和国大戦記-偉大なるアジアの戦国物語 (ジェロニモ.)
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チュートリアル 和国統一「エフタル王朝」大渡王

西暦500~588年、
西アジアで突厥とペルシアに挟撃された「エフタル族」は東アジアへと逃げ、和国と呼ばれる日本列島にまで逃れてきた。そして、和国の大和勢力の武烈王を新羅へと追いやり、九州勢力の磐井君を倒し和国を統一する。エフタル族は新羅を支配下におき、百済を制圧しエフタル族の欽明皇子を百済皇太子にすえ、その版図は三国に及んだ。朝鮮半島と日本列島の政権交代が目まぐるしく続く混乱の時代、約一世紀の世界観の要約。

1話 エフタル族 和国統一
2話 二匹の争う狼
3話 新羅エフタル族
4話 丁未の乱



中国は、紀元前から続いた漢王朝が滅んで以来400年の間、王朝が分裂し久しく統一されるということが無かった。589年に、隋が南朝の陳を滅ぼしたことによって中国全土が統一され、長い分裂の時代が終わった。

 

朝鮮半島や日本列島も、統一された大国はなく、いくつかの小国や部族の集まった連合国が多かったが、朝鮮半島では百済や新羅など新たな国家らしいかたちを整えた国が誕生しはじめていた。

 

日本列島にあった和国も有力部族たちの連合国家で、日本列島を統一した王朝はなく、まだ朝鮮半島と日本列島の間には明確な国境もなかった。

 

 

アジア世界には主に、農耕民族、遊牧民族、狩猟民族、三種の民族が存在していた。

 

それぞれの民族文化の中には、幾つもの部族(ペドウン)が存在し、最も力のある部族が民族や国を率いていた。

 

部族の中には、製鉄や技巧、商団や特殊な漁労など職能を生業とする一族(ウル)が所属し、アジア世界の果てにある日本列島にはアジア各地から逃げてきた、こうした一族や小部族が多く存在していた。

 

高句麗・百済・新羅など朝鮮半島からの支配階級をはじめ、大陸北方の騎馬民族や西方の製鉄民族、南方の海洋民族、江南の中華民族、西アジアや中央アジアからの移民など、様々な部族たちが段階的に日本列島に渡来し、有力部族同士が結びつき合いながら支配を強めていた。

 

和国の勢力交代は繰り返し続いていて、

 

6世紀頃の日本列島と半島南部は、九州勢と大和勢が中心的な勢力だった。

 

 

 

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【エフタル族の和国統一】

 

西アジアに「エフタル」という民族がいた。非常に戦闘力が高く、一時は中央アジアからインドにまで迫る強大な勢いで、周辺国へ勢力を広げていた。

 

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エフタルの西の隣国「ササン朝 ペルシア」は、100年もの間エフタル族の侵攻に悩まされ続けていた。ペルシアは敵わず、カワード一世ペルシア王の時代にはエフタルに半ば臣属させられていき、莫大な貢納を課せられる様になってしまっていた。

 

この重圧に耐えかねたペルシアは、東側でエフタルと対立していた「突厥(とっけつ)」族に救援を求めた。

 

突厥は、狼の子孫を名乗る芦名氏が建国した遊牧民族の連合国である。

元々モンゴルの柔然王に仕えた製鉄部族だったが、これを倒し、北アジアの部族(ペドウン)らを結集させ空前の大版図を拓いて、北アジアから西アジアにまで至る長大な国家(イル)を築いていた。

 

ペルシア王家はこの突厥王家との間で互いに王子と王女の婚姻をさせ反エフタル同盟を結び、ササン朝ペルシアと突厥は共闘し反撃にでた。

 

 

突厥とペルシアは、双方から同時にエフタルを攻める挟撃戦を度々行った。

 

 

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突厥族は戦闘に優れた遊牧民族である。男子は皆、幼い頃から馬に乗り馬術が巧みで、その起動力でアジア大陸北方を支配してきた。兵は精悍で鋭く、ペルシアと共に執拗な挟撃戦を続けていくと、やがてエフタル族は掃討されて東方へと逃れていった。

 

この時代のアジア大陸は、中央に中国、北に突厥、南にインド王朝、西にはローマ帝国があった為、大陸での争いで敗れた民族は、大国の少ない東アジアに逃げることが多かった。

 

アジア大陸で国を失った民族は、他の大国に捕えられ奴隷にされる運命であり、生き延びるため安全な場所へと逃げるには、なんとか大陸北の草原地帯を抜けて東の果てまで行き、東海を渡って、まだ国家が定まっていなかった日本列島にまで逃げこむしかなかった。

 

 

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エフタル族も突厥の追撃から逃れる為、民族の大移動を敢行し、大陸北方から東海を渡り、弊賂弁島、大渡島(16世紀頃水没)と佐渡島を経由し、

越の国へと渡ってきて日本列島の東(関東甲信越地帯)へ乗り込んで、東和を掌握した。

 

 

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突如として、数十万もの強大な勢力が興ったため、即位したばかりで当時大和勢力の王位にあった武烈王は、驚いて朝鮮半島の「新羅」へと逃げていってしまった。

 

これほどの壮強な大部族(ペドウン)が渡来してきたことは、かつて無く、日本列島と朝鮮半島は混乱の時代を迎える。

 

新羅は、中央アジアのタリム盆地のタバナ国(竜城国)の末裔たち「昔氏」によって建国された国である。

 

朝鮮半島南東部のこの地方はアジア西方からの移民の入植地であり、東アジアの他の和韓諸国(列島・半島の国々)とは民族も違い、独立独歩の気風が強く一線を画していた。

 

新羅の習俗は西アジアに近く、戦いに闘斧を使い儀式にはリュトン(ギリシャ角杯)を用いる。

 

王の神器を杯や斧にしている北西アジアの白人部族・スキタイ族の特徴が濃い。

 

和国へ渡来したエフタル族は、当初は日本列島の中心部(中部地方)に盤踞し、越の国から尾張の(福井県〜愛知県)東和から西に睨みをきかせていたが、西側の少数部族らからも姫を差し出させていた。

 

和国の先住部族で誉田別王の曾孫の【振姫】をめとり、エフタル族に和国の血をひく大渡王が生まれた。

 

6世紀の初めにこのエフタル族の大渡王が、朝鮮半島の新羅の北にある高句麗の王の後押しを受けて、「新羅」に出征することになった。

 

東アジアの玄関口にある高句麗という国は、

「夷を以て夷を制す」(=異民族を使って異民族を制する)政策を続けていて、逃げてきた部族といちいち戦うことはせずに亡命を助け後押しをして、朝鮮半島や日本列島に送り込むのが基本だった。

 

 

大渡王は、まず日本列島から出征するための拠点確保に、西へ移動して河内へと拠点を置いた。

 

エフタル族の版図が、東和から裏日本の越の国、そして河内まで伸び、大和勢力が包囲されるような形となった為、武烈王が新羅に逃げ王不在になった大和では、エフタル族を恐れ跡を継ごうとする者がなく、大和部族達を見捨てて逃亡する王族が後をたたなかった。

 

見捨てるというより、そもそも大和の部族達にも「王を守る」という気持ちはなく、守って貰うことはあっても国や王を守るという意識は全くなかった。

 

この極東にあっては、他の和韓諸国の部族連合も皆、自分たちの部族(ペドウン)や一族(ウル)を守る為にだけ、国(イル)や王の存在価値があった。

 

王不在の大和は、東のエフタル族の脅威だけでなく西日本の有力部族達が虎視眈々と狙っていて、いつ侵害されてもおかしくない危うい状況だった。困り果てた各部族の首長たちは相談した結果、河内にいるエフタル族の大渡王に帰服の使者を送った。

 

「大渡王様の情け深さで、どうか大和の民の王となりて給わりますよう何卒お聞き届け下さい」と、

 

大和の有力部族、大伴金村と物部麁鹿火の使者らは平身低頭して懇願する。

 

しかし、大渡王は既に新羅出征の準備を進めていて、大和勢や九州勢の有力部族達の小競合いに関わっている場合ではかった。

 

海から向こうの半島を睨んでいる今、草深い大和の王になりに内陸部へ後退する訳がない。

 

大渡王は大伴金村の訴えを背にして、新羅へと進撃していった。

 

 

そして大渡王率いるエフタル族は見事に新羅を制圧し、大渡王は「智証麻立カーン」(カーン=王)と名乗って新羅に君臨し、新羅の州郡県制を整備し直し支配下に置いた。

 

新羅の隣国の百済も、高句麗からの侵攻が続いていたところへ、エフタル族の強力な圧力が加わった為、百済王はたまらずエフタル族へと帰服する。

 

百済は、高句麗と同様に扶余族が枝分かれして建国した国である。

 

扶余族はアジア北東から朝鮮半島まで広く分布していたが、元々はバイカル湖周辺にいた古い民族だ。

 

扶余国、高句麗、百済と、支配階級が朝鮮半島を南下しながら建国を続けてきた。

 

百済は暴君が除かれ王権が交代したばかりで、和国生まれの(※佐賀県唐津)武寧王「嶋」が王位にあったが、この嶋王がエフタル族に帰服してくると、大渡王こと「智証麻立カーン」は嫡子の欽明皇子と百済嶋王の娘「手白香妃」の婚姻をすすめた。

 

大渡王は、欽明皇子を百済皇太子とすることを条件に、新羅統治下にあった任那の国境地帯の4県を割譲し百済に与えるとした。

 

百済は、北方を高句麗に切り取られ都の漢城が奪われてしまい、南の熊津に遷都した後だった為、

 

嶋王はこの南方合併の条件を受け入れて自分の嫡子は和国に送り欽明皇子は任那の4県と共に百済の皇太子となった。

 

 

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「大和の民の王となって給りますように」と、

 

大渡王に帰服の使者を送っていた大伴金村は、この大渡王の任那割譲によって大和の部族たちから

 

「あのような王を認められるか!」と、責められ、

 

仮病を装い館に籠もってしまった。

 

衆目の見るところ、大度王が大和の為に王になるとはとても思えない。

 

(大和とて、いつ切り売りされるか分からぬ)

 

誰もが不安に感じた。

 

 

半島から列島にかけて、大渡王の勢いに乗って、和国・新羅・百済とエフタル族の大勢が決しつつあるかにみえた。

 

高句麗王はエフタル族を後押しはしていたが、もともと新羅を抑えるためにエフタル族の武力を利用していただけだったので、エフタル族の勢いが強くなりすぎると、高句麗王の息子の安蔵は反転して、エフタル族の大渡王と敵対するようになっていった。

 

大渡王は、新羅で「智証麻立カーン」として君臨していたが、北の高句麗との対立が始まり、また新羅の有力部族や任那にも内と外から抵抗され、南は和国の九州勢力からも包囲される四面楚歌となると次第に大勢の維持が難しくなっていく。

 

513年、和国から新羅へ逃げて行き場を失ってしまった武烈が、大渡王に忠誠を装って帰順してきたため、大渡王は新羅の王制に従い葛文王となり(葛文王=王の父・義父の尊称、大御所・上皇)、武烈に朴妃を嫁して新羅を任せて、和国へと帰国した。

 

 

 

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大渡王をなんとか和国へ追いやった武烈は、新羅で法興王と名乗り即位し、次々に改革を行った。

国号を正式に新羅として王号もカーンから王へと変えた。兵部と十七等の官位制を設けて「律令」を頒布し、頭品制(骨品)を整え直し内政を固めていった。

 

国内を固めると、すぐに百済と共に中国の南朝「梁」に調使し、任那の大伽耶と婚姻を結び、金環伽耶を滅ぼすなど、外交と外征を行った。征伐された金環伽王族・金一族は新羅に下り本領を安堵され、新羅の王族へと吸収される。(金仇亥)

 

そして法興王武烈は、群臣の反対を押切り仏教の国教化を進めていった。

 

                 

一方、エフタル族の大渡王が和国へ戻った頃、和国の一勢力であった大和勢は、武烈が新羅に逃げた後の後継者が途絶えたままで危機に瀕していた。

 

大和勢の有力部族だった大伴氏は、他の部族らを再び説得し、半島から列島にかけて猛威を振るった大渡王をなんとか味方に引き込んだ。

 

河内でエフタル族の馬飼いをしていた伽耶人を通じて働きかけをし、放っておかれたままであった大和の王位継承を進めて、大渡王に大和王権を継いで貰って体制を持ちなおした。(この為、継体天皇とも呼ばれた)

 

 

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大渡王

 

エフタル族と大和勢が合併したことにより、大和勢は和国最大の勢力となり、和国は次第にその支配下に置かれていく。

 

大渡王が大和の王権を継いだ翌年527年には、九州勢と大和勢の間で、最後となる決戦が起こった。

 

大渡王にとっては、大和勢の味方になったことで敵がまた増えただけのことである。

 

大渡王は大和勢の軍事部族の物部麁鹿火将軍に、

 

「長門より東は自分が統治する、筑紫より西は汝が統治せよ。兵権は任せるのでいちいち報告することはない」

 

と指示し、

 

物部麁鹿火将軍に全権を託して九州征伐へ出征させた。

 

古代和国で最大の戦となった「百済・大和勢 対 任那・九州勢」の戦いは一年に及んだが、磐井君が率いる九州勢が敗退し、エフタル族大渡王の大和勢によって、東国の蝦夷族を残しほぼ和国は統一された。

 

 

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【二匹の争う狼】

朝鮮半島から日本列島まで勢力を広げたエフタル族だったが、やがて敵対していた高句麗の安蔵が和国へ攻め込んできて、和国(任那出身)の毛野臣将軍の裏切りにより、大渡王は倒されてしまった。

 

大渡王を倒した後、高句麗の安蔵は弟の安原に高句麗を任せて、自らは「安閑王」と名乗り和国の王となった。

 

しかし、エフタル族の生き残り、猛将・宣化将軍が激しく抗戦し、高句麗の安蔵は「安閑王」などと名乗ったものの和国での王権を維持できず2年も持たずに倒されてしまった。

 

和国の覇権は目まぐるしく移り変わっていく。

 

 

  

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そして、大渡王の後の王位継承をめぐり、エフタル族同士で後継者争いが始まった。

 

和国の混乱に乗じ、百済の大臣だった蘇我氏(百済系蘇我氏)が、すでに523年に百済王として即位していたエフタル族の嫡子・欽明聖王を和王として擁立し、欽明聖王とともに和国の掌握に乗り出してきた。

 

欽明聖王は北の高句麗と529年に交戦し、大敗した後だったので一時身を引く必要があり、半ば亡命の様なかたちで、蘇我氏に推戴されるままに和国へ渡ってきた。

 

宣化将軍は、和国を簒奪した高句麗の安蔵(安閑王)を倒したのだから、当然自分が次の和王になるつもりであり『宣化王』を名乗りその玉座に座っていた。

 

しかし、エフタル族の嫡流ではなかった為、嫡子の欽明聖王に比べると従うエフタル族は少なく、欽明聖王が和国へ戻ってくるとエフタル族の兵力は欽明聖王に集まっていった。

 

 

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和国での覇権を確かなものとしようとする欽明聖王は、

 

「秦氏を味方につければ天下をとれる」という夢をみたので、

 

和国の渡来系有力部族の秦氏を召し寄せて仕えさせた。

 

秦氏は多数の部族を率いて、古い時代に弓月王に続き和国へやってきた隠然たる力のある部族である。

 

弓月国は天山山脈の北(カザフスタン)、バルハシ湖周辺にあった景教徒(キリスト教)の国だったが、長年に渡り隣国である中国の万里の長城使役に駆り出されていた。

 

弓月王は是に耐え兼ねて東方へと逃げ、西アジア移民の入植地である新羅を通じて和国に亡命してきた。

 

この弓月の民を率いる秦氏は、七千戸18000人を擁する有力部族で、大和朝廷では大蔵省などの財務を代々司っていた。

 

欽明聖王が

 

「汝は、夢のお告げに何か心当たりはあるか」と、秦氏に問うたところ、

 

「私は二匹の狼が戦うのを見ました。お二方は神であるのに争っていれば、猟師に捕えられてしまいますと言って、戦いを止めました。」と、答えた。

 

秦氏は、エフタル族同志の宣化将軍と争うのは、敵国・高句麗に利するだけということを例え話で諌めようとしていた。これを聞き欽明聖王は、和国内で宣化将軍と衝突することを避ける方策を秦氏と共に検討しはじめた。

 

欽明聖王は、先代の王を追いやって武烈が専横してしまっている「新羅」へと、宣化将軍を出征させ、その矛先を新羅征伐へと向けさせることにした。

 

 

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宣化将軍

 

宣化将軍も高句麗の安蔵と戦い、強敵があることを知っていて、和国の有力部族や将軍が裏切れば先代の大渡王の様に倒されてしまう危険性があることを肌で感じていて、エフタル族同士で戦うよりも、まだ先に敵に矛を振るわなければならない局面であることも充分心得ていた。

 

宣化将軍は、王位継承権は弱かったが、戦さには長けていたので、欽明聖王から兵を与えられて勇んで新羅へと出征していった。

 

欽明聖王は宣化将軍を新羅に行かせている間に足元を固めようとした。まず、高句麗の安蔵が「安閑王」と名乗り和国王になった時、皇后にした春日山田妃を和国女王にして、自分はその夫となり和国王につこうとした。

 

ところが、春日山田妃は

 

「欽明聖王の盾代わりに使われるなどあり得ぬ」と、

 

頑なに固辞した為、この合体策はかなわず、仕方なく欽明聖王は春日山田妃を『皇太后』にし、敷島(奈良県桜井市)を和国での王都として定めて、自ら大渡王の跡をつぎ和王に即位した。

 

そして蘇我氏は欽明聖王と百済の力を背景に、大伴氏ら旧大和勢力の有力部族達を一気に排除して、自らは宰相となり和国の権力をにぎった。

 

蘇我氏系の部族も百済から渡来させ、欽明聖王のエフタル族と合わせ十数万人の和国最大の勢力となった。

 

蘇我氏はもとは「木氏」といい、百済では巷奇大臣といわれていたが、和国に乗込んで来てからは「蘇我」と名乗りを変え、和国の名を名乗ることで(和国籍)和国人としての旗幟を鮮明にしていた。

 

さらに秦氏が味方についたことにより、大渡王が和国を統一して以来、初めてとなる本格的な戸口調査が行われた。

 

一方、新羅に渡った宣化討軍は、欽明聖王の即位に悔しがったが、もう後へ引くこともできず、和国に戻っても既に居場所はなく新羅を制圧するしかなかった為、和国に残っていた配下の挟手彦将軍にもエフタルの精鋭を率いて出兵させ、なんとか新羅の法興王(武烈)を倒して、自ら「真興王」と名乗って、新羅王に即位した。

 

 

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宣化将軍=【真興王】

 

欽明聖王は、朝鮮半島半島南部にある任那日本府より

 

「勝手に王を名乗るなど裏切りではないか」と、

 

詰問の使者を送ろうとしたが、既に任那日本府にも裏切りの兆しが出始めていた為、半島側の騒乱を回避する為にひとまずは容認し、列島側の内政に努めることにした。

 

新羅・真興王となった宣化将軍は、突如猛攻を始める。

 

新羅を領有し兵力を確保すると、一旦は欽明聖王側と和合し百済不可侵協定を結んで高句麗に侵攻し10郡を奪い取ってしまった。

 

そして、返す刀で百済・和国が領有する任那(任那日本府)へと進攻し、百済・和国と新羅の間に戦端を開いた。

 

エフタル族の後継者同士の争いは、和国の内紛から国と国との戦争へと発展し、百済と新羅の間の伽耶(任那)の領有をめぐり戦局が朝鮮半島へと移ったため、欽明聖王は和国を蘇我氏に任せ、百済へと戻っていった。

 

そして538年、欽明聖王は北方の高句麗からの圧力を避けて南方の戦線に備える為、百済の都を熊津から南の泗沘に遷して後顧の憂いをのぞき、国号を「南扶余」と改めた。

 

 

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548年に、高句麗の安原王が没し、高句麗でも王子同士で後継者争いが起きて一時的な内乱状態へと陥った。

 

新羅の真興王と百済の欽明聖王はすぐさま休戦し矛を納め、安原王の兄王子(陽原)と敵対する弟王子側(香岡)を援護して高句麗を攻めたてた。

 

兄王子側が優勢で、敗れた王族・群臣らは次々と高句麗から和国へ亡命してきて、和国の宰相の座にいた蘇我氏はこの者達を擁護し自分の派閥へと組み入れていった。

 

高句麗の始祖「チュモン」の子孫の長背王など身分のある王族もこの中にいた。

 

最終的に、安原王の兄王子と弟王子の勢力は宮門の前で激突し、弟王子側は一族郎党2000人の死者を出して全滅してしまった。

 

兄王子はすぐに「陽原王」として即位し、早々に新羅・百済と交戦することになったが、狡猾な陽原王は新羅と内通して離間策を用いることにした。

 

陽原王が、高句麗の支配下にあった元百済領だった城を新羅に渡るようにするなどして新羅にだけ有利な割譲を展開していくと、百済の欽明聖王と新羅の真興王の関係は不穏になり、疑心暗鬼に陥ってしまい、共に高句麗を攻めることを諦めてしまった。

 

この争乱で、高句麗側は漢城(ソウル)を失った。

 

 

そして、高句麗への侵攻を止めた百済・新羅は、再び南方の任那地方の戦線で対峙した。

 

新羅は、百済と和国の中継地であるこの任那地方を押さえない限り落ちつかず、欽明聖王は、百済と和国の両国を統治する為には任那を奪われる訳にはいかず、ここでの争いは北方の高句麗に利するだけと分かっていても引くことはできない戦線だった。

 

その上、高句麗は新羅と通じていたので、欽明聖王は二国を敵に回し苦しい状況に立たされ、高句麗への牽制のため和国の蘇我氏に高句麗へ兵を出すことを命じた。

 

蘇我氏は、今まで、和国からの援軍派兵を命じられながらも、遅々として応じず兵をなかなか送らなかったが、この時ばかりは任那戦線の後詰として北九州に駐屯していた扶余昌に和国軍を率いさせ、高句麗へと向かわせた。

 

欽明聖王はこれを、

 

(あやしい)とは思わなかった。

 

戦が得意でない蘇我氏が兵を出すこと自体、そこに何らかの狡猾な企みが存在している。

 

欽明聖王を擁立した蘇我氏だったが、既にこの時はこの「扶余昌」に乗り換えていた。

 

 

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扶余昌

 

扶余昌は、高句麗の政変時に兄王子だった陽原王側に滅ぼされた弟王子・香岡の子で、高句麗から逃れて和国へ亡命してきていた。

 

高句麗の王族であり姓は高氏といったが、亡命先の蘇我氏の擁護によって欽明聖王の婿養子になり、百済の王族の姓である「扶余」を名乗る欽明聖王・王子扶余昌になっていた。

 

扶余昌は、陽原王との跡目争いで、宮門で父・香岡王子と一族を皆殺しにされた敵を討つ機会を得たと喜び、不倶戴天の敵・陽原王を討つための和軍を与えてくれた蘇我氏に感謝して、勇んで高句麗へと出兵していった。

 

高句麗に遠征した和国軍は、百合野という荒涼とした地に陣を構えたが、突如、鼓笛が響き、高句麗の軍勢が押し寄せてきた。

 

扶余昌は自ら先方に立ち、その姿を高句麗軍の先鋒や斥候からわざと見えるようにしていた。

 

その日は扶余昌は硬く陣を守り戦わずにいたが、夜明けになり高句麗軍から五人の将軍がやってきて、

 

「我が軍中のものが、百合野の和国軍の中に高句麗の客将がいると言っています。礼をもって出迎えざるを得ません。よろしければ、私共が礼儀をもって問答する貴方様の姓名、年齢、位をお聞きしたいのです!」

 

と、聞いてきた。

 

高句麗の将軍達の丁重な態度は敵に接するような態度とは思われない。五将軍らは幕舎に通され扶余昌と対面し、一目して驚く。

 

扶余昌は余計なことは口にせず、5人の将軍を見据え

 

「姓は高句麗と同姓、位は干卒、歳は29歳」とだけ、

 

静かに答えた。

 

姓は高句麗と同姓ということは、即ち国号の「高」を名乗るのは高句麗の王族である高氏であり、その一言で、高句麗の王族であると名乗ったことになる。高句麗軍の5人の将軍達に緊張が走った。

 

そして年齢を言えば、高句麗の者ならばその名を聞かずとも、先の政変で陽原王側に破れた弟王子・香岡王の子息であることは誰でもわかった。

 

その後、一切言葉を発しようとしない扶余昌の威圧によって、高句麗軍の5将達は萎縮してしまった。

 

高句麗・新羅 対 百済・和国の戦の中にありながらも、その実、高句麗の香岡王の王子が和国軍を率いて陽原王に復讐するために乗り込んできた、高句麗王家の内戦であることを理解した。高句麗の中ではまだ弟王子・香岡王を支持するものも多く、5将軍にとっては矛先の鈍る難しい戦となる覚悟が必要だった。

 

5将軍らは丁寧に挨拶をして陣を去っていき、積極的に攻めようとはしなかったが、

 

反対に扶余昌は

 

「兄王子・陽原王側についた者は許さぬ!」

 

とばかりに高句麗軍を強襲し、

 

自ら鞭を打ち戦場を駆け、凄まじい殺意で敵将を屠りまくった。

 

そして将軍の首を矛先にかかげ、戦闘意欲を顕わに進撃を続けていく。

 

扶余昌は死力を尽くして戦い、ついに不倶戴天の敵・陽原王を平壌の東北にある東聖山にまで敗走させた。

 

これにより、高句麗は百済・和国 対 新羅との戦いから退かざるを得なくなった。

 

陽原王を倒すには至らなかったが、高句麗側の敗戦によって戦いはまた任那地方の戦線が主戦場となる。

 

任那戦線で対峙する新羅の宣化将軍は、エフタル族の大渡王を倒した高句麗の安蔵をも破り、そして新羅の法興王を討ち、向かうところ敵なしの常勝将軍であった為、

 

「正面から衝突するには危険すぎる」と、

 

百済の欽明聖王は堅固な陣を構えて決して討って出ようとしなかった。

 

新羅エフタル族はなんとか欽明聖王おびき出そうと苦心していた。

 

 

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しかし、エフタル族の嫡子の欽明聖王と、エフタル族最強の宣化将軍こと真興王との争いは和国からの援軍がきたことであっけなく終わった。

 

554年

 

蘇我氏は、高句麗で勝利した和国軍を再び九州に後詰めとして配置していたが、これを百済への援軍として出兵させた。応援に駆けつけた九州勢は早速新羅へ攻め入り、筑紫の火矢の名人を使って新羅の函山城を火計により焼いて、落城させた。

 

この勝利により、勢いづいた和国軍は扶余昌に率いられ進撃し、固く守っていた欽明聖王も百済兵を率いて出陣し和国軍ともに攻撃に転じることになった。

 

ところが、この援軍の勝利による進撃は、百済側を勢いづかせ欽明聖王を誘い出すための周到な罠であった。

 

欽明聖王の配下は一枚岩でなく、百済の部族達も欽明聖王が同胞と信じるほどには、王を信じていなかったし、中には新羅と通じ裏切りを企んでいる者がいた。

 

欽明聖王は、この戦の中、

 

[入り婿の王子が奇襲にあって危機に陥っています! 」と、

 

味方からの偽の伝令におびき出されてしまい、兵を率いて救出に飛び出したところを、待ち構えていた新羅軍の伏兵から自分が奇襲を受けて戦死してしまった。

 

欽明聖王には、エフタル族的な集団的意識が残っていて、真剣に王子を助けようとしたことが裏目に出た結果となった。

 

 

九州からやってきた援軍の裏切りの罠に陥り、王を討たれてしまった百済軍は3万人の死者をだす大敗をしてしまい、この戦いで勝利した新羅の真興王は、任那を滅ぼしてほぼ領有する。

 

まだ欽明聖王は、後継者を決めてなかったままでの突然の戦死だったため、蘇我氏は急遽、高句麗の王位継承争いに負けて和国に亡命してきていた高句麗安原王の孫で欽明聖王の養子「扶余昌」を百済王として擁立した。

 

蘇我氏は、亡命してきた扶余昌を擁護し、あらかじめ欽明聖王の婿養子にして後見していたので、扶余昌の擁立によりそのまま権力を持ち続けることとなった。

 

百済では他に恵王子など、王位継承候補がいなかった訳ではないが、百済兵三万人を新羅との戦で失った直後であり、九州から筑紫兵を派兵してきていた蘇我氏の専横に抗う余力が全くなかった。

 

扶余昌は、欽明聖王の跡を継ぎ百済王に即位すると、「威徳王」と名乗り欽明聖王の定めた「南扶余」という国号を「百済」に戻した。

 

 

蘇我氏は、百済の威徳王となった「扶余昌」を和王敏達としても擁立し、欽明聖王と同様に両国の王位を継承させて、その力を後ろ盾に、和国では引き続き蘇我氏が実権を握って、和王に代わって和国を総督した。

 

そして「扶余昌」こと威徳王敏達には、蘇我氏の姫を嫁がせ外戚としての地位を強化していく。

 

 

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「扶余昌」= 威徳王敏達

 

 

欽明聖王をおびき出し戦死させるに至った、王子とは「扶余昌」のことであり、和国内では

 

「欽明聖王が奇襲で戦死したのは、蘇我氏との謀ごとで扶余昌の誘因の計により死地に追い込まれたからだろう」と、

 

蘇我氏と扶余昌の裏切りによる誘殺が囁かれていた。

 

そして、威徳王敏達が和国の王になると直ぐに、高句麗から烏の羽に墨で書かれた機密文書(吏読)が届くようになって、高句麗とのつながりも噂された。

 

威徳王敏達は、高句麗への復権をまだ諦めてなく、高句麗国内に残る弟王子派の者達と連絡を頻繁にとりあっていた。

 

いずれにしても蘇我氏が和国の権力構造の中心であり、和国の影の支配者であるという存在感は増していった。

 

結果的にみれば、蘇我氏は、新羅の力を使って欽明聖王と百済兵三万人を討ち、任那を失わせ、百済が弱りきったところで、いとも簡単に乗っとってしまった様なものである。

 

任那を餌に、百済と新羅を戦わせ弱らせた「二虎競食の計」が成功したと言えなくもない。

 

欽明聖王にとって百済・和国の二国を統治する為には、中継地である任那を失う訳にはいかなかったが、そもそも和国を狙う蘇我氏にとっては、百済と和国を分断する為に、任那は邪魔だったのである。

 

半島から列島にかけて、百済・和国・新羅三国がエフタル族の政権下におかれてしまってきたが、

 

エフタル族同士が激しく戦い、その権勢の隙に乗じた蘇我家の権謀によって、百済と和国には高句麗出身で扶余族側の王が擁立されてしまい、エフタルは政権を失った。

 

そして、その犠牲となった

 

和韓部族の熔鉱炉の様な争奪戦の地

 

「任那」は、

 

最後に残っていた高霊伽揶が562年に新羅に下り

 

これで、完全に滅び新羅の領土となった。

 

新羅もまた蘇我氏の裏切りのおかげで、城をひとつ焼いただけで難なく欽明聖王を倒し、任那を手に入れて和国と百済の分断がかなった。

 

任那を領有した真興王は、新しい領地を巡り各地に記念碑を建てていった。

 

 

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後に、新羅と和国は交戦状態となった。

 

 

かつて朝鮮半島南端から九州北部にかけて海峡文化を築き上げ、製鉄で繁栄していた海峡部族たちは、対馬海峡を挟んで南北に分断されてしまい、それぞれの国の中で生き延びていくことになる。

 

 

 

 

 

【新羅エフタル族】

 

 

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新羅と、百済・和国の戦いは、新興のエフタル族同士の争いから、旧勢力の扶余族側とエフタル族の争いへと更に戦いの様相が変わった。

 

しかし、和国に残留していたエフタル族残党はこれには従わず進退を図りかねていて、和国の戦力は大きく低下していた。それどころか、新羅エフタル族の宣化将軍こと真興王と連絡を取り合い、和国から内応する恐れもあった。

 

和国の蘇我氏と威徳王敏達には、これを自力で解決する力はなく、新羅に君臨しているエフタル族の生き残り「真興王」に徹底的に対抗する為、アジア北方の雄『突厥連合』にも援軍を要請していた。

 

突厥は、長大な勢力で隋とアジア天下を二分していた北方の大国である。そして西アジアからエフタル族を追った突厥は、決っしてエフタル族とは相いれない関係だった。

 

和国からの援軍要請に応える形で、突厥軍は和国に進駐していった。

 

かつて、突厥は西アジアでペルシアの要請に応え、援軍を派兵し共にエフタル族を掃討したが、そのままペルシアに駐留し今ではペルシアを支配下に置きつつある。

 

 

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西アジアから東アジアまで長大な勢力で抜いているアジア最大の勢力の突厥が、和国にまで勢力が及んでも不思議ではない。東西の距離だけなら、後世の英雄ジンギスハーンにも及ぶ版図である。

 

こうした驚異的な行動範囲の広さは遊牧民族の特徴であり、13世紀の遊牧民族チンギスハンだけでなく、2世紀頃の遊牧民族の英雄・檀石傀なども、このような長大な版図を広げた。

 

 

「東アジアはエフタル族になどに渡さぬ!」と、

 

エフタルの覇権を奪う覚悟で和国へ向かった。

 

東アジアにまで寄せてきた大部族や同盟国に対する高句麗の基本的な方策は変わらない。

 

威を以て威を征すとの言葉どおり、

 

決して高句麗には駐留させず、自国を通過させ半島や列島に後押しして送り出し三国を弱らせる火種としている。

 

 

一方、エフタル族の真興王(=宣化)は、新羅から和国へ侵攻する野心をまだ捨てずにいた。

 

「蘇我氏ごときに和国を専横させぬ」と、

 

介入の機会を狙っていた。

 

ところが、蘇我氏の勢力だけでなく、突厥勢が和国へ次々と乗り込んで来たため、容易に攻めることができなくなってしまっていた。

 

蘇我氏は更に別の一手として、先代のエフタル族欽明聖王の娘・推古王女を威徳王敏達に娶らせて『和国皇后』とし和国内のエフタル族を従わせた。

 

王室に、エフタル族の嫡流を入れ和国の王位を確固たるものにしたことで、エフタルの嫡流ではない真興王(=宣化)の影響力は徐々に低下していった。

 

しかし、蘇我氏の下風に立つことに不満を感じていた一部のエフタル族残党は、この合併策には従わず北日本の陸奥に下って、新羅エフタル族に内応しようと日本海側から密使を送っていた。

 

蘇我氏側は決して航海術に長けていた訳ではないが、新羅と日本海側の間でのこのやりとりをなんとしても分断する為、警戒は海上にも及び、密使を探しだし船上から海へ投げ捨てた。

 

 

575年、

 

真興王こと宣化将軍は意を決し、和国のエフタル族残党とも結託して一大決戦を挑んだ。

 

新羅から大宰府まで侵攻した。

 

大宰府は和国の西方の防衛拠点であり、高句麗式の山城・大野城が築かれていた。(福岡県大野城市)

 

しかし新羅軍はこの大宰府を打ち破り、瀬戸内海から東へと攻め上り、明石にまで進撃していった。

 

そして播磨を拠点とした突厥勢とここで激突し、激戦の末、新羅軍は敗れてしまった。

 

突厥の実力者である勇猛な大将軍が和国に進駐していて、見事に和国のエフタル勢を抑えたままエフタル族の真興王(宣化将軍)率いる新羅軍を徹底的に打ちのめした。

 

エフタルを破ったこの突厥の実力者は、戦闘力は高かったが野心家であり、突厥を東西に分裂させるきっかけになった問題のある人物である。

 

援軍というよりも、大陸にいられなくなり、自ら和国へ野心を持って渡来してきたとみることもできる。

 

後に、軍事部族である物部氏に婿入りし物部守屋と名乗り物部氏を率いた。

 

 

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翌年、真興王(宣化)は、新羅の青年軍組織を強化する。

 

美少年ばかりを集めた「花朗」ファラン(=美少年)という名の軍事訓練を目的とした組織で、部族長の子息達を徴兵し人質にする目的もあった。

 

単なる若衆の軍中教育ではなく、軍の求心力の中心に弥勒菩薩への信仰を置き、死をも辞さない程の屈強な戦士として育てる徹底した忠誠教育を行った。

 

強さと容姿の美しさを兼ね備えた「花朗」ファランは、新羅国内の羨望の的となり、

世俗五戒という教えで、今までになかった様な王への忠誠と護国精神と団結力を育て上げ、新羅において強力な存在となった。

 

しかし、「大元神統」という王の側近のミシルという巫女が、弥勒菩薩への信仰心を利用してその精神性を次第に支配していき、「花朗」を操る様になっていった。

 

大元神統とは、代々、王と交わり子を産む為に仕える母系血統の女性達である。ミシルは大元神統の血統でありながら、花郎の初代「風月主」(花郎の指導者)の血筋でもあった。

 

 

真興王(=宣化)はこの年、病没してしまった。

 

先年の戦の傷が元であるとも、「大元神統」の巫女ミシルの暗躍があったとも噂された。

 

王の側近だった「大元神統」の巫女ミシルは、真興王の遺言を偽って次男の真智王を即位させて、自らは真智王の王妃の座につこうとたくらんでいた。

 

だが、真智王は即位後にミシルを王妃にはしなかった為、怒ったミシルはファランの力を背景に圧力をかけ、逆に真智王を廃位に追い込んでしまった。

 

そして、元々の遺言どおり真興王の孫の真平王を即位させた。

 

 

 

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新羅の血統を聖視する「骨品制度」では、血の濃淡で王族を分け、王家の直系を「聖骨」(第1骨)といいエフタル王家の王位継承権が独占され、それ以外の外戚や王族は「真骨」と呼ばれる貴族とされていた。

 

真興王は、この骨品制度をより強固なものにして、聖骨以外は絶対に王位につけない様にしていた。

 

 

真興王の没後、かえって王統は弱まって、巫女ミシルの暗躍により新羅のエフタル王朝は乱脈を極め弱体化してしまった。

 

新羅の和国に対しての野心は直ぐに弱まり、任那4か村を和国に割譲して、その後も仏像を何度も献上するなど低姿勢の外交になっていった。

 

エフタル族は、西アジアから東アジアの果てまで逃げてきて一時は半島から列島にかけて版図を広げていき、和国を統一し新羅を領有し百済を帰服させ、和・新・百の三国に君臨するかとみえた。

 

しかし、エフタル族の大渡王が倒され、内紛と突厥の執拗な追い込みによって、百済の欽明聖王に続き、新羅の真興王も没してしまい、エフタル政権の勢いは短命に消えてしまった。

 

 

 

 

「ファラン 五戒

一、君には忠を尽くし

二、親には考を尽くし

三、友には信をもって交わり

四、戦に臨めば退かず

五、殺生は時を選べ 」

 

 

 

 

【丁未の乱】

威徳王敏達は和国を蘇我氏に任せたまま百済に留まり、引き続き新羅と対峙していた。

 

威徳王敏達は北斉や隋など中国の王朝に後ろ盾を頼り、その冊封体制下(中国が後見し王位の許可を与える制度)に入っていった。

 

王不在のままで、新たな支配体制となっていた和国は、威徳王敏達に代わって和王の代行をしていた蘇我氏と、渡来してきて明石で新羅軍を打ち破った突厥の実力者と、エフタル系の和国王女である推古王女の三頭体制で統治されていた。

 

 

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推古王女は、外戚の蘇我氏に実権を握られていた為、三頭体制とはいえ、権力は蘇我氏と突厥の実力者が二分していた。

 

 

突厥の実力者は、和国の有力部族である物部氏に婿入りして物部守屋と名乗り、蘇我氏との間で鬩ぎ合いを起していく。

 

物部氏はニギハヤヒを祖とする古い渡来部族である。

 

【物】とは刃物のことであり、刃物や兵器を扱う軍事部族である為「物部」という。

 

物(刃物)が並んでいる様を

「ものものしい」と言い

 

物(刃物)を扱う夫を

「もののふ」

 

物(刃物)の呪いで化けた

「もののけ」

 

と言うが、

 

物(刃物)の部族という意味どおり、物部氏は

 

製鉄の神を祭り、その名乗りのとおりに兵器や戦いをもっばらとする軍事的な部族であることが伺える。

 

反蘇我氏・反百済の勢力の者たちは、物部氏の元に集まり、百済から来和させた武将・日羅を呼び出して、密かに百済の攻略法を聴きこんでいたが、百済の情報を洩らしたことが付き人にばれてしまい、日羅は新羅の仕業のようにみせかけられて暗殺されてしまう。

 

和国が不穏な状態となり、百済にいた威徳王敏達は、蘇我氏と物部氏がせめぎ合っている和国へ戻ってきた。

 

威徳王敏達が百済にいる間、蘇我氏は和国で初の仏塔を建立し、仏殿を建てるなど、権力の誇示があまりにも増長していたため、蘇我氏によって擁立された威徳王敏達も蘇我氏を疎んじる様になり、物部氏よりになっていった。

 

蘇我氏は、自らが推進する「仏教」を道具にして新たな権力構造を和国でつくり始めようとしていた。

 

威徳王敏達は蘇我氏への権力集中を恐れ、伝染病が和国で流行ったことを理由に、「崇仏による神の祟り」として、廃仏令を出し、崇物派の蘇我氏の排斥を始めていく。

 

反蘇我勢力である物部氏は、仏教の排斥に動き、蘇我氏の造った仏塔や仏像を焼くなど暴挙はとどまるところを知らなかった。物部氏側にも「渋川寺」という私寺があったが、廃仏とは、蘇我氏を叩く為の口実に過ぎず、蘇我氏の仏教だけを徹底的に攻撃した。

 

蘇我氏は悔し涙を流したが、戦いが苦手な蘇我氏は物部守屋を恐れて何も手出しできずにいた。物部守屋の強勢に、和国の有力部族長達も恐れをなし、同じ物部氏の者でさえ、守屋を恐れた。

 

蘇我氏の首長だった蘇我馬子も、伝染病にみせかけられ毒殺されそうになってしまった。が、奇跡的に一命を取り留めて生き延びた。

 

蘇我馬子は怒り、今度は逆に廃仏令を出して蘇我氏を追い込んだ元凶である、威徳王敏達の暗殺を謀った。

 

 

蘇我馬子の息の根を止められなかったのは不覚であり、蘇我馬子にとって邪魔な王を殺すことなど、なんのためらいもなかった。実際、威徳王敏達がまだ扶余昌王子だった頃、先の任那の戦では共に謀って、先代の欽明聖王を死地に追いやった。

 

 

「因果応報」

 

 

(今度は、吾が死地にみまわれる番か、、)と、

 

蘇我氏からの暗殺を恐れた威徳王敏達は、百済へと逃げていった。

 

元々高句麗の王子だった威徳王敏達は和国になど未練はなく、和国の王座より高句麗の王座を見据えている。

 

高句麗王の後継者争いで、一族が皆殺しにされてしまった恨みは決して忘れず、なんとしても仇を討ち、高句麗王座について是を雪すぎたい。

 

「和国で蘇我氏などと空しく争っているくらいならば、」と、

 

和国からの高句麗出兵は諦め、百済単独で高句麗と戦うことにした。

 

 

 

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威徳王敏達が去り、

 

再び、和国は王が不在の状態となった。

 

 

威徳王敏達を追い出した蘇我馬子は、すかさず蘇我系の用明皇子を和国王として擁立した。

 

蘇我馬子は、

 

「いなくなった王などに仕えず、今、目の前にいる王に仕えよ!」と、

 

和国の有力部族らに号令する。

 

 

用明皇子は、先代のエフタル族欽明聖王と蘇我馬子の妹の間に生まれた王子で、蘇我一族の血を引く初めての王だった。

 

蘇我氏にとって王は、エフタル族であろうが扶余族であろうが意のまま操れればよく、意に添わない王は暗殺するので、擁立された王は蘇我氏の言いなりである。

 

これに対し物部氏は、物部本拠地である石上の穴穂部皇子を擁立して、蘇我氏の擁立する用明王を断固として認めず抵抗していた。

穴穂部皇子も先々代のエフタル族欽明聖王の王子で、母方が物部氏の血をひき、物部守屋とは義理の親子である。

 

 

蘇我氏は、更に王位をより強固なものとする為、妹の推古王女を女王に立て、今度は用明王と婚姻させようとする。

 

(※エフタル族など西アジア出身の部族では血統を神聖視する為に近親婚が常識で、兄妹婚もあり、より王の血が濃いほど王位は強固となる)

 

 

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推古王女

 

物部氏はこれも阻止し、今度は穴穂部皇子が推古王女を抱き込もうとしたが、

 

王女の側近の三輪逆という者が

 

「軍事部族の物部までもが、和国の王権を犯すというのか!」と、

 

これに強く反発した。

 

怒った物部氏と穴穂部皇子らは、

 

「王家を惑わす妖臣を除く!」と鬨の声をあげ、

 

後日、三輪逆の館を襲った。

 

ところが、物部氏は三輪逆をあえて逃がして、追い込むように敗走させ、蘇我氏側の用明王のもとへ助けを求めに行くよう仕向けた。

 

そして、三輪逆を討つ様に見せかけ、ともに用明王を襲撃してしまった。

 

三輪逆は討たれ、用明王は一命を取り留めたが、襲撃された時の傷がもとで翌年587年5月21日に没した。

 

擁立した用明王を殺された蘇我氏は怒り心頭であり、

 

「逆賊、物部を討つ!」と、号し、

 

蘇我氏と物部氏の激突は一触即発の状態となる。

 

頼りとしていた側近を討たれた推古王女は一時傍観するしかなかったが、

 

(物部と穴穂部皇子は許さぬ、、)

 

と、悔し涙を流していた。

 

 

 

和国の覇権をめぐり蘇我氏と突厥側の物部氏の争いは、廃仏の争いから、互いにエフタル族の欽明聖王の血統を立てての天下分け目の合戦へとなっていった。

 

蘇我氏は推古女王を擁立し推古・蘇我連合軍は、

 

587年6月に飛鳥の原で兵を挙げた。

 

蘇我氏は、推古の王子達も戦に参加させ、葛城氏、膳氏らを主力に阿部氏、春日氏など名門部族が加わり、大伴氏などの軍事部族らもこれに加勢して、物部氏を除く和国の有力部族のほぼ全勢力が結集していた。

 

連合軍はまず、物部氏が擁立していた穴穂部皇子の宮を急襲してこれを討ち、翌7月に物部守屋の館へ攻め込んだ。

 

物部守屋は一旦後退し、態勢を立て直すと反撃に転じた。

 

大和川を挟み対峙すると、

 

「軍事部族の物部一族の武勇を思い知れ!」

 

と、次々と蘇我連合軍の部隊を撃退していった。

 

物部氏は和国屈指の軍事部族であり、兵は訓練され強く、寄せ集めの和国部族連合の敵う相手ではない。

 

かつてはエフタル族の大渡王に従い九州勢を倒し、和国統一大戦を勝利に導いた壮強な戦士達の子孫である。

 

その上、物部守屋の戦闘力は、三国に並ぶ者がないほど強力で、突厥の実力者として隋を相手に大陸で大暴れをしていた猛将・物部守屋に対し、和国に対抗できる将は誰一人としていなかった。

 

その物部守屋のもとに、和国最強の軍事部族であった物部氏が指揮下に入り、より強力な軍隊となり、寄せ集めの烏合の衆でしかなかった和国の部族連合軍はとても太刀打ちできず、緒戦以後は負け戦が続いた。

 

 

 

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今までは、突厥やエフタル族らが大戦を起こしてきたが、そもそも和国の部族は自分達では、多くの部族が連合した大軍で戦うという大戦をまだ経験したことがなく、その戦い方さえも知らなかった。

 

連合軍を率いる蘇我馬子と弟の蘇我摩理勢の間でも仲間割れが起き、連合軍側は物部軍の三倍の兵力でありながらも進むことも引くこともできず、物部氏を攻めあぐねていた。

 

 

死傷者の数は日増しに増え、参戦していた王子達も負傷してしまい、陣営内は敗戦気分が漂っていた。

 

 

ここで、播磨の突厥勢がやってきて物部軍と合流してしまえば、連合軍の壊滅は必至だった。

 

しかし、絶望的な状況の連合軍のもとへやって来たのは突厥勢ではなく、突厥の「四天王」と呼ばれる猛将ら四将だった。

 

 

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突厥最大の実力者であった西突厥の王(カーン)が、物部守屋の暴挙を聞き及び、物部守屋を排除する指令を出して、同時に突厥の四天王と呼ばれる四将軍を和国へと急遽遣わしてきたのだ。

 

物部守屋も元は突厥の実力者であったが、野心家で蛮勇を好み行く先々で騒動を起こし続け、突厥が東西に分裂する引き金となった問題のある人物である。

 

和国の王権にまで野心を向けた物部守屋に対し、遂に突厥最大の実力者が怒り、その排除を決めた。

 

四将軍らは、上陸後、戦いが始まってることを知ると、雷の様な速さで進撃し播磨の突厥勢に指令を伝え、連合軍に味方するために戦場へやってきた。

 

敗戦色が漂っていた和国連合軍は突厥の四天王ら猛将の参戦に歓喜した。

 

戦さ慣れした突厥の百戦練磨の四将が参戦し、連合軍について指揮に入ると、寄せ集めの烏合の衆だった和国部族連合は、突如として最強の軍隊に変わった。

 

突厥の将軍らは、和国の者が見たこともない様な【鳴鏑】(かぶらや)を使った。甲高い音の出て飛距離のある矢を信号弾として使い、進軍方向に向け射続けることで戦に不馴れな和国兵達を動かした。

 

突厥の四天王、歩利将軍・大聖将軍・龍神将軍・持国将軍らは連合軍を四隊に分け散開し、それぞれの将軍は戦場を読み阿吽の呼吸で間髪入れない波状攻撃をしかけた。

 

和国兵には

 

「音の出る矢の方向へ剣を抜き駆けよ!敵に遇えばほふれ!」

 

とだけ命じ、鳴鏑(かぶらや)を射続け、兵を手足をのごとく進軍させた。

 

和国の者は、大軍が一斉に動くこのような戦をいまだ見たことがなかった。

 

物部軍の兵らは圧倒的な光景に驚き震え上がり、

 

連合軍の兵達は皆奮い立ち共に戦場を駆けた。

 

突厥の将軍らは、ペルシアの三日月刀を改良し柄に反りを加えた刀を使う。遠心力にまかせ物凄い速さで振り下し和国兵の鎧は役に立たなかった。

 

これも和国の者が見たこともない様な当たらざる強さで、次々と敵を切り裂いていく。

 

物部軍は押しきられて、河内国渋川郡の物部氏本拠地まで後退してしまった。

 

その後、四天王は連合軍を二手に分け主力軍とは別に、軍事部族の大伴氏に別働隊を率いらせて物部軍を挟撃する戦法をとった。持国将軍は主力軍前軍、龍神将軍は後軍を指揮し、歩利将軍は別働隊につき、大聖将軍は弓の名手を集めて敵将を狙撃する暗殺部隊を編制し身を隠した。

 

衛香川で陣を張る物部軍の対岸から、持国将軍と龍神将軍が指揮する蘇我主力軍が攻めて、充分に引きつけたところで横合いから川を渡った別動隊の大伴氏が見事に急襲し、物部軍は撃破されてしまった。

 

大聖将軍の暗殺部隊に、物部氏の傍系氏族である長脛族(アラハバキ)の末裔の迹見赤檮という者がいた。

迹見赤檮は物部守屋を倒す為に、物部を裏切って蘇我氏側にやってきた者で、物部守屋の居所をよく知っていた。

 

 

散を乱して敵兵が逃げ惑う中、的確に物部守屋だけをとらえて射殺した。

 

結局、有力部族の多くは蘇我氏側につき、物部氏側は大敗して、物部守屋は味方の裏切りにより暗殺された。

 

その後、蘇我氏が擁立した泊瀬部が和王として即位したが、王権を誇示しようとしたために、逆に王位を狙う蘇我氏に殺されてしまった。

 

百済の大臣でしかなく和国を任されていただけの蘇我氏にとって、百済王とは別にわざわざ和国の王を立てるということは、将来自分がその王の座につくための一時的な手段でしかなく、

 

和国に「蘇我王朝」の誕生が近づいているかにみえた。





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【後書き】この小説を書くにあたって

この小説は、日本書紀には書かれていない巷説の世界観を元にした小説です。

論説では解説や根拠などを加筆する必要があり、結果的に文体が膨らんでしまい、ストーリーが分かりにくくなってしまう為、

日本書紀は、はなから無いものとして淡々と書いています。


また、ややこしいのが人物の名前の多さで、

例えば

舒明天皇は、田村王子、息長足日広額尊、高市天皇、岡本天皇、武王、


中大兄皇子(那珂大兄皇子)は、

葛城王子、キョギ王子、 天智天皇、近江天皇、天命開別尊など、

一人の人物に多くの名前があり、出来る限り一つにして

例えば欽明天皇=聖王などは、【欽明聖王】と合体させて書いています。


凡例
※威徳王(百済名)+ 敏達天皇(和国名)=【威徳王敏達】


古事記・日本書紀に書かれている様に初代天皇から大和王朝が代々続いてきたという建前的な考え方から、操作性のある書物であることが分かってきた現在では、何回かの王朝交代があっと考える方がよりリアルになってきています。

大和王朝の王権を継いで体制を持ちなおした継体天皇ことエフタル族のオオド王に関しては、アカデミズムからも「別の王朝では」と声があがるほどであり、この作品では別の王統の代表例であるエフタル族の時代から書き始めました。



まずストーリーとして把握する為、どのようなトンでも説でも、さらっと書いています。

日本書紀にはない、日本列島を超えた雄大な世界観のアジアの物語としてお読みください。


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プロローグ和 国「突厥王朝」日出処天子

西暦589~622年、和国を統一し新羅を領有し百済を帰服させ、和・新・百の三国に君臨するかとみえたエフタル族だったが、西アジアからやってきた突厥族の追い込みと内紛により、その勢いは短命に消え、エフタル王家が残るのは新羅一国だけとなった。代わって、百済・和国を制したのは突厥族であり、隋との戦に敗れた突厥最大の実力者が和国へ亡命してきたことで、和国は新たな国家へと進化していく。

1話 突厥最大の実力者
2話 日出る処の天子
3話 遣隋使の帰国
4話 上宮法王と百済
5話 上宮法王と和国
6話 蘇我馬子
7話 隋の滅亡と唐の建国



エフタル族同士の二匹の狼の争いは一方が生き残ってしまった為、それを倒す為に更に『突厥族』という強力な虎を和国に招きいれてしまった。

 

丁未の乱では、和国に残ってしまった「物部守屋」という突厥族の虎を、旧勢力である和国の有力部族たちと他の突厥族が結集し、全勢力で倒した結果となった。

 

「危うく、物部守谷の支配となるところだった」

 

と、誰しもが逆転勝利に胸を撫で降ろした。

 

突厥勢力にとっては、物部守屋が亡命先で勢力を盛り返すなどは度し難く、和国の権力を手に入れる前に討ち果たし阻止することができたのだ。

 

突厥の覇権争いの内紛に和国が巻き込まれた戦ともとれる。

 

 

しかし、物部守屋は倒したものの、突厥勢の和国渡来は止むことは無く、西突厥勢力の渡来が続いていた。

 

東突厥の出身の物部守屋が倒されたことで西突厥勢の勢力が代わって和国を席捲するようになり、旧物部領も西突厥勢の領地となっていった。

 

物部氏を掃討した後、蘇我氏は飛鳥に法興寺を建立し、支配力が物部氏になく、新たに崇物派が根を下したことを誇示した。

 

そして、高句麗僧の恵慈や百済僧の恵聰、仏師のトリなどが来和し、和国で初めての大仏を建立するなど、物部守屋がいた頃にはできなかった仏教興隆の国策を実現した。

 

 

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突厥の四天王・四将軍たちは、連合軍を勝利に導くとそのまま大陸へと去っていったが、和国の突厥勢らは突厥の四将軍の戦勝を記念して、難波の旧物部領に四天王寺を建立し突厥の戦功を示した。

 

突厥勢の建立した四天王寺は和国最大級の建築物であり、独特の一塔三金堂式の飛鳥寺型伽藍で、高句麗の首都平壌にある金剛寺と同様の伽藍配置だった。

 

これが和国仏教の先魁となり、和国の玄関口 難波で偉容を誇って、和国を威圧する突厥勢の力の象徴となった。

 

和国の部族達は皆、突厥の四天王たちの強さを目の当たりにして、その四天王を派遣した背後にいる西突厥の王(カーン)の存在を畏怖していた。

 

 

【突厥最大の実力者】

581年、中国北朝の北周の静帝より禅譲(国権を譲ること)を受けて楊堅(文帝)が「隋」を建国した。そして、589年に隋は中国南朝の陳を滅ぼして中国統一をなした。

 

陳遠征軍の総指揮官は文帝の次男楊広(後の煬帝)で、51万8000という大軍の前に陳の都建康はあっけなく陥落してしまい、これにより三国志の時代より400年にわたって続いていた中国の分裂王朝の時代が終結した。

 

その後、アジア大陸で勢力を二分していた隋と突厥の間では決戦が始まっていく。

 

突厥は、ペルシアと共にエフタルを掃討した後は、ペルシアの内政にまで干渉するようになっていたため、ペルシアの隣国のローマ帝国のマリウス皇帝にも使者を送るようになっていった。

 

突厥最大の実力者は、元々はペルシア王子であり『突厥・ペルシア同盟』の婚姻の為、入婿となった後に義父の跡を継いで突厥王(カーン)となった。ローマ皇帝に使者を送った時は、七か国の王を名乗っている。

 

西はペルシアを実効支配しローマのコンスタンチノーブルまで遣いして、東は高句麗を通じ百済・和国にまで出征するほど長大な勢力でアジア大陸を貫抜いていた大国(イル)が突厥連合国だった。

 

しかし、隋の度重なる巧妙な離間策によって、やがて東西に分裂させられてしまった。 

 

598年、西突厥は巻き返しを図り、高句麗と連合して、東西から隋を挟み撃ちにした。

 

 

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高句麗は隋の北東から遼西へ侵攻し、これに対し隋は東突厥側と手を組んで30万の兵で陸海両面から反撃したが、伝染病が軍内に流行り敗退してしまう。

 

しかし、隋北方から侵攻した西突厥軍は逆に、白道で楊義臣の率いる兵に遭遇し撃破されてしまった。

 

突厥軍を率いていた「突厥最大の実力者」である西突厥カーンは、敦煌で行方不明となってしまい、突厥軍は涙を流し撤退していった。

 

『西突厥カーン(王)』

 

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すかさず隋は西突厥カーンがいなくなった隙に、東突厥カーン(王)として擁立していた突利を啓民カーンとして冊封し直し、全突厥のカーンにしてしまった。

 

 

和国から百済に戻っていた威徳王敏達は、隋と高句麗が戦になると、隋に阿って高句麗攻めに協力することを申し出た。

 

元は高句麗王家であった威徳王敏達には、高句麗での王位継承争いで敗れて、一族郎党2千人が皆殺しにされてしまい、和国へ亡命した苦い過去があった。

 

和国では、蘇我氏の擁護を受けたおかげで和国・百済両国の王位へとつくことができたが、一族皆殺しにされた恨みと、高句麗の王位は諦めておらず、隋の力を利用して高句麗王家への復讐と復権を企んでいた。

 

しかし、隋は高句麗との戦さに敗れてしまい、威徳王敏達の企みは高句麗に露見してしまって、逆に百済は高句麗からの侵攻を受けることとなった。

 

和国の蘇我氏からも、高句麗王家からも憎まれて、百済を窮地に追い込んでしまった悲運の威徳王敏達は、この年12月に没してしまった。

 

 

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翌年599年、「突厥最大の実力者」は再び姿を現わして蜂起し、突厥連合軍を率いて隋の雁門・馬邑に侵攻したが、隋一の猛将・楊義臣に攻撃を受け塞外に退却してしまった。そして隋の楊広(後の煬帝)と史万歳に大斤山に追い詰められ、またも撃破される。その後、隋軍は突厥の川に毒を流し、これにより突厥軍は完全に壊滅してしまった。

 

突厥軍の「突厥最大の実力者」は消息不明となり、突厥部族達は皆離散していきチベット(吐蕃)と東突厥に亡命するか降伏した。

 

チベット(吐蕃)は、隋、突厥と並ぶアジアの列強国である。

 

後に仏教が深く浸透していき真逆の民族に変わってしまうが、まだこの時代のチベット人は獰猛な民族で、戦いの時に戦い方が勇ましくない者がいれば、その味方に向けて矢を射るほどの過激で好戦的な民族だった。

 

突厥最大の実力者は、北東へ逃げた後、同盟国であった高句麗に逃げ込み、高句麗王の擁護を受けて、王が不在だった百済を制圧した。

 

その後、逃亡してきた敗残兵と部族民(ペドウン)43万を二年かけてまとめて、まだ隋の手の届いていない和国へと向かっていった。

 

高句麗は逃げてきた部族を助けるが、決して自国内に帰化させることはせず、そのまま後押しをして半島や列島南部に送り込み「威をもって威を制する」のが基本政策であり、壮強な部族であるほどその傾向は強い。

 

突厥最大の実力者は、高句麗の助けを受けると遊牧民族の風習にしたがい自分の妻と娘を高句麗王へ差し出していった。

 

エフタルの真興王の孫にあたる新羅の真平王は、突厥最大の実力者を阻む為に新羅から任那方面へ侵攻していき牽制を図ったが、蘇我境部大将軍の救援により五城を落とす大敗をしてしまい、新羅は更に六城を和国へ割譲した。

 

しかし、蘇我境部大将軍が和国へ引き上げると再び任那へ侵攻した。

 

和国は再び新羅を攻めようとするが、出征しようとする者が、次々と毒殺されてしまい、新羅への出征は中止になった。

 

新羅の割譲とその後の侵攻は不自然であり、

 

蘇我境部大将軍が新羅侵攻に際して、新羅から賄賂を送られていた為、示し合わせの戦だったのではないかと噂されていた。

 

隋の後ろ盾があった新羅は、隋からの要請にこたえた出兵であり、蘇我境部大将軍は突厥からの要請に応え、突厥最大の実力者を逃がすため隋側の勢力を牽制する為の出兵であり、突厥最大の実力者が無事に和国へ入国したことによって、新羅・和国の戦は決着をつけずに休戦となった。

 

 

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和国は、泊瀬部王が暗殺された後、王不在のまま推古王女と蘇我氏の二頭体制で統治されていた。

 

生き延びた突厥最大の実力者は、そこへ大部族(ペドウン)を率いて、突厥王旗を掲げ和国へ上陸してきた。

 

その旗には、ペルシアの生命の木が配され四人の騎士が馬上から振り返り弓を射てる、安息式射法が描かれていた。(法隆寺錦伝)

 

安息式射法(パルティアンショット)とは、馬術に優れてるスキタイ民族の特徴でもある。

 

突厥最大の実力者は、上陸後はまず播磨の斑鳩を拠点とし、耳梨の宮に入って推古王女を和国女王に推戴し自分はその入り婿となった。

 

そして、強引に蘇我氏を押さえて、瞬く間に和国の権力を握っていった。

 

大和で勢力を奮っていた蘇我氏の首長の蘇我馬子は、推古王女との間に子をなして自分が推古王女の夫として今にも和王となるはずであったが、渡来した「突厥最大の実力者」と突厥勢の前では、戦が苦手な蘇我馬子は王位への野心を一時おさめるしかなかった。

 

しかし突厥が敗れた翌年、突厥と連合し隋と戦っていた高句麗や契丹が遣隋使を遣わすと、蘇我馬子・蘇我摩理勢の兄弟も既に和王と名乗って遣隋使を送っていた。

 

豊後の秦王国に居住していた中国人らを使者にして「アメノタラシヒコ」という伝説の和王(慕容氏)の名を語って、大王(オオキミ)と号し、

 

初めて隋の皇帝に和国を知らせることとなった。

 

「和国では兄弟で交代し政り事をして治めています」と、隋の皇帝に説明すると

 

「何故わざわざそのようなことをするのか」と大いに笑われてしまった。

 

 

 

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一方、渡来してきた突厥最大の実力者は、そのような隋への外交をよそに、大和小墾田宮へと入って王位に就き、推古女帝と共に蘇我氏を押さえたまま、着々と王権を行使して足元を固めていった。

 

百済系の蘇我氏から、アジア世界の雄であった突厥王へ和国の覇権が移ったことで、急激に和国の進化が始まった。

 

高句麗王からは大仏建立の為、黄金三百両がおくられてきた。

 

突厥最大の実力者は17条憲法を制定し、冠位一二階を定め、陰陽五行と修法を駆使して、和国の王権は今までになく強固なものへと変えられていった。

 

和国では王号を号していても、全くと言っていいほど王権は成熟していない。

王は『君主』というよりは部族らを統べる

『盟主』といった程度の存在でしかなかった。

 

突厥最大の実力者の渡来により、和国の改革が成されていった。が、しかし和国の王が「王号」だけの所謂、名ばかりの王ではなく、専制君主の様な実際の『王』となるには、まだ幾つもの時代を越てゆかなければならない。

 

 

突厥最大の実力者は、和国では「上宮法王」と呼ばれた。

 

新羅がエフタル族政権最後の国となり、和国・百済・高句麗の三国がそれぞれ対立していたが、上宮法王は反新羅三国同盟を結ぶ為に、高句麗へ大伴咋将軍を交渉使節として派遣した。

 

高句麗は陽原王が没し、その跡を継いだ平原王も没し、嬰陽王の代となっていたが、百済の威徳王敏達が、隋に阿って高句麗攻めに参戦しようとしたことを恨んでいて、百済を同盟に入れることは難航した。

 

嬰陽王は、

 

「高句麗と和国が同盟を結ぶことは良いが、百済という国はいったい何なのだ!」と

 

不信感をあらわにし、和国と百済の関係にも言及した。

 

和国使節の大伴咋将軍は、

 

「百済は和国の内宮です」と説明し、

 

大伴咋将軍の必死の説得の末に、和国・百済・高句麗の三国の反新羅同盟の盟約が結ばれた。

 

また、隋に対しては高句麗が既に遣隋使を遣わしていたことで、突厥最大の実力者「上宮法王」も同じ様に遣隋使をおくり、講和することを考えはじめていた。

 

 

 

(※内宮【ウチツミヤケ】→ ミヤケ=屯倉、弥移居、任那などと書き、和国への食料を供給する穀倉地という意味。以前は和国への賄い為の穀倉地・任那に「日本府」を設置して管理していた。しかし、新羅に滅ぼされて以来、和国は、百済にその管理を任せていた)

 

 

 

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605年、突厥最大の実力者は和国の有力部族である秦一族の本拠地であった斑鳩に拠点を遷し、旧和国有力部族の葛城氏、額田部氏、平群氏を味方に配し蘇我氏を威圧した。

そして、斑鳩の斑鳩寺、飛鳥の橘寺、葛城の葛城寺、太秦の蜂岡寺等、次々と突厥勢力系の寺院を建立し、飛鳥の蘇我氏の包囲を着々と固めていき、難波から都に至るまで東西南北に正確に合わせた官道の整備をすすめていった。

 

 

 

【日出る処の天子】

隋では、604年に政変があり皇帝が代わっていた。皇帝の次男の楊広は、初代皇帝を暗殺し、廃太子にされて都をおわれていた長男も探しだして殺害し、二代皇帝・煬帝として即位していた。

 

煬帝は首都大興城の建設と、大運河を大幅に延長して河北から江南へと繋がる大土木工事を行い、また、今のところは従っている突厥に対しても備え、100万余の男女を徴発して万里の長城の大工事を行なっていた。

 

 

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朝鮮半島では、高句麗と百済が共に新羅を攻め続けていたが、百済が隋へ遣隋使を送ると、高句麗は百済の松山城を攻め、また石頭城に侵攻して男女3千人を捕虜とした。

 

和国・百済・高句麗三国の反新羅同盟を結んだばかりですぐにも亀裂が入ってしまい、これより和国との関係も変化した。

 

 

 

607年7月、

 

 

斑鳩の宮で基盤を固めた突厥最大の実力者は、

 

「日出るところの天子」と名乗りいよいよ初めて自ら遣隋使を遣わす。

 

『日出ル処の天子』

 

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和国突厥勢の裏玄関にあたる近江大津を守っていた守将「蘇因高」を隋への使者大礼として任命し、通訳の鞍作福利と伴に

 

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつがなき)なきや」

 

で始まる国書を隋に届けさせた。

 

 

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使者「蘇因高」は隋の王都大興城の宮殿に参殿し、皇帝の前で堂々と国書を読み上げた。

 

自ら「日出処の天子」と名乗り、随の皇帝を

 

「日没する処の天子」と呼び

 

まるで隋の天子と対等であるかの様なその国書に、隋皇帝・煬帝は激しく怒った。

 

中国を統一した隋に対して、そのような強気な言い方をする周辺国などあるはずもなく、宮廷中が度胆を抜かれ驚く。

 

思わず玉座から立ち上がり、使者「蘇因高」を殺せ!と叫ぶ煬帝に対して、

 

使者「蘇因高」は全く怯む様子もなく

 

「私を殺せる者がここにいるのか!!」と、

 

逆に宮廷中に響き渡る程の大声で叫んだ。

 

 

命を奪われそうになっているにも関わらず、なおも強気な言葉を吐く使者「蘇因高」に宮廷は驚愕し凍りついた。

 

蘇因高は、

 

「そこにいる楊将軍は、私を殺せるのか!」と、

 

群臣の中にいた隋一の将軍を見据えて、今度は突厥語で更に叫んだ。

 

殺気を放ち睨み返す楊儀臣は括目し、

 

使者「蘇因高」の顏をよく見て驚く。

 

「恐れながら申上げます!この使者は和族の者などではありません。突厥の将軍です。西突厥の達頭カーン(=王)の配下の武将です。確かに先の戦で私はこの者と戦い、何度も追詰めながらも殺すことができませんでした。」と、

 

楊儀臣が奏上すると、煬帝もあっという間に顔色が変わった。

 

自分が将軍であった頃、何度倒しても屈しない執念深い突厥勢と戦い、手を焼いていたことを思い出した。

 

 

「貴国が、川に毒を流した為、我々は敗れてしまいました。そして今は和国にいて、隋と親交しようとする西突厥の達頭カーン(=王)は、私を遣わしてこうして国書を届けました。もし貴国が毒を流さなければ、カーンと共に剣を携えてこの地にきたかもしれません。」

 

と「蘇因高」は続けて語った。

 

隋との戦いに敗れて逃亡した突厥最大の実力者=西突厥の王・達頭カーンが、今は和国にいて国書を送ってきたのだという事態を、隋の宮廷はようやく理解した。

 

随の煬帝は、極東政策をよく確認しないうちに先代の初代皇帝を殺してしまっていた為、極東に逃げて行った突厥最大の実力者のその後をまだ把握しきれていなかった。

 

「日出ずる処=オリエント」という東方を意味する表現は、ローマ帝国がローマの東側を日出る処「オリエント」と呼んでいたもので、通常はヨーロッパ大陸の東にあるペルシアを指して言う。

 

ペルシア王子でもある達頭カーンは敢えてこの含みのある表現をしてきたとも思われ、強気な心理戦は怒りが恐れに傾くだけの効きをそうし、

 

煬帝は、ペルシア・突厥・高句麗・和国にまで、

 

「西アジア~北アジア~東アジアにかけて、隋を囲む様な包囲網が出来上がりつつあるのではないか?」

 

という妄執に、一瞬とらわれてしまった。

 

元西突厥の王・達頭カーンは、西突厥にいる孫のシャキ・カーンや高句麗とも連絡をとり合って隋を牽制していた気配も伺えていた為、目の前にいる「蘇因高」がその使者だとわかると、先ほどの火筒の様な強気な発言もより一層不気味に感じられた。

 

隋は、西突厥を破り東突厥と連盟したとはいえ、突厥自体の勢力はまだまだ侮りがたく、突厥に備えて100万人を動員して行っていた万里の長城の工事もまだ終わっておらず、更に高句麗との戦にも備えていた為、突厥が高句麗の味方につく事態だけは回避しなければならなかった。

 

ここで怒りに任せて和国の使者を斬ってしまって、和国にいる突厥最大の実力者「達頭カーン」を刺激するには躊躇があった。

  

悩んだ末に隋は、元西突厥の王・達頭カーンがいる和国との親交を結ぶことにして、使者「蘇因高」は許され、返書と共に返された。

 

しかし、使者「蘇因高」とのやりとりは一切を伏せる事とし、西突厥の達頭カーンではなくあくまでも和王「阿毎多利思比孤(アメノタラシヒコ)」の使者として扱った。

 

 

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(蘇因高)後の小野妹子

 

隋よりも広い領土を支配し、隋と戦っていた突厥最大の実力者=「達頭カーン」が、今は和国にいるという存在感は隋にも充分伝わり、和国でのその王位はより鮮明になりつつあった。

 

しかし、隋からの返書が帰国のさい百済を通過中に賊に襲撃され奪われてしまった為、隋の皇帝からの和国への無礼に対する叱責と

 

「高句麗とは手を組むな」という要求が

 

和国へ伝わるには至らなかった。

 

隋は、和王の無礼な国書を叱責しつつも許し、高句麗に味方しないのは勿論のこと、隋が兵を起すと共に和軍を率いて高句麗を牽制しろという要求もあったが、それを知った百済の権力者が反発して返礼使一行を襲って国書を奪ったとも、或は、あくまでも隋と対等に立とうとする強気な蘇因高が、襲われたふりをして返書を喪失し、和国が隋の冊封(王位の許可は隋が与える制度)などを受けて下風に立たない様に、天子に知らせる前に握り潰したのではないかと噂された。

 

蘇因高は、帰路の道中で隋の返礼使である裴世清と昵懇となったうえで、

 

「国書喪失により返礼使の死罪は免れないから」と、

 

裴世清に迫り、新たに国書を捏造するよう画策した。

 

隋の返書が奪われるという有るまじき失態に和国の群臣からは、

 

「蘇因高を流刑にするべき」との奏聞があったが、

 

罰すれば返礼使のためにもよからずと、修好善隣の功によって蘇因高は赦された。

 

 

【遣隋使の帰国】

今までの百済の力を後ろ盾にしていた和国ではなく、大国・隋の力を和国の後ろ盾にしようとする新たな流れは、百済の大臣だった蘇我氏にとっても脅威だった。来和した隋の返礼使である裴世清の饗応には額田部比羅夫(比羅夫=外交・外征を行う者)があたった。

 

隋の返礼使は12人の使徒と使者蘇因高と共に608年4月に筑紫に到着し、豊後秦王国に立ち寄った。6月に難波津に上陸して、8月に椿市にて額田部比羅夫が饗応し、飛鳥へと向かい小墾田宮の朝庭で、隋の煬帝の返書として創作した国書を読み上げた。   

 

使者の裴世清は四拝し、

 

「皇帝から和皇に挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れ、よく意を伝えてくれた。朕は天命を受けて天下に臨み徳化を弘めて万物に及ぼそうとしている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。和王は海の彼方にあって国民を慈しみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。丁寧誠心を喜ぶ。時節はようやく暖かで朕は無事である。鴻臚寺の掌客・裴世清を遣わし送使の意を述べ、併せて送り物を届ける」

 

 

「日出るところの天子より」で始まる隋に対して挑発的な国書への返礼が、拍子抜けするほど穏やかだったことに皆、驚き逆に緊張がはしった。

 

王の玉座には蘇我馬子を座らせ、あえて達頭カーンは玉座には着かずに、群臣の中に紛れて密かにそれを聴いてほくそ笑んでいた。

 

通常、大国からの使者は上席に着き、その国の君主は謹んで口上を聴くものであり、玉座から見下ろして使者の口上をきくなどという振る舞いは、その国と対等以上の振る舞いでしかなかった為、隋の返礼使の使徒たちは憤慨し殺気が漲っていた。 

 

玉座の蘇我馬子は、

 

「私は東方の一隅にいる野蛮人で礼儀を知らない。今日はじめて隋の人の姿をみることができ喜んでいる。ぜひ大隋帝国の新たな教えをきかせてほしい。すぐにまた、返礼の使者を送ります」と返答した。

 

 

翌9月に隋の返礼使・裴世清は帰国した。

 

和国は、すぐに遣隋使・蘇因高と共に高向玄理、恵日、倭漢直福因ら留学生を派遣し、隋とのつながりに努めた。

 

しかし、

 

「東の天皇敬みて、西の皇帝に曰す」で始まる

 

隋と対等であるかの様な強気な返書を再び送り、その上、隋の返礼使である裴世清にも和国へ最敬礼の四拝をさせていたと知った隋皇帝・煬帝は、とうとう激怒し

 

「大いに義理なし!」と叫び声をあげた。

 

遣隋使・蘇因高はいよいよ斬られるかと思われたが、隋は高句麗戦を間近に控え、高句麗も東突厥に使者を送るなど反隋とも思われる不穏な動きをしていた為、隋もまた「突厥最大の実力者」と高句麗の連盟を阻止する為に、和国の留学生と蘇因高を再び許して、返礼をすぐにおくった。   

 

それでもなお、隋の煬帝は怒りがおさまらず

 

「二度と見たくない!」と罵声を吐き捨てた。

 

隋の煬帝は暴君として知られ、殺戮を好み天下に恐れるものなどなかったが、唯一、隋に抵抗していた高句麗と突厥が手を結ぶことを恐れていた。

 

突厥最大の実力者は、西突厥の王として、君臨していた頃は「達頭カーン」と名乗り、高句麗と連合し隋と戦っていた。もともと突厥の勢力は隋よりも広大であったため、突厥を東西に分断化する離間策を成功させたことで、隋は初めて優位に立つことができた。

 

そして西突厥の王「達頭カーン」は、隋が擁立した東突厥の王・沙鉢略カーンよりその勢いは強く、突厥最大の実力者として広くアジア大陸にその勇名が知られていた存在だった。

 

隋に敗れた後、和国にまで逃げて落ちぶれたとはいえ、突厥全体に及ぼす影響力はまだまだはかり知れなく、隋は高句麗戦の為に怒りを抑えて西突厥の「達頭カーン」のいる和国との国交を優先せざるを得なかった。

 

突厥最大の実力者も、敗戦後は以前ほどの兵力はなく再起する必要があったため、隋の遠交近攻策に乗って、先年の敵であった隋と講和して、外交的に和王としての地位を確立した。和国内でも、大国隋と対等に渡り合う突厥最大の実力者の王権はゆるぎないものとなっていった。

 

隋は、新羅軍に加え、全突厥の王に突利啓民カーンを擁立して味方につけ、更に和国・百済も味方につけたことで高句麗を完全に威圧した。和国の天子が送った国書を許したことによって、隋の高句麗の包囲網が完成し、高句麗の周辺の国々は、全て表面的には隋に恭順して皇帝からの後認を得た。

 

翌年、百済使節の道斤らが来和すると高句麗は僧曇徴・法定をおくり、新羅・任那からも外交使節の来和が続き、額田部比羅夫は対応に追われた。

高句麗もまた、表面上は恭順していたが、隋に屈する気はなく戦いに備え、和国や突厥に反隋の使者を送っていた。

 

 

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隋と突厥最大の実力者の講和によって、隋の臣国であった新羅は、隋からの要請を受け和国に対して任那地方の一部を割譲させられた。

 

遣隋使の蘇因高は、遣隋使の後、最高位の大徳を賜り、和国で居住していた近江大津の小野の里の名をとって「小野妹子」と名乗った。遣隋使として隋滞在中に観た、隋の寺院の献花の美しさに感銘を受け、帰国後に和国で初めて華道を開き「池の坊」の開祖となった。

 

 

【上宮法王と百済】

隋に対して「日出る処の天子」と名乗った突厥最大の実力者・達頭カーンは、百済では法王と名乗り、和国では上宮法王と呼ばれていた。高句麗王の後押しで百済を制圧し、2年ほど百済の王位につき百済を統治した。

 

法王は隋との戦いに敗れ逃亡中で、和国に渡って再起を図ることを優先していた為、隋に近い百済にまで勢力範囲を広げて和国・百済の両国の王として君臨することができる状態ではなかった。

 

百済では、飛鳥寺型の王興寺(忠清南道扶余郡)の建立を開始し、仏教の教化政策による統治を進めた後、逃げてきた突厥兵と部族をまとめ、和国へと渡った。

 

 

そして、蘇我氏系の武王に威徳敏達王の娘を娶らせ即位させて、百済王の跡目を任せた。

 

法王の勇名に惚れ込んでいた武王は義兄弟の契りを結んで貰い、自分を引き立ててくれた上宮法王に対して忠誠を誓っていた。

 

法王もまた武王を強く信頼し、対隋の前衛となる百済を任せたが、武王は本来は王位継承ができる身分ではなかった。

 

エフタル族と蘇我氏の血をひいていたが王族ではなく、法王の擁立によって王位につくことができたため、その出自を隠す為に武王は

 

「竜から生まれた」と

 

逸話を語っていた。

 

武王の母は、エフタル族の父と蘇我氏の母の間に生まれた大伴姫といい、百済からエフタル王朝が駆逐され、扶余族の威徳敏達王の時代になってからは、寡婦となり親子二人で池のほとりに住み、平民のようにひっそりと暮らしていた。

 

元臣下だった和国の者からの擁護を陰から受けつつも、薯を掘って売り歩くことでささやかに生計をたて生きていた。しかし、身は窶しても志は捨てず母大伴姫は大望の為、先夫の残した軍資金を隠し守り続けていた。

 

武王がまだ子供だった頃は、芋掘りをしていた為、薯童子と呼ばれていた。

 

法王が百済に乗込んでくる前の事、

 

薯童子は新羅の真平王の娘ソンファ姫が美しいとの噂を聞きおよび、新羅で、薯を子供達に与えては

 

「ソンファは夜になると薯童と抱き合ってる」

 

という童謡を歌わせた。

 

まだソンファ姫は薯童のことを知らなかった。しかし、それよりも早くあっという間に歌による醜聞が広まってしまい、それが真平王の怒りに触れて、とうとうソンファ姫は百済との国境に近くに流罪になってしまった。

 

 

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そして、薯童は国境のソンファ姫に近づき想いを告げる。その強引さに心を惹かれたソンファ姫はやがて薯童と結ばれた。

 

身分の違う恋であり、若い二人は、思い切って百済に駆落ちすることにした。

そして薯童が百済に戻ったところ、薯童にも世に出る機会が巡ってきた。

 

威徳王敏達は没して、突厥最大の実力者である法王が高句麗から百済へ乗込んできてからは、王権が扶余族から突厥へと移ったために政情がかわって、実力主義の法王の下では以前ほど身を隠して生きている必要がなくなっていた。

 

薯童は法王の統治下で母が密に蓄えていた軍資金を使って一気に世に出て、頭角を顕していき、やがては法王に認められて、百済王を任せられるまでに登りつめた。

 

武王は法王の義弟分となり跡目を継ぎ百済王についていた。法王が和国へ行き、上宮法王として王位についてからは、百済の統治を武王に全託した為、エフタル族政権の支配以来続いていた両国にまたがる王位は一応は分かれて、和国・百済にそれぞれ王座が成立するかたちとなった。

 

武王はめとった威徳王敏達の娘・田眼姫を王妃とすることで、百済の王位の座を更に固めていった。

 

百済を武王に任せて和国に法王が乗込むとすぐに、和国有力部族で蘇我氏に経済的援助をしていた秦一族が、娘の高橘姫(膳部菩岐々美)を嫁がせて上宮法王側についてしまった。

 

と、言うよりも、

 

蘇我氏に嫌気がさしてきた秦一族が、上宮法王を和国に招き入れたとみる向きもあった。

 

この為、蘇我氏も表向きは野心を抑えて従っていた。

 

百済の支配階級であった扶余族からも王族を人質に出させ、和国はひとまずは上宮法王と推古王女のゆるやかな統治下に置かれた。そして、新羅からも使節が来朝し秦氏が対応にあたり、半島諸国は皆、新たな上宮法王の権勢へと向きあいはじめた。

 

西突厥の王(カーン)であった上宮法王は、もともとは突厥と同盟していたササン朝ペルシアの皇子であり、突厥の入り婿になって王(カーン)を継いでいた。ペルシアのホスロー一世の時代に、突厥と同盟を結び共にエフタルを滅ぼした。この同盟によって両国は互いに婚姻を結ぶようになり、ペルシア王家の皇子であった上宮法王は突厥の王家の入婿となっていった。

 

出自のペルシアだけでなく隣国のローマ帝国の西方文化や中央アジアの影響を多分に受けていて、キリスト教やゾロアスター教(拝火教)など、宗教のもつ支配力にも廣い造詣があり、和国の部族達がまだ見たことも聞いたこともない様な豊富な知識と修法を体得していた。仏教においても倶舎論(仏教の宇宙観)にまで理解がおよび、弥勒信仰(ミトラ信仰)を東アジアに広めた。

新羅の青年武士団「花朗」に於いても弥勒信仰は取り入れられていき、憂国烈士として戦いに殉じる後の武士道精神の礎となっていった。

 

  

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上宮法王

 

【上宮法王と和国】

上宮法王は、エフタル族が武力で統一した和国に、武力による支配だけでなく、17条憲法と冠位の制定によって、和国の有力部族達の新たな帰属を生み出した。

 

そして、原始的な職能集団の部族連合国だった和国をなんとか先進的な国家へと変貌させる為、宗教を利用した精神性の支配を進めた。

 

もともと、突厥民族は、異文化や宗教を排除するという習慣がなく、逆に取り入れることによって宗教は支配に活かしていく傾向があった。

 

上宮法王はまず、大乗仏教の信者であった波斯匿王女の勝鬘妃が説いたという『勝鬘経』を最初に講じて、勝鬘妃を推古王女になぞらせることで王女の権威を高め、今まで和国になかったような荘厳な寺院や仏像などで、権威を目に見える形にした。

 

 

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藁葺き屋根の簡素な建築物と巨大古墳しかなかった和国に、上宮法王や突厥勢が渡来したことで、建造物や建築様式は飛躍的な変化を遂げた。

 

 

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和国の寺院建立の為に、仏像師や僧だけでなく、上宮法王の故郷である遠くペルシアからも、イスカンダルの城壁を手掛けた職人らも呼び寄せ、和国の者達が見たこともない様な建造物が建てられていった。

 

上宮法王の下で、その後も和国は開明的な進化を遂げていき、何もかもが新しい「上宮法王の国」へと変貌していった。

 

次々と建立されていく荘厳華麗な仏教建造物は、藁葺き屋根と巨大古墳しか知らなかった和国の衆目を愕かせ、和国の部族たちに畏敬の念を懐かせた。

 

そして、上宮法王は自らの出生の逸話をイエス・キリストになぞらせるなどして、天の子孫などではなく、上宮法王そのものが救世主であるかのように人物像を描いていた。

 

とりわけ、朝鮮半島からの渡来部族よりも、中国系や中央アジア、ペルシア(波斯国)から渡来した移民や部族に強く支持され、出自が中央アジアに深い縁があるユダヤ系移民の秦一族や鞍作は上宮法王につきしたがって共に地盤を強化していった。

 

秦一族の地盤強化は、仏教興隆に始まったわけではない。

 

元々、秦氏は景教徒(キリスト教)の古い部族だったが、渡来後、早い段階で和国の古神道に融和していった。

 

商売に長けていた秦氏は渡来以来、和国の経済の発展を担い続け、日本列島各地に広がる流通網があった。

 

そして、和国全土の旧部族の神社をまるで乗っとるかの様に、八幡宮、稲荷神社、など秦一族ゆかりの神社を新たに祭っていき、日本列島各地にくまなく広げていった。

この習合により、古来からの岩上祭祀など古神道のかたちは消えていき、建築様式の変化と共にヘブライの特色を残した神道へとかたちを変えていった。

 

西突厥の王であった上宮法王は、ローマやペルシアの宗教だけでなく、仏教についても造詣があり、中国からもたらされた仏教とはまた趣旨が違っていた。隋の仏教界は諸氏百派が乱立し混乱を極めた時代で、後にインドへ仏典を取りに行くこととなる「三蔵法師 玄奘」もまだ生まれたばかりだった。

 

仏教の教える利他心が、人々の和合のための教化政策に必要であることを、上宮法王は理解していた。国民が少なく有力部族の私有民が多かった和国では、利得のみで動く有力部族長たちの和合と教化から進めていった。

 

 

 

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上宮法王は、四天王寺の講堂に人々を集め

 

「法華経」を説いた。

 

今まで和国になかった新しい簡明な教えを説いて、ひとびとの心を捉え感銘をよび起こし、「勝鬘経」「法華経」「維摩経」を講じた後、その注釈書『勝鬘経義疏』『法華義疏』などが著された。

 

また、上宮法王の前世を達磨大師とする逸話も流した。

 

そして、道端で行き倒れになっている飢人に会うと、上宮法王は馬を降りて、みずから食べ物と衣服を与えるなどして利他的な振る舞いを行動で示した。

 

突厥民族は、アジア大陸で最も広大な支配圏を持った国(イル)であり、その版図は隋よりも大きくありながらも、和国と同様に、部族(ペドウン)連合国家であった為、隋の離間策に容易く陥り東西に分裂させられ撃破されてしまった。

 

西突厥の王であった上宮法王は、連合国家の脆さと人々が離散する辛さを身を持って体験し、和合することの大切さを敗戦によって痛いほど学んでいた。

 

国威のため人々の和合は、上宮法王には悲願であり、仏教の利他的な教えだけではなく、仏教にはない「和」という道徳的な教えを人々に広め和国をかためていった。

 

和国はまだ国家としての体制がようやく整えられ始めたばかりで、「国」とは土地の範囲を表す言葉でしかなかった。

 

和国の人々の意識は、部族や民族に帰属していて首長や個人に対する忠誠心しかなく、国というものに対する忠誠心や国粋主義などはまだどこにも存在していなかった。

 

アジア大陸からの移民や渡来人が多かったため、郷土意識もなく、また民衆の殆どは有力部族たちが所有する「私有民」だったので、国民さえもろくに存在していなかった和国だが、上宮法王によって、部族同士の利得と「武力統治」のみだけだった旧連合国家に、憲法による「法治」と宗教と道徳による「徳治」が初めて齎されたことで、おぼろげながらも日本という国家への胎動が始まりつつあった。

 

 

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上宮法王

 

 

上宮法王の行いや出生の逸話や仏教政策は、実は全て上宮法王を援助していた秦一族が演出と創作を行っていた。

 

もともと上宮法王は、冷酷で支配と自己顕示欲が強く、利己的な王であったが、側近である秦一族の御曹司・秦河勝が智恵と寛容さに溢れた存在だったため、上手く上宮法王の支配欲に融和していき

 

「和国を支配し国威を高めるために」と、

 

上宮法王を聖人の様に演出し続けて、演じている上宮法王本人も次第にその感化をうけていった。

 

上宮法王が渡来するまでの秦氏は、蘇我氏を援助していて、聖人化の演出はもとは蘇我氏に対して行われていた。

 

ユダヤ系移民の秦氏は、常に表には出ずに裏から時の権力者を支えてきた部族である。

 

蘇我馬子という名乗りも「我、蘇る、馬小屋の子」という、イエスキリストの誕生の逸話になぞらせた名前であり、教化政策の実践も実際は蘇我氏によるところが大きかった。

 

上宮法王は、むしろ好戦的であり、どちらかといえば慈愛や利他心とは遠い存在であったが、秦氏と出会ったことでその影響が大きく働き、上宮法王自身も和国の精神性の変化の渦に巻き込まれていた。

 

 

和国の有力部族の私有民に対する扱いは一様ではなく、上宮法王は有力部族らに人々を慈しむことを諭した。

 

「もし奴婢(奴隷)に酷い扱いをするようならば、それは仏法を破ることであり、仏法を破れば国も滅亡する」

 

と説き、そして、

 

「本願に背けば仏法破滅の咎で官位を失い、怨敵となり子子孫孫まで病で倒れ夭死する」と戒めた。

 

本来の上宮法王の冷酷さだけでなく、側近の秦河勝の作意が融和し、次第に有力部族達の意識も少しずつ感化されていった。

 

 

しかし、和国の国家としての建国と意識改革は始まったばかりであり、部族連合国(イル)であった和国の民衆は、有力部族らが所有する「私有民」ばかりで、まだ国民が殆どいないという状態は続いていた。

 

民の方も、自分が所属する部族の中でずっと生きていたので、国という感覚は分からず自分が国民であるという意識も全くない。

 

国民ではなく、

 

ずっと部族に所属する「部民」なのである。

 

所属する有力部族から独立した別個の存在であるということなど夢にも思うことなく、ただそれが当たり前であるかの様に隷属していた。寧ろ、所属する部族が無ければ浮浪民であり奴隷にされてしまう事もあっただろう。

 

勿論、「私有民」を有力部族から開放し、国に所属する国民を増やし、国軍をつくろうとしている者達の存在など知らない。

 

そもそも部族(ペドウン)の民たちを私有民ということ自体、国王側からの勝手な言い方にすぎない。

 

もともと職能集団による部族連合であった和国は、各部族ごとの職域に応じた、領地と領民をそれぞれ所有していた。

 

開拓時代の和国には、部族を率いて亡命してくる支配階級たちや流民達の流入が続き、多くを受け入れても、まだ受け入れ可能な入植地があり、順を追って渡来した族(ウル)たちは、それぞれの特徴を活かした職業集団として和国内での役割を開拓し定着してきた経緯があった。

 

和国はこうした原始的な(疎開的な)部族社会から、

秦氏らの協力によって上宮法王の打ち立てた「国家」へと生まれ変わりつつあったが、

 

部族達の古い意識を変えていき、新たに「国」の官職を与えることと引き換えに、私有民と領地を解放させて、

 

「人民と土地の国有化を進めなければならない」

 

という国の課題は先に山積していた。

 

 

 

【蘇我馬子】

半島から列島の諸国が親隋となり隋・高句麗戦が始まると、和国では蘇我氏の巻き返しが始まっていた。蘇我氏は本来、軍略家ではなく政治家で、戦いは得意ではなく、戦局よりも政局を読んで暗躍する傾向があった。武力衝突よりも暗殺を得意として、大臣であった蘇我氏は、次々と自分の娘を王に嫁がせ、蘇我一族の血を引かない皇子や蘇我氏に従わない王を暗殺していき、裏から外戚としての権勢をかためていった部族だった。

 

 

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エフタル族に領有されるまでの和国はゆるやかな母系社会であり、王女と結婚した有力者が王として立っていて、外戚権力の集中はまだそれほどなかった。

しかし、エフタル族の様な強力な男達が王位に立ったことで中心軸が男系寄りとなり、蘇我氏の様に次々と娘を嫁がせ、沢山の皇子を産ませ権勢をふるうという外戚勢力が伸びる隙が生まれた。

 

蘇我氏は、元は百済の大臣だったが、エフタル王家の権勢にあやかり、エフタル王家の外戚として百済・和国の権力者となっていった。か

和国内でのエフタル族の強者どもの争いは無くなったが、蘇我氏の外戚勢力は隠然として残り、今度は突厥最大の実力者・上宮法王のもとへも娘の蘇我刀持子を嫁がせ、上宮法王の外戚となりその地位を保った。

 

蘇我氏の首長の蘇我馬子は、上宮法王の渡来さえなければ推古王女との間に子をなして和国の王になっていた程の実力者である。表向きは上宮法王を立てながらも、野心は萎えることはなく、次第に野望を露出し圧力を推古王女へとむけていく。

 

612年の正月には、

 

「蘇我氏と組んでもっと世に出るべきでは」との慶祝の歌をうたった。

 

推古王女は、

 

「実力者の蘇我氏ならば最もなことで法王はそうするべきだ」と、

 

臍を噛む様に返した。

 

蘇我馬子は、上宮法王の渡来がなければ推古女王の夫、即ち王となって和国を牛耳っていたはずだった。

 

推古王女を利用した権勢は王そのものであったが、蘇我馬子自体に独力で上宮法王を凌ぐほどの力はなく、推古王女を動かすしかなかった為、結果として上宮法王と蘇我馬子の板挟みとなり苦しめられた推古王女は、少なからずとも蘇我馬子の野心に心を砕いた。

 

蘇我馬子は上宮法王へは篭絡を企み、この年に百済より味摩之(みまし)が渡来し中国の呉の伎楽(仮面舞踊)を上宮法王へ披露したが、このとき蘇我馬子は秦河勝らを共に舞わせて上宮法王を魅了させしめた。

 

(後に秦河勝は猿楽の開祖となった)

 

秦河勝が蘇我氏と上宮法王の双方に資することで和国の民のためとなることを考えていなければ、蘇我氏の為だけに上宮法王を動かすことが可能だったかもしれない。

 

しかし秦河勝は、蘇我氏の味方という訳ではなかった。蘇我氏に与していても上宮法王に与していても、常に心根は民の味方なのである。

その美少年の容貌からは想像もつかないほどの志操の高い精神家であり、心中には政治に協力するのにも和国を豊かにする目的があるということが、野心家の蘇我馬子はまったく理解ができなかった。

 

 

その後、蘇我氏の首長の蘇我馬子は病に倒れてしまい、病気平癒のため男女一千人を出家させ回復した。

 

病気平癒のために、男女一千人も出家させる等ということは、王を凌ぐほどの権勢であり、推古王女の威光はまだ蘇我馬子に射していたと見え、必ずしも上宮法王の天下という訳ではなく拮抗していた様だ。

 

しかし、表だって上宮法王とぶつかるということはなく、回復後の蘇我馬子は上宮法王と共に帝王紀・国記など国書の編纂を始め、蘇我氏の意向を国の起源に組み入れていった。

 

蘇我馬子の圧力はしだいに強まっていき、やがては推古王女に屯倉(王家直轄の領地)である葛城地方を要求するようになっていく。

 

 

 

【隋の滅亡と唐の建国】

610年、隋の煬帝は洛陽で各国の朝貢使節を招き莫大な費用をかけ大饗宴を催した。

 

更に、多くの民衆が強勢労働で命を落とした隋の大運河が完成し、煬帝は運河に四階建ての龍船を浮かべ進水し完成を祝う大饗宴も行った。

 

諸王、百官女官ら10万人を乗せた舟が、前後に数千隻200里も続き、舟の引き手だけで8万人の農民がかり出されるという史上空前の規模の水上の宴だった。

 

翌611年には高句麗遠征の兵士113万人を徴兵し、いよいよ兵を起す。

 

612年に高句麗へ侵攻、煬帝みずから遼東へ親征し、鴨緑江(アムノッカン)を超え、高句麗内部へ進んだ。

 

迎え撃つ、高句麗の乙支文徳将軍(ウルチムンドク)は、降伏の使者のふりをして隋軍の陣に入り、隋軍の弱点が食料補給にあることを見抜いた。乙支文徳将軍は、敗戦と逃亡を繰り返して隋軍に追わせ、隋軍を深く引き入れ食糧補給の兵站を伸びきらせる作戦に出た。

 

 

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数の上で、圧倒的優位であった隋軍は勝気に追い続けた結果、戦線が伸びきり、乙支文徳将軍の焦土作戦(敵に食糧補給させない為、国土を全て燃やす)によって兵糧不足に陥ったところを包囲され殲滅された。飢えに陥った100万の大軍はほぼ壊滅させられてしまった。高句麗兵の十倍の軍容でありながら、無事に隋に帰国することができたのはわずか2千人程度だった。

 

613年、隋の煬帝は再び高句麗攻めの軍を起すが、煬帝による度重なる負担に民衆は耐えかねて、ついに楊玄感が黎陽で反乱を起こし、洛陽を攻撃したため撤退する。楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして中国全土で隋への反乱が次々と勃発した。

 

 

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翌614年、煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが、戦うことができずに和議を結び停戦とする。しかし、高句麗の嬰陽王は約束を反故にして朝貢しなかった。隋の煬帝は怒るが反撃できず、隋国内各地で起こった反乱から逃げだし、南方の江都へ遷都してしまった。和国は615年6月に犬上御田鋤を隋に派遣し政情を伺ったが翌年、隋の各地の反乱は絶頂となり、遣隋使の犬上御田鋤は帰国し、和国へは百済や高句麗の使節の往来が続いた。

 

煬帝が南方の江都へ逃げた後は、北方の反乱はますます激しくなり、李密、王世充、竇建徳らの反乱が拡大していき、一時は従属していた突厥も隋の衰退を見て再び北方で暴れだした。和国の上宮法王も、船を造り大陸へ渡ろうとしたが、蘇我馬子ら和国群臣の猛反対により、大陸進出へは至らなかった。

 

617年11月、太原で起兵した留守・李淵によって隋の首都長安の大興城は落とされてしまった。李淵は煬帝の孫「楊侑」を隋皇帝・恭帝として即位させた後、618年5月に「恭帝」から禅譲(国権を譲ること)を受けて唐を建国した。南方の江都にいた煬帝は側近の宇文化及により切られ隋は滅んだ。隋が滅ぶと、各地で反乱を起こしていた武将達は、国号を名乗るようになり皇帝や王を自称し、中国全土は戦国時代の様相となった。

 

洛陽の王世充(鄭王)、竇建徳(夏王)、劉黒闥(関東王)、劉武周(定揚カーン)、薛挙・薛仁杲(秦帝)、梁師都(梁帝・大度毘伽カーン)、をはじめ、李軌(涼帝)、蕭銑(梁王)、宋金剛(宋王)、 朱粲(迦楼羅王)、李子通(呉皇帝)、 林士弘(楚帝)、 徐円朗(魯王)、高開道(燕王)、輔公祏(宋帝)、阿史那社爾(都布カーン)、郭子和(永楽王)、など、王や皇帝を自称する群雄が中国全土に割拠していた。

 

隋の禅譲を受けまだ「唐」を建国したばかりの李淵は息子らと共に、各地に乱立した他の国々の討伐に追われた。

 

李淵の次男・李世民は、特に活躍が目覚ましく、

 

隋の頃より名が鳴り響いていた【李靖】【屈突通】【殷開山】【秦叔宝】【宇文士及】【羅士信】【尉遅敬徳】【長孫無忌】【程名振】【丘行恭】【程知節】ら多数の名立たる武将たちを次々と従え、最大級の勢力だった洛陽の王世充(鄭王)、竇建徳(夏王)、劉武周(定揚カーン)、劉黒闥(関東王)、宋金剛(宋王)、薛仁杲(秦帝)を破る武功を挙げた。

 

兄の李健成は嫉妬し、反乱を企んだほどだった。

 

 

 

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唐は、中国内の平定に追われ、高句麗や和国への直接的な干渉をするほどの余裕はなかったが、外敵の突厥と高句麗の侵入だけはなんとしても防がなければならなかった。まず国内の平定を優先し、国外に向ける兵力は抑え、武力を用いずに内政干渉による親唐工作を行っていた。

 

618年に高句麗の嬰陽王が没すると唐の李淵は、嬰陽王の弟で親唐派の栄留王を擁立し、高句麗の大臣にヨン・テジョ(高向玄里)という者を送り込んだ。

 

 

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ヨン・テジョは和国名を【高向玄里】といい、和国から隋への留学生として派遣されていた者だが、もともとは中国人だった。

 

400年前に滅んだ中国の漢王朝の皇帝の子孫を自称していて、祖先が和国に亡命して来て以来、和国では漢王とか高向王と呼ばれていた。

 

高向玄里は策謀型の野心家である。

 

留学中に隋が滅亡すると遣隋使らは唐に拘留されてしまうが、高向玄里は和国の情報を唐に提供するようになり、やがて唐へと帰順していった。 

 

唐は、高向玄里から和国や東アジアの情報を得るなどしていき、上宮法王の暗殺を企みはじめた。

 

そして、高向玄里の政治力の才能を認めると、まず高句麗へと送りこみ、大臣に就かせて親唐工作を命じた。

 

高向は、高句麗の五大部族の中で没落してしまっていた東部家門の「淵家」に入婿し、淵(ヨン)・テジョと名乗って、唐に擁立された栄留王の後押しを受けて高句麗の大臣に就いた。

 

高句麗は部族社会としては既に成熟期を過ぎていた。五大部族らは多部族を吸収し肥大化し、半ば貴族化した既得権集団の様な存在となっていた。

 

五大部族は消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部からなり、高向がヨン・テジョと名乗った東部家門は順奴部である。

 

高向玄里は高句麗栄留王の下、内政干渉をすすめていき、隋の高句麗遠征時に捕虜となっていた中国人を全て解放した。

 

もとは和国の遣隋使でしかなかった高向だが、高句麗の親唐工作をやってのけたことで、この後の唐の極東政策を担うことになっていく。

 

隋が滅亡した後は、和国の親隋派は勢いを失いひっそりとしていた。親隋は即ち反唐ということではなかったが、和国はまだ出方を伺っていて、唐への使節は派遣していなかった。

 

しかし唐は、和国にいる上宮法王の存在だけは看過することはできず、高向玄里に工作を命じた。そして高向玄理は和国の上宮法王を暗殺する為に、蘇我馬子と秘密裏に交渉を始める。

 

高向は和国へと向かうことになるが、高句麗から和国へ渡るにあたって、高向が入婿となった淵家が心配の種だった。

 

没落していた淵家は、高向玄里を淵家に迎えたことで唐の加護を受け家門を立て直し、高向は大臣の就任権のある淵家に入ることで大臣に就くことはできたが、高向こと淵(ヨン)・テジョは夫人を伴ってきていた為、淵家のヨン・テスという者が将来、夫人の存在が淵家の跡継ぎの邪魔になると考えて敵愾心を抱き、暗殺を企み始めていた。

 

 

高向は淵家の暗殺を恐れて、仕方なく夫人らを伴ったまま和国へと向かっていった。

 

 

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ヨン・テジョ【高向玄里】

 

 

唐は、親唐派である栄留王を高句麗王に冊立し、高句麗は押さえていたが、隣国の突厥の部族達はそれぞれ唐に対立しまだ戦をしかけていた。

 

もと西突厥王で和国にいる上宮法王「達頭カーン」も唐に帰服せず、唐にとっては突厥に影響力のある上宮法王の存在自体が目障りだった。

 

たとえ和国から帰順をしめしてきたとしても、生かしておくわけにはいかず、唐は和国に渡った高向玄理を通じて、和国の実力者である蘇我氏に対しても、

 

 

「上宮法王が、反唐であろうが、親唐であろうが、必ず殺せ」と、厳命して、

 

上宮法王暗殺の準備を進めさせていく。

 

 

 




後書きその①
この小説を書こうと思った訳、、

私はただのB級歴史ヲタクで、本でも漫画でも史跡巡りでも、特に古いものが好きでした。

日本の場合、歴史モノと言っても幕末とか戦国とか何百年前の新しいものが圧倒的に多くて、せいぜい古くても千年くらい前の平安時代や鎌倉時代 

隣の韓国では、2000年前の歴史ドラマや紀元前の歴史モノとかがザラにあるのに、日本には殆どない。


何千年も前から日本列島には人々が住んでいたにも関わらず、

歴史モノとゆ〜と何百年前のチョンマゲものばかりで、、日本の歴史は

なんて薄っぺらいんだろう…と、ずっと物足りなさを感じていました。


ならばいっそ自分が読みたい時代のものを、自分で書いてみようと思ったのがきっかけです。

文才もなく、小説など書いたこともなかったですが、ともかくチョンマゲ時代よりも古い時代を書いてみようかと、

小説サイトを探し、こちらハーメルンのサイトに辿りつきました。

挿し絵の上げ方も簡単で加筆修正もしやすいので、これならばチャレンジできるかな、、と思い。


つづく、、



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第1章 和 国「蘇我王朝」山背王

西暦622~632年、中国では、隋が滅び大国唐が建国されアジア天下四方へ覇を唱えつつあった。周辺国は皆、唐に帰服し東アジアの高句麗・新羅・百済の三国も王が親唐派となり唐の臣国となっていく中、和国では上宮法王、推古女王、蘇我馬子、三頭が没してしまい後継者争いが起きていた。百済から和国の王位を狙う武王とウィジャ王子に対し、和国では親唐派の蘇我蝦夷が擁立した蘇我馬子の血をひく「山背王」が即位してしまい、和国に蘇我王朝が誕生した。

1話 上宮法王の最後
2話 天武【イリ・ガスミ】誕生
3話 唐の中国平定
4話 蘇我馬子没する
5話 蘇我氏の内紛
6話 山背王即位
7話 宝皇女とイリ
8話 百済の三つの星



【上宮法王の最後】

 

和国の蘇我氏は上宮法王の暗殺の準備を進めていく。

 

上宮法王の舎人を一人一人調査し、高向が持ち込んだ和韓諸国では検出することができない唐の毒を用い、毒殺の知識も豊富な上宮法王に対しいかに服毒させるかを様々な方法で試みていた。

 

そして、

 

上宮法王の周辺者にも変化がおきていた。

 

上宮法王は以前、隋との戦で敗走し高句麗に落ちのびた時に、擁護を受けた高句麗の嬰陽王へ妻の宝妃と娘を差し出してきていた。

 

嬰陽王は、彫が深く美しい西アジアの特徴的な顔立ちをしたサマルカンド系の宝妃を寵愛し、宝妃との間には王子が生まれた。

 

軽王子と言う。

 

 

【挿絵表示】

 

 

618年9月に嬰陽王が崩御し、唐の初代皇帝・李淵が、嬰陽王の弟の栄留王を擁立し冊命すると、反唐派だった嬰陽王の皇子・軽王子は追放されてしまった。

 

上宮法王と宝妃の間に生まれた娘は、(なかば人質の様に)母と共に高句麗に残っていたがその母もすぐに亡くなってしまい、娘は母の名を継いで「宝姫」と名乗った。

 

追放された軽王子は、母・宝妃の縁を頼って和国の上宮法王の元へと亡命してきたが、上宮法王は、反唐派である軽王子をむかえ入れ、

 

元伴侶の産んだその軽王子を、

 

「ただ一人の自分の後継者である」

 

と跡継ぎに指命した。

 

 

軽王子は和国風の呼び名で、本名は「ウィジャ」という

 

後に、孝徳の王と呼ばれ百済・和国の両国の王となる。

 

 

618年、高句麗の嬰陽王は和国の上宮法王と共闘して、唐に対抗しようとしていた。

 

上宮法王もこれを受け大陸への回帰を目指して軍船の造船を始めていたが、嬰陽王は戦を前に突然亡くなってしまった。

 

翌619年、隋に反乱を起こし、その後は唐にも反抗をしていた突厥のシビル・カーンが亡くなり、620年には同じく突厥のショラ・カーン(上宮法王の孫)が亡くなった。

 

相次いで、反唐の王たちが亡くなってしまったことで、和国からの対唐戦参加は不可能となった。

 

上宮法王は王達の不可解な死に暗殺の疑念を抱き、土地の整備のために和国各地を行幸して諸寺を巡検していた。

 

旅の途中に近江で異聞に出逢うと

 

「禍い、これより始まる」と、

 

周囲にもらした。

 

暗殺の予感を自ら察知したのかもしれない。

 

唐に抗おうとした自分の運命を悟ったかの様に、

 

「聖人の国を月氏国といい、聖人でない者が顕れれば国の禍いとなる」と、

 

預言した。

 

そして、自分の死後、帝王の出現や自分の生まれ変わりを次々と預言していき、やがて病に倒れてしまった。

 

20年以上前、「逹頭カーン」と呼ばれ、隋を相手に大陸で大暴れしていた昔日の覇気は失われていた。

 

上宮法王は、日本列島の裏玄関である近江へなんとか宮を移そうとしたが、それも叶わなかった。

 

上宮法王が病臥すると、継承者に争点が集まっていく。

 

蘇我馬子の直系ではない蘇我蝦夷という者は、東和の蝦夷族の妾の子か養子と云われていて蘇我氏の中では傍系の出自だった為、逆に生存欲求と執着が激しく、蘇我馬子の長男善徳や、蘇我氏の血を引く皇太子達に強い敵愾心を持っていた。

 

「吾の意に沿わぬ王族など必要ない」と、

 

強気で、とくに上宮法王に嫁いでいた蘇我刀持子と蘇我刀持子の産んだ皇子たちに対しての反発は強かった。

 

 

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唐は高向を通じて蘇我氏に暗殺の密命を下し、ともかく上宮法王さえ暗殺すれば蘇我系の王を認めるとした。

 

 

 

上宮法王は、暗殺を警戒して出された薬は一切飲まず、食事や水を摂ることも憚った。

 

日に日に、上宮法王の体は痩せ細っていく。

 

大国隋も一目置くほどだった頃の日の出の勢いは既になく、援助をしていた秦氏との距離もかわり始めた。

 

隋が滅んだ後、隋を滅ぼした唐に疎まれる存在となった今では、和国の有力部族にとっても利用価値はなくなり、むしろ上宮法王の暗殺は唐とのつながりを安全に保つ為には避けがたいこととなってしまっていた。

 

 

 

ある日、上宮法王は瞑目した。

 

 

周囲の者は皆おおいに悲しみ、涙を流した。痩せこけた上宮法王の亡きがらを抱き上げると、その体は衣服よりも軽くなっていた。

   

上宮法王妃の橘大郎女は上宮法王の死を悼み、すぐさま推古王女に願い出て、死後に行ったとされる『天寿国』の様子を描かせた天寿国繍帳を采女に作らせたが、その橘大郎女も次の日に亡くなってしまった。慈愛深い女性であり、上宮法王に嫁ぐときに秦氏の養女になる前も、孤児だったので、ずっと血縁の無い世界で生きてきて、人を分け隔て慈しむというようなことがなく一切を愛した。

 

斎宮(王家の為に王族の女性が宮に入り神に仕えること)になっていたスカテ姫は伊勢より戻った。

 

 

生前、推古王女と橘妃はいまわの際に立ち会った時、

 

上宮法王との別れが悲しく、味わったほどの無いほどの痛みをも語り、

 

「この世のことは全て仮のものであり、仏だけが真実である」と、言った上宮法王だからこそ、

 

仏の世界である天寿国にゆくべきだと涙を流した。

 

上宮法王は天寿国のことにはふれず、

 

 

凄然として、

 

「ただ一人の我が子のことを頼む」と、一言だけいった。

 

 

 

 

和国は、上宮法王の死後、古来の慣習に従って推古王女が女王として跡を継ぐ。

 

しかし女王ではあっても、蘇我氏を超える力もなく、和国の権力は蘇我氏が握っていた。

 

 

 

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(突厥(とっけつ)=トルコ系遊牧民族 ※現在のトルコ共和国も突厥族が帝国を建国した552年を建国記念としている)

 

 

 

【天武イリ・ガスミ誕生】

上宮法王が亡くなった翌年、623年に上宮法王の師であった法興寺の高句麗僧・恵慈も後を追うように亡くなった。

 

唐は、上宮法王が没すると、新羅を使って和国への介入を始めた。新羅および任那の使節らは、和国から隋に留学しその後も唐にいた恵日、福因らと僧の恵斉、恵光らを伴って上宮法王の弔問に来和する。

 

仏像一体および金塔、仏舎利、観頂用の大小の旗を献上した。仏像は蜂岡寺(広隆寺)に、金塔や仏舎利は四天王寺にへとそれぞれ収められた。そして使節らは留学生と共に、和国に対して唐との通交を求めた。

 

同時にこの年新羅は、以前上宮法王と講和した隋からの圧力によって、和国に割譲させられていた任那地方へ侵攻して、これを奪いかえしてしまった。

 

新羅の侵攻に対し、蘇我馬子は詰問の使者、吉士磐金・吉士倉下を遣わして糾弾し、そして和国からは征伐軍を派兵したが、入れ違いに新羅の使者が来和し調停となる。

 

「無駄な出兵をした、、」と、

 

誰もが思った。

 

 

高句麗に大臣として赴任していた高向玄理は、唐の密命を受け、今度は新羅の使節一行に紛れて和国へ帰国してきていた。

 

帰国の道中で生まれたであろう、生まれたばかりの赤子を連れていて、母とも乳母ともつかない、1人の貴婦人が赤子を抱いていた。

 

高向玄理は帰国すると、まず丹後の国にある大海の里に向かい、族長の大海宿禰に連れていた赤子を託して、貴婦人と共に都へと向かった。

 

 

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大海の里の翁 大海宿禰

 

 

高向の連れていた赤子は高向の息子であり、高向が漢の王族の出自であることから「漢王子」と呼ばれ、大海の里で大切に養育されていった。

 

 

(上宮法王の生まれかわりでは)

 

というほどの時系点に生を受けた

 

漢王子の名は「イリ・ガスミ」、

 

この物語の主人公で、後に天武天皇となる。

 

 

 

 

貴婦人の正体は、上宮法王の娘の宝皇女であり、高句麗で大臣となった高向と出合い、結ばれた。

 

上宮法王が隋との戦いに敗れて同盟国の高句麗に逃げ込み、高句麗の嬰陽王の擁護を受けた時、突厥民族の風習に従って、妻宝妃とその娘を嬰陽王へ差し出してきた。

 

その後、上宮法王は百済・和国に渡って王となったが、宝妃と娘はそのまま高句麗に居て、宝妃は嬰陽王との間に軽王子(ウィジャ皇子)を産んだ。

 

軽王子(ウィジャ皇子)が追放され和国へ逃げ、嬰陽王が没し母宝妃が亡くなった後も、娘は1人高句麗に残り、母宝妃の名を継いで人質の様にひっそりと生きていた。

 

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そこへ、高向玄里が降ってきた様に登場する。

 

 

高句麗の栄留王の元に、唐からやってきた高向玄里は大臣として着任すると、宝皇女の存在を知ることとなり、宝皇女を孤独から救った。

 

上宮法王の忘れ形見でありながら、全く上宮法王の縁が無くなってしまった高句麗に1人残り暮らしていたところへ、

 

突然、宝皇女の前に現れ、

 

「自分は元上宮法王の臣下であり、上宮法王によって隋に遣わされていた」

 

ということを語った。

 

宝皇女にとっては「上宮法王」という名前を聞くだけで、ただただ懐かしく、高句麗でそのような縁者に出逢えることなど無いと思っていた為に、それだけで、高向玄里に心がなびいていった。お互いに上宮法王によって異国に身を置くこととなり、今はその上宮法王もなく、隋も無くなってしまい、何のつながりも無くなってしまった孤立無縁な世界に生きてきて、ただ運命としか言い様がないような数奇な身の上に二人は心を重ね合って、やがて結ばれていった。

 

 

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高向は、先代が没し後ろ盾のなくなってしまった宝皇女に対し、

 

「唐の力が後ろ盾になり安全を擁護するから」と

 

持ちかけて、上宮法王の血統である宝皇女を親唐工作に利用しようとした。

 

宝皇女は命の安全を守ることだけを条件に、高向の提案を受け入れた。

 

それは、政治的な駆け引きというよりも、唯一心を開いた大好きな高向のいう事だからとききいれた、、

 

高向への一途な想いから、受け入れたことだった。

 

一方、

 

非情にも、高向は宝皇女との想いとはうらはらに、親唐工作の為に百済武王との政略結婚を図っていた。

 

宝皇女が、高向の政治工作の為に生きるということは、1人の女性として生きるのではなく、自分が「上宮法王の血統である」という事を受け入れて生きるということだった。

 

それは、この先に続くであろう王との結婚や政権交代の中を、亡き母の様に生き抜いていくという悲恋の覚悟だった。

 

 

 

【唐の中国平定】

唐の高祖の次男・李世民率いる唐軍は進撃を続け、王が乱立する中国全土を跋渉していた。

 

秦帝太子・薛仁杲、宋王・金剛を討伐して以来、次々と抵抗勢力を駆逐し、621年には、隋を簒奪し洛陽で「鄭帝王」として即位していた王世充が唐軍に降り、山東・河北一帯で「夏」を建国した竇建徳も敗れ、622年には関東王を称していた劉黒闥も李世民に敗れた。

 

その後も、楚王、杜伏威、輔公祏を滅ぼし、624年には、中国の群雄割拠は掃討されて、中国全土はほぼ唐の支配下に置かれた。

 

 

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中国の趨勢が唐になり、朝鮮半島の高句麗、新羅、百済は次々に唐に朝貢し、和国の情勢も急激に変化した。

 

高句麗は既に自国の暦を捨て唐の暦を使うほど唐に靡いていたが、唐が中国を平定した624年には、高句麗、新羅、百済、の三国が、唐の冊封体制下(唐の臣国として唐が王を任命する制度)へと入り、高句麗は「遼東郡」の高句麗王となり、新羅は「楽浪郡」の新羅王、百済は「帯方郡」の百済王として唐の高祖より冊封を受けた。

 

隋が中国を統一していた頃も「琉球国」(沖縄)へも出兵していたほどだったので、海を隔てた和国も決して安全地帯とは言えなかったが、元突厥カーンであった上宮法王の外交によって隋に臣従することなく均衡が保たれていた。

 

しかし、その上宮法王も今はなく、日の出の勢いの唐の勢力の前で和国が安全ということはなかった。

 

それにも関わらず、推古女王は、唐に帰服する朝鮮半島の三国などとは別に、独立性の強かったかつての和国を貫こうとしている。百済の大臣でしかなかった蘇我氏が、和国の権力をにぎり唐に阿ることも許せなかったが、何よりも亡き上宮法王が打ち立てた「和国」という新国家に対する和国女王としての自負心が強かった。唐へ、未だに朝貢をしないのは和国だけであり、親唐派の蘇我馬子は、推古女王の姿勢に強い焦りを感じていた。朝鮮半島の三国が唐の冊封下に入った今、一刻も早く唐に朝貢しなければ、推古もろとも唐の手にかかり殺されてしまう可能性さえあった。

 

蘇我馬子は、推古女王の皇太子に山背皇子を立てることを推してきたが、これに対しても推古女王は抵抗し、最初の夫である威徳王敏達との間に生まれた竹田皇子の立太子を主張し、双方の対立は深まっていった。

 

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推古女王は、蘇我馬子のことを内心

 

(大陰謀家すぎて、四海を治めるに足りぬ者)

 

と思っていた。

 

「上宮法王と共に打ち立てた新しい和国を、決して蘇我馬子の思いどおりにはさせない、、」

 

と、余命をかけて争うつもりでいる。

 

推古女王が、上宮法王を和国の王=夫として迎えた頃は、既に子供を産める年代でもなかったが、上宮法王は推古を立て、女王の権威を高めた。

そこに為政者としての企みや側近の秦河勝の意図があったにしても、決して尊厳を損なうものではなかった。

 

しかし、蘇我馬子は、

 

「和国の女王でなく、蘇我家の女と言え!」と、

 

横暴に迫り、推古女王の尊厳を傷つけてきた。

 

蘇我馬子から受けた屈辱は忘れようにない。

 

 

蘇我氏は、エフタル政権の権勢に乗じて和国に進出してきた新興勢力であり、領有する民と土地は決して多くはなかった為、女王の名の下に直轄領(屯倉)として、他部族から土地を奪ったりもした。

 

エフタル王家の嫡流である自分を利用し続けてきた蘇我馬子には、自尊心を傷つけられてきた。

 

もはや蘇我馬子の勢いは今や抗い難いものとなって実質、推古女王を凌ぎ、誰もが認める強権の臣であったが、それでも尚、推古女王は頑なに、最後の最後で蘇我馬子を拒み続けた。

 

 

 

上宮法王によって後継者とされていた反唐派の軽王子(ウィジャ)は、和国での立場は微妙になっていき、蘇我馬子に暗殺されてしまう懸念もあった。

 

推古女王は、蘇我馬子とはあまり仲の良くなかった蘇我石川倉麻呂と相談して、軽王子(ウィジャ)を百済へと逃がすことにした。

 

 

 

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蘇我石川倉麻呂

 

 

蘇我石川倉麻呂は、

 

「今は時節を待ち、身をかわして隠忍自重するべきです。」

 

と、軽王子(ウィジャ)に百済へ行くよう提案する。

 

「吾は上宮法王の跡を継ぐ『唯一の後継者』として認められた者だぞ!蘇我馬子ごとき者から逃げよというのか!」

 

と、王子は反発したが、

 

蘇我石川倉麻呂は、

「だからこそ危険なのです!上宮法王様、、妃様、と次々と暗殺されてしまいましたが、次の標的は王子様であることは疑うべくもありません。そして、誠に申し訳ないのですが今は、蘇我馬子に対抗し、確実に王子様をお守りすると約束することができません、、 」

 

、、

 

「上宮法王様の皇女宝妃様も百済に行くそうです。百済の武王は、上宮法王様の義弟分で、上宮法王様の任命により百済の王位についた者ですし和国より安全であることは間違いありません。」

 

と、百済行きを続けて諭した。そして、

 

「今、和国に蘇我馬子に逆らえる部族長は他にいません、が、しかし、和国の者は皆、軽(ウィジャ)王子様が先代の反唐の志を継ぐ士であることは知っていて、その考徳を讃えています。唐にへつらう蘇我馬子の天下など続くはずがありません。和国の帰皺は王子様にあります。」

 

 

「王子様の父・嬰陽王様、突厥のシビル・カーン、ショラ・カーン、そして上宮法王様と、次々に反唐の王は暗殺されてしまいました。王子様は今は反唐派の最後の希望なのです。なんとしても失う訳にはいきません。生き延びる為にどうか安全な百済へと渡って、兵気を養って下さい。」と、

 

切に懇願した。

 

 

ウィジャ王子は、蘇我石川麻呂の説得を受け、

 

天を仰ぎ、

 

「百済に行く」と、

 

ゆっくり呟いた。

 

和国は、今、蘇我氏に趨勢が傾いたとしても、

 

(まだひと波乱あるだろう)、、と思った。

 

 

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ウィジャ王子

 

 

百済の武王は唐の冊封を受けてはいたが、もともと上宮法王に忠心を誓っていたので心情的には反唐派を受け入れている。亡くなったウィジャ王子の父・高句麗の榮陽王が、上宮法王と共に唐を攻めようとしていた事もよく知っていて、時勢に靡き唐の冊封を受けたとはいえ、ウィジャ王子の立たされた境遇には同情もしていた。

 

 

ウィジャ王子(軽王子)は捲土重来を期して、蘇我石川倉麻呂の手引きによって百済へと渡っていった。

 

 

 

和国にいた突厥勢力らも、上宮法王という求心力を失って瓦解していく。

 

和国に落ち延び、いずれは大陸への再起を図ろうとしていた上宮法王と共に和国でやってきたが、戻る手段もかつての西突厥国も無く、王(カーン)を失い、各部族長らは進むべき未来を決めかねていた。

 

 

上宮法王の打ち立てた国を守る為、和国に留まる、という者、

 

上宮法王の「血」を引く宝皇妃を守る為、百済に渡るという者、

 

上宮法王の「跡」を継ぐウィジャ王子に従い百済に渡るという者、

 

やがて、三者三様に分かれていった。

 

 

 

推古女王は、威徳王敏達との間に生まれた竹田皇子を皇太子にしようとしていた為、ウィジャ王子を逃がしたというよりは、対立候補であるウィジャ王子を百済へ追いだしたかたちとなった。

 

 

 

【蘇我馬子没する】

唐が中国内を掃討した624年、和国では一人の僧が斧で祖父を打つ事件が起きた。これにより、和国内の僧尼を統括すべく僧位を設けて、僧・観勒を僧正に、鞍部徳積を僧都にし、安曇連を法頭とした。

 

蘇我馬子はいよいよ野心をむき出しにし、推古女王に対し、この安曇連を筆頭に和国の有力部族らを使って王家の屯倉である葛城県を割譲するように迫った。

 

推古女王は、

 

「王家の領地を明け渡すことは、王家の力を譲るも同然で、私の代でそれを明け渡してしまうことだけは忍びなくてできない」

 

と、蘇我氏の要求を断固断り、命がけで抵抗していた。

 

 

 

翌625年、

 

高向は百済へと渡り、連れてきた上宮法王の娘宝皇女と百済の武王との婚姻を進め始めた。

 

 

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まず宝皇女を、百済の八大部族筆頭である沙宅一族の長「沙宅積徳」の養女にし、その沙宅一族の力を後ろ盾に武王に圧力をかけて、強引に百済武王の妃にした。 

 

宝妃はまだ高向玄里のことが好きで、政略結婚の相手の武王に対して全く心はなかったが、最初の王妃であった田眼妃はすでになく、新羅の真平王の娘ソンファ姫が武王妃となっていた為、二人は対立した。

 

そして、

 

「百済王室に新羅の血は入れない」と、

 

養父の沙宅大臣と共に、ソンファ妃を追い落としてしまった。

 

百済の武王は、唐の冊封を受け唐に臣属している親唐派の王である。

 

そこへ、先代の和国王であった上宮法王の娘・宝皇女を嫁がせるということは、高向玄里の親唐工作としては重要な意味を持つ。

 

上宮法王皇女の宝皇女を娶ることで、和国の継承権を持たせ跡を継がせさえすれば、そのまま武王を通じて和国を唐に臣属させてしまうことも可能となった。

 

高向にとって和国の親唐政権は、

 

蘇我馬子によるものでなく、自分が打ち立てた手柄でなければならず、そして自分の手中になれければ意味がない。

 

しかしそれは同時に唐にとっても、蘇我馬子を和国の親唐工作に利用する必要性が無くなっていくことでもあった。

 

 

 

626年6月19日、蘇我馬子は亡くなった。

 

飛鳥川のほとりに住み、小さな池を作りその中に島を作っていたので「嶋大臣」と呼ばれたが、その権勢は大臣などではなく王を凌ぐほどの勢いだった。

 

(嶋=済州島)

 

蘇我氏は欽明聖王、威徳王敏達、用明王、泊瀬部王と、次々と和王を擁立し、蘇我馬子は50年以上権力の座にあり上宮法王の渡来さえなければ、和王にとってかわり「蘇我王朝」を建国するほどの人物だったが、王権を目の前にして大臣のままその生涯を終えた。

 

 

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蘇我馬子が亡くなり、高向玄里は再び和国へと戻っていった。

 

 

 

 

その頃、唐では政変が起きていた。

 

 

皇帝の次男の季世民が、唐の初代皇帝・高祖を幽閉し、皇太子だった兄の建成と、弟の元吉を殺し(玄武門の変)太宗皇帝として即位した。

 

隋の煬帝の暴政とその後の戦乱により、5000万人近くいた中国の人口は激減し、太宗が即位する頃には三分の一にまで減少してしまってた。

 

太宗皇帝は、必然的に国内の充実が優先になり、半島や列島への内政干渉の方針も変化していった。

唐の高祖は朱子奢を高句麗に遣わし、百済と高句麗の和平関係にも積極的に介入していたが、太宗皇帝の極東介入は暫し止まった。

 

太宗はこれより「貞観の治」といわれる模範的な政治を行い、中国史上でも稀な安定した内政の充実を施していく。

 

 

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玄武門

 

 

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唐「太宗皇帝」

 

周辺国は、新しい皇帝へ祝の朝貢をし、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅も三国の軋轢を唐へ上奏していたりしたが、相変わらず和国だけは沈黙し、遣唐使を派遣せず、朝貢しないでいた。

 

唐は、高句麗を通じても和国へ介入する様になり、高句麗王から和国へ僧恵灌がおくられてきた。僧恵灌は和国へ三論宗を伝え、和国の僧正となった。

 

 

 

【蘇我氏の内紛】

蘇我馬子は桃原墓に葬られた。

 

蘇我馬子の葬儀が行われるとすぐに、次期和王の座をめぐり継承者争いが起きた。

 

蘇我氏の中で山背皇子の擁立派と反対派との間で対立が始まった。蘇我蝦夷が、蘇我馬子の推していた山背皇子を推し、馬子に代わって権力の座につこうとする態度があまりにもあからさまだったため、怒った蘇我境部摩理勢や蘇我石川倉麻呂が反発し、蘇我一族は割れてしまった。

 

蘇我馬子の弟で蘇我宗本家の蘇我境部摩理勢は、推古女王に側ついてしまい、推古女王の推す竹田皇子を後見した。蘇我石川倉麻呂は、上宮法王が後継者にと望んだただ一人の子・軽皇子(ウィジャ)についてしまった。

 

唐に帰順し、唐の手先となっていた高向玄理は百済の武王を次期和王に推した。

 

山背皇子、百済の武王どちらも蘇我氏の血を引いていたが、山背皇子が即位してしまえば、百済王・和王に分裂したままの王位を継承することになってしまい、そのまま和国に蘇我王朝が誕生する可能性があった。

しかし、高向はなんとしてもそれを阻止して、唐の力と武王を背景に自分が裏から和国を動かしたいという企みがある。

 

これに対して、武王反対派は、

 

「百済の武王は王族ではなく、上宮法王の任命により王位につくことができたが、本来は王位継承ができる身分ではない!」と、主張した。

 

そして百済の武王にも蘇我氏を退けて、百済・和国の両国の王位につくほどの勢いはなく、また蘇我一族も割れてしまっていた為、亡き蘇我馬子と蘇我蝦夷の推す山背皇子が、竹田皇子・武王・軽皇子を退けて王となるには至らなかった。

 

唐に帰順し和国へ政治工作に来ていた高向玄理が、百済の王である武王を和国王に推していたので、多数派である親唐派の者は百済の武王を次期和王に推していた。

 

しかし、唐の政変後の二代目皇帝・太宗皇帝にはまだ初代皇帝・高祖ほど和国へ対しての内政干渉の方針がなかった為、決定的な擁立にはならず、和国の次期王位をめぐっての混乱は続いた。

 

 

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                           4人の和国王 継承候補たち

 

軽皇子(ウィジャ)を推していた蘇我石川倉麻呂は味方が少なく、阿部内麻呂だけが共に軽皇子(ウィジャ)を強く推していた。

 

蘇我石川倉麻呂は、百済の武王の元へ逃げていた軽皇子(ウィジャ)を上宮法王の後継者として推すのではなく、なんとか百済の武王の養子にしたて、親唐派の百済王族の皇子として推すことで、和国親唐派の勢力も取り込もうと画策した。

 

百済の武王は、唐の手先として介入してくる高向に真っ向から反発することはしなかったが、自分を和国の王へと推すことで蘇我氏を抑えようとする高向の態度には辟易としていた。和国の蘇我氏の内紛に巻き込まれるのも嫌だったが、武王は蘇我石川倉麻呂の意図を容認し、しかたなく軽皇子を養子(元子)にして蘇我石川倉麻呂の動きを和国への一矢とすることにした。

 

既に和国から百済に渡ってきていた軽皇子は、百済武王の養子になると、軽皇子という和国での呼名を捨てて本名の「ウィジャ」王子と名乗った。

 

ウィジャ王子は、百済から蘇我馬子の死後の和国の内紛の隙を虎視眈々と狙っていて、高句麗から反唐派の手兵を密かに上陸させ陸奥の国に駐屯させるなど、和国に戦雲がたちこめてきた。

 

そして、百済でも兵を動かした。

 

蘇我境部摩理勢が新羅よりだった為、先制攻撃をかけ新羅を攻めて、ウィジャ王子は新羅との戦いに勝利した。

 

蘇我境部摩理勢は、蘇我蝦夷に反発し竹田皇子の館に立て籠もっていたが、後ろ盾として頼りにしていた新羅が敗北すると、

 

「もはや竹田皇子は諦め、こちら側について吾らと共闘せよ」と、

 

蘇我蝦夷が使者を送り説得してきたために、

それに応じあきらめて館を出た。

蘇我摩利勢は蘇我一族で共に結束して、山背皇子を立てて、ウィジャや武王など百済側の介入を阻むつもりでいた。

 

しかし、蘇我蝦夷は降参してきた蘇我摩理勢をだまし討ちし、蘇我摩理勢は直ぐに殺されてしまった。

 

また蘇我境部摩理勢が後見していた推古女王の子、竹田皇子も何者かによって殺されてしまい、推古女王は失意のうちに628年、崩御した。

 

推古女王と竹田皇子は、遺言により推古陵に合装された。

 

 

 

 

【山背王即位】

 

629年、

 

蘇我氏の一雄であった蘇我境部摩理勢を倒した蘇我蝦夷が優位となり、擁立する山背皇子が即位し和王となった。

 

唐はむしろ和国や百済が分裂することを望みこれを認め、蘇我馬子の血を引く王が初めて即位し、

 

和国に「蘇我王朝」が誕生した。

 

 

上宮法王の打ち立てた和国をなんとか簒奪した蘇我氏だが、和国で上宮法王の血統を入れずに王家を擁立することは難しい。

 

山背王は上宮法王家に婿入りし、上宮法王の娘を女王にするというかたちで王位についた。

 

求心力を失い勢いが落ちたとはいえ、武闘派である和国突厥勢らは、これによって黙らせた。

 

蘇我氏が擁立してきた歴代の王達の中で最も力の無い王である。

 

山背王は、上宮王家で最も障害の重かった姫と結婚し、入婿として上宮王家のある斑鳩の宮へと移っていった。山背王は淫蕩な吉備姫と交わり王家は乱れたという。

 

そしてことあるごとに「上宮法王家である」ことを謳って、王家の正当性を主張していた。

 

蘇我蝦夷は山背皇子を和王に推した功績によって大臣となり、和国の権力の座についた。

 

飛鳥で権力を振るう蘇我蝦夷にとって、山背王が、斑鳩にいるのは都合が良かったが、山背王にはそれこそが和国の王であるとの思いこみが強く、上宮王家の地「斑鳩の宮」に居続け、上宮法王無き後の上宮王家の中に深く入りこんでいった。

 

 

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山背王は即位するとすぐに、

 

蘇我王朝最初の官寺「百済大寺建立」を宣言した。

 

蘇我馬子と推古女王を弔う一大国家事業で約10年の歳月をかけて行われた。

 

和国初の官寺にあえて、百済大寺(現・大安寺)という名称を用いるのは、百済の武王に対する牽制であり、

 

暗に「和王すなわち百済王である」という

 

挑戦的な表現ともとれた。

 

上宮法王没後の和国の体制が決着して、留学僧と共に唐から来ていた恵日は唐へともどっていった。

そして、山背王は、和国からは初めてとなる遣唐使「犬上御田鍬」を唐へ同行させる。

 

唐の太宗皇帝は、その遠い道のりをあわれんで和国の歳貢を免じ、高表仁をつけて遣唐使「犬上御田鍬」を送りかえした。

 

高句麗、百済からも使節が来和し、迎賓館を改修するなど、誕生したばかりの和国の蘇我王朝は、饗応が続いていた。

 

 

 

高向玄里は、山背王の態勢が決すると、百済武王を和王に即位させることはひとまず諦めて、宝皇女と武王の関係工作を優先することにして、百済へと渡っていった。

 

 

高向の企みでは、百済武王は唐の冊封を受けていたため、もし百済武王が和国の王として即位すれば、そのまま和国は唐の冊封体制下に入ることが可能だったはずだ。

 

蘇我氏が昔、扶余昌を欽明聖王の入り婿にして、和国王に擁立したことを高向は真似たようだが、

武王に上宮法王の娘・宝皇妃をめとらせ上宮法王の婿の立場にしたところで、高向が武王を和国王に擁立することなど容易に出来ることではなかった。

 

高向は、才気はあっても大局をつかむ心がなく、またそれを欠点として認めて補おうという気もない。

 

 

上宮法王の娘である宝皇女は、即ち和国王の継承権であり、やがて後にそのことが百済王家側の火種となっていった。

 

 

【宝皇女とイリ】

高向玄理は時折、宝皇女と二人で和国の丹後国に立ち寄り、大海の里に預けていた漢王子「イリ・ガスミ」の様子を見に行っていた。イリは、丹後国大海の里の長老・大海宿祢の館で暮らしながら、読書きや体術の基礎を習っていた。

 

 

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大海の里の翁 大海宿禰

 

丹後は、587年に蘇我氏連合と物部氏が戦った丁未の乱で、推古王女が難を避けて避難して、数年間滞在していた場所であり、和国の中では比較的安全な地域だった。朝鮮半島に近く、海を渡ってくる新羅人も多く、イリは和国の言葉や漢字だけでなく新羅の言葉も習っていた。

 

(京丹後市間人=タイザ。推古王女が滞在し「間人」の地名を与えたことでタイザと読む)

 

物心がついて以来、季節ごとに時おり父高向がやってくることを、イリはいつも心待ちにしていた。父と共にやってくる宝皇女にとても良く懐いていて、ハワさま(母)と呼んでいた。そして、宝皇女が本当に自分の母親だと思っていた。西アジア系の宝皇女は、和人や韓人よりも彫が深く、美しい顔立ちをしていて、大海の里の者も誰もが羨望し、母と二人で過ごす時間は、イリにはとても気分が良く心が躍る思いだった。

 

しかし、ある日突然、父高向から

 

「もう、母と呼んではいけない」

 

と、言われてしまい、その上もう二度とここ大海の里に会いに来ることは無いと告げられた。

まだ幼かったイリにとっては、母を慕う気持ちが強かった為、それは強烈な喪失体験として、引き離した父への恨みを含み心の深くに残っていった。

 

季節が巡る度に、イリは

 

「父がなんと言おうとも今度こそ母は来てくれるはず」

 

と期待し、心待ちにしていたが、百済の武王妃となった宝皇女は二度と、イリの前に姿を見せることはなかった。

 

イリに会いに大海の里へやってくるのは父高向だけで、「期待しても叶わない」ということが何度か繰りかえされていき、年を追うごとにイリには「母に捨てられた」という喪失体験となって、心に寂しさが深く沁みついていった。

 

 

「何故、もう会えないのか」

 

その訳もイリは一切教えて貰えず、何度イリが尋ねても父高向は沈黙し続けた。

 

幼いイリの心は、もうそのことに心を閉ざすことでしか前に進むことができなくなっていた。

 

イリの閉ざされた心は開くことはなく、イリ自身もそうと気づかぬうちに心の底に得も言われぬ「虚無感」を内包したまま人生を生きていくことになっていく。

 

 

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  高向玄理  と イリ

 

 

高向は、イリの気持ちを他所に宝皇女を思惑どおり、百済武王の妃にしたが、武王の胸の中には大望などなく、王位継承権の無い自らの出自を補うため、「上宮法王の血統」という貴種にただ高向の勧めるままに飛びついただけのようにおもわれた。

 

高向は、武王に対し

 

「宝皇女を娶った後は、百済の大臣であった蘇我氏から和国を取り戻すために、和国王の継承を」と説得して、

 

武王はその提案を仕方なく受け入れた。

 

しかし、高向の野心に反して、武王は全く乗り気ではなく、現在の百済政権を維持するための消極的な対応でしかなかった。

 

そもそも、エフタルの血も引いている武王が、百済王につけたことだけでも奇跡であり、上宮法王が血統より実力主義をと用いたことで可能になったが、武王だけの力で血統主義を排除して王になるなど到底不可能なことである。

 

武王には、和国に進出し和国と百済の両国の王になるという力も野心もなく、また唐の力を後ろ盾にして画策する高向にも、武王を擁立して蘇我王朝を倒すほど勢いはなく、和国で即位すること等はできなかった為に、

 

百済で

 

「舒明和王」と、

 

名乗るだけに留まり、百済・和国の両国の王を継承するという姿勢だけをしめした。

 

(あせることはない)

 

と、高向は思っていたが、

 

彼の仕込んだ武王と宝皇女の婚姻は、いたずらに策を弄しただけで和国の蘇我王朝には全く影響はなく、ただ無意味に幼いイリの心を傷つけただけだった。

 

 

そして、高向も到底、予想だにできないことだが、百済王室に上宮法王の血統を入れてしまったことは、未来に「乱世への火種」を蒔いてしまったことになり、この火種はやがて、百済から和国へと燃えうつり、やがては「壬申の乱」という大戦へと至り和国を焼き尽くすことになっていく。

 

 

唐は、高向の弄した一連の策には沈黙していた。

 

 

唐の標的はまず高句麗であり、今しばらく百済や和国へは力をいれず離間策をとっていて、親唐派と反唐派を争わせて国力を低下させることを目的としていたので、どちら側に味方しても対立を深めて、結果的に国内の争いを長引かせられればそれでよかった。

 

630年、

唐の李靖将軍は東突厥を滅ぼし、いよいよ唐は高句麗に迫ってきた。翌年、高句麗の栄留王は、隋に勝利したことを記した戦勝記念碑である「京観」を唐の命令に従って破壊してしまった。

 

唐と隋で国は違っても、高句麗が中国に勝利したという記念碑が国境よりに建てられていること自体が目障りであり、この破壊命令に栄留王が従ったことによって高句麗国内で燻っていた反唐派は激しく抵抗をはじめた。

 

高句麗栄留王は、唐に対して従いつつも、いよいよ唐が侵攻してくることに恐れをなし、反唐派のつきあげもあり、大急ぎで扶余城からの防衛線に「千里の長城」の築城を開始する。

 

 

 

 

【百済の三つの星】

 

 

【挿絵表示】

 

 

高句麗は唐の傀儡となってしまい、新羅はエフタル王家が残り、和国は蘇我氏のものになってしまい、半島から列島にかけては突厥と上宮法王の残滓が残る国は百済のみになってしまっていた。百済は和国と違い、蘇我氏の勢力は弱く、百済・八大部族の筆頭の「沙宅一族」が百済王家の外戚として権勢を振るっていた。

 

そこへ、高句麗の嬰陽王の皇子ウィジャが和国から渡ってきて、武王の養子(元子)となり、新羅への猛攻を加え勝利し快進撃を続けるようになった。高句麗、新羅、百済が唐の冊封体制下に入り、和国も親唐になってゆく中で、先代である高句麗の嬰陽王の志を継いで反唐を貫き戦い続けるウィジャ王子は、「高句麗の彗星」と呼ばれた。

 

宝皇女は百済武王に嫁ぐとすぐに懐妊し、皇子が生まれて630年には正式に武王の皇后となった。

百済の武王は、威徳王敏達の皇女を娶っていたが、武王自身は王族ではなかったので、ここで上宮法王の娘である宝妃との間に皇子をもうけることは、百済・和国の支配階級の血統として申分がないことだった。武王皇后となった宝妃は、武王に願いでて金馬渚の弥勒寺に仏塔を建て父上宮法王の菩提を弔った。

 

宝皇后の産んだ皇子の名は「キョギ」といい、後に和国に渡って天智天皇として即位し、和国・上宮法王の王統を継ぐ。

 

ウィジャ王子にとっては義姉にあたる宝皇妃が皇后になり、百済王室での存在感を強める一方、ウィジャ王子もその勢いを増す。

 

蘇我氏に簒奪された和国奪回への野心は捨てず、631年にウィジャ王子の息子の「豊璋」を和国へと送り、そして、和国の安曇比羅夫(比羅夫=外交・外征を行う者)を、百済の「駐百済大使」に迎え、百済・和国の手綱として確保した。

 

豊璋は、ウィジャ王子の間者であり、豊璋の使徒たちは和国の情報収集と探索を行っていた。

豊璋は、和国で初となる養蜂をはじめた。和国の者はハチミツを食べたことはあっても誰もその作り方を知らなかった為、蜂の群れを嫌がり豊璋のもとに積極的に近づこうとする者もなく、諜報活動の良い隠れ蓑になっていた。

 

また、養蜂を嫌って豊璋のもとを離れた豊璋の弟分の塞上という者がおり、この者が手の付けようのない不良であちこちで悪さばかりしていた為に非常に目立ち、逆に兄の豊璋がそれを恥じて身を慎み密やかでいることも不自然ではなく、むしろ塞上は乱行によって和国の者の注目を集めていた。

 

ウィジャ王子には、もっと手兵が必要だった。

 

「先代の志を継ぐ!」と、呼号し、

 

志を共にする朋輩を率い疾風のように、親唐派の新羅を攻めたてて、

 

戦えば勝利し、新羅の領土と民を切り取り、次々と自軍に取り入れていった。

 

 

632年に新羅の真平王が没すると、エフタル王家の継承権のある直系(聖骨)の男子がいなかった為、真平王の娘の善徳女王が即位したが、ウィジャ王子はこの隙を逃さずすぐに新羅を攻め大勝する。

 

 

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善徳女王

 

そして、その軍事力と和国の蘇我石川倉麻呂の武力を背景に武王に圧力をかけて、百済武王と真平王の娘ソンファ妃との間に生まれた隆王子を退けて、強引に百済武王の皇太子となってしまった。

 

唐になびく和国、新羅、百済の三国の中で、反唐の志しを貫いて戦うウィジャ皇子は、翌年には新羅の西谷城を攻め陥落させた。

 

新羅よりであった武王にとっては苦々しいことだったが、百済では新参者のウィジャ皇子は、百済の既存の勢力に対抗する為にも、新羅攻めによって領地を攻め取り、反唐の為の兵力確保を着々と進めていくしかなかった。

 

武王は、百済に介入してくる蘇我石川倉麻呂や唐の手先となった高向などの意図をもとより汲む気もなかったが、上宮法王が残した体制の上で存在していた王位であり、また自分を王に引き立ててくれた亡き上宮法王への忠心もあった為、上宮法王の後継者のウィジャ王子を養子とし、上宮法王の娘を皇妃として娶り、蘇我氏に奪われた和国で、身の置きにくくなった上宮法王の身内を仕方なく引き受けるかたちになってしまった。

 

武王、宝皇妃、そして養子のウィジャ皇子、皆、上宮法王の縁者でありながら、それぞれに立場が違い、不思議な対立と力動を形成しながら百済王室は存在していた。

 

武王は、百済王家の直系ではなく上宮法王の後押しで即位した王だった為、立場は弱かったが、有力部族と外戚の勢力や外交によって支えられ均衡を保っていた。そして、武王は上宮法王の反唐の志を継ぐべき立場でありながらも、新羅の姫を娶り唐の冊封を受けていた為、親唐派の立場になっていた。

 

法王の娘である宝皇女の方がむしろ突厥勢には正統であり、沙宅一族の力を背景に王を凌ぐ勢いがあった。ウィジャ皇子は、上宮法王の後継者とされつつも高句麗嬰陽王の皇子でもあり、嬰陽王の反唐を継承して、高句麗、和国、百済へと渡ってきているだけに孤独で慎重だったが、保身の為に唐になびく武王に対しては反発していた。  

 

沙宅一族が宝皇妃を擁護していたため、ウィジャ皇子は、当初は沙宅氏とは派閥の違う有力部族である、燕氏や蘇我氏と結びつき立場をかためていった。

 

しかし、皇太子となり兵を動かし新羅の領地を奪うようになって、益々勢いづいたウィジャ皇子は、義姉の宝皇妃の養父であった沙宅大臣を強引に追い払ってしまい、代わりに自分の片腕である鎌足に沙宅家を継がせて大臣にしてしまった。

 

 

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大臣 沙宅智積(鎌足)

 

 

ウィジャ皇子の圧力によって沙宅家を継ぎ沙宅大臣となった「沙宅鎌足」は、もともとは「智積」と言い、ウィジャ皇子がまだ高句麗に居た頃からの側近で、反唐を誓いウィジャ皇子について和国、百済とめぐって苦労を共にしてきた側近中の側近である。

 

後に、和国に帰化し中臣氏と縁を結び中臣鎌足と名乗る。

 

宝皇妃の後ろ盾であった沙宅家を乗っ取り、ウィジャ皇子の権勢は更に勢いを増した。

 

 

百済で反唐勢力として台頭したウィジャ皇子は、強烈な存在感で、次第に若い世代からは支持されるようになり、特に百済武王とソンファ妃との間に生まれた、隆王子やケベク将軍など武王側の者でも、血気盛んな若者達は、反唐を貫くウィジャ皇子の影響を受けていった。

 

武王や百済の有力部族達など、どこ吹く風であるかの様に目もくれず、新羅と戦い勝利するウィジャ皇子は百済の武闘派の羨望の的となった。

 

(百済の有力部族などは相手ではない)と、

 

ウィジャ皇子は思っていた。

 

それなりに力のある百済の部族と関わり、その鬩ぎ合いの中に我が身を置いたところで、ウィジャにとっては足枷にしかならず、それよりも百済の外に力を向けて、自軍に引き入れられる領地や兵を確保していった方がはるかに実となった。

 

そして、勢い天をつくウィジャ皇子は、いよいよその矛先を和国へ向けていく。

 

 

 




後書きその②この小説を書こうと思った訳、、続き

古い歴史モノがあまりに少ないので、ならば自分で書いてみようと思い至って、


最も自分で読みたい時代を書くことにしました。

断然、650~700年頃

所謂、チョンマゲ武士など日本独特の文化が始まったのは紀元1000年を過ぎてから。六波羅ファッションブームからと云われてます(諸説あるかもしれません)が、

武士が登場する時代から遡ること500年前、聖徳太子の時代~

そして大化の改新・大宝律令の制定の律令化の時代で

古い部族社会の時代が終わり、
新たな中央集権と貴族社会へと急速に移りゆく時代、

和国が消滅し日本国が生まれる。


大国唐が興り、東アジアまでその野望は向けられ、白村江の戦いでは和国軍と唐軍は直接激突します。
                                 
この時代以外、史上、中国と直接刃を交えた戦いで、日本から朝鮮半島にまで出兵したこの様な大戦は過去にも未来にも日清戦争くらいしかない。

(秀吉の朝鮮出兵では加藤清正公が深く切込みましたが届かず、1300年を経て、日清戦争では奇しくも同じ場所で日本軍と中国軍は激突し、今度は日本側が勝利します)


なんとエキサイティングな時代だろうか、、

日本の歴史書『日本書記』の編纂が始まった頃でもあり、

この時代より~

『和国書記』ではなく、既に

『日本書記』なのです。

巷説の世界の中で、この時代で最も興味を惹かれる人物は、

天武天皇こと大海人皇子=ヨンゲソムン

そしてその息子の文武天皇、

新羅での名は金法敏=文武文武王です。

天武天皇は、唯一の正史となる『日本書記』の編纂を命じ、伊勢神宮の造営、現人神の思想、 律令化、肉食の禁止など日本の原型となる文化的影響を与え数々の偉業を成し遂げ、そして恐れられた人物。

元々、部族連合国であった和国に現人神の思想を持ち込み専制君主的な王権を確立した王たる王。

持統天皇や文武天皇は天武天皇の偉業を継ぎ、

遂には『日本国』の名で遣唐使を送り、

時の皇帝即天武皇(武媚娘皇后)に

『和国という国は無いのでもうその名で呼んではいけない。日本国と呼ぶように』

と、言わしめた。

日本建国の時代の立役たちです。

巷説の世界では天武天皇は東アジアの代表的な人物で、高句麗での名は宰相ヨンゲソムンとして偉業が知られ、日本海狭しと東アジアを暴れ回っていた人物だが、歴史の上では闇に封印されてしまっている為、

天武天皇とヨンゲソムンが同一人物として描かれた作品は存在しない。


日本が朝鮮半島との繋がりを歴史上封印したのは桓武天皇の時代以降と云われています。

巷説の世界の中でしか語られてない英雄

ヨンゲソムン=天武天皇

幼い頃より高句麗、新羅、和国、大陸を巡り、高句麗の大臣から宰相にまで登りつめ、遂には和国に渡り王にまでなった反唐の風雲児のストーリーを

どうしても読んでみたい。


無いならば、自分で書こう、、


と思い書き始めました。とさ



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第2章 高句麗「イリ・ガスミ」大臣

西暦632~640年、百済のウィジャ皇子は和国へと渡った。高向玄里の息子イリは、養育されていた大海の里を出て河内にある金一族の里・鵜野村へ修行に行く。その頃、ウィジャ皇子は和国で東の蝦夷兵を率い山背王に対して反乱を起こしていた。イリは父・高向玄理に連れられウィジャ皇子に会いに行った。その後、新羅の金一族のもとへ向かい、そこで出会った金ユシンの妹と結ばれ息子を授かる。
しかし、その幸せも束の間で終わり、また父によって連れ出され、今度は高句麗へ行かされ、イリは高句麗の大臣につかされてしまった。少年から大人へと育つ数年で、イリの世界は激しく変わり、若くして反唐勢力の渦に巻き込まれやがてイリは三国動乱へと加わっていく。

1話 和国の二つの花
2話 金一族
3話 母系国家
4話 ウィジャ皇子と高向玄里
5話 新羅・金一族
6話 高句麗大臣イリ


632年11月に遣唐使「犬上御田鍬」が和国に帰国し、共に唐からの初めての公式使節「高表仁」が来和した。

 

「高表仁」は難波に上陸し、江口にて大伴馬養が饗応し客館に安置したが、山背王は使節の饗応を隋の時代の上宮法王と同じように手配してしまった為、使節高表仁はその無礼に対して怒り言い争いになった。

 

そして怒った高表仁は唐皇帝からの言葉を和王に伝えないまま、633年早々に帰国してしまった。

 

唐皇帝からの言葉を伝えずに、唐へ帰国してしまった高表仁は、唐の太宗皇帝から

 

「使いの役に立たない」と詰られ、

 

「綏遠の才無し!」と激怒された。

 

唐は、これにより和国を冊封する機会を逸っしてしまい、一方、和国の山背王は唐の後ろ盾を受ける絶好の機会を逃したことになってしまった。

 

なんといっても和国は、アジア最果ての国である。唐にとって和国を冊封することは、皇帝の威光が隅々に行渡ったことを示す絶好の機会だった。

 

和国はその後、仕方なく親唐国の新羅を通じて唐との国交回復を必死に模索していった。

 

 

【和国の二つの花】

635年、唐の太宗に幽閉されていた初代皇帝高祖が没した。

 

また、吐蕃、石国、亀茲など唐の周辺国が次々と服属し唐へと朝貢してきた。

 

そしてこの年、最後まで唐に抵抗していた慕容氏の国「吐谷渾」を唐の李靖将軍が滅ぼし、唐の天下平定は、残すは東方となった。

 

 

唐の太宗は、極東の攻略へ全力を向けることが可能となり、翌636年には、新羅へ持節使を派遣して、善徳女王を「柱国楽浪郡公」新羅王に冊封し、父王の封爵を承襲させて正式に新羅を臣国とした。

 

唐の趨勢が強まってくると百済にいたウィジャ皇子は、636年7月、新たな兵力確保のため朝鮮半島から和国へと渡っていった。

 

当然、(隙あらば山背王を倒す)と、

 

闘いを心しての和国入りである。

 

 

【挿絵表示】

ウィジャ皇子

 

和国の東の蝦夷地にはまだ独立した小さい部族が多く、この者たちを切り従わせて、和国での援軍兵力を確保することがウィジャ皇子の目的のひとつだった。

 

(和国は西にしか目がいかない)と、

 

ウィジャ皇子はみている。

 

もともと軍事部族ではなく政治家だった蘇我氏には、膨張政策がなく、飛鳥から難波、九州、任那、百済と、もっぱらの関心ごとは西側の既存の勢力をいかに自分たちのものにするか政治的な介入だけを考え、エフタル族や突厥のように兵を率いて国を広げようという発想がまったくと言えるほどない。

 

蘇我氏の中での武闘派の境部摩理勢や石川倉麿呂でさえ、武力を政治的駆引きに使うだけで、勝利より賄賂を好んだ。

 

そのため、日本列島の東には、まだ手付かずの領地が広がっていて、地縁血縁の集団を持たないウィジャ皇子にとっては、かっこうの徴兵地であった。

 

和国以東の蝦夷族は、狩猟民族である。

 

農耕民族のように地面に縛られず獲物と共に移動するので領地権の主張もさほどない上、小部族が多かったために従え易い。

 

和韓諸国の農耕社会で蔓延る有力部族らの「私有民」よりも、比較的、移動性柔軟性に長けていて、一個旅団(500人)程度の編成に最適であり、100人将程度の指揮官が5人いれば良かった。

 

狩猟民族だけに農耕民族の兵より武器の扱いも上手い。

 

小部族達は「私有民」や「律令」が発生する隙間もないほど、長老から語り継がれる伝統を大切に守り、自然に生き、自然の恵みを糧として生きている単純明快な共同体である。

 

王の玉座はなく、神の坐す岩座があり、朝廷で政りごとを行わず、皆、天地の神をまつっていた。

 

素直に自然という不変の価値を敬い、自然の一部として生きている。人のあるがままの大道であり、仁義の害などが無い。

 

このような小部族は、アイヌ、粛慎、と呼ばれる狩猟民族であり、日本海沿岸から東日本、東北・北海道から海を渡った沿海州まで、広く分布し、しばしば農耕民族や騎馬民族の大部族の戦に駆り出されることが多かった。

 

狩猟民族には多数の部族があり、総称して粛慎と言い

 

アジア大陸北東から沿海州にいる【粛慎】を靺鞨族(マルガル)と言い、

 

日本列島の東北から北海道にいる【粛慎】を蝦夷族と呼んでいた。

 

和国へ渡ったウィジャ皇子は武王皇后の宝妃の御所である岡本宮へ入り、すぐに蘇我王朝の王である山背を挑発しはじめた。しかし逆に山背側の報復を受けて、岡本宮を放火によって焼かれてしまった。

 

ウィジャ皇子は蘇我蝦夷にも挑発を始めたが蘇我蝦夷は無視し続けた。

 

 

百済では武王がさっそくウィジャ皇子の排除に動き始めた。

 

ウィジャ皇子のようには武威が無いが外交の回転は早い。

 

和国の山背王といちはやく連絡を取り、

 

「隆王子を百済皇太子として正式に唐の承認をとり、ウィジャを廃太子にするので和国でも留保するように」と、言ってきた。

 

山背王はこれを了承し、それに怒ったウィジャ皇子は東国の蝦夷兵を率いて挙兵に踏み切ってしまった。

 

粛々と、募兵をしていた蝦夷の兵を組織し、東国にウィジャの旗をひるがえす。

 

 

蘇我蝦夷にとっても穏やかではなかったが、山背王とウィジャ皇子の争いを傍観し、

 

(どちらも好きなだけ争って疲弊すればいい)

 

と、望んでいた。

 

百済の武王も、ウィジャの挙兵が長期化することを望み、煩いウィジャ皇子がいなくなったことをこれ幸いと、新羅の善徳女王とも講和し、親唐派としての旗幟をふるって新羅、唐との関係を更に強化する。

 

 

百済の武王妃の1人に、新羅の金ユシンの兄妹の鏡姫が嫁いでいて、今度はその鏡妃と武王との間に生まれた8歳になる娘「額田文姫」を、新羅の王族「金春秋」の元へと嫁がせて、百済と新羅の国交をつないだ。

 

 

【挿絵表示】

 

額田文姫

 

そして、唐へは隆王子を遣わし、百済の皇太子として正式に唐の承認を得て、隆王子はそのまま人質として唐に留まった。

 

これで表面的に受けていた冊封でなく、名実ともに百済は唐に臣属したことになる。

 

 

百済・新羅・高句麗の三国とも唐の擁護を受けた政権となってしまい、反唐を貫くウィジャ皇子にはいよいよ世界に居場所が無く、孤軍奮闘となってしまった。

 

それでも尚、先代の志を継ぎ、決して屈しない、

 

孤高のウィジャ皇子の「孝徳」を讃えて、

 

人々は「東海の曾子」と呼んだ。

 

 

唐に阿り、王は地位と保身の為に国を売り、

 

極東の国々が皆、唐の臣国になっていくざまに憂いを感じた者達は、

 

「こんなことがあっていいのか」と、

 

義憤にかられ

 

反唐を貫き三国をめぐるウィジャ皇子の姿に、感銘を受ける者が出はじめていた。

 

上宮法王を見殺しにした世代を厭い、

 

大国唐を敵に回そうとも決して怯まず、

 

新羅を攻めとり、和国まで渡り兵をあげるウィジャ皇子の壮志に影響された者達が、

 

戦国には不向きな旧態依然とした部族社会から、こぼれ出るようにあらわれてきて、志道同合し反唐を誓って結びついていった。

 

百済国内でも、若い世代には血統を超えた愛国心が生まれ、武王の王子達や、ウィジャ皇子の息子「考王子」、共に戦ったケベク将軍や駐百済大使の安曇比羅夫など血気盛んな若者は皆、ウィジャ皇子を軸にした反唐で団結していく。

 

ともかく、ウィジャ皇子は、反唐の同志と、手兵を必死で集め続けてきた。

 

身ひとつで百済に渡って以来、徒手空拳で奔走し、新羅を切り取り領地とし、和国に乗り込み配下をつくり、既存の有力部族だけを頼り味方につけるというのではなく、新たな自分の軍団を持つ為に、駆け続けていた。

 

 

そのようにして、集めた反唐の志を持った壮士らは、ウィジャ皇子の旗のもとへ今、結集してきて小部族の統率にあたった。皆、壮漢な男ばかりである。

 

大陸側の沿海州の小部族と比べ、日本列島の小部族は戦に駆り出される経験は少なく、新たな臣従関係が形成される先駆けとなった。

 

しかし、山背側と比べ兵数は軍とは称しがたいほど少なく、

ウィジャの旗と軍装は美々しくはなかったが、

 

それでもなお、東国の兵を従えたウィジャ軍団の士気はともかく高かった。

 

「有力部族らの私兵ではない」という一点において、

 

それが、比類のない強みとなっていた。

 

まるで今にも和国に、二人目の王が立つかのような勢いであった為、

 

山背王とウィジャ皇子をさして

 

「和国の二つの花」と云われていた。

 

 

また、ウィジャ皇子を慕い百済国内で団結した反唐の壮士達を指してウィジャ団と呼ぶものもいた。

 

基本的に、地縁血縁でかたちづくられていた「有力部族」達とは違う、反唐という志でかたちづくられていく新しい勢力の流れが誕生しつつあった。

 

そして、唐打倒に燃える者達は、高句麗、和国、百済3国の国境を越えて、密かに会盟をかさねていく。

 

やがて、それぞれの国の主流派となってしまった親唐派を排除する計画をすすめていった。

 

 

 

【金一族】

大海の里で養育されていたイリは、少年になると大海の里から離れ、他の部族の里へ修行にでていた。大海の里からそれほど遠くはない河内の讃良郡(シルラ郡)の鵜野村という所に、古い部族である金一族の里があり、そこで他の部族の少年達と共に製鉄術や剣術、暗殺術などを学んでいた。

 

 

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 イリ

 

暗殺術を学ぶことは、自分を暗殺から守るために必要なことであり、武術を身に着けなけなければ自分の身を守ることはできないので必ず習得するようにと、父・高向玄里から厳命されていた為、イリは必死に修行をしていた。

 

 

                    

金一族は、「金スロ」王を始祖とする朝鮮半島から日本列島にかけて活躍していた製鉄の民である。

 

金スロは、製鉄の民を統べて【鉄の国】伽耶国を建国した。

 

 

 

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金スロ王(金=アルタイ)

 

朝鮮半島南部から九州北部までを勢力下に置き独自の海峡文化を形成していて、昔から、金一族の造る高度な鉄器は周辺諸国の垂涎の的だった。

 

遠くインドからも南洋航路(海のシルクロード)を渡り、伽耶国の鉄を求めて商人がやってきた。

 

製鉄には原料となる鉄鉱や砂鉄もさることながら、鉄の60倍もの薪を必要とする為、自然と森林地帯が続く日本列島深くへと進出していき、任那地方~九州、山陰地方~近畿にまでタタラ場を造って、良質の鉄を造り出して栄えていた。

 

高向玄理の名乗りと同名の「高向」の地もまた(福井県)、古くは鉄の産地である。

 

製鉄の民は、遊牧民族が、牧草や獲物を摂りつくしてしまう前に他の場所に移動しなければならないのと同様に、森林の再生力を残して別の森林へと移っていかなければならない。

鉄と薪を求め山から山へと渡り歩く山の民であり、古くは「海人」部族と比して「山人」(ヤマト)などとも呼ばれていた。

 

金一族は、日本列島各地に製鉄文化を根づかせると共に、「前方後円墳」という伽耶国式の古墳文化を残していった部族でもある。

 

本拠地は任那の伽耶国だったが、任那は常に和国や百済、新羅に攻められ併合され宗主国が変わってきた。

 

かつて欽明聖王が百済・和国の2国を領有し、任那もその傘下だった時代に、任那が新羅に攻め滅ぼされ、完全に新羅の領土となってしまうと、伽耶の王族らは新羅に吸収されて任那地方の領主(安羅地方、高霊伽耶地方)となった。

 

その時、王族として来和し、たまたま和国に滞在していた金氏(金庭興)は、そのことを恥じた。かつて金庭興は百済軍と戦い百済兵一万を討ったこともある豪の者で自尊心も強く、そのまま任那には戻るのは潔しとせず和国へ残留し、十代目鏡王を名乗って定住した。

 

その地が金一族の里「鵜野村」だった。

 

 

 

 

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  第10代目 金庭興

 

金一族の製鉄は、優れた剣を生む。強くあるためにはより優れた製鉄が必要であり、常に製鉄技術の進歩と共に剣術は進歩していた。

逆に、振る、払う、突く、受ける等の剣技の発達と共に、それらの動作に合わせた剣の製鉄も進歩しなければならず、製鉄と剣術が両裏一体の時代を金一族は生き抜いてきた。

 

また鏡とは、剣と同様に、製鉄技術の粋を集めた製品であり、製鉄の民にとっての象徴であった。

 

剣も、鉄の強度だけでなく研磨技術によって完成される鋭さが伴って強くなるものだ。

 

後世、硝子製の鏡が発明されるまで、人々は胴を磨き上げたものを鏡として使っていたが、金一族は乱反射が全くない研磨技術の証として鏡を使っていた。

 

薄く硬い均質な肉厚で精巧に磨き上げた鏡は、水面に光を映すだけですぐに金一族の鏡と分かるほど群を抜いていた。

 

この為、金一族を統べる者は『鏡の王』という。

 

※王家の神器は、後に『勾玉』が加わり三種の神器となるが、この時代までの王家の神器は『鏡』と『剣』が主流であった。

 

 

 

金一族の里で修行中、

 

イリは他の部族から修行に来ていた少年達より思わぬ虐めにあっていた。

 

中国人は野蛮な民族で、イリが漢王朝の末裔であるというだけで、野蛮人として扱われ差別されていた。イリを仲間の輪には入れず、周囲からは軽蔑と中傷が向けられた。

 

和国は伝統的な多民族国家であり、アジア大陸から日本列島まで逃げてきた亡命者や流民を大勢受け入れてきた歴史があった。

 

アジアからの移民は部族を率いて渡ってくる者が多く、それぞれ部族ごとに入植地に定住をしていたが、北アジアの遊牧民族や西アジアのユダヤ人、中国人に圧迫され逃げてきた東南アジア、東北アジアの民族が多く、中国人(漢民族)はどちらかというと和国では少数派の民族だった。

 

養育されていた大海の里では、

 

「自分が中国を統一し400年も続いた漢王室の血統である誇りを忘れるな」と、

 

教えられていたイリには、何故、漢民族がその様な差別的扱いを受けなければならないのかが分からず、修行の場は尚更苦しい場所となったが、孤独だったイリはことさら懸命に修行に打ち込み続け、父が訪ねてくる日を待っていた。

 

 

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父、高向玄里が金一族の里にやってくると、イリは真剣な面持ちで

 

「何故、漢民族は差別されるのか」と

 

問いただすように尋ねた。

 

高向は、少し驚きつつも、漢民族と遊牧民族の違いを語りはじめた。

 

 

【母系国家】

アジアの中心の国「中国」は中国人である漢民族が王朝を建国した。

 

漢民族は、農耕民族であり、昔から中国に流れる大河、揚子江や黄河流域に住み農耕を続け、文明を築いてきた。

 

中国の周辺は皆、遊牧民族であり、常に中国は遊牧民族からの侵攻を受け戦い続けてきた。

 

先祖が切り開いてきた田畑を耕し、土地に定住する漢民族と違い、狩猟や牧畜を続ける遊牧民族達は土地に縛られることなく、常に移動している。牧草や獲物を摂りつくしてしまう前に、他の場所に移動しなければ食糧を確保することができないので、広大な範囲を土地から土地へと渡り歩いている民族だ。

 

漢民族と正反対の様な遊牧民族は、文化や習慣も、ものの考え方も全てが違うことを、高向玄里はイリにゆっくりと説明した。

 

イリは、漢民族と習俗が違うというだけでは

「野蛮人」とまで言われる理由が分からないと更にたたみかける。

 

高向玄里は覚悟を決め、成長する息子のために古事の逸話をいくつか語り始めた。

 

 

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高村玄里

 

まず大きな違いは、漢民族は男系社会(ウル)で、王の世襲も男性の血統が代々継いでいくのに対し、遊牧民族やユダヤ民族、和国など血統を神聖視する民族は母系社会(ハラ)で、代々女性の血統を大切に守っていく習慣があることを説明した。

 

「その昔、漢の使者が遊牧民族の元へ遣わされその風習にふれたとき、遊牧民族の高官に向かって『父と子が同じゲル(テント)で生活し、父が死ぬとその継母を息子が妻とし、兄弟が死ぬと弟がその妻を娶って妻とする遊牧民の風習が野蛮である。』と非難したところ、その高官は『我々は家系を大切にしているだけだ。漢のように家族や親族で殺し合うような野蛮ことはしない』と皮肉まじりに反論したことがあった。このことが史書に書かれて以来、彼らは漢民族を指して親子兄弟で殺し合う野蛮な行為の代名詞であるかのように語るのだ。

 

遊牧民族の場合、母系の血統を神聖なものとして重視している為、王が亡くなっても王妃はそのままであり、次々と新たな王を婿にしていく。父が死ぬと、義理の息子が母を妻にしその者が死ぬと弟が娶るこの習慣のことは、西アジアの民族が信仰する景教(キリスト教)の聖書にも救世主の言葉に書かれていて、中国の漢民族以外の多くの民族にとっては当然の常識で、決して野蛮なものではない。(レビラト婚制)

 

そして、遊牧民族はどんなに乱れようとも必ず同族の者を王に立てる。

 

一方、漢民族は男王を権力の象徴として重視し、男王は幾人もの妃を娶る。中国を初めて統一した秦王朝の時代に、『嫪毐(ろうあい)の乱』という事件があった。宰相の呂不韋という者は長年、王妃との不倫を続けその後は嫪毐という者が王の後宮へと入り込み太后との不倫を続けた。密通により息子が生まれ、嫪毐は反乱を謀ったが失敗に終わった。宦官制でも守れなかった失敗であり、王妃は、必ずしも男王の子を宿すとは限らないのだが、密通が露呈しない限り、王妃が産んだ子は王子であり、王になってしまうのが男系社会の特徴なのだ。

 

たとえ王妃の意思でなくとも、意に反し力づくで犯されてしまうこともある。その様なとき、誰ひとりとして『父親が誰であるか』を知る手立てはないのだ。複数のものと密通すれば産んだ母でさえ誰の子か分からない。人はみな、生んでくれた母を知ることはできても、父を知ることはできない。だから漢王朝のような男系の王が世襲する中国では、皇子といっても本当に王の血をひいているかどうかなど分からないのだ。

 

王の血統という純粋な血統を守るためには、常に女性の血統を継いでいくしかない。

 

何故ならば人は必ず、母から生まれるものだからだ。

 

母が王統であれば、父親が誰であったとしても、必ずその子供は王の血統を継いでいる。

 

人間が女性から産まれてくる限り、女性の血統でなければ万世一系などはありえないのが現実だ。

 

恐らくそのありようは正しく、それが女系の血統を重んじる意味であり、そうした習慣がない漢民族を野蛮だということの根には深く、代々受け継いできた血統とそうではない血統があり、遊牧民ほど血統を神聖なものとして受け継いでいない漢民族への皮肉でしかない。

 

確かに、中国では血統よりも力が全てであり、それは野蛮なことかもしれない。もし本当に血統が大切に守られるならば、我々のように漢王室の血統である父子が、和国にまで落ち延びる必要もなかったであろう。」

 

イリは、血統を大切に守り継いでいこうとする民族と、血統よりも力が全てである民族がいることはおぼろげに理解できた。

 

 

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イリ

 

 

「和国は、元々母系を大切にする小国が多かったのだ。力のある者が前王を退け王位につく時も、必ず先代の王の姫を王妃にすることで王となる。

 

漢民族が考えるような武力破壊で完全に相手を倒す中国的な王朝交代(易姓革命)などはせず、前政権の母系を和合する緩やかな王権交代なのだ。エフタル族の大渡王が和国を統一してからは男系の王権が強くなったが、母系を継ぐことに変わりはない。前王朝の血統は必ず根絶やしにしようとする中国では絶対にあり得ないことだ。

 

母系血統をついできた和国では、おそらく只の前王朝の血統の姫ということではない。前王朝もその前の前々王朝の姫を王妃とし、その前の王もその様に母系血統を受け継ぎ、権力者達が交代する度に代々受け続いてきたことなのだろう。」

 

「だが、中国は北と南で文化がまるで違う。

 

黄河流域と長江(揚子江)の南、江南地方の国々は今でも異なる。

 

もしかすると、南北が統一される前の遥か古代では、江南地方の国々などは女系国家だったのかもしれない。

 

女性が戸主となり代々母方の姓を継ぎ、今の様な結婚制度はなく通い婚で

、子供は皆、里で育てられた。

 

そもそも、「姓」という漢字も、

 

どの女性から生まれてきたかを示すものだ、、」

 

、、、

 

「しかし、胡族(胡族=遊牧民族らをさしていう総称)の奴らもおかしい。

 

中国の外側で暴れているうちは自分たち胡族の習俗を誇っているくせに、中国に乗込んできて中国の支配者になると、とたんに中国人の真似をする。今の唐も隋も、皆もとはといえば鮮卑という胡族出身なのだが、それが中国人の様に中国を治めているのも滑稽に思える。

 

漢王朝が滅んでしまった後も、ずっと匈奴や鮮卑のような胡族が中国を支配してきたが、もともと、中国で中国人が開いた王朝は漢王朝だけで、昔の周や秦王朝でさえも胡族の王朝だと云う史家もいる。中国は、ずっと胡族の連中が力で支配してきた国で、胡族の奴らといえど力を選んでしまえば、伝統を捨てることになってしまうのだろう。遊牧をやめた遊牧民は、胡族の血統を放棄し漢民族の様に農耕社会にいきているのだ。」

 

 

 

 

イリは、理解が及ばずとも黙って父の話しを聞いていた。

 

 

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母がいなくなってしまったイリには

 

「人は皆、母から生まれる」という至極当たり前の言葉だけが、

 

心に深くしみこんでいった。

 

 

(その説明だと、本当に自分が漢王室の血を引いてるかどうかなど分からないことになる。)

 

イリは父や母と一度も一緒に暮らしたことがなく、本当の両親か確かめるということさえも分からなかった。

 

「本当に父さんと母さんの子供なのか?」と不安になるイリに、

 

「間違いなく私の子である。例え確かめる手立てがなくとも父になれば自分の子供のことは必ず分かる」と、高向は力強く念を押した。

 

しかし、結局のところ生れがどうであれ血筋が何であれ人は、力を持たなければ生き抜くことはできないので、しっかりと強さを身に着けるようにとも念を押した。

 

 

【ウィジャ皇子と高向玄里】

この年に起きた、ウィジャ皇子が山背王に対して、蝦夷兵を率いて挙兵するという事件は、修行中のイリに大きな衝撃を与えた。

 

新羅や唐の戦の話しを聴くのみで、和国内での兵乱などというものは体験したことがなく、それも王に対して兵をあげるということは想定の範囲を超えた事件だった。

 

イリは、実際に自分が剣を振るい修行をしていることも何の役に立つかと、実感がわいたことはなかった。戦というものがよく分からないままに武術の修行をしていた。しかし、大海の里の宿祢から何度も聞かされていた「東海の曾子」反唐のウィジャ皇子の存在は知っていた。そのウィジャ皇子による兵乱が修行中に起き、イリには現実として武力を身近に体感する出来事となった。

 

イリの父高向玄里は、遣唐使の返礼使節・高表仁が怒って帰国してしまった時、共に唐に渡ってしばらく唐と和国の国交回復の為に奔走し続けていたが、新羅を通じて間接的に唐と和国を通交させようと図り、まず和国と新羅を結ぶ為、一旦和国へと戻っていた。

 

そして、金一族の里に寄立ち寄ったところである。

 

その後、息子のイリを連れ出して、高向は挙兵したウィジャ皇子の幕舎を訪ねていった。

 

高向玄里は、ウィジャ皇子を高句麗から追放した親唐派の栄留王の大臣である。

 

ウィジャ皇子にとっては憎き仇の片割れ高向玄里が突然、しかも堂々とやってきたことに

 

「吾を訪ねて来るとはいい度胸をしている」

 

と驚いたが、ともかく引見することにした。

 

 

 

【挿絵表示】

 

ウィジャ皇子    高向玄理      イリ

 

蘇我氏などの外戚勢力の様に娘を嫁がせることなく、身一本で、王族と渡り合い、結びつくことのできる政治家は、ここ和国では、高向玄里しかいなかった。高向は唐に帰順し、唐の力で高句麗の大臣となり、上宮法王の娘宝皇女と出合うと武王との結婚を取り持ったことで百済王室と結びつき、そしてまた今度は和国と唐の国交回復の為に、新羅王室とも結びつく強か者だった。

 

高向玄里は、百済武王を和国王に擁立しようと武王に接近したものの、親唐派か反唐派かと言う以前に、武王は想定以上に弱腰であった為、見切りをつけ、ウィジャ皇子へと接近を始めた。

 

高向が企むのは、百済・和国の両国の王位に立てるほどの器がある人物と結ぶことで、ウィジャ皇子との接見では、腰を低くし

 

「親唐派か反唐派ということではなく、互いにまず倒すべき蘇我王朝と山背王という共通の敵がいることを確認し協力してこれを討つためにまかりこしました。」と

 

そのための策略を提案した。

 

ウィジャ皇子は高向玄里の言に耳を傾け、幾つかの献策を受けたが、

 

(本当に唐の手先なのだろうか)と思えぬもの言いに、

 

(こいつはくえない奴だ、、)と

 

まず解釈したが、かといって警戒することもなく、策士を得たとほくそえんだ。

 

大望を成すためには、虎狼とでも手を結ばなければならない。ウィジャ皇子は、

 

「反唐派」などと言っても、親唐派が父の仇であり、自分を高句麗から追いやった敵であることを知っているだけで、その実、大国「唐帝国」そのものについては何も見えてなかった。

 

高向を通じて唐という国の有り様を知り、唐との二重工作であることを織り込み済みとしても、高向玄里から唐の情報を得て、唐の出方を伺うことは、戦略上必要なことであると知り、高向ともつながる政治的配慮への自覚をウィジャ皇子は持ちはじめた。

 

そして改めて、

 

「そのほうは、吾の味方か?唐の手先ではないのか?」

 

と、高向の言葉の奥の動機を問う。

 

「私は唐の手先であることは間違いありません。ですが、武王の味方ではありません。山背王と蘇我氏を除くという点では敵の敵は味方という事で、ウィジャ皇子様の味方でございます。」

 

ウィジャ皇子はこの高向の返答に呆れた。

 

「ともかく、山背王などいつでも討てます、徴兵まで行い集めた兵を一兵たりとも山背王との戦などに使うべきではなく、今は百済の親唐化で、武王が強力になりすぎているので、まず武王を止めるべきです」と、

 

鉾を納めて百済に戻るよう説得し、これから自分が和国の使いとして唐に向かうので、その後の出方で兵を動かすべきだと諭し、ウィジャ皇子もこれを受け入れた。

 

武王に見切りをつけた高向は、次は、百済・和国の両国の王にウィジャ皇子を擁立する為の工作に動き出していた。不遜な高向は、その目的のためにはウィジャ皇子の手兵さえも自分の持ち駒の様に捉えている。

 

百済を武王にいいようにされて、ウィジャが和国の王になれば良いという事ではなく、ウィジャ皇子が百済を制し、和国の王とならなければ高向の大望にとって不足なのである。

 

高向が望みは、まずは百済・和国の両国の王座を再び統一することだ。

 

上宮法王が和国を治めて以来、和国の兵には大戦経験がなかったが、例えどんなに士気が高かろうが、東国の兵だけで本気で今の蘇我氏に勝てるとは思ってなかった。

 

陣地取りは進めていたが、幸い、まだ大きな衝突は起きてない。

 

高向は、

 

「へたをすれば、物部守屋の二の舞となる」、

 

とまでは、言わなかったが、

 

内心、

 

(ウィジャ皇子の和国内戦は何としても止めなければ)と、思っていた。

 

ウィジャ皇子が、兵を撤退させ、

 

「百済に戻る」と、

 

すぐに決心したことに安堵した。

 

 

ウィジャ皇子は、同伴されてきた、高向玄里の息子イリの存在を知ると、近くに呼び修行を誉める言葉をかけた。

 

そして「父のようにはなるなよ」と

 

笑いながら背中を撫でた。

 

イリにしてみれば、軍中に足を踏み入れたことだけでも驚きだったが、超人的な遠い存在に思えていた「東海の曾子」「孝徳の皇子」と呼ばれたウィジャ皇子から直接誉れの言葉を貰った栄誉に感激していた。

 

そして、ウィジャ皇子と高向玄里の会食に同席し様々な話しを聴かされ、高句麗とウィジャ皇子が生きてきた世界を知ることになり、イリは蒙が開かれた。

 

ウィジャ皇子の帷幕も、不断の戦を続けるウィジャ皇子には日常的な風景だったが、イリには戦そのものを体験したかのような衝撃を受けた光景だった。

 

ウィジャ皇子の帷幕はよく管理され、衛士も厳選されている。かがり火に照らし出される凄然とした立ち姿は、イリがいつも金一族の里で武を競い合っている者共とは違い、遥かに凌ぐ武威を感じさせた。

 

(上には上がいる)と、

 

少年のイリからみれば、大人である、皇子の護衛につくほどの実力のある兵士を、イリが武を競う相手の延長線上にみていた。

 

 

この会食以後、ウィジャ皇子は高向玄里を策士として受け入れる。そして高向の提案どおり早々に陣払いをし、他日を期して百済へと戻った。

 

後に、ウィジャ皇子が和王に即位すると、高向玄里は国博士の地位を与えられることになる。

 

 

ほどなく、

 

金一族の里で修業をし終えたイリは、再び父高向に連れられて、和国を離れて次の目的地である新羅の金氏のもとへ行くことになった。

 

イリが養育されていた丹後半島の大海の里は新羅に近く、文字通り大海を渡ってやってくる新羅人が多かったが、イリ自身が海を渡って新羅へ行くのは初めてのことだった。

 

小雨の降る中、船に乗り、イリは少年時代までを過ごした故郷を離れて海を渡った。

 

 

 

【新羅・金一族】

新羅へゆくと、イリを待っていたのは、金ユシンと伽耶系の新羅・金一族だった。

 

イリは、父高向の計らいでファランの風月主(青年軍将校)の金ユシンに武術の訓練を受けることとなった。

 

金ユシンとその妹の鏡宝姫と出逢ったことで、イリの世界観は大きく変わってしまった。

 

唐の臣国となった新羅の家臣でありながらも、唐に屈することを厭い、反骨精神に滾る金ユシンの話をきかせられているうちに、イリ自身も反唐思想に目覚めていった。

 

高向の一族と新羅の金一族の縁は古くから続いている。

 

400年前、漢が滅んで高向の祖先らが東方へ落ち延びていき、朝鮮半島にたどりついた阿智王が高向の祖先であり、その頃より金一族との縁を結んだとしていた。

 

 

 

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金ユシン

 

イリは、ハワ(母)と慕っていた、宝皇妃が上宮法王の娘であることから、政略結婚をさせられ武王の皇后となったことも金ユシンから聞かされてしまい、父高向に対しての不信感を強めていく。

 

また宝皇妃とウィジャ皇子が義姉弟であることも知らされて、イリは驚き、つい最近会ったウィジャ皇子と過去のできごとが、イリの中でひとつに繋がった。

 

そして幼かった頃、大海の里で父高向から、

 

「もう母と呼んではいけない」と言われ、

 

突然引き離されてしまった時の悲しみが思い出され、その悲しみは全て父高向への怒りに変わった。

 

新羅の中では金ユシンらの一族は傍系であり、差別を受けていたが、それでも尚怯むこともなく、高い志を決して諦めずに持ち続ける金ユシンの心の強さと、その武術の強さに憧れ、父への反抗と自我の目覚めの時期と相まって、イリは金ユシンに心酔していった。

 

金ユシンとその妹達は、新羅に滅ぼされてしまった加耶の王族・金庭興の子孫であり、もともとはイリが修行をしていた和国の金一族の里「河内国ささら郡(シルラ郡)の鵜野村」の生まれで、イリと同じように和国から新羅に渡ってきた。新羅の金一族の中でも新参者なのである。

 

そのことも、新羅に初めてきたイリにとっては、金ユシンの存在がより身近に感じられる理由の一つとなっていた。

 

14才になるイリは、金ユシンの生きざまに触れるほど血が滾った。

 

和国では出会うことのなかった類いの人物で、

 

金ユシンは「士」である。

 

 

士の心を持って天下に望むことを志という。

 

まだこの時代には、『壮士』という言葉はあっても「武士」という言葉は存在しない。

 

和国には物部(もののふ)という独自の訓みが存在していたが、物とは刃物や兵器のことを言い、軍事部族の物部氏や軍団を差して言う総称であり、後世の武士(もののふ)の様に個人の士道を差して言う言葉ではなかった。

 

イリは、勇壮な「士」で在りたいと望んだ。

 

親唐派の新羅にありながら、臆することもなく反唐の志を持ち、誰にもてらうことなく畏怖堂々とした金ユシンの姿に感銘を受けたイリは、

たまらず

 

「天下に剣を振るい共に唐を両断する」

 

と反唐を誓った。

 

 

地縁血縁の無い世界で、父に言われるままに生きてきたイリには、自分の存在に対しての肯定感がうすく「自分の身を守る」ということさえも、実感があまりわかない。

 

実際、自分の身を守らなければならないほど、「自分が大切な存在である」といった肯定的な経験をしたことがなく、子供時代はただ無為に茫漠とした日々を過ごしていた。

 

自分を守るなどという自己肯定よりも、唐と戦うという様な攻めの効力感の方こそが、イリにとっては血が騒ぎ自己が高みに登る感覚が強く、陶酔感さえ感じた。

 

「反唐」という言葉は、

 

自我の目覚めの時期に出合った、新たなその感情を鷲づかみにし、武威を張る自分自身にイリはあらためて存在価値を感じた。

 

やがて、金ユシンのもとで過ごすうちに、

 

イリは、金ユシンの妹の鏡宝姫と結ばれて、義兄弟となる。

 

「結ばれた」

 

というよりは、半ば強引に、

 

イリは深い関係になろうとした。

 

周囲に認められるためには善悪の区別の考えよりも、まず動くことで経験値を高める年頃である。

 

イリは、和国では感じることのなかった「帰属感」を求め、新羅・金一族と憧れの金ユシンにもっと近づきたかった。

 

金ユシンは、妹の鏡宝姫は金春秋に嫁がせるつもりでいた。

この為、妹がイリの子を宿したのではないかと衝撃を受けると刹那、なんと妹を焼き殺そうとした。

 

イリの子を宿した妹を焼き殺すとは、なんと残酷な考えだろう。

 

妹というよりも、金庭興の子孫であり、加耶王家の血を引く「王女」としての鏡宝姫に対する仕打ちである。

 

そもそも、女性血統を重んじる世界では、王女に自由恋愛など許されない。

 

誰と結び、誰の子供を生むかによって、一族の未来がかかっている。

 

金一族は、今や国を持たない王位を持たない血統だけの王族であり、

 

王位に返り咲くか、

 

王の血統を庶民に埋没させてしまうかは、

 

今、誰と結ばれるかに掛かっている。

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

金製鉄の民を統べ【鉄の国】伽耶国を建国した初代金スロ王

 

一族の全てを背負い血統を統べる立場にいる以上、身勝手なことは許されないのだ。

 

イリの子供が生まれてくることも許せなかった。

 

鏡宝姫は、突然の兄の仕打ちに泣き叫んだ。

 

磔にされ、足元には薪が並べられていく間中、涙ながらに許しを請うていた。

 

どれほど命乞いされても金ユシンの決心は揺らがなかったが、

 

薪に火がくべられた刹那、

 

母となる鏡宝姫は命の限り叫んだ!

 

「私は、王となる子を産む!この子は必ずや国のためになる子、決して誕生を阻んではならぬ!凶雲に光を照らす明星の子を殺めてはならぬ!!」

 

と、宿った子を守るため全身全霊をかけて叫んだ。

 

 

母となった妹の叫びは言霊となって金ユシンの心に響いた。

 

金ユシンは過激な一面を見せるも、結局は妹を焼き殺すという愚かな行いは出来なかった。

 

感情と思考を巧妙に切りかえていき、金ユシンはイリとの子を受け入れた。

 

高句麗の大臣・高向玄里の息子であり、金一族と旧知の間柄としてイリを請けた以上、そこから派生する出来事にも金ユシンは将来を見据えている。

 

金一族を率いようとする金ユシンの志操は、時に格上のはかりしれなさがあった。

 

しかし、この金ユシンの過激な振舞いによって金一族の王女達は、王の血を引く自分達の生きる道の厳しさを知った。

 

鏡宝姫は、腹の子を守りぬきやがて新羅、和国の王となる子を産む。

 

イリは初めて父になった。

 

637年、無事に元気な男の子を授かり、その子に

 

「法敏」(ボムミン)と名付けた。

 

 

後に法敏は朝鮮半島に君臨し新羅・和国の文武王となる。

 

 

(家族とはこんなものか)

 

という実感が、イリの胸に溢れた。

 

父は唐から和国まで奔走する政治家であり、血の繋がった家族と共に過ごしたことがなかったイリにとって、新羅でできた家族・鏡宝姫と法敏、親子3人で過ごす時間は味わったことの無いほどの幸せな時だった。

 

幼い頃から、和国の大海の里で体術の基礎を身に着けていたイリは、武術の上達も群を抜いて伸びていき、新羅のファランの間でも

 

「和国から凄い奴が来た」と、

 

名が知られていき、敵うものがいなくなった。

 

イリは、強くありさえすれば誰かに自我を侵害されることもなく、周囲からは認められることを理解し、敵うものがないほどの武勇を身に付けていった。

 

 

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     イリと鏡宝姫

 

イリにとって生まれて初めて味わうような、満ち足りた自己肯定感を感じていた。

 

ただ、身が強いだけで心が漂っていた様なイリに、芯が整いつつあった。

 

 

しかしその充実した時間も束の間で、その後イリはまた父に連れられ今度は高句麗に向かうことになった。   

 

高向は新羅を離れる前に、唐と和国の国交回復の為まず新羅と和国を結びつける協力を、金一族の金春秋(後の新羅武烈王)に求めて、金ユシンらと共に和国使節の訪問を画策していた。この高向の動きにより、和国と新羅の国交は一時的に回復することとなっていく。

 

高向は、イリの妻の鏡宝姫と息子は高句麗には伴っていくことを許さず、高句麗へはイリ1人で向かうことになり、暫く新羅の金一族の元で息子の法敏は養育されることになった。

 

高向が高句麗の大臣に着いて最初の仕事は、反唐派の排除であった為、幼いイリだけでなく高向さえも抵抗勢力から暗殺される危険があった為、高向はイリを和国の大海の里に置いて養育することで暗殺から守っていた。それは、高句麗大臣の高向が、息子イリが大人になって高句麗で生きていくときの為の父なりの配慮だった。

 

そして今度は、イリを高句麗の大臣にするために連れ出したが、同じように息子を新羅に置いてゆくこととなり、イリはまたしても家族が離ればなれになる痛みを味わうこととなった。

 

粉雪の舞う中、イリは高向に伴われ高句麗の王宮へと向かっていった。

 

 

 

幼くして新羅の金春秋に嫁がされていた額田文姫は、金一族の鏡宝姫のもとをよく訪ねてきていた。

 

百済武王と新羅との講和が結ばれたことによる政略結婚の為とはいえ、百済のウィジャ皇子が先年まで戦い続けていた新羅に1人嫁ぐということは、心細くもあり、

額田文姫の叔母にあたる鏡宝姫は歳が近かった為に非常に懐いて、姉のように慕っていった。

 

 

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額田文姫の母・鏡姫と、鏡宝妃は姉妹であり、金ユシンと同様に和国(金一族の里)育ちである。

 

和国から姉・鏡妃が武王に嫁いだ後、鏡宝妃は新羅の金一族の里へ移ったが、多感な年頃に

 

「異国の同族の里へ移る」、という

 

奇妙な体験を経てきた為、

 

同様に、異国の同族の里へやってきた額田文姫の境遇にも心を寄せて共感し、百済から1人嫁いできていた姪の額田文姫をとても可愛がり、二人は姉妹のように仲が良かった。

 

 

額田文姫は、この後に続く激しい政変の後、イリに再嫁することになっていく。

 

 

 

     

 

その頃、和国の王位を簒奪した蘇我政権は、絶頂期をむかえていた。

 

東西の民を大動員し、百済川のほとりの熊凝村の百済大官寺に百済の宮と、九重の塔を完成させた。

(※奈良県桜井市吉備池付近)

 

基壇10丈高さ27丈(90m)にも及ぶ和国最大の建築物であり、蘇我氏の権力の象徴となった。

 

しかし、蘇我王朝は決して安泰ではなく、すぐにでも崩壊する危険をはらんでいたが、山背王の現実認識はあまく、全く危機感がなかった。蘇我蝦夷は、山背王を擁立したことで権力の座についていたが、権力を手にすると、山背王の事を相手にもせず思いのままに振る舞うようになった。

 

蘇我蝦夷と息子の蘇我入鹿が実権を握り、その勢いは山背王を凌いでいて、蘇我蝦夷・入鹿親子二人を阻むものは誰もいなかった。増長した蘇我蝦夷は、全人民を徴発したうえ王家の民まで動員し、自分と息子入鹿のための巨大円墳墓の造営をはじめてしまった。

 

山背王にこれを抑える力はなく、

 

斑鳩の宮では、

 

「天に二つの陽はなく、国に王は二人いないはずなのに、蘇我蝦夷はまるで王のようにふるまう」と、

 

上宮法王家の者から嘆きの声が溢れていた。

 

そして、自分達の子供のことをミコ(王子)と呼び、自分の家のことを宮門「ミカド」などと言い、王の祖先を祀る祖廟を葛城に造り、王家にしか許されない神事を勝手に行い、本当に和国・蘇我王朝の王家であるかのように振る舞っていた。

 

 

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山背王を立てて、和国の実権を握った蘇我蝦夷だったが、蝦夷族勢力の蘇我蝦夷が大和朝廷を牛耳ることを快く思わぬ者は多く、その権力の座を虎視眈々と狙っているものが二人いた。

 

和国王の跡目争いでウィジャ皇子や百済武王を擁立して山背側に敗れた、蘇我石川倉麻呂と高向玄理だった。一旦は身を引いて伏竜しているかにみえたが、表面下では着々と山背王打倒の準備を進めていた。

 

二人は、山背王を倒して、蘇我蝦夷にとって代わり、自分が和国を支配しようと目論んでいた。

 

百済・和国の両国の王として君臨できる王を擁立して百済の玉座につけ、自分は王に代わって和国を総督しようとしている。

 

蘇我石川倉麻呂は、百済と和国の両国に王が君臨していた頃、蘇我氏宗本家が百済の欽明聖王や威徳王敏達に代わって和国を総督していた様に、今度は自分が王に代わって和国を任されて総督する自信があった。

 

百済の武王に見切りをつけてウィジャ皇子へと乗り換えた高向玄里にもまた思惑があり、その企みにも歩調を合わせていた。

 

 

【高句麗大臣イリ】

高句麗に渡った高向玄里は、即座にイリを大臣に据えて自分の後を任せると、すぐに唐へと向かった。

 

強い男に成長したイリは、周囲をものとも思わず不遜な態度で見下し、暴力的な態度だったために群臣はイリの大臣就任に難色をしめしたが、高向玄理は強引にイリに頭を下げさせ、高句麗でのイリの大臣就任を周囲に認めさせた。

 

 

和国でのウィジャ皇子との謀議により、秘策をおびた高向は、放たれた矢のように動きはじめる。

 

新羅と和国の国交を金一族を通じてつなぎ直し、息子を高句麗の大臣に着けた高向の次なる目的は、唐に行き、今度は新羅を通じて唐と和国の国交をつなぐことだった。

 

高向は、まず唐へ着くと極東工作の献案の為、太宗の即位を助けた功臣で太宗皇后の兄である唐の実力者「長孫無忌」氏を訪ねた。そして、太宗皇帝への働きかけの後援を願い、唐より和国へむけて通交のための使節を派遣することを願い出た。

 

唐はさっそく、高向の働きかけを受け入れ使節の派遣を決定し、まず新羅を通じて非公式の僧を派遣し、その後、正式に僧・清安を高向玄里と共に和国へ向かわせることになった。

 

新羅では、高向との打ち合わせどおり、金ユシンらが唐からやってくる使いを待っていた。

 

高向が無事に唐へとたどり着き、功を奏して、唐から遣わされた僧がやってくると、金ユシンらは、唐僧と共に使節を和国へと向かわせた。新羅を通じての唐と和国の国交も回復しつつあり、蘇我政権は内外ともに栄華を誇っているかにみえた。

 

一方で、反唐派のウィジャ皇子や高向の息子のイリなど反唐の志で会盟していた同志らは、全く違う動きをしていた。

 

和国で挙兵したウィジャ皇子は、高向との密議の後、唐がすぐに攻めてくることはないと判断し、返す刀で百済へと戻り、百済の掌握に望んでいた。

 

反唐勢力と密につながりを持ち組織的に、現政権の打倒へと動き始めた。

 

ウィジャ皇子は唐の承認を得た、隆皇太子のことなどなかったことように、百済皇子として振る舞い、百済の武王とウィジャ皇子の関係はもはや抜き差しならないものとなっていた。

 

 

若くして高句麗の大臣となったイリは、強く逞しい男へと成長していた。

 

イリ・ガスミという呼名も、「ガスミ」ではなく高句麗風に「ガソムン」と改め、ヨン・ガスムンと名乗った。

 

高句麗に来て、まず最初に驚いたのは反唐派の者が排除され、唐に阿る佞臣ばかりが目につくことだった。金ユシンやウィジャ皇子と出合い、反唐の志をもつ壮士となっていたイリには、高句麗という国の態度に幻滅し、そして、それが全て父高向玄里の仕業だと知り、言いようのない怒りが沸々と湧いてきて、高向玄里が父だと思うことが呪わしく、たまらなく自分自身が嫌いになった。

 

 

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イリ大臣

 

イリは、父に代わって大臣として高句麗を掌握することなどはせず、もっぱら反唐のための軍の掌握に望んだ。そして、新羅の義兄金ユシンらとつながりを保ちつつも、和国、百済の反唐勢力と結びつき、三国間で謀議を重ねていた。百済のウィジャ皇子は高句麗のイリに、高句麗に残してきているウィジャ皇子の息子・宝蔵王子にまず会いに行くように指示した。

 

イリはさっそく、ウィジャ皇子の息子・宝蔵王子を訪ねた。

 

父、ウィジャ皇子が高句麗を追われて和国、百済へと渡り続け、残された宝蔵王子は、高句麗でひっそりと生き忍んでいた。寂寞とした宝蔵王子は、イリ大臣の来訪を喜び、自分と同様に、父高向が和国から高句麗や唐まで渡り歩き、ずっと父と暮らすことができなかったイリの似たような境遇に同情して、お互いにその孤独を分かち合うこととなった。そして、イリは宝蔵王子から高句麗の政情や親唐派勢力たちの情報を得て、共に高句麗の親唐勢力の打倒の謀議を重ねていった。

 

 

唐は、640年に西方の高昌国を服属させ、アジア周辺に反唐国はなくなり、唐の天下となると、他の周辺国と同様に、百済武王と高句麗・栄留王は唐へと朝貢し、栄留王は息子桓権を唐へ送った。

 

唐は、学問と文化の粋を集めた国学院を開き周辺国から皇子を留学させたが、親唐教育が目的であり実質的な人質であった。百済武王の息子隆王子に続き、高句麗・栄留王の息子桓権が唐の人質となったことは、高句麗と百済の反唐派が決起する引き金となり、政権打倒へ向けて、親唐派の王の排除の機運が高まっていく。

 

 

高句麗は栄留王が唐の冊封を受けていたものの、多くの民や兵達の間には大国隋と三度戦い負けなかったという誇りと戦い抜いた強い心が根付いていて、唐に臣属する現政権には不満が鬱積していた。

 

(今にみていろ)と、

 

直情的なイリが怒りを堪え、高句麗をみすみす貶める親唐派の部族たちへの殺意を消し、工作を急いだ。

 

栄留王と高向玄里、群臣の殆どの者は親唐派の連中で地位のために唐に阿っているものが多かったが、イリのように親が親唐派でも、若い世代は反唐の者が多かった。イリはその者らとつながり反唐勢力を拡大していった。

 

唐からは、高句麗の内情を探るため、慰労と称して陳大徳が遣わされてきていた為、宝蔵王子の存在は表に出さず、秘密裏にイリ・ガスムン大臣を中心にして反唐派を結集し、イリの心中では殺生簿と作戦の実行部隊が練り上げられていく。

 

百済や和国と比べ、高句麗の反唐派は逼迫している。

 

唐からやってきた使節・陳大徳は慰労が目的ではなく、高句麗侵攻の為の偵察であることはあきらかであり、すぐにでも唐の攻撃に備え軍備を整えなければならない状況だった。

 

しかし、そのような状況にかかわらず唐の言いなりなっている今の政権では戦わずして降伏し国を明け渡すことも予想され、高句麗が唐と戦うためにはまず現政権から倒す必要があり、国力を削がずに政権交代を行うことが必至だった。

 

イリは、親唐派の政権打倒の計画を綿密にすすめた。

 

 

そして、百済のウィジャ皇子は、武王を討つ計画を実行にうつしていき、

 

やがて親唐派の王たちが全て倒されると、三国は反唐となり、大唐国との決戦が近づいていく。

 

 

 




【余談】

「鉄の王キム・スロ」という韓国の歴史ドラマについて。↓

長文ですが、興味のある方はご覧ください。

伽耶国の製鉄の民のお話しです。


この小説の舞台、

7世紀頃より、更に遡り紀元1世紀~3世紀頃のこと。

『魏志倭人伝』や『後漢書』に和国のことが書かれている。

この小説の前書きでは『朝鮮半島と日本列島の間にまだ国境はなかった』という書き出しで始めていますが、

少なくとも1世紀~3世紀頃までは、

朝鮮半島南端はまだ日本側だったと思われます。と言うよりも対馬海峡を挟んで同一の海峡文化圏が存在してました。

朝鮮半島南部にあった任那地方は、何度も宗主国が変わり割譲されたりしてきて、

この小説に書かれているとおり7世紀頃に、

和国から百済へ、

百済から新羅へ領有権がうつったところで、

朝鮮半島と日本列島の間に明確な国境が出来上がり、以後ほぼ変わらずに現在に至っている。(と、思われます)

『魏志倭人伝』によれば、和国側には100ヵ国以上の国があり大乱をへて卑弥呼女王が立ち大乱は収まったとのこと。

この頃まではまだ、朝鮮半島南端から九州にかけて和人の国々が幾つか存在していました。



朝鮮半島南部がまだ日本側だった頃、紀元1世紀頃の朝鮮半島南部を舞台にした製鉄の民の建国のお話しで、この小説に登場している金一族の始祖、金スロが描かれています。

舞台となる鉄の国【伽耶】は狗耶韓国(巨斉島)だと思われますが、(九邪)

九州から朝鮮半島南にかけて、

狗奴国、狗耶国、狗耶韓国、

同じような名前の国々があって、しばしば混同され韓国側か日本側かはぼやけがちになっています。


△▲△▲△▲

紀元一世紀前後、

製鉄の民である小部族たちは、部族連合を作り国を名乗り共存していた。

しかしまだ、国号はその土地の範囲を表す言葉でしかなく、王権や政治制度を反映したものではない。

『天祭金人』と名乗るその言葉どおり、祭政一致の文化であり、祀りごとと政りごとがまだ未分化の世界だった。

しかしこの時代以降、王も宮廷もなく国軍もない只の小部族連合のままでは、新たに建国されていく国々の脅威に太刀打ちすることはできなかった。

高句麗、百済、新羅と朝鮮半島に建国ラッシュが続く中で、任那地方の少数部族【製鉄の民】たちも共同して王を立てて国を作ることとなった。

祭政一致の時代から、祭政分離の時代へ。

祭政一致の世界では神殿の天君が長だったが、国の王を立てるのであれば祭りごととは分離し、天君ではなく部族長の代表が王になるべきであると両者の間では勢力争いが起きた。

自分たちが共同して国として纏まるか、個々に他の国に吸収されていくかの瀬戸際である。

金スロは、両者の間に立つ『鍛冶長』だった。

溶鉱炉の造り方を知るは鍛冶長だけであり、製鉄技術という無形財産の要である。

人が持ち得る無形財産であるからこそ、力で奪い支配することもままならず、殺すこともできない。

例え支配をしても鍛冶長を失えば廉面と伝えられてきた溶鉱炉の造り直しが出来ず、

もしも失えばその瞬間に、製鉄の国ではなくなり、
只の石ころだらけの地と草深い森を支配しただけに帰してしまう。

この為、この後も任那地方(半島南端の国)は何度となく宗主国が変わっても完全に支配されるまでには至らなかった。

そして鍛冶長である金スロは見事に部族長らを懐柔し、

部族連合から脱却して

部族連合国を建国した。

単なる連合と連合国の違い。

同列的な首長が国王にまでなるには、一筋縄ではいかなかったろう。


金スロは力任せに統べようとはせず、製鉄技術という唯一無二の無形財産をたくみに駆け引きに使い、製鉄技術の国の繁栄の中に、部族長らを組み入れていった。

神殿の長、天君は姿をくらましたが死んではいない。恐らく日本列島へ渡ったと思われる。

海を渡り山々が続く日本列島の砂鉄や薪の取れるどこかの山で、
たたら場を造り勢力争いを避け安全に暮らしていたに違いない。

その後、日本列島にも【もののけ姫】の時代がやってくる。もののけ姫では時代が交差させられ構成されてるので、いつの時代かはっきりとは分からない。

それまで、たたら場を作ってる製鉄の民と、アシタカがいた東の蝦夷族らはそれなりに山で暮らしていたが、

とうとう日本列島にまで、天地の神でなくて朝廷を奉る大軍が進出してきたことにより、和国の製鉄の民も天朝の支配下に入ってしまった。

製鉄の民の中でも、鉄を求めて争いを避け転々流浪し、ひっそりと山暮らしをしていた小部族の世界観と、時代にのみ込まれていく姿がなんとなく伺える。

歴史というと、私達は武士の戦国モノの圧倒的パワーが、漫画やゲームによってかなり強烈に刷り込まれてしまってますが、

まだそれ程の人口もなく、兵力もなく、
支配する側もされる側も平和的な和合を選択せざるを得なかった時代の感覚を伺うには、【鉄の王キム・スロ】は大変参考になったお話しでした。


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第3章 百済・高句麗・和国【三国動乱】

西暦640年~643年
高向玄理は唐の使臣と和国へ向かう途中、百済に立寄って息子イリとウィジャ皇子と謀議し、百済と和国、両国の王を同時に除きウィジャ皇子を両国の王に即位させることを企む。その後ウィジャは百済の武王を倒し即位し和国への工作を始めた。しかしイリは和王より先に高句麗の栄留王を倒してしまい、ウィジャの息子ホジャン(宝蔵王)を高句麗王に即位させる。その後、イリは和国へいき中臣鎌足らと共謀し和国の実力者・蘇我入鹿を巻き込んで山背王を倒した。三国の親唐派の王が全て除かれ半島と列島の趨勢は反唐のウィジャ王とイリに傾いていく。

1話 百済  武王の最後
2話 百済  ウィジャ王政権
3話 和国動乱へ
4話 大臣・沙宅鎌足
5話 高句麗 栄留王没す
6話 和国  山背王没す



【百済 武王の最後】

640年、高句麗では唐からの監視が強まり緊張が高まっていた。

 

10月になり、和国使節として唐へ行っていた高向玄里は、唐の返礼使僧・清安と共に和国へ帰国する途中、百済に立ち寄り、高句麗のイリも父高向に合うという名目で百済にやってきた。

 

百済のウィジャ皇子、高句麗のイリ大臣、和国と唐を結ぶ高向玄里、三国の三傑が、百済武王の前に勢ぞろいし威圧する。

 

三人は武王を除いて会談し、その後、高向玄里は百済からの使臣も唐使節団に同行させ、唐の使節清安と共に和国へと向かっていく。

 

 

【挿絵表示】

 

高向玄里が、唐から和国へ向かう途中に百済に立寄るのは重要な意味があった。

 

百済ウィジャ皇子と、息子である高句麗のイリ大臣と謀議する必要もあったが、

 

何よりも

 

「唐の使節を伴った高向玄里は、武王ではなくウィジャ皇子と会談した」と、

 

百済国内に知らしめることで、唐がウィジャ皇子とも関わりを持ち始めていると有力部族たちに思わせる狙いがあった。

 

その上、高句麗の大臣も参加させたことで、百済国内の日和見だけで親唐派になっていた有力部族たちを動揺させるだけの効果は充分にあった。

 

 

三人での会談は、5年前ウィジャ皇子が和国で挙兵した時以来であり、ウィジャ皇子は、久しぶりに会うイリの変貌ぶりに、

 

「男子三日会わざれば刮目してこれを見よというが、暫し会わぬ間に将しく逞しい壮(おとこ)になった」と

 

感心していた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

会談の冒頭、高向玄理は

 

「元に戻る時がきました」と、きり出す。

 

ウィジャ皇子とイリは高向に視線を凝らして次の言葉を待つ。

 

「親唐派の百済武王と和国の山背王を同時に取り除き、ウィジャ皇子様に百済・和国の両国の王として即位して頂きたいと思います。」

 

「すると、百済と和国で反乱を起こすということか?」ウィジャ皇子は、

 

(時節到来か)と、眼に気迫を込めて聞き返す。

 

「上宮法王以後は、和国・百済の両国にまたがる王位が失われてしまいました。今こそ蘇我氏に簒奪されてしまっている和国の王座をとり返し、以前の様に和国・百済の統一王座へと戻すべき時かと思います。」と、

 

高向は粛々と語る。

 

「そして吾が、和国と百済の二国の王になったら、今度はお前が蘇我氏にとって代わり和国を簒奪するつもりなのか?!」とウィジャ皇子は、皮肉を挟み高笑いする。

 

高向は少し首を傾げるだけで全く表情も変えなかったが、実のところウィジャ王を百済・和国の王に即位させ、自分はウィジャ王の下で和国を総督し、いずれは蘇我氏の様にとって代わって和国の統治者となり、高句麗の息子イリと和国から百済を制するつもりでいた。

 

百済と和国の両国の王位擁立を望むものは皆、王を百済の玉座にすえて、自分が王に代わって和国を任されることしか望んでなく、蘇我氏のように主家逆転の下剋上を狙っている者ばかりだったが、ウィジャ皇子はむしろそうした野心家たちの力を利用し、百済・和国両国の王に君臨するのも悪くないと考えていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

イリは高句麗の大臣であったが、政庁の統治よりも戦いの場を求め、さながら大臣というよりは将軍のようだった為、親唐派の王を倒す計画には喜んで乗ってきた。

 

武王と山背王を倒すにあたり、高句麗側から百済を牽制し、また和国で山背王を倒す実行部隊を引き受け自分の武力を発揮する機会を得た。

 

イリの胸中にも、ウィジャ皇子の即位の助けとなる大きな勲功を立て、やがては自分が和国を任されたいという願望も当然あった。

 

しかし、ウィジャ皇子は、イリと高向玄里をあくまでも将軍と策士以上の存在にはみておらず、即位後に二人を国政に関わらせる気など毛頭なかった。特に高向玄里は、唐の力を背景にして自身の野心を図ろうとの姿勢がありありとみてとれる。

 

だが、高向親子の協力なしでは成し得ないことであり、高向の話には前向きに乗り、信用はしていなかったが作戦は共に実行しようとした。

 

一方、高向もその様なことは織り込み済みであり、あくまでも唐の手先として振る舞って、百済・和国の王の即位に協力する見返りとして「唐の冊封」を受けることを提案する。

 

反唐派の二人にこの条件を飲ませるには難航し、特に息子のイリとは抜き差しならない軋轢を生み、ウィジャ皇子が間に入り逆に説得しなければならなかった程だった。

 

 

「唐が我が即位冊封を認めると思うのか。」とのウィジャ皇子の問いに、

 

高向は「必ず認めるようにします」と

 

自信をもって答えた。

 

高向玄里は、入唐した時に、武王の次はウィジャ皇子を冊封することについて既に唐の実力者「長孫無忌」氏を説得していた。

 

「しかし、唐の皇帝は、隆王子を百済皇太子として認めているので、それを差し置いて百済王として冊封することは有得ないと思います。冊封を願いでることが重要で、恭順の態度を示すだけの表面上の外交であって、真に唐に臣属するということではありません、」

 

とウィジャ皇子に説明した。そして、

 

「私、高向玄里は、唐から和国への使節を伴ってきています。唐の後ろ盾がはっきりとあり、百済・和国の親唐派を抑えるのは、最も唐に近い私が、最も適任です。有力部族の多くは、保身の為に唐に靡いているだけで、日和見主義者がほとんどなので、私と共に、親唐派の巻き込みをすれば、そんな奴らをいちいち相手にせずに一気に王位につけるはずです。」と強く、ウィジャ皇子に約束をした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ウィジャ皇子様が即位すれば、唐からの圧力を受けることは必然で、その時も自分の存在は役に立ちます。そしてむしろ、唐で人質になっている皇太子・隆王子を唐が冊立してくる前に、こちらから先手を打って冊封を願い出てしまった方が、即位後の混乱が遙かに少ないはずです。」と続けた。

 

ウィジャ皇子は、唐に恭順の態度を示すことは戦略上の偽計であり、第一の目的は、和国・百済両国の王になることで、あえて強気な態度で緊張を高めるよりも、実を取るべきと高向の言うことに納得した。

 

百済・和国の親唐派の者どもも雷同して纏まれば侮り難い勢力となり、力押しで武力対決するのは負担も大きい、

 

高向が言う

 

「親唐派を抑えるのは、親唐派の高向自身である」

 

ということを理解し、高向玄里の存在価値を認めて、政治的な駆け引きによって両国の有力部族達を抑える方が得策と判断し、決心をした。

 

高向は、

 

「後日、宮廷で唐の使臣が武王に謁します。そのときに私は唐の使臣・清安と共に、百済からも共に和国に向かう使臣を同行させるよう提案しますので、ウィジャ皇子様は、親唐派の使臣をどなたか推挙して下さい。私達は武王を介さず直接それに応えます。私は唐の使臣・清安とは旧知の間柄ですので、滞りなくそのようにできますので。」と提案し、

 

「親唐派の群臣が私達のやり取りを見て、唐の使臣とウィジャ皇子様の親和が感じとれる様な場面にし、親唐派の関心をウィジャ皇子様に向けます。」と、その意図を伝えた。

 

 

ウィジャ皇子は、少年時代に高句麗と隋との戦を体験している。そして、亡き父、高句麗の嬰陽王から、隋との戦に勝利した話しを聞かされて育ってきたウィジャ皇子は、唐との戦いにも負ける気はなく、高向親子の力を利用して、高句麗・百済・和国三国をまとめあげ新羅を滅ぼせば、朝鮮半島と日本列島の全兵力で充分対抗できると考えていた。

 

そして唐に負けない大国を打立てるにはまだ程遠く、和韓統一の大業の為には一度、親唐派で国をまとめ上げてから、反唐に転じればそれでも良いと思っていた。

 

反唐の志を持ち続け三国を廻ったウィジャ皇子のみが持ち得る感覚で、反唐を称えるものは出世ばかり、親唐をとなえるものは保身ばかりを考え、足元と利得しか見えておらず、どの国でも「親唐派」と言っても、誰も唐の為に命までかけようという程の気概はなく、国よりも自分が大事な連中ばかりで、地位や金さえ与えれば、有力部族や貴族はどうにでも転ぶだろうという、ウィジャ皇子なりの見切りだった。

 

まだ、この時代の支配階級達は、朝鮮半島から日本列島にかけてを一つの国としてみるという感覚は誰も持っておらず、高句麗、和国、百済など一つの国に捉われずに、半島から列島にまたがる一つの大帝国を建国して、唐と対抗しようなどと考えている者は、三国を渡り歩いたウィジャ皇子と高向玄里しかいなかった。

 

 

ウィジャ皇子は大望の為、唐に対して一時恭順の態度を示すことに妥協できたが、イリは、反唐の血の気が強く、一度たりとも唐に下手に出ることが断固として許せない。

 

「蘇我王朝を倒すまでの間、唐との軋轢を避ける為に恭順の態度を示すだけだから」

 

と、単なる腹芸でしかないことを説明しても、若いイリは政治的な駆け引きなど理解しようという気もなく、決行後の冊封だけは頑として受入れなかった。

 

「親子でありながも、思想が違うことは分かるが、今こそが天の時だ、ここで期を逸してはならない」とウィジャ皇子からも説得されて、イリは仕方なく従った。

 

イリは、常に周囲を見下して、誰の言葉にも耳を貸さず、唯一自分だけを信じるような傲岸な若者になっていたが、自分の世界を啓く導きになった金ユシンやウィジャ皇子の言葉だけはなんとか聞き入れることができた。

 

結果的に三者は決別せずに歩調を合わせることになったが、イリは強い遺恨を残した。

 

 

高向玄里もまたおくびにも出さなかったが、

 

「東アジア統一」をめざしている。

 

百済でウィジャ王を立てながらも自分が和国の権力者となり、高句麗の大臣である息子イリと共にやがては百済を制し新羅エフタル王家を操り、朝鮮半島と日本列島を統一し唐に負けないほどの強大な帝国を作るつもりでいた。

 

その上、半島と列島を統一した後には、ウィジャ王の背後で実権を握り、反唐のウィジャ王に唐を征服させることまでも考えていた。

 

 

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(唐を征服する)、などという大それた発想は、

 

隋滅亡から唐の建国までの動乱の時代を大陸人として生きた高向玄理にしか持ち得ない発想である。

 

結果的に唐の太宗に滅ぼされてしまったが、隋末に李密、王世充、竇建徳、劉黒闥、宋金剛、薛仁杲らが兵を挙げた様に、太宗さえいなくなれば中国は再び天下大乱の戦国時代となってアジアの覇者となる機会はめぐってくることもまだ視野に入れている。

 

高向玄理は、唐の手先として立ち回っていたが、本当に従っているということではなく、心の底には、

 

「漢王室の復興」という秘めた大望を持ち続けていた。

 

唐からの使者を伴った高向玄里がウィジャ皇子側についたことの効果は覿面に現れて、この会談の直後から百済国内でのウィジャ皇子の勢いは一気に強まった。

 

高向は打合せどおり唐の使者と共に宮廷に働きかけ唐使節団に百済の使臣も同行させるようにして、ウィジャ皇子の推薦者を伴って和国へ向かっていった為、この先、唐の後ろ盾が武王からウィジャ皇子側へ移るのではないかと判断した親唐派の有力部族達が、皆こぞってウィジャ皇子側につき、国政は徐々にウィジャ皇子に実権が移っていった。

 

 

権力を握ったウィジャ皇子は息のかかった腹心や将士を密かに要所に配置し、宮中内を固めていく。

 

 

高向が和国に渡ってほどなく、

 

壮挙の決行は凄然として行われた。

 

 

百済宮廷で突如内乱が起きた。

 

高句麗のイリは百済との国境に兵を出してきた。これにより百済の武王派の群臣や将軍らは招聘や伝令を受け、一時的に足止めされてしまった。

 

そして、予めウィジャ皇子によって宮廷内に配置されていた衛士らが、反唐派の兵を宮廷に引きいれると百済宮廷はあっけない程あっという間に制圧されてしまった。

 

一夜にして、百済の世が入れ替わる出来事だった。

 

641年3月、

 

百済武王は暗殺されその42年に及んだ長い在位を終えた。武王を倒すと、ただちにウィジャ王は即位し、そして武王の皇后であった上宮法王の娘の宝妃と宝妃の息子キョギ王子、その家族および高官40人らが、耽羅(済州島)へと島流しになった。打合せ通りであったかの様に、大した動乱にもならず速やかに政権交代が行われていった。

 

決行後は、武王派の巻き返しに対しても粛々とウィジャ団による誅殺が行われていき、残存勢力は蔭を潜めた。

 

キョギ王子は、父・武王を殺されて怒り心頭であり、おさまりがつかなかったが、復讐を試みるも、逆にウィジャ王側に殺されてしまいそうな勢いであり、母・宝妃に制止され、

 

「今は、臥薪嘗胆の思いで耐えて生き延びる時」

 

と説得され、悔し涙を流し耽羅(済州島)へと向かっていった。

 

 

 

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キョギ王子

 

 

和国では、唐の使者・清安が来和してくれたことを大変喜び、高向玄里による唐との国交回復の成功は一目置かれた。高向玄里は、百済からの使臣も使節団に同行させただけでなく、途中、新羅を通過して金ユシンや金春秋とも会談し、新羅からの使節も唐の使節清安と共にも和国へと同行させていた為、和国の蘇我王朝は饗応に追われた。

 

和国は、唐に認められたことによって、蘇我氏の王位簒奪による単なる暫定政権ではなく、正式に国として国際社会で認められたことになり、高向の果たした成果は大きかった。この後、和国は津守大海を遣高句麗使、国勝吉士水鶏を遣百済使、草壁真跡を遣新羅使、坂本長兄を遣任那使に任命して、正式に半島諸国へと通交を結ぶことになっていく。

 

 

【百済・ウィジャ王政権】

和国の蘇我王朝は、武王崩御の報をきくと、和国で百済の喪がりを執り行った。

 

武王は王族ではなかったが、新羅の真平王の娘を娶り加護を受け、その後は上宮法王に引き立てられ、百済の王位にまで登りつめた。しかし、常に王位を追われることを恐れ続けた王であり、扶余族と蘇我氏の血を引く田眼姫を娶り、上宮法王の娘・宝皇女を娶り唐の手先の高向玄里と結び、ウィジャ皇子を養子にして和国の蘇我石川倉麻呂を後ろ盾にし、縁組みによる外戚からの擁護を受け続け、上宮法王の志を継ぐ立場でありながらも新羅のエフタル王家ともつながり、唐の冊封を受け、節を曲げ変わり身し続けることで、王座を守り続けてきた。

 

新羅とつながっていた武王は除かれ、ウィジャ王が即位したことによって、再び百済と新羅は交戦状態になっていった。

 

これにより、百済から新羅の金春秋のもとへ嫁いで来ていた額田文姫は、安寧では居られなくなる。

 

懸念した鏡宝姫や金ユシンらは、

 

「このまま新羅に居ては危険が大きいから」と、

 

額田文姫と金春秋を説得し、

 

額田文姫を離縁して百済へと戻すようにした。

 

 

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額田文姫

 

 

しかし、戻ったところで、旧武王派の官臣や王族らは皆、耽羅(済州島)へと島流しになっていて、百済にも身の置きどころもなかった為、額田文姫は、耽羅(済州島)にいる兄・キョギ王子のもとにそのまま向かった。

 

金春秋は、まだ幼かった額田文姫よりも額田文姫と姉妹のように仲が良かった鏡宝姫の方に密かに心を寄せていた。

 

額田文姫が新羅を去った後のこと、

 

金春秋が蹴鞠をしている時に袴が破れてしまい、一緒に蹴鞠をしていた金ユシンはすぐに妹の鏡宝姫に繕いをさせた。それ以来、金春秋と鏡宝姫は近づき、やがて二人は結ばれていった。

 

鏡宝姫は、既にイリの息子・法敏を産んでいたが、イリの居る高句麗もこの後、百済側について新羅と交戦状態になってしまった為、まだ若かった鏡宝姫はイリをあきらめて、息子の将来を託し金春秋へと身を寄せることにした。

 

兄の金ユシンは、鏡宝姫とイリとの関係がなければもともと、金春秋に妹・鏡宝姫を嫁がせるつもりだったので、二人が結ばれ金春秋と義兄弟となることを慶んだ。

 

鏡宝姫は、金春秋に愛され、

 

「息子・法敏を正式に養子にして、私たち母子二人がこれから先も生きてゆけるように守ってほしい」と懇願した。

 

 

 

 

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百済は唐に、ウィジャ王の冊封を願い出る使臣を派遣した。

 

まず「百済の武王薨ず」とのことを伝えると、

 

唐の皇帝太宗は玄武門にて挙哀し、武王に光禄大夫を追贈して使者、鄭文表を百済に遣わした。

 

そして、予め高向玄里が唐の実力者「長孫無忌」氏へ根回ししていたとおり、唐はウィジャ王の即位を認めた。しかしあくまでも百済の王ではなく、ウィジャ王を「帯方郡」の王として冊封し、唐に留まっていた隆皇子の百済皇太子としての立場を残した。

 

 

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玄武門

 

                   

 

 

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太宗皇帝

 

 

ウィジャ王にとっては表面的に受けた冊封でしかなかったので、即位後は、引き絞られた矢が放たれた様に唐の臣属国である新羅を攻めまくった。

 

父・高句麗の嬰陽王の死は、唐・新羅の暗躍により暗殺されたものと思っていて、決して許さないという強い恨みも持ち続けている。

 

ウィジャ王は不世出の王であり、三国をめぐった果てにやっと王位に着いた。

 

元々は、高句麗の嬰陽王の皇子で、唐が高句麗王に栄留王を冊立してこなければ高句麗の王となっていたはずだが、親唐国になってしまった高句麗から追われ、和国へ渡った。

 

和国では、上宮法王の後継者となるも和王を継ぐに至らず、蘇我石川倉麻呂の擁護を受け百済の皇太子となり、そして今、武王を排除して王となり、ようやく唐と戦うための国と兵を動かすにいたった。

 

ついにウィジャ王は、国内を反唐に一新し進撃を開始する。

 

 

百済の有力部族達が権力を振るっていた「政事厳会議」を抑えて、ウィジャ王の三忠臣と呼ばれる、フンス公・ソンチュン公・ケベク将軍をはじめ、義直将軍(ウィジェク)、黒歯将軍ら、優秀な文官・武官たちがウィジャ政権の強固な支えとなった。

 

642年7月、ウィジャ王は自ら兵を率いて、新羅西部に侵攻し、あっという間に40余城を落としてしまった。

 

 

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この後、イリが高句麗を反唐に転じさせると、

 

8月には高句麗と共謀して党項城を攻めとって、新羅から唐に通じる路を封鎖しようとした。新羅の党項城は、唐の極東戦略上の橋頭堡であり、百済、高句麗にとっては捨てて置けない。

 

新羅の善徳女王は、たまらず唐の太宗に急使をおくった。

 

 

唐の太宗皇帝は、

 

(そもそも女が王についているから周辺国から侮られるのだ)と、思っている。

 

上古の昔より、中国では女性が王位につくことなどは絶対にあり得ないことだ。

 

唐は新羅を救援する条件として、

 

「女王などではなく男王を立てるように」と指示し、

 

伴侶も息子もいない女王を嘲り、

 

「男王がいなければ唐の皇族を新羅王につかわす」とまで言ってた。

 

そして皮肉を込めて、相方が居ないことを表した

「牡丹の絵」を女王に贈ってきた。

 

 

新羅の善徳女王は唐のあまりの女王否定に胸を痛めた。

 

 

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善徳女王

 

 

新羅王室は、王家直系のみに与えられる称号「聖骨」という血統の者だけが、王位継承権を持ち、それ以外の王族は「真骨」といい王位につくことができなかったが、この頃は男系の聖骨が1人も居なくなってしまった為に、女性の聖骨であった善徳女王が即位していた。

 

しかし、もともとエフタル族には、和国の様に「女王」を立てるという習慣がなく、初めての女王即位は少なからず混乱のもとになっていた。

 

唐の太宗皇帝は、百済と高句麗に対しては使者を送り、

 

「唐の臣国である新羅を攻めるな。これ以上新羅を攻めたら汝の国を攻める。」と、

 

きつく諭告し党項城から手をひくように迫った。

 

高句麗に唐の使者が着くと、新羅攻めに出征していたイリは王に呼び戻されたが、

 

唐の使者に対し

 

「高句麗と隋が戦っている隙に、新羅は高句麗から五百里の土地を奪った。是を戻さない限り兵をひくことはできない!」と、

 

真っ向から反発し、不遜な態度で唐の使者に臨んだ。

 

一方、百済のウィジャ王は、唐の使いを丁重に迎え、陳謝の返礼使を唐へ遣わすと共に、唐に留まっている武王の息子、隆皇子を正式に百済皇太子に任じる許可を願い出た。

 

唐はこれを認め、隆皇子を百済皇太子としたことによって、「帯方郡の王」として唐に冊封されていたウイジャ王も正式に百済王として唐に認められることになった。

 

 

ところが、それでも百済のウィジャ王は、尚も新羅攻撃の手を緩めずに今度は新羅の任那地方の大耶城を攻撃した。

 

大耶城は、任那・伽耶諸国地域の城で、城主の品釈は金春秋の娘婿だった。

 

品釈は酒に溺れていて、戦うどころではなかったが、金春秋の娘・古陀昭妃は城を捨てて逃げ出そうとする夫・品釈に対して

 

「生きることなど考えず命がけで戦い、負けたら首を差し出すべき!」

 

と、叱咤した。

 

これによって城を捨て逃げることはふみとどまったが、大耶城はあっけなく落城してしまい、二人は殺されてしまった。

 

婿と娘が百済に殺されたとの報をきいた金春秋は慨然し、

 

「百済許さず」とその恨みを心底に刻み復讐を誓った。

 

しかし、いつも百済軍に敵わず連敗し続けていた金春秋は、百済への憎しみから我を失ってしまい、あろうことか、対立していた高句麗へと救援を求めに行ってしまった。

 

当然のことながら高句麗は窮してやってきた金春秋をすぐに軟禁する。

 

これを知った金春秋の義兄・金ユシンは、大急ぎで兵を率いて国境まで救援に向い高句麗に放還を迫った。

 

高句麗は最初、

 

「元々は高句麗の領土である竹嶺と鳥嶺を還せ。でなければ金春秋は還せない」と、

 

脅してくるほど強腰だったが、

 

「国難に望み身を顧みないことこそ烈士の志である!」

 

と大渇し、戦も辞さないほどの金ユシンの勇壮な訴えに耳を傾けた。

 

 

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金ユシン

 

そして、金春秋が高句麗イリ大臣の息子・法敏を養育していることを密かにイリに伝え情に訴えた。

 

ここで、もし金ユシンの訴えに応じず金春秋が無事でなければ、大事の前では私情を捨てる金ユシンでは、金ユシンの妹でイリの最初の妻である鏡宝姫と息子・法敏も無事ではいられないだろうと推測された。

 

金春秋からも知己のある高句麗の臣に働きかけをして、高句麗宮中にも釈放すべきとの世論を沸かし、なんとか金春秋は無事放免となった。

 

 

 

新羅朝廷では、金春秋が無事に高句麗から放免されたことが信じられずに、将来、高句麗に竹嶺と鳥嶺の領土を割譲する約束でもしてきたのではないかと疑われていた。

 

割譲の疑いは定かでないが、この金春秋軟禁事件の折、金春秋はその人柄と人当たりの良さで高句麗の諸臣を懐柔して、新羅側につく内通者をつくり出していた。

 

イリの近習にもその専横を快く思わぬ者どもは、金春秋の働きかけに応じて新羅に内通していた。

 

高句麗宮殿の警護に英光という者がいて、この裏切りに勘づいた。

 

しかし金春秋解放の後、真相を暴く前に黒幕に逆に察知されてしまい、濡れ衣を着せられ英光は戦闘地域の最前線へと左遷されてしまった。

 

戦地に赴く英光の妻は、折しも出産をひかえていた時であり、英光は戦場で息子の誕生をきくことになった。

 

そして、英光は息子と対面することはなく見事に戦場に散っていった。

 

息子の名は「若光」といい、後に高句麗が滅亡すると和国へと亡命し、朝廷より【高麗王】を賜り高麗郡(埼玉県)の初代高麗郡主となった。

 

(※若光は埼玉県日高市の高麗神社に祭らている。参拝した政治家たちから8人もの総理大臣が輩出された為出世開運神社として崇敬を集めている)

 

 

この頃から、金春秋は手段を選ばない復讐鬼となり、娘夫婦の仇を討つ為に唐の力を頼り、百済ウィジャ王を倒すことに傾倒していく。

 

鏡宝姫という「花」を手に入れ、復讐の為、唐の援護という「剣」を手に入れる為だけに、王座を望むようになってしまった。

 

新羅の真興王(宣化将軍)によって任那は滅ぼされてしまったが、元々は任那地方の伽耶国の王族であった金一族にとって、王位復興は悲願であり、金ユシンと金春秋は新羅の実権を握るために心を合わせて戦ってきた。

 

しかしこの頃より、反唐の志であった金ユシンと王位と復讐しか望まなくなった金春秋の関係は少しづつ乖離していった。

 

 

金春秋は、娘夫婦を失った寂しさから、金ユシンの妹の鏡宝姫を益々溺愛していくようになる。

 

 

 

 

 

 

【和国動乱へ】

百済での政変のあった642年、駐百済大使として百済に滞在していた安曇比羅夫は和国へと帰国してきていた。

 

翌643年3月になると、百済から耽羅(済州島)へと島流しになっていた宝皇妃とキョギ王子らが島抜けして、和国の筑紫へと上陸してきた。

 

 

上陸した一行は、知己のある前駐百済大使だった安曇比羅夫のもとへ行き、安曇比羅夫は百済からの客を自宅で饗応し、宝皇妃とキョギ王子らの来訪を伝えに都へと向かった。

 

新羅の金春秋と離縁し、義兄のキョギ王子を頼って耽羅(済州島)に向かった額田文姫も、キョギ王子につき従い和国へと落ちのびてきていた。

 

 

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他に島流しにされた、キョギの妹・間人皇女、百済武王妃で額田文姫の母の鏡妃ら、宝皇妃を合わせ四人の百済武王の王室縁りの姫らが共に和国へ渡ってきていた。

 

武王の正妃は宝皇妃であり、武王存命中は宝皇妃・間人の母娘と、鏡妃・額田文姫の母娘は政敵の間柄である。

 

宝皇妃は武王には心がない政略結婚の相手であったが、新羅系の鏡妃・額田文姫らの存在は面白くはなかった。

 

表面上は双方とも武王派として亡命してきた訳であり、鏡妃にも露骨に敵意の態度を表すことはなかったが、やがて鏡妃は、和国で命を落としてしまう。

 

後に、鏡妃は武王の遺物と共に押坂稜(奈良県桜井市)に埋葬された。

 

 

キョギ王子は、眈羅(済州島)から発つ頃に、島の安波という海辺で土着部族だった高氏の海女姫と出逢い逢瀬を交わしていた。

 

そして王子らが和国へ向かった後、海女姫は無事男子を出産し、キョギ王子との間にできたその子を「市」と、名付けた。

 

 

 

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眈羅(済州島)

 

 

 

キョギ王子ら一行は4月になって都へ行き、蘇我王朝の山背王に拝した。

 

報を聞いた蘇我蝦夷も、キョギ王子らを難波で饗応して馬と鉄を贈った。

 

「百済でウィジャ王が即位した後、武王派は排除され主だったものは皆、島流しにされてしまいましたが、尚も危険を感じ、和国へ逃げてきました。和国王様の情け深さで何卒、和国入りをお許し下さいますように」

 

と、必死で訴えるキョギ王子らの身の上に同情し、

 

山背王は和国への亡命を受け入れた。

 

 

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山背王

 

 

 

 

蘇我蝦夷は、

 

「百済のウィジャ王と蘇我石川倉麻呂の計略により、和国へやってきたのではないか」と、警戒している。

 

和国で敵無しの蘇我蝦夷とはいえ、百済で武王を倒し即位したウィジャ王には脅威を感じていた。

 

実際、キョギ王子の母の宝妃らは百済から島流しにされたふりをして、偽って和国へ下ってきていた。ウィジャ王に排除された様に装って和国へ乗り込み、蘇我王朝を瓦解させるという工作を担ってきている。

 

息子のキョギ王子は違い、母・宝妃に従って共に和国へやってきてはいたが、父を倒した憎いウィジャ王と戦う兵が無く、止むをえず和国へ逃れて来ただけである。

 

(いつかは和国兵を率いて、百済のウィジャ王を倒す)

 

と、父の仇討ちを腹に持ち続けていた。

 

そのようなキョギ王子の先の企みは別として、百済からの一行は、疑われずに和国へ帰化し蘇我王朝を倒すという目的ではみな同じである。

 

宝妃はウィジャ王の意図の為、キョギ王子はウィジャ王に敵対する為、相反する意図を持つ呉越同舟の一行は、ともかく和国に受け入れられなければならなかった。

 

 

ところが、翌5月、

 

キョギ王子の従者が一名殺された。

 

そして、翌日になりキョギ王子の息子が暗殺されてしまった。

 

恐らくは、和国へのキョギ王子らの亡命を喜ばない者の仕業であると思われた。百済のウィジャ王から排除された者達を、和国に受け入れてしまうことで百済との対立が深まることを懸念し、不安を取り除こうとする者するものも多い。

 

また、上宮法王の血統であるキョギ王子の存在そのものを和国にとって不要と感じる者がいた。

 

結局、誰の仕業かは分からずじまいだったが、一方でキョギ王子らを警戒していた蘇我蝦夷による警告と脅しともとれた。

 

 

キョギ王子らは落ち延びてきた和国でいきなり家族を失ってしまって悲嘆するが、暗殺を恐れて葬式には出ずに、妻子を連れて百済大井の家(河内長野市大井)に移っていき、人を使わせて石川に息子を葬らせた。

 

キョギ王子の心は和国まできて嗟嘆し凍りついてしまった。

 

 

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百済での実権が武王からウィジャ皇子に移った頃のこと、死を覚悟していた武王は、キョギ王子を呼び出して形見の短刀と遺言を残していた。

 

武王の遺言は

 

「誰も信用するな。母の宝皇妃さえも信じてはならぬ」

 

というものだった。

 

キョギ王子は、息子との理不尽な別れに痛嘆しながらも、その言葉を心に刻んでいたが、今になり、その言葉の深い意味を考えかみしめていた。

 

宝皇妃の心は知れないが、和国の百済大寺(奈良県)で亡き武王の菩提をそっと弔った。

 

 

【大臣・沙宅鎌足】

翌6月になり百済の大臣・沙宅鎌足が、表向きは公式な百済使節として来和してきて、旧武王派の百済追放を和国の蘇我王朝に対して改めて正式に伝えた。

 

百済ウィジャ王の側近・沙宅鎌足の来和は蘇我王朝にとっては脅威だったが、不気味さを感じながらも無下にすることはできず、山背王は大臣・沙宅鎌足を饗応して、相撲見物などをさせた。

 

沙宅鎌足は、先に百済から渡って来た者らと共に相撲を堪能し、ほろ酔いのままで帰ったが、帰り路でキョギ王子の家の前に通りがかると、門の前で立ち止まり一礼をした。

 

 

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沙宅鎌足(中臣鎌足)

 

沙宅鎌足が来和する少し前のこと、ウィジャ王は大臣の沙宅鎌足を呼びだして、和国王に即位するための密命を下していた。

 

それは、排除した武王派の主だった者達を、百済からの亡命を装って和国へ潜入させて蘇我王朝を倒し、ウィジャ王が和国王につく為の計画だった。

 

22年前、

 

親唐派の蘇我氏が上宮法王を暗殺し、

 

ウィジャ王は上宮法王より「唯一の後継者」と指名されていながらも、蘇我氏の暗殺から逃れる為に百済に逃げ捲土重来を期した。

 

「和国は未だに蘇我に簒奪されたままであり、今こそ憎き蘇我を倒し捲土重来を果たす時である」と、

 

ウィジャ王の意気込みは強く、

 

沙宅鎌足に密命を下した席では、わざわざ自分の寵姫である阿部小足姫を接待のために同席させて、沙宅鎌足を厚くもてなした。

 

政変後に武王派の者が百済を追われるのは当然であり、ウィジャ王は、百済武王妃で義理の姉でもある宝妃を埋伏の毒として和国に追いやり、和国での蘇我王朝打倒の工作を計画していた。しかし、宝妃の息子のキョギ王子は、計略ではなく本当にウィジャ王へ対し「父武王の仇」としての強い憎しみをもっていたので、逆に蘇我王朝側についてしまい百済と敵対してしまう恐れもあった。

 

ウィジャ王は、そのキョギ王子を見張ることと共に懐柔し、なんとしても蘇我王朝打倒に協力させるようにと沙宅鎌足へ厳命を下した。

 

そして、ウィジャ王は、沙宅鎌足の接待をしていた自分の寵姫である阿部姫を、なんとそのまま鎌足に与えてしまった。

 

鎌足は、寵姫を下賜されたことに感激し、

 

「命に代えても必ずしやウィジャ王さまの和王即位を!」と

 

強く誓って、蘇我王朝打倒の為に和国に向かっていった。

 

 

阿部姫はその時既に懐妊していて、翌年にウィジャ王の子を鎌足の子として産み定恵と名付ける。

 

 

 

和国入りした鎌足は、百済追放者の帰化を正式にとりつけた後、和国の古い名門部族で昔は蘇我氏とも対立していたことのある中臣氏に縁を結び、『中臣鎌足』と和国名を名乗って和国人となり、早速、蘇我王朝打倒の為の暗躍に動きはじめた。

 

まず、百済からの間者として和国入りしていたウィジャ王の息子・扶余豊璋から、和国内部の詳細な情報を聞き出して、宝妃と共に蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿に狙いをつけた。

 

 

入鹿は生真面目で直情的な一面もあり組し易かった。そして、宝妃の大人の魅力に心を奪われていて、宝妃が入鹿に接近し秋波を送ると、どちらからともなく二人は関係をもってしまった。

 

キョギ王子は、母と蘇我入鹿の関係を知るとそのことを嫌悪する。

 

母・宝妃は、

 

「和国で味方をつくり生き延びるために」と、

 

説明したが父・武王の喪もあけないまま、そのようなことなど到底受け入れられる訳はなく、キョギ王子は権力者・蘇我入鹿を激しく憎んだ。

 

しかし宝妃の心は、もとより武王にはなく高向玄理にあったので、武王を愛していなかったどころか、その息子のキョギ王子にさえも愛情を注げずにいた。

 

 

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蘇我入鹿

 

母としてあるのも王妃としての務めを果たすのも、蘇我入鹿に近づくのも、全て愛する高向玄里のためだった。和国での工作を担うのもウィジャ王と高向玄里の企みが同じであるからであり、ウィジャ王の為だけにそうは動かない。

 

宝妃は、和国では珍しい顔立ちの中央アジア系の美女で、歳月を経ても美貌は衰えず、妖艶な魅力を醸し出していた。

 

王家の血を引く女性は皆、血統のため権力のために伴侶が変わっていくものであり、自ら人を愛したり恋を喜ぶなどということが許される時代ではなかった。

 

宝妃の母も、上宮法王のために嬰陽王の妻となり、宝妃自身も政略結婚で武王妃となって、キョギ王子を産んだが、王室育ちで父が殺されるまでたいした騒動も経験してこなかったキョギ王子には、そうしたことが全く理解できず、受け入れることができない。

 

 

上宮法王が百済・和国へと行ってしまい、高句麗に置き去りにされていた宝妃にとって、高向玄里が現れたことは孤独な高句麗での人生にさした一筋の光であり、恋人でありながらも父のように高向玄里を慕っていた。

 

そして、その想いを全て心の底に沈め、高向の為に王女としての役割の人生を生きると悲恋の覚悟を決めて以来、誰にも心をゆるすことなく生きてきて、むしろそのことが宝妃の女性としての魅力を深いものにしていた。

 

 

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入鹿は、父・蘇我蝦夷とともに和国で権力をふるい、その勢いは王を凌ぐと言われていたほどだったので、当然和国は自分たち親子のものであるように感じていた。

 

(もはや吾らが和国の王である)と思っている。

 

和国には、武王と蘇我氏の血を引く、古人王子などもいたが、皆、入鹿よりも力はなく、何故、自分達が王位につけないのかが、むしろ不思議に思えることさえあった。

 

宝妃は

 

「どうか和王になって私達を守ってほしい」と、

 

入鹿に懇願した。そして、上宮法王の血筋である自分を王妃に据えて、この和国に安寧をもたらして欲しいと頼んだ。

 

中臣鎌足(沙宅鎌足)は、和国の反唐派である大伴馬養や蘇我石川倉麻呂らと共謀し、

 

「王権交代後の百済に備え、より強い和国であるために蘇我入鹿が王につくべきだ」と噂を流しはじめた。

 

そして、

 

「蘇我蝦夷の権力はもはや和国の王に等しい。しかし口には出さないが、蘇我蝦夷は山背王を擁立して権力の座についたため、山背王をのぞいて自らが王につくことは逆賊の汚名を残すことになるので、それができずにいる。息子の入鹿が父・蝦夷の心を汲んでそれを行うべきだ」

 

「これほどの権力を持ちながら王位を望まないのは不幸である」と吹き込み続けた。

 

 

父・蘇我蝦夷のおかげで容易く権力の座についた蘇我入鹿には、たいした国際感覚もなく、権力集中も当然のことと考えていたので、百済ウィジャ王の側近だった中臣鎌足らの賛同をうけると、百済の一派閥からの擁護を受ける様な錯覚さえ覚えた。

 

 

蘇我入鹿は元々父・蘇我蝦夷より強気であったため、もはやその気になり、山背王を取りのぞいて和国の王に即位するつもりになってしまった。

 

 

【高句麗・栄留王没す】

百済の会見の後、イリ大臣が帰国すると、高句麗にはただならぬ気配が漂っていた。多数の唐の間者が入り込み、奸臣は唐へ情報を流し、売国行為がそこかしこに横行していた。

 

唐を相手に戦うは愚かと判断した有力部族達は、保身の為に積極的に国を売るものが多くいた。戦争と政変が続き、ウィジャ皇子のような気概のある者は少なくなり、高句麗に残ったものはそのような輩が多く、その上、主だった群臣らは、強烈な反唐派で傍若無人なイリが邪魔者であり、取り除いてしまおうと画策していた。

 

イリは、ウィジャ皇子と父高向との百済での会盟で遺恨を残したまま帰国した為、高句麗のそのような有り様に触れたとたん、反唐感情の火が一気に燃え上がり、爆ける怒りとなって、郡臣たちへ憎悪をむけた。

 

やがて、

 

 

「百済王没す」との報をきいたイリは、

 

反唐の一点に目的をしぼり、

行動を起こす決心を固めていく。

 

父高向に対する怒りや、得も言われぬ虚無感を吹き飛ばすかの様に、イリを排除しようとしている群臣に対して思い切った行動に出て、イリの名を唐のみならず「唐に逆らう者」としてアジア中にその名を知らしめるほどの暴挙を起すことになった。

 

(必ず、高句麗の親唐派を一掃する)

 

怒りとは裏腹なほど、イリは冷徹に標的を絞りこんだ。

決して討ちもらすことが無いよう綿密に兵を布陣することは得意であり、策謀家の父ゆずりと言えなくもないが、豪気なだけに父・高向玄里の様には策をろうさない。

 

 

642年10月、

 

イリは、反唐派の同志の仲象将軍(テ・ジュンサン)に協力させ軍を抑えた後、宮城の南で盛大な酒宴を開き、大臣以下百官を招いた。

 

 

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仲象将軍(テ・ジュンサン)

 

そして、一網打尽に酒宴の場にいた百人以上の親唐派の群臣たちを囲いこみ捕えてしまった。

 

身分の上下を問わず、ひとりひとり目の前に引き出しては、売国行為の罪名を挙げ、その場で次々と撲殺していった。

 

高句麗に父高向が残した黒い歴史を、一つづつ叩き潰していくかの様に、眉一つ動かさずに粛々と親唐派の群臣を粛清していく姿は鬼気迫るものがあった。

 

 

唐に媚びる者は何ひとたりとも許さないという揺ぎ無い義憤に自らが陶酔し、

 

(これでもう引き返すことはできない)

 

と、覚悟を決めての強行だった。

 

親唐派の群臣ら180名余りを皆殺しにしたイリは、そのまま宮中に乱入し圧倒的な戦力で栄留王を襲う。

 

この時のイリはともかく強かった。

 

 

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兵を指揮したことしかないイリにとって初めての実戦となる。

 

まるで、

 

10代で抑圧した感情を全て爆発させるかの如く、

 

それが強力な起爆力となって、宮廷内をところ狭しと暴れまわった。

 

次々と現れる敵を剣を翻し討ちまくり、

 

金一族の粋を結集したイリの豪剣は、どんなに打ち合っても刃毀れせず血糊を弾いた。

 

 

イリは、視界に入る敵は全て屠り続けているうちに、ある種の戦闘の境地に意識が至った。

 

 

時空間が、イリの周りだけ変化してしまった様に、

 

瞬間は長く伸び、敵の動きがゆっくりと見え、

 

空間は短く縮み、敵がイリの間合いへと入ってくる。

 

武人としての不思議な感覚を覚醒しながら、

 

必死で逃げる栄留王を寝所まで追い詰め、とどめを刺した。

 

イリは殺害した死体を溝に捨てた。

 

大国唐が後ろに控えているにも関わらず、唐の冊立した王を殺すからにはイリも相当な覚悟をしなければならない。

 

 

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栄留王

 

栄留王を殺して宮中を掌握したイリは、ただちにイリの傀儡となるウィジャ王の息子の「宝蔵王子」を高句麗王に即位させ、自らは宰相(大莫璃支)となって、高句麗の実権を握った。

 

そして宰相の人事権を行使し、イリはすぐに高句麗宮中内を反唐色に固めなおした。

 

王の従者も全て入れ替え、特に父・高向玄里の息のかかった親唐派の者は徹底的に排除した。

 

各部族達の私兵を国軍に編成し、「趙義府」という直属の諜報機関を設置して、高句麗内外の情報を管理下に置いた。

 

イリは、宰相として高句麗全軍の統制権を持つことになり、ようやく唐と対峙することができる強い高句麗軍へと戻りつつあった。

 

 

唐は周辺国を次々と滅ぼしていて、アジア天下制圧を狙う太宗皇帝がどんなに「和平」をちらつかせようと、隋に負けなかったほどの強国・高句麗をそのまま放置しておくことなど考えられなかった。

 

が、しかし、栄留王と群臣らは誰もそれを認めようとせず、戦で私有民や私兵を損ないたくないがために「和平」を主張し続けていた。

 

反唐派は、その様に「和平」を唱えながら無し崩しに高句麗を無力化させていく栄留王と親唐派に対して、激しい憤りを感じてきた。大国隋と三度戦っても負けず、100万の大軍をも全滅させた高句麗の強さを誇りに思う者も多く、今までその高句麗の誇りを唐の臣属国のように貶めてしまった栄留王の売国行為を激しく憾んでいた。

 

その栄留王がようやく取り除かれたいま、反唐派は溜飲の下がる思いだった。

 

反唐の旗頭として即位した宝蔵王は、

 

イリの擁立により高句麗王になったことの喜びは大きい。

 

父・ウィジャ王が栄留王に追われ和国へと逃げていった後、親唐一色となった高句麗に一人取り残され逼塞していた頃の心細さを考えれば、まるで奇跡のようである。

 

イリのような武闘派が現れ、親唐政権を倒さなければ、唐の天下では決して陽の目をみることはなく、ただひっそりと生涯をおえたか、或いは殺されていたかもしれない。

 

 

しかし、宝蔵王は、イリのあまりの残忍さを目の当たりにして恐ろしくなってしまい、イリに対し王としての威勢を張ることができずになっていった。

 

一方で、宝蔵王はそのようなイリの唯一の理解者でもあり、イリの孤独に共感することができる人物だった。

 

イリも宝蔵王を常に立て、国王と宰相の関係でありながらも二人は親子の契りを結んでいた。

 

三国どこに行っても地縁血縁が薄かったイリにとってたった一人の肉親のような存在でもあり、宝蔵王も、イリも、父との関係が希薄だっただけに、実の親子よりも二人の絆は強い。

 

 

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宝蔵王(ポジャン王)

 

高句麗の反唐派の実力者イリ大臣が、栄留王を殺す大乱が起きたとの報はすぐさま世界に伝わり衝撃を与えた。

 

イリの大逆に唐の太宗皇帝は烈火の如く怒り、すぐさま高句麗を攻めようとしたが、

 

側近の長孫無忌が

 

「隋の敗戦の轍を踏まぬよう隠忍自重するように」と、

 

懸命に諌めた為、高句麗攻めを留まり、ひとまずイリが擁立した宝蔵王を高句麗王として認めて冊封することにした。

 

そして、唐は長安の苑中で栄留王の葬儀を執り行い、使者を高句麗に使わして王の霊を弔った。

 

唐は、介入手段として、極東への手先に高向玄里を使ってきたが、高向玄里では息子イリの抑えが効かず、もはや何の役にも立たないと判断し、極東政策を変更をせざるを得なかった。

 

和国にいた高向玄里は、息子イリの突然の暴挙に最も驚いた。

 

百済と和国の現政権を倒し、ウィジャ皇子に両国の王として即位させることが先決だったはずであり、次の決起は和国で行う計画で、それより先に栄留王を殺してしまえば、和国の政権奪取以前に唐に攻められてしまい、それどころではなくなってしまう。

 

何よりも、百済でウィジャ王と謀った時の様に高向が蔭から働きかけて動かすのでなく、高向玄里の息子イリが堂々と表だって暴挙を行ってしまったことは問題であり、確実に高向は唐の後盾を失うこととなる。

 

唐の力を後ろ盾に、唐に対抗できるほどの大国をつくろうという高向玄理の計画は、あえなく頓挫した。息子に高句麗を動かさせて、自分が和国から半島を牽制するなどということも不可能になり、高向の大望は一気に崩れてしまった。

 

イリには、それらは父高向に対する反抗でもあり、父の言いなりに生きてきたイリにとっては、高向に逆らうことで自分を取り戻すことができた。

 

父への反抗心と唐への反逆心が絡み合い、父に支配された人生を取り返し、自分は自分の道をいくというイリの親離れの代償は、あまりにも大きく、このことで生涯イリは唐から命を狙われ続けることになってしまった。

 

当代一の政治家・高向玄里には、倒行逆施とも思えるイリの暴挙の根底には、父に対する怒りや反抗が根深くあるということが理解できなかった。

 

 

イリは、高句麗を制した強烈さで、暴虐な自我を確立し大人になった。

 

イリは宰相でありながらも、およそ宰相らしからぬ屈強な武人である。

 

常に、身に5本の剣を俳し、外出する時は徒党を組み出かけた。

 

 

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イリの先触れを聞き、惧れ隠れぬ者はなく誰もが恐れおののいたが、一方でイリは、気楽に兵卒たちとザコ寝をしたりする様な気さくな一面もあった。

 

しかし、一度怒ると周囲の者が手の付けられないほどに暴れた。

 

恐れを知らないイリの強硬な姿勢は、東アジアに最強の武闘派としての雷名を知らしめ、高句麗にいながらにして豪気を払い三国(和・百・新)に威圧を与えるほどとなった。

 

そして皆、武力よりも

 

「何をし出すか分らない」

 

イリの危うさの方に不気味な恐怖を感じていた。

 

 

 

しかし、高句麗きっての武闘派であり安市城の城主だった楊万春将軍(ヤン・マンチュ)だけはイリの執権を頑として認めなかった為、イリは自ら兵を率いて安市城を攻めた。

 

 

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イリと楊万春将軍の攻防は二ヶ月以上に及びなかなか決着がつかなかった為、イリの同志でもあり、楊万春将軍と共に隋・高句麗戦に従軍した戦友、仲象将軍(テ・ジュンサン)が仲介にたち楊万春将軍を説得し、イリと楊将軍は互いに相手の実力を認め、鉾を納めた。

 

 

イリは、楊万春将軍を城主に復職させ、楊万春将軍は、イリを高句麗の宰相として認め共に反唐の誓を立てた。

 

仲象将軍(テ・ジュンサン)の仲立ちによって、高句麗最強の将軍を片腕に得たことは、イリにとって大きな強みとなる。

 

その昔、漢末の劉備のもと、関羽、張飛、という二人の豪傑が義兄弟となり支えた様に、楊万春将軍と仲象将軍はイリの双璧をなした。

 

 

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イリの強硬な姿勢は、その後も唐との間の緊張を高めていく。

 

イリは百済のウィジャ王と連携して新羅と唐との交通路である党項城を攻め、新羅の唐への通交を遮断した後、そのことに対する唐からの諭告の使者に対しても一切諂うことなく強気で不遜な態度をとっていた。

 

その一方でイリは、高句麗には無い道教をもたらすため宝蔵王に願い出て遣唐使を送り、叔達導師ら道教の道士8名と『道徳教』を高句麗へ持ちこんで、文化興隆を行うなどの智勇を兼ね備えた一面もあった。

 

権力の座は、武と法による統制主義だけでなく「礼教思想」による鎧でも覆う必要があることを、どかこでイリは、知っていたのかもしれない。

 

武力の向上心だけでなく、知識と情報を集めることにも貪欲であり、道士たちより道教の全てをイリは学んだ。

 

五行風水、とりわけ「遁甲術(忍術)」を懸命に学び、

趙義府配下の間者の育成に取り入れていった。

 

少年時代より修行に打ち込んできたイリは、何かを体得することに関しては人一倍努力する。イリは、僅かな期間で、世を睥睨するだけの気合いや学識をそなえた。

 

 

 

【和国・山背王没す】

643年、蘇我入鹿が、山背王を倒して自分が和王に即位しようと心を固めた頃、6月になって、高句麗から実行部隊を率いたイリが筑紫へと上陸してきた。

 

イリは新たに設置した直轄の諜報機関「趙義府」の監視体制を強化し、息子ナムセンや楊万春将軍に高句麗を任せて、表むきは高句麗使節として自ら来和してきていた。

 

しかし、武器等を多量に携えてきた為、和国への介入であることが疑われ、上陸時にちょっとした小競り合いが起きて紛糾したが、イリは強引に上陸し、あっという間に姿がみえなくなってしまった。

 

イリにとっては、かつて知った和国であり、少年時代までを過ごした懐かしい故郷だった。

 

(高句麗と違って、和国の風は温かい)

 

何年ぶりかの肌感覚と共に、和国で過ごした子供時代の意識が蘇ってくる。

 

イリはまず、育ての親である長老・大海宿祢に挨拶をする為に、丹後の国の大海の里に立寄った。

 

長老・大海宿祢は再会を喜び、イリはそのまま大海の里に留まって、裏日本側を廻ってやってくる関東から陸奥・甲信越にかけての和国での配下の者を集めた。

 

 

イリは、表向きは高句麗からの使節として来和してきている。

 

山背王の殺害という目的から蘇我蝦夷の目を逸らす為に、イリはもう一つの来和目的である唐・高句麗戦に備えた「援軍要請」の為に一度動いた。

 

蘇我蝦夷・入鹿親子らは、イリの姿が見えなくなった事に訝しみ、

 

(何故、来和してきたのか)、、と

 

神経を尖らせていた。

 

 

 

その、蘇我蝦夷の館へ、イリが突然やってきた。

 

 

「蘇我蝦夷よ!」と、

 

門の前に仁王立ちで大声を張り上げ、

 

「高句麗の宰相イリ・ガスミが参った!」

 

と叫ぶ。

 

 

豪胆というより、あまりの傍若無人なイリの来訪ぶりに、蘇我蝦夷は言葉を失った。

 

互いに一国の宰相である。

 

その上、このような型破りな壮(おとこ)は和国にも百済にも居ない。

 

人をくった無礼な来訪に蘇我館の者は、苛立ちを感じながらも、

 

丁寧に、イリを出迎えた。

 

 

(イリとはこんな奴だったのか)、、

 

 

と、蘇我蝦夷は呆れる。

 

しかし、イリのその壮漢な堂々とした佇まいには、目の前に立たれただけで高句麗の軍威が伝わってくるかのような重厚な威圧感がある。

 

蘇我蝦夷は気を入れかえてイリを饗応し、その用向きを尋ねた。

 

「高句麗は、唐との戦に備えている。その為、和国にいる突厥の残存勢力から徴兵させたい。」と、

 

厚かましい要求をイリはさらりと言った。

 

これは、即答で「否」と断られ、

 

「そうか!」と、

 

あっさりと引き下がり館を後にした。

 

 

蘇我蝦夷は、更に呆れ果てた。

 

 

蝦夷の目には、

 

勢いで乱を起こしたものの唐に攻められそうになり、

 

(気が動転したか、、)と見えた。

 

 

 

そしてイリは、蘇我蝦夷があっけにとられている間に、引き連れてきた手勢と和国での実行部隊をあっという間に組織して大海の里より斑鳩へと向かわせた。

 

全て夜間に移動し山中を抜け、山背から難波、斑鳩から飛鳥に至るまで伏兵として配置する。

 

山背王の居る斑鳩の宮から背後の山へ出て尾根を通り生駒山へ抜ける道筋を囲み、山背王の別宅のある生駒谷・平群谷への逃げ道も全て封鎖した。

 

(必ず山背王を倒す!)

 

ウィジャ王に自分の武威を示す絶好の機会であり、

 

高句麗を制したばかりで和国入りしてきたイリは、必殺の気合いは誰よりも強い。

 

 

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イリは内心、

 

「斑鳩の山背王だけでなく上宮法王家そのものを消してやる」と

 

考えている。

 

幼い頃に慕っていた母・宝妃が上宮法王の娘であるという事を知って以来、同じ上宮法王の血をひく者でありながら和国斑鳩で上宮王家として暮らしている者達と、三国を転々としなければならなかった宝妃の身の上の違いに憤りを感じていた。

 

 

イリの父・高向玄里は、そのようなイリの思惑などは余所に、唐の使節清安と来和してからは、そのまま和国へ留まって山背王の対唐政策の相談役として和国の政庁で顧問活動を粛々と続けていた。百済からの来訪者への対応の提案をしつつ、裏では宝妃とつながり、蘇我入鹿への介入を間接的に操作していた。

 

イリとはまだ顔を合わせていない。

 

中臣鎌足が、つなぎ役となり、イリの山背王の包囲が整ったことが伝わると、高向玄里は直ぐに宝妃を通じて蘇我入鹿を動かし、山背王へは、

 

「唐についての相談に参ります」と伝え、山背王を斑鳩の宮へと留めた。

 

 

643年10月、

 

蘇我入鹿はついに武将・巨勢徳太に、山背王を襲う様命令を下した。

 

 

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巨勢徳太は、ただちに兵を起し山背王のいる斑鳩の宮を急襲する。

 

山背王は突然のことに驚き、山背王の側人や数十の舎人らが、蘇我入鹿の派遣した巨勢徳太や土師娑婆連らの軍勢と懸命に戦っていたが、山背王は馬の骨を寝殿に投げ入れ火をつけて、妃や子弟らと共に生駒山へ向かい逃げだしてしまった。

 

そのとき従っていた三輪文屋君は山背王に対し、

 

「深草屯倉(京都市伏見区)から馬で東国まで逃れ、王の私有民を中心に軍勢をおこして反撃するべき」と、

 

進言した。

 

これを容れ山背王は大急ぎで逃げようとしたが、高句麗からやってきたイリの伏兵らに方々を阻まれてしまい生駒山の山中から脱出できなくなってしまっていた。

 

 

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巨勢徳太将軍

 

巨勢徳太らは、斑鳩の宮の寝殿の焼跡に骨を見つけ焼死と判断し、一旦兵をまとめて蘇我入鹿のもとへ報告に戻ったが、その後すぐに、山背王が山中に逃げこんだとの報告があり、蘇我入鹿は近くに控えていた高向玄里に

 

「すぐに追手を出す様に」と言った。

 

しかし、高向玄里は

 

「私は宮を守るので」と出撃を断ってきた。

 

仕方なく蘇我入鹿は、自ら兵を率いて山背王の息の根を止めに出陣しようとするが、そこへ古人王子が止めに入り、

 

蘇我入鹿に対し

 

「ネズミは穴に隠れて生きるの、穴を失っては生きられない」と言い、

 

山背王をのぞいてしまったら、まだ誕生したばかりの蘇我政権は穴を失ってしまうことになってしまう、今はその中でこそ和国の専横が可能なのだということを諭した。

 

蘇我蝦夷は古人王子の説得に耳を傾け、ひとまず出陣を留まる。

 

 

しかしこの時既に、イリの伏兵は生駒山中に山背王を探し出していて、

 

追いつめられた山背王は絶対絶命の危機にあっていた。

 

生駒山を抜けることを諦めて、仕方なく斑鳩へと戻ったところをイリ達が包囲し、山背王らを殲滅して火をつけた。

 

山背王と、上宮法王の娘や息子たち上宮王家の者達は全て運命を共にした。これで上宮法王の血をひく者はイリの母・宝妃だけになった。

 

 

百済の武王、高句麗の栄留王に続いて、和国の山背王も亡くなり、親唐派の王を取り除くという反唐派の目的は達成された。

 

この後、三国は表面的には唐の冊封を受けながらも反唐派勢力が台頭していく。

 

 

蘇我蝦夷は、山背王か崩じたとの報をきき、その大逆に息子の入鹿が加わっていたことを知ると、被っていた大臣の証しである紫の冠をとり床にたたきつけて激しく怒った。

 

 

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「入鹿の大馬鹿者め!なんという悪逆を!なんと危ういことをしたのだ!」と叫び、

 

息子・蘇我入鹿の愚かな行いに地団駄を踏み何度も悔しがった。

 

 

 

そして、和国で権勢を誇っていた蘇我親子が、

 

とうとう、最後をむかえる。

 

 




【後書き】
余談、、その2

日本列島と朝鮮半島の間に明確な国境がなかった件(朝鮮南部はまだ日本側だった説)。

3世紀の卑弥呼の時代以降、

4世紀〜5世紀は【空白の世紀】と言われるほど日本史がボヤける時代がやってきますが、朝鮮半島と日本列島の間の国境もぼやけたままです。

中国は分裂王朝の時代。六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)

倭王は、中国に使いを送り中国側の史書には【倭の五王】として5代に渡る記述がありますが、

卑弥呼の名が日本書紀に登場しないように、倭の五王の名も日本書紀に登場していないので、歴代天皇に比定しにくいようです。

中国側には「倭王は新羅、任那、倭国、など6カ国の軍事総督が認められ大将軍の称号を授与されたが、百済は含められなかった」という記述があり、

日本書紀にはこのストーリーは一切書かれてませんので、

この倭国の王とは朝鮮半島側にいた倭人のことでは?とみるむきもあります。

(※もともと倭人は朝鮮半島から日本列島にかけて住んでいた民族です)


日本書紀に出てくる雄略天皇が「武」という名を使っていた為、倭国の5代の王のうちの一人、
倭王『武』のことである!というのが通説ですが、

古代日本において「武」とは一番強い男という意味があり、武=タケルは個人を特定する呼び名でなく、その地域(国)で最も強い男の称号名乗りに使われていたものでした。

雄略天皇も、めっちゃ強いです。

ヤマトタケル
イソタケル
ワカタケル
クマソタケル
、、、強い男は皆さん『武=タケル』の称号です。

中国の種々の史書に、和国の5代の王が紹介されているものを、「武」の一文字だけで全て繋ぐにはやはり無理があるのか、この通説も仮説とされているようです。

和国統一戦の前の時代なので

日本書紀は大和王朝側の歴史を記し

中国の史書は九州王朝側の歴史を記している

と、理解すると分かり易いかもしれません。

朝鮮半島南部から九州、
或いは山陰山陽あたりまでを倭人の国々としてみる様な文化が私は好きです。

ですので、この小説の第一話には、

九州勢力(朝鮮半島南部含)

 対 

大和勢力の

和国統一決戦から

書かせて貰いました。

大渡王(継体天皇)が日本列島を総べたことにより、かつてなかった強い和国が誕生します。

朝鮮半島南部から九州にかけて、独自の海峡文化をつくり交易で栄えた製鉄の民たちの国々も消えていき、

日本列島と朝鮮半島の間に
明確な国境が誕生する時代に入ります。

国が強くなるほど、国境も明確になっていきます。

この後、親唐派政権が倒され
大化の改新を経て日本列島中に龍の如くパワーがうねっていき、強力な和国になっていくストーリーに繋げていきたいと思います。


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第4章 和国 ウィジャ王即位【大化の改新】

西暦644年~646年
山背王が殺害された後、王位を狙っていた蘇我入鹿の思惑に反して、蘇我蝦夷によって和王に擁立されたのは古人王子だった。反蘇我勢力は、古人を王位につかせておき、裏では蘇我入鹿の暗殺準備をすすめていく。そして唐は、東アジア諸国の親唐派の王が除かれたことは看過できず、いよいよ兵を挙げ高句麗に侵攻した。緒戦は唐が勝利し、唐の太宗皇帝自ら出征したがその後の勝利を得ることができなかった。戦争中にも関わらず高句麗宰相イリと百済国王ウィジャは、密かに和国へ渡り、蘇我入鹿暗殺を実行する。蘇我親子を滅ぼし和国を取り戻したウィジャ王は百済・和国の両国の王となり、分断されていた王位を再び統一した。

1話 古人王
2話 那珂の大兄王子
3話 唐・高句麗進攻
4話 イリ・ガスミの出生
5話 乙巳の変
6話 和国・ウィジャ王即位
7話 改新の詔



【古人王】

山背王らが殺害された後、王位を狙っていた蘇我入鹿の思惑に反して、蘇我蝦夷によって和王に擁立されたのは古人王子だった。

 

 

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古人王子

 

反蘇我勢力にとってこれは渡りに船で、まだ実力者である、蘇我蝦夷・蘇我入鹿らを倒さなければならず、古人に即位させておき、その間に暗殺の準備を進める必要があった為、反蘇我勢力からも反対する者はいなかった。

 

和国王位を狙っているウィジャ王までも、

 

「年長である古人王子が先に即位すべき」と、

 

譲って次期和王との意味をこめて、古人王子を「大兄王子」と呼んだ。

 

即位することになった古人は、自分も山背王と同様に「蘇我蝦夷・蘇我入鹿」親子の身代わりであり、次に犠牲になり殺されるのは自分であろうということは容易に予測がついた為、なんとか即位を辞退しようと出家を望んだりして抵抗していたが、叶わず、蘇我蝦夷の擁立によって強引に和王に即位させられてしまった。

 

即位後は、暗殺を恐れること甚だしく、即位の喜びなどより恐怖にとらわれていた。

 

古人王は、反蘇我派の筆頭である中臣鎌足を神祇長官に任命し、懐柔を再三図ろうとしたが、中臣鎌足はこれを一切受けず辞退した。

 

また、古人王は同じ武王の血を引くキョギ王子にも腐心し、娘の大和姫を差し出すので、キョギ王子との婚姻の仲介をできないかと鎌足に頼んでいたが、鎌足はそれも差し控えたまま、摂津三島に引きあげていった。

 

 

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狼狽える古人王とは対象的に、蘇我入鹿だけは、古人を傀儡として和王に即位させた父・蘇我蝦夷の意図をよく理解できずにいた。

 

古人王子は、先代の上宮法王の継承候補であった百済の武王と、蘇我氏の姫の間に生まれた蘇我系の王子で、今の蘇我氏は古人王の影に回るしかなく、ウィジャやイリの圧力を跳ねのけ蘇我蝦夷や入鹿が王にとって代わることなど、とてもできる状況ではなかった。

 

蘇我蝦夷は、山背王が除かれたことによって、蘇我氏の命運が尽きかけている未来に気が付きはじめていた。

 

しかし、父・蝦夷のもとで、最初から大した苦労もせずに権勢を欲しいままにしてきた入鹿には、そうしたことが全く分からず、父蝦夷のやり方をもどかしく感じていた。

 

蘇我蝦夷は息子・入鹿の愚かな行いに怒って大臣を辞めて隠居してしまい、入鹿が跡を継ぎ大臣に就くことになっていたので、父・蝦夷の懸念とは裏腹に入鹿はますます増長してしまった。

 

 

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蝦夷は自ら、大臣の証しである紫冠を息子・入鹿に授 与したが、その行為自体もまた大臣ではなく、王にのみ許される振る舞いであった為、蘇我入鹿は更に尊大になっていく。

 

蘇我入鹿の傍らで宝妃は、蘇我蝦夷が気にしていたように逆賊の汚名を受けない為には順序があり、

 

「いずれ上宮法王の娘である自分を皇妃として即位すれば、簒奪王朝でなく、堂々と和国王として君臨することが間違いなくできるので焦ることはない」と

 

説得した。

 

蘇我入鹿も、上宮法王の血をひく宝妃も手中にあり、いつでも和王に立てるものと慢心していたので、

 

(今更焦ることもない。父が反対するのなら、もう少しだけ待つか)と、

 

単純すぎるほど、先々に堂々と即位することを全く疑わなかった。

 

武王の王子である古人やキョギなど王族のことなど歯牙にもかけておらず、その様に蘇我入鹿を慢心させ油断させることこそが、宝妃の任務であり、蘇我入鹿は、ただ父の意向が添わないことだけを気にかけていて、反蘇我勢力の思惑どおりになっていた。

 

 

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【那珂の大兄王子】

キョギ王子は、和国に亡命して来てすぐに息子が殺されてしまって以来、あまり表には出ずひっそりと身を潜めていたが、武王と蘇我氏の子である古人大兄王子が和王に即位したことには黙ってはいられなかった。

 

武王の王子が和国王に即位するならば、当然同じ武王の王子である自分にも和国の王位につく資格はあるものと考え、むしろ

 

「武王と上宮法王の血を引く吾の方が正当性は強く、王位にふさわしいはずではないか!」と、

 

激しい憤りを感じていた。

 

そもそも、皇太子を大兄王子と言うのも百済の言い方であり、古人大兄王子と呼ばれていたこと自体、語意に「百済の武王の皇太子である」という含みが強く感じさせられた。

 

武王を父に持ち上宮法王を祖父にもち、百済と和国、両国の王家の血を引くキョギ王子にとっては、古人の下風に立つことだけで自尊心が許さず、耐え難いことだった。

 

 

すぐる年、和国での饗応を受け相撲を堪能し、キョギ王子の家の門の前で立ち止まって一礼をした沙宅鎌足こと中臣鎌足は、この時キョギ王子の家を訪問した。

 

鎌足は、百済ウィジャ王の密命どおり、キョギ王子を蘇我打倒に協力させ味方に引き込む為、説得しに来ていた。

 

二人の関係は、まだ和国では不明であり、同じ百済からの渡来人としてみられていたが、それ以上のものではなかった。実際、父の仇であるウィジャ王の側近・鎌足を前にしてキョギ王子は殺気が漲っていた。

 

 

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中臣鎌足

 

鎌足はまず、首を差し出すほどの決死の覚悟で、百済でウィジャ王の暴挙を止められなかったことを詫び、武王の命を守れなかった自分自身の至らなさを陳謝した。

 

到底その様なことで、キョギ王子の気持ちがおさまるものではなく、罵声を浴びせられ続けてしまい会話は遅々として進まなかったが、しかし、キョギ王子は感情的になる自分を嫌う一面があり、和国まで落ち延びてきた目的を問われ、怒りを堪えて冷静に考えはじめたことで交渉の突破口が開けた。

 

キョギ王子にしても、和国まで来て蘇我蝦夷・入鹿親子を倒さなければ憂き目はなく、蘇我氏の支配する国にただ落ち延びただけで終わってしまうことと、蘇我親子を倒すことは共通の目的であるということを鎌足はゆっくりと諭しはじめた。

 

そしてまた、武王は隆王子を皇太子にして唐も承認していた為、いずれにしてもキョギ王子が百済で王として生きる道はなく、和国へ来たことはむしろ道が開ける機会であり、我々と共に蘇我親子を打倒すべきであると説得した。

 

キョギ王子は、手兵もなく、身内さえ殺されてしまう和国の中で、百済の者と諍いを起すのは危険であり、兵を挙げるにも、和王につくのにも、まずは目の前の敵、蘇我親子を倒すべきであると得心し、怨念を抑えて協力しあうことを約束する。

 

キョギ王子は、怒りを百済ウィジャ王に向けるのではなく、今は目の前の敵に全力を向けて倒す覚悟を決めた。

 

そして、キョギ王子という百済王子の呼び名も捨て、正式に和国での名を名乗ることにした。キョギ王子の母方の上宮法王ではなく、父方の先祖の故郷である九州地方の縁から【那珂】(福岡県 )という地名をとって【那珂王子】と和国名を名乗った。

 

(後世に母方の王統性を表して「葛城王子」とも呼ばれる※この頃はまだ王家の地・葛城地方は蘇我勢力に専横されていた)

 

 

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キョギ王子=那珂大兄王子

 

 

キョギ王子こと、那珂王子は和国での有力な後ろ楯がまだなかった。

 

中臣鎌足は蘇我石川倉麻呂から賄賂も受けとっていた為、蘇我石川倉麻呂の娘・遠智娘と那珂王子との婚姻を勧め

 

「何の後ろ盾もないまま王に即位したとしても、その王位は虚しいまま。まずは古人王の即位を認めその間に和国の有力部族の味方をつくり、即位に向けての足場を着実に固めるべき」

 

と、説得した。

 

那珂王子(キョギ王子)はこれを受け入れ、中臣鎌足の勧める婚姻により、蘇我石川倉麻呂や中臣鎌足の擁護を受けられると考えることで心理的にも自己効力感が上がり、いくらか古人王の和王即位を受け入れる心持ちになれた。

 

そしてまた、中臣鎌足は、捨ておいていた古人王の娘の大和姫と那珂王子との婚姻にも動き出し、那珂王子は着々と和国での足場固めを行っていった。

 

 

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大和姫

 

その上、中臣鎌足は、那珂王子らが法興寺で蹴鞠をしているところにあらわれて、那珂王子の靴が脱げると、うやうやしくその靴を拾い那珂王子にへつらう姿を周囲に見せた。

 

その後も、道教の南淵先生のもとへ仰々しく共に往復し那珂王子を目立たせ、那珂王子との関係を喧伝してみせた。

 

中臣鎌足は、百済ウィジャ王の側近中の側近で、和国一の実力者の蘇我入鹿でさえも一目置くほどの人物であり、百済ウィジャ王の片腕的な存在ということだけでなくとも、あまり政治的表面には出ない策謀官僚型の人物であり、権力志向というより徹底した反唐志向の人物だった為、和国でもその存在には重厚で深沈な不気味さがあった。

 

その中臣鎌足が、和国で那珂王子に肩入れしはじめた様に喧伝されはじめると、那珂王子も周囲から一目置かれるようになっていった。暗殺に怯えた百済の亡命王子でしかなかった那珂王子の弱かった立場はぐんと上がり、あらためて引立ててくれた中臣鎌足の強力な存在感を那珂王子はひしひしと感じていた。

 

山背王を倒し、和国で気勢があがる反唐派は、すなわち反蘇我勢力でもあったが、その中で蘇我石川倉麻呂は蘇我氏でありながらもずっとウィジャ王側について、蘇我蝦夷・入鹿に対抗してきた人物で、中臣鎌足とも鎌足が和国へ亡命しまだ「智積」と名乗っていた頃からの昵懇の仲であり、蘇我蝦夷・入鹿打倒の中心的な立場だった。

 

 

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蘇我石川倉麻呂

 

中臣鎌足はこの勢力の中にも、那珂王子を引き入れて蘇我入鹿暗殺の実行部隊へと加えた。那珂王子に嫁いだ蘇我石川倉麻呂の娘・遠智娘も懐妊し、両家の結束はより強く結ばれていく。

 

蘇我入鹿の暗殺は宮中内で計画されていたため、宮中での身分のあるものが同志に多かったので、宮中の知己も広がり、すっかり調子づいた那珂王子は、次に古人王の娘・大和姫を娶った後は、皇太子という意味である「大兄王子」=那珂の大兄王子と自ら名乗って、古人王の後継者であるかの様にふるまいはじめた。

 

元々、百済から共に亡命してきた者達は大兄とよんでいたが、この頃より周囲の者から段々と那珂大兄王子という呼ばれ方をするようになっていった。

 

 

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【唐・高句麗進攻】

唐の太宗皇帝は、山背王殺害の実行部隊を率いたのはイリであることと断定し、高句麗の栄留王に続き、和国の山背王までも倒したイリをもはや看過することはできず、イリを殺す方針を決めた。

 

東方の辺境の事とはいえ、

 

唐の冊命した王を二人も殺すとは、

 

(高句麗のイリとは如何なる者か)と、

 

噂は四方に広まっていった。

 

唐の体面にかけて、これを捨てたままにして置くことはできない。

 

高句麗攻めを強く反対していた諌臣・義徴もこの時にはすでになく、唐の太宗皇帝は高句麗遠征の検討をはじめた。

 

644年、唐は再度、新羅との和解勧告の使者を高句麗に使わしたが、血気盛んなイリは唐からの和解勧告を拒否し、唐の使者を捕えて土牢に拘留してしまった。

 

その強気なイリの態度に激怒した太宗は「弑君虐民」の罪を問い、11月、唐はとうとう兵を挙げた。

 

唐の太宗皇帝は、唐一の猛将泣く子も黙る李勣将軍に6万の陸軍とその配下の張亮将軍に4万3千の水軍を与え高句麗へ侵攻させる。

 

 

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李勣将軍

 

新羅、百済、契丹にも出兵を命じた。

 

翌645年、唐軍の進攻に対し、高句麗の各城は城門を固く閉ざし攻撃をしのぎ、唐軍は大きな犠牲を払いながら僅かに幾つかの城を陥落させただけであった。

 

張亮将軍率いる水軍は、遼東半島の最南端から進攻し、遼東半島にある高句麗の卑沙城を落したが、その後、救援にやってきた高句麗水軍に大敗する。

 

 

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営州に集結した唐・陸軍の主力軍は、李勣将軍が率いて遼東城へと向かった。

 

高句麗の遼東城は、隋軍100万の攻撃にも耐え、何度攻撃されても未だに落とされたことが無い難攻不落の城であり、遼東城を攻めた唐軍・陸軍の先鋒はあっという間に壊滅させられてしまった。

 

これに対し、李勣将軍は陽動作戦を行い、さらに南風の強い日に火計を用いて奇襲を行い、遼東城の食糧倉庫を焼きはらい兵糧攻めを始めた。

 

そして、6月になると、唐の太宗皇帝が自らが70万の軍を率い、物資補給の兵站部隊を併せ、号して100万の大軍で高句麗に親征してきた。

 

 

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唐軍は、均田制を基盤とした徴兵による「府兵制度」によって編成され、隋の時代の府兵制に手を加え軍編成をより完成されたものにしていた。

 

(均田制=国民全てに田畑を与え税と兵役を課す)

 

 

軍の「統制権」、「監督権」、「徴兵権」、をそれぞれ分けて設置することで、将軍の独断による暴走や軍閥化を防ぎ、国としての兵権を確固たるものに築きあげた。軍律は厳しく、10人隊を最小単位として50人に編成し、それをさらに200人旅団にまとめ1000人程度の府に編成とした。軍を動かすときは、10人隊単位からでも皇帝の割符が必要だった。

 

また太宗皇帝も、自ら閑農期には兵の調練に当たり、農民達を精鋭へと鍛えあげていった。

 

まさに、和韓諸国の「部族連合軍」や「部族連合の王」とは、天と地ほどの差があった。

 

しかし、外征時にはこうした徴兵による常備軍だけでなく、募兵を行い傭兵による大軍を編成する。

 

太宗皇帝は

 

「天下の壮士を募兵せよ」と命じ

 

高句麗遠征の為の軍編成をすすめてきた。

 

突厥族、鉄勅族、靺鞨族、チベット族、そして、元ササン朝ペルシアの職業軍人、アジア中の壮強な兵士達を傭兵として集めた「アジア最強軍」を編成し、兵気は高く、太宗皇帝も高句麗を制圧するべく意気込みは強かった。また、鉄勒族の(突厥系)部族長らにも莫大な賜物をした上カーンに冊命し「高句麗の味方をしないように」と誓約させるほどの念の入れようだった。

 

 

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唐 太宗皇帝

 

太宗皇帝率いる唐の大軍の前に、飢えによって士気の落ちてしまっていた遼東城は、落城した。

 

太宗皇帝はそのまま遼東城南へ進攻し、遼東方面の要である安市城を囲んだ。大地が黒雲で覆われたかの如く、安市城の周辺は全て唐軍に覆われてしまった。

 

安市城は、満州平野を流れる大河遼河へ水路を結び、切り立つ山に囲まれた天剣の要害で、大軍でも容易に攻めることができない難攻不落の城である。

 

 

 

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安市城

 

城主の楊万春将軍(ヤン・マンチュ)は、隋・高句麗の大戦で、ウルチムンドク将軍につき従い隋軍100万を攻め滅ぼした歴戦の猛者であり、安市城で見事に唐軍を阻止し、60余日間の防戦の後に唐軍を撃退した。

 

 

この時、唐軍に従軍していた契丹族の薛仁貴(ソル・イングイ)は、唐軍の危機を救い目覚ましい活躍をした為、太宗皇帝より将軍に引き立てられた。

 

薛仁貴(ソル・イングイ)は、唐軍が窮地に陥ると、両軍が目を見張るほどの奇抜な鬼神の装束で現れ、

単騎で切り込み、凄まじい速さで高句麗兵を引き裂いた。

 

 

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薛仁貴(ソル・イングイ)

 

 

ソルイングイの動きは華麗で素早い。

 

剣を舞わせるように矢を払い、槍を振り回し敵を突いて、

 

もの凄い勢いで戦場を駆けぬけた。

 

一斉に矢の雨が、背中にとどく刹那、

 

走っている馬の背中から、飛び上がって空で体をかわし、

 

みごとに鞍に舞い戻り、再び手綱をとり何ごとも

なかったかのように走り出す。

 

曲芸のような体術をみせながら、

 

誰も見たこともないような強さで、高句麗兵をなぎ倒していった。

 

剣戟を打ち合わせようと進みでてくる勇者達を、次々と両断し、まるで無人の野を走り抜けるように戦場を駆け続け、陣を混乱させた。

 

暫く戦場は固まり、薛仁貴(ソル・イングイ)の動きに両軍とも釘づけになってしまった。

 

この隙に、危機に陥っていた唐軍はなんとか死地を脱した。

 

 

太宗皇帝は

 

「遼東を得たことより卿を得たことを喜ぶ」

 

と感激し、薛仁貴(ソル・イングイ)将軍を讃えた。

 

 

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再び唐軍は反撃し安市城の攻撃の手を強めると、高句麗の高延寿(コヨンス)将軍と高慧真(コヘジン)将軍らが15万の大軍を率いて安市城の救援に向かった。

 

 

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駐蹕山で両軍は衝突したが、唐軍の計略に落ちいって夥しい死傷者を出して将軍らは降伏してしまった。

 

唐の太宗皇帝は、この勝利に高句麗攻略の手応えを得た。

 

この駐蹕山の戦いの時、命がけで敵陣に深く斬り込み、雄壮に散っていった唐軍の兵士がいた。

 

太宗皇帝はこの亡くなった兵士は

 

「一等の功である」として、

 

何者なのか?

側近に尋ねると、

 

「彼の者は、新羅人で佐武衞士の『薛刑頭』です。」

 

と上奏した。

 

それを聞くと太宗皇帝は涙を流し、

 

「吾が国の兵士でさえ、なお死を怖れ後ろを振り返り、前に進むことを望もうとはしないのに、外国人でありながら吾が国の為に死んだとは。

真の志士や義を守る者は忠節を尽くし、あえて死を惜しまず。何をもってその功に応えたら良いだろう。」

 

と、尋ねた。

 

薛の従者は、

 

「薛は、『新羅の血統を重視する骨品制度では、人を登用するのにも出自を論じ、いかなる才能や功績があろうとも、決してそれを越えることはできない。

吾は脱国し、西に向かい中華に遊学し、非常の功を立て、自ら栄達の路を開いて、天子の側に仕えることが出来れば満足である。』と、志しをたてて、商船に紛れて入唐し、この度の戦にも進んで参軍してきました。」

 

と、語った。

 

彼の平生の願いを聞くと、太宗皇帝はひた垂れを脱ぎ、ひざをつき、そっと、屍の上にかけた。

 

そして、大将軍の官を授け礼を尽くして葬った。

 

 

唐の太宗は高句麗の二将を降伏させ、意気揚々と駐蹕山から安市城に降伏勧告を促したが一向に応じないため、総攻撃をしかけた。

 

が、相変わらず城内の結束は固く、金城湯池の堅固さで楊万春将軍はその攻撃に耐えていた。

 

隋軍100万を壊滅させた猛将・楊万春将軍は決して兵力の多寡に怯むことはなく、機をつかみ俊敏に兵を動かしていく。弓勢をたわめ間断なく殺到する敵に、熱湯や油を浴びせ火矢をかけ、凄まじい攻防戦を続けていた。

 

 

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この時、唐に降伏した高延寿が

 

「安市城をそのままにして他の城から攻撃をしてはどうか」と助言したが、

 

唐の智将・長孫無忌(チャンソン・ムギ)が安市城を落とさずにこのまま進めば、後方から挟撃を受ける危険があるとして、引き続き安市城を攻撃した。

 

(後方の敵を置きすてては大害がある)

 

ということは誰しもが危惧した。高句麗攻めで、奥深くへ侵攻すれば、兵站が伸びきり食料補給が困難になり、随軍のように全滅する恐れさえある。攻めあぐねる唐軍は次々と計を図るが、高句麗の守りは強くいっこうに打開はなかった。

 

 

激しい攻防の末、唐軍は正攻法ではもはや安市城を落とすことは不可能と判断し、延50万人の兵力を使い二ヶ月間かけて土を盛って、安市城のすぐ横に安市城より高い人工の丘を造営し、そこから侵攻するという奇策を試みた。

 

だが、高句麗軍も、全民衆を動員し、安市城内より丘の地下深くへ土窟を掘り進めていき空洞を造っておき、丘の上へ唐軍が登りきったところで、丘ごと崩落させて、唐軍数万を一気に生き埋めにし壊滅させてしまった。

 

 

 

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この土木戦の後も、高句麗と唐の戦闘は日々熾烈を極めていたが、高句麗軍の士気は益々上がる一方であり、唐の太宗はどうする事も出来ずにいた。

 

 

 

 

一方、

 

唐水軍500隻は、海路より首都・平壌城を目指したが、和国より一時帰国してきていたイリが率いる高句麗水軍と長海群島沖で激突し、西海に沈められてしまっていた。

 

『海の一族』の聖地 大海の里で育ったイリは、海将としても優れていた。

 

幼い頃より船に乗り、日本海の荒波に揉まれ、風と潮の利は知り尽くしている。

 

風向きが変わるのを待ち帆を上げ、島陰から北風に乗り奇襲をしかけ、風上から吹く風と同時に火矢を射て、唐の戦船を次々と沈めていった。

 

 

イリは、唐水軍を全滅させると、返す刀で再び和国へと渡っていった。

 

 

この頃よりイリは、休む間もなく東奔西走を続けていく。

 

 

 

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秋になると北方から突厥勢が唐に侵入して、唐軍の食料も不足がちとなり暴風と降雪が止まず兵が倒れていき、太宗はやむなく撤退を命じた。

 

これより、唐に帰順した周辺国達も高句麗に呼応して反唐の兵を挙げるようになっていく。

 

 

 

安市城周辺は唐軍側に降り捕虜は七万人に及んだ。

 

撤退時には、満州平野を別つ大河遼河の周辺が沼地になってしまっていて、唐軍が渡るのには困難を極めた。

 

太宗皇帝も自ら草を敷きながら道を作って必死に撤退したが、高句麗軍の追撃を受けてしまい李勣将軍を始め唐軍は完膚なきほどに敲きのめされてしまった。

 

30年前、隋軍100万が高句麗に全滅させられた時もこの様であったかと、高句麗からの引き上げが骨隋に染みた。

 

太宗皇帝は、戦の最中に弓で左目に負傷を負ってしまい、九死に一生を得た命がけの生還となった。

 

千載の遺恨事といえた。

 

 

 

帰国後、太宗皇帝は、唐軍を苦戦させた敵将・安市城主である楊万春(ヤン・マンチュ)将軍の武を称えて安市城へ絹を送った。

 

 

 

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楊万春将軍

 

 

 

隋のみならず、太宗皇帝率いる唐軍までも高句麗が撃退したことは、アジア世界を震撼させた。

 

 

 

【イリ・ガスミの出生】

645年5月、高句麗と唐が攻防戦に入った頃、百済のウィジャ王は牽制の為、新羅に攻め入り金ユシンと戦い7城を落としていた。そして6月になり太宗が遼河を越えると、ウィジャ王は兵を引き和国へ向かい、イリも高句麗の居城・平壌城から脱出し急ぎ和国へと向かった。

 

唐の太宗による安市城総攻撃が始まった頃には、イリは既に高句麗にはおらず和国へと渡っていて、和国から兵を高句麗に送りこむことと、蘇我王朝打倒に奔走していた。

 

安市城の楊万春将軍に高句麗の防衛を任せたまま、イリは、新城と安市城の間にある蓋牟城へ向けて和国兵わずか700名を救援に派遣しただけだった。

 

しかし、蓋牟城が唐軍に包囲されると、和国兵は戦わずに進んで唐軍の捕虜になっていき、唐軍に加わることを願い出た。

 

唐の太宗皇帝は

 

「お前たちが我が唐軍に加わると、(イリ)・ガスミは、お前たちの裏切りを赦さずに家族を殺してしまうだろう。私の為に、お前たちの一家が滅ぼされてしまうのは忍び難い」と言って、

 

食料を持たせて放免した。

 

 

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唐 太宗皇帝

 

イリは唐での呼名は、苗字で呼ばれることがなく、ガソムン(=ガスミ)と名前を呼び捨てにされることが多かった。イリ・ガスミの名前は、父・高向玄里が高句麗大臣だった頃、「ヨン・テジョ」と名乗っていた事に由来する。ヨン・テジョの苗字は「ヨン=淵」と書き、淵は発音が「イリ」とも発音された為、イリと呼ばれていた。

 

しかし、この「淵」という字が、唐の高祖・李淵の「淵」と同じであることから、これを呼ぶことが不敬であるとして、唐では決して「イリ=淵」と呼ばず(避諱)、名前だけを呼び捨てにし、或はまた「セン・ガスミン」などと別の綽名で呼ばれていた。

 

唐・高句麗戦の最中でありながらも、和国にいたイリは、1人で密かに母・宝妃のもとを訪ねていた。

 

宝妃は、立派に成長したイリを見て涙を流し

 

「幼い頃、抱いていたことを覚えています」と

 

再会を喜んだ。

 

イリの心中には、劣等感を抱えている問題があり、複雑な心境だった。武王が倒され、百済の王宮を追われたことによって、初めてイリは、母・宝妃と会うことができたが、しかし、再会を喜んでよいのか、それとも会えずにいたことを恨むのか、その気持ちの落としどころもないままに、宝妃と向かいあっていた。

 

 

 

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イリは、父・高向玄里の「高向」という姓すら名乗らせて貰えず、高向のもう一つの呼名である「イリ=淵」という苗字で、もの心ついた頃から呼ばれてきた。

 

今はその、「イリ=淵」という苗字さえ、唐からは呼ばれなくなってしまっていた為、「イリ=淵」という名を呼ばれることも、逆に呼ばれないことにも、イリは不快を感じ、存在に対する否定の様に受け止め憤慨していた。

 

そして、自分の存在もさることながら、氏姓、血統や出自に重きを置く世界の中で、氏・姓がしっくりとこなかったイリには、そうした自覚を持てなかったことが劣等感となっていた。本当に、父・高向玄理の言うとおり、出自が漢王室の末裔ならば、姓は劉氏であるはずだ。

 

古来和国には「妻問い」という習慣もあり(通婚制)、夫婦で同居はせずに子供は、母方に引き取られるか母方の里で育てられることも多かった。しかし、大海の里で養育されたイリは、周囲に血縁者もいなかったので、そうした感覚さえなかった。

 

【通婚制=母方の部族と同盟関係になる為の通い婚制度。他部族に対し武力破壊をせずに、部族を残したまま支配する為、部族長の娘との間に男子をもうけ、その子を王子としてその部族内で育て、部族長の跡継ぎとする平和的な支配法】

 

 

 

また、イリは近頃、武王と宝妃の子で亡命王子のキョギ王子が和国での存在感を増し、【那珂の大兄王子】などと名乗り、調子づいていることも気に入らなかった。

 

イリからみれば弟にあたる存在だが、那珂王子との出自を確かめた訳ではない。

 

イリは、血筋だけで実力の伴わない者を嫌悪していた。

 

特に那珂王子の存在は、めざわりでゆるせない。

 

 

イリは、ずっと胸につかえてた確かめたかったことを訊いた。

 

「自分は本当に父と母の子供なのか」と。

 

宝妃は

 

「あなたを我が子の様に大切に思います」

 

とだけ言った。

 

自分の子ではない、、と言う意味であり、即ち、「那珂大兄王子」とやらもイリの兄弟ではない。

 

「あなたは父・高向玄里の妻ではないのか? 高向玄里は本当に私の父なのか? 」という、

 

イリの問いに、、

 

「間違いなく高向の息子です、私は高向を慕って一度は嫁し、あなたの義母となりました。』

 

と宝妃はきっぱりと答えた。

 

 

「では、私の母親はいったい誰なんだ!本当にあなたは、母ではないのか!! 」と、

 

たたみかける様にイリは訊き返す。

 

 

宝妃は何も言わず、沈黙したままだった、、

 

 

 

一方的にずっと、宝妃を母と慕っていた自分の気持ちを断ち切るように、イリは、

 

「那珂王子に頭を下げ、王とか王子とか傅くことなど自尊心がゆるさない。いつかは倒して、自分が王位についてやる!」と、宝妃に叫ぶ。

 

宝妃は、慈しむ様な目つきでイリを見返して

 

「王族はみな、イリの武力を認めて、そして恐れています。王にならなくとも、国は動かせます。その方がむしろ賢いやり方です。王家ほど不自由で不幸なものはありません。自分を大事にして欲しいからこそ、どうか王位など望まず、その実力を活かしていきなさい。」、、と

 

静かに答えた。

 

 

宝妃は高向の妻となった後、高向の大望のために、上宮法王の血統として、権力者と結び生きていくことを自ら選んだ。それ以来、心を閉ざし、誰と結ばれても決して心をゆるすことなく生きてきた。

 

宝妃の心は、閉ざした時から時間が止まっていて今も昔も、心は高向の妻のままなのである。

 

心にも無い権力者に嫁がなければならないという王女としての生き方の中では、むしろ心の中の高向の存在は、宝妃にとっての心の支えとなっていたのかもしれない。

 

宝妃が、「我が子のように大切に思う」と言った言葉にも偽りなく、高向の息子イリのことも心から親身に考えている。

 

 

 

イリは、

 

「蘇我氏のような者でさえ王位を狙うのに何故王位を望んではいけない。隋や唐の様に力のある者が王になれる国は他にはないのか!血筋や生まれだけで王位につく者の為に、命がけで戦っているのではない。」と、返し、

 

「王侯將相寧有種乎」と吐き捨てた・・・

 

(中国の故事⇒王・諸侯・将軍・大臣は血筋でなく誰でも実力次第でなれる)

 

 

弱肉強食が乱世の常の様だが、まだ血統や名目に縛られている時代であり武力による王権簒奪が容易に受け入れられる世界ではなかった。

 

大国唐でさえ、「禅譲」という国権を譲り受ける手続きを経て建国されている。

 

ペルシア王子で突厥の王(カーン)であった上宮法王や、高句麗の亡命王子・扶余昌こと威徳王敏達やウィジャ王など「王族」達は、何処の国に渡っても「王族」なのだが、特に今の和国では上宮法王の血統を入れずに王位につくことは難しかった。

 

和国の国としての体裁は上宮法王が打ち立てたものであり、上宮法王の血統でなければ簒奪者としてみられ、突厥の残党だけでなくとも、和国の部族長らには、認められない。

 

部族連合国内で「吾が部族こそ、、」などと一族一門の大小を語ったところでどの部族も地豪の一族でしかなく、それが勝手に王位につくことなど他の部族が認めないのが部族連合国の有り様だった。

 

そして何よりも、王族でない者が王位についた国は他国からも侮りを受ける。

 

だからこそ、百済の武王や新羅の真興王ことエフタル族の宣化将軍、和国の蘇我氏など王位継承の血統ではない権力者達は、できるだけ王位継承権のある皇女と婚姻し嫡流の子をもうけ、

 

そして、積極的に唐の臣下となって

 

『王位の承認をして貰い』唐の後ろ楯でその地位を守って貰うしかなかった。

 

 

イリの様に反唐を貫きながら、王位に野心を抱くことは難しい。

 

しかしイリは、血統主義も嫌いだが、血統でも無い者が唐に臣属する事で王座にいる事はそれ以上に許せなかった。

 

イリが強くなり「大将軍」「宰相」となって、「閣下」と呼ばれることになろうとも、

 

決して「王」と呼ばれることがない自分の出自とこの世界を恨み、

 

(なんとしても、実力で王座についてやる、、)

 

と、心に強く誓った。

 

 

 

 

イリは、引き続き和国での徴兵を続け、支配下を増やしていった。

 

 

 

 

 

 

※高向玄理の系図

漢【霊帝】→【石秋王】*【阿智王】→【高貴王】阿多部王→【高向王】=玄里→【イリ】

 

 

【乙巳の変】

和国へやってきたウィジャ王とイリ、そして中臣鎌足、那珂大兄王子と蘇我石川倉麻呂らは多武峰(奈良県桜井市)に集まって、蘇我入鹿を暗殺する計画を密議していた。

 

 

那珂大兄王子は、この頃には一人前の壮士を気取っている。王室育ちの御曹司の様な典雅な身ごなしはなく、鼻息を荒くしていた。

 

他の者達と違いイリには大した面識もない

 

(くだらない奴だ)と、

 

イリは最初は思ったが、

 

はしはしに那珂大兄王子が武王と上宮法王の血筋であることを鼻にかける態度をとり、

 

イリは腹の底から敵愾心を持つようになっていった。

 

那珂大兄王子は、イリの放つ凄みを身近で感じ、

 

(イリとは評判どおり凄い男だ)、

 

と思った。しかし、

 

脅威を感じるほど逆に態度は虚勢をはって、自分が王族という貴種である権威をことさら強調しようとし、イリのことは高句麗の王家に仕えている臣下の者という認識を変えようとはしなかった。

 

このような那珂大兄王子の態度は、

 

宝妃に、(母ではない)

 

という事実を知らされたばかりのイリの自尊心を

 

屈辱的なほどに、刺激した。

 

このとき以降、心中に生じたイリと那珂大兄皇子の溝は埋まることがなく、

次第に深まっていき、やがては不倶戴天の敵となっていく。

 

 

密議の結果は、

 

入鹿を誘き出す為に、蘇我王朝に対して三韓からの貢物を献上する調使いをさせて、その場で入鹿を切ることになった。

 

三韓の貢の使者と言っても、実際の新羅・百済・高句麗の貢の使者ではなく、入鹿を誘い出す為の偽りの使者であり、高句麗のイリと百済ウィジャ王からの使者が貢ぎの使者として立った。

 

それでも、慢心していた蘇我入鹿は、高向玄里や中臣鎌足らと共謀し、山背王の殺害に加わったばかりだったので、まさか自分が狙われるとはまだ夢にも思ってなかった。

 

むしろ反蘇我派にとって、敵の蘇我入鹿を山背王殺害の実行に加えたことの本当の目的は、その様に蘇我入鹿を自分は暗殺者側の立場にあると油断させることだった。

 

或は、更に油断させる為に中臣鎌足は

 

「次の標的は古人王」と、

 

蘇我入鹿に伝えていたかもしれない。

 

 

 

645年6月12日、

 

その日、古人王が大極殿に出御し、入鹿も通例どおり参殿した。

 

 

【挿絵表示】

蘇我入鹿

 

入鹿は用心深く、上殿するときでも剣を帯びていたが、俳優(使者を歓待する芸人)にふざけかからせ入鹿を笑わせて、入鹿から剣をなんとか外させた。

 

予定どおり蘇我石川倉麻呂が天皇の前で、三韓からの調進の文を読みあげた。同時に、那珂大兄王子は蘇我氏の兵の侵入を防ぐため、宮の12の門を全て閉じる。

 

そして、守衛の阿曇連が予め運びこんで宮内に隠してあった武器を手にして、那珂大兄王子は槍を持ち、中臣鎌足は弓矢を持ち、物陰に身を隠した。

 

蘇我石川倉麻呂が表文を読み上げる間に佐伯子麻呂らが、蘇我入鹿を襲う手筈となっていたが、彼らは恐ろしくなり、震えて動けなくなっていた。

 

 

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蘇我石川倉麻呂

 

蘇我石川倉麻呂が表文を読み終えようとしているのに、佐伯子麻呂らがあらわれないので、蘇我石川倉麻呂は気が気でなくなり、読み上げる声が乱れて手が震えだしてしまった。

 

入鹿は何も気がつかず、

 

「どうしてそう震えるのだ」と

 

問い出したところ、

 

「王の前で恐れ多くて緊張している」

 

と蘇我石川倉麻呂は答えた。

 

徐々に怪訝に思い始めた蘇我入鹿に対し、

 

佐伯子麻呂はもはや役に立たないと判断した那珂大兄王子が飛び込み、

 

剣光一閃!!

 

「ヤァ!」

 

と、かけ声とともに蘇我入鹿の頭と肩に斬りかかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

掛け声で我にかえった佐伯子麻呂は、驚いて立ち上がろうとする蘇我入鹿の足を切り落とした。

 

山背王攻めの時は前面に出る機会さえなかった那珂大兄王子だが、こと蘇我入鹿に対しては、恐ろしさなどより母・宝皇妃と入鹿の関係への憎悪が強く、入鹿への殺意が那珂大兄王子を激しく駆り立ていた。

 

入鹿は古人王の前に転げ寄って頭を叩きつけ

 

「王!何故このようなことをするのですか!正して下さい!!」

 

と助けを求めた。

 

古人王はおおいに驚いたが、

 

すかさず那珂大兄王子が

 

「鞍作りの蘇我入鹿は、王家を滅ぼそうとしています!どうしてその様なことを赦すことができましょうか!」

 

と、割って入り、古人王に向かって叫んだ。

 

古人王は震えながら

 

「私は、何も知らない」と言いはなって座をたち、その場から逃げてしまった。

 

古人王は私宮に走り込んで、

 

「韓人が鞍作を殺した。心が痛む」と言って

 

門を閉ざし、それきり部屋から出られなくなった。

 

佐伯子麻呂は蘇我入鹿にとどめを刺し、雨の降っていた庭に入鹿の死体を放り出した。

 

 

蘇我氏は「鞍作」という装飾技巧を行う技能集団を統治していたので、鞍作とも呼ばれていた。この時代は馬の鞍ではなく、もっぱら仏具や仏像の装飾を主に行なっていた先進技術者集団だった為、蘇我氏が統治していた。

 

那珂大兄の王子らは、諸臣らと共に法興寺に立て籠もり、蘇我入鹿の死体を蘇我蝦夷の元へとおくった。

 

蘇我蝦夷は、入鹿の死体をみて嘆き

 

「だからお前は危ういと言っていたのに」と、

 

何度も顔を歪めて、悲しんだ。

 

入鹿が死に、蘇我派の東漢直ら兵士達は蘇我蝦夷の元で陣を構えていたが、那珂大兄皇子の命令で巨勢徳太が武装解除の説得に遣わされた。

 

「既に事は決した。皆、これ以上逆らえば反逆者だが、今投降すれば家族も氏族も許されるのだ!諦めて武器を置け。それとも皆、蘇我親子に殉じて家族氏族もろとも全滅させたいのか?!」

 

巨勢徳太の大喝に、兵たちは逆らう理非を悟り諦めてすぐに解散していった。

 

 

【挿絵表示】

 

巨勢徳太将軍

 

間もなく館に雪崩れ込んだイリ達によって、蘇我蝦夷は殺され館は燃やされてしまい、珍宝など貴重なものも全て灰になってしまったが、国記だけは船史という官吏が火中より持ち出し、密かに那珂大兄王子に献上された。

 

万が一にも撃ち漏らした場合に備え、イリは、飛鳥の宮から甘樫丘にある蘇我蝦夷の邸宅周辺を伏兵で囲み、飛鳥川周辺の山中にまでも兵を隠していたが、事が終わっると「長槍」を担いだまますぐに去っていき、対唐戦に備えた徴兵に向かった。

 

蘇我入鹿暗殺の折、中臣鎌足は物陰で弓矢を構えていたが、その弓がはたして蘇我入鹿を狙っていたのか、あるいは入鹿に襲いかかる那珂大兄王子の方に狙いをつけていたのかは不明である。

 

蘇我入鹿が暗殺された後、恐ろしくなった古人王は、

 

「大業は娘に、私は出家する」と言い出して、

 

那珂大兄王子に差しだした大和姫に後を託し、自分は吉野へ逃げて身を隠してしまった。

 

蘇我入鹿暗殺の実行犯となった那珂大兄王子は、その事件により更に和国で名を知らしめて、気勢を上げていた。

 

蘇我入鹿を殺してからの那珂大兄王子は昂ぶった興奮がおさまらず、

 

(古人さえ殺せば、正式に和国王につける)と、

 

勝手に思いこんで息巻く。

 

那珂大兄王子は、たとえ王位を辞退し出家しようとも政敵の古人を生かしておく気はない。

 

お互い百済の武王の子だが、それだけに武王と蘇我氏の血をひく古人の存在がどうしても許せなかった。

 

執拗に古人を追いつめた。

 

 

 

【挿絵表示】

古人 元和国王

 

9月になり、古人は拠点があった信濃の善光寺(長野県長野市)に逃げ込もうとした。

 

善光寺は先年、誉田善光という者に建立させたばかりである。

 

古人は、そのまま奥信濃から日本海側へ抜け、親唐国の新羅の助けを借りて海を渡り、高句麗へ攻め込んでいた唐軍の中にまで亡命しようと思っていた。が、早くも追っ手は及び善光寺は既に包囲されていた。

 

ひとまず信州に潜伏したものの、古人はここで身動きできなくなってしまい、もはや独力で海岸線を突破して半島に脱出することなど不可能になった。

 

下手に動かずに、親唐派の新羅からの迎えを待つしかない。

 

古人につき従っていた蘇我派の残党達は、なんとか古人を擁立し再起を図ろうと望んでいたものだが、多くはもう希望を失っていて

 

(もはやこれまでか、、)と、

 

 

その中の一人・吉備笠垂という者が裏切った。

 

 

「新羅からの船と海岸線の様子を探りに行きます」

 

と言い残し、

 

古人のもとを抜け出して追っ手の中に飛びこみ

 

 

「古人は謀反を企んでいる!」と 訴え、

 

その潜伏先を告発した。

 

すかさず那珂大兄王子は皆神山(長野市松代)に潜伏していた古人を攻め殺してしまった。

 

古人が一縷の希望をつなぎ期待していた唐軍は、その頃既に高句麗攻めを諦めて撤退してしまっていたので、那珂大兄王子も後顧の憂いなく古人を殺すことができた。

 

一方、日本海側では越国守の阿倍比羅夫が古志を制圧し新羅からの救援を阻み、丹後国には新羅の襲来があり表米宿禰命が討伐するなどの騒乱も起きていた。

 

親唐国の新羅にとって、和国の親唐派・蘇我政権を助けぬ訳にはゆかず、和国の政変を知った新羅は古人の亡命をなんとか手引きしたかったが、イリが手配した裏日本の布陣は固く賊の侵入をゆるさなかった。

 

 

これで蘇我系の親唐派残党は全て駆逐されたことになり、これより和国も反唐の道を進み始める。

 

 

 

古人の亡骸は、信州の小丸山古墳に埋葬され、

 

吉備笠垂は密告の功により功田20町を賜った。 

 

 

 

 

 

【和国・ウィジヤ王即位】

那珂大兄王子の期待も虚しく、古人王の後は、百済から乗込んできていたウィジャ王が和国王に即位した。

 

 

【挿絵表示】

和王ウィジャ王

 

古人王が逃げて王不在の状態になり、上宮法王の娘である宝妃が習慣どおり女王としてひとまず和王を代行し、

 

束の間、和国は宝妃を裏で操る高向玄里の支配になるかとも思われた。

 

 

勿論、高向玄里はそのような企みも持ち陰謀に加わってきたし、あわよくば、

 

武王皇后の宝妃という名を和国名に変え、

 

「皇極女王」と、名乗りを改めさせて、

 

和王代行ではなく、正式に

 

和国女王に擁立するつもりでいた。

 

しかし、ウィジャ王は、唐が兵を引き、古人王も殺されると、予定どおりあっという間に和王の即位を進め、元号を大化と改めた。

 

『捲土重来』

 

 

上宮法王に、

 

「唯一の後継者である」と、

 

次期和国王に指名されながらも、

 

当時は唐の加護を受けた蘇我馬子に暗殺される恐れがあった為、ウィジャは和国から百済に逃げざるを得なかった。

 

それが20年以上の歳月を経て、ようやく今、和国の王座へと返り咲き捲土重来を果たした。

 

 

高句麗の宰相イリもウィジャ王側についていた為、ウィジャ王は百済・高句麗の武力を後盾にして和国の有力部族達を威圧し、中臣鎌足をはじめ多くの群臣達と、那珂大兄王子が頼りとしていた舅の蘇我石川倉麻呂もウィジャ王側についてしまったので、ウィジャ王の即位に逆らえる者は和国にはいなかった。

 

高向玄里も大人しく、ウィジャ王に従った。

 

高句麗の宰相イリがウィジャ王を擁立した影響は絶大である。

 

高句麗軍が、唐の軍勢を撃退した直後であった為、高句麗とイリの武力は和国の群臣のみならず、味方のウィジャ王さえも恐れた。

 

那珂大兄王子は憤ったものの、まだ力不足であり、百済や高句麗を敵にまわしてまで、ウィジャ王を強引に退けるほどの力などなく、王位につくには不可能であることは明らかだった。

 

中臣鎌足はまた、気持ちのおさまりがつかない那珂大兄王子の抑えにあたる。

 

中臣鎌足は今度は、なんとか那珂大兄王子をあらためて正式な和国皇太子として承認することで、溜飲を下げようとした。

 

「まずは、那珂大兄王子の叔父であり年長者、ウィジャ王を和国王として立てるべきである」と

 

那珂大兄王子を諭し、

 

そして、先の古人王の皇太子だった那珂大兄王子を、改めて今の和国皇太子として正式に立太する様に、ウィジャ王に働きかけることを約束した。

 

那珂大兄王子は、目の前で父の仇であるウィジャ王が和王として君臨していることに歯を軋ませ悔しがったが、苛立ちを中臣鎌足に向けたところで、どうにかなる訳でもなく、臥薪嘗胆の思いでまた耐え忍んでいくしかなかった。

 

ウィジャ王は、高句麗の嬰陽王の皇太子でありながらも和国へ逃げ、和国上宮法王の後継者でありながらも百済へと逃げた過去があった為、

 

「皇太子」の名乗りなどよりも、

 

(実力が伴わなければ、王でも皇太子でも殺されるときは殺されるものだ)

 

と感じていた。

 

唐で人質になっている、百済皇太子の「隆皇子」さえ相手にしていないウィジャ王にとって、那珂大兄王子の皇太子名乗りなどより、むしろ百済内の武王派の旧臣や残党を抑える為に、武王の子・那珂大兄王子を和国皇太子にしておく均衡が妥当かと考えはじめた。

 

しかし、ウィジャ王は、那珂大兄の王子の祖父・上宮法王が和国で無事に王位についたことも、ウィジャ王の父・嬰陽王の助けがあったならばこそであり、内心、上宮法王の擁護をした嬰陽王の子としての自負心があり、頼りない那珂大兄王子など皇太子にしたところで実際に王位を継承させる気にはなれなかった。

 

また、確かめようがないことだが、上宮法王が嬰陽王に助けられ妻を差し出した時、すでに懐妊していたとしたら、ウィジャ王も上宮法王の血を引いている可能性もある。

 

上宮法王がウィジャ王子(軽王子)を「唯一の後継者」と指名したことからもそう推察することはできる。

 

 

「我が子のことを頼む」という

 

上宮法王最後の言葉は、誰をさしていたのか、、

 

上宮法王と推古女王の間に子供はいない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

確かなものではないが、ウィジャ王の心の底には

 

「上宮法王がこそが実父である」という感覚が流れていたのかもしれない。

 

ウィジャ王の本心は、甥の那珂大兄の王子より、百済のモク妃(百済蘇我氏)との間に生まれた自分の子・考王子に和国を任せたかった。

百済の王子を和国に行かせてしまうことによって、同時に百済での外戚勢力の台頭も抑えようとしていた。

 

中臣鎌足は、ウィジャ王の命令どおり那珂大兄王子を抑え、蘇我政権を打倒し、見事に和王に即位させることができたので、今さら那珂大兄王子の機嫌を取る必要もない様に思われたが、那珂大兄王子をウィジャ王へ服従させておくための鎌足なりの配慮がある。

 

鎌足が、那珂大兄王子を盛り立ててきたことによって、新政権の中にも、後継者とみて那珂大兄王子に寄ってくる者達も出始め、ひとつの勢力になりつつあったので、予め那珂大兄王子を押さえておく必要もあった。

 

しかし、反唐色の強い中臣鎌足は那珂大兄王子に肩入れしているふりをしていたが、王位と復讐しか望んでいない那珂大兄王子は既に見限っていて、裏では強烈な反唐派の高句麗の宰相イリへ肩入れしようとしていた。

 

ウィジャ王を天下人にしようとする志を持つ者達は、その前に権勢にあやかろうとする何かしらの権力欲があったが、中臣鎌足は、権力というよりもまず根っからの唐嫌いである。

 

イリと高句麗の武力を恐れない者はいない。

 

「三韓」などと呼んではいたが、百済・新羅などとは一線を画し、大国隋と三度戦っても負けず、隋軍100万を全滅させ、今また唐と戦うほどの高句麗の軍事力は、大戦経験をあまり持たない和国にとっては次元の違う存在であり、海を越えて攻めてくる可能性だけならば、遠い唐よりも、むしろ近い高句麗の方が煩慮された為、高句麗のイリの反応に、中臣鎌足は心を砕いている。

 

イリは内心、

 

(和国への野心がある)

 

那珂大兄王子が王位につくことなど絶対に許せず、今、那珂大兄王子などが即位すれば、山背王の様にすぐ殺されてしまう可能性さえあった。

 

それをあからさまに出来ないことがまたイリの態度を婉曲させ、無言の威圧が不気味な雰囲気を漂わせていた。

 

ウィジャ王は、イリの野心を刺激し後ろ盾に利用していたが、イリにも和国を任せる気も全くない。ただでさえ、ウィジャ王の息子である高句麗の宝蔵王を操り人形の様に扱い、高句麗で権力を握っていることが気にいらないのである。

 

一方、

 

それでもイリは、上宮法王が武王を認め百済王に任命したように、やがては自分もウィジャ王に立てられ和国を任されぬものかとウィジャ王に協力している。

 

しかし、ウィジャ王は、武王と宝妃の娘で那珂大兄王子の妹である間人皇女を和国皇后にたてた。

 

 

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間人皇女

 

山背王が上宮法王の娘を皇妃として入婿の様に斑鳩に入っていった様に、和国で上宮法王の血統を入れずに王位につくということは難しく、当然のことではあったが、そのことも宝妃の血を引いてないイリにはいっそう疎外感を感じ、感情は屈折していった。

 

(また、血統主義か)

 

と、不満をくすぶらせるイリに対して、

 

那珂大兄王子の妹・額田文姫が嫁ぐことになった。

 

額田文姫は、金ユシンの姪で、百済・武王を父にもつ、那珂大兄王子の義理の妹である。

 

新羅にいるイリの実子・法敏とは従姉弟どうしだ。

 

武王により、百済と新羅の国交が回復した時に、百済から新羅の金春秋に嫁ぎ、新羅・金一族のもとではイリとも出会っている。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

額田文姫は、ウィジャ王の新羅侵攻よって百済と新羅が交戦状態になってしまうと、金春秋と離縁されてしまい耽羅へ島流しになっていた義兄のキョギ王子(那珂大兄王子)のもとへ身を寄せ、共に和国へと落ち延びてきていた。

 

 

しかし、那珂大兄王子や和国皇后の間人皇女の様に宝妃が母でなく「上宮法王」の血筋ではない庶子であり、額田文姫は、王室の余所者の様に扱われていた為に、王室から追い出されるように、イリのもとへ嫁がされてしまった。

 

幼かった額田文姫も、子供が産めるくらいに成長していた。

 

 

 

【挿絵表示】

額田文姫

 

幼いころから王室の都合で三国をめぐってきた額田文姫は、本当に三国でどこにも居場所が無い様な心細さを感じていた為、むしろ積極的にイリに繋がりを求めイリの妻であろうとした。

 

額田文姫の母・鏡姫は、百済と新羅の通好が途絶えていて接近が難しかった頃、金ユシンらの手配によって、和国・金一族の鏡の里より上殿し、武王が和国に滞在していた際に近づき寵愛を受けるようになったが、新羅の金一族の姫として嫁いでいる。

 

額田文姫は、百済武王の娘でありながら、

 

和国・百済の敵国である新羅の金一族の娘であり、

 

王室の中では、敵国の縁者なのである。

 

宝妃は、しっかりと線を引き、額田文姫のことを王室の者ではなく、女官の様に扱っていたが、額田文姫の母、鏡妃が亡くなってからは、より一層顕著になっていった。

 

しかし、その一方で、血統こそ違うが宝妃は、自分と同じように、政治的な都合で三国をめぐってきた額田文姫に同情して、強いイリのもとへたくそうとしたのかもしれない。

 

ウィジャ王の和王即位は、イリの協力と高句麗の後ろ盾がなければなし得なかったことだが、その見返りが額田文姫との婚姻だけであるということに、イリの不満感はつのった。

 

イリが、唐と高句麗が交戦中でありながらも、汗馬の労を厭わず和国と高句麗を行ったり来たりしていたのは、何も東国の蝦夷族(粛慎)からの徴兵だけが目的だったという訳ではない。

 

ウィジャ王の和王即位のもと、和国の要職の地位に就くことを望んでのことである。

 

(ウィジャ王が和国と百済、二国の王となるならば、吾は、和国と高句麗、二国の宰相となる)

 

というくらいの野心は、当然持ち得ていた。

 

 

イリには、新羅の金一族との縁が増えていくことはやぶさかではなかったが、

 

(これではまるで上宮法王の娘「宝妃」の血統と、そうでない者共を隔てられている様ではないか)と、

 

イリは面白くなかったが、

 

しかし、それでもイリは額田文姫をこよなく寵愛した。

 

額田文姫は上宮法王の血統ではないが、武王の姫で那珂大兄王子の義妹であり、この婚姻によって、イリが王室とつながったことは望外の栄誉である。

 

那珂大兄王子とは改めて義兄弟になった。

 

大化の改新で、何の地位も与えられなかったイリに与えられた和国での唯一の立場、

 

那珂大兄王子の義弟、イリが誕生した。

 

イリは、王室の兄弟と名乗ることで、次第に朝威をはるようになっていく。

 

 

【挿絵表示】

 

 

額田文姫は、

 

戦乱さえなければ、新羅と和国・百済との平和の象徴となった姫であるが、

 

百済・和国と新羅が敵対している以上、三国どこへ行っても

 

「敵国の血が流れている姫」と、

 

侮蔑されてきた。

 

 

しかし、島流しになった兄のキョギ王子と共に耽羅(済州島)に滞在していた一年ほどの間だけは、母・鏡妃とも再会し額田文姫にとって心をくつろげた時間だった。

 

 

【挿絵表示】

済州島

 

 

耽羅(済州島)は、朝鮮半島の様な敵対関係が薄く、貢納による独自性を保っていたため、額田文姫のことを

 

「敵国の姫」

 

などと言うものは一人もいなかった。

 

 

特に、島の有力部族・高氏の海女姫は年も近く温かく額田文姫を迎えてくれたので、

 

額田文姫にとって、何の遠慮もなく心を開ける親友となった。

 

額田文姫は、子供の頃から人前では決して涙を見せず、ことさら明るく振舞い、笑顔を絶やすことはなかったが、

 

この時だけはずっと張り続けてきた緊張が解け、

 

どこに行っても否定されてきた自分の身の上に

 

心の底から、思い切り泣いた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

生まれて初めて、自分自身のために思いきり涙を流した。

 

そして、少女時代の悲しみを全て島においていき、和国へと向かっていった。

 

イリと額田文姫は、居場所を感じられないまま三国をめぐってきたという点では、同じような境遇であった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

【挿絵表示】

 

幼い頃の イリと額田文姫

 

若くして三国を巡ってきた二人は、和韓諸国の言語に精通していた為、万葉仮名と吏読を、まるで「二人の暗号」の様に使いこなした。

 

万葉仮名と呼ばる和国語を漢字で表記(あて字)したものと、吏読(古朝鮮語の漢字表記)を重ね合わせて、一つの漢字文に、二つの意味を持たせる。

 

どちらの言語で訳しても、意味が通じ、その意味合いが真逆になったりするのが面白い。

 

面白半分で始めたが、イリには、当意即妙な額田文姫の才女ぶりが痛快であり、時折、額田文姫の宮へいきこの漢字遊びを楽しんだ。

 

遊び心にそうしている二人は、夫婦というより、

まるで同志のようだった。

 

 

 

 

 

古人王の娘で那珂大兄王子に嫁いでいた大和姫は、夫に父を殺されてしまい、あまりの衝撃に欝になってしまった。後ろ盾となる蘇我氏もなくなり、復讐する気力もないどころか、一人残され、

 

(この先、どうして生きられるのか)、

 

と、途方にくれる。

 

那珂大兄王子は、古人王の皇太子であるという『大兄王子』の称号を手放す訳にはゆかず、その為、古人王の娘大和姫を離縁することも殺すこともしないが、大和姫にとっては生きる屍の様に敗者の人生が続いていく。

 

 

 

【挿絵表示】

大和姫

 

古人王の婿となり「大兄王子」という皇太子の名乗りが欲しかっただけの政略結婚であるということは、大和姫も重々分かってはいたが、まさか父が夫に殺されてしまうとは思いもよらないことだった。

 

大和姫は父を殺した、那珂大兄の王子を憎みつつ夫婦の関係のままであり、その大和姫に父殺しと憎まれている那珂大兄の王子は、父を殺したウィジャ王を憎みつつ王と皇太子の関係となりつつあり、業の深い宿縁を背追って生きていた。

 

那珂大兄王子は、和国皇太子として唐の承認をとりつけたかったが、蘇我石川倉麻呂をはじめ、和国の有力部族達は皆、ウィジャ王に従ってしまったので、那珂大兄王子には後押ししてくれる味方も少なく、ウィジャ王を動かし和国から唐に皇太子承認を働きかけることは難しい状況だった。

 

旧親唐派の者達は、唐の手先である高向玄里からの加護を期待したが、高向玄里はウィジャ王より「国博士」の地位を与えられ、何の政治力もない名誉職であった為、求心力は弱く、次第に霧散して派閥は瓦解していき、那珂大兄王子には、蘇我赤兄ら蘇我系の者達がウィジャ王に反目していた為、新たな身の置き所として野合し従っていた。

 

 

事変後まだウィジャ王政権が始まったばかりの和国で、イリは唐との戦いに備えて暫く奔走していた。

 

 

和国にいた突厥の残存勢力のもとに行き、

 

「生前の上宮法王は、高句麗の嬰陽王と連携して唐と戦う為、戦船を造船し大陸に渡ろうとしていた!今こそ上宮法王の志を継ぐ時!」と大号令し、

 

大陸への回帰を望む者らは皆、イリに従い唐と戦うことを誓って高句麗の船に乗っていった。

 

この中には上宮法王に付き従ってきていたペルシア人達もいた。ペルシア人は技術者が多かったが、上宮法王の祖国ペルシアは636年にイスラム教のアラブに侵略され首都バグダッドは陥落し、ペルシア王も逃亡してしまい、彼らは既に帰る術がなくなってしまっていた為、兵達と共に高句麗へと渡った。

 

イリは彼らを重用し、西アジアの文化とペルシアの事を詳しく学んだ。

 

古代ペルシアは遥か昔にアレキサンダー大王に滅ぼされてしまっていたが、その後「パルティア(安息国)」が起こった。そのパルティアを討ち再興した新たなササン朝ペルシアが上宮法王の故郷である。

そのササン朝ペルシアもエフタルに圧迫され、突厥の介入や東ローマ(ビザンツ)と争ううちに次第に弱体化し、イスラム教のアラブに制圧されてしまったが、歴史は古く独特な文化があった。

 

ササン朝ペルシアの王統は古代ペルシアの神官に発し、ペルシア人は王を『現人神』として神聖視していること、ゾロアスター教という火を崇める信仰があることなど、イリは和国や半島三国ではあまり馴染みのなかったペルシアの情報にふれていった。

 

ペルシアの人々は、水の女神アナーヒターを篤く崇拝している。

 

現人神「王とはこの世に人間の姿で現れた神である」という人々の想いはまだ東アジアにはそれほど強く根づいてなはなく、これは王権を被うには重要な思想であろうかとイリには思われた。

 

そして、幼い頃に母と慕っていた宝妃が、大海の里にやってくると、時折、『火』の前で何か修法をしていた事を思い出した。ペルシア人たちによると、亡き上宮法王も、『火』を崇め秘伝のマントラを唱え修法を行っていたという。

 

唐より「道教」の博士を招聘し、陰陽五行・気学風水と遁こう術を学んだイリは、この西アジアのゾロアスター教(拝火教)にある密厳な修法にもまた強く心を惹かれた。

 

詳しく学べば学ぶほど、イリは東アジアとは異なる基底文化を持つ西アジアの世界観に憧れていった。

 

 

 

イリは和国から兵を連れて高句麗に向かっていったが、イリの妃・額田文姫は早くもイリの子を宿していて身重のまま和国に一人残っていた。

 

 

額田文姫は、翌年無事に姫を産んで、

 

十市姫と名付けた。

 

 

十市姫が生まれるとすぐに額田文姫は、

 

「金一族は、伽耶国の王族、私たちはその王の血をひいているのです。私たちの役目は、力のある者と結び、王の子を産み、いつか、伽耶国王家の血をひく者を王の座につけることです。」

 

と、まだ言葉の分からぬ姫に語り聞かせをした。

 

 

「いつかどこかに嫁いでも、決して伽耶国の王統であることを忘れぬように。」と、

 

十市姫が物心つく前より語り続け、娘を育てていった。

 

同じ、金一族で姉の様に慕っていた「鏡宝姫」は今は金春秋に嫁しているが、イリの最初の妻である。

 

額田文姫がイリの子を産んだことを風の噂に聞き喜びもしたが、

 

(私には風も吹かない、、)と、羨み

 

長い間、イリに会えずにいることを歌った。

 

 

 

 

645年12月、

 

 

ウィジャ王は和王即位後すぐに、河内の難波宮へと遷り、ただちに政務をとった。大和から都を移すのは始めてのこととなる。

 

大和から離れ、和国の表玄関でありかつて突厥勢が四天王寺で偉容を誇った地であり、蘇我石川倉麻呂の本拠地からも近い難波を新政府の都に選び、新たな世がきたことを人々に示していた。

 

山深い大和よりも百済に近く海路でつながる。

 

ウィジャ王が和国へ亡命してきた頃からずっと援護をしていた蘇我石川倉麻呂は右大臣になり、阿部内麻呂が左大臣、高向玄里は国博士、中臣鎌足が内臣、安曇連は東国の国司に任じられた。

 

阿部内麻呂は、蘇我蝦夷の側近だった者で、旧蘇我派を抑えるための政治的配慮もあった。

 

ウィジャ王やイリにとって、敵は和国ではなく唐であり、和国打倒は目的ではなく、唐に備えた軍事力の確保が目的だったので、邪魔者だけを取り除いて、和兵1人でも無駄にしたくないというのが実際のところだった。

 

 

ウィジャ王は側近の中臣鎌足を内臣としたものの、直ぐに百済へ向かわせ百済総督を任せたので、改新当初わずかしか国政に参与しなかった。

 

和国の新たな支配体制は、国博士の高向玄里によるところが大きく、唐にならった制度の智恵を出させた。

 

ウィジャ王が以前、高句麗を追われ和国に亡命していた頃、先代の志を継ぎ反唐を貫こうとする孝徳を讃えられて「東海の曾子」と呼ばれていたことを和国の者は覚えていて、「孝徳の王」であることから、和国ではそのまま孝徳王と呼ばれる様になっていった。

 

(曾子=考経の編者)

 

この年、那珂大兄王子に嫁ぎ懐妊していた蘇我石川倉麻呂の娘・遠智娘は、無事女の子を出産し、大田姫と名付けた。

 

 

 

 

【改新の詔】

ウィジャ王は、国博士の高向玄里に

 

「和国の支配を強固なものにし強国へと改革する為、唐にも負けぬ制度を直ちに献案せよ」と命じていた。

 

蘇我を打倒した後の和国を支配する為、高向玄里は百済でウィジャ王と会談した頃より既にその準備を進めてきていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

高向玄里は、順を追って述べていく、

 

「和国は、有力部族らの所有している私有民と私兵による連合でしたが、これは根底から変えていかなければなりません。今の和国には時勢につながるようなものは何もないです。」

 

第一に、

 

「有力部族らが、所有する私兵を出して参軍する和国の部族連合軍とは、国軍とは言い難いものです。」

 

『公地公民』、、

 

「まず、有力部族達の所有している領地と私有民を召しあげて、国民と国民の田畑となる土地を国が所有するものとして確保しなければなりません」

 

ウィジャ王は真剣な目で聞きいる、

 

 

「国民とは、国が直接的に徴税権と徴兵権を有する民衆のことであり、部族長らが有するものではありません。そうした意味では唐の軍は、均田制によって徴兵された国の直属の兵。国軍です。 和国も、唐の均田制に習った法制を施くべきです。」

 

「その法制とは?」

 

『班田収受の法』と言います。

 

「部族民を国民に変える制度です。有力部族らの土地と民を召しあげた後で、民の一人一人にあまねく土地を分け与えるのです。田と民が生きていく為の畑を与えます。唐の太宗皇帝は、これを徹底的に行い、奴婢(奴隷)の一人一人にまで田畑を与え国民の義務を課しました。三年に一度、三人に一人など国民から徴兵し国軍として防衛や侵攻に当たらせているのです。和国もこれを行うべきです。」

 

「有力部族らから民と領地を召しあげるなど、そのようなことが出来るものか、、!かようなことは、百済で散々フンスやソンチュンがやろうとしたが出来なかった。有力部族どもが大人しく従う訳がないだろう。」

 

ウィジャ王はいまさら何を、、と呆れ顔になってしまった、、

 

「必ず出来ます。私有民と私有地をただ取り上げるだけでは彼らも納得するはずがありません。なので、一旦国に差出した後、今度は国から改めてその土地と民を全て有力部族らに与えるのです。実質的には土地も民も変わりませんが、国に従って一度は土地と民を収めることによって、正式に国からその土地と民に対する領有を認めることとにします。」

 

「それでは今までと何ら変わりはないではないか。」

 

ウィジャ王は、不信感を顕にする。

 

「はい。その通りです、ウィジャ王様もその様にお考えになるということは、彼らもそう考えると思います。しかし、徴税権と徴兵権は国が有します。今までは、部族らがそれを握り、国の権利は逆に間接的なものでした。これを転回し、部族らの権利を間接的なものとして、国の官僚体制の中に部族長を組み込んでいきます。」

 

、、

 

「召し上げた土地を再び部族に与える時は、部族長を『国司』として任命し、民を『食封』として国が与えて、徴税(田租)を任せ半分を国司に給付します。」

 

「なるほど、では今までの国造は国司という官に代わり、私有民(部族民)は食封ということになるのだな。」

 

「はい。そして、国の収公に従わずに旧体制を維持しようとする部族などは朝敵として国を挙げて成敗します。」

 

「緩急をつけるということか、、」

 

「さようでございます。従う者には土地と民を与え、そして冠位と地位を与えます。従わない者は 朝敵として成敗します。」

 

、、

 

 

「必ずや成功させましょう、和国は蘇我の独裁体制でしたから、連合して逆らえる様な部族はもういません。阿部氏、大伴氏、佐伯氏、、ほぼこちら側についている部族達から高官に就かせ、ウィジャ王様に従わせますように、、」

 

 

「念を押して言いますが、和国は長いこと部族連合国家でした。これは『国』はあっても『国民』のいない国です。和国の民衆は国民ではなく、全て部族長らが所有する『私有民』です。部族連合国家から、王様が統べる『中央集権国家』へと生まれ変わり、初めて和国の民衆は国民となるのです。その為には律令の領布は避けて通ることはできないのです。」

 

 

 

ウィジャ王は高向の案を容れ、ただちに改新の草稿を進めさせた。

 

 

646年1月、

 

ウィジャ王は「改新の詔」を発布する。

 

上宮法王以来、和国の課題であった、有力部族達の所有する私有地・私有民を解放させ、国有地と国民を確保するための改革が始まった。

 

土地と人民は全て国家へと収公し、唐の土地制度【均田制】にならった班田収授の法を整備し、農民に田畑として耕す土地を与え、新たな租税制度・田調も策定した。

 

有力部族達にはそれぞれに応じ位階や官位が与えられ、貴族としての地位をつくり上げていく。群制を施し官名を評とした。

 

そして、職能集団(曲部品部)を形成していた部族の世襲を廃止し、有力部族の職能独占による権力集中の無力化をはかった。

 

また、有力部族の巨大墳墓の造営を禁じた「薄葬令」も定めた。

 

エフタル族の大渡王以来、和国は統一されたとは言え、有力部族の首長らが連合したに過ぎず、首長らは土地と民を有するままで、それぞれが小国王の様なものである。古墳の造営も当然のように連面と続けられてきたのだ。

 

そして、巨大墳墓の禁止とともに、蘇我氏の墳墓は徹底的に破壊し、ただの石舞台にしてしまった。

 

これにより、旧態然とした有力部族達の巨大古墳の誇示は姿を消し、古墳時代は終焉を迎える。

 

古墳を造営していた部族らの中には、それぞれの出自とする王家や国があり独自の元号を使っている者もいたが、和国の元号は『大化」と定めて勅した。

 

 

土地と人民を国に収公するとしたが、決して有力部族達の力を根こそぎ削ぐものではなく、国家という体制に組み替え、古い有力部族や地方部族の存在を新たに合法化したもので、地方の国造は郡司に、私有地民は、食封といい換え、国があらためて給付するという温存政策であり、形を変え実質的に有力部族達に還元した。

 

しかしこれにより、私有民・私兵を用いた各部族たちの連合軍というものはなくなった。

 

私有民=私兵が減少した分、国家の徴兵力は確実に上がり、有力部族達の派閥化・軍閥化した機動力の無さからは解放され、旧部族連合軍体制から脱却する「国軍化」が初めて可能になった。

 

逆に、今まではそのように有力部族たちの連合軍であったが故に、部族を超えた強大な軍隊を起こすことが容易にできなかった事が、和国最大の弱点でもあった。

 

エフタル族や突厥勢の大軍の渡来に対し抗うことができなかったように、求心力のある存在がいない和国の有力部族達では、百済や高句麗の武力を背景とするイリやウィジャ王にも逆らうことができない。

 

度重なる大陸や半島からの大勢力の渡来が続き、この頃には蘇我氏のような一部の有力部族をのぞいて、みな疲弊し、力を削がれてしまった有力部族が殆どだった。

 

私有地・私有民を国に差出し、実質的に勢力を削がれる部族も多かったが、それでも尚、地方部族や小部族の中には自力で既得権を維持し続けることに限界を感じて、積極的に「改新の詔」に従うものが続いた。

 

和国135諸族の反応は一様ではなく、既得権を自力で維持するか、国に維持して貰うかを考えなければならなかった。

 

力の無い小部族は、戦うため、生き延びる為に、縁組によって他の部族と連携をする度に、乗っ取られてしまう危険をはらんできたが、その様な危険な方法を継続をするよりは、まだ勢力が残存しているうちに民と土地を自ら国に納め、国から改めて地位と領地を保障して貰って、国の統治により他部族間との脅威を払って貰う方が遙かに得策と判断された。

 

従来、和国の部族達は他部族の興亡よりも自分達の存続のみを考えて存在してきた。

しかし、過去の有力部族達が、平群氏や葛城氏が攻め滅ぼされるのを傍観していたような、和国の原始的な部族体質を維持することはもはや時代に能わず、改新の詔に従わないで抵抗していた一部の部族達は、存続のため、

 

「国と結ぶか、残った他の部族と結ぶか」の

 

選択を迫られるようになった。

 

百済・高句麗の武力を背景に和国を制するウィジャ王に対し、各部族たちをまとめ連合軍を組織するなどして、逆らえる力量のある統率者が和国にはもういなかった。

 

まして、アジア最強と云われた唐軍の軍勢をも撃退した高句麗軍とイリを向うにその武力を恐れぬ者はなく、あるいはそのような力量があるとすれば、蘇我石川倉麻呂や阿部内麻呂がそうだったかもしれないが、既に大臣の地位と充分な所領を与えられていた為、あえてそれを捨ててまでもウィジャ王に逆らう理由もなかった。

 

しかし、ウィジャ王に逆らうことはなかったが、蘇我石川倉麻呂は一方で強い不満が鬱積していた。

 

ウィジャ王は、和王即位までウィジャを推し続け、尽力してきた蘇我石川倉麻呂を大臣にはした。

 

今のウィジャ王があるのは間違いなく蘇我石川倉麻呂のおかげであったが、それ故に蘇我石川倉麻呂は尊大になり、第二の蘇我蝦夷になる危険性をはらんでいた。

 

ウィジャ王は、蘇我石川倉麻呂の専横を抑える為に、もともと1人であった大臣を二人にし、蘇我石川倉麻呂とは反対勢力であった蘇我蝦夷の腹心・阿部内麻呂をもう一人の大臣に据えた。

 

諸管の位づけをする制度であった「冠位十二階」も変えた。もともと大臣は、冠位十二階より上であるとされ、大臣だけが紫色の冠が与えられていたが、冠位十二階の上に一階級増やし、6段階に分けて全ての冠を同じ紫色にしてしまった。

 

そして、功臣・中臣鎌足を忠誠のゆえの宰臣として、

全ての官の上であるとし大錦冠を授け

 

「その功は武内宿禰にも匹敵する」

 

とまで讃えた。

 

(武内宿禰=和国の伝説的な功臣で、全国の八幡宮等に祭られている)

 

また、有力部族らの職能世襲の廃止も、中臣氏は例外とした。

 

中臣鎌足は大いに喜び、ウィジャ王に代わって百済を総督するために、和国から百済へ渡っていったが、中臣鎌足がウィジャ王の代理を任されたことは、ウィジャ王に代わって和国の権力の座に就こうとしていた蘇我石川倉麻呂にとっては看過できない出来事だった。

 

 

あからさまな大臣の地位の空洞化による、蘇我石川倉麻呂への牽制は不承だったが、蘇我石川倉麻呂は、辛抱強く堅実な人物で、蘇我馬子・摩理勢兄弟や、蘇我蝦夷・入鹿親子のもとでも、強腰でありながらも表だって戦うことはせず、隠忍自重して、権勢を保ち続けてきた遍歴の持ち主であり、反抗的な態度をとりつつも、ここで怒りに任せてウィジャ王に刃向かうことまではしなかった。

 

那珂大兄王子も、蘇我石川倉麻呂とともに隠忍自重し、蘇我氏によって収奪されていた上宮王家の屯倉の一部を母・宝妃から譲り受けたばかりだったが、自ら率先してその土地と民を国に献上した。

 

上宮法王がもたらした意識改革は、時を越えて、とろ火のように有力部族達の意識を煮崩していき、ようやく大化の改新の詔を発布できる程となり、和国の国としての体裁がかなった。

 

しかし体裁だけであり、和国が律令国家として実質的に機能するのはもう少し先のことになる。

 

一枚岩の国家などというものは、遠い幻想のようなものかもしれないが、一枚岩の「軍隊」の編成は目の前の課題である。

 

だが、和国軍兵は、新羅の花朗兵の様に早くから調練し「憂国教育」をしてるわけでもなかった為、ただの烏合の衆にすぎなかった。

 

しかしこの「大化の改新」によって、地縁血縁と職能が拠りどころだった原始的な部族社会の時代は終わり、律令と官位に帰属する貴族社会の時代へ移行する下地ができた。

 

和国はこれより中央集権国家への道を進み始めるが、皮肉にもその叩き台を作った高向玄里はこの後、和国を離れることになる。

 

しかし、その思想は高向の息子イリ(天武天皇)に引き継がれ、その後はイリの息子・法敏(文武天皇)が引き継ぎ、親子三代に渡り半世紀におよぶ律令化を経て、大宝律令の制定により完成されていく。

 

 

中央集権が完成され、

 

部族国家「和国」が消滅し、

 

律令国家『日本国』が建国されるまでは、

 

まだ少し時を待たなければならない。

 

 

 

 

今、和国・百済、両国の王となったウィジャ王は、

 

和国の支配を整えた後、高句麗の王である息子・宝蔵王と共に、和国・百済・高句麗の『三国連合国』の大望を描こうとしていく。

 

そして、三国からの包囲を強め、いよいよ新羅を帰服させようと動きはじめた。

 



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第5章 ウィジャ王の野望【三国統一】

西暦646年~647年 

和国・百済、両国の王となったウィジャ王は、後は新羅さえ従えさせれば、日本列島と朝鮮半島に覇を唱えることが可能となり、新羅攻略へ動きだす。反唐三国にかこまれた新羅はかつてない危機に陥ってしまった。

東アジアの覇者たらんとするウィジャ王は和国から高向玄里を新羅入りさせ圧力を強めていく。そして高向玄里の工作によって新羅で反乱が起き女王は没してしまった。反乱後、新羅の金春秋・金ユシンらはウィジャ王に百済と和国から挟撃されることを警戒し、唐と和国の二面外交を行うことを決め、ウィジャ王には恭順の態度を取りつつ、唐には百済出兵を請う使節を送ることにした。

1話 ウィジャ王の野望 三国連合国
2話 新羅・高向の暗躍
3話 新羅・ピダムの乱
4話 新羅・滅亡の危機


646年5月、和国の大化の改新後の体制がひと段落ついてくると、イリは和国での徴兵を終え高句麗へと戻り、唐へ和平の使者を遣わした。

 

これで熾烈を極めた唐・高句麗戦はひとまず終戦したかたちとなった。

 

しかし、イリの唐への使いは全く人を喰ったもので、貢納品などはなく美女二人を献上しただけであり、太宗皇帝はこれを受けなかった。

 

9月になり、今度は唐の太宗皇帝が「弓と服」をイリに賜ったが、当然イリは「唐の服」など贈られても喜ぶはずもなく、使者を遇せず謝恩の使も派遣しなかったため、その不遜な態度に怒った太宗皇帝は、高句麗からの朝貢を受け取らないよう命じ、再び高句麗征討の検討をはじめた。

 

 

【ウィジャ王の野望 三国連合国】

和国ウィジャ王政権下で右大臣になった蘇我石川倉麻呂は、

 

(自分が蘇我氏の長者にとって代わりたい)と、

 

野心を持ち、蘇我馬子・蘇我蝦夷らと対立し続け、ウィジャ(軽王子)を対立候補として擁立し、今やっと蘇我親子打倒が叶ったことで、ウィジャ王から右大臣の地位を与えられた。

 

一方、中臣鎌足の仲介で那珂大兄王子には娘の遠智姫を嫁がせている。

 

もう1人、左大臣となった阿部内麻呂は方々へ娘を嫁がせている強か者で、ウィジャが和国へ亡命したはがりでまだ軽王子と呼ばれていた頃、娘の阿部小足姫を差出して姻戚関係となり、蘇我石川倉麻呂と共にウィジャを推していた。

 

 

【挿絵表示】

 

石川倉麻呂

 

その後、ウィジャが百済へと去ってしまい、蘇我蝦夷・入鹿親子の天下となると、時勢になびいた阿部内麻呂は今度は蘇我氏に娘を嫁がせ、蘇我蝦夷の側近となっていた。

 

生前の上宮法王が隋との戦いに敗れ、逃亡先の高句麗で寵姫の宝妃を嬰耀王に差出したように、アジアには懐妊している寵姫を託すことにより、絆を深めるという風習があり、ウィジャ王も懐妊していた寵姫・阿部妃を中臣鎌足に下賜していた。

 

しかし、普通は臣下に差し出すということ等なく、これは破格の行いで中臣鎌足は

 

「この日のことは生生忘れませぬ」と

 

感激したが、このときの『阿部妃』がウィジャ王の下もとに嫁いでいた阿部内麻呂の娘・小足姫である。

 

ウィジャ王と阿部妃の間には既に幼い「有馬王子」が生まれていたが、鎌足には阿部姫だけでなく、この有馬王子もともなわせ和国に向かわせた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

これは、和国の阿部内麻呂に対し、

 

「こちら側につくように」と

 

ウィジャ王の意図も含んでいた。

 

百済王室の王子であり、阿部内麻呂の孫でもある有馬王子を和国入りさせ、阿部内麻呂を味方につけようとした思惑どおり、

 

阿部内麻呂は鎌足のもとにいる娘と孫に頻回に会ううちに、蘇我王朝打倒の協力を承諾し、蘇我蝦夷の見張り役となって乙巳の変を成功へと導いた。

 

この一連の流れで阿部内麻呂、中臣鎌足、ウィジャ王、三者の絆は強まり、蘇我石川倉麻呂の包囲網となっていった。

 

 

蘇我石川倉麻呂は朝庭での位階受任式の後、中臣鎌足にいちから問うた。

 

 

【挿絵表示】

中臣鎌足

 

中臣鎌足は大冠錦を賜っていて、左右両大臣より上の位である。

 

 

「鎌足様、左右に大臣を置くのはかつて和国ではなかっことだ。果たして左大臣と右大臣では、どれほどの違いがあるか?」

 

「それは、図り兼ねますが、、『左が上』は確かです。」

 

「ばかな!そもそも何故、左大臣の阿部の方が、右大臣の吾より上位であるのか!和王即位に至って阿部に何の功があったというのか?礼典も違うのか!?」

 

「礼典はおなじです、、しかし、

 

石川倉麻呂殿は、まだ思い違いをされてる様だ。

 

和国の位階勲等はウィジャ王様が和王に即位したことの論功行賞ではござらぬ。

 

新たな強い和国の為の制度だ。くれぐれも私心や二心を持たぬ様に。その様に和国に仕えねばならぬ。叛心を疑われば身が危うくなりますぞ」

 

 

「くっ、、」

 

 

【挿絵表示】

 

 

石川倉麻呂は、吾が身の立場を改めて考え直さなければならなかった。

 

阿部内麻呂は、蘇我蝦夷側にありながら裏から協力しウィジャ王の大化の改新に功があったが、

左大臣として石川倉麻呂より上位に就くという程のことかと、石川倉麻呂の如く納得のいかぬ者共もいた。

 

阿部内麻呂の立場はもと蘇我蝦夷側の人物で、また阿部一族では高句麗宰相のイリに加担している『阿部比羅夫』にも繋がりがある。

 

和国の勢力を全て手中に収めたいウィジャ王にとって、石川倉麻呂らの新興勢力と、既存の勢力分布の均衡を考えた最善の策だったのかもしれない。

 

 

阿部内麻呂にとっては、ウィジャ王が和国王に即位すれば、和国王の外戚となり阿部妃が生んだ有馬王子・自分の血を引く孫が次期和王になる可能性が出てくる。

 

このことによって、阿部内麻呂は俄然野心に火がつけられてしまっていた。

 

ウィジャ王は野心家たちの力を均衡を計りながら利用する。

 

二人の大臣に継承権のある王子を奉戴させることで互いに対立させ臣下の力が集中することを防いだ。

 

右大臣・蘇我石川倉麻呂は那珂大兄王子を、左大臣・阿部内麻呂は有馬王子を推し、ウィジャ王の次世代には自分の擁立する王が即位することを密かに夢みている。

 

また、そのように対立させている間は、ウィジャ王に対して刃が向く可能性も幾分少なくなる。特に那珂大兄王子はウィジャに対して父・武王の敵という敵愾心を捨てずにいたから、対抗する有馬王子の存在を強くしなければ、直接ウィジャに刃を向け父・武王の敵を討ち、王座を狙おうとすることも想定された。

 

唐を背後に新羅と交戦中だったウィジャ王は、和国での権力争いや派閥争いなどを生み出している場合ではなかったので、

 

(派閥が生れる前に、逆にこちらから派閥を作り出して統制していくしかない)…

 

と、この様な諸刃のやり方を選んだ。

 

 

 

【挿絵表示】

ウィジャ王

 

 

ウィジャ王は、蘇我石川倉麻呂と阿部内麻呂の左右二人の大臣を置くことで足元の序列を固め、和国にいまだ残存している、王家と有力部族が同列的であった古い部族連合意識を無くさせ、王家の下に、臣下との主従関係を作ろうとしていた。

 

そして、和国の構造改革の後に続く

 

「百済・高句麗・和国」

 

三国連合国家の樹立を目指し、唐と戦う大国建国への道を着々と思案しはじめている。

 

今や和国・百済の両国の王となり、高句麗にはウィジャ王の息子・宝蔵王が君臨している。

 

そして後は、新羅さえ従えさせれば朝鮮半島と日本列島に『覇』をとなえることができる。

 

大望を描くということは、

 

「東海の曾子」「孝徳の王」とまで言われたウィジャ王にとって欠かすことのできない心がまえだ。

 

王子時代のウィジャは、親唐派の栄留王によって高句麗を追われ和国へ亡命し、和国では親唐派の蘇我氏の暗殺から逃れて百済にまで渡った。

 

元々は高句麗の嬰陽王の王子だったウィジャ王が、和国・百済両国の王となった今、高句麗の権力に野心がない訳がなかった。

 

「息子の宝蔵王に命じ、イリを高句麗の宰相から外させれば、、高句麗は後はどうにでもなる」

 

ウィジャ王には、

 

「百済・和国・高句麗」三国連合国の夢は、そう遠くないように思えていた。

 

 

 

一方

 

イリは思う、

 

(血が繋がっているだけという親子よりも、 我ら義理の親子の絆は固い)

 

宝蔵王も、

(血が繋がっているだけの父親が今さら何だというのだ)、と、思っている。

 

ウィジャ王が思っているほど、息子の宝蔵王は父ウィジャ王に対しての思い入れは無い。

イリのおかげで王位についた今でも、子供の頃自分が高句麗に置き去りにされてしまった事は悔しいと感じている。

 

宝蔵王は実際、ウィジャ王より義理の息子イリとの絆を大切にしていたし、イリも実の父・高向など(たまたま父親という存在)という遠い親戚程度の関係にしかみておらず、或いはそう捻じ曲げて自分に言い聞かせていて、義理の父・宝蔵王との絆を、自分という存在の根であるかの様に大切にしていた。

 

イリと宝蔵王親子の義理は、

 

(いざ事あれば、実父を捨てる)という、

 

心がまえがあり、

 

ただその一点だけで、ウイジャ王が望む連合国樹立への力動的均衡は既に崩れてしまっていた。

 

逆にイリもウィジャ王を警戒し、

 

高句麗をウィジャ王の思いどおりに連合させようとは、思っていない。

 

ウィジャ王の描く三国連合国にも冷やかであり、

 

(ウィジャ王についていけば、唐軍のとの戦で利用され行く末は高句麗が犠牲になるだけだ)、と

 

宝蔵王もイリも思っている。

 

ウィジャ王は、和国の統治と新羅への介入へ意識が向き、そうしたことにはまだ気がついていなかった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

ウィジャ王の和国統治は、和韓諸国への先駆けとなる試行的取り組みである。

 

中国に統一王朝が誕生したことによって、周辺諸国は今までにない大軍に脅かされるという脅威に改めて直面するようになった。

 

一丸となって戦うことが難しい古い「部族連合体質」からの脱却は、東アジアの和韓諸国が抱える共通の課題だった。

 

部族長たちはそれぞれの利益と危険を考えて兵を出し、その為に派閥や軍閥が生じてしまうことで、常に一枚岩になって国が全力をあげて戦うことができず、また出兵を拒む部族は、敵側からの攪乱や切り崩しの工作を受けるかっこうの対象となっていた。

 

軍派閥は自国内にも敵を生む為、国は弱体化することが多い。

 

大国はこうした危うい過程を乗り越えてきたからこそ、大国なのであり、逆にこの様に小国を切り崩すことには長けていた。

 

唐の太宗皇帝は、李靖将軍が暴走したことをきっかけに軍改革を行い軍閥化を防ぎ、門閥(与党)貴族と寒門(野党)との均衡に常に心を配り国内の安定化を図っていて、辺境国の部族連合軍に比べ遥かに越えた次元で国をまとめ戦っていた。

 

 

まだ、国内の派閥争いや隣国との衝突程度の戦で「部族軍」だけでも生き延びることが可能だった時代は、諸国の有力部族達それぞれが軍を率いる連合によって敵と戦い、戦いによって各部族たちが求め得るのは恩賞などでなく、もっと直接的な部族にとっての利得のみを目的としていた。

 

時代が変わっても、和韓諸国の部族達のそうした権利意識は容易には変わらない。

 

大軍を起こして国が一丸となって戦うことのできない、

 

「乱世にはおよそ不向き」と、

 

云われる古い部族連合体質のままで乱世をむかえてしまっているのだ。

 

古くなってしまった虚構を捨て、乱世を生き延びる新しい国家へと軸足移動できない部族や国は、滅びてしまうかもしれない。

 

百済ではウィジャ王が有力部族達の

『政事厳会議』の停止に動き、八大部族らの影響力を押さえていたが、土地制度に改革課題があり、百済37郡を有力部族らが分かっていた。

 

高句麗でも宰相イリが強引に五大部族を押さえたので反唐に治まってはいたが、五大部族達の私兵に対する統制権をイリが行使するだけであり、まだ抜本的な構造改革は進んでいなかった。

 

高句麗は、王族である「桂樓部」を中心に、絶奴部、肖奴部、順奴部、権奴部らに分かれそれぞれ所領と部民を有していたが、多民族系の国家である。

 

扶余族に始まり、安息族、鮮婢族等の部族らが同化し、強さと繁栄を誇った国であり、イリが少しでも油断をすれば彼らの巻き返しを受けることは明らかだった。

 

 

和国はウィジャ王が有力部族達の私有地・私有民を取り上げる大化の改新を実行し、「班田収受の法」という先進的な施策を試みたが、新羅はそれよりも早くから農民(国民)に土地を与え、国軍を持つということを実行していた。

 

新羅でも有力部族の力は残存し「和白会議」という部族達の決定会議がまだ残っていたが、ずっと百済・高句麗に攻められ続けていた新羅では早くから兵部を設置し正規軍ではないが「花朗」ファランという直轄兵も配備されていた。

 

 

その一方、

 

新羅は裏では40年もの間、『ミシル』という巫女がその実権を握り続けてきていた。

 

 

ようやくそのミシルが没し、束の間の安寧がもたらされたが、後に高句麗が唐の侵攻を跳ね返し和韓諸国が全て反唐となり、唐の臣国だった新羅は周辺諸国の猛威にさらされることになってしまった。

 

そして、今では新羅全ての有力部族達の私兵を国軍として編成しなければ防衛できないほどの危機に陥っていた。

 

その危機的状況で、女王側に私兵を止む無く奪われてしまって力を有さなくなった「元有力部族」達は、

 

不安に駆られ、

 

(ミシルの後継者ピダムしかいない)と、

 

ミシルの勢力を受け継いだ後継者のピダムという者を頼り派閥をつくって

「反女王派」の勢力となり、金春秋を筆頭とする「女王派」伽耶勢力の金一族と対立し、新羅を二分していった。

 

 

ピダムは司量部令という諜報活動を担っている。

 

ピダムも、金春秋も、お互い新羅の影の実力者ミシルに廃位されてしまった先々代の王「真智王」の血統同志で、王位継承権の無い王族【真骨】である。

 

真智王の孫の金春秋は、金一族の金ユシンと義兄弟となり伽耶勢力に支持されている。

 

真智王の子のピダムは部族勢力に担ぎ出されていた。母はミシルでありその勢力を受け継いでいて伽耶勢力に続く勢力である。

 

ミシルはただの巫女ではない。

 

新羅は自ら「神国」と名乗っている国だった。 

 

それは神の血統を保持している唯一の国であるという自負からであり、母系血統を大切に継いできたからに他ならない。

 

巫女というより神統血女である。

 

「大元神統」という血統で、権力者は大元神統の純粋血統であるミシルと結ぶからこそ王となれる。ミシルと結ばなかった王が廃位されたのも当然だった。

 

王の血統である女王と金一族、

神の血統であるミシルと部族たちの対立は、

 

ミシルが没したことによって熾烈な後継者争いという内訌に繋がっていった。

 

神の血統のミシルの子ピダムが、王の血統の女王と結婚し、新羅の権力を継いでゆこうとするのは当然の成り行きであった。

 

女王を囲い込む様に奉戴する金一族から、

 

女王を切り離して夫になろうとするピダム、

 

善徳女王には子が無く【聖骨】という正統後継者がいなかった為に、ピダム側は殊更に女王との婚姻を迫っていた。

 

 

【挿絵表示】

ピダム

 

 

 

伽耶勢力は、新羅に吸収された旧任那の部族達で、新羅ではずっと差別され冷遇されてきたが、金春秋の義兄・金ユシン将軍は新羅一の武将であり、新羅の防衛になくてはならない存在になっていた為、ミシル没後は伽耶勢力側も女王を奉戴し金ユシンを中心にその勢力を着々と伸ばしていた。

 

百済に攻められる度に、金ユシンは大将軍として出陣し家に帰る間もない程戦い続けた。

 

部族らの私兵でも、一軍となって新羅を守る為、戦い続けていれば金ユシンの下にも連帯感が生まれる。

 

危機回避的な緊急措置とはいえ、私兵廃止によって力を奪われた各部族達は、

 

「このまま軍部に力が集中していけば、伽耶勢力の金一族に新羅が奪われてしまうのではないか」

 

と懸念し、排除を口にする者も出始めてきた。

 

部族長らは秘密裏に集まり謀議を重ねた

 

「吾らの私兵が国軍に駆り出され久しい。なんとかしてら取り戻さねば金ユシンらを討つことも出来ぬ」、、

 

「否。それは無理だ、、今、金ユシンが国軍兵を失えば、新羅はあっという間に百済の領土になってしまうだろう。」

 

「それは分かってる。その有り様だからこそ、新羅は唐の臣国となり救援を求めてるのではないか、、」

 

「だが、唐が新羅の為に援軍をよこした事はない。新羅を高句麗との戦に駆り出すだけだ。その上、男王を立てなければ助けぬとまで言って来ている。ここは、唐の要求どおりに唐の王族から婿を頂き、唐の力で金ユシンらを打ち払うしかないのでは、、?」

 

 

、、

 

「いや、、それはいくら何でも無理だ。その様なことをすれば吾ら『神国』新羅の神統が穢れる。それに、金ユシンを討つため唐国の王を迎え入れるなど、狼を払い虎を招き入れる様なものではないか」

 

「ならば!、、男王はピダムしかない。」

 

「うむ、しかしピダムを王に擁立したとしても、どうやって唐へ冊封を願い出るかだ?今の吾らは遣唐使を送る事など出来ぬ。

 

やはりまずは、金ユシンらを倒さねばならぬ、、

 

話しが巡るがどうやって金ユシンを討つ?」

 

「唐の加護を期待せず、新たに私兵を雇い吾らだけで金ユシンを倒そう。流民や百性の中から人を集め、調練して兵士にするしかない。その分時間は掛かるが、他に手立てがない、、」

 

部族長らは、密かに金ユシンらを討つ『新たな』部族軍の編成に動きはじめた。

 

 

 

四年前、

 

新羅は、百済ウィジャ王に40余城を落とされ高句麗と百済から党頒城を攻められ唐に救援を求めたが、

 

太宗皇帝より

 

「助けて欲しければ男王を立てよ」と、

 

牡丹の絵を送られ女王を否定されて以来、

 

私兵を奪われて憤りを感じていた部族長らは、皆「反女王派」に靡き、

 

「唐からの援軍を期待する以上、女王廃位はやむを得ず」

 

との意見を声高に上げ続けてきた。

 

是を殊更に宮廷で言い騒ぎ、

 

地方に潜伏させ、調練を密かに続けている部族軍の存在から注意をそらした。

 

 

女王を奉戴している金春秋・金ユシンらはこの女王廃位の動きは阻止しなければならなかった。

 

奉戴、、というよりは人身御供に近い扱いである。

 

「ピダム側は女王との結婚を認めぬなら女王を廃位せよと迫りくる。どうする?

 

金春秋を立太する前に廃位されてしまったら、新羅王座は大元神統へ明け渡さねばならないのか…?」

 

 

女王派の金ユシンやアルチョンらは、ピダム側の対抗手段に困っていた。

 

新羅という国は、大元神統の血統を入れなければ王位につくことは難しい。

 

もしも大元神統を入れずにその様な事をすれば、真智王の如く排除されるか、権簒奪者としての攻撃を受け新羅が内乱状態になることは必然である。

 

既に部族らが新たに兵を雇い入れ訓練し、攻撃準備をしてる疑いがあるという情報が金ユシンらにもたらされている。

 

「もはや、内戦は避けられぬか、、」

 

金ユシンらは、百済側からの攻撃に曝されながら、如何に内戦にも勝利するかという難しい瀬戸際に立たされていた。

 

 

 

 

 

【新羅・高向の暗躍】

高向玄里は、極東の親唐政策を担わされていたにも関わらず、息子イリの暴挙を抑えられずに、唐・高句麗戦争のきっかけとなった、栄留王殺害事件が起きてしまった。

 

以来、高向は唐に見限られ、唐の後ろ盾を失ったうえ、百済・和国・高句麗三国が反唐一色となり居場所がなくなってしまい、和国での命運もつきかけていた。

 

アジア世界最強の軍隊といわれた唐軍の進撃を高句麗が撃退して以来、三国の対唐政策は強行に転じて政治家の高向玄里の存在は必要とされなくなっていた。

 

今のところ、和国での新しい体制づくりには政治知識の豊富な高向玄里がまだ必要だったが、用が済んでしまえば、その後はどうなるかさえ分からない。

 

知識だけが必要とされ「国博士」という何の権力もない地位の高向には未来がなかった。

 

ウィジャ王の元では野心を望めなくなった高向玄里は、巻き返しを謀り、親唐国の新羅を通じて唐を動かして百済へ圧力をかけ、ウィジャ王を百済へ追返そうと考えた。ウィジャ王を百済に追い払えれば、宝妃を和国女王に擁立する機会も巡ってくるかもしれない。

 

今は無力になってしまったが、高向は、

 

(上宮法王の娘である宝妃がこちら側についてる限り、なんとかなる)と、思っている。

 

646年、7月になり百済・新羅からの御調使いの使節が来和してくると、

 

高向はウィジャ王に対し、

 

「百済に中臣鎌足総督、高句麗には宝蔵王、そしてウィジャ王さまが和国の王となった今、残るは新羅を帰服させるだけです。東アジア統一のため、新羅・金一族と旧知の間柄である自分を帰服を促す使者として新羅に派遣して欲しい。」

 

と願いでた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

高向はそうした外渉と工作だけで、身を起してきた者であり、ウィジャ王は高向を使者とすることには懐疑的だったが、その分高向への要求は強くし、

 

「新羅に交渉に行く以上は必ず王族より人質を出させろ!」と厳命した。

 

そして、和国と百済、両国の王であるウィジャ王は、まず百済・任那からの和国への調使いを止め、新羅との通交を求めた。

 

ウィジャ王は、

 

「任那地方は既に百済領となった為、新羅からはもう任那と称しての和国への調使いは必要ない。」と、

 

改めてそのことを新羅王室へ伝える様に高向に命じた。

 

これは、百済が任那地方を新羅から奪って領有したことをわざわざ強調して屈辱を与えるためで、その時の戦で、大伽耶城の娘夫婦を殺されてしまった金春秋の感情を逆なでする行為でもあり、高向は難しい命令を課せられてしまった。

 

通常の使臣は、必要以外のことを伝えないが、更に要求があるときは相手国の気に障ることをわざと言うこのような心理戦が用いられた。

 

新羅に敗戦国としての意識を持たせて、和国へ人質を出させようとするウィジャ王の支配的な物言いである。

 

 

646年9月、

 

ウィジャ王は高向玄里を新羅へ派遣する。

 

新羅では度重なる百済や高句麗の侵攻に対して、もはや女王ではなく男の王を立て対抗すべきだとの声が上がり、善徳女王側の金春秋・金ユシンらと、朝廷側の有力部族達の執行機関「和白会議」との対立が深まっていた。

 

唐の太宗皇帝は「女王でなく男性の王を立てよ」と指示し「新羅の王に唐の皇族をおくる」とまで言ってきた為、

 

(唐に介入にされるぐらいなら)と、

 

ピダムは自ら善徳女王の入り婿となって新羅の王につこうとしていた。

 

ピダムは先々代の新羅王である真智王とミシルの間に生まれた子であり、善徳女王の父・真平王の父である銅輪の義兄弟にあたる王族であるが善徳女王とは血は近くない。

 

ミシルが真智王の皇后となり、ピダムはその皇子の地位をえていたはずだったが、真智王はミシルの擁立により王位についた後、ミシルを皇后にはしなかった。

 

ミシルの従妹で同じ大元神統だが嫡子ではないチドを皇后とした。

 

真智王は【大元神統】という血統聖母に対しての理解が浅はかで不遜であり、大元神統の血統で煩いミシル以外の者であれば誰でも良かったのかもしれない。

 

怒ったミシルは真智王を廃位に追込んで、真智王の甥の「真平王」を即位させてしまった。

 

そのため、真平王の世ではピダムはずっと日陰者として忍ぶように生きてきた。

 

ミシルも真平王もなき今、陽の当たる所で自分をもっと伸ばしていきたい。ピダムに与えられた諜報組織も、影にまわる役割であったため

 

「陰陽逆転の好機である」、と、ピダムは考えていた。

 

「女性の身で1人で国を治め、列強と渡り合っていくことは難しいですから、どうか私を共に新羅を支える相手として選んで下さい」

 

と善徳女王を説得し、

 

共に新羅を支える女王の夫=王の地位を望んだ。

 

神統の女性に、権利者が婿入りし王になるという新羅の伝統的なやり方に対し、男性と女性の立場が入れかわってしまっているが、血統を継いでいくという事には変わりはない。

 

 

【挿絵表示】

善徳女王

 

男王は、一度に何人もの姫を娶り、何十人もの妃に子を産んでもらうことができる。ウィジャ王には、王子だけでも50人の王子がいた。

 

しかし、女王はその様に一度に多数の婿をとって沢山の子を産むということはできない。

 

この時代、女性が生涯で産める子供は10人程度である。

 

和国の女王の様に、王が変わり、夫が変わり、生涯何人もの夫を持つことはあるが、一度に婚姻を結ぶのは必ず一人だ。

 

一度に多数の夫を持つことができないだけに、どの相手と結ぶかは慎重にならざるを得ない。

 

誰かと結んでしまえば、結ばなかった勢力を失うことになり、善徳女王は国力の分散と唐の王室乗っ取りを恐れ、結局誰とも相手を決められずにいた。

 

乱世でなく何事も無ければ、神の子孫ピダムと王の子孫善徳女王の婚姻は有り得たかもしれない。

 

しかし、内戦勃発の危険をはらみ反唐国から侵攻を受けている今、金ユシンらの勢力との対立は新羅を崩壊させ兼ねない。

 

操り人形の様にすえられた善徳女王であったとしても、国を守る為の苦悩はあった。

 

そもそも、聖骨の女性とは斎宮のように(斎宮=部族の繁栄の為、宮に入り神に使える巫女)未婚のまま生涯を神に捧げる様な存在である。

 

善徳女王は、誰とも婚姻を結ばず生涯独身を貫き、新羅の伴侶であろうとする。

 

そして、仏教に傾倒していった。

 

竜宮の南の皇龍寺にアジア世界を模した

「九重塔」を建立して、争いから身をかわすかの様に斎宮の如く引きこもり、周辺国の侵攻を鎮め新羅の民が安祥であるようにと慈しみの祈りを捧げ続けていた。

 

 

その様なとき、新羅に渡ってきた高向は、この状況を利用し少しでも有利な工作を行って失態を雪ごうとやっきになっていた。

 

新羅入りした高向は、王都ソラボル(韓国ソウル)で正式な挨拶を済ませる前に、まず新羅の金一族のもとへと立ち寄った。

 

何か政治工作を企むときの高向の行動は早い。

 

高向玄里は旧知の間柄である、金ユシンの館へ案内されたが、そこには高向によって夫のイリを高句麗へと連れ去られてしまった鏡宝姫とその息子・法敏がいた。

 

高向にとって法敏は孫であるが、長じてからはこの時初めて対面する。

 

離別以来である。

 

「大きくなった」と、笑みを浮かべ高向は、

 

心にもない言葉をかけながら法敏の人相を素早く読み取り、政治的利用の選択肢を考えていた。

 

息子であるイリはもはや思うままにならない為、今度は孫である法敏を如何に使うかに高向の関心は絞られている。

 

高向は、一本気で素直そうな少年に、息子イリの懐柔を委ねることにした。

 

高句麗に金春秋が軟禁されたとき、密かに金春秋がイリの息子・法敏を養育していることを伝えて放免されたように、イリにとっては息子・法敏は家族というものをはじめて感じることができた大切な存在であり、イリの猛々しく冷徹な武威の内側にある唯一のぬくもりである。

 

高向は法敏に、自分が祖父であることを伝えた。

 

法敏は驚いたが、高向玄理に対しては和国にいる遠い親戚のような感覚であり、まだ実感は沸かない。

 

和国からの使節である高向に対しては、

 

(さすが、金一族だ…)

 

と、思った。

 

和国にも金一族の里がいくつかあり、金一族は新羅だけでなく、和国にも隠然とした勢力があるということは少年ながらおぼろげに理解していた。

和国から来た高向の存在は、改めてその片鱗を見せられたようで、金一族の奥行きのように感じていた。

 

その後、高向は

 

金ユシン、金春秋らと密議をはじめると、

 

おもむろに

 

「法敏を正式に金春秋様の跡継ぎとして、イリをこちら側につけましょう」

 

と、提案を切り出した。

 

金春秋は、ウィジャ王に娘夫婦を殺されて以来、その恨みが先に立っている。

 

「ウィジャ王側についているイリをこちらの味方にできるのであれば」と、前のめりで食いつく。

 

いまや和韓諸国のみならず、大国唐でさえイリの武威には一目置いている。イリと高句麗の武力を後方支援に置けるのならば、優位このうえない。

 

金春秋も新羅の王族である。実子の法敏を金春秋の養子(元子)とすることは、イリにとっても悪いことではない。

 

新羅女王にもしものことがあれば、継承権のある聖骨がいない為、金春秋かピダムによって王位が争われ、また唐から使わされた唐の王族が新羅王位につく可能性もあった。

 

イリの息子金法敏と金春秋、ミシルの子ピダム、唐の王族、三つの勢力で新羅の王位が争われるのであれば、高句麗の宰相としてではなくとも、イリにとっては全力で金春秋の擁立を支援したいはずである。

 

また法敏を金春秋の後継者としてイリから離しておくことは、体の良い人質にもなる。以前、金春秋が高句麗に軟禁されてしまった時も、法敏を引き合いに出し解放へとつながったのだ。

 

高向の考えは、和韓連合国の新たな構想へと進んでいく。

 

孫の法敏と金一族を使い新羅を制し、法敏を皇太子とすることで息子イリを抑え、新羅と高句麗の力を背景に和国へ圧力をかけて、宝妃を和国女王に擁立し、自分はそれを傀儡として実権をにぎる。

 

(ウィジャ王さえ百済に追い払えば、不可能ではない)・・・

 

ウィジャ王が夢見る「三国連合国」とはまったく異質の、

 

「新羅・高句麗・和国」の三国連合国が、高向の頭の中にふつふつと沸きあがった。

 

高向の孫法敏の新羅、

高向の息子イリの高句麗、

高向の元妻宝皇妃の和国、

 

やりようによっては、それぞれの権力に手が届くつもりでいる。

 

 

 

(まずは法敏をこちら側にしっかりと、つながなければならない)

 

 

高向は、周到に法敏との距離を詰めていった。

 

法敏と話す毎に、隋と唐、高句麗、和国の様子など新羅では耳にすることの無い様なアジアの出来事を度々、語った。国際政治家として大陸を奔走してきた高向の遊舌に、思春期の一本気な少年は夢中になっていった。

 

 

高向玄里には、あまり家族に対する境界線というものが無く、子供や妻も、自分とは別個の独立した人格を持つ存在だということを尊重せず、自分の手足か道具くらいにしか考えてない。

 

自分の野望の為に、

 

「手足や道具をどの様に動かすか」

 

といった具合で考えて、粛々とそれを実行する。

 

 

突厥族などの、寵愛している妻を相手に差し出すという習慣は、最も大切な人をおくるという意味であり、大切な存在であればあるほど相手への畏敬をしめしている。

 

しかし、高向玄里はそうした大切な意識さえ踏みにじるかの様に、何の思い入れも感じずにいともたやすく己の野心のために家族を使う。

 

高向は、新たな切り札である法敏を掌に乗せ、

 

邪魔者であるピダムの追い落としにかかった。

 

 

 

【新羅・ピダムの乱】

高向は、和国ウィジャ王からの使者として王都ソラボルの宮廷へ行き、

 

新羅に対して、

 

「任那地方はもう百済領となった為、新羅から任那と称しての和国への調使いは必要ない。」

 

という口上を正式に伝えた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

そして、新羅との通交を求め、

 

「新羅が和国へと帰服し、和国のウィジャ王のもとへ女王様が参るならば、新羅を攻撃せずに和平を結ぶ」

 

とした。

 

これには、金春秋だけでなく、新羅の宮廷は反発し列っしている諸臣からは怒号が溢れた。

 

、、高向は

 

「女王様に変わって金春秋が参行することです」と

 

続けたが、

 

「たとえ和国と百済から挟撃を受ける事になろうとも、是は受け入れざること!」という主戦派と、

 

「唐との二面外交にして和国にも帰服の姿勢をとるべきであろう」という穏健派で

 

意見が分かれて収拾がつかなくなってしまった。

 

穏健派といえば、平和主義者の様に聞こえるが、この場合は、戦の為に私有民や私兵を犠牲にされたくない非戦派の部族達である。

 

部族長らはそもそも、女王の存在にも肯定的ではない。

 

「女王派の実力者の金春秋が和国に人質に、、」という事は当然の是であり、天下の蒼生や国の勝ち負けよりも前に、部族の存亡がかかっていた。

 

「聞けば、和国の改新とやらでは、私兵を差し出すと本領安堵で民は与えられ、その上新たな官職と地位が保障されるというぞ!」

 

「新羅の様に、なんの保障もなくただ私兵を奪うだけでは、吾らに死ねということではないか!」

 

と、ピダムを担いでいた部族達の間では女王に対する不満が高まってきた。

 

 

 

ピダムは金ユシン・金春秋と反目していたが、元々は女王側についていた者である。

 

以前、善徳女王が病で倒れた時、ピダムは傍にあって、

 

「和白会議の部族との対立は負担が大きすぎます、私が女王に代わって和白会議を制止します」

 

と、女王に提言した。

 

 

【挿絵表示】

ピダム

 

善徳女王は、新羅を支えるためにピダムとも、他の誰とも結婚する気はなかったが、そうした役割であればとピダムの案を容れた。

 

ピダムは、直ぐに女王の夫になることはあきらめて、女王派の有力者として信頼を得ようとしていた。

 

そして、女王に対しての信義に基づく誓約を誓い、上大臣の位を与えられ、部族達の決定機関「和白会議」首座に就任した。

 

ところが、女王に代わって各部族らを抑える為に和白会議の首座に就いたはずのピダムだったが、今では女王を裏切り、部族達におされるままに旗頭となって女王の退陣を要求するようになってしまった。

 

これには、女王からピダムを切り離そうとする高向玄里の暗躍が早くも働いていた。

 

ピダムが和白会議に就いた時には既に

 

『女主不能善理』(女王では国は治められない)と、

金春秋・金ユシンの傀儡となりつつある女王を廃し、唐の要求に応え男王を即位させ、唐に援軍を請うべきだという「反女王派」の意見が強かった。

 

そこへきて高向玄里は、

 

ピダムが唐と女王排除の密約をかわしている密書を偽造し、女王の目に触れるように画策した。

 

唐の密書の偽造は、唐の手先として動いていた高向にしかできない。

 

高向玄里にとって、女王は金春秋、金ユシンの側で無ければならず、絶対にピダムを近づける訳にはいかなかった。

 

 

高向の離間策は見事に成功し、ピダムが唐の女王排除に協力するとした密書は女王の知るところとなって、女王側はピダムに対し疑心暗鬼になっていった。

 

そして、疑われたピダムは女王から遠ざけられてしまい、

 

「もはやこれまで、」と、女王を見かぎって

 

女王廃位の強行策に転じて自らが王位に就こうと考えはじめた。

 

新羅での高向は唐の代理としての表見がかろうじて残っていた為、ピダム側の朝廷部族らに対してもその様に振る舞い、

 

「唐の実力者・長孫無己氏を通じて、ピダム王位の冊封を働きかける」などと騙し、

 

反乱をたきつけていった。

 

「高向王の言うことを、そのまま信じて良いものか、、」

 

「確かに謎多き者、、だが、信じるも信じぬもない!吾らは唐に繋がりを持ってなく、遣唐使を送ることも出来ないのだ。絶妙な機会に現れた唯一の唐との繋がりだ。例え偽りであったとしても、吾らはピダムを王に立てる以外に道はないのだ、、」

 

部族長らは、高向の言葉に懐疑しつつもピダムを擁立し唐の冊封を受けんとする案には飛びついた。

 

 

不満がくすぶっていたピダム側の部族達は、廉宗らを中心にピダムを担ぎ上げ、女王廃位を強行に訴えるようになった。

 

ピダム自身は、まだ強行には慎重であり、新羅の力が二分され国力が失なわれる事を憂慮していたが、高向に煽動された部族達の勢いは、ピダムにも抑えが効かないほど過激になっていった。

 

 

一方で、高向は、

 

「ピダムは強引にでも善徳女王の夫となり、王位につくことを狙っている」と流言を流し、女王派の金春秋・金ユシンらを慌てさせた。

 

ピダムの存在をいよいよ警戒しはじめた金春秋らは、ピダムを押さえる為に女王の皇太子を擁立することにし、善徳女王の妹である聖骨の真徳妃を皇太子にしようと動き始めていった。

 

新羅の金一族の権勢にあやかろうとする高向は、ともかくピダムが邪魔であり、和国ウィジャ王の圧力で反応する部族もろとも片付けるつもりでいた。野望の為には犠牲を払ってでも邪魔もの共を破砕し、金一族の権威を不動のものにしなければならない。

 

 

エフタル族の真興王(宣化将軍)に攻め滅ぼされ任那が新羅の領土となって以来、金一族をはじめ任那地方出身の伽耶部族達は、新羅の中で、差別され弾圧され、冷遇され続けてきた。

 

新羅エフタル族の真興王(宣化将軍)没後のエフタル政権は次第に弱まり、今では将軍・金ユシンの戦闘力なくして新羅国境の防衛は敵わず、新羅の危機は金一族が武力で新羅の実権を握る好機となった。そして、女王を推戴するようになり金一族を筆頭とする旧任那の伽耶部族たちはようやく力を盛り返してきていた。

 

 

この状況に対し、任那を領有していたウィジャ王は、伽耶部族に向け、

 

「新羅王室につき我らに攻められるのが良いか、我ら側につき任那へ返り咲くのが良いか選べ」、

 

と高向玄里を通して、強気な働きかけをしてきた。

 

新羅は、百済、高句麗が当面の敵だったが、百済のウィジャ王が和国王となってしまったことで、新たな挟撃の脅威にさらされている。

 

ウィジャ王は、更に伽耶部族に対して、

 

「80年間、伽耶部族達は新羅王室に不遇に扱われてきた。差別され、不当な税を新羅王室に搾取されてきた。それを新羅王室に代わって伽耶部族たちに還すので、いま任那地方を望むのなら和国に参向するように。」

 

と、任那を餌に促す。

 

任那出身の部族らは、もはや任那の地を失った新羅の部族ではなく、任那のある百済・和国側の部族となれということである。

 

ウィジャ王は任那地方を領有したことで高向を使って任那出身の伽耶部族らを押さえ、新羅へ匕首をつきつけるつもりでいた。

 

 

ところが、高向玄里は既に金一族側につき、内心ウィジャ王を裏切っていた。

 

金春秋も、ウィジャ王の強気な要求に更に憎しみは増し、イリの息子・法敏を跡取りとしてでもイリとつながりを強めて、ウィジャ王に復讐する気になっている。

 

(任那地方はウィジャ王に与えて貰わずとも、新羅を制し唐の後方支援を受け奪い取る)

 

と、高向は思っていたが、

 

表面的にはウィジャ王には逆らわずに、言われるままに動いてみせた。

 

 

高向は、ウィジャ王の思惑どおり、さらに混乱を激化させるための工作を双方へ次々と行っていく。

 

新羅は百済・高句麗と交戦中で、常に国境に兵を配備し続けなければならず、とても大きな内乱を起せる様な状態ではなかったが、ウィジャ王は百済との国境地帯を切り取るのはここぞとばかりに、内戦を煽って国境の兵を首都ソラボルに集めようと躍起になって矢継ぎ早に高向に指令を送っていた。

 

ピダムも、金春秋ら女王派が真徳妃を皇太子にしようとしていることに怒り、女王側金春秋らとピダムとはもはや抜き差しならない不和となってしまった。

 

ピダムに対し、力づくでの王位簒奪を勧める部族長らも増え、ウイジャ王の望む大乱が内部で起きつつあった。

 

高向の企みは、百済和国・両国の王となったウィジャ王からの圧力を利用し、新羅の部族らに反発させて一気にピダムと部族どもを叩いてしまおうというところにある。

 

ピダム側の部族の反発は、危険なことではあるが、

 

高向は、

 

(弱体化した部族どもに勝ち目はない)と、

 

思っていた。そして、

 

「勝てる」と思わせ、ピダム側の部族らが挙兵を考えるまで煽動を続けてきた。

 

ピダムは容易に反乱など起こすような者ではなかったが、行き詰まった部族達を煽動することでようやく火の手が上がりつつあった。

 

国際人の高向には、母国と呼べるほどの国がなく、他国への工作には容赦がない。

 

漢王室の末裔といえば漢が祖国と呼べるかもしれないが、いずれにしても高向にとっては、新羅も高句麗も他国の一つでしかなく、企んだ動乱が失敗し国がどうなろうとも、結果的に自分の命さえ助かっていればよいのである。

 

 

そして、いよいよ百済からはウィジャ王の内臣・中臣鎌足総督が王命を受け新羅入りしてきた。

 

鎌足は

 

「ピダムを裏から支援する」と

 

反女王派の朝廷部族側にもちかけ接近する。

 

ここで、高向は下がり、金春秋側へと身を引き真徳妃の立太子に動いた。

 

鎌足の内政干渉によって、新羅王都ソラボルは混乱し沸騰しはじめた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

百済総督【中臣鎌足】

 

 

 

647年正月、

 

宮廷にて真徳妃の立太子礼が行われた。

 

 

これを認めない反女王派のピダム側部族らは、とうとう挙兵し実力行使に出る。

 

私兵廃止により、憤っていた部族達はあらたに兵を集めて立ち上がり、

 

「女王に任せていては新羅は守れない!」と、

 

女王の廃位をを訴え、大徳山に陣を起し王都ソラボルの女王の居る月城へ兵を向けた。

 

緒戦は陽動作戦で、反女王派のピダム側が勝ったが、女王側の金春秋・金ユシンらは夜襲をかけ、翌朝には決着がついていた。

 

所詮、千軍万馬の勇将・金ユシンの敵ではなく、ピダムは処刑され善徳女王もこの戦の中、命を落とした。

長期化せずに決着がついた為、ウィジャ王が望んだほどの内戦もなく国力を大きく削がれるには至らず、反女王派の部族側が負けたことによって、新羅の古い部族体質は瓦解した。

 

 

ピダムは何に絡めとられたのかも分からず、部族達に担がれるままに反乱を起こしたが、結果的には高向の企みどおりピダムらを排除する陰謀は成功した。

 

新羅の趨勢は金一族に傾き、金ユシン金春秋らは傀儡となる皇太子の真徳妃を王位につけた。

 

 

 

 

【新羅滅亡の危機】

647年ピダムの乱の後、

新羅は唐に善徳女王が崩御し、真徳女王が即位したことを伝える使節を唐に送らねばならなかった。

 

真徳女王の新政権は、ピダム派(旧ミシル派)の部族らが一掃され、金春秋宰相、金ユシン大将軍、そして古くからの女王派の中核であったアルチョン大臣らの新体制となっていた。

 

真徳女王は彼らの傀儡であり、女王が即位したばかりの新羅政権は、目の前の危機の対応に追われている。

 

「今は、二面外交しかありません。金春秋様が和国のウィジャ王のもとへ上洛し帰順の姿勢を見せるべきです。」と、

 

高向玄理が、結論から述べた。

 

金春秋、金ユシン、そして女王派のアルチョン大臣も卓を囲みその場に座っている。

 

アルチョンは高向の存在は面白くはなかったが、金春秋の独断も癪にさわるので、高向の意見も入れる為に真剣に話しをきいている。高向との密議は、高向が唐から和国への使者を伴い新羅に立ち寄り和国蘇我政権と唐との仲介を担った時以来である。

 

唐に身限られた高向玄里が、今も果たして親唐なのかは分からないが、少なくとも唐の臣国である新羅の方が唐の手先として動いていた高向には馴染みがあり、唐の出方が分かる高向にとってくみしやすかった。

 

 

先年、新羅は太宗皇帝に命じられ唐の高句麗攻めに参戦したがその際に百済からの攻撃を受けて城を奪われてしまっていた。

しかし唐は、高句麗を滅ぼしたいのであって、新羅を助ける為に百済を攻めるということはない。

 

救援を求めたところでまた

 

「唐の皇族をおくるので女王でなく男王をたてよ」と、介入の機会を狙ってくるだけである。

 

しかし、今これ以上、領土を切り取られたら新羅は消滅してしまう。唐と高句麗の戦よりも、なんとしても百済と和国の侵攻を防がなければならない逼迫した局面であった。

 

和国のウィジャ王は間もなく大化の改新を終えて、和軍を動かしてくるかもしれない。もしも今、両国からの挟撃を受ければ、唐が高句麗を滅ぼすより前に、新羅は跡形もなく無くなってしまうであろう。唐の後ろ盾は必要だが、今は百済と和国からの挟撃だけは回避しなければならず、例え二面外交であろうとも、和国のウィジャ王のもとへの参向もやむを得ないだろうと、皆、内心では思っている。

 

何れにせよ面従腹背である。

 

「唐の高句麗攻めに協力させられ、その隙に百済に城を奪われてしまった。唐は吾らを利用するだけで、助けようとはしない」、、

 

「そもそも、唐へ救援を求めようにも交通路は押さえられ使節の派遣さえままならないではないか・・・」

 

アルチョン大臣は嘆く。

 

新羅の北西の党項城は、唐と結ぶ航路の要所だったが、新羅を攻めない事と引き換えに通交の制限がされていた。南の任那地方も海路で唐へ向かうための要所だったが、既に奪われてしまっていて、唐との通交は分断され、新羅は百済・高句麗・和国に封じ込まれてしまっているような有様だった。

 

「それに、、和国への参向も安全ということでもないだろう・・・」

 

参向するべきといわれている金春秋は、頭では状況はわかっていても、不安が勝っている。

 

蘇我政権の頃の和国は、新羅と協力関係にあったが、百済のウィジャ王が和国王となった今では、はっきりと事情が違う。和国は新羅の敵国なのだ。

 

「ここは軍王とまで言われる強者のイリに協力を頼むしかないでしょう」と、高向は言い切る。

 

実力者イリは、ウィジャ王に野心を利用され協力してきたが、和国では不遇な扱いを受けて不満が鬱積している。那珂大兄王子の義妹・額田文姫を嫁にしたが、まだまだイリの立場は弱い。法敏を呼び水にして、和国から新羅側に乗り換えさせる余地はある。

 

「イリの実子・法敏を新羅の皇太子にしてでも、こちら側にイリを引き込み金春秋様に協力させるべきです。法敏が新羅にいることを好機ととらえた、最後の手段です。」

 

高向のあからさまなこの言い様に、

 

「法敏は、お前の孫でもあるな。それが最後の手段か」と、アルチョン大臣は不機嫌に口を挟む。

 

「しかし、イリと結ぶのは今しかありません。イリは、幸い高句麗にいます。法敏を後継者とすることでイリを味方にし、和国での金春秋様の安全を図ることと、唐に使節を送る時に高句麗からも安全を図って貰うよう協力を頼むべきです。」

 

高向の説得に、

 

(そんな話しができる訳がない)、と、金春秋とアルチョン大臣は思っていた、

 

それではイリに新羅を差し出すようなものである。

 

 

「吾が話しにゆく」、

 

金ユシンが口を開いた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「和国には上洛するにしても、まず唐へ使節を送らなければならない。真徳女王の即位の報告と共に、極東の窮状を伝えてなんとか唐に出兵して貰い、唐の出兵と同時進行で和国へ向かってウィジャ王を牽制してみてはどうであろう。」

 

ウィジャ王が強気なのは、百済・和国だけでなくイリや宝蔵王ら高句麗勢力が背後に控えているからであり、イリをこちら側に引き込めば高句麗を押さえるだけでなく、力動均衡は逆転して、ウィジャ王の強気も押さえられるかもしれない。その上、唐の出兵を背後にして来和すれば、強気なウィジャ王も目の前の金春秋の扱いを無碍にはできないであろうということである。

 

皆、固唾を飲み金ユシンの言葉に耳を傾ける。

 

「吾らは、イリに助けを求めようとも、唐に助けを求めようとも、引きかえに新羅を奪われてしまうようなことは絶対に避けねばなるまい。」

 

「高句麗の様に今の新羅が、唐の侵攻を跳ね返すことが出来るか?」

 

「否だ。だが、高句麗のイリの侵攻を跳ね返すことはできる。イリの戦闘力は強いが吾が、勝てないということはない。三国同時に攻められれば吾にもどうにもできないが、個々に兵を率いて討てれば必ず勝つ。イリに協力を求めようとも、吾の目の黒いうちは決して新羅をイリの好きな様にはさせない。」

 

イリが新羅で修業していた頃も、ファランの中では敵う者はいなかったが、金ユシンだけには絶対に勝つことができなかった。金ユシンの言葉は誇張された大口だけではなく、イリと立ち合った中での見切りが感じられた。

 

法敏を餌にイリと結ぶことで、イリだけでなく高向の影響力も増すであろうことは懸念されたが、新羅は進退両難の局面であり、結局、唐に使臣を送り出兵を請うと共に、和国のウィジャ王にも表向きは従い、二面外交を続けながら、その間に唐や高句麗のイリとの関係を強化するという方針が決定した。

 

 

高向玄里は、新羅を通じ、

 

「朝鮮半島から日本列島までがウィジャ王の体制下に置かれつつあり、和韓統一の危機的状況にある」

 

ということを唐国に訴え出て、なんとかウィジャ王を百済へ追い返したいと思っていた。

 

高向は、新羅の唐使節団への同行を頼んだが、それは新羅とっても高向にとっても危険なことでありできないと断られてしまう。唐は、高向に親唐工作を任せていたが、高向の失敗は到底許されることではなく、高向の存在自体に危険が及ぶと共に、高向を同行させた新羅に対しても不快感を持たれることになる。

 

使節団は、なんとしても唐の援護をとりつけ、善徳女王崩御と真徳女王の即位を伝えると共に、窮状を訴えて百済出兵の援軍を請うという使命をもって出立することになった。

 

 

唐への使節団の出立前に、金ユシンと高向は、新羅との国境地帯に密かに酒宴の場を設け、イリを呼び出すことにした。

 

イリの息子・法敏を正式に金春秋の跡継ぎにして金一族の筆頭としていくことと引きかえに、協力を求めるための交渉の場である。これによりイリは、高句麗の宝蔵王や和国王室の額田文姫だけでなく、新羅王室ともつながりを持つことになる。

 

背景となる血族集団がいないイリにとっては、決して悪い話しではない。

当然、イリが強力になりすぎる恐れもあったが、金ユシンの心中にはイリに対する恐れは一切なかった。

 

 

国境地帯へは、金ユシン一人で向かうことにした。

 

唐の太宗皇帝の言葉すら平然と撥ねてのけてしまうイリに対して、物言いができるのは、広大なアジア天下に金ユシンしかいない。

 

乱世に裏切りはつきものとは言え、反唐の血が濃いイリをウィジャ王側から切り離し、新羅と密約をかわすなど不可能なことのようにも思えた。

 

しかし、今の新羅の置かれた状況では、何もせずに守勢を保っているだけでは危険だった。

 

金ユシンは、新羅と高句麗の国境地帯で会盟しようという密使を、高句麗のイリの元へと送った。

 

 




後書き

主なこれまでの参考資料
【文献】
※古代天皇家と日本正史/中丸薫
失われた日本古代皇帝の謎/斎藤忠
消された日本建国の謎/斎藤忠
盗まれた日本建国の謎/斎藤忠
西域から来た皇女/小林惠子
白村江の戦いと壬申の乱/小林惠子
興亡古代史/小林惠子
本当は恐ろしい万葉集/小林惠子
騎馬民族国家/江上波夫
遊牧騎馬民族国家/護雅夫
古代朝鮮と日本文化/金達寿
高句麗五族五部考/今西、龍
聖徳太子/梅原猛
隠された十字架/梅原猛
清張通史古代天皇と豪族
清張通史空白の世紀
項羽と劉邦/司馬遼太郎
日本人のルーツ和韓/柴田文明
人口から読む日本の歴史/鬼頭宏
古代日本ユダヤ人渡来伝説/坂東誠
言霊ホツマ/鳥居礼
ミシル/キムビョラ
高麗王若光物語/高麗文康
天皇家誕生の謎/関裕二
古代史封印された謎を解く/関裕二
古代史が解き明かす日本人の正体/関裕二

三国史記
三国史記倭人伝
旧唐書
新唐書
中国帝王図
古事記と日本の神々
図解古事記日本書紀
聖徳太子伝暦
上宮聖徳法王帝説
先代旧事本紀
神皇正統記
伽耶と古代東アジア
封印された闇の日本史
宝島別冊天智と天武

【漫画】
天智と天武/中村真理子
日本の歴史/石ノ森章太郎
天上の虹/里中満智子
日出処の天子/山岸凉子
聖徳太子/池田理代子
葦の原幻想/長岡涼子
玉響/長岡涼子

【Web】
百済人将軍てい軍の墓誌に記された日本という国名
草原から来た天皇
古代東アジア世界史年表

【韓流時代劇ドラマ】
チュモン
ケベク
淵蓋蘇文
薯童謡
風の国
鉄の王キムスロ
善得女王
剣と花
大祚榮
大王の夢
大王四神記

見るだけでも1000時間以上はかかりますが、新潟県まで行ってみて日本海に入り、高句麗からの上陸を考えてみるとかマニアックな現地考証を全国でしていますので更に時間が掛かります。

※【古代天皇家と日本正史/中丸薫】は最初に巷説の世界観に出あった本です。

中丸薫さんという方は、なんと明治天皇のお孫さんで古代天皇家について書かれてるのですが、

「日本書記が明したくなかった真実を」から始まり
「天智天皇は百済のキョギ皇子だった」など、
当時は、衝撃的な内容はがりでびっくりしました。

「明治天皇のお孫さんがこんな事を書いてしまっていいの?!」と驚きつつ、教科書では教えてくれない巷説の世界にグッと引き込まれました。


今後も歳月を掛けてゆっくり書き進めていきたいと思ってます。長い話しをお読み頂きましてありがとうございます。


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第6章 金春秋 来和【新羅の危機】

西暦647年

周囲が全て反唐国となり追い詰められた新羅は、和国のウィジャ王の元へ金春秋を送りだした。新羅の金ユシンはイリに金春秋脱出の協力を求め、見返りにイリの実子である金法敏をいつかは新羅王にしようと誓う。

唐国は高句麗戦の作戦を変え、大軍で一気に攻めるのでなく小規模な局地戦を繰り返し徐々に弱らせる戦略とし、唐国一の勇将 李勣将軍に精鋭を率いらせ高句麗北方周辺の二つの城を落とさせた。
金春秋脱出の為、和国に渡ったイリは高向玄里のもとへも行き自分の生い立ちについてを知ることになる。

第1話 和国 皇太子弟イリ
第2話 金一族 王の血を引きし者
第3話 唐 高句麗侵攻 再び
第4話 金春秋 来和
第5話 唐 李勣将軍
第6話 イリ誕生秘話


【和国 皇太子弟イリ】

 

イリは、金ユシンからの会談の申し出の密書を受けとった。

 

一人、胡床に座り考えていた。

 

 

イリの望みは和国であり、内心、期待をしてウィジャ王に協力してきた。

 

(ウィジャ王が和国・百済の両国の王となるならば、吾は和国・高句麗両国の宰相になってやる)

 

というくらいの野心は常に持ち続けてきた。

 

ところが、ウィジャ王が和国で即位した後、イリには何の官位も与えられなかった。

大化の改新後の和国でのウィジャ王のやり方に、蘇我石川倉麻呂や那珂大兄王子らは憤りを感じていたが、最も激しかったのはイリだったかもしれない。

 

ウィジャ王にしてみれば、只でさえ強力な存在であるイリに和国での官位や権力を与えることなど、その影響力を考えれば脅威である。イリが不満であろうとも、額田文姫をイリに嫁したことだけでも、ウィジャ王には精一杯であった。

 

しかし、何と言っても先の唐・高句麗大戦でイリが撃退した張亮将軍は、隋末の風雲に身を起こし李勣将軍と共に大陸の戦乱で名を馳せた将軍であり、イリはその張亮将軍を撃ち破って和国にやってきてウィジャ王を擁護したのである。

 

唐軍を撃破したばかりのイリの気焔はおさまらず、その前では皆、逆らい難いものがあった。

 

まさか高句麗の宰相イリがその様に和国へ乗り込んでくるとは思いもよらず、突然のことに幽体が金縛りにあったかの様に凝る者が多く

 

刀を佩し兵を有していても、和国の部族達は誰一人としてウィジャ王の王位を

 

「否!」と、

 

阻む勇気はなかった。

 

 

高向とイリの協力によって親唐政権を倒し和国王となったウィジャ王は、二人に何もしないという訳には行かず、仕方なく「国博士」と「皇太子弟」という、名誉だけが高く実権の無い地位を与え和国の国政には関わらせなかった、、

 

イリも、最初はそのようにウィジャ王の意図を理解し不満を募らせていた。

 

が、もう少し読み込んでみれば、

 

 

(古人王の様に、吾も那珂大兄王子の「当て馬」に使われたか、)

 

とも思えるウィジャ王なりの計算が感じられた。

 

イリは「皇太子弟」ではあるが、イリが皇太子弟である為には常に那珂大兄王子を皇太子として立てておかなければ、その立場は無い。上宮法王の嫡流である那珂大兄王子や間人皇女と違い、イリの娶った額田文姫は継承権は皆無である。

 

ウィジャ王は、イリと那珂大兄王子とは相容れぬ関係であることと知り、対立的な二人を無理やり兄弟にしてしまう事で互いに牽制させようとしていると思われた。

 

即位後、那珂大兄王子を正式に皇太子とするとすぐにイリと那珂大兄王子の義妹・額田文姫との婚姻を決めたことからも、それが伺えた。

 

未だにウィジャ王のことを陰で「父の仇」等と呼んでいる煩わしい那珂大兄王子と、和国に野心のあるイリの存在を掛け合わせる。

二人は仲が悪く特にイリの自尊心を刺激すれば、その一石で二人の対立は更に深まることは容易に想像された。

そうした相剋を弱点として捉えられ手玉に取られたようである。

 

(和国の大臣や宰相など国政での実権は与えず、即位の見返りには「皇太子弟」にして和国王室へ繋げることで吾に報い、同時に目障りな那珂大兄王子の存在を目の上の瘤として吾と対立させて置くつもりか、、)

 

そう思うと、怒りのとらわれがおさまらない。

 

一方で、

 

(王位につくと、そこまで考えるものか)

 

と感嘆もしたが、

 

ウィジャ王に対するイリの気持ちは離れた。

 

イリは父・高向の様な権謀政治家は好きではないが、ここは改めてより政治的に身の処し方を考えなければならないと思い直していた。

 

 

(策略を図ろうにも、時局に追いつかぬ)と、

 

イリは、大化の改心後の和国への野心はとどめて、高句麗の執政に専念して時節を待つつもりでいた。

 

しかし高句麗でのイリは戦後処理で忙殺されのんびりはしていられなかった。

 

楊万春将軍(ヤン・マンチュ)の奮戦により、安市城こそ落ちなかったが、遼東での戦いで唐軍が連行していった捕虜は7万人であり、大きく力を削がれてしまった高句麗で兵の再編と配備に追われていた。

 

戦とは領土や王権を奪うよりもまず奴隷(浮囚)という労働力を確保する為の手段であり、より多くの奴隷を連行すればその国の産業力は高まり、民を奪われた国は例え領地が残っても生産力を失う。

 

唐が高向玄里を高句麗大臣につかせ極東工作を命じた時に、まず最初に中国人捕虜を解放させたのもそのためである。国民が減ってしまっていた唐は民を取り戻し、高句麗は強制労働をさせる労働力を失ってしまった。

 

築城や城の改修、食料の増産のために牛馬の如く死ぬまで使役する高句麗の防衛には欠かすことのできない貴重な強制労働者達である。高句麗の築城力は急激に低下してしまい、これを奪うことを、栄留王と共にやってのけた高向玄里は、この頃はまだ唐の手先として功があったと言える。

 

民も戦に負ければその様に奴隷にされてしまうことをわかっていて、その為、高句麗の民は戦になると山城に避難し女子供の一人一人まで、頑強に抵抗する。

 

しかしその民がいなくなってしまえば徴兵すらできず、高句麗は国外から募兵するしかなかった。

 

和国から高句麗へ兵を送り込んだだけでは足らず、北海道や沿海州(ロシア・ウラジオストク)にも範囲を広げて多くの人々を集めなければならなかった。

 

 

城の改修と食料の確保、新たな兵力の徴兵、唐に下ろうとする有力部族達の統制、嫡子・淵男生や息子達への差配や新たな将軍の配置など課題は山積していて、百済の様に積極的に新羅を攻めている状況でもなかった為、ここで、新羅の金ユシンからの会談の申し出は了承し、イリは胡床を立った。

 

イリほど、勝手気ままに三国を動きまわる者はいない。

 

吹きすさぶ風の中を、イリは1人

 

新羅と高句麗の国境地帯へと向かった。

 

 

【金一族 王の血を引きし者】

 

『月夜』の下、酒を注ぎつつ、イリと金ユシンが向かい合っている。

 

春宵一刻、値千金

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

イリにとって金ユシンは義兄であり、少年時代に憧れた存在である。交戦中とはいえ新羅に残してきた実子・法敏のことも忘れたことはない。二人は久しく顔を合わせてなかったが、旧交を温め酒をくみ交わし、イリは昔と同様に金ユシンのことを「兄貴」と呼んだ。

 

「協力を頼む」と、

 

金ユシンは率直に切り出す。

 

「協力の見返りは?」、

 

イリは条件を求めた。心胆相照らす二人の壮の間には隠すものは何もない。

 

「新羅にいる実子・法敏を金一族の筆頭とする。見返りということではないが、共に協力して歩もうということだ。金一族はいずれ法敏を新羅の王位につけ、その時、新羅に反唐の旗を掲げる。その日まで共に法敏の進む道を切り開こうぞ。」

 

 

金ユシンの申し出を、イリは快く受け入れた。

 

 

唐との戦をひかえているイリにとって、後方の親唐国・新羅は捨てて置けない。今は唐と対戦しながら新羅を攻めとる余裕はなく、攻めるよりは味方にしてしまった方が有利なのである。

 

直情的だった弱壮の頃とは違い、今では政治的な配慮も腹芸もできるイリになっている。

 

唐や百済の手前、秘密裏な協力ではあるが、それでも二人の密約によって双方の被害を少なくし、イリの実子・法敏を王位につけることはこの上ない。

 

イリの息子であり、金ユシンにとっては甥である法敏を新羅王につけ新羅を反唐国にして、高句麗と共に唐と戦うまで協力は惜しまないと約束した。

 

「しかし、何故兄貴が、王にならぬのか?」

 

イリは、至極当然な問いかけをする。

 

「それはできぬ。あくまでも吾らは擁護する立場の者。それを武力まかせに王位を望めば、周囲の協力は得られん。大望の為には、武力だけでなく政治的な力も必要なのだ。」

 

「吾は幼き頃、洞穴で老翁に出会い秘伝を授けられた。大望を望むならば大局を見失うなと翁はいった。その時より、王位を望む闘いの覇道など、吾の進む道ではない。出世欲も富貴栄華も望みではなく、ただ金スロ王の血統を残し、誰にも侵されない強い国をつくることこそが大望であり、吾が道である。」

 

「それに、日暮れて道遠しだ。吾の歳で今から王位など望んでも時局に追いつかん。局面は、既に金春秋が皇太子なのだ。時局に逆らわず推していくのがよかろう。大事を成すには、天の時に逆らわず、時勢を味方につけねばならんのだ。私心など捨ててな、、」

 

「何より、吾の母は正妃でない故、吾は嫡子ではなく、鏡王など名乗れぬ。路傍の逢瀬でできた子よ。しかし、吾が王に成れぬからといって、誰にも侵されることのない強い国を造ろうという大望と、金スロ王の王統を王位につけるという志しは何ら変わらぬ」

 

イリは、金ユシンの変わらぬ壮気に触れ聞きいっていた。

 

金春秋は、百済との戦いで娘夫婦が殺されてしまった時、敵国の高句麗に助けを求めたように、ウィジャ王への復讐しか望んでなく、イリの実子・法敏を皇太子にしてでもイリの援護が欲しかった。自分が王位につき、法敏を皇太子にすることにも是非もなく、イリの息子法敏を実の息子のように大切にしている。

 

金ユシンは、庶子とはいえ滅ぼされてしまった任那の最後の王・金庭興の孫である。かつて新羅王室に吸収されてしまった金氏と違い、真の王族であるという自負心も強い。

 

金ユシンは一族の女を使い、なんとか王の血をひく者を即位させようと努力してきた。

 

王族に妹を嫁がせ、金一族の王統を絶させぬようにし、強い壮と結び、子をなす。金一族の女の生き方は、一族の王の血をひく者をこの世におくりだすことであり、血縁選択の使命は一族の1人1人が背負っていた。

 

このように男性が立たずに、女性が血統をついでゆくやり方は『神国』新羅に続く伝統的なやり方であり、新羅には脈々と受け継がれてきた『大元神統』や『真骨正統』という女性血統がある。

 

大元神統は、どのように王位が変わろうとも常に王に仕え交わり子を産み、また多くの権力者と交わり子をなし、姫が産まれればまた王に差し出してきた。

 

智証麻立カーン、法興王、真興王、王権が移っても、そのようにして代々血統を守り継いできた女性達であり、力のある者と交わり精を受け子を産み続けることが女たちの戦いだった。

 

中国的な、近親婚が野蛮であるとか、好色多婬であるといった道徳観とは一切無縁であり、只々ひたむきに冷徹なほど血統を残していく。

 

新しい権力者に交わるという事は、時には父母を殺め一族を皆殺しにした敵にも嫁がなければならない。

 

愛も憎しみも全て捨て果ててしまったかのように、全てを忍び、利己的なほどに血統保存が優先される。

 

自ら恋心を殺し心を裏切り王家に色を供える花として生き、身一つの我慢で王室を骨肉の争いという悲劇から守り、産まれた皇子を王にする為に後継者争いなどせず、誰が王になっても、また一族の姫を差しだし、女性血統を継ぐことだけを粛々と続けてきた。

 

中国的な宮廷にありがちな毒殺と冤罪にまみれたどろどろとした骨肉の争いなどではなく、全て血統保存に徹し全ての王に殉じる女性達の戦いである。

 

 

生きのびる為に、

 

相手と戦い殺すのでなく、

 

相手と交わり産むという、

 

平和的な方法で、女性達は婦道を貫いてきた。

 

男系王権主義の中国の様に、たった一人の男「王」の息子を産みその息子を次の王にする為の閨閥の争いが起きるという事もなく、逆に幾人もの王と交わり姫を産み、その姫をまた時の権力者に供えるという有り様が連面と続いてきたのだ。

 

ミシルだけでも、三代に渡る新羅王と、三代の風月主に交わりを保ってきたが、新羅においては、大元神統の様な血統聖母と結ぶことこそが、宗主たる象徴であった。

血統そのものがまるで、伝国の宝のように受け継がれていく。

 

そして宗主の証として、上宮法王を三人目の夫とした和国の推古王女の様に、例え子供を産める歳でなくなっても、次々と変わりゆく王と生涯を共にし、命が尽きるまで貴種としてその婦道を全うする。  

 

新羅が自ら『神国』と名乗れるのは、この様に神の血統「大元神統」の血統を大切に守り継いできたからに他ならない。

 

もしも、母系軸を手放し中国的な男王軸に代わってしまえば『神国』としての意味を失う。

 

こうしたレビラト婚(嫂婚制度)の様な一妻多夫制とも言える母系血統保存の習慣は、スキタイ族、ユダヤ氏族など西アジアや、遊牧民族のいる北アジアから東アジアにまで古代より広くアジア大陸に存在していた。

 

 

レビラト婚(嫂婚制)は、父が死ぬと義理の息子がその母を妻とし、兄が死ぬと兄嫁を弟が妻とし、その者がなくなると更にその弟が妻とする。

 

どんなに男系軸の当主が代替わりしても、女性軸は代わらずに残していく母系中心の婚姻制度である。

 

男系軸を中心にし、当主の男権の強さを重んじる中国とは真逆の制度であり、「貞女は二夫にまみえず」などと、ことさら女性の貞操を強調される中国的な価値観の中では、女性が生涯何人もの同族の夫をもつということがどうしても理解できず受入れ難い。儒教において女性の再婚は罪なのである。

 

 

レビラト婚制は「兄死娶嫂、禽獣の俗」などと忌避されその差別は酷かった。

 

 

唐の勢力に周辺国が掃討され、中国的な道徳教と男系王統主義がアジア全体に広がっていく中で、やがてこれらの女性血統を中心に重んじる価値観は姿を消していく。

 

前時代的な完全な女王国というものは既に存在せず、ゆるやかな母系国家ももはや無くなりつつあり、男王国の中で微かな残しを残すのみの女性血統だったが、中国的な男権国家が中心となり、こうした女性血統の保存はアジアの歴史の中で抹殺されていくか、血統保存に徹し血統の象徴として婦道を貫いた烈女達は皆「淫乱」「好色」「娼婦」など侮蔑の烙印を押され、黒い歴史にかえられていった。

 

 

しかし、この様な女性血統を統べる姫は、血統を継ぐ女性としての誇りと、それに殉じるどこまでも寛容で深い原始自然の愛がなければ、個としては苦しい婚道との戦いとなる。

 

金スロ王の血統を継ぐ額田文姫や鏡宝姫達は、幼い頃よりその事を母から教えられてきて、既に相当な覚悟をしていた。

 

ウィジャ王が和国・百済に君臨し「任那と称しての使いは必要ない」とした後、

 

今は金ユシンの妹鏡宝姫が、自ら「鏡王」と名乗り任那の王統の存在を示している。

 

任那の地はなくとも、任那の王統が無くなった訳ではない。

 

 

しかし、

 

これ以上、代を重ねてしまえば王の血統はやがて埋没していってしまうだろう。

 

そうなる前に、なんとしても金ユシンは任那最後の王・金庭興の血をひく王を即位させたかった。

 

金庭興の四代目の子孫となる法敏や、イリに嫁いだ額田文姫は、金ユシンの希望だった。

 

 

金ユシンの妹鏡宝姫はイリの息子法敏を産んだが、今は新羅の王族である金春秋の妻となっていて息子の法敏もそのまま金春秋の養子(元子)にしてもらっている。

 

そして、今や新羅の王位継承権のある聖骨の血統は途絶えてしまった為、真徳女王の皇太子は金春秋であり、新羅王位は目前である。

 

次に新羅王に金春秋が即位した時に、

 

「法敏を皇太子にできるのなら」と、

 

イリは、今、新羅が置かれている立場と三国との力動的均衡を理解した上で、表向きはたとえ親唐であっても法敏を王位につける迄、金ユシンとの密約を続けることにする。

 

金ユシンがイリと交わしたこの密約は、金春秋を裏切るようなものであるが、内心、金ユシンは、反唐の気概の無い金春秋を既に見限っていた。

 

 

二人は、ここで

 

「天意であり共に剣を振るう。未だ時、至らずとも、吾ら二人志道を同じくして進む」と、

 

改めて反唐を誓いあい、

 

「尽未来、吾ら同心一体となることを契る」と、義兄弟の絆を深めた。

 

ウィジャ王とイリも、反唐で結びついてきたが、親唐派を取り除いた後の和国の覇権をめぐり亀裂が入りはじめている。

 

この日を境に、高句麗と新羅は裏でイリと金ユシンが強くつながり、やがてウィジャ王の「三国連合国」の夢は、次第に冷えていく。

 

 

そして、イリの中には、なんとしても自分が和国を制して、高句麗の義父・宝蔵王、新羅の実子・法敏と共に描く、親子三代の三国連合の夢がうっすらと浮かび上がった。

 

 

任那 【伽耶国】金一族の王統

 

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【唐 高句麗侵攻再び】

 

647年1月、

 

和国へは高句麗と新羅からの調使いが来朝した。和国のウィジャ王は、百済の王である為、当然、百済からの使いはない。

 

そして、一方で新羅は唐へも使節団を送る。

 

なんとか無事に彼らは、唐へとたどり着いた。

 

 

新羅使節団の

 

「高句麗攻めでなくまず、百済から攻めて欲しい」

 

という切なる願いは、

 

和国を狙うイリにとって、

 

「ウィジャ王を百済へ追い返したい」という企みにおいては、利害が一致していた。

 

高句麗だけが唐と戦って、その庇護のもと百済は悠々と新羅を攻め取っている。高句麗は、唐と新羅の挟撃を避ける為にも、百済から新羅を攻め足止めをして貰いたいのだが、今のところ高句麗と百済の反唐同盟は百済に有利な形で戦が展開している。高句麗にとってもこれ以上連戦が続くと矛先をかわしたいところである。

 

もしも唐が百済を攻めて、百済が安泰でなければ、ウィジャ王も和国の統治どころでなくなる。

 

高向玄里も、なんとしても唐から百済へ圧力をかけて貰いウィジャ王を和国から追い出したいと考えていた。しかし、自分自身は、高句麗の政変後、唐の信頼も情報伝達手段も失ってしまっていた為、新羅の使節団だけが頼りだった。

 

新羅の使節団は、真徳女王の冊封を願い出ると共に、唐に百済侵攻の請願をなんとしても聞き入れてもらわなければならないという大役を担っている。

 

使節団は入唐すると、新羅の善徳女王が崩御したことを報告し、真徳女王の王位冊封を願い出た。

 

太宗皇帝は、これを認め冊命し、真徳女王を楽浪郡王に封じ、善徳女王には光禄大夫を追贈した。

 

 

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そして、使節は百済出兵の請願を強く訴えでる。

 

「汝らの国は救援ばかり求め、高句麗攻めには功を成そうとしない。何故その様に弱いのか。」

 

と、太宗皇帝に問われると

 

唐の高句麗攻めに新羅が協力しようにも百済に阻まれ、新羅から思うように出兵できないことと、百済のウィジャ王は今や和国と百済を領有し、益々その勢いを強めていて容易ならざることを懸命に伝えた。

 

(これ以上、領土を切り取られたら新羅は消滅してしまう)という、

 

切実な出兵願いであり、顔を真っ青にして必死にこれを上奏する使者も命がかかっているということが、居並ぶ郡臣たちにも伝わってきた。

 

大宗皇帝は、

 

(くどいやつらだ、)と、

 

思いながらも、新羅の置かれている急迫した状況は理解はした。

 

しかし、新羅の訴えほどには、ウィジャ王のことはまだそれほど脅威と捉えずにいた。海洋国と大陸国の地政的な違いもさして問題ではない。

 

(東方の安定の為に、高句麗だけはなんとかしなければならない)

 

と、太宗皇帝は考えている。

 

ウィジャ王は、高句麗の様に露骨に反発してくる訳でもなく、唐の冊封を受けて、表面的には帰服の態度を示してきている。

唐の太宗にとって辺境の安定とは、諸王らに帰服の態度を示させ朝貢させれば、まずはそれで良かった。

 

冊封に従わせることで、従わなければ何が何でも攻めるということはなく、

 

 

「異国が従わなければ、文徳をおさめてこれを来させよ。」

 

という、中国古来からの基本姿勢は変わらない。

 

ともかく百済などは、枝葉の問題であり、大木である高句麗という敵の「幹」を切り倒してしまえば、自然と枝葉の問題も解決するはずであった。

 

したがって、太宗皇帝は、ここでどんなに新羅が請願しようとも、矛先をかえるはずもない。

 

 

「高句麗を倒すまで、しばし堪えよ。救援を求めてばかりでなく、新羅も唐の臣国であるならば一度くらい汝らの力で百済に勝ってみせよ!」と、

 

新羅の使節は逆に強く叱咤され、しかたなく唐の救援を諦めて帰国して行った。

 

翌月、

 

太宗皇帝は高句麗攻めの準備を終え、高句麗出兵を号令する。

 

牛進達将軍を青丘道行軍大摠管、李勣将軍を遼東道行軍大摠管に任じ、唐軍は進撃を開始した。

 

高句麗は国境を固めこれを迎え討つ構えでいた。イリは遠くクチャ、活国(サマルカンド)やチベットなど周辺の反唐国へも使者を飛ばし、共闘し反唐軍を起こそうとした。

 

 

アジア最強軍団を率いる李勣将軍は、唐軍きっての豪壮な名将である。

 

 

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もとは徐世勣といい、曹州の富豪の生まれだったが、義侠心に厚く、若くして隋末の風雲に身を投じて唐の天下統一に参戦した。

 

唐の高祖皇帝に認められ、国姓である「李」姓を賜わり李世勣となったが、その後、李世民が太皇宗帝として即位したため、李世を憚って「李勣」と名乗っていた。李勣は太宗皇帝の信頼も厚く、唐帝国の北方「并州」を任され都督となり、突厥族を掃討し、やがては老将・李靖将軍と共に国境北方の塞外にいた突厥族を壊滅させてしまった。

 

太宗皇帝はこれを喜び、

 

「隋の煬帝は、賢良な者を用いることが出来ず、万里の長城を修築して、ただ突厥に備えるだけだった。100万人の民を強制労働させてなど、迷惑この上ないことだ。朕は李勣に并州を任せ、彼はついに突厥を遁走させ恐れさせた。北の辺境を安定させるのに、長城などよりよほど優れている。」

 

と、周囲の者に自慢していたほどだった。

 

李勣が治めた、并州の16年間は厳粛で全く乱れることはなく、唐帝国北方の安定化が図られた。

 

その後、李勣は太宗皇帝の皇太子を任され太子庁府の最高責任者に任命されるなどして、太宗皇帝の信頼の厚い股肱の臣となった。

 

そして、李勣は戦闘力が高いだけでなく、戦略にも長けている。

 

先の高句麗戦で唐は、大軍で一気に攻め滅ぼす短期決戦で臨んでいたが、安市城を抜くことができず、戦が長引き撤退せざるを得なくなった。これを反省し、期間的な戦略を視野に入れることのできるのは太宗皇帝以外では、おそらく李勣しかいなかった。

 

一線を退いていたが共に突厥を掃討した老将軍・李靖などは、他にも周辺の敵を撃ち破ってきて、

「兵は神速を尊ぶ!」と号し、洪水と共に突撃して敵を殲滅するなど、その戦闘力は唐軍の中で郡を抜き尋常でなかったが、独断専攻で動くきらいがあり、知勇を兼ね備え国軍を率いる大将軍としては、李勣こそが唐軍最強の将軍といえた。

 

その李勣が攻める高句麗は、寒冷地であることが最大の防壁である。

 

先の戦でも行軍都督を任されていた李勣は、その敗戦から学び高句麗への戦略を見直さなければならなかった。

 

高句麗の年間平均気温は9度程度であり、10月にもなれば氷点下になる。ずっとこの地で生きてきた高句麗の者と違い、寒さに慣れていない唐軍は、冷気にさらされ続けると、思考も鈍り行動もあやふやになり戦どころではなく、兵達は倒れてゆく。その上、高句麗は飢えと寒さで追いつめる戦術に敲けていたし、当然唐も充分それを心得ていた。

 

天が人間同士の戦いを別つように冬将軍を遣わしてくる為、唐軍は冬が来るまでに撤退せざるをえず、限られた戦期の中で、撤退時期までに戦果をあけなければならない。

 

唐の太宗皇帝の抜きんでているところは、自尊心を損なうことがあっても、皇帝としての面子や意地にとらわれず、

 

「反省から学び改めるべきところは改める」、という柔軟さがあった。

 

先の戦では、

 

(高句麗は、なんと負けない戦をするものか、、)

 

と、思い知らされたが、

 

(大軍で一気に攻め滅ぼそうとすると、攻めた大軍の方が打撃をうけるのだ)と

 

隋が何度攻めても勝てなかった理由を改めて理解した。

 

 

高句麗は、

 

「天・地・人」、寒さという天の時と、地形を利用した戦術に長け、人海戦術を用い、優れた防衛力を持つ。

 

李勣将軍もその様に理解し、大軍による短期決戦でなく、少数精鋭だけで徐々に高句麗をよわらせていく戦略を模索していた。

 

遼河を渡った李勣将軍は、

 

「北へ向かう」と、号令し、

 

安市城を背に400里以上離れた北方の新城方面へと向かった。

 

高句麗の防衛線は、高句麗の北を囲む城壁の様な長白山脈が横たわり、西側の遼河手前で折れ南西へ千山山脈が遼東半島まで伸びている峨々とした天然の要害である。

 

高句麗の「千里の長城」とは、この高句麗を縁取る千山山脈・長白山脈に沿って連なる様に築城された山城のことであり、唐軍は手前の遼東城は落としたものの、北方の要の「新城」、南側の「安市城」はまだ抜くことができない。

中国と高句麗を分かつように流れる遼河を越えてきた軍は、まずこの目の前にそびえる千山山脈に連なる「千里の長城」を突破しなければ高句麗へと侵攻することができなかった。

 

ところが、北へ向かった李勣将軍は、新城攻めよりも更にその奥にある南蘇城への攻撃をはじめた。

 

李勣将軍は、安市城は放っておいて、遼東城より北方の「新城」より奥にある「南蘇城」と、更にその先の「木底城」から攻めることにしていた。

 

「落ち栗ひろい」でもするかの様に、敵の外れの弱そうな所から拾って攻めていく戦法は、一見、弱腰なやり方に見えるが、戦の流れを変える手段ともなる。一気に致命的な打撃を与えるということはできないが、李勣将軍は徐々に戦の流れを変えていこうとしていた。

 

そこには、

 

「攻めなくともよい城と、攻める城がある」

 

という太宗皇帝の考えもあったが、戦略的に、攻める城と攻めなくともよい城を見極めるのは難しく誰にでもできるということではない。

 

李勣は太宗皇帝の信頼にこたえて、見事にそれを実行しようとた。

 

 

 

【金春秋・来和】

 

647年3月、新羅

 

唐の持節使と共に新羅使節団が無事に帰国してくると、真徳女王と新羅宮廷は冊命を拝受し、金春秋らは饗応した。

 

そして、唐の太宗皇帝の言葉と百済ではなく高句麗攻めの指令が伝えられた。

 

唐の返礼使が帰国するなり、新羅に進駐していた中臣鎌足はこれを遺憾であるとして、

 

「唐との二面外交など卑怯は許されない。今、赤心明らかにして和国と百済との和平を望むのであれば、その証しとして和国のウィジャ王様のもとへ金春秋が参れ」と、新羅宮廷に詰め寄った。

 

人質である。が、表向きは和平の使者だ。

 

真徳女王は、

 

「今、戦をする気がなければ、和平の為に金春秋をただちに和国へ遣わせよ」

 

という中臣鎌足の言葉を、是非もなく受け入れた。

 

しかし、当の金春秋は拝命を受けても遅々として出立しようとしなかった。中臣鎌足がどんなに催促しても、のらりくらりと言い逃れを続ける。金春秋は以前、高句麗に監禁された苦い経験があり、敵国に身を置くことにはまだ恐れが強かった為、

 

「唐の百済攻めの確約もないままに今、和国へ行くのは危険である。ここで死んでしまったら新羅の未来もない。」などと、二の足を踏んでいた。

 

しかし、金ユシンや高向玄理は、

 

「唐の援護は期待できない。今は危険を冒してでも和国のウィジャ王の元へ行かねば、すぐにでも戦が始まってしまうだろう。選択支は無い。和国に潜入しているイリの配下と、和国の金一族が必ず命を守る」と、約束し、

 

とうとうと説得を受けた後に、金春秋はようやく決心をした。

 

イリが手下の者を和国に配置するのを待ち、万全を期して和国へと向かう準備を整えた。イリの配下の間諜は優秀であり、和国にもその手の者共が配置されていて、大海の里より新羅へも和国の動静がすぐに伝わるようにした。

 

 

647年4月、

 

金春秋は、高向玄里・中臣鎌足を伴って新羅から和国へと渡った。

 

イリは金ユシンらとの約束どおり、あらかじめ金春秋を守るための配下の者を和国へ送って配置し、秘かに布陣を終えていた。ところが、高向玄里と金春秋は、中臣鎌足とは別の船で渡航していて、港につくなりいきなり襲撃を受けてしまった。直ぐにイリの配下の者が駆けつけ難を逃れたが、血なまぐさい和国入りとなった。

 

 

金春秋が和国に渡るのは、初めてではない。

 

和国が親唐国だった蘇我王朝の頃、和国の金一族の里へ来たことがあった。

 

(あの頃はまだ良かった)と、

 

金春秋はしみじみ思う。

 

親唐派の蘇我氏の為に、新羅が唐と和国の橋渡し役となって、和国の山背王を金春秋らが擁護し、親唐派の武王がいた百済からは「額田文姫」を迎え、百済とも和平を結んでいた。今の様に反唐三国「百済・和国・高句麗」に包囲され戦火に追われる毎日ではなく、束の間でも新羅には平和な日々があった。

 

金春秋にとって、娘夫婦を殺した憎い仇であるウィジャ王に対し、頭を下げにいく事はこの上ない屈辱だったが、そのウィジャ王のいる和国へ、和平を請う為に自分が上洛することになるとは夢にも思ってなかった。

 

(それにしても和国も変わったものだ)

 

ウィジャ王の大化の改新後、和国は変わったと聞き及んでいたが、金春秋にはその変貌ぶりが目につく。

 

まず人々は、冠を用いて凄然としている。その各々の言動や所作からも序列が感じられ、和国という国の秩序が確かなものになりつつあるのを肌で感じていた。

 

古来より、東洋では加冠というものが身分の上下をあらわしていて、冠は官人の象徴であった。髪を左右に束ね輪を作るように横留めする和国独特の所謂「みずら結」をしている者の姿は見られず、旧態然とした和国の印象は薄れていた。

 

海を渡った別天地という観はもう全くというほどなく、かつては未開であった和国も三韓諸国(百済・新羅・高句麗)とさほど変わらなくなっていた。

 

今まで、金春秋が新羅でやってこれたのも金ユシンあってのことであり、今1人で和国に立ってみた金春秋は、その金ユシンの居ない心細さに、改めて身のつまされる様な思いを感じていた。金春秋は王室の血統ということで、金ユシンと義兄弟になり、共に新羅での勢力を伸ばしてきたが、元々、反唐派の金ユシンの様な気骨はない。王位と復讐しか望んでいなく、その復讐さえも最初から他人の力を当てにしているほどだった。

 

「乱世なのだ」と、励ますように

 

金春秋は自分に言い聞かせ、ウィジャ王のもとへ向かった。

 

金春秋には敵ではあるが、ここまで来た以上和国のウィジャ王に頭を下げ帰順の意を表して、ウィジャ王からも次期新羅王・皇太子の金春秋を認めて貰わなければならない立場だった。

 

中臣鎌足、高向玄理らと伴に参内して、ウィジャ王の前に深く頭を垂れ、礼を尽くして拝謁し、孔雀と鸚鵡を献じた。

 

そして、

 

「何卒、王徳を賜りますように」と、

 

更に深く、金春秋はへりくだった。

 

目の前には、憎い娘夫婦の敵ウィジャ王が座っている。

 

内心、恨みは沸騰していたが、裏腹な自分の卑屈な態度により一層腹が立ち、更なる屈辱となって恨みの感情にからみついていく。

 

が、それはおくびにも見せない。

 

ウィジャ王は、金春秋を見据え、

 

「和国と新羅の通好は途絶えてしまっていた、この度は和平の証として和国にしばらく滞在していかれよ。」と、

 

(否とは言わせない)というほどの、

 

強い語気を込めて言い放った。

 

実質的な人質である。人質にならねば和平はなく、すぐにでも新羅を攻めるとの威嚇が、言外に含まれている。

 

金春秋もまた、

 

「有難いお言葉ですが賜りますれば、唐が高句麗へ攻め寄せおだやかならざるとのこと。長くはおられませぬ故。」と、

 

反唐の立ち言いをしつつも、言外に唐の圧力を匂わせた。

 

ウィジャ王はその二重の意味を含む様な声明に腹を立てたが、

 

不気味な目つきで睨み返すのみで、しばし言葉を発しなかった。

 

宮内の空気が緊迫してくると金春秋は慌てて、

 

「王様!」と、大きな声を震わせ沈黙を割った。

 

「長旅の疲れが出てしまい、どうかこれで下がらせて頂きたいと思います。王様のお言葉を有難く頂戴し、和国でゆっくりと体を休めさせて頂きとうございます。」と、

 

遜って追従姿勢を取り、おどおどと引き下がっていった。

 

金春秋は金ユシンの様な気骨や武勇はないが、それだけに身を返すのは早い。

 

迎賓館に戻った金春秋は、仕方なくウィジャ王の要求に従って和国へ滞在することにした。

 

しかし、和国に滞在する我が身への不安は消えない。和国に着き、港で襲撃してきたのは、ウィジャ王に不満を持つ勢力の手の者であろうかと推察された。新羅を服属させ、ウイジャ王が日本列島と朝鮮半島に「覇」を唱えるのをなんとかして阻止したいと思う輩には、新羅の金春秋の来和を喜ばない過激な者もいた。

 

不安に慄く金春秋は更に疑心暗鬼になり、港で襲撃されたのはイリの自作自演の襲撃事件ではないかとも疑い始めた。もちろん、イリはその様な手の込んだことなどする訳もなく、「助ける」と約束すれば助けるし、「助けない」と決めれば堂々と正面から斬りかかるはずである。

 

一方、ウィジャ王はこれで体面は立ち、(たとえ新羅の二重外交であろうが)表面的には新羅を従わせたことになり、金春秋の来和を喜び、高向玄里らの手柄を称賛した。

 

そして、迎賓館の金春秋のもとへ高向玄里を使わし、更に厳命を伝える。

 

 

「金春秋は和国に留まり、帰国するには許可を得なければならない。新羅の王は、唐の冊封でなく和国王の承認を受け、以て百済・和国は新羅を侵すことなく和平の証とする」

 

喜色満面、

 

ウィジャ王は、和韓諸国の覇権を握ったつもりであり、もはや、東アジアの覇者気取りである。

 

金春秋はこれには堪らず、高向玄里に助力を願い、なんとか大海の里から新羅へ向けて脱出させて貰えるようにと救援を求めた。

 

すると、この頃より和国内では、ウィジャ王が、

 

(まさか、、)と、

 

耳を疑いたくなる様な噂が流れ始めた。

 

 

「唐が百済に攻めてくる」という。

 

ウィジャ王は愕然とし、すぐに噂の出所を探るよう命じたが、穏やかではいられなかった。

 

 

ウィジャ王は、百済・和国を領有し、高句麗の息子に唐と戦わせておいて、自分は和韓統一の野望を果たそうとしている。新羅をも従わせようとしている今、太宗皇帝が、高句麗より百済を先にと矛先を変えてくることは充分あり得ることの様に思えた。

 

任那を切り取っただけでなく、唐の臣国である新羅ごと従わせようとするウィジャ王のことを太宗皇帝が捨てて置くとも思えず、

 

任那を餌に金一族を使って、新羅を我が物にしようとする企みを躊躇せざるを得なかった。

 

 

 

 

【唐国・李勣将軍】

高句麗では、攻め込んだ李勣将軍が南蘇城を攻め落とし、その先の木底城を攻めていた。

 

 

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李勣将軍

 

李勣将軍は、唐の最強軍団から選び抜かれた精鋭を率い、少数精鋭ならではの機動力に優れた局地戦を展開していく。それは、碁石で地目を一手一手囲んでいく様に、難航不落の城だけを孤立させ、周囲の弱い所から徐々に攻め落とし、唐の陣地で囲んでいくという戦略だった。高句麗は焦土作戦で、隋軍を孤立させたことがあったが、まるでその逆をいく様な手である。

 

平壌城にいたイリは、兵を率いてこれを迎撃しに向かった。

 

李勣将軍とイリはここで対峙するが、李勣将軍の動きは早く、イリが着く頃には既に木底城を攻め落とした後で、激突を避け直ぐに兵を引き挙げていったので、イリは、平壌へ戻っていった。

 

 

李勣は敵わず、

 

「イリを破ることができず、すぐに撤退した」、、

 

ように見えなくなかったが、攻め際も引き際もあまりに鮮やかであった。

 

城の攻略に、李勣が率いたのはたった三千人の精鋭兵で、奥地にあり戦慣れしていない両城を錐のような鋭さで襲撃しあっという間に攻め落としてしまった。

そして、他の城やイリの軍など強敵とは当たらずに、疾風のように去っていった。

 

先年の大戦とはうって変った小規模戦であったが、その極端に変貌した戦いぶりに高句麗の者は驚きを感じていた。

 

「唐軍は何故、こんなに山岳戦がうまいのだ。まるで以前からその城にいるようではないか、」と、

 

高句麗軍を呆れさせたほどだった。

 

 

647年7月、

 

二城を落とし、早々に唐へ引き上げてきた李勣将軍は、太宗皇帝に戦果を報告した。そして、少ない精鋭兵で少しづつ戦果をつみあげてく戦略に確かな手応えがあったことを上奏する。

 

李勣将軍の兵はたんなる精鋭兵というより、特殊強襲部隊、所謂『忍者部隊』と言った方が良いかもしれない。錐を刺すように侵入して、大混乱を起こし、風のように去る。一度、城を手にいれれば、煙幕をはり丸太を落とし火矢を浴びせ一切敵を近づけることがない。

 

 

「私はその昔、青雲の志を立て瓦崗寨という砦に立て籠もり隋軍と戦い撃ち破ったことがありましたので、高句麗の長白山脈の様な山岳戦の防衛は逆に得意でした。さればこそ、やはりここは大軍で攻めるに能わず、少数で少なく攻めやすい所から少しづつ切り崩していくしかないと思います。」

 

「山城は大軍で責めることができない上、大軍になればなるほど移動が困難となります。のろのろと進軍してくる敵に上から大木や岩石を落し、挙句の果てには峡谷や隘路の入り口と出口を塞ぎ火矢をかけ、敵は面白い様にみんな焼け死んでいきます。逆にこちらが攻める時は本当に少数の方が有利です。切り立つがけや、切通しなど、見た目の城は一つですが敵の防衛拠点はそこら中にあります。それを見極め走り抜け、こちらは獣道など見えない道を探して敵の裏をかき、一点に集中し錐のように差し込んで責めるのです」

 

、、「平地のように面で戦うのではなく、山岳戦は点と線だけで戦うというのだな。」

 

「さようでございます。しかし、こちらが線になって兵站が伸びると、たちまち高句麗の連中は山城から討って出てきます。逆に、高句麗の山城は線上に連続的に築かれていて戦略的な配置になっていますから、この線をたち切っていくしかありません。」

 

 

「そして、堅固な城は落ちないからといってむきになって攻めてはなりません。その城を取り囲むように周りの拠点をどんどん切り崩して行って孤立させるのです。その昔、漢の高祖劉邦でさえ強すぎる項羽には敵いませんでした。しかし、項羽の周囲りだけを切り崩して行って孤立させ四面楚歌に追い込み、最終的には項羽を射ち取りました。周りの奴らから殲滅していくのは時間がかかりますが、このやり方の方が確実かと思います。」

 

「そして、この場合の周りの奴らとは、新羅の者共が言う様に百済も含めた方が良いかもしれません。何卒、御一考願います。」

 

「・・・・」 太宗皇帝はしばらく無言でいた。

 

「百済も含め、」との、李勣の最後の言葉を考えている。

 

李勣は更に続け、

 

「陸戦は大軍で攻めるに能わず。天下の『壮』の様な険阻な千里の長城は、少数精鋭で機動力を活かして弱いところから刈り取るとして、一方で、海軍を増強し、制海権を握り、兵食料の輸送と確保を進めるべきです。」と

 

海軍増強を提案した。

 

「高句麗は長白山脈が横たわることによって、大陸から切り離された海洋国の如き国であれば、海に明るい者を用いて制海権を奪い海岸線から攻めとっていくのがよろしかろうと、、」

 

 

太宗皇帝は(海洋国の如きとは)との言い回しに呆れ、

 

「なるほど」と笑う、、

 

が、太宗皇帝は、なおも無言で考えこんでいた。

 

(李勣将軍は、万が一のことがあれば脅威となる)

 

 

太宗皇帝は、李勣将軍の懸案よりも、李勣将軍の自身の優れた洞察力や戦闘力に脅威を感じてしまっていた。

 

 

李勣将軍は隋末の反乱時、瓦崗寨で戦っていた頃も首領を凌ぎ軍を動かしていたが首領にとって代わろうとすることはせず、また瓦崗寨に魏公・李密が逃げてきた時も李密を立てて首領とし、李密が戦いの末唐に下るまで李密に従って戦い、共に唐に帰順してきた。

 

戦に強くとも、力任せに軍閥化しなかった勇者である。

 

太宗皇帝もその忠義心を認めて信頼してきた。しかし、

 

(李勣将軍は過ぎている)

 

忠義心だけでなく、民に対する心づかい、侠義心というよりも王者の君徳の様な慈愛も、李勣将軍は持ち合わせていることを太宗はしっている。

 

年老いて、自分の寿命が長くないことを悟り、太宗皇帝は李勣将軍の才を怖れはじめていた。

 

 

(李勣将軍は朕には忠義を尽くして従っているが、皇太子李治にも同様に忠誠を誓うだろうか、、)と、

 

李勣を太子府の最高責任者としながらもまだ、自分の死後の不安を払拭することはできなかった。危惧した太宗皇帝は、李勣を試すことにする。

 

突然、李勣を呼び出し

 

「畳州都督へ就け」と命じて、地方へ左遷した。

 

太宗は太子李治に対し、

 

「もし李勣がこの左遷に不満を持ち、任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へと素直に赴くようであれば、お前が即位した後に中央に呼び戻してやれ。左遷者を登用する事は大恩であり、それにより恩に感じてお前に対して忠誠を尽くしてくれるだろう。」と言った。

 

李勣は太宗の疑いを察知して、この詔勅が出た後、家にも帰らずにその足で任地へと赴いていった。

 

後に、李治が即位すると李勣は直ぐに呼び戻され、宰相となった。

 

 

 

 

【イリ誕生秘話】

新羅は再度、唐へ使節を派遣した。表面上は冊封の礼使としてだが、もう一度百済への出兵を請う使節だった。

 

金春秋が、自ら人質となって和国を押さえている間に、なんとかして唐軍に動いて貰わなければならない。

 

新羅は、暦を唐の暦にし、元号を太和に改元するなど、更に深く唐への臣従の意をあらわしたが、唐の太宗皇帝の戦略には、新羅がどんなに請願してこようとも、百済攻めの選択肢はない。

 

勿論、和国との二面外交であろうことも伺え、新羅がへつらってきたところで、太宗皇帝はまだその出方を見据えていた。

 

調度この頃、李蹟とは別に高句麗に侵攻し南側を攻めていた唐軍、牛進達将軍(ウジン)が、遼東半島南の石城を攻め、ついで積利城を攻めとり凱旋してきた。

 

高句麗の表面を刈り取ったようなもので、決して大きな戦果ではないが、太宗皇帝はウジンの報告をきくと、李蹟将軍の勧める少数精鋭で枝葉を刈り取っていくような戦略に確信を持ち、李蹟の懸案を入れて海軍の増強にかかることにした。

 

軍船350艘の造船を命じて、新羅使節には

 

「共に高句麗攻めに参じろ」

と、命じる。

 

仕方なく、新羅の礼使らは、唐の百済出兵懇願をを諦め大人しく新羅へと帰国していった。

 

唐の援助が得られない事は更に決定的となり、独力で和国から金春秋を脱出させなければならなくなった。

 

困った金ユシンらは、いよいよ救援をイリに頼む。

 

唐軍の牛進達将軍(ウジン)も撤退した後であり、イリは後顧の憂いなく平壌から和国へと救出に向かった。

 

相変わらず、三国を好き勝手に出入りする。頃良く季節風も吹きはじめていた。

 

 

 

 

イリは和国に渡ると父・高向玄里を密かに尋ねた。

 

金春秋を入朝させるという手柄をたてた高向玄里だが、イリの激しい豪気の前で、高向はやや委縮している。老獪な政治家も老いはじめていた。

 

イリは挨拶などせずに、

 

おもむろに剣を抜き、母のことを問う。

 

「宝妃は、母ではないと言った。では、母は誰なのだ?」

 

高向玄里はたじろぎもせずに、

 

「父に刃を向けるのか」と、

 

視線だけをイリに向ける。

 

「お前は吾の父か。父というほどのことが記憶にはない。勝手に父親と名乗っているだけの男だろう」

 

とたたみかける。

 

「お前が父だと言うのならば、問う! 何故、俺は産まれた。俺の母親は誰なのだ」

 

高向は眉を少し動かし力なく答える。

 

「もう昔しのことだ。今更知らなくともよいこと。」

「ふざけるな! 牛や馬でも、母がいて、自分の母を知っている。知らなく良いはずがない」と怒気を放つイリ。

 

一瞬、イリの目を見据えた後、

 

高向は短い溜息をついて話し出した。

 

「母は、お前を産んですぐに亡くなった、その時に近くに居たのが宝妃であり、亡くなった妻に代わりお前の面倒をみて貰ったのだ。」

 

すると、「お前の妻は母と、もう一人宝妃だったということか」

 

「そうだ、お前の母は長安の門閥貴族の娘だった。私達が和国から留学生として派遣され隋の文化を学んでいた頃に知り合った。しかし隋が滅んでしまい唐の支配となると、私達留学生は拘留されてしまった。彼女の一族らは関隴集団という門閥勢力の中では傍系だったが、李淵の起兵に協力した武将と繋がり、唐建国に役立った存在であり、そんな私達を助けだして唐の世で生きる機会を与えてくれたのだった。その様な縁で私は彼女と頻回に会うようになり結ばれた。」

 

「私は彼女のおかげで、唐の実力者・長孫無忌氏とも知り合うことができて、やがて唐の極東政策に関わるようになり、高句麗の大臣になる為に唐を離れ、彼女と共に高句麗へと向かった。高句麗では榮耀王が没し、唐の擁立した栄留王が即位したばかりで、まだ政情は不安だった為、私は暫くの間政庁を収束させる為に必死だった。彼女はそんな時にお前を身ごもった、しかしその後、和国の上宮法王の暗殺で私は和国へ向かわなければならなかった。逆に私たちは、常に反唐派勢力から暗殺される危険があった為、私は身ごもった妻をそのまま高句麗に置いてゆく訳にはゆかずに共に和国へ向かうことにしたのだ。そして、旅立ちの日、港でお前を産み死んだのだ。」

 

イリは暫く、黙っていた。

 

自分を生んでくれた母に想いをたむけて、イリが心静かに祈っていると、不思議とどこからともなく香の馨りが流れてきた。

 

 

高向玄里は、イリの黙祷が終わるのをゆっくりと待って、金春秋がイリの息子法敏の面倒をみている様子を伝えた。

 

それを聞いたイリは、今後も息子・法敏(ボムミン)のことを頼みたいと言い、金春秋を必ず無事に新羅に脱出させることを約束した。そして、剣を収めて立ち去ろうとしたが、ふと、立ち止まり、

 

振り向きざまにもう一度剣を抜いた、、

 

 

 

「迎賓館の隠し通路があるはずだ。教えろ!」

 

「何故、それを、、?」

 

「迎賓館を建てた頃は、まだお前が和国の外交顧問をしていたはずだ。当たり前だろう、、金春秋を助けたければ今すぐ教えろ、、」

 

高向は躊躇うことなく隠し扉と逃げ道をイリに教えると、イリはその場を立った。

 

背を向けて歩き出したまま、

 

「吾が母の姓はなんと言う?」と最後に問うた。

 

 

 

「張氏、、」

 

 

内心、イリはもう高向の事を父とは思わなくなってきた。

 

時が経つにつれて、イリの風貌と体躯は高向のそれとはみるみる違ってきて、誰が見ても「親子」とは思わないほどかけ離れたものになってきている。高向に会う度に、イリはそれを感じて、

 

ホトトギスが、卵を別の鳥に託すように、

 

(吾は預けられたのか、、)と、

 

思うようになっていた。

 

それだけに、母のことが分かり、張氏という氏姓が確かにあったということだけでも有難たかった。

 

 

 

 

その後、

 

イリは全力をあげて、金春秋の救出に臨んだ。イリの配下、諜義府の間諜は和国に広がり、迎賓館の中にも手引きする者がいたので、イリは迎賓館に行き金春秋と会った。和国で身を守ることと無事に新羅に戻す手助けはするが、

 

「必ず法敏を後継者にするように」と金春秋に強く迫った。

 

金春秋は、是非もなくこれを受け入れ、

 

「必ず」と約束しイリとの脱出計画を図った。

 

イリは、金春秋に風邪の様な症状になる薬草を渡して、

 

「これで、病を装い伏せっているように」と、指示した。

 

金春秋は訝しんで、まず侍従に試してみた。汗が大量に出て発熱したよう見えたが、二日もすると汗はひき何事もなかったかの様になった。

翌日、金春秋が病に倒れたとの知らせがウィジャ王に伝えられ、薬師と見舞いが迎賓館にやってきた。金春秋もこれで暫くは和国滞在を続けるだろうと判断したウィジャ王は、ひとまず監視を緩めた。

 

その間、イリは大和から大海の里までの逃走路を確保し、また高向を通じ宝妃を動かして、ウィジャ王の意識を他へ向けた。

 

 

 

準備を終えると、イリは密かに和国の義弟に命じ、また北方の蝦夷兵の徴兵を行った。

 

以前、高向玄里が唐の手先として来和した折り、阿部氏は「親唐」の時勢に乗って、高向へ姫を嫁がせていた。そして高向との間には一男一女が生まれた。これより代々、和国の高向の子孫は「阿部姓」を名乗るようになっていく。

 

イリの義弟は阿部比羅夫(比羅夫=外交・外征を行うもの)といい、この頃は東北地方への備えである越国渟足柵を任されていた。イリは、この阿部比羅夫を越国渟足柵から北方へ使わして、高句麗の援軍集めに行かせ、集めた兵を越の国から高句麗の防衛戦線へと送りこませた。

 

イリはまだ面と向かって、ウィジャ王に盾突くことはないが、陰ではやりたい放題である。

 

もともと越国以東の裏日本、特に信濃(長野県)は、エフタルが渡来する以前から高句麗から日本列島に渡海した時の上陸後の拠点である。

 

高句麗・越国の航路には、既に数百年の歴史があり、イリが度々和国と高句麗を往来できるのもこの為である。

 

古くから高句麗人が多く住んでいて、大室(長野県長野市)には数百年前からの高句麗式古墳が並び、まるで高句麗の分国のようだった。

 

 

信濃は和国であって和国ではない。

 

 

更に、陸奥以北にはエフタル族の残党が住み、和国の者どもらは容易に北方に近づこうとはしない。

 

イリには、部族と呼べるほどの帰属集団がなかった為、エフタル族であるとか、和族であるとか、部族としての自意識がなく、その点、エフタル族にも何ら垣根意識は持っていない。

 

陸奥以北のエフタル族に、

 

「汝は何処の民であるか?」と問われれば、

 

 

「アジア人」と、だけ答えるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

金春秋は迎賓館でしばらく寝込んでいたが、

 

 

ある朝、

 

 

「金春秋が居なくなった!」

 

迎賓館の者が気付いた頃には跡形もない。

 

 

「王様!金春秋の姿が見えません!」

 

ウィジャ王が知ることになったのは、金春秋が無事に逃げた後で、いつ居なくなったのかさえ誰も分からなかった。すぐに追っ手を出すが、

 

この裏切りに激怒したウィジャ王は、

 

百済の義直将軍(ウィジェク)に

 

「いささかも容赦するな!」と、命じ

 

新羅に出撃させた。

 

 

 

647年10月、

 

束の間の和平は終わり、百済の義直将軍と、新羅の金ユシンが激突する。

 

 




あとがき…

『中国王朝も日本と朝鮮半島の関係を封印しようとしていた?』


全くの余談ですが、、


大陸側でも朝鮮半島と日本列島の 関係があったことが、好ましくはなかったというエピソードの一つに、李氏朝鮮の建国の逸話があるらしい。

1392年、

日本では足利尊氏が室町幕府を開き、中国では元が滅び明が建国された頃、

朝鮮半島も新しい時代へと変わった。

後三国時代、高句麗・新羅・百済三国に分裂していた朝鮮半島を李氏が統一して、李氏【朝鮮】が建国された。

この時、中国の冊封を受けた李氏が国号として願い出たのは

【朝鮮】と【和寧】

の二つだった。

しかし、【和寧】という国号は和国との繋がりを想起させる為宜しからずと却下されてしまい、【朝鮮】という国号になったという。

李氏朝鮮はその後、日清戦争で日本が勝利し大日本帝国に併合されるまで600年程続いた朝鮮半島最後の王朝となった。


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第7章 【反唐】イリ 西アジア遊説へ

西暦647年~648年
金春秋の和国出奔を知ったウィジャ王は怒り百済から新羅へ攻め入らせる。しかしピダムの乱後の金ユシン率いる新羅軍は強く、百済は今迄の様に勝利することが出来ず大敗を喫した。

イリは唐高句麗戦の処理の為、自ら唐へ謝罪に赴くいたが幽閉されそうになり唐国から西アジアへ脱出する。その後西アジア諸国を巡り反唐を説いて周り反唐同盟となる国を探しにいく。


第1話 新羅 百済を撃退する
第2話 イリ 唐へ向かう
第3話 イリ 西アジア遊説
第4話 唐 三度の高句麗侵攻



【新羅 百済を撃退する】

 

647年10月、ウィジャ王より「容赦なく攻めよ」と厳命され百済から新羅へ攻めこんだ義直将軍は、金ユシンの激しい反撃に遭い苦戦していた。

 

国境地帯の3つの城を攻めたが、落ちない。

 

新羅が幾度も請願した百済攻めは太宗皇帝に聞き入れられず、唐の新羅救援は期待できない、、

 

「新羅だけで百済に勝利しなければならない」という現実が、新羅軍に重くのしかかり

 

(何が何でも負けられぬ)、、と

 

金ユシンらは死力を尽くして戦っていた。

 

 

【挿絵表示】

金ユシン

 

弱すぎれば、唐に救う価値もないと切り捨てられるか、内政に介入されるだけであり、絶対負けは許されない局面だった。

 

新羅軍の戦いぶりは激しく、百済軍はいつもの様に勝利をあげることができなかった。

 

豪胆機敏な金ユシンの用兵に加え、新羅のファラン達の凄壮な襲撃に混戦乱闘を極め、百済の義直将軍は危うい思いをした。

 

義直将軍も、ウィジャ王に

 

「容赦なく攻めよ!」と、

 

厳命されてる以上、容易に退く訳にはいかなかった。

 

決着のつかぬ激戦に、新羅軍も次第に気力は尽きかけてきた。

 

金ユシンは起死回生の打開を図り、部下の勇将・丕寧子将軍とその子・挙真を出撃させ、全軍の士気を託した。

 

丕寧子将軍と挙真親子は、金ユシンの命に応え、新羅烈士の戦ぶりを見よとばかりに、一目散に馬を走らせる。

 

「殺生は時を選べ!かかる時は今こそ!」

 

と、叫び敵陣に突撃した。

 

その瞬間に痛みも命も、全て捨て、

 

我が身が傷つくことなど顧みず、満身創痍のままに敵の剣戟を突破していった。

 

丕寧子将軍と挙真親子は、命が尽きるまで戦い抜き、新羅烈士の志魂を両軍に轟かせ散っていった。

 

あまりの壮烈さに百済軍は蒼白となり、新羅軍はこれをみて激しく奮い立った。全軍が決死の覚悟で突撃して、夕日が沈む頃には百済軍を撃退し、見事に百済義直将軍を大敗させた。

 

悽愴な戦を乗り越えて、新羅軍は一つとなった。

 

今まで、新羅の国境付近の地方部族らは戦うよりも旗色を見て、百済についた方が有利とみれば百済に降伏し、私兵を率いたまま本領安堵で、百済側の部族になってしまう者が多かった。

 

この為、金ユシンらは、有力部族らの私兵を率いる時は、常に部族長らの封じこめをしてから国境の戦いに望まなければならないという内憂外患の状態が続いてきた。

 

しかし今、ようやくこうしたことがなくなり、金ユシンの武力が全力で国外へ向けて発揮されるに至り、金ユシンの勢力伸長は群を抜いた。

 

 

新羅の真徳女王は金ユシン・金春秋らに擁立された傀儡(あやつり人形)であり、実際は金春秋が王の様なものである。しかし、その金春秋も金ユシンによって推された立場で、新羅の陰の力は金ユシンに依るところが大きかった。

 

金ユシンは、新羅に滅ぼされた伽耶国(任那地方)の王の子孫で、高句麗の宰相イリとも結び、なんとか伽耶王の血を引く者を新羅の王位につけようと望み続けている。

 

イリと金ユシンの妹鏡宝姫の間に生まれた法敏は伽耶の建国王~13代目の子孫にあたり、伽耶王の血をひく「法敏」を新羅の王につかせることはイリと共に、金ユシンと金一族の悲願で、

 

「法敏を後継者に」と、

 

イリと金ユシンらに迫られていた金春秋は、彼らからの王位擁立を受けることと引替えならばと、長子・金仁門を廃嫡し、この頃は正式に養子の法敏を後継者にしていた。

 

 

【挿絵表示】

伽耶建国王・金スロ

 

 

この年、和国では、上宮法王の片腕として日本列島を感化し民の為に生きてきた秦河勝が82才でひっそりと亡くなった。

 

無常の風が吹き、晩年は播州赤穂の地で一人隠せいして、安部連らが行っている灌漑工事などを見守り、民の行く末を最後まで按じていた。

 

 

 

 

 

【イリ入唐】

百済と新羅が死闘を繰り広げていた頃、唐では海軍の増強が急展開で進められていた。

 

唐はいよいよ「海」より高句麗を攻め落としにかかる計画である。

 

高句麗の遼東半島の対岸にある萊州(中国山東省)に戦船を集結させ、渤海を廟島群島づたいに遼東へ向かうのでなく、黄海を渡って直接高句麗の首都平壌に攻め入ることも可能と思われた。

 

高句麗では、沿海州から和国まで兵を募り大急ぎで前線へと送りこんでいたが、まだ防備は整ってない。

 

新羅の金ユシンも危機感が高まった。

 

(今、唐に高句麗を攻め滅ぼされてしまっては新羅の未来もない。なんとか新羅が力をつけるまでは、、)

 

と、憂慮する。

 

朝鮮半島と中国の接するところ高句麗が強国であったからこそ、半島は隋や唐からの侵略を免れ支配されることはなかった。

 

その高句麗が唐の支配になってしまえば、新羅や百済など風前の灯火である。

 

新羅は、高句麗という強国があってこそ、敵対する唐の同盟国でいられるのだ。今は味方でも、もしも高句麗が無くなれば唐は野心を剥き出しにし、

 

(すぐにでも新羅は併呑されるに違いない)

 

と、金ユシンは危惧していた。

 

そうした点では、高句麗の反唐と新羅の親唐は裏表の関係の様なものであり、いずれも国の命運がかかっていた。

 

 

「イリ自身が唐に謝罪しに赴くしかない。それで一時でも、唐の攻撃を緩めるしかない。」

 

 

金ユシンはそう考えた。

 

 

それぐらいで、唐の野望が無くなるはずも無かったが、何もせずにいるよりは、謝罪した方が良い。

 

それも先の戦の時の様な「美人二人を献上」などというたわけた謝罪ではなく、

 

「今度こそ、イリ自身が誠実に謝罪しなければおさまりはつかないだろう」

 

と、みている。

 

 

唐の進撃をなんとか少しでも遅らせる為、イリに謝罪の使いに行くよう促した。

 

他の誰かではなく

 

「イリ自身が唐へ謝罪へ行け」と

 

イリの入唐を催促する。

 

今では若壮のイリとは違い立ち振る舞いも身についていたが、いざ入唐となればおそらく息を詰まらせ、その場で「反唐!」と、吐き出したくなるかもしれない。

 

 

金ユシンはイリに手紙をしたためた

 

今、問う

 

「天下に剣を振るうと誓ったのは誠であろう。 漢の高祖劉邦、金春秋でさえ敵地に乗り込み、身の潔さを示して死地より戻った。その度胸もなく天下が望めるであろうか。」

 

「王の血統でなければ王位につけない、貴種でない者が実力だけでは決して王にはなれないという継承制度を嫌うならば、その心意気を見せてみよ。漢の高祖劉邦が、浩門の会に赴いたような気概で唐へ赴き謝罪してこい。」

 

 

イリは、常々、意識していたのは漢の高祖 劉邦である。

 

秦の末期に百姓の家に生まれ、小役人になり、味方となる血族集団(部族)や一族は全くいなかったが、天下大乱に身を起こしてやがては中国皇帝にまで上りつめた。

 

「漢(おとこ)とは、この様にあるべき」と、

 

常に自分自身とその生き方を「劉邦」に重ね合わせ、乱世を生きるイリが最も近づきたいと思う憧れであった。

 

憧れていたその劉邦の「鴻門の会」や、金春秋の来和にまで話しをなぞられ、金ユシンの忌憚無い物言いにイリは自尊心に堪えた。

 

 

【「鴻門の会」紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都・咸陽郊外で会見した故事。劉邦が関中王になろうとした事に項羽が怒り、劉邦自身が項羽のもとへ赴き謝罪する必要に迫られた。項羽には敵わなかったため直接項羽の陣に赴き謝罪したが、暗殺されそうになる。しかし、劉邦は虎口を脱し無事に項羽の陣より逃げ帰った。】

 

 

深く長いため息を吐き、イリは覚悟を決めた。

 

 

唐の首都・長安はイリの母の故郷である。母の国、唐国へ一度は行ってみたいとも思った。

 

イリの祖父を探し、存命ならば会えるかもしれない。

 

敵国に堂々と陳謝に行く機会などそうあるものではなく、こうして唐に行く機会がやってきたことも何かの縁であろうと考えた。

 

しかし、イリの股肱は少ない。

 

かかる時、自分の留守を誰に任せるかは重要であり、かなう者に任せなければ、かつての蘇我氏の様に権力の座に「とって変わろう」と、野心を出しかねない。

 

 

ウィジャ王には、股肱の臣サテク鎌足(中臣鎌足)がいて、フンス、ソンチュンら忠臣が留守を支えている。

百済・和国両国の王となっても、信頼して百済総督を鎌足に任せておけるからこそ、ウィジャ王は和国を統治することができている。

 

イリには、そうした信頼をおけ尚且つ高句麗の宰相の代理を任せられるほどの者がいなかった。

 

先の大戦では、楊万春将軍やテジュンサン将軍らに高句麗防衛を任せ、自身は徴兵と山背王暗殺のため和国へ向かうことができたが、将軍らに防衛線を離れさせ朝廷の宰相の座まで任せる訳にはいかない。

 

唐は遠く、容易に戻ることは困難であり、結局悩んだ末に父高向がそうした様に、イリもまだ若い息子達に任せるしかなかった。

 

金ユシンはイリの立場など考えもしないが、実のところイリの息子を巡り勢力が割れ、力関係も微妙に変化が生じはじめていた為、高句麗を任せるには不安が残る。

 

留守中、「新羅との戦は避け、決して高句麗から討って出てはならない」と、厳命した。

 

唐に謝罪している最中に、唐の臣国である新羅を攻めるなどしたら、イリは無事では済まないだろう。

 

 

イリは太宗皇帝へ謝罪するため直接、入唐する決心をしたが、ただ、無策で乗り込むということはしなかった。

 

イリ自身、今まで唐に対して行ってきた仕打ちを思えば、到底許されることではなく、入唐して無事でいられるとも思えなかった。

 

入唐にあたって、イリは正式に宝蔵王の養子(元子)となり、高句麗の第二王子として唐へ向かっていった。

 

もともとイリの妻ソヨン姫は、高句麗王族である高氏の娘であったが、宝蔵王は王族のソヨン姫を養女にしてイリを王子の地位にした。

 

この数年、乱世で重ねた年輪はイリの慎重さに厚みをつけている。

 

遁甲術(忍術)を学び、趙義府を設置して以来、細作は既に父・高向を凌ぐようになっていた。

 

唐宮廷の詳細な情報を探り、知りえる限り詳しく調べる為に、既に唐には大勢の密偵を送りこんでいた。

 

そして、渡りをつけた者には莫大な賄賂まき、流言を流させた。

 

 

「唐に許しを請いにやってきた一国の王子を処刑をしてしまうことは宜しからず。その様なことをすれば他の周辺国の帰服にも影響がでる」

 

という流説を吹聴させ続けた。

 

唐は高句麗の謝罪には疑心暗鬼であったが、

 

「謝罪に来たものをここで罰してしまったら皇帝陛下の徳にならず」と、

 

何人かの者は高句麗の使者の扱いを憂いはじめた。

 

 

 

イリは、万が一の覚悟を決め死の境地へと意識を高めていた。

 

といって

 

「壮士、一度行けば再び帰らず」などと言う気も微塵もない。

 

当然、金ユシンの言うように活路を開き生きて帰るつもりでいたし、そして手ぶらで帰るつもりもなく、金ユシンの思惑とは別に服案を企み唐へむかっていった。

 

 

 

 

【挿絵表示】

長安

 

12月、

 

イリは入唐した。

 

 

イリは、およそ宰相らしからぬ屈強な武人で権威を畏れず、覇気を払う。それが今は、高句麗宰相(マリキ)イリではなく、

 

宝蔵王の第二子の「任武」と名乗り、

 

謝罪の使者として平身低頭し参向していた。

 

太宗皇帝の慧眼で任武と名乗っている者がイリであることを見抜けぬはずはなかった。が、あくまで高句麗王子として謝罪に来ている王子任武であり、その様に扱った。覚悟の上で謝罪にきた者を斬るほどの狭量な器でもなかった。

 

 

畏怖堂々とした壮観なイリの風貌を、唐の宮廷の者達は注視したていた。千軍万馬、唐の太宗皇帝の前でも怯みもしないが、その前に膝を屈している。

 

目の奥にだけ異様な光を点じていた。

 

壮(おとこざかり)の魁塁の士であり、

 

「髭面の風貌が猛々しく、体躯は逞しく、壮(おとこざかり)で、堂々としていた。」と、

 

その居姿が評された。

 

 

【挿絵表示】

任武王子イリ

 

太宗皇帝は、高句麗王子任武の謝罪を容れ許し、唐高句麗戦は形だけは終戦となった。

 

 

高句麗王第二王子として、乃こう出でずんばと自らが謝罪に赴いたイリの行動は終戦という形にはなったが、

 

高句麗が謝罪したことによって、

 

「唐の勝利で決着した」という唐の体面を施す為の形式的な終戦がなされただけであり、

 

真に和平という戦後処理がなされた訳ではない。

 

すぐにでも次の戦に備えなければならなかった。

 

 

宮廷では、他国の王子たちと同様に留学で滞在させ、任武を唐に監禁してしまうべきだとの声があがっていた。

 

 

 

 

【イリ 西アジア遊説】

翌月、648年の新年が明け高句麗から唐へ、年賀使節がやってきた。

 

そしてこの年、和国には高句麗・新羅からの年賀の遣いがなかった。

 

ウィジャ王は二国の気配をいぶかしみ翌2月に、動静を探るため、半島に学問僧の使いを送って様子を伺わせた。

 

イリが高句麗からいなくなったことで、新羅と高句麗の緊張は高まり、イリの東部家門の実権を狙うヨンテスや、他の部族の首長らの暗躍が始まっていた。

 

 

イリがいないとの噂は、

 

「唐に人質としてとらえれたのでは?」

との見方が強かった。

 

 

しかし、唐への謝罪の後イリは行方をくらましていた。

 

高句麗からの年賀の使節らは入唐し改めて謝罪をしたが、太宗皇帝は任武(イリ)の出奔を烈火の如く怒っていてこれを受けず、すぐさま高句麗出征を号令した。

 

大将軍・薛万徹を青丘道行軍大総管とし、将軍・裴行方を副官として、三万余の兵と楼船戦艦を率い、莱州から海を渡って高麗を討つよう、詔が降りる。

 

東方の高句麗への出征であり、東へ行き来する者は詮議がことのほか厳しかったが、イリは逆に西方へと向かっていた。

 

西に騎首を向け馬腹を蹴り、時に砂嵐を抜け、野に伏し、雪山を越え、三蔵法師玄奘の西遊記さながらの西行を敢行する。

 

 

【挿絵表示】

 

 

20年前、

三蔵法師が脱国した頃に存在していたオアシス都市の高昌国は640年に唐に滅ぼされ既になく、唐の支配は西域(シロクロード)の深くまで及んでいた。正月の朝貢の使節団や貢納品を運ぶ隊商の往来が多く、イリはこの一団の帰路に紛れ込み西方への脱出を試みた。イリの風貌や体躯は西域の人々に溶けこんだ。高句麗に導師を招聘し、遁甲術(忍術)を学んで修行を積んできた成果もこの時に役に立った。

 

 

イリは唐から西へ抜けて、中央アジアや西アジアの国々を周り反唐の連携を謀ろうとしていた。

 

先の戦では、周辺国に使者を送り「反唐」の檄を飛ばしただけだったが、いよいよ唐との決戦を前にしてイリは自ら遊説する。

 

クチャ、石国「タスケンド」、活国「サマルカンド」、トカラ、スイヤブと中央アジアから西アジアの国々へ転々と周り、同行させていた通訳のペルシア人と共に高句麗と反唐の兵を挙げる国を求めていった。

 

 

西アジア、

 

ペルシア湾を臨むこのオリエントの地は、世界最古の文明シュメールに始まり、バビロニア、古代ペルシア、パルティア、そしてササン朝ペルシアと勃興してきたが、急激に勢力を伸ばしてきたイスラム教のアラブにとって代わられてしまい、アジア独特のオリエントの歴史を今、終えようとしていた。

 

西アジアで生まれた、世界最古の文明シュメールは、世界ではじめて文字を発明し、60進法12進法を発明し、暦を作った高度な文明である。王家の紋章には十六紋を使い、法律と議院を作り、都市国家を築き、数千年を経た世界でも受け継がれるほどの文明の基礎を残し、滅んでしまったが、一部のシュメール人達の末裔は東アジアへ移っていったという。

 

 

東アジアと西アジア、そして北アジア、常に中国を囲む様に敵対する周辺の国々の連携は古くから続いてきた。

 

特に西アジアのパルティアは、高句麗とは縁故浅からぬ国であり、高句麗の四十代目の王「広開土王」タムドクは、パルティア出身の王族である。

東アジアでは、パルティアの事を「安息国」と呼び、

高句麗の安蔵王や安原王なども安息国の系譜の王族だった。

 

隋軍100万を跳ね返し、唐の侵攻にも負けず、唐の太宗皇帝をも負傷させた高句麗の名は、アジア天下で知らぬ者はいない。

 

その東アジアの雄「高句麗」の宰相イリが乗り込んでくれば、どの国も丁重に迎える。が、唐の手前、イリのことを国賓として迎える訳にもいかなかった。

 

皆、イリを迎えつつ対応に苦心をしていた。イリもその雰囲気を肌で感じ、

 

(皆、かほどに唐を恐れるものか、、)

 

と、唐の鄒勢を目の当たりにしながらも、

 

逆に心中では、反唐の熱が高まる。

 

 

遊説では、

 

「ペルシアの王子であり、西突厥の偉大なカーンにして日出ル国の王、達頭カーンの反唐の志を嗣ぐ。」と、

 

上宮法王について東アジアにまでやって来ていたペルシアの職人らと共に、ペルシア出身の上宮法王の志を継ぐことを旗頭に上げて反唐を語った。

 

唐の北西にある西突厥は上宮法王の治めた国である。

 

上宮法王(達頭カーン)が東方に去った後、西突厥で勢力を伸ばしていた、上宮法王の孫たちシャキ・カーンやジペル・カーンは既になく、玄孫のガロ(上宮法王の孫の孫)の時代になっていたが、西方では上宮法王は今も崇められている。

 

上宮王家の誇りは失われることなく、ガロは唐に反乱を起こし戦いを続けていた。

 

唐と戦う中央アジアの国にとって、西突厥や高句麗の反唐同盟は心強い味方となるはずであった。

 

 

「吾は高句麗の宰相イリ。この地に、吾が高句麗と共に唐と戦う同志を探しにきた。」

 

「偉大なるシュメールの末裔たち。天下を唐のものにしてしまってはいけない。吾らと共に唐を討ち天下蒼生を守るべきであろう。」

 

イリは中央アジア~西アジアにかけて、北西アジアのウイグル族を始め、周辺の国々を周り縦横家の様に熱誠を込めて反唐を説いてまわった。

 

時には、戦乱に遭遇しクチャの大臣と共に反唐の剣をふるうこともあった。

 

大国唐は一国で戦うには強大すぎる。

 

唐の侵略を拒む国々にとって、個々に撃破されてしまう事態は避けなければならず、各国が連盟して一斉に唐と戦うしかないと言うことは分かっていた。

 

中央アジア諸国にとって唐は、連盟して戦おうにも強大すぎたが、

 

それでも尚イリは、反唐の国との間で、合従連衡を説き

 

「唐と貴国が戦う時、高句麗は東に兵を起こす、唐と高句麗が戦う時、貴国は西に兵を挙げる」と、

 

盟約を結んでいった。

 

 

 

しかし、実際のところイリが遭遇した中央アジア諸国の状況は、東アジアよりもかなり深刻だった。

 

クチャは唐に攻め込まれ首都は陥落してしまい、唐軍は中央アジアへ食い込んだ。

 

唐だけでなく、そこへきてイスラム教のアラブが西アジアにまで勢力を広げ東漸してきていて、残った国々は、唐とアラブの大国に挟まれ両難の苦境に陥いりはじめていた。

 

630年にイスラム教の開祖ムハマンドがメッカを占領し、633年から聖戦ジハードが開始され周辺諸国を攻め取り、

 

アジア、アフリカ、ヨーロッパ、三大陸にまたがる「大アラブ帝国」が興りはじめていた。

 

 

637年に、ペルシアはカーディシーヤの戦いでアラブに敗れ首都クテシフォン(イラクバクダット)を占領されてしまった。642年にはペルシア軍はニハーヴァンドの戦いで三倍の兵力でありながらもイスラム軍によって壊滅させられてしまい、ペルシアのヤズゲルト王は他国へ亡命していた。

 

ローマ帝国やエフタルにも滅ぼされることなく、アラビア半島のイエメンをも占領し、アラビア海貿易で繁栄したペルシアだったが、西アジアの覇権はアラブにとって替わられてしまった。

 

ペルシアが唐に帰順しようにも、唐はアラブと接触することを避け、彼らを助けようとはしない。一方で、唐は亡命してきたペルシア兵達を全て傭兵として雇い入れていたので、ペルシア軍人は戦いを諦めて東方へ逃げる者が続いた。

 

中央アジアと西アジアの国は

 

アラブと唐、二つの大国に挟まれた存亡の危機にあって、

 

東方の高句麗の様な、唐と戦う味方の存在は有難かった。

 

しかし、、アラブを背後に共に唐と戦うという状況でもなく、かといって、唐に臣従してしまえば貢納と兵役で国力は奪われていく。

 

 

 

「アラブとは、、」

 

イリは、耳馴染みの無い西アジアの大国の存在を知るにつれて、

 

「同盟の向背も、この先の存亡もわからぬ、、」

 

と、思った。

 

イリにとっては、中央アジアまでがアラブとなって直接唐の背後を脅かしてくれた方がまだ有難かったかもしれない。

 

イリが同行させていたペルシア人らは、消滅する祖国を目の前にして

 

「どうか落ちのびたペルシア王を助けて欲しい」とイリに願った。

 

西アジアを追われた王族が東アジアにまで逃げ、高句麗がこれを助けたのは過去一度や二度ではない。

 

「吾、これを捨て去れば死に到らん」と、

 

イリはペルシア王の救援を強く約束した。

 

アジアに世界最古の文明シュメールが誕生して以来4000年、アジア大陸はかつてないほどの大乱の時代を迎えていた。

 

アジア帝国を夢みる唐の太宗皇帝は、中国史上類い稀なほど版図を広げ周辺国を制し、三大陸にまたがる大アラブ帝国はアジアへと東慚してきていて、アジア大陸の覇権は大膨張している。

 

 

【挿絵表示】

 

 

アジア大陸の東の果て、古代より

 

アジアの民の亡命地だった和国も

 

もはや「 東海を渡った別天地」ではいられなかった。

 

大国の戦から逃れ、安全な地を求めるアジア北東の辺境にいた小部族達の中には、更に北東へと移動し、そのままアリューシャン列島からアラスカへと渡っていった部族もいた。

 

無くなることのない乱世の劫火に巻き込まれることを厭い、アジア大陸の人間同士の戦いから離れて、別世界へ踏破する自然との戦いを選んだ勇敢な部族達である。

 

極寒の大移動で凍傷になり手足や命を失う者も多かったが、生き延びた者達は北米のネイティブアメリカン部族の祖となった。

 

 

反唐の大壮図を夢に抱き、

 

アジアを抜いたイリだったが、

 

思った以上にその期待は空しくそがれた。

 

唐やアラブに国が滅ぼされてしまった国々の惨状を目の当たりにした後、イリは遊説を終えて、年老いた上宮法王の元部下だったペルシア人たちと共に南アジアへと向かっていった。

 

 

 

 

 

【唐 高句麗侵攻三度】

 

648年、1月

 

3度目の高句麗出征は開始された。

 

青丘道行軍大摠管の薛万徹は、兵三万余人及び楼船・戦艦を従えて高句麗へ出征していった。

 

薛万徹は、李靖将軍や李勣将軍らと共に、突厥や吐谷琿を討った唐きっての名将軍で、丹陽公主(太宗皇帝の妹)を妻にしていた。

 

太宗皇帝は、

 

「今、唐の名将というのは、李勣・李道宗・薛万徹しかいない。李勣と李道宗は大勝できなくても、まだ大敗したことはない。しかし薛万徹は大勝でなければ大敗と同じだ」

 

と評していたほど、戦えば必ず大勝する常勝将軍だった。

 

 

3月には、烏胡の鎮将古神感も海路から高句麗侵攻を開始した。

 

高句麗軍はこれを易山にて迎え撃つも、敗退してしまう。

 

夜になり高句麗軍は再び古神感の船に夜襲をしかけた。

 

しかし、古神感は抜かりなく伏兵を配しこれを待ち受けていて、逆に撃退されてしまった。

 

 

百済と新羅も戟を交えた。

 

新羅軍は百済へ出兵し、百済軍が反撃に出ると金ユシンは、わざと負けて撤退し百済軍を引き込む作戦に出た。

 

百済の将軍義直は、腰車城など次々と10余城を奪い取ると、勝利に酔って見事に金ユシンの罠に落ちた。

 

新羅軍を軽くみはじめた百済軍は、勝ち乗じて大軍で一気に侵攻し金ユシンが伏兵を配していた「玉門谷」まで進軍してしまい、隘路に封じ込められ、金ユシンの伏兵に襲撃され百済軍は大敗してしまった。

 

金ユシンは、この戦いで8人の百済将軍を生け捕りにする。

 

そして返す刀で、国境を越え百済へ侵攻し12の城を落とし百済兵2万人を斬り9千人を生け捕りにする勝利を上げた。

 

更に金ユシンは、8人の百済将軍捕虜と、ウィジャ王によって大耶城が攻め取られた時に殺された、城主で金春秋の娘婿の品釈と、金春秋の娘・古陀昭妃の遺骨の交換を提案し、これを取り戻した。

 

復讐に執念を燃やす金春秋は、金ユシンの勝利と遺骨を取り戻せたことに大いに感謝した。

 

6月になり、唐軍の薛万徹が高句麗の泊灼城を攻め落とすと、太宗皇帝は、いよいよ高句麗を詰めるのは今と見た。

 

一気に攻め滅ぼそうと、来年三十万の軍をもって高句麗を攻める事を臣下らに議論させた。

 

「歳月不待」

 

人間は、時間の前では平等である。どんな人間でも限られた寿命という時間の中で生きなくてはならない。高句麗攻めは反対者も多かったが、太宗皇帝は自分の命が短いことを悟り、命のあるうちに高句麗をなんとかしようと思っていた。

 

 

 

高句麗に大軍で攻め入るならば、その兵糧輸送の為の軍船を造らなければならなかったが、

 

「隋末の動乱期、剣南だけは乱がなく、隋の高句麗遠征の軍役も免れた。その為、剣南は豊かで剣南に造船を命じ大量に軍船をつくらせてはどうか、、」

 

との提言があり、

 

太宗皇帝はこれを採用した。

 

 

7月、領左右府長史強偉を剣南道へ派遣し、造船に着手した。大きいものは、長さ百尺、広さ五十尺にもなった。

 

 

戦船の出航路となる剣南から菜州へと、長江から黄河に渡る長大な水路を水先案内の使者が水行していった。

 

巫峽から江・揚を通って莱州へ向かう。

 

かつて隋の煬帝は、国中の人民を多数動員し「通済渠」という運河を造り、中国大陸を流れる大河川「黄河」と「長江」を繋いでいた。また高句麗遠征に備え永済渠という軍用運河も造っていた。

 

中国を流れる二大河川が運河で結ばれていた事で、中国奥地で造船した船を黄海まで出征させることが可能になった。

 

中国の奥地、長江千里の上流の「剣南道」で造船された戦船は、アジア最長の河を越える史上最長の進水式を待っていた。

 

 

一方、

 

これとは別に、

 

唐の南方の越州都督と務ムソウという者が、洪等州で戦船を造らせていた。

 

この戦船が造船されていた杭州湾(上海)は、東シナ海を挟んで望むのは、耽羅(済州島)である。

 

耽羅までは、難波から大宰府くらいの距離もなく、百済は目とはなの先だった。

 

 

高句麗戦の北方の黄海側でなく、

南方の東シナ海側での戦船の造船は、高句麗攻めの為のそれではなく、明らかに百済を攻める為の軍船だと思われた。この情報が百済に伝わると、

 

「唐が、百済に攻めてくる、、!」

 

と、誰もが懸念した。

 

ウィジャ王にとって、改新後の和国統治は駆虎の勢いであり、途中で止めて百済に帰国することなどあり得なかったが、

 

新羅との戦では大勢の百済兵を失ったばかりで、ここへきていよいよウィジャ王は、和国で落ち着いていられなくなってしまった。

 



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第8章 ウィジャ王 「和国撤退」百済へ

西暦648~650年
大化の改新後、不満が鬱積している両大臣、蘇我石川倉麻呂と阿部内麻呂らは、ウィジャ王から気持ちが離れ、皇太子の那珂王兄王子を和国王に擁立しようとする。これを知ったウィジャ王は激怒し両大臣を除いてしまった。

第1話 新羅宰相 金春秋 唐に行く
第2話 和国大臣 蘇我石川倉麻呂の誅殺
第3話 拘兎尽きて猟狗煮られる
第4話 太宗皇帝の死
第5話 和国 ウィジャ王 百済へ帰国する
第6話 南アジア ペルシア王子とイリ



648年9月、

 

唐の莱州から海路で高句麗に攻め入り、泊汋城を落としてきた青丘道行軍総管の薛万徹が、唐へ帰国してきた。

しかし、薛万徹は軍中で勝手気儘に掠奪をし軍事物資を私物化していたことを、副将軍の裴行方に告発されて、身分を剥奪され辺境の象州へと流罪となってしまった。

 

 

 

【新羅宰相金春秋 唐へ行く】

 

12月になり、新羅宰相の金春秋が息子金文王を伴って入唐し、この年は暮れた。

 

金春秋は和国から脱出した後に暫く身を隠していたが、戦線が落ち着くのを見計らって唐へ向かって行った。

 

新羅と百済との戦いを上奏し今度こそ

 

「百済派兵を」と、

 

金春秋自らが請願するつもりであった。

 

翌年にいよいよ高句麗を攻め落とさんとする太宗皇帝は、金春秋の入唐を喜ぶ。

 

金春秋は、

 

「新羅の官服を唐制にならい唐の礼服に改めたい」と

 

太宗皇帝に願いでた。

 

太宗皇帝は大層これを喜び、金春秋に官位と礼服を与える。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

太宗にとって極東の平定は唐帝国安定化の為には避けられない悲願であり、権力欲を満足させる為のものでもなく、たんなる野望というものでもない。

 

隋軍100万を壊滅させ、太宗皇帝が自ら攻め入っても勝利することができなかった東アジアの強国【高句麗】の壊滅なくして、真の平和などあり得ないのだ。

 

新羅が、自ら唐の制度にならい改めるとは、独立性を手放した同化政策であり、金春秋の心を込めた誠願は、東アジアに唐の分国が誕生した様な語彙で、太宗の心を和ませた。

 

唐の太宗は宴を催して、金春秋を特進させ三品以上の待遇で遇し、息子を左武衛将軍に任じて厚遇した。

 

その上でまた、金春秋は、

 

「高句麗を攻めるならば、どうか今一度、百済攻めをお考え下さい。」と、

 

哀を乞う。

 

「ウィジャ王は、百済和国の王となり高句麗には息子の宝蔵王が君臨し力を蓄えています。このまま、新羅が高句麗へ攻め入ればまたウィジャ王に百済から攻められ、手薄になった新羅の城を奪われてしまいます。」

 

金春秋の派兵の願いに、ようやく太宗皇帝は真剣に耳を傾けはじめた。

 

 

【挿絵表示】

 

唐 太宗皇帝

 

「汝の国の金ユシンの勇名は聞き及ぶ。金ユシンではどうなのだ?」

 

との、太宗皇帝の問いかけに、

 

「金ユシンに少しばかりの才があるといえ、天子の御威光を借りなければどうして百済の患いを取り除くことが出来ましょうか」と、

 

金春秋はへりくだり更に懇願する。

 

太宗皇帝の髭のチリでも払うかの様なへりくだり様に、ついには金春秋の願いは聞き届けられ、太宗皇帝は反百済同盟を結び、

 

「20万人の援軍を派兵する」と、百済を討つことを約束する。

 

金春秋は、唐の年号と暦を使うことも約束した。

 

新羅は既に律令国家になりつつはあったが、農耕民族にとって国の年号と暦を手放すことは国を手放すほどの重大なことだった。

 

同じ律令や行政区に従うのが国であるとすれば、

 

そうした律令国家や部族国家が誕生する以前の、

遥か昔の農耕民族にとっては、

 

同じ【年号と暦】に従うのが「国」であった。

 

原始の農耕社会では、

 

王や巫女は、天を讀み、日を讀み

 

種蒔きから雨降り収穫の時期までを決めて民に伝え、民は皆一体となってその暦に従って農耕を行っていて『暦を制する者』のみが国を制していた。

 

武力や律令は、自然の驚異や飢えからは守ってくれない。

 

民は皆一体となり、王や巫女の示す天の暦に従って生きていたが、原初の頃は逆に干魃にでもなると王や巫女は柴を積み焼き殺されていた。

 

和国で言う大日霊や大巫女(フミコ)の時代にはその様なことは無くなり、

 

更に時代が下って、国家が育ち、

 

人災の驚異を防衛するためにも律令や武力が必要となる時代までは『暦』だけが国の根幹であったが、農耕民族にとって暦は根幹であることに変わりはない。

 

唐の年号や暦を受け入ることは、その根幹を手放すという意味に他ならない。

 

金春秋は、国学に行かされ唐の根幹を知ることになった。釋奠儀礼と(経典の)論義を見ることを請い、これも許されさらに『晋書』を賜わった。

 

翌年、息子の金文王が宿衛として唐に留まることになり、金春秋は長安に6ヶ月滞在した後、新羅に帰国した。

 

ところが帰路、金春秋は高句麗の兵に襲われて、従者の温君解が金春秋と間違えられて殺されてしまった。

 

金春秋は無事であったが、これはイリが高句麗から居なくなったことで新羅攻めの虚実が逆転し、留守を任されていたイリの息子ナムゴン達がもたらした難である。

 

「新羅は積極的に攻めてはならぬ」

 

というイリの戒めを破る機会をつくり、新羅を討つのは今とばかりに戦端を開こうとしていると思われた。

 

 

金春秋は、新羅の真徳女王の皇太子であり、唐もそれを認めている。

 

その金春秋には金法敏、金仁問、金文王の三人の息子がいて、より親唐化を進めようとする金春秋は、文王だけでなくそれぞれ唐の朝廷へ派遣して宿衛を務めさせることにした。

 

宿衛という制度は、唐の皇帝に仕える身分で、唐の朝廷でアジア大陸中の文化を集めた先進文明を学ばせ、同時に唐に感化させるという目的を持っている。実際、唐の都・長安は金春秋親子の想像を遥かに超えた国際都市であり、見聞きするもの全てに圧倒され衝撃を受けていた。東アジアでは、殆ど目にすることのない黒人や白人達が普通にいることにも驚き、世界の奥行きを思い知らされた。

 

 

金春秋は帰国した後、唐の年号と衣冠制度を採択しアジア世界の中心文明である「唐」に同化した。

 

 

 

 

【和国 大臣蘇我石川倉麻呂誅殺】

649年、正月

 

和国では上宮法王が定めた冠位12階が、ウィジャ王によって647年に七色十三階に変更されていたが、この年、ウィジャ王は更にこれを改正して十九階にまで広げた。

 

そして、八省百官を置き新たな和国の政治機構を樹立する。

 

しかし、左右両大臣はこれには従わず、ずっと

 

新たな冠をつけずに古冠をかぶり続けていた。

 

まるで大臣の権威を剥ぎ取る様に、位冠を幾つもに細分化されてしまったことに対し、

 

「これでは位階褫奪に等しいではないか」と、

 

狡猾なウィジャ王のやり方に対し両大臣は怒り、

 

示し合わせた様に逆らっていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

冠が序列を意味するものである限り、先に新冠位に従って戴冠した方が、序列が下であるといった意地でも、互いに引けない状況であった。

 

難波の宮では、冠位改正と八省百官を置いた新機構が始動し、人々は冠を拝し新に整備された朝廷の官位に帰属していったが、その刷新された宮中にあって両大臣の反抗は宮で映えるほどに注目を集め、臣下の序列を確固たるものにしようとしているウィジャ王はこれを看過できず両大臣に対し殺意を抱くようになった。

 

蘇我石川倉麻呂の方も、ウィジャ王を廃し那珂大兄王子を次期和王に擁立するしかないと考え始めていた。

 

 

和国王座を狙う那珂大兄王子にとっては、

 

和国と百済に君臨するウィジャ王の勢力が強まるにつれ、王座が一段と遠くなってしまったように思ていえた

(本当に次期和王の座を継がせる気があるのか)

 

と、不信に思うほど、

 

ウィジャ王は那珂大兄王子のことなど眼中になく尊大になっていく。

 

 

高句麗には息子の宝蔵王がいて、新羅の金春秋までも来和させ従わせるウィジャ王に比べ、那珂大兄王子はあまりにも無力であり、味方が少ない。

 

那珂大兄王子の存在が和国で引き立てられたのは、ウィジャ王の内臣中臣鎌足の影響力によるものだ。

 

那珂大兄王子が後ろ盾と頼りにしている右大臣の蘇我石川倉麻呂さえも、中臣鎌足の仲介による縁である。

 

右大臣蘇我石川倉麻呂は、越智娘だけでなく姪娘姫も那珂大兄王子に嫁がせていたが、しかし一方では、ウィジャ王の後宮にも乳娘姫を輿入れさせている。

 

左大臣の阿倍内麻呂は、孫の有馬王子の存在を喧伝し続けているが、一方で有馬王子の祖父でありながらも、政敵の那珂大兄王子にも如才なく橘姫を嫁がせてる強か者である。

 

後継者争いが例えどちらに転ぼうとも、王室の外戚の地位を得る。

 

 

那珂大兄王子はこうした、彼らの閨閥づくりが面白くなかった。

 

かと言ってこれを拒めば自ら敵をつくることになる。

 

(吾の味方ではなく、日和見で動くか)と、思い

 

常に彼らの動きに注意していた。

 

実と見えて虚であり、陽と見せて陰であり、皆、一癖も二癖もある厄介な者共であり、虚々実々の世渡り巧者らが今日を得ている。

 

那珂大兄王子は、蘇我石川倉麻呂の姫達を嫁にして何重にも絆を深めたつもりでも、ウィジャ王の後宮にいる蘇我石川倉麻呂の娘・乳娘姫が産んだ子は政敵となってしまう。

 

逆に右大臣の蘇我石川倉麻呂にしてみれば、那珂大兄王子と左大臣阿部内麻呂の娘・橘姫の縁組みは面白くはない。

 

が、政敵である阿部内麻呂にも、那珂大兄王子の和王即位は利がある為、

 

「まずは共にウィジャ王を廃し那珂大兄王子の擁立を」と、

 

手を組むことも可能となった。

 

 

これには、ウィジャ王は最も警戒していた。

 

両大臣を「憎悪反目」の対立をさせておく企みから外れ、両大臣が共に手をとりあって那珂大兄王子を擁立するなどあってはならないことである。

 

しかし、ウィジャ王の警戒を余所に那珂大兄王子は、両大臣に「談合」を持ち掛けこれを現実のものとしようと謀った。

 

 

【挿絵表示】

那珂大兄王子

 

周囲の者は味方であろうとも、果たしてどこまで本当に自分の味方なのか虚実がわからぬことに強い苛立ちを感じていた那珂大兄皇子は、

 

(阿倍内麻呂を何とかせねばならない)と、思い

 

「橘姫を皇妃に」などと匂わせて、阿部内麻呂にも協力を呼びかけた。

 

そして、

 

両大臣が古冠をかぶり続けウィジャ王への反心が強まったところへ、

 

「共に謀りウィジャ王の退勢を狙い、吾を立てよ」と、

 

王位擁立の談合を持ち掛けた。

 

「吾が、即位した暁にはウィジャ王の定めし冠位と公地公民も改め、元に戻すことを約束しよう。」

 

那珂大兄王子は念押しする。

 

両大臣にとっては、狡知に長けたウィジャ王よりも御しやすいと思われる那珂大兄王子を王にすえた方が、有利だったかもしれない。

 

互いに計算が働き、阿部内麻呂と蘇我石川倉麻呂は手を組みウィジャ王を廃し、那珂大兄王子を擁立することとした。

 

裏切りという以前に、朝露の如く儚い乱世を生きるには、忠誠心や愛国心など元々微塵もない。

 

 

しかし、一月もしないうちにこの企みはウィジャ王の知るところとなった。

 

那珂大兄王子の父・武王を倒し百済王となり、蘇我勢力を除き和王に君臨し、大化の改新を進めてきたのは、那珂大兄王子を王にするためではない。

 

皇太子としたのは、あくまでも政治的配慮でしかなく、陰でウィジャ王のことを

 

「父武王の敵」と呼んでいる那珂大兄王子などを本当に王にしてしまえば、戦にもなりかねない。

 

ましてや「ウィジャ王を廃し那珂大兄皇子を和王に」などとの談合を両大臣が行うなど許しがたい反逆であり、両大臣の冠位への反抗の怒りよもこれに激怒したウィジャ王は、

 

「国土乱逆の叛臣を除く!」と、

 

両大臣の誅伐を実行に移す腹を決めた。

 

本国百済では新羅との戦に大敗してしまった上、唐が攻めてくるとの噂がまことしやかに囁かれ風雲急を告げる状況であり、ウィジャ王は百済への帰国を急いでいた。

 

まして今は煩わしいイリも高句麗にも和国にも居ない。それどころか、誰も入唐した後のイリの所在を知らない。野心家のイリがいれば、改新に従わぬ大臣を交代させる隙につけ入るに違いなかったが、しかし、当分和国に現れることはないだろうと判断したウィジャ王は、これは今こそと実行に移した。

 

 

3月17日、

 

海辺で、左大臣 阿部内麻呂の死体が発見された。

 

 

これで、一翼が失われた。

 

この時代の謀略は冤罪が常套手段である。

 

ウィジャ王は、

 

「阿部内麻呂殺害は、右大臣 蘇我石川倉麻呂の謀反であるに違いない」と濡れ衣を着せ、

 

すぐさまこれを糾弾した。

 

大伴駒、三国麻呂、穂積咋将軍らが蘇我石川倉麻呂宅に押し寄せ、

 

「謀反を明らかに申し述べよ!」と、詰め寄った。

 

蘇我石川倉麻呂は、

 

「ウィジャ王様に直接お会いして、申し上げます。」と、

 

これを拒んでいたが、

 

「謀反人をウィジャ王様に直接合わせるなど、できると思うか!!」

 

と、更に詰め寄った。

 

 

【挿絵表示】

蘇我石川倉麻呂

 

 

『蘇我石川倉麻呂が窮地に立たされている』

 

と、聞き及んだ那珂大兄王子は、

 

すぐさま反撃の姿勢になり、蘇我石川倉麻呂の元へと兵を率いて急いだ。

 

(なんと軽はずみなことを…!)

 

先触れを聞いた蘇我石川倉麻呂は、那珂大兄王子が兵を率いてきたことに驚く。

 

那珂大兄王子が駆けつけてくると、蘇我石川麻呂の義弟蘇我日向が道をはばみ止められてしまった。

 

「 あなたに対して謀反を起こそうとしているのです!」

 

噛みつく様に喚く。

 

「どうか危険ですので行かないでください!」

 

両手を広げ、わざと大声を張り上げ蘇我日向は必死に那珂大兄王子を止めた。

 

「讒言します!私の異母兄の蘇我倉山田石川麻呂は、皇太子殿下が海岸で遊んでいらっしゃるところを斬りかかって殺害しようとしておりますぞ!」

 

ここで那珂大兄王子が向かえば、巻き添えにされてしまう可能性もあり、ましてや兵を率いてなど、誅伐の口実になるだけである。

 

もはや蘇我石川倉麻呂が、謀反人にしたてられてしまってる以上、那珂大兄王子を連座させる訳にはゆかない。駆けつけて来るであろう三国麻呂らにも聞こえよとばかりに、声の限りに叫ぶ。

 

蘇我日向は、蘇我石川倉麻呂が謀反人にされてしまったことを逆手にとって、

 

「那珂大兄の王子に対して謀反を行おうとしている!」

 

と言い張り、那珂大兄王子を被害者にしたて必死に切り離そうとしていた。

 

(今、駆けつけても、巻添えになるだけです。どうかここでを引き返し兵をおさめてください)…

 

蘇我日向は、那珂大兄王子に摺寄り小声で呟く。

 

「蘇我石川倉麻呂は阿部内麻呂を殺害した謀反人ということにされてしまってます。もはや申し開きは許されず逃れられないかもしれません。ならば義兄は全て被り死ぬでしょう。命を無駄にしないでください。那珂大兄王子様が駆けつければ、共に反逆者にされ誅されるだけです。ウィジャ王様との戦など起こしても敵いません」

 

そして、

 

「どうかウィジャ王様に『蘇我石川倉麻呂が謀反を企み殺されそうになった』と訴え出て下さい。今、兵を率いたことを正当化するのはそれしかありません。」

 

と、涙ながらに説得した。

 

ウィジャ王は阿部内麻呂の殺害は、蘇我石川倉麻呂の仕業で「謀反」として扱って、なんとしても蘇我石川倉麻呂一派を全滅させようとしている。

 

那珂大兄王子はこれを受け入れ、引き返した。

 

翌日、

 

「蘇我石川倉麻呂は私を殺そうとした謀反人です、やむなく兵を率いました。」と、

 

涙をこらえて、ウィジャ王に自ら訴えでた。

 

薄笑みを浮かべこれをしたりと受けると、ウィジャ王は、

 

「謀反人!蘇我石川倉麻呂を逃がすな!屋敷を包囲せよ!」と、

 

軍兵を、送る。

 

ウィジャ王の出兵を知った蘇我石川倉麻呂は、二人の息子・法師と赤猪を連れて茅淳道を逃げて大和の堺まで抜け、長男の興志のいる山田寺(奈良県桜井市)に立て籠った。

 

しかし、那珂大兄王子が謀反を讒訴したことがわかると抵抗を諦めて、

 

3月24日、自殺した。

 

 

「願わくば世世、君を恨むまい」と、

 

那珂大兄王子のこと恨まず死ぬと仏に祈願し、

 

この世を去った。

 

蘇我石川倉麻呂が亡くなり、その財産を没収しようと調べにいった者達は意外なものを発見した。全ての遺品に『那珂大兄王子様の物』と書かれていて、那珂大兄王子への謀反など企むはずがないということは誰の目にも明らかだった。

 

 

 

 

【拘兎尽きて猟狗煮られる】

 

(中国の諺=中国では狩りが終わると猟犬は獲物と一緒に煮られ食べられてしまうことに例えて味方として利用し用済みになれば処分するという意)

 

両大臣は、蘇我政権打倒に協力しウィジャ王を擁立した功臣だったが、正に用済みとなり処分された。

 

翌4月、

 

ウィジャ王は、左大臣に巨勢徳太を右大臣に大伴馬合を任命した。

 

二人とも反唐の壮士で共闘してきた同志であり、乙巳の変での実行部隊である。

 

日頃から

 

「渇いても唐の水は飲まず、窮しても唐の陰にいこわず。」

「親唐になるくらいなら死んだ方がましだ」

 

という程、堅忍不抜の根っからの唐嫌いである。

 

 

蘇我王朝の頃、大伴馬合が唐返礼使の高表仁の接待役についた時に、礼儀について口論となり、大伴馬合は一歩も引かなかった為に、高表仁は怒って帰国していった。

 

高表仁は尊大な態度で和国に反唐の種をまきちらしいったが、この事により大伴馬合は唐という国が死ぬほど嫌いになり、徹上徹下の反唐の人となった。

 

巨勢徳太も反唐の血の気の濃い、武闘派の一遍者である。

 

権力志向ではない、反唐志向の大臣が誕生した。

 

出世など眼中にないが、二人は望外の栄誉に感激する。

 

ウィジャ王にとって、先の両大臣は王子時代から支え続けてくれた者達だったが、

当然その「見返り」に権力の座を求めるという、借りのある臣下はこれでいなくなった。

 

蘇我日向は、筑紫の国に左遷させられた。

 

九州勢は120年前の決戦で磐井君が敗れて以来、朝廷に服しているが決して消滅した訳ではなく、筑紫の国では磐井君の世襲もひっそりと続いていた。

 

 

 

残る邪魔者は、高向玄里である。

 

 

 

大化の改新後、新たな和国の国づくりの為、高向玄里の政治知識を必要としてきたが、八省百官を置きもはや必要は無くなった。

 

裏日本で、イリの義弟・阿部比羅夫が越国岩舟柵を設け東方地方を従える拠点を築いていたが、東国には及ばず、

 

ウィジャ王は

 

「東国の領憮が必要である」と、

 

高向玄里を東の辺境の地に左遷を命じ、

 

東国の最東端の総(千葉県)へと追いやってしまった。

 

これより北は、蝦夷と呼ぶ異民族が住む地であり、和国の国境最前線となる。

 

古代には日高見国があり、世界最古の文明シュメールが中央アジアに誕生した4000年前頃には既に、栗の栽培で栄えた縄文人の国があり、遥か古えより総以北には和国とは異なる国々が存在していた。

 

用済みとなった高向玄里も、ウィジャ王にとって異分子でしかなく、このような辺境の地に追いやって夷を以て夷を制する以外の利用価値はなかった。

 

高向は、両大臣の死を目の当たりにし、ウィジャ王の命令に従って動き続けない限り、「拘兎尽きて猟狗煮られる」ことを恐れ、是非もなく東国へ向かっていった。

 

東国の部族らの多くは、ウィジャ王にはしたがわず、彼らは今でも古墳造営も平然と続けている。

 

高向玄里は、領撫するどころか相当の反発は覚悟しなければならなかった。

 

総の北岸の香取海には、海人の里があった。

 

古くは大海上国といい、太平洋の黒潮に乗ってやってきた海人族らが住む地である。

 

120年前の、大和勢と九州勢の和国統一決戦の時、九州にいた海人族らは戦いに敗れ各地に逃れ、一部の部族は海を廻り本州最東端のこの東国へと逃れてきて、内海である香取海を望み拠点とした。

 

(香取海=現在の茨城県~千葉県にかけて、霞ヶ浦、印旛沼、利根川流域が全て内海だった)

 

香取は鹿取とも云う。

 

高向玄里は、丹後半島の海人族・大海の里の翁とは嫡子イリを預けたほどに昵懇の仲であり、そのつてを頼りに、なんとか鹿取海人族らに渡りをつけてきた。金一族同様に古く遡る縁である。

 

東国と東北を分ける様に広がる内海・香取海。

 

太平洋に向かい口を開けた入り口に、「沖洲の津」と呼ばれる細長い中洲があり、香取海へ入る拠点となっている。

 

高向玄里は、船旅にてまずここに立ち寄り、香取の翁へと協力を依頼することにしていた。

 

「どのような人物だろうか、、」

 

津に接岸し錨を下ろしながら、思索にふけっていた。

 

唐や中央アジアでしか手にはいらない、貴重な品々を携えて、腰を低くして調停への帰服を説得した。

 

120年前、大和勢に敗れ、朝廷から最も遠い最東端のこの地に敗走した彼らは、中央から僻地に追いやられたことによって朝廷の干渉も少なく、独自の部族文化を守り続けてきた。

 

「素破!朝廷軍の侵攻か、、」

 

と、構える者もいたが、高向は朝廷の世が変わった事を丁寧に説明し、従うよう説得した。

 

香取の翁は高向の言を受け入れ、高向と共に部族らをまとめ、朝廷との調和を熱心に説き続けて香取湾を望む【香取郡】(評)を設置した。

 

 

ウィジャ王は、和国をほぼ掌握し体制を整えつつあり、百済軍が先の戦で敗退したとはいえ、まだ新羅への覇権は諦めてはなかった。

 

金春秋が入唐した事に対しても強気で、詰問する使者を新羅へ送った。

 

しかし、

 

「金春秋の人唐によって、新羅は唐の制度にならい今は反百済同盟を結んだ。もはや先年までの新羅ではない。いずれ吾が国の攻撃だけでなく、百済は唐からも挟撃を受けるだろう。」

 

と、逆に強気で返されてしまった。

 

「新羅に勝つことさえ出来ぬ百済軍では、大国唐軍に攻められればひとたまりもないであろうな、、されば新羅は百済など捨て置き和国から攻め落としてやろうか、、

 

先触れで和国の使者は今ここで斬ることになるが、生貸して返すが故、ウィジャ王には吾が刃の餌食としてやると伝えろ!」

 

金ユシンは強烈な殺気を放ちながら、和国からの使者に言い放った。

 

詰問するつもりでやってきた使者だが、あまりの金ユシンの恐ろしさに言葉を返すこともできず、身のすくむ思いで和国へと戻っていった。

 

 

使者は、唐新羅で反百済同盟を結んだことと、脅されたことをウィジャ王へ報告した。

 

「ボラ!」と、叫び怒りもしたが、

 

これに驚いたウィジャ王は、一応は新羅に備えて近江の比良宮(滋賀県滋賀郡)に兵を増員する。

 

和国の改新に時間を掛け、長いこと百済を留守にしすぎたこともいよいよ心配になってきた。

 

そして、東アジアに覇を唱える大望は一瞬遠退いてしまった様に感じた。

 

新羅の強気は今のところ唐だけのようだが、もしも那珂大兄王子が裏切り新羅に呼応した場合は、大望は一気に崩れる可能性さえある。

 

ウィジャ王を除き、両大臣が那珂大兄王子を擁立しようとした一連の企みには、

 

「那珂大兄王子が、百済・和国の二か国を領土とする王に即位した暁には、新羅と和平を結び、ウィジャ王が簒奪した新羅の領土を元に戻すことを約束しよう。」

 

などと、新羅を味方につける為の裏切りもあったのかもしれない。

 

そう考えると、冷や汗が出た。

 

(企みに気づき大臣を誅殺するのが、あと少し遅れていたら危うかったか、、)

 

和国でさえ、この有り様である。

 

ウィジャ王は、百済の様子が気になりいても立ってもいられなくなった。

 

 

 

 

 

【巨星堕つ・太宗皇帝の死】

 

649年7月、

 

唐の太宗皇帝が崩御し、皇太子李治が高宗皇帝として即位した。

 

 

太宗皇帝は、元号を「貞観」と改元し没するまでその治世は23年に及んだ。

 

アジア帝国の大壮図を夢に描き、道半ばいくも、

これほど治世が継続したのは中国史上では稀なことであり、太宗皇帝の理想的な善政として

 

「貞観の治」と呼ばれた。

 

太宗皇帝は、

 

「天下を治めるには人を本分とし、その民百姓を安寧にするのは州刺史である」

 

を旨とし、

 

唐王朝の統治を行き渡らせる担い手、地方官である「州刺史」を誰にするかを重要視して、常に地方官の配置を把握してその熟慮を怠らなかった。日々、唐の全州図を張りだし、そこに州刺史の名を掲げ眺めては考え配置に心を砕いていた。

 

 

そして、人材の確保を求め臣下に推挙を求めた。

 

しかし、唐の支配階級は先帝の配した門閥貴族に既に独占されていた為、二年を待っても臣下からの推挙はなかった。

 

臣下の封徳彝という者が、

 

「まだ現在のところ奇才や異能の持ち主がいないのでございます」と、

 

これを怠ると、

 

「前代の優れた王たちは人を使うのに、その人の資質にそって行った。才能を別の時代に借りたのでなく、皆、使う士をその時代に求めていたのだ。卿は伝説を夢みて、太公望呂尚の様な賢人に逢うのを待ち続け、その後に政治を行うとでもいうのか?」

 

「そうではない!何代もの間、賢人が無いということが有るものか。ただただ民間に遺している賢人がいるのを知らない事を心配しているのだ」と、諭し

 

広く天下にその人材を探し求めていった。

 

いかに英才賢臣がいても、用いる才がなければ治る器ではなく、君主失格である。

 

科挙を行い、側近の長孫無忌と共に厳格な役人審査を敢行し、初代高祖皇帝が配した役人達による弊害を取り除いた。また臣下からの強い諌めに対しては、自分に間違いがあれば認め改めていった。

 

そして、幼なじみでもある長孫無忌の妹を皇后とし、人徳と才智をそなえた長孫皇后を深く愛した。

 

長孫皇后は早くになくなってしまったが、太宗皇帝が他の女性に産ませた子も、その母が亡くなると自分の子の様に育て、女官が病になれば自分の薬を与え、華美な服装はせず質素な品行と仁徳に誰もが感服していた為、皇后が在位していた後宮は、『皇帝の寵愛を求める』閨閥争いで乱れることが全くなかった。その為、太宗皇帝は後顧の憂いなく全力で国家の大事に専進することができた。

 

長安は大変繁栄し、東西交易(シルクロード)も栄えた。

 

常に治世方針を再検討するだけでなく、李靖が行軍総管だった頃、草原の十八部討伐の際に勝手な行動を取り暴走が問題視されたが、それを機に軍隊の改革を行った。

 

そして、アジア最強軍を編成し、アジア天下四方に覇をとなえんと出征を続けてきたが、とうとう高句麗を討つことなく臨終を迎えた。

 

皇太子李治への遺言は、

 

「朕の死後は決して高句麗を攻めてはならない。」

 

という戒めだった。

 

「高句麗という国は、建国以来1000年近くなるが、それは中国史上誰一人として、あの国を滅ぼす事が出来なかったという事だ。」

 

「朕は、中国全土を平定し西域を討ちクチャを征服し安西都護府を置いた。そして、北の突厥を掃討し『天河カーン』の称号を得て、北方を統治する為に突厥の首都があった鬱督軍山に燕然都護府(モンゴル)を置いた。南越の交州大総監府(ベトナム)を押さえ、天竺(インド)には王玄策を遣わせ、吐蕃(チベット)には文成公主を降嫁し、当にアジア天下に覇を唱えんとした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

残る東方の支配に全力を挙げこれを行ったが、高句麗だけは従わせることも倒すことも出来なかった。朕が成し得なかったものをお前が出来ると思うな。高句麗を甘くみてはいけない。

 

高句麗は、滅ぼすことは出来なかったが、国力は奪ったので気息奄奄として暫くは立ち直れないだろう。だからといって、こちらから攻め入ってはいけない。必ず反撃される。絶対に高句麗とは戦をしてはならない。」

 

と、戒めを強く残し、この世を去っていった。

 

皇太子李治は『高宗皇帝』として即位するとすぐに父・太宗皇帝に言われていたとおり、左遷していた李勣将軍を呼び戻して、9月に宰相の座に就け朝廷の重鎮にした。

 

 

【挿絵表示】

高宗皇帝

 

太宗皇帝の死後も、蘇定方・契苾何力らが二十万の兵を率いて高句麗に討ち行ったが、大した戦果もなく還り、太宗皇帝が行おうとしていた高句麗撲滅戦は遺言どおり中止された。

 

この蘇定方らの出兵はもともと金春秋が入唐がした事による唐新羅同盟による発動で、高句麗攻めでありながらも百済を攻めるそぶりを見せるという、百済を牽制する目的があった。

 

百済では殷相将軍が、新羅に出兵し石吐など7城を攻め取っていて、新羅は金ユシンらを派遣し向かえ討ったが、戦場は五ヵ所に渡り一進一退のままになかなか決着がつかなかった。

 

激戦により両軍の被害は大きく、大地は血で赤く染まり野に屍が満ちた。

 

金ユシンは、ここで全軍に対して、

 

「もうじき唐の蘇定方の援軍がやって来るので、討って出ず守りを堅めそれまで持ちこたえよ」と、

 

指令を送った。

 

蘇定方と金ユシンの陽動作戦は成功し、間者によってこの情報が百済軍に伝わると、蘇定方は攻める素振りを見せ百済軍は見事に動揺した。

 

そして百済軍は唐軍の援軍を警戒して各前線から撤退し、引きあげてきた兵が道薩城に集まってきたところをみはからって、金ユシンが総攻撃をかけ百済軍を撃破した。

 

殷相将軍ら敵将を捕らえ、百済兵9千人を斬り兵馬一万頭を得る大勝利だった。

 

 

更に、新羅は

 

「唐軍は高句麗でなく百済に攻めてくる」

 

という流言を和国にも流しウィジャ王にも揺さぶりをかけた。

 

 

 

【和国ウィジャ王 百済へ帰国】

649年8月

高宗皇帝が即位し、唐周辺国は、祝賀の使節を唐に派遣した。

 

和国のウィジャ王は左右両大臣を除いて、左大臣巨勢徳太と右大臣大伴馬合を据えると、いよいよ百済への帰国に向けて本格的に動き出す。

 

「唐が百済に攻めてくるのでは?」という恐れは日に日に強まってきたが、かといって焦って帰国し九仭の功を欠く訳には行かない。

 

折りしも、太宗皇帝が崩御し唐の東征は暫くはないだろうと判断していたが、

 

蘇定方らの動きにより、

 

「唐軍は高句麗攻めから百済攻めに作戦を変えた」

 

との噂が信憑性を帯びてきている。

 

ウィジャ王は、大急ぎで和王の座を継承させる為に、百済から息子の孝王子を呼びよせた。

 

孝王子(ヒョ)は、百済蘇我氏のモク妃が生んだ子である。

 

乙巳の変の後には百済蘇我氏も冤罪により一部は粛清されたが、モク妃を軸にまだ孝王子の勢力は残存していた。ウィジャ王は彼らの台頭を抑える為、『孝』を和王にしてしまう事で切り離しを計った。

 

孝王子は和国では頼りとする者は少なく、外戚力が低い為、百官の上にすえるには都合が良い。

 

ウィジャ王にとっては、本人が実直で野望がないと言う事だけでなく、周囲に担ぎ上げる野心家がいないという事が重要なのである。

 

那珂大兄王子が味方として頼りにしていた蘇我石川倉麻呂を除いた今、ウィジャ王はイリもいない和国で躊躇することは何もない。

 名ばかり皇太子である那珂大兄王子など、まったく相手にせずに息子・孝王子を堂々と即位させ、難波朝廷の埼宮に和国王の玉座を譲った。

 

 

突然のことに那珂大兄王子は、驚く。

 

ウィジャ王は、

 

「孝王子に和王をまかせる。汝は、今度は孝の皇太子となれ」と、だけ

 

冷酷に言い放った。

 

那珂大兄王子は、いきどおったが、味方をもがれ手も足もでず、吾が身の軽挙を悔やみつつ従うしかなかった。

 

父・武王を殺され、タムラから和国へやってきた頃に息子を殺されてしまった苦い経験をまだ忘れてはいない。隠忍自重し、ひっそりとしていた頃の那珂大兄王子のように戻ってしまった。

 

 

武闘派の巨勢徳太はウィジャ王の帰国に際して、

 

「今こそ、新羅を討つ時!」と、

 

強硬策を献じた。

 

大化の改新を進めていた和国からは、まだ新羅を攻めたこともなく、百済も新羅との先の戦で戦力を失ってしまった為、今こそ和国からも出兵すべきではないかと上申した。

 

高句麗も「決して新羅と直接ぶつかってはならない」という、イリの厳命によって、対峙することはあっても積極的に攻めるということをしてこなかった。

 

イリが高句麗にいないのは好機であり、今のうちに、イリの第二子で反発の強い部族派のナムゴンを焚き付けて新羅に攻め入らせ、高句麗と同時に靺羯も動かして、和国・百済からも出兵すれば一気に新羅を殲滅できると訴えた。

 

しかしウィジャ王は、

 

唐の出方は不穏であり、何より百済軍の再編の必要がある為、今は時期尚早であるとして新羅への総攻撃は先送りし、百済に戻った後の和国のことを中臣鎌足に託し内政を固める事を優先した。

 

 

そして、改めて帰国の前に東の辺境の地へと追いやった高向玄里に対して、暫く東国の経営に力を注ぐようにと厳命した。

 

朝廷の野心家どもを排除し、左右両大臣には権力志向でない反唐派をおき、諸部族らは八省100官に帰属させ、もはや政権の体制は万全に整えた。

 

ウィジャ王は、息子孝を和王に即位させると、次に自分の皇妃だった間人皇妃を娶らせて王権の体制をかため、百済へと戻っていった。

 

 

【挿絵表示】

間人皇妃

 

和国王孝王は、父より賜った五つ年上の美しい皇妃に心を奪われた。

 

そして、父・ウィジャ王が、先代の反唐の志を貫き孤軍奮闘していた頃に孝徳の王とも呼ばれていたことにあやかり、孝王とは名乗らずに「孝徳王」と名乗った。

 

 

その即位したばかりの孝徳王のもとに、新羅から金多遂という使者が、突然やってきた。

 

出自は真骨の血統のようであったが、正式な新羅からの使節という訳ではなく、表向き即位を祝う使者を装った亡命者だった。

 

新羅では今や金春秋・金ユシンが権力の中枢にあり、彼らの支配が強まっていくと、金多遂ら傍系の金氏らは新羅の中で憂き目もなく、落剥した日々を送っていた。

 

この先も金春秋・金ユシンの下で忍ぶのをよしとせず、金多遂は同志を募り思いきって二代目孝徳王が即位した新たな和国へと亡命してきた。

 

孝徳王こと孝王子の実直な様子は、新羅にも聞こえてきていた。覇気の強いウィジャ王も和国を去った為、孝徳王の下で新たに伸びようとする和国に活躍の機会を求めて、金多遂は技術者や学者37人を引き連れ、孝徳王の下へ参向し帰化を願い出た。

 

和国では、都はずっと大和の国に置かれていたが、ウィジャ王が難波に都を遷して和国を改新し、大和王朝の時代が終わって難波王朝の時代がきたことを世に示した。

 

そしてその踪を嗣いだ孝徳王も、難波王朝を更に確固たる存在にする為、新時代に相応しい豪華な王宮を建て、都を興起させようとしているところだった。

 

しかし、新羅を除く東アジアの国々は、全て反唐国であるが故にアジアの中心文明である唐の先進文化からは取り残されつつあり、和国の様式もやや時代遅れになってきていた。

 

孝徳王は、難波王朝の象徴となる宮殿は、なんとしても先進文化の精髄と芸術の粋をこらした豪奢なものにしたかった。

 

この為、孝徳王は金多遂ら新羅の技術者や博識者の集団の帰化の願いを大いに歓迎し、新たな難波の都の造営に役立てることにした。

 

しかし、かといって金春秋・金ユシンに反目してきた者をあからさまに帰化させ臣下にすることは憚りがある。間者であることも一応は疑わなければならない。

 

そして、和国にも金一族の里があり、隠然とした影響力があった。イリの妻の額田文姫をはじめ金ユシンの縁者も多く、彼らに矛先が向くであろうことは容易に予測された為、孝徳王は、あくまでも表向きは「人質」という事にして目的もつまびらかにせず、暫く彼らを囲っていくことにした。

 

 

 

 

【南アジア ペルシア王子とイリ】

ペルシア最後の王ヤズゲルト王は、アラブに攻められ東方に逃げた後、ホラサーンやトカラ(アフガニスタン)に救援を求めた。

 

唐へも救援を求めたが、即位したばかりの高宗皇帝はアラブとの接触を避ける為必死にこれをこばみ、仕方なくヤズゲルト王はトカラへ逃げ込もうとする。

 

ヤズゲルト王の長子のぺーローズ王子と第二子のダーラヤワフ王子は天竺(インド)に逃げていた。

 

インドとペルシアは縁故浅からぬ関係であり、インドはぺーローズ王子らの亡命を受け入れた。

 

この頃、天竺(インド)は仏教が衰えてしまって、ヒンズー教の台頭に押されていた為、仏教勢力はペルシアの拝火教(ゾロアスター教)の神々を新たに取り込んで、ヒンズー教への対抗を試みているところだった。

 

拝火教の神アフラマスダを取り入れ「大日如来」を神格化し、盂蘭盆会など様々な火を拝む修法を盛んに行う様になっていた。

 

(後に密教化が進んでいくと衰退してしまい結局ヒンズー勢力にとってかわられてしまう)

 

遊説を終えたイリも南アジアへ向かい、インダス川を越え天竺(インド)へとはいっていた。

 

イリが連れていたペルシア人の一部は、既にイスラム化しつつあった故地ペルシアに残った者もいた。

 

老骨とはいえペルシアから和国までやってきた壮強な職人達である。

 

かつて知ったる西アジアからインドへ向かう路は、それほど苦ではなかったが、暑さに慣れていないイリには堪え難く、夜になっても眠れぬほどの酷暑に朦朧とし、月光さえもゆらいで見えた。

 

イリは、旅を続けるうちにイスラム教のアラブなど大陸の列強国の存在を知るにつれ

 

「イスラム教のアラブ、キリスト教のローマ、そして仏教国だったインドにはヒンズー教が台頭してきている。国の強さとは皆、神と信仰の強さなのか?!」

 

と、宗教のもつ威力に驚かされはじめた。

 

人間の征服欲は教義や説法でなくなるものではなく、乱世を制するのは力であると信じていたが、

 

「国の繁栄は王者の力と仁徳による」

 

ーという考えはもはや改めた。

 

力や仁徳よりも、信仰の強さは優位であり、宗教によって強力になる国威を認め、

 

「いずれ、吾が国にも強力な神が必要だろう」

 

と、思った。

 

仏教が伝来する以前の高句麗は、鬼神と霊星を祀り、始祖の廟と祖先の社禝を祀っていた。王は天を祭り東の洞穴を祭っていたが、世の盲冥を照らす教えも人々の救いとなる霊言もなく、強力な神と結びつく信仰ではなかった。

 

現世利益を説くこともなく、民族的であり、多民族に対しても同化させるほどの支配的な影響力をもつ強い神もいなかった。

 

強力な神であればあるほど、信者網という横の団結力も強くなるのであろうと、イリは理解した。

 

後に、イリは拠点を伊勢においた時、伊勢神宮を保護した。後世、寺に墓地が弔われる様になるまで、その役割を持っていたのは神社である。どの部族にも、自分たちの宮があり社を祭っていた。社を守ることは、その一族や部族の依りどころであり、それぞれの部族風土が存在していた。

 

元々、伊勢神宮は海人族の渡会氏の磯宮であり、海の無い大和朝廷はここに天照大神を遷宮したが、イリが伊勢で神威を受けたことによって格別に伊勢神宮の存在は高められ、やがて和国の権力の座についた時にはイリは一時、仏教の布教を停止させたほどである。

 

更に時が下り、イリの息子法敏が文武天皇として即位すると、伊勢神宮の大造営を行って内宮を造営し、和国に数ある宮の一つでしかなかった伊勢神宮は和国の頂点にまでその社格は押し上げられていった。

 

ゾロアスター教の「王とは人間の姿をした神である」という信仰に興味を惹かれていたイリは、インドにペルシアの王族が居ることを知ると、残っていたペルシア人達を使者として送った。

 

ペルシア人達に救援を請われ

 

「吾、これを捨て去れば死に到らん」と、

 

誓ったイリは、その志を伝えてくるよう命じた。

 

ペルシア王子だった上宮法王とぺーローズは同じ一族である。

 

イリが連れているペルシア人は皆、上宮法王に従って和国まで渡り、上宮法王亡きあとは、高句麗のイリのもとでその志をとげようとしていた者達であり、祖国ペルシア王家のぺーローズ王子の前に立ち、懐かしいペルシア語を聞くと、誰もが涙が溢れて止まなかった。

 

宝皇妃の父・上宮法王の存在はペーローズも知っていた。

 

イリの使者らは高句麗の宰相イリと和国の存在を説明し、

 

「もしもの時は東へ逃げてこられるように」

 

というイリの意を伝えてきた。

 

天竺(インド)のヴァルナダ朝は、三蔵法師玄奬の往復以来、唐と国交を持つようになったが、この頃は王位継承問題で混乱し、唐の王玄策の加護を受けていた為に、相当な親唐国となっていた。

 

その為、イリは直接堂々と会いに行くことはできなかったのである。

 

 

 

(できることなら)と、

 

イリは思う。

 

ペルシアの王族を招聘して彼らから直接、ゾロアスター(拝火教)と「現人神」の王制の在り方をもっと吸収したかった。

 

現人神とは、国王のことで、

 

国王とは神そのもの、

 

「神にえらばれし者」

 

「神の代弁者」などではなく、

 

神の化身なのである。

 

かつて、和国の民衆にとって支配者とは、自分たちの所属する部族の族長のことであり、「国」とはその部族長が加わっている連合の名前や土地の範囲を表す言葉でしかなかった為、国王に対しての畏敬も直接的には存在しなかった。

 

古代に祭政一致の時代があったにせよ、東アジアの信仰や崇拝は、祖先や始祖に対する神格化が大きく、実在する現在の王そのものが神格化され信仰と結びつくというものではなく、神官や巫女が王になるということもでもなかった。

 

これが、上宮法王によって初めて国王の存在が高められ、仏教は部族を超えた共通の教養とその象徴となった。

 

これを上回るほど国王の権威を高める為には、この「現人神」という思想を、即ち王は神であるという思想をいずれは根づかせなければならないとイリは思った。

 

イリが嫌いな血統主義である。

 

王位につくということは、則ち

 

『神にえらばれし者』のことであり、

 

「血統に関係なく誰でもなれる」

 

という中国的な王とは真逆の王位であるが、

 

ペルシア的な、神と王を同一視する新たな強力な力を感じずにはいられなかった。

 

 

イリらの一行は、インダス川を越え、パキスタンからインドに入るまでは無事にたどり着けたが、インドから先は東に抜けるのは難路であり、南越(ベトナム)には唐の交州大総監府があり唐の勢力圏も近くなる。

 

時間と手間はかかるが、ここからは海路で進むことにした。

 

インドから対馬海峡への交易航路は古くからあり、南海航路(海のシルクロード)からやってきたインドのアユタ国王女と伽揶国王との婚姻が結ばれた事もあった。

 

 

【挿絵表示】

 

アユタ国王女

 

 

 

南海航路は(海のシルクロード)、インドからスマトラ島を経由して唐の広州までペルシア船が行き来し、どの港も交易で栄えてきた。

 

台風さえなければ、時間は掛かるが陸路よりも海路の方が比較的安全なのである。その上、南海交易で使われるダウ船と呼ばれる船は、唐船と異なり波切りも良く、三角帆なので風上への切り上がりも可能だった。

 

 

南アジアは季節風も大きい。

 

 

イリ達は照りつける太陽の下、南西季節風を待ってダウ船に乗り込みインドを出航した。

 

ベンガル湾から南シナ海を抜けて、東シナ海へと向かい、和国を目指す。

 

 

 

 

 




第一部 あとがき *【貴種流離譚】*

イリは、唐の太宗皇帝に高句麗第二王子任武として謝罪した後、行方がわからなくなる。史書からも巷説の世界からも忽然と姿を消す。勉強不足なだけかもしれないが、巷の説を見回してもこれといったものがなく情報が少ない。

韓流時代劇でも、ヨンゲソムンでは

「山にこもり修業をしていた」としているし、

他の作品の設定でも

「やがて時はたち、、」という様に、

この頃のイリには触れない設定で空白のままにしている。

小林やすこ氏が、日本書記に、蘇我石川倉麻呂の謀叛を詰めに行った三国麻呂という使者がイリではないかと推測しているが、イリの人物像を考えると、今更ウィジャ王の手先となって大臣を詰める実行部隊をするだろうか?と感じてしまう。
何より数年後、650年代に入って「大海人皇子」という強烈なキャラクターとして、颯爽と和国史に再登場し孝徳王朝にとどめを刺すイリとは人物像がつながり難い。
イリは、高句麗の王を殺害し山背王を倒すクーデターを起こしたが、例えば幕末の人斬り以蔵の様に所謂暗殺部隊だったという訳ではない。

日本書記の三国麻呂を匿名の人物とするならば、イリ本人ではなく阿部比羅夫などイリの手先のものではないかと思う。三国という名からもなんとなく越国の高向玄里の息子・阿部比羅夫を想起する。

*三国(福井県三国市)=高向(現・坂井市)の隣。

唐での謝罪の後に足取りが途絶えたということであればその後、唐に監禁されたと考えるのが順当かと思われる。が、「唐の人質となった」という記録があってもよいし、無いのはなんらかの事情があったのではと思う。

「唐に行った後、和国・高句麗からも姿が見えなくなった。」という前提で、

唐に監禁されたか、

唐から逃げていた、という2択のもと、

『イリは逃げだし、唐の追跡を逃れて諸国を転々とした。』
という筋書きにしてみた。

巷説の世界ではイリは、幼い頃より諸国を周り、中央アジアや中国にも足跡がある。成人になってからの流浪はどちらかというとマイノリティかもしれない。


【挿絵表示】

サマルカンドのアフラシャブ王都で描かれた高句麗人の壁面。
650年頃に描かれたものでイリの足跡を示している。1965年に発見され、5000キロも離れた高句麗との交流に当時は驚かれた。

「貴種流離譚」とは、古事記・日本書記~現在の作品でも描かれている伝統的なストーリー構成のことで、
『貴種=王子などが、幼い頃より身をやつし奴隷の様に扱われたりしながらも、苦難を乗り超えて成長していく。諸国をめぐり段々と経験を積み重ねながら身を起こし、やがて王になる』
というストーリー。

ドラマ「ヨンゲソムン」では「貴種流離譚」風に描かれ、奴婢にされ朝鮮半島から中国アジアへと転々流浪する。

この小説では、イリは中国の貴族の娘と高向の間に生まれたという設定にしたが、もしも、貴種流離譚とするとしたら、

『高句麗の栄陽王が唐に暗殺され、高向玄里が大臣として乗りこんできた時。残された栄陽王の妻・宝妃は身ごもっていたので、反唐の血筋を絶やす為、宝妃ごと抹殺される運命だった。しかし、宝妃は、なんとか高向に引き取られ難を逃れ王子イリを産む。高向玄里は宝妃と夫婦になり自分の子供としてイリを育て守った。やがてその王子は高向に取り上げられ、宝妃からひき離されてしまい、
「子供の命を守りたければ」と高向から脅され、宝妃は親唐工作の道具となっていった。』

としても、良いかもしれない。

唐の傀儡の高句麗王ではなく、

正当な高句麗王の王子イリである。


巷説では、宝蔵王とイリ=第二子任武は、養子であるとしつつ、なんらかの血縁関係があったとされているので、その方がドラマとしては面白い。

他の作品を見ても、幼い頃からこれでもかというほど命を狙われ逃亡したり匿われたりする苦難のシーンが多く、イリの血統は明かされなくとも、対抗勢力にとって「必ず根絶やしにしなければならない」程の、ただ者ではない貴種であったことが伺える。

イリ・ガスミ(ヨン・ゲスムン)という呼び名で活躍した
650年頃の本章までを和国大戦記
【第一部】とし、

続いて大海人皇子と名乗り和国に再登場した後、
650年~700年頃までを和国大戦記
【第二部】としてみたい。

和国が無くなり、日本が建国され、

大宝律令の制定により国家が完成するまでを書き続けて、出来れば番外編には、かぐや姫伝説まで書き加え藤原氏に繋げらればと思う。


***
後半は本作品【和国大戦記】のタイトルどおり、白村江の戦い、壬申の乱と大戦の時代に入り、非常に長い文章になると思います。今まで長い話しにお付き合い頂きまして有難うございました。これからもどうか宜しくお願い致します。



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第9章 和国【難波王朝】孝徳王

西暦650年~652年
ウィジャ王が百済へ帰国した後、和国を任された孝徳王は難波王朝を開きその威光を行渡らせていた。
イリはアジア諸国での遊説を終え、帰国する為インドから南海航路へ出航した。
 
第1話 持衰を乗せ 済州島へ出航するイリ
第2話 和国 難波王朝 孝徳王
第3話 イリと市王子
第4話 新時代の新羅 和国を威圧する
 



【持衰を乗せ 済州島へ出航するイリ】

イリ達は南海航路を順調に進んでいた。

 

天竺(インド)のベンガル湾から沿岸航法をとりマレーシアを抜けて、一路北東へ船を走らせる。南砂諸島を抜ければ台湾が見えてくる。そして、東シナ海へと進み南西諸島を目指していく。

 

イリは、この様な南洋航海は初めてであった。

 

高句麗ー和国の航海のように、船をこぎ出せば、必ず日本海沿岸のどこかしらには漂着するということが分かっている訳ではない。

 

気の遠くなるほどの長い海路に不安もあったが、進路はただただ北東へ一路、季節風に乗り進むだけであった為、台風にさえ当たらなければ比較的安全な航海であり、日本海の荒海に慣れていたイリにとっては、南海航路(海のシルクロード)は思った以上に穏やかで静かなものだった。

 

海が穏やかであっても、東南アジア海域では海賊に襲われる商船も多かった。しかし、間違ってもイリの船を襲うなどすれば、海賊の方が皆殺しにされただろう。

 

南アジアは、雨季に入ると南西の季節風が吹きはじめる。

 

アフリカ東岸から発し、インド、東南アジア、中国沿岸から、東アジア、日本にまで渡る、地球の4分1を吹き抜ける長大な季節風(アジアモンスーン)に帆を当て、ただひたすら北東へと進む航海である。

 

嵐と遭遇するかしないかの「運」だけが問題だった。

 

遥か水平線に目を凝らし、海と空の色の変化を発見した時には、既に台風回避は間に合わない。

 

僅かな風の匂い、湿気、温かさ、気圧など微妙な変化を五感で感じとり予測をし、諸島のどこかの小島に逃げてやり過ごすか、それでも安全とは言えず、結局最後は天に祈るしかない。

 

 

イリは台風の難をさけるため、

 

持衰(じさい )を同乗させていた。

 

持衰(じさい)とは、航海の安全の為に船と同乗者の災厄悪運を一身に引き受ける人身御供のような者である。

 

航海中、身体を洗わず髭も剃らず、衣服もそのままであり、穢れを我が身に集めてじさいはひたすら航海の安全を祈り続ける。しかし、嵐で時化になれば海の神への生け贄として荒海に投げこまれてしまう。

 

命がけで、祈りを捧げるものである。

 

 

イリは船上で素っ裸になり、じさいに向かって、

 

「サイコロメ舞いる!」と、叫び

 

くったくなく男根を振りながら、両手を大きく広げ三回舞った。

 

 

ペルシア人も、じさいも、皆な、恥じる様子もない堂々としたイリの裸踊りを見て、腹を抱えて大いに笑いころげた。

 

船中が明るい雰囲気に包まれた。

 

古代から続く、航海の安全を祈る船上儀式であり、運が全てである船乗りにとって、寨コロは神器の様なものである。

 

そして、洋の東西を問わず船乗りの世界では女人禁制が常識であった。

 

海の女神が嫉妬して船を沈めるという。

 

いささか迷信的であるが、男のしるしを見せる船上の男根儀式も恐らくそのような事に由来し、

 

包み隠さず、

 

「船に乗っているのは男だけ」

 

と、でもいうのだろうが、言祝ぎもなく楽しそうにくったくなく踊るイリの舞いに、皆、心をくつろげ、

 

「運とはかようにして引き寄せるものか」

 

と、感服した。

 

そして皆、吾も吾もと着ているものを脱ぎ捨て、すっ裸になって踊り出した。

 

いずれにしろ、嵐の海に遭遇すれば人間の力など無力であり、結局は「運」が全てである以上、船乗り達はどんな些細な運でも迷信でも、全て担ぎ上げねばならなかった。

 

 

イリ達の船は、無事に南シナ海を抜けて、東シナ海へと入った。

 

この辺りまでくれば、和国は目の前である。

 

南西諸島から、奄美大島群島へ島づたいに渡る航路であり、台風の進路と遭遇する危険な海域でもある。

 

太宗皇帝尭ずの報はアジア世界を駆け巡り、既に聞き及んでいたイリは、

 

「急ぐことはない」と、判断し、

 

直ぐに和国へは向かわずに、南西諸島に寄港して、ここからは慎重に進んでいくことにした。

 

島に逗留し諸島部族達に反唐を説き、高句麗とのつながりを強化する目的もあったが、ここまで来た以上、万に一つでも、嵐に遭って海の藻屑となる訳にもいかないかった。

 

「志のある者を、天は見捨てぬ」という

 

強い信念を持っていたが、決して無謀なことはしない。

 

イリ達はここで大地に足をつけることの有り難さを久しぶりに存分味わった。

 

船上よりも、南西諸島から見る海は遥かに美しく見えた。

 

航海の間中うんざりする程見続けてきた水平線だが、大地に足をつけて見る水平線は格別である。

 

 

(特に朝焼けが美しい)

 

そう思った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

水平線に赤光が差し一筋の光の道が伸びて来て、真っ赤な日輪が浮かび上がる来光の瞬間を、イリは気に入っていた。

 

干戈を枕に野に伏した日々も、乱世であることさえも忘れてしまいそうなくらい美しく荘厳な風景である。

 

鮮やかな天色の海が一面に輝き、

 

優しい潮風と穏やかな波の音は、人の心を和ませる。

 

イリは高山に立ち、目を細めて沖を眺めては人生の前半生を過ごした大海の里を思い出していた。

おおらかに自分を育ててくれた、大海の翁のことが懐かしい。

 

美しい海に囲まれたこの島で、イリが巡りみてきたアジア天下を振り返ってみると、何故アジアの部族達が皆、東方の卒土の果て海を越えた和国に別天地としての憧れを抱き、困難な旅を乗り越えてまで必死に目指したのかが良く分かる。

 

この美しい海の彼方に、アジア大陸で目にしてきたほどの大戦乱があるだろうとは、とても感じられない。島の者達が、海の彼方から神の使いが来ると信じていることも、然るべきである。

 

和国は、西アジアの国々に比べたらまだ遥かに安全な国ではないかと思えた。

 

バビロニアや古代エジプトの時代から、西アジアの民にとっては、常に大国の支配を受け易い西アジアで生き延びる苦難よりも、東アジアに落ち延びて海を渡った新天地に逃げる旅の方が、未来につながる希望があったのだろう。

 

「東方の卒土の果て、更に海を渡った先には大国の支配も及ばない土地があるという。大国に支配され奴隷民族として生き続けるならば、いっそ東方の別天地へ逃げよ。」

 

と、決断し東を目指して民族の大移動を敢行した部族もいただろうし、ただ闇雲に転々と逃避行を続けていくうちに、たどり着いた部族もいたことだろう。

 

和国に小部族が多かったことも頷けた。

 

強大な大部族はアジアに盤踞し、弱小部族らはアジアの東の果てに逃げるしかないのだ。エフタル族の様な大部族の渡来や、エフタル族と突厥族の様に和国にまで来て刃を交えることは稀である。

 

ここで改めて和国の存在価値が感じられた。

 

高句麗ほど、部族どもの統制が面倒な国はない。少しでも抑えの手が緩めば隙を衝かれてしまい、挙国一致など程遠く、唐からは海陸同時に攻められ常に内憂外患の状態が続いている。

 

(例え王位につこうと容易にはゆかぬ、盗るならば和国からか…)

 

高句麗は、どろどろとした権勢欲の渦の上に王座がういている様なものである。高句麗に比べれば小国だが、それだけに小部族達が大化の改新でならされた後の和国の方が、比較的に権力を集中させ易いだろうと思えた。

 

(やれる、と思えばやれる)

 

イリの和国での立場は、皇太子弟である。那珂大兄皇子の義弟であり、義母は上宮法王の娘で元武王妃の宝皇妃である。

 

王室に繋がっている以上、王室を動かし、それを偉大な統率力として民衆を動かし、一国を制覇できるだけの壮気と智謀がイリにはある。

 

皇太子弟としての己の立場を活かし、己の力のかぎり、いのちの限り、それを果たそうと大志を立てた。

 

 

また、イリは南西諸島の文化に触れるにつれて、海人族達の足跡の存在を知った。

 

島から望む海は、海の蒼さも輝きも故郷の海とはまるで違ったが、どこまでも続く水平線を眺めていると、大海原の彼方に船をこぎだして和国へ行った海人族の先人達の思いが伝わってくるようである。

 

島土着の海人(うみんちゅ)は、顔や全身に刺青をほどこしている漁勞の民であり、和国に渡っていった海人族とはまた違う独自の文化を持つ。

 

高句麗や大海の里の冷たい海と違い、海中に潜って直接魚を獲る。半ば信仰的ではあろうが、刺青を入れていると海中で危険な魚に襲われることがないという。北海では考えられないことだが、イタチ鮫という巨大な人喰いザメが南海には出没する。

 

確かに、オコゼなど毒を持つ魚は派手派手しく威嚇をした種もあり、海中の生存にはそのような「派手さ」が適しているのかもしれない。

 

島に同化することなく和国へ渡っていった海人族らは、たんに文化の違いからということでなく、東方神起(東に神が起こるという伝説)の様にもっと東に向かう強い目的意識があったのだろうか。

 

 

和国海人族、

 

 

海人氏(アマ氏)=阿海氏、または天氏とも云う。

 

山人(ヤマト)の民と同様に古い部族である。

 

和国の海人族は、どこから来たのかよくわかっていない。

 

始祖を讃える『君が代』を謳い、西アジアのユダヤ氏族の特徴が色濃い。

 

自らは海神族と名乗り、伝承ではアジア最古の文明シュメールの末裔であるとしていた。竜船に乗り、イリ達と同様に中央アジアから南海航路を渡ってやってきたという。

 

そして、南西諸島から島づたいに和国に渡っていって、志賀島(福岡県福岡市)を聖地と定め社をおき、九州から列島各地に広がっていった。

 

 

 

イリは彼らの様に南西諸島から奄美諸島づたいに和国へ向かうことはやめた。

 

(ウィジャ王の功臣の蘇我石川倉麻呂が誅殺され、ウィジャ王は百済へ戻ったらしい、、)

 

和国の意外な情報がもたらされると、

 

予定を変更をし和国より半島に近い、済州島(耽羅)へ立ち寄って、和国と半島の政情を伺うことにした。

 

南西諸島の滞在で充分英気を養ったイリは、北に向かって出航する。

 

済州島(耽羅)は、高句麗とも他の東アジア諸国とも貢納関係にあり中立的である。奄美諸島や九州などより百済の事情も分かり易い。

 

 

済州島(耽羅)の島部族達は、丁重にイリを迎えた。

 

イリは島部族の高氏のもとに逗留させて貰い、彼らを通じて東アジアの情報を集め動静を伺った。

 

 

 

【和国 難波王朝・孝徳王】

650年、ウィジャ王は、百済から和国の安芸国に倭漢直縣・白髪部連鐙・難波吉士胡床らを遣わして、百済舶2隻を造るよう命じた。

 

そして、ウィジャ王と入れ替わりで和国に戻ってきた中臣鎌足は、宰相として新和王となった孝徳王を補佐した。

 

 

この年、難波の都には難波王朝二代目の王となった孝徳王の即位を祝い、穴門の国(下関)国司より白雉が献上された。

 

新時代の王化は東西にゆきわたっていた。

 

有力部族と所謂地方豪族の大きな違いは、有力部族の中にはそれぞれの王統を持つ者達がいるということである。

 

彼らは、大和朝廷に服しながら王の陵墓古墳を造営するだけでなく、独自の王号や元号を使うこともしてきた。

 

それだけに穴門の国(下関市)より白雉が献上されたことの意味は重たかった。

 

ウィジャ王が去った後でも、和国難波王朝の威光は変わらず磐石であり、難波王朝の重鎮らは次々に孝徳王に対して『白雉』が献上されたことの喜びを述べたてる。

 

僧道登・僧旻らは、

 

「吉祥である」として、

 

「王者四表に旁く流るときは白雉見ゆ。又、王者の祭祀相蝓らず宴食衣服、節有るときは至る。

又、王者の清素なるときは、山に白雉出づ。

又、王者の仁聖にましますときは白雉見ゆ」

 

と、中国の故事を引き

 

孝徳王の義兄でウィジャ王の王子・豊璋も、

 

「後漢明帝のときも現れました」と

 

追従を述べこれに続いた。

 

白雉は、難波王朝の孝徳王の世に目出度い吉兆であることから、元号を「白雉」と改号することにし、2月に難波の都で孝徳王の改元を祝う式典が盛大に行われた。

 

白雉を宮中の園に放つため、儀仗兵が威儀を整え、百官 群臣のいならぶ中、雉を輿に乗せ閲覧させる。

 

孝徳王は、

 

「吾は虚薄であり聖君ということではないが、天命により君臨し、臣らは皆誠を尽くして新制度につき奉じたおかげである」

 

と感謝し、

 

ウィジャ王が打ち立てた難波王朝の制度に、臣下が服したことを大いに褒めて大赦をおこない、長門国では鷹狩りを禁じた。

 

元号が「白雉」となり、孝徳王の王威が和国で示され、難波王朝の新しい時代が始まっていった。

 

ウィジャ王が制定しなおした冠位も効を表し、階級が細分化されたことにより、努力して上の位官を求め欲する者らが出始めた。部族社会の中で力の弱かった者にとっては部族社会の復興運動などよりも、猟官運動に力を注いだ方がまだましなのである。

 

不満を募らせる者もいたが、なんやかやと皆、冠を被り、難波の官制に従って上を目指す機運が出来上がっていた。

 

 

 

一方、新羅でも、新たな世が始まっていた。

 

唐の礼服を着るようになり、また官制と律令も倣り、全てが唐制に刷新され、新しい新羅に生まれ変わっていた。

 

6月に金春秋は、金法敏を唐に使わせて、百済との戦いに勝利したことを報告した。

そして、高宗皇帝即位を祝う五言詩「大平頌」を献じて高宗の即位を讃えた。

 

高宗は、これを喜び、金法敏を大府卿に任じて帰国させた。

 

 

唐もまた三代目の高宗皇帝の時代となって、新しい世界に変わっていた。戦を止め周辺国らと講和し、一部を除いてアジアには平和が訪れていた。

 

しかし、戦が無いとはいえ、百済の使者が入貢すると高宗皇帝はこれを戒め、

 

「新羅と戦争をしてはならない。そんなことをしたら、吾は出兵して汝を討つ。」と、愉告し

 

略奪した新羅領を返還するよう言い渡した。

 

東アジアはウィジャ王の態度次第で、唐の出方が変わるであろう緊張した状態ではあるが、高宗皇帝が即位してからは対外的には講和政策に転じた為、アジアは平穏を取り戻したかの様だった。

 

が、しかし唐国内では早くも内訌の芽が出始めていた。

 

高宗皇帝の力は弱く、高宗の伯父である長孫無忌が朝政を牛耳り始め、先代の太宗皇帝が抑えていた門閥の均衡は崩れていた。

 

中国には「関隴集団」という古くから続く門閥がある。

 

隋よりも昔しから国政を貪り、易姓革命(王朝交代)が起こる度に新王朝に加担して、王朝を跨いで生き延びてきた既得権集団である。

 

唐が群雄を討ち、いち早く国を建国できたのはこの関隴集団が味方についた為とも云われている。

 

高宗皇帝の正妃である王皇后は関隴集団の妃であったが、皇子がいなかった。

 

その上、厄介なことに側室の淑妃に皇帝陛下の寵愛を奪われてしまっていた。

 

そこで王皇后は、なんとか淑妃から皇帝の目をそらさせようと、美女を探し、太宗皇帝の後宮にいた「武媚娘」という者に目をつけ高宗皇帝の後宮に献上できないかと考えていた。

 

 

【挿絵表示】

武媚娘

 

元々、武媚娘は、先代の太宗皇帝の側室である。父は唐の功臣で大夫をしていた。

 

イリが生まれた翌年、624年に生まれた。

 

武媚娘が生まれた時、導士に占って貰うと、

 

「この子は必ず天に昇るであろう」と

 

預言を受けた為、父は英才教育をしてきた。

 

武媚娘が少女になる頃には、漆の様に黒く光る髪と幾千の星を宿した瞳に、桃の唇と薔薇の頬と、その美しさが評判となり、

 

14歳という若さで後宮に召し入れられた。

 

しかしある時、白昼に太白星(金星)が現れて、太宗皇帝が天文博士に天の異変を占わせたところ、

 

「唐は三代で滅し、女帝・武氏が興る」

 

という、預言がなされた。

 

これにより、

 

「武氏とは武媚娘のことであり、武媚娘を誅殺すべし」

 

との流言が王宮で流れるようになり、側近の長孫無忌にも武媚娘の処分を迫られた太宗皇帝は、次第に武媚娘を遠ざけていった。

 

吾身の危うさを感じ追い詰められていた武媚娘は、やがて皇太子である李治に頼っていって、あろうことか二人は密通してしまう。

 

そして、道ならぬ恋に落ちた皇太子・李治は武媚娘の魅力にすっかり籠絡されてしまった。

 

王皇后は武媚娘に目をかけていたが、李治が高宗皇帝として即位した今も、それほどに心を奪われたままであるとは気がついていない。

 

太宗皇帝が崩御し、後宮の女達は全て太宗皇帝を弔うため髪を卸し尼になっていて、武媚娘も明空法師と号し道教の寺院に入っていたが、王皇后はなんとかこの武媚娘という美女を還俗させ、高宗皇帝の後宮に召し入ようと画策していた。

 

  

 

 

内訌の暗雲が立ち込めてきたこの年の10月、唐三代に渡って仕えた功臣・李勣は突如宰相を辞任し引退した。

 

 

【挿絵表示】

李勣

 

三代に仕えるのは並み大抵のことではない。その様な真の忠臣は、佞臣に讒言され誅殺されるのが常であり、何事にも慎重な李勣は長孫無忌の権謀を警戒し、自ら身を引いたと思われる。

 

 

 

【イリと市王子】

 

耽羅(済州島)

 

和国の様子を配下の者に探らせに行かせたイリは、ここで腰を落ち着け策略を練っていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

一人、胡床に座り考えている。

 

すると、

 

済州島の島部族の高氏の長が、二人の母子を伴いやってきた。

 

「私の娘、海女姫とその息子・市王子です。」

 

「王子だと?すると、その海女姫の夫が済州島の王だということか、」

 

「いいえ、違います 」

 

「では、寡婦か離縁されたということか?」

 

「いいえ、そうではないのです。娘の産んだ子の父親はキョギ様です。今、和国で那珂大兄王子と名乗ってらっしゃる方がこの子の父親なのです。」

 

「なんだと!」

 

「那珂大兄王子か!その名を聞くのは久しぶりだ、、」

 

イリは、胡床から身を乗り出し、海女姫と市王子の顔をしっかりと見た。

 

目もとが、よく似ている。

 

(さすがに済州島まで来ると和国が近い訳だ)

 

ということを改めて思いいる。

 

「キョギ王子様が百済から島流しになり、この済州島へ滞在していた折りにご寵愛を受けました。」

 

イリの意識は西遊を経てガラリと変わった。

 

もはや直情的なイリはではなく、以前より老獪狡猾になっている。母子を目の前にし、頭の中では急回転で深謀を巡らせた。

 

(ここで市王子を手なづけて、那珂大兄王子の足元を掻き回す手駒とするか)

 

と、イリは決めた。

 

「父のいる国、和国へ行ってみたいか?」

 

「はい。行ってみたいです叔父上さま」

 

(なるほど、、なはからその気か)

 

この日よりイリは、連日のように高氏と海女姫、市王子らと宴を催し、アジア諸国や唐高句麗戦について語った。

 

済州島とは別世界の出来事の様な話しだが、島では聞くことの出来ない他国の話しに興趣は止むことがなかった。

 

イリがまだ少年だった頃、ウィジャや金ユシンの話しに夢中になったように、少年・市王子の興味は高まり、イリへの憧憬は強くなった。

 

そこに、反唐の気概にあてられ、

 

市王子も少年ながら壮士に憧れ始めていた。

 

イリは、「修行に励み強くなれ」と、

 

激励し時には直接、剣の手解きをした。

 

イリは、師匠であり、叔父であるが、

 

実父を知らない、市王子にとってはまるで父親の様な存在に感じられ慕わしく思えた。

 

壮(つよ)さへの憧れは漢(おとこ)たる者、皆、少なからずある。

 

剣の修行を続けるうちに、(吾身の力を試してみたい)と、向上心にかられ、外の世界に意識が向くこともあり、

 

イリは、市王子に剣術修行をさせながら巧みに和国への野心を育て上げていった。

 

 

 

【新時代の新羅 和国を威圧する】 

651年、6月

 

和国に、新羅の使者が訪れていた。

 

百済の使者も来和したが、いつもとは違う新羅の使者の有り様に言葉を失っていた。

 

 

皆全て唐の官服で揃え、護衛に付き添う衛士らも唐軍の軍装を纏う。

 

唐の旗こそないが、新羅の使者達は、唐軍の軍旗を押し立て乗り込んで来たかのような威圧的な軍容である。

 

和国の難波朝廷も、ざわめきたった。

 

「新羅は唐に服従し、もはや唐国となったか!」

 

「吾らは唐と国交を結ぶ訳ではない!」

 

整然と歩み来る新羅一団に怒号が飛び交う。

 

使者らは、全く怯みもしない。

 

出で立ちだけでなく、態度も唐そのものであるかのように堂々としていた。

 

使者は、強い語気で

 

「吾らは唐の文化に習い服装を真似ただけです」

 

と、言いはなった。

 

言葉はとぼけているが、立ち振舞いは唐国の使者のように尊大な振る舞いである。

 

新羅使者の目的は、

 

「和国と百済が新羅を攻めようものなら、その前に唐と新羅が、百済を挟撃する!」

 

と言う、唐新羅同盟の威圧を和国に与えることである。

 

まるで唐の使者となってやって来たかの様な新羅の使者の強気に、和国の群臣らに緊張が走る。

 

いざ唐人の格好をした使者を目の前にすると、

 

(唐は高句麗でなく、百済に攻めてくる)

 

という噂だったものがより現実感を増していく。

 

新羅にも既に、安芸国で百済式の戦船が造られているとの噂が伝わっていた為、使者の威圧で和国からの出兵を思い止まらせる狙いがあったが、唐の威圧が充分過ぎるほど効き、反唐である和国の難波王朝はこれに強く反発する。

 

左大臣巨勢徳太は

 

「今こそ新羅を討つべし!ここで攻めざれば100年の悔を残すだけである!」と、 

 

新羅使者を前に和国からの出兵を強硬に訴えでた。

 

人間は、文化の服装によって自分の集団と他の集団を区別している。左大臣巨勢徳太にとって新羅人は、もはや唐人にしか見えていない。

 

孝徳王は、ついに新羅の調使いを受けずに、新羅からの使者を追い返した。

 

しかし、そこで直ぐさまに出兵という訳にはいかなかった。

唐が高句麗だけでなく百済を攻めるとすれば、直接唐と矛を交えぬ国は和国だけである。

新羅が唐化し、半島全体が唐の影響を受け続けるであろうという時に、あえてこちらから唐の一部の様な新羅に戦をしかけることは危険が大きい。

 

新羅の存在は看過できぬが、火中の栗を拾うことなく、今しばらくは改新された和国での内政を充実させる時であるというのが、孝徳王の考えだった。

 

そして、新たな宮殿の造営を急いだ。

 

12月になり、和国難波王朝の象徴となる新宮はついに完成した。かつて、和国突厥勢が盛んだったころ威容を誇った四天王寺の北に、豪奢な宮都が誕生した。

 

孝徳王は喜び、念願の難波長柄豊崎宮の新宮へ移っていった。

 

出来たばかりの宮殿の空気は清く澄んでいて、凛としたみずみずしさがある。

 

あまりの宮殿の荘厳さに

 

(礼をもって)

 

と、誰もがそういう気持ちになった。

 

諸部族がひしめく上に王権が乗っていた様な古い和国の玉座とは違い、今までに無い品格がある。

 

孝徳王には、父ウィジャ王ほどの覇気は無いが、英邁でその玉座に相応しい気品を纏っていて、粋を凝らした宮殿と共に新しい時代の象徴として諸官の目に映っていた。

 

 

この年、ササン朝ペルシアはついにアラブのイスラム軍に滅ぼされた。

 

 

 

明けて652年、 

 

孝徳王は、難波長柄豊碕宮で政務をとり、国民の戸籍が作成された。

 

ウィジャ王の大化の初めより続けられてきた

 

【班田】の終りである。

 

ようやく、部族民を国民に変える為の作業が完了し、班田収授による国と国民との直接関係がここに築かれた。

 

 

難波王朝の新宮殿で、これを終えた孝徳王の喜びは大きい。ここから国家百年の繁栄が始まり、和国の輝かしい未来は自身の足元から続いている様に思えたが、これが難波王朝の絶頂であり、直ぐに瓦解することになるとは知る由もなかった。 

 

 

 

 

 

唐では、王皇后がいよいよ武媚娘を還俗させ、

 

「必ず、淑妃から高宗皇帝の寵愛を奪うように」

 

と、厳命し後宮へとおくり込んだ。

 

 

 

【挿絵表示】

武媚娘、

 

後に武則天として即位し中国史上初の女王となり、

 

『日本国』の建国に、重要な役割を果たす。

 

 

唐は、これより天下を揺るがすほどの骨肉の争いの時代に突入していく。

 

新時代の大変革の蠢動が始まっていった。

 

 

 



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第10章 和国【大海人皇子 イリ】登場

西暦652年~653年

第1話 役の業者 小角登場
第2話 大海人の皇子イリ 和国上陸
第3話 和国 難波王朝を離脱する王室
第4話 中臣鎌足 大海人王子に随身する
第5話 和国孝徳王 難波置き去り事件


【修験者 役の行者・小角登場】

 

652年、和国

 

上宮法王以後、和国でのゾロアスター教(拝火教)の修法は宝皇妃が行なっていた。宝皇妃による密厳な修法は、それまでの仏教には見られない王統のみに許される厳粛な儀式の様に見られていた。

 

時を遡り634年、和国王家の地・葛城地方(奈良県御所市)で秘伝の修法を感得する「小角」という者が生まれた。

 

小角は、生まれてきたとき手に花びらを握っていたという。長じて元興寺で修行し、651年に、小角は孔雀明王の修法を感得した。

 

この時代の仏教は、三蔵法師玄奘により唐国内に仏典がもたらされ、新たに漢訳された仏教が旧訳と入れ替り流行していたが、「阿頼耶識」「解深密経」「唯識」など、所謂、大衆向けの大乗仏教的な人の意識や森羅万象の有り様を説く仏法が主流であり、和国で小角が感得した修法などは仏教寺院の修行としては全く異質のものであった。

 

密教と同様に、ゾロアスター教の様相が見られるが、この頃はまだ密教は完成してはいない。

 

天竺(インド)で、「大日経」や「金剛頂経」など密教の経典が編纂され始める時代であり、唐国に漢訳がもたらされるのは半世紀以上先のこととなる。そうした意味では和国の仏教は、同時代の唐や天竺より先進的であり、仏教であり仏教でなかったとも言える。

 

後に小角は仏教から離脱し、

 

和国で初めて【修験道】を開き和国独自の山岳信仰の開祖となった。

 

唐や天竺より早く、和国で、このような先進的な宗派が誕生したのは、ひとえに上宮法王や宝皇妃のもたらした、源流であるペルシアのゾロアスター教からの影響が大きかったのだろう。

 

 

652年に班田収授の法による戸籍が完成されると、人々は国民の義務である役務に徴用される事になった。役務に就く民を役民と言い小角はこの役民を使役する業務についた為、役小角と言われた。

 

役小角は班田収受の法の酷吏として名を知られ、その修法で人々を恐れさせた。

 

鬼の子孫であるとか、神の子孫であるとかの伝承があり、和国で一目置かれていた土着の古部族らに対しても、なんら躊躇することなく使役していった法の執行人である。

 

人々は皆、そのさまを見て大人しく従った。

 

役小角には、大化の改新後の階級が全てであり、過去の部族社会の貴賎などに全く容赦がなかった。

 

やがて、数々の修法を感得し役民を私益することから役の行者とも呼ばれ、修験道と山岳信仰の始祖となると、日本列島にくまなく山岳霊場を開いていくことになる。

 

まだ王化に馴染まない民衆を惑わし、恐れさせ、従わせる役の行者の呪術は、三令五申する法の番人として、充分役立つものであったのかもしれない。

 

人々は、国民の義務にしたがって働きはじめた。

 

後世の封建社会の誕生と繋がる出来事だった。

 

 

 

 

【大海人の皇子イリ 和国上陸】

 

あけて653年、

 

唐の高宗皇帝が、周辺国との和平政策を進めてきたことにより、この年は、吐谷渾、新羅、高句麗、百済など、唐と敵対関係にあった国々からの入貢で平穏無事といった雰囲気が唐の宮廷には流れていた。 

 

和国からの遣唐使は、まだない。

 

しかし、対外的には平穏に見えても唐の宮廷内訌は続いていた。

 

長孫無忌の権勢が強まり、これを倒さんとした高陽公主と夫の房遺愛らは李元景を擁立しようと叛乱を企んだが露見してしまい誅殺された。

 

長孫無忌はこの事件に、高宗皇帝の兄李格(母は隋の煬帝の娘)に嫌疑をかけ無理やり連座させて自殺に追い込んでしまった。

 

長孫無忌は邪魔者を次々と左遷していき、朝政だけに留まらず軍部にも影響力を持ちはじめていた。

 

これを憂う高宗皇帝は2月に、引退していた元宰相の李勣を三度召しだし司空という高官に任命した。

 

 

【挿絵表示】

李勣

 

司空は唐の名誉職で兵権は持たない。しかし、李勣はまだ軍部に対して隠然たる力をもっていたと思われる。

だが、長孫無忌の警戒を避ける為に、帰還するなり李勣は病気と称して誰とも会わず、自宅に引きこもってしまった。

 

 

同じ頃、

 

653年2月和国、

 

難波は騒然としていた。

 

済州島のイリは、和国入りに先駆けて大海の里へと使いを送っていた。

 

イリを「出迎えるように」と、

 

先触れが伝わると、

大海の里、金一族の里、越の国から和国中のイリの手下や縁者達が続々と難波へと押し寄せてきて、難波の港は人で溢れかえり響動めいていた。

 

額田文姫も、イリとの間に生まれた娘・十市姫を連れ金一族を率いて駆けつけてきた。

 

 

【挿絵表示】

額田文姫

 

 

イリは、長槍を担ぎ船の舳先に立っていた。

 

頭上で鳶が風を受け、優雅に舞っている。

 

船が港に入ると着岸するよりも早く、津に響き渡るほどの大声で叫んだ。

 

 

「吾は皇太子弟、王室の者!大海を渡り今、和国へと戻った!大海人の皇子である!」

 

何年ぶりかのイリの大喝に、難波の港の者達は歓喜で出迎えた。

 

 

イリの妻、額田文姫は無事を信じ抜き燦然とした態度で帰国を待ち続けてきたが、この瞬間は思わず懐かしすぎる声に涙が溢れた。

 

とも綱が投げられ艀がかかる前に、イリは長槍を担いだままふわりと飛び、和国の大地に飛び降りた。

 

和国には槍の使い手は少なく、長槍を持てば和国一強い男であることに間違いない。

 

仁王立ちに長槍をひとふりし、槍柄を足元に突き立て、叫ぶ。

 

 

「吾は皇太子弟 大海人の皇子である!」と

 

改めて名乗りをあげた。

 

 

阿部比羅夫、安曇比羅夫、宰相の中臣鎌足ら和国の高官達までもが出迎えに連なり、その上、高句麗の客ではなく「王室の者である」と宣言されてしまい、港の難波王朝の諸官らは入国を差し止めることも、どうすることもできなかった。

 

真っ先に、中臣鎌足らとイリは手を取り合い、再会を喜んだ。

 

 

数年の旅を経て、一回りも二回りも大きくなって戻ってきたイリの姿に、和国の者は驚いていた。

 

雄々しく逞しい風貌に威厳は群を抜き、真っ黒に陽焼けした顔に光る眼は、今まで以上に眼力を放っている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

額田文姫の方もすっかり大人になり、凛とした居ずまいは皇太子弟の妻に相応しい。

 

大海人王子はそのまま出迎えの者共も引き連れ、上陸した足で難波王宮に向かった。

 

「和国も変わったものだな」

 

と、辺りを見渡し傍らにいた中臣鎌足に言った。

 

 

突然、和国に上陸してきたイリに、

 

難波王朝は追い詰められる。

 

 

「皇太子弟!まかり通るぞ!」と、大喝し

 

宮殿の孝徳王のもとへ向かう。

 

皆、その行動力に打たれた様に黙り、一歩二歩と後退りした。

 

いきなり登場した大海人皇子に、孝徳王は

 

「ぶ、無礼ではないか!」

 

と、驚き声を張り上げる。

 

孝徳王を睨みつけ大海人皇子は、

 

「そこの玉座に座っているのは、ウィジャ王ではないな。如何なる者だ?亡き上宮法王の嫡流であるか?」

 

と、問いただすかの様に言い放った。

 

「何を言うか!わが父ウィジャ王様より、和国の王座を継承した難波王朝の孝徳王なるぞ!高句麗宰相でなく、和国王室の皇太子弟を名乗るならそれなりの礼節をもって遵え!」

 

如何に言われようにも、孝徳王も引き下がる訳にはいかない。

 

巨勢徳太はいきり立つたが、中臣鎌足が制止し、固唾を飲み、二人のやり取りを注視する。

 

「上宮法王の嫡流でないならば、その者は和国王ではないだろう。即ち、そこの玉座も和国王の玉座などでなく、さしずめ『難波の里』の長の座であろうか。其れともここは、百済王の宮か?」

 

イリの声には、逆らい難い強さがある。大喝せずとも皆気圧されて、一瞬に黙してしまう。

 

 

(なんという奴だ、)

 

孝徳王は中臣鎌足の方を睨み、内心の怒りをぶつける。

 

「何より、和国の王都は難波でなく大和ではないか!?ここは和国王の宮ではない!吾ら和国の者は大和へ行くべきである!」

 

豪奢な宮殿にも目もくれず、大海人王子は不遜な言葉を吐き捨て、背をひるがえすと足早に去っていった。

 

 

(このままでは済むまい)と、

 

誰もが思った。

 

孝徳王に対して全否定の宣戦布告である。

 

大海人王子は居並ぶ諸臣たちに一瞥もくれなかったが、諸臣らは顔をふせ皆、大海人王子を直視することができなかった

 

『大海人皇子』と和国名乗りを上げ、その上堂々と皇子と名乗っている。

 

大海人皇子は孝徳王に凄まじい威嚇をした後、次に向かったのは義母・宝皇妃の宮で、無事の帰国を報告した。

 

「義母さま。只今戻りましてございます!」

 

宝皇妃は、より逞しくなったイリの風貌を染々と眺め、 頷き静かに話しだす。

 

「無事の帰還を嬉しく思います。相当な苦労をされたことでしょうに、本当によく無事に戻られました。大海人と和国名乗りを上げたそうですね。」

 

「はい。改めて言上申し上げます。皇太子弟・大海人皇子と名乗り申し上げます。子供時代を過ごした大海の里にあやかり大海人(オオアマシ)を和国名乗りとしました。」

 

大海人と名乗り、しっかり和国での覚悟を決めたようで、堂々たる威丈夫に宝皇妃は頼もしさを感じていた。以前、会った時にはイリと呼ばれることにも、呼ばれないことにも腹を立てていたが、その頃とは別人の様に落ちつき自信に満ち溢れている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「、、義母さま」

 

「玉座が大和に無く、諸官らは難波に移ってしまったようです。義母様は今一度大和に戻り、どうか都を築いて頂きたいと願います。」

 

「大和に?都を、、!」

 

「はい。西アジアではイスラム教のアラブが東漸し、ペルシアの王子らはインドに逃げ、ペルシア軍人は唐に亡命しヤズゲルト王は他国に逃げ込みましたが、西アジアの国はもはやアラブに敵いません。」

 

「ペルシア国の危うき今、どうかペルシアのゾロアスター教の火を消さないで下さい。大和に、須弥山を造営しカナート(水路)を引き水の女神アナーヒーターを祭るゾロアスター教の都を造って下さい。」

 

 

「なんと、!そのようなことが、、」

 

宝皇妃は、驚く。

 

大海人王子から、ペルシアのゾロアスター教が語られることも意外であった。

 

「今、上宮法王の子孫ガロは唐と戦っていますが、他の国々はアラブを恐れ、もう戦どころではありません」

 

大海人王子は、目にしてきた西アジアから中央アジアの国々の有り様を事細かに話し続けた。

 

宝皇妃は、故郷のアジア世界を偲びながら、一言一言しみいる様に聞いていた。だんだん話しを聞いているうちに、和国にゾロアスター教(拝火教)の王都を築ければという気持ちになっていった。

 

宝皇妃はこの後、和国女王として即位すると、大和にカナート(水路)と須弥山を造営し、ソーマを調合する為の、酒船石というゾロアスター教の調合台を作った。

 

中央に須弥山を置き水路で囲い呉橋で是を渡るという独特の世界感は、南アジアのインドに伝わりヒンズー教や仏教も取り入れたが、元々は西アジアのゾロアスター教が起源である。これにより中国仏教から伝わるよりも早く、和国で須弥山が創られたことになる。

 

「義母様、、難波は和国の都ではありません。どうか大和を都とし和国の女王として即位して下さい。一度、王室の方々を集め詮議願います。」

 

大海人王子は静かな表情たが、

 

何時になく強い語気を込めて念を押していった。

 

 

(皇子などと、名乗らせて良いものか、、)

 

宝皇妃は、まず義理の息子を正式に王室の一員として認めるべきかを悩み、高向玄里に相談することにした。

 

そもそも、大海人王子の妻・額田文姫は自分が産んだ娘でない故に追いやったのである。

 

高向玄里はこのとき東国にいて、和国突厥族の残党を含む辺境にいた民らを統べるべく常陸の国行方郡を設置し経営にあたっていたが、イリの帰還を聞き及び急遽早舟で上京してきた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

イリとはまだ顔を合わせていない。

 

高向玄里にとっては、宝皇妃を和国女王に即位させることは積年の野望である。

 

以前、宝皇妃を皇極女王として擁立しようとした時は隙がなかった。ウィジャ王を百済に追い払えればなんとかなると思っていたが、その後、蘇我石川倉麻呂らが粛清され孝徳王が即位してしまい、高向玄里の野望は破れ和国の僻地に追いやられてしまった。

 

それが、今になりイリが大海人皇子と名乗り、ウィジャ王を裏切って宝皇妃側に立場を変えてきたのだ。

 

(時節を待った甲斐があったか、、)

 

高向は息子の意趣変えに一先ず安堵していた。

 

大海人の「皇子」との名乗りは、

 

即ち「王室側につく」という表現で、イリの意志表明でもあると高向玄里は理解した。

 

大海人皇子の意図するところは判らぬが、協力させるのなら、むしろ積極的にこちらから大海人皇子の名乗りを認めて、

 

「是を王室の力とするべきである」と、歓迎した。

 

高向玄里にとって、宝皇妃を和国女王に擁立する最後の機会と思えたのだろう。宝皇妃に得心させ、大海人皇子を正式に王室の者として推し進めていくことになった。

 

 

 

 

【和国 難波王朝を離脱する王室】

大海人皇子は大海の里にも足を運び、大海の翁に無事の帰国を報告した。

 

翁はてらいもなく顔をくしゃくしゃにして帰還を喜んだが、大海人皇子(オオアマシ)との和国名乗りを聞き更に喜んだ。

 

 

【挿絵表示】

大海の里の翁 大海宿禰

 

そして大海の翁は、

 

「もう、高句麗には固執しない方がよい」と、

 

繰り返し言い聞かせる様に語りかけた。

 

幼き頃、「大器の器」と見込み手塩にかけ育てたイリが、苦難の歳月を経て更に磨きをかけ立派になって、大海人皇子と名乗り戻ってきたことに感激はひとしおである。

 

大海の翁には、イリの帰るべき里が、大海の里であることが嬉しい。

 

 

大海人皇子は額田文姫と娘・十市姫も伴っていて、懐かしい故郷で親子水入らずの時を暫し過ごした。

 

 

【挿絵表示】

額田文姫

 

 

六歳になったばかりの十市姫は、はじめて父の存在を知る。両手をいっぱいに広げても尚も父の背中は大きく、母とは違う温かさがある。

 

鬼をひしぐほどの壮漢が、小さな娘の手をとり、ここで心ゆくまで遊んでいた。

 

 

翌月、大海人皇子は大和に戻り義母宝皇妃の宮にて、武王の王室の者だけで会合をした。

 

間人皇后と額田文姫、

 

そして逼塞していた那珂大兄皇子も参上した。

 

 

【挿絵表示】

 

【挿絵表示】

 

 

亡き武王の妃と武王の子と、そして娘婿の大海人皇子、五人である。

 

 

 

中臣鎌足、阿部比羅夫らも招かれていた。

 

後世の名家名流を重んじる『武家社会』や『貴族社会』とは性質が違うが、部族社会の意識でも王統血統に対するこだわりはまだ強く、如何なる王族でも、必ず前王の養子や入り婿になることで跡継ぎとして王位に着くという先代の流れをくむ習慣が残っている。

 

大化の改新を経てもこれは変わらなかった。

 

小国の部族社会では、圧倒的な力の差がない為、中国の様な易姓革命(全くつながりのない別の王朝になる)は起きにくい。

 

たとえ武力で前王朝を倒すことはできても、他部族に対し武力支配でその後も政権を維持できるほどの兵力はないので、徹底的に前王朝を破壊するよりも平和的な政権合体策で前王朝と和合する方が多かったようだ。

 

一強による一元支配でなく、二元的な統治が部族の連合社会を生み出してきたのである。

 

そして和国には、王女(女王)に入婿するかたちで王位につくという不文律がある。先代の王女が皇后となり、また王が不在となれば代わって女王となる。

 

威徳王敏達、蘇我馬子、上宮法王も時の権力者として推古王女と結び、

 

蘇我王朝の山背王は上宮法王の娘と結び、

 

今度は難波王朝のウィジャ王と孝徳王親子が、二人とも上宮法王の孫娘である間人を皇妃としたのも、そうした女性血統主義を尊重したからであろう。

 

 

【挿絵表示】

 

 

和国には古い女系中心主義の習慣が、多少残っている。

 

女系中心主義では女性が首長となり、女性首長は『戸主』(刀自)という尊称で呼ばれ敬われていた。

 

特に上古の和国では、女性が家や里をかまえ、男は通い婚するのが常識であった。

 

家にあっては家長を女性とし『家戸主』(=家刀自)または母戸主と言う尊称で呼ばれ、里にあっては里長を『里戸主』といい一族にあっては『族戸主』と言い、集団の首長は必ず女性がなった。

 

母は子を産む存在であり敬われていることから、国を指しては『母国』という言い方をし「父国」などとは決して言わない。

 

和国で女性を敬い首長に立てる習慣は、そう古色蒼然とした遠い昔話しではなく、女王が即位しやすい土壌がある。

 

上宮法王の女系ということならば、間人の母・宝皇妃がまだ健在であり、大海人皇子は孝徳王を廃して宝皇妃を女王に擁立するつもりでいた。

 

「ウィジャ王の権勢の下に、今だに甘んじるべきでない。」

 

ウィジャ王即位の時は擁立したが、今の二代目孝徳王は認められないということである。皆、大海人皇子の言葉に意志の変化をくみとった。

 

大海人皇子は続ける、

 

「ウィジャ王は時勢を知らず、その二代目になどに王位を預けては和国に未来はない。孝徳王など無視して大和に都を遷し、和国王座には、義母様に女王として即位して頂こう。」

 

宝皇妃はゆっくりと頷き、

 

「女王となり、大和に都を造ります」

 

と宣言した。

 

既に覚悟を決めてる様であり、留める余地は無さそうである。

 

大海人皇子は、那珂大兄皇子の目を擬っと見た。

 

「ウィジャ親子は義兄にとっては父・武王の敵であろう、奴らにそのまま王座を預けておくというのか?母、宝皇妃に和国女王となって頂き、息子である義兄上が正式な皇太子となってこの国の未来をつくるべきであろう」

 

大海人皇子の説得に、那珂大兄皇子は驚きを隠せない。

 

何しろ義兄と呼ばれたのも初めてのことである。

 

もともと、ウィジャ王を擁立したのは高句麗宰相イリ=大海人皇子であり、

 

(何を今更、、!)と、腹も立つ。

 

しかし、蘇我石川倉麻呂ら味方を失ってしまい、ウィジャ王の天下で為す術もなくひっそりとしていた那珂大兄皇子にとっては、突然のイリの与力は捲土重来となる出来事だった。唐と高句麗が戦を止めた以上、その強力な戦力を和国に向けることも可能かと思われた。

 

和国で味方がなかった那珂大兄皇子に突如として、

「高句麗」という援軍が現れたのである。

 

天地が開闢したかの様に、那珂大兄皇子の前に和国は一変した。しかし、それも高句麗の軍王イリではなく、王室の義弟・大海人皇子であってこその後ろ立てである。

 

母宝皇妃の口から「大海人皇子」という言葉が出ると、王室の一員としてしっかりと認め、その権勢に乗ろうという態度が伺えた。

 

那珂大兄皇子もこれに従い、イリとは呼ばず、

 

「大海人皇子」と和国名乗りを認め、

 

大海人皇子も

 

「義兄上」と呼び、

 

二人の関係も一変した。

 

必ず周囲に対立する相剋関係を作り上げ、団結して刃向かえ無い様にするのがウィジャ王のやり方であるということは、那珂大兄皇子ももはや気がついている。

 

ここは、貴種としての顕示欲は捨てて、大いに団結し難波王朝を共に倒そうという気持ちになった。

 

あとは孝徳王の妻となっている間人である。

 

黙していた、間人は

 

「是非もありません、思し召しのままに。」と、

 

静かに小さな口を開いた。

 

 

【挿絵表示】

間人皇后

 

父・武王が殺されると、斉州島(耽羅)に島流しになり、そして和国へ渡り、父・武王の敵であるウィジャ王の妻となり、今度はその息子に嫁いだのだ。数奇な運命に逆らいもせず、貴種の女性血統としての運命に殉じてきたのである。

 

孝徳王に対しては、全く心はなかった。

 

権力者が変われば、

 

また、夫が変わるというだけのことである。

 

母の方を見て、目で頷いた。

 

王女に自由恋愛など許されるべくもないが、間人はもしも権力者に嫁ぐなら、大海人皇子の様な頼もしい漢に嫁いでみたいと思っていた。端から見ると、額田文姫と大海人皇子は気脈が通じ仲むつまじい夫婦に見えた。

間人も離別の意志を強く固め、王室は大海人皇子の提案どおりに一致団結した。

 

「汝らは、如何するか?どちらの王に従うか?」

 

ずっと傍らに控えて、王室会議を見守っていた中臣鎌足と阿部比羅夫に、大海人皇子はあえて問いかける。

 

反対であれば最初からこの場にはおれない。

 

「女王様に忠誠を誓います」と、

 

二人は宣誓し、ひざまづいた。

 

中臣鎌足はこの場ではそう誓ったものの迷いがあった。何しろウィジャ王の忠臣である。その一方で、鎌足は強烈な反唐派であり、反唐派の実力者である大海人皇子とはずっと気脈を通じてきた。

乙巳の変で、共に蘇我氏を倒したのも反唐政権樹立の為である。ウィジャ王と大海人皇子の間で、折衝を行ってきた立場だが、いよいよ身の振り方を鮮明に決めなければならない時がやってきた。

 

「この先、反唐を貫くならば大海人皇子につくしかない」と、

 

感じてはいる。

 

アジア天下は皆、唐の講和政策に乗っていき、唐と戦おうという機運は萎えかけてきていた。

何より反唐心か忠誠心かということよりも、現実問題として和国での局面は孝徳王には分が悪い。

 

大海人皇子の帰還は早くも百済に伝わっているが、誰にも大海人皇子の行動は止められず、突然の造反場面に為す術がなかった。

 

 

 

 

【中臣鎌足 大海人王子に随身する】

大海人皇子は、改めて中臣鎌足だけを呼び出した。

 

いきなり前置きもなく、問う。

 

「吾が高句麗と、ウィジャ王の百済、どちらが多く唐と鉾を交えているか。」

 

大海人皇子と違ってウィジャ王は唐に剣をふるったことはない。同じ反唐派と言っても、実際に唐と戦うのと親唐派を誅殺するだけの剣とは全く次元が違う。

 

「、、、」

 

 

【挿絵表示】

中臣鎌足

 

真の反唐派に与力するか、ウィジャ王に忠とするか、選べと言うことであろうか。

 

「ウィジャ王は反唐と言っても今は新羅を切り取ることしか考えてない。新羅取りの為の反唐なのだ。その様なことでは、もはや時勢に敵うまい。新反唐派として吾らは共に歩もうぞ。そもそも、今の様に新羅が唐に走ってしまったのは、百済が新羅を切り取りすぎたからだ、全てウィジャ王の野心が成せるがことよ!」

 

「そ、そんな!新羅の党項城攻めは高句麗との共同作戦ではないですか!」

 

「勿論!そのとおりだ。だが、その後の大耶城攻めは良くなかった。金春秋の娘を殺し新羅に怨恨を根差した。その後も新羅を攻めては唐にいなされ、唐には二枚舌を使ってまた新羅を攻め続けてきた結果、新羅はやむを得ず唐に随身したのだ。」

 

「乱世とは、かようなものかと」

 

「笑止千万!何が、乱世だと?!

アジア天下を見て回ってつくづく唐の勢力を思い知らされたが、唐は真に強大だ。それでも、尚、唐に侵されない国を造ろうという志しは変わらぬがな。新羅の金ユシンもそうだ。しかし、ウィジャ王はどうだ!新羅攻めしか目に入らず、天下というものが全く見えていない。乱世というものをまるで舐めているのだ。

 

だいたいウィジャ王は気がつきもせぬが、今の百済と新羅の争いなど唐にとっては介入の機会をつくる恰好の餌食なのだ。高句麗が命がけで唐軍の侵入を止めたところで、先に半島に唐に侵入させてしまっては意味をなさなくなる。それが、分からずに目前の欲望で動いてるにすぎない。当然、和国の兵はウィジャ王の欲望の為の新羅戦などに一兵たりとも使うべきではないのだ。」

 

確かにウィジャ王は慢心し、唐を軽く見ていることを鎌足は知っている。

 

高句麗王子だった少年時代に隋との戦があったが、ウィジャが剣を取ったことはなく、父・嬰陽王からウルチムンドク将軍など英雄の話しを聞かされていただけだった。

唐と隋では唐の方が遥かに強いが、実戦を知らないだけにその違いが分からない。高句麗の王族としての誇りもあったのだろう。

 

唐に勝ちながらも唐に謝罪した高句麗のことを陰では、

 

「腰抜け」と、ことあるごとに馬鹿にしていた。

 

東アジア三国を回っただけで天下の広さも知らずに反唐を唱えるウィジャ王と、アジア世界を巡って太宗皇帝が夢見た『アジア帝国』の奥行きを知り尚、反唐の志しを捨てぬ大海人皇子との違いに

 

中臣鎌足は考えこむ。

 

鎌足は、ウィジャ王の忠臣であり誰よりも功があったとして大錦冠を与えられていた。

 

が、反唐ということであれば、大海人皇子の話しを聞けば聞くほど、ウィジャ王より大海人皇子の方が志操が上であると思えた。

 

忠誠心より反唐心を上位に置くべきか悩む那珂大鎌足に対し、

 

「吾れの反唐とは、大錦冠を被る為のものか?」

 

大海人皇子は問いかけ、中臣鎌足の心が挫けた。

 

もとより地位が望みならば、反唐を貫いて高句麗から亡命することもなかったのだ、

 

「反唐の為なら名も地位も要らぬ!とはゆかぬだろうが、節を曲げぬのなら節を貫け。反唐の為に、今は吾に従え」

 

中臣鎌足は迷いを捨て、大海人皇子に従うことを決めた。

 

ここでウィジャ王に忠義だてして大海人皇子に逆らい、反唐派の実力者と仲間割れしてしまう訳にはいかないという配慮からである。

 

 

「鎌足は以前、ウィジャ王に寵妃を授けられたな。吾もな、同じに妻と子を鎌足に託そうと思う。いずれ、そのようにさせてくれ。」

 

「なんと、、!そのような過分なことを、、」

 

「吾も託された子であるような気がして仕方がない。吾と父とはあまりにも似ておらぬしな。母なる者が、親子名乗りを上げない限り、吾は自分の出自を確認しようがないのだ。

 

実はな、吾は宝皇妃の子ではないかとの噂がある。父高向玄里が宝皇妃を引き取った時、彼女の腹には無き嬰陽王との子が宿っていた。それが吾だというのだ、」

 

 

「か、、!かようなことは、ございませぬ!」

 

「分かっている。その頃お前は高句麗にいたから、その様なことも当然知っていたはずだろう。それに当の昔に宝皇妃本人にも確認し否と言われている。

 

噂ではな、上宮法王が高句麗の嬰陽王に妻と娘を差し出した時に妻は既に身ごもっていた。生まれた子は嬰陽王との間に出来た子供として育てた。それが今のウィジャ王だ。嬰陽王は娘との間にも子をなしていて、それが、吾だとの話しだ。

 

嬰陽王が暗殺され、栄留王が唐の擁立で王座に着いた時に、高向玄里が高句麗に送り込まれてきた。 高向玄里は嬰陽王の子を宿した宝皇妃を見いだし身柄を引き受けた。そして生まれた子供を自分の息子として育てたというのだ。宝皇妃は高向の妻となり、高向に協力することと引き換えに、子の安全の保障を求めた。高向玄里の子として育て、絶対に秘密は明かさぬ様に、と。そして、今でも秘密は守られているのだ。」

 

「、、、」

 

「しかし、もしも噂が本当であったら、おぬしはどちらの味方をする?上宮法王の隠し子ウィジャ王か?それとも嬰陽王の隠し子の吾につくか?」

 

「さ、そ、それは、高句麗王家に仕えた者であれば、その嫡流の皇子様を奉戴するのが当然でしょう。噂が事実であればですが、、」

 

全くの噂話しであるが、何とも出来過ぎている話である。噂話しとわかっていても尚、考えさせられる。

 

 

「亡命したウィジャ王子ならいざ知らず、高句麗に残っていた反唐派の嬰陽王の子種を生かすなど、親唐派にあっては絶対に許せない裏切りであり、死んでもそのような事実は明かさぬであろうし、露ほどの懸念も抱かせぬであろうな、、何事にも虚と実はあるものだ。」

 

中臣鎌足は、返す言葉がなかった。

 

 

「しかし、人間の運命とはおかしなもので 父や母が誰であろうとその家の子として育てられれば、皆そのように生きるのだな。決して本来の血統の出自を明かすことなく、家を活かしていく。吾がもしも妻と子をそなたに託したならば、そのように育て上げてくれ。吾の子であることは誰にも明かさずにな、、」

 

 

「恐れ大いことです。」

 

中臣鎌足は膝をついた。

 

 

後に、鎌足は大海人皇子に寵妃を託され子が産まれると、約束どおり自分の子として育てた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

藤原不比等といい、藤原貴族の繁栄を築く初代となる。

 

 

左右両大臣の説得には中臣鎌足があたった。

 

左大臣巨勢徳太と右大臣大伴馬合、宰相の中臣鎌足は和国きっての強烈な反唐派である。

 

鎌足に時勢を熱心に説かれ、反唐色の強い大海人皇子に皆、鞍替えをすることにした。

 

これで反孝徳派には反唐派が加わって、中臣鎌足、左大臣巨勢徳太、右大臣大伴馬合、那珂大兄皇子、大海人皇子、阿部比羅夫、高向玄里のそうそうたる面子が揃った。

蘇我石川倉麻呂を除いた、乙巳の変の実行部隊の面々でもある。

 

蘇我入鹿を倒した団結力の前には、孝徳王一人で、とても太刀打ちできるものではなかった。

 

 

 

 

【和国孝徳王 難波置き去り事件】

折しも難波王朝では、遣唐使を送る準備を進めていた。

 

和国での百済船の造船は、戦船ではなく遣唐使船だったのだ。

 

アジア諸国の朝貢に遅れながらも、これでようやく和国からも唐に使節を送れるまでになった。

 

孝徳朝にとっては唐の冊方を受ける為だったが、随行者の選定には大海人皇子からの圧力がかかり、孝徳王の味方を削ぎ落とすかの様に腹心の者達が多く加えられてしまった。

 

中臣鎌足は、かつてウィジャ王から寵姫である阿部小足姫をかしされた。その時、姫はウィジャ王の子を既に身籠っていて、生まれた子は「定恵」と名付け、密かに自分の子供として育てていた。

 

今や難波王朝の未来は危うく、ウィジャ王に繋がりのある者らは皆、排除されつつあり、これからの和国でウィジャ王の血を引く子が生き延びることは難しいであろうと哀れんだ中臣鎌足は、大急ぎで定恵を遣唐使に加え僧として唐に留学させることにした。

 

5月、2隻の遣唐使船は出航した。

 

しかし、2隻のうちの一隻は鹿児島沖で沈んでしまい120名中5名が生き残った。孝徳王の味方の多くは命を落とし、生き残った5名は、報奨と位階を授かった。

 

一隻は無事に唐にたどり着き、僧道照は三蔵法師玄奨に師事することができた。

 

遣唐使を送ったばかりであるにも関わらず、難波王朝では朝参せぬ者が出始めて、孝徳王は迫りくる孤独をひしひしと感じていた。

 

孝徳王は既に、間人皇妃からは、

 

「武王王家の者として、王室に従う」と、

 

意趣を伝えらるている。

 

唯一頼りにした味方であった僧旻は病に倒れてしまい、

 

孝徳王は僧旻を見舞った。

 

「もしも僧旻法師がいなくなったら私はどうして生きていけばいいでしょうか、明日、もしも法師が亡くなったならば、私も生きていられません」と、

 

涙を流しその枕元に立っていた。

 

 

翌月、

 

僧旻はこの世を去り、孝徳の頼りとする者はいなくなった。

 

ウィジャ王が和国を孝徳王に継がせた頃、那珂大兄皇子は味方を失い絶望していたが、今はまるで那珂大兄皇子と立場が逆転したようである。

 

大海人皇子の登場で、難波王朝は一気に冷えた。

 

孝徳王の味方は減り、那珂大兄皇子に野合して従っていた者や、高向玄里についた旧親唐派の者らは命を吹きかえしてきた。大海人皇子が「反唐」であることに変わりはないが、擁立するのが宝皇妃ということであれば話しは別である。

宝皇妃はもともと親唐派の武王の皇后だったのだ。

 

高向玄里と那珂大兄皇子は、がぜん朝廷工作にやっきになり、自分の勢力に取り込みながら反孝徳派を広げていった。

 

特に「名ばかり皇太子」となっていた那珂大兄皇子は、

 

「母・宝皇妃が女王となれば、次期和国王は吾に間違いない。吾を推せば即位の暁には汝らの意見は重く用いよう。」

 

等と、早くも即位後の約束をし、冠位昇進の空手形で派閥を拡大していった。

 

 

【挿絵表示】

 

那珂大兄皇子

 

 

6月、

 

那珂大兄皇子らは、母・宝皇妃をかしずき難波王朝に乗り込んだ。

 

 

「これより吾らは大和に遷宮し、上宮法王の嫡流である宝皇妃様に和国女王となって頂く!皆、従え!!」と、

 

大号令を下した。

 

那珂大兄皇子の態度は悠々たるもので、皆、気を抜かれた。

 

「都を大和に遷します!」

 

宝皇妃は両手を広げ諸官に命じた。

 

是を合図に、気脈を通じていた那珂大兄皇子派の者らは一斉に宮廷を去っていく。

 

 

 

「そ、そんな事は、させぬ!」

 

孝徳王だけは、これに抗うが、

 

「黙れ!王室の決定に従わぬ者は成敗するぞ!」

 

大海人皇子は大渇し、孝徳王を一蹴した。

 

「動かぬは誰ぞ!」と、

 

睨みをきかせ、皆すごすごと宮廷を去りだす。

 

 

「大和に行きます」

 

間人皇后も、静かに宣し孝徳王に背を翻した。

 

あろうことか、大海人皇子に手を引かれ間人皇后はしずしずと宮を去っていった。

 

呆然と立ちすくみ、まだその場に残っていた臣らも是を見て慌てて退出していく。

 

あまりに突然の出来事に、孝徳王は震えた。

 

「もはやどうにもなりませぬ。私も定恵様を唐へ逃がしました。この上は、孝徳王様も百済に引かれるのが賢明かと、、」

 

中臣鎌足が気落ちした孝徳王に最後に語りかけ、立ち去った。

 

 

宮廷の者は全て去り、孝徳王だけがただ一人取り残された。

 

茫然自失

 

 

(この様なことが、あって良いのか、、)

 

誰も居なくなった荘厳な宮を見渡し、悔し涙を流す。

 

 

どうする事もできなかった。ただ、ただ己の無力さを噛み締めていた。

 

父ウィジャ王に難波を任された以上、孝徳王は例え一人になっても大和に引くことは出来ない。

 

大和に向かった宝皇妃、那珂大兄皇子、間人皇后、大海人皇子ら王族は飛鳥河辺行宮に入り、大夫百官は皆これにつき従って行った。

 

 



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第11章 和国【難波王朝の終焉】斉明女王

西暦653年~654年
 
第1話 ウィジャ王の誤算
第2話 大和朝廷 斉明女王
第3話 遣唐使 高向玄里
第4話 大海人皇子と新羅皇太子法敏


【ウィジャ王の誤算】

 

那珂大兄皇子は母妹と共に、大和に入った。

 

 

【挿絵表示】

 

那珂大兄皇子

 

10年前、三人で百済から耽羅(済州島)へ島流しになり、和国へ落ち延びて大和入りした頃とは比べ様もないほど優越感に満ちていた。

 

飛鳥で仮宮を置き、宝皇妃の女王即位が着々と進められている。諸官はこれに従い、難波の孝徳王に従おうとする者は居ない。

 

難波では朝夕に奉ず官吏の姿は消えていき、難波の都は日々姿を変えていった。諸官は皆、屋敷を解体し大和へと運び出していく。

 

置き去りにされてしまった孝徳王は、もはや難波の新宮を維持する事ができなくなってしまった。

大海人皇子らは孝徳王の意に反し、政庁の解体もはじめた。庁舎の木材は切り込みを入れ組み立てられていて、全て解体して運んだ後に再び組み立てられる構造になっていて、解体されると直ぐに大和に運ばれていった。

 

孝徳王は、仕方なく山崎に宮を造りそちらに遷ることになっていった。

 

 

653年6月、

 

百済、新羅からの使いが来和する。

 

難波は既に王都としては機能しておらず、使者らは突然の変わり様に驚きつつも、難波から大和へ向かっていった。

百済からの使者らは、大和への遷都と孝徳王が置き去りにされた事態をウィジャ王に報告しに戻った。

 

先年、難波朝廷には追い返されてしまった新羅の使者だが、新たな大和朝廷には受け入れられた。

 

仮宮に案内され、宝皇妃に拝謁する。

 

新羅の使者より、亡くなった僧旻の弔問に仏像が献じられ、飛鳥の川原寺には仏像多数が安置された。

 

表向きは僧旻の弔問使だが、和国の政変を確認しにきたであろうことは明らかである。新羅の使者は何故かその後、大海人皇子に呼び出され密談をし帰国していった。

 

翌月、

 

大和朝廷より命を受けた中臣鎌足が、百済僧と共に百済へと向かった。

 

和国での政変に百済のウィジャ王は激怒している。怒り心頭のウィジャ王は和国へ出兵しようとしていた。中臣鎌足は、改めて事の次第を説明し申し開きしなければならなかったが、同時にウィジャ王を止め百済と和国の激突を回避させる目的を持っていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

ウィジャ王

 

 

【挿絵表示】

 

中臣鎌足

 

 

久しぶりの百済は騒然としていて、物々しい雰囲気の中、拝謁に向かった。

 

ウィジャ王は、中臣鎌足を前にし殺気立つ。

 

「鎌足!なんの面目があってやってきた。此度のことで首を差し出しに来たか!吾の寵妃まで与えたというのに、、この裏切り者め!!」

 

「申し訳御座いません、ウィジャ王様。申し開き様もありません。」

 

中臣鎌足は平身低頭しているが、ウィジャ王を怖れてはおらず何故か落ち着きはらっている。

 

「その首を叩き折ってやる!潔く首を差し出せ!」

 

「今、私を殺したとて、ウィジャ王様の利になることは御座いません。」

 

「何だと、、!それは、どういう意味だ?」

 

中臣鎌足の態度は、居直りにしては自信ありげである。怪訝に思ったウィジャ王は、鎌足の言い訳を聞くことにした。

 

「ウィジャ王様は今、和国出兵の準備をされていることかと思います。」

 

「当たり前だ!難波朝廷をないがしろにし、大和に遷宮して宝皇妃を即位させるなど捨てておけるか!直ぐにでも乗り込んで、反逆者どもを成敗してやる。」

 

ウィジャ王は顔を赤くたぎらせていきり立つ。

 

「しかし、ウィジャ王様。それは得策ではありません。和国のみならず百済をも失ってしまいます。」

 

「何故だ?」

 

「此度の、孝徳王置き去り事件は和国の政変ですが、それは同時にウィジャ王様を怒らせて誘きだす為の罠です。今、怒りに任せ和国へ兵を出せば、ここぞとばかりに新羅は百済に攻め込んでくることは間違いありません。

 

新羅から来た使者は大海人皇子と密会していきました。

 

孝徳王を置き去りにし、大和へ遷宮を扇動したのは那珂大兄皇子ですが、裏では大海人皇子と新羅の金ユシンが示し合わせての事変とみて間違いありません。ウィジャ王様を怒らせ、出兵してくるのを今かと待ち望んでいるのです。

 

大海人皇子は耽羅(斉州島)ともつながっている様ですので、おそらくウィジャ王様が和国へ出兵すれば、百済は新羅と耽羅から攻められ、高句麗からは大海人皇子の息子が攻め込む事になっているのかもしれません。」

 

「、、なんだと!」

 

 

「百済が、和国、耽羅、新羅、高句麗と戦になれば唐とて黙ってはいないでしょう。当に『四面楚歌』です。東アジアから百済は殲滅される危機にあります。ましてや、今は大干魃で百済の民は飢えてます。ひとたまりもありません。どうか、無謀な事は為さりません様に。」

 

「、、、」ウィジャ王は暫し言葉を失った。

 

 

「私をはじめ、巨勢大臣や大伴大臣ら反唐派は皆、大海人皇子様に乗り換えました。唐に侵されない国を造ることはウィジャ王様にはできないと判断したからです。そして諸官も、那珂大兄皇子様に従い、既に宝皇妃様を時期王と認めています。もはや面目に拘っている場合ではないのです。

 

今さら私を殺したとて、和国と反唐派の怒りを買い、唯一の繋がりを失うだけです。私は反唐の味方ですが、ウィジャ王様と戦いを起こしたくはありません。ですから、こうして戦を止めに来たのです。」

 

「よく抜けぬけと言うわ!裏切りを、開き直るか!」

 

「裏切ったのはウィジャ王様の方で御座います。私は阿部小足姫様を賜りましたが、姫の父の阿部大臣は誅殺され、蘇我石川倉麻呂様も自殺に追い込まれました。

 

和国の者は皆、ウィジャ王様に従ってはいましたが、阿部大臣らの様に『拘兎尽きて猟狗煮られる』粛清を怖れ、今やウィジャ王様に与する者などおりません。

 

そして、武王の皇妃であった宝皇妃が和国女王となり、武王の王子である那珂大兄皇子が皇太子となり、皇太子弟の大海人皇子と謀り、和国に大和朝廷を戻し、諸臣は皆、従いました。

 

乱世とはかように転変極まり無いものです。

 

今はどうか私を和平の使者だと思って下りますように。そして、和国との戦いは諦め鉾を収めて下さい。」

 

悔しかった、、

 

ウィジャ王は拳を振り回し、周りに飾ってあった調度品を叩き割り、何度も言葉にならない叫び声を上げ悔しがっていた。

 

冷静に局面を分析すれば戦は不利であることは理解できたが、抑えることができないほど憤りが噴出してくる。

 

剣を抜き、目の前にいる中臣鎌足の首に振り下ろす光景が何度もウィジャ王の頭の中に浮かんでくる。

 

が、剣の柄を握りしめたまま、遂にそれをしなかった。

 

暫しの慟哭の後に動きを止め、その場に座り込んだ。

 

中臣鎌足にとって、この場での生死をかけた口上こそが、反唐の戦いなのだろう。

 

生死厳頭に立って、怖れることのない鎌足の志魂に触れ、ウィジャ王はその向こう側にある和国の者共の不断の覚悟を感じとった。

 

まだ中央集権が道半ばのこの時代は、王に対する忠義など薄い。忠誠心よりも血統と力動とがものを言う時代であり、海を隔てた和国の者共のウィジャ王に対する評価は、がらりと変わってしまった事がうかがえた。

 

新羅の金ユシンとイリこと大海人皇子がどこまで共謀していたかは分からない。イリは済州島から和韓諸国の様子を探り、方々に使者を飛ばしていたであろうし、満を持して和国へ戻ったのだ。何事も起こらない方がおかしい。

 

中臣鎌足は続けて、和国の女王即位はもはやくつがえせないこと、唐にも冊方を願いでる遣唐使船の造営が開始しており、来春には派遣され冊方されるであろうことを懇々と説いていった。

 

結局、ウィジャ王は、

 

中臣鎌足は殺さず、和国への出兵も諦めた。

 

ウィジャ王は頭の回転が早い。

 

今の大和朝廷の和国を認め、

 

「和国とは改めて通交する、、」と、

 

呟く様に一言、吐き捨てた。

 

只、和国と戦をしないというだけではない。

 

自ら、和国の領有を諦めた言葉である。

 

もはや、百済・和国の二か国を領有する統治者ではなく、和国は既にウィジャ王の手から離れてしまった『外国』であるということを認めた上で、改めて百済と国交を結ぶという意味だ。

 

これで、和国の孝徳王ことウィジャ王の息子の孝は、完全に孤立してしまい山崎の宮に引きこもるしかなかった。

 

 

 

 

 

【大和朝廷 斉明女王】

大和朝廷と中臣鎌足に対するウィジャ王の怒りは、

 

(どうしてこうなった、、)

 

という、自責の感情へと変わっていった。

 

ウィジャ王は、百済、和国の二か国を領し、高句麗にいる息子の宝蔵王と共に三国連合国を樹立し、新羅を従わせ、東アジアに覇をとなえるはずだったのだ。

 

それが、何時の間に崩れ、砂上の夢の様にウィジャ王のもとから去ったのか、、

 

己の大望が砕け散ったことの顛末をはかるには時間がかかった。

 

 

「大化の改新は上手くいったはずだ!」

 

しかし、和国の群臣は難波朝廷に従わず、難波長柄豊碕宮を去った。

 

左右両大臣を殺したのがまずかったのか、性急すぎる班田収受の法が反感をかったのだろうか。

 

いきなり和国を任された孝徳王だが、実直な孝徳王は父ウィジャ王に任されたとおりに、粛々と和国の政務を実行していった。

 

しかし、孝徳王は和国の諸官や有力者の繋がりは薄く、和国古来からの宗臣に対しても何の遠慮もせず超然とした態度で望んでいた。

 

その上、一部の百済系渡来人を贔屓したりもした。

 

一度はウィジャ王の改新の詔りに従った和国諸臣も、突然やって来たウィジャ王の威を借る見知らぬ百済人がおもしろくなかったのかもしれない。

 

那珂大兄皇子に求心力があった訳でないが、孝徳王に不満を感じていた和国諸臣らは、那珂大兄皇子の

 

『吾の即位の暁には改新前の和国の状態に戻す』という

 

公約に飛びついたのだろう。

 

また不満の無い孝徳王派の高官に対し那珂大兄皇子は、

 

「吾が即位したら姫をめとらせ大臣に、、」

 

などと、出世欲を煽って切り崩していった。

 

元々、王に対する忠誠心は薄く、代々臣下の関係が続いてきた訳でもなく、後世の武士の様な主従関係の美徳なども一切存在していない。

 

孝徳王派の者が那珂大兄皇子に切り崩しに合い、一人減り二人減りという事が続き、残された者らは不安になったのだろう。後は雪崩をうったように皆、孝徳王のもとを逃げ出した。

 

上宮法王家の宝皇妃の存在や、高向玄里の暗躍も影響したと思われる。

 

何より、イリが大海人皇子と名乗り、睨みを利かせている事が大きい。

 

イリが、大海人皇子などと名乗っているのもウィジャ王は許せなかったが、

 

突然和国に登場したことに

 

(唐に監禁されていたはずではなかったのか、)

 

と、イリの動きを甘くみていた自分を悔いた。

 

 

ウィジャ王が粛清した先の両大臣が那珂大兄皇子を擁立しようとした時は、これをウィジャ王が断固阻止したが、

 

今は孝徳王だけで、女王擁立の主力である大海人皇子イリを抑えなければならない。

 

力の差は歴然としている上、ウィジャ王についていた反唐派の者も大海人皇子側についてしまった為、新参者の孝徳王の難波朝廷に従おうという者は居なくなったのだ。

 

ウィジャ王は自分が思っているほどには、戦が強いとは評価されていない。新羅に連勝し領土を切り取っていた頃は、国境の部族との戦だった。しかし、ピダムの乱以降の新羅は挙国一致し一枚岩の国軍になると、百済は以前の様に新羅に勝てなくなってしまっていた。

 

 

 

8月になり、正式に和国はウィジャ王の支配から独立した別の国となり、改めて百済と修交を結ぶことになった。

 

宝皇妃の和王即位をウィジャ王は認めたのである。

 

斉明女王と名乗った。

 

 

ペルシア王子で西突厥の王であった、父・上宮法王と共に西アジアから高句麗まで逃げ、夫・高向玄里に連れられ和国へいき、百済の武王の皇后となり、耽羅(済州島)に子供らと共に島流しになり、再び和国の大和の地を踏むという、長久な流浪の果ての女王即位であった。

 

 

ウィジャ王は、まだ暫くは腹の虫が治まらず、酒を飲んでは杯を床に叩きつけ悔しがっていた。この頃よりウィジャ王は次第に飲酒が酷くなっていった。

 

 

和国への出兵を諦め斉明女王の即位を認めてはいたが、和国にまだ未練のあるウィジャ王は、孝徳王に対して百済に帰国せよとの命は出さずに、

 

「死んでも百済に戻ろうなどと思うな!」と、

 

和国に留めさせた。

 

孝徳王の撤退は和国の完全な放棄となるが、今はなんとしても、次の一手を考え巻き返しを謀るしかないと考えている。

 

また孝徳王にしても今、百済に戻ったところでウィジャ王の怒りに触れ、和国を失った罪を糾弾されれば無事ではいられないと思い、引くに引けない状況であった。

 

「大和朝廷の思いどおりにはさせない!」と、

 

ウィジャ王の命を受け不退転の覚悟で臨むとした。そして、大和に細作を送り込み斉明側の宮に放火し是を焼いた。しかし、孝徳王側がどんなに妨害したとしても、再び大和朝廷から政権を奪取して和国を支配できるだけの力はもうなかった。

 

大和朝廷は、巨勢大臣を新羅に遣わし、和国がウィジャ王の領有から独立し、別の国となった事を伝えた。

 

 

 

【遣唐使 高向玄里】

 

中臣鎌足はウィジャ王と決別した今、改めて大海人皇子側に立つことを決心した。

 

そして、大海人皇子に王位を狙うなら和王になるべきと進言する。

 

「五大部族の影響の残る高句麗で、王にとって変わることなど到底許されることでなく、例え王位についたとしても部族らの統制は容易でないでしょう。その上で、唐と戦い続けなければならないという、内憂外患の状態にさらされ、王位の維持にも相当な困難がつきまといます。私も、元は高句麗王家に仕えてましたが、今更あの複雑化した国に戻ろうという気は全くございません。

 

和国は、部族長らの影響も薄くなり御しやすい国で、唐からも遠く海を隔て守るに易い国です。

 

その上、何よりも、推古女王のように女王を立てる習慣が和国にはまだいくらか残っていますので、まず、女王を立て、その夫となれば容易く王となることができます。そうすれば簒奪することなく王位につけるのです。その様に和王におなり下さい。そして、どうか唐に侵されることの無い強い国を造って下さい。」

 

 

中国の様な大国では、一強による一元支配が原則であり、権力を望む者は王に姫を嫁がせ皇子を擁立し外戚として実権を握るか、王朝ごと倒して自分が王になるしかない。

 

和国の様な小さな部族連合だった国では、まず女王を擁立し、自分がその夫となることで王となることが常であった。中臣鎌足は、和国のそのやり方に従って王位につくべきであるという事を進言したのだ。

 

大海人皇子は、中臣鎌足の進言を容れた。というよりも、中臣鎌足が全く自分と同じ考えであったことに確かな手応えを感じた。

 

大海人皇子、すなわち高句麗宰相であったイリは、高句麗宝蔵王の養女婿となり「高 任武」と名乗り高句麗第二王子の立場を得ていたが、唐に向かい高句麗を留守にした途端、高句麗では部族長らの暗躍が始まっていた。

 

唐への謝罪を期に高句麗を親唐へ転換しようと謀っていた。

 

大海人皇子は和国の王位は狙うが、和国だけでなく、高句麗の息子達や新羅の息子法敏とも連携を密にし、来るべき動乱に備えなければならないと考えていた。

 

「先ずは、和国の斉明女王で唐の冊方を受けておかねばなるまい。鎌足、、かなうと思うか?」

 

「出来ると思います。唐は、和国の随身を待っています。高宗皇帝の代になり和平講策に転じましたが、高句麗攻略は決して諦めてはいません。高句麗を背後から脅かすのは新羅で、新羅を挟む百済と和国の存在は捨てて置けません。和国という布石を置くことは重要であり、決して征当たり等で和国へ逃がさない為にもぞんざいには扱えないでしょう。」

 

「で、あるか。唐にとっては利となるな、、」

 

「その様に存じます。一時的に敵国に利となる事ですが、それよりも和国で『斉明女王』の皇統を確かなものにする事の方が遥かに利があります。唐の冊方はなんとして受けておかなければなりません。」

 

「、、斉明女王の皇統を不動のものにしてから斉明女王の娘・間人皇女に跡を継がせ、吾が入り婿して間人の夫になり『和王』となるか。」

 

「左様に。そして今、斉明女王の側近として権を振るおうとしている高向玄里は、遣唐使にして唐に送り出してしまいましょう。これ以上の適役はなく、高向玄里は拒むことはできないはずです。唐が斉明女王の冊方を認めないほどであれば、高向玄里とて無事ではいらないでしょうし、認めたとしても監禁くらいはされるかもしれません。どちらにせよ邪魔者は片付きます。」

 

「はっ、はっ、、!遣唐使船は和国に帰し、唐が殺しも監禁もせぬ時は、迎えの船は出さぬ。邪魔者どもは皆、唐に置き去りにする!父は漢人なのだ。思う存分故国に滞在し、長孫無忌らとねんごろに過ごすがよいだろう。」

 

 

 

この年、唐では皇宮入りした武媚娘が高宗皇帝の王子を産んだが、まだ長孫無忌の権勢は衰えてはいなかった。

 

高宗皇帝は、武媚娘との間に王子が生まれことを大層喜び

 

「老子は李弘として生まれ変わる」

 

との言い伝えにならい、李弘と名付けた。

 

これによりやがて貪攬な武媚娘の台頭が始まり、高宗皇帝の伯父で権力を握ってきた長孫無忌には、陰りが忍び寄っていく。

 

 

 

明けて654年1月

 

中臣鎌足は大和朝廷より錦紫冠と封戸を授かった。

 

百済のウィジャ王に、和国の斉明王権を認めさせた事の報奨であり、斉明女王からの初の賜授となる。

 

大和朝廷の始動が、中臣鎌足からであったことは和国諸臣に時代が変わった事を知らしめる目的もあった。

 

古人王の時は、官位を与えられようが固辞して決して受け入れなかった中臣鎌足であり、ウィジャ王には大錦冠を与えられ、百済総督まで任されていたほどの側近中の側近であった。

 

その中臣鎌足が、斉明女王から

 

「有り難く賜わった」というだけで、十分な効果がある。

 

そして、中臣鎌足が上奏した

 

「この度の遣唐使は高向玄里に」

 

という案には誰もが賛成した。

 

高向玄里自身も失った唐との関係を回復する為に、新羅の遣唐使に紛れて入唐しようと頼んだ事があったほどであり、

 

(斉明女王の冊方となれば吾が動くしかあるまい)と

 

考えていた。

 

しかし、自分が再び斉明女王の夫となり和国を支配したいという野心が無い訳ではない。

 

出国後の和国の行く末は気がかかりであり、まして極東政策の失敗を問われれば、無事では済まされないかもしれない。

 

高向玄里は最後の最後まで、唐への出航を躊躇っていた。

 

斉明女王も気が気ではなかったが、もはや女王として即位した以上、唐の冊方は受けなければならない。

 

 

【挿絵表示】

高向玄里 

 

大海人皇子は、高向玄里に詰めよった。

 

父と子でありながら、同じ国で共に暮らした事も殆どなく、今更ながら親子らしい会話などない。

 

「なんとしても唐に行って貰おう。」

 

大海人皇子は、静かな表情で言う。

 

 

「唐の都を見てきたのか?」

 

「見たとも、、唐だけでなく天下の隅々までな、、」

 

「唐に監禁されていた訳ではないのか?」

 

「当たり前だ!吾は、遁甲術は達者な方でな。此度は、そっちが入唐する番であろう、、監禁されるやもしれぬがな。」

 

高向玄里の表情が曇る。

 

 

「ゲソムン、高句麗へは戻らぬか、、」

 

イリ・ガスミは、高句麗風の発音ではヨン・ゲソムンとなる。大海人皇子とは呼ばず、高向が高句麗から和国へ向かう途中、自らが名付けたその名前で敢えて呼んだ。

 

「その名を呼ぶな!未だに父親のつもりでおるか!」

 

目を剥いて、剣の柄に手をかけ怒鳴り返す。

 

「だが、高句麗ではまだお前のことを『ヨン・ゲソムン閣下』と呼び帰国を待っている者もいよう。早く戻らねば、唐の攻撃でなく部族長らに切り崩されるぞ。東部家門の淵(イリ)家はもはや押さえが効かぬ。」

 

高向の言うことは最もだったが、と言って引く訳がない。

 

「今は、高句麗より和国だろう。高句麗の息子らには既に伝書を送っている。和国のことは吾と義母、斉明女王に任せて、高宗皇帝の冊方を受けてこい。でなければ、和国の地に立つことなど許さん。」

 

遂に抜刀し、言い放った。

 

 

結局、大海人皇子らによって高向玄里は半ば追放の様に強引に遣唐使船に乗せられてしまった。

 

 

 

これが、この父子の今生の別れとなる。

 

 

 

 

【大海人皇子と法敏】

 

2月、斉明女王即位の冊方を上奏しに遣唐使船は出航した。

 

新羅路を進み、新羅に一時寄港した後、唐へ向かった。

 

 

3月、新羅の真徳女王が没し、皇太子の金春秋が新羅王に即位した。

 

 

金春秋は王号を『武烈王』と号し、法敏が皇太子となった。

 

『武烈』とは100年以上前、和国から新羅に逃げた大和の王の王号である。後に法興王となったが、エフタル族の宣化将軍こと真興王に倒され王位を奪われてしまった。

このエフタル政権以前の『武烈王』という王号を敢えて名乗ることで、エフタルの真興王統から王権を取り戻したことを主張していたのだろうか。

 

新羅も唐へ冊方を願う使者を派遣し、高宗皇帝は武烈王の冊封をし開府儀同三司新羅王とする。

 

新羅と和国が、ほぼ同時期に王位交代がなされた事は偶然ではなく、裏では大海人皇子や金ユシンの謀略があったのかもしれない。

 

和国からの遣唐使船が新羅に寄港した時に、1人の壮士が新羅に降り立った。

 

長槍を担いだまま、金ユシンのもとへぶらりと向かう大海人皇子である。まるでその辺を散歩でもするかの様な出で立ちであり、とても海を渡ってきたとは思えぬほどの気楽さで金ユシンに合いにやってきた。

 

金ユシンは、少年の頃剣の手解きをしたイリが、天下を巡り今、大海人皇子となり新羅にやってきた事に、時の流れをしみじみと感じていた。

 

入唐を促す前に、高句麗と新羅の国境で会盟して以来の再会となる。

 

「兄貴!とうとう法敏が皇太子となる時がきたな。」

 

大海人皇子は再会の挨拶もせず、二人の計画を喜ぶ。

 

「義弟よ!よくぞ、唐より無事に戻った。流石だ、、その威丈夫、頼もしいぞ。」

 

金ユシンは、一回りも二回りも勇壮になったイリの漢ぶりを喜んだ。

 

「大海人皇子と呼ばせて貰おう。誠に立派になった。腕の方も相当上げたろう。どうだ、久しぶりに手合わせせぬか?」

 

将に壮(おとこざかり)となった大海人皇子が、少年の頃よりどれ程の成長を遂げたのか、金ユシンは剣でそれを感じてみたくなった。

 

「おう!それは面妖。久しぶりにやるか。もう昔の様には勝つことはできぬぞ兄貴。」

 

「はっ、楽しみだ。こちらも思い切りでいくぞ。」

 

二人は、剣技場に行き立ちあった。

 

数十合、打ち合ったが、実力は拮抗している。

 

金ユシンは既に初老と呼べる歳になっていたが、まるで衰えを感じさせない。常に百済からの侵略と戦い続けてきた金ユシンは、剣を振るった実戦経験では東アジアでは他にならぶ者がいない大将軍である。

 

「金ユシン大将軍の実力は、泣く子もだまる唐の李勣将軍を凌ぐ」と、

 

新羅のファラン達に噂されていたほどだったが、或いはその通りかもしれない。むしろ、その金ユシンと互角に打ち合う大海人皇子の方が凄い。

 

ファランでの修行時代はかなわなかった少年イリとは、全くの別人の様である。

 

暫し、打ち合ったが、決着はつけぬまま終わった。

 

 

 

ほどなく、真徳女王が没し金春秋が武烈王になると、法敏も正式に新羅皇太子となり、大海人皇子と法敏は親子の対面をした。

 

 

金ユシンは、

 

「法敏を新羅の皇太子にし共に進もうぞ」と、

 

誓った日より、徹底的な英才教育を行ってきた。

 

そして、高句麗の宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)が、血のつながった実父であるという事も伝えた。

 

法敏は幼い頃から、母鏡宝姫より実父の存在はそれとなく漏れ聞いて育ってきた。

 

養父である金春秋と、伯父の金ユシン、母鏡宝姫に大切に育てられ、過分なほどの家族に恵まれた法敏は、実父に会えぬことが寂しいと感じたことはなかった。

しかし、アジア天下に反唐の名を馳せた高句麗の宰相イリ・ガスミが父であるということを知ると、

 

「できるならば、お会いしたい」と

 

憧憬を抱く様になっていた。

 

もとより法敏は、反唐精神を金ユシンから受け継いでいたが、金ユシンの強さへの憧れと同様に、アジアの大国唐と戦う高句麗宰相イリ・ガスミの武威への畏敬は、強いものだった。

 

高句麗の英雄、

 

ウルチムンドク将軍

楊万春(ヤンマンチュ)将軍

そして、

 

宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)の名は、

 

東アジアで剣を持つ者なら知らぬ者はいない。

 

 

いざ、その実父と対面すると法敏は肩が震えた。

 

今は和国の大海人皇子として、法敏の前にいる。

 

大海人皇子、鏡宝姫、法敏、十数年ぶりとなる家族の対面の時が来た。

 

「会いたかった。」

 

開口一番、大海人皇子の言葉は、息子法敏の心に届き親子をつないだ。

 

「吾は義兄金ユシンと共に、唐に侵されぬ強い国をつくる誓いを立て、互いに大業の為に動いている。しかし、高句麗にあっては例え親子であろうとも敵味方の立場。今、和国の皇太子弟としての地位を固め、こうして対面がかなった事が嬉しい。吾身は何処にあろうとも新羅にいる息子の事は心から忘れた事はなかったぞ。」

 

法敏も鏡宝姫も、大海人皇子のその言葉を嬉しく思った。

 

和国の額田文姫が大海人皇子の子を産んだ時に羨み、

 

「私には風も吹かない、、」と歌ったことがあるほど、

 

鏡宝姫も、最初の夫であるイリ・大海人皇子の存在は忘れた事はなかった。

 

 

【挿絵表示】

鏡宝姫

 

大海人皇子はしばらく家族との時を過ごした。

 

この場にあってのみ、新羅で金一族を率いる伽揶王室の姫・鏡宝姫こと鏡王の入り婿の立場である。

 

大海人皇子は義兄の金ユシンと鏡宝姫と息子法敏との暮らしを望んで捨てた訳ではない。父高向玄里に無理やり引き離され高句麗の大臣にさせられたが、今、改めて新羅で再会する機会を得、金一族との絆を更に深めた。

 

とは言え、高句麗と新羅は敵国である事に変わりはない。高句麗の部族長らも、何かを勘づいてか、イリ・大海人皇子の息子らの対立を、しきりに画策している。

 

今回は身分を忍んでの新羅入りであり、

 

長居することは出来ず、大海人皇子は新羅を後にした。

 

 



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第12章 【武媚娘皇后】と臨戦態勢に入る東アジア

西暦654年~656年

第1話 ペルシアの終焉と 高句麗の風雲
第2話 斉明女王の和国と 唐の高句麗出兵
第3話 翳りゆく百済 ウィジャ王の廃退
第4話 シュメールの系譜と和国小部族連合
第5話 戦慄! 残酷な武媚娘


【ペルシアの終焉と 高句麗の風雲】

 

天竺(インド)

 

イリ達が、和国へと旅立った後のこと。

 

ペルシアのぺーローズ王子は、インドからの軍事援助をなんとか取りつけ、父ヤズゲルト王を助ける為に亡命先の吐火羅(トカラ)に援軍に向かっていった。

 

吐火羅はアラブの侵攻の前に立たされていたが、ペルシアの同盟国だった西突厥の後押を受けなんとか国を保っていた。

 

(※吐火羅=ウズベキスタン・アフガニスタン・トルクメニスタン辺り)

 

ぺーローズ王子は、インド兵を率いて大急ぎで吐火羅に駆けつけたが間に合わず、ヤズゲルト王は逃亡先で裏切りにより暗殺されてしまっていた。

 

ペルシアという国が無くなった事に続き、

王が亡くなったことによって、

 

ペルシアはここで滅亡した。

 

 

ペルシアはアーリア人の宗教『ゾロアスター教』を国教として栄えてきた国だった。

 

吐火羅がある中央アジア、バクトリア地方はゾロアスター教の発祥の地で、古代ペルシアの配下であったが、アラブの侵攻に堪えるため今は突厥の配下になっている。

 

 

東のサマルカンドより天山山脈を越えれば唐である。中国とペルシアは、二百年以上の往来がある通商国で、ここに逃げこんでいたヤズゲルト王は唐に使者を送りしきりに救援を求めていた。

 

ペルシアの国教、ゾロアスター教の歴史は古く、

紀元前より1000年以上続いてきた。

 

古代アーリア人から発し北インド、中央アジア、西アジアで広く信仰されている。

 

仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教に影響を与え、後世のヨーロッパ哲学やナチス、アジア人の世界観にまで、この後もその影響は続いていくが、このゾロアスター(=ツァラッツストラ)の教えの宗主国としてのペルシア国の繁栄は、アラブのイスラム教徒の侵攻によって今、ヤズゲルト王が暗殺され終焉を迎えた。

 

ペルシア滅亡後もイラン高原南部で、神官らによって『ゾロアスター教』は残ったが、300年もの年月をかけてゾロアスター教徒らはイスラム教へ改宗していった。

 

開祖が灯した火を千年絶えることなく燃やし続ける様な『火』を崇める信仰も、東アジアに伝わり残滓を残す。

 

開祖ゾロアスター(ツァラッツストラ)が誕生した時は、笑って生まれてきた。

赤ん坊は泣いて生まれてくるもので、人の世に生まれると悪神に攻められやがて死んでいくのを知り泣いて生まれてくるという。

 

人の世の苦しみを終え、浄土にある極楽の世界にいき(=後生)笑顔になるはずのものが、人の世での学びを終えて既に昇天したかの様な笑顔で生まれてきたゾロアスター(ツァラッツストラ)には、様々な奇瑞と試練があったがやがて、彼の教えは王やアーリア人を通じアジア世界に広がって行った。

 

500年、1000年と経ち、やがてブッタやイエス・キリストが誕生すると彼らの教えの中にも、

『弥勒信仰』『最後の審判』などの末法思想で影響を残していった。

 

 

ペルシアの遺民も含め、ゾロアスター教徒の王族への忠誠心はもう失われかけていた。

 

元々、

 

人々の忠誠心などではなく

人々の信仰心によって存在していた王である。

 

則ち、現人神である王とは=神に選ばれし者ではない。「神その者が王である」という不変の信仰心による王位がゾロアスター教徒にとっての王だったが、

半世紀ちかく前、ホスロー2世の後継が途絶えてしまい、王不在のまま内紛が起き傍系の王族や将軍らが次々と「王」を名乗り出した。

 

それが、現在のヤズゲルト王である。

 

神である王が負けるはずはなく、負けて逃げているヤズゲルト王に対する求心力はもはや消滅していて、ペルシア人は四散している。

 

ヤズゲルト王のペルシア軍がアラブ軍のサッド将軍に壊滅されてからは、ヤズゲルト王の親衛隊までアラブに降りペルシアの攻撃に加わった。

 

当初は、イスラム教への改宗はそれほど求められなかった為、将軍らは次々と部隊を率いてアラブに降り、アラブ・ペルシア連合軍というほどの混成軍となり、ペルシアとヤズゲルト王を攻め立てた。

 

ペルシアは支配階級がアーリア人だったが、これがアラブ人の支配に変わるとペルシア支配時代よりも税が安かったのでに民衆にも歓迎されている。

 

徹底的にイスラム教への改宗を迫ったわけではなく、「改宗するか」「貢ぐか」「玉砕するか」、三つの選択支を与えた為、人々は税を払ってゾロアスター教の信仰を続けた。

 

 

ヤズゲルト王の亡命先の総督はゾロアスター教徒だったが、アラブとの戦いを前に気持ちは揺らぎ、王の衛兵ら数人に不安をはなった。

 

「王は現人神だろうか、、神ならば何故、悪神に勝てなかったか、、」

 

総督の問いかけに衛兵らは堰を切ったように、

 

「神でなく人です!神の子ですらなく、何の力も聖術も無くただ逃げ周っているだけの人間ではないでしょうか」

 

衛兵らは、焦りを露わにした。

 

「ペルシアの戦士らは皆ちりぢりになり、アラブへ投降するか、他の者は唐へ行き傭兵になりました。吾らは衛兵であればこそ、此処に留まっていますが、出来ることなら彼らの様に出奔したいです!

 

ここの戦いで例え勝ったにしろ『ペルシア軍』の再生はもはや不可能ですから、、」

 

 

「ヤズゲルト王が救援を頼みとした唐は、助けようともしない。これ以上匿まったところでアラブに殲滅されるだけだ、、」

 

 

「まさしく、、そうであるな。攻められるよりは、投降するしかない。しかし、今の吾らは軽々しく動けぬ立場。動く為には…」

 

 

王の側近と、衛兵らは暗殺を決めた。

 

 

 

インド兵達は、ヤズゲルト王救援の要望で従ってきてただけなので、目的のヤズゲルト王が亡くなったと聞き、アラブを恐れてあっという間に兆散してしまった。

 

ぺーローズ王子は仕方なく、単独で吐火羅に入っていった。

 

ペーローズ王子は父ヤズゲルト王同様、吐火羅から唐に窮状を訴えて、アラブと戦う為の援軍の出兵を強く求めた。

 

しかし唐はこれを拒み、アラブに対して和解の使者を送っただけだった。

 

もしここで援軍兵を送れば唐とアラブは直接ぶつからなければならない。

 

唐はこれ以上介入するつもりは全くなかったし、この頃の吐火羅は、西突厥の勢力下にあり、何れにしても助ける訳にはいかなかったのだろう。

 

また、アラブも唐から和解勧告を受けたとしても鉾を納めるはずもなく、ペルシア王家をそのままにしておく訳にはゆかない。

 

ましてや、吐火羅へ侵攻し勢力を拡大させる機会である。

 

結局ペーローズ王子らは、吐火羅の兵だけでアラブと戦うことになってしまった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

しかし衆寡敵せず、ペーローズ王子らは敵わず大敗してしまい逃れて行った。

 

と言っても、

 

落ち延びる先など無い。

 

吐火羅はやがてイスラムに支配されてしまうが、唐も是を助けず、アジア天下にいよいよ居場所がなくなってしまったぺーローズ王子ら生き残ったペルシア王族達は、

 

654年4月、意を決して

 

インドを抜けて南海航路より東を目指すことに決めた。

 

「もしもの時は、東方へ」と、

 

イリの使者らに伝えられたとおり、ぺーローズ王子は弟のダーラーイ王子と王女二人を伴い、和国へ亡命しようとしていた。

 

唐国がアラブとの衝突を恐れペルシア王家を助け様としない限り、今は唐国でさえ決して安全とは言えない。

 

北アジアの突厥も中央アジアの吐蕃(チベット)、南アジアの天竺(インド)さえも唐の影響下にあり、アジア天下で最も安全な場所は東アジアしかないだろうと思えた。

 

「兄上、まだ唐にもアラブにも属してない国があるのは東アジアだ。しかも最果ての和国という国は、吾がペルシア王家の血を引く女王の国だとというではないか、、」

 

広いアジアの中で居場所を失い、再起をはかる為には落ち延びる先は今は和国しかない。

 

「しかしダーラーイ、、如何にして和国へ行けばよい?」

 

ペーローズは、それほどに東方に詳しくなく聞きかじった程度の事しか分からない。

 

「天竺の南の国のマーマッラプラムに、ペルシアと広州(香港)と交易していた商人がいて広州にも拠点がある。そこまで行けばおそらく航路は分かると思う。できればそこで船を雇って東に向かおう。」

 

ペーローズは、弟の提案に深く頷き決心した。

 

ペルシア王族らはイリ達と同様にインダス河を抜け、ダウ船に乗りアジア北東へ向かい出航することになった。

 

※マーマッラプラム(=マドラス)パラッバ朝の首都があり東西交易の国際港として栄えた。中国交易船の寄港地。千年後には東インド会社も置かれたインドの国際交易都市。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

アーリア人の宗教であるゾロアスター教は『天獄と地獄』と言う善悪二元を説いた世界初の宗教である。やがて末法思想『世界の終末』や『救世主』の存在も生まれた。

 

こうして人々は、罪悪感や恐れの意識、つまり心理的な負債を植え付けられたことによって、求心力は高まり

 

更に信仰心を強めた。

 

 

 

政治が宗教に求めるのは、一体性である。

 

国教による強い神の存在によって、強い信仰心が生まれ、人々は一致団結し強い国となる。

 

アーリア人の『負の植付け型宗教』は更に信仰心を強めるものだ。

 

挙国一致して、強国に立ち向かう時には必要なことだが、強国が弱小国を吸収する時は逆に北アジアの突厥がそうした様に、それぞれの宗教や信仰を認める場合もあった。

 

政治的中央集権・文化的地方分権の和合策に近いが、しかし、やはり一体性には欠け強い結びつきは生まれず綻びやすい。

 

 

アーリア人の宗教は元々「身分制度」が宗教の中にある。

 

 

上位から『神官階級』『戦士階級』『庶民階級』に厳しく分けられ、中央アジアでゾロアスター教を開いたアーリア人はこれを保持し、

 

インドに渡ったアーリア人たちはバラモン教(ヒンズー教)を開き、この下に『階級外』シュードラが加えられてインドのカースト制度・四階級制が生まれた。

 

 

各、階級には対応する神がいて

 

神官階級は、最高神である太陽神を崇め

戦士階級は、軍神のインドラ(帝釈天)を崇め

庶民階級は、河の神、火の神を崇めるという様に

 

庶民の土俗的な信仰の神々の上に、軍神や最高神をいだき天界の神々の序列がそのまま、人間界の身分制度になっているという支配階級にとって都合よく作られた宗教だ。

 

このアーリア人の負の植付け型宗教と宗教による身分制度は、時代が変わり、支配階級や国が変わっても尚、千年二千年、三千年と残り続けた。

 

もはや、国や王を超える存在である。

 

 

アラブに投降した後も300年もイスラム教に改宗しなかったペルシア人達が、ヤズゲルト王を裏切ったのは王との主従関係の裏切りというより、王が宗教に見捨てられたという事なのかもしれない。

 

しかし、ペルシアは滅ぼうともイリはゾロアスター教を知りペルシアの王族と出会ったことで、この宗教の支配制を学んだ。

 

天武天皇として即位した後には、

伊勢神宮の内宮を造営し社格を高め、太陽神を最高神として祭り、古事記と日本書紀の編纂を命じ神々の序列を明確にし、『真人』という最高位の身分をつくるなど、道教などと合わせそれなりに影響は取りいれてたのかもしれない。

 

武力だけでは国の統治が出来ないことを知っていたイリは、宗教の文治の研究には螢雪の労を重ねてきた。

 

但し、イリの宗教政策では那珂大兄皇子の祖父・上宮法王の仏教の様に『天獄と地獄』の負の植付けは行わなかった様である。

 

和国は小国ながら多部族国家だった為、部族の数だけ祖神を祭っていて八百万の神々が存在していた。

 

イリは、現状どおりに八百万の神へのそれぞれの信仰を認め、現状に寄り添いながらも、古事記・日本書紀により神々の序列を明確にしようとしたに留まった。

 

 

 

その頃、

 

イリこと大海人皇子は新羅を後にし、ようやく高句麗へと戻っていた。

 

新羅で、皇太子の法敏と親子名乗りを終えたことで、新羅との距離感はぐんと近くなったが、高句麗にとっては敵国である。

 

新羅からの帰路は、一人こっそりと間道を抜けて入国した。

 

大海人皇子は和国名乗りであり、高句麗での正式の名は王家の養子第二王子『高 任武』

 

またの名をイリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)、

 

唐に行ったきり、高句麗の者達には暫く行方が分からなくなっていたが、宰相である事に変わりは無い。なんの先触れもなく、長槍を担いだまま、突然ぶらりと当然の様に宮廷に現れた。

 

イリの息子達を取り込み撹乱しようとしていた高句麗の部族長らは、突然の現れたイリの姿に、腰をぬかさんばかりに驚いた。まるで亡霊でも見たかの様に、悲鳴をあげる者までいた。

 

 

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一同が息をのみ注視する中、イリは頭上で大きく長槍を旋回させた後、膝をついて慇懃な所作でコトリと槍を置いた。

 

そして玉座に座る宝蔵王の前にゆっくりと歩み出て、無事の帰国を報告した。

 

宝蔵王は、懐かしいイリの目を見て満面の笑みを浮かべ喜ぶ。

 

 

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イリから、アジア天下を巡りアジアの国と反唐同盟を結んできたきという報告を受けると、宝蔵王は信じて待った甲斐があったと、大いに喜び

 

「誠に大義であった。」と労う。

 

高句麗の宝蔵王が健在である限り、宰相イリの立場も不動のままである。以前と同様に宰相の権をふるった。

 

 

「これより、沿海州から和国北方まで粛真の靺羯族を徴兵し、来るべき戦に備える!」と

 

宣言した。

 

イリの大喝一声の前に、面と向かって逆らえる者はいなかったが、宮廷はざわついた。

 

部族長らは度重なる戦に疲弊している。

 

彼らは次々と、

 

「王様、宰相は和国で大海人皇子と名乗りを上げてます。もはや他国の皇子となった者に高句麗の宰相を任せておいて良いものでしょうか。」

 

「吾ら部族の私兵は高句麗の為に差し出しているのですぞ。和国の為に戦いに駆り出される事にでもなったらなんとします!」

 

「唐との軍備えより、貢納と和平に力を入れるべきです。吐蕃(チベット)の様に唐の皇女との婚姻を願いでるべきでは」

 

不満を口々にし、どよめきが宮廷に広がった。

 

「黙れ!和国の大海人皇子の名乗りは、吾の縁組みの一つでしかない!和地での徴兵なくして、高句麗の兵だけで唐と戦う事ができるのか?その為の縁組みぞ!」

 

「吾は、高句麗の宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)である!」

 

ドンッと床板を踏みつけ、イリは再び大喝した。

 

宮廷は一瞬で静まりかえった。

 

 

「たとえ部族長どもが裏切り、唐についたとて、唐は高句麗部族の味方などせぬぞ!門閥大国の唐が、高句麗に巣食う家門など喜ぶ訳がない。そして、唐の権門勢家に高句麗の家門が敵うはずがない!!吾の父を見よ!唐から送られて来た者に乗っとられるなど造作もない事であろう!」

 

居直りとも思えるイリの言いざまに皆、言葉を失った、

 

「吾はアジア天下を周り、唐に支配された国々をこの目で見てきたが皆、蹂躙されていた。和平案など油断させる為の罠でしかないのだ。」

 

「お主らはまだ、解らぬのか!唐国は、吐蕃よりも突厥よりも、吾らが高句麗を最も恐れてるのだ。唐との和平などあり得るはずがない!戦かいに勝つしか高句麗が生き残る道はないのだ!」

 

「唐と結ぼうとする者、和平を口にする者は誰ぜ!高句麗の敵、裏切り者としてこの場で斬って捨てる」

 

入口に置いてあった長槍を鷲掴みに掬い上げると、切っ先を回し、一人ひとりの喉元へすかしながら、殺気をこめて言った。

 

宮廷で、反論しようとする者はいなくなった。

 

「この国はまだ危機にある。講和も冊方も方便にすぎない。唐は攻めてくるぞ。吾はこの目でアジア天下を見てきたのだ。クチャも高昌国も無く、吐谷渾も東突厥も唐のものになった。皆、国事を真剣に考えよ!宴や遊興は停止せよ!武芸を磨け!」

 

イリが戻ってきたことにより、高句麗は臨戦体制に入っていく。

 

高句麗の五大部族らは表向きは沈黙し、宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)に従っていた。

 

 

帰国が伝わると、国境を守っていた息子達がイリ・ガスミのもとに集まってきた。

 

しかし、新羅との国境警備に就いていた次男のナムゴン(ヨン・ナムゴン)と三男のナムサンが、前線を離れて首都平壌に戻ってきたことに対し、イリは激しく咎めた。

 

彼ら二人の母は、高句麗の王族である。一方、長子ナムセンの母は靺鞨族の姫である。

 

イリは長子ナムセンを自分の後継者としていたが、彼らはこれが気に食わず、

 

「兄としては認めるが、王族でも無い者を上に仰ぎたくはない!」

 

と、叛心を露にしていた。

 

イリは高句麗に来た当初、靺鞨族の姫をめとり靺鞨族を味方につけていた。反唐の同志である仲象将軍(テ・ジュンサン)ら、靺鞨族から高句麗に帰化した者達も皆、イリを支援していた。

 

 

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仲象将軍(テ・ジュンサン)

 

しかし、既得権を握る頑迷固陋な高句麗の部族長らは、遼東で靺鞨系の勢力が伸びてくるのが面白くなく、靺鞨系の長子ナムセンではなく、王族系の次男ナムゴンらを支持した為、イリの息子達の対立は、新興の靺鞨系勢力と中央の有力部族勢力との対立になりつつあった。

 

イリは、長子ナムセンの軋轢を回避する為、次男ナムゴンと三男ナムサンは中央には置かず新羅国境の辺境へと追いやっていた。

 

唐は、突厥や契丹、薛延它や吐谷渾を臣属させ、北アジアには逆らう国は、もう無い。北東アジアに残された、反唐の靺鞨と高句麗で仲間割れなど起こしている場合ではないのだが、高句麗国内の靺鞨派と旧部族派の対立は、この後、唐の離間策の格好の餌食となっていった。

 

新羅は、イリと金ユシンの秘密裏の会盟により高句麗に攻め込むという事もなく、イリも「積極的に攻めてはならない」と厳命していた為、戦闘の起こらない膠着した戦線である。

 

次男ナムゴンと三男ナムサンは手柄を立てる機会もなく、中央から遠ざけられていることに強い苛立ちを感じ功を焦っていた。

 

 

イリは高句麗周辺の国を持たない小部族らの支配と、高句麗国内の部族長らの統制の為に、息子らにも統制の指示を出し、諜義府にも命を下した。

 

手始めに、イリは高句麗の西あって唐の配下についた契丹族に対し、高句麗に味方するよう内応を迫ったが、もしも高句麗の味方をしないならば「此れを攻めよ」と安固将軍に命じ、イリ自身は徴兵の為に和国に向かって行った。

 

高句麗と和国を往き来し、東奔西走する日々がまた始まった。

 

和国にあっては皇太子弟 大海人皇子として、

 

高句麗にあっては第二王子 宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)として、

 

その地位の権を存分にふるい勢力を蓄え、唐との決戦に備えた。

 

二国を跨ぐ二重生活を続け、権力を維持し続けるのはイリの非凡さに他ならない。常住に縛られることのないその存在の大きさは計り難い。

 

常人には考えられない『英雄』たる所以だ。

 

今や、和国、高句麗、新羅の王室ともつながり、三つの名を持ち、三国に隠然たる力を持ったイリだが、

 

『イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)』

 

という名を捨てた訳ではない。

 

 

『イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)』

『高 任武』

『大海人皇子』

 

それぞれの名乗りをあげる必要もあったが、唐のお尋ね者のイリよりも、その方が都合が良かったという事情もある。

新羅も唐の手前、皇太子金法敏がイリの実子であるという事はひた隠しにしていたし、どれほど力を持とうが、おおっぴらにその名を天下に馳せるということはなかった。

 

三国を動かすほどの影響力があっても、歴史の闇に隠された、当に闇の帝王と言えた。

 

 

高句麗に反旗を挙げる契丹族は、高句麗の味方をする様にとの勧告に対して、頑として反高句麗の姿勢を曲げず、唐を裏切ろうとはしなかった。

 

命令を受けていた高句麗の安固将軍は、

 

654年10月、靺鞨の兵を率いて契丹族を攻撃した。

 

契丹族は648年に唐の配下となり、高句麗の西に盤倨していた遊牧民族である。

 

アジア最大の唐帝国と、その唐と戦い負けぬ高句麗と、二つの強国に挟まれた契丹族には日和見は許されず、生き延びる為には、必ず勝つ方に与さなければならなかった。小部族は、唐の敵であれば唐に徹底的に攻撃され、唐の味方となれば今度は唐の手先として他国と戦わされ、何れにしても戦いから逃れられぬのが宿命である。

 

ならば、唐に味方し手柄を立てた方がよい。

 

高句麗にしてみれば、高句麗に味方をせずに唐についた契丹族を捨てて置く訳にはいかなかった。

 

高句麗の西に、高句麗に反旗を挙げる部族をのめのめと生かしておいては面目が立たない。

 

靺羯族など他の部族らに対しての見せしめの意味でも是を攻めなければ、高句麗を侮り唐に与する部族らも出かねない。安固将軍は、容赦なく契丹族を攻めたてた。

 

ところが、太宗皇帝より李姓を与えられていた契丹族の李窟哥カーンは、必死で高句麗の攻撃を防ぎきり、新城の戦いで高句麗軍は大敗してしまった。

 

 

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李窟哥カーンは、唐に戦勝を報告した。

 

これにより、唐は高句麗征伐を検討しはじめる。

 

その後、高句麗軍は周辺の靺鞨族と合流し自軍に組入れていったが、これに参軍していたイリの次男ナムゴンと三男ナムサンは、功を立てる機会であると、浮き足だってしまった。

 

宰相イリは、

 

「無駄な戦は避けよ」と指示していたが、

 

先の契丹族との敗戦により必要以上に功を焦っていた高句麗軍は、勢いあまって新羅国境を犯したため、新羅の武烈王金春秋は驚いた。

 

この頃、新羅では武烈王金春秋が、金ユシン大将軍に軍部の力が集まり過ぎることを恐れ軍から遠ざけていた。

 

もともと金春秋は、反唐派ではない。

 

金春秋にとっては親唐派も反唐派もなく、己の王位と娘を殺したウィジャ王への復讐の為だけに生きてきた。

 

金ユシンが強ければ金ユシンを頼り、高句麗が強ければ高句麗を頼み、唐が強ければ唐に髄身する。

 

金ユシンあっての武烈王金春秋だったが、それでも反唐派の金ユシンを警戒し、なんとか軍事力を外そうとしていた。

 

しかしこの後、百済と高句麗と靺鞨族が連合し、新羅北境を侵す事態となった。

 

もはや、金ユシンもイリもいないところで戦局は動き始めてしまっている。

 

武烈王金春秋はこれには堪らず、金ユシンを戻し、そして金仁門を唐に遣わせて派兵を願い出た。

 

虚実は知れないが、唐の臣国である新羅に高句麗が攻め入ったことは

「金ユシン大将軍を復帰させ、高句麗部族長らに開戦を促す目的の為に、仕組まれたのでは?」

と、懐疑的に見るむきもあった。

 

イリと金ユシンの謀略による所謂「事変」であり、朝鮮半島に戦雲を発生させる事によって軍事の機運を高めた。

 

東アジアの戦乱は、百済のウィジャ王が野心の為に新羅を攻め続けたことにある。特に最近は日照りによる飢饉を受け、食料を奪わなければならないという事情もあったが、唐に詰問されても二枚舌を使い、ウィジャ王はいっこうに新羅攻めを止めようとはしてこなかった。もはや反唐派というより、徹底的な反新羅派である。

 

百済以外の三国は、唐が東アジア征服の野望があるが為に、反唐か親唐で戦いが起きている。

 

反唐派は、唐の冊方下にあっても、例え敵味方であっても常に唐国を攘夷することを考え戦う為、虚実は常に存在していた。

 

反唐派の金ユシンは、武烈王金春秋に対し

 

「百済と戦う為の唐との連合ならば、いっそのこと唐ではなく、高句麗と連合し百済を攻めるべき」と、

 

高句麗との連係を勧めるようになった。特にイリと金法敏が会盟してからは殊更強く提言した。

 

しかし、武烈王金春秋は、皇帝より唐服を賜って以来、すっかりに唐に髄身している。過去には、高句麗に百済攻めを求めた時には軟禁されてしまったこともある。

 

今さら金ユシンの提言は容れられるはずもなく、武烈王金春秋はこれを拒み続け、二人の間には亀裂が深まっていった。

 

やがて時がすすむと、高句麗と結んで唐と戦おうとする金ユシンと、唐と結んで高句麗と戦おうとする金春秋と、二人の立場は真っ向から対立した状態になっていく。

 

 

 

 

【斉明女王国 和国と 唐の高句麗出兵】

和国へ戻った大海人皇子は、まず先に山崎の宮でひっそくしていた孝徳王を詰めにかかっていた。

 

大和の岡本宮で斉明女王が和国に君臨して以来、孝徳王の存在は全く体を成さなくなっていたが、それでも尚、大和王朝側が難波王朝の孝徳王を最後まで徹底的に潰せなかったのは、慎重に引き継ぎをしなければならない物があったからであろう。

 

班田収受を行い難波王朝が歳月をかけ作り上げてきた『戸籍』であり、国民を全て掌握してこその和国王である。これが孝徳王の手元にある限り、大和朝廷の王権も実効が無く画竜点睛を欠く。

 

孝徳王は宮に幽閉されているに等しい状態で、それを求められていた。

 

大海人皇子は、斉明女王、那珂大兄皇子、間人皇女らと共に孝徳王の宮に詰め寄り、孝徳王に迫った。そして、無事に百済へ送還する事と引き換えに全てを差しださせ、遂に孝徳王を百済へ送り出した。

 

 

654年10月、

 

孝徳は百済に戻った。

 

孝徳の心理状態では解放されたと言った方が良いかもしれない。和国の孝徳王という存在は消滅したのだ。

 

うらぶれて百済に帰国してきた孝徳とは逆に、孝徳の母モク妃を中心にまとまっていた残存勢力は俄然勢いづいていた。孝徳は和国で王を任されていたほどであり、百済にあっては皇太子となるのが当然であると考え、モク妃様を皇后にすべきであると喧伝していた。

この孝徳の帰国により、和国はウィジャ王の入り込む余地はなくなってしまい、完全に斉明女王の国となった。

 

 

【挿絵表示】

斉明女王

 

 

12月には、無事に入唐した遣唐使が唐の高宗皇帝に拝謁し、斉明女王の冊方を願いでた。

 

 

高宗はこれを承認し、斉明女王を冊立すると共に、

 

「唐の臣国である新羅がいざ危急存亡の時は、和国が出兵してこれを助よ」と、

 

詔勅を下した。

 

唐に認められたということは、アジア天下で認められたと言っても過言ではない。これで、内外ともに和国に置ける斉明女王の地位は確かなものとなった。

 

 

(女王とは、、如何なるものか)

 

 

高宗皇帝の側室となった武媚娘は、東の果ての名も知らぬ国から来た女王の使者を見て関心を抱く。

 

3月に新羅の真徳女王が没し、他には女王なる者は存在しなかった為、和国がアジア唯一の女王国となるだろうか。

 

その東方の彼方から来た遣唐使高向玄里は、唐の絢爛な文化に臆することもなく、礼節を知り、自然な振る舞いなのである。とても東の僻地の蛮族とは思えず、宮廷に知己すら居ることにも驚き、その様な使者を遣わす和国にいる女王とは、どの様な存在なのかと少なからず興味を持った。

 

武媚娘の知る世界では、女性が王になる事など有り得ない。

 

女性は皆、王に仕え、王の寵愛を奪い合い、皇后となり王子を産んで、王位に近い存在になることは出来ても王そのものになる事など決して出来ないのだ。

 

一方、和国や遊牧民族の国々では『皇后』の存在は全く異なり、単なる妻ではない。王にもしものことがあれば、女王となり王の代行をする同様の権限を有する存在である。

 

上宮法王と共に高句麗入りした宝妃の様に、或は上古、日本武尊と軍事行動を共にした橘姫のように、夫と共に戦にも出征し、王が戦死した場合は王に代わって軍を指揮することもある。

 

 

東方の女王国『和国』の名と、女王という存在は宮廷を生きる武媚娘の心の中に驚きと共に深く残り、耳目に焼き付いた。

 

 

後に、自分が中国史上唯一の『女王』となり、

 

和国が消滅し、日本国が建国されることに重要な役割を果たすことになるとは夢にも思っていない。

 

 

 

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則天武皇

 

 

 

 

明けて、655年正月

 

新羅から救援の請願に遣わされた金仁問が、入唐した。

 

金仁問が、高句麗、百済、靺鞨に北境を攻め取られてしまったことを上奏し救援を要請すると、唐はこれを受け、遼東への出兵を決めた。

 

この後、金仁門は一年間唐にとどまった。

 

 

655年2月、唐の高宗皇帝は、

 

常勝将軍 蘇定方と程名振を高句麗へ出兵させる。

 

 

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蘇定方将軍

 

程名振は、先の太宗皇帝の高句麗遠征の時、卑沙城攻めで小数の兵で多数の兵を破った名将である。

 

李勣大将軍をはじめ、先代の太宗皇帝の時代に名を知られた名将でも、高宗皇帝の代になると宰相 長孫無忌の力が強まり、門閥ではない将軍は遠ざけられてしまっていた。

 

武媚娘は、長孫無忌の専横を抑える為にも、門閥ではない蘇定方やソル・イングイらを起用すべきであると高宗皇帝にうったえ、遂に彼らの陽の目をみる機会を得ていた。

 

唐軍は5月には遼河を越えて、高句麗国内に進撃したが、高句麗軍は敵兵が少ないのを見てなめてかかり、討ってでた。

 

貴端河で、両軍は激突したが、小数兵で多数を破ることを得意とする程名振都督は、大いに奮戦しついに高句麗軍を破り、千人を殺して村々を焼きはらって帰還していった。

 

小規模戦だったが、蘇定方と程名振は戦勝を報告し、高宗皇帝の治世で、ついに講和政策から攻撃に転じる出来ごとになった。

 

イリの留守中、高句麗軍は百済のケベク大将軍に乗せられて共に金ユシンの居ない弱い新羅軍を攻めてしまい、今度はそのしっぺ返しに唐軍に攻め込まれ負けてしまうという、愚かな顛末になってしまった。

 

 

 

 

【翳りゆく百済 ウィジャ王政権】

 

655年百済

 

孝徳が百済に戻ると、失速していた残存勢力らは孝徳の母モク妃を中心に結束しだして勢いを増し、彼らは孝徳王が入る宮の建造を急いだ。

 

ウィジャ王は、酒浸りになる事が多くなっていた。

 

エフタル族の大渡王や、突厥族の上宮法王の時代と違い、百済と和国の二か国を領有することは更に困難になってきている。むしろ、一瞬でも二か国の王権を手中にしたウィジャ王は英傑といえたかもしれない。

 

和国が、斉明女王の国となり、以後、百済と和国に君臨する王は現れなくなり、歴史上、ウィジャ王が百済と和国、二か国を領有した最後の王となった。

 

それだけに、大望を失ったウィジャ王の喪失感は大きい。

二か国に君臨した王のみが感じる計り知れない喪失感は、とても素面で感じるには居られないものだったのだろうか。酒乱という訳ではないが酒を飲んでは荒れ、疑心暗鬼と苛立ちで暴言が多くなっていた。

 

ウィジャ王は何もかもが面白くなかった。

 

和国に行き不在にしている間、中臣鎌足に百済を総督させ、その改革をフンス、ソンチュン、ケベクら、ウィジャ王の三忠臣と云われた三人に任せていた。

 

しかし、ウィジャ王の目には留守中の彼らの行いは、和国の大化の改新に比べ全くお粗末なものに映った。

 

彼らは忠臣ではあったが、英臣ではなく、高向玄里ほどの政治知識や政治手腕がない。

 

高向玄里は漢王室の末裔だけあり、もともと中国(魏)の制度には詳しかったが、更に遣隋使として隋に留学し学び、隋滅亡後は唐に抑留され高祖皇帝、太宗皇帝と 2代にわたり唐の政治改革を見続けてきた。そして、唐の極東工作を任されるほどになったのである。

 

その高向玄里の政治手腕と、フンスやソンチュンを比べること自体無理があった。

 

フンス、ソンチュンはもともと百済の重臣という訳ではない。百済に彗星の如く現れたウィジャ王という風雲児に出合い、共に進んできた事で、たまたま今日の地位を得ただけだ。

 

高向玄里の様に、最初から部族連合国を変えようと言う目的意識があった訳ではなく、知識も後づけだった。

 

彼らは、和国の改新の様な部族らから土地を収公する為の制度改革に、古代中国の井田法を用いようとした。井田法は、猛子という学者が「古代中国の理想的な富国策である」と語り継いだもので、田畑を「井」の字の如く九区画に分け、一区画を公田にし耕作させ年貢を国に納めさせ、八区画を民に与える。 

しかしこれは、富国策の理想論であって、ウィジャ王の望む『富国強兵策』ではない。しかも、富むのは民であり、残りの八区画の領民を所有している部族長が富むだけである。

 

(有力部族の力を削げなければ改革の意味がないではないか、なんという腰くだけな策だ、、)と

 

ウィジャ王は呆れたが、フンス、ソンチュンらにしてみれば

 

「部族長らから一区画の土地を取り上げる」

 

ということだけで相当な抵抗があり、これでも精一杯だったのだろう。

 

しかも、それを進めるにあたって停止していた政事巌会議を開き、あまつさえ部族長だけでなく村長や里長までも参加させたのである。

 

フンス、ソンチュンは細心の注意を払い慎重に懐柔したつもりだったのだろうが、ウィジャ王には彼らのその丁寧さは、

 

「なんという腰抜け!、、情けない!」と、

 

低姿勢に感じ、大いに憤慨した。

 

和国で、大化の改新という大改革を行ってきた後であった為、ウィジャ王にとっては「生ぬるい」やり方に思えるのだ。

 

「そもそも、吾と部族らの間に立って物事を諮ろうというのが気にくわぬ!間に立つのでなく、何故吾の側に立たないのだ。」

 

百済の有力部族らは和国の有力部族よりも頑強であり、既得権も完成されている。和国の様に冠位の制定と同時進行で、土地を差し出した者には、それに応じて位を与えるという事もままならず、フンス、ソンチュンなりに苦心してやろうとしたのかもしれない。

 

しかし、彼らの努力も虚しく、

 

「国家の大事に、意識が低くすぎる」

 

とウィジャ王に裁かれ、

 

ウィジャ王とフンス、ソンチュンの主従関係に大きな亀裂が生じてしまった。

 

ウィジャ王は、三忠臣の中で最初はケベク大将軍だけを警戒し戦線から距離をおき中央においていた。

 

唐の李勣大将軍しかり、新羅の金ユシン大将軍の様に、例え有力部族達の私兵といえども生死を共にし戦い続けるうちに将軍と兵の間には強い絆が生まれてしまい、結果として将軍は軍部に隠然たる力を持つことになる。

 

優れた将軍であるほど兵との絆は固くなり、

 

「戦場にあっては王命といえど是を受けず、将軍に従う」

 

という傾向が強くなる。逆にそうした強い信頼関係がなければ強兵とはなり得ない。

 

ケベク大将軍は、それだけの人望がある優れた将であった。

 

ウィジャ王は、ケベク大将軍に軍の力が偏り過ぎることを懸念し、新羅との戦いには義直将軍を起用してきた。それが百済軍の大敗という結果になってしまい、今は、ケベク大将軍を使わざるを得ない局面になってきている。

 

ウィジャ王は、今度はフンス、ソンチュンとの距離をとり遠ざける様になっていった。

 

ソンチュンは、百済の柱石であるとの自負心が強くウィジャ王に諫言を続けてきた。まずその口うるさいソンチュンを罷免し、留守中に政事巌会議を開き自分の王子を皇太子にしてしまった燕妃を廃后した。政事巌会議も廃止した。

 

そして、孝徳の母であるモク妃を正式に后妃にした。

 

2月には、百済に帰国した孝徳の宮が完成し、まるで王宮の様な豪華な宮であった。ウィジャ王は孝徳を百済皇太子にし、泰王子ら他の王子を支持する勢力を沈黙させた。

 

王宮の南には、望海楼という宮殿を建て、ウィジャ王はここで、酒宴を開き遊蕩に興じる。ウンゴ妃という美女を側に侍らせ、日々酒色に弄落されていった。

 

 

これが、和国を失った後に出来上がった、新しい百済の体制である。

 

かつて、反唐の志を掲げ、「孝徳の王」「東海の曾子」と呼ばれていたウィジャ王とは別人の様な変わり様だった。

 

長年の流転と戦暮らしに疲れが出始める歳であり、金殿玉楼に住み豪奢な遊びと美女に溺れてしまい、昔日の才気縦横さは失ってきていた。

 

「王は自暴自棄になり、正常な判断ができなくなったのでは、、」と、

 

噂されるほどの、強引な独裁者となっていった。

 

「じ、尋常ではない。」

 

フンスも罷免を覚悟で、ウィジャ王に必死で諫言した。

 

 

655年9月、

 

新羅の金ユシンは百済のウィジャ王の退廃ぶりを知ると、

 

「ウィジャ王の暴政をゆるさず」と、号し

 

百済に攻めこみ、刀比川城を攻め落とした。

 

 

 

【シュメールの系譜と 和国小部族連合】

 

655年 和国

 

唐からも冊方を受け、国際的にも正式に和国女王として認められた斉明女王は、即位式典を行った。

 

高句麗、百済、新羅からも祝賀の使いが来和した。

 

斉明女王は、ペルシアのゾロアスター教(拝火教)の影響を和国にもたらしたが、水の女神を崇め、火を拝むそれらの儀式は全て『仏教』の一部として受け入れられ、お水取りや火祭りなどの儀式という形で和国に根付いていった。

 

ペルシアは、古代ペルシアの水の女神アナヒーターの神官に起源をもつが、古代ペルシアは更に遡ればアジア最古の文明『シュメール』につながる。

 

シュメールミガドとは「シュメールから降臨した」という意味である。

 

斉明女王はそれを王号とし『皇』の字を用いた。

 

その皇命(シュメールミガド)という文字に込められた思いを仰ぎ、人々は王号を呼び

 

和国風の発音で

 

『スメラミコト』と言われるようになった。

 

『皇』という字をスメラと発音するのは、中国にも他の国にも無く、和国独自の読みがここに誕生した。

 

古来より、渡来人によって漢字が和国に持ち込まれて以来、和国風の発音には訓読みの工夫がされ続けてきたが、皇『スメラミコト』は他に類をみない。

 

アジアに生まれた世界最古の文明『シュメール』を最も現した王であり、アジア人である以上、最も伝統の古い起源に遡ればシュメールにいきあたるのは当然である。

 

(十六紋はイスラエル王家の紋章だが元々はシュメール王家の紋章であり、後世400年後の安徳天皇の後から日本の王家紋章に十六紋が使われる様になる)

 

 

 

斉明(サイメー)という名自体、シュメールの写音であったのかもしれない。

 

 

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斉明女王は、和国戸籍をもとに国民を大動員し、大規模な工事を始めた。

 

和国も大海人皇子の奔走により、臨戦体制に入ってきている。飛鳥岡本宮の造営と共に、多武峰から高句麗式の石垣を廻らせた堅固な山城を構え、周囲を固めた。

 

ペルシアのカナートを模し水路を巡らせる工事も行った。

 

大海人皇子の提言どおり、アラブに滅ぼされてしまったペルシアのゾロアスター教(拝火教)の文化を、自分の命あるうちに残そうと躍起になっていたが、これは後に「狂気の渠」と非難されるほどの大工事となった。

 

 

 

 

大海人皇子は、義弟の阿部比羅夫と共に、越から陸奥にかけての粛慎(蝦夷族)の招集を行っていた。

 

 

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彼ら小部族は、国を持たない。

 

彼らには政庁も宮廷もなく、都もなく、連合し国に帰属するという事もない。天地を祀り、自然を敬い、自然と共に生きてきた狩猟民族である。

 

後世に、唐の詩人杜甫が

 

「国破れて山河あり」と、歌った有名な詩があるが、

 

もとより国など無く、ただ山河に自然のままに生きている民族だった。

 

山河を惜しむ心こそ、人間が地上に棲息する基底文化とも言える。

 

 

 

大海人皇子と阿部比羅夫は、沿海州の靺鞨族と同様に戦に狩りだす為、彼らを懐柔し、従わぬ時は脅し、和国に連合する様に説いた。

 

 

小部族らは、数において国の敵ではない。したがって敵対すれば、徹底的に攻撃され、味方になれば国の為に戦に駆り出され、何れにしても、戦から逃れることができない運命だ。

 

大陸の粛慎 靺鞨族も、日本列島の粛慎 蝦夷族も、何れかの国に連合する部族として、所属しなければならなかったが、繰り返し大戦が続く高句麗より、和国に所属した方がまだ少しはましである。

 

もしも高句麗が唐に負けても、和国へ逃げられれば生き延びることができるかもしれない。

 

阿部比羅夫は越をめぐり、大海人皇子は陸奥をまわり、多くの部族長らに贈り物をし説得し、和国の冠位を与えることを約束し、和国の傘下に入る様に合意させた。

 

7月には、

 

越の蝦夷族の部族長ら99人、

 

陸奥の蝦夷族の部族長ら95人を都に招待し、

 

難波宮の迎賓館におおいて歓待して、その194人の部族長らに和国の冠位を授けた。

 

いざ参戦という時には、それぞれ部族を率いて隊長の任に就くようにも命じた。

 

また、百済人150名も同時に歓待し、難波は空前の大宴となった。

 

ウィジャ王と孝徳王が、和国に数年滞在したことにより多くの百済人が往き来し、政庁をはじめ難波周辺には多数の百済人がまだ残っていた。

 

大和朝廷は、

 

「百済に帰るか和国に残るかそなたらが決めよ。」と、

 

意志を問うた。孝徳王と共に百済に戻った者もいたが、多くの百済人が和国に残り、彼らを改めて斉明女王の大和朝廷に帰化させる為の歓迎の宴である。

 

斉明女王の大和政権が難波で此の宴を行ったことにより、難波からウィジャ王や孝徳王の残しは跡形もなく消えていった。

 

新たに、蝦夷族長194人と百済人150人を迎え入れ、大和政権は大いに栄えた。

 

上宮法王の時代より半世紀を経て、和国の冠位制度は精練されてきたことで容易に彼らを内包したが、ひと昔前の古式ゆかしい「連」「臣」「造」などの部族氏姓制度では、是ほど多くの立場の違うものたちを一気に、政治的に帰属させることは出来なかったかもしれない。

 

 

 

【戦慄! 残酷な武媚娘】

 

「娘が死んでいる!」と、

 

武媚娘は叫んだ。

 

高宗皇帝と武媚娘の間に生まれた赤子が、亡くなった。

 

この日、

 

武媚娘は「生まれた娘を見にきて下さいませ」と、王皇后に願い出た。

 

人の良い王皇后はなんの警戒もせずに足を運んだ。王皇后にしとみれば、自分が武媚娘を救いだし皇宮に戻してやったという自負もあり、武媚娘に感謝こそされても敵対心を持たれているとは夢にも思ってない。

 

王皇后が、赤ん坊のいる部屋にやってくると武媚娘は身を隠して、王皇后と娘だけになる様に仕組んだ。

 

ほどなく、王皇后は部屋を出て戻ったが、その後、武媚娘が戻ると、布団を娘の顔に息がとまるまで押し当てた。

 

そして、

 

「娘が死んでいる!」

 

叫んだ。

 

何ごとかと訪ねた、高宗皇帝に

 

「王皇后が部屋を出ていった後、娘が亡くなってました、、」

 

武媚娘は、高宗皇帝にすがりつき涙ながらに訴え出る。

 

 

高宗皇帝は娘の死を悲しみ、

 

 

「王皇后を捕らえよ!」と、命じた。

 

武媚娘と高宗皇帝の間に娘が生まれ、皇帝の子を生めなかった王皇后が妬み殺したという武媚娘の訴えを信じて、高宗皇帝は、王皇后の申し開きには一切耳をかさなかった。

 

655年の6月に、高宗皇帝は新たに準皇后の位を設けて、武媚娘を準皇后にしようとしたが、その時は宰相らの反対で実現しなかった。

 

しかし、王皇后はこの武媚娘の娘の冤罪事件を発端に皇后の地位を追われることになってしまう。

 

高宗皇帝の武媚娘を皇后にしたいという意図を忖択した大臣達が、高宗皇帝の姫を殺害した王皇后を廃止し、武媚娘を皇后にすべきとの上奏文を提出した。

 

高宗皇帝はこれを受け、王皇后を廃して武媚娘を皇后に立てることの是非を長孫無忌ら重臣に下問した。

 

が、長孫無忌と褚遂良が猛反対をした。

 

これに対し、長孫無忌の政敵である李勣将軍は、

 

「是、陛下の家事なり。国事に非ず。そもそも臣下が口出しすることではありません。」

 

と発言した。

 

 

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李勣将軍

 

この一言によって高宗皇帝は武媚娘を皇后にすることを決した。

 

武媚娘は、投獄中の王皇后に更なる冤罪をしかける、王皇后には暗殺計画があったことを捏造し、それにもう一人の政敵である淑妃も巻きこんだ。

 

655年10月13日、

 

高宗皇帝は王皇后と淑妃の暗殺の罪を断定し、二人を庶民に落として罪人として投獄した。

 

親族らは官位剥奪の流罪にした。

 

 

11月、武媚娘は投獄されていた前王皇后と淑妃を百叩きにした上、手足を切り落として殺した。

 

 

656年、

 

高宗皇后となった武媚娘は、立后に反対した者達を地方へ左遷した。

 

唐は、高宗皇帝を独り占めにし、反対勢力を駆逐した武媚娘の天下が始まった。

 

高宗皇帝は持病を発し皇后に代理を任せた為、もはや武媚娘の言いなりである。

 

武媚娘は、長孫無忌の権勢下で冷遇されていた寒門(門閥でない者達)を積極的に登用し自分の派閥に組入れていった。

 

この年、西突厥の芦名ガロ(上宮法王の子孫)が、唐が高句麗攻めを行った事に呼応し、唐に反乱を起した。イリが遊説中に結んできた反唐同盟による挙兵であった。

 

武媚娘はこの反乱軍に対しても、蘇定方ら子飼の武将を鎮圧に向かわせた。

 

そして、唐の皇太子であった李忠(前王皇后の養子)を廃し、自分の産んだ李弘を皇太子にした。

 

皇后となり、息子を皇太子とした、武媚娘の権勢はゆるぎないものとなり、唐の周辺国は、武媚娘皇后の皇太子冊立の祝いの使者を送った。

 

 

 

これより、唐の国政は病弱な高宗皇帝に代わって、武媚娘皇后が取り仕切る執政(垂簾政治)となり、武媚娘皇后の独裁時代に突入していく。

 

 

【挿絵表示】

武媚娘皇后

 



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第13章 【唐高句麗戦】和国からの派兵

西暦656年~658

第1話 斉明女王の土木工事と武皇后の睡蓮政治
第2話 倒行逆至 ウィジャ王
第3話 斉明女王とペルシア王家ぺーローズ王子
第4話 海東の征 前哨戦


【斉明女王の土木工事と武皇后の睡蓮政治】

大和朝廷は、東北の蝦夷族194人の部族長らに冠位を授け、彼ら蝦夷族を『和国』に帰属させた。

 

勿論、大海人皇子(イリ)は彼らをそのまま和国に留め置く気などなく、唐との戦に駆り出すつもりでいる。

 

 

【挿絵表示】

大海人皇子(イリ)

 

656年8月、

 

大海人皇子は81人の将校を高句麗から来和させた。

 

和国兵の編成につく為の指揮官であり、全員百人将以上の将校で、一人につき100人から500人の兵を率いらせた。蝦夷族を中心に、和国民と合わせ1万人から1万5千人の軍を編成したと思われる。

 

全て、唐高句麗戦に備えた援軍である。

 

当然、これは和国の斉明女王や大和朝廷にとっては面白くはなかったが、しかし、当たらざる勢いの大海人皇子を押さえつける者もなく、着々と軍の増強と調練は実施されていった。

 

そして高句麗へは、和国配下の者らを遣高句麗使として送り込み調整にあたらせた。和国からの援軍派兵は決して正式なものではなく、あくまでも大海人皇子こと高句麗宰相イリ・ガスミ(ヨン・ゲソムン)が、遠隔地より徴兵した私兵なのである。

 

和国高句麗【反唐同盟】など存在せず、和国に帰服した蝦夷族を強引にイリが駆り出したにすぎない。

 

遣唐使・高向玄里を唐に送り、

 

「新羅危急存亡の時は和国が助けよ」と、

 

高宗皇帝に詔勅されたばかりであり、

 

援軍の派兵元は和国であることは伏せねばならず、まだ大海人皇子だけでは、和国を反唐国として堂々と旗上げさせるには力が及ばなかった。

 

 

先年の唐と高句麗の衝突に呼応して、西アジアでは上宮法王の子孫ガロ(芦名氏)が唐に対して反乱を起こしていたが、大海人皇子は更にそれに呼応するつもりでいる。

 

(東西で火の手を上げてなければ、他の反唐国は蜂起せぬ、、)

 

アジア天下で唐の大勢を覆す為にはここぞと、大海人皇子には起死回生の思いが強い。

 

 

一方、大和朝廷は国民を大動員して都の土木工事も行っていた。

 

工事は大海人皇子の介入だったが、王都の工事を優先し飛鳥岡本宮の工事に民を集めて、高句麗と唐との戦には民を徴兵させたくないという斉明女王の思いも感じられた。

 

 

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戦を知らない和国の者が駆り出されたところでまともに戦えるかも分からず、また今、唐国にいる和国遣唐使・高向玄里の身を案じて、和国が唐との戦に巻き込まれる事だけは避けようと必死に抗っていたのかもしれない。

 

 

 

粛々と都の造営は勧められていった。

 

石上山から飛鳥岡本宮まで水路(カハス)を掘る為に三万人の民が動員された。水路を使い舟200艘でもって石上山から石を運びこみ、延べ七万人の民を動員して都の東に石垣が築かれた。

 

人々は、この水路のことを「狂心の渠」と呼び、重労働の象徴として斉明女王のことを非難していた。

 

表向き大海人皇子が槍玉に上がることはなかったが、

 

「全ての民、国民は王室のものである」

 

と言う自負心が強い那珂大兄皇子とは対立することがしばしばあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

唐は、武媚娘の天下になっていた。

 

 

 

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武皇后

 

 

先の皇后らを殺し、武媚娘はついに高宗皇后【武皇后】となり、その権を振るい始めている。

 

武媚娘を皇后とすることに反対した褚遂良ら重臣達を左遷し、他の妃が産んだ王子は軟禁した。そして、皇太子は廃太子にし、自分の産んだ李弘王子を皇太子に立てた。

 

高宗皇帝の伯父で権勢を欲しいままにしてきた実力者・長孫無忌氏もやがて左遷され死に追いやられていく。

 

周辺国からは皇太子冊立の祝賀使節が朝貢し、新羅だけでなく高句麗からも祝賀の使節が訪れた。

 

高宗皇帝より、実権を握っているのは武皇后である。

 

高句麗使節はその様子を伺っていた。

 

武皇后は病弱な高宗皇帝に代わって、簾の奥から諸臣に次々と命令を下していた。

 

高宗皇帝の代になり、唐は周辺国と講和政策を進めてきたが、武皇后は慎重な長孫無忌よりも好戦的であり、長孫無忌に冷偶されていた門閥以外の諸将らを小飼とし、自分に忠誠を誓った武将達に手柄を立てさせ出世させる機会を狙っていた。

 

 

 

この頃、東方を目指すペルシアのぺーローズ王子らは、弟のダーラーイ王子らと共に船で南海航路を進んでいた。

 

ぺーローズ王子は妻も共にしていて、インド洋に抜けインド洋岸から北上しようとインダス河を下っていったが、烏仗那国(パキスタン)へきた辺りで、娘が産まれた。

 

この姫は後に、和国に帰化して山辺姫と呼ばれる。

 

産まれたばかりの姫を連れての旅であり、極力安全な南海航路を選択し、ゆっくりと慎重に進んでいた。万が一にも自分たちが死ぬようなことがあれば、即ペルシア王家の滅亡ということになってしまう。

 

ぺーローズ王子は、父・ヤズゲルト王が亡命先で殺されたことも重く受け止めていた。

 

結局は、アラブや唐の力が及ばない国に逃げこまなけば、そして唐やアラブを恐れない者のもとに逃げこまなけば、父・ヤズゲルト王の様に暗殺される危険は常にあると考えた。

 

唐国がアラブとの衝突を恐れペルシア王家を助け様としない為、唐国でさえ決して安全とは言えないのだ。

 

北アジアの突厥も南アジアの天竺(インド)も唐の影響下にある今、アジア天下で最も安全な場所は東アジアしかないだろうと思われた。

 

 

まずは東方に落ち延び身の安全を確保してから、唐へ支援要請の使者を送ることを考え、海の彼方、アラブも唐も及ばないアジア世界最東端の島国、和国をひたむきに目指していった。

 

 

 

 

【倒行逆至 ウィジャ王】

 

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百済のウィジャ王は、子作りに励んできた。

 

既に王子だけでも50人を越えていたが、尚も入念に子作りをする。

 

先代の武王は主要な外戚勢力を後ろ立てに王位を守ってきたが、ウィジャ王はもっと大胆なやり方をした。

 

上古の時代、和国の大国主命は諸国を流転し、周辺の部族長の娘らと婚姻を結んで180人以上の子をつくり、また自身にも80人の兄弟がいたが、その大国主命さながらの様である。

 

ウィジャ王は百済の古部族をはじめ、新羅から切り取った国境の小部族にいたるまで、百済中の部族らから姫を貰い後宮でせっせと子作りをした。

 

外戚勢力の権力が集中する隙もないほどの夥しい数である。

 

数人の王子であれば、世嗣ぎを擁立することも容易だが政敵が多すぎれば、次世代の予想が難しい上にに、誰もが王子を奉戴しているので与力もままならない。

 

極端な分散により、権力の集中を抑えているようだった。

 

和国の大化の改新で、冠位を細分化して大臣の力を削ごうとした様な、謂わば

 

外戚勢力の細分化である。

 

それでも尚、宝皇妃を養女に持ちキョギ皇子(那珂大兄皇子)がいる沙宅一族や、孝徳のいる木氏(百済蘇我氏)の様に外戚力を持つ半ば貴族化した様な宮廷部族もいたが、これらの王子は和国に行かせるなどして擁立を先延ばししてきた。

 

ウィジャ王は、先代の武王の様に外戚勢力と結んでいても、王子を奉戴し勢力を伸ばそうとする彼らの野心は巧妙にかわしていた。

 

何しろ『酒乱』なのである。

 

まともな政治向きの話しなど一切せず、色事や遊興に高じ酒色に狂った王が女漁りをしているようだった。

 

そうしながらも、一方でウィジャ王は部族らの行う政事巌会議を廃止し、

 

『外戚勢力の細分化』に詰めの一手を打った。

 

あろうことか、41人の皇子を全員宰相にしてしまい、百済37郡の土地を全て与えてしまった。

 

元々、有力部族らが領有していた土地に、王子と宰相の地位が下賜されたと言えなくもないが、和国の大化の改新の様に冠位を与えることと比べれば強引すぎる手段だった。

 

部族が王の外戚になり力をふるうのではなく、王が部族長の外戚となり、王子らを使い部族を乗っとっていく。

 

前代未聞のこの政策に緒臣らは驚き反対したが、ウィジャ王はこれを退け強引に敢行した。

 

一族の首長にとっては、

 

『自分の血を引く王子が、百済の宰相となる』と

 

言うことは是である。

 

しかし、宰相が41人もいることは非である。

 

吉兆の是非を判断し難いこの「ねじれ政策」現象に、皆、困惑した。

 

これは酒色に狂った王が政治を見失ってのことか、或はうつけ者のふりをして敢えて尋常でない手段にうって出たのかは、評価が分かれた。

 

他に並ぶ者がないほどの「非凡な王」であることは確かである。

 

王子を有力部族らに入婿させ、家門を乗っとろうというのは、逆に外戚としての影響が強まる両刃の刃であり、外戚が三家三強ていどであれば、必ず派閥争いが起きる。

 

しかし、41王子、41家門となれば話しは違う

 

国中の部族長らが、宰相の地位を持つ皇子を奉戴したことになり、前代未聞のウィジャ王の仕様に緒臣は度肝を抜かれていた。

 

気が触れたのではないかと思った。

 

 

臣下の権力の集中を防ぐ策にしても、度が過ぎている。

 

百済の土地を41人の宰相が分けるには、百済の国土は狭すぎるのだ。

 

もともと、和国の広大な土地を分け与えるつもりでいたのかもしれないし、孝徳王の様に百済に巣食う有力者は和国へ追い払うつもりだったのだろうか。

 

 

 

この事が、他国に伝わると

 

「気狂いしたか、!」と、

誰もが、思った。

 

 

 

 

 

 

【斉明女王とペルシア王家ぺーローズ王子】

 

657年、

 

唐に反乱を起こしていた西突厥のガロ(上宮法王の子孫)が、とうとう唐軍の蘇定方に捕らわれてしまい、西突厥の抵抗勢力は壊滅してしまった。

 

 

インドより出港し南海航路で和国を目指していたペーローズ王子らは、台風に遇い奄美大島に漂着していた。

 

 

インドの貿易拠点(マドラス)より、ペルシアと中国の交易を営んできた商人の船に乗船しマラッカ海峡を抜け、

 

南海航路(海のシルクロード)の東の貿易拠点である広州(香港)に寄港した。

 

 

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ここで商人の船を降り、南海航路に明るい船を雇って沿岸づたいに中国江南地方を経て、南西諸島(台湾・沖縄・奄美)を目指してきた。

 

 

中国江南地方から日本列島に至る、紀元前から続く航路である。

 

弥生時代にはジャポニカ米という南方原産の稲が伝わり、越の国に滅ぼされた呉の王が、大物主や卑弥呼の祖先達が、この東シナ海を渡る南海航路で日本列島へと逃亡してきた。

 

後に海のシルクロードと呼ばれたこの南海航路は、航路術が卓越した海洋民族(オーストロネシアン)によって広がり、紀元前には黒潮・対馬海流に乗り日本列島にまで達していた。

 

 

ペーローズ王子らの一行は吐火羅(トカラ)でアラブ軍に破れ逃亡して以来、三年3月の歳月が経過していた。

 

今、奄美大島の目の前に続くトカラ列島を渡れば、トカラからの旅は終わり、ようやく和国の九州に着く。

 

 

ペーローズ王子は慎重に水先案内をたて、7月に九州の日向へと上陸した。

 

大和朝廷の斉明女王は先触れを聞き、須弥山を造営し、歓迎の準備を急いだ。

 

「ペルシアの王族にあいたい」、、

 

ペルシア王子であった上宮法王を父にもつ斉明女王にとって、同じ一族、遠縁だが親戚であることに変わりはない。遠い和国に、兵火を逃れて落ち延びてくる同族に精一杯の準備をしようとしていた。

 

 

須弥山とは世界の中心にあるという山を模したもので、ペルシアのゾロアスター教(拝火教)では、周りに水路を巡らせ呉橋でこれを渡る。

 

仏教に伝えり、倶舎論ともいう。

 

円盤(蓮)の宇宙の中心には【須弥山】(バルジ)があるとされ、麓には黒龍(ブラックホール)がいて、その世界の外側には「金輪際」(イベントホライゾン)があり、そこから先には決して進むことは出来ない。

 

そして内側には虚空(ボイド)と呼ばれる空間が広がっているという。

 

非常に抽象的ではあるが、斉明女王はこのペルシアの聖殿である宇宙観を模した小世界を造営しようとしたのである。

 

ペルシア王都のそれと比べ、小さな世界だったが的確に再現し、そして、盂蘭盆会でペルシア王家の者達を歓迎した。

 

最も喜び歓迎していたのは大海人皇子である。

 

イリがインドでは学び得なかった、ペルシアの「現人神」の思想を、知りえる機会を得ることが可能となった。

 

『王とは現人神=則ち神が人の姿となって現れたのが王である』といった思想は、王権を強化するのに必要だった。

 

 

ペルシアのぺーローズ王子らは、和国の精一杯の歓待に心を緩めた。

 

彼らが見た和国は、山だらけの島で、この都の一部を除けば誠に草深い国であった。

 

(ここまで来れば、、)と皆、

 

山河を望み長閑な風景にも安堵したことであろう。

 

亡命者のペルシア王族にとっては、豪奢さや栄華が望みでやってきた訳ではなく、安全を求めて和国にやってきたのである。

 

ペルシア王家の血を引くという女王の国『和国』にやってきただけで、既にその目的は叶えられていた。

 

三年以上に渡る危険な旅は、終わったのだ。

 

驚いたことに、吐火羅(トカラ)からやってきたペーローズ王子達を、水先案内人として和国まで無事送りとどけたのは、なんと済州島の市王子だった。

 

かつてのイリとの約束どおり、和国へ渡る機会を待ち続けていた市王子は、ペルシア王族の亡命を助けるというこの上ない機会によって、来和したのだ。

 

済州島の高氏は、トカラからの亡命者がトカラ列島まで来てることを知ると、海の一族をあげて全力でこれを行った。

 

済州島から幾つもの同伴船を出し、吐火羅(トカラ)からの客人を乗せトカラ列島を島伝いに渡り、日向まで安全に航海をしてきた。

 

 

斉明女王の前に、ペーローズ王子と弟のダーラーイ王子、その妃と姫らの後ろに、市王子とその母・海女姫、高氏の群臣達が居並んでいた。

 

 

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斉明女王

 

 

斉明女王は老いはじめていたが、瞳には凛とした輝きがあり年波を感じさせない。覇気とした声で、語る。

 

「よくぞ遠路を越え和国へ参られた。吾が父はペルシア王子にして西突厥の王逹頭カーンであった。貴殿方と同様、西アジアから経った。北の草原を抜け海を渡り、この和国へやってきたのだ。」

 

 

斉明女王とペーローズ王子は無事を喜び、

 

「こうして、まみえることが出来たのは天の加護」と、

 

感謝していた。

 

斉明女王は、済州島に居た頃に世話をしてくれた高一族の者達や海人姫にも賜を垂れ感謝をする。

 

市王子は深く頭を下げている。

 

「こちらは」、

 

高一族の者が頭を垂れて手をさし、

 

「海女姫とキョギ様(那珂大兄皇子)の間に生まれた、市王子でございます。今日まで、一族で大切に育てて参りました。どうかお声をかけて下さいませ」

 

と、上奏した。

 

 

「なんと、あの時に海女姫が身ごもっていた子か。私の孫ではないか、、」

 

「顔をもっとよく見せておくれ、」

 

斉明女王は、驚く、

 

「吾が一族が栄えるのは嬉しい、耽羅と和国の子じゃな、これより和国と耽羅はより親交を結ぶ。今後は和国で宮を用意するので和国に住まえ。」

 

突然の孫との出合いに喜び、斉明女王は詔する。

 

市王子は、是を謹んで拝受し、母・海女姫と共に和国に住まうことになった。

 

これで、那珂大兄王子は

 

高氏の市王子の存在を受入れざるを得なくなり、

 

 

大海人皇子(イリ)にとっては、

 

気脈を通じた者が周囲に増えていく。

 

また市王子の母・海女姫は、後に海女子と名乗りイリの妻となる。

 

 

 

 

【海東の征 前哨戦】

 

658年、

 

唐の程名振将軍、薛仁貴(ソル・イングイ)将軍に高句麗出征の勅が下った。

 

 

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ソル将軍

 

 

薛仁貴(ソル・イングイ)が総大将となり、副将・程名振将軍と共に陸路より遼東へと向かった。

 

 

風雲急を告げ和国では、阿部比羅夫が蝦夷征伐に船180艘でもって出征し、顎田の蝦夷族らを帰服させた。

 

4月、

 

大海人皇子は更に東北の蝦夷を徴兵し、渡島の蝦夷と和兵を加え、30000人の援軍を組織した。

 

 

【挿絵表示】

大海人皇子(イリ)

 

 

そして大宴会を催し、阿部比羅夫(豆方婁将軍)に援軍の総大将を命じ、蝦夷族の顎田の大酋長・小乙上を率いさせ、急ぎ高句麗防衛線へと送りだした。180艘の船も和国を発し休む間もなく航行している。

 

大海人皇子が、和国をも巻き込み蝦夷族まで駆り出さなければならないのには事情がある。

 

先の唐との戦で、高句麗は遼東の民7万人を連れさられ徴兵すらままならない上、高句麗の部族長らは「親唐」を掲げ、私兵を出すのを渋っていた。

 

 

「高句麗への執着を捨てよ」

 

久しぶりにイリが和国へ戻った時に、大海の里の翁に言われた言葉だが、

 

高句麗で再燃し始めた反唐派と親唐派の分裂は、イリ(ヨン・ゲソムン)の息子達をも巻き込みどうにも抑え難くなっていた。

 

唐に送り込まれた細作の離間策によって、

 

唐と国境を接して戦い続けている遼東地方と、

 

中央の平壌の有力部族との溝は深まり続けていた。

 

 

父母を殺され息子を拐われてる遼東地方の「反唐」は骨髄に沁み、

 

実際に鉾を交えぬ平壌の部族長は、唐よりもイリの権力を厭う「親唐派」が芽をふきだしている。

 

あからさまな反発はしないが、イリの持つ統帥権をイリの息子へ移そうと暗躍していた。

 

 

5月、

 

唐軍は遼河を超え、いよいよ高句麗の北方の要である新城を落とすべく決戦に臨んでいた。

 

是に対し高句麗軍は、敵の数が少ないと見て出撃する。

 

南西の貴端河から対岸に渡り唐軍を急襲したが、唐の名将程名振の激しい反撃を受けて大敗してしまう。

 

そして唐軍に落ちた、三千人が斬首された。 

 

 

この頃になり、ようやく和国から援軍として出征してきた阿部比羅夫が、前線に達した。

 

阿部比羅夫は、蝦夷兵らを率いて猛反撃に出る。

 

突然に現われた援軍の急襲に、勝戦気分に酔っていた唐軍は度肝を抜かれた。

 

高句麗北方の要である新城を唐軍に落とされれば、楊万春将軍(ヤン・マンチュ)らが奮闘して持ちこたえてる南の安市城は敵の中に孤立してしまう。

 

戦局を覆すには、何としてもここで負ける訳にはいかなかった。

 

阿部比羅夫の用兵は、唐軍が今まで戦ってきた高句麗兵よりも格段に強かった。川を渡り刃を交える前に弓矢で攻撃を仕掛ける。山河で猟をする蝦夷族は平地戦や騎馬戦は得意ではないが、野戦なら得意である。そして、弓矢の腕は優れ、正確に唐軍の兜の下を射ぬいた。

 

果敢な勢いに驚いた唐軍は、契丹兵を動かして当たらせることにした。

 

李窟哥率いる契丹族は、前年高句麗と戦ったばかりであり疲弊していた為、唐軍の度重なる出兵要請に対して躊躇していた。

 

「まず、戦の勝敗を見極める」

 

契丹族がどちらに味方するかで戦の軍配は変わるかもしれず、陣中では改めて唐軍に与力するべきかどうか、族長は軍議を開いていた。

 

どちらの勝利が契丹族にとって有利か検討しなければならない。

 

 

煮え切らない契丹族に対し、唐軍総大将の薛仁貴(ソル・イングイ)将軍は、いきなり契丹族の陣営に自ら乗り込み、族長らの説得にあたった。

 

 

【挿絵表示】

ソル将軍

 

 

 

「味方をするなら徹底的に味方となれ!日より見は赦さぬ。」

 

 

「唐が高句麗を滅ばさぬ限り、東アジアに戦禍は無くならぬのだ。高句麗が勝ったとて、唐を滅ぼすには及ばない。戦は続くぞ!その度に、どちらかにつくしかして戦い続けていけば、やがて部族など跡形もなくなるだろう。」

 

「唐軍に徹底的に味方をし、高句麗を滅ぼす事以外に戦を無くすことはできないのだ!契丹族が東アジアで生き延びるにはそうするしかない。」

 

 

薛仁貴(ソル・イングイ)の説得により、契丹族は動かされた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

契丹族 李将軍

 

 

そのまま彼らを率いて進撃してきた薛仁貴(ソル・イングイ)と、赤烽鎮

で和国軍と戦っていた程名振将軍とに挟撃され、援軍・阿部比羅夫(豆方婁)はついに敗退した。

 

和国軍は二千五百人が斬首となった。

 

 

 

大海人皇子によって、とうとう和国まで巻き込んだ前哨戦が始まってしまった。

 

 

やがて、

 

和国が堂々と反唐に転じると、遣唐使として唐に滞在中の大海人皇子の父・高向玄里は処刑されてしまうことになる。



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第14章 【海東の征】和国遣唐使の勾留

658年~659年

第1話 陰謀家 蘇我赤兄
第2話 狂人の如き 有馬王子
第3話 有馬王子 処刑
第4話 イリ隠し子・藤原不比等の誕生
第5話 斉明女王 遣唐使を再び送る
第6話 【海東の征】開戦前夜 遣唐使幽閉


【陰謀家 蘇我赤兄】

658年、

 

大海人皇子は、蝦夷族からの徴兵を続けていた。

 

 

渟代の蝦夷族の酋長200人を入朝させ、鎧、蛸旗、弓矢などを下賜し、渟代郡の戸口調査を行っていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

高句麗への援軍・阿部比羅夫(豆方婁)は赤烽鎮でソルイングイらと程名振将軍とに挟撃され敗退し、和国へ撤退する時に唐側の粛慎(靺羯族)の追撃を受けたが、なんとか無事に逃げきり日本海を渡って和国へと戻ってきた。

 

しかし、唐軍側に与する粛慎の靺羯兵らは、尚も執拗に追撃をかけてきて海を渡り日本海沿岸にまで襲来してきた。

 

阿部比羅夫らは是を迎え撃つ。

 

赤烽鎮の戦で、阿部比羅夫が負けてしまい高句麗北方の要である新城(中国撫順)を奪還できなかったことは大きな打撃となっていた。

 

楊万春将軍(ヤン・マンチュ)らが持ちこたえていた南の安市城は敵の中に孤立してしまい、高句麗の元の首都があった国内城(中国吉林)も唐軍の脅威に曝されてしまう。

 

北方路を確保した唐軍は、粛慎の靺羯兵らを使い北方から季節風に乗って日本海を渡らせ追撃させた。

 

唐軍は版図が広がれば広がるほど、動かせる正規軍が不足し、遠征は現地徴用した兵に頼らざるを得ない。

 

駆り出された粛慎の小部族達は、唐軍に妻子を人質に取られ必死であった。日本海を背にした背水の陣であり、全滅か勝利しかない。

 

迎え討つ阿部比羅夫軍も殆どの兵は粛真の蝦夷族であるが、敵の軍監の旗は唐軍の軍旗であり、和国の者どもは唐軍の旗が和国にまで上陸した事自体に恐れおののいていた。

 

高句麗北東~和国北方までは全てイリの徴兵圏であったが、赤烽鎮の敗戦によってその徴兵圏にまで唐軍に侵入されてしまった事の方が、イリにとっては衝撃が大きかった。

 

これからは、北方に居る粛真の靺羯族をどれだけ自軍に取り入るかの戦いになることを覚悟しなければならなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

粛真の靺羯族たちは大部族(ペドウン)という程の部族ではなく、一族(ウル)といった程度の小集団の集まりである。

 

唐に味方しなければ、唐の大軍に殲滅され、

 

唐に味方をすれば、妻子を質に取られ死ぬまで戦わされる。

 

 

唐と戦うか、唐の為に戦うかの選択しかなく、いずれにしろ決着がつかぬ限り、小部族達は決して戦から逃れることは出来ない運命にあった。

 

激しい戦いの末、なんとか阿部比羅夫は粛慎の兵を殲滅したが、和国にまでこのような局地戦が飛び火し始めたことは、憂うべき出来事だった。

 

阿部比羅夫は、大陸より持ち帰ったヒグマ二頭、熊皮70枚以上を朝廷に献上した。

 

 

 

 

この年658年、5月、大和では事件が起きていた。

 

那珂大兄皇子の息子・建王子が8歳にして亡くなったのである。

 

建王子は、先の右大臣・蘇我石川倉麻呂の越智娘との間に生まれた子で、もともと体も弱く口がきけない子供だった。

 

建王子を生んだ越智娘は、蘇我石川倉麻呂が追い詰められ自殺した後、あまりの衝撃に狂死してしまい、蘇我一族はすっかり落ちぶれた。

 

 

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蘇我石川倉麻呂

 

残った蘇我系の姫や王子らは後ろ盾を得るほどのこともなく、那珂大兄皇子にとってはさして重きをおくほどでなかったが、逆に蘇我の残党で蘇我石川倉麻呂の弟の

『蘇我赤兄』という者を庇護していた。

 

蘇我の残党にとっては、例え体が弱く口がきけずとも、次期王となるであろう那珂大兄皇子の子で蘇我の血を引く王子がいることが一縷の希望となっていた。

 

そもそも、蘇我の血を引く王を擁立することで代々栄えてきた外戚部族である。むしろ、言葉が不自由な者の方が傀儡として操りやすい。

 

戦よりも政治的暗躍を得意とする部族であり、蘇我馬子という求心力を失って以来ばらばらになってしまった蘇我氏の中では、最も蘇我氏らしい陰謀家だったのがこの蘇我赤兄だった。

 

先の右大臣蘇我石川倉麻呂が誅滅された事件でも、蘇我赤兄が、兄の石川倉麻呂を蹴落として自分が蘇我家宗主となる為に関わっていたのではないかと噂されるほどだった。

 

蘇我石川倉麻呂らがウィジャ王を廃し那珂大兄皇子を擁立しようとしていた事を、密告したのが蘇我赤兄だという。噂でないならばまことに陰険な謀ごとである。

 

権を求めるにも、正々堂々とした大望ではなく、嫉妬による陰湿な目論見は、計算違いをし我が身を滅ぼしかねないことも多いが、結局、蘇我赤兄は次期大臣になど成れず事件後には那珂大兄皇子の側近となって蘇我の立場をかろうじて繋いでいるだけである。

 

 

その、蘇我赤兄が密やかな希望としていた建王子が亡くなったのである。表には出さずとも衝撃は大きい。

 

蘇我赤兄は、たちまち動きはじめた。

 

 

【狂人の如き 有馬王子】

一方、先の左大臣の阿部内麻呂の血を引く有馬王子である。

 

 

【挿絵表示】

阿部内麻呂

 

有馬王子は、父ウィジャ王、そして孝徳王らが和国を去った後でも1人和国に留まっていた。

 

弟の定恵は(表向きは中臣鎌足の子)、中臣鎌足が遣唐使にして国外へ逃がしたため、有馬王子はウィジャ王の血筋の残留者として目立つ。

 

阿部氏は百済の部族ではなく、有馬王子が百済に行ったところで依りどころはなく、和国に残るしかなかったのだが、1人身の危険を感じていた有馬王子はずっと狂人になったふりをしていた。

 

「狂人の如く」

 

生かしておいても阿部氏の残党に担ぎだされることなどないだろうと捨て置かれていた。

 

それが近頃、『紀の湯温泉』にある牟婁の湯(和歌山県白浜町 崎の湯)に湯治に行き、効き著しく気狂いが回復したという。

 

そして都に戻り、斉明女王に回復を報告した。

 

回復した有馬王子は、急激に斉明女王に接近し始めている。そして、斉明女王の下には蘇我系の大田姫らが集っていた。

 

既に大田姫は、大海人皇子(イリ)のもとへ嫁いでいる。

 

那珂大兄皇子が大海人皇子(イリ)と手を組み、共に孝徳王を難波朝廷に置き去りにして、大和朝廷に移った頃に縁が結ばれた。

 

那珂大兄皇子にとって、蘇我の越智娘が産んだ建王子や大田姫は、蘇我の力が失われた今となってはたいした利はなく、大海人皇子(イリ)に娶らせるには妥当だったのだろう。

 

有馬王子はその蘇我系の姫、大田姫の妹を娶りたいのだ。

 

狂人のふりをし続けることにも限界がある。

 

都では人の目につきやすい為、人目を忍んで暫く『紀の湯温泉』に身を潜めていたが、大海人皇子(イリ)が大田姫を娶ったのを見て次第に考えが変わった。

 

なんとか那珂大兄皇子の娘を娶り、那珂大兄皇子の一族となって生き延びようと思った。

 

蘇我石川倉麻呂が亡くなり、越智娘が狂い死にした後は、残された建王子ら子供達は祖母の斉明女王を頼っていた。

 

幸い、有馬王子は斉明女王とは百済にいた頃よりの旧知の間柄である。ウィジャ王によって和国へ送り込まれたのも同じ時期であり、有馬王子にとっては伯母にあたる。

 

壮気盛んな那珂大兄皇子は不可能だが、斉明女王の情けにすがり、なんとか蘇我系の姫を娶らせて貰えぬものかと、回復した自分を売りこみに足しげく宮へ通っていた。

 

有馬王子はこの大和朝廷の王室一家に溶け込もうと懸命であり、他の兄妹、建王子とも接触があった。

 

しかし、その後に建王子が亡くなったことから、

 

「毒を盛ったか、、」

 

と、蘇我赤兄は勝手に有馬王子への疑念を抱いた。

 

いずれにしても、王室に取り入ろうとする阿部氏系の有馬王子の存在は面白くはなく、やがて

 

「取り除かねばなるまい、」と

 

殺意を持つに至った。

 

 

 

斉明女王は、孫の建王子の死を嘆き、深い悲しみに沈んでいた。将来一緒に埋葬して欲しいとまで言い、繰り返し涙を流した。

 

気の晴れぬことのない斉明女王に、

 

「紀の湯温泉に行かれては?」と、

 

有馬王子が提案したところ、斉明女王はその気になり、都を離れて行幸する事になった。

 

朝廷の朝務を離れての行幸ではなく、大臣らも連れて政庁ごと移動し、暫く湯治をしながら滞在するという。

 

かくして、大和朝廷の大行幸となり、那珂大兄皇子らも斉明女王に伴われ紀の湯温泉に向かった。

 

 

都が空になった。

 

大海人皇子(イリ)は北の蝦夷族の徴兵であり、阿部比羅夫は粛慎と戦をしている最中で、都には主だった者が誰もいなかった。

 

額田文姫と金一族、海女姫と高市王子や耽羅の者までこぞって「紀の湯温泉」に向かい、長蛇の列が延々と大和から伸びていった。

 

それはまるで、大和朝廷が

 

日本海沿岸に唐軍の軍旗を立てた粛慎の襲来を恐れ、政庁ごと避難しているかのようにもみえた。

 

 

 

 

【有馬王子 処刑される】

斉明女王と共に大和朝廷が「紀の湯温泉」に行幸し、大和の都は閑散としている。

 

大和朝廷と繋がりがない有馬王子は、取り残された様にひっそり大和に残っていた。

 

先代の難波朝廷ウィジャ王の息子である有馬王子には、大和朝廷では味方が居なく、母方の阿部内麻呂が殺されて以来、阿部氏さえも恐れて有馬王子に関わろとはしなかった。

 

阿部氏には、高向の阿部一族である阿部比羅夫やその義兄・大海人皇子らもいるが、戦の最中であり、ウィジャ王と切れた今、有馬王子にかまってる場合ではない。

 

有馬王子は、孤独だった。

 

 

そこへ突然、

 

蘇我赤兄が有馬王子のもとを訪ねてきた。

 

 

那珂大兄皇子の伴で紀の湯温泉にも行かず、

 

 

「何事か?」と、問えば

 

斉明女王への苦言を並べ立てる。

 

「都と水路の工事は重労働に次ぐ重労働。

延べ七万人の民を動員し、役務に命を落とす者らも多く、民達は水路を『狂気の渠』と呼び 、斉明女王への怨嗟の声は国中にあふれています。

 

今こそ斉明女王様を取り除く時です。このようなことを許してはなりません。」

 

「なんということを、、女王様が一人で行ってる工事ではないでないか! そのぐらい誰でも分かっていることだ。何故、斉明女王様が取り除かれねばならんのだ。」

 

有馬王子は、即座に吐きすてた。

 

 

「もはや、斉明女王様から那珂大兄皇子様の世に代わるべきです。しかし、那珂大兄皇子様自ら実母を除く事など出来ようはずがありません。

 

幸い有馬王子様は斉明女王様に気に入られ、孫姫を嫁にと請うほど、近づくことができます。

 

那珂大兄皇子様に代わりどうか斉明女王様を取り除いてください、、」

 

 

「なんと、っ!毒殺せよということか、、!

 

ならぬぞ!私がいくら気狂いしたとてその様なことできる訳がない!」

 

蘇我赤兄は重たく澱んだ目つきで擬っと、有馬王子を見据えた。

 

(もしや、、建王子の毒殺の疑いをかけられているのか)

 

と、はたと感じ有馬王子の顔色が曇った。

 

その表情を見逃さぬように、喰い入るように蘇我赤兄は有馬王子を凝視する。

 

剣を振るうより毒殺を得意とする蘇我氏は、また他者もそうであるという事を信じて疑わない。

 

「那珂大兄皇子様は、お父上である武王様が崩御された後、16年間未だに王子のままです。

 

那珂大兄皇子様に王になって頂き、共にこの大和の世を生きようではありませんか。

 

有馬王子様はご自分がそこまでせねば、この世で生きる場所など無いということがわかりませぬか?

 

父を殺し、王統を奪った義慈王の王子に那珂大兄皇子様が自分の娘を嫁がせると思いますか?」

 

 

「だからと言って、出来ぬことは出来ぬ!」

 

有馬王子は振り払う様に声を放つ。

 

 

「有馬王子様、、

 

命が惜しくないのですか?

 

明日の朝、もう1度お返事をお伺いさせてもらいに参ります。

 

今夜一晩、よくお考えください。」

 

蘇我赤兄は含みのある言い方を残し、立ち去って行った。

 

 

(何れにせよ、もはや生き延びられぬのでは、、)

 

有馬王子は、茫然としていた。

 

暫く経ち

 

まだ夜も明けぬ深夜、馬の嘶きが有馬王子の屋敷を囲んだ。

 

「有馬王子よ!大和朝廷の転覆を謀った謀叛の罪で捕らえに来た!もはや大人しく縄につけ。」

 

なんと、蘇我赤兄が兵を引き連れ有馬王子を捕らえにきた。

 

「謀ったのはそちらではないかっ!」

 

有馬王子の叫びは、押し寄せる兵達の怒号に掻き消された。

 

十重二十重に有馬王子の屋敷は取り囲まれ、這い出る隙もない。

 

有馬王子は膝をつき、観念した。

 

「有馬王子 謀叛」

 

の報は、すぐさま紀の湯温泉(和歌山県白浜町)に伝えられ、斉明女王は突然のことに驚き狼狽したが、那珂大兄皇子は全く驚きもしなかった。

 

那珂大兄皇子は、斉明女王が何とかしようとする前に処刑したいらしい。大海人皇子(イリ)と阿部比羅夫が居ない今をおいては機会がない。

 

 

658年11月14日、

 

有馬王子は紀の湯温泉に連行された。

 

 

紀の湯温泉の手前の岩代(和歌山県南部町)まで護送されると、一度縄を外され食を採った。

 

有馬王子の味方は居ない。それでも、大海人皇子らがなんとか助けてくれぬものかと運を頼み、岩代の浜の松の枝を結んで願いを込め、歌を詠んだ。

 

逆に那珂大兄皇子は、万が一にも大海人皇子が有馬王子側につくことを厭い、その存在自体が不穏である為、有馬王子を直ぐにでも処刑したい。

 

イリは大海人皇子という皇太子弟の立場となり、那珂大兄皇子側についてる為に、大和朝廷は盤石であったが、

政敵が生まれるとすれば、イリが有馬王子を擁立し反旗を翻すことしかない。

 

それだけ、阿部比羅夫とイリのきずなは堅いのだ。

 

今、二人は唐との戦で高句麗の為に必死で動いているが、もしも阿部一族の有馬王子の擁立に阿部比羅夫が本気で動き出せばひとたまりもない。

 

内戦となれば、戦の経験がない那珂大兄皇子では、唐国相手に大陸で戦う彼ら二人の敵ではないだろう。

 

 

【挿絵表示】

 

那珂大兄皇子

 

 

 

有馬王子は、真っ直ぐ『紀の湯温泉』にある牟婁の湯の那珂大兄皇子のもとに連行され裁かれたという。

 

翌11月15日、飛鳥へ護送される予定だったが、途中の藤白坂(和歌山県海南市)で木に吊るされ絞首刑に処された。

 

戦を終え、北方から阿部比羅夫や大海人皇子が引き上げて来る前にと刑の執行を急いだのだろうか。僅か、二日間の出来事だった。

 

 

今回の斉明女王のような大行幸は、過去に前例がなく、群臣を引き連れての湯治というよりも、裏日本に靺羯族が上陸し唐軍の軍旗を立てたことによる避難とみる向きが強い。

 

戦っているのは粛真(狩猟民族)の靺羯族と蝦夷族だが、靺羯族は唐軍の軍旗を立て蝦夷族はイリが与えた高句麗の軍旗を立て、旗色だけを見れば和国で唐と高句麗が戦っているようにも見える。

 

大戦から和国へ逃れてきた者らにとっては衝撃的な光景だった。

 

民を動員して都に築いてる高句麗式の城塞もまだ完成しておらず、

 

万が一、阿部比羅夫や大海人皇子が敗れ裏日本をから中央に突破されても、山に囲まれた飛鳥と違いここからなら海路で逃れることができる。

 

阿部比羅夫らは戦に血まなこであり、未曾有の混乱の中、有馬王子を助ける者は誰もいなかった。

 

 

 

【イリ隠し子・藤原不比等の誕生】

 

「鎌足は以前、ウィジャ王より密命を受けた時に寵姫である阿部小足姫を下賜されたそうだな」

 

阿部小足姫とは有馬王子の母であり、定恵を妊娠している時、ウィジャ王から中臣鎌足に下賜された。

 

 

【挿絵表示】

 

 

大海人皇子は、自分も「寵姫を下賜する」と言ったが、それだけ中臣鎌足が信頼に足りる者だからである。

 

実際、鎌足は阿部小足姫が生産んだ子供は自分の子供として育て、政変後は遣唐使として送り出して難から逃れさせた。

 

大海人皇子も、幼い頃から親元を離れ諸国を生き抜いてきたし、中臣鎌足もウィジャ王と共に、高句麗、和国、百済と渡り歩き生き抜いて来た猛者である。

 

旅が人を育てるということも分かっているし、生き延びる為には一所に縛られず、時に「離れる」という機会があるということを知っている。

 

宮の中で安穏と育て、天下の広さも、世の厳しさも分からぬままの大人になるよりも、自分の手から世に送り出すことで天下の壮のような逞しい壮(おとこ)が育つ。

 

下賜ではないが、大海人皇子は愛する妻と生まれてくる子供を中臣鎌足に託した。

 

絆を深める為に、妊娠中の妻を差し出すことはこの時代の常識であり、中国的な「仁義の害」にまだ毒されていないアジア諸国では頻繁に行われていた。

 

中国人の常識では「貞婦二夫にまみえず」などと言い他の男のもとへいくことは悪しき事と蔑まれた。

 

「義」というならば、妊娠した寵姫を託すことがアジア諸国にとっての義なのかもしれない。

 

信頼され託された方も信頼で応え、例え何があっても自分の子として育て、その血統を生かそうとする。

 

 

大海人皇子が、唐との決戦の前に妊娠している妻を信頼の置ける者に託すのは当然のことであった。

 

そして再嫁する姫も自ら使命を全うし、例え敵味方になり王家が滅んでも、他家でその血脈を無事に残そうとする。

 

斑鳩の上宮法王の子孫は全滅させられたが、宝皇妃だけは蘇我入鹿のもとにあって生き延び、上宮法王家の王統を残している。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「血統を絶やさず、子を産む。」

 

姫たちの使命は、金一族でも他の王族でも皆同じであり、自分に流れる血が貴種であることの誇りは、どんなに権力者や時勢が移り変わっても、血脈を繋ぐことだけに全てをかける。

 

 

 

明けて659年、

 

大海人皇子の妻、額田文姫は懐妊して直ぐに中臣氏のもとへ預けられていたがやがて男児を産んだ。

 

そして、中臣鎌足の次男として密かに育てられた。

 

中臣 史(フヒト)という。

 

後に、藤原不比等と名乗り、

 

 

貴族時代の繁栄の先駆けとなった。

 

 

イリには、藤原不比等とは別に

 

「イリの子が託されてるのではないか、」

 

 

との風聞がある。

 

 

イリにとって東西の両翼の一人、高句麗の遼東を守るテジュンサン将軍にも子を託していたという。

 

 

【挿絵表示】

 

仲象将軍(テ・ジュンサン)

 

 

「男であれば息子として育てよ」と託し

 

やはり男子が産まれ、テ・ジュンサン将軍の子として、

 

「テ・ジョヨン」と名付けられ育てられた。

 

テ・ジョヨンの方は人の噂となり、風聞が広まってしまって難をさけるため、一時は名を変え奴婢にまで身をやつした。

 

後に、渤海国の初代国王となる。

 

 

 

【斉明女王は遣唐使を再び送る】

 

親唐派の新羅武烈王こと金春秋と、反唐派の金ユシンの対立は激化し、

 

「共に天を戴かぬ者」

 

同士になっていた。

 

唐に逆らい高句麗と組もうとする金ユシンは遠ざけられ、武烈王は金ユシンの手を借りずに新羅王の座を守り続けようと固執している。

 

これに対し、百済、靺羯、高句麗の三者は呼応して新羅に攻め入り三十三城を奪いとった。

 

唐との大戦に備えなければならなくなった今、隣国の親唐国をそのままにして置ける訳がなく徹底的に叩いた。

 

新羅には金ユシン以上に新羅軍を指揮せる者はなく、とうとう新羅は滅亡の危機に陥ってしまった。

 

武烈王は急使の金仁門を唐に送りこみ救援を要請すると共に、金ユシンに頭を下げ再び大将軍にして同時に百済に反撃に出る気配を見せていた。

 

 

新羅から和国に根を下ろしてる金一族のもとには、互いに情報のやり取りが行われている。

このときは、新羅は三十三城を奪われ危機に瀕してること、唐へ急使を送ることと、百済に攻め入ることなど半島の情勢が伝えられてきた。

 

そして、和国の金一族を率いてる額田文姫は、これらのことをそっと斉明女王に伝えた。

 

斉明女王は、西アジアから亡命してきたペルシアの親戚ぺーローズ王子らの救援を訴える為に、新羅の遣唐使に和国からの使者を同行させたいと願ったことがあった。

 

半島の情勢が許さず断られたが、今回もまた新羅が送る遣唐使に使者を同行させられぬものかと、3月にはぺーローズペーローズらを伴い近江の比良宮までやってきていた。

 

表向きはペルシアの亡命者の為であるが、斉明女王の内心は唐に逗留している元夫である高向玄里の無事を慮ってのことである。

 

なんとしても、唐から帰国できずにいる高向玄里のもとへ使者を送りたい。

 

高向玄里は最初の夫で、斉明女王が宝皇女と呼ばれた時代のことであり、女王となった現在は夫はいない。

 

所謂、政略結婚の相手としての夫ではなく、斉明女王の心の奥の中だけで慕い続けている夫という存在だ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

「秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の都の仮廬し思ほゆ」(万葉集)と、

 

近江方面が気にかかるという警鐘を吏読に託した額田文姫の歌に触発され、斉明女王は動いた。

 

阿部比羅夫の粛慎戦は終わったが、次なる戦に備え斉明女王が日本海側の防衛の要である近江比良宮に入ったのではと衆目には映っていた。もはや臨戦体制である。

 

結局、新羅は斉明女王の使者など同行させること等なく、唐へ使者をおくった。

 

新羅の遣唐使に同行が認められたのは、三蔵法師玄奘に師持する為の仏僧界の者だけである。

 

阿部比羅夫の唐軍側の粛慎との戦いの詳細が、唐の高宗皇帝に知られてしまえば、和国からの反唐行為に気づかれ遣唐使の高向玄里らは無事でいられないかもしれない。

 

 

ならば、

 

「和国から遣唐使を送ります」

 

斉明女王は詔した。

 

高向玄里を守りたい斉明女王は、あくまでも北方の少数部族らの平定の為の戦をしている事を唐に報告し、皇帝の威光に服したという蝦夷族の者を伴わせた。

 

前回の遣唐使は半ば追放の側面もあり、高向玄里の様に唐に置き去りにされるか、孝徳派の者らは一隻にまとめられ船ごと沈められた。

 

高向玄里をはじめ唐に滞在している者達の迎えの船を出したいというのが、斉明女王の願いであるが、那珂大兄皇子は、別の思惑で乗ってきた。

 

唐の高宗皇帝から、和国皇太子としての承認を得たいのである。

 

那珂大兄皇子は、腹心の津守を往かせることにした。

 

大海人皇子派の者からは、驚いた事に中臣鎌足自身が乗り出した。

 

那珂大兄皇子の意のままに動く津守も、これで下手に動くことは出来なくなってしまった。

 

大和に朝廷を戻してからの和国は、斉明女王、那珂大兄皇子、大海人皇子の三頭体制だったが最も影響力が強かったのは大海人皇子であり、誰も是を拒むことはなかった。

 

中臣鎌足は、大海人皇子(イリ)からアジア天下の話しを聞かされ、実際に自分もアジア天下を見てみたいという思いが日増しに強くなっていた。

 

反唐派と言っても、唐国については何も知らないという点に於いては、出世の為に反唐を唱える輩と何ら変わりはない。

 

唐軍に与する粛真の靺羯族は、日本海沿岸に迄攻め寄せて来ている今、敵国の唐国を知らぬままでは是以上は進めないと判断し、

 

天下の広さを知るにはこの期を逃す訳にはいかないと遣唐使への意気込みは強かった。

 

 

中臣鎌足は、遣唐使「智興』と名乗りを変えて、

 

遣唐使船の準備が急速に進められていった。

 

7月、遣唐使の坂合部石布・津守らが2船に便乗し難波の津から筑紫へ向かい8月に和国を経った。中臣鎌足こと智興は津守の船に乗り込み、一挙一動を監視している。

 

 

この頃、日本海の二匹の龍、

 

即ち阿倍比羅夫と大海人皇子は休むことなく全艦隊を率いて日本海を航行していた。

 

180隻だった軍船は 200隻にまで増やし、徴兵した海援部隊を次々と高句麗に送り出した。

 

大海人皇子の名に恥じぬ「海の壮(おとこ)」として最も活躍したのは、イリの生涯でこの時だったかもしれない。

 

軍王と呼ばれるイリが、海の皇でもあることはあまり知られていない。

 

 

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海皇イリ

 

 

家族も安穏とした生活も知らず只ひたすら修行と学びに打ち込んできたイリは、あらゆる事に貪欲となり操舵に於いてもそれを極めていた。

 

己を天下に押し出す為に体得すべき事には、労を惜しまず己を差し出し続けてきた。

 

日本海沿岸を知り尽くし日本海を航行できる者こそが、半島から列島を統べる大望を持ちうるのであり、玄海灘の対馬航路しか分からない百済部族であった蘇我氏などは到底望み得るものではなく、那珂大兄皇子のように海を知らぬ者には論外である。

 

高句麗出身のウィジャ王と違い、百済の部族らには日本海側の制海権がない為、西にばかり目がいき東国にまで支配が及びにくいのもそのためであった。

 

 

日本海航行は半島西岸の技術であり、高句麗の者か、金一族の者しか分からない。

 

 

概ね北東または南西、季節をかえして北西または南東を進むと潮を渡り目指す上陸地点に着くようだが、操舵技術によっても、また船の大小による櫓の深さでも微妙な違いがあったのかもしれない。

 

大海人皇子は、存分に極めた航海技術を発揮し、艦を率いて徴兵の輸送に努めた。

 

 

 

 

659年9月、

 

遣唐使船は百済の伊志奈利島を経由し、唐国の越州・会稽県に至った。

 

無事だったのは津守が率いる船だけで、坂合部石布の船は遭難し漂着した先の島民に多くの者が殺されてしまった。

 

津守らは10月に唐の首都洛陽に入った。

 

「天下」というに相応しい巨大な都に、一堂は驚愕した。

 

 

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城塞も宮殿も飛び抜けて大きく荘厳であり、天下の忰を集めた欄城都市を見上げたまま、皆、暫し言葉を失っていた。

 

不思議な服装の民族たち、

 

逞しい黒人、

 

金髪の青い目をした白人女性が男の袖をひき、

 

駱駝が往来をゆく、世界都市洛陽。

 

次々と飛び込んでくる東アジアで見たこともない様な光景に、遣唐使らは驚き感嘆が止まない。

 

世界中の文化がここに集約され、アジア天下の方々の民族達が、この唐の都を訪れている。

 

 

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「高句麗は、なんと巨大な国と戦をしていたのだ、」

 

あらためて唐という国の大きさを目の当たりにし、皆身が摘まされる思いだった。

 

同時に、和国を唐との戦に引きずり込もうとしている大海人皇子に対する疑念は大きくなり動揺し始めた。

 

 

10月30日、

 

遣唐使は、連れてきた東北の蝦夷族の酋長と共に高宗皇帝に拝謁する。

 

見上げるほどの回廊を渡り、皇帝の宮殿へと案内された。

 

和国の建築様式も斉明女王や半島を通じて、大陸の文化を取り入れたものがそれなりに完成しつつあるが、和国の構造物にはまだ色がなかった。

 

金箔は勿論のこと、紺碧の空の様な藍から、済んだ青空の様なみずみずしい青や、目の眩むほどの朱色、若葉の様な鮮やかな緑、和国では決して見ることのない顔料に彩られた、中華文明の粋を凝らした豪華絢爛な宮殿は、和国の者にとって異世界とも言える空間であり、あまりのその目映さに威圧されてしまっていた。

 

『中国』とは、世界の中心の国であるという意味で、四方を東夷、西戎、南蛮、北狄、と劣った野蛮な国々であるとして見下し、これを『中華思想』というが、異空間の様な唐の宮殿は

 

まさしく

「世界の中心の華やかさがここにある、、」

 

と、息をするのも忘れるほど見惚れていた。

 

 

津守は、智興こと中臣鎌足と蝦夷族を伴い高宗皇帝の前に立ち蝦夷族は白鹿の皮・弓・箭などを献上した。

 

高宗皇帝は、和国の国情や蝦夷族の様子を尋ねると、

 

「正しく唐の威光がアジアの最果てまで行き渡った」と

 

喜び、機嫌が良かった。

 

 

 

【海東の征開戦前夜 遣唐使幽閉】

 

11月1日、

 

遣唐使らは冬至の会に参列することになり、再び高宗皇帝に謁見する。

 

和国と蝦夷族ら東アジアの最果ての者どもを侍らす事は、唐の高宗皇帝にとって天下人としての威光が隅々まで行き渡った標しであり、誇らしい事であった。

 

アジア天下の人々と共に夢の様な壮大な式典に列した後、遣唐使達は宿舎へと戻る途中不思議な感覚にとらわれていた。

 

足を進めるにつれ、次第に現実へと戻り

 

鎌足の心にも変化が起き始めていた。

 

遣唐使となる前は強烈な反唐派であったが、実際に入唐して大唐国を目の当たりし、己の身のほど知らずを思い知らされ、

 

「唐国と戦うとは、なんと無謀な戦いを挑もうとしていたのか、、」と、

 

ようやくその愚かさに気づき始めた。そして、

 

次第に、反唐を唱える大海人皇子の方が狂人の様に思えてきた。

 

 

中臣鎌足だけでなく、鎌足の従者にも動揺が始まり遣唐使の宿舎は、深夜までどよめいていた。

 

「中臣鎌足(智興)は反唐派の急先鋒だ。もしも和国の反唐行為が露見すれば従者もろとも皆殺されるやもしれぬ。」

 

津守が、ふと呟いた小言が、たまたま中臣鎌足(智興)の従者の耳に入ってしまった。

 

従者は、大人物では務まらない。

 

錐の様に才能が突き出ることがない、小人でなけれはならない。

 

大局を見極めることもなく、只、

 

「私は反唐派ではありません」と

 

訴える為、あろうことか中臣鎌足が反唐派であり和国の親唐派を倒したと、

 

高宗皇帝に密告した。

 

従者は、唐の接待役を通じて和国遣唐使の中に反唐派がいることを訴えでたのである。

 

中臣鎌足が反唐派であること、大海人皇子によって高句麗に兵が送られていることなど、従者は知り得る限りの事を話した。

 

決して気性は荒くはない温厚な高宗皇帝が、 この時は烈火のごとく怒った。

 

前回、高向玄里らが斉明女王の冊方を願い、初めての遣唐使がやってきた時、高宗皇帝はアジア世界の果てにあるという和国の遠い道のりを憐れみ、特別に貢納を免除し、新羅が戦となれば和国が兵を出して新羅を助けよと命じた。

 

そして、今回の遣唐使は蝦夷族まで伴い唐皇帝に服し恭順の姿勢を見せたのだ。

 

それが、裏では高句麗に兵を送っていたという。

 

東アジアで孤立している親唐国新羅を助けるどころか、敵国である高句麗に援軍を派兵するなど、度しがたい反唐行為である。

 

高宗皇帝は、

 

和国の遣唐使を全員幽閉した。

 

 

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和国が反唐であるという裏切りについて許せるはずもなかったが、何よりも唐の皇帝に拝謁しながらも、今までそれを秘していたということ自体、許し難いことであり和国の遣唐使には全員に罪があるとして、裁かれた。

 

中臣鎌足は三千里離れたところへ流罪が決定したが、

 

遣唐使の博徳が懸命に助命嘆願した為、

 

高宗皇帝は、耳を傾けるにいたった。

 

「和国を親唐国にするには中臣鎌足は不可欠な存在であり、命を助けて頂ければ必ず新羅の味方をします。」と説得し、

 

遣唐使一人斬ったところで態勢に大した変わりはなく、それよりも内政干渉の持ち駒として使うがよいと

 

是が容れられ中臣鎌足は刑を免れた。

 

しかし、中臣鎌足は、命と引き換えに新羅の味方をすることを約束させられる。

 

鎌足も、もはや井の中の蛙ではなく、反唐を貫いて命を今ここで落とすことはなかった。

 

鎌足はこの時の誓約どおり新羅の味方をして、後に有事の際、戦船を新羅に送ったが、結果的にそれが鎌足の身を危うくすることとなる。

 

唐は、

 

もはや、和国が反唐国であるという事がわかった以上、新羅の救援も東アジアの情勢も捨てておくことは出来なかった。

 

『来年は、海東の征があろう。戦が終わるまで和国の者どもは長安にて勾留する!』

 

前回の遣唐使 高向玄里らも含め、和国遣唐使は全員囚われの人となった。

 

海東の征とは

 

前哨戦といった探り小手の様な戦ではない。

 

 

折しも、蘇定方がガロの残存勢力を掃討し西方の乱を鎮定してきて東征への憂いが除かれた時である。

 

そして薛仁貴(ソルイングイ)将軍は、契丹の黒山を攻め阿ト固を虜にし、659年12月には高句麗の横山にて温沙門軍を破った。 

 

 

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ソル将軍

 

 

高宗皇帝はついに、

 

東アジア征服の大戦を決意した。

 

 

遣唐使を送ったことが、かえって唐との決戦を早めることになってしまった。

 

 

那珂大兄皇子が、百済・和国の両国の王となる為、唐に擁立して貰うつもりで津守は行動を起こしたが、それが結果的に百済滅亡にまでつながるとは、全く思いもよらなかった。

 



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第15章 西暦660年【百済滅亡】Ⅰ

659~660年

第1話【唐軍 靺鞨族を刈り出す】
第2話【大海人皇子の無言交易】
第3話【大唐国皇帝軍 海東の征】
第4話【神出鬼没の蘇定方将軍】


【唐軍 靺鞨族を刈り出す】

この年の暮れ、唐は劉仁軌に水軍を率いらせ遼東を攻撃させていた。

 

 

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劉仁軌将軍

 

遼東方面の城は少しづつ唐の城になっていき、今や安市城は遼東の中に孤立してしまっている。

 

659年11月、

 

劉仁軌は横山で高句麗軍を破ってきた薛仁貴(ソル・イングイ)将軍と共に、遼東の安市城に押さえを置いたまま、日本海側から周辺部族の兵を集めてくる高句麗宰相ヨン・ゲソムン(イリ)に対し粛真の靺羯族を使ってこれに対抗しようと、北方で大がかりな徴兵を行なった。

 

出征中の劉仁軌らにも、高宗皇帝が和国の遣唐使を監禁したという伝令が届くと和国を放置する訳にはいかなくなってきている。

 

唐軍は沿海州の徴兵戦ではイリの後塵を拝してきたが、高句麗北方を切り崩した事によって北東の沿海州まで徴兵権を奪い、粛真国の靺鞨族らを次々と徴兵していた。

 

そして、次はいよいよ日本海を渡り北陸の蝦夷族らを集めるイリの徴兵圏へ侵攻である。

 

太宗皇帝の時代、李勣将軍により献策された「落ちない城は攻めず孤立化させ、周囲を全て刈り取る」という焦土戦略は粛々と続けられてきた。

 

遼東から沿海州まで徴兵が出来なくなった今、日本海側の徴兵圏まで奪われたら、イリは動かす兵が無くなってしまう。高句麗の兵は全て五大部族らの私兵であり、統帥権を与えられているにすぎない。イリは軍王とまで呼ばれながら兵を持たない将なのだ。

 

唐軍にとっては遠路長大な出征ではあるが、囲碁でいう征当たりの様に遠く和国まで布石を打つことは、戦略的な効果は大きい。

 

 

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新羅を加え高句麗の包囲網が出来あがりつつあり、後は百済を取れば完成する。

 

 

唐軍も高句麗軍も、粛真ら周辺の小部族達を狩り出す方法にさほど変わりはない。

 

大軍で囲み「吾らと戦い今ここで滅ぶか、人質を差出して吾らの為に戦うか選べ」という選択をさせる。

 

契丹族のような大部族であれば唐の皇帝も李姓を賜り臣属させることもあるが、靺羯族は数十部族に別れていた為、李勤行、李多咋大酋長以外、小部族の酋長までは相手にもしなかった。その為、現地で小部族を伐り従えるのは将軍が唐の圧倒的な力で従わせるしかなかった。

 

 

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契丹族李将軍

 

一方、大海人皇子は、武力だけでなくその小部族の酋長らを入朝させ一人一人に冠位を与えるなど木目細かい取り込み方をする。

 

戦局が進むにつれ、どれだけ周辺部族らを自軍に参軍させられるかの徴兵戦になっていたが、冠位や地位、物品の賜りなど和国皇太子弟という立場を使い懐柔策も用いながら進めるイリに比べ、唐軍を率いている将軍という立場だけの劉仁軌は、強行策しかないだけに常に圧倒的な戦力を維持するため侵攻の戦隊を割くことがてきなかった。

 

極地に進軍すればするほど唐軍は不利なことが多かったが、このときの日本海を渡る季節風は日本海を知らぬ唐軍に有利に吹いていた。

 

劉仁軌将軍は靺鞨族を徴兵すると日本海を渡る船を調達し水軍の編成作業にかかった。

 

 

【大海人皇子の無言交易】

 

明けて660年、

 

イリは、高句麗から配下の武将・乙将軍ら100人の将を来和させ対唐戦にそなえた和国兵の編成に当たらせた。

 

乙将軍は靺羯族出身の将軍である。

 

高句麗の中央部族らと違い、イリの手足となって軍備に動いているのは靺羯族系の者が多い。

 

和国へ高句麗の将軍が次々とやってくる度に、唐軍と和国の直接的な武力衝突を嫌がる斉明女王は気が気でなかった。

 

 

 

この頃、ついに

 

唐の高宗皇帝は蘇定方を大総官に任じて百済出征を命じた。

 

 

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高宗皇帝

 

 

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蘇定方将軍

 

 

 

蘇定方は、副将の劉仁願、行軍副総監の新羅王子金仁問らと共に軍義に入った。

 

副将軍の劉仁願は、高句麗に進攻している劉仁軌と名前は似てるが、全くの赤の他人であり、野心も人物もまるで違う。

 

 

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劉仁願

 

『劉仁願』は、もともと東アジアの土着の者であり唐人ではない。腕力胆力ともに人並みに外れ、猛獣と素手で戦ったことがある豪の者で、それが太宗皇帝に魅いられて、太宗皇帝の高句麗遠征に取り立てられ功を成した。

 

現在も唐軍の将としてそのまま高宗皇帝に使えているが、在地のまま仕官し中央には仕えたことがない為に、高宗皇帝とは面識もない。

 

中央の者ではなく北東部の在郷の将軍だった為、そのまま中央には仕えず在地のままで東アジア方面の戦に参軍していた。

 

孫呉の兵法を学び老荘を知り文武両道を極めし、智勇兼備の将軍である。

 

 

 

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劉仁軌

 

『劉仁軌』は蘇定方やソル・イングイと同様に則天皇后派の武将で、則天皇后が信頼を置いている老将だった。

 

貧しい出自であったが、学問を好み一本気な壮気が太宗皇帝に認められた。しかしその後、妬みによる讒言を受け左遷されてしまい陽の目を見ることがなかった。

 

後に、高宗皇帝の世になり皇后派に取り立てられ、この度の高句麗攻めに召喚された。

 

 

 

660年3月、

 

高句麗に攻め込でいる劉仁軌・薛仁貴(ソル・イングイ)の徴兵によって新たに編成された靺鞨族らの水軍は、冬の季節風に乗って佐渡島周辺まで侵入してきていた。

 

遼東側の靺鞨族の中には海賊行為を働く輩もいて、操船に長けた者が多くいた。

 

彼らは佐渡島との間にある渡島(弊賂弁島)に上陸し、島にいた蝦夷族を襲撃して追い払い陣地を構えた。(16世紀頃水没し現在は無い)

 

 

 

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渡島には蝦夷族が多数いたが、この大軍の急襲に皆殺しにされそうになり本州にまで逃げこんできた。

 

調度、イリと阿部比羅夫は陸奥の蝦夷兵を率いて阿賀野川を渡っていたところで、下流の海岸に1000人ほどで宿営している彼らを見つけた。

 

彼らから靺鞨族水軍の襲来を聞いたイリは、まずはこちら側につかぬものかと靺羯族に懐柔の使者を送ってみた。

 

しかし、靺羯族は応じない。

 

仕方なくイリは、無言交易で懐柔を試みることにした。

 

高句麗の援軍に一人でも多くの兵を取り込みたいイリは、調度品や冠位など与えられるものは全て与えて一兵も損なうことなく自軍に参軍させたい。

 

無言交易とは言葉が通じない相手に対し、海岸に品物を置いておき、相手がそれを持ち帰り代わりの品物を置いておくという言葉を交わさない交易だ。

 

海のほとりに、絹、鉄、兵具など並べて置き暫く様子をうかがった。

 

すると、靺羯族の船団がやってきて老人が二人上陸し、布をひと切れ持ち帰った。

 

そして暫くしてまた戻ってきて、代わりの品物でなく、その布を返して去っていった。

 

交易は拒否である。

 

尚もイリは船を出して使者を送ったが、靺羯族は応じることはなかった。

 

彼らは、渡島の陣地に立て籠ったままイリに和平を請う使者をよこしてきた。

 

「私達は戦いたくないが、唐軍に妻子を人質にとられやむ得なく出兵した。戦いたくないからといって、そちら側と交わりを持てば妻子は皆殺しにされる。なんとか鉾を収めて貰えないだろうか。」

 

という内容が伝えられた。

 

彼らの悲痛な葛藤が伝わってくる。

 

イリにしても戦いたい訳ではない。

 

戦わず自軍に取り込みたいのだが、妻子を唐に人質にとられている以上それは不可能である。

 

かといって、唐軍側につき目の前まで侵攻してきている靺羯族をそのままにしておく訳にはゆかない。

 

 

直ぐに船団を組み蝦夷兵を率いて島へと渡った。

 

 

靺羯族は、劉仁軌に妻子を人質にとられ

 

「和国へ侵攻せよ」と厳命されていて、

 

結局は、戦うしかないのだ。

 

 

妻子が皆殺しにされてしまえば、子孫を残すことはできない。

 

子供を産む女性が赤子に至るまで皆殺しにされてしまえば、その部族は根絶やしになることを意味する。

 

たとえ男性が奴隷として生き残り、他部族の女性と子をなしたとしても、それは異民族との混血児でしかなく、先祖代々受け継いできたこの部族の子供が生まれるということはもう二度とない。

 

部族を大切に守ってきた彼らには、異民族との混血を避ける傾向があった。

 

ただ自分たちの純粋血統を守りたいというだけではない。

 

混血により縄文時代、遥か太古の昔より受けついできた神聖の力が失われていくことを畏れた。

 

逆に唐は、このような民族には徹底的に女性を根絶やしにするという母系廃絶による同化政策を行い、混血化による隷属を図った。

 

そうした意味で靺羯族らは望まない戦いに、部族の存亡をかけてイリと戦わなければならない運命だった。

 

強敵イリとの絶望的な戦いの末、靺羯族は敗れた。

 

唐軍の薛仁貴(ソル・イングイ)、劉仁軌らは帰還したが、当然、人質にされていた靺羯族の妻子は皆殺しにされ、この靺喝族は滅んでしまった。

 

 

乱世が北東アジア奥地にまで広がるにつれ、靺羯族や蝦夷族の小部族達は戦に駆り出され次々に犠牲になっていった。

 

日和見は許されず、どちらか勝つ方に味方しなければ、部族を存続させることが出来なかった。

 

皆ちりぢりになり、部族存続のために争いを避け

 

もっと北方のシベリアへと移動する部族、

 

あるいはアリューシャン列島を抜け、アラスカへと移動しその地でエスキモー(イヌイット)となった部族、

 

更に北東のグリーンランドや、南の温暖なアメリカ大陸部へ移動し、ネイティブアメリカン(ディネ)の祖となる部族もいた。  

 

 

 

【大唐国皇帝軍 海東の征】

唐は、蘇定方、程名振、ソルイングイら名立たる将軍らに繰り返し高句麗を幾度となく攻めさせ、和国側にまで戦站を伸ばしてきていた。

 

唐の執拗な高句麗攻めにより戦果を上げてきている今、まさか、この流れで百済攻めがあるであろうとは誰もが思わなかった。

 

今迄、幾度となく唐が百済を攻めるという噂はあったが、実際に百済を攻めることはなく高句麗攻めを続けている。

 

しかし、

 

いよいよ新羅には、唐に要請した援兵について、百済討伐の派兵が決定したことが告げられた。

 

唐の使者の口上に、「ようやく滅亡を逃れた」と安堵するも

「俄かには信じられぬ」

 

という懸念を感じる者もいた。

 

誠に天の助けのような有難いことではあるが、唐が今まで百済を攻めたことはなく、高句麗と戦を続けてきた。

 

その唐が高句麗との戦をしながら、今になって百済を攻めるだろうか。

 

唐に使者としていっている武烈王金春秋の息子、金仁文を唐軍の行軍総督にし、百済のギボルポへ上陸するので、そこで新羅軍と合流すると言う。

 

新羅はそうした不安を払拭するかの様に、金ユシンを大将軍に復活させ新羅軍を率いらせ大号令を下す。

 

 

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金ユシン

 

やや老いたとはいえ、金ユシンに並ぶ名将はいない。新羅軍は一丸となった。

 

 

唐も高宗皇帝の勅令の下、13万の兵を出征させた。

 

まず、

 

李勣大将軍がソル・イングイ将軍らと陸軍を率い、高句麗を牽制するために遼西へ出陣した。

 

 

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李勣大将軍

 

 

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ソル・イングイ将軍

 

6月になると、総大将の蘇定方が率いる2000隻の海軍が、菜州の山東半島より百済を目指して出航した。

 

 

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蘇定方将軍

 

 

朝鮮半島が戦慄するほどの、アジア史上かつてない規模の大船団であった。

 

 

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しかし、陸軍の李勣大将軍が進んでいた先は高句麗のある遼西方面であり、この大船団も百済を攻めると見せかけて高句麗を攻める作戦ではないかと一応は疑わねばならず、半島諸国の目はその航路の行方を注視していた。

 

どちらにしろ、朝鮮半島は史上かつてない程の極大な戦氣に包まれはじめている。

 

新羅軍は、5月に出陣した。

 

陸路からは、金ユシン率いる五万の新羅軍が炭硯峠と黄山平野より百済サビ城を目指した。

 

水軍は金法敏皇太子が100隻の軍艦で阿利水(漢江)を北上し黄海へ出て、唐の蘇定方将軍と合流することになっている百済のギポルポを目指した。

 

唐新羅軍の進撃の報が次々と百済朝廷に伝えられてきたが、百済のウィジャ王はこの注進を全く相手にせず、あろうことか攻撃に備えるべきであると進言したフンスとユンチュン将軍を逆に罷免した。

 

ケベク大将軍に対しても将軍の地位を剥奪してしまい、ウィジャ王は誰の耳もかさず相変わらずウンゴ姫と宴を続けていた。

 

入牢させられていたソンチュンも同様に獄中から百済防衛の備えを訴えた。

 

陸地は炭硯峠を、海はキボルポを死守することが百済防衛の要であると、新羅と唐の連合軍の侵略を防ぐ上奏を行ったが、尚もウィジャ王は相手にせず、

 

「私は死んでも国を忘れることはないでしょう」

 

と言葉を残し、

 

ソンチュンは獄中で憤死してしまった。

 

宮中では、ウィジャ王がウンゴ姫と共に宴に明け暮れて唐軍が攻めてくる事さえ気にも止めずにいる。

 

ウィジャ王は完全に籠絡されていた。

 

宮廷巫女は三日月は新羅で満ち勢い盛んであり、満月は百済で欠けていくものであるという宣託をウィジャ王に奏上し諫めようとしたが、これも無視して巫女を処刑してしまった。

 

別の巫女が、ウィジャ王を忖度して満月は百済全盛期の象徴で、三日月の新羅はまだ力が弱いという逆の意味を答えた為、ウィジャ王はそのことを祝いまた宴会を開いた。

 

ウィジャ王の周りに国を憂う忠臣はいなくなり、佞臣が蔓延っていた。

 

ウィジャ王は佞臣の言う

 

「陸路の炭硯峠は馬を並べることもできないほど道が狭く、水路でギポルポより白村江を遡上したとしても唐軍は流れに沿って操船することはできないはずです」

 

という意見を容れていた。

 

兵を温存する為にと、

 

陸路水路とも進ませ引きつけておき、

 

隘路に陥り、操船不能に陥ったところを急襲するつもりでいる。

 

佞臣らは、忠臣の進言に悉く反対し彼らを蹴落としたが、ウィジャ王を酒色で籠絡し油断させる為の工作に、既に国を売ってしまった者らもいた。

 

 

 

 

【神出鬼没の蘇定方将軍】

 

蘇定方率いる唐軍の大船団は偉容のままに海路を東に進み、高句麗沿岸に寄る沿岸航法を取らずに黄海のど真ん中を一直線に横断した。

 

 

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新羅の金法敏率いる水軍は百済の牙山湾沖にある徳物島で是を出迎え合流し、唐新羅連合軍は百済のキボルポに着いた。

 

いよいよ百済攻めが現実のものとなり、朝鮮半島中に伝令が走った。

 

唐軍はここから白村江を遡上し内陸へ上陸し、サビ城へ進撃する。

 

しかし、折しも潮が引いていて水深が浅かった為、船で江に侵入するには満潮を待たなければならなかった。

 

唐軍の行軍副総監である金仁問は、

 

「ギポルポは葦と砂州が広がっていて上陸するには危険です。今は、潮が引いてる為に水深が浅く船では進めませんが、潮が満ちて水位が船の吃水線より上がるのを待ち、白村江を進み水路よりサビ城を目指すべきです。

 

ギホルポから上陸し陸路で進むのではかえって時間がかかってしまいます。」

 

と、陸路より水路で進むべきと進言をした。

 

しかし、蘇定方は聞く耳を持たず全く入れられなかった。

 

 

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蘇定方将軍

 

 

 

 

副将劉仁願と董宝亮将軍らも

 

「砂州で足をとられてるところに百済に奇襲されては危険です」と、

 

金仁問行軍副総監に賛成していたが、蘇定方は尚も拒んだ。

 

 

 

ギポルポとは白村江の河口、川が海にそそがれる入江に広がる「潟」をギホルポといった。

 

砂州と言えばそうだが砂州と呼ぶこと自体、ギホルポの泥濘みを知らぬ者の表現である。

 

 

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白村江の強い流れで押し流されてきた土砂が海岸線一帯に堆積し、泥でぬかるんだ広大な潟を形成していた。

 

潟は満潮時には水没し、潮が引くと現れる。

 

水深が浅くなるほどほのかに明るくて、汐時には何色とも形容し難い不思議な濃淡を見せる。

 

平野の様な海(浦)が広がるギホルポは、

 

どろどろにぬかるんでいる上、粘りがあり足をとられてしまうので容易に上陸することはできない。

 

通常の砂州と違い、白村江の急流が削りとった花崗岩質のマサ土を多く含んでいて粘り気が強い。

 

朝鮮半島は花崗岩で出来ていると云われるほどの特殊な環境下でしか無い様な光景だが、マサ土を含む砂は白濁しているため海面下に沈んでも海がうっすらと白みがかっているので、満潮時のギポルポは『白江』とも呼ばれた。

 

そして、陸地側に続く湿地帯には葦などの背高の植物が生い茂り、百済軍が気づかれずに兵を伏せることができる。

 

ギポルポは、攻め込むには全く上陸に適さない場所である。

 

海であって海でなく、

 

平野のようで平野でもなく、

 

牙山湾でもなく、白村江でもない。

 

まるで海と大地の間を被う防護膜のように、ぬかるんだ泥が辺り一帯に広がっていた。

 

 

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百済軍を向かえ討つ百済軍の総大将は孝徳皇子だった。

 

難波王朝時代は、気品と血筋だけでウィジャ王の跡を継ぎ和国王に就いたが、戦の経験がさほどある訳ではない。

 

軍を率いてる鬼室福信将軍は、

 

「ギホルポから上陸すれば唐軍は砂州に足をとられ思うままに進めず行軍は止まるはず。ぬかるみにはまっているところを叩けば勝算はあります。」と、

 

孝徳皇子に提言していた。

 

両軍共に、「上陸は足をとられ行軍は思うままにならない」

 

という見解は一致していた。

 

潮が満ちるまで刻を待って、白村江を遡上するのが正攻法である。

 

しかし、唐軍総大将の蘇定方は上陸を選んだ。

 

ギホルポでの上陸は、蘇定方が焦るあまり砂州にはまる愚かな失敗をしたと誰もが思っていた。

 

ウィジャ王を始め百済の武将らも、蘇定方が白村江の上流へ行かずギホルポの砂州から上陸したと聞き、

 

「他国の者だけあって地の利を知らぬわ」と、

 

たかをくくっていた。

 

「焦って引き潮の潟に上陸しても、ぬかるんで進軍などままならんぞ。」

 

蘇定方とは兵法を知らぬ猪武者だろうと侮った。

 

「進撃してくるには三日はかかるだろう。」

 

という読みを前提に、百済軍は軍備することにしていた。

 

 

しかし、蘇定方はアジア天下に名が知られた電光石火を得意とする名将である。

 

その様に百済を油断させる為に、あえて砂州に上陸したのだ。

 

蘇定方は上陸すると近隣の民を総動員し、葦と藁を刈る様に命じ、砂州の上にむしろを引きながら駆け足で進軍させた。

 

「兵は神速を尊ぶ、これぞ兵法の妙なり!油断している敵に目にものを見せてやれ!駆ければこの戦さは勝ちだ!」

 

上陸するなり、蘇定方は唐の高宗皇帝の詔書を読み上げ、百済へ宣戦布告をした。

 

この戦は、唐と百済の戦いで

 

「新羅軍は援軍である」と宣言した様なものである。

 

この行為に新羅軍は激怒した。

 

軍を率いてる金法敏は、是を聞くと

 

「唐軍が我らの援軍ではないのか!我らが唐軍と百済の戦さの援軍だと言うならば兵を引く!」

 

と、露骨に声を荒げた。

 

 

そして唐軍は、葦を刈り取り、ぬかるみにはむしろを引いたギホルポ砂州を難なく抜け出して百済軍の背後に回ってしまった。

 

当に、蘇定方将軍が得意とする電光石火の進軍だった。

 

 

【挿絵表示】

 

蘇定方将軍

 

 

蘇定方は今ままでも不可能をくつがえす進撃の速さで、アジア大陸の周辺諸国を切りしたがえてきた。

 

前年のパミール征伐では、一夜で三百里(130キロ)を行軍し驚かせたことがあるほど、神出鬼没の戦を得意としていた。

 

負け知らずの神速の将軍を目の当たりにし、両軍共に度胆を抜かれることになる。

 

 

蘇定方将軍は、戦準備もせず百済軍が油断しているところへいきなり背後から襲い掛かり、鬼室福信将軍と孝徳皇子の率いる百済軍はあっという間に撃破されてしまった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

壊滅状態になった百済軍は敗残兵をまとめたが、孝徳皇子は兵を率いて唐軍へ立ち向かうことはせず、ギポルボへ行き、

 

「唐軍に動員された民は裏切り者である」として、

 

鬼室福信らの制止も聞かず、孝徳皇子は村人を皆殺しにしてしまう。

 

そして、カリム城に逃げこんでしまった。

 

 

唐軍は、カリム城に立には金仁問らを抑えとして置き、

 

そのまま行軍を止めず、こっそりサビ城へ方面へと進撃していった。

 



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第16章 西暦660年【百済滅亡】Ⅱ

660年

第1話 壮絶ケベク将軍! 黄山伐の決戦
第2話 唐軍を震わす金ユシン
第3話 百済皇紀700年の終焉
第4話 名将 黒歯将軍の抵抗
第5話 ウィジャ王の最後

 


【壮絶ケベク将軍! 黄山伐の決戦】

 

金ユシン率いる新羅陸軍五万は、炭硯峠から黄山を抜け、唐軍と合流する予定だった。

 

蘇定方より

 

「7月10日に百済の南で新羅軍と合流し首都サビ城を攻めたい」との、提案があり

 

陸路を進軍する金ユシン将軍は、7月9日には炭硯峠を抜け黄山に出て、百済軍と対峙した。

 

 

向かえ討つ百済軍は、ケベクが将軍に復帰し五千の兵を率いていた。

 

新羅軍の金ユシンに太刀打ちできるほどの将軍がおらず、そのうえ百済兵の多くを孝徳皇子が率いていってしまった為、新羅軍五万に対し五千の兵で戦わなければならなかったので、ケベクを除いて誰も出征しようとする者がいなかったのだ。

 

 

出陣が決まった時、ケベク将軍は妻に今生の別れを告げる為、一度自分の屋敷に戻った。

 

流石のケベク将軍も、五千対五万の戦いに無事に勝利して生還できるとは思えず、死を覚悟していた。

 

 

それを聞くと、妻は静かに話しだした、

 

 

「ケベク将軍の死の覚悟を、どうかここだけのものにしないで下さい。

 

ケベク将軍の覚悟は、百済兵全員の覚悟、百済の覚悟でなければなりません。

 

ケベク将軍がいなければ、その時はもう百済も私たちもないのです、

 

戦場で戦わずとも、私たちにとっても命がかかった戦いなのです。

 

私は、将軍の妻としていつでも死ぬ覚悟は出来ています。

 

運命を共にする。その決死の覚悟で、

 

ケベク将軍が出兵することを

 

将軍と共に戦う兵士たち全てに、

 

どうかお伝え下さいませ、、」

 

ケベク将軍は、その言葉の意味が分からずにふと考えてしまったが、

 

その刹那、

 

妻は言い終わるやいなや後ろを向き、短刀で自分の胸を突いていた。

 

 

 

ケベク将軍が止める間もないほどの早さで、

 

鮮血が吹き

 

その一瞬で、ケベク将軍は全てを解した。

 

そして、

 

倒れこんだ妻の首に、涙を堪えて剣を振り下ろした。

 

 

 

言葉にならぬ叫び声を上げた、、

 

 

妻が命をとし

 

ケベク将軍の決死の覚悟は、更に天をつくほどに高められていた。

 

 

『壮士一度行けば、二度帰らず』

 

 

 

一人で戦支度を済ませ、閲兵場にいった

 

ケベク将軍は、全軍を整列させ、

 

天に響き渡るほどの大声で叫んだ。

 

その昔、越の勾せんが五千の兵で70万を撃退した古事をひき、

 

「吾らが正にそれを世に示す時がきた!」

 

と、兵らを鼓舞した。

 

そして、血のりが着いた剣を空に突き立て、叫ぶ。

 

 

「吾らが勝利しなければ百済もない!

 

吾は決死の覚悟で出陣する!

 

皆もそのつもりで共に参れ!

 

百済のために、愛する家族のために!

 

吾と共に死ぬまで戦い抜け!

 

出陣すれば二度と戻らぬ覚悟ぞ!

 

吾は、、既に妻を切ってきた!!

 

帰る家などない!」

 

 

静寂の中、すすり泣く声があちこちで漏れる。

 

暫しの哀悼の後、

 

ケベク将軍の覚悟は伝わり、

 

五千の兵は決死隊となって、一斉に鬨の声をあげた。

 

 

勢い天を衝く百済軍の前に、新羅軍は初戦で敗れ、その後も本陣が後方から奇襲を受け、緒戦から散々な目にあっていた。

 

 

しかし、新羅軍もなんとしてもサビ城攻めに遅れる訳にはいかない。遅れをとれば陥落後に唐軍は百済から新羅を伺うであろうことは目に見えている。

 

百済陥落は、新羅軍が優位で進め、戦後処理を有利にすることが重要だった。

 

百済兵五千に対し、新羅兵は五万、10倍の兵でありながらも新羅軍は百済軍に勝利することができなかった。

 

妻子を切り捨てて戦場に臨んだケベク大将軍の下、五千の兵は決死隊となり士気は天を抜くほど高く、10倍の新羅軍と四度戦い、四度退けた。

 

新羅軍は多勢を頼みに士気は高くなく、10倍の兵力でもってしても勝てぬことに士気は下がる一方だった。

 

 

金ユシンは苦肉の策で、ファランを出征させた。

 

 

「殺生は時を選べ!我が身を惜しむな!忠義を惜しめ!」

 

 

 

両軍に響き渡るほどの大声を上げ、馬腹を蹴る!

 

全身ハリ鼠の様に矢を受けながらも、敵陣まで一直線に馬を駆り、突撃し鮮血を吹いて散っていく。

 

命を惜しまず、国に忠誠を尽くし、壮烈に散っていく少年兵たちの憂国烈士ぶりに心を打たれた新羅兵達は、

 

 

「命を惜しみ遅れをとるな!」と、

 

決死の覚悟で全軍が突撃した。

 

 

両軍とも決死隊同士の壮絶な戦いが始まった。

 

新羅兵も百済兵も勝利も敗北もなく、ただ死があるのみである。

 

心臓が血を流すのを止めるまで戦う。

 

 

【挿絵表示】

 

 

文字通り、大地が血で染まる

 

凄惨な戦いの中、

 

ケベク将軍は戦死した。

 

 

ケベク将軍が戦死すると、残った百済兵は撤退していき、サビ城の先の江景山の手前まで引き返していった。

 

新羅軍も剣を収め金ユシンは彼らを追撃することはせず、黄山で戦士した兵士らを丁重に慰霊してから、唐軍との合流地点へ向かっていった。

 

 

 

【唐軍を震わす金ユシン】

 

10日早朝、唐軍は新羅との合流地点に到着したが、既に百済軍は陣を敷き待ち構えていた。

 

戦術的な定石では、目の前にある江景山を先に取った方が戦に有利である。

 

(こごが戦の別れ目、、)と、両軍は激突した。

 

 

唐軍は新羅軍と合流してから江景山奪取の戦いに望みたかったが、到着が遅れているため単独で挑まなければならなかった。

 

やがて、唐の水軍が上陸してきて陸軍と共に百済軍を挟撃した。

 

新羅軍が黄山を抜けた頃には、江景山の戦いは終わり、陣を敷いた唐軍が新羅遅しと待ち構えていた。

 

 

壮絶な戦を終えてきた新羅軍に対し、

 

「皇帝軍に遅れて来るとは無礼千万!

 

10倍の兵力でありながら突破できぬとは、

 

なんと新羅軍は弱いのだ!」

 

と、

 

蘇定方は、唐高宗皇帝の権威を振りかざし新羅軍を呑んでかかってきた。

 

 

【挿絵表示】

 

蘇定方将軍

 

 

新羅軍を旗下に置き、軍の統帥権を握ろうとする蘇定方は、皇帝の威光をかさに高圧的な態度で新羅の落ち度を責めて新羅軍を従えようとしている。

 

 

到着が遅れた責任を追及し、新羅軍の行軍総督の処刑を要求してきた。

 

 

一方、金ユシンも黙ってはない、

 

ケベク将軍の強さに比べれば、目の前の唐軍など恐るに足りず、百済攻めの前に唐との決戦も辞さないほどの覚悟で臨む。

 

金ユシンは

 

 

「ボラッ!」と、怒鳴りつけ

 

 

蘇定方と劉仁願を眼光鋭く見据えた。

 

 

蘇定方は唐軍きっての常勝将軍であり、劉仁願も猛獣と素手で戦うほどの豪の者である。この二人を怒鳴りつけられる者など唐国内にはいない。

 

 

【挿絵表示】

劉仁願

 

合流した新羅軍と唐軍はあっという間に一触即発の状態になってしまった。

 

更に、金ユシンらは猛反発する。新羅軍はあくまでも同盟軍であり、金ユシンが軍を率いる以上、断じて唐軍の旗下に入ることはない。

 

 

【挿絵表示】

金ユシン将軍

 

 

金ユシンは、

 

「黄山伐の戦いがどのようなものであったかも知らず新羅を軽んじるとは許せない!その罪を誅す!」

 

 

一声と共に鉞を振り、蘇定方に刃先を向けた。

 

「今、蘇定方を斬り百済との戦の前に、唐軍と戦い決着をつけてやる!」と、

 

逆に蘇定方を脅した。

 

唐を怖れる様子など微塵もない。

 

新羅は弱い国と侮っていた蘇定方らは狼狽する。

 

当然、金ユシンは許しを請うてくるものとたかをくくっていた。

 

しかし、表向き新羅は親唐であるが、金ユシンはもともと反唐であり、唐の将軍を殺すことに抵抗などない。

 

その場に居た誰もが、蘇定方の首が力一杯切り落される光景が浮かぶほど、

 

凄まじい殺気を一気に放った!

 

本来、殺人狂でない限り集団生活をする人間は、人間を殺すようには出来ていない。集団を守る摂理に従う時にのみ人を殺す。そして、

 

戦で強い者ほど、人を殺してきた経験を重ね、命の奪い合いに、人外の魔性とも言える氣を纏うようになる。

 

蘇定方ら唐将は、

 

一瞬で、金ユシンがただ者ではないことを理解し、

 

凍りついた。

 

 

金ユシンは尚も、

 

「皇帝の名を語り、新羅を侮辱することは唐新羅同盟を侮辱するも同じ!

 

蘇定方は唐新羅同盟の敵だ!蘇定方により唐新羅同盟が破れるならばその罪を問う!」

 

 

と、火の玉の如く激しく蘇定方を恫喝した。

 

 

怒髪天をつく勢いである。

 

 

 

ここまで来て、百済と戦いもせず同盟を破綻させてしまう訳にはゆかない。

 

もし、ここで唐の将軍らが応戦すれば唐新羅同盟は一気に崩れてしまうだろう。

 

蘇定方が皇帝軍を率いているのは百済と戦う為であり、唐の同盟国の新羅と戦う為ではなく、万が一その様なことになれば罪に問われかねない。

 

 

、、蘇定方は折れた。

 

 

その後も、何度も蘇定方は新羅を下に置こうとするが、金ユシンは一歩も引き下がることはなかった。

 

蘇定方が、皇帝の命令をかさにきれば、金ユシンは唐新羅同盟を盾にとり、その度に唐との戦も辞さない程の強腰で臨み、新羅軍を唐軍と対等な立場から落とすことはなかった。

 

遂に、新羅軍は唐軍の傘下に入ることなく首都サビ城に向けて進撃を開始した。

 

 

660年7月12日、

 

唐新羅連合軍は百済の首都サビ城を包囲した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

百済軍は、籠城せずに討ってでてきた。

 

百済軍の最後の抵抗に金ユシンらは、唐軍に新羅軍の強さを見せつけよとばかりに奮戦した。

 

金ユシンの勇名は既に唐国にも聞こえていたが、

 

これほどの猛将であったかと唐軍は恐れおののいた。

 

 

あまりの金ユシンの凄まじさに

 

 

百戦錬磨の蘇定方までも、

 

 

「アジア天下に並ぶ者無し!」

 

と驚愕の声をあげた。

 

 

 

金一族の製鉄の粋を結集した円月刃を、目にも止まらぬような早さで振り回し、二人三人と一気に敵を切り裂く。百済兵達は皆、刃を合わせる間もなく次々と倒れていく。

 

金ユシンだけではない、金法敏皇太子をはじめ新羅全将軍が一騎当千の強者であり、あたらざる勢いで敵を屠っていく。

 

兵はよく調練され、隊伍の散開も手足の如く動く。

 

 

蘇定方は、

 

「百済を討った後は新羅も討ち、百済と同様に新羅も唐の属州にせよ」と、

 

高宗皇帝の命を受けていた。しかし、

 

新羅軍の強さを目の当たりにし、

 

 

「果たして今の唐軍だけで新羅軍に勝てるだろうか、」と思った。

 

李勣将軍やソル・イングイでさえ勝てぬやもしれぬ、、

 

兵数は唐軍が勝るが、士気は低く、勢いは新羅軍に呑まれている。もしも新羅軍と戦うとなれば楽な戦いではなく相当の覚悟をしなければならない。

 

 

 

【挿絵表示】

 

蘇定方将軍

 

 

「それにしても、、」

 

その新羅軍でさえ10倍の兵力でありながら、4度戦い4度勝てなかったという、百済のケベク将軍とはどれ程の強者であったろうかと、蘇定方は身のすくむ思いだった。

 

「吾が思うよりも、まだまだ天下は広い。」

 

新羅は唐に援軍を求めてくる弱い国ではなく、

 

 

それだけ百済が強かったということだ。

 

 

 

 

【百済皇紀700年の終焉】

 

翌、7月13日にはウィジャ王と孝徳皇子は熊津城へと逃がれていた。

 

サビ城では残った泰王子が、勝手に玉座につき百済王を名乗り、唐新羅連合軍と対峙した。

 

 

サビ城内にいた隆王子はこれに驚き、

 

「まだウィジャ王様が、熊津城に健在なのに王を名のるとは、国家存亡の危機にどさくさに紛れ王位を簒奪するつもりか!」と、

 

と泰王子を激しく責めたてた。

 

が、逆に殺されそうになり危険を察知した為、仕方なく隆王子は城から逃げ出し唐軍に投降した。

 

すると、城内では

 

「王子たちが結束して唐車と戦うならまだしも、

 

危急存亡の時にどさくさに紛れ勝手に王を名乗る様な泰王子では、唐車とは戦えない。」と、

 

隆王子に続こうとする者が後を経たなかった。

 

隆王子は、先代の武王の王子で唐が皇太子として承認していた親唐派の王子である。

 

名乗り王と運命を共にすることは出来ないと考える者たちは、隆王子と共にあれば助かるはずと是を追う人々が次々と続き、泰王子は「王」を自称したもののこれを止める事が出来なかった。

 

投降者を止められなかった泰王子の指揮下で、城内の百済軍の士気は落ちてしまった。

 

翌日、百済軍は唐軍に攻められ、蘇定方が登城して幟を立てるよう軍士へ命じると、百済王を自称した泰王子は、あっさりとサビ城を開城して降伏してきた。

 

 

唐軍は、泰王子を捕らえサビ城を受け取ったが、

 

 

サビ城に雪崩れ込んだ兵士らは暴行と掠奪の限りを尽くし、財宝を奪いサビ城を内側から破壊しはじめた。唐軍の蹂躙、凌辱から逃れようとする女性達は皆、サビ城の裏の扶余山から身投げをした。

 

エフタル族の欽明聖王が、サビ城を都として以来、

 

123年の王都の歴史が終わった。

 

熊津城に逃げた、ウィジャ王と孝徳皇子は、

 

18日に降伏し、百済700年の歴史を閉じた。

 

 

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サビ城が唐軍に落ち、熊津城のウィジャ王が降伏すると、周辺の諸城主は皆、次々と降伏しはじめた。

 

 

同盟国の高句麗は西北から唐軍に攻められていた為動きがとれず、蘇定方の速攻により百済へ援軍を送る間もないままに戦は終わってしまった。

 

この頃になり、イリの配下で和国に駐屯していた高句麗の乙将軍が百済へ向かったが時既に遅かった。

 

百済陥落の報が唐に届くと

 

高宗皇帝は熊津等五都督府を設置するよう詔を降す。

 

そして、百済三十七郡を部族長らに分け、部族長をそのまま都督や刺史に任じ統治するとした。

 

これでは、王や国が変わったところで、在郷の有力部族にとっての既得権は移動しない。和国の大化の改新のときに【国造】だった地方部族を【国司】に任じ直したときと同様である。

 

有力部族らの中には、国や王は部族の為になる方を選ぶべきであると考える者もいたので、ウィジャ王よりも、唐の大きな加護を望む者が出てきても不思議はなかった。

 

ウィジャ王を奉じ唐に下った祢将軍という者などはその後、百済熊津総督となり、唐の宮廷警備兵の最高責任者にまで登る破格の大出世をした。

 

 

 

【名将黒歯将軍の抵抗】

8月、

 

新羅の武烈王・金春秋もサビ城に入城し、

 

蘇定方は祝宴を開いた。

 

 

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百済の王族や群臣を眼下に引き出し、ウィジャ王に酒の酌をさせて罵るという、屈辱的な在り様に旧百済の臣は涙を流さないものはいなかった。

 

この頃になり、百済軍の名将

 

黒歯将軍が部隊を率いて投降してきた。

 

黒歯将軍は百済軍ではあるが突厥人で、後に唐の将軍になると頭角を表し、燕国公を賜り、蘇定方に続く唐国を代表する大将軍となる。

 

しかし、この時は一旦唐軍に降伏したものの、唐軍の軍紀は乱れ兵士らが百済の民を殺戮し、婦女子が凌辱されるのを黙って見てられなくなってきた。

 

義憤に駆られた黒歯将軍は、城を出て自分が指揮していた元部下達を呼び寄せ部隊を組織し、任存山城で唐軍に叛旗を翻した。

 

黒歯将軍が挙兵すると、任存山城に百済の兵士たちが続々と集まり出し、あっという間に3万を越えてしまった。

 

驚いた蘇定方は兵を出し、急遽任存城を包囲する。

 

黒歯将軍は兵士達の中から精鋭を募って唐軍への奇襲攻撃を繰り返して、ついに唐の攻囲を打ち破って追い払ってしまった。 更に黒歯将軍は唐軍を追撃し、徹底的に打ちのめした。

 

蘇定方は自ら出陣し、黒歯将軍と対峙した。

 

 

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蘇定方将軍

 

 

蘇定方は唐軍きっての常勝将軍であったが、蘇定方の巧みな用兵を持ってしても黒歯将軍を打ち破ることができなかった。

 

 

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しかし、唐の軍紀は回復し、黒歯将軍に奪回された城は次第に取り返し始めた。

 

その後も黒歯将軍はサテク将軍とともに抵抗を続けていたが、段々押され要害の地に立て籠った。

 

 

9月3日、

 

蘇定方は一万の兵と劉仁願を残して、ウィジャ王ら捕虜一万余を連行し唐へと帰還していった。

 

百済王族と群臣は全て連行されていき、

 

百済王家は消滅した。

 

蘇定方と入れ替わりに唐は、王文度を百済総督に送り込んできた。

 

唐に降っていた百済の隆王子が総督にくるかと思われたが、直ぐに百済王族を総督に立てることは控えたのか、文人である行政官の王文度が着任した。

 

或いは別の次元で、唐が伐り従えた新たな領国に対する利権と地位は、皇后派、皇帝派の均衡によって決められていたのかもしれない。

 

王文度は権勢家であるが壮気盛んな人物でわなく、好戦的な蘇定方とは対象的な臆病な人物だった。

 

蘇定方の様な強さや自信はなく力で民を抑えることはないが、皇帝の権威をかさに着た高圧的態度がははなはだ強い。

 

百済領民を安んじるという目的を持って東アジアへとやって来たが、その前に新羅の武烈王・金春秋に謁し、新羅が唐の支配下にあることを示そうと勅令を伝え賜り物を下そうとした。

 

9月22日

 

王文度は武烈王・金春秋と間見える。

 

その態度は、共に戦った同盟国に対する様な対等なものではなく、百済と同様に唐の支配下にある敗戦国に対する扱いだった。

 

 

『拘兎尽きて猟狗煮られる』という諺どおり、

 

中国では、猟が終われば用済みなった猟犬は獲物と一緒に煮られ食べられてしまう。

 

唐国の基本的な方針も変わらず、

 

百済を滅ぼせば、新羅はもはや同盟国ではなく百済同様に敗戦国として扱うべきであり、王文度は新羅を唐の支配下に置くつもりで来ている。

 

 

王文度は蘇定方と違い、新羅の恐ろしさが分からない。

 

勿論、蘇定方が金ユシンに斬り殺されそうになったことも知らない。

 

新羅は唐に援軍を求めたが、黒歯将軍やケベク将軍の様な百済の名将と戦っても引けを取らなかった新羅軍は決して弱くはなかった。

 

百済の黒歯将軍は、後に唐に降り蘇定方とならぶ唐を代表する大将軍となるが、彼らでさえ敵わぬほど強いケベク将軍や金ユシンら英雄が凌ぎ合った極東の武力の高さは、百済に駐屯している唐軍などあっという間に殲滅してしまうほどの強さが潜在していた。

 

いつ牙を剥かれるか分からない緊迫した状況が、宮廷からフラリと渡ってきただけの王文度には全く理解出来なかった。

 

兵数の多寡は別にして恐らく戦闘力だけなら、イリ、金ユシン、楊万春将軍に敵う者は唐軍にはいなかっただろう。

 

 

唐は、百済と同様に新羅を従わせようといたが、まだこの時点では高宗皇帝も事態を重くみておらず、

 

「百済を落としたら新羅も攻めよ」

 

と命じていたにも関わらず、蘇定方が新羅を攻めずに帰国の途についていることを訝しく思っていた。

 

蘇定方は帰国後、皇帝に問いつめられると、

 

「新羅は容易く落とせる様な国ではございませぬ」

 

と上奏した。

 

 

しかしこの時の王文度は、金春秋が唐に来て唐服で皇帝にへつらい

 

「暦と官制を唐国のものに改めます」

 

と請願した姿が新羅の真の姿であり、唐の下に庇護されている弱小国だと思っている。

 

百済にいる劉仁願からは、

 

「新羅は牙を隠してます。侮ってはなりません。新羅に怒りをかい牙を剥かれぬよう、慎重に接しなければ命は危うくなります」と、

 

諌められていた。

 

しかし王文度は、百済の鎮護を奪われた僻みの物言いと思い是を相手にせず、劉仁願を臆病者と罵っていた。

 

何ら新羅を恐れることもなく、唐皇帝の権威をかさに着て新羅は唐の支配下にあると思い知らせ様とする態度をとった。

 

王文度の不遜な態度に、新羅の者は怒る。

 

王文度が、

 

武烈王金春秋に賜り物を渡そうとした瞬間、

 

突然倒れこみ、そのまま絶命してしまった。

 

唐が新羅に対して上位に立ち、賜り物を下賜するという場面だけは完結することはなかった。

 

死因は何故かは分からない。

 

 

『王文度暗殺』

 

黙していたがその場の誰もがそう思っていた。

 

 

百済総督が王文度が亡くなった翌日、

 

9月23日に、再び百済の反乱軍は一斉に蜂起して攻撃を開始し、劉仁願と唐軍兵を熊津城に追い閉じ込めてしまった。

 

 

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劉仁願

 

幾重にも柵を作り厳重な包囲陣を作り、百済余城を奪回せんと動きだした。

 

唐は、劉仁願が百済反乱軍に攻囲されていると聞き、新羅に救援の兵を出す様に要請した。

 

唐からの要請を受け、新羅は出兵し劉仁願を攻囲している柵を撃ち破り20の陣を奪った。

 

 

翌10月、

 

百済の鬼室福信将軍が、百済僧のドウタンと相談し、和国に援軍の要請をした。

 

特に和国には百済の王子がいたので、

 

「百済には王族が居なくなってしまった。援軍ではなく百済復興軍として和国から出兵して頂き、旗頭には那珂大兄皇子様を百済王としてえ迎えしたい。」

 

と、願い出た。

 

 

 

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鬼室福信

 

 

鬼室福信将軍は、百済先代の王である武王に繋がる一族である。

 

当然、武王の皇子である那珂大兄皇子を百済王にしたかった。

 

ここでまた、武王派とウィジャ王派の分裂が起きる。

 

僧のドウタンは、百済の実力者であり発言力は大きい、

 

彼は当然の如くウィジャ王の息子、豊章を王として迎えるべきだ、と考えていた。

 

なんといっても武王は、親唐派の王であり唐の加護によって王位を保っていた者である。

親唐派の武王の子・那珂大兄皇子など旗頭としては不服である。

 

「これから唐と戦おうというのに、親唐派の王を戴くなどあり得ない。もし那珂大兄皇子が、父武王の様に唐に髄親すれば、吾らは王に裏切られることになる。誰が命がけで戦えと言えるのだ。」

 

と、武王の王子を王とする非を、声高に主張し続けていた。

 

これに対して、鬼室福信将軍は殺意を懐くようになった。

 

和国の那珂大兄皇子にしてみれば、和国から出兵し百済の王に成れるというならば、是が非でもそうしたかった。

 

 

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那珂大兄皇子

 

突然の王位継承の機会に、心が騒いだ。

 

和国の斉明女王は、唐にいる高向玄里を助けたい一心で遣唐使を送ったほどである。

 

当然、和国から出兵し唐軍と戦うとなれば、唐で幽閉されてる高向玄里も危うくなるであろうし、

斉明女王は、なんとしても出兵はしたくはない。

 

斉明女王を頼ってきたペルシア王家は、ずっと和国に逃れたままでいる訳にはいかず、いつかは唐の加護を受けてアラブを駆逐しなければペルシア再興はあり得ず、再三要請もしてきた。

 

もしも今、和国が唐と戦うことにでもなれば和国に居続けることも出来なくなってしまう。

 

皆、それぞれに思惑があり百済からの援軍要請にざわつき始めた。

 

 

【ウィジャ王の最後】

 

11月、

 

ウィジャ王、王族と臣下達90余人と百済人捕虜12807人が蘇定方に連行され唐の都に入った。

 

高宗皇帝は大層喜びわざわざ則天門楼まで出向いていって、蘇定方を遠路長征を労い百済の捕虜を受けとった。

 

東アジアの平定は太宗皇帝でさえなし得なかった積年の課題であり、遂に百済のウィジャ王を捕らえてきたことは喜ばしいことである。

 

蘇定方は百済だけでなく、前後して三国を滅ぼし、三国の王を生捕りにしたので、

 

高宗皇帝は天下平定を祝し、天下の赦を施した。

 

蘇定方の大将軍の地位も確固たるものになった。

 

高宗皇帝を操る武皇后は、小飼の武将らが次々と出世をし軍部で力をつけていくことを大いに喜んだ。

 

門閥ではない為に、日の目を見ることがない実力のある武将を探し出しては、出世の機会を与え続けている。

 

 

 

ウィジャ王ら百済人もこのときの恩赦によって皆赦されたが、

 

ウィジャ王は直ぐに病気で亡くなってしまった。

 

 

 

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ウィジャ王

 

 

或いは百済を滅ぼした恨みによって、誰かに暗殺されたのかもしれない。

 

元々は高句麗の王族であり、親唐勢力に追われ和国、百済に亡命し、ついには両国に股がる王となったが、晩年は酒浸りとなり大望を果たすことなくここで潰えた。

 

高句麗の宝蔵王はウィジャ王の息子であり、

 

和国の斉明女王は姉である。

 

しかし、部族連合国の王とは儚い存在であり、

 

家族とはなんと危うい存在であろうか、

 

血縁であるからといって良縁であるとは限らないし、王族であるからこそままならないことの方が多い。

 

ウィジャ王の野心によって家族には亀裂が入ったままであり、イリの様な野心家や、部族長らの存在も王家にとって重い足枷となっていた。

 

和国、高句麗、百済三国のそれぞれ王である家族が、結束して唐軍と戦うということはなく、

 

ウィジャ王の姉の和国斉明女王と、

 

ウィジャ王の息子の高句麗宝蔵王は、

 

ウィジャ王の死を静かに見送った。

 

 

この頃になり、

 

高句麗は百済北部へ出兵し唐軍の城を攻めはじめた。

 

12月、

 

これに憂慮した高宗皇帝は、帰国したばかりの蘇定方を総大将に任じ高句麗へ出兵を命じ、

 

契必何力将軍、劉伯英将軍、程名振将軍らを軍を分けて各々別道から、水軍は貝江から、高句麗へ攻め入ることになった。

 

 

冬将軍の到来中にも関わらず、唐軍は間断なく高句麗攻めを続けている。

 

そして、この前の高句麗攻めを行った劉仁軌は兵糧輸送で軍事上のしくじりがあり左遷させられていたが、

百済へはこの劉仁軌に七千の水軍を率いらせ、劉仁願の救出に向かわせた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

劉仁軌は、

 

「天は、この老人に富貴になる機会を再び与えてくれたか!」と、

 

汚名挽回の戦に喜び勇んで出征した。

 

和国からは、イリこと大海人皇子が、那珂大兄皇子と斉明女王と共に瀬戸内海の熟田津へ兵を進めた。

 

いよいよ、攻め込んできた唐軍と和国が直接刃を交えるためである。

 

 



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第17章 新羅武烈王 和国斉明女王 高向玄里の死

西暦661年
唐軍は35万の兵を組織して高句麗へと出兵する。高句麗は陸路、海路、百済の唐軍と合わせて三路より攻め込まれながら新羅とも戦わなけれければならない状況となっていた。イリと金ユシンは親唐派の王を除き兵を動かしたが、和国からの出兵は唐の知るところとなり人質となっていた高向玄里は殺されてしまった。

第1話 那珂大兄皇子の百済 那珂津宮
第2話 金一族の王 イリの血を引く金法敏
第3話 和国斉明女王 新羅武烈王没す
第4話 天明の鬼 高向玄里の死 



【那珂大兄皇子の百済 那珂津宮】

 

百済陥落後、

 

和国に亡命してきた百済人たちを那珂大兄皇子は全て受け入れていた。多くは那珂大兄皇子の庇護の下、和国の百済村に(大阪)に住んだ。

 

この様な亡命百済人集落は、朝鮮半島や大陸にもいくつかあり、「小百済」といわれ、百済再興のための復興拠点となっていた。

 

2年後の663年の白村江大戦の後には、また大勢の百済人が亡命してきて、その時の和国政府は三人に一人が、百済人という状態になった。

 

百済人達は、700年続いた百済を滅ぼされ、唐よりも隣国新羅を激しく憎んでいた為、和国の地にもその怨恨の根を持ち込んでいた。

 

この時代までの新羅は「シルラ」と読まれていたが、そうとは呼ばずに「シラギ」と呼ぶようになり、亡命百済人達の怨みを込めた独特の訓みが和国に誕生した。

 

シラギ(=シルラの奴らという意味)

千載の恨事というより、

 

1000年を越えても尚、カルマ化すると思われるほどの深い怨が、和国の地に根付いていった。

 

 

661年1月、

 

那珂大兄皇子と斉明女王らは伊予の熟田津にいき、その後、百済の鬼室福信らと会盟する為に、百済の任那の津(那大津)へと向かった。(韓国金海市付近)

 

那珂大兄皇子らは任那の津に着くと、那大津と呼ばれていた港の名前に、自らの名をつけて

 

「那珂津」と改名し、宮を建てた。

 

 

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那珂大兄皇子

 

和国から百済への援軍を送る際の上陸地であり、拠点となる宮である。

 

和国へ逃げてきた亡命百済人達にかしづかれ、那珂大兄皇子の心中は、もはや百済の王になったつもりであり、ここから号令し唐軍から百済を取り戻すつもりでいる。

 

唐軍は、首都サビ城や北漢山城(ソウル)なと主要な城を落とし王朝と政庁を破壊したものの、鬼室福信や僧ドウタンら百済の反唐軍らの反撃で他の城を奪還された上、主力は閉じ込められてしまっているので、南端のここ那珂津までは力が及ばず、百済反唐軍の復興拠点になっている。

 

唐軍と戦っていた百済各地の反唐軍も、次第に鬼室福信将軍が反唐軍を組織していた周留城にまで軍を率いていき合流し唐軍に備えていた。

 

 

鬼室福信や僧ドウタンら百済の反唐軍は、和国王室の百済来訪を喜んで迎え入れ、一行は入江を望む迎賓館へと案内された。

 

イリはこの時は、和国皇太子弟・大海人皇子として和国王室と共にやってきていた。

 

和国皇太子弟を名乗り和国の朝威をかり、高句麗宰相の権威を振るい、

 

唐との決戦を前にした今、イリの東奔西走は、常人には及ばないほどの機動力で、高句麗和国、新羅百済、天下狭しと動き続けている。

 

大海人皇子イリは、

 

「唐がこれほど東斬してきてるのに、高句麗も和国も新羅もあるか!

 

もとより吾は高句麗人でも和国人でもない、

 

今、

 

和韓同士で争えば唐に利するだけだというのに、

 

王族ばらは争いの種ばかりまく!親唐の王など、許すものか、」と、

 

息は荒い。

 

この時代まで、イリほどに日本海の制海権を極めた海の漢はいなかっただろう。

 

大陸側の史上かつてないほどの覇権の膨張と、東アジア側でその張力に対抗するが如く、海を跨ぎ和国をも捲き込む英雄が初めて日本海に出現したのだ。

 

 

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200隻の軍船を余すことなく使い、日本列島の龍の背中をはう様に筑紫、難波、丹後、越、陸奥にまで、イリの手下と高句麗から呼び寄せた将校を配し、決戦に備えさせていた。

 

海を知らぬ王族、那珂大兄皇子などはなすがままであった。

 

那珂大兄皇子にとっては、対馬海峡を渡った百済のこの那珂津だけが故郷の海であり、王統の正統性を顕す重要な再上陸拠点である。

 

20年前、百済を追われ島流しになった時も、ここから母斉明女王や妹の間人や額田文姫と共に出帆した。

 

斉明女王も、百済への回帰を望まない訳ではなく、百済には父・上宮法王を弔い五重の塔を建立していて、久しぶりの百済に込み上げてくる思いもある。

 

百済の鬼室福信ら百済の反唐軍は、ともかく元百済武王妃であった斉明女王に援軍派兵をして貰うまでは何事も要求は受けるつもりだった。

 

しかし、那珂大兄皇子を百済王に立てることだけは紛糾し意見が割れてしまった。

 

和国の大海人皇子も、百済の僧ドウタンも、那珂大兄皇子が百済王になることを全力で拒んだ。

 

 

ドウタンは出家し僧籍にあるが、王族に繋がり今はウィジャ王派の急先鋒で影響力は強い。

 

そのドウタンが、

 

「親唐派の武王の王子の下では百済復興軍は戦えない」

 

「サビ城陥落の時でさえ、武王の王子たちは戦わずに唐軍へと投降したのだ!

百済復興軍の旗頭に親唐派武王の王子那珂大兄皇子では、誰が命がけで戦えと言えるのだ。」

 

と、声高に主張してウィジャ王の王子豊章を強く推し、

 

大海人皇子イリも、那珂大兄皇子が王になることに不詳であり豊章を推したため、斉明女王もそれを遮れなかった。

 

結局、

 

那珂大兄皇子を百済王に推す者は鬼室福信だけになってしまった。

 

 

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鬼室福信

 

鬼室福信は、納得がいかない、

 

「豐章など、和国から援軍を出させる為の道具でしかない。今は、やつらの言うことを聞き入れてやるが、何れ豐章もドウタンも此の手で取り除いてやる」と、

 

周囲に漏らしていた。

 

王よりも、今は百済の首都サビ城を唐軍より奪還し、唐軍を駆逐する為の援軍を和国から送って貰うことの方が、先決である。

 

ともかく、

 

援軍を請い、派兵を取りつける為には斉明側の要求は飲まなければならない。

 

 

斉明女王は、百済への援軍や百済王を送り出すことだけではなく、反唐派とは全く別の目的を持ってこの会盟に臨んでいた。

 

斉明女王は、大海人皇子イリや那珂大兄皇子ら反唐派に担がれていたが、愛する高向玄里の為に遣唐使まで送り唐へ帰順する態度を見せた程であり、なんとしても和国を反唐には巻きこませたくはないと思っていた。

 

唐との戦を望まない斉明女王が何故、百済まで上陸したかというと、和国に逃げてきていたペルシアの王族ペーローズ達の為である。

 

 

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斉明女王

 

「唐に反旗を翻す和国に居ては、今後は唐に加護を求められなくなってしまうだろう。百済が唐国となった以上、なんとか唐軍の中へ亡命させて欲しい。」

 

との、要望に応え

 

ペルシアの王族らを百済の唐軍の中へ逃がすために、女王自ら百済に渡ったのだ。

 

先年は、近江から新羅経由で唐へ送り出そうとし叶わなかったが、今や百済が「唐国」である。

 

百済へ援軍派兵する前に、ペルシア王家の血もひく女王としてこれだけは何としても先に通したかった。

 

百済の鬼室福信・僧ドウタンらはこの要請に応え、半ば引き渡しの様にペルシア王族らが唐軍に亡命するのを容認した。

 

東アジア諸国にとって、唐が西アジアのアラブと構える事で戦力を西に分散させることになれば、この上ない。

 

今、呼応して西アジア側で唐に対して挙兵する国はなく、唐の注意を西に向けさせる為には、ペルシアとアラブの火種を使うしかなかった。

 

奇しくもこの年、強大な版図を広げたアラブはウマイヤ王朝が興りイスラム帝国を確立していた。

 

これに対しいよいよ唐は、ペーローズ王子の再三の要請に応えてペルシア都督府を置いて、亡命してきたペーローズ王子をペルシア都督としてアラブに備えた。

 

斉明女王は、派兵の請願を受け百済での会盟を終えると、那珂大兄皇子らを残してそのまま和国の朝倉宮(福岡県)へと戻った。

 

この会盟の後、百済反唐軍は唐軍の劉仁願らが守るサビ城へと進撃していく。

 

 

 

ある晩、

 

大海人皇子イリは真っ暗な忍び装束に身を包み、一人何処へと行き那珂津から姿を消した。

 

 

 

【金一族の王とイリの血を引く金法敏】

 

高句麗軍は百済へ侵攻して、北の要衝である北漢山城(韓国ソウル市)を攻めていた。

 

これは、百済サビ城の唐軍を攻める百済反唐軍の後方支援の為の出兵であり、唐軍の注意を北漢山城に引き付ける事を目的としていた。

 

一方、唐は新羅に対し北漢山城を死守する様に指示したがこの時、金ユシン将軍は「病気」と称して屋敷に引きこもっていた。

 

金春秋こと武烈王は金ユシンに「カーン」(大酋長)の称号を与えるなどしてなんとか出征させようとしたが、金ユシンは頑なに固辞し動こうとしたかった為、仕方なく自らが援軍を率いてき、高句麗軍と対峙した。

 

高句麗軍は、サビ城攻めの百済反唐軍に呼応して、唐軍を国境地域に向ける為の出兵であり、新羅兵の援軍が来るとろくに戦いもせずに引き返していった。

 

高句麗軍はイリと金ユシンの密約により新羅とは極力戦わない。

 

しかし、高句麗と手を組み唐と戦おうとする金ユシンとは逆に唐軍に味方し高句麗と戦おうとする金春秋とは対立し、この時は一触即発の状態にまでなっていた。

 

以前、ウィジャ王が和国と百済を領有し勢い盛んだった頃、ウィジャ王からイリを離す為に法敏を新羅皇太子にすることで裏からイリの味方を得て、高句麗は新羅とは積極的に戦わないという密約を交わしたこともあった。

 

今となっては、ウィジャ王も亡くなり百済も無く、

今更イリに忖択し高句麗と結ぶ必要など金春秋には全くない。

 

金春秋こと武烈王は、唐に宿衛し高宗皇帝に仕えている金仁問を皇太子にしたいと、唐に願い出て、皇太子の金法敏を廃嫡しようとしていた。

 

そしてこの戦の後、金春秋は大元神統のチソ姫を娶った。

 

伝国の宝ともいえる聖なる血統聖母を娶ることは、新羅の正式な支配者の証である。

 

金春秋は唐軍の力を背景に、着々と地位固めをしようとしていたが、目先の事にとらわれていて不都合な真実からは目を背けていた。唐が高句麗を滅ぼせば必ず新羅を吸収し、その後で王位が今までどおり存在しているかなど認めようともしない。

 

今のままでは、新羅は唐の属領になるのも時間の問題であり、金ユシンとイリは、金春秋をいつ取り除くかという密議を初めた。

 

新羅金一族の里にイリは一人で乗り込んできていた。 身軽に忍び装束を着たまま、用あらば相変わらず遠慮なく何処へでも行く。

 

一国の宰相におさまる様な器ではないし、宮殿でかしづかれて政務をとっていれば良いという時代でもなかった。風雲急を告げる高句麗攻めを前に、かつて自分が育ってきた故郷、和国、新羅を天下狭しと往き来していた。

 

金ユシンと、イリの息子金法敏が密かにイリを迎えた。

 

 

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イリの実子 金法敏

 

「、、唐軍は平壌まで攻めてこよう。先の百済攻めの時のように黄海を一気に横断し平壌へ至る航路を取るはずだ。予め民は避難させ、焦土作戦で平壌の周りは全て焼き払い、唐軍が食糧を調達出来ぬ様にし、硬く城を守り唐軍の食糧が尽るまで粘るしなかない。

 

陸路からの唐軍に対しては息子のヨン・ナムセンに三万の兵を率いさせアムノッカンで守らせる。

 

唯一、気がかりは百済側からの食糧補給の援軍。

 

是をなんとしても食い止めねば、唐軍を兵糧攻めにする前に、こちらが兵糧攻めに合ってしまう。

兄貴、何かいい方策はないか、、?」

 

 

イリは、首都平壌での決戦は避けられぬと覚悟を決めていた。

 

 

「武烈王金春秋にな、新羅兵に百済の服を着させて百済の反唐軍になりすまして、唐軍を攻めてはどうかと懸案したが容れられなかった。

 

金春秋は、唐の力が弱まれば自分の王位は失われると思っているのだ。

 

 

実際はその逆で、唐が今、新羅を制圧しないでいるのは、百済反唐軍や高句麗が強くあるからだ。高句麗が強国であるが故に、新羅は同盟国でいられるのだ。蘇定方の後に乗り込んできた王文度などは、既に新羅を百済と同様に敗戦国として扱ってきた。百済の様に唐の政庁府を新羅に置くつもりでやってきたのだ。

 

最もその詔勅を読み上げる前に殺してやったがな、、

 

同盟国でなく唐に成敗された敗戦国として扱われても、金春秋は全く唐に対して叛心を持たない。

 

怖いのだろう、金春秋は

 

もはや、、唐の犬に成り下がり、王の器ではない。

 

新羅が唐国の属領になったら新羅郡の郡主にでもして貰うつもりかもしれないが、猟犬は事が済めば煮られるだけだということが分かっていない。

 

今はもう金春秋を取り除かない限り、新羅兵は動かしようがないのだ、、兵さえ動かせば、サビ城にいる劉仁願などこの金ユシンの敵ではない。唐軍への兵糧支援など必ず阻んでやる。」

 

金ユシンが、武烈王金春秋を取り除こうとするのは、金一族の王の血を引く金法敏を、王位につけたいというだけではない。

 

唐が百済を滅ぼし、高句麗を滅ぼした後、もっとも小国であった新羅を襲い、吸収するのは目にみえている。

 

新羅はまだ唐と戦う体制など整っておらず、高句麗が滅んでしまっては手遅れであり、座して死を待よりは今、金春秋を取り除き、高句麗に味方するしかない。

 

まず武烈王金春秋を誘き出す為に、再び高句麗から北漢山城を攻めることになった。

 

「北漢山城は捨て置くことはできない城だ。攻められば必ず金春秋は、王宮を出るだろう。王宮の外にさえ誘きだせればどうにでも暗殺できる。もしも出なければ出るまで攻め続けてくれぬか、、

 

金春秋さえ除けば直ぐに金法敏を即位させ唐に冊方を願い出る。少しでも間を開ければ唐の奴ら、宿衛している金仁問を冊立してこないとも限らないからな、、」

金ユシンの言うことにイリは大きく頷く、

 

頷きながら、

 

(遂に吾が子が新羅の王となるか、)

 

と、時が来たことを噛みしめていた。そして、

 

百済が唐に完全に制圧される前に、高句麗、新羅、和国で唐を駆逐するには、時間の流れとの勝負になるであろうと、イリは更に力をこめ覚悟を決めた。

 

「ならば、金春秋が死して金法敏が立つまで高句麗から北漢山城を攻め続けよう、」

 

「頼むぞ、、」

と、

 

傍らにいた息子金法敏の目を擬っとみて一言だけいいはなった。

 

 

金法敏は、目に力を込め応える、

 

「イェ!」と勢いよく右手拳を振り、胸に置いた。

 

 

 

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イリ実子 金法敏

 

 

 

そして、

 

イリはおもむろに差していた剣を鞘ごと引き上げ、その環頭太刀の柄をカチンと、

 

金ユシンの剣柄に当てると、足早に立ち去った。

 

陽も落ちた道を一人足早やに行く。

 

遁こう術(忍術)を極めた、イリの神足法は常人のものではなく、気配を感じた異様な一団がイリの後を追った。

 

「何やつ!」と、声を発するやいなや

 

一団の中の手練れの者が抜刀し、イリに襲いかかった。

 

イリは担いでいた槍の柄でこれを受け、蒼然と咬んだ刃が鳴いた。それが合図であるかの様に一団は散開し、イリを輪になって囲み抜刀した。

 

しかし、次の刹那、

 

最初に斬りかかった者は倒れ、取り囲んでいた連中も槍の餌食となった。

 

恐らくは、金春秋が金ユシンを見張らせていた集団と思われる。

 

イリは何事もなかったかの様に、再び足早に歩き出した。

 

そして、和国の斉明女王のもとへ援軍派兵を促しに再び日本海を渡った。

 

 

 

【和国斉明女王 新羅武烈王没す】

唐は高句麗攻めの為に、河南北淮南の六十七州兵から4万4千人を新たに徴兵して、ペルシア人の傭兵と合わせ総勢35万の軍を組織していた。

 

徴兵に必死なのは唐もイリも同じである。より多くの兵を集めた方が勝利する。

 

一挙に高句麗を滅ぼすのは今と高宗皇帝も

 

「朕は後軍を率い、続いて発つ」と、

 

自ら出征し親征にしようとしたが、武皇后や群臣に反対され、思い留まった。

 

 

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高宗皇帝

 

蘇定方が総大将となり水軍を率い海路より平壌へ向かい、

 

陸軍は、突厥族から帰順してきた鉄勒王子(契必何力将軍)を大将とし遼東に向かい、

 

水陸合わせての35万の高句麗遠征軍が出征した。

 

 

百済サビ城で包囲されてしまっている劉仁願を救援する劉仁軌は、水軍で七千を率いて翌3月に出航した。

 

 

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前の高句麗攻めでは、食糧を運んでいた船を誤って沈めてしまい罰を受けたばかりであり、劉仁軌は恥を漱がんと白衣を着て従軍していた。

 

 

 

【挿絵表示】

劉仁軌将軍

 

 

「吾は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表へ頒布する!」

 

劉仁軌の士気は高く、上陸した唐軍の兵士らは厳整に戦い、サビ城へ進撃しながら当たる敵は全て下していった。

 

百済反唐軍は、熊津江口に二つの柵を設け待ち構えていたが、劉仁軌は新羅の兵らと合流しこれを撃破する。

 

 

百済側は1万余人が戦死し、僧ドウタンはサビ城の包囲を解いて任存城にまで退いた為、劉仁軌らは堂々とサビ城へ入城し兵を休めた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

また新羅からは、サビ城で包囲されている唐軍を救援する為、豆良伊城まで品日将軍が兵を率いていたが、どうしても是を突破することができず食糧が尽きて撤退した。

 

新羅の金欽将軍も唐軍への援軍を率いたが、古泗にて鬼室福信将軍に撃退され、新羅へ逃げ帰った。

 

この戦いの後、僧ドウタンは「領軍将軍」を自称し、

鬼室福信は「霜岑将軍」と自称し、百済反唐軍を二分する勢力となっていた。

 

百済王を誰にするかで二人は対立したが、今でも鬼室福信は、武王の子那珂大兄皇子の百済王を諦めておらず、ドウタンを除く機会を伺っていた。そして自分が軍の兵権を全て掌握するためには、

 

「今やらねば、ドウタンの勢力は抑えがたくなる」と、

 

軍議中にドウタンを騙し討ちにし、とうとう殺してしまった。

 

 

4月、

 

唐で囚われの身となっていた和国遣唐使の津守らが、耽羅(済州島)へ寄港しタムラ王子を伴い帰国(阿波伎王子)してきた。

 

斉明女王は、筑紫の朝倉の宮にいたが、遣唐使の帰国を喜んで迎えた。

 

 

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唐が百済を滅ぼした後、高宗皇帝の恩赦があり東征中は、長安で拘留されていた和国遣唐使達も帰国を赦されて博徳や中臣鎌足らも帰国を許されたが、高向玄里だけは解放されず囚われのままだった。

 

唐にとっては高向玄里は、ただの遣唐使ではない。

 

かつて唐の極東工作を担っていた工作員であり、唐が擁立した高句麗の栄留王を失って親唐工作が失敗したことは大罪に値し、尚かつ長孫無忌についていた人物とくれば要注意人物である。

 

遣唐使津守が調べたところでは、屋根裏部屋の様なところに監禁され囚人の様な生活を送っていたという。

 

斉明女王は、高宗皇帝の恩赦でも許さされず高向玄里だけが帰国しないということに号泣し、酷く落胆した。

 

落胆すると共に、

 

「高向がまだ唐に囚われている以上、和国から反唐の兵を送ることは出来ぬ」と、

 

頑なに百済への派兵を拒みだした。

 

大国唐の強大さを目の当たりにしてきた遣唐使から話しを聞けば尚のことである。

 

 

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唐の都には訪れる者らを威圧し、

 

「逆らうは愚か」と、

 

萎縮させるだけの圧倒的な力があり、すぐさま親唐とは転じなくとも反唐を貫き通す気は怯む。

 

斉明女王とて和国の者の様に大陸を知らぬ訳ではないが、遣唐使の口から唐が如何に強大かを聞けば聞くほど、唐と戦うことの無謀さを悟る。

 

 

百済の那珂津で、和国からの援軍を心待ちにしていた那珂大兄皇子は、援軍が来ないことに苛立っていた。

 

今になって母・斉明女王が和国の参軍を阻んでくるのが許せず、剣を抜き空を切り裂く様に振り回し、怒りの声を上げた。

 

鬼室福信は那珂大兄皇子を宥め、

 

「那珂大兄皇子さまの百済王に反対する僧ドウタンは既に除き、今や百済反唐軍は掌握しました。

後は、和国側だけです。私がもう一度、和国の斉明女王のもとへいき、援軍と共に要請してきます」

 

と、意気込み

 

再び対馬海峡を渡って、和国の朝倉の宮にいる斉明女王のもとへ向かっていった。

 

筑紫の野に(福岡)上陸すると、既に駐屯している援兵らが見受けられた。

 

兵達はただたむろしているだけで、出兵する気配は全く無く、戦備えもしていない。

 

鬼室福信は筑紫平野から、山間部へと登り朝倉の宮の斉明女王に拝謁した。

 

 

 

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鬼室福信将軍

 

 

「斉明女王様、唐軍は劉仁軌将軍を百済へ送りこんできて、サビ城の包囲は破られ劉仁軌に入城されてしまいました。どうか一刻も早く和国軍派兵を賜わりますよう今一度お願い申し上げます。」

 

「そして、百済那珂津にいらっしゃる女王様の御子那珂津大兄皇子様を百済王に戴きたくお願い申し上げます。」

 

鬼室福信が言葉を終えるやいなや、大海人皇子イリは叫ぶ、

 

「ドウタンは!何と申している!!」

 

イリの大喝に宮中は固まるが、鬼室福信は取りも乱さず

 

「ドウタンは亡くなりました。」

 

しれと、言い捨てる。

 

「何故だ!」

 

 

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鬼室福信が殺したという情報は、既にイリの間諜により伝えられているが、敢えて問う

 

、、

 

「サビ城の包囲を破られ一万の兵を失った責により誅せられました。」

 

鬼室福信は「自分が討った」とは言わない、

 

イリの出方を探りつつ答える。

 

 

「誅したとな、、、百済にはその様な王命を降せる王が既にいるのか?!

その様な王がいながらにして、和国に王を請いにきたかというのか、!!」

 

、、

 

「失言、失礼をいたしました。この私の一存で討ちました。」

 

鬼室福信は、顔色を変えつつ

 

(もはや隠しだては不都合か、、)

 

と直り本当の事を言った。

 

 

「ボラ!!」

 

 

イリは叫び、ドンッと床板を踏みつけ、異様な殺気を放った。一瞬で目が重く座った人殺しの目に変わり、先ほど大喝したイリとは全くの別人の様になっている。

 

さすがに鬼室福信も狼狽し始めた。

 

「一存でドウタン将軍を殺めたとな、、

 

今ここで吾も一存で殺してやろうか、、」

、、鬼室福信は戦慄する。

 

「これから唐軍と戦うというのに、ただ一度の敗戦の責で将軍を殺めるとは何という愚か。その様に危険なところに和国皇太子の那珂大兄皇子を送れるはずがないだろう!」

、、鬼室福信は返す言葉がなかった。

 

実際のところドウタンさえ除けば、那珂大兄皇子は斉明女王の実子であり無下にはされぬであろうとたかをくくっていた為、このようになるとは思いもよらなかった。

 

「那珂大兄皇子の和国皇太子を廃嫡し、百済王に就かせたいと百済側の意向は分かったがな、、」

 

「そ、そこまで申し上げては御座いません。」

 

鬼室福信は更に慌てる。

 

 

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「ならば和国王室はなんとする!那珂大兄皇子を両国の王にして和国と百済を併呑するとでも言うのか!敗軍の将軍の身でそこまで言うか!わきまえよ!!」

 

「申し訳御座いませぬ」

 

平身低頭し、すっかり恐縮している鬼室福信に斉明女王がさらに畳み掛ける

 

「和国から援軍は送れぬ」と。

 

 

鬼室福信はほうほうのていで百済へ追い返されていった。

 

大海人皇子イリは、

 

「目先の権しか見えぬ高飛車な猪武者よ」と、

 

鼻先で笑っていた。

 

那珂大兄皇子は、百済の那珂津で詔勅と援軍を心待ちにしていたが、鬼室福信より斉明女王が援軍を出さぬ事を聞くといっそう苛立ち、自ら和国へ催促にいくことにした。

 

和国の大海人皇子も苛立ちは同じであり、援軍をなんとしても出そうとしない斉明女王に更に強腰で詰め寄っていた。

 

しかし、どれほど恫喝されようが斉明女王が応えることはなかった。

 

「今、和国が唐と戦えば、唐で囚われているそなたの父・高向玄里は間違いなく殺されるでしょう、、それでも構わぬというのですか、、」

 

と、涙ながらに斉明女王はイリに討ったえる。

 

「風雲急は存じておろう、今一斉に和韓全てが蜂起しなければどうして唐の侵略を打ち払おう。遣唐使一人に構ってはおられぬ!」

 

闘神の如く気焔を吐くイリの言葉の前では、斉明女王の言葉は吹き消されてしまう。

 

「なんと、、貴方の父ではないか!その様に言ってはならぬ。」

 

斉明女王は全く意に介さないイリに力を込めて言い返す。

「遣唐使が海の藻屑ともならず、今唐で生きているというならばそれで良いであろう、、遣唐使は遣唐使だ。父と思ったことなどない、、」

 

「ならばハワ(母)さま、15年前に問うたことを今一度問う。高向玄里とは本当に吾の父か!吾は血統など無縁!天涯の孤独しか感じないのは何故だ!?貴女は本当に吾の母ではないのか!?」

 

 

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、、、

 

斉明女王は押し黙っていた。

 

「答えぬ気か!あの世にまで持っていく秘密でもあるのか?だが、和国の援軍はなんとしても派兵する。これ以上拒めば、望みどおりあの世まで秘密を持っていくことになるしかない。」

 

 

斉明女王も、和国からの派兵を拒み続けることなど出来ぬことは充分 分かっていた。

 

高句麗は、陸路から遼東へ、海路から平壌、南の百済からと合わせて三路からの唐軍の侵攻が迫りつつあり、新羅とも戦わなければならない状況にある。

 

肅慎や和国の援軍がない限り高句麗は孤立無援であり、今高句麗が滅べば東アジアの地は唐の領土となってしまうだろう。

 

大海人皇子イリや那珂大兄皇子にとって、唐軍と百済や高句麗の戦いは対岸の火事ではなく、一人でも多く和国から援軍を送らねば、唐軍35万の前に敵うはずもない。

 

斉明女王はそのように和国からの派兵は避けられぬものと分かりながらも、それでも高向玄里がまだ唐で囚われていると知った以上、命がけで是を拒んでいた。

 

和国からの出兵により、唐が和国遣唐使の人質である高向玄里を生かしておくなどあり得ない。

 

必ず処刑するだろう。

 

イリは、何度か脅迫めいた説得をし、派兵を強引に試みたが斉明女王の意志は固く、イリの大喝や刃の前にも怯むことなく命がけで派兵を阻止した。

 

斉明女王でさえ、必ず死ぬという必死の覚悟がなければイリの強勢を阻むことなどできない。

 

どうせ避けられぬ運命ならば、

 

「お伴を」と、

 

斉明女王は共に旅立つ気である。

 

 

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死に向かう義母の覚悟をしっかりと受け取ったイリは、

 

「これ以上は和国兵の出兵を遅らせる訳にはゆかぬ。」

 

と、躊躇うことなくそれに応えた。

 

大海人皇子イリは、毒を使った。

 

斉明天皇の身近にいる女性にトリカブトの毒を使わせた。そして、阿部比羅夫らにその後の出兵を命じると、イリは大急ぎで高句麗へと戻っていった。

 

(これで唐軍の三路からの出兵に対する布陣は整った、、)

 

かつて幼き頃は

 

「ハワ(母)さま」と呼び慕っていた、

 

義母の斉明女王を殺める心の痛みは、迫りくる風雲に臨む決死の覚悟の前に掻き消されていった。

 

イリとて今、非常の手段で必死に戦いぬかなければ明日を生きる事さえ分からぬ程の戦雲の中にいた。

 

唐軍三路、

 

陸路から来る鉄勒王子率いる唐軍へは息子ヨン・ナムセンに鴨緑江(アムノッカン)で迎え撃たせ、

 

百済から来る劉仁軌・劉仁顔の唐軍は、和国兵と百済反唐軍で阻み、

 

そして、海路より首都平壌に攻めて来る蘇定方は、イリ自身が平壌で迎え討ち、此れをなんとしても撃退するつもりだった。

 

残る新羅軍に対しては、金ユシンらが武烈王金春秋を除き息子金法敏が即位し、金ユシンが兵権を握れば押さえとなる。

 

イリはここが生死興亡の境目と必死に奔走していた。

 

新羅、高句麗、和国、百済と巡ったこの時の動きは功を奏し、この後の戦局に影響していった。

 

イリはほとんど高句麗に留まることは出来ず、病気と称して、鴨緑江(アムノッカン)へ配置した息子ヨンナムセンには大臣の地位を与え後継者として、その地位を内外に喧伝していた。

 

 

 

 

斉明女王は、朝倉の宮で倒れて寝たきりになってしまい、日に日に衰弱していった。

 

朝倉の宮で、斉明女王の宮を建てるときに神木を切って造ったため、これはその祟りであると風説が流布された。

 

その様な状態になっても尚、斉明女王は和国からの派兵を拒んでいた。

 

推古女王が、最期の最後で蘇我馬子を拒んだように、人の縁とは命の尽きる瞬間まで分からないものである。

 

斉明女王にとって高向玄里は最初の夫であり、初めて高句麗で出会ってから和国へ渡った頃までに三人の子を産んでいる。

 

その後、武王との婚姻で百済王室に入ると、子供らは臣籍降下し和国に留まり別れた。(坂上、阿部、蔵内) 

 

しかし、高向玄里とは繋がりは切れず、まるで前世からの因縁でもあるかの様に、斉明女王は高向玄里との繋がりを大切にしていた。貴種や王族であるが故に、愛するものと契りを結ぶことは生涯許されるものではないが、斉明女王の人生で唯一、王族としてではなく一人の女性として心を繋いだ相手が高向玄里だったのだろう。

 

命がけで、高向玄里を守ろうとしていた。

 

だが斉明女王の命がけの抵抗も虚く、既に和国の大勢は唐国の知るところであった。

 

 

百済に居た那珂大兄皇子らは、和国の援軍が来ないことに危惧しこの時は派兵の為に和国に戻っていた。

 

母斉明女王は命の尽きることを悟ると、那珂大兄皇子と間人皇女を忌の際に呼び、

 

「私の亡き後、百済寺(奈良県大安寺)のことを頼みます。あの世で武王に合わせる顔がない、、」

 

と遺言して瞑目した。

 

上宮法王の娘で、突厥の王女として西アジアに生まれ、北アジアで隋と突厥の大戦を経験し、東アジアの高句麗に亡命し、和国、百済、耽羅と流転した女王の数奇な生涯を閉じた。

 

 

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斉明女王

 

 

 

一方、新羅でも金春秋暗殺の計画が進められていた。

 

イリは、武烈王金春秋をおびき出す為に高句麗軍と靺喝族に命じ水陸より新羅の北漢山城を攻めさせていた。

 

北漢山城の東に靺喝軍、西に高句麗軍が陣取りし東西から攻め続け、北漢山城は兵糧もつき落城寸前まで追い詰められてしまっていた。

 

しかし、金春秋は尚も宮殿を出ようとしなかった為、金ユシンはひと芝居をうった。

 

金ユシンは官寺に籠もり

 

「あとは人の力で、できることはない」と

 

祈祷をはじめた。

 

もしも北漢山城が敵の手に渡ってしまえば、新羅と唐国との連携が分断されてしまい、武烈王金春秋もさすがに捨てておくこては出来なかったが、「病」と称し屋敷にこもっていた金ユシンの動きは気にかかっていた。

 

他の将軍らは、南方のサビ城包囲救援に出兵させている。

 

しかし、金ユシンが祭壇で戦勝祈祷の行に入ると、油断した武烈王金春秋は北漢山城の救出の援軍を送り出す為に宮殿から出た。

 

そして、金馬郡の大官寺まで来たあたりでいきなり、謎の賊軍に襲われて武烈王金春秋はあっという間に斬殺されてしまった。

 

高句麗の矢を使い、敵側の仕業に見せ掛けていたが、金ユシンの手であることは間違いない。

 

北漢山城を攻めていた高句麗軍は、落城寸前まで追い詰めながらも、この金春秋の死と共に潮が引く様に攻撃を止め引き上げていった。

 

この様子に、新羅の者共は、

 

「金ユシンの祈りの神通力のお陰」と驚いていた。

 

唐の高宗皇帝は、武烈王金春秋の死を聞くと洛城門まででて哀悼した。

 

 

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金ユシンは直ぐに皇太子の金法敏を新羅王に即位させたが、唐は直ぐに是を認めず高句麗との戦が始まった3ヶ月後に冊方する。

 

しかし、ついに金一族の悲願であった金庭興王の血を引く金法敏が新羅の王になったのだ。法敏を産んだ鏡宝姫や金一族の女達も喜びはひとしおだった。

 

文武王と名乗った。

 

表向きは、金春秋の子ではあるがイリの実子でもある。

 

強烈な反唐の王が新羅に誕生し、金ユシンはついに兵権に返り咲きいた。

 

 

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文武王 金法敏

 

 

 

 

 

【天明鬼 高向玄里の最後】

和国で斉明女王が没すると直ちにに援軍が組織され、安曇比羅夫と阿部比羅夫将軍らが五千の兵を率いて百済へ向かった。

 

唐の劉仁軌将軍が率いてきた唐の援軍は七千、これに百済反唐軍は撃破され一万を失った。

 

数において和国からの援軍の方が劣るが、安曇比羅夫と阿部比羅夫将軍らは必勝の覚悟で海を渡った。

 

出兵の際、和国朝倉の宮に居た那珂大兄皇子に対して、

 

大海人皇子イリの義弟・阿部比羅夫は、

 

「和国に留まり、皇太子として斉明女王様の殯(死者を送るまでの儀式)を行うべきでは」

 

と、百済への出兵を押し留めた。

 

殯は3ヶ月~半年場合によっては一年と、通常は長い時間をかけて行い、王の殯が終わらない限り次の王は即位することが出来ない。

 

百済での大戦を目前にして容れられるはずもなく

 

「母は元百済皇后であった、百済にて殯を行う」

 

と、那珂大兄皇子は強引に母・斉明女王の棺を船に乗せ百済へ向かってしまった。

 

しかし、是は阿部比羅夫のみならず和国の臣からも

 

「斉明女王様はなんと言っても和国の王、和国王の殯は百済でなく和国で行うべき。」

 

と、反対の声があった。

 

那珂大兄皇子が、和国の皇太子でありながらも百済の王になろうとしていることは

 

「二国を領有する王になる」

 

という野心をはらんでいる。

 

百済で和国王の殯を行うなど、大戦のどさくさ紛れで出来るものではなく唐軍にいつ攻め込まれるかも分からぬ状況である。

 

それでも那珂大兄皇子は、百済王族としてなんとしても母・斉明女王を故地百済で埋葬したかった。しかし、これは結局は叶わず10月に和国へ戻り11月に和国の飛鳥川原で殯を行うこととなる。

 

 

和国の百済援軍の動きは唐に察知され、唐国で監禁されていた高向玄里の命も、文字通り「風前の灯火」になっていた。

 

東アジアの親唐工作を任されながら幾度となく親唐化に失敗し、その度に二枚舌を使いかえって唐の激しい怒りをかってしまった。

 

高向玄里は食を絶たれ既に飢え死に寸前だったが、ずいぶん惨い殺され方をした。

 

頭の皮を剥がれ、そこに太い灯を立てて焼かれた。

 

人々は灯台鬼と呼んだ。

 

 

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高向玄里

 

 

 

 

高向玄里は元は漢人であった。

 

漢の皇帝献帝の子孫であり、漢帝国滅亡後に高向の祖先は東国へ亡命してきた。

 

和国に帰化したが、漢王室の子孫として代々大陸への回帰を望み、高向玄里は高向王などと名乗りながらもついには和国の遣隋使となって隋へと渡った。

しかし、滞在中に隋が滅んでしまい唐国が興ると、遣隋使らはそのまま唐で囚われの身となった。

 

高向は唐に極東の情報を流すうちに政治手腕が認められ、やがては唐の極東の親唐工作を任される様になり、高句麗の親唐派の王栄留王の擁立と共に高句麗の大臣となり、和国、百済の親唐化に心血を注いだ。

 

各国の王室と繋がり、和国の遣唐使を実現し、新羅を通じて唐と和国の国交を結び、東アジアと唐を結ぶ唯一無二の存在となった。

 

しかし、息子イリの反唐による裏切りにより全てを失い、反唐派が東アジアを席巻するようになると居場所は無くなり、国外追放の様に遣唐使に出された。

 

もとより、高向玄里には野心が有るのみで、

 

居場所も国も持たない流浪者だったのだろう。

 

それでも高向にとって故郷は和国であったのだろうか、

 

 

高向玄里は死に向かい、一篇の詩を残し絶命した。

 

 

 

『灯台鬼』

 

吾は日本の二京(長安・洛陽)の客人

 

汝(イリ)もまた、東の城の一宅人

 

子となり、親となるのも前世の契り

 

一離一会、これ前世の因縁

 

年を経て蓬宿に、落涙し

 

日を送るに思いは駆け巡り、朝夕新たなり

 

形を変えて他州の鬼となり

 

急ぎ帰って故郷に、この身を捨てん

 

 

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第18章 唐高句麗戦【首都平壌決戦】

661~662年
第1話 ヨン・ナムセンの完膚なき敗北
第2話 高句麗から和国へ
第3話 唐軍蘇定方の出征は敗北に
第4話 唐軍撤退と和国【那珂津皇】



【ヨン・ナムセンの完膚なき敗北】

661年4月、

 

百済復興に援軍派兵させようと、イリが斉明女王を説得しに和国へ渡っていった頃、

 

唐軍35万が高句麗への出撃を開始した。

 

 

 

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総大将蘇定方が黄海を渡り海路で平壌へ向かい、

 

鉄勒族(突厥)から帰順してきた『鉄勒王子』(契必何力将軍)が陸路より遼東に向かった。

 

 

 

唐軍は、遼東側と首都平壌方面の軍を六軍に分けていたが唐軍主力は30万であり、対する平壌城は5万の守備兵で是を守らなけれければならなかった。

 

 

「吾が戻るまで城門を閉じ決して開けてはならぬ。討って出るな!固く籠城せよ。堅壁清野の構えで唐軍を迎える。5万の兵でも固く守りぬけさえすれば、唐軍は直ぐに食糧難に陥り寒さと飢えで自ら滅んでいくだろう。」

 

と、イリは守将の高将軍らにきつく言い渡していた。

 

屋敷に影役を一人置き、公には

 

「病気の為、伏せている」とし、まだ平壌城内にいることにして和国へ行っていた。

 

唐軍主力を率いる総大将の蘇定方は、黄海を渡りきると高句麗の貝江に上陸し、待ち受けていた高句麗軍と激突した。

 

唐の任雅相将軍の水軍と、上陸した蘇定方の偽兵により前衛の高句麗軍は突破されてしまった。

 

高句麗でのいくさは

 

「武力戦」の衝突というより、

 

「補給戦」の戦いである。

 

唐軍は大軍で攻め込む以上、滞陣する為の食糧と物質を補給し続けなければならず、

 

高句麗軍は食糧補給さえ断てば、唐軍は飢えに陥り退却せざるを得ない。

 

補給戦である事は、過去の対高句麗戦の失敗から充分それを学び得ていて、その上での戦術を用いる。

 

唐軍は、偽の食糧倉庫と偽の補給部隊を駆使した罠をしかけて高句麗軍を誘引し攻撃した。

 

 

唐水軍はそのまま大洞江より遡上し、蘇定方は首都平壌城に進撃していった。

 

途中、何度か局地的な戦闘があったが全て蘇定方が勝ち、高句麗軍は唐軍の進行を止めることは出来なかった。

 

 

「兵糧は持たすな」

 

というのがイリの下知であった。

 

唐軍に破れ食糧を渡す訳にはいかない。

 

進路を阻み時間を稼ぎ、敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦であり、いくさは、

 

「唐軍の鼻面を薙ぎ払う如く」

 

正面から当たらず予め撤退路に陣取りをした短期決戦で、側面からの波状攻撃をしかけた。

 

しかし、唐軍の押し出しは強い。

 

その上、逆に高句麗軍を誘引してから側面より奇襲をかけ高句麗軍を殲滅した。

 

兵力の多さだけでなく戦術・戦闘ともに蘇定方将軍は、高句麗軍を凌駕した。

 

(唐軍は早いくさをする)

 

と、高句麗の武将らは蘇定方の得意とする電光石火の進軍の速さに危機感を感じた。

 

「兵糧などあっても食べる間さえなかろう」

 

と呆れる者までいた。

 

しかし、高句麗の戦略は戦闘に勝つことではなく、進路を阻み時間を稼ぐことである。真っ向から勝負はせず時間を稼ぎ、糧道を断ち飢えと寒さで唐軍を弱らせる作戦である。

 

籠城一途に城を守り続ければ勝機は摑める。

 

 

 

661年8月、

 

遂に唐軍は首都平壌城に到達した。

 

 

一方、

 

遼東方面から攻め込んでくる唐陸軍に対して迎え討つのは、イリの長子ヨン・ナムセンが精兵約三万を率いりアムノッカン河(鴨緑江)を守っていた。

 

唐陸軍を率いるのは、李勣大将軍である。

 

「遂に高句麗を滅ぼす時がきた。」と

 

この度の平壌城攻めには、

 

唐軍の主だった名将は全て参戦していた。

 

(アムノッカン=鴨緑江、現在の北朝鮮と中国の国境の川。白頭山に源を発し黄海へ注ぐ)

 

 

息子ヨンナムセンに対するイリの信頼と期待は大きい。

 

イリは、和国皇太子弟の太海人皇子として和国でも権力の座を守らなければならず、この頃はヨンナムセンを大臣から高句麗の宰相に据え自分の後継者にし、高句麗を任せようとしていた。

 

かつてイリの父・高向玄里がイリを高句麗の大臣に据えて、自身は和国百済と唐の工作の為に渡り回っていた様に、今のイリは高句麗防衛の為にも息子に高句麗を任せ和国と百済を巡り介入しなければならない。

 

 

一方、弟のヨンナムゴンはこれを嫉んで兄の失脚を虎視眈々と狙っていた為、ヨンナムセンはなんとしても負けられない重圧を二重三重にも感じていた。

 

イリの長子ヨン・ナムセンは、遼東の靺鞨系の姫が母であり五大部族らは毛嫌いしていて、中央の王族の姫が母である弟のヨン・ナムゴンを支持していた為に、ヨン・ナムセンを蹴落とそうと戦の前から早くも躍起になっていた。

 

「ヨン・ナムセン様では、鴨緑江の唐軍を抑えるのは無理です。敗北は必至でしょう。熟練の将軍に交代させるべきです!」

 

「戦線より奥へ引いた所で陣を築いたそうではないですか!何とい情けない!こんな逃げ腰ではとても唐軍を迎え撃つことなど出来るはずがありません。腰抜けは軍に無用です!大臣も辞めさせるべきです。」

 

と、まだ戦いも始まらぬうちに口々に宝蔵王に詰めよっていた。

 

奥地への陣取りは、大軍と戦う為に遠路・隘路で迎え撃つという慎重な戦略だったが、本人不在をいいことに部族らは言いたい放題である。

 

これが前に出れば「戦略を知らぬ猪武者」と詰り後方に下がれば「臆病者」と罵り、悪評を立てる為の喧伝である為どうとでも言えた。

 

宮廷の群臣らで、ヨン・ナムセンを弁護する者は居なくなり王女(養女)だけが一人、

 

「戦さが始まらぬうちから敗戦を言い騒ぐとは、利敵行為ではないか。まずはそなたらの唐を恐れる心を捨てよ!」

 

と、炎上する批判に水を浴びせた。

 

ヨンナムセンは決して凡庸な人物ではないが、類い稀な英雄ヨンゲソムン(イリ)の後継者として、弟との権力闘争に身をさらしたまま唐と戦わなければならない状況はあまりに荷が勝ち過ぎていた。

 

 

イリの長子ナムセンに対し、弟のナムゴンを焚き付けて対立を策動している輩に、

 

方衛という者がいた。

 

イリの側近だったが奸臣である。

 

方衛は元は小役人であり、陰謀と讒言によって人を陥れて出世してきただけの男で、部族の利権を守るとか唐の手先となり工作を担うとか、そうしたことには一切関心がなくまた才覚もない。

 

只、目先の己れの利得と保身で動く。

 

忠誠心も信頼もなく私欲が全てであり、部族の結束や国の団結などは寧ろ毛嫌いし、愚かなことと蔑んでいる。

 

部族や国が潰れるまで平気で食い物にし続ける輩であり、乱世では得てしてこの方衛の様な者の貪欲さが旧体制を崩壊させるほどの影響を与える。

獅子心中の虫を抱えたまま、戦に臨まなければならない高句麗の内憂外患は次第に酷くなっていった。

 

鴨緑江(アムノッカン)に布陣するヨンナムセンは、重圧を負いながらも軍を率いて、唐軍の渡河を阻止する為、河岸の要所に堅固な陣を築き待ち構えた。

 

 

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鴨緑江は、朝鮮半島を囲む堀の様な国境の大河である。

 

陸路から高句麗に攻め入る場合は、必ずこの河を越え侵攻しなければならないが、唐軍は対岸に到着し布陣したものの渡河はせず、両軍は川を挟んで対峙し膠着状態となっていた。

 

李勣大将軍は、海路から上陸した陸軍を率いる契必何力将軍をここで待っていた。

 

かつて中国側から攻め入った軍は、ここを容易に渡河することは出来なかったが、かといってここで足留めされていれば寒さと食糧難で、戦闘不能に陥ってしまう。

 

今回の唐軍の遠征は海軍を増強し、兵糧船から陸軍の食糧も密かに運び込まれていた為、長対峙が可能となっていた。

 

武媚娘皇后派の諸将の活躍である。

 

渡河戦を仕掛けた方が背水の陣となり不利である為、兵数に劣る高句麗のヨンナムセンから戦を仕掛ける事はなかった。

 

唐軍に玉砕覚悟で戦を仕掛けるよりも、ここで唐陸軍の平壌進撃を足留めし兵は温存する構えだ。

 

やがて唐軍の本隊を率いる鉄勒王子(契必何力将軍)が軍船で到着したが、鉄勒王子も強引な渡河戦を敢行することはなく、引き続きアムノッカンを挟んだだまま対峙を続けた。

 

 

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契必何力将軍は、高車部族『ティエルカーン』(王)の孫であり遊牧民族の王族出身であった為『鉄勒王子』と呼ばれていた。

 

(鉄勒チュルチョク=突厥トッケツ=トルコのこと)

 

鉄勒王子の部族は突厥配下に属していたが、南の吐谷渾に攻めたてられて北アジアのイシククル湖周辺に移り住んでいた。

 

イシククル湖は、山に囲まれ(標高1680m)中国では熱海と呼ばれ湖底から温泉が湧き出るせいか冬でも凍らない、琵琶湖の九倍の面積を持つ巨大な古代湖である。

 

 

トカラの北東(キルギス)、天山山脈の西北部に位置しアジアの遊牧民族の拠点であり、ここから多くの遊牧民族の英傑らが輩出された。

 

湖底には、歴代王朝の遺跡が沈んでいるという。

 

契必何力は、早くに父親を失くし、630年に東突厥が唐の太宗皇帝により滅ぼされた時に、進軍してきた唐軍に母親を連れ亡命してきて唐軍で頭角を現した。

 

唐軍の将軍となり、

宿敵であった吐谷渾を滅ぼし、

高昌国を攻め、

亀慈国戦では王を捕らえた唐軍きっての中央アジアの制覇の英傑である。

 

東突厥が滅んだ後、薛延陀部族が20万の兵でモンゴル高原に盤踞していて、これに捕らえられた事があったが、

 

太宗皇帝は、薛延陀に王女を降下することと引き換えに契必何力を取り戻そうとした事があったほど、唐軍にはなくてはならない強力な将軍だった。

 

唐は西アジア、中央アジアの掃討が終わり、遂に極東アジア戦線にこの英傑を投入してきた。

 

 

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しかし、百戦錬磨の英傑は颯爽と唐陣営に到着したきり、軍を動かさず鴨緑江(アムノッカン)を渡って高句麗のヨン・ナムセン軍を攻めようとはしない。

 

武将達はあまりの長対陣にざわつき初めた、

 

 

「将軍!吾ら『攻めに出るな』との命令どおり陣を堅く守り対峙してきました。今、鴨緑江を渡り吾らに手柄を立てる機会をどうか与えて下さい!」

 

 

「討って出ることはせず守りを堅めていれば良い。よもや無勢の高句麗軍が渡河してくるとは思えぬが警戒は怠らず見張りは増やしておけ。」

 

「攻めずに、攻めてくるのを待てということですか?もう百日以上睨みあったままです。

 

このまま動かずにいては、吾らは王都『平壌城』攻めに参戦できません。

 

たった3万の奴らです。直ぐにでも川を渡り蹴散らしましょう!」

 

武将らは、契必何力将軍の態度に煮え切らず、唇を反して言い騒いでくる。

 

 

「ならぬ!!鴨緑江(アムノッカンt川)の渡河戦では、上流の堰を切って敵を押し流すのは高句麗防衛の常套手段である事は知ってるのか!?

 

吾らが、地の利には及ばぬ限り高句麗の奴らの有利に動くことなど出来ぬ。」

 

 

「では、どうしろと…!水も冷たくなり、これ以上待てば凍えて渡れなくなります。」

 

「ならば更に待てば良い!」

 

 

「なんと…!」

 

 

 

 

唐軍は、アムノッカンが凍るのを待っていた。

 

 

そして9月になりアムノッカン(鴨緑水)の水が凍りはじめると、

 

鉄勒王子は全軍に総攻撃を命じる。

 

 

唐軍は軍鼓を盛大に鳴らして一斉に氷の上を渡って攻撃を開始した。

 

数に劣る高句麗軍は徹底的に叩かれ、ヨン・ナムセンは命からがらに撤退するが、唐軍は数十里に渡り執拗に追撃を続けた。

 

唐軍が一斉に鴨緑江を渡り攻められれば、

 

数に劣る高句麗軍は勝負にならない。

 

ヨン・ナムセンは直ぐに山間部まで退却したが、追ってくる唐軍を山間の峡谷に誘い込み、峡谷の出口と入口に予め仕掛けておいた大木を落とし閉じ込めた。

 

一斉に火矢を射掛け、峡谷で逃げ場を失った唐軍を死に至らしめ返り討ちにした。

 

最初に奥地に陣取りした時に、仕掛けていた罠が功を奏した。ヨン・ナムセンの戦略どおりの勝利である。

 

この殿戦では勝利したものの、 

 

ヨン・ナムセンは

 

「これで暫くは追って来れぬであろうな、、」

 

と、唐軍を軽く観ていた為、この後

 

度肝を抜かれる事になった。

 

唐軍は決して追撃を緩めず、味方の屍を乗り超え山間部奥深くまで執拗に追い続けてきた。

 

鉄勅王子は、高句麗軍を徹底的に殲滅するつもりでいる。

 

「皆殺しにせよ!一兵たりとも生かしておくな!」

 

と、叫び続けていた。

 

数を頼みに少しでも開けた場所では、高句麗兵一人に五人で襲いかかる。

 

高句麗軍は、自然と山間の狭き道へと退路を取り逃げていた。

 

やっと一人が通れる程度の狭い道が続く。

 

この地形ならば例え大軍で攻め入ってきたとしても、刃を振るえるのは一兵だけだ。

 

しかし、これこそが鉄勅王子が仕掛けた周到な罠であり、高句麗軍が逃げた山間の先の、更に奥地に、密かにソル・イングイ将軍に契丹兵を率いらせ伏兵として潜り込ませていた。

 

山間を抜け、峰を越え、

 

唐軍の追撃を振り切った高句麗軍らは

 

「ここまで来れば、唐軍も追っては来ぬだろう。奴らをこちらに充分引きつけたし、平壌への侵攻を足留めする時間稼ぎにはなった。」

 

と、安堵し暫し休んでいた。

 

ヒュン!!

 

と矢が飛び込み、それが宣戦布告の合図の様に

 

一斉に唐軍の攻撃が始まった。

 

仕掛けれてい丸太が落とされ、高句麗軍の進路が塞がれた。

 

「何事か!」

 

この様な奥深くにまで伏兵を配してるとは夢にも思わない。長対陣の間、時間をかけて山間を移動し周到に埋伏させていた伏兵だった。

 

身を潜め敵地へ深く侵入し、危険を侵しただけの戦果は強く求められた。伏兵らは容赦なく高句麗軍を追い詰めり。

 

高句麗軍は最初は何が起きたか分からず狼狽したが、次々と飛んでくる火矢を受けあっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図になった。

 

「唐軍の攻撃だ!皆逃げよ!」

 

と、武将らは叫んだが

 

今度は逆に、高句麗軍が峡谷へと引き込まれたまま出口も塞がれ遂に皆殺しにされてしまった。

 

 

高句麗軍は三万人の死者を出す壊滅状態となり僅かに生き延びた者達も皆、唐軍に降伏した。

 

ヨン・ナムセンだけが体一つで逃げ出した。

 

鉄勒王子はその後、平壌城を包囲している蘇定方と合流する為に急ぎ平壌に向かったが途中、高句麗の楊将軍やテジュンサン将軍に裏をかかれ手痛い打撃を受けてしまった。

 

唐軍、高句麗軍共に『補給戦』であることは充分承知していた。

 

その上で、唐軍は平壌に一刻も早く着陣する為に、高句麗軍の注意を他に向けさせる擬兵の計を用いた。

 

「平壌城攻めの蘇定方将軍らが戦果を上げている。

 

吾らも長対陣の遅れを一気に取り戻す為、行く手を阻む高句麗軍を引き離す『擬兵の計』を仕掛け、

 

偽の食糧倉庫と囮の補給部隊で罠に嵌める。」

 

 

と、唐軍の常套手段となった囮の補給部隊で高句麗軍を引き付ける作戦に出た。

 

 

しかし、楊万春将軍らは食糧倉庫の護衛兵は疑兵であり罠であることを見抜き

 

テジュンサン将軍と隊を二つに分けて進軍、

 

一隊は、囮の補給部隊に向かうと見せかけ

 

もう一隊をテジュンサンが率いて本隊を攻める伏兵となり、唐軍が油断しているところへ隘路より奇襲攻撃を仕掛け戦果を上げた。

 

 

丁度その頃、唐・高句麗戦に呼応するように鉄勒族が唐に反乱を起こした為、鉄勒王子は彼らを制するために呼び戻され戦線を離脱した。

 

「ヨン・ゲソムンを前にしてまたも西アジアへ出征せねばならぬとは…!」

 

と、鉄勒王子は高句麗掃討戦に参戦できぬことを嘆いた。

 

 

是によって遼東方面の戦局は高句麗有利のまま膠着し、

 

主戦場は首都平壌城方面になった。

 

 

 

 

【高句麗から和国へ】

唐高句麗の戦闘が始まった時は、イリが大海人皇子として朝倉宮に入り、百済の鬼室福信からの

 

「那珂大兄皇子様を百済王に」

 

という請願を退け、

 

援軍を出ししぶる斉明女王を暗殺した後、援軍を派兵し百済には豊章を王として送るとして5千人の兵を送り出していた頃である。

 

鬼室福信も是に大人しく従った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

イリは唐軍との決戦もさることながら、那珂大兄皇子の和国王即位と百済王だけはなんとしても阻止しなければならずまだ和国に留まっていた。

 

那珂大兄皇子では、国王の器でないというよりも斉明女王や武王の様に親唐派の王となることが予想され、保身の為に万が一にもその様なことになれば、今まで非常の手段で親唐派の王を取り除いてきたことが全て無駄になってしまう。

 

しかし、力を持たない血統だけの那珂大兄皇子にとっては混乱の中、めぐりめぐってきた唯一の国王即位の機会であり、イリが高句麗に釘付けになり隙が出来るのを今か今かと伺っている。

 

勿論、イリは隙など与えない。

 

那珂大兄皇子が震え上がるほど睨みをきかせている。

 

那珂大兄皇子が

 

「百済で殯りを行う」と言って

 

母・斉明女王の亡き骸を船に乗せ出航して行ったのも百済王や和国王に野心があるからというだけではなく、大海人皇子イリからの暗殺を恐れ和国から逃れたのかもしれない。

 

いずれにしろ那珂大兄皇子にとって苦肉の選択だったのだろう。先王の殯を行う者こそが次の王であるということに則り、なんとしても斉明女王の亡骸を渡したくはなかった。

 

那珂大兄皇子には、高句麗本国が唐と戦になっているのに和国に居続ける大海人皇子イリの心中が理解できず、

 

「本国を戦火に曝してまでも吾の即位を阻むのか」と、

 

不気味に感じていた。

 

大海人皇子イリにとっての本国とは和国高句麗のことであり、もはやどちらかが「本国」という感覚はない。

 

イリの心中では、

【前軍】高句麗、【中軍】新羅、【後軍】和国の

三段構えが対唐戦線の布陣なのだ。

 

和国は王不在のまま、暫し大海人皇子イリの専横下におかれていた。しかし、いつまでも王不在のままにしておくわけにもいかない。

 

大海人皇子イリは、斉明女王の次の和国王に那珂大兄皇子の妹・間人皇女を即位させるつもりでいるらしい。

大海人皇子イリの傀儡となる和王である。

 

高句麗には傀儡であるイリの義父・宝蔵王がいて、新羅王にはイリの実子法敏が文武王として即位し、今百済には政治的野心の乏しい扶余豊章を王に送り、後は和国に傀儡となる王を冊立さえすれば、

 

四国の王を統べて国を動かす、巨大な反唐勢力となる。

 

以前、宝皇妃(斉明女王)に言われた

 

「王位につかなくとも国は動かせます。」

 

という言をそのまま具現化した形である。

 

反唐の志のある者にとっては、イリの存在は強力であるが、親唐派にとっては脅威でしかない。

 

裏から各国の元首を動かし実効支配する、イリの存在そのものが所謂「影の政府」である。

 

和国王に傀儡となる間人皇女を擁立することは、東アジアで反唐の炎を燃やし続けるイリにとって重要な意味を持っていた。

 

間人皇女は、那珂大兄皇子と同様に百済武王と和国上宮法王の血を引いていて、更に先々代の孝徳王、ウィジャ王の皇妃でもあり、母・斉明女王の跡を継ぐ女王には申し分ない。

 

その後は蘇我馬子ら歴代の和国の権力者の様に、

 

女王の夫(即ち王)となり、皇子を産ませ王位継承させればイリの支配体制は磐石となる。

 

新羅王、高句麗の宰相、そして和国の王も全てイリの息子達で固め、三国連合軍でもって唐軍を駆逐する未来をイリはしっかりと見据えていた。

 

 

大海人皇子イリは、間人皇女を説得して、

 

「那珂津女王」として和王に即位させる準備を進めていた。

 

しかし、百済への援軍派兵や百済王の冊立など外交課題が山積している中、殯が終るのを待ってから即位させたのでは時間がかかりすぎる。

 

那珂大兄皇子が殯(喪主)の権をふるい百済に渡り殯の開始を長引かせている為、イリはそれを逆手に取って、和国の【称制】を間人皇女に用いて勅を発布した。

 

(称制※次期王が即位しないまま王に代わる政務をとること)

 

那珂大兄皇子は驚いた。

 

かつてはイリと共に孝徳王が難波王朝にありながら王を置き去りにして、大和で斉明女王を即位させたことがあったが、今度は自分が百済に置き去りにされた皇太子となっていることを悟った。

 

間人皇女の称制によって和王代行として勅まで発している以上、もはや実質的な時期和王は間人皇女である。

 

イリの前では『皇太子』の名分で殯を行う事だけで抗うのは愚かと思い直し、

 

10月になって、

 

「和国で殯を行う」と、

 

母の亡骸を持ち出していた那珂大兄皇子が百済での殯を諦めて和国へ戻ったため、

 

翌月より斉明女王の殯が行われた。

 

『殯』の期間は三年であり、三年後には間人の称制は終わり正式に女王となれば、イリはその夫、和国『王』の座につく。

 

 

 

イリは和国兵を連れて急ぎ高句麗へと向かった。

 

 

 

【唐軍蘇定方の出征は敗北に】

平壌城を包囲する唐軍に対し、高句麗軍は城門を固く閉じたまま討って出ようとはしなかった。

 

予め民を避難させたうえ唐軍が食糧調達が出来ぬ様に全て焼きつくす焦土作戦を展開して

 

「堅壁清野」の構えでこれを迎えていた。

 

 

 

しかし、戦を知らぬ部族長らは城の前に迫りくる唐軍をみて怯えてしまい、宝蔵王の養女スギョン姫と唐の皇族との婚姻を結んで、なんとか生き延びることは出来ぬかと和議の画策を始めた。

 

蘇定方率いる唐軍は平壌城の西南マウプ山に本陣をかまえ、1ヶ月間平壌を包囲したままである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

イリの命令は行き届いていて平壌城の守りは固く容易に落とすことができなかった為、唐軍にはたちまち食糧難が襲ってきた。

 

新羅には、唐軍の行軍監督をしていた金仁問王子が帰国し、新羅軍に高句麗攻めに参戦せよとの高宗皇帝の命を伝え新羅軍を出兵させた。

 

「金仁問はもはや唐の走狗だ。金仁問に反唐を疑われない程度に出兵するしかない」と、

 

仕方なく新羅王金法敏は出兵はしたが、父イリの城・平壌城と本気でぶつかる気はなかった。

 

金法敏は遅速行軍の計を用い、百済の残党と賊軍にも阻まれ思う様に進撃出来ずにいたが、唐軍の行軍監督となった金仁問の手前戦っただけで、全て自作自演の謀ごとであった。

 

 

百済にいる劉仁願、劉仁軌も、高句麗の唐軍へ兵糧と援軍を送るよう命じられている。

 

しかし、百済から唐軍を率いて援軍に向かった劉仁願は反唐軍の鬼室福信将軍によって撃破されてしまい、高句麗の唐軍への援軍は不可能になっていた。

 

 

高宗皇帝は百済の唐軍の不甲斐なさに

 

「劉仁顔が、百済から高句麗への兵糧輸送が出来ぬのなら、新羅に命じ百済サビ城の都督を交代させる」

とまで、言った。

 

10月、

 

高宗皇帝の使者が新羅に到着し高句麗へ兵糧を輸送するよう命令を伝えられると、ここへきてようやく金ユシンが挙兵し12月に高句麗国内へと入った。

 

しかし、まだ唐の高宗皇帝による新羅王・金法敏の正式な冊命を受けていた訳でもなく、命令だけを伝えてくる唐の使者に対し、当然新羅軍の動きは鈍い。

 

翌月になり、遂に高宗皇帝の使者は金法敏の新羅王を正式に冊命し兵糧輸送を命じた。

 

これで新羅王金法敏こと文武王の即位は国際的に認められたことになり、王位を簒奪をした暫定政権ではなくなった。イリの息子であり金一族の血をひく王がようやく表舞台に立ったのだ。

 

 

 

662年1月、

 

金ユシンらが蘇定方らに食糧を渡した時には、唐軍は飢で全滅しかけていた。

 

唐軍は新羅からの食糧援助を得て、飢えて全滅を免れたが彼らは戦うどころではなかった。

 

金ユシンは蘇定方と会談し、退却を促す。

 

実際、唐軍も食糧が届いた頃には飢え死にを待つほど疲弊していたのでかろうじて撤退する余力しかなかった。

 

 

この時、金ユシンは絹や金品を蘇定方に贈った。

 

「吾れらも無駄な戦いはしたくない。唐軍と共に戦うなど不可能であろう、、兵士は皆屍同然ではないか、、

その上、百済からの唐軍も鬼室福信に撃退され来れぬ」

 

「これでは吾ら新羅軍だけで高句麗と戦う様なもの、吾らは同盟国として唐と高句麗の戦いに援軍にきたのだ。新羅軍だけで高句麗と戦はせぬ!」

 

と、金ユシンは言い捨て帰国していった。

 

さすがに蘇定方も百済戦の時の様に、権威を振りかざし金ユシンを押さえつけようとはせず、

 

「まずは兵士らを回復させる。戦どころではない、、」

 

と、言い放った。

 

この時、支援物資だけでなく蘇定方が絹や金品を受け取ったことは、金ユシンからイリに伝えられ、イリは間諜を使って唐国内の「皇帝派」に知れるようにした。

 

この為、この戦いの後は蘇定方は極東の戦に用いられることはなくなった。

 

 

 

 

【唐軍撤退と和国 那珂津女王】

662年2月、

 

和国兵を連れ高句麗に戻ったイリは、唐軍との決戦に出る。

 

イリが「病気」と称して人々の前に姿を現さなかった間、平壌城の兵達は固く城門を閉ざし懸命に城を守り続けていたが、

 

忽然と現れたイリの姿に、誰もが驚き安堵した。

 

部族長達の中には、唐の王族との婚姻による和議の声を上げる者もいたが、百済陥落の時、降伏後に民や王族がどうなったかを考えれば、なんとしても守らなければならないとの思いを全兵士が強く持っていた。

 

百済のサビ城は唐軍に略奪され放題で、民は殺され女達は凌辱を逃れようと皆、身投げし、1万人を超える政府や王族は唐へ連行された。

 

首都陥落後の百済の話しを聞き、民の一人一人までもが必死に籠城戦に協力した。

 

そのいつ終わるとも分からない籠城に疲れていた城内の者達は、イリの元気な姿に希望を感じた。

 

イリは、平壌城を包囲していた唐軍を蛇水に誘き寄せ水計を図る作戦に出た。

 

平壌の蛇水の河口で、任雅相将軍率いる唐軍と戦い放水地点にまで唐軍を引き寄せて、

蛇水上流の農水道の堰を一斉に切り、唐軍を押し流して見事に壊滅させた。

 

 

蛇水の唐軍を率いていた任雅相将軍は生きのびたが、やがて軍中で卒した。

 

任雅相は将軍となってからは、

 

「官は大小となく、皆、国家の公器だ。どうして私意で使って良いものか」

 

と言って、親戚や昔の部下を従軍させるように上奏したことがなく、自分の知己のある者は皆、他へ移して代わりを授っていた。

 

これによって軍中は賞罰が公平であった為、皆服従し一丸となって運命を共にしていた。

 

任雅相将軍の必勝の意気込みも強く、13人の息子と決死の覚悟で戦闘に臨んだが全員戦死した。

 

貝水に布陣していた蘇定方は無事だったが、任雅相軍の壊滅により更に戦う余力は失われていた。

3月になり大雪が降った後、休戦の詔が下された為、蘇定方は疲弊した兵士たちを連れて撤退していった。

 

 

休戦というよりは、明らかな唐軍の敗北である。

 

 

イリの平壌の蛇水での唐軍撃退は、

 

ウルチムンドク将軍の隋軍壊滅、

 

ヤンマンチュン将軍の安市城戦

 

と並び高句麗の三大大勝利と称された。

 

イリは10年以上前、大化の改新の頃の唐高句麗戦に和国から援軍を送ったことがあったが、その時の和国軍捕虜をこの勝利で唐軍から取り戻した。

 

見事に高句麗を防衛をしたイリは、休む間もなく百済に駐留している唐軍を駆逐するため返す刀で南に向かった。

 

そしてイリは、和国と百済を結ぶ拠点となる周留城を押さえた。

 

これよって、新羅から百済内の唐軍へ援兵する道は断たれ、新羅からの唐軍への助けは絶望的となった。

しかし、これは唐新羅同盟に向けて表向きの戦わない理由であり、実際はイリと金ユシンの密約によって和国から百済に援軍を送り物資輸送する際には、逆に新羅から百済の周留城に抜ける糧道が確保された為、陸からの百済復興軍の援助が可能となった。

 

今やイリの権力は極大である。

 

新羅の文武王はイリの息子であり、イリ自身は高句麗の宰相であり、和国の大海人皇子として和国で権力を振るい三国を掌握している。

 

三国同盟というより、もはやイリの存在そのものが反唐同盟の様なものであった。

 

イリの実子法敏が新羅文武王として即位してからは、表面上は敵対国であっても裏では協力し、和国から新羅を通過して朝鮮半島に入ることも出来るようになった為、和国との往復がかなり楽になった。

 

古今東西、偉人と伝えられる者の多くは凡人には思いも寄らないほどの非凡な動きをしたが、イリの動きは群を抜いている。

 

 

イリは一度和国へ戻り、【扶余豊章】を百済王にするため百済に送り出した。

 

百済への帰国に際して扶余豊章は、イリ側の氏族である美濃尾張の多氏の姫を妻としてから百済へ向かった。

 

権力者イリの存在は唐国の野望が東アジアに向けられている限り、もはや和韓諸国の反唐にはなくてはならない存在となっていた。

 

しかし、高句麗でのイリの息子ヨンナムセンとヨンナムゴンの対立、百済では扶余豊璋と鬼室福信の対立、和国での那珂大兄皇子との対立があり、まだ磐石な体制とは言えない危うい状態だった。

 



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第19章【百済王】扶余豊章冊立

662年
大海人皇子は、間人皇女を次期「那珂津女王」として称制を敷き(王に即位しないまま政務を摂る)勅を取り百済の那珂津へ渡って、扶余豊章を百済王に冊立した。百済の熊津城に取り残されていた唐軍には撤退命令が届いたが守将の劉仁軌将軍は是を受けず、逆に百済側が油断しきっているのを見てとり急襲して鬼室福信軍を破った。

第1話 壮士は三箭で天山を定め漢関に入る
第2話 百済王【扶余豊章】冊立
第3話 鬼室福信将軍の敗北
第4話 暗愚の百済王豊章



【壮士は三箭で天山を定め漢関に入る】

 

662年2月、アジア北西

 

 

【挿絵表示】

 

 

西突厥の突厥九部族が唐に反旗を翻し十余万の兵で唐に迫ってきた。

 

西突厥は、最後まで唐に抵抗していたガロが征圧さればらばらになり表むきは唐に帰順していた。

 

九部族が連合して蜂起したのは、アジア北東の唐高句麗戦に呼応してのことである。

 

唐軍を叩くのは今こそと、西突厥勢の気焔は激しい。

 

唐のソル・イングイ将軍が軍を率いて是に対峙したところ、突厥の軍最強の豪傑ら精鋭兵士らが陣営より出で、唐軍に対し腕試しを挑んできた。

 

「誰でも良い!吾らが恐ろしくなければ唐軍最強の壮士を出してみよ!!」と脅し、

 

唐軍の勇者が出てくるのを待っている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

当然、弓矢の届く距離ではなかったが、ソル・イングイ将軍は、猛る彼らに対し無言で三矢を放って、立て続けに三人を射殺してみせた。

 

突厥軍九部族らは驚き息をのみ、一気に静まりかえる。

 

軍きっての猛者達が刃を交える間もなく瞬殺されたことにより、突厥軍の気焔は急速に萎えた。先ほどの強気が嘘のようである。

 

ソル・イングイ将軍は、すかさず戦意喪失した機を見ると、突厥軍に対し降伏するよう説得を始めた。

 

 

【挿絵表示】

ソル・イングイ将軍

 

「突厥軍は唐と高句麗の戦に呼応し兵を起こしたのだろうが、無謀な戦いは止め戟を納めよ!唐軍には吾の如き強弓の射手は山の如くいる。」

 

「唐国は、もはや遼東と平壌を分断し黄海を制し、戦艦で直に王都平壌城を攻め込む様になったのだ。同盟国が是ほど引き負けているのに、汝らは何故出ようとする!?今迄どおり皇帝陛下に従っておれば射殺された将軍らのように命を無駄にすることはない!」

 

西突厥の突厥九部族らはソル・イングイ将軍に利非を説かれるうちに、唐軍に逆らう非を受け入れて降伏した。

 

しかし、ソル・イングイ将軍は彼らを降伏させながらも尚、考えた。

 

「西の突厥は、またいつ叛くか分からぬ、、、」

 

後の患いとなることを憂慮して、突厥の降兵をことごとく穴埋めにしてしまった。

 

ソル・イングイ将軍は漢民族ではなく元は同じ遊牧民族の出自であった為、西突厥の突厥九部族らもソル・イングイ将軍にその後の身の処し方を見い出して従った者もいたが、彼らを全て騙し討ちしたかたちとなった。

 

結果的には、ソル・イングイ将軍が矢を三回射っただけで十余万の軍を全滅させたのだ。

 

唐に凱旋帰国するの軍中では、

 

「ソル・イングイ将軍は矢三箭で天山を定め、壮士は長歌して漢関に入る」

 

と、戦功が歌われていた。

 

 

【百済王 扶余豊章冊立】

西方での争乱はソル・イングイ将軍によって鎮められたが、高句麗戦で蘇定方らが完敗し撤退した後、百済の劉仁願、劉仁軌らは拠点を熊津城へ移して屯営したまま孤軍奮闘していた。

 

 

【挿絵表示】

唐軍守将「劉仁願」

 

 

【挿絵表示】

援軍指揮官「劉仁軌」

 

屯営、というより城に封じ込められている状況に変わりはなく、援軍を率いてきた劉仁軌により城周辺だけは蹴散らされたが、もはや敵国の百済の中に取り残されたような唐軍である。

 

 

662年5月、

 

唐軍を熊津城に封じ込めたまま、百済で王が立った。

 

 

【挿絵表示】

 

百済王 扶余豊章

 

 

 

イリは、那珂大兄皇子の妹の間人皇女を次期『那珂津女王』と呼び和国に称制を敷き、その間人皇女の称制(即位せず政務を執る)によって扶余豊章を百済王に冊立する『勅書』を出させた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

間人皇女(後の『那珂津女王』)

 

 

※王に即位しないまま政務を執ること

 

 

 

イリは代理となってその勅を携え、阿曇比羅夫ら側近を伴い170隻の船を率いて和国から百済周留城へ戻ってきた。

 

 

 

実は扶余豊章は一度は百済に渡ったものの、武王派の鬼室福信将軍と相容れずに再び和国へと逆戻りしていたのだが、今度はイリと勅による強力な後ろ盾で鬼室福信将軍を捻じ伏せる為に渡ってきた。

 

 

【挿絵表示】

鬼室福信

 

 

百済側にしてみれば、和国からの援軍は必要である。

 

しかし、和国が援軍を送り後ろ盾となる以上は和国が上国であり百済側は服属国であるという立場関係は鮮明にしておかなければならない。

 

その為の和国による百済王冊立であり、和国に馴染みの深い扶余豊章の擁立である。

 

 

イリと阿曇比羅夫ら和国の将は、扶余豊章を囲み威風堂々と宮中を渡り、大錦を纏い殿上する姿はいささかたりとも王の威厳を損なうものではない。

 

イリの怪偉な容貌から放たれる豪壮な気が辺りを包み、

 

 

その中心を行く扶余豊章でさえ

 

「昔日のウィジャ王か、、」と見粉うほどであり

 

百済側は皆、その偉容に圧倒された。

 

百済の王都サビ城を唐百済に奪われてかられて、約2年が経つ。

 

和国から携えてきた、眩いばかりの王家の調度品や神器、財宝のひとつひとつが、

 

「かつての王宮はこうだった」と、

 

 

忘れかけていた昔日の百済王家を思い出させられ、

 

ずっと戦いに明けくれていた百済人達の心を揺さぶった。

 

王都を奪われ疲弊している百済復興軍の出立ちの中では、こうした王宮の綺羅びやかさは無縁となっていた為、和国からの一行はより一層輝かしく映っていた。

 

イリが手にしている勅は純金製の札である。

 

 

【挿絵表示】

 

 

居並ぶ百済の諸士らをイリは眼光鋭い目で睥睨し、和国からの勅を読み上げた。

 

「、、此のこと、、扶余豊章に勅し、、

 

百済王たり、、、」

 

深く力のあるイリの声で、朗々と読み上げられる勅が響き渡るにつれ、居並ぶ諸士たちは皆、落涙しはじめた。

 

イリは読み終えると大きく眼を見開き

 

「慎んで受け賜れい!!」

 

と、大喝した。

 

もはや、ここに至って鬼室福信をはじめ百済側で異を唱える者はなく、

 

和国からの援軍と共にその冊立を皆喜んで受け入れた。

 

イリは次期「那珂津女王」の代理として、

 

ここで正式に扶余豊璋を

 

「百済王」に冊命した。

 

 

鬼室福信将軍には詔勅の書かれた金の札を賜り、その背中を撫ぜる。

 

百済の残党達は、百済に王が立ったことを喜び

 

皆この光景に、涙を流していた。

 

百済復興軍ではなく、王が立った以上百済軍である。

 

「今こそ劉仁軌、劉仁願ら唐賊を驅逐する時ぞ!」

 

百済王豊章は和国軍、百済軍の前で宣した。

 

 

今、扶余豊章を百済王に冊立し、そして和国には王を置かないまま間人皇女の称制で実権を握ったイリは那珂大兄王子の即位を徹底的なほど阻止していたが、那珂大兄皇子側である百済の鬼室福信将軍は表面上は扶余豊章と和合していたが、内心では王位から取り除く機会をまだ狙っていた。

 

一方、百済王となった豊章もまた、戦で鬼室福信が勝手に兵を動かしたことに怒り、これを咎めた為に二人の間には大きな亀裂が入っていて早くも百済は分裂の兆しが見えていた。

 

 

 

【鬼室福信将軍の敗北】

 

7月になり唐の高宗皇帝は、

 

成す術もなく取り残されたまま、百済の熊津城でずっと籠城している唐軍の劉仁願、劉仁軌らに対し撤退を下した。

 

 

【挿絵表示】

高宗皇帝

 

 

「平壌の唐軍は撤退した。百済の一城では弱い。将軍らは宜しく百済から撤退して新羅へ行け。もしも金法敏が卿等の力を借り留まって鎮守できるとゆうのなら、彼の元へ留まれ。だが、もしもそれができなければ海路から唐へ帰国せよ。」 と、

 

唐軍の撤退の敕書を送ってきた。

 

先行きがしれない封じ込めに疲れた唐軍の兵たちは、この撤退命令に

 

「やっと西へ帰れる」、、

 

と、誰もが安堵した。

 

だが、

 

劉仁軌は安堵する将校らに向かってこう言った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「臣が公家の利益の為に働くのだ。死ぬことはあっても二心を持って生きることはない!どうして帰りたいなどという私欲を先に持つことができようか!」

 

、、、

 

「皇帝陛下は高句麗を滅ぼしたがっておられるのだ。

 

だからこそ先に百済を誅し、吾らがここを守っている。

 

熊津城は敵兵に囲まれ敵の守りは固いが、

 

今は、兵を練り馬へ馬草をたっぷり与えておき、

 

不意討ちを掛ければ必ず勝てる。

 

勝った後にこそ士卒の心を安堵させるもので、西へ撤退するということではない!

 

今は、不意討ちをかけ反唐軍を突破して援軍を求めるのだ。

 

朝廷がこちらの突破の成功を知れば、必ず呼応して将へ援軍出陣を命じる。

 

そして、吾らは百済側が自ら瓦解する時を待つのだ。

 

是は、吾らの手柄とか成功の為だけのことではない!

 

久しく東アジアの海表を鎮めることなのだ。」

 

 

劉仁軌の大声に皆、鎮まりかえっている。

 

 

「平壌の唐軍は既に撤退した。今、吾らがいる百済の熊津まで撤退したら奴らはすぐにでも再興する。

 

そうならば、いつになったら高句麗を滅ぼせるのだ!

 

ましてや、吾らは一城で敵地のまっただ中に居る。

 

全軍撤退などできる状態ではない。下手に動いたらすぐに捕らえられてしまうぞ。

 

城をでてからそれを悔いても及ばないぞ。」

 

 

将校らに安堵の表情は失せ顔色を変えていた。

 

 

「しかし、! 百済の鬼室福信将軍は凶悖して残虐な将軍だ。百済王は鬼室福信将軍を猜疑し警戒している。必ずや両者はぶつかり近いうちに内乱は起こる。吾らはその時までここを堅守してその隙をつくのだ。

今は決して城から動いてはならない!!」

 

 

唐軍の将兵達は、西へ帰る私心を捨て覚悟を決めた。

 

丁度この後、

 

百済王豊章と鬼室福信将軍らは、撤退命令が来ても動けぬまま孤城無援でいる唐軍をからかい、熊津城にいる劉仁願に使者を派遣してきた。

 

 

【挿絵表示】

唐軍守将 劉仁願

 

百済王に立ち、和国援軍への期待もあり、二人共に勝気に傲っていた。

 

百済側の使者の口上は

 

「さて、大使等はいつ西へお帰りになられるのでしょうか?西へ帰る元気がないのなら、吾らがお送りして差し上げましょう。」

 

という、唐軍を嘲け笑ったものだった。

 

この嘲笑に、熊津城の将、劉仁願、劉仁軌らは怒りよりも喜びを見出だした。

 

「吾らは百済復興軍に包囲されて久しく新羅からの援軍も及ばぬ。是ほどまで奴らが蔑むのは、吾らにはもう戦意がないと油断しているからであろうな、、」と、

 

百済軍側が油断しきっていて大した備えがないことを見てとり、

 

劉仁軌らは突如出撃した。

 

熊津城の東に出て、鬼室福信軍を破り

 

支羅城、尹城を落とし、大山柵、沙井柵などを一気に抜いて百済軍を叩きのめした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

鬼室福信将軍は突然の唐軍の反撃に驚き、右往左往しながらろくに刃も合わせぬまま敗走した。

 

そして要害である眞見城に落ちのびて、そこを拠点として兵を増員して立て籠もった。

 

 

 

【挿絵表示】

鬼室福信

 

しかし、劉仁軌は迂闊に兵を動かすことはせずこれには固く対峙し、決して真正面から攻めようとはしなかった。

 

敵の志気が緩むのを待って、密かに新羅側から来た援兵を率いて深夜、城下へ潜入し城壁をよじ登り、明け方には城内に潜入して800人を斬首し眞見城を落とした。

 

これによって、遂に新羅から熊津への糧道が確保された。 

 

そして、唐本国へ援軍を求める急使が錦江より海を渡った。

 

劉仁軌の言葉どおり、この戦勝を唐国へ報告し援軍を奏願したところ、高宗皇帝は歓喜した。

 

すぐさま撤退命令を取り消し、シ、青、莱、海軍兵七千人を百済の熊津へ向け出兵させた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

【暗愚の百済王豊章】

百済王となったものの、扶余豊章は賢明な主君ではなく王としての資質に欠けていた。

 

 

【挿絵表示】

 

百済王 扶余豊章

 

 

 

何事もなく和国で安穏とした平和な日々をおくってきたため戦というものを全く知らない。

 

扶余豊章は、兵士と共に前線に立つ事など思いもよらず、王として傅かれ宮殿で勅令を下すだけの王制を思い浮かべてきていた。

 

それだけに篭城戦という緊迫した戦場での暮らしは到底耐えられるものではなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

『戦』に恐怖を感じていた。

 

また、和国に人質として送られたこと自体がそもそも百済国内での政争に敗れた結果であると、百済軍の将軍たちのなかにも扶余豊章に対する侮りもあり、扶余豊章自身にも引け目意識があった為に虚勢を張っていて、王位についた後の百済は巧く機能しなかった。

 

 

12月、

 

(ここは王都ではない、、)

 

扶余豊章は百済の王になれると思い和国から来たものの、待っていたのはいつ終わるとも分からない籠城暮らしだった。

 

百済王豊章は険峻な周留城を嫌って、あろう事か平坦で景色の良い避城への移動を望んだ。

 

「周留城は土地がやせているため、兵糧が尽きてしまう心配がある。避城は西北に川あり、東南には堤があり、田畑に囲まれ作物に恵まれている。三韓の中でも素晴らしい所だ。衣食の源があれば天地に近いところである。地形が低かろうが都を遷す。」

 

勝敗や戦局よりも、自分が周留城を離脱する事しか頭にない。

 

戦になれば、田畑は荒らされ衣食の源どころか焦土にもなりかねない。

 

戦時とは思えない非常識さに、黒歯常之や鬼室福信将軍は不快感をあらわにし、和国から援軍に来ていた軍事顧問の秦田来津将軍(秦河勝の子)は、

 

「避城は敵に近く、防ぐ城壁とてない平城。兵数に劣る百済軍には勝ち目がないことは明らか!今、百済軍の防衛拠点である周留城を離れ新羅に近い避城に遷るなど考えられません!」

 

と、猛反対した。

 

秦田来津は父・秦河勝が上宮法王に仕えた如く、上宮法王の血筋である那珂大兄皇子に仕えていた生粋の那珂大兄皇子派であった。

 

黒歯常之ら百済の将軍も反対したが、

 

鬼室福信将軍だけは、那珂大兄皇子派であったにも関わらず何故かそれらに同調しなかった。

 

鬼室福信将軍は自尊心が強い。

 

百済王豊章に

 

「勝手に兵を動かさざること」等と、

 

咎められた事が許せなかった。

 

自らが大将軍として統帥権を振るうため、百済王豊章に口出しなどさせぬか、いっそ口を封じるかというほど程の怒りを持っていた。

 

この男も勝敗よりも、兵権に対する自負心が強く我欲で動く。

 

その為、皆が反対するのを見てとり

 

(これは、扶余豊章が王として失脚する機会を得た)と、ほくそ笑み

 

わざと王を慮る態度をとって避城への移動を容認させたのだ。

 

気忙しく直情的ないかにも鬼室福信らしい浅慮だが、

 

それにより百済王豊章も俄然勢いづいてしまい、

 

避城への移動を強行してしまった。

 

防衛的な構造を持たせる思想の薄い避城へ遷った

結果、翌年早々に新羅側からの侵略を受けることとなり、百済王豊章は戦えずに慌てて周留城へ撤退したため、少なからぬ貴重な兵を失ってしまい王としての信頼は失墜することになる。

 

「短才浅慮、とうてい天下の兵権を握り四海を治るに堪えられぬ」と、

 

百済王への侮蔑は炎上した。

 

 

その頃、

 

唐では高句麗・百済討伐の詔が降りていた。

 

唐の高宗皇帝は、泰山で封禅の儀を行うことになっていたが、河北の民は軍役で疲れきっていたので、泰山への東都御幸は共に中止とした。

 

民の兵役も

 

「次の戦こそ終結する時」と、

 

一気に攻め落とし東方の騒乱を平定るすつもりでいる。

 

 

 




あとがき、、

662年の1年分を書くのに1年近くかかってしまいました、、
後、40年以上書く予定なのに、このペースでいくと寿命が尽きるまでに書き終えるだろうか(*_*)


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第20章 【白村江の戦い】Ⅰ 和国編

西暦663年

百済王豊章が周留城を出ると新羅が攻入り、熊津口周辺を制圧し二城を落とした。豊章は再び周留城へ逃げ込む。是に対して和国からは27000人の兵が、百済援軍として海を渡り熊津口にいた新羅軍を掃討した。鬼室福信は殺され、唐からは援軍40万が到着しいよいよ唐新羅軍 対 和国百済軍の決戦が始まる。

第1話 【新羅軍】百済侵攻
第2話 百済扶余豊章王 鬼室福信を殺する
第3話 和国の焦燥
    【那珂大兄皇子と大海人皇子】
第4話 白村江の戦い 緒戦


【新羅軍の百済侵攻】

663年2月、

 

百済王豊章らが、周留城を出ると新羅軍はすぐさま百済へと攻め込んできた。

 

守る城壁もない平城の僻城は、要塞というより御殿に等しい。

 

迫りくる新羅軍もよく見えたが、百済兵は持ち場につこうにも持ち場さえなかった。

 

僻城にいた百済王豊章は新羅軍の侵攻に驚き、ろくに鉾も交えぬまま逃げ出して、元いた周留城へ向かった。

 

当然、新羅軍は是を追撃し、

 

徹底的に百済軍に追い討ちをかけた。

 

百済の兵士は皆、先祖代々受け継いできた土地や家族を失い百済復興に望みを掛けて奮い立った者達だったが、

 

(周留城で堅く守っていたなら)、、

 

(なんと無意味な戦いをするのだ)と、

 

逃げ戦さに戸惑い

 

百済軍の士気は落ちてしまった。

 

しかし、撤退しながら新羅軍と戦うことは熾烈を極めて百済王豊章は、結果多くの兵を失った。

 

新羅軍との決戦というよりは、凡庸な王に翻弄されただけの戦と言ってもいい。

 

百済復興を望む者にとって、

 

どんな愚鈍な王であろうが百済に残された唯一の王である。

 

王に翻弄されようが、

 

無意味な戦をさせられようが、

 

他に替わりがいない。

 

 

【挿絵表示】

 

百済王扶余豊章

 

 

一方、新羅軍を率いた天存将軍は、百済へ侵攻し4城を落とした。

 

文武王の命令ではなく、新羅の王子で唐軍の軍監となった金仁問ら、唐からの要請による親唐派の将軍の攻撃である。

 

金ユシンの下では、彼らには未来がなかった。

 

皆、必ずしも金法敏の文武王を認めている訳ではなく、金一族の専横を喜ばぬ者らは親唐派となって、唐軍の官吏となった新羅王子・金仁問の意向で動いていた。

 

金ユシン・金法敏らはまだ唐に対して

「面従腹背」の建て前姿勢は崩しておらず、堂々と親唐派の動きに反対することができなかった為に彼らの動きは追認するしかなった。

 

 

新羅軍の天存将軍は熊津口を抑えて錦江一帯を制圧して劉仁願、劉仁軌らが籠城している熊津城の安全を確保し、百済軍に有利であった戦局を一気に覆した。

 

 

【挿絵表示】

 

【唐軍】劉仁願

 

 

【挿絵表示】

 

【唐軍】劉仁軌

 

熊津城に閉じ込められていた唐軍は、ようやく新羅軍と繋がり息を吹き返した。

 

この頃から百済軍では、指導部の鬼室福信将軍と百済王豊章に対する批判が沸きおこり、不信と不満が蔓延し始めた。

 

「唐軍が立て籠もる熊津城の包囲拠点まで新羅に落とされてしまったではないか!悪戯に周留城を離れ、吾らは戦を知らぬ王に振りまわされてるだけでは百済復興どころか犬死にするだけだ!」

 

と、心底から怒りを吹き上がらせていた。

 

「鬼室福信将軍とて戦を知らぬ訳ではないのに、王におもねり反対しなかったそうではないか!!王も信じられぬが、将軍も何を考えてるのか分からぬ!」

 

どちらかに従うことも、従わぬことも

百済兵達にとっては不満だったが、

 

鬼室福信と百済王豐章が対立し、互いに相手を警戒するようになって離れた為、従っていた兵たちも二つに割れてしまった。

 

 

和国にいた那珂大兄皇子は、

 

この敗戦を聞き、目眩を覚えるほどに衝撃を受けて悔しがっていた。

 

「吾の兵が、、吾が、百済の兵が失われていく。愚鈍な王に手足をもがれる思いぞ、、おのれ豊章め。大海人皇子の走狗となりて、そこまで吾の行く手を阻むのか。」

 

那珂大兄皇子はまだ百済王への執着は捨てず、必ず隙きを見つけ王位についてやるとの意気込みが強い。

 

この度の敗戦も大海人皇子の密命を受けた扶余豊章が、意図的に引き起こしたと決めつけたうえ風靡を広げた。

 

「将来の禍根を断たんとし、新羅と裏で繋がって未来の吾の兵力を削ぎ落としているのだ!」

 

自分が謀りごとを企めば、相手も何かしらにつけて謀ってる様にしか見えなくなる。

、、那珂大兄皇子は鬼室福信将軍と謀り扶余豐章を取り除こうとしていた。

 

 

 

 

百済王豊章の僻城敗走後、

 

翌3月、

 

和国から水軍27000人が百済救援へ向かった。

 

【前軍】上毛野将軍、

【中軍】巨勢将軍、

【後軍】阿部比羅夫将軍が、

 

和国軍を率いて、百済の江一帯を制圧していた新羅軍へと向かうことになった。

 

将軍らは阿部比羅夫を除き、後にイリ(天武天皇)の朝臣となるイリ小飼の将軍達である。

 

イリは、高句麗の遺事を思い起こしていた。

 

出兵前の阿部比羅夫を前にして、

 

尋六尺もあろうかという大きな羊皮紙に描いた朝鮮半島と日本列島の地図を眺めながら、如何にして漁夫の利を得るかを考えている。

 

イリの生まれる少し前から和国でも紙が作られ始めたが、特大の羊皮紙は以前イリが西アジアより設えたもので、紙と違い竹箆で消し書き直しが出来るので戦略を錬る時はいつも使っていた。

 

半島と列島の地図は歪な箇所もあるものの、ほぼそのかたちのままに羊皮紙上に納まっていた。

 

 

高句麗の建国間もない頃のこと、

 

中国の王朝であった『漢』は、朝鮮半島の大国『朝鮮』(衛氏)を滅ぼした後、『楽浪郡』『帯方郡』など郡部を設置して朝鮮半島への植民地支配は100年以上続いていた。

 

紀元1世紀、楽浪郡太守の圧政に耐えかねた古朝鮮の民は反乱を起こし、漢の太守劉を討って漢の支配から独立したが、この時、勝利に導いたのは催将軍と王将軍という二人の将軍だった。

 

高句麗は楽浪郡の独立を裏から支援していたが、独立後はこの二人の離間策を用い、将軍が互いに警戒し合う様になると強気で直情的な王将軍が一気に王位につこうとした為、暗殺されてしまった。

 

そして催将軍が王位につくと後継者の内訌が起き、西暦37年に高句麗は楽浪国を攻めて支配下に置いた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

高句麗は楽浪を足場に次々と領土を広げていきはしたが、7年後に楽浪は漢に奪回されてしまい再び『楽浪郡』が設置された。

 

三国志の時代まで楽浪郡は残っていたが、高句麗と接していた魏国は、魏の宰相司馬懿に滅ぼされ『普』が起こり、楽浪郡のある北東部で勢力を保っていた公孫氏も滅び、普も滅んでしまうと、楽浪は高句麗の領土となった。

 

以来、三韓(朝鮮半島)がここまで中国王朝の侵攻を許したことはない。

 

イリが今、地図上に見ているのは、

 

楽浪郡を百済になぞらえて、如何にその地を手に入れるかを考えている。

 

漢軍・唐軍・魏軍、

 

何れにしろ一国だけの争いでなく

 

例えば司馬懿・公孫氏などの輩の有象無象がある限り、機略を用い

 

漁夫の利で「百済」の地を得る国は、まず新羅であるかと考えている。

 

唐国には、劉仁願や郭ムソウという者など忠誠心より独立心の強い野心家がいて、かつての公孫氏の様に東アジアの利権を狙っている。皆、腹わたに何事かを持って居る輩だ。

 

 

中国王朝の内部はいつも政争が絶えず落ち着いたことがない。

 

魏国の魏帝と司馬懿の対立の様に、

 

唐国内にも皇帝派、皇后派の根深い対立があった。

 

強大な唐軍と直接ぶつかれば、勝ち目は薄いが、

 

唐が自ら国内部の政争で弱まるか、

 

唐の周辺国との戦いで弱まるか、、

 

イリは時を待てば、必ずしや唐賊を東アジアから駆逐する日が来ると信じていた。

 

自分以外の誰かが唐軍と戦い、彼の地を奪い合い、唐が分裂するか疲弊したところで最終的にこちらが詰めの手を出せればよい。

 

太宗皇帝の頃に比べれば、唐軍は兵力もそうだが、遠征力も落ちてきている。

 

(吾の命が尽きる前にそれが叶うか、、)

 

唐軍が東アジア征服の野望で動き始めた今、反唐のイリの影響力は半島・列島で最も強い。

 

和 国 間人(那珂津女王)イリの妻

百 済 扶余豊章王 イリの傀儡

新 羅 文武王 イリの実子

高句麗 宝蔵王 イリの義父

 

四ヵ国の王は皆イリに近しく、イリの声を響かせれば四ヵ国の反唐の軍を動かせる立場にいる。

が、時勢はその様には成熟していない。

 

イリは命が続く限り大業を成さんという大望を持ち続けたが、結果的にはそれはイリの息子達がそれを果たすことになっていった。

 

唐軍が高句麗を滅ぼした後、

 

イリの隠し子で仲象将軍(テ・ジュンサン)に預けていたテ・ジョヨンは唐軍を打ち払い朝鮮半島の北部に『渤海国』を建国し、

 

唐軍と百済が戦った後に、イリの実子である新羅文武王は百済の地を奪い朝鮮半島は全て『新羅』となり、

 

和国はイリが天武天皇となった後もイリの皇統は継がれ、中臣鎌足に預けていた隠し子の藤原不比等は貴族社会の魁となり、

 

一時代は、イリの息子達が東アジアの国々を手中に治めて『兄弟国』として列した。

 

この時代より、朝鮮半島と日本列島は今までの様に中国支配側の強い影響を受けることがなくなり、独自の歴史を歩む強国となって、独自の文化を生み出していった。

 

 

 

「百済領を、、唐軍と奪い合ってる様なものだ。」

 

出兵前の義兄弟・阿部比羅夫に向かって、

 

イリが漏らした。

 

まるで百済復興など、頭に無いような物言いをする。

 

和国軍は新羅軍とはまともに当たらず、戦う真似だけすれば良いと、密命しながら

 

阿部比羅夫には、驚くべき企図を伝えた。

 

「百済と唐軍が戦い、互いに弱りきったところで息子の文武王金法敏に刈り取らせる事もあるやもしれぬ。和国兵は新羅と戦うふりだけで良い。そうでもしなければ、新羅さえも危うくなるぞ。兵士たちはそれに備えて温存せねばならない。」

 

「唐軍に当たるにも多勢に無勢、勝ち目は薄い戦だ。どうかそれを踏まえた上で和国兵の後軍を率いて欲しい、、

 

吾らにとって真の前軍とは、、

 

ヨン・ナムセン率いる『高句麗』軍であり、

中軍は文武王率いる『新羅』軍、

後軍はお主が率いる『和国』軍だからな。」

 

 

(されば、百済はどうなる!?)

 

 

阿部比羅夫は、聞き返すことを躊躇った。

 

イリの「百済は捨て石としか考えてない」

 

という声を聞きたくなかった訳でなく、

 

(それでどうして危険な戦地に赴くことが出来るか、、)

 

その覚悟がまだ決められずにいただけだ。弱気になっていた訳ではないが、

 

いつもの豪壮な気配はなく、泣き止んだ子供がしゅんとおとなしく無口になるように、表情も変えずただ静かに空を見つめ黙り続けていた。

 

 

イリ(ヨンゲソムン)には、誰にも言っていない秘策があった。

 

 

高句麗の楊満春将軍、

和国の阿部比羅夫、

百済王の扶余豐章にも勿論、誰にも明かしていない。

 

新羅の金ユシンと息子の文武王とだけ交わしている密約だった。

 

 

新羅が、いつ反唐に転じるかということである。

 

表向きは唐は新羅と同盟しながら、新羅を領有する野心があり、新羅もまたいつ反旗を翻すかの機会を伺ってかかっていた。

 

 

一度旗幟を鮮明にしてしまったら二度と後戻りはできないが故に、決して不利な状況で反旗を翻すことはできない。

 

何れは唐軍と戦わざるを得ないが、有利な状況があれば、なんとしても機会を逃すわけにはいかない。

 

 

この度の戦はその見極めの機会だった。

 

中国の戦国時代、秦に抵抗する六国が合従連衡して一斉に戦ったように、和国、百済、高句麗、そして新羅、四国が一斉に唐軍と戦う機会は今をおいてない。

 

一国だけで戦えば、一国づつ徹底的に撃破される。

 

四国一斉の総力戦で唐軍を撃退する最後の機会かもしれず、状況によっては新羅の金ユシンと文武王は唐軍営内部で反乱を起こす事になっている。

 

 

和国では兼ねてから

秦田来津(秦河勝の子)の差配により1000隻の造船が進められてきた。

 

 

先に170隻の船で援軍が派兵されていたが

 

その後、800隻の船が27000人の兵を乗せ

 

阿部比羅夫らが率い一斉に百済へと向かった。

 

27000人の和国兵士とともに密かに半島に渡ったイリは、このまま高句麗へいき急ぎ高句麗軍を出兵させる予定だった。

 

 

 

 

和国軍は上陸後、

 

あっという間に新羅軍を蹴散らすと、

 

返す刀で百済の石城付近一帯を掃討した。

 

しかしこれはイリが、息子である新羅の文武王金法敏と示し合わせての戦だった。

 

イリはあらかじめ法敏に密使を送り

 

「是より和国から大軍を送る。真っ向から勝負に出ず大軍に驚き撤退せよ。唐軍を守る為に和国軍とぶつかり新羅兵を失うな」と、

 

指令を伝えていた。

 

文武王金法敏は、

 

新羅軍の天存将軍が落とした砦や城に将軍と援軍を送り駐屯させた。

 

 

 

【挿絵表示】

【文武王】金法敏

 

 

皆、金ユシン子飼いの将軍らである。

 

「吾ら新羅軍はあくまでも唐軍の援軍。和国軍がいたれば直接当たらず、必ず兵を引き是を温存せよ。唐軍と百済軍が決戦せぬ前から、新羅軍は自ら和国軍と戦うことはない。その様なことは許さぬ!新羅軍は唐の家来でも子分でもない!!」

 

出兵前に、老将金ユシン大将軍は将軍らを大喝した。

 

「吾が主たる軍旗を掲げねば唐軍に侮られるだけだ。死に場所は自ら選ぶ新羅軍の誇りを失うな!和国軍との戦いは吾らの死に場所ではない。本物の敵に向かう時こそ命を燃やし尽くせ!!」

 

皆、将軍らは金ユシンの言葉を肝に命じていた。

『本当の敵』が唐であることも、心に落としこみ

 

 

【挿絵表示】

金ユシン

 

和国軍27000が上陸してくると、新羅の将軍らは金ユシンの命令どおり兵の損失を抑えすぐに撤退したので、他の新羅兵や将軍も留まって戦うことはせずに撤退した為、和国軍はやすやすと錦江一帯を手に入れる事ができた。

 

そして、和国郡は返す刀で高句麗の扶余城から近い布石となる拠点を唐軍から取り戻し、高句麗から百済への兵站を開いた。

 

イリこと大海人皇子は、

 

(時は今!)と、

 

開いたばかりの兵站を急ぎ高句麗へ馬を走らせる。

 

走りながら目の前の光景を焼き付け、直ぐにもこの道を自分が高句麗軍を率いて引き返す姿を描いてる。

 

まもなく高句麗の国境を超えれば、

 

イリ(大海人皇子)から

 

イリ(ヨン・ゲソムン閣下)へと変わる。

 

イリのみならず

古来、偉人英雄は誰よりもよく動いた。

 

この壮は、年少の頃より山野紅海に出るのを好み

長じて千里の馬を馳せた。航海術、遁甲術を能く極めて、この時代には追従する者が無いほどによく動いた。

 

過去であれば、上宮法王、ヤマトタケル、

未来であれば、ジンギスカーンにも遜色がない。

 

イリの身に過ぎていく時間の密度は誰よりも濃く、とても常人の及ぶものではなかった。

 

類い稀な才能を持ち尚も努力家だが、唯一才能に欠くことと言えば、宮殿で傅かれ栄耀栄華に浸る才能を持ち合わせていなかった。じっとして居ることが出来ない。

 

「あれは壮(オトコ)の有り様ではない」

 

欲が無い訳ではない。

 

豪奢な暮らしが嫌いな訳でもない。

 

贅沢に溺れ、大望を腐らせ時間を浪費しているのが勿体無いなく、宮殿という世界がイリには狭く感じた。

 

 

 

 

【扶余豊章王 鬼室福信将軍を誅す】

 

和国軍の勝利は、

 

裏で新羅との密約があったとはいえ、兵たちの士気は上がった。

 

これにより万が一の場合、戦局によっては扶余城の高句麗軍と石城の和国軍・百済軍とで唐軍を挟み打ちが可能となった。

 

しかし、百済軍の鬼室福信将軍は新羅軍の侵攻と撤退があまりにも早かった為、扶余豊章王が裏で新羅と繋がっているのではないかと猜疑心を持ち、身の危険を感じた扶余豊章王は、鬼室福信将軍と同じ城にいる事が出来なくなってしまった。

 

 

663年4月、

 

唐は新羅を鶏林大都督府とし、新羅文武王こと金法敏を都督に任じ決戦の構えに出た。

 

そして、5月には唐から孫仁師将軍が170隻の大型戦艦で40万の兵を率いて百済の西岸にある徳物島に到着した。

 

 

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「吾らは此処で時を待つ。百済の扶余豊章は暗愚にして鬼室福信将軍は暴虐!今に百済軍は瓦解する。その時こそ、行手を阻むものは全て殺せ!」

 

 

徳物島に着いた孫仁師将軍は直ぐに攻めこむことはせずに、徳物島で一度兵を休めた。

 

離間策を謀るのは唐軍の常套手段であり、その間

鬼室福信と扶余豊章王の不和につけ入り分裂を図っている。

 

 

唐新羅軍と百済和国軍との対決が風雲急を告げ、和国軍からは急使犬上君が高句麗へと向かった。

 

高句麗に唐軍来襲を伝えた犬上君は、

帰途、百済の石城にいた扶余豊章王のもとにも立ち寄り拝謁すると鬼室福信の不義を耳にした。

 

この頃は和国から来た援軍が、侵入してきていた新羅軍を掃討し錦江一帯を占領していた為、扶余豊章王は石城へ入っていた。

 

百済王とはいえ人生の大半を和国で生きてきた扶余豊章王にとっては、知らぬ百済の者達より和国軍の犬上君の方が気を許せる相手であり、

 

「朕は鬼室福信将軍に敗戦のことで不信感を抱かれておる。叛く兆しがありその前に誅殺せねばな、、」

 

と、つい本音を漏らす。

 

 

「鬼室福信将軍は、朕が和国にいるイリと繋がっていて新羅軍との戦は示し合わせての戦いで

 

『王は百済を裏切っている!』

 

などと言触らしてるそうだ。和国で那珂大兄皇子を抑えこんでるイリと朕を目の仇にし妄執にとらわれている。

 

今は短慮で暴虐の将軍をのぞかねばこの命も危うい、、」

 

 

 

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百済王扶余豊章

 

 

 

犬上君は言葉を失い、

 

暗たんたる思いで石城を後にした。

 

(かように百済軍が二つに割れていたら和国軍はどう戦えばいいのだ、、百済王こそ短慮を起こさねば良いが、、、)

 

 

一方、周留城では、鬼室福信将軍が専横を振るい、百済王豊の暗殺を謀っていた。福信は病気と称して部屋に伏し、扶余豊章王が見舞いにくるのを待ってこれを殺そうと思っていた。

 

しかし、扶余豊章王はこれを察知して、見舞いに行くとしながら兵を率いて襲撃し、

 

逆に鬼室福信を殺してしまった。

 

扶余豊章王が事前に是を知ったのは、警戒していたからこそ方方から情報を集めていたからだが、その情報を掴み扶余豊章に流したのは元は唐軍の間者だった。

 

扶余豐章は和国で暮らしていた頃から、常に身を低くし周りに気を配り、間諜を放って保身に生きていた。

 

唐軍も「百済軍いずれ瓦解する」と、扶余豊章王と鬼室福信の不仲を見抜き、密偵を多数送り込み二人の対立を注視してきて、

 

二人が瓦解した時こそ攻め入るつもりだった。

 

 

扶余豐章の間諜を放つ慎重さに、逆に唐軍がつけこみ唐軍は扶余豐章の間諜に意図的に情報を流し続け操作していた。

 

戦闘力の高い鬼室福信を取り除き、気の弱い扶余豊章王が残れば百済軍はとるに足らない。

 

唐の仕組んだ通りに事が運び、唐軍はいよいよ上陸戦の準備に入った。

 

扶余豊章王も、鬼室福信を討った後で不安になり、高句麗、和国へ使者を派遣し更に唐兵を拒む為の援軍を請うた。

 

 

犬上君の懸念どうり、決戦を前についには鬼室福信将軍が扶余豊璋王によって処刑される結果となってしまった。

 

 

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【和国の焦燥 那珂大兄皇子と大海人皇子】

 

那珂大兄皇子は気が気でなかった、、

 

扶余豊章王が鬼室福信将軍を殺めたと言う報告を聞き、居ても立ってもいられない衝動に駆られていた。

 

 

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「除かれるのは扶余豊章の方ではなかったのか!何故、鬼室福信がやられねばならない!!」

 

「吾はいつになったら王になれるのだ!」

 

近いうちに、武王派の鬼室福信将軍が扶余豊章を除いて、武王の皇子である自分のことを百済から迎えに来るはずだと、心から強くそう信じていた。

 

そして、百済の王となり父武王の無念を晴らすことは那珂大兄皇子の悲願である。

 

そのため和国からの援軍27000人を集めるのに、那珂大兄皇子も尽力した。

 

全ては自分が百済王となるために、、。

 

互いの企みは別にして百済派兵に関してだけは、

 

イリ・大海人皇子と那珂大兄皇子の利害は一致していた。

 

これ程に、二人の利害関係が一致したのは大化の改新以来である。

 

王位に対して二人は真っ向から対立していたが、百済派兵に関しては完全に一致し互いに協力し合った。

 

和国では、大海人皇子が次期【那珂津女王】間人皇女の称制を布き実権を握り当たらざる勢いとなってきた為、

 

那珂大兄皇子は次々と亡命百済人達を取り込み周りを固めこれに対抗していた。

 

戦を知らない和国の者たちは次々と和国へと亡命してくる百済人たちを見るにつれ、明日は我が身と次第に不安に陥り出したので、

 

那珂大兄皇子は、全ての亡命百済人達を使い暴虐の魔王の如くサビ城を蹂躪した唐軍の恐ろしさを伝えていき、徴兵の必要性を説いた。

 

この甲斐もあり反対の声は小さくなり、27000人という兵を集めることができた。

 

中央では那珂大兄皇子も必死に動いたが、

 

地方では役行者も活躍していた。

 

役民を使役する為、役小角、或いは役行者とまで云われた大化の改心の執行人は、日本各地で修験道を開山しながら呪法で人々を恐れさせた上、大和朝廷の威光によってより多く民を集めてきた。

 

イリも民の徴集の為に、役行者の開山を容認していた為、各地で「役行者来たる」と畏怖されていた。

 

小角は役行者と言われるだけあり民を惑わすための術をいくつか持っていた。

 

呪い妖かしの類いたが、

 

催眠は集団であるほどかかりやすい。

 

脱感作のようなごく簡単な催眠でも、人々を集団催眠に導き不安心理を巧みに操ったため、役行者は他の役民を使役する管吏に比べてより多くの民衆を容易に動かすことができた。

 

修験道の開祖である役行者は、全国各地を回り民衆を徴用すると同時に、霊場を開山させていったので、新しい神々達の存在に民衆は畏怖し服した。

 

当初、民の多くは百済に渡る造船の労役の為の【役民】として連れて来られたが造船後にそのまま【兵役】に着かされた者も多くいた。

 

この様なことで、兵役に駆り出された民の大部分は剣を持ったことも無い農民たちであり、軍とは言い難い程の烏合の衆である。

 

見たこともない国へ、遠い異国の兵と戦いに行く和国兵の士気は低かった。

 

そしてこの、

27000人は、ほとんどが生きて和国へ帰ってくることはできなかった。

 

 

イリこと大海人皇子も焦りはあった。

 

百済の戦いはそう長くは持たないだろうと思っていた。

 

唐軍40万に対し、和国軍27000人と、既に多くの兵を失ってしまった百済軍を合わせても4万5千程度、10倍の兵力差で迎え撃たなければならない戦いで、勝利は絶望的である。

 

「どれほど食い止めることが出来るか、、」

 

唐軍が百済を抜き、新羅と高句麗にまで侵攻して来る前に、イリはなんとしても和国王の座について和国を不動のものにしなければならない。

 

亡命百済人を取り込み勢力を伸ばして来る那珂大兄皇子と睨み合いを続けながら、間人皇女の即位の準備を進めている最中であり、目下のところは増え続ける百済人の扱いに頭を痛めていた。

 

百済に介入し属国としている以上、百済からの亡命者を受け入れてはいた。 

 

百済人の知識や技術は、和国にとって必要でもあり排除する事は考えになかったが、そのまま那珂大兄皇子側につかれても困る。

 

那珂大兄皇子は、

 

亡命百済人の力を味方に、和国の王位奪還を目論見

 

「吾が間人を退け即位したあかつきには、、」

 

などと相変わらず空手形での出世を約束している。

 

しかし、亡命百済人らは和国に領地や権力を持たない新参者でありこれが空手形であってもすがるしかなかった、、

 

対するイリとしては、それなりに彼らに地位を与えて那珂大兄皇子に与することが無いように手を打たなければならなかった。

 

百済人を帰化させ朝廷に帰属させるに当たっては、現在の冠位を更に増やすことで力を細分化し、朝廷内での力を削ごうと考え、大急ぎで冠位の再編を検討していた。

 

 

難波、摂津(大阪)に百済人村を造り、亡命百済人達はそこに集められていたが、イリの命令で冠位制度を勘案している中臣鎌足ら文臣は亡命百済人らの中核者を何人か連れだしては軟禁し、昼夜を問わず百済人の氏素性や人となりを問い、配置を検討した。

 

那珂大兄皇子の空手形と違い、権力者イリの差配は目の前の現実である為、百済人らも協力せざるを得なかった。

 

イリは、間人皇女を文字どおり抱き込み囲いこみをしていた為、

 

間人皇女の称制ではまるで垂簾政治の如く、間人の事実上の伴侶であるイリが代わって政務をとり実権はイリが手中にしていた。

 

さながら和国宰相のようである。

 

※称制(王に即位せずに政務を摂ること)

※垂簾政治(王に代わって皇后が政務をとること)

 

来年正月には間人皇女の即位式を行い、正式に那珂津女王として冠位の改変を発布させる予定でいた。

 

『甲子の宣』という。

 

そして女王の夫、即ち『王』となるつもりでいた。

 

 

イリは既に間人皇女への妻問いをしている。(ヨバヒ)

 

遁甲術を極めたイリは、いかなる城でも宮でも出入りし閨房に入る。

 

15、16歳になれば夫を持ち子供を産む時代であり、間人皇女も既に20歳を過ぎていて子供を産んでみたいという気持ちを持っていた。

 

そして、夫となる壮(おとこ)は強い壮が良いと思っていた。ときめきというものがある訳ではなかったが、

 

 

女性にとって、壮とは常に頼みがいのある存在でなければならない。

 

父・武王が殺され、自分は島流しになり和国まで逃げてきた事を考えれば、

殊更にそう感じていた。

 

『王族』という貴種としての血統が、

 

何の強さも持たずに流されてしまう人生ならば、出来れば強い男を夫とし貴種としての人生の役割を全うしていきたい。

 

イリが良いという訳ではなく、

 

間人皇女を女王に擁立できる程の男は、広い天下にイリしかおらず、

 

イリの妻問は強引で半ば暴力的なものであったが、心から拒もうとはしなかった。

 

 

間人皇女は飾りでしかなく、イリの言いなりだったが、自分が女王になることに何の迷いもなく全てを委ねていた訳ではない。

 

母・斉明女王が殺されたことは深い傷あとを残していた。

 

このまま和国女王に即位し、イリを夫に迎え『王』としてしまうのか、

 

母・斉明女王の様に死を賭してイリの要求を拒むのか、

 

是非もなく翻弄される運命を生き続けてきた間人の心中にも、それなりに葛藤はあった。

 

 

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百済に赴く義兄弟・阿部比羅夫に対してイリは、

 

「間もなく吾が和国王となる。されば、お前を和国の大将軍にする、無理な戦はせず必ず生きて戻れ」

 

と、含みおきをしていた。

 

 

阿部比羅夫は、イリの片腕として和国で反唐派として活躍してきたが、唐にいた父・高向玄里が見殺しされた事は心中に影を落としていた。

 

しかし、父高向玄里が唐の手先となる為に、阿部比羅夫ら兄弟達は臣籍降下までさせられた。

 

その挙げ句に唐に殺された訳だ。

 

これは、父自身が自ら招いた不幸と心に言い聞かせつつも、唐軍を討ち仇討ちをするとの戦意にかえて決戦に赴くつもりでいた。

 

「吾らは10倍の兵力の唐軍と戦うのだ、、決死の覚悟がなければ赴けん。生きて戻れとなどと言われたところでのう、、敵うものか。」

 

 

(生きて帰ることなど考えまい、、)

 

阿部比羅夫はイリの言葉も耳に入らず、

 

父を殺した唐も許せぬが、父を見殺しにしたイリの下で生きていく自分がどこかで許せず、

 

そうと気づかぬまま心底には死に場所を求めるような思いがあったかもしれない。

 

 

 

 

 

【白村江の戦い】

 

6月、唐軍にも扶余豊章王が鬼室福信将軍を殺したという事が伝わり、いよいよ時はいたれりと最終決戦に出るための軍議に入った。

 

新羅からは文武王が兵を率いて唐軍と合流する。

 

唐軍には百済陥落の時に、唐へと降った百済王子隆が案内役として参軍していた。

 

唐陣営の諸将と隆王子は、加林城が水陸の要衝なのでまずこれを攻めるよう進言したが、熊津城の守将劉仁軌将軍は断固として反対した、

「加林は険固であり、攻め入ればこちらの被害も大きい。急攻したら兵達は無傷ではいられないだろうし、かと言ってゆっくり攻めていたら持久戦に持ち込まれる。

 

それよりも周留城は敵の本拠地で群凶が集まっている。敵を除くには元から絶つべきで、余計な戦いはせずとも一気に周留城を落とせば、他の諸城は自ら下る!」

 

 

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劉仁軌

 

近くの加林城から攻め入るという意見が多かったが、諸将は劉仁軌の案に命を預け敵の根源である周留城から攻める事になった。

 

8月13日、40万の唐軍は陸軍と水軍二つに分かれ、

 

水軍は、百済王子隆を水先案内とし劉仁軌が率い牙山湾の白村江へ向かい

 

陸軍は、援軍総大将の孫仁師将軍と、守将劉仁願が率いて、新羅文武王と共に陸路から直接周留城へ進軍した。

 

27日、

唐水軍が百済陥落戦の時に蘇定方将軍が上陸した白村江のある牙山湾に入ると、出合い頭に和国水軍と遭遇した。

 

 

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唐水軍は、先行した陸軍に護衛させて上陸し共に周留城へ向かう予定であった。

 

しかし、和国軍側もそれを予測し是を阻止する為のに先に待ち構えていたのだ。

 

この兵は、27000の援軍兵とは別に先発部隊として急行してきていた盧原将軍の水軍で、両水軍はぶつかったが、初戦は唐軍が固く守り和国軍は撤退した。

 

 

翌28日になり和国水軍の本軍が到着する。

 

 

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ここで唐軍と和国軍との本格的な戦が始まった。

 

和国軍は三輪将軍率いる中軍が先制攻撃を仕掛けたが、唐軍は左右に船を回してこれを挟み撃ちにし撃破した。

 

 

和国の水軍は、河江の戦に向けて小回りの効く小型の戦船だったが、唐軍の船は黄海を渡る巨大船であり和船は全く太刀打ちできなかった。

 

旋回戦は船体の長い唐軍に有利に働いた。

 

大きく旋回し一度船の横腹を向けられると、周り込んで回避するまでに時間が掛かり矢の雨を浴びせられてしまう。

 

中軍だけだと艦数は少なく、唐船は挟み撃ちにすることが出来た為、

 

和国水軍は個々に撃破されていくことを懸念し、一斉攻撃に転じるため、今一度、船を引いた。

 

 

 

一方、陸路より唐新羅連合軍は周留城へ向かったが

8月17日に、早くも周留城に到着した。

 

扶余豊章王が和国からの援軍に応え百済騎兵を岸上へ布陣させて、白沙に停泊していた和国水軍を守らせていたところで、

 

唐陸軍はこれと遭遇したが、新羅軍の文武王は和国水軍の護衛についていた百済騎兵だけを蹴散らして、和国水軍と矛を交えることはなかった。

 

その後、

 

唐陸軍と新羅軍は周留城を包囲し、両軍は暫く対峙し続けていた。

 

 

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第21章 【白村江の戦い】Ⅱ 百済編

西暦663年
和国水軍と唐軍水軍は遭遇し戦になり、四度戦った。圧倒的な戦力差の中、和国水軍は唐軍水軍を足止めする。しかし、和国水軍の奮戦を他所に百済扶余豐章王は既に高句麗へ逃亡していた。
和国水軍は和国へ戻るため、唐船団の重厚な包囲に立ち向う。個々に1隻づつ撃破されぬ様、全軍で一斉に突撃する『敵中突破』による撤退を敢行した。

第1話 白村江の戦い 潮待ち刻
第2話 白村江の戦い 扶余豐章王の逃亡
第3話 那珂津女王即位の難
第4話 白村江の戦い 和国軍玉砕戦


【白村江の戦い 潮待ち刻】

 

和国水軍は唐軍に敗れ一度船を引き、白村江の入江に船を並べていた。

 

唐水軍はさすがに巨大船団だけあり、喫水線の低い和国船団を迂闊に追いかけたりはしない。

 

下手に、岩根(岩礁)に船底を当てたり、浅瀬に座礁したりすれば取り返しがつかない事になる。

湾内へ入れば、海底の丘陵も高低差があり浅堆もある。

潮の干満水量も河川の水量も激しく、水底の地形に表情を削り、安易に進むには危険な水域だ。

 

水軍を率いてる劉仁軌は、先の戦で船を沈没させてしまい罰せられた為、この度は白衣を着て出征したほど命をかけてきている。

船は何があっても守らなければならず、慎重に慎重を重ねていた。

 

和国水軍は、蘇定方が百済を陥落させた時にギポルポから上陸したことを考え、上陸を阻む為の兵船配置をすることになっていた。

唐水軍が潮待ち風待ちをしている間に、喫水線の深い大船が接岸できない浅い入江に船を並べて編隊を整えていた。

 

 

海将【安曇比羅夫】は、百五十人が乗組む遣唐使船級の大型旗艦に指揮官として乗船していた。

 

安曇の船は、蝦夷族ら粛真が多い。

 

安曇氏は海神族である安曇磯良を祖神とする海の部族で、駐百済大使を務めていた安曇比羅夫は玄界灘を超え対馬海峡を何度も渡ってきた。

 

この為、大将軍ではないが大船の指揮を担っている。(灘=とは航海の難所のこと)

 

百済式の造船の粋を集め、樹齢二千年もあろうかという大木を竜骨にし組上げた堅固な甲板がある構造船だ。

 

安曇比羅夫の「比羅」=ヒラとは境界線のことで、日本神話に出てくる黄泉国とこの世の境にある『黄泉ヒラ坂』のヒラも同じ意味である。

 

『比羅夫』という官名は、境界線を守る男という意味合いで外交と外征を行なう。

 

外征を阿部比羅夫が行い、

 

安曇比羅夫は主に外交を行っていて、他民族の言葉にも通じていた為、乗込んでいる蝦夷族の酋長らともよく話しをしていた。

 

大和朝廷は200人もの酋長に官位を与え帰属させていたが、安曇比羅夫は彼らの事をもっと良く知りえようとして

 

頭を撫でてやるくらいのつもりで、、と軽い気持ちで酋長達と話しはじめたが、

 

彼らの伝統や独自の文化の話を聞くうちに安曇自身も一族の祖神のことを思い出してきた、、。

 

安曇比羅夫は語った。

 

「130年前、エフタル族の時代に吾ら海神族は大和との戦に敗れ、散り散りになった。今は大和朝廷の世となり仕えているが、、かつて吾らにも王がいて伝統があり、民がいた。

 

山の部族の蝦夷族にカムイへの言祝ぎがあるように、吾ら海の部族にも伝統的な言祝ぎがあったのだ。」

 

両手を鷹の羽ばたきの様にバサリと広げたかと思うと、パン!と拍手し、

 

『チヨにヤチヨにサザレ石の』、、と海神族に伝わる言祝ぎを唱え穂フリを見せた。

 

鳥の鳴き声にも似た覇気とした唱声が船室一杯に響きわたった。

 

詠唱するにつれ室内の氣がガラリと変わり、言祝を終えると

 

風に祓われたかの様に、『凛』とした静寂が一気に降りてきた。

 

その場にいた蝦夷族の酋長らは、思わず畏み膝をついてしまい、皆、頭を下げていた。

 

 

 

言霊に感じいっていた酋長らの一人が、

 

頭を上げ言う

 

「安曇様、、吾らは戦に来て唐国の巨大さを知りました。唐軍は吾らの仲間、靺鞨族に酷いことをします。徴兵し家族を人質に取り、死ぬまで戦をさせられます。負ければ家族も殺されるので、死にもの狂いで戦います。

 

何れにしても皆、死んでいきます。

 

大和朝廷は、吾らに官位まで授け朝廷の臣として迎えて下さいました。出来れば吾らも、大和に味方をし唐を除きたいですが、戦いは望みません。大和までもこの様に唐軍と戦わなければならない世界。

 

戦いの無い世界を望む以上、もはや大八洲(日本列島)は吾らの住むべき地ではありません、、」

 

「海流に乗り北の海を超えると、広大な大地があるといいます。皆、戦の無い土地を望むものらは北海を超えていき、戻った者たちはいません。

 

この度の戦、もしも生きて戻れ許さることなら、吾ら大和朝廷の官位を辞してこの大八洲を離れ、彼の地を目指したいと思います。」

 

安曇比羅夫は、

 

大和朝廷から逃げるという事よりも

 

(なんと、、『アジア天下の果て』といわれた列島よりもその先に、まだ大地があるのか、、)

 

と、渡航先の方に驚いた。

 

 

驚き静けさの中で、暫し行く末を考えていた。

 

 

(大和との戦いに敗れ、吾らの曽祖父母達は散り散りになり信濃、香取と東へ遷り住んでいった。

 

しかし、大八洲(日本列島)が大和の世となりても、戦乱が無くなるどころか戦火は燎原の野火の如く今も吾らの前に広がっている。

 

かくなる上は、彼らの言う海の向こうにある広大な大地へと渡らなければ、吾らとていつかは戦火に焼かれる日がくるかもしれない、、)

 

 

『海神族』安曇氏は大和土着の部族ではない。

 

 

元々、西から海を超えてきた部族であり、土地にしがみつくのは海の部族の生き方ではなく、広大な海こそが海神族の天下だ。

 

今、安曇比羅夫はご先祖様らがそうして来た如く海神族の血が騒ぎ、海の彼方にあるという広大な大地を目指し船を出してみたいという衝動に駆りたてられていた。

 

 

 

 

【白村江の戦い 扶余豐章王の逃亡】

 

「百済でも蝉がないている、、」

 

 

至極当たり前の事だが、日本列島の遠国より徴兵された者達は、

 

海を渡った異国で同じ蝉の鳴き声を聞いただけで、言葉さえ知らぬ国も幾かは身近に感じられ、安堵の息を漏らしていた。

 

強い日差しは、海面を銀盤の様に輝かせ、

 

船縁は、涼しげな波音をたてている。

 

戦とは程遠い晴れやかな日

 

南風月(台風の月)で無事に航海ができたことに、感謝する心のゆとりさえなかったが、

 

唐軍が姿を見せる前、束の間のおだやかな時間、

 

これから起こる殺戮とは無縁の情景に、

 

兵士らは暫し旅の景色に視線をまわし、

緊張を緩めさせていた。

 

 

別動して出会い頭に戦った先発隊と本隊、

 

二度唐水軍と戦い火蓋は既に切られている。

 

この束の間の静けさはすぐに終わり、

 

喫水線へ潮の満ちるのを待ち終えた唐軍の巨大船団が、ドラを響かせ和国水軍の前に威容を見せた。

 

 

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唐軍の巨大戦艦を目の当たりにして、和軍は怖じ気づいてしまったが、この後も二度戦うことになる。

 

和国の船団は、1000隻に27000人を乗せる船で、大将艦を除けば1隻あたり20人程度から乗り組む小船である。

 

大きい旗艦で長さ三十三間(約18 M)80人を乗せ、大将艦艇がこの二倍程度の遣唐使船級の規模で最大の戦艦となる。

 

 

対する唐軍は170隻の巨大戦艦が40万人を乗せて黄海を渡ってきた。ニ千人以上が乗船できる巨大な龍船だ。隋の時代、煬帝の空前の船遊びによってこの様な巨大船の造船技術が生まれていた。

 

和船と比べ乗船規模は百倍。乗組員二千人のうち1/3近くは漕手となる。

 

 

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船体規模は、それほど迄に大きくはないが、

 

船室の階層が幾重にも上へ重なり、甲板位置が高い。その分上陸戦は不利になるが海戦は有利だ。

 

孫仁師総監率いる唐軍はまず手前で先発の陸軍を上陸させた。

 

その後、劉仁軌将軍と百済王子隆が兵糧輸送と後発部隊を乗せて牙斬湾に周り込み陸軍の支援を受けながら、こちらから水軍部隊を上陸させる手筈となっていたが、

 

早くも上陸を阻む和国水軍と遭遇してしまった為、戦になり、これが三度目の戦いとなる。

 

 

和国水軍は小型で、唐軍の巨大戦艦より船足は早かったが、早いだけで行く手を阻むことは出来てもまともに戦う事は俄然不利だった。

 

怖じ気づき士気の低下した和国軍に、

 

突撃命令が下った。

 

「吾らが怯まず唐軍へと立ち向かえば、唐軍は驚き船を引く!吾らが兵の多寡や船の規模の違いに怖じ気づけば唐軍に利するだけだ!怯まず進め!」

 

急編成の和国軍に軍旗という程のものはなかったが、旗艦には八咫烏(三足烏)などの旗が目印として掲げられ小船を率いた。

 

戦闘の火力は、『火矢』であり柴玉、油、凧、火薬など火力を増加させる為の燃焼剤を用い、加えて投擲による破壊をする。

 

敵艦を沈める戦闘であれば高い甲板から、下へ向けて攻撃する唐軍が有利であり、下から射上げる和国水軍は俄然不利であった。

 

唐兵を倒したくば唐船まで接舷し、甲板までよじ登り兵を乗り入れ、白兵戦で直に戦うしかなかった。例え戦えたとしても、兵は少なくまともに戦えば勝ち目の無い事は明らかである。

 

しかし、

 

和船出兵の本当の目的は戦うことではなく

『唐軍の兵糧船を焼く事』だった。

 

天候は和国軍に有利ではなかった。

カッと晴れた後には水蒸気を吸い上げた大気は不安定になる。しかし、何としても和国軍は、唐兵の上陸を阻み、兵糧の上陸をも阻まなければならない。

 

兵糧を焼くことができれば、唐軍はたちまちの内に食料難になりいつもの遠征の様に退却する。

 

木皮草木を噛じったところで、40万人が飢えればイナゴの大軍の様にあっという間に食べ尽くすだろう。食糧難は大軍であるほど不利となるのだ。

 

先の高句麗戦の時も、唐軍が飢えて戦えなくなってから新羅は兵糧を運ぶ援軍を出した為、唐軍は撤退せざるを得なかった。

 

 

少数の兵で大軍と戦うには奇正の変に応じ

 

偽兵、奇襲、火計、水計など、奇策を用いるしかない。

 

大軍の息の根を止めるには、食糧庫を焼き、高句麗が隋軍100万を壊滅させた時の焦土作戦のように、領土内でも食料の調達ができないように全て焼き尽くすしかない。

 

しかし、上陸して40万大軍の陣営の中に食糧庫を置かれてしまっては、和国兵で奇襲などできるものではない。

 

27000人の兵で、唐軍の食糧を燃やすことが出来る唯一の機会が、上陸前の兵糧を積んただ唐船を焼く事だった。海上であれば唐陸軍本隊の援護も届かない。

 

したがって、和国軍にとって天候が不利であろうと、ここで戦うしかなかった。

 

 

もしも、

 

和船が、唐の兵糧船を焼くことができ、

 

周留城で百済軍が堅固に粘っていれば、

 

唐軍が50万でも100万でも兵の多寡に関わらず、

 

唐軍は撤退するしかないのだ。

 

 

だが、、

 

逆に和国の船は唐船に近づく前に炎上してしまい、

 

海の藻屑と消えていった。

 

 

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焼け落ちなかった船も、連弩の雨を浴びて兵士の血は水面を紅く染めた。

 

もうもうと黒煙を上げ炎上している和船で、唐の巨大船の船腹に体当たりをし延焼させた船もあった。

 

 

突撃後、和軍兵はすぐ海に飛び込んだが、味方の船まで泳ぐ前に矢の雨を受け江を紅く染め、

 

或いは泳げぬ者らは溺れて、ほぼ全員が命を落とした。

 

突撃する和船の後ろには何隻かの中型船が、海に飛び込ん和国軍を救助するために後についていたが、こちらは連弩の格好の餌食となった。

 

 

一時は炎を上げた唐船も、

 

船縁から何百人もの兵士らが釣瓶を下ろし一斉に海水をくみ上げ、必死に船腹に浴びせ掛け消火した。

 

半刻もこれを続けると鎮火された。

 

唐船の外壁は堅固であり、少しの焦げ目を残しただけで船体に穴を開けるには至らない。

 

甲板から直接水をかけることができない、舳先が唐船の弱点とみて、

和国水軍は正面から同じ所へニ艘三艘と突撃し、舳先の下から火矢を浴びせ大炎上させた。

 

何隻かの唐船を沈没せしめたが、

 

四十万の唐軍の腹を満たすだけの兵糧を積んでいる船を焼くには、千隻の和船では限界があった。

火矢を防ぐ為、要所要所に鉄板が貼らてる部分もあった。

 

何より

 

唐軍水軍を率いるは海将・劉仁軌であり、先の高句麗戦で船を沈没させてしまい罪を問われた後、復帰した為に白衣を着て死の覚悟を示して出陣した将軍である。

 

 

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何があっても、率いる唐水軍を沈没させることはは出来ない。

 

舳先にひとたび和船が入りこめば、すぐさま船を廻して横腹で受ける。

 

旋回船体が長いほど有利であり、いとも簡単に和国軍の導線を回避してしまう。

 

唐船が右舷左舷と旋回しただけで、和船は大きな横波をうけ操縦力を失い、沈む船もあった。

 

 

あまりの劣勢に、

 

和国水軍は船を引きばらばらに逃げ出して、体制の立て直しをせざるをえなかった。

 

「唐の軍艦には、敵わない」と、

 

誰もが感じていたが、

 

援軍に来た和国軍としては、唐の兵糧船を焼けずとも、周留城にいる扶余豊章王を助ける為に唐水軍の上陸を何とか阻もうとしていた。

 

 

しかし、

 

扶余豊章王はあろうことか戦いが始まらぬうちに

 

「和国水軍と合流する!」と言って、

 

城を抜け出し既に逃げてしまっていた。

 

和国水軍と合流するというのは城を出る為の口実で、激戦地である和国水軍の方へは行かず、一目散に高句麗を目指して逃げていた。

 

戦うという気が全くなく、兵を見捨てて逃げる。

 

兵士や民を見捨てるだけでなく、自分の息子・王子二人も置き去りにしたまま、扶余豊章王はただひたすら高句麗に向かって走って逃げた。

 

王というより、匹夫にも劣る。

 

 

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扶余豊章

 

今まで、扶余豊章王を王足らしめていたのは、王族らしい典雅な所作と、涼やかな品の良い身ごなしだけだった。

 

その優雅さの中に保身の鎧を纏い、中には何もない。

 

百済ウィジャ王の王子として生まれたが母方の一族には力がなく、早くに政争に敗れて和国へ人質に送られてしまった非力な王子だった。

 

何の野心も持たず、ただひたすらに身を低くして、息をころす様に生きてきた。

 

 

いかに天下大乱といえど、百済の王族が全て唐に連行されてしまうという事態が起こらなければ、乱世の方で相手にしないぐらいの凡庸な人物である。

 

その『野心の無さ』が大海人皇子に利用され王位に着いたが、その凡庸さは大海人皇子も思いもよらぬ程の凡夫だったのだ。

 

 

 

 

【那珂津女王即位の難】

 

那珂大兄皇子は怒り心頭で、

 

妹・間人皇女の元へ怒鳴り込みこむ。

 

 

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「お前がいるせいで、吾が王になれぬではないか!!」

 

百済で、鬼室福信が扶余豐章王に討たれて以来、那珂大兄皇子はずっと苛立ちが続いていた。

 

百済王になる機会を失した上、和国では大海人皇子が着々と間人皇女の和国女王即位を進めていた。

 

唐百済戦の様子も気になるが、その様な中でも百済亡命者達への冠位の整備が検討され、イリ(大海人皇子)が高句麗に行った今でもその作業が続けられている。

 

翌年、即位と共に発布するという。

 

 

「お前がイリの傀儡として女王に即位するとはな!年明けには甲子の宣だと!巫山戯るな!イリの傀儡など認めぬぞ!」

 

 

逆上がおさまらない。

 

「、、、」

 

 

無言で顔をそむける間人に向かって、更に叫ぶ、

 

「イリはお前を女王に即位させ、お前の夫として『王』になるつもりだろう!吾は断じて認めぬ」

 

 

「いっそお前は、吾の妻となれ!さすれば誰もお前を利用できぬ。」

 

 

間人は、驚き目を見開く、、

 

 

「何ということを!実の兄妹ではないですか、、」

 

 

「だから何だというのだ!吾を夫にするか、吾に殺されるかだ。」

 

 

「血をわけた兄妹で、それはなりませぬ」

 

 

「だからこそだ!吾ら上宮王家の血をイリなどに分けてなるものか!蘇我氏さえ、推古王女と用明王の同母婚を進めた。和国の権力とはかように手中にするもの!」

 

 

「イリと逢瀬をかわすなど許さぬ!絶対に上宮王家とイリの血をひく子など生ませぬ!懐妊など決して許さぬぞ!金ユシンは、イリの子を宿した妹を焼き殺そうとしてとどまったが、吾は本当にそなたを生かしてはおかぬ!」

 

 

「私しを脅すのですか、、」

 

 

「脅しなどではない。そうでもせねば、吾は和国王になれぬ!断じてイリの思いどおりにはさせぬ。唐の太宗皇帝であろうと、兄弟で王位を争うことなど当たり前ではないか、、

吾はお前の命を助けたくて、夫にせよと言ってるのだ、それがわからぬのか、」

 

 

「分かりませぬ」、、

 

 

間人女王は泣き崩れる

 

 

「確かに、私も上宮法王の血統の象徴で最後の王女です。しかし、私を妻とした者がこの国の支配者になれるということではありません。

この国の支配者になった者だけが私を手に入れることができるのです。」

 

 

名目的な女帝を立て皇統ではない者が夫になり実権を握る、、

 

那珂大兄王子は、これがどうしても許せず、間人皇女がいるせいでその様に利用され、自分の即位の邪魔になるくらいなら、いっそ間人皇女を自分の妻にしてしまうか、できぬのなら殺してしまおうと本気で考えていた。

 

 

那珂大兄皇子自身、父武王と上宮法王の皇統である宝妃との政略結婚で生まれた存在だったが、

 

それだけに、そのようなやり方が逆に許せない。

 

この乱世では、名目的な王でなければ除かれるものであったが、蘇我入鹿と母の醜聞以来、傀儡となる「女王」という存在自体を取り分け憎むようになっていた。

 

那珂大兄皇子のその様な憎しみを余所に

 

 

、、翌年、

 

間人は即位し【那珂津女王】となる。

 

最も在位が短い王である。

 

 

 

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那珂大兄皇子が去った後、間人は

 

一人、物思いにふけっていた。

 

宮の外に目をやり、庭地に輝く木漏れ日をのんびりと眺めていた。

 

庭地を包む曲水の水面が、陽の光を映しキラキラと輝いている。

 

間人皇女は『中宮』と呼ばれるこの宮の眺めを気にいっていて、時おり風が揺らす木漏れ日を刻の忘れるほどに眺めていると、心が静まり

 

心深くで落ち着いて物を考えることができた。

 

 

(実の兄妹で妻になれとは、、、例え大兄の王位を守る為に妻になったとて、それで血統を残す事など出来るだろうか、、)

 

兄の妻にならずとも王女である以上は、誰と結ぶかに自由が許されている訳ではなく慎重にいかねばならない。

 

 

父・武王も母・斉明天皇も二人とも親唐派であり、反唐派との政争によって命をおとしている。

 

間人皇女は、両親ほどに親唐に命をかける気もなく、

 

かといって反唐を貫き通すという気概がある訳でもない。

 

しかし、

 

王の血統を継ぐ者として、

 

その血を子々孫々に繋いでいく事、

 

ただその一点において、どちら側と結ぶかは考えなければならなかった。

 

「ただ、王位を望んでばかりの大兄さまでは、、、」

 

歌でも詠みたくなる様な刹那さで、

 

言葉を切って、また考えていた。

 

 

生まれ育ちが百済である間人皇女は、子供の頃からずっと那珂大兄皇子のことを『大兄』と呼んでいた。

 

大兄(おおえ)の王子とは、百済で言う皇太子の事であり和国古来の言い様ではない。

 

百済皇太子として育ってきた那珂大兄皇子は、 

王位を継ぐという自負心が強く執着が無くならない。

 

那珂大兄皇子の如く野心を持たない間人皇女は、

 

より冷静に時勢をみている。

 

間人には怨みも怒りも野望もなく、

慈悲にも似た、悲しみの向こうの果てにまで心が漂いついていた。

 

ウィジャ王に父・武王が殺されてしまい、一夜にして百済の王宮暮らしから追われ、母子共々島流しになり、

 

島抜けして和国に逃げれば、和国もウィジャ王の国となってしまい、

父を殺したそのウィジャ王の妻となり、その後はウィジャ王の息子・孝徳王の妻となったのだ。

 

王女として数奇な運命を生きる間人の前を、父・武王、山背王、古人王、ウィジャ王、孝徳王、母・斉明女王、

数々の王達は過ぎていった。

 

『反唐』という時勢の前では王位は儚いものということを充分知っている。

 

虚空にいる仏のように、

淡々と、覚めた心でこの後を考えていた。

 

 

王位につくというよりも、

 

「王統を残すにはどうしたら良いか?」だけをただ淡々と考え、呟いている。

 

(大海人の子を産むか、、)

 

(大兄の子を産むか、、)

 

 

「遠い唐国が、吾らが王統の助けとなるとも思えず、新羅の様に利用されるだけか、廃絶される。

 

反唐派の大海人は私の血統を利用しようとしてるほどの、稀代の実力者である。

吾が妻(夫)となりて和王を名乗るのならば、何が何でも私と生まれてくる子も奉戴し続けなければならない。そして、大海人が鏡に産ませた子・金法敏は現に新羅王になっている。

 

大兄、那珂大兄皇子は、血統で傅かれることはあっても実力は伴わない。

 

非常の手段で、山背王、古人王、を取り除き、有馬王子を処刑し、孝徳王を廃したにも関わらず、名ばかりの皇太子のままで結局一度も王になったことがない。

 

今、和国や百済で那珂大兄皇子を祭り上げている者達は、亡命百済人と空手形に飛びついてる者が多く、利用価値が無くなれば離散するか、悪くすれば廃位される可能性もある、、」

 

那珂大兄皇子は、ただただ自分が王位につくことだけを望んでいるが、

 

間人は、自分が女帝となることよりもその先に自分が産んだ子が王位につくことを望んでいる。

 

権力志向はなく、血統保存の為に権力者と結ぶのが王女達の在り様だ。

 

 

 

 

(生まれながらの皇太子で王位しか眼中にない大兄さまには分からぬであろうが、、

 

時勢の前では、私の血統を残そうとの思いが強い反唐の実力者の大海人こそが、

最適な相手なのだ、、

 

そもそも和国の王女達は代々その様にして実力者を入婿として迎えて血統を継いできたのだし、

新羅の血統聖母たちも皆そうして神統を次世代に繋いできたからこそ、今でも『神国』を名乗っているのだろう、、いつの時代どこの国でも王の血統を強く残そうとするのは、王の血統がない実力者と王女達なのだ)

 

大海人には那珂大兄皇子の義妹・額田文姫が

いたからこそ、皇太子弟『大海人皇子』を名乗っていた。

 

間人が女王になり、その夫『王』を名乗るならば、第一夫人にせねばならない。

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

あかねさす

 

「叶わねばこそ、、」

 

間人は、歌にもならぬ言葉を呟き、

 

共に育ってきた兄への思いを断ち切り、

 

大海人皇子を夫としその子を産む覚悟をした。

 

子宮で感じること、頭で考えることが

胸中で重なり胸の奥で一致し、

 

それが塊となってストンと胸から腹に下がって、

 

文字通り『腑に落ちこみ』迷いはなくなった。

 

 

(大海人の子を産もう)

 

那珂大兄皇子の脅しの言葉も今は響かない。

 

 

 

王女に生まれた以上、自由な恋愛は許される事ではなかったが、

 

幸いな事に間人皇女はイリのことが好きだった。

 

 

 

「君が代もわが代も知るや、磐しろの

 岡の草根を、いざ結びてな」

 

(万葉集Ⅰ 間人皇女)

 

※わが代=私が王になっても

※草根をいざ結び=イリとの関係を結ぶ

 

歌は、人の心、特に恋心を謳い、自然の美しきを纏い、世上を表す。短い言葉に全てをこめて歌うほど、想いの深さが伝わった。

 

 

 

【白村江の戦い 玉砕戦】

 

和国水軍は、

 

まだ周留城に扶余豐章王がいるものと信じていて、周留城に対峙している唐軍陸軍と合流させぬ為にも唐水軍の上陸を食い止め様としていた。

 

唐軍と和国軍で戦っている者の多くは、中国人でも和人でもなく、両軍ともに徴兵された他民族の粛真(ミツハセ)がいた。

 

粛真は狩猟民族で、アジア大陸北東に住む粛真を靺鞨族といい、日本列島の東北に住む粛真は蝦夷族と呼ばれた。

 

高句麗は、唐の度重なる侵攻により北部を切り崩されてしまい、アジア北東にいた粛真・靺鞨族に対する徴兵圏を奪われてしまっていた。

180以上あった城も、三分の一近く失っている。

 

唐軍は、多国の傭兵らと共に多くの靺鞨族を引き連れてきている。

 

和国水軍も、和人だけでなはく、

 

高句麗兵

粛真(靺鞨族・蝦夷族)

和人からなる混成軍だった。

 

基本編成は、

 

最も戦慣れしている高句麗の将校が指揮官となり、

 

狩猟民族で弓矢の扱いに慣れている粛真が弓兵となり、

 

操船、特に対馬海峡の航行に慣れている和国の海神族安曇氏や航海の大族壱岐氏などが船頭となって、

 

弓矢も操船にも慣れていない和人達は漕ぎ手となり、

 

一隻に約二十人が乗り込んだ。

 

 

小さいながらも百済の造船技術を取り入れた半構造船で、船足は早い。

 

しかし、言葉の違う乗り組み員同士であり、通訳の通訳、重訳を必要とする船も数々あった。

 

粛真(ミツハセ)の言葉を少し聞いただけでは、鳥が鳴くようで何を話してるかが分からないし、

 

将の指令を理解しているのかも分からない。

 

通訳を介する言葉の伝達の遅さは、唯一の利点である和国船の船足の速さを相殺した。

 

船足の早い船もあったが、逃げ場の無い入江で和国の船隊は徹底的に破壊され、江は和兵の血で赤く染まり辺り一帯は炎上している和船の煙でもうもうとしていた。

 

1000隻の和船のうち半数近くは海に沈み、

 

黒煙が煙幕の様に辺りの視界を遮ってしまい、唐軍船も航行不能となった為、

 

一時戦は止んでいた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

唐水軍は本格的な上陸戦の準備の為、船団の配置換えをはじめ、

 

和国軍は絶望的な状況の中、4度目の戦の軍議をしていた。

 

「周留城を囲んでいた唐陸軍も、やがて駆けつけるであろう。吾らは上陸を阻むどころか挟撃され全滅してしまう、、。」

 

前軍の将軍は絶望的な戦況を呟き、

 

「絶対絶命ではないか、、」

 

と、中軍の将軍が続けた

 

「、、、」

 

後軍の阿部比羅夫将軍は、目を閉じたまま眉間にしわを寄せ暫く押し黙っていたが、

 

風で少し船が揺れ、何かがコトリと倒れた瞬間

 

カッと、目を見開き沈黙を割った。

 

「もう船もあまり残っておらぬ、、おそらくこれが最後の戦になるだろう

吾らが後軍は、上陸し唐陸軍を敵中突破し周留城に立て籠もる扶余豐章王のもとに向かう!

 

そして船が残ってるうちに

 

前軍中軍は、唐水軍を突破し和国へ逃げよ、、

何れにしろこのままでは絶対絶命。

 

ならば僅かでも可能性の残る方にかけるべきだ。」

 

 

「吾らが水軍を突破して和国へ逃げてしまえば、上陸した阿部将軍の陸軍は難儀で御座らぬか?」

 

逃げるという言葉に『生き残る』という希望を感じてしまった将軍が、気まずそうに尋ねる。

 

「うむ。玉砕戦に近い!しかし、行軍を共にしたとて焼け石に水、目の前の唐軍本隊を突破するのは至難の技だ。吾は以前にも高句麗に兵を率いて唐軍陸軍とは何度か鉾を交えてるので、お主らより幾ばくかは戦い方も分かっている。

 

それよりも、水軍へ向かい突破して貰えればそれだけでも唐軍水軍を足止めする時間稼ぎになり、吾らもその隙に上陸できる。」

 

「なるほどのう、、」

 

二人の将軍は合点した。

 

「ただし!進退両難の地獄だ。恐らく唐軍船は船を廻して一列に並び、吾らが抜けられぬ様に包囲するであろう。それが幾重にも覆われこちらを殲滅せんと待ち構えている中を突破するのだ、、

 

個々に向かえば、一隻づつ徹底的に破壊される。

 

必ず全軍で一斉に向かうのだ!

 

一斉に向かえば何隻かは生き延びるかもしれぬ、、

逃げると言っても敵中突破できなければ、玉砕戦ともなる戦。心して征かれよ。」

 

「うむ」

 

 

(和国軍は全滅するやもしれぬ。だがお主らだけは生きて和地へ戻られよ、、和国兵の大勢の命が散り、屍となり、率いた大将として吾だけ生き延びようなどと思わぬ。吾はこの地で和国兵らと共に逝く)

阿部比羅夫将軍は、唇を噛み締め自分に言い聞かせ叫んだ、

 

 

「突破さえできれは水軍は追撃はしてこないだろう。奴らも上陸して周留城へ向かうのが目的だからな、、生きていれば再びまみえようぞ!」

 

「オウ!」

 

三人は立ち上がり、剣を鞘ごと抜き目の前に翳すと、環頭大刀の柄の環の部分を

 

カキンッ

 

と、打ち合わせそれぞれの旗艦へと戻っていった。

 

水軍陸軍とも絶望的な敵中突破が始まる。

 

刻を置かず直ぐに

 

唐水軍は船団の配置換えを終え、上陸戦は開始された。

 

唐軍水軍は横一線に並び、和国水軍が突破する空きもない程の重配置の威容で臨んできた。

 

和国水軍から見ると、水上に浮かぶ巨大な要塞の様に見える。

 

この要塞に向かい和国水軍は船を漕ぎ出した。

 

皆この要塞を前にして、

 

怯む、、という程の正気の内の意識は一気に失われてしまった。

 

既に命が散り散りとなり、この場に溶けてしまった様に、悟りにも似た狂気の意識が、集団意識になって、一瞬で日常的に感じていた意識はどこかに消えてしまった。

 

もはや正気の者はいない。

 

この異常者集団の意識につき動かされる様に

 

無意識に

 

指揮官は舳先に立って剣を唐船団に向けて

 

「突破ー!生きて和国へ戻れ!!」

 

と、大声で叫んだ。

 

指揮官の声も虚しくそう叫び終えた刹那、

 

連弩の矢の雨を浴びてしまい、血しぶきを上げながら指揮官は海中へと消えていった。

 

高い甲板から打ち降ろしてくる連弩の矢は、和国水軍の矢の射程より遙か遠くから飛んでくる。

 

 

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夏の午後、熱せられた海上の空気は緩やかに陸地へ向かい吹きはじめる。

 

風向きに合わせ高い甲板から打ち降ろされる連弩の矢は、追い風に乗ると更に射程距離を伸ばし、和国水軍が近づく前に船上の兵士をばたばたと倒した。

 

連弩の雨を突破し、近づいた和国水軍を待ち受けるのは火矢である。

 

ここで、多くの和国船は炎上し沈んでいった。

 

 

 

和船が燃え、もうもうと吹き上げる黒煙によって視界が遮られ一刻、また上陸船団は足止めされた。

 

暫し和国水軍に立て直しの刻が与えられた。

 

しかし、前回の様に引き返して体制を立て直しすることはない。海に飛びこんだ味方の兵士を救出しながら、煙に隠れて唐軍船団への距離を詰めた。

 

和国水軍はこの距離を突破すれば、唐軍船団にも延焼の恐れがある為、火矢は使われなくなる。

 

火矢の後は、連弩の雨の様に横に広がる矢ぶすまではななく、正確に弓矢の矢で兵士1人ひとりを次々と唐軍兵の射手達が狙い撃ちしてくる。

 

突破するには、この縦一線の連続射撃をかわし続けなければならない。

 

この縦一線の弓矢を躱し、唐船と唐船の間を抜け突破する。

 

船のほとんどは帆も舵も既に焼け落ち、修理する暇もなく、残された櫂だけで操舵も行わなければならず皆、心臓が破裂するほどに必死に漕いだ。

 

唐船は船内の漕手の狙い撃ちもしてくるので、

 

舷側に座る漕手を射殺されると、

 

矢を受け倒れた仲間やまだ蠢いている仲間をそのまま足蹴に、奥の漕手から順に舷側につき直し、血のりですべる櫂を握りしめまた必死に漕ぐ。

 

血と汗の蒸気で船底は滾っていて、その中で意識は朦朧としながらも、身体だけは何かの一部となった様に全身全力で漕ぎ続けている。

 

 

左右の漕ぎ違えは生死を分ける、、

 

御頭の合図に右左前後と、仲間を足元から運び出す間もない為、倒れた仲間が重なり合う中を這う様に急ぎ櫂座を移り漕いでいく。

 

唐船の間を抜ける時は左右の唐船から次々と矢を受ける事になり、加えて岩石の投擲が間断なく船板を襲い、少しでも船足が落ちればあっという間に沈めれてしまう。

 

隣の唐船との距離が広く離れている隙間を見つけ、その間を抜け様と周りこんだ船は、逆に唐船からも周りこまれ加速の乗った体当たりを受けて、一瞬で木端微塵になった船もあった。

 

そして、

 

なんとか無事にこれを抜ければ、抜けたところに次の包囲が同じ様に待ち構えていて、またこれを突破しなければならない。。

 

次の包囲に向かう間中、突破した後の船団から連弩の矢の雨を受け、これから突破する前の船団からも連弩の矢を浴びる。

 

唐船団は見事な距離に配置され、編隊を保っている。

 

 

この包囲が延々と、幾重にも続き、

 

 

和国水軍はついに壊滅してしまった。

 

沈没を免れた大将艦や旗艦の何艘かは、将軍と僅かな兵士を乗せ和国に帰国した。

 

上陸した和国陸軍は、

 

阿部比羅夫将軍に率いられ、

 

雲霞の如く覆う唐軍陸軍の中に消えていった。

 

 

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扶余豐章王に置きざりにされながらも、

 

周留城の将軍らは残された王子らを守り必死で抵抗を続けていたが、

 

衆寡敵せず

 

9月7日、

 

ついに周留城は陥落した。

 

 

戦争は終わり、百済は滅亡した。

 

和国軍はほぼ全滅状態だったが、唐軍の捕虜となり唐に連行された者もいた。

 

この時、新羅軍に捕らわれた捕虜たちと周留城にいた和国兵らだけが、新羅文武王により

 

 

「忍びない」と、釈放され生き帰ることが出来た。

 

阿部比羅夫将軍は、最後まで戦い帰らぬ人となった。

 

扶余豊章王が周留城にいると信じ、矢が尽き剣が折れるまで戦った。

 

 

阿部比羅夫は、流石にイリ(大海人皇子)と共に戦い続けてきただけあり、

その意図を聞かずとも自然と通じるものがあった。

 

和国軍を一斉突撃させ唐軍を撹乱させた先に、

 

高句麗軍と反旗を飜えした新羅軍に唐軍が挟撃され、逃げまどう唐軍兵を周留城の百済軍が殲滅する、、!その四国一斉攻撃の完全なる勝利を瞼の奥にしっかりと見て、

 

剣戟と叫びの中で大地に倒れ瞑目した。

 

 

阿部比羅夫という壮(おとこ)は、

 

野心家・高向玄里という父を同じくするイリの義兄弟として生まれ、和国におけるイリの片腕となって共に戦い続けたてきた。

 

身ひとつしかないイリも、朝鮮半島と日本列島を行き来する不便を補う為に、阿部比羅夫をまるで自分の分身の如く使っていた。

 

イリに仕え、二人目のイリとなり、和韓の土着の者共が見ることもできぬ壮大な世界を共に夢見て乱世を生きた『阿部比羅夫』は、

 

最後まで、イリが描いた一斉攻撃の中に生きて剣を振るったのだ。

 

イリに命令された訳ではないが、

『二人目のイリ』である阿部比羅夫は充分すぎるほどイリの心のうちが分かっていた。

 

阿部比羅夫が【和国軍】を率い

イリが【高句麗軍】を出兵させ

文武王が【新羅軍】を反唐に転じさせ

扶余豊章の【百済軍】が討って出る

 

この反唐の一斉攻撃を始動させるには、先陣たる自分の戦い方に全てがかかっている事を知っていて、

 

無謀とも思える戦いを

 

文字通り『全身全霊』で戦い、

 

散っていった。

 

 

 

 

安曇比羅夫の船もこの阿鼻叫喚の敵中突破を生き延びたが、和国へは帰国せず行方がしれなくなってしまった。

 

蝦夷族ならずとも、この様な『戦』の世界から離れようとするのは至極なことである。

 

安曇比羅夫も、

 

この無意味で壮絶な戦についに根が尽き

 

(海神様の加護を受け、よもや北の海原を渡るしかない、、)

 

と、蝦夷族らと志を同じにした。

 

和地を離れたいと望む酋長らの懇願を聞き入れ、

蝦夷族を率いてこっそりと裏日本の陸奥に向かっていた。

 

そして、家族を乗せ、残りたい者、行く者達に別れ、海流に乗ってアリューシャン列島を超えアラスカを目指すことになっていた。

 

安曇比羅夫は流石に海神族の末裔だけあった。

 

彼らの航海は成功し、やがて大陸の大地を踏んだ。

 

そして更にアメリカ大陸を南下し、

 

ネイティブアメリカンの

 

『ズニ族』の祖になったという、、

 

 

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ズニ族 紋章

 

 

 




【後書き】

ズニ族とは

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ズニ族はアメリカ大陸のネイティブアメリカン。
ニューメキシコの部族で、日本人との共通点が多いため
巷では、「ズニ族の起源は日本人では?」と
云われていて日本人説の書籍も沢山出てます。

北米アメリカンに無い血液型B 型が多く、他のネイティブアメリカンの部族とは習俗や文化が異なっていて言葉も日本に似ています。


〜アジア最古の文明シュメール

シュメール語とヘブライ語は日本語と共通する特徴が多く、日本語の起源とも考えられている。
日本語はアルタイ語系のアジア言語属性で、何れにしろ【アジア】の由緒正しい言葉の様だ。

しかし、ズニ族はアメリカ大陸の部族であるにも関わらず、日本語との共通点が多い、、

(漢字がないのに漢字読み )


日本語→ズニ語

皿=サラ
葉=ハ
背=シ
烏=カラシ
雨=アミ
怒=イカティ
雀=スズア


日本の先住者縄文人と蝦夷族に関わりのある、
東北や沖縄の発音にやや通じるものがあります。

(蝦夷族は安曇=アズミと発音する時に「ア」を短く発音し「ズミ」と吐き出すのでアズミ→ズニへ転訛したと思われます)

学説だと室町時代に日本から大陸に渡ったという説らしいですが、、 

この小説では、安曇氏がズニ族の祖というマイノリティ説で書いています。






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第22章 【白村江の戦い】Ⅲ 高句麗編

663年

第1話 高句麗亡国の奸臣ヨクサル  
第2話 高句麗五大部族の反発
第3話 遠すぎた白村江
第4話 遅受信将軍 任存城一人



【高句麗亡国の奸臣ヨクサル】

 

陰謀と策謀の乱世。

 

いつ果てるとも先が見えない戦乱に、人々の心は病み疲れ果てていた。

 

その様な時、たとえそれが嘘言であったとしても、

 

目の前の現実から目をそらし、

 

例えば、あり得るはずの無い

 

『和平』という言葉に飛びついて、妄信する。

 

 

三年前、唐新羅連合軍が百済サビ城を陥落させた時、唐は同盟国の新羅までも百済同様に敗戦国扱いし、新羅を占領しようとした事があったが、

 

当時、金春秋はこの事から目を反らした。

 

金ユシンらの手によって唐の使臣は暗殺されたが、この様なことがあっも尚、唐の言うとおりにしていれば唐新羅同盟の中で自分の地位が守られ続けると妄信していた。

 

 

少し時を戻し、

 

白村江の戦い直前の高句麗。

 

 

高句麗の五大部族を率いる灌奴部族のヨクサルも、唐が高句麗を攻撃してることからは目を逸らし唐との和平を頑なに信じていて、何を言っても対話が開けぬほど「和平」一点張りの人物だった。

 

戦を仕掛けてくると唐と戦い、高句麗を守っている将軍らに対しても、

 

「凶刃を振るい戦を止めぬ和平の逆賊。文治を知らぬ野蛮な輩。」と、

 

卑しみ常に敵対し反唐を滅する事に動いていた。

 

 

 

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ヨクサル

 

 

ヨクサルにとっては、

 

唐が攻めてくるのは高句麗に主戦派がいるからであり、唐軍は悪くない。

 

高句麗に反唐派さえいなければ、

自分が親唐派筆頭として唐と和平を結び

 

『唐と交流しながら高句麗の民は幸せに暮らすことになる』という、

 

妄言に何の疑いも持っていなかった。

 

ヨクサルが唐との間に密約を交わしたのは暫く前のことで、今はもはや引き返すことが出来ない状態になっている。

 

しかし、

 

敵と内通しているとは自分ではこればかりも思ってなく、正義の為に、おのれの文徳で唐と交渉しているという思い上がりが強く、逆に自分の思い通りならぬ者共を全て高句麗の敵と裁いていた。

 

一方、

 

唐側は、高句麗を滅ぼすという事しか考えになく、『和平』など毛ほども考えた事はない。

 

『狡兎尽きて良狗烹られる』

 

兎を捕り尽くし狩りが終わってしまえば、猟犬は獲物の兎と一緒に煮られてしまうというのが、中国人の常識である。

 

猟犬と同様に仲間だと思わせておき、最後に用が無くなれば殺す。

 

和平とは油断させる為の方便でしかなく、もとより実行される訳が無いので、どんな約束でも空手形でも幾らでも投げかけることが出来た。

 

その上、賄賂、脅迫、色仕掛、流布、捏造、冤罪、内間、扇動、暗殺、善玉と悪役に分かれての演出と偽装工作、内部から切り崩すために唐はありとあらゆる細作を弄していた。

 

まず、ヨクサルに狙いをつけた唐は、商人や民間人を装い腰を低くして、近づく。

 

貢ものをし諂い、儲け度外視で必要なものを届けた。表向きは商取引でも事実上の賄賂に等しい。

 

臨戦体制で流通が滞る中、最も必要で利益が出る品々を流した。いかなる状況でも交易だけは止めることはできない。商人は国々を行来するのを業いとする為、非公式の仲介をしばしば取り持つこともあった。

 

交易権は全て部族の商団がにぎっているから直接取引はできなかったが、取引してる商団と取引するところから入り込むと、一枚挟んだだけで寧ろとすんなりと受け入れられた。

 

「商いは唐国と取引をしない訳にもゆかず、、、」工作員は

 

商談の中で、唐と高句麗の関係について、流通が止まる「交易上の相談」として話しを切り出す。

 

臨戦体制がいつまで続くのか、、唐と和平を交渉できるお方さえいてくだされば全てが解決されますのに、、と嘆き、唐は和平の望みを持っていて、遼東の高句麗軍が戦を止めぬ為に、戦は無くならないと説く。

 

「もしも、遼東の高句麗軍を下がらせ唐と和平を結ぶ英雄が現れれば、今より豊かで幸せに暮らせる、、」

 

理想を語った。

 

やがて大人の某が現れ

 

「高句麗の国策は戦争であり、吾らは貴方様に平和を頼るしかないのです。どうか両国の平和をお助け下さい。」と、

 

五大部族のヨクサルに助けを求めた。

 

「戦を止め和平を結べば、唐と交流して民は幸せに暮らすことができます。」

 

「貴公が、宰相となり唐と和平を結んで下されば誰もが讃えます。是を天の声と思い平和の為にお引き受け下さい。」

 

と、人々の平和実現へ向けての逸物にしたてあげる。

 

しかし、権勢欲に取り憑かれている者はその様に「意気に感じる」だけで簡単に動いたりはしない、

 

一方で「不安を煽る」工作も行われる。

 

 

ヨクサルは、西側の武闘派の将軍達が嫌いだった。

 

五大部族は中央勢力であり、辺境の彼らは勢力圏外にある。

 

唐との国境を守っているのだが、彼らが力をつけて跳躍してくるのが気に入らない。

 

唐国でも、中央の既得権勢力が異民族の力のある武将らと対立していたが、権門勢家にとって「強力な異民族の味方」は、自国内の敵だった。

 

唐の武媚娘皇后も、イリと同様に中央に支持されなかったが故に異民族系の地方勢力と結ぶしかなかった。二律背信は何処にでもある。

 

ウルチムンドク将軍以来、高句麗に帰化した靺鞨族の力ある将軍らが辺境の守りについてるが、彼らが軍功をあげる度に、ヨクサルは不快を感じている。

 

 

 

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仲象将軍(テジュンサン)

 

 

今や要となった『安市城』の守将・楊万春将軍と、イリの隠し子テジョヨンを預かり自分の息子として育てている仲象将軍(テジュンサン)らを目の仇にし、

 

「卑しい靺鞨族の分際で、思い上がりも甚だしい」と蔑み

 

常々に中央の既得権を脅かす「敵」と見なしていた為、そこに唐がつけ込まない訳がない。

 

「新羅は、百済や高句麗と戦い続けた為に、金ユシン将軍が力をつけてしまい、、そして、ついには金一族が政権を奪ってしまった。」

 

と、新羅を引き合いに出し

 

「唐高句麗戦争は軍部に力を与えるだけで、新羅の金ユシンがそうした様に、ヨン・ゲソムンが創りだす軍事政権が高句麗となってはもう、部族の時代は終わるだろう、、」

 

という噂を部族間に流布し続けた。

 

部族長らは不安になり、

 

(どうする御つもりか?このままでは新羅の様に部族解体になりはしないか、、)と、

 

次々とヨクサルに不安解消を求め、言い騒いでくる。

 

 

「これは、いよいよ捨てては置けぬ」

 

となったところで、もう一芝居うった。

 

高句麗との境に配置されている唐軍に攻めいる素振りをさせた。

 

唐軍といっても正規軍ではなく元々国境地帯にいた契丹族だ。

 

版図を拡張し続ける唐は、自国の正規軍だけでは征服域の配置に不足が出る為、藩将制といい異民族を将軍として取立てる制度があった。

そして、辺境は異民族に守らせ、異民族に立ち向かわせるという

 

「夷を以て夷を制す」

 

が、対外政策の基本だった。

 

 

 

 

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李将軍(イ・ヘゴ)

 

契丹族は30万を擁し、唐皇帝から「李」姓を拝受し唐の先鋒となっている。

 

あくまで

攻める素振りだけであり、契丹族の李将軍を動かし国境近くに兵を集結させた。李将軍にとってはただの国境巡察に過ぎない。

 

 

そして、

 

「どうか和平案を高句麗朝廷へ奏上して下さいませ。さすれば唐軍は兵を引くと申しております。」

 

と、働きかける。

 

ヨクサルは、部族長達からも突き動かされ、ついに口利きに動いた。

 

朝廷内で、ヨクサルが

 

「何卒、和平を」と請願をすれば、

 

李将軍の兵を引かせた。

 

そして、商団取引という名の

 

莫大な賄賂を献じた。

 

国難にさらされ皆が憂慮してるにも関わらず、ヨクサルは自分だけは利益が上がり潤っているので、全くその様な危機感がなく笑いの止まらない毎日を過ごしている。

 

自分の態度ひとつで唐軍が動きを変え、

部族長達や唐の大人(大物)から感謝されるうちに、親唐の使命と利得が天命であるかの様に思い上がり、ヨクサルの親唐は信仰に近い意識にまで上昇した。

 

その為、反唐派が兵を動かそうと発議する度に、五大部族を動かし猛烈な反対運動を起こすようになった。

 

 

しかし、この頃はもう唐軍水軍が大船団で黄海を渡ってる時である。

 

徳物島に駐留し、百済へ攻めると見せかけて北上し高句麗に攻め込む可能性もないとは言えない。

本来ならそれに備えて国境の守備兵を増やさなければならない状況だが、ヨクサルはそれにさえ反対した。もはや、

 

『味方と言えど敵である』

 

唐国内では、出世や利得の為に味方を陥れ蹴落とし、細作をするのは当たり前のことだった。

 

表向き味方を装わなければならぬ為、唐では、賄賂と捏造、味方の足もとを掬う裏工作が異常なほどに発達していたが、高句麗のヨクサルも、既にこうした策謀の渦の中心に巻き込まれていた。

 

 

 

 

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やがて、ヨクサルは

 

(唐と吾が肚は一つ)と完全に思い込み、

 

後に、国を裏切り唐軍を率こんで高句麗を滅亡させる大逆臣となり、滅亡後も唐に取り入って、高句麗遺民に悪行の限りを尽くした。

 

 

 

 

 

【高句麗 五大部族の反発】

イリが和国から百済への援軍を派兵し、新羅軍を引かせ、ようやく高句麗へ戻ってきた頃、

折りしもヨクサルが朝廷を親唐にまとめあげている真最中だった。

 

和国からの百済派兵、和国の那珂津女王の擁立と甲子の宣へ向けての采配など、和国での大海人皇子としての政りごとは山積し、長らく高句麗を留守にしていた。

 

イリは高句麗宰相ヨン・ゲソムンとして、久しぶりに朝廷に立ったが、群臣らの様子はがらりと変わってしまっていた。

 

高句麗からも百済和国連合と唐との戦に向け唐軍を攻めるべく出撃の号令を下したが、

ヨクサルらはこれに対し、かつてなかったほどの反論をし、イリを驚かせた。

 

 

「今が戦機だということが分からんのか!!

唐が百済と戦っている今をおいて、高句麗が唐を攻める機会は無いのだ!!」

 

朝廷内のどよめきを吹き飛ばす勢いで、

 

イリは叫ぶ。

 

 

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イリが朝庭に推参する時は、山から降りてきたばかりの虎の様な目で辺りを睥睨し、居並ぶ群臣はすくみ上がるのだが、

 

それでもこの時ばかりは、反論を止めない

 

 

「ヨンゲソムン閣下、今は守りを固めるべき時で撃って出る時ではありません。唐が百済を攻めている間に高句麗は守りを固めるのです!」

 

「吾ら部族の兵は、高句麗を守るための兵です。和兵や百済兵を助ける為の兵ではございません!」

 

と、口々に五大部族や文官らは反対する。

 

先年の戦さの様に高句麗の王都平壌城に直接攻められたことは今までなかった。

 

中央の群臣らは、唐軍に包囲され「いよいよ…」と敗北を覚悟したほどの恐怖を覚えており、その後イリが唐軍を撃退させたとはいえ、唐軍をこちらから攻めることなど思いも寄らない。

 

唐と境を接し戦い続けている遼東と違い、彼らが守る平和の内にいて戦争を知らず、平和呆けに眠っていた者達であり、もとより戦意はない。

 

部族らの中では、高句麗の勝ち目はないとみて

 

「もはや唐に帰順し、部民と本領安堵を願いでるしかない、、」

 

と言い出す者まで出始めていた。

 

貴族化し巨大権門になったとはいえ、元来は部族である。いよいよとなれば、国より部族を優先するという部族らしい思考が湧いてくる。

 

このまま、唐と高句麗の戦闘に狩り出されていたら部族民を失うだけである。部族民が失われることで家門の力が削がれるのを嫌がり、出兵を拒み続けた。

 

イリの長男で大臣のヨン・ナムセンが3万の兵を率いてアムノッカンで全滅させられたのは、出兵反対のかっこうの標的となった。

 

この敗北により、ヨン・ナムセンは失脚し下手をすればイリにも糾弾が飛び火しかねない勢いだった。

 

『戦うは愚か守るが勝ち』と、ヨン・ナムセンの敗戦と、イリの攻城戦の勝利を引き合いに出し、

イリが和国に行っている間に、専守防衛に国論がまとまめられている。

 

「遼東とは何でありましょう。異民族の国ではござるぬか?」

 

と言う者までいた。

 

遼東という、唐と戦を止めぬ輩が高句麗と同じと思われているせいで、吾らが平壌まで攻められている。唐と戦をするなど、野蛮な異民族の奴らは不要であると、本気で思っている始末だ。

 

なので部族長らが

 

『遼東』という言葉を使う時は、敵国であるかの様な語感を込めて吐いた。

 

中央の部族らは、一味神水し強く親唐を盟い、ヨクサルのもと一枚岩になりつつある。皆、部族の権威に固執し、部族の権威で国は動かすものと思っていた。

 

 

部族とはもはや名ばかりで、実際は統合を繰り返し肥大化していくうちに半ば貴族化してしまった元部族の様でもあるが、

 

「吾が部族こそ、高句麗の血であり、肉であり、骨である」などと、

 

本来、高句麗とは部族が連合して出来た国であることを持ち出す。

 

親唐か反唐かの国論は、部族を以って判じなければならないとする。

 

もともとはイリの父ヨン・テジョ(高向玄里)も、唐の手先として五大部族の東部家門に入り込み、親唐派の王を擁立する事で【高句麗宰相】の地位に就いたのだ。

 

部族長らはその様な親唐派の成功を実際目の当りに見てきたので、

 

「親唐になれば宰相になる」、

 

「長いものには巻かれよ」と

 

かつてのヨン・テジョ(高向玄里)を羨み、唐の和平工作(実際は陰謀だが)に乗れば吾らも家門が栄えると信じていた。

 

 

 

 

【遠すぎた白村江】

 

平壌城を守る軍部からも、イリの出兵号令に反対の声が上がった。

 

「飢饉により兵糧も乏しく、民は飢饉で飢え徴兵もままなりません。度重なる戦で兵も皆疲れています。今は兵を休める時です!」

 

 

(吾が和国へ行ってるうち知らぬところで、勝手に国論を曲げるとは許せぬ、、!諸臣らに高句麗の主宰を預けたつもりはない!)

 

イリは言葉にはせず、ただ押黙り重たい眼つきでヨクサルを見据えていた。

 

ヨクサルは自分が唐軍と五大部族の代表であるかの様に権威者の意識を纏い、内心イリの眼力に怯みながらも姿勢を崩さずにいた。

 

 

 

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ヨクサル

 

五大部族を率いるヨクサルは、唐軍の思惑どおり

高句麗からの派兵を抑える役割を完全にこなしていた。

 

 

「全ては平和の為」と言えば

 

耳触りが良く、本人はその語感の中にいて利敵行為とは微塵も感じていない。「和平」という言葉さえ使えば、一段上から軍部の者をいくらでも叩くことができたので

 

激しく「今すぐ兵を出せ!」と唾を吐くイリ(ヨン・ゲソムン)に対しても

 

「ヨン・ゲソムン閣下は、思い違いをされてます。兵は不肖の器。今、何もかも刃で解決され様とするのは国を滅ぼすほど無謀なことです。百済戦にまで火中の栗を拾いに行くべきでは無いのです。文徳を持って吾らが唐と和平を結べば、民も死なず、いたずらに兵を死なせる事もありません。」

 

、、などと、口から虹でも吐くような聖人君子のもの言いをしてくる。

 

 

 

クッ!

 

イリはその場で殴りつけたい程の怒りがカッと沸いたが、

 

「今、唐賊を駆逐せねば百済の次は高句麗だと言うことが分からぬか!今!今!今!今なのだ!

家族を死なせたくなかったら、今すぐ兵を出せ!」

 

怒髪天を突くほどの、咆哮を上げた。

 

その場にいた者は、目の前に突如として巨大な龍が現れたかの様に感じ、皆、燃えさかる灼熱の火焔を浴びせられた。

 

恐怖に凍りつく者、恐ろしくて瞼を閉じる者、腰を抜かし、動けなくなる者も何人かいた。

 

 

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イリの過激さはヨクサルの聖人ぶりをより際立たせたが、その怒りを真っ向から受けとめられる程の気概は誰にもない。

 

ヨクサルは親唐の姿勢は崩さず、さすが五大部族筆頭だけあって肉が厚かった。が、結局は恐れをなした部族長らと話し合い五千人ほど部族の私兵を、「高句麗防衛の為に」と、、出してきた。

 

しかし、部族らが動員できる兵は五万人である。

 

(いざ決戦の刻にたった五千とは!)、、

 

「皆、平時は農民です。今、戦に民を取られてしまっては作物を収穫することが出来なくなります。吾らが出せる兵はこれで精一杯なのです。」

 

と、部族長らはしれと語る。

 

1/10の兵しか出してこない五大部族らに尚もイリは怒りがおさまらない。

 

(おのれ、吾が高句麗を離れ和国へ行ってる間に、是ほどまでに、是ほどまでに、部族を増長させたのか…!唐の細作か、、)

 

如何に、残りの兵を出させるか、、

 

長子ヨン・ナムセンに、高句麗を任せたままイリは暫く和国へと留まっていたが、3万の兵を全滅させてしまい力を失ったヨン・ナムセンが大臣として一人で事をなすには、五大部族の圧力は強すぎた。

 

イリは、唐軍の援軍が百済に来る前に高句麗から何が何でも出兵させるつもりでいたが、

 

この思わぬ平壌の抵抗に焦りを感じた、、

 

(ここでヨクサルらと衝突してる間に、百済の和国軍と唐軍の戦は始まってしまう、、時が惜しい、、

我身が二つあれば、、、)

 

 

180人の親唐派を取り除いた若壮の頃のイリなら間違いなくヨクサルを許さなかっただろうが、

今、唐軍への一斉攻撃を前にしてその様な騒ぎを起こしている刻ではない。

 

五大部族の五千の兵の配置だけでは足りず、イリは楊万春将軍ら遼東からも兵を動かそうと急いだ。

 

三万の兵を集めれば漢城を抜き唐軍の背後から攻めよせるつもりでいる。

 

 

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しかし、唐百済戦への出兵に反対したのは平壌の中央勢力だけではなかった。

 

イリの両壁であり、遼東の要となっている安市城の楊万春将軍と仲象将軍(テジュンサン)からも反対の声が上がった。

 

安市城は難攻不落の名城であり、籠城戦で生き延びてはいるが、北の活路は全て唐軍に取られた城に塞がれてしまっていて、遼東地方の局面では死に体に近い城である。

城から出て一手でも着手すれば、全てを失いかねない。

 

 

「いま、安市城の兵を百済まで動かせば、唐軍は遼東を攻め安市城まで失う可能性がある」

 

難色を示した。

 

しかし、イリは尚も出兵要請をする。

 

「安市城だけを守り、高句麗を失ってはならない。高句麗という国が無くなれば、安市城もないのだ。この度の戦は高句麗が生き延びる為の重要な戦いであると心得よ!肉を斬らせて骨を断つ程の覚悟で兵を動かすのだ!」

 

 

 

 

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楊万春将軍

 

楊万春将軍らも、派兵の検討をせざるを得なかった。

 

楊万春将軍は、隋軍百万を撃退した頃から、未だ敗北を知らぬ名将だった。もはや老将と言える程に歳を重ねていたが、眼光だけは齢をとらず壮年の頃と変わらぬ冷厳さを放っている。

 

唐軍の船が徳物島に到着してから、熊津城の唐軍と新羅軍と共に一斉攻撃に出るまで3ヶ月を要した。

 

その間に、扶余豊章王と鬼室福信将軍が瓦解するのを待ち慎重に準備を進めたが、唐が是ほどまでに長逗留できるたは、巨大戦艦に大量の兵糧を積みこんで来たからである。

 

逆に高句麗から百済へ出兵となると兵站が伸び、兵糧補給が問題となる。ましてや高句麗は飢饉で食糧難であり、高句麗軍は例え出兵したとしても短期決戦しかなかった。

 

下手をすれば玉砕する。

 

 

安市城内の軍議では、暫く沈黙が続いていた。

 

仲象将軍(テジュンサン)が口を切った、、

 

「安市城には最小限の兵を残し国境近くまでなんとか兵を出し、もしも安市城が危機になれば直ぐ戻るしかない。ただし、、間に合うかも分らず何時もの攻城戦よりも困難な戦いとなるやもしれぬ、、!」

 

 

 

【挿絵表示】

仲象将軍(テジュンサン)

 

 

楊万春将軍は、是に対し戦略を図る

 

「吾らが、、、安市城を捨てて全軍で突撃しようが、新羅の文武王が反唐に転じようが、40万唐軍に撃ち勝つは今の状況では難しいだろう、、

 

だが!!

 

和船が、、唐軍の兵糧船を焼けば勝機はある。

唐軍が食糧に窮すれば、周留城の包囲を解き兵を引く。奴らの動きを注視せよ!

 

吾らはまず兵を二軍に分け前軍は平壌から百済へ進撃し、撤退する唐軍の背後を襲う。後軍は兵を伏せ遼東半島の唐軍の動きを見張り遼東からの兵糧補給を阻む!後は戦況次第だ!

 

しかし、

 

和国の阿部比羅夫将軍が兵糧輸送を焼くのに失敗すればこの作戦は意味を成さない。

 

もしも阿部比羅夫が、失敗すれば吾らは遼東方面の唐軍の動きに備えて、直ぐに安市城の守りに戻る。」

 

 

仲象将軍は深く頷いた。

 

 

 

 

「まずは和国の阿部比羅夫、、次第か、、

 

吾らが遠い安市城からわざわざ兵を出すのもそこに勝機があればこそだ。

 

以前、高句麗へ援軍を率いてに来た時には阿部比羅夫将軍は誠によく戦ってくれた。かの時は、礼品の熊の毛皮を贈るため吾らも調達した。

 

今の安市城には、贈る様なものなどもう何も残っていないな、、あるとすれば吾らの士魂だけだ。」

 

 

その場にいた諸将らも、和国の阿部比羅夫将軍に願いをかける。

 

 

「百済の次は、高句麗だ、、。1隻でも多く、阿部比羅夫将軍が唐の巨大船を焼いてくれればいいが、、。残った船は唐軍が高句麗に攻め入る時、兵糧船に使われる。もう、今までの様に唐軍を兵糧攻めをする事など出来ぬだろうな、、」

 

 

「さればこそ!吾らは阿部比羅夫将軍の二の矢、三の矢となるべく城を出るのだ!!」

 

楊万春将軍が大喝すると、

 

その場にいた諸将らは一斉に立ち上がり

 

「吾ら掲げる旗こそ違えど、いざ唐賊を討ち払わん!」

 

と盟い、環頭大刀を打ち合わせた。

 

 

彼らはイリの要請通り、安市城に最低限の守りを残し、出撃した。

 

無事に国境近くまで征くことさえ難しい作戦だが、正念場である。

 

予定どおり直ぐ攻め入ることはせず、楊万春将軍と仲象将軍(テジュンサン)が分かれ、背後から何時でも攻め入れる体制に入った。

 

遼東方面の唐軍もまた、一斉に攻め込む刻を伺っている。遼東半島は、龍虎が睨み合いを続けてる様な重たい緊張に支配されていた。

 

 

楊万春将軍らは南を睨み、

 

「和船が唐の兵糧船を焼けば勝機はこちらにある。周留城が堅く守れば、唐軍はいつもの様に食糧難となり兵を引く。されば、その時こそ兵を出し追い打ちをかけるのだ!」

 

と、号令し白村江の和国軍の戦況を固唾を飲んで見守っていた。

 

(そして吾らが勝機を掴めば、新羅の文武王も反唐に転じるやもしれぬ、、さすれば四十万唐軍など一兵たりとも生きて唐土に帰る事はできないだろう)

 

 

この時代、

 

部族社会が飽和し部族の掟は律令制へと移り

貴族社会、武家社会と変性していく時代のまっただ中だったが、

 

いまだ国より部族を優先する思想が色濃く残り、国事を優先する事さえ難しい中で、

 

『反唐』という攘夷の為に国までも超えて共闘しようという者たちは、例外中の例外の存在だった。

 

高句麗の楊万春将軍と仲象将軍、

 

新羅の金ユシン将軍と文武王、

 

和国の阿部比羅夫将軍、

 

イリと共に戦う壮達は刻を待っていた。

 

 

しかし、

 

和国の阿部比羅夫将軍は唐船を焼くことが出来ず、例外の壮漢らは刻を同じくして立ち上がることなく白村江の戦より、一人、一人と次第に姿を消していった。

 

 

 

 

【遅受信将軍 任存城一人】

 

9月に唐軍が周留城を陥落させ、復興した百済の崩壊後のこと。

 

『遅受信』という将軍だけは百済崩壊後も戦いを止めず、任存城へ立て籠もって唐軍に一人で抵抗を続けていた。

 

周留城を守っていた黒歯将軍は、百済復興が潰えたを悟り、唐からの降伏勧告に応じ下った。

 

 

(王が真っ先に逃げ出し居なくなるとは、、もはや百済には守るべきものがない、武将とは守るべきものが有り戦う。ただ悪戯に剣を振るうものではない、)

 

有心已になく、、

 

黒歯将軍は、身長七尺余、勇猛で知略を備えた武将だった。

 

唐軍の降伏の使者には最初、降るとも降らぬとも言わず

 

「安堵」とだけ応えた。

 

660年に、唐の蘇定方将軍が百済サビ城を陥落させた時、黒歯将軍は手勢を率いて降伏したが、蘇定方ら唐軍が略奪と暴行の悪虐の限りを尽くし、百済人が殺されていくのをみるに堪らず、百済の民に手をかける唐軍兵らをその場で斬り捨て、直ぐに唐陣営を離れて再び剣を振るった。

 

そして、敗残兵をかき集めて任存山に立て籠もった。

 

黒歯将軍が反唐の旗を掲げると1か月で反唐軍は三万人に増え、これが百済復興運動のはじまりとなった。

 

その後、

 

黒歯常之将軍は唐軍一の将軍蘇定方を撃退し、

二百余城を奪い返した猛将であり、唐軍でその名を知らぬ者はいない。敵味方に鳴り響いたこの黒歯将軍が、再び、この度の敗北で部下を率いて、沙託将軍と共に降伏してきたのだ。

 

劉仁軌は喜んで黒歯将軍らを迎えた。

 

 

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劉仁軌

 

投降後の黒歯将軍は、同じ位の将軍として唐軍に迎えられた。さっそく劉仁軌は、黒歯将軍とその部下に任存城へ向かわせ様として、兵糧と武器を与えた。

 

すると、孫仁師総大将は、

 

「こいつらは獣心だ!この様なことをしたらまた裏切るに決まっている。信じられる訳がないだろう!絶対に征かせてはならない!」

 

と、頭ごなしに吐く。

 

 

だが、劉仁軌は是をかき消す様に高々と語った。

 

「この二人は忠勇で謀略もあり、信に厚く、義を重んじる人物だ。前回は託した者が、悪人だっただけだ。今こそ黒歯常之将軍は戦功を建てる時である。疑いは無用!!ご覧あれ!」

 

 

劉仁軌は、孫仁師総統の反対を押し切って、武器・兵糧と兵を与え任存城へと出征させた。

 

任存城の遅受信将軍は堅く守っていたが、

 

相手は百済きっての反唐の猛将・黒歯将軍であり、

 

(反唐の筆頭、黒歯将軍までも唐軍になったのか、、)

 

皆、心を冷やしてしまい戦う兵らの士気は振るわず、心理戦に於いて既に負けていた。

 

程なく、黒歯将軍が率いた唐軍は見事に任存城を抜き、百済最後の将軍・遅受信将軍は妻子を棄てて高句麗へ逃亡していった。

 

 

これで、全てが終わった。

 

劉仁軌は兵を率いて百済国内を鎮守し、

 

援軍の総大将の孫仁師と、百済総督の劉仁願は唐へ還るように詔が降りた。

 

 

 

百済は戦乱の後、

 

家は焼け落ち屍は野に満ちていた。

 

百済に残った劉仁軌は、兵を動員して屍すべてを埋葬し敵味方なく彼らを弔った。

 

戸籍を作り、村へ人々を呼びなおし、官長に命じて村々を復旧させ、道路を切り開き、橋をかけ、堤防を補強し、百済復興と開発に努めた。

 

陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧しい人々には配給をして、そして、兵に徴用された息子を戦争で亡くし、養い手を失ってしまった孤独な老人を探しだしては養い、百済の民も驚くほどに民に慈しみ深い心を配り尽くした。

 

「唐に殺される」

 

生かされたとしても、奴隷にする為に唐へ連行されると恐れていた百済の民たちは、劉仁軌のこの領撫政策に大いに悦び、皆、心を安んじて、生業につき働きはじめた。

 

まずそのように人心を安堵させてから、

 

劉仁軌は唐の社稷を立て、正朔と廟諱を頒布した。

 

駐屯している唐軍には、屯田制をしいて兵らに田畑を耕かせ、兵糧を蓄えつつ兵の調練を続け、次の高句麗戦に備えていた。

 

この上ない、占領体制を見事なまでに実行していった。

 

 

三年前、唐軍が百済サビ城を陥落させた時には、

降伏した百済に対し、蘇定方将軍らは悪逆無道を尽くした。掠奪、暴行、血気盛んな蘇定方は、東夷の野蛮人どもは、踏みにじり、押さえつけ、恐怖を与え、力づくで脅せば、皆従うと思い込み弾圧に容赦がない。

 

しかし、

 

この暴走が返って百済遺民の反発を生み、黑齒将軍が立ち上がった事で軍民一体の強い抵抗となり、蘇定方は黒歯将軍に敗れ、城を奪われ、唐軍は百済復興軍に熊津城に閉じ込められるという事態にまでなった。

 

結果、敵味方の多くの命が失われた。

 

劉仁軌は全くその逆を行い、人心を安定させた後も領民の為の徳政を徹底的に施し続けた。

 

中国の最先端の農業技術を農民に教え、特に養蚕は田畑だけで食べるのが精一杯だった人々には喜ばれた。

 

貨幣はあっても、まだ貨幣による経済が民衆に流通している時代ではなく、鉄や布の物々交換や税は金ではなく絹で納める様な時代であり、養蚕を知らぬ農民にとっては金の成る木の様だった。

 

黒歯将軍に任存城を落とさせたのも、「安堵」を願う黒歯将軍に応えた劉仁軌の憎いばかりの心配りである。

 

下手に唐軍の将軍に攻めさせれば、数を頼みに力押しした上、攻め落とせば勢いに乗り百済の民を凌辱したり略奪しかねない。

 

黒歯将軍であればこそ、百済の民は安堵され無事にあると知り唐軍を率いさせたのである。

 

 

劉仁願が都に帰国し、

 

高宗皇帝に戦果を報告すると、

 

「卿が海東で前後して上奏した事は、皆、機宜に合っており民を領撫するための文理も備わっている。本来は武人であるはずなのに、どうしてそんな事ができたのだ?」

 

と、訊ねた。

 

 

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高宗皇帝

 

総督の劉仁願が、高宗皇帝に上奏せずに是らを行うことが許されていたとしたら、もはや

 

『幕府』

 

と言って良いほどの武人による文治である。

 

劉仁願は、全て正直に奏上した。

 

「これは全て、援軍の将軍劉仁軌のやったことです。とても私の及ぶところではありません。」

 

高宗皇帝は驚き劉仁軌を称えた。帯方州(百済)の正式な長官として昇進させ、長安に屋敷も築き、劉仁願の妻子へも厚く賜った。

 

 

「劉仁軌は白衣を着て従軍したのですが、よく忠義を尽くされた。劉仁願は節制を持ちこの賢人を推挙しました。どちらも、君子と言うべきです!」 

 

と、奏上する者がいて、劉仁軌と劉仁願どちらもが称された。

 

高宗皇帝は大いに喜び、劉仁願の功も同様に認めた。そして、劉仁軌を一度帰国させ、交代で劉仁願を再び百済へ往かせる事になった。

 

しかし、これは劉仁願の思惑どおりだった。

 

 

一方、

 

百済の劉仁軌は、この後につづく対高句麗戦を憂慮していた。

 

細作(工作)を行うのは、唐軍だけではない。

 

白村江の戦いの前後、イリは唐軍の劉仁願将軍と、郭ムソウに密使を送り、大量の金銀を渡していた。

 

 

劉仁軌は、白村江の戦いにおいて劉仁願が怠軍していたと疑い

 

(劉仁願は、敵と内通している)と、

 

味方であるはずの劉仁願の兵の動きに警戒している。劉仁軌にとっては劉仁願は功があるどころか、危険極まりない将軍である。

 

この土着の将軍、劉仁願は太宗皇帝時代より卑列道行軍総官として卑列道に駐留していたが、卑列道を拠点に『私兵』を集めていた。

 

肚に含むところがある。

 

 

 

 

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劉仁願

 



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第23章 和国【那珂津女王】即位 甲子の宣

663年−665年
白村江の戦い後、暫く大戦はなくなり諜報活動と工作戦に突入する。イリは和国で那珂津女王を擁立し『甲子の宣』を発布。女王即位を認めない那珂大兄皇子との対立は東西で激化する。朝鮮半島では百済を滅ぼした唐が熊津都督府を置いたが、鎮将の劉仁軌と劉仁願の間で対立が起きる。和国の那珂大兄皇子と大海人皇子の対立も飛び火し、劉仁願と劉仁軌を巻き込み睨み合いが続く。

第1話 白村江の戦い後
第2話 那珂津女王【甲子の宣】
第3話 那珂津女王即位祝賀団 郭ムソウ
第4話 劉仁軌と強気な那珂大兄皇子
第5話 劉仁軌の奏上




 

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劉仁願

 

キビ政策(キ=馬の轡、ビ=牛の鼻輪)

唐が辺境の国々を従わせるのに用いた政策。完全同化支配するのではなく、存在を持たせながらも馬の轡をとり牛の鼻輪をつけて操る様な制御方法。

 

 

 

【白村江の戦い後】

 

663年10月 

 

白村江の戦いの敗北後も、九州に駐屯していた那珂大兄皇子はそのまま筑紫に留まり唐新羅軍の侵攻に備えていた。

 

那珂大兄皇子は唐軍よりも、寧ろ新羅文武王と金ユシンの侵攻を恐れた。

 

 

 

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那珂大兄皇子

 

唐軍の援軍・孫仁師将軍らは帰還命令を受け撤退し、劉仁軌は百済の復興と護民政策を行っていた為、

 

「唐軍が白村江の戦いの報復で、和国へ攻め入ることは無いだろう」とみていたが、

 

新羅軍は別の意図がある事を充分に感じていた。

 

新羅文武王とイリは裏で繋がり、和国へ報復するという名分で、那珂大兄皇子を攻める懸念があった。

 

それでも尚、那珂大兄皇子が筑紫に留まっていたのは、百済から亡命してくる敗残兵達を直接取り込む為である。

 

一方、

 

イリもまだ高句麗に留まったまま工作を行っていた。唐軍の郭ムソウと劉仁願を抱き込んでいる最中である。

 

平壌からの方が新羅軍内の密偵を自由に使えた為、和国にいるよりは比較的容易にやり取りができた。

 

劉仁願、郭ムソウどちらも、地方官で中央に仕えずとも地方利権には詳しく、在地のまま唐に仕えた将軍である為に知己の繋がりは多い。

 

 

劉仁願には予めイリは賄賂を渡し、白村江の戦いではもっぱら水軍を率いた劉仁軌が戦い、劉仁願の動きは意図的な怠軍を疑われたほどである。

 

イリもまた白村江の戦い後、唐軍が報復で和国に攻め入ることはないだろうと判断し、この間に劉仁軌を如何に取り除くかの細作を図っていた。

 

今後、数年はこうした工作戦が間断なく続くことになっていく。

 

和国の白村江派兵は許し難い反唐行為だが、唐の目標は高句麗を滅亡させる事一点に絞られており、今は和国になど出兵している場合ではない。

 

ましてや今の唐が、隋の時代の煬帝の様に、怒りだけで軽々しく軍事遠征させることはあり得ない。唐は高宗皇帝の一強支配ではない為、軍事遠征には常に複雑な利権と謀略が絡み合う。

 

古来より、

 

中国では最高の戦略とは謀略で勝つ事とされていた。

 

大軍で攻め入るのは最後の詰めだが、唐は対高句麗戦略では二度もその詰めの機会を誤った。

 

一度目は太宗皇帝の安市城での敗北で、

二度目は、662年、唐軍は平壌まで攻め入りながらも、城を包むように流れる蛇水でイリに敗北を喫してしまった。

 

以来、高句麗攻めは暫く中止して、唐は高句麗を内部から崩壊させていく戦略へと方針を転換していた。

 

 

イリもまた、唐側の切り崩しにかかっている。

 

 

 

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劉仁願

 

イリは唐へ帰還命令が出ていた劉仁願に対して、存念を伝えていた。

 

「唐へ帰還なされば、上へは劉仁軌の手柄も包み隠すことなく上奏なされた方がよい。されば、高宗皇帝はは劉仁軌を賞する為に王都に呼び戻し、交代で劉仁願殿を再び百済へ赴かせるに違いない。」

 

劉仁願にしても中央で出世をする為に、王都に戻る訳ではない。

 

在地の任官として、東アジアの利権や陰で築き上げてきた既得権を今になって放棄することなど出来ず、忠義心に篤く知勇を兼ね備えた忠臣、即ち融通の効かない真面目で一本気な劉仁軌が正道を行うことで、百済がどう変わるかが気が気でならない。

 

また、正道を推し進めることで自分の贈賄も明らかにされるやもしれず、劉仁軌を王都に追い返すということは利害が一致していた。

 

「無論のこと承知」と、

 

高宗皇帝には劉仁軌の手柄を握りつぶすことなく、全てを報告したところ、

イリと劉仁願の思惑どおり劉仁軌を賞する為に王都へ呼び戻すことになった。

 

 

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唐・高宗皇帝

 

 

この年、

 

唐の宰相の李義府という者が失墜した。

 

賄賂を好み、官職を売るなど贈賄が明るみに出て、宰相の位を剥奪され左遷された。

 

李義府は、長孫無忌と対立していた事で武媚娘側につき皇后に擁立し、武媚娘皇后と共に長孫無忌を失脚させた権勢家だ。

 

しかし、やがて武媚娘皇后とも対立する様になり高宗皇帝側に寝返って、皇后派の宿老・李勣大将軍と勢力を二分していた。

 

 

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皇后派・李勣大将軍

 

武眉娘皇后は、立后当初は高宗皇帝に代わって政務を摂る日の出の勢いだったが、李義府が皇帝派になると勢いを失い、門閥(関隴集団)は皇帝側につき息を吹き返した。

 

李義府は賄賂を好み人当たりが良く、

 

『笑いの下に刀を隠す』と言われ、李猫と呼ばれ恐れられていた。

 

 

 

李義府はあろうことか、劉仁軌を暗殺するよう暗に劉仁願にせまっていた。

 

劉仁軌は皇后派の将軍であり、極東の利権を狙う皇帝派の李義府一味にとって、融通の効かない一本気な劉仁軌は目の上の瘤でしかない。

 

 

 

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皇后派・劉仁軌

 

李義府は劉仁軌を嫌悪し、劉仁願に暗殺を仄めかしていた。

 

 

劉仁願、郭ムソウどちらも、東アジア土着の臣で、中央へ賄賂を渡して唐の官職を手に入れた臣である。

 

唐の官職を賄賂で売っていた皇帝派の李義府の存在が無ければ、要職には就けぬ身分だった。

 

将軍というよりは戦争商人の様であり、李義府も官職につける以上は、利益を要求してくるので、劉仁願らは李義府の要求は拒めない立場にある。

 

 

劉仁願はさすがに暗殺まではできぬとこれを躱していたが、劉仁軌はその気配を察知してか劉仁願に対して気を抜くことはなかった。

 

李義府の宰相罷免により、虎口は脱した。

 

 

しかし、この後も極東における皇后派・劉仁軌と皇帝派・劉仁願の対立は続き、対和国の那珂大兄皇子と大海人皇子の対立にまで影響を与えていく。

 

 

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皇帝派・劉仁願

 

 

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皇后派・劉仁軌

 

 

663年暮れ

 

 

イリことヨン・ゲソムンは、息子達を平壌に集め戒めの言葉を言い聞かせた。

 

 

「お前達は争ってはならない。争えば唐軍がつけいる隙となり高句麗は虚しくなるだろう、、何があっても決して争うな!」

 

そして、急ぎ和国へと渡っていった。

 

 

 

(高句麗は一体どうなるのか、、)

 

イリも暗雲の中に立たされつつあった。

 

今、息子らの間でイリの跡の高句麗宰相の座を狙って後継争いが起きていることは知っていた。

 

「戦意を低下させる」という唐側の細作による特務工作は極めて深刻な状況となっているところで、後継者争いなど起こしている場合では無い。

離間策の恰好の餌食となるだけである。

 

イリは、長男のヨン・ナムセンを大臣にして、やがては宰相を継がせようとしていたところだが、先の鴨緑江戦でのヨン・ナムセンが敗北したことにより反対の声があがり、五大部族らは弟のヨン・ナムゴンらを担ぎ出している。

 

イリが和国で権力の座につけば、高句麗の宰相の座はどちらかに受け継がれるとみて、

 

(この度の和国行きこそは、)

 

と、高句麗はその交代の機会にざわめいている。

 

「もう、長く高句麗を離れる事は無理であろうな、、」

 

半島から列島を奔走し続けるイリにも疲れが出てきていた。

 

 

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イリは高句麗の内訌の懸念を残しつつも、和国でするべき事はしなければならなかった。

 

 

 

【那珂津女王即位と甲子の宣】

 

664年2月和国

 

イリは間人皇女の那珂津女王即位を執り行った。

 

ついに先代の斉明女王直系の女王が、和国で立った。

 

間人は上宮法王の孫で、百済武王と和国斉明女の皇女だった。父・武王が殺された後、百済・耽羅・和国と流転し、ウィジャ王・考徳王親子の皇后となり、永きに渡り運命に翻弄され続けてきた末にようやく今、イリの擁立によって和国の女王となった。

 

 

那珂津女王は母・斉明女王と同様に

 

【皇】を号し、那珂津皇

 

『ナカツスメラミコト』と呼ばれた。

 

 

(諡号※中宮天皇)

 

那珂津女王を擁立したイリこと大海人皇子は、これで那珂大兄皇子を抑えて、政局の前面に立ち政務を執る。

 

イリは、女王を即位させると女王の名で

「甲子の宣」という詔勅を出させた。

 

 

 

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那珂津女王

 

 

『甲子の宣』大化の改新以来の改革となる。

 

触れるのは、大海人皇子である。

 

大化の改新以来、有力部族に属する部族民を王に属する国民とする『公民化』が進められてきた。

 

国が国民に対し徴兵権を持ったことによって『国軍』の編成が可能となり白村江の戦いには約3万人もの軍勢を派兵することが出来た。

 

しかしその敗戦により、多くの民を失ってしまった。

 

だからといって、以前の部族連合社会に逆戻り出来る訳でもないが、朝廷に官位を以て仕える「元有力部族」らは動揺した。

 

「是ほど民を失ってしまうとは、、もう朝庭の役務に就かせる事などできぬ。」

 

地方によってはまだ旧態然とした部族支配が色濃く残り、二重構造を引きずっている者らもいて「吾が民である」として抗う国司も多かった。徴兵権、徴税権が国に移ろうとも、元来同族の血縁集団であり同朋なのだ。

 

 

しかし、

 

ここへきて国、則ち王朝は更なる国民確保=公民化に取り組みだした。

 

まず、

 

大海人皇子が『甲子の宣』で冠位の改正に取り組んできたのは亡命百済人らの扱いであった。

 

「百済人の知識や技術は必要だが、彼らの勢力に朝廷を乗っ取らせる訳にはいかない」

 

というのが第一の懸念であり、

 

(ましてや、那珂大兄皇子の後ろ盾になる力など持たせぬ、、)

 

と、細心の注意を払った。

 

 

 

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大戦さを前にしてイリは半島に渡らず、ぎりぎりまで和国で準備を進めてきたのもその為である。

 

 

冠位を十九階から二十六階にまで増やし、多くの亡命百済人らを大和王朝に取り込むことが可能になった。

 

しかし、政府の三人に一人が百済人という状態になり朝廷最大の勢力となってしまう為、主に百済人に就かせる為に下級官位を厚くして細分化を広げていった結果、位が二十六階にまでなっていた。

 

百済人達の知識と技術だけを利用し、朝廷内では出来る限り力を持たせないやり方だった。

 

冠位で朝廷に帰属させるまでは良いとしても、問題は百済人らがそれぞれ民を率いてきている事である。

 

これを国民として帰化させず、私有民として認める訳にはいかない。

 

百済人の民の身分を明らかにし、元々その家に代々仕えてきた奴婢(奴隷)のみ

「家部」という身分で隷属させることを認め、低い身分の民とし

 

それ以外は「民部」といい国民=則ち王の民である国民として高い身分の民にした。

 

しかし、実際そのまま彼らに帰属させたので、まるで部族社会時代の部民の様であったが、民部=部族の民ではなく、王の民が集まる部であるといういい含みを残し「タミベ」とよんだ。

 

多くは難波の百済人村に集められたが、決して和国から独立した存在ではなかった。

 

 

地方各地で二重構造を残していた元部族長らに対しても、朝廷に帰属する

【氏族】として身分を大氏・小氏と定め上氏を明確にし、旧態然とした昔しとさほど変わらない部族体質を残してる者共に対しては【伴造】といい、その下の下級官僚の身分とした。

 

全て、現状を認めつつ朝廷身分の法制化だけを明確にしたかたちであった。

 

上宮法王以前、和国が部族連合国だった時代は部族民ばかりで国民が殆どいないという状態が続いてきた。

数十年前の和国ではまだ大王と部族長らが同列的であった事を考えれば、部族的な支配体質を残している者らを国の制度の中で、最も低い身分に位置づけたのは中央集権の律令化へのゆるやかな進歩と言えよう。

 

「世の移り変わりに目を逸らす者もいるな、、」

 

イリは顔を顰めて言うが、だからといってその者達を力づくでどうにかしようとはしない。

 

在地における既得権と現状を認めつつ、甲子の宣に基づいた身分の上下に応じて大刀(たち)、小刀(かたな)、を賜り、

 

その者たちには干楯弓矢(たてゆみや)を賜った。

 

例え和国、古来からの部族であっても

「干楯弓矢」を賜るのは、新たに帰属した蝦夷族の酋長らと同じ扱いである。

 

もしも朝庭で高い身分を望むのならば、自ら旧態然とした部族体質から脱却して、中央の加護を得た方が得策であるという構造をより鮮明にしてきている。

 

地方細部に至り、この様に脱部族化が遅かったのは律令化の目的が単に王権強化が目的で、何が何でも従わせる事が目的だったからでなく、徴用と徴兵による国軍強化が目下の的であったからに他ならない。

 

しかし、この『甲子の宣』より後は中央集権の為の律令化は加速していき、庚午年籍、壬申の乱を経て八色の姓、和国の消滅と日本国の成立、大宝律令の制定と大変革の時代へと突入する。

 

和国はまだこれからも戦に備えなければならず、家の奴隷(奴婢)私有民である家部か、または民部かという民に対する戸口調査は綿密に続けられた。

 

特に亡命百済人は、唐軍の間諜も紛れて送り込まれてるとみて慎重を期した。

 

また、百済の皇子である那珂大兄皇子側にとっては後ろ盾になり得る存在である。那珂大兄皇子は彼らの私有民を少しでも多く認め、大海人皇子と那珂津女王に対抗できる力にしたかった。

 

亡命百済人らは元々、和国に領地も領民も持たない。和国の旧有力部族達のような既得権も無く、技術や知識と引き換えに新たに国から与えられるものしかないのである。

 

亡命百済人らの知識は政治や仏教に留まらず、兵学、薬学、医学、典礼、陰陽など幅広く、

彼らの存在により、和国の官僚制は拡充したため、律令国家として進化の一助となったと思われる。

 

民部は『タミベ』と言い、当初は百済遺民へ対するキビ政策的なイリらの発想だったが、後に那珂大兄皇子が天智天皇として即位すると強力に推し進められ、私有民を認める大化の改新の後退となる政策となった為、部族社会時代の言い方である『カキベ』と言われる様になった。

 

 

「おのれ!!イリの奴がいる限り吾の即位が立ちゆかぬではないか!!」

 

 

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那珂大兄皇子

 

那珂大兄皇子は、妹・那珂津女王の即位に悔しがり剣を振り回し、力の限り叫んだ。

 

が、これに直接当たることはせず今は

 

政治の前面には大海人皇子を立たせておいて、

自分は九州を実効支配しようと目論んでいた。

 

百済の遺民を直接九州で吸収し自分の勢力にするつもりであり、実際に、

大和を大海人皇子が、九州を那珂大兄皇子が勢力を二分するかたちとなっていた。

 

 

その頃、

 

百済に置かれた唐の熊津都督府には皇帝派の劉仁願が戻ってきて、劉仁軌に交代で唐に帰還する様にと命令が下された。

 

しかし、劉仁願を危ぶんでいた劉仁軌は直ぐに帰国する事はなかった。

 

 

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皇帝派・劉仁願

 

 

劉仁願は唐に降った百済の隆王子を伴ってきていて、やはり唐の官吏となっていた新羅武烈王の王子・金仁問との間で、無理矢理に『百済・新羅』の和睦を結ばせた。

 

新羅の存在を無視したこのやり方に、新羅文武王(イリ実子金法敏)と金ユシンは怒り猛反発したが、劉仁願は強引に是を行ない以て戦国処理とした。

 

「金仁問は、もはや唐国に帰化した唐人!唐の官吏となり、吾が新羅とは何の関係もない!新羅には王がいて国があるのを蔑ろにし、和睦するとは度し難い行為だ!」

 

この劉仁願の振る舞いによって、唐新羅連合は更に亀裂が入った。

 

金ユシンは、文武王に対して隠棲するとまで言い出した。

 

「今!唐賊の輩を討たぬなら、吾が軍にいても無用の長物!吾は大将軍を辞して引退する!」

 

、、これには文武王も驚く。

 

「伯父上!何故に今、新羅を見捨てる様なこと言い出すのですか!?どうか思い留まって下さい。」

 

「黙れ!新羅の王たる者は、吾がいようが居まいが唐賊を駆逐する気概は常に持ち続けよ!新羅の王が唐軍を攻めぬのなら、それこそ新羅を見捨ててる様なもの、、今、攻めぬというならば、何時攻められますか!?」

 

文武王は、金ユシンの言わんとしてることを理解した。

 

金ユシンが、常に軍馬を揃え兵士を調練し、唐軍へ介入する隙を見極め、反唐に転じる機会を伺っていたことは知っていた。

 

何時でも、唐軍を倒す戦は起こるものとして、匕首を切り、戦機を見極めなければならないという事を、老い先の短い金ユシンが、甥の自分へと伝えようとしてくれてるのだと思った。

 

「伯父上!新羅の王として、この様な唐賊の振る舞い決して捨て置けず、直ぐにも劉仁願を討ちにいきこの和睦を撤回させたいです、、

 

されど、

 

この劉仁願のやり様は、百済鎮将の劉仁軌にとっても顔を潰され面白くはないはずです。

今暫く奴らが分裂し瓦解するまで劉仁願は討たずに機をみて、兵機を伺うことにします、、」

 

と、言った。

 

金ユシンは、無言のまま深く頷いた。

 

 

一方、和国にいたイリは、劉仁願に使いを出し

 

「和国で那珂津女王が即位した。早速、即位を祝う唐の承認の使者を送るように」と

 

請願した。

 

那珂津女王即位を認めさせる為のものであり、劉仁願に郭ムソウをその使者として和国へ行かせる様に図った。

 

 

イリはその後、高句麗へと渡り、

 

和国の那珂津女王の即位を祝し、

 

高句麗から黄金を贈るなどして、

 

那珂津女王の即位を祝う外交を着々と進めていった。

 

 

 

 

【那珂津女王祝賀使節 郭ムソウ】

3月、百済王扶余豊章の弟善光らが難波に居住させられた。ここで百済人らを統括させる為である。

冠位二十六階にて任命された元々百済の官人らがそれぞれ着任し、暫く落ち着くまでイリは和国からは離れずにいた。

 

イリが高句麗に去った後も、亡命百済人の扱いに対する大海人皇子側と那珂大兄皇子側の対立は九州と近畿で続いていた。

 

後に、善光は大和朝廷より『百済王』を賜り

百済人村は「小百済」と言われる様になる。

 

百済サビ城では、和国の那珂大兄皇子の元へ渡ろうとする百済軍の残兵との間で争いが勃発した。

 

那珂大兄皇子は、百済軍残兵らに対し筑紫より

 

『百済武王皇子キョギ』の名で密使を送り、

 

「唐賊に仕え百済を諦めてはならない。士魂あれば今こそ対馬海峡を渡り筑紫へ来られよ。ここに結集し兵機を待て!」と、

 

再起を募った。

 

 

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那珂大兄皇子(キョギ皇子)

 

 

 

百済軍残兵は

 

「百済奪回」を諦めない那珂大兄皇子と同合し、

 

那珂大兄皇子は彼らを直に筑紫でを引き込めば強力な勢力となる。

 

新羅文武王は新羅軍でサビ城を攻めこれを鎮圧したが、新羅軍はそのまま返す刀で対馬の向こう筑紫に睨みをきかせ、筑紫にいる那珂大兄皇子を威圧した。

 

 

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これに対し、

 

那珂大兄皇子は大急ぎで、筑紫、壱岐、対馬に兵を配置し侵攻に備えた。

 

対馬、壱岐、筑紫に防塞を築き烽火台が置かれ、筑紫では水城の築城に着手し、新羅軍との間で睨み合いが始まった。

 

 

イリは、那珂大兄皇子に対する牽制は実子である新羅文武王に任せ工作を進めている。

 

劉仁願に高句麗からも黄金を送り、和国那珂津女王の即位を祝う使節団送使を交渉していた。

 

 

「唐国の後ろ盾がみてとれる様な大々的な祝賀団でなければならない」と、

 

賂に使う黄金を出来る限り集め、劉仁願のもとへ用意した。

 

もはや血気盛んだった頃の弱壮のイリと違い、目先の反唐に拘りはせず

 

権謀術数は長けてきている。

 

劉仁願を通じ、高宗皇帝にも那珂津女王の即位冊封の請願を働きかけていた。

 

政治的に利用出来るものを使わずに只、戦い続けるということは無く、老練になったというより状況がそうさせていた。

 

少なくとも唐では李義府が宰相であった頃には白村江の戦いの時点で、百済から和国に至るまでの贈賄利権をみていたはずである。

 

拝金主義者にとって金脈を通じることは、

気脈を通じることと等しい、、

 

劉仁願と郭ムソウらは贈賄で唐の官職を買った東アジア土着の臣であり、李義府が雇った他の将軍と同様に敵からも味方からも賄賂を徴収する。

 

この者らは金で動き、状況と条件さえ揃えば唐を裏切るとみて、イリは『気脈を通じ』切り崩しにかかっている。

 

中国人の常識では、将軍が敵地で金品や物資を調達することは自国から戦費や兵糧を持ち出すより10倍価値があるとされ、清廉潔白な生粋の武人でない限り将軍が敵地で財に触れるのは珍しいことではない。

 

これが、掠奪か、貢ぎ物なのか、或いは賄賂となるかは、収める態度により演出次第である。

 

 

先の唐高句麗戦の平壌決戦においても総大将の蘇定方にも賄賂を渡したが、その後イリは唐の王都洛陽で、

「蘇定方は賄賂を受け取っていた」と実しやかに噂を流した為、蘇定方が東方の戦場に起用されることは無くなった。

 

唐軍に対しては、黄金の使い方もそれぞれあるということをイリは知っている。

 

 

4月になり、

 

ようやくイリの要請に応えた劉仁願は、郭ムソウらに牒書と献物とを携えさせ那珂津女王即位の祝賀団を対馬へと向かわせた。

 

 

唐の大夫30人、唐の熊津都督府の官となった元百済の高級官僚ら100余人を伴い、総勢130余人の女王即位を祝う祝賀団を組織した。

 

中央へは「仮に祝賀を送使」と、

承認が得られぬままの出向である。

 

中央でも、皇后派と皇帝派が真っ二つに割れてしまい是非はつけがたい。

 

 

5月17日になり、郭ムソウの祝賀団一行130人は、遂に九州の筑紫に至った。

 

これに驚いた那珂大兄皇子は、大山中采女通信侶・僧智弁らに急ぎ饗応させたが、唐側を巻き込んだイリの事大主義に言葉を失った。

 

「何としても那珂津女王の存在を認めさせる訳にはゆかない!祝賀団は筑紫で饗応し、決して大和にゆかせてはならぬ!」

 

と、「白村江の戦い」で唐軍に敗れた敗戦国の皇子とは思えぬほど、唐の使者に対して強気な対外姿勢をとった。

 

唐の熊津都督府に劉仁願が着任してきたが、劉仁軌は交代して唐へ帰還しようとせず、睨み合いが続いている事は、既に那珂大兄皇子も知るところであった。もはや大戦は終わり諜報戦の時期に突入している。

 

那珂大兄皇子は、直ぐに劉仁願と対立する劉仁軌に密使を送り窮状を訴えていた。

 

 

「今、和国で即位しようとしている那珂津女王は高句麗宰相のヨン・ゲソムンまたの名を高任武が擁立した反唐の傀儡となる女王であり、決してこれを承認してはなりません。吾が即位を承認して下さるのなら、和国は親唐を誓い皇帝陛下の恩徳を賜り服します。」

 

と、親唐を誓い自分の和王擁立を請願していた。

 

那珂大兄皇子は、百済敗戦兵に百済復興を呼びかけることを二枚舌だとは思っていない。

 

唐に対する面従腹背でもない。

 

もはや反唐であろうが、親唐であろうが、自分の力として政敵を除き、『王』にさえなれればただそれで良かった。

 

 

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那珂大兄皇子

 

文字どおり「不世出」の王であり、百済と和国の王族でありながら、皇太子のまま王になれずにいること甚だしい。

 

山背王、古人王、有馬王子、考徳王など政敵を排除しながらも、遂に王にはなれなかった。

 

高句麗宰相ヨン・ゲソムンでありながら、和国の大海人皇子と名乗り妹・間人皇女を那珂津女王として即位させたイリを抑えて、自分が即位するには百済の残兵だけでは及ばず、イリを苦しめる唐を後ろ盾とする機会がやっと巡ってきたのだ。

 

反唐だの親唐に拘っている場合ではない。

 

 

那珂大兄皇子にはイリを抑える起死回生の、最後の機会と思えていた。

 

 

 

 

「和国の大海人皇子とは、高句麗のヨン・ゲソムンのことか、、、」

 

そうなのだろうと、劉仁軌は思った。

 

しかしそうだとすれば、このまま皇太子弟などと実権を握らせる訳にはいかない。那珂大兄皇子が和国王に立つにしても、まずはイリを王族から外す為、額田文姫とイリを完全に離別させる様に那珂大兄皇子に要求した。

 

唐軍にとって高句麗を降すことは命題である。和国で誰が王になろうとも、決して高句麗のヨン・ゲソムンを権力に近づけてはならないのだ。那珂大兄皇子にとって、唐から和国王の承認を受ける為には、何としても額田文姫をイリから奪わなければならなくなった。

 

この年、

 

中臣鎌足のもとへ預けていた額田文姫をイリは正式に離縁して、額田文姫は中臣鎌足によって中臣宗家へと移されてやがて

「中臣大島」の妻となった。

 

イリが額田文姫を遠ざけたのは、那珂大兄皇子のそれとはさほど関係ない。

 

額田文姫とその子供の安全を守るためでもあり、那珂津女王の即位により、正式に女王の夫となる為の準備だった。

 

「那珂津女王に、吾が子を産ませる」

 

イリが政治の前面に立ち、次なる目標はその一点に絞られていた。

 

そして、高句麗へ戻る前、

 

イリは密かに中臣鎌足の屋敷に行き額田文姫とも会っていた。

 

 

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額田文姫

 

「もうこれで、会うことも出来ぬかもしれぬ。史のことは宜しく頼む。よくぞ男児を産んでくれた。嬉しく思うぞ。」

 

後に藤原姓を賜り、不比等(フヒト=他に並ぶ者がいない)と名乗りを変えるが、この頃はまだ史(フヒト)といった。イリと額田文姫の子であるが、密かに中臣鎌足の子として育てている。

 

 

「はい。必ず貴方様の如く、他に並びなき立派な壮に育てます。私は貴方様の様な強き壮の子を産み、育てられれば王族の姫としての世を全うできます。」

 

額田文姫は、笑みを浮かべ静かに応えた。

 

「貴方様のことは、十市皇女の時と同じ様に、史がお腹にいる頃から語り聴かせましたほどに、」

 

和国ではまだ通い婚の習慣が残っている時代である。

 

もう会えぬ、

もう通わぬ、、と言われ、

 

寂しく思わない妻はいない。

 

イリが那珂津女王と逢瀬を交していたことも知っている。

 

しかし、その寂しさはおくびにも出さず、凛として母としての語りをした。

 

が、柔らかい言気とは裏腹に何とも言えない強がりを纏っていた。

 

額田文姫の心根は実はイリが思う以上に深い。

 

「史を頼もしく育ててくれ。長ずればいつか父子の対面もする。それまでは吾らの子であることは決して誰にも悟られてはならぬぞ。」

 

イリも、父としての語りをした。

 

 

額田文姫は既に熟れていて盛りはすぎ、子を産むには不相応な歳になりつつあったが、通うイリとは逢瀬を交わしていた。

 

夫婦の会話を終えると、

 

闇の中でイリに抱き寄せられ、イリの匂いと息づかいに包まれていった。

 

(これが最後、、)

 

と、

 

思うほどに情感は滾ったが、涙は見せない。

 

 

 

間人皇女(那珂津女王)、額田文姫、二人とも那珂大兄皇子の妹であり、どちらを第一夫人にしてもイリの皇太子弟の立場は変わらない。

 

そして今度は、那珂大兄皇子が那珂津女王の第一皇太子となる訳だ。

 

古人王、ウィジャ王、考徳王、斉明女王、那珂津女王と、、王は次々と代わりながらも那珂大兄皇子は常にその王の皇太子としてあり続けてきた。

 

力を持たぬ名ばかり皇太子である。

 

 

 

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那珂大兄皇子

 

 

やがて、那珂津女王がイリの子を身籠ればまたその子に王を継がせる事は容易に予測された。

 

 

 

 

【劉仁軌と強気な那珂大兄皇子】

那珂大兄皇子は、劉仁願と対立する劉仁軌との繋がりを取りつけたことで、劉仁願の送使した祝賀団に対しては強気な姿勢を崩さず、筑紫で足止めし入朝を阻止した。

 

もちろん劉仁軌自身は、那珂大兄皇子に対する敵視の姿勢は崩さず警戒している。

只、和国での内争につけ入る隙を窺がっているにすぎない。

 

劉仁軌には、劉仁願による和国祝賀団の送使は奇異に映っていた。

 

「東海を鎮めるキビ政策にすぎない。口出しは無用!劉仁軌どのは百済を鎮める護民政策をなされてばよい。」

 

と嘘ぶく劉仁願に対し

 

(劉仁願は対高句麗戦に於いて最も危険人物である)

 

と判断した劉仁軌は、唐へ追い返しにかかった。

 

 

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劉仁願

 

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劉仁軌

 

 

「那珂津女王を擁立した和国の大海人皇子とは、聞けば高句麗のヨン・ゲソムン宰相のことではないか!」

 

「祝賀団まで派遣し敵国の傀儡政権を認めるとは!なんたる不義!貴様の様に危険な者は熊津都督府には無用!直ぐに出てけ!」

 

と、怒鳴り散らした。

 

 

劉仁願も黙ってはいない

 

 

「不義とは無礼であろう!言いがかりにも程がある!許せぬ讒言!

 

対立候補の那珂大兄皇子は白村江の戦いで唐軍に刃向いし凶者、是をおさえ即位した那珂津女王を祝うだけの事ではないか!

 

劉仁軌の方こそ、唐軍の敵那珂大兄皇子の肩を持つとは何事だ!それこそが利敵行為ではないか!」

 

那珂大兄皇子と大海人皇子の対立は、そのまま劉仁軌と劉仁願の対立に飛び火し過熱した。

 

 

那珂津女王祝賀団の足留めは、両陣営一歩も引かぬという緊張状態となった。

 

 

 

「皇帝派の首魁、李義府は唐国の官僚の地位を金で売り、あろうことか、かつて朝庭を操り思いのままにしていた佞臣・長孫無忌の身内にまで地位を売っていた。

 

著しく唐国を貶めたことにより裁かれ、宰相の地位は剥奪され地方に飛ばされたが、やがて彼の地で命を落すであろう、、

 

そなたは皇帝派の劉仁願などに何ら臆することはない。躊躇せず強気で押し返せ。そなたらの戦いは吾ら王宮での戦いでもある。決して引き負けてはならぬ。帰国など許さぬぞ!」

 

(皇后様は、李儀府の暗殺を決意されたか、、)

 

劉仁軌は武媚娘皇后から送られてきた過激な密書を読み、空を見上げた。視線の先に、宮廷の様子を思い浮かべている。

 

武媚娘皇后の響き渡る覇気とした声に、李義府を失った皇帝派の貴族らは、圧倒されているだろう

 

されば、、

 

「吾も劉仁願を圧す!」

 

と、劉仁軌は強力な追出しにかかった。

 

劉仁願の身辺を伺う様になり、時に兵も動かした。

 

「如何にして、李義府や李義府に繋がるお前らが、唐国の国事を腐敗させてきたか!明らかになりつつある、、李義府の復権などもう有り得ぬ、欲目で物事を見誤ればお前はもう終わりだ!

 

下手な事をすれば、首と胴が離れると知れ、、謀反としていつでも誅してやるぞ、」

 

劉仁軌は、王宮での李義府の失脚と共に劉仁願も排除してやると高圧的なもの言いをした。

 

 

「黙れ!皇帝陛下の帰国せよとの勅命に服さず、未だに留まるお前の方こそ叛心ではないか!」

 

劉仁願は反論するも、気圧されていた。

 

 

「その事なら既に、上申している。将、軍中にある時君命と言えど是を受けずだ。」

 

(李義府様が復権されれば、、)

 

と劉仁願は希望を持ちつつ、

 

「吾を殺めてから『謀反の兆しあり誅殺』となど上申することも有り得るやもしれず、、」と

 

警戒していた。

 

劉仁願は次第に居続けることが苦しくなってきた。

 

 

 

 

那珂大兄皇子は元遣唐使の博徳を筑紫に送りこみ、9月まで彼らの足止めを続けさせた。

 

 

博徳は5年前に和国初の遣唐使として、唐国の王都に向かった者である。

 

折りしも百済攻めの前、和国の遣唐使は全員幽閉され中臣鎌足は流罪が決まっていたが、博徳は助命嘆願を訴え出て高宗皇帝を説得し、鎌足を救ったほどの縦横家だ。

 

(縦横家=弁舌をもって国を動かす者)

 

唐国の高宗皇帝を説得したその気概と誇りで

 

「在官の劉仁願の使者如きに一歩も引かぬ」と、

 

既に対面していた元遣唐使の津守と共に強気な姿勢で望んだ。

 

来客を別館に呼び、僧智弁が

 

「表書ならびに献物はお持ちか」と、問うと

 

 

「将軍からの牒書1箱と献物がある」と、

 

 

郭ムソウは牒書1箱を智弁に授け奏上したが、3ヶ月以上経っても大和朝庭からは何の沙汰もなかった。

 

しかも、献物の調べも行わずそのまま放置された。

 

(牒=文字を書く札)

 

 

 

「宴はもうよい。何の意趣があって唐の使者をこの地に押し止めるのか!白村江の戦いで唐に刃向かい惨敗した敗戦国にしては有るまじき尊大な振る舞い!度し難し!」

 

9月にもなり、郭ムソウは、あまりに長い足留めに怒りをあらわにした。

 

 

博得らは(筑紫太宰の言葉であるが)勅旨であると偽り、郭ムソウらに告げた。

 

「今、客らの来状を見ると、客らは唐の天子の正式な使人ではない。百済の鎮将劉仁願の私使である。また頂戴した文牒は執事に送上する私辞でしかない。」

 

「これをもって使人は入国することを得ず、書も朝廷に上げることはできない。故に客らの任務は、概略を言葉で奏上し、お耳に入れることとする。」

 

と、続けそれで一切を打ち切ってしまった。

 

唐の高宗皇帝からの正式な使者でない限り、入朝させることは出来ないと言う断りであり、必ずしも唐の高宗皇帝の威光を損なうものではない。

 

寧ろ、元遣唐使達は唐の高宗皇帝の威光を語り、かつて皇帝陛下の怒りに触れ長安で幽閉された事を持ち出し、

 

「私的な文書を皇帝陛下をさしおき、大和朝廷で受け取れば吾らはまたも皇帝陛下への礼を失することになる!断じて受け入れる訳にはいかない!」などと、口々にたたみかけた。

 

かつて、遣唐使として唐の王都洛陽に行き皇帝陛下と直にやりとりをした国際人が和国にいるとは思いもよらず、

 

(所詮は王化も知らぬ辺境の菲民ども)と、

 

舐めてかかっていた郭ムソウは、突然の彼らの出現に冷や汗をかかされる。

 

彼らほどには皇帝陛下にお目見えしたことがない郭ムソウとは格が違い、郭ムソウが皇帝陛下の威光を嵩にきて元遣唐使らとやり合うのは役不足と言えた。

 

中臣鎌足ら大海人皇子派は贈り物と使者を筑紫へと送り、郭ムソウら祝賀団を歓待した。

 

「大海人皇子さまが居られぬ時に、、」

 

中臣鎌足は吾が力の及ば無さに臍を噛んだ。那珂大兄皇子派は強気である。

 

 

イリはこの頃、高句麗に戻っていたが離れることが出来なくなっていた。

 

親唐に寝返ろうとする城主らを統制する為に謀殺されていた。

 

唐も直ぐに高句麗を攻めるのでなく、百済を鎮し高句麗を瓦解させてから勝負をつけようと追い込みをかけてきている。

 

百済が完全に敗北した今、契丹、唐、新羅、唐帯方郡(百済)熊津都督府と高句麗は四面楚歌の状態となり、

 

唐の工作員の吹聴と喧伝によって不安に駆られた者らは

 

「もはや絶対絶命、命のあるうちに唐に降るしかない」

 

と、隠れて集まり密議する様になっていた。

 

「唐に寝返ったとて、唐軍は城主を生かしておかぬぞ!それが分からぬのか!」と、

 

いくら言ったところで、恐怖に取り憑かれた者達は何を言っても分からない。

 

イリは高句麗に留まり、強い高句麗を示さなければならなかった。

 

唐に落とされた城に近い城主は唐に降ることをことを考えていたが、イリはここに兵を増やし唐軍と対峙することが出来なかった。

 

飢饉により人々は飢え徴兵もままならない。

 

 

20年前、

 

日の出の勢いの大宗皇帝の唐軍を討ち払い「高句麗を攻めてはならぬ」とまで言わしめ

和韓諸国をも恐れさせていた、大化の改新の頃の強い高句麗軍はもういない。

 

20年間の度重なる戦さで、負けないながらも少しづつ国力を削がれ、国全体が疲弊していた。

 

今は、兵の多寡をものともせず唐国と対峙する遼東の猛将、テジュンサン将軍や楊万春将軍らの頑強な抵抗によって均衡を保っているにすぎない。

 

一介の城主には彼らの様な戦意はなく、もし例え兵士を増強したとしても、城主が寝返ればもともこも無い。

 

イリは苦肉の策で、実子である新羅の文武王に計り、新羅軍に攻めさせ新羅の城とした。

 

「唐軍の城になるよりは、せめて新羅側の城としてあった方が戦略的にはましだ、、」

 

 

 

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味方といえど敵である。

 

信頼出来ぬ味方より、信頼する敵に預けた。

 

 

12月、

 

博得は郭ムソウらに牒書1箱を授けた。

 

箱の表面には鎮西将軍と著してあった。

 

その箱には牒書があり、

 

「日本鎮西筑紫大将軍は百済国に在する大唐行軍摠管に牒す。

 

使人朝散大夫郭務悰らが到着した。牒書を開いて来意をしらべたところ、天子の使いでもなく、天子の書でもない。単なる摠管の使人であり、執事の牒書である。

 

牒書は公のものではないので、口頭で奏上するにとどめた。使人は公使ではないため入京させることはできない」

 

とあった。

 

郭ムソウらは百済へと帰還した。

 

熊津都督府では既に劉仁軌が劉仁願を唐国に追い返していた。

 

 

【挿絵表示】

皇后派・劉仁軌

 

後ろ盾である劉仁願が百済支配の政争に破れてしまい、郭ムソウらの使いは虚しく和国を後にした。

 

 

那珂大兄皇子は劉仁願と対立する劉仁軌に、

 

「那珂津女王即位祝賀は、劉仁願の私者であり、唐の正式な使者ではないので、入朝は認められない」

 

と密使を送り入朝を拒むのは、双方織り込み済みであった。

 

劉仁軌にしてもイリの傀儡政権を認める訳にはいかず、百済を鎮制している今、唐軍兵士を和国になど出兵させることなど出来ない。

 

しかし、大和で那珂津女王が既に擁立されてしまってる以上、迂闊に那珂大兄皇子が『大和』を名乗ることも『王』を名乗ることも出来なかった。

 

唐の擁立を取り付ける前であり偽りは礼を失するし、下手をすれば大海人皇子側に誅殺される名分となる場合もある。

 

慎重な那珂大兄皇子は仕方なく仮に

 

『日本鎮西筑紫大将軍』の名で代表し対応した。

 

熊津都督府での鎮将・劉仁軌と劉仁願の対立は、

 

つまりは皇后派と皇帝派の対立である。

 

 

その唐本国における皇后派、皇帝派の対立が、百済の熊津都督府を通じて、和国の那珂大兄皇子と大海人皇子の対立にまで影響を及ぼし、那珂津女王即位祝賀を阻む睨み合いとなった。

 

代理戦の様相となった睨み合いは

 

8ヶ月も続いた冷戦の結果、

 

皇帝派・劉仁願・大海人皇子側が、

 

皇后派・劉仁軌・那珂大兄皇子側に

 

抑えられ決着がついたかたちとなった。

 

 

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武媚娘皇后

 

 

「日本鎮西大将軍」とは、何処にもない官名である。もしも唐が、西日本の鎮将を那珂大兄皇子に任せた場合に授けられる様な称号である。

 

或いは、その様な動きが劉仁軌・那珂大兄皇子の間であったのかもしれない。

 

この使者に対する強引な拒絶は、和国に大海人皇子が不在とはいえ那珂大兄皇子にしてはあまりにも強気だった。

 

劉仁願が九州に足止めされている間も、彼らの目前で那珂大兄皇子側による壱岐・対馬・大宰府の兵の増強と築城は進められ、瀬戸内海側の長門にも城を築き岡山の鬼ヶ城の改築工事も行なわれた。

 

足止めというより、封じ込めに等しい。

 

白村江の戦いの敗戦国の皇子とは思われぬほどの、強気さである。

 

劉仁軌と劉仁願の対立により、劉仁願が兵を動かすことは出来ぬであろうと知っていた那珂大兄皇子は、唐軍の劉仁願よりも新羅軍の侵攻を恐れていた。

 

一方、劉仁願も背後にいる唐新羅連合軍の存在を誇示し一歩も引かない。

 

尚も劉仁願は、

攻めると見せかけて威圧し、容易には

攻めさせぬと那珂大兄皇子側は防備を固めた一触触発の戦気をはらんだ冷戦となった。

 

翌年、現実のものとなる。

 

しかし、

 

大和にいた大海人皇子側の那珂津女王は、

 

イリが不在であろとも那珂大兄皇子の要求は強く拒んだとみえ、勅は決して下さなかった為、

 

那珂大兄皇子側は、

『日本鎮西筑紫大将軍』と名乗るしかなかったのだろう。

 

 

 

 

 

【劉仁軌の死をかけた上奏】

劉仁軌と劉仁願、唐では高宗皇帝に百済征服について賞された二人である。しかし、

 

 

(劉仁願は対高句麗戦において極めて危険な人物である)

 

 

と判断した劉仁軌は、無理やり劉仁願を唐へと追い返していた。

 

 

 

 

10月、

 

劉仁願を唐へ追い返した後、劉仁軌は死を覚悟して高宗皇帝へ上申をした。

 

 

【挿絵表示】

皇后派・劉仁軌

 

百済熊津都督府の惨状をありのままに伝え、助けを請う奏上である。一切包み隠さず、現地の声をそのまま伝えた。

 

臣、

 

伏して見ますに唐軍の現地守備兵は疲弊し負傷者が多く、勇健な兵は少く衣服は皆貧しくくたびれてて、ただ帰国することばかり考えていて戦意が全くありません 、、

 

 

『吾がかつて海西にいた頃は、百姓らが自ら募兵して争うように従軍していたのを覚えてる。

 

自らも威服兵糧を携えて「義征」と言って従軍する者達もいたものだ。

 

それなのに、今の唐軍兵士はどうしてこんなに士気が無くなったのか?』

 

と、尋ねてみました。

 

『今日とかつてでは官府が変わってしまったからです、、人心もまた変わりました、、。

 

かつて東西の征役戦では軍事に没しますと、

勅使の弔祭を蒙り官爵を追贈され、あるいは命を落とした者の官爵は子弟へ授けられました。

 

おおよそ遼海を渡る者は、皆、勲一轉を賜ったものです。

 

ですが顕慶五年以来、征人は屡々海を渡るのに、官がそれを記録しないのです!

 

戦死しても、誰が死んだのか聞かれもしません!

 

大唐国の為に戦い、皇帝陛下に命を捧げた壮士達の勲功は全て官に握り潰され

 

皆、犬死にすることになるのです、、

 

この有様で、誰が往時の様に命がけで戦うことができましょうか?」

 

「州県が百姓を徴発するたびに、壮にして富める者は賄賂を渡して免れて、貧しい者は老人でも連行されてしまいます。

 

貧しく賄賂を渡すことが出来ない者達だけが戦場に出てるのです。

 

 

先頃は、百済を破り高句麗と苦戦しました。

 

当時の将帥の号令は勲賞を許し、至らぬ事はありませんでしたが、西岸へいくと、

 

ただ、枷や鎖で強制されると聞きます。

 

賜を奪い勲を破り、州県から追いかけられて、生きる事さえままなりません。

 

公私共に困弊していて、言い尽くすことすらできません。

 

そうゆう訳で、この度の戦へ出発する時、

 

既に逃亡する者達もいましたが、これは何も海外出征に限ったことではないのです。

 

又、もとは征役の勲級によって栄寵したものですが、近年の出征は、勲官でもお構いなしに引っぱり出しており、白丁と変わりなくこき使われています。

 

今まで武功や勲功を立ててきた者でも、足軽扱いされ、今後、いかなる武功や勲功を立てようとも賞されず犬死にしていくのが、今の唐軍なのです。

 

この様な訳で百姓は皆、従軍を願わず、貧しく戦場に駆り出された者達に士気がないのは、、この様な訳です。』   

 

と、言います。臣は

 

かさねて又、尋ねてみました。

 

『往年の士卒は鎮に五年留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、何故そんなにくたびれた有様なのだ?』

 

 

『家を出発する時に、ただ一年分の装備のみを支給されたのです。ですが既に二年経ちました。まだ帰して貰えません。』

 

臣は、

 

軍士達が持っている衣を検分しました。

 

何とか身を覆うことができるのは、今季だけでしょう。ほつれ擦り切れ来秋には裸軍という状態でした。

 

「陛下がこうして兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼすためです。

 

百済と高句麗は昔からの同盟国で、和人も遠方とはいえ共に影響し合っています。

 

もし守備兵を配置しなければ、ここは元の敵国に戻ってしまいます。

 

今、既に戍守を造り屯田を置きました。士卒と心を一つにしなければならないのに、、

 

士卒からはこのような意見が出ています。

 

これでどうして成功しましょうか!

 

増援を求めるのではありません。

 

厚く慰労を加え、明賞重罰で士卒の心を奮起させるのです。

 

もしも現状のままならば、士卒達は疲れ果てて功績などとても立てられないでしょう。

 

耳に逆らうことは、あるいは陛下へ言葉を尽くす者がいないからかも知れません。

 

ですから臣が肝胆を披露し、死を覚悟で今、奏陳します。」

 

 

高宗皇帝は、その言葉を深く納めた。

 

 

戦果の報告だけでは伝わらない遠征軍の惨状は、唐宮廷にも充分伝わった。

 

州県の知事から、兵服の支給の賄い方まで、民から取れるものは搾り摂り、その金でより高い官職を買い更に搾り摂るという中国特有の腐敗構造は変わらないが、大宗皇帝から高宗皇帝の代になり李義府の台頭によりその影響で唐軍が更に劣化したことは否めない。

 

 

中央では、劉仁軌の上奏に応え守備兵を交代させることになった。

 

 

また、

 

「白村江の戦いで、反唐軍を率いた扶余豊章は高句麗に、那珂大兄王子は和国にいるためまだ唐軍を引き上げるべきでない。高句麗戦は老いた自分では不安がある」

 

と劉仁軌は合わせて奏上したが、

 

なんと

 

高宗皇帝は再び劉仁願を百済総督におくりだす。

 

 

劉仁軌は驚く、、

 

帰国したばかりの劉仁願がまたも、交代の兵を率いて唐を出立した。

 

 

 

 

665年

 

李義府宰相が失脚したとはいえ、皇帝派と皇后派の臣の覇権争いは続いていた。

 

武媚娘皇后は中国の既得権勢力(関隴貴族集団)から支持を得られず、常に圧力に曝されていた。

 

 

【挿絵表示】

武媚娘皇后

 

これに対抗し、武媚娘皇后は自分の権力を支える人材を関隴貴族集団以外から積極的に登用した。

 

例え能力の高い者であっても身分の低い者の登用は関隴集団にとっては受け入れざることであり、更なる抵抗を生んだ。

 

唐が拡張していく以上、辺境の異民族や新たな人材を取りこまなければならなかったが、彼らにとっては既得権を脅かす存在でしかない。

 

かつて、唐の膨張期の大宗皇帝と長孫無忌は彼らを抑え積極的に新しい有用な人材を取り込もうとしてきたが、高宗皇帝の時代になると既得権勢力=関隴集団は高宗皇帝に取り入り、皇后と対立し続けていた。

 

皇后派の、李勣大将軍・ソル・イングイ将軍や劉仁軌将軍は常に彼らに足元を掬われる脅威に曝されていた。

 

 

歴代中国王朝で生き延びてきた「関隴集団」の根は深い、、

 

西魏・北周・隋・唐国と100年以上、王室と結びつき王朝を支えてきた「八柱国」という権門を誇る貴族集団である。隋や唐の王朝建国が早かったのも、国の支配層である「関隴集団」が味方についた為と云われていた。李義府の様な権勢家がいなくとも中央に権力の根を深く下している。

 

665年、

 

 

劉仁願は着任すると、

 

「疲弊した兵卒達と共に将軍も帰国するように」と、劉仁軌に敕した。

 

 

劉仁軌は、対高句麗戦において最も危険な人物は劉仁願だとみている。

 

 

またもやってきた劉仁願に対し、断りをいれた。

 

 

「国家が海外へ派兵したのは、高句麗攻略の為だが、これは簡単には行かない。

 

今、収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し軍将も去るなど、夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。これでは必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。まだ帰国することは出来ない。」

 

 

 

「なんと言うことを!吾が前回海西へ還った時、大いに讒言されたのだ。大軍を抱えて留まれば、海東へ割拠することを謀っていると言われ、きっと禍は免れない。今日はただ敕の通りにやるだけだ。どうして勝手に変更できようか!」

 

劉仁願は怒りを露わにした。

 

 

「いやしくも!御国の利益になることを知っていながら、臣として実行しない訳がない!

収穫が終わるまで留まるのは、唐軍も民らも安定し騒乱を無くす事なのだ!これは国益に適っている事だ!断じて今、帰国する訳にはいかない!」

 

劉仁軌は、

 

服さずに軍の逗留を上奏すると言った。

 

そして、これを上表して便宜を陳述し、自ら海東へ留まって鎮守する事を高宗皇帝へ請願した。

 

結果、

 

高宗皇帝はこれを認めた。

 

劉仁軌はまたもや残留することになった。

 

劉仁軌の劉仁願に対する警戒は一筋縄ではいかないが、後ろ盾である武媚娘皇后の力が高宗皇帝に是を認めさせ、皇帝派の権力集団『関隴集団』が武媚娘皇后に抑えこまれた結果である。

 

 

 

 

665年2月

 

和国では、大事件が起きていた。

 

 

イリが擁立した那珂津女王が暗殺された。

 

那珂大兄皇子が和国王に即位するという急報を聞いたイリは、怒り狂い急遽和国の大和宮廷へ向かう、、

 

お腹にはイリの子もいたという。

 

在位一年にしてイリの子と共に儚く散ってしまった。

 

「おのれ!那珂大兄!!己の即位の為、実の兄妹にまで手をかけたか!決してこのままでは済まさぬぞ!許さぬ!」

 



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第24章 和国【那珂津女王】の死

第1話 那珂津女王の悲劇
第2話 額田文姫 離縁の後
第3話 王女の生き様
第4話 額田文姫の素顔


665年2月、
和国の那珂津女王が毒殺により在位わずか1年で薨去する。那珂大兄皇子はイリ(大海人皇子)が高句麗にいる間に、殯の期間をとらぬまま早々に和国王に即位し宴を開こうとしていた。是に怒るイリと、共闘する新羅の文武王は和国へ約3万を派兵した。


【那珂津女王の悲劇】

 

665年2月 和国

 

那珂津女王が暗殺された。

 

 

イリが擁立し一年たらずしか経っていない。和国史上、最も在位の短い王となった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

そして、那珂大兄皇子が和国王に即位しようとている事を知ったイリは急遽、高句麗から早船を出し和国へ向かっていた、、

 

イリは、毒殺に対する守りだけでなく、那珂津女王の体調や食材にも気を使い、賄い方に食材や調理まで細かい指示を出していた程である。しかし、結果的に毒殺から守ることが出来なかった。

 

その自分への怒りもあり、和国に向かう船では空を見上げ、何度も言葉にならない叫び声を上げていた。

 

和国へは近江から上陸し、港は大海人皇子の尋常ならぬ怒気に騒然となる。

 

イリは急ぎ大和へと馬を馳せたが、

 

「大海人皇子来る」の急報はいち早く那珂大兄皇の元へ向かっていた。

 

が、早馬よりイリの方が早かった。

 

那珂大兄皇子のもとへ走る途中、先をいく急使を何人か斬り捨てて駆ける。

 

最初の急使だけは生きて朝廷に到着した。

那珂大兄皇子は、既に即位の儀式を終え宴の準備中であったが、大急ぎで元百済遺臣らの豪腕の者達を集め、自分を幾重にも囲ませ中央に身を固めた。

 

イリは、宮門をくぐると脇で阻もうとした門番らを跳ね飛ばし、狂った様に叫びながら宮廷へ乗り込んだ。

 

槍を大きく振り、那珂大兄皇子に向ける。

 

正面にいた数人の衛士らが止めに入るが制止できず、何人かが瞬殺され、次の瞬間には人垣に切れ目ができて、その先の那珂大兄皇子に向けて槍は振りおろされた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

刹那、那珂大兄王子はとっさのところで身をかわし、槍は床に刺さった。

 

一瞬、宮廷中が凍りついた。

 

腕に覚えのある者達が数人、那珂大兄皇子をまた囲んだが、イリから目を離さずに囲んでいるだけで汗が止まらず、気力を消耗している。

 

 

(今、イリ様お一人で戦うのは不利です、、どうかおとどまりを!)

 

中臣鎌足らイリ側の者達は正面から両手を広げ必死に制止した。

 

イリは、両手を数人の鎌足側の男らに押さえられ二戟を諦め、鎌足らを視界の隅に置き、那珂大兄王子への怒号を挙げた。

 

 

「吾は決してお前を許さぬぞ!」

 

「許さぬとはなんだ!和王に向かって無礼だぞ!」

と、返したが、

 

いつの間にか急を聞いて駆けつけた衛兵と百済人らが、更に数十人ほど那珂大兄王子の周りにひしめく様に集まってきて、人垣の奥に身を屈めたままの叫びであり、その姿は見えない。

 

「よもや実の妹まで毒殺するとは!そのつもりで吾との仲を認めると言ったか!」

その人垣に向かって、更にイリは叫ぶ。

 

「濡れぎぬでございます。女王様は病死です。」

居並ぶ郡臣らは口々に、那珂大兄王子をかばった。

 

「ならば何故、殯りをしないのだ!急死していくらも経たぬ間に、殯りもせず即位するなど、定法に外れた事をすれば、毒殺である事に疑いの余地はあるまい!」

 

 

イリの悔しさの叫びは念圧となり宮中の空気を圧し、誰も口を開くことができなかった。

 

イリの子供を宿したまま殺されたのかもしれない・・・

 

「妹が患っていて病で死んだのだ!そのために吾は病気平癒のための祈願まで行い、僧を出家させたのだ。虚空な言いがかりはやめろ!」

 

と、那珂大兄王子が沈黙を割り人垣の後ろから叫んだ。

 

 イリは声のする方を睨み、

 

「これで済まされると思うな!!」

 

と怒鳴り捨てて宮殿を去っていった。

 

 

殯りとは死後一定期間、亡骸を安置しておくことだが、死体を隠したり殯りを行なわないのは、亡骸の皮膚や骨に紫色の毒腫が浮いていて毒殺の証拠を隠蔽する為と云われていた。

 

しかし証拠はなく、中臣鎌足がイリの反撃を諌めたように宮中に殴りこみ槍を振るったものの、イリはその後の算段も何もない。

 

那珂大兄王子の和国専横を抑える為、イリはともかく高句麗を離れるしかなかったが、この時ほど高句麗と和国が海を隔てていることを 恨めしく思ったことはない。

 

 

(大業をなし得るまであと少しというところで、邪魔が入る、、)

 

 

 

【額田文姫 離縁の後】

イリは額田文姫を離縁し、晴れて那珂津女王の夫(=王)になるところで、全てを失った。

 

女王の夫どころか、今や皇弟でも皇太子弟でさえもない。皇室との繋がりは那珂大兄皇子の姫を娶っているだけだった。

 

悔しさに捉われていて、

イリにはまだ気づいてないことがあった。

 

『額田文姫』の存在である。

 

 

 

【挿絵表示】

額田文姫

 

 

中臣家に匿われているが、那珂大兄皇子と近しくなっているとの風聞があった。

 

那珂大兄皇子が唐の劉仁軌と繋がりを持ちはじめた時、

 

「唐の和王承認を望むのであれば、王室から大海人皇子を遠ざけるように」と指示され、

 

イリに対して

 

「吾が姫を娶らせる。妹・間人との関係も認めるが、額田だけは返して欲しい」と

 

イリに要求していた事があった。

 

 

この時、交換でイリに姫を差し出していたが、そこまでして、那珂大兄皇子は、義妹・額田文姫に特別な感情を持っていた訳ではない。

 

結果的には、皇太子イリの弟縁組の立場を変えた形になったが、王室との繋がりを変える為だけに、額田文姫を離したのだろうか?

 

 

額田文姫とイリが離縁した頃のこと、、

 

 

「大兄さま(=那珂大兄皇子)、、私をどうなさるおつもりでしょうか?

夫イリを説得し無理矢理に離したのは大兄さまでしょう。」

 

 

「イリとの離縁が悲しいか?だが、お前は間人に続く吾の妹だ。間人がイリに取られ那珂津女王となるなら、吾はお前をイリから取り返さなければならない。」

 

 

「夫イリの、力を奪う為に離縁させるのですか?大兄さま、、私はそれ程の者ではございません。何の力もなく、たしかに父は百済武王(和国名乗り=舒明天皇)ですが、大兄さまの様に上宮法王の血統でもありませぬ。

私を買いかぶりすぎなのでは?」

 

 

「いや、そうではない。お前にしか出来ない事もある。こちら側につけ。

お前にどうしても頼みたいことがあるのだ、、」

 

「そしてこれは、、、お前の為でもある。百済武王の姫であるが、お前の母は金氏の王族の鏡王だった。

 

今、お前は中臣鎌足のもとにいるが、

そこに居ては自由に動けぬためお前に頼めない。

 

吾が鎌足に圧力をかけるので、お前は中臣鎌足の屋敷から、中臣本家の大島のもとへと移させて貰え。そうでなければ、お前も娘の十市姫も政争に敗北すると思え。」

 

 

(いう事を聞かねば、毒殺するという事だろうか…)

 

額田文姫は押黙った。

 

 

那珂大兄皇子は、顔を曇らせたまま固まっている額田文姫を前に

 

 

(これで後は、唐の劉仁軌の後押しがあれば、、)

 

と、一人ほくそ笑んでいた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

那珂大兄皇子はこの時既に自分が即位する為に、

 

妹・間人(那珂津女王)を害する事を決めていたのだろうか、、、。

 

 

 

【王女の生き様】

 

那珂津女王こと間人皇女は、兄・那珂大兄皇子と共に数奇な運命を生きてきたが、義妹の額田文姫もまた悲運の人生を生きてきた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

金一族の姫であり、父は百済武王で、

 

和国名乗り・新羅名乗りでは額田王とも文姫とも云われ、イリの妻となり離縁された後、

 

やがては母の名乗りを継ぎ、鏡王、鏡姫など金一族の王族の継承者を名乗る様になっていく。

 

そしてイリ(天武天皇)の死後は代わって政務を執り、新羅王だったイリの実子・文武王を和国の文武天皇に即位させた。

 

天武天皇の皇統を持ち続ける為に、イリに代わり天皇の政務を執った事から、持統天皇とも呼ばれた。

金一族の王族の血統を絶やさぬ為でもあったが、ひいては、那珂大兄皇子こと天智天皇系の王族に玉座を明け渡すことなく最後まで、イリ・天武天皇系の王統を守った。

 

また、イリとの間で生んだ史は、後に「藤原不比等」と改名し貴族時代の祖となる。

 

イリの死後は、額田文姫が日本建国の大業を受け継ぎ、史上初めて『日本国』の国号を使って遣唐使を送り、日本国の名を公式に世界に知らしめた。

 

時の中国皇帝「武則天」に、

 

「皆の者!もう和国という国は無いのでその名で呼んではいけない。『日本国』と呼ぶ様に。」

 

と、言わしめた人である。

 

しかしながら、影の存在である額田文姫のそれらの偉業は、あまり知られてはない。

 

影というよりも、もっと知られざる深い闇が彼女にはあった。

 

 

 

【額田文姫の素顔】

 

もう一度、額田文姫という人物の過去について触れてみる。

 

父は百済武王(和国名は舒明天皇)、

母は和国金一族の里から嫁いだ鏡姫であり、

 

まだ10歳にもならない子供の頃、百済の武王が親唐派となり親唐国の新羅と国交を回復した時に、和平の証しとして百済から新羅の金春秋のもとへ嫁いだ。

 

 

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額田文姫

 

 

ここで、新羅の金ユシンのもとで修行をしていた少年時代のイリとも出会った。

 

 

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まだこの頃は、額田という和国名乗りはなくただ文姫と呼ばれていた。

 

百済と新羅、両国の和平の象徴の様な姫だったが、百済の政変でウィジャ王の手によって父・武王が除かれて反唐国になってしまうと、親唐国新羅の金春秋に離縁されてしまい、百済に戻ることができなかった為に、耽羅(済州島)へ島流しになっていた母・鏡姫や義兄の那珂大兄皇子ら武王の王族を頼っていった。

 

どこに行っても

 

「敵国の血が流れている姫」

 

と、言われ忌避されていた額田文姫も、耽羅ではその様な物言をされることはなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

そして親唐派の蘇我氏が権力の座にいた和国へ、那珂大兄皇子や宝皇妃(斉明女王)らと共に亡命した。

 

ここで、母鏡姫とは死別してしまう。

 

 

孤独になった額田文姫を待っていたのは、反唐派のウィジャ王らによる大化の改新だった。和国でも、親唐派の蘇我氏が除かれてしまい反唐国となり、その恩賞として額田文姫はイリに嫁ぐことになった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

そして、イリとの間に十市姫が生まれた。

 

額田文姫は東奔西走するイリとは離れ、和国の金一族を率いていた。

 

百済武王の姫ではあるが、斉明天皇(宝皇妃)や那珂大兄皇子らからは、母が新羅の金一族の鏡姫であるため『新羅の姫』と侮蔑され、同じ百済王室の者として扱われることはなかった。

 

生まれてきただけで、傷つくことが、多すぎた。

 

 

正妃の宝皇妃にとっては数々の政敵の一人だったが、那珂大兄皇子は執拗に目の敵にし

 

「お前は本来、ここに居るのは許されないはずだが情けで居させてやっている!」

 

「命があるだけ有り難いと思え!」

 

と、ことある事に抑えこみ、

 

蔑み、賤しき者とすりこみ続けてきた。

 

和国へ亡命したばかりの頃、那珂大兄皇子の息子が暗殺されてしまったが、、那珂大兄皇子はこれを和国の過激反唐派の仕業ではなく額田文姫の手引きに依るものと決めつけた為、何度か報復で殺されそうになった事もあった。

 

やがてイリの第二子を懐妊すると、中臣鎌足に預けられ男子を生む。

 

史(ふひと)と名付けられ、当初は中臣鎌足の子としてイリの子である事は隠して育てられたが、後に養父田辺氏に預けられた。

イリの妻でありながらもイリとは疎遠であり、二人の関係を政略結婚の形として見てそれほど警戒する者はいなかったが、しかし例え離れていても流転し続けてきた姫・額田文姫には和国では夫イリにしか拠り所が無かったのだ。

 

 

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額田文姫

 

和国の金一族が、他国から流れてきた額田文姫に従っていたのも、背後にいる実力者イリの存在も大きい。

 

新羅で姉のように慕っていた宝姫は鏡王を名乗るが、和国の金一族を率いていた額田文姫はこれを憚って鏡王を名乗ることもなかった。宝姫がイリと恋仲になり、イリの子を宿した事も輝かしく思え、心から宝姫を祝福していた。

妊娠が発覚した後に、宝姫が焼き殺されそうになるのを見て、金一族の王女として生きる厳しさを知ったのもこの時だった。

 

 

 

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イリという後ろ盾が無ければ、那珂大兄皇子の下で陽の目をみる事もなくひっそりとしていて、何れは亡き者にされていたかもしれない。結婚は例え政略結婚であっても、那珂大兄皇子の要求によって正式に離縁するまでは、少なくともイリと気脈を通じている存在だった。

 

 

時を戻し、数年前のこと。

 

和国から百済へ援軍を送ろうとする那珂大兄皇子と大海人皇子に対し、唐と百済復興軍との戦争に介入して反唐の立場になる事を嫌がっていた斉明女王は、九州の朝倉宮に留まり派兵に抵抗していた。

 

 

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結果的に、斉明女王はそこで暗殺されてしまい、和国は大体的に百済復興の軍事介入が行える様になり白村江の戦いへといたった。

 

表向きは病死であり、神木の祟りと噂されていたが、仮に斉明女王が暗殺されたとして、

その謀略に関われる立場にいた身近な者は、斉明女王の子である那珂大兄皇子と間人皇女以外では、額田文姫しかいなかった。

 

額田文姫にとっては母・鏡姫(鏡王)の政敵であり、正室の斉明からは酷いあつかいを受けていて悲しみのうちに亡くなっていった「母の敵」という悔しさが、心の闇に沈んだままで斉明女王に対する憎しみとなって、夫イリの派兵の為の障害を除くという要求と絡みあったのかもしれない。

 

 

夫イリと正式に離縁し那珂大兄皇子の側に戻った今、額田文姫の拠りどころは那珂大兄皇子しかいない。かつて新羅の金春秋に嫁ぎ、離縁された後による術もなく島流しになっていた義兄の那珂大兄皇子に頼った時と同じ境遇がやってきた。

 

そして過去の様々な思いが蘇るうちに、王女としての使命を思い出した。額田文姫の願いは、イリが王となり自分は女王となり二人の子供に王統を継がすことだった。

 

義兄妹の間人皇女こと那珂津女王は政敵である。

 

 




次章へ分筆し、一部加筆致しました。


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第25章 唐 対 高句麗【最終決戦前夜】

第一話 新羅 対 那珂大兄皇子
第二話 前哨戦の意義
第三話 別れ
第四話 三分の計




【新羅 対 那珂大兄皇子】

那珂大兄皇子は、唯一の政敵であった妹が除かれたことで、

 

「是で、吾の即位はもう阻むことはできぬわ」

と、胸を撫で下ろしていた。

 

 

 

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ところが、

 

翌月、3月になり新羅から27000人の兵が突如として侵攻してきて和国は騒然となった。

 

表向きは「新羅文武王より遣わされた那珂津女王の弔問の使いである」と言い軍事行動ではないとしていたが、

 

前代未聞の27000人の弔問使であり、那珂大兄皇子が那珂津女王を害し、

和国の王となった事への逆襲である事に間違いはない。

 

折しも西高東低の強風の中、新羅の弔問船団は一気に和国へと向かってきた為、

 

立ち向かう防衛拠点の和国船は向かい風を受け矢も放てず、

 

風に翻弄されてしまい新羅船団に対して接舷することもできなかった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

唐新羅連合の軍監も知らなかった急転直下の出来事であり、

当の和国の那珂大兄皇子よりも、

和国王の承認に動こうとしていた唐の劉仁軌将軍の方が、この新羅勢の侵攻に驚いた。

 

 

 

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(今、那珂大兄皇子の和王即位を承認すれば、唐新羅連合は崩れやしまいか…)

 

劉仁軌将軍は考えこむ…。 

 

高句麗との決戦に備えている今は、海の向こうの和国になど構っている余裕はない。

 

百済を支配している唐軍は、全て高句麗に刃を向ける為に駐屯しているのだ。

 

那珂大兄皇子が和王となれば唐側は承認することを以って、白村江の戦いの講和として、後顧の憂いを除き、開戦へ向かうつもりでいたので、

この新羅軍の派兵は、

那珂大兄王子を攻めるだけでなく、唐軍の動きを一時止める事にもなった。

 

 

あくまでも弔問使との姿勢は崩さず、軍事行動は起こさなかったが進軍は早く、明らかに正式な弔問ではない。

 

例え軍事行動に出たとしても、新羅には

唐新羅連合がある以上、那珂大兄王子に対して

 

「白村江の戦いに和軍を派兵し、吾らに刃を向けた報復をする」

 

という大義名分がある。

 

二万七千人の弔問使が軍事行動にでるのは、時間の問題と思われた。

 

 

 

 

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那珂大兄皇子側は、この巨大な弔問団を食い止めなければならない。

 

「吾ら新羅王の弔問の勅命を奉じ和国の英邁なる那珂津女王の哀悼にまかりこした!早々に都へ案内されたし!」

 

「都への立入りはなりませぬ!お帰り下さい!」

 

和国の者が叫ぶと、新羅兵らは一斉にざんっと足を踏み鳴らし、

 

剣を高々と抜き上げて

 

「弔問を受けられよ!!」

 

と、全員が大声で叫んだ。

 

 

和国の者は驚愕する。

 

一糸乱れぬ恫喝に、和国兵とは違い相当訓練を重ねた精兵であることが伝わる。弔問客でないことは明らかである。

 

「弔問の使いであるならば、剣を納め正式な手続きを待たれよ!」

 

新羅勢は耳を貸さず剣も納めぬまま、一方的に弔問であることを主張し続けた。

 

 

 

「吾らに剣を取らせよ!」と、

 

和国にいた亡命百済人や百済兵らは、百済を滅亡に導いた新羅人を眼前にして熱り立つ。

 

和国勢は、百済人の勇み足を抑えつつ布陣を整え、

新羅勢は、一気に飛鳥まで抜き

那珂大兄皇子を討つ為、楔陣形を組んだ。

 

 

キュルルルルル

 

と、かん高い鏑矢の音を合図に、火蓋は切られた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

剣戟の音が響き渡り、亡命百済人達は亡国の怨みをはらさんと皆、鬼神の如く襲い掛かったが、和国兵は武術を知らぬものが多く戦意が無かった為、崩れる様に退散した。

 

那珂大兄皇子勢は押されてしまい後退しながらも、なんとか是を和泉で食い止めた。

 

難波からは百済から亡命してきた鬼室集斯将軍らが兵を率いてき駆けつけたため、時が経つ毎に、海を背にして戦う新羅軍は不利な状況となっていき、新羅軍は撤退した。

 

新羅に引き上げるにも風がおさまる夜まで船上で待ち、

 

停泊を繰り返しながら戦うため、新羅側は大打撃を受けた。

 

救いであったのは、白村江の戦いの後の和国軍は無力化していて、新羅を目の敵にしている亡命百済兵だけが追撃してきた事である。

 

 

イリは高句麗から兵力を回すことは出来ず、この新羅側の敗戦により事実上、那珂大兄皇子は『天智天皇』として即位した結果になった。

 

イリは、何度も拳を振り回し歯軋りをして悔しがったが、高句麗での課題が山積し、和国のことはこれで一先ず置いて置かなければならなかった。

 

 

 

【前哨戦の意義】

 

新たな和国王『天智天皇』は、

 

「大化の改新」や「甲子の宣」などの国造りの為の宣撫は行わず、

 

専ら自分の勢力づくりの為の政策と防衛策に専念していた。

 

百済から亡命してきた鬼室集斯に、百済の官位を勘案し、また鬼室福信の功績を賞して小錦下の位を授け、また百済人男女400余人を近江国神前郡に居住させる等、亡命百済人の為の施策を行った。

 

 

『もう吾の即位を阻める者などいない』と、

 

思った矢先に、新羅が侵攻してきたことは驚かされたが、

 

唐軍が百済に駐留しまもなく唐高句麗戦が開戦されるだろうという時期に、これだけの大軍を和国におくりだすのは新羅にとっては危険の高い事だった。

 

高句麗と共闘して反唐の旗を揚げよう企んでいる新羅としては、後顧の憂いを除くため、

親唐の那珂大兄王子の和国王即位は止めるしかなかった。

 

新羅軍が那珂大兄王子を倒せば、イリは娶っていた那珂大兄王子の姫を「和国女王」に擁立し、夫のイリが和国王となり反唐の兵を共に揚げるという計略で、朝鮮半島の唐賊を駆逐する最終決戦へと望む構えだった。

 

一触即発の状態になり、百済の劉仁軌も、駐留している唐軍を動かし、事あらば渡海すると見せかけ、和国に駐留する新羅軍を牽制したが、劉仁軌の目的は、和国攻めなどではなく高句麗滅亡の一点に絞られている。

 

高句麗戦を目の前にして、和国になど出兵している場合ではない。

 

もしも、ここで旧百済領に駐屯する唐軍を和国へ向けでもすれば新羅は唐新羅連合を破棄し、挟撃してくる可能性もある。

 

そうなれば、百済を抑えたばかりの唐軍などひとたまりもなく高句麗攻めどころではない。

 

高句麗戦の前に、和国などの局地戦で兵力を損なうなど許される状況ではなかった。

 

和国への渡海は、高句麗戦を控える唐軍にとって不利な事しかなく、

 

劉仁軌は、和国対新羅の戦闘の拡大を抑えるために苦慮していたので、

 

この前哨戦で和国が勝利した事に、まずは胸を撫でおろした。

 

 

 

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【別れ】

 

「最後まで守ってやれずにすまぬ、」

 

イリは皆を見渡し、

 

頭を下げてつぶやいた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

高句麗に戻ったイリは、王都平壌の自宅で身内だけを集め、「病気」と称して引き篭もったまま密議をしていた。

極秘でやってきた宝蔵王と、

 

遼東からは楊万春、テ・ジュンサン将軍と隠し子の『テ・ジョヨン』、

 

そして長子「ヨン・ナムセン」、

 

病を見舞うのは周囲からはよほどの重体なのではとみられ、ざわついていた。高句麗の五大部族らは、いよいよイリが宰相の地位を息子に継がせるものとみて固唾を飲んでいる。

 

「任武王子よ…」(任武=イリ)

 

 宝蔵王は養子であるイリに語り始める

 

「朕は、最後まで高句麗に残り反唐の壮士達の味方をしよう。王である以上、逃げも隠れもできぬ。王子は和国へ行き唐賊の及ばぬ強国を立てられよ…、共に行き力になってやれず残念だ。」

 

宝蔵王はイリに近づき手を取って、頭を下げた、、

 

「反唐派の栄陽王の王子だった朕を擁立し、高句麗王にしてくれたのは任武王子よ、そなただ。そなたの事は決して忘れぬ。」

 

宝蔵王はイリの手を握ったまま続ける。

 

「王子がいなければ、朕は親唐派の王の下でいつ害されるかと怯えて生きながらえるしかない立場だった。

 

反唐派の父・ウィジャ王は朕を見捨てて和国へ逃げたのだ。

 

しかし、任武王子は違う、、こうして玉座に朕を座らせ王にしてくれ、この乱世にこれ程まで生きながらえる事が出来たのだ。」

 

 

宝蔵王は、高句麗で孤独に怯えていた頃を思い起こし涙を浮かべた。

 

「朕は、王としてこのまま高句麗と運命を共にする。任武、そなたは和地へ行き唐賊を攘夷する強き国の王となれ」

 

 

「義父上、、、」

 

イリは、言葉を詰まらせる。

 

イリと宝蔵王は義理の親子の契りをかわしていて、王の養女を娶り任武王子と呼ばれていた。たが、東奔西走するイリは滅多に長く王の近くにいた事がない。

 

これが最後と思えば、(言葉が出ぬものなのか)と…イリ自身驚いていた。

 

 

イリは身内らを集め、高句麗から和国へ拠点を移す提言をしていた。

 

高句麗の部族長らがいつ親唐に寝返るか分からぬ中、戦準備をしてる間に背後の和国までが親唐国になりつつある。いっそ高句麗から和国へ行き、親唐派を蹴散らして和地を拠点とするという考えだった。

 

だが、イリと違い高句麗から和国へ行来したものはなく、誰もが難色を示した。

 

 

楊万春とテ・ジュンサン将軍らは遼東方面の安市城を守り抜いてきた入りの両翼だ。

今回、イリとの会合の為、平壌まで来るのに兵二千五百を率いてやってきていた。

 

 

この来訪に平壌の都は騒然となり、

 

「戦さぞ」と 

 

中央と遼東の対立に火がつくものと思われていた。

 

しかしこれは、イリからの「兵を率いて参れ」との指示もあり、中央で盤踞する五大部族に対する威嚇の為で全く戦うつもりはない。

 

唐軍は難攻不落の安市城を落とすことが出来ない為、間諜を送り込み保身の為に唐側になびこうとする五大部族らを使って、中央の平壌と遼東を守る将軍らを離間させる細作を続けてきた。

中央の部族長らは見事に躍らされ、遼東を見下す様になってきたので、遼東の楊万春将軍らは唐の離間策どおりに敢えてこれに乗って、平壌に対する警戒で兵力を率いてきたのだ。

 

殺気を放ち、都入りしてきた楊万春将軍の怒気に触れ、平壌の部族長達は

 

(楊万春を本気で怒らすと、無事では済まぬ)…

 

と恐れ慄き、遼東に対する誹謗中傷は暫く沈黙した。

 

 

 

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楊万春将軍

 

 

 

楊万春ら遼東の守将らは、戦意を高らかに唐賊に一歩も引かぬ覚悟を表明した。

 

「イリ閣下!吾らも安市城からは動かぬつもり。唐軍と唐になびく中央の部族長どもの心胆を寒からしめ、隋軍100万を跳ね除けた吾らの志魂を刻んでやろうぞ。」

 

イリはオウ!と頷く

 

「頼むぞ。吾は和国へ渡り天智(那珂大兄皇子)を阻止せねばならぬ。吾らと気脈を通じる劉仁願が唐皇帝の勅命で百済の都督に来たものの、先年、百済熊津に駐屯する劉仁軌に追い返された。

 

そして先月、唐からは唐側へ亡命していた元百済王子・隆が代わりにやってきたが、あろうことか劉仁軌は、この隆王子と那珂大兄皇子と吾が息子の新羅文武王を集め、無理やり和睦させたのだ。そして。今まで延期していた『封禅の儀』に参加させる為、百済と新羅と和国の使者を唐に向かわせたのだ。」 

 

イリは、語りはじめた。

 

「息子の文武王は唐新羅連合の手前、賛じたが、この和睦調停によって唐は遂に決戦に出ることを決めた。

 

戦は近い。和国へ新羅兵二万七千を派兵した時の様に、また兵を出すことが容易に出来なくなったのだ。

 

唐の高宗皇帝は、極東アジアでの今回の騒乱があった為に『封禅の儀』を延期していた程で、新羅と和国には神経を尖らせている。これが無事に終われば決戦に出る気だろう。

(=天下泰平を天に捧げる儀式)

 

逆に言えば、吾らにとっては起死回生の反撃の機会は今しかないのだ。」

 

 イリは続ける。

「百済熊津の鎮将・劉仁軌は、那珂大兄皇子の天智王即位を認めて、唐と和国との講和にしたつもりだろう…

これによって白村江の戦い後の極東アジア泰平を了として、封禅の儀に臨むつもりなのだ。今や唐国の天下布武の最後の仕置きは、アジア天下の果て和国にかかってきている。

 

天下の果てまで唐の威光が届かなければ『封禅』とはいかぬが、吾らが高句麗を飛ばしてでも、和国を親唐国にして於けば唐の威光は天下の果てにまで及んだ事になる。

 

吾は、和国へ渡り那珂大兄皇子を阻んでくる。」

 

 

 

 

【三分の計】

 

「もしもの時は、新羅文武王の助けを借りソル・イングイか蘇定方を頼れ!

 

諸葛孔明の天下三分の計は分かるな。」

 

イリは居並ぶ息子たちに問う。

 

イエ!!

 

と、息子のテ・ジョヨン、ヨン・ナムセンは同時に声を上げてイリの目を見て答えた。

 

その昔、漢末の時代、曹操が力を伸ばしてきた時に、諸葛孔明は主君の劉備玄徳に対し、

 

「もはや王を囲い込み王命を思いのままに発している曹操を倒して漢王朝を再興するのは無理なので、まず呉の孫権と天下を三つに分けて国と成しそれから再興するべき。」

と言う天下三分の計を上奏した。

 

高句麗では首都平壌の中央部族らが親唐に傾き、遼東と対立はどうにもし難い状態になってきてるので、いっその事、扶余方面の国内城とでそれぞれ権勢を三分割して

 

『扶余』対『平壌』対『遼東』で、三分の計を図れという事がイリの戦略だった。

 

 

「部族側にも吾らと気脈を通じる者がいる。まだ若いが若光という者だ。王都の警護をしているが、若光は一度和国へ行かせるので、テ・ジョヨン!その間お前は中央に留まりり陛下のお守りをせよ。

 

ヤンマンチュン将軍とテ・ジュンサン将軍は今までどおり遼東を守り抜いてくれ

 

そしてヨン・ナムセン!お前は視察と称して高句麗の北西にある『国内城』に行ってそこを死守しろ!

 

これをもって高句麗の三分の計となす。

 

今の高句麗は、唐の細作と五代部族らの暗躍によってほころび崩れかけている。

 

もはや、もうどうにも立て直しが効かないくらいまで来ているのだ、、吾がここに止まり部族たちを制圧し続ければ他の事が立ち行かね。かくなる上は吾は和国に行って態勢を立て直す。」

 

 

イリは眼に力を込めヨン・ナムセンとテ・ジョヨンに号令する。

 

「吾が間諜によれば、 まもなく部族どもはヨン・ナムゴンを立てて反乱を起こすつもりでいる

 

テジョヨン!

 

お前は中央にあってこの動きを逐一見張り、そして何があっても陛下をお守りするのが努めだ。

 

そしてヨン・ナムセン!

 

お前は唐軍の進撃に備えて『訓練場を視察しに行く』といえば高句麗の北西からも唐は進行してくるであろう、、

 

しかし、平壌城にいたとしても無事では済みまい

 

いまや唐軍は船で直接平壌にも攻撃を仕掛けてくる。

 

むしろ国内城や遼東で籠城していた方が生き残れるかもしれない。

 

決して命を粗末にするな、、

 

平壌にいれば犬死にさせられるか、

策を巡らす部族長らによって命は危ういものとなる。遼西に入ってでも必ず生き延びろ!

 

困ったことがあればお前の兄である新羅の文武王に相談するが良い。」

 

 

しかしイリがいなくなった途端、平壌の中央部族らは圧勢を強めてきた。ヨン・ナムセンは彼らの陰謀に踊らされ、契丹族を率いる唐軍のソル・イングイと結んでしまった。

 

これにより平壌を抑えている弟ヨン・ナムゴンや部族長たちと戦うつもりでいる。

 

イリに後を託された者たちは、この短慮を抑えるためにすぐに動いた。

 

 

 




久しぶりの投稿です。

一部、前章からの分筆と改編をしています。

ブログの方の「聖なる国 日本」を書籍化することになり、暫く執筆していた為、
本小説から遠ざかってしまっていましたが、ようやく入稿が終わり、

これから少しづつ進めていきます。

翌666年、次章からは遂に唐と高句麗の最終決戦へ突入します。


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第26章 唐の高宗皇帝『封禅の儀』とイリの国葬

665~666年
【天下最果ての暗雲】
【大友皇子】
【封禅の儀】
【イリの葬儀】

前代未聞の27000人の新羅弔問使による上陸戦の後、
瀬戸内海を越えられ本州での戦いとなった事に衝撃を受けた天智天皇側は、大急ぎで長門と筑紫に城を築き始めた。この城は翌665年8月に完成し、和国の防御力増強を待っていた唐は、和国の天智天皇へ使臣を送る。

イリとイリの息子である新羅文武王の絆は固く、極東に残る反唐の主軸であり、唐はイリ親子の抵抗を阻む為にも、天智天皇を承認し親唐国としての和国を安定させる必要があった。



【天下最果ての暗雲】

 

唐軍百済総督の劉仁軌は朝鮮半島と和国の政情に精通していた。

 

昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵となる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

表向きは、百済に駐屯する唐軍と同盟国の新羅軍は、唐軍が高句麗を攻める時の援軍として、後方から高句麗を挟撃する構えである。

 

天智天皇の和国が唐軍側であれば、高句麗勢は劣勢の様に見えている。

しかし、実情は虎視眈々と和国を狙っているイリや新羅軍が天智天皇を倒し、和国を取れば、

たちまち新羅は反旗を翻し新羅と和国から攻められ、百済にいる唐軍と自分の命脈も危うくなることは分かっている。また今度、瀬戸内海を突破される様な事にでもなれば次はどうなるか分からない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

もしもその様な事態になれば、本国の高宗皇帝の高句麗出征の機会も戦機を逸する事になるだろう。

「かくなる上は、命が尽きるまで剣を振るうしかない…」

 

劉仁軌は、死を覚悟していた。

 

そして、和国の天智天皇には、親唐国としての和国をなんとしても死守させねばならず、筑紫と長門で築城している瀬戸内海の防衛拠点の完成は必至だった。

 

もしも是を破られれば天智天皇らよる親唐の和国は、イリの支配する反唐国となってしまう。

 

新羅軍27000人が瀬戸内海を通過し大阪湾から上陸した事は、和国の者などよりも百済を総督している劉仁軌が最も心胆寒からしめられた。

 

これにより「白村江の戦い」の戦後処理も、早く進めねばならなくなっている。

 

勿論、封禅の儀と、高句麗戦を控えている唐国としては、アジア天下の果てにある辺境の島国にまでわざわざ海を越えて報復している場合ではない。

しかし、報復しなければ「白村江の報復である」として新羅からの侵攻の口実を与えてしまう事になる。27000人の兵を弔問使として送り出した事により和国の軍事力を把握した新羅側は既に次の手を考えているかもしれない。

 

劉仁軌は、唐に亡命していた元百済王子・隆王子が、百済の総督を劉仁軌と交代する為にやってくる事になっていたので、その到着を待っていた。

 

—「交代の儀、命を奉じまかりこしました。」

 

緊張しながら当たりを気にするような所作で、唐国より隆王子が百済総督府へ入城してきた。先年、城を捨て唐軍へ亡命して以来の百済であり、百済が唐の支配下となった今、元百済王子である隆王子は人々の目が恐ろしかった。

 

(未だ残っている元武官らは、唐にいち早く降った吾を何と思うか…)

 

劉仁軌の心配の種は、交代で百済総督となる隆王子の事よりも、

目先の天智天皇の和国の「内憂外患」の状態だった。

 

今、即位して間もない天智天皇の和国と公式に講和してしまえば、和国内の反唐の者や亡命百済人達がこれを許さず、今までの親唐派の王たちの様にイリに国内で廃されてしまうだろう。そしてもしもイリが和国の天智天皇を除けば、すかさず娶っていた天智天皇の娘を女王に擁立し、自分は女王の夫・王として和国を動かすことは目に見えている。

 

唐にとっては和国の戦後処理ごときは枝葉の問題とは言え、イリが虎視眈々と和国を狙っている以上、放置しておく訳にもいかなかった。新羅には圧をかけつつ、天智天皇には和国王の承認をエサに現在築城中の瀬戸内海の二城の強化を急がせていた。

 

その後は、天下の最果てにある島国の者を「封禅の儀」に参列さえさせれば、天下の果てまで威光は届いたことになり、和国ごときに報復や講和などせずとも天下泰平は成就する。

※封禅=天下が泰平に治まったことを中国の霊峰・泰山で奉じる儀式

 

唐軍の遠征が遠路になるほど、自軍のみでの遠征は不可能であり、出征先の勢力に味方させるのは必定であるが、

 

「それにしても、皮肉なものだ・・・」

 

と、劉仁軌は深くため息を吐いた。そして、

 

「水を持て」と、近習の者に命じ、酒をあおるかの様に飲み干した。

劉仁軌は、百済総督として熊津城の執務室にいる時でさえ、戦線の幕舎にいる時と同じ様に酒も茶も飲まない。常に臨戦態勢である事を忘れずにいる。

 

「それにしてもだ。つい先年まで刃を向けていた和国に対し報復するどころか、和国の防衛強化まで心配せねばならぬとはな…。」

 

しかも、唐皇帝の「封禅の儀」を遅らせて、和国の体制が整うのを待っているのだ。笑わずにはいられない。

水を飲み干した劉仁軌は、あまりの滑稽さに大声で笑い出した。

 

唐の承認が欲しい天智天皇は、築城を急いでいた。

 

 

 

【王者の相 大友皇子】

瀬戸内海防備の城は完成した。劉仁軌は、新羅軍に終戦を認めさせ下手な動きをさせぬ様にと、唐本国から唐に亡命していた元百済王子・隆王子がやってくると、

 

直ぐに新羅の文武王と引き合わせ、無理やり百済と新羅の講和をさせた。

 

この結着は双方納得のゆくものではなかったが、新羅の文武王は「唐・新羅連合」の手前、

「否」と、断り切ることが出来ずに仕方なく講和の儀に参列した。

 

公式ではないが、和国の者も儀式には参列し、非公式に天智天皇側とも講和した形にはなった。

 

儀式では、領土へ侵入しない事を誓わされたが、新羅が和国へ侵入することも封じる為である。瀬戸内海の防備と同様に「封禅の儀」を執り行う前に、どうしても決めておかなければならない講和条件だった。

 

劉仁軌は、百済と新羅の講和の儀式の後、「封禅の儀」に参加する為に和国の使者を連れて帰国し、新羅と百済の使節は回路より封禅の儀に向かった。

 

半島で講和が済んだ後、翌9月になると唐国からの使者・劉徳高が和国入りしてきて、那珂大兄王子を和国王(天智天皇)として認める唐の意向を伝えてきた。

そして、西日本の新羅防衛線を視察しつつ各地を周り、劉徳高が大和入りして歓待を受けたのは11月に入ってからだった。前年に、追い返された郭ムソウも含む総勢254名の大使節団であり、以前、遣唐使として唐へ逃がされていた僧・定恵も伴っていて、唐本国からの使節団であることは、誰の目にも明らかだった。

 

歓待を受けた劉徳高は、天智天皇の息子の大友皇子の顔をみて、

 

「なんと! 王者の相をしている」

 

と言った。

 

唐の使者が、居並ぶ群臣の中であえて声を大にして言うとは、唐国が皇太子として認めると宣言したのも同然の物言いである。直言ではなく間接的であったが、この一言により天智天皇も和国王として扱われ、自称和王ではなくアジア天下で国際的にも認められた形にもなった。唐に認められると言うことは、アジア世界に和王として認めれられたに等しい。

 

 

【挿絵表示】

 

※アジアにおける唐国と唐の勢力圏

 

唐軍としては、イリが万が一天智天皇を廃した場合に備え、他の者の擁立を抑える為にも、未然に親唐派の皇太子を決めさせておかなければならなかったのだ。

 

 

 

【封禅の儀】

唐の使者が和国入りした事を重くみた高句麗は、高句麗からも「封禅の儀」に参列する為の使者を送使する事にし、福男が唐へと向かった。

この年、イリは死去した事にして高句麗を去り、本格的に和国へ拠点を変えていた。

 

唐に帰国した劉仁軌に代わって百済総督となった隆王子は、かつての側近だった者を百済熊津に配置し体制固めを始めた。しかし、新羅側は王子の近辺に

 

「百済総督が隆王子になった為、唐軍の指揮弱しとみて連合を破棄して攻めて来る」

という噂を流した為、新羅の攻撃を恐れて隆王子は唐本国に帰国してしまった。

 

翌666年正月、

 

唐の高宗皇帝による国を挙げての祭禮『泰山封禅の儀』式典が遂に行われた。

 

封禅とは、古代中国で行われた天と地に天下泰平を封じる儀式であり、霊峰『泰山』で行われる。唐の高宗皇帝の封禅は、西アジア、中央アジア、南アジアは勿論のこと、和国も含めた東方からの参列で、中国史上かつてない規模で行われた。

 

 

秦の始皇帝、漢の武帝、魏の明帝など歴代中国王朝の帝王たちが行ってきた莫大な国費を投じて、山東省の泰山で行う国際的儀式であり、皇后、文武百官を引き連れて向かい行列は何百里にも及んだ。

天下泰平の為に、インドやペルシア、高句麗の太子福男も侍祠し、百済、耽羅、新羅ら東アジアの国々と、天下最果ての島国・和国からも使者・大石、岩積らも参列させた事で、唐皇帝の威光は天下のすみずみまで行き渡った事を示していた。

 

 

 

【イリの葬儀】

 

イリの葬儀は、国葬並みの大規模で行われた。

 

封禅の儀には、高句麗からは福男も参列し、天下は泰平となり表面的には、高句麗とも戦争状態では無い。しかし、実際はかつてないほどの緊張状態だったが、そうした中での葬儀の開催であり、唐国からも老将・李蹟将軍が弔問に遣わされてきた。弔問使として堂々と敵情視察の為に、高句麗に入国してきた訳であり、平和的な関係ではなく、次の戦争に向けての視察であることは明らかだった。

互いに出方を窺う探り小手の様な葬儀となったが、これで恐らく次の高句麗攻めの総大将は、李蹟将軍で来るであろうことは予測された。

 

葬儀本来の目的は高句麗宰相だったイリを亡くなった事にして、和国亡命を隠す為の葬儀だったが、国葬並みにしてわざわざ大体的に行うのは他にも理由があった。

一つは高句麗側もまた唐との決戦を前に、周辺国からやってくる弔問使の反応をみて敵味方の戦意を探る目的があった。イリ亡き後の高句麗に対し、周辺国にどれほどの戦意があるのかを見定める為に案内状を送っていた。

もう一つは、葬儀をナムセンに取り仕切らせてイリの後継者、次代の宰相である事を示す目的があった。

 

イリの長子ヨン・ナムセンは、665年に跡を継ぎ高句麗の宰相の地位に着いたが、弟の男健らの激しい反発に合っていた為だ。

 

男建は葬儀の間中、主催者である宝蔵王の態度にも苛立っていた。国葬級ともなれば、もはや淵(イリ)家の葬式ではなく、国王の宝蔵王が主催となるのは当然であるが、その淵家の前に身をかがめていた宝蔵王が、国賓を前に堂々としているのが気にいらない。そして、その傍らで張り切っているナムセンに対しての怒りは尋常ではなく、宰相の如く振舞う態度には殺意さえ抱いていた。

 

唐に密通し手先となって動いていた方衛は、これを利用し男建の兵を動かそうとしたほどだった。方衛から目を離さずに警戒していた者達によって未然に防がれ事無きを得たが、男建のナムセンに対する怒りは、宰相と言う「権力の座」を前にしてもはや一食触発の状態にまで沸騰していた。

 

ナムセンは、部族基盤を持たない。

 

母は靺鞨族の姫であり、下の弟の男建らは高句麗王族のソヨン妃の子である。

 

親唐派の五大部族らも、外来の他部族である靺鞨族の姫の血をひくナムセンを認めず、ナムセンを退け、扱いやすい弟の男建を高句麗の宰相に就け様としていた。

 



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