日本酒を持ってきては小五郎へとお酌をする。美人に囲まれて鼻の下を伸ばす小五郎に呆れたような視線を投げつけて服部とコナンは広間を後にした。

 

「萩原様、ちょっと、よろしいですか?」

「えっ、ああ、はい。どうしました?」

 

 コナン達の後を追うように伊吹も部屋を出ようとしたとき、その浴衣の袖をそっと引かれた。美子はチラリと後ろを確認すると、すっかり出来上がった様子の小五郎を他の者に任せ、そこから離れるように伊吹の袖を引いて広間を出る。

 伊吹の袖を掴んだままずんずんと廊下を進む美子。何度か角を曲がっていくと、徐々に廊下のろうそくの数も減っていき、辺りは少しずつ闇に飲み込まれていった。

 ――なんかやけに広いような――、先程から歩けども歩けども終わりの見えない廊下に伊吹もいささか不穏な空気を感じた。

 

「ど、どうかしましたか? 俺も蛍見に行きたいんですが」

 

 伊吹の問いかけも聞こえていないように美子は振り返らない。しかしその手は彼の袖を離そうとしない。伊吹の膂力を持ってすれば容易に引き剥がせる程度の華奢な力だったっが、なんだかそれは申し訳ないような気がした。

 ぽつぽつとした灯火だけがぼんやりと辺りを照らし出す廊下。歩く度に鳴る床板の軋む音がだけが聞こえる。

 すると美子が一つの部屋の前で歩みを止めた。困惑する彼の手を引いたままその部屋へと入り、戸を閉める。

 決して広くないその部屋にはお香のような甘い香りが漂い、部屋を照らすろうそくはそれまでに見たものと比べて微かに紅い色味を帯びている。

 部屋に余計なものはなく、開かれた窓辺に置かれた花瓶に生けられた牡丹の花と、隅に申し訳程度に置かれた文机、そして部屋の真ん中に敷かれた二組の布団だけが存在していた。

 

「あの、これは……、なんと言いますか」

 

 伊吹が薄らとなにかを察したかのように言葉を濁す。

 ――……虫除けよ、変なのが近づかないようにね――

 温泉から上がったときの灰原の言葉が脳裏を過った。

 困惑する伊吹へ体重を預けるように寄りかかり、壁へと押しやる美子。伊吹の鳩尾ほどまでしかない身長は、顔を俯かせてしまえばその表情をうかがい知ることはできない。

 大した体重でも力でも無いはずなのに、伊吹はどうにも足下がふらつくような感覚がして、よろけるように押しやられ壁へと背を預け美子の体を支える。

 

「いや、その、こういうことは」

「萩原様……」

 

 伊吹が『この状況、相手にそんな気は無くて、自身が恥ずかしい勘違いをしているだけでは』という可能性も捨てきれず探るように声をかけようとすると、それを遮るように美子が顔を上げ伊吹を見つめた。

 艶やかな黒髪は朱色の灯火を吸い込むようにより黒く映え、白い肌に差す火照りは決してろうそくの灯りのせいだけではない。じっと逸らすことなく見つめてくる切れ長の瞳を潤ませ、ほのかに淡く紅の引かれた薄桃色の口元がきゅっと結ばれる。意を決したかのようなその甘く蠱惑的な表情。彼女が瞬きする度に揺れる長いまつげが伊吹の男心を扇情的にくすぐる。

 両の手をそっと伊吹の厚い胸元へと這わせ、その浴衣をはだけさせる。自身に寄せられるほんのりと柔い胸元も、視界に入る大きな臀部も、白く滑らかなうなじも、妙に色っぽく伊吹の目を染め上げていく。

 自身の体をそっと貼り付けるように伊吹に重ね合わせ、胸元に寄せた耳は彼の鼓動を聞く。

 

「どきどき、しとります」

「いや、これは、そういうのじゃ」

 

 風鈴を思わせる彼女の涼しげな声が鼓膜を揺らす度に、まるで脳まで揺らされてかのような錯覚に陥って、視界が揺れる気がした。

 静かな室内は静寂に包まれ、窓の外から聞こえる夜鳥の鳴き声が遠くからこだまする。少し上がった美子の息づかいが艶めかしく、耳から滑り込み頭の中を反響する。そっと帯をほどき、決して安くはないであろう着物を構わずその場に脱ぎ捨てる。露わになる白く薄い肌襦袢は、触れる美子の体温と柔らかさを余すことなく伝えてくる。

 白くしなやかなその脚が襦袢の裾よけからするりと伸びて伊吹の脚を絡める。

 

「うちに、身を委ねてください」

「……っ」

 

 なにかがおかしい。伊吹はなぜか脱力してしまっているその両腕をなんとか動かし、美子の両肩を掴んで自身から引き剥がそうとする。

 

「いややわ、……そないないけずせんといて」

 

 しかし力が抜けていく。自慢の腕力がいつもの猛威を振るわない。自身でも分かるほどの激しい鼓動、揺れる視界と染まっていく脳内。

 

「……これはお礼。ずっとここにおって下さい。きっと夢見心地でおられます」

 

 鼓膜を心地よく揺する美子の甘言に伊吹の瞳から光が失われていく。抵抗するように美子の両肩に置かれていた伊吹の手がするりと垂れ落ちた。

 ふわりと室内に風が吹いたかと思うと、紅いろうそくの火が揺らめき二人の影をいくらか明滅させたあと音もなく辺りを闇に溶かした。

 山を降り清流を駆け抜けてきた清らかな一陣の風が一瞬、室内に漂う甘いお香の香りをかき回した。気のせいか、ほんの僅かに、柑橘系の爽やかな香りがその風に乗って運ばれてきたように思えた。

 

「……ッ!」

「あ、ちょっと、きゃっ……!」

 

 その瞬間、確かに伊吹の瞳に光が灯る。

 泥のように眠るところを無理矢理起こされたような倦怠感が襲ってきて、四肢がやけに重たく感じた。それでも振り絞った活力でその右の豪腕を振り上げる。

 獣のような眼光に高く持ち上げられた拳。殴られる、直感的にそう感じた美子は思わず目を強くつむり身を縮こませる。

 

「ぐうぇッ」

「……へ?」

 

 しかし美子に届いたのは伊吹の巌のような拳ではなく、彼のうなるような悶絶の声だった。

 伊吹は振り上げた拳で自身の顔面を殴打したのだ。鈍い衝撃が頭蓋を揺らして骨身に染みる。口の端が切れピリリと痛み、口内に広がる渋い鉄の味を飲み込んだ。

 その一撃は霞のように薄らと伊吹の脳内を包んでいた薄桃色のもやを振り払った。「俺に何をした?」その一言を飲み込んで伊吹は目の前で縮こまったままきょとんとしている美子を見る。腕を振り上げる伊吹の形相がよほど怖かったのか、瞳の端には薄らと涙が浮かんでいた。

 

「ふぅ……、あー、痛い。⋯⋯美子さん……お礼って、なんのことですか?」

 

 半分は己の一撃のせいだが、伊吹はぐわんぐわんと回る脳みそで逡巡し、とりあえず事の真意を問うことにした。

 

「…………あ、えっと……」

 

 伊吹の問いかけに呆然としていた美子だったが、しばらくすると、緊張の糸が切れたように吹き出してしまった。

 

「ふっ、ふふっ、あはははっ、まさかそんな……。ふふっ、ごめんなさい。まさかそんな風にして自制心を保つ人間(ひと)がいるなんて」

「え?」

「ああ、いえ、申し訳あらへん。お礼言うんは……、萩原様はわからんでもええことなんです。ただうちがお礼をしたくて、こういうやり方が一番、殿方は喜んで下さるもんやとばっかり」

 

 思わずお腹を抱えて笑ってしまった美子が、瞳の端に浮かんでいた涙を指で拭った。

 自身の両の手をそっと胸元で握りしめ、なにかを思い出すように瞳を閉じる。そして今度は困ったような笑みを浮かべて伊吹を見つめる。

 

「萩原様には適いまへんなぁ、まさかこないにあしらわれるやなんて。せやけど、お礼をしたいいうんはほんまやったんです」

「何のことかは分かりませんが、その……美子さんに恥をかかせるような真似をさせた事は謝ります」

 

 乱れた肌襦袢を整えながらそっとその場に座り込む美子が、床に脱ぎ捨てられた着物を羽織る。

 

「ですが俺には“あなたに恥をかかせるわけには”とか、“据え膳食わぬは”などと自分の都合の良いように言い訳をして、流れに身を任せることは出来ないのです。変に聞こえるかもしれませんが、大人同士の体でなければできないことをする、それは俺にとって最大の裏切りとなりますから」

 

 その場で正座をし美子を正面から見据える伊吹。ろうそくの消えた室内は蒼白い月明かりにのみ照らされる。

 「あとでしこたま怒られてしまいます」と困ったように微笑む彼の姿はとても清廉で、正しくて、美子は彼の中に曲がることも朽ちることもない純粋なまでの愛情を感じた。しかしそれは、己には向いていないのだ。

 

「萩原様には、大事な人がおるんやね」

 

 眩しそうに美子が目を細めて伊吹を見やる。なにかを察したように小さく微笑むと、その口を引き締め畳に両の手を着いて頭を下げた。

 

「申し訳ありまへん。こないな下賤なやり方での恩返ししか心得ておらず、大変失礼な真似を致しました」

「いえ、そんな。そもそもお礼をされるような事なんて俺はなにも……」

「いえ、萩原様は知らんでも、うちは萩原様にこの命救われました」

「い、命?」

 

 今日初めて会った相手にそんなことを言われ、全く身に覚えのない伊吹が思わずきょとんとしてしまう。

 

「せやから、別の形で恩返しさせて下さい」

 

 伊吹に有無を言わせぬまま美子はするすると畳の上を滑り、部屋の隅にあった文机の引き出しを漁る。何やら小さな玉手箱を取りだすと、その中からなにかをひょいと摘まみ上げ置いてけぼりの伊吹の元へと戻る。大切そうに両手で包んでいたそれを差し出した。

 

「笹団子?」

「違います」

 

 乾燥した笹の葉に包まれた小石程度のなにか。確かにお団子が一つ包まれる程度のサイズだ。

 

「萩原様の大切な人にお渡しください。きっと役に立つはずです。今のうちに他にできる恩返しいうたらこれだけです」

 

 笹の葉をしっかりと縛るように、乾燥した頑丈な植物のツタが巻かれていた。中身を見てみようと伊吹がそのツタに手をかけると、そっと美子が手を重ね、伊吹に言って聞かせるように優しく囁く。まるで母が子を慈しむように。

 

「今は開けたらあきまへん。このまま大切な人に渡すんよ。その人に開けてもろて。その人に何かあったとき、きっとその時、これは必要なもんになる。……御守りみたいなもんよ」

「は、はい……」

 

 思わず素直に返事を返してしまう伊吹に、美子は満足そうに微笑んだ。

 

「まあせやけど、今のうちの力じゃ役に立つのはせいぜい一回くらいやもしれまへん」

「なにか?」

「あ、いえ。なんでもありまへん」

 

 どこか呆れたように、美子が眉尻を垂らして自傷気味の笑顔を浮かべるも、その独り言は伊吹の耳には届かなかった。

 

「ほな、萩原様は皆様の後を追ってください。今の時期蛍が綺麗なんはほんまなんですよ。宿の入り口には部屋出て左に真っ直ぐです」

「え、あ、ちょっと」

「はいはい、行って下さい。うちはここの片付けがあります。それとも、やっぱり気が変わってうちの相手、してくれるんやろか?」

「いや、それは」

「冗談や」

 

 美子に背中を押されて部屋の外へと追い出される伊吹。結局なんのお礼だったのかとか、あんなに入り組んだ通路を来たのに戻るのは左に真っ直ぐなのかとか、色々と聞きたいことはあったものの、これ以上ここにいても藪蛇だろうと素直に部屋を後にした。

 

「……まだ微妙に痺れと脱力感が……」

 

 伊吹を追い出すとさっさと部屋の戸は閉められた。部屋の外は左右に伸びる奥が見えないほどの長い通路に繋がっていて、所々に点在する提灯の明かりだけでは心許ない程だった。

 伊吹が訝しげに左の通路の奥へと歩を進めようとすると、がくりと右膝が脱力してしまう。

 ――毒を盛られた? 俺の体に?――

 伊吹がにわかには信じられないと己の掌を見つめる。その微かに痺れる脚に再び力を入れ直した。

 

「……」

 

 扉に背を預ける美子が耳を澄ますと、足音が遠のいていくのを感じる。鼻から抜けるように小さなため息を吐くと、窓から差し込む月光に照らされて小首を傾げる牡丹の華が目についた。

 

「ずっとここにいてくれたらええのに言うたんは、ちょびっと、ほんまなんよ」

 

 包帯の巻かれた足首をそっと撫でながら彼女の漏らした小さな呟きは、誰の耳に届くこともなかった。

 

「……あれ?」

 

 ふと伊吹は気がつくと宿の出入り口に立っていた。確かに部屋を出て左に真っ直ぐ進んだだけだ。振り返ってみると来たはずの廊下はぽつぽつと灯る提灯に照らされ、先程までの不気味な薄暗さはどこにもなかった。

 さっきまでいた部屋はどこだっけ?

 

「おっかしいな」

 

 顎に手を添え頭を傾げる伊吹を、なにも言わず受付の従業員が微笑んで見送った。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「それで、皆さんで蛍を見に行って」

「伊吹お兄さんは女将さんに呼び止められて」

「そっからどーなったんだよっ」

「あー待て待て、今話すところをまとめているんだ。君たちにはちょっと刺激の強いところもあるから」

 

 伊吹が少年探偵団達に待ったと手を突き出し、天井を見上げながら話の内容を推敲しているようだ。

 あ-、うん。となにか納得したように頷いた。

 

「えっと、女将さんに呼び止められて……、そう、御守りをもらったんだ」

 

 彼らに聞かせられないような扇情的な内容はそっと伏せておくことにした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「彼はどうしたのよ」

「萩原か? さあ、なんか女将さんに呼び止められていたみたいだったけど」

 

 灰原の怪しむような視線がコナンを捉える。

 女性陣一行が宿を出てまもなくのこと、例の小川へと向かう道中で服部とコナンが合流した。山道を登るため、皆浴衣から私服に着替えたらしい。

 コナンの一言に思わず眉間に皺を寄せる灰原。その眼光に気がついたコナンが慌てて手を振りながら苦笑いを浮かべる。

 

「大丈夫だって、心配すんな。あいつをどうこうしようなんざ()()()()()()()()()()

「……そうね」

 

 彼女の返答はコナンの言葉を肯定するものであったが、そのなにかを訝しがるような鋭い眼光が戻ることはなかった。

 一行が暗い山道を宿のそばに流れる川から上流の方へと遡るように登っていく。

 空に輝く月明かりは微かに雲に陰りはじめてはいたが、宿を出るときに渡された弓張提灯のぼんやりとした暖かい光は夜道を歩くのにも十分だった。

 

「おーい……!」

 

 彼らがもうじき蛍の集まるという上流へ到達するという頃、後ろの方から聞き覚えのある青年の声が届いた。

 真っ先に反応した灰原を筆頭に皆が振り返ると、僅かに傾斜となっている山道を伊吹が駆け上がってきた。筋骨隆々の男の黒々としたシルエットが近づいてくるものだから思わず皆一瞬身構えてしまった。灰原以外は。

 

「ふぅー、ごめんごめん、お待たせ。って言うかまだみんなこんな近くにいたの? てっきりもう着いてるものかと」

「なに言うとんや。まだ宿出てから五分も経ってないで」

「え?」

 

 僅かに乱れた息を一呼吸で整えた伊吹が意外そうに尋ねると、服部から思わぬ答えが返ってきた。

 

「早かったわね。で、何をしてたの? あの女将と」

 

 キッと目尻のつり上がった瞳で伊吹へ詰め寄る灰原。当の伊吹はというと、頭を掻きながら困惑していた。

 

「あれ、五分? もっと経ってたと思ったんだけど……」

「で、なにをしてたの……って、あなた口を切ってるじゃない、どうしたのよ」

 

 伊吹に白状しろと言わんばかりに携帯のライトで顔を照らす灰原。すると赤みがかった彼の口の端から出血していることに気がついた。

 

「ああ、これは……。男の暗黒面(ダークサイド)を克服した、って感じ?」

「……はあ?」

「みんな、蛍だよ!」

 

 そんな問答をする中、なにかに気がついたように蘭が楽しげに声を上げた。

 彼女の傍らにふわりと明るいなにかが飛来したのだ。それが蛍だと気がつくと、まるで気づかれるのを待っていたかのように辺りが突然に輝きだした。

 

「わー! すっごーい!」

「めっちゃ綺麗やん!」

 

 彼らの傍らに流れる清流から蛍がふわふわと舞い上がる。ほんのりと明るいその儚げな点滅は、月明かりの元で辺りを幻想的に染め上げていく。

 

「……すごいわね」

「すっげー……綺麗」

 

 先程までの詰問をかき消してしまうほどの光景に思わず灰原も見とれてしまう。

 傍らに立つ伊吹もまたポツリと呟いた。彼の視線の先にあったのは果たして蛍か、それとも……。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「まるで蛍ね……」

 

 一同が各々にその幻想的な光のミュージアムを楽しむ中、他の皆から少し離れた小川のせせらぎの傍らにしゃがみ込んだ灰原が呟いた。

 まるで独り言のようなか細い声量で、足下に流れる緩やかな清流の水をぱしゃぱしゃと揺らす。俯いた視界に入るブラウンの髪が邪魔で、指先で撫でるように耳へとかける。

 そんな彼女を清流に反射する微かな月明かりと蛍の淡い灯火が照らし出し、その触れれば壊れそうなほど繊細で可憐な横顔を見て、隣に立つ伊吹は言葉が出てこなかった。

 

「隠そうにも隠しきれない想いがあるのに、なくこともできなくて。それでもただ気づいてほしくて身を焦がす……」

 

 そう言って自身の腕に口元を(うず)めて水面を踊る蛍を眺める。そんな灰原を見て伊吹は唐突に己の頬を殴った。

 

「ちょ、ちょっと、なにしてるのよ」

「いや、自分が不甲斐なくて……、なんか、ごめん」

 

 足下に視線を落とす伊吹が、そうだと何かを思い出したようにポケットを探る。どこか憂いのある瞳で蛍を眺める灰原に、例の笹の葉の包みを差し出した。

 

「なに、これ?」

「いや、なんか美子さんがくれたんだけど」

 

 彼の手からその包みを受け取った灰原が、笹を包む紐を摘まみ上げてぷらぷらと揺れるそれを不思議そうに眺める。

 しかし伊吹の口から女将の名が出るやいなや眉をしかめ、笹の葉の包みを伊吹に突き返す灰原。

 

「いらないわ」

「でも、俺の()()()()に渡すようにって」

「……」

 

 伊吹のその言葉に再び眉がピクリと動く。言葉の真意を探るようにジトっとした半眼で伊吹と包みを何度か見比べたあと、小さなため息を吐いて「仕方ないわね」とその紐に手をかけた。

 

「あ」

「なに?」

「いや、今は開けるな、とか言われてたんだけど……。まあ大切な人に開けてもらって、って言ってたから大丈夫か」

「なにそれ。誰が開けても中身は一緒で――」

 

 ――――リン……ッ……――――――

 

 灰原が伊吹の言葉を訝しがりながら笹の葉を包む紐を(ほど)いた。

 人工の光など届かない深い竹林の中、灯っては消え入る蛍の光と、薄雲に隠れた朧気な蒼白い月光だけが静かに辺りを包み込む。一同から離れたそこには流れるせせらぎの小さな水音と、夜風に吹かれる木々の葉擦れの音だけが聞こえる。

 その静寂の森の奥深くまで染み渡るように、凜とした涼しげな音が鳴る。

 それはまるで霧と静寂に包まれた夜明けの湖面に投げ入れた小石が静かに波紋を広げていくように、木々の隙間を塗っていくかの如く細く冷たいその音は遠くへと響き渡った。

 

「……綺麗」

 

 露草(つゆくさ)の花のような鮮やかな青色と、雪と見まがう卯の花のように明るい白色の組紐で吊されたビー玉ほどの大きさの鈴だった。

 組紐を摘まみ上げ、まるで銀細工のように鈍く蛍火を反射する鈴をしげしげと見つめる灰原。

 吐息と共にぽつりと素直な感想を零してしまう。ほのかに頬を明るくさせしばしキラキラとした目で鈴を眺めていた灰原が、ハッとしたようにいつもの澄まし顔で伊吹に振り返る。

 

「で、どうしてこれを私に? というより、あの女将さんはなんであなたに渡したの?」

「それは、えーっと……、よくわかんないけど、お礼とかなんとか。御守りみたいなもんだってさ、困ったときに助けになるからって」

 

 鈴をじっと見つめながら「ふーん」と、女将の真意を怪しむように訝しげな返事をする灰原だったが、その綺麗なお守りは気に入ったようだ。

 

「あら?」

 

 たった一度だけその音を響かせた鈴は、振っても叩いてもなぜか再び鳴ることはなかった。

 

「中で引っかかってる?」

 

 月光を頼りに灰原の持つその鈴の隙間を覗き込もうと彼女の手元に顔を寄せた伊吹だったが、急に視界が暗くなるのを感じて空を見上げた。

 

「おいおいなんか本格的に曇ってきよったで、一雨くるんとちゃうか」

 

 先程まで薄い雲に透過していた月だったが、西の空から流れてきた分厚い暗雲に包まれるように完全に身を隠してしまった。途端に辺りは暗い影に包まれ辺りの森を闇の中へと溶かしていく。

 暗い森の中で一層に輝きを放つ蛍たちであったが、木々の枝葉がざわつきたなびく程の風が吹き始めると、しだいにその輝きは失せていった。

 

「山の天気は変わりやすいにも程があんで!」

「このままだと提灯の明かりも消えちゃうし、これ以上酷くなる前に引き返そう!」

 

 飛びそうになる帽子を押さえながらぼやく服部に、コナンが提案した。

 

「ッ!?」

「どうしたの」

 

 皆が帰り支度をする中、伊吹がおもむろに振り返り、辺りの森を見渡した。眉間に皺を寄せる伊吹に、灰原も辺りを警戒しながら尋ねた。

 

「人の気配がしたような……」

「こんなところに?」

「いや……気のせい、か」

 

 一同は徐々に強くなってくる風に辟易しながらも、無事宿まで辿り着いた。帰り道に提灯の火が消えてしまい思わず和葉が服部に抱きついてしまったのはまた別の話。

 

「皆さんご無事でなによりです、急に風が出てきはりましたなぁ」

「ほんまやで、せっかく蛍綺麗やったのに」

 

 宿の入り口には心配そうな美子が待っていた。一同の帰りに気がつくと、彼女は心底安心したように明るい笑顔を浮かべて出迎えてくれた。

 

「体も冷えましたやろ、休まれる前にもう一度温泉なんかいかがですか。いつでも入れるようにしとります」

「お、ええなあ。夜風に吹かれて露天風呂いうんも乙なもんやで」

 

 服部達と言葉を交わす美子。そんな彼女の姿をつい目で追ってしまった伊吹だったが、美子はあえて彼の方を向かないようにしているようで、二人の目が合うことはなかった。

 

「ちょっと、なに見てるのよ」

「いや、別に」

 

 すーっと、去って行く美子の背中に視線が釣られていくと、不機嫌そうないつもの半眼でこちらを睨む灰原の姿が視界に入る。

 あっと思ったのも束の間、間髪入れずに彼女が問いかける。気まずそうに視線を泳がせた伊吹に、誰かがもたれ掛かるように勢いよく肩を組んできた。

 

「わかるぞ筋肉坊主ぅ、ひっく、あの尻がいいんだよなぁ、うぃっく」

「うわ小五郎さん、酒くっさい」

 

 しこたま酒を呷りべろんべろんに酔っ払った小五郎が伊吹の肩を組んで去って行く美子のお尻を凝視する。「たまりませんなぁ」と悪酔いする小五郎に絡まれげんなりする彼を、灰原は鋭く冷たい氷のような視線で貫き。

 

「最低ね」

 

 と、一言浴びせて客間へと戻っていった。

 

「俺はなにも言っていない……」

「どんまい」

「冤罪だ……」

 

 励ましてくれるコナンと服部と共に小五郎を担いで、とぼとぼと男部屋へ帰っていった。

 

 

 



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11話 きつねのお宿とアイの言葉 後編

「で、哀ちゃんは学校に好きな子とかおらんの?」

「……別に。いないわ、そんな子。先に行ってるわね」

「あ、うん。一人で大丈夫? 哀ちゃん」

「ええ、平気よ」

 

 そう言い残すと浴衣に着替えた灰原は一人、入浴セットを両手に持って女子部屋を後にした。

 

「やっぱ大人びてんなぁ、あの子」

 

 準備に少々手間取っていた和葉がぽつりと呟いた。

 一足先に温泉へと向かっていた灰原だったが、その道中宿の出入り口を横切ったとき、思わぬものを見かけてしまう。

 

「狐?」

 

 それは先日伊吹が見たと話していた狐と似た白銀の毛並みを持つ小さな狐であった。大きさから察するにまだ子供のようだ。宿の入り口に座り込み、じっと外を眺めている。

 直に雨の降り出しそうな空模様を見て雨宿りにでも来たのだろうかと、灰原はその愛らしい姿に思わず顔に笑みを湛えながら近づいた。

 

「どうしたのー、狐さん。雨宿り? それとも迷子かな?」

 

 ついいつもより高く甘い声色で話しかけてしまう。その声に反応した子狐が振り返ると、どこか喜ぶように尻尾を振って「きゃん」と鳴いた。

 

「綺麗ね、彼の言っていた狐と同種かしら、ってこら」

 

 傍らにしゃがみ込む灰原の浴衣の裾に噛みつく狐。しかしそれは危害を加えようと攻撃してきたり、防衛のための行動というには異質で、その裾を引っ張ってどこかに連れて行こうとしているようだった。

 

「え、なに、どうしたの」

 

 自分の力では引っ張れないと判断したのか、子狐は咥えていた裾を離すとおもむろに宿の外へと飛び出し、少し進んだ先で灰原へと振り返った。

 

「着いて来いって言ってるの?」

 

 不思議そうに尋ねる彼女に子狐は再び「きゃん」と鳴いた。

 灰原は何となく子狐が自身を呼んでいるような気がして、後をついて宿を出る。強い横風が彼女の細く柔らかな髪をなびかせる。それを鬱陶しそうに片手で押さえ、今にも降り出しそうな空模様を不安げに見上げてから子狐の後を追った。

 

「子狐さん、どこまで行くの? あんまり遠くへは行けないんだけれど」

 

 子狐は灰原が近づくと少し離れ振り返り、また近づけば少し離れ再び振り返る。灰原が諦めて歩を止めるとせがむように「きゃん」と鳴いた。

 自身が動物を好きだというのもあるが、その子狐の様子がなんだか気になって、灰原はしばらく着いていくことにした。

 

「きゃん」

「今度はどうしたの――ッ」

 

 宿から少しばかり離れた山道。まだ振り返れば宿の灯りが見える程度の距離で、子狐は再び鳴いた。灰原が少し困ったように問いかけるのと、その視線の先でぐったりと倒れ込む生き物の影を見つけたのは同時だった。

 

「ちょっと、これって、いったい……」

 

 慌てて駆け寄る灰原がその影を近くで見てみると、それは子狐と同じ白銀の毛並みをした大人の狐であった。ただその美しい毛並みは痛々しいほどの赤い液体に塗れていた。

 子狐はこの子を助けてほしくて自分を連れてきたのかと直感した灰原は、自身のお風呂セットの中からタオルを取り出してその倒れた狐へとかぶせる。

 タオル越しにその容態を診察しようとした灰原だったが、すぐにその異変に気がついた。

 

「これって……血糊? これ、剥製じゃない。誰がこんな――――ッ」

 

 悪趣味な。そう言いかけた灰原の声が止まる。曇天に陰る薄暗い山道で最初は気づかなかったが、その視界の隅にあるものに気づいてしまった。山道の脇に立つ大きな木の陰に隠れるようにしながら、こちらの様子を窺う人影を。

 まさに息を飲むように呼吸は詰まり、驚愕に体が硬直してしまう。

 ――誰? 何をしているの? この偽物の死骸はこいつが? 深い森の中、人がいる? ――

 ぐるぐると頭の中を様々な疑問が駆け巡り、言い知れぬ恐怖が心臓を締め上げる。

 だがそれも束の間。動き出した人影を見た灰原が、咄嗟に子狐を抱え上げ弾けるように駆けだしたのだ。

 すぐに行動に移せたのは日頃の彼がよく自分に言って聞かせていた言葉、「やばいと思ったらまず逃げろ」それを覚えていたからだろうか。動き出したシルエットは確かに、猟銃らしきものを持っていたのだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 ――ドーー……ンッ……――

 

 宿にまで響くその重低音は、何度も聞いたことのあるものだった。

 

「なんや今の、銃声とちゃうんかっ!?」

 

 部屋の布団に小五郎を放り投げて、浴衣に着替え温泉へ行く準備をしていた男性一同の耳にもその音は確かに聞こえた。

 服部の言葉を合図としたように、コナンと服部、そして伊吹が部屋から飛び出した。宿の玄関口まで到着すると、少し遅れて蘭と和葉、美子も慌てたように駆けつけてきた。

 

「ちょ、ちょっとなんなん、今の音?」

「なにかが爆発したみたいだったけど」

「多分、銃声や」

「乾いた破裂音と間延びした銃声……、ライフル弾。猟銃か? 遠くはないな」

 

 冷静な伊吹の言葉にお互いに手を取り合い怯える蘭と和葉。美子が口元を手で隠すように、どこか怯えた様子で「まさか……」と呟いた。

 

「なにか心当たりがあるの?」

「い、いえ、あの……、ご夕食の際にお話しした、狐が狩られたいう話。この辺りにも例の毛並みの狐はおります。まさかそれを狙ってのものなんやないかと……」

「にしてもここらは狩猟区域とちゃうやろ」

「ってことは、密猟」

「そんで、……綾小路警部が言うてた事件の遺体いうんは」

「猟銃による射殺……」

 

 美子の話を聞いた服部とコナンが目を合わせて答え合わせをする。それはつまり密猟犯であり殺人犯でもある人間がすぐ近くにいるかもしれないという事だった。

 ますます怯えた様子の蘭と和葉に、美子が落ち着いた声色で宥めるように口を開いた。

 

「大丈夫です、怯えんでも、()()宿()()()()ですから」

「とにかく、宿中の窓と鍵、あるなら雨戸なんかも閉め切っとくんや」

「猟銃を持った犯人がここに強盗まがいに乗り込んでくるかもしれないからね」

 

 服部とコナンの言葉に従業員達は宿中に散っていった。するとそれまで黙っていた伊吹が、ゆっくりと蘭と和葉へと振り向いた。

 顔筋一つ動かさないその表情には、思わずぞくりと背筋を凍らせるような迫力があった。

 

「哀は、どうした?」

 

 この騒動の中でもなかなか顔を出さない彼女に、伊吹の胸中がざわつきはじめる。

 ああ今日は色々あって疲れただろうし、部屋で寝ている、そんな答えが返ってくるのを淡く期待しながら。

 

「哀ちゃんなら一足先に温泉の方に向かっ――」

 

 蘭がそう言い切るよりも前に、振り返った伊吹が温泉へと駆け出す。その後を追いかける男性陣。

 温泉まで駆けつけると、伊吹は迷うことなく女湯の脱衣所へと飛び込んだ。脱衣かごを横目に確認しながら浴室への扉を開け放つ。湿り気を帯びた暑い蒸気の熱風が流れ込んでくる中、浴室内まで駆け込み辺りを見回す伊吹であったが、そこに彼女の姿はなかった。

 

「いないッ!」

「どうだった、って、おい!」

「どこ行くねん!」

 

 服部とコナンが女湯に駆けつけてくる頃には既に伊吹は中の確認を終え、女湯ののれんから飛び出してきた。

 コナンが声をかけるよりも早く端的に答えた伊吹が、慌てたように来た道を逆走する。駆け出す彼の後を服部とコナンも追いかける。

 伊吹は宿の玄関口に辿り着くと外へと飛び出した。月の光も影ってしまった暗闇の中で、頭を低くし地面の草木や土をよく観察する。

 

「外に出たな」

「ど、どうしてわかるの?」

「哀ちゃんの靴ならそこにあんで?」

 

 玄関口で待機していた蘭と和葉が伊吹の行動を見て思わず尋ねると、伊吹は眉間に皺を寄せ、どこか焦るように早口に説明した。

 

「下駄だ。宿に来た際、簡易の外履きとして下駄を貰っただろ。地面に真新しい下駄の足跡、それも子供用のものがある」

 

 それだけ言い残すと、伊吹はその足跡を追って外へと消えていく。

 コナンと服部が肩で息をしながら戻ってくると、蘭と和葉の話を聞いて、彼女らに宿から出ないよう釘を刺した後で美子から提灯を受け取り伊吹の後を追った。

 しばらく道沿いに進んだ先で、佇む男の影を見つけた。その筋骨隆々な浴衣姿はまごう事なき伊吹の背中だった。

 

「お、おい萩原、ど、どないしたんや」

「見つけたのか萩原」

 

 背後から駆けつけた服部とコナンからは伊吹の表情は見えない。しかしその佇む彼の背中からは、いつもの飄々とした雰囲気は感じ取れなかった。仁王像のように立ち尽くすその小山のシルエットからは、言い知れぬ怒気のようなものが溢れ出ていた。

 

「お、おい、それ、血痕かっ?」

 

 伊吹の足下に転がっているのは散乱した灰原の入浴セット。そしてその近くに微かに残る赤い液体の染み。

 どくりと強く脈打つのが聞こえて、こめかみが膨れ上がるような熱く強い血の流れを感じる。怒りと不安が胸中を駆け巡り、まるで脳が煮沸されているような感じがした。

 そんな彼を見て、その染みの傍らにしゃがみ込んだコナンが宥めるように声をかける。

 

「落ち着けよ萩原。これは血糊だ、血痕じゃない。誰が何のためにこんなことをしたのかは分からないが」

 

 コナンの言葉にハッと我に返った伊吹が、その染みを確認しホッと胸を撫で下ろした。

 

「ったく、普段のお前(おめー)なら、んなもん一目見ただけで分かるだろ」

「ああ……悪い。この、シャンプーとか見つけて、つい……。気が動転してしまった……」

「あのちっこい姉ちゃんが絡むと冷静さ欠いてまう、難儀な性格やで。ま、気持ちは分からんでもないけどな」

 

 服部とコナンの言葉に面目ないと頭に手を当てる。頭の中をぐるぐると巡っていた最悪の光景をかき消し、登った血を下ろすかのように首を振る伊吹。

  目を閉じて深呼吸を繰り返す。再び開かれた彼の眼光はまるで日本刀の如く、鋭く鋭利に、そして鈍く輝くように研ぎ澄まされる。

 

「見てみい、これ弾痕とちゃうか? まだ新しいで」

「こっちも見ろよ。葉っぱが裂けてるぜ。弾道的にもその弾痕と一致する」

 

 服部が少し離れた木の幹に微かに焦げ付いた丸い穴を見つけ、こんこんと叩く。コナンもその手前で不自然に裂けた植物の葉を見かけ摘まみ上げた。

 灰原の入浴セットを回収し、その散乱していた地点から二人の位置を確認する伊吹。右手を銃のように構えながら彼らの見つけた痕跡を視認する。

 

「ご丁寧に薬莢は回収されているが、弾痕からみて7mm口径の弾丸、やはり狩猟用のライフル銃。直立姿勢から発砲したと考えて、弾道から察するに身長は180cm代。身長と靴跡から考えて大柄な男、それも複数人。その男が……ちょうど、()()()()()()()()()()()軌道だな……」

 

 そう自身で説明しながらも、徐々にその白眼に赤い線を走らせる伊吹。

 己を支配しそうになる怒りを抑え込み、彼が再び地面に接地するほどに頭を下げ、這うように調べる。彼の煮えたぎる(はらわた)を冷やすように、とんっ、と大粒の滴がその浴衣の隙間へと滑り込んだ。

 

「降ってきよった」

 

 服部が掌をかざして空を見上げながら呟く。その滴はみるみるうちに数を増やし、辺りは葉を打つ激しい雨音に包まれていく。

 すると伊吹は慌てて再び地面へと這いつくばった。乱雑に残され、暗闇の中ではまともに視認することも難しい犯人達の足跡(そくせき)をなんとか捕らえようとその身が汚れることなどお構いなしに食らいつく。

 強い横風に煽られ雨はますます強く彼らを打ち付ける。服部の持っていた提灯の灯火が激しく横に揺れたあと、ふっと音もなく消え去り辺りは暗闇に包まれた。

 

「捕らえた」

 

 姿こそ見えなかったが、そう呟いたのが誰だったのかは容易に想像がついた。

 コナンが自身の携帯のライトを点灯させると、そこには山道の脇から深い森の奥を忌々しそうに睨む伊吹の姿が目に飛び込んだ。

 彼は回収し小脇に抱えていた灰原の入浴セットをコナンへと手渡す。

 

「これを持って宿に。連れ帰ったら冷えてるだろうから、風呂に入れてやらないと」

 

 そう言うと伊吹は己の浴衣の帯をキツく締め直した。

 

「おいおい、まさかこの雨の中バカ正直に森突っ切って追いかける言うんと」

 

 半ば呆れたような声色で問いかける服部が言うよりも早く、伊吹は森の中へと飛び込んでいった。

 

「このまま追うッ! この雨じゃすぐに痕跡はかき消されるッ、追いつけるのは今しかないッ!」

 

 鬱蒼と茂る森は瞬く間に伊吹の姿をかき消し、コナンがライトで照らしてもその姿はどこにもなかった。ただ彼の声だけが森の奥から徐々に小さくなりながら聞こえてきていた。

 

「こんな状況下でこの森の中を追跡できるのはアイツだけだ。俺達は一度宿に戻って」

「せやな。警察に連絡すんのと、万が一犯人が宿に来た場合の対策や」

 

 直接の追跡は伊吹に任せる。この状況下で自分たちも行くのはかえって足手まといになる。コナンと服部の意見は一致したようで、宿へと引き返すことに。

 

「それに、これも宿に置いといてやらねえとな」

 

 伊吹に渡された灰原の入浴セット見て、コナンは呆れたように呟いた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……寒い」

 

 大粒の豪雨は少女の体温を容赦なく奪っていく。

 あの血糊にまみれた剥製を見つけ、銃を持った男の影を見た瞬間、灰原は子狐を抱えて駆けだしていた。

 来た道を戻ろうと山道を駆け下りようとしたが、その視界に入ったのは道の外れから現れたもう一人の男の姿だった。灰原は咄嗟に軌道を変えて山道の横から森の中へと滑り込んだ。その瞬間、自身の後方から大きな炸裂音が鳴り響き森の木々にこだました。それが銃声だと容易に想像のついた彼女は、一度も振り返ることなく、ただひたすらに森の中を駆け抜けた。

 後ろから男達の言い争うような声が聞こえたが、その揉めている間に自分のことを見失ったようだ。

 しばらくして降り出した雨はすぐに辺りを湿った濃紺に染め上げる。厚い曇天の雲が溶けてきたような雨は墨汁のように黒い気がして、辺りはますます闇に包まれたように思えた。

 男達の声も足音も雨音にかき消され、相手との距離が分からない。しかしそれは相手も同じだと、灰原はこの雨に乗じて苔むした大きな岩陰に身を潜めた。

 雨水を完全には防ぎきれないが、幾分マシではあった。

 

「暖かいわね、あなた」

 

 両腕で抱きしめる子狐はほんのりと暖かく、子狐もまた灰原の胸の中で心地よさそうに目を閉じる。

 

「いたっ……、⋯⋯はぁ……」

 

 雨に濡れ体に張り付く浴衣は不快で、慣れない下駄で森の中を走ったものだからその鼻緒が食い込み、足の指の間がすりむいていた。

 携帯電話は部屋に置いてきた。あったとしてもここは圏外だし、この暗闇では僅かな光でも男達にこちらの居場所を知らせてしまう。

 真っ暗闇の中、うるさいくらいの雨音だけが聞こえてきて、灰原は溜め息を零す。

 

「あなただけでも逃がしてあげたいけど、さっきの剥製を見る限り狙いはあなたみたいだし……。なによりこの雨の中放ってはおけないわ……」

 

 膝を立て三角座りで、脚とお腹の間に狐を抱きしめる。膝に置いた自身の腕枕に額をあてがい、子狐を見下ろしながら彼女は呟いた。

 

「きっと大丈夫よ、彼がいるから。……けれど、ちょっと、心細いわね……」

 

 大きな雨粒が彼女の肩を震わせる。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あのガキどっち行った!?」

「あんなガキ放っておけよ、なんでそこまで拘るんだ?」

 

 森の中を突き進む三人の男。ブーツにジャケット、バッグにライフル銃。しっかりと装備に身を包んだその姿は、しかし合法的に狩猟をしようというものではなかった。

 

「あのガキは狐を見た。ここの狐のことが知られたら俺達の商売が成り立たねえ、あの狐の毛皮がいくらすると思ってんだ」

 

 先頭を歩く男が肩に装備するライトの明かりを調節しながら苛立たしげにまくし立てる。

 

「金塊が四足歩行で歩いてるようなもんだ、そこらの毛皮とは訳が違う。だから俺だってお前ら二人しか連れて来てねえんだ」

「だからってガキを殺したら処理が面倒だぜ」

「しかしあの子供、なんでこんな()()()()()森の中に一人で……?」

 

 後ろの二人の問いかけに先頭の男は舌打ちをしたあと面倒くさそうに口を開いた。

 

「さあな。大方、親とキャンプか蛍でも見に来たか」

「でも風呂入る感じだったけど……」

「知るかッ! 秘湯でもあるんじゃねえのかッ! ガタガタ抜かすな、今更人間撃つのも初めてじゃねえだろがッ」

 

 男達は足音を隠そうともせず堂々と歩く。雨に濡れぬようジャケットのフードを被り、銃身に水や泥が入らないよう注意しながら辺りを散策する。

 

「しかしこの雨だぜ、狐狩りどころじゃねえだろ」

「ああ。狐狩りは次の機会だ。コイツらはそこらの狐より頭が良くてな、銃声を聞いたらもう姿を現さねえ」

 

 後ろの男が足下のぬかるみに残された下駄の跡を確認しながら尋ねると、先頭の男は脚に装備した鉈を引き抜き辺りの邪魔な枝葉を払いのけながら答えた。

 

「だが頭がいい分、囮が効く。怪我をした仲間を見かけると別の狐を連れてきて助けようとすんだよ。そこを毛皮を傷つけねえよう銃は使わずとっ捕まえる訳だ」

「だが今回は、まさか子供を連れてきた……」

「ああ。まさか人間を連れてくるとはな、くそッ」

 

 先頭の男が足下に転がる石を八つ当たりするように蹴り飛ばした。

 

「まあいい。ここらの狐は知られてねえ、また狩りは次だ。だが、だからこそあのガキにあの狐のことを言いふらされちゃ困るんだよな」

 

 先程まで苛立たしげに語気を荒げていた男が、ふっと静かに呟いた。それは小さな声だったが、この激しい雨音の中で確かに後ろの男達の耳にも届いた。

 

「だからここからは、人狩り(マンハント)だ。ガキを殺す」

 

 後ろの男達が自身のライフル銃の薬室を確認した。

 ――ガチンッ、というその金属音は、激しい雨音に紛れながらも、不気味なほど森の中を反響した――

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 未だ弱まる気配のない雨から逃れるように、もぞもぞと灰原は大きな岩陰のくぼみに身を寄せる。

 鼻緒に痛めた足指を休ませるため下駄を脱ぎ、その上に足をちょんと乗せる。岩から滴り落ちる雨水に足先が濡れて冷えないよう、その指先をきゅっと丸めた。

 おでこを膝に当てたままうずくまる彼女はここまで走り続けたことで肉体的にも、猟銃を持った男に追われることで精神的にも追い込まれ、体力を激しく消耗していた。

 

「……」

 

 次第にまぶたが重たくなってきて、思わずウトウトと船を漕いでしまう。眠るのはまずいと頭では分かっていても、岩へともたれかかりその体重を預けてしまう。

 

「あぁ、ごめんね、大丈夫よ……。……でも少し、まずいかも……。すごく眠たいわ……」

 

 彼女の懐で丸まっていた子狐が彼女の手をペロリとなめて「くーん……」と心配そうにその顔を見上げる。

 安心させるようにその頭をそっと撫でるも、彼女は「まいったわね……」と力なく微笑む。

 体温の低下と体力の消耗で次第にぼーっとしてくる頭は、この状況の打開策を考えるほどには働いてくれない。脳内に浮かんでは消えていくのはまるで走馬灯か白昼夢のような映像ばかり。

 ――大事なその人が明日も変わらずそこにいてくれるのは、ほんまに奇跡みたいで、素敵なことなんよ……――

 ――言いたいこと、伝えたいことは伝えとかなあきまへん……――

 ――……いつそれが、最後の言葉になるやもわかりまへんから……――

 ふと、宿であの女将が言っていた言葉が脳裏に蘇ってくる。

 そういえば今日……、最後に彼と交わした会話はなんだったかしら……。

 うつろうつろと微睡(まどろ)む意識に思い出される宿での会話。

  ――最低ね……――

 ああ、そんなこと、言っちゃったけ……。

 ――まるで蛍ね……隠そうにも隠しきれない想いがあるのに、なくこともできなくて。それでもただ気づいてほしくて身を焦がす……――

 自らが口にした独白を思い出す。

 思えばいつもそう、バカとか最低とか……。……私が一番言いたいのは……ほんとうに伝えたかったのは……。

 

「くーん……」

 

 寄り添う子狐が灰原の胸元にぐりぐりと頭をこすりつける。

 

「心配ないわ、きっと彼は助けに来てくれる……」

 

 けれど、少しだけ不安。彼が来てくれるかどうかじゃない、銃を持った男に追われているからじゃない。

 あの一言が、あなたに伝える最後の言葉なんかになったらと思うと……。

 ぎゅっと子狐を抱きしめて俯く灰原。その肩が少しだけ震えているようにも見えた。それは冷え切った体のせいなのか、また別の理由か……。

 

 がさり。

 

「っ……!」

 

 確かに近くの茂みが揺れる音がした。先程から聞こえる風にたなびく葉擦れの音ではなく、もっと近いところから、確かに何かが意図的に揺り動かしたようだった。

 溶けかけていた意識が一気に凝固するようにバッと顔を上げる灰原。誰かがいる、すぐそこに。

 

「……ッ……」

 

 ドクンドクンと、先程まで弱っていた気がする心臓が強く脈打つ。全身に力が入っていき、体が即座に対応できるよう無意識に緊張が走る。

 暗闇でなにも見えないが、湿った草木を踏みならす不快な音が近づいてくる。子狐を再び抱き寄せて下駄の鼻緒に足を通す。音が鳴らないようゆっくりと脚に力を込め立ち上がろうとするも、疲労の溜まったその体はいやに重たく感じて、うまく動けない。

 岩陰の横、すぐそこまで何かが来た。ほんの僅かに、心の隙間に湧くのは彼が来てくれたのではという希望。動けない体を身じろぎさせて身を縮こませる。

 足音が、止まった。そこにいる。

 ライトの光の筋がすっと辺りを照らしたあと、灰原の座り込む岩のくぼみを照らした。

 

「こんばんは、お嬢ちゃん。やっと見つけたぞクソが」

 

 眩い光に目が眩み、その顔までは見えなかったが、酒かタバコか、聞き慣れない男のかすれたその声を聞いた瞬間に灰原は己の体に鞭打った。

 

「あっ、きゃっ……、ぐぅ……っ」

 

 弾かれたように駆け出したものの、すぐに泥と落ち葉でぬかるんだ森の斜面に脚を取られて転倒してしまう灰原。小学一年生のその体には、このろくに手入れのされていない深い山の中を駆け抜けるほどの体力は残されていなかった。

 

「お、狐もいるじゃねえか」

 

 倒れ込む灰原に三人組の男達が近づいてくる。先頭の男がニヤリと笑うも、その笑みには隠そうともしない苛立ちの色が浮かぶ。

 

「痛っ……、に、逃げて」

 

 転倒した際に足を痛めたらしく、立ち上がれない灰原は泥にまみれながら地面に座り込む。その腕の中から子狐を離し、追い払うように手で押しのけた。

 

「おい動くなよクソガキ」

 

 男が迷うことなくその銃口を灰原へと向ける。こちらにライトを向けてくる男の顔は相変わらず見えないが、その声色からこれが脅しではないと容易に想像がついた。そもそもこの男達は既に一発、こちらを殺す気で撃ってきているのだ。

 

「今日は散々な一日だぜ。狐は狩り損ねるし、ガキにここの秘密が見られちまった。俺はもう帰ってビール飲んで寝てえ。狩りはまた次だ……」

 

 鬱陶しそうに被ってたフードを脱ぎ捨てて顔を俯かせながらがりがりとその頭を掻きむしる。再び引き金に指をかけて灰原へと向き直った男の声色は、恐ろしいほど冷たかった。

 

「でもお前は殺す。今後のためにもな。俺がそう決めたんだ」

「⋯⋯ッ」

 

 男の無遠慮な殺意にあてられて思わず息が上がる灰原。座り込んだままなんとか距離を取ろうと腰を引きずるようにずりずり後ずさる。

 雨で顔に張り付いた髪が鬱陶しい。滴が目に入って染みる。見えないが手指の先は無数に傷ついてるのがわかる。体に張り付く浴衣は身を拘束するかのように重く不愉快だった。

 歩くよりも遙かに遅いその動きは、むしろ哀れみさえも覚えてしまうほど。

 

「こ、殺すならよ、その前に、俺このガキ……」

「死体とヤッてろボケ」

 

 後ろにいた男が暗闇の中から絡みつくような陰湿な声を上げる。隣の男が苛立たしげに答えた。ライトの筋が三本あることから想像はついていたが、男達は三人組のようだ。暗闇の中で灰原が得られる情報はその程度のものしかなかった。

 

「……っ」

 

 体を引きずるために指先が怪我することも構わず、小石や土や雑草を握りしめるように地面を掴む灰原。そんな彼女の震える指先が何かに触れた。それは小石ほどの大きさのものだったが、確かに人工的な作りのように思えて、灰原もついそれを手に取ってしまった。

 

 ――――リー……ンッ……――――

 

 激しく葉を打ちつける雨音の中で、それは異様なほどに響き渡った。

 彼女が手に取ったのは、伊吹から貰ったあの鈴だった。先程転倒した際に懐に入れていたのが転がり落ちていたらしい。美しい青と白の組紐を摘まみ上げると、再びその鈴が甲高い音を響かせた。

 

「え、なにっ、勝手に鳴ってる……っ?」

 

 確かに灰原は鈴を吊す紐を摘まんでいるだけで揺らしてはいない。吹き抜ける強風も手元の鈴を揺らすほどではない。確かにそれは揺れることもなく独りでに音を発していた。

 そもそもこれは貰ったときに一度鳴ってからはうんともすんとも鳴らなくなっていたのに……。

 訝しがるようにその鈴を見つめる灰原。その間も鈴は止むこと無く音を鳴り響かせる。まるで何かを呼ぶかのように。

 

「ああっ? なんだそりゃ、何してやがるガキ」

「新手の防犯ブザーか……?」

「こんな山奥じゃ、誰にも聞こえないよ」

 

 男達も灰原の手元を照らしながら訝しがるようにその鈴を睨む。

 

 ――リーン……ッ……、リーン……ッ……――

 

 鈴の音は徐々にその音の感覚を狭めながら、大きく鳴り響いていく。辺りは草木を打つ雨音と遠くから聞こえる川の濁流の騒音が酷かったが、それでもその鈴の音はやけにハッキリと聞こえた。

 

「うっせえな、さっさとぶち殺してその鈴も壊――ッ」

 

 忌々しそうに舌打ちする男が再び銃口を灰原の頭部へと向け、狙いをつける。その人差し指が引き金に触れた瞬間、男の背筋に氷柱が突き刺さった。いや、そう思えるほど、体の芯、臓物の奥から凍てつかせるような悪寒がその身を駆け抜けた。

 

「……なんだ? ……なにかくる」

 

 その感覚は他の男達も感じ取ったようで、振り返り辺りをキョロキョロと見回す。三本の光の筋が縦横無尽に辺りを探る。

 

 ――リーン……ッ……、リーン……ッ……――

 

 灰原もまた、その鳴り響く鈴を手に、見えない暗中に視線を彷徨わせる。

 

「……これって……」

 

 灰原が何かに気がついたようにポツリと漏らした。

 その違和感に男達も気がついたようだ。

 

「おい、この音……?」

「あ、足音、か?」

 

 まるで地響きが近づいてくるような重く激しい足音が止めどなくこちらへと向かってきている。何かがこちらに走って来ているのだ。

 隠す気も隠れる気もない堂々たる力強いその音は、先程までの男達と同じ「狩るのはこちら側だ」と言わんばかりのものだった。

 

「なんだよっ? 何か来るぞ!?」

「重い足音、く、熊かなんかかッ?」

「知るか、クソがッ、なんなんだよ今日はよぉッ」

 

 男が灰原に向けていた銃口を森の奥へと向ける。

 雨音にかき乱され、草木に反響し、鈴の音もうるさくてハッキリとした方向は分からないが、男達は三者三様に森の奥へと銃口を構えた。

 その重く激しい音はだんだんと近づいてくる、それに恐怖する男達のライトがせわしなく辺りを探る。

 ――もうすぐそこまで来ているッ――

 男達の脳裏に戦慄が走った。

 ドンッと激しい足音が一度聞こえたと思うと、辺りは一瞬静寂に包まれた。立ち止まったのではない、()()が踏み込んで、跳んだのだ。

 

「ううあああぁぁぁぁッッッ!!!」

 

 そう理解すると同時に男の一人がたまらず引き金を引き絞り発砲。どこを狙えばいいのかも分からないままの腰撃ち。

 ズドンッという激しい発砲音と同時に、眩いマズルフラッシュの閃光が暗闇を一瞬照らし出す。

 ――あれ、今、目の前――懐になにか、いたような――

 

「ぐぼぉうぇッ……!!」

 

 一瞬の光に浮かび上がったのは、撃った男の懐に潜り込む男の巨影。途端に鳴り響くのは肉を穿ち骨を軋ませる鈍い音と男のうめくような断末魔。巨影の拳が男の腹部を撃ち貫いた。

 

「な、なんっ、だよォォォォッ……!」

 

 訳も分からないままに、男が仲間の悲鳴とも呼べない声の方へと銃口を向ける。仲間に当たるかも、けれどそんなこと気にかけている暇も無い。男は構わず、その銃口から火を噴かせた。

 再び辺りを照らす一瞬のフラッシュ。上半身をむき出しにした怪物がこちらに迫るのが見えた気がした。

 

「ごがぁッ……!!」

 

 思わず耳を塞ぎたくなるような痛々しい骨を打ちつける重い音。巨石のような頑強な一撃が、発砲した男の左頬を撃ち抜きその頬骨を砕いた。

 

 ――リーン……ッ……、リーン……ッ……、リーーンッッ……――

 

 一際大きな鈴の音が辺りに響き渡ると、先程まで強烈に降り注いでいた雨音が嘘のように遠のいていく。

 降りしきる雨は止み、枝葉に溜まった雨水がパタパタと落ちる。鈴の音も止まってしまった。

 その空間を不気味な静寂が包み込む。どこかから聞こえてきた生唾を飲み込んだ音は、残された男のものだろうか。

 吹き抜ける風が裂くように暗雲を払いのけていく。厚い雲間から顔を覗かせる月が眩いばかりの青白い月光で辺りを照らし出した。

 

「……っ……!」

「……な、んだよ、お前、は……」

 

 その姿に、瞳を希望の光で輝かせるのは泥にまみれて地に伏せた少女。

 その姿に、目を見開き恐怖に顔を歪ませるのは猟銃を構えた男。

 上半身の脱げた浴衣は帯で止まり、腰布のように垂れ下がる。雨に濡れ月明かりにぬらぬらと光るその古傷にまみれた筋骨隆々の肉体。大きな両掌はそれぞれ男達の頭部を鷲掴み、ぐったりと意識の無い男達の体を引きずる。

 その姿は、まさに仁王か悪鬼羅刹の如し。

 

「なんッ、なんッ、だよッ! お前はよおォッ!!」

 

 自身を鼓舞させるかのように雄叫ぶ男が決死の覚悟でその銃口を向けた。しかし、男が猟銃の照準器で伊吹を捕らえる頃には、彼は離れた位置でその脚を振り上げていた。まるで蹴りをかますような体勢であったが、脚が届くような距離ではない。

 この距離なら引き金を引くこちらの方が早――ッ

 男が撃とうとしたその刹那、一瞬の風切り音が聞こえたかと思うと、なにか固いものが恐ろしい速度でその鼻っ面に飛来した。

 

「ぶッ……」

 

 ガコンッ、とどこか景気のよい鈍い音を立てて男の頭が天を仰ぐ。男の視界に映ったのは宙を舞う一足の下駄。

 あの蹴りでこの下駄をすっ飛ばしやがったのか。鼻の曲がった男がどくどくと血泡を吹き出しながらも、転倒しそうになるその体を踏ん張って堪える。

 

()ねぇやァッ……!!

 

 吹き出す鼻血に詰まった鼻声のまま、男が再び銃口を向ける。しかし男が正面に向き直る頃には、もうその眼前には仁王の姿が。

 最早そこは銃の距離ではない、しかし一度引き絞った指先は止まらず、その銃口からは激しい爆音と共に鉛玉が発射された。

 銃口は既に伊吹の頭の横。耳元で発砲された銃身を肩で弾くように跳ね上げる伊吹。銃を弾かれがら空きとなった男の右脇腹に渾身の左拳を叩き込む。

 

「げぼォッ……!」

 

 確かな手応えは容赦なく男のあばらを数本砕き、男にとってこれまで感じたことのない、その男史上最大震度で揺れ動く五臓六腑。

 

「ぐッ、ぞッあああアアアアァァァッッ!!」

 

 苦悶の表情を浮かべる男が、額に血管を浮かべて己の全身に力を込める。死に物狂いの力で銃を手放し、その脚に装備していた鉈を引き抜いた。

 しかしその最後の足掻きに過ぎない隙だらけの大振りを躱すのは伊吹にとって造作も無かった。男の渾身の力で振り下ろされた鉈は盛大に空振り、木の幹へと刃を立てる。

 木を叩く衝撃で、葉に溜まっていた滴がぼたぼたと舞い落ちる。その大粒の雨にも似た滴が落ちきる前に、どこかゆっくりにも見える動きで伊吹は右拳を構える。

 その剛脚の力強い踏み込みは大地をも揺るがしたような気がした。低く下ろした腰、踏み込む膝、捻る腰の回転、そして膂力。

 

「ォオオラァァッ!!」

 

 全身の筋力を躍動させ、振り抜かれた伊吹の拳が男の(はらわた)を穿つ。

 足腰を軸に捻りを加え半回転する伊吹。くの字に折れる男の体がまるで伊吹の鉄拳に張り付いたかのように、勢いそのまま男をその木の幹へと叩きつけるように殴りつけた。

 ドシンッというあの銃声にも劣らぬ重く激しい快音。その衝撃と振動に痺れるように身を震わせた樹木からは、土砂降りの豪雨の如き雨の滴が降り注いだ。

 

「――――ッッ……!!」

 

 叫び声すら上げることもできず、その男の意識は完全に刈り取られ暗中に溶けていった。

 ぐったりする男の体から力が抜け、完全に意識が途絶えたことを確認してから伊吹はその拳を引き抜いた。

 男は糸が切れたように膝から崩れ落ち、泥の中へ顔から倒れ込む。足下で伏せる男を興味も無さそうに捨て置き、振り返って灰原の元へと駆け寄る。

 

「哀、大丈夫かっ!?」

 

 灰原の顔に張り付く前髪をかき分け、雨で冷え切りすっかり冷たくなったその頬を撫でる。怪我はないかと彼女の体を頭の先からつま先まで確認する。なんとなく、灰原は彼のその視線から逃れるように身じろぎして体に張り付くように乱れていた浴衣を直した。

 灰原の傷ついた手足を見て、まるで自身の体が痛むかのように悲痛に表情を歪ませる伊吹。

 

「……大丈夫よ。少し足をくじいちゃったみたいだけど……」

 

 そう言って自身の足首をそっと撫でる灰原。

 伊吹が灰原の手に重ねるようにその足を撫で、寒さのせいかその小刻みに震える肩をそっと抱き寄せた。

 

「あったかい……」

 

 先程まで暴れていたせいか、彼の体は熱いくらいで、雨に混じってその体は汗にもまみれていた。彼の胸から聞こえる心音は激しくて、それがすごく心地よくて、思わず耳を押しつけてしまう。

 自分を探すために必死になってこの山を走り回っていた姿が容易に想像できて、なんだか無性に嬉しくて、愛おしくてたまらなかった。

 

 ――言いたいこと、伝えたいことは伝えとかなあきまへん……――

 

「……」

「……ッ」

 

 彼の胸の中でもぞもぞと動いた灰原が、そっとその体を押しのけて顔を上げる。

 雨で濡れた明るいブラウンの髪が子供の面影をかき消すほどに妖艶で、そのほのかに色づいた頬が少女の面影を残し、じっと彼の瞳を見つめて離さない潤んだ瞳は月明かりを吸い込んでゆらゆらと儚げに揺れる。

 そんな彼女の姿に伊吹も思わず息を飲み、先程までとは違った理由でどくりと心臓が跳ねた。

 

「……あ……、え、と……」

 

 しばらく伊吹を見つめる灰原。すっかり静まりかえった森に聞こえるのはどこかで滴り落ちる微かな水音のみ。

 何かを言おうと何度か口をぱくぱくと開いては、躊躇うように恥ずかしげに視線を逸らしてしまう灰原。

 すると彼女の足下に、あの子狐が駆け寄ってきた。「きゃん」と鳴いて嬉しそうに尻尾を振る子狐が、座り込む彼女のお尻をぐいぐいと押すように頭をこすりつける。

 まるで応援してくれるかのように背中を押すその姿を見て、灰原は思わず笑みが零れた。意を決したように、再び彼女が伊吹の目を見つめる。

 どこか甘い、雨で湿った夜の香りを乗せた風が、ふわりと二人の間を吹き抜けた。

 

「私は……、私は……っ、あなたに、言っておかなきゃいけないことがある……っ」

「……」

「ほんとは、もっと前に、もっと早く、言っておくべきだったけど……っ」

 

 彼女の言葉に沈黙で応える伊吹。

 祈りを捧げるかのように胸元であの鈴をぎゅっと両手に握りしめ、絞り出すように、独白するように、叫ぶように、己の魂を削るかのように、彼女はその想いを言葉に紡いだ。

 

「私はっ……、私はっ、あなたを……っ、あなたをっ、……――――――ッ……!!」

「…………ッ……」

 

 驚いたように目を見開く伊吹。耳元まで朱色に染める灰原。どこか不安げに、期待するように、懇願するように、彼の瞳を見つめて逸らさない。

 沈黙が二人の間を包み込む。

 すると彼がゆっくりとその顔を灰原へと近づける。「あっ、え……っ」と声を漏らした灰原が、口を閉じてそっと顎を上げてきゅっとその目をつむった。

 すると伊吹は自身の耳に手を添えて大きな声でこう言った。

 

「えっ!? なんて言ったっ!? 耳元でバンバン撃たれたもんでッ、キーンってして全っ然聞こえないんだ!」

「………………」

 

 雨に濡れた頬が風に吹かれて火照った熱を急速に冷やしていく。いつもの冷気を孕んだドライな半眼のジト目が伊吹を刺し貫いた。足下の子狐も溜め息を吐くように「くーん」と鳴いて尻尾を垂らした。

 

「あっ、あーっ、あーっ。ああ、ようやく聞こえてきたかな」

 

 そう言いながら耳を叩いたり指を抜き差しする伊吹。自身の決意の籠もった言葉が無情にもこの深い森の中に飲み込まれて溶けていったような気がして、灰原は一気に力が抜けてしまった。

 

「……はぁー……」

「大丈夫か? どこか痛むのか?」

 

 盛大な溜め息と共に地面に手をついて項垂れてしまう。なんか男達に追われていた先程よりも疲れたような気がした。

 もういいわ、と灰原が気を取り直すように自身の髪をかき上げる。

 

「それにしても、よくここがわかったわね」

 

 腕を組んだ灰原がいつもの調子で伊吹に尋ねると、彼も先程の話を蒸し返せる雰囲気ではなくなってしまい、いつもの飄々とした様子で頭を掻いた。

 

「哀の居場所ならどこだってわかるよ」

「……」

 

 彼女を安堵させる優しいテノールのような声でそんなことを言う伊吹。しかし今宵の彼女の目はいつも以上に冷たかった。

 

「……と言いたいところだけど、正直この豪雨で参ってた。たどり着けたのはその鈴の音のおかげだ」

「ああ、これ。そういえばまた音が止まって……」

 

 伊吹が困ったように笑いながら握り締められた灰原の手を指さす。彼女がその手を開くと驚いたように固まる。伊吹も灰原の手の鈴を覗き込んだ。

 

「それって……、()()()()?」

「そんなはずは、だって、ずっと握りしめてたはずなのに……」

 

 灰原の手の中で例の鈴はいつの間にか大粒のどんぐりと入れ替わっていた。それを摘まみ上げてしげしげと眺める灰原。その表情は驚きを隠せない。

 二人がきょとんと目を合わせる。なんだか怒濤の展開で理解が追いつけないけれども、考えるのも馬鹿らしくなってきて、二人は思わず笑ってしまった。

 

「ま、いいわ。これも御守りね」

 

 そう言ってそのどんぐりを懐へと入れる灰原。ふと気がつくと、足下にいたはずの子狐はいつの間にか姿を消していた。森の奥から「きゃん」と聞こえたような気がして、灰原は小さく「ばいばい」と呟いた。

 

「さってと、宿に戻るか。コイツらもふん縛っておかないと」

 

 伊吹が膝に手をあて重い腰を上げる。転がったまま未だ意識の戻らない男達を鬱陶しげに指さす。

 

「冷えたから温泉にも入らないとな」

「ええ、そうね。ちょっと疲れたわ……痛っ」

 

 伊吹に手を引かれるように立ち上がる灰原だったが、挫いた足が思いのほか痛むようで、思わず彼に寄りかかってしまう。

 

「痛むのか?」

「ええ、少しね、平気よ」

 

 そう強がる彼女の前にしゃがみ込んだ伊吹が背中を向けて「ほら」と言いながら手をちょいちょいと動かす。

 

「いいわよ、別に」

「よくないわよ」

 

 いつものように優しく笑う彼の横顔に、灰原もまたいつものように小さく嘆息するものの、それ以上は文句も言わずにその背中に身を預けるのだった。

 

「あったかい……」

「まあ運動しまくったし」

 

 彼の背中は先程胸に抱かれたときのように暖かくて、おぶられると思わず眠りに落ちてしまいそうなほど心地よかった。

 まどろんでいく意識の中で、灰原が独り言のように小さく零した。

 

「さっきの言葉だけど……」

「うん」

「……言うのは、また今度にするわ」

「……うん」

 

 心地よい揺れと安堵する温もりと、彼の匂いに包まれて、朧気な意識は夢の中へと溶けていった。

 伊吹は一人、灰原を大切におぶりながら、男達三人を乱雑に引きずって帰路へとつくのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「知ってる天井だ……」

 

 伊吹が目を覚ますと、そこには低い天井が。というより車の屋根が。

 

「おいおい……、おいおいおいおい……! なにがどうなってるッ!? 温泉は!? ご馳走は!? 肉じゃがは!?」

「うっさいはボケ、なに騒いどんのや」

「んん……、いつの間に寝て……ふあぁぁ」

 

 伊吹の叫び声に目が覚める一同。気がつくとそこは小五郎のレンタカーの中で皆眠りこけていたらしい。

 

「あ、あれ、いつのまに車に乗ったんだ、俺」

「ら、蘭ちゃん、うちらや、宿で寝たやんな?」

「う、うん……、しかも浴衣だったはず……」

 

 全員の格好はそれぞれの私服へと変わっていた。

 

「平次! ま、まさか、あんたがうち着替えさせたんか!?」

「あ、アホ抜かせ! だ、誰がそないな貧相な体」

 

 和葉の拳が服部の頭部を打ち抜いた。

 

「…………」

 

 灰原の寝起きのぼーっとする頭にこの騒ぎは辛いのか、耳を塞いでいたが、耐えきれずに車外へと出てうんっと伸びをする。

 伊吹も車を降りると、外は東の空からちょうど朝日が顔を覗かせる頃合いで、思わず眩しそうに手をかざす。

 

「あの後、どうなったんだっけ……?」

「……」

 

 伊吹の言葉に、あの灰原を救出したあとの事を思い出す二人。

 伊吹が灰原と密猟犯三人を連れて宿へと戻ると、皆が迎えてくれた。蘭と和葉は涙ながらに灰原へ駆け寄り、コナンと服部は半ば呆れたように伊吹を褒めていた。

 そういえば美子さんがやけに怖い顔で男達を睨んでいた気もしたが、伊吹にぶちのめされたその姿を見て、とても上機嫌になっていた。尻尾があればぶんぶんと振り回したことだろう。

 しばらくして酔いから覚めた小五郎は蘭に厳しく叱責され、平謝りだった。

 一同が冷えた体を温め疲れを癒やそうと温泉に浸かって、美子が用意したご馳走と美味い肉じゃがをたらふく食べてから各部屋で泥のように眠りについたはず。そこまでは伊吹も灰原も覚えていた。

 しかしそこで目が覚めるとこの現状だったようで、辺りをぐるりと見回しても宿らしきものは見当たらなかった。

 

「どないなっとんねん」

「さあな」

 

 服部とコナンも訳が分からんと頭を掻きながら車を降りてくる。

 伊吹が周囲を散策し、車の位置から昨日宿があったと推測される場所を探っても、宿どころか石灯籠や提灯の一つも見つからなかった。

 

「集団催眠にでもかかってたってのか……?」

 

 小五郎の言葉を聞いて伊吹が灰原を見やると、彼女はそのポケットからあの大粒のどんぐりを取り出した。その指先にも確かに小さな傷が残っていて、その足首にもまだ捻挫の症状が見て取れた。

 伊吹も自分の拳を確認し、そこに残る真新しい傷は確かに昨日ついたもので間違いなかった。

 

「いや、確かに昨日までのことは現実だ」

「せやったら例の密猟犯も縛ったままのはずや」

「明るい今のうちに電波の届く場所に移動して、綾小路警部に連絡してみようよ」

 

 伊吹とコナン、服部の提案で一同はいったんレンタカーでその場を後にした。昨日はあれほど迷ったはずなのに、今度はやけにあっさりと舗装された道路まで出てこられた。

 おっかしいなあ、と呟く小五郎の横で、服部が綾小路警部へと連絡をつける。電波が繋がった事で昨夜の自分たちのいた位置をおおよそ絞り込んだコナンが、その場所を調べるように伝える。

 

「……」

「見て蘭ちゃん、哀ちゃん寝とる。かーわいい」

「ほんと。なんだかお姫様みたいだね」

「じゃああっちはお姫様守っとる騎士? 随分ごつい騎士様やなぁ」

 

 コナンと服部が躍起になって昨日の事を調べる中、最後部座席では伊吹が眠りこけ、彼に身を預けるようにもたれ掛かる灰原も夢の中だった。

 彼らにとって、お互いが無事なら、それでもう他の事はどうでもいいのかもしれない。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「結論から申し上げますと、宿なんかどこにもありまへんでした。確かに毛利はんらの言わはる一帯を探しましたら縄で縛られた密猟犯はおりました。せやけど、辺りのどこを探しても宿はおろか民家も山小屋も、なんもありまへんでした」

「んな馬鹿な! じゃあ俺達は昨日どこに泊まったってんだよ!」

 

 あらかたの捜査を終えた綾小路警部が、一同が帰る前に小五郎達の元へと調査結果の報告へと来ていた。

 その報告に食ってかかる小五郎に綾小路警部は「そない言われましても」と冷静に断りを入れつつ、報告を続ける。

 

「そもそも月灯庵? でしたやろか? そないな宿はこの辺りには一軒もありまへん。あの辺の森は管理こそろくにされてまへんけど、一応お稲荷さん祀っとる地元の神社が所有しとる土地です。そないな宿、勝手には建てられまへん」

 

 綾小路警部の言葉に蘭と和葉の顔からさっと血の気が引いていく。昨日泊まったのは、食べたのは、いったいどこでなんだったんだ、と。

 

「それはそうと、例の密猟犯になんかしはりましたか?」

「あ、いや、それは不可抗力で多少怪我を……」

 

 バツが悪そうに応える伊吹に警部は不思議そうに小首を傾げて続ける。

 

「怪我? あいつらは怪我なんてしとりまへんでしたけど。ただ全員が罪を認めた上でうわごとのように壁に向かって繰り返し言うとるんですわ」

 

 逆に驚く伊吹だったが、警部は少し脅かすように声を低くして続けた。

 

「森には手を出しません、狐には手を出しません……赦して下さい()()()()()()()()と」

 

 一同の顔から血の気が引いた。

 あの若女将の、目を細めにんまりと笑う麗しくも怪しい笑顔が思い出されて、どこかでコンッと狐が鳴いた気がした。

 

「まるで狐につままれた気分だ……」

「とんだ女狐ね……」

「そこ、うまいこと言わんでええねん」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「かくして、俺と哀の京都珍道中は幕を閉じた訳だ」

 

 過激な表現や青少年の育成に不相応な箇所を飛ばしつつ伊吹は子供達に語り終えた。

 

「そ、それで、その宿はなんだったの……?」

「さあ、なんだったのか……」

「そ、その女将のねーちゃんは、どうなったんだよ!?」

「……さあ、どうなったのか」

「なんだか、信憑性に欠ける話ですねぇ」

 

 歩美と元太が食いついてくる中、光彦だけが顎に手を当て疑うような目を向ける。

 

「どうしてその宿には他のお客さんがいなかったんですか?」

「いやー、そこまで考えてない……ごにょごにょ」

「今考えてないって言いましたね!」

 

 光彦が鬼の首を取ったと言わんばかりに伊吹を指さして立ち上がる。

 

「哀ちゃんが帰ってきたら聞いてみようよ」

「そうですね。灰原さんに聞けば……」

「おー、聞いてみろ聞いてみろ」

「んなことより、オレ腹減ってきちまった」

 

 時刻は既にお昼頃。元太の正確な腹時計がぐーっと鳴り響く。

 

「そろそろお昼だね。カレーパーティーは夜だろ、昼はなに食べたい?」

「えっと……、歩美なんだか肉じゃがが食べたい!」

「オレもオレも! なんかすっげー食いたい気分!」

「なんだかボクも肉じゃがの気分です」

「おう、そう言うと思って、昨日の残りがたんまりあるんだよ」

 

 伊吹が黒猫のイラストがプリントされたエプロンを身につけると、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「あー、やけに肉じゃがのディテールが細かいと思いました! まさかこのためのお話だったんじゃ!」

「え、どゆこと?」

「いいですか元太くん、ボクたちはすっかり伊吹お兄さんの術中に」

「術中って……」

 

 一同が盛り上がる中、阿笠宅にインターホンが鳴る。「哀ちゃんだ!」と歩美が玄関へと駆け寄り、両手いっぱいに買い物袋を掲げた灰原と博士を迎え入れる。

 

「随分楽しそうだけど、なんの話をしていたの?」

「あのね哀ちゃん、実はね」

「まあまあ、その話は皆で肉じゃがを食った後にでも」

「誤魔化しましたね! ますます怪しい……」

 

 伊吹が子供達の相手をしながらリビングの方へと追い立て、博士が「冷蔵庫に入れるのを手伝っとくれ」と声をかけながらその後を追った。

 玄関で靴を脱ぐ灰原を見つめる伊吹。

 

「……なに?」

 

 その視線に気がついた灰原が、思わずいつものジト目で問いただす。

 

「⋯⋯()()()()

「……は? なんの話?」

「いや、何でもない。この前の返事、ってところかな」

 

 伊吹が意味深に言った言葉の真意を読み取れない灰原は、呆れたように彼を見つめる。

 意味の分からないことだけ言い残して、背を向けてリビングへ戻ろうとする彼を呼び止めた。

 

「ちょっと、荷物持っていって」

 

 すると伊吹は手を耳に当てて、少し大きな声でとぼけるように言う。

 

「え、なんだって? 耳がキーンってしてよく聞こえないんだ」

「あなたさっきから、なに言っ……て……」

 

 思わず尻すぼみになる灰原。その頭の中を何かが駆け巡っていく。彼の言葉の意味と、先程の返事とやらが線になって繋がっていくのを感じて、彼女の首から頬、頬からおでこへと赤みがかっていく。

 

「あ、あ……っ、あなた、あのっ、あれ……っ、聞こえ……っ」

「さあ、なんのことか」

 

 君が意を決したように、あまりに健気な瞳で見てくるものだから、つい魅入ってしまって……。普段はわざわざそんなことしないんだけど、ついその唇を見つめて読み取ってしまった。

 けど、できることなら、その転がる鈴のように愛らしく透き通った綺麗な声で、もう一度確かに聞かせてほしくて。

 

「哀ちゃーん、伊吹お兄さんがね」

「この前京都に行ったっていうんだけどよ」

「その時の話を是非お聞かせ下さい!」

「……っ……、な、ないしょ……っ」

 

 リビングから顔を覗かせて聞いてくる探偵団たちに、思わず顔を背けて、朱に染まる頬を誤魔化すようにツンとそっぽを向いてしまう。

 子供のように無邪気に笑いながらほっぺをツンツンしてくる彼に無性に腹が立つけれど、ちゃんと想いが届いたような気がして、少し心がむず痒かった。

 

 灰原の部屋の宝箱の中で、どんぐりが一粒コロリと転がった。

 

 



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12話 米花町より愛を込めて 前編

 今回、試験的に主人公の表向きの設定を17歳高校生から19歳大学生へと変更しております。(元々それほど年齢描写が重要となる作品ではありませんが……)
 今後の話の展開やキャラクターの動かしやすさを考慮しての変更です。
 変更が不評のようでしたら元の設定へと戻させていただきます。問題なさそうであれば、これまでの話につきましても順次加筆修正をさせて頂きます。



「うぅ……、くっ……、ん」

 

 外気や空調機によるものではない、長い時間そこに(とど)まり続けたことで自然と冷えていったヒンヤリとする空気の冷たさ。鼻をくすぐる埃っぽさと、不快なカビの匂い。

 締め切られた窓には埃にまみれた厚手のカーテンが引かれ、照明の灯っていない部屋は薄ぼんやりとしていて、外の様子はおろか現在の時刻でさえも分からない。

 

「えっと……、どうしてボク、こんなところに……」

 

 そこで目を覚ましたのは、くせっ毛の乱れたショートヘアに、チラリと口元から覗かせる八重歯、スポーティでスレンダーな体つきが特徴的な女子高生探偵こと世良真純である。

 ジーンズにTシャツと簡素な上着。少し出かけてくるとでも言い出しそうなラフな姿の彼女の四肢には、その格好に似つかわしくない荒縄が皮膚に食い込む程にキツく結ばれ、痛々しく手足を赤く染める。

 

「うっ……痛っ」

 

 とにかく状況を探るためもぞもぞと体を起こす彼女だったが、後ろ手に縛られた腕ではうまく体を支えられず、這うように室内を移動する。

 壁際まで辿り着いた彼女が寄りかかるように体を支えて立ち上がろうとするも、どうにもその脚に上手く力が入らないようで、ずるりと滑るように尻餅をつく。

 手脚に残る痙攣にも似た微かな痺れ。乱れる呼吸を整えると酸素の送り込まれた脳は鮮明に冴えていき、自身がなぜこんな状況に置かれてしまったのか、その記憶が少しずつ呼び起こされてきた。

 

「確か……、買い出しに出たんだったよな……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「じゃあちょっと夕飯に何か買ってくるよ。ボク的には“死ぬほど美味いラーメン小倉”の気分なんだけど、ママはなにがいい?」

「別に何でも構わん。相応の栄養とカロリーを摂取できるものならな」

 

 都内の某ホテル。その一室に世良真純と一見中学生にも見える少女の姿があった。

 真純と同じく少し癖っ毛に乱れたプラチナブロンドのショートヘア、パチパチと瞬く上下の瞼には長いまつげが揺れ、キリリとつり上がった目尻は少女のあどけなさとはかけ離れたクールでドライな大人の女性のそれを思わせる。

 真純が少女に対して“ママ”と呼んだのは聞き間違いではなく、実際に彼女は真純の母親、メアリー世良その人である。コナンや灰原同様に例の毒薬、APTX4869を飲まされ幼児化してしまい今の姿となり、娘の真純と共にホテルを転々としながら組織の目を逃れる生活を送っている。もっとも彼女は虎視眈々と組織に対する反撃のチャンスを窺っているようだが。

 青みがかった寝間着姿のメアリーが小さく咳き込みながら真純に今日の夕飯のリクエストを出すと、真純は困ったように「はいはい」と笑いながら上着を一枚羽織ってホテルを後にした。

 

「日が暮れるとまだちょっと寒いなー」

 

 真純がホテルのロビーを抜けると外はすっかり夕暮れ時で、夕闇のビル間を滑ってくる風は昼間と違って冷気を帯びていた。

 

「……ん? なんだ、あれ」

 

 思わず襟元を締め直して両の腕を(さす)りながら目的の中華料理屋を目指していると、彼女の目になにやら、彼女の探偵としての好奇心をくすぐる光景が飛び込んできた。

 それは商店街の通りから一本入った薄暗い路地に佇む少し古びた雑居ビル。しばらく前からテナントの募集がかかったままになっていたのを覚えているが、どこかの企業が入ったのか、何やら作業服を着た男達がせっせと荷物を運び出していた。

 作業員二人がかりで運ぶ大きな包みや、いくつもの段ボール箱。ドライアイスの煙だろうか、微かに白い(もや)が漏れ出ているクーラーボックスのようなものも見て取れる。

 しかし彼女の興味を引いたのはその作業員達ではない。彼らが引っ切りなしに出入りするその雑居ビルの入り口に立つ二人の男。

 片や白地に黒の縞模様、ゼブラ柄のスーツに身を包み黒髪をオールバックに固めタバコを吸う身の丈190近い大男。もう一人は灰色のスーツの下に黒いカッターシャツを着込み、色の抜けた髪がまるで獅子の(たてがみ)のようにざんばらに逆立っている。不自然に動かないその左の目は義眼なのか、唇を縦断するように入った古傷と相まって見る者を威圧する。二人の男のその異様な雰囲気はどう見ても堅気のそれではなかった。

 作業員達もその男達を気にしないように作業を続けてはいるが、ゼブラスーツの男がタバコを吐き捨て黒光りする革靴で踏み潰す動作一つだけで一瞬動きが止まる。何事もなかったかのように作業を再開するも、その男達に気を遣い怯えているのは明らかだった。

 

「どう見ても、普通の業者じゃないよな」

 

 路地に身を隠しながら雑居ビルの様子を見ていた真純が自身の携帯を取りだし、作業員の服に記載された企業名と思しき名前を検索する。しかしこの近辺はもちろんのこと、もっと広い範囲で検索をかけてみても該当する企業はヒットしなかった。

 同じ名前の会社は出てきても、字面が異なっていたり、業種や場所を考えても偶然に同名なだけで無関係なものばかり。

 

 ――と、いうことは存在しない業者。そんな連中がどう見ても筋者(すじもん)な人たちと(つる)んでなにを――

 

 真純が携帯から視線を戻すと、そこにはゼブラ柄の男がタバコを吸っているだけでざんばら髪の男の姿が見当たらなかった。

 

「嬢ちゃん? なに、してんの? こんなとこで」

「っ!?」

 

 まずい、そう思ったのも束の間、背後から機械のように感情の起伏を感じさせない男の声がかけられる。

 振り返るとそこにはあの色の抜けたざんばら髪の男が突っ立っている。男の右の瞳は獲物を逃さぬ獅子の眼光のようにこちらを捕らえるものの、その不自然な左の目は真っ直ぐ前を見つめたまま動かない。

 こちらを脅しつけるようにドスの効いた低い声色ではない。偶然通りで見かけた知人に声をかけるような、そんな自然な声で問いかけてきた。

 

「――ッ、……いや、少し道に迷っちゃって……」

 

 しかし真純はこの手の声色を知っている。探偵として血なまぐさい殺人現場に遭遇した際にごく希に見かける類いのヤツだ。一般人と倫理観の異なるタイプの人間、言語が通じているはずなのに言葉の通じない相手。

 ざんばら髪の男は路地の通路を塞ぐように真純の前に立つ。後ろには例の業者ともう一人のやばそうなゼブラ柄の男。

 この状況で一人はまずい。ここは力ずくにでも目の前の男を伸して一時撤退すべきだ。思わずその拳を握りしめ、いつでも蹴り込めるよう脚に力の入る真純。

 

「……」

「…………っ」

 

 獣の眼光のように意思を読み取れない男の瞳が真純を捕らえて離さない。その視線にたまらず一歩踏み込もうとしたその時、男はあっけらかんと口を開いた。

 

「そう。ここ抜けたら、大通り、出るから。行きな」

「っ、……、あ……、ああ、……ありがと」

 

 思わず肩すかしを食らったようにきょとんとしてしまう真純。

 彼女に道を譲るように壁際へ身を寄せるざんばら髪の男に尚も注意を払いながら、真純が男の横を通り抜けようとしたとき、後ろの雑居ビルの方から何かを転倒させる激しい音が聞こえてきて思わず振り返ってしまった。

 彼女の視線の先には躓いてしまったのか、例のクーラーボックスらしき箱や積み上げていた段ボール箱を倒してしまった作業員の姿が。そしてその箱から白い煙幕と共にドライアイスがゴロゴロと転がり落ちてきて、最後に何かが詰まったいくつかの真空パックのような物が散乱した。

 パックの中身は無色の液体で満たされており、何らかの薬品のようだった。蓋の開いた段ボール箱から見えたのは植物を乾燥させたような枯れ葉。そして袋詰めされ密閉された白い粉末状の()()()

 存在しない業者、どう見ても堅気ではない男達、使われていないはずの通りから外れた雑居ビル。パズルのピースが真純の脳内でハマっていく。

 

「――あ、見えちゃっ、た?」

「お前ら――ぐッ……ぁ……ッ!」

 

 それがろくでもない薬で、コイツらがどうしようもない人間だと理解したとき、真純は背面の男へ渾身の一撃を見舞おうと瞬時に踏み込んだ。しかし、彼女の一撃よりも速く激しい衝撃と痛みが体を貫いた。

 

「見なかったら、帰れたのに。あの、転けたヤツが、悪いよな」

「ぁ……ぐ、ぅ……」

 

 頭のピースを組み合わせて状況を把握するのに一瞬遅れをとった真純に対して、一切の迷いも躊躇もなく、懐から取り出したスタンガンを彼女の柔肌へと押し付けその強烈な電流を浴びせたざんばら髪の男。

 

 ――ああ、ちょっと、まずい、かも……――

 

 霞むように揺れる視界と遠のいていく意識。夕闇を背にこちらを見下ろしてくる男の顔は暗くてよく見えなかったが、それは別に笑っているわけでも怒っているわけでもなくて、ただ静かに佇むその異様な姿が背筋を凍らせた。

 影に飲まれる狭い路地を吹き抜ける風は一層に冷たくて、遠くの消えかけた赤い空ではカラスが哀れむような声で鳴いていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……そうだ。恐らくスタンガンでやられたな、それも改造されたとびっきり強烈なやつ」

 

 部屋の壁際に腰を下ろして自身の置かれたこの状況に至るまでを思い出す真純。

 察するにここはあの雑居ビルの一室だろうか。四肢を結ぶ縄と、未だ影響の残るスタンガンの痺れに辟易しながら体を動かし、外に通じる唯一の扉へと辿り着く。耳を寄せて外部から音を頼りに情報を得ようとするも、聞こえてくるのは足音とも会話とも分からないような雑音ばかりで、思わず溜め息をついてしまう。

 

「ああ、ちくしょう。……()()()の言う通りになっちゃったかなぁ」

 

 壁に預けていた背をずるずると滑らし、脱力するように床に転がる。薄暗い部屋に視線は当てもなく泳ぎ、その思考はぼんやりと数日前の記憶を遡っていく。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「やあ、みんな! 今帰りかい?」

「あ、こんにちは、世良の姉ちゃん」

「やあ、コナン君! それと、哀ちゃんも!」

「……」

 

 それは少年探偵団が帝丹小学校のウサギの飼育当番の仕事を終わらせて下校しているときだった。

 いつもより少し遅いその下校時間は帝丹高校の下校時間と被ったようで、子供達の後ろから快活そうな明るい元気な声がかけられた。

 一同が振り返ると学校帰りの蘭と園子、そして探偵団に声をかけた真純の姿が。少し困ったように苦笑いしながらもとりあえず返事を返すコナンに対して、露骨に迷惑そうな視線を浴びせる灰原。組まれた腕は無意識に出た拒絶のシグナルだろうか。

 

「みんな一緒に帰ってたんだね。なんでも世良ちゃん、哀ちゃんに用事があるんだって」

「ショタコンの上にロリコン……」

 

 蘭が真純を手で差しながらそう言うと、隣の園子はニシシといたずらに笑いながら小さく呟いた。

 

「ちょっと哀ちゃんと話がしたくてさ! 今から家にお邪魔してもいいかい?」

 

 腰を曲げてぐっと灰原に顔を寄せて屈託のない笑みを浮かべる真純がそう問いかける。

 そして、まるでイタズラしているところを親に見られてはいないかと確認する子供のように、キョロキョロと辺りを警戒しながら見回す。口元に手を当て「ほら、いつもあの彼に邪魔されちゃうからさ」と少し困ったように片目をつむり囁く。

 

「だめよ」

 

 彼がいないから困るのよ。その一言を飲み込んで、代わりに小さな嘆息を零した灰原が真純の快活な視線から逃れるように目をつぶったままきっぱりと断りを入れる。

 

「えー、いいじゃないか、ちょっとくらい」

「今度の休みに博士とみんなで米花デパートに出かけるの」

「今から博士の家に集まって」

「みんなで打ち合わせするの!」

 

 灰原の言葉に光彦と歩美が嬉しそうに続ける。

 子供達の話を聞くと自身の顎を撫でながら少し考え込んだ真純だったが、なにかを閃いたようにピンと指を立ててにんまりとその吊り上げた口角から八重歯を覗かせる。

 

「じゃあそのお出かけ、ボクもついて行っていいかい?」

「…………」

 

 真純の提案に「どうする?」とアイコンタクトで確認し合う子供達。彼女のそのめげない姿勢に半ば呆れ顔のコナンと、眉間に微かな皺を寄せ不満を隠す気もない灰原。

 

「で、でも博士が福引きで当てた食事券を使ってみんなで行く予定だから、世良の姉ちゃんの分までは無いんじゃないかなぁ」

「じゃあボクの分は自腹で払うから大丈夫だよ!」

 

 コナンが横目に灰原の様子を窺いながらやんわりとそう断ると、間髪入れずに真純も答えた。

 膝に手をついて腰を落とし、子供達に視線を合わせていつもの明るい笑顔で食い下がる真純。

 

「な、いいだろ?」

「うちの連れになにか用かい、お嬢さん」

 

 いつもの調子でどこか飄々とした口調ではあったが、その声色にほんの微かな警戒心と不信感を混ぜ合わせた男の声が真純の背中にかけられる。振り返る彼女の視線の先には屈強な肉体と痛々しい古傷に相反して、人当たりのよさそうな愛想のよい笑みを浮かべた伊吹の姿があった。

 しかしその瞳の奥は長く深い付き合いの者にしか分からない程度だが、確かに鋭く研ぎ澄まされている。そんな彼を視界に捕らえた灰原はどこかホッとしたように眉間の皺を綻ばせて小さく息を吐いた。

 真純の大きな釣り目の瞳が微かに細められ、目尻をピクリと引きつらせて口の端をへの字に曲げる。声には出さなくとも「げっ、またあんたか」とその視線は口以上にものを語っていた。

 その表情から察するに、これまでに何度も灰原へのアプローチを邪魔され続けてきたのだろう。

 

「少し聞こえていたけど、同伴はやめといた方がいい。子供達のお守りをするだけだから、君についてくるメリットはないよ」

 

 伊吹からジャブのような牽制が放たれる。ほんの僅かに、その場に流れる空気が張り詰めたような気がして、伊吹の声の温度がなんとなく低い気がするとにその場に居合わせた灰原以外の一同も察し始める。

 

「それでもボクは行きたいなぁ。ぜひ哀ちゃんともっと話がしたいし」

 

 通学鞄を持ったまま両手を頭の後ろに組んで挑発するような視線を彼へと浴びせながら食い下がる真純。そんな彼女を見つめる伊吹の眉尻がピクリとヒクついた。

 

「……言い方が悪かった。その子にあまりちょっかいを出すのはやめてくれないか」

 

 灰原を指さしハッキリと言う伊吹からはすっかりいつもの飄々とした雰囲気は無くなっており、その圧に思わず真純もたじろいでしまう。

 

「……っ、……わ、わかったよ、ついて行くっていう件は、諦めるよ」

 

 思わず視線を逸らしてバツが悪そうに頬をかく真純。普段飄々としてるくせに時折、途端に見せるその言い知れぬ威圧感や、こちらの心根まで見透かすような刃物のように鋭く冷たい眼光、そしてどうにも底が掴めないような彼の雰囲気が彼女は苦手なようだ。

 そんな二人の空気もどこ吹く風で口元を手で隠しながら再びニシシと笑う園子が目元もイヤラシく「ロリコンvsショタコン」と心底楽しそうに呟いた。

 伊吹が「うん、お守りは大変だから」といつもの柔和な笑みを浮かべながら真純の横を通り過ぎて子供達と言葉を交わす。先程一瞬顔を覗かせた抜き身の刀身のような雰囲気はすっかり消えてしまっていた。

 彼の姿を追うように振り返った真純の視線の先には、伊吹に頭を撫でられて少し鬱陶しそう彼を見ながらも、それを容認する灰原の姿が。

 先程までの連れない大人の女のような、クールでドライな雰囲気はすっかりなりを潜めている。いや、声色やその澄まし顔こそは変わっていないが、しゃがみ込んで彼女と視線を合わせ会話する伊吹を見つめるその瞳はどこか輝いてすら見え、頬も薄らと紅潮しているかのよう。

 

「私も行くの。あまりお守りお守りって言わないでくれる」

「なんでさ」

「……いい気がしないからよ」

 

 真純が顎に手を当て、楽しげに言葉を交わす伊吹と灰原を鋭い視線で観察しながら蘭と園子に対してポツリと質問する。 

 

「……哀ちゃんって、あの萩原って人とどういう関係なんだっけ?」

「哀ちゃん? えっと、哀ちゃんは確か阿笠博士の親戚の子供で……」

「萩原君も博士の親戚とか言ってなかった? 前に居候してる身とか言ってた気がするけど」

「じゃあ親戚同士?」

 

 蘭と園子が思い出すようにお互いの記憶の引き出しを開ける。彼女らの情報に耳を傾けながら再度伊吹達を見つめる真純。その口元が事件を推理する際の、解決の糸口を見つけたときのようにニヤリと楽しげにつり上がった。

 

「親戚同士……ね。ボクにはとてもそんな風には見えないけどな」

 

 彼女を守るような彼の行動、そして彼が現れてからの彼女の仕草や表情……、まるで二人の関係は――

 

「え、どうして?」

「あ、いや、……ほら、二人とも似てないからね、全然」

「まあ遠い血の繋がりだろうからね」

 

 蘭の問いかけに思わずあたふたと答える。特に興味の無さそうな園子の一言に「だよねー」と同意しつつも、その眼光が伊吹と灰原から逸らされることはなかった。

 子供達と今度の休みの話で盛り上がっていた伊吹が、自身の背中に向けられるその視線に気付いてか、音も無く立ち上がり振り返る。

 その瞳には先程までの威圧感こそ無いものの、未だ灰原を諦めきれないのか、それともこちらの関係を探っているのか、真純のその()()()()()()に困ったような苦笑いを浮かべる。

 

「君は、まるで猫のようだね」

 

 伊吹からの思わぬ言葉に真純も顎に当てていた手を離し、考え込む思考も途切れてしまった。

 

「ね、猫? 初めて言われたけど」

「日本人離れしたその綺麗な瞳、時折顔を覗かせる愛らしい八重歯。柔軟でスポーティな体つきにすらりとしなやかに伸びた手脚、高い運動能力。明朗快活、表情豊かで見るものを和ませる。……そして興味のある事に飛び込んでいく旺盛な好奇心」

 

 淡々と真純を褒める伊吹に、ついじろりと半眼を向けてしまう灰原。真純も正面から褒められて思わず満更でも無さそうに「いやー」と頬をかく。

 

「だが、気をつけた方がいい」

 

 伊吹の声色がまたほんの少し、冷気を帯びた。

 

「猫は好奇心で死ぬ」

 

 彼の一言に思わず真純もその眼光を鋭く尖らせ、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。

 すると伊吹は右手の人差し指を立て、空を指差しながらいつもの飄々とした雰囲気で続けた。

 

「そして猫の天敵は鳥だ。……それも猛禽類。警告だよ、()()()には気をつけた方がいい」

「……どういう意味だ、それ」

 

 意味深な彼の言葉の真意を読み取ることはできなかったが、どこか釘を刺すようにこちらを見てくる伊吹の視線が不愉快で、思わずむっとして聞き返す真純。

 しかし彼がその問いかけに答えることはなかった。そして彼のその鋭い視線も、真純というよりかはまるで()()()()()()()()()()()()を牽制しているかのようにも思われた。

 「別に、大した意味はないよ」そう柔和な笑みを残して、子供達を連れて帰っていく屈強な男の背中を見送る。真純の脳内に、大きく力強い白頭鷲の羽が舞ったような気がした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「それで、解毒薬の首尾はどうだ」

 

 真純がホテルに帰るなり、ソファに腰掛けコーヒー片手にテレビを見ていたメアリーが声をかけた。脚を組んでマグカップを揺らす仕草はどうにもその幼い姿には似合わない。

 

「ダメだったよ。また例の彼に邪魔されちゃってさ」

 

 部屋の壁際に鞄を放った真純がジャケットをハンガーに掛け一息つきながら胸元のネクタイを緩める。参ったと言うように頭をかきながらメアリーの向かいのソファへと腰を下ろした。

 

「彼がいないタイミングを狙ったんだけどね」

「一体何者だ、その男」

「さあ。その哀ちゃんって子が住んでる阿笠博士って発明家のところに居候してる身だって聞いたけど」

 

 腕を組み思案するように視線を斜め上に向けながら真純は続ける。

 

「なんて言うか、ただ者じゃないオーラっていうのかな、出てるんだよね。どう言えばいいのかな、ちょっとママにも似てる雰囲気っていうか」

 

 「あとガタイが凄い」冗談めかしてそう笑いながら報告する真純に、メアリーも手元のマグカップに注がれたダークブラウンを揺らしながら「ふむ……」と考え込む。

 

 ――特に問題がなければ捨て置くつもりだったが、こうも邪魔をされればなにか手を打たねばなるまいか――

 

「その男の情報が欲しい。他になにか言っていなかったか?」

「え、彼の? うーん、そうだなあ……」

 

 室内の照明を吸い込んでマグカップの水面に反射する自身を見つめて何かを思案するようなメアリー。しばらくカップを眺めていた彼女がそれをテーブルへと置くと、ソファに背中を預けて両腕を組む。彼女の本格的になにかを考える時のその仕草に、真純も自身の知りうる伊吹の情報を引っ張り出してくる。

 

「確か、東都外国語大学、だったかな。に通う大学生で、その哀ちゃんの一応親戚とか言ってたけど……、怪しいものだけどね」

 

 真純が部屋の天井を見上げながらポツポツと思い出す。「あまりボクも知らないんだよね、彼のこと」と両肩をすくめて困ったように笑うと、メアリーも呆れたように小さく溜め息を漏らした。

 テーブルに置かれたコーヒーサイフォンから自身の分のコーヒーをマグカップに注ぎながら、「ああ、そういえば」と真純が思い出したように口を開いた。

 

「なんかボクのことをまるで猫みたいだって言ってディスってきたよ。あと、()()()には気をつけろとかなんとか」

「……っ」

 

 真純のなんて事無さそうなその報告に、マグカップを揺らすメアリーの手がピタリと止まる。

 その鋭い眼光が真純を貫く。

 

「白頭鷲、だと?」

「うん、確かそんなこと言ってたと思うけど……」

 

 ――白頭鷲、米国、驚異的な毒薬、その解毒薬の情報を握っていそうな少女、それを守るような男、ただ者ではない雰囲気……、まさか……――

 

「ママ、どうかしたの?」

 

 テーブルへ伸ばしていた手を無意識に口元にあてがい腕を組んだまま黙り込むメアリー。そんな彼女の様子に真純も困惑したように、どこか心配そうに声をかける。

 

「……いや、なんでもない。薬は引き続き必要だ。だが……、その男には気をつけるんだ」

「う、うん……、わかった」

 

 真純にそう釘を刺すと、メアリーは静かにカップをすする。真純に釘を刺すその一言には有無を言わせぬ迫力があった。

 無糖のコーヒーの芳醇な香りが口内に広がり微かな苦みを残して鼻から抜けていく。その深い味わいを楽しむこともなく、微かに薄らと開かれた彼女の瞳は見たこともないその男の影を捕らえ、その正体について思考を巡らせるのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 真純と一悶着があったその夜、灰原と伊吹は黒猫のイラストがプリントされたお揃いのエプロンを身に着けて二人でキッチンに立ち夕飯の準備を進めていた。

 

「どう?」

「うーん、ちょっと薄い?」

「思ったより野菜の水分が出ちゃったかしら」

 

 部屋に漂う食欲をそそるいい香りはどうやらビーフシチューのようで、博士もリビングのソファに座りながらも鼻をヒクヒクとヒクつかせ、思わずキッチンの方へと顔を引き寄せられてしまっているようだ。

 お玉を片手に鍋をかき回す灰原がいくらか中身をすくって小皿へと注ぐ。パン切り包丁で人数分のパンを切り分けていた伊吹が、彼女が差し出してきた小皿に口をつけ、もごもごとその味を吟味しながら小首を傾げた。

 

「そもそも野菜の量が多すぎるんじゃない」

「あなたが具沢山のシチューをいっぱい食べたい気分って言うから」

「だからって冷蔵庫のダメになりそうな野菜を全部入れなくても」

「そもそも、買い物に行くとあなたがカゴに何でもぽいぽい入れるからでしょー」

「……尻に敷かれておるのぉ」

 

 したり顔で問題を指摘する伊吹にいつもの半眼を浴びせつつお玉を向けて対抗する灰原。痛いとこを突かれたように伊吹は視線を泳がし、口をへの字に曲げながら引き続きパンをカットする。

 リビングからキッチンの様子を窺っていた博士が伊吹の将来を思い、微笑ましいながらもその表情には苦笑いが浮かんでいる。

 

「あ、タマネギをスライスして入れるんじゃなかった? シャキシャキ食感残すために最後に入れるとかなんとか」

「これ以上水分出るような野菜入れていいわけ?」

「じゃあルーも追加しちゃおう」

「あ、コラ、あなたまた勝手に」

 

 伊吹が鍋の中にルーを放り込むと、灰原は呆れたように溜め息を吐いて冷蔵庫から使いかけでラップに包まれていた半玉のタマネギを取り出しスライスする。

 

「痛っ……」

 

 呑気な笑顔で鍋をかき混ぜるの彼と、ちょっと味の濃そうなシチューの様子がつい気になってよそ見をしていたものだから、タマネギをスライスしていた灰原は誤って自身の指を切ってしまったらしい。

 

「よそ見するから。大丈夫か? 哀」

「ええ、大丈夫よ、少し切っちゃっただけだから……って、ちょっとっ……!」

 

 ぷっくらと赤い玉のように、灰原の左手人差し指の先が出血する。幸い傷口はさほど深くはない様子。

 彼女が傷口を洗い流そうとキッチンシンクの蛇口に手を伸ばそうとすると、それよりも早く伊吹が彼女の手を取った。

 きょとんとする灰原を尻目に伊吹は彼女の小さな手を引き寄せると、迷いなく血の滲んだ彼女の白くしなやかな指先を口に含ませ傷口に舌を這わせた。

 

舐めてりゃ治るよ(はめふぇひゃはおふお)

 

 思わぬ彼の行動に、指を咥えられたまま一瞬のフリーズ。再起動した彼女の脳内は急速に熱を帯びていき、放熱のためか頬や耳が勝手に火照っていって思わず取り乱してしまう。

 傷口に染みるピリッとした痛みと、彼の舌の言い知れぬ感覚が指先から伝わってきてなんとも言えぬもどかしい感情が彼女の体を貫いていく。思考の波が頭の中をぐるぐると駆け回った。

 

「あっ、んっ……、ちょっ、と、そのっ……」

 

 ――確かに傷口を舐める行為は洗浄作用があるかもしれないけどそもそも洗浄するなら蛇口で洗えばいいわけで、ムチンなんかの粘膜コート機能は傷口の乾燥を防ぐ保護作用が少なからずあるだろうし、リゾチームなんかの抗菌作用とか細菌の凝縮作用とか炎症を抑える作用とか色々理屈というか理由は考えられるのだけれど、野外ならまだしも家に居るのだから傷口洗って消毒しておけばそれが一番なはずで――

 

「……いっ、いつまで咥えてんのよ……っ」

「うん、血も止まったし傷は浅そうだな。絆創膏取ってくるよ」

「あ、え、ええ……、お、お願い……」

 

 ただの応急処置になにを焦っているのか、と自身に言い聞かせるように静かに深呼吸を繰り返す灰原。

 しかし、ついリビングの救急箱を漁る彼をチラリと覗き見てしまう。そして何を思っているのか、先程まで彼の唇が触れていた自身の指先をじーっと見つめる灰原。

 赤い糸のように薄らと入った線からはもう血が溢れてくることはなく、その傷口にそれ以上唇を触れさせるべき真っ当な理由を彼女は見つけることが出来なかった。

 

「……………………」

「哀?」

「ッ! な、なにっ……?」

「いや、絆創膏。手、出して」

「あ……、え、ええ……」

 

 伊吹が右手の指先に絆創膏をピンと挟みながら戻ってくると、灰原の傷ついた手を取りその傷口を蛇口の流水で軽く流してしまう。灰原の口からは少し落胆したような吐息が漏れた。

 伊吹がそっと灰原の指先に絆創膏を巻くと、彼女は火照りの収まったいつもの澄まし顔でその指先をしげしげと眺めるのだった。

 ……わしはここにいてよいのかの。家主であるはずの博士がどうにもいたたまれない気分になっていると、阿笠邸にインターホンの呼び出し音が鳴り響いた。

 ソファから立ち上がろうとする博士に手を向け「いいよ、俺が出る」と伊吹が制した。

 

「……今日はなんの差し入れで?」

「申し訳ありません、本日は何も用意しておらず」

 

 伊吹が玄関の戸を開けてみると、そこには隣の工藤邸に居候する沖矢昴の姿が。なんだか嫌な予感がするなと、伊吹は思わずしかめっ面を浮かべてしまう。彼の皮肉めいた質問に昴も申し訳なさそうに眉尻を垂らして手を振った。

 

「……」

 

 リビングの影からそっと不満顔を半分覗かせて玄関の様子を窺う灰原。昴を警戒しているのか、せっかくの楽しい時間を邪魔されたことが不満なのか、そのドライな半眼はじーっと音がしそうな程に二人を見つめて放さない。

 昴もその視線に気がついているようで、「弱りましたね」と頬をかきながら伊吹へと訪問してきた理由を切り出す。

 

「今日は少々、あなたに折り入ってお願いしたいことがありまして」

「……、なんでしょう?」

「ここではちょっと。よければ工藤邸へお招きしたいのですが」

 

 僅かに表情を曇らせ申し訳なさそうにお願いをする昴に対し、腕を組んで玄関の壁にもたれ掛かりながら面倒くさそうに対応する伊吹。昴に工藤邸へと招待されると、チラリと振り返り灰原の様子を窺う。

 彼女はリビングから半分顔を覗かせたまま威嚇する猫のように不満げな表情でこちらを見てくる。彼らの会話は彼女にも聞こえていたようで、彼女の顔には「さっさと断って」そうありありと書かれているかのようだった。

 

「あー、せっかくですが……、ちょうどこれから夕食でして」

「そうみたいですね。お時間は取らせませんので」

 

 昴の態度や語気から彼に引く気はないと察した伊吹は、再び灰原へと振り返り困ったように苦い顔をして肩をすくめる。何となく断れない予感はしていたのか、灰原も大きなため息を漏らしてしまう。

 どことなく肩を落とした様子の灰原がエプロンを外し投げ捨てるようにキッチンカウンターへと引っかけると、足取り重くスリッパを鳴らしリビングのソファにどかっと腰掛けた。

 

「誰だったんじゃ?」

「お邪魔虫」

 

 博士が聞くと、灰原はソファに脚を組んで座り頬杖をついてむすっとしながらぶっきらぼうにボソリと吐き捨てた。

 その意味が分からず博士が頭に「?」を浮かべていると、伊吹がエプロンを脱ぎながらリビングへと戻ってきた。

 

「あー、なんか有無を言わさない感じみたい。ちょっとお隣行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

 

 伊吹が申し訳なさそうに両手を合わせ灰原の顔色を窺うように申し出る。つまらなさそうにテレビを見ながら答える灰原。

 

「シチュー、もうできちゃうし、先食べてて」

「待ってるわ」

「え?」

 

 頬杖を突いたままチラリと横目に伊吹へと視線を送り、彼の言葉を遮る。

 

「待っててあげるから。さっさと用を済ませて戻ってきなさい」

「あ、はい、了解です」

 

 反論を許さない灰原のオーラに気圧され、さっさと話を終わらせて帰ってこようと、伊吹はそそくさ着替えて阿笠邸を後にした。

 ちらりと時計を見やる灰原の大きな溜め息がリビングに残され、お腹を空かせた博士も「じゃあわしだけ先に⋯⋯」とは言い出せない雰囲気だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「こんばんは、君が萩原伊吹君だね。話は聞いているよ」

 

 伊吹が工藤邸のリビングに通されるとそこには既に家主であり、コナンもとい工藤新一の実父でもある世界的ミステリー作家、工藤優作が優雅に紅茶を楽しんでいた。

 その隣では優作の妻でありコナンの実母、元世界的名女優である工藤有希子が昴と伊吹の分だと思われる新しいティーカップに紅茶を注いでいた。

 彼らの姿を確認すると伊吹は昴を横目に、自身のスイッチが切り替わるのを感じた。

 

「……初めまして」

「そんな恐い顔をしないでほしいな。楽にしてくれたまえ」

 

 柔和な笑みを浮かべながら紳士的な所作で優作がソファを勧める。昴と有希子、そして優作の表情を窺いながら伊吹は警戒心を露わにソファへと腰掛ける。

 彼のその向かいのソファに昴が座ると、有希子が用意した紅茶で唇を湿らせた。

 

「わざわざ来てもらって感謝する。折り入ってお願いというのは」

「その前に」

 

 昴が自身の喉元に手を這わせると、沖矢昴の甘い声色は赤井秀一のそれに変わる。その鋭い目を僅かに見開き本題を切り出そうとしたとき、伊吹が右の手を彼に突き出し言葉を制した。

 

「その話に、Mr.工藤は関係していますか?」

「……直接は関与していない。これは俺の個人的な頼みだからな」

「では、失礼ながら、できれば工藤夫妻には席を外していただきたい」

「ふむ……。まあ、私は構わないけどね」

 

 伊吹の意図は分からないものの、赤井と優作は視線を合わせアイコンタクトを取ると、彼の要求を飲むことにした。

 

「ただ、理由を聞いてもいいかな」

 

 紳士的ながらもどこか挑戦的に微笑む優作に対し、伊吹は一瞬の間を置いてから口を開いた。

 

「……私の、立場は既にご存じですね?」

「ああ、諜報員らしいね、米国の」

「ええ……。私がCIA工作員となった時、最初に教わったことは……」

 

 伊吹がその香りを楽しむように瞳を閉じ、手元のティーカップを一口すする。その刃物のような鋭さを孕ませた眼光で優作を捕らえると、慎重に、しかしどこか挑発めいた色を含んで口を開いた。

 

「自分より頭のキレる相手とは長く話すな、です。正直、私はあなたと話すのが一番恐ろしい」

「それはそれは、……光栄だね」

 

 少し満足げにそう微笑むと、優作は「終わったら声をかけてくれ」と言い残し、有希子を連れてリビングを後にする。

 その場に残された赤井がでは早速と言わんばかりに、体を前のめりに膝についた手を組み、それを口元にあてがいながら話を切り出す。

 

「実は、俺は少しの間工藤夫妻と共に米花町(ここ)を離れる」

「そうですか。……組織(やつら)を潰すいい作戦でも思いつきましたか?」

「ああ、まあな。君になら教えてもいい。ただしこちらへの全面的な協力が条件ではあるが」

「……聞かないでおきます。余計なことに首を突っ込みたくはないので」

 

 伊吹がソファの背に体重を預け、工藤邸の豪華な天井を見上げながら「それで?」と話の本題を尋ねる。

 

「……メアリー世良、君も彼女のことは把握しているだろう?」

「ああ、あの()()()()()()()()()ですか。あなたの実母であり、SISの諜報員、でしたね」

「今彼女は俺の妹とホテル暮らしをしている」

「存じています。あなたが哀のことを知っている程度には、こちらもあなたの家族のことは」

「やめたまえ、人質や脅しの話じゃあない」

 

 再び伊吹がティーカップに口をつける。まるで談笑でもするかのように柔和で落ち着いた声色で会話をしているが、その瞳は変わらず鋭利で、言葉の端々に鋭い棘のようなものが見え隠れしていた。

 相対する赤井も困ったような笑みを浮かべるものの、彼の眼光も決して優しくはなかった。

 

「彼女たちに何かあったら助けてやってほしい。君ならできるだろう?」

「あなたが手助けすればいい、あなたならできるでしょう。私は無関係です。そもそもあの人とあの娘でしょう? どんな手助けが必要だと言うんですか」

「俺はまだ彼女たちの前に現れる事はできない。身を隠したままでは出来ることと出来ないことがある」

 

 赤井がテーブルにとんっと指を突き、その鷹のような視線で伊吹を捕らえる。

 

「それと、灰原(あの子)はまだ我々の監視及び保護対象下にいる」

「……それは脅しのつもりですか?」

 

 赤井の鷹の目と伊吹の抜き身の刀身のような鋭い視線が静かに絡み合う。言葉の応酬はまるで互いの喉元に刃を突き立て合うかのよう。

 

「まさか。君が日本(ここ)を離れた時はFBI(我々)があの子の身の安全を保証しよう。君も何かと掛け持ちしていて忙しい身だろう」

 

 眼光鋭くも唇の端を僅かに吊り上げ、伊吹の足下を見るようにしたたかに交渉する赤井。そんな彼に対し、聞こえないほどに小さくも思わず舌を鳴らしてしまう伊吹。

 

「条件は50:50(フィフティーフィフティー)だ。困った時はお互い様といこうじゃないか」

 

 何かを考え込むように人差し指でとんとんと額を叩いていた伊吹だったが、少し視線を泳がせたあとチラリと時計を見やる。

 そして深い溜め息のあとで「面倒くさい」と言わんばかりに口を歪ませ表情を曇らせた。頭を掻く彼からは、先程までの威圧感や鋭い雰囲気はすっかりなりを潜めていた。

 

「……わかりました。Mrs.世良とその娘さんに何らかの脅威が差し迫った際には、彼女達に助力することお約束します」

 

 伊吹が思いのほかすんなりと話を受けてくれたのが以外だったのか、赤井も思わずきょとんとしてしまう。そんな彼に「ただし」と伊吹はその太い指先を向ける。

 

「私はただでさえ、あなたやあなたの家族のことを哀に黙っているだけでも居心地が悪いんです。ましてやあいつに嘘はつけない。あなたたちの事を哀が()()()()()()()()()努力はしますが、万が一にも詰問された際には私は隠すことはできません。それをご了承頂きたい」

「……いいだろう。そこは、()()()()()()()()()()()君の話術に期待するとしよう」

 

 赤井の差し出す右手を、少し嫌そうな顔をしながらも伊吹は握り返した。二人の交換条件はここに締結したようだ。

 

「しかし意外だったな。君は面倒事はゴメンだと、てっきり話を受け渋るかと思ったが」

「別に、あなたのためじゃない。……赤井家(あなた方)は、親も姉も失った哀にとって、唯一血の……。……自分の大切な者のために、手を貸すだけです」

 

 言葉を濁す伊吹がそれを追求されないように、「それに」と続ける。

 

「以前アメリカへ行っている間、哀を見ていていただいたのは事実なので」

「ふむ、そうか。何はともあれ、引き受けてくれて感謝する」

 

 伊吹が何度目かの溜め息と共にすっかり温くなったティーカップに手を伸ばすと、ポケットの中の携帯が震えた。取りだし見てみると、二件のメッセージの受信を知らせるアイコンが点灯している。どうやら博士と灰原からのようだ。

 

『哀:いつまで話し込んでんのよ ヽ(`Д´)ノ』

『博士:伊吹くんそっちはまだかかりそうかの? 哀くんの機嫌がそれはもう凄いことになっとるんじゃ』

 

 内容を確認した伊吹が額に手をあてがい、思わず「あー……」と声を漏らす。

 

「話は終わりですね? なんか、それはもう凄いことになってるらしいのでそろそろ帰ります」

 

 それだけ言い残すと伊吹は赤井を置いてそそくさと工藤邸を後にした。

 

「随分と、尻に敷かれているな」

 

 赤井のどこか愉快そうな呟きも伊吹の耳には届かなかった。

 急いで隣の阿笠邸へと戻ってくると、つまらなさそうに組んだ脚の先をぷらぷらと揺らしながらテレビをザッピングする灰原と、そんな彼女の顔色を窺うようにちらちら視線を泳がせる博士の姿が。

 

「あ、えっと、ただいま……」

 

 彼の帰宅を横目に確認して、灰原は溜め息と共にキッチンへと戻る。何を言うでもないが、シチューを温め直すようだ。

 

「なんか、ゴメンね。……怒ってる?」

「別にあなたに怒ってるんじゃないわ。よその家の夕飯時に突然押しかけてきて、住人を連行していく非常識な人に対して怒ってるの。……人の大事な時間を……」

 

 むすっとしたままシチューの入った鍋をかき混ぜる灰原の口から尻すぼみに何やら小言が漏れる。そんな彼女に伊吹はからかうように微笑んだ。

 

「ねー。せっかくの俺と哀の貴重な甘い時間だったのに」

「……そこまで言ってない」

 

 温め直されたシチューとすっかり固くなったパンを食卓に並べ、三人は予定より少し遅めの夕食にありつく。

 なんの話をしてきたのか聞くそぶりもなく、黙ってビーフシチューを口に運ぶ灰原に、バツの悪そうな顔をして思わず伊吹の方から尋ねてしまった。

 

「……聞かないの?」

「……聞かないわ。聞いてほしくなさそうだから」

「あ、いや、それは……」

 

 なにを、と問い返すこともなく淡々と答える灰原。聞かれないのは確かに助かるが、そのいつもよりドライな雰囲気に伊吹も思わず困ったように頬を掻いて視線を泳がせると、ごにょごにょと口ごもってしまう。

 

「ま、あの人は工藤君とも色々あるみたいだし。あなたのことだから、こっちに危険が及ぶような心配はしてないわ」

 

 いつもの澄まし顔でそう言うと、固くなったパンに少し手こずりながらもちぎり分ける灰原。一口大にしては少し大きすぎたそのパンにはむっとかぶりつく。

 なんて事もないように、当然のように言い放つその言葉には彼に対する深い信頼の色が見て取れた。

 彼女がパンに二口目をつけようとしたとき、何かを思い出したように「あ、でも」と言葉を漏らす。

 

「まぁ……、あなたのことは心配ね」

 

 その小さな口でパンにかじり付きながら、向かいの伊吹の表情を窺うように上目遣いに見上げる灰原。少し色素の薄いその瞳が微かに照明に灯りを反射させながらじーっと彼を見つめる。その視線は責めるでも疑うでもなかったが、伊吹の心根を揺すり、思わずドキリとさせるには十分すぎるほどに愛らしく可憐で美しかった。

 

「あんまり悪いことしちゃダメよ。あと、危ないことも」

「へーい……」

 

 子供に言い聞かせる母のようにそっと微笑んで、絆創膏の巻かれた指先をピンと伸ばし、伊吹の鼻先をちょんと突っついた。

 

 

 



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12話 米花町より愛を込めて 中編

 赤井との約束を取り付けられてから数日後のこと。子供達と米花デパートへのお出かけを明日に控えた週末の夜。阿笠邸のリビングにはコーヒーの芳醇な(こう)ばしい香りが漂っており、博士が夕食後の一服を楽しんでいた。

 キッチンで博士の分のコーヒーを淹れた灰原が、コーヒーパックと紅茶のティーパックを見比べながら、自身と伊吹の分の飲み物はどちらにしようかと小首を傾げる。

 キッチンから顔を覗かせても伊吹の姿はなく、彼に決めてもらうことも出来ない。自室かトイレにでも行っているのだろうと、彼女が手に持ったコーヒーと紅茶をキッチンカウンターに置いたとき、それは目に入った。

 一瞬それがなんなのか理解できなくて、思考が追いつくと今度は理解したくなくて。それでもそれは確かに彼女の視界の隅に鎮座していた。

 

「…………ッッーーッ!!」

 

 夕食後のゆったりとした時間が流れるいつもの阿笠邸に、少女の声にもならない悲鳴がこだました。

 

 

「どうしたッ!?」

「あ、哀くん!?」

 

 キッチンから聞こえてきたその少女の悲鳴に、ドアをぶち破る勢いでリビングに飛び込んできたのは伊吹。その激しさに扉の上の蝶番のネジは吹き飛び、ドアは半開きのまま斜めに傾き、か細い鳴き声を上げるようにキイキイと金属音を上げる。

 リビングのソファで寛ぎながらニュース番組を見ていた博士も脚がもつれそうになりながらも慌てて飛び上がる。

 キッチンの外には顔を青くして飛び出してきた灰原が身を縮こませ、自身の体を抱きしめるように腕を組み怯えた表情で佇んでいた。油の切れたブリキ人形のようにギギギと首を軋ませ、駆けつけた二人を見やる。

 

「ゴ、ゴ……、ゴキ……」

「ゴキ? ……あー、なんだ、ゴキブリか」

「名前を言わないで……!」

 

 辺りをキョロキョロと見回しながらそろそろと足音を殺して伊吹の側へとすり寄る灰原。目を離した隙に標的を逃してしまったのか、怯えた表情のまま彼の服の裾を引っ掴みせわしなく頭を振って周囲を警戒する。

 伊吹は半ば呆れたような声色で「悲鳴上げるから何事かと思ったら……」とあくび混じりに呟き頭を掻く。

 

「ビックリしてトイレ引っ込んじゃったよ。あ、博士いいね、俺も紅茶でも淹れよ」

「ちょっと! 信じらんない! ゴ、ゴキ……、得体の知れない生物が家の中をうろついてるのに、なに呑気に紅茶なんて飲もうとしてるのよ!」

「まあそりゃ普通に生活してたら出てくるよ、ゴキブ」

「名前を言わないで……!」

 

 伊吹は特に気にした様子もなくキッチンへと脚を踏み入れると、自身の分の紅茶を淹れる準備を進める。「哀もいる?」と尋ねる彼に、灰原はキッと目尻を吊り上げて「今それどころじゃないわ!」と声を荒げ、両の手を握りしめて訴えるように彼を見つめる。

 

「じゃあ、ちゃばねんとか?」

「やめて」

「ゆるキャラ的な」

「やめて」

「……まぁなんだ、そりゃ、()()も出てくるよ。仕方ないよ。ここ東京だよ? 人多いよ? お互いに歩み寄って生きていくしかないんだよ」

 

 自身と灰原の分の紅茶を淹れた伊吹がティーカップを両手にダイニングの椅子へと腰掛ける。彼女に片方のカップを差し出しながら自身の紅茶に口をつける伊吹。「あー……」と熱い紅茶が染み渡ると言わんばかりにうなり声を上げ、目を閉じて投げやりに灰原を諭した。

 

「冗談じゃないわ! ちゃんと掃除もしてゴミもこまめに捨ててるのに」

「じゃあ外から入ってきたのかもね。家にいなくても侵入されたりするんだよ」

 

 伊吹と会話をしながらも不意にバッと振り返り辺りを警戒する灰原。そんな彼女を尻目に伊吹は紅茶の味と香りを楽しみながらほっと一息吐く。

 

「だから何であなたはそんな落ち着いて紅茶を飲んでるのよ! 早く退治して!」

 

 眉間に皺を寄せ眉尻を吊り上げながら珍しく語気を荒げ取り乱す灰原に、伊吹も重い腰を上げ「仕方ないなぁ」と自身の履いていたスリッパを手に取る。

 

「ちょ、ちょっと、なにしてるのよ……?」

「え? 退治するんでしょ? だからこいつでスパンと」

「や、やめて、あなたの馬鹿力でそんなことしてもし体がバラバ……ラ……に」

 

 手首のスナップを効かせて風切り音を鳴らしながらスリッパを素振りする伊吹を慌てて止める灰原。自身の言葉の光景を想像してしまったのか、声のトーンが尻すぼみに沈んでいき、意気消沈してしまう。

 

「じゃあどうすんのさ」

「殺虫剤よ! 玄関の棚に殺虫剤があったはず、それ取ってきて!」

 

 ズバッと指を差して指示を飛ばす灰原に「へいへい」とやる気のない返事を残して伊吹が玄関の殺虫剤を取りに行く。

 彼が片手に持った殺虫剤の容量と使用期限をチェックしながら戻ってくると、中の溶液が混ざるようにスプレー缶を振りながらキョロキョロと辺りを見回した。しばらく辺りを捜索していた伊吹が標的を見つけると、すかさずスプレーのノズルを向ける。すると灰原が慌てたように待ったをかけた。

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 伊吹が「今度はなに」と呆れたように灰原を見やると、彼女はソファの背もたれの上へとよじ登り、その上で猫のように体を丸めて警戒する。()()が這い回る可能性のある床との接地面をできるだけ減らしたかったらしい。

 

「……いいわ」

「あ、はい」

 

 そんな姿のまま表情はいつもの澄まし顔の灰原。伊吹も最早なにも言うまいと、ちゃっちゃと対象を排除することにした。

 伊吹が遺体の事後処理まで済ませると、灰原は「ふう……」と一仕事終えたかのように一息吐いてソファから降りてくる。

 

「ッ!!」

 

 すると唐突に声にならない悲鳴を上げて自身の首の裏に手をあてがいながら振り返る。

 

「あるある。こういうとき何もないのに何かいるような気がするよね」

 

 伊吹の声も聞こえていないのか、灰原は周囲の警戒を怠らずキョロキョロと辺りを見回しながらダイニングの方へと後ずさる。

 

「ッ!?」

 

 テーブルの上に視線を落とした灰原がまたも声にならない声を上げて体をビクッと跳ねさせ、思わずその脚がテーブルを蹴っ飛ばしガタリと揺れた。

 

「大丈夫、大丈夫。これただの袋の切れ端だから」

 

 ()()()と見間違えた恐怖で動悸が荒くなってしまったのか、両手を胸の前で握りしめる灰原。伊吹はビクビクとする彼女を落ち着かせるように、しかしどこか愉快そうにそっとその柔らかい髪を撫でつけた。

 灰原は黙ったまま伊吹の服の裾を引き寄せ彼をしゃがませると、よじよじとその大きな背中によじ登る。伊吹が灰原を背負ったまま立ち上がると、彼女はその高くなった視点から部屋の中を注意深く見回した。

 

「……ふー……っ……!」

「まるで猫だな」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あの新しい入浴剤入れたの哀? 体からすごい甘い匂いしてなかなか落ちなかったんだけどー……って、いないし……」

「哀くんなら疲れたからもう寝る、だそうじゃ」

 

 お風呂上がりの伊吹が濡れた髪を首にかけたバスタオルでかき回すように拭き、自身腕の匂いを嗅ぎつつ灰原へ苦言を呈しながらリビングへ顔を出す。

 しかしそこに灰原の姿はなく、先程の阿笠邸もとい灰原を揺るがせた「Gショック事件」の後、すっかり意気消沈した灰原はさっさと入浴を済ませ、明日の米花デパートへのお出かけに備えてさっさと寝ようと重い足取りで自身の部屋へと引きこもってしまったらしい。

 伊吹が冷蔵庫から取り出した缶ジュースのプルタブを引くと、プシュッという炭酸の抜ける音に混じって自身の携帯のコール音が聞こえてきた。リビングのソファに放置していた携帯の画面を見ると、伊吹は眉をしかめて表情を曇らせる。

 携帯片手に缶ジュースを呷りしばらくコール音を無視していた伊吹だったが、相手に諦める様子がないと察すると渋々ながら通話ボタンに触れる。耳にあてがうと受話器の向こうから男性の甘い声色が聞こえてきた。

 

『早速で悪いんだが、例の約束を守ってくれないか』

「……何事ですか?」

『先日の約束の件だ。俺の家族に手を貸してほしい』

 

 電話の向こうから聞こえたのはチョーカー型変声器のスイッチを切った赤井秀一の声。受話器越しのその声からはいつもの余裕な雰囲気が醸し出されはていたが、その中に僅かな焦りの色が滲んでいるようだった。

 

「……状況は?」

『弟から俺に連絡が入ってな。夕方に真純が出かけてからホテルに戻ってきてないと、母から弟の方に連絡があったらしい』

 

 そう聞くと、伊吹はチラリと壁に掛けられた部屋の時計を見る。まだ深夜と呼べるほどではないが、女子高生が夕方から連絡も無しに一人歩きするには遅い時間だった。

 伊吹は面倒くさそうにまだ乾ききっていない髪をタオル越しに掻く。

 

「まあ年頃ですし、色々あるのでは? ボーイフレンドのとこにいるとか。そもそも彼女の腕前があればさほど心配する必要もないかと思われますが」

『……残念だな。今後君が米花町(そこ)を離れる必要が出来たとき、灰原(彼女)は一人ぼっちでさぞ心細いだろう』

「……分かりました。冗談です、約束は守ります」

 

 詳しく、といっても詳細の調査も込みで振られてしまったためあまり細かくは聞けなかったが、一通り話を聞いた伊吹が溜め息と共に通話を切る。そろりと振り返ってリビングから地下室へ繋がる階段を覗く。どうやら自室に引きこもっているあくび娘には聞かれていないようだ。

 携帯をソファへと投げ捨てた伊吹が、自身の髪をタオルで荒々しく拭き取りながら自室へと戻ると、先程までの寝間着代わりのラフなスウェットから外出用の服に着替える。

 

「どこかへ出かけるのか伊吹くん」

「……ちょっと野暮用でね」

 

 伊吹の格好を見た博士がそう言うと、伊吹は自身の口元に手を指を添え「しー」とジェスチャーする。灰原に聞かれていない事を確認して、伊吹は困ったように肩をすくめ嘆息を零す。

 

「こんな時間にかの?」

「……まあ、できるだけ早く帰るよ。明日もあるし」

 

 伊吹が小声で話すと、釣られるように博士も声のボリュームを落とす。彼の態度から灰原に内緒で出かけるであろう事は容易に想像がついた。

 しかし万が一にでも彼が黙って行き先も告げずに出て行った事を彼女に知られてしまうと自分が問い詰められかねないと、博士も慌てて伊吹を止める。

 

「しかし、哀くんが来たら……」

「そのときは、()()()()()()とかなんとか言ったら多分部屋から出ないと思うから、頼むよ博士」

 

 伊吹はよろしくとウィンク一つ残して博士の肩を叩くと、そっと玄関のドアを開けて夜の街へと出かけていった。マフラーを震わす重低音が聞こえないのを考えると、ご丁寧にもわざわざバイクを手で押して阿笠邸から少し離れたところでエンジンをかけたようだ。

 

「ま、参ったのぉ……」

 

 リビングに一人残された博士から思わず深い溜め息が漏れ出す。げんなりと肩を落としながら、「どうか哀くんがこのまま朝まで眠っててくれますように」と地下室に祈りを捧げるのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「さて、ここでいいのかな」

 

 都内某所。伊吹は星空に吸い込まれそうなほどに高いホテルの足下から、その上層階の客室を見上げていた。

 真純を探そうにも全く見当がつかないと話にならない。そこで伊吹は改めて赤井やコナンへと連絡を取り、現在彼女が宿泊しているホテルの場所を聞き出していた。もっともコナンには説明が面倒なのでその理由などは省いたが。

 そして赤井を介して彼の弟である羽田秀吉からホテルの部屋番号まで聞き出していた伊吹。

 

「そこまでわかるならあなたが行けば」

『言っただろう。俺はまだ顔を出せないんだ、彼女たちの前にはな』

 

 という問答を交わしながら、伊吹は「はいはい」と、当たりをつけた部屋の窓を見上げる。

 遙か高層の窓際では、カーテンと窓こそ閉め切られてはいるものの、間接照明だろうか薄ぼんやりとオレンジ色の明かりが灯されていた。

 伊吹がバイクを止めるとホテルのロビーへと入りフロントに声をかける。

 

「失礼。友人を訪ねてきたんですが、903号室の……世良さんに電話を繋げませんか? 携帯に連絡を入れても応答がなくて」

 

 そう言ってきたのは筋骨隆々で古傷だらけのいかにも怪しい男だったが、こちらが教えていなくても部屋番号や宿泊客の名前を知っていたことから、フロント係も電話一本くらいならと彼の要求を承諾した。

 

「少々お待ちください」

 

 もといその威圧感を前に、極力関わりたくなかったのかもしれない。

 

「……お客様は呼び出しに応答されませんね」

「……。そうですか、では結構です。わざわざありがとうございました。……()()()()()を考えます」

 

 そう言い残すと迷いなく踵を返す伊吹。

 

「こちらにお名前を教えていただければ、後でお客様のお部屋にご連絡を……って、あれ?」

 

 フロント係の男が一瞬目を離した隙に、まるで幻だったのかと錯覚してしまいそうなくらいに自然に、影も形も音もなく彼の姿はどこにもなかった。

 フロント係の「……別のやり方……?」という小さな問いかけだけががらんとした広いロビーに取り残された。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「危ないことはするなって言われたばかりなんだけどなぁ……」

 

 強烈な横風が彼を吹き飛ばさんが如く吹き荒れる。そこから見える夜景はこんな状況じゃなければさぞ美しく見えたことだろう。

 伊吹が今居るのは例のホテルの9階フロア、その壁面である。真っ正面から部屋を尋ねても相手にされないことは承知の上。

 伊吹は夜闇にその体躯を溶かし、ホテルの窓を伝い客室のバルコニーを飛び移りながらその壁面をよじ登っていく。

 強烈な横風に吹かれようともその巨躯はビクともせず、髪を靡かせながら灰原に言われたことを思い出しついついぼやいてしまう。

 

「……読まれてる、か」

 

 それに気がついたのは目的地である903号室の隣室、902号室のバルコニーに音もなく降り立ったときだった。ぼんやりと灯っていたはずの間接照明の明かりは消え、903号室は闇に包まれていた。そしてその窓は開け放たれ、風に誘い出されるようにカーテンが大きく靡いていた。

 伊吹が細心の注意を払い903号室のバルコニーへと侵入する。住人が先制で仕掛けてくる様子はない。

 伊吹が目くらましのように視界を塞ぐカーテンを振り払うと同時に室内へと一歩踏み入れた。

 

「ッ……!」

 

 照明が消された部屋は薄暗く、窓から差し込む月光のみが頼りとなる。その月明かりに伊吹の大きな巨影が落とされた。それと同時に何かが風切り音を伴いながら彼の右から差し迫ってくる。

 暗闇から迫るそれが何か正確には把握できなかったが、瞬時に伊吹の眼光は鋭く研ぎ澄まされ鈍く輝く。

 身を低く室内に侵入した伊吹が立ち上がり様に、迫ってくる何かを払うように右の裏拳を振り抜く。

 

「痛っ……」

 

 ガラスの砕ける甲高い破裂音、そして木材と金属のひしゃげる鈍い音が室内に反響する。己が砕いたものが間接照明のスタンドライトだと理解したのは、その電球の破片が拳に突き刺さる痛みを伴ってのことだった。

 暗闇からふわりとシャンプー混じりのいい香りが鼻腔をくすぐったかと思うと、素早い影が疾風の如く駆け抜けた。その小さな影が駆けてきた勢いそのままに踏み込んだかと思うと、振り抜かれ伸びきった伊吹の太い右の腕に絡まるようにしがみつく。

 恐らく相手の腕に右手首を取られた。二の腕を股に挟み込み、細い脚が胸元と首元を押さえ込むように伸ばされる。

 空中でも見事なまでに腕を極めてくる技術。走る勢いと体重を乗せた飛びつきを利用し、全身を使ってこのまま転倒させる狙いか。腕一本容易にへし折れるであろう見事な空中での腕ひしぎ十字固めだった。

 

「……ッ!?」

 

 しかし飛びついたその人物にとって予想外だったのは、相手の腕が予想以上に太く自身の脚では抑えきれないほどの筋骨と体躯だったこと。そしてビクともしない体幹と膂力。

 それでも数十キロはある自身の体重に助走をつけた上で飛びついたのだ。並の相手ならば例え成人男性であろうと、()()()()()()()()()()()()程度であればそのまま転倒させるくらいは訳ないはず。しかし、この標的の肉体は()()どころではなかった。

 飛びつかれ傾きかけた伊吹の身体がピタリと制止する。

 

「ぅラァッ……!」

「なっ……!? くっ……!」

 

 上半身を仰け反らしながらもその恐ろしい程の脚力と体幹で踏ん張る伊吹。

 彼の腕にしがみついたまま制止する相手の肉体をふわりと浮遊感が包んだ。

 持っていかれそうになった右腕をその力業で無理矢理振りかぶる伊吹が、腕に絡みついた者を投げ飛ばすように振り抜いた。その強烈な遠心力に思わず拘束を解いてしまった人物はベッドへと放り出され、クッションの上で咄嗟に受け身を取る。

 開け放たれた窓から吹き込む夜風にカーテンが再び舞い、差し込む白い月明かりが影を揺らしながらベッドの上の少女の横顔を照らし出した。伊吹の目的である、メアリー世良その人である。

 

「……っ」

「……」

 

 一瞬の沈黙が二人を包み、風に吹かれはためくカーテンの音とスタンドライトの破片が零れ落ちる音だけが聞こえた。

 彼女の姿に一瞬驚いたように目を見開いた伊吹だったが、何かを察するように再びその眼光を鋭く研ぎ澄ます。

 メアリーもまた逡巡していた。目の前の男が何者なのかということ。そしてその戦闘能力について。

 初手の不意打ちを逃した事が酷く悔やまれる。この戦闘スキルに体格差、そして圧倒的筋力差は致命的。あの怪腕に捕まりでもすればひとたまりもない。

 逡巡するメアリーがチラリとベッド脇のナイトテーブルへと視線を移す。視界の隅には確かに一本のペティナイフが見えた。しかし問題は目の前のこの男が、こちらがナイフに手を伸ばすのを黙って見ているはずがない。一瞬でも隙が出来さえすれば――

 

「私の目的――」

「ッ!」

 

 伊吹が沈黙を破りその拳を解いて彼女へと手を差し出そうとしたその瞬間、メアリーは即座にペティナイフを逆手に拾い上げ伊吹へと駆け出した。

 まるでジャガーかチーターか、ネコ科の獣のようにしなやかな動きで素早く伊吹の懐へと潜り込むメアリー。問答無用、いや問答はこちらが場を制してからだと言わんばかりに、迷いなくそのナイフを振り上げる。

 咄嗟に半歩退いて身を躱す伊吹の右手に薄らと赤い線が走る。一瞬でも反応が遅れていれば指くらいは持って行かれていたであろう一撃に伊吹の表情も曇る。

 

「だからッ……!」

 

 逆手で突き刺そうとナイフを振り下ろすメアリーの返しの刃を更に一歩引いて躱す。その巧みなナイフ捌きは簡単に腕を抑えさせてはくれない。伊吹の実力を把握した絶妙な距離感のヒットアンドアウェイの前ではその身体を捕らえる事も容易ではなかった。

 腱、腹部、頸動脈、下から上へと舐め上げるようにしなやかに、されど竜巻のように激しく巻き上がってくるナイフ捌き。それは一撃入れば相手を制する事が出来る致命的箇所をピンポイントで狙ってくる。

 しかし、完璧な狙いだからこそ伊吹もまた太刀筋を読み取り、その流れるような連撃を薄皮一枚で捌いていく。

 

「うぉッ……と!」

「チッ……!」

 

 伊吹にナイフの連撃を躱されるやいなや、迷いなく彼の股間を蹴り上げるメアリー。スナップの効いた鞭のようにしなやかで強烈な蹴り上げ。伊吹も咄嗟に自身の右足を折りたたむように曲げ、その甲で彼女の一撃を防御する。

 その反応速度に思わず舌を打つメアリーが、片足立ちとなった伊吹にナイフの追撃をお見舞いする。再び逆手に持ったナイフで彼の腹部めがけて突き刺すように振り下ろした。

 

「ああッ、クソッ……!」

「な、にッ……!?」

 

 面倒くせえ、そう言いたげに舌を鳴らす伊吹の大きく頑強な左手がメアリーのナイフの刃を鷲掴んだ。それは予想外だったのか、軽やかに動き回っていたメアリーの身体も思わず制止する。

 刃が掌を傷つけ指の隙間から漏れた赤い液体が床を叩く。一瞬、面食らってしまったメアリーだったが即座にその鋭い眼光で再び伊吹を捕らえる。致し方なし、その瞳は言外にそう語っていた。

 メアリ-はナイフを掴む自身の右手首を左の手で鷲掴み、伊吹の指を落とすために両手の力一杯に素早くナイフを引き抜く。

 

「ッ!?」

 

 しかしナイフはビクともしない。なんという握力、驚愕する彼女を余所に、伊吹は刃掴む左手の親指をその刃面に添える。彼の左前腕を中心に筋肉が盛り上がったかと思うと、その刃は冷えたチョコレート菓子の様にあっけない音を立てて容易くへし折れた。

 咄嗟にナイフを手放し距離を取ろうとするメアリーに迫る鬼の如き(かいな)。その右腕に胸ぐらを捕らえられたメアリーの身体に加わる強烈な加速。

 叩きつけられる、そう理解したメアリーが自身の頭部を守るように受け身の体勢を取ると、彼女の背に触れたのは予想よりも柔らかな感触。メアリーを捕らえた伊吹は彼女を再びベッドへと叩きつけるように押さえ込んだ。彼女が苦しくない程度に、しかしその強靱な腕に力を込め決して逃れられないように。

 

「聞いて下さい……。私は、あなたの、敵じゃない」

 

 右腕でメアリーを押さえ込み、左手の人差し指を彼女に向け言い聞かせるように囁く伊吹。その指先から滴る赤い液体が彼女の白い頬に紅を差した。

 

「はぁ、はぁ……げほっ、はぁ……けほっ」

 

 頬に落ちた生ぬるい液体が耳へと垂れてくるのはなんとも不快だった。しかしそれを拭う事も億劫なほどの疲労感が彼女の身体を包む。

 胸元を押さえる彼の怪腕はビクともせず、純粋な力比べでは離脱できない事を当に理解しているメアリーも無駄な抵抗はせずに息を整え体力の回復を図る。

 

「……けほっ、……そんな、息を荒げて、ベッドに連れ込むな……。ベッドインにしては……っ、はぁ、少々強引で力業が過ぎるな……、けほっ、はぁ、はぁ……」

「誤解を生むような言い方はやめてください」

 

 彼女の軽口に伊吹はそっとその押さえ込む右腕から力を抜く。次の瞬間にでも飛びかかってきそうな彼女に両の手を向けながら、警戒するようにそっと後ずさりで距離を取る。

 咳き込みながら少し激しく肩で息をする彼女はベッドに寝転んだまま起き上がる気配はなかった。

 

「もう一度言います。私はあなたの敵じゃない」

「……」

 

 寝転んだまま少し首を傾け伊吹を横目に見ながら自身の頬を伝う彼の血を拭うメアリー。深呼吸で息を整えると、気怠そうにむくりと身体を起こす。

 

「……わかっている。私を殺す気ならば、その機会は何度かあったはずだ……」

 

 敵視する眼光は消えたものの、未だ疑うような眼差しで伊吹を見やるメアリー。

 伊吹も小さく嘆息すると、疲れたといわんばかりにだらりと腕を下ろした。

 

「端的に言います。あなたの……、娘さんの事で、必要であれば手を貸しに来ました。不要だと言うならば帰ります」

「ッ……! ……なるほど。貴様が、()()()か……」

 

 伊吹は一瞬躊躇したものの、彼女に対しとぼけることなく真純の事を娘と断じた。

 その発言に今度はメアリーが驚愕に目を見開くも、なにか得心したのか、確認するように眉をしかめて伊吹を見つめた。

 

「改めて、こんばんは、()()()()()()()()()さん」

 

 そちらの素性は把握している、伊吹の言葉の真意をメアリーも理解する。彼女の質問に関しては肯定も否定も返す様子はない。

 

「詳しい自己紹介はやめましょう。お互いの不利益になりそうですので」

「……私のこの姿を見て疑問を持たぬということは、やはり貴様が行動を共にしているという例の少女は――」

「その質問は意味がない。私が何を言ってもあなたは信じないし、そもそも私は何も答えない。不毛な問答です」

 

 お互いの腹を探り合うように影の中で絡みつく二人の視線。

 

「……何をどう推察しようとあなたの勝手、ご自由に。重要なのは一点、私はとある人物に頼まれてあなたとあなたの娘さんの安否を確認しにここまで来ました」

 

 伊吹の言葉に耳を傾けながら乱れた自身の寝間着を整え、かき上げるように髪に手櫛を通すメアリー。

 

「少なくとも今は、あなたの味方と言うことです。信じるか否かはお任せしますが」

「……」

 

 メアリーの遠慮のない疑惑の視線が伊吹を貫く。その眼光はまるで暗闇に怪しく光る猫の目のように鋭く妖艶で、伊吹の心中を覗き込むかのようだった。

 

「……そして娘さんはここにはいない。何かあったのかは分かりませんが、必要であれば捜索及び救出に手を貸します」

 

 伊吹が彼女の怪しい視線を遮るように血にまみれた左手の平を突き出す。

 

「余計な質問は無しです。とある人物というのが誰かというのも答えません」

 

 ――私も必要以上にあなた達家族のごたごたに首を突っ込みたくはない――

 伊吹が発しかけた言葉を飲み込むように小さく頭を振った。

 

「どうしますか。私を利用しますか、それとも帰しますか?」

「…………いいだろう、その腕には利用価値がある。今はお前を利用し、まずは……娘の安否を確かめる」

 

 僅かな沈黙と逡巡の後、メアリーは小さな嘆息混じりにそう吐き捨てる。「では、よろしくお願いします」と左手を差し出した伊吹だったが、その手の平が血で汚れている事に気がつくと、困ったように笑いながらすかさず右の手を差し出した。

 彼の妙な紳士的態度にメアリーも思わず嘆息を零し、その手をとる。少しだけ彼女の表情が和らいだ気がした。

 

「尋問するか、あるいは……。それは後で考えることにする」

「怖いなぁ……」

 

 伊吹の手を握るメアリーがその手にぐっと力を込め、その翡翠と琥珀を思わせる緑がかったイエローゴールドの双眸で伊吹の瞳を見上げる。つかみ合ったこの状態なら自身の方が優位なはずなのに、そのどこか挑戦的で、鉄のように強固な意思を感じる視線に晒され伊吹は思わず背中に冷たいものを感じた。

 

「お客様、大丈夫ですか? どうかなさいましたか?」

 

 部屋のドアをノックする音と共に、扉越しのくぐもったボーイの声がかけられる。改めて部屋の様子を見回した伊吹が頭を掻きながら「まぁ、これだけ暴れたら、ね」と小さく呟いた。

 息を整えたメアリーが扉を開けることなく、「大丈夫だ」とドア越しに端的に答える。

 

「そ、そうですか。それと、先程お客様に取り次ぐようにとフロントにお見えになられた方がいらっしゃいましたが……、一度お部屋の方にお電話をさせて頂いたのですか……」

「ああ、それも大丈夫だ。……もう会ったからな」

「へ?」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「それで、娘さんの所在の心当たりは?」

「……夕飯の買い出しに出たきりだ」

 

 アメニティのタオルを濡らして握り込み自身の手の平を止血しながら、砕けたスタンドライトの破片を片付ける伊吹。

 メアリーがチラリと警戒するように外を覗いてから、開け放っていた窓とカーテンを閉める。

 

「どちらまで?」

「……死ぬほどうまい、ラーメンとかなんとか言っていたな

「ああ、閻魔大王ラーメンのところですね」

 

 自身の小さな顎に手を当て思考を巡らし真純との会話を思い返すメアリー。伊吹は彼女の零した“死ぬほどうまい”という言葉だけでピンときたようで、部屋の照明を点けながら年季の入ったラーメン屋の外観を思い出す。

 伊吹が携帯を取り出すと数回操作を行い、心当たりのあるラーメン屋に電話をかける。

 

「あ、おじさん、萩原ですけど」

『おー、マッチョの(あん)ちゃんかい。どしたい?』

 

 伊吹が名乗ると携帯の向こうのしゃがれた声の主もすぐに分かったようで、伊吹も常連として通っているようだ。

 

『お、電話ってこたぁまた“超特製特盛りマジでやばいスペシャル閻魔大王ラーメンセット”の予約かい?』

「あ、いや、今日はそうじゃなくて」

『じゃあ、あの嬢ちゃんと来るのかい?』

「いや、そうでもなくて……。と言うかおじさん、俺が超特製特盛りスペシャル食ってること哀にはくれぐれも内緒でね。カロリー摂り過ぎって怒られるから……」

『へへへ、いかつい見てくれの割にゃあ、あの嬢ちゃんに頭上がんねえな』

 

 電話向こうのラーメン屋の店主の言葉に、伊吹は思わず声を押し殺して懇願するように店主へと釘を刺し頭を下げる。超特製なんとかは彼の健康を気遣う灰原の目を盗んでの、彼のささやかな楽しみらしい。

 店主もまた電話向こうの大男が背を丸めてお願いする姿を容易に想像できて思わず笑いが込み上げ、伊吹は「ははは……」と乾いた笑いを零す。

 

「あ、えっと、聞きたいのは今日ある客が来なかったかなんだけど」

 

 伊吹と店主の談笑に業を煮やしたように、メアリーが腕を組んで伊吹の前で仁王立つ。なにも口にはしないものの、その目は口ほどにものを言っていた。伊吹は慌てて本題へと戻る。

 

『どんな客で?』

「あの()、癖っ毛のショートカットに八重歯がキュートな……」

 

 伊吹がチラリとメアリーを横目に確認する。少し逡巡したものの、伊吹は構わず店主へと尋ねた。

 

「おじさんがマリちゃんって呼んでる()ですよ」

 

 伊吹の言葉にメアリーも一瞬眉をしかめたものの、深く追求することはなかった。

 

「……来てない。そうですか、ありがとうございます。……ええ、また行きますので。くれぐれも特盛りスペシャルのことは……、はい、では」

 

 電話のやりとりを聞いていたメアリーが、伊吹が電話を切ると同時に口を開く。

 

「と言うことは、道中で何かあったな」

「ここからラーメン屋のルートとなると恐らくは……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「この道ですね」

 

 辺りはもう既にシャッターを下ろしている店も多い。空には街灯りにかき消されながらも僅かに瞬く星の光。すっかり車通りの少ない通りには人影も見当たらず、唯一浮かび上がる影は大男と美少女のシルエットのみ。

 少し離れた大通りを抜けていく車のクラクションが遠くから聞こえてくる。

 

「で、私一人でもよかったんですけど。ついて来られますか?」

「私はまだ貴様を信用しきっている訳ではないのでな」

「……然様で」

 

 伊吹を見るでもなく道の奥へと鋭い視線を向けながらぴしゃりと冷たく言い放つメアリー。その態度に苦笑いを浮かべながら頬を掻く伊吹が、彼女を横目に困ったように呟く。

 

「最低限の変装はして下さいね。時間が時間ですが、万が一にもあなたと一緒にいるところを見られるのはまずいので、色んな意味で」

 

 彼の言葉にメアリーは黙したまま、上着の胸ポケットに差し込んでいた黒縁の伊達眼鏡をかけ、そのプラチナの髪に映えるキャメル色のキャスケットを被る。

 これでいいかと横目に伊吹を見やると、彼は眉を垂れ未だ困ったような表情で頭を掻いた。

 

「大丈夫かな、どう見ても普通の中学生ですよ。こんな時間に私みたいな見てくれの男がこんな金髪美少女を引き連れていたら――」

「君、ちょっといいかな」

「……ほら、こうなりますよね」

 

 夜も更け点々と灯る街灯が頼りなく灯る薄暗い通り。堅気には見えない男が年端もいかない外国人の美少女と連れ立っているものだから嫌でも目を引いてしまう。偶然にも通りかかった警邏中の警察官にも当然のように呼び止められてしまった。

 そっと腰を屈めメアリーの耳元に口を寄せた伊吹が手短にそっと囁く。

 

「無駄な時間を取られるわけにはいきませんし、下手に探られると私もあなたも困るでしょう。ここはどうか――……」

「…………っ、……仕方あるまい……」

 

 小声で何かを提案する伊吹に対し、苦虫を噛みつぶしたかのように眉間に皺を寄せ一瞬の逡巡と共に渋々承諾するメアリー。

 

「人は見かけじゃないけどねぇ、おじさん達は見かけで判断するしかないんだよ」

 

 朗らかな笑みを浮かべて声をかけてくるのは壮年の警察官。ベテランであろう彼の後ろにはまだ若い警察官が控えており、その鋭い視線で二人を捕らえる。

 

「気を悪くしないでね。ほら、君凄い体してるし、その傷跡とかも、ねえ。ちょっと一般人離れしてる感じがしてさ」

「ああ、この傷跡は昔事故に遭いまして、その時に。体は普段から鍛えてるもので」

 

 同じく柔和な笑みを湛えて朗らかに警官と言葉を交わす伊吹。後ろで腕を組むメアリーはそっと帽子を深く被り伊吹の後ろに一歩下がり、若い警官からの視線を躱す。

 

「そうなんだ。いやー、ここ最近暴力団関係の事件も多くてね。一応、ね」

「身分証などありますか?」

 

 そう言う壮年の警察官は変わらず笑みを浮かべているものの、その視線は微かに鋭さを帯びる。彼の意図を汲み取ってか、控えていた若い警察官が割って入る。

 ああ、面倒くさい。などという感情はおくびにも出さず、伊吹は自身の財布から快く学生証を取り出した。

 

「へー、東都外国語大学の学生さんね」

 

 壮年の警察官は差し出された学生証と伊吹の顔を何度か繰り返し見つめた後、どこか訝しがるような視線をメアリーへと向ける。メアリーはそっと帽子のつばを下げる。

 

「そちらのお嬢ちゃんは?」

「えっと、この子は親戚の子で」

「…………」

「親戚、ねぇ」

「ええ、ちょっと人見知りで」

 

 警察官二人の懐疑的な視線と、伊吹の少し困ったような嘆願するようなアイコンタクトがメアリーを捕らえる。

 出来ることならば関わらずにこの場を抜け出したかったメアリーだったが、彼らの視線に晒され、聞こえない程に小さく舌を打った。

 致し方あるまい、と嘆息を零したメアリーがそっとキャップのつばを持ち上げ、上目遣いに伊吹を見上げた。

 

「は、早く行く、……い……行こう、よ、……お、……お、兄ちゃん」

 

 その不服そうな半眼をどこか恥ずかしげに泳がせるメアリー。思わず口元に手を当て顔を背ける伊吹は、込み上げる笑いを堪えているようにも見えた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「助かりました。随分と可愛らしかったですね」

「……二度とやらん」

 

 なんとか警官の職務質問を切り抜けた二人だったが、愉快そうに笑ってしまう伊吹に対してメアリーの視線は凍てつくような冷たさを帯びていた。

 静かに怒れる彼女を宥めつつ路地の奥へと顔を覗かせる伊吹。すると何かを見つけたのかその足を止め、後ろを歩いていたメアリーが声をかける。

 

「どうした?」

 

 路地の奥を見つめながら動かない伊吹に、メアリーもそっと顔を覗かせる。

 

「あのビル、ついこの前までテナント募集がかかってたんですけどね」

「普通に考えれば、ただ新しい業者が入っただけと見えるな。……だが」

「ええ、どうにも()()()()

 

 路地の壁を背に微かに顔を覗かせる伊吹と、その彼に隠れながら同じく覗き込むメアリー。

 彼らの視線の先に建つ古ぼけたビルは先日まで使用されていなかったらしいが、今はぽつぽつと電気の灯った部屋が散見される。

 なにより怪しいのは、先程から作業着を着込んだ男二人がビルの前でタバコ片手に突っ立っているところだ。吸い終わった吸い殻を踏み消し、二本目三本目へと手を伸ばす。仕事の合間のタバコ休憩というわけでもなさそうで、そこに突っ立っている事が目的に思えた。

 

「見張り、ですね」

「ただの業者が、か?」

 

 確信めいて呟く伊吹に、メアリーが微かな溜め息交じりに返す。どこぞの業者になりすました目の前の男達のずさんな警備体制に少し呆れているようだ。

 

「ただの業者じゃ、ないんでしょうね」

 

 携帯でその作業着を着込んだ男達が掲げる企業名を調べるも、ヒットする情報は見つからない。

 携帯をポケットへとしまいながら伊吹が親指でビルを指差した。

 

「好奇心の強い彼女のことです、不用意に首を突っ込んで巻き込まれたパターンかと。十中八九、ここだと思いますけど」

 

 伊吹の言う通りこのビルとあの見張りの業者は限りなく怪しい。しかし、こいつらが法に触れる集団だったとしても真純とは無関係の可能性もある。外れを相手にしている暇はない。

 メアリーが顎に手を当てしばし逡巡していると、その思考を寸断するかのように何かの砕けるような甲高い破壊音がビルの上階から聞こえてきた。

 砕けたガラス片がアスファルトを叩くよりも早く、二人はビル上階の部屋の窓が割れたのだと察知する。

 彼らの視線の先で地面に叩きつけられたガラス片が更に細かく砕けると、耳を劈くその音に混じって何やら気の抜ける、カポンッという太鼓のような音が聞こえた。

 その音の正体がビル上階から振ってきたブラウンカラーのチャッカ・ブーツだという事は、鍛え抜かれた二人の眼力をもってすればこの薄暗い暗闇の中でも容易に把握できた。

 しかし、なぜそんな物が振ってきたのかと訝しげにビルを見上げる伊吹に対し、そのレディースのシューズに見覚えがあるメアリーからは表情がすっと抜け落ち、その眼光が研ぎ澄まされる。

 

「靴?」

「真純のものだッ――」

 

 そう吐き捨てるとメアリーは即座に路地から駆け出す。彼女の言葉になにも聞き返すことなく、伊吹もその眼光を鋭く研ぎ澄まし鈍い光を灯す。彼女の横に並ぶように身を低くその巨躯で疾走する。

 

「右をッ……!」

「左だッ――!」

 

 ()()()、そんなこと確認するまでもないと言うように、二人は一言だけ交わす。ビル入り口に突っ立ったまま突如割れた窓に困惑する、もっともなんの音なのかも理解が追いついていないかもしれない見張りの男達。

 身を乗り出しビルを見上げる男達は背後から音もなく迫る危機に未だ気がつく様子はない。

 

「「――ッ……!」」

 

 伊吹が向かって右側に立つ男の首へ背後から腕を回すと、その太い怪腕で男の体を木の葉のように舞上げる。音が鳴らぬよう地面に叩きつける前に急減速させると、男はそのまま眠るかのように意識を刈り取られた。一瞬の締め上げとぶん回す急加減速による強烈な重力を利用して男の酸素供給を遮断したらしい。

 メアリーは向かって左側の男に対し、背後から容赦の無い急所への蹴り上げを見舞う。呻き声すら上げられない男が思わず身を屈めると、その下がった顎に対して横から振り抜くように渾身の掌底を見舞う。男は自身を襲う悶絶ものの痛みすらも忘れるかのように、いとも容易くその意識を手放した。

 

「これを」

「?」

 

 伊吹がポケットから取り出したのは包装された大きめの黒いマスクだった。彼女にそれを手渡すと伊吹自身は大きな黒い帽子を顔まで覆うように被る。目元が切り取られたそれは即席のいわゆる目出し帽だ。

 

「万が一に備えて、さっき立ち寄ったコンビニで買っておきました。あなたは()()()()()嫌がるかと思いまして」

 

 目出し帽を被った伊吹がくぐもった声で自身の顔を指差す。その大きな体格に目出し帽の姿はあまりにも怪しく犯罪者臭が漂っていた。

 

「それに、あなたの顔を見ていると、どうにも私も()()()()()……」

 

 彼女の知的でクールな横顔が誰かと重なるのか、伊吹は視線を逸らして頬を掻きながらボソリと零す。

 どこか呆れるような半眼で彼を横目に見ながらも、メアリーは渡されたマスクを装着する。子供用でも女性用でもないそれは彼女の小さな顔を隠すには十分で、伊達眼鏡とキャップと相まってその顔を識別することは難しい。

 

「目出し帽とは、相変わらず、合衆国(ステイツ)の連中は品が無いな」

「……どうしました? 紅茶(葉っぱ)の効果が切れましたか? 英国人は定期的に摂取しないとイライラするそうで。顔にフィットして視認性が高く、シンプルに顔を隠せる。目出し帽は合理的なアイテムですよ」

 

 二人がお互いに悪態を吐きながら身を隠し、ガラス戸の入り口から中を覗き込む。中ではスーツ姿や作業着を着込んだ男達が何やら騒がしく浮き足立っていた。

 幸い二人の音も無い早業に、中の連中も見張りが伸された事には気がついていないようだ。

 

「あのタイミングでの靴の落下です。偶然にしては出来過ぎています。恐らく、あの部屋に監禁されている娘さんが窓からあなたを見つけての救援要請でしょう」

 

 ビル内を中を覗き込み、その構造や相手の人数などを把握しつつ淡々と告げる伊吹。それは相手に教えると言うよりも、念のための確認作業と行った具合だった。

 

「派手に窓が割れましたからね。中も何事かと浮き足立っている。この機に乗じて正面突破の最短最速で突っ切るというのはいかがですか」

「構わんが、足を引っ張るなよ」

「……言ってくれますね」

 

 中の様子を窺いながら彼の方を見るでもなく刺すような一言を零すメアリーに、伊吹も思わず苦笑いを浮かべる。

 作戦は決まったようで、出入り口の左右に身を隠す。二人が視線を合わせると、ハンドサインで互いに意思疎通を図り、伊吹の指の合図でドアを蹴破る勢いで素早く強襲をかける。

 

「あ? なんだおまウェッ――」

 

 二人の存在に気がついた男の理解が追いつくよりも素早く、伊吹の掌底がその顎を打ち抜き意識を刈り取る。糸が切れた人形のように力無くガクンと膝をつく男。奥には目を点にしながらその様子を見ている別の作業着の男達の姿が。

 ぽかんと口を半開きにし思考が追いついていない様子の彼らだったが、眼前の倒れ込む仲間と目出し帽で顔を隠した大男の姿を前に少しずつ頭が回転していく。

 目の前の男の目出し帽から除くその鋭い眼光は常軌を逸しており、なぜかその傍らには子供の姿が。先程聞こえてきた窓の割れる破砕音といい、何がなんだかよく分からない状況ではあるが、とりあえずこいつは敵であると。

 スーツを着込んだ男のこめかみがピクリと引きつる。

 

「ヤレェッ!」

 

 男の一括が飛ぶやいなや、作業着を着込んだ男達が伊吹達へと駆け出した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんだか、外が騒がしくなってきたような……」

 

 痺れの残る体に鞭を打ちなんとか窓を蹴破り靴を落とした真純だったが、やはり自由に動き回れる状態ではないらしく、再びその薄暗い部屋の中で倒れ込んでいた。

 自身が窓を蹴破ってから、部屋の外からは複数の人間の走り回る音や焦るような騒ぎ声が聞こえてくる。

 

「大丈夫かな、ママ……」

 

 思わず真純もどこか心配そうに眉を顰め、割れた窓から覗き込む青白い月を見上げながらポツリと呟いた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「な、なんだ、なんでガキがこんなところに――ウブゥッ!?」

 

 通路の奥に見慣れぬ子供の姿、当然のように困惑する男。思わず立ち尽くす男の横から迫るは巨石のような拳。顎が横にずれるように外れ、激しく揺らされる脳は頭蓋の中で暴れ回り電源が切れたテレビのように男の視界は暗転する。

 

「その幼い姿は囮に使えますね」

「……」

 

 うんうんと頷きながら合流する伊吹に冷めた視線を浴びせるメアリー。その冷たい半眼にまた誰かを思い出してしまったようで、思わず苦笑いで目を泳がせる伊吹。

 

「いたぞッ! アイツらだッ!」

 

 上から降ってくる声に見上げれば、吹き抜けとなっている二階の通路から顔を覗かせる男の姿。腰ほどの高さの手すりから身を乗り出しこちらを指差す男と、その横で無線機片手にどこかと通信をする男が。

 

「昇降機ッ!」

 

 二階のその男達の姿を確認するや、伊吹はそう叫ぶと、足下に乱雑に放置されていた虎柄のロープをメアリーへと放り投げ駆け出す。

 こちらに飛来するそれを思わず掴み取るメアリー。最初は伊吹の言葉の意味が分からなかったが、彼が男達のちょうど真下に来る位置でこちらへと振り返り、バレーボールのレシーバーのように両手を組み膝を軽く曲げ構えたところでその意味を察した。

 

「ゥルァッ――!」

 

 ロープを引っ掴んだまま伊吹へと駆け出すメアリーが駆け抜ける勢いのまま彼の組んだ両手に飛び乗ると、伊吹は全身の筋骨を躍動させ両腕を振り抜くようにメアリーを上方へと跳ね上げた。メアリーもまた彼の力に合わせるようにその手の中から飛び出す。

 

「……は……?」

 

 男達がそんな間の抜けた声を上げたのも無理は無い。さあ今から下に降りてとっ捕まえてやろう思っていた相手が唐突に眼前に現れたのだ。階段も何もない、下から数メートルはあるはずの目の前にだ。

 深く被った帽子と大きなマスクの隙間、伊達眼鏡の奥にほんの微かに見えた少女の女豹のような眼光に臆するのも束の間、少女は二階の手すりにトンッと軽く降り立ち、手すりの隙間から通したロープを男達の体へと絡ませる。

 なにしてる、呆気にとられる男達がそう声に出すよりも早く、細い手すりの上を軽業のように舞う少女の蹴撃が男達の側頭部を打ち抜いた。

 その一撃に意識を刈り取られた男達は干された布団のようにだらりと手すりへ引っかかる。するとメアリーはその男二人の後ろ襟首を引っ掴み、男達ごと後ろへと倒れ込むように下へと落下していく。手すりが低く、男達の重心も上半身側へと寄っていたため、彼女の軽い華奢な体でも男二人を引っ張り落ちる事は訳なかった。

 

「よっ、と――」

 

 ロープの反対側を掴んでいた伊吹が跳ねれば、落下していく男達の重量に引っ張られるように上へと吊り上げられていく。男達とのすれ違い様に、一緒に落下してきたメアリーを優しく抱きかかえて回収する。

 伊吹が二階の手すりを引っ掴むと、その片腕の膂力を持ってして自身とメアリーを二階通路へと無事送り届ける。

 

「よく、あの一言で分かりましたね」

「私も同じ事を考えたからな」

 

 伊吹の小脇に抱えられたメアリーがどこか得意げに答えると、さっさと下ろせと言わんばかりにもぞもぞと身をよじらせる。

 彼の腕から抜け出ると乱れた帽子を被り直し、ずれた眼鏡を外して蒸れるマスクを軽く指で摘まみ上げた。

 

「……」

「ふぅ……、……なんだ?」

「あ、いえ、……別に」

 

 もの言いたげな伊吹の視線に気づいたメアリーだったが、彼はバツが悪そうにさっと視線を逸らすだけだった。

 

「……ちょっと似てるからやりづらいんだよな……」

「なにか言ったか?」

「いえ、なにも……。……顔を隠して下さい」

 

 彼女の長い睫毛に白い陶磁器のような滑らかな肌、氷のように冷たくも美しい瞳、小ぶりながらもすらっと高い鼻、シャープな顎。そもそもの血筋なのか顔の作りが似ているようで、ふとした瞬間が想い人のそれと僅かに重なってしまう。伊吹は眉を顰めて困ったように額に手を突いた。

 彼らがそんな会話を交わしていると、通路の奥から複数の荒々しい足音が聞こえてきた。

 

「流石に気づかれましたね」

「これだけ暴れればな」

 

 その岩石のような拳を強く握りしめ骨を鳴らす闘う気満々の伊吹とは対照的に、メアリーは面倒だと言わんばかりに腕を組み瞳を伏せながら溜め息を零し、マスクと眼鏡を身につける。

 通路の奥から姿を現したのは高そうな黒いスーツに身を包み、手には刃物や鈍器など様々な凶器を握りしめた複数の男達。見開いた目に飛び交う怒号、確実にこちらを敵だと認識しているようだった。

 

「黒いやつらがわらわらと、まるでゴキブリですね。……オフの時まで黒ずくめの服なんざ見たくないんだよ」

「おい貴様、今なんて――」

 

 伊吹の鬱陶しげな呟きに思わず反応するメアリーが彼の方へと向き直るも既にそこには彼の姿は無く、疾風の如く駆けだした彼が巻き上げた埃だけが舞っていた。

 瞬きする間に彼の嵐の如き暴は目の前の男達を木の葉のように蹴散らした。メアリーは一人、先日何となく見ていた通販番組で紹介されていた、枯れ葉を吹き飛ばすブロアーの姿を思い出していた。

 

「まったく、まるでキングコングだな」

「……褒め言葉として受け取っておきます」

 

 昏倒する男達の高そうなシャツで自身の拳に付着した血を拭う伊吹。メアリーは呆れたように、足下に転がる鈍器や凶器の類いを足で払う。

 

「おどれラァッ! いい加減にしとけやコラァッ!」

 

 通路の端、床に転がる男達が出てきた方向とは逆側から、再び幾人かのスーツ姿が飛び出してきた。

 「呆れた連中だ」そうぼやいたメアリーが小さく鼻から息を漏らし、「またか……」と零す伊吹の目出し帽から微かに覗かせる目元には哀れみの色さえ浮かんでいた。

 しかし彼らの隠されたその表情が一瞬硬直し、目元が鋭利に研ぎ澄まされたのは、男達がその手に黒光りする拳銃を取り出したからだ。

 

「ぶち殺すッ!」

 

 その言葉は脅しでは無い。殺せるかはともかくとして、引き金を引く決意は固めている。こいつらは撃つ気だ。数々の修羅場をくぐってきた二人はそれを瞬時に悟った。

 この広くは無い通路で、小口径のハンドガンと言えど複数人に発砲されれば流石にたまったもんじゃない。

 全速力で駆け出そうにもこの距離では、伊吹の鉄拳が男達に辿り着くよりも先に鉛玉の方が飛んでくるだろう。

 この距離を詰める必要がある、そして相手の虚を突く必要があるのだ。一瞬にして駆け巡る伊吹の思考。

 

「っ!」

 

 すると弾かれたように顔を上げる、どうやら一手なにかを閃いたようだ。いや、しかしそれは……。

 

「――ッ、――カタパルトッ!」

「えッ、まじっ……!?」

 

 困ったようにチラリとメアリーを覗き見る伊吹だったが、彼の瞳を見つめ返す彼女の視線は力強く、一喝するように声を張り上げた。

 その一言に伊吹も困惑しながらも、素早く彼女の腰裏のベルトと襟首を鷲掴んだ。

 

「ドォラァッ――!」

「!!?」

 

 思わぬ二人の行動に銃を構えた男達も呆気にとられ、反応する間も声を発する間もなかった。

 メアリーを掴んで彼女を振り回すように半回転した伊吹が、その遠心力と己の膂力を持ってして少女の体を男達へとぶん投げたのだ。まるで地面と水平に飛来するかのように錯覚してしまうその威力たるや、まさにカタパルトの如し。

 

「な、にっ……!?」

「なってないな、若造(ボーイ)――ッ!」

 

 空中で体勢を整えたメアリーは勢いのままに男の首へと腕を回し、一瞬にして締め落とす。そして流れるような華麗な動作、男の首に回した腕を軸に身を翻す彼女が遠心力を乗せた膝を振り抜き隣の男の側頭部へと叩き込んだ。

 囁くような彼女の叱責も混濁する男達の耳には届かない。

 

「こっ、の、ガキッぶうぇッ――!!」

 

 残る一人がメアリーを捕らえようと腕を伸ばすも、その指先が彼女に触れるよりも早く、伊吹の鉄拳がその顎を貫いた。

 

「あまり無理をしないで下さい、また息が上がりますよ」

「要らぬ心配だ」

 

 メアリーがそのか細い指先でマスクを摘まみ上げ、少し息苦しそうに呼吸を整える。ビルに乗り込んできてから立て続けに戦闘を繰り返したせいか、その雪のように白い頬がほのかに上気している。

 

「しかし、よく瞬時に理解したな」

 

 深い呼吸で息を整えた彼女が少し感心するように、小さく唇の端を吊り上げてニヒルに微笑んだ。

 

「ああ、射出機(カタパルト)ですか? 私も同じ手を考えていたので……、本気で投げ飛ばす気は無かったですが……」

 

 そうなんて事無く答える伊吹だったが、薄らと微笑む彼女の瞳に捕らえられると、思わず顔を伏せて頭を掻いてしまう。

 

「……顔を隠して下さい」

「あらかた片付けただろう、誰もおるまい」

「あなたの顔を見てると、やりずらくて」

 

 訝しげな表情の彼女の乱れた帽子を整える伊吹。彼の言葉の真意は分からなかったが深く追求することも無く、メアリーは小さな嘆息を零して再びマスクで顔を隠した。

 メアリーが一息吐くと、ほのかに桃色に上気した頬は雪のような白さを取り戻し呼吸も整っていく。すると彼女は「それにしても……」と、少し逡巡するように視線を彷徨わせてからその宝石のような琥珀色の瞳で伊吹を見つめた。

 

「先程の昇降機といい囮といい射出機(カタパルト)といい、私の()()()をここまで使い込んだ男はお前が初めてだ」

「……その言い方やめてくれませんか」

 

 メアリーのその瞳が微かに歪められたのは不快感かそれとも愉悦か……。付き合いの浅い伊吹にはその真意は読み取れなかった。

 そしてマスクの下に隠された彼女の楽しげな笑みを知るよしも無い。

 

 

 



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12話 米花町より愛を込めて 後編

「……静かになった……?」

 

 薄暗い一室にて未だ拘束されたままの真純。先程までと異なるのは、救難信号を出すために蹴破られた窓から吹き込む風にカーテンが埃と共に舞上げられていることと、彼女の靴が左足しか無いことだ。

 未だスタンガンの影響で痺れる体に鞭打って、なんとか脚の拘束だけは解くことが出来た。震える脚で立ち上がりなんとか窓から外を覗き込んだとき、自身の母親の姿が見えたのには驚いた。もう一人誰か居たような気もしたが、震えるおぼつかない脚では立っているだけでも辛く、それを確認する余裕は無かった。

 母という思わぬ人物の登場ではあったが、自身を救出してくれるに十分な人物である。なんとか自身の存在を伝えるために、痺れる脚にありったけの力を込めて窓を蹴破った。勢い余って靴が飛んでいってしまい、自身は体を支えきれずにその場に尻餅をつくように転倒する。割れた窓ガラスの破片で切ったのか、後ろ手に縛られた手にピリリと小さな痛みが走った。

 

「……っ! 誰か来る……」

 

 それからしばらくすると部屋の外が騒がしく、慌てたような焦ったような男達の声が飛び交い、激しい足音が往来していた。

 しかしその足音たちも遠のいていき、しばらくすると一体は静寂へと包まれる。少しでも外の情報を得ようと、真純は体をよじらせ身を引きずって古びたアルミ製の扉の前へと這い寄る。

 先程までより幾ばくか痺れのマシになった脚で立ち上がろうとしたとき、静かながらも力強い足音が遠くから反響してくるのが聞こえた。

 その場で尻を浮かせ片膝膝立ちの体勢を取り迫る足音へ構える。足音は徐々に大きくなり、扉の前でピタリと止まった。

 母の、もとい少女の足音にしては重たすぎる。真純は脚に力を込め重心を前方へと傾ける。扉が開くのと同時に駆け出すか、場合によっては奇襲の一撃を食らわせる。額に一筋の汗を垂らしながらも彼女は不敵に笑った。

 

「……っ!」

 

 そんな彼女がビクリと肩を震わせたのは、その足音の主が部屋のドアに手をかけると、唐突にガシャガシャと激しくノブを上下させたからだ。

 

 ――鍵がかかってるのを知らない?――

 

 真純が思考を巡らせるとノブは動きを止め、扉の向こうが静寂に包まれた。

 今度はなんだ、と彼女が扉の方へと身を乗り出したその瞬間だった、かけられた鍵が激しい金属音と共に弾け飛び、突風のような風圧に前髪がなびき、眩しい蛍光灯の灯りに目が眩む。

 

「うわあぁっ!」

 

 扉が無理矢理ぶち破られたのだと理解したのはその勢いに圧されるように自身の体が後ろに転がってからだった。幸い蹴破られた扉が直撃することはなかったが。

 

「な、なんだぁ……?」

 

 転がった状態の上下逆さまの視界に大男のシルエットが映る。慌てて身を起こす真純。

 通路から差し込む光はこの薄暗い部屋に慣れた彼女の視界には眩しすぎた。目を細めながら見やると、その大男がこちらへと近づいてくる。

 頭を過ったのは、自身がここに拉致される時に見たざんばら髪とゼブラ柄の大男二人。彼女は素早く体勢を立て直し、後ろ手に縛られながらもその健脚をもって男の頭部へと鋭い右ハイキックを見舞う。

 

「ふッ――!」

「うぉっ、と、……威勢がよすぎるんじゃないですか……?」

 

 しかし無理な体勢から放った蹴りは体に残る痺れの影響もあってか威力に欠け、目の前の男の左手にあっさりと受け止められた。

 

「まだまだッ……!」

 

 男の声をどこかで聞いたことがあるような気が、そんな思考が一瞬頭を過るも、火の付いた彼女の連撃は止まらない。

 捕まれた右足を軸にジャンプするように体を持ち上げ、脚で挟み込むように左の蹴りを頭部へと振り抜く。しかしその二撃目もあっさりと捉えられてしまった。

 

「うっ、わわわぁっ」

「おっとと、無茶するなぁ」

「――ッ、……へ……?」

 

 両足を捕まれた真純は体を支える術も無く後ろへと倒れていく。縛られた両手では受け身も取れない。思わず目を閉じる彼女に訪れたのは背中と後頭部への鈍い衝撃では無く、ふわりと自身を抱きしめるような大きく心地よい両腕の温もりだった。

 きょとんとする彼女を立たせるようにそっと下ろすと、大男はその体の状態を確かめる。彼女に大した怪我が無いことを確認すると、よかったと言わんばかりに大きく頷いた。

 

「……その男は味方だ。少なくとも今は、な」

「ママっ! あっ……」

 

 蹴破られた扉に背を預け様子を窺っていたメアリーが呟くように真純へと声をかける。きょとんとしながらも、未だに警戒するように男を見つめていた真純だったが、待ち望んだ人物の声に思わず顔がほころび声を上げてしまう。そしてしまったと言わんばかりに口を噤み、目の前の男の様子を窺う。どうやら思わずその少女を母と呼んでしまった事を気にしているらしい。

 

「大丈夫だ。その男は()()()()()

「無用な詮索はしない。忘れろというなら今の言葉も聞かなかったことにする。だから、そっちも聞かないでね」

「おっ、お前っ……!」

 

 メアリーの言葉の意味が分からなかったが、目の前の男がその目出し帽を持ち上げ顔を覗かせると合点がいった様子の真純。

 これまでのこの男の様子や雰囲気、例の薬と深く関係のあると思われる少女を護るような行動、母の正体を知り、この戦闘力。この男もまた()()()()の人間だと理解するのに時間はかからなかった。そして先程この部屋から目撃した母と共にいた人物だろうと。

 だがその優しげながらもどこか不敵な笑みで「詮索はなし」だと釘を刺されれば、真純も深くは追求できなかった。もっとも、母が味方だと言い切り現に今自身を助けに来てくれたのだから、それだけで真純はなにも詮索するまいと小さく息を吐いた。

 

「しかし、無事でなによりだ」

 

 メアリーが真純へと歩み寄りそっとその肩を抱きしめる。先程までの眉がつり上がり眉間に皺の寄っていた表情もほぐれ、心底安堵したようにそっと笑みを零す。

 

「うん……ママも、ありがとう。体は大丈夫? このビルの奴ら結構な人数がいたと思うけど……」

「大丈夫だ。ビル内の敵勢力(エネミー)も既に制圧済みだ。こいつが思いのほか役に立った」

「こいつて……」

 

 メアリーに顎で指され、思わず乾いた苦笑い浮かべながら真純の後ろ手に縛られた拘束を解く伊吹。解放された両手首をさすりながら真純は改めて伊吹へと向き直り、真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。

 

「事情はよく分からないし詮索もしないけど……、ボクを助けに来てくれたことと、ママに手を貸してくれた事には礼を言うよ、……ありがとう」

「いや、こっちも理由あっての手助けだから、気にしないでいいよ」

 

 伊吹が含みの無い柔和な笑みを浮かべると、真純も少し照れくさそうに笑いながら頬を掻いた。

 

「しかしママはともかくとして、あんたも凄いな。結構ヤバそうなやつもいたのに」

「ヤバそうなやつ?」

 

 真純が半ば呆れたように肩をすくめながら感心したように伊吹の胸を叩く。しかし彼女の言葉にピンとこない伊吹が、なにかを警戒するように僅かに眉間に皺を寄せ聞き返す。

 

「ああ、あんたくらいの体格のいかつい二人組が……、――ッ」

 

 伊吹越しの扉を視界に捕らえた真純の表情が強ばり、息を飲む。

 暗い室内に差し込む廊下の光が何かの影に遮られ足下に伸びていた自身の影が別の影に覆われたとき、伊吹は咄嗟に目の前の真純とメアリーを抱きしめるように飛び退いた。

 

「ッ――!」

 

 ほんの一瞬遅れて激しい風切り音が耳に届く。先程まで自身の頭があった位置を重く硬そうな鉄パイプが渾身のフルスイングで振り抜かれた。

 倒れ込む真純と咄嗟に受け身をとるメアリーを庇うように背を向け、片膝立ちで即座に襲撃してきた人物へと振り返る伊吹。

 そこには今まさに伊吹を襲ったであろう、白地に黒の縞模様のゼブラ柄のスーツに身を包んだオールバックの男が鉄パイプを肩に担ぎタバコを吹かす。その隣には縁起の悪そうな灰色のスーツに黒シャツを着込んだ、色の抜けた髪が獅子の(たてがみ)のようにザンバラに逆立った男がぼーっと上の空に天井を眺めている。

 

 ――ああなるほど、確かにヤバそうな連中だ――

 

 伊吹はこの男達が、先程真純が言いかけた連中だと察する。その雰囲気といい、問答無用に迷いも躊躇いも無く振り抜かれた鉄パイプといい、自分たちの仲間か部下かが軒並み制圧されているにも関わらず落ち着いているその態度といい……。

 伊吹は自身の中で目の前の二人組への警戒心が高まっていき、己の心が鋼のように冷たく重く沈み込んでいくのを感じた。その眼光が鈍い光を湛え鋭く研ぎ澄まされる。

 

「おいおい、なんなんだよお前達は。家主がいない間に人のビルに入り込んで好き放題してくれてよォ」

 

 ぼーっと突っ立ったままのザンバラ髪の男を押しのけるように、二人の大男の間から姿を見せた男。整えたその長い前髪を撫でつけながら葉巻の煙を(くゆ)らせる。

 若く見える男だったがその座った目つきは生半可なものではなく、カタギの人間では無いことは火を見るより明らかだった。

 

「あんたたちに用はない。連れを回収しに来ただけだ。下の連中も生きている。ここはお互い、“今日は何もなかった”ことにしないか?」

 

 伊吹が目出し帽越しのくぐもった声で提案する。淀みなくすらすらと出てくる言葉は本心では無く、会話を繋げることで時間を稼ぎ相手の様子を観察するためのようだ。

 

「……ああ、そうだな。って帰すと思ってんのか?」

 

 男の吸う葉巻がじりじりと焼かれる。その色濃い紫煙を鼻から吹き出した男のこめかみが微かにヒクつく。

 

「お前の提案を飲んだフリして後ろから襲わないだけ紳士的だと思ってくれ」

 

 すくめるように肩を持ち上げた男が天井を仰ぐ。再び葉巻の煙を胸いっぱいに吸いこみ、濃煙混じりに言葉を紡ぐと、前に立ちはだかるゼブラの男がその手に持つ鉄パイプを握り込む。

 伊吹の眼光は彼らの動きを見逃さない。

 

「答えはNOだ。ここから、お前ら三人、帰す気はねえ」

 

 血走る男の眼が伊吹達を捕らえる。人差し指と中指に葉巻を挟んだまま突き出し、ポツリと呟いた。

 

()れ」

 

 途端、強烈な踏み込みと共に鉄パイプを振り抜くゼブラの男。しかし彼らの一挙手一投足見逃さない伊吹はその襲撃を知っていたかのように難なく躱す。鉄パイプを振り抜いたままの体勢の男にすかさず左の鉄拳を叩き込む。

 伊吹と変わらぬほどの体躯をしたゼブラの男だったが、その強烈な一撃に踏ん張りもきかぬように壁際までよろめき窓を突き破る。

 そして先程まで呆けていたザンバラの男も葉巻の男の言葉にハッとし、弾かれたように動き出したものの、その駆け出しに合わせたメアリーの強烈な足払いで派手に転倒してしまう。足下まで落ちてきたその男の側頭部に渾身の力で蹴り抜くメアリー。少女の力といえど、硬い皮素材の靴を用いた無防備な頭部への一撃は痛烈なものだった。

 

「そうか、残念だ。交渉決裂だな」

 

 伊吹が両の手を組み準備運動のように手首をぐるりと回しながら、淡々と告げた。

 目出し帽から覗かせる抜き身の日本刀のように鋭い彼の瞳は目が合った者を戦慄させるほどだったが、その目に睨まれる目の前の男は今一度葉巻を吸い込むと親指を弾いて灰を落とした。

 男は薄く不気味に笑った。

 

「おい、さっさと殺れ」

 

 男の呟きに応えるように、倒れていた二人の男がむくりと起き上がる。

 ザンバラ髪の男が頭部への一撃で揺れる視界を鎮めるかのように、額に手をついて頭を振る。その緩慢な動きで腰に差していた大きなアーミーナイフを逆手に引き抜いた。

 ゼブラ柄スーツの男も突き破った窓にもたれ掛かっていた自身の体を起こすと、ガラス片がこぼれ落ちパラパラと床を叩く。片方の鼻の穴を塞ぎながら、鼻に詰まった血を抜くように息を吹き抜く。

 

「……タフだね」

 

 そんな男達の様子に少し呆れたような半眼を向ける伊吹。メアリーもまた警戒心と不快感を隠そうともせず、伊達眼鏡とマスクの奥に隠れながらも眉間に皺を寄せ男達を睨み付ける。

 二人とも先程の一撃で終わらせるつもりだったようで、思わぬ男達の打たれ強さに些か辟易とし、それと同時に気を引き締め直す。

 

「ゼブラで」

「ライオンだ」

 

 なにをと確認するまでも無く、一言言葉を交わしただけでお互いの意図はくみ取れたらしい。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ぅぐッ……!」

 

 伊吹と相対するゼブラ柄のスーツを着込んだ男であったが、力任せに振るう鉄パイプの軌道を完全に見切っている伊吹には掠りもせず、その間を縫うように迫り来る拳にボディを激しく打ち抜かれる。

 

「もういいだろ。何発打ち込まれたら気が済むんだ」

 

 まともに受け身も取れず倒れ込むゼブラ柄の男に、伊吹は微かに眉を顰め男を止める。その表情にはどこか憐憫や哀れみさえも見て取れた。

 

「……」

「おいおい……まじかよ」

 

 男は伊吹の声も聞こえないように、そして大したダメージも受けていないかのように音も無く立ち上がった。

 感情が抜け落ちたかのように無表情の男が己の口の中へと指を突っ込む。唇の端から夥しい量の血を吹き出しながら口内をまさぐると、指先に力を込め何かを引き抜き、それを指で弾くように投げ捨てた。

 唾液混じりの粘性を含んだ赤い血を纏いながら、それが床を転がる。それは伊吹の拳によって折られた男の奥歯、その根元だった。口内に残った歯を自身で無理矢理引き抜いたらしい。

 少し離れた位置から見ていた真純も「うげえ」と不快そうに、そして痛そうに顔を歪める。

 ゼブラの男は痛がる様子も見せずに、今度は自身の右手の指に触れる。激しい戦闘でへし折られたのか、あらぬ方向へと向いていた己の中指と薬指を引っ掴むと、ごきりと生々しい鈍い音を立てて力ずくで元に戻す。それは治療や応急処置と呼べるほど上等なものではなかった。

 

「その濡れた刃面……、刃に何か塗布しているな」

「お前、ちょろちょろ、うっとうしい……」

 

 その後方ではメアリーがザンバラ髪の男を相手取っており、体格や膂力では適わないながらも、その巧みな身のこなしで相手を翻弄していた。

 

「ふッ――!」

「……ッ、……」

「……なに……?」

 

 メアリーがその小さな体を活かし、女豹の如くしなやかな身のこなしで男の懐へと潜り込むと、鞭のように強烈なスナップを効かせた脚撃で股間を蹴り上げた。

 プロテクターの類いで阻まれた感覚は無い、確かな手応えはあった。普通ならばどれ程鍛えられた屈強な男でも悶絶必至の一撃だ。にも関わらずザンバラ髪の男はまるで意にも介さずに足下のメアリーへとナイフを振り下ろす。

 男の鉄槌をすんでの所で躱したメアリーが飛び退き男と距離をとり伊吹と隣り合わせに言葉を交わす。

 

「なんだこいつら、痛みを感じないのか?」

「……ああ、なるほど」

 

 忌々しそうに吐き捨てたメアリーの言葉に得心するのは伊吹。痛みを感じないのならば異常な打たれ強さも、先程の治療とも言えない異常な行動にも納得がいく。

 

「やばい(ヤク)でもキメて痛みを飛ばしてるのか」

「なんだその薬は」

「さあ。まあいわゆる違法薬物なんかにも鎮痛効果がある代物も存在しますし、この世界には()()()()()()()。そうでしょう?」

「……」

 

 伊吹が言外にメアリーの容姿を幼児化させた毒薬の事を示唆する。メアリーも小さな嘆息を零すものの、それ以上噛みつかない辺り納得したらしい。

 

「そしてそういった非合法なヤバい薬を造ってるのか仲介してるのか……。どちらにせよその要所がこの建物で、こいつらが薬物犯罪者って訳だ」

 

 伊吹の言葉が聞こえているのかいないのか、ボスと思しき男はその半眼で天井を見上げながら葉巻を吸う。そしてザンバラ髪の男とゼブラ柄の男が再び二人へと迫る。

 

「まあ、痛みを感じなくてもやりようはある」

 

 そう呟き、伊吹が眼光鋭く再びその拳を構えたとき、後方から焦りに染まった真純の声が反響した。

 

「ママッ!」

 

 振り返った伊吹の視界に映るのは、ここに来て体調不良を訴える自身の体に足下をもつれさせるメアリーの姿。

 体から溢れ出すように止まらない咳に思わず体が硬直し、たまらずマスクを引き剥がし呼吸を整えようと試みるも、無理矢理に動かそうとする足下はふらついてしまう。ザンバラ髪の男は構うこと無くその凶刃でメアリーの綺麗な顔面を抉り突き上げるように切っ先を向けて振り上げる。

 真純の声に応えるように、すんでの所で身を起こしその切っ先を躱すメアリー。しかしその刃先は彼女の深々と被った帽子のつばに引っかかり、遙か上方へと跳ね上げる。

 

「…………ッ」

 

 息苦しげに歪む彼女の口元が、どこか忌々しそうに、それでも健気に助けを求めるような瞳が、白い肌が、細い指先が、小さな体が……、大切な人とどこか重なって見えてしまうのだ。

 

「し、ね」

「げほっ、んぐっ、げふっ……」

 

 再びメアリーへと襲い来る返しの振り下ろし。彼女の体はまだ満足に動かない。

 背を丸め咳き込み身を縮こませる彼女の姿を目の当たりにしたとき、伊吹の眼光は更に鈍く鋭く研ぎ澄まされ、その白眼が赤く血走る。

 彼の眼光はまるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のように、どこかの誰かを護ろうとする時のような、焦燥と覚悟と、憤怒と辛苦に染まる。

 

「ッ、ど、けぇええッ――!!」

 

 うねり上がる伊吹の渾身の右拳がゼブラの正中線を打ち抜く。肋骨を幾本かへし折る程のその一撃は男の肺から強制的に空気を弾き出し、縮み込んだその肺はまともに膨らまず、酸素の供給を強制的に遮断した。

 薬物で痛みを誤魔化す男は自身の肋骨が折れたことにも気づかなかっただろうが、酸素の供給を止められた脳は機能障害を起こし、痛みなど関係なく視界をブラックアウトさせる。

 壁際まで殴り飛ばされ受け身も取れぬまま崩れ落ちるゼブラを意にも介さず、伊吹はすかさずメアリーへと振り返ると、一瞬の躊躇いも無く彼女へと飛び込んだ。

 飛びつくように彼女を抱きしめザンバラの凶刃から逃れる。そしてその勢いを殺すように、彼女の小さな体が傷つかぬよう庇いながら床を転がる。

 

「大丈夫かッ、あ……、……い、……いや、大丈夫、ですか?」

 

 自身の腕の中でもぞもぞと動くメアリーに、邪魔だと言わんばかりに自身の目出し帽を脱ぎ捨て慌てて声をかける伊吹だったが、彼女が胸元から顔を覗かせると冷静さを取り戻すようにその声も尻すぼみになっていく。

 

「げほっ、……あ、ああ、問題ない。……どうした?」

「あ、いえ……、なんでも」

 

 どこか気が抜けたようにきょとんとした顔でこちらを見てくる伊吹に、メアリーも怪訝な表情を浮かべた。

 その視界の端には、伊吹の肩越しにザンバラ髪の男の姿が映る。男の握るナイフの刃から滴り落ちる赤い滴が目に入った。まさかと思い、伊吹を抱きしめるように彼の体に手を這わせた。

 

「痛っ……」

 

 ぺちゃりと、メアリーの指先に触れる生暖かい液体の感触。彼女の細く白い指先が赤く染まり、伊吹が眉を顰めた。

 

「切られたのかっ?」

 

 伊吹の右肩の裏から滴る赤い液体。服は裂け、その下の皮膚から溢れる血がじわりと染みとなって広がっていく。

 彼の傷に触れ赤く染まる自身の指先を見て眉を顰めるメアリー。

 

「あなたに怪我をされると……私がどやされる」

 

 なぜ庇ったのかと言外に問いかけるそのしかめっ面に、伊吹も思わず目を逸らして軽口を叩く。

 

「げほっ、……貴様を私の元へ遣わした者との契約か?」

 

 どこか問い詰めるように伊吹の目を真っ直ぐに見つめながら問うメアリー。目の前の男が我が身を省みず自身を庇うことに彼女は困惑し、その理由を求めていた。

 彼女をそっと手放すとそのイエローゴールドの瞳から逃れるように小さく振り返り、背後からゆっくりと迫り来るザンバラ髪の男の様子を窺う。

 

「契約と言うほどでは……約束、と言えばそうですね」

 

 ナイフ片手に焦点の合わない目を彷徨わせ呆けたようにゆっくりと歩み寄ってくるザンバラ男を一瞥し、伊吹は足下に転がっていたメアリーの帽子を拾い上げ、「ただ……」と独り言のように呟く。

 埃を払いながらその帽子をメアリーの頭へそっと被せる伊吹。彼女の顔を隠すように……。

 

「ただ、私が……、見たくないんです。⋯⋯あなたが傷つく姿を」

 

 なぜかは言えませんが、と少し困ったように眉を下げる彼の横顔が妙に瞳に焼き付いて離れなかった。

 

「あれ……」

 

 未だ体を自由に動かせないメアリーに代わってザンバラ髪の男を相手取ろうとする伊吹だったが、自身の体の違和感に思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 切られた右肩の裏からじんわりと広がる違和感。彼女に帽子を被せた右腕がだらりと垂れ下がる。すぐにピンときたのはザンバラ男がナイフに塗布していたであろうなにか。

 

「……即効性の神経毒の類いか」

 

 伊吹が咄嗟に左手で傷口を押さえ無理矢理に血を流し毒抜きを試みるも、傷口に付着する薬物はそう簡単には流れてくれない。

 

「動くな」

「えっ、って、()たたたっ」

 

 そう告げるやいなや、メアリーは彼の傷口に己の唇を這わせた。その裂傷を舐め上げるように舌を這わせ吸い付き血を抜き出す。

 毒薬ごと口に含んだ彼の血を吐き捨てる。呼吸が苦しいのか、何度か咳き込みながら彼の血を繰り返し吸い出した。

 

「……応急処置だ」

「ど、どうも……」

 

 唇の端から唾液混じりの血を零しながらメアリーが淡々と告げる。「……少し舌が痺れるな」と彼女がぺろりと舌を出すと銀の糸がつっと伝い落ちる。伊吹は思わず彼女から目を逸らしてしまう。外見はいたいけな少女でありながら未亡人でもある彼女のそんな姿はなんだか見てはいけないような気がしたのだ。

 

「し、ね」

 

 脚を引きずるようにのそのそと動いていたザンバラ男だったが、伊吹達のやりとりの間に既に側まで迫っていた。忘れてたと言わんばかりに振り向く伊吹が数回、感覚を確かめるかのように自身の右の拳を握り込むと、一際強くその拳を固めた。右腕を中心に彼の筋肉が盛り上がり、その筋骨の締め上げに傷口さえも塞がったようにも見えるほど。

 振り下ろされる男のナイフにカウンターを合わせるように、立ち上がり様にその右拳を叩き込む。

 

「うらァッ!」

「あぐぇッ……!?」

 

 大男の凶刃と腕の隙間を縫うように放たれた一撃は的確にその顎を打ち抜く。骨身を砕くような鈍い音が聞こえ男の巨躯がふわりと浮いたかと思うと、そのままザンバラ髪の男は仰向けに倒れ込む。

 脳が揺れたなどという程度では済まない一撃に視界はシェイクされ明滅する。上下も左右も分からなくなって、浮遊感が身を包んだかと思うと男の記憶はそこで途絶えた。

 

「おいおいおいおい、冗談だろ。そいつらをそんなあっさりとよォ」

 

 目の前で繰り広げられる戦況を眺めていた葉巻の男は、取り巻きの男達が劣勢と見るやいなや音も無くひっそりと真純の傍らへ移動していた。

 ザンバラ髪の男もゼブラ柄の男も倒れピクリとも動かない。圧倒的不利な状況にも関わらず葉巻の男が余裕そうにそう言い放ったのは、その手に黒々とした拳銃を握っており、その銃口を真純の側頭部へと突きつけているからだ。人質を使ってこの劣勢を覆すつもりのようだ。

 

「……」

「んだ? びびっちまってんのか?」

 

 男に銃口を突きつけられたまま俯いていた真純だったが、自身の両の手を数度開いては握り込む。先程の伊吹同様に()()()()()()()()()()()()()ように。そんな彼女を見た伊吹は「やれやれ終わった終わった」とでも言わんばかりに小さく嘆息を零す。メアリーもまた半ば呆れたように腕を組み瞳を閉じる。

 彼らの沈黙の意味を何やら勘違いした男が息巻いていると、隣の女子高生が腹から息を吹き出す。

 

「おい……何してんだ?」

「ふーっ――……、……らぁッ!!」

「ぶうぇっ……!」

 

 真純の渾身の裏拳が男の顔面を的確に捉え、その指先にピクリとも力を込める暇も与えずに意識を刈り取った。

 

「ふー、やっと体がまともに動くようになったよ」

 

 足下に倒れる男に見向きもせず爛漫な笑顔を浮かべる真純が、伊吹とメアリーにピースサインを向けた。

 

「あー、うん……。……お見事……」

 

 静かな深夜のビルの一室に、伊吹の疲れたような声の賞賛が響いた。

 

「側近が強いと、ボスとは闘わず終わるってゲームじゃよくあるんですよ」

「ゲーム?」

「あれ、詳しくありませんか? てっきりMI6は機械好きなギークばかりだと思っていましたが」

「機械工学は好きだが、ピコピコのことはよく分からん」

「ピコピコて……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「でもあれでよかったのか?」

「死人はなし。全員捕縛しご丁寧に違法薬物の製造使用及び売買の証拠も揃えて匿名で警察に通報した。俺達の痕跡は髪の毛一本たりとも残しちゃいない。上出来だろう」

 

 一同がビルを後にする頃には真上で輝いていた月もすっかり傾き姿を隠してしまっていた。

 真純が頭の後ろに手を組みながらふん縛られたビルの男達の事を尋ねるも、伊吹は肩をすくめて疲れたと言わんばかりに大きなあくびを零す。

 

「いてて……、ったく、早く帰らないと。明日は子供達を連れて米花デパートに行かなきゃいけないんだよ……」

「ああ、そういえばそんなこと言ってたっけ」

「今から帰ってシャワー浴びて怪我の手当して……三時間くらいしか寝れねえ。ああ、腹も減ったな」

 

 伊吹がげんなりしながらこれからやるべき事を指折り数え、携帯を取り出し現時刻を確認する。痛む肩の傷を抑えながら「この怪我は誤魔化すのが大変そうだ……」と小さくぼやいた。

 すると腕を組み瞳を伏せ沈黙していたメアリーがチラリと横目に彼を見つめ、心なしかどこか申し訳なさそうに口を開いた。

 

「……ホテルへ来るか?」

「ええっ」

 

 自身を庇って傷を負わせたことに少し後ろめたさもあるのか、その幼い外見には似つかわしくない扇情的な言葉はいささか犯罪の香りがする。彼女の言葉が予想外だったのか、真純も驚いたように声を上げてしまう。

 

「手当くらいはしてやれる。それくらいの義理はある。背中の傷だ、自分でするよりも早いぞ」

 

 伊吹が顎に手を当ててしばし思案するも、困ったように(かぶり)を振った。

 

「あー……いや、やめときます。誰かに見られると色々と困りますし。それに……万が一、目が覚めたときに私が居なかったら()()()()()()()()()()になっちゃいそうですし……」

「……?」

 

 彼のその言葉の意味が母娘(おやこ)には分からなかった。

 

「ま、これに懲りたら好奇心の赴くままに行動せず、少しは自重することだね」

「……はーい」

「あなたからもくれぐれも注意して下さい」

「なんだか担任の先生みたいだな」

 

 真純へ注意喚起すると共に、メアリーに対しても人差し指を立てて真純に言って聞かせるようにお願いする伊吹。対するメアリーは腕を組んだまま小さく肩をすくめるのみ。

 

「……まあ、何かあったときは、また必要であれば助けに来ますが……何度でも」

「なにそれ、もしかしてボクを口説いてるのかい?」

「違う」

「え、じゃあママを……?」

「違います……。こっちにはこっちの事情があって。それにあなた達は……」

「ボクたちが、なんだ?」

 

 伊吹は少しの沈黙の後、「俺の大切な人にとっての、大切な家族になるかもしれないから」という言葉を飲み込んで、なんでもないと眉を下げて笑った。

 そうこうするうちに真純とメアリーをホテル前まで送り届けた伊吹。帰り道の間、軽口を叩きながらも辺りを警戒していたが特に不審なこともなく、今頃は警察もあのビルへと到着していることだろう。

 伊吹が先程までの命のやりとりや肩の怪我のことなどを微塵にも感じさせないような柔和な笑みを浮かべて手を振る。

 路地の向こうへと消えていく彼に手を振り返す真純が、隣で腕を組んだまま小さくなる伊吹の姿をじっと見送るメアリーの顔を少し不思議そうに覗き込む。

 

「しかし意外だな、ママが他人を部屋に呼ぼうとするなんてさ」

「……少なくともあの怪我は私に原因がある。お前の救出に手を貸してもらったのも事実だ。怪我の手当くらいはしてやってもいいだろう。そもそもお前の救出に向かう前にやつは既に部屋に侵入してきている、一度入室済みだとも言えるな。まあ得体の知れないやつならばまだしもアイツは何かと役に立ちそうだし……――」

 

 腕を組んだまま眉間に皺を寄せ、少し苛立たしそうに真純を流し目に見つめる。表情にこそ出ていないものの、その早口にまくし立てる様は慌てて何かを誤魔化そうとしているようにも見える。

 

「あ、そ、そう……。まあ、悪い人じゃ無いみたいでよかったよ。ま、ママも気に入ったみたい、だね」

 

 普段は静かなメアリーの口がよく回るものだから、真純も思わず目が点になる。真純の一言に思わず口をつむりじろりと視線を鋭くするメアリー。

 なにかを思案するように視線を夜空に彷徨わせた彼女だったが、しばらくすると気が抜けたようにふっと小さく笑みを零し、顰めていた表情を解した。

 

「…………ま、悪くはないわね、あの子。……ふふっ……」

「……え、なにその笑い、キモいんだけど……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ふぁ……」

「ふわぁあー……」

「なんだお前ら、揃って大あくびかよ」

 

 翌朝のこと、伊吹含め少年探偵団一行は予定通りに米花デパートへと買い物へ出発していた。

 青空広がる晴天は眩しいほどで、先程から何度も欠伸を繰り返している青年と少女の目には辛いつらいようで、涙ぐむ目をしょぼしょぼと擦る。

 

「てか、どうしたんだ? その目の下のクマ……」

「ふぁ……。昨夜(ゆうべ)、寝る前にゴキ……、嫌なものが出てね」

 

 目にクマをつくる灰原の顔を覗き込むコナン。灰原は目の端に涙を浮かべながら忌々しそうに昨夜の害虫のことを思い出し不快そうに顔を歪める。

 

「彼が退治してくれたと思ったら、夜中に博士がもう一匹出たとか言うし。おかげで部屋から出られないしトイレも我慢して寝不足よ」

「ああ、萩原(おめー)も眠そうだな」

「ちょっと、昨夜(ゆうべ)はゴキ――」

「……」

「あっ、……ええと、ちゃばねん退治に忙しくてね」

「その呼称やめて」

 

 寝不足のせいか、いつにも増して鋭い半眼が伊吹を刺し貫く。

 

「そういやお前(おめー)、昨日は結局なんで世良の宿泊先のホテルなんか聞いてきたんだよ」

「……なに、それ。どういうこと?」

「え、いや、それは……」

 

 灰原の様子から察するに昨夜の不在はうまく誤魔化したようだが、まさかのこのタイミングでのコナンからの質問に思わずその寝不足で充血した視線を泳がせあわあわと手を振る伊吹。

 腰に手を当て下から覗き込むように彼を睨み上げる灰原の視線もまた、寝不足で赤く迫力は普段の三割増しだ。

 

「いや、ほら、あんまりこっちを嗅ぎ回られても困るしさ、こっちも向こうの情報をなにか握っておこうかな-、って」

「……ふーん……」

「そ、それより、お昼は米花デパートの最上階のホテルで食事だろ、いやー楽しみだなぁ、ははは」

 

 頭を掻きながら下手くそに話を逸らす伊吹に対して、灰原はいつものように嘆息を零して瞳を伏せる。

 

「そう。……のん気な男ね」

「す、すんません……」

 

 肩を落とし思わず謝罪してしまう伊吹。彼を置いていくように灰原は踵を返して前を行く子供達と博士の後を追う。

 

「……あのボクッ娘になにか用でもあったのかしら」

「いや、オレも知らねーけど」

「……」

「萩原に直接聞きゃいいじゃねえか」

「……いいわ、別に。言いたくなさそうだったし」

 

 伊吹から少し距離を取ったところでポツリと呟く灰原。それは独り言のようにも思えたが、隣を歩くコナンの耳には届いたようだ。

 前を向いたままこちらを一瞥することもなく去って行く灰原を見送って、コナンは後ろからとぼとぼと付いてくる伊吹を見やる。

 

「事情は知らねーけど、お前(おめー)、誤魔化すの下手すぎ」

「……嘘は吐きたくないんだよ、哀には。だったら、()()()()って手しかないだろ」

「ったく、揃いも揃って、似たもの同士というかなんというか……」

 

 呆れたように苦笑いを浮かべるコナンに対し、肩を落としていた伊吹も恨めしそうな視線を送る。

 

「というかコナン、お前も哀の居る前で聞くなよ……」

「わ、(わり)ぃ……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「わぁーっ、すごーい!」

「すげーー!!」

「ワクワクしますねー!」

 

 米花デパートに到着すると子供達のテンションはうなぎ登りだ。

 

「ねえ哀ちゃん、見て見て! お化粧やってるよ!」

「ああ……、化粧品の実演販売ね」

 

 ウキウキしながら灰原の腕を引いてデパート一階の化粧品コーナーを指差す歩美。そこでは販売員と思しき綺麗な女性がお客らしい女性を鏡の前の椅子に座らせ何やら手に持った化粧品の説明をしているようだ。

 

『あら、このマスカラいい感じじゃない!』

『これでデートもバッチリですね!』

 

「マスカラ……デート」

「いいなー!」

 

 販売員と女性客の会話を耳にして、灰原と歩美も興味が引かれたらしい。歩美は瞳を輝かせ、灰原も心なしか高揚したように頬を染める。

 

「おーい、博士が呼んでるよ」

「だいたい、オメーらにあんなの()えーっつーの」

「……」

 

 後ろから呼びかける伊吹に、後ろ髪を引かれる思いながらも化粧品売り場を後にしようとする灰原だったが、その後のコナンの一言に思わずカチンとこめかみがヒクついてしまった。

 するとムキになった彼女は踵を返し、販売員に化粧品の自身への実演を要求した。

 

「はぁ? できない? じゃあなーに? 私達はお客様じゃないってわけ?」

「あ、だからお母さんになら……」

「お、おい……」

「あ、哀……?」

 

 歩美を引き連れて、子供には出来ないと断る販売員に食ってかかる灰原。止めるコナンと伊吹を尻目に、どうやらマスカラの実演をしてもらえるようだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 都内の某ホテル。昨夜、伊吹が世良母娘を送り届けたホテルの一室。

 昨日の疲れか真純もメアリーも揃ってお昼まで眠っていたらしく、すっかり日も昇りきったこの時間に目が覚めたらしい。

 どちらが淹れたのか室内には香ばしいコーヒーの香りに包まれている。真純はスポーティな下着姿のままソファにもたれかかり、メアリーはラフな部屋着のままカップに口をつける。

 

「それで、結局彼は何者だったんだ」

 

 二、三人掛けのソファに寝転び、ぼんやりとした頭のままテレビをザッピングする真純。その逞しくも細く締まっている脚を組み直しながら昨夜の出来事を思い出し、伊吹への疑問を口にする。

 

「解毒剤を持ち、自身も幼児化したと思われる少女……。そしてそれを護衛する謎の男、か。……あの男は十中八九、合衆国(ステイツ)の工作員だ」

「えっ、それって、CIAってこと?」

 

 コーヒー片手に呟くメアリーの言葉を聞き真純は驚いたように身を起こす。彼女の問いかけが聞こえてないのか、メアリーは手元のコーヒーカップの水面に映る自身を見つめながら思考に耽る。

 真純の問いかけへの答えというよりも、己の思考を整理するように呟く。

 

「……CIAは合衆国(ステイツ)の利益のためならば手段を選ばぬ野蛮な連中だ。そんなやつと例の薬の解毒薬を持つ、恐らく幼児化された少女……。その薬、あるいは解毒薬を用いれば莫大な金が動くはずだ。あの工作員はその少女と薬を利用しようと画策しているのか……?」

「そんな悪いヤツには思えないけどなあ」

 

 メアリーの思考に割って入るように、ソファに頬杖をつきながらうつ伏せで寝転がる真純がテーブルに手を伸ばしナッツを一つ摘まむ。

 そんな彼女を横目にメアリーは静かに息を吐く。

 

「……まあ、そうかもしれんな……。とにかく、薬の情報は必要だが主たる目標(ターゲット)は江戸川コナンという少年に絞り、その灰原とかいう少女には迂闊に手を出さないほうがいいかもしれん。……番犬に手を噛まれる、どころか腕ごと食い千切られかねない」

 

 一口静かにコーヒーをすするメアリーが、宙に視線を彷徨わせる。

 

「なんにせよ、その二人の関係はこちらが思っている以上に複雑なのやもしれんな……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ど、どうかなぁ?」

「見間違えたかしら?」

 

 マスカラの実演をしてもらった灰原と歩美が一同の元へと戻ってきた。

 

「あ、ああ……」

「き、きれいですー……」

「……まあ、ある意味見間違えたな……」

「すっごい似合ってる、ちょっと大人っぽすぎる気もするけど、超可愛いよ」

 

 半ば呆れ気味に答える博士やコナン達。それとは反対に二人、というより灰原に対して興奮気味に褒めちぎる伊吹。

 灰原もどこか得意気に胸を張って満足そうにに小さく微笑んだ。

 じゃあ食事に行こうかと子供達を連れて行く博士とコナンに置いて行かれても構わず、というより気づかずに未だ灰原を眺めながら頭を撫でる伊吹。いつもなら人前で撫でられると鬱陶しそうに払いのける灰原だが、今は満更でもなさそうに腕を組みドヤ顔で大人しく撫でられ続ける。

 

「かわいいなあ。化粧してるところ久々に見たけど、似合ってるよ、すごく綺麗」

「ふふん……っ」

「ちょっとくらいならたまにはお化粧もいいかもね、かわいい」

「ま、これくらいは嗜みよね」

「おい、さっさと行くぞそこのバカップル」

 

 呆れたように二人を呼ぶコナン。この二人の関係は、メアリーが想像するほど複雑なものではないのかもしれない。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 その夜。阿笠宅のキッチンにはまた伊吹と灰原が並んで夕食の準備を進めていた。伊吹が野菜を刻む隣で灰原がせっせと食器を取り出す。

 

「結局フサエブランドのポーチ、事件のごたごたのせいで買えなくなっちゃったけどよかったの?」

「ああ、別にいいわよ。本気で今日買おうなんて思ってなかったし」

 

 あの後、食事を終えた一同が買い物をしようと各自欲しいものを探しに一時解散した際にデパート内で殺人未遂事件が発生し巻き込まれてしまったらしい。

 もっとも事件そのものはコナンや伊吹、少年探偵団の活躍もあって解決したものの、事件の影響でデパートは一時閉鎖される事態となり、買い物どころではなくなってしまった。

 

「……」

「……」

 

 二人の間に流れる沈黙。その発端は、つい先程伊吹が浴室にてシャワーを浴びていた際に、その真新しい右肩の傷跡を彼女に見られたからだ。

 伊吹が慌てて隠したものだから、それが見えたのはほんの一瞬で、見間違いだったかもと思ってしまうほど。けれど覚えのないその傷と、今朝コナンが言っていた伊吹が昨夜あの女の滞在先を聞いていたということが線で繋がりそうな気がした。思えば昨夜の博士の妙な言動も自身を部屋から出さないようにする下手な芝居のようにも思えてきた。

 

「……昨日の夜」

「……うん」

 

 お皿を一枚抱きしめて少し逡巡するように視線を天井に泳がせていた灰原が、伊吹へと振り返る。じっと伊吹を見つめるその瞳は、言葉には紡がなくとも強く彼に問いかけていた。

 伊吹は小さな溜め息を零して、観念したように困ったように笑った。そして参ったと言うように肩をすくめて灰原へと向き直る。

 

「……哀が答えてと言うのなら、俺は嘘も、偽りも、誤魔化しもしないよ。絶対に」

 

 彼の言葉は灰原の聞きたかった問いかけの答えではなかった。それでもその言葉は余りに真っ直ぐで誠実で。彼女の中のもやもやした感情をいとも容易く解きほぐしてしまった。

 さあなんでも聞いてくれと言わんばかりにこちらを見てくる彼を一瞥して、灰原は自分の中のかき回された(おり)のように揺れる感情を吐き出すように鼻から大きく息をついた。

 

「…………別に、なんでもないわ。昨日の夜、ゴ……害虫を退治してくれてありがとうって言いたかっただけ」

「……そう。ま、少しだけ手こずったけど」

 

 今問いただされていたらきっと昨夜の事を話してしまって、そこからずるずると芋づる式に聞き出されて、真純やメアリーのこと、彼女たちと灰原自身の関係なども伝えることになっていただろう。それは灰原を余計なトラブルや危険にさらしかねないと、伊吹は彼女が何も聞いてこなかったことに一人安堵した。

 

「あ痛っ、つ……」

「ちょっと、なにやってんのよ。大丈夫?」

 

 再び包丁片手に野菜を刻む伊吹だったが、つい気が抜けてしまったのか思わず自身の左手の指先も傷つけてしまった。

 彼の手をとった灰原が、ぷくりと膨らむ赤い液体を見て咄嗟にその太い指をくわえ込む。彼女の湿った小さな舌先が傷の上を這うように舐め上げてピリリと甘く痛む。

 灰原の唇の端が少しだけ濡れて蛍光灯の明かりを反射する。

 

「あ、いや、ちょっと」

「ん? ……()に?」

 

 灰原が伊吹の指を咥えたまま喋ると、伊吹は思わず右手を口元へとあてがい、その視線は自身の指をくわえ込む彼女へと釘付けになってしまう。

 

「た、確かに傷口を舐める行為は洗浄作用があるかもしれないが、蛇口で洗えばいいし、ムチンなんかは傷口の乾燥を防いでくれるけど、リゾチームの抗菌作用とか細菌の凝縮作用とか炎症を抑える作用とか色々理屈というか理由は考えられるが、普通に傷口洗って消毒しておけばそれが一番で……」

 

 灰原に言っているのかそれとも自分に言い聞かせているのか、口元を隠したままくぐもった声でぶつぶつと呟く伊吹。

 しばらく伊吹の指を咥えていた灰原がその口元を離すと、自身の唇の端をそっと指で拭った。伊吹は「あー……」とうなり声を上げて項垂(うなだ)れる。

 

「なんだかちょっと、いけないことをした気がする……」

「……ばかね、ただの応急処置でしょ。動揺しすぎよ」

 

 澄まし顔でそう告げる彼女はどこか蠱惑的で、小学生という今の外見からは想像できないほどに扇情的だった。

 すると彼女がいたずらに自身の指を突き出し、昨夜の傷が薄く残る自身の人差し指を今咥えていた彼の指先にちょんと触れさせる。

 

「……約束よ。嘘も……、偽りも、……誤魔化しもなし」

 

 一言一言を丁寧に、確かめるように言葉を紡ぐ灰原。自身の指先の傷を彼の指先の傷に押し付けるようにくにくにと艶めかしく動かす。

 そしてその細くしなやかな指をそっと伊吹の屈強な指へと絡める。

 ――指切り……――

 聞こえないほど小さな声を伴って、彼女の唇がそっと動いた。

 

「絆創膏、取ってくるわ」

「あ……うん……」

 

 そう言い残してキッチンを後にする灰原の指先と伊吹の指先が一瞬、細く短い銀の糸で繋がれて音もなく途切れた。

 思わずぼーっとしたまま彼女を見送る伊吹が、呆けたままにぬらりと光る自身の指先を見つめる。誰に何をされても大して気にもとめない彼だが、彼女には指先一つ咥えられるだけで、どうにも意識してしまうのだ。

 

「おや、哀くん。今夜の夕飯は期待できそうかの」

「あら、どうして? 博士」

 

 リビングの救急箱を漁る灰原の後ろからテレビを見ていた博士の声がかかる。

 

「いや、なにやら上機嫌に見えたからのぉ。てっきり夕飯が上手にできたのかと」

「そう、別になんでもないわ。残念だけど、夕飯もいつもと同じよ。……ふふっ」

 

 なんでもない、そう言いながらも嬉しそうについ笑顔が零れる灰原。まだ傷の残る人差し指でそっと撫でるように唇に触れる。彼の動揺する姿がどうにも可愛らしく、愛おしく思えた。

 私が彼を想って意識するように、彼もまた私のことを想ってくれている。彼の反応はそう思えるには十分で、なぜだか分からないが、「ただの応急処置」で彼がそんな慌てふためいた反応をしてくれるのは自分にだけだろうという気がして、なんだか妙に心が弾んだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そういえば、聞きたいことがあるんだけど」

「ん、なに?」

 

 食卓を伊吹と灰原、博士の三人で囲んで出来上がった夕飯に舌鼓を打っていると、灰原がなにかを思い出したように伊吹へ声をかける。伊吹は生返事を返しながら熱々できたて具沢山のミネストローネに息を吹きかける。

 

「先週の水曜日、帰りが遅かったわね。どこで何してたの?」

「え、先週……? あー、ホームセンター行ってたような。ほら、庭の草刈り用の鉈買ったんだよ」

「その前の日曜日は? 午前中姿が見えなかったけれど」

「うぇ、日曜? えーっと、確かジョギング中にコナンに力貸せとか言われて、そのまま逃走中の強盗犯を追っかけていつもより帰りが遅くなった、かな」

 

 伊吹を見るでもなく、手元のミネストローネを冷ましながらパクつく灰原。伊吹は眉をしかめてスプーンを持ち上げたままに記憶を辿る。

 灰原は淡々と質問を続ける。

 

「先月末の金曜日は?」

「せ、先月ぅ? えっとその金曜日は……」

 

 頬を掻き困った様子ながらも、灰原の問いかけに律儀に頭を傾ける伊吹。

 天井の照明を見上げるように思考を泳がせる彼が先月末の金曜日のことを思い出すと、ハッとしたように目を見開く。

 確かその日は灰原に内緒で“超特製特盛りマジでやばいスペシャル閻魔大王ラーメンセット”を食べていた日……。

 伊吹が顔を見上げたまま、チラリと視線だけを動かして灰原の様子を窺うと、先程までミネストローネに向けられていた彼女の猫のような涼やかな瞳がじーっとこちらを捕らえていた。

 

「嘘も偽りも誤魔化しも無し、よね……?」

「う……、余計なこと言ったかなぁ……」

 

 頭を抱える伊吹を見つめる彼女の頬が楽しそうに緩む。水の入ったグラスを傾けて、その表情を隠す。

 嘘も偽りも誤魔化しもなしで聞きたかった本当のことはもっと別にあるのだけれど……。素直になれない自分に、今度は呆れたようにそっと溜め息を零す。

 目の前で「いや、その……うーん……」と腕を組んで首を傾げる彼を見てると、まあ、また今度でいいかと、心が綻んでしまうのだった。

 

 ――私のこと、どう思ってる?――

 

 彼女は少し頬を染めながら一人そっとバケットを頬張った。

 

 

 

 



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13話 ピッチを駆けるキューピット 前編

 

 

『昨夜未明、新たにオープンされる予定の東都シティホテル付近で多数のイタズラ書きが発見されました。イタズラ書きはスプレーのようなもので書かれており、内容は「赤旗」や「天誅」「革命」など。また同じ頃、現場付近ではモデルガンのようなものを所持した複数の不審な人影の目撃情報もあり、警察はイタズラ書きとの関与も視野に入れて調査中とのことです。東都シティホテル側は「誠に遺憾。清掃補修はすぐにでも取りかかり、予定通りのオープンを目指す」とコメントしています。……次のニュースです。明日、都内で予定されていた――――』

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『おーっとッ! これは惜しいッ! 開始早々の比護の渾身のボレーシュートは僅かに上! ゴールポストに嫌われてしまったーッ!』

 

 会場向こう側の観客席から湧き上がった歓声は、風船の空気が抜けるかのようにしぼんでいき、落胆の溜め息が共鳴した。

 

『つい先程、試合開始のホイッスルで始まりましたこの試合――……』

 

 都内某所のサッカースタジアム。今日そこでは東京スピリッツ対ビッグ大阪のエキシビジョンマッチが開催されていた。しかしエキシビジョンとはいえ東京スピリッツからは赤木英雄、ビッグ大阪からは比護隆佑、サッカーファンの間では「ダブルH」と慕われる各チームを代表するビッグネームが出場しており、客席は隙間もないほどの観客で埋め尽くされていた。

 

「……あぁ……」

「露骨に残念そうな顔するなよな、一応ここは東京スピリッツ側の応援席だぞ」

 

 比護の渾身のシュートが外れると、東京スピリッツ側の観客席にいた灰原からも思わず落胆の声が漏れた。隣のコナンが周囲の視線を気にしながら灰原にボソリと釘を刺す。

 

「あら、別にどこで誰を応援しようと勝手でしょ」

「いやでもその帽子はどうなの」

 

 比護のシュートが外れたのが気に入らないのか、不服そうに腕を組む灰原がコナンに不満の半眼を浴びせる。

 周囲に東京スピリッツのユニフォームを着込んだファンが集まる中で灰原は堂々とビッグ大阪の赤い帽子を被っており、半ば呆れたように口を挟む伊吹に、彼女はその不機嫌な表情のまま振り返る。

 

「向こう側の席に座れるなら向こうに行ってたわ」

「哀ちゃんは比護さんの応援に来てるんだもんね」

 

 伊吹と灰原、コナンたちの前の席には少年探偵団と阿笠博士の姿もあった。ぷいと拗ねたようにそっぽを向く灰原に「元気出して!」と歩美が励ましていた。

 

「それにしても博士は凄いですね! まさか福引きでこの高倍率のエキシビジョンマッチのチケットを当ててしまうなんて!」

「今度はうまい飯を当ててくれよな!」

「む、無茶言うでないわい」

 

 どうやらこの試合には博士の強運で連れて来てもらったらしい。

 阿笠宅で最初にチケットの話をしたときにはいつもの保護者のようなスタンスのコナンと灰原であったが、試合の内容がこの対戦カードだと知るやいなや二人とも子供のように目を輝かせていたのは記憶に新しい。もっとも灰原が乗り気になったのは比護選手が出場するという話を聞いてからだったが。

 

「しっかし比護も今のシュート外すなよな!」

「元太くんはどっちの応援をしているんですか?」

「東京スピリッツには勝ってほしいけど、ビッグ大阪の比護選手にもがんばってほしいよね!」

 

 子供達が勝敗の行方について熱く語り合う中、灰原が伊吹の服の裾を摘まんで引っ張った。

 

「あなたもちゃんと応援しなさい」

「ビッグ大阪の?」

「比護さんのよ」

「……やだよ」

 

 比護のシュートが外れた上にビッグ大阪がここ数試合負け越しているのがよほど不服なのか、灰原は鋭い視線のまま伊吹に応援することを強要する。対する伊吹はどこかつまらなさそうにボソリと呟くと、唇を噤んでしまった。

 伊吹は試合にも選手にもサッカーにも興味無さそうに、その屈強な両腕を上げてうーんと伸びをしながら、ピッチではなく吹き抜けになっているスタジアムの天井を見上げて空を漂う雲を眺めていた。

 

『ビッグ大阪っ、華麗なパス回しからボールは再び比護の元へ送られたッ!』

「頑張ってっ……!」

『おぉっとッ、しかしここは東京スピリッツも通さないッ! 比護へのマークは厚いッ』

「ふわぁぁあ……んん」

「欠伸してる場合じゃないでしょっ、応援っ」

 

 その後もビッグ大阪の比護が活躍する度に灰原は瞳を輝かせ「頑張って」と手に汗を握り、彼がシュートを外したりボールを取られる度にその不満をぶつけるように、半ば八つ当たりのように伊吹の裾を引き「応援!」と彼に声援の強要をする。

 対する伊吹も灰原の強要をことごとくはぐらかし続けた。なんてこと無くいつものように飄々とした態度ではあったが、どうにも(かたく)なに比護を応援することを拒んでいるようにも見えた。何本目かの比護のシュートが東京スピリッツのキーパーによって弾かれると、つい「まあそんなもんだって」とほのかに声を明るく呟いてしまった。

 そして彼が全く応援する様子もなく、それどころかそんな事を呟くものだから灰原のこめかみにも薄らと怒りのマークが募ってしまう。

 最終的にビッグ大阪が負けてしまったことも相まって、ついに彼女の怒りは静かに堪忍袋から溢れ出した。

 

「ちょっと、さっきからなんなの。ちゃんと比護さんの応援しなさいよ」

「いや、別に俺サッカーには興味ないからなぁ」

「興味なくても応援する!」

「気乗りしないなぁ。それもなんでチームじゃなくて、ファンでもない選手個人の応援なんか……」

「私がファンだからよ」

「……じゃあ、哀が応援してたらいいじゃん」

 

 彼の大きな掌にも余るLサイズの紙コップの蓋に突き刺さったストローを吸いながら、不服そうな彼の視線はピッチへと向けられる。

 そんな彼にじーっと訝しげな視線を送る灰原だったが、そっぽを向く彼の横顔をしばらく見つめていると、いつもと異なるぎこちない表情の機微を感じ取った。

 なにかを察したかのように微かに目を見開く灰原。疑うように眉をひそめていた彼女の表情が、拍子抜けたかのようにきょとんと呆気にとられる。

 

「……あなた、もしかして……」

「……なに?」

「……いえ、なんでもないわ。あなたこそ、なにか言いたそうだけど?」

「いや、別に、なにもないけど……?」

「…………あ、そ」

 

 どこか不満げながらもそれを言おうとしない伊吹の態度に灰原も些か呆れるように小さく息を吐く。

 しかしどこか嬉しそうに薄らと笑みを浮かべながら頬杖を突いて彼を見つめる。彼女をチラリと横目で見ていた伊吹がその視線と目が合ってバツが悪そうに目を逸らした。

 言いたいことがあるなら言いなさいと、灰原の瞳は訴えていたが、伊吹は気づかないふりをしたままストローに口を付けるのだった。

 そんな彼らの静かな攻防戦は博士の家に帰ってくるまで続けられていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あ、そういやお前らに言っとくことがあるんだった」

 

 サッカーの試合が終わると一同は阿笠宅へと戻り、先程見た試合の感想を肴に帰りに買ってきたケーキで午後のティータイムを楽しんでいた。

 子供達がチョコかショートかチーズか、いくつかのケーキを取り合う中でコナンが思い出したと言うように声を上げた。

 

「園子姉ちゃんが今度新しくできる東都シティホテルのオープンパーティに招待されてるらしいんだけど、よかったら俺達少年探偵団も来ないかってさ。おっちゃんも招待されてるらしいから、園子姉ちゃんとおっちゃんのツテで俺達くらいは簡単に呼べるって」

「マジかよ! パーティーってことは、うまいもん出るのか!?」

「そりゃ東都シティホテルと言えばあの東堂財閥主催のパーティーですよ! 美味しいものもいっぱいありますよ!」

「あゆみ、なに着ていこっかなー!」

 

 コナンの誘いに子供達は二つ返事。すっかり参加する気になっており、ケーキのクリームを頬につけながらフォーク片手にそれぞれがパーティーの期待に胸を膨らます。

 

「私はパス」

 

 盛り上がる子供達とは相反するような冷静な声色で、灰原はいつものように静かに断りを入れた。特に興味もないのか、先程から開いていたファッション雑誌から視線を上げる様子もない。

 隣に座る伊吹も紅茶を片手にぼーっとテレビを眺めているばかり。

 

「毛利くんが呼ばれておるなら、他にも有名人が来たりするのかの?」

「ああ、色々来るみてーだぜ、スポーツ選手が多いみたいだけどな。一応他にも役者や歌手、あと政治家や資産家なんかも来るみたいだな、東堂財閥との関係で」

「ほお、東堂財閥と言えばスポーツ財閥と言われとるくらいじゃからのぉ」

 

 博士の質問にコナンが腕を組み顎に手を当てながらパーティーの内容を思い出す。

 

「スポーツ財閥、ってなんですか?」

「東堂グループはスポーツ関連に力を入れとるんじゃよ。アスリートの育成や各スポーツ界のスポンサー。確か、今日のサッカーのエキシビジョンマッチも東堂グループの主催みたいなもんじゃしのぉ」

 

 光彦の質問に、コーヒー片手に(くだん)の東堂財閥についての情報を思い出しながら説明する博士。

 しかしつい先程までサッカーの試合を見ていたのも相まって、子供達が特に興味を引かれたのは財閥のことよりもパーティにやってくるというスポーツ選手についてのようだ。

 

「それで、パーティにはどんな選手が来られるんですか?」

「ああ、ちょっと待てよ。確か園子姉ちゃんが蘭姉ちゃんに送ったメールに添付されてた案内を俺の携帯に転送しといたはず……」

 

 コナンが携帯を取りだして何度か指先を動かす。目的のデータを見つけると「なになに」とその内容に改めて目を通す。

 

「やっぱり各スポーツ界から有名選手が呼ばれてるみたいだな。ホテルのお披露目パーティと東堂グループが関わってるアスリート達の慰安会も兼ねてるってよ。サッカー選手なんかも来るみたいだけど……、っておいおい、マジかよ。比護選手が呼ばれてるみたいだぜ」

「……っ!」

「……」

 

 コナンの一言に先程まで無関心だった灰原が思わずバッと顔を上げる。その視線はすっかり手元の雑誌ではなくコナンの携帯へと釘付けで、パーティーの更なる詳しい情報を求めているようだ。

 そしてその隣では、そんな彼女の露骨な反応を横目に見ながらティーカップに口をつける伊吹。口から漏れた吐息は果たして紅茶を冷ますためのものか、彼女の態度に対する溜め息だろうか。

 

「比護選手が来るの!? すごーい!」

「オレ、比護のサインほしーぜ!」

「まあ一応顔は知ってる仲だし、頼めばしてくれるんじゃないか、握手とかサインくらいならな」

 

 思わぬビッグネームにテンションの上がる子供達。それを宥めるように、どこか得意げに答えるコナンの言葉を聞くやいなや、灰原は思わずファッション雑誌をバサリと取りこぼしてしまう。

 しばし驚愕したようにコナンを見つめていた灰原だったが、しだいにその瞳は明るく輝きだし、パッと花が咲いたように顔がほころんでいく。

 

「比護さんの握手会!? 行く! 絶対行くわ!」

「いや、握手会じゃねーけど。てかオメー、パスするんじゃなかったのか?」

「比護さんが来るなら話は別よ。パーティそのものには興味ないわ」

「あ、そ」

 

 コナンのぼやくような言及に、先程までの明るい笑顔とは打って変わっていつものドライな半眼を向けてパーティには興味ないと言い切る。彼女のそのわかりやすい反応にコナンも思わず呆れたように苦笑が零れる。

 

「……じゃあ俺はパス」

「なに言ってるの。あなたも来るのよ」

「いいよ。パーティも有名人も興味ないし」

「来なさい」

「……」

 

 フォークで切り取ったモンブランを三口で食べきりティーカップの冷めたアッサムをぐいっと呷るように飲み干した伊吹が、口をへの字に曲げて退屈そうにパーティ参加の断りを入れた。

 隣の灰原がすかさず伊吹へと振り返ると、片眉をしかめた何かを疑うようなジト目が彼を貫いた。

 バツが悪そうにそっぽを向いたまま沈黙する伊吹に対して、彼の心の内を見透かすような灰原の涼やかな灰色の瞳が向けられる。その目はパーティの参加を断る彼への不満の色もさることながら、どこか楽しげにも見えた。

 

「なに、なにか言いたそうね」

「いや、別に……ないけど」

「…………あ、そ」

 

 彼女の視線から逃れるように頬杖をついてテレビへと向き直る伊吹。

 

「……素直じゃないわね……」

 

 そんな彼の後ろ髪を灰原は不服そうに唇を結んで見つめ、小さな溜め息のように呟くのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「これ、どうかしら?」

 

 とある休日の午後。コナンから聞いたパーティの日程が少し先であったため、灰原はパーティに着ていく服を新調しようと伊吹と博士を引き連れて米花デパートへと赴いていた。

 何点かのパーティ用ドレスを試着しては、試着室の外で待つ伊吹と博士に意見を求める彼女。いつになくウキウキとしてご機嫌な様子。

 

「あー、いいんじゃない」

 

 対する伊吹はどこか投げやりで、ポケットに手を入れたままドレスを見ているのかいないのか退屈そうに視線を彷徨わせる。隣の博士も伊吹の態度に困った様子で、「まあまあ」と思わず宥めるように声をかけてしまう。

 

「うーん、でも……」

 

 自身の試着するドレスを姿見で確認し、くるりと身を翻して足下から背中までキョロキョロと見回す灰原。なにか気に入らなかったのか眉尻を垂らして少し困ったように考え込むと、不服の声を漏らしながら再び試着室へと消えていく。

 しばらく中から衣擦れの音がしたかと思うと、別のドレスに身を包んだ彼女が再び試着室から顔を出した。

 

「やっぱりこっちの方がいいかしら?」

「あー、いいんじゃない」

 

 意見を求める彼女に対してこちらも再び投げやりな感想を述べる伊吹。最後に思わず付けそうになった「どうでも」という言葉を飲み込んだだけまだマシだろうか。

 そんな彼の態度に灰原は不満げに眉を吊り上げいつもの冷たい眼差しで彼を射貫く。

 

「ちょっと、ちゃんと選んでよね。大事な比護さんとのパーティなんだから」

 

 ジト目のまま腰に手を当て伊吹の顔を覗き込むように見上げる灰原。伊吹はそっぽを向いて頭を掻きながら「はいはい」とやる気も無さそうに答える。

 見かねた博士が場の空気を和ませるように、別のドレスを手に取って灰原へと提案する。

 

「哀くん、これなんか哀くん好みで落ち着きがあって、大人びていていいんじゃないかの?」

「うーん……」

 

 博士が見繕った、子供用ながらも黒を基調としたシックなデザインのドレスを手に取り吟味する灰原。

 

「でも比護さんは赤が好きって前に雑誌のインタビューに答えていたのよね。それにビッグ大阪のカラーも赤だし……」

 

 以前に読んだ比護選手のインタビュー雑誌の記事を思い出しながら、赤いドレスに手をかける灰原。しかし赤のドレスは個人的には好みではないのか、顔をしかめてあまり乗り気ではない様子。眉をしかめながら両手に掴んだ赤と黒のドレスを交互に見比べる。

 

「……はぁ」

 

 二人のやりとりを眺めていた伊吹が小さく嘆息すると、何の気なしに周りのドレスを見やる。正直に言えば特に真剣に見繕う気もなかった彼だったが、つい一着のドレスが目にとまってしまった。

 白を基調とした女の子らしく華やかで可憐なシルエット。それでいて落ち着いた清楚さと、所々に施された純白のレースが儚さを醸し出す優美なドレスだった。

 思わず手に取った伊吹はなにも言わずそのドレスをじっと見つめる。

 

「ちょっと、あなたも考えてよね」

 

 背後からかけられる灰原の声にも気がつかず、そのドレスに魅入ってしまう伊吹。何を想像しているのか、ドレスを見つめながら物思いに(ふけ)ってしまっている。

 

「ちょっと!」

「……っ、あ、ああ、えっと……、じゃああっちの赤のドレスなんていいんじゃないの。派手すぎるなら向こうにワインレッドとか、赤色でももう少し落ち着いたのもあるし」

 

 すぐ真後ろから声をかけられハッとした伊吹が咄嗟に手に取っていた白のドレスを手放して振り返る。腕を組んで不満げにこちらを見上げ睨んでくる彼女に対し、誤魔化すように頬を掻きながらそばにあった適当な赤色のドレスを指差した。

 そんな彼の顔を、何かを言いたげに小首を傾げてじーっと見つめる灰原。

 

「……ど、どした?」

「別に……」

 

 小さな嘆息を残して踵を返す灰原が別の赤いドレスを手に取って見繕う。

 自分の態度がよくないことは理解しているけど、どうにも胸中に巣くうもやもやした感情を上手く処理できず、伊吹は自分自身に呆れるように深くため息を零した。

 

「ちょっとトイレ行ってくる」

 

 そう言い残して売り場を離れた伊吹が、施設内トイレ付近の簡易休憩スペースで一息吐く。自動販売機で購入した紙コップ入りのカフェオレを、その冷たさと糖分で頭をリセットするように飲み干す。

 ベンチに腰掛け両腕を背もたれに伸ばし、どうにも楽しくないと、空になった紙コップを前歯で噛んでぷらぷらと揺らす。何度目かの溜め息を吐いたときズボンのポケットが短く震えた。

 

『哀:いつまで休んでんのよ ヽ(`Д´)ノ』

 

 灰原からの帰還催促のメッセージを確認すると伊吹は膝に手をついて重たそうに立ち上がり、紙コップをゴミ箱へと投げ捨てると再び短い溜め息を残してその場を後にした。

 

「………………」

「……これにするわ」

 

 伊吹が二人のところへと戻ってくると、試着室のヴェールの向こうでドレスに身を包み、姿見の前でくるりと回って自身の全身を確認する灰原の姿があった。

 ただ彼の予想外だったのは、彼女の身を包むドレスが先程自分が見ていたあの純白のドレスであったことだ。

 思わず口を開けてきょとんとしてしまい、呆けたままこちらを見つめてくる伊吹に対し、灰原は少し照れくさそうに彼を睨みながらそう告げた。

 

「……あ……、赤に、しなくて、いいの?」

「自分の気に入ったものが一番いいのよ」

 

 呆けたままの彼が絞り出すようにそう尋ねると、彼女は腕を組んだまま瞳を伏せてぶっきらぼうに答えた。

 

「……」

「……なに?」

「……似合ってる。すごく綺麗だよ」

 

 黙り込む彼にチラリと目を向けると、真っ直ぐにこちらを見つめたままそんなことを恥ずかしげも無く言うものだから、思わずその視線から逃れるようにそっぽを向いてしまう。

 

「じゃあ、着替えるから」

 

 そう言い残して試着室の奥へと隠れると、さっさとカーテンを閉めてしまう灰原。

 思わず赤く火照り綻びそうになったこの顔を、彼に見られてはいないだろうか。

 灰原は熱の集まる両の頬に手を添えて、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出す。何度かそれを繰り返して、自身の心臓を落ち着かせて、全身を巡る熱い血を冷ますのだった。

 

「それじゃ、夕飯の材料でも買って帰りましょ」

 

 私服に着替えて試着室から出てきた彼女の顔はいつもの澄まし顔へと戻っており、至って冷静沈着にそう告げた。

 しかし帰りのビートルの中では、ドレスが梱包された袋を大切そうに抱きしめて沖野ヨーコの歌をハミングする彼女の姿が見られた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 地を這うヒンヤリとした冷気が足下に留まっている薄暗い室内。窓一つ無いその部屋は今が朝か夜かも分からないが、どこかの地下室のようだ。そこに複数の人間の影がうごめいていた。

 独特の(オイル)の匂いが漂い、それぞれの影が自身の獲物となる金属片の手入れに余念が無かった。

 

「実行の時だ」

 

 一人の男が金属片を組み合わせる。その手に組み立てた拳銃を握りしめ噛みしめるようにゆっくりとスライドを引くと、ガチャリと鈍い金属音が冷たい室内に反響した。

 

「我々は()()、この国に確変の時をもたらすのだ」

 

 重々しく口を開く男の言葉に、周りの影たちも黙して耳を傾ける。

 

「これは革命の狼煙。まずは私腹を肥やすこの国の腐った有力者から血祭りだ。そしてこの国の平和ボケした国民を目覚めさせるため、影響力のある有名どころを皆殺しだ」

 

 彼の言葉に応えるように他の者たちもガシャリと、自身の銃を手に取りスライドを引いた。闘う準備は出来ている、そう呼応するように。

 薄暗い中でぼんやりと見える男の口元が悪魔的に釣り上がった。

 

「捕虜は要らん、ホテルの連中を根絶やしにしろ」

「「了解(ラジャ)」」

 

 身の毛もよだつような男の血なまぐさい指示に、周りの者達も眉一つ動かさず応えた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「でっけーなー……、ぅおッととッ」

「だ、大丈夫ですか!? 元太くん!」

 

 パーティ当日。西日が傾き夕景に空が淡く照らされる頃、招待された一同は東都シティホテル前に集まっていた。

 摩天楼と呼べる程のその巨大なホテルは黄昏色の空と先端が溶け込んでいるのではと思うほど天高く、東の空から顔を覗かせはじめた星空をも掻き消すほど煌々とした光りを湛えている。

 足下から上を見上げる元太があまりの高さに見上げすぎて、思わず後ろに転げそうになるほどだ。

 

「しっかし、皆気合い入ってるねー」

 

 伊吹がそう零したのも無理はない。超一流ホテルの超一流パーティだ、それに恥じぬよう子供達を含めて皆が皆ドレスにスーツにとそれぞれ一張羅に身を包み、髪型やらお化粧やらしっかりと身なりを整えていた。

 かくいう伊吹の髪も撫でつけられオールバックのようにきっちりとセットされ、相応のお値段がするスーツを身につけていた。

 

「哀はよく似合ってるよ、そのドレス。すごく綺麗だ」

「そう、ありがと」

「おめーらは、どこぞのお嬢様とSPって感じだな」

 

 例の白いドレスを身に纏った灰原と、その傍らに立つ筋肉でパツパツに張ったスーツ姿の伊吹を見て思わず半笑いでそう呟くコナン。

 「スーツのサイズいくつだよ」と呆れたように呟くコナンの横で、伊吹がしゃがみ込み灰原へと手を差し伸べる。

 

「ではお嬢様、お手を」

「あら、気が利くわね」

「あー、哀ちゃんいいなー、歩美もSPさんしてほしいー」

「灰原さんのSPはボクが……あ、いや、と言うよりそれじゃ執事ですよ!」

「羊? 伊吹の兄ちゃん羊になんのか?」

「違いますよ、元太くん。羊じゃなくて執事、Butler(バトラー)ですよ」

「確かに、あなたはBattler(戦闘機)って感じよね」

「誰が戦闘機だ。バトラー違――ッ!?」

 

 子供達と取り留めもない会話をしていると、伊吹が突如立ち上がり眉間に皺を寄せて辺りを警戒するように見回した。

 

「なに、急に恐い顔して」

「あ、いや……。……なんでもない」

 

 彼が微かに感じ取ったのは、和やかなこのパーティの場に相応しく無い鋭い視線と殺伐とした気配。そして煌びやかな周囲の人間の香水の香りに紛れて漂ってきたのは、嗅ぎ慣れたガンオイルの匂い。

 しかしそれもほんの一瞬の事で、その気配も匂いも大勢の来賓客の中に掻き消されてしまった。しばらく辺りを警戒していた伊吹だったが、それ以上目立った異変も見当たらず、灰原に手を引かれるように連れだって一同は展望エレベーターから会場となる上層階へと向かった。

 会場内は既に多くの招待客で溢れており、華やかな会場は絢爛に彩られ、並べられた立食形式の軽食とウェイターが運ぶシャンパンに飛びつきそうになる小五郎を蘭が押さえつける始末。

 

「すげー、どこを見ても有名人ばっかだぜ」

「なんせ東堂財閥の主催じゃからのぉ。それを言うと小五郎君も有名人として招待されとる訳じゃし」

 

 キョロキョロと辺りを見回しながらコナンが感心半分、呆れ半分といった様子で言葉を漏らす。コナンと会話を交わしながらごくごく自然に食事に手をつける博士だったが、灰原が見逃すことはなくその手をぴしゃりと弾いた。ハイカロリーな肉料理は今日もお預けのようだ。

 

「お、アスリートの一団だぜ!」

「っ!」

 

 コナンがそう言って指差す先には多くのアスリート達が集まっており、サッカー選手も相当数招待されているようだった。コナンの言葉に思わず反応した灰原が慌ててその一団を確認するも、お目当ての選手はいなかったのか、すぐにいつもの冷めた半眼で興味もなさそうにそっぽを向いた。

 そして彼女のわかりやすいその反応を見て伊吹はつまらなさそうに溜め息を零すのだった。

 

「あ、毛利さんっ! いらしてたんですね!」

「んぁ? おぉぉ! ヨォーコちゃぁん! ヨーコちゃんも招待されてたんすなぁ!」

「ええ、他にも女優さんや歌手の方なんかも来てますよ」

 

 蘭に首根っこを掴まれシャンパンを思う存分楽しめない不服そうな小五郎に、軽いソプラノボイスの声がかけられた。

 沖野ヨーコ、小五郎と灰原がファンである女性タレントである。アイドル出身の彼女も今では歌手に女優業にと多忙な日々を送っているものの、何度か名探偵毛利小五郎のお世話になっており小五郎との親交も深い。そこからコナンや探偵団とも親しい間柄になったようだ。

 子供達と親しげに挨拶を交わすヨーコの背中に声がかけられる。

 

「あら、ヨーコちゃん。こちらがあの眠りの小五郎さん? 生で見るのは初めてね」

 

 彼女に声をかけたのはテレビでもよく見かける有名な女優だった。ヨーコと親しい仲のようで、彼女を介して小五郞とも挨拶を交わす。歳は20代の後半だろうか、しかしその歳不相応に妙に落ち着いた仕草と艶のある色っぽい雰囲気に、思わず小五郞も鼻の下がだらしなく伸びてしまっている。

 しばらくは楽しげに話に花を咲かせていた彼女たちだったが、トイレから戻ってきた伊吹を見つけるやいなや彼女の目の色が変わった。

 

「こ、小五郞さん、お連れのお子さんたちと親しげに話されている、あの彼もお知り合いですか?」

「え? ああ、まあ、うちの連れですが」

「あの体……アスリートの方かしら? あまり見覚えはないのだけれど……」

「いや、あいつはただの子供達の保護者と言いますか」

 

 小五郞の肩越しに見えた、楽しそうに探偵団の面倒を見る伊吹を指差してそう質問する彼女。小五郞の言葉を聞くとしばらく呆けたように伊吹の方を見つめてから、ゴホンと気を取り直すように咳払いをして「少し、失礼しますね」と残して伊吹の元へと去って行く。

 

「ど、どうかしたんすかね?」

「え、ええっと、その……、彼女、筋肉フェチなんです」

「ッ……!?」

 

 内緒話をするように人差し指を立てて囁くヨーコの困ったような笑みに、小五郞も「そ、そっすか……」と苦笑いで返すしかなかった。

 その会話が偶然耳に入り眉をひそめて慌てて振り返ったのは、たまたま飲み物を取りに来ていた灰原だった。

 

「ソフトドリンクを二つ」

「畏まりました。はい、どうぞッ――ぉととっ!」

 

 飲み物を差し出すウェイターから二つのグラスをふんだくるように回収すると、白いドレスを翻して慌てて一同の元へと早足に戻る。

 灰原の視線の先には、どこか得意気に腕を曲げて盛り上がる上腕二頭筋やワイシャツ越しの胸筋を強調し、例の女優に触られて少し照れくさそうに笑う伊吹の気の抜けた笑顔が。

 遠慮するように指先でつつくように触っていた彼女が少し息を荒げて両手を突き出そうとしたところで、鋭い眼光を携えた灰原が二人の間に素早く割って入ってきた。不機嫌を隠そうともしない凍てつくような視線を向けながら伊吹に片方のグラスを突き出した。

 

「はいっ……! これ、あなたの分」

「ぅおッ、お、ああ、ありがと……」

 

 伊吹にグラスを手渡すと、振り返って例の女優へとその冷たいままの視線を浴びせる。まるで全身の体毛と尾を逆立てて威嚇する猫のようで、手を伸ばせば引っかかれそうなその雰囲気に、彼女も思わず「そ、それでは、私はこれで」と一言残してそそくさとその場を後にした。

 彼女が去って行くのを確認してから、灰原は不機嫌に「ふん……っ」と短く鼻から息を吐き、再びその視線を伊吹へと浴びせる。目尻と眉の釣り上がったその灰色の瞳はすこぶるご機嫌斜めな様子。

 

「有名人相手に鼻の下伸ばしてデレデレしちゃって、バカみたい」

「べ、別に鼻の下伸ばしてなんか」

「どうだか」

 

 慌てて弁明を図る彼を横目に見つめ、グラスに口をつける。

 伊吹が不満げな彼女相手に奮闘していると、先程のアスリートの一団から一人こちらへと向かってくる影が見えた。

 

「ご無沙汰してます、毛利さん。その節はお世話になりました」

「ん? おぉ、あんたは確か……」

「おーっ! すっげー! 本物の比護だぜ!」

「ボク、サイン欲しいですぅ!」

「……――ッ」

 

 それはビッグ大阪所属のサッカー選手、比護隆佑(ひごりゅうすけ)その人だった。先程のアスリート集団の中にその姿は見当たらなかったが、今し方遅れて到着したようだ。急いで駆けつけたらしく額には僅かに汗が滲んでいた。

 以前、とある事件で沖野ヨーコと共に小五郞の世話になったこともあり、小五郞の姿を確認するやいなやわざわざ挨拶に来たらしい。

 大物アスリートの登場にテンションの上がる子供達とは反対に、彼を見つめたまま思わず息を飲んでしまうのは灰原。前述の沖野ヨーコと比護選手が小五郞の世話になった事件には灰原も居合わせていた。そのため今回が初対面ではないものの、憧れの比護選手を前にするとやはり体が固まってしまったようだ。

 そんな彼女の存在に気がついた比護選手が膝に手をついて身を屈め、灰原に視線を合わせながら気さくな笑みを浮かべて手を上げた。

 

「やあ、哀ちゃん。また会ったね」

「あっ、は、はい」

「俺達、結構縁があるのかもね」

 

 比護選手がそう言って灰原の頭を撫でると先程までの不機嫌はどこへやら、思わず彼女も瞳を輝かせてしまう。

 

「あ、すみません、俺ちょっと行かないと。失礼します、毛利さん。君も、またね」

 

 少し離れたところのサッカー選手の一団から呼ばれ、比護選手は小五郞と一同に申し訳なさそうに両手を合わせ一言残して足早に去って行った。

 

「比護さんが私のことを覚えていてくれたわっ」

 

 先程までの冷たい視線は嘘のようで、瞳を爛々と輝かせながらどこか自慢するようにコナンや子供達へと得意気な視線を投げかける上機嫌な灰原。

 

「有名人相手にデレデレしちゃってまあ……」

 

 そんな彼女を横目に伊吹が独り言のようにぼそりと漏らす。

 しかしその一言は彼女の耳に届いていたらしく、再び伊吹へとその鋭い視線をぶつける。

 

「いつ、私が、デレデレしたのよ」

「えぇ……、いや、今まさに……」

「別にデレデレなんてしてないわ。あなたと一緒にしないでくれる」

「俺だってしてないって。仮にさっきの俺がデレデレしてたって言うなら哀も似たようなものだったよ」

「あなたのは私と違って下心があるのよ。私は純粋に一ファンとして――」

「いや別に俺は下心なんて――」

「おいおいオメーら、もうやめとけって」

「そ、そうじゃぞ、こんなところで」

 

 静かにヒートアップしていきそうな二人を止めに入るコナンと博士。

 そんなコナンの制止を躱すように、灰原は鼻を鳴らしてそっぽを向き切れ長のジト目で伊吹を横目に見やる。

 

「なに、あなた。……なにか言いたいことがあるんじゃないの?」

「……いや、別に」

「……あ、そ」

 

 彼女の訝しがるような視線を避け、伊吹は少し葛藤するように眉をひそめて自身のうなじを撫でながら俯き気味に視線を泳がせる。

 そんな彼らのやりとりを尻目に、子供達は去って行った比護選手の背中を名残惜しそうに見送っていた。

 

「ああ、比護行っちまった。オレ握手してねえぞっ」

「ボクもサインもらい損ねましたぁ」

 

 子供達の嘆きを耳にして灰原もハッと振り返り、自身もサインを貰い忘れていたと悔しげにその小さな下唇を噛む。

 

『ええ、皆様、本日は大変ご多忙の中――』

「まあまあ、パーティーも始まるみたいだし、握手やサインをお願いするのはまた後かな。焦らなくてもタイミングはあるだろ――……ッ!?」

 

 会場の奥には大きなステージがあり、そこにマイク片手に立つスーツ姿の男性が来賓へと挨拶をはじめると、辺りは一時静まり気軽にサインや握手を頼みに行ける雰囲気ではなくなってしまった。

 がっくりと肩を落として残念がる子供達を慰める伊吹だったが、唐突に何かを察知したように後方へと振り返った。

 ホテルの入り口でも感じた、華やかなパーティに似つかわしくない殺気だった気配とガンオイル、そして再び嗅ぎ慣れた硝煙の匂いが伊吹の鼻腔をくすぐったのだ。

 

 ――二度目、気のせいじゃない……――

 

 伊吹の眼光が鋭く研ぎ澄まされ鈍く光り、彼の感知能力が蜘蛛の糸のように辺りへと張り巡らされる。

 そして伊吹がその視界に捕らえたのは一人の男性客。一見するとなんてことの無い普通のパーティの参加者にしか見えないが、伊吹は確かにホテル前で違和感を察知した際にもその男を見かけた覚えがあった。

 男が他の参列者の人混みに飲まれるように会場奥へと姿をくらます。その男の歩く後ろ姿を目にした伊吹の眉が、何かを確信したようにピクリと揺れた。

 伊吹が先程灰原が持ってきてくれたソフトドリンクを一気に煽ると、空になったグラスを彼女に手渡す。

 

「飲み物取ってくる」

「あ、ちょっとっ」

 

 それだけ言い残すと、灰原が「私も行くわ」と声をかける間もなく、伊吹は男の後を追うように参列者の間をするりと抜けていき、瞬きする間に灰原の視界から消えてしまった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「うっ、……っ」

「ああ、すみません、よそ見をしていたもので。大丈夫ですか?」

 

 例の男を視界に捕らえたまま伊吹はぐるりと大きく回り込み、男の正面からわざと体をぶつけると、その体躯と筋力で強引に男を転倒させた。

 申し訳ない等ととぼけながら男の手を取り、ひょい引き上げ軽々と立ち上がらせる。

 

「申し訳ないです、お召し物は汚れていませんか?」

 

 男のスーツをはたきながら大げさに心配そうな声を上げ、わざと目立つように騒ぎ立てると、男は周囲の注目が集まるのを避けるかのように「だ、大丈夫だっ」と言い残しそそくさと足早にその場を後にした。

 去って行く男の後ろ姿を見送ると、伊吹もまた会場を後にしトイレの個室へと身を隠す。鍵をかけるとスーツのジャケットの下から取り出したのは黒光りする一丁の拳銃だった。

 

「何でこんなもの持ってるのかね、SPや警察には見えないし」

 

 それは先程男とぶつかった際に、華麗な手口でその脇の下から抜き取ったものだった。

 男の歩く後ろ姿を見た際、僅かに傾いた重心と不自然に空いた脇からその男が銃を所持していると確信した伊吹は男にわざとぶつかり騒ぎを起こし、注目を避けようと慌てる相手の隙を突いて銃を奪取したようだ。

 

 ――あの男を吐かせるか……?――

 

 伊吹が先程の男を捜しにパーティ会場へと戻る頃、その男も自身の銃が無くなっていることに気がつき、当然先程ぶつかった伊吹のことを疑い彼を探すために会場へと戻ってきていた。

 

「んー、これは美味い。あとで哀にも持って行ってあげよう」

 

 男が戻ってくると確信していた伊吹はあえて身を隠すことなく、会場の中で他の参列者と共にスタッフから受け取ったデザートのほろ苦いティラミスに舌鼓を打っていた。

 しばらくデザートを楽しんでいた伊吹だったが、ふっと音もなくその眼光を研ぎ澄ませた。手元の磨かれたスプーンの反射を利用して後方を見やると、先程の男が迫ってきているのが確認できたのだ。相当慌てているのか、少々荒っぽく他の来賓客を押しのけて伊吹へと一直線に向かってくる。

 食器とスプーンを近くのスタッフに素早く手渡すと、伊吹は振り返ることもなく再び男性用トイレへと消えていく。少し遅れて男が周囲を警戒しつつも男性用トイレへと踏み込むと、そこには誰の姿も見当たらず、並んだ個室の扉も全て半開きとなっていた。

 

「…………」

「おい」

「――ッ!?」

 

 男が警戒しながら一番手前の個室をゆっくりと覗き込んだとき、一番奥の個室から顔を覗かせた伊吹が男へ呼びかけた。

 驚愕に一瞬身を強ばらせる男に伊吹は銃を放り投げる。慌てながらも咄嗟にその銃を手に取った男は、迷わずその銃口を伊吹へと向けると撃鉄を起こし躊躇いもなく引き金を引いた。

 

「なにっ!?」

「撃ったな――……」

 

 銃口からマズルフラッシュが(またた)くことはなく、耳を(つんざ)くような大きな炸薬の破裂音も聞こえない。起きた撃鉄が銃本体に打ちつけられる鈍い金属音のみがトイレに反響した。

 銃を男に放り投げる前に弾丸は伊吹が全て抜き取っており、装填はされていなかったようだ。

 男が躊躇いなくこちらに発砲しようとしてきたことを確認すると、伊吹は駆け出し一気に距離を詰めその掌底を目にも止まらぬ速さで相手の顎へと叩き込んだ。声を発する間もなく、男の目はぐるりと白目を剥いてその場に膝から崩れ落ちた。

 糸の切れた人形のように一切の力が抜けた男の体を引きずり個室へと引き込むと、伊吹は男のスーツをまさぐり携帯を取り出し、男の指を押し当て指紋認証を解除する。そして指紋認証の設定をオフにしておくことも忘れない。

 

「……最近のテロリストはメッセージアプリでグループチャットするのか」

 

 しばらく携帯を調べていた伊吹が、男が仲間と思しき連中とグループでやりとりをしているメッセージアプリを発見した。

 隠語を用いて明確な発言を避けてはいるが、現在進行形で次々と流れてくるメッセージを読み解く限り、こいつらが今日、まさに今、このホテルで()()()()()()を企んでいる所謂(いわゆる)テロリストだということが判明した。

 過去のログを見返し男達の計画や目的等の情報を収集していく伊吹。また、男のこれまでの発言から文体を真似て会話内に潜り込み、更なる情報を引き出す。

 

「……」

 

 便座に座らされ意識無くぐったりと脱力する男をチラリと確認する。念のために便座横に取り付けられた手すりパイプ越しに後ろ手に手を組ませ、その指同士を男が所持していた結束バンドで縛り自由を奪う。口元には男の服を引きちぎり作成した簡易の猿ぐつわを噛ませる。

 個室の鍵はかけたまま、扉上部の隙間から脱出する伊吹。そして清掃用具の中から「清掃中」のスタンドを取りだし男子トイレ前に設置すると、何事もなかったかのようにしれっとその場を後にした。

 男から拝借した携帯には次々にメッセージが流れていく。グループの人数、装備、目的、計画、etc.

 男から奪取した端末と睨めっこし得られる全ての情報を入手することに余念の無かった伊吹だったが、ふと何かに気がついたかのように、その鋭い瞳を(しばたた)かせた。

 

「いや、待てよ……。つまり哀達の安全さえ確保して、そのままこいつらを放っておけばパーティはめちゃくちゃになって、哀の()()()()姿を見ずに済むんじゃ……。そしたら俺も…………――――」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「――とか、一瞬でも考えちゃう俺ってどうなのよ」

「な、んの、話……だ……ぅぐ……」

「こっちの話だ」

 

 ホテルの倉庫内にてまた男を一人無力化しつつ、自傷気味に苦笑いを浮かべる伊吹。小さな溜め息を吐きながら掴んでいた男の胸ぐらを離すと、男は小さな呻き声を上げてその場に倒れ込み意識を手放した。

 

「お前達がパーティを台無しにしてくれるってのも正直、ちょっと、惹かれるけど。……あいつが喜ぶなら、俺にとってはそれが一番なんだよ。それは俺の感情(きもち)よりも優先される」

 

 誰に言うでもなく、あるいは自身に言い聞かせるようにそう呟く。

 伊吹はその男からも携帯を拝借し、男の体を拘束してロッカーの中へと押し込んで隠す。

 

「一度、様子を見に戻るか……」

 

 倉庫を後にし手元の携帯と睨めっこしながら会場とみんなの様子を確認するため一度パーティ会場へと戻ろうとしたとき、聞き覚えのある女性の声が伊吹を呼び止めた。

 

「あらっ、君、毛利さんのお連れさんの……、こんなところでどうしたのかしら?」

「うっわ、ほんとすっごい体」

 

 それは先程会場で伊吹の体を堪能しようとしたところを灰原に邪魔された例の女優と、彼女に追従して歩く女性だった。手帳を片手にスーツ姿で彼女と話していた様子から察するに、恐らくは彼女のマネージャーといったところだろうか。

 

「あ、いや、ちょっと……。すみません、急いでますので」

 

 伊吹は咄嗟に携帯をポケットへと押し込み、適当に愛想よく柔和な笑みで断りをいれつつその場を後にしようとするも、彼女は伊吹にしつこく話しかけながら後をついてくる。彼女のマネージャーもその後ろを着いて歩くばかりで彼女を止める気はないようだ。

 伊吹が半ば辟易しながら、――ああ、こんなところを哀に見られたらまた何を言われるか――、などと頭を抱えながら会場へと戻ると、案の定真っ先に彼の姿を視界に捕らえた灰原がつかつかと強い歩調で歩み寄る。

 

「ちょっと、なにしてるの?」

 

 彼女の鋭い瞳は伊吹を捕らえてはいるものの、その棘のある言葉は彼以外の誰かに向けられているような気もした。

 腕を組み仁王立ちで睨みを効かせる灰原を前に、伊吹の後をしつこく着いてきていた彼女も再び退散していった。

 

「飲み物は?」

「え? ……あっ」

「はぁ……。飲み物取りに行ったんじゃなかったの?」

「いや、ちょっと……トイレに」

 

 去って行く外敵を見送りその背中にふんっと勝ち誇ったように一息嘆息すると、灰原は眉間に皺を寄せて隣の伊吹を見上げる。彼女の詰問から逃れるように視線を泳がせながらなんとか絞り出した伊吹。ある意味嘘はついていない。

 

「あ、そうだ、ティラミス食べた? 美味しかったよ、あれおすすめ」

「……トイレに行ってたんじゃないの?」

「あ……。いや、……戻ってくるときに食べてさ」

 

 彼の誤魔化すような乾いた笑顔から体を背けて腕を組み訝しがるように目を細めて横目に見つめる灰原だったが、それ以上追求することもなく、小さな溜め息を零して「あ、そ」と呟くのみだった。

 会場では主催者の挨拶も済んだようで、しばしのご歓談タイムとなっていた。

 サインを貰うには打ってつけのタイミングではあったが、比護選手の周りには関係者等既に多くの人が集まっており、なかなか頼みに行けそうな雰囲気ではなかった。

 それでも伊吹を引き連れてサインを貰いに行こうと、灰原が比護選手の様子を窺いながら横に立つ伊吹のズボンを掴もうと手を伸ばす。しかしその指先が彼のズボンを掴むことはなく、虚しく空を切ってしまう。

 灰原が振り向くとそこに伊吹の姿はなかった。辺りを見回した彼女に視線の先にはコナンと博士に一言何かを告げて去って行く伊吹の背中が見えた。

 

「あっ……」

 

 思わず去って行く彼の背中に手を伸ばすもその零れた声が彼に届くことはなく、行き交う幾人かの参列者が彼女の視界を覆ってしまう。慌ててその間を割って抜けるも、既にそこには彼の姿は影も形もなかった。

 彼女の物憂げに揺れる瞳が絢爛な赤い絨毯へと落とされた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ホテルを夜陰(やいん)に包み込む。その混乱に乗じて次のプランだ」

 

 ホテル警備室内には制服に身を包んだ屈強な警備員達が拘束されていた。抵抗したのだろうか、中には頭部を殴打され出血しながら気を失っている者もいる。

 室内の隅に集められた彼らに銃口を向け監視する者が一人。そしてホテル内の監視カメラ映像を見ながら、小さく呟く男。その傍らに数人待機している様を見るに、どうやらこの男が彼らのリーダーのようだ。もっとも、全員が顔を隠しているためその素顔は分からないが。

 『電気室』とプレートの貼られたモニターには彼らと同じく覆面をした二人組の人影が映し出され、何やら工作に余念が無い。モニターに映る一人が監視カメラに向けて親指を突き上げサムズアップを向けると、モニターを確認していたリーダーの男が携帯越しに指示を飛ばす。

 

『よし、切れ』

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なにっ? 停電?」

 

 パーティ会場、いやホテル全ての照明が音もなく唐突に消え、辺りは暗闇に飲み込まれた。突然の停電に先程まで賑わっていたパーティ会場はざわめき、皆が不安げに暗中に視線を彷徨わせる。

 

「みんなっ、動いちゃダメよ!」

「んあ? 真っ暗で食べるとなんかうまくねーぞ」

「ちょっと元太くん、こんな時まで食べてるんですか?」

「両手に持ってんだからしゃーねーだろ」

 

 突然の停電に蘭が慌てて子供たちの安全確保のため動かないよう声をかける。もっとも子供達はあまり怖がっている様子もなさそうだが。

 

「おいおめーら大人しくしてろ」

「あ、哀くん? 大丈夫かの?」

「ええ、博士。……大丈夫よ」

「しっかし、なんで停電なんか」

 

 コナンが子供達にぼやくように注意を促し、自身の携帯のライトを灯そうとポケットから取り出したとき、会場はまるで何事もなかったかのように再び絢爛な眩い光りに包まれた。

 停電していたのは時間にしてほんの数分足らず。電気が復旧したことに安堵した来賓客達からは各々「なんだったのかしら」と安堵の笑みが零れた。

 しばらく慌ただしく動き回っていたスタッフの一人ががステージに立つ司会者に何やら耳打ちすると、ゴホンッと一つ咳払いをしてマイク越しにアナウンスが流れる。

 

「えー、皆様お騒がせして申し訳ございません。少々電気系統にトラブルがあったようですが、問題なく復旧しましたのでご安心下さい。

 

えー、それでは気を取り直しまして、次ぎに当ホテルのデザインを――……」

 

 司会者が些か困惑しながらも平静を装い、何事もなかったかのように次の催しを伝えるなか、一人納得していないようにコナンは顎に手をあてがい首を傾げていた。

 そしてその横にもまた一人、不安げに瞳を揺らして辺りを見渡す少女の姿が。

 

 

 



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13話 ピッチを駆けるキューピット 後編

 

 

「ふぅ。ちょっと消えたけど、まあセーフ、かな」

 

 電気室内には気を失いぐったりと床に伏せる男が二人。電気系統に何やら細工を施していた二人組の男を音も無く背後から奇襲し、伊吹があっという間に制圧したようだ。

 ホテル内の電気が落とされたのと伊吹が電気室へと踏み込んだのはほぼ同時だったが、男達の制圧後即座に電気を復旧させたことで、停電していたのは時間にしてほんの一分足らずで済んだ。

 伊吹のポケットの中の携帯がぶるりと震えてメッセージの通知を告げ、それに目を通した彼がゆっくりと振り返る。その研ぎ澄まされた抜き身の刃の如き鋭く鈍い眼光が後方上部の監視カメラを貫いた。

 

『お前は何者だ』

 

 手元の画面にはそう表示されていた。誰が誰に対しての問いかけなのかは書かれていなかったが、そのカメラの向こうからモニター越しにこちらを見ている人物からの問いかけだということは容易に想像がついた。

 伊吹は薄らと嫌味を込めたニヒルな笑みを浮かべカメラに向けて小さく手を振った。彼が制御盤のような機械へと手を伸ばしいくつか操作をすると、男が食い入るように見ていたモニター映像は全て途絶えてしまい、警備室内の照明は落とされ辺りは暗闇へと飲まれた。

 

「……ッ、くッ、そがぁッ……!」

 

 誰かは知らないが、何者かが邪魔をしている。それを理解したリーダーの男が苛立たしげに振り上げた拳をデスクへと叩きつける。その衝撃で警備員が飲んでいたであろうマグカップが転倒し、黒いコーヒーが広がりデスクの端からボタボタと滴り落ちた。

 Error(エラー)と片隅に表示された監視モニターの画面を赤く血走った眼で睨み付けながら、忌々しげにドスの効いた声を絞り出す。

 

「何者かが俺達の邪魔をしてやがるッ……! 上等だッ……。多少のイレギュラーはあるが、ここにいない者は手はず通り作戦を続行ッ……。……お前らは、あいつを殺せッ……!」

 

 歯を食いしばり、吐き捨てるようにそう指示を出すと、警備室内にいた数人の男達が短く敬礼を残し、火器を手に部屋を後にする。

 

「誰かは知らねえが、これ以上邪魔はさせねえッ……」

 

 怒りを孕んだ男の呟きが暗く静かに、警備室内に残された。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 賑わうパーティ会場を抜けると廊下は驚くほど静かだった。

 そこには小さなポーチの中を確認しながら、お手洗いへと向かう一人の女性の姿が。そして彼女の後ろに忍び寄るのは足音を殺した男。

 グローブをつけた両手には細く頑丈なワイヤーが握られており、そのワイヤーで彼女を締め落とすつもりだろうか、背後から女性の首元を狙って持ち上げた両腕を音もなく振り下ろした。

 

「――――ぅッ、ぐ――ぅ――ッ!?」

「……ふえ?」

 

 なにか気配を感じた気がして振り返った女性の前髪がふわりと風に揺らされた。

 頭に「?」を浮かべながらキョロキョロと辺りを見回すも、視界にはただ静かな廊下が奥まで続いているばかりで、彼女は小首を傾げて化粧室へと急いだ。

 

「ふぅ……、今のは危なかった」

 

 ワイヤーを構えた男がその凶器を振り下ろした瞬間、十字となった横の通路から目にも止まらぬ速度で飛び出してきた伊吹が男の体を音もなく掻っ攫った。

 自身の肩で持ち上げるように男の横っ腹を抱きかかえ、その勢いのまま女性が振り返るよりも速く通路の奥へと押しやる。音を鳴らさぬよう男を床に激しく叩きつけるような真似はせず、転倒しかける男の首にその豪腕を回し締め上げつつそっと寝かせた。

 男は一瞬の浮遊感と脇腹への衝撃を感じたかと思うと、自身の何が起こったのかも理解が追いつかぬままに意識を手放した。

 伊吹が通路の角からチラリと覗き込み女性が去って行くのを確認して小さく安堵の息を吐くのも束の間、背後から微かな金属の軋む音と足下を這うヒンヤリとした冷気。

 

「ッ!!」

「お前ッ――!?」

 

 弾かれたように振り返る伊吹の視線の先には開けられた非常口の扉、そして身を乗り出し伊吹と同じく驚いた様子でこちらを見つめる男の姿が。

 顔を隠す目出し帽にグローブ、作業着にも似た黒の戦闘服にタクティカルベスト。そして手元に握られた拳銃。その様相はパーティの来賓客ではなさそうだ。

 男が迷うことなくその銃口を伊吹へと向けたのは、彼の足下で倒れ込む仲間の姿を確認してからだった。しかしその一瞬の間は、伊吹が攻勢に転ずるには十分な時間だった。

 男の指がトリガーを引くよりも早く、伊吹は剛脚に力を込め一足に男へと詰め寄る。銃口が火を噴く前に伊吹の叩き上げるような裏拳が銃を弾き飛ばした。男はすかさず腰に差したコンバットナイフを逆手に引き抜き、抜いた勢いそのままに振り上げ伊吹を切りつける。

 

 ――銃を撃たせてはならない、銃声が響けばパーティーどころではなくなるッ……――

 

 そんな思考に一瞬気を取られてしまった伊吹。咄嗟に顔を上げて上を向くように凶刃を躱そうとするも、迷いのない訓練された鋭い斬撃は僅かに彼の顎先を斜めに掠めた。吹き出した血がナイフの勢いに引かれるように上空へと飛び散り、白い天井や壁に赤い染みを作る。

 頭を引いた伊吹がそのまま一歩下がり距離を取る。じんわりと熱と痛みが広がる自身の顎を抑えると、その手は赤い鮮血に染まっていく。

 

「まずい……、顔は、誤魔化せないぞ……」

 

 彼が苦虫を噛みつぶしたかのように表情を歪ませたのは傷の痛みとはまた別の理由らしい。

 

「文字通り、合わせる顔がない……」

「あ? なに言ってんだ、お前」

 

 血に染まる己の手の平を見つめながら呟く伊吹に対し、ナイフを構えたまま男も苛立たしげに困惑する。

 目の前の男をはじめ、このテロリスト(もど)き達を組み伏せること自体は伊吹にとって造作も無いことであったが、銃声を響かせないために撃たせてはならない、会場の参列者に気づかれてはいけない、目立つ怪我をしてはいけない、血を流してはいけない、返り血を浴びてはいけない、etc...そういった様々な要因が重なり合い、彼の戦闘をより困難なものへと変えていた。

 

「哀のサインは済んだかな? 結構人いたからな……」

「おい。さっきから何をブツブツ言ってんだ。ヤクでもキメてんのか」

「はあ……。惚れた女が他の男と過ごす時間を守るために、命を張ることになるとは……」

「おいッ、聞いてんのかテメエッ!」

 

 ナイフを突きつけて苛立たしげに騒ぐ男を無視し、伊吹は自傷気味に薄く笑って深く息を吐いた。

 少し俯いて足下の高級そうな赤い絨毯を見つめていた彼が、小さく(かぶり)を振って男へと向き直る。

 

「まあでも、あいつが年相応の女の子みたいに楽しんでるんだ。……邪魔はしないでくれ」

 

 その眼光が再び鋭く研ぎ澄まされ鈍く光った。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「哀っ! サインは貰えたっ?」

「あ、あなたっ、どこに行ってたのよっ……!」

 

 ソフトドリンク片手に壁際に背を預けてパーティの様子をぼんやりと眺める灰原の横からそんな脳天気そうな声がかけられた。急いで戻ってきたのか額にはほんのりと汗が滲み微かに息が上がっていた。

 何食わぬ顔でパーティー会場にひょっこりと戻ってきた伊吹に、灰原も慌てて体を起こしてその刃物のような鋭い視線を向ける。

 詰問するような半眼で詰め寄ってくる灰原に思わずどうどうと両の手の平を向ける。

 

「いや、ちょっと……」

「……さっきからこそこそと、なにをしているの?」

「えと……、()()()()()()()()()()()()、ちょっとした()()()()、とか?」

 

 あはは、と乾いた笑いを零す伊吹を見つめる灰原の眼は決して優しいものではなかった。

 

「そ、それより比護さんのサインとか、握手は? できた?」

「……まだよ。歓談の時間もあったけど、急に停電になっちゃって、それどころじゃなかったし」

 

 つまらなさそうにそう告げる灰原に、伊吹も困ったように頭を掻く。「遅かったか……」とつい漏れた彼の小さな呟きは幸い灰原の耳には届かなかったようだ。と言うのも。

 

「ところであなた、なんで急にマスクなんてつけてるの?」

 

 伊吹の口元をマスクが覆っていたからだ。

 顎の傷を隠すために伊吹がすぐに用意できたのはマスクくらいなものだった。しかしそれも気をつけなければ、応急処置で止血した傷口から血が滲んできてしまう。

 

「ちょ、ちょっと喉が痛くて。風邪気味かな……」

「……ふーん………………そう」

 

 その沈黙の長さは彼女が一切納得していないことの表れだろう。

 灰原の問いかけにのらりくらりとする伊吹のポケットが小さく震えた。そっと彼女に背を向けて取り出した携帯を確認する伊吹。その瞳が(かす)かに研ぎ澄まされた。

 携帯をズボンに突っ込むと一度警戒するように周囲を見回してから、再び会場を後にしようとする伊吹。

 一歩踏み出した彼の手を小さく柔らかな、そして少しヒンヤリとした手が掴んだ。

 

「あ、哀?」

「ここにいなさい」

 

 またも抜け出そうとする彼の動きを察した灰原が、その小さな手で彼の大きな手を握りしめて離さない。その非力な手を振り払うことは伊吹にとって、悪漢共を制圧するよりも遙かに難しかった。

 

「あー、いや。でも、その……」

「こ・こ・に、い・な・さ・い」

 

 不機嫌を隠そうともしない冷たく思い声色と、鋭利な眼光で伊吹を睨みながら一音一音はっきりと言い聞かせる。まるで毛と尾っぽを逆立てた猫のように()()()()()()()()()()()()()のを警戒する灰原。

 少し焦ったように辺りを見回すばかりの彼の目には、彼女の瞳の奥にほんの僅かに見え隠れする寂寞(せきばく)の色が見えていなかった。

 

「あ、ほらっ! 今なら比護さん一人だしチャンスじゃんっ」

「ちょ、ちょっと」

 

 伊吹が指差す先ではホールスタッフから飲み物を受け取る比護選手の姿があった。先程まで他の来賓客やアスリート達と挨拶を交わしたりサインをしたりと忙しそうだったが、確かに今は人の波が去っており声をかけるチャンスではあった。

 繋がれた灰原の手を引く伊吹。比護選手の元へと歩みを進めて、自然に彼女に前を歩かせて、その背中に手を添えてそっと押しやる。

 (ほど)けそうになる手を慌てて掴み直そうとしてもその手は再び空を切る。振り返った時にはもう彼の姿は見当たらなかった。

 

「……」

「おう灰原、こんなとこにいたのか。オメー、比護さんのサイン貰わねえのか?」

「…………気分じゃないわ」

 

 そこに居合わせたコナンが何の気なしに尋ねるも、俯いた彼女が視線を上げることはなく「トイレに行く」と一言残して足取りも重くその場を去って行った。

 俯いたままぼんやりと歩く灰原は会場の出入り口付近で別の来賓客の女性とぶつかってしまい、ぽてっと尻餅をついてしまった。

 

「きゃっ。ご、ごめんね、君、大丈夫?」

「い、いえ、こちらこそ。大丈夫です」

 

 立ち上がってから気がついたのは紫色のほろ苦い染み。

 

「あ……」

 

 ぶつかった際に女性の持つグラスからワインがこぼれ落ちたようで、灰原の純白のドレスにいくつかの赤紫の染みが広がっていた。

 ああ、せっかく彼が選んでくれたドレスだったのに、と思わず俯いて深い溜め息が零れる。辺りを見回してみても彼の姿はやっぱりなくて、この人混みの中で独りぼっちになってしまったような、酷く寂しい気持ちが彼女の小さな胸中を染めていった。

 会場を後にした灰原は何かから隠れるように壁際に身を寄せる。取り出したハンカチで染みを抑えてみても、ほんの少し薄くなっただけで申し訳程度にしか色は落ちない。

 

「……私が、比護さんのファンになったのは――……」

 

 ドレスの汚れを隠すようにハンカチを押し当てたまま彼女の瞳はぼんやりと足下へ落とされ、その思考はどこか遠くにある記憶を探るように滲んでいく。あの日、あの子達とサッカーを見に行った日の記憶――……。

 とんっと、頭と背を壁に預けて天井を扇ぐ。今側にいない誰かに呆れるように、不満を吐露するように呟いて、その眼差しは遠くを見つめる。

 

「おお灰原、いたいた」

「……なに?」

「いや、今なら比護さんにサイン貰うチャンスだ、って」

「気分じゃないって言ったでしょ」

 

 会場から(いささ)か面倒くさそうな表情のコナンが顔を覗かせる。どうやら灰原を探していたようで、彼女を見つけるとポケットに手を入れたままつかつかと歩み寄った。

 

「それは聞いたけどよ、萩原から何回も念押しされてんだよ。今のうちに必ずお前に握手とサインを頼むーってよ。さっきも博士の携帯に電話がきてたぜ」

「……彼はどこで何をしてるの?」

「さあな。なんか焦ってたみたいで電話もすぐに切れちまったって」

「……」

「お前らの痴話喧嘩に巻き込むなよなー、ったく」

 

 会場を親指で差しながらぼやくコナンの声は聞こえていないのか、灰原は顔を伏せて何度目かの深い息を()いた。

 

「そうね……、せっかくの機会だし……。……どこでなにしてるのよ」

 

 灰原の物悲しげな瞳は誰もいない通路の向こうを見つめていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『コナンッ、哀のサインはっ、まだかッ!?』

「あ? ああ、今ちょうど比護さんがまたサッカー関係者と話してるから待ってるとこだけどよ。てか、おめーさっきからどこで何してんだ?」

 

 用意していた色紙を抱きしめて比護選手の隙を窺う灰原の傍らでコナンの携帯に着信が入った。電話の向こうからは相変わらず焦ったようにまくし立てる伊吹の声が聞こえ、僅かながら息も上がっているようだった。

 伊吹からの電話だと知られればまた面倒なことになりそうだと、コナンは灰原に気づかれないよう彼女に背を向けてチラリと様子を窺いながら小声で尋ねた。

 

『ああっ、ちょっとこっちはッ――……』

 

「……――取り込み中だッ!」

 

 そう告げると伊吹は通話を切り携帯を手元から滑らせるようにその場に落とす。弾かれたように上体を反らして頭を引くと、目の前の喉元を銀色の残像が横一閃に走る。どうやら携帯をズボンのポケットに入れている余裕は無かったらしい。

 彼の目の前にはコンバットナイフを逆手に握り込む男の姿。目出し帽から覗く眼球は血走り、男の怒りが視線から伝わってくるかのようだ。

 

「俺の部下を全員やってくれたみてえだな、オイ」

「ああ、あんたで最後みたいだ」

「なんなんだよ、テメエはよォ……!」

「……別にお前達がどこで何をしてようが()()()()()()()。だが今日、ここでと言うなら話は別だ」

「……我々は『赤旗』! この国に確変をもたらすべくッ――」

「あぁあぁ、そうかい。わかったから静かにしてくれ」

 

 相対する伊吹の眉間に深い皺が刻まれ眉が釣り上がる。鋭く研ぎ澄まされ、鈍く光るその眼光が心底鬱陶しそうに男を捕らえた。

 

「せっかく普通の女の子みたいに楽しめそうなんだ。あいつの邪魔はしないでくれ」

「だから……なんの、話だッ――!?」

 

 男の踏み込むコンバットブーツが編み目状の金属床を踏み鳴らす。いや、踏み鳴らすその瞬間に合わせるように放たれた伊吹の前蹴りが男の足を蹴り払い、踏み込ませない。

 体勢を崩された男は咄嗟に転倒しそうになる勢いをそのままナイフの振り下ろしへと変換させる。思わぬ柔軟な反撃に伊吹は咄嗟に男の腕を横から(はた)くように刃物の軌道を逸らすも、その鋭い一閃は微かに彼の腕を掠めた。小さい赤い滴が刃に引かれて飛散する。

 

()ッ――……!」

 

 極力静かに男を取り押さえようと手を伸ばした伊吹が視界に捕らえたのは、男が足下から引き抜いた小型の拳銃、デリンジャーの銃口。

 ここでそんな音を響かせるのはまずい。二人の相対するそこはパーティ会場の高い天井のまさにその上、ステージの上部と繋がった屋根裏のような設備室だった。会場の声は雑音程度にしか聞こえないが、小口径といえど拳銃の発砲音は流石に大きすぎる。金網を踏み込む音にも注意を払っているのだ。

 伊吹にとっての目標は目の前の男達の無力化ではない。一番の目的は灰原に比護選手とのパーティを楽しんで貰うことにあり、万が一にもこちらの騒ぎを聞きつけられパーティを中止になどさせる訳にはいかなかった。

 

「フッ――!」

 

 男の指がトリガーを引くよりも早く、伊吹の風切り音を伴った蹴りが銃底を蹴り上げた。 男の手から飛び出した銃が宙高く舞う。それを伊吹が掴もうと咄嗟に手を伸ばすも、その伸ばした腕めがけて男が目ざとくナイフを振り抜く。素早く腕を引けばナイフの刃が伊吹の腕を切り裂くことはなかったが、取り損なったデリンジャーは金網の床に叩きつけられ甲高い金属音が反響した。

 

「くそッ――……」

 

 今の音は聞かれなかったか、パーティは問題なく続行しているか。会場の様子に一瞬気を取られてしまった伊吹の意表を突くように、懐に潜り込むように距離を詰めた男が下からまくり上げるように逆手のコンバットナイフを振り上げる。

 半歩退き上体を反らしてその凶刃を躱す伊吹だったが、鋭い切っ先は微かに彼の衣服を引っかけるように掠め、せっかくの上等なジャケットが無残にも引き裂かれる。

 しかしそんなこと気にする様子もなく、伊吹は更に一歩引いてから素早くジャケットを脱ぐと自身の左腕にそれを巻き付けた。

 数度の攻防で理解したのは目の前の男の戦闘能力は本物であるということ、優れたナイフ術の使い手だということ。そしてそんな相手にこれ以上傷を負ってはならないという自身への枷だった。

 睨み合う二人の足下の金網が、ギチリと小さな音を鳴らした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あ、あのっ、比護さん。その……、サインを頂けませんか?」

「え、俺の? ああ、もちろんいいよ」

 

 しばらく様子を窺ってからようやく比護選手にサインを頼むことが出来た灰原。色紙とペンを片手に快くサインを了承してくれた比護選手とは裏腹に、彼女の表情が冴えないのは緊張だけが理由ではないようだ。

 

「えっと、じゃあ宛名は『哀ちゃんへ』でよかったかな?」

「あ、えっ、と……、はい……」

 

 慣れた手つきでサインを済ました比護選手がそう確認すると、色紙の余白に『哀ちゃんへ』と書き添える。

 比護選手の手元で滑らかに滑るサインペンを見つめる灰原の表情はどこか晴れず、誰かを探すように視線を泳がせて辺りを見回す。

 

「よしっと。はい、どうぞ」

「っ、あ、ありがとうございます」

 

 比護選手がサインペンにキャップをはめて色紙と共に返してくると、それを受け取ろうと伸ばされた灰原の手が止まる。

 一瞬の逡巡の後、躊躇うように丸めたその指先はサインを受け取らず、彼女は困ったように眉をハの字に垂らし、指先を唇に宛がいながら申し訳なさそうに一つお願いをする。

 

「あ、あのっ、……もう一人、名前を……。それと、書いて欲しいことがあるんですが……」

「え? ああ、もちろん構わないけれど。えーっと、なんて書けばいいかな?」

「えっと、二人――……」

『それでは皆様、ステージにご注目下さいっ! 本日のゲストにお越し頂いたのはあの泣く子も黙る名探偵! 毛利小五郎氏でございます!』

 

 その頃ステージ上では司会進行役のスタッフがマイク片手にそうアナウンスし、手を大きく広げて舞台の袖を指すと「うぉっほんッ」とわざとらしく咳払いしながら襟を正す小五郞が姿を現した。

 

「おじ様、あんなの頼まれてたの?」

「わ、私も初めて知った」

 

 得意気にステージに現れた小五郞を見て園子が呆れたように蘭に耳打ちすると、蘭もげんなりした様子。

 他の来賓客は小五郞の登場ににわかにざわつき、その視線がステージ上へと集まる。

 

「えー、ご紹介にあずかりました、(わたくし)が天下の名探て――ん?」

 

 小五郞がステージ中央でマイクを受け取り、挨拶しようと口を開いた小五郞の頭にコツンと硬い何かが落ちてきた。

 それに続いて何やら幾つかの金属片が落ちてきて、床に叩きつけられるカランコロンと間の抜けた音が鳴り響いた。

 

「んあ? なーんで、んな物が上から降ってき――って、うぇぁッぅうおぉぉッ!!」

『うわぁあッ、な、なんだぁッ!!?』

 

 思わず足下に転がってきたナットを拾い上げた小五郞が怪訝そうにステージの上を見上げたまさにその時だった。金属が千切れるような鈍くも反響する甲高い大きな音が響き渡ったかと思うと、ステージの頭上から流れ落ちる滝のようにいくつもの金属板やエキスパンドメタル、コードやワイヤーの尾を引いた照明等が次々に降り注いできた。

 

『キャーーッ』

「な、なんじゃっ、いったい!?」

「――っ……」

 

 重たい金属物がステージに叩きつけられ、金属同士がぶつかり合いステージの床板も砕けてしまうほどの激しい破砕音が会場にこだまする。

 倒れ込みながらもすんでの所で小五郞も直撃を免れたようだ。進行役の驚愕の声をマイクが拾うと来賓客からも悲鳴が上がる。

 何事かとコナンや阿笠博士たち一同、灰原や比護選手たちもステージの方を見やると、命からがら慌ててステージを飛び降りる小五郞とスタッフの姿があった。

 誰もが事態を飲み込めないまま息を飲んで目を点にしていると、コードに引っかかるようにぶらりと垂れ下がっていた照明が落下し、静まりかえった会場に金属音とガラスの割れる甲高い音が反響する。

 そして最後に、更に大きな影が落ちてきた。それが金属板に着地する力強い一際大きな音に、来賓客達はざわめく。

 落ちてきたのは白目を剥いて四肢をだらりと垂らし力無く失神する目出し帽を被った男と、いくつかの傷を負いながらもその男の胸ぐらを引っ掴み、その剛脚で着地した青年の「しまった」と言わんばかりに眉をしかめる顔だった。

 誰もが目の前の出来事に口が開いたまま呆然とする中、青年の視線は確かに一人の少女と合う。ぱちくりと瞬きしていた彼女の瞳は少しずつ鋭さを増していき、みるみる不機嫌そうに目尻が吊り上がって眉間にしわが寄る。

 胸元に抱えた色紙は端が少し形を変えるほどに強く抱きしめられていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 伊吹の努力のかいもなく、パーティは当然のように中断されてしまった。

 ホテルは騒然とし、小五郞や主催者が呼んだ警察は到着するやいなや、伊吹が建物の各場所に拘束した男達を確保するため建物内を走り回る羽目となった。

 しれっと伊吹が「ああ、色んなところに爆弾も仕掛けているみたいです」などと報告する物だから警察も総動員で事に当たっている。

 

「あなたっ、こんな傷だらけになって、どこで何してたのよっ?」

「いや、えっと……、なんかちょっと、よくない連中がいたみたいでさ。相手してた」

 

 小五郞やコナンたちが目暮警部たちと話し込むのも尻目に、天井から落ちてきた青年、伊吹は気まずそうにそっぽを向いてチラチラと横目に不機嫌そうな少女、灰原の様子を窺っていた。

 

「工藤君や警察の話が聞こえる限り、そうみたいだけど。どうしてなにも言わずに、一人でそんなことしてたのよ」

「わ、悪かったよ。できればパーティの……、哀の邪魔をさせたくはなかったんだけど、……結局邪魔しちゃって、ごめん……」

「……っ、あのね……私は()()()()()でっ、……怒ってるんじゃないわ」

 

 つい先程まで不機嫌を隠そうともせず眉間に皺を寄せながらも、眉尻を垂らして心底心配そうに彼の真新しい傷にハンカチを這わせていた灰原だった。しかし彼女の詰問に観念した伊吹が事の顛末とその理由を説明するやいなや、その目は一層鋭さと冷気を増した。

 

「痛てて」

「がーまーんっ……」

 

 傷口を拭くには些か強めにハンカチをあてがう灰原。伊吹の流血が止まった事を確認すると、その血に染まった手元のハンカチを静かに見つめる。薄らと残るワインの染みの上から上塗りされた紅い染みを見つめる伏し目がちなその瞳は、心配と安堵の狭間に、一抹の寂しさが見て取れた。

 色紙を抱きしめるように腕を組みチラリと彼を見上げると、伊吹は自身の怪我や警察に連行される男達を意にも介さず何かを探すようにキョロキョロと辺りを見回していた。

 どうかしたの、そう尋ねるよりも早く伊吹が余所を向いて声を上げる。

 

「あ、いた。あのー、比護選手――」

 

 比護選手がサッカー関係者達と一緒に伊吹の視界の端を通り過ぎたとき、伊吹が慌てて比護選手を呼び止めようとするも、隣の灰原が彼の裾を引っ張ってそれを制した。

 

「ちょ、ちょっと」

「え、でもせっかくだし握手だけでもさ」

「い、いいわよ」

「いや、でも今しかチャンスは」

「大丈夫よ。も……もう貰ったから」

「あ、そう……なんだ」

 

 胸元の色紙を大切そうに抱きしめる灰原を見て伊吹もどこか安心したように、しかし少し複雑そうな笑みを浮かべて、ほんのりとやるせなさを滲ませながらぽつりと零した。

 

「あっ、でも……」

「萩原君、まーた君かね」

「あぁ……目暮警部」

「君ねえ、また今回も警察に連絡を入れずに。そもそもあの男達がどれだけ危険か――」

「いや、まさかそんな連中だったとは――」

 

 灰原が彼に何かを伝えようと顔を上げるも、すっかり聞き慣れたしゃがれた声が割って入る。伊吹が暴れる度に再三注意してきた目暮警部が、またかと言いたげな呆れた視線を彼に向け、困った物だと溜め息交じりに帽子を被り直した。

 のらりくらりと目暮警部からの聴取をかいくぐった伊吹が、「事情聴取は後日」と約束させられげんなりとしながら灰原の元へと戻ってきた。

 こちらを見つめてくる彼女の視線に伊吹もしゃがみ込んで力無く笑った。

 

「ごめんな。哀のためにと思ったんだけど」

「……私のため?」

「うん……」

「私が……。私が、あなたが怪我をしてまで、あなたの身を危険にさらしてまで、それを私が知らないままで、他に優先させたいことがある、って本気で思ったの?」

「……」

 

 彼女の冷たい凍り細工のような瞳はいつもより真剣で、普段の呆れ混じりのドライなそれより一層に凍てついていた。思わず自身の顎の裂傷に手を這わす伊吹も、重力に引かれるように視線を床へと落としてしまう。

 灰原の静かな怒りと寂寞(せきばく)の想いが込められた言葉は淡々と続けられる。

 

「私の願う幸せと、あなたの描く私の幸せ。そこに齟齬が発生している気がするわ。これは由々しき事態ね。……いつかその僅かなすれ違いで、なにか取り返しのつかない事になりそうな気がするわ」

 

 伊吹に向けられていた氷の視線は彼と同じように床へと落ちる。

 

「あなたは私のためにって、勝手に決めて、()()()()()、私には何も言わずにことを進める時があるから……」

 

 彼女の言葉の真意は今日の出来事だけでなく、今までの彼の行いを責めているかのようだった。

 その雰囲気を和ませるためか、伊吹も眉を垂らして困ったような乾いた笑みを浮かべて誤魔化すように両の手を振る。

 

「いや、俺は今日は哀が楽しんでくれたら、って……」

 

 ――私はあなたがいないと楽しめないの。あなたがいてくれるから普通のことを普通に楽しめるの。

 美味しいものを食べて嬉しいとか、お洒落をしてお出かけするとか、テレビを見ながら夕食を囲む団欒とか、それこそ誰か有名人のファンになる、とか。そういう普通のことを普通に楽しめて、幸せを感じていられるのは隣にあなたがいるから……、あなたがいてくれるから私は普通の女の子の傍らにいられるの。

 私に普通の女の子のような生活をさせて、普通のことを享受させたいのなら、あなたがいてくれなきゃダメなのよ……――

 

「えっと……?」

 

 不意に黙り込んだ灰原に戸惑う伊吹。ドレスに染み付いた濃紫色の染みにそっと指先を這わせて小さく息を()く。そっと、彼の弱々しい目を見つめ返した。

 

「わかってないのね――……」

 

 わかって欲しくもないけど、いつか誰かに言った気がするそんな言葉はおくびにも出てこなくて。

 

「――……あなたには、わかってほしいのに」

 

 思わずぽつりと吐露されたのは、混じり気の無い彼女の本心のようで。

 

「それって、どういう――っ……」

「別に、やっぱり何でもないわ。ちょっとは自分の頭で考えなさい」

 

 何かを言いたげな伊吹の口元の傷にハンカチを押し当てて、答え合わせを求める彼の口を塞ぐのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「この前のパーティのこと、ごめん。本当に」

「なによ、急に」

 

『開始早々ボールを勝負を仕掛けたのは東京スピリッツ! 駆け引きなど不要と言わんばかりの実直なフォワードの攻勢ッ! 赤木英雄単身ビッグ大阪陣営へと切り込んでいくー! しかしビッグ大阪もそれは想定内と言わんばかりに落ち着いて赤木に当たっていく!』

 

 例のホテルでの事件が解決した後日、主催者である東堂財閥が威厳の回復とお詫びも兼ねたサッカーのエキシビジョンマッチを再び開催した。

 出場チームは多数あれど特に人気を博しているのは本日の試合、東京スピリッツ対ビッグ大阪の一戦だろう。

 パーティの参加者は特別待遇として希望する試合に無償で招待してくれるとのことで、博士やコナン達探偵団一同、そして灰原と伊吹はこの高倍率の試合を特等席から観戦していた。

 以前と同様にコナンと子供達は東京スピリッツへと声援を飛ばし、灰原は相変わらず赤い帽子を被ってビッグ大阪を応援していた。

 あの日の帰り、伊吹と灰原はいささか気まずい雰囲気にはなったものの、一晩眠ってしまえば翌日にはいつもの二人に戻っていた。

 わざわざ蒸し返すこともないだろうと、それからは特にあの日のことを話題にも出さなかったが、今日の試合が始まって数分経った頃、おもむろに伊吹が口を開いた。

 朝から口数が少なかった彼が何かを言おうとしていたのは予想の範囲内だったのか、灰原も相変わらずの半眼で、横目にチラリと伊吹の顔を見ながら淡泊に応えた。

 

「いや、その、謝らないとって思って」

 

 チラリと灰原の様子を窺ってから、その屈強な肉体がいつもより一回り小さく見えそうな程に弱々しく呟く伊吹。

 そんな彼の殊勝な態度は多少面白いものがあったが、彼女は自身の優位性を崩さぬようにいつもの澄ました表情のまま膝に頬杖を突いて問いかける。

 

「それは何にに対しての謝罪かしら。無事に比護さんのサインは貰えたわけだし……、怪我をしたこと? 黙って危ないことしてたこと? それとも、どこかの有名人に鼻の下を伸ばしてたことかしら?」

「……側に、いなかったこと」

 

『おぉーっと! 東京スピリッツ、赤木のフェイントも要らぬと言わんばかりの実直すぎる真っ直ぐな切り込み!! これにはビッグ大阪も意表を突かれたかッ!?』

 

 こちらの本意を射貫くような彼の思わぬ言葉に、灰原も思わず身を起こして目をぱちくりさせながら彼の顔へと向き直る。

 

「ほんとはあんな怪我してまで時間を作っても、哀が喜んでくれないことはわかってた。自惚れたこと言えば、きっと哀は一緒にパーティを楽しみたかったんじゃないかなって。ただどうにも俺も、哀のために何かをしていないと自分自身が納得しなかったって言うか……落ち着かなかったって言うか」

 

 いつもの飄々としてこちらを見透かすようなニヒルな笑みでも、こちらの真意を理解した上で優しく語りかけてくるテノールの声色でもなくて。

 伊吹はうまく言語化出来ないと言わんばかりに、参ったなと頭を掻く。

 

「その、哀がすごく楽しそうに比護さんの応援をして、心底嬉しそうに話をするのを聞いてるとどうにもモヤモヤして……」

 

 いつになく歯切れが悪く、言葉に詰まる彼の態度に灰原は呆気にとられたように呆然とし、小さく開いた口が塞がらない様子。

 そして呆れたと言わんばかりに深く長い息を吐き肩を落とし、小さく頭を振ってから再び頬杖を突いて、一人顎に手を当てたままうんうんと呻る伊吹を見やる。

 呆れていた表情は次第に口角が吊り上がり、瞳は愉快そうに輝いていく。どこか意地悪そうに微笑んで、ほんのりと頬は紅潮し、少し恥ずかしげに小首を傾げた。

 

「まったく……。それって、ヤキモチかしら?」

 

 自分からそう尋ねた事に気恥ずかしさを感じながらも、問いかける彼女の声のトーンはいつもより明るい気がした。

 

『赤木! ビッグ大阪のペナルティエリアまで詰め寄るもゴール前でもたついたかッ!? ビッグ大阪ボールを奪取!! そのまま比護にパスが通ったー!!』

 

「あぁー! なにやってんだよヒデ!」

「惜しかったですね、いいところまで行ったのですが」

「比護さんが来ちゃうよっ!」

 

 会場に響く熱の籠もった実況に子供達も手に汗を握ってピッチを見つめていた。

 そんな彼らの様子をチラリと視界の隅に捕らえてからピッチを見ると、素早いドリブルでぐんぐんと東京スピリッツ側のゴールへと駆けていく比護選手の姿が目に止まる。

 

「いや、その……。ああ、そうか……、うん。……妬いてたんだ」

 

 自身の心に巣くうモヤモヤとした感情の言語化に、ヤキモチという言葉は驚くほどにしっくりときてしまい、伊吹自身も納得したようにポツリと零した。

 しかし彼の独り言のような呟きはサッカースタジアムの観客席の騒音にも掻き消されることなく、確かに灰原の耳へと届いていた。

 

「あら、可愛いとこあるじゃない」

「いや、だって、哀はあんまり芸能人とか興味なさそうだけど、比護さんは別って感じだし……」

 

 自身が抱いていた感情が嫉妬だったのだと理解すると、なんだか大人げないやら情けないやら、どうにも気恥ずかしくなってきて思わず口元を手で覆って無意識に表情を隠してしまう。しかし一度零れだした言葉はどうにも止まらなかった。

 彼の拗ねたような横顔を見つめる灰原は瞳を細めて、両手を両頬に添えるように頬杖を突く。思わず持ち上がる口角は心底嬉しそうな笑みを浮かべ、それを隠すように細い指先が彼女の口元を覆った。

 

「ばかね、私は――……」

 

 チラチラとこちらの様子を窺ってくる彼の反応が面白くて、妙に愛しくて、彼の嫉妬の気持ちがなにやら心地よくて嬉しくて。つい自分の本心を教えてあげたくなったが、灰原は自身の唇に指を添えて途中で言葉を切り上げる。

 

「え、な、なに?」

「んー……そうね。確かに、比護さんのことは好きよ」

 

 そう伝えると彼の眉は少し垂れ下がって客席のベンチに深く腰掛ける。空気が抜けてしぼんでいく風船のように体から力が抜けていった。

 その姿が面白いけど可哀想で、愛らしいけれど良心の呵責を感じてしまう。けれどそれと同じくらいもう少し意地悪をしたくなって。もっと彼にやきもちを妬いて欲しいと、黒くて甘い感情が溢れてしまう。

 ついつい彼の頭に手を伸ばしてその硬い髪質の頭を優しく撫でてあげたくなるのだけれど、灰原はその両手で頬杖を突いたまま視線をピッチへと向ける。

 

『東京スピリッツのディフェンス陣営からの激しいプレッシャー! しかし比護ッ、ここは(こら)えたッ!』

 

「私は動物も好きだし、ピーナッツバターとブルーベリージャムのサンドイッチも好きよ。あの子達のことも博士のことも、沖野ヨーコさんの歌も好き」

 

 ピッチの上の激しい攻防に観客席のサポーターからは大きな歓声が飛び交う。

 特等席のそこも周囲には熱心なサポーターが多い。応援するチームが攻めようが攻められようが、思わず立ち上がって怒号にも似た声援が飛び出す。二人の前に座る子供達もその熱にかき立てられるように立ち上がり声援を送っている。

 そんな中で静かに座ったままの二人。立ち上がる周りの人の壁に隠れるようにして、灰原はピッチから外したその瞳を伊吹へと向けて、どこか照れながらも挑発するように薄く微笑んで彼を見つめた。

 

「――でも、あなたのことは、好き……じゃ、ないわね」

「……」

 

 ただ黙って見つめ返す彼の深い藍色の瞳が柄にも無くほんの少し揺らいだ気がした。

 見つめ返す彼女の瞳も、熱を帯びて、熱く甘く揺れる。

 

「あなたのことは……、あなたはね――」

 

『ゴーーーーーールッッ!!! 比護ッ、渾身の右シュートがゴールネットに突き刺さったーーーッ!!』

 

 口元を隠したまま呟いた彼女の一言は実況の熱いゴール宣言と、すぐ近くのビッグ大阪サポーター達の絶叫にも似た喜びの声に掻き消された。

 

「今なんて……」

「⋯⋯いいえ、なんでもないわ」

 

 困惑する伊吹が思わず彼女に手を伸ばしかけるも、灰原はそれを躱すように静かに立ち上がる。

 

「やっぱり、もう少しやきもきしていなさい」

「え、ええー……」

「普段のお返しよ」

 

 少し意地悪に、そしてどこか得意気に笑みを浮かべながらそっぽを向く灰原。日頃、彼にやきもきさせられているのだから、たまにはこっちの気持ちを味わうといいわ、とでも言いたげに。

 不満と困惑が混ぜ合わさったような抗議のうなり声を上げる伊吹だったが、彼女は「ふふんっ」と楽しそうに鼻を鳴らして前の席へと移動し、歩美の隣に腰掛けた。

 

「哀ちゃんっ、比護さんのシュートっ、ゴールしたよっ!」

「ええ、見てたわ。さすがは比護さんね」

 

 隣にやってきた灰原に歩美が両手を広げて興奮気味に比護選手の活躍を伝える。しかし、その割にどこか冷静に応える灰原を見て、歩美はチラリと後ろの席の伊吹の様子を窺った。

 何を考えているのか、一人腕を組んだまま溜め息と共にぼんやりとピッチではなく空を見上げている伊吹。そんな彼の様子を見て、歩美は灰原の耳に口を寄せてそっと小声で問いかけた。

 

「伊吹お兄さん、比護さんの応援してくれた?」

「え、どうして?」

「哀ちゃん、伊吹お兄さんにも比護選手を応援してほしいんでしょ?」

「ま、まあ、そうだけれど……」

 

 思わぬ歩美の質問に、先程のやりとりが聞こえていたのではと一瞬心臓がドキリと大きく打つ。そんな彼女を尻目に歩美は無邪気に微笑んで、内緒の話をするように、灰原の耳元でこっそりと続けた。

 

「歩美、わかるよ。……だって、好きな人には同じもの好きになってほしいもんねっ」

「……ええ、そうね。……けど、彼には内緒よ」

 

 すこしおませな恋の話に、囁き声ながらも楽しげに声を弾ませる歩美。そんな歩美に灰原は自身のその薄桃色の唇に細く白い人差し指を立てて「しー」と秘密のジェスチャーを返す。彼女の頬に差す微かな朱色は会場の熱気に晒されたのが理由ではなさそうだった。

 

 ピーーッ! ピーーーーッ! ピーーーーーーーーッ!!

 

『ここでホイッスルーッ! 試合終了だーッ! 今回この熱い激闘を制したのは……ッ――――』

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんだおめー、ビッグ大阪が負けた割には上機嫌じゃねえか」

 

 試合観戦後の帰り道。直に夕暮れも近づく頃、一同はスタジアムの最寄り駅へと向かっていた。

 試合の結果は、比護選手の活躍もビッグ大阪一歩及ばず、接戦の末に東京スピリッツが辛勝したようだ。当然コナンをはじめ子供達は大喜びだった訳だが、普段ならばビッグ大阪の敗戦に些か不機嫌となる灰原が今日に限っては上機嫌の様子。

 コナンがそんな彼女の態度を訝しがるように尋ねると、灰原はなんて事無いように肩をすくめる。

 

「そうかしら? ……ま、試合に負けて勝負に勝った、ってところかしら」

「なんだそりゃ」

 

 彼女の言葉の真意が読み取れないコナンはますます訳がわからないと眉間にしわを寄せるも、すっかり上機嫌の彼女はどこ吹く風でハミングする。

 彼女が後ろに手を組みながらチラリと振り返ると、腕を組んだまま頭を傾げて、うんうんと呻りながら後ろをついてくる伊吹の姿が。どこか挑発的に見つめる灰原の視線にも気づかない伊吹に、彼女は意地悪そうに小さく微笑むのだった。

 

 ――私が比護さんのファンになったのは、工藤君が教えてくれた比護さんの境遇を知ったから。

 ノワール東京というチームに利用された比護選手のお兄さん。その兄との夢を叶えるため、自身も(ノワール)を裏切って兄をトレーナーとして拾ってくれたビッグ大阪に移籍した。

 兄のために黒を裏切った比護選手と、姉の一件で黒を裏切った自分。そんなところに自身と重なって見える部分があったから。

 でもね、それだけじゃないのよ――

 

「――お兄さんっ! 伊吹お兄さんっ!」

「んッ? あ、ああ、ごめんごめん、どうかした? 歩美ちゃん」

「今日の博士のお家でのお泊まり会、伊吹お兄さんがお夕飯作ってくれるんだよねっ?」

「晩ご飯のメニューは何ですか、って聞いてたんですよ」

「伊吹の兄ちゃん話聞いてねーのかよ!」

 

 上の空だった伊吹に子供達が矢継ぎ早にまくし立てる。余程頭の中を占める考え事があるようで、伊吹は子供達と話ながらも視線はついぼんやりと泳いでしまう。

 

「あー、えっと、なにが食べたい?」

「まだ決めてないんですかぁっ!?」

「オレもう腹ぺこだぜ!」

「……ハンバーグ、でしょ」

「うぇ、あ、そうだった。ごめん、ハンバーグだった、もう食材も買ってあるんだ」

 

 子供達の質問にもつい適当に答えてしまう彼を見かねて灰原が冷静に口を挟むと、彼女の声には思わず反応してしまう。頭の中を占めているのは彼女のことのようで。

 頭を掻きながら「ごめんごめん」と困ったように子供達の相手をする彼の横顔を見つめる灰原。楽しげに小さく微笑むその瞳は優しく柔らかく、ほんのりと温もりを帯びていた。

 

 ――あなたに再会する前のこと……。黒を裏切って、でも染みついた黒色は拭いきれなくて、白にもなりきれない灰色の日々。唯一の家族である姉は殺され、あなたとは永遠さえも覚悟する離別……。もういつ自分が消えてしまっても仕方が無いと、むしろそれでいいとさえ思っていた。

 もしそんな日々がずっと続いていたら……、私のこの小さな体にはもうあなたを待つだけの力は残っていなかったかもしれない。

 どこにいるのか、無事でいるのか、生きているのか、私を探してくれているのだろうか、今でも私のことを――。なにもわからないあなたを待つだけの、独りぼっちの時間は凄く長く感じたわ……。

 そんな時に、あの子達とあの試合を見に行って、比護選手のことを工藤君から聞いた。

 自身を引き抜く目的のために兄は利用され、そして兄はあっさりと(ノワール)から切り捨てられた。そんな兄との夢を果たすために自身も(ノワール)を裏切った。けれど誰もそんなこと知らなくて、ピッチの上では独りぼっち、声援なんてなくて、浴びせかけられるのはブーイングの嵐。そんな時に浮上した海外チームへの移籍の話。

 もう何もかも忘れて、自責の念からも逃れて、誰の声も届かないような、どこか()()()()()へ行くこともできたのに……。それでも、逃げるのではなく、忘れるのではなく、その全てに耐えてでも、()()()()()()()()()()()()()()()()()を見せつけられたから。

 どこか私と重なって見えた比護選手が、色んなしがらみを振り払って、大切な人と新天地で生きていこうとするその姿がすごく、羨ましく思えてしまったの――

 

「おいコナン、なんだそれ」

「ん? ああ、早速今日の試合のハイライトがコメント付きでもうネットに上がってんだよ」

「あっ、これ比護選手のシュートのところだっ」

「いやー、東京スピリッツのディフェンスの圧を物ともしない鮮やかなシュートです」

 

 ホームで電車を待ちながらコナンが携帯で今日の試合の速報を見ていると、画面に映される試合の映像に子供達も釘付けになる。

 本日のハイライトに流れる比護の強烈なシュートシーンを見ながらコナンは感心するように声を漏らすと、子供達も比護の活躍に熱が入る。

 

「やっぱトータルで見るとビッグに移籍し(うつっ)てからの方が比護はいい成績残してるよな」

「そりゃあもう! 移籍してすぐは振るいませんでしたが、今ではビッグのエースですよ!」

「東京スピリッツに勝ってほしーけどよッ、比護になら一点くらいやってもいいぜッ」

「何様なんですか元太くん……」

「比護選手かっこよかったね、哀ちゃん」

「……ええ、そうね」

「……」

 

 チラリと伊吹の横顔を盗み見ると、彼はどこか楽しくなさそうに明後日の方を向いていた。

 普段ならそんな彼の姿にどうしたのと声をかけてしまうところだが、今日はどうにもそんな彼の態度に喜んでしまう自分がいる。

 

 ――たとえ大切な人と離ればなれになったとしても、共に生きていくことを決して諦めなかった比護選手の姿に、私とあなたを重ねたわ……。

 だから(ノワール)を裏切った私も、この身が危険に晒されようとも、恐怖に押しつぶされそうになっても、あなたが無事でいてくれたなら、私はあなたと共に生きる道を選びたい、そう思えた。

 私はその日、確かに逃げることをやめた。きっと、あなたが私の背中を見つけてくれるって。どれだけ小さくなってもあなたなら見つけてくれる。そして、また前みたいにその大きな腕で後ろから抱きしめてくれるって、あなたはそう言う人だと思い出せたから。そうしたら、灰色の日々が少しずつ輝き始めて、ほんのりと温もりを帯びていった。

 だから、比護さんは私にとって「伊吹(あなた)と笑顔で再会させてくれた人」なのよ。

 比護さんは私にあなたを待ち続ける勇気をくれた人。そして実際、逃げ出さずに待ち続けていたからあなたと再会できた。

 言うなれば、比護さんは私たちにとっての再会のキューピッドな訳だけれど、そう言うとあなたはまた調子に乗りそうだから黙っておくわ。せいぜいやきもきすることね――

 

「なんだか哀ちゃん、すっごく楽しそう」

「そうかしら? ……ま、たまにはこういう日も悪くないわね」

 

 灰原の顔を覗き込む歩美が思わずそう言ってしまうほど、彼女の頬は無意識に緩んで笑みが浮かんでしまう。

 

 ――もう少し、もう少しだけ楽しませて。せめて今日一日くらいは、私のことで頭をいっぱいにしてなさい――

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「どないしたんですか、比護さん。腹でも痛いなら次の試合のスタメン、自分代わりましょか?」

「そんなんじゃねーよ」

 

 ビッグ大阪と東京スピリッツの熱戦が終わり、選手一同は控え室でユニフォームを着替えながら談笑に花を咲かせていた。そんな中で、本試合でも活躍を見せた比護選手が腕を組んで一人頭を傾げていた。

 そんな彼をからかうように声をかけたのは同じくビッグ大阪所属のサブメンバー、真田貴大(さなだたかひろ)。頻繁に美容室にでも通っているのか髪は茶色に丁寧に染められ、(よわい)十八の彼はイタズラ好きの子供のように笑いながら比護選手を肘で突く。

 そんな真田選手の頭を抑えながら制する比護選手が、少しの沈黙のあと首を傾げながら問いかけた。

 

「……おい真田、俺ってよ、()使()に見えるか?」

「はあ? なに寝ぼけてるんですか。そんな髭面でゴリゴリ天使がおったらたまりせんわ、きっしょく悪い」

「だ、だよな」

 

 真田の辛辣なツッコミに苦笑いを浮かべながら彼にヘッドロックを極める比護選手だったが、その思考は再び宙を舞う。

 考えているのは数日前のパーティでのこと、顔見知りの女の子にサインを頼まれた時のことだった。あの時あの少女に頼まれたままにサインしたけど、あれはどういう意味だったのだろうか。

 

「いででででッ、比護さんッ、頭極まってますってッ、てか汗くさッ」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 数日後の阿笠邸。少し前に灰原の特製オムライスに舌鼓を打ってから、紅茶を片手に食後の一服を楽しむ伊吹。ソファへと腰掛けリモコン片手に適当にザッピングをしていると、とあるドラマが目に止まった。

 しばらくリモコンをテレビへと向けたままぼんやりと画面を見ていた伊吹だったが、今日の一服のお供はそれに決まったようで、リモコンはテーブルへと投げ置いてソファに背中を預ける。

 

「最近、そのドラマ観てるわね」

「うん。結構ストーリーが凝ってて面白いんだよ」

 

 自身の分のティーカップを両手で慎重に持ちながら灰原が彼の隣へと腰掛ける。テレビに流れるミステリー物のドラマを興味も無さそうに半眼で見やると、音もなく上品に紅茶をすする。

 

「それと、この主人公の助手? の女優さん。気づかなかったけど、ほら、この前パーティで少し話した」

「……」

 

 伊吹の言葉を聞いて何となくで眺めていた画面に注視してみると、そこにはいつぞやの()()()()()()の姿があった。

 思わず紅茶を吹き出しそうになるのを堪えて、灰原はティーカップを少々荒っぽくテーブルに置くと、即座にリモコンへと手を伸ばしチャンネルを変えてしまった。

 

「ええ、ちょっと」

「なに」

「いや、み、観てたんだけど……」

 

 突然の灰原の行動に異を唱えようとする伊吹だったが、彼女の重く静かな声色にはこちらに有無を言わせぬ圧力があった。

 

「私はニュースが見たいの」

「ニュースなら後でも」

「今、観たいの。毎週この曜日のこの時間はニュースを見るようにしてるのよ」

「は、初耳なんだけど……」

「今決めたの」

 

 その冷たい視線を画面に向けたまま手に持ったリモコンを離す様子のない灰原。伊吹が反論しながら腕を伸ばしても彼女はさっと身を翻してリモコンを譲ろうとはしない。

 

「ちょ、ちょっと、やめなさいよ」

「哀こそ、暴れたら危ないって」

 

 伊吹が灰原の左の腕を掴んで身動きを封じてから、彼女の右手に掴まれたリモコンへと手を伸ばす。灰原も負けじと彼とは反対の方へと腕をうんと伸ばし、取られまいと死守しようと奮闘する。彼らがもがく度にチャンネルは変わっていき、先程コーヒー片手にやってきた博士はランダムに変更されるテレビ画面をただ何も言わずに眺めていた。

 そしてもがく彼女の足がテーブルの端を蹴り上げてしまい、ティーカップがガシャリと音を立てて倒れそうになると伊吹は咄嗟にそれを手で押さえてしまう。

 彼の屈強な腕から逃れた灰原はリモコンを握りしめたまま脱兎の如くソファから離れてから振り返った。

 

「なに、そんなにあのドラマが観たいわけ?」

「いや、まあ、多少?」

 

 灰原がムキになるものだから伊吹もつい釣られてリモコンを取り戻そうとしてしまったが、実はそれほどドラマに固執しているわけではなかった。

 腕を組んだ灰原が、彼女を取り逃がしたままの体勢でソファに倒れ込むように突っ伏す伊吹を見下ろして問い詰める。

 

「……あの女優のファンにでもなったのかしら?」

「そんなんじゃないけど」

「どうだか。……パーティでも随分と鼻の下が伸びていたみたいだし」

「そ、それは誤解だってば。そう言うなら哀だって散々浮かれてただろ」

 

 どこか拗ねたような伊吹の言葉に灰原は半ば呆れ、小馬鹿にするように小さく嘆息を零した。

 

「あなたと違って、私にはちゃんとした理由があって、比護さんのファンになったの」

「なに、理由って」

「それはっ……、い、色々よ」

 

 伊吹の質問に思わず何かを答えそうになった灰原だったが、すんでの所で言葉を飲み込んだ。誤魔化すように視線を泳がせて、()()()()()()()()()()()()()()を思い出してか、少し優しくなってしまいそうなその目元にきゅっと力を込め直していつもの眼差しを彼へと向ける。

 

「あなたはあの女の何がいいのかしら」

「いや、別に、ファンじゃないって……。そりゃまあ女優さんだし、美人だとは思うけどさ」

 

 彼のなんとか絞り出すような理由を聞いて、灰原は小さく(かぶり)を振った。

 そして少し得意気にも見える笑みを浮かべて、彼を見下しながら口を開いた。

 

「……浅いのよ、理由が」

 

 結局伊吹には見せないまま自室にしまい込んだ比護選手からのサイン色紙。それを彼に見せると()()()()を説明しなきゃいけなくなりそうだから、お披露目はまた今度にしようと、灰原はリモコンを下唇に宛がいそっぽを向いて一人小さく物思いに耽るのだった。

 

 

 

 

 哀ちゃんへ、伊吹君へ

 

    ビッグ大阪 比護隆佑

 

          二人のキューピッドより

 

 

 

 

 



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