瑞の鳥は片想う-蒸気浪漫の世界で- (黒灰)
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浪漫は時代をも停めて
プロローグを追加しました。
地面には、鋼の心肺が埋まっている。
息吹は神々の熱が染み付いた蒸気だ。
井戸のように深く、深く穴を掘る。神に祈りを捧げ、文字通り神―――――厳密には八百万の神々、世界標準で言うならば妖精―――――の力を借りて。
そこから水を呑ませて、高熱・高圧の蒸気に変えて吐かせて吸い上げる。
そして、それは社会という巨人のあらゆるところで行われ、かつあらゆる所へと張り巡らされた血管―――――高圧蒸気管を以て送り出され、街という臓器を動かしていた。
街は、赤い。
曇りの白と錆の赤で、まるで煉瓦色。けれどそれは汚れた色。
”国土全体”を襲った震災を機に一気に更地から建て替えられたそれは、西洋を真似た瀟洒な街並みのはずだったのに、垢に塗れたような色に変わって偽物のようだ。
それでも、街は湯気で白く霞んで人の営みを覆って隠す。赤い鉄錆を、”汚い”を”綺麗”に取り繕っている。
赤く濁って浮かび上がった汚れの上で、小人のような、”今ひとつ見えざる”、”見える人もいる”神々が眉を顰める。
”いきすぎた”
困り顔で首をかしげる彼ら。
神が宿る、とはよく言ったものであり、そのままを表した言葉である。
宿る宿らざるを意思表示とし、神々は確かに文明の発展を良しとし宿った。それは”そうあるべき”ものを増やすことを選択したということであり、蒸気機関、ないしそれで動くもののそこかしこにも、彼ら彼女らは存在を示すこととなった。
だが、その結果は人の信仰を忘れさせるほどのものだったのだ。
いる、というのに敬われない。いつしか本当にただ利用されるだけになっていた。
しかし、宿ったからには離れられない。その器物の類を捨て去ることはもう出来ないのだ。
蒸気機関。
解析機関。
発電機。
電灯。
電信。
電話。
そのあらゆるを一旦肯定してしまったのだから。
蒸気機関の神に、解析機関の神に、なってしまったのだから。
―――――つむじ風のような音を慣らして、蒸気自動車が曇った街並みの中をゆったりと往来する。後部から白い息を吐いて。一方で、それを浴びた後方の車は前部硝子の曇りを拭う。拭き取り機械が手を振るような動きで。
蒸気、蒸気、蒸気。
この世は蒸気で出来ているかのよう。それは社会においては真実である。
それを浴びる人々は蒸し暑さに煩わしさを感じている。
”ああ、暑い。なんて暑いのか”。
人々もまた、蒸気だらけの生活にうんざりとしている。蒸し暑すぎるのだ。
汽笛が鳴った。甲高い音。途切れ途切れの音。それを聞いて、黒く舗装された道路を人の群れが横切っていく。
人の姿は様々で、けれど皆一様に額に汗を伝わせていた。
……整備された交通法規が、進行方向ごとに”信号灯”を用意している。車に乗る者たちはそれを見上げては止まり、あるいは進む。
湿気た着衣を着て歩く歩行者もそうだ。
法律は道路を横切る歩道を作ることを命じた。まっすぐ横切る、二本の線。ペンキで出来た歩道を。描いただけだ。車の道路を横切って敷かれた図の上を渡る、そういうことに過ぎない。
だからそちらにも、”信号灯”を。汽笛が鳴らす音、緑と赤の硝子の向こうで光る電灯を報せにして、車がその筋を通らない時に人々は道路を横切っていく。
どちらも電気じかけの仕組みだ。それを蒸気と歯車の仕掛けが管理する。
”信号灯”、そこからは蔦のように2本の線が伸びていて、横に突き出た”信号灯”を支える棒に絡みつき、その根本たるコンクリートの柱へ沿う。柱からは更に線が伸び、一方は地面へ。他方は空の上をさらに次の柱へ、柱から柱へと線を渡し続けている。どこへ向かうのかは、誰もが知っている。
発電所だ。鋼の心肺が息を吹き込むタービンが建つところだ。
ほとんど誰も、そこに向かって散歩しようとは考えないけれど。
このように。
世界を支える白い血潮に飽きた人々は、街にコンクリートの柱を建て始めた。
線と線で柱を結んで鋼の心肺と縁を結んで、そして建造物との間に糸を垂らしている。
それが送電線だ。そして柱は、それに空を渡らせるための橋桁、”電柱”だ。
電気。
次は電気だ。
文明開化から幾十年かが経った今、知識人はこう言う。
蒸気で出来ることは、電気でも出来る。
電気に出来ることは、蒸気に出来ないこともある。
蒸気にはもう、次がない。
そういうことで、今や蒸気機関は発電のためだけのものとなり始めている。
ニコラ・テスラなる神域の碩学が発展させた、“モーター”と呼ばれるもの。
それは電気で以て動き、逆に言うと――――――動かせば電気が発生した。
そして、日本で発生する地熱蒸気は、電気の発生に格好の材料でもあったのだから、知識人は考えたのだ。
”井戸”から湧いた蒸気をそのまま使うのではない。
蒸気でタービンとモーターを回し、電気を作る。
彼らは全くもって正しかった。
各所に蒸気を送り、その建物の発電タービンを回すよりも、ずっと割に合った。
神の力を借りて所々に蒸気井戸を掘っていくよりも、どこかで大規模な蒸気井戸を掘って発電してそれを送ったほうが、ずっと効率的だったのだ。
掘るにあたって一々神々のご機嫌を取るのは一苦労、それもしなくてよい。一度大掛かりにやれば、それで幾十万もの人々の生活のための電力を賄える。
次は電気の時代だ。社会という巨人は歯車と蒸気の機構から電気じかけになる。
蒸気はいずれ生活という舞台からは去っていくだろう。
けれど、次。
次なのだ。
まだ蒸気は時代を回している。
まだ高度な電気じかけには神が宿っていない。電灯やら何やらまでの存在までは許したのだけれど。
まだ神々が、妖精達がそれを認めていない。
彼らが頷かなければ、宿らなければ、それは祟りのごとく、正常に動作しない。
道理は合っているはずそれは、道理の合わない彼らの力なくしては動かないのだ。
そう。
パラダイムは、彼らが選択する。
例え敬われることがなくなろうと、その力は絶大だった。
神域の碩学の御業でなければ、彼らの判断を翻させることなど出来ないだろう。
日本の、いや世界の各国、その地下深くで、文字通り”神を宿した”超巨大解析機関が蠕動している。
際限なく拡張されていくそれは今や国民のほぼすべての情報、そして電話交換を扱いきっている。動力は無論、蒸気だ。膨大な量の蒸気だ。
だから、止めるわけにはいかない。
そう、止められない。
根底を覆す訳にはいかない。
そもそも未だ神の宿らぬ複雑な電気じかけではこの解析機関を再現できないのだ。
理論上は可能だ。理論上であれば。実践を神が妨げている。
ならば、この国が、世界が蒸気で動いていること、それを変えることは誰にも出来ない。
少なくとも、今はまだ。
ここは日本。大日本帝国。
尊き方の治める島国。この世界においてほぼ唯一、空が白く青い国。
どうにも変わることの出来ない、そんな世界。
”次”がいつなのか、誰も分かっていない。
神のみぞ知る。それが、この世界の未来。
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背景のない私たち
翔鶴の職業を世界観の考証に伴い修正。
「電話交換手」→「郵便局員」
雨に濡れる、この人の体を掻き抱く。纏う衣は重く体に張り付いて、この人の背負ったものみたいだった。私の、羽のように軽い体とは大違いだ。この人は私のようにはなれないだろう。私にしたってこの人のようになれそうもない。けれど、私はそれを諦めたくはない。吹き飛ばされるような弱さはいらない。しなやかと言えば聞こえはいいけれど、戦いから逃れるばかりになるのはごめんだから。戦うための、しなやかで堅い、鋼の翼が欲しい。
だから、私はこの人を抱きしめる。
私とこの人は他人だから。
愛していいと分かったから。
道ならぬことは分かっているから、そもそもが道理の外れた慕情なのだけれど。
けれど、この人の呆けたような、怯えたような吐息が儚くて尊い。
それだけで、私は満たされた。
●
「
私達の帰りを、一つの封筒が出迎えた。
靄の掛かった夜の住宅街を、仄明るい瓦斯燈が照らしている。
おんぼろ二階建ての集合住宅、そこの郵便受けの一つ、それが私達の家に割り当てられたもの。下の段、右からも左からも三番目。
その中に差し込まれた、小さな茶封筒。湿気て傷んでいる様子もないし、変につやつやしている。そういう防湿の封筒があるというのか。郵便局で勤めたことがない私は驚いたが、姉は見たことがあるのか何ともない顔。
姉の手の中に収まった封筒には、記名があった。達筆な筆字で、一行。
那雲忠一。
どこかの誰かの名前だった。
けれど、聞いたことがないわけではない。
私達の国の偉い軍人さん、その名前。
偉い、本当に偉い身分の方だ、確か。
そんな人から、なんで私達姉妹に手紙が届くのだろうか。
昔は母ひとり、娘ふたりの三人家族、父親はいなかった。その縁者の一人がこの人か。
そうならば暮らし向きが多少は良くてもおかしくないと思うのだけれど。
●
病で母が亡くなってから、皮肉にも暮らし向きは好転した。
今や天涯孤独の私達に、お国は保護を与えてくれる。
かつての母のお給金より多いお金で。
その代わり、いずれはお国のために何処かで働いて返さねばならない。例えば郵便局、国鉄、それか軍隊。そういったところで定年、退役まで働くことになる。自由がないとしても、死ぬまで面倒を見てくださるのだから、お国というのは大変にお優しいものだ。
母が死んで、私たちは二人ぼっちになった。葬式はささやかなもので、母と親しかった方々と私達で少しずつお金を出しあってようやくあげることが出来た。
そこで名乗り出る親類などはいなく、ただ母の孤独を見ることになった。友人はいても、家族は私達だけしかいないということ。それはすなわち、私達にも同じことが言えるということだった。
母は自らの出自、私達の出自すらもをついに明かさなかったし、私達に祖父母がいるとして、それが何処にいるのか、そもそも存命なのかも全く分からない。
そう。
私には、私達家族の成り立ちがまるで分からない。
何処から来たのか分からない、だから何処へ行くのか、どうもしっかりした形を帯びてこない、そのように思う。決して無気力に生きているわけではないけれど、自分の故を知らずに生きるというのはそういうことなのかも。
私には夢がない。将来何をしてみたいとか、そういう熱意が胸のうちにない。
強いて言うなら家族と暮らせるならそれでいい。別に男のひとと一緒になれなくてもいい。家族に他人なんて必要ないとすら思っている。ただ、姉と共に暮らしていければ。慎ましくとも…悪く言えば貧乏でも構わないから。だから、死ぬまでお国のために働くことになるとしても、それは特に構いはしないことだった。自由すらも、私には必要がない。
●
私達の部屋は、一階の一◯三号室。
六畳一間の畳敷き、風呂なしの部屋だ。
流石に年季も入ってきて、作りがあまり良くないのもあってかいつも少し隙間風が吹いている。おかげで黴とは無縁……とまではいかない。例に漏れず、梅雨時はどうしても少し苦労してしまう。
部屋の真ん中には二人で使うには少し大きなちゃぶ台。三人の時は少し狭かったのに。
板にはいくつも傷があり、もはや馴染んできてしまっているけれど、決して壊れそうな危うさはない。母がいつこれを買ってきたのかは分からないけれど、とても良い買い物をしたものだと思う。むしろ部屋の中でこれだけがしっかりと作られているのではないかと思えてくるほどだ。
そして、私達の広いちゃぶ台に、一つの物が置かれた。
それを挟むように座る私達姉妹。
姉はピシリと決まった正座、私ははしたなくも胡座。よく怒られた。姉も怒る。
でも、今日はそうではなかった。
真剣な目で手も触れず、この封筒を見つめている。
私と同じ、これの意味を測りかねているのだろうか。
でも違うのは、私はこの内容に別段の興味がないということ。姉は多分、特段の執心を持っている。
●
同い年、双子ではあるけど、私達はまるで違う。
掃き溜めに鶴とは正しくその通り、翔鶴姉は貧しい育ちでも気高く美しくなった。私のように浅慮で生きていない。深謀遠慮を形にしたような才媛、それがこの人だから。
それでも貧乏というものは恐ろしい物で、結局は郵便局員に落ち着かされている。
学問で大成しようにも、先に進めなくては仕方のないこと。結局義務教育を受けておしまい。パトロンか何かでも見つけられれば良かっただろうに、そうしなかったのだ。
私はと言えば、特に学問に興味はなかった。だから義務教育が終わればさっさと色々な働き口に突っ込んで行った。
日雇、週雇、月雇。適当にどうにかやれる仕事は本当に色々と。
一番稼ぎになったのはカフェーの女給だった。給料はなく、お客からの小遣いがそのまま懐に入るという仕組み。要するに器量良しはそれだけで金儲けが出来る。あるいは、それを補う何かで。
貧乏臭い体付きで男好きのしない身だとと思うけど、いつもへらへらしているのが気に入られたのか。
それなりの稼ぎは楽に出せた。
けれども、段々と常連客の厭らしい目に気がついてきた。私のどこを見ているのか、目線が何となく見えるようになった。その先には尻、胸、首筋。脚は長いスカートに隠れて見えなかったけれど、少しばかし薄い生地だから、体の線はしっかりと出てしまう。生活相応の貧相な胸、平たい尻、襟から生える枯れ枝のような首筋。私の取り柄は、いつだって脳の足りてない表情だけだと思っていたのに。こんな足りない体に下卑た目が付き纏ってくるなんて予想もしなかったことだ。
時々仕事終わりの時間を聞かれることもあったけれど、あれは多分連れ出して遊びたいという意味だったのだろう。それでお客の「目的」が分かったし、ついには他の姐さん方がお客と致しているのを見てしまった。
決め手はたくさんあって、でもどれも性にまつわるあれこれだ。
それに忌避感を感じたらあっという間に腹は決まり、逃げるように女給を辞めてしまった。流石にあそこまでやる根性がなかったから。
その、私に致した経験がなかったというのも相当に大きな理由なのだけれど、とは言え特に拘っていたつもりもなかったのだ。でも操と金を交換するというのに気が引けてしまったのだから、実際には違っていたのだろう。
それから稼ぎはぐんと減って、代わりに色々な仕事を掛け持ちして補うことにしたけれど、それでも以前のようにはいかなかった。でもあのままカフェーに残っていたとしても、いずれは辞めるか貞操を売っ払うかのどちらかだったろう。袖にし続けて金だけ貰うのは最初のこなれていない時期しか出来ないことだ。昔のカフェーなら上手く行っただろうけれど、今やカフェーとは性産業の一つになっていたのだから。洋式の郭と言えるかもしれない。こっちには品性の欠片もないけれど。
ああ、一方で翔鶴姉も女給をしていたっけ。私が女給になった話をしたら、楽なら、と一つ仕事を増やしたのだ。ただ、翔鶴姉が叩いた戸は純喫茶の戸。要するに、女給より珈琲や茶を目当てにする高尚な方の喫茶店だ。話が違うと言われて、それも「カフェーは何かおかしい」と気付くきっかけになったか。ちなみに、結局忙しさに身が持たないと姉も早々に女給を辞めた。稼ぎはそこそこだったのだから、他を辞めてしまえばよかったのに。郵便局員よりもよほど稼げただろう。
●
いつまでも翔鶴姉が動かないので、流石に私も、
「睨んでても始まんないよ、翔鶴姉」
「……あのね、なんとなく、緊張しちゃって」
「お手紙なんだから関係ないじゃない」
「いいえ、このお名前を見れば嫌でもそうなるわ。普通は」
「私が普通じゃないみたいな言い方、やめてよ。でもこんな人からってのは凄く怪しいとは思う」
怪しい。そう、何故なら「書くだけなら誰でも出来る」。
私が自分で書いて自分で入れることすら出来るような、そんな程度の低いことだ。
しかもこの封筒には実のところの消印がない。そもそも切手がない。宛先すらない。この那雲某と思しき差出人は直接この郵便受けを訪ねてきたということになる。それは大変に怪しいことだ。それならば、そもそも部屋を間違えていることも考えられる。
私はこれをイタズラの一種と思っているし、それも人違いで喰らったものだとも予想している。
お隣の人宛だろうか。あそこの人は元軍人だったはず。傷痍退役軍人だから前の方で戦って生き残った人。偉かったとかそういうのは聞かないけれど、もしかすると那雲少将の隠れた腹心だったとかかも。格好いい。
「翔鶴姉、お隣さんに持って行って心当たりないか聞いてみようよ」
「多分、それはないと思うの。お隣さんは陸の人だったって昔聞いた覚えがあるから、那雲少将とは関わりがないはずなの」
そうか、海と陸は仲が悪いと聞くし、これをお隣さんに持っていっても複雑な顔をされることになるだろう。やめよう。
それでは、これは確かにうちに届いたものということなのだろうか。
……もういい。開けて確かめるとしよう。
いつまでも封を切ろうとしない姉を見かねて、私が封筒を手に取った。
少し伸びた人差し指の爪を、綴じた口に挿し、すっと封を外した。中身は数枚の便箋だ。綺麗に畳まれて予想以上に薄くなっている。
開く。
最初の一行で、本当に宛先が私達だと分かった。
●
内容はこうだ。
どうやら、死期を見越した母が少将に手紙を寄越していたらしい。正確には、少将のご実家に。それもどうやら昔に少将に言われてそうしたらしく、ご自宅に直接だと少しばかり波風が立つからだと言う。死んでしばらくしたら、様子を見に行って欲しいとあったのだとか。
それで、この那雲忠一という男の人が私達の父親だと、そう書いてあった。
呆然とする。
それに翔鶴姉は、
「瑞鶴……?」
「……この人、私達の父親なんだって」
「那雲少将、が……?」
まるで訳が分からないけれど、この手紙によれば本当にそうらしい。手紙そのものがイタズラでなければ。
続きを読む。
この手紙の差出人、那雲某少将によると、母は元は神戸の芸者だったのだと言う。若き日の旅の途中で出会って数日の逢瀬の後別れた、のだそうな。当時既に妻のいたという少将だが、あろうことか不倫に手を染めていたというのだ。母がその片棒を担がされたというのも何とも言えないのだが。
その後はただの文通相手として、関係が続いた。しばらくしてからはほぼやり取りは無く、緊急時の連絡先として実家を紹介してお終いということだ。
そして、必然的に分かることは。その行きずりの男と女の間に生まれたのが私達だということ。
そう、予期せず産まれた、不貞の娘ということだ。
「……そういうことなんだ」
「……」
沈黙しかない。
文面も終わらぬうちから、私達はその根源を知らされて消沈。もとい崩落。
何処から来たのか分かるだけが幸いの、望まれず作られた子供達という、そういうことだ。望まれて産まれたのだとしても、唐突に得られてしまったのだ。それも、不貞によって。
あったと思った足元の地面がなくなっていくのを感じる。なにか、確りとしたものがあると何処か信じていたけれど、これでは酷い裏切りだ。
本来、いてはいけない子供。
那雲忠一の隠し子。
不義の子。
それが私達の正体だったのだ。
それで、そんな子供達に何を伝えたいのか。
それを知らせてどうしたいのか、手紙は続いた。
●
そして二週間後。
私達は「那雲」の表札の前に立っている。
私達は持っていた服で一番上等なものを着込んで。
那雲邸。少将の給金はまぁ相当によろしいらしく、真新しく美しい武家屋敷だった。
門構えが立派。それに敷地を囲む塀は土壁ではなくて純白のコンクリート。となると、完全な和式ではなく和洋折衷みたいだ。となると全然武家屋敷じゃない。いや、現代版のお武家様だから武家屋敷でいいかもう。
門を入ると、本当の和洋折衷のお屋敷。
二階建て、左右対称の洋館に瓦葺。壁は硝子と飾りサッシの窓は映えて目に楽しい。それに沢山あって部屋数の多さが窺える。
構造は木造か。しかし私達のいたボロとは何もかもが違う。見上げると見える、窓の上、屋根の陰。あれに見えるは太い梁。私達のいたところなど長屋の重箱がいいところだが、こちらはそんな代物ではない。
そして屋敷の中心、尖塔のように屋根の上に突き出ている、あれは地下蒸気タービンだ。白い蒸気を吹き出して煙突みたいだ。大きいけれど、それ以上に高性能なんだと思う。あのアパートメントもそれなりに大きいタービンを持っていたけれど、蒸気の量がまるで違う。十数人を養うだけの力はあったけれど、これと比べればまるで及ばない。
視線を下に戻す。キョロキョロしてみっともないと思ったけれど、敷地を見回してしまった。
この大きい母屋……母屋と言っていいのか、それの他にも離れの建物がいくつかある。その中でも大きな、二階建て白塗りの洋風建築は使用人寮と書いてある。屋敷の裏手、向かって左側に構えるその様子は淑やかで、建物からも使用人の品格が感ぜられる。そして、私達もそれを求められるようになる。
●
遡るが。
ここで私達には選ぶ権利があった。
それが父親らしき那雲少将の手紙の本題だった。母の忘れ形見たる私達姉妹を手元に置きたいのは父として分からんでもない。降って湧いた愛娘、それをどう処遇するか、それこそに悩んだのだ。「娘」として迎えるのか、それともある意味では客人として、そして家族としても扱える「使用人」に遇するのか。
どちらかが働いてもう一人が娘として入る、というのは難しい。何しろ私達は姉妹だ。いくら似ていない方とは言え、姉妹と分かるほどには似ているから。だから両方を選べる贅沢は許されなかった。それにそんな意味もまた、ない。
ならば選択は実際のところ三つ。
なぜなら結びとして、
ーーーー君達がいずれも望まないのであれば、ただ健やかであってくれれば良い。
つまり、忘れていい話でもあるのだと言ってくれたからだ。私にとってはそれも良いと思う。どちらでも構わない。娘として入るのは気が進まないが、国の手元か父の手元かという点で残り二つは変わらない。父もお国に勤める身なれば、本当に同じだ。
私に決められるのはここまでだ。
娘であると振る舞うことは出来ない、と。
翔鶴姉もやはり同じで、でもそうならば父孝行として那雲家に働きに行くのが良い、と言った。それもそうか、と私は納得したので手紙を返すことが出来た。
働かせてください、と。
返事は早かった。
よろしい、ではうちの使用人の寮があるからそこに部屋を取ります、と。更に変だ、と思うのだけれど荷運びはこちらで手配します、と書き添えてあった。使用人として雇うならそこまでする必要はないと思うのだけれど。いきなり親心が強すぎやしないだろうか。
さて、いざその荷運びの人足を待ってみれば。来たのはその那雲忠一本人であった。
珍しくよく晴れた日、一台の幌付きのトラックが住宅街にやってきて私達の家に乗り付けた。
圧縮蒸気タービンの唸りが近づいてきて、家の前で一番大きくなり、そこで止まった。
そこで私達は、おそらく件の人足が来たと出迎えに出た。
そして白い蒸気の中から、禿頭の武人然とした男性。
それが、私達の父と思しき那雲忠一少将であった。
装束は軍服ではなく、モボ風のカンカン帽、半袖シャツ、釣りズボンだ。生来のものだろう、険しい表情と軟派な格好が実に似合わなくて、妙な顔をしていたと思う。
「君らの母に、手を合わさせてくれ」
それを聞いた時、この人が柔らかいことを感じた。堅物そのものに見えるくせに、実のところは、たぶん普通の人なのだ。
険しい顔が、さらに皺を深めた。忘れられぬ人だったのだろう、一晩の夢の中でたとしても、一度抱いたその女は。その母を看取ることも出来ず、亡骸を目にすることもなく、ただ手を合わせることしか出来ない。多分その表情は後悔と悲しみ。哀れみでも恋慕でもなく、おそらくは友愛のひとつだったのかもしれないが。
家に上がって頂いて、最後まで片付けていなかった位牌の前に案内した。
脱帽し、背を丸めて懸命に祈る姿。
力の籠るあまり、手のひらの中の数珠がぎりぎりと擦れる。
咳き込むような息は、涙声を掻き消すためか。
一頻りそれが済むと、洟を啜る音と大きな呼吸音。そのあと、また平静な顔になった父はどれから運ぶのか、と聞いてきた。
そうして荷運びが終わると、私達の家はそこではなくなった。
次は、父の手許で暮らすのだ。
それが私にとってはそんなに嫌なことではなく、むしろ予想外、安らいで暮らせる予感すらしていた。
私は座席ではなくて荷台に乗って荷物の世話。少し眺めのいいところから、蒸気の彼方に消えるアパートメントを眺めていた。
ただ涙が流れた。溢れるような勢いはなく、ただゆるりと流れ落ちた。
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私達のお父様と
那雲邸に到着し、私達はこうして敷地の中に立っている。晴天の蒼の下、光を浴びて。
今日は使用人には暇が出されて、家族も皆が皆出掛けているのだそうだ。邸は無人となっていた。風と太陽だけが私達親子を見つめている。
トラックから降りた父が、荷運びを始めた。最初は段ボール箱に詰めた食器類だ。一番重いだろうものを選んだみたいだ。そういう無言の行動に、父性を少し垣間見たように思う。
こちらだ、と背中で教える父を、私達も適当な荷物を持って追いかける。私が衣類の一番、翔鶴姉が衣類の二番。かたや洋装、かたや和装の入る箱である。
白い建物は、こちらもしっかりとした造りだった。使用人には勿体無いほど。それだけ待遇の良い屋敷ということか。戸を開けると、綺麗な板張りの廊下が続く。
内装も外側と同じく、白。壁は漆喰ではなくて壁紙で白になっている。その下に土壁が隠れているのかもしれないけれど、この壁紙というものの雰囲気は何とも言えず、だけど好きだ。何しろ手触りが滑らかそうだし、ボロボロ崩れそうもないし。「高級」とはこのことか、と意を得る気持ち。
父が足を止めたのは、一階の端の部屋。ドアは鍵付きだが、今日は掛かっていない。左手に重い段ボール箱を抱え、右手でノブを捻って戸を開けた。
部屋に入ると、まず下駄箱が左手にある。
背が高いような気がする。私の胸より少し下くらいの高さ。少なくとも、私達の持っている履物を全て入れてもガラガラの状態になるだろう。行き場のない何かが増えたらここに来るかもしれない。すこしみっともないけれど。
そして、段差。これと下駄箱合わせて、ようやくここは履物を脱ぐことが出来る家だと分かる。洋館のようでも、やはり日本の住宅ということか。
上がるとすぐにさっしが横に走っている。襖が通るのか。洋館調の見た目なのに、中身はかなり国風だ。折衷というより洋の皮を被っているだけみたい。
父がまた先に上がる。
中は畳敷きの一室、それと襖が二面。
父が箱を畳の上に置くと、襖の両方を開けた。
片方は押入れ、そしてもう片方は板張りの部屋。こちらに台所があった。
控えめに言っても、立派すぎる部屋だ。二人で暮らすにしても広すぎる。少なくとも、今までを六畳一間で過ごしていた私達にとっては。
こんなに良い部屋に暮らして良いのだろうか。そんな不安が顔に出ていたのだろうか。父はそれに否と答えた。
「使用人の皆が同じ部屋だ。むしろ、君らは二人で使うのだから狭いくらいでな」
凄い屋敷だ。そして、あまりに優しい屋敷だ。おそらく、ここで暮らすことは本当に幸せなことなのだろう。現金な考えは我ながら情けないが、来て良かったと本心から思う。むしろ、その優しさにこそ不安を覚えてしまうくらい。
それをも見越したのか、
「娘に与えられるものとしては、これでも僅かに過ぎる、そう思うよ」
父に遠慮などいらないと、むしろ情けないと、この人は言ってくれる。
そう言われても、降って湧いた親子の関係だ。遠慮はどうしてもしてしまうし、ぎこちなくなる。
親に甘えるというよりも、好意に甘える感じだ。
「私は、彼女の忘れ形見である君たちをこの手の内で守れることが嬉しい、それだけだ。君達もそれだけで良い。取り返しは付かないが、せめてこれからの事くらいは、世話を焼かせておくれ」
父親たり得ないとしても、それでも父親として在りたい、その心は無碍に出来ない。
ならば、私達は遠慮してはならない。親孝行の第一歩のために、父の言うその僅かなものを受け取るべきだ。いや、受け取りたいし、それに感謝を返したい。私達には、その方法まで用意してもらっている。
だから、
「ありがとうございます、お父様」
そう言って、頭を下げた。
奇しくも姉も同時、示し合わせたようにぴったりと。
それに破顔して父は、
「いや。…なあに、気にするな」
父性というものを私達に示した。
●
月の青い光は窓のさんで十字に切られて四つ。
二つは枕元、もう二つは顔を照らしている。
初めて見詰める天井を、変わらぬ寝床から見詰めている。月の色だって変わらないまま。二人の夜は、何も変わることはない。
冷房が効いて寝苦しくないこと、それ以外は。
「瑞鶴」
「なに」
「頑張りましょうね」
「そうだね」
どうということもない言葉を交わして、仄明るい目の前を見ている。
ふと、思った。翔鶴姉は私とどう違うことを考えているのだろうか。私より利口で立派なこの姉は、私とどう違う思惑でこの道を是としたのだろう。この道にどんな未来を見たのだろう。私には見えない、この先を。
「翔鶴姉、どうしてこうすることに決めたの」
「こうするって、何を」
「お父様の所に来る、ってこと」
しばしの沈黙が起きた。それに戸惑うのは私、そして姉。
私の言葉は意表を突いたし、姉の無言に私は困惑した。
何故?
それを問われて窮するのは、何故?
応えのないままに、静かに夜は更けていく。
そのうちいつのまにか、私達は眠りに落ちていった。
●
朝が来た。
次には、目覚めが訪れた。
続いて温かい布団と心地良い気怠さが包み込んでくる。
朝だ。そう、朝。これほどまでに心地良い朝。
湿っぽくない布団、鼻歌のような機嫌で稼働する大タービン、空調は湿度を吸い上げる。快適度数、これ青天井なり。
干しても乾かぬ布団、むわりと不快な空気、纏わり付かれて寝汗は滲み、布団が一夜毎に重くなっていく……そんな悪循環とはおさらばだ。
布団も枕も変わっていないが、全てが違う。こんな目覚めは初めてで、世界観の違いを感じる。これが扶養下ということか。まぁまるで本質ではないのだが事実ではある。
さて、寝返りを打って右隣の姉を見る。
いつもシャンとしていた姉は、今日に限ってそれ以前の問題。深く眠り込んでいて、正に昏々と言ったくらい。
姉には数々の敗北を喫してきた。というか毎朝それを積み重ねていたのだけれど、今回で連敗は打ち止め。おお、妙な達成感で鳥肌が。自然と口許が吊り上がる。
嬉しくなって、つい子供のように隣の布団を揺すりたくなった。というか気がついたらもう揺すっていた。
「しーずーるーねーえー、もう朝だよー、とっても気持ちのいい朝だよー」
ごそごそごそごそ。
布団の衣が揉まれて、低い衣擦れの音がする。姉は揺れに合わせて寝息を乱し、虚ろな唸りも漏らしている。
「……ううん、朝……朝?」
「そうだよ、気持ちのいーい朝だよ」
「朝……」
眠たげな声。十分癒やされたろう、と問い詰めたくなるくらいにいきなり疲れた抑揚。
「……ごめん……瑞鶴、もう少しだけ寝かせて……」
「ええ?翔鶴姉、どうしちゃったのよ。早起きで私に負けたことなんてなかったのに、今日に限ってなんで」
あまりに元気のない姉には合点がいかない。こんなに気持ちよく寝れたのに。
そこで、ようやく答えが分かる。
「私の感覚だとね……今はまだ四時台だと思うの……」
「へ?」
虚を付かれて、慌てて部屋の時計を見る。
部屋の隅に寄せた机の上で、規則正しく針を進めるそれを。
そしてそれが指した時間は、姉の言うとおり確かに四時台だった。四時半を回ったくらいだ。いつもなら六時半より少し前に起こされてきたのに、今日はそれより二時間くらい早い。
「……ああ、そうか。私が寝れてないってコトなのか」
そう、寝たのはともかくだ。こんなに早く起きてしまうとは全く考えていなかった。精々僅差で勝っていたくらいだと思い込んでいたから。
ようやく状況が呑み込めると、急に眠気がやってきた。たぶん、興奮もなにもまるでなくなったからだ。
やたら急に落ち着いてしまった。むしろ落ち込んでしまった。なんだ、これは。おかしくなってきた。
「起こしてごめんね、翔鶴姉……」
そう言って、布団をかぶり直しもせずに丸くなった。
意識のなくなるその一瞬。体の中が、灼熱と悪寒でせめぎ合うのが分かった。
●
「……風邪、ね」
「うん……」
ようやく六時前を迎えて翔鶴姉が起き、私の様子を窺う。額や首に手を当てたりして熱を測って。翔鶴姉の手は冷たくてすべすべしてて、やたらにくすぐったい。そのせいで息が詰まったり咳き込んだりしてしまった。別に、身内の手で性欲を催すとか、そういうことはなかったけど。あってはならないけれど。
ともかく、これからお仕事を教えていただこうと言うのに、私は初日で躓いたというわけだ。私は思ったより緊張しいなのかもしれない。心が弾んで仕方なかったのは、そうなんだけれど。自分の背景が分かって、闇に光が差したようだったのだ。どういう形であれ、親子、家族でいられるというのは私の望むところであったし、それに息巻きすぎたんだと思う。トドメが慣れない冷房だ。いろいろな変化の結果が、この風邪、このざまだ。ああ、なんてバカなんだろう。新世界への一歩がこんな体たらくで始まるなんて。でも、
「……翔鶴姉、準備しよう」
「瑞鶴……無理しちゃだめよ」
翔鶴姉は心配そうな声で私を諌めようとする。でも、ここは私達の家であると同時に仕事場なんだ。そこで下手をすることは、父の顔に泥を塗ることになる。新しい家族。そう、本当はずっと欲しかったお父さんの前で、私は立派にしていたい。何にもなりたくなかった私の、初めての一歩だから。だからどうしても譲りたくなかった。
けれど、
「……加減は、どうかね?」
「お父様……」
その、父がやってきた。娘を招いて初めての朝だ。使用人と遇するとは言っても、まだ私は客人なのかな、と思った。早くここに馴染みたい。ここの一員になりたい。そう思って、
「大丈夫、です。お父様」
私の自慢のお脳の足りない笑顔で、笑いかけた。でも、
「お父様、瑞鶴は熱を出していまして……」
「翔鶴姉!」
「熱を」
翔鶴姉は私の折角の空元気を無為にして、お父様に私の具合のことを言ってしまった。どうしよう、私、こんなところで躓きたくない。だから、笑顔も忘れてしまって、布団の上で土下座の体勢になった。必死になって。
「お父様、私、大丈夫ですから、働かせて下さい、お願いします」
「瑞鶴!」
翔鶴姉は私を案じてこう言ってくれている。けれど、初めてなのだ。私がこんな強情になれたのは。こんなにも欲を出したのは初めてなのだ。きっと翔鶴姉だってこの特別に気付いてくれるはずだ。だから、
「お願いします、働かせて下さい……」
そう言って、頭を地べたじゃなくて布団だけど、擦り付けた。
するとお父様は、ふーむ、と重々しく鼻を鳴らし、
「無理をするではない」
そう言って、私の頭を撫でてくれた。
でも、それじゃあ、いつまでたってもお客様だ。そうじゃなくて、私は、家族のために頑張りたい。だから私はまだ頭を擦り付けていたままだったのだけれど、
「娘を虐げるような親には、させなんでくれるか」
それを聞いて、ハッとなった。
そうだ、私はこの人の娘になったんだ。その娘が、フラフラで仕事をしていて心配を掛けるよりは、休んだほうがよっぽどいい。……焦りすぎだ。単純なことだっていうのに、自分の事ばかりで忘れてしまっていたんだ。
私は自分で自分が情けなくなって、より一層頭が上がらなくって、
「ごめんなさい……」
そういうのが精一杯だった。なのにお父様は剛毅に笑って、
「なぁに、男親冥利に尽きるものよ。娘の世話を焼ける、これに優る喜びが、あろうものかと」
そう言って、私の髪を優しく撫でてくれた。
「今日は休んで、元気な姿をみせておくれ」
それに、私は顔を上げる。着衣が乱れて、肉付きの悪い体が見え隠れしてみっともない。けれど、私はお自慢の笑顔で精一杯喜ばせようと思って、
「ありがとう、お父様……」
それだけ言うと、私はまた布団に沈もうとしていた。
体を支える力が強くって、男親の力強さ、暖かさってこんなんだ、って安心して、私はもっとニッコリとしていただろうと思う。情けない顔になったかも。でも、今の私にはそれしかないから、でも、それだけは自慢だから。お父様には見せてみたかった。
「おやすみ、瑞鶴」
ゆっくりと布団が私の上を覆っていく。そして、私の口元に水差しが差し込まれて、それをちゅうちゅうと赤ん坊みたいに吸うと、喉が潤って落ち着いた。多分、翔鶴姉がやってくれたんだろう。
……眠気が、少しやってきた。このまま眠ってしまえそう。頑張って治そう。きっと夜にはもう元気になっていられるように。
「おやすみなさい……」
そう言って、私はきっと笑顔で眠りについた。
二人の静かな笑い声が私の子守唄になって、すぐに深い深いところへと沈んでいった。
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彼女の新世界が開くまで
前作と違いボリュームは大幅に下がっていますが、ご留意下さい。
翔鶴姉はその日からお仕着せを貰って仕事を始めていた。
私が昼に一度起きると、彼女は既に丈夫で動きやすい黒の綿着物と白い割烹着を着ていて、私はそれに些か以上の憧れと焦りを持ったと思う。心の片隅で、少しだけ置き去りになったような孤独を感じた。
でも、それは杞憂だ。翔鶴姉は一足先を行ってくれただけなのだ。私は、それに付いていけばいい。このことに気付くと、私の甘えが首をもたげていたことにも同時に自覚したのだけれど、不安の二感情を押し流す安心で落ち着いた。
いつもどおり。優しい姉にお世話になる。それが私のあるべき姿。決めたことは決めたこと。流されるべきには流される。それでいい。
朝食は私が寝たばかりということで抜きになっていた。
私が起きた理由の一つは喉が渇いたということと、それ以上の空腹感からだった。まぶたを開けると、やはり綺麗な天井が広がっている。見慣れた曇り空を透かして差してくる陽光は部屋を照らしていて、冷房の効いた部屋でも灼けるように熱かった。枕側に窓があるというのも困りものだ。こういう、午後の眠りを楽しむには少し厄介だと思う。私の場合、今回は楽しむ間も泣く病魔によって伏せらされているからもあるだろうけれども。
今は外が少しざわめいている気がする。
今日は那雲邸に人が戻ってきていて、使用人たちがこの建物で昼の休みを謳歌しているところなんだろう。知らない人の気配は私を落ち着かなくさせている。
翔鶴姉は食事を持ってきていて、台所でそれを私の食べさせる準備をしている所だった。今日はコメ以外の食材がないから、多分どこかで分けてもらってきたんだと思う。
私と彼女の間、畳の間と板の間を分けるふすまのサッシが私達の距離を必要以上に演出しているようにも思えた。後ろ姿は機嫌よく、細く赤いリボンでまとめた銀髪がゆらゆらと揺れている。
「翔鶴姉……ありがとう」
私が起き抜けの掠れた声でそう言うと、彼女が振り向いて微笑んでくれる。真新しいお仕着せは心地が良さそうで、私はまた少し劣等感が湧き出た。……出遅れている、それは安心の材料であるけれども、やっぱり情けなさがないわけではない。
「いいのよ、瑞鶴。今、お昼を厨房で分けてもらったの。……鶏肉と大根の照り煮。嫌い?」
「ううん」
嘘を吐いた。
鶏肉は嫌い。なんでって、やせっぽちの私が小さい頃に悪童たちから”鶏がら”呼ばわりされていたから。自他ともに認める貧相な私の体だけれど、それを気にしていないなんてことはない。惨めで貧乏なだけの私を思い出すから、なんとなく鶏肉も嫌いだったのだ。音に聞く七面鳥のように丸々と太っていたら……それはそれでなんとなくだらしなくって嫌い。
だから鶏肉は嫌い。
訳もわからない論理だとも思うけれど、小さい頃に身についた価値観というものはこうして大人になりかけた今でも影を引き摺っている。食べれば、嫌いじゃない。共食いじゃないんだから、忌避することもないのだから。気付かないうちに食べさせられていたことなんていくらでもある。吐き気を催したことなんてこともない。ただ、その名前が嫌いなだけだ。鳥の肉。鶏肉。なんとなく、忌々しい。文句は言わないけれど。
翔鶴姉が湯気の立つ器と匙を持ってくる。蒸気焜炉にかけた鍋から立ち上る湯気を切って、こちらに歩み寄ってくる。
私は布団を捲くって重い体を起こすと、それを受け取った。彼女が私の右脇に座る。
中身は、細切れの鶏肉がいくつも浮かんだ薄茶色の粥だった。透明の塊は大根らしい。……どうやら、煮汁も一緒にして米を煮たらしい。翔鶴姉らしい、気の回る一品だった。……嫌いと言いつつも、味まで嫌いなわけじゃないのだ。香りもいいし、食欲は唆られる。
具合が悪くても腹は減る。私は、
「ありがとう、翔鶴姉。……いただきます」
そう言って、口をつけた。
美味しい。素直にそう思う。けれど、なんとなく忌々しい。この鶏肉め。はしたないのは分かっているけれど、肉を避けるようにして米と大根を口に掻き込んでいく。時々思い出したように嫌いな肉を掬って口に含む。悔しいけれど美味しい。
……美味しい。これは翔鶴姉の作り変えの手腕もあるけれど、なにせ元が美味しいのだ。なんだか、恐れ多くなってきた。そしてそれを病人のためとは言えこうして材料として使ってしまえるところに、豪胆だなぁと子供のようなことを思った。
それはともかく、本当なら私のことなんて放っておいて休むべきだ。慣れない仕事で疲れもひときわだろうに、看病までしてもらって。
「ごめんね、風邪なんて引いちゃって……」
「いいのよ。明日は元気になってね。仕事の仕方は夜、私からも教えるから。ちゃんと覚えて私を助けて、ね」
茶目っ気の溢れる微笑みでそう言って、私の失態を許してくれた。私もいつもどおりのへらへらした笑みを浮かべる。情けない。
でも、私の内心はよそに、彼女は機嫌をもっと良くして、
「美味しい?」
「美味しい」
「良かった」
微笑みを深くする。そして、私の緑がかった灰の髪を右手で掻き分けて、額を触る。
手はやっぱりいつも通り冷たくて、頭の煮えている今は気持ちが良かった。目を猫のように細めてしまう。
「……少し、具合良くなったかしら?」
「うん、少し」
実際、今は休めたせいか少しだけ気分が良くなっている。この調子なら夜にはなんとか持ち直せそう。私の返事を聞くと、翔鶴姉は頷いて、
「じゃあ、私はまたお仕事に行ってくるわ。大人しく寝ていること、ね」
「はいはい、分かってます」
立ち上がって、玄関へと向かっていった。……私は粥をまた頬張ると、靴を履き直してドアを開けた彼女を見送った。匙を器に置いて右手で。やっぱり微笑んで返してくれた。
さて、残りも片付けたらまた寝よう。水も飲んでから。
布団の上で転んで倒れないように、しっかりと気を持って……。
●
また目を覚ます。
今度は電灯の灯りの中で。天井で白熱電球が空気に合わせてわずかばかりに揺れている。
布団の中で、ごそごそと蠢いてみる。手、足と少し動かしてみた。力んでみたり、緩んでみたり。かつてカフェーで見たことのあるピアノ演奏のように指を跳ねさせてみたり。……その一挙一動に私は特段の疲れを感じなかった。昼に立ち上がったときとは違う。
私の体は軽くなっていた。まだ肌が悪寒で少しばかり過敏なきらいはあるけれど、ひとまず山を越えて朝には治る見込みが出来た。これで私も明日からは働ける。その希望は私を明るくした。
また台所から鍋の煮える音、蒸気焜炉からの噴出音が聞こえている。翔鶴姉が料理をしている。
夕食だ。多分粥のような病人食じゃなくって、普通のご飯が食べられる。首を右に回してみて、台所の方を見てみる。
お仕着せを脱いで、いつもの見慣れた褪せた白のシャツと紺色のスカートを穿いている。染みが何箇所にも滲んだエプロンも着て。靴下ももう脱いで裸足だ。まだくるぶしにはその赤い圧迫痕が濃く残っていて、仕事終わりに休む間もなく煮炊きを始めたのだと分かる。
元気になったのだから手伝わなくっちゃ。そう思って、布団を抜け出して私は立ち上がった。それに彼女は蒸気の音で気付いていない。私はそのまま板の間、台所の床を踏む。たん、と小気味いい音がした。それに、ひやりとしてつるつるした床の感触が布団の中で蒸れた足に心地よかった。
それにようやく翔鶴姉は私が目を覚ましたことに気付いて、
「翔鶴姉、お疲れ。手伝うよ」
「あら、もう良くなったの?」
「うん、明日の朝にはもうお仕事出来ると思うよ」
「良かったわ」
微笑む彼女の右肩側から鍋を覗き込む。
「今日は……どんなのかな?」
「ふふ、もうお手伝いすることはありません。簡単な煮物だから、あとは待っているだけよ」
蒸気焜炉―――――鍋敷きのような円盤の下に蒸気の管が入っていて高熱蒸気が循環している――――――は二口あって、その下部にはオーブンが備え付けられていた。レストランのような大きな厨房だと、瓦斯燃料を燃やして温める火力オーブンがあったはずなのだけれど、私達庶民にとってオーブンとはこういう、蒸気を吹き付けて空間を満たして加熱するものだけだ。……きっとこのお屋敷の厨房にはそれがあるんだろうと思う。
その上に乗っている鉄の片手鍋の中身は、
「わぁ、立派な里芋と人参だ。油揚げまで入ってる」
「……お父様がね、こっそり分けてくださったの」
私がびっくりした声で言うと、潜めた声で翔鶴姉が言う。
そうだ、特別扱いされてるなんていい風聞じゃあない。特に、一家の主が厨房をこっそりと漁って持ってきたなんて話、聞いたことが無いし。いや、私がそういう上流階級のお話に疎いというのもあるのだけれど。当然のこと。
私が慌てて口に手を当てて声を封じ込めると、彼女は何も言わず苦笑した。
「……ごめんなさい」
「ううん、いいのよ。……お休みの日には一緒にお買い物に行きましょうね。それまでは、ずっと里芋と人参、それと油揚げだけれど」
「……ううん、でも贅沢に慣れちゃうと、いいものが食べたくて買い物失敗しちゃうかもしれないね」
「そこは、身についた貧乏性でなんとかしましょ」
二人して笑う。
こういう時、姉は私と同じようにへらへらと笑う。貧乏の話をするとこう。
結局は同じ育ちだ。こういうところだけはボロが出る。でも、彼女は本当によくやっていると思う。立ち振舞や言動まで、身についた教養がそうさせているのだろうか。上流のものとしても恥のないそれだ。学のない私では到底出来ない。多分、私はその集まりに交じると色々としらけさせてしまうだろうに違いない。
なら、……私が召使で、翔鶴姉が娘になれば良かった。
いや、私達は他人とするには似すぎているから無理な話、そうだったのだけれど。
でも、似合うと思うのだ。少将の養女として、深窓の令嬢に収まる彼女の姿は。
そうなると、私がいなければよかったのではないか?
私だけ、置き去りになればよかったのではないか。あの六畳一間で、蒸し暑い布団の中で眠って、働いて、そして乏しい飯を食って。こんないいところに来なければよかったのでは。
いいや、そんなこと考えちゃいけない。きっとお父様はそんなことを許さないだろう。それを是とする己を許さないだろう。あの人は実直な人だ。那雲忠一はそういう武人だ。
だから、私はへらへらと笑っていればいい。今は。これでいいのだ。
私は台所をあとにして、床の間の布団を一旦片付ける。敷布団は三つ折りに、掛け布団は四つ折りに。枕を載せて……押し入れにしまうのは面倒だ。その前に置いて、部屋の真ん中からは退けておくくらいでいいだろう。
そして、壁際に追いやっていたちゃぶ台を真ん中に持ってくる。その下の薄い座布団二枚も。
私がそうしていつもどおりの食卓を整えているころには、翔鶴姉は蒸気焜炉から鍋を下ろして、陶器の深皿二つに煮物を分けていた。もう一つの焜炉の上に乗っている炊飯鍋からも、米の炊けた何とも言えない香りが湯気となって立ち上っている。
私はまた台所に行き、木で出来た蓋を開ける。そしてひっくり返して置いてある椀、それとしゃもじを手にとってご飯をよそい始めた。
いい匂い。それに、いつもより米がいい塩梅に炊けている気がする。ともかく、二つの椀によそって、しゃもじは釜の中に置き去りにしてまた蓋を閉じ、ちゃぶ台の上に持って行った。
翔鶴姉は私のその作業とすれ違うように机に煮物を持っていって、また台所に戻って箸二組を持って行った。
私が米の椀をちゃぶ台に置き、座る。手を合わせて、
「いただきます」
声を揃えて、そう言った。
白熱灯、それと昨日と似た月が、私達を照らしていた。
●
私は珍しく翔鶴姉より早く起きる。時計を見ると六時前だ。風邪ひきに風呂は少々厳しかったので快癒まで控えていたのだ。だから朝風呂を頂くことにする。
部屋には風呂も付いている。銭湯通いの日々とはおさらば。立派な家風呂だ。
仕組みは銭湯が地下管からの蒸気で湯を沸かしているのと同じで、この使用人棟のタンクに沸かした湯を保持、それを各部屋に供給。鉄砲風呂とはわけが違う。でも、あまり湯を使いすぎると皆が割を食ってしまうので遠慮しつつ使う。そういうこと。シャワーだってある。
浴室はタイル張りで、浴槽は木桶。本当の桶のように深くはなく、洋風のバスタブのように形が整えられている。檜の香りがほのかに漂っていて心地良い。桶は少し黒ずんだりあせたりしたところが斑点のようにあるけれど、まだまだ丈夫そうだ。バルブをひねると、浴槽の底の縁の穴から湯がどうどうと溢れてくる。これならすぐに溜まりそうだし、時間帯的にも迷惑はかかるまい。そう思って、私はシャワーで体を清めた。
浴槽に注ぐ湯の量は少し勢いを減じた。けれど、気にしない。シャワーを控えめな水量にして、髪から体までを濯ぐ。それと、持ち込んでいた石鹸、手ぬぐいで泡を立てて体をこする。一日分の垢と疲れが剥がれていくようで気持ちがいい。次に髪をたっぷりの石鹸を泡立てて揉み込むようにして洗浄、泡を洗い流す頃には程よく桶に湯が溜まっていた。指先を湯に付けると、いい湯加減。さぁ、入ろう。髪は軽く纏めて、湯に浸らないようにして。
「はぁ」
思わず溜息が出る。換気口の扇はカラカラと回り、少しうるさいかもしれない。でももう朝だ、気にしない。今は病み上がりの疲れと汚れを落として気分良く働く準備をする、それだけだ。
寝過ぎで凝りきった体をパチャパチャと湯を跳ねさせながら解して行く。肩を回したり、伸びをしたり。
そして体が温まったかな、と思ったら上がる。そして体を拭いて、貰ったお仕着せに袖を通していく。
生地は綿だけれど、薄くも厚くもない。でも丈夫。質がいい。普段のスカートやシャツと似ているようで根本的に品質が違うのだ。立派な着物。それに真新しい割烹着を着ると、あら不思議、こんな卑しい私でも立派な召使。思わず着物と割烹着の裾を翻すように回ってしまう。ひらり、と。着心地は上々。それに動きやすい。帯が細くて、でもきっちりと結べるから着崩れもしづらい。
いいものを貰った。本当にそう思う。
それを見て、起き出して着替えている途中だった翔鶴姉は
「うふふ」
そう笑って嬉しそうだった。
私も嬉しくて、
「あはは」
へらへらとしたものじゃなくって、我ながらはつらつとした笑い声を上げたように思う。
これから私の暮らしが本当に始まるんだ。お父様にお仕えして、お世話になるのだ。
娘として、下仕えとして。
「よぉし、頑張るぞ」
腹に力を入れて、鼻を鳴らす私の挙動には彼女はくすくすと笑う。見守っていてくれるし、一歩先を行ってくれている。不安は最初ほどには無い。私は那雲家のお屋敷の下仕え。誇りを以て、主人の顔に泥を塗らぬように前進だ。ようやく一歩を踏み出せる。私の新世界へ。
靴下も履いて、靴を履くと、私は寮のドアを開ける。朝もまだ早い。夏とは言ってもそこまで蒸し暑くはない。むしろ気持ちがいい。廊下の窓は開いていて、風が通り抜けている。自然の風だ。冷房じゃなくって、本当の風。いいなぁ。
この国は蒸気文明が発達し続けたけれど、西洋列強とは違って地熱で蒸気を得ている。だから煤塵で空が汚されることもなく、ただ曇り空が多いだけ、そんな綺麗な国になっているのだ。こういう時、この国に生まれたことを喜ばしく思う。だって、空気がいつだって美味しいのだから。
私が部屋を出ると、翔鶴姉が続いて出て来る。やっぱり髪はリボンで襟足あたりで纏めて垂らしている。これが仕事の髪型らしい。でも私は、耳の上辺りでまとめる。右、左。尻尾が二つみたいな髪型。これが私のこだわりかもしれない。羽根のようだから。どこでも翔んでいけそうだから。……根無し草になりたいってわけじゃない。ただしなやかな鳥のようでいたい、そういうゲン担ぎだ。
翔鶴姉が後ろ手にドアを閉めると、
「さ、ついてきて」
「はい、先輩!」
「先輩って、一日違いじゃない」
「ふふん、頼りにしてるからね、翔鶴姉!」
「もう……瑞鶴ったら。そうできればいいけれど……頑張るわね。だからあなたも」
「うん、もちろん!」
さぁ、お屋敷のお仕事が始まる。
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私は使用人
おそらく平均7000字程度で以降は進んでいくと思われます。
まずは使用人棟の食堂で朝の食事。朝は皆で纏まって摂るのだそうだ。
ここは板張りの間で、テーブルと椅子がある。奥の台所はカフェーのカウンターを思い出す形で、使用人の一人――――長い黒髪の人―――――が盆に食事が載せていくところだった。
丸テーブルを囲うように、椅子が5つ。
皆はそれを食卓として使っていて、一人がもう座っている。
窓側の席に翔鶴姉が座ったから、私もその隣に。でも座るその前に自己紹介。
じろりとした目で私を追う人を横目に見ながら、私は椅子の手前へ。
目を見て、頭を下げる。とりあえず、最初は最敬礼。目一杯下げる。
「……瑞鶴、って言います。今日からよろしくお願いします」
「朝子」
つっけんどんな声、
「汐子、と言います。がんばってくださいね」
奥の台所の方からは静かな声が。
「よろしくお願いします!」
そう言いながら、頭を上げて私も食卓に就いた。
これが、私とこれからの仕事仲間になる人達との顔合わせだった。
今ここにいる私達の他の使用人は、二人。どちらも女だった。
朝子、汐子という。
皆、私達姉妹よりも多分年下だ。むしろ、まだ幼い印象すら受ける。でも、私達と違って皆立派な使用人としてここでやっていっている。先輩として敬わないと。
キツい声色の朝子さん。
髪は長くて、それを頭の後ろでお団子のように留めている。花の飾りと鈴の付いたかんざしで。目は釣り上がっているけれどバシッとした力を感じる。射抜くような眼差し。
そして、何より特徴的なのが、挨拶から滲み出ているけれど当たりの強さ。多分、これから私はこの人にものすごく怒られながら仕事をするだろう。それが目に見えるようだ。
物静かそうな汐子さん。今朝の給仕をしてくれている人。
この人も髪は長い。けれど、彼女は長い黒髪を流したままにしている。綺麗だった。
そして、何より、胸が、大きい。割烹着の上からでも分かるくらい、大きい。
私より年下……そのはず。いや、私はそもそも育つほど食べていないから。だから大きくないんだ。それに別に大きくしようなんて思ったことだってない。……翔鶴姉より小さいけれど。
性格は朝子さんと打って変わって大人しさを形にしたよう。この人はなんとなく皆に甘そう。でもこのお屋敷を任される人の一人なのだから、本当はきっと厳しいだろう。私が本当に甘えて良いのは翔鶴姉だけだと思う。
椅子の空きから見て、他にも人がいるんだと思う。昨日の賑やかさは二人だけで起こせるものじゃなかった。
私の目の前に、汐子さんが食事を運んでくる。
……朝食は麦入り飯、味噌汁、ししゃも、ほうれん草と油揚げの煮浸し、それと納豆。
品数が多くって、よそ行きのご飯みたいだ。持ってきてもらうところもお客様扱いみたい。ちょっと申し訳なく思った。
でも、
「ここでは食事当番の人が給仕をすることにもなっているの」
翔鶴姉が表情を察して補足してくれる。有り難い。そういうことなら普通に構えていよう。
そして、四人分が運び終わると、
「頂きます」
揃って言う。食事が始まった。緊張する。
漆塗りのお箸、それをおっかなびっくりに右手に持って、左手に赤漆の椀を持って、味噌汁に口を付けた。まずは御御御付けから、と母から教わっていたから。
……美味しい。お出汁が効いていて、すごく。味噌の香りも気持ちがいい。
豆腐はごろっと大きくて、なんて贅沢なんだろう。
次に麦入り飯。綺麗な銀シャリと透き通った麦が口の中で解けて薫る。米ってのは大体そうだけれど、噛めば噛むほど甘くって美味しくって……噛み締めたいっていうのはこういうことだと思う。思わず、顔がほころんだ。
「……喜んで頂けて、良かったです」
汐子さんが私を見て微笑んだ。安心したような顔で。なんだか、恥ずかしい。
「あんた、昨日は姉を放っておいてお風邪を召していたらしいじゃない。なってないわね、まったく」
お茶を啜りながら、朝子さんはそう言った。
それについては、弁明しようがない。でも、生活が一気に変わってしまって多分体がびっくりしてしまったのだ、仕方ないとも思う。けど、
「その、大変申し訳無いです……」
「ええ、一つの役にも立たないうちにその体たらくだから、むしろ助かったというものよ。あんたを仕事の勘定に入れずに済んだものね」
苛烈だ。言い方が。
私はそれに……恥じ入ってしまって、箸の動きが鈍ってしまった。
次、何を摘もう。迷い箸になってしまう。何を食べてもなんというか、私には似つかわしくないから。
それに汐子さんが口を挟んでくれて、
「で、でも、今日はもう元気になってくれたみたいで、何よりです。食事も、仕事のうちです。ちゃんと食べて力をつけないといけませんから……」
「……ありがとうございます!」
私は頭を下げて、そう言った。
こう言うときは、謝るんじゃなくて感謝する。それも母に教わったことだ。何もかも有り難いことなのだから。
「とっとと食べなさい。悠長にしている時間はないのよ」
「は、はい!」
それで遠慮は無用と、私がししゃもを摘んで頭から齧っていると、
「もう一人、浪子さんという方がいらっしゃるの。それでこのお屋敷の使用人を仰せつかっているのは全員よ」
飲み込んでから話す。口にものを含んだまま話すなんてみっともないから。それも教わった。
「その人はどこに?」
「今日の旦那様方の御料理番よ」
「へぇ……」
料理人がいるんだ。
私が感嘆、というか呆けていると朝子さんが、
「ここは使用人が持ち回るのよ。あんた、料理できるの」
「え、はい、多少は……」
「多少では困る。覚えて」
「は、はい」
本当に?料理人がいるんじゃなくって、使用人が交代、代わり番こで?
すると、私も人様にお出しする料理を作らなくちゃいけないのか。けれど、
「……最初から出来るようになれ、とは旦那様も仰っていませんでしたから。しばらくは、私達三人で受け持ちます。お掃除の方を覚えたと思ったら、言って下さい。その時は私達の手伝いにも回ってもらいますから」
「頑張りましょうね、瑞鶴。教え合いっこしましょう」
「うん」
二人で頑張る。そう、翔鶴姉もいるから、私は多分頑張れる。一人じゃない。
……料理は、彼女の方がずっと達者だけれど。母の具合が悪くなってからはずっと台所に立っていたから。
今日は私も料理をしよう。慣らしぐらいは早いうちにしておかないと。
●
食事が終わってから。
お仕事は、まずお掃除。翔鶴姉はきちんとした性格だったからすぐに覚えられたらしくて他の三人が後ろに付いているってことはなかった。私の後ろには翔鶴姉だけ。
お屋敷の中身はやっぱり和風で、靴を脱いで歩く家。
それに、食事中に知ったことだけれど、思ったよりもお住まいになっている方々は少ないみたいで、お父様とそのご家族、それだけ。三人家族。私と縁遠く、けれど、あるいは血を分けた方がいらっしゃる。奇妙なことだけれど、私の家族になりえない、されど、血族。そんな人達が住んでいる。
お父様と、お嬢様が二人。
つまり、私達の腹違いの姉、あるいは妹かもしれない。
奥様は早くして亡くなられたのだそうだ。
私達は旦那様方の部屋の掃除はまだ任せてもらえない。今日は朝子さんと汐子さんがやる。私達がやるのは、そうではない廊下、食堂、客間の叩き掃除、拭き掃除。
簡単なこと。でも、腕前を要求される立派な仕事。
手順は単純。
”掃除機”がけ、
叩き掃除、
拭き掃除。
まず、地下管蒸気を圧縮蒸気タンクに充填して使う、”掃除機”という機械でまず埃を吸い込む。
そう、吸い込むのだ。吹き付けるのではなくて。
これには私は少々面食らった。現在の世界ではいろいろなところで動力として役に立っている圧縮蒸気だけれど、こんな使い方もあったのか。蒸気の力の凄さを感じる。一体どこまで便利になっていくのだろう。
形は丁字のような吸込口と、そこから伸びる持ち手。持ち手の尻からはよく曲がるチューブが伸びていて、”掃除機”本体へつながっている。鋼鉄と真鍮で出来た、臓器のようなものに。
その本体は、ごみ溜めの硝子瓶、蒸気タンク、そして吸い込みの機構を備えている。車輪があるから、重いけれど持ち手を持ってスイスイと引っ張っていける。見た目より感触が軽いから、車輪にも動力が回っているのかもしれない。引っ張る度に蒸気が吹き上がるから。
持ち方はモップ、それよりブラシに似ている。磨くような動きで使うのだ、これは。まるで厠掃除の時のように力を込めて使うものだと思って最初は床に押し付けるような動きをしてしまった。すぐに翔鶴姉に力を抜きなさいと諌められた。
持ち手を持つと、親指が輪を通る。そこには引き金のような棒がついていて、押して下ろすと掃除機はその時だけ動作した。本体の後方から、かげろうのような蒸気が吹け上がる。……部屋が少しだけ湿気ってしまうのは仕方ないのだけれど、便利なことには変わりない。ともかく、吸い込みの仕組みは学のない私には察せられないのだけれど、私はこれの扱いにすぐに慣れた。使い方が分かって面白くなって蒸気を吹かしているとすぐに翔鶴姉に見抜かれた。遊んでいるって。私は、ゴミがある、と言い訳をしたのだけれど、すぐにそれが誤魔化しだとばれてしまった。……蒸気を無駄遣いすると怒られてしまうし、そもそも充填には時間が掛かる。当然の叱責だった。仕事は遊びじゃない。それはそうだ。子供じゃあるまいし。そう、子供じゃない。
とりあえず、私は吸込口を廊下、畳の間と通過させていく。すると、硝子でできたゴミを溜めておく場所にどんどんとゴミが積もっていく。塵、糸埃、綿埃、それが竜巻のような風で押しつぶされるようにして。使っているだけで面白い。これで本体が片手で持ち上がるくらいの軽さだったらいいのに。だから二階はもう一つの”掃除機”が備えられていて、そっちを使うことになっていた。これを二階へと持ち上げた人足にはご苦労を掛けたろう。便利というものの裏側にはこういう苦労があるはず。
そして、大体の部屋を合わせて二タンク分使って掃除し終わると、今度は細々としたところの拭き掃除になる。窓のさん、さっし、調度品、いろいろなところから湧いてくる埃を取り除くのだ。本当は湧いている、じゃなくて積もった、だけれど。でもまるで湧くようにいろいろなところから汚れが出てくるのだから、人の営みって不思議なものだと思う。
調度品はハタキで叩いて塵を出し、周りを拭く。窓の桟とサッシは薄い雑巾で水拭き。隈なく。
私の前で翔鶴姉は手本として手順を見せてくれる。その何事もを丁寧な手際で進めていくけれど、私にはそれが苦労の要する事柄だった。
何故かと言うと、私は本質的には大雑把なのだ。一粒の塵も逃さぬ執念、というものが私にはまだ欠けていて、それこそが掃除の腕前、あるいは手際に現れなければいけないのに。翔鶴姉が、彼女が私の背中に居なければ、見逃した塵・埃がどれだけあるか分からない。それだけ私の仕事は不適切だった。適当ではあるけれど、適正ではない。
「そこは?」
「え、そこも?」
「そうよ、しっかりしなさい」
「はい……」
これを何度繰り返しただろう。いずれ積もり積もって目立つようにはなるだろうけど、まだ平気。そのはず。
でも、それでは駄目なのだ。それはきっと、その積もり積もった時に私への叱責と共に降り掛かってくるだろう。きっとお父様はそこまで責めはすまい。ずっと軍にお勤めだからそんなに家のことが気にならない、気にかけられないから。けれど、まだ出会わぬお姉様……お嬢様方が、私を咎めるに違いない。だから、これは私を守るためのことでもあった。翔鶴姉は、私を守ろうとしている。今は、手が届くからこうして手ずから教えてくれる。それがいなくなったら、ということを考えているのかもしれない。そう、私が頼れるのはこの彼女しか居ない。少なくとも、今はまだ。
私と違って翔鶴姉はすぐに他の味方を得るだろう。彼女は白い鶴。お嬢様方のお気に召すだろう。きっと、そう。
同時に、私は多分そうならない。だったら、せめて仕事が出来なくてはいけない。忠実な下僕でなくてはいけない。そうして、ようやく認めてもらえるはずだ。お父様は、お嬢様方の承認を得ることでようやくこっそり私を娘として扱う権利を得るだろう。あくまで、こっそりと、だけれど。
だから、これはお父様のため。お父様が連れてきた何処とも知れぬ娘達が、その顔に泥を塗らないため。誇りを持って、それを守っていかなくてはいけないのだ。出来損ないの娘では、こうして連れてきた甲斐がないものだ。
頑張ろう。
思わず鼻息が鳴って、
「よし」
気合が入った。
……そんなこんなでえらく時間を掛けてしまったのは、初めてということでご愛嬌と言ったところか。お屋敷を一通り掃除するのには一時間半が掛かった。これをいずれ一時間以下にしなくてはならない。やることはやろうと思えばいくらでもあるはずだから。
●
二階の掃除を終わらせて、私は今、桶と雑巾を用具入れのクロゼットに片付けている。
一階の方では翔鶴姉が私の仕事ぶりの査定をしていて、今はそばに居ない。ちゃんと翔鶴姉の、他の使用人の人のお眼鏡にかなう仕事だといいのだけれど、ちょっと不安がある。
「あら。貴女が新しく入ってくださった方ね」
クロゼットに向かう私の背後から、声が聞こえた。初めて聞く声。だから、
「は、はい。……瑞鶴と申します!先日、お……旦那様に雇って頂きました!宜しくお願い致します!」
振り返って、頭を下げる。初対面には最敬礼。というか、この人は、
「はい、私は紅子(こうこ)と申します。……こちらこそ、よろしくお願いしますね」
頭を上げて、その人を見る。
綺麗な紅白の市松模様の振り袖を着た、長い黒髪の人だった。綺麗な人。すごく、すごく綺麗な。
その美しさに、思わず、もう一度頭を下げた。
「その、不慣れなもので、不手際、あるとは思いますが、何卒よろしくお願いします」
「いえ、お父様から聞いています。まだ、こういったお勤めには慣れていらっしゃらないと。ですから、そんなに固くならなくとも良いのですよ」
「いえ、そんな」
頭をまた上げて彼女の表情を窺う。
深い微笑みがあった。垢抜けていて、なんだろう、大人っぽい。
……私にとっては、腹違いの姉。その通り、姉らしい人だ。
でも、私にそう呼ぶ資格はない。私はただの使用人で、この人はお仕えするべき人だ。
「歳はいくつ?」
「あ、はい。18です」
「私は19よ。私のほうがお姉さんね」
「そ、そうですね……」
お姉さん。確かに、歳の上ではそう。血縁上でも、そう。
「お姉さん、と呼んでくださっても結構ですよ」
そう言ってくれるけれど、私には、
「いえ、とんでもないです。紅子お嬢様」
そう。私にはその資格はない。
ないのだ。
内心を悟られないように、表情を固める。なんとない微笑みのような、そんな顔を貼り付けて。
そうしていると、彼女も私に掛け値のない微笑みを向けてくれて、階段を降りて行った。
入れ替わるように、階段を上がってくる人がいる。その人は私の顔を見るやいなや、
「表情が固いですねぇ」
「……え」
見抜かれたかと思って、驚いた。
どうして。私、そんな酷い顔をしていたのかな。
それはよそに、その人は、
「浪子でっす!あなたが新入りさんですねー」
「あ、はい、そうです」
私と同じように髪は二つ括り。でも少し下の位置だ。長さは私とそう違わない。けれど、歳は下だと思う。他の、朝子さん、汐子さんと同じくらい。
言葉遣いは、
「ところでー、なんですかぁ今の顔はぁ?もっとこう、裏のない微笑みを浮かべてみればいいじゃないですかぁ?それとも何か含むものでも?いや、お嬢様に何かヨコシマな――――――――」
「ええ!?そんな、滅相も!」
すごく、率直だ。単刀直入とは言うけれど、それがこうズバズバと雨霰のように降ってくると、こう、困る。そして、妙に表情に聡い。そんなに顔に出ていただろうか。でも、紅子お嬢様は気付かなかった。
「えぇー?本当ですかねぇー?」
訝しむような言葉だけれど、声色は悪戯娘のそれだ。ませている、とも思う。
「本当です、もう……」
「……ま、いいですよ?ここにいるということは旦那様が信用できる、と雇われている者だけだと思いますしぃ」
「その、浪子さんはどういったいきさつでここへ?」
そう言えば、聞いていなかった。だって、知る必要は特になかったのだし。でも、確かにお父様がどうやって雇ってきたのかは分からない。だって、私より年下だ。親元にいてもおかしくないし、今日日は嫁入りが遅くなってきているって聞くけれど、そういう歳でもあると思うから。
浪子さんは私の質問に、
「直接お声がけを頂いて、それで雇われましたけど」
「はぁ、それなら、私も同じです」
最初からずっと変わらぬ悪戯っ子のような目で答えた。なんだろう、何を考えているか、最終的には分からない人だ。油断ならない気もする。けれど、仲間。仕事の先輩。敬わないといけないのだけれど。
「……隠すことがあるなら、もう少し努力してみることですね、それじゃ、私はこれから賀子お嬢様のお部屋のお掃除ですから!」
そう言って、私の脇を抜けてすたすたと歩いて去っていった。
なんだったんだろう。
そう思っていると、彼女が入った部屋から一人、女の人が出て来た。
さっきの話に出ていた、”かこ”という人だ、そう思う。
髪は黒。長い髪をこの人は左頭に一つ括りにしていた。
顔は、――――――――綺麗。綺麗なひと。すごく、綺麗。
物憂げな瞳、長い睫毛、白い肌、通った鼻筋、薄い色の唇。
濃い青の着物が、紅子お嬢様と対になっているよう。
でも、あまり似ていない。
けれど、それでもやっぱり綺麗。
魅せられる。
それは、このことだと思った。
「あなた、新しく入った人ね?」
「……はい!瑞鶴と申します!」
見惚れていて、返事に間が空いてしまった。
いけない。
「……返事が遅かったようだけれど。私の顔に、なにかついていて?」
「い、いえ!全く、何も!」
全く何も、って。言い方が他にもあるだろう。私の間抜け。そこは……どう言えば良いんだろう。思いつかない。ダメだ、頭が急に火照ったみたいで。
「そう。ならいいのだけれど。よろしくお願いします、瑞鶴さん。私は賀子と言います」
「は、はい。宜しくお願い致します、賀子お嬢様!」
「そう、よろしくね」
そう言って、私の脇を通り抜けて階段を降りていく。……どこかへ出掛けて行くのだろうか。
それで、思わず、
「その――――――――」
「そう言えば、あなたこそ、顔色は大丈夫なの?昨日は熱を出して寝込んでいたと翔鶴さんから聞いていますけれど」
「……あの、はい、大丈夫です!」
「そう。ならいいの」
「ありがとうございます!」
頭を下げる。彼女が階段を降りる音が聞こえるまで。
それで、
「……熱い」
頬に手の平を当てると、本当に熱かった。
なんだったんだろう。
それと、
「あ、どこに行かれるのか、聞きそびれちゃった……」
好奇心じゃなくって、職務意識だ。聞いておきたいと思ったけれど、
「翔鶴姉達に聞けば良いことだよね」
今から追いかけて聞きに行くのも無礼だと思ったから、私は歩いて下の階にいる翔鶴姉のところに向かうことにした。もしかすると、そこにあの人がいて出掛けていく様子が見られるかもしれない。でも、駆け下りたりはしない。少し早足な程度で。
そうして降りてくると、翔鶴姉が階段のすぐ下で待っていた。
「瑞鶴、次は洗濯よ。ついてらっしゃい」
「うん」
そうして、あの人を追いかける暇を失った。でも、仕方のないこと。それに、今知っても詮無きこと。
私は洗い物をするために、翔鶴姉に付いて玄関とは逆の方へと向かっていった。
なぜだか、ちょっと恨めしく思った。この姉のことを。
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昼食のエチュード
日常回というか基本的に日常モノなので起伏のなさは仕様です。
更新ペースは上がらないものと思って下さりますようお願い致します。
洗濯が終わると、もうお昼休みの時間だった。
浪子さんは料理番・給仕をしているから使用人棟には戻ってきていない。昼はそれぞれが何か一品作って持ち寄るのが決まりなのだそうだ。そうやってお父様、お嬢様方に見えないように腕を磨くための稽古をする。
そこで私たちは食堂で皿を一枚借りて、それから私達姉妹は部屋に戻った。
料理をするのだ。そういうことだったら、私も手伝おう。そう思って、
「翔鶴姉、私も手伝うよ」
「あら、大丈夫?」
返事と裏腹に、翔鶴姉は私が手伝おう、という気があることには意外さを感じていない。
だって私も料理はいずれしなくちゃいけないことだし、しばらく経ったら多分二人で先輩一人分の働きをするくらいの仕事は与えられるはずだと思う。それからさらに経ったら一人で。だったらうかうかしていられない。私だって料理を追求しなくちゃいけない。
でも、
「大丈夫……って、何が大丈夫かどうかってのは聞いていい?」
翔鶴姉はくすり、と笑って、
「私はあなたが包丁で指を切ったりしないか、ってことよ」
失礼なことを言うと思う。確かに私の頭は悪いかもしれないけれど、体で覚えることは得意なのだ。なんとなくで出来る。多分。
それに、
「腕前は大丈夫。カフェーの裏方だってやったことあるし」
「なら、いいのだけど」
そう、やったことはある。人様にお料理を出す仕事は。まぁ、目当ては料理じゃなくて女給の体を貪ること目当てだから、大目に見てもらえたのだろうけれど。だから、ここで出すお料理には不合格だと思う。本当に油断していられない。
「じゃあ、私の仕事は何がいいかな」
「そうね……でも、そもそも何を作りましょう?」
「……それもそうかな」
さて、ここで問題が立ちはだかる。
人様にお出しする料理って、どんなもの?
私の経験は数えなくていい、というか数に入れてはいけない。そもそも料理するための材料もあまり多くはない。材料からして、パターンは決まってくるようなものだ。
いや、逆に考えよう。作りようがある料理は数少ない、そこから選んでいけばいい。
だったら、
「……もうさ、晩と同じものを作ればいいんじゃない?」
「ううん、あまりそういうのは良くないと思うのだけれど……」
確かに良くはないのだけれど、私達に選択肢はないのだ。それに、先輩達は別にそれを続けて食べているってわけでもない。良くない、と思うのは私達だけ。
「作ろうよ。里芋、人参、油揚げ。立派なお料理じゃない」
「そうね……考えている暇も惜しいもの。そうと決まったら、瑞鶴、お野菜を切ってちょうだい。私は味付けの準備をするから」
意を決したと、翔鶴姉が頷く。真剣な顔で、そう、あまりに真剣だから私は笑ってしまった。
「あはは、じゃあ始めよ」
●
久しぶりに握る包丁の重さ。翔鶴姉と母さんの手には馴染んだこの料理道具。私もいずれこれに馴染んで行くはずだ。そう思って、人参の皮を剥いていく。刃の上に親指を乗せて、指は切らないように、でも手に持った人参からは皮を剥ぐように。
さくり、と人参に刃が入った。手入れは万全。ちょくちょく翔鶴姉が研ぎ直しているから、切れ味は上々だと思う。一方で、これで指を切ったらひどいだろうな、と気をつけながら。
醤油、砂糖、酒、みりんを鍋に入れて混ぜながら翔鶴姉が、
「大丈夫?」
心配な目つきで私の仕事を見つめている。そんなに心配すると、却って私に失礼だと思うんだけれど。
「大丈夫」
そう言って、私はするすると人参に包丁を入れていく。
……久しぶりにしては、上手く行ったと思う。ちゃんと剥けている。あまり身もえぐれていないし。
それを見て、
「あら、上手いじゃない。じゃあ任せて大丈夫そうね」
「任せといてよ」
さぁ、私の仕事はこの人参を剥いで剥いで綺麗にすることだ。それから乱切りにする。大きさは……多分、あまり大きくても品がないから少し小ぶりな程度でいいと思う。
まな板の上で、包丁がトントンと鳴る。気持ちのいい音。懐かしい音。私がこの音の発信者となるなんて、あまり想像もしたことなかったけれど、お母さんを思い出すと、懐かしい。悲しくはないけれど、少し胸に来るものがある。なんとなくだけれど、なんだかんだで大人になったのかなぁ、とそういうことを感じた。
「私達、大人になってるんだね」
「いきなり何?もう」
苦笑いで私の独り言に答える翔鶴姉。私より、ずっと大人の彼女。ずっと料理も勉強も達者な彼女。
……私も、もっと大人になりたい。そんなことを思う。だって、双子の姉妹で家族だから。ずっと一緒にいるなら、肩を並べるなら、もっと頑張らなきゃ。
そう思っていると、面の取れた乱切りの人参が目の前に転がっていた。ひと仕事、終わった。
じゃあ、
「次は?」
何ができるかな。何が出来るようになるかな。なんでも出来るようになりたい。それは高望みだって分かるけれど、でも望みも高くないんじゃどこにも行けない。行けやしない。生きていけやしないんだから。頑張るんだ。
私の目は多分輝いていたと思う。
それに、翔鶴姉は答えて、
「じゃあ、次は里芋ね」
「任せて」
そう言って、私は里芋を足元の紙袋からゴソゴソと取り出し始めた。
ゴロッとして、立派な里芋。少し泥が付いていて、なんだか新鮮そうな感じがする。とれたてみたい。
それを流し台に数個放り込んで、蛇口をひねる。
少し温い水がしばらく流れると、すぐに冷たくなって手が気持ちよくなる。
それを指と手のひらでこするようにして洗う。それである程度泥が落ちたら、人参と同じように包丁を入れて皮を剥いでいく。面が沢山付いて、泥も皮もなくなった芋を4等分。人参と同じようにまな板の脇に退ける。最後は油揚げ。冷蔵庫でひんやりとなっていて、少しザラッとした手触りの油揚げを取り出して、これもなんとなく一度水ですすぐ。ついでに泥の薄く張り付いた包丁も親指と人差指で挟むように拭いながら洗う。油揚げは碁盤の目みたいに切ってこれもまな板の脇へ。仲良く人参・里芋・油揚げのかけらたちが転がっている。
出来上がったそれらを見て、
「はい、よく出来ました。でも隠し包丁も入れてね?」
「隠し包丁?」
「見ていて」
醤油と酒の湯気が立ち上る鍋を放って、翔鶴姉は包丁を私から受け取る。そして、
「こう、薄く切れ込みを入れると味の染みがいいのよ」
乱切りの人参、4等分の里芋、油揚げに薄く包丁を差し込んでいく。
「ああ、なるほど」
「油揚げはいらないわよ、このままで十分味が染みるから」
「うん、そうだよね」
勉強になった。こうすると煮汁がそこからも染み込んで出来上がりも早くなるんだ。今は昼休み。悠長にしていられないのもあるから、とっても理にかなってる。
「おでんを作るときもこうすると良いのよ。出来上がると気付かないけれど、こうした一手間が美味しい料理の秘訣……だなんて、偉ぶるつもりはないけれどね」
いつもの苦笑いで頬を右の人差し指で掻く翔鶴姉。照れる彼女の姿はしとやかで、姉なのに見惚れてしまいそう。今にもお嫁に行ってしまえそうな、そんな女らしさ。私にはないそれ。妬ましさがないでもないのだけれど、家族を嫉んだところで何の意味もない。私たちは仲良し姉妹。それでいい。
「ううん、私あんまり料理はわからないから勉強になったよ。ありがとう翔鶴姉」
私は翔鶴姉がまな板に置いた包丁をまた手に取って、切った具材にせっせと隠し包丁を入れていった。
●
そうして出来上がった品を、鍋から器に空けて食堂に持っていく。
慌てて転んだら台無しだから、なんとなく忍び足みたいになっちゃって翔鶴姉に笑われた。
私の前を歩く彼女が食堂の扉を開けると、いろんな料理のいい匂いが混ざってすごいことになっていた。
みんなとっくに作り終わっているのだ。
「遅い」
椅子に足を組んで座る朝子さんがまず一喝。組まれた下の方の足で、床を一度踏み鳴らした。
それに思わず身震いしてしまって、
「申し訳ありませんでした!」
「申し訳ありません……」
器の中身を気にしつつも勢い良く頭を下げる一方、翔鶴姉が品よくお辞儀。
「うるさい。頭上げなさい。で、モノは何なの?」
「里芋、人参、油揚げの煮物です。瑞鶴」
「うん」
私が朝子さんのそば、テーブルに出来た品を置く。
私たちにしてみれば立派で贅沢なおかず。でも、彼女たちの目にはどう映るんだろう。
「煮物は時間が掛かるのによくこんなに早く出せたものね」
「その、恐縮です!」
「褒めてんじゃないわよ、のろま。煮物には時間を掛けなさいって言ってんのよ」
「いえ、隠し包丁を入れていますから、味も染みて……」
「それでも足りないってのよ、頭を使いなさいよ頭を!」
怒られた。やっぱりもう少し別のものを考えるべきだったんだろうか。でも他に何が出来ただろう。それだって何もない。だから代案はなく、文句も言えない。黙っておしかりを受けるばかり。
朝子さんの隣の汐子さんは、
「まぁ、とりあえず食べてみましょう……朝子ちゃん、話はそれからに……」
私達を一旦庇ってくれた。これで“目も当てられない出来”と言われたらたまらない。
それで、
「まぁ、食べるわよ」
おもむろに箸を取って油揚げを口に放り込んだ。矛を収めてくれたみたい。でも、本題はこれからなんだから、すぐに飛び出てくるかもしれない。
しばしの沈黙。
緊張が走る。私にも、翔鶴姉にも、何故か汐子さんにも。
そして一度目を閉じて考え込むと、すぐに目を開いて汐子さんの方を見て、
「汐子、食べて」
「え、あ、はい。いただきますね、お二人とも」
いきなり話を振られた彼女は少し狼狽えると、すぐに私たちに断わって箸で人参を摘んで口に含んだ。
「は、はい。どうぞお召し上がりに……」
「お願いします!」
そして朝子さん、汐子さん、二人共が黙り込む。
浪子さんがいたら場を温めてくれただろうに、こういう時にいてくれない。だって今日のお料理番はあの人だから、いなくて当たり前なのだけれど。
汐子さんが噛み潰した人参を飲み込むと、口を開いた。
「味付けは、これで大丈夫です」
「味の染みは?」
「それくらいです」
「だってね。……二人共、味付けは合格よ。誰が担当?翔鶴の方?」
合格。少なくとも、味付けは。それはつまり、
「は、はい。私が味付けのほうを」
「そう。煮物は時間を掛けられるときだけにしなさい」
翔鶴姉は、認められた。この二人に。私は、ただ材料を切っただけ。まだ認められたわけじゃない。
「それで?瑞鶴。あなたは材料切っただけなのね?」
「……はい」
「じゃあ明日はあなたが味付けをしなさい」
「はい!」
認めるなら、それが重要なんだと思う。味。……味かぁ。
今までの数少ない料理経験で、まっとうな味付けはあまりやったことがない。料理そのもののアシスタント役、それくらいだから。もしかすると、“塩持ってきて”と言われたらそれっきり。“塩振って”なんて言われたことない。カフェーでやったのなんてままごとみたいなもの。本当に失礼だけれど、客も失礼だから大概。だからこそノーカウントなのだ。
でも、
「頑張ります」
思わず声に出る。
「そう」
朝子さんはつっけんどんなまま、それに値踏みするような目線だけれど、私はそれを物ともしない。いや、だからこそ、と思う。私はここで一人前になって、立派な大人になるんだ。お父様の誇れる娘になるんだ。
「で、お手本は見ないのかしら」
朝子さんがまた言う。
そうだ、この二人は何を作ってきたんだろう。
机の上、私達の煮物の向こう、真ん中に2つのお皿が並んでいる。
一つは緑と赤、黄色の華やかな野菜の盛り合わせ。
もう一つが肉料理だ。豚の厚切り肉を焼いたもの。添え物には馬鈴薯と……人参かな。煮物と人参が被ってしまった。なんだか失礼なことをした気分になってしまう。
それで、どっちがどっちなんだろう。誰が作ったのかな。
「豚のソテ、それに蒸した馬鈴薯、人参のグラッセよ」
「レタス、トマト、それに黄色パプリカのサラダです」
洋食だ。どう見ても洋食。私達が和食を作ってきたのが場違いみたい。
翔鶴姉が質問する。
「あの、このお屋敷は洋食が主なのでしょうか?」
それに答えて、
「いいえ、和食の日もあれば洋食の日も、あるんです。それは私たちに任せて頂いています……」
汐子さんははにかむような顔でそう言った。
じゃあ、私達のこの料理は無駄じゃない。これからに繋げられる経験だったということだ。大丈夫、今回は間違いだっただけで、たまたまなんだ。
じゃあ、
「ジャンクなものはダメよ」
「いえ、そんなつもりは!」
全く無いのに。私は洋食党寄りだからオムレットとかそういうのを頑張って作れるようになろうとか、そういうことを思っていたのだから。
なんだか、私だけそういう品のない人間に見られてるようでちょっと癪だ。まぁ、実際上品な生き方をしてきたつもりは全く無いけれど。職を転々としてフラフラしていたから。でも、ようやく自分が誰なのか分かった。私は、お父様の娘だったんだって。私には、背景がある。付け足しで描かれたようなものだとしても、それは確実に存在している。
私は、私が誰なのか分かって、凄く嬉しい。だから、ここで頑張ろうって決めている。
例え私という存在が罪の存在だったとしても、何も寄る辺のないよりはずっとずっとマシなんだから。
それに、頑張って作ったお料理をいつか、お父様に食べてもらうんだ。
それと、紅子お嬢様と、――――――――賀子お嬢様。
みんなの喜ぶ顔が見たい。家族にはなれなかった、私と系譜を同じくする人達の笑顔が見たい。
だったらお勉強だ。料理を学ぶんだ。お手本は目の前にある。そこから何かを掴み取るんだ。それがこの持ち寄りの意味なんだから。
私は窓際の、自分の席になったところに座ってから、二人に頭を下げる。
手を打ち鳴らして合わせて、
「頂きます!」
そうして、翔鶴姉も席につくと、
「頂きます」
昼食が始まった。
●
昼食は真面目だけれど賑やかだった。これをこうするといい、だとか、これはこうした、だとか。そう言った意見交換が活発だった。例えばこの私達の煮物だけれど、何より時間が足りないから昼食に出したいなら朝のうちに仕込んでおくとかも考えなさい、とか、味は悪くない、とか。
豚のソテにも汐子さんが、
「これは夜にお出しするものですね」
とか、
「馬鈴薯はマッシュしたほうがお肉の味が染みて美味しいと思います」
とか。そういう率直な意見を出していた。それをいつものむっつりした顔で聞いているけれど、苛立った感じはしない。緊張感のそれだった。
この人は多分、いつも怒っているんじゃなくって、いつだって真剣なだけなんだ。それが良く分かった。
でも、この人参の……ぐらっせ?これがよくわからない。とっても甘く仕上がっていて、まるでデザートみたい。付け合わせの定番らしいけれど、不思議だと思う。
「朝子さん、この……グラッセ? ってどうやって作ってるんですか」
「人参とバター、砂糖、水をスキットルに入れてスチームオーブンで20分加熱よ」
スキットル?なんだろう。料理道具なのはなんとなく分かるんだけれど。
「その、スキットルっていうのは」
「調べなさい」
「要は、小さい片手鉄鍋、です」
「汐子」
「これくらいいいじゃないですか」
「仕方ないわね。本を貸すわ。大切な本だから、大事に使いなさい。翔鶴ならいいけれど、瑞鶴―――――アンタは不安ね」
「……むー」
私、やっぱり舐められてる気がする。私達、双子なのにな。似てなくもない、そんなくらいしか似てない双子だけれど。髪色も違うし。森のように緑がかった黒髪と、儚い羽根のような銀髪。まるで冗談みたいに。
そういえば、紅子お嬢様と賀子お嬢様、あのお二人もそんなに似てなかったな。……似てなくもない、のかもしれないけれど。
紅子お嬢様はなんというか、少しだけへちょっとしている。愛嬌があるのに凛々しい、そういう美人さん。
でも、賀子お嬢様は、そういうのはない。本当に、ただ綺麗。ただただ、美しいと思ったのだ。研ぎ澄まされた、それはこの人のことなんだろう、と思えるくらいに。
ああ、でもそんなことより。
「……美味しい」
この豚のソテはすっごく美味しい。こんな分厚いお肉なんか初めて食べるのに、ナイフを差し込むとスパッと切れる。それをフォークで口に運ぶと、歯がするっと入り込んで噛み切れる。まるで綿のような柔らかさ。ぷつり、とした音の後には肉汁がぶわっと広がって、もう他のお肉なんて食べられないくらい。普通、こういうのって牛の肉でやるものだと思ってたのだけれど、豚でやってもこんなに美味しくなるものなんだ。細切れの肉を生姜で臭み取りして食べる、そんなのが関の山だった私達の食卓には絶対に無い逸品。すごい。それと美味しい、としか言葉が出ない。
「ふん」
鼻で笑う声。やっぱり朝子さんのもの。……どういう笑いなんだろう。口元が少しつり上がっているから、誇らしげにも見える。
そりゃあ、当然そういう態度になってもいいだろうと思う。こんなすごいものを作れるんだから。だからその笑いに厭な感じは無かった。不思議だけれど、そう思えた。
これからも、当番が任されるまでは美味しいお料理を食べさせてもらえる。
そう思うと、心が躍る。ご飯も進む。
お昼からも気合を入れて頑張ろう。食事も仕事のうち。こういう、英気を養うってことが大事なんだ。
●
賑やかで真面目なお昼休みが終わった。次はなんだろう。お掃除、お洗濯ときて、お料理はまだ任せてもらえないけれど。お昼休みが凄く楽しかったから、その後の仕事まで楽しみになっている。
使用人棟を出てお屋敷に戻ると、賀子お嬢様が朝に会ったときとは違うお召し物を着て玄関に居た。
白い足袋に包まれた綺麗な足が、どこか女性的な黒い革靴の中に入っていくのを見て、そこでも思わず見惚れてしまった。いけない。どうしてこの人が何かをする度に見惚れてしまうんだろう。私、面食いなのかもしれない。
またぼうっと突っ立っていると、
「お昼からも頑張ってちょうだい」
そう言って、玄関を出て行った。それに付いていくのが朝子さん。お仕着せからエプロンを外して、そのまま付いていく。
「どこに行かれるんですか」
考える前に、思わず口に出た。
どうしてだろう。本当に、何故なのか分からない。興味関心がこの人で占められている。私の心がこの人でいっぱいになっているからかもしれない。
「銀座の、百貨店に行きます」
お嬢様がそれに答える。
私はなんとなく、門の向こうを見る。車が来ているってこともないから、多分汽車で行くんだと思う。朝子さんは多分、荷物持ちなんだろう。
つかつかと歩いて外へ向かっていくのを私が見つめていると、突然お嬢様が振り向いて、
「あなたも、付いて来ますか?」
「……はい!」
まただ。思わず口に出た。
……言ってしまった!
朝子さんが私を睨む。主人の手前、口には出せないんだろうけれど言いたいことは分かる。
”何言ってんのよこのクソ!”
痛いほど分かる、痛いほどの睨みで。
思わず胸がバクバクと苦しくなる。
隣の翔鶴姉は、
「ふふ、いってらっしゃい」
なんだか、この状況を楽しんでいるみたいだ。
何がおかしいのか、わからないけれど。
でも、私は慌ててエプロンを脱いで彼女に渡すと、
「行ってきます!」
そう言ってお嬢様を追いかけた。
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