提督の我慢汁が多い件について (蚕豆かいこ)
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提督の我慢汁が多い件について
駆逐艦娘の長波が、しっとりとしたその濡れ羽色に桃色のインナーカラーを隠した波打つ髪の先を人差し指で弄びながら、鎮守府内にある寮へと戻っていたのは、おちこちで起きる鶏鳴がよく響くほどに空の澄んだ、ある冷えた朝のことだった。
3段ベッドがいくつも組まれた部屋ではいましも長姉の夕雲のほか、朝霜が身支度を整えていたところである。長波をみとめた夕雲がターコイズブルーのリボンタイを締めながら艶やかに微笑んでいった。
「ゆうべの提督のお相手は長波さんでしたか。骨の髄まで愛していただけましたか」
「骨の髄どころか尻から髪まで可愛がってもらったんだけどさ」
長波が頬をかく。夕雲が小首をかしげる。
「どうかされましたか、提督の出す量が少なかったとか薄かったとか……」
「量も濃さも味もフツー。ただな……」
長波は腕を組んで「気のせいかもしれないんだが」とうなった。長い銀髪に蒼のインナーカラーの朝霜がざっくばらんに結わえ終えて興味深そうに伺う。長波が玄妙な色合いの瞳を迷いながら開いて打ち明けた。
「提督の我慢汁、やけに多くなってないか?」
◇
我慢汁は射精にさきだって分泌されるもので、糸をひくほどに粘性があり、汗に似た味がする。つまりややしょっぱい。これは我慢汁に含まれるアルカリ成分に由来する。女性の膣内は雑菌が繁殖しないように酸性に保たれているが、そのままでは精子も殺菌されてしまうので、まずアルカリ性の我慢汁で中和しておくというわけである。
提督はこの我慢汁が多いのだという。元からそうなら問題ないが、長波いわく、4ヶ月ぶりに連れ込まれた昨晩のこと、前回までにくらべあきらかに分泌量が増加しているとのことであった。これを受けすみやかに非番の駆逐艦が夕雲の発議により夕雲型姉妹の部屋へと参集された。「司令官の我慢汁が多いらしい」「マジか!」「前からそう思ってたんだよ」駆逐艦たちが血相を変えて集まる。
「たしかにそンな気はしたっけなぁ」
江風がみずからの寝癖をつつきながら漏らした。
「いつぐらいから増えたかわかりますか」
「いや~、その……」
夕雲に江風が左右の人差し指を突きあわせながら目を泳がせる。柱の陰から半身だけみせる山風が補足する。
「江風はいつも提督にあれやこれやされる側だから……提督のおつゆの量にまで気を配る余裕ないの……」
江風が絶叫しながら両手で顔をおおって右に左に転がった。それから秋月、照月、天津風、朝潮、磯風、早霜、磯波らの情報を統合し整理してみたところ、おおむね半年ほど前をさかいに提督の我慢汁が増量をはじめていることがあきらかとなった。早霜が上気しながらいうに「笛を吹いてさしあげたら次から次へとお出ましになるので、喉がつっかえそうでした、ウフフ」とのことである。尋常ではない。
夕雲がこれを直属である軽巡洋艦級に上申し対応の指針について意見を仰ぐこととなり、やはり非番のものから大淀、矢矧が応じて参画し合議となした。
「たしかに最近増えたかしら、気にはなっていたけれど、それが?」
矢矧に磯風が答えた。
「船の機関は不完全燃焼を起こすと排煙が濃くなる。同様に、ヒトをふくむ動物のからだから排出されるものには体調が如実に現れる。変調もまた然りだ。司令のからだになにかしらの異変が起きていると、この磯風はみる。杞憂ですめばよい。しかし機をのがせば取り返しのつかんことになる」
至極もっともであると大淀が了解して、長波に訊いた。
「具体的には、どれほど出るのでしょうか」
「まるでなかにトコロテンが詰め込まれてて、それが押し出されてくる感じ。舐めてたらもう溺死するくらい」
「味やニオイについては?」
「いつもと変わりないけど、後のほうになるとしょっぱさがなくなって薄味になるかな」
「精液も?」
「精液も」
これについては全員が意見の一致をみたためとくに問題視はされなかった。もともと提督は肉を好まずタバコも吸わないため我慢汁も精液もニオイが少ないのだった。喫煙者の精液はえぐみが強く洗剤のように苦いのである。なお糖尿だと甘い。
我慢汁が多いことの是非について延々2時間にわたり激論が交わされた。多くていいではないか。軍には健康診断があるのだからもし病変ならすでに発見されていよう。個性のひとつである。いや不安だ、我慢汁で髪パックができそうなほどの量である、なにかのっぴきならない原因があるに違いない。通常の人間ドックでは膵臓がんなどは見つけることができないという。それと同様の病魔がひそかに提督を蝕んでいるとだれが否定できよう。病種はなによりも早期発見が肝要だ。やはり精密検査のひとつも勧めるべきではないのか。
それまで黙って会議の推移を見届けていた朝霜がテーブルをおもいきり叩いた。彼女は涙ながらに訴えた。
「好きな男の我慢汁は美味いんだよ! いいじゃねえか多くたって!」
「いや、それはない」
ここでも議は容易に決せず、ついには重巡洋艦、戦艦、空母、その他の艦娘らにも中休み中の食堂へ招集を願って稟議を仰いだ。その劈頭、
「提督のカウパー氏腺液の増加に関する所見と今後の方針について各艦のご意見をたまわりたくぞんじます」
夕雲がきりだした。
一同はおもくるしい沈黙に包まれた。ここにいるのはいずれも提督と関係をもつ穴兄弟ならぬ竿姉妹である。やがて伊戦艦ローマがしびれをきらした。
「みんな黙っていてはなにもわからないじゃないの。それぞれに意見を述べないと……」
促されて、米戦艦アイオワがハワイアンブルーのコーラを注ぎながら次のように答えた。
「あれはあれで、Yamatoに教えてもらったLotion-playに使えるし、好みの範囲にすぎないんじゃない、もし病気だったらまずAdmiral本人が気づいてるでしょ」
「Lotion-playはSexual lubricantでするものであって、
ミルクティに口をつけた英国戦艦ウォースパイトがすかさず反論した。伝統の不変と継承をこそ信条とするこの戦艦娘にとって、ある用途のために用意された道具を用いずに意図的に別なもので代用することは、それをつくるにあたって携わった者らへの冒涜であると受け止められるようだった。すなわちローションプレイはあくまでSexual lubricant(いわゆるラブローションのこと。Love lotionは和製英語なので通じない。ただしSexual lubricantを用いた性的遊戯をローションプレイと称してもそれはそれで通じる)でするものである。よってローションプレイのためにわざわざ最適に調整され安全性も担保されている正規のラブローションではなく、我慢汁を使うという発想がそもそもウォースパイトには受け入れがたいのだった。ウォースパイトにとって我慢汁はあくまで尿道を洗い膣内のpHを中性ないし弱アルカリに変化させて精子を防護するためのものであってローションではない。あらゆる道具は例外なく想定された正しい目的に供されねばならないというのがこの英国を代表する戦艦の哲学なのである。
「そんなこといって、こないだAdmiralがSperm出したあともしごきつづけて吹いた潮を浴びて素敵なシャワーとかなんとかいってたらしいじゃないのヨ」
アイオワにウォースパイトが紅茶を吹いた。
「どうしてそれを……」
「この国では壁に耳あり、障子にメアリーというわ」
「とにかく、Lotion-playに、がま……Pre-ejaculateを使うのは反対です」
ナプキンで口を拭っているウォースパイトを眺めながら、これがうわさに名高い二枚舌外交かと夕雲は思った。
「でも病気ならたしかに問題よね」
「うむ。飲まされるわけではないが即尺していると鼻にまで逆流してくるほどからな。しかし先走りの増える病気とはなんだ」
陸奥に長門が疑問を呈した。性病の2文字が艦娘たちの脳裡をよぎる。
「これはまさか」
と、フランスの水上機母艦コマンダン・テストと伊戦艦イタリアが同時に声をあげた。
「ナポリ病ではないでしょうか」
「フランス病ではないでしょうか」
いってからふたりが顔を見合わせた。
「ナポリ病でしょう」とコマンダン・テストが断じれば、
「いいえ、それはフランス病です」イタリアが抗弁するのである。
「失敬デスネ。そんないかがわしい病気にわがフランスの名前を使わないでください」
「ナポリを梅毒の温床みたいにいうのやめて! 否定はできないですけど」
提督たっての希望で夜な夜なピンク調のセーラー服に着替えて歳上のごとくふるまうプレイに興じているという空母サラトガが、ウォースパイトに「梅毒のことをブリテンではなんというのですか?」と訊ねる。その堂々たる返答は、
「
「ほら、やっぱりフランスが悪いんじゃないのよ! だいいち国歌からして血なまぐさいのよ」
ローマに指を突きつけられてコマンダン・テストは厳しい立場にたたされた。その潤んだアイスブルーの瞳が独戦艦ビスマルクに救いを求める。
「Mme Bismarck.
ビスマルクが氷河の底のような蒼氷の双眸を開く。美しい口唇が答えを紡ぐ。
「
コマンダン・テストは天井を仰ぎながら茫沱と涙を流した。なぜ世界の芸術と美食の祖ともいうべきフランスをよってたかって貶めようとするのか。ハイヒールやマントといったファッションもフランス発祥だというのに。
「なら……ロシアはなんと呼んでいたのでしょう」
破れかぶれのコマンダン・テストの問いが響に投げかけられた。全員の注目がシーバスリーガルの12年をチェイサーもなしにストレートで舐めるように飲んでいる小さな駆逐艦娘に集まる。彼女はいささかも酩酊の陰をみせない端然たる佇まいのまま、頭脳にしまいこまれているロシア語の辞書をくり、該当する語句をこの場の公用語たる日本語に翻訳する。その答えとは、これだった。
「ポーランド病」
あわれ! 憐憫の情が艦娘たちのあいだに流れた。第二次大戦をモデルとした架空戦記ではいまだにまっさきに陥落の憂き目にあうポーランドは、いままたロシアによって梅毒の汚名を被せられていたのである。なおポーランドでは梅毒をロシア病と称していたことなど彼女らの知るところではない。
「ならニホンでは梅毒を梅毒以外の名前で呼ぶことが?」
独空母グラーフ・ツェッペリンがひとくちサイズのバームクーヘンをめずらしそうにつまみながらだれともなしに訊いた。ドイツではバームクーヘンはさほどポピュラーな菓子ではないらしい。
「琉球病だな、たしか」
長波が鉄瓶で淹れた煎茶をすすりながら呟いた。
では琉球ではなんと呼ばれていたのかという当然の疑問には、隣席の矢矧とともにぽたぽた焼きをかじる磯風が「
ではなぜ梅毒は世界中でこうもことごとく他国の名が使われているのかといえば、性病という恥部のなすりつけあいというより、その感染経路に着目したほうが正しい。まずコロンブスが新大陸から持ち帰った梅毒がスペインで発祥し、そこからフランスを経由してイングランド、ドイツ、イタリア、トルコなど欧州全域に感染が拡大した。英独伊からみれば梅毒はフランスからきたように映ったからフランス病と命名されたのである。さらにトルコからポーランドを介してロシアにも渡り、ときにはロシアからポーランドへも梅毒が逆輸入された。またシルクロードを通じてシナに伝わり、海上交易で沖縄、そして日本にまでもたらされたとされている。
よって、たとえばカンザス州が起点であるのに最初に報道されたのがスペインだったからスペインかぜ、極東から南アジアまで広く分布するにもかかわらず日本ではじめてウィルスが分離できたことから日本脳炎と名づけられたのと同様、フランス病という病名にフランスはなんら責められるところはないのである。ウォースパイトはそれを知っていたが泣きじゃくるコマンダン・テストをよそに黙したままサンドイッチに舌鼓を打っていた。頼まれもしないのにイギリスがフランスを援護することなどあろうはずもない。
いずれにせよ、
「梅毒の症状ではあるまい」
と長門がウィスキーボンボンをプリンツ・オイゲンやサラトガとわけつつ断じた。生殖器に異変があるなら性病の可能性は高いが、いまのところ梅肉のような発疹がみられたり鼻の穴が増えるといった兆候はない。
「Pre-ejaculateを垂れ流す性病といえば……
ウォースパイトが希望者に紅茶を淹れて案じる。ミルクを先に入れるのが彼女の流儀らしい。コマンダン・テストもズビビと洟を啜りながら飲む。
「でも、膿は出てませんでしたよ、おつゆの量がすごいだけで」
ウォースパイトにケーキスタンドを勧められた秋月が目移りしながら答える。サンドイッチやスコーンやケーキが乗ったあの3段のやつだ。「すみません、これ、どの段からとるのがマナーとかそういう決まりってあるんでしょうか、秋月そういうの疎くて……」「Sandwichでも、Sconeでも、Pastryでも、お好きなものを召し上がれ。甘いもののあとにSandwichはNoなどと無粋を申すものがいたら、このWarspiteを訪ねろといってください」秋月が目を輝かせて、瑞々しいいちごとラズベリーとブルーベリーの彩りが鮮やかなタルトをとった。頬が落ちそうになる。戦艦ウォースパイトの菓子類は砂糖に精製糖を用いていないのでじっくり味わいながらでないと甘さを感じにくい。しかし味覚を馴致させれば精製糖にはない優しい甘さが五臓六腑にしみわたるようになる。英国のティータイムには日々の食事の強い味で鈍感になりがちな舌を教育する意味合いもあるという。
「膿が尿道よりとめどなく溢れるさまはさながら木立の梢より滴りおちる雨のごとし、もって淋病と号されるが、提督のあれはただの我慢汁だ。膿ではない」
長門がキュウリのサンドイッチを頬張っていいきる。朝潮が興味を示した。「わたしもサンドイッチを……けほっ」
「じゃあなんだってんだ? 男ってのは理由もなく我慢汁が増えたりするもんなのかよ」
サラトガの持ち寄った、化学の実験で使う硫酸銅みたいに真っ青なケーキをおっかなびっくりつついて朝霜が首をひねる。勇気を振り絞って口へと放り込む。直後に破顔する。「うめぇ!」
しかしだれもが解答を見出だせない。軍隊だけに性病には一家言ある彼女たちですら皆目不明であった。新種もしくは何万人にひとりという難病の類いだろうか。
「お酒でもほしい気分ね……」
陸奥がひとりごちる。いまだ涙目のコマンダン・テストが「Champagneでよろしければ」と応じた。明るい金の髪にトリコロールのメッシュを入れたフランスの水上機母艦娘はヴーヴ・クリコのロゼを開けた。シャンパングラスに透き通ったサーモンピンクが注がれる。発泡の囁きが耳をくすぐる。誘うような甘美な香りにウォースパイトが抗うすべもなく兜を脱ぐ。
「温暖化のおかげでUKでもぶどうが栽培できるようにはなったけれど、wineの味は、Franceにはとうてい敵わない」
いただけますか。ウォースパイトにコマンダン・テストは大輪の薔薇のような笑顔を咲かせた。「もちろんです」
駆逐艦をふくむ大半が所望し酒杯を傾ける。煽るとそろって熱っぽい吐息が漏れた。イエローのシャンパンが世間ずれしていない無邪気な愛らしい少女なら、これはさながら、大人の階段に足をかけた年ごろの令嬢といった風情。すこしだけ背伸びをしたくなった彼女がのどかな田園風景のなかを微笑みながら手を引っ張っていってくれる情景が目に浮かぶ。
神がつねに悪魔とともに語られるように、また北があれば南があるように、シャンパンにチーズを欠かすことはできない。コマンダン・テストがその道理を落とすわけもなかった。コクがありながら繊細な味わいの白いチーズ、ブリア・サヴァランを放射状に切り分け、その上にレーズン、クランベリー、マンゴー、パパイヤ、グリーンレーズンの5種がミックスされたドライフルーツを盛って、ケーキのように仕立ててみせたのである。
まずその宝石がトッピングされた白チーズを口にする。つぎにヴーヴ・クリコを飲む。ひと息ついて感嘆の声がそこここからこぼれた。ウォースパイトすら恍惚の表情となる。チーズとシャンパンはいうまでもないが、シャンパンはフルーツとも相性がよい。つまり三者が互いの旨味と酸味を引き立てあうのである。チーズの、ともすれば濃厚すぎるコクをシャンパンの泡が喉から洗い流し、あとには幸福感だけが残るのであった。
「チーズなら、これも合うかもしれない」
ビスマルクが自室からとりだしてきたのはドイツ産赤ワインのボトルだった。グラスのむこうが見通せないほどに濃い赤紫が自分を味わえと妖艶に手招きする。
装甲空母翔鶴も転がして香りを聞き、口にふくむ。辛口だが、よく熟したいちごを噛んでいるような果実の芳香がタンニンを包んでいて、渋みがない。「あら、おいしい……」頬がほのかに色づいた。チーズに対してシャンパンとはまた異なるアプローチをしている。
「このvinの風味なら、こんなおつまみはいかがでしょう」
ドイツが執念で作り出した赤ワインを試したコマンダン・テストが、べつのチーズを被瀝する。円い木箱に米英独伊の艦娘たちが歓喜の声をあげた。
もみの木に似た香りに食堂が満たされる。
粉の吹いた波打つ表皮をナイフで切り取ると、溶かされたようにとろとろの濃厚な黄金が覗く。寒い冬はこのモン・ドールにかぎる。コマンダン・テストの勧めでまずはそのまま試してみる。日本の艦娘はいずれもモン・ドールは初体験であったから、室温でとろりとしたチーズというもの自体が物珍しく、欧米艦娘らの微笑みを誘ったが、いざ味わってみると、おお、なんたる美味! 艶があり、なめらかで、濃い乳の甘みに、うっとりとせずにはいられない。匂いこそややクセがあるものの、かえってそれが酒と合うのである。
「ではつぎに
斜めに切ったバゲットにモン・ドールを塗るように乗せる。
2度3度、噛んだところで、朝霜が美味さに耐えきれずテーブルをばしばし叩く。磯波も陶然とする。食べながらアイオワとサラトガがハイタッチする。
断面の大小さまざまな気泡にとろけたモン・ドールが入り込むことで、バゲットの塩味もあいまって風味の相乗効果をなしている。
「では、仕上げとまいりましょう」
まだこの上があるのか……翔鶴らが笑みをたたえながらおののく。
モン・ドールの円い木箱にアルミホイルを巻き、白ワインをまぶして混ぜる。その上にみじん切りにしたにんにくと、パン粉をふりかけ、予熱しておいたオーブンで焼き上げる。
熱せられたチーズに、焼けたにんにくの匂いがたちこめ、食欲を強烈に刺激する。
パン粉がきつね色になったら出来上がりだ。オーブンから出された熱々のモン・ドールに長波がおもわずあとずさる。
「おい待てよ……こんなもんが美味くないわけないだろ……」
コマンダン・テストが自信たっぷりにテーブルに出す。
「さあ、熱いうちに召し上がれ」
クリーミーに溶けたチーズに、茹でたじゃがいも、ヤングコーン、アスパラガス、パプリカ、ベーコン、ウインナーなどなど、思い思いの食材を絡めていただく。
全員が絶句する。まさに味の爆発! モン・ドールでチーズフォンデュを味わう贅沢は艦娘たちからことばすら奪った。味覚をもっているということはなんたる幸福だろう。ワインがさらに美味くなる。酒は食事のためにあり、また食事は酒のためにあるのだと実感する瞬間だ。あれだけあったモン・ドールがたちまちなくなる。コマンダン・テストもにこにことなった。
「仮にだけど……Admiralの先走り汁が多いのがビョーキのせいだったら、Admiralが人間の女と寝たということにならない?」
落ち着いたところでアイオワに幾人かが腕を組んでうなる。なぜなら、
「提督は翔鶴さんとヤるまで童貞だったものね」
「ええ。童貞と処女でよくうまくいったものだわ」
矢矧と加賀がシャンパンにスルメという和洋折衷を展開して語るとおりである。「一瞬、尿道に挿れられそうになって焦りました」ほろ酔いの翔鶴が思い出す。爾来、味をしめた提督は戦艦や空母はいうにおよばず、駆逐艦や潜水艦にいたるまで開通させているわけであるが、
「それからこんにちにいたるまで、提督が人間の女性に手を出したとは考えにくい」
という加賀の仮定に大多数が同意した。艦娘は人類とのコミュニケーションのためにヒト型をとっているが、どれも一様に見目麗しい造形をもつ。これは艦娘たちにはヒトの顔の個性が理解できず、やむなくみずからを没個性にデザインしているからである。個性がいっさいないとヒトの顔は美しくなる。顔を描くにあたってなんら特徴をあたえず完璧に左右対称にパーツを配置するとおそろしく美形になるのと理屈はおなじだ。個性とは基本的に欠点なのである。実体化している艦娘にそれはない。よって艦娘は個体差こそあれ美女と美少女ぞろいとなる。
さらに、艦娘は長身の成人女性からまだ初潮もきてなさそうな年端もいかない幼女まであらゆる形態が揃い踏みしているわけで、つまり提督は女には不自由していない。おまけにヒトと艦娘では異種交配となるので受精はできても着床、すなわち妊娠は不可能だ。獣姦モノのポルノはいまどきめずらしくもないが、ヒトと豚、あるいは犬との混血児が生まれたなどという話は寡聞にして聞かない。同様に艦娘にも妊娠のリスクはないから膣内に射精し放題となる。結論としていまさら提督が人間の女性に興味をもつとは思えないのである。
「どなたか、提督にJuiceが多いことについて聞かれたかたはいないのですか」
ひとりでボトルを空けそうなハイペースでワインを流し込んでいるサラトガが募ったときである。
「あれぇ、美味しそうなお酒の匂いがしますね~、このお部屋からでしょうか」
扉の向こうから声がした。青ざめた艦娘たちが即応する間もなく、だらしのない顔が闖入してくる。伊重巡ポーラである。うわばみ、鉄の肝臓、バッカス、ざる、先天性アルコール中毒、シラフでも飲酒運転で検挙された女、トラトラトラ、レバーのアルコール漬け、酒計科、ほかにも彼女を形容することばはいくらもある。その瞳がグラスを映す。
「ああ~、それはシャンパーニュですね~、ポーラ、シャンパーニュ大好きです~」
「あんたミリンですら好きとかいって台所で舐めてたでしょ」
ローマの怒声などお構いなしにシャンパンをねだる。ひとくち含むと至福の顔となる。
「ポーラ、貴艦はAdmiralのカウパー液についてなにか知見はあるだろうか。ささいなことでもいいので情報の提供をねがいたい」
グラーフ・ツェッペリンの問いにポーラが桃色のシャンパンを飲みつつ考える。
「かうぱーって、あのネバネバしたやつですよね~、ポーラ、ネバネバ好きですよ~、ネバネバしたものはからだにいいって聞きました~。あら、こっちの赤ワインもおいしそう~、ビスマルクさん~」
全員がお互いの顔を見合わせて力なくかぶりを振る。ポーラはまったく気にせずつづける。
「ポーラ、提督の大好きですよ~、提督のチンカスチーズはワインの赤によく合うんです~」
これにビスマルクが蒼白となる。
「そんなものにweinを合わせるだなんて」
「vinのあらゆる生産者と脈々たる歴史、いえ、神に対する冒涜です」
コマンダン・テストも独戦艦に和した。
「でもイタリアには、蛆の湧いたチーズをワインのアテにするところもあるくらいですしぃ~、たいして変わりませんよう~」
それとこれとはわけがちがうと紛糾する光景に、酒の世界は奥が深いと下戸の長門はアイオワの青いコーラを飲みながら感心した。
「知ってますかぁ~、コンビニの安っすい赤玉ワインも、ブランデーをちょいと混ぜると、とぉってもおいしくなるんですよぉ~。こう、ワインの閉じてた花が、ぱぁって開く感じでぇ~、これがチンカスと相性抜群なんです~。あ、そうだ」アルコールの補給でシナプスの結合が促されたのか、ポーラが記憶を探しあてる。「ポーラ、このネバネバ多いですね~なんでですか~って訊いたことあるんですよ~、提督に~」
新情報に艦娘らが食いつく。なにごとも本人にたしかめるのがいちばんである。
「そしたらぁ~、提督、そうか、そうだろうって、やけにうれしそうでした~」
上質なシャンパンとドルンフェルダーを味わえて満足したポーラは食堂をあやしい足どりで辞していった。
「うれしそうにしていた、つまり自覚もあり、なおかつ司令にとって我慢汁の増加は目的であったと解釈してよいのだろうか」
「原点に戻って考えてみましょう、Pre-ejaculateはそもそもなんのためにあるのか」
葉巻に火をつけたウォースパイトがクエスチョンを提示した。透き通るような金髪を手で払いながら足を組んで紫煙を吐き出す優雅な所作はアルフォンス・ミュシャの絵画のようだ。しかし実際は我慢汁について議論している。
「自身の尿道および相手の膣内の酸性を中和させ、より受精させやすくするため……でしたっけ。つまり妊娠の確率を向上させることが司令官の作戦目的なのでしょうか」朝潮が答えて、すぐに矛盾に気づく。「でもわたしたちはもともと人間とでは妊娠しませんし」
翔鶴が酒で紅潮した頬を押さえて、断言した。
「提督にかぎって、おんなを孕ませるつもりなんて、ありえませんね」
全員がおなじ動作でうなずく。というのは、いずれもが提督の性癖を知っていたからである。
ヒトは1回の射精で1~3億の精子を放つ。膣内射精された精子は奥にある子宮の入口から頸管と呼ばれる狭いトンネルへ殺到する。頸管のなかは、排卵日の直前から大量の粘液で満たされているので、精液が泳いでいくことが可能となっている。とはいえ頸管の直径はわずか1~2mmしかない。精子の頭の長径は5ミクロンといわれる。直径が5ミクロンより小さいと仮定しても、200個や300個ほどの精子が横に並べば頸管はぎゅうぎゅう詰めになってしまう。しかも平均して2億の精子がここに押し寄せるのである。
頸管のさきには子宮腔がある。ここをくぐった精子は卵管に入るとき卵管狭部という名前からして狭い関門を抜ける。卵管に進入できる精子は数百、卵管采で待つ卵まで到達できるものは数十にまで絞られる。
もし、精子を人間の大きさに直せば、子宮口から卵までの距離はおよそ300km、東京~名古屋間に匹敵する。この長距離を、粘液をかきわけてだれよりも早く泳ぎきらなければならないのである。
長く厳しい旅を征した結果、卵との合体を果たした精子は受精卵となる。受精卵は卵管から子宮へ移動し、子宮内膜に根をおろしてもぐりこんでいく。これが着床である。しかし艦娘の卵では、この着床がおこなわれず、受精卵は子宮内でむなしく死んでしまうのである。
「最初から報われないことが確定しているにもかかわらず必死に競争を勝ち抜いて、運にも恵まれた精子が、そのすべてを水泡に帰して息絶えていくさまを想像するのがたまらないらしいですから」
翔鶴がグラスに残ったワインを飲み干す。
もとから妊娠させるつもりがないのであれば、なんのために我慢汁を増やしているのか、まったくわからない。行き詰まる。
「ま……こんなときは気分転換に
提案したウォースパイトがやおら準備にとりかかる。ドリップした濃いめのコーヒーにブラウンシュガーを溶かしておく。生クリームをハンドミキサーでホイップする。このホイップ加減に神経を使う。過不足があってはいけない。早霜が興味津々で釘付けとなっていた。
もちいるアイリッシュ・ウイスキーはタラモア・デュー。村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』でアイルランドの老人が超然と飲んでいた銘酒だ。
取っ手のある耐熱グラスにメジャーカップでタラモア・デューを注ぎ、ランプの火で均等に炙る。頃合いをみて離す。軽く混ぜたバー・スプーンにランプの火を移してフランベよろしくグラスへと着火させる。透き通った幽玄な青い炎が揺らめいて皆の目を楽しませたのち消える。グラスへコーヒーを注いでウイスキーと優しく混ぜる。
ここからが真骨頂だ。ホイップしておいた生クリームをしずかに浮かべる。これがむずかしい。ここまででなにかひとつでもミスしているとコーヒーと分離せずに混じりあってしまう。
しかしウォースパイトは、まるで魔法をかけたようにコーヒーと生クリーム、黒と白の完全なるツートンカラーをグラスにつくりあげてみせた。「どうぞお嬢さん」かじりついていた早霜に差し出す。
「いただきます……」両手でおしいただくようにして、緊張の面持ちでグラスに口をつける。
温かい至高のカクテルが喉を通る。
前髪に隠れがちな目をつむる。吐息。そして沈黙。やがてひとすじの涙が流れた。
「……この感動を表現するにはどんなことばがふさわしいのか……自分の浅学がうらめしいです」
それだけでじゅうぶんと喜ぶウォースパイトがつぎの1杯を用意する。ほかの艦娘たちも希望することは目に見えていて、事実そのとおりだったからである。
で、そこへくだんの提督が現れた。型通りの挨拶を交わす。明るいうちからの飲酒を咎めるでもなく自身はウォーターサーバーの水を飲む。「だれかの体内を経て循環の果てにこうしてまた飲み水になっているかと思うといちだんと美味いな」艦娘たちが目線で意思を確認する。かくなるうえはじかに尋ねるほかはあるまい。翔鶴が皆を代表する。
「提督、たいへん尾籠なお話で恐縮なのですが……」
「いまさらだな。わたしは中学のころ、とくに好きでもなかったが顔だけは可愛かった同級生の女の子の体臭からその日が生理のピークだと推測して、彼女が学校のトイレから出たのを見計らってその個室に侵入し、汚物入れの使用済みナプキンに包まれていたまだほのかに体温の残る生レバーをありがたく口にふくんで、辛抱たまらずその場で自慰にふけった男だぞ。ためらうことなどない」
それは初耳だったが翔鶴は我慢汁について建議した。量がただごとではないのでなにかしらの感染症もしくは悪性新生物がうたがわれる。ついては受診を検討してもらいたい。すると提督は、
「そのことか」
おもむろにパンツごとズボンを脱ぎ下半身を生まれたままの姿にして後ろをむいた。
ゆでたまごのようなすべすべの尻肉が、なにやら樹脂製の物体を挟みこんでいる。提督がそれを直腸から引き抜きながら艦娘らに向き直った。提督の手には奇々怪々な曲線で構成されたエネマグラがあった。
「ただいま前立腺を開発中だ。それで一年ほどまえからときおりこれを尻に突っ込んでいて、半年くらい経ってようやくトコロテンが出るようになった。ドライオーガズムの会得まであと1歩だな」
男性のオーガズムは射精とほぼ同義である。しかし、訓練により射精をともなわない絶頂も可能となる。これをドライオーガズムという。対して射精とセットの絶頂をウェットオーガズムと呼ぶ。
男にとって射精とは、絶頂を迎えるたびに膨らむ性的快楽という風船に穴を開ける行為に等しい。射精することなく頂に昇れば風船はどんどん膨らんでいく。繰り返し果てることでウェットオーガズムではたどり着けないさらなる高みを目指すことができる。
陰茎を刺激するとどうしても射精してしまう。ドライオーガズムのためには陰茎ではなく前立腺のマッサージが必要になる。前立腺は直腸にほぼ隣接していて、感覚的には陰茎の付け根付近に存在し、女性でいうGスポットに相当する。腹からでは遠いので肛門から刺激してやるのである。エネマグラは挿入しているだけで継続的に前立腺を撫でてくれるので都合がいい。開発が進むと精子のない精液がトコロテン状になってとめどなく溢れてくるようになる。前立腺マッサージでは絶頂に至っても射精しないので、何度でもオーガズムを迎えることができるのである。提督は着衣のままことにおよぶのが信条だったこともあってだれもエネマグラに気づけなかったのだ。
「てっきりご病気かと心配いたしました」
「病気どころか、前立腺マッサージには新陳代謝を活発にする効果もあるらしく、最近は便秘しらずで、疲れもたまらず、朝も目覚めがいい。なかなか根気はいるが価値はあった」
翔鶴に笑いかけ、ふいにエネマグラを見やった提督の瞳孔が縮む。神妙な顔つきのままエネマグラを艦娘たちに見せつける。
「サナダムシの破片がついていた」
「見せないでくださいそんなもの」
皆が提督から全速後進で距離をとる。ウォースパイトとコマンダン・テストなど青い顔で震えながら互いを抱き締めあっている。誇り高きウォースパイトが涙さえ浮かべて提督に指をつきつける。
「Admiral, そもそも、なぜサナダムシなど」
「わたしは生まれつきひどい花粉症だ。寄生虫を飼うと花粉症は治るのだよ。きみたちも美容と健康のためにどうだね。わたしの腹で育った産地直送だよ」
「いりませんから、近づけないでください」
「どうでもいいが、カップヌードルとかのヌードルは、ギリシャ語のnudelからきている。その意味は、サナダムシだ。そう考えるとたしかに似ているだろう?」
「
「日清カップヌードルの“ド”の文字がやけに小さいのは、ヌードという言葉と似ていて恥ずかしかったからといわれている。メーカーもいろいろ苦労しているのだろうな」
「知ったことではないわ!」ウォースパイトが極上の陶器のようなほほに朱をのぼらせる。
「ところで、サナダムシはテープ状をしているが、蛇腹になっているだろう、このひと節ひと節に生殖器が1対ずつついているのだ。つまり長い1本のサナダムシは、1個体ではなく単縦陣を組んだ群れだということができるな」
「そんなことは聞いてないわ。とにかくAdmiral, それをお腹から駆虫できるまで、寝室には行きませんからね!」
ウォースパイトはコマンダン・テストと手を繋いで一目散に撤退していった。
エネマグラを肛門に戻し佇まいを直した提督がとなりに寄り添う翔鶴に語りかける。
「嫁と姑を仲良くさせる方法を?」
「不可能では……」
「それはな、つまり、旦那が悪者になるんだ。旦那が嫌われものになっていれば、家庭は円満に長続きする」
哀愁を漂わせながら提督は食堂を後にした。実際、鎮守府は平和だったのである。
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ガールズ・フリート(ーク)
気がつけば提督のことばかりを
翔鶴にははっきりとしたきっかけは思い出せない。強いていうなら、それまでごく自然に言葉を交わし、艦の時代の記憶をもつじぶんに作戦や戦略について意見を
遠くにいるときは提督から目が離せないのに、面と向かうと目が合わせられない。ただの他愛ない世間話でも、うっかり失言して提督の心証を損ねるのが恐ろしくて、まともに言葉が返せない。
提督のそばにいると、胸のうちにどろりとした感情があふれて、しめつけられるように苦しい。そのうち翔鶴は提督と顔をあわせるのもつらくなった。なのに、提督に声をかけられると、たとえそれが事務的なものであっても胸が高鳴った。あしたも提督と会えると考えただけで、翔鶴の心は弾んだ。朝陽が毎日待ち遠しかった。
はじめて経験する、その矛盾する気持ちにさいなまれる日々がつづくなか、翔鶴はおもいきって、ある日、手製の弁当片手に作戦計画のため首席後方補給官付後方補給室に缶詰になっている提督のもとへ足を運んだ。
書類の摩天楼に埋もれている提督は、まず驚いて、
「きみがつくったのかね?」
「はい……お口にあうかどうかはわかりませんが……」
感心したように息を吐いた。
「せっかくだからいただこう。ここで食べても?」
なんとか顎をひいて承引すると、提督は手を合わせてから箸をつけた。
簡単なものだったが、提督は顔をほころばせて、
「たいしたもんだなぁ」
といった。提督が日常的に口にしている缶飯やパック飯は少量で栄養素をおぎなうために味が濃い。連食していると舌が痺れてくる。優しく味つけしたつもりの弁当は提督に好評のようだった。
「もし、提督さえよければ」
翔鶴は勇をふりしぼった。息が苦しい。翔鶴は必死に心を鎮めた。
「わたしが上陸しているときは、お昼をお持ちしますけれど……」
駆逐艦や潜水艦にくらべれば、空母である翔鶴はさほどではないが、艦娘は出撃や演習で海に出ていることが多い。人間でいう非番のことを鎮守府では上陸と通称していた。
「せっかくの休みをわたしの弁当づくりで潰すのかね」
予想していたとおりの反応だったので、平静をよそおったまま、
「もし艦娘としてお役御免になったあとのために、せめて料理くらいはできたほうがいいと思いまして」
とすかさず返すことができた。
「練習台か。きみみたいな器量よしに手料理をふるまってもらえるなどわたしは果報者だな。わたしとしてもありがたい。よろしくお願いする」
ただし無理に作ることはない。任務と休養を優先するように、と提督は結んだ。ひゅーひゅーと部下らがからかう。
後方補給室を後にした翔鶴は、扉に背をあずけたまま、胸の奥で暴れるような動悸の激しさにしばらく耐えかねていた。顔が燃えるように熱い。きっと耳まで赤く染まっているだろう。けれども、当座の目的が達成できたことで、自室へ帰る足はじぶんでも驚くほど軽くなっていた。
本館をでたとき、けさから下腹に居座っていた重苦しさが不意に弛緩して、ぬるりと滑り落ちてくる感覚に変わった。おもわず立ち止まって、腿の内側をぴったり合わせ、素早く日数をかぞえ、勘定があわないなどと当惑しながら、だれかいないかと見回した。あたりに人間も艦娘もいないことに落胆と安堵の両方があったが、ともかく、不意討ちのように導火線に火のついたこの足のあいだの爆弾をどうにかせねばならない。
しかたなく、腿を合わせたまま、すり足でそろりそろりと歩きはじめた。まるでいまにも溢れそうな
そのようすを建物の陰から顔半分だけだして伺っている女がいた。妹の瑞鶴である。
「なんかここだけ切り取ったら、艦娘は発情すると自動的に排卵がはじまるみたいな勘違いをされそうだよね」
「瑞鶴!……いつからそこに」
「ただの通りすがりだよ」
「通りすがりなのに一部始終をすべて知っているような台詞……」
「『ハムレット』のホレイショも自分が生まれる前の戦争に出陣した前王の格好を知ってたからつじつまなんて合わせなくてもいいんだよ」
ところでと瑞鶴が内股で耐え続ける姉を気遣い、みずからの緋袴ふうのスカートのなかをゴソゴソとまさぐる。
「こんなこともあろうかとお月さま用品を持ち歩いてるんだけど、翔鶴姉、使って」
「お月さまとかいう、いい年して女子会とか言っちゃうような痛々しい表現がなんだかトサカにくるけれど、ありがとう」
翔鶴には瑞鶴が救世主にみえた。緑髪や黄金色の瞳、透き通るような白い肌、真珠色の歯が健やかな太陽の祝福を受けてよりいっそう輝いているかのようだ。ほっそりした腕がいまの翔鶴にとって金剛石よりも価値のある宝物を差し出してくる。妹の手に乗っていたのは、白いプラスチックの円筒。内部にはやはり円筒形の綿が納められている。受け取ろうとした翔鶴の手が雷(いかづちじゃないわ)に打たれたように停止した。
衝撃を受け、それを悟られまいと表情筋を制御する葛藤に翔鶴の美貌が揺らぎ、やがて世界の不条理にひとり立ち向かう苦悩を浮かべる。桜色の唇が震えながらやっとのことでことばを紡ぐ。
「ごめんなさい。わたし、タンポンじゃなくてナプキン派なの」
「えっ」
◇
生理用品はナプキンかタンポンか、提督の留守にしている執務室で瑞鶴による緊急会合がもたれた。
「単刀直入に訊きます。女の子の日にナプキンを使っているというひとは手を挙げて」
瑞鶴の問いに翔鶴、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、朧、秋雲、嵐、敷波、綾波、瑞穂、コマンダン・テストほか、大多数が挙手で応じる。
「じゃあ、タンポンを使っているひと」
手が挙がったのはわずかに瑞鶴と朝霜だけだった。
「なんでよ! タンポン便利じゃん!」
「そーだそーだ、ナプキンとちがってかぶれないんだぜ! まるで生理中じゃねーみてーだ」
朝霜が夕雲型姉妹唯一のタンポン派として力説するが、長姉の夕雲はニコニコ顔で受け流し、巻雲はメガネの奥の瞳に冷笑を浮かべ、長波はあぐらをかいて頬杖をついて、といずれも反応は芳しくない。長波が答える。
「だってよー、モノを股に挿れたまんまってのは、なんか抵抗あるよなぁ?」
「いっぺん使ってみろって! なんにも感じねーから!」
「いやでもさぁ、タンポンだけってなんか不安じゃないかー? もしタンポンから染み出したら下着やらスカートやら汚れるんだぜ。あたしならナプキンもいっしょに使わないと心配になる」
「それなら、最初からナプキンだけでいいということになりますね」
加賀が引き取って長波が賛意を示した。
「それにここけっこう分別厳しいから、アプリケーターの処分に困っちゃうんだよねぇ」
「抜くときに手に血とかオリモノついちゃうことだってあるし」
飛龍と蒼龍が互いにうなずきあう。
「あと、紐がいばり(尿)で濡れることもあるんですよね」
赤城が切実なデメリットを出した。タンポンを挿入する膣口のすぐ上に尿道がある。用を足すとタンポンを抜くための紐にかかることもなくはない。
「タンポンってなんだか恥ずかしいもんねぇ」
「なんだか痛そうです」
敷波と綾波も難色を示す。
「トキシックショック症候群……というものも懸念材料として挙げられるかと」
早霜がぽつりとこぼすとナプキン派の全員が「あー」と同意する。
「ねーねー朝霜」
「んだよ清霜」
「せーりって、なぁに?」
全員の顔が清霜へ電光の速度で向けられる。ひときわ小さい体ながら制服をかっちりと着こんだ清霜があどけない顔に純粋な疑問を浮かべて首を傾げていた。
武蔵が壮重な表情で足柄にうなずき、大淀や霞たちと目線を交わす。ここで「生理っていうのは、大人になるための第一歩なんだ。タンポンを使えば戦艦になれるよ」と頑是ない清霜を籠絡するのはたやすいことだったが、瑞鶴にも朝霜にもそれはできなかった。代償になにかすさまじく大きなものを失いそうだったからだ。「もう少し経てばおまえにもわかる日がくるよ」武蔵が清霜の頭をわしゃわしゃとかき回すように撫でる。「ほんと?」「ああ、ほんとうだ」「武蔵さんみたいな戦艦になれる?」「わたし以上の存在になれるとも。そのためにもまずは食って大きくならねばな。いっしょに間宮へ行こう、好きなものを食わせてやる」「やったー!」武蔵と清霜が退場していった。一同が安堵のため息をつく。
「フランスではどうなの? やっぱりナプキンが主流?」
気を取り直して瑞鶴がコマンダン・テストに尋ねた。豊かな金髪にトリコロールのメッシュを入れているフランスの水上機母艦は、ミルクのような頬に指をあてて、
「いいえ。タンポン派が大多数かと思います、わたくしもそうでしたし」
片言でいくらか詰まりながら答えた。可愛い。むかしむかしオッサン連中がアグネス・チャンを持て囃していた理由がなんとなくわかる艦娘たちであった。
「え? でした? いまはちがうの?」
瑞鶴にコマンダン・テストはアイスブルーの瞳を輝かせた。
「はい。日本のナプキンはとてもとても素晴らしいです。ちゃんと吸ってくれるのですから!」
「なにそのキー回して一発で車のエンジンがかかったら驚かれるみたいなリアクションは」
「まず、どのナプキンも個包装ですよね、これがまずすごいことです。ハネがついているタイプでもテープを一回はがしただけで使えてゴミも少ないですし、基本的にギャザーがあるので安心して寝られます。とにかく全体が天使の羽根のようにやさしくフィットして包み込んでくれますから、座った状態から立ったりしても、走っても、しゃがんでも、漏れる心配がないのです。いきなりドバッと出ても砂漠に水を垂らしたみたいにすぐ吸収してくれますし、こんなに女性のことが隅々まで考えられたナプキンはフランスにはありません。日本のナプキンを使ったらもう戻れなくなります」
「だいたいそれは海外の艦娘はみんな言うわね……」
米空母サラトガが日本にきてはじめての買い物もナプキンだった。使ってみた感想は「これはステイツも輸入するべきですね、サイズさえアメリカンに合わせれば」だそうである。
「フランスの場合、タンポンが主流ですから、さほどナプキンには力を入れていないのかもしれませんが」
「でもいまはナプキンに」
「母国で日本とおなじくらい使い心地のいいナプキンが手頃な価格で並んでいれば、わたくしも最初からナプキン族になっていたでしょう」
黙って聞いていた嵐がこわごわ手を挙げた。いつもは勝ち気な彼女だがめずらしくしおらしい。朝霜が促す。
「タンポンってさ、入れるときとか、痛かったりしないのか?」
「いやぜんぜん」
「だってその……俺、まだそういうのしたことないし……」
「そういうのってどういうのだよ? 連体詞じゃわかんねーからハッキリ言ってくれ」
「その……セ……セ……」
「なに? セパタクロウ? あたい砲声で耳が遠くなってんだよ、もっとはっきり、最初から最後まで、一語一語を力強く堂々と発音してくれよ。おまえの口から聞きたい! ほかのだれでもないおまえの口から!」
嵐は深紅の髪とおなじくらい顔を真っ赤にして両手でおおって沈黙した。頭から湯気が出ているのが幻視できる。
「嵐、処女でもタンポンは使えるしちゃんと使い方間違えなきゃ痛くないから安心して」
瑞鶴に嵐がズビビと鼻水を啜った。
朝霜がなにかに気づく。
「ちょっと待てよ、こんなかで、いっぺんもタンポンを使ったことないってヤツ手ぇ挙げてくれ」
コマンダン・テストや大淀、空母組を除く全員の手が掲げられた。
「使い方を知ってるってひとは下げてくれ」
だれもが下げなかった。つまりこういうことである。艦娘は工廠で建造され、鎮守府内で育てられるため、一般教養などの教育のみならず日常生活におけるしつけにおいても文部科学省の方針がそのまま流用されているわけである。日本では古来より生理の経血は真綿の入った紙なり絹なりをナプキンのように用いて対処しており、いっぽうで膣内に詰め物をするのは避妊処置であったという歴史的背景がある。日本ではタンポンは生理用品より避妊具としてのイメージが強いらしい。よって人間が通う学校の授業同様に鎮守府でも生理用品の使用法を学ぶ階梯においてはナプキンのみを取りあげる。それで彼女たちはことさら興味をもつ者以外、タンポンの使い方をそもそも知らないのだ。
「でも、紀元前3000年のエジプトのミイラの膣からタンポンが発見されたっていうし、ナプキンよりは歴史は長いよ」
瑞鶴がいうとコマンダン・テストが彫像のような顎をひく。
「ヨーロッパでは長らく下着をつける習慣がありませんでしたので、ナプキンよりタンポンのほうが適していたという事情はありますね」
世界ではじめて生理用の使い捨てナプキンを販売したのはアメリカで、1921年のことだった。その端緒は第一次世界大戦の従軍看護婦らが、包帯の繊維が生理時の当て布に好適であると発見したことによるという。他方、商品としてのタンポンは諸説あるものの1933年にやはりアメリカが発売している。余談だが現代において広く普及しているゴム製のコンドームが市販されるようになったのは1840年ごろであるとされている。資料により年代はやや前後しているが、工業製品としてはナプキンやタンポンよりもコンドームのほうが世に出るのが早かったのはたしかであるようだ。が、余談であった。
「よし、じゃああたいと瑞鶴さんがタンポンの使い方を教えてしんぜよーじゃねーか!」
朝霜が腕捲りをした。一同、拍手などしてみたりして、俄然、興味津々である。
「はい、ではみなさん、まずはタンポンの個包装を切ります。すると、こんなプラスチックの筒が入ってます。これをアプリケーターといいます。アプリケーターのなかに、吸収体という綿のかたまりが収納されています。まずアプリケーターの先端を膣の入り口に当てます」
朝霜が親指と人差し指で象った円環に瑞鶴が説明しながらアプリケーターをあてがう。
「で、たいていのタンポンは、アプリケーターの、あー、なんていえばいいのかな、魚雷でいう安定翼とかがある部分がギザギザになってるのね、これ、この部分ね、それを親指と中指でつまんで、膣に挿入するわけ。で、指が膣にあたるまで挿しこんだら、アプリケーターの尻尾の部分を人差し指でぐっと押すのよ。注射器みたいなイメージで」
膣口のモデルとなっている朝霜の指の環を抜けたアプリケーターの先から、エイリアンの第二の顎よろしく吸収体が押し出されてきて掌に乗る。ほうほう、と翔鶴も感心しきりで講義を受ける。
「中身を入れたら、アプリケーターを抜きます。紐がちゃんと外に出てるのを確認します。これで終わり。入り口付近だとやたら違和感あるけど、そこを過ぎてしっかり奥まで入るとなにも感じないよ。ほんと、なにかを入れてるってことを忘れるくらい」
おー、と感嘆の声があがる。
「注意点としては、タンポンにはいろいろサイズがあって、血を吸うと膨らむから、多い日とかふつうの日とか、月経量によって合うものを選ばなければならないのね」
「まあ、それはナプキンもおなじだから、たいしたデメリットではないな」
長波がうなずく。
「ナプキンはお尻全体を密閉するようにおおうわけだから、どうしてもムレやかぶれが心配になるわけだけれど、タンポンは、そもそもナカから出てくるまえに吸収しちゃうから、痒みとかの不快感もまったくなし。しかも動きやすい。そして、これがいちばん大切なんだけど」
瑞鶴がもったいぶって人差し指をたてる。皆の関心が集中する。
「これを入れたまま、お風呂に浸かれるの」
な、なんだってー! 艦娘たちにとってこれはなかなかに重要な意味をもつ。
戦闘で負傷した艦娘は、艤装部分は工廠に回し、自身はドックへと入る。ドックには細胞分裂を活性化させる薬効のある適温の湯が湛えられており、彼女たちはここで傷が癒えるまで入渠するのである(なお人間には効果覿面すぎて、指一本でもこの薬湯に触れたなら細胞が異常増殖し、最後には全身ががんのかたまりになってしまうことから、原液である高速修復材の投入は全自動であり、ドックの清掃は艦娘の当番制となっている。なお散布はBC兵器に関する条約で禁止されている)。傍目にはさながら入浴にみえて、実際そのとおりと断言して差し支えないので、入渠をお風呂と呼び換える艦娘も多い。ここで艦娘が女性の肉体を細部にいたるまで模倣しているために問題が起きる。
ちょうど入渠と生理が重なった場合はどうするか。
鎮守府には生理休暇もあるが、作戦が予定より長引いてしまったり、ストレスによる生理不順で日がずれたりすることもままあるわけで、つまり月経を押して戦い、被弾してドック入りという事態は艦娘なら一度や二度は経験があるのが実情だった。さて、入渠に用いるのは治癒効果があるとはいえ湯である。生理中であればもしこんなときにかぎってドバッと出てきたらいかにするかと気が気でない。だから入渠が一瞬に短縮できる高速修復材はありがたいが、いつも使えるともかぎらない。とくに戦艦や空母は軽傷であっても入渠時間が数時間におよぶ。ナプキンはなにしろ経血を吸収するために生まれてきたものであるから水分をよく吸う。ナプキンを着けたまま風呂に入ればたちまち限界まで湯を吸い込んで、かんじんの経血は吸収できないということになるのは目に見えている。よってなにも着けず浴場や湯船の湯が汚れないようびくびくしながらの入渠となるのだ。
「ところが、タンポンなら、それを気にしなくてもいいの」
「ほんとうですか瑞鶴さん!」
赤城がたちあがり、「まさか……そんなものを見過ごしていたなんて……」と加賀が頭をかかえる。
「おなじ理由で海にも入れるから、潜水艦の連中はみんなタンポンらしいぜ」
朝霜がつけくわえた。伊19はともかく、ろーちゃんや、まるゆまでがタンポンを……おのおのが想像力をたくましく働かせる。
「ナプキンはパンツがないと使えないけれど、タンポンならその心配もいらないの。生理中でも好きな下着が着けられるんだよ」
布教する瑞鶴になるほどと艦娘たちがうなずくなか、翔鶴が小首を傾げる。
「でも、下着うんぬんはあまり関係ないんじゃないかしら」
「なんで?」
「だって、わたしたち、作戦中はオムツ穿いてるじゃない」
◇
艦娘はさきの大戦における軍艦の魂が物質世界に干渉するために人間の肉体を器としてインストールされた存在である。なべて女性の性別を選んだのは、動物の起源は雌であり、雌こそが動物のあるべき姿だからである。人間も母胎での発生初期時はすべて女性だが、なにかしらのまちがいで精巣がつくられると、男性ホルモンが多量に分泌され、女陰が閉じられ、男として急遽、肉体の大改造がおこなわれる。男の陰嚢、すなわち金玉袋には稚拙な縫い跡のような筋があるが、これはもともと膣口だった名残である。男も最初は女だったのだ。それで艦娘は動物のもともとの性別である女として生まれてくるのである。
で、男とか女とか以前に、動物の一種である人間の形態をとっているのであるから、代謝や生態もそれに準ずることになる。つまり、食物を摂取し、ウンコを出すのである。
こればかりは艦娘がインターフェイスとして人間の器を用いている以上どうしようもない。いにしえの時代より軍隊を編成して戦争するにあたって用兵側は食糧の調達とおなじくらい便の始末に頭を悩ませてきた。いかにして組織的にウンコさせるか、これを解決しないと戦うまえに疫病で全滅してしまうからである。
おなじ問題は艦娘にも立ちはだかった。艦娘は長大な航続力をもつが、作戦によっては近海だけでなく東南アジアや赤道を越えた南方、果てはアフリカ近傍まで足をのばすことになる。ゆえに原則として海上自衛隊の護衛艦や航空自衛隊の輸送機で輸送し、そこから艦娘を出撃させるという手段をとるのだ。しかし、制海権を奪取していない海域に殴り込みをかけなければならないといったような作戦では、護衛艦が進入できないため、はるか遠方にある攻撃目標へ艦娘が自力で航行していく必要に迫られることもある。往復で数日や数週間かかるとなると、しっかり食べなければ戦闘に支障をきたすし、食べれば出る。この場合ウンコをどうすればよいのか。
オムツを穿けばいい。人間も、宇宙飛行士や長距離フェリーが目的の戦闘機パイロットなど、長時間トイレに行けない任務に就くときはオムツを着用している。航行しながら陣形も崩さず用を足せるのだから艦娘にとっても合理的である。ウンコをしたらさっさと脱いで海に投棄できるように生分解性の素材のみを用いたオムツが海自によって制式採用されている。このとき忘れてはならないのは、波の荒い外洋を時速60kmという高速でスケートしながらすみやかにオムツを脱ぎ捨て、汚れたお尻を海で洗い、新しいオムツに穿き替える、その流れるような動作を息をするように円滑におこなう艦娘の練度である。艦娘が艦娘として教練を受ける段になってはじめて教わるのは火砲のあつかいかたでも深海棲艦との戦いかたでもなく、オムツの迅速な交換方法なのだ。いかに重要な技能であるか、それで知れる。
オムツが便利であることから作戦中のみならず日常生活でも着用する者が出るのも無理はない。ウォースパイトは鎮守府にいるときも、いちいちトイレにたつのがわずらわしいという理由からオムツを常用している。ビスマルクやプリンツ・オイゲンたちドイツ艦は、オムツを装着すること、またはオムツを酒保に買いにいくことを「オムツァー・フォー」と呼びならわすまでになった。ナプキン同様に日本のオムツは肌触りが格別らしい。
さらに先鋭化した思想の持ち主は、オムツもパンツも穿かず、そのまま垂れ流しでいいのではないかと主張しはじめた。利根である。
「垂れ流しにしてしもうても、ほれ、我輩たちの足下は、巨大な水洗便所のようなものではないか」
これに少なくない艦娘がたなごころを打ったため、まず提督に提案され、提督は正式な書面にしたためて市谷の防衛省に決定を仰いだ。キャリア官僚らが額を突き合わせての議論は連日紛糾し、ついには、公序良俗に反しない範囲内であれば、下着ならびにオムツの着用のいかんについては個々の艦娘または指揮艦の裁量に委ねるとの満額回答を得たのだった。なお利根はこれを受けて第二改装時に下半身が生まれたままの姿の艤装を工廠に提言したという。
余談だが、建造されたばかりの艦娘は、赤子のようなもので、つまりトイレのしつけができていない。彼女たちにトイレを教え、身につくまではオムツを穿かせ、汚れたら交換する仕事は、いやしくも提督の末席につく者であればだれしも経験した通過儀礼であろう。艦娘たちがセクハラに明け暮れる提督に頭があがらないのはこういう理由による。また、駆逐艦は少女の姿をしているが、戦艦や空母は建造時点から成人女性の外見をとる。提督はそういった艦娘たちにも分け隔てなく下の世話をするわけだ。が、余談だった。
翔鶴が苦笑いする。
「どうせオムツを穿くのだから、オムツみたいなナプキンを穿くこともあるわ。だから、やっぱりわたしはタンポンは……」
「タンポン挿してクソとションベンは垂れ流しでいーんじゃねーか?」
「経血も排泄物も受け止めてくれるオムツがいいな」
「ところで飛龍は生理痛は重いほう? 軽いほう?」
「おもいっきり腰にくるタイプなんだよね~、痛ったいわ~」
そこへ、である。
後方補給室の打ち合わせから戻った提督が執務室に回っていた。廊下で雪風に会う。小動物のような印象の駆逐艦娘に提督が手に持っている雑誌を掲げてみせる。
「ちょうどきみの部屋に寄ろうとしていた。先日借りた『上海天国』を返そうと思って」
「わあ、わざわざありがとうございます! どうでした」
「聞きしに勝るな。さすがに本国で発禁のうえ焚書の憂き目にあった稀覯本だ。思わず『地球の緑の丘』の表紙みたいな顔になってしまった。あ、思い出しただけで鼻血が……」
「そーですかぁ、それはよかったです」受け取った雪風がペラペラとめくる。「あれっ、この頁、開かない!」
「恥ずかしがり屋とみえる。そっとしておいてやれ」
「…………」
「すまなかった。できうるかぎりの埋め合わせはしよう」
「わあい! しれぇ、約束ですよ」
じゃ、雪風はこれで、と別れて執務室に入る。艦娘で溢れかえらんばかりだ。
「お邪魔しております」
「クーデターの計画でも練っているのか」
応じる提督がやけに首を反らせていることに翔鶴が気づく。
「どうかされましたか」
「鼻血だ。出血とはいかなる場合であれおおごとであるはずだが、鼻から出るとなるととたんに間抜けに見えるのはなぜだろうな」
提督の視界に、テーブルに置かれたタンポンの吸収体が入る。
「おお、ちょうどいいときにちょうどよさそうなものが」
ひょいとタンポンをつまむ。艦娘たちが一気に青ざめる。
「だめです提督、それはぁぁぁぁぁ」
止める間もなく吸収体が提督の右の鼻に挿しこまれていく。
「これは、まるで鼻血の止血用につくられたように、長さも太さもぴったりだ。鼻栓かなにかかね」
「提督、すぐに抜いてください」
「鼻血が出たときは、止血のティッシュなり脱脂綿なりは、あまり交換しないほうがよいのだ。出し入れするとそのぶん粘膜が傷つくからな」
「バカヤロー、司令、それはただの脱脂綿なんかじゃねー、さっさと出しやがれ!」
朝霜に怒鳴られて、提督は胡乱げながらようやく紐を引っ張った。刹那、提督の顔色がさっと変わった。
「む、抜けない」
けっきょく提督の鼻からタンポンを摘出するのに実に6時間を要した。しかし、かえってその吸収性が鎮守府に広く認知され、艦娘たちのあいだでタンポンは一定の市民権を得ることに成功したという。
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思考が静止する日
喉がひりひりする、と提督が咳払いし、カフェ・ラテのカップに口をつけた。
各戦隊ならびに艦隊の旗艦娘を集めて、部内、および哨戒で得られた情報の共有をおこなう定例の提督レクの席である。書記を務める駆逐艦藤波のペンを走らせる、うつろな音だけが執務室に響いた。
ひとりだけ露骨な反応を示していたのは、ゆうべ提督と寝所をともにした英戦艦ウォースパイトである。ウォースパイトは提督のクンニリングスを人一倍好んだ。はじめて提督にクンニされたとき、彼女は一瞬、自分がなにをされているのかわからなかった。舌で愛撫されていることに気づいても、あまりに予想外であったため現実に起きていることなのか判然とせず、たっぷり五分も舐められてから、ようやく戸惑うことができるまでに至ったほどである。
なにしろ英国にクンニリングスの文化は希薄で、あそこを舐められるなどという発想そのものが、彼女にはなかったのである。指でもなく、怒張でもない、変幻自在にうねる、柔らかく熱い舌の愛撫は、一夜にしてこの気品と教養に満ちた戦艦娘をとりこにした。爾来、ウォースパイトは提督のクンニをなによりも楽しみとしている。もしイングランドに帰国する日がきたら、提督の口だけを持って帰ることはできないだろうかと彼女は本気で考えていた。
また提督は、クンニのさいにわざと音をたてて啜り、喉を鳴らして飲むことを欠かさなかった。自分がもっとも汚いと認識している場所を舐められているだけでなく、ラブジュースを飲まれているという羞恥が、いっそうの快感をもたらすのである。
その提督が、喉の異常をそれとなしにとはいえ訴えている。ラブジュースが多い体質のウォースパイトとしては狼狽を覚えるにたるものがあった。まさか、わたしの
しかれども、自身への奉仕が原因で相手に負担を強いているのであれば、それを看過することはできない、とウォースパイトは思った。おのれの面子のために他者に損害を被らせたままでいることは、彼女の矜持が許さなかったのである。
「鈴谷のさらなる改装についてじゃがの、改装設計図を用いて軽空母に改造したのちも、航空巡洋艦にもどすことは可能なのじゃが、そこからふたたび軽空母に改装するには、またあらためて設計図をよこせとな、妖精どもがいうておるのじゃ」
「妖精の要請か……」
「おぬしの命令でいちど軽空母にして、また航空巡洋艦に戻したわけじゃが、畢竟、あれをどちらで運用していくつもりなのじゃ」
航空巡洋艦の長を務める利根の問いに提督は腕を組んで悩んだ。
「軽空母としての鈴谷は、強い。強いが、いささか航空機の搭載数に問題がある」
「もとは巡洋艦じゃからの、飛鷹型のようにはいくまい」
「他方……航空巡洋艦としては、火力と装甲ではきみらに敵わないまでも、魚雷火力では勝るし、最大搭載数の関係で水上爆撃機の生存性はやや高い。とはいえ……」
「ツ級をふくむ敵艦隊と遭遇してはひとたまりもないでしょうね」
駆逐艦秋月が対空戦闘の専門家として意見を述べる。
「それなら、水上戦闘機部隊を搭載して、敵対空砲火のおよばない空域での制空戦闘を担当していただくのがよろしいのではないでしょうか」
とは、軽空母を代表して出席している千歳の言である。正規空母に比して搭載数の劣る彼女たちは小規模な航空隊の戦術運用に長けている。
「いずれにせよ、司令部からは軽空母としての鈴谷さんの性能評価試験として、彼女を配属した部隊でKW環礁沖に接近している敵機動部隊を撃滅せよとの指令がきています」
装甲空母翔鶴のいうとおり、任務のためにはまた、鈴谷を軽空母に改装しなければならない。提督が苦笑いする。
「軽空母鈴谷の搭載数で、かの艦隊と一戦交えるのは、ちと難題だ。航空機を砲弾のように浪費することになる。司令部もなにゆえこのような面妖な作戦を立案したのか……」
というようなレクは、物思いに耽っていたウォースパイトの耳には入らなかった。しかるに彼女は、ただ提督の変調を案じて、勇を奮い、つぎのような問いを発したのである。
「Admiral, それはもしかして、わたしのせいなのでしょうか」
時間が止まり、沈黙がみなの肩に堆積した。藤波だけが議事録を書き留めている。
提督はまず、なぜウォースパイトが自分に責があると考えたのかということの答えを胸中に探そうとした。ウォースパイトは聡明で責任感の強い女である。英海軍の代表という自負もある。とはいえ、まったく無関係の事柄まで自分の責任と主張するほど傲慢ではない。つまり彼女に自身の過失と思わせるなにかを見落としているのではないか、と提督はひとまずの結論を得た。
「なぜ、そんなことを?」
「だって、Admiralが、そう仰ったから……」
この場合における“そう”という副詞はいわゆる指示語で、なにを指示しているかといえば直前の内容である。国語のテストでよくある“傍線①がなにを指しているのか答えよ”というあれだ。答えは傍線で示された文の、直前の一文にある。
今回ならウォースパイトにとっては提督の“喉がひりひりする”を指すが、提督からすれば、全力を傾注して五分と五分という剣呑な敵に対して、軽空母鈴谷のテストをせんとする司令部の現場軽視ともとれる意向に難色を示したことを意味していた。
「それは、きみのせいではあるまい」
断言したが、
「だといいのだけれど、もしあなたが舐めたせいだとしたら、それはわたしに責任があるわ」
ふたたび提督は固まった。自分が舐めた、つまり侮っていたせいで今回の面倒ごとを招来しているといいたいのだろうか。いつのまに自分は責められていたのだ……しかし記憶を探った提督には心当たりがあった。司令部からの指令通達が遅れたという事情があるものの、鈴谷を軽空母に改造して、すぐ航空巡洋艦に再改装したせいで、改装設計図を一枚、無駄にしてしまったも同然だったのである。その勇み足をウォースパイトは追及しているにちがいない。甘んじて受けるつもりで提督はいた。しかし、なぜ彼女までが自責の念を感じねばならないのだろうか。提督はひとつの仮説をたてた。彼女は自身の存在価値を客観的に過不足なく自己評価できる女である。鎮守府、ひいては日本海軍の隆盛のため自分が戦艦戦力としていかに貴重であるか理解できていよう。重責をになう彼女は、提督の過失は自分の支えが足りなかったことが原因のひとつだとしているにちがいない。
危険な思想だ。彼女のような女性は将来ヒモにひっかかる。ここは男としてフォローせねば……提督はせいぜい気の利いたせりふをひねり出した。
「いや、これはわたしのミスだ。きみにいっさい非はない」
決まった……提督はみずからの男気に酔いしれさえした。
ところがである。
「ミスって、どういうこと? 舐めたのが
震える声のウォースパイトは目に涙さえ溜めていた。提督には理解できない。どこで間違えたのか。なんであれ嘗めてかかるのはミステイクではないのか……沈思黙考せざるをえない提督を時間が置き去りにする。
「やっぱり、わたしのjuiceが原因だったのね、Admiral!」
少女のように泣きじゃくるウォースパイトに提督はますます混乱するばかりである。ジュース? 提督はウォースパイトに紅茶を淹れてもらうことはよくある。しかしジュースとなると……そこで思い出した。故国であるイングランドで人気だというスカッシュなるジュースを彼女に振る舞われたことがある。カシス味だった。濃縮されており非常に濃いので水で薄めていただくのである。ジュースと水を1対4ほどの比率でつくってくれたウォースパイトに、提督が、
“カルピスみたいなものかな”
といったら、
“
驚愕し、
“美味い。わたしにとってはNo.1だ”
“
などというやりとりを交わしたのが、つい一昨日のことであった。
よもや、あのジュースのせいで鈴谷の改装における判断を間違えたのだ、とでも思っているのだろうか。ミョウガを食べると忘れ物をするという迷信があるが、スカッシュの摂取が判断力に影響を与えるとでもいうのか。
いっぽうで、同席していた米戦艦アイオワや仏水上機母艦コマンダン・テストは、juiceが体液を意味することを当然理解できていたし、昨晩ウォースパイトが提督と寝たことと関連付けて、なんとはなしに全体像の把握に成功しはじめていた。つぎに彼女らはある共通の存念を抱いた。その存念とは、こうであった。
“なぜ自分たちは朝から痴話喧嘩に巻き込まれているのか”
「わたしのせいであなたを困らせてしまっていることは、謝るわ。ごめんなさい」
急に謝罪されてもいまだ提督には話が見えない。できることは生返事だけである。
「でも、舐めてもらって、それが間違いだったなんていわれたら、おんなならだれでも傷つくわ。自分でいうのもなんだけれど、戦艦だからってこころまで打たれ強いわけじゃないの。それだけはわかっていてほしい……」
「それは理解している。だからきみは悪くないんだ」
「それが違うっていってるのよ!」
深窓の令嬢然としたウォースパイトがテーブルを叩いて息も荒くたちあがった。提督は首をかしげるばかりである。
「だいいち、あなたがあんなにもテクニシャンなのがいけないのよ、ああも美味しそうに飲まれたら、このひとに身を委ねてもいいんだって、そう思ってしまうじゃない」
人間にとって会話とは、全問正答を要求される選択問題を、時間制限つきで次から次へと出題されているにもひとしい。よって提示されたテクストのうち回答しようのあるもの、ないものを瞬時に判定し、前者を優先して、最適な返答を模索しようとする。この取捨選択の結果、テクニシャン云々というくだりが自動的に思考から排除されてしまったので、提督はまだ違和感を感知することすらできないのだった。
したがって、提督の出力した答えは、このようなものとなった。
「きみのジュースはとても美味かったよ。健康にもいいにちがいない」
ウォースパイトの白磁の頬はたちまち桜色に染まり、やがて彼女は紅潮した顔を両手で覆ってもだえた。そのようすを眺めていたコマンダン・テストは、人生の辛酸を舐めた中年女みたいな、くそ面白くもなさそうな表情になっていた。
「どんな味だったのじゃ」
「フルーティな香りで、蜜のように甘いが、ほのかな酸味が全体を引き締めていて、後味さわやか、喉ごしもよい。いくらでも飲める」
提督同様にジュースという単語を清涼飲料水として認識している利根が感心する。品評されている英戦艦はかぶりを振るばかりである。
「かように美味なれば、吾輩も一杯いただきたいものじゃな」
利根にウォースパイトは我を失った。
「だめよ!」
彼女は思わず叫んでいた。しんと静まる。藤波が変わらず議事録をとりつづけている。利根が意地のわるい笑みを浮かべた。
「なんじゃ、おぬしともあろう者が、らしくもない。さてはあれか、提督にしか飲ませとうないということかの」
室内の空気が納得から生ぬるい笑いへと変化する。いまやウォースパイトは耳までロブスターのように赤い。
「そうよ、それがいけないこと? そもそもわたしのjuiceをtastingしたいだなんて、crazyだわ、トネ!」
「おぬしもえらく好かれておるのう、果報者め」
利根が提督を肘でつつく。提督は自覚できるほどに気色のわるい笑みを噛み殺そうと顔をそむけた。
まったく口出しせずに眺めるコマンダン・テストは自分にも似たようなことがあったことを思い出していた。先月のことである。提督が、なにげなしに、
“コマンダン・テストのフレンチは
とこぼした。日本においてとくに注釈なくフレンチといった場合はフランス料理を指す。しかし、英語圏においてFrenchはしばしばフェラチオを意味する。むろんコマンダン・テストの祖国であるフランスでは使われない。だが外国、とくにドーバーを挟んだあの舌が何枚あるかわからない島国で、性技にことごとくFrenchが接頭語に用いられていることは知っていた。日本海軍はその弟子である。また、日本という国ではかつて混浴がメジャーであり、フランスが王政復古で揺れているころ、高名な浮世絵師により、女性が二匹のタコにレイプされている絵が発表され好評を博すなど、性におおらかであるとも聞いていた。ゆえに前の晩に振る舞った手料理のことではなく、てっきりフェラチオのほうのFrenchだと思い込んだのである。
“提督、そんな、恥ずかしいです……”
人目を気にしてどぎまぎするのに、提督は屈託もなく、
“あれだけ美味ければ自慢できるだろう”
“でも、まだそんな、日が高いうちから……”
“たしかにフレンチは夜というイメージがある”
コマンダン・テストはもうたじたじである。最後に彼女は上目遣いでこう訊いた。
“提督、わたくしのFrench、そんなに
“
と、以上のような経緯があったのである。後日、誤解であったことがわかったときの、恥ずかしさたるや! せっかくなのでコマンダン・テストはもうしばらく観察をつづけることにした。
「でも、提督がそうまで仰るなら、いちど試してみたいですね、ウォースパイトさんのジュース」
翔鶴をウォースパイトが信じられないという顔でみる。
「産地直送だからフレッシュな味わいだ。きっと口にあう」
提督がこともなげにいった。
「産地直送って」ウォースパイトは口をぱくぱくさせた。自分の下腹部を見下ろす。「たしかにそうかもしれないけれど」
彼女はふとあることに思い至った。古代日本の首都、平城京の遺跡から張形(ペニスの模型)が出土したことがある。長さ十七センチの堂々たるたたずまいで、根本付近には紐を通す穴があった。みつかったのは大膳寮(台所)で男子禁制の場所である。つまり一三〇〇年ものむかし、日本では官女がペニスバンドを使ってレズ行為に耽っていたということになる。また、時代が下った江戸の世において、大奥というハーレムに双頭の張形が大量に所蔵されていた記録が残されている。
こういう歴史があるから、日本には同性愛もさほど忌避されないという文化的土壌が下地として存在するのではないだろうか。だからこそ、利根も翔鶴も、まるで紅茶やビールを飲み比べるがごとく自然体でウォースパイトのを飲みたいなどといえるのかもしれない。
「そんなに、飲みたいのですか」
蚊の鳴くような声で問いかけると、執務室の全員が「飲みたい!」と返答した。むろんコマンダン・テストも加わっている。
ウォースパイトはいよいよ覚悟を定めねばならなかった。いかなる艦娘も一隻では弱い。個々のスペックでは格段に劣る艦娘たちが、強大な深海棲艦に勝利を収めてこられたのは、ひとえにチームワークの力である。互いが互いの死角と弱点を補いあい、長所がのばせるようサポートし、さながら艦隊がひとつの生き物のように一糸乱れぬ統率をみせる、それが敵との唯一の差なのである。結束を固めるために効率的な手段として、きっと日本海軍は同衾を採用したにちがいない。恥部をさらけだしてしまえばもう他人ではなくなる。心底から信頼しあえる絆がうまれ、円滑なコミュニケーションを可能とするだろう。それが大きな力となるのだ。と、嵐のように千々に乱れたウォースパイトの思考はこのような推論を導きだしたのであった。
「では、失礼して……」
すっとたちあがったウォースパイトが、スカートの両端をつまんでもちあげた。みな、貴き血筋の女性が“ごきげんよう”と礼をするときのあの所作だと思った。ウォースパイトはさらにスカートをあげた。みな、“さすがカニンガム提督から絶賛された戦艦だ。でもべつにそんなに急いでジュースを取りに行かなくてもいいのに”と微笑ましく思った。紫のレース地の小窓つきパンツや、ガーターベルトの固定部が露となったあたりで、みな、“なにかがおかしい”と思った。さらに、ウォースパイトのほっそりした二指が魅惑の小窓を開こうとしたところで、アイオワが「ストップ! ストップ!」と飛びかかってスカートを下ろさせた。
「止めないでIowa, 恥ずかしがったら、よけいに恥ずかしくなってしまうの」
透明な涙を流すウォースパイトには、全滅必至の最終決戦にでも赴くような悲壮な決意があった。アイオワが「あんたこのままじゃ人生の暗礁に乗り上げてしまうわよ!」とスカートを下に引っ張るのも聞かない。
ウォースパイトは叫んだ。
「だって、みんながわたしのLove juiceを飲みたいっていうんだもの」
だれもが押し黙った。ズビビとウォースパイトが洟をすする音と、藤波が走り書きする音だけが空間に吸収されていく。
ウォースパイトははっきりとLove juiceと発音した。その意味を全員知っている。しかし、「まさか、あのラブジュースのことではあるまい」と思い直そうとした。音がおなじで意味がちがう単語など洋の東西を問わずいくらでもある。早とちりだった場合、こちらの品性を疑われてしまう。「おまえいつも詩集読んでるよな。好きな詩とかあったら教えて」と訊いて、「高村光太郎の『道程』」という答えが返ってきて、「どっ……。おまえが白昼堂々そんな卑猥なことをいうやつだとは思わなかったよ!」と自分の無知を棚にあげて非難すれば大火傷を負う。加えて聞き間違いという可能性もある。みな慎重にならざるをえなかった。ウォースパイトが提督にご馳走したというスカッシュなるジュースは本国のスラングかなにかでラブジュースというのだ、と自分を納得させようとした。
「嗚呼、でもAdmiral, せめて、最初にクンニするのはあなたにして。そのあとなら、どんな辱しめを受けても耐えられると思うから」
聞き間違いでもなんでもなかった。提督と艦娘たちはおなじ動作でずっこけるのであった。コマンダン・テストだけは舌打ちしていた。
◇
「扁桃腺?」
「けさ、腫れているのに気がついた。ここのところの徹宵がこたえたらしい。もう若くはないようだ」
提督は喉の不調について説明した。
「よって、断じて、きみのを飲んだからではない」
あらためて面と向かっていわれて、ウォースパイトはまた上気した。提督は、これでレクを再開できると安堵した。慰めるつもりでつけくわえる。
「それに、きみのおツユが美味かったのは事実だぞ」
提督はウィットに富んだジョークのつもりだったろうが、ウォースパイトは顔色を赤やら青やら信号機のようにめまぐるしく変化させて、所在なさげにカウチに腰を下ろした。その肩にアイオワが手を置く。
「マン汁には美味い、美味くないというのがあるのか?」
利根が興味津々に尋ねた。彼女の改二艤装が下半身生まれたままの姿となるようデザインされているのは、洋上で排泄するほか、いつでも提督とことにおよぶためでもある。
「そりゃあ、男によって精液の味もちがうだろう。同様に、マン汁の味にも個人差があるし、同一人物でも、生活習慣や体調に左右される部分も大きい」
艦娘たちが真剣に耳を傾ける。
「ベースとなるのはやはり塩味だ。体液だからな。奥のほうは酸味がある。この上に、艦娘によって味が濃い、薄い、磯のような香りがする、汗で蒸れたような匂いがする、無臭である、苦味があるなど、おのおの個性が乗ってくる。本格的に感じはじめて白濁が混じってきたり、さらに進んでチーズ状になったりすることでも変化する。しかし経験上、純粋に加齢のみで味が変化することは少ないように思う。変わるとしたら衛生状態やホルモンバランスなど、ほかの条件のほうがより強く影響するのではないか」
メモをとっている艦娘さえいる。作戦通達時などよりよほど熱心にみえる。
秋月がおそるおそる手をあげる。
「司令……秋月の、臭ったりとかは、ないですか……? だいじょうぶですか?」
「全然。いまでも初々しくて素直な味と香りだと思う」
秋月がほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、わたしのはどうでしょうか?」
たわむれに千歳が訊く。提督は真面目な顔で応じた。
「柔らかく、風味が豊かで上質な味わいだな」
「興味深い。司令、この磯風のはどんな味なのだ」
第十七駆逐隊の旗艦を務める磯風には、
「香りが強くコクもあるなかなかのバラスト。じつにきみらしい」
即答した。
「Admiral, Meのは?」
アイオワが訊けば、
「力強いが後を引かない、稀有な出来栄え」
打てば響くように返す。コマンダン・テストも、「わたくしのはどんな味なのでしょうか」とこわごわ質問してみたところ、
「エレガントで味わい深く、塩味と酸味のバランスがよかった」
予想以上の高評価に彼女はのけぞった。
「あのう、わたしのは……」
翔鶴には、
「出来がよく、豊満で絹のような滑らかな味わいかな」
答えると、第一潜水隊旗艦の伊13が、ためらいながらも、自らを奮い起たせて、口を開いた。
「提督……イヨちゃんの味……訊いても……その……いいですか? 教えてあげたいから……」
「イヨちゃんのは、みずみずしさが感じられて申し分のない喉越しだったな」
伊13が忘れないようにメモに記している。妹に伝える期待感で口元がほころぶ。
「ちなみに、ヒトミちゃんのは爽やかながらも豊かなコクと程よいしょっぱさが調和した味だった」
伊13が硬直し、あどけなさを残す顔に朱をのぼらせて、「もう、提督ったら……!」と足をばたばたさせた。可愛らしさに周囲が微笑む。
「しかし、おぬし全員の味を覚えておるのか?」
「当然だ」利根に提督はさも心外だという表情さえみせた。「当然だ」
顔を伏せていたウォースパイトが、なにかに気づく。
「味には個性があるっていったわよね」
提督が首肯する。じゃあ、とウォースパイトは重ねた。
「このなかで、いちばん美味しいのはだれなの?」
「ああ、それは」
答えようとした提督の脳内に、ようやく警報が発令される。部屋の艦娘全員が身を乗り出して固唾を呑み提督に注目していた。毎朝定例のレクは、いつのまにか、一歩間違えば破綻を招く男女の駆け引きの場となっていた。
下手な答えを示せば、たちまち艦娘たちのあいだに不和がひろがり、やがては修復不能な亀裂となって禍根を遺すだろう。順位をつければかならず下位が生まれてしまう。真に実力を問うのであればしかたのないことだが、おりものの味で序列をつけられるのは好ましくあるまい。男の場合、あいつの精液は最悪にまずいなどとレッテルを貼られたら、EDに陥ることすらある。
どう答えればよいものか、時間を稼ぐため、ウォースパイトが淹れてくれていたカフェ・ラテのカップを手にとる。英国では十七世紀半ばごろにコーヒーを楽しむ文化が興り、万病に効能があり健康を増進する妙薬として永く親しまれてきた。すなわち英国におけるコーヒーは、同国の貴族階級を印象づけている紅茶とおなじくらい歴史が古い。むしろ彼らは、もともとコーヒーを愛飲していて、紅茶は高騰したコーヒー豆の代替品として導入されたのがはじまりという説さえある。
こと、十八世紀のロンドンに店を構えたコーヒーハウス、いわゆるカフェは、労働者階級と中産階級はべつの席で飲むのが当然だったパブとちがい、コーヒーや喫煙をまじえて、社会階層にかかわりなく客たちが自由に政治談義を交わす、一種の社交場となっていた。男が集まると政治談義に花を咲かせるのは古今東西で変わらないらしい。しかし情報の入手手段がかぎられていた当時としては画期的なことである。一ペニーのコーヒー代さえ払えばだれでも大学生や学者、ジャーナリストといった知的層と直接、意見を交換することができたのだ。コーヒーハウスの存在により情報が共有され、議論が促進されたことが、英国における近代民主主義の大地を育てる肥料となったともいわれている。だからウォースパイトが紅茶とおなじようにコーヒーを愛するのも、ゆえなきことではないのだ。
かぐわしい湯気をたてるカフェ・ラテは、ミルクとコーヒーが混ざりあい、どちらでもない色となっていた。白でも黒でもないカフェ・ラテ。提督の思考に光が閃く。
「きみのコーヒーがあまりに美味いので、つい飲みすぎてしまった。しばし中座する」
提督は席をたった。出入り口の扉に手をかけたところで艦娘たちが提督の意図に気づく。
「このわたしから逃げる気、Admiral!」
「それでも男か!」
ウォースパイトと磯風を筆頭に、艦娘らが提督を非難する。女は白黒つけないと気がすまないのだ。提督は扉を閉める直前、顔だけ振り向かせ、高らかと宣言した。
「これは撤退ではない。転進である!」
そそくさと消え去った。
艦娘たちの残された執務室には重いため息が満ちた。ウォースパイトはアイオワの胸で泣いた。
「だって、クンニなんてされたのAdmiralがはじめてだったんですもの。もうクンニなしでは生きる意味を見出だせない。クンニのないクニでは生きていけないわ」
「イギリスにはクンニはないんですか?」
千歳にウォースパイトは、
「ないわけではないと思うけれど、わたしはされたことなかったし、聞いたこともなかった」
素直に答えた。洟がアイオワの谷間から糸を曳いている。しかしアイオワはまったく気にしていないようだった。
千歳が顎をなでる。
「アメリカは……なんとなくどんなプレイもありなイメージが」
「Americaは、抑圧の反動みたいなところあるカラ」
「反動?」
千歳にアイオワは説明した。
「むかしのAmericaは、むしろ世界でも類をみない性の抑圧国だったわ。一九〇九年には各州でoral sexを禁止する法律が可決されている。一九二七年一月十日からはじまったチャーリー・チャップリンとリタ・グレイの離婚訴訟では、原告のリタはチャップリンの世評を失墜させるために、“フェラチオを強要された”とか“何度もしつこくクンニリングスされた”と私生活を証言台で暴露した。当のチャップリンは“フェラチオもクンニリングスもしない夫婦を夫婦といえようか?”と反論したそうよ。当時のAmericaではフェラチオという単語は浸透してなくて、ひとびとがこの耳慣れないラテン語を調べようとした結果、全米の書店からラテン語辞典が消えたという伝説もあるわ。さらに一九三八年、
「どんな映画なんですか?」
翔鶴が尋ねる。日本の艦娘たちには初耳の映画だ。
「内容はとくにないわね。おっさんがひたすら女性の谷間や太ももやお尻を舐めるように凝視するだけの映画ヨ」
「逆に興味あるわね……」
千歳が呟く。
コマンダン・テストが秀でた片眉をあげて言葉を紡ぐ。
「その映画のキャッチコピーって……」
「たしか、“厚顔無恥なアダルト・フレンチ・コメディ”だったかしら」
「あ、やっぱり……」
「もちろんboobsが大胆に露出しているし、主人公のおっさんの妄想とはいえ女性たちがやたら挑発的なしぐさをするもんだから、そりゃあ物議を醸したわ。道徳的によくないとするお堅い勢力もあれば、表現の自由を主張するひとたちも大勢いた。だいたい一九五九年から六〇年にかけてのことよ」
「日本が、日米安保をめぐって喧嘩をしているときに、アメリカは乳房が見たいかどうかで争っていたのか」磯風がこぶしを握りしめる。「勝てぬ……!」
「そんなこんなで、もはやガチガチな制約は時代にそぐわないという意見や、制限を課しすぎて逆に悪感情を抱かれたりすることを懸念して、態度を軟化させたことで、中絶が合法化されたり、oral sexが法的に認められたり、『PLAYBOY』でヘアヌードが掲載されたり、より過激な描写を追求したりと、行き着くところまで行った結果が、いまのAmericaということになるわ」
たとえば、美人コンテストの一種として、参加女性たちがブラジャーを着けずに白のTシャツを着た状態で水をかけられ、その透け具合を競うイベントが人気を集めていたりする。州によってはシャツを脱いでトップレスになることも認められている。先日アイオワとサラトガの主催で総勢六個艦隊ぶんの艦娘たちによる鎮守府濡れ透けTシャツコンテストが開かれ、審査員を務めた提督が前かがみのまま戻れなくなるという
しかし日本の艦娘たちには解せないことがある。
「なぜそこまでスケベを抑え込もうとしたのじゃ。聖書にも“生めよ殖やせよ”と書いておろうが」
「まさに、その
利根にアイオワが応じた。
「もともとChristianityでは、そりゃいろんな宗派はあるけれど、根っこには、快楽は悪魔が人間を誘惑するための罠だとする思想がある。賭け事とか、美味しいものをおなかいっぱい食べるとか、グースカ寝るとか。もちろん性行為もね。そういった楽しいことにうつつを抜かしていると地獄の業火に焼かれると説いている。だから、性行為は子供を作るためにしかたなくするものであって、快楽を得る目的でやってはいけないこととしていたのよ。oral sexを禁止していたのはつまりそれが理由ね。あきらかに楽しむことだけが目的だから。当然ながら避妊もだめ。中絶なんて、とんでもない。だから映画でもこれらの描写を禁止していたわけ」
「そういえばこのあいだ、ヴァチカンとマルタ騎士団がそんなような理由で争ってましたっけ」翔鶴が思い出す。「たしか法王はコンドームの使用を容認して、マルタ騎士団が避妊なんてもってのほかと反旗を翻したとか」
「えてして信者は教祖より純粋で先鋭的だったりするもの。
アイオワが引き取って賛意を示す。
「おなじような理屈で、
姦淫するなと言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
「想像のなかとはいえ、だれかを思ってよこしまなことを考えてもいけないとまで戒めていたのね。Masturbationしかりよ」
「日本の仏教が、坊主に女犯を禁じるかわりとして、少年愛や自慰をむしろ推奨していたのとは対照的だな」
磯風が見解を述べた。親鸞が夢告をもとめ、如意輪観音菩薩を本尊とする洛中随一の古刹という六角堂に比叡山から日参し、あくる暁闇とともに戻るという行を百日つづけたときのことである。九十五日めにして、ついに観音が
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
「砕けた言い方をすれば、もしおまえがわけあって女と交わらねばならなくなったとき、その女子をわたしだと思いなさい、わたしがおまえに犯されてやろう、なれば女犯の禁を犯したことにはならぬ、そのかわり一生のあいだわたしを心の
歴戦の駆逐艦娘が紅い瞳を米戦艦に向ける。
「わが国ではこうして劣情に対処してきた。欲情もするなとは、現実として不可能なことなのではないか?」
「だから教会には懺悔室があるのよ、Masturbationしてしまいましたと告白できるように。もちろん黙ってたってだれにもわかりはしない。でも神だけはいついかなるときも自分のおこないを見ているという意識が刷り込まれている。法律ではなく、自分で自分が許せないという、極めて高次元の倫理がChristianityによって教育されていたの。それが犯罪をある程度未然に防ぎ治安を安定させていた側面もあるのだけど、同時に発生する良心の呵責に潰されてしまわないための回避策が必要だったのね。火にかけた鍋に蓋をしたら、ふきこぼれてしまうから」
磯風が得心のうなずきをみせる。
「宗教はChristianityも含め、読み書きも計算もできない一般大衆をも信者として多く取り入れる必要があった。治安を維持するため、また国家の屋台骨となる生産者たる民衆を束ねるために、自分は人智を超えた存在に愛され、またつねに監視されているという自覚を与えることが必要だったからよ。だからまず民衆に宗教への興味を持ってもらわなければならない。人間は美しいものに惹かれる習性がある。それで教会の執行部は美を演出することにした。大聖堂をはじめとした建築、ステンドグラス、音楽、彫刻、絵画、
だからキリスト教に関連する芸術はわかりやすい美しさに彩られている。民衆は堅い話になど興味をもたないからまずは娯楽で心を掴むのだとしたゲッベルス宣伝相もまた同様の手法といえよう。
「そんなChristianityが、映画という大衆に愛されるメディアを無視するはずもない。とくに映画が一大産業となったAmericaでは、
「それで、規制の基準がキリスト教からきておるわけか」
利根も腑に落ちた顔をした。
「英国でクンニがあまり馴染みのないものというのも、当然といえば当然なのかもしれんな」
磯風が三種の宝具を模した装備品を携えているウォースパイトを見やる。国教たるキリスト教の厳格な体現者として、オーラル・セックスなどというものがこの世に存在することさえ知らなかったのだ。ウォースパイトがおなじヨーロッパ出身であるコマンダン・テストに眼を動かす。
「フランスではクンニはどうなの、するの」
「ふつうにしますが。むしろ大好きですが。クンニリングスの指南書がいくつも出版されていますが」
「どうして。おなじキリスト教の国なのに」
「なぜって、したいからに決まってるからじゃないですか」
英戦艦が苦悩に頭を抱える。
「ご存じかもしれませんが、かのナポレオンが戦地から妻のジョゼフィーヌに宛てた手紙には、“きみにクンニリングスしたい”と受け取れるくだりがあります」
「ナポレオンが?」磯風が反駁する。
「ナポレオンが」コマンダン・テストが肯んじる。
「百日天下のあのナポレオンが?」
「そのナポレオンが」
「いまでもコルシカでは微妙に嫌われているという、あのナポレオンが?」
「そのナポレオンが」
「寝ているときに部下がいたずらでブルーチーズを鼻に近づけたら寝言で細君の名を呟いたという、あのナポレオンが?」
「そのナポレオンが」
コマンダン・テストはナポレオンの手紙の該当箇所を暗唱した。
“わたしは遠く、遠くへ旅に出る。あなたも来てくれるだろう? わが隣、わが腕のなか、わが胸の上、口の上にいてくれるだろう? 翼をつけてひとっ飛びにおいで、おいで! あなたの胸にキスを。そして、もっと下の部分にも”
「ナポレオンは生涯でジョゼフィーヌに二二七通ものラブレターを送っていて、これは結婚してから二日後にイタリア遠征に赴き、長引いて帰れないのでこちらに来てほしいとしたためた手紙です。口の上というあたりと、もっと下の部分にもというところが、おそらくはクンニリングスを意味しているといわれています」
フランスの水上機母艦娘はもう一通を例にあげた。……
“キスをもっと下、胸よりもずっと下のほうへ降らせるよ。尻の穴、太もも、膕、足の指のあいだをくまなく舐め上げたい。その塩っけ、その酸っぱさ、そのかぐわしい香りを想っただけで、ぼくはいてもたってもいられなくなるんだ。もちろん、あなたなら知っているはず、ぼくが寄り道を忘れるわけないってことをね……そうさ、あの小さな黒い森。そこへ千回のキスをして、あなたの血潮が燃えて果てるのを、ぼくは待つのさ……”
「小さな黒い森とは、陰毛、すなわち彼女の陰部のことでしょう。そこにキスをするというのですからこれはまちがいなくクンニリングスです。キスを千回とありますが、実際に千回するというわけではなく、そのあとの、絶頂に達するまでし続けるという文面から、回数が多いことのたとえだと思われます」
「日本でいう、八百万の神とか、千尋の谷とかいうのとおなじですね」翔鶴が理解を表す。「クンニだけでオルガスムスに導こうというのですから、ナポレオンはよほどジョゼフィーヌさんを舐めるのが好きだったのでしょうね……」
「でも、すごい手紙ですね。情熱的というか……」
秋月が照れ笑いをみせる。
「フランスでも常軌を逸した愛情表現です。ジョゼフィーヌはナポレオンからこの手の手紙がくるたび、友人にみせて笑い物にしていたとか。返事なんてめったに出さなかったそうです。なぜかというと、ジョゼフィーヌはべつの男性に入れ込んでいたからなんですね。ナポレオンはエジプト遠征中にこれを知り、身内に“浮気されて悔しい。彼女と離婚したほうがいいかな”という手紙を出しましたが、その手紙を乗せた船がネルソン提督率いる英国艦隊に拿捕されたことで、英国の新聞に“ナポレオンの奴、浮気されてやんの”と大々的に報道され、爆笑を誘うことになりました。大恥をかかされたナポレオンは本格的に離婚の決意を固めたといいます」
コマンダン・テストが歴史を簡単に述べた。ウォースパイトがひそかにほくそ笑む。英国はいわゆるタブロイド紙発祥の地である。
「ナポレオンは体臭に興奮するタチって聞いたけど、あれはほんとう?」
「ほんとうだそうです。というより、ナポレオンのみならず、フランスでは性交渉において臭いは非常に重要な要素です」
千歳の問いにコマンダン・テストは即答した。
「こう、なんといいますか、お風呂に入ってない、鼻が痛くなるようなむっとする体臭に包まれると、頭の芯が痺れて、理性のタガが外れるというか、膣圧が上がって子宮の奥がきゅうっと疼くというか、無性にムラムラしてわけがわからなくなるのですが、わかりませんか」
だれもが応答しなかった。どことなく視線が痛かった。
「わたくしは、相手の肌を舐めたときに、アカでしょっぱいくらいが好みです。ですから相手にも行為まえのシャワーなんて浴びないでいてほしいのですが、提督はそのわたくしの好みにも快く付き合ってくださいますので、とても満足です」
恋人との性行為を極限まで楽しむために、一週間も風呂へ入らないフランス人もいるという。臭いのきつい食べ物がくせになるのとおなじ理屈なのかもしれない。
「シャワーを、浴びないなんて」
「相手の生の味や匂いを堪能したい。それがわたくしの愛です。それを申し述べたとき、提督はわたくしになんといったと思います」コマンダン・テストは昂揚を隠せなかった。「いわく、“わたしにシャワーを浴びるなと? いいだろう。ただし条件がある。わたし同様、きみもシャワーを浴びてはいけない。わたしにもきみのそのままの芳香を賞玩させてくれ”。おんなにとって、あるがままを受け入れてもらえること以上の喜びが? それに、どうせ終わったあとにシャワーを浴びるのですから、二度手間じゃないですか」
ウォースパイトは聞かなかったことにした。切り替えて覚悟を述べる。
「いずれにせよ、もうクンニの快感を知ってしまったものはしかたがないわ。かくなるうえは、すこしでもAdmiralがクンニしやすいように努力していくしかない」
提督が、ラブジュースの味には生活習慣が関係するといっていたことをみなが思い出した。つまりケアを怠っていればラブジュースの味やヴァギナそのものの匂いが悪くなることを意味している。可能ならば自身をより向上させたいと願うのが女の情である。
「よく、直前に食べたものの匂いがするとかいう話を見聞きいたしますが……」
「あれは迷信です」コマンダン・テストに翔鶴が銀の髪を払いながらいった。「迷信ですが、体臭とおなじく、ふだんの食生活が大きくかかわることは事実です。肉食中心だと生臭くなって、塩味が強くなり、苦味も出るそうです」
ウォースパイトとアイオワが、それは困ったと天井を仰いだ。
「わたしなんて、緑に輝く牧草をみただけで、こんなみずみずしい食草で育った牛はきっと極上のローストビーフになるだろうって、期待に胸をふくらませるほどなのに」
ウォースパイトが悔し涙を滲ませる。欧米社会と肉食を切り離すことはできない。土地が痩せていて水資源が少なく、年間の日照時間も短い大陸では、農耕より狩猟がおもな糧だった。いまでも養畜農家や屠殺業者、肉屋は社会的に高い地位にあり、尊敬される職業の代表格でもある。
とはいえ、動物を殺すとなると、心的外傷を負いかねないすさまじい悲鳴があがるし、人間とおなじ赤い血を流す。まして数ヵ月から数年も飼育していた家畜なら愛着もわいていよう。しかしほかに食べるものがないのが大陸の冬だ。食肉となる動物を屠殺する罪悪感を軽減させなければならない。そこで、超越的で偉大な存在が自分に似せて人間を創造し、食べ物として動物を与えてくださったとする物語を編み出した。それがキリスト教の端緒であるといわれている。肉食の文化こそアングロサクソンの歴史そのものといっても過言ではない。なんでも食べる日本人や中国人にくらべ、欧米にベジタリアンが多いのは、それだけかれらの社会と肉食の習慣が強固に固着していることの裏返しともいえる。
「お魚や野菜といった脂肪分の少ないものをメインに摂っていると、しょっぱさが抑えられるそうですよ。果物をよく食べていればフルーティな香りになるらしいです。味は嗅覚に左右される部分が大きいですから……」
「野菜を……」千歳が真剣な眼をする。「欧米のレストランのお品書きでは、お米は野菜のところに分類されているのよね?」
欧州と米国の艦娘がうなずく。千歳がつづける。
「日本酒はお米からできている。お米は野菜の一種。つまり日本酒を飲んでいれば、野菜をたくさん食べているのとおなじことなのではないでしょうか」
少なくない艦娘たちが衝撃を受けて絶句した。そんな手があったとは。「たぶんそうはならないと思いますが」翔鶴にみなが落胆する。
「もし、ナットーばかり食べていたら、Cuntもナットーの匂いになるのかしら」
アイオワが思いつきを口にした。
「納豆にふくまれるピラジン化合物やナットウキナーゼは、血栓を溶かし、血行促進や、悪玉コレステロール値の低下、整腸作用もありますから、推測ですけど体質が改善されてかえって匂いが少なくなると思います」
翔鶴の解説に感心する。しかし納豆はハードルが高い。
「適度に汗をかいて老廃物を排出することも、匂いの軽減につながるそうです。それと、あまり念入りに洗わないほうがいいという話も」
みなが翔鶴の説明を傾聴していた。
「内部は蒸れやすく匂いもこもりがちですし、洗っておかないと饐えた臭いがしてしまいます。が、膣内には雑菌の繁殖を抑える成分がつねに分泌されています。あまり石鹸などでくまなく洗いすぎると、これらもまとめて流されてしまいますので、かえって雑菌がわいて臭いのもととなってしまうことがあります。外のビラビラは石鹸を使い、内部はシャワーで洗い流す程度に留めましょう」
「汗っかきだからって頻繁にシャワーを浴びていたら逆に臭くなるってのと似たようなものね」
アイオワは何度もうなずいた。
「素朴な疑問なんだけれど……」
沈黙を保っていたウォースパイトが手を挙げていた。
「そもそも前提として、ほんとうにAdmiralはLove juiceの味のちがいがわかるのかしら」
一理あると全員が思案した。執務室に隣接している給湯室にはいくつもコップがあったはずだと艦娘たちがほぼ同時に思い至る。
◇
尿意があったことは事実なので、提督は便所へ向かいながら、どう答えたものか思索することにした。“みんな美味いぞ”では納得するまい。衝突を避けるための玉虫色の答えであることを女というものは敏感に察知する。はっきりするまで追及の手を緩めないだろう。うまい手はないだろうか……廊下を歩いていると「司令官じゃん。なにしてんのさ」と声をかけるものがある。
駆逐艦敷波だった。ぷにぷにのほっぺが愛らしい。
「いまって旗艦とレクしてんじゃないの?」
提督はいきさつをかいつまんで話して聞かせた。また、どのような答えが彼女たちを沈静させうるか、知恵を借りたいと申し出た。蛇の道は蛇ではないが、女の子なら自分が頭を悩ますよりよい結果をもたらしてくれるにちがいない。提督は期待した。
「なっさけな……」
「面目ない。こういうとき男は使い物にならんのだ」
「まあ、司令官が困ってるっていうんなら、考えたげないこともないけどさ……」
敷波がほっぺをわずかに紅く染めた。
「で、ほんとはだれが一番なのさ」
「なんだって」
「あたしにだけ、あたしにだけ教えてよ。そんくらいいいじゃん。だれにも言わないからさ」
「いやそれは……」
「なんだよお、あたしにもほんとのこと言えないのかよ」
「つまり、だな」
提督はわざとらしくなにかに気づいた顔をした。
「小便のため中座してきたのだった。あああ、いまにもブローしてしまいそうだ。失礼する」
「あ、逃げないでよ司令官!」
提督は階段をまろびおちるように駆けおりた。本来の目的地に設定していたところより遠い便所へリルートする。
中庭で打ち水をしているのは独空母グラーフ・ツェッペリンであった。色素の薄い金の髪に白蠟のような肌が映えている。
「なんだ、Admiralか。この時刻にめずらしいな」
「実はな……」
信頼できそうな相手をみつけた提督は、一部始終を語ったうえで、あの場を丸く収めるにはどうすればよいか教えを乞うた。実直な空母艦娘は秀麗な美貌に呆れを浮かべた。
「しかたのないひとだな」
「いまこの星で、わたしを置いて自業自得のモデルケースたりうる存在はいないだろう。きみの助けが必要だ」
「しかし、なんであれ、あなたに頼ってもらえるのは悪い気はしない」
提督は愁眉をひらいた。彼女から答えをもらって帰れば円満に解決するだろう。
「Admiral, その前にひとつ訊きたいが……」
「答えよう。わが誠実さを証明させてくれ」
「実際、だれのが一番なのだ」
「なんだって」
「このGraf Zeppelin, 口の堅さには自信がある。わたしにだけはほんとうのことを言ってくれてかまわないぞ。それでその、もしわたしが一番だったりしたら、まぁなんというか、うれしくないこともないが……」
提督は「漏水警報だ。すまないがこの話はまたの機会に」とその場を辞した。あとには呆気にとられたグラーフ・ツェッペリンが残された。
用を足してからわざと遠回りをしていると、こんどは駆逐艦初月と遭遇した。これから装備点検だという。長十センチ砲の改修案について姉の秋月から聞いたかどうか尋ねられた。席を外してきたのでまだであると答えると、
「なぜ途中で中座してまでこんな離れたところまできたんだ」
もっともなことを質された。提督は事情を包み隠さず話し、名案が浮かぶまで帰れないのだと明かした。当然ながら救いようがないという顔をされる。
「まったくおまえという奴は……」
「返す言葉もない」
「まあ、僕は、おまえがほんとうはだれのが一番美味しいと思っているのかなんて、興味はない」
「助かる」
「興味はないけど」初月が続ける。「提督が、どうしても僕にだけは打ち明けたいというのであれば、聞いてあげないこともない」
「なんだって」
「隠したままだと、おまえも気分が悪いんじゃないか? 僕が聞いてあげるよ。ほんとのことを言ってごらん」
「それは、だな」
「強情な奴だ。僕がだれかに口外するとでも?」
「まさか。きみはそんな女性じゃない」
「だろう。さあ、教えてくれ。だれが最高の美味なんだ?」
提督は、芝居がかったしぐさで腕時計をみつめ、
「おや、もうこんな時間! すまないがこれで帰らせてもらおう、協力感謝する。長十センチ砲の改修については善処する。では」
初月の「意気地なし! もう赤ちゃんプレイはおあずけだからな!」という死刑宣告を背中に刺されながらも、そそくさと撤収したのだった。
答えが用意できないまま、重い足取りで執務室に帰ると、テーブルにコップが並べられていた。人数ぶんある。透明な液体が底から指一本ぶんの太さ、つまりウィスキーでいうところのシングルだけ入れられている。気のせいか艦娘たちはみな息があがっているようだった。磯風にいたっては満身創痍であるかのように突っ伏している。
提督があとずさりする。予感があった。第六感のお告げがあったのだ。
ウォースパイトが滑らかな指を提督に突きつけた。
「そもそも、Admiralがほんとうに個艦のLove juiceの味を判別できるのかどうか、失礼ながら確かめさせてもらいます。そう、利き酒ならぬ、利きマ……」
「その前にうかがっておきたい」
提督はウォースパイトを遮った。
「きみらは、鼻水をすすることはあるか?」
とまどいながらも全員がうなずいた。よし、と提督は勝利を確信した。
「鼻汁をすすることはできても、ティッシュにかんだ鼻汁を舐めることはできまい?」
顎を引いた艦娘たちの眼に理解の閃光。
「それとおなじだ。わたしはラブジュースは直飲みでしか受け付けられん。コップに注がれた状態では、それはティッシュにかんだ鼻水なのだよ」
ウォースパイトらはうちひしがれた。コップにためるにあたってどれほどの苦労がともなったのか想像に難くない。
「なら、直飲みでテイスティングしていただければいいんじゃないでしょうか、目隠しでもして」
翔鶴に全員がふりかえる。執務室に生気がよみがえった。つぎに提督へと視線が集中する。提督は首を横に振った。
「わたしは味だけでなく、体臭でも、きみたちを同定できるんだ。だから直飲みしたとて、純粋に味だけをみることはできない」
「匂いを嗅いでしまうのなら、鼻を塞げばいいじゃないですか」
コマンダン・テストが大仰に声をあげるが、提督は揺るがない。
「嗅覚を遮断されたら、正確な味がわからなくなる」
その後もいかに提督に味を見分けられることを証明させるかについて、鼎が沸くような丁々発止の議論が繰り返された。
だしぬけに警報が鎮守府じゅうに響き渡った。提督と艦娘たちの目つきが瞬間的に変わる。ホット・スクランブル。付近を航行中の油槽船が深海棲艦の有力な通商破壊艦隊に襲撃されたとの通報をうけ、彼女らに出動命令が下されたのだ。提督は澱みなくてきぱきと指示をくだし、艦娘たちもまた獰猛な笑みを浮かべ、いっさいの遅滞なくしたがった。あわただしく執務室から出ていく。
あとに残されたのは、書記の駆逐艦藤波だけだった。もっとも後任の彼女は人間社会の風俗習慣を学ぶための行儀見習いも兼ねて書記に任命されていただけあって、いまだ常識に疎い。よってマン汁がどうのとすべてを真面目に書き連ねた議事録を「これホントに出していいのかしら」と内心疑問に思いながらも、言いつけられていたとおりに総務課へ送り届けた。人間の姿をえて間もないがために羞恥すら芽生えていないのである。藤波は仕事を果たしただけにすぎない。すなわち、議事録が通常どおり総務部から本部へ定期便で送られ、麗しき文書主義に則ってアナログからデジタルのデータベースに変換されるにあたって、コンピュータのキーを叩く担当者がその驚愕すべき内容を上司に相談し、その上司がさらに上司に持ちかけて上層部に知れわたり、提督の召喚につながったことについては、彼女の責ではあるまい。
出頭し市ヶ谷の本庁舎五階にある多目的会議室に通された提督を待っていたのは、統合幕僚長、海軍幕僚長、統合幕僚監部運用部長、統合幕僚監部首席法務官、統合幕僚監部首席後方補給官といった、そうそうたる面々であった。窓を背にして逆光を味方につけているためよけいに凄みがある。
統合幕僚長が口火を切った。
「よくぞ……いや、よくもこんな議事録を出してくれたな」統合幕僚長は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。
「すべて読ませてもらった。端的にいって問題では、ある。しかし、これほどまでに明け透けに話ができているということは、それほど彼女らと信頼関係を結んでいる証拠であるとも考えられる。事実、きみの麾下の艦隊は求められたとおりの結果を出している」
全軍の頂点にたつ統合幕僚長がファイルを閉じる。
「戦士には個人で戦う力、兵士にはチームで戦う力が必要だ。艦娘にはその両方が要求される。彼女たちは戦うために生まれてきたといってもいい。戦場では感情を本能的に最適化して制御できる。恐怖や不安といった不要な感情は任意に軽減、または排除している。PTSDも戦争神経症もない。われわれ人間よりはるかに戦争に特化しているといえる。だがそれだけでは足りないのだ。なにが必要なのか? わかるかな。物語だよ。なんのために戦うのか。全身全霊をかけるのか。いわゆるモティベーションの源となるのが、物語なのだ。ゆえに多くの国では兵士に愛国心をすりこみ、宗教によっては神のための戦いで死ねば天国へ行けると教えている。人は、いくらでも替えのきく乱数であることには耐えられない。だれもがかけがえのない主人公でいたいと願っている。承認欲求は人と動物の最大の相違点だ。彼女たちの心にも同様に承認欲求は実装されている。ひとりひとりが、自分はだれかにとっての特別だという物語を背負うことによって、現実に特別な存在となる。これは精神論ではなく統計で裏付けされている。われわれは士気の観点からも物語による自己実現性を軽視しない。物語によって彼女たちは英雄となれるのだよ」
慈父のような語り口だった。つぎに厳粛な職業軍人の顔へと戻る。
「今回の件は不問とする。召喚の履歴も一年で消える。ひきつづき彼女たちを任せる」
「ありがとうございます」
張りつめていた室内の空気が軟化する。
「ところでだな」
提督に休めと指示してから、統幕長がおもむろに口を開いた。
「きみが言いたくないのなら、べつに言わなくてもいい。言わなくてもいいが、きみがどうしても、われわれにだけ言ってしまいたいと、そういうのであれば、聞いてやらぬでもない」
軍の枢要たちが提督を凝視していた。背筋に悪寒が走る。まさか。
「で……けっきょく、だれが一番だったのだ?」
提督はその場にへなへなと崩れ落ちた。
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鎮守府のいちばん長い日
かねてより肛門を開発されていた仏戦艦リシュリューが、ついに機は熟したと提督を直腸で受け止め、延長戦のすえ尻を押さえながらも帰還してウォースパイトらに親指を立ててみせた、その翌朝のことである。鎮守府内の他愛ない罰ゲームで椅子に縛り付けられて『火垂るの墓』を全編視聴させられたアイオワが口から魂を出して放置されたまま夜明けを迎え、食堂でひとつだけ余ったプリンにアーク・ロイヤルとコマンダン・テストが同時に手を伸ばして固まり、第二次ファショダ事件の勃発が危ぶまれていたとき、執務室や寝室のある五階から提督の絶叫が響いた。提督はすぐさま搬送された。
提督の病状やいかに。敵もいない鎮守府で、しかもひとりで寝ていたはずの提督になにがあったのか。果たして提督を襲ったのは、女には思いもよらない事態だった。
「チンコが折れた?」
付き添いで同行している翔鶴から受け取ったメールを確かめて、思わず食堂で上げた駆逐艦長波の声も、すっとんきょうなものにならざるをえなかった。
「チンコって、折れるのか……」
駆逐艦朝霜もまた、さながらダイヤモンドは容易く燃えるとはじめて知ったときのような顔をした。
「提督のは、たしかに堅い。ガチガチだ。それゆえ折れるときはぽっきりいくんだろう」
露戦艦ガングートが左ほほの古傷を歪ませながらパイプの紫煙をくゆらせた。
「まるで
ガングートがリシュリューへ慇懃に帽子を脱いでみせる。
「よう、
「だれが
「なら
リシュリューが呆れたように空色の瞳をぐるぐる回した。十四世紀、ルイ十世の王妃マルグリットは、夜な夜なパリ市内で美男子を誘拐しては根城のネール塔で夜伽を務めさせ、用済みになると麻袋に石とともに詰め、塔の窓からセーヌ川に投げ捨てて殺していた。大デュマとフレデリック・ガイヤルデが彼女を題材に舞台劇『ネールの塔』を書き上げ、これを原作としてアベル・ガンスがメガホンをとり、『悪の塔』という映画が製作されている。
いっぽう、フレデゴンドは六世紀ごろのフランス北部ネウストリア王国の王妃である。色情狂と名高く、彼女を満足させられないとペニスや手足を切り落とされたため、男たちは必死になって奉仕したという。
「でもpénisが折れるなんて、聞いたことないわね、なにをしたのかしら」
リシュリューが頭を抱えながらも気を取り直して皆の疑問を代弁する。翔鶴からのメールには原因までは記されていない。
チンコが折れることを俗に陰茎骨折という。
「チンコには骨が入ってんのか?」
「Amiralが人間なら、ないはずよ」
長波にリシュリューが輝かんばかりの金髪を指に巻きながら応じた。
「ほとんどの哺乳類はpénisに骨をもつわ。Os de pénis……日本語でいうなら、陰茎骨かしら、この骨は、pénisを保持して、長時間の挿入を支援する役割があるの。陰茎骨はあらゆる骨のなかで最も個性的な特徴をもつわ。陰茎骨をみれば種を同定さえできるらしいわね。よくいわれるのがセイウチよ。セイウチの陰茎骨は六十サンチもある。けれど人間には陰茎骨がない。これはむしろ哺乳類としては異端なのよ」
リシュリューの解説にみなが聞き入る。
「お詳しいですねえ」
伊戦艦イタリアが、チョコレートリキュールをベースにコーヒーリキュールとウイスキー、それに生クリームを混ぜ、シナモンで香り付けしたジェントルマンズショコラを飲みながら感心する。しかもそのグラスはチョコを成型して作られたものだ。一見するとココアのようなジェントルマンズショコラは、このチョコ製のグラスをかじりつつ楽しんで真の完成をみる。
「Franceですもの」
リシュリューは涼しい顔で赤ワインを口にした。しかし尻には円座を敷いている。
「さすがFrance, エロいことばっかり博識なのね。コキュられろ」
「ちがうわよ。これはれっきとした学問なの」
伊戦艦ローマにリシュリューは口角泡飛ばして反論した。
フランスの動物学者といえばキュヴィエとジョフロワである。両者はともに十九世紀を代表する学者であり、ライヴァル関係にもあった。ふたりには近年になってよく学界で引用されるエピソードがある。
ときに一八三〇年、フランスの中心パリは空前の混乱にあった。ルイ十八世の後を襲った弟のシャルル十世が、兄譲りの反動的な政策をさらに推し進め、市民を弾圧、議会まで解散させようと図った。これに市民は反発し、ついには国王は追放された。世にいう七月革命である。ドラクロワの描いた有名な『民衆を導く自由の女神』はこの七月革命を題材にとっている。
「そういや以前、なんかのCMで、女優がその自由の女神に扮してるのがあったんだが」
長波が思い出していった。
「それみた提督が“オッパイが出ていない”って、やけに怒ってたな」
一同は神妙になった。女性の乳房は心理学において母性を象徴する。ドラクロワは自由の女神の乳房に市民の依るべき母性、つまり祖国を象徴させた。わざわざ画面のほぼ中央に丸出しのオッパイを配置していることからも歴然であるとおり、『民衆を導く自由の女神』は母国を意味するあのオッパイのためにあるといって差し支えない。よって、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のパロディで自由の女神のオッパイを隠すのは、
「それは、革命の精神に対する冒涜だぞ」
と、革命をこよなく愛するガングートが拳をテーブルに打ち下ろすほどの過誤なのである。ちなみに提督はオッパイが見たかっただけである。
で、そんな革命のさなか、ワイマール(ドイツ)のゲーテのもとに友人が訪れた。ゲーテは友人の顔をみるなり、
「パリのこの大事件をどう思う」
と尋ねた。
「かえすがえすも遺憾に思いますね。国王の追放も致し方ないでしょう」
友人にゲーテは苦笑いした。
「わたしが気にしているのは革命ではないよ。キュヴィエとジョフロワのアカデミーでの論争のことだ」
ちょうどそのころ、動物学の両雄、キュヴィエとジョフロワが動物のボディー・プランについて激論を戦わせ、学界を二分させていた。
キュヴィエは、神経系の形態から動物は大きく四つに分類できると主張した。脊椎動物、節足動物、軟体動物、棘皮動物(ウニやヒトデ、ナマコなど)である。脊椎動物では背中に神経系が走り、腹側に内臓がある。節足動物は逆に、背中に内臓があり、腹側を神経系が通っている(エビのワタをとるときに背中に包丁を入れることを思い出されたい)。こんな正反対の神経配置をしている動物同士がおなじ起源であるわけないだろう、最初からまったく別々の動物として地球に生まれたのだ、というのがキュヴィエの論だった。
これに対してジョフロワは、はるか古代には、脊椎動物や節足動物をふくめたすべての動物の原点となる、いわば最初の動物がいたはずだと考えた。そこからこんにちの多様な動物が分岐していった。だからあらゆる動物は同一のボディー・プランでできていると論じた。脊椎動物と節足動物の神経配置の違いも、脊椎動物がブリッジのように仰向けになって歩けばそのまま節足動物のボディー・プランになると考えればつじつまがあう。
人間や鳥、魚など、脊椎動物には共通のルーツがあるのではないかと考えていたゲーテにとっては、革命よりアカデミーの論争のほうがよほど気がかりだったのである。庶民の間ではまだ、人間は最初から人間、鳥は最初から鳥、魚は最初から魚と、進化そのものを否定する向きも多い時代だった。
論争ははっきりとした決着はつかなかったが、脊椎動物がブリッジしたら節足動物になるという発想はいささか突飛な印象があったらしく、キュヴィエの判定勝ちとみてよいとされた。
ところが二十世紀も終わりに近づいた一九九〇年代、脊椎動物の「背中側に神経系を作れ」と指令する遺伝子と、節足動物の「腹側に神経系を作れ」と指令する遺伝子には、互換性があることが判明した。
「というわけで、ハエとツメガエルの、お互いの神経系の位置を指令する遺伝子を入れ換えてみると」リシュリューがまくしたてた。「ハエの背中に脊椎動物よろしく神経系が作られ、逆にツメガエルの腹に神経系が生じた。これを以て、脊椎動物と節足動物には見た目ほどの隔絶はなく、かつては共通の
リシュリューは腰に手をあて、反対の手で黄金の髪を払った。
「だから、このFranceを代表するRichelieuの知的好奇心も当然というわけ」
「あんたの知的にはヤマイダレついてるでしょ」
ローマの嫌みもリシュリューの耳には届かない。フランスでは十七世紀ごろから有産階級のあいだで博物学が流行していたのは事実である。フランスの貴婦人が生物学の家庭教師にリンゴスガの幼虫の解剖を披露されて仰天しているという絵が残されている。
「わが国のUCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン。ロンドン大学を構成するカレッジのひとつ)で、人類学者のMatilda Brindleが数千種の哺乳類の交配を研究した結果、人間はオス同士の競争が少なく、交尾の時間も短いため、penis bone(陰茎骨)が不要になり、退化したと推測しているが」
アーク・ロイヤルがコマンダン・テストと二等分したプリンを味わいながらいった。今回のファショダ事件も互いの譲歩と高度な政治的判断で回避された。が、博物学大国たる英国の艦娘として、フランスに負けるわけにはいかなかった。
「人間の交尾は五分から七分とされている。でも、たとえばイタチでは八時間ものあいだ挿入しっぱなしになるそうよ」
アーク・ロイヤルはウォースパイトの紅茶を堪能しながら解説した。
「これは、自分の
「絶対に孕ますっていう鋼鉄の決意か……」
朝霜が興味深そうにうなずく。
「人間のpenisの形状も、
アーク・ロイヤルに各々が提督の怒張を思い浮かべた。血管の浮き出た幹と、艶々の先端部とを接続する段差。カリ首と俗称されるこの段差こそが膣内の精液を掻き出す部位である。そう考えると、膣に陰茎を前後に抽迭することにも意味があるとわかる。すでにほかのオスに注がれていた精液を掻き出し、自分の精液を送り込むわけである。
「ヒダにひっかかって気持ちいいってだけじゃなかったんだな……」
長波も生命の奥義の片鱗に触れて顔を輝かせた。
陰茎の形状からわかるとおり、オスは基本的にメスを信じてはいない。ほかのオスのお手つきになっている前提で進化している。ある調査によると、パートナーをもつ男女に、相手が浮気していると思うか否かアンケートをとったところ、「パートナーは浮気していると思う」と答えたもののうち、女性の正答(つまり、本当にパートナーが浮気していた)は六割だったのに対し、男性の正答は八割を超えていたという。
これは男の勘が鋭いのではなく、単に動物のオスというものが疑り深い性質をもつことによる。オスはとりあえずメスの浮気を疑う。証明のしようがないからである。子供の父親を知っているのは母親だけなのだ。
「哺乳類には、排卵が周期的ではなく、交尾をしてからでないと行われないものもいる」アーク・ロイヤルが補足していく。「このため、オスがpenisを挿入し、排卵されるまで待たなければならない。それで交尾が長くなる」
「オスが入らんと排卵せんというわけだな!」
ガングートが自信満々に言い放った。
「人間は一夫一妻制でメスを奪い合うことがほぼなく、また排卵も周期的に行われる。結果として交尾の時間が短くなり、penis boneが必要なくなったといわれている」
アーク・ロイヤルが取り合わずに結んだ。
「たしかに、提督は早いですね」
プリンに舌鼓を打ちながらコマンダン・テストがとろけるような顔でいった瞬間、全員に電撃が走った。豪勇をもって鳴るガングートが、さながらデフォルト直後のソ連のスーパーマーケットの、無を販売しているかのような陳列棚を目の当たりにしたかのようにうろたえ、アーク・ロイヤルは口を開けたままコマンダン・テストから目が離せず、ほかの面々も硬直した。
早いだって? 早い、遅いは相対的な評価であるからなにをもって定義するのか、それはそのときどきによる。たとえば高速戦艦と謳われた艦は数あれど、書類上で高速戦艦とはっきり明記されていた戦艦は一隻もない。時代や仮想敵国によって何ノットから高速と呼ぶかがいかようにも変わってくるからだ。
では提督の早いか遅いかはどう決めるのか。これは各自が決めるほかはない。要するに、自分がオーガズムを迎えるタイミングを基準点とすることになる。
問題は、ほかの艦娘たちは提督よりオーガズムが早いのかどうかである。提督のほうを先に絶頂させているならそれだけ彼女が性技に長けているということになる。艦娘たちの間ににわかに対抗意識が兆した。
「みなさんが提督と愛しあうときの平均時間はいかがですか」
第一次大戦の塹壕戦なみの膠着に、イタリアが議事進行役を買ってでた。昨晩提督に後ろの処女を捧げたリシュリューが手を挙げる。
「腸内洗浄の時間は前戯に入るの?」
まるでバナナはおやつに入るんですかとでもいうような問いに、ちょうどキュヴィエとジョフロワの論争よろしく艦娘たちが二分された。
「受け入れるための準備ですから、前戯といっていいのではないでしょうか」
コマンダン・テストのように述べるものもいれば、
「浣腸してウンコ出させて風呂場でケツにシャワー突っ込むんだろ? そりゃヤる前のひとっ風呂みてーなもんなんじゃねーか?」
朝霜に同意するものも多く、半々だった。成人女性の七割は便秘なので、腸内洗浄しないまま肛門性交に及ぶと、ベン・アフレックとマット・デイモンの映画『ドグマ』のワンシーンのような地獄を招来することになる。ともあれ、
「腸内洗浄を前戯とするなら、三時間。しないのなら二時間程度ね」
リシュリューは指を折って計算した。
ほか、サラトガとローマは二時間、イタリアは一時間半でザラはおよそ一時間、ポーラは「わかりません~」、朝霜は三十分とそれぞれ答えた。
コマンダン・テストはといえば、
「前戯と挿入から射精まで含めて、一回あたり十分です」
「十分……だと!」アーク・ロイヤルが驚きの声をあげた。「たしかに人間の交尾時間は二分だとはいったが、これはあくまで動物学的な話であって、健全な男女がbedの上で行う
動揺するアーク・ロイヤルに、隣席のウォースパイトが一回あたりの時間を尋ねる。
「二時間といったところだろうか。わたしが濡れにくい体質だからかもしれないが」
「I see. わたしはjuiceが多いほうだからCommandant testeとだいたいおなじくらいよ」
ウォースパイトが超濃厚なティムタムのチョコレート菓子をつまみながら同意を示す。二重のチョココーティングと堅めに練られたラズベリーソースがたまらない。
「一回十分だとどんな配分になるんだ」
アーク・ロイヤルはストロベリーブロンドの髪を揺らしてコマンダン・テストを質した。この水上機母艦がいうには、前戯が七分で挿入時間は三分ほどだという。
「三分……」
アーク・ロイヤルの膝は笑った。椅子の背もたれに後ろから掴まる。あまりの衝撃に立っているのがやっとだった。「神速じゃないか……!」
「長ければいいというものではないと思います」
コマンダン・テストはあくまで端然としていた。
「花火は一瞬しか咲かないから美しいのです。わたくしにとって夜の営みは、挿入も含めて前戯です。終わったあと、提督と一緒に寝て、朝、目が覚めたとき、愛しい人の胸のなかでその鼓動を感じる。わたしはそのことに幸せを感じます」
全員がフランスの水母に圧倒されていた。性交自体がオードブルという発想はなかった。
「あまり長いと疲れますし、恥骨のあたりが痛くなるじゃないですか。早く出てしまうくらい余裕をなくしてくれたほうがわたくしは自分に自信がもてます」とコマンダン・テストはワイングラスを傾けた。
独空母グラーフ・ツェッペリンに順番が回る。概念的な北方アーリア系の女性体を模しているにしても色白にすぎる彼女は、コーヒーを置いて、
「五時間ほどだな」
軽くいった。
場がざわついた。今度はあまりに長すぎる。五時間もいったいなにをするのか。
「まず、食事だ。たいていはふたりで作って、楽しむ。それで二時間だ。つぎに
「待てよ待て、メシから入んのか?」
長波が遮った。グラーフ・ツェッペリンは首をかしげる。
「違うのか?」
「メシとかシャワーはヤる内には入らないだろ」
「わたしにとっては、ふたりきりの食事がすでに前戯だ。見た目どおりわたしは血の巡りが悪い。だから気分を高めて、duscheやweinで体を温めてからでないと感じにくいんだ。Admiralも快く付き合ってくれる。わたしよりは酒が弱いようだが」
海綿体への血液の流入によって男性自身が勃起するように、女性もまた下半身の血行と性感の大きさは比例関係にある。グラーフ・ツェッペリンのように冷え症や血行不良の女性が夜を満喫するには時間をかけて温める必要があるのだ。
「食事や、酒を酌み交わしたりは、しないのか?」
「しないよ、めんどくせえじゃんか。早くヤりたいだろ。じれったい」
グラーフ・ツェッペリンに長波があぐらをかいて当然という顔で返した。独空母の麗容に感情の波紋が掠める。
「つかぬことを訊くが、貴公どのようにAdmiralとするのだ」
長波が腕を組んで思い出そうとする。
「どのようにって、約束の時間に部屋へ行くだろ、そのまんまお互いを貪りあうようにむしゃぶりついて、グワーッと挿れて、ドワーッと出されて、だけど」
グラーフ・ツェッペリンのみならず、リシュリューやアーク・ロイヤル、ビスマルクらが、とかげでも呑まされたような顔になった。
「いきなりか? 雰囲気を演出したり、
「小娘かよ。いまさらそんなんしなくても気持ちなんかわかりあえてるだろ、きのう、きょうの付き合いじゃあるまいし」
「いや、たしかにそれはそうでも、しかし、順序というものがあるだろう」
グラーフ・ツェッペリンに欧米艦娘たちが肯んじる。
「
「ああ。ヤってるうちに火がつく」
「率直にいって不気味だな……」
ドイツの空母艦娘は呟いた。欧米艦娘たちはみな、性交を獣への回帰とみている。グラーフ・ツェッペリンほどではないにしろ、食事や酒、あるいは映画を一緒に観たりして、まるで贈り物の包装のように理性を一枚一枚丁寧に剥がしていき、人から徐々に獣へと移行する。まるで排泄のようにいきなり事に及ぶほうがむしろ少数派なのかもしれなかった。グラーフ・ツェッペリンが秀でた顎に手を当てる。
「Admiralも、そのほうがいいのだろうか」
「なにが?」
長波が訊き返した。
「事前に時間をかけるほうがわたしはいいが、Admiralは本当は早くはじめたいのかもしれない……」
「あれは相手に合わせるのが好きなだけだから、やりたいようにリクエストしたんでいいんじゃね」
「そうか。ならいいが、たまには、けだもののように、はしたなく交わるのもいいかもしれないな」
「じゃあ、あたしもハグとかしてみっかなぁ」
「なかなか幸せな気持ちになれるぞ。人間は、信頼する相手の体温を、心地いいと、感じるようできているらしいからな」グラーフ・ツェッペリンが勧める。
なお、人間の場合、高等教育を受けている者ほど早漏の傾向にあるという。
「では、回数はいかがですか」イタリアが柔和な笑顔のまま皆に訊く。「わたしは三回がちょうどいいのですけど」
アーク・ロイヤルが五回と回答し、グラーフ・ツェッペリンが六回と答えた以外は、イタリアとおなじく三回という艦娘がほとんどだった。これは妥当な数字といえた。人間も男女ともに三回がベストとする者が最も多い。そのためアダルトビデオの女優は基本的に一本の撮影でセックスは三回までと契約で決められている。四回以上セックスする場合は追加の報酬を女優に払わねばならない。女優の体力面への考慮でもあるし、客である男性にとっても三回より多いと冗長に映る。
「Amiralのもっている
リシュリューが得心する。そもそもポルノはフランス語である。
「ところで、先日amiralに見せてもらったpornographieで、
「しない、しない。あれは演技っつうかファンタジーだから」
リシュリューの疑問に朝霜がひらひらと手を振る。
「事前にしこたま水でも飲んでんじゃねえの? で、タイミング合わせてションベンしてるだけだろ。プロの仕事よ。AVを真に受けちゃいけない」
「なぁんだ、よかった」
リシュリューが安堵の笑みを洩らしたときである。
「いい加減にして!」
怒声が響いた。全員がその方向を向く。
海防艦国後だった。離れた席でひとり朝食を摂っているところらしかった。小さな体に怒気をみなぎらせている。
「さっきから、あんたたち、なにを話してるわけ? こんな朝っぱらから、うら若い乙女が、そんな汚ならしい話題で盛り上がって、下品だと思わないの?」
国後にリシュリューたちが顔を見合わせる。
「汚ならしい話題って、どんな?」
「たとえば、お、お、おちん……」
答えようとした国後の可愛らしい顔がゆでダコのように赤くなっていく。悠然と構えるリシュリューには国後の頭上に湯気さえみえた。
「聞こえないわ。なんですって?」
「だから! おち……んち……とか!」
涙目になっている国後の言葉はどうしても消え入るように歯抜けになってしまい、聞き取れない。
「え? チンコ?」朝霜がいった。
「Penis?」ウォースパイトがいった。
「La bite?」リシュリューがいった。
「хуй?」ガングートがいった。
「Cazzo?」ローマがいった。
「Dick?」サラトガがいった。
「Schwanz?」グラーフ・ツェッペリンがいった。
「え? チンコ?」長波がいった。
「だから、そういうことを白昼堂々いうなっつってんの!」
「どうして? 恥ずかしがることないじゃない。可愛い顔して、あなたもamiralとしてるんでしょ?」
リシュリューに国後はたじろぐ。
長波が気づく。
「国後、おまえ、まさか、まだなのか?」
「あたりまえじゃないの!」
「提督とどころか、そもそもヤったことなかったり?」
「そうよ! なにかおかしい?」
察した多国籍の艦娘たちが一様に国後を見つめる。処女でないものが処女をみる目は、童貞でないものが童貞をみる目より遥かに冷たい。憐れみが混じっている。
「悪いこといわねーから、処女なんて余計な荷物は早めに捨てとけ。大事に持ってても重いし腐るだけだぞ」
朝霜が肩をすくめてため息をつきながらいった。
「汚らわしい!」国後は烈火のように激怒した。「あの司令官、とんでもない変態なんだから!」
「おまえはクソをするたび、クソに向かって“なんでおまえは臭いんだ”っていちいち文句つけてんのか?」
「択捉と松輪も……あいつの毒牙にかかって……」
国後が荒涼たる凍土に置き去りにされたかのように震え、自らを抱きしめる。
こういうことがあった。
過日、夜遅くに、海防艦択捉は、勇気を振り絞り、単身で執務室を訪ねた。
「妹の、松輪の解体はだれが決定したんです?」
択捉は入室するなり提督に質した。執務中だった提督は択捉をちらりとみて、
「わたしだが」
「なぜ解体なさるのですか」
択捉は執務机に身を乗り出して難詰した。松輪はあした解体されると内示があったのだった。
「海防艦とは対潜に特化した艦娘だ。きみや占守、国後は期待どおりの働きをしてくれている。しかし……」
「妹が、松輪が、なにか粗相でもいたしましたか」
「松輪は、潜水艦を極端に恐れている。言葉は悪いが海防艦は潜水艦狩り以外にはさほど使い道がない。いわば唯一の取り柄である対潜で成果が挙げられないようでは、わたしとしても、上層部から庇いきれるものではない」
「そんな」
択捉の大きな瞳が潤んだ。
「松輪は、やっと会えた、わたしの大切な妹です。潜水艦への恐怖は、わたしが克服させます。どうか再考を願えませんか」
「すでに決まったことだ。明朝、解体の上申書をだすことになっている」
非情な宣告に択捉がよろめく。
「だが」提督は、予備爆雷を装着させる択捉の太もものベルトを一瞥した。ベルトが食い込んだ太ももの肉付きは、まだ幼稚園児から小学校低学年ほどの外見年齢の択捉に、えもいわれぬ悩ましさを与えていた。「艦娘の処遇については、わたしに責任がある。わたしが上申書をださなければ松輪は解体されることはない」
択捉の目を見据える。
「本来は解体しなければならない艦娘の処分を保留する……わたしは上層部からまたぞろ責め立てられるだろうな」
択捉が話の推移に混乱する。
「わたしにその無理をさせるために、きみはなにを差し出せる?」
「なにを……」
提督に択捉は口をぱくぱくさせた。
「わたしに、なにをさせたいんですか」
「それをわたしがいえば脅迫になる。対価になるときみが思えるものを、きみ自身の口でいうしかない」
ああ、なんという無慈悲。部屋がぐわんぐわんと揺れている錯覚に陥る。いまの択捉には提督が角の生えた悪魔のように思われてくる。
「あなたは、最低です。自分がなにをいっているのかわかっているんですか」
「嫌ならいいんだよ、きみはなにもしなくても。わたしは強制はしない。予定どおり上申書を提出するだけだ」
択捉はスカートをぎゅうっと握りしめた。
「司令を納得させれば、妹は、助かるんですね」
その確認は、契約成立とほぼ同義だった。
「保証しよう。人間は利害が絡むかぎりは裏切らない」
択捉は固くまぶたを閉じた。透明な涙が流れる。松輪のため……妹のため……。択捉は覚悟を定めるしかなかった。わたしひとりが我慢すれば……。
「体をきれいにしてきますから……寝室でお待ちいただけますか」
提督の唇が邪悪な三日月を描いていることに択捉は気づかない。
「そのあいだにわたしの気が変わるかもしれないな」
択捉の幼い顔が絶望に塗り込められていく。どこまで尊厳を奪えば気がすむのか。ともあれほかに手段がない。妹を救えるのは自分だけなのだ。太もものベルトを外す。
「あの、せめて、向こうを向いててください……」
必死の懇願も、
「おや、わたしにはきみがなにをするのかわからないから、向こうを向く理由がないな」
無情に跳ねのけられてしまう。涙がとめどなくこぼれて、床にぱたぱたと落ちる。自分はとんでもないことをしようとしている。きっとだれにも相談できない。後戻りもできないだろう。脳裡に松輪の儚い笑顔がよぎった。松輪、お姉ちゃんは頑張るからね、勇気をちょうだい……。提督の無遠慮な視線に晒されながら、択捉はレギンスを下ろした。すべすべの太もも、毛穴すらないような脛、細い足首を通過したレギンスから、右足、左足の順で抜いて床に置く。足の震えが止まらない。
「寒いのかな? そのわりには、どうして脱いでいるんだろうね?」
提督の笑いが択捉の羞恥を煽った。すべてわかっているはずなのに、なんて非道な……。哀しみと恐れで、択捉の頭はいまや麻のように絡まっていて、わけがわからなくなっている。
パンツに指をかける。最後の一線を越えることに対する抵抗感が生じて、択捉の動きが止まった。まだ……まだ引き下がれる……。
「わたしも、そう時間が余っているわけじゃないんだ。するなら早くしてくれないかな。きみの妹がどうなってもいいならね」
そこを突かれると、もう択捉はなにもいえないのである。択捉は唇をキュッと引き結び、精一杯に提督を睨みつけたが、それがなんの痛痒も与えていないとわかると、ついに観念してパンツを下ろし、あんよから抜いた。そして、プリーツスカートの両端を持ち上げ、なにも穿いてない中身を露にした。生まれたてにも等しい無垢である。
「司令……ご無理を申し上げるかわりに……どうか、どうか、この択捉をお使いください……」
恥辱と情けなさにとても提督の顔を直視などできなかったが、嗚咽を漏らしながらも、なんとか、それだけいえた。
近づいた提督は、指で択捉の顎を上に向けさせた。
「いい顔だ。きみの誠意が本物か、じっくりみせてもらおう」
択捉の花は無惨にも散らされた。
息も絶え絶えになりながら、択捉は、
「後生ですから……松輪には黙っていてください。そして、松輪には、手を出さないでください」
「姉妹愛とは、かくも美しいな。約束しよう」
だが、その夜だけですべてが終わったわけではなかった。
「きみが対価を支払うかぎり、わたしもきみの要求を受け入れる。対価がなくなれば、わたしは粛々と業務を遂行する。当然だろう?」
夜毎、体を開かねば翌日には松輪を解体するとちらつかせたのだ。択捉の瞳にはなにも映らなくなった。きょうで何日めなのか、もはや数えるのもおっくうだった。なにも考えなければなにも感じなくてすむ。
惰性的に寝室を訪れ、ノックしようとしたとき、熱っぽい声が室内から漏れた。択捉の血液が逆流した。知っている、この声は、いや、そんなはずはない!
力任せに扉を開け放った択捉の目に飛びこんできたのは、提督の上で嬌声をあげ続ける松輪の、あられもない姿だった。
「やあ、択捉。遅かったね」
「司令、これは、どういうことです」
択捉はなおも眼前の光景が現実のものとは思えなかった。歯ががちがちと鳴った。うそだ、こんなのうそだ。
「妹には手を出さないって、約束したじゃないですか」
と、やっとそれだけいえた。
「勘違いしないでくれ。わたしはなにも彼女に話していない。松輪のほうから接触してきたんだ。お姉さんの様子がおかしいってね」
択捉の顔から表情がなくなった。気づかれまいと努力していたが、姉妹の直感はごまかせるものではなかったのだ。逆の立場ならきっと択捉も松輪の異変に勘づいただろう。そうでなければ姉妹失格だからだ。
「この子は、自分の置かれた立場がよくわかっていた。解体されてもやむをえない自分に未だなんの沙汰もない理由まで察していたよ。それでわたしにこういった……」
わたしが姉の代わりになりますから、姉にお慈悲をください。
「きみたちの姉妹愛にわたしは感動させられどおしだ。それに松輪は、具合もいい。みたまえ」
松輪はふたりの問答もきかず一心不乱に小振りな尻を上下させていた。その花びらのような唇から漏れているのは、苦痛や悲鳴ではなく、歓喜と快楽の甘い旋律だった。
「意外な才能だ。作戦などよりこちらのほうが向いている。最初からこの子に頼んでおいたほうがよかったかもしれないな」
そのとき択捉の胸に生じていたのは、妹が汚されていることへの怒りなどではなく、意外にも妹への嫉妬だった。択捉は自分でも気がつかないうちに、いつのまにか女になっていたのだ。女の本能のままふたりに飛びかかる。
「妹を、妹を辱しめないで。わたしが代わりになるから」
「だめだよ択捉お姉ちゃん、いまはわたしの番なんだからぁ……」
提督の上にふたりの幼女が被さるかたちとなった。
「なら、先にわたしを満足させてくれたほうの言うことを聞こう」
提督の提案に、幼い姉妹が競うように熱狂した。
……という内容の台本を、提督が択捉と松輪に渡したのである。択捉は耳まで紅潮させながらも食い入るように読み込んだが、妹の松輪は目を通すなり、おもむろに顔をあげて、
「あの……司令、こんな回りくどいことするくらいなら、その、最初から三人ですればいいのでは……」
「シチュエーションというものは大切なんだ。愛し合う関係といえど、性生活には変化も必要なのだよ」
「それに……ここのわたしの台詞ですけど……わたしと交わっている司令が果てようとしていると察したときの台詞……」
「どれかな。読んでみてくれないか」
「“司令、松輪はまだ赤ちゃんができる体じゃないので、中で大丈夫です。中にください!”……これです」
「自画自賛ながら会心の出来だ」
「わたしたちはそもそも妊娠しないので、その、これは意味がない台詞だと思うのですが……」
「それも役作りの一環だよ」
「そういうものでしょうか……」
どこまでも可愛らしい首をかしげた。実際、提督が平伏して頼み込んで、ようやく松輪は了承したのである。
はじめてみると、択捉も松輪も最初こそぎこちなく、熱も入っていなかったが、そのうち役に没入しだして、ついには普段からは想像もできないほどに熱く燃えて乱れた。設定を付与することで違う自分になれる。女は生まれながらにして女優なのである。熱中のあまり、松輪の可憐な唇から、
「お姉ちゃん、さきに妊娠したほうが勝ちだからね!」
などと台本にない台詞まで飛び出すほどだった。
いきさつを話し終えた国後は顔面蒼白になっていた。
「いまじゃあ、択捉も松輪も、あんたたちみたいにどうすればもっと気持ちよくなれるか、あいつを気持ちよくさせられるか、話題はそればっかりよ。聞かされるこっちの身にもなりなさいよ」
「おまえも早くこっち側に来いよ。悩んでんのがバカみてえに思えるぜ」
朝霜の言葉も国後には届かないようだった。
「あんな畜生のが折れただなんて、いい気味。天罰よ!」
国後は荒々しい外股で食堂から出ていった。
ひとりになったあと、国後が思い詰めた顔で、
「そんなに、いいものなのかな……」
と、ひとりごちたが、それを聞き届けた者はいない。
「そうだった、提督のチンコが折れたって話をしてたんだった。チンコの骨がなんとか」
国後が去ってすぐ、長波がたなごころを打った。
「人間に
米空母サラトガがキリスト教の観点から陰茎骨に迫る。朝霜が疑わしげな目となる。
「イヴってアダムのあばらからできたんじゃねえのかよ」
旧約聖書創世記第二章二十二にはこうある。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
「原語となる
「いやあ、でもさあ、あばらじゃないにしてもさあ、よりにもよってチンコの骨はどうかと思うなあ」
朝霜はなおも懐疑的だった。
「Tselaが陰茎骨であると考えると、いろいろとつじつまが合うんです。神話は自然界の不思議な現象に説明をつけるために作られることがしばしばあります。たとえば男性の喉が膨らんでいるのは、Adamが林檎を食べたときに喉に詰まらせた名残であり、原罪の象徴だとしています。
リドリー・スコットの映画『グラディエーター』の冒頭で、ラッセル・クロウ演じるマキシマスの見送っている鳥がロビンである。その後のマキシマスの受難を予感させる演出となっている。
「ほかの動物たちと違って人間に陰茎骨がないことの理由を、神に取られたからだとした可能性があります。じつは男女で肋骨の数が違うということはないので、EveがAdamの肋骨から創造されたのでは、むしろつじつまが合いません」
「あら、では女には
ウォースパイトがなめらかな頬に手を当てた。英国にはスペアリブという名のフェミニズム雑誌があった。英国らしいネーミングといえる。
「そんなこんなで、チンコには骨がないってことはわかったが」長波が総括した。「骨もないのにぽっきり折れるなんて、ありうるんだな」
「正確には、海綿体挫傷、または陰茎折症といいます。勃起硬度が高いほど起こりやすいそうです」
ウォースパイトが長いまつ毛の影を頬に落として述べた。
「昨晩、最後にadmiralと寝たのは……」
ウォースパイトの目がリシュリューに動く。美貌の仏戦艦が柳眉をあげる。
「Richelieuのせいだっていいたいの?」
「
「いくらなんでもanusでdickへし折るなんて無理よ」
日本のほうが欧米より大便の量は二倍も多い。そのかわり日本の便は柔らかい。食生活が炭水化物中心だからである。
対して肉食中心の欧米は便がようかんなみに固く、それをねじ切るために括約筋は自然と鍛えられている。つまり、欧米の肛門は日本より締まりがいいのだ。
「このガングートの尻も、提督は“食いちぎられそうだ”と堪能していたぞ」
ガングートが自慢する。直後、コマンダン・テストののほほんとした顔に落雷。
「男性は、だれしも
コマンダン・テストに注目が集まる。ヴァギナ・デンタータへの恐怖は、膣が口にみえることや、どんな美人も女性器は男からすれば別の生き物のようにグロテスクであることに起因するという。昔の人々が膣を口と見なしていたからこそ、
コマンダン・テストが世紀の発見をしたような神妙な表情で続けた。
「Anusに食いちぎられるなら、それはいうなれば、
放射状に牙の生え揃った肛門が開閉するさまをみなが想像する。
「なんかアノマロカリスの口みてえだ」
長波がにやにやしながらいった。
「しかし、vaginaが気持ち悪いとは失礼な話ね。Penisもかなりuglyだと思うけど」
アーク・ロイヤルが提起する。
「わたしもはじめて見たときは、うげーってなったわ。あまつさえこれを
リシュリューが優雅に笑いながら同意する。陰茎によい第一印象を抱く女性は少ない。まして、フェラチオをしたがる女性はほとんどいない。それでも彼女たちがフェラチオをするのは、
「気持ちよくなってくれるなら、やりがいもあるもの。感じてる情けない顔もみることができるし、出させたら、なんだか勝った気分になれるし」
と、ローマが語るとおりである。
「あたいは、あんましたくないなあ、フェラ。顎がガクガクになっちまう。歯ァ立てねえように気ィつけんのもさあ、めんどくさいし」
朝霜が難色を示す。リシュリューが流し目をよこす。
「でも、fellationをしていると頬や顎まわりの筋肉が鍛えられるせいで引き締まって、結果的に小顔にみえるようになるらしいわよ」
「やるわ。今度からチンコ吸うわ」朝霜は瞬時に転舵した。「で、精液は飲んだほうがいいのか? 吐いてもいいのか?」
難題である。飲むにはコツがいる。精液はタケノコの灰汁のように渋く、苦く、青臭く、恐ろしくまずい上に、ひどくねばつくのでなかなか飲めないが、かといってくずぐずして一気に飲み下してしまわないと、喉にひっかかってイガイガが翌朝まで残る。
「飲むと喜ぶのは間違いないので、飲んであげたいところですけど、無理して飲んでもお腹を壊してしまいますし、出そうになったら体にかけてもらうとかでいいんじゃないでしょうか」
イタリアが折衷案を出した。
朝霜も得心する。ふと思い出す。
「霞のやつがこないだ飲んだっていってたっけなあ。飲んだあと、こんなこといったらしいんだ……」
“うぇ、苦くて臭くて不味い……。こんなの、あんたのじゃなかったら、とてもじゃないけど飲めないわ……”
「いろいろタガが外れて、変なテンションになってたんだろうなあ」
微笑ましい空気に食堂が包まれる。
「どうしても飲めない場合は吐いていいのよ」
リシュリューが教える。
「オエーッてあからさまに吐くと引かれるから、ちょっと工夫するの。両掌にネバーッと垂らすようにして、恍惚とした顔で“ああ……こんなにいっぱい……うれしいわ”とかいっとけばたいていの男は満足するから。手に受け止めた
ほうほう、と朝霜が聞き入る。
そこへ翔鶴が帰ってきた。
「ただ単に、朝にお元気になっている状態で寝返りを打ったときにベッドから落ちて、それで折れたのだそうです」事の全容をせがまれた翔鶴が簡潔に報告した。「だからわたしはベッドよりお布団のほうがいいとお勧めしてましたのに」
「なあんだ、そんなことか」
長波が拍子抜けしたようにいった。
「さいわい処置が早かったので、治療も問題ないとのことです」
「で、
リシュリューが訊ねた。どの艦娘たちも楽観視している。
「一週間だそうです」
一同がその返答を噛みしめる。最低でも一週間はお預けだ。
「一週間……クンニしてもらえない……Admiralのクンニ……」
明確な意思の光をなくした瞳で虚空を見つめながらうわごとを呟くウォースパイトとは対照的に、リシュリューは平然としていた。
「休養と考えればいいんじゃない。ああも頻繁に求められたら壊れてしまうわ。すこしは体を休めなきゃ」
で、六日後のことである。リシュリューは鎮守府の廊下の壁にしなだれかかり、満身創痍のように息を切らせていた。
「どうかされましたか、Richelieu?」
コマンダン・テストに、リシュリューは上気させた顔をむけた。もとより美形であるが、いま、色素の薄い瞳は悩ましく濡れて、ほくろがひとつ乗る下唇は桃色の艶を放ち、乱れた金髪もあいまって、期せずして天上の造形美を成していた。同性のコマンダン・テストでさえ、美しい、と思わず陶然としてしまうほどの色香である。熱い吐息とともに、リシュリューは偽らざる胸のうちを明かした。
「尻が疼くのよ」
「そんな、珍島物語みたいな調子でいわれましても」
「やっぱり一週間なんて無理よ。いまやRichelieuのお尻はAmiralなしではただの空虚な穴。どうしてAmiralはdickを折ってしまったの」
「おもちゃでも挿れてみては?」
「だめよ、あのかたち、あの熱、あの固さ……AmiralのじゃないとRichelieuのお尻は拒絶反応を起こしてしまうのよ。ああ、ひどいわ、Mon amiral.」
リシュリューが天を呪っていると、たまたま駆逐艦夕雲が通りかかった。夕雲型の長姉はリシュリューの現状を一目で看破した。
「つらいのですか? あしたまで、どうしても耐えられませんか?」
「一秒ごとに身を刻まれる思いだわ」
リシュリューが吐露すると、夕雲は「じゃあ」と慈母のように微笑みかけた。
「わたしで、我慢していただけませんか?」
「なんですって?」
「提督の代わりなど到底務まりませんし、ご満足いただけるかはわかりませんが、リシュリューさんの苦しみや哀しみ、できうるかぎり、この夕雲が受け止めます」
夕雲はおのが制服のリボンタイを緩めてみせた。夕雲のまだあどけなさを留める顔は、余裕を装っているようで、羞恥を隠しきれておらず、それがかえって劣情を呼び起こした。
劣情だって? 自分が目の前の少女に欲情していることにリシュリューは激しく動揺した。獣欲はもはや臨界点に到達している。いまなら女の子とでも寝てしまいそうだ。それは否定できなかった。
それにしてもこの夕雲の健気さをみよ! おそらくは女と交わる趣味などないであろうに、ただ目の前の迷える子羊を救わんがために自らの貞操さえ捧げられる、その無限の慈愛をみよ! 恥も外聞もかなぐり捨てて彼女の胸に飛びこんでしまいたいというこの衝動こそが、以前プリンツ・オイゲンに教えてもらったbabumiとやらではないかとリシュリューは打ち震えている。
「さあ、きてください。今夜だけは、夕雲は、あなたのものです」
両腕を広げて迎える夕雲に、リシュリューの手が本人の意思とは関係なく伸びる。指先が触れようとしたところで、背後から絶対零度の視線を感じ、電光の速度で振り返る。
ガングートが廊下の角から顔を半分だけ覗かせていた。無表情のままリシュリューに告げる。
「わが国では、ゲイを殺しても裁判で無罪が勝ち取れる」
「ウソおっしゃい!」
「わたしをみろ。まばたきも許さぬ早さでドイツに降伏したきさまには、スターリングラードを守り抜いたわがロシアの忍耐は真似できまい」
頭に血が昇り、それがかえってリシュリューを惑乱から立ち戻らせた。夕雲に伸ばした右腕を左手で掴んで引き戻す。代替ですませようとしていた先刻の自分を唾棄してやりたかった。
「そうね、Mon amiralは、あしたお帰りですもの。あと一日くらいどうってことないわ。わたしはRichelieuよ」
宣言に、夕雲がリボンタイを締め直す。少女ではなく、手練手管を駆使する女の顔になっていた。
「おなじ方を愛する者どうしとして、安心しました」
リシュリューの硬質陶器のような横顔に、汗がひとすじ追加される。試されていた。女の敵は女なのだ。
夕雲とガングートが去ったのち、なおも足取りの重いリシュリューに声をかけるものがあった。国後である。リシュリューと話す機会を伺っていたことは歴然だった。
「聞きたいことがあるんだけど」
「誘惑しても無駄よ。もうRichelieuは負けやしないんだから」
禁断症状に見舞われているリシュリューに、国後は小さな体をもじもじとさせながら、意を決して対峙した。
「あんな司令の、どこがいいの?」
リシュリューの瞳が、すうっと縮まった。自由、平等、博愛、そして恋愛の国からやってきた仏戦艦娘は、国後の問いの裏に隠された、その真意をも一瞬で見抜いた。
「たとえば、女が男を、そうね、顔とか、収入とか、持っている車で選んだら、まあ非難されるわよね。即物的だの、上っ面しかみていないだの、内面への愛こそ本物の愛だのってね」
予期せぬリシュリューの返答に国後が混乱をみせる。
「では女が男を選ぶにあたって推奨される理由って、なにかしら。誠実さ? 目標に向けて努力している? 優しくしてくれるとか? わたしたち艦娘でいえば、作戦で有用に使ってくれる指揮官?」
リシュリューはゆっくりとした語調で言い聞かせた。国後も必死に話についてこようとしている。
「でもそれらの理由って、顔や年収とどれほどの違いがあると思う? 顔さえよければだれでもいいのか。お金さえあればだれでも、いい車に乗っていればだれでも……」リシュリューはいったん言葉を切ってから、続けた。「誠実ならだれでもいいのか、努力している男ならだれでもいいのか。優しくしてくれるならだれでも、有能な指揮官にならだれでも股を開くのか。究極的にはそういうことになる」
リシュリューの言葉の砲弾は、いつしか国後を夾叉し、散布界に収めていた。
「要素を理由にして愛している以上、外面だろうが内面だろうが、さほどの差はないのよ。その要素がなければ彼を愛さなかったという点ではおなじですもの」
ついに国後に直撃弾が落ちる。
「RichelieuがあのAmiralを愛しているのは、あの人があの人だから、としかいいようがないわ。だから愛は厄介なの。顔とか社会的地位で選ぶ打算的な愛のほうが、よほど合理的だし幸せになれる。でも愛は制御できない。だれを愛するかは本人にさえ選べない。もし、一見どこにも魅力がない、仕事もろくにせず、昼からお酒を飲んでるようなヒモを愛してしまったときは、まさに悲劇よ。好きになったその人がその人であるかぎり、愛が終わらないから離れたくても離れられないの。ほとんど病気よね。恋患いとは、よくいったものだわ」
国後は容赦ない集中砲火に打ちのめされていた。反撃すらできない。恋愛の戦場においてあまりに経験がちがっていた。
「愛は理屈じゃないこともままあるのよ。愛のせいで損することだってある。でも人生なんて、結局は“
笑いをこぼして、国後に手を差しのべる。
「自分に素直になってみたらどう? なんなら、Amiralが帰ってきたら、順番を譲ってあげるわ」
国後はとたんにどきまぎしはじめた。
「だれが、あんな奴となんか!」
きびすを返し、走り去ろうとして、立ち止まる。
「……ありがと」
聞こえるか聞こえないかという小さな小さな声で、背を向けたままぽつりと呟き、今度こそ去っていった。
リシュリューが微笑で見送る。その肩にコマンダン・テストが手を置き、尋ねる。
「で、本音は?」
「お尻がMon amiralを求めて泣いているわ……もう顔から出せる液体は全部出た気がする」
翌日、提督がぶじに戻った。
「迷惑をかけた。なにか変わったことはあったかな。むかし、国鉄がストを打ったとき、さぞ物流は大混乱に陥っているだろうと労組の幹部が築地へ視察に行ったところ、代替手段で輸送を工夫されていたためふだんどおりの活況を呈していて、めちゃくちゃ落ち込んだという逸話があるが」
「仕事もわたしたちもたまっていますよ」
翔鶴が報告した。提督が苦笑いする。「冥利につきる」
執務室をおとなう者がある。
リシュリューだった。
「
「ありがとう、上々だ。きみはきょうも美しい。なにか?」
「用事があるのは、Richelieuじゃないの。この子」
リシュリューがうしろを振り向く。背中に隠れていた国後が顔を覗かせる。
「ほら、ちゃんと自分でいわなきゃ」
リシュリューが国後の背中を押して前へ出させ、両肩に手を乗せる。
「あの、みんなにやってること、あたしにさせてあげても、いいんだけど?」
何度も噛みながらの告白に、提督と翔鶴が顔を見合わせてにっこりと笑う。
「では、お言葉に甘えさせていただこう。いつがいい?」
「善は急げ、よ。もうこのままやっちゃいなさい」
リシュリューが決めつける。
あれよあれよとお膳立てされ、部屋には提督と国後が残された。
国後は頭が真っ白になってしまって動けない。どうすればいいんだっけ……。
「きみははじめてだと聞いた。きょうは、ほぐすだけにしておこう」
提督にいわれてようやく我に返った。手加減されていると感じた。それが国後の矜持に火をつけた。
「大丈夫よ、バカにしないで! こんなの楽勝なんだから! ほら、さっさと脱いで!」
国後は提督の制止も聞かず、しゃがんでズボンのベルトを外しにかかった。一気に提督のズボンを下着ごとずり下ろす。現れた軟体動物のような造形に呼吸が止まる。
そのころリシュリューは、提督の一物をはじめてみたときの印象を翔鶴と歩きながら語り合っていた。
「気持ち悪かったわよねぇ」
「まあ、そうですね」
「あの子もいまごろamiralのdickを目の当たりにして絶句してるのかしら」
「トラウマにならなければいいのですが」
「クナシリのことだから、あまりの気持ち悪さに思わず股間を殴り飛ばしてたりして」
「まさか」
瞬間、五階から国後の悲鳴が響き、次に提督の絶叫が轟き渡った。提督はまたも一週間の入院を余儀なくされたという。
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十二隻の怒れる艦娘
「このたび皆に集まってもらったのはほかでもない。――
英戦艦娘ネルソンは戸惑いをかすかにみせつつも率直に告白した。
同席していた艦娘たちは、フレンチのフルコースにおける前々菜、いわゆるお通しにあたるアミューズをめいめい味わいながら「はあ、それで?」という顔を並べてその告白の続きを待った。
しかし、万事において銅像のようにふるまっておかしくないこの傲岸な戦艦娘から、それ以降、なんの言葉も紡がれるけしきはなかった。ビッグセブンの一柱たる彼女のその聡明な額を曇らせる原因が、いまのひとことで一部始終なのだと、艦娘たちはようやく悟った。
「いいじゃないの、クンニ。なにが不満なの? キスは上の口どうしだけだなんて、だれが決めたの?」
ネルソンと同郷の戦艦娘ウォースパイトがほとんど難詰した。
ネルソンは眉をひそめた。
「余はクンニを好まぬ」
「そんな、どうして? クンニされて嫌がるなんて」
信じられない、とウォースパイトは震える手でグリュエールチーズの風味が強いグジェール*1を口に運んだ。
本日の
「そうよ、進んでクンニしてくれるなんて、愛されている証拠じゃない」と、スウェーデン海軍の防空巡洋艦娘ゴトランドが、カリフラワーと豆乳のブラマンジェが究極のオリーブオイルともいわれるタウロを浴びている小さなスプーンを
ポルノでもなければ、男のほうから積極的にクンニをするのは世界広しといえど日本とドイツとフランスくらいなものである。
室町時代の一休宗純和尚、あのとんちで有名な一休さんは、たいへんなクンニ愛好家だったと伝わっており、「吸美人淫水」(美人の淫水を吸う)という漢詩も残している。
ドイツの作家ギュンター・グラスの長編小説『ブリキの太鼓』、および同作を原作とした映画では、主人公の少年が初恋の少女の股間に顔をうずめるシーンがある。とくに映画版ではその行為中に浮かべる彼女の恍惚とした表情、また少年が口についた陰毛をとっているとおぼしき演出により、オーラルセックスを
フランスにおいて、演劇の世界に新風を吹き込んだシュルレアリストであり、
“あそこが好きだ あそこの味がするから
ケツが好きだ ケツの味がするから”
これこそがエスプリである。
「クンニなど、まぐわうに必須のものにあらず。ならば敢えてクンニなどしなくともよかろう」
ネルソンは言い募った。
「それに、余は
「それを飲んでくれるからこそ、幸福に身がバターのように蕩けるのよ」
バターのように蕩ける豆乳のブラマンジェを味わいながらウォースパイトは力説した。おなじ英国出身という理由から、ウォースパイトは燃えるような使命感に駆られて、その天上の磁器のようなほほを上気させながら啓蒙をはじめた。
「そもそも、なぜそんなにクンニを嫌うの?」
クンニされることを嫌う女性は一定数存在する。理由はさまざまだ。臭かったり苦かったりするのをパートナーが気を
しかしいちばん多いとされている理由は、
「人たる体でもっとも醜く、そして汚らわしい部位だぞ。その、なんだ、つまりは、恥ずかしい……」
と、ネルソンがもじもじしながら答えたとおりである。いかなる敵にも背を向けず、つねに昂然と
「恥ずかしいところを舐められるからこそ、幸せになれるんでしょう?」
「恥ずかしいところだからこそ、さらけ出したくないものだろう?」
ウォースパイトとネルソンの主張は複縦陣のごとく平行線をたどった。
「そも、性器だぞ。排泄する穴の隣人たる性器は舐めるためのものではない。なぜわれらがadmiralはクンニなどしたがるのだ」
「言われてみれば、どうして提督は
同席している伊駆逐艦娘マエストラーレが、生ハムと白ネギのマリネのスプーンをぱくつくように食べて、あどけない顔をかしげた。
「Fessaって何よ」
マエストラーレの隣席の伊戦艦ローマが、常の仏頂面に怪訝な表情を添加して訊ねた。
「Vulva sesso vagina*2ですけど」
「へえ、そんな言葉もあるのね」
「ナポリの方言ですね、Romeさんのところでは何て言ってるの?」
「Fregna. 元々の意味は、ゆがめた口とか、歯をむき出しにする、というような意味よ。口になぞらえるのは、大昔から変わらないってことね」
イタリアには男性器を意味する言葉が1000以上あり、女性器の表現もまた500あるとも1000あるともいわれている。
イタリアは、言葉もルーツも異なる数多の諸族が古代ローマ帝国に統合されたり、その帝国が滅亡してのちは周辺各国と混ざりあったり、数十の国に分裂したりと紆余曲折を経て、こんにちのイタリア共和国の前身たるイタリア王国として半島がようやく統一されたのは、19世紀も後半に入ってからであった。
多数の国家を束ねてつくられた国なので、当然のことながらおなじイタリアといえども地方によって別の国のごとく文化もちがう。イタリア語とはいえ無数に存在する女性器の名称のひとつであるfessaをローマが知らなかったのも無理はない。
ちなみに……。
だんべ、ベッケアー、おだいじちゃん、おたべ、アンチョ、とろろんちょ、つんびー、まんじゅ、ちんちん、めめさん、もっちょ、ヒー、ホーミー。
これらはすべて、女性器を表す日本の方言である。
「古代ローマでも、オーラルセックスは禁忌とされていたはずであろう?」
ネルソンがローマに水を向けた。古代ローマでは公衆の面前でマスターベーションをしてもまったく咎められることがなかったが、オーラルセックスについてはけっして破ってはならないタブーがあった。男がフェラチオをすることや、イラマチオを強要すること、そして、女性にクンニをすることである。「愚か者はあしたやるという。きょうでも遅いのだ。賢い者はきのう済ませている」などの名言で名高い同時代の詩人にしてエピグラムの始祖、マルティアリスは、コラキヌスを卑下するさいに「おまえはクンニをするようなやつだ」と罵っている。ローマ市民に対してフェッラートル(クンニする男)と非難することは、「おまえの母ちゃん出ベソ」をはるかにしのぐ最大級の侮辱とみなされていたのである。
「道徳的には許されていなかったけど、そんなものは建前よ。キプロス島から見つかったランプには、男女がシックスナインをしている図柄の装飾が施されていたりするもの。だいいち、ポンペイの壁画には、女性に後ろから挿入している男に、さらに別の男が挿入してる3Pの様子とか、2人の男が1人の女性を二穴責めしてるのとかあるのよ。とくに男2・女1のセックスはシュンプレグマタって名称があったくらいメジャーなものだったんだから、オーラルセックスくらい隠れてやってたでしょ。道徳的な束縛は、むしろベッドの上で解放するカタルシスを味わうための意図的なストレスだったんじゃないの?」
とローマはつまらなそうに返して、アミューズのスプーンを口に入れた。グリーンピースのムースに海老とフレンチキャヴィアを乗せ、ヴィネグレットをかけたものだ。何度か噛んだローマは無言のままちいさく頷いた。それは彼女にとって絶賛の意思表明にほかならなかった。
「
アミューズのひとつひとつに感動していた独重巡プリンツ・オイゲンも翡翠の瞳に不思議を浮かべた。ドイツ語で女性器を意味するmuschiは「ムシ」と発音する。電話を受け取った提督に「もしもし?」と応対されてぎょっとするのは日本に着任したドイツ艦娘ならだれもが通った道である。
フェラチオをしたがる女が少ないのに対し、日本では自発的にクンニする男は多い。日本のとある週刊誌が18歳から69歳の女性3000人に行なった調査によると、フェラチオが好きと答えた女性は21%、嫌いと答えた女性は43%で、端的にいえば、女性の4割超がフェラチオに拒否反応をいだいていることになる*3。
これに対し、クンニが好きだと回答した男性は86%にものぼったという。
「一説によれば、男性がクンニしたがるのは、女性の
おまちどおさま、と厨房から出てきた仏水上機母艦娘コマンダン・テストが、
日本では幼女の女性器を桜貝、少女はしじみ、若い女性のものをはまぐり、熟女のものをあわびと呼んだ。年齢を重ねるにつれて貝の価格が上がっていることに留意されたい。女性は成熟するごとに味わい深くなるという古人の哲学がうかがえる。
過日、ネルソンが折り入って相談事があるとウォースパイトらにもちかけ、どうせなら食事を挟みながらのほうが話しやすかろうとだれからともなく言い出し、どこの国の艦娘が接待するかでひと悶着あった。和食は間宮や居酒屋鳳翔でいつでも味わえることから、その生来的な奥ゆかしさを発揮した日本勢がまず辞退。
残るフランス代表リシュリューと、イタリア代表その名もイタリア、イギリス代表のウォースパイトによる三大戦艦によるじゃんけんは、さながらユトランド沖海戦にも匹敵する熾烈なものとなった。みごと勝利をつかんだリシュリューが厨房で腕をふるい、伊戦艦イタリアと伊重巡ザラがスー・シェフ(助手)をつとめ、コマンダン・テストが給仕に精をだしているという次第なのだった。
マエストラーレが疑問にしているように男は女性器がおいしいから舐めるのだろうか? それともコマンダン・テストがいうとおり、女性器のにおいが男性の性的興奮をかきたてるのか?
「たしかに、オーストラリア出身のフェミニスト、ジェルメイン・グリーアが、Suckというオランダのアングラ新聞に『カント・イズ・ビューティフル』というコラムを寄稿したことがあったな」
独空母グラーフ・ツェッペリンが女性器にも似た貝に舌鼓を打って、コラムの内容を思い出しながら語ってみせた。
“カント・イズ・ビューティフル
舐めてみよう。舐められるほど体がやわらかくない人は、挿入した指のにおいを嗅ぎ、舐めてみよう。
ほら、カントが最高級のグルメとおなじ味がするって、すてき。そう思わない?
日が差し込むところで、足をひろげて仰向けになって、鏡で自分のカントを映してみて。観察し、表情を見てあげて。繊細に、温かく、清潔に保ってあげて。石鹸をごしごしこすりつけたり、ベビーパウダーを振りかけたりしないであげて。洗うときはやや冷えた水がいい。解剖学の専門書がつけたそっけない名前や、男が使う「
ぜひ自分のカントを写真に撮って、名前を書いて、わたしたちに送ってほしい。写真を現像したくないなら、フィルムを送ってくれればいい。結果は紙面に掲載される。
それもできない場合は、編集部まで来てくれれば、わたしがあなたのカントにキスしよう”*4
「かくしてジェルメイン女史は、率先垂範とばかりに同紙に自分の性器の接写を掲載した。受験勉強をしている娘のようすを見に父親が部屋を訪れたら、娘が自慰をしていたので、父親はいきりたったイチモツを取り出して“おいしいキャンディだよ”としゃぶらせた、などという漫画が連載されていた低俗きわまるSuck紙といえども、自分の性器を載せた女性は彼女だけだ」
「そんな女が何人もいたら、逆にいやだけどね」
ゴトランドは肩をすくめて言った。
なお、ジェルメイン・グリーアが連呼しているカントとは、哲学者のことではない。
「他人のも自分のも舐めたことないけど、本当においしいのかしら」
と、ローマも濃厚な味つけがなされたぷりぷりのムール貝とスパークリングワインの組み合わせを真剣な顔で満喫する。
「それにはまず、カントの味やにおいがどこからきているのかを知らなければならない」
アークロイヤルがナプキンで口許を軽くぬぐってから解説した。
「膣壁は皮膚とおなじようにつねに新しく生まれ変わっているため、膣中には垢、つまりタンパク質が豊富に存在する。いわゆるマンカスだな。マンカスにはグリコーゲンが含まれている。グリコーゲンとは、炭水化物をエネルギー源として貯蔵するときに精製されるものだ。炭水化物が原油、グリコーゲンはガソリンと考えてまちがいない。このマンカスのグリコーゲンは乳酸菌によって乳酸と酪酸に分解される。カントに棲む乳酸菌は発見者の名前からデーデルライン乳酸菌と呼ばれているが、膣内の共生生物としてはもっとも重要だ。デーデルライン乳酸菌の働きによって、わたしたちのカントは高い酸性に保たれ、有害なバクテリアから守ってくれているのだから」
「いつだったか、admiralがカントには酸味があるっていってたのは、それが原因なのね」
アイオワも満面の笑みでオードブルを楽しみながら得心する。
「2/3ほどの女性は、膣分泌液に乳酸と酪酸以外はほとんどなにも含有物がなく、この場合はにおいもあまり強くない。1/3の女性には、乳酸、酪酸にくわえて、炭素鎖のみじかい揮発性脂肪酸がみつかる。カントの独特なにおいの正体はこの揮発性脂肪酸と考えられている」
アークロイヤルが滔々と述べる。
「マンカスのグリコーゲンは乳酸菌が分解する。一方で、マンカスの主成分であるタンパク質は、べつのバクテリアによってアミノ酸に分解される。アミノ酸はさらにべつの種類のバクテリアの餌となり、短鎖の揮発性脂肪酸に変わるわけだ。じつは、この揮発性脂肪酸の独特なにおいは、カント以外にも、ある身近なところで出会うことができる。チーズだ。チーズの香りを左右しているのは、わたしたちのカントに棲んでいるのと似たような細菌が作り出す、ほとんどおなじような揮発性脂肪酸だ。したがって、カントと最高級のグルメが味覚的にちかいというジェルメイン・グリーアの主張は、正鵠を射ているということになる」
アークロイヤルにグラーフ・ツェッペリンが納得のうなずきをみせる。
革靴のむれた匂いは足裏の汗の分解臭だが、これもまた、膣内の脂肪酸とおなじプロセスで発生するものである。すなわち膣のにおいに類似しており、ときとして一部男性の性衝動を誤作動させる。他人の靴を窃盗して大量にコレクションしている男がたまにいるのはこのためである。
「提督が夏でも長いブーツ履かせるのはそれが理由だったのか……」
ブーツも含めて制服である夕雲型駆逐艦娘の長波があきれた。
「もともと、
と、コマンダン・テストが配膳ののち皆のグラスを満たして回る。
動物のオスは疑り深い。トンボは交尾したあと、メスがホバリングしながら水中へ産卵し、そのあいだオスは周囲を警戒する。無防備なメスを守っているように見えるが、そうではない。自分と交尾したあとに、メスが別のオスと交尾しないか、産卵が終わるまで監視しているのである。
「注目すべきは、クンニという性交に直接関係のない行為が現代にいたるまで残っているという点デス。結果論でいえば、クンニが前戯として市民権を得ている国においては、クンニをする男性とクンニをしない男性とでは、前者のほうがより子孫を残しやすく、ためにクンニをしない男性が淘汰されていったと考えることができマス。つまり、まずはmouleのニオイに興奮し、顔を近づけてもっと嗅ぎたがる習性をもっているがゆえに先客の精液に気づきやすい男性が、生存競争において有利だったのでしょう」
生物の進化は偶然による結果論である。たまたま環境に対して有利な性質をもっていたものが運よく生き残れただけにすぎない。
人類が繁栄を始めた258万8000年前から現代までの期間を地質学では第四紀というが、この時代の地球は氷期と間氷期(氷期でない時代)を繰り返す氷河時代である。極寒に対応できなかった生物、個体群はそのつど絶滅していった。あたりまえだが氷期は寒い。寒いと凍る。凍るとは細胞内の水分が氷の結晶になることだ。結晶が成長すると細胞は内側からずたずたに破壊されるので死んでしまう。これが凍傷である。
ところで、古代の人類のなかに「寒さを感じると小便がしたくなる」という、一見すると無意味な性質を有する個体群が一定数存在した。
さて氷期を迎えると、気温の低下にともなって排尿が促進される体質のため、よぶんな水分を排出して細胞が凍りにくくなり、氷に閉ざされた地球で彼らだけが生存することができた。寒いとトイレが近くなるのは、そうして氷期を生き延びた個体群の子孫だからである。
氷期は強烈かつ長期的に生物の生存をおびやかしたため、低温環境に適応する体質は現代のヒトにも多く残されている。寒冷地では自動車の冷却水に不凍液が不可欠である。不凍液には通常、エチレングリコールが混合されている。液体はアルコールが溶け込んでいると凍りにくくなるからだ。
アルコール同様に不凍剤の役割を果たす身近な物質には、糖がある。液体中の糖分が多いほど氷点は下がる。
ヒトは食物を摂って血糖値があがると、インスリンを分泌して血中の糖をすみやかに回収する。インスリンによる糖の吸収速度が早ければ早いほどエネルギー効率が高いということになる。食後にいつまで経っても血糖値が下がらない、インスリンの分泌が遅い個体は、疲れやすく、免疫が弱く、外傷も治りにくいなど、身体能力の面ではどうしても不利にならざるをえなかった。
しかし、7万年前から1万年前まで続いた最終氷期では、北半球のほとんどが氷に覆われ、血液さえも凍ってしまうほどの恐るべき酷寒が地球上の人類をあまねく襲った。そんな氷結地獄を生き残ったのは、血中に糖分が多く残る体質ゆえに結果的に血液が不凍液になっていた個体群だった。糖の吸収が遅い出来損ないの個体群が、まさにそのために絶滅をまぬかれたのである。血中の糖分を吸収しないこの体質は現代人を悩ませる糖尿病というかたちでいまだに受け継がれている。
寒さを感じると尿量の増える個体群がたまたま有利だったので生き残った。
糖尿病の個体群がたまたま有利だったので生き残った。
そして、日本やドイツやフランスでは、たまたま女性器の匂いに興奮して舐めたくなる男が、結果的に、より効率よく遺伝子を残してきたということである。
「一説によれば、男性はほかの男性の精液のニオイでも性的興奮をかきたてられるのだそうデス」
コマンダン・テストの
「ホモかよ」
「正確にいえば、嫉妬や競争心が働くのでしょうネ」
精液は、つねにあの白濁液の状態で精巣にストックされているわけではない。砂糖水が、砂糖と水からなるように、精液もまた、精子と、それを懸濁させている
精巣で生産された精子と精漿は別々の場所で蓄えられ、射精のときを待つ。塗料には現場で1液と2液を混ぜると完成するというものがあるが、それと同様、射精時に精子と精漿が混合されることではじめて精液となる。
「ほら、ブッカケされたときなど、出したての精液は、透明で水っぽい液体と、濁った粘液が混ざりきってなくて、不均一なマーブル状になっているでしょう?」
コマンダン・テストに幾隻かの艦娘たちが頷く。射精した直後の精液がぼんやりと2色に分かれているのは自慰の始末にティッシュペーパーを使っている男ならだれでも知っている。出してから3分ほど経つと酵素の働きで精漿と精子が完全に混ざる。人工授精でシャーレに射精してから採取するまで少し待たされるのはこれが理由である。
なお、
「射精の直前に作られるってことは、
米駆逐艦娘ジョンストンが、厨房のリシュリューと給仕のコマンダン・テストの精妙な連携によって出来立てほやほやで提供された二枚貝のオードブルをほおばる。器用なことに、食べ終えた貝殻をハサミのように使って、ムール貝の身を掴んで食べている。
精子は運動のためのエネルギーを精漿中の果糖に完全に依存している。精子のパフォーマンスは精漿の品質に左右されるといっても過言ではない。このことは、精子があまり元気ではないブタAの精液から精子を取り出して、精子が元気なブタBの精漿に放つと、打って変わって活発に泳ぎはじめたという実験結果からも明らかである。
この精漿の出来、不出来は、母体となる男性のコンディションが大きく影響する。バランスのとれた食事、適度な運動、じゅうぶんな睡眠なくして、健常な勃起と精漿はありえない。
精神的なストレスも精漿の大敵である。ストレスを緩和する効果的な方法として、頭頂部にある
「よく、喧嘩したあとのセックスはいつもより気持ちがいいというでしょう。古来、肉体関係のある男女が喧嘩をする原因は、えてして浮気である蓋然性が高いわけですが、こういうときに射精された精子もまた、通常より活発であることが確かめられてマス」
コマンダン・テストに艦娘たちが前菜を平らげながら興味深げに何度もうなずく。
精液が射精直前に混合されること、またストレスが精漿に悪影響を与えるということは、射精時の精神状態が精液の品質に少なからず関係しているということだ。交際している女性と、ある程度の期間会わなかった、またはパートナーの浮気を疑っている男性の精液量は、有意に増加する。これは、会わない期間中に自慰をしたりほかの女性とセックスしていても関係ない。
また、女性3人のわいせつな画像や映像を見て射精したときより、男性2人と女性1人の性行為の
そのため、夫のほうに原因がある不妊の場合、夫婦の営みの前にあらかじめ男2・女1の3Pモノのアダルトビデオを鑑賞しておくという不妊治療が実在する。おなじ3Pでも女2・男1では精液の量にも精子の数にも影響は見られないのである。
「アルフレッド・キンゼイ*6や、ダン・サヴィジ*7が、既婚男性の性的妄想では“寝取られ”がつねに上位にくる、と言っていますね」
米空母サラトガの言葉は妄言ではない。日本における官能小説の売れ筋をヒロインの属性別にわけてみると、人妻、未亡人、
「まぐわいは、男女ともにお互いだけを生涯の伴侶とすべきであって、それも子を為すためだけに行なうものでなければならぬ。ただ楽しむためだけの交合など、人の道に反するだろう。まして、複数同時や、寝取られや、オーラルセックスなぞ、言語道断である」
例によってほかの艦娘たちに、処女なんて持ち重りのする荷物はさっさと捨てるにかぎるとそそのかされたネルソンだったが、いざ決戦というとき、提督にクンニをされ、あまりに予想外の展開だったので仰天。思わず寝室から戦略的撤退してしまった、というのが今回の会食のそもそもの発端である。
「まあたしかに、2003年、ジョージア州で、優等生の評判をほしいままにする輝ける17歳だったジュナーロウ・ウィルソン少年が、性的同意年齢の16歳に達していないガールフレンドと合意のうえでオーラルセックスをした罪で逮捕されたけど」
アイオワが記憶をたどる。
「彼の罪状は子供に対する性的ないたずらということで加重されて、仮釈放なしの懲役10年が課せられて、おまけに性的犯罪者として生涯登録されるという判決が下されたわ。ジュナーロウ少年とそのガールフレンドが、たとえその年齢だったとしても、オーラルセックスじゃなく“正しいセックス(正常位オンリーで、コンドームもなし)”を楽しんだだけだったら、最長でも1年の懲役で性犯罪者登録もなかったでしょうね」
ジョージア州はオーラルセックスに厳しい。1998年までは、たとえ結婚している夫婦間で、双方合意のうえで、寝室で行なわれたとしても、不法行為として懲役20年の刑に処せられる可能性があった。
法改正が進んだいまでも、アメリカではオーラルセックスへの偏見は根強い。
「まあアメリカなんて、日本のスモウを放送するときに力士の乳首にモザイクかけてた国だし」自嘲するようにアイオワが笑う。
アメリカは州によって法律が異なるが、多くの州において16歳以下のセクスティングを禁止している。セクスティングとは、自分で自分のきわどい写真を撮影し、それを友だちに送信することをいう。たとえ撮影したのが自分自身であっても、16歳以下の身体を撮影したら児童ポルノ作成の罪になるし、その写真を送信したら児童ポルノ配布にあたるのである。刑務所に収監されるだけでなく、性犯罪者として死ぬまで登録されることにもなる。自分で自分の身体をカメラに収めて本人が刑務所送りにされるのが、アメリカのセクシュアリティに対する姿勢である。
「アメリカが9月11日のことを11.9ではなく9.11と呼んでいるのはまったく気に入らぬが、性に関しては、アメリカのその考え方は人として正しいと余は信ずるぞ」
ネルソンにウォースパイトが頭痛をこらえるように頭をかかえて吐息する。「それではわたしたち艦娘は、一生クンニもセックスも――主としてクンニを――味わえなくなるじゃない」
「いたしかたあるまい。まぐわいは子供をつくるためにやむなくするもの。快楽を目的とした性交は神が禁止している」
前菜のつぎにスープが給仕される。
「いいこと、ネルソン……人類はいまでこそ一夫一妻がスタンダードになっているけれど、もともとは多夫多妻の乱婚だったのよ。あ、このスープおいしい」
「
聖書は人類史上最大のベストセラーだが、累計版数もまた人類史上最大なので誤字脱字も多い。1631年に英国で出版された聖書では、有名なモーセの十戒の第七戒が本来は“Thou shalt not commit adultery”(汝姦淫するべからず)であるところを、notが抜けていたため、“Thou shalt commit adultery”(汝姦淫せよ)になってしまっていた。その印刷業者は英国王室御用達の認可を取り消された。
「しかし、うむ、複雑なテイストが継ぎ目なく目まぐるしく駆け巡るスープの旨みと溢れんばかりの芳醇な香りもさることながら、喉を通ったあとにシェリー酒がほんのかすかに鼻腔をぬけていくため嫌味がない、コンソメの奥深さを思い知らされるスープだ」
「Admiralもわたしのjuiceを、わたしの味がすると、喜んで飲んでくれるのよ。舐めた味、口に含んだとき、喉ごしに後味、それらがこのスープのように虹色の味わいをなしていて、いくら飲んでも新たな発見があるから琵琶湖いっぱい飲みたいって言ってくれたときの、わたしの感激がいかばかりだったことか。わたしという存在をまるごと認めてもらえた気がしたわ。Admiralは、こう、ズゾゾーッとわざと音をたててすするのよ。日本には、おいしいスープはすするものという文化があるらしいわ」
「面妖な……だが、たしかに朝食のミソスープをすすって幸福そうな顔をしていたことがあったな」ネルソンが懊悩する。「つまり、Admiralは、わがjuiceが多かろうとも構わぬということなのか? いや、そもそもオーラルセックスなどというふしだらなことをすること自体が間違いなのでは?」
「ネルソン。わたしたちは人間という種についていくつかの誤解があることを、まずは認めなければならないの」
ウォースパイトがテーブルクロスにじかに置かれたパンをむしる。中世フランスにおいて、パンに皿を用意しないのは、それだけテーブルクロスが清潔であることのあかしとされ、貴族のなかでもとくに上流階級にだけ許される特権であった。リシュリューはその歴史を反映させているらしかった。
「誤解?」
「そう。ヒトの姿を得ているわたしたちもまた、その誤解を事実と信じ、ゆえに間違った常識の枠に自分を無理にはめこもうとして、そのせいで苦しんでいるの」
艦娘たちがウォースパイトの言葉を傾聴する。
「人類は、一夫一妻が自分たちの本来の正しい姿と思い込んでいる。
ではなぜ、ゼウスでさえ浮気をするのかしら。
なぜこれほどまでに、地球上の夫婦は互いを生涯のパートナーとしたまま添い遂げることがむずかしいのかしら。
なぜ、聖職者や政治家や教師といった模範となるべきものたちまでが、モーセの第七戒を守れないのかしら。
セックスが快楽のためでなく、純粋に繁殖のためだけに神が与えたもうたものなら、なぜ人間は宗教で厳しく戒めなければならないほどに旺盛な、ターボチャージャー付きの性欲をもっているのかしら。
なぜ男性は、陰嚢をわざわざ体外にぶら下げているのかしら。
なぜわたしたち女は、潜在的に何度でもオーガズムを迎えられるのかしら。
なぜ、わたしたち女はセックスとなるとあんなに大きなあえぎ声をあげてしまうのかしら。そして、なぜそのあえぎ声で男は興奮するのかしら。
なぜ男は寝取られに興奮するのかしら。なぜ秋雲がここにいる全員の寝取られ本を描くほど、寝取られは需要があるのかしら」
ウォースパイトから速射砲のように放たれる疑問に、だれも答えられない。
「これらの疑問は、あるひとつの事実を示しているわ――単婚、すなわち一夫一妻は、人間のセクシュアリティにはそもそもそぐわない。一夫多妻でもない、多夫多妻こそが、人類の真の姿だということを」
艦娘たちが息を呑む。ただし料理を食べる手は止めない。
「まず、人間の祖先は、なんだと思う?」
ウォースパイトにネルソンが考え、ややあってマリンブルーの瞳に光が宿る。
「ピカイアだろうか」
「ごめんなさい。直近の祖先は、と質問を変えるわ」
「なら、サルだろう」
「そうね。おそらく、人間の祖先はサルだというのが、大方の見方でしょう」
「でもね、これは間違いなの。人間はサルの子孫なんかじゃない。人間は、れっきとしたサルの仲間なの」
人間は毛を捨てたサルと形容される。しかし、ヒトとチンパンジーの体毛の本数はほぼおなじである。人間は体毛の大半が産毛なので毛むくじゃらにみえないだけだ。
「正確にいうと、人間は類人猿の仲間、ということね。類人猿をサルというなら人間はサルだし、人間をサルといわないなら、類人猿はサルではないことになるわ。わたしたちもおおむね人間の姿をしているから、わたしたちもまたヒト同様、現生する5種の大型類人猿の1種だといってもいいでしょう」
ほかの4種はチンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータンだ。ちなみにテナガザルは小型類人猿に分類される。
「このうち、チンパンジーとボノボとヒトの進化の川をさかのぼっていくと、その3本は500万年前の時点で1本に合流する。つまり、人間は500万年前まではチンパンジーやボノボとおなじ種類の動物だったのよ」
「つい最近だね」
露駆逐艦娘タシュケントがフィッシュスプーンとフォークで鯛の雪色をした身を切り分ける。500万年という時間は
「ヒトが類人猿とは信じられぬ。人間は、チンパンジーやボノボなどとは違う」
「そう思うのも無理はないわ。見た目がヒトとはまるで違うもの。でもね、いくら見かけがそうだからって、地球のまわりを太陽が回ってるんじゃないのよ」
ウォースパイトはもったいぶるように発泡ワインを味わってから、
「チンパンジーやボノボは、動物園でおなじようにサル扱いされているゴリラやオランウータン、その他の毛むくじゃらの動物たちよりも、むしろお金を払って観に来ている人間に近いのよ。なにしろわたしたちが乗り物にしているこの人間の肉体は、DNAがチンパンジーやボノボとほんの1.8%しか違わないの」
「ばかな」ネルソンが驚愕に目をむく。「インドゾウとアフリカゾウほどの違いもない、ということか」
「
リンネは書簡のなかで、「人間と類人猿との相違点をわたしはなにひとつ知らないが、もし両者を同一視すれば教会から破門されていただろう」と書いている。キリスト教徒にあらずんば人にあらずとされた時代である。当時の破門は実質的な死刑を意味した。
「Homo(ヒト属)とPan(チンパンジー属)の区別は、いまでは科学的正当性がないとみなされていて、人類とボノボとチンパンジーを同属に分類しなおすことを主張する生物学者も多いの」
ウォースパイトは続けて、人間のほかの大型類人猿の配偶システムを比較する。
「ゴリラは1頭のアルファオス(オス間競争の勝者)が多数のメスと交尾のチャンスを独占するハーレムを形成する。交尾は繁殖目的のみに限られるわ。子供は性別に関わらず一定の年齢に達すると群れから追い出される。つまり親と子の絆を100%かならず断ち切るから、ヒトとは違う。
オランウータンは論外ね。オランウータンは普段は単独行動をしていて、とくにオス同士は互いに接近を嫌う。交尾のときだけ雌雄が近づくけれど、やはり繁殖のためでしかない。
チンパンジーとボノボは、ともに多夫多妻。ただしチンパンジーのセックスは繁殖の手段でしかない。ボノボは楽しむためのセックスをするし、親子は一生助け合う。
じつは類人猿で一夫一妻を採用しているのは、ヒトとは2200万年も前に別れたテナガザルくらいなもの。人類の本来の姿を類推するなら、現生する動物でいちばん近い存在であるチンパンジーとボノボを参考にするべきで、しかもそのどちらもが多夫多妻。これを偶然で片付けていいのかしら」
「だが、米国の人類学者ヘレン・フィッシャーは、一夫一妻こそが人類のあるべき姿と言っているぞ」
ネルソンがひるまず強弁した。フィッシャーの著書『愛はなぜ終わるのか』にはこうある。
“一夫一妻は自然なのか。イエス。(中略)人間を男女のペアにさせるのに、甘い言葉で誘う必要はほとんどない。それどころか、われわれは自然とそうなるのだ。ふざけあって、うっとりし、恋に落ち、結婚するのである。われわれの圧倒的大多数は、一時に一人の相手としか結婚しない。
これにウォースパイトはあくまで優雅な笑みを崩さず、
「むかしむかし、オーストラリアを旅したわが英国の冒険家たちは、
ネズミにせよ、オオボクトウの幼虫にせよ、そのほかの昆虫にせよ、そうしたアボリジニの食事は栄養満点で、しかも身近にいくらでも豊富にある。おまけに、ピーター・メンツェルとフェイス・ダルージオの共著『虫食い人間――昆虫食のアートと科学』によれば、オオボクトウの幼虫は、ナッツの風味を利かせたスクランブルド・エッグとマイルド・モッツァレラチーズを薄いパイ生地で包んだような味わいだという。美味いのだ、ということが英国人には理解できなかった。英国人にとって、ネズミや、いも虫や、そこらへんの昆虫は食べ物などではなく、それらよりはるかに栄養価が低く、味も劣り、心臓の血管を詰まらせる脂肪分だらけのフィッシュ&チップスや、ハギスや、クロテッドクリームこそ人間らしい食事だった。逆にアボリジニが英国人の食事をみれば、オオボクトウの幼虫をおいしそうにつまんでいるアボリジニを見る英国人とおなじ反応を示したにちがいない。
「べつに、これはわが英国料理のネガティブ・キャンペーンをしたいわけではないわ。なにが人間の“自然な状態”なるものを決めるのか、という話です」
先手を打たれたという顔で舌打ちする面々を前に、ウォースパイトの講釈はつづく。
「人間にとって“自然な状態”とは、本人の文化圏の内側でのみ通用する観念にすぎず、けれども人間はしばしばそれを全世界不変の常識と思い込んでしまうものよ。それは自国の文化や習俗こそが正しくて、全人類に
「ジョージ・バーナード・ショウか」
ネルソンにウォースパイトはそのとおりと答えた。
「この文化的バイアスから逃れることはたいへんな困難をともなうわ。だからこそ、文化的バイアスを極力取り払いながらも西欧近代社会と未開社会を対比して、持続可能な社会を形成するための本質はどちらも変わらないという解答を導きだした、レヴィ=ストロースの構造主義という人類学研究の手法は、人文社会科学にひろく、はかりしれない影響を与えたのよ」
クロード・レヴィ=ストロースはそのもっとも有名な著書『悲しき熱帯』で、アマゾン奥地のインディオに残る食人の慣習を引き合いに出し、いわゆる文明社会に生きる人間には野蛮と映る食人を、近代社会における司法の役割と対比させている。
「まあ要するに」ポワレを平らげたアイオワが残ったソースをパンで拭いながら言う。「全体の秩序を破壊する脅威となりうる個人を食べちゃうことで無力化して、ついでに栄養的、霊的に有効活用さえする唯一の方法とみなしている食人の慣行をもつ社会と、わたしたちのように懲役や死刑によって、脅威となる存在を社会体から一時的または恒久的に隔離する近代文明との対立構造よね。後者では、犯罪者に対する罰は、社会からの断絶でなければならないとされているけれど、ストロースは、“われわれが未開と呼ぶ大部分の社会では、この習俗は深い恐怖を与えることになるだろう”と考察しているわ*9」
ストロースは、われわれの社会に固有な風俗習慣もまた、異なる社会からきた観察者の目には、われわれから見た食人の習俗とおなじように異質に映るだろうと説く。食人は一見すると残虐な死刑だが、食われて一体化することで、罪人は罰を受けながらも社会の円環にとどまっていられるのである。この点でただ無意味に殺すだけの死刑より合理的であるし、慈悲とよぶべきものもある。食人族からすれば、近代文明の死刑はもちろん、牢獄に閉じ込めて社会から排除する懲役・禁固刑は、想像だにしないほど残酷なのだ。
「そして、バーナード・ショウの言葉は、国家や民族にのみ当てはまるものではないわ。人間はだれもがヒトという種についてこんな愛国心をもっている――“人間は地球上でもっとも進化した動物である”。なぜそうだと? “自分が人類という国に生まれたから”」
ウォースパイトに艦娘たちがたじろぐ。
「ではヘレン・フィッシャーはどうかしら」
王侯貴族の優雅さでウォースパイトは主砲の散布界に敵を収めるがごとく周到に持論の展開をはじめる。「彼女はおなじ著書のなかで、ボノボについてこう言っているわ……」
“彼らは、オスとメスと子供がまざったグループで移動する。(中略)セックスはほとんど毎日の慰みだ。(中略)メスは月経周期のほとんどの期間、交尾する。ほかの生き物よりも人間の女性に近いセクシュアリティである。(中略)ボノボはまた、緊張をやわらげるため、食料を分けあうため、ストレスを解消するため、友情を再確認するためにも、セックスを使う。「戦争ではなく、愛を交わせ」これがあきらかにボノボの戦略となっているのだ”*10
「フィッシャーはこのあと、こう思索する……“わたしたちの祖先もそうだったのだろうか”。そして次のように続けるの」
“(ボノボは)人類が、ニューヨークやパリやモスクワや香港の、路地裏やバーやレストランやアパートの部屋のなかで見せるのとおなじような、性的な習性をたくさん見せてくれる。(中略)交尾の前に、ボノボはお互いの目をじっと見つめあう。(中略)腕を組んで歩き、互いの手や足にキスし、抱きあって長く深く舌を絡めるフレンチキスをするのだ”*11
「フィッシャーも、人間の性行動はほかのどの生物よりもボノボとのあいだに共通点が多いと言及しているわ。だって、地球上の動物で、ディープキスをしたり正常位でセックスしたりするのは、人間とボノボだけだもの*12」
ところが、とウォースパイトは肩をすくめた。
「こんなにも人類とボノボの共通点を列挙して、人類はもともとボノボのように多夫多妻だったのかと読者を誘導しておきながら、フィッシャーは土壇場でいきなり梯子を外してしまうの。彼女はこう書いた。“ボノボは、ほかの類人猿とはまったく異なる性生活を送っている”。おかしいと思わない? 今の今まで人間の性行動はボノボのそれと非常によく似ていると言っていたのに。人間も類人猿の一種なのよ」臨場感たっぷりに話すウォースパイトにだれもが聞き入っている。「さらにフィッシャーは続けるわ……“ボノボの異性愛行動は、月経周期のほぼ全期間を通じて見られる。しかもボノボのメスは出産したその年には、もう新たに性行動を再開するのである”。――そんな過剰なセクシュアリティに突き動かされる動物なんて、世界広しといえど、ボノボのほかには、せいぜいあと1種しか見ることはできないの」
「ホモ・サピエンス、ですか」
マエストラーレにウォースパイトが首肯する。
「しかも、人類とボノボの共通点は、セクシュアリティという行動学的なものだけでなく、解剖学的見地からも報告されているの。人類とボノボは、オキシトシンの放出に重要な役割を果たしているAVPR1Aの遺伝子に、マイクロサテライトというDNA上の反復構造を持ってる。オキシトシンは、天然のMDMAと呼ばれるホルモンで、闘争欲を減少させるいっぽう、思いやり、信頼、愛、エロティシズムといった社会的感情と重要な関係を持つとされているわ。この反復的マイクロサテライトという特徴が、チンパンジーにはなくて、人類とボノボはもっている。人類と、多夫多妻の乱婚で、繁殖とは関係なく年がら年中、相手をとっかえひっかえしてセックスに励んで、平和的共存を可能としているボノボが、ね」
太古の人間はボノボのように平和を愛し、特定のパートナーに性的に縛られることなく、娯楽としてのセックスを自由に謳歌していたのだろうか。
「ところがフィッシャーはこう結んでいるわ。“ボノボは、霊長類のセクシュアリティとしては極端な例であって、また生化学的なデータによれば、ボノボが現れたのはかなり最近で200万年というのだから、2000万年前のヒト科の生活のモデルとしてボノボがふさわしいとは、わたしには思えないのである”」
だれもが、わかったような、わからないようなという疑問の色に目が曇る。
「このフィッシャーの結論の意味するところがわからない? それは、むしろ話の流れをよく理解できているという証拠よ。フィッシャーはなんの脈絡も伏線もなくこの結論を出しているの。ヒトとボノボの性行動が驚くほど似ていることを長々と書いてきておいて、ところがボノボは人類の祖先のモデルにふさわしくないって、インメルマンターンを決めているんだもの」
「よかった、いきなり2000万年前とか言われたから混乱して、わたしの理解力が足りないのかなって心配してたんですけど」
てらいのないプリンツ・オイゲンに皆が同意の苦笑をもらした。
「そう。わざと
同著書には、樹上性だったヒトの祖先が樹から下りて地上で生活するようになったことに関する記述にも、不審な点が見受けられると、ウォースパイトは主張する。
「“おそらく、樹上で暮らしていたわれわれの最初期の祖先のメスは、セックスを通じて多数のオスと仲良くなったのだろう。それから、およそ400万年前にわれわれの祖先がアフリカの草原に追いたてられ、子供を育てるためにペアの絆を進化させてきたとき、メスは大っぴらな乱婚状態からひそかな交尾へと転向し、資源や、すぐれた遺伝子を獲得してきたのだろう*13”。おかしいわね、フィッシャーは400万年前に人類がペアの絆を進化させてきた、すなわち一夫一妻へ移行したと言っているけれど、それを裏付ける科学的証拠を彼女はいっさい明示してないの。つまり彼女の憶測、いえ、願望にすぎないのよ。その願望を根拠にして、彼女は次のように続けるわ」
“ボノボは類人猿のなかでも最も利口だと考えられていて、人間とよく似た肉体的特徴がたくさんあり、さらには情熱的にかつ頻繁に交尾するから、人類学者のなかには、ボノボをアフリカのヒト上科の原型で、樹上生活をしていたわれわれの最後の共通祖先に非常に近いのではないかと見ている者もある。ボノボはわれわれの過去の生き証人なのかもしれない。だが、彼らの性行動には人間と根本的な相違点があることも確かだ。ひとつは、ボノボが人間のような長期的なペアの絆を形成しないこと。また、夫婦で子供を育てることもない。オスは子供の世話をするが、一夫一妻は彼らには縁がない。乱婚が彼らの生き方なのだ”*14
「もう気づいたでしょう? フィッシャーはまず“人類は一夫一妻である”という結論ありきで話を進めている。論理を理性的に積み上げて結論を導き出すのではなくて、最初から決まっている結論を補強する証拠だけを取り上げ、反対に覆す証拠には目をつぶっているのよ。“人類は最初から一夫一妻だ。だからそれにそぐわない証拠は、証拠のほうが間違っているのだ”ってね。彼女の名誉のために言っておくけど、ヘレン・フィッシャーは世界を代表する文化人類学と精神心理学のエキスパートよ。そんな権威でさえ、自分の生まれ育った文化圏が全世界共通のスタンダードという文化的バイアスからは逃れられないの。ボノボを見ていると、自分たちの倫理からすれば絶対的に正しいと信じている一夫一妻が本当に人類の真の生態だったのかどうか疑わしくなってくる、だからフィッシャーは、遺伝的に地球上で最も近縁であることも無視して、牽強付会を駆使してでもボノボは人類の進化のモデルとしては役に立たないと黙殺してしまう。フィッシャーは一夫一妻こそが人類の家族構成の自然な姿で、永久不変の哲理とあらかじめ規定していて、彼女のすべての推論はそこを立脚点にしているので、どうあがいても“人類は一夫一妻である。なぜなら、人間は一夫一妻の動物だからである”という循環論法にしかなりえないのよ」
それにネルソンも腕を組んで唸る。
「さて、チンパンジーとボノボだけれど」女王然としたクイーン・エリザベス級戦艦娘は語を継いだ。「現生生物のなかではもっともヒトに近いチンパンジーとボノボの生態や社会構造の共通点をさぐっていけば、現代では忘れ去られてしまっている初期人類の暮らしがどのようなものだったか、ある程度は推察できることになるわ」
ボノボは生殖のときのみならず、コミュニケーションにセックスを用いる。たとえば、おいしい果実のなっている木を見つけると、ニホンザルなら狂乱してわれさきに奪い合う。だがボノボなら群れのあちこちで性行動が起きる。オスとメスだけでなく、オスとオス、メスとメス、さらには子供まで交えてのセックスがはじまるのだ。群れの争いや緊張をセックスでやわらげ、平和裡に解決してから、食べ物は平等に分配される。性交後に訪れる思考の真空ともいうべき悟りの境地を有効利用して、ひとまずクールダウンさせるのだ。
「人類のもうひとりの隣人、チンパンジーは、排卵前の10日間および排卵日とその翌日が発情期で、基本的にはこの時期にしか交尾をしないの。フィッシャーですら認めているように、排卵日だろうがそうでなかろうが、同性どうしですらセックスができる、つまり生殖目的でないセックスをする大型類人猿なんて、せいぜいボノボと、彼らにもっとも近しいもう1種しかいないのよ。
その類人猿は、500万年の歴史をもち、そのうち499万年をボノボと同様の平和的な動物として生活してきた。平等な社会性の群れをつくり、果実や堅果類、山菜に芋、そして肉や魚や虫といった大自然の恵みをおなかいっぱいに享受して、なに不自由なく暮らしていた。――狩猟採集時代。先史時代ともいうわね。それが人間の本来の姿。ところが1万年前に農耕がはじまってから、彼らの生活は一変した、いえ、してしまった。自由だった人類は土地に縛られ、時間に追われ、死ぬまで仕事を強要され、代わりに文明を手に入れたの」
ウォースパイトはちぎったパンにバターを塗りながら話した。
「ふつう、原始人というとこんなステレオタイプのイメージが先行するのではないかしら――暗いほら穴のなかで、石斧をふりかざすぼさぼさ頭の男が、女の髪をつかんで虐げている。乏しい食料をめぐって、絶え間ない闘争と裏切りが横行する、ホッブズ的な暗黒の時代だった、と」
それに幾隻かがうなずいた。トマス・ホッブズは著書『リヴァイアサン』で、先史時代の人間は「孤独で、貧しく、意地が悪く、残忍で、短命」な暗黒の時代を生きていただろうと説いている。
「でもね、先史時代の人類は、実際にはボノボのように、男女の別なくあらゆるものを分かち合っていた。食料も、住みかも、子供の世話も、そしてセックスも」
「人間は、生まれつきのマルクス主義でヒッピーだって言いたいの?」
ジョンストンが厳しい目で詰問した。
「マルクス主義。すばらしいじゃないか。やはり偉大なるソヴィエトの理念は正しかったんだ」
タシュケントが目を輝かせた。
「たしかに共産主義は完璧な国家システムだと思うわ。実現不可能という点を除けばね」
アイオワにタシュケントが渋い顔となる。
「共産主義は平等というユートピアを無秩序に推進しようという誇大妄想だったのに対して、狩猟採集社会やボノボの平等は最大効率を追求した合理性によるものといったほうがいいわ」
ウォースパイトはカトラリーを置いて答えた。
「ボノボはセックスという合意を経て食べ物を群れで分ける。群れにいるすべての個体が、毎日、つごうよく自分の食料を自力で発見できるとはかぎらないでしょう? でも発見できなかった個体におすそわけをしてあげれば、自分が食料を見つけられなかったときにお返しを期待できるの」
贈与と返礼は人間の専売特許ではない。南米大陸に生息するチスイコウモリは大型哺乳動物の血液を餌とするが、すべての個体が毎晩食事にありつけるとはかぎらない。運よく満腹で巣に帰ってきた個体は、その日はツキが向いていなかった個体の口へ、血を吐き戻してやるのだ。そうして気前よく血を分け与えてもらった個体は、後日、立場が逆になったときにお返しをするのである。ただし、血を分けてくれなかった個体に対しては与えるのを拒否する。それだけでなく、分け与えられるほどには満腹でなかったために、以前に血を分けてもらってまだお返しができていない空腹の仲間の催促に応えられなかった場合、じゅうぶんに食事ができた晩は、平均よりあきらかに多い量の吐き戻しをするのである。
「わたしらも、なんか借りのあるやつが困ってるときに助けてやれなかったら、あんときはごめんなって詫びもこめて余分に色付けることはあるわな」
長波に皆が相づちを打つ。
「この、ともすれば擬人化できそうなチスイコウモリの気前の良さはなにに起因するのか。コウモリに宗教や哲学なんてあるはずがないでしょう? チスイコウモリが血を分けあうのは、倫理とか、博愛精神とか、高貴さとかではなくて、そうするのがいちばん得になるからなの。彼らは不安定な生活環境の危険を軽減する最良の方法を“助け合い”に見出だした。結果論からいえば、助け合わなかったチスイコウモリは自分が食料を獲得できなかったときに血をもらえないために淘汰され、また、のべつまくなしに分配するお人好しの個体も、損のほうが多いから淘汰されていった、といえるわ。チスイコウモリの利他的戦略は、あくまで利己のためであり、冷厳なリアリズムであって、みんな平等などという頭がお菓子でできているような夢物語を追い求めているわけではないの」
ウォースパイトが返す刀で共産主義を斬り捨てた。
チスイコウモリが恩を恩で返し、仇には仇で報いるには、巣で生活するすべての個体との関係と、血を分けてもらったかどうかという履歴を、それぞれの個体が正確に記憶できる能力が必須になってくる。事実、チスイコウモリはコウモリとしては小型だが、彼らの大脳新皮質は翼手目のなかでは最大である。
「ホモ・サピエンスの“誠実さ”も、高貴さや倫理とは無関係に、本来はチスイコウモリのように、生存の最善策として身に付けたというだけだったのではないかしら」
「“しっぺ返しの理論”ですね」
ウォースパイトにサラトガが言った。
「“しっぺ返しの理論”って?」
サラトガの隣に座るプリンツ・オイゲンが首をかしげる。
「米ソ冷戦時代を観察してきた政治学者のロバート・アクセルロッド博士が、自分の利益を最大に延ばそうと考えるエゴイストどうしが取引をするとき、互いにどんなふるまいを見せるようになるのか、どんなプログラムが最大利益を上げられるのか、というゲームを1984年に開催しました。これにトロント大学の心理学者アナトール・ラポート教授が応募したプログラムが、“しっぺ返しの理論”です。ちょっとマナーには反しますが、カトラリーを使って実験してみましょう」
魚料理を食べ終わったあとのフィッシュスプーンとフォークをサラトガが手に取る。
「わたしと
皆がサラトガとプリンツ・オイゲンに視線を注ぐ。
「わたしもユージンもフィッシュスプーンを出した場合は、お互いがほどほどの利益である3点を得ます。
ただし、一方がフォーク、一方がフィッシュスプーンを選択したら、フォークを出したほうに5点、フィッシュスプーンを選んだほうの得点は0点です。
双方がフォークを選択すると、お互い1点しか得点できません。
わたしとユージンは、相手がなにを選んだか、事前にはわかりません。せーの、で出したあとなら相手がどのような選択をしたのかを知ることができます。
取引は何度か行なわれますが、何回行なわれるかは知らされません」
サラトガから説明されるルールをプリンツ・オイゲンが必死に頭に刻む。
「では、はじめましょう」サラトガが右手にフィッシュスプーンを、左手にフォークをもって、テーブルの下に隠す。プリンツ・オイゲンもそうする。「どちらを選ぶか決めましたか? では、同時に出しますよ。せーの……」
サラトガがフィッシュスプーンを卓上に置く。同時にプリンツ・オイゲンもフィッシュスプーンを出した。
「いま、ふたりの得点は3点ずつですね。では2回目です」
ふたたびカトラリーをもつ手をテーブルの下にもぐりこませる。
「せーの」
プリンツ・オイゲンがフォークを出す。対してサラトガの手は前回とおなじフィッシュスプーンだった。
「ユージンは5点追加で8点。わたしは依然3点のままですね」
涼しい顔のサラトガに、優勢のはずのプリンツ・オイゲンは
3回目。
プリンツ・オイゲンがフィッシュスプーンを選び、サラトガはフォークだった。「ひっ」フォークの冷たい輝きに独重巡艦娘が青ざめる。そういえばライン演習作戦で〈プリンツ・オイゲン〉と〈ビスマルク〉を追いかけてきたのも〈サフォーク〉と〈ノーフォーク〉のWフォークだった。ともあれサラトガ8点、プリンツ・オイゲン8点の同点である。
4回目。完全に混乱したプリンツ・オイゲンがまたフォークを選んでしまう。サラトガはフィッシュスプーンだったので、13対8でプリンツ・オイゲンが勝っている。
5回目では、両者がフォークを出して、サラトガ9点、プリンツ・オイゲン14点である。
涙目で狼狽していたプリンツ・オイゲンの翠眼が、ふと知的に光った。このゲームで最大の利益を上げる組み合わせは、こちらが裏切って、なおかつ相手が信用してくることだ。しかし、裏切り続けるこちらを相手が信用し続けるなどということがありうるのか? 実際サラトガはフォークだけを出してきている。このままフォークの応酬が続けば両者ともが伸び悩む。このゲームの目的は、自分が最大利益を追求することだ。そのためなら相手を蹴落とすことも視野に入る。だが相手に勝つ必要もない。自分が利益さえ得られるなら、かならずしも相手を攻撃しなくともよいのだ。
6回目。プリンツ・オイゲンが緊張の面持ちでフィッシュスプーンを出す。サラトガはフォークだ。双方14点。サラトガがイーブンに追いつく。見守る艦娘たちが固唾を呑む。
7回目は、プリンツ・オイゲンもサラトガもフィッシュスプーンを選択した。両者17点。その後、しばらくフィッシュスプーンばかりが選ばれた。
「Great! ユージンはしっぺ返しの理論を理解できたみたいですね」
26点同点でサラトガがにっこりと微笑んだ。
「どういうことだい?」
タシュケントは小首を傾げたままだった。
「このゲームでは、ある条件のもとでなら、簡単な必勝法があるみたいなんです」
プリンツ・オイゲンがフィッシュスプーンとフォークを手に推論を述べた。
「それは、相手の直前の手をまねすることです。最初は信用する。相手も誠実に返してくれば、信用をつづける。でも裏切られたら、自分も裏切る。そして、相手が協力したいと態度を改めたら、こちらもまた信用する。サラトガさんはこの戦略をとってたんです。今回、10回やってサラトガさんもわたしも26点まで獲得できましたけど、最初からわたしが協調を選んでいれば、ふたりとも30点までいけたはずです。わたしは、自分から裏切ったことで、自分のスコアも落としてしまったんです」
魚料理の皿とカトラリーをコマンダン・テストが下げていくなか、タシュケントの
「ある条件って?」
「たぶんですけど、長期的に取引をすること、取引が何回あるのかわからないこと、だと思う」
プリンツ・オイゲンが上目遣いで確認すると、サラトガは片目をつむって応じてから、
「“しっぺ返しの理論”は、じつは無敵の戦略ではないんです。アクセルロッド博士が呼びかけた2回の大会で、2回とも“しっぺ返しの理論”が優勝しましたが、2004年には英サウサンプトン大学チームの“主人と奴隷理論”に敗北しています。また、わたしは最初から“しっぺ返しの理論”を実践していましたが、ユージンがわたしの戦略に気づくまでは、わたしの点数が負けていたことを思い出してください。“しっぺ返しの理論”は、大負けはしないけれどひとり勝ちもしない、そして時と場合によっては有効な戦略のひとつ、というだけです」
しかし、とサラトガが念を押す。
「“しっぺ返しの理論”の優れているところは、相手の前の手をまねるだけ、という単純さにあります。“主人と奴隷理論”はまず相手の戦略を見定めるために5回から10回の試行を必要とするなど、やや複雑で、変数も多いのです。単純かつ効果の期待値が高い“しっぺ返しの理論”が優秀であることには変わりありません」
「わたしでも、5回でサラトガさんの考えてることがわかりましたもんね」
プリンツ・オイゲンが照れるようにほっぺを掻く。
「いえ、“しっぺ返しの理論”が有効なのは、知性のある相手と取引をするときだけという条件もあるんです。知性があれば、法則をつかんで、自分が協力的になれば相手も協力的になることに気づき、最終的に協力を引き出すことができるからです」
サラトガのフォローにプリンツ・オイゲンがはにかむ。
「忘れてはならないのは、もし1回きりの付き合いだとわかっているなら、裏切りが唯一の安定した最適解だということです。何回取引をするかわからない場合に、“しっぺ返しの理論”が最善となるのです」
日本においても、観光地の土産物屋はだいたいぼったくる。観光地からすれば、観光客とはほぼ一期一会の関係なので、ぼったくりという裏切り戦略がもっとも有効に働く。だが地元民と密着した商店街なら、いわゆる良心的な価格設定に努めるだろう。一度の取引金額は少なくなっても、地元民がリピーターになってくれれば、より大きな利益を上げられるからだ。
チスイコウモリも、チンパンジーやボノボも、群れという固定化した顔ぶれのなかで生きている。付き合いは死ぬまで続く。だからこそ“しっぺ返しの理論”同様の助け合いへ収斂しているのだ。おそらくは、500万年前まではチンパンジー、ボノボとおなじ動物だった、ホモ・サピエンスも。
人は十戒を神から授けられて倫理を学んだのではない。人のもつ助け合いの精神は、利益を追求するため、ヒトとチンパンジーとボノボの共通祖先の時点ですでにあみだされていた、動物的な生存の工夫に過ぎないのだ。チスイコウモリがコウモリで最大の大脳新皮質を進化させたように、“しっぺ返しの理論”には記憶力が必要になる。ヒトが高い知能を得た理由のひとつはそれである。
「考古学者のピーター・ボグスキは、こう書いているわ」ウォースパイトがふたたび話題の中心となる。「氷期の移動狩猟社会では、資源分配が義務となっている血縁集団型の社会組織が、現実には唯一の生きる道であった*15」
心理学者のグレゴリー・S・バーンズらは、かつてこのゲームの参加者たちのMRI画像を撮影した。予想では、相手に裏切られたときに被験者の脳はもっとも強い反応を示すだろうと思われていた。しかし結果は正反対だった。脳は、相手が協力してきたときに、いちばん明るく光っていたのだ。しかも光ったのは、脳のなかでも、デザートや、かわいい写真や、お金をもらったときや、コカインや、その他、合法非合法問わずさまざまな快楽に対して反応することがすでに判明していた、いわゆる報酬系と呼ばれる部位だった*16。人間は、裏切りではなく、協調することに快感を覚える生き物なのだ。協力することにコカインなみの快楽を得ることができる個体は、すすんで協同行動をとり、それはまさに狩猟採集社会の成員として不可欠な習性だったので、そうでない個体よりも優先して生き延びることができた。実験は、助け合うことに喜びを感じるその遺伝子が、現代の人間にも受け継がれていたことを証明したのである。
「でもさあ」
長波がウォースパイトに言う。
「チンパンジーはヒエラルキーの高いやつから食いもんを食っていって、弱いやつはおこぼれにあずかるしかないって聞いたぜ。人間は、遺伝的にはボノボともチンパンジーとも等距離なんだろ? てことは、人間もチンパンジーみたく独占欲が強い生き物だとも言えるんじゃないか?」
「タンザニアのゴンベに生息するチンパンジーは、たしかに凶暴で独占的という観察結果があるわ。チンパンジーは獲物の肉を分配するときにこそ階層構造がもっとも露わになる、おそらくそのイメージは、ジェーン・グドールの研究結果によって定着したのだと思う」
英国の動物行動学者にして人類学者のジェーン・グドールが、ゴンベでチンパンジーの実地調査を敢行したのは1960年だ。彼女はチンパンジーが道具を使うことを世界で初めて実証した学者である。
グドールはチンパンジーをより詳細に観察しやすいように、何百本ものバナナで餌付けをしてキャンプの近くにおびき出すことにした。広大なジャングルを駆け回る類人猿を追いかけるのはたいへんな困難をともなったからである。バナナは鍵のついた鉄筋コンクリートの箱に詰め、決まった時間に開けて餌やりをした。
すると平和的で目立った争いのなかったチンパンジーたちの行動に劇的な変化が起きた。もっとも悪い変化は、成人のオスが凶暴に、攻撃的になったことだった。人間たちがゴンベにくるまでは、チンパンジーたちはジャングルに散在する食料をもとめて、個々に、あるいは小集団に分かれて索餌行動をとっていた。いつも同じ場所に食べ物があるとは限らないから、見つかるかどうかはおのおのの運しだいだけれども、見つければその場で食べることができた。おいしい果物がたくさん実っている木を見つけたときは、わざわざ大声で仲間を呼んだ。協力が自分のためになるからだ。困ったときはお互いさまの、平等な社会だった。
ところが、いまは甘い香りのするバナナが山と積みこまれた箱がある。熟した果物が目の前にあるのに、すぐには食べることができない。それはチンパンジーたちにとって衝撃の経験だった。彼らは混乱し、怒り狂った。グドールの助手は幾度となく箱の修復に追われた。箱は類人猿たちによって際限なくこじ開けられ、叩き壊されたからである。箱に厳重な対策を施すと、チンパンジーたちは大きな集団となって、キャンプの近くで一日中うろつくようになった。ジャングルに散れば――今までそうしてきたように――すぐにでも食料が手に入るはずなのに、そちらには目もくれず、空き腹をかかえてでも、キャンプの近く、正確には箱の近くから離れようとしなかった。チンパンジーは、おそらく歴史上はじめて、食料がいつも一か所に集中して存在していて、あてにすることができ、しかも量が有限であることがわかりきっている状況に出くわしたのである。そうなると、いつくるかわからない宝箱の開けられる時間に備えてじっと待機して、ほかの個体に食べられるまえにわれさきにありつこうとする。やがて、箱の近くを「価値ある土地」として独占しようとして、オス個体同士が壮絶な闘争をはじめた。
科学者たちは思い知った。これが人類の戦争の根源であると。
野生のチンパンジーと同様の生活を送っていた狩猟採集時代の人類は、食べ物をもとめて散らばり、部族ごと遊動していたので、土地そのものに執着することがなかった。食べ物の少ない土地に未練たらしくしがみつくのではなく、さっさと立ち去って、べつの場所に移るのがいちばん簡単で合理的だったのだ。
食料が森に散在している環境では、食料を手に入れるために必要なものは実力ではなく、たんなる運だけだ。だから食べ物を見つけられる日とそうでない日がだれにでも均等に訪れる。そうした社会では地位の差は生まれにくい。だれもが「きょうは運よく食べ物が手に入った。だがあしたはわからない」ので、不運な日が自分にきたときのために、食料を見つけた日は積極的に仲間に恩を売る。それが結局は自分自身の生存率を高めることになるのだ。
しかし農耕と出会ったことで、取り返しのつかないほどの大きな転機が人類に訪れる。農耕は、農地から定期的、計画的に穀物を収穫することができる。いままではジャングルという気まぐれな自然界に拡散しているものだった食料が、農地という一か所に集中して存在し、あてにすることができて、ただし土地面積のぶんしか生産されないものになった。食料が畑からとれるとひとたび学習してしまえば、森に行けばさまざまなご馳走が待っているにもかかわらず、人類はそちらには目もくれずに、単一的な穀物しかつくられない畑をせっせと耕して、収穫という宝箱の開けられるときがくるのをじっと待つようになる。人類にとって農地とは、ゴンベのチンパンジーにとってのバナナの箱だった。
運によってのみ食料を獲得していたのが、畑を耕すとか、作物を育てるだとか、食用にするぶんと貯蔵に回すぶんの計算をしたりするのが上手い者が、確実により多くの食べ物を得られるようになった。実力が成果に直結するのだ。格差社会と階層社会の曙である。
苦労して耕したのだから、自分の畑と隣人の畑の境界をはっきりさせることが、なにより重要になる。男は確実に自分の血を引いていると確信できる子供に相続させることを望み、一夫一妻が台頭することになる。
穀物は腐りにくいから余剰食糧が生じ、急速な人口増加を招く。人口が増えればそれを養うためにもっと農地を拡大しなければならなくなる。そうして際限なく領地を拡大していけば、いつかはおなじように農地を開拓していた他部族と接触する。「価値のある土地」を奪う、または防衛するための軍隊を組織するようになる。人類の戦争はそうしてはじまった。現代でも戦争の原因は縄張り争いに帰結する。農耕が戦争を生んだのだ。
「じつは、コートジボワールのタイに生息するチンパンジーは、ボノボのように食べ物をみんなで平等に分配するの。“しっぺ返しの理論”はいつでも最善の方法ではないし、ときには裏切りが最高の利益をあげる戦略になる。動物はその置かれた環境によって利他的にも利己的にもなりうるということ。チンパンジーと一口に言っても、餌付けされていて餌の争奪戦が促される特殊な環境下では独占的になるし、食料が豊富にあってしかも散在していれば助け合う。だから、ゴンベの報告例だけを見てチンパンジーという動物を評価するのは、ジェイソン・ボーヒーズとハンニバル・レクターの2人だけを見て、人間はこんな動物だというようなものなのよ」
それを聞かされて長波も了解した。
世界にはいまだ農耕に取って代わられていない、人類本来の姿である狩猟採集社会が数多く存在する。南米、オーストラリア、パプアニューギニア、アラスカ、中国、インド、アフリカ。これらの国々で先住民と呼ばれ、農耕と文明に染まっていない狩猟採集民族は、ほとんどが資源分配主義である。彼らは食料を手に入れたらその場で平等に分配して、その日のうちにはすべて食べてしまう。
彼らが平等に分配する資源とは食料だけではない。セックスも含まれる。
「たとえば、メラネシアのマリンド・アニム族は、花嫁を輪姦するの」
ウォースパイトがいうと艦娘たちが色めきたつ。
「というのも、人類学者ロバート・エドガートンによれば、彼らは精液が健康な胎児の成長に欠かせないと信じているからだそうよ。花嫁が多産であるためには、精液をいっぱい注ぎ込まれなければならない。だから結婚初夜では、花嫁の父方の親戚男性10人ほどを相手に、花嫁はセックスをする。父方の親戚がもっと多かったら、その次の夜にその人たちとセックスをする。そのような“輪姦”は、女性の生涯ずっと続くとか*17」
「そういえば、古代ローマにもそんな風習があったわね」
反吐が出そうな顔を艦娘たちが並べていると、戦艦ローマが思い出して言った。
「古代ローマでは、結婚を祝うために宴を開くけど、そこで新郎の友人が立会人の見守るなかで花嫁とセックスをするのよ。オットー・キーファーが1934年に上梓した『古代・ローマ風俗文化史』に書いてあったわ……“結婚という占有は自然の法則と相容れない、それどころか相反する。したがって、結婚しようという女性は、母なる自然に逆らう罪を償わなければならない。それで花嫁は一定期間、無償で売春行為をする。つまり結婚の貞節を、猥褻の前払いで購うというわけだ”*18」
「ふしだらだ」剛毅なるネルソンはかぶりを振った。「ふしだらだ」
「ネルソン、わたしはまだ類例を出すことができるわ……アマゾン社会に造詣の深い人類学者ドナルド・ポロックによると、アマゾン川流域のクリナ族には、ドゥツェ・バニ・トウィという儀式があるの。これは、“肉をちょうだい”という意味よ」
ウォースパイトが夢枕に立つ夢魔のようにささやく。
「村の女性たちは、徒党を組んで明け方に家々を回って、各家庭の成人男性に狩りに行ってこいと命じる歌を歌う。このとき、女性が家のなかまで入って棒でその家を叩くことがある。これは、その家の男性が首尾よく獲物を捕らえて帰ったら、その晩に自分とセックスさせてあげる、という合図らしいわ。ただし、女性は自分の夫を相手に選んではいけないの」
ここからが肝である。男たちはいかにも面倒くさそうなふうをよそおってハンモックから這い出し、ジャングルへ向かう。しかし、彼らは狩りが終わると、村に帰るまえに全員で獲物を分配し直し、手ぶらで帰る男がひとりも出ないようにするのだ。全員が平等に婚外セックスにありつけるシステムになっているのである。
「ポロックは言うわ……“狩りを終えた男たちは、意気揚々と村に戻ってくる。待っていた大人の女たちは大きな半円状に集まって、男たちを挑発するようにエロティックに歌いかける。
グラーフ・ツェッペリンがなにかに気づく。
「これはちょっとした好奇心だが、クリナ族の“肉をちょうだい”の、“肉”にあたる言葉……」
「“バニ”ね」
「その“バニ”は、額面どおりの肉のほかに、もっと別の意味も隠されていたりしないか?」
それにウォースパイトはわが意を得たりと大きく頷いた。日本でいうなら、亀さんとか、杭とか、竿とか、単装砲とか、高射砲とか、魚雷とか言い換えるのとおなじだ。ストレートに表現しないほうがかえって性的なニュアンスが強調されるのは、日本だろうと欧米だろうとアマゾン流域だろうと変わらないらしい。
女性が自分の性を褒美として男性を狩りへ行かせるクリナ族の風習は、両手にポンポンを持ち、短いスカートでセクシーなダンスを披露して男性選手を鼓舞するチアリーディングとおなじ構造である。一夫一妻社会であっても、男性たちをもっとも効果的に駆り立てるのは女性のエロスなのだ。ヘレン・フィッシャーのいうとおり本当に一夫一妻が人間のトレードマークなら、男性たちは自分の性を武器にしている赤の他人のチアリーダーに応援されても、まったく奮い立たないはずである。
「マルコ・ポーロが中国南西部に立ち寄ったときに出会った、そこで古くから生活しているモソ族は、既婚であるにもかかわらず外国からの訪問者とも積極的にセックスする民族だった。だからモソ族の語彙には“夫”や“妻”を意味する言葉がない。彼らにとって成人の異性はすべてセックスの相手になりうるし、そのかわり部族内の大人はすべての子供を自分の子供のように愛して、子供はすべての大人を親同然に敬っている。子供がひとりで出かけても部族のだれかが親の役割を果たすから、母親は心配する必要がないの。
また、ベネズエラからボリビアの広い範囲に散らばる数多くの狩猟採集民族の社会では、胎児は母親とセックスした男たちの精液の結晶であると考えられているわ。女性は自分の子供に優れた特徴をひとつでも多く与えてあげたいから、各種取り揃えた多彩な男性たちとセックスをしようとする。もっとも話が面白い男、もっとも狩りが上手い男、もっとも見た目がいい男、もっとも親切な男、もっとも力の強い男、そうしたなにか一芸に秀でた男たちに、協力を要請するの。そうして子供が、彼らのそういったいいところを吸収することを願うのよ。それゆえひとりの子供に複数の父親がいることになっている。そういう話はまだまだあるけれど」
「いや、いい。頭が沸騰してしまいそうだ」
ネルソンが頭を抱えた。
気にせずウォースパイトは追撃する。
「ブラジルのマティス族は、婚外セックスをひろく実践していて、容認どころかむしろ義務としているの。既婚か未婚かを問わず、相手から性的な誘いを受けたら応じなければならない。断れば、“あいつは性器を出し惜しみするやつだ”とレッテルを貼られて、一族の笑いものにされる。マティス族の倫理観からすれば、これは近代文明における不貞よりもはるかに恥ずべきことなのよ*20」
「それは、部族ぐるみで女性を性奴隷にしているということではないのか」
ネルソンも負けじと応戦した。
「わたしは、女性だけがつねに受け身で男性からの求めに応じなければならないとは言っていないわ。マティス族はある意味で男女平等よ。男性もまた女性からのセックスを拒んではならないの。人類学者のフィリップ・エリクソンが研究のためにマティス族の集落に逗留したときのことよ。ある日、若い男性が匿ってくれとエリクソンの小屋に逃げ込んできて、何時間も小さくなっていた。わけを訊くと淫蕩な従姉妹から隠れるためで、見つかると彼女の誘いを道義上、拒否することができないからだった……」
とウォースパイトが余裕の表情で撃ち返す。
「現代でも、パプアニューギニアのトロブリアンド諸島のお祭りでは、若い女性の集団が島々を駆け巡って、おなじ村の出身ではない男性たちを強姦する習わしがあるの。もしも男が自分を満足させられなかったら、その眉毛を食いちぎるしきたりになっているとか」
「女性たるものが、そのような破廉恥な行為に積極的に参加するとは……」
「それはヴィクトリア朝時代の考えよ、ネルソン。
チャールズ・ダーウィンは“メスは、ごくまれな例外を除いて、オスより性欲が弱い”と言った。
わが国の医師ウィリアム・アクトンは1857年に著書でこう断言した……“善良な母親、妻、夫の留守を預かるものは、セックスにふけることがほとんど、あるいはまったくない。慎み深い女性とは自分自身のために性的な満足を欲望することはほとんどない。彼女が従順に夫を受け入れるのは、ただ夫を喜ばせるためだけである”*21。
もっと時代が下った1979年でも、心理学者ドナルド・サイモンズが『人類のセクシュアリティの進化』で“あらゆる民族において、性行為は女性から男性に提供されるサービスであり、愛の証明であると理解されている”*22と迷いなく書いているわ」
「なんか童貞の幻想みたいだな」
長波がいうと艦娘たちが吹き出した。
「現代にいまだ生き残っているヴィクトリア朝人たちは、女性は愛したただひとりの男性とだけセックスをするものであり、自分の性欲を満たすためではなく夫への愛のために受け入れるものだとかたくなに信じている。たしかに、恋愛経験のない女の子が、はじめて交際することになった男の子にセックスを要求されて、したくはないけど嫌われたくないためにしぶしぶ応じるということはあるかもしれない。けれど本当に女性が貞淑な動物だとしたら、人類に近縁な霊長類のメスたちが、人類の女性が生物学的にセックスに消極的な証拠を見せてくれるはず。でも実際にはチンパンジーもボノボも、メスはむしろ自分と交尾したことのないオスとの交尾を優先する傾向にあるわ。有性生殖の利点が多様性の確保にあることを考えると、それはとても自然なことなの。おなじ数の子供を量産する資源があるとするなら、同一の相手と繁殖を重ねるより、別々のオスとそれぞれ子作りしたほうが、リスクヘッジとしても機能するでしょう?」
クリナ族のドゥツェ・バニ・トウィにも、パプアニューギニアのトロブリアンド諸島での逆レイプ祭りにも、決して自分の夫をターゲットにしてはいけないという決まりがある。アマゾンとパプアニューギニアという地理的にまったく交流のない地域で、おなじ風習が伝わっている。まさに収斂である。
「狩猟採集社会に共通するのは、成員の男女は一定の規則があるとはいえ婚外セックスを楽しんでいること、生活に必要な資源は平等に分配すること、そしてたいてい平和で、支配と被支配の関係ではなく個人の自律性が重んじられていて、自殺者がいないほどにストレスとは無縁の暮らしを送っていること――だって、村のみんなが穴兄弟や竿姉妹なんだもの、仲良くならないわけがないわ。海で隔てられた異なる言葉の民族なのに、こんなにもおどろくほど類似した社会が、確認できるかぎりでも数千年前から続けられている。ここからは次のような考えが自然に浮かぶと思うわ……人類は皆、むかしは彼らのようだった、って」
わずか1万年より前の人類は皆、マリンド・アニム族のように、あるいはクリナ族のように、あるいはモソ族のように、あるいはマティス族のように、婚外セックスを当たり前のように行なっていたのだ。そして、決まった仲間たちと生涯付き合うがゆえにチスイコウモリのように食料を分けあい、ボノボ同様にセックスで仲を取り持つため争いもなかった。
「言われてみれば、SF作家のカート・ヴォネガットの言葉に、こんなのがあったわ。“どうすれば人間がもっと幸せになれるか。ぼくにとっては、がんの治療法が見つかったり、火星に降り立ったり、人種差別がなくなったり、エリー湖がきれいになったりってことじゃない。原始社会にもういちど暮らせるような方法が見つかったら、だ。それがぼくのユートピアなんだ”」
アイオワが引用するが、実際のところ、狩猟採集社会は貧窮こそしていなかったものの、ユートピアでもなかった。助け合いが発達するということは、助け合わなければ生きていかれないシビアな環境であるということだからだ。事実、出土した骨や歯を調べたり、更新世(200万年前~1万年前)の焚き火の灰を炭素14法で年代測定したりするに、狩猟採集時代の世界人口は100万を超えることはなく*23、人口増加率はわずか0.001%以下*24、つまり人間は生まれる数と死ぬ数がほぼおなじだった。しかもミトコンドリアDNAの変化をたどる研究によれば、ほんの7万4000年前、スマトラ島のトバ火山が大噴火したことによる地球規模の寒冷化で、総人口は1万人以下、もしくは数百人レベルにまで減少している。そんな荒涼とした時代を生き延びたのは、たとえば寒くなると小便がしたくなったり、インスリンが少ないために血中糖度の高かったりする個体たちだった。
ウォースパイトは言う。「数十万年前の地球がいまよりとても小さかったのなら話は別だけど、世界人口がヒトラーの首相就任時のナチ党員数より少ないのなら、人口密度が小さすぎて、ほかの部族と会いたくても会えない。会えないなら戦争の起きようがない。見渡すかぎりの広々とした土地も、そこから得られる食料もすべて自分たちのもの。資源が潤沢に存在し、かつ分散しているなら、人間は独占という裏切りで部族から追放されるより、互いに分けあって恩を売る協調路線を選ぶ。さっきのサラトガとユージンの実験のように。協力的な善人しか生きることを許されないという意味では、まあ、平和ではあったでしょうね」
現代人は満員電車にぎゅうぎゅう詰めにされているが、先史時代は他部族が視界に入ることさえまれだっただろう。世界に存在する人類は自分たちだけという錯覚にさえ陥っていたかもしれない。
「それは、あまりに孤独ではないか?」
ネルソンは伝説の戦艦に抵抗をつづけた。
「どうかしら。われらが英国の人類学者ロビン・ダンバーは、社会性のある霊長類の集団の規模と、脳の新皮質の発達度に比例関係があることを突き止めた。脳が大きい霊長類ほど群れも大きくなるということね。この結果から彼は、人間の脳の限界、つまりいつだれがなにをしたかを把握していられる限界は、150人ほどの集団の規模と予測した。ダンバーいわく、“新皮質の処理能力の限界によって、安定した個体間関係を維持できる個体数が決められている”*25。
文化人類学者のマーヴィン・ハリスは、ダンバーがその発見をした1992年よりも前の1989年に、狩猟採集民族を研究した論文でこんなことを書いているわ……“ひとつの血縁集団につき50人、ひとつの村に150人であれば、皆が皆を互いに深く知っているので、相補的なやりとりの絆によって集団に結束することができる”*26。
チスイコウモリを思い出して……彼らの“しっぺ返しの理論”がうまくいくには、自分と他個体との関係を正確に記憶しておかなければならなかった。人間の場合は、だれにどんな貸しがあるか、自分はだれに恩を返さなければならないかを記憶して、円滑な関係を維持できる上限は、中央値として150人なのよ」
「ああ、ダンバー数ですね」
マエストラーレの目にも理解の色があった。多くの国の軍隊で中隊の定員は150名前後である。兵士たちは基本的に中隊単位で運用される。家族のごとく互いの緊密な連携が肝である中隊が有機的に機能するのは、最大で150名ほどであると、先人たちも経験則で知っていたのだ。
人間が悪事をはたらくのはほとんどの場合、自身の匿名性が確保できている状況にかぎられる。犬を散歩させていてフンの始末をしない飼い主がいるのも、自分がだれにも見られておらず、フンを放置して困るのが赤の他人だからである。「旅の恥はかき捨て」という
「現代に生きる狩猟採集民は、そのいずれもが、ひとつの血縁集団につき50~150人で構成されていて、もし人口が増えたら小集団に分かれる仕組みが備わっているわ。これはダンバー数の理論にもみごとに合致する。その成員である150人は運命共同体で、全員が自分の名前と顔と家系と今までなにをしてきたかを知っていて、自分もまた全員の名前を答えることができる。あまつさえ肉体関係を結んでいたり、同性の友人とはおなじ異性とセックスした仲でもあったりする。おそらくは先史時代の人間もね」
ウォースパイトが睥睨する。
「150人の友人と日常的に顔を合わせていて、しかも穴兄弟や竿姉妹であったりして、成果物を積極的に分け合い、母親はお乳が出なくなったら遠慮なくほかの女性に協力を申し出ることができる。――現代にそんな人がどれだけいるかしら? 先史時代が孤独だとしたら、現代人のほとんどは営倉に入れられているようなものよ。……ただ、極度にウェットなムラ社会ということだから、現代人にはかえって過干渉で耐えがたいかもしれないわね」
田舎は近所の人が遠慮なく家に入ってくるし、選挙のときには特定の代議士に投票するよう圧力をかけてくるし、別の候補に票を入れたら翌日にはそのことが町中に知れ渡っていたりする。そういう濃厚な相互依存をもっと強烈にしたのが狩猟採集社会の人間関係であるともいえる。狩猟採集社会ではひとりで悩むことは許されない。解決できるまで「どうした、どうした」とみんなが詰めかけてくる。
「狩猟採集時代についての誤解は、まだあるわ――原始人は栄養状態が悪いので背が低く、短命だった、というものよ」
ウォースパイトが挙げるとだれもが意外な顔をした。それが誤解だとすると、原始人は栄養状態が良好で、背が高く、長生きしていたのか?
「イエス」ウォースパイトは迷わず答えた。「先史時代の人類の身長の平均は、およそ90センチだったという計算結果が出ているわ」
「チビじゃんか」
長波がずっこけながら言った。皆も苦笑する。
「では、この数字がどうやって出されたと思う?」
と笑みを浮かべるウォースパイトに動揺はない。
「たとえば、太平洋戦争時の日本海軍最大の戦艦〈大和〉が全長263メートル、ひるがえって占守型海防艦は全長77メートル。なら日本海軍艦艇の平均全長は、(263+77)/2で、170メートルということになるでしょう?」
「いや、それは違うだろ。戦艦と海防艦で出した平均なんかになんの意味が……」
そこで長波の玄妙な色合いの瞳に閃光がはじける。
「そう。先史時代の人間の平均身長は90センチというこの俗説は、出土した成人と乳児の人骨の身長から平均を求めたものなの。ギリシアやトルコで発掘された140万年前の人骨のうち、成人だけを抽出して平均をとってみると、男性が180センチ、女性が168センチ。つぎに、同時代の幼児の人骨のサイズは50センチといったところ。発見された成人の骨と幼児の骨の比率が3:7だったことから、当時の乳幼児の死亡率が7割だったと推察できるわ。ではここからどうやって平均身長を割り出したかというと」
ウォースパイトが指で数式を空書する。サンプルを10人とし、成人男性を成人代表と仮定して、成人3人:幼児7人で平均を算出する。[(180×3)+(50×7)]/10=?
「89センチ……たしかに、およそ90センチと出るね」
タシュケントが感心した。もうだれも笑ってなどいない。
「ちょっと待って、このマジックは平均寿命についても言えるんじゃない?」
ゴトランドが声をあげた。
ウォースパイトが満足そうな顔でスウェディッシュ軽巡を指さす。「そのとおり」
世界銀行の発表では現代のモザンビークの平均寿命は55歳となっている。しかし実際に同国を訪れると70代や80代の健康的な老人をふつうに見かけることができる。幼児の高い死亡率が平均寿命の数字を引き下げているのだ。
「骨や歯からその人が何歳まで生きたかを正確に読み取るのは至難のわざよ。まして何十万年、ないし100万年以上もむかしの人骨となると、なおさらね。それでも脳の容積と体の比率を調べるなどして、先史時代の成人の平均寿命は66~78歳だったという研究結果があるわ*27。間をとって70歳として、狩猟採集時代の乳幼児が3歳になるまでに7割死ぬとすると、平均寿命の式はこうよ……」
[(70×3)+(3×7)]/10=23.1
「古代人の平均寿命は20~30歳だった、なんて話を聞いたことないかしら。それはこんなふうにして導き出された数字なの。だから、うそではないけど、事実を正しく伝えているともいえない」
「平均を出されたら中央値を疑えってことね」
ローマが眼鏡の位置を直しながらひとりごちた。
「140万年前のギリシアの男の人は、背丈が180センチもあったんですねぇ」
プリンツ・オイゲンが不思議な顔をして言った。
「男性が180センチ、女性が168センチという成人の平均身長は、おなじ土地に住む現代のギリシア人やトルコ人よりも高いの*28。人類は1万年前に農耕へ移行したことで、狩猟採集時代より栄養状態が急激に悪化、身長ががた落ちしてからいまだに回復できていないのよ。これは全人類にあてはまるわ」
「しかし、だな……人口が純増しなかったということは、それだけ狩猟採集時代が過酷な時代だったということだろう?」
ネルソンの言ももっともである。幼児の死亡率が7割だったという事実に変わりはないのだ。食糧難か、疫病だろうか。
ウォースパイトは答えて、
「先史時代の幼児の人骨には、飢餓やあらゆる病気の痕跡がほとんど確認できていない。
たとえばエクアドルの先住民ワオラニ族は、高血圧、心臓病、がんの兆候がひとつもなかった。風邪すらもだれひとりひいたことがなかったし、寄生生物も発見されなかった。口承や遺伝子の調査でも、肺炎、天然痘、水疱瘡、発疹チフス、腸チフス、梅毒、マラリア、小児麻痺、結核、血清肝炎に罹患した痕跡は見いだされなかった*29。
これは当然のことで、こうした伝染病はそのほとんどが家畜動物に起源をもち、農耕社会のような高い人口密度の環境下でのみ、流行が可能になる病気だからなの」
麻疹、結核、天然痘はウシをはじめとした畜類が、インフルエンザはブタとアヒルが、百日咳はブタとイヌが、それぞれ起源である。定住生活を余儀なくされる農耕で人口が増えていくと糞尿はどんどん堆積する。しかも家畜がそばにいるとなると伝染病にとっては至れり尽くせりだ。人類を脅かす疫病の流行は農耕牧畜文化によって花開いたのだ。家畜を飼わず、小集団で生活する狩猟採集民はそもそも伝染病の感染源に触れる機会すらない。感染したとしても、人口密度が低いため、多くの他者に伝染させる前に感染者が死亡し、そこで感染性病原菌の移動は途絶える。すなわち、狩猟採集社会では疫病は大流行などしようがないのである。
直近の数百年だけを見ても、人類は天然痘、ペスト、スペインかぜ、SARSといったパンデミックに見舞われ、数億人が死んでいる。総人口100万人程度しかいなかった先史時代に、近現代とおなじように疫病が流行っていたとしたら、とっくに人類は絶滅していたはずである。しかし人類は実際に500万年も生き延びてきた。定住しないこと、動物を飼育しないこと、人口が少ないことという、狩猟採集社会を定義づける典型的な特徴そのものが、伝染病に対する最大の予防策となっていたのだ。
「飢餓についても説明しておくわね」ウォースパイトが続ける。「成長期に、1週間ほどの短期間、栄養状態が悪いと、腕や脚の長骨の成長速度が落ちて、栄養状態が改善されるとふたたび成長しはじめる。新たに成長した部分と、成長が中断される以前の部分とでは、骨の密度が異なる。そうして骨に記録された、栄養状態のよかった時期と悪かった時期との境界線はX線写真で判別できる。この線はハリス線と呼ばれているわ。
考古学の調査によれば、このハリス線が多くみられるのは、先史時代の狩猟採集民の遺体よりも、食料確保を農耕に頼っていた時代の人骨のほうなの。
イリノイ川下流のディクソン・マウンズで発掘された、およそ800体の先住民の遺体を分析してみると、狩猟採集から耕作へ移行したことで健康状態に大きな変化があったことがわかった。考古学者のジョージ・アーミーラゴスの報告によると、農耕生活者の遺体は、それより前の時代の狩猟採集者の遺体にくらべると、慢性的栄養不足が50%多く、伝染病の感染者が3倍多かったそうよ*30。
狩猟採集社会は、農耕社会よりも食料事情がはるかに恵まれていて、1日かそこら断食することはあっても、慢性的におなかを空かせることはなかったし、伝染病ともほぼ無縁だったと、彼らの骨が教えてくれている」
現代でもアボリジニは1日に数十種類の食物を口にする。おそらくは先史時代の人類も同様だっただろう。彼らは多くの食料を利用できる雑食者のメリットをあますことなく活用していた。つまり、たとえいくつかの種類の食べ物が不作だったり手に入らなかったりしても、ほかの食料でじゅうぶんに要求カロリーをカバーできたのである。
しかし、農耕と出会って、単一の作物に依存するようになると、その作物が不作になっただけでいともたやすく飢饉に陥り、人類は大量の餓死者を生むリスクをつねにかかえることになった。そうでなくとも、農耕生活者はたった数種類の穀物を基幹とした、非常にバラエティに乏しく、栄養価も低い、しかも偏った食事にしかありつけない。現代の日本人でも白米におかずが1~2品というあまりに粗末な食事を「当然」と考えている者は少なくない。
先史時代の人類にせよ、現代の狩猟採集民にせよ、農耕とは、1日じゅう額に汗して働く必要があるばかりか、いたずらに飢餓のリスクを増大させ、栄養状態も確実に悪化するただの苦行としか映らないのである。
ウォースパイトが冷静に告げる。「7割という幼児の死亡率。これは飢饉とか疫病ではなく、子殺しによるものと推定されているわ」
席上がざわつく。
「飢え死にや病気より悪質ではないか?」
グラーフ・ツェッペリンが艦娘らの総意を代弁した。
「子殺しをしていたのは、人口が増えすぎてダンバー数を超えると、互いの目が届かなくなってコミュニティが破綻すると知っていたからでしょう。彼らにとってセックスはその行為自体が目的で、子供は副産物といっても過言ではなかった。そもそも定住せず遊動していた狩猟採集では、幼い子供が多いと移動の邪魔にしかならないから育てられなかった。定員以上はお断りだったのよ」
「なんだか、残酷ですね……」
プリンツ・オイゲンが悲しい顔をする。
「やはり先史時代は野蛮ではないのか?」
ネルソンも眉をひそめて言った。
「子殺しはこんにちにおいてさえ珍しいことではないわ。現代のブラジル北東部では、幼児は満1歳になるまでに20%がネグレクトによって亡くなっていると、人類学者のナンシー・スケーパー=ヒューズが報告しているの。スケーパー=ヒューズによると、赤ん坊を死なせるのはむしろ親としての慈悲だとしている母親がいた。生まれつき元気がない子供は、神の国に帰りたがっているのだ、だからそのとおりにしてあげていると*31。オーストラリアのアボリジニ研究の世界的な第一人者ジョゼフ・バードセルは、生まれてくる子の半分は直接的に殺されていると見積もっているわ」
どうしても先進国の人間は、ブラジルとかアボリジニとかのやることは野蛮で、自分たちより後進的だから参考にならないと決めつけがちである。だが先進国にも子殺しは石ころのように転がっている。
ワゴンを押してきたコマンダン・テストのつぎの言葉は、それを裏付ける一例であった。
「フランスにも、そういう事実上の“子殺し”はありましたネ」
コマンダン・テストが口直しのソルベを配膳しながら口を挟んだ。
「1830年までフランスには、赤ちゃんポストの設置された孤児院が270施設ありました。これは望まない子供をこっそり放り込めるように工夫された設備でした。ただ、赤ちゃんを捨てる人の匿名性を守る工夫はされていても、赤ちゃんを守る工夫はされていませんでした。フランスの孤児院における赤ちゃんの死者は、1784年には4万人、1822年では14万人にものぼったのデス。こうした孤児院は、事実上はポストの回転扉が火葬場に直結しているようなものだったといえるでしょう。孤児院とは名ばかりの、政府と教会公認の赤ん坊処理施設といったほうが正しいでしょうネ」
こうした赤ん坊処理施設を利用していた有名人に、子供の教育の大切さを説いたジャン=ジャック・ルソーがいる。ルソーは女中とのあいだにできた私生児を5人とも孤児院に預けていた。ベンジャミン・フランクリンが1785年にその孤児院を訪問したところ、そこに捨てられた赤ん坊のうち85%が1年以内に死亡していたという。
「アメリカでも、1915年に医師のヘンリー・チェイピンが10ヶ所の孤児院を訪れたら、うち9ヶ所ではすべての子供が2歳の誕生日を迎える前に亡くなっていたそうだけど*32」
ジョンストンが複雑な顔をして明かした。
グラーフ・ツェッペリンも、魚料理の味が残る口内をシャンパンのソルベでリセットしながら思い出す。「経営学の父にしてマネジメントの権威ピーター・ドラッカーの奥方、ドリス・ドラッカーの回想録には、20世紀初頭のドイツの中流家庭では子殺しが一般的だったと書かれてあったな。村には、未婚の母親たちから子供を引き取る“エンジェル・メーカー”と呼ばれる女性がいた。しかし、彼女は子供の世話をせず、餓死させていたという。一方で母親は母乳が出るから、上流階級に乳母として雇われていたそうだ*33」
「さすがドイツ、合理的だな」
というアークロイヤルを独空母艦娘は鼻で笑っていなした。
日本でも戦前までは、産婆が生まれたばかりの赤子をなにかしらの事情によりその場で殺し、母親には死産だったと報告するということが珍しくなかった。育てられない命をむりに生かしてもだれひとり幸せにならないからである。
殺人は、人間を殺したときにのみ適用される罪である。おなじ生命でも動物を殺しても殺人にはならない。では人はどの時点から人間としての命を得るのかについては、いまだに全人類の合意を得られる回答をだれも出すことができていない。日本の法律では「胎児の一部が母体の外に露出した」ことをもって人とみなす。そのため妊婦の腹を串刺しにして胎児ごと殺したとしても、適用される罪は妊婦の女性1人にたいする殺人罪であり、胎児が死んでしまったことについては、たとえ胎児への殺意があったとしても不問とされる。胎児は法的に人ではないからである。
堕胎罪については、自然の分娩期に先だって人為的に胎児を母体から分離する行為が罪に問われるのであって、胎児が死ぬかどうかは本罪の成立には関係がない。胎児を殺すことが罪ではなく、堕胎行為が罪なのだ。
胎児は人間ではないとする文化があるなら、ある一定の年齢にまで到達しなければ新生児を人間と見なさない文化もあることに、なんら不思議なところはない。名付けや洗礼、割礼など、新生児に対する数々の儀式は、その子が生きていくことができるか否かを見定め、証明書の代わりに執り行われるものである。
「言われてみれば」と長波が天井を仰いだ。「むかしの日本じゃ、生まれたばかりの子供は人間じゃなくて神さまで、この世とあの世をふらふらしてて、成長するにつれて人間に近づいていくって考えられてたらしいんだ。たぶん3歳になるまでに死ぬ子供、5歳になるまでに死ぬ子供がくそ多くて、7歳の山超えたら逆に生存率が高くなる、みたいな感じだったんだろうな。それが七五三らしいんだけど、その前に死んじまったら、神さまの国へ帰ったってことにしてたんだとか」
するとアイオワがある挿話を思い出す。
「
子育ての初期段階でストレスを感じると子を食べて仕切り直しをはかる動物は、魚類、両生類、哺乳類と枚挙にいとまがない。
親による子殺しは、動物として現代まで受け継がれてきた人間の習性のひとつなのかもしれない。生まれた子供をすべて育て上げるという社会通念そのものが、じつは人類という動物の生態からかけ離れた異常な状態なのかもしれない。だから現代日本でも幼い子供を虐待死させる事件が後を絶たず、嬰児をトイレに捨てていくのかもしれない。
仮に胎児を人間と見た場合、人工妊娠中絶手術は現代の子殺しである。日本では年間16万~19万件の人工中絶が実施されている*34。つまり年間16万~19万人ほどの子供を殺していることになる。日本で3大死因のひとつとされる脳卒中の2016年の死者数は11万1973人なので、単純に数字だけみると脳卒中の死者より人工中絶された胎児のほうが多いということになる。日本人の3大死因は、がん、心疾患、脳卒中とされている。しかし実際は、がん、心疾患、人工中絶としたほうが正しい。なぜそうなっていないかというと、胎児は法の上では人間ではないので、死亡者数にカウントされないからである。
強姦などの望まない性行為で妊娠したために人工中絶を望むケースもあるだろうが、統計では人工中絶の動機で最多とされているのは「つくるつもりがなかったのに、避妊に失敗してできてしまったから」であり、次点で「経済的な理由。仕事の都合」となっている。1位と2位の理由が、狩猟採集民族の子殺しの理由――ダンバー数を超えるから、あるいは自分や部族の生活に邪魔だから――とほぼ重なっている点に留意されたい。
ちなみに都道府県別でみると、10歳~49歳の女性人口に対する人工中絶の実施率が全国でもっとも高いのは、鳥取県である。理由は判明していない。
ウォースパイトは言う。「だから、現代に生きる人間が狩猟採集民の子殺しを残酷と非難することはできないの。現代でも子供は何十万、何百万と殺されているのだから。もし、中絶を含めた子殺しで亡くなった子供を計算式に組み込んだら、現代人の平均寿命はどうなるかしら」
では狩猟採集民族にとって子供とはなんなのか。全員がウォースパイトに答えを求める。
「胎児が複数の男性の精液によってつくられる、だから女性は複数の父親のいいところを併せ持った子供が生まれるよう、さまざまな男性とセックスをする。そうした文化はごく自然につぎの文化を生むことになるわ。分割父性。すなわち男性たちが、“部族の子供はみんな自分の血が少しずつ混じっている。だからどの子も自分のように愛する”。そのため、狩猟採集民族は男性がみんなイクメンなの」
パラグアイのアチェ族では、人類学者による家系の調査が難航した。調査対象のアチェ族321人が、自分の父親だとした者の人数は、延べ600人を超えていたからである。父親は一人という既成概念をいったん忘れて調査しなおしたところ、アチェ族は4種類の父親を区別していることがわかった。ミアレ(精液を入れた父親)、ペロアレ(精液をかきまぜた父親たち)、モンボアレ(まぜた精液を外にこぼした父親たち)、ビクアレ(胎児が成長するエキスを注入した父親たち)である。ある一人のミアレである男は、別の子供のモンボアレであり、またほかの子供のビクアレであったりもした。そしてどの子供にもひとしく父親として責任を負い、子供たちは彼を父親として敬っていたのである。
また人類学者の統計によれば、多夫多妻の社会では社会的に認知された父親が一人しかいない子供より、父親が複数いることになっている子供のほうが、子供時代を生き延びられる確率がかなり高かった*35。
そうした社会では、育児においても父性を共有することが自分の遺伝子を後世に残すことに直結する。分割父性とは、最悪の事態にあっても子供の安全が保障されるためのリスクヘッジなのかもしれない。父性をセックスの段階から分割しておくことで、もし自分が不慮の事故で死んでしまったとしても、子供の面倒を父親同然に見てくれる男性がほかにいることを担保しておくというわけだ。
「わが英国の動物学者デズモンド・モリスが、ポリネシアで出会ったトラック運転手の女性から聞いた話よ……彼女には9人の子供がいた、でもそのうち2人は子供のいない友人にあげたの。モリスは、その2人の子供は母親に捨てられたと思っているのではないかと尋ねると、彼女は答えた。“なんとも思っていない。わたしたちみんなが、どの子供も愛しているのだから”。モリスは次のように書き記しているわ。“彼女のこの言葉は、わたしたちが村に着いたときの彼女のふるまいからいっそう強烈に心に残った。彼女は幼い子供たちの一団がいるところに行って、草の上に寝転がったりしていっしょに遊んで過ごした。それはまさしく、自分の子供とするようなふるまいだった。子供たちはなんの疑問もいだくことなく彼女を受け入れた。通りすがりの他人が、実の家族以外の何者かである可能性などまったく考えてもいないというようだった”」
一同が考え込む。実の家族、という言葉すら、全人類で同一の状態を指してはいないのだ。文明社会一般では血のつながった関係のみを実の家族とする。だが自分の子供しか愛さない人間を悪とする文化が確実に、しかも世界の広範に存在する。血のつながらない子供たちと大人とが、デズモンド・モリスの回想する女性のように「なんの疑問もなく」受け入れあい、子供たちが男性すべてを父親のように頼ることができ、成人女性すべてを母親と呼ぶような社会、部族の全員が顔見知りなので、子供からしたら知らない人を信頼しても安全な社会、なにより、性的関係が重なりあっているため遺伝的な親が特定できず、しかもそれ自体がなんら意味をもたない狩猟採集民族の社会に典型的な、拡散して共有される子育てのありかたこそが、あるいは人類にとってのほんとうの家族構成なのかもしれない。
ウォースパイトはフランシス・ドゥ・ヴァールの言葉を引用した。「“どの交尾が妊娠につながり、どの交尾がそうならなかったか、オスにはわからないような社会では、その集団で育つほとんどの子供から自分の子である可能性を排除できなくなる”*36」ドゥ・ヴァールはチンパンジーとボノボの研究における世界的権威だ。この一文もボノボについて書かれたものだった。しかし婚外セックスを慣習化している多くの人類社会にもぴたりと当てはまるのである。
「分割父性については、わたくしも聞いたことがありマス」
と、
「17世紀のイエズス会宣教師ポール・ル・ジュンヌが、多夫多妻のモンタニェ・インディアン*37の男性に、不貞がはびこっていて目にあまるので苦言を呈しました。“女が自分の夫以外の男を愛するのは、りっぱな行ないとはいえない。そんな悪行がはびこっていると、夫はそこに自分の息子がいても、それが自分の息子だという確信が得られないからだ”。すると彼はこう答えたそうデス。“それは違います。あなたがたフランス人は、自分の子供しか愛さないかもしれないが、われわれはこの部族のすべての子供を愛している*38”」
子育てをすべての成人で拡散して共有するという方法は、ブラジルのクリナ族特有の話ではないということだ。
多夫多妻の文化集団においては、父親だけでなく、母親も一人ではない。ウォースパイトが言う。
「クリナ族の言葉では、精液は“男のミルク”と表現されるけれど、胎児はこの“男のミルク”が蓄積されて形成されるもので、赤ちゃんとして誕生したあとは“女のミルク”によって成長すると、彼らは信じているそうよ」
「男のミルク。エロ漫画にありそうだな。親近感がわいてきた」長波が顔を輝かせた。
「ポロックの著書には、クリナ族の子育てについてこう書かれてあるわ。“子供ひとりに、おおぜいの女たちが乳をやる。とりわけ姉妹どうしが共同で授乳の役割をになうことがよくある”*39。授乳とまではいかなくとも、たいていの女性は、自分の子供だけでなく血のつながりのない赤ん坊にも優しくしたいと思うでしょうし、これはほかの社会性のある霊長類にも共通しているわ。けれど、こうした思いやりのある行動をとる霊長類には、一夫一妻の種は存在しないの」
「一夫一妻の動物には、どのようなものがあるのでしょうか?」
サラトガが野ウサギの肉にナイフを入れる。ナイフの重さだけで刃が沈んでいく。
「オシドリ夫婦っていうけど、オシドリって毎年パートナー変えるっていいますもんね」
マエストラーレが「王家の野ウサギ」を意味する肉料理を口に運び、至福の顔となる。本来、
それではと口に入れると、絹が溶けるように繊維質がなめらかにほぐれていき、フォアグラの食感もあいまって、ひと噛みごとに千変万化の感慨が舌の上をめまぐるしく駆け抜けていく。加えて、艶やかで厚みのあるソースが血の味わいとは思えないほど格調高い風味で、さらに濃厚な深みを与えている。ラストノートにトリュフの薫香が緑風となって追いかけていく。その先に遼遠なる天国が垣間見える。五感を超えたイマジネーションの洪水に理解が追いつかない。なんだったんだ、いまのは。艦娘たちがもう一度確かめようと二口めに挑む。しかもリシュリューが選んだというシャトー・マルゴーがコントラストを生んで立体感を強調する。森の下生え、湿った土、燻したハーブの趣きがあるこのミディアムボディはタンニンの継ぎ目もなく、野ウサギの味わいと血のつながらない双子のように息ぴったりの合奏を果たし、これをもって初めてリエーブル・ア・ラ・ロワイヤルというアートは真の完成を見るのだった。
「ウサギが一夫一妻でないことは確かだな。ペンギンはどうだ? コウテイペンギンは、極寒の南極にあって子供とパートナーを猛烈な突風から守るためにその身を盾にし、氷原を何日も歩いてエサを獲ってくるというが」
興奮冷めやらぬグラーフ・ツェッペリンにアイオワが首を横に振って、
「コウテイペンギンも、シーズンごとにパートナーを変えるのよ。雛が育って泳げるようになったら、パパもママも後腐れなく瞬時に離婚して、サヨナラ。しかもペンギンのメスは売春をすることがあるの。巣作りに手ごろな小石をもらうかわりに、ちょっとだけセックスをさせてあげるらしいわ」
「一夫一妻の動物はいないのか。どこかにいるはずだ」
ネルソンが言い募った。アイオワが記憶を検索する。
「一夫一妻の霊長類は、数百種のうち数種は存在するけど、それらはすべて樹上性よ。霊長類以外では、セックスの面で完全な一夫一妻と断言できうるのは、哺乳類では3%しかいないわ。たとえば、ええと、プレーリーハタネズミとか」
「ネ、ネズミだと……」
「彼らはペアの絆を固守し、巣を共にして、オスもメスも互いに相手を積極的に守りあうし、一緒になって縄張りを防衛して、子供を保護するの。ペアの片方が死んでしまっても、生き残ったほうが新たな配偶者を迎えることはなく、生涯にわたって貞潔を貫くそうよ*40」
「一夫一妻を神聖視することは、人間の性行動とプレーリーハタネズミのそれとを同一視しなければならない、ということね。ああ、かつて人間は自らを神や天使の似姿と信じていたのに、たかが一夫一妻をありがたがるあまり、いまやドブネズミを自らのお仲間に見立てて、わずかばかりの慰めを得なければならないなんて!」
ウォースパイトが大げさに嘆いてみせた。さらに続ける。
「いっぽう、建前だけでも一夫一妻のはずの人間たちは、世界中のどこででも姦淫を記録されているわ。お昼のメロドラマは不倫ばかりで主婦の欲望を代弁しているし、アメリカの大統領なんて職と地位を危険にさらしてでも不適切な関係を結ぶ英断を下したし(このときアイオワとサラトガは苦笑いした)、ガンジーは自らへの試練として若い女性と添い寝して性衝動と戦い、みごとに敗北した。ずいぶん人間は無理をしているとは思わない?」
ウォースパイトがネルソンの瞳を覗き込む。
「もし、人間が水を飲むことを倫理的に禁じられたとしたら、と考えてみて。食物からでも水分を補給することは可能だけど、人間の本能として冷たいエヴィアンを一気に喉へ流し込みたいときだってあるでしょう」
「当然だ。人間は水を飲む動物なのだから、飲むなというほうが自然の摂理に反している」
「そうね。それとおなじことよ。人間は日常的かつ同時に多くの異性とセックスをする動物なのだから、たったひとりとしかセックスしてはいけないなんて、自然の摂理に反しているのよ」
罠にはめられたネルソンが返事を詰まらせた。
「でも、彼女さんとか奥さんがほかの人とエッチしてたりしたら、男の人はやきもち焼いたりするんじゃないですか?」
肉料理とともに出された色彩豊かな
「クリナ族のような多夫多妻の社会では、子供は複数の男の精液でつくられるという前提があるから、嫉妬は起きようがないの。むしろ、自分の血が何割かでも流れる子に、部族の頼れる仲間たちの血も混じって、より優れた子供になるのだから、肉体関係のある女性とほかの男性がセックスすることは、生まれてくる子供の長所を増やしてくれる助力にほかならず、ありがたいと思うものらしいわ」
ウォースパイトは即答した。
「人類学者のウィリアム・クロッカーは、アマゾンのカネラ族の男性に嫉妬はないと確信していると言っているわ。カネラ族には、女性が20人以上もの男性とセックスするお祭りがあって、夫はこぞってその儀式に参加するよう自分の妻を励ますそうよ。もし、妻が自分以外の、しかも20人以上の男とセックスすることに本当は嫉妬しているとしたら、それを隠して笑顔でいられるような人間とは、ポーカーをしたくないわね」
セックスをめぐる祭りのときは夫を相手に選んではいけないというしきたりを設けることで、「セックスは夫とだけ行なうものではない」と刷り込んで、性の独占欲である嫉妬が育たないように工夫されているのだ。先史時代、そして彼らの文化的子孫たる現代の狩猟採集民は、食料を平等に分けあうように、セックスすら平等に分配する対象にしているのである。
「だが、愛はモノのように分配できるものではあるまい。1人の伴侶にすべての愛情を注ぐのが、人のあるべき姿ではないのか」
「2人と肉体関係を結んでいれば1人あたりに注ぐ愛は1/2になって、3人なら1/3ずつになる、と言いたいの?」
ウォースパイトにネルソンが頷いた。ウォースパイトはほほえんで、
「最初の子供は、弟や妹ができて、お母さんがそちらにかかりきりになったら、きっと嫉妬するでしょうね。そこで優しいお母さんは最初の子に、あなたはこれからもずっとわたしの天使なの、あなたを愛していることに変わりはない、子供たちみんなを愛しているのよと教え
親は子供を平等に愛するものであり、子供が増えようと子供1人当たりへの愛が等分に減量されるのでなく、どの子にも100%の愛を与えることが可能だと、だれもが当たり前のように信じているのに、どうして男女間の愛は限られたパイの奪い合いだと決めつけるの? 人は、同時に1人しか愛せない生き物ではないわ。親は子供がたくさんいても、それぞれ1人しかいないときとおなじように愛してる。シャトー・マルゴーを飲んだからといって、スパークリングワインを裏切ったことにはならない。わたしはシェリー*41を読むけど、ワーズワース*42だって愛している。それはだれもが可能なこと。ならばどうして、セックスの関わる愛は例外だと断言できるのかしら。愛はモノでないからこそ、真に平等に分配することができるのよ」
次々に退路を断たれていくネルソンは、もはやウォースパイトと正面から向き合わなければならない局面にあった。
「多夫多妻の社会が、いずれも女性は夫以外の男性と積極的にセックスするよう仕向けられていることを思い出して。先進国の人間は、愛と性欲をおなじものだと勘違いしている。でも、“一緒に暮らしたい”と思う感情と、“セックスしたい”という欲求は、本来は別々のものなの。母親が子供を愛しているからといって、彼女は子供とセックスしたいと思っているのだと受け取る人はいないでしょう。夫とセックスをしたら子供を愛していないことになるかしら? 夫も愛している、子供も愛している、しかも50%ずつの愛を分け与えているのではなくて、どちらにも100%の愛を注いでいる。このことにだれも疑問はもたないはずよ。
男女間の愛もおなじ。愛しているからといってセックスしたいと思っているとは限らないし、ほかの異性とセックスしたからといって、それはパートナーを愛していないことにはならない。それは赤ワインと白ワインのどちらが大切なのかといっているのとおなじくらい的外れなことよ。パートナーへの愛と、セックスしたいという欲求をごっちゃにしてしまって、セックスしてよいのはともに暮らしているパートナーだけと自縄自縛しているから、どこかしらで無理がくる。そんな文明社会に比べれば、伴侶を愛することと、ほかにセックスのパートナーをもつことを両立させている多夫多妻社会のほうが、はるかにストレスが少なくて、充実した人生を送っているのではないかしら?」
チンパンジーは、オスもメスも交尾の相手には新奇性をもとめる。人間も同様で、近親相姦を防ぐため、長く暮らしている異性を性行為の相手と見ることに本能的な嫌悪感をいだく仕組みがある。自分の夫を「でかい子供のようだ」とうんざりする妻は多いが、実際、夫も長年連れ添った妻を第2の母親のように思っていることが多い。母親とセックスしたいと思う男はそういない。だから妻とセックスレスになる。
「フランスには、こんな冗談がありマス」
コマンダン・テストがワゴンで食後の
「ある医者のもとに患者から電話がかかってきました。
“先生、このあいだ処方してもらった薬を飲みましたが、妻が出かけてしまったんです”。
“仕方ない。なら、メイドとやっておしまいなさい”。
医者が言うと、患者の男性はこう返してきました。
“でも先生、メイドとやるときは、薬はいらないんです”」
妻を愛していることに変わりはないがほかの女性とセックスしたい、という欲求は、水を飲みたいが食べ物も食べたいというのとおなじで、生物学的にはなんら矛盾なく成立する。むろん女性のほうも同様である。
「先進国の人間が盲信する一夫一妻は、核家族――一組の夫婦がいて、互いに貞節を守り、自分たちふたりの子供をもうけて育てていく――をよしとしているわ。でも、夫婦を核にその周囲を子供が電子かなにかのように回る、それをひとつの単位として独立、いえ孤立している核家族は、じつは人類の生物学的な生態ではなくて、コルセットや貞操帯や中国の纏足の靴とおなじように、文化的に押しつけられた拘束具なのではないかしら。
1人で父性の全責任を負わなければならない父親も、1人で育児をしなければならない母親も、親として自分を愛してくれる大人が2人しかいない子供も、むりやり自分たちを小さな枠に押し込めようとしているのではないかしら。たかが痴情のもつれなんていうくだらないことで争う男女、冷えきってセックスレスのまま互いを縛りつづける仮面夫婦、協調性のない攻撃的な子供たちが、いまの先進国にインフルエンザよりも蔓延しているのは、ほんとうは人類という生物にはそぐわない、愛の絶対量が足りない核家族という家族構成に心が歪められてしまったがための、当然の帰結ではないかしら。
核家族というシステムそのものが、文化的に見映えがいいだけの、生物としての人間には無理があるコルセットなのではないかしら」
ウォースパイトに一同は重苦しい沈黙に包まれた。
「狩猟採集社会は、生まれた子供の7割を殺しておきながら、子供を部族全体で愛する……? 連中にとって、子供ってなんなんだ?」
長波が、女性の膣のにおいとおなじ過程で生成された揮発性脂肪酸の香りを放つチーズを齧って疑問を発した。
「それは現代人とおなじよ。現代人も、子供がほしいときか、子供ができてもいい時期以外に身ごもったら、はっきり言って重荷にしかならないでしょう。だからコンドームやピルを使って子供ができないようにセックスをする。狩猟採集社会では生まれるべきではないタイミングで生まれてしまった子供を殺す。順番が違うだけで、文明社会も未開社会も、子供とセックスに対する観念はほとんど変わらないの。
タイミングに恵まれた子供だけを愛して育てる、それは矛盾ではないし、人間の普遍的な習性のひとつと考えられるわ」
「あたしからもいいかな」タシュケントだった。「総括すると、狩猟採集社会では人間は平等主義で利他的な善人ぞろい。それが農耕社会になったとたん独占的になって、戦争さえはじめるようになったってことだよね。じゃあ、人間の本性ってどっちなんだろう? 戦争を好むのか、平和を好むのか。利己的なのか、気前よく分けあうのか」
「その質問には答えようがないわ」とウォースパイト。「水の本当の姿は、液体なのか、固体なのか、それとも気体なのか? 水はその背景によって状態を変える。餌付けされていたゴンベのチンパンジーは食料を取りあっていたし、資源が豊富なコートジボワールでは平等に分けあっていた。動物はつねに自己の最大利益を追求している。協力がいちばん得になるなら協力するし、裏切りがベストであれば裏切るようになる。人間もまた、背景によって利己的にも利他的にも変化しうるの。狩猟採集社会のように小集団で、だれもが日ごろから顔を合わせていて、協力しなければ生きていけない環境なら利他的になる。農耕社会のように私有財産の概念があり、人口が多すぎるがゆえにコミュニティがダンバー数の上限を超え、顔も名前も知らない他人ばかりという環境では、人間は羞恥心が機能しなくなる。マルクス主義者の致命的な間違いは、人間の本性が背景によって変わるということに気づけなかった点にあるわ。平等に分けあう協力的な善人は、濃密で相互依存的な社会という背景のなかでしか利益を確保できない。だから大規模な社会ではもうひとつの本性に追いやられてしまう運命にある。匿名性という背景のもとでは、人間は利己的で恥知らずの動物へと姿を変える。つまり、背景が決定的に重要なの」
部族のみんなが顔と名前の一致する家族であり、セックスをする仲であり、セックスのパートナーを共有する仲であり、すべての子供たちを実の子供のように愛することができ、子供は部族の大人すべてに愛される。それを実現する背景こそ、即時報酬型の狩猟採集民族である。そこではむしろ協力的な善人でなければ生きていけないのだ。
狩猟採集時代の人類は、ホッブズが『リヴァイアサン』で悲観したような、「孤独で、貧しく、意地が悪く、残忍で、短命」ではなかった。部族の成員たちは、家族同然の穴兄弟もしくは竿姉妹が何十人もいて、体格からするに現代人より健康で、協調にこそ快感を覚え、助け合い、70歳でも移動生活が中心の社会で生きていけるほどに長命だった。
トマス・ホッブズの母親は、スペインの無敵艦隊がイギリスを攻撃しにくるという急報におののいて、恐怖のあまり産気づき、早期分娩した。『リヴァイアサン』は祖国イギリスではなく亡命先のパリで書かれたものだ。王政支持に敵対する市民革命の手から逃れなければならなかったからである。しかしフランスで出版すると、今度はその反カトリシズムが亡命者仲間の怒りを買った。彼は命からがらイギリスに逃げ帰った。かつての敵たちに命乞いをし、なんとかイギリスで暮らすことは許されたが、著書の刊行は禁じられた。母校のオックスフォード大学は焚書さえした。当時のヨーロッパは、異なる思想の人間は放っておくのではなく、徹底的に糾弾し殲滅しなければならないという使命感にだれもが熱狂していた。
そういう魔女狩りのごとき狂気の時代に生まれ合わせたので、ホッブズにとってはむしろそれが「自然な状態」で「人間の本性」だった。文化的バイアスである。ホッブズはのちの人類学者たちがそうしたように、当時まだ残っていた未開社会をいくつか訪ねてそれぞれの共通点から先史時代の姿を類推したのではなく、単純に自分の生きていた社会――せいぜいイギリスとフランス――だけを材料にして、有史以前の世界を想像しただけにすぎない。17世紀のヨーロッパという、人類の歴史上を見渡してももっとも暗黒に包まれていたであろう時代を、そのまま先史時代に投影したのである。それでは人類の本来の姿など正確に描けるはずがない。
さらに彼は、いまはこうして万人による万人の闘争が繰り広げられているけれども、文明や国家があるから、まだこの程度ですんでいて、個人が野放しになっていた先史時代はもっと悲惨だっただろう、そのはずだと思い込んだのだ。
「こうした考えの背景には、人間は絶えず進歩しているものだ、という先入観があると考えられるわ。現代人でさえ、進化とは改良であると信じている人が少なくないでしょう」
「違うのですか?」
ウォースパイトにサラトガが、純白のフロマージュ・ブランに蜂蜜をかけながら訊いた。
「進化は、つねに変化している環境に、そのときたまたま適応できるよう変化した種が生き延びただけ、その時代に適合していただけだから、あとの時代には優位性が無効になることがあるのはもちろん、前の時代にいたとしても不利だったということはじゅうぶんありうるわ。いまの生物は過去の生物の上位互換ではないの。地球の環境は季節のように変化する。夏の時代に適した遺伝情報は冬の時代にも適しているとはかぎらないし、その逆もしかりよ」
人間がエラを失って水中呼吸できなくなったように、生物の進化とは退化でもあるということだ。進化はバージョンアップではなく、単なるバリエーションの違いでしかない。
ウォースパイトがいう。
「中世のころの鎧を見ると、現代人には小さすぎて着用できないものばかりで、これは数百年前の人間が現代の水準からすると低身長だったことを示しているわ。では何万年も前の古代人はもっと小さかったのかというと、実際にはそんな単純な話ではないことは、すでに話したとおり」
人間はどうしても比例関係のわかりやすい推移を好む。進化を改良の類義語だと思い込むのもそのためだ。
「人間はむかしむかし、とても愚かな個人主義者で肉体的にも劣等だったけれど、時代が進むにつれて知性を磨いて、物質的にも精神的にも洗練され改善し、みずからを高めてきた、だから現代に生きる自分たちは史上もっともよい時代に生まれ合わせたのだ。……それはひとりでお酒を飲むときの慰めにはなるかもしれないわ。でも、いいかげんそんな幻想からは卒業してもいいのでは? つまり、次のことを素直に認めるべきなの……“先史時代の人間は、現代の人間よりも優れている部分もあった、しかもそれは現代人が人間的と呼んでいるものだった”。人類にもっとも近い類人猿の2種と、文明を知らない狩猟採集民族が、その生き証人なの」
勝ち誇ったようなウォースパイトが、白かびチーズのブリーをケーキのようにカットしてもらって、ひとくちめはそのまま噛む。
「まだ人類のあるべき姿が多夫多妻だって信じられない?」
「当然だ」青かびタイプのチーズであるブルー・デ・コースと、残りの赤ワインのマリアージュを満喫しつつも、ネルソンの鼻息は荒い。「どれも状況証拠ばかりではないか。現代の狩猟採集民族が多夫多妻だからといって、1万年より前の人類もそうだったとは言い切れまい。すべては憶測にすぎぬ」
たしかに、発掘した骨から先史時代の人間が高身長だったと証明できても、実際にどんな性生活を送っていたかまでは化石記録には残らない。しかも、残念ながら1万年より前の先史時代にはスマートフォンどころか文字もなかったのだ。
「では、物的証拠があれば納得するのね?」
ウォースパイトにネルソンが固唾を吞む。ついでにワインも飲む。
「ペニスよ」ウォースパイトがブリーを乗せたバゲットをじっくり楽しんで繰り返す。「ペニスよ」
思い思いのチーズを食べる艦娘たちが耳目を寄せる。
「生物の体は祖先がどんな環境を生き抜いてきたかを雄弁に語ってくれるわ。
多くの哺乳類が色盲なのは、その祖先が恐竜の時代には夜行性だったということを教えてくれる。
緯度の高い地域の魚より熱帯魚のほうが派手なのは、熱帯のほうが食料資源が豊富で個体数が多いためにメス争奪戦の競争率が高いことを教えてくれる。
チュパカブラが吸血性なのは、獲物を仕留めて肉ごと食べることができないから血を吸うだけにとどめている弱く小さな動物であることを教えてくれる。
オスとメスの体格差、性器の特徴は、生殖についてさまざまなことを詳細に語ってくれる。ときには陰茎骨が近縁種と区別する決め手になることもあるわ。性器とは、その生物が
とウォースパイトが話すなか、コマンダン・テストが
「手始めに、オスとメスの体格差から見てみましょう。類人猿では、ゴリラやオランウータンのオスは、メスよりも2倍は大きい。いっぽうで、チンパンジー、ボノボ、そしてヒトのオスは、メスより10~20%大きいだけ。テナガザルは雌雄で体格はひとしいわ」
霊長類において、オスとメスとの体格差は、生殖をめぐるオス間競争と相関関係がある。メスとの生殖機会という戦利品をめぐってオスたちが競争し、その勝者がすべてのメスと一帯のなわばりを独占する配偶システムでは、より大きく、より強いオスが勝利をつかみ、繁殖の権利を得る。類人猿での典型例はゴリラだ。もっとも大きくもっとも強いオスのゴリラが勝利し、大きく強いゴリラになる遺伝子を次世代へ受け継がせる。逆に、小さく弱いオスのゴリラはそのチャンスを獲得できないので、遺伝子プールからは排除される。そうやってオスのゴリラは世代を経るごとにどんどん大きく、どんどん強くなっていく。
いっぽう、メスをめぐる闘争が激しくない種においては、オスが大きく強い身体に進化する必要性も小さいので、そのような進化はしない。完全な一夫一妻のテナガザルが雌雄でおなじ大きさであるのはこのためである。
「では人間は?」クレーム・アングレーズとメレンゲ、カラメルを同時にスプーンで掬いながらウォースパイトが言う。「人類の男性と女性との体格差は、ゴリラほど明確ではないわ。先史時代の人骨も右におなじ。つまり過去数百万年のあいだ、女性をめぐる男性どうしの戦いが、さほど激しくなかったということよ」
「ならば、男女でほぼおなじという体格差のその比率こそ、人類がはるかむかしから一夫一妻であったというなによりの証ではないか」
メレンゲの雲のような食感、カラメルの香ばしさとわずかな苦み、アングレーズ・ソースの甘い香りの多重奏を耳によらず聞くネルソンの反論は、どこか懇願のような成分が含有されていた。
「ほんとうに数百万年も前から一夫一妻を採用していたのなら、人間はいいかげん完全に一夫一妻に馴染んでいるはずよ。男性も女性も互いにひとりの相手としかセックスしたくないはずだし、不倫なんてしないはずだし、性風俗産業なんて存在しないはずだし、夫婦は離婚なんてしないはず。なのに、人間は年中だれとでもセックスできる能力があるし、不倫の誘惑と戦いつづけなくてはならないし、世界最古の職業は娼婦だし、結婚した夫婦のうち死別より離婚するペアのほうが多いのは、どうしてなのかしら」
「なら、一夫多妻なのでは」グラーフ・ツェッペリンがカラメルを齧って訊いた。
「自然の恵みを拾い食いする即時報酬型の狩猟採集民族では、食料をたくわえておくよりもその日のうちに全員で分配して消費してしまうことが最適解になる。たしかに、チンギス・ハーンやブリガム・ヤング*43、ウィルト・チェンバレン*44といった男性たちは、性欲の強さで名高いけれど、人間の身体はハーレムを形成する動物の体格とは決定的に雌雄の比率が異なるわ。ハーレムは、富の蓄積が可能であるがゆえに階層社会となり、自分と血がつながっていると確信できる子供に地位を受け継がせることを指向する農耕牧畜文化でしか形成されないの。少数の男性が多数の女性を占有するハーレムは、世界中の即時報酬型の狩猟採集社会で報告された例がひとつもないわ、ひとつも」
反証をひとつずつ潰していく。
「わたしたちは刮目して見なければならない」ウォースパイトは重ねた。「人間とおなじ雌雄間の体格差に収まっていて、しかも地球上でもっとも近縁な動物であるチンパンジーとボノボが、たくさんのパートナーと数えきれないほどのセックスを楽しんでいることを。とくに、ボノボのメスが複数のオスと連続してセックスしていることを。もういちど言うわね。ヒトは、多夫多妻の乱婚的なチンパンジー、ボノボと、雌雄の体格差がまったくおなじなの」
「ばかな……人間は核家族、一夫一妻こそが本来の姿のはずだ……」
ネルソンがうわごとのようにつぶやいた。
「それなら、なぜ人間は、テナガザルのように、男女でまったくおなじ体格ではないのかしら」
「人間はもともと一夫多妻だったけれど、慎みを覚え、みずからを律することを学び、それにある程度は成功している、という可能性は?」
というタシュケントに、
「それなら、なぜ人間は、ゴリラのように、男性があきらかに女性より巨大な体格ではないのかしら」
ウォースパイトは逆に疑問を投げかけた。
人は、自分たちの行動のあらゆる起源――社会性、言語、道具を使うこと、戦争、残忍さ――を、なんでもチンパンジーやボノボに求めようとする。しかしセックスの問題になったとたん、彼らに目を背け、はるかに遠縁で、非社会的で、知能もずっと低い、だが一夫一妻のテナガザルにすらすがりつこうとするのだ。
「それはダブルスタンダードだと、そろそろ認めてもいいのではないかしら」
ウォースパイトが晴れ晴れと告げた。「
そこへ
前衛芸術のようなデザートに戸惑う長波に、コマンダン・テストが食べ方を教える。長波は言われたとおりスプーンの背中で金色の球体を割った。それは飴細工だった。閉じ込められていたトリュフの香りが噴き出し、ラズベリーの泡とマスカルポーネのムースが卵から孵るように顔を覗かせる。
さまざまな味とアロマを存分に楽しむ。驚くべきは添えられた白トリュフのアイスクリームだ。口に入れた瞬間、極限まで濃縮されていた香りが爆発し、鼻腔どころか脳天まで突き抜け、
「ここに極めて近縁の3種の動物がいて、体格の雌雄比率も類似しているのであれば、その3つの種の身体が性に関しておなじような適応をしてきたと考えるのが自然では?」官能的に誘うというより強引に押し倒してくるようなトリュフの猛攻に悩殺されそうになりながらも、英国でもっとも偉大な戦艦娘は続けた。「にもかかわらず、ネルソン、あなたはその事実に目をつむって、感情面で安心できるこじつけにすがって、逃げようとしているのよ」
「ちがう! 余は……!」
「動物はみな、繁殖を最終目標として生かされているの。その要は性器よ。すなわち、男性にぺニスが付いているのではなくて、ぺニスに男性が付いている。だからわたしたちが人間を知るには、ぺニスと睾丸を知らなければならない」
ウォースパイトは頭を抱えるネルソンに畳みかける。
「男女の体格差からするに、人類は少なくとも1万年まえの農耕発生までの数百万年間、男性は女性をめぐる戦いをしてこなかった。とはいっても、男性にまったくなんの淘汰もなかったわけではないわ。ゴリラは生殖機会をめぐってオス同士が戦う。人間の男性もほかの男性と戦ってきた。けれどその戦いは個体間ではなく、精子同士で起きていて、戦場は女性の性管なの」
「どういうことだ」
「ゴリラって、とても大きな身体をしているわよね」ウォースパイトがわざと話題を急旋回させる。「シルバーバック*45は体重180キロにもなるの。でも、そのぺニスは勃起してもたったの3センチ、睾丸はせいぜいインゲン豆くらい。ゴリラは見かけによらず短小なのよ。おまけに人間とちがって睾丸が体内に完全に格納されているわ」
「ゴリラは短小……」
「対して、体重45キロのボノボは、ゴリラの3倍も大きいぺニスと、ニワトリの卵ほどの大きさの睾丸を持っている。射精1回あたりの精液の量も精子の数もけた違いに多いわ。ボノボはすべてのオスがセックスできるから、競争はオスの個体間ではなく、精子によって行なわれる。だから、オス間競争そのものは依然として繰り広げられているの。ただ競技場が違うだけ。ゴリラのようなハーレムは、セックスに先立ってオス同士が戦う。チンパンジーやボノボは、精子がメスのなかで戦うから、オスが外で戦う必要がないのよ。オスのゴリラは繁殖のための闘争に必要な巨体と筋肉が進化して、授精に競争がないからぺニスは最低限の大きさしか必要ないので短小になる。逆に、チンパンジーやボノボは、オス同士で戦うための筋肉は必要じゃないけれど、ほかのオスの精液が注がれるヴァギナのなかで自分の精子が宝くじに当たるように、ぺニスは大きく、睾丸はより力強くなったの」
「でも、admiralさんのタマタマはニワトリの卵ほどは大きくないですよ」
白トリュフのグラスを名残惜しそうに賞味したプリンツ・オイゲンが言うと、
「そうね。でもインゲン豆ほどしかなくて体内にしまい込まれているというわけでもないでしょ?」
とウォースパイトが答えて、独重巡艦娘は納得した。
では、人間のぺニスと睾丸の性能やいかに? ほかの霊長類と比較してみる。
ゴリラ | オランウータン | チンパンジー・ボノボ | 人類 | |
睾丸2個の重量(g) | 29 | 35 | 118-160 | 35-50 |
1回の射精ごとの精液量(ml) | 0,3 | 1,1 | 1,1 | 4,25 |
精子密度(mlあたりの精子数) | 1億7100万 | 6100万 | 5億4800万 | 1億1300万(1940年) 6600万 (1990年) |
射精1回あたりの精子数 | 5100万 | 6700万 | 6億300万 | 4億8000万(1940年) 2億8000万(1990年) |
ぺニスの外周(㎜) | 短小すぎてデータなし | 短小すぎてデータなし | 12 | 24,5 |
ぺニスの長さ(㎝) | 3 | 4 | 7,5 | 13-18 |
体格に対したぺニスの長さ | 0,018 | 0,053 | 0,195 | 0,163 |
「こうみていくと、人類は大型類人猿で唯一ぺニスの長さが10センチを超えていることがわかるわね。人類は大型類人猿随一の巨根なのよ」
「人類みな巨根……」ネルソンが畏怖の表情を浮かべる。
「またこのデータからは、精子密度こそ、人類はチンパンジーとボノボにはもちろん、短小のゴリラにさえ負けているけれど、精液の量がもっとも多いので、射精1回あたりの精子の数はゴリラやオランウータンの数倍にもなっていることがわかるわ。想像してみて、1度の交尾で放出された、2億ないし4億の精子が、いっせいに卵子へ殺到するさまを。そのうちゴールまでたどり着けるのはたった1個なのよ。なんて旺盛な競争心なのかしら。こんな競争率の高い生物はちょっとほかには見当たらないわ。昆虫なんて、1回のレースにエントリーする精子が100個もない種類さえ存在するのに」
人間のぺニスの特異性は、その巨大さと射精量ばかりではない。形だ。
「思い出して、あの木魚のような先端部分と、雄々しく張った
「余はまだ見たことがない」
「あら、それは残念ね。じつは、ぺニスに亀頭とカリがあるのは、類人猿では人類だけなのよ」
たしかに人類の睾丸の大きさは控えめであるし、精液1mlあたり6600万とされている精子密度は、チンパンジーとボノボの5億4800万に遠く及ばない。
だが人類のぺニスはその形状のユニークさで他の追随を許さない。チンパンジーとボノボのぺニスは、指のように先端にいくにしたがって細くなるだけなのだ。なぜ人類だけが異形のぺニスを手に入れたのか。
「先端がふくらんでいて、雁首がくびれた人類のぺニスは、これもまた人類に特異なピストン運動の繰り返しと組み合わされて、その真価を発揮するわ。人間は1回の発射準備に500~1000回のピストンをするけど、亀頭でふたをするように密閉してピストンすることによって、性管に先立って注入されていた精液を吸いだして、自分の精子に有利になるよう支援するの。ちょうど注射器の
「でもそれじゃあ自分の精液まで吸い出してしまうんじゃない?」
「いいえ」とウォースパイト。「秋雲の本では射精時に亀頭がふくらむと描写されていたけれど、じつは逆。射精にあたって亀頭はしぼんで、幹の硬度もいくらか落ちて、せっかく発射された自分の砲弾を吸い戻しかねない吸引力を無効化するからよ*47。チンパンジーとボノボが大量の精子で力押しするのに対して、人類は先客の精液を掻き出すという戦術で精子の数をカバーしているの。すばらしいわ。人類のぺニスにこそ、グッドデザイン賞が与えられるべきよ」
チンパンジーの性行為は1回あたりわずか7秒、ボノボで15秒、ゴリラも60秒程度でしかない。しかも彼らのぺニスには亀頭も雁首もないのだ。ひるがえって人間のセックスは平均で4~7分にもおよぶ。注入ずみの精液をすっかり掻き出してから射精するという信念があるからこそ、これほど他の類人猿と持続時間に差が出ているのである。そのうえ人間の1回の射精量はチンパンジーの約4倍で、発艦する艦載機の数だけみればチンパンジーのそれに近い。人類のオスは亀頭と雁首で他人の精液を掻きだす作戦と、大量の精液という兵力の両方を兼ね備えた高度な軍事国家なのだ。
「ネルソン、まだわからない? いいえ、聡明なあなたならもう理解しているはず……。それだけ人類の女性は、膣内につねにほかの男性の精液が注がれている状態だった、ということなのよ」
「ちがう、ちがう……」
「人類の陰嚢がなぜ外部にぶら下がって、無防備な姿をさらしているのか。精子は熱に弱くて体温ですら短時間で死滅してしまうの。でも袋を外に出しておけば、身体の内部にしまい込んでいるよりも、空冷で冷やすことができるから精子も長生きできる。したがって蓄えておくことが可能で、必要とあらばいつでも使えるということ。このあいだいたずらが見つかって廊下を走って逃げていた佐渡が、ちょうど角で出くわしたadmiralの股間と正面衝突して、admiralが悶絶していたけど、人類にとっては最大の弱点をさらけ出してしまうことを差し引いてでも、つねに主砲を使える状態にキープしておくことのほうが重要だったのでしょうね。人類はいつでもセックスして射精できるようじゃないと自分の遺伝子を残せなかったの」
「うそだ……人間は一夫一妻だ……」
「これは仮の話だけれど」
「カリの話……」
「人間がもし一夫一妻で、しかも子供をつくるときにだけしかセックスをしないなら、性器の使用頻度が低いのだからゴリラのように睾丸を体内に格納して、射精の即応性よりも玉を守ることを優先しているはずよ。また人間がむかしから核家族なら、おなじように核家族で一夫一妻のテナガザルのように、ぺニスはもっと小さく、しかもつまらないデザインをしていなければならないわ。つまり、人間のぺニスは、一夫一妻制にしては、あまりにも性能が良すぎるの」
そう語ったウォースパイトの高貴な美貌が憂愁に翳る。
「そう、性能が良すぎる。人間の射精はふつう、3~9回にわけて噴射されるわ。この噴射ごとに採取して分析してみると、それぞれ成分比が異なっていることがわかった。最初の噴射にはさまざまな種類の化学的な攻撃を無効化する化学物質が含まれていたの。化学的な攻撃とはだれからのものか。ほかの男性の射精した精液のうち、最後の噴射に含まれる化学物質から自分の精子を防衛するためよ。最後の噴射には殺精成分が含有されていて、あとから来る者の進出を妨げようとするのよ。つまり、ほかの男性の精子とのレースという直接的な競争の前哨戦として、最初のほうの噴射では先客からの防衛が、最後のほうの噴射は後続への攻撃が行なわれている、ということ*48」
この仕組みは、精子が自分たちどうしで争うには不要な性能だ。あきらかに人類の精液はほかの男の精子と戦うために特化している。なぜか? そうしなければ自分の精子を卵子というゴールにたどり着かせることができなかったからだ。すなわち、オスのゴリラが筋肉の発達した個体にだけ繁殖のチャンスを与えられるように、人類の精液は、つねにほかの男の精液と膣内でひしめきあっていて、他者を出し抜ける仕組みが発達していたものが授精のチャンスを勝ち取ってきた、ということだ。この進化は、すくなくとも多夫の乱婚でなければとうてい起きるはずのないものである。
「それにね、人間は、一夫一妻や一夫多妻の霊長類より、はるかに多くの精子を生産する能力があるわ。精巣1グラムあたりの精子生産数を、人間以外の8種類の哺乳類とくらべてみると、人類はほかの動物の1/3~1/8しか生産していないのよ。こんにちでさえ、人間はゴリラを恥ずかしがらせるに足る大量の精液と精子をつくり、毎日だって射精できるのに、それでもまだ本気を出していない。とてつもない余剰、とてつもない潜在能力があるの。一夫一妻には無用の長物といえるほどに」
生物の身体はどんな敏腕CEOより冷徹だ。使わない機能はどんどんリストラしていく。なぜ人間はおびただしい量の精液や精子を生産できるのか。艦娘たちには、同時に次のような疑問も浮かぶ。なぜ人類は本来の精子生産能力を大幅に下回る量しか生産できないのか。そんな余剰は無駄なのだから、進化の過程でリストラされて、精巣は生産量ぴったりの大きさにダウンサイジングされているか、元から余剰のない大きさでなければ、つじつまが合わないのではないか。
「ひとついい?」ゴトランドだった。「人間の精子密度と精子数が、1940年から1990年でどちらも減少傾向にあるけど、これはどうして?」
食後のコニャックと葉巻の贅沢に身を委ねていたウォースパイトが、よくぞ訊いてくれたとばかりにスウェーデンの軽巡艦娘に破顔する。
「人間の精子生産と、睾丸の体積が劇的に減少しているという結果は、近年、世界中の先進国から報告されているわ。この原因として考えられる可能性を列挙しただけで本が1冊書けるほどよ。単調な食生活。農作物に使用されている殺虫剤や肥料。環境ホルモン。携帯電話をはじめとした過密な電波環境。身の回りの石油製品にふくまれる化学物質。食品添加物。絶え間ないストレス。宇宙人の陰謀。――たしかにそれらが原因かもしれない。でも、こうも考えられないかしら。人類のぺニスは、いままさに一夫一妻にふさわしいサイズと性能に退化している真っ最中。一夫一妻こそが、現代の男性たちの玉を縮み上がらせていると」
「そうか。わたしたちは、ついつい、人間のチンコもキンタマも何万年も前からずっとこの大きさだと思い込んでる。でも、チンコにせよキンタマにせよやわらかい組織だから骨みたいに化石になって残ったりはしない。だから、1万年前、10万年前のチンコは、いまよりもっとでかかった可能性も否定できないわけか。それこそチンパンジーなみに」
と長波が悔しそうに奥歯を噛みしめた。進化は何百万年もかけてゆっくり起きるとはかぎらない。たとえば人間という種が乳糖耐性を手に入れたのは7500年前といわれている。人間が農耕牧畜をはじめたのはせいぜい1万年前で、家畜は当初、食肉や労働目的であったと考えられるが、その乳を利用できる子供は授乳期の死亡率を格段に軽減させることができた。そうして家畜の乳を飲める子供が優先して生き残れるようになり、こんにちのように牛乳を飲める人間が世界に普及することになった。人間はわずか2500年でそれまで消化吸収できなかった牛乳を飲めるようになったのだ。動物が生殖器の乗り物であり、生殖器が本体であることを踏まえれば、生殖器が環境の変化にすばやく適応しようとするのは道理である。そして人間はいま、一夫一妻によって精子の競争相手がいなくなり、濃厚で大量の精液も、巨大なペニスも、無用の長物と化そうとしている。ならば退化させようと体が判断していてもおかしくはない。
ウォースパイトが続ける。
「不妊症は男女どちらであっても子孫を残せないのだから、不妊症が遺伝することはないわ。でも、低
ネルソンも
「なら、あるとき、それも1万年以内くらいの最近に、文化的な強制で一夫一妻を課せられた、と考えてみるとどうなるかしら」とウォースパイト。「一夫一妻では、1人の女性は、1人の男性としかセックスしないと保証される。こうなるとほかの男性との間に精子競争は起きなくなるわ。これはもう対立候補のいない選挙そのものよ。1人しか候補がいないのだから、どれだけ得票数が少なくても自動的に当選してしまう。おなじように、濃厚で大量の精液を出せる男性がいたらあっさり負けてしまうような、薄くて少ない精液しか出せない男性でも、いつかはうまく卵子へ精子を届けることができる。そうして生まれた子供も父親から低妊孕の遺伝子を受け継いで、繁殖力が弱くなっている可能性が高くなる。本来なら自然に排除されるはずの低妊孕も繁殖することができるので、かつて一夫一妻でなかった時代には存続できなかった“タマの小さい男”が淘汰されずに増えていき、一般化することにつながる。
人間は子供ができないとたいてい女のせいにするけれど、最近の研究によれば、世界中の男性の20人に1人が精子の機能不全におちいっていて、まさにこれが不妊治療を受けにくるカップルのもっともありふれた原因だったりするの」
「現代の男のキンタマは、市場を独占している殿様商売みたいな状態で、どうせ自分が選ばれるんだからとあぐらをかいている、それに喝を入れるのが、男2・女1の3Pモノのポルノを観るという不妊治療なわけね。ほかの男の精子と戦っていたむかしを思い出させると」
ローマが何度も頷いて言った。
精力減退に本能的な危機感をいだいているからこそ、男は精子生産能力にブーストをかけるため、ほかの男の精子の気配をもとめて、女性の膣がつねにだれかの精液で満たされていた古の記憶にすがってヴァギナのにおいを嗅ごうとするのかもしれない。その行為がおそらくクンニの原型なのだ。その逆説的反証として、現代の狩猟採集社会にはクンニの文化をもつ民族がひとつもないのである。
また先進国の男性の多くは、自身のペニスのサイズにコンプレックスを持っている。雑誌やインターネットから、ペニスを増大させるサプリメントの広告が絶えたことはない。「男の地位はペニスの大きさに依拠する」と考える男性で世界はあふれているのだ。これは男性には生まれつきセックスでほかの男性と差をつけたいという願望が普遍的に存在することを意味する。一夫一妻の動物には巨大なペニスは必要ないし、それを欲しいと思う心理も発生しない。男性の巨根への憧れはやはり人類が多夫多妻に適応してきた名残にほかならない。
ウォースパイトは、あえぎ声にもヒントが隠されていると説く。
「セックスのとき、より大きな声をあげるのは、男と女のどちら? もちろん女でしょう。これはロンドンだろうがニューヨークだろうが東京だろうが、アマゾン流域だろうが変わらないわ。セックスで女は決まってオペラのように大仰なあえぎ声を歌い上げる。ちなみに同性愛者どうしのセックスでは、よりフェミニンにふるまっているほうが大きな声をあげるそうよ。――信じられないかもしれないけれど、霊長類をおいかけてジャングル中をマイク片手に駆けまわって、交尾中の音声の録音データを集めた学者がいるの。そのハードな調査の結果、より乱婚的な種のメスほど、大きく複雑な交尾コールを発する傾向があるとわかったわ」
吉原遊郭で、のちに花魁にまでのぼりつめることになる二代目高尾太夫のあえぎ声は「無二の感興りて、霞の中の鶯、梅が香に誘われ、覚えず初音を出す如し(まるで梅の香に誘われたウグイスが、春に最初の鳴き声を発するのに似た心地よさ)」とまで評された。いっぽうで男のあえぎ声が注目されたことは歴史上ほとんどない。あえぎ声とは、人間もほかの類人猿も、メスのものにこそ価値があるのだ。
女性のあえぎ声は男性にとって、ときに直接的な接触にも勝る性的衝動をもたらす。男性は女性の肢体が見えていなくともそのあえぎ声だけで勃起できるのだ。しかも隣人の部屋から漏れてくる女性のあえぎ声はどんなに雑音にあふれているなかでも耳ざとくキャッチできる。男は女のあえぎ声でスイッチが入るといっても過言ではない。音声だけのアダルトコンテンツで自慰をすることは可能でも、AVをミュートにするとまったく興奮しないことがそれを証明している。
「進化は結果論ということを踏まえると、なぜ男性が女性のあえぎ声で興奮するのか、なぜ女性のあえぎ声は遠くまで届くのかについては、すでに答えが出ていることになるわ……それは、“周囲にいるほかのオスを性的に興奮させて、あなたもいらっしゃいよと性行動に誘うため”」
ウォースパイトにネルソン以外の艦娘たちがなるほどと感嘆のため息をもらした。
「自然界ではなにを置いても隠れることが重要だけれど、クジャクやライオンのオスのように、ときには目立つリスクを冒してでも性的アピールをしなければ繁殖の機会が得られない場合もある。人間は、男が弱点である睾丸を外に出してでもいつでもペニスを使えるようにし、女は天敵に自分の存在をアピールすることになってでも周りのオスをセックスに誘うことが、生殖にとって有利に働いた。
また、これは男が一回のオーガズムで風船に穴が開いたように萎むのに対し、女が何度もオーガズムを迎えて連続でセックスできることとも関係しているわ。実は人間の女性のヴァギナは、注入された精子に対して平等に機会を与えているわけではないの。
女性は自分と遺伝的に近い男性の体臭を臭いと感じ、遺伝的に遠い男性の体臭を心地よく感じるという実験を聞いたことない? 自分にない免疫機構をもっている異性と優先して遺伝子をミックスさせるためのこの工夫は、ヴァギナにも備わっているわ。というのも、女の身体は、入ってきた精子を抗原とみなして、すぐさま反精子白血球によって攻撃するけれど、ある種の精子は見逃す傾向にあるの。女性の生殖システムは、男性の精子細胞の化学的特徴をひとつひとつ見定めて値踏みする神秘的な機能があるということなのよ。この査定項目には、単純な品質や健康だけでなくて、女性側の遺伝子と参照して、未知の抵抗性をもっているかどうかにまで及んでいるわ。つまり、女性本人ではなく、女性のヴァギナが、さまざまな男性の精子のなかから、自分の貴重な卵子へたどり着く価値のあるものを選んでいるの。したがってメスは、オスのサンプルをできるだけ多く採集したほうが有利ということになる*50。とりあえずいろいろなオスとセックスしておいて、あとはヴァギナという選別のプロフェッショナルに任せておけば、よりよい子供を産むための精子を、女性本人が男性を選ぶよりもよほど正確に選び出してくれる。
人間の女性が連続してオーガズムを迎えられるのは、多くの精子サンプルを収集することに対する身体からの報酬よ。同時に、そうしてメスが積極的にオスとセックスをして友好関係を拡大、強化することが、群れの結束を固くする秘訣でもあった。だから女は、はしたないからと声を我慢したりせず、セックスのときは祖先から連綿と受け継いできた快楽の歌を遠慮なく歌うべきなのよ」
そして、ウォースパイトが優雅に脚を組み替えて結論を下す。ネルソンは託宣を受ける臣民となっていた。
「ヒトとチンパンジーとボノボの共通祖先の時点で、複数のオスと複数のメスが乱婚的な配偶システムにより群れの緊張を緩和し、争いのない平和な集団を維持する性質はその萌芽をみせていた。それは遺産として子孫である三者にも受け継がれた。この三者は自分の精子を卵子へ送り届けるために、ぺニスと睾丸を巨大化させ、精子密度の高い精液を大量に生産し、セックスに特化する進化を遂げた。ヒトの男性がほかの霊長類よりも異様に高性能な生殖器をもつこと、それでもまだ本来の性能の半分以下しか使われていないこと、一夫一妻制の国々でぺニスと精巣の退化が進んでいることが、その証左よ」
「う……」
「地球上のあらゆる動物のうち、ホモ・サピエンスほどセックスに執着する種はほかにいないわ。オペラも歌舞伎も、好いた惚れたで大騒ぎする演目であふれ、新聞やテレビは有名人の熱愛や不倫を追いかけ、きょうも裁判所は離婚調停に明け暮れる。人類も、淫乱と名高いボノボも、出産1回あたりの交尾回数は数百回に達する。これはほかのどんな霊長類も足元にすら及ばない淫蕩ぶりだけど、さらにボノボは行為1回の時間が人間よりもはるかに短い。これは人間がセックスをその結果としての子作りではなく行為自体が目的であることを意味している。人間が生殖のためだけにセックスをする動物なら、ペニスは数センチしかないはずだし、ほかの霊長類のように10秒足らずでさっさと射精するのがスタンダードなはず。そうでしょう?」
「う、うむ……」
「一夫一妻の動物は、いずれもローマ教皇の教えのとおりにセックスをするわ。すなわち、最低限の回数だけ、ひそかに、静かに、そして繁殖のためだけに。人間はセックス狂いの人のことをサルというけど、もちろんこれは間違ってる。サルはもちろんのこと、地球上の動物はメスの排卵期にしかセックスしない種でほぼ占められているの。生殖とは別の理由で、次の日も、次の週もセックスができる動物はこの星に2種類だけ。1つはボノボ。もう1つはボノボの分類的隣人よ。だからね、多様な相手と快楽のために頻繁にセックスするのは、サルじゃなくむしろ人間的なのよ」
「たしかに、一理あるかもしれぬ……」
「ごくまれにしかセックスをせず、しても厳格に子作りのためだけ、それこそがむしろサルなのよ。人間の男女でセックスに関心を示さない者たちこそ、人間的じゃなくて動物的な生きざまであり、サルと呼ばれるべきなの」
「り、理に適っている……」
「快楽のため、友情を深めるため、関係を強化するための手段としてセックスをもちいるのが人間的なふるまいであれば、生殖のためでない性行為、そう、アナルセックスやブッカケ、精飲、そしてオーラルセックスもまた、人間的なふるまいということになる」
「うむ、理に適っている」
「よって、生殖にまったく関係なく、ただ楽しむためだけでしかないクンニこそ、もっとも人間らしい行ないである、ということなのよ!」
「うむ、理に適っている!」
洗脳完了である。
「さあネルソン、今夜こそadmiralのクンニを受け入れて、あらためて人間になってらっしゃい!」
「言われなくとも!」
ネルソンは提督に連絡を入れ、とりあえず食事の礼を言いに厨房へ行ったら、大仕事を終えたリシュリューとイタリアとザラが死体になりかけていた。『プライベートライアン』のオマハビーチもかくやという惨状にためらいつつごちそうさまと声をかけると、リシュリューが床に倒れ伏したまま親指を立てた。
仲間たちに背を押され、ネルソンは夜を待って寝室へ向かう。
◇
提督が待っているはずの寝室をノックしようとして、不審な物音にネルソンは全身を硬直させた。熱を帯びた甘い声。それは寝室のドアの向こうから漏れていた。
音を立てないようにドアノブをそっと回す。息をひそめ、ほんの少しだけ開けたドアの隙間から覗き込む。
ベッドの上では、仰臥する全裸の提督に、着衣の乱れた美少女がまたがっていた。汗がきらめき流れ落ちるアラバスターの背中。上下に跳ねるたびにヒアシンスの巻き毛が喜悦に躍動する。それでいて黒いストッキングは穿いたままなのが扇情的だ。腋の下を見せつけながら提督の上で腰を振っているのは、予定より早く鎮守府に着任した、米戦艦娘コロラドだった。
「待ってくれコロラド。きょうはネルソンと約束が……」
「あら、そのわりにはこっちは気持ちいい~ってビクビクしてるわよ。ビクビク、ビーックビックビックビッグセーブン!」
提督は上体を起こせない。なぜなら、やはり前倒しで赴任してきた米駆逐艦娘フレッチャーが慈母のような微笑みで見下ろしながら、提督の頭部を左右からその絶妙な曲線で構成された太ももで挟んでいるからだ。フレッチャーはまた、提督の両腕をも体重をかけて封じ込めていた。華奢な身体に似合わない巨乳を迫力たっぷりに揺らしながら、フレッチャーが前へ倒れていき、提督の右の乳首に舌を這わせる。提督が身をよじる。
「提督、逃げてはだめですよ。右の乳首を舐められたら左の乳首も差し出せっていうじゃないですか」
「言わない知らない聞いてない」
「わたしたちの指揮をとるなら、わたしたちのことを隅々まで知っていただきませんと。わたしの体、提督が触ってはいけないところなんて、ないんですよ」
フレッチャーが提督の手首をつかんで自身の豊満な胸へ押しつける。
ネルソンはおもいっきりドアを蹴っ飛ばした。さすがにベッド上の3人もぎくりとして、開け放たれた扉の向こうにネルソンが仁王立ちしているのを認め、揃って「あ。しまった」という顔を並べた。
ネルソンはわなわなと全身を震えさせ、凛々しい容貌をゆでダコのように紅潮させていたが、ついに臨界点を突破、腹腔から声のかぎりに怒鳴った。16inch砲の砲声にも匹敵するそれは、このような叫びであった。
「この、サルどもが!」
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