真・恋姫†無双~未踏世界の物語~ (ざるそば@きよし)
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外史戦記
プレインズウォーカーのための『外史』案内 その1


 この記事では本作の舞台となる外史次元の簡単な説明と、そこに住む英雄たち、そして異邦者でもあるプレインズウォーカーについて紹介いたします。
 あくまで本作の雰囲気を掴むためのものですので、興味のない方は読まなくても結構です。


【外史~英雄と陰謀と争いの世界~】

 

 外史とは一つの世界であると同時に、幾重にも存在する英雄たちの活躍の場でもあります。不条理な圧制に叛旗を翻す者、世界をあるべき姿へと正さんとする者、世界を己の物にせんが為に暗躍する者――様々な目的を持った英雄やそれの属する組織が、己の運命と栄光を賭けて戦いを繰り広げる世界。それが外史なのです。

 

【次元に住まう英雄たち】

 

 英雄たちは外史の様々な土地に住んでおり、それぞれに異なった思想や目的を持っています。彼らは様々な理由で衝突し、激しい戦いを巻き起こします。

 

[朝廷(青白)]:朝廷は現在、外史で最も多くの土地を支配している組織であり、霊帝-劉宏を擁する公的な集団です。ただし霊帝は実質のところ傀儡に過ぎず、実質的なトップは『十常侍』と呼ばれる複数の宦官(去勢した役人)たちです。彼らは自分たちが支配する現状こそが世界にとって最も安定した姿であると考えており、それを維持していくことに最も注力しています。例え多少の民や兵士が犠牲になろうとも、権力の象徴である皇帝の血筋が健在で、自分たちの権威が安泰であれば、それは彼らにとっては正しい行為なのです。そんな彼らの行動を腐敗、あるいは暴虐と見なして抵抗している英雄たちも少なくありません。

 

[曹魏(黒青)]:野望を秘める姦雄・曹操の率いる曹魏は、武力と権力こそが何よりも世界を変える源であると知っています。ゆえに彼女は宦官と朝廷によって腐敗した今の世界を一掃するべく力を蓄えており、その為にはどんな敵を蹴り落とす事も厭いません。逆に有用な技能を持っているものならば敵や平民であろうともその貴賤は問わないという寛大な思想を持っています。暴力的に見える彼女ですが、その迷いなき覇道と革新的な思想に惹かれ、その背中を追いかける者も少なくありません。

 

[蜀漢(白緑)]:蜀漢軍を統べる劉備は、かつては筵や草鞋を編んで生計を立てるしがない百姓の娘でした。しかし彼女は世界の修正を志す武芸者の関羽、張飛と出会うことでその運命を変え、新たな英雄として生まれ変わりました。旧帝の血を引くとは言え、まだまだ頼りなく非力な彼女ですが、持ち前の人を引き付ける魅力とその平和を望む志に共感し、これから多くの英雄たちが彼女に力を貸すでしょう。

 

[西涼(緑赤)]:西涼は自由を愛し、気ままな自治生活を望む多民族の連合です。様々な部族が連合を組んでの自治を望む彼らは、朝廷から派遣される代官と多くの軋轢を生み、しばしばそれは弾圧や争いの元に発展します。かつてタルキールを救ったプレインズウォーカーのサルカンは現在、この連合に属する馬一族の庇護下に置かれています。

 

[黄巾(赤黒)]:朝廷やそれに従う代官たちの弾圧によって生まれた被害者が寄り集まったのが黄巾です。彼らは常に怒りと不満を堆積させており、その矛先はしばしば無辜の村や善良な領主にまで及びます。彼らは自らを生み出した環境や人々すべてを憎み、秩序を逸脱することで全てに怒りをぶつけています。彼らを束ねる張角、張宝、張梁の三人はこの次元でも数少ない妖術師であり、その力を用いて自分たちの軍を導いています。

 

[匈奴(青緑)]:匈奴は北方の広大で厳しい大地に住まう遊牧民族です。彼らは大陸を席巻する漢民族や北部一体を支配する鮮卑と敵対しており、しばしば食料や財産を奪うべく両者への侵攻を行います。彼らは自分たちこそがこの豊かな大陸を支配するべきだと考えており、その機会を日夜伺っています。彼らはごく僅かではあるが巫術という形で古の魔術を使用することができ、先祖の霊や自然の象徴であるエレメンタルを使役することができます。

 

[孫呉(赤青)]:孫呉を率いる孫策はかつて一族が支配していた土地である江東を取り戻すべく、常にその機会を伺っています。彼らは今でこそ独立と領地の管理に熱意を燃やしてはいますが、いずれは天下を我が物にせんという野望は消えておらず、常に水面下での行動を行っています。

 

[南蛮(緑黒)]:朝廷の手が届かない南方を支配する南蛮族は、未開の密林に住まいそこに住まう様々な動物や植物たちと暮らしています。高温多湿で有毒な植物や動物なども多く住む過酷な環境で暮らす彼らは、生と死を操ることでそれに適応しているのです。屍術を用いて死んだ動物を使役し、それを使って生者への恵みをもたらしてもらうのです。彼らは外部の人間に対して非常に警戒心が強く、自分たちの邪魔をするものに関しては一切の容赦をしません。

 

[袁家(白黒)]:袁家は代々に渡って高い地位の人間を輩出してきた、いわゆる名族です。その現頭首である袁紹はその高い才能を存分に活用し、いずれは自分も祖先に負けない高みへと昇らんとしています。乱によって荒れつつある今、彼女は自らの一族である袁家こそが十常侍に変わって帝を擁し、外史を支配する時だと考えています。

 

[鮮卑(赤白)]:鮮卑族は外史の北部を席巻する遊牧騎馬民族です。彼らは厳しくも広大なその土地を季節と共に常に巡っており、実りが厳しくなる冬の季節には匈奴やその先にある朝廷の土地へと略奪に向かいます。彼らは戦士の文化を尊重しており、最も強い者が一族を率いるべきだと信じています。

 

 

【次元を取り巻く力】

 

 外史という次元おいて、魔術という文化は既に失われて久しい物ですが、一部の氏族や組織の間では巫術、占術、妖術、屍術、呪術と言った別の形で僅かに伝わっているものもあります。長い修行の末にこれらを扱う事ができる人間は「術師」と呼ばれ、尊敬の対象とされています。また、逆に生まれつき何らかの術を行使する事ができる人間が生まれる場合もありますが、これは「妖憑き」と呼ばれ、多くは迫害される運命を負うことになります。

 ここでは外史で使われている術の一部を簡単にご紹介します。

 

【巫術】:巫術は自然と繋がり大地の記憶を呼び起こすことでその地に住まう精霊と会話し、情報や力を得る技術です。これらの術は主に匈奴のシャーマンが使用しますが、南蛮や西涼の巫師も一部では扱う者がいます。彼らがこれを戦いに使用する場合、自然の象徴であるエレメンタルを召還し、戦力として使役するほか、大地のエネルギーを敵にぶつけることに利用します。

 

【占術】:占術はその名が示す通り、マナを用いて天候や気候を予測し利用する術です。魔術の一部ではありますが、純粋な学問として活用できる知識も多く、洛陽の学者やそれに準ずる教育を受けた軍師などが主に使用します。応用技術として人間が体内に持っているマナを見ることでその人間の体調を見ることもできます。

 

【屍術】:失われつつある術の中でも忌み嫌われた術の一つ、それが屍術です。これは人間や動物の死骸をスケルトンやゾンビなどのアンデッドとして使役したり、他者の生命力を奪い取ったり、生け贄を捧げて超自然的な力や幻視を得たりする事が出来ます。過酷な地で生きるために南蛮族はこれを使ってアンデッドを労働力として利用しており、ゾンビやスケルトンを率いて農作や狩猟などを行います。戦いの中でひとたび利用すればその力は圧倒的なものとなるでしょう。

 

【妖術】:妖術は失われつつある術の中でも最も原型となる魔術に近いものです。これはマナを用いて他人に幻を見せたりできるほか、相手の思考をある程度読むこともできます。使える人間が少ない上、扱うこと自体にも天性の素養がいるため、使い手はほんの一握りしか存在していません。

 

【呪術】:呪術は術の中でも最も多くの形で残されている技術です。多くの場合、札や飾りといった用意しやすい身近なものに力を籠め、魔除けにしたり、効果を高めたりするのに用います。また、これを直接用いて他人の怪我や病を癒すこともできます。

 

 

【プレインズウォーカー】

 

 ここでは外史に滞在しているプレインズウォーカーについて説明します。彼らはいまこの次元に存在してはいますが、あくまで彼らは流浪の異邦者であり、この次元の人々とは一線を画す存在なのです。

 

[サルカン・ヴォル]

 

 ドラゴン崇拝者であり、龍魔導士でもあるサルカン・ヴォルは、かつて故郷の世界であるタルキールの運命を書き換え、その歴史を変えました。しかし彼は楽園となったはずの世界に自らの居場所がないことを悟り、真の居場所を求めてこの外史次元へとやってきました。彼は現在、西涼の連合に属する馬一族の中に身を置き、そこで安らぎの生活を送っています。彼は自分に好意をもってくれた一族の人々に恩を感じており、彼らの為ならば魔導士としての力を振るい、戦うことも厭いません。

 

【真名】

 

 外史の人々は公で使う名前のほかに、「真名」と呼ばれる特別な名前を持っています。これを呼ぶことが許されるのは当人によって呼ぶことを許された者だけであり、そうでない者が呼ぶ場合、それは斬りかかられても文句は言えぬほどの無礼にあたります。逆に真名を呼ぶことを許されるということは、最大級の信頼の証であると言えるでしょう。




前書きでも書きましたが、こちらの説明はあくまで本作の世界観を盛り上げるためのものであり、気に入らないという方々は読まなくて結構です、また、こちらはある程度物語が進んでいくごとに少しずつ更新していくとおもいますので、何卒ご了承ください。


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サルカンの放浪

本作はマジック・ザ・ギャザリングの公式ストーリー「Magic Story -未踏世界の物語-」をイメージして制作しています。そのためやや読み辛い構成になっておりますが、ご了承ください。

また作中に登場する※はその場面に近い映像・場面のカードを挿絵の代わりに選んでいます。あとがきの部分にその名前のカードを記しておきますので、よろしければ検索してみてください。


 プレインズウォーカーのサルカン・ヴォルは、短くない己の人生の中でとても多くの、常人では起こりえない数奇な体験と出会ってきた。

 

 彼はドラゴンが絶滅し、争いに引き裂かれた次元・タルキールに生まれた。果てなき戦いを求める戦士の人生に嫌気が差した彼は、長い戦争生活の末にプレインズウォーカーへと覚醒し、故郷の次元ではすでに絶滅してしまっていたドラゴンを求めていくつもの次元を彷徨った。

 

 そして次元を超えた果てに強大な古竜のプレインズウォーカー、ニコル・ボーラスと出会い、それを己の主と定め、仕えた。

 

 だがボーラスは強力な力以上のその思想を邪悪に染まり切っていた。彼はゼンディカーで起こしてしまったエルドラージ復活をきっかけにボーラスと決別し、再び故郷の世界へと戻ってきた。

 そして数奇なる運命の果てに時を超えて荒れ果てたタルキールの歴史を書き換え、ドラゴンを復活させたのだった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 そうだ。俺は変えた。次元だけでなく時間をも飛び超えて歴史を。故郷の世界を生まれ変わらせた。

 

 龍たちが滅び、争いと骨ばかりが残されたタルキールの歴史を書き換え、龍の楽園へと変えたのだ。暴力とカンと戦争が支配していた世界は消え去り、今やタルキールは5匹の龍王たちと共に大陸のいたる所でドラゴンが飛び交っている。彼らと敵対してた氏族は逆に彼らの一部となった。

 

 すべてが俺の思い描いた通りになった。タルキールは今や俺の理想の世界だ。

 

 だと言うのに、そこに俺の居場所は無かった。

 心も体も魂すらも満足していたはずなのに、俺の中の何かはまだ満足してはいなかった。

 

 一体何が足りないというのだ? もう頭の中から囁く幻聴はない。俺を導く亡霊もいない。そもそもウギンは、この世界において死んでなどいないのだから。

 

http://imgur.com/a/EPnaJ

《苦しめる声》

 

 ではなぜだ? なぜ俺の心は満たされない? 一体なぜ?

 

 俺は俺の心を真に満たすため、再び故郷を離れた。そして幾重もの次元を渡り歩た。

 

 ある時は様々な神が支配する次元を彷徨い歩き、またある時は吸血鬼や狼男といった獰猛な怪物が支配する世界を横切り、またある時はいくつもの物語が絡み合った奇妙な次元へと身を置いたこともあった。

 

 そうして幾度となく次元を渡り歩いた末、ついに俺は見つけた。

 

 龍も大きな戦乱もない平和で穏やかな次元、人々はその世界を“外史”と呼んでいた。

 外史の世界は――少なくとも俺と関わりのある人々は皆――とても親切だった。今までどんな次元を渡り歩いていても、こんなにも人から親切と好意を受けたことはなかった。

 

 そこでようやく俺の心は少しずつ満たされ始めた。

 

 安らぎ――若い頃からドラゴンの真髄を探求し続けてきた俺にとってそれは、あまりにも眩しく、尊く、そしてありがたかった。

 

 俺はそれを待ち望んでいたのだろうか。心の奥底で。自分すらも知らない心のどこかで。

 だが俺の心はそれをごく自然にそれを受け入れた。快く。心地よく。ありがたく。

 

 あの獰猛なジャンドとも、エルドラージに引き裂かれてしまったであろうゼンディカーとも、氏族同士の争いが絶えなかったタルキールとも違う。安心して暮らすことができる場所。ここにこそ、本当の俺の居場所はあるのだろうか?

 

 それがここにあるのかは分からない。だがもしこの世界の人々が、俺に親しくしてくれた人々が、戦乱や危機に晒されるというのであれば、俺はそれを守るために全力で戦うだろう。

 

 今度こそ俺の居場所があるのだと信じて。

 

http://imgur.com/a/NI3X3

《龍語りのサルカン》

 




※1:苦しめる声/Tormenting Voice タルキール覇王譚

※2:龍語りのサルカン/Sarkhan, the Dragonspeaker タルキール覇王譚


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奸雄

曹操は野心と闘争心に溢れた英雄である。彼女は腐り切った朝廷を打倒し、新たな時代を切り開くために力を蓄え、政権転覆の時を今か今かと待ちかまえている。その意志に呼応するかのように、曹操が求める乱世の時代はすぐそこまで来ていた。


沛国

 

 大地が震えていた。

 幾重にも重なった兵士の足音は大地を揺るがし、凄まじい土煙と音を空へと響かせる。彼らの表情や体つきもその音に負けず、感嘆するほどに屈強であった。

 兵士たちは一糸乱れぬ陣形を維持しながら荒野を三度、四度と往復していく。そこには戦の気配こそないが、みな兵士特有の血気に溢れていた。

 

「帝に楯突き、天を乱す黄巾党を討滅せよ、ね」曹操は自軍の訓練を眺めながら、何度目とも分からぬため息を付いた。それは己に与えられた任務の馬鹿馬鹿しさが吐き出させたものだった。「自らが捲いた種だというのに、奴らはなぜそれを理解しようとも改めようとも思わないのかしら」

 

 彼女は朝廷からの要請により、各地で反乱を起こしているという賊の討伐準備を行っていた。

 黄巾党と名付けられたその賊は、太平道と呼ばれる邪教が発足したものだが、その構成員は重税や圧制が元で身をやつした農民たちが大半であり、元を辿れば傍若無人な宦官や役人たちの被害者でもあった。※1

 

http://imgur.com/a/spttj

《黄巾賊/Yellow Scarves Troops》

 

 現在、朝廷内部では地位や役職を金で売買する不法行為が横行しており、宦官や役人たちは自身や血縁者に新たな役職や地位につけるべく、上役へと賄賂を送る。そしてそれによって生まれ新たな宦官や役人たちもそれに続き、自身がよりよい階級や職にありつくため、または血縁者を新たな役職や任地に就かせるために領地の民から重税を貪り、賄賂の為の私腹を肥やすのである。

 そうして繰り返された負の連鎖によって生まれた破滅者たちが寄り集まったのが、他でもない黄巾党であった。

 

「華琳様」横合いから誰かが曹操の真名を口ずさんだ。

 

 真名というのは最も親しい間柄の人間のみが呼ぶことができる本当の名前であり、本人の許可なくそれを口にすれば即座に斬り捨てられてしまう程に重要で、故に人々が最も信頼の証としているものだった。

 

 異を唱えたそれは自身の腹心を務める従姉妹、夏候淵の声だった。「他の者たちも近くに居ります故、あまり滅多なことは申されませぬよう」彼女は辺りを見渡し、曹操の声が自分以外の誰にも届いてないことを確かめると小さく胸をなで下ろした。

 

 曹操は彼女のそんな用心深いところを気に入っていた。細かな気配りや用心深さといった素養は腹心には必要不可欠だ。そして夏侯淵はその素質を余す所なく兼ね備えていた。

 

「分かっているわ。秋蘭」曹操はうんざりするように言葉を返した。これならまだ持病の頭痛に悩まされている方がましだった。「ただ、あまりの馬鹿馬鹿しさに呆れて果てていただけよ」

 

 本来、民や税を管理し乱や賊の発生を抑えるはずの役人たちが、自ら重税や圧制によって民を疲れさせ、乱さずともよい平和を乱し、無辜の民を悪しき賊軍へと変貌させている――むしろ今の世界における悪というのは賊ではなく、それを次々と生み出しながらも平然としている朝廷や役人たちの方ではないのだろうかと、曹操は思わずにはいられなかった。

 

 新しい秩序が要る。金さえ積めば簡単に手に入るような陳腐で安っぽいものではなく、高潔な思想と確固たる力に基づいた新しい秩序が。

 曹操の胸の内で膨らむその思いは、日を追うごとに強まっていくばかりだった。

 

 曹操と夏侯淵が会話を交わす中、訓練を終えた軍の中から一人の女性が二人へと近づいてきた。「華琳様、我らが兵はいかがでしたか?」

 黒蜜のような長髪を持った彼女は夏候惇と言い、夏侯淵の姉にして曹操の脇を固めるもう一人の副官であった。

 

「問題ないわ。流石は春蘭ね」曹操は満足げに頷いた。彼女の軍事に関する手腕に疑いはない。部隊をまとめる統率力もさることながら、彼女自身の戦闘力も軍で右に出るものが居ないほどであり、曹操はしばしば彼女に先陣を切ることも任せていた。

 

「……ところで華琳様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」ふと、夏候惇が疑問の表情を主である従姉妹へと向けた。「先行している朱儁軍から連日に渡って援軍要請が届いているにも関わらず、なぜ我らは出撃しないのでしょうか?」

 

 曹操は思わず笑みをこぼした。彼女は妹に比べていくらか短慮ではあったが、そこが彼女のかわいい所でもあった。「馬鹿ね。こんな下らない戦いで貴重な曹家の兵力を失う理由などないでしょう? それに援軍として向かう以上、それ相応の時期というものがあるのよ」

 

「はぁ……」

 

 と、夏候惇は返事を返したが、どうやら言葉の意味を真に理解しきれてはいないようだった。曹操は微笑みを苦笑に変えて言葉の意味を噛み砕いた。

 

「両軍が疲れ切った所で私たちが援軍に来れば、相手はこちらを最も感謝する上に、自分たちは疲れ切った敵と戦うだけでいい。簡単な理由でしょう?」

 

 単純かつ明快過ぎる理由に夏候惇はしばらく目をぱちくりとさせていたが、やがて言葉の意味を理解すると、童女のように目を見開き、感嘆の意を示した。「なるほど! 流石は華琳様です!」

 

「……これくらいはすぐに思いついてほしいのだけれどね」曹操は肩をすくめた。武勇も結構だが、指揮官として更に飛躍してもらう為にはそういう部分も伸ばさなくてはならないようだ。「でも確かにそろそろ頃合いかもしれないわね。春蘭、出撃の準備はどうなっているかしら?」

 

「そちらは万事問題ありません。今すぐにでも出撃できます」今度は色よい返事を告げた。

 

 手に入れた情報によれば、先行している朱儁軍は地の利を生かす黄巾党に苦戦し、既に敗色撤退の気配を見せ始めている。こちらが救援として到着する頃には恐らく包囲されている頃だろう。そしてそれは味方に恩を売り、敵との消耗を避けようと考えている曹操にとって最も都合が良い時期だった。

 

「ならば明日の明朝より出撃する。兵たちにもそう伝えておいてちょうだい」

 

「了解いたしました!」夏侯惇は踵を返すと、承った命令を下すべく集合していた隊を呼び集めるべく男たちの中へと戻っていった。

 

 その背中を見送った夏侯淵は曹操へと近づくと念を押すように言った。「華琳様、分かっておいでですね? 殺してはなりません。救うのです」

 

 曹操は首を振った。言われるまでもなかった。

 

「二度も言わせないで頂戴。分かっているわ。すべてね」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

潁川

 

 周囲を囲む夥しいまでの敵。援軍は未だに到着していない。敗北の気配は背後にまで迫って来ている。兵たちの士気はすでに下がり始めている。何とかしなければならない。

 状況を打破しろ。包囲を突破しろ。敵を撃破しろ。……だがどうやって?

 

 朱儁は檄声を飛ばしながら城壁の上から身を乗り出して戦場を覗いた――武器を手に自分たちへと殺到する人々を。その気迫と形相たるや、見るだけでも勇気が要るものであった。※2

 

http://imgur.com/a/hK0hF

《陸軍元帥/Field Marshal》

 

 油断した。相手が賊だと侮った。考えを改めなければならない。この敵は決して怒りと憎悪に任せるだけの無知な賊ではない。彼らは優れた指揮官によって統率され、効果的にこちらを殺しにかかる恐るべき軍団だ。

 

「相手はたかが賊軍だ!所詮は烏合の衆に過ぎん! こちらの精強さを見せつけてやれ!」怯む味方を思いとは逆の言葉で鼓舞しながら、朱儁は必死に敵の事を考えた。

 

 向こうはこちらを完全に包囲している。戦えば戦う程こちらの兵士たちは疲れていく。兵糧も物資も残り少ない。味方。味方はいつ来るのだ?

 

 新たな風が必要だった。状況を変える強い風が。だがその風は未だに吹かない。ならば吹くまで耐えるしかない。全てを観察しろ。敵に主導権を奪わせない方法を考えろ。

 

「もうすぐ援軍が来る! それまで何としても持ちこたえろ!」兵士たちに声をかけ、朱儁は再び戦場を見回した。状況を整理する必要がある。

 

 四方には城壁を囲むように展開された二万の敵。民上がりの賊軍とは思えないほどに統率されていて士気も高い。これを自力で突破するのは容易ではない。

 要請した救援はまだその気配を見せない。ひょっとしたら来る途中で接敵したのかもしれない。そうならば到着するのには更なる時が必要だろう。

 耐えなければならない。敵の攻撃と士気の低下を凌ぎ、兵士たちをより慎重に酷使し、一刻でも長く戦わせなければならない。

 

「動ける者はあとどれくらい残っている?」朱儁は横で兵士に指示を送っていた副官に尋ねた。物資や兵数の正確な管理は主に彼女に一任していた。

 

「非戦闘員を含めておよそ八千ほどです」副官――屈強な顔つきの女はその表情を苦くしながら答えた。それは紛れもなく受け入れがたい事実に耐えている顔だった。

 

 八千、心許ない数字だ。二万に届いていた最初と比べて、既に半数以上の兵士が大きく傷を負っている。彼らを運び出す手間や非戦闘員の護衛も考えれば、戦闘に動かせる人数はさらに少なくなるだろう。厳しい状況だった。

 今日や明日はまだ問題なく戦えるだろう。三日四日後も恐らく耐えていられる。だが五日以降は士気が、何よりも先に兵站が持たない。

 

「厳しい……か」朱儁は決して口に出さないと誓っていた本音を思わず零した。自分がそう言ってしまえば必ず敗北に繋がるであろう言葉を。

 

 だが結果として、その心配は杞憂に終わった。

 

「朱儁将軍! 緊急のご報告です!」不意に一人の兵士が駆け寄ってきた。顔色は朱儁や副官の顔色とは逆に歓喜の色に染まりきっていた。

 

 二人は顔を見合わせた。まさに風の気配を感じ取った瞬間だった。

 

「南方より旗が見えます! 文字は「曹」! 要請していた曹操の援軍に違いありません!!」※3

 

http://imgur.com/a/OKQRB

《機を見た援軍/Timely Reinforcements》

 

 次の瞬間、朱儁は城壁の上を飛ぶように駆けていた。今まで敗色と疲労に鬱屈していた自分の体が、こんなにも息を吹き返すのかと驚くほどに。

 そして南方から上がる土煙が確かに味方のものであると確信すると、兵士たちへと大声で新たな指示を送った。

 

「勝機は今、我らに移った!!」すべての条件は覆った。新しい風が吹き、敗北の気配を彼方へと消し去ったのだ。「こちらも打って出る! 生き残っている騎馬隊は曹操軍と協力して敵を挟撃しろ!! 敵の包囲を突破するのだ!」

 

 兵士たちは歓声をあげ、敗色と疲れに染めていた表情を喜びと勝利への確信へと変えた。

 朱儁は自分もその勢いに乗るべく場の士気を副官に任せると、出撃準備の為に城壁を降りていった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 黄巾党の兵士は大半が農民ばかりではあったが、実際はそれが全てではない。

 稀にだが太平道に己の居場所を見出した将や悪徳な朝廷を倒そうと義憤から身を投じる流浪の武者、はたまたこの期に乗じてさらなる悪徳を重ねようと暴れ回る無頼者など、様々な者が混ざり込んでいた。

 そしていま、見事な手腕で官軍を包囲せしめている将軍・波才もまた、太平道に自分の道を見出した武将の一人だった。

 

 きっかけは些細な事だった。貧しい身の上が原因で己の才が認められず、腐って野盗まがいの事をしていた所を黄巾党に将として迎え入れられたのだ。

 己の頭脳を用いて敵を翻弄し、手玉に取っていくのはまさに快感だった。それが他の仲間のためになり、自分の才能を認めなかった連中への報復にもつながるのだからこれほど面白いことはない。

 

 波才は自らの天運と機転の良さに笑みを浮かべた。

 野戦を仕掛けてきた官軍を首尾よく撃退した所まではよかったのの、不手際で敵を城へと落ち延びさせる結果になってしまった。だがとっさに他の場所から来た味方と連携した事で逆に敵を城へ釘付けにし、包囲することに成功したのだ。

 

 焦らずともここで待っていれば向こうは勝手に自滅する。そうなれば後はこちらの思うがままだ。

 

「仕上げは順調、あとは待つだけか……」波才は更に唇を上向きに歪め、脳裏でゆくゆくの人生を夢見た。「ここで勝てば張角様への覚えもめでたい。そうなれば俺はもう黄巾党の名軍師だ。 ゆくゆくはもっと大きな軍団を率いて……」

 

 その時、周囲を見張ってた兵の一人が駆け寄ってきた。息の荒れ具合からして緊急の報告であることは疑いようもなかった。「波才様! 大変ですだ! おら達の後ろから敵軍が近づいてきてますだよ!」

  

「何!?」驚いた波才は駆け寄ってきた兵士の肩を揺らして怒鳴った。「どの方角だ。敵はどこから来ている!! 今すぐ出撃して敵の合流をくい止めろ!」

 

 その見張り、頬に唾が弧を描いて飛んできた若い男は波才の剣幕に当てられたように、震え上がった。「み、みみみ、南ですだ! しかも敵はこっちの陣地に火をつけながら向かって来てますだ! 今みんなは火を消すのに必死で、戦うなんてとても……」

 

「火だと!」波才は掴んでいた兵士の肩を投げ捨てた。「……まずい」

 

 黄巾軍で使っている兵舎は掘っ建て小屋に干し草をかぶせただけの簡易極まるものだ。しかもここ数日以上は雨が降っておらず、木も草も乾ききっている。そこに火矢を撃ち込まれればどうなるかなど、まさに火を見るよりも明らかだった。

 天秤は傾いた。勝機は既に自分の手の中には無い。こうなった以上、ここに居続けることは愚策でしかない。

 

「……陣を捨てる。急いで隊をまとめて北にいる味方と合流するぞ」波才は努めて冷静な声を喉から絞り出した。指揮官であるには常に冷静である必要があった。「城に残っている敵の数はそこまで多くはない。奴らはこちらの包囲で疲弊している。追って来るとしても数は多くないだろう。援軍さえ捌く事が出来れば、生き残る手はまだある」

 

 それを聞いた兵士は縋るような顔をしばらく浮かべていたが、やがて自分のするべき事を見つけると、他の陣地へと走っていった。 

 

「なんとしても生き延びるのだ……そうでなければ俺に未来はない……」

 

 波才は弱気になろうとする自分を叱咤するように呟くと、味方に撤退命令を下すべく自分も行動を開始した。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 炎は瞬く間に敵陣を紅蓮に染め上げた。その熱は何もかもを飲み込んで焼き尽くし、武器も敵も食料も全てを等しく無価値な燃え殻へと変えていく。

 曹操軍は混乱する黄巾軍をほとんど一方的に討ち取った。背面からの奇襲と火計によって戦闘能力のほとんどを失っていた敵は、まさに赤子の手を捻るようにいとも簡単に打ち破られていった。※4

 

http://imgur.com/a/jsdzp

《火攻め/Fire Ambush》

 

 

「華琳様。城の中から出陣する部隊があります。旗の文字は「朱」。おそらく朱儁軍のものに間違いないかと」隣で馬を駆っていた夏侯淵が近づいてきて言った。瞳には攻撃的な輝きが溢れていた。「いかが致しますか?」

 

 彼らが出てきたという事は、こちらの出現を察知して即席の挟撃を狙ったということになる。中々悪くない考えだ。

 

 曹操は口端を機嫌よく曲げ、馬の足を速めた。「いい判断ね。全軍このまま前進!! 出陣した朱儁軍と連携して挟撃に入る! 混乱する敵の背後を思う存分食い破ってやれ!!」

 

「はっ!」背後を走る味方に向け、隣を走っていた夏候惇が吼えた。「全軍突撃! 我ら曹操軍の強さを見せつけてやるのだ!!」

 

 彼女の号令に従って背後の兵士たちも返答の大合唱を返し、慌てふためく敵の元へと殺到していく。

 鬨の声に押された兵士たちは土煙を旋風とともに巻き上げ、まさしく風のように進軍していった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 突如として現れた敵援軍によって、黄巾党は数刻と経たずに崩壊した。彼らは朱儁軍を包囲こそしていたが、野戦から間を置かずに包囲戦を行ったことにより、彼らもかなり体力を消耗していた。危うい均衡で保っていた有利が新たな敵の登場によって完全に崩れたに過ぎなかった。

 

「官軍め……やってくれたな」

 

 波才は唇を噛みながら僅かな部下と共に鬱蒼とした山の中を馬で駆けていた。彼が指揮していた部隊は火計と挟撃によってなすすべもなく打ち取られて既にない。彼らは一瞬にして手負いの敗将へと成り下がったのだ。

 とは言え、まだ希望が完全に断たれた訳ではなかった。潁川で生まれた波才にとって、このあたりの土地は庭も同然だ。今は知っているこの山は複雑に入り組んでいて、大軍はもちろん入って来れない。追手を撒くならばここを通るのが一番だった。

 

 潁川を抜ければまだ勝機はある。黄巾党の同志は他の州や土地にも大勢控えている。彼らと合流さえできれば自分は再び兵力を手にできる。その時が来ると信じて今は耐え忍ぶしかない。

 

「仲間たちと合流さえできれば……俺にもまだ挽回の好機が……」

 

 そう言いかけたところで、不意に誰かがその言葉を否定した。「ほう? まだそんな希望があると思っているのか?」

 

 波才は足を止めた。彼らの目の前、細い山道の先には大剣を背負った女が一人、馬に跨って静かに佇んでいた。

 敵の追手――状況を察知した波才と部下たちは佩いていた剣を引き抜いた。

 

「貴様……官軍か!」怒気を孕んだ波才の声が山道に響き渡った。

 

「我が名は夏候惇。華琳様の刃にして、曹操軍最強の戦士だ」夏候惇は背負っていた大剣を素早く引き抜くと、その切っ先を波才へと向けた。「貴様が黄巾軍の指揮官だな。お前に恨みはないが、華琳様のためにその首貰い受けるぞ」

 

 ぞくりと肌が粟立った。こいつは強い。おそらく今まで出会ってきた誰よりも。突き付けられた刃の冷たさと殺気から波才は瞬時にそう感じた。

 恐らく自分はこの女戦士に敵うことはないだろう。だが敵わないのと勝利できないのは別の話だ。頭を使って勝機を探れ。今までそうしてきたのと同じように。

 

「……お前一人で何が出来る」そうだ数だ。相手は一人。確かに強いだろうが、こちらにはまだ仲間がいる。「かかれ! 相手は一人だ! 数で押せば何とでもなる!」

 

 波才の号令に従い部下たちは女めがけて殺到した。彼らは自分が率いてきた部下の中でも特に武勇に優れた者たちばかりだ。それが七名。敵とて無傷でいられる筈がなかった。

 

 だがそれが波才の計算違いだと気付くのはすぐ後の事だった。

 

「甘いな。雑兵どもがこの私が倒せると思ったか!」夏候惇は冷ややかな視線と共に微笑むと、襲い掛かる部下たちに向かって鋭い剣筋を浴びせかける。

 

 皮肉にも女の剣は非常に美しかった。それは一つ一つが誠に感嘆せざるを得ないほど鋭く、美しく、そして残酷だった。

 

 最初に襲い掛かった部下は一合も斬り合うことなくその首を飛ばされ、一丈ほど進んだ後どさりと転げた。二人目は振りかぶった所を両腕を寸断され、馬から崩れ落ちるとその場に蹲った。続く三人目と四人目に至ってはほとんど同時としか思えないほどの勢いで胴を両断され、馬上から上半身を地面へと投げ出した。残った五人目と六人目と七人目は円陣を組んで襲い掛かったが、誰もが一太刀も入れることなく斬り刻まれると、最後は無残な骸を晒すに終わった。

 

「残るは貴様一人だぞ。さあどうする?」返り血によって紅蓮に染まった夏候惇が静かに吼えた。血風をまとった言葉はまさに死の宣告に等しかった。「何か言い残すことはあるか?」

 

 完敗だった。彼女の力は自分の予測の範疇から完全に外れていた。まさか全員が一斉にかかっても適わないとは。

 

「我が名は波才! 貴様ごとき雑兵に討ち取られるような器ではないわ!」波才はせめて死に際の格好がつくように形ばかりの言葉を上げると、馬を走らせ斬りかかった。「賤しい官の雌狗め、我が刀の錆にしてくれる!」

 

 女はそんな情ない自分を嘲笑うかと思ったが、礼を尽くすかのように真摯で容赦ない殺気を放つと、振り放たれた斬撃を大剣であっさりと受け止め、一薙ぎで己の首を跳ね飛ばした。

 

「敵将波才、この夏候惇が確かに討ち取ったぞ!!」

 

 宙に跳ね飛んだ波才の耳に最後に届いたのは、夏候惇が誇るそんな勝ち台詞だけであった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 降伏した黄巾軍の収容を済ませた朱儁は、合流した曹操たちを城の中へと迎え入れた。

 曹操軍の兵士は一目で分かるほど高い練度を誇っており、その精強さは朱儁の軍と同等かそれ以上にも感じられた。もし援軍に来たのが彼らでなかったら、戦闘はもう少し長く続いていたかもしれない。

 先の戦闘で疲弊した彼らをひとまず休ませた後、朱儁と曹操――それに互いの副官を含めた四人は城の一角で改めて会合を開いた。

 

「此度は援軍感謝する。自分が右中郎将の朱儁だ」朱儁は感謝の意を込めて曹操へと手を差し出した。「実に危ういところに来てくれた。君たちが居なかったら今回の勝利はなかっただろう。本当に感謝している」

 

「曹操よ。援軍が間に合ったようで何よりだわ」曹操は朱儁の丸太のような腕と野性味にあふれた風貌に何か感じるところがあったのか、形式だけの弱い握手を済ませるとすぐに手を引っ込めた。

 

 曹操の反応に朱儁をいささかもの悲しい気分を味わったが、他人のそういった反応には何度か経験があった。それと同時に気軽に握手を求める己の悪い癖をそのうちにでも直さなければならないと朱儁は自らに言い聞かせた。

 

 すると背後に控えていた副官が噛みつくような言葉を放った。「以前から曹操軍には何度も援軍要請を出していたはずです。もっと早く来て頂ければ、我々はここまでの損害を出さずに済みました。なぜ援軍が遅れたのですか? ひょっとすると貴女がたは、あえて援軍を滞らせていたのではないのですか? 我々に対して最も大きな恩を売りつけるために」

 

 彼女がこのような態度を取るのは非常に珍しいことだった。少なくとも朱儁の記憶の中では。今までこんな態度を彼女が他人に取ったのは、目の前に居る敵に対してのみだった。

 そして彼女はこうも言った。「援軍を遅らせたのは、我々に最も大きな恩を売るためではないのか?」と。

 朱儁はそんな発想があるということを考えたことすらもなかった。人を助ける行為――そこに価値の大小があるということに。

 

 副官が怒気を孕んで喋るなど欠片も想像していなかったであろう曹操と、その背後に控えていた青髪の女副官は一瞬の間、その気迫に目を剥いていたが、一方は不遜な彼女に対して憤慨の表情を浮かべ、もう一方は実際に口を開いて答弁を行った。

 

「返答にも書いたと思うけど、遠隔地で募集した兵士が集まるのに思ったより時間が掛かってしまったのよ。悪かったわね」朱儁の時とは打って変わって、曹操は明らかに副官に好奇の目を向けていた。「ところで貴女は?」

 

 顔に硬い怒りを纏っていた副官だったが、やがて自分が己の名前すら名乗っていないことに気が付き、改めて名乗りを上げた。

 

「……これは失礼しました。私は朱儁様の副官を務めております、李蓮と申します」

 

 曹操はしばらく李蓮の顔をじっと見つめた。その瞳の奥に潜んでいるであろう何かを見定めるように。

 彼女はそこに何を見出したのだろうか?

 

「李蓮。この曹操に臆せず意見を叩きつける度胸は買うけれど、人の行いに腹を立てるならまず自分の未熟さを省みるべきではなくて?」身長差からして曹操は李蓮を見上げていたのだが、朱儁には逆に彼女が李蓮を見下ろしているように感じられた。「私たちは本来、西側で戦っている皇甫嵩将軍の援軍に向かうように指示されていた。それを貴女たちが黄巾軍に包囲されているという要請を受けたから急遽行き先を変更して駆け付けたのよ? 貴女たちには感謝される事はあっても、文句を言われる筋合いは無いはず。まして遅れて来たことを理由にそれに疑いをかけるなど、恥を知るべきだわ」

 

 彼女の理論は李蓮の批判的意見よりも正しく聞こえた。だが彼にはその真意も真実も分らなかった。本当にただ遅れただけなのか、そこに何かの意思があるのか。だが少なくとも、それはこの場で言及するべきことではない気がした。

 

「やめろ鞠。もう終わった事だ。いくら詮索しても仕方がない」朱儁は李蓮が自分へと呼ぶことを許した真の名をあえて口にして止めた。

 

「しかし、礼仁様!!」

 

 なおも食い下がろうとする李蓮を手で制すと、朱儁は曹操に頭を下げた。「曹操殿。悪いが俺たちにはもう捕虜の面倒を見るだけの力も残ってない。すまないが、降伏した黄巾軍の事は君たちに任せてしまっても構わないか?」

 

 曹操は頷いた。「問題ないわ。こちらの部隊を一つ護衛につけるから、貴方たちは西に居る皇甫嵩軍と合流して。ここの守備と降伏した連中の後始末は私がしておくから」

 

「恩に着る。いつかまた共に戦える日を楽しみにしている」

 

「ええ。私も楽しみにしているわ」

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「……あの二人、指揮官と副官にしてはいい組み合わせね。使えるなら面白い手駒になるかもしれないわ」

 

 朱儁軍を城から送り出した曹操は、あの二人の関係とその使い道について考えていた。

 

 素早く機を見る事が出来る指揮官と、思惑有る味方に正しい疑いを持てる副官――部下にするならば、これほど役に立つ存在は居ない。

 真名を預け合っている所からして、ひょっとしたら何かしらの関係を持っているのかもしれないが、逆にそこを突けば、己の物にすることもそれほど苦労することはないだろう。利用できる機会があれば揺さぶりをかけてみるべきだ。

 

「またお悪い癖が出ていますよ。華琳様」夏候淵が軽い揶揄を横から飛ばした。「そのように次から次へと欲を出されますと、我ら姉妹は嫉妬で身を焦がしてしまいます」

 

「あら? 貴女たち姉妹は別格よ」くすり、と曹操は笑みをこぼした。「とは言っても今はまだまだ人手不足。優秀な人材はいくら居ても困ることはないもの。確保できるならそれに越したことはないわ」

 

「それはそうですが……」夏侯淵は複雑な表情を浮かべた。

 

「まあ、あの二人を手に入れるとしてもそれは当分先の話ね」「まずは既に手に入れている方からこなしていきましょう。秋蘭、収容した黄巾兵たちを城に集めてちょうだい」

 

「は。かしこまりました」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 数時間後、曹操は収容した黄巾の捕虜たちを城の前へと集めた。

 敗れた黄巾党の兵士は逃亡したごく一部の連中を除き、大半は手のひらを返すようにあっさりと降伏を受け入れていた。陣地と物資のほとんどを焼かれ、指揮官をも失った今、彼らには降る以外の選択肢はなかったのである。

 生き残って降伏を受け入れた黄巾兵は全員で一万五千以上――数だけ見れば、これだけでも曹操軍の三倍以上である。

 

 不安の表情で自分を見つめる彼らは曹操にとって既に敵ではなかった。彼らは元々、無能な帝と税を貪る悪人たちの犠牲になった無辜の民だ。ならば彼らをあるべき方向へと導き、再び自立させる事こそが自分の役割であると、曹操はずっと考えていたのだ。

 

「我が曹操である」ゆっくりと、だが大きな声で曹操は彼らへと語りかけた。「黄巾をつけた民たちよ。我はそなたらの力になりたいと考えている」

 

 黄巾の人々はお互いに仲間の顔を見合わせた。彼らには彼女の真意が分からなかったのである。

 

 曹操は言葉を続けた。ゆっくりと。はっきりと。「我はそなたらに新たな大地を与えよう。そなたらはそこで新たな田畑を起こし、実りを刈り取り、自らの力でもって健やかに暮らすのだ」

 

「……おらたちに畑をくれるってのか?」ざわついた黄巾の中の誰かが曹操に向かってそう尋ねた。その質問はまさしく全員が頭の中に思い浮かべていた疑問そのものだった。

 

 曹操は大きく頷いた。「そうだ! 黄巾の民たちよ! 我と共に来るがいい! もうその手を憎しみと怒りに染める必要はない! そなたらの手は、大いなる実りと平穏な明日を掴むために存在しているのだ!」

 

 その叫びは地震のように黄巾全体を揺るがした。初めは信じられないという風にざわざわと。やがて時を隔てるにつれて次第に大きくごうごうと。終いには城中を震え上がらせるほどの大歓声となって曹操たちを包み込んだ。

 

「おお……曹操さま!」「曹操様!!!」黄巾の民たちはこぞって曹操の名を呟き、それを湛えるように幾度も叫んだ。幾度も幾度も。

 

「民たちよ! 我はそなたらと共にある! 今こそ憎悪の黄巾を捨て去り、我に付き従うがいい。そなたらが求めるならば我は与えよう。平穏を!実りを!そして明日を! 今この時より、そなたらは黄巾兵ではない。我が曹操の兵士、すなわち曹兵となるのだ!!」

 

 曹操の宣言に黄巾は大歓声を上げて応え、城中の空は彼らが脱ぎ捨てた黄巾が埋め尽くされた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

兗州

 

 黄巾党討伐から数ヶ月後、曹操はその功績によって首都・洛陽の東に位置する兗州の刺史(州全体を管理する長官)へと任命されることとなった。出撃前の地位は騎都尉(有事に軍を率いて出撃する中央の指揮官)だったので、これはかなりの出世と言えた。

 

「華琳様。このたびは兗州刺史への就任、おめでとうございます」夏侯淵は、まるで自分の事のように嬉しそうに頬を緩めた。

 

「喜んでばかりも居られないわ。黄巾軍の襲撃で逃げ出した前任者の引継も含めて、今は手を借りたいほど忙しいもの」曹操の野心に燃え上がる目を机の上の書類から夏侯淵へと向けた。「ところで沛国に置いてきた潁川兵たちは今どうしているかしら?」

 

 夏候淵は意を得ているとばかりに頷くと、手にしていた巻物を手渡した。「は。現在は曹家の兵士と共に荒地の開墾と農作に励んでおります。先日は姉者も楽しそうに鍬を振るっていましたよ」

 

「そう……春蘭がねえ……」

 

曹操は頭の中で大地に鍬を立てている夏候惇の姿を想像したが、それがあまりに不釣り合いだったので、脳裏でその姿が完成するのを諦めた。代わりに手渡された巻物を受け取ると、ざっとその中身を確認した。

 

 報告によれば潁川兵による荒地再生作業は順調に結果を見せ、すでにいくつかの田畑には作物が植えられている。このまま順調に進めば彼らから実りを手にする日も、そう遠くはないだろう。

 

 収容した捕虜――潁川兵と名を変えた彼らに曹操が最初に命じたのは、他ならぬ黄巾党によって破壊された田畑の再生だった。※5

 

http://imgur.com/a/AO9LY

《剣を鍬に/Swords to Plowshares》

 

「破壊された田畑を蘇らせることで与えるべき農地を確保し、同時に新たな税収と食料を確保する……さすがは華琳様です」

 

「屯田は武帝がかつて行った政策よ。私が最初という訳でもないわ」曹操はつまらなそうに手を振った。「とはいえ、皆がやる気になってくれているなら何よりね。でもこれはまだ始まりに過ぎないの。私がいつか天下を取り、この腐り切った世界を力で以って一新する――この野望が達成されるその日まで、付いてきてくれるわね。秋蘭?」

 

「はい」夏候淵は曹操の瞳を見つめると、躊躇いもなく頷いた。「我らが姉妹、どこまでも貴女様について行きまする」

 




※1 黄巾賊/Yellow Scarves Troops ポータル三国志

※2 陸軍元帥/Field Marshal コールドスナップ

※3 機を見た援軍/Timely Reinforcements 基本セット2012

※4 火攻め/Fire Ambush ポータル三国志

※5 剣を鍬に/Swords to Plowshares 第4版


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桃園の誓い

 楼桑村に住む娘・劉備は農業の傍らで草鞋や筵を織って暮らす、貧しくも清らかな少女であった。だが彼女は自分が英雄になる運命を課せられている事を知ることになる。



 厳冬はとうの昔に通り過ぎ、季節は春を迎えていた。凍てつく木枯らしは穏やかな春風に取って替わられ、人々は時折吹く風の中から仄かな暖かさを受け取っている。

 琢県の片田舎に存在する楼桑村でもその恩恵は健在で、寒起こしと天地返しを済ませた畑では新たな農作に向けての種付けが始まり、村の共同資産である桃園では蕾を付けた木々たちが、開花の時を今か今かと待ち望んでいた。

 

 背中と腰に目一杯の草鞋と筵を携え、桃色の髪の少女――劉備は笑った。今回のそれは今まで作ってきた物の中でもかなりの力作だと自負しており、街で売り捌けばそれなりの金額になるであろうと目算していた。

 畜牧と農業の合間を縫っての織物作りはいささか重労働ではあったものの、幼い頃から続けてきたおかげか自分の作った草鞋や筵は街でもかなりの評判となっており、多くの人がそれを心待ちにしているという事も彼女は十分に知っていた。

 

「じゃあ行ってくるね。上手く売れたらお土産に何か美味しいものでも買って帰るから」劉備はそう言うと、後ろの作業場で新たな筵を拵えている母に向かって明るい笑顔を投げかけた。

 

 しばらくは石のように何の反応も返さず、ただ黙々と作業を続けていた母だったが、やがて手を止めて劉備を一瞥すると、肩をすくめてかぶりを振った。「もうすぐお前の誕生日だろう。お金はお前が好きに使いなさい。年頃の娘なのだから、自分を磨くことも忘れてはいけないよ」厳かにそう言うと、再び何事もなかったかのように筵折りの作業へと戻っていった。

 

 母は慎ましやかさを絵に描いたような人物であり、いつも自分よりも他の誰かを優先していた。官吏を務めていた夫を早くに亡くし、土豪と言われながらも貧しい暮らしを強いられている事実にも嫌な顔一つせず、日々の仕事の傍らでこうして織物作りの副業に精を出すことも厭わなかった。

 

 そんな母のことが劉備は好きだった。この人こそ清貧を体現する人物であり、聖人というものがもし存在するならば、それは間違いなく母のことだろうと信じていた。

 故に劉備は母が生きているうちは出来る限りの孝行をしてあげようと幼い頃より固く心に誓っていた。

 

「いいのいいの。いつも苦労をかけてるんだから、たまには親孝行させて」そう言い返し、買ってくる土産は何がいいだろうかと頭の中で思い描きながら劉備は我が家を後にした。「それじゃあ、楽しみに待っててね」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

家がある楼桑村から、えっちらおっちらと歩み進むこと約一刻ほど。果たして劉備は目指していた琢県の城下町へとたどり着いた。

 

 春先という季節も手伝ってか、街の中は多くの人々でごった返しており、路のあちらこちらで行商人たちによる露店市が開かれている。雑踏に紛れて仄かに漂ってくる香料や焼けた肉のいい香りが、街の活気の良さに一層拍車をかけていた。

 兵士たちが守る巨大な鉄扉をくぐった劉備は市のいくつかを通り抜けると、普段から懇意にしている織物問屋を訪ねた。

 店の中では何人かの小僧が忙しなくあちらこちらで動き回り、その一方ではそんな彼らに向かって番頭と思しき中年男がてきぱきと指示を飛ばしている。

 

 できるだけ作業を邪魔しない様に気を付けながら、劉備は見知った顔の中年男の方へと歩み寄ると声をかけた。「葉さん。こんにちは」

 

「ん? おお。劉備ちゃんか」振り返った中年番頭は一瞬、何事かという顔を見せていたが、声の主が劉備だと知ると厳つい顔をくしゃりとほころばせ、不格好な笑顔を作った。「今日も織物を卸ろしに来てくれたのかい。助かるよ」

 

「いえいえ。こっちも商売ですから」愛想笑いを返した劉備は携えていた筵と草鞋を外すと、その中の一つを番頭へと手渡した。「それに今回のは、いつもより特に出来がいいんですよ。ひとつ見てみて下さい」

 

 彼女が手渡したのは数ある自信作の中でも、特にこれはと思っていた筵と草鞋だった。こういう物の値段は最初に見せた一品を基準にして全てが決まる。少しでも値を上げるためにはこうしてできる限りの見栄を張っておくのが重要なのだ。 

 番頭は手渡されたそれを受け取ると、品定めをするべくじっくりと舐めるようにそれらを見回す。

 端の織り目をじっと見たかと思えば織り込んである藁の太さを上から下まで確かめるように眺めたりと、見る目をどこまでも惜しまない。

 そうしてかぶり付くように見つめていた番頭だったが、やがて深く息をつくと大きく頷いて言った。

 

「確かに劉備ちゃんの言う通り、形と言い縫い込んだ藁の太さと言い、今回のは文句なしの逸品だ。いつもながら良い仕事をしているよ」

 

 瞬間、劉備の背中に何ともいえない心地よい衝撃が走った。「でしょでしょ! 一生懸命夜なべして頑張ったんだから!」作った物を認められる瞬間は、この仕事の中でも一番の醍醐味であり、劉備が今もめげずにこの仕事を続けていられる理由のひとつでもあった。

 

 番頭は近くを走り回っていた小僧の一人を呼びつけると、劉備の持っていた草鞋と筵を全て引き取らせ、続いて店の奥から小振りな布袋を持って来るように命じた。

 

 小僧から袋を受け取った番頭はその中から銭を一握りほど取り出すとそれを劉備に手渡して言った。「じゃあこれお代ね。ほんの気持ち程度だけど色も付けておいたから、これでお袋さんに何か美味しいものを買ってあげるといい」

 

 銭を数えた劉備は目を剥いた。何しろその量は普段のそれよりと比べても比較にならないほどに多かったのだ。「え!? こんなにもらっていいんですか!?」

 

 困惑する劉備を尻目に番頭は手を振って答えた。「いつも劉備ちゃんには世話になってるしね。評判の織物が手に入るならこれくらいどうってことないさ。また次もよろしく頼むよ」

 

「こちらこそありがとうございます! 母もきっと喜びます!」

 

 顔を歓喜で染め、劉備は手渡された銭をありがたく受け取ると、頭を下げて礼を言った。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 母への手土産を求めるべく、市場の中を浮かれ気分で劉備は練り歩いていた。自身の予想を超えた額の成果はその足取りを軽くするのに十分すぎるほどの効果があった。

 荷物ではなく銭で体が重くなる感覚というのはあまり慣れない感覚ではあったが、同時に重みの分だけ自身たちが評価されたようで嬉しい気持ちでもあった。

 

「こんなにお金貰っちゃったし、お土産はちょっと豪華な物を買っても大丈夫だよね」

 

 どんなものを買ったら良いだろうかとあれこれ思案している内に、劉備はかつて母が求めていたある物のことを思い出した。

 

「そうだ。これだけお金があれば、お母さんが一度飲んでみたいって言ってた洛陽のお茶も買えるかも」

 

 茶はよほどの重病人か高貴な身分の者でもなければ滅多に口にできるものではなく、洛陽から流れてくる量が少ないこともあって、手に入れるにはかなりの金額を必要とするものだった。

 幸い今の劉備はそれを買えるだけの金銭を十分に持っている。問題はこの街に茶が売っているかどうかだった。

 

「お茶を売ってるお店がどこかにあればいいんだけど……」

 

 そんな風に考えながら街を歩いていると、ふと通りの向こう側に大きな人だかりが出来ているのを見つけた。

 

「なんだろうあれ? 看板?」

 

 見やると、人だかりの前には何やら看板のような物が立てられており、どうやら人々はそれを眺めては、あれやこれやと己の考えを語り合っているらしかった。

 

 劉備は人だかりの一角に近寄ると、手近に居た若い男に声をかけた。「あのぉ。何かあったんですか?」

 

「ああ、兵員募集の看板だよ」若い男はなんとも他人事のように答えた。「知らないのかい? 近頃は黄巾党とかいう賊があちこちで悪さしてるから、お偉方は討伐のための人手を欲しがってるのさ」

 

https://imgur.com/a/ZjTKh

《帝国の徴募兵/Imperial Recruiter》

 

 看板を見てみるとそこには『遍く天下に義勇の士を募る』という一文と共にこう書かれていた。

 

『黄巾の匪、諸州に蜂起してより、年々の害、鬼畜の毒、惨として蒼生に青田なし。

 今にして、鬼賊を誅せずんば、天下知るべきのみ。

 太守劉焉、遂に子民の泣哭に奮って討伐の天鼓を鳴らさんとす。故に、隠れたる草廬の君子、野に潜むの義人、旗下に参ぜよ。

 欣然、各子の武勇に依って、府に迎えん―――琢軍校尉鄒靖』

 

 ――各所で武装蜂起した黄巾党を倒すため、太守劉焉の軍では新たな兵員を募集している。我こそはと思う者は配下に加えるので役所にて応募されたし――

 要約するとこのような事が書かれていた。

 

「どうだい。お前さん行ってみたら?」不意に別隣の男が揶揄交じりの声を男にかけた。

 

 男はいやいやと首を横に振る。「俺なんか駄目さ。鍬や鎌を握ったことはあっても、槍や剣なんかとてもとても……」

 

 そこに更に別の男が割り込んだ。「何も武器を握るだけが能じゃないぜ。軍馬の世話をするだけでも十分に雇ってくれるはずさ。他に食い扶持もねえし、俺はいくぜ」そう言うや否や、男はそのまま勇ましい足取りで役所の方へと向かって行った。

 

「俺もそうするか、この所どんどん仕事も少なくなってるしな。まったく嫌な世の中だぜ……」

 

 彼らに釣られたように口々にそう言いながら男たちは一人、また一人と受付のある役場へと向かっていく。

 そうしてついにその場には劉備一人だけが残された。

 

「兵員……か」ぽつりと劉備が呟いた。胸の内には複雑な感情が渦巻いていた。

 

 劉備は暴力というものが嫌いだった。例えそれがどんな形で振るわれたものであれ、それは他人を傷つけ、他者から笑顔と安寧を奪う悪しきものでしかった。

 暴力はだめだ、力では何も解決しないといくら綺麗事を並べ、説法の言葉を飾り立てたとしても、現実は常に力を中心にして動き、それを持たない者は容赦なく蹂躙されて無残な最期を遂げる。

 そんな世界を変えるにはどうしたらいいのかと考えたことも一度や二度ではなかったが、それを変える力というのも結局のところは暴力や武力でしかない。

 だからこそ余計に、劉備は暴力という物が嫌いだった。

 

 兵員の応募を見た時、真っ先に思い浮かべたのは村にいる母の事だった。賊の討伐が始まれば、村が戦闘に巻き込まれる可能性も高くなる。城から近い場所に住んでいるとはいえ、わずかでも母の身に危険が及ぶことは避けたかった。

 

 ――いざとなったら母を連れて親戚の所へ逃げることも考えなければならない。

 

 そんな風に考えていたその時、背中から誰のものとも知れない声が聞こえた。「それで、そなたはどうするつもりかな?」

 

 

「え……?」

 

 突然の声に劉備は驚き、振り返ってその出所を探った。すると後ろには一人の女性が毅然とした表情で立っていた。

 歳頃は見たところ自分と同じくらいで、艶のある長い黒髪を横で束ねて垂らしている。凛とした雰囲気も相まって、まるで研ぎ澄まされた刃のような印象を抱かせる女性だった。

 女が誰なのかは分からなかったが、その手に握られた大刀が、彼女が武芸者である事をはっきりと示していた。

 

 驚いた劉備は彼女に率直な質問を投げかけた。「えっと……私に話してます、か?」

 

「他に誰もいないでしょう?」女は含み笑いと共にあっけらかんとして言った。「随分と熱心に看板を読んでいたではないですか。それで、どうするつもりなのですか?」彼女はどうやら劉備があの男たちと同じように兵員の列に加わるのかと興味を示しているようだった。

 

「別に……興味ないです」劉備はかぶりを振った。満足な孝行すらまだ果たせていないというのに、母を残して一人軍に入るつもりなど欠片も無かった。「うちには年老いた母がいますし、そんな無茶な事は出来ません。それに私みたいな女の子が軍隊に入ったって、何が変わるわけじゃありませんから」

 

 恐らく彼女は軍に志願するつもりなのだろう。女が放つ殺気にも似た気配を感じ取り、劉備はそう直感した。そして看板の前でじっと考え事をしている自分を同類と見なして声をかけたという訳だ。もっとも、彼女の目論見はまんまと外れる結果になったが。

 

 女は劉備の言葉に明らかな不満を覚えたようだった。先ほどまで真っ直ぐだった鳶色の目は今ではすっかり細められ、不愉快そうに口を歪めている。言葉にするよりずっと分かりやすい態度だった。

 

「……それはどうでしょう? 女では何も変えられないというのは一体どういう理屈なのですか? 世の中には戦場で活躍する女も、知略を駆使して敵を翻弄する女も大勢居ます。だというのに、あなたはどうして何も変わらないと思うのですか?」

 

 反論の口調は強かった。彼女にも何か思うところがあるのだろう。もしかしたら過去に何かがあったのかもしれない。

 

 どう答えたものかと劉備が黙っていると、女はふと気が付いたように表情を変えた。「失礼。まだ名乗っていませんでしたな」

 

「私は関羽と言います。見ての通り修行中の旅武者です。もし良ければ、少し話をさせてもらってもよろしいですか?」

 

 劉備は困惑した。なぜ彼女は自分にここまで拘るのだろうか? 互いに既知の中でも無ければ竹馬の友でも無いというのに。

 ひょっとしたら彼女は自分が持っている金が目当てなのだろうか? だがそうだとしたら、こんなに熱心に反論してくる意味が解らない。辺りに人気が無い今、その手に持った武器で自分を脅し、金を奪い取れば良いだけだ。

 だとしたらやはり他の目的があってのことなのだろうか。

 劉備の胸の内では関羽への疑惑の感情が渦を巻き始めていた。

 その気配を読みとったのか、関羽はばつが悪そうに頬をかいた。

 

「……いきなり声をかけてきた私を疑う気持ちは分かります。ならばこうしましょう」そう言うや否や、関羽は握っていた大刀の柄を劉備に向かって突き出した。「我が偃月刀をあなたに預けます。怪しいと思ったら、いつでもこれで私の背中を突いてください」

 

「え、ちょっと!?」

 

 いきなり武器を渡され、劉備はますます混乱した。確かに疑って掛かった事は確かだったが、まさか自分に己の武器を預けてくるとは思ってもみなかった。

 困惑する劉備を差し置いて妙にすっきりした顔を浮かべた関羽は踵を返し、すでに何処かに向けて歩き始めていた。

 

「立ち話というのもなんでしょう。食事でもしながらゆっくり話を聞かせてください」

 

 どうしたものかとやや逡巡したものの、手渡された大刀を捨てる訳にもいかず、結局劉備はその背中について行く事にした。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 向かった先は街角にある酒家だった。どうやら店員とは知っている仲らしく、二人は入ってすぐに奥の席へと通された。

 差し出された酒に軽く口に傾ける。桃の香りがする上品な酒だった。

 関羽もしばらくは劉備と同じように黙々と猪口を口元へと運んでいたが、適当な食べ物を頼んだところでようやく口を開いた。

 

「先ほどは突然声をかけて済みませんでした。ああ……」そこまで言ったかと思うと関羽は突然言葉を詰まらせた。どうやら話に夢中になるあまり、名前を聞くのをすっかり忘れていたようだった。

 

 劉備は助け船を出す形で名乗りを上げた。「劉備です。百姓の家の一人娘で、多少の読み書きはできますが、関羽さんのような武人でもなければ立派な家柄でもありませんよ」

 

「では劉備どの。貴女から見て、今の世の中はどう見えていますか?」

 

「世の中って……」思わず劉備は言葉を詰まらせた。彼女がどういう答えを自分に求めているのか判らなかった。

 

 関羽は語るように言った。その声には何か深い感情が籠っていた。「地方では匪賊の横行、中央では役人の圧制、それにいくつかの農地では飢饉の兆候も出ている――今のこの世は、どこか狂っているとは思いませぬか?」

 

 確かに劉備にもその心当たりはあった。立て看板にも名が挙がっていた黄巾をはじめ、大陸の各地で賊が跋扈しており、村や街が襲われているとう話は絶えなかった。

 そしてそれに張り合うかのように、役人たちもあちらこちらで税を上げたり無理な徴兵を行ったりしているという噂も出ている。

 だが、それと自分にいったい何の関係があるのだろうか?

 

「……分かりません。私はずっと小さな村の中で暮らしてきました。賊の話はたびたび聞きますけど、実際に出遭ったことなんてないし、圧政と言われても、元々貧しいうちにはこれ以上取られる物なんてありませんから」

 

「ならばこう言い換えてはどうでしょう」関羽は顔を寄せた。「罪なき人々が次々と殺され、残された人が今日を生きるために仕方なく武器を取り、そして新たに殺す側へと移り変わる。そんな世界を貴女はどう思いますか?」

 

 質問されている間、劉備は関羽の目をじっと見つめていた。暗い翳りを帯びた鳶色の瞳を。

 彼女が語り掛けてくる言葉には静かな怒りと決意があった。恐らく彼女は過去にその狂った何かによって大切なものを失ったのだ。そしてそれを取り返す為、あるいはもう失わない為に彼女は力を求め、女だてらに武人として旅をしているに違いない。

 だがそうだとして、彼女は一体自分から何を引き出したいのか? 一体自分に何をしてほしいのか? それが劉備には未だに分からなかった。

 

「……出来る事ならそんな事が無い世界になればいいとは思います。でもだからって、私に一体何が出来るって言うんですか?」劉備は逆に聞き返した。

 

 関羽は首を左右に揺らした。「それは分かりません。だが変えようと思わなければ、それは一生変わることはないでしょう。違いますか?」

 

 次第に劉備は苛立ってきていた。一方的に質問を投げかける癖に自分は曖昧な答えしか言わない目の前の女に。

 この女は一体何なのだろうか。いきなり声をかけてきたと思ったら、こんな小娘に世の中の事をあれこれ聞きたて、さらに何かをしろと暗に促している。にも拘わらず、自分の目的が何なのかは一切語らないのだ。

 

「……さっきから関羽さんは、私に何を言いたいんですか? どうして私なんかに声をかけたんですか? あなたが気にかけるほどの事なんて、私にあるとは思えないのに」沸き立つ怒りを言葉に乗せ、劉備は言い放った。「これ以上、下らない話を続けるならもう帰らせてもらいます。私も別に暇な訳じゃないので」

 

「実は、夢を見たのです」ひどく真剣な口調で、関羽は唐突にそう言った。

 

「は?」思わぬ答えに、劉備はしばらくぽかんとした表情になった。「夢、ですか?」

 

 関羽は真っ直ぐ視線を合わせて頷いた。「はい。私はその夢の中で妹――義理のですが、それと桃色の髪をした少女の三人で、世界を正すという誓いと共に義姉妹の契りを交わしたのです。花が咲き乱れる大きな桃園の中で」

 

 この女は一体何を言っているのだろうか? ひょっとしたら彼女はどこか頭がおかしくなっているのではないのか? 唐突過ぎる話に全く付いて行けず、劉備は不意にそう考えた。

 

 更に関羽は言葉を続けた。「笑ってくれて構いません。はじめは私も、眠りの最中に見た只の夢物語に過ぎないと思っていました。ですが奇妙なことに義妹も私とまったく同じ夢を見ていたのです。そしてそれは何日も何日も続き、次第にはっきりとした予言のようなものへと変わりました。我らはこの人と出会う運命にあると――そしてついに今日、夢の少女が偶然にも私の目の前に現れた。劉備どの、これを運命と言わずして、なんだというのでしょうか?」

 

「そ、そんなこと急に言われても……」劉備は困惑した。まさかそんな突拍子もないことを突然に言い出されるなど、思ってもみなかった。

 

 自分が世界を正す? 義姉妹の契りを結ぶ? 見ず知らずの相手と共にそんなことをするなど、全く想像すらつかなかった。

 

「この関羽、頭を下げてお頼み申します。どうか私たちと共に来てはいただけませぬか?」関羽は言葉通りに頭を下げた。

 

 だが劉備は関羽の願いに付き合う気など毛頭なかった。というよりも、突然そのようなことを言われて受け入れられる人間のほうが恐らく稀だろう。

 自分には母が、家を残した村がある。苦労は多いが充実した暮らしと喜びがある。今はそこで穏やかに暮らしさえできればそれでいい。

 もし本当に自分にそんなことができるのならばと考えなくはなかったが、自分と彼女とその妹、たった三人が集まった所で、一体何ができるというのか? それだけで世界が正すことができると思うなど、思い上がりなのではないだろうかと、劉備は思わずにはいられなかった。

 

「……いえ。残念ですけれど私には」

 

 劉備が断りの言葉を切り出そうとしたその時、表から大きな鐘の音が何度も鳴り響き、二人の空気を引き裂いた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 鋭い金属の叫びが響いた。聞けば誰もが振り返る警鐘の音。それは明らかに何かの危険を知らせる類のものだった。

 

「な、何!? 何が起きたの!?」劉備は慌てて席から立ち上がり、酒家を飛び出した。

 

 街は音によって混乱をきたしていた。あちらこちらで人々は我先にと押し合い、駆け合い、隠れ、来たる何かへと備え始めていた。

 

 一体何が起こった? こんなことは劉備が街を訪れて以来、初めての出来事だった。

 

 どこかから大きな叫び声が聞こえた。「黄巾だ!黄巾が出たぞ!」続けて甲高い鐘の音が再び鳴り響いた。

 

「どうやら近くで賊が出たようです」関羽が言った。いつの間にか彼女は預かっていた大刀と共に自分の隣に立っていた。「ここは危険です。劉備殿は早くどこかに避難してください。私と妹は軍の討伐隊に合流します」

 

 黄巾――立て看板にも書かれていた賊の名前だ。それがこの街の近くに来ている?

 城下町には軍隊がいる。侵入を阻む城壁も鉄門もある。そうそう襲われたりはしないだろう。だが付近の村は? 楼桑村にも男衆の自警団は存在しているが、賊の襲撃を撃退できるほどの力は持っていない。一度暴力に屈すれば、あとはなすがままだ。

 

「……お母さんが危ない!!」劉備は故郷と母に危険が迫っているのを確信した。そして兵士によって閉まりかかっていた鉄門を見ると、そこへめがけて一目散に駆け出していた。

 

「あ、劉備どの!」

 

 関羽の声も虚しく、劉備は閉じかけていた鉄門の間をすり抜け、危機迫る楼桑村へと戻っていったのだった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 体に黄巾を纏った男たちは、各々が武器を手にしながらひたすらに街道を突き進んでいた。※1

 

http://imgur.com/a/spttj

《黄巾賊/Yellow Scarves Troops》

 

 略奪は彼らが黄巾を名乗る前から連綿と行ってきた行為だった。元々食い詰めの荒くれ集団だった彼らだが、最近では黄巾を名乗ることで追手の狙いが逸れやすくなり、一段と仕事がしやすくなっていた。

 時には本物の黄巾と共に仕事をすることもあった。尤も、仕事を終えた彼らが更に犠牲になることもしばしばであったが。

 

「今日の仕事場は二刻くらい駆けた先にある小さな村だ」黄巾の隊長は手に持っていた骨から肉を剥ぎ取り、それを口の中に収めた。「楼桑村って名前のちんけな村だが、城に近いってことで結構栄えてるらしい。夜には美味い飯と女にありつけるぞ」そして酒で肉を飲み込むと、残った骨を道の脇へと投げ捨てた。

 

 彼の言葉に後ろを歩く部下たちから歓声が上がった。お尋ね者の自分たちは常に飢えている。それが一時でも満たされるとなれば、士気はこれ以上にない程に上がるだろう。今日の仕事も上手くいくはずだ。

 

 ふと前方から同じく黄色い布を腰に巻いた男が駆け寄ってきた。偵察に向かわせた斥候だった。

 

 小柄なその男は隊長に言った。「村の連中はまだ俺らが近く居ることに気づいてないみたいっす。牛も羊もどっさりいて、どれでも食い放題っす」

 

「女はどうだ?」

 

 男はいやらしい笑みを浮かべた。「そりゃもう! 村娘の他にも胡弓を弾く妓なんかも居て、涎が出るくらい選り取り見取りっすよ!」

 

「聞いたかお前たち!」それを聞いた隊長は背後でいきり立つ部下たちに更なる発破をかけた。「俺たちの御馳走はもうすぐだ! 食い残しが無いようにしっかり気を引き締めろよ!」

 

 男の激励に勿論だと言わんばかりに部下達から大きな雄叫びが上げられる。

 これでいい。ここまで全員の士気が高まれば、万が一にもしくじることはない。

 略奪の成功を夢見て、はたまたこれから味わえる至福の時を想像しながら、隊長は欲望の笑みと共にその歩幅を強めるのだった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 全身に感じる疲労も、破れそうになる心臓の痛みも、全てを置き去りにして走り続けた。母の無事だけを願って。

 村はまだ無事だった。劉備は村の男たちに賊の出現を伝え、速やかにそれに備えるよう警告した。

 話を聞いた男たちは血相を変えて村の方々に走り去り、続いて劉備もふら付いた足取りで必死に我が家を目指した。

 こちらも急がなければならない。まだ賊が来ていない今のうちに。

 

「お母さん!」家の戸を開け、劉備は力いっぱい叫んだ。疲労で枯れた喉では声を出すのも背一杯で、実際は普段より少し大きい程度の声しか出なかった。

 

「おや劉備、早かったね」出かけた時と同じように作業場から母が顔を覗かせて出迎えた。だがそれはすぐに怪訝な顔に変わった。「そんなに慌ててどうしたんだい?」

 

「いいから早く逃げないと!」息も絶え絶えな劉備は単刀直入に言った。「黄巾っていう賊がすぐそばまで来てるの。このままじゃ村も危ない。今すぐ子敬伯父さんのところに逃げよう!」

 

 それを聞いた母はしばらく無言でじっと劉備の顔を見つめていた。劉備は最初、それが自分の言葉を理解するための沈黙だと考えていたが、すぐにそれが何か別の事を考えているのだと知れた。

 

 母は大きく息を吐くとそのまま踵を返し、家の奥へと劉備を誘った。「……劉備。今から大事な話があります。ついてきなさい」

 

「そんな事言ってる場合じゃないよ! すぐに逃げないと!」劉備はかぶりを振り、母の肩を掴んでその動きを制した。

 

 母の背中は断固として譲らなかった。「いいから来なさい。来るのです」そのまま劉備の手を振り切り、どんどん奥へと進んでいく。

 

 その力強さに気圧され、劉備は出来るだけ手早く済ませようと母の背中に従った。

 目的地はすぐそこだった。母の部屋。小さいながらも奇麗に掃除されており、塵や埃などは一つも舞っていない。

 劉備は母に促されるまま椅子に腰を落とした。

 

「劉備。お前はまだ、自分が本当はどういう存在なのかを知らない。今からお前はそれを知るのです」ゆっくりと語る母の口調は、なぜか少し寂しげでもあった。

 

「今から私が言うことをよくお聞きなさい」母は劉備の肩に手を置いた。「私がなぜ貴女を真名で呼ばずに『劉備』と呼び続けたのか、教えたことがありませんでしたね。それは貴女に自分の姓についてもっと深く考えてほしかったからです」

 

 確かにそうだった。母は自分を真名で呼んだ事がなかった。常に“劉備”と呼び、その名前を大切にするようにと日頃から言われてきた。

 今考えれば不思議だった。なぜ親子だというのに真名で呼び合わないのか。真名こそ人がもっとも相手に心を許したという証だというのに。

 

 大きく息を吐き、母は告げた。「貴女のご先祖は中山棲王、劉勝。つまり貴女は由緒正しい帝王の血筋なのです」

 

「は……?」

 

 瞬間、世界中の時が止まったような気がした。

 訳が分からなかった。劉勝と言えばかつて皇帝・景帝の実子であり、れっきとした皇族だ。それが自分の先祖であると、目の前の母は言っている。だがそんなことを急に告げられたところで、到底信じられる訳がなかった。

 

 母はそんな劉備の疑惑を見透かしたのか、背を向けると部屋の奥へと向かった。

 何の変哲もない壁。そこに母が手を当てるとその一部が外れ、中から黄金の鞘に包まれた一振りの剣が姿を現した。

 

「これがその証。我が劉一族に代々伝わる宝剣、靖王伝家です」

 

 手渡されたのは黄金の佩環に翡翠の緒珠をあしらった、まさに宝剣と呼ぶに相応しい代物だった。※2

 

http://imgur.com/a/ZOKAr

《戦争と平和の剣/Sword of War and Peace》

 

 鞘を外してみると、中からは鏡のように磨き上げられた見事な刀身が顔を覗かせる。恐らく母が人目につかぬよう細心の注意を払いながら、日頃から丁寧に手入れをしていたのだろう。

 だがこれほどまでに見事な代物が、なぜこんな貧しい農民のあばら家にあるというのか? あるいは本当に自分の一族は、滅びて久しい王家の血族なのだろうか。混乱した劉備の頭では何も理解できなかった。

 

 続いて母は部屋の奥から豪奢な服を取り出してきた。「そしてこれは、いつかお前がその出自を知ったときに着せようと思っていた服。どちらも正真正銘、お前のものです」

 

「私の……」手渡された剣と服を劉備はじっと見つめた。

 

 これほどまでに豪華な一品たちだ。たとえ本物でなくとも、売り払えばかなりの大金となるだろう。にも関わらず、母は貧しい田舎暮らしにも耐え、副業を粛々とこなしながらずっとこれらを持ち続けた。それの意味する所は混乱する劉備の頭でも何とか理解することができた。

 

「劉備。貴女と貴女の中に流れる血はいずれ、この荒れた世界にとって必要なものとなるでしょう。そしてその時はもう目前に迫っています」

 

「お母さん……」

 

「いきなさい」その口調は力強く厳格だった。「自分がこの家に生まれた意味を、自分に何ができるのかを考えなさい。そして気高き者の務めを果たすのです」

 

「母のことは心配いりません。私一人ならどうとでも生きていけます。あなたがいつも私の事を慮ってくれていた事は知っていました。母としてこれほど嬉しかった事はありません。お前は間違いなく私の一番の宝物です。ですがもういいのです。お前はこれからの事だけを見て、己の信じた道を生きて行けばいいのです」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 目立たぬよう服は筵で包んで背中に背負い、剣を手に持って外に出た。他のものはすべて母が持ち出していた。

 鉄の臭い、咽るような血風、どこからか聞こえる悲鳴と剣戟の音――既に賊は村の中へと入り込んでいた。

 

 剣の扱いはあまり得意ではなかった。自衛のために村の男達から軽い手ほどきを受けたことはあるが、襲い掛かる敵を打ち倒すまでにはとても及ばないだろう。

 劉備は誰とも会わないよう祈りながら、母の手を引いて暴力と死に襲われる村の中を駆け抜けた。

 賊が殺到しているであろう酒家や宿などは避け、なるべく人目に付かない裏側の道を選んで通る――だが幸運はそれほど長くは続かなかった。

 

 不意に路の向こう側から手斧を持った一人の男が姿を現した。彼は劉備たちを見つけるとすぐさま舌なめずりし、こちらに向けて歩き始めていた。

 

「お母さんはこのまま逃げて」劉備は剣を引き抜き、ぎこちなく構えた。「あいつは私が食い止めるから」

 

 強引に母を別の路へと突き飛ばすと、劉備は男に向かって剣を突き付ける。その切っ先は恐怖と緊張で震えていた。

 

「いい剣だなぁ」男は劉備には目もくれず、掲げられた宝剣をしげしげと眺めて言った。「そんなに豪華なモンなら高く売れそうだ。おらがお前と一緒に貰ってやるよ」

 

 醜悪な笑みと共に男が劉備へと手斧を向ける。血塗られた刃が彼女に狙いを定めた。

 初めは運よく避けることができた。その次も。だが三撃目の斧が肩をかすめ、四撃目はついに劉備の腹の薄皮を服ごと引き裂いた。

 

 悲鳴は上げなかった。あまりの痛さと傷口に走る熱さでそれどころではなかった。劉備は体制を崩し、その場に仰向けに倒れた。

 

 眼前の大空に賊の男が入り込んだ。「もう終わりかぁ? それじゃあ連れて帰る前にちょいと楽しませてもらうべ」男はそのまま劉備の破れた服に手をかけ、それを脱がそうとする。

 

 彼女が恐怖で目をつぶるのと、男の首が体から転げ落ちるのはほぼ同時だった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 屈辱の時はなぜか一向に訪れなかった。それどころか数瞬前まで聞こえていた男の声も聞こえなくなっていた。

 恐る恐る劉備が目を開けると、目の前には首を失った男の体と矛を持った幼い少女の姿があった。

 

「大丈夫なのだ?」少女が口を開いた。修羅場にとても似合わない、底抜けに明るい声だった。

 

 呆然としながらも劉備は聞き返した。「あ、あなたは……?」

 

「鈴々の名前は張飛なのだ! お姉ちゃんが愛紗……じゃなかった。関羽が言ってた劉備なのか? 夢で見た女の子にそっくりなのだ!」張飛と名乗った少女は先程と同じく明るい声でそう言うと、まるで宝物でも見るような目つきで劉備を見ていた。

 

 関羽。街で出くわした黒髪の女武人の名。だとしたら彼女が話の中に上がっていた義理の妹なのだろうか。

 

 男の体を退かして劉備は立ち上がった。腹の傷がじくじくと熱を帯びて痛んだが、今は構っている場合ではなかった。「あの、関羽さんは……?」

 

「関羽はいま他の賊と戦ってるのだ。鈴々は関羽から劉備っていうお姉ちゃんを守るように頼まれたのだ」

 

「私を……」劉備の予想は確信に変わった。「じゃあやっぱり、あなたが関羽さんの言ってた義理の妹なんだ」

 

 張飛は力いっぱい頷いた。「そうなのだ。鈴々も関羽と同じ夢を見たのだ。お姉ちゃんと関羽と鈴々が三人で一緒に世界を救う夢で、それはとっても大変だけど、みんなが笑顔になれるとっても良い世界なのだ」

 

 彼女も関羽と同じように言った。自分たち三人は夢の中で世界を救うのだと。

 だがなぜ彼女たちは、見ず知らずの自分にそこまで期待できるのだろうか。たった三人でなぜ世界を救う事が出来ると思えるのだろうか?

 

「……ねえ張飛ちゃん。私に……私たちにそんな事、本当にできると思う?」劉備は真剣な眼差しで尋ねた。「私は張飛ちゃんや関羽さんみたいに誰かと戦える訳じゃない。織物くらいしか得意な事がないただの女の子なんだよ? それに世界を救うっていっても、具体的な方法だって何も分からない。それでも本当に、その夢みたいに世界を救う事なんて出来ると思う?」

 

 張飛は劉備の質問にしばらく唸っていたが、やがて覚悟を決めたように目を開くと、堂々と言い切った。

 

「ん~……鈴々には難しいことは分からないけど、きっと何とかなるのだ!」その言葉にはいささかの迷いも見られなかった。本気でそう思っているのだ。「でももしお姉ちゃんが困った時は、鈴々と関羽が助けるのだ! それがたぶん、鈴々たちの使命なのだ!」

 

 本気なのだ。理由や根拠はどうであれ、彼女たちは本気で自分と共に世界を正そうとしており、そのために自分の元までやって来たのだ。

 ――自分がこの家に生まれた意味を、自分に何ができるのかを考えなさい――母の言葉が脳裏に蘇る。これが自分のするべきことなのだろうか? だがそうである気がした。少なくとも今は。

 

「……そっか」大きく息を付き、劉備は迷いを胸の内から追い出した。「急に変な話してごめんね。私はもう大丈夫だから、関羽さんたちの手助けに行こう!」

 

 張飛は頷くと、劉備と共に関羽の居る村の中央へと向かっていった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 首尾は上々だった。村の男たちは既にこちらの接近を気づいていたものの、その人数は少なく、抵抗はささやかと言ってよかった。

 戦闘はこれ以上ないほど有利に進み、一刻と経たずに村は男たちの手に落ちた。

 村の中はまさに宝の山だった。逃げ惑うばかりの女達は容易く捕まえて犯すことができ、店員の居なくなった酒家では上等な酒や食糧をいくらでも貪ることができた。

 賊の長である男もあらかたの仕事を済ませ、その甘美な報酬に与るべく村の中を巡っていた。

 空いた酒家から適当な酒と食べ物を拝借し、それらを口に入れながらまだ手を付けていない女が残っていないか歩き回る。先行した部下たちがあらかたの馳走は食べつくしてしまっているだろうが、探せばまだいくらか残っているに違いなかった。

 

「おい、そこのお前」不意に誰かが後ろから男を呼んだ。若い女の声だった。

 

 歩みを止めた男は素早く腰の蛮刀を引き抜くと、振り返ってそれを声の元へと突き付けた。切っ先の前には大刀を持った黒髪の女が立っていた。

 

「まだ生き残りが居たのか」男は冷静だった。襲撃した村で旅の武芸者と出くわすのはこれが初めてではなかった。「村の連中とは違うな。何者だ?」

 

 女は答えず大刀を男に向けた。「貴様が賊の親玉か?」

 

 相手の立ち振る舞いから、男は目の前の人物がどれほどの腕前なのかを見定めていた。このような場所で賊と出会って、未だ冷静でいられるのはある程度の経験を持った武芸者の証だ。生き残らせれば後々の障害となりえるかもしれない。ここで始末できるならば確実にするべきだろう。ならず者としての知識と経験が男にそう命じていた。

 

「だったらどうした?」胸の中の殺意を強く固め、男は言った。

 

「貴様のような連中がこの世界を腐らせる。お前のような奴が居るから私のような憎しみを持った者が生まれ続ける」女が大刀を握る力を強めた。「お前のような奴は、この関羽が一人残らず叩き斬ってくれる!」

 

 斬り掛かる女の動きは早かった。洗練された構えから放たれた大刀は、まるで尾を引いた彗星のように輝きを放ちながら男へと吸い込まれた。

 だが男の反応もそれに負けてはいなかった。蛮刀の刃先を僅かに大刀に擦らせると、それだけで女の一撃をいなして見せた。

 たった一合――言葉にすればただそれだけだったが、対峙している二人にとってそれは、互いの実力を知るには十分すぎる材料だった。

 

「関羽……?」男は気が付いたという風に言った。その名前には聞き覚えがあった。「そう言えば聞いたことがある。山賊狩りをしている長い黒髪の女。それが確かそんな名前だったはずだ」

 

「別に自分で名乗っている訳では無いがな」女が不敵な笑みを浮かべた。そして大刀を再び構え直し、刃先をぴたりと男の胸へと突きつけた。「ならば分かるだろう。これ以上私と戦えばどうなるか」

 

 男は既に自分の実力が目の前の武芸者よりも低いことを実感していた。無論、無抵抗で殺されるつもりは無かったが、こと一対一の勝負においてそれはあまりにも分が悪すぎた。

 確かにこのままでは自分の命はわずかの間にこの女に奪われることだろう。

 故に男は早くも隠していた奥の手を使うことにした。

 

「そうだな……」男は蛮刀を構えながらもう一方の手でその合図を送った。「結果はお前の負けだがな」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 突然それは背後から現れた。数本の弓矢。それが関羽の死角を突いて襲い掛かり、彼女の手足を幾重にも貫いた。

 関羽の顔に苦悶と激痛の表情が浮かび上がる。

 そして彼女が痛みに気を取られていた隙を付き、男は関羽をその得物が届く間合いへと十分に納めていた。蛮刀が唸りを上げて襲いかかる。

 矢が刺さった腕のまま関羽は大刀を操ると男の刃を防ごうと試みた。だがそのすべてを防ぐことは叶わず、逆に浅い切り傷をいくつも体に生み出す結果になってしまった。

 

「大丈夫ですかい、お頭」建物の陰から何人かの男達が出てきた。全員ちぐはぐな格好だったが、どの男も目印のように同じ黄色い布を腕や首や頭に巻き付けていた。

 

 関羽は自らに突き刺さった矢を引き抜きながら新たに現れた男達を睨めつけた。「貴様ら……!!」

 

「まさか一対一のまま戦うと思っていたのか?」男は冷めた目で関羽に蛮刀を突きつけた。「もう先ほどのようには動けんだろう。その邪魔な手足を切り落とした後、残った体の具合がどんなもんか、たっぷり確かめてからくびり殺してやるよ」

 

 男がもう一度合図を送ると、黄巾の男達は再び弓矢の狙いを関羽に定める。男は勝利を確信した。

 

 不意に関羽が意味深な笑みを浮かべた。「ふ……そうだな。誰も一対一で戦うとは言っていないな」それは数瞬前まで見なかった余裕の表情だった。

 

「何だと?」男は眉を顰めた。

 

 それと同時に不振な表情を浮かべる男に見せつけるかのように赤い風が一陣を吹き抜け、男の部下達を瞬く間に打ち倒していった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「愛紗!大丈夫なのだ!?」赤い旋風が口を開いた。身の丈以上の矛を持ったそれは紛れもなく関羽の義妹、張飛であった。

 

「遅いぞ鈴々。危うく待ちくたびれるところだったではないか」痛みに耐えながら関羽は満面の笑みを浮かべた。

 

「関羽さん!大丈夫ですか!?」張飛から一足遅れてやってきた劉備も関羽の負傷姿に思わず心配の声を上げた。

 

「劉備どの! そちらもご無事したか!」心配された方であるにも関わらず、逆に関羽は笑みを安堵の表情へと変えた。「助けるつもりで鈴々を送り出したのに、こちらが助けられる事になるとは、かたじけない」

 

「……仲間か」新たな敵の存在に男は舌打ちしたが、他に誰も出てこない事が分かると表情を元に戻した。「だがたったの二人か。生憎こっちには村中に手下が回ってる。ここで俺が一声かけりゃ……」

 

「ざんねんでした~。もうお前の仲間は鈴々がぜ~んぶやっつけちゃったのだ~!」

 

「なんだと!?」男は苛立ち交じりのざらついた声を出し、それが真実かどうかを確かめるべく大声で仲間に招集をかけた。だが結果は張飛の言うように、いくら叫んでも他の仲間が助けに来ることはなかった。

 

 男は鬼気迫る表情と共にありったけの罵声が口から飛ばした。品のない呪詛の言葉が三人に浴びせかけれたが、それだけだった。あまりの言葉の汚さに三人の眉根を寄せさせることには成功したが、それで状況が覆ることも無ければ、活を見出す案が出るわけでもなかった。

 

「さてどうする?」腕に刺さった矢を投げ捨て、関羽が言った。「城下町の軍もお前達がここを襲うことを知っている。もうじき討伐隊もやって来るだろう。彼らに大人しく捕まるか、それともここで我らに斬られるか。好きな方を選ぶといい」

 

 死の宣告を耳にしながら男は必死に考えを巡らせた。この危機から生き残るために。もう一度略奪の快楽を味わうために。

 そして最善かつ最も成功する可能性が高い方法を模索すると、それを実行に移すべく、蛮刀を手に劉備の元に猛然と走り出した。

 まさか一番遠い自分が狙われると思っていなかったのか、劉備は咄嗟に剣を抜いたものの、どうしたらいいのか迷ってしまっていた。

 

「お姉ちゃんには指一本触れさせないのだ!」男の狙いを阻止するべく、張飛は二人の間へと割り込んだ。

 

「そうくると思っていた!」劉備を狙えば必ずが二人のうちどちらかが止めに来ると踏んでいた男は、割り込んできた張飛の胸に狙いをつけると、蛮刀を薙払った。

 

 致命的な傷は防いだものの、顔を横一文字に切り裂かれ、張飛の顔が苦痛に歪んだ。

 

「張飛ちゃん!」劉備が悲痛な面もちで叫ぶ。

 

「平気なのだ! それより愛紗!」

 

 その言葉に応えるように駆け寄っていた関羽は、既に男の背後を狙いに定めていた。

 

「分かっている!」裂帛の気合いと共に関羽は大刀を振るった。空気が唸りを上げ、銀線が男の首に向かって再び走る。「外道め!覚悟!」

 

 果たしてその刃は男の首を正確に捉えると、見事にそれを両断したのだった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 村を襲った黄巾党はその大半が関羽と張飛によって打ち取られ、僅かに生き残っていた負傷者たちも後からやってきた城の討伐隊によって即座に捕縛され、連行された。村は救われたのだ。大きな代償を支払って。

 戦死した男たちを含めた村の犠牲者は実に数十名以上にものぼった。そしてその中には劉備の母も含まれていた。

 聞いた話では母は自分と別れた後、逃げ遅れた村の子供を庇って斬り殺されたらしかった。いつも誰かのために尽くしていた母らしい最期だと、劉備は心の中でぼんやりと思った。

 そして同時に劉備は心に誓った。いつか自分も母のように誰かの為に生き、戦い、そして死んでいこうと。

 

 村の襲撃から既に数日が経過した。賊によって破壊された建物は存外にも少なく、人々は村の復興に向けての片付けや処理作業に追われていた。

 その日、劉備は村の奥にある桃園を訪れていた。目的は母を含めた村の犠牲者たちの埋葬だった。

 生き残った者たちで話し合った結果、彼らは桃園の下に埋葬されることになった。美しくも逞しい桃の樹と共に、この村を永遠に見守っていらるように。

 死装束を着せた母を木の根元に埋めた劉備は、その上にゆっくりと土を被せていった。別れの言葉は必要なかった。族の襲撃があったあの日に今生の別れは既に済ませていた。

 母の身体はここで大地の礎となり、同時に新たな実りの糧となる。だから何も悲しくはない。何よりもこの桃木が、母が生きた証となるだろう。

 土を被せ終えた劉備は静かに母に黙祷を捧げると、そのまま振り返ることなく桃園を後にした。

 

 埋葬と葬儀を済ませた劉備が自宅に戻ると、中から関羽と張飛が出迎えた。彼女たちは先の戦いで負った傷を癒すべく、村の援助を受けながら劉備の家で寝泊まりしていた。

 

「別れは十分に済まされましたか?」寂しげな面もちで関羽が問いかけてきた。どこか悲痛さを見せるその表情は過去に何かあったのかもしれない。

 

「うん。ありがとう関羽さん」そのことにはあえて触れず、努めて笑顔を作ると劉備は柔らかく明るい声音で答えた。「平気だよ。ちゃんと受け止めてるから」

 

「お姉ちゃん、大丈夫なのだ……?」今にも泣きそうな顔で今度は張飛がそう聞いてきた。天真爛漫な雰囲気を持つ彼女だが、やはりこういう空気には弱いようだった。

 

 劉備は彼女の優しさに笑顔し、その頭をあやすように撫でた。「大丈夫だよ張飛ちゃん。心配してくれてありがとうね」

 

 出会ってからまだ間もない二人だったが、その短い時間の中でも二人の人の良さ、武人としての強さ、そして胸に秘めた思いの大きさを劉備は十分すぎるほどに理解していた。

 この二人ならおそらく何があろうとも信用出来るだろう。そして彼女たちも自分を信じてくれるはずだ。

 

 覚悟を決めるように大きく息をつくと、劉備は二人に向かって真剣な眼差しを向けて言った。

 

「関羽さん、張飛ちゃん。今から二人に大事な話があるの」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 家の中はかつて無い空気に包まれた。熱く渦巻く気迫。それは理想に燃える戦士たちの興奮の熱気だった。

 居間に集まった三人は神妙な顔つきで席についていた。劉備は向かいに座る関羽と張飛を、二人は語り部である劉備の顔を見つめていた。

 

「関羽さんは私に言ったよね。今この世界は狂っていて、誰かがそれを正さなければいけないって」場を支配していた緊張と沈黙を破るように劉備がゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

 関羽は小さく頷いた。その眼は熱く燃え、次の言葉を強く待ちわびていた。

 

 劉備は言葉を続けた。「初めてその話を聞いた時、私はそんなことになんて全然興味なかった。だって、私みたいな女の子が何かした所で世界なんか絶対変えられないって思ってたし、それになにより暴力とか争いが大嫌いだったから……そしたら突然、村に黄巾が攻めてきて、お母さんから皇帝の血筋なんだって聞かされて、助けに来てくれた張飛ちゃんや関羽さんと一緒に黄巾をやっつけて……色んな事が次々に押し寄せてきて、もう何が何だか分からなかった」

 

「でもそれもようやく片付いて、改めてじっくり考えてみたの。これから自分は何をするべきなのかって」

 

「確かに今の私には何の力もない。お母さんは私が皇族の末裔だなんて言っていたけれど、だからって私自身に特別な力がある訳じゃないし、急に何かが変わる訳じゃない。でも、それでも……」

 

 椅子から立ち上がり、劉備は腰の宝剣を引き抜いた。鏡のように澄んだ刀身が決意の表情をはっきりと映し出していた。

 

「私は――この世界を変えたい。あんな風に自分の故郷が滅茶苦茶に襲われたり、誰かがその犠牲になったりしない世界を作りたい。所詮は夢かもしれない。世間知らずの世迷い言かもしれない。でもそう思えたのは、二人の力があったから。関羽さんと張飛ちゃんが私に力を貸してくれたから。だから私は二人のその思いに応えたいの」

 

 劉備が語る決意の弁に、揶揄も反論もせず挟むことなく静かに関羽はそれを聞いていた。同じく張飛も。その言葉を己の魂に刻みこむように一字一句聞き逃すまいと黙って耳を傾けていた。

 その四つの瞳が劉備に告げていた。もっと奮い立たせる言葉をくれと。

 彼女たちの期待に応えるように、劉備は言い放った。

 

「私はこの剣と私の魂にかけて誓う。もう二度とあんな事が起こらないように、必ずこの世界を変えてみせるって」

 

「劉備どの。いえ劉備様」石のように沈黙していた関羽がその言葉と共に重々しく立ち上がった。そして劉備の隣まで歩いていくと、その場に恭しく跪いた。「今日より我ら姉妹は旅の武芸者を脱し、貴女の剣として仕えたく思います。どうか我らを貴女の配下に加えていただけませんでしょうか?」

 

 関羽の言葉に呼応するように張飛も勢いよく立ち上った。「そうなのだ! 鈴々たちはお姉ちゃんと一緒にこの世界を変えたいのだ!」

 

 だが劉備は剣を収めると、それを拒むようにゆっくりと首を横に振った。「ううん。残念だけどそれはできません」

 

 関羽は目を剥き、悲痛な面もちと共に立ち上がった。「な、なぜです!? 我らの思いを汲んでくださるのではなかったのですか!?」

 

「だってまだ私には、まだ人の上に立つような力も経験もないから。そんな人がいきなり主君になんかなったって、きっといい結果は生まないと思うんです」劉備は強く二人の目を見つめた。「だからまずは私を二人の姉妹に加えて欲しいんです――いえ、加えて欲しいの。三人はいつでも一緒だって思えるように。何があってもこの三人だけは絶対にいつまでも協力しあっていけるように」

 

 是非もないと言わんばかりに関羽と張飛はその言葉を聞くと震えるように頷いた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 次の日、劉備は犠牲者と母が眠る桃園に再び赴いていた。

 美しい――と劉備は素直に感じた。春風に暖められた木々はその梢をいっぱいの花で彩り、そこから漂う雅な香りは園の空気を優しく満たしている。何も知らぬ者が見れば、どこか桃源郷にでも迷い込んだと勘違いしても不思議ではなかった。

 

「いい天気ですね」隣で控えていた関羽が感嘆とした声音を上げた。その様子は恍惚と言ってもよかった。「まるで我らの門出を祝ってくれているかのようです」

 

 劉備は笑顔を浮かべて頷いた。「きっとそうですよ。ここで眠ってるみんなが私たちのために頑張って咲かせてくれたんだと思います」そしてこれで見納めになるであろう故郷の風景をしっかりと心の中へと焼き付けた。

 

「おーい!愛紗ぁ~!お姉ちゃ~ん!」桃園の入り口から聞き覚えのある明るい声が聞こえてきた。

 

 劉備と関羽は視線を声に移した。桃園の入り口から走ってくる赤毛の少女は、紛れもなく関羽の義妹であり、もうすぐ劉備の義妹になる張飛の姿だった。

 そして彼女は己の得物である矛の他に小さな瓶をその脇に携えていた。

 

「あんまり荒らされてなかったお店に頼んで分けてもらって来のだ~!」彼女が瓶を振ると、中から液体の入った音が聞こえてきた。それは関羽が手に入れてくるように命じた酒の音だった。

 

「おお、よくやったぞ鈴々」関羽は喜びの声を発した。

 

「えへへ、これくらい当然なのだ!」張飛はしばらく得意げな顔をしていたが、ふと気になったと言わんばかりに首を傾げた。「……でもどうして誓いを立てるのにお酒が必要なのだ?」

 

 関羽は当然だとばかりに言った。「何を言っている。神聖な姉妹の契りを立てる時だからこそ、その証として共に飲み交わす酒と盃が必要なのではないか」

 

「うーん……確かに愛紗の時にも一回やったけど、やっぱり鈴々にはよく意味が分からないのだ」

 

「なんだとぉ? お前なぁ……」

 

「まあまあ関羽さん。こんな時に怒ったってしょうがないですよ」不機嫌さを募らせる関羽を宥め、劉備は首をかしげる張飛に語り掛けた。「張飛ちゃんにはちょっと難しいかもしれないけど、こう言う大切な約束をする時には相手の人をちゃんと信頼してますっていう意味を込めて、同じお酒を一緒に飲むのが決まりみたいになってるんだよ」

 

「ふーん。そういうものなのかぁ」一応の納得をしたようで、張飛はぼんやりと頷いた。「じゃあ早くしようなのだ!」

 

「まったく……」やや呆れていた関羽だったが、やや肩をすくめた後に言った。「――では、はじめましょうか。劉備どの」

 

「はい」劉備は頷き、家から持ってきた盃に瓶の酒を満たすと、それを関羽と張飛に配った。

 

 盃を持った三人は三角形を描くように並び立ち、互いに見つめ合う。

 誰もがその関係を望んでいた。劉備は関羽と張飛の力を求め、関羽は劉備と張飛の存在を頼りにし、張飛は関羽と劉備の導きを必要としていた。

 三人がじっと見つめ合ってからどれほど経ったのか、やがて誰がともなく誓いの言葉を全員が口にした。

 

「「「我ら三人、生まれし日、時は違えども、姉妹の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし!!」」」

 

「我が名は関羽! 真名は愛紗!!」関羽が右手の盃を高々と頭上に掲げ、己の真名を告げた。

 

「鈴々の名前は張飛!! 真名は鈴々なのだ!!」張飛も合わせて盃を関羽のそれへと重ね、自分の真名を発する。

 

「私の名前は劉備――そして真名は桃香!!」そして最後に劉備が盃を持ち上げ、真名と共にその縁を二人のそれに打ち合わせた。「私は、私は世界を救いたい!! この楼桑村のように! そしてここで眠っているお母さんに見せても恥ずかしくない世界を作ってみせる!」

 

 宣言と共に三人は盃に満たされた酒を呷り、一気に飲み干す。

 この瞬間を以て、劉備、関羽、張飛の三人は晴れて義姉妹の契りを結び、世界再生の旅路へと繰り出したのであった。※3

 

http://imgur.com/a/Wp94q

《桃園の契り/Peach Garden Oath》

 

 

 





桃園の契りだけ見た目が本編とそぐわなかったのでカード画像を自作しました。ご了承ください


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叛徒

「明日の行軍でお前たちは寿春の城に向かう。恐らくそこで初めての実戦を経験することになるだろう。生きて戻って来られるかは、お前たち次第だ」仲間と共に耳にした司令官の言葉を、呉桂は再び頭の中で繰り返した。それはあらゆる兵士が越えるべき最初の試練であり、同時にこれから何度も訪れるであろう難関の一つでもあった。

 

 黄巾軍の兵士として、彼は十分に訓練を積んだつもりだった。半年もの時間をかけて武器の扱いに慣れ、集団での行軍を覚え、敵を殺すための技術に磨きをかけた。だがそれでも、初めて挑む戦いの不安は消えることは無かった。

 

 もしかしたら苦悶のうちに死ぬかも知れない。本懐を果たせず殺されてしまうかも知れない――それは恐ろしい事に違いなかったが、重税に喘ぎ、密告に怯えながら故郷で暮らし続ける事に比べれば、遙かに軽い事に思えた。

 

「小僧、ひょっとして戦いは初めてか?」隊列の隣を歩いていた男が出し抜けに尋ねてきた。脂ぎった髭面には捻じれた揶揄の感情がありありと浮かんでいた。「緊張で今にも死んじまいそうって面(ツラ)だぜ」

 

 呉桂は話しかけてきた男に視線を移した。岩のような肉体にいくつも刻まれた戦傷。刃のような鋭い視線は油断無く周囲を警戒しており、一見して戦慣れした兵士だと知ることが出来た。

 

《黄巾の略奪者》https://imgur.com/a/PaoNoVz

 

 なるべく男を刺激しないよう努めながら呉桂は答えた。「これが初めてだ」こういう手合いは下手に関わると碌な事がない。訓練兵時代の経験から呉桂はその事をよく理解していた。

 

「なら一つ忠告しておいてやる。戦場では強い奴が一番偉ぇ。おいしい思いがしてぇなら、頑張って生き残るこったな」一方的に言い放つと、男は後ろに控えていた手下らしき連中を引き連れて列の前方へと消えていった。

 

 “おいしい思い”と言うは恐らく略奪の事だろう。占領した城や村落から金品と食糧を奪い取り、生き残っている女子供を嬲って楽しむ――まるで野盗や匪賊のやることだ。

 通常、ああいう手合いは軍隊という組織の中では真っ先に危険分子として粛正される筈だが、どういう理由か未だ野放しになっているらしい。

 関わると後で厄介な事になりそうだな――徐々に小さくなっていくならず者たちの背中を見つめながら、呉桂は一人そう思った。

 

「あいつらの事は気にしないほうがいい」誰かが再び呉桂に向かって声をかけた。今度は自分の後ろを歩いていた男だった。「奴らは軍の中でもガラが悪い事で有名なんだ。もともと盗賊だった連中で、黄巾に入った今でも略奪や強姦を止められないらしい。そのくせ強さだけは一流だから、上の人間も手を焼いているんだ」

 

 男は痩身の中年で、人の良さそうな性格が全身から滲み出ていた。苦辛や絶望から戦いに身を投じる事が多い黄巾軍において、未だ目の光を失っていない稀有な人種だ。

 恐らく彼は経済的な困窮や世間への失望ではなく、純粋な信仰心から軍に入った口なのだろう。太平道は今でも多くの信者を生み出している。その中でも特に熱心な信者たちは、こうして戦いの中に居場所を見出すこともあるのだ。

 

 呉桂はさほど興味がなさそうな口調で言った。「俺にはやらなきゃならない事がある。その邪魔にならなければ、どうでもいいさ」その言葉は彼の本心を現していた。

 

 男は疑問に首を傾げた。「君は何か目的があってこの軍に入ったのか?」

 

「ああ」彼は頷き、己の目的を告げた。「どうしてもこの手で殺したい奴が居るんだ」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 揚州にある小さな村落――その中でも特に小さな百姓の倅として呉桂は生を受けた。

 両親の他には姉が二人と妹が一人。生憎と男子には恵まれず、呉桂の他に男の兄弟は一人も居なかった。

 一家の暮らしは決して裕福とは言い難かったが、その中には確かな温もりと清らかさがあった。春には皆で種を蒔き、秋には全員で実りを刈り取る。何の変哲もない日常の繰り返しではあったが、家族の一人一人が全員と助け合い、互いを敬い愛しながら生きていく生活に呉桂はとても満足していた。

 

 しかし、その土地を監督する領主が変わったことで彼らの暮らしは一変した。

 

 新たに領主となった唐安という男は、多額の賄賂によって領主の座に就いた所謂“成り上がり者”だった。その仕事ぶりも決して有能ではなく、むしろ前任者の方がよほど統治に優れていた。

 

 ある日、唐安は領民に対する税率を三倍に引き上げた。増税の理由として賊対策による軍備拡張や公共設備増設のための投資など、様々な建前をつけてはいたが、その実体が更なる賄賂を生み出すための金策であることは誰の目にも明らかだった。

 

 当然、住民の大半が過剰な増税に反対の意を示した。中には強行な手段に訴えた人間も居たようだが、反抗を企てた者たちは見せしめとして人々の前で惨たらしく処刑され、その被害は本人だけでなく領内に住まう親戚一同にまで及んだ。

 

 ここまでならどこにでも転がっている話だったかも知れない。だが唐安の行動はそれだけでは終わらなかった。彼は次に起こるであろう叛乱を阻止する為、彼は一揆や反乱を密告した者には税の取り立てを一年のあいだ免除するという触れ書きを出したのだ。

 

 それを見た人々は動揺した。それは助かりたければ他の誰かを売り飛ばせと言っているようなものであり、仁義や人情と言った人間としての感情を真っ向から否定するものだった。

 初めのうちは誰もが抵抗した――こんな物に自分たちは屈しない。今こそ全員で団結し、悪徳領主を追い出す時だと皆が声高に叫んでいた。

 

 しかし、そんな人々の心は最初の密告によって脆くも覆ってしまった。

 

 密告したのは一揆を企てた男の母親だった。彼女は日頃から息子と折り合いが悪く、好き勝手な事ばかりする息子に我慢がならなかったのだ。

 まさか親が子を売り飛ばすとは思っていなかったのだろう。それを知った人々は母親をなじったが、後にその一家が本当に免税を受けたことを知って目の色を変えた。

 その日を境に人々は常に互いを監視しあい、自分たちが助かるため、或いは自分の気に入らない人物を排除するために次々と密告を繰り返し、相手を売り飛ばしていった。

 

 そしてついに密告の魔の手は呉桂の家族にも及んだ――姉と妹が反抗を企てると言う疑いがかけられたのだ。

 呉桂たちは必死に釈明した。事実、姉や妹はそのような事を企てる性格でもなければ企むような人物との繋がりもなく、密告は全くの濡れ衣に過ぎなかった。

 だが必死の釈明も虚しく、姉や妹は唐安が差し向けた官吏によって捕縛され、数日後には他の者たちと同様、目も当てられないような状態で殺された。

 

 何故だ? なぜ姉妹たちは処刑されなければならなかったのだ? 何の罪も犯していない彼女たちが、なぜ惨たらしい死を受け入れなければならなかった? その理由は一体どこにあると言うのだ?

 

 弔った姉妹の墓を見つめながら呉桂は考え続けた。不条理の中にあるはずの理由を見つけようと、必死になって知恵を巡らせ続けた。

 そして何日も何日も考え抜いた末、彼は一つの結論に至った。

 

 彼女たちは犠牲になったのだ。無力と言う名の罪の犠牲に。

 

 この世界において無力は罪なのだ。抵抗する力がなければ、どんなに正しく生きていた所で意味はなく、力を持った理不尽の前にはどうすることも出来ない。

 

 だが逆に力さえあれば――不条理を跳ね除け、自らの思うままに振舞うことが出来る。密告した人間に罰を与えることも、領主に姉や妹が味わった以上の屈辱を与えてやることも。

 

 その日を境に、呉桂は村から姿を消した。失踪に気付いた両親や住民たちが必死に周辺を捜索したが、彼の行方を知ることは最後まで叶わなかった。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

「……済まなかった。辛いことを聞いてしまって……」事情を理解した男は呉桂に向かって頭を垂れ、謝罪の言葉を口にした。人当たりの良さそうな顔には声と同じく重苦しい罪悪感が漂っていた。

 

「あんたは何も悪くない」呉桂は平坦な口調で返した。この手の話題は珍しいものではない。黄巾の兵士となった人々の大半は、多かれ少なかれ似たような経験を味わっていた。「それより目的地が見えてきたみたいだ」

 

 彼が顎で前方を指し示すと、視界の先端に豆粒ほどの大きさの建造物が姿を現した。

 

「あれが……」

 

 男は目を細め、彼方に映ったその建物を見つめた。巨大な石壁とそこから淡く見える楼閣。まだ小さいが寿春の城に間違いなかった。

 

「寿春だ」静かに呉桂が呟く。その声音は昏く、力を帯びていた。「行こう。少しでも早くあそこに近づきたい」

 

 呉桂の言葉に男は頷くと、目的地に向けて再び足を動かし始めた。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 最初は鈍色の粒に過ぎなかった寿春の城も、距離を詰めるに従ってその巨大な外見を呉桂たちに見せつけるようになった。

 それと同時に城壁の周囲を黄色い蠢きがぐるりと取り囲んでいる事にも気づく。言うまでもなく他の黄巾たちだ。流石に正規の軍隊と比べると装備や連携の面で見劣りするが、それでも十分な規模の軍勢には違いない。

 

 あそこにあの男が――唐安が居る。

 

 ギリッ、と音が聞こえてきそうなほど鋭い目つきで呉桂は城壁を睨みつけた。生憎と彼の視界には鈍色の石壁しか映らなかったが、その向こう側に目的の男が潜んでいる事を彼は確信していた。

 

 陣営にたどり着いた軍は協議の結果、三方に別れる事となった。各部隊がそれぞれの指揮官の元で人手の足りていない箇所を補充するためだ。

 

「我々は西側の部隊と合流する」部隊長が短い号令を告げた。「数刻後には戦闘が始まるぞ。今のうちに覚悟を決めておけ」

 

 上官の言葉に新兵たちの間に緊張が走る。いよいよ自分たちの初陣が始まるのだ。

 導かれるままに陣内を進んでいくと、人垣の薄い一角にぶち当たった。恐らくここが自分たちの持ち場だろう。所属している兵士たちも人数こそ他の箇所より少ないが、全員が戦慣れした兵士たちばかりで、いずれも相応の実力を持っている事を身をもって示していた。

 

「貴様らが増援か」指揮官らしき男が値踏みするような視線を呉桂たちに送り付けた。切っ先のような鋭い目つきは、あのならず者が放つ視線によく似ていた。「……新人ばかりだな。役に立つのか?」

 

「訓練は十二分に受けさせてきた。新兵の中では役に立つ方だろう」毅然とした態度で部隊長が答えた。彼は黄巾に入る前からこうして新兵を率いる役を請け負っており、彼の見立てに適った新兵だけがこうして戦場に出ることを許されていた。

 

「実戦と訓練は違う。新兵は戦力にならないばかりか邪魔になる事も多い。俺たちの作戦にはどんな無茶にも耐えられる兵士が必要だ。もっと他に使える奴はいないのか?」失望の声音と共に指揮官の男が尋ね返す。

 

 不意に呉桂は周囲に流れるきな臭い空気を嗅ぎ取った。今の言葉に同僚たちが怒りを発しているのだ。瞬く間にその空気は周囲を伝播し、向こうの兵士たちにもひしひしと伝わっていた。

 

「――だったらオレたちが役立たずかどうか、試してみたらどうですかい?」出し抜けに一人の新兵が人垣の中から姿を現した。彼は得物である手甲を自らの両手に嵌め、男に向かって素早く身構えた。「それとも、新入りの拳なんざ受ける価値もないと?」

 

 男はしばらくその新兵を眺めていたが、やがて肩を竦めながら彼の前まで歩み寄った。そして自らも両手で拳を作ると、新兵の前で構えて見せる。

 それを合意と受け取った新兵は攻撃的な笑みを浮かべると、男に向かって右拳を突き出した。

 

 手甲を武器にしているだけあって彼の拳は早かった。恐らく新兵として訓練を受けるよりも前から喧嘩などで腕を磨いてきたのだろう。その動きは極めて正確で力強いものだった。

 空中に描かれた銀線が吸い込まれるように男の顔面に向かって飛び込んでいく。命中すれば当然、無事ではすまない。

 だが彼の動きは男にとって既に予想されたもののようだった。男は襲い来る拳を僅かに身を逸らせて回避すると、回り込んだ横合いから新兵の横顎を拳で思い切り殴りつけた。

 

「がッ……!」鈍い打撃音と共に新兵の顔が苦痛に歪む。

 

 拳を受けた新兵は両顎を抑えて数歩よろめいていたが、しばらくして突然、腰が砕けたようにその場にへたり込んだ。顎骨に受けた衝撃が脳を揺らし、彼の平衡感覚を狂わせたのだと知れた。

 

「それで終わりか?」男は退屈と失望を滲ませた声で尋ねた。

 

 挑発を受けた新兵は苦痛と怒りで顔を赤らめながら立ち上がり、再び拳を構える。だが彼の膝は今も不規則に震え、自重を保つのが精一杯のようだった。

 動かぬ新兵に向かって男は拳を再び差し向けた。左右の拳から繰り出された強烈な一撃が満足に身動きの取れない彼の顔面を直撃し、新兵は再び大地へと叩き伏せられた。

 

 重苦しい静寂が辺り一帯を包み込む。

 

「他に挑戦したい者はいるか?」

 

 投げかけられた言葉に周囲の新兵たちはざわついた。下手に挑めば先の二の舞を踏む事は目に見えている。それだけは避けようと新兵たちは必死になって男の視線から目を逸らした。

 

 そんな中、再び一人の兵士が前に出た。

 

「小僧、お前も地面に這いつくばりたいのか?」先ほどと同じく失望を含んだ視線で男は二人目の挑戦者を見つめた。

 

 新たな挑戦者である青年――呉桂は言った。「あんたに付いて行けば、あの中まで行けるのか?」

 

 瞬間、男の顔に疑問が走った。彼は投げられた質問の意味を捉え損ねていた。

 

「……何の話をしている?」再び男が尋ねた。既に彼の中にあった戦意は彼方へと消え失せていた。

 

 呉桂は質問を繰り返した。「俺はどうしてもあの城の中まで行きたい。だけどそれにはあの分厚い壁を超えないといけない。あんた達はどうやって城壁を破るつもりなんだ? 教えてくれ」

 

 その言葉を聞いた直後、男は背後の仲間たちと目配せを交わした。呉桂は瞬時に理解した。彼らは作戦の内容をどこまで聞かせるべきかを思案しているのだ。

 

 やがて視線を戻した男は彼に告げた。「教えてやってもいいが、その方法を真に知りたければ、まず俺に力を見せることだな」そして両手に拳を再度生み出すと、呉桂に向かって鋭く身構えた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 改めて対峙したことで呉桂は男の強さを実感した。先に倒された新兵や自分にはない強さ――幾つもの戦いを潜り抜けてきた人間だけが持てる強靭さを彼は持っていた。

 

 ――果たして自分はこの男に勝てるだろうか? 勝って前に進むことが出来るだろうか?

 言いようのない不安が呉桂の胸をかき乱す。

 

 否。絶対に勝たなければならない。姉や妹の無念を晴らすためにも、自分はあの城門を抜け、唐安の元に辿り着かなければならないのだ。

 

 心にそう命じながら呉桂は拳で構えを作ると、慎重に男との間合いを詰めていく。

 

 ひゅ、と空を切る音が呉桂の目前で鳴り響いた。新入りを打ちのめした顎狙いの拳が自分を狙って放たれたのだと本能が囁いた。

 

 拳が顎骨に命中する寸前の所で、呉桂は構えていた腕を盾にして軌道を塞ぐ。

 

「……ッ!」呉桂の顔に苦悶が広がった。衝撃を受け止めた腕に痺れが広がる。おかげで大した痛みは感じなかったが、その分動きも鈍くなる。

 

 時を置かずして同じような拳が二発、三発と続けて襲いかかって来た。どれも直撃を受ければ重傷は免れない。

 降り注ぐ暴力の雨を両腕で巧みに防ぎながら、呉桂は時をじっと待った。焦れた男が自分を打ち倒すために大振りな一撃を繰り出すのを。

 

 そして防いだ拳が数十を越えた時、ようやくそれが訪れた。

 中々倒されない呉桂に業を煮やした男が無理な体勢からの一撃を放ったのだ。

 

 呉桂はこれを見逃さなかった。彼は大振りな拳を身体を振って回避すると、感覚が無くなった腕を振りかぶり、彼が新兵を倒した時と同じように彼の顎骨に向かって渾身の一撃を叩き込んだ。

 

「ぐあッ!?」

 

 先刻の焼き回しのように男がたたらを踏んだ。既に膝が笑い、姿勢を大きく崩している。先の一撃が効いている証拠だ。

 呉桂は再び拳を強く握りしめた。腕を大きく振りかぶり、相手に向かって狙いを定める。

 

 再び顎を狙われると思ったのだろう。男は両腕を掲げて盾にすると、衝撃に備えるために震えていた足に渾身の力を入れた。

 

 だが呉桂が狙っていたのは顎ではなかった。

 彼は顔を守る代償としてがら空きになった男の胴体――人体の急所である鳩尾に向かって渾身の一撃を放ったのだ。

 

「………ッ!!」

 

 盾の内側に隠れた顔は苦痛の一文字だった。殴りつけられた横隔膜は即座に呼吸を停止させ、その者の行動を著しく阻害させる。身につけていた革鎧が辛うじて重傷を防いだものの、戦いを続けることはもはや不可能だった。

 

 小さなどよめきが人垣の中で沸き出した。やがてそれは小波のように周囲に伝播し、やがて大波の大合唱に成長していく。

 

 男たちの歓声に囲まれる中、部下たちに肩を担がれながら緩慢な動きで男が立ち上がる。

 

「……やるな。若いの」指揮官が苦悶混じりの声で言った。「侮っていたという言い訳はしない。お前の勝ちだ」

 

「これで満足かい?」

 

「ああ。お前なら俺たちが考えている作戦も成功させられるかも知れないな」男は苦笑いした後、思い出したように告げた。「そういえば名前を言うのがまだだったな。俺の名は徐冒、真名は清秋(セイシュウ)だ」

 

「俺は呉桂。真名は陽(ハル)だ。よろしく頼むよ。徐隊長」

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

「忌々しい黄巾どもめ……これでは何のために今まで苦労してきたのか分からんではないか!」既に数える事すら億劫になるほど繰り返した愚痴を呟き、唐安は机に置かれていた水差しを怒りに任せて投げ飛ばした。それは部屋の石壁に当たって割れ砕け、破片と中身を床にまき散らしたが、それで彼の怒りが収まる事はなかった。

 

 黄巾軍との戦闘が始まって既に三か月が経過している。攻城兵器を破壊しつくした事で侵入をくい止めることが出来た事は行幸だったが、未だ敵に包囲され続けている以上、食糧や物資への不安が重くのしかかっている。

 

 本当は戦っている場合などではない。自分は一日でも早く集めた金を中央に送り、更なる地位へと登らなければならないのだ。だがそのためには、まず生きてこの場を切り抜けなければならない――しかし、一体どうすればいいのだろうか?

 

「ああクソ!! この役立たずどもが!」唐安はわめき声と共に一人の文官を呼びつけた。「おい! 朝廷との連絡はどうなっている! もう何度も連絡用の鳩を出したはずだぞ!」

 

 文官の男は視線を彷徨わせながら脅えたように報告した。「ちょ、朝廷からはまだ何も……ただ、『援軍の到着を待て』としか……」彼は焦り、そして自分にぶつけられるであろう怒りに身を震わせていた。

 

 突きつけられた事実に唐安は歯を食いしばった。恐らく朝廷の連中は自分を見殺しにするつもりなのだ。

 自分が悪評を受けている事は既に上の連中も知っている。ここで自分が黄巾に消されれば見返りの地位を用意する必要もなくなり、同時に厄介な人員を都市から排除する事が出来る。そして全てが終わった後におっとり刀で武官を差し向け、残った黄巾を始末すれば、邪魔な要員を労せず一掃できる。実に単純な図式だった。

 

「今まで散々甘い汁を吸わせてやったというのに、利用するだけ利用した後は見殺しか!」甲高い叫び声を上げ、唐安は再び目についた物を片っ端から怒りに任せて部屋中に投げつけた。彫像や陶器が砕け、竹簡が音を立てて壊れていく。たった今まで傍にいたはずの文官も被害を恐れたのか、彼が気がつかぬ内に部屋から消え去っていた。

 僅かな時間の後、ようやく狂乱から醒めた唐安が疲れきった口調で呟いた。

 

「とにかく今は耐えるしかない……奴らも所詮は農民崩れ。城壁が破られない以上、慌てる必要はない筈だ……」

 

 それはまるで自分を宥め伏せるような言葉だったが、その理論が彼の心が鎮める事は決してなかった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 徐冒は呉桂たちを陣地の奥、兵士たちが厳重に防備している区画へと誘った。そこは武器や食糧をはじめとした軍事物資が保管されている場所であり、黄巾軍の心臓部とも言える場所だった。

 

「今の俺たちには攻城兵器がない。忌々しい門を破るために用意した衝車は敵に全て破壊され、壁の上や内側を攻撃するための投石器も長引く戦いの中で全て失った。今はああして梯子をかけて被害を出しながら上に登っていくのが精一杯だが、それも堅い守りの前に足踏みしている状態だ。この状況を打開するには、まずはあの門を破らなけりゃならん。そこでこいつを使おうと思っている」

 

 徐冒はそう言うと、背後に控えていた一人の部下を前に出した。その青年は他の兵士たちとは違い、鎧の代わりに奇妙な飾りのついた黄染色の衣服を身に纏っていた。

 

「こいつは妖憑きだ。力はそれほど強くはないが、炎を生み出して操ることが出来る。こいつを城の門まで連れて行き、正面から門を破らせるんだ」

 

《異端の紅蓮術士》https://imgur.com/a/ROaXiiP

 

 徐冒の言葉に新兵たちは顔を見合わせた。何人かの妖憑きが黄巾に従軍しているという噂は呉桂も聞いていたが、実際にその眼で見るのはこれが初めてであった。

 

「門を破ると一言で言うが……」呉桂は訝しげな表情を彼に向けた。「あの分厚い門を本当に破れるのか?」彼の疑問は尤もだった。炎を多少操れた所で、城を防護する鉄扉をたった一人で破れるとはとても思えない。

 

 彼に同調するように他の人間も似たような顔で妖憑きの青年を見つめる。幾重もの視線に晒された彼は居心地の悪そうな表情を示したが、何か言い返すようなことはせず、無言のままじっと男たちの視線を受け止めていた。

 

「こいつ一人の力だけでは到底無理だろう。重要なのはもう一つの方だ」彼らの質問を待っていたように徐冒は頷くと、今度はいくつもの大きな木箱を部下に持ってこさせた。中には乾燥した藁束が敷き詰められており、中央には拳大の大きさの金属の塊が何個か納められていた。

 

「……これは?」再び呉桂が尋ねた。こんなものは村の中でも黄巾の訓練基地でも見たことがなかった。

 

 木箱の中を指し示しながら徐冒は説明を続けた。「こいつは魔除けに使われる力を圧縮して封じ込めたものだ。普段は何も起こらないが、強い衝撃や熱を加える事で内部の力が膨張して爆発する。本来は敵兵や攻城兵器の進入を防ぐために地面に埋めて使われるものだが、上手く使えば門を破れる筈だ」

 

《呪術封じの地雷》https://imgur.com/a/JHafvol

 

「そんな物が……」改めて呉桂は箱の中身を見つめた。魔除けの類なら村でも目にしたことはあった。だがそれは獣や害虫の被害を防ぐ程度の効力を持つばかりで、少なくとも大きな物体を破壊するようなものではなかった。「こんな物、一体どうやって手に入れたんだ?」

 

「元々は攻め落とした砦から頂いたものだ。最初は宝か何かだと思っていたが、武器だと分かったので保管しておいた」言いながら徐冒が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。恐らく彼が仕留めた場所から手に入れた物なのだろうと、呉桂はあたりを付けた。「とにかくこれを門にありったけ仕掛け、安全な距離まで離れた所でこいつの炎を使って爆発させる。これが俺たちの考えた作戦だ」

 

「そんなに簡単な作戦なら、どうして今までやらなかった?」説明を隣で聞いていた分隊長が疑問の声を上げた。

 

「敵だって馬鹿じゃない。守りの生命線である城門に細工しようとすれば、当然そちらを狙ってくる。それに門を破壊する前に別動隊が被害を受ければ、この作戦は失敗だ。確実に成功させるためには、敵の注意を十分引きつけると同時に素早く敵の懐に潜る必要がある。理解したか?」

 

 分隊長を含め、説明を受けた新兵たちは一様に納得の表情をした。確かにこれは危険極まりない任務だった。一方は敵の注意と攻撃を一身に引き受け、もう一方はいつ破裂するとも知れない兵器を抱えて敵に向かって突き進む――どちらも一つの油断や失敗が死に直結する作戦であり、途方もない覚悟が必要な戦いだった。

 

「ここまで何か質問のある者は?」

 

 上がる言葉はなかった。誰もが息を呑み、作戦の意味をその胸で受け止めていた。

 

 やがて一人の兵士が恐る恐る質問を投げかけた。「……成功する見込みは?」

 

「お前たちの働き次第だが、恐らくは五割と言った所だ」

 

 五割。難しい数字だった。必死の働きと出されるであろう多くの犠牲を加味した上での五割だ。失敗した時の損出を考えれば、取りやめる事も選択肢の中に十分残っている。

 

「だが撤退する事は許されないだろう。寿春は黄巾がこれからも活躍していくに当たって重要な拠点になる。上層部はそう考えてお前たちを援軍に寄越したはずだ」

 

 その通りだった。援軍として出兵する前、彼らは司令官から強く命じられていた。“寿春を必ず落とせ”と。彼らは今の拠点に疑いを持ち始めている。新たに有益で安全な住処を欲しがっている。それが寿春だった。

 

「やるさ」厳かな口調で呉桂は言った。「俺はそのためにここに来た。今さら引き返すつもりはない。他の奴らがどう思っていても、俺はやるだけだ」

 

 彼の一言は全てを決める言葉だった。実際にはその権限を持っていないにしても、それだけの勢いを今は持っていた。彼の言葉に新兵たちは同調し、決断は下された。

 

「よし。ならば呉桂、お前は俺たちと一緒にこれを仕掛ける役だ。他の新人どもにはその間、敵の注意を引き付ける囮になってもらう。残りの連中は俺たちに向かってくるであろう攻撃を防いで貰うぞ。わかったな」

 

 徐冒の号令に皆は頷くと、作戦に備えるべく陣地の方々へと散っていった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 作戦は攻撃部隊が交代した時点から始まった。

 陽動部隊が梯子に取りつき、敵の注意を引き付ける。蟻の行列のように城壁の上を目指して進んでいく彼らは上からの攻撃に晒され、耐えられなかった者たちは転げ落ちて地面に叩きつけられる。

 だが彼らが歩みを止める事はない。生活を失い、故郷を捨て、戦って奪い取ることだけが唯一の生きる道となった黄巾兵たちにとって、立ち止まるという言葉は自分の死を意味するに等しいからだ。

 

 同僚たちの戦いを呉桂はしばらく陣の後方から見つめていた。彼らも自分と同じだった。暗く救いのない思いを胸に秘めてこの軍に入り、当てのない怒りと悲しみをぶつける為に戦っている。散っていった仲間たちの為にも必ず唐安の元までたどり着き、同じ屈辱を味合わせてやると、彼は密かに胸に誓った。

 

 同じく隣で様子を見ていた徐冒がしばらくした後に前に出た。彼は緊張の面持ちで木箱から容器を幾つか取り出すと、衝撃を与えないように慎重に布に包んで背中に結び付け、残りを両手に抱え込んだ。

 

「頃合いだ。全員遅れるなよ」そして目的地である城門に向かって真っ直ぐに足を踏み出すと、迷いのない足取りで駆け出して行った。

 

 彼の進行に続いて盾役の兵士と呉桂たち設置役の兵士も次々と陣地を飛び出していく。

 弓矢が届かない最初こそ、彼らの歩みは軽快だった。敵の注意の大半は壁にへばりつく新兵たちに向けられており、無人の野を進むかの様に走り抜けることが出来た。だが門との距離があと一里ほどに詰まった時点から、次第に攻撃は熾烈さを増し、最後には上空に向けて構えた盾の中に入りながら慎重に歩かなければならない程だった。

 

 遅々とした歩みの合間にも仲間が次々と倒れていく。ある者は盾の隙間を縫って入り込んだ弓矢に居抜かれ、またある者は掲げた盾ごと落石に押しつぶされて事切れる。上空からの攻撃を防ぐため、盾で視界を塞いでしまっている事が、余計に彼らの恐怖心を煽った。

 

 前方から徐冒の鼓舞が飛んできた。「あともう少しだ!」盾の隙間から見える視界には石くれの壁と鉄扉が間近に迫っていた。

 

 最後の一線を越えて門の前までたどり着いた呉桂と徐冒は、腰に結びつけていた杭と鎚を取り出し、それを扉のすぐ横の石壁に向かって打ち付けた。

 

「一カ所ではダメだ。扉の周りに満遍なくしかけるんだ!」金槌の衝撃音と共に杭が衝撃と共に少しずつめり込んでいく。ある程度まで突き刺さったのを確認した後、すかさず二本目に取りかかる。

 

 戦いの喧噪に混じって金属の打ち付ける音が門前に響く。何人かが本当にこれでいいのだろうかと不安そうな表情を浮かべたが、呉桂に構っている余裕はなかった。やると決めた以上、突き進むだけだ。

 

 手持ちの杭をほとんど使い切った兵士たちは次に背負った布を外すと、突き刺した杭に結びつける。

 

「よし! あとは後方まで撤退するだけだ!」再び上空に盾を掲げて走り出した徐冒が妖憑きの兵士に向かっていった。「栄半! あとは任せたぞ!」

 

 声をかけられた青年は果敢な顔つきで応じると、その両腕を分厚い火炎で包み込み、生み出した紅蓮の塊を門に向かって投げ入れた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 戦いが佳境に入った中でも唐安は未だ悩み苦しんでいた。彼はひっきりなしに飛んでくる戦況にはほとんど耳を貸さず、あてにもならない援軍について考え込んでいた。「とにかくもう一度朝廷に掛け合って応援を要請するしかない……金は後からいくらでも搾り取ればいい……私が生き残ることこそが一番大事な問題なのだ……」

 

 うわ言の様に呟きながら、送り付けるための書類をしたためる。不安と恐怖で筆が震えているが、気にしている余裕はない。一刻も早くこの状況を打破しなければ、全ては終わりだった。

 

「唐安様!」先ほど呼びつけた文官が再び部屋へと飛び込んできた。青ざめた顔色は大きな異常が起きたことを如実に表していた。「大変です! 城門が……城門が破られました!」

 

「なんだと!?」唐安は驚きと共に立ち上がった。「一体何をやっているッ!! 相手は歩兵ばかりの叛乱軍ではないか! それを……それをッ!!」報告が正しいものならば、それは一大事だった。敵は一気に城内へと押し寄せてくるだろう。ここに辿り着くのも時間の問題だ。

 

「黄巾は既に街の中まで侵入し始めています! 急いで非難を!」

 

「馬鹿者が! 敵に包囲された中で一体どこに逃げ道があるというんだ!」

 

 唐安は文官を怒鳴りつけると、素早く自分の部屋を出た。向かう先など特になかったが、黄巾の脅威がすぐそこまで近づいている以上、いつまでも城に居続けるわけにはいかなかった。

 

「……いったいどうしたらいい……これから一体どうすればいいんだ……」

 

 虚空へと投げかけられた彼の質問に、答えられる者は誰も居なかった。

―――――――――――――――――――――――――

 

 凄まじい轟音と振動が門の前から伝わってくる。呉桂は砦破りと防衛の訓練を思い出した。あの時は隣で鳴り響く銅鑼の音に鼓膜を破られそうになったが、それもここまで凄まじいものではなかった。

 

 土煙と熱風が晴れていく。見れば門の周囲を固めていた石壁は悉く砕け、街の景色が丸見えになっている。作戦が成功した証だった。

 

「門が開いたぞ!」徐冒が歓喜に叫んだ。「急げ! このまま内部に侵入して四方の門を開けろ! 出来るだけ多くの味方を中に引き込むんだ!」

 

 声に応じた荒くれ者が次々と門を通過して街へ侵入していく。事態に気が付いた敵兵が壁から次々と降りてきて応戦するが、まるで間に合っていない。いずれこちらの勢いに押し切れ、全ての門が解放を許すだろう。

 

「よくやった。お前のおかげで作戦は成功した。この戦は俺たちのものだ」晴れやかな表情で徐冒が近寄ってきた。

 

「隊長。頼みがあります」呉桂は強い口調で言った。「俺をあの城の中まで連れて行ってください」

 

「さっきもそう言っていたな。何がある?」

 

「唐安の首です。あいつは家族の仇なんです。俺はこの時の為に黄巾に入ったんです。仇を取らせて下さい」

 

 僅かな間、徐冒は逡巡するような仕草を見せたが、すぐに首を縦に振って彼に応じた。「……いいだろう。俺たちの隊はこのまま城に乗り込む。一緒について来い」

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 何もかもが悪夢だった。覚めれば消え去る夢である事を願った。本当にそうならば、どれだけいい事だろうか。

 もう出世などと言っている場合ではない。門を破壊され、賊が押し寄せてきている今、自分に出来ることは人目の付かない場所で密かに時を過ごし、頃合いを見計らって街から逃げ出すことだけだった。

 

 小間使いの服装に着替え、懐にありったけの資金を詰め込んだ。万が一の事を考えて洛陽には多くの資金を分散した名義で隠してある。ここの財産を失っても生活する程度の金ならある。

 

 まだ巻き返せる。自分が生きてさえいれば。

 

 鼓舞するように心に言い聞かせながら城を進む唐安だったが、その運命は唐突に終焉を迎えた。

 

 目の前から通路に人の気配。続いてむせかえるような血の臭い。

 

 唐安が恐る恐る前方を確認すると、そこには無骨な剣を携えた一人の青年が幽鬼のように佇んでいた。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

「唐安だな」

 

 鉄のような声音で青年が尋ねた。それは質問というよりも確認に近かった。

 

「な……なんだお前は……」唐安は後ずさりした。目の前の男が何者であれ、自分の命を狙っているという事は一目で理解できた。

 

「名乗る必要はない。俺はお前を殺すものだ。お前に殺された人間たちの無念を晴らすものだ」青年が一歩前に進み出る。手にした剣には血がこびり付いている。ここに来るまでに何人もの人間を殺してきた証だった。

 

「愚かな農民崩れが! お前たちは黙って働いて税を納めていれば良かったのだ! それがお前たちの――」続く言葉は無かった。一足飛びに近づいた呉桂の刀が彼の喉を刺し貫いていた。

 

 ごほっ、と咽せるように喉から血を吐き出すと、唐安は床に倒れ伏し、そのまま二度と動き出す事はなった。

 

 目の前に転がった仇の死体を、呉桂はしばらく無言で見つめた。胸の内に残ったのは後味の悪い気分と血生臭い肉の感触だけだったが、それでも彼は満足していた。自らの手で家族の仇を取ることが出来た。望外の結果だった。

 

「やったのか」廊下の向こうから他の部下と共に徐冒が現れた。全員の手にはいくつもの金品が握られていた。

 

「ありがとうございます隊長。お陰で本懐を果たせました」呉桂は彼に向かって頭を垂れた。

 

「全てはお前の力が成したことだ」徐冒が言った。「その首は持ち帰っておけ。あとで報告する時に使うからな」そして握られた金品を懐に入れると、新たな獲物を求めて城の中を進んでいく。

 

 その場に取り残された呉桂は小刀で唐安の首を切り離すと、それを持って城の外へと歩いて行った。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 戦勝の宴は盛大に行われた。見れば街のそこかしこで女子供を犠牲にした乱痴気騒ぎが起きているが、咎める者は居ない。反抗する男たちは全て殺され、恭順の意を示した者も今では街の一角に隔離され、閉じ込められていた。

 

 唐安の首級を上げたことで、呉桂の活躍は徐冒や部隊長のみならず軍を統率していた将軍たちにも知られる事となった。多くの人間から昇進があるかもしれないと言われたが、彼には興味がなかった。復讐を目的として入った黄巾の立場には、さほど関心がなかった。

 

 これからどうやって生きていくか――今の呉桂の頭に浮かんでいるのはそんな悩みだった。

 

「よぉ、この前の坊主じゃねえか。まだ生きてたのか」不意に聞き覚えのある声が遠くから聞こえてきた。遠征中に話しかけてきたあの荒くれ者の兵士だった。「おいしい思いは出来たかよ?」

 

 どうやら彼も戦勝の恩恵にたっぷりとあやかっているようだ。張りつめていた顔は酒で赤く染まり、鋭かった視線もゆるんでいる。手にした肉の塊を乱暴に食いちぎると、そのまま酒で流し込んだ。

 

 肩をすくめながら呉桂は答えた。「おかげさまで、やりたかったことはやらせてもらえた」初めて会った時は疎ましく感じていたが、今では彼の気ままな振る舞いが少し羨ましく感じられた。

 

「そいつぁ何よりだったな」彼は髭面を歪ませて厳つい笑みを作った。「これから生き残った女どもで楽しむつもりなんだが、お前さんもどうだ?」

 

 僅かな時間、呉桂はこれからどうするべきかを考えた。自分にはもう帰る場所も戻る道もない。復讐を終えた自分はただの悪党に成り下がった。ならばいつか死ぬ時まで、悪党であり続ける道も悪くないのかもしれない。

 

「……いいね」彼は口端を歪めて言った。「なら俺も混ぜてもらおうかな」

 

「そうこなくっちゃな。案内してやるから付いて来な」

 

 翻った男の背中を追って呉桂はゆっくりと歩んでいく。その顔に浮かんだ獰猛な笑みは、目の前を行く荒くれ者のそれと全く同じものだった。





リハビリの短編です。今回は黄巾の物語を一つ。
※前回から誤字を修正しました。


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龍なき次元にて

 プレインズウォーカーのサルカン・ヴォルは、時を越えた旅の果てに故郷の次元タルキールを龍の墓から楽園へと変えた。それによって精霊龍ウギンは死の運命を免れ、友であったナーセットもまた、別の人生の中で新たにプレインズウォーカーの灯を覚醒させるに至った。

 それから少しの時が経ち、彼は生まれ変わったタルキールを離れ、新たな次元で安寧の日々を過ごしていた。
 龍の存在しない次元“外史”。そこは彼が真に求める世界ではないものの、まさに彼がドラゴンとは別に欲していたもの――安らぎを備えていた。

 だが彼は知ることになる。この世界にもまた、争いの陰が近づいていることを。



 広大な草原に風が吹き抜けた。澄んで乾いたそれは晴天の野を駆け抜け、草花や生物たちに季節の匂いを届ける。もうじき春を迎える涼州の大地は生命の香りに満ち溢れており、新たな実りが芽吹くのを心待ちにしているようだった。※1

 

http://imgur.com/a/uxPba

《平地/Plains》

 

 サルカンはこの次元に吹く風を気に入っていた。穏やかで気ままに走る回るそれはタルキールの荒々しいばかりのものとは違い、彼の心に心地良い安らぎと暖かさをもたらしていた。

 

 彼は乗ってきた馬を下りると、それがどこかへ逃げてしまわないよう念入りに近場の木へと繋ぎ止めた。狩りには少々の時間を要する。今までこの馬が逃げ出すようなことはなかったが、今回もそうでないとは限らない。

 

 戒めが外れないようしっかりと手綱を幹に固定すると、次にサルカンは身につけていた鎧や上着を外し、次々とその場に脱ぎ落とした。

 革鎧や外套はもちろん、短刀やブーツに至るまでその全てを脱ぎ去ると、それを一纏めにして馬と共に置いておく。

 そうして逞しい身体を完全に大気に晒らしたかと思うと、その身体が見る見るうちに変化していった。

 人間だった肉体は分厚い筋肉によって数倍以上に膨れて鱗を生やし、背中からは一対の翼が飛び出した。腕には巨大な鰭が付き、顔に至ってはもはや人のものではなく、完全に龍のそれと化していた。

 変身は滞りなく完了した。そこにはサルカンの姿など微塵も無く、代わりに一頭の巨大な龍が鎮座していた。サルカンが得意とする呪文の一つ、ドラゴン変化である。※2

 

http://imgur.com/a/oBJfS

《ドラゴン変化/Form of the Dragon》

 

 変わり果てた主の姿に馬も恐れて暴れ出すかと思われたが、どうやら彼が龍になるのを見るのはこれが初めてではないらしく、軽く一瞥した後は足下に生えている新芽を秣代わりに食むばかりであった。

 

 なんとも呑気なその姿に呆れたように鼻息を鳴らしたサルカンであったが、やがて背に生やした翼をはためかせると、雲一つない青空へと吸い込まれるように飛び立っていった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 龍となったサルカンは無人の空を存分に駆け抜けた。

 この世界には小さな鳥類を除けば、空を飛ぶ生き物は存在しない。獰猛さと強靭さを兼ね備えたドラゴンもいなければ、群れを成して空を飛び交うエイヴンも、不思議な力で宙に浮かび上がる吸血鬼もいない。この世界において、今のサルカンはまさに空の王者に他ならなかった。

 

 そうして飛び続けること数十分。果たして目的のものを見つけると、サルカンは本物のドラゴンよろしく鋭い咆哮を響かせながら、大地へ向かって急降下を開始した。

 彼の視線の先には十匹程からなる大鹿の群が居た。おそらく新たな食料を求めて近くの山から降りてきた所なのだろう。※3

 

http://imgur.com/a/U3Kqn

《突進する大鹿の群れ/Stampeding Elk Herd》

 

 咆哮と共に襲いかかる狩人に慌てて逃げ出す大鹿だったが、不運にも1匹が岩場に脚を取られ、逃げ遅れてしまった。そしてもちろんそれを見逃すようなサルカンではない。

 遅れた一匹の首筋に丸太のような太さの龍腕が殺到する。鋭いドラゴンの爪は首の根元まで易々と突き刺さり、そのまま体ごと持ち上げると大地に向かって強引に叩きつける。

 相手が人間なら圧倒して余りあるだけの力と巨体を持つ大鹿だが、今のサルカンは自由自在に空を飛び、業火を吐き出すドラゴンそのものであり、両者の力の差は歴然だった。

 やがて力尽きぐったりとなった大鹿を口に咥えると、サルカンは残してきた愛馬の元へ戻るべく、再び大空へと飛び立っていった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 人間の姿に戻ったサルカンは服を身に着けると、そのまま獲物の解体に取り掛かった。

 持ってきた短刀で皮や骨などを丁寧に取り除き、要領良く肉や内臓を切り分ける。今回の獲物はかなりの大物で、持って帰れば一族の人々はきっと大喜びするに違いない。

 

 まるでティムールだな。とサルカンは心の中で笑った。その笑みは嘲笑や皮肉の類ではなく、むしろ心地いい満足の笑みだった。

 

 サルカンがこの次元にたどり着いてもう半年になる。初めは狩りでもしながらゆっくり自分の中の答えを探そうと考えていた彼だったが、巡り合わせに恵まれたのか、今ではこの辺り一帯を支配する馬という一族の世話になっていた。最初こそ彼らもサルカンを警戒していたのだが、今ではすっかり打ち解けていた。

 そして、もし自分が彼らに恩を返す方法があるとすればこれくらいだろうと、サルカンもいつしか山や草原で獲物を狩っては、それを彼らの元へと持ち帰るようになっていた。

 

 獲物の解体もあらかた終わり、切り分けた臓物や肉を馬の荷袋に押し込んでいると、遠くからサルカンを呼ぶ声が聞こえた。

 

「おじさまー!」

 

 振り返ると、草原の向こうから馬に乗った小柄な影がこちらに近づいて来るのが見えた。

 影は次第にはっきりとした映像となり、そして最後には自分の良く知る活発な少女の姿となった。

 彼女の名は馬岱と言って、サルカンが世話になっている一族の長・馬騰の姪に当たる人物だ。人懐っこい性格の彼女はサルカンのような余所者にも分け隔てなく接し、実際彼も、その気さくな振る舞いにすっかり心を開いていた。

 

 やってきた馬岱はサルカンの横にあった獲物の姿を認めると、驚愕と感嘆の声を上げた。「ウソ!? これ大鹿でしょ!? こんな大きい獲物どうやって一人で取ったの!?」

 

「ちょうどいい。馬岱も運ぶのを手伝ってくれ。俺一人では多すぎて運びきれない」

 

 サルカンの言葉を聞いた彼女は不満げにその眉根を寄せた。「もう!たんぽぽの事はたんぽぽでいいって言ったでしょ! 真名を許してるんだから、ちゃんと真名で呼んでよね!」

 

 “真名”というのはこの次元の人々が持つ特別な名前の事だった。本当に心を許した者にのみ呼ぶことを許し、許可なく他の人間がそれを口にすれば斬りかかられても文句は言えないほどの親しみと親愛が籠っているらしい。

 馬岱は一族の中でも真っ先にその名をサルカンに預けてくれた。何か理由があるのかと尋ねてみたが「え? 一緒に住んでるならもう家族みたいなものだもん。それくらい当たり前でしょ?」とあっけらかんと言い放つばかりだった。

 その一件以来、サルカンも馬岱の事については何かと気にかけるようになっていた。

 

「悪かった。それで俺に何の用だ? 急いでたようだが」

 

「あ、そうだ。おばさまにおじさまを呼んで来いって言われたの」そう言う彼女の表情はどこか退屈そうだった。おそらく何かしようとしていた所を運悪く捕まり、役割を言いつけられたに違いなかった。「だから今すぐたんぽぽと一緒にお城まで来て」

 

「俺に?」サルカンは首を傾げた。彼女の指す“おばさま”とは、この隴西郡を統べる女太守・馬騰の事である。もう老年に差し掛かった女性だが、その勇猛さ、人望共にこの地で並ぶ者はいない。その彼女が自分に一体何の用だろうか?

 

「うん。用件は来てから話すって言ってたよ」馬岱は短くそう言うと、乗ってきた自分の馬の荷袋に肉の入った包みを括り付けた。「いいからほら、たんぽぽもお肉持って帰るの手伝ってあげるから、早く行こう」

 

 不可解な馬謄の真意について、サルカンはしばらく考えを巡らせていたが、やがて考えてばかりもいられないと頭を振って思考を振り払うと、獲物の積み込みに再び着手した。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 獲物の解体と積み込みを終えた二人は馬騰のもとへと向かうべく、広大な草原地帯を己の愛馬と共に駆け抜けていた。

 どちらの馬もかなりの荷物を背負っているにも関わらず、走る速度は乗せる前と寸分たりとも変わらない。丁寧かつ苛烈に積まれた訓練の賜物だった。

 

「……ねえおじさま。前から気になってたんだけど、いつもどうやって狩りをしてるの?」揺れる馬の背に跨りながら、馬岱は不思議そうに問いかけた。その視線は声と同様に、サルカンの狩猟に対する疑問に満ちていた。「武器も道具も持ってないのにあんなでっかい獲物が取れるなんて、絶対おかしいよ」

 

 答える代わりにサルカンは渋い笑みを浮かべた。「秘密だ。真似をされたら俺の立場がないからな」

 

 サルカンは自分が別の次元から来たプレインズウォーカーであることも、この世界には存在しない呪文が使えることも他の人間には伏せていた。知る必要のない事をいらずらに教え、あらぬ誤解を招くのは彼の望むところではなかった。

 

「もう! いい加減教えてくれたっていいじゃない!」そんなサルカンの態度が気に食わなかったのか、馬岱は幼い子供のように頬を膨らませて馬の腹を蹴ると、その速度を強めさせた。「そんな意地悪するおじさまなんて知らない! もう置いてっちゃうもんね!」

 

 その言葉を真実にするかのように、馬岱の姿は加速と共にどんどん遠く小さくなっていく。このままではやがて本当に見失ってしまうだろう。

 

「ふむん。どうやらこのままでは置いて行かれるようだぞ?」サルカンは面白そうに自らを乗せる愛馬に向けて言葉を放った。「飛龍よ、俺たちも少し飛ばすとするか?」

 

 飛龍と呼ばれた馬はその名の通り龍のように荒々しく嘶くと、ここからが本番だとばかりに速度を上げ、草原を凄まじい勢いで駆け抜け始めた。

 

 サルカンがこの馬と出会ったのはつい三か月ほど前の事だった。一族の人間ですら手こずる暴れ馬がいると噂が立ったのだ。

 実際その牡馬は荒々しい一族のそれの中でも特に獰猛で、どんな人間を前にしても決して己の背中を預ける事はなかった。

 一族は屈強で逞しい馬を好む傾向にあるが、何事も度が過ぎるものは排斥される。このまま誰も乗せないのであれば軍馬としても労働力としても価値はなく、その馬に残された運命は死だけだった。

 そんな折、サルカンはこの馬と出会った。

 サルカンは一族から馬を預かると、それを誰の目も届かない無人の荒野まで連れて行き、その戒めを解き放って言った。

 

「ここから好きなだけ走ってみろ。俺から逃げ切ることが出来たら、お前は自由だ」

 

 その言葉を聞いた馬は小馬鹿にするように嘶くと、鼻息をサルカンへと吹きつけ、草原の彼方に向かって猛然と走り出した。

 

 馬は誰に遠慮することなく平原を駆け抜けた。無人の大地を走り去り、巨大な岩山を抜け、サルカンや一族のことなど遠い記憶の彼方へと置いていくまでどこまでも走り続けた。

 そして半日ほど駆けた末にようやく息を切らせて立ち止まったその時、突如、頭上から稲妻のような鳴き声と共に巨大な何かが馬の眼前へと舞い下りてきた。

 

 それは馬がかつて一度も見たことのない生物だった。山ほどに大きな躰。背から生やした一対の巨翼。馬など一噛みで食い千切ってしまえそうな鋭い牙と口。紛れもなくそれは、生きる物全てを餌とする頂点捕食者に違いなかった。

 勝てない――馬は生まれて初めて死の恐怖に身を竦め、許しを請うように首を垂れた。

 だがしかし、その巨大な生き物は馬の予想を裏切って自身を襲うことはなく、それ以上に奇怪なことが起こった。

 その姿はみるみる内に小さくなると、なんと自分が遥か向こうの地に捨て去ったはずの男――サルカンへと変わったのだ。

 

「勝負は俺の勝ちだな」困惑する馬を尻目にサルカンは言い放つと馬の顔を一撫でし、有無も言わさずその背中に跨った。「だが俺の龍の姿を見て逃げ出さなかった馬はお前が初めてだ。お前は勇敢な戦士だ。俺はお前を認めよう」

 

 それから馬はサルカンを自分の主と認めた。サルカンはそんな彼の潔さを気に入り「飛龍」の名を与えると、愛馬として接するようになったのだった。

 

 大地を飛ぶように走る飛龍は先程まで小さな点と化していた馬岱の姿を捉えると、見る見るうちにその大きさを豆粒ほどから等身大にまで引き上げ、ついには再び隣に並ばせた。

 

「え!? うそ!?」疾風のように追いついてきたサルカンの姿に馬岱は度肝を抜かれた。「おじさま早すぎ!?」

 

「どうした蒲公英? 俺を置いていくんじゃなかったのか?」そのままサルカンと飛龍は彼女を背に抜き捨てると、更に速度を上げて野を駆けた。「今度は君の方が追いかける番だな」

 

「あ、ちょっと!まってよ!おじさま!」馬岱も慌てて馬に急ぐよう指示を送ると、先を飛ばすサルカンの背中に追い縋った。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 馬謄が治める隴西の街へと二人がたどり着いたのは、草原を駆けはじめてから実に二刻ほど後の事だった。

 空はすでに夕日によって赤く染め抜かれており、街の至る所では酒家や民家が夕餉の煙を窓や隙間から吐き出している。それに伴って街の人々もまた、夕暮れ時ならではの活気を見せていた。

 門番たちに迎えられながら街の中に入ると、街の人々はこぞって二人に声をかけ、手を振り、暖かい歓迎の情を示した。

 

「お、サルカンの旦那。今日の狩りも相変わらず盛況みたいだねぇ! うちも一つあやかりたいもんだよ」

「へぇー! 今度の獲物は大鹿かい! そいつの角と毛皮なら俺ん所で引き取るから、明日にでも寄っておくれよな!」

「サルカンさん。昨日お肉に合う香辛料をたっぷり仕入れたんです。よかったらどうですか?」

「馬岱ちゃん。西国の新しい服が手に入ったんだけど、ちょいと試着だけでもしてみないかい?」

「二人ともおなか空いてるならうちの新作点心、食べてっとくれよぉ。今日の特に自信作なんだよぉ!」

 

 姿を見かけるなり次々と駆け寄り、声をかけてくる人たちをどうにかなだめながら、二人は城下町の中を少しずつ進んでいく。

 

「えへへ。おじさまもすっかり街の人気者だね」嬉しげに笑顔と共に茶化すような口調で馬岱が言った。

 

「……こういう事にはまだ慣れない」逆にサルカンは戸惑ったような声を挙げ、多少の気疲れを顔に見せていた。「なぜ皆は、俺にこんなにも親切にしてくれるんだ?」

 

「みんなおじさまの事が好きだからだよ」馬岱の笑顔が馬上で揺れた。「おじさまって、いっつもどこか寂しそうな顔してるんだもん。みんなどうしても気になっちゃうんだよ」

 

「好き、か……」サルカンは口の中でむずがっていた言葉を小さく吐いた。「そういう感情を向けられるのは、ここに来てからが初めてだ」

 

 こんなにも純粋で熱心な好意を他人から受けたのは、サルカンの短くない人生の中でも初めての事だった。かつてマルドゥの戦士やジャンドの人間たちが自分に尊敬の念を向ける事はあったが、それは同じ戦士としての憧憬、あるいは強大な力への畏怖から来るものに過ぎなかった。

 過去に唯一、今は無き故郷の世界でそれに近いものを向けられたことはあったが、思えばあれも自分への純粋な知的好奇心から来るものに過ぎないような気がしてならなかった。

 

「おじさま? どうしたの?」いつの間にか、馬岱が横合いからサルカンの顔をのぞき込んでいた。「大丈夫? なにか考え事?」

 

 サルカンは僅かな間、その顔を見つめた。

 彼女や街の人々と接していると、どこか心の中が暖たたかく満たされる感じがした。果たしてこの感情こそが、自分に足りていなかった“何か”なのだろうか?

 そうかもしれないという思いはあったが、確信は未だに持てなかった。

 

「……いや、何でもない」サルカンは飛沫を払うようにかぶりを振ると、飛龍に脚を早めさせた。「馬騰殿が待ってる。急ごう」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 街の中央に位置する城へとたどり着いたサルカンと馬岱は、馬と獲物を出迎えの者に任せると足早に馬騰が待つ私室へと足先を向けた。

 彼女の私室は城の離宮にあり、世話係の人間以外は呼ばれない限り入ることはない――そんな場所に呼び出して、彼女は自分に一体何を話すつもりなのか?

 そんな風に考えている内に、二人は当の本人が待つ部屋の前へとたどり着いた。

 

「おばさま、連れてきたよ」言いながら馬岱が部屋の扉を開けて中に入った。サルカンも一拍遅れてそれに続いて入っていく。

 

「おお。ご苦労だったね蒲公英」部屋の椅子に腰掛けていた老女――馬騰は立ち上がると、暖かい抱擁でもって二人を出迎えた。彼女の隣には次期族長と目されている娘の馬超の姿もあった。

 

「あれ? お姉さまも居るの?」思わぬ人物の存在に馬岱がやや意外そうな顔をした。

 

 その言葉に馬超はどこか居心地の悪そうな表情を返した。「なんだよ。あたしが居ちゃ悪いのか?」

 

「別に? ただそんな顔して座ってるのが珍しいなあって思っただけだよ」売り言葉に買い言葉という感じで、馬岱が軽口を返す。

 

 言い合う二人を馬騰が制した。「ほら無駄話はいいから。とりあえず二人とも、そこに座んな」

 

 促されるままにサルカンと馬岱は席に着くと馬謄はすぐさま下女を呼びつけ、全員の前に暖かい茶を差し出させた。

 

 仄かに湯気の立つそれを一口含んだ後、さもなんでもないという顔つきで馬騰はサルカンへと語り始めた。「お前さんがうちに来て、もうどれくらいになったかねぇ。ここの暮らしには慣れたかい?」

 

「それについては本当に感謝しています。馬騰殿」サルカンは深々と頭を下げた。それは純粋な気持ちの現れだった。「俺のようなはぐれ者を置いて下さるだけでなく、こうして住む場所まで面倒を見ていただけるとは」

 

 馬騰は軽く手を振った。「あたしが好きで面倒を見てるだけさ。でもまあ、そう思ってくれてるんなら都合がいいさね。実はお前さんに一つやってもらいたいことがあるんだよ」

 

「やってもらいたい事……ですか?」鸚鵡返しにサルカンは言葉を返した。その顔にはやはり疑問の表情が張り付いていた。

 

 そんなサルカンの態度を見透かしたように馬騰は言葉を続けた。「そんなに怪しむこたぁないよ。ただちょいと使いを頼まれて欲しいってだけさ」そして懐から封印のされた一枚の紙を取り出すと、それをサルカンへと差し出した。「この手紙をうちの親戚の元に届けて欲しいんだが、引き受けてくれるかい?」

 

 サルカンは困惑した。身内への手紙をわざわざ自分のような余所者に頼む意味が分からなかった。仮にそれが公的な内容であれ私的な内容であれ、もっと信頼された者に預けるべきだ。

 咄嗟にサルカンは彼女の隣に座っていた馬超の顔を探り見た。この手紙に一体どんな意味があるのか、少しでも知りたかったからだ。

 だが彼女は気むずかしい顔で静かに自分の顔を見つめ返すばかりで、サルカンに何の情報も読み取る事も許しはしなかった。

 

 仕方なくサルカンは言葉でそれを語る事にした。「……なぜ俺にそんなことを? 俺のような余所者にこんな重要な物を預けずとも、そちらの馬超殿や蒲公英に頼まれた方がよほど良いのではないですか?」

 

「だからこそさ」馬騰は言い聞かせるように言った。「これはお前さんを一族の一員として迎え入れるためのちょっとした試練みたいなもんさ。これをきちんと届けられるほど信用できるなら、お前さんも立派な仲間さ。いつまでも居候の余所者扱いじゃあ、何かと居心地が悪いだろう?」

 

 彼女たちの自分への待遇は余所者へのそれとは思えないほど丁寧であり、サルカンには不満など何一つなかったのだが、彼はあえて何も言わなかった。

 

 その反応を肯定と見たのか、馬謄はサルカンに手紙を強引に持たせて言った。「心配するこたぁない。道案内にはそこの蒲公英をつける。二人なら何の問題もないだろう? せいぜいのんびり行って、向こうの旨いものでもご馳走になってきな」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「旅出ちの為の英気を養う」という名目で、その日の夕食は特に豪華なものが用意された。サルカンが獲った大鹿の肉は言うに及ばず、果ては西方から持ち込まれたと言う葡萄酒までもが豪勢に振る舞われ、城の中はまるで宴のように華やかに盛り上がった。

 サルカンも馬岱も出されたそれらを一通り堪能したものの、やがて飲み食いしてばかりもいられないと席を立ち、旅立ちの準備に取りかかるべく食堂を後にした。

 

「なんか変な話だったね。急に呼びつけたと思ったら、お使いに行ってこいなんてさ」城の廊下をサルカンと共に歩いていた馬岱が、疑問の表情を張り付けながら言った。彼女もどうやらこの話の奇妙さを気にしているようだった。「しかも羌の大王様の所だなんて、絶対何かあるんだよ」

 

「蒲公英、その羌というのは?」サルカンが聞き返した。その言葉は彼にとって初めて聞く単語だった。

 

「あ、そっか。おじさまは知らないんだっけ」サルカンの疑問に気づいた馬岱が答えた。「羌っていうのはね、ここからずっと西に行った所に住んでる漢人とは違う部族のことだよ」

 

「おばさまはその羌族と漢人との間に生まれた子供なの。だから昔は部族の集まりにも顔を出してたんだよ。体を悪くしちゃった今は、お姉さまが代理で行ってるんだけどね」そこまで言うと、馬岱は首を傾げた。「でも急におじさまを使いに行かせるなんて、本当にどういうつもりなんだろう?」

 

「……馬騰殿にも何か考えがあるんだろう。どんな意図があるにせよ、引き受けたからには行くだけだ」

 

「それはそうだけどさぁ……あ、そうだ」不意に馬岱が、愉快な悪戯を思いついた子供のような顔でサルカンに囁いた。「ねえ、さっき預かったおばさまの手紙。なんて書いてあるのか、こっそり見てみようよ」

 

 その提案に一瞬サルカンの心はぐらついた。確かにそうすれば、胸に抱いた多くの疑問は氷解するだろう。だがそれは、馬騰が自分に預けた信用とこれまでの好意を全て無に返す行いであり、恩義に背く行為だった。

 

 サルカンは首を横に振ると、強い口調で彼女を諫めた。「だめだ。あれは俺が責任と信用を持って預かったものだ。途中で開いて誰かに見せるつもりはない」

 

「えー、いいじゃん。ばれなきゃ平気だってば」

 

「だめだ」これ以上彼女の気まぐれな誘惑に乗らないためにも、サルカンはあえて強い口調で言った。「この話は終わりだ。そんな事は二度と言うな」

 

「ちぇー……分かったよ」下唇を突き出し、不貞腐れながらも馬岱は頷いた。

 

「それより蒲公英、羌の土地まではどれくらいかかる?」

 

「うーん。ここからだと結構あるかなぁ。馬で行ってもだいたい十日くらいはかかると思うよ」

 

「なら明日の朝にはここを出る。蒲公英も今夜の内に準備をしておいてくれ」

 

 サルカンの言葉に頷くと、馬岱はそのまま自分の部屋を目指して廊下の向こう側へと消えていく。

 彼女が消えたのを確認してから、サルカンも旅の支度をするべく、自分の部屋へと歩いて行った。

 




※1 平地/Plains 基本セット2014

※2 ドラゴン変化/Form of the Dragon From the Vault:Dragons

※3 突進する大鹿の群れ/Stampeding Elk Herd タルキール龍紀伝

今回、大幅に文章を加筆修正しましたので、新しく投稿する形にしました。ご了承ください。


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遭遇

 住み慣れた隴西の街を離れ、サルカンは馬岱と共に西羌の地へと旅立った。だが彼らはその旅の本当の意味をまだ知らない。



 夜闇が途切れ始める日の出頃、馬超は城の中庭で日課である槍の稽古をしていた。

 彼女はこの時間が何よりも好きだった。静かに流れる黙動の時間は心地よい集中と静寂を自身にもたらし、物思いに耽るには絶好の機会だった。

 黙々と長槍を振るう間、彼女は脳裏で馬岱とサルカンの事を思い浮かべた。

 二人が隴西の街を旅立ってから早くも五日が経過している。順調に進んでいれば今頃は涼州の草原帯を抜け、羌が支配する乾いた平地に入っている事だろう。そして彼らが目的地にたどり着く頃には、ここも随分と騒がしくなっている筈だ。

 

「稽古中に考え事かい? 翠」不意に聞き覚えのある声が馬超の背後から響いた。自分の真名を呼ぶその声には、いやと言うほど聞き覚えがあった。

 

 馬超は動かしていた体を止め、ゆっくりと声の方へと向き直った。そこには漢服の代わりに無骨な稽古着に身を包み、鉄槍を携えた馬騰が静かに佇んでいた。

 

「……母さん」物々しい母の格好にやや驚いたものの、馬超はそれをあえて口にはしなかった。その原因は既に十分過ぎるほど知っていた。「ああ。どうも蒲公英たちの事が気になっちまってさ」

 

 さもありなんと言わんばかりに馬騰は小さく頷いた。「あんな口やかましい娘でも、居なくなってみれば案外寂しいものだってことさね」

 

「そうかも」馬超は肩を竦め、続いて惜しむように目を細めた。「だけど……もしあいつが一緒に居てくれたらって思うと、どうしてもね」

 

「仕方ないよ。あの男はあたしらの揉め事とは無関係だ。それに一番懐いてる蒲公英を引き剥がしてまで置いておく訳にもいかないだろう?」

 

 馬超は頷いた。それについてはあの男に手紙を託す前に母と何度も話し合い、語り合った末の判断だった。異論はない。だがそれでも、副官として頼れる従姉妹に残って欲しかったという思いが全て消えたわけではなかった。

 

「あの子が抜けた分、お前たち三姉妹には期待してるよ。あたしが直々に仕込んだ槍の腕、まだ錆びちゃいないだろう?」馬騰はにやりと笑みを作って見せると、持っていた鉄槍を馬超に向かって鋭く構えた。「どれ、久しぶりに稽古をつけてやろう。かかってきな」

 

 母の挑発に馬超も揶揄を以て返す。「いいのかい? 何年もまともに動いてない母さんとあたしじゃ、勝負にならないかもしれないぜ?」

 

「はっ。そういう事はまともに一本取ってからほざくもんだよ。小娘」果敢なその言葉を最後に馬騰は口を閉じ、そして次の瞬間には全身の毛が逆立つほど濃厚な剣気を馬超に向かって放っていた。

 

 老いてなお血気盛んな母の気質に馬超は小さく肩をすくめたが、やがて息を一つ吐くと馬騰と同じく構えを作り、己の中に研ぎ澄まされた剣気と集中を作り出した。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

「蒲公英、羌族の領地は一体どんな所なんだ?」揺れる馬上からサルカンが尋ねた。その顔色には幾ばくかの退屈と僅かな疲れが滲み出ていた。

 

 出立から四日目を越えた辺りで、二人を取り巻く景色は新芽が茂る草原から荒涼とした平地へと変わっていた。時折、背の低い灌木や頂に雪化粧を残した山脈が周囲に彩りを加えたが、それもしばらく進んでいく内に遥か後方へと流れ去り、また同じような荒野が目の前に姿を現す。

 最初は長い旅路を喜び走っていた飛龍もあまりに変わり映えのない背景にすっかり飽きてしまったようで、今ではつまらなそうな表情で地平線を駆けるばかりであった。

 

 サルカンの質問に隣を走っていた馬岱が眠たげな声で答えた。「んっとね、やっぱり岩山とか荒地が多いかなぁ……あ、でも、少し移動すれば近くに湖とか草原もあるし、うーん……一言で言うと“荒れてるけど豊かな所”かな?」

 

「……俺の故郷に似ているな」ぽつりとサルカンが呟いた。彼女が言う土地のイメージは、かつて自分が暮らしていたタルキールのそれにどことなく似ていた。「俺が住んでいた所もそんな場所だった。もっとも、近くに湖は無かったがな」

 

 すると馬岱の顔が興味深そうな表情へと変わった。「そういえば、おじさまの故郷とか昔の事って聞いたこと無いなあ。どんな暮らしだったの?」

 

 その質問に今度は逆にサルカンが考えるように唸った。

 今まではあらぬ誤解を招かぬよう、自身の過去についてはなるべく語ることを避けてきた。だがこうして面と向かって尋ねられてしまっては、何かしらの受け答えをせざるを得ない。

 しかし異なる次元の――それも今は歴史にすら存在しない世界の事を、果たしてどこまで話していいのだろうか?

 見ず知らずの人間に全てを語り、狂人の妄想だと笑い飛ばされる分にはいい。だが親しい人間にそんな突拍子もない話を語るのはどうにも躊躇われた。

 かと言って安易な嘘を作り出し、誤魔化すような真似も出来ればしたくはない。

 いっそ下手に隠さず全てをありのままに伝えてしまってもいいのではないかとも考えたが、何の知識も持たない馬岱にそれを聞かせた所で、正しく受け入れてくれるかどうかは限りなく微妙だった。

 

 口ごもったサルカンを見て、馬岱が気まずそうな表情を浮かべた。「あ……もしかして、あんまり聞かれたくない事だった?」

 

「いや……」サルカンはかぶりを振ったが、その後に続く言葉が口から出ることはなかった。

 

 そのまましばしの沈黙が流れた後、サルカンは自分の過去の一部を言葉を選びながらもゆっくりと語り始めた。「……俺の故郷は、鋭い山と澱んだ沼、後は荒れた平地ばかりでな。常に乾いた風が吹く荒涼とした場所だった。そこにはマルドゥという恐ろしい氏族が住んでいて、俺はその戦士として生まれ育った」

 

《マルドゥの隆盛》https://imgur.com/a/IJOIq19

 

 彼が語ったのは自身にとって遠く過ぎ去った記憶の一部だった。プレインズウォーカーの灯が点火するよりも更に前――まだ彼がマルドゥの戦士として一翼を率いていた頃の物語。それは記憶として彼の中で既に薄れつつあったが、それでも彼がタルキールで暮らしていた頃の記憶には違いなかった。

 

「おじさま、戦士だったんだ」馬岱が意外だという顔をした。「てっきり狩人か何かだと思ってた」

 

「狩人か」自嘲気味にサルカンは笑った。確かに馬岱から見れば、外史での自分の振る舞いは狩人の類だと思われていても不思議ではなかった。「確かに狩人と言えなくもないな。俺はそこで長い間ずっと狩り取ってきた。多くの敵の命を」

 

 彼の剣呑な言葉に馬岱が眉を顰める。「……敵って?」

 

「他の氏族たちだ。俺の故郷では、もう何百年にも渡って氏族同士が互いに争っていてな。俺たちの生活は来る日も来る日も毎日が戦いだった。征服のための戦い、生き残るための戦い、攻め込んでくる者を倒すための戦い――俺はそんな風に繰り返される戦いに嫌気が差して氏族を抜けた。もう随分昔の話だがな」

 

《戦名を望む者/War-Name Aspirant》http://imgur.com/a/mYB04

 

「……ごめん。そんな事まで聞くつもりじゃなかったんだよ。たんぽぽはただ、おじさまがどんな風に暮らしてたのか聞きたくて……」話を聞き終えた馬岱が力ない声で言った。どうやら彼女はサルカンに開いてはならない記憶の扉を開けてさせてしまったと考えているようだった。

 

「気にするな」頭を振り、努めて柔らかい声音で彼は答えた。「さっきも言ったが、もう随分昔のことだ。それに――」

 

 そこまで言い掛けてサルカンは一瞬だけ躊躇した。その先を言うべきか、それとも伏せておくべきか。

 

「……それに?」横合いから菫色の瞳が彼を見据える。透き通った彼女の両目は遠慮がちにではあるが、紛れもなくサルカンに言葉の続きを求めていた。

 

 しばらく逡巡した後、サルカンは喉の奥に押しとどめていた言葉を吐き出した。「――それに氏族を抜けてからの方が、個人的には色々あった」

 

 その言葉は彼女の過去への興味をより一層強くしてしまうだろうが、構わなかった。彼女にならいつか全てを語ってもいいと思える自分が心の中に存在している事を、サルカンは言いながら半ば認識していた。

 

「そうなんだ……」馬岱の表情に僅かな明るさが戻った。「ねえ。もしおじさまが良ければでいいんだけどさ、その話、また今度聞かせてくれる?」

 

「そうだな」サルカンは首を縦に振った。「気が向いたらまた話すとしよう」

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 陽が傾き、夕闇がたれ込み始めたのを合図にサルカンと馬岱は馬から降りた。夜の冷え込みは春先と言えども容赦がなく、二人は思わず纏っていた砂塵避けの外套を強く体に引き付けた。

 

 体を冷やさぬよう風の当たらない岩場の陰に馬を繋いだ後、二人は焚き火で暖を取りながら夕食にありつき、続いて互いに交代の時間を決めて睡眠を取ることにした。

 最初はサルカンが見張り役を務め、しばらくしてからは馬岱が、そして順番は再びサルカンへと回ってきた。

 

 夜の平地は無音だった。砂塵を巻き付けながら吹く風も今は無く、炎が薪を舐め焦がす音だけが岩場の中でただ静かに響いた。

 赤く揺らめく炎をじっと見つめながら、サルカンは旅立つ前にかわした馬騰とのやりとりを頭の中で思い返していた。

 

 彼女は自分が信頼に足りるかどうか試すために羌への手紙を預けた。だが本当にそれだけだろうか? サルカンにはどうも違う意味や目的があるような気がしてならなかった。

 加えて気がかりなのが、彼女と共にあの場に居た馬超だ。あの場において何も語らなかった彼女だが、あの場に居た以上何らかの意味があったに違いない。

 

 だとしたら、それは何だ?

 

 サルカンは懐から例の手紙を取り出して見つめた。厳重に封印の施された小さな竹簡を。

 これを見れば全てが氷解する――そうだと分かっていても、彼には封を開ける事ができなかった。運び屋が中身を勝手に改めるなど、決してあってはならないことだ。

 

「手紙、見る気になったの?」不意に眠たげな声が炎の向こうから聞こえた。目を覚ましていた馬岱がいつの間にかこちらをじっと見つめていた。

 

 手紙を懐に戻し、サルカンはかぶりを振った。「いや、中に一体何が書かれているのかと見つめながら考えていただけだ」

 

「もう、おじさまってば固いんだから」体を起こした馬岱が呆れたように言った。「少しくらい見たって分かりっこないよ」

 

「信用の問題だ。馬騰殿は俺を信用してこの手紙を任せてくれた。ならば俺もその信用に応えるのが礼儀というものだ」

 

「そんなこと言って、本当はとっても気になってる癖に」

 

「気にはなっている。彼女が本当はどういう意図でこれを俺に預けたのか、中には一体何が書かれているのか、知りたい事は多い。だがそれは届け終えればいずれ分かることだ。別に焦る必要はない」

 

「それはそうだけどさぁ……」手紙が開く気配がない事を悟った彼女はしばらく不満そう表情を浮かべていたが、不意に真剣な顔をして話題を変えた。「……じゃあさ、昼間の話の続き、もっと聞かせてよ」

 

「もうか?」今度はサルカンが呆れたように言った。確かに話すとは言ったが、こんなに早くせがまれるとは思っていなかった。「我慢しろとは言わないが、もう少し後の楽しみに取って置いたらどうだ?」

 

 彼の揶揄が気に触ったのか、馬岱はむっと膨れ、強い口調で言い返した。「だっておじさまってば、今まで自分の事なんてちっとも話してくれなかったじゃん。半年も一緒に暮らして、真名だって預けたのにさ。……信用されてないのかなって、少しは考えちゃうよ」

 

 彼女の言葉はサルカンの心に強く突き刺さった。

 何の過去も語らない人間――確かにそれは、相手を信用していないと取られるのも無理はなかった。

 

「それは……すまなかった」彼は俯いた。「俺の過去は……人に話すのが難しい。決して言えない訳じゃない。だがそれを誰かに話したとしても、正しく信じて貰えない事の方が多い。昼間話したのはその中でも最も信じられる内容だった」彼の説明は随分と言い訳じみたものだったが、それは同時に紛れもない真実でもあった。

 

 自分が住んでいる世界の他にも世界が存在し、その間を自由に行き来する事ができる存在が居る――そんな馬鹿げた話を素直に信じられるのは、実際にそれを見たことのある者か、あるいはそれができる人物を知っている者に限られた。

 彼はそれを多くの人に語った訳ではなかったが、それでも彼の話を素直に信じた者はごくごく僅かだった。

 

「信じるか信じないか、それを決めるのはおじさまじゃなくてたんぽぽだよ」馬岱はそんなことなど知らないとばかりに言い放った。「じゃあ約束する。たんぽぽは絶対におじさまの話を疑ったりしないって」そして彼女は体を起こすと、サルカンの隣へと座り、そこで小さく笑みを作った。その顔は少女というよりも、どこか母親を思わせる柔らかさがあった。「だからさ――おじさまの本当のこと、たんぽぽに教えて?」

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 自分の物語を他人に聞かせるのは、サルカンにとっても久しい出来事だった。最後に語った相手はジェスカイのカンのナーセットだったが、今や彼の物語の軌跡は、かつて彼女に話した時以上にその複雑さと奇妙さを増していた。

 過去のタルキールへの旅路、運命の再編、それに伴った歴史の改竄と、変わり果てた人々との再会――他のプレインズウォーカーですら巡り会ったことの無いであろう不思議な出来事を、サルカンはあの旅の中でいくつも体感していた。

 

 サルカンが語る荒唐無稽かつ不可思議な物語に、馬岱は静かに耳を傾けていた。時折聞き慣れない言葉や単語に質問を挟む事はあったが、それでも彼の話を馬鹿らしいと一蹴する事も、狂っていると断じる事も決してなかった。

 

「別の次元かぁ……」やがて物語を一通りを聞き終えた馬岱がしみじみと呟いた。彼女の顔色には異世界への強い憧憬と羨望がありありと含まれていた。「そんなものがあるなんて、今まで考えたこともなかったなぁ……」

 

「俺を疑わないのか?」逆に驚いたようにサルカンが尋ねた。今まで話を聞かせた人間の大半は、この手の話には懐疑的な反応を見せるのが常だった。

 

「さっきも言ったけど、おじさまの言うことだし、たんぽぽは信じるよ」あっけらかんとして馬岱は答えた。そこには疑惑や侮蔑といった感情は微塵も見当たらなかった。「おじさまが嘘付くような人じゃないって知ってるし、それにおじさまってさ、どこか他の皆とは違うなってずっと感じてたんだ。どこか人と違う所を見てる雰囲気が特にさ」

 

「……気付いていたのか」

 

「本当に何となくだけどね。でも正直に話してくれて、たんぽぽは嬉しいよ。これでやっとおじさまのこと、全部信じられるかな」そう言った後、彼女は不意に真剣な眼差しを向けた。「ねえ、たんぽぽもいつか別の次元に行ったりできるかな?」

 

 どう答えるかしばらく悩んだが、やがてサルカンはかぶりを振った。「分からない。何人か他のプレインズウォーカーを知っているが、その数は決して多くはない。それに素質があるからと言って、必ずしも全員がそうなれるわけでもないんだ。かつて知り合いにも一人、その才能を持っている者がいたが、彼女はそれが目覚める前に戦いで命を落としてしまった」

 

 彼女の期待を削ぐのは偲びなかったが、それが動かぬ事実だった。プレインズウォーカーになれるのは幸運にも――あるいは不運にも――その要素を持って生まれついた者だけであり、そして灯と呼ばれるその要素を強い衝撃によって覚醒させた者だけだった。

 

《チャンドラの灯の目覚め》http://imgur.com/a/9d73W

 

「……そっか、やっぱり誰でもなれるって訳じゃないんだね」馬岱は落胆したように呟いた。「いつかおじさまと一緒に色んな世界を旅できたらいいなって思ったんだけど、それだとちょっと無理かな」

 

 サルカンは何か慰めの言葉をかけようとしたが、結局それは音として口から出ることはなかった。

 

「話してくれてありがとう。もう時間も経ったし、今度はたんぽぽが見張り番をするよ。おじさまはしばらく休んでて」

 

 馬岱の言葉に彼は頷くと、沈黙から逃れるように体を横にした。長く喋っていたせいか、彼の意識は目を瞑ると同時に溶けるような深い眠りへと落ちていった。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 夜が明けたのを見計らって、二人は再び平原の中を進み出た。相変わらず周囲の景色は全く変化しなかったが、それでも春先の心地よい風と暖かな日差しは、疲れが溜まり始めていた二人の心と体をいくらか癒してみせた。

 

「もう少し進んだ辺りに羌族の小さな村があるからさ、今日はそこで休ませてもらおうよ」昼食を含めた二回目の休憩を挟んだ時、馬岱がそう提案してきた。

 

 サルカンもその考えには賛成だった。野宿でも問題は無かったが、屋根のある寝床にありつけるならばそれに越したことはない。

 食事と休憩を済ませてから更に数刻ほど馬を走らせ、再び太陽が大地を茜色に染め始めた頃、ついにサルカンと馬岱は平地の向こうに昇る一本の煙を見つけた。

 

「ほらあそこ。煙が立ってるでしょ? 村まであともう少しだよ」彼方の空に立ち上る煙を見た馬岱がはしゃぐようにそう言った。

 

 しかしサルカンは目を細めると、何かを確かめるようにじっと煙を凝視する。朦々と登るその黒煙には、どこか違和感があった。

 

 ――あの煙を俺は知っている。あれは食事を作る為に昇ったものではない。あれに似たものを戦いの中で幾度となく見てきた。あの煙は……。

 

「蒲公英、村には行かない方がいい」突如サルカンが忠告するようにそう告げた。

 

 馬岱が驚いたように聞き返す。「え、なんで? 急にどうしたの?」

 

「煙がおかしい。あれは食事のためのものには見えない」サルカンは黒煙を指さして言った。「あれは何か別の物が燃えている煙だ。もしかしたら、村で何かあったのかもしれない」

 

 言われた馬岱は再び煙を見つめた。「……確かに。言われて見ればなんか変かも」彼女は馬を止めると、サルカンに向かって強く言い放った。「でも何かあったのなら余計に見に行くべきだよ。もし村の人が困ってるのなら助けてあげなきゃ」

 

 緊迫と興奮の面持ちを見せる馬岱の顔をサルカンが見つめる。

 例えもう一度言葉を変えて止めた所で、彼女は恐らく一人でも村へと向かって行くだろう。ならば万が一の事に備え、自分もついて行った方が安全だ。彼女に危険に遭うことだけは極力避けなければ。

 

「……分かった。だが気をつけろ。俺が危険だと判断したら、すぐにその場を離れるぞ」

 

 彼女は頷き、二人はそれぞれの愛馬を煙の方へと向けると、煙が上る方角へと馬を走らせた。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 煙の根本にあった村は、目を背けたくなるほどの地獄と化していた。

 質素な造りの家屋は見る影もなく徹底的に破壊され、周囲では老若男女関係なく住人たちがその凄惨な最後を晒している。立ち登っていた黒煙の正体は火矢を打ち込まれ、燃え殻となり果てた建物の残骸だった。

 

《廃集落/Corrupted Crossroads》http://imgur.com/a/IIb2W

 

「酷い……」廃墟と化した村を見つめながら馬岱が呆然と呟いた。その声は小さかったが、強い怒りと悲しみに震えていた。「誰がこんな事を……」

 

 彼女が惨劇の場で立ち尽くす中、サルカンはその退廃的な光景にかつての暮らしを思い返していた。

 

 荒廃、殺戮、崩壊した村――かつて見慣れた光景。生き残る為に自らの手で生み出してきたもの。それが今になって自分の目の前に戻ってきた。

 マルドゥの戦士として戦いと略奪に従事していた日々が脳裏を駆け巡る――その虚しさと不毛さに嫌気が差して氏族を出ていった筈の自分が、まさか再びこのような光景を目の前にすることになるとは思ってもみなかった。

 

「どの次元でも人間のやることは変わらないな……」

 

 自らを嘲るように彼がそう呟いたその時、やや遠くの方から馬岱の緊迫した声が聞こえた。

 

「おじさま!!」

 

 姿を探すと、少し離れた所に崩れた土蔵のような建物と仰向けに倒れた小さな人影を見つけた。彼女はその隣に屈み込んでいた。

 

「子供か」服装や体格からサルカンは瞬時にそう判断した。「生きてるのか?」

 

「そうみたい」かすかに上下する胸を確認した馬岱が答えた。「おじさまは他に生き残った人がいないかどうか見てきて。私はこの子を見てるから」

 

 サルカンは頷くとその場を離れ、まだ残っているかもしれない生存者を求めて村の中を巡り歩いた。

 崩れた家の中、梁と柱だけが残った燃えさしの小屋、瓦礫でできた小山の隙間――ありとあらゆる場所をくまなく探し、僅かでも息のあるものが居ないか探し回る。

 だがしかし、どこをどう見渡しても見つかるのは悲惨な最後を迎えた者たちばかりで、命を宿した人間が見つかる事は一向になかった。

 

 念のため村の中を更に二回りほど巡り、生き残りが誰もいないことを確認すると、サルカンは報告のために馬岱の元へと戻った。

 

「あ、おじさま」彼の気配に気づいた馬岱が顔を上げた。「どうだった?」

 

 サルカンはかぶりを振った。「他の生き残りは一人も見つからなかった。恐らく助かったのはその子だけだろう」

 

「そっか……」無情な事実に馬岱は悲嘆の表情を浮かべるが、いつまでもそうしても居られないと、すぐに元に戻して言った。「この子は大丈夫。調べたけど大きな怪我とかしてないし、しばらく休ませておけば目が覚めると思う」

 

「なら今日はここで休むとしよう。その子供からここで何があったのか聞かないといけないからな」

 

 サルカンの提案に馬岱は一も二もなく頷いた。彼女も彼と同じ意見のようだった。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 辛うじて原形を留めていた小屋を見つけ、そこに馬たちを繋ぎ止めると、馬岱は野営の準備に取り掛かり、サルカンは村人たちの埋葬に着手した。

 村人の遺体はどれも酷いものばかりだった。負傷で手足や頭部を失った者だけでなく、何人かの女子供はまるで玩具のように弄ばれ、壊されていた。サルカンもかつて多くの戦場やその跡地を見てきたが、これほど凄惨なものは数える程しか見たことがなかった。

 サルカンは村人たちを可能な限り丁寧な形で埋葬すると、彼らの為に僅かな祈りを捧げた。他に天使や癒し手のような存在が居れば何か他にもできたのかも知れなかったが、今の彼にできることはそれくらいしかなかった。

 

 村にたどり着いたのが夕方だったこともあり、空が暗くなるまでに埋葬できたのは僅かに十人程度だった。サルカンは一度作業の手を休めると、彼らに燃え残っていた筵を掛け、馬岱の所へと戻った。

 

「あ、おじさま」

 

 半壊した家の中に彼女は居た。見れば家具や道具こそあちこち派手に壊されてはいるが、竈をはじめとした設備はある程度生き残っており、彼女は周りの家から無事だった調理道具やら家具やら食材やらをかき集めて夕食を作っているようだった。

 

 サルカンは傷だらけの椅子を手元に引き寄せると、もたれかかるように腰掛けた。「何人かの埋葬を済ませたが、いかんせん数が多すぎる。全員を弔うには明日一杯はかかるだろうな」

 

「明日はたんぽぽも手伝うよ。それが終わったら急いで羌族の所に行こう。この村の事を一刻も早く伝えないと」竈の上の鍋をかき回しながら馬岱が言う。

 

 そこでふと、サルカンは馬岱が保護したあの子供のことを思い出した。「ところで、あの子供はどうした?」

 

「まだ寝たままだよ。今は奥の部屋で休ませてる」馬岱は家の奥を指した。「もう少しでご飯も出来上がるから、そしたらあの子も起こしてあげようと思って」

 

「……そうだな」

 

 あの子供が目を覚ましたら、自分たちを含めた様々な事情を説明しなければならないだろう。当然あの目を覆いたくなるような村の惨状と住人たちの末路も。そう考えると、さしものサルカンも気が重くなった。

 

 そうこうしている内に鍋の中から濃厚な肉の匂いが漂い始めてきた。城から持った干し肉と麦を湯で戻した特製スープである。

 

「できたよ。それじゃあ、あの子を起こしてくるね」言うや否や馬岱は奥の部屋へと足を運び、御座の上に寝かせていた子供の体を揺さぶった。

 

「起きて。ほら起きてってば」

 

「ん……ううん……?」

 

 刺激を受けた瞼は一度強く絞られた後にゆっくりと開き、中から透き通った鳶色の目が姿を現した。しかしその瞳はまだ自分の置かれた状況を完全に理解しては居ないようで、ぼんやりとあたりの景色に視線を彷徨わせるばかりだった。

 

「あ、気が付いた?」子供が怯えてしまわぬよう、馬岱が努めて優しげな声で呼びかけた。「大丈夫? 何か気分が悪いとか無い?」

 

「う、うああああああああ!?」

 

 瞬間、子供は驚いたように目を見開いて立ち上がると一目散に背を向け、家の入口から勢いよく飛び出した。どうやら馬岱を村を襲った者と勘違いしているようだった。

 

「あ、待って!逃げないで!」逃げ出す子供の後をすぐさま馬岱が追いかけ、その体に抱きついて動きを封じる。「大丈夫!ここにはもう怖いものはいないから!」

 

「放せ!!! 放せってば!!」

 

 馬岱の制止の声も聞かず、子供はしばらくの間狂ったように暴れ回っていたが、その状態が長く続くことはなく、やがて疲れ果てて動きが弛めると、ようやく彼は自分が捕まっているわけではないと理解した。

 

 子供はどうやら少年のようだった。その怯えと戸惑いの混じった表情や体つきからして、あまり活発な性格ではないのだろう。二人は自分たちがここから登る煙を見てやってきた旅人であること、そして村の唯一の生き残りとして彼を保護した事を説明すると、安堵の息を漏らした。

 

「……ありがとう。おじちゃん、おねえちゃん」状況を理解した少年は申し訳なさそうに頭を下げた。「さっきはごめんなさい。ぼく何がなんだかわかんなくって……」

 

「大丈夫大丈夫。気にしてないから」馬岱がスープの入った椀を少年に手渡しながら尋ねた。「君、名前はなんて言うの?」

 

「ぼくは李門。でも村の皆は阿門って呼ぶから、二人もそう呼んでよ」椀を受け取った少年――阿門はそう答えると、受け取ったスープを一口啜り、しばらくして感嘆の声を上げた。「……おいしい」

 

「でしょ? 今日のは特に自信作なんだよ。あ、おかわり入れてあげるね」馬岱の顔に笑みが咲かせ、早速空になった阿門の椀にスープのおかわりを盛りつける。「何があったかは後でゆっくり聞くからさ、今は何も考えずに食べよう? お腹が一杯になれば少しは元気も出てくるよ」

 

 彼女の言葉に阿門は力なく頷くと、再び盛りつけられたスープを己の口へと運んだ。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 食事を終え、人心地がついた三人は居場所を奥の部屋へと移し、そこで改めて質問の場を設けることにした。

 

「教えてくれ阿門。この村で一体何が起こったんだ?」

 

 俯く阿門に向かって、ゆっくりとサルカンが言葉を切り出した。その疑問は二人が村に辿り着いていた時からずっと持ち続けていたが、今の今まで聞けずにいたものだった。

 

「……あいつらが……あいつらが皆を殺したんだ!!」押さえ切れぬ怒りで肩を震わせながら、阿門は今にも掴みかかるような勢いで答えた。

 

「……あいつらって?」殺気にも似た彼の怒りに若干気圧されながらも、馬岱が先を促す。

 

「役人だよ! あいつら、いきなりやって来て、村に叛乱の疑いが掛かってるなんて言いがかりをつけてきたんだ! そんな事は無いって皆で説明したけど、ぜんぜん信じてくれなくて……そしたらあいつら、今度はぼくみたいな子供や女の人を集めて見せしめにしたんだ!」

 

「ひどい……!」想像を絶する様な役人の蛮行に、馬岱が吐き捨てるように吠えた。「許せない! 役人がそんな事をするなんて!」

 

 阿門の話を聞きながら、サルカンは自分がこの村やってきたばかりの時の光景を思い返した。あのむせるような血の臭いと殺戮と破壊の景色。思わず目を背けてしまいたくなるような地獄の映像を、役人たちはただ疑わしいと言う理由だけで作り出したというのか。

 

 胸に沸いた不快感を押し隠し、サルカンは再び質問を投げかけた。「だが、それなら君はどうやってその場を助かったんだ?」

 

「ぼくは蔵の下にある物入れに隠れてて、奴らには見つからなかったんだ」悲しみの表情をまとい、阿門は顔を背けた。「だけどその代わりに父ちゃんと母ちゃんが……」

 

「すまない。辛いことを聞いてしまったな……阿門、最後にこれだけ教えてくれ。その役人たちの名前や顔を、君は一つでも見たり聞いたりしたか?」

 

「うん。聞いたよ。忘れるもんか」阿門は頷いた。「一番偉そうな奴は程球(テイキュウ)って名乗ってた。耿鄙(コウヒ)ってやつの命令で来たって。顔も少しだけど、ちゃんと見たからはっきり覚えてるよ」

 

「え!? 耿鄙ってあの耿鄙!?」その名を聞いた途端、隣の馬岱が驚いたように目を剥いた。

 

 サルカンの視線が馬岱へと移った。「知ってるのか?」

 

「知ってるなんてもんじゃないよ! そいつ、涼州の刺史だよ!」

 

 声を張り上げ、馬岱が言った。刺史とは州全体を監督する役人の事であり、隴西郡太守である馬騰の上司にあたる役職でもあった。

 

「おばさまの所に何度か査察に来てたから、たんぽぽもそいつのことは覚えてるよ。……確かに前から漢人以外の事を良く思ってなかったけど、まさかこんな事までやるなんて……こんなんじゃ戦争になったっておかしくない。ううん……ならないはずがないよ!」馬岱は立ち上がると、居ても立っても居られないとばかりに強く言い放った。「急いで隴西に戻っておばさまにこの事を伝えなきゃ! おばさまだって半分は羌族なんだし、もしかしたら耿鄙のやつが手を出してくるかもしれないよ!」

 

「落ち着け。この村に阿門一人を置いていく訳にはいかない。それにいま隴西に戻れば、途中でそいつらと鉢合わせする可能性だってある」

 

「あ、そっか……せっかく助かったのにまたそいつらに出会っちゃったら、今度こそ何されるか分かんないもんね……」

 

「そういう事だ。――阿門。俺たちは村人の弔いが終わったら、すぐに羌の里に向かう。悪いが、君にも一緒に付いてきて貰うぞ」

 

 阿門は真っ直ぐサルカンの視線を受け止め、首を縦に動かした。「うん。おじさんたちと一緒なら、ぼくは平気だよ」そして信頼の眼差しを二人に向けると穏やかな顔で言った。「二人とも助けてくれて、本当にありがとう」

 

 しばらくの間、サルカンは彼の言葉をじっと胸の内で噛みしめていた。

 ありがとう――この次元の以外でそんな風に誰かに感謝の言葉をかけられたのは、一体何年前の事だっただろうか。外史に来て、初めてサルカンは人間としての充実感を得られているような気がした。

 

「いいんだ」胸の中で暖かく広がる感情を感じながらサルカンは立ち上がった。「二人は先に休んでおけ。俺は少し外で見回りをしてくる」そして出入り口に向かって踵を返すと、そのまま家のへと進み出た。

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 夜の村は夕方以上に静寂と死の匂いに満ちていた。未だに村の中には弔い切れていない死体が点在し、あちらこちらで無残な最期を披露している。雲一つない夜空に昇った青白い月だけがそんな彼らの姿を見下ろしていた。

 

 村の中を一通り見て回ったサルカンは入口近くの瓦礫に腰掛けると、昨日の夜と同じように懐の手紙を取り出し、それをじっと見つめた。

 

 羌族の村を襲った涼州の役人たちと、羌族に手紙を届けるように自分に頼んだ馬騰――果たしてこの二つには、何の関係もないのだろうか?

 自分が持っている情報は決して多くない。もし手がかりがあるとすれば、それはこの手紙だけだ。

 だがもしこれを開けてしまえば、自分の信用は脆くも崩れ去ってしまうだろう。

 不意にかつて自分が追いかけていた屍術師の女の事を思い出した。彼女のような力を持っていれば、死した村人たちから何か聞き出すことができただろう。あるいは幻視を使うことができれば、何が起きたか直接見ることが出来ただろう。だが自分にはそのどちらの使うことはできなかった。

 

 一体何が起きたのだ? そして役人たちは、馬騰は一体何を考えているのだ?

 

 サルカンの胸の内に様々な疑問が浮かんでは消えていく。だが残念なことに、その疑問に答えられるものは誰一人としてこの場に存在してはいなかった。

 





お久しぶりの投稿になってしまいました。
次回はもうちょっと頑張って更新していきたいと思います。
(サルカンさんが妙に白っぽくなってしまったのはご愛敬ということで)


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『外史戦記』のメカニズム

この記事は『プレインズウォーカーのための『外史』案内』と同じく、本作の舞台となる外史次元の英雄たちの一部を紹介いたします。
 あくまで本作の雰囲気を掴むフレーバー的なものですので、興味のない方は読まなくても結構です。

また、この記事にはMagic: the Gatheringの知識は多く登場します。それらが苦手な方はご注意くださいませ。


 本作には様々な場所に住まう英雄が、次元の覇権を求めて戦いを繰り広げる世界『外史』が登場します。今日はそんな英雄たちが持つ特有のメカニズムや能力を、ほんの一部ですがご紹介していきましょう。彼らのメカニズムは自らが受け持つ2つの色と強く結びついており、どれもその特性も色濃く受け継いでいます。

 

共戦(きょうせん)

 

蜀漢(白緑の英雄)の特色となるメカニズムは共戦です。共戦は誘発型能力です。

 

 蜀漢の精鋭

 https://imgur.com/a/EuaaXAJ

 

仲間と共に世界を変えようとする蜀漢は、常に他の仲間と共に戦い、彼らに己の力を分け与えます。共戦能力はあなたのクリーチャー2体を1つの組にすると共に、組になったクリーチャーたちに+1/+1カウンターを乗せて強化します――鋭い皆さんならば、この能力にどこか見覚えがあるのではないでしょうか? そう、『結魂』です。結魂はイニストラードの人間やスピリットが持つ能力でしたが、この世界では共に戦う仲間の証として蜀の英雄が持つ能力になります。

また白や緑は+1/+1カウンターを使ったギミックを得意としており、共線の強さをサポートしてくれることでしょう。

 

 

留置(りゅうち)

 

 朝廷(青白の英雄)の特色となるメカニズムは留置です。これはラヴニカへの回帰ブロックからの再録であり、相手のパーマネントの行動を制限するキーワード処理です。

 

 朝廷の司法官

 http://imgur.com/a/nqZb1

 

帝に仕えるに彼らは自らの権力と知性を持って敵対する者たちを無力化し、自らの盤石さを強めます。留置はその権力を象徴する能力であり、同時にあなたにとって邪魔な存在を留置することで、ゲームを有利に進めることができます。

 

謀略(ぼうりゃく)

 

 曹魏(黒青の英雄)の特色となるメカニズムは謀略です。謀略は能力語であり、したがってルール上の意味を持ちませんが『そのターン中にプレイヤーが手札を捨てたかどうかを見る能力』を強調するために使われます。

 

 曹魏の暗殺者

 http://imgur.com/a/6cquG

 

曹魏は持ち前の狡猾さと残忍さで以て敵を蹴散らし、自らの信じる覇道を突き進みます。

彼らの持つ謀略能力はそれぞれ異なりますが、いずれかのプレイヤーが手札を捨てているかどうかを参照するという点で共通しています。手札を捨てる必要があるプレイヤーは、あなたでも対戦相手でもどちらでもよく、そして青と黒は自分から手札を捨てる事も、相手に手札を捨てさせる事も得意とする色の組み合わせです。

謀略を持つインスタントおよびソーサリーは、解決される際にプレイヤーが手札を捨てているかどうかをチェックします。謀略能力に「代わりに」と書かれている場合は、その効果はインスタントまたはソーサリーが持つ通常の効果の一部または全部を置き換えます。「代わりに」と書かれていない場合、謀略能力の効果はその呪文が持つ通常の効果に加えて発生します。

 

 

奪取(だっしゅ)

 

黄巾(赤黒の英雄)の特色となるメカニズムは奪取です。奪取も謀略と同じく能力語でルール上の意味はありませんが、『対戦相手がコントロールするパーマネントがこのターン中に戦場を離れたかどうか』を参照する能力であることを示します。

 

 黄巾の略奪者

 http://imgur.com/a/sIaKX

 

絶え間ない餓えと怒りを内包している黄巾の戦士たちは、他のあらゆる組織や英雄から資源や財産を奪い取り、それを活用します。奪取能力には様々な種類の効果があるので、よく読んでみましょう。

奪取能力が参照するのは現在のターン全体であり、「対戦相手がコントロールするパーマネントが戦場を離れたかどうか」です。パーマネントが戦場を離れて置かれた先や、そのパーマネントのオーナーは関係ありません。敵がコントロールするクリーチャーが死亡すればそれを奪い、アーティファクトを破壊すればそれを奪取します。 餓えと怒りに身を任せた黄巾の人々は、最早止める事のできない蝗害のような状態なのです。

 

 

増援(ぞうえん)

 

 西涼(緑赤の英雄)の特色となるメカニズムは増援です。増援はキーワード行動であり、必ず数字が付記されています。

 

 羌族の剣歯虎

 https://imgur.com/a/5djIWQ7

 

 増援トークン

 https://imgur.com/a/C21uXZ9

 

多種多様な部族が生きる西涼では、部族同士が協力していくことが必要不可欠です。増援はそんな彼らが結束する様子を再現しています。増援を行うと、あなたの場に速攻を持った1/1の戦士クリーチャー・トークンが新たに現れます。それは速攻を持っているのですぐに攻撃に参加することもできますし、他のクリーチャーと協力して騎馬クリーチャーをブロックするにも役立ちます。彼らをうまく使い、西涼の平和を取り戻しましょう。

 

騎馬(きば)

 

外史次元ではどんな陣営の英雄でも、それぞれ馬や乗り物を用いた機動性のある部隊を持っています。騎馬はポータル三国志に登場した馬術の改良版であり、敵のブロックをすり抜けることができる常在型のキーワード能力です。

 

 西涼の騎馬兵

 http://imgur.com/a/SfPI4

 

 騎馬のルールは基本的には飛行や馬術と同じで、同じ能力を持っているもの、あるいは特例としてブロック可能になるクリーチャー以外の攻撃をすり抜けます。

 しかし騎馬の違う所は威迫のように複数のクリーチャーが出てくる場合に限り、簡単にブロックを許してしまう点です。

 これは外史次元における騎馬の普遍性と、それに対応する術を次元全体が学んでいることを意味しています。それ故に互いにどのようにして騎馬クリーチャーを通すか、または相手の騎馬を止めるためにどういう手を取るべきなのか、というプレイにも一役買ってくれる事でしょう。

 

 いかがでしたでしょうか? 強力で個性ある英雄たちと共に、外史の世界を戦い抜けましょう!

 




今回もまた本編とはあんまり関係ない内容でごめんなさい。
こういうの一度やってみたかったんです。


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思惑

西涼に渦巻く戦いと思惑の気配、董卓は混沌を受けて軍を進める。
(※今回から本作品の独自設定が出てきます。ご注意ください)


 行軍

 

 軒車に取り付けられた窓の中から、董卓は眼前に広がる景色を見渡した。

 安全が保たれた街道、大地を緑に染める春の若草、田畑で仕事をこなす人々――ここだけを切り取れば、世界はとても平穏であり、これから起こるであろう血生臭い出来事とはとても無縁だった。この光景がいつまでも続けばどんなにいいだろうか。

 

 洛陽を出立して既に数か月。総勢七万の討伐軍はついに旧都長安を越え、目的地である涼州を目前に捉えた。あと数刻もすれば味方が待つ隴県へとたどり着き、そして数週間後には反乱軍の根城である金城郡での戦いが待っている。平穏にあふれた今の景色の中でさえ、血潮と戦の気配がどことなく漂ってくるようだった。

 

「西涼の叛乱……これ以上大きくなる前に何とかしなきゃ……」胸の内に溜め込んだ想いを董卓は大きな吐息と共に絞り出した。その思いは彼女の真意であり、同時に揺るぎない決意でもあった。

 

 有り体に言って、董卓は戦いが嫌いだった。およそ武器を持つに似つかわしくない彼女の容姿もさることながら、大切な人たちが傷付き、苦悶のうちに死んでいくなど、とても認められるものではなかった。

 故に彼女は政治の道を選んだ。誇れる武を持たない自分が、少しでも世界を良いと思える方向へ変えられるように。

 結論としてその選択は正しかった。今はまだ大きな結果は残せてはいないものの、それでもこの道の先に自分が思い描く世界があるのだという確信を彼女は持っていた。

 

「月(ゆえ)、大丈夫?」すぐ隣から柔らかな不安の渦と声。見ると、董卓の親友でもあり頼れる軍師でもある賈駆が心配そうに自分の顔を見つめていた。「顔色悪いよ? 無理してるなら、やっぱり月だけでも長安に戻った方が……」

 

「ううん。大丈夫だよ。詠ちゃん」董卓は静かにかぶりを振った。彼女の優しさはいつも自分を勇気付けてくれる好ましいものだったが、今この瞬間だけは煩わしいもののように感じた。「これは私のお仕事だから。それにこれはどうしても私がやらなきゃいけない事なの」

 

 まるで稚児を持つ母親のように、彼女は自分を心配し過ぎる傾向がある。そう短くない付き合いの中で董卓はそれを肌で感じ取っていた。そしてその中に自分に対する淡い恋慕のような感情があることも。

 彼女が持つ感情が何であれ、それは時に重石のように自分を束縛し、自由を奪う時がある。それが董卓には少しだけ厄介だった。

 

「そっか……」何か言葉を続けようとしていた賈駆だったが、それは口を何度か開くだけで言葉にすることなく終わり、そしてどこかあきらめるような声音で改めて告げた。「……ならボクにできる事なら何でもするから、遠慮なく頼って。月のためなら、ボクはなんだって協力するよ」

 

 董卓は親友から滲み出る感情を嗅ぎ取った。眩しいほど暖かな信頼、親愛、献身。それらが混ざりあった優しくも儚い感情の波。

 嬉しい、と思うと同時に悲しくなった。それはこんな浅ましい自分に向けられていい感情(もの)なのだろうかと。彼女が暖かな感情を自分に向けるたびに、人の心を覗けてしまう自分が余計に虚しく、薄汚いものように見えて仕方がなかった。

 

「ありがとう、詠ちゃん」彼女は頷き、目的地に向かって真っ直ぐ視線を伸ばすと、その先に待っているであろう戦いと自分に科せられたもう一つの試練について思いを馳せた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 思惑

 

 半年前

 

 厳かな趣を持つ宮廷の廊下は、早朝という時間も相まって実に静かだった。動き回る人間は自分達の他には女中と衛兵しかおらず、その数すらもまばらで、閑散としていた。

 見回りや雑用を受け持っている彼らも、こんな時間に登庁してくる者が居るとは思っていなかったのだろう。すれ違う度に人々から物珍しげな視線と詮索の感情を遠慮なく注がれ、それが董卓には少しだけ気恥ずかしかった。

 

「しかしこんな時間に呼び出すなんて、一体何のつもりなのかしら?」隣を歩いていた賈駆がぽつりとぼやいた。欠伸を噛み殺しながら眠たげに眼を擦る彼女には、致命的なまでに朝が弱いという欠点があった。「面倒な事にならなければいいけど……ふぁああ……」

 

「もう。詠ちゃんダメだよ。そんなこと言っちゃ。大切な御用かもしれないのに」たしなめるように董卓が小声で囁いた。宮中には役人や宦官と言った人間たちとは別に、密かに出入りする間者や密使が数え切れないほど犇めいており、どんな発言を耳に入れられているか分からない。用心に用心を重ねておくに越したことはなかった。

 

「それは分かってるけど、流石に時間ってものを考えて欲しいわ。まだ日も出てない時間じゃない」再び口から出そうになったを欠伸を今度はどうにか抑えて賈駆は言う。

 

 彼女たちが朝早くからここにやってきた原因――それは昨晩、突然訊ねて来た使者のせいだった。彼は董卓に手紙を渡し、その中には『明朝、速やかに登庁すべし』という簡素な内容と、自分の上司とも師とも言える人物の名前が記されていた。

 彼が自分を呼びつける理由などまるで心当たりがなかったが、極秘とはいえ正式な要請である以上、拒む訳にもいかない。かくして彼女はこのような朝早くから宮廷に足を運んでいるという訳だった。

 

 そうこう話し込んでいるうちに、二人はついに目的の人物が待つ部屋の前までたどり着いた。豪奢な扉の前には護衛が二人。いずれも屈強な体躯と剣呑な気配を持つ一門の武人である。一介の宦官にこれほどまで厳重な警備が置かれているという事実だけでも、彼が持っている力の大きさが伝わってくるようだった。

 

「それじゃあ行ってくるね」董卓は友人に向かって言った。中に入ることを許されているのは彼女一人だけだった。

 

「うん。頑張ってね、月」賈駆はそう答えると、自らに与えられた職務を全うするべく、己の執務室へと歩んでいく。

 

 その背中が見えなくなるまで見送ると、彼女は護衛に手紙を差し出して扉を叩き、中で待ち構えて居るであろう人物に己の名を告げた。「張中常侍様。中郎将が董卓、ただいま参りました」

 

 数秒の後、扉越しから年老いた男の返答が聞こえた。「――入れ」

 

「失礼いたします」

 

 扉を開くと、果たしてそこで待っていたのは宦官の服を身につけた老年の男と武人然とした壮年の男だった。

 

「朝早くからご苦労だったな。董中郎将」卓についていた老年の男が厳かにそう告げた。彼こそ帝都・洛陽を実質的に支配する中常侍の長、張譲に他ならなかった。

 

「いえそのような……」董卓は首を振り、部屋に居るもう一つの存在を見つめた。彼がこの場にいるのは、彼女にとって全くの予想外の出来事であった。「あの、張司空様も中常侍様からお呼びを?」

 

 司空の座に就く張温とは以前に一度、小さな諍いを起こしたことがあった。軍事的かつ政治的な意見の対立。それはすぐに解決したが、その日を境に董卓は張温に対して強い苦手意識を持っていた。もっとも、相手はそう思っていないようだが。

 

「そうだ。儂が呼んだ」張譲は小さく顎を引き、彼に視線と言葉を投げかけた。「司空も忙しい中、わざわざ来て貰い感謝する。なにぶん儂も忙しい身だ。個人的に取れる時間といえば、このくらいの時分しかないのだ」

 

「何ほどの事も」放たれる雰囲気と同様、重く響く声が男の口から零れ出た。「それで、某らを呼び出された用向きとは?」

 

「慌てるな。茶の一杯も出さぬうちから話を始めるなど早急に過ぎるぞ。中郎将、そなたも掛けるがよい。朝早くに来て貰った礼だ。儂が密かに仕入れたとっておきの一杯を馳走しよう」

 

 促されるまま空いている席に着くと、世話役と思われる一人の少年が急須と湯飲みを持って現れ、全員に暖かな茶を淹れて回った。澄んだ琥珀色と柔らかな花の香り。差し出されたそれを試しに口に含んでみると、驚くほど爽やかな渋みと上品な味わいが口の中に広がった。

 

「おいしい……」董卓は思わず感嘆の声を上げた。これほど美味い茶を飲んだのは生まれて初めてだった。

 

「であろう?」にやり、という音が聞こえてきそうなほど張譲は大きく笑みを作った。もう老境に差し掛かる男の者とは思えぬ、なんとも子供じみた笑み。彼はいつも茶に対してはだけは、まるで童心に帰ったかのように無邪気になるのだった。

 

 それからいくつかたわいもない会話を交わした後、張譲がついに本題を切り出した。

 

「近頃、西涼で乱の気配があると言う話を二人は知っているか?」

 

「西涼……ですか?」董卓が聞き返した。隴西郡で生まれ育った彼女にとってそこはある意味、馴染みの地でもあった。「青州や兗州の黄巾ではなく?」

 

「そう。西涼だ」茶を一口含んでから張譲は言葉を続けた。「涼州刺史からの報告では、西涼に住まう異民族どもが結託して叛逆の機会を伺っているらしい。その数は多く、すでに三万以上の兵員が集まっているという話だ」

 

 彼の言葉に董卓は息を呑んだ。人生の大半を馬と戦いに費やす西涼の人間は幼い子供でさえも屈強な戦士となり、持ち前の機動力と苛烈さで敵を圧倒する。それが三万。たやすく集められる数ではない。その情報がもし本当ならば、西涼からやってくる暴力の規模とその被害は自分の想像を遙かに越えるだろう。想像しただけでも彼女の胸が震えた。

 

「黄巾の軍団に勝るとも劣らぬ数ですな。そのうえ西涼の戦士は皆、精強で手強い。討伐は厳しいものとなる」僅かな緊張と共に張温は小さく眉を顰めた。彼もまた、それがどういう意味を持っているのか理解しているようだった。

 

「全くだ。刺史もそれで手こずっているらしく、連日に渡って援軍要請が洛陽に届けられている。我らとしてもこれには一刻も早く対応しなければならない」

 

「つまり我らに援軍として彼らを救いに行けと」

 

 張譲は大きく頷いた。「司空は話が早くて助かる。事態を重く見られた陛下もすでに勅をお出しになった。これはそなたらが負うべき急務であり、正式な任務でもある」

 

「承知いたしました。この張温、まだまだ未熟な身なれど、ご期待に添えるよう誠心誠意努力する所存でございまする」

 

「期待しているぞ。そして董中郎将。そなたには張司空……いや、車騎将軍の補佐役を担って貰いたい」張譲の重苦しい宣言と視線が董卓を射抜いた。「そなたは確か涼州の生まれであったな。彼奴等については他の者よりも何かと詳しかろう。その知識でもって将軍や刺史を存分に手助けしてやって欲しい」

 

 董卓は不意に張譲から目をそらした。何という事を言うのだろう。自分に西涼の人を討てなどと。彼は自分がなぜ政治の道を歩んでいるのか、なぜ彼を師として仰ぎ自らの秘密を明かしたのか、全て知っているというのに。

 咄嗟に彼女はそのことを言葉に乗せて訴えようとした。だがそれはできなかった。自らの隣には張温がおり、彼はその手の話に最も否定的な意見の持ち主だった。もし彼の目の前で自分の正体を明かせば、彼は間違いなく自分を滅ぼそうとするだろう。それだけは何としても避けなくてはならない。

 

「……若輩者ですが、精一杯務めさせていただきます」董卓は苦々しくもそう答え、次いで彼女は彼に尋ね返した。「時に中常侍様。差し出がましい事だとは重々承知しておりますが、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 

 張譲はうなずいた。「申せ」

 

「既に陛下が詔勅をお出しになられたのであれば、わざわざ中常侍様がここで話をする必要も無かった筈。なぜ我らをお呼びになったのですか?」

 

 ぎざぎざとした緊張と若干の不安。どうやらその質問は、彼にとってはある程度予想されたもののようだった。

 

「……よかろう。では今からそなたらを呼んだ本当の所を話すとしよう」張譲は面もちを強ばらせて言った。「先ほど話した刺史の事だ。耿鄙という名の男だが、そなたらはこやつのことを知っておるか?」

 

 董卓は首を振り、次いで隣の張温を見た。彼の表情にはほとんど変化が見られなかったが、どうやら彼も似たような思考のようだった。

 

「であろうな」分かっていたと言わんばかりの顔を張譲は浮かべた。「実はな、儂も知らぬのだ」

 

「……え?」

 

 董卓は咄嗟に彼の言葉の真意を掴み損ねた。今の口ぶりからして、彼は確実にその刺史について何か知っていると思い込んでいた。

 

「いや、知らぬというと語弊があるな。正確に言い表せば、この男の『記録』については十分知っている。どこで生まれ、どこで育ち、どのような経緯で今の地位に就いているのかはな。だが調べたところ、この男が刺史となる前に交流や面識があったという人間は、儂が調べた限りでは誰一人おらなんだ」

 

 彼の言っていることは実に奇妙だった。記録はあるが他人の記憶には一切残っていない。そんな不気味な人間が当然居る筈もなく、それが意味する所と言えば一つだった。

 

 張温の重たい声が響いた。「つまり、何者かがその名を騙っていると?」

 

「分からぬ。儂とて全知全能な訳ではない。偶然その者を見つけられなかっただけかもしれぬし、あるいはお主の言っているように何者かそれを騙っているのかもしれぬ。だが騙りだとしても、この洛陽の記録にそれを生み出せるほどの力のあるものか、それに準ずる人間が関係していると言うことだ」

 

「そのような者が」

 

「それをおぬしらに調べて貰おうというわけだ」張譲の視線が改めて二人を捉えた。「お前達の討伐軍に儂の手の者を何人かつける。好きに使ってよい。耿鄙と合流した後、密かに彼奴の正体を探れ。頼めるか?」

 

 話のすべてを聞いてしまった以上、もう自分たちに拒む事は許されないだろう。そして失敗することも。西涼の戦いに勝った上で、男の正体を掴むまでは心休まる時間など決して訪れない。

 だがその分、与えられる報酬もずっと高くなるということも彼女は確信していた。どこまでの地位が用意されるかは分からないが、少なくとも今よりも低いということはない。

 そう信じながら董卓は拱手を以て承諾の意を示した。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 密使

 

 二か月前

 

 自室に届けられた数多くの資料を、董卓は窓から差し込む月明かりを頼りにもう一度目を通した。それは彼女がこの夜に行う最後の仕事だった。

 

 彼女は与えられた期間をすべて費やし、遠征に必要なあらゆる準備を整えた。行軍に必要な糧食や資金は勿論、兵士に支給する武具や非戦闘員に至るまで、大よそ考えうる限り全ての物資や要素を念入りに準備し、その全てに問題ない事を確かめた。あとは戦地である西涼へ向かい、争いの元凶である反乱軍を討滅するだけだった。

 戦を誰よりも嫌っていたはずの自分が、誰よりも熱心に戦の準備を進めるのは奇妙な感覚だったが、それも少しでも余計な戦死者を出さないための努力だと思う事で幾分か気を紛らわすことができた。

 

 もうすぐ戦が始まる。生まれ故郷である涼州の地で。

 

 胸の内に沸いた声をもう一度、董卓は確かめた。それが意味する事実、敵となった西涼の人々を討滅する覚悟、全てに対しもう一度自分に問いかける。

 

 大丈夫だ。自分ならやれる。どちらの戦いも。

 

 董卓の決心は揺るがなかった。故郷の人々と戦いたくないという気持ちが未だに心の底で澱のように残ってはいるものの、それでもやらなければならないという意志は決して揺らいではいなかった。

 

「――董卓様」不意に部屋のどこかから自分を呼ぶ声が聞こえた。

 

 驚愕とも共に彼女は己の部屋をくまなく見渡し、声の持ち主がどこに潜んでいるのかを探った。すると部屋の隅、深い闇溜まりになっている場所から黒い陰影が人の形を纏って彼女の目の前に現れ出た。

 

「貴方は……」

 

 闇の正体を彼女は知っていた。それは張譲からの呼び出し状を届けたあの使者だった。だが一体彼はいつから、そして何処から部屋に入ってきたのだろうか?

 

 人型の闇は董卓の目の前までやってくると拱手の姿勢を取り、恭しく告げた。「李儒と申します。張譲様から今日より董卓様の影として仕えよと」

 

 自分の手のものをつける――仕事を任されたあの日、張譲がそう言っていたのを董卓は思い出した。あの話がようやく動き始めたのだ。「……そうですか」彼女は続いて闇に尋ねた。「耿鄙についてはその後、何か分かりましたか?」

 

「何も」彼はかすかな惨めさと共に首を横に振った。「あれから何人もの間者を送り込みましたが、あの男につきましては未だ何の情報も持ち帰れておりません。にわかに信じられない事ですが」

 

「そうですか……」

 

 あれから何日も経っているのだ、彼らも何かしらの情報を掴んでいるかと一応の期待はしていたが、どうやら耿鄙という人物の砦は想像以上に堅牢であるらしい。

 

「張譲様もやはり、董卓様が持つ『お力』を使う他はないと」絞り出すような苦々しい声で李需がそう告げた。彼が本心からそう言っているのを、董卓は彼自身の心が放つ印象からつぶさに感じ取っていた。

 

 董卓はあえて冷たい口調で聞き返した。「貴方は私の『力』が何なのか知っているのですか?」それは確認と同時に警告だった。

 

 闇は迷わず頷いた。「はい。張譲様から伺いました。あなたが心を読むことのできる『妖憑き』だと。そして貴方が張譲様の占術の弟子であることも」

 

 彼の言葉に董卓は眉を顰めた。妖憑き。生まれながらにして失われた術を行使できる者の異名。人々が忌み嫌う存在の名称。それはこの場ですらあまり聞きたい言葉ではなく、願わくばこの世から消し去ってしまいたいと思っている言葉の一つだった。

 

「どうかこの言葉を使うことをお許しください。私は董卓様の影として全てを捧げるおつもりです。なればこそ、あなたのすべてを理解する必要があったのです」李需は恭しく頭を垂れ、彼女に許しを請うた。

 

 董卓は己のしがらみを振り払うように頭を振った。「……気にしないで下さい。事実ですから」彼の主張は正しかった。影の人間として主を支える以上、彼は自分の主人についてあらゆる事を知っておかなければならない。たとえそれがどんなに禁じられたことであろうとも。そしてそれを裏付けるかのように、彼の思考からは嘘や他意は全く見えなかった。彼は真に信用できる人間だと、彼女の理性が告げていた。

 

「お心遣い感謝致します」彼は言葉を続けた。「それと張譲様より董卓様への言伝を一つ預かっております」

 

「? なんですか?」

 

「『古のものに気を付けよ』とのことです。なんでも、今朝の占いで現れた災いの予兆だと張譲様は仰っていました」

 

 彼女にはその言葉の意味が分からなかったが、師である張譲が警告している以上、それが自分にとって何かしらの意味を持っているのは間違いない。

 

 彼女は頷き言った。「ありがとうございます。肝に銘じておきますね」

 

「それと、私からも一つ意見を具申させていただきます」垂れていた頭を上げ、李儒は真っすぐに董卓の瞳を見て言った。

 

「あなた様は既にお見通しだとかもしれませんが、私はこの耿鄙という人間が恐ろしくて仕方がないのです。記録でしか過去を持たない人間というものが、本当にこの世に存在するとは思ってもおりませんでした。人は誰しも『記録』と『記憶』という二つの過去を持っているものです。人は一人では生きられぬ以上、そのどちらかが完全に欠けるなどという事はあり得ない。ですがこの男にはそれがまるでない……それがたまらなく恐ろしいのです」真剣にそう告げる彼の心の中には、男に対する紛れもない恐れが巣くっていた。「くれぐれもお気をつけ下さい。この耿鄙という男、あるいは本当に人間では無いのかも知れませぬ」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 到着

 

「董卓様。前方に隴の城が見えてきました」御者台に収まっていた部下が振り返って言った。座席から立ち上がると彼の頭の向こう、街道の果てに小さくだが、確かに隴の城壁が映っていた。

 

 董卓は体を乗り出して御者に告げた。「既に将軍が使者を出しているとは思いますが、念のためこちらでも使いの人間を送ってください。続いて周囲に斥候を放って周囲の安全を確保。戦う前から皆さんを危険に晒すわけにはいきません」

 

「はっ!」御者は歯切りの良い返事を返し、軒車の隣で馬を駆っていた別の部下に彼女の指示を伝え、仕事に取りかかるように促した。

 

「いよいよだね。もうすぐ始まるんだ。戦いが」神妙な顔を浮かべ賈駆が言った。

 

 董卓は曖昧に頷いた。彼女が考えている戦いと、自分が行うであろう戦いには多くの食い違いがある事を彼女は知る由もないだろう。だがそれを教えるわけにもいかず、悟られるわけにもいかない。あくまで耿鄙についての件は自分と張温のみで片をつけるべき問題だった。

 

「頑張って少しでも早く戦いが終わるようにしないと。どっちの人だろうと、無駄な血が流れることだけは避けたいしね」

 

 賈駆の言葉に董卓は再び頷いた。その思いだけは彼女と全く同じだった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 合流

 

 隴にたどり着いた討伐軍は補給と共にささやかな休息を甘受し、その間に張温と董卓は、他の将校や軍師たちを連れて城主である耿鄙の元を訪れていた。

 案内された部屋にたどり着くと、そこには巨大な地図や戦場を再現するための駒がおかれた大きな円卓と共に一人の男が静かに腰を下ろしていた。

 

「えー、皆様。この度はようこそおいで下さいました。私が涼州で刺史を務めさせていただいております、耿鄙と申します」男は立ち上がると全員の前でおずおずと名乗りを上げた。

 

 董卓の思わず我が目を疑った。高くも低くもない背丈に薄く蓄えた髭。へらへらとして気の抜けた面。特徴と言えばやや肩幅が広いくらいしか見当たらない凡庸な男――果たしてこれが洛陽の間喋たちを依然として苦しめ続けている正体不明の男なのだろうか? 人を見かけだけで判断してはならないと常々分かってはいても、彼女の目にはとてもそうは見えなかった。

 

 狼狽える彼女とは対照的に、早くも卓に腰を据えた張温が彼の名乗りに対して答えた。「某が車騎将軍の張温でござる。そしてこちらは補佐役を務める――」

 

「中郎将の董卓です……よろしくお願いします」董卓は自分に注目が集まらぬよう、極めて控えめに名乗りを上げた。

 

 それからは将校や軍師たちが各々に自分の名前を告げ、やがてそれらが一巡したところで改めて軍議が始められた。

 

 開口一番、困ったように頬をかきながら耿鄙が言った。「まずは皆さまのご助力に大変感謝いたします。恥を忍んで申しますと、我々だけでは奴らの拠点に牽制をかけるのが精一杯でございまして……」苦笑と共に発せられた彼の言葉は実に弱弱しく、やはり迫力や威信といった要素が欠けていた。

 

「随分と苦戦しているようだが、反乱軍の規模は今どれぐらいなのだ?」少し離れた場所に座っていた一人の若い女軍師が声を上げた。彼の気弱な態度にすでに彼女の言葉も対等であるかのように振舞われている。

 

 耿鄙は頷き、卓上に広げられた地図を指さした。「奴らは現在、金城郡一帯を中心に兵力や物資を蓄えており、今では五万以上の大軍隊となっています」

 

「五万……確かに侮れない数ね……」女軍師の隣に控えていた褐色肌の女将校が難しげに声を上げる。

 

 彼女の声に別の軍師が頷き声を上げた。「だが我々の七万と耿鄙殿の二万、そして後に合流する隴西の二万を合わせれば、こちらの軍勢は十一万だ。決して楽とは言えぬが、数の上では負ける戦ではないだろう」

 

「だが羌の戦士はいずれも機動力のある騎馬隊ばかり。速度による奇襲を受ければ我々の軍もひとたまりもないぞ」更に董卓の近くに座っていた赤髪の女武官が軍師の言葉に異を唱える。

 

 更に彼女の異を受けた賈駆が地図を見ながら指針を示した。「そこは恐らく斥候と地形を利用すれば問題は無いわ。あとはいかに敵を隙を――」

 

 張温と賈駆、そして他の将校や軍師らが今後の行軍について熱心に議論を交わしている間、董卓は決してそれらには混ざらず、代わりに散漫になっているであろう耿鄙の記憶への侵入を試みていた。

 

 他人の記憶に侵入するのは董卓にとっていつでも緊張する瞬間だった。この遠征中も賈駆や御者など身近な人間の思考で密かに訓練を積んではいたが、初めて相対する人間への侵入はそうそう容易い事では無い。記憶とは一人一人が全く別の性質や道筋を持つ迷路のようなものだった。

 

 耿鄙の思考は一言で表せば異常だった。彼の記憶と精神はまるで暴風雨のように強烈で膨大な力を秘めており、僅かでも手順を外せば、自分の精神はあっという間に打ち負かされ、その存在を消去されてしまうに違いない。これが目の前でへらへらと苦笑いを浮かべている人間の思考だとは、にわかに信じられなかった。

 その後も董卓は荒れ狂う精神力の嵐の中を慎重に進み、少しずつ彼の精神の中を見聞していき――そして見つけた。

 

 多元宇宙。そこに存在する幾つもの世界。緻密で膨大な魔力(マナ)の奔流。世界を構築する力線とそれを操る術。久遠の闇。プレインズウォーカー。踏み荒らされた戦場。廃墟と化した故郷と復讐の決意。そのほか幾重にも見つかる意味不明な知識と単語。

 

 これは何!? 別の大陸? 次元? 人間に近い別の生物? 私は一体なにを見つけたの? これは何を意味しているの? 彼は一体何者なの!?

 

 ――見ているな。

 

 瞬間、董卓の心臓が緊張と恐怖で一層強く跳ね上がった。

 胸中で渦巻く感情を必死に抑え、董卓は内なる声が聞こえた方角に目をやった。耿鄙。

 

 視線が交わり合うと、彼は表情を気の抜けたものから心配そうなそれに作り変えて彼女に話しかけた。「どうされました董卓殿? なにやら顔色が悪いようですが?」表情こそ心配そうにしてはいるが、明らかにその目は笑っておらず、漂う思考からは僅かな殺気を放っていた。

 

「あ、あの……いえ……少し遠征の疲れが出てしまったようで……」董卓は口元を震わせながら懸命に首を振った。恐怖のあまりそれしかできなかった。いま僅かでも迂闊なことをすれば、彼からどんな目に遭わされるか分からなかった。

 

「ちょっと月、大丈夫!? 顔が真っ青じゃない!!」彼女の顔色を見た賈駆が慌てて立ち上がると董卓の背中を摩った。

 

「大丈夫……ちょっと休めば平気だから……」自分の体からどんどんと血の気が失せていくのを感じながら董卓は、彼女に類が及ばないように懸命にそういった。

 

 あまりの出来事にすっかり白けてしまった場を見やった張温が言った。「董卓殿がこれでは軍議にならぬな。申し訳ないが耿鄙殿、話の続きはまた明日にでも」

 

 耿鄙は頷いた。彼の表情は先ほどと同じく頼りないものに戻っていた。「ええ。では皆さんも今日の所はひとまずはお休みになって、長旅の疲れを癒して下さい。今から皆さまをお部屋にご案内させていただきます」そして部屋の外を見張っていた兵士を部屋の中に呼びつけると、彼らに将校や軍師たちを部屋に案内するように命じた。

 

 次々と人々が部屋を去っていく中、最後に賈駆の肩を借りて董卓はよろめきながら立ち上がると、一度だけ耿鄙の顔を盗み見た。そこに映っていた彼の表情は先ほどまでの気の緩んだ顔はなく、ただ冷静に何かを思案する策士の顔が映っていた。

 

 ――この男はただの人間ではない。

 

 董卓は李儒から聞かされたその言葉を、改めて胸の内に強く刻み込んだ。

 




※この作品における董卓は『妖憑き』です。『妖憑き』についての詳細は 「プレインズウォーカーのための『外史』案内その1」をご覧ください。


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羌族

 サルカン・ヴォルと馬岱は廃墟となった羌族の村で唯一生き残った少年・阿門と出会い、その惨劇の正体が役人たちによる心なき虐殺だと知った。
 羌族と役人、そして馬騰――二人を取り囲む謎は更なる深みを見せ、その全貌は未だ計り知れない。
 彼らは更に知る必要がある。


 サルカン・ヴォルの長靴の下で土埃が仄かに舞い上がった。彼の持つ鍬は深く大地を抉り、眼下の窪みをさらに大きく刻む。一度、二度、三度。

 そしてぽっかりと開いた隙間の中に幼い少女の遺骸を横たえると、今度は土を被せて穴を塞ぎ、小さな石を乗せて墓碑とした。

 たったいま葬った少女を含めて、彼が弔った村人の数は既に十名を超えていた。馬岱や阿門が作業に加わった事で昨日よりもいくらか効率は高まっているが、いかんせん村人全員を弔うにはまだまだ遠く、全てが終わるにはあと二日はかかるだろうと彼は予想していた。

 

 再び鋤が大地を刻んだ。刃に込められた力に従って、硬い地面に僅かな亀裂が走る。

 何故、という思いがサルカンの胸の中で蠢いた。

 彼らが一体何をしたというのだろうか。何をすればここまでの仕打ちを受けなければならないのだろうか。これを行った人間には一体何の目的があるのだろうか。サルカンにはそれが分からず、たとえ理解できたとしても到底許せるとは思えなかった。

 

「おーい! おじさまー! そろそろお昼だし、少し休憩にしようよー!」村の向こう側で作業をしていた馬岱が、彼の元に駆け寄ってきてそう言った。いつの間にか太陽は空の頂点近くまで登り切り、その暖かな光を存分に大地へと振り注いでいた。

 

「……そうだな。なら蒲公英と阿門は昼飯の準備をしてくれ。俺はもう少し、ここで彼らを弔っている」彼はそう答え、新たな村人を葬るべく再び鋤の歯を大地に向かって突き立てる。

 

「うん。分かったよ」

 

 頷いた馬岱が一夜を明かしたあの家に戻ろうとしたその時、サルカンの耳が村の外から聞こえる微かな地響きの音を捉えた。

 音の方角へと近寄ると、平原の向こうに凄まじい砂煙が舞い上がっているのが見える。濛々を上がるその煙はまるで砂嵐でも起きたのかと錯覚させるほどだった。

 

 馬に乗った人間が近づいて来ている。それも大勢の。

 

 サルカンは咄嗟にそれが戻って来た役人たちかと考えたが、すぐに考えを改めた。全てが終ったこの場所にわざわざ戻ってくる理由など無い。

 だとしたらあれは一体何者だ?

 

「おじさま? 急にどうしたの?」後を追いかけて来た馬岱が尋ねた。

 

「誰かがこの村に近づいて来ている」サルカンは遠くに見える土煙を視線で示した。「もしかしたら敵かもしれない」

 

 敵という言葉を耳にした途端、馬岱はその顔を紅潮させ声を荒げた。「それなら好都合だよ! 役人が戻って来たんなら、今度は逆にたんぽぽ達でやっつけてやろうよ!」

 

「あれが役人だと決まった訳じゃない」彼は小さくかぶりを振った。「それに俺たちには阿門も居る。あの子を危険には晒せない。何であれ、まずは奴らの正体を見極めてからだ」

 

「……おじさん? おねえちゃん?」

 

 不意に後ろから声。見やると、二人の様子を見に来た阿門が話に割って入ってきていた。「僕がどうかしたの?」

 

 サルカンは咄嗟に阿門を見つめた。もし土煙の正体が馬岱の言うように戻ってきた役人やその手下だったとしたら、虐殺から生き残った少年をそのまま生かしておくとは思えない。見つかればたちまちその手にかかって命を落とすだろう。先ほど自分が埋めたあの少女のように。

 可能性が高いとは思わない。だが僅かでもそれがあるというのならば、用心しておくに越したことはないのではないだろうか。

 

「――蒲公英。阿門を連れて村の反対側に行け。馬も一緒にだ。念のための用心だが、いざとなったら阿門を飛龍に乗せて村から離れろ」有無も言わせぬ鋭い声で、彼は馬岱にそう命じた。

 

 鬼気迫ったサルカンの声音に、思わず馬岱も緊張の面持ちを浮かべる。「……おじさまはどうするの?」

 

「まずは奴らの正体を探る。もし何か大きな物音や声が聞こえたら、馬に乗ってすぐに村を離れろ。いいな?」

 

「でもおじさま――」

 

 何か言おうとする彼女の言葉を遮り、サルカンが低い声で再び告げた。「行け!!」

 

 その言葉にもはや何も言うまいと馬岱は頷くと、強い力で阿門の手を取った。「……阿門くん。行くよ」そしてそれを思い切り引っ張ると、急いで村の道を走り始めた。

 

 状況を飲み込めていない阿門だけが驚き戸惑った声をあげる。「え……? なに? 二人ともどうしたの?」

 

「いいから! ほら!」

 

「え、あ、ちょっと! 馬岱おねえちゃん!」

 

 有無も言わさず阿門の手を引ったくった馬岱がそのまま村の反対側へと走っていく。

 その様子をサルカンは彼女たちの姿が見えなくなるまでじっと見つめていたが、やがて視線を土煙へと戻した。

 鋭く光るその双眸は、既に人間のそれから荒々しきドラゴンのものへと変わっていた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 平原の向こうで土煙を巻き上げていた何かは、距離が縮まるに連れてその姿をはっきりとサルカンに示した――馬に跨がった戦士たちの群、およそ数十騎。

 彼らは村にたどり着くと同時にすぐさまサルカンを取り囲み、持っていた武器を彼に向かって突きつけてきた。

 サルカンは戦士たちをじっと観察した。見たことのない毛皮の服と槍。外見や雰囲気からそれはかつてのティムールの戦士たちを連想させたが、彼らの服装は雪山で過ごすかの氏族たちのそれよりもずっと薄く、同時に機能性に優れていた。

 しばらくは無闇に抵抗せず、されるがままに任せていたが、やがて取り囲んでいた戦士のうちの一人がサルカンの前へと進み出てきて言った。

 

「何者だ貴様。この村の者ではないな。ここで何をしている」

 

 出てきたのはどうやら彼らの頭目のようだった。その声は注意深い気配の他に、仄かな殺気を含んでいた。

 

 サルカンから見てもその戦士は若かった。自分よりもずっと年下だった。だがその分、力と若々しさに溢れていた――尖った剣気と油断の無い気配。腰には見事な装飾の長剣を帯びており、彼はいつでもそれを抜けるように身構えていた。

 

「そう言うお前は?」サルカンは手にしていた穴掘り用の鋤を捨てて両手を空けた。もし彼らが襲いかかってきたとしても、すぐさま抵抗の呪文を唱えられるように。「この村に何の用だ」

 

「質問はこちらがする。貴様はただ答えればいい」男は話も聞かずに冷たくそう言い放った。「まずはお前の姓名を言ってもらおうか」

 

「俺の名は、サルカン・ヴォルだ」

 

「ヴォル?」僅かな戸惑いと共に男が聞き返した。「聞いたことのない名だ。見たところ漢人では無いようだが、どこの生まれだ」

 

 やや躊躇した後、彼は言った。「……ここからずっと遠く、この国の果てよりもなお遠い場所で生まれた」別の世界――と正直に答えたところで、その存在を知らない彼らは到底信じはしないだろう。タルキールと答えても反応は同じようなものだ。ならばと思い、彼はそう答えた。

 

「西域の生まれか」彼の言葉をどう解釈したのか、男は鼻を鳴らして言った。「聞き慣れない名前なのも納得だな」そして背後の部下にいくつか耳打ちすると、再び質問を続けた。「ここには一人で来たのか?」

 

「そうだ」サルカンは即答した。妙な勘ぐりをされぬ為であった。馬岱や阿門たちが離れた場所で隠れていると彼らに気づかせてはならない。

 

「どうだかな。部下が付近を調べればすぐに分かることだ。隠し立てしているようなら、そいつらもただでは済まないぞ」

 

 男は彼の言葉をまるで信じていないようだった。彼が後ろに控えていた部下に目配せを送ると、そのまま何人かは村の向こう側へと消えていった。

 

 やってみろ。そうなれば貴様ら全員、生きてここからは帰れない。

 膨れ上がる敵意を胸に押し込め、サルカンは密かに喉の奥深くから獣のような声を発した。

 

 男は質問を続けた。「それで、貴様はこの村に一体何をしに来た?」

 

 彼は言った。「俺は旅の途中に偶然立ち寄っただけだ。屋根のある場所で休ませて貰おうと思ってな。だが村にたどり着いてみると中は既にこの有様だった。むしろこれはお前達がしでかした事ではないのか?」

 

「……なんだと?」男の目が鋭く光った。怒りに、あるいは図星に。

 

 サルカンはさらに言葉を投げつけた。「貴様らこそ、何故こんな廃墟のような村にやってきた? この村に生き残りが居るかも知れないと考えて引き返してきたからではないのか? まだいるかもしれない生き残りをその手に掛けるために」

 

 彼の言葉にとうとう男は腰から長剣を引き抜いた。「貴様ぁ! 我らを侮辱する気か! 同胞を救うべく駆けつけた我らが羌の戦士を!」だが男が怒りと共に放った言葉は、サルカンの思いもよらぬものだった。

 

「なに……?」

 

 戸惑いと共にサルカンが眉を顰めてそう呟いた時、人垣の向こうから聞き馴染みのある喚き声が聞こえてきた。

 

「――放せッ! 放せってばッ!!!」

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

 僅かに時を遡ること少し前、壊れかけの厩舎から馬を連れ出した馬岱と阿門は、村の出口近くにある家屋の中で息を殺しながらじっと身を潜めていた。

 別れ際にサルカンが言っていたような大きな物音は未だ聞こえてこない。村は不気味なまでの静寂に包まれ、二人は己の息づかいばかりを耳にしていた。

 

「おじさん大丈夫かな。無事だといいんだけど……」不安げに阿門がそう呟いた。馬岱によって事の顛末を聞かされた彼は事情を理解したものの、その代償として先程から酷く怯えていた。怯えない方が無理というものだ。何しろ自分を殺しにあの役人が戻ってきたかもしれないのだから。

 

「……うん」どこか上の空な口調で馬岱がそう答えた。恐怖に震える阿門とは逆に、彼女には一切の恐怖はなかった。代わりにこの惨状を行った下手人に必ずや罰を下そうという暗い血気だけが、彼女の心の中を強く渦巻いていた。

 

 絶対に許さない。何の罪もない人たちにあんな事をする奴らは、自分が一人残らず殺してやる。

 

 馬岱は己の得物である銀閃を握り締めた。この十字槍も厳めしい光を放ちながら戦いの時を待っている。そしてそれがあるとしたら、今この時をおいて他にあるだろうか? もし官軍がこの村を再び襲ってきたのならば、村の人たちの為に一人でも多くの人間にその報いを与えてやるべきではないのか。

 

 しばらく思いつめた表情を浮かべていた馬岱だったが、やがて決心したように頷くと阿門に言った。「……阿門くんはここで待ってて、ちょっとおじさまの様子を見てくる」

 

「え……でも、おじさんは出口の近くで待ってろって……」阿門は弱々しい口調で抗議した。この場所に一人で置いていかれる事は彼にとっては耐えがたい状況だった。

 

「ここにずっと居たって向こうの状況がどうなってるか分かんないじゃん。もしかしたらおじさまがさっきの奴らと戦ってるかも知れないし」

 

「でも……」

 

「大丈夫。ちょっと様子を見てくるだけだから」一方的に彼女はそう言い残すと、阿門と馬を置いて家屋跡からそっと抜け出した。

 

 勢いで外へ飛び出していった彼女だったが、その後は誰にも見つからぬよう点在する建物の死角や瓦礫の影を巧みに利用しながら、少しずつサルカンの居た場所まで戻っていく。

 

「おじさま、まださっきの場所にまだいるのかな……?」彼女が思わずそう呟いた時、目の前の方向から別の人間が近づいてくる気配を感じ取った。

 

「おっと……」

 

 すかさず瓦礫と瓦礫の間に体を滑り込ませると、息を殺して近づいてくる人間の正体を伺う。

 果たして建物の向こうから姿を現したのは、その身に毛皮の衣服を纏った何とも見慣れない風貌の男だった。手には厳めしい槍を携えているが、その拵えは明らかに官軍の物とは違うものであった。

 どうやら男は彼女の存在には気づいていないようで、そのまま瓦礫の山を一瞥することもなくそそくさと通り過ぎていく。

 やがて男が完全に居なくなったのを確かめると、馬岱はようやく瓦礫の隙間から体を出した。

 

「あいつ……見たところ役人って感じじゃなかったし、一体何者だろう。それにあの恰好、どっかで見たようなことあるような……?」馬岱は首をひねった。彼女の中では役人が戻ってきたものとばかり考えていたので、この結果は予想外であった。

 

 居なくなった男の方向をしばし見つめながら考えていた彼女だったが、やがてそうもして居られないと再び瓦礫伝いに元の方角へ歩を進めていると、背後から唐突に男の声が聞こえた。

 

「誰だッ!」

 

「っ!!」

 

 振り返ると、そこには先ほどやり過ごした男とは別の男が毅然と立っていた。

 

「貴様何者だ! ここで何をしている!!」手にした槍を馬岱に突き出し、男は鋭く問い詰める。

 

「答える必要なんかないね!」そう答えるや否や、馬岱は手にした十字槍を素早く翻し、突きつけられていた槍の穂先を思い切り打ち払った。

 

 突発的に始まった戦闘だが、男と馬岱の技量にはかなりの開きがあった。打ち合いが進むごとに彼女の槍は勢いを増し、五合もせぬうちに男の手から槍を弾き飛ばすと、勢いそのままに得物の柄を男の延髄に叩きつけ、その意識を奪い取った。

 

「どうだ! 馬岱様の槍の腕前、恐れ入ったか!」

 

 そう喜んだのもつかの間、彼女の後ろから再び声が襲いかかった。

 

「そこまでだ!」そこには最初にやり過ごしたはずの男が、馬岱の首筋に切先を突きつけて立っていた。「動くな小娘。少しでも動けば、今すぐにでも首を撥ねるぞ」

 

「う……くそ……!!」

 

 観念したように馬岱は武器を手から滑り落とすと、自らの両手を宙に掲げた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

「隊長! 怪しい女が村をうろついていたので捕らえて参りました!」人垣をかき分けて新たに現れた戦士はそう言うと、縄で縛りつけた馬岱を頭目の男に向かって勢いよく突き出した。動けない彼女は足をもつれさせて地面を転がり、自分の体を砂埃が舞う大地へと強く擦り付ける。

 

 武器と体の自由を奪われ、自分で動くこともままならない馬岱が失意の顔を浮かべた。「ごめんおじさま、捕まっちゃったぁ……」

 

「蒲公英! ……なぜすぐに村を離れなかった! あれほど強く言った筈だぞ!」

 

 彼女の名を聞いた途端、尋問を行っていた男の顔つきが怪訝なものに変わった。「蒲公英、だと?」そして馬岱の方へと近寄ると、その顔を確認するかのようにまじまじと見つめた。

 

「あれ?……その声、もしかして周吾?」男の顔を見た馬岱も同じく困惑した表情を浮かべていたが、やがてその表情を破顔させて言った。「ああ! やっぱりそうだ! 周吾だ! 周吾! 久しぶりじゃん!……って、あれ? じゃあこの人たち、もしかして羌の人なの?」

 

 場違いなほど急に明るくなった馬岱の声音に事情が呑み込めない他の男たちはしばらく困惑していたが、やがて呆れたように男が部下に向かって命じた。「――この女の縄を解いてやれ。彼女は馬騰殿の姪だ。我らの盟族にあたる者だぞ」

 

 予期せぬ彼の言葉にしばらくあんぐりと口を開けていた戦士だったが、やがてハッと気がつくと、すぐさま縛り付けていた馬岱の縄を解き、彼女に体の自由を明け渡す。

 

 戦士たちと同じく驚きと困惑の表情を浮かべたサルカンが馬岱に尋ねた。「蒲公英、この男を知っているのか?」

 

「うん。そいつ、間違いなく羌の人間だよ。最後に会ったのは随分前だけどね」縛られていた腕をさすりながら馬岱が立ち上がってそう言うと、今度は意地悪い笑みを顔に張り付けた。「いやー。でもまさかあの周吾が羌の戦士を率いるまでになるなんてねぇ。前に会ったときはお姉様にボコボコにされて何度もベソかいてたのにさ」

 

 馬岱がその話をした途端、数分前までは一分の隙さえも見せぬ歴戦の戦士の顔つきだった男が、まるで弱みを握られた子供のように情けない表情へと変わった。「な!? そ、その話はよせ! まだ子供の頃の話だろうが……!」

 

「えー、子供の頃って言ったって、まだ十年とかそこらの話じゃん。あの頃はてんでで弱っちくて“鼻垂れ周吾”なんて言われて皆に笑われてたのにさ~」からからと笑いながら馬岱が言い返す。

 

「くっそ……! 言わせておけば言いたい放題に……!」

 

 これほど慌てふためく頭目の姿を見るのは初めてなのか、周りの戦士たちが信じられないと言う様子で二人のやりとりを見つめている。そしてそれはサルカンも同様で、この奇妙な状況に付いていけず、ただただ言い争う二人に困惑するばかりであった。

 

「……おい蒲公英。それよりも阿門はどうした?」あまりにも急すぎる話の流れに殆どついて来れていないサルカンだったが、不意に彼女に守るよう頼んでおいた少年の姿が見えない事に気が付いた。「一人で村から逃がしたのか?」

 

「あ!? いっけない! まだ隠れてた場所に待たせたまんまだったよ!」馬岱は慌てて答えた。「ちょっと迎えに行ってくる! おじさまはその間にそいつと話付けといて!」そしてそう告げるや否や、全員をその場に捨て置き、元居た場所へと掛け走っていった。

 

 何とも言えぬ空気のままその場に取り残された男達は、先程まで抱いていた互いの敵意も殺意も忘れ、ただ呆れたように突っ立っている事しかできなかった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 男たちの正体は村の惨劇を知って駆けつけた羌族の若き戦士たちに間違いなかった。彼らは警邏中に見つけた村の生き残りから村が襲われた事を知り、救助の為にと夜を通してここへやって来たのだという。

 そして偶然にもその場に居合わせてしまったサルカンを下手人の一味ではないかと勘ぐり、急遽取り囲んでしまったという訳だった。

 

 誤解が解けた一同は、互いに協力し合いながら改めて村人の弔いに手を付けた。元々サルカンや馬岱たちによってある程度の段取りが出来てはいたが、そこに大量の人手が加わった事で作業は驚くほど順調に進み、日が沈む頃にはすべての人々の埋葬を終え、今では夕食を兼ねた鎮魂の宴を開いている所だった。

 どうやら羌族の流儀では鎮魂のための宴は壮大かつ明るいものでなければならないらしく、事実彼らは村に漂う悲しみや死の匂いを吹き飛ばすかのように激しく火を焚き、その後は飲めや歌えやのどんっちゃん騒ぎを繰り広げた。

 明るさが取り柄の馬岱や羌族の一員である阿門も喜んで彼らに混ざり、存分に宴を盛り上げる。馬岱に至っては彼女が主賓なのではないかと勘違いしてしまうほどに大いに飲み食いし、歌い、踊り回っていた。

 そして一方のサルカンはというと、そんな彼らが盛り上がる様子をぼんやりと遠巻きから眺めているばかりであった。

 

「楽しんでいるか?」ふと、先ほどサルカンに尋問を行っていた男――後に餓何(がか)と名乗った――が、両手に錫製の杯を抱えて彼の元へとやってきた。

 

「おかげさまでな」サルカンは肩をすくめた。こういう騒ぎは昔からどうも苦手だった。というよりも、どう楽しんでいいのか未だに掴めていないという表現の方が正しかった。

 

「昼間の件は本当に済まなかった。まさか馬騰殿が目をかけている者だとは全く知らなかったのだ。どうか許して欲しい」餓何はそう言うとサルカンの隣に腰を下ろし、杯の一つを彼へと差し出す。中には騎馬民族では馴染み深い馬乳酒が入っていた。

 

「気にしていない」杯を受け取るとサルカンは言った。「実の所、俺もお前達の正体を探ろうとしていた。お互い様だ」事実その通りだった。さらに言えば、彼は万が一にも阿門や馬岱の身に危機が及んだ際には彼らを一人残らず殺し尽くそうとさえ考えていた。

 

「貴様は――いや、サルカン殿は見ず知らずの村の人間をあれほどまで丁寧に弔ってくれた。一族を代表して心から礼を言いたい」

 

「別に見ず知らずと言うわけでもない。俺は馬騰殿に恩義があり、羌は馬騰殿の盟族だ。ならば俺がそのために動くのは当然の事だ」

 

 彼の言葉に餓何はそうか、と小さく呟いたが、やがて意を決したように彼に告げた。「その……詫びと言ってはなんなのだが、サルカン殿に俺の真名を受け取って貰いたい」

 

「……いいのか?」サルカンは思わず聞き返した。彼はこの次元の人間ではなかったが、それでも真名が持つ意味とそれを他人に預けることの重大さは十分知っているつもりだった。

 

「一族の為にここまでして貰ったのだ。これで真名を預けぬなど、羌の戦士として名折れになる――我が名は餓何(がか)。真名は周吾(しゅうご)。迷惑でなければ、是非ともこの名を受け取って欲しい」

 

 しばらくの間、サルカンは彼の言葉をじっと噛みしめていた。真名の許可はその人物に対する無上の信頼を意味する。彼があっさりと自分にそれを託してくれたという事実に少しだけこそばゆい感覚を覚えたが、同時に何ものにも代え難いものを得られたのだという気分にもなった。

 

 やがてサルカンは静かに言った。「俺自身は真名というものを持ち合わせてはいないが、周吾――その名前、確かに預からせて貰おう」そして自分の杯を軽く掲げた。

 

 それを見た餓何も同じく杯を掲げると、互いに中身を一気に呷る。

 どの次元においても変わらない、男たちの友愛の儀式だった。

 

 《部族養い》https://imgur.com/a/1WZJ6

 





 異文化交流っていいですよね。


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龍血の英雄

 二人はついに真実へと辿り着く。


 翌日、サルカンは羌の戦士たちと共に彼らの野営地を目指して旅立った。彼らの馬捌きは騎乗に慣れた二人ですら思わず舌を巻くほどであり、その早さもさることながら一切迷うことのない統率力で広大な大地を駆け抜けると、僅か二日足らずで目的の場所へとたどり着いた。

 

「ようこそ。ここが我らの野営地だ」

 

 馬を降りた餓何が誇らしげな顔付きで二人に言った。彼の後ろには大小幾つもの天幕が海のようにどこまでも広がり、内外では鎧や兜をはじめとした武具が所狭しと並べられ整備されている。少し遠くでは羌族の男たちが武器を手に何やら訓練を行っているようだった。

 

 あまりに剣呑な光景に流石のサルカンも少々たじろいだ。「……大きいな。それに、かなり物々しい」

 

 これでは野営地と言うよりまるで前線基地か防衛拠点である。果たしてこれが羌の日常的な風景なのだろうか。

 

「当たり前だ。我らはもうすぐ戦に赴くのだからな」

 

 不可解な餓何の言葉に彼は思わず眉を顰めた。「……戦? なんのことだ?」

 

 戦と言うからにはどこかに攻め入るのだろう。行き先は役人たちの居る洛陽か、或いは縄張りを争う他の部族か、それとも未だ名の知れぬ別の場所か――いずれにしても、これほど大規模な準備を進めている以上、生半可な侵攻でないことは確かだった。

 

 サルカンの疑問に逆に餓何が驚いたように聞き返した。「なに? 馬騰殿から何も聞いていないのか?」

 

 二人は互いの顔を見合わせ、首を左右に振った。馬謄の話からは戦などという単語は欠片も出てきてはいなかった。

 

「そうか……いや。詳細は俺から聞くよりも大王様から直接お伺いになった方がいいだろう。天幕へ案内する。付いて来てくれ」

 

 餓何はそう言いながら踵を返すと野営地の間を突き進む。それに従おうと二人が馬を降りて歩き出したその時、彼らを引き留める声が後ろ聞こえた。

 

「おじさん、おねえちゃん……」振り返ると、そこには寂しげな表情を浮かべた阿門が立っていた。

 

「阿門、悪いがここでお別れだ。君はこれから羌の人々たちと生きていくんだ。達者でな」

 

 サルカンは静かにそう告げた。彼とはもともと偶然出会った間柄であり、羌に保護してもらう目的で一緒に居ただけに過ぎない。野営地に辿り着いた以上、自分たちはここですっぱりと別れておくべきだった。

 

「うん……」理屈の上では理解しているのか、彼も素直に頷いた。だがその眼には自分たちとの別れを惜しむかのようにうっすらと涙が滲んでいた。「……またいつか会えるかな?」

 

 果たしてどうだろうか。羌族がどこを相手に戦うのかは定かでないが、戦が始めればこことて安全ではないだろう。もし敵の攻撃を受ければ、戦う術を持たない彼に待っているのは無残な死だけだ。

 だがそんな現実を突きつけるのも忍びなく、結局サルカンは互いにとって都合のいい言葉を選ぶことにした。

 

「会えるさ。お互い生きていればな」

 

「そうだよ。生きてれば必ずまた会えるよ。だからさ、辛いだろうけど挫けずに元気でね!」

 

 気休めにしかならない言葉であったが、それでもないよりはマシだったのだろう。彼は目に溜まった涙を両手で拭うと、最後に精一杯の笑顔を作って見せた。「……うん! 短い間だったけど、今までどうもありがとう!」

 

 懸命に手を振る阿門に送り出されながら、二人は改めて天幕の海を歩き出す。

 すると、先導して歩いていた餓何がサルカンに近寄ってきて告げた。

 

「心配するな。あの子の面倒は俺たちが責任を持って見届ける」

 

 サルカンは内心ほっと胸をなで下ろした。そうなるだろうと予想はしていたが、やはり直接の言質を得られるというのは何よりも安心できる証だった。

 

「感謝する」

 

「よせ、それはこちらの台詞だ。二人があの場に居なければ、あの子は今頃どうなっていたことか……本当に礼を言う」

 

「さて、話が過ぎたな。大王様の元に急ぐとしよう」

 

 再び先導に戻った餓何に従い、サルカンたちは改めて羌を統べる大王の元へと歩き出したのだった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

 野営地の中をしばらく歩き進み、大型の天幕が並び立つ一角にたどり着くと、餓何はその中でも一際大きな物へと二人を導いた。一度に数十人は入れそうなこの中に、件の大王は控えて居るらしい。

 

「少し待っていてくれ。大王様に事情の説明と取次の許可をもらってくる」

 

「分かった」

 

 サルカンが頷くと、餓何はそのまま天幕の中へ姿を消した。

 

「しかし戦だなんて……おばさまはそんなこと一言も言ってなかったのに……」ぽつりと馬岱が小さく呟いた。

 

 果たして馬騰は羌族の現状をどの程度把握しているのだろうか。或いは全てを知っているのだとしたら、彼女はどんな意図で自分たちをここへ送り出したのだろうか。

 考えれば考えるほど様々な仮説や思考が、サルカンの脳内を駆け巡る。だが彼はすぐに余計な考えを頭から追い払った。

 もう少しで全てが分かるはずだ。大王に直接会って手紙の内容を確認することができれば。

 

 そんな風に考えていたせいもあるのだろう、故にサルカンは自分たちに声をかけてきた誰かの気配に気が付かなかった。

 

「――もし。そこのお方」

 

 声に気が付いた彼が視線を移すと、いつの間にかそこには優しげな笑みを浮かべた一人の老人が佇んでいた。

 馬岱の顔見知りかと思い、サルカンは彼女の顔を覗き込んだが、不思議そうに老人を見つめる馬岱の表情からして、どうやら知り合いという訳ではないらしい。

 

「羌の翁よ。俺たちに何の御用でしょうか?」

 

 老人の恰好は羌族のものに間違いなかったが、他の者とはどこか一線を画していた。大きな特徴として、彼は体中に幾つも動物の骨やら角やら牙やらを括り付けており、その神秘的な雰囲気と相まってまるで風変わりな仙人か賢者のようにも見受けられた。

 

「おぬし、変わった力を持っているな」老人が言った。まるで世界の全てを見透かしているかのような声だった。「世を包みこむ見えない壁に触れ、それを乗り越えることができる。そうじゃろう?」

 

 告げられた言葉に二人は思わず目を剥いた。彼の言っている力とはまさにプレインズウォーカーの事に違いなかった。「……分かるのですか?」

 

 サルカンは咄嗟に彼がボーラスの手下ではないかと勘ぐった。プレインズウォーカーなどと言うおとぎ話にも近い存在を信じるのは、本人かその存在を知る一部の者しかいない。

 だが不思議なことに目の前の老人からはそのような敵意は微塵も感じられなかった。

 

「ほっほっほ。年を取ると目に見えぬものが色々と見えてくるのじゃよ。もっとも、逆に見えなくなるものもあるがの」笑いながらそう答える老人の瞳は、目の前の光景を映してはいなかった。ただ虚空だけを見つめ、目には映らぬ何かをじっと見つめているようだった。「まだわしが修行の旅に出ていた頃、おぬしと同じ力を持った者に会うた事がある。その青年は悲しい目でわしに問うた。『争うばかりの人々を諫め、この世から戦を無くす為にはどうすればよいか』とな。まだ未熟な若造に過ぎなかったわしには生憎と何も答えられなんだ。大陸を巡り、叡智を身につけた今でも明確な答えは出せておらん。だがあの青年はその答えを見つけ出そうと必死に努力していた。『たとえどんな方法を使っても、この世界にいつか平和と安寧をもたらして見せる』と言ってな。あの青年がどうなったのか、今では知る由もない。だが彼が目指した世界は未だ訪れてはいないのだけは確かじゃ」

 

 老人はそう言うと、年寄りのものとは思えないほど強い力でサルカンの肩を掴んだ。「気をつけるがよい。おぬしの力は自身が思っている以上の大きさを秘めておる。少しでも加減を違えれば、この世の全てを覆してしまうほどにな」

 

 彼の忠告は正しかった。“きずな”を越えて遠い過去へと旅立ったあの時、自分は死に逝く運命だったウギンを面晶体の欠片によって救い、タルキールの歴史を捻じ曲げた。それが正しいことだったのかどうかは分からないが、もし自分がプレインズウォーカーでなければ、もしあの欠片を『目』から持ち出さなければ、自分は未だに亡霊に囚われながら龍の死に絶えた故郷を彷徨い続けていたに違いない。

 

「心得ています。俺はかつて故郷の歴史を書き変えました。その事を後悔してはいませんが、そうなってしまう事があると言うことは身に沁みて知っています」

 

「ならばよい。その事を努々忘れるでないぞ。異世界の旅人よ」

 

 老人は満足したようにそう言うと、くるりと背を向けて天幕の向こうへ歩いて行く。

 不思議な面持ちで二人がその姿を見送っていると、背後から布をかき分ける音と共に餓何が姿を現した。

 

「待たせたな。大王様はすぐにお会いになられるそうだ……どうした?」

 

 咄嗟にサルカンは老人の事を話そうとしたが、先ほどまで近くを歩いていたはずの彼はいつの間にか煙のようにその姿を消してしまっていた。

 

「いや……何でもない」

 

 狐につままれたような体験に二人は思わずお互いの顔を見合わせたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、やがて導かれるままに天幕の中へと入っていった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 天幕の中は見た目通り広々としており、あちらこちらに魔除けや献上品と思われる装飾が備え付けられていた。それらは決して金銀財宝のように煌びやかなものではなかったが、どれも見事な細工や精緻な紋様が施されており、彼らの技術力の高さが伺える。

 そしてそんな天幕の中央に置かれた玉座には、立派な毛皮を纏った男性が重苦しい雰囲気と共に鎮座していた。

 

「――羌の地へようこそ。我が今の一族を預かっている徹里吉(てつりきつ)である」男は巨大だった。サルカンも人間の中では比較的背の高い方であったが、男は更にその上をいっており、筋骨隆々な体格も相まって遠目には大きな岩か何かのように見える。そして何より、自信に満ちた振る舞いと全身に作られた多くの生傷が彼を戦士の一族を統べる大王だと強く主張していた。「話は餓何から聞き及んでいる。よくぞ一族の者を救ってくれた。普段ならば一族総出を上げて感謝の宴を開く所なのだが、今は戦支度の最中ゆえ手厚い歓待はできぬ。どうかご容赦なされよ」

 

 どう切り出したらいいものかとサルカンが悩んでいると、馬岱が前に進み出て拱手の構えを取った。「大王様。ご無沙汰しております」

 

「そなたは確か、馬謄殿や馬超殿と共に以前の寄り合いに来ていた……」古い記憶を思い返すように徹里吉は目を細めた。

 

 彼女は頷いた。「馬岱と申します。此度は馬超様と馬謄様の使いで参上致しました」

 

「遠い所からよくぞ参った。羌族はそなたを歓迎しよう。存分にくつろいでゆかれるが良い――して、そちらの御仁は?」続いて徹里吉は視線を馬岱からサルカンへと移した。

 

 腹を決めた彼も馬岱と同じく拱手の構えを取って答えた。「俺はサルカン・ヴォルと言います。彼女と同じく馬騰殿の使いで来ました」そして懐から預かっていた竹簡を取り出すと、目の前の大男へ恭しく手渡した。「これは馬謄殿から預かって来た書状です。貴方に届けるようにと」

 

 差し出された竹簡を受け取ると、男はそれを軽く広げ、素早く内容を検めた。「……確かに馬騰殿のものに相違ない。ご苦労であった」

 

「……ところで、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」と、サルカンがやおら話を切り出した。彼から事情を聞くならば今において他になかった。「羌族は一体、何と戦うつもりなのですか?」

 

 それはサルカン達がこの野営地にたどり着いてからずっと抱いていた疑問だった。羌族がどこに攻め込むにしろ、馬謄や自分たちに関係のある話ならば、知っておいて損はない。

 

「漢だ」即答だった。斬りつけるようなその鋭い口調は、たとえ本人に向けられたものでなくとも聞く者に重苦しい殺気と威圧感を与えた。「そなたらもその目で見たであろう。漢人どもが我らの村落を滅ぼす様を」

 

 二人は静かに頷いた。あの地獄のような光景を簡単に忘れられる筈がなかった。

 

 徹里吉は言葉を続けた。「弾圧が始まったのは一年ほど前からだ。それも我らだけが被害を被っているのではない。漢に近い場所で暮らす他の部族は勿論、彼らと交友を結ぶ漢人たちでさえも虐げを受け、実際そのいくつかは完全に滅ぼされている」

 

 まさか、と二人は息を呑んだ。この次元に来てまだ半年程とは言え、サルカンも漢や他の民族の事については、隴西の人間を通じておぼろげながら聞き及んでいる。だというのに、そんなことが起こっているなどとは微塵も知らなかった。

 

「故に我を含む残った部族の長たちは、志を同じくする他の者たちと話し合い、そして決めた。漢に攻め入ると。そうしなければ遠からず我らの方が奴らに滅ぼされる事は目に見えている」

 

「ではやはりその中身は戦に関する……」

 

 そこまでサルカンが言うと、徹里吉は手にしていた竹簡を彼に向かって差し出した。

 

「それほど気になるというのなら、読んでみるがいい」

 

 開かれた竹簡を受け取ったサルカン達はその中身を確かめ、ますます困惑した。

 なぜならその手紙には、戦はおろか役人の事すら何一つ書かれていなかったからだ。書かれていたのは隴西や馬騰自身にまつわる近況と、近々そちらへ向かい、年を取って悪くなってきた自分の身体とこれからの羌族との関係について話し合いたい、という何とも平々凡々な内容だった。

 

「大王……これは一体?」

 

 眉根を寄せて尋ね返す馬岱に、徹里吉は分かっていると言わんばかりの表情を浮かべた。

 

「そう、何のこともない内容だ。何も知らぬ者が読めばの話だがな」彼はそういうと竹簡を取り返し、続いて懐から小さな小瓶を取り出した。「この竹簡には仕掛けが施してある。特殊な霊薬を用いることで余白の部分に書かれた文字が浮き出る仕組みだ。万が一、漢の人間たちに奪われたときの為にな」

 

 彼が小瓶に入っていた液体を竹簡の隅に塗りたくると、空白の部分からじわりと滲み出るように隠された文字が姿を現した。「そしてこれが、この手紙の本当の中身だ」

 

 再びサルカンと馬岱は竹簡を見つめた。するとそこには滲んだ文字でこう書かれていた。 

 

「『漢ハ金城ヘ軍ヲ差シ向ケタ。手筈通リ、狄道ノ城ニテ貴公ラヲ待ツ。ドウカ使者ノモテナシヲ頼ム』」

 

「これは……?」事情が飲み込めない馬岱が呆然と尋ねる。

 

「我らの戦が動き出したと言うことだ。同時にそなた等の保護を頼むと書かれている」

 

「たんぽぽたちの?」

 

「金城郡では現在、我らの同志たちが約五万の兵力と共に漢侵攻の機会を伺っている。それを察知した漢が先手を打って軍を差し向けたのだ。隴西郡は金城郡の進路上にある。敵は補給のために必ずそこを通ろうとするだろう。だが馬騰殿は既に我らの側についており、敵は補給を受けるどころか足止めを食らうことになる。奴らがたついている隙に、我ら羌族と金城郡に控えている同志たちが二方向から一斉に奴らに襲いかかり、これを打ち砕く。そして全て食いつぶした後に漢へと侵攻する。これが我ら西涼連合の侵攻計画だ」

 

 なんという作戦だろうか。彼らは先手を打った敵に対して罠を張って迎え撃つだけでなく、それらを全て食い尽くした上で敵の本拠地に迫ろうとしているのだ。およそ正気の沙汰ではない。ここまで切羽詰まった作戦を要されるまでに、一体どれほどの血が流れたのだろうか。

 

「とはいえ、計画の要となる隴西の戦いは相当厳しいものとなるだろう。戦が長引けば長引くほど多くの兵士が死に、民や都市は疲弊する。馬騰殿はそんな状況からせめてそなたたちだけでも逃したいと思ったのだろう。見た所そなたは羌族でもなければ漢人でもない。民族同士の軋轢の被害を関係ない旅人であるそなたに降りかからせない為であろうな」

 

「そんな……おばさま……」

 

 さしもの馬岱も言葉を失っている。無理もない。まさかここまでの暴力と思惑が故郷に渦巻いているとは夢にも思っていなかったのであろう。

 

 サルカンの行動は早かった。彼は大王へ今一歩詰め寄ると、力強い声で彼に願い出た。「大王、あなたに是非ともお頼みしたい事が御座います」

 

「聞けぬ」だが返ってきたのはにべも無い答えだった。「おおかた我らとも共に隴西に戻りたいというのであろう。だがそなたたちが戻った所で何になる。たどり着く頃にはそこは血で血を洗う戦場だ。城の中に入るどころか近づく事さえ適わぬ。それにそんなことをすれば、馬騰殿が託した思いを踏み躙る事になるぞ」

 

 打ち所のない正論にサルカンは呻いた。一族の戦士ではない自分が共に戦場に行った所で、邪魔になるだけだというのは痛いほどに理解できる。だがそれでも、彼は引く訳にはいかなかった。

 

「たしかに俺は流浪人で、羌族にとっては部外者以外の何者でもありません。ですがあの人は、俺を家族だと言ってくれました。その輪に暖かく迎え入れてくれました。恩人の危機を知りながら何もせずに黙っていられるほど俺は腐っていません」

 

 サルカンに続いて馬岱も懇願に訴える。「大王様、私からもお願いします。どうか我らを共に戦場にお連れ下さい!」彼女の声は更に切迫しており、もし断られれば例え一人でも戦場に立ち向かって行くだろうという予感すらあった。

 

 沈黙は長かった。目を瞑りながら考え込む徹里吉は、まさに佇む巌の如きであり、これ以上余計な口を挟むことなどとても出来そうにない。

 

 どれほど無音の時間が流れただろう。やがて徹里吉はゆっくりと目を開けると、彼らに向けて告げた。

 

「……そなた等の覚悟は分かった。が、曲がりなりにも我らと轡を並べようというのだ。当然それなりの心得はあるのだろうな?」

 

 それは二人に示された一筋の光だった。ここでしくじれば戦場に向かうことなど到底叶わない。何が何でも彼に己の力を見せつけ、自分達の存在を認めさせる必要があった。

 

「大王様の気が済むまで、存分にお試しになって下さって構いません。それで俺たちを認めてくださるのならば」

 

 サルカンの言葉にしばらく二人の顔をじっと見つめていた徹里吉だったが、やがて小さく顎を引くと再び口を発した。

 

「――餓何」

 

 声に導かれ、天幕の外で控えていた餓何が姿を見せる。

 

「いかがなさいましたか。大王様」

 

 現れた若き戦士長に向かって、大王は先ほどと同じく斬りつけるような鋭さで命じた。

 

「剣を取れ。決闘の準備だ」

 

―――――――――――――――――――――――――

 

 四人は舞台を別の場所へと移し、そこで改めて選定の決闘が行われることとなった。

 途中、他の戦士から必要な武器はあるかと尋ねられたので、念のためにとサルカンは両刃の剣を一本所望した。無くとも戦う事は出来たが、武器があるば使うに越したことはない。

 広場というよりも意図的に作られた小さな荒野のようなその場所には、既に決闘の話を聞きつけた人々で溢れかえっていた。彼らはサルカンや馬岱たちを余所者を見るような、あるいは珍しい生き物でも見るような視線でもって出迎えた。

 

「まずは蒲公英、お前から試させてもらうぞ」広場にやってきた餓何が改まってそう言い放った。

 

 不敵な笑みを浮かべて馬岱が応える。「いいけど、たんぽぽの相手は誰がするの? 周吾?」

 

「いや、俺はサルカン殿の相手をする。お前の相手はこの焼戈が務めよう」

 

 言われてやってきたのは、何とも物静かな若い女性だった。

 柳のように長くしなやかな彼女の体付きは、身に着けた薄手の革衣と合わさってある種の妖艶さを醸し出しているが、彼女自身から発せられる剣気と手に持った薙刀が彼女を一流の戦士だと見る者全てに告げている。油断ならない相手だ、とサルカンは一目見て確信した。

 

「焼戈です……よろしくお願いします」彼女は静かに告げると、己の右手を馬岱へ差し伸べた。

 

「……なんか暗い感じの人だね。本当に強いの?」奇妙な雰囲気を放つ焼戈に思わず馬岱が疑いの眼差しを向ける。

 

「心配するな。少し内気で暗い奴だが、武芸の腕前に関しては間違いなく一流だ。むしろ俺はお前がうっかり殺されやしないかと心配な位だぞ」

 

 生真面目な餓何からして冗談で言ってる風には思えない。と言うことは、それだけ目の前の女性は油断がならない相手だと言うことだ。

 

「……まあいいや。んじゃ、やろっか」差し伸べられた手を軽く握り返し、馬岱が所定の位置に着く。

 

 焼戈もまた同じく荒野の反対側に立つと、その手に握った薙刀を力強く構えた。

 

 両者の間に無言の緊張が走る。

 

「では――始めよ!」

 

 立会人たる徹里吉の宣言によって、ついに選定の決闘が幕を開けた。

 

―――――――――――――――――――――――

 

 戦いの空気を肌で感じるのは実に二日ぶりだった。廃村で戦ったあの男と比べて、目の前の女戦士はどれほど強いのだろうか。

 

「……いきます」

 

 その呟きを合図とばかりに、焼戈の薙刀が閃光となって煌いた。音すら置き去りにするその一撃は、まさに神速と言って差し支えなかった。

 

 迫り来る一撃に馬岱はすぐさま対応した。構えた十字槍の切っ先を敵の得物に当てがうと、横合いに押し込んで軌道を強引に捻じ曲げる。狙いと勢いを失った薙刀の刃は彼女を傷つけることなく明後日の方角へ逸れていく。

 

 神速の一撃を防がれ、女戦士はほんの僅かだが動揺していた。薙刀に込められた力に若干の迷いを感じた。

 

 弾きによって生じた僅かな隙を存分に生かし、彼女は即座に反撃に転じた。当てがった槍を薙刀に沿って振るい、その切っ先が焼戈の胴体へと突き入れる。

 

 繰り出された反撃の刃を、焼戈もまた当てがわれた薙刀の柄の部分で押し返した。まるで数瞬前の焼き回しのように槍の切っ先が跳ね上がり、焼戈の服の上辺だけを切り裂いて宙に浮かぶ。

 

 互いに一撃ずつ見舞った二人は再び距離を取り、同じような位置で対峙し合った。

 

 ――できる。

 

 馬岱は不意に隴西で稽古を積んでいた頃の事を思い出した。焼戈の太刀筋は所々で馬超に似通っており、無性に懐かしさを感じさせた。その真っすぐな強さも。

 

 乙女たちが己の得物を振るう度、幾つもの火花が空中で弾け、眩い光と甲高い金属音がそこら中で瞬いた。あまりの撃ち合いの凄まじさに、サルカンはおろか周りにいた戦士たちでさえいつしか言葉を失い、ただただ目の前の戦いに見入っている。

 

 斬る、防ぐ、叩き込む、逸らされる、突き入れる、弾かれる、薙ぎ払う、躱される――繰り返される攻防の数々。しのぎを削りながら見せ合う技術の数々。だがいずれも致命傷には至らず。勝負の決着はつかず。

 

 そのまま剣戟の響きが二十を越えようかという時、不意に両者がその動きが止めた。

 

「やるね。考えてたよりもずっと強い」激しく肩を上下させながら馬岱が声を上げた。これほどの強者に出会えたことが嬉しくてたまらないのか、唇は大きな笑みを作っていた。「さっきは疑ったりしてごめん。あなたの腕前、素直に見直したよ」

 

「……そうですか」同じく肩で息を整えていた焼戈が静かに答えた。内気な性格と言われていた彼女も、知ってか知らずか己の口元に小さな微笑みを浮かべている。「貴女もやります。とても、強い」

 

「蒲公英だよ」

 

「……?」突然告げられた単語に焼戈は思わず首を傾げる。

 

「私の真名。あなたの強さに敬意を表して、この名前を預けるよ」

 

 武人同士の決闘において、実力を認めた相手に真名を預けるのは別段珍しい事ではない。どちらかが死ななければならない戦場で討ち果たした敵の名を覚えておくというのは、武芸者としての最上級の礼儀でもあり、同時に誇りでもあった。

 

「……ありがとうございます。では私も……雛菊です」彼女もまた同じく、自らの真名を相手に預ける。

 

「いい名前だね」

 

「そちらこそ」

 

 まるで古くからの親友であったかのように、乙女たちは互いに無邪気な笑みを浮かべる。が、それも一瞬の事。次の瞬間に言葉の代わりに武器を交わすのだと言わんばかりに、二人は改めて戦いを開始していた。

 

 馬岱が渾身の一撃を放てば、迷うことなく焼戈がそれを迎撃し、焼戈が必殺の攻撃を振るえば、馬岱がそれを見事にいなして反撃に転ずる。終わりの見えない命のやり取りはまるで寄せては返す波のようでもあり、永遠に終わらない演武のようでもあった。

 

 最後の会話から一体どれほどの数を打ち合ったのだろう。周りの人間でさえ数を忘れるほど激しい攻防を繰り広げていた二人の剣戟の音色が、ついに止まった。奏者を務めていた馬岱の身体は全身くまなく切り刻まれており、服はどちらの物とも知れない鮮血で真っ赤に染まっている。対する焼戈もまた、体中にかなりの切傷を作り、滴る鮮血で己の体を深紅に濡らしている。

 

 息を切らせながら両者は直観した――次の一合は、互いに全身全霊を込めたものになるだろうと。

 

 もし相手の一撃を防げなければ、自分には確実な死が待っているだろう。だが自分の攻撃を当てる事が出来れば、目の前に立ち塞がるこの強敵を討ち倒すことができる。彼女たちに迷いはなかった。

 

 ざり、っと馬岱が前へ進み出た。相棒たる十字槍の切っ先が、目の前に立ち塞がった女戦士に狙いを定める。

 

 同じく焼戈も薙刀を振りかぶった状態で構え、摺足で少しずつ確実に間合いを詰める。

 

 観客たちは息を呑む。次の一撃によってはどちらかが死なねばならない。

 

 決着まであと三歩……あと二歩……あと一歩……

 

 そしてついに運命の一合が繰り出されるだろうというその瞬間――

 

「そこまでだ!」

 

 突如、どちらのものでもない声が決闘の場に響き渡り、漂っていた空気を一変させた。

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 声の持ち主は他でもない餓何だった。静かに告げられた彼の一言は、息が詰まるほどの熱気に包まれた荒野の中で異常な冷たさを持っていた。

 

 決死の勝負に水を差された馬岱が顔を真っ赤にさせて激怒する。「は!? なんで止めんの!? まだやられてないじゃん! たんぽぽはまだ戦えるよ!!」興奮冷めやぬ彼女の視線は、場合によってはそのまま刃を餓何へと向けそうな程に鋭い敵意を含んでいた。

 

「……義兄上、私もまだ戦えます。どうか勝負の決着を付けさせて下さい」焼戈も同じく、募った餓何への不満を隠そうともしない。

 

 周りの空気も似たようなもので、戦士たちからは口々に「神聖な決闘を邪魔立てするか!」「最後まで決着をつけさせるべきだろう!」という怒号や罵声が次々に飛び交っている。中には馬岱同様、餓何へ刃を向けようとする者までいる始末だ。

 

 だが餓何は頑として譲らなかった。「もう十分だ。雛菊とここまでやり合える時点で、お前の戦士としての腕前は文句のつけようがない。それにお前たちはこれから戦に赴くんだぞ? 互いの勝負に拘って命を奪い合っては元も子もない。その力は馬謄殿を救うために取っておけ」

 

 とても納得できるような言い方では無かったが、彼の主張そのものはとても正しく理路整然としていた。反論する術がない以上、さしもの二人も引き下がらざるを得ない。

 

「……はぁ……分かったよ」怒りと興奮を溜息と共に追い出した馬岱が、ようやく武器を下ろした。顔には未だに不満が残っていたが、理由が理由なだけにそれ以上の反抗はしなかった。「勝負はお預けだね。でも次に戦う事があったら、今度は必ず決着を付けるから」

 

「……それはこちらも同じです。次の機会には必ず勝ちます」

 

 武器を下ろし和解の握手を交わすと、二人は広場の端へと引っ込んでいく。

 今度は餓何が広場の中央までやってくると、そのまま腰に佩いていた得物を引き抜き、切っ先をサルカンへ突きつけた。

 

「次はサルカン殿の番だ。念のために言っておくが、今の勝負を止めたからと言って手加減があるなどと思ってくれるなよ。真名を預けた相手と言えど、決闘の最中に手心を加えるような真似はしない。命が惜しければ、全力で向かって来る事だ」

 

 サルカンは頷いた。戦士の心得とは常にそういうものだった。人間としての心情と戦士としての畏怖や闘志が同居し、それらは決して矛盾しない。間違いなく餓何は本気で自分を殺しにかかるだろう。ならば自分も真剣に臨まなければならない。

 

 忠告の返答とばかりにサルカンも借り受けた剣を身構えた。腕にのしかかる鋼の重さは、己の命を預けるにふさわしい手応えだった。

 

 二人から戦いの気配が満ちたのを徹里吉が認めると、立会人として再び声を上げた。

 

「では――はじめよ!」

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 サルカンが餓何と対峙するのはこれで二度目となるが、実際に戦うのはこれが初めてだった。彼は剣を低く構え、こちらの隙をじっと伺っている。油断のないその身のこなしは、どこか獲物に襲いかかる前の肉食獣に似ていた。

 

 サルカンはできるだけ隙を見せないように立ち回りながら、ゆっくりと相手との間合いを詰めた。大きく動くけばそれだけ相手に付け入る隙を与える。彼はあえてそれを避け、少しずつでも自分が有利な立ち位置を探る道を選択した。

 

 先ほど馬岱達が繰り広げたのが「動の戦い」ならば、こちらは差し詰め「静の戦い」だった。直接の打ち合いこそ未だ無いが、既に互いの脳内では幾つもの刃を交えていることだろう。もし一瞬でも相手に隙を見せれば、それは即座に致命傷へと繋がりかねない。

 

 始まりの合図から既に数分の時が経過した。試合を眺める馬岱の喉はいつしか緊張感と圧迫感でひりつき、何度も乾いた唾を飲み込む。周りの観客や立会人である徹里吉でさえ重苦しい空気に冷や汗をかき、じっと決闘を見つめていた。

 

 重苦しい空気のまま更に数分が経過した。よもやこのまま互いに動かず日が暮れてしまうのではないだろうかと人々が錯覚し始めた刹那――ついに勝負が動き出した。

 

 先に動いたのは餓何の方だった。彼は気合いの声と同時に体を前傾させると、這うような姿勢でサルカンへと接近し、渾身の突きを放つ。

 

 喉元めがけて猛然と襲いかかる刃を、サルカンは剣を振り払うことで防ぐと、後ろに下がって距離を取った。

 

 ――強い。奴の強さはさっきの娘と同じか、或いはそれ以上だ。

 

 時間にして秒にも満たない刹那、たった一度の攻防の中で、サルカンは餓何の戦士としての技量の高さを恐ろしいほどに実感していた。

 サルカンには餓何の突きが全く見えていなかった。彼は餓何の視線や攻撃に転じる前の僅かな体の動きから自分のどこを狙っているかを悟り、半ば本能に従うように剣を振り払ったに過ぎない。

もし今以上の早さで近づかれれば、次はとても防ぎ切れなないだろう。

 

 ――手段を選んでいる場合ではない。

 

 彼が背筋を凍らせる中、再び餓何が斬りかかった。今度は先ほどよりいくらか姿勢は高めではあったが、動きの早さは先ほどの倍以上に及んでいた。

 

 サルカンの判断は早かった。彼は持っていた剣を素早くその場に放すと、両手を龍の頭部へ変化させ、憤怒のような炎の塊を目の前の戦士に向かって吐き出した。

 

 《苦悩火》http://imgur.com/a/5QmCO

 

 突如現れた火炎の渦を防ぐ手立てはなく、餓何はそれを全身に浴びてよろめいた。彼は呻き声を上げながら何度も地面を転げ回ると、己に降りかかった火の粉を必死に消し去ろうと試みる。そしてそれらが完全に収まる頃には、サルカンの突きつけた剣が待っていた。

 

「勝負は俺の勝ちだな」彼は静かに宣言した。「ご満足いただけましたか。大王様」

 

 信じ難いものを目の当たりにしたと言わんばかりに徹里吉はしばらく言葉を失っていたが、やがて目の前で起こった結果を認めぬわけにもいかず、唸りながらも首を縦に振った。

 彼同様に周りの戦士たちも信じられないという風に互いに囁き合い、或いは茫然とその場を見つめている。

 

「今はなんだ?……俺は何をされたんだ?」当の本人である餓何も困惑した表情でサルカンを見つめた。そこには困惑以上に強い警戒心が露わになっていた。

 

 突き付けていた剣を下ろし、サルカンは言った。「なに。ちょっとした子供騙しのようなものだ。俺はお前ほど剣の腕前は持っていないのでな。勝つにはこの手しかなかった」彼が語ったのは決して真実では無かったが、紛れもない事実ではあった。彼に龍魔道士の呪文について細かに説明した所でかえって困惑するだけだ。「それよりすごいな、お前の剣は。その若さであの腕前ならば、頭目を任せられるのも納得だ」

 

「……あんたは、妖憑きなのか?」震える声で彼が尋ねた。「炎が見える前、あんたの手が一瞬、蛇のように変化するのが見えた。あれは一体……?」

 

「恐らく何かの気のせいだろう」質問に答えず、サルカンは言葉を続けた。「俺の手の動きが炎に紛れてそういう風に見えたのかもしれないな」

 

「はぐらかすな! お前は一体……!!」

 

「――彼はな、遠い異国から流れ着いた英雄じゃよ」

 

 突如聞こえた第三者の声音に、その場の全員が視線を移す。

 果たして観客たちをかき分けて現れたのは、天幕の前でサルカン達に声を掛けてきたあの老人だった。

 

「貴方は先程の……」

 

「うむ。また会うたな。旅人よ」陽気とすら思える気軽さで、老人が挨拶を返した。

 

 声の正体を知った餓何がひるんだように呟いた。「だ、大巫師様……」

 

 餓何と同じく、周りの観客たちも老人の姿を認めるや、次々と驚きと畏敬の声を上げる。彼らの態度や大巫師という役職から察するに、どうやら老人は羌の中でもかなりの地位を占めているようだった。

 

「大巫師殿。貴方は彼が何者か知っておられると言うのですか?」突如現れた老人に今度は徹里吉が尋ねた。大王である彼がそのような口調で接することからしても、やはり老人はただ者ではないらしい。

 

「この男はな、遥か彼方の異国からはるばるやって来たのだ。我らの知らぬ術を一つや二つ持っていたとしても、何ら不思議ではあるまいて」

 

「遥か彼方の地……それは西域ですかな?」

 

「まあ、そんなところじゃろうて」老人はどこかはぐらかすように言った。それはサルカンに対する彼なりの気遣いようにも感じられた。

 

 そうとも知らず、徹里吉は考えるように唸った。「ふむん。よもや西域にあのような術があるとは我も知らなんだ。まさか炎を吐き出すとは……まるで古くからの言い伝えに聞く龍のようだな」

 

「ほっほっほ。大王は面白い事を言うのぉ。ならば彼の事は“龍血の英雄”とでも名付けるがよかろう」

 

「龍血の英雄……なるほど。確かにそれは上手い名前かもしれませぬな」

 

 彼らが付けた名前にサルカンは思わず苦笑した。偶然にも彼らが示した肩書きは、サルカンの本質を実によく捉えていた。もし彼らが目の前のプレインズウォーカーの全てを知ったら、間違いなくその名を付けたことを誇るに違いない。

 

「大王様。我らはいずれもこの決闘にて己の実力を示しました。どうか我々二人を羌族の軍へとお迎えください」サルカンは言った。有無も言わさぬ強い声音だった。

 

 徹里吉が大きく首を振ると共に改めて二人に告げた。「――馬族の娘に龍血の英雄よ。其方ら見事、我らの前にその力を示した――認めよう。そなたらは間違いなく、我ら羌族と共に轡を並べるに相応しい人物だ」

 

 大王の厳粛な宣言とともに、周りの人間から盛大な拍手喝采が彼らに向かって贈られる。

 今この瞬間、二人は羌族の盟友として正式に迎え入れられたのであった。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 すっかり日も落ち、空に月が姿を見せ始めた頃、二人はあてがわれた自分たちの天幕の中で遅めの夕食にありついていた。

 振る舞われた食事は他の戦士たちが口にしていた物に比べてどれも上質なものばかりで、どうやらそれは遠路遥々やって来た自分たちへの歓待の意味も込めてあるらしい。

 

「ねえおじさま。あれも別の世界で覚えたの?」

 

 よく焼けた子羊の肉にかぶり付きながら、馬岱が気になり顔で尋ねてきた。事情を知っているとはいえ、彼女がサルカンの魔術を目の当たりにするのは今回が初めての事だった。

 

 同じく羊肉の串焼きに齧りついていたサルカンは、それを馬乳酒で強引に胃の奥へ押し込むと頷いた。「あれは“龍魔術”と言う。龍の激情を呼び起こしたり、龍の息吹を模倣して炎を操る呪文だ。極めた者は体の一部や自身の姿を龍に変える事もできる。こんな風に」そして片方の手をドラゴンの頭に変化させると、そこから小さな火炎を吐き出して見せた。

 

「へえ……」興味津々と言った表情で彼女がサルカンの龍頭を見つめる。「練習すれば、たんぽぽも出来るようになるかな?」

 

 どう答えたものか、とサルカンは少々唸った。呪文の習得は訓練の仕方にもよるが、それ以上に本人の素養が大きく影響される。まして魔術が殆ど伝わっていない次元の人間がそれを扱えるようになるかどうかは、まさしく神のみぞ知ると言った所だろう。

 とは言え、少女が抱く儚い夢を潰してしまったとあってはそれこそ大人気が無いというものだ。

 

 ドラゴンとなった手を元に戻し、サルカンは肩を竦めた。「まあ……それは今後の訓練次第だろうな。どうしても知りたいというのなら、戦いが終わった後にでもやり方を教えてやる。それより傷の具合は大丈夫か?」

 

「うん。塗って貰った薬がよかったみたい。まだちょっと痛むけど、明日には跡もなく治るだろうって」全身に貼りつけられた湿布を見つめながら彼女が言う。独特な匂いを放つそれには、羌族の人々が調合した軟膏が塗られていた。「ところでさ、おじさまは本当に良かったの? おじさまは羌族も役人も関係ないんだよ? それなのに一緒に戦ってくれるなんて……」

 

「昼間も言ったが、俺は馬騰殿やあの街の人々、そしてお前から数え切れないほどの恩義を貰っている。お前や彼らが戦うというのなら、俺も一緒に戦おう」

 

 それは紛れもないサルカンの本心だった。もし彼らが窮地に差し掛かっているというのであれば、自分は喜んで手を差し伸べる覚悟だった。龍魔導士としての力が彼らの助けになるのならば尚更に。

 とは言え、自分一人の力で出来ることは多くない。確実に馬騰や隴西の人々を救うには、やはり羌族との連携が必要不可欠だった。

 だがそれは既に解決した。あとは羌族と隴西の人々のために龍の力を振るい、一人でも多くの敵を倒すだけだ。

 

 彼は食べ残していた食事の残骸を片づけると、天幕の隅でごろりと横になった。「明日からは彼ら一緒に戦の準備だ。忙しくなるぞ。お前も早くに休んでおけ」

 

 彼の忠告に頷いた馬岱も同じくさっさと残りの夕飯を平らげると、同じく横になって眠りにつく。

 

 そう、単純な話だ。

 戦って、敵を倒して、隴西の人々を助け出す。

 サルカンが求める事実はたったそれだけの事だった。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

 それからの数日は瞬く間に過ぎ去った。

 

 出撃の準備を整えるべく、サルカンと馬岱は野営地の中を雑務や話し合いでかけずり回った。その間、自分たちの所属する部隊や共に戦う仲間、そして戦場で指揮を執る将軍たちとの面通しや打ち合わせも忘れていない。

 どうやら二人とも餓何や焼戈と同じ部隊に配属されるらしく、顔を合わせた他の面々も、村から野営地まで共に駆け巡った者たちばかりだった。数日とは言え、共に寝食共にした仲間との結束ほど頼もしいものはない。

 二人は彼らとの連携やその戦術を少ない時間で限界まで頭に叩き込み、いつでも出撃できるように備える。彼らもまた馬岱やサルカンを喜んで迎え入れ、部隊の仲間として接してくれた。

 

 そしてついに、運命の日が訪れた。

 

 その日は雲一つない青空だった。吹き抜ける風も遠く運ばれてきた草花の匂いに包まれ、春先の心地よさを皆に恵んでいる。この上を飛べばさぞ心地が良いことだろう。例えそれが戦場へ赴く旅路だったとしても。

 サルカンと馬岱は餓何や焼戈と共に先頭の隊列に並んでいた。彼が跨っている飛龍も同じく、高まる気配に低い嘶きを上げ、今か今かと出撃の時を待っている。

 

 つと、隊列の前に徹里吉が姿を現した。

 ただそれだけの事だというのに、戦士たちの空気が一変した。大王自らの登場に皆が注目し、その一挙手一投足を目で追っている。

 

「戦士たちよ。我らは今まで多くのものを失ってきた」全員の意識が自分に集中しているのを確かめながら、彼はゆっくりと語り始めた。「幾人もの同胞を、安心して眠れる村や野営地を、家族にも等しい馬や羊を。何故か。それは漢人どもの卑劣な弾圧に抵抗しなかったからだ。奴らの理不尽に屈していたからだ」

 

 言葉はない。この場に居る誰もが王の言葉を無言で受け止め、己の心に刻み込むように聞き入っていた。

 

「このままではそう遠くない未来、我々は漢人どもによって滅ぼされるであろう。その運命を座して待つべきだろうか? 違う。ならば降伏と共に奴らの手下に成り下がり、温情による生存を期待するべきか? 違う。ではどうするべきか? 戦うのだ!」

 

 そこかしこで歓声が湧いた。吼え猛る声を上げ、戦士たちは次々と興奮の渦を広めていく。

 

「これより我らは盟友が待つ隴西へと赴き、彼らと戦う悪しき漢人どもを討滅する。それこそが羌族の選択だ。同胞を守るために剣を執る戦士たちの選択だ!!」そして彼は腰に差していた剣を勢いよく引き抜くと、それを高らかに天に掲げた。「羌族のために!!」

 

「羌族のために! 羌族のために!!」大王の宣言と同時に、戦士たちは次々と盛大な声を張り上げた。響き渡る雄々しき咆哮は大地と空気を震わせ、巨大な鬨の声となって平原の上を駆け抜ける。「羌族のために! 羌族のために!」

 

「いざ進め戦士たちよ! 隴西にて忌まわしき漢人どもを討ち滅ぼすのだ!」

 

 彼の言葉に応えるべく羌の戦士たちは次々と野営地を飛び出すと、見果てぬ平原の中を猛然とした勢いで突き進んでいく。

 

 やがてサルカンと馬岱も彼らに続いて馬を平原へと走らせた。かつて旅だったあの街へと戻り征くために。新たな家族を助け出す為に。

 

 《龍血の英雄、サルカン》http://imgur.com/a/A6oEE

 

 




※1 苦悩火/Banefire コンフラックス

※2 龍血の英雄、サルカン/Sarkhan, Hero of Dragon's Blood 外史戦記

 次回の更新は少し遅れそうです。


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『外史』を取り巻くもの その1


 前回のキーワード能力紹介に引き続き、今回はいずれ物語内にも登場するであろうカードの一部を紹介しようと思います。こちらもマジック的な世界観を現すフレーバーの意味しか持っておりませんので、気に入らない方は読まなくても結構です。


 

『外史戦記』プレビュー第1週にようこそ。この記事では本作の雰囲気をより鮮明するためのカードを紹介していく。これは実際のカードではないし、これらを使って実際にゲームをするわけではないが、どうかそうであるかのように楽しんでいただければ幸いである。では早速見ていこう。

 

『献策士サイクル』

 

《清廉な献策士》https://imgur.com/a/ppelp

《狡猾な献策士》https://imgur.com/a/5mK3A

《熱心な献策士》https://imgur.com/a/i6gUK

《堅実な献策士》https://imgur.com/a/6eGav

《有望な献策士》https://imgur.com/a/hkXE3

 

外史のような戦乱の世界に必ずと言っていいほど求められるのは、統率する君主――勇猛果敢な戦士たち――そして彼らに様々な作戦を提供する頭脳、軍師たちである。

彼らは実際の軍師と同じく己が付き従う勢力に最も有利だと思える策を提供し、その活動を支援する。だがその代償として彼ら自身は1ターンのあいだ身動きが取れなくなってしまうのだ。これは少し痛手ではあるが、だがそうだとしても彼らが効果はどれも魅力的で、リミテッドでは必ず君の役に立つだろう。

また、彼らは基本的に自分の勢力に最も合うようにデザインされているが、使い方次第では別の勢力と共に戦う事になっても十分効果を発揮することができる。これは共闘することもある戦場においても十分フレーバーとして活用できるだろう。

 

『活用サイクル』

 

《糧地活用》https://imgur.com/a/DDb8N

《農地活用》https://imgur.com/a/2dRd9

《高地活用》https://imgur.com/a/iP1dd

 

この三つのオーラ呪文は、戦乱の時代ならではの土地の運用方法について表現している。一方は荒れ果てた土地を再生させて国力とし、はたまたもう一方は敵が整備した領土を奪って自分のものとし、またある一方は自分たちに有利な地形を更に有利な形へと作り変えてより強力な国力を出せるように工夫している。どれも各陣営の特色を表しており、その違いを楽しんでもらえれば何よりだ。

 

 

《殲滅》https://imgur.com/a/iCmA6

 

このようなリセットカードは白の役割としてしばしば作られるが、全てのクリーチャーと過去にあったもの(墓地にあるカード)をすべて追放という形で無くすというのは戦争のすさまじさを如実に表しながらも実用性を高めているので、私はとても気に入っている。

 

 

《羌族の剣歯虎》https://imgur.com/a/YBJ55

 

以前コメントで、外史には人間以外は登場しないのかという意見を目にした。率直に言えば、外史ブロックのクリーチャーは人間がメインではあるが、登場するのは決して人間だけとは限らない。例えば西涼は軍隊に動物やエレメンタルを使用していることもあるし、他の陣営もアーティファクトを使う時もある。他にもいろいろな種族が登場する予定ではあるが、どのようなクリーチャーが実際に物語に登場するのかは、後々の楽しみにしておいてほしい。

 

 

《防賊の砦》https://imgur.com/a/Nz9vn

 

こちらも同じく人間以外のクリーチャーだが、こちらは砦であり、外的から身を守るための施設である。このクリーチャーの特徴はなんといっても、相手の騎馬クリーチャーをブロックできるところにある。騎馬は相手のブロックをすり抜ける能力ではあるが、現実として馬の機動力とは純粋に拠点のない野戦で真価を発揮する。このように砦や城を前にしては何の役にも立たないのだ。

 

 

《強迫》https://imgur.com/a/xAcpV

 

このカードが最後に収録されたセットはタルキール龍紀伝だった。黒の象徴たる手札破壊がどのような理由で収録から遠ざかっていたのは自分には分からないが、このセットにおいては黒の重要なファクターであり、同時にこのセットでは欠かすことのできない要素である考えたので、このたび強迫を再録することにした。

 

『戦略サイクル』

 

《朝廷の戦略》https://imgur.com/a/L5foG

《曹魏の戦略》https://imgur.com/a/8Rvqo

《蜀漢の戦略》https://imgur.com/a/TZKv9

《西涼の戦略》https://imgur.com/a/MxxdJ

《黄巾の戦略》https://imgur.com/a/NOLqK

 

これらのカードも各陣営の強さを象徴するカードだが、その真骨頂はプレイヤーが戦略の強さ選択できることにある。

と言うのも、戦いの真骨頂とはその変幻さにあり、まるで生き物のように常に状況を変化させる所だと考えている。戦略サイクルは彼らが持つ武力と知力という二つの力を主軸としながらも、盤面に合わせてあなたが最も望む方を授けるカードなのだ。

サイクルの特徴として、武力を選択した場合はあなたのクリーチャーに何らかの恩恵を、知力を選んだ場合はそれ以外の行動やカードに恩恵を受けられるようにデザインしてある。武力で攻めるか、知力で戦うか――君が最善だと思う方を選んでほしい。

 

 

今回はここまで。次回はいよいよ勢力の中枢である指導者たちを紹介していこうと思う。本編のほうも引き続き頑張っていくので、そちらも楽しみにしていただきたい。

 





お久しぶりです。
この夏はコミケの原稿を作ったり転職したりと大忙しでこちらに手を付けている暇がありませんでした。また時間が取れ次第作っていきますのでよろしくお願いします。


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開戦

 世に言う『狄道の戦い』は、隴西郡太守であった馬騰の裏切りが引き金となって始まったとされている。

 当時、五万を超える規模にまで膨れ上がっていた涼州の叛乱軍を討伐すべく、車騎将軍を拝命した司空・張温と中郎将・董卓は涼州刺史の耿鄙と共に洛陽から敵本拠地である金城郡を目指していた。

 ところが、補給の為に立ち寄った狄道の城において、討伐軍に合流するはずだった馬騰軍が突如反旗を翻し、彼らの前に立ち塞がったのである。

 この裏切りの背景には『羌族の親戚筋であった馬騰は最初から韓遂や反乱軍と結託しており、討伐軍を欺く為にあえて朝廷の要請に応じていた』とする説や『馬騰は当初は討伐軍に与していたが、耿鄙が行った他民族への虐殺や弾圧をよしとせず、その結果として反旗軍に組した』とする説など、様々な俗説が唱えられているが、いずれも推測や憶測の域を出ていない。

 確かな事が言えるとすれば、『外史全土の歴史を振り返ってみても、これほど劇的かつ奇妙な戦は二つとない』と言われたこの戦いは、彼女の裏切りによって幕を開けたという事だけだった。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 闇を見つめていた。

 燃えるような赤光が東の空より姿を現し、黒一色だった世界に新たな色と風景を描き出す。それはまるで新たな世界の誕生のようであり、見れば誰もが美しいと感じる光景だった。

 だというのに、それを見つめる馬休の心は未だ暗い闇の中にあった。

 目を奪うようなこの景色も、間もなく残酷な色に塗り込められる――傷つき倒れた人々の遺体と、そこから流れ出る夥しい量の血によって。

 むせ返るような死と戦いの臭いは風に乗って大陸全土へと吹き抜け、人々にその狂気を醜聞として伝播させるだろう。例えそれが生き残るために選んだだった一つの道だと分かっていても、馬休は気が滅入ってしまいそうだった。

 

「鶸(ルオ)」不意に背後から己の真名を呼ぶ声が聞こえた。凛々しい女性の声。それには大いに聞き覚えがあった。「こんな所で何をしてるんだ?」

 

「……姉さん」

 

 振り返ると、そこには自らが敬愛する姉にして馬騰軍一の将を務める馬超の姿があった。

 彼女の装いはいつもと変わらず、手には愛用の槍を携えていた。おそらく日課である槍の稽古をしていたのだろう。自分たちの運命を決める大事な戦の前だというのに、普段と何ら変わることのないその穏やかさは、馬休に呆れや怒りを通り越して関心してしまうほどだった。

 

「……何でもないよ。少し、考え事をしてただけ」

 

 彼女の質問に馬休は首を横に振った。自身の不安をわざわざ相手に伝えるのはどうにも躊躇われた。

 戦いが始まれば、真っ先に全軍を指揮するのは紛れもなく姉だ。そんな大事な人間に、わざわざ自分が抱えている不安を伝えて悪影響を与えたくはなかった。

 しかしそんな自分の考えなどお見通しだと言わんばかりに馬超は言った。

 

「あまり気を詰めすぎるなよ。ここまで来たら後はもうなるようにしかならない。あとは全力でもって戦うだけだ」彼女の口調は軽かった。まるで他人事のようであり、自分がその最も重い立場にいるとは露とも思わせぬ口調であった。

 

 何故、という言葉を馬休はすんでの所で喉奥へと飲み込んだ。自分のためだ。不安を感じている自分を励ますために、彼女はあえてそんな風に言葉を掛けているのだと知れた。

 

「そう、だよね……そう思うしか、ないんだよね……」彼女の思いを汲んで馬休は一応の同意を示した。だが実際はとてもそんな気分にはなれなかった。

 

 姉は武人だった。どこまでも戦いに身を任せることが出来る武人――背中を預けた味方が凶刃に倒れていく中でも躊躇なく敵を屠り、最後の一人になるまで握りしめた武器を振るい続けることができる人種。だが自分はそうではなかった。

 馬休は戦いに己の全てを委ねる事が出来なかった。武人になりきることが出来なかった。姉や母はそのことで彼女を疎む事は決してなかったが、それでも彼女の中に生まれた自責と後悔の念は、今でも自身の中に小さな劣等感を作っていた。

 

「悪いな。兵站のこと、全部任せっきりにしちまって。あたしや母さんも、もっと力になれたら良かったんだけど……」

 

 そう言って馬超はどこかばつの悪そうな顔を作った。実際そう思っているのだろう。自分が戦う事については人一倍優れている姉であったが、その前段階――謀略や戦備といった武器を振るう以外の戦いについては、あまり得意ではなかった。

 

「ううん。姉さんにも母さんにも自分の役割があったんだから、気にしないで」馬休は再び首を振った。兵站の確保や戦術の考案は馬休は見つけた自分の居場所だった。姉よりも力で劣る自分が、わずかでも皆の助けになるために。

 

 彼女の言葉に馬超は表情を和らげると、やがて塀の向こうへと歩き出した。その背を見送りながら、馬休は再び先の事を考える。

 この戦いで果たして自分たちは生き残れるのだろうか。敵の数は斥候からの話によるとこちらの倍以上は控えていると言う。今はまだ油断しているだろうが、決して慢心していない。もし最初の戦いをしくじれば、あっという間に滅ぼされてしまうだろう。そうなればこの先に控えている金城の味方も、羌族の人々もいずれは滅ぼされる運命にある。それだけは何としても避けなければならない。

 そのためならば、仮に自分が死んだとしても……

 

「鶸!」

 

 そんな風に考えていた時、振り返った馬超が再び自分に言葉をかけた。

 何だろうかと彼女の顔を見つめる馬休だったが、そこへ返ってきたのは真摯で切実なまでの願いだった。

 

「死ぬなよ。あたしらは生き残るために戦うんだ。そのために死んだら何にもならないぜ?」

 

 姉のこう言ったどこまでも真っ直ぐな所が馬休は好きだった。誰よりも強く自分たちを先導していく存在だというのに、時々こうして情けないほどに自分の気持ちを正直に話す。そんなところが自分はたまらなく憧れる所であり、尊敬する所でもあった。

 

「ありがとう。姉さんこそ、絶対に死なないでね」

「当ったり前だ。あたしがこんなところで死ぬと思うか? 死ぬならこんなところじゃなくて、もっと大きな戦で華やかに死んでやるさ」

 

 再び離れていく姉の背中をひとしきり見送った後、馬休はもう一度地平線の彼方を見つめ、間もなくやってくる敵の姿を想像し、それを如何にして倒すかを日が昇りきるまで必死に考え続けていた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 脳裏に紛れ込んだ思考の切れ端を、董卓は何度目かの溜息と共に頭の隅へと追いやった。

 隴の城を出立してから数日、討伐軍の足取りは決して軽やかとは言えなくなっていた。と言うのも、隴の城から隴西郡へと続く道の多くは傾斜を含んだ隘路や勾配のきつい山道によって構成されており、現地の人間ならともかく、洛陽からやって来た兵士の多くは慣れぬ悪路を相手に苦戦を強いられ、気力も体力もすっかり使い果たしていた。

 今も兵士たちの顔色や思考からかなりの疲労や苛立ちが見て取れる。このまま行軍を続ければ、今後の士気や戦いそのものにも影響を及ぼしてくるだろう。

 急がなければならない、と董卓は改めて実感した。

 

「皆さん。もう少しで我が軍は狄道の城に到着します。だからそれまで、もう少しだけ頑張って下さい!」

 

 自分に出せる精一杯の声で董卓は兵士たちを鼓舞した。親しい何人かの兵士たちは自分の声に愛想のいい返事をしたが、面識の薄い兵士たちは思考の内で自分への悪態を浮かべるばかりであった。

 彼女は渦巻く人々の感情に僅かな苛立ちを募らせた。やはり他人の心が読めて嬉しい事など一つもないのだと実感した。

 

「流石にみんな疲れが出始めてるわね……」

 

 すぐ隣から沈み込んだ女性の声が聞こえた。副官として控えていた賈駆であった。

 静かに状況を分析する彼女だったが、その顔も他の兵士たちと同じく長い悪路に揺らされ、疲労の色を濃く示していた。

 

「狄道の城に着いたら補給も休息も取れるし大きな問題にはならないと思うけど、今後のことを考えるとやっぱり気を使わない訳にはいかないわよね……はあ、もっと早く着かないかしら」疲れを追い出すように溜息を一つ付いた後、不意に賈駆は董卓へと疑問の眼差しを向けた。「……ところで月、一つ聞いてもいい?」

 

 僅かな逡巡の後、董卓は躊躇いがちに頷いた。他者の思考が読める彼女には、これから投げ掛けられるであろう質問の内容が既に分かり切っていた。

 

「あの耿鄙って奴のことなんだけど……あいつに会ってから何かあったの?」予想通り、賈駆が尋ねてきたのは未だ正体の知れないあの男の事であった。

 

 耿鄙と出会って以降、董卓は彼の正体を探ることも思考を覗く事も控えていた。更に言えば、彼の前に姿を見せることすら徹底的に避け、まるで逃げ回るように己の姿を彼から隠し続けていた。

 それは単に自分の正体に気付いているかもしれない彼への警戒心だけでなく、無意識に覚えた恐怖心によるものだった。

 

 ――得体の知れない存在というものは、ただそこに居るだけで他者の心に強い恐怖と不安を生み落とし、その精神を蝕んでいく。そういう意味で言えば、耿鄙という男は董卓にとってまさに恐怖と不安の固まりとなっていた。

 異様な姿の人型生物、何処の大陸とも知れぬ不可思議な風景、そしてあの男が“プレインズウォーカー”と呼んでいる何か――それらについて董卓は全てを理解できていなかったが、それでも彼女なりの理論でもって情報の整理と推察を進めていた。

 

 思うにあの男は、本当にこの世界の人間ではないのではないだろうか? 誰も知らない場所からやって来た、自分たちとは全く異なる存在――それが彼の正体だとしたら?

 それなら彼を誰も知らない事にも、自分が見た奇妙な記憶の連なりにも全て説明が付く。

 だがそんな事が本当に可能なのだろうか? 『別の世界』などという子供の絵空事じみたものが、果たして実際に存在するのだろうか?

 馬鹿馬鹿しいとすら思える思考が次から次へと頭に浮かぶ。だが董卓にはそうとしか考えられなかった。

 

 いっそ目の前の彼女に思いの全てを打ち明けることが出来たら……。

 

 董卓は賈駆の顔を見つめながら咄嗟にそう考えた。だがそれは叶わぬ願いだった。これは自分と張温に課せられた役割であり、関係ない彼女を巻き込む訳にはいかなかった。

 

「……大丈夫。何でもないよ。心配いらないから」

 

 我ながら何とも弱々しい言い訳だ――自ら口にしながら董卓は皮肉げにそう感じた。そして自分以上に賢い賈駆も、同じように思っているのが手に取るように分かった。

 

「本当に?」

 

 己の能力を証明するかのように、強い疑問と確信めいた否定を含んで賈駆が聞き返した。だが董卓には首を縦に振る以外の選択肢はなかった。

 

「……うん」

 

 董卓と賈駆はしばらく無言でじっと見つめ合った。と言っても、一方は睨むように視線をぶつけ、もう一方はただ黙ってそれを受け止めるだけであったが。

 しばし見つめ合う間、董卓は賈駆の心の奥から熱く粘り付いた感情を感じた。

 

 ――彼女は苛立っている。自分に。そして何の手助けもできない彼女自身に。その心は煮えたぎる油のようであり、いつ燃え上がるとも知れぬ危うい状態だった。

 

 どうしたらいいだろうか、董卓は悩んだ。彼女の気持ちを受け入れる事は簡単だ、望む返答を返すことも。だがそれは同時に、彼女を戦とは違う危機に引き入れる事を意味していた。

 彼女が謀略に向いていないとは思わない。むしろ引き込めば間違いなく大きな力になってくれるだろう。しかし如何な名軍師であろうとも、思考と記憶を脳から消し去る事は出来ない。もし耿鄙の隠された事実を教えれば、あの男は彼女の頭脳を介して自分の目的を――自分が妖憑きである事を知るだろう。いや、もしかするとどちらも既に知っているのかもしれない。

 もしそのどちらも知られているのだとしたら、なおさら彼女を巻き込む訳にはいかない。

 

 どのくらいそうしていたのだろう。やがて刺すような眼差しを脇に逸らすと、賈駆が大きく溜息を吐いた。

 

「はぁ………もうそれでいいわ。月が大丈夫だっていうなら、ボクはもう何も聞かない。それでいいんでしょ?」

「詠ちゃん……」

 

 胸に広がる罪悪感を感じながら、董卓は親友の寛大さに感謝した。それと同時に前方から馬に跨った一人の斥候が姿を現し、状況が更新されたことを大声で告げた。

 

「ご報告いたします! 三十里ほど前方に狄道の城を確認しました!」

 

 賈駆の行動は早かった。彼女はその言葉を聞くや否や、すぐさま兵士たちに指示を出し、彼らに新たな行動を促した。「連絡はもう行ってると思うけど、もう一度城に早馬を向かわせて! 事情を説明して、少しでもこちらの受け入れ準備を急がせるのよ!」

 

 命じられた兵士は心得たとばかりに馬の腹を腿で締め上げ、再び軍団の先頭へとすっ飛んでいく。

 何人か他の兵士にも細やかな指示を出した後、賈駆は再び董卓へと向き直った。

 

「月が色んなものを背負っているのは分かってる。だけどこれだけは覚えておいて。ボクはどんな時でも月の味方だから」

 

 董卓は息を呑んだ。こんな自分に彼女は全面的な信頼を寄せ、あまつさえ隠し立てしていることを承知した上で味方でいてくれると言うのだ。これほど嬉しい事が他にあるだろうか。

 

「詠ちゃん……ありがとう……」

 

 他に何と言って良いか分からず、董卓はただただ礼を言って頭を下げた。今の彼女にはそうすることしか出来なかった。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 空気が変わった。草花の香りの中に僅かに混じった鉄と甲鎧の臭い。敵が近づいてきている証拠だった。

 城の物見台から自室へと戻った馬騰は即座に自分の戦仕度を始めた。長年愛用してきた革鎧を引っ張り出し、得物である複合弓と槍を準備する。ここから先はまさに時間との勝負だった。

 

 敵はまだこちらの裏切りに完全には気付いていない。狄道への進軍は遅々としたものだろう。連中がもたついている間に可能な限りの用意を済ませておくべきだった。

 

 出し抜けに兵士が一人、部屋の中へと駆け込んで来た。肩で息をするその様子からして、敵の接近を知らせる使者に違いなかった。「お館様! 二十里ほど前方で、斥候が官軍を見つけやした! 既に何人かの使いが城の中に入り、こちらに軍の受け入れ準備を急ぐよう要請してきてます!」

 

 馬騰はその兵士へと尋ねた。「敵軍の中に耿鄙の奴は居たかい?」

 

「物見の連中は司令官の横に控えているのをばっちり見たと」兵士ははっきりと答えた。

 

「そうかい。なら作戦は予定通りにいけそうだね」

 

 落ち着き払った様子で馬騰は立ち上がると、今までに無い程鋭い声音で命じた。

 

「敵の連絡役には了承の旨を告げてお帰り願いな。理由を付けて居座るようなら、その時は始末して構わない。こっちはその間に最後の仕上げだ。壁の上に追加の兵を配備して、街の人間を城に非難させるんだ。連絡役の連中が消えたのを見計らって門を閉めるのも忘れるんじゃないよ!」

 

 言葉を受け取った兵士はすぐさま頷くと、返事をするのももどかしいとばかりに部屋を飛び出し、城の廊下をひた走っていく。

 駆けていく兵士の足音を見送る事なく、馬騰は再び戦準備に没頭した。

 

 援軍が到着するまでの間、敵の攻撃を耐えきれるかは微妙だった。数字の上では言えば、敵との戦力差は実に四倍以上もあるのだ。まともにやり合っては勝ち目はない。それ故の籠城戦であり持久戦なのだ。

 とは言え、全く勝ち目がないという訳でもなかった。敵はここに辿り着くまでにかなり消耗している。既に気力も体力も使い果たし、兵糧や物資も今や心許無いだろう。そんな人間たちが味方だと思っていた者から襲い掛かられれば、まずひとたまりもない。

 

 負けなければいい――この戦での自分の役割は、可能な限り敵をこの場に押し留め、より多くの消耗を強いることだけだ。

 

 自分の役割に集中しろ。勝機はその先にある。

 

 戦支度を終えた馬騰は部屋を出ると、己の戦場へと向かうべく自らの歩みを強めた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 目の前に映る異常な光景に賈駆は眉根を寄せた。

 長い旅路の末に討伐軍が辿り着いた場所――馬騰が治める狄道の城は疲労困憊の彼らを受け入れる事は無く、代わりに堅牢な鉄扉を向け、頑なにその進入を拒むばかりであった。

 突き付けられた目の前の状況に兵士たちはおろか彼らを束ねている指揮官たちでさえ、不安と動揺を隠せずにいる。今はまだ辛うじて統率を保っているものの、この状態が長く続けば討伐軍の士気は大打撃を受けるに違いなかった。

 

「……どうなってるの? 報告では馬騰は軍の受け入れを快く応じたって話だったのに……」ぐらつくほどの動揺と共に賈駆が言葉を零した。何もかも彼女が想定した状況と食い違っていた。「もしかして罠? 馬騰は既に敵側に寝返ってる? いや、それならもっと引きつけてから油断しているこっちに襲う筈。こんな中途半端な位置でこっちを足止めする理由がない……。中で叛乱でも起こったと考えるべきなのかしら……?」

 

 敵か味方か――幾重もの考察が賈駆の頭の中に渦巻く。だが浮かび上がるどの仮説も、今の状況を正確に捉えているようには思えなかった。

 

 どうする。こちらに被害が出る前に冀県の転進を進言するべきか? それとも敵の攻撃に備えて今から陣地を展開する方が得策だろうか? 一体どうする? どうしたらいい?

 

 情報が不足していた。内情それさえ知る事が出来れば幾らでも手が打てるというのに、その為の手がかりを賈駆は何一つ持っていなかった。

 

 焦燥感と不安が辺りに漂う中、隣に控えていた董卓が突如、意を決したように言い放った。

 

「――詠ちゃん。私、今から狄道のお城まで様子を見に行ってくるよ」

 

 親友の突拍子もない提案に、思わず賈駆は目を剥いた。「何言ってんの!? そんな危ないコト、月にさせられる訳ないじゃない!」

 

 副司令官である親友が敵かもしれない城塞に向かう――たとえ情報を持ち帰るために必要な行動だったとしても、それはあまりにも危険に満ちた選択だった。もし僅かでも判断を違えれば彼女は囚われ、最悪の場合は殺されてしまうだろう。それだけは何としても避けなくてはならない。

 

 賈駆は説き伏せるように言った。「月、落ち着いて聞いて。このままじゃダメだっていう事は分かるわ。でも戦えない月が様子を見に行くなんて無茶よ。別の指揮官に行ってもらった方が……」

 

「それだと判断するのに二度手間になっちゃうから」董卓はかぶりを振った。彼女の口調は穏やかだったが、有無を言わさぬ強さが籠っていた。「それに張温様は私より戦いに慣れてる。もし私が途中で死んじゃったとしても、あの人なら正しい判断で指揮を続けられる。その時は詠ちゃん。軍師としてあの人の力になってあげてね」

 

「そんな……! 今から死に行くみたいに言わないで!」

 

 彼女が死ぬなどあってはならない。断じて。もしそんな悲劇が起きてしまったのなら、自分はもうこの世界で生きていく価値を見出せない。親友が――愛する人の命が目の前で失われてしまったら、自分の全てが崩れ去ってしまう。

 

 青白い顔で慌てふためく賈駆を、困惑混じりの表情を浮かべた董卓が諫めた。「そんなに心配しないで。もしそうなったらっていう仮定の話だから。そうなる前にちゃんと逃げてくるよ。だからそんなに心配しないで。ね?」

 

 その言葉に賈駆は何も言い返せなかった。客観的に見ても彼女の判断には一定の理があり、部下としてはその提案に従わざるを得なかった。「それにしたって……」

 

「――お二人とも。少しよろしいですか?」不意に何者かが二人の会話に割って入ってきた。

 

 声の方向に二人は視線を移した。闖入者の正体は、隴の城から同行してきたあの男だった。

 

「耿鄙……さん……」

 

 彼の姿を認めた途端、董卓の表情は凍り付いた。まるで恐ろしいものにでも出くわしたかのように。

 

「董卓殿。今の話、私も同行させては貰えませんか?」二人の前に進み出ると耿鄙は言った。「親しい、と言う程ではありませんが、馬騰殿と私はお互い面識があります。交渉する際には何かのお役に立てるかと」

 

「……それは……」

 

 先程までと違い、明らかに董卓は迷っていた。彼女は目の前の男に対して異様なまでの警戒心と恐怖心を抱いている。その原因が何なのか賈駆には全く分からなかったが、それでもこの男を彼女と共に行かせるべきではないということだけは、すぐに察する事が出来た。

 

 董卓を庇うように賈駆は前に出ると、目の前の刺史へと言葉を向けた。「耿鄙殿、ここはボク…いえ、私が一緒に――」

 

「それならば、某も一緒に付いて行ってもよいかな?」すると必死な賈駆の声をかき消すように、更にもう一つの気配が新たに声を上げた。

 

「張温様!?」

 

 声の正体に賈駆は再び目を剥いた――何故ならそこに現れたのは討伐軍の最高司令官を務める張温に他ならなかったからだ。

 

 驚きの声を上げる彼女を張温は手で制した。「何をそんなに驚くことがある。某とて向こうの事情が気になっていてな。聞けるものなら是非ともこの耳で直接聞きたいと思っておった所よ」

 

「ですが主要な将が三人も向かっては……」

 

 これには流石の賈駆も顔を苦くした。董卓だけでなく、総司令官である張温までもが偵察に向かうような事体は全く想定していなかった。どちらか一人ならばまだしも、この二人が同時に死んでしまえば軍の統率は一気に乱れ、最悪瓦解する可能性すらある。本命の反乱軍を討滅する前に敗退を余儀なくされる危険すらあるのだ。

 

 そんな賈駆を心配を他所に張温は悠然と言葉を続ける。「心配するな、相手は音にも聞こえたあの馬騰だ。仮にこちらを裏切っていたとしても、少数でやって来る者をわざわざ騙し討ちなどするまい。それにもしそうなった時は何も遠慮することはない。この圧倒的な兵数でもって叩き潰すだけだ」

 

 自らの理論に満足したように張温は大きく笑みを広げると、まずは自分がとばかりに狄道の城へと力強い一歩を踏み出した。「では向かうとしよう。耿鄙殿、董卓殿、付いて来てくれ」

 

 有無も言わせぬ強引さにやや呆気に取られていた三人だったが、進みゆく上官の背中を無視する訳にも行かず、董卓と耿鄙は彼に従い、賈駆はそれをただ見送るしかなかった。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 立ちはだかる七万の軍勢は、さながら大地すら食い尽くす蝗の群れを思わせた。

 既に城の周囲は蠢く人頭よって埋め尽くされ、景色全体を鋼一色に染め上げている。傍に控えている歴戦の部下達でさえ、その圧倒的な敵の数を前にただ息を呑むばかりであった。

 

「来たね」城壁の上から敵軍を眺めていた馬騰が呟いた。見れば塊の中から小さな集団が一つこちらに向かって来ている。距離のせいで顔の判別までは叶わなかったが、恐らくは張温とその部下たちに違いないと彼女は予想をつけた。

 

 ぎり、という鈍い音が唐突に城壁の上に鳴り響いた。場の緊張感がそのまま音になったようなそれは、敵の動きを察知した部下たちが反射的に弓を構えた音だった。

 馬騰は軽率な部下の行動に小さく眉を顰めたが無理もない。敵軍の大将が護衛も付けずに目の前までやってきたのだ。これから始まる戦いへの影響を考慮すれば、兵士としてこれを撃たない手はない。

 

 放っておけば今にも撃ってしまいそうになる彼らを、馬騰は鋭い口調で制した。「まだ待機だ。あたしが合図するまでは一発も撃つんじゃないよ」

 

 最初は何を馬鹿な、という表情を見せていた部下たちだったが、刃のような主の声音と剣幕に彼らも恐る恐る鏃を下げる。口では何も言わないが、やはり顔色には口惜しさを見せていた。

 ――戦に慣れている筈の部下たちがここまで取り乱すとは、やはり数の力は侮れないな、と馬騰は改めて実感した。

 そうしている間にも前方の集団が近づいて来る――予想した通り、その顔は敵の総司令官である張温とその部下である董卓、そして耿鄙のものだった。

 

「母さん……」

 

 部下と同じく苛烈な視線で一団を見つめていた馬超が声を発した。その顔色と声は今朝がた馬休に聞かせていた穏やかなものとは打って変わり、燃え上がらんばかりの怒気と憎悪によって震えていた。

 

「翠、お前はこの軍にとって重要な指揮官だ。あんたの感情は全ての部下に伝播する。怒りも動揺も怯えも」馬騰は皆にも聞かせるようにその言葉を放った。「そしてお前が怒りを放つのは今じゃない。だからそれまでは何とも思っていないかのように振舞いな」

 

 指揮官としてこれからの彼女に必要なのは冷静さと狡猾さだった。戦いに必要な技や心は既に十分過ぎるほどに鍛えられている。次に鍛えるべきはその精神――特に軍団を預かる者としての素養だった。

 

 吠えかかるように馬超は言葉を返した。「母さんは……何とも思わないのか!? あいつが……耿鄙の野郎が目の前にいるってのに!」

 

 彼女は既に燃え立つ怒りに囚われていた。それは戦士として当然持つべき感情ではあるが、指揮官として容易に露わにするべきものではなかった。指揮官には計算された怒りが必要だ――そしてそれを自在に操る冷静さが。

 

「むかついてるさ」言葉とは裏腹に平然とした表情で馬騰は答えた。「今にもはらわたが煮えくり返りそうだよ。あたしが総大将じゃなけりゃ、今すぐにも喚き散らしてるだろうね。だけどそんな事をすれば、周りの部下を不安にさせる。この先どうしていいか分からなくなる。それじゃ戦えない。全ては皆の為、勝利の為だ――翠、お前には槍も馬も教えてきたが、戦いで一番大切な事は“自分で自分を操る”って事さ。戦いの中でこれがどれほど重要なのか、しっかりと見て学びな」

 

 馬超はしばらく納得できないと言うように不満の視線を馬騰に送っていたが、やがて彼女の言うことを飲み込むと、歯を食いしばって怒りに耐え、近づいてくる一団を睨みつける。

 

 そんな愛娘を満足げに見届けると、馬騰は城壁の下へと視界を移し、間もなくやって来るであろう客人に再び意識を向けた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 狄道の城は変わらず沈黙を保っていたが、内側では燃え上がらんばかりの敵意で溢れ返っていた。

 賈駆が危惧していた通り、馬騰は既にこちらを裏切っているようだ――しかし、何故?

 

 裏切りの原因が分からず、董卓は小さく唸った。『隴西の馬騰』と言えば突出した武勇ばかり語られがちだが、彼女を一廉の領主たらしめている最大の理由は、領地の民を第一に考えるその政策方針にあった。

 

 ――董卓が幼い日々を過ごしていた頃、涼州では飢饉に喘いだ異民族たちが漢人の村や街に攻め入り、食糧や金品を略奪していくという事件が相次いでいた。

 村の男たちや領主もいくらかの抵抗を示したものの、相手は大陸の誰もが恐れる騎乗と戦いの名人であり、素人が戦った所でどうにかなる相手ではない。だがその問題に真っ先に手を着けたのが、他ならぬ馬騰だった。

 彼女は自ら騎馬隊を率いて出撃すると、屈強な異民族の戦士たちを相手に一歩も引かずに戦いを挑み、その攻撃を食い止めた――そしてその結果、見事彼らを退かせ、数万もの領民の命と暮らしを救ってみせたのである。

 

 その時の様子は涼州を中心に大陸全土で武勇伝として語られ、彼女の名声と権威を今日まで支え続けている。そんな高潔な魂を持つ人間が、果たして何の理由もなく味方を裏切ったりするものだろうか?

 

 この戦いには、まだ何か自分が知らない裏があるのかも知れない――董卓は眼前の城壁を見つめながら密かにそう考始めていた。

 

「静かだな」ぼそりと張温が呟いた。彼もまた、目の前に聳え立つ城壁を思案顔で眺めていた。「ここまで近づいても未だ何の動きもないとは。馬騰殿は一体、何を考えていると言うのだ」

 

 彼の意見は董卓のそれとほぼ同じだった。この場の誰もが馬騰の――敵かもしれない者たちの出方を伺っていた。

 董卓は咄嗟に、城内の敵意を張温に知らせるべきか考えた。既に馬騰軍はこちらの裏切っており、一刻も早く攻撃に備えるべきだと。

 だが今それを自分が口にした所で、容易には信じてもらえない事も分かっていた。彼は超常的な言葉を――特に不確定な要素を嫌う。そして何より、彼は“妖憑き”という存在そのものを唾棄していた。

 しかし、このまま進めば確実に自分達は目の前の敵意と対峙する事になる。今はまだその本質を現してはいないが、それが数秒後に起こらないとは限らない。もしここで攻撃を受ければ全員生きて自陣に戻ることは叶わないだろう。

 

 ――やはりここは何よりも危険を知らせるべきだ。軍のために、そして自分たちの安全のために。

 

「あの、張温様……」

 

 彼女が言葉をかけようとしたその時、城壁の上から突如、覇気を含んだ女の声が降ってきた。

 

「そちらは討伐軍の方々とお見受けする!!」

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 声に反応した三人は素早く視線を動かした。頭上には甲冑姿で毅然と佇む老婆が一人。彼女こそ狄道の城主を務める馬騰に違いなかった。

 

「あれが狄道の馬騰……」董卓は圧巻の声を上げた。実際に姿を見るのは初めてだったが、城壁の上に雄々しく立つその勇姿は、まさに慣れ親しんだ物語に登場する英雄そのものだった。

 

「遠路はるばるよくおいでになった。あたしがこの城を預かっている馬騰さ」彼女の呟きに応えるように、歯切れのいい声で馬騰は名乗りを上げた。「そちらは張温殿と董卓殿だね。洛陽から話は聞いてるよ」

 

 言葉ではそう言うものの、肝心の門を開けるような素振りは一切見せず、こちらを歓迎しているような様子も無い。まるで開戦前の挨拶のような雰囲気である。

 

 あまりに不遜な馬騰の態度に、さしもの張温も顔を不快に滲ませた。「馬騰殿、これは一体どういう事か。なぜ城の門が今も閉ざされたままなのか、そしてそのような戦装束に身を包んでいるのか。納得できる理由を我々にお聞かせ願いたい!」

 

「その質問に答える前に、あたしも一つ聞いておきたいことがある」馬騰は言葉を続けた。「二人は何故この地の人々が反旗を翻したか、その理由をご存じかい?」

 

 その質問は董卓にとって最大の疑問だった。今の涼州には飢饉が発生している訳でも、大きな戦乱が起こっている訳でもない。黄巾党のような民に害を成す存在もここには居らず、人々に戦う理由など無い筈なのだ。

 試しに張温の思考を覗いて見たものの、彼の思考の中にも思い当たる節はこれといって無い。耿鄙については思考を読む代わりにその顔を盗み見るだけに留めたが、それでも彼の表情からは有力な情報を読み取る事は出来なかった。

 

「反乱の理由など知る必要もない」質問など下らないとばかりに張温は質問を切り捨てた。「おおかた蛮族どもが身勝手な理屈で楯突いているのだろう。そのような不遜な輩を誅するべく某は陛下より討伐の任を賜ったのだ。それを知らぬそなたではあるまい」

 

「董卓殿は理由をご存じかい?」老将軍は続いて董卓へと顔を向けた。

 

 董卓はしばらく思考を巡らせたが、やはり答えには至らなかった。彼女はかぶりを振り、馬騰へと真実を求めた。「……いいえ、分かりません。教えてください。この地に一体何があったのですか?」

 

 彼女の問いかけに馬騰は息を一つ吐くと、これみよがしに言い放った。「知りたいかい? なら教えてやるよ。あいつらが武器を取ったのはね、生き残る為さ――そこにいる耿鄙からの奴からね」

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

「それは……一体どういう意味だ?」

 

 張温の声が沈黙を破った。そこには多くの疑問が含まれていた。

 涼州の動乱と耿鄙――その二つに一体何の関係があるというのか?

 

「おやおや。お二方は本当に何も知らないのかい? それとも、あえて知らされてないのかねえ?」先ほどまで浮かべていた皮肉めいた笑みを怒りの表情に変え、馬騰は言葉を続けた。「そいつはね、何の罪もない人々を『他民族だから』って理由で片っ端から殺して回ったんだ。そいつが指示した弾圧と虐殺で、何人もの人々が平穏な生活と命を失った。中にはそいつらと親しい漢人だっていた。それなのにこいつは、それすらも殺したんだーーだからこの地の人々は武器に取った。このままだと自分たちが滅ぼされるってね。当然あたしもその考えに賛同したよ。そいつのやった事は上に立つべき者として――いや、人間として考え得る中でも最低の行為さ。もしこの考えに義が無いって言うんなら、あんた達の言う義ってやつを聞かせてもらおうかい」

 

 馬騰が言葉を言い終えると共に背後に控えていた兵士たちから喚声が上がった。空を震わせるその怒気は聞く者を圧倒せんが勢いであり、董卓が感じていた敵意の正体だった。

 

「耿鄙殿……これは一体どういうことだ?」

 

 今やこの場の視線は全て耿鄙に向けられていた――仮に馬騰の言葉が正しいとするならば、この反乱の発端はこの男にあると言う。無論それが真実とも事実とも限らないが、少なくともそれらを確かめる必要はあった。

 

「まったく……張温殿ともあろうお方が、一体何を言い出すのですか」耿鄙の言葉には小さな、そして明らかな皮肉の表情が含まれていた。「馬騰は敵に――反乱軍に寝返ったのです。そんな人間の言葉を容易く信用するというのですか?」

 

 疑いを掛けられているにも関わらず、耿鄙にはいささかの動揺も見られなかった。それどころか、全て見透かしていたような余裕すら感じられる。その得体の知れなさが董卓にはますます不気味であり、言い知れないこの男への恐怖の一つへと加わった。

 

「そうではない。だが貴公の言葉も聞いておかねば、真偽の程は分かるまい。違うか?」

 

「たしかにそうですね」彼は仕方ないという風に肩を竦めると、悠然と弁明を始めた。「ではお答えしましょう。確かに私は彼女が言うように異民族の拠点を視察していました。ですがそれは、彼女がかつて行っていたのと同じく、異民族の軍勢が漢人の民を襲わぬよう調査するだけのものでした。しかしかなり前から叛乱軍を組織していた彼らは、私たちの調査行為に気づくや否や、突然襲いかかってきたのです。仕方なく我々はそれに応戦し、彼らを撃退したというだけの事。それをさも我らが襲いかかり、まるで戯れるが如く殺して回ったなどと、あまりにも言葉が過ぎます」

 

 一端そう言い終えた後、耿鄙は張温へと詰め寄った。彼の瞳にはいつの間にか見たことのない光が輝いていた。「――司令官殿。先ほども言ったように馬騰は我々を裏切ったのです。敵の言葉など毛ほども信じるに値しません。奴らも金城の反乱軍と同じく早々に撃滅するべきです。違いますか?」

 

 彼の言葉には言いしれぬ重みがあった。それはまるで帝が下す勅令のように将軍の耳から精神へと取り込み、彼を意のままに従わせようとしていた。

 

 これがこの男の真の力! 董卓は息を呑んだ。その力の恐ろしさは心の読める自分が一番よく知っていた。だが、まさか人の心を読むだけで無く、思うままにその意志を改竄する事が出来る存在がこの世に居ようとは!

 

「お、お二人ともどうか落ち着いて……」彼の行いを止めようと、彼女は咄嗟に二人の間に割って入った。だがそれは間違いだったと直後に気が付いた。

 

「ふむん? まさか、董卓殿もあのような言葉を信じると?」光に満たされた耿鄙の瞳がこちらを向いた。次の瞬間には豪雨のような力の奔流が彼女の精神を捕らえようと伸びて来ていた。「貴女まで私が民を虐殺したと疑うというのですか?」

 

 耿鄙が向ける精神的干渉は、董卓が今まで味わったあらゆる苦痛よりも激しく、あらゆる災害よりも強烈だった。例えるならば大嵐の中で今にも転覆してしまいそうな小船――それが今の彼女の精神だった。

 

 壊される、董卓の心の中をよぎったのはそんな思いだった。彼は自分の精神など容易く崩してしまうだろう――それこそ子供が砂で作った城をいとも簡単に壊してしまうように。自分の記憶も、思想も、感情も、全てを無意味な情報の断片になるまで切り刻み、そして二度と元に戻せないように。

 

「い、いえ……決してそのような事は……」揺さぶられつつある心を強く握り締めながら、董卓は懸命に首を横に振った。激しい精神攻撃の嵐の中で、もはや彼女が生き残るために残された選択肢はそれしか許されてはいなかった。

 

 彼女がその言葉を口にすると共に、耿鄙の瞳から溢れていた光が消失した。同時に董卓の心に吹き荒れていた嵐は収まり、平静へと戻りつつあった。許されたのだと董卓は遅れて理解した。

 

「ええ。それでいいのです。貴女は実に正しい選択をした。貴女がそれを間違えない限り、私は貴女の存在を許しましょう。なにより、貴女にはまだ有益な使い道がある」にやり、と耿鄙は不気味な笑みを浮かべた。それは人に向けるというよりも都合のいい愛玩道具に向けるそれであった。「さて張温殿、馬騰軍は倒すべき敵です。そうですね?」

 

「……うむ。そうだ……理由はどうであれ、馬騰が我らを裏切った事実に変わりはない……」どこか虚ろな面持ちで張温が言った。それがこの狄道の戦いにおける始まりの合図だった。「直ちに陣に戻り、攻撃を開始させよ……愚かしくも陛下に弓を引いた馬騰軍を討ち滅ぼすのだ」




久しぶりの投稿になります。
中々執筆の時間が作れず、短めになってしましましたが、可能な限り続けていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。

※1月17日に原稿を少々修正、タイトルを「開戦」に変更しました。


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龍と虎 前編

 英雄たちは今、新たな伝説を目の当たりにする。


 秒にも満たない僅かな間、サルカンは揺れる馬上で意識を失いかけた。

 昼夜を徹して馬に乗り続けるのは本当に久しかった。最後にそれを行ったのは、まだ彼がマルドゥに属していた頃の話だ。

 あの頃は敵の背中に食らいつく為に必死になって馬を走らせていた。マルドゥにとっては勝利が全てだ――戦いに勝利するためならば、何日それを続けても全く苦では無かったし、それが当然であると考えていた。昔を懐かしむ訳ではないが、あの頃の若さと頑丈さは今の自分には無いものだ。と、サルカンは心の中で苦笑した。

 

「おじさま。顔色が良くないけど、大丈夫?」隣を走っていた馬岱が声をかけてきた。その顔は心配の色を濃く浮かべていた。

 

「大丈夫だ」サルカンは頷いた。今も戦い続けているであろう馬騰の事を考えれば、この程度の疲労で休む訳にはいかなかった。「これしきの事で、俺も飛龍も倒れたりはしない」

 

 彼に同調するかのように、足下の飛龍が荒々しく嘶きを上げた。もしこの馬が人間の言葉を話せたなら、彼同様に勇ましい返答を口にしたに違いない。

 

「サルカン殿。その勇ましさは尊敬に値するが、決して無理はしない方がいい。万全な状態でなければ、敵に勝つ事など出来ないぞ」

 

 後方から一騎の人馬が二人の元へと近寄ってきた。騎馬隊を指揮していた餓何である。彼は少し呆れた表情を顔に混ぜ、サルカンの顔色を揶揄した。

 

 彼の言葉にもサルカンは首を振る。「俺の心配は無用だ。それより今は、少しでも早く馬騰殿の元へ急がなければ」そして手綱を強く握り締めると、飛龍を更に加速させるべく、その脇腹をブーツで蹴った。

 

 羌の軍団が宿営地を発ってから、既に四日が経過していた。彼らは疾風のような速さで軍を進めると、瞬く間に平原を駆け抜けた。その速さたるや、サルカンと馬岱が宿営地へ向けて走ってきた速度など比べものにもならない。

 彼らは知っていた――馬騰軍の兵士は強豪揃いではあるが、決して多くはないということを。

 敵との兵力差を考えれば、防衛戦とはいえ長くは持たない。急がなければこちらが到着する前に味方が壊滅してしまう可能性もあるのだ。

 だからこそ彼らは昼夜を徹して馬を走らせ、僅かでも距離を稼ごうとしていた。

 

 ふと、前方を走っていた騎馬の集団が急にその動きを止めた。

 彼らは次々に軍馬から降りると、積み込んでいた荷物の中から幌布や棒を取り出し、それらを地面で向けて組み立て始める。まるで野営でもするかのように。

 

 不穏な彼らの様子にサルカンは呻き、自らの馬を停止させた。「なんだ……?」

 

「どうやらここで休憩を取るようだ」様子を察した餓何が問いに答えた。が、その顔にはサルカンと同じく疑問が宿っていた。「……だが何故こんな所で?」

 

 少しの間考え込んでいた彼だったが、やがてその理由を汲み取ったようで、納得顔で二人に告げた。「二人とも、どうやら俺たちも急いで屋根を作った方がよさそうだ」そうして自らも馬を降りると、彼らと同じように自分の荷物の中から野営の道具を取り出し始めた。

 

 理由の分からない馬岱が尋ねた。「なに? どういう事?」

 

「もうすぐ雨が降る。濡れる前に屋根を作らなければ、身体を冷やすぞ」

 

「なぜ降ると分かる?」サルカンが思わず聞き返した。上空には雲など一つも無く、とても雨が降るような気配はない。

 

「匂いだ。匂いが変わった」自らの鼻を指しながら餓何が答えた。「嗅いでみればすぐに分かる」

 

 試しにサルカンが鼻を動かすと、僅かに空気の中に雨水の匂いを感じる。だが本当に言われなければ気づかないほど僅かな差だった。常人なら気にも留めないような差――それを彼らは瞬時に判別したというのか。

 

「羌族は匂いに敏感だ。敵が身に付けている鉄や革の匂い、遠くに潜む獲物の匂い、天気や季節を運ぶ風の匂い――僅かな匂いの違いから様々な事を理解する。そうして俺たちは長年生き残ってきた。さて、無駄話はこれくらいにして、俺たちも早く屋根を作るとしよう」

 

 餓何の言葉に従って二人は馬を降りると、積み荷の中から組み立て小屋の部品を取り出し始めた。

 

―――――――――――――――――――

 

 餓何の言葉は正しかった。先ほどまで青々としていた空はいつの間にか雲を張り巡らせ、あっという間に滝のような豪雨を巻き起こした。彼の忠告が無ければ、今頃はサルカンも馬岱も濡れ鼠のようになっていたに違いない。

 

「……まさか本当に天気を言い当てるとはな」組み立て小屋の下で感慨深げにサルカンが呟いた。別段、彼のことを疑っていた訳ではなかったが、その見事な的中ぶりには舌を巻くばかりであった。

 

「ただの慣れさ。長く住んでいれば、誰でも分かるようになる」何のこともないとばかりに餓何が言った。「それよりも今のうちに身体を温めておくといい。雨が上がれば、また夜通し駆ける事になる。明日の朝には平原を抜けて山道に入りたいからな」

 

 軍全体の進行としては既に佳境に入っている。のんびりしている時間はない。

 とは言え、雨によって引き起こされる転倒事故や兵士達の体力低下を加味すれば、適度な休憩は決して悪い手ではなかった。

 

 雨露に打たれる平原を見つめながらサルカンが再び呟いた。「この平原と山道を超えれば、いよいよ馬騰殿が待つ狄道の城だ。やっと彼女を助けることが出来る」

 

「だがそれが一番の問題だ」餓何の表情がわずかに翳った。「知っての通り、城にたどり着くには山岳地帯に挟まれた隘路を越えて行かなければならない。俺たちが到着するまでに味方の軍勢がどれだけ残っているか……」

 

 軍隊のような集団が狄道に向かうには、山岳の合間にある隘路を通るしかない。当然、敵も背後からの攻撃を警戒しており、道中で敵と遭遇する確率はほぼ確実と言ってもいいだろう。そこで苦戦してしまえば、味方の救援はほぼ絶望的である。

 

「おば様なら平気だよ」二人のそばで火に当たっていた馬岱が口を挟んだ。「お姉様の他に鶸も蒼もついてるし、絶対大丈夫だよ。でしょ?」

 

 口調こそ軽かったが、その表情には不安が含まれていた。明るい言葉で喋っているのは、自身を安心させるためかもしれない。

 

「だが急いだ方が良い事に変わりはない」サルカンは頷くと、彼女の隣で火に手をかざした。暖かい炎の感触が手のひらに伝わり、揺らめいた光が身体を照らす。「馬騰殿の所にたどり着くまでにはどうしても時間がかかる。敵の数は聞いたところでも七、八万。いくら精鋭揃いの軍とは言え、それほどの数を相手にいつまでも戦い続けられるとは思えない」

 

 不安を煽るような言い方になってしまったが、それが事実だった。希望的観測は事態の悪化を招き、自身だけでなく周りにまで油断と慢心を与えてしまう。常に最悪の状態を想定して動き、その上で最善を尽くすことが軍が行動する上で重要な事だった。

 

 彼がそう語った直後、まるで休息の終わりを告げるかのように平原を打ち続けていた雨の音が止まった。

 

「……止んだようだな」平原を見渡した餓何が呟いた。鉛色の雲は未だ空を覆っていたが、降りしきる雨はその勢いを完全に消していた。

 

「そのようだな」サルカンは頷いた。「急いで出発の準備をしよう」

 

 小屋から出た彼らは、急拵えの東屋を片付けようとその支柱に手をかけ、そこである物を見つけた。

 

「ちょっと待って。あれ何?」最初に発見した馬岱が驚きの声を上げる。

 

 ぬかるんだ大地と鉛色の空――その中間とも言える場所に奇妙な物体が浮かんでいた。まるで煙が集まった形のそれは、早くも遅くもない速度でこちらに向かって飛んできていた。

 

《囁き編みの霊/whisperknit》 https://imgur.com/a/8HSX8

 

「あれは“囁き編み”だ」餓何が答えた。彼の視線はすでに宙に浮かぶそれに強く注がれていた。「巫師たちが操る精霊の一種だ。馬騰殿が状況を知らせるために送ってきたのだろう。すぐに内容を確かめてくる」そして小屋を飛び出すと、浮かび上がるそれに向かって走っていった。

 

「……ねえ、おじさま。もしこのまま駆けたとして、おばさまの元までどれくらいかかるかな?」遠ざかっていく餓何の背中を見つめながら馬岱が尋ねてきた。

 

「おそらくはあと三日……いや、四日は必要だろう。狄道に続く山道は狭い。俺たちだけなら何の問題もないが、これほどの軍勢を城にまでたどり着かせるとなれば、どう見積もってもある程度の時間が必要だ」

 

 サルカンは荻道の城を出た時の事を思い返した。馬岱と共に駆けた旅路を。あの道を数万以上の軍が通過するとなると、やはり数日の時間が必要だった。

 

「……間に合う、よね?」もう一度馬岱が聞いてきた。それは疑問ではなく願望だった。

 

 正直な所、サルカンにもそれは分からなかった。もしかしたら間に合うかも知れないし、間に合わないかもしれない。それほどまでに状況は微妙だった。

 だが彼には諦めると言う選択肢は存在しなかった。やっとの思いで手に入れた安寧を、家族と認めてくれた人々を目の前で失う訳にはいかなかった。

 

「分からない。だが間に合わせる。必ずな」

 

 彼の言葉を受け取った馬岱は力なく頷き、しばらく無言のまま平原を見つめていた。

 それから僅かに時間が経過し、平原の向こうから餓何が戻ってきた。

 

「馬騰殿はなんと?」言葉を待ちきれず、サルカンが尋ねた。

 

「やはり状況は芳しくないようだ」返ってきた言葉は厳しい現実だった。餓何自身も、それを口にするのを迷っているようだった。「城は未だ落ちていないが、それでも兵士の半数以上は負傷しているらしい。このままでは馬騰殿との合流は叶わないかもしれん……」

 

「そんな……」

 

 愕然とした表情で馬岱が顔を伏せたが、無理もない。彼女にとってその知らせは、まさに最悪の通知に等しかった。

 暗い雰囲気が漂う中、サルカンは考え込むように平原の向こうを眺めていた。まるで大きな決断を迫られているかのように。

 そして意を決したように強い視線を餓何へと向けた。

 

「――もしもだ。もし俺が空を飛べるとしたらどうなる」

 

「……何だと?」餓何が聞き返した。訝しげに眉を顰め、疑問の視線を彼に向ける。

 

 構うことなくサルカンは言葉を続けた。「この平原と山道を上空から飛び越え、真っ直ぐ城まで行けるとしたら、ここからどれくらいの時間がかかる?」

 

「そんな事を聞いてどうなる」

 

「いいから教えてくれ」

 

 彼の強い口調に餓何はしばらく口ごもっていたが、やがて根負けしたように答えた。「……おそらくだが、二日とかかるまい。丸一日もあれば城まで辿り着けるだろう。だがそんな無意味な事を聞いたところで何になる? 空を飛ぶなど絶対に不可能だ」

 

 餓何の反論は正しかった。人間は空を飛ぶ事など出来ない。単独飛行を可能とするアーティファクトや、騎乗できる飛行生物が存在しないこの外史次元では、人間が空を移動することなど土台不可能だ。

 だが彼は一つだけ大きな事実を見落としていた。それはサルカンがただの人間でもなく、この次元の生まれでもない事だ。

 

「できる」サルカンは静かに、だが力強い声で告げた。「俺にはそれが出来る」

 

「何だと? どういうことだ?」

 

「すぐに分かる。それよりお前に一つ頼みがある」彼は馬から外しておいた行軍用の装備を手に取った。「この軍の中で一番大きな鞍と鐙を持ってきてくれ」

 

「それがあれば、馬騰殿を助けられるのか?」

 

「分からない。だが可能性はある」

 

 餓何はその言葉をどう受け取って良いものかと考えていた。空を飛ぶ――そんな馬鹿げた事を大真面目に言い放つ彼を、果たして信用してしまっていいのだろうか?

 だが彼には、自分には分からない特別な何かがある――先日の決闘の中で自分もそれを感じていた。そして彼が何かが上手くいけば、本当に馬騰を助ける事が出来るのではないか?

 

 彼に賭けてみるべきだ――餓何の心は固まった。

 

「……分かった。すぐに用意する」彼はそう返すと踵を返し、再び騎馬隊の中へと消えていった。

 

「おじさま。一体何をするつもりなの?」彼らのやりとりを静かに聞いていた馬岱が尋ねてきた。

 

 小屋の中に保管していた荷物や武器を纏めながらサルカンは言った。「今のうちにお前も自分の荷物を纏めろ。武器や馬に積んでおいた道具も、すべて持ち運べるようにしておくんだ」

 

「え? どういうこと?」

 

 訳が分からないと首を捻る彼女と同時に、餓何が大きな馬具一式を持って戻ってきた。

 

「御所望の馬具だ。持って行け」彼はそう言うと、肩に担いでいた鞍や鐙などの道具を小屋の中に置く。頑丈な素材で作られたそれらは普通の馬に使うものよりも一回り以上大きく、大型動物か大型の馬に騎乗する際に使用するものだと一目で知れた。

 

「助かる」サルカンは軽く礼を告げると、次に自分の服や鎧などを次々に脱ぎ落とし、それらを馬岱へと投げ渡した。「蒲公英、俺の服と荷物をまとめて持っていていくれ」

 

 その行動が理解できない馬岱は受け取りながらも目を白黒させる。「え、ちょっと!? なんでいきなり服なんか脱いでるのさ!?」

 

「すぐに分かる。ところで、俺がどうやって狩りをしているのか、お前はずっと前から知りたがっていたな。今からそれを見せてやろう」

 

 そう言うや否や、彼は大地に蠢くマナを引き寄せると自らの体に駆け巡らせ、その姿を己が最も崇拝する生物へと変貌させた。

 柔らかな人間の筋肉はより強靱な種族のそれへと置きかわり、皮膚の上を強固な鱗が体を覆う。背中からは一対の翼が飛び出すと同時に、喉はサルカンにとって馴染み深い咆哮を自然と轟かせていた。

 

《ドラゴン変化/Form of the Dragon》http://imgur.com/a/oBJfS

 

「え……おじ、さま……?」

 

 変わり果てたサルカンの姿を見ながら、馬岱は驚嘆の声をあげた。彼女の目の前に居るのはもはや人間のサルカンではなく、御伽話や物語の中でしか知る事のない伝説の龍そのものだった。

 傍らに居た餓何や周囲の人々も、サルカンの異形の姿に圧倒され、崇めるような、あるいは恐れ慄くような視線で彼を見上げるばかりである。

 

 つと、龍となったサルカンの首が近くに置かれた馬具を指し示した。そしてそれらを自身の鼻先で軽く押すと、じっと馬岱の目を見つめる。

 

「まさかこの馬具って……」馬岱が信じられないと言わんばかりの顔でサルカンを見つめる。彼女もようやく彼の考えている事が理解できたようだった。「乗れってことだよね!? じゃあ、たんぽぽはおじさまの上に乗って城まで飛んでいくってこと!?」

 

 サルカンは龍の瞳で彼女を見つめ続けた。それは問いに対する無言の肯定に他ならなかった。

 とは言え、まさか自分が馬の代わりに伝説の龍に――それも見知った人間が変身したものに乗るなどと、一体誰が考えただろうか。たとえ彼がプレインズウォーカーであることを知っていたとしても、彼女が狼狽えるのは無理のないことであった。

 

「た、確かに馬よりは早そうだけど、その……乗っても大丈夫なの?」

 

 彼女の不安げな質問にサルカンは軽く鼻を鳴らすと、背中に生えた翼を強く羽ばたかせ、その巨体からは想像もつかないほどの身軽さで空中へと浮かび上がった。

 そして上空を軽く旋回して見せると、再び馬岱の目の前に降り立ち、もう一度彼女の顔をじっと見つめた。

 

「……分かったよ。おばさまやお姉さまの為だもん。たんぽぽも覚悟を決めるよ」そこまで言うと、彼女は大きく息をつき、置かれた馬具を手に取ってサルカンの体にそれを取り付け始めた。

 

「サルカン殿……貴方は一体何者なのだ?」呆然と二人のやりとりを眺めていた餓何が尋ねた。「あなたは自分を遠方から来た流れ者だと言っていた。だがその姿は一体なんだ? この前の炎もそうだが、俺は……何か悪い夢でも見ているのか?」

 

「おじさまはね、別の世界から来たんだよ」喋ることができないサルカンに変わって馬岱が質問に答えた。「長い時間をかけて、色んな世界を旅して、そしてようやくここにやって来たの。自分の居場所を見つけるために」

 

「別の世界……?」意味が理解できないのか、鸚鵡返しに言葉を口にする。

 

「そう。たんぽぽ達が住んでいる所とはまったく別の場所。だけど今のおじさまは大事な家族で、たんぽぽにとって大切な人。だから大丈夫」

 

 そして全てが取り付け終わると、彼女はサルカンの荷物を自分の体に括り付け、そのまま彼の背中に跨った。

 

「できたよおじさま。じゃあ戻ろう。おばさまのところに」

 

 返答の代わりにサルカンは大きな咆哮を響かせると、背中の翼をはためかせ、大空を飛び立っていった。




 お久しぶりです。私生活が忙しすぎて原稿を作っている暇すらありませんでしたが、また少しずつ時間を作ってあげていきます。


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『外史』を取り巻くもの その2

 今回の記事も本編とはあまり関係ありませんが、今後物語に影響するであろうカードたちも一部登場します。どのように出てくるのか楽しみにしながら読んでいただければ幸いです。


前回の『外史戦記』プレビュー第1週に引き続き、今回も物語内に登場するカードの一部を紹介しよう。何度も言うが、これは本作の雰囲気を掴むためのフレーバー的な記事なので無理に読む必要はない。とはいえ、知っていると役に立つこともあるだろう。では始めていこう。

 

 

『作戦の看破』https://imgur.com/a/l0LvO

 

 魔術が存在しない(下位互換の技術は存在するが)外史次元において、打ち消し呪文というのは存在が難しいものであった。そもそも彼らには呪文を使うという文化がないため、それを無力化するという行為が存在しないからだ。そこで我々は彼らが使う『戦略』に注目することにした。そうして完成したのが、この『作戦の看破』である。

 これは、彼らが使う大規模な作戦から咄嗟の機転に至るまで、様々な状況に対応するカードではあるが、クリーチャーやアーティファクトの様にその場に存在するものに対しては無力である。そこもまた、軍師と兵士の役割分担という訳だ。

 

 

『予想外の結果』https://imgur.com/a/vTQh2

 

 赤のカードにはしばしば奇妙な動作をするものがある。『予想外の結果』もその1枚だ。これはドローカードの一種だが、デッキの一番上ではなく下のカードを引く。これだけでは変則的なドロー加速でしかないが、他のドローカード、特にデッキの1番下にカードを送るものと組み合わせることで、まさに予想外の結果をもたらすことが出来るだろう。

 

『流刑への道』https://imgur.com/a/Ur9oe

 

 この呪文は白の役割を逸脱しており、除去として見ても少々強すぎるのは否めない。だが中国における流罪というのはありふれたものであり、フレーバー的には問題ない。あとはカードパワーの問題ではあるが、上昇傾向にあるクリーチャーの質を考えれば、起こり得る問題は少ないと考えている。使い慣れているであろうこのカードを再び手に取ってほしい。

 

 

『2色土地サイクル』

 

『広漠な大河』https://imgur.com/a/NzYza

『草茂る山地』https://imgur.com/a/zZIGE

『焼失の城塞』https://imgur.com/a/p2eYD

『荒廃の水田』https://imgur.com/a/ARZlS

『平穏な村落』https://imgur.com/a/VrgK4

 

 サイクリング能力を持つ土地や、出したときに占術1を行う神殿サイクルなど、我々はいくつもの土地を作ってきたが、今まで直接ドローに関する効果までは作っていなかった。このサイクルはその穴を埋めるものである。

 とは言え、ただドローするだけではカラーパイにも反するし、タップインとは言え強すぎる。よってどの色に合っても邪魔にならないルーター能力をつけることにした。これならばどの色にも邪魔にはならないだろう。

 

『機体クリーチャー』

 

『猛進する破城槌』https://imgur.com/a/GCMKr

 

 機体というメカニズムはカラデシュから初登場したものだが、驚くほど応用の利くメカニズムだと言うことが長いプレイ期間によって分かった。これはリミテッドにおいてコモンやアンコモンのファッティを簡単に用意してくれるだけでなく、人々が使う乗り物としても大変便利なフレーバーを持っているのだ。

 今はまだ登場していないが、いずれ多くの機体クリーチャーが刷られることだろう。楽しみにしていてほしい。

 

 

『太平要術の書』https://imgur.com/a/4evVL

『操心の鏡』https://imgur.com/a/NhvGy

 

 この伝説のアーティファクトたちには重要な役割を持たせてある。これらは外史次元における秘宝中の秘宝であり、同時に多くの英雄達が狙う強力な武器なのだ。

 しかしこの二つのアーティファクトは現在、とある人間が所有しており、暗躍のために使用されている。これらがいつ登場するかは物語の進行を以て明らかになっていくだろう。

 

 いかがだったろうか。これらのカードはいずれ物語に登場し、英雄たちに――そしてプレインズウォーカーたちに様々な目的や状況を与えるだろう。いつ登場するかはまだ言えないが、その時をどうか楽しみに待っていてほしい。



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龍と虎 後編

 
 外史で最も奇妙な戦と言われた「狄道の戦い」。その全貌を知る時は今。



 ――城を攻め落とすために必要な兵力は、一般的に守る側の三倍だと言われている。

 守る側の戦いは単純だ。迫ってくる敵を端から撃ち落とせばいい。梯子をよじ登る兵士は降ってくる弓矢から身を守ることも、かわすことも出来ないのだから。

 とは言え、三倍という数字が持つ威圧感は相当なものである。倒しても倒しても減らない敵を相手にするというのは、どんなに歴戦の兵士であろうと怯み、脅え、その動きを鈍らせる。

 にも拘らず、三倍以上の兵力を相手にしても全く怯む事のない馬騰軍の強さと覇気に、敵ながら見上げた根性だと女は心の中で評した。

 

 孫策という名のこの女は南から来ていた。元は江東一帯を支配する豪族で、今でこそ揚州を統べる名家・袁術の食客として身をやつしているが、その心はいつか世界を掴み、外史全土を我が領土にしようと目論む英雄の一人であった。

 

「しぶといな」ふと、女の隣から呟きが聞こえた。姿を現したのはこれまた褐色の肌を持つ若い女性で、忌々しげな視線を目の前の城に投げつけている。名を周瑜と言った。

 

「そうね。流石は“西涼の馬騰”と言った所かしら。あれだけの寡兵でここまで持つなんてね」呆れたように肩をすくめながら孫策が応じた。これほど気力と戦力が長続きする軍は、自身が手塩にかけて育てた親衛隊を含めても見た事がなかった。「でもいい加減ここらが限界でしょ。あたしらにはまだ本命が残ってる。こんな所でいつまでも遊んでいる訳にはいかないもの」

 

 討伐軍にとって、狄道での戦いは想定外のものだった。本来ならば目の前の城で遠征の疲れを癒し、彼らと共に金城の敵を倒す筈だった。それが馬騰の裏切りによって全て崩壊し、こんな場所に何日も釘付けにされている。

 相手の目的はただ一つ――時間稼ぎだ。

 

「そうだな」周瑜は頷きながら言った。「奴らの狙いは間違いなく金城からの援軍だ。あえて反乱を起こさず防衛戦を仕掛けてきたのも、乱戦になるのを防ぐためだろう。奴らは周到にこの戦いを計画し、準備している。次の策も間違いなくあると思っていい」

 

 定石を考えれば、一度こちらを城内に引き入れて油断させ、内部から崩した方が遙かに有効である。だがそれでは城内に敵と味方が混在し、例え援軍が到着したとしても入り込む余地がない。故に彼らは防衛戦を選択したのだ。後からやって来るであろう援軍を期待して。

 

「厄介ね。今の内に手を引いちゃった方が得策かしら?」冗談めかした表情で孫策が言った。口調こそ軽かったが、半ば本気でそう思っているようだった。

 

 君主の提案に周瑜は眉を小さく顰めた。「馬鹿を言うな。こんな所で撤退などしてみろ。それこそ袁術に何を言われるか判らんぞ」苦みばしった口調はそのまま唇へと広がり、彼女の整った顔を渋面へと変化させる。

 

 彼女たちは袁術の代理としてこの討伐に参加しており、食客という立場に甘んじている以上、雇い主の面子を潰すのは今のところ得策ではない。その事を二人は十分に理解していた。

 

「冗談だってば。でも何か手を打たないといけないのは事実でしょ?」おどけたように唇を曲げ、孫策が言う。

 

「判っている。だがいずれにしても、奴らを倒さなければどうにもならん。そろそろ本気で城を抜くとしようか」

 

「お、流石は我が軍一の軍師! 頼りにしてるわよ。それで? 具体的にはどうするの?」

 

 周瑜は再び城壁を鋭く見つめ、続いて硬く閉ざされた鉄扉を指し示した。「ちょうど本隊の連中が金城攻略のために持って来た破城槌を準備している。そいつを防衛し、西側の門を破ったところで一番乗りを貰うとしよう」

 

 軍師の強烈な提案に、孫策は新しい遊びを見つけた子供の様に目を輝かせた。「へぇ。なかなか面白そうな作戦じゃない。その案乗ったわ。あたしは当然行くとして、他には誰が?」

 

「お前の護衛には明命(みんめい)と亜莎(あーしぇ)。それに祭(さい)をつける。思春(ししゅん)は開門に向けての別工作に当たって貰っているからな。今は出払っているのだ」

 

 孫策は満足げそうに指を鳴らした。上げられた名前はどれも選りすぐりの手練れで、自分を守るにしろ指揮を任せるにしろ、申し分無い人選だと言えた。

 

「上出来ね。それじゃ、早速準備を始めるとしましょうか」にやりと笑みを浮かべながら孫策は城から背を向けると、自らの陣地へと引き返していく。

 

 その背中に向かって周瑜が言った。「首尾良く行けよ雪蓮。お前の肩には孫呉の未来がかかっているんだからな」

 

 彼女の忠告を背中で受けた孫策は、まさに遊びに出かける子供の様に無邪気な声音を返した。

 

「分かってるわよ冥琳」

 

――――――――――――――――――――

 

 戦いは厳しいものになる――あらかじめ覚悟はしていたものの、ここまで酷いものになるとは思ってもみなかった。

 既にこちらの戦力の半数以上は損耗し、防衛箇所にはいくつかの空白が現れ始めている。敵はまだそれに気づいてる様子はないが、いずれにしろ時間の問題だった。

 

「第一部隊は後退だ! 第二部隊は前に出て引き続き防衛に専念しろ!」周囲の兵士たちを鼓舞しながら、馬超は目一杯の大声で叫んだ。そして控えていた後続の部隊を前に出すと、前衛の部隊と守備を交代させた。

 

 傷だらけの男達が段階を経て壁の内側へと下がっていき、代わりに彼らよりはかろうじて軽傷な人間が守備の任へ就いていくーー焼け石に水の戦術だと分かっていても、今はそれしか方策がなかった。

 

「姉さん、大丈夫?」後続と共にやってきた馬休が心配そうに声をかけた。「少しは休んだ方が……」

 

 馬休の記憶では、彼女は戦が始まってから今まで一度も休まずに指揮を続けていた。いくら馬超が歴戦の戦士とは言え、これ以上戦い続けるのは無謀に思えた。

 

 半ば青ざめた顔を振りながら馬超が言った。「あたしは大丈夫だ。それより母さんや蒼の様子はどうだ?」そして妹へと近寄ったが、数歩進んだところで体勢を崩し、その場によろめいた。

 

「姉さん!」馬休が慌てて姉の元へと駆け寄る。

 

 だが馬超はそれを手で制すと、崩れた姿勢をゆっくりと戻し、心配そうに見つめる他の兵士たちにいくつかの指示を飛ばしながら歩みを続けた。

 

 その様子を見た馬休はしばらく言葉を失った。今にも倒れてしまいそうな状態でも戦い続ける彼女に、何と声をかけていいのか判らなかったからだ。

 

 ――なぜ彼女はあれほど苛烈に戦い続けられるのだろうか? 彼女の強い意志はどこから現れているのだろうか? 未だに戦士として未熟な自分と比べ、その強さは尊敬に値するものだが、同時にとても危ういものに思えた。

 

「鶸?」呆然と立ち尽くす馬岱を見て馬超が尋ねた。血の気を失った紙の顔は逆にこちらに心を配っていた。「それで、母さんたちの方はどうなんだ?」

 

 わずかに遅れて馬休は答えた。「あ……母さんは金城や羌の人たちと連絡を取るのにお城に戻ったよ。蒼(そう)のほうも大丈夫。まだ戦えてるし、指揮も乱れてない。あと何日かは耐えられると思う」

 

 末妹である馬鉄は城の反対側で指揮を取っていた。普段は少し抜けている性格の彼女だが、戦となれば優秀な――それこそ自分などよりもよほど優れた戦士に変化する。大きな心配はしていなかった。今は目の前にいる姉の方がよほど重要だった。

 

「そうか……」

 

 小さく安堵の言葉を零した途端、馬超は突如前のめりになり、城壁の床に倒れかけた。彼女は片膝を付いてその場に留まったが、その肩には一本の矢が突き刺さっていた。

 

「姉さん!!」馬休はふらつく姉に肩を貸しながら叫んだ。自分の声によって兵士たちに更なる動揺が走ってしまう事を予感したが、気にしている場合ではなかった。

 

「ただの流れ矢だ。心配ない……」鳴くような弱々しい声で馬超が答えた。そして己に突き刺さった矢を引き抜こうと掴んだが、苦悶の表情を浮かべるばかりで何もすることは出来なかった。

 

 やはり彼女は危険だーーこのまま誰も止めなければ、彼女は間違いなく命が尽きるまでここで戦い続けるだろう。それだけは何ともしても避けなくてはならない。

 

「ここの指揮は私が引き継ぐから、姉さんは急いで手当を! そんな状態で戦ってたら本当に死んじゃうよ! 誰か! 姉さんを下に運んで!」

 

 馬休の悲痛な叫びを聞き入れた数名の兵士たちが、馬超に肩を貸しながら城壁の下へと運んでいく。城壁の上から姿を消すまでの間、彼女は絶えず馬休を見つめていた。

 

 ざわつく城壁に取り残された馬休は大きく息を吸い、吐き出した――自分がこの場を指揮しなければならない。この防衛戦を継続させなければならない。彼らを、この城を生き残らせなければならない。

 

「……各員に次ぐ。この場の指揮は馬超に代わってこの馬休が引き継いだ! 全員、私と共に城を守り通せ! ただ一人としてこの場に上がらせるな!」

 

 周囲の兵士と自らの魂に命じるように、彼女は強い声でそう叫んだ。

 

――――――――――――――――――――

 

 この世界において、一体何人がこの景色を目にする事が出来るだろうか?――胸躍る感動と共に馬岱はそんな事を思った。

 

 上空から眺める外史は本当に美しかった。馬で駆け抜けた羌の草原はどこまでも続く自然の融和を表し、迂回するばかりであった岩山は力強い飾りとして大地に鎮座している。どんな名工も描けぬ、まさに神が生み出した絵図であった。

 

《草茂る山地》 https://imgur.com/a/zZIGE

 

「すごいよおじさま!こんな綺麗な景色、たんぽぽ初めて見たよ!」

 

 はしゃぐ馬岱の声にサルカンは低い唸りを響かせた。人間の喉ではないため明確な声を発することは出来なかったが、初めて会ってから共に過ごしてきた馬岱には彼が何を思い、どんな意志を自分に向けているか手に取るように判った。

 そして彼はこう言っていた。「遊びに行くのとは訳が違うぞ」と。

 

 たしなめられた馬岱はわずかに表情を萎ませた。「ご、ごめん……そうだよね。喜んでばかりじゃだめだよね。今はおばさま達を助けに行く最中なんだし……」

 

 しゅんとする彼女を慰めるようにサルカンはわずかに首を捻らせた。気にするな、という合図のようだった。

 

「でもすごいよ。おじさまはいつもこんな風に景色を見てたんだ……」憧憬を強く含んだ声で馬岱が言った。「他の次元では一体どんな景色が見えるんだろう……いつかたんぽぽも、自分の目で見てみたいな……」

 

 馬岱の小さな呟きは当然サルカンの耳にも届いていたが、残念ながら彼には彼女の望む回答を返すことは出来なかった。

 

 プレインズウォーカーではない者が、他の次元に渡る事は決してない。それは彼女も十分に理解している。いや、理解しているからこそ、余計に強く思い焦がれているのだろう。

 だとしたら、そんな彼女のために自分は一体何をしてやることが出来るだろうか? 次元を渡ることの出来ない彼女に、そのわずかな断片でも感じさせてやることは出来ないのだろうか?

 サルカンはしばらくの間じっと考え続けたが、明確な回答が出ることはついぞ無かった。

 

 それから二人はしばらく上空を飛び続け、やがて小さな岩山の一つへと休息を取るべく降り立った。

 

「この山岳を越えれば、城はもう目の前だ。着けばすぐにでも戦いになるだろう」燃え上がる篝火に身体を寄せながらサルカンは言った。「覚悟は出来ているか?」

 

「もうすぐ、戦うんだよね……」神妙な顔つきで馬岱が呟いた。その身体は寒さとは別の理由で小さく震えていた。「どうしてかな。戦いなんて今まで嫌って言うほどやってきたのに、震えが止まらないよ……」

 

「緊張だ」彼女の様子を見たサルカンは少し呆れたように肩をすくめ、軽く手を掲げて言った。「四つ数える。息を吸う。四つ数える。息を吐く――試してみろ」

 

 サルカンの助言を馬岱は素直に聞き入れた。四拍の合図と共に息を吸い、呼吸を止め、そして四拍の時と共に肺に溜め込んだ空気を吐き出す――それは彼がかつて別の次元で教わった、緊張や不安を解く為のまじないだった。

 

「どうだ? 少しは落ち着いたか?」

 

「うん……何とか」彼女は頷いた。そしてその効果を証明するかのように体の震えも収まっていた。「ありがとう。おじさま」

 

「蒲公英。不安なのは俺も同じだ。だが戦いの中においてそれは弱さだ。不安を抱いたままでは決して敵に勝利する事など出来ない――信じるんだ。俺たちが勝利することを。そして馬騰殿の無事を」

 

 しばらく炎を見つめていた馬岱だったが、やがて彼女は首を振った。「分かってる。もう平気だから」

 

 彼女の様子を見届けたサルカンは立ち上がり、目の前で揺らめく炎を消した。「そろそろ行くぞ。ここからは先は更に速度を上げて行く。振り落とされないようにしっかり掴っていろ」そして最後にそう言い残すと、纏っていた外套を脱ぎ落とし、再びその姿を人から龍のそれへと変化させた。

 

――――――――――――――――――――

 

 数千の部下と共に前線へと繰り出した孫策は、改めて眼前に聳え立つ城壁を見上げた。

 包囲攻撃に晒されて既に十日以上が経過しているにも関わらず、彼らは未だに防衛線を維持し続けている。やはり一筋縄ではいかない相手だと、改めて痛感した。

 そして破城鎚を運ぶ前方の一団に接近すると、先頭を進んでいた隊長兵士へと駆け寄った。

 

 《猛進する破城槌》https://imgur.com/a/GCMKr

 

「貴殿は?」隊長の男が尋ねてきた。浅黒い肌と多数の戦傷を持つ壮年の男であった。

 

「あたしは袁術軍の孫策。あなた達の支援に来たわ」乗騎を降りながら孫策は名乗りを上げ、彼らが懸命に運んでいる破城鎚を指し示した。「コイツで城門を抜こうってんでしょ? あたしらにも一枚噛ませてよ」

 

「ありがたい」彼女の提案に男は厳つい顔を僅かにほころばせた。「貴殿らには上からの攻撃を防いで貰いたい。奴らめ、こちらが攻城兵器を使うと見るや、あのような策を取り始めたのだ。見ろ」

 

 男が向いた場所――城壁の上には、巨大な鍋がいくつも置かれていた。そしてそれは銅鑼の合図と共に味方がよじ登る梯子へと傾けられ、溶岩のように煮えたぎった油を容赦なく注ぎ込んでいた。

 

「あれは……きついわね」

 

 孫策は思わず渋面を作った。高温の油は人の意志など簡単に砕いてしまう。現に油を頭から浴びた兵士は熱さのあまりに梯子から手を離し、他の兵士を巻き込みながら地面へと落下していく。

 そして更なる銅鑼の音が鳴り響くと、火矢を構えた兵士が姿を現し、彼らに向かって火炎の追い打ちを仕掛けていった。

 

「上手く城門の前までたどり着いたとしても、あのように上から火と油を撒かれればひとたまりもない。我らが城門を破るまで、何とか敵の攻撃を防いでは貰えぬだろうか?」

 

 男の嘆願に孫策は早速応じようとしたが、出し抜けに誰かが彼女たちの会話に割って入ってきた。「なるほどのぉ。ならばここは、儂らの出番であろうな」

 

 振り返った正面には一人の女が居た。薄紫の髪を靡かせながら立つその手には、精巧な造りの大弓がしっかりと握られてた。

 

「祭」孫策が闖入者の名を呟いた。それは孫策軍最古参の宿将にして、軍一番の弓兵でもある黄蓋であった。

 

「策殿。ここは我らが弓兵部隊に任せられよ。あのような陳腐な攻撃、させるまでもなく撃ち払って見せましょうぞ」

 

 凛々しい声で黄蓋はそう言い放つと、腰に備えていた矢筒から数本の矢を取り出し、無造作に構えて上空へと撃ち放った。

 

 彼女の動作が余りにも自然過ぎたためか、二人ともそれが何を意味したのか一瞬分からなかった。わずかに遅れて放たれた矢の方角を見ると、ちょうど別の場所で鍋を傾けようとしていた兵士が数名、悶えながら城壁の上に崩れ落ち、油を辺り一面にばら撒きながら絶命するのが見えた。

 

「如何ですかな?」呆気に取られている二人を見つめながら、黄蓋は満足げな笑みを浮かべた。

 

 あまりの絶技に言葉を失う男を他所に、肩をすくめながら孫策が答えた。

 

「祭。あなたを連れてきた事に感謝しなければならないみたいね。上からの迎撃についてはあなた達に任せるわ。あたしは前で防御と指揮につとめるから、思う存分やんなさいな」

 

 彼女の指示に黄蓋は満面の笑みを浮かべると、背後に控えていた弓兵達に指示を出し、自身も再び弓矢を番えた。

 

――――――――――――――――――――

 

 孫策が破城鎚部隊と合流する少し前のこと、馬休は流れ矢によって負傷した馬超に代わって必死に防衛線の維持に努めていた。

 姉と比べて足らぬ武勇は振り絞った知恵で補い、低下した士気は自ら敵を倒す事で再び高める――そうして辛うじてだが、彼女は城壁に敵が登り切るのを食い止め続けていた。

 

「鍋の準備はいい!」作業を進める工兵に向かって馬休が吠えた。「銅鑼の音を合図に油を流すから! 聞き逃さないようにね!」

 

 僅かな時間の後、工兵たちは全ての準備が整ったことを彼女に知らせた。あとは最適な時を待つだけだった。

 

 まだ早い……あともう一息……刻々と迫り来る敵の姿をじっと見据えながら、馬休は自らに言い聞かせた。その間にも敵は次々と押し迫り、城壁を踏破しようと試みている。

 隣に居た副官がちらりと目配せをした。もういいだろう、という意思表示だ。しかし彼女はそれを拒否した。完全な損害を敵に与えるにはまだ不十分だった。

 守備部隊が更なる猛攻に晒される中、ついに敵の部隊が集まりきった事を確認すると、馬休はありったけの声で令を発した。

 

「今よ! 銅鑼を鳴らして!」

 

 彼女の叫びと共に城壁を銅鑼の音色が駆け抜ける。そしてそれが引き金となって、油で満たされた鍋の大口が再び敵の頭上へと傾けられた。

 限界まで熱せられた油が敵兵の顔や頭を焼きながら絶叫や苦悶の声と一緒に落下していく。

 その耳障りな声を必死に脳内から追い払いながら、馬休は次の作戦へと移った。

 

「次! 弓兵、前へ!」

 

 待っていたとばかりに今度は火矢を構えた兵たちが背後から姿を現し、目下の大地へと狙いを定める。

 そして全ての兵士が狙いを定め終えたのを見計らうと、最後の指示を下した。

 

「……放てッ!」

 

 彼女の声に従ってもう一度銅鑼が叩かれ、弓兵たちは引き絞っていた弓の弦を思い切り解き放った。

 

 《猛火の斉射》https://imgur.com/a/n66DW

 

 降り注いだ油と炎によって、大地は瞬く間に地獄と化した。燃え盛る兵士たちが不格好な踊りのように地面をのた打ち回り、次第に人肉の焦げる臭いとおぞましい断末魔が辺りを支配する。

 あまりに凄惨な光景に、馬休は思わず目を背けてしまいたくなったが、逸らす訳にはいかなかった。今の自分は指揮官であり、勝利するためには戦場のあらゆる事を見つめ続ける必要があった。

 

 不意に近くに居た兵士の一人が報告と共に悲痛な叫びを上げた。「正面の敵部隊は壊滅! しかし西門の部隊には損害ありません!」

 

「そんな! どうして!?」馬休は目を剥きながら慌てて問題の方角を見つめた。するとそこでは、起こる筈の無い事が起こっていた。

 

 西門に設置された鍋――下にある破城槌を焼き尽くす筈だったそれは、中身の油を大地ではなく城壁の上へと撒き散らし、渦巻く火炎を引き起こしていた。防衛に当たっていた兵士たちが懸命に消火活動に当たっているが、火の勢いが強く思うように近づけていないのが現実だった。

 

 敵の仕業だ――馬休はすぐに察した。奴らは油を流す際に出来る僅かな隙狙って攻撃を仕掛け、こちらの自滅を誘ったのだ。

 

「あの炎じゃ敵もすぐには登ってこれない! その間に西門近くの人たちは消火活動と攻城兵器の迎撃に当たって! 他の人たちは引き続きその場の防衛に集中を!」

 

 ありったけの声で次の指示を叫んだ後、馬休は城壁を思い切り殴りつけた。

 

 自分のせいだ。自分の不注意がこの事態を招いたのだ。どうしようもない失態だった。

 だが言い訳を口にするのは後だった。今はこの状況を挽回する方が先だった。

 足りない頭を回転させ、次に取るべき方策を考得ようとしたその時、誰かが不意に自分の名を呼んだ。

 

「鶸!」

 

 声の正体は馬騰だった。援軍への連絡を終えてここまで戻ってきたのだ。

 

 母は馬休の身体を優しく抱き締めた。「お前一人でよく頑張ったね。あたしも今から力になるよ」そして控えている兵士達を見据えると、力強い声を掛けた。「野郎ども!! ここが一番の正念場だよ! お前達の後ろには大切な街と女子供が控えてる。てめえの命なんざ捨てる覚悟で、しっかりと戦い抜きなな!」

 

 君主の命に兵士たちは沸き立ち、興奮と闘志が辺りを包み込む。

 しかしその中から一つ、冷ややかな声が彼らに向かって返ってきた。

 

「――ほう。では貴様の命もこの場に捨て去ってもらおうか」

 

 割り込んできた敵意に彼女たちは振り返った。一体いつの間に現れたのか、城壁の上に刀を持った女性が毅然と佇んでいた。

 

「ついにここを登ってくる奴が出たって訳かい」馬騰の視線は冷静だった。長きに渡る経験か、あるいは防衛戦をかい潜る敵の登場をあらかじめ予想していたのか、いずれにしろ動揺一つせず平然としていられるのは流石であった。

 

 女は逆手に持った刀を構えた。「我が名は甘寧。西涼の馬騰よ、我が君主孫策のため、貴様にはここで死んでもらう!」そして襲い掛かる兵士たちを斬り倒しながら、猛然とこちらに走り出した。

 

「させない!」僅かに遅れて馬休も槍を構えると、迫り来る甘寧に向けて渾身の突きを放った。「お前は私が!」

 

 彼女の切っ先は正確に敵の心臓を捉えていたが、その軌道はあまりにも直線的過ぎた。甘寧は手にした刀で容易くそれを打ち払うと同時に一気に間合いを詰め、馬休の脇腹に鋭い蹴りを叩き込んだ。

 

 衝撃に負けた馬休の体は姿勢を崩し、その場に倒れ込んだ。弓を番えた馬騰が急ぎ援護に回るが、それでも甘寧が彼女の喉頸に切っ先を向ける方が早かった。

 

「もう終わりか? ならば貴様から先に黄泉路に送り届けてやる」

 

 そのまま止めを刺すべく甘寧は刀を押し込もうとしたが、その行為は上空から轟く咆哮によって押し留められる事となった。

 

――――――――――――――――――――

 

「おじさま! ようやく城が見えてきたよ!」

 

 落ち掛けた日が戦場を赤々と染める中、馬岱の言葉を聞いたサルカンが強い唸り声を返した。

 彼らの目下――狄道の城は墨汁を垂らしたような黒鉄色の染みが周囲を覆っていた。それらは全て敵の兵士であり、二人にとっては蹴散らすべき障害であった。

 

「あんなに敵が……」馬岱は僅かに怯み、続いて門の前に置かれた構築物に目を見張った。「しかもあれ、破城槌だよ! あんなのに取り付かれたら城門が持たない! おじさまッ!」

 

 分かっているとばかりにサルカンは再び龍の喉笛を鳴らすと、馬岱にしっかりと掴まるようにと仕草を送る。

 彼の意志を受け取った馬岱は手綱にしっかりと掴まると、他次元に住まう龍騎士よろしく鞍に自身の重さを全て預けた。勿論、万が一の落下に備えて命綱の準備も忘れてはいない。

 

「いいよおじさま。降りよう! おばさまたちを助けに行こう!」

 

 彼女の返事を受け取ったサルカンは高度を下げると、敵陣に向かって猛然と飛び込んでいった。

 

――――――――――――――――――――――

 

 上空から突如飛来してきた“それ”を、最初は誰もが呆気に取られたように眺めていた。

 

 雄々しい叫びは雷鳴のように鼓膜を貫き、山の如き巨体は存在するだけで圧倒的な恐怖と威圧感を相手に抱かせる。例え天下無双を誇る大英雄であったとしても、その存在の前では等しく無力であり、恭しく命を乞うしかない

 

 目の前に現れた“それ”は、まさにそんな存在だった。

 

「あれは、なんだ……?」戦場に居た誰かが呟いた。それはこの場に居る全員の総意であり、同時に誰も知る事の無い謎であった。

 

 《サルカンの憤激》https://imgur.com/a/9XUNW

 

 突風を巻き起こしながら“それ”は城の前に降り立つと、設置されていた破城槌を太い腕で掴み取り、それを連合軍の陣地に向かって鋭く投げつけた。

 

 大よそ飛んで来る所か浮かび上がる事すらない筈の物を投げつけられ、幾人もの兵士が為す術もなく弾け飛び、その命を散らしていく。

 それが自分達を狙った明確な攻撃だと遅れて気が付いた討伐軍は、混乱に陥りながらも抵抗を開始した。

 

 弓の腕に少しでも自信のある者たちは鬼の形相となって矢を射掛け、死を恐れぬ勇者は果敢にも“それ”へと戦いを挑んでいく。

 

 ――だがそれらは全て無意味な行為だった。

 

 全身を覆う鱗はさながら鎧のように飛来する鏃を退け、顎の中から吐き出した炎は襲いかかる兵士たちを抵抗の暇すら与える事無く焼き尽くす。

 

 まさに一方的なまでの虐殺――いや、虐殺とも呼べぬ蹂躙である。

 

 必死に抵抗する兵士たちを嘲笑うかのように、“それ”は暴力の限りを尽くしながら、目に付く敵の全てを破壊して回っていくのであった。

 

――――――――――――――――――――――――――

 

「な、なんだあの化け物は……?」突如現れた異形を前に甘寧は刀を止め、信じられないと言った表情で呟いた。

 

 無理もない。空から突然怪物が現れて、自分達に襲い掛かるなど誰が信じられようか? そんな事を言って素直に聞き入れるのは、おとぎ話を信じる無知な子供くらいである。

 

 しかし彼女が呆気に取られている間にも、現実として目の前の怪物は討伐軍の陣地を破壊し、兵士を倒し、戦場を滅茶苦茶に蹂躙している。このままでは一刻を待たずに戦線が崩壊するのは明らかだった。

 

「いかん! このままでは雪蓮様が!」雷に打たれたように甘寧は馬休の身体から飛び退くと、城壁に掛けられた梯子の一つに足をかけた。「……貴様の命、しばらく預けておくぞ!」そして驚くほどの素早さでそれを伝っていくと、何処かと姿を消した。

 

「な、なんなのあれ?」同じく茫然自失となっていた馬休が同じような呟きを零した。「龍……? あれってもしかして、おとぎ話に出てくる龍なの?」

 

 皇帝が力の象徴として用いる神獣――龍。雷雲や嵐を呼び込み、天空を自在に飛翔すると言われる伝説上の生物である。

 彼らは決して人が訪れる事の出来ないような秘境に住まい、人々の行いを見守りながら時には密かに力を貸し、また時には力で以てそれを諫めていると言う。

 目の前に現れた“それ”が本当に龍なのかは分からなかったが、少なくとも馬休にはそうだと思えた。

 

「さあてね」彼女とは裏腹に、まるで悟りを開いたように余裕を見せながら馬騰が答えた。「だけどこれだけは分かるよ。あいつは今の所あたしらの味方で、あいつのおかげで流れが変わったってことさ。――野郎共! 今の内に防衛線を押し返すんだ! 今度こそ死ぬ気で戦い抜くんだよ!」

 

 彼女の一声に意識を取り戻した兵士達は勝ち鬨の雄叫びを上げると、暴れ回る怪物と共に戦場を駆け巡った。

 

――――――――――――――――――――――

 

 破壊と混沌が渦巻く中、孫策は一人子供のように無邪気な笑みを浮かべていた。

 

「なによ!なによ!なによアレ!!! あんなのがやってくるなんて誰が予想した? アッハハッ!! 最ッ高じゃない!こんな事って本当にあるのね! こんな西の果てにまで遠征に来た甲斐があったわ!」

 

 ひょっとしたら自分は狂っているのかもしれない。でなければこれは、白昼夢か幻視の類だろうか? 自分は未だ夢の中に居て、目覚める時を待っているのだろうか? 真相はそうでないと分かっていても、孫策は半ばそう疑わざるを得なかった。

 

 怪物の吐き出す何度目かの炎が、すぐ隣にあった味方の陣営を焼き払った。熱風と火の粉が孫策の顔を打ち、瞳を焙る。だが彼女は決して視線を逸らさなかった。出来なかった。未だ正体の分からない巨大生物に、彼女は夢中になっていた。

 

 喜び叫ぶ主を見かねた黄蓋が叱責を飛ばした。「策殿! 喜んでおられる場合か! あの怪物に我らの兵どころか、虎の子の破城槌までやられてしまったのですぞ!」彼女は生き残った部下たちを懸命に纏め上げ、退却の指揮を執っている最中だった。

 

 目前にある強烈な光景から孫策は目を離さず答えた。「何よ! あんなもの見せられて喜ばない方がどうかしてるわよ! あれってもしかして、昔の御伽話とかに出てくる龍って奴なのかしらね?」今の彼女にとって、味方の状況などは二の次だった。

 

 あの怪物さえ手に入れることが出来れば、孫呉の隆盛は間違いなく成功する。あの圧倒的な力さえあれば――

 

 そう考えた直後、孫策は自身の肩に誰かの手の平が乗るのを感じた。引き込む力が体勢を捻じ曲げ、黄蓋の眼前へと強引に向けられた。

 

「策殿!いい加減にして下され! 今はここから撤退する時ですぞ!」黄蓋が目を血走らせながら言った。「これ以上、部下たちを無益な巻き添えに晒す訳にはまいりませぬ!」

 

 彼女の身体は真紅に染まっていた。傷口には弓矢ではなく、木片や鉄のかけらが突き刺さっている。それらの多くは破壊された破城槌の部品だった。

 

 重症の腹心を見つめ、ようやく孫策は冷静さを取り戻した。「……悪かったわ。全軍退却! 互いの身を守りながら一旦本陣に下がるわよ!」そして腰に佩いた剣を指揮杖のように振りかざすと、本陣の方を指示した。

 

 孫策の巧みな指揮によって部隊は再び統率を強め、怪物の脅威からの脱出を図った。盾を持った守備兵隊を殿に据え、互いに損害を庇いながら素早く迷わず後退していく。

 怪物もこちらを無理に追撃しようとはせず、退却する兵士は逃げるに任せている――どういう意図があるのかはわからなかったが、今の“それ”は設備の破壊にのみ心を裂いているようだった。

 やがて怪物の手の届かない範囲まで距離を取ると、ようやく本陣の方から救援部隊の姿が見えた。

 

「雪蓮! 無事だったか!」遠くから自分の真名を呼ぶ声が聞こえた。後方で待機していた周瑜だった。

 

「ええ。何とかね」額に噴き出た汗を拭い、孫策が答えた。「それよりも祭をお願い。あちこち怪我してるわ。治療してあげて」

 

「無論だ。薬はたっぷりと持ってきた。しかし、一体何があった。あれは一体なんだ?」

 

 孫策はかぶりを振った。「あたしにも分からないわ。多分あの場に居た誰一人、分かる人間は居ないでしょうね」

 

「そうか……とりあえず本陣に一緒に来てくれ。今後の事を話し合わなければならない」

 

「分かったわ」

 

 残りの部下たちを救援部隊に任せ、二人は愛馬に乗り込むと他の指揮官たちが集っているであろう本陣へと向かっていく。

 

「……しかしあの怪物、いつかあたしのものにしてみたいわね……」

 

 最後に暴れ回る怪物をちらりと振り返りながら、孫策は一人そう呟くのであった。

 

――――――――――――――――――――――

 

 目についた兵器を可能な限り破壊し、敵兵がすべて撤退していくのを見届けたサルカンは、ゆっくりと飛行しながら城壁の上に降り立つと、背中に乗せていた馬岱を降ろした。

 

「た、蒲公英!?」龍の背から現れた従姉妹の姿に馬休は目を見開いた。「どうして蒲公英が怪物の背中に……?」

 

 彼女の質問にはあえて答えず、馬岱は忠告の言葉を口にした。「その辺の事情は後で説明するから、とりあえず今は目を瞑ってた方がいいよ」

 

「……? それってどういう事?」言葉の意味が解らず、馬休は困惑したように馬岱を見つめ返す。

 

 そうしている間にも、目の前で変化が始まった。

 岩のように巨大だった龍は見る見るうちにその身体を小さくしていき、そして代わりに生まれたままの姿で佇むサルカンの姿が現れた。

 

「うわ! ちょっと!? は、裸!? ……な、なんでサルカンさんが裸で!?」馬岱の忠告も空しく彼の全身を直視してしまった馬休が慌てた様子で己の顔を両手で塞ぐ。「っていうか! そんなものいきなり見せないでくださいよ!」まだ誰にも体を許した事の無い乙女にとって、鍛え抜かれた彼の身体はあまりにも刺激的なようだった。

 

「だから目を瞑ってた方がいいよって言ったのに」呆れたように肩をすくめながら、馬岱は馬具と一緒に外れた荷物の中から、サルカンの衣服を取り出した。「はい。おじさま。とりあえずこれを着てから話にしよう」

 

 呆気に取られながらやりとりを眺めている面々を尻目に、サルカンは手際よく自分の衣服を身に着けると、馬騰の前で拱手の構えを取った。

 

「――馬謄殿。遅くなりましたが、助太刀に参りました」

 

 馬騰はしばらく言葉を失ったようにその場に佇んでいたが、やがて大きなため息を吐くと言った。「……徹里吉の坊やから手紙の中身を聞かなかったのかい? あんたと蒲公英を匿ってもらうように頼んであった筈だが」

 

「知っています。貴女が羌族とこの地の人々のために叛乱を決意していたことも。争いとは無関係な俺や蒲公英を逃がそうとしてくれていた事も」

 

「そこまで知ってんなら、どうして戻って来たのさ? あんたには羌族と漢人の対立なんて、何の関係もないだろうに」

 

 サルカンはかぶりを振った。燃え上がる瞳が彼女を見つめていた。「俺は貴女に家族として認められた。家族の窮地に駆けつけるのは同じ家族の役目だ。それにこの街には俺を癒してくれた人が、俺が守りたいと思う人たちが大勢居る――だから俺は、ここに戻ってきました」

 

 彼の言葉は篝火のように人々の心を暖かく照らした。そこには次元の差や人種の違いなど存在しなかった。誰もが一つの家族であり、互いを守るべき大切な人であった。

 

「……馬鹿だねぇ、本当にお前さんは」馬騰が絞り出すような声で呟いた。いつの間にかその目には大粒の涙が溢れていた。「こんな婆とちっぽけな街のために戻ってくるなんて、本当に馬鹿な男だよ……」

 

 彼女の声に、いつの間にか馬休や他の兵士たちも肩を震わせていた。皆がサルカンと馬岱の帰還を心から歓迎し、その助力に感謝していた。

 

「――緑(みどり)だ」不意に投げつけるように馬騰が言い放った。「あたしの真名だ。あんたにはまだ預けてなかったからね。ちと遅すぎるかもしれないが、受け取ってもらえるかい?」

 

「無論です」彼は頷き言った。「ここを片付けたら一旦城に戻りましょう。俺がなぜ龍の姿になっていたのか、これまでに何があったのか、全てそこでお話します」

 




 書きたかった部分までがようやく作れました。


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幕間

 本陣に帰還したのは日が完全に沈み切った後のことだった。

 闇に包まれた陣内は負傷者と癒し手でごった返していた。天幕の外には収まり切らなかった者たちが筵の上に寝かされ、懸命に治療を受けている。ちらちらと燃える篝火が、その陰鬱な風景に一層の拍車をかけていた。

 

「……酷いわね」眉を顰めながら孫策が呟いた。戦が生む悲惨な光景は何度見ても慣れぬものであった。

 

 寝かされた兵士の中には見知った顔の者や気心知れた者も大勢混じって居た。孫策は彼らの顔を――今より幾らかまともだった頃の顔を思い出すと、それを胸に刻み込んだ。たとえ二度と会えなくなったとしても、決して忘れてしまわぬように。

 

「ああ。多くの者が明日生きられるかも分からぬ傷を負っている。あの油と炎のせいだ」周瑜が苦々しい表情で答えた。「弓や刀で出来た傷であればまだ治療のしようもある。だが火傷だけはどうしようもない。身体の殆どが焼け爛れてしまえば、それはもう死んだも同然だ……」

 

 言い終えると彼女は申し訳無さそうに負傷者から顔を逸らした。前線に赴くことのない軍師としての罪悪感が、彼女にそうさせるのだろうかと孫策は僅かに考えた。

 

 そのまま陣の奥へと進んでいくと、不意に横合いから闇に溶け込むような黒装束の男が姿を現した。

 

「――孫策様と周瑜様ですね?」男が言った。闇と同化した様な低い声だった。

 

 腰の剣に手を掛けた孫策が慎重な面持ちで尋ねた。「貴方は?」刺客の類には見えなかったが、伝令を装って襲いかかる者も戦場では珍しくない。この男が敵ならば、すぐさま対処するべきだろう。

 

 警戒する二人に向かって彼は言った。「私は董卓様の使いで参りました。お二人には急ぎ軍議に参加していただきたく存じます」

 

 しばらくの間、男の顔をじっと見つめていた孫策だったが、やがて大きなため息と共に警戒を解くと、剣にかけていた手を静かに降ろした。

 

 彼女が構えを解いたのを確認してから周瑜が頷いた。「分かった。案内してくれ」

 

「こちらです。付いてきて下さい」男はくるりと背を向けると、そのまま陣の最深部に向かって歩いていく。

 

 二人もそれに従って歩を進め、そして一際大きな天幕へと辿り着いた。軍議や物資の保管に用いる大型のものである。

 

「他の皆様は既にお集まりになっています。さあ、中へ」恭しく一礼した後、男は暗闇に溶けるようにその姿を消した。

 

 孫策と周瑜が中に入ると、果たしてそこには討伐軍における主要な将の全てが集結していた。

 総大将である張温が上座にどっしりと控え、その両隣を補佐である董卓と賈駆が固めている。その後は主立った将達が順番に列を成し、その一角に二人は身を置いた。

 

「全員集まったようだな」重苦しい声で張温が始まりの合図を告げた。普段から威圧感のある声だが、今回ばかりは力が無いように感じられた。「話すべき事柄は色々とあるが、まずは現在の状況を確認したい。各員は己の部隊の損害を報告せよ」

 

 彼の言葉に触発され、一人の将軍が苦渋と共に声を上げた。「我が輩の部隊は今日までに千五百の兵を失った。負傷者は倍の三千。これ以上は耐えられませぬ」彼はじろりと張温に不満の視線を送り、今の状況への思いを露わにした。

 

「私の部隊もほぼ同数の被害を受けた」孫策の向かいに座っていた赤髪の女将軍が後に続いた。「加えて我々は持ってきた破城鎚と衝車も何台か破壊されている。正直言ってかなり厳しい状況だ」

 

 複数の兵器に大勢の兵士――どちらも馬鹿に出来ない消耗だ。兵士とは元を辿れば自分の管理する領民であり、彼らの死はそのまま領地全体の労働力の減少に繋がる。加えて彼らを送り出した親族にもきちんと手当をしなければならない。

 

「なるほど」彼らの言葉と不満を張温は静かに受け止め、更に他の者にも話すよう促した。「李説殿の軍はどうなっている?」

 

 そうして戦闘に参加していた将軍達が各々の状況を報告する間、孫策は先ほどの怪物について思いを巡らせていた。

 あの怪物は明らかにこちらだけを狙って動いていた。あれが見境のない獣ならば、双方に攻撃をするのが自然だ。

 だがあれは馬騰軍を襲うような事は決してなかった。むしろ彼らを助けるかのように動いていた。

 アレには明確な意志があるのだ。あるいは誰かの意志通りに動くだけの知恵が。それは即ち、こちらも利用できる可能性がある事を示している。

 つまりあの怪物は――あの龍は、自分のものにする事が出来る!

 脳内で次々と沸き立つ自分の考察に、孫策は血が踊る思いであった。

 

「――では最後に袁術軍の被害を報告していただきたい」出し抜けに張温がそう尋ねていた。いつの間にか他の人間達は報告を終えているようだった。

 

 我に返った孫策は小さく舌打ちし、思考を打ち切ると言った。「ウチの損害は五百ってところね。負傷者も大体同じくらいよ」

 

 彼女の返答を聞いた彼や他の将軍たちは少し意外そうな顔をした。「……そなたの軍は、他よりも被害が少ないようだな」

 

「元々の数が少ないだけよ。それにあたし達の任務は今まで他の部隊の支援や補給ばっかりだったから」

 

 その言葉は事実だった。孫策が連れてきた兵は五千弱と他の軍に比べれば半数以下で、加えて彼女たちは直接の攻撃に参加するよりも味方の支援行為を担当する事が多かった。それが今日まで少ない犠牲で済んできた理由だった。

 

「ふむ……」少し考えるように張温は首を捻り、やがて小さく頷いた。

 

 そのまましばらく沈黙の時間が流れた。他の将や連れの軍師達も互いに目配せはするが、決して自分から言葉を発しようとはしない。

 見計らっているのだ。現在の状況を知った張温が何を言うのかを、誰もが謎に思っているあの怪物について、どんな言葉を口にするのかを。

 だが、彼らを待っていたのは回答ではなく疑念だった。

 

「失ったのは全体の三割ほどか。少なくはないな」自分に注がれている熱心な視線など、まるで感じないとばかりに張温は言った。「だが向こうは既に半数以上の戦力を失っていると聞く。このまま押せば確実に勝てるだろう。奴らを迅速に討ち滅ぼし、そして金城からやってくるであろう援軍を落とした城でこれを撃退する」

 

 その発言は彼らにとって実に奇妙だった。この中の誰もがその存在を目の当たりにしているというのに、彼はまるでその事についてまるで興味を持っていないか、そもそも認知していないかのようだ。

 

 彼は正しく状況を理解出来ていないのか? それとも超自然的な思想を忌避するあまり、精神に異常をきたしてしまったのだろうか? 将軍たちには張温の思考がまるで理解できなかった。

 

「あの……一つ伺ってもよろしいか?」周囲に奇妙な空気が漂う中、赤髪の女将軍が慎重に声を上げた。

 

 張温が視線を彼女に傾けた。「何だ? 公孫賛将軍」

 

 女将軍――公孫賛は僅かに視線を彷徨わせた後、探るように言葉を選びながら尋ねた。「我らを襲ったあの怪物……あれについて、張温殿はどうお考えなのかをお聞きしたい」

 

 『よく言った』と、孫策は心の中で彼女に賞賛の言葉を送った。見れば他の面々も似たような視線を投げかけている。あの怪物について、誰かが張温に問うべきだった――そしてそれは自分以外の誰かである必要があった。誰もが嫌がる貧乏籤を、彼女は自ら引いてくれたのだ。感謝する他はない。

 

 皆の視線が再び張温に向けられる中、出し抜けに列の端から声が聞こえた。「それについては、私からお話しましょう」

 

 全員が思わず声の持ち主を辿った。列の末端――誰の視線も向かないその席には、全員をこの戦場に誘った張本人が座っていた。

 

「耿鄙……殿?」公孫賛が顔をしかめながら聞き返した。予期せぬ人物の登場に困惑しているようだった。

 

 刺史は席を立つと静かに語り始めた。「皆様を襲った怪物……それは恐らく、羌族が飼い慣らしている獣の一種に違いありません」そして張温の隣まで歩いていき、そこで立ち止った。まるでそこが本来の自分の立ち位置であるかのように。

 

「獣だと! だがあの姿は、紛れもなく伝説の龍そのものではないか!」口から泡を飛ばしながら一人の将軍が立ち上がった。彼は怪物の被害を最も受けたうちの一人だった。

 

 その言葉に孫策も思わず同意した――と言っても、彼と己の真意はかなり違う所にあるのだろうが。

 だが少なくとも、あれは間違いなくただの獣などではなかった。明確な意思と高い知性を持つ何か――強いて言えば『人間』に近いものを感じた。

 

 将軍の主張を耿鄙は即座に否定した。「いいえ。あれは決して龍などではありません。龍と言えば陛下の威厳を表す聖なる生物……それがどうして卑しい羌の手先になどなりましょう――あれは獣です。空を飛び、人を襲う獰猛な獣なのです」

 

 この男は怪物の正体が何なのかを知っている。そしてその存在を忌ましく感じている――彼の口ぶりからそれはすぐに分かったが、分からない事もあった。なぜ彼だけがその事実を知っているのだろうか?

 目の前に映る男は決して信用に値する人物ではない―――孫策の本能が、自身に強く告げていた。

 

「あの怪物の正体が龍かどうかはこの際どうでもいい」投げやりな口調で別の将軍が言った。「重要なのは、我々はあの怪物に対して手も足も出なかったという点だ。相手が空を飛ぶのでは剣や槍など意味を成さず、おまけに弓も役に立たない。そんなものを相手に、我々はどうやって戦えばいい? このままでは嬲り殺しにされるだけだぞ」

 

「それについては私に秘策がございます」耿鄙は静かに答えた。「皆様はどうかこれまで通り、攻城戦に集中なさって下さい」

 

「信じられないわね」思わず孫策も声を上げた。彼の発言は非現実的なものに聞こえてならなかった。「アンタは今まで羌族に対して小競り合いしか挑んでこなかった。そしてそれすらも苦戦していて、あたし達を援軍としてここに呼んだ。なのにどうしてあんな化け物を相手に出来るっていうのよ?」

 

 彼女の批判に他の人間たちから次々と追従の声が木霊する。しかし彼はそれを嘲笑うかのように受け流すと、ゆっくりと語り始めた。

 

「それも含めまして、今から私が考案した策をお話いたします。長い話になるかもしれませんが、どうか心してお聞き下さい」

 

――――――――――――――――――――――

 

 城へと戻ったサルカンは、馬騰をはじめとした主要な人々たちを集め、今までの経緯や己の真実についての全てを語った。

 プレインズウォーカー、龍魔導士、幾重にも存在する次元について――最初は馬岱を除く誰もが信じられないと言う顔つきを示したが、実際にサルカンが目の前で次元を渡り、そこで得た物――(この時は小さな面晶体の欠片だった)――を持って戻って来ると、ようやく納得の表情を見せた。

 

 《面晶体の記録庫》https://imgur.com/a/A6oN9bl

 

「……あんたが別の世界から来た人間だって事は分かったよ」重い物を持ち上げたような顔で馬超が言った。矢が突き刺さった肩には包帯が巻かれ、動かぬよう布で固定されていた。「それで、あんたはこれからどうするつもりなんだ?」

 

 サルカンは答えた。彼の心はとうの昔に固まっていた。「俺のやることは変わらない。ここに留まり、皆を守る。もうすぐ羌の大王や周吾が味方の軍勢を引き連れてここにやって来る。彼らが到着するまで共に戦い続けるつもりだ」

 

「ならここから先は時間との勝負って訳だ」馬騰が明るい顔で皆に告げた。「ついさっき金城の連中から連絡があった。向こうもすぐ近くまで来てるらしい。待ちに待った援軍がようやく来たって訳さ」

 

 思わぬ知らせに思わず馬休が叫ぶ。「母さん! それホント!?」

 

「本当さ。一時はどうなるかと思ったが、これもお前さんたちのおかげだよ」

 

「じゃあー。それまで皆でここを守ればいい訳だよねー?」蜂蜜のように甘ったるい声が部屋に響いた。馬岱に似たその声は、馬騰の末娘たる馬鉄のものであった。「それなら楽勝だねぇ。 サルカンさんが一緒に戦ってくれるなら、怖いものなんて何もないもん!」言いながら彼女はまるで子猫のようにサルカンの身体に抱きついてくる。馬岱ほどではないが、彼女もまたサルカンに懐いている人間の一人であった。

 

「あー! 蒼ってば、いきなり抱きつくなんてずるい!」馬鉄の痴態を見た馬岱が吠え立てた。「蒼がそんなことするなら……たんぽぽだってしちゃうもんね!」そして彼女に対抗するかのように馬岱もサルカンの膝の上に座り込んだ。

 

「お前らなぁ……」妹たちの行為を溜息と共に馬超がたしなめる。「今は戦の最中なんだぞ! そんな風にふざけ合ってる場合じゃないだろ!」

 

「別にいいじゃん。たんぽぽ達はここまでずっと飛んできてたんだから、少しはゆっくりさせてよ。ね、おじさま?」

 

 絡みつくように身体を摺り寄せる二人の少女に、サルカンが苦い顔を浮かべた。「……二人とも。頼むから、もう少し離れてくれないか?」乙女たちから向けられる過剰な好意に、彼自身どうしていいのか戸惑っているようだった。「年頃の娘がそんなに軽々しく男に抱き着くものじゃない」

 

「えぇ? たんぽぽは別に気にしないよ? おじさまの身体にはもう何度もも跨ってるし、これくらいどうってことないよね!」

 

 馬岱の衝撃の告白に馬超が顔を赤く染める。「な、ななな!! 跨ったって、何だよそれ! お前まさか蒲公英に手を出したのか!」どうやら馬休と同じく、彼女もまた性的な話題が苦手なようだった。

 

 慌てふためく馬超にサルカンが言う。「落ち着け。龍になった俺の背中に乗ったという意味だ」彼女にこのような弱点があるとは意外だったが、考えてみれば彼女も立派な年頃の娘だ。そういった話題には年相応に興味はあるのだろう。

 

「蒼も別に平気だよ~? むしろもっとくっついちゃったりして♪」しかし、姉の狼狽などまるで気にしないと言わんばかりに、馬鉄が更に絡める力を強くする。

 

 そんな娘たちの様子を見ていた馬騰が痺れを切らせたように怒鳴り声を上げた。「ああー! もう止めな止めな! ったくこの色ボケ娘どもが! 大事な戦いの最中だってのに、いつまでもふざけてんじゃないよ!」

 

「「はぁーい」」彼女の一喝に馬鉄と馬岱が渋々と言った表情でサルカンの身体から離れる。

 

 ようやく離れた二人を尻目に、今度はサルカンにも非難の声を浴びせた。「お前さんもお前さんだ。小娘にひっ付かれたからって、いつまでも鼻の下を伸ばしてるんじゃないよ」

 

 まさか自分にも矛先が向けられるとは思っておらず、さしものサルカンも顔を歪ませる。「な!? お、俺は別に何も……」

 

「ハッ! どうだかね……まあいい。協力するってんなら、明日からはお前さんにもしっかり戦ってもらおうか。あの龍の力、存分に振るって貰うからね」

 

 話は終わったとばかりに馬騰は手を叩くと、皆に向かって声を飛ばす。

 

「そうと決まったらまずは食事だ! 腹一杯食って、また明日からの戦いに備えるんだよ。いいね!」

 

 彼女の言葉に皆は頷くと、遅れていた夕食を取るべく城の厨房へと向かうのであった。

 

――――――――――――――――――――――

 

 闇が更に深さを増している。大地を照らす月明かりも今日ばかりは厚い雲の裏側に隠れ、その姿を見せていない。松明の光が無ければ、満足に前を進む事さえままならないだろう。

 だが董卓にとってはそれはむしろ好都合だった。自分の存在を誰にも気が付いて欲しくなかった。今この時ばかりは。

 自分は今、とても大きな危険を侵している。死ぬ事は恐らく無いだろうが、最悪の場合はどうなるか分からない。

 だがそれでもやるべきだった。それが今の自分に出来る精一杯の行動だった。

 

 見回りの兵士達に気付かれないよう、暗がりから暗がりへと身を移しながら、彼女は一つの天幕へと近づいていく。

 そして目的の場所まで辿り着くと、そっと入り口の布を手で払い除けた。

 

 中では一人の男が机に向かって読書に勤しんでいた。紐で綴じられた古い本を炎の明かりを頼りに眺め、ぶつぶつと何事か呟いている。本や言葉の内容までは分からなかったが、その真剣な眼差しからして、重要な事柄なのはすぐに理解できた。

 

「おや。こんな夜更けに何の御用でしょうか? 董卓殿」こちらの気配を感じ取ったのか、紙面に向けられていた紫色の瞳がちらりと自分の方を向く。

 

 董卓は目の前の男へ歩み寄ると、臆することなく尋ねた。「……教えて下さい。貴方は一体何者なんですか?」

 

 彼が軍議で示した作戦は荒唐無稽だった。耳を傾けた誰もが彼の話を一度は跳ね除け、嘲笑った。だが彼が話を続けていくに従ってと将たちは次々に無言となり、最後には彼の言葉を肯定するまでに至った。

 そんな力を持つ人間が、ただの刺史な訳がない。

 

「藪から棒に何の話です?」男――耿鄙は眺めていた本を閉じると、肩を竦めながら言った。「私はただの刺史ですよ。あなたが知っている以上の事は何もない。少々、珍しい特技を持ってはいますがね」

 

 皮肉っぽい笑みを浮かべる彼だが、内心では何一つ面白いとは思っていなかった。その心はまるで底無し沼のように黒く深く、隠された真意を伺うことは到底出来そうに無い。

 

 それでも彼女は会話を進めた。「それは記録されている身分であって、本当の貴方じゃない」言葉を向けるたび、暗い深淵に身を浸すような感覚が自身を襲ったが、彼女は無視した。「話して下さい。貴方は誰なんですか? 一体何が目的なんですか?」

 

 彼女を見つめる耿鄙の視線は、さながら獲物を見定める獣だった。返答や成り行き次第では、すぐにでも目の前の存在を捕らえ、縊り殺してしまおうという強い意志が感じられる。それを表すかのように、彼の目には張温を操ったときに見せた光と同じものが宿っていた。

 

 董卓の顔をしばらく眺めていた耿鄙だったが、不意に瞳の光を消すと呆れたように言った。「こんな風に真正面から尋ねて来たのは、今までで貴女が初めてだ。もっとも、そんな必要の無い貴女だからこそ、こうして真っ直ぐやってきたのでしょうけれども」

 

 彼の口ぶりを聞いた董卓は、ある種の確信を得た。「やっぱり、私の力に気付いてたんですね」

 

「ええ。初めて会った時から」こともなげに彼は頷き、右手の人差し指で自らのこめかみを軽く叩いた。「貴女はこちらが油断しているのを良いことに、まんまと私の心の中に踏み込んでみせた。やられましたよ。まさかこの次元にテレパスが存在しているなんて、全く考えもしなかった」

 

 テレパス?

 

 董卓は脳裏で言葉を繰り返しながら僅かに首を傾げた。それは今までの人生で聞きた事すらない単語だった。果たしてどういう意味なのだろうか?

 

『他者(ひと)の精神を読み取る事が出来る者のことですよ。そう言った力の持ち主を、他の次元では『テレパス』或いは『精神魔道士』と呼んでいるんです』

 

 董卓の頭の中に突然、自身のものとは別の思考が駆け巡った。まるで声に出した返答のように。

 彼女はそれを以前にも感じた事があった。耿鄙と初めて出会った時だ。彼が自分の心を読んでいるのだと咄嗟に理解した。

 

 目の前の男に向けて董卓は考えた。『では、やはり貴方も?』

 

『ええ。私も同じ精神魔道士です。もっとも、貴女と違って生まれつきそうだった訳ではありませんが』再び男の声が頭の中に響いた。彼は他人の思考を読んだり干渉したりするだけでなく、自分の思考を他人に送り付ける事も可能なのだと知った。

 

 だがそのせいで余計に分からなくなった。これほど強力な力を持っている彼が、何故こんな場所で活動しているのだろうか? 何かを成し遂げたいのなら、他に効率的な方法はいくらでもあった筈だ。

 

『確かに力技に訴えれば、もっと早く目的を進める事は出来ました。だがそれでは私が介入したという痕跡を残してしまう可能性がある。ほんの僅かな痕跡だろうと、残しておきたくなかったんですよ。ですがその努力も、張譲や貴女のせいで台無しになってしまったようですが』彼女の内なる疑問を聞き取ったのか、自嘲気味な思考を飛ばしながら彼は再び肩を竦める。

 

 董卓が再び尋ねた。今度は肉声だった。「城の様子を見に行った時、耿鄙さんは私に利用価値があると言いました。あれは何故ですか? 私が同じ力を持っているからですか?」

 

「勿論それもあります。だがそれ以上に、貴女は私の考えを理解してくれると考えたからです」

 

 魔道士は席から立ち上がると、ゆっくりとした足取りで彼女の前に聳え立った。

 

「貴女はこの次元の平和を願っている。皆が幸せになれるような世界にしたいと考えている。それは尊い考えだ。私もかつてはそう思っていたし、今でもそう考えている」耿鄙が言った。先程までとは違い、その視線はひどく真剣だった。「だがそれは無理な願いだ。この次元の人々はあまりにも愚か過ぎる。貴女がいくら平和を願おうと、安寧を望もうと、奴らは自らの欲望のために簡単に踏み躙る。何度でも」

 

 彼女は警戒すると同時にひどく興奮していた。目の前の男はいつの間にか、自分が心の内に秘めていた大切な想いを覗き見ていた。

 

「……平和の道が簡単じゃない事くらい、わたしだって十分知ってます。ですが皆が平和を願うからこそ、今の朝廷があり、陛下を中心とした政権が存在している。違いますか?」

 

 彼女は自分の回答が不完全であることを知っていた。今の朝廷は腐敗している。彼の言うように民を守るべき人間たちが、自らの欲望のために非道な政治を繰り返している。だが政権や朝廷が作られた目的は、その思想と理念は気高いものである筈だった。

 

「帝」皮肉の笑みを浮かべながら、耿鄙が反論した。「帝など、ただの奴隷に過ぎない。権力を求める者が自らが利用する傀儡としてのみそれを求め、そこには人としての意思など存在しない。あれはただの装置だ。人が権力を利用しやすいように生み出した人型の道具――それが帝の実態だ。貴女もよく知っているはずだ。何しろ貴女の師匠である張譲こそ、現皇帝を操り、政治を自分の思うがままに進めている中常侍の一人なのだから」

 

 否定はしない。確かに中常侍は帝に助言を唱え、政治をより円滑にするために動いている。傍から見れば操っているようにも見えるだろう。だが自分の師は、彼が言うような汚い欲望とは無縁の人物だ。ただ母国を想う一心で動いていると、董卓は彼の心を通して知っていた。

 

『確かにあなたの師は愛国心によって動いているのかも知れない。だが他の方々はどうです? 本当に皆が同じく国を思っているのなら、何故この世界はこれほどまでに荒れ果てているのですか?』

 

「それは……」

 

 董卓には答えられなかった。人間の汚い心など、今まで飽きるほど見つめてきた。あんな汚れ切った人間たちが人の上に立ち、私利私欲のために下の人間たちを苦しめているのだと知った時は涙が止まらなかった。

 しかしその傍らで、彼らの存在がなければ国の政治が成り立たないというのもまた事実だった。彼らの欲望に目を瞑って賂を渡し、宴会を開き、口利きをすることでようやく円滑に物事が進む。そんな風にしている内に、自分もいつしか彼らの一員に加わってしまうのではないかと思う恐怖が彼女を常に苛んでいた。

 それでも自分はこの国の平和を――平穏な国が生まれる事を心の底から願っている。それを何故この得体の知れない男に否定されなければいけないのだろうか?

 

「……あなたに、私の何が分かるっていうんですか?」精一杯の侮蔑を込めて董卓が吠えた。心が読める人間にこんな言葉をぶつけること自体、冷静に考えれば滑稽な話なのたが、今の彼女にはそれしか言葉が思いつかなかった。「私が考える理想の、私が願う世界の、一体何が分かるって言うんですか!?」

 

 悲痛な彼女の言葉に、耿鄙はあっさりと頷いて見せた。「分かりますよ。少なくとも私は、貴女よりも長い時間をかけてこの世界を見つめてきた。それこそ気が遠くなるほど長い時間をね。そして分かった事は、彼らには決して平和を生み出す事は出来ないという事実だった」

 

 再び彼の目が怪しげな輝きを放ち始めた。「見せてあげますよ。私が今まで何を見てきたのか、そして何を目指しているのかを」その眼は董卓の瞳を捉えると、その奥――身体を通り越した心の奥底へと入り込んできた。

 

《渦まく知識》https://imgur.com/a/azkPFQz

 

 直後に鋭い頭痛が董卓の側頭部を貫いた。溢れ返る知識の津波に膝が折れ、思わず倒れそうになる。

 流れ込んで来たのは膨大な量の記憶だった。初めて出会った時に読み取ったものと同じ記憶――だが、今回は継ぎ接ぎだらけの断片ではなく、きちんと形作られた一連の物語だった。

 

 長きに渡る修行。得た力とそれを操る術。それを争いの武器として求める多くの人々。幾つもの絶望と挫折と裏切り。虚無となった故郷。そして別次元への到達。

 

 董卓の心は知識の洪水に飲み込まれた。全てを失った絶望と燃え上がるような憤怒を心で直に感じ取り、目の前の男が現在の目標を持つまでに至った過程の全てを瞬時に理解した。

 

「……これが……こんな事が……」

 

 董卓は歯を食いしばりながら、沸き立つ感情を堪えた。頭の中に流れ込んできた膨大な記憶は、まさに彼の人生そのものだった。

 

「理解して貰えたようで何よりだ。それがこの次元の人々の本性であり、私――いや、俺がプレインズウォーカーになった理由だよ」疲れ切ったように耿鄙が言った。「それで? 君はどうする? これでもまだ君は、君が信じる正しい政治とやらで平和を形作れると信じるのか?」

 

「……………」

 

 彼女は無言を貫いた。精神的な疲労と、彼の言葉が持つ重みに言葉が出なくなっていた。

 

 構わず彼は続けた。「今の君には二つの道がある。一つはこのまま何も知らなかった事にして目標を目指すという道。無論、俺の正体や目的に関する記憶は消させて貰うが、君のその純粋な思想に免じて命や心の安全だけは保障しよう――そしてもう一つは、俺と共に歩む道だ。この道を歩めば最後、君は数多くの人間を殺す事になるだろうし、何人もの英雄を敵に回すことになるだろう。だが成功すれば殺した以上の人々を救い、向こう何百年にも渡って平和な世界を構築する事が出来るだろう。どちらを選ぶかは君次第だ」

 

「今すぐ答えろとは言わない。作戦が動き出すまでの間――三日の猶予をやる。じっくり考えるといい。だが決して逃げたり誰かに相談しようなどとは思うな。誰かに話せばすぐに分かるし、逃げ出しても監視の者がすぐに見つけて連れ戻す。もしそうなったら、君の友達の心をばらばらに引き裂いて、汚い記憶の塊だけにしてやるからな」

 

 一片の温かみすら見せない声音で彼はそう告げると、こちらに興味を失ったように自分の席へと戻って言った。

 

「話は終わりだ。今夜はもう戻って休むといい。明日からまた忙しくなるからな」

 

 




 サルカンさんまさかのモテモテ状態。


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逆襲

 戦いを終えた敵軍が後退していく。規模こそ以前よりも小さいが、指揮も陣形も乱れてはいない。鮮やかなまでの引き際だ。僅かに盛り返したとは言え、やはり一筋縄で行ける相手ではない。

 太陽は既に地平線を彷徨っている。今日は恐らくここまでだろう。敵が夜襲や奇襲を仕掛けてくる可能性も残ってはいるが、それよりも今は損耗した兵士たちに治療や休息を与えるほうが先決だ。

 

 下がっていく敵の背中をじっと睨みつけながら、馬騰は兵士たちへ鋭く命じた。「敵の殿が撤退したらこっちも交代だ! 後続の部隊に防備を引き継いで休息に入るよ!」

 

 彼女の言葉を聞いた兵士の口から安堵の声が次々と上がる。本来このような気の緩みは士気に関わる問題だが、馬騰はあえて咎めはしなかった。自らの不利を知っている者に無理な発破をかける事は、かえって不満を募らせると長い経験から熟知していた。

 

 警戒しながら待機していると、城壁の内側から馬超が率いる後続部隊が姿を現した。右肩は相変わらず布で吊られているが、顔色は矢を受けた時と比べてかなり良くなっていた。

 

 彼女は兵士たちから持ち回りの仕事を一通り引継ぎ終えると、馬騰の元へ来て尋ねた。「どうだった? 敵の様子は?」

 

「相変わらずさ。不気味なくらい大人しいもんだよ」馬騰は城壁の淵に立ち、未だ遠くで蠢いている敵の動きを観察していた。その口元が不機嫌に歪んだ。「何を企んでるんだか、知れたもんじゃないね」

 

 サルカンの帰還から二日が経過し、戦いは新たな状況を迎えていた。龍の襲撃を警戒してか、討伐軍の攻撃は散発的かつ消極的なものとなり、今では小競り合いを挟みながら睨み合う程度の規模に収まっている。彼らへの防御が容易となった事で、馬騰軍はこれまでの戦いで負傷した兵士の治療に専念することが出来た。

 同時にそれは奇妙な状況でもあった。思わぬ痛手を受けたとは言え、敵軍は未だに圧倒的な数を誇っている。龍の存在を警戒している事を差し引いたとしても、現在の敵勢力はあまりにも小規模過ぎた。

 

 何かが起こる――指揮官として、戦士として長年戦い続けてきた彼女の勘が、自身にそう強く告げていた。

 

 熟考を重ねる母を前に馬超が言った。「単純に相手が怖気づいてるからじゃないのかな?」敵の猛攻と重圧で曇って顔は、僅かに生まれた均衡を前に多少の楽観を見せていた。「向こうだってまさか龍と戦う事になるなんて予想してなかったワケだし、ある程度消極的になるのは当然なんじゃないか?」

 

 彼女の回答に馬騰はかぶりを振った。「確かにそれはあるだろう。だけどね、あたしにはどうもそれだけとは思えないのさ」

 

「敵が何か企んでるって?」

 

「憶測でしかないけどね」馬騰は大きくため息をついた。それは迫り来る不安を吐き出す仕草にも似ていた。「とは言え、敵に囲まれてる現状じゃ斥候を出そうにも難しい。無事に戻って来れる保証もない以上、無暗に兵を外に出すわけにもいかないからね……さて、とりあえずあたしは一旦城に戻らせてもらう。くれぐれも敵への警戒を怠るんじゃないよ」

 

 油断なく頷く愛娘の顔を見届けると、馬騰は率いていた先発の兵士たちをまとめ上げ、そのまま城へと帰還していった。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 夜、城内に存在する一室において、馬騰を中心とした軍幹部による作戦会議が開かれた。

 敵の出現予測や援軍の到着時期、実際に現れた際の連携方法など、話し合いの内容は多岐に渡って行われ、新たな項目に移るたび、彼らは綿密な計画を立てていった。

 それらの出来について馬騰は概ね満足だった。部下たちの士気はこの数日で完全に息を吹き返しており、自ら鼓舞するまでもなかった。勝負の流れに限って言えば、自分たちは敵よりも圧倒的な優位を保っていた。

 だからと言って油断は出来ない。敵が持つ優位性はいくつもあり、自分たちはその中のほんの一部を取り戻したに過ぎないのだ。最終的な勝利を手にするまで、決して侮ってはならない。

 

 深夜に及ぶほどの時間をかけ、彼らは予め決めていた項目についてほとんどの話し合いを済ませた。そして最後の議題として敵陣への偵察を取り上げた。

 

 彼らの多くは最初、偵察隊を送り出す事については賛成だった。相手の現状を詳しく知ることが出来れば、戦況は今よりもずっと楽になるのだ。やらない手はない。

 だがそのためには、包囲されている狄道の城から密かに抜け出し、敵陣の奥深くまで食い込んだ上で再び戻って来なければならかった。

 これは口で言うほど容易な行為ではなく、例え手慣れの者を送り込んだとしても、無事に帰ってこれるのは半数以下か、下手をすれば誰一人帰ってこない可能性もある。

 それに加え、今は包囲されている現状だ。城から誰か出てくれば捕らえて人質にするだろうし、交渉が不可能と分かれば即座に切り捨てるだろう。敵情視察と言えば聞こえはいいが、ほとんど命を捨てに行くも同然の任務である。

 あまりに厳しすぎる条件を前に誰もが偵察隊の結成を諦めていたが、不意に一人の男がその流れに異を唱えた。

 

「俺が斥候に出ましょう」そう声を上げたのは別世界から来た異邦人――サルカンだった。「万が一何か問題が起きたとしても、俺なら逃げ出す事も自力で戻って来ることもできる」

 

 卓を囲んでいた人間たちは一同に彼の力を思い返した。龍の姿となって敵を蹴散らし、自分たちの危機を救ったその力を。今でこそ失った体力を取り戻すために変身を控えているが、いざとなればあの時と同じように異形の力を振るい、敵を屠りながら帰還する事も出来るだろう。異論はなかった。

 

「……そうだね。あんたがそう言うなら、頼むとしようか」しばらく考え込むように唸っていた馬騰が重たげに声を上げた。彼女の中では彼に頼り切りになる事は避けたいようだったが、他に取れる手がない事もまた事実だった。

 

 すると彼の隣に座っていた馬岱が勢いよく口を挟んだ。「おじさまが行くなら、たんぽぽも付いて行くよ!」

 

「駄目だ。お前はあたしらと一緒にここで防衛に専念しな」喚く馬岱を後目に馬騰は即座に首を振り、彼女に拒否の意を示した。「大体あんたが一緒じゃ、こいつが逃げる時に足手纏いになるだろ。ただでさえ今は人手が足りてないんだ。貴重な指揮官をこれ以上無駄使いする訳にはいかないよ」

 

 現状、兵士を統率できる指揮官は限られている。一度はお情けの心で羌の地へと逃がしたが、自分の意志で戻ってきた以上、この姪っ子には否が応でも働いて貰うつもりだった。

 

 童女のように頬を膨らませ、馬岱は不満の眼差しをサルカンに向ける。「ねえ、おじさまぁ……」甘ったるい口振りからして彼から同行の許しを貰おうとしているのは明らかだった。

 

「馬騰殿の言う通りだ」だがサルカンの言葉は冷たかった。「俺には俺の、お前にはお前の役割がある。今はそれをきちんと全うしろ」

 

 にべもない回答に馬岱は思わずサルカンの琥珀色の瞳をじっと睨む。その視線はあくまで自らの同行を願っていたが、彼がその想いに応える事は決してなかった。

 

「はぁ……わかったよ」しかたないと言わんばかりに肩を竦めた馬岱が言った。「その代わり、ちゃんと無事に帰ってきてよ。約束だからね?」

 

「ああ」サルカンは頷いた。言われるまでも無い事だった。「分かってる」

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 闇夜が支配する天幕の中、董卓は何度目とも知れない思案を再び繰り返した。

 上る議題はただ一つ、耿鄙の提案に乗るかどうかだ。

 彼の言葉はーー見せられた記憶と剥き出しの感情は、ひどく真実味を帯びていた。過去に盗み見た印象の断片と照らし合わせても不自然な箇所は何もない。恐らくは全て事実なのだろう。

 だとしたら何と悲しい事か。この世界の人々はもう何百年以上もの昔から争いと殺戮に支配され、未だその呪縛から逃れられていないのだ。あの男はそんな世界を本気でどうにかしようと本気で行動している。 

 だが彼の考える世界のあり方は、自分の理想とは真逆を向いていた。自分の夢――戦争や虐殺の無い世界とは全く違う世界。それは彼らの拭えぬ戦いの性を密かに管理し、争いを制御しているに過ぎなかった。

 董卓は彼の思想を否定したかった。間違っていると反論したかった。そんなやり方では平和な世界など決して訪れぬのだと。

 だが出来なかった。彼は経験し、自分も知ってしまった。人は決して“力”からは逃れられぬという事を。

 

「平和な世界……皆、それを望んでいるはずなのに……」

 

 彼女の葛藤はそれから一刻以上も続いた。何度も何度も頭の中で考えを組み立てては解き、そして新たな可能性を模索する。それはまるで何処かに存在するかもしれない奇跡にすがっているようにも見えた。

 まるで石像のようにじっと動かずにいた董卓であったが、やがて静かに立ち上がると、確かな足取りで天幕の外へと出て行った。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 沈んでいた太陽が再び顔を出し始めた頃、サルカンは馬騰に連れられて城の中庭までやって来ていた。

 彼女の話によれば、ここに外に出るための道があるという。

 サルカンもこの場所には何度か訪れた事があったが、そんな物があるとは全く知りもしなかった。今も視界に映るのは手入れされた草花や小さな池ばかりで、外に通じるようなものはどこにも見当たらない。

 ならば一体どこにあるというのだろうか?

 

「ここさ」彼の疑問に答えるように、彼女は庭の隅にある古ぼけた枯れ井戸を指し示した。「この井戸には特別な仕掛けが施してあってね。非常用の地下通路に通じてる。中を進んでいけば、城から少し離れた山林に出られるはずだよ」

 

 サルカンは感嘆の声と共に薄暗い井戸の奥底を見つめた。「そんなものが……」

 

「元は前の城主が作ったものさ。城の人間も、あたしと娘たちを含めた一部しかここの事は知らない」馬騰はそう言うと鞄の中から何本かの松明と鉤爪の付いた長縄を取り出し、彼へと手渡した。「中はかなり暗いから常に明かりを絶やさないようにしな。それと、くれぐれも無理するんじゃないよ。危なくなったらすぐにずらかるんだ。いいね?」

 

「俺は故郷で長い時間を戦士として過ごしてきました。斥候の心得は覚えているつもりです」彼は差し出されたそれらを受け取ると、自分の鞄へと納めた。

 

「あんたならきっと上手くいくさ。成果を期待してるよ」

 

 馬騰の期待を背中に受けると、サルカンは古井戸の縁へと手を掛け、中へと飛び込んだ。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 馬騰が言っていた通り、井戸の壁は一部が取り外せるように細工が施してあった。サルカンはそれを取り外すと、暗闇に満たされた道を松明を片手に歩き始めた。

 通路は鍾乳洞を利用して作られているのか、天井のあちこちから氷柱のような鍾乳石や風化した岩肌が覗いている。時折、洞窟全体が地震にあったように震えているのは、道の真上が戦場となっているからだろう。

 松明が放つ炎の輝きは通路全体を照らすにはいささか弱く、まるで久遠の闇の中を歩き進めているかのようだった。一本道なので迷うことはないが、足下に危険がないとは限らない。細心の注意を払いながら、彼は進んでいった。

 

 前へ。更に前へ。地面すら見えぬ暗闇の中を、ただひたすらに歩いていく。

 城の守りはどうなっただろうか。散発的な攻撃が続いているとは言え、それが今日も同じとは限らない。敵が新たな手段に訴えているかも知れない。いや大丈夫だ。彼らならきっとこれからも守り抜いていけるだろう。

 

 沸き立つを不安を振り払いながら歩き進めている内に、サルカンはいつしかこれまでの己の人生を思い返していた。

 ドラゴンを追い求めて半生を過ごしてきた筈の自分が、今や別の誰かのために龍の力を振るうなど、一体誰が予想しただろうか。奇妙な――実に奇妙でこそばゆい感覚だったが、彼はそれでいいとも思っていた。

 彼らは自分に、今まで得られなかった物をくれたのだ。龍を追い求めている間には絶対に得られなかった物を。優しさを。

 おかげで自分はようやく人間らしいものを手に入れられたような気がした。今の自分は龍でもあるが、同時に西涼の人間でもあるのだ。

 彼らの為になら力を振るう事も戦うことも何ら惜しくはない。それだけのものを、彼らはしてくれたのだ。

 戦い抜こう。それが今の自分に出来る唯一の事なのだから。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 地下道を歩き始めて数時間が経過した頃、ようやく暗闇ばかりだった通路の先に小さな光が見え始めた。

 

「……ようやく外か」ぼそりとサルカンが呟いた。先の見えぬ不安と脆い天井を警戒していたせいか、いつにもなく声に疲れが滲んでいた。

 

 彼が光の元へと辿り着くと、そこは生い茂った山林の真っ直中だった。時折戦いの喧噪が聞こえてくるものの、その音は遠く、戦場や城からだいぶ離れている事が伺える。まさに馬騰の言っていた通り、非常用の脱出路にふさわしかった。

 見たところ周囲に敵の姿はない。自分がここから現れたことを知る人間はおらず、それは帰りもこの道を使う予定のサルカンにとっては実に都合が良かった。

 周囲の状況を確認し、いよいよ敵陣への偵察に向かおうと考えていた彼だったが、不意に近くの茂みから何者かの気配を感じた。

 

「誰だ」彼は腰に差していた直剣を引き抜くと、気配に向かって切っ先を突きつけた。

 

 見回りの敵兵か、それともここらをねぐらにしている野党の類か――出てくるのはそのどちらかだろうと彼は考えていたが、皮肉なことにそこに居たのは倒すべき敵などではなかった。

 

「待って待って!殺さないで!」声の主である少女――馬岱は大げさに両手を振ると、困ったような表情で茂みから現れた。

 

「蒲公英!?」居るはずのない人物の登場に、思わずサルカンは目を剥いた。「何故お前がここに居る!」

 

 彼の記憶の中では、彼女は馬騰や馬超と共に城の兵士を指揮しているはずだった。それが何故こんな場所にいるのか。

 

 問いつめるような彼の視線に晒され、馬岱は素直に白状した。「……やっぱりおじさまの事が心配になって、こっそり先回りして来たんだよ。あの通路の事はたんぽぽも知ってたし、この辺りの道も大体分かるから……」

 

「だがお前は指揮をしろと馬騰殿に言われていただろう。それを承知で勝手に出てきたのか?」

 

「誤解されると嫌だったから、出かける前にちゃんと書き置きは残しておいたよ。それに防衛っていっても、ここ最近の敵なんてぜーんぜん攻めてこないし、たんぽぽが居なくても大丈夫だよ」

 

「そうだとしても――」次の文句を言い掛けたところで、不意にサルカンは彼女の口を自分の掌で塞いだ。「静かにしろ。誰か来る」そして彼女の手を取ると、自分たちの身体を近くの茂みの中へと押し込んだ。

 

 現れたのは二人組の兵士だった。青と白に塗られた鎧と鉄槍。装備からして討伐軍に間違いない。彼らは聞こえてきた声の正体を探ろうと、賢明に周囲を探し回っていた。

 背後から一気に仕止める――サルカンが隣の馬岱にその意を目配せすると、彼女は何も言わずに頷いた。

 己の存在を気取られないよう細心の注意を払いながら、二人は兵士たちの背後に向かってゆっくり移動していく。

 そしてその作業が完了すると、彼らは疾風のような早さで敵に襲いかかった。

 先に仕掛けたのは馬岱だった。彼女は腰の鞘から短刀を引き抜くと、相手の喉頸に向かって刃をあてがい、そのまま一文字に斬りつけた。

 喉元から鮮血吹き出してくずおれる敵兵。恐らく彼は、自分に何が起こったのかすら気づかぬまま息絶えた事だろう。

 一方のサルカンはと言うと、己の腕を龍の大顎へと変化させ、相手の顔面を丸ごと削り取っていた。

 

「まずいな……」音を立てないよう敵の死体をゆっくりと地面に寝かせながら彼は言った。「今のやりとりを他の兵士にも聞かれているかもしれない。死体を隠したら急いでここを離れるぞ」

 

 すると馬岱が兵士達の鎧を指さした。「待って。こいつらの服を着ていけば怪しまれないんじゃないかな?」

 

 確かに敵兵の鎧を身につければ、万が一発見されてもすぐ気付かれることはない。幸いなことに死体の血はほとんど鎧にかかっておらず、少し拭えば死体から奪ったものとは分からないだろう。妙案だった。

 

「上手い考えだ」サルカンは頷くと、早速死体から鎧を取り外しにかかった。「これが終わったら俺はこのまま敵陣を目指す。お前は……」

 

 どうするべきかを一瞬考えたが、戻らせたとしてももう遅い。ならば何かあったときの為に連れて行った方がましだった。

 

「仕方ない……だがくれぐれも邪魔になるような真似だけはするな。分かったな?」

 

 許しを得たことで馬岱が屈託のない笑みを浮かべる。「うん!ありがとうおじさま!」

 

 やがて倒した兵士達から全ての装備を外し終えると、二人は急いでそれらを自らの身体に装着し始めた。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 何も分からないまま延々と作業をこなす――それは孫策がもっとも忌み嫌うことの一つであり、その不快感は今や限界点に達しつつあった。

 彼女は陣地の外れ――耿鄙が何らかの法則で定めた岩場の一角で、奇妙な土木工事に従事していた。

 彼女らは付近の岩山から石材を次々と切り出すと、耿鄙やその部下が出す指示に従って一つ一つその場所へと積み上げていく。そうして作られた石柱のような何かは二日目の昼には既に一つ出来上がり、今では二つ目の完成に向けて着手していた。

 彼曰く、この石柱は大地の力を汲み上げるための特別な装置であり、この力を使うことで馬騰軍を倒す“切り札”を呼び出すことが出来るのだという。

 しかし、彼の切り札が具体的に何なのか、それでどうして討伐軍が勝利できるのか、肝心な事は未だ分からず仕舞いであった。 

 

「ねえちょっと」痺れを切らした孫策は、部下にいくつかの指示を出していた耿鄙を捕まえて言った。「いい加減聞いてもいいかしら?」

 

「何かご用ですか? 孫策殿」仮面のような笑みを張り付けて耿鄙が返事をする。

 

 この男の薄っぺらい笑みとこちらの意図を見透かしたような喋り方にはうんざりさせられる気分だったが、孫策は無視して本題を告げた。「あの石柱は大地の力を汲み上げる装置だってあんたは言ったけど、それで一体どうなるのよ? 巫術が使える人間は自然の力を呼び起こす事が出来るっていうのは聞いたことがあるわ。でもそれはこんな大がかりな物を作らなくてもできるんじゃないの?」

 

 彼女の質問に男は意外そうな顔を浮かべた。まるで教え子が定説に対して鋭い問いかけを投げかけたかように。

 

「ええ。全くその通りです」彼は素直に頷いた。薄ら笑いはそのままだったが、その声音に嫌味のようなものは入っていなかった。「ですが術師が引き出せる力というのは、その土地の質によって少々異なります。私が一番得意な場所は主に水辺と森なのですが、生憎この辺りは山ばかりなものでして」

 

「ふーん……」以外にも生真面目な回答を寄越した彼にいささか戸惑った孫策だったが、どこまで本当なのか分からない以上、話半分で聞くことにした。「でもあんなものまで使うんだから、その切り札っていうのは、さぞすごいんでしょうね?」

 

「それは実際に見ていただいた方が早いかと」

 

 こちらの方はあくまで最後まで語るつもりはないらしい。

 仕方ないと彼女が詮索を打ち切ろうとした時、不意に一人の伝令がこちらに向かって駆け足で近づいて来た。

 

「石柱の建設作業が完了いたしました。作戦はいつでも始めることが出来ます」

 

 静かに報告を聞いていた耿鄙だったが、満足げな表情を浮かべると孫策へと自信ありげに告げた。

 

「丁度いい。では今からその切り札がどんなものか、直にお見せしましょう」

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 奪った防具と武器を身につけたサルカンと馬岱は、時折巡回してくる兵士たちをやり過ごしながらも、ゆっくりと敵陣に向けて近づいていた。

 既にあの非常口から歩き始めて半刻ほど経っている。今はまだ本陣の姿は見えないが、目的地が近づいている事は肌で感じられた。

 

 鬱蒼と茂る山林の切れ目がようやく見え始めた頃、不意にサルカンが声を上げた。「……大勢の人間の気配がする。陣地はすぐ近くだ」

 

 後ろに控えていた馬岱が神妙な顔で頷く。ここから先は更なる警戒が必要だった。

 周囲に潜んで居るかも知れない敵兵の姿を常に探りながら木々や茂み中を通り抜け、細い獣道へと躍り出る。

 そこを慎重に進んでいくと、ついに彼らは敵兵士の集団を発見した。

 

「ここが本陣か……」

 

 それはまさに大軍と呼ぶにふさわしい規模だった。山の中とは思えないほど多くの天幕が陣地の内部に並び立ち、中では多くの兵士たちが張りつめた空気の中で装備の点検や兵士たちの治療など、今後の戦いに必要な作業をこなしている。

 

「やはりかなりの規模だな」言いながら少しでも鮮明に記憶を残そうと、サルカンは陣地全体を隈無く見つめる。

 

 すると馬岱が陣地の片隅を指さした。「ねえ待って。あれはなに?」幼い指の先には奇妙な二本の石柱が天空に向かって屹立していた。「石の柱? あんな物ここにあったっけ?」

 

 馬鹿な。サルカンは我が目を疑った。あれと同じようなものを別の次元で見たことがある。あれは……。

 

「マナリス……」

 

 気付けばその名を口にしていた。地中に存在する合流点から任意のマナを引き出すためのアーティファクト。新たに訪れた未知の次元でプレインズウォーカーが最初に探し求めるものの一つだった。

 

 《マナリス》https://imgur.com/a/MQHrznB

 

 動揺するサルカンを尻目に、馬岱が不思議そうな顔で尋ねた。「おじさま、あれが何か知ってるの?」

 

「あれは大地が秘める力をーーマナを引き出すためのものだ。あれの本当の意味を知っているものは、プレインズウォーカーだけだ」

 

「え……?」驚きと衝撃の言葉に彼女は眉を潜めた。「それってどういう……?」

 

 サルカンがその質問に答えようとすると同時にすさまじい金切り声が空に響き渡り、巨大な二つの幻影が姿を現した。

 

 《幻影のドラゴン》https://imgur.com/a/4oS7S6y

 




 次回、怪獣大決戦。

 ※6/11 シーンを一部追加しました。


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急報・上

 討伐軍と馬騰軍――数倍の差があった互いの戦力は異形の存在によって覆り、そして再び逆転した。多くの人間を巻き込んだこの戦いは、未だ終わる気配を見せてはいない。


 討伐軍の本陣は驚きと畏怖に包まれていた。理由は言うまでもない。陣の上空を飛び回る二つの巨大な物体のせいだ。

 それらは“生物”と呼ぶにはあまりにも奇妙だった。手足や翼、顔や尻尾といった生物として最低限の形こそ整っているものの、それら全てはまるで水のように淡く透け、身体の中に澄んだ空模様を映し出している。その姿はさながら、大気を切り出して生まれた精霊のようだった。

 

 《幻影のドラゴン》https://imgur.com/a/4oS7S6y

 

「ちょっとちょっと! 何よあれ!」頭上を飛び交う巨影を食い入るように見つめながら、興奮冷めやらぬと言った表情で孫策が喚き立てた。「あれって龍じゃない! しかも二匹も居るなんて! 一体何がどうなってるのよ!?」

 

 孫策の疑問に肩をすくめながら耿鄙が答えた。「あれは幻です。本物じゃありませんよ」

 

「幻? あれが?」信じられないとばかりに彼女は尋ね返す。その二つの碧眼は、あれが幻だと知った今でも驚きと熱情を強く含んでいた。「でもあれからは確かな吐息も羽ばたきも感じるわ。それでも、あれが幻だと?」

 

 耿鄙は再び首肯した。「詳しい説明は省きますが、あれは術の力によって作られた実体のある幻です。他の術に滅法弱いのが欠点ですが、その力は本物と寸分違わぬものですよ」悠然とした答えと共に彼は軽い身振りで幻影たちに上空で待機するように指示を送り、龍たちはそれに従って旋回を始めた。

 

「こんな事が出来るなんて……アンタ、本当に何者なの?」

 

 返答を待つ間、孫策は眼前の男を改めて見据えた。彼は術師であり、失われた力を扱えるのだと先の軍議では教えられた。だがそれだけではないだろう。この男はまだ何か大きな秘密を胸の内に隠している。それが何かまでは分からないが、少なくとも良からぬ類の企てであることはすぐに予想できた。

 

 注意深く己を見つめる孫策に気が付いた耿鄙が、皮肉げな笑みと共に告げた。「私が何者かはそれほど重要な事ではありませんよ」彼の答えはまるで彼女の心の内を見透かしているかのようだった。「それよりも孫策殿には作戦通り、他の方々と合流して敵城に攻め込んでいただきたい。たとえ向こうが例の怪物を出して来ようとも、この二匹が相手ならば以前のようにはいかない筈です」

 

 孫策は一瞬、怪訝な表情を浮かべたが、すぐに自分が置かれている状況を思い出した。現在の自分たちは戦いの最中にあり、たった今こちらの切り札が現れた。その正体にどのような仕掛けがあろうとも、その力が正しく発揮されるのであれば、一将軍に過ぎない自分が仔細を知る必要はない。少なくとも今のところは。

 

「……そうね。そうさせてもらうわ」踵を返して自分の部隊へと戻る寸前、孫策は叩き付けるように告げた。「一つ忠告しておくわ。そうやって何でも知った風な口を聞いてると、そのうち痛い目を見ることになるわよ」

 

 自身へ向けられた警告などまるで無かったかのように耿鄙は鷹揚な笑みを浮かべると、彼女の背中に見送りの言葉を返した。「しっかり肝に銘じておきましょう。ではご武運をお祈りしています」

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――

 

「な、何なの、あれ……」上空を仰いでいた馬岱が唇を震わせながら呟いた。普段は楽天的な感情で満たされている菫色の双眸も、この時ばかりは恐怖に包まれていた。

 

「あれは実体を持つ幻影だ」旋回する龍たちを一瞥したサルカンが重苦しい口調で答えた。その目にも大きな動揺が宿っていた。「似たような物を前に見たことがある。呪文には弱いが、その力は本物だ」

 

 彼はかつてウギンの目で戦った一人の精神魔道士の事を思い返していた。あの男が操る幻影たちは確かに緻密で鮮やかな動きを繰り出していたが、これほどまで強力なものではなかった。

 

 《ジェイスの幻》https://imgur.com/a/2hSkORA

 

「そんな! あんな怪物に襲われたら、みんなだって無事じゃ済まないよ!」

 

「奴らの本当の狙いはこれだったのか」苦々しげにサルカンが呻いた。無理もなかった。敵ドラゴンの出現は、ようやく見えてきた馬騰軍の勝利を粉々に砕いたも同然だった。「今まで消極的だったのは時間を稼ぐためだったという訳だな」

 

 咄嗟に彼は頭に浮かんだ方策のいくつかを検討した。だがどれもさして有効には思えなかった。たとえ幻影であったとしても、ドラゴンを相手に小手先の戦法が通用する事はない。

 

 しばらく考え込んでいたサルカンだったが、やがて心を決めたように大きく息をつくと、静かに口を開いた。「――蒲公英。お前は急いで城に戻り、この事を馬騰殿に伝えろ。それと、術師がいるようなら出来るだけ城壁に集めておくんだ」

 

 彼の言葉にぎょっとした表情で馬岱が尋ね返す。「おじさまはどうするの?」

 

「俺はお前が城まで戻れるように出来るだけここで時間を稼ぐ」

 

「ダ、ダメだよ! 向こうには龍が二匹も居るんだよ!? おじさま一人で戦ったって、勝てっこないよ!」

 

 サルカンの考えははっきり言って無謀という他なかった。たとえ彼がその身を龍に変えて戦ったとしても、相手は自分と同じドラゴン。加えてここは敵本陣の真っただ中でもある。万が一にでも傷を負って大地に落ちれば、もう命の保証はない。

 

 だが彼は断固として自分の考えを曲げなかった。「他に手はない。いいか。奴らの弱点は呪文だ。これだけは絶対に忘れるな」逆に馬岱にそう言い聞かせると、彼女を元来た森の方へと突き飛ばし、敵本陣に向かって走り出していた。

 

 よろめいた馬岱は遠ざかる背中に向かって必死に制止の声をあげた。「おじさま!」

 

「行け!」

 

 背中から聞こえる声に向かって最期に彼はそう言い放つと、眼前の大地から蠢くマナを呼び起こし、自らの肉体を上空を舞う生物と同じものへと変化させた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――

 

 突如出現したドラゴンの幻影に最初は困惑していた討伐軍だったが、やがてそれが味方が用意した切り札だと分かると、低迷させていた士気を一騎に高ぶらせた。当然だ。一度は自陣に壊滅的な被害を与えた怪物が、今度は味方となって敵を踏みつぶすというのだ。兵士たちにとってこれほど心強いものはない。

 もし仮に敵が例の化け物を繰り出したとしても、二匹ならば数で押し切ることが出来る。あれらが上空で敵の怪物を押し留めている間に地上の本体が城を攻め落とせばいい。単純な数式ではあるが、数の有利というのは戦場において絶対的な武器であり、誰の目にも明らかな勝利への近道だ。

 既に狼煙によって進撃の合図を受け取った公孫賛軍と李説軍が、先ほど送り出した孫策軍と共に狄道へと進み始めている。後は後詰めの部隊と上空を押さえる為の幻影を差し向ければ、もうこちらの勝利は揺るがない。

 そう考える耿鄙だったが、唯一の気がかりとなっていたのは、先日自分たちを襲ったあの怪物の事だった。

 あれはどう考えてもこの次元の存在ではない。恐らく敵の中にも別の次元から来た者が――自分とは違うプレインズウォーカーが存在しているに違いなかった。

 もしかしたらその敵は幻影の弱点を知っているかもしれない。もしかしたら敵はそこを的確に突いてくるかもしれない。万が一そうなれば、こちらの勝利は再び揺るぎかねない。

 何か対策を練らなければならない――脳裏で思考を巡らせていたその矢先、出し抜けに彼の背後を刺々しい思考と女の声が捕らえた。

 

「――耿鄙さん」

 

「董卓殿」耿鄙は声の方へと向き直った。持ち主が誰であるかは既に分かり切っていた。「まだ刻限には早いですが、答えは出せましたか?」

 

 董卓は静かに答えた。「はい。ですが答える前に一つ、お聞きしてもいいですか?」

 

 彼は首を縦に振り、続きを促す。

 

 返答を受け取った彼女は己の胸の内を絞り出すかの様にゆっくりと語り始めた。「私はあなたの……かつてのあなたの記憶を視ました。あれほど平和を望んでいたあなたが、あんな形で人々に裏切られた事は、とても悲しい事だと思います。でもだからと言って、こんなやり方で世の中が平和になると本気で思っているんですか?」

 

 彼女の問いかけはまるで澄み切った水のようだった。その心は人々が向ける不躾な悪意にも濁っておらず、また手酷い失望や裏切りにも腐ってはいない。こんな純粋な少女が欲望と陰謀ばかりが渦巻く洛陽に身を置いていること自体、耿鄙にはとても奇妙なことに思えた。

 

 耿鄙はわずかに眉根を寄せ、苛立ちの表情を作った。「私は――俺はただ気が付いただけだ。青臭い理想だけでは何も生み出せはしない。本当に自分の想いを現実にするのは、どんな手を使ってもそれを叶えるという強い意志が必要なのだと。君もそう考えたからここに来た筈だ。俺には人の心が読める。君が俺の前に現れた時点で、その答えを知ることが出来るのだから」

 

「ええ」彼女は歩を進め、耿鄙の目の前まで近づいて来た。「ですが私は、あなたのやり方が正しいとは決して思いません。そんな方法で平和を作り出したとしても、所詮それは偽物。歪で不格好なまやかしでしかありません。それを証明するために、私はあえてあなたに協力します。いつか現れるであろう他の誰かがそれを打ち壊し、本当の平和を作り出すと信じて」

 

 彼女の意図を掴み取った彼は挑戦的な笑みを浮かべた。「面白い。ならこれは一種の勝負と言うわけだ。俺が君の言う所の偽物の平和を作り、人々を幸せに導くことが出来るのか、それとも君が言うように本当の平和を求める誰かが偽りの平和と共に俺を倒すのか、それを見届けようというんだな?」

 

「はい」再び董卓は頷いた。その目には以前見た幼さとは無縁の力強さが宿っていた。「そのためになら、どんな悪に染まる覚悟も出来ています」

 

 彼女の意志の強さに関心の表情を浮かべる耿鄙だったが、その感情は上空から吐き出された咆哮によってかき消される事となった。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――

 

 ドラゴンとなって飛び出したサルカンだったが、この状況で敵とまともにやり合うつもりは全く無かった。自分の目的はあくまで馬岱が無事に城までたどり着くための時間稼ぎなのだ。敵にある程度の損傷を与え、進軍を妨害できればそれでいい。

 それに幻影とはいえ、二匹のドラゴンを向こうに回して勝利するのは不可能に近い。奴らは呪文を受ければ消え去る身ではあるが、サルカンが放つ呪文はどれも射程が短く、空を自在に飛び回るドラゴンに当てる事など到底不可能だった。加えて呪文を放つには一度人間の姿に戻らなければならず、その間に敵兵に囲まれてしまえばそれこそ一巻の終わりだ。

 本当に最悪の事態に陥った場合は、次元を渡って逃げればいいが、自分の正体を敵のプレインズウォーカーに察知されれば後々大きな問題となるだろう。その気になれば敵はどこまでも追いかけてくる。それこそ次元の壁を越えてまで。完全に自分の息の根を止めるまで。

 故に今のサルカンにとって最善の選択は、一匹の龍となって敵の意識を引きつけ、適当な所でこの場を立ち去る事だった。

 

 本陣を旋回する二匹の龍に向かってありったけの咆哮をぶつけると、気が付いた二匹の幻龍たちは長い首の先を彼の方へと差し向ける。

 更に速度を上げて近寄ったサルカンはそのまま丸太のような己の腕を振り上げると、鋭く尖った龍爪を敵ドラゴンの一方に向かって思い切り振り下ろした。

 

 不意を付かれる形となった敵は彼の攻撃を防ぐ事が出来なかった。振り下ろされた爪は幻影の右腕をずたずたに引き裂き、たちまち役立たずの肉塊へと変貌させた。

 

 突然の襲撃者に幻影たちは一瞬面食らったものの、すぐさまその表情を憤怒に変えると、サルカンに向かって威嚇の咆哮をぶつけた。

 

 ――いいぞ。もっと俺に怒れ。俺を憎め。それだけ時間を稼ぎやすくなる。

 

 龍の身体に残ったわずかな意識の中でサルカンはそう思った。奇襲で敵の闘志を削ぎ、奴らの注意を狄道から自分へと向ける事が勝利への第一条件であり、そしてそれは見事に成功していた。

 

 奇襲に怒り狂ったもう片方のドラゴンは反撃の爪を振り上げると、サルカンに向かって突進を始めた。巨大な身体ゆえにその動きは鈍重に見えるが、実際の速度は驚くほど素早い。実体の無い幻影ならではの速さだった。

 

 振り降ろされた敵の爪をサルカンは腕ごと掴み取ると、逆に敵を目の前まで引き寄せ、その顔面に吐き出した火炎を浴びせかけた。

 鼻っ面に龍火を浴びたドラゴンは目がくらんだように空中でよろめくと、そのまま高度を落としていき、敵軍の一部を巻き込みながら地上で横倒しになる。

 大地でのたくるドラゴンを一瞥したサルカンは今度は自分の鼻先を本陣の外へと向け、それほど早くない速度で本陣を離れ始めた。

 

 ドラゴンの気性や性格はサルカンが一番よく熟知している。襲い掛かった敵を目の前で見逃すほど龍は温厚な生き物ではない。だがそれを逆手に取って急げば追い付ける速度で離れれば、敵を分断させることは十分に可能だ。地上と上空からの挟み撃ちを防ぐためサルカンはあえて奇襲を初撃のみに留め、場を離れる判断を下したのだ。

 

 現に初撃で片腕を失ったもう一方のドラゴンはもがく仲間を一瞥したが、それが死んでいないと分かると、憤怒の表情を浮かべながら離れゆくサルカンの後を追いかけ始めた。

 少し遅れて地上のドラゴンも体勢を立て直し、先行した仲間を追うように追撃を開始する。すべては彼が睨んだ通りの展開だった。

 

 ――せいぜい追いかけて来るがいい。体勢が整うまで俺がいつまでも相手になってやる。

 

 迫り来る敵の気配を背後に感じながら、サルカンは陣から離れた森の上空をひたすらに飛び続けた。

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――

 

 遠くから大勢の喧噪と地響きが聞こえる。敵軍が移動している証拠だ。急がなければならない。何もかもが手遅れになってしまう前に。

 鬱蒼とした森の中を、馬岱は敵から奪い取った馬でがむしゃらに走り抜けていた。

 自分たちの馬ほどではないが、軍用に訓練された馬なだけあってよく訓練されている。薄暗い森の中でも怯えず、器用に立木や茂みを避けながら走ってくれる。これならば移動に余計な時間を取られることはないだろう。

 だが果たして自分は間に合うだろうか? 敵はもう進み始めている。自分が城に到着する頃には激しい戦いが繰り広げられている筈だ。それまでに馬騰や姉が無事に生き続けているという保証はない。

 胸に浮かんだ疑問を馬岱は首を振って否定した。諦めては駄目だ。そのためにサルカンは今も必死になって戦っているのだ。託された自分が弱気になっている訳にはいかない。

 だが地響きと喧噪は時間が進むと共にどんどん小さくなっていく。敵は城へとどんどん近づいている。

 

「絶対に間に合わせなきゃ……間に合わせるんだ……」馬岱はそう小さくひとりごち、馬に速度を上げるよう指示を下した。

 




お久しぶりです。色々あって随分時間が空いてしまいました。
今回短いですが、また出来次第上げていければと思います。


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『外史』を取り巻くもの その3

今回も物語内にも登場するであろう挿絵カードの一部を紹介しようと思います。こちらもマジック的な世界観を現すフレーバーの意味しか持っておりませんので、気に入らない方は読まなくても結構です。


『外史戦記』プレビューも今回で第三回となった。今回は物語の中核となる人々やカード全体に見られるサイクルを重点的に紹介しよう。

 

 革命の覇王、曹操

 https://imgur.com/a/ki0Jiv7

 

 救済の英雄、劉備

 https://imgur.com/a/SqAZQgR

 

 西涼の盟主、馬超

 https://imgur.com/a/bqxGlhO

 

 無垢なる扇動者、張角

 https://imgur.com/a/AWj1cDP

 

 霊帝、劉宏

 https://imgur.com/a/qBPUyHE

 

 この5人の指導者たちはそれぞれ自分たちが最も得意としている戦い方――すなわち、キーワード能力を熟知している。彼らはこの先(既に短編の物語では登場している人物もいるが)物語の主軸となる人物ばかりなので、顔を見せる機会もあるだろう。

 

 

 黄巾の軍旗

 https://imgur.com/a/VMPj6Sn

 

 西涼の軍旗

 https://imgur.com/a/1S5W08J

 

 曹魏の軍旗

 https://imgur.com/a/nkfnte7

 

 朝廷の軍旗

 https://imgur.com/a/xuHIjan

 

 蜀漢の軍旗

 https://imgur.com/a/R2YosO4

 

 この『軍旗』サイクルは主にリミテッドの色基盤を支えるためのアーティファクトだ。ラヴニカやタルキールを始めとした多色環境では必ずと言っていいほど収録されている類もので、さほど珍しいものではないが、そのメカニズムを通してその世界観を伝えてくれる役割を担っている。

 

 

 悪逆+非道

 https://imgur.com/a/h1cUZqW

 

 跳梁+跋扈

 https://imgur.com/a/14IVY0h

 

 

 暗中+飛躍

 https://imgur.com/a/YlSqW6S

 

 盛者+必衰

 https://imgur.com/a/CCv8XcJ

 

 

 一致+団結

 https://imgur.com/a/3K8uVMu

 

 以心+伝心

 https://imgur.com/a/4ZXBHit

 

 

 公明+正大

 https://imgur.com/a/RsZcYVn

 

 大道+不器

 https://imgur.com/a/uWR7Ew4

 

 

 疾風+怒涛

 https://imgur.com/a/2uqXPXp

 

 勇猛+果敢

 https://imgur.com/a/6LFDIGN

 

 

 分割カードは非常に人気の高いメカニズムで、多くの場合でプレイヤーはその収録を望んでいる事は知っていた。だが開発する側としては、どのタイミングでそれを出すべきなのは非常に迷うところだった。

 我々は各勢力の色同士を比較し、何が一番面白い影響をゲーム全体やプレイヤー及ぼすことが出来るのかを考え、アンコモンとレアに各種1枚ずつ作るようにした。

 アンコモンの分割カードは単色の呪文が1つずつ配置され、どの勢力でもある程度使いこなすことが出来るようになっているが、逆にレアの分割カードでは混成マナと各種友好色を要求するデザインとなっており、その勢力が最も力を発揮しやすいように作られている。

 

 

 龍血の英雄、サルカン

 http://imgur.com/a/A6oEE

 

 我々がデザインするサルカンはこれで5枚目(2019以降のものを含めれば7枚目に当たる)が、今回はドラゴンの力を扱う事が出来る一人の英雄という立場に焦点を当てた。

 彼が初登場したのは『アラーラの断片』の時だったが、当時の彼はドラゴンの力を追い求めるシャーマンと言う立場だった。その時のデザインとしては、彼はドラゴンに憧れているという事、そしてその力を欲しているという事を元にデザインを行った。

 

 サルカン・ヴォル

 https://imgur.com/a/uTQ6a6j

 

 

 次に彼が姿を現したのはそのすぐ後、ゼンディカーの世界だった。ここでの彼は仕えるべき主を見つけた事、そしてその使命を全うするために動いている事を軸に能力を作っていった。そして三つ目の要素として、彼は主の振る舞いによって狂ってしまったという事を物語の中に入れ込んでいった。

 

 狂乱のサルカン

 https://imgur.com/a/CGPkEXV

 

 それから少しの時間が経ち、彼を焦点に当てたブロックであるタルキールがやって来た。彼は物語の中で故郷の歴史を変え、そして戻ってきた。この時の彼は自分の中にある龍という存在を見出し、そして自身が龍となる事で長年の迷いから解き放たれたのだ。

 

 龍語りのサルカン

 https://imgur.com/a/zS7fgWM

 

 揺るぎないサルカン

 https://imgur.com/a/6dSUqhQ

 

 

 話を戻そう。『外史戦記』のサルカンは、西涼を助ける一人の英雄として焦点を当てた。彼の一つ目の能力は、龍となって敵と戦う事を示している。長い間、タルキールで戦士として戦い続けてきた彼が、最も直接的に西涼を救う方法、それは戦う事に他ならないのだ。

 二つ目と三つ目の能力は優れたシャーマンとしての彼の能力を現している。マジックのシャーマンは大地や世界の声を聞き理解すること自分の力にすることが出来る。彼もそれに習い、赤らしい方法で知識を得たり、変わった形で敵を排除するという訳だ。

 そして四つ目の能力は彼がドラゴンを知り尽くしたプレインズウォーカーであるという事を示している。この世界には存在しない生物を別の世界から呼び出し、使役する彼は実に異世界の存在だと言えるだろう。

 

 

 無駄省き

 https://imgur.com/a/HS5LHvh

 

『外史戦記』のメカニズムの中で、条件を達成させる難易度が最も高いのは謀略だと言ってほぼ間違いないだろう。『カードを捨てる』という行為は相手に行わせるにしろ、自分が行うにしろ何かの助けを借りなければできないハードルの高い行為である。

 その中で『無駄省き』は今回再録するのに最もふさわしいカードであると判断した。多くの場合、黒や青を選んだプレイヤーは何らかの方法で手札を捨てる。その時により多くの特典を得られるようにしたかったのだ。

 

 今日はここまで。近いうちに全てのカードを公開できる日も来るかもしれないので、その時を気長に待っていてほしい。




 MSEでカード作るのが楽しすぎて、200枚くらいカード作りました。もう1セット分くらいはあると思います。(真顔)


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急報・下

 出現した敵ドラゴンの存在に耿鄙は動揺を隠せなかった。まさか敵がこれほど近い場所から襲い掛かって来るとは予想すらしていなかった。

 無論、敵の奇襲を全く警戒していなかった訳ではない。散発的でも味方に攻撃を続けさせていたのは、マナリス建造までの時間を稼ぐと同時に敵を出来るだけ城内に留めておきたかったからだ。

 だがその目論見は見事に外れた。敵は何らかの方法で包囲された城を抜け出し、こちらの目をかいくぐりながらここまでやって来たのだ。

 

 しかし彼は同時にある疑問にぶつかった。あのドラゴンは一体どこから現れた?

 

 最初にドラゴンの姿を見た時、あれは敵のプレインズウォーカーがこの次元のどこかから調達し、従わせたものなのかと思っていた。だがそれならば、戦闘が終わった直後から姿を見せていないのはおかしい。

 そして今見えているドラゴンは肉体を持った紛れもない本物だ。接近すれば子供でも気がつく。突然の奇襲になど使える訳がない。

 矛盾を孕んだ二つの要素――それは決して交わる事はない。たった一つの例外を除いては。

 

「まさか……」

 

 やがて耿鄙は一つの回答にたどり着いた。あのドラゴンこそ、敵のプレインズウォーカーそのものなのではないか?

 

 他の次元には自らの姿を自在に変えられる種族や呪文が存在する。もしあの敵ドラゴンの正体がそうであるならば、その記憶や心を読むことで正体が割り出せるのではないだろうか?

 

 かなり危険を伴う行為だが、プレインズウォーカーが敵の中に居る以上、何としても排除しなければならない。この機会を取り逃せば最後、敵は次元を超えて襲い掛かって来るかもしれないのだ。

 

 耿鄙は残ったマナから巨鳥の幻影を新たに生み落とすと、その背中へと跨った。

 幻影特有の透き通った身体は儚げな見た目に反してきちんと男の体重を支え、上空へと押し上げていく。

 そして十分な高度を確保すると、三匹のドラゴンたちが飛去った方角に向かって素早く移動を開始した。

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――

 

 この辺りでいいだろう――鋭い岩山を幾つか越えた辺りでサルカンは旋回し、追尾してくる二匹のドラゴン達と向かい合った。半透明の顔からは憤怒の表情が文字通り透けて見えていた。

 

 戦闘の意志を読み取った追跡者たちは互いの顔を見合わせると、ここで決着をつけんとばかりに縦列になって押し寄せる。

 

 最初に仕掛けたのはやはり隻腕の方だった。幻影特有の身軽な動きを武器に一気に距離を詰める。

 素早い軌道の左腕。人間で例えればフックのような軽い攻撃だが、鋭利な龍爪の前では容易に致命傷になり得る。

 

 風切り音と共に恐ろしい速度で死の気配が近づいてくる。刃がその身を切り裂くまであと数秒もないが、サルカンの心に怯えはない。戦いとはどんな時も死と隣り合わせであり、生き残る為には自身の恐怖心を飼い慣らす事が何よりも大事だと、戦士としての長い経験から熟知していた。

 

 身体を切り裂かれる寸前のところでサルカンは翼をはためかせ、脇をすり抜けて敵の攻撃を回避する。

 二匹目の攻撃も似たようなもので、同じ要領で限界まで引きつけた後、軌道を逸らして避けてみせた。

 

 ――やはりな。

 

 単純な力こそ本物と遜色ないが、この幻影たちはドラゴンの強さや本能を完全に模写している訳ではない。

 長年ドラゴンを追求し続けてきたサルカンにとって、目の前の幻影たちの動きはひどく緩慢で、本物からは遠くかけ離れているように感じた。

 それを証明するように彼は敵の攻撃を鮮やかに捌くと、その代償として手痛い反撃を与えていく。

 

 ――勝てる。

 

 数の差から慎重な作戦を取っていたサルカンだが、敵がそれほどでもないと分かった以上、生かして帰すつもりはなかった。敵ドラゴンがいなくなれば、馬騰軍の不利は再び覆る。

 

 やがて思い通りに行かないことに業を煮やしたのか、両腕の龍が出鱈目な姿勢からサルカンへと突進を繰り出した。

 崩れきった姿勢からでも速度を出せるのは肉の身体を持たない幻影の特権だが、今回は逆にそれが仇となった。相対速度を利用したサルカンは突っ込んでくる龍に爪を突き立てると、そのまま一気に敵の身体を引き裂いた。

 

 水を掻いているような奇妙な手応えだったが、効果はあった。一文字に切り裂かれた龍は苦しげに錐揉み落下していくと、そのまま塵のように砕け、大気へと散っていった。

 

 あと一匹。

 

 ドラゴンを撃退したことで勢い付いたサルカンが次に手負いの方へと向かおうとしたその時、彼の精神を急激な違和感が襲った。

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――

 

 サルカンが幻影と戦いを始める少し前のこと。生み出した幻影の鳥に跨がりながら、耿鄙は怪物について更なる考察を続けていた。

 あれがもし自分の考えた通りのものであるならば、近づけば必ず正体が分かる――問題はそこまで安全に近づけるかどうかだ。

 

 直接ドラゴンの前に出るのはどう考えても得策ではない。やるならば敵が戦っている間――可能ならば、敵が己の勝ちを確信して油断しきったところが良い。精神呪文の効き目は相手が精神に隙があればあるほど強く作用する。

 

 飛行を続けていく内に前方の空から喧噪が聞こえる。敵はすぐそこまで迫っている。

 居た。互いに絡み合うように旋回と格闘を続けるドラゴンが三体。間違いなかった。

 敵の方へと向かっていく間、耿鄙は両腕の龍に向かって一つの指示を出した――その身を犠牲にして敵の隙を作り出せ、と。

 忠実な幻影はそれに従い、敵に向かって強引な突進を敢行した。まるで炎に惹かれて飛び込む哀れな蛾のように。

 

 耿鄙の予想通り、敵は策に引っかかった。無理な姿勢で突進する幻影を鮮やかな手並みで倒してみせると、勝ち誇ったように咆哮を上げる。そしてそれは心を読むまでもなく明確な油断の合図だった。

 

 瞳に青白い光を浮かび上がらせた耿鄙は幾つかの呪文を唱えると、それを前方の敵ドラゴンへと差し向けた。

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――

 

 何者かが自分の思考を覗いている。記憶を割開いて読み漁っている。

 脳内を貫く不快感にサルカンはうめいた。この感覚を自分は知っている。誰かが自分に向けて精神呪文を唱えているのだ。敵のプレインズウォーカーが。

 苦しみながらも周囲を見渡すと、少し距離を置いた所に小さな幻影が見える。術者に間違いなかった。

 

 更に不快感が大きくなった。思考を切り刻まれて奪われているのが分かる。誰かが自分の考えを盗み取ろうとしている――やめろ!やめろ!!やめろ!!!

 

 急激な激痛が身体を襲い、彼の意識は脳の奥から現実に引き戻された。いつの間にか隻腕のドラゴンが自分の翼に食らいついている。精神呪文に思考を囚われている間を襲われたのだ。

 

 炎のような痛みが背中に広がると同時に、頭の中を津波のような不快感が這いずり回る。もう龍の姿を維持することが出来ない。もう何も考えられない。

 高度が落ち、肉体が人のものへと戻っていく――かみつかれた部分が龍の部分消え去り、傷を負った人体が現れる。

 

 混乱と重傷と不快感に中、人間の姿に戻ったサルカンは森の中へと墜ちていった。

 

 ―――――――――――――――――――――――――――――

 

「消えた……」煙のように消えた敵ドラゴンを姿を見つめながら、耿鄙はその正体を考えた。

 

 読み取った記憶は断片的な印象に過ぎなかった。不意を付いたとはいえ、距離が遠すぎたのだ。

 分かった事と言えば、敵はやはりプレインズウォーカーであることと、そしてドラゴンについて並々ならぬ感情を持っていることだった。自らを龍に変化させる呪文を使っているあたり、それも当然だと言えるだろう。

 

 耿鄙は森に降りてその生死を確かめたいという衝動に駆られたが、幻影を敵の城まで送り込まなければならないことを思い出した。予想外の奇襲によって時間と幻影を潰された以上、もう予断は許されなかった。

 

「……命拾いしたな。名も知らぬプレインズウォーカー」彼は吐き捨てるように敵が落ちていった大地に告げた。その人物が未だこの次元に留まっているのかどうかは分からなかった。

 

 彼は幻影たちに後退の指示を送ると、耿鄙は傷付いた幻影を修復するべく、一度マナリスの元へと戻っていった。



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暁の空に龍は昇る

 

 古井戸を昇って中庭に戻ると、空は既に漆黒の帳に覆われ始めていた。

 城壁からは未だに戦いの喧騒が聞こえている。城はまだ陥落していない。その事実に馬岱は僅かに胸を撫で下ろしたが、いつまでも安堵している訳にはいかなかった。敵が生み出した怪物が、いつここまでやって来るとも分からないのだ。

 

「おじさま……」

 

 最後に別れたサルカンの後ろ姿が脳裏によぎる。彼の義理堅さと精強さは、この半年間ですっかり把握している。おそらく彼は限界が訪れるまで戦い続けるだろう。もしかしたら今も、あの空の上で怪物と戦っているのかもしれない。

 ならば尚更ここで足を止めるわけには行かなかった。彼の思いに報いるためにも、持ち帰った情報を必ず仲間たちに届け、城と街を守らなければならないのだ。

 

 蓄積した疲労で鉛のように重くなった両足を引きずりながら、馬岱は最前線となっているであろう城壁を目指して再び走り始めた。

 

 ―――――――――――――――――――――

 

 喧噪が聞こえる。多くの兵士たちが叫ぶ声。馬の嘶きと蹄が大地を蹴る音。甲高い剣戟と悲鳴と怒号。

 ここは戦場。今はアブザンの龍鱗隊と交戦中だ。奴らの動きは鈍重だが、その守りは堅く、兵士たちは全員、おしなべて手強い。

 いや違う――俺はもうマルドゥではない。ここはタルキールの砂漠ではない。ならばこの音は?

 身体が痛む。意識が揺らぐ。感覚を水平に保てない。奇妙な状態。

 落ち着け。身体に染み着いた心得を思い出せ。戦士にとって一番必要な事は? 激情と憤怒に身を任せること。そして同時に冷静さを保つこと。

 

 四つ数える。息を吸う。四つ数える。息を吐く。

 

 呪文のようにそれを唱えて従った。戦名を手に入れる前、心を落ち着けるために亡き祖父から教わった呪い。

 

 四つ数える。息を吸う。四つ数える。息を吐く。

 

 意識が水底から浮上していくのが分かる。沈み込んでいた感覚が徐々に戻ってくるのが知覚できる。

 思い出した――ここは外史。俺は幻影のドラゴンたちと戦い、そして堕ちた。敵のプレインズウォーカーの妨害を受けた事で。

 あれからどれくらいの時間が経った? 分からない。だが今すぐにでも起き上がらなくてはならない。まだ戦いは終わっていない。

 勝たねばならない。俺を大切にしてくれた人々を守るために……

 

 ―――――――――――――――――――――

 

 サルカンが目を覚ますと、眼前には吸い込まれるような漆黒が浮かんでいた。煌々と輝く星の美しさは戦場においては異質なものだったが、それ故にひどく目についた。

 

 自分は一体どうなったのだろう。幻影に噛まれたはずの身体に大きな傷や流血は無く、さりとて敵に捕らわれた訳でもない。奇妙な状況だった。そもそもあれほどの高さから落ちたというのに、なぜ自分は生きている?

 

 首を振って周囲を見渡すと、動物の骨と毛皮と布を組み合わせた簡素な寝台に横たわっている事が分かった。そしてそれは決して漢人が使うようなものではなく、どちらかと言えば羌の人々が使う代物だった。

 

「気がついたか」顔の上から声が降ってきた。視線を動かして頭上を見ると、そこには平原で別れた筈の顔があった。

 

「……周吾」サルカンは餓何の顔を認めた。彼らがついにここまで追いついてきたのだと遅れて悟った。「なぜお前がここに? それに、どうやって俺を見つけた?」

 

「お前が落ちてくるのが見えた」彼は答えた。混乱している自分にも理解できるよう、出来るだけ簡潔に答えようとしているのが、サルカンにも分かった。「龍の姿となったお前が、透き通った青い化け物と戦っていたのも遠目から見えた。運が良かったんだろう。俺たちが助けに向かった時、お前の身体はちょうど森の木々に受け止められ、枝の一つに引っかかっていた」

 

「そうか……」彼は頷き、痛みを堪えて身体を引き起こそうとした。「時間がない。急いで俺を城まで連れて行ってくれ。あの怪物が――城を落としてしまうかもしれない」だがその意志に反して彼の身体は起きあがることはなく、代わりに背中に激痛を走らせただけだった。

 

「落ち着け。まずは身体を癒やす方が先だ」呻くサルカンを餓何は寝台に押しつけた。「傷口はもう塞いだが、それでも動くのは危険すぎる」

 

 苛立ちと共にサルカンは吠えた。「身体がなんだ! 街が無くなるかどうかなんだぞ!」ドラゴンが持つ圧倒的な力を知らない者に、その恐怖は分からない。こうしている間にも、敵は城を落としているかもしれなかった。

 

「分かっている。だがその身体で、一体何が出来る?」餓何が強く囁いた。言い含めるような口調だった。「……夜の行軍は危険だ。何一つ見えない森の中で、いたずらに進めば大事故は免れない。お前もそれくらいは分かっている筈だ」

 

「…………」

 

 もっともな指摘に彼は口をつぐんだ。確かに彼らを失うことは、戦いを制する上で絶対に避けなくてはならない事だった。

 黙りこくったサルカンを説き伏せるように餓何は言葉を続けた。

 

「馬騰殿が心配なのは俺も同じだ。だが今は身体を休めることだけに専念しろ。お前の力が必要になる時は必ずやってくる。その時に万全の活躍が出来るようにな」

 

 サルカンは己の中の衝動が徐々に小さくなっていくのを感じた。全ては勝利のため。だがその衝動をぶつけるのは今、この若者に対してではないと、正しく感じ取れていた。

 

「……すまない」

 

「気にするな」彼はサルカンの肩を軽く叩くと寝台の横に金属の器を置いた。「中に酒が入ってる。痛みで眠れないようなら飲むといい」それだけ言うと、彼は立ち上がって他の野営地へと歩いて行った。

 

 しばらく戦場の事を考えていたサルカンだったが、今は休むべきだと心を決めると、器を手に取り、中に入っていた馬乳酒を飲み込んだ。強い匂いのそれはサルカンの喉を強く灼いたが、それ以上の眠気を身体の奥から引き寄せると、彼を速やかに回復の眠りへと追い落した。

 

 ―――――――――――――――――――――

 

 マナリスに残ったマナを全て引き出し、幻影を修復した頃には完全に時を失っていた。

 こんな状況に陥るなど、思ってもみなかった。まさかプレインズウォーカーがこの場に奇襲を仕掛けて来るとは!

 偶然の出来事とは言え、倒せたのは本当に幸いな事だった。もし敵を取り逃がしていたら、相当に苦戦を強いられていただろう。

 

 予定外の事ばかりだが、勝負の運はこちらに傾きつつある。ならば今のうちに全てを片付けてしまったほうがいい。

 

「耿鄙様」闇の合間から声がした。振り向いた先には連絡役と思しき兵士が一人立っていた。「孫策隊をはじめとした本体は攻撃を一時中断しました。皆、あなたが幻影を率いてくるのを待っています」

 

「分かってる」彼は頷き、幻影に警戒待機の合図を送った。「夜明けと共に合流し、そのまま攻撃を開始する。それでこの戦いは終わるだろうだと本隊に伝えておけ」

 

 兵士は沈黙を肯定に踵を返し、そのまま兵舎に向かって歩き出していく。

 その背中を見つめながら、耿鄙はぼそりと呟いた。

 

「そう。どちらが勝とうが負けようが、この戦いはそれで終わりだ」

 

 ―――――――――――――――――――――

 

「まったく……お前ってやつは、どこまで人に心配かければ気が済むんだよ!」苛立ちと呆れが混ざった声音を馬超が発した。拳が震え、今にも振りかぶられそうになっていた。「勝手に居なくなったせいで、こっちは色々大変だったんだぞ!」

 

 非難の矛先は勿論、早朝から姿を消していた馬岱であり、戦闘が一段落してから戻ってきた彼女に怒りを示していた。

 

「んもぉ、ごめんってばぁ……」対する馬岱も痛い所を突かれたとばかりに困り顔を浮かべた。「でもたんぽぽがおじさまに着いて行ったおかげで色々分かったんだから、その辺は差し引きしてもいいじゃん」

 

 実際、馬岱が持ち帰った情報は最重要なモノばかりであり、サルカン一人だけでは決して持ち帰る事が出来なかったであろう事は馬超にも十分承知している。だとしても、部隊を率いる指揮官が、誰にも相談せずに勝手に戦線を抜け出した事が許せないのだった。

 

「そういう問題じゃ無いだろ!」

 

 最初より更に大きい声で馬超が怒鳴り散らした所で、横合いから鋭い指摘が飛んできた。

 

「過ぎたことをいつまでもグチグチと続けるんじゃないよ」口を挟んだのは馬騰だった。有無も言わさぬ思い声音に、二人の娘たちはすぐさま口をつぐんだ。

 

「“術師を集めろ”。あの男は間違いなくそう言ったんだね?」改めて馬騰は馬岱に尋ねた。

 

「うん」彼女は強く頷いた。残された言葉に希望を見い出していた。「“幻影の弱点は呪文だ”って、おじさまは言ってた。そこを突くことが出来れば、皆を守ること出来るかもしれないって」

 

「それだけ分かれば十分さ」馬騰は力強い笑みを浮かべ、ついで手近に立っていた兵士を捕まえて命じた。「あの男を信じるとしよう。城に控えてる術師を全員、朝までにここに集めな! いいかい、一人残らずだよ!」

 

 ―――――――――――――――――――――

 

 そびえ立つ山々の合間から太陽が再び顔を覗かせた時、孫策はようやくか、と小さく息を漏らした。

 耿鄙に命じられて攻撃隊に加わったものの、肝心要の幻影は一向に姿を現さず、一日が終わった時は流石に苛立ちを隠せなかった。あれほど勝ち誇った顔をしておきながら、まさか何もせずに終わるとは。

 

 だがそれも、後続からの連絡が届いたことで矛を収めた。敵の奇襲によって時間を失ったというのであれば、無理からぬ事だと認めるしかなかったからだ。

 

 朝日に照らされた城壁を見つめる。幾日にも及ぶ激しい戦闘によって傷付き、砕け、一度は敵の登頂を許したものの、それでもなお気丈に聳え続けている巨大な壁。

 忌々しいが、同時に美しい、と思った。不撓の精神は戦士にとって大きな美徳だ。たとえそれが相対する敵でろうとも。

 

「いよいよ決戦だな」いつの間にか、周瑜が隣に控えていた。眩しそうに朝日を仰ぎ、息を大きく吸い込んでいる。血生臭い戦場の空気が、少しだけ清まった気がした。

 

「ええ」孫策も彼女に倣って大きく息を吸い込んだ。草木の中に混じった血と鉄の香り。幼い頃から嗅ぎ続けてきた、馴染みの匂いだった。「来たわね」

 

 昇りゆく太陽と共に巨大な青白い輝きが近づいてくるのが見える。耿鄙の作り出した幻影に間違い無かった。

 

 孫策は腰に履いていた剣を抜いた。南海覇王と名付けられたそれは、亡き母・孫堅から受け継いだ宝剣であり、いつの日か孫家が故郷の地を再び統べる事を願って託されたものだった。

 

「母さん……」

 

 一族の悲願は必ず叶えてみせる。だがまずは、この戦いを生き残らなければ。

 朝日に輝く剣に僅かな祈りを捧げた後、孫策は部下を率いて眼前の城壁へと進み始めた。

 

 ―――――――――――――――――――――

 

 夜明けと同時に敵が押し寄せてくる事は分かっていた。強力な切り札を手にした以上、戦いを長引かせる理由は無い。正真正銘、ここが最後の正念場だった。

 

「来たね……」

 

 馬騰が眺める景色の先には、討伐軍の他に強大な青白い影が二つ浮かんでいた。象を超える巨体。丸太のような手足。剣を敷き詰めたような口腔。それらは以前見たサルカンの龍姿によく似ていたが、放たれる敵意は明らかにこちらに向かっていた。

 

「……ッ!」

 

 迫り来る怪物の恐怖に、歴戦の兵士たちでさえも思わず息を呑む。以前は心強い味方だった龍が、今度は敵にーーそれも倍の数で攻めてくるとなれば、怯え竦むのは当然と言えた。

 

「ビビるんじゃないよ! それでも西涼の男かい!」全身に沸き立つ恐怖を押さえつけながら、馬騰が叱咤を飛ばした。「いいかい、あの怪物が城壁まで近づいてきたら作戦開始だ! 防衛隊は何としても術師を守るんだよ!」

 

 指揮官の鋭い命令に男たちはいくらかの冷静さを取り戻し、前もって用意したおいた円形の盾を掲げた。その背後では緊張と恐怖で青白い顔を浮かべた術師たちが、いくらか控えめな返答の声を上げていた。

 

 これでいい。戦士の心はまだ萎れてはいない。挫けなければ、まだ希望はある。

 

 戦士たちが固唾を呑んで待ち構える中、龍たちは遂にやってきた。巨大な羽ばたきを轟かせ、恐怖を纏い、城壁の上から一つでも多くの死を引き寄せとしていた。

 

 両足を突き出し、一体の龍が急降下の体勢に入った。前面に生えた三本の爪は山に生えた木々よりも太く、鋭さは研ぎ澄まされた刀以上だった。

 

 龍が呪文の間合いに入るまで、馬騰は決して慌てなかった。巨大な恐怖と戦いながらも最適の瞬間を見極め、敵にもっとも傷を負わせることが出来る時を見極めていた。

 

 ――まだだ。もう少し引き寄せろ。

 

 極限の集中に包まれながら、馬騰は更に目をこらした。死と生の狭間に見える龍の姿は、やけに緩慢に見えた。

 

「母さん!」

 

 隣に立つ娘たちの声が幾重にも折り重なって聞こえたが、馬騰は無視した。気を急いてはならない。決して避けられぬ間合い、敵がそこに入り込むまではあと数瞬を要すると確信していた。

 

 永遠に思える刹那。そして、ついにその瞬間が訪れた。

 

「今だ! 撃てぇぇ!!」

 

 怒号に近い命令に従い、術師たちは己の最も得意とする呪文を唱えると、それを幻影に向かって次々と撃ち放った。色とりどりの呪文が青白い怪物に向かって影を伸ばし、マナで形作られた身体を削り取ろうと殺到する。

 

 偽物の龍が呪文に弱いというのなら、必ず効果は現れる。

 馬騰はサルカンの情報に全てを賭け、彼女の判断に反乱軍は全てを委ねた。

 

 幾線にも絡み合った呪文の軌跡――それは果たして凄まじい勢いで怪物に向かって行き、透き通った身体の僅か手前で弾かれ、そして消えた。

 

 馬鹿な。

 

 馬騰は我が目を疑った。目の前の現実を嘘だと信じたかった。

 だがそれが現実だった。怪物は依然として迫ってきており、迎撃はもはや不可能だった。

 

 轟音と振動。そして悲鳴が城壁中に響き渡った。

 衝撃に煽られ、馬騰はその場によろめいた。同時に壁が抉られ、暴力の犠牲になった兵士の身体と壁の残骸が城の内側にこぼれ落ちていくのが見えた。

 

「く……」

 

 戦況が一変したのを馬騰は肌で感じた。理由はなんであれ、作戦は失敗に終わったのだ。

 轟くような咆哮が空を割った。一匹目に続き、二匹目の龍が攻撃を仕掛けるべく、こちらに急降下の体勢に入っていた。

 

 彼らは甘んじてそれを受け入れるしか無かった。



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