艦娘たちは歌う (絶命火力)
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北方の海、艦娘たちは歌う -『雪の進軍』

 ざぱん、ざぱんと白波が船首を包むのが見える。“包む”というよりかは“呑み込む”と表現したほうが正しいと思える情景だ。一瞬船首は白い闇に消え、再び現れ、そしてまた消える。船首から延びるクレーンの根本は辛うじて見えるが、船首マストはとうの昔に白い世界の向こうに行ってしまっていた。

 船首までおよそ七十メートル。船首を隠すように真っ白な世界が広がっている。視界は五十メートルもないだろう。白一色の中、よく見れば左右の両方に白の航海灯が鬼火のように――事実、少し航海灯は青味がかった白色をしている――上下しているのが見える。護衛の艦娘たちだ。この六九九総トン型の貨物船「北月丸」に負けず劣らず――いや、間違いなく彼女たちの方が激しく北太平洋の荒波に揉まれているだろう。レーダーに映る彼女たちの姿はただの“点”であり、この荒れ狂う海の中ではあまりにも心細く、寄る辺がないように北月丸の船長である平野には感じられた。

 

「キャプテン」

 

 連絡調整の為に北月丸に乗り込んでいる艦娘の神通が平野に声を掛ける。「そちらのレーダーの方には映っていますか?」

 

「問題ありません、そちらの艦娘さん方の位置も把握できてます……が、一応そちらの方のレーダーでもお願いします。何しろこんな具合ですから」

「そうですね、こちらも連絡を密にします。何かあればすぐに連絡しますので」

 

 慣れない航路、そして酷い悪天候もあって緊張の面持ちで操船を行う一等航海士から窓の外へ目を移しつつ、平野は答えた。窓の外はやはり白のペンキをぶちまけたように、のっぺりとしている。

 波に合わせてレーダーの海面調整を行っている関係で、頻繁にレーダーが波に反応し、PPI上に数多の輝点を生む。それに加えて、激しく吹き付ける雪が頻繁に虚像を生んでいる。こちらもレーダーの調整で軽減はできるが、感度低下とのバーターになる。目視がほぼ絶望的な以上は、レーダーに頼るしか術は無い。不安がないのかといえば、全くないとは言えなかった。

 単なる濃霧ならブリッジの扉を開放して周囲の音を拾うこともできただろうが、吹雪に時化まで重なっている現在ではそれもできない。情報はあればあるほど、事故防止となる。神通の電探、そして隊内無線による情報も必要だった。

 その神通も先程から頻繁に配下の駆逐艦娘から――現在北月丸の周囲を航行している――連絡を受けている。どうやらこの時化で配置に乱れが生じかけているようだった。無理もない、と平野は思った。

 

「大変ですな」

 

 雪の中、激しく揺れ動く航海灯を見つめつつ、平野は呟くように言った。

 

「職務ですから」

「それにしたって、こんな猛吹雪に大時化の中、たった一人でこの大海を行こうというのですから、いやはや……」

「そこまででもありません。艤装があれば暑さ寒さはさほど問題ではありません。私たちは(フネ)ですので」

「はあ」

 

 気の抜けた返事をしつつ、そんなものだろうか、と平野は思った。

 本州近海での航行で艦娘に護衛されることしばしばあったが、つい最近まで戦闘が繰り広げられていた海域である北方海域での仕事はこれが初めてだった。もちろん、本州での()()以上の冬期装備にすっぽりと身を包んだ艦娘を見るのも初めてだった。寒そうだ、というのが釧路港を出て彼女たちと最初に顔を合わせた時に抱いた感想だった。

 思えば、既にその時から雪が激しく降っていた。気象予報から悪天候の航海となるとは思っていたが、海は予想を超えた荒れ模様だった。

 

「……ん?」

 

 何か一瞬、声が聞こえたような気がした。平野は首を傾げる。風の音だろうか。どうやら誰も気付いた様子はない。しかしどうにも気のせいではない気がした。通常では聞こえないような音が聞こえる時は、何かあるはずだ。注意深く、耳を澄ます。

 

「うん……? 歌……か?」

 

 平野の耳に聞こえてきたのは微かな歌声だった。甲高く、どこか遥か遠くから聞こえてくるような歌声だ。賛美歌、という単語が脳裏を過った。再度、周囲を見回す。やはり聞こえているのは自分だけのようだ。幻聴か、ついに自分も耄碌したかと思ったが、確かに平野の耳は歌声を認識していた。

 まさか、と平野は窓の外を凝視した。未だ収まる気配を見せない時化に揉まれる艦娘たちの姿が――実際には航海灯しか見えないが――吹雪の向こうに見える。まさか、彼女たちが歌っているのだろうか。

 

「良い耳をお持ちですね」

 

 平野の声を聞いた神通が感心したように言った。どうやら平野の耳が拾った声は幻ではないようだった。

 

「神通さん」

「まあ、後でお話しましょう。今は――」

 

 みなまで言わずとも百も承知だった。今はこの大荒れの海を抜け出すことが先決だ。気を散らしてはいられない。平野は再び意識を外へ向けた。外はやはり、白い闇だった。

 それから一時間、ひらすら白一色の世界は続いた。波が収まり、ようやく雪も多少弱まり視界が一海里少々まで回復したのを確認して、平野はブリッジを下り食堂へ向かった。臨時でブリッジに上がったが、本来は上がる時間ではなかった。自室に戻る前に紅茶を飲もうかと考えていた。湯を沸かしている途中で、食堂に神通がやって来た。

 

「おや、神通さん……飲まれますかな?」

 

 平野は紅茶の入った缶をひょいと神通の方へ掲げた。神通は首を横に振る。

 

「いえ、遠慮しておきます」

 

 柔和な顔でそう言って神通が腰のポーチから取り出したのは携行食料だった。「これがありますし、私だけがそれに与るわけにもいきませんから」

 

「駆逐艦娘の方々ですか」

「私はこうして船に上げてもらっていますが、あの娘たちは出ずっぱりです。食事だって海の上です。それもこんな具合ではままなりません」

「まあ立ったままでは何ですから、そちらにお座りください……そういえば、さっきのお話ですが」

 

 ようやく沸いた湯をカップに入れ、ティーパックを浸しつつ平野は言った。神通を見た時に、それまですっかり忘れていた“歌声”のことを思い出したのだった。

 平野の言葉に、ああ、と神通はこちらも忘れていたのを思い出したかのような声を上げた。「あれですね」

 買い置きのマフィンとカップを手に、失礼、と平野は長椅子に座る神通の隣に座った。ゆっくりと紅茶を飲む。熱さが身体に沁みた。一息つくと、平野は神通に尋ねた。

 

「あれは、その……本物ですか?」

「本物というか何というか。ともかく、あの娘たちの声ですよ」

「歌のように聞こえたようが気がするのですが」

「あまり外部の方にはこのことはお話しないのですが……まあ、聞かれてしまっては答えないわけにもいきませんね」

 

 魔除けのおまじないなんですよ、と神通は静かに言った。これといって何か具体的な回答を予想していたわけではなかったが、神通の言葉は平野の予想外だった。紅茶を飲む手を止め、ゆっくりとテーブルにカップを置く。

 

「魔除け……?」

「ええ、魔除けなんです」

 

 魔除けのおまじない、と再度平野は鸚鵡返しにその言葉を呟く。「魔除けで歌を歌うんですか」

 歌で魔除けとは、まるで大昔の船乗りのようだ、と平野は思った。

 

「今は験担ぎ、ともいえますが」

「ふむ……験担ぎ……」

 

 納得したような、していなような気分だった。しかしまだ、一番気になった点はわかってはいない。

 

「それで、何を歌っているんです?」

 

 平野の質問に、ええと、と神通は言葉を濁した。神通は言い淀むように、僅かに視線を下へ向ける。何か口にできない後ろめたい事情でもあるのだろうか、と神通の表情を見た平野は考えていた。

 数瞬の逡巡の後、少し不吉に思われるかもしれませんが、と神通は前置きしてから言った。

 

「『雪の進軍』です」

 

 はあ、と平野は不確かな返事をした。『雪の進軍』。どこかで聞いたことはあるが、曲や歌詞は全く思い出せなかった。神通の言う、少し不吉、というのはいまいちピンとこなかった。

 平野の反応が意外だったのか、神通は不思議そうな顔をしていた。

 

「ご存知ないですか?」

「ええ、全く。聞いた覚えはあるんですが、いやはやお恥ずかしながら中身はサッパリで……」

 

 平野は照れ隠しに頬骨の辺りをニ、三度軽く引っ掻いた。

 

「私から説明するというのも変ですけど……『八甲田山』という映画はご存知ないですか? かなり昔の、高倉健が主演していた映画です」

「ああ、そういえば、BSか何かで観た覚えがあるような気もしますな。確か八甲田で起きた遭難事件の映画でしたか。えーっと、主題歌か何かですか?」

「主題歌ではなく劇中歌ですけども……まあ、似たようなものですね」

 

 八甲田の遭難というと、戦前の帝国陸軍の集団遭難事故の話だっただろうか。そういえば、三國連太郎も出演していたような気がする。ぼんやりとカップから立ち昇る水蒸気を見つつ、平野は思い返していた。

 

「それで、その『雪の進軍』をどうして、えー……魔除け、験担ぎでしたか」

「まあ、両方です。歌自体はこういう歌なんですが――」

 

 そう言うと、神通は『雪の進軍』を歌い始めた。聴いているうちに、ようやく平野は記憶に引っ掛かりを見出した。確かに、こんな歌だった。納得すると同時に、平野は首を傾げた。

 

「またえらく……その、厭戦的ですな。歌詞が」

 

 神通は苦笑した。「否定はできませんね」

 

「これが魔除けと験担ぎになるんですか? それに八甲田山というと、どちらかといえばマイナスのイメージが強いと思いますが」

 

 かなり厭戦的な歌詞、かつ悲劇的な結末のエピソードが連想されるような歌を歌われながら護衛されるというのは、少なくとも気分の良いものではない、というのが正直な感想だった。いくら魔除けだ験担ぎだと聞かされても、容易には信じ難い。おそらくは他の船員とて同じ感想を抱くだろう。確かに神通が言うのを躊躇ったのも当然だった。

 平野の指摘に、自覚はあるのか神通は更に苦笑する。

 

「お言葉はもっともです。この歌はそれ自体で考えると、あまり護衛任務時にはふさわしくはありません。実を言うと、魔除けになったのはあるきっかけがあるんです」

「何か、この歌に助けられた、とかそういったお話でしょうか?」

 

 ええ、と神通は肯く。

 

「北方海域には魔物が棲んでいるんです。私たちを(いざな)い、暗く深い海の底へ拐かす魔物が。『雪の進軍』はその魔物に対する魔除けなんです」

「魔物……ですか。深海棲艦ではなく?」

「さあ、それはどうかわかりません。ただ、確実にこの海には何かが棲んでいる。それだけは間違いありません」

 

 至極真面目な顔で神通は言う。その表情からすると、神通も何か実体験があるのかもしれないと平野は感じた。

 

「しかし(いざな)い、拐かすとは……セイレーンのような言い方ですな」

「セイレーンですか。あながち、間違いではないかもしれませんね」

「と、言うと?」

「その魔物は“声”で私たちを(いざな)うからです。そう、今日のような白一色の荒れた日に決まって聞こえてきて、私たちを誑かす。それがこの北方海域の魔物です」

「あまり聞いたことはありませんな……まあ私どもは軍とは関係の薄いところにおります故、その辺りは疎いのですが」

「勿論公的な記録には残りません。残せるわけがありませんから。でも、その魔物に(いざな)われ、失われた艦は存在します」

「はあ、なるほど」

 

 半信半疑、というのが平野の本心だった。とはいえ海に生きる者の一人として――そして現状、深海棲艦なる化物が海を跳梁跋扈していることも含めると――頭から否定することもまた、できないと感じていた。

 

「ある冬の日のことです。まだ千島から敵を完全に追い出せていなかった頃、とだけ言っておきましょう。その日は朝から大雪で、しかもその季節には珍しく、海にはまとわりつくような霧が出ていました。勿論、そんなことはお構いなしに哨戒任務はやってきます。ルーチンですからね。私は駆逐艦と共に水雷戦隊を編成して、哨戒に出ました」

 

 千島から敵を追い落とす前とするとそこそこ昔の部類に入る。果たして何年前だったか、と考えたが、思い出すまでには至らなかった。平野は相槌を打ちつつ、黙々と神通の言葉を聞く。

 

「哨戒に出てから三時間ほど経った頃だったと思います。場所は一応伏させてもらいますが……ある駆逐艦から報告が飛んできました。曰く、『声が聞こえる』と。あまりにも掴みどころのない報告でしたので、詳細を求めたのですが、『東の方角から声が聞こえる、としか言いようがない。意味はわからないが、おそらくは声だ』と」

 

 これじゃどうしようもありません、と神通は肩を竦める。そうでしょうな、と平野も肯いた。

 

「それに、その“声”とやらは私には聞こえませんでした。他の駆逐艦も同じくです。少し神経が参っちゃったのかしら、とまで思ったんですが、元はそんな娘でもなかったので、報告をどう扱うか決めかねていました。ところが、暫くすると別の駆逐艦からも、同じ“声”の報告が来たんです」

 

 何やら怪談じみてきたぞ、と平野は感じた。まるで、本当にセイレーンに引き寄せられているようではないか。

 

「更に他の艦からも次々と同様の報告が来ました。結局、聞こえていないのは私だけです。そうなってくると収集がつきません。多勢に無勢、『声の方へ行きましょう』と意見具申が来るのは自明でした。そこでようやく、ある噂話を思い出したんです」

「噂話?」

「『北方海域には艦娘を“呼ぶ”魔物が棲んでいて、呼ぶ声を追うと二度と戻ってこれない』という噂が流れていたんです。勿論、根も葉もないただの噂話です。聞いた時はどこかのオカルト好きが流した与太話と思いましたけど、ああ、間違いなくこれだ、と」

「呼ばれている、ということですかな」

「ええ。結局私には聞こえませんでしたが……」

 

 平野は唸る。難しい話だった。哨戒というと、つまりは海に異常がないかの警戒だ。そこに“声”という異常があれば、本来なら確認すべき事態となるのは間違いない。しかしその異常が自分には確認できない場合に、どこまで指揮官としての自分の判断を信じることができるだろうか。

 

「勿論、通常なら“声”の正体を確かめないといけません。もしかすると、何かあって漂流している貨物船の助けを呼ぶ声かもしれないし、未知の敵がいるかもしれない。彼女たちの意見具申はもっともなものです。ですが……私は、それを退けました。私にはその権限がありました。隊長としての最終的な責任を持つのは私ですから」

「しかしまあ、随分とまた英断ですな。何か確たる根拠でもあったのです?」

「例の噂話はともかく、実際に原因不明の行方不明(MIA)の事例は千島全体で何件かありました。色々と状況は異なりますが、いずれもあの日、そして先程までのような、猛烈な悪天候の日です。敵の未知なる罠かもしれません。安易にその“声”を追うのは間違いなく危険でした。まあ後は――」

 

 そう言って、神通は少し表情を緩めた。

 

「直感です。何かこれはおかしい、という第六感とでも言いますか……。さすがにこっちは間違っても口にできませんが、どちらかといえばこっちの方が大きかったですね」

「私どもの世界でも直感に助けられることはしばしばありますからなあ。艦娘さん方ではより一層そういうことも多いでしょう」

「ええ、よくあります」

 

 神通は微笑する。「本当に、よく」

 平野はその微笑みに、戦士の色を強く感じた。長い戦争の中で、何度も何度も死線を掻い潜ってきたのだろう。それが一体どれほどのことなのか、平野には想像もつかなかった。

 

「それで……どこに『雪の進軍』が?」

「ここからが、『雪の進軍』の出番です。残念ながら、駆逐艦たちは私の決定に納得してくれませんでした。少し異常とも言っていいでしょう。もしかしたら、“声”に魅せられていたのかもしれません。これはまずい、と私も焦りました。もう無断で“声”の方へ行ってしまいそうな、そんな危機感すら抱きました」

「まさしく部隊崩壊の危機、ですな」

「そのとおりです。そこで私はこう言ったんです。それはもう在りし日の訓練所を思い出すような大声で、『軍歌っ! 雪の進軍! 始めぇ!』とね。そう、『八甲田山』の高倉健演じる徳島大尉のように。まあ、私が歌って続けて歌わせる方式だったのですが……」

 

 大声というのは、人を律する――悪く言えば従わせる――のには、非常に有効な手段の一つだ。特に混乱が生じている時は、場を立て直すのに必要な時もある。さすがに軍隊らしい手立てだ、と平野は思った。

 

「咄嗟に思い出したのが、前日だったかに、しかも途中から観た『八甲田山』だったというだけで、他にもいい方法があったような気はします。とはいえ、それが功を奏して隊の秩序は戻りました。そして、“声”も消えた。それから、誰も“声”を聞くことはありませんでした」

 

 その声を聞いた者が生き残ると、セイレーンは死んでしまうという。そんなかつての伝説の内容を、ふと平野は思い出した。“声”の主たる魔物とやらも、同じなのだろうか。

 

「それで、魔除け、と」

「ええ、『雪の進軍』は魔物除けに使える、と。与太話半分、部隊指揮の失敗事例半分で他の隊の隊長にこの一件を言ってから、話は広まりました。いつの間にか他の基地にまで伝わって、悪天候になると『雪の進軍』をまず歌う隊すら出る始末で……」

 

 平野は笑った。「いや、失礼……笑い話ではありませんな。そんな魔物相手では、神でも仏でも歌でも縋れるものなら縋りたいでしょう」

 お気になさらず、と神通は言った。「事実、そのとおりですから」

 

「しかし実際のところ、効果はあったのですか?」

「これがまた……あった、のかもしれません。MIAの事例が減りました。勿論、『雪の進軍』と何か因果関係があるとは思ってはいませんが、これもあって余計に魔除けとして広まった気がします。こうして、あれよあれよと『雪の進軍』は独り歩きして、気付けば北方海域の基地には粗方広まっていました」

「そして今も、ですか」

「ええ。とはいえ、今では荒天時の航行の無事を願う意味合いの方が強いようです。特に駆逐艦には好んで歌う娘もいますね」

「験担ぎですな」

「それこそ、厭戦歌としてかもしれません」

 

 神通は冗談めかして言った。神通も、平野も笑った。

 

「ところで、魔物は今も居るのですかな?」

「さあ、わかりません。でも、確実にまだ棲んでいる気がするんです。今はただ、出てきていないだけで」

「『雪の進軍』で?」

「ええ、『雪の進軍』で」

 

 たとえ歌われる意味が変わっても、『雪の進軍』が“声”を打ち消して魔物を鎮めているのだろうか。それとも、そもそも魔物などというのは居ないのか。はたまたセイレーンの如く死んでしまっているのか。いずれにせよ、平野にはわかりかねる事だった。

 

「『雪の進軍』……興味深いお話でしたな」

 

 平野はテーブルに置いたカップを持ち上げる。紅茶はぬるくなってしまっていた。いつの間にか、随分と話していたようだ。

 

「さて、私はそろそろ戻ります」

「折角の食事というのに、お時間を取らせてしまいましたな」

「いえ、こうして外の方とお話できる機会もそうありません。私も楽しかったですよ」

「……北方の基地詰めは大変でしょうな」

 

 北方で外部の人間と接触があるというと幌筵(ぱらむしる)島の基地くらいしかないだろう。確か神通の所属は松輪島の基地のはずだ。年若いうちからこんな世界の果てのような場所で何年も防人の任に当たるというのは、一体どれほど強靭な精神と肉体が必要だろうか。平野には計り知れなかった。

 

「職務ですから」

 

 ただ一言そう言って柔和に笑うと、神通は「では、失礼します」と平野に背中を向け、食堂を出ていった。

 思わず平野は椅子から立ち上がると、その後姿に敬礼した。神通の姿がブリッジへ続く階段に消えるまで、敬礼は続いた。敬礼を終えると、平野は再び椅子に座り、残った紅茶をちびちびと飲み始めた。

 自然と、『雪の進軍』を口ずさんでいた。艦娘たちの、そして自分たちの航海が無事に終わらんことを祈って。




雪の進軍 氷を踏んで どこが河やら 道さえ知れず
 馬は(たお)れる 捨ててもおけず ここは何処(いずこ)ぞ 皆敵の国
  ままよ大胆 一服やれば 頼み少なや 煙草が二本
焼かぬ乾魚(ひもの)に 半煮え飯に なまじ命の あるそのうちは
 こらえ切れない 寒さの焚火 煙いはずだよ 生木が(いぶ)
  渋い顔して 功名話 「すい」というのは 梅干一つ
着のみ着のまま 気楽な臥所(ふしど) 背嚢枕に 外套かぶりゃ
 背なの温みで 雪融けかかる 夜具(やぐ)黍殻(きびがら) しっぽり濡れて
  結すびかねたる 露営の夢を 月は冷たく 顏覗きこむ
命捧げて 出てきた身ゆえ 死ぬる覚悟で 吶喊(とっかん)すれど
 武運拙く 討ち死にせねば 義理に絡めた 恤兵(じゅっぺい)真綿(まわた)
  そろりそろりと 首締めかかる どうせ生かして 還さぬ積もり

――『雪の進軍』(明治二八年、永井建子作詞・作曲)
(※著作権消滅済)


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南方の海、艦娘は歌う -『軍艦行進曲』

 護衛艦が一隻、ちょうど反航戦のように真っ直ぐこっちに近づいてくるのが見える。いや、一隻だけじゃなく、その後ろからも単縦陣を形成する護衛艦が連なっている。

 

 護衛艦を見る度に、いくら現代の艦船の装甲が小指の先程度の厚さしかないといっても、やはり鉄の船は大きくて、そして安心できると思う。私たち艦娘が人間ひとりに軍艦を詰め込んだような(いびつ)な存在だからこそ、その思いはとても強い。海に浮かぶ城は、国の護りとしての象徴に足る大きさと威厳を備えている。深海棲艦との戦いの主軸が艦娘に移った今もなお、護衛艦は海を守る海軍の象徴であり、花形であることは間違いない。世間がどう思っているかはともかく、私はそう思う。

 

 護衛艦に対する私といえば、大海原に漂うちっぽけな小枝のように、頼りない。護衛艦のように波を割って海を進むことなんて到底できやしないし、航行安定化装置(スタビライザー)がなければ瀬戸内海ですらまともに航行できない。護衛艦に近付きすぎれば、艦首波に飲み込まれて一発で海の底へ引きずり込まれてしまうに違いない。私たちはそんな不安定な存在。敏捷な機動性と巨大な火力を有する、と言えば聞こえはいいけども、持つ火力に比べて他があまりにも貧弱すぎる。そこにどうしても(いびつ)さを感じてしまう。それでも私は光栄ある海軍の軍艦として、そして艦娘の一人として、護衛艦に登舷礼を――実際には“登舷”することはできないのでただの挙手礼だけども――行っている。

 

 どうしてこんな登舷礼を行っているのかといえば、今日が私たち艦娘の観艦式だから。向かい合うのは観閲部隊、その先頭を進む護衛艦のマストには、紅の地色に金の菊章の旗が掲げられている。それは紛うことなき“錦の御旗”、勿論裸眼じゃ()()()が見えるようなことはないけども、既に私の緊張は最高潮に達していた。いくら事前に念入りに予行したとはいえ、緊張感が段違いだった。

 何しろこの受閲部隊第五群の旗艦は私なのだ。私を先頭に、いくつかの駆逐戦隊や水雷戦隊が続いている。その中には私よりも古参だったりとんでもなく武功の目覚ましかったりする艦娘も多い。私の一挙一動が注視され、そしてこの受閲部隊の行方を握っている。もし私が少しでもトチって速度を落としてしまったりした先にあるのは海の上の大渋滞、逆に速すぎれば各艦娘間の距離に乱れが生じて列の揃いがガタガタになってしまう。そんなミスをしでかした後に何が起こるかは考えたくない。気が気じゃなかった。

 

 最初に提督から観艦式への参加を言い渡されたときこそ、なんという名誉だと――ただの観艦式でも名誉なことだけども、それに加えて“天覧”なのだから――文字通り舞い上がった。それだけなら、胸を張って悠々と参加できたと思う。感覚的にはちょっとした本土への出張任務のようなもの。行って、予行を挟んで多少の緊張はあれども観艦式に出て、終わったら一瞬だけ羽根を伸ばして、そして色々と頼まれたものを買い込んで基地に凱旋――そんな未来予想図が浮かんでいた。

 でも、まさか旗艦を、更には訓練展示までやらされることになるとは思わなかった。天国から地獄、即座に私だけが南方の所属基地から本土へとドナドナされ、各地から集まる艦娘たちの把握、同じくドナドナされた哀れな艦娘たちとの顔合わせに折衝(ついでに飲み会……これは楽しかった)、受閲部隊の他の群や護衛艦への挨拶回りにやっぱり折衝、関係部署との式のスケジュールの綿密な(秒刻み! 病的だと思ったけども、コンマ秒単位でないだけマシかもしれない)調整だ何だのに忙殺されることになったのだった。これが紙を投げつけ合う戦場の本場かと今更痛感した。勿論その合間には訓練展示に向けた訓練もしなきゃいけない。もうあの忙しさは経験したくない。砲弾をぶつけ合う戦場のほうがまだマシだ、と本気で思った。今も思っている。

 

 後出しジャンケンで「それじゃあ旗艦も頼むぞ」と私の肩を軽く叩いた提督を、セクハラかパワハラか何かで監察官に突き出してやるべきだったと後々何度も後悔した。もしくは撤退戦に入っている額の防衛線を引き直してやるか。まあ、そのまま「あ、はい」と返事をしてしまった私もあまりにも軽率だったのだけども……。

 提督はどうも貧乏クジを引かされるタイプのフシがあるから、大方観艦式の旗艦もたらい回しされた挙句押し付けられたのだと思う。私の所属基地の規模――同じく南方にあるチュークやパラオに比べれば小規模な基地だ――からすれば、第五群と後ろの方の受閲部隊とはいえ、旗艦はまさに“余りある名誉”だった。そして私がその貧乏クジを更に引かされたのだった。全くひどいババ抜きだ。

 

 今となっては名誉だ栄誉だなんて文字は私の頭の中からすっかり消え果てて、ただガチガチに緊張して冷や汗を流しながら「どうか無事でありますように」とばかり念じている。もしかすると、私が――私というよりは、私がその名を背負うかつての軍艦が――かの時代の最後の観艦式に参加していたということも、私を緊張させる要素の一つかもしれない。あの観艦式も“天覧”だった。

 

 とにもかくにも、失敗は絶対に許されない。悲しいかな艦船と違って人間ひとりの艦娘では全周を自分の目で確認することができない。既に登舷礼を行っている今はただ、電探に表示される各艦娘の位置情報と少し気の抜けた会話が時たま聞こえる無線越しに――幾つもの戦隊の情報を私ひとりで捌くのも無理がある、私は大淀型じゃない――後ろに続く艦娘たちが整った隊列を描いていることをひっきりなしに確認している。そして何とか、無線越しに全ての艦娘が登舷礼の状態を整えたことを把握できた。少なくとも、今は全くもって順調だった。天候は晴れ、海も凪いでいて、驚くべきことにあの神経質なスケジュール通りに事は進んでいる。どうかこの先に何もありませんようにと祈るばかりだった。

 

「五十鈴、少しだけ早い。赤五くらいにした方がいい」

 

 そんな風に考えていた最中に、真後ろを航行する初月――同じ基地から来ている駆逐艦娘で、私がいつも率いている戦隊の一員でもある――から個別の無線が飛んできた。慌てて自分の位置を確認する。初月の言う通り、ほんの僅かに部隊から先行しかかっていた。慌てて主機の回転数を落とす。この期に及んで主機がぐずるとは! 顔から血の気が引く音が聞こえるような気がした。冗談抜きで、たった一メートルの誤差すら許されない。数十の艦娘が全く同じ速度で同一の間隔で航行するというのは、見た目以上に非常に困難なことだった。それをやってのけるのが私たちだけども。

 

「うん、元に戻った。そのままで大丈夫だ」

「ありがと、初月。感謝するわ」

 

 何もないようにと祈りながら自分がこの調子じゃ先が思いやられる。まだこれから訓練展示も残っている。胃がキリキリと痛むような感覚を覚えた。とはいっても、そんな私のことなど()()()どんどんと私たち受閲部隊と観閲部隊の距離は縮んでゆく。共に原速といっても、相対速度はおよそ25ノット、時速45キロメートルといったところ、すれ違うまでは時間の問題だった。

 だんだんと“錦の御旗”がハッキリと見えてきた。彼我の距離が狭まり、遂にはすれ違う時が来る。距離にして約百八十メートル、艦船のすれ違う距離としてはかなり近い――至近距離の戦闘もままある私たちからすれば特に何ともない距離だけど。

 観閲部隊の護衛艦に人影が見える。向こうからは双眼鏡でこっちを見たり、写真を撮ったりしているんだろう。私はただ、どうか早く過ぎ去ってくれと思うばかりだった。ここから先、六隻の護衛艦とすれ違う。右腕が震えるけども、まだまだ上げ続けなけきゃいけない。そう長くはかからないはずなのに、なかなかすれ違いは終わらない。

 

 ようやく三隻目とすれ違ったその時、無線に何かの音が流れた。一瞬にして心臓が跳ね上がる。胃から苦いものがせり上がる。何か異常が起きた? そう思った瞬間に耳に流れてきたのは、声でなく鼻歌だった。鼻歌……? おそよ想定外の事態を飲み込むのには、たっぷり三十秒は必要だった。これが戦場ならとっくの昔にあの世に行ってる。でも、それくらい突拍子もないことだった。

 どうやら誰かの鼻歌を無線が拾ったらしい。大方、無線の送話設定を艤装連動のプッシュ式でなく音声感知式に設定したままにしていたんだろう。ズボラな艦娘にはよくある話だった。あまりの落差に呆れ返って「暢気に鼻歌なんて歌うなんてなんとまあ良いご身分で」と毒づきそうになったけども、もう全てがどうでもよくなってしまった。あれほど感じていた緊張すらも綺麗さっぱり消え去ってしまった。そんな状況できっちりと“凛々しい”表情を保っていただけでも、自分を褒めるべきだと思う。本当を言えば脱力してヘナヘナと腰を抜かしてもおかしくなかった。後から観艦式で撮られた写真を色々と眺めてみたけども、我ながら中々いい表情をしていたように思う。内心は表情とはかけ離れていたけども……。

 

 本来であれば「誰か知らないけど、一人で“天覧”コンサートでもやるつもり?」と皮肉の一つや二つでも飛ばすべきだったと思う。けども、こんな暢気な艦娘のことだ、下手に指摘すると焦って何かやらかすかもしれない。そう考えて敢えて放置した。決して面倒だったとか、このまま放っておいた方が面白いと思ったとか、そんなことは断じてない。

 他の艦娘も同じように考えたのか、それともいつ気付くのか面白がっていたのか、はたまた鼻歌が気に入ったのか――ともかく、誰一人として指摘せず、その暢気な鼻歌は最後の護衛艦とすれ違って登舷礼を終えるその時まで続いていた。もしかするとこれが傍観者効果というものかもしれないとは薄々感じていたし、実際そうだったのだと思う。歌っていた本人は最後までこの“コンサート”に気付いていなかったのか、それとも途中で気付いたけども毒を食らわば皿までとばかりに歌い続けると腹を括ったのか――もしそうなら相当肝が据わっている――果たしてわからない。鼻歌だけだったので、結局誰が歌っていたのかも未だに知らないままだ。あまり詮索するのも野暮のようにも思う。それ以上のことは何も起きなかったし、それで私としては十分。知るべきこと以上のことは知らなくてよい、軍人の鉄則だ。

 

 とはいえ、私はその暢気な誰かに感謝すべきなんだろうと思う。その暢気な鼻歌で一切の緊張が吹き飛んだ私は、続く訓練展示――私と初月とで雷撃機を模した無人標的機を撃ち落とすというよくある訓練――もトチることなく成功させることができたのだから。むしろ緊張が抜けて少しはっちゃけてしまって、初月の“獲物”までいくつか横取りしてしまい、後から「僕抜きでも問題はなかったね」と少々嫌味を言われてしまった。初月には悪いことしたな、と思う。まあ、あの鼻歌が無ければ一体どうなっていたかわからない。緊張がほぐれているということは間違いなくなかった。

 

 その鼻歌は『軍艦行進曲』、いわゆる「軍艦マーチ」だった。知識としては知っていても、それまで特にこの曲にはこれといった思い入れはなかった。でも、あの日以来私のお気に入りの曲になっている。いい曲だと思う。――私が艦娘だから、そう思うのかもしれないけども。そして今もこうして口ずさんでいる。守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の、浮かべる城ぞ頼みなる――

 

「五十鈴」

 

 後ろから私を呼ぶ声が聞こえる。初月だ。

 

「……何しに来たの、あんたはこっちじゃないでしょ」

「でも……」

「『でも』も何もないでしょ、あんたがいなくちゃあっちの防空はどうするの」

 

 初月は押し黙る。表情は見ずともわかる。十中八九、不満ありありという顔。艤装を確認する手を止めてまで、振り向いて確認しようとまでは思わなかった。不満を隠しもせず表にする若さが、少しだけ羨ましい。

 

「早く戻りなさい、敵前逃亡で営倉に放り込まれたくなければね」

「納得できない。どうして五十鈴が……こんな……」

「馬鹿ね? 私だけでも何とかできるから、私が任されただけ。あんたより適任ってこと。大丈夫、心配しなくてもすぐに援軍が来るわ。私は保険よ、保険。“陸さん”にもしものことが無いように、ってね」

 

 目下、この基地は深海棲艦の脅威が迫ってきている。何がどうなって深海棲艦共に察知されたのかわからないけども、大規模作戦に備えて物資や船舶の集積地点になっていたこの基地に、爆弾や魚雷を抱えた連中の航空機の大群が押し寄せて来ていると一報が入ったのが三時間前。ただの物資や輸送船だけならまだマシだったけども、“陸さん”の旅団を乗っけた輸送船も一緒にいたのが問題だった。基地にそんな旅団規模の人員を収容するなんて到底できないし、そもそも収容する時間がない。勿論敵を撃退できれば――基地からは迎撃の防空部隊が出撃している――問題ないけど、“大事を取って”輸送船には退避してもらう必要があった。勿論お客さんには丁重な()()()()()が必要だから、基地の艦娘は総出で守らなきゃいけない。

 

 しかも確認されたのは艦載機型の航空機。片道切符の決死隊で――あの連中にそんな概念があるのかは知らないけども――どこかの飛行場から陸上型が飛んできたんじゃなくて、どこかに未知の機動部隊が潜んでいる証拠だった。そんな危なっかしい不安要素を抱えてこの先の作戦を行うことなんてできないのは私にだってわかる。その機動部隊の狩り出しと撃滅は必須、でもそれには航空戦力が必要だからこっちの防空はどうしても片手落ちになってしまう。焼け石に水とまでは言わないけども、どう好意的に見ても出撃した防空部隊じゃ対処しきれないのは明らかだった。

 

 だからこそ、“足止め”が必要だった。対空射撃で敵を引き付けて、出来る限り増援の防空部隊が到着するまでの時間稼ぎをする。――実際は全部引きつけることなんて到底できないから、一部をこっちに誘引するのが主目標。どっちかと言えば“数減らし”に近い。多分増援それ自体は――近隣の基地航空隊や空母艦娘配下の戦闘機部隊が駆けつけてきてくれる――間に合うだろうけども、逐次投入のような形で到着するだろうから、防空体制はまだまだ不完全。だからこそ、味方のエアカバーで撃滅できる程度には、連中の絶対数を減らしておかなきゃいけない。もっと言えば、撃墜しなくても、腹に抱えた爆弾や魚雷さえ私に投下させてしまえばこっちの勝ちだ。

 見ての通り、これは通常の艦隊防空とは真逆。でも、しないよりはする方が当然いいし、しなきゃならない。できるかと聞かれれば、やると言わなきゃいけない。勿論実際にこれをやらされる方は堪ったものじゃない、とんだ貧乏クジだ。まあ、私がそれを引くのだけども……。

 

 その点、あの提督はきちんとしていた。腐ってもなんとやら、貧乏クジ引きの冷や飯喰らいでいつも南の空に似合わない湿気た顔をしているし指揮官としては凡百だろうけども、凡百なりに――そもそも指揮官である以上は私なんかよりずっと優秀だろうけども――状況をきちんと把握して、当たり前のことを当たり前に行っている。ついでに言えば、人を見る目もそこそこあった。もし初月までこの役に指名していたら、それこそ一発殴っていたかもしれない。貧乏クジを引くのは私だけで十分だ。

 

「あんたの方が重責よ。絶対に“陸さん”を守ること。万が一、万が一ってこともあるから、あんたが側についてるのよ。私の代わりに旗艦は頼んだから。傷一つつけちゃダメよ。いい?」

 

 私は初月の目を見て言った。ノーとは言わせない、言ってはいけないから。振り向いて見た初月の顔は、やっぱり予想通りだった。少し膨れっ面をしていて、どこか愛おしさを――ものすごく場違いなことはわかっていたけども――感じた。不承不承という風だったけども、こくり、と初月は頷く。それでいい。

 

「大丈夫よ、心配しないで。あんた程じゃないけど、私だってこれでも防空巡洋艦よ。敵の十機や二十機、どうってことないわ。任せて」

 

 初月は無言だ。やっぱり怒っているのかもしれない。怒りの理由は見当がついている。この“任務”のことは、初月に言っていなかった。初月と私とは、初月がこの基地に来て私の戦隊に入ってこの方一年近くほとんど一緒に過ごした仲だ。しかも同じ防空艦。それなのに何も言わずに隊を離れて別任務だなんて、私だって同じ立場なら不義理じゃないのと怒る。大方、提督から私抜きの編成での“陸さん”の護衛を命じられて、面食らったのだと思う。そのままさっさと出撃させればよかったものを、あの提督はその辺がちょっと甘い。だから毎度毎度貧乏クジを引かされる……。

 

「ま、“獲物”は全部貰うわよ。せいぜい私の艤装のキルマークが増えるのを指咥えて見てることね。さ、行きなさい。私も出るから」

 

 気弱な台詞は吐けない。あくまで自信満々に、笑う。笑わなきゃいけない。何でもない風にしなきゃいけない。勿論、今生の別れにするつもりなんて一つもない。けども、今回ばかりは自信がない。――だからこそ、初月とは顔を合わせたくはなかった。これ以上顔を見ていると、涙が出そうになる。私は背を向けた。そのままドックのスロープを下りて、海面に進む。初月が私を呼ぶ。間違えても、振り返らない。初月は呼んだきり、何も言わなかった。

 

 傍受している無線からは防空部隊の苦戦の状況が流れてくる。十機や二十機、なんて初月には言ったけども、相手にするのはずっとずっと多くなりそうだった。予想はしていたけども、実際にこうして相手をするとなると気が重い。連中の母体は相当大きな機動部隊らしい。一体どうして今まで発見されなかったのか疑問だったけど、今そんなことを考えても仕方ない。私は防空部隊の無線から割り出した敵の航路に陣取って、その時を待っている。海は凪いで、波も穏やかだった。でもその静けさが嫌で、何となしに『軍艦行進曲』を口ずさんでいた。

 

 浮かべる城ぞ頼みなる――果たしてどうだか。「城」どころか、大海原に人間ひとりぼっち。これが「頼み」とは、あまりの頼りなさに涙が出る。それでも、私は軍艦だし、敵がいるなら戦うしかない。

 

 電探が敵影を捉えた。思わず顔を顰めたくなるくらいの大編隊。正直言って一人で相手していい数じゃない。これでも防空部隊の懸命の努力で相当数落ちたらしいので、まだマシなんだろう。もう十分十五分でこっちにやってくる。心臓が痛いくらい拍動する。呼吸が浅く、早くなる。嫌でも緊張する。そろそろ目視できる位置にやってくる――。

 

 遂に高角砲の射程内に入ってきた。まずは先頭を進む骸骨頭の半身を挨拶代わりに吹き飛ばす。抱えた荷物に誘爆したのか、汚い花火が空を明るく染める。射程ギリギリだったけども幸先のよい始まりだった。そこからはやれるだけ高角砲を連中にお見舞いするだけだ。リズミカルに砲声が(どよ)み、黒々とした鉄の華が次々と遥か上空に咲いてゆく。少しだけ気持ちがいい。気分はジャズピアニストだ。そういえば、シカゴピアノなんて呼ばれた機銃もあったっけ……。

 

 たかが艦娘一人と油断していたのかはわからないけども、連中の対応は見るからに遅かった。十五機ほど一気に撃墜したところで、ようやく一部がこっちに向かって来た。想定より数が多い。報復か、それともよほど排除すべき脅威と――自分で言うのも何だけども、そんな脅威じゃないと思う――判断されたのかはともかく、目論見はこれで成功した。ここからが私にとっての正念場だった。

 

 連中はいくつかの集団に別れている。多分、雷撃と爆撃で連携してくる。とにかく避けるしかない。勿論その最中も高角砲での攻撃は継続するし、機銃での応戦だってする。逃げてばっかりじゃない。

 第一陣は雷撃だった。かなり数が多い。いくらかは撃墜したけども、扇状雷撃で一気に進路が塞がれる――逃げた先にもやっぱり雷撃機が大勢待ち構えていた。まるでライオンの狩りのような連携ぶりだった。見事な雷撃、これじゃ最早逃げ場もない……もし私が「城」なら、そうだった。けども私たちは艦娘、「城」じゃない。ストップアンドゴーに急旋回だってお手の物、昔とは大違いの機動性を持っている。上手い具合に欺瞞に引っ掛かってくれた。魚雷二十数本、全て無駄撃ちで大儲けだ。ざまあみやがれ、思わずほくそ笑む。

 

 確信した。動き方からして、この連中は――というよりも母体の機動部隊かもしれないけども――まだ経験が浅い。言ってしまえば“産まれたばかり”のようなもので、艦娘相手の戦闘に慣れていない、もしかすると私が初めて相手した艦娘なのかもしれない。「城」のように動いた私に対してそのまま「城」相手の雷撃を行ったのが何よりの証拠。とりあえず雷撃は凌げた――お次は爆撃だった。既にもういくつかが急降下に入っている。ダイブブレーキが立てる耳障りな轟音が鼓膜を震わせる。機銃で応戦するけども、全部は落とせない。爆弾が投下されるのがはっきりと見えた――大丈夫、真円じゃない。それでも心臓は狂ったように鼓動していて、いつ耐えきれずに口から飛び出てくるかわからない。

 

 直撃コースからは外れたといっても、爆弾はそこそこ私の近くに落ちてきた。水柱と爆風が横から殴りつけてくる。多分、二十五番(二五〇キログラム)爆弾程度の威力だと思う。いずれにしても、直撃すればどうなるかは明白。比率で言えば爆撃機のほうがずっと多く、それから私はひたすら爆撃に晒された。あまりのしつこさに編隊の半分くらいが私に対して爆撃しているんじゃないかと思う程だった。しかも合間に何度か雷撃機までもが突っ込んでくる。高々小娘一人に随分なおもてなしね! そんな言葉が口をついて出てきた。

 

 全て避けきれれば勿論それ以上のことはないけども、残念ながらそうはいかなかった。幸運は長くは続かない。魚雷の回避に気を取られて、遂に一発が直撃コースに乗ってしまった。私は右腕でそれを防ぐしかなかった――上部兵装(じょうはんしん)が全部吹き飛ぶよりはマシだ。一瞬にして――それこそ痛みすら感じること無く――艤装ごと右腕が吹き飛び、爆風と破片が顔から足まで襲ってきて、すぐに意識が途切れた。最後に腕の隔壁閉鎖(しけつ)の完了を確認できただけ、まだマシだったと思う。どうせこのまま連中に好き放題甚振られるんだろうけども……。でも、仕事は終えた。私は軍艦、誇り高き国の護り、任務を終えて後は水漬(みず)(かばね)……。

 

 

 

 目を覚ました私の視界にまず映ったのは、私をじっと覗き込む初月だった。ものすごく険しい表情をしている。一旦初月から視線を逸らす――どうやら私がいるのは基地の医務室らしい。初月もいるし、天国じゃなさそうだった。基地の形をした天国なんて願い下げだ。右腕が元に戻っている、多分修復剤を使ったんだろう。握って、開く。全くもって正常。初月に視線を戻す。仁王像もかくやという顔。正直に言えば目を逸らしたい。でも逸らせそうにはない。

 

「五十鈴」

 

 初月が私を呼ぶ。推し量るまでもなく、声から怒気が溢れている。心なしか髪も逆立っている気がする。怒髪天を衝くなんて言葉が脳裏を過る。かなり怖い。前はいつも私に付いてくる可愛い娘だったのにな、と現実逃避めいた感想が頭に浮かぶ。これが成長よ、と返事が聞こえた。

 

「はい」

「何か僕に言うことはない?」

「……ごめん、悪かったわね」

 

 素直に謝るしかない。初月の表情は変わらない。ぷい、と私から顔を背けてしまった。

 

「無事でよかった……」

 

 ぼそりとそう言って、そのまま初月は医務室から出ていった。入れ替わりに医官と提督が入ってくる。診療を受けながら、提督からあの後の顛末を聞いた。どうやら私はなかなか上手くやったらしい。諸々含めて連中のうちのだいたい三割が無力化されて、他に二割程度が引き返していった。残ったのは都合半分、しかも防空部隊のお陰で護衛がかなり薄くなっていた。そこに何とか間に合った増援が到着。基地まであと僅かというところで大部分を撃墜、残りは散り散りになって基地や停泊していた船舶に攻撃したけども、被害は軽微だったらしい。その辺も母体の経験の薄さが影響しているのかもしれない。

 ともかく、“陸さん”は無事だった。ついでに言うと、母体の、機動部隊の方は基地から出していた捜索部隊が発見して攻撃。最終的には別の基地の航空隊によって完全に始末されたらしい。

 

 私はというと、死んだものと思われたのか連中にトドメを刺されることなく(敵ながらなんと詰めが甘いこと!)放置され、海を漂流。基地の方でも私の信号が無くなったことから死んだ、つまりは沈んだと思っていた(酷い! けどもまあ仕方ない)けども、初月が私からの無線を受信したと涙ながらに言うものなので、万に一つも見捨ててはならないと捜索してみるとぷかぷかと海に浮かぶ私を発見。慌てて収容した――そんな感じらしい。これはもう本当に初月には頭が上がらない。でも、無線? 私は首を傾げる。

 

「隊内用の個別チャンネルらしい、お前さんの声が聞こえたそうな。譫言(うわごと)で何か言っていたとか何とか。どう考えても飛ばせる距離じゃないんだけどなぁ」

 

 私はにはわからん、と提督は肩を竦める。と、その顔が何やらニヤついたものになった。以前私に観艦式のことを言い渡した時の顔とよく似ていた。どことなく嫌な予感がした。

 

「実はお前さんの働きには“陸さん”の旅団長閣下が大いに感激してね、まだ仮のものだが賞詞を預かっている。三級だ、こいつはなかなかのもんだぞ。まあ、私としては賞詞もだが勲章モノだと思う、うん。後で上に推薦しておく。多分通るだろう……ところで、次から“陸さん”との会議に同席してもらうからよろしく」

「へ? いや、あの、話が見えないんですが……」

 

 予感は当たった。「はい」と口を開きかけたのを、何とか押しとどめる。二度も同じ手には掛からない。

 

「ああ、お前さんの艤装ね、全損で修理不能でな。部品のストックはあるんだが、本体は作戦の予備用とかで全部持って行かれてちまってて、ここに無いんだ。とはいってもこのまま医務室で遊ばせる余裕もない。高い修復剤を使ったんだ、その分は働いてもらわなきゃ困る」

「はぁ……なるほど」

「というわけで一旦内勤に来てもらう。肩書はまあ私の副官でいいか、便利だからな。折衝のイロハくらいは前の観艦式で慣れたよな? ま、私としてはお前さんがデーンと座ってるだけでこっちの意見を十割通してもらえそうだから十分なんだがね」

 

 それって論理が繋がってませんよね、という言葉は飲み込んだ。いつになく提督は活き活きとしている。そんな顔もできるんだ、とちょっと驚いた。でも、内勤……また紙をぶつけ合う戦場は正直もうゴメンだ。しかもよりによって威“光”を「輝かせ」るなんて、私は虎か棍棒か何かか。まあ、艤装もないし、どうせ海には出られない。(おか)に上がっての“軍艦任務”だって、そう悪くはないかもしれない。

 

 私は艦娘、光栄ある海軍の軍艦だ。そしてひとりの人間。四方(よも)、陸だろうと海だろうと、求められればどこへだって私は行く。それが軍艦としての、私の務めなのだから。




守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の 浮かべる城ぞ頼みなる
 浮かべるその城日の本の 皇国(みくに)四方(よも)を守るべし
  真鉄(まがね)のその(ふね)日の本に 仇なす国を攻めよかし
石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の (たつ)かとばかり(なび)くなり
 弾撃つ響きは(いかづち)の 声かとばかり(どよ)むなり
  万里の波濤を乗り越えて 皇国(みくに)の光輝かせ

(間奏、もしくは三番として『海行かば』(東儀季芳作曲のもの)が歌われる)

――『軍艦行進曲』(明治三十三年、鳥山啓作詞・瀬戸口藤吉作曲)
(※著作権消滅済)


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