友達料と逃亡生活 (マイナルー)
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プロローグ 『逃亡の始まり』

Re:ゼロから始める異世界生活第四章までのネタバレを含みます。未読の方はご注意ください。


「第二の『試練』とは、『あったかもしれない可能性』を見せるだけの現象なんだ」

 ティーカップをテーブルに置いたまま、賓客なき茶会で、魔女は語る。

 あらゆる色が抜け落ちたような白い髪が、頭から背中を覆っており、その身は喪服のような濡れ羽色のドレスに包まれている。

 組み直した両手と、髪の隙間から見える顔だけが、彼女の新雪のような肌を覗かせていた。

 漆黒を纏った純白の魔女――『強欲の魔女』エキドナは、言葉を続ける。

「挑戦者の記憶を細部まで網羅し、『世界の記憶』が挑戦者の過去・現在・未来を読み取って、必要な情報を抽出する。そうして組み立てられた、『ただその時だけの世界』。それが第二の試練の正体なんだよ」

 エキドナは語る。自分と同じ『魔女』に、親愛なる友人に言葉を告げる。

 そして、講釈を聞く金髪の魔女――『憤怒の魔女』ミネルヴァは、勝気な声で言葉を返した。

「なにそれ。ややこしくてわけわかんない。『別の世界を見せるだけ』って、『試練』の間は、この世界から消えちゃうってわけ?」

 勝気さと可愛らしさを秘めたその声に、エキドナは苦笑を返す。

「まあ、第二の『試練』の正体そのものは重要じゃないね。君の質問に答えよう。答えはノーだ。第二の『試練』は、茶会や第一の『試練』と同じでね。あくまで精神のみが体験するもので、肉体をどこかに飛ばすようなものではない」

 そこでエキドナは一度言葉を止め、テーブルのカップを手に取り、口をつける。

「じゃあ、おかしいじゃない。何であの男はいきなり墓所から消えちゃったのよ。おかしいじゃない。エキドナ、あんた何か企んでるんでしょ。そうなんでしょ」

「残念だが、それは否定させてもらうよ。これはワタシの意図した現象ではない。個人的には、ワタシは彼が第二の『試練』を受けることを望んでいたんだよ。なのに、『試練』は成されることなく彼が消えた。ワタシには、全く予想できなかった出来事だ」

 自分の企みが水泡に帰したと言いながら、その口元はほころんでいる。

「ただ、何が起きたのか、ある程度の推測はできるよ。第一の『試練』は彼の記憶のみから構成される世界だったが、第二の『試練』は違う。彼の記憶と、彼の知らない記憶を踏襲した上で、『あったかもしれない世界』を構築するためのものだ。『世界の記憶』は、彼の心中を、過去を、後悔を読み取ろうと試みた。彼が見てきたもの、彼が知っているもの、彼が知らない裏側まで。そして――この世界だけでなく、彼のいた異世界についてまで、読み取ろうとしたのさ」

 エキドナが軽く手を掲げると、その手に黒い装丁の本が出現する。――この世界のありとあらゆる過去、現在、未来を読み取る、禁断の書だ。

「あの男の、元の世界について読み取ろうとしたのはわかった。でも、だからなんなの? 何をどう読み取ったところで、そんなの再現性が変わるだけで、あの男が消えちゃうことにはならないじゃない」

「本当にそうかな? ワタシにだって、この『叡智の書』の全てを解明できてはいないんだ。『世界の記憶』の知識を伝える機能がある、それは間違いない。けれど、『異世界の記憶』を読み取るというのは、この世界だけでできることなのかな?  彼という異世界人を起点にした時に、この本は『異世界の記憶』も求めた。そして、その果てに異世界との繋がりを作り出すことができないと、どうして言えるだろうか!」

 いよいよ興奮を隠すことのなくなったエキドナは、流暢に語り続ける。

「彼を起点に、この世界と異世界との繋がりができてしまった。こちらの世界に彼を呼び込んだ者がいたように、この世界から彼を呼び戻す存在がいたんだよ。果たしてそれは何故彼を呼び戻したのか。ワタシのような、彼への好奇心からか。アレのような、彼そのものへの妄執なのか。――――興味が尽きない」

 

 エキドナは。

 強欲の魔女は。

 未知を愛し、好奇心の充足を喜びとする魔女は。

 まるで恋人へ向けるような視線を、この世界から消えた少年へと向けた。

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「菜月昴さん、ようこそ死後の世界へ。あなたは不幸にも亡くなりました。短い人生でしたが、あなたの生は終わってしまったのです」

 唐突に告げられる言葉を他所に、ナツキ・スバルが行ったのは状況の確認だった。

 まず自分の最新の記憶を思い起こし、死因らしきものが考えられないことを確認する。

 続いて周囲を見回すと、その水色の髪と淡い紫の衣を纏った少女が目に入る。

 見覚えのない相手だ。

 自分がよく知る銀色の少女でも、青色の少女でも、ましてや訪ねようとしたモノクロの魔女でもない。

 場所は墓所の石室ではなく、真っ白な部屋だ。何度も体験した、口の中に砂が入ったような不快感もない。

 記憶にない相手、記憶にない場所――『死に戻り』が起きたわけではなさそうだと判断する。

 スバルが死んだ時、世界は時間を遡り、強制的なやり直しが行われる。それがスバルにつきまとう魔女の祝福『死に戻り』だ。

 現にスバルは『聖域』を起点とするループに、ずっと囚われていた。

 人質を解放し、屋敷に帰還した直後に『腸狩り』に腹を裂かれた一度目。

 屋敷に戻り、誰一人守れないまま、何もわからずに食い殺された二度目。

 聖域の守護者ガーフィールに監禁され、多くの命と引き換えに生き延びて、忌まわしき魔獣『大兎』に再び食い殺された三度目。

 強欲の魔女に全てを打ち明けた結果、嫉妬の魔女の怒りを買い、影に呑まれる前に自害した四度目。

 そして、全てを失い、あまりに凄惨な地獄を体験した五度目。

 何も守ることができないまま、今回のループだけで、都合五度の死を経験した。

 そして彼は悲劇から全てを救うため、唯一全てを相談できる相手――エキドナの元へと赴くと決意したのだ。

 だが、自分がいるのは、魔女の茶会でもなければ、その入口の墓所でもない、真っ白な部屋であり。

 目の前にいるのは白黒の魔女ではなく、水色の髪と、淡い紫の衣を纏った少女だった。

 その髪の色は、スバルが救うと誓った少女を思わせて。その人間離れした美貌は、スバルが守ると誓った少女を思わせる。

「俺が、死んだ?」

「ええ。初めまして、菜月昴さん。私の名はアクア。日本担当、水の女神アクア。若くして死んだあなたを導くために来たの」

 

 おかしい。

 少女――女神アクアの言葉を聞きながら、スバルの頭は疑問で埋め尽くされる。

 自分が死んだ、その事実は構わない。

 元よりスバルの命は消耗品だ。何度死に、心をどれだけすり減らそうと、全てを守り障害を突破する覚悟はできている。

 だが、死後の世界に連れてこられたというなら、話は別だ。

 この『死に戻り』はスバルに無限の機会を与え、死という安息を許さない。

 そこに回数制限はなく、嫉妬の魔女がスバルに執着し続ける限り、自分には無限の挑戦権が与えられる。

 そのはずだ。

 そうでなければ、ならないのだ。

「私は死んだあなたに、二つの道を提示します」

 『死に戻り』の力が失われたというならば。

 ナツキ・スバルが永久に失われたというのなら。

 あの世界は二度と救われない。

 屋敷では殺人鬼が惨劇を引き起こし、聖域に閉じ込められた人々は魔獣に食い殺される。

 育ての親パックという支えがなく、スバルをも失った銀色の少女――エミリアは、心を病むだろう。

 世界から忘れられた青色の少女――レムは、誰にも目覚めさせることができないだろう。

 それが確定するということは、つまり――。

 

「一つは人間として生まれ変わり、新たな人生を歩むか。もう一つは天国的なところで……」

「やめろ」

「はいぃ?」

 思わず出た言葉が、アクアの言葉を遮った。

「あのねぇ、私女神なんですけど? 神さまの言葉を遮るなんて、何考えてるわけ?」

 アクアの口調が崩れ、女神のメッキが剥がれているようだが、そんなことは聞いていない。

 

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 自然と拳を強く握りしめる。肌が裂け血が滲んでいるのを感じるが、そんなことは今はどうでもいい。

「やめてくれ。そんなの望んじゃいない。今更そんなものは、望んじゃいないんだ」

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ。

 なんで今更。なんで今更。

 なんで今更!

 

「解放なんていらない。転生も天国も望んじゃいない。俺は戻らなきゃいけないんだよ! 戻って、ペトラを、フレデリカを、オットーを、ベアトリスを、ラムを、レムを、エミリアを!」

気がつくと、前にいる女神へ一歩踏み出していた。そのまま自分の両手でアクアの両腕を掴み、一気に詰め寄り……いや、縋り付く。

「ちょ、近いって。っていうか臭っ! 何あんた悪魔かなにかなわけ!?」

「俺が守らなきゃいけないんだ! 俺が傷ついて、俺が苦しんで、俺が守らなきゃいけないんだよ! 早く戻してくれ!」

「――――――――っ」

「天国なんていらない! 俺を、あの世界に!」

 動揺を隠すこともなく、悲壮感に満ちた顔で。少女の腕に跡が付くほどの力を込めて、ただただ希う。

 安息などいらない。

「あの地獄の前に、戻してくれぇ!」

 死に満ちたあの世界に。地獄が待ち受けるあの時間にこそ、戻りたい。

 そんなスバルの懇願は。

「…………残念だけど、それは認められないわ、菜月昴さん」

 真っ向から、切り捨てられた。

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 戻れないのか。

「ちょっとー。そんなに落ち込まれると困るんですけど……」

 守れないまま、本当に終わるのか。

「ねえ、そりゃショックだったのはわかるわよ?

 自分が死んじゃったんだもんねー。でもほら、天界には天界の規定があるっていうか。そうホイホイ元の世界で生き返らせてあげるわけにはいかないのよ」

 だが、諦めることはできない。

 考えろ。

 力も知恵もない、何もない自分は、考えて足掻くことはやめてはならない。

「っていうか、こういうシリアスな空気は苦手なんですけど。私を崇めて感極まるとかならともかく、暗い雰囲気になられても困るの。

おまけにあなたなんだか臭いわ。暗いわ臭いわってもうどうしようも……ああ言い過ぎたから余計に落ち込むのやめてちょうだい!

 『悪魔祓い』! ほら、これで臭くなくなったわよ!

 とにかく、死んじゃったものは死んじゃったんだから、そこはきちんと切り替えて……」

「そうだな。急に取り乱して悪かったよ、女神サマ」

 まず深く息を吸い、肺に空気を入れる。死後の世界とやらに酸素があるのかは知らないが、呼吸すれば脳の回転もマシになるだろう。

 そうだ。

 冷静になってから考えてみれば、スバルが死んだということ自体眉唾ものだ。あの墓所でスバルを殺すような理由のある人間は、これまでのループを見る限りいない。

 スバルと敵対的な男――ガーフィールが不干渉宣言を翻したという可能性も考えたが、それも考えにくい。『試練』そのものを避けている彼が邪魔をするなら、わざわざ『試練』が起こるかもしれない墓所に足を踏み入れたりするまい。

 墓所に入る前にスバルを止めるか、殺していれば済むだけの話だ。

 スバルは二度、三度と深い呼吸を重ね、アクアに自分が落ち着いたことを暗に示す。

 そのまま手を大きく横に広げ、害意がないことをアピールした。

「なんつーか、俺は死んだって自覚がないんだよ。最後の記憶では周囲に誰もいなかったし、何かが落ちてくるような事故があったとも思えないんだが。なに? 知らないうちにデスノートにでも名前書かれたの?」

「あー、いるのよね。自分が死んだって認められない人。えーと、今調べるからちょっと待ってなさいよ」

 スバルの言葉に、アクアは自分が持っていたメモ帳らしきものをペラペラめくる。仕事はそれなりに真面目に取り組もうと考えているのか、割りと真剣そうな顔だ。

 こうして改めて見ると、見事な美貌に感心する。幼さと高貴さと艶やかさが同居したエミリアの美貌とも、艶と儚さと威圧感を兼ね備えたエキドナの魔貌とも違う。

 人間離れしながらも、情念も恐怖も抱けない。自然と手を合わせてしまいそうな神々しさを醸し出していた。

 そんな視線に気づいたのか、アクアはその神々しい美貌を歪ませ、馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。

「何よ。ははーん、ひょっとして私の美貌に邪な感情を抱いちゃったりしたのね? でもダメよ。私女神だから、その辺の人間が口説いたところでどうにもならないの。たとえ大金持ちが全財産貢いだって、指一本触れられない遠い存在なのよ。残念だけど諦めなさいな」

「あいにく、俺は普段から好みどストライクの美少女で目の保養をしていてな。それに俺の心の一番目と二番目はとうに埋まってるから、どんな美少女だろうと揺らいだりしねえよ、女神サマ」

「一番目と二番目ねえ……。えーと、どれどれ。『菜月昴、日本人。人間関係がうまく築けず、痛い奴だと思われて孤立して次第に不登校児に』と。二股できるような甲斐性はあるようには見えないわねー」

 書いてあることは事実だし、スバルとしても現状二股できているわけではないので、特に反論はできない。

 押し黙るスバルを横目に見つつ、呆れたような顔でアクアはメモを読みあげていき――次第にその瞳に浮かぶ感情が、困惑の色に染まっていく。

「えー、腸フェチの変態に殺される、同上、チンピラにうっかり殺される……はぁ?」

 アクアが、信じられない顔で読み上げていく惨状。

「犬に噛まれて呪い死ぬ。女の子に頭を砕かれる。同じ娘に拷問された後別の娘に介錯される。投身自殺……」

 その全てが、ナツキ・スバルが実際に体験してきた『死』だった。

 アクアは目を細めて、品定めするようにスバルを見つめ、ぶつぶつと呟く。

「あんた、本当に何者? 残機持ちの悪魔……じゃないわよね。それならさっきの魔法で消し飛んでるはずだし、そもそもここに来るのは日本人の死者だけだもの。悪魔が入り込む余地はないわ」

 その言葉はスバルを詰問するものから、次第に自問するようなものへと変わっていった。

 下手に疑われないよう、スバルはその視線から逃れるようなことはしない。その上で、アクアの言葉について考えを進める。

 状況がわからない以上、自害による『死に戻り』を試すのは危険がありすぎる。今必要なのは、ここから元の世界に戻るための手段を探すことだろう。

 ナツキ・スバルが『死に戻り』を活用して、活路を見出さない限り、あの世界で惨劇は繰り返される。

 なんとかこの女神から、元の世界に戻すという確約を取り付けなければならないのだ。

「私のくもりなきまなこで見たところ……人間、それも日本人なのは間違いないわね。魂には確実に死が刻まれてる……。でも、肉体が一緒に転送されてる……? 死んだ魂の自動転送に、肉体がついてくるなんて、絶対にありえないんですけど。間髪入れず蘇生魔法を使っても、剥がれた魂は一旦ここに来てから、蘇生された肉体に戻るものだし……」

 考えろ。考えろ。誤ちを選べない今こそ、冷静に戻って考えろ。

「ま、いっか。どうせ死んでるってことに変わりはないんだし、このまま手続きしちゃいましょ」

 先程の真剣そうな顔はなんだったのか。めちゃくちゃテキトーな結論に達したアクアを他所に、スバルは考えを進める。

 まずスバルとして一番望ましいのは、これがエキドナのたちの悪い悪戯という可能性である。

 だが、それにしては精神が肉体から乖離するようなあの感覚を覚えていないし、こんな誰とも知らない女神とやらを用意すまい。

 ならば後は、この女神が色々と勘違いしているだけで、実際は死んでもいないのにここに飛ばされてしまった可能性だ。

 アクアの独り言を一つ一つ咀嚼して、自分なりに解釈すると、そちらの可能性は高い。

 魂の自動転送――つまり、彼女たち神は死者を迎えるといっても、世界中の死者をいちいち探し回って迎えに行っている仕組みではないらしい。

 当然だ。世界中で毎日大勢が死んでいる以上、神としても世界中を探し回る余裕はないのだろう。

 世界には――神が作ったものなのか、それとも元々あったものなのかは不明だが――『死』が刻まれた魂を感知し、自動的に天界へと送り込むシステムがあるのだ。

 そしてアクアのような神によって、死後の魂を導いているということになる。

 魂に死を刻まれた者。ここまでナツキ・スバルを的確に表した言葉はあるまい。

 異世界に飛ばされて、何度も何度も死んだ自分が、何故今更感知されたのかはわからないが――とにかく、ここに飛ばされた理由はわかった。

 自分は墓所で肉体的に死んだわけではなく、死を経験した魂の持ち主として、ここに送られてきたのだ。

 ならば、なんとかそこから切り崩せないだろうか。

「女神サマ。俺に肉体があるのなら、生きてるってことで元の世界に帰してくれてもいいんじゃないか?」

「ダメダメ。十回以上死んでるくせに肉体があるだなんて意味わかんないけど、それでも死者は死者よ。そんな理由で特別扱いするなんて、エリート街道を進む超偉い私にはできないわね」

 エリート。

 先程の雑な仕事ぶりからして、スバルの目には気に入った相手ならホイホイ蘇生させそうな適当な感じの性格に見えるのだが。

 どのみち今はそんな慈悲は期待できそうにない。

 ならば――確かめるしかあるまい。

「わかった。説明するよ。俺の魂がおかしいのは、俺が『死にも――」

 

 刹那。

 世界が色を失い、時が静止した。

 視界から現実感が失われ、何の音も聞こえず、床の感触すら感じられない。

 そんな中、黒の魔手だけが、その世界を自在に動く。

 スバルの腹を、肋骨を、内臓を。愛おしげに撫でるように突き進んでいくその魔手だけが、スバルの脳にダイレクトに感覚を伝えてくる。

 そして、最後に心臓を握りしめられる激痛がスバルを支配した。

 

「――――――――――――が、」

 やがてその魔手から解放され、世界が色を取り戻す。

 『死に戻り』を明かすことは、嫉妬の魔女が定めた唯一の禁忌だ。

 それを破れば、スバルの心臓――あるいは、聞かされた誰かへとその魔手が伸ばされる。

 たとえ覚悟があろうとも、その痛みと恐怖は、それを容易に捻り潰そうとし――時として、その命すら奪う。

 これまでのループで、スバルが幾度となく経験してきた、嫉妬の魔女の警告であった。

 今回『死に戻り』を告げようとした相手は初対面。彼女に危険が及ぶ可能性はゼロに等しい。

 故に、天界という場所では嫉妬の魔女から解放されているかもしれない――『死に戻り』が作用しないかもしれないと考え、試したのだが。

「やっぱりお前も、ついてきてるってのか――」

 エキドナの夢の城では、嫉妬の魔女は禁忌を破ったスバルに手を出すことはできなかったが、同じ条件がここにも通じるかというと、そうではないらしい。

 これでアクアに全てを告げて、帰してもらうという選択肢は取れなくなった。

 もっとも、『死に戻り』の継続、その可能性を確かめられたと考えれば、スバルにとって最悪の結果とは言えない。

「ちょっとー。説明するとかいって、いきなり止まらないでよ。しかもなんか臭くなったんですけどー。エンガチョよエンガチョ! もう、『悪魔祓い』!」

 突如不自然な様子を見せたスバルに、アクアは不審がりながらも女神流の魔法をかける。

「悪い、なんでもない」

 返答しながらも、スバルの頭は回転をやめない。

 嫉妬の魔女がここまでついてきているのなら、最悪スバルが死ねば『死に戻り』が作動し、墓所に戻れる可能性が高い。

 ならば、後はそれをせずに済む手段を模索するだけだ。

 選択肢として自害が増えたことに安堵しながら、スバルはアクアとの話を続ける。

「……俺が何をすれば、『特別扱い』して、元の世界に帰してくれるんだ?」

 アクアは、時間を何度も巻き戻ってきたスバルにとっても、これが初邂逅の相手だ。何をすれば気に入られるかなど、わかりはしない。

 ならば、ここは単刀直入に切り込む方が正解だろう。

 アクアはそんなスバルの姿勢にも、興味なさげな態度を見せる。

「あるっちゃあるけど、無理だと思うわよ」

「まあ、話だけでも頼むよ。話すだけなら、別に減るものでもないだろ?」

「ま、それもそうね」

 アクアは羽衣をいじる手を止め、両手を胸の前で組み直した。

「あなたを元の世界に戻してあげるためには、これから、地球とは別の世界で魔王を倒してもらう必要があるわ」

「別の世界? ……ルグニカとかカララギとかヴォラキアとか、そんな国がある世界か?」

「何よそれ、どこのゲームの話? そうじゃなくて、これからあなたが行く、未知の世界のことよ」

 残念ながら、飛ばされる異世界が、戻りたがっているあの世界だった、なんて都合の良い話ではないらしい。

 アクアが続けた話はこうだ。

 その世界には魔法がありモンスターがいて、魔王軍の侵攻に人類は苦しめられている。

 そして、悲観した現地住民たちは、死後の生まれ変わりを拒否。ただでさえ死者が多いにも関わらず、転生による魂の循環も滞っているために、新たな命もなかなか誕生しない。

 この人口不足が続けば、遠からず人類滅亡の危機に瀕することになる。

「だから、日本人で若くして亡くなった人に強力な武器や才能なんかを持たせて、異世界への援軍にしたい――っていうのが、今実施されてる計画なんだけど」

「けど?」

「あんた、最初から肉体があるでしょ? 肉体がある人には、チートを持たせるってのができないのよ」

 肉体を再生する時に一緒に専用適性もつけるからね、武器持たせてもちょっと強い剣とかになるわ、と付け加える。

 なるほど、それならばスバルには不可能だと得心する。

 ならば特別な力を与えられることもなく向こうに行って魔王討伐を目指すよりも、さっさとここで死んで戻った方がマシかもしれない。

 そうスバルが考え始めた時。

「もしあなたが魔王を打ち倒すことができたなら、どんな願いでも一つ叶えてあげるわ」

「――――――――」

 どんな願いでも。

 どんな、願いでも。

「それが、生きて元の世界に戻るための条件か。……なあ、俺としてはあんまり遅くなったら、向こうの世界に戻っても意味が無いんだよ。すげー悪いけど、あっちの世界って物凄く立て込んでてさ。腸フェチな頭のおかしな女とか、人を食い殺す獣とかが、俺の大切な人たちを狙ってるんだよ。あそこに戻るためなら、また別の世界だろうとなんだろうと行ってやるけど、それで皆を助けられなくなったらどうしようもないんだ」

「その点は心配ないわ。どんな願いでもって言ったでしょ。魔王倒した勇者様は特別待遇。勇者様が死んだ後なら、どんな時間軸でも戻していいってお墨付きももらってる。なんなら、死んだ直後の時間に戻した上で帰してあげるわよ」

 そう語るアクアの瞳からは、ナツキ・スバルにまるで期待していないということが見て取れる。

「ひょっとして、本気でやる気なの? チートなしで魔王に挑むなんて、ちょっとどうかしてると思うわよ。大人しく天国行くか、赤ん坊に転生するかにしときなさいな」

「ま、ちょっとおかしいくらいは許してくれよ、女神サマ。俺は昔から、人と違うことをやっては白い目で見られてきた男だからな」

 ナツキ・スバルにより、転生特典なしでの魔王討伐。

 女神は無謀だと考えているようだが、スバルは可能性を感じていた。

 魔女が未だスバルに喰らいついているというなら、それはスバルの『死に戻り』が未だ失われていないことを示している。

 ならば、希望はある。

 ナツキ・スバルに使い道は残っている。

 幾多の死を乗り越えて、最善の未来へとたどり着く希望が、ある。

 魔王を倒す未来、そこにたどり着いた時――。

「魔王討伐――俺がその『無理』をやり遂げたなら、叶えられる願いの数を増やしてくれ」

 スバルの脳裏に浮かぶのは、眠り続ける青色の少女、レム。

 彼女はこの世界で誰よりもスバルを愛し、スバルもまた彼女を愛した。

 ある悪意に飲まれ、眠り姫に変えられたレムを、必ず目覚めさせる。そうスバルは誓った。

 救い出せる手段は見えずとも、諦めずに救うと誓った。

 そして今、神の力を借りるチャンスが降りてきている。

 絶対にこれを逃してはならない。

「一つじゃ足りないんだ」

 力も知恵も、何もかもが足りないスバルが、それでも成し遂げなければならないことがある。

 自分を魅了した銀色の姫の道のりも。

 温もりをくれた青の少女との日々も。

 全てを守り、取り戻すためにナツキ・スバルは存在している。

 聖域を起点としたループで、初めて起きた、女神との邂逅。この変化は、きっとプラスにできる。いや、しなければならない。

「よく考えたら、このまま戻っても、何もできないまま終わっちまうかもしれねえんだ。何か持って帰らないと、意味がねえ。一つの世界を救うなんてどでかいことを、縛りプレイでやるって言ってるんだぜ?なら、やり遂げた暁には、ただ戻るだけじゃなく、俺の大切な人たちを俺の望む形で救ってほしい――このくらいの贅沢は認めてくれてもいいんじゃね?」

 これまでのループに希望が見えなかったことは確かなのだ。

 この女神、時々アホさは感じるが、嘘を言ってるようには見えないし、魔女達のような得体の知れない危険な臭いもしない。

 といっても、あくまでスバルの主観から来る印象論で、それだけで信用するのは甘すぎるかもしれないが……。

 脆い希望に『オールイン』するのは、初めてではない。

 もっと交渉材料があれば良いが、今のスバルにできるのはこれが精一杯だ。だからあとは、ただ頭を垂れるのみ。

「――――頼む」

「いいわ、認めてあげる」

「マジか!」

 あまりにもあっさりとした了承。言質を取った喜びのままに頭を上げたスバルに対し、アクアは手を振りながら、考えるのも億劫という態度を見せた。

「もういいからとっとと行っちゃいなさいよ。どーせ期待はしてないし、アンタといるとシリアスな空気になって辛気臭いわ。後がつかえてるのよ。はあ、次からは姿を見せる前に、経歴や死因を確認してからのほうが良さそうね」

 そう言いながら、すでにアクアはスバルに興味を無くしたように視線を下に移す。

 釣られてスバルも足元を見ると、そこには青い魔法陣が出現していた。

 アクアは本を閉じ、どこからともなく取り出した杖を構え、告げた。

「さ、そこから出るんじゃないわよ。……こほん。勇者よ! 願わくば、数多の勇者候補達の中から、あなたが魔王を打ち倒すことを祈っています。……さあ、旅立ちなさい!」

 厳かなアクアの声を聞きながら、スバルは明るい光の粒子に包まれる。

 その肉体は重力に逆らうように持ち上がり、高度をぐんぐんと上げていった。

 

 誰よりも死を体験し、幾多の地獄を見てきた少年は、誰に告げるでもなくつぶやいた。

「待ってろ。俺が、必ず――――」

――皆を、救ってみせる。

 

 次の瞬間に彼――ナツキ・スバルはこの世界から消滅した。



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1 『アッパー系とダウナー系』

――――――――1周目


 この世界において、魔王軍と戦う者は二つの道から選ぶことになる。

 ひとつは、国に所属し、最前線で魔王軍と戦う兵士となる道。もうひとつは、危険な活動を冒険者として活動していくという道だ。

 ただ魔王軍と戦うというだけなら前者を選ぶべきだろうが、スバルは後者の道を選んだ。

 スバルが魔王軍に挑むなら、確実に『死に戻り』を何度も何度も活用する必要が出てくるだろう。

 スバルの『死に戻り』の活用は、いかに周囲を説得し、行動させるかという点にかかっている。スバルには未来がわかっても、「何故わかるのか」を説明できない以上、説得できなければ同じ悲劇を繰り返すことになりかねない。

 まして、戦争では上役の命令が絶対だ。『死に戻り』を生かして目の前の死を避けても、命令違反で罰せられるのがオチだろう。

 スバルが指揮官や参謀になれたなら、最前線での大規模戦争に参加してもいいのだろうが、スバルの実力や知能では、とてもそんな都合のいい昇進は望めない。

 ならば、自由度が高く、少数パーティでの活動となる冒険者活動の方が、説得もしやすく『死に戻り』を生かしやすい。そういった判断だ。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 異世界――ベルゼルグ王国の街「アクセル」に降り立って一週間。

 冒険者が集まり、情報や依頼を共有しあう組織――冒険者ギルド。そこは冒険者への依頼を斡旋したり、冒険者同士の協力を推奨したりする場所だ。

 ナツキ・スバルは現在、そのギルドに併設された酒場で働いていた。

 人生二度目の異世界召喚。前回同様、貧弱な初期装備と多少筋トレしているというだけの初期能力、そして無一文からのスタートである。

 もっとも、問答無用で放り込まれた前回と違い、今回は断りを入れられた上でのこの状態だ。福利厚生の不親切さに文句を言うつもりはない。

 前回は初日でエミリアと出会い、色々あってロズワール邸に運ばれて以降、衣食住に困ったことはなかった。が、こちらでもそんな都合のいいことは期待できない。

 今回は資金集め、何より冒険者としてやっていくための情報集めが必要だ。そして情報集めといえば酒場だろうという、RPG的安直な発想で選んだ職場だったが、なかなか悪くない。

 早朝の酒場、未だ客のいない時間に店主が声をかけてくる。

「ナツキ、そろそろ約束の一週間だったな」

「はい、今日はいつもより心を込めて頑張りますよ」

「冒険者になるんだって話だったが……お前、カードを作っても大したステータスじゃなかったって言ってたろ。サンマも知らない物知らずが、やっていけるのか?」

「それ言うのは勘弁してくださいよ。俺も個人的に事情があるんで、必死でやっていきます」

 雇って欲しいと頭を下げるスバルに、店主は一週間だけという約束で雇ってくれた。スバルとしても、ロズワール邸にてひと月ほど働いた経験があったためか、なんとか仕事をこなすことができている。

 常識をすり合わせしようと色々質問したせいで、当たり前のことも知らない馬鹿扱いされていたし、ロズワール邸ほどフランク……というより馴れ馴れしすぎる態度は許されなかったが、それは仕方ないだろう。

 わずかな期間とはいえ、仕事を共にしたスバルをこうして気遣ってくれている。ありがたいことだが、スバルとしても忠告を聞けない事情があるのだ。

「ま、いいけどな。お前と入れ替わりで働くことになったガキが今日から入ることになってる。今日限りとはいえ一応そいつにも挨拶しとけよ」

「了解っす」

 そんな会話をしながら、スバルが客のいないテーブルを拭こうと、台拭きを手に取った時。

「我が名はめぐみん! 紅魔族随一の魔法の使い手にして、爆裂魔法を……操りし……」

 突然、冒険者ギルドの方からそんな大声が聞こえてきた。

 何か見世物でも始まったのかと思い視線を移すと、そこには黒マントにとんがり帽子という、典型的魔法使いの格好をした女の子がいた。

 片目には何やら眼帯らしきものをつけている子供だ。後ろにはもうひとり同じようにマントをつけた少女が、猫を抱いている。

 セミロングの黒髪はリボンで束ねられており、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ体型をしている。

 見たところこちらは、スバルに近い歳に見えるので、眼帯の少女の姉か何かなのかもしれない。

「ありゃ、紅魔族だな……」

「紅魔族?」

 店主の呟いた聞きなれない言葉に、スバルは反応する。

「ああ、強力な魔法使いを輩出してきた、紅目の種族だ。あんな感じの名乗りをあげるからうるさくて迷惑だが、その実力は一級だ。お前も冒険者になるなら、今のうちにあの娘と仲良くなっておいても損はないと思うぞ」

 もっとも、職業が最弱の冒険者じゃ、あの子の荷物持ちをさせてもらえたら御の字だと思うがな、と店主は付け加えた。

 冒険者の組むパーティはビジネス的な性格が強い。

 なにせ、命をかけてモンスター、魔王軍と戦うための協力関係だ。

 よほど長い付き合いになれば、情や信頼関係も湧くだろうが、基本的にはお互いがお互いの役に立たなければ意味が無い。

 役に立たないとなれば、それらしい建前で戦力外通告を受けたとしても文句は言えないのだ。

「優秀な人同士、ひょっとしたら昨日騒ぎになってた娘と組むのかもしれないっすね」

「ああ、昨日のアレか。アクシズ教の頭がおかしな女だったから、案外変なことばかり言う紅魔族と気が合ったりしてな」

 昨日、大半のステータスを高い水準で揃えた、美人アークプリーストが来たという話はスバルも聞いている。

 スバル自身は酒場の仕事で忙しかったため、人々に囲まれた彼女の姿を直接見ていないが、水色の髪と瞳で、羽衣を纏っていた凄い美人だったらしい。

 聞く話だと、以前見た女神アクアを思い起こさせる外見だが、それもそのはず。

 この世界ではアクアは、カルト宗教アクシズ教の女神として祀られており、熱心な信者は彼女の姿を模した格好をしていてもおかしくないとのことだ。

 挙句の果てに自分は女神だと言いだしたらしいが、あの高みの見物をしていた女神が一週間足らずでこちらに来るわけがないので、女神を名乗る痛い女なのだろう。

 とにかく、紅魔族とアクシズ教のアークプリースト。彼女たちの存在をスバルは頭に入れておく。

 前の世界での『死に戻り』では、強者の協力を得ることで突破できたループも多かった。

 どちらも強力な冒険者な以上、最弱であるスバルとパーティを組むことはないだろうが、一時的に彼女たちに協力を要請することも出てくるかもしれない。

 店主との会話を終え、テーブルを拭いていると、何故か眼帯の少女が途中で受付を離れる姿が見えた。

 入れ違いに、もうひとりの年上らしきセミロングの少女が受付でカードの照会を行っている。

「さ、流石紅魔族、凄いですね! こんなに高い魔力の人は初めて見ました!」

「ど、どうも……」

 受付をしている女性が驚愕の声を上げる。店主の言葉を裏付けるような言葉を聞きながら、スバルは仕事に戻っていった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ギルド内に人が集まり、酒場で朝食を取る客も増えた頃。

「はい、朝のクリームパスタです! お待ちどう!」

「ど、どうも……」

 先程照会をしていたセミロングの少女に注文のパスタを渡す。

 たった今、スバルが朝食を運んだ相手は、黒を基調とした服に、紅色のスカート。それに黒のマントを羽織った少女だった。

 その身体に反した童顔は明るい色で染まっており、紅い目はキラキラという表現が似合うほど輝いていた。

 駆け出し冒険者ということで、今後の生活に期待を寄せているに違いない。

「ではごゆっくりどうぞー」

 パスタを食べ始める少女のそんな姿に、スバルは明日からの自分を幻視しつつ、テーブルを離れていく。

「……そろそろ頃合いでしょう」

 彼女の向かいに座っていた眼帯の少女が、先に届いていた食事を終え、おもむろに立ち上がる姿が去り際に見えた。

 …………なんだ?

 スバルの疑問は、眼帯の少女が冒険者カードの照会に行った時に解消される。

「こ、これは!? 凄いですね、流石は紅魔族です、知力と魔力が凄い数値で……!」

 冒険者ギルドの職員の中で、最も美人で最も胸が大きいと評判の受付嬢が、驚愕の声を響かせる。

 これ自体は、今パスタを食べているセミロングの少女と同じ現象だ。しかし、時間帯をずらすことで朝とは比べ物にならない人口密度では、その情報は一気に伝染する。

 そこに集まった冒険者たちは受付嬢の言葉を聞き、視線を一点に集中させる。無論先は、照会をしていた眼帯の少女である。

 少女と受付嬢が会話を終えたと見るや、一斉に彼女のもとに冒険者たちが殺到する。

 なるほど、恐るべき策士だとスバルは感心する。

 不正も何もなく、一銭も支払っていないにもかかわらず、ギルド受付嬢という公平な立場の人間を、自分の実力を喧伝させるスピーカーへと変えてしまった。

 実力者であれば、たった一度それをするだけで多くの人間が群がってくる。

 なにより圧倒的実力で相手を驚かせ、尊敬の視線を集めるというのは、かっこよく気持ちがいいだろう。

 スバルが真似するには実力的に百パーセント不可能だ、という点を除けば完璧な作戦である。

 あれよあれよという間に、眼帯の少女は、適当なパーティの仲間に加わってしまった。

 一方、パスタを片付けたセミロングの少女は、人に声をかけようとするけどなんとなく怖がってかけられない、典型的コミュ障の様を見せている。

 おそらくは実力に差がないであろう、二人の紅魔族。

 ほんのわずかな受付時間の差。ただそれだけが、二人の間に圧倒的なまでの格差と断裂を生み出してしまったのだ。

「だが頑張れコミュ障少女。少し声をかけるだけで、いじめられっ子を卒業できたりするかもしれない。行動こそが運命を変える唯一の手段なんだから……」

 勝手な偏見で、コミュ障認定に加えていじめられっ子認定。ナツキ・スバル、時として物凄く失礼な男である。

 コミュ障少女(推測)の影を置いて、スバルは別の仕事に移った。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 太陽が高く上がった頃。

 明るく熱気盛んな店内で、ナツキ・スバルは労働に精を出していた。

 酒場には手軽なクエストを早々に終えた冒険者や、逆に余裕を持って昼からクエストに挑むような冒険者が続々と集まっている。

「おいおい、どういうことだよ!」

 大声にギルド受付の方を見ると、受付の女性に対して、ガラの悪そうな男たちが絡んでいた。

 チンピラというと、酒場で見るくすんだ金髪の冒険者を思い出すが、それとは明らかに別人。外見そのものに内面の卑しさを醸し出す三人の男たちであった。

 スバルの主観では、なんとなく主人公に絡んで追っ払われるモブチンピラっぽい。

 スバルも前の異世界召喚ではトンチンカンと名付けたチンピラ三人に絡まれて、リンチされたりまとめて倒したり殺されたりしたものだ。

 見たところ、ガラの悪い冒険者たちは巨漢や小柄な男もいるので、勝手に三人を『トンチンカン二号』と名付けておく。

「あぁん? 悪魔型モンスターが出てるとか言われても困るんだよ! こちとら久々に金稼ぎに来たってのによお!

「そうそう、悪魔が相手じゃおちおち森にも行けないじゃねえか!」

「あ、あなた方ほどの実力者揃いならば、多少の危険も突破できるのでは……」

「俺達は楽に倒せるような格下しか相手にしたくねえんだよ! 下級ならともかく、上位の悪魔なんて相手にできるかよ!」

 仕事の手は休めていないが、トンチンカン二号たちの言葉はきちんと頭に刻む。

 どうやら、森には凶悪な悪魔がいるという情報が冒険者ギルドに入ったらしい。わざわざ警告してくれた受付の人に、トンチンカン二号が八つ当たりしているというわけだ。

 ブツブツ言いながら立ち去るスバルは、『悪魔は時として、実力者の冒険者でも恐れるほど危険』と頭のメモ帳に書き込みつつ、料理を運ぶ。

「はい、野菜たっぷりチャーハンです! お待ちどう!」

「どうも……」

 渡す相手は、今朝照会をしていたセミロングのコミュ障(推定)少女。

 その身体に反した童顔は寂しさの色で染まっており、紅い目はしょんぼりという表現が似合うほど力を失っていた。

 共に来ていた眼帯の少女は早々に、有望な魔法使いとしてどこぞのパーティに歓迎してもらっていた。

 眼帯の少女のような巧妙な宣伝術を用いずとも、魔法使いは大抵のパーティで需要があるはずだ。

 あの少女だってその気になればいくらでも欲しがる人はいるだろうに。少し会話できないというだけで、ここまでの状態になるのか。

 そのうち「ガン見するのはやめてください」とギルド職員のお姉さんに注意されてペコペコ謝っていたし。

 先程などは、明らかに40は超えていそうな、自称13歳の怪しい男に「もっとお話しようよ」「この御飯代もおじさ……僕が払ってあげるよ!」と言われて、どこか嬉しそうな顔をしていたり。

 赤の他人のスバルから見ても、ちょっとやば目な無防備さを見せていた。

「おーいナツキ! 新入りに皿洗いの手順教えてるから、お前は奥の整理を頼む!」

「あ、はーい! 今戻ります!」

 店主の言葉を聞き、スバルは店の奥に戻る。

 だが、作業を続けている間も、スバルの頭からは少女の姿が離れなかった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「2番テーブルさん、スモークリザードのハンバーグ3つ入ります!」

「おうよ!」

「おいナツキ! ジャイアントトードの唐揚げ定食、4番さんに持っていけ!」

「はいよ! 焦らず騒がず迅速に持ってきます!」

 薄暗くも、熱気盛んな店内で、ナツキ・スバルは労働に精を出していた。

 冒険者ギルドに隣接している酒場だけに、夕食時の店内では仕事を終えた冒険者が続々と集まっている。

 ジャイアントトードという、狙い目の獲物を狩りに行ってきたという戦士達。

 噂の美人店主の店に行ったら、変な商品しか置いてなかったと笑って話す男達。

 クールな顔立ちに金色の髪を纏った女騎士と、銀色の髪と頬の傷が特徴的な女盗賊の組み合わせ。

「はい、ジャイアントトードの唐揚げ定食です! お待ちどう!」

「………………どうも……」

 そして、結局朝から晩まで、酒場で一人待ちぼうけしていたコミュ障少女(確信)。

 その身体に反した童顔は暗い色で染まっており、紅い目はどんよりという表現が似合うほど曇りに満ちていた。

 頼まれてもいないのに声をかけ、ハイテンションさと奇天烈な行動でドン引きされた過去のあるスバルにとっては、一日中待ちぼうけしていた彼女の姿はいっそ不思議なほどだ。

 何故か妙に心に引っかかる少女に対し、スバルはなるべく優しい感じを心がけて笑いかけた。

「では、また何か困ったことがあったら、すぐにお呼びください」

 スバルはそう言って、生まれつき悪い目つきをなるべくフレンドリーな感じにしながら仕事に戻る。

 意識しすぎてむしろ怖い感じの笑顔になっていたが、心持ちは伝わったのか、コミュ障少女の雰囲気が幾分和らぐ。

 そうしてスバルがバックヤード的な場所に戻ろうとすると。

「舐めんな! おっさん、俺がこの街に来たばかりのガキだからってバカにしてんじゃねーぞ!」

 突如として、今日酒場で雇われたばかりの少年の怒声が響き渡った。

 どうしても日払いの金が必要だということで、突然連れとともに土下座して、雇われたバイトだ。

 スバルは現場を見ていないが、店主がその必死さに同情し、人数は足りているが少年の方だけでも雇うことにしたとのことである。

「わけわかんねー指示しやがって、パワハラか!? あぁ!?」

「サンマ畑に取りに行けって言われただけで何キレてんだ新入り! お前ふざけてんのか!」

 大声は店内に響き、客達も注目するほどだ。見れば、眼帯の少女も客の中に混ざっている。

「ふざけてんのはどっちだ! せっかく真面目に働こうってのに、あんな指示出されたらキレもするわ!

「てめえクビだクビ!」

 あれよあれよと言う間に店主はクビを言い渡し、少年はエプロンを千切るように取り捨てると、そのまま逆上して飛びかかる。

「おいナツキ、やべえぞ! 俺はあの喧嘩止めてくるから、お前はこっちの仕事のフォロー頼む!」

「あ、はい、ただいま!」

 

 

 

 今日の日当を受け取ったスバルは、宿に向かう道すがら考えていた。

 元々スバルは、先程クビになった少年――ジャージ姿が気になっていたので、後で話をしたかったのだが――と同様、短期間のバイトにすぎない。

 とうに冒険者ギルドへの登録は済ませており、後はいつ冒険者として活動を始めるかというだけのことだった。

 スバルの脳裏に、酒場で一人ぽつんと座っていた少女の姿が浮かぶ。

 ギルド職員には「気に入らない人がいても睨むな」というような注意を受けていた彼女だが、なんだかそのうちヤバい男に引っかかりそうな臭いがプンプンする。

「――――」

 もちろん、スバルにとっては単なる赤の他人に過ぎない。

 どことなく危ういからといって、彼女に迫るかもしれない危険を防ぐ義理などない。

 そもそも、彼女の方だっていい迷惑かもしれない。むしろ、常識的に考えればそっちの可能性の方が高い。

 今朝の胸の小さな娘のことを考えれば、彼女もその気になればどんなパーティにでも入れる実力者なのだろう。単に品定めしているだけかもしれないし、そうでなくとも最弱職と言われる冒険者など、彼女には必要ないと断られることは十分考えられる。

 ここで自分などが出ていったりすることはないだろう。

 が。

「あいにく、空気を読まないことは大得意でな……」

 別に少女を助けるわけではない。ツンデレではなく。

 ナツキ・スバルの目標は魔王討伐である。

 力も知恵も足りないことは承知の上だ。身の丈にあった仲間など求めたところで、決して届くとは思えない。

 他人の力を借り、少しでも力を結びつけ、『死』を持って世界を繰り返し、解決策を導き出す。それがナツキ・スバルのできることだ。

 実力者らしき人がたまたま残っているというのなら、力を借りない手はなかった。

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 翌日。

「おーい、取り込み中悪いけどちょっといいか?」

「あっひゃいなんでしょうか! えーとえと私ゆんゆんと申します職業はアークウィザードででも中級魔法しか使えない半端者ですごめんなさいでもすぐ上級魔法も覚えますから!」

「おおう……これは……」

 メンバー募集の紙を書き直していたらしいコミュ障少女(確定)に声をかけると、予想外の反応をされた。

 スバルとしては突然声をかけたつもりはなかったが、相当集中していたのか。いや、単にコミュ障の一環という気もする。

「あ、酒場のお兄さん……」

「おおっと、それは違うぜ。もう俺はここの酒場のウェイターじゃねえ」

 スバルはスバルで人付き合いが上手な方ではない。

 むしろ故郷では、空気の読めない痛い奴として、とことん浮いていたほどだ。

 それでもスバルなりに、彼女を怖がらせないよう、指を一本立ててわかりやすいポーズを決める。

「俺の名前はナツキ・スバル! 無知蒙昧にして天下不滅、最弱職の冒険者だ!」

「ぼうけん、しゃ……?」

 彼女は目を見開き、一度ぱちくりと瞬きすると。

「ぼ、冒険者、冒険者の方ですか!? え、えっとそのああすいませんすいません私だけ座ってて失礼ですよねすぐ立ちますから!」

「おっと、座ってていい! まず深呼吸だ深呼吸。スーハースーハー」

「は、はい! スー…………ハー…………スー…………ハー…………」

「そうそう。吸ってー吐いてー」

「スー…………ハー…………スー…………ハー…………」

 パニックに陥った相手に単純な指示を与えると、常識的におかしい指示でもなければ、そのまま従ってくれることは割りとある。

 そして呼吸を整えることで、精神も連動して落ち着くこともままある。

「落ち着いたか? じゃ、これからの話をしようぜ。えっともう一度自己紹介頼めるか?」

「は、はいっ!」

 そうすると、彼女は深呼吸した後に、何故か震えながら両手をビシッとクロスさせたポーズを決め、

「わ、わ、我が名はゆんゆん! アークウィザードにして、中級魔法を操る者! いずれ紅魔族の族長となる者!」

 顔を真っ赤にしながら、そう名乗りをあげた。

 これはスバルは知らなかったが、紅魔族特有の名乗り方である。

 自己紹介の独特さはスバルも大概だったが。

「ゆ、ゆんゆん……?」

「は、はい! 変わった名前ですけど、本名ですっ! あのその、ひょっとして」

 期待半分不安半分と言った面持ちで見上げてくる少女――ゆんゆんに、スバルは笑いかける。

 ここで横道に逸れまくるのが普段のスバルだが、今回はまっすぐ本題に入った方が賢明だろう。

「酒場でのバイトは昨日で終わりでな。今日から冒険者として活動したいと思ってるんだけど、一人じゃ不安なんだよ。一緒に組んでくれないか?」

「――――!」

 ぱくぱくと。

 ゆんゆんは、どうしていいかわからないといった顔で、声にならない声を唇から漏らしていた。

 そんなゆんゆんに、スバルは片手を差し出しながら続ける。

「弱っちい俺じゃ嫌かもしれないけどさ、助けると思って、頼むよ」

「い、いえ、こちらこそ! 会話が下手ですし名前が変ですしその毎日話し相手が欲しくてご迷惑をおかけするとおもいますけどお願いしませりゅうっ!」

 噛んだ。

 

 こうして、アッパー系コミュ障冒険者ナツキ・スバルと、ダウナー系コミュ障魔法使いゆんゆんのパーティが誕生した。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 冒険者ギルドのクエスト掲示板前に移動した二人は、早速手頃なクエストを探し始めた。

 時刻は早く、他の冒険者達の姿は見当たらない。

 募集用紙にダメ出しを受けたゆんゆんは、早朝から書き直して掲示するつもりだったため、必然的に早い時間となったというわけである。

 ちなみにゆんゆんは知る由もないが、ゆんゆん目当てで来たスバルは、とりあえず早朝に来ていなかったら別の店で装備を揃えたりしながら、ゆっくりと探すつもりだったためだ。

(スーハースーハー……えっと、丁寧に、失礼のないように、でもフレンドリーに。相手の考えを頭ごなしに否定しない、えーっと……)

 ブツブツと、幼い頃から読んできた友達作りのマニュアル本を反芻するゆんゆんに、スバルが声をかける。

「なになに……? 森のモンスター駆除か。ゆんゆん、例えばこれとかどうだ?」

「は、はいぃっ!」

 スバルが指し示した先に視線を移し、『森に大量発生したスライムを駆除してほしい』の文字にゆんゆんは仰天。

 突然、初心者冒険者には無謀な提案を始めたスバルに、慌てて止める。

「だ、駄目ですよ、何言ってるんですか!」

 しかし、その制止にスバルは合点がいかないらしく、

「ん? スライムって強いのか? 個人的にはスライムってのは、刃物でもあれば倒せそうなくらい弱くって、なんかかわいいモンスターってイメージがあるんだが……ああ、今は森が危ないんだっけか。悪魔がいて」

 と、わけのわからないスライム論を展開し始めた。

「どこで聞いたんですか、そんなスライムの話! 悪魔の話はともかく、スライムは物理攻撃にも魔法攻撃にも強い、凄く凶悪なモンスターですよ!?」

「マジで!?」

 まるで常識を覆されたかのように、スバルは目をむいた。

「え、マジなの? せいぜい柔らかな身体でぶつかってくるとかだろ? まさかメタルか? それとも毒がヤバいのか?」

「毒を持ってるのもいますけど、普通のスライムは張り付いて窒息させたりそのまま消化してきたりしますよ」

「俺の中のかわいいスラリン像どうしてくれんの!?」

「なんでちょっとかわいい名前つけてるんですか!?」

 そこまで話したところで、割りとスバルと話せている自分がいることに気づいた。

 意外も意外、こんなに話せるというのは想定の外だ。スバルの提案を全否定するなど、マニュアルを無視してしまったが、そこは結果オーライ。

 突如スバルがわけのわからないことを言ったため、知り合いの爆裂狂いに対するものに近い気持ちになれていたのか。

 あるいは、スバルは自分の気持ちを解きほぐすために、わざと常識外れのことを言ってくれたのかもしれない。

 ゆんゆんはこっそりと、スバルの評価を上方修正する。完全に過大評価である。

(でも、ただ気遣ってもらっているわけにもいかないよね)

 もちろん、一緒にいてくれたり、会話してくれたりするだけで、ゆんゆんとしてはとてもありがたい存在である。であるが、ゆんゆんにだってもっと大きな野望がある。

 単なる仕事を通じての会話の成立だけではない。どんどん親しくなり、プライベートでも気軽に話せて楽しく遊べる。

 仕事のない日には色んなお店に遊びに行くような、立派な友達をきっと作るのだ。

 以前読んだマニュアル本には、『自分から親しくなろうと距離を縮める姿勢を見せることが必要』『苗字呼びやさん呼びは距離を作ってしまうこともある』と書いてあった。

 その知識を踏まえてゆんゆんなりに親しげに話しかける。

「じ、じゃあ、クエストを選ぶためにも、まずお互いにできることから話しましょうか。その、スバルくん!」

 その言葉を言った瞬間。

 スバルの雰囲気が変わった。

 軽薄そうな笑顔が消え、怒りとも悲しみともつかない感情がその瞳に浮かぶ。そのまま何かを堪えるように、唇を引き結んだ。

 人付き合いの下手なゆんゆんであっても察することができる。自分は何か、とんでもない地雷を踏んだのだ。

「ごめんなさいごめんなさい、いきなり名前呼びなんて馴れ馴しかったですよねごめんなさい! 紅魔の里では名前で呼び捨てしあうのがほとんどなので、里の外でも敬称さえつければ名前で呼んでもいいんだと思いこんでましたすみません!」

 昨晩の帰り道、ライバルのめぐみんの前ではなるべく表に出さないようにしていたつもりだが、丸一日まともな志望者が来なかったという事実は、ゆんゆんにはなかなか応えた。

 そんな中自分に声をかけてくれたスバルはとてもありがたい存在であるというのに、彼の機嫌を損ねてまた一人に戻ってしまうなど耐えられはしない。

「いやいや、そこまで謝られたらこっちが困るって! ゆんゆんは何も悪いことしてないから!」

 平謝りするゆんゆんに、スバルはすぐに表情を戻して、慌ててフォローを入れてくる。

「そ、そうなんですか? でもでも、ナツキさんあんなに……」

「あれはその、あれよ。俺の個人的こだわりっていうか、思い入れがある呼び名でさ。勝手に特別扱いしてるってだけだよ。説明しなかった俺が悪いんだから、ゆんゆんは悪くない悪くない」

 スバルは落ち着かせようというのか、ゆんゆんと目を合わせて優しい顔を――しているつもりだろうが、特有の目つきのせいでちょっと怖い。

 というかゆんゆんとしては、いくら誘ってもらって感謝していても、ほとんど初対面の相手と目を合わせるとか無理である。

「あ、ああ、あはい、すみません、じゃなくって、わかりました、ナツキさん」

 完全に明後日の方向を向きながら、何とか答えを返す。

 紅魔族、族長の娘、ゆんゆん。紅魔族随一のコミュ障。

 彼女の対人訓練は、まだまだ始まったばかりであった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 スバルが最低限の装備として安物のショートソードを購入し、スバルとゆんゆんはクエストを果たすべく平原地帯へと向かっている。

 目的は初心者におすすめといわれる、ジャイアントトード。繁殖力が高く、異様なサイズで山羊を丸呑みにするのだとか。

 農家の家畜はもちろん、子供なども狙われる危険なモンスターだが、同時に食糧としても評価が高いため、討伐と肉の買取による二重報酬がオイシイという話は聞いている。

「俺、田舎から出てきたばっかで、あんまりものとか知らないんだけどさ。ゆんゆんは紅魔族……ってやつでいいのか?」

「はい、あのあの、はいそうです」

 視線を逸らし、いかにもビクビクしてます、という態度でゆんゆんが話す。やはり先程の自分の態度が悪かったのか。

 ゆんゆんが発育の良い体に似合わず、まだ13歳だというのはお互いの自己紹介で聞いた。ただでさえ初めての冒険で緊張しているところに、4つも上の男が突然硬い空気を見せれば、このような態度になるのも無理はあるまい。

 どの程度の付き合いになるかはわからないが、スバルとしてはもう少しマシな関係は築いておきたいところだ。

「紅魔族って、魔力が強くて目が紅くて強い……くらいしか知らないんだけど、実際どんな感じなんだ?」

「どんな感じ、ですか……?」

「そそ。ほらほら、あるじゃん。例えば、微妙に古い言葉を使うとか、本気出したら角が生えてくるとかさ」

「つ、ツノ? いえ……そういうのはちょっと」

 ゆんゆんは、考えをまとめるように二、三度深呼吸すると。

「私は紅魔の里でも変わりもので知られていたので、参考にはならないかもしれませんけど、それでもよければ。

 紅魔族は見ての通り、紅い瞳を持つ種族です。大抵は黒髪で、知力や魔力が高く、魔法使いへの適性を高く持ちます」

 と、そこで恥ずかしそうな笑みを浮かべる。

「その、里の外の人達とは、少し違った名前を持つことが一般的です。私もそうですし、学校の同級生も、みんなそうでした」

「学校?」

 前の世界では、真っ当な教育を受けられるものは貴重だった。そのことは、ロズワール邸でのひと月の間によく知っている。

 こちらの世界は多くの日本人が送られていることもあり、学校制度ができるほど教育が行き届いているのだろうか。

 そんなスバルの考えは、すぐに否定される。

「あ、すみません。学校ではわかりませんよね。紅魔族独自の文化で、子供は12歳になると一箇所に集められて、一般的知識や魔法の勉強をするんです。そして、アークウィザードとして、魔法を使えるようになるまで鍛えてもらうんですよ。私はこれでも学校で二番目の成績で……」

 話しているうちに、ゆんゆんが雄弁になっていく。人間、自分の得意な話題ならばよく口が回るというのは、どの世界でも同じようだ。

 話題は段々と、故郷の話から彼女のライバルの話へとずれていく。

――「めぐみんはいつもそうやって、私が勝てないような種目にするんです。おかげでいつも、お昼ご飯を取られちゃって……」

――「めぐみんは変なこだわりを持っているんですよね。普通にやってたら、右に出るものなんていないアークウィザードになれるのに、結局そのこだわりを捨てないままで。……まあ、私も手伝ったようなものなので、強くは言えないんですけど」

 彼女は、『めぐみん』というライバルのことを語るゆんゆんは、本当に楽しそうで。

 そこには心からの友情と親愛が見られる。

「でも、めぐみんは本当にすごくって。だから、私も頑張らなくっちゃ」

 ライバルとして相応しく有りたいという、高みを目指す意思があった。

「…………俺も、強くなりたいよ」

 スバルも、ゆんゆんの意思につられるように言葉をこぼす。

 本心だった。

「最弱職でも、才能がなくても、諦めたくないものがあるから」

 二人の歩みは、やがて目的の平原に到着する。

「だから、その第一歩として……カエル狩りとしゃれこもうぜ!」

「は……はいっ!」

 ゆんゆんは杖と短刀を構え、スバルはショートソードを握りしめた。

「ナツキさん。とりあえずあそこにまとまってるカエルに、不意打ち気味に魔法を撃ちますので、向かってきた敵の足止めをお願いします」

「お、おうよ。任せとけ」

 デカい。

 ジャイアントトードは文字通り大きなカエルだという話は聞いていたが、実際に目の当たりにするとインパクトが違う。

 以前、ロズワール領内での魔獣騒ぎの際に、最後に戦った巨大魔獣を思わせる大きさだ。

 金属を嫌うというので、ショートソードを用意してきたが、スバルは自分に剣の才能がないことをよく知っている。

 レベル1のスバルは魔王を倒すどころか、このカエルにサクッと喰われて命を落として死ぬ可能性は十分にある。

「出たとこ勝負だ……。弱っちい俺だが、ゆんゆんにおんぶにだっこされるつもりはねえ。ちっとくらい役に立ってみせるさ」

 そうしてスバルが警戒しているうちに、ゆんゆんの詠唱が完成した。

「『ファイアーボール』ッ!」

 轟音と共に光球が炎を撒き散らす。巨大なカエルを複数巻き込み、芯まで焼けた肉の香りが漂ってくる。

 なるほど、なんとも胃袋を刺激する、香ばしいものだ。ただ適当に焼いた肉の香りだけでこうなのだから、実際に調理したときはこんなものではないだろう。食用として重宝されるのも頷ける。

 紅魔族は知力と魔力が高い、なるほどその話は伊達ではない。魔法を使えない学校の子どもたちが皆、アークウィザードだったというのも納得だ。これほど敵に回したくない種族もいないだろう。

 そして同族を殺された敵――近くの地中からのそりと這い出つつあるカエルは、敵意の視線をこちらに向けた。

 魔法の衝撃で目を覚ましたばかりなのか、その動きは緩慢で、少し時間を稼げばすぐにゆんゆんの魔法で対処できるだろうと思われた。

 スバルは、未だ身体の半ばまでが地面に潜ったカエルに、ショートソードで顔面を叩きつけながら、

「ゆんゆん! 今のうちに距離を!」

 と、そこまで言った時。

 もう一匹のカエルが、後ろに跳んだ直後のゆんゆんの背後から現れる。

「うし――!」

「――『ライトニング』!」

 スバルが注意を促そうとすると同時に、振り向きざまにゆんゆんの放った雷撃がカエルに突き刺さった。

 彼女の見事な対応に内心胸をなでおろす。

 安堵もつかの間、スバルは正面のカエルに再び向き直――――。

 ぱくり。

「な、ナツキさーん!」

 ゆんゆん側に注意を向けていたスバルの肉体は、ジャイアントトードの口内に消えていた。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「いやー、悪い悪い助かった。危うくBAD END『蛙の餌』とかになるとこだった」

 粘液まみれの身体を持て余しつつ帰路につく。

 どうやってあんな巨大なものを持ち帰ればいいのかと考えていたが、ギルドの人は肉の移送サービスも行っているそうだ。

「い、いえ。パーティなんですから当然です。それに、ナツキさんが体を張って足止めしてくれなかったら、私も食べられちゃってましたから」

 少々引きつった笑いを浮かべながら、ゆんゆんも同行する。

 なんとなく、行きよりも距離が離れている気がするのは、生臭い粘液が生む妄想だろうか。

「まあ、少しでも役に立てたなら良かったよ。明日からは、もっとビシバシ頑張るんで、やってほしいことがあったら何でも言ってくれよな」

「あ、明日も組んでくれるんですか!?」

 ゆんゆんが何故か変なところに食いついてきた。

 今回のクエスト報酬十万と二万五千エリスは、取り決めで折半ということになっている。

 九割型ゆんゆんの活躍で成功したクエストだ。本来なら、今後をお願いするのはスバルのほうだと思うのだが。

 まあ昨日今日の様子を見るに、人見知りというか、初対面の人と打ちとけるのが苦手そうだったので、また別の人と打ちとけるのは辛いのかもしれない。

 ゆんゆんの実力なら、ソロでも十分やっていけそうなものであるが。

「そんなの俺の方から頼むとこだぜ。ゆんゆんはもっと自信持っていいと思うぞ」

「すみませんすみません。……実は私、あんまり友達がいなくって」

 後半はひどく寂しそうな目でつぶやく彼女。その目にはどんな過去が映っているのだろうか。

「可愛らしい顔立ちの美少女、発展途上ながらも抜群のスタイル、優秀な能力。…………普通なら、友達料払ってでもなりたいと思うんだけど」

「友達料ってなんですか!? 何か払ったら友達ができるんですか!?」

 そこに食いつくのかよ。反応するなら可愛いとかのところにしとけよ。

 思わず内心でツッコミを入れる。

「友達料ってのは、何かしら対価を支払って、友達になってもらう……っていうジョークだよ。実際に払うなよ、笑えなくなるから」

「うぅ…………はい。そうですよね、友達同士でお金のやり取りとか、良くないですもんね。経験あります」

 あるのかよ。

 残念そうな顔だったが、それでも納得はしてくれたようだ。

「じゃ、改めて。今後ともヨロシク」

 親愛の証に一歩前に出て、シェイクハンドしようとゆんゆんの手を――取ろうとして、粘液まみれだったことを思い出す。

「ごめん。報告に行った足で乾杯しようぜと思ったけど、その前に風呂入らないと、俺のハートがそろそろピンチだ」

「よ、喜んで」

 まだどこか、ぎこちなさはあったものの。ナツキ・スバルとゆんゆんの初クエストは、大過なく終了したのであった。



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2 『漆黒の獣』

 お風呂でさっぱり、汗や粘液を流したゆんゆんとスバルは先の言葉通り夕食に向かった。

 場所は冒険者ギルド、その酒場。つまりスバルの元アルバイト先である。

 カエル肉の代金と討伐報酬をあわせて少し豊かになった財布から、ゆんゆん基準で少し豪華な食事が二人前並ぶ。

 テーブルの向かい、ゆんゆんの目の前で立ち上がったスバルは、冷えたシュワシュワを片手に語り始める。

「じゃ、料理も揃ったことだし乾杯の音頭いくぞー。えー、ただいまご紹介に預かりましたナツキ・スバルですー」

「しょ、紹介……?」

「はいそこゆんゆん、こういうのは気分よ気分。突っ込まなーい!」

 そういうものなのだろうか。

 このような宴会では何が常識なのかそうでないのか。ほとんど一人で食事を取り、誕生日パーティすら一人だったゆんゆんには、その判断がつかない。

 不承不承、というよりは戸惑いを見せながらも、自分もシュワシュワを片手に取り、話を聞く姿勢になる。

「まずはゆんゆん、今日はお疲れ様でした。俺としても、ゆんゆんという優秀な人間と一緒に働けるようになって、嬉しい限りです」

 社交辞令的なものだと思いつつも、ゆんゆんはスバルの言葉にくすぐったいような気持ちで、頬を赤くした。

「俺達はお互いのことをまだまだ知らないわけで、わからないことも不安なこともいっぱいだと思うけど、俺としてもできることはなんでもするつもりです。お互い失敗や苦労もあると思いますが、一緒に頑張っていきましょう!

 では、俺という期待の新人のデビューから始まり、俺とゆんゆんのパーティ結成。それに初クエストの成功という今日の日を祝って。乾杯!」

「か、かんぱい! はわぁ…………」

 勢いで杯を合わせたゆんゆんは、思わず感嘆のため息を漏らした。

 目の前でカエル肉の唐揚げを頬張るスバルを、うっとりと見つめる。その視線に乗せる感情は、もちろん恋やあこがれではない。同じパーティでの仲間意識という初めての感覚だ。

 ひとりじゃない。

 その事実が自分の胸に温かい感情を呼び起こしている。

(ふにふらさんやどどんこさんとご飯を食べた時とは、また違った感じ……)

 私達友達よね、と自分の奢りで一緒に食事に行ったことを思い出す。あれはあれで楽しかったが、どことなく違和感があったのも事実だ。

 定食とは別注文した小鉢にフォークを伸ばし、小さく切り分けただし巻き卵を口に運んだ。舌の上で転がる感触に、思わず頬が緩む。

「ここでバイトしてた時は思わなかったけど、ゆんゆんって凄い嬉しそうにご飯食べるのな」

「そ、そうですか?」

 乾杯で口にしたシュワシュワも、今口に運んだだし巻き卵も、別段特別な仕上がりというわけではない。

 ただ、それでも、仕事を終えて仲間と一緒にご飯を食べるというプロセスを経るだけで、こんなにも美味しく感じるものなのか。

「やっぱり一人で食べるより、誰かと食べるほうがいいんだなあ……ってことなんでしょうね」

「話する相手がいた方が色々捗るしな。ちょうどいいから、お互い質問でもしようぜ。答えたくないことは答えないって方向で。

 ゆんゆんはさ、確か紅魔族の次期族長とか言ってたよな。そんな立場の人間までここにいるってことは、紅魔族って皆外に出て修行することみたいな決まりでもあんの?」

 ゆんゆんの了承を得る前に、ささっとスバルは話を進めてしまう。急いで話すのが苦手なゆんゆんは、「え、と……」と少し考えて。

「特にそういうわけじゃないんです。私がちょっとした理由で、勢いで修行に出ただけで。ほとんどの人は、紅魔の里で上級魔法を覚えて、そのまま職人になったり、お店を継いだり。あとはニートもいますね」

「ニートいんの!? っていうかニートって言葉があんのここ!?」

「? もちろんあります、けど…………」

 スバルは腕を組みながら、「先輩がた、伝えるならもうちょっとマシな概念あるだろ……いや似たような意味の言葉が翻訳されてるだけか?」などとつぶやいている。ゆんゆんには意味がよくわからない。

「ま、いいや。ゆんゆんもどんどん質問してくれていいぜ。男の子にも秘密はあるから、答えられないものは言わないけど、そこは勘弁してくれな」

 冗談めかした言葉を交えるスバルに、ゆんゆんは少し考える。

 一旦間を置き、カエル肉の唐揚げを一口ぱくり。淡白でさっぱりしていて、やはり美味しい。

 行儀よく唐揚げを噛み締めて、ゴクリと飲み込んでから。

「えー、今日はいい天気ですね?」

「俺じゃなくて天気の話!? しかも質問になってないし!」

「でも、あんまり踏み込んだこと聞くのも失礼なのかなって……」

「大丈夫大丈夫、嫌なことなら断るしさ」

 どんとこい、とスバルは自分の胸を叩いてみせる。

 ならば、してみたかったけれど、故郷ではいまいち感性の合わなかった話題に挑戦する。

「じゃあ……ナツキさんは、恋人とかいるんですか?」

 恋バナである。

 紅魔の里で同級生とそんな話をした時は、やれ前世の恋人がどうの、やれイケメンがダンジョンの奥深くに封印されてるだの、やれ前世は破壊神だっただのという相手ばかりだったのだ。

 正直恋人がいそうな感じには見えないが、それは自分も同じである。これを切り口に、好きなタイプとか、将来結婚したい理想の相手とか、そういう方向へとシフトしていくのだ。紅魔族の知能による高度な作戦である。

「故郷にいるっちゃいるな」

「いたんですか!?」

「聞いておいてそのリアクションは酷くない!?」

 高度な作戦、いきなり失敗であった。

「す、すみません。……故郷じゃ意外とモテたんですか? プレイボーイだったとか?」

「プレイボーイってきょうびきかねぇな。俺はこれでもエミリアたんとレム一筋だからな、そんなことはしてねえよ。できたかどうかは別として」

「エミリアタント=レムさんですか……」

 一筋なのに二人いるのかよ、という本来あるべきツッコミは、ゆんゆんの素のボケの前に霧散した。

 名前の常識が狂う、紅魔の里出身ならではの現象である。

「じゃあ……ナツキさんは、どうして冒険者になったんですか? 恋人を置いてまで」

「んー、ステータス的に他の職業つけなかったからな」

「い、いえ、そういう意味ではなく。冒険者稼業のほうです」

 出てきた問いは単純なものだった。

 身体はそれなりに鍛えているように見えるが、職業『冒険者』ということは、ステータスが足りなかったのだろう。有り体にいえば才能がないと判断されたということである。

 自分の才能を信じ、一発当てる夢を見て冒険者稼業につく人は多い。が、そういう人は才能がないと聞くと、場合によってはやる気を失って冒険者の道を諦めることもしばしばなのだという。

 スバルの場合も、故郷に帰って恋人の側で定職につく、となっても何もおかしくはないはずだ。

 逆に言うなら、才能なしと言われてもやる気を失わない人間は、なんらかの理由で冒険者の道を選んだという可能性が高い。

「ん、ああ…………」

 ゆんゆんの問いに、スバルはポリポリと後ろ頭を掻く。

「なんつーか…………俺、魔王を倒したいんだよ」

「――――――――」

 魔王討伐。

 それは、この道を志す者なら、多くの人間が考えていることだ。

 しかし同時に、恐ろしく困難な道。

 なにせ、人類が総力を持って挑む戦いだ。最前線とも言われるこのベルゼルグ王国には、各国から精鋭部隊を送られているし、時折人智を超えた力を持った、黒髪黒目の英雄も現れる。それでも、未だ魔王軍を打ち破ることはできていないのだ。

「ナツキさん、本気ですか? はっきり言って無茶だと思いますよ」

 自分のライバルならば、これを聞いて「なるほど面白い。いいでしょうやろうじゃないですか魔王退治。我が爆裂魔法で魔王を討ち滅ぼし、私が新たな魔王として降臨してあげましょう!」くらいのことは言うだろうが、ゆんゆんにはさすがにそんな根性はない。

 紅魔族は優秀だし、紅魔族が集まる紅魔の里は、魔王軍の強者どももそうそう手出しはできない。

 が、だからといって、魔王軍を滅ぼせているわけではないのだ。

 ましてや、今のスバルを見て魔王を倒せるとは思う者はいないだろう。

「無茶も無謀も承知だよ。でも、諦められない理由があるんだ」

 自分の弱さ、それを理解した上での目的だ。そう、言外に示すスバル。

「…………………………………………」

「…………………………………………」

 覗き込んだスバルの黒の瞳、そこには確かな決意があった。理由の詳細について口にしないということは、ゆんゆんに対してそれを話すつもりはないということだろう。

 出会って日も浅いゆんゆんでは、聞くには信頼が足りないのか。それとも、そもそも誰かに語るようなことではないのか。そこまではわからない。

 それでも、彼の決意はそうそう揺らぐものではない。人付き合いの少ないゆんゆんにもそれは理解できたし、説得できるほど自分の口に自信もなかった。

 がやがや、がやがやと。ギルド内に人間が増え始め、必然的に酒場も騒がしくなってくる。ゆんゆんとスバルの会話が途絶える中、酒場の喧騒が空間の音を支配する。

 やがてゆんゆんは、根負けしたように顔を背け、

「……わかりました。ナツキさんにはナツキさんの理由があるんでしょうし、止める権利もないので深くは聞きません。

 でも、私は魔王城に乗り込むなんてそんな無茶やりませんし、ナツキさんも絶対勝てるって時以外行っちゃダメですからね」

 そう言っておくだけにとどめる。

 ゆんゆんのその言葉に、スバルは苦笑交じりの顔を浮かべた。鋭く、ゆんゆんから見れば結構怖い三白眼が弧を描く。

「魔王とドンパチかますときまで手伝えとは言わねえよ。ただ、しばらくは一緒に頼むぜ」

 そう言って、再び杯を前に差し出すスバル。

 ゆんゆんはそこに自分の杯を合わすことで、了解の意を示した。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 さて翌日。つまり初クエストを終えた次の日。スバルは馬小屋、ゆんゆんは宿屋から起き出して、冒険者ギルドの前で合流した。

「今日は先に買い物してきたいんだけど、いいか?」

 スバルの言葉にゆんゆんは僅かに頭を傾け、不思議そうな顔で返す。

「えと、はい、構いませんけど……昨日の報酬だと、そんなにいい装備の新調はできないと思いますよ?」

「そんな大層な買い物じゃなくて、ほら、昨日カエルに飲まれて大変だったじゃん?」

 スバルはそう言うと、自分の着たジャージ風の洋服、その襟元を軽く引っ張ってみせる。この服は日本のジャージをモデルに、前の世界のロズワール邸で仕立ててもらったもので、デザインにも服そのものにもそれなりに思い入れがある。

 ジャイアントトードに飲み込まれた時の粘液は当然洗ってあるが、スバルとしてはあまりこの服を同じ目に遭わせたくはなかった。

「ジャイアントトードは金属を嫌うっていうし、鎧――――は手が届かないかもだけど、カエルよけになる何かとか、せめて代わりになる服でもないかなって」

 ゆんゆんは得心したように手を小さく叩き、

「わかりました、それなら任せてください! 昨日あの後、いくつかお店をリサーチしましたから。その中に服屋さんや魔道具店もあったはずです」

「お、用意がいいな! 強さといい気遣いといい、総合力の高さに俺も鼻が高いぜ!」

 そう言って親指を立てて、感心してみせた。

 ちなみにゆんゆんがリサーチしていた理由は気遣いや念のためといったものではなく、パーティ結成に浮かれて『いつか友達と行きたい店リスト アクセル編』を作り始めたからである。 

 もちろんそんなことをスバルは知る由もない。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 そんなわけで、場所は変わってとある魔道具店。

 貧乏で顔色の悪い店主――ではなく、ごく普通のおじさんが経営している一般店であった。

 全体的に雑多に並べられている気もするが、個人経営の店などこんなものかもしれない。

「ま、日本だってテキトーなところはとことんテキトーだしな……。ゆんゆんは、何か欲しいものとかあるのか?」

「いえ、杖も変えるほどではないですし、駆け出しのうちに贅沢するわけにはいきません」

「そっか、そりゃそうだよな」

 ゆんゆんはそこで一度思案するように上を見て、小さな声で

「あ、でも誰かとただ商品を一緒に見て回るのも――――――――」

「じゃ、悪いけど向こう側から見て回ってもらえないか? カエルよけか何かに使えそうなやつもそうだし、それ以外でも良さげなの探そうぜ。俺はこっち側から見て回るから、お互いなんか見つけたら声かけるってことで」

「あっ…………はい」

 食い気味に言ったスバルの言葉に、何か言いかけたゆんゆんは意気消沈したように頷いた。

 その顔を見て悪いことをしたような気もしたが、ゆんゆんはそそくさと店の反対側に去っていってしまう。

 スバルはやむなく、順々に店の商品を見て回っていった。

「ふむふむ……よく効くポーション、バインド用ロープ、同用途鋼鉄製ワイヤー、オンオフスイッチ付き嘘発見ベル……嘘発見ベル?」

「それはそのまんま、嘘ついたらそれを感知して音が鳴る魔道具だね」

 スバルの独り言に、返す声があった。

 振り返るとそこには少年――いや、少女の姿が。

 頬には小さな傷痕があり、短く切り揃えた髪は銀。さらに瞳は青碧の色を持っている。盗賊風というのか、起伏の少ない身体を、胸当てとショートパンツで隠している。腹部を露出したその姿は、扇情的というよりも健康的な印象が強い。そこに緑の上着を羽織り、薄藍色のマフラーを首に巻いている。

「そこ、よかったらちょこっと退いてくれないかな? 欲しいものがあるからさ」

「あ、悪い」

 言葉とともにスバルが身を引くと、ありがと、と盗賊風の少女が手を伸ばす。バインド用と書かれた、鋼鉄製のワイヤーだ。

 なんでも、盗賊のスキルと組み合わせることで、大物モンスターでも動きを封じられる優れものらしい。

「しかし……嘘ついたら鳴る? それってマジか?」

「んー……じゃあ試してみようか。さっきのは嘘だよ、嘘ついても鳴ったりしない」

 チリーン。

 甲高く小気味良い音が響いて、小さな魔道具はその機能を証明してみせた。

「うっわぁ……マジだよ。こんなの普通に売ってるんだなあ」

「あたしもこんなのがアクセルで売ってるのは初めて見たよ。警察とかの取り調べで使うものなんだけどねえ」

 嘘を看破する加護を持った知り合いの顔を連想する。確かにああいった力は、取り調べや交渉の場に置いて非常に有用だ。

 しかし冒険者にはそれほど必要なものなのだろうか。

「需要あんのかな、こういうの。冒険者ってモンスター倒してギルドでお金もらうのが基本だし、クエストもギルドに仲介してもらうから、あんまり使わなさそうだけど」

 そうスバルが疑問に思っていたところ、おじさん店主が声をかけてきた。

「大した値段はしないよ、駆け出し冒険者でも少し貯めれば買えるお値打ち価格さ。こういうの置いてれば、それで店に来る客も結構いるよ」

 冒険者同士での取引に嘘がないか調べるのに、使用料を払うとかね。

 そう続ける店主の言葉に、スバルの疑問も氷解した。

 確かに、冒険者は基本的にはギルドを介してクエストを受けて依頼を果たす。しかし冒険者同士、パーティ同士でも取引するケースはいくらでもあり得るのだ。

 ダンジョンで見つけた武具や宝石の売買、あるいはトレードなど、そういったケースは十分考えられる。『この場での合意に嘘はない』という信用の証明のために借りる人間はいるだろう。

「ちなみにおっさん。カエルよけになりそうなものってないか?」

「残念だけど、うちじゃそんなの扱ってないねえ。カエルよけって言ったら、素直に全身鎧でも身につけたほうが早いし他の戦いでも使えるし、確実だと思うよ」

「やっぱそっか……」

 そんな金はないからこその、お手軽なカエルよけ探しだったのだが。うなだれるスバルに対し、盗賊風の少女が声をかけてくる。

「そういえば、あたしの友達が今行ってる店が、そんな感じの薬を仕入れたとか言ってたっけ」

「マジか!?」

「うん、あくまで人づてに聞いた話だけどね。カエルが触ることも嫌になるような薬らしいよ。その代わり全身地面から湧いてくる虫にたかられて、まともに動けなくなるらしいけど」

「意味ねええええええ! 仕入れた方も何考えてんの!?」

 全力で叫ぶスバルに、彼女はケラケラと笑う。

「後は瀕死の重傷を負うと自爆して敵を倒すけど、威力が強すぎて近くにいる愛する人も巻き込んじゃう『愛のペンダント』とかもあるって聞いたねえ。一年後の完成を目処に作った試作品なんだってさ」

「それ作ったやつ馬鹿じゃねえの!?」

 そんなことをして遊んでいると、突然少女を呼ぶ声が聞こえてきた。

「クリス! あっちの魔道具店で凄いものを見つけたぞ!」

 見た感じ女騎士っぽい人が突然店の入口から入ってきて、盗賊風の少女――クリスに声をかけた。

 黄金色の髪はまるで輝くよう。緑がかった青い眼は、どことなく潤みを帯び、本来純白であろう肌が紅く染まっている。

「どしたの、ダクネス。凄いものってなにさ。世間知らずなんだから、変なの買わされちゃダメだよ?」

「ふふふ、今回は間違いない。さあ、これを見ろ!」

 ダクネスと呼ばれた女騎士らしき人は、そういって赤い輪状の物体を懐から取り出す。

 首輪状のアクセサリー――いわゆるチョーカーだろうか。

「これは向こうの売れない店で珍しく売れている人気商品らしい!」

「そんな売れない店とか言っちゃダメだよ、失礼だなー。あたし会ったことないけど、あっちの店主さんは大型クエストの前に差し入れとかしてくれるいい人らしいじゃない」

 そう言って、クリスはダクネスが差し出してきたチョーカーを手に取った。

 横から覗き込んだスバルがタグを読み上げる。

「願いが叶うチョーカー……10万エリス……高っ! おまじないにしては高すぎだろ! なにこれ、パワースポット的な謎パワーでも込められてんの!?」

 会話に割り込むつもりはなかったが、思わず声をあげてしまった。

 願いを叶えるという女神の言葉を信じてこの世界に来たスバルが言うことではないのかもしれないが、いくらなんでも怪しすぎる。チョーカーの相場はわからないが、それほど高級そうなものに見えないし、ボッタクリか霊感商法にしか見えない。

「ダクネス、こんな説明信じて買っちゃったの? こっちの男の子が言うとおり、シャレにしても高すぎるんじゃない?」

「それは違う! これはただの怪しい詐欺商品ではない、きちんと効果がある魔道具だ!」

 拳を握りしめ、ダクネスは熱弁する。

 その顔の興奮ぶり。鳴らないベル。これは完全に、心の底から信じているようだ。ただの馬鹿か、それとも本当に何かがあるのか。

「このチョーカーは自力で願いを叶えない限り徐々に首を絞め続け、しかも外れないという一品なんだ!」

 やばい、両方だった。

「呪いのアイテムじゃん! それ全然駄目じゃん! ダクネスのことだから、叶いもしない願いとか言い出してろくなことにならない未来が見えるようだよ!」

「大丈夫だ、これは絶対に叶えられない願いには反応しないようになっている。つまり首絞めで死ぬギリギリまで苦しい目に遭って快感を得たいという願望を抱いていれば、まさにギリギリまで首絞めプレイがだな」

「それ絶対そのまま死んじゃうやつだから! ダメダメ、こんなの返品するからね!」

 命を賭けて首絞め窒息プレイがしたいという、美人女騎士の狂った言葉。にも関わらず、一切ベルが鳴らないという事実に、スバルの手は知らない間に震え始める。

 いつの間にかワイヤーを放り出し、チョーカーを持って外に出ようとするクリスと、それを全力で引き止めようとするダクネス。

 銀髪と金髪の美しいコラボレーションが、ここまで残念に見えるとは思わなかった。

 これ以上関わり合いになるべきではないと判断したスバルはそっと目をそらし、再び品物を見定めようとして――近くに来ていたゆんゆんと目が合った。

 彼女は二人が去ったのを確認すると、決まりが悪いという顔で苦笑した。

「その……せっかく来たのに、一人じゃ寂しくて。やっぱり一緒に見て回りたいなって……」

「そりゃもちろんいいけど……いつからそこに? 普通に混ざればよかったのに」

「銀髪の人と話し始めたあたりからですけど……知らない人といるところに話しかけて、『なんでこの人いきなり話に入ってきてるの空気読みなさいよそもそもなんでこんな変な娘がここにいるのよ今すぐ帰りなさいな』って迷惑顔されたら辛いかなあって」

「……………………」

「ごめんなさいごめんなさい、変な子でごめんなさい」

「いや……うん。初対面の人に話しかけられない娘もいるし、変じゃない、よ?」

 チリーン。

「…………嘘つき」

「いや確かに嘘だったけど、これはついてもいい嘘だろ!?」

 白い目で見てくるゆんゆんに、慌てて弁解した。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 スバルとゆんゆんが冒険者ギルドに着いたのは、太陽が高く登ったころだった。

 魔道具を見て回るだけで、ころころ表情を変わるゆんゆんがあまりにも楽しそうで、結局長々と買い物に付き合ってしまったのである。

 結局安価で手に入るカエルよけらしきものは見つからず、やむなく冒険者チックな服を新調していた。

「今日はナツキさんのレベル上げを目指すのはどうでしょうか」

 再びジャイアントトードのクエストを受注したところで、ゆんゆんからそう提案された。

 冒険者はモンスターを倒すことで経験値を得ることができる。

 言い換えれば、モンスターを倒した人間にしか経験値は入らないということだ。つまり、昨日のようにゆんゆんが敵を倒す戦いを続けていれば、スバルのレベルが上がることは永久にないのだ。

 日本のゲームのように、パーティーで経験値が分散されるような、都合の良いシステムはないらしい。

 そこで、ゆんゆんの出した提案はこうだ。

「昨日で、どの程度の威力で撃てばジャイアントトードを倒せるかは、なんとなくつかみましたから。死なない程度に私が弱らせたところを、ナツキさんが倒してください」

 紅魔族ではこれを『養殖』と言うんですよ、と両手をぐっと握りしめて締めくくった。

 なるほど、単純にして効率的なやり方だ。戦力差のあるパーティーならば、これで一気にレベルを追いつかせ、総合力を上げることができるだろう。

 それに、数多く出てきてしまった場合は、養殖にこだわらずに普通に倒せばいいのだ。

 鞘に入れたショートソードに視線を移す。これを買った意味がようやく出てきたらしい。

 自然と歩みにも力が入る。そのままスバルは、レベル1と刻まれた自らの冒険者カードを握りしめた。

 これならば何も問題はない。

 

 あった。

「ジャイアントトードどころか、モンスターが全然いねえ…………」

 枯渇。考えてみれば、当然起こりうる事態だったのだ。

 妙に大きな胸を強調した服を着た、美人受付嬢の言葉を思い出す。

『悪魔型モンスターが森の中で目撃された。魔法を使い高い知能を持つ個体の可能性が高い。よほど腕に自信がある冒険者でなければ森に入ってはいけない』

 確かそんな内容だったはずだ。

 冒険者達の言葉を思い出す。

『平原は弱いモンスターが多いし、実入りが悪いから普段は行かない。でも今は仕方ないから平原で狩るしかない』

 確かそんな内容だったはずだ。

 どちらも先日から似た情報は聞いていた。

 つまり普段は森に行く冒険者が、ここ数日は平原で狩りを始め、一時的に競争率が爆発的に上昇している、ということになる。

 無論、この程度で絶滅させられるとも思わないが、わざわざ多くの冒険者がいるところに出てこようとは、モンスターたちも思わないようだ。

 冒険者達も、少しでも効率を上げるため、うっかり出てきたジャイアントトードなど目立った獲物は真っ先に狩ってしまったのだろう。

 昨日は早朝からクエストを受けてそのまま狩りに向かったが、今日はすでに昼を過ぎている。

「結果論だが、先に魔道具店に行ったのは失策だったか……」

「ナツキさん……ごめんなさい」

 魔道具店でここぞとばかりにウィンドウショッピングを楽しんでいたゆんゆんが、身体を小さくして頭を下げる。

 スバルは手を振り、ゆんゆんが頭を上げたタイミングで顔を傾け視線を合わせた。

「いいっていいって、っていうかゆんゆんのせいじゃねえよ。元々買い物提案したのは俺。何か買ったのも俺。ゆんゆんはただそれを手伝ってくれただけ。オーケイ?」

「え、と……」

「オーケイ?」

「……お、おーけい」

 ゴリ押し的に頷かせた。

 視線に耐えきれなくなったらしいゆんゆんは、目を逸らして森の方に向ける。

「あっ」

 と、同時にゆんゆんの小さな驚きと、少し喜びを含んだような声。その視線の先に目をやると、森の近くを歩く黒い影に気がついた。

 ピン、と両耳を頭の両端で立て、その肉体を包む毛並みは、全身に闇を宿したような漆黒。顔面に二つ輝くその瞳は、金色に近い琥珀色をしている。その琥珀の瞳と、十字の形をした眉間の傷が、全身を艶やかに輝かせる毛並みの黒の中、自らを主張していた。

 瞳と傷を除けば見事な黒一色。単に全体的に黒っぽいだけの、一般に呼ばれるような黒猫ではない。スバルの知る知識では、小さなクロヒョウことボンベイネコと呼ばれる種類が近いだろうか。

 もっとも、その背に小さな黒の羽根らしきものがある、という点を除けばだが。

 さすが異世界。コウモリの羽根を持った猫もいるらしい。まあ、巨大化する鼠色の猫とも知り合いのスバルだ、多少羽根が生えている程度は許容範囲である。

 自分を三度殺した者の姿を思い出し、やれやれと苦笑するスバル。そんなスバルの姿をよそに、ゆんゆんはその黒猫を呼んだ。

「ちょむすけ!」

「は? ちょむ……」

 今何と言ったのか。

 ちょむすけ?

 まさかそれは名前か。この黒猫の名前なのか。

 確かに彼女自身もゆんゆんという、スバルの感性からしても変わった名前だったが、この世界ではまさか”ゆんゆん”だの”ちょむすけ”だのが一般的な名前なのか。いやそんな馬鹿な、酒場の人達は普通だったぞ。

 一瞬衝撃で戸惑うスバル。しかし、すぐに頬を恥ずかしさで紅潮させ、ぶんぶんと手を振るゆんゆんの姿に、それは否定される。

「ち、違うんです。えと、その、これはそう、私の猫じゃなくって。めぐ……ライバルが『これは私の使い魔だ』って連れてきた子なんです。私はクロって名前を提案して一度は定着したんですけど、センスがないとか変わった名前だとか皆言ってきて……。

 変じゃないですよね!? 黒猫だからクロちゃんって変じゃないですよね! ちょむすけよりずっと普通ですよね!?」

 言葉が進むうちに瞳が潤み、こぼれそうな涙が光を反射してキラキラと光っている。いつの間にか頬の紅潮の理由は、羞恥から興奮に変わっていた。

 ゆんゆんの必死な様子にスバルは目頭を押さえる。そこには、かつての自分のように、周囲から浮いたことのある過去が見える気がした。

「ああ……わかる。自分は正しいと思って行動してるのに、周囲から理不尽かと思うくらい、非難されることってあるよな……」

「わ、わかってくれますか!? ナツキさんも私と同じような経験……」

 大げさな動きをするスバルを見てか、既知のゆんゆんがいるためか。ちょむすけはエサでももらえると思ったのか、黒い尻尾を横にふりつつ、こちらに駆け寄ってくる。

 綺麗に敵がいなくなった平原を確認してから、スバルはその身を強引に抱き上げる。暴れるちょむすけをモフりながら、瞳に寂しげな影を宿す。そして視線をゆんゆんに向けて、言葉を続けた。

「俺にもあったよ。良かれと思って、人様の誕生日パーティーに、呼ばれてもいないのに乗り込んで盛り上げようと盛大に騒いだんだ。まあ見事に白い目で見られることになったんだよ。

 でもやっぱりそういうのは自分じゃなくて周囲が正しくってだな、俺もその後反省して、呼ばれてもいないパーティーに行くのはやめようって思ったんだけど、時すでに遅し。

 以降俺は誰にも呼ばれなくなって……。だからゆんゆんも、そういう時は空気を読んで周囲に合わせた方が……」

「そういう話!? 黒猫にクロちゃんって名付けるのって、勝手に誕生日パーティーに乗り込んで騒ぐようなレベルの酷いことなんですか!? いくら私でもそこまで空気読めなかったつもりはないんですけど!?」

「ああ、自分じゃ自覚できないもんだよな。でもそういう時は往々にして周囲が正しくって……」

「これ私が悪いんですか!? さすがに納得出来ないんですけどぉ!」

 と、ひとしきりゆんゆんをからかっていると、漆黒の獣がスバルの手の中からするりと抜けた。

 そのまま元の場所――を通り過ぎて、森の奥に向かって一気に走っていく。

「ちょむすけ!? そっちはダメ!」

 ゆんゆんは走り出そうとして、一度スバルの方を振り向く。

「ナツキさん、私――」

「追っかけるぞ! とっとと捕まえて戻れば問題ないはずだ!」

 おそらくは一人で行こうとしたゆんゆんに有無を言わさず返答し、スバルはちょむすけを追うために森へ入っていった。



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3 『紅い視線』

 鬱蒼と生い茂った木々。そこにできた道を、二人の人間がひたすらに進んでいる。言うまでもなく、スバルとゆんゆんである。

「くっそ……あの黒猫やたら速いじゃねえか……」

 ちょむすけを追いかけて森に入ったはいいのだが、ちょむすけは予想外の速さで走っていく。猫の瞬発力は人間を凌駕するが持久力はないと、スバルは記憶していたが、ちょむすけには当てはまらないのだろうか。

 さらに、スバルたちが歩く道はきれいに舗装されたものではない。冒険者たちが長年踏み固めたというだけの、大雑把な道だ。獣道よりはマシだろうが、足元には湿り気を感じるし、枝や石、尖った金属片なども落ちている。街の道とは比べ物にならない。

 この手の道を歩き慣れていないスバルたちと、不思議とスイスイ進むちょむすけ。条件が違いすぎるのであった。

「そ、そうだ、これを!」

 その時、ゆんゆんが黒いローブの懐に手を入れ、小さな袋を取り出した。その袋に再び手を突っ込んで、中身を乱暴に取り出す。

 それは赤く、小さな長方形に切った食べ物だ。というかスバルもよく見覚えがある。

 これはシャケの切り身だ。間違いない。

「ちょむすけ、これをお食べ!」

 当たり前のように出てきたシャケ。まさかライバルの飼い猫にやるためにわざわざ用意していたのだろうか。

 ゆんゆんが投げたそれにちょむすけは素早く反応し、落ちた地点へと駆け寄っていく。ゆんゆんに食事をもらうのは初めてではないらしく、毒などを警戒する様子もなくそのまま食事を開始した。

 あとは簡単だ。

 ちょむすけが切り身を食べている隙に、スバルとゆんゆんは両側から挟み撃ちの形を作り。

 目の前のスバルにちょむすけが気づき、警戒し始めた頃に、ゆんゆんが後ろからちょむすけを抱きしめる。

「確保ー。ナイスだゆんゆん」

 スバルはほっと肩の力を抜き、ゆんゆんも大きな胸をなでおろす。

「しかし、ここまでモンスターに出くわさなくてよかったな。森は凶悪なモンスターが多いっていうから、コイツ追っかけてるうちに出会うとやばいと思ってたけど」

「そうですね。ナツキさんは守れても、遠くにいたこの子までフォローできたかは怪しいですから……」

「なんか微妙に非戦闘員扱いされてんな!? 弱い俺でも足止めくらいなら頑張るよ!?」

 小声で話しながら、スバルはゆんゆんからちょむすけを受け取り、今度は逃さないようにしっかりと抱きしめる。頑張るといった直後でなんだが、戦闘力という点から見てスバルよりゆんゆんの方が圧倒的に強い。ならば、今手をフリーにしておくべきなのはゆんゆん。そういう判断だ。

 ぎゅっと抱きしめ、少し頬ずり。黒い毛玉は、人の肌に心地の良い気持ちを与えてくる。

 そうやって漆黒の毛の感触を楽しんでいると、ちょむすけが妙に暴れ始めた。手の中から逃がすつもりはないが――。

「ただ頬ずりを嫌がってるだけって感じじゃないな。なんかあるのか? 実はギルドで言われてた悪魔がこの近くにいるとかやめてくれよ?」

「ナツキさん、あれ――――」

 ゆんゆんが指差したその先に視線を移すと、大きな石像のようなものがあった。

 硬い鱗に覆われた肌は緑がかった黒。その手には何者をも引き裂く鋭い爪が光っている。背中にはこぶのように膨らんだ箇所が一つ、さらには折りたたんだ翼のようなものも確認できた。

 頭部には鋭い二本の角があり、その角はどこか光っているように見える。そこから続く鼻下の閉じた口からは、どんな剣よりも鋭い牙が垣間見えた。

 いわゆるドラゴンを模倣して作ったのであろうか。

 これが展示されていたなら、『眠れる竜』とかいうシンプルなタイトルが似合いそうである。

 スバルならば『凍結されし時の竜(アブソリュート・クロノゼロ)』とでも名付けるだろうか。

「っていうか実は本当に眠ってるドラゴンで、すぐ目を覚ましてファイヤーブレスで即死なんてオチはないだろうな……さすがに焼死なんては経験ないぞ」

「あったら困りますよそんな経験」

 ゆんゆんがごくごく常識的なツッコミを入れる。

 呆れたような光を宿すその紅い瞳に、「まあ死ぬ時は大体失血死とかだよな」とは言えない。

 ちなみにスバルの経験は衰弱死、投身自殺、凍死、喉を突いて自決など。実にバリエーション豊かである。

 スバルはゆんゆんとともに、ドラゴン的なものに歩み寄った。

「やっぱりただの像ですね。まあ、こんなサイズのドラゴンが生息してるなら、ギルドから注意が来ないわけないですし」

 確かに、眠っているような姿勢のためわからないが、これが活動状態ならばスバルの何倍もの高さがありそうで、大いに目立つだろう。

 悪魔型モンスターが出たのはごく最近。それまでは多くの冒険者が森で狩りをしていたのだ。

 誰も入らないようなほどの森の奥ならともかく、(ちょむすけ)でも普通に来てしまうような地点だ。これだけ巨大なドラゴンがいるというのに、誰も気づかないというのは現実的ではない。

「それに、明らかに生物の肌じゃありません。どう見ても石かなにかですよ、これ」

 ゆんゆんにつられて軽く撫でると、スバルの手はゴツゴツした感触を得た。

 スバルの拘束が片手になった時を狙い、ちょむすけも手を伸ばす。拘束から逃れようとするのかと思いきや、そうでもないらしい。

 何故か彫像に向かって必死に猫パンチを浴びせようとしているが、まるで届いていないところが愛らしく思える。

「でも、こんな石像だの彫像だのがあったら、それはそれで言われそうなものだけどなあ……」

「そもそも森に入るな、という話でしたから。こんな像の存在を説明する必要もない……と考えられたのかもしれませんね。まあ、帰ったら一応報告しておきましょうか」

「そうだな。……しかし、よくできてるなあ」

 思わず眼前の像をじっくりと眺めるスバル。今にも動き出しそうという表現がピッタリ似合うリアルさだ。

 ゆんゆんもそれに何も言わず、像に猫パンチを仕掛けているちょむすけを可愛がっている。

 と、その時。

 後方でがさりという音がした。

 すぐにゆんゆんは片手で杖を構え、残った片手で短刀を抜きつつ身体を反転させる。

 同様に、スバルもちょむすけを背にかばいつつ身構えた。

 そうして物音がした茂みに注視していると、まるで隠す素振りもなく、相手が姿を表した。

「か、可愛いっ……!!」

 森の緑に現れたのは、毛糸玉のような、白。

 ピンと立てられた二つの耳は長く、その白く柔らかな毛並みは全身を覆っている。その毛並みと血の色をした二つの目は愛らしい。小首を傾げて鳴き声を上げるその姿は、スバルの世界で知られているウサギに近い。

 おそらく重さにして数キロほどしかなさそうなその体躯。その体にはまるで似つかわしくない、鋭く長い角が額から生えている。その一点が、スバルの知る大きく違う点と言えるだろう。

 これは森の奥に生息している種のはずだ。

 ゆんゆんはウサギを見て、すぐに目を輝かせ、短刀も杖も降ろしてしまう。

 どうやらこのウサギの愛らしさに、一瞬で魅了されてしまったらしい。

 ふらふら、よちよちと歩くウサギにゆんゆんは駆け寄――――

「てりゃあああああああああああああっ!」

 る前にスバルが躊躇なくそのウサギの顔に拳ほどの石を投げつけた!

 全力で投げたためか、当たりどころが良かったのか、ウサギが一撃で昏倒する。

「きゃああああああああああああああああああっ! なんてことするんですかナツキさん! こんなに可愛いのに!」

「ばっかお前、ウサギって言ったら可愛い顔した畜生に決まってんだろ!」

 言いながらスバルは、石をぶつけられてピクピクしているウサギの頭を、ショートソードで刺し殺す。

 スバルにとってもっとも印象深いウサギといえば『大兎』だ。

 あらゆるものを喰らい尽くす無限の飢餓と、全てを同時に消さなければならないという無限の分裂能力を持った、倒すことの叶わぬ災厄の象徴。

 スバルの頭の中では、かつて自らの身を喰い尽くした、三大魔獣の姿がフラッシュバックしていた。

「た、たしかに角があるし、モンスターかもしれませんけど……でもやっぱり何かの間違いですよ! ああ、あんなに可愛いウサギちゃんが……」

「俺はこれよりもっともっと小さいウサギが、人の目も耳も手も内臓も喰らい尽くした例を知ってんだよ! トラウマなんてもんじゃねえぞ!」

 その声に応えるように、ウサギが現れた茂みから、複数のウサギが姿を見せる。口元や毛並みには獣のものかそれとも人か、赤い返り血がところどころについている。

 茂みの奥をよく見ると、血まみれでところどころの肉が欠けた、大型のオオカミらしき死体が見えた。

「ひ………ひいっ!?」

 出てきたウサギは二体、四体、六体……十はゆうに超えている。

 最初の個体のよちよち歩きはどこへ行ったのか、素早い動きで次々と現れたウサギは、その肉体をしならせ。

「ら、『ライトニング』ーっ!」

 反撃と同時に、スバルたちは闇雲に逃げ出した。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――『一撃ウサギ(ラブリーラビット)』。

 仔犬ほどの大きさで、肉食。

 群れで活動することが多く、大型の狼などを集団で突き殺し、食糧とする。

 また、愛くるしい外見に加え、意図的に弱々しい仕草をすることで、人間の庇護欲を刺激し油断させるなど、狡猾。

 高レベルの冒険者でも、事前知識を持たなかったために、不意打ちで殺された例もある。

 その戦闘力、悪辣さともに、初心者冒険者は要注意とされるモンスターである。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!」

「『ライトニング』! 『ライトニング』! 『ライトニング』ッ!」

 全力で両足を前に進め、少しでもウサギの少ない方向から突破していくスバル。

 同道するゆんゆんは、まともに詠唱する余裕すらなく、振り向きざまに魔法を連発している。

 発現した雷は木々の隙間を通り、あるいは木そのものをなぎ倒して、ウサギたちへと襲いかかる。

 もはや無我夢中だ。本来魔法の制御のために必要な詠唱をしないため、やや暴発気味ではある。

 外見からは想像もつかない速度で追跡してくるウサギたちに対し、術者自身も全力で走りながら照準を合わせるのは至難の業であろう。

 しかし彼女の天性の才能か、それとも研鑽の賜物か。何体ものウサギを潰すことはできていた。

 歩き慣れていない、舗装されてもいない道をこれだけ走っても転んでいないのは、命の危機を感じるが故であろうか。

 だがそれでもいずれは数に負け、追いつかれる時が来てしまう。

「ゆんゆん! カエルに使ってた炎の魔法頼む!」

「ええ!? 森が焼けかねませんよ!? 下手したらものすごいことになるんじゃ!」

「いいから頼む! 一帯が燃えたって俺のせいにしていいから!」

 牽制代わりに拾った石をウサギに投げつけながら、躊躇するゆんゆんに叫んだ。

「お前が死ぬのは自分が死ぬよりずっと嫌なんだよ!」

「っ――――――――!」

 その言葉を聞いたゆんゆんは詠唱を開始。飛びかかってきたウサギに、瞬間的に短剣を合わせながら――!

「『ファイアーボール』ッ!」

 ウサギの群れの真っ只中に打ち込んだ火球は、そのまま爆散し多数のウサギを巻き込んだ。

 そのまま炎は木々を燃やし、草にも燃え移っていく。

 ゆんゆんが短剣で応戦したウサギも、突然の爆音を恐れたのか、走り去ってしまった。

 あたりが炎で明るくなった。光が届く範囲には、ウサギの死体が大量に見える。

 どれだけいるかわからないので、全てのウサギは望み薄だろう。だが、少なくとも第一陣は倒した、あるいは追い払ったのかもしれない。

 今のうちにこれならなんとか逃げ切れるかと思考したとき、ふと気づく。

 逃げるのにあまりにも夢中で気づかなかったが、炎であたりが明るくなったということは、それまでは暗かったということだ。

 空から差す光が、明らかに薄くなっていたということだ。

 いや、薄いなどというものではない。

 炎の明かりが届かない空間は闇に満ち、何があるのかもわからない。

 何故ここにいるのか。一撃ウサギに追われたためだ。

 少しでも一撃ウサギが少ない方を、スバルたちは無我夢中で逃げた。

 それはつまり、スバルたちが誘導されていたという可能性も考えられるわけで。

 そして。

 目の前の闇に、黒の魔獣が身を溶かしていることに気がついた。

 

 それを見てスバルが最初に思い出した獣は、豹。

 ただし通常の豹と違い、その上顎からは、細長くも鋭い犬歯がこれ見よがしに飛び出している。

 スバルが記憶の隅から引きずり出した名は、冒険者たちが話していた怪物『初心者殺し』。

 強さ、狡猾さ、悪辣さ、危険性。全てにおいて駆け出し冒険者の天敵となる、黒い獣であると。

 想像以上のその巨体から、スバルは連想する。

 全身から感じ取るような死の体現を。かつて見た、4メートルに届こうかという体躯の猛虎を。亜人の血を引いた男が全身獣化した虎を。奴が引き起こした、虐殺の光景を。

 スバルを助けようとした人達の、死の光景を。

 スバルを助けようとした友達の、死の光景を。

「――――あぁっ! ゆんゆんっ!」

 放心したのは一瞬。未だウサギの群れを警戒する彼女に声を上げつつ、咄嗟に片手のショートソードで黒の獣に襲いかかった。

 めちゃくちゃな体勢からの強引な攻撃。

 初心者殺しがかの猛虎と同じような規格外の化物であれば、ゆんゆんとて無事ではいられはしまい。爪のひと薙ぎ、牙のひと噛みでその身は引き裂かれるだろう。

 少しでも傷を与えられれば、というスバルの攻撃だったが、初心者殺しは身をひねることでそれをたやすくかわし、続いて初心者殺しは右の前足を横に払うように薙いだ。

 スバルが打ち込んだ刀身に強い衝撃。横からのそれは、スバルの握力などものともせず、その手から一瞬で武器を弾き飛ばした。

 空手になったスバルを見て、初心者殺しの口角が嬉しそうに歪んだのを見て、スバルは理解する。

 こいつに敵意はない。

 ガーフィールと違い、純粋な獣であるこいつには、スバルを敵だと認識していない。

 気がつけばちょむすけが左腕の中から消えている。見れば遠く、初心者殺しから遠い方向へと駆け出している。足手まといを恐れたのか。

 同時にゆんゆんがこちらを見ているのが目の端に映ったが、彼女がスバルを助けるべく足を向けた瞬間、火のない方向から回り込んだ一撃ウサギが彼女を襲う。

 予備戦力を温存していたのか。その数は決して多くはないが、スバルへの救援の手を許すことはない。ゆんゆんが蹴散らすよりも、この獣がスバルに致命傷を与えるほうが先だ。とても間に合いそうもなかった。

 これは連携か。それともどちらかが一方的に利用しているのか。

 いずれにせよ最悪の形に追い込まれた、そう気づいたときにはもう遅い。

 非常に狡猾なこの獣は。スバルを確実に殺し得ると確信したからこそ。スバルが敵となりえない獲物だと確信したからこそ現れたのだ。

「――――――――――――――――ッ!」

 初心者殺しがその身を、四肢を折りたたむように小さくするのが見えた。

 次の瞬間、猛烈な勢いで突進、その牙が狙うのはスバルの喉元だ。

 視界の中、目の前の動きが緩慢となり、同時にスバルの脳が高速で再生をはじめた。

 この感覚は記憶にある。何度も死を体験してきたスバルには経験がある。

 走馬灯。

 『死』を目前にして、スバルの脳はわずかな時間で過去の記憶を全て再生し、助かるための方法を、生き延びるための答えを探し始めたのだ。

 十を超え二十に迫る自らの『死』の記憶。続いて、何度も体験した臨死体験の記憶。その中で最も近い状況――先程連想した、猛虎に襲われた時の記憶が再生される。

 あの時何故生き延びられたのか。

 忠竜パトラッシュがその身を犠牲にして逃してくれたからだ。大虎の上顎と下顎に挟まれたパトラッシュが身体を真っ二つにされ、絶命された瞬間が再生される。

 パトラッシュが間に合ったのは何故か。勇敢で心優しい、スバルが顔も名前も知っている村人達が身を挺して時間を稼いでくれたからだ。

 青年たちは短剣で、石礫で、枝で、抵抗にならないような無力さで虎に挑みかかり。そして猛獣の前足が振るわれる度に、ある者は人体がひしゃげ、ある者は臓腑が撒き散らされ、ある者は首が吹き飛ばされ、次々と肉塊に変えられていったのだ。

 彼らの死の前。確かに何かがあったはずだ。弱く脆く知恵もないナツキ・スバルに何かが。

 桃色の少女の死を理解し。凶獣に怒りに任せて叫びを上げ。恐怖を跳ね除けて罵倒してみせた後。

 記憶の中の金色の獣は、スバル目掛けて突っ込んできた。

 目の前の黒色の魔獣は、スバル目掛けて突っ込んできた。

 息がかかるような距離に『死』がありながら、未だ再生が止まらない。

 ――あの時はどうして村人達が来るまで生き延びられたのか。

 初心者殺しの牙。スバルの使っていたショートソードよりも、よほど恐るべき凶器に見えるそれが、スバルの首へと襲いかかる。

 とっさに左腕を、魔獣の牙と首の間に割り込ませた。

 長大な牙は勢いに任せてスバルの左腕を貫通。鋭い牙が腕の筋肉が断裂するのを直感的に理解する。その理解から遅れ、激痛が神経を走って脳を揺さぶってきた。

 絶叫。

 飛び散る血肉。

 鮮血はそのまま右目を直撃。

 視界の片方が物理的に紅く染まる。左腕に力を込めて筋肉を締めようとするも、思うように動かない。

 それも当然だ。奴の牙はすでに左手の半ばを食い千切りつつある。

 何度も味わってきた『死』の実感。

 それでもスバルの脳は生存への道を模索し続け。

 ――――記憶の中の猛虎が、理解できないままに半回転しながら吹き飛ばされたのが見えた。

 ――――記憶の中のスバルは、己の内側でおぞましき何かを掴んだことを実感した。

 

 あの時スバルが実感したそれは、今の肉体にも存在する。

 あの時の感覚を、今のスバルは思い出す。

 

 ずるり、と。

 確かに「何か」を引きずり出す感覚を得た。

 

 スバルの中の何かを、そのまま強引に現実へと引きずり出す。

 スバルではない何かが、殻を破るように姿を表す。

 否。表れるという言い方は正確ではない。

 ――――なぜならそれは、スバル以外には認識すらできていないのだ。

 

 スバルの左腕に未だ噛み付く初心者殺し、その口腔に右手を突っ込み、強引に隙間を広げる。

 初心者殺しはスバルのその行動を脅威だと思ってはいない。

 当然だ。一撃ウサギに長々と追い回され続け、一度も反撃に加わらなかったスバルだ。魔法など使えはしない。

 左腕を食いつぶされ、この体勢では両足もろくに使えはしない。右腕で顎を開いたところで、スバルにはそれ以上加えられる攻撃があるように思えるはずもない。

 初心者殺しの目には、スバルの行動は、取れる手を失い死を前にした獲物の、無駄なあがきにしか映らないだろう。

 だが、意味はある。

 自分にはまだ『手』が残っている。

 その口腔に向けるのは、黒く、暗く、おぞましい、外法の力だ。

 スバルの中に潜む、エキドナが『馴染ませ』た魔女因子。

 扱い方は、何故か理解できている。

 かつてスバルが誰よりも憎んだ男の力。

 かつてスバルの愛しき人を殺した力。

 世界に生まれ出て、空間を歪ませ、一切の光を受け付けず。己が意志のままに手を伸ばし、世界に干渉する力。

「来い――――――――見えざる手えええええぇっ!」

 スバルの紅い視線が、狙いを定める。

 スバルの肉体が、多大な熱を帯びる。

 スバルの魂が、絶対的な何かを捧げる。

 引き絞った『それ』を。どす黒くうずまく『それ』を。

 スバルはただ本能のままに、開かれた魔獣の口腔へと向けて、解き放った。

「――――――――――――!」

 黒き獣は声にならない絶叫をあげる。

 当然だ。

 初心者殺しがどんな生態であれ、まさか血肉を取り込むための体内に、強固な鎧を持っているということはあるまい。それはスバル自身の目でも確認してある。

 口腔から見えた喉。その奥、気管、食道、肺、心臓があるであろう位置。

 スバルの解き放った『見えざる手』は、遠慮も呵責もなく、ただただその全てを、全力で潰しにかかった。

 かつてガーフィール――4メートルもの猛虎を吹き飛ばしたほどの力だ。それを、無防備な体内へと叩き込まれた結果は想像に難くない。

 喉を引きちぎり食道を蹂躙し気管を陵辱し心臓を捻り潰す。

 おびただしい量の血が、照準をを定めるために口腔へ向けていたスバルの瞳に映る。

 やがて、初心者殺しの全身から力が抜け、そのまま動かなくなった。

 牙から強引に左腕を引き抜き、初心者殺しの肉体を乱暴に捨てる。大きな二つの穴が空いた腕は、何故つながっているのか理解できないような惨状になっていた。

 どれだけ血が流れ出てしまったのか。紅い視界の中ではよくわからない。

 熱いこれは自分の血なのか。初心者殺しの血なのか。

 ゆんゆんは。彼女は無事なのか。かろうじて顔を横に向けると、数を減らした一撃ウサギは初心者殺しの死を直視し、警戒するようにスバルから、ゆんゆんから遠ざかりつつある。

 形勢悪しと判断してくれているのか。

 これならば、ゆんゆんが数発魔法を放てば、そのまま散り散りに逃げていくのではないか。そう思えた。

 スバルが初心者殺しを殺し得たのは、『見えざる手』の持つ、不可視という初見殺しの性能あってのことにすぎない。

 ましてや、そのためにスバルは武器と左腕を犠牲にしている。今一撃ウサギに襲いかかられればそれこそ『手』も足も出ないだろう。

 さらに、肉体だけではなく、頭の回転も急激に鈍くなっている。これは先程の『手』を使った代償か。

 ただの疲労ではなく、魂そのものを削り取ったような脱力感。

 だが、それだけの価値はあったと信じたい。

 ゆんゆんが詠唱しているのが見える。このまま残った敵が去っていけば、後は血にまみれた肉体を引きずって、アクセルの街へと帰るだけだ。

 この世界の治癒魔法は取れかけた腕を治せるほどの性能なのだろうか。初心者殺しを殺した報酬で治療費が払えれば良いのだが。

 そんな疑問を抱くスバルの前で、ゆんゆんは詠唱を終え――――

 

 

 

 

「――――――――ウォルバク様ああああああああああああぁっ!」

 

 

 

 

 そこに突如姿を表したのは、黒。

 闇に溶ける初心者殺しの黒とはまた違っていた。

 その肉体の漆黒は、どこか金属のような光沢を放ち、それでいて存在があるだけで、そこに闇を感じさせる不思議な色。

 そんな艶やかな黒の肌の背中からは、コウモリを連想させる二本の羽。伸縮性を持った膜でできたそれに似た羽は、それだけで成年男子の肉体を軽々超える巨大なサイズを誇っている。

 漆黒の体躯は成年男子はおろか、巨漢であっても軽々捻り潰すであろうことを確信させる。

 咆哮を上げた口元には、初心者殺しほどの長さこそないものの、生えそろった牙が禍々しさを象徴。さらに、どういうわけか口の両端から横に太く尖った突起が飛び出している。まさかあれも牙だというのか。

 その頭にも緩くカーブを描いた角が二本伸びている。

 瞳は怒りに燃え、初心者殺しを殺したスバルを一心不乱に見据えていた。

 ――――悪魔だ。

 その外見から、スバルは直感する。

 現代日本にいた頃は、マンガやライトノベル、あるいはゲームのダンジョンなどで目にするような、典型的な悪魔を連想させる外見。

 一つ前の世界では、悪魔のような人間こそ会えど、悪魔自体をお目にかかったことのないスバルにとって、これが初対面となる存在だ。

 まして、冒険者ギルドでは何度も注意されていた。森では悪魔型モンスターの目撃情報がある、と。高い知恵を持った上位悪魔の可能性も高い、とも。

「てめえら、ウォルバク様に何やってんだゴルァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 上位悪魔はそう叫びながら猛然とスバルの元へ突進し、即座に距離を詰め、そのまま拳を振るう。

 ウォルバク様、と言っていた。

 ウォルバクとはなんだ。この獣の名なのか。

 いやそんなことより、とにかくこの腕をかわさなければ――。

 思考は漫然と上位悪魔の言葉を咀嚼し、肉体は脳の命令を拒絶するように動かない。

 全身を痛みと脱力感が支配。

 削られた魂は悲鳴を上げ、肉体との接続がうまくいっていないようだ。

 今のスバルには、その悪魔の腕を見送ることしか――。

「――――『ブレード・オブ・ウインド』!」

 ローブを羽織ったゆんゆんが間に割り込んで、風の魔法を解き放つ。

 しかし、そんな魔法で悪魔の拳は止まらない。

 彼女はアークウィザード。肉体的に優れていると言えないその身体は、上位悪魔の一撃で放物線を描いて吹き飛んだ。

 地面に仰向けに叩きつけられた彼女は、そのまま起き上がってこない。

 続いて、上位悪魔の拳は再びスバルに襲いかかる。

 スバルに対抗しうる手段はない。『見えざる手』を呼び起こそうとするも、消耗した魂はそれを拒絶している。

 上位悪魔の瞳を見て、どこかで同じものを知っている、と感じる。

 そのままその漆黒の拳を受け、全身に衝撃が走る。

 動かない身体を持て余しながら、気づいた。

 ああ、そうか。

 大切な人を殺された時の自分と、同じ瞳をしているのだ。

 自分の身体が崩れ落ちるのを、他人事のように感じていた。

 今の衝撃で完全に千切れたのか、左腕はどこかに行ってしまった。腹部には大きな穴が空いた。

 いや、そう感じるほどの痛みなだけだろうか。

 その悪魔はそのまま、すでに死んでいる初心者殺しを連れて、どこか遠くへと飛び去ってしまった。

 どこを目指しているのか。ただ離れようとしているだけなのか。

 

 麻痺しつつあるスバルには、もうわからない。

 ただ、せめてゆんゆんだけでも生かさなければ、と思い。

 倒れながらも、未だ胸を上下させるゆんゆんの身体に、目を向けた。

 倒れ伏して、白い毛玉が群がり始めたゆんゆんの身体に、目を向けてしまった。

 

「や――め、」

 

 牙。

 彼女のよく紅潮する頬が、えぐり取られるのが見えた。

 彼女の形の良い耳が、噛みちぎられるのが見えた。

 彼女の血色の良い唇が、咀嚼されるのが見えた。

 彼女の友達がほしいと言った喉に、大きな穴が開くのが見えた。

 彼女の上下していた胸が、平坦になるほど抉られたのが見えた。

 

 たった二日間。

 たった二日間の付き合いしかない彼女が。

 たった二日間の付き合いしかないのに、最後まで自分を守ってくれた彼女が。

 たった二日間の間に、良い仲間になれそうだと思っていた少女が。

 強いのにおどおどして、優しいのに遠巻きにされていて、よく表情が変わり、些細な事でよく笑った少女が。

 寂しがり屋の少女が。

 今、スバルを助けようとした少女が。

 目の前で喰い殺されるのを、見てしまった。

 

「あ――――あああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁあああああああああああああっ!」

 

 思考が吹き乱れる。

 今の今まで彼女だった物体に手を伸ばすこともできない。

 こんな時に動かない肉体が、自分の弱さが、あまりに呪わしい。

 スバルの狂乱する声に反応したのか、一羽のウサギが何かを持ち上げるように、姿勢を前のめりから戻した。

 ぽとり、と。

 血よりもなお紅い眼球が、地面に落ちたのが、見えた。

 目と『目』が合った。

 

 きゅうきゅう、きゅうきゅうと。

 スバルの周囲にも鳴き声が集まってきていた。

 生憎と、喰い殺されるのは初めてではない。あの時は、痛みで気絶すらできなかった。

「お――こりゃウ―――ク様じゃ――じゃねえか。クソ、――的に済ませるつも――ったってのに――」

 空から黒いものが降りてきた。

 何かが聞こえる気もするが、もうわからない。

 何が見えていても、何が聞こえていても。スバルの脳は理解を拒否してしまっている。

 仮に今すぐこのウサギたちが去ったとしても、もう何も変わらない。

 初心者殺しにずたずたにされた左腕は、もう出血も止まりそうにない。ここから立ち上がり街に帰るほどの力も残っていない。

 何より。

 スバルは、ゆんゆんを惨たらしく死なせた世界を続けるつもりがない。

 ゆんゆんを死なせた自分を許すつもりはない。

 脳が熱い。

 やがて起こる牙の感触。視覚も聴覚も理解を拒否しているのに、痛覚だけはダイレクトで脳に刻まれる。

 絶叫。同時に開いた口腔へと牙が突き立てられる。

 先程スバルが黒の獣にしたこと。かつてスバルが別の魔獣にされたこと。内部から肉体を破壊され、粉砕されていく。

 舌が食われる。喉が蹂躙される。筋肉は内部から食い破られ、ウサギが皮膚を突き破って顔を出した。空いた穴から別のウサギが入り、また別の場所を食い破って顔を出す。

 繰り返す。

 繰り返す。

 何度も繰り返し、スバルを穴だらけに変えていく。

 

 

 

 スバルが絶命したのはいつだったのか。

 スバルが死ねたのはいつだったのか。

 ただ、ここで終わることは確かだった。

 

 ここで、終わる。

 

 

 

 ――――――――そして、始まる。

 

 ナツキ・スバルの、この世界でのループが、幕を開ける。



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4 『天性の才能』

――――――――2周目


 死から生に切り替わる瞬間は、何度繰り返しても慣れるものではない。

 十をゆうに超える回数分、『死に戻り』を繰り返してきたスバルだが、この意見は変わらない。腹部が、胸部が、左腕が、頭蓋が、臓腑が、血管が筋肉が皮膚が――欠損した肉体が0秒単位で再構成され、失われた血が通い始めるのだ。

 それは言うなれば、テレビのチャンネルを切り替えるのに似ている。

 『死』の事実。それは脳に――否、魂に明確に刻まれているというのに。『チャンネル』が切り替わった瞬間、すべてを失った感覚だけをそのままに、突如として正常な状態へと引き戻されるのだ。

 喰い殺されたのは何度目か、確か三度目だったか。連中には大兎ほどの食欲こそなかったが、それでもろくな感触ではないことに変わりはない。

「――ナツキさん? どうしました、急にぼうっとして」

 その言葉の主は側に。その愛らしい瞳も、声を紡いだ器官も、一度は停止した呼吸も、ゆんゆんの全てが戻っている。あの悪魔と獣共によって引き起こされた、無惨な光景の片鱗も見当たらない。その事実にスバルは心から安堵して泣きそうになる。

 そして、ゆんゆんの放った言葉を認識すると同時に我に返り、現在の状況に気づいた。

 手に伝わるは、石か岩のようなゴツゴツとした感触。腕の中には小さな漆黒の毛皮。側にいるのは紅目の魔道士。そして、眼前に見えるのは、今にも起き出しそうな、どこか光って見える精巧な竜の彫像。

 舞い戻ってきた先は、一撃ウサギに襲撃される直前の場面だ。先程まで火を背景とした暗い森の中だったせいか、どことなく像の光も眩しく思える。

「……………………嘘だろ」

 この光景に心がざわついた。続いて思考は自然と『死に戻り』への疑問へと行き着く。

 何故『今』なのだ。

 これまでの『死に戻り』は、スバルの体験した『死』まで数時間、あるいは数日の猶予が与えられていたというのに、今回はわずかな時間しか与えてくれていない。

 スバルとゆんゆんが一撃ウサギの群れから必死で逃げ続けた時間、正確に把握しているわけもない。だが、少なくとも戦闘と逃走を何時間とし続けていたということはないだろう。

 ――まさか、世界を移動したことで、『死に戻り』が弱体化したのか。

 思考が絶望的な方向へと流れそうになるが、頭を振ってそれを振り払った。それは今考えるべきことではない。

 今もその辺りの茂みには、憎き白の怪物の群れが隠れている。このままでは先の惨劇が再現されるだけだ。

 答えが出もしない疑問を追っている余裕はない。

 ゆんゆんの『死』の光景は、スバルの魂に消えない傷を刻んでいる。だが今、その魂の正常化を待っている余裕はない。

 意識的に先の光景をシャットアウトして、自分を目の前の光景に切り替える。

 あの惨劇を繰り返さないために、即座に決断しなくてはならない。

 

「ナツキさん、嘘って……?」

「――――ゆんゆん、そのままよく聞いてくれ。今、初心者殺しの姿を見た」

「――――!」

 幼い顔が一瞬で緊張に染まる。

 端的に、かつ具体的な危険を伝えること。スバルの最初の選択はこうだった。

 スバルがこれまでに経験してきた『死に戻り』は、当然ながら、常にスバルが生き残る可能性を残した上でのものだった。

 命よりも大事な何かを取りこぼしても、スバルにだけは生存の機会を与える。それが残酷な『死に戻り』の性質だ。

 逆に考えるならば、わずかな時間しかない今回のループ。その突破自体は難しくはないはずだ。

 与えられたこれだけの時間でできる、小さな機転で突破できるようなレベルということになる。

 そのはずだ。

 そうでなければならない。

 経験から推測できる仮定を前提にした思考。

 スバルは急速に回転させた頭で内容をまとめると、小声で語りかける。

「初心者殺しと一緒に、ウサギの群れの姿も見た。おそらく、ギルドの人が言ってた肉食のウサギだ。初心者殺しは、そのウサギを利用して俺達を狩るつもりなんだと思う」

 初心者殺しは通常、ゴブリンやコボルトといったモンスターの群れを利用する。それを狩る冒険者を獲物とする、狡猾で悪辣な知性を持つ。

 今回はゴブリンなどではなく、一撃ウサギの群れを追い立てに利用し、狩りを行っていた。

 獲物――スバルたちが弱ければ、捕まったところでウサギどもを追い払って横取りしてもいいし、逃げるところを不意打ちしてもいい。

 逆に一撃ウサギが相手にならないほど強くとも、不意打ちの利を活かして命を刈り取る道か、一撃ウサギを囮にして逃走する道か、その選択権は初心者殺しにあるというわけだ。

 今回の初心者殺しの戦法。その恐ろしさをすぐに理解したらしいゆんゆんは、端的に必要事項のみを聞いてくる。

「敵の数と方向は?」

「初心者殺しは森の奥側だ。ウサギには多分、遠巻きに囲まれつつあると思う」

「初心者殺しへと誘導すると考えたら、逆方向の街側は敵の層が分厚くなってるでしょうけど……そっちを強引に突破したほうが良さそうですね」

 さすが紅魔族、頭の回転が早い。不意打ちならともかく、冷静な状況ならば的確に対応できるようだ。

「後は例の悪魔型モンスターのことだ……」

 激昂した黒い悪魔の姿を思い出す、初心者殺しの死体を見て、頭に血を上らせ、スバルたちが死ぬ原因を作った敵だ。

 スバルの肉体から、原理もわからないまま這い出てきた『見えざる手』――初心者殺しを奇跡的に仕留めるに至ったそれも、あの悪魔に通じるとは思えない。

 あれは見るからに、魔王城とかそういうところに住んでおくべき危険なやつだった。

 奴の詳細はわからないが、初心者殺しとつながりがある可能性が高い以上、これも告げておかなければならない。

「もし悪魔が人里に用があるなら、とっくに来ているでしょうから。きっと森の奥にでも行かなければ会いませんよ」

「さっき微妙に初心者殺し以外に黒い影が見え隠れしてたけど、悪魔じゃなければいいな」

「そういうのはもっと早く言ってくださいよぅ…………もしそうなら、泣きながら逃げましょう」

 先の推測は自信ありげに、後の作戦は消え入りそうな声でゆんゆんは告げた。

 スバルはそんなゆんゆんの心をほぐすように、小さく笑う。

「ウサギはぱっと見めちゃくちゃ可愛いらしいけど、容赦しないでくれよ」

「い、いくら可愛くても食べられるなんてごめんです。可愛い顔して悪辣な敵なら、むしろ許せませんよ」

 言いながらゆんゆんは杖を取り出す。

「悪いが戦闘自体は超お前頼りだ。――最悪、山火事覚悟で燃やすくらいのつもりで頼む」

「本当に最悪の場合ですね……。では、振り向いてから一気に来た道を戻ります。道はなんとしても切り開きますから、ちょむすけをお願いしますね」

 手短に打ち合わせを終えると、スバルはちょむすけを逃さないよう、しっかりと抱き直した。

 そして、がさり、という音を背中で聞いた時。

「『ライトニング』ッ!」

 振り向きざまに魔法を解き放ち、二人は全力で地を蹴って駆け出した。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ゆんゆんにとっては初の、スバルにとっては二度目の一撃ウサギからの撤退戦。

 スバルはかつて、桃色の少女と共に逃走した経験を思い起こしながら、獣道を駆ける。

 

「『ライトニング』ッ!」

 黒髪の少女が放った雷撃は、目の前の白い獣の塊を巻き込み、そのまま消し炭に変える。

 一撃ウサギの白い波、そこに間隙ができた。スバルとゆんゆんはすかさず身体を滑り込ませ、雷撃にひるんだウサギたちから一気に距離を取る。あとはそのまま逃走の一手だ。

 飛び出した木の根を全力で踏み込み、飛び上がるようにさらに一歩。少しでも酸素を求めて、スバルは口を開閉させる。

 自身は風を切るように走っているつもりでも、追走する魔獣たちを振り切れていないのを背中で感じる。きゅうきゅうという、悲痛を思い起こす鳴き声がどこからか聞こえてきた。

「『ブレード・オブ・ウインド』ーッ!」

 ゆんゆんは振り向き様に手刀を一閃。手刀とともに生まれた風の刃は、そのまま群れから突出した白い魔獣を両断していった。

 彼女は風の刃が消えるまで確認することもなく、そのまま前を向き直して疾走を継続。同時に酸素の補給に移る。

 走りながらにも関わらず、この呪文の詠唱速度。さらに瞬時に適切な魔法を選択する判断力や、振り向きざまに一瞬で放った魔法の命中精度。単純な魔法の威力や魔力量だけでなく、様々な角度から見ても卓越した能力を有していると、素人目にも見て取れた。

 だがそんな彼女を持ってしても全てを殲滅するのは難し――――。

 スバルたちが目指す森の出口、遠くに見えるその近辺の様子が変わった。

 空気の振動がこちらにも伝わり、茂る草木すら貫通する強い光が瞳に差し込んでくる。

「めぐ……っ!」

 同時に、並走するゆんゆんが、使用する呪文を変更したのがわかった。

 彼女はスバルに身を寄せつつ、早口で詠唱を開始する。

 一瞬の時間も無駄にできないが、絶対に制御にも失敗できない。そのギリギリの綱を渡りきる覚悟が、その紅い目に宿っていた。

 

 瞬間。

 

――――――――『エクスプロージョン』ッ!

 

 声が響き渡ると同時。

 はるか前方の空間が、破滅の爆焔に支配された。 

 光に遅れて轟音が鳴り響き、前方の木々が吹き飛ばされ、衝撃波は吹き飛ばされた枝を、石を、幹を矢に変えて、二次的な破壊を撒き散らす。

 当然その破壊の矢はスバルたちにも――

「『ウインドカーテン』!」

 特殊な制御をしているのか、本来パーティの全身を包み込むはずの風は、前方に多重の壁となって展開する。

 目の前に幾重にも展開された風の壁は、破壊の方向をわずかに逸らした。

 それで十分。

 二人に直撃するはずの破壊は、後方に展開していた一撃ウサギの群れに突き刺さり、白い波に赤い花を咲かせた。

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 これまでのナツキ・スバルの『死』は、向こうから強い意志で、スバルの大切なものを狙ってくることばかりだった。

 

 スバルの大切な少女エミリアの徽章、あるいは命が奪われる腸狩りのケース。知り合った子ども達ともども呪い殺された、魔獣騒ぎのケース。エミリアを領地の人々ごと皆殺しにされた、魔女教のケースなどなど。

 ループ中にスバルが対応を間違え、別の原因で殺されたこともあるが、基本的にはスバルが根本的な解決に動かなければ、大切な人々が奪われるものだ。

 しかしそういったケースと違い、今回はたまたまいたスバルたちを獣たちが狙っただけ。チンピラに絡まれて殺された例のようなものだ。

 群れの一部を殲滅してしまえば、敵も執拗に追ってくるほどの執着はないだろう。

「にしても、ぜえ、しんどかったけどな、ぜえ、ぜえ……」

「はあ……はあ……こ、怖かった……。あんな可愛いウサギたちが、群れをなして殺しに来るなんて……わかってなかったらトラウマになってたかも……」

 息を切らし、泣きそうな表情。魔法を連発し、最後には全力で壁を展開したせいか、青褪めた顔でゆんゆんがつぶやいた。

 スバルも呼吸が辛い。心肺が酷使に対して全力で抗議をあげているのが理解できる。

 腕の中のちょむすけだけが、のん気に欠伸をしていた。

 場所はすでに街近くの平原にまで戻ってきている。日も暮れて冒険者の数も少なく、ギルド職員が、カエルの屍骸の移送作業をしているのが見えた。

「スー…………ハー……………………ふぅ。でも無事でよかったですね、ナツキさん」

 ゆんゆんは息を整え、その端正な顔に笑みを浮かべる。

 警戒のない、無垢で優しげな光を宿したぱっちりとした瞳をスバルは見る。

 その、血よりもなお紅い眼を。

 欠けていない眼孔を。

 牙。

 血。

 肉片。

 口元から落ちた――――。

「う……うぶぇっ……」

「ナツキさん!?」

 咄嗟に手を口に当てるも間に合わず、スバルは猛烈な嘔吐感を抑えきれず、土の上にぶちまけた。

 彼女の死に様が脳裡を急速にかけめぐった。

 命の危機の真っ只中、同じ死を繰り返さないという使命感で麻痺させていた記憶が、今になって再生されていく。

 自分の死など何度も経験している。全身を牙に陵辱される死に様だって、これが初めてではない。

 近しい人間の死を直視したこともある。大切な少女が、自分を助けるため全身を捻り潰されたことは、とても忘れられる光景ではない。

 だが、あのような経験は。少しでも守りたいと思った相手が、目の前で牙を突き立てられ、咀嚼され、殺され壊されたのは初めての経験だ。

 嘔吐感は一向におさまらず、腹の筋肉が一斉に胃の内容物を押し出して行く。朝に昼に食べた肉が、野菜が、穀物が混じり合い、見るに耐えないスープ状の何かになって吐き出されていく。

 

「げ、げぁ、げぼ、げぼ…………がふぁっ!」

 激しい運動からの嘔吐に、食道が悲鳴を上げ始めた頃。

「……………………」

 そっと。

 寒気の止まらない背に、そっと小さな手が当てられた。

 手はそのまま動くことはなく、ただスバルの背に熱を感じさせるだけ。

 何かしなければと思っているが、どの程度まで踏み込んでいいかわからず戸惑っている。そんな距離感の熱だ。

 普通に撫でりさするよりは少し遠い、そんな距離。

 それでも、存在を感じさせてくれる、そんな距離。

 そこにゆんゆんがいて、自分を気遣ってくれている、という事実はありがたかった。

 ――――大丈夫。

 少なくとも、『死に戻り』はできる。失ったゆんゆんも取り戻せた。

 前回使った『見えざる手』。あの感覚を掴めたことを考えれば、むしろプラスである。

 傷を負ったのはスバルの精神だけ。

 ならばきっと、何も問題はない。

 誰も何も失っていない。取り返しのつかないことになっていない。

 スバルは胃の内容物を全て吐き出してから、ようやくそこまで考えることができた。

「悪い。情けない所見せちゃったな」

 汚れた口元を袖で拭いながら小さく謝罪する。

「い、いえ。一応何度か戦ったことのある私でも物凄く怖かったですし。このくらい当たり前ですよ」

 ゆんゆんもそう言いながら右手を綺麗な地面に置いた。

「『クリエイト・アースゴーレム』」

 大地の土を均等に吸い上げ、瞬きするうちに土人形が誕生。位置を調節した後、それを解除することで、大量の土が吐瀉物の上に生まれていた。

「クリエイト・アースならもっとうまくいくんですけど……私、中級しか使えなくて」

 すみません、と大量の土を前にして頭を下げる。

 その程度で謝られると、同じ駆け出し、それも年下の女の子にフォローしてもらい、あまつさえ吐瀉の後始末までしてもらっているスバルの立場がないのでやめてもらいたい。

 せめてもの償いとして、用意してもらった土をならして完全に埋める作業は自分一人で行うことにする。大量に余った土は、何故か近くにあったクレーターへ流し込んだ。

「助かったけど、なんでこんなところにクレーターがあるんだ? 行きはなかったのに」

 ちょっとやそっとの大穴ではない。軽く二十メートルほどの大きさはあるだろう。上級魔法こそ使えないとはいえ、優秀なアークウィザードであるゆんゆんが使う魔法でも、こんなクレーターを作ろうと思ったら何発も何発も魔法を打ち込み続けなければならないだろう。

 こんなことをできる冒険者がいるとすれば立派で頼もしいことだが、平原にいるのは基本的に弱いモンスターのはずである。たとえ森の強力なモンスターがやってきたとしても、ここまでやる必要はないだろう。

「そういえば、さっき最後にものすごいのがあったな。あれが原因か。あんな魔法、一体誰が何のために…………」

 腑に落ちないスバルはスッキリしない顔で首を傾げる。

「ま、まあそれはいいじゃないですか! それよりナツキさん、体調が戻ったなら、冒険者ギルドに行きましょうよ。初心者殺しに悪魔らしい影、ドラゴンの彫像と報告することがいっぱいです! ウサギを倒した分、報酬がもらえるかもしれませんし!」

 何故か慌てたように話を変えるゆんゆん。スバルは少し気になったが、提案に反対する理由もない。

 二人はそのまま冒険者ギルドへと向かった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 残念ながら一撃ウサギの報酬はもらえなかった。

「元々一撃ウサギは森の奥で出没するタイプだから、被害がなくって、討伐依頼は出ていないのよ」

 ただ、最近は目撃情報が増えているため、討伐の対象になるかもしれないと、受付嬢は続けた。

 そんな受付嬢にゆんゆんは、おずおずと声をかける

「あの、報告で……。その一撃ウサギの群れに初心者殺しがついていたみたいなんです」

 初心者殺しの名を聞き、受付嬢の顔色が変わった。

「初心者殺しと一撃ウサギの連携……ですか? 通常初心者殺しはゴブリンやコボルトの群れを利用するものですし、普段はここいらの地域には出没することもないのですが……」

 そこにスバルは、

「それからこれは未確定ですけど、例の悪魔型モンスターのような影も見えました。ひょっとしたら、何か繋がりがあるのかもしれません」

 と付け加える。

 一度殺された時は、スバルも消耗していたし、割りとすぐに死んだし、衝撃的なこともあったしということで、ほとんど情報を持ち帰れていない。

 スバルから伝えられる情報はこの程度である。

 悪魔という言葉を聞き、受付嬢はますます顔色を変える。

「悪魔が初心者殺しと他のモンスターを連携させている……? その知能からすれば上位悪魔であることは間違いなさそうですね。とにかく、これは由々しき事態です。調査が終わるまで、一部の人間以外は森の完全立入禁止となるかもしれません。…………一撃ウサギや初心者殺しと遭遇したのは森のどのあたりかわかりますか?」

 地理に詳しくないし、行きはちょむすけを追いかけていっただけ。帰りは無我夢中で逃げ帰っただけなので、正確な位置など把握しているはずもない。

 もちろん。目印となるものがなければの話であるが。

「えー、森の中にある、でかいドラゴンの像のあたりです」

「……………………………………はい?」

 たっぷり七秒間、動きを静止させた受付嬢は首を傾げて問い返す。

「いや、だからあるでしょ? 石像だかなんだか知らないけど、めちゃくちゃでかい像が。多分そこまで奥じゃないと思うんですけど」

 慌てて弁解するように言葉を継ぐが、受付嬢は何を言っているのかわからない、という顔でこちらを見返してくる。

「あの森は冒険者達が入るようになって長いですが、そんな像があるなんて話は聞いたことがありませんけど……」

 振り返り、傍らのゆんゆんを見るが、彼女も受付嬢の言葉を信じられないといった面持ちで両手を口元に当てていた。

「どういうことだ……?」

「わかりません……確かにあったのに……」

 誰かに問いかけるというよりは、思わず出た言葉だったが、ゆんゆんも素直に答えを返してきた。

「俺達の見間違いか、それとも突然現れたってのか……」

「ひょっとして、誰かがドラゴン型のゴーレムでも作ったんでしょうか? それこそあの悪魔とかが……」

「悪魔があんなもの作る必要ってあるか? ……って、ここで話すことでもないか」

 あれこれ話しても、どれだけ思考に埋没しようとも、この場で答えは出ることはない。これ以上の会話は受付業務の邪魔になるだけだろう。

「ではスバルさんにゆんゆんさん。貴重な情報に感謝します。今後は高レベルパーティへ調査を依頼することになるでしょう。その結果次第で、ギルド全体での対応も変わってくることと思います。それまで森には無用に近づかないよう、お願いしますね」

 受付嬢はこの場での会話をそう締めくくった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 その宿屋に併設された酒場は、ギルドの酒場とはまた違った構造をしていた。

 一階の半分以上を占める広間スペースは、テーブルが並んだごく普通の食堂兼酒場。

 そして残りのスペースには、数部屋個室がある。

 基本は大勢でも騒げるように。個室は、酒場の喧騒を遠く味わいつつ、ゆっくりと食事を楽しみたい人のために分かれているのだろう。

 そんな酒場の一席にて、グッタリと上半身をうつ伏せにしながら、ジュースを片手に持つ少女がいた。

 普段頭にあるとんがり帽子はそっと置かれ。眼帯のない紅い瞳には、悔しさと迷いの光を浮かべている。

 少女の名はめぐみん。紅魔族のアークウィザードにして、爆裂魔法を操るもの。

 この宿に泊っている彼女は、心中穏やかとは言えない状況にあった。

 彼女のライバルにして――当人には滅多に言わないが――親友であるゆんゆんが。あの、コミュ障ぼっちで名を馳せたゆんゆんが、僅か二日でパーティを結成したというのである。

 初日死んだような目をしていた彼女からは信じられなかった。

 ギルドにも宿屋にも彼女の姿が見えなかった時は、最初は悪い男に騙されどこぞに連れ込まれたのかと心配したものだ。そして、ゆんゆんが見知らぬ若い男と祝杯をあげているのを見た夜は忘れられない。

 宿に帰ってからゆんゆんに話を聞くと、男はややウザそうだし、実力も弱っちいようだったが、別に悪人という印象もなかった。

 もちろん、それ自体は祝福するべき事実である。相手がゆんゆんの身体目当ての変態なら、こっそり闇討ち爆裂でもしてやるが、実力目当てで仲間となっただけなら何も問題はない。ゆんゆんとしても、相手に足を引っ張られる程度は想定済みだろう。

 これが悩ましいことになってしまう原因は、むしろ自分サイドにある。

 今日、三度目のパーティ追い出され経験をしたことが、めぐみんの心を苛ませていた。

 最強の攻撃魔法、爆裂魔法。絶大な威力は、周囲の地形を変えるほどで、威力に比例する轟音は新たな敵を呼び寄せる。

 そして絶大な消費魔力故、天才と謳われためぐみんですら一度撃てばぶっ倒れる。

 魔王軍幹部や、機動要塞デストロイヤーでも現れてくれたなら、一度きりの超兵器として重宝するだろうが、この駆け出し冒険者の街でそんなものが現れるはずもなく。

 現状は一発撃って足手まといになるだけのネタ魔法使いである。

 カッコよさを重視する紅魔族も、実用性を度外視するわけではない。

 爆裂魔法はネタ魔法。戦うためなら上級魔法があればそれでいい。

 それが紅魔族での常識。

 そんなことはわかっていた。わかっていてこの道を選んだ。

 強い魔法使いになるために爆裂魔法を選んだわけではない。

 爆裂魔法以外ではダメだからこそ、この道を選んだのだ。

 だが。

「私はいらない子なのでしょうか……?」

 誰にも聞かれぬよう、口の中で自問する。

 爆裂魔法しか使えない魔法使いはお呼びではない。オブラートに包んではいたが、そう言って皆めぐみんを拒絶した。

 あのゆんゆんですら、コミュ障を乗り越えて仲間を作ったというのに。

 天才と言われたこの私がいらない子。

 ゆんゆんに代わり、ノーフレンドキングのボッチーになれというのか。

 この私が。

「この私があああああああっ!」

 そうやって全身で怒りと苦しみと悲しみを表現し始めたとき。

「ほらほら、皆ちゅうもーく! 私の超すごい芸を今から見せてあげるわ!」

 突然、めぐみんの背後、大勢の人だかりの中心からそんな声が聞こえた。振り返り目をやると、水色の髪と淡い紫の衣を纏った少女が、赤い顔をして空になったジョッキ片手に叫んでいる。

 彼女はジョッキを置くと、どこからともなくハンカチを取り出すと、大きく振り回し、種も仕掛けもない一枚のハンカチであることを示した。

「さあいくわよ!」

 突如としてその中から、赤・青・黄など、様々な色のハンカチが溢れ出てきた。

 そのままそのハンカチをテーブルに並んだ空の皿やジョッキに被せると。

「きえろー、きえろー、それーっ!」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 色とりどりの布が消え去った時、残っていたのはテーブルのみであった。

 一瞬にしてあったはずのものが消え去った事実に、めぐみんも他の客たちも驚きを隠せない。

「ほら、まだまだ続くわよー! 次はねえ――」

 と、水色髪の芸人が次の芸を披露しようとした時、彼女の肩が男に叩かれる。

 めぐみんも世話になっているこの宿の従業員だ。

「消した食器を出せ? 消したんだから出せるわけ――えぇっ!? 困ります、私そんなお金ないから!」

 どうやら勝手に使った皿代の弁償を求められたようだ。

 突然の事態に周囲の客達へと縋るような視線を向けるも、次々と目を逸らされて、水色の瞳に大粒の涙を溜める。

 美人がこういう表情をすれば美しい絵になりそうなものだが、何故かコミカルに感じてしまうのは、彼女の人柄か、それとも天性の芸人の才能だろうか。

 個室に向かって「助けてヒキニート!」と走っていくその姿も、どことなく愉快であった。

「わー……なんかすごいね」

 そんな様子を観察しているうちに、ゆんゆんが目の前の席についた。既に食事を済ませていたのか、軽い飲み物のみをおずおずと注文する。

 今日のクエストは激戦だったのか、ローブのあちこちが切れているように見える。抱えたちょむすけで隠れて見えないが、ひょっとすると胸の部分もやぶれほつれがあるのかもしれない。

「まあ、ゆんゆんはそのうち、見知らぬ男の『大きな胸を強調した服を着たら友達ができるよ』とかの冗談を真に受けそうですしね。その時に備えて、今のうちに無駄にエロい格好に慣れておくといいでしょう」

「何の話!? いきなり皮肉ってなんなの!? 私何かした!?」

 露骨にため息をついてみせると、ゆんゆんは心外という顔で抗議してきた。

 もちろん冗談である。一人で酒場にぽつんと残されてた時ならともかく、さすがに連れがいる状況でそんなことを言ってくるやつはいないだろう。

「そのローブ……木々や草の中を強引に突破したという感じですが、ひょっとして森に入ったのですか? 相方は腕利きではないということなので、もっと慎重にいくと思っていましたが」

「あ、うん。私達もそのつもりだったんだけど、この子が森に入るところを見ちゃったの」

 と、胸の中のちょむすけを差し出すゆんゆん。たゆん、と揺れた気がしてイラッと来たものの、ここは素直にちょむすけを受け取った。

「なるほど、ちょむすけを保護していてくれましたか。ありがとうございます、帰ってこないので心配していたのですよ」

「それは全然いいんだけど……ねえ、放し飼いにしてるのってやっぱり危ないんじゃないかなあ」

「アルカンレティアではどこからか餌を見つけてきたので、ある程度はそのほうがいいのかと思っていましたが……それもそうかもしれませんね」

 紅魔の里、アルカンレティア、そしてこの街までの道中とちょむすけを狙ってきた女悪魔は、めぐみんの爆裂魔法によって退治された。

 それによって、もうちょむすけを執拗に狙うストーカーはいないと考えていた。が、安心しすぎていたきらいがあるかもしれない。

 必死で追いかけたのに手に入れられなかったちょむすけを、その辺のモンスターに食べられました、ではあの女悪魔も哀れである。

「わかりました。今後はちょむすけを自分の部屋に閉じ込めてから外出することにしましょう」

「まあ、それなら。今は長いクエストになりそうもないもんね。そのくらいならこの子も寂しくないだろうし」

 と、そこまで言ったところでゆんゆんが何かを思い出したような顔をした。

「あ、めぐみん。あの平原のクレーターってめぐみんの仕業でしょ」

「クレーター? …………ああ、あれですか。今日組んだパーティは慎重派で、とりあえず何かできるのか知りたいと言ってきたのですよ。なので一発ぶちかましてみました」

 ちょうど森から平原にモンスターが出てきたので、とりあえずぶっぱなしてみたのだ。

「ぶちかましてみましたじゃないでしょ!? あんな街の近くでおっきなクレーター作って、何考えてるの!?」

「ですかその威力に、パーティの皆も驚いていましたよ」

「でしょうねえ! だからってやっていい理由にはならないでしょう! 後始末の工事の人が大変だし、色々危ないじゃない!」

「ついかっとなってやった。スカッとした。またやりたい」

「反省しなさいよおおおおおお!」

 めぐみんの爆裂魔法の披露は、その威力に驚嘆され、これ一発しか魔法が使えないことを知って落胆され、パーティからやんわりと追放されるまでがセットだ。

「まあ、そのパーティとも別れてしまったのですがね。私のように、強大な敵と戦うつもりはないそうです。私としても、意識の低いパーティで腕を腐らせるつもりはないので、これでいいのですが」

 もちろんゆんゆんにそこまで悟らせるつもりは毛頭ない。あくまでお互いの価値観が合わなかったという方向で流しておく。

「そっか……。まあ、やりたいことが全く合わない相手と組んでも、仕方ないもんね」

「その通りです。コミュ障でろくに人と話さないゆんゆんは知らないでしょうけど、私の顔はすでにギルドでもそこそこ知られていますからね。そのうち良い相手を見つけますよ」

 あえて余裕ぶった表情を見せると、ゆんゆんはむっとした顔で反論してくる。

「確かに知らなかったけど、昨日も今日もいっぱい人と話したし、私だって進歩してるんだからね」

「ほほう……パーティメンバー以外で誰と?」

「う…………受付の人」

 まあ、これも進歩だろう。パーティメンバーだろうと、色々と話せる仲になっているようなら大きな一歩だ。

 ろくに話もせず、怪しい奴らに声をかけられるのに比べれば、雲泥の差である。

「まあ、さっきは怒っておいてなんだけど、今回はめぐみんのめちゃくちゃに助けられたんだけどね……」

「ほう。詳しく」

 ゆんゆんの口から興味深い話を耳にして、続きを促した。

「詳しくっていうか……ちょうどモンスターに追い回されてたの。凄く可愛い顔してるのに、群れをなして殺しにくる殺人ウサギ。ナツキさんに警告されてなかったら、トラウマになるところだったわ」

 思い出しただけで嫌な気分になったのか、話すうちに顔を青ざめさせていった。

 確かに話を聞くだけで恐ろしい。その辺の猫が突然攻撃してきたら、自分としてもトラウマになるだろう。

「そんな中、私の爆裂魔法の光がウサギの群れを消し飛ばしたというわけですか。もっと感謝していいですよ」

「うん。ウサギだけでなく私たちにも飛んできたけど、それで助かったんだから物凄く感謝してるわ。お礼に、ここの料金は私が持つから」

 何とはなしに出たであろうその言葉に、めぐみんの紅い瞳がキラリと光る。

「すみません。まずは特製高級カモネギ料理を追加で私に」

 ウエイトレスを呼び止めて、メニューの中で一番高い特別料理を注文した。

「まずは!? まさか昔みたいに、歩けなくなるまで食べる気じゃないでしょうね!?」

「安心してください、昔とは違います。――――ちゃんと消化してから席を立ちますから」

 自信満々に宣言すると、ゆんゆんはため息をついて飲み物をひと口。視線をめぐみん……の背後へと向ける。

 視線を追ってみると、弁償問題をどう解決したのか、先程の芸人少女が芸を再開していた。屈託なく笑い、おそらく大半は初対面であろう人々と、楽しそうに盃を交わしている。

 自分の悩み苦しみなど、些細なことなのではないか、そう思わせてくれる、心から人生を楽しむような笑顔。

 誰とでも自然に笑い合える、天性の才能。

「ゆんゆん」

 その才能はきっと、ゆんゆんが何よりも憧れてきたもので。

「あなたの言う通り。きっと、あなたは進歩しています。だから、いつかあんな風にもなれますよ」

 ゆんゆんは彼女なりに努力して、一つの人間関係を築いたのだ。自分から声をかけたのであっても、相手に声をかけられたのであっても、それは変わらない。

 

 ――――だから、自分は彼女に頼らない。

 自分の現状を知れば、ゆんゆんは自分に手を貸そうとしてくるだろう。『めぐみんをパーティに入れてほしい』『ダメなところは私がフォローする』と、今の仲間に頼むかもしれない。

 だが、それは違う。互いに孤独なまま協力するならともかく、彼女が努力して築いた人間関係に、後から踏み込んでいくつもりはない。

 めぐみん(ライバル)の夢のために、半人前の道を躊躇なく選んだ、強く、心優しく、そして危なっかしいゆんゆん(ライバル)

 何もできないまま、魔物に襲われたあの時とは違うのだ。

 自分の今の状況はわかっていた。わかっていて爆裂魔法と共に在る道を選んだ。

 今回も彼女に縋るのなら。

 自分はもう、爆裂魔法を愛するものは名乗れはしない。

 そして逆の立場であれば、ゆんゆんも自分に縋ろうとはしないだろう。たとえ、孤独を貫いてでも。

 ならば彼女のライバルとして、越えてはならない一線は守りたい。

 そう思うのだ。




クリエイト・アースゴーレムが中級魔法であるという描写はなかったと思うけど、とりあえず本作ではゆんゆんは使えるということで。


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5 『平穏』

「『エクスプロージョン』ッ!」

 

 少女の叫びとともに、杖の先から眩い閃光がほとばしり、空中の一点に集中する。そこを中心とした巨大な空間を爆風がかき乱し衝撃波に支配された。

 おそらくは範囲も完全に把握した上で撃ったのであろう。それは空に向けての魔法にも関わらず、その破壊は地上のカエルを八匹も巻き込んで、地面に小さなクレーターを作りだす。

「ふふふ……やはり爆裂魔法は、最高、です」

 たった今爆裂魔法を放った眼帯の魔法使いは、小さく口角を上げた。

 それはまさに会心の笑顔。ただ喜びの感情だけが前に出たものであり、何の裏表も感じられない。

 そんな少女に、食って掛かる姿があった。

「ふふふじゃないでしょ! 何考えてるのよめぐみん!」

「冒険者が寝静まる夜を越した早朝なら、カエルも油断してそこそこ集まっていると考えていました……獲物の少ない今、八キルはなかなかの戦果でしょう」

 時は早朝。スバルとゆんゆんが狩りを始めようとした時に颯爽と現れ、そのままカエルの群れを消し飛ばした少女――――めぐみんは身体を横にしたままそう言った。

「そういう話じゃないわよ! ああいう迷惑がかかることはするなって言ったでしょ!」

 ゆんゆんはクレーターを指差して、眉をつり上げる。

 その顔はめぐみんの行為に対する単純な怒りだけではなく、多くの親しさと少量の呆れを含んでいた。はっきり言ってじゃれ合いのレベルで、本気で怒ってるようには見えない。

 決して自分に見せることのない表情に、こんなゆんゆんも新鮮だな、とスバルは場違いに思った。

「ですが、うまくまとめて倒せたので、これにてクエスト完了です。私達のような金欠の新人は、こうして無理をしてでも稼がなくてはなりません。私の魔法は本来強敵に向けるべきもの。皆が森に入らない以上、そんな状況も出てきませんから」

「私達ってなに!? 私別に金欠じゃないんだけど」

 そうやって話し込む二人の近くに、スバルも近づいた。

「よう。俺はゆんゆんのパーティメンバーのものだ。めぐみん……でいいんだったか?」

「その通り……挨拶が遅れましたね」

 めぐみんはそう言って、自らの杖を支えに立ち上がる。震える左手で杖を地面につきつつ、動かすのもやっとのような右手を、自分の被るとんがり帽子に当ててみせた。

 全身に疲れが充満しているにも関わらず、その瞳の意志は消えていない。

 実にかっこいいポーズだ。

「我が名はめぐみん! アークウィザードにして、爆裂魔法を操るもの!」

 杖をついた左手がぷるぷる震えている。

 立っているのもやっとなのだろう。

 こんな状態でもこのように丁寧な礼を尽くされたなら、自分も応えないわけにはなるまい。

「我が名はナツキ・スバル! 無知蒙昧の冒険者にして、やがて魔王を倒す英雄となるもの!」

 以前のゆんゆんを意識して、両腕を交差させながら自己紹介をしてみせた。

「これはこれはご丁寧に……ぐふっ」

 スバルの自己紹介を見届けたところで力尽きたのか、めぐみんの身体は崩れ落ち、そのままうつぶせになって倒れた。

「……魔王を倒すものですか。しかし、その願いは叶いませんね。なぜなら魔王を倒して新たな魔王となるのはこの私ですから」

 倒れたままそんな大言を吐けるのだから大したものだ。

「ゆんゆん、こいつが新たな魔王だってよ! ちょうどいいからここで世界を救おうぜ」

 スバルは意地悪く笑いながら、ショートソードの鞘で背中をグリグリしてやる。

「ああっ、背中が! やめ……やめろおっ!」

 魔力を使い果たし、身動きの取れないめぐみんは、そのままされるがままでいるしかない。

「ゆんゆんのぼっち結界を突破したのですから、普通ではないと思っていました。が、予想外なほど無礼な男ですねまったく」

「まあゆんゆんは張ってもいないATフィールドで人よけしてそうな感じあるけどさ」

「ぼ、ぼっち結界…………」

 言われた軽口にしょげるゆんゆん。

 一方、スバルは悪ノリしすぎたかと鞘に入れたショートソードをどける。

 そのままめぐみんの頭から靴までを軽く見回して、誰にともなくつぶやいた。

「嫌われちったかな。俺は昔からガキンチョに好かれる性質なんだけどなあ。ゆんゆんならともかくめぐみんくらいなら、自然と懐かれると思ってたんだけど」

「おい、ゆんゆんがダメで私なら行けると思った理由、存分に聞かせてもらおうじゃないか!」

 倒れたまま身体を怒りに震わせ、そのまま歯をむき出しにしてスバルを威嚇するめぐみん。

 スバルがそう判断した理由はともかく、その態度はまだまだ子供であった。

 ちなみに彼女たちはどちらも十三歳。前の世界でスバルに懐いていたロリメイドは十二歳なので、スバルの性質が通用するかは微妙なところだ。

 そんなスバルを他所に、ゆんゆんは膝を折る。そのままめぐみんと目を合わせて、不思議そうな顔で問いかける。

「ところで、なんでお金ないの? めぐみんも商隊のリーダーさんから礼金受け取ってたじゃない。仕事しなくても当分はなくならな……あ、杖か何かを新調したとか?」

 自分で答えを出したゆんゆん。ぽんと手を打ちながらのその言葉に、めぐみんは何故か目線をそらし、小さく笑う。

 その表情は、まるで何かを悟った賢者のように見えた。

「私は爆裂魔法を操るだけではなく、爆裂魔法を愛するものでもあります。そして、自分の愛するものが引き起こした責任は、自分で引き受ける。それが人としての道ではないでしょうか」

 つまり要約すると。

「どっかで爆裂魔法をぶっぱなしたら、壊したものの弁償代でお金がふっとんだってとこか?」

「平たく言うとその通りです。……ところでできれば、起こしてもらえるとありがたいのですが」

 スバルの問いにめぐみんは肯定と要望で返し、ゆんゆんは呆れた顔でため息一つ。そのまま素早く爆裂娘を抱き起こす。

 そして、周囲を見回して、ぽつりとつぶやいた。

「それにしても、爆裂魔法の轟音はモンスターを呼び寄せるって学校で習ったのに……むしろいなくなっちゃったね」

「森で巨大なスライムを倒した時はその後モンスターが寄ってきたりもしましたから、授業はウソではありませんよ。単に、またやってきた冒険者を恐れただけでしょうね。ま、そのうち戻ってくるでしょう」

 肩を借りためぐみんが、そのつぶやきに解説する。

 めぐみんが爆裂魔法をぶっ放したあとは、平原に残っていたモンスターたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 ただ、森には森で例の悪魔がいる。本来森の奥深くにいる一撃ウサギ等が、街の近くでも見られるということは、モンスターも悪魔を恐れて生活圏を変えているということに他ならない。

 森の方に逃げ込んだところで、生存競争に負け、すぐに平原に戻ってくるであろう。

 

 

 

 

 

 

 戻ってこなかった。

 

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 一撃ウサギに追われたスバルたちが報告したあと。早速ギルドから通達が出され、一部のパーティ以外は森への出入りを禁止されていた。

 その期間中、スバルとゆんゆんが出した結論は、しばらくは平穏な日々を送るしかない、というものだ。

 朝早くに平原に出て、他の人に気を遣ってモンスターを狩り、そそくさと退散する。後は街でゆったり過ごし、余裕があればクエスト報酬で少しずつ資金を貯める。

 スバルとしては、時間がもったいないという気持ちもあったが、さりとてギルドや他の冒険者と揉め事を起こすわけにもいかない。まして、自分は弱いのだ。

 森の問題が解決するまでは、こうしてひっそりと目立たず過ごし、問題が終わってから狩りを再開するしかないだろう。という考えだ。

 そうして、その禁止令が出てから数日が経過したころ。

 スバルとゆんゆんが冒険者ギルドの酒場で食事を終えると、受付にくってかかる盗賊風の少女を見かけた。

「お願いだから許可を出してってば!」

「駄目です、冒険者の安全のためですから」

「私だってそれはわかってる。でも森に悪魔が出たっていうなら、生かしておくわけにはいかないんだよ! 悪魔殺すべし!」

「よほどの冒険者以外は絶対に通すなと厳命されています。相当な強さの上級職。それが出入り許可が降りるパーティの最低ラインと思ってください」

 盗賊風の少女は、以前魔道具店で見かけた銀髪の娘だ。頬に傷があることからも他人の空似ではあるまい。

 めぐみんの散らしたモンスターに限らず、何故か森から平原に出てくるモンスターの数が激減しているという話はスバルも聞いている。

 それによって思うように狩りができず、口惜しい思いをしているのは、もちろんスバルだけに限らない。

 森には入れず、平原に湧く僅かなモンスターを取り合う日々では、さすがにギルドの冒険者たちも鬱憤が溜まっている。

 加えて、相手は悪魔。国教であるエリス教(と、有名なカルト宗教のアクシズ教)が『悪魔殺すべし』と定めている宿敵だ。冒険者たちの怒りもより大きくなっているのだろう。

「同じエリス教徒としてクリスさんのお気持ちはわかりますが、こらえてくださいよ。おそらく、討伐隊を募ることになるので、その時にその怒りをぶつけてください」

 冒険者達の声に応え、ギルドは討伐隊を結成する方向で動いているようだ。

 しぶしぶといった様子で矛を収めた少女――クリスは踵を返すと、ちょうどスバルたちを見かけたらしく、そのまま駆け寄ってくる。

「キミ、この前買い物であった子だよね。久しぶり! そっちの女の子も、あたし達の会話をじーっと見てた娘かな?」

「ひうぅっ! や、あのあのそのぅ、すみませんすみません悪気はなかったんです!」

 ほぼ初対面の相手に声をかけられ、ゆんゆんは動揺してペコペコ頭を下げ始めた。

 その様子を見たクリスはおかしそうに笑い、

「あっはっは! 何にも悪いことしてないのに謝るなんて、面白い娘だねぇ。そういえば、自己紹介がまだだったね。あたしはクリス! 盗賊職をやってて……」

 スバルの方を見て突然言葉を止めた。そのまま言葉を発することなく、スバルの瞳を覗きこんだり、子犬を思わせる仕草でにおいをクンクンと嗅いでくる。

「な、なによ? 俺なんか変?」

「いや…………ちょっぴり…………ねえ、最近おかしなのと会ったりした? 悪魔とか」

 おかしなの。

「森に行って、悪魔やら初心者殺しやらウサギやらの報告をしたのが俺達だけど」

「あー、キミがそうなのか。納得納得」

 クリスはスバルの返答に満足したらしく、うんうんと頷いた。そのままスバルとゆんゆんを交互に見ると、興味深げに目を細めてくる。

 厳密には悪魔と初心者殺しを見たのは前回の周回だが、そこまで見抜かれることはないだろう。

「ちなみにキミ……えーと、二人はなんて名前なんだっけ?」

 そういえば前回も名乗っていなかった。

 クリスの言葉に、スバルは姿勢を正し、つられるようにゆんゆんも座り直した。

「俺はナツキ・スバル。無知蒙昧にして最弱の冒険者だよ」

「申し遅れました私はゆんゆんと申しますっ! 一応アークウィザードの端くれをやらせていただいてまふっ!」

 大声で噛んだ。

 周囲の冒険者達からは微笑ましいものを見る目で眺められ、ゆんゆんは顔を真っ赤にしてうつむく。

 正式な名乗りは緊張で忘れたのか、それとも恥ずかしいからしなかったのか。そこまではさすがに読み取れない。

 クリスはゆんゆんの返答にケラケラと笑い、それから少し考えるようにして、傷のある頬をポリポリ掻く。

 そして、声を潜めてこう言ってきた。

「アークウィザードか…………ねえねえ、キミたち、これから森に悪魔退治と洒落込まない?」

「嫌だよ! 何言ってんの!?」

 スバルの否定に、ゆんゆんも無言でブンブン首を振って同調する。

 ついこの前、一撃ウサギの群れを相手に死にかけた――どころか、一度は死んだのだ。

 それをはるかに上回る悪魔に挑むというのは、いくらなんでも自殺行為としか思えない。

 スバルは必要ならば『死』を厭わないが、戦力を揃えた討伐隊が組まれるというのに、今それをやる必要はないだろう。

 声で身体で否定を表現する二人を前に、クリスは残念半分予想通り半分といった表情で、小さく苦笑する。

「うーん……やっぱダメか。上級職が二人いるパーティなら、入れてもらえるかと思ったんだけどねえ」

 現状で森に入る許可を得ているのは、マツルギだかカツラギだかという魔剣の勇者のパーティと、レックスという男を中心にした前衛職固めのパーティらしい。どちらも討伐隊に参加して確実に悪魔を討つ気らしく、早々に先走る気はないようだ。

 他にも高レベルの冒険者パーティは許可を得ているらしいが、悪魔に怯えて討伐隊の参加も辞退しているらしいので論外。

 クリスは一緒に先走る協力者が欲しかったようだが、それに同調するような者はそうそういるまい。

「っていうか、急がなくても、どうせ討伐隊は編成されるのに。高レベル冒険者と一緒に討伐隊に戦った方がよくね?」

 スバルの率直な感想に、クリスは拳を振り上げて、

「悪魔っていうのは、人を苦しめて楽しむ害虫以下の存在なんだから、そんな悠長にしてられないよ。今もこうしているうちにも悪魔のせいで多くの人が苦しめられているんだよ? 一刻も早く悪魔殺すべし!」

 一言一言、全身に溢れる思いを込めるように力説。その勢いにクリスの短い銀髪が揺れ、スバルも見えない圧力に押されるような思いだった。

 過激なまでの悪魔への敵意にスバルが内心引いていると、ゆんゆんが袖を引き、こっそり耳打ちしてくる。

「典型的なエリス教徒の人ですね。忌むべきもの――悪魔やアンデッドへの敵意は、アクシズ教徒にも負けないはずです」

 なるほど、彼女を見ているとゆんゆんの言葉も頷ける。ただ「国教で敵とされている」と聞いただけでは、その熱量は伝わらないものだ。

 言葉の一つ一つに、隣人愛とそれ故の怒りが込められている。固く握られた拳は、グローブがなければ血がにじみそうにも見え、瞳には焔が宿るようだった。

「ま。そんなわけで襲撃したいと思って、ギルドから許可もらえるような仲間が欲しかったのさ」

「流石に無理だろ。俺達のレベルいくつだと思ってるんだよ。この道ウン十年のベテランに見るのは、流石にこの美少女に失礼ってもんだぜ」

「あっはっは! 確かに、いかにもな初々しい駆け出しさんって感じだもんね。失礼失礼。ま、あたしもダメ元で頼んだだけだったし、今回は素直に討伐隊に参加することにするよ」

 頬を染めて黙ってしまったゆんゆんに視線を向けて、クリスは冗談で帰しながら楽しそうに笑った。

 それでも視線には口惜しさが混じり、可能ならばすぐにでも突撃したいという意思が見て取れる。

 スバルとしても彼女の気持ちはわからないでもない。あの悪魔が初心者殺しにどういう感情を向けていたのか知らないが、あの悪魔の行動はゆんゆんの凄惨な死に繋がった。

 どのような事情であれ、悪魔全体があのように人間を害する存在であるならば、許せないと思うのも当然であろう。

 エリス教の徹底した姿勢も、「魔女教徒は危険。見かけ次第殲滅せよ」という前の世界と変わらないだけかもしれない。

 だからといって、討伐隊に先走る無茶を支持する気もないが。

 クリスはふと興味が湧いたように、スバルとゆんゆんへ問いかける。

「ちなみにキミたちは討伐隊への参加はどうするの?」

「後方支援の方を手伝うつもりだけど」

 当日の森は、大量の冒険者がいくつかのグループに分かれて進軍するのだ。

 最近は、平原のモンスターが森に姿を消すことも多く、森の奥深くには大量のモンスターがいる可能性が高い。つまり、森への進軍によって、戦いを避けたモンスターが平原の方へ流れ出てくると考えられる。

 そこで生まれたのが、この水際作戦である。

 一定の戦力を平原に用意し、森からモンスターが出てきたところを叩き、街への被害を抑える。

 森で悪魔と直接対峙する部隊と比べれば報酬は落ちるものの、こちらも重要な役目だ。

「そっか。でも気をつけなよ? 本当なら熟練パーティが事前に掃除するはずだったけど、ダメになっちゃったらしいからねえ」

 アクセルは駆け出しにもかかわらず、高レベルの男性冒険者が何故か長々と滞在していることがある。スバルがバイト中に見かけた『トンチンカン二号』もそうだ。

 ギルドとしては、ああいった冒険者に討伐隊へ参加、あるいは事前に強力モンスターの退治をお願いしたかったらしいが、高度な知能を持つ悪魔と聞いて尻込みするものが多く、断念せざるを得なかったらしい。

「お、おお、お気遣いありが、ございますっ」

 これまでほとんど言葉を発さなかったゆんゆんの、引きつった、蚊の鳴くような声。

 クリスはそれにも笑顔で答え、ひらひら手を振りながら去っていった。

 彼女の背が遠くなり、入り口から出ていったあたりで、スバルは大きく両手を広げた。

「よーしよく頑張ったぞゆんゆん。ちょこっとだけでも他人とちゃんと話せた。もちっと声が大きくするのと、積極的に話せるようになるのが今後の課題だな。この調子この調子」

「は、はいっ。えへへ……」

 オーバーなアクションで褒めると、ゆんゆんは手を叩き、嬉しそうに目を輝かせる。そうやって頬をほころばせる姿は、まるで子供のようだった。

「いや、年齢的には俺から見ても割りと子供なんだけどな……」

 子供らしい笑顔とは裏腹に、成人女性と比べても見劣りしない体つきをした目の前の少女。

 それと比べられるように、めぐみんという、平坦――もとい、まだまだ起伏の少ない発展途上な体を持った少女の姿を思い浮かべた。

 この二人が同い年だったと知った時は驚いたものだ。

 もっとも、スバルの親しい相手には、明らかに成長の違う双子の姉妹もいるし、他にも約百歳と推定される美少女ハーフエルフや、四百年生きる金髪ロリだって頭に浮かぶ。

 紅魔族は通常よりも成長差が激しいのかもしれない。通常よりも魔力が高いという種族特性もあることだしその影響で――――。

 腕を組み、いつしかたった二例をもとに思索にふけるスバル。

 そんなスバルの前で、ゆんゆんはいそいそと何かを取り出し、食器の下げられたテーブルに置いた。

「ナツキさんナツキさん。今日はもう狩りをできるわけじゃないんですし、もしよかったら、これで一緒に遊んでもらえないでしょうか……」

 見ると、正方形の板状の物体のようだ。方眼状の面に白と黒が交互に敷き詰められた模様をしている。

 さらにゆんゆんはセットになっていた黒い駒、白い駒をどんどん並べていった。

 先端の部分には、正八面体や、幅の狭い円柱を横に倒したような飾りがついていて、それぞれ別の役割を持った駒だということがわかる。

 一見すると地球のチェスを思い起こさせるものだ。

「……………………これは?」

「知りませんか? 割りとポピュラーな対戦用のボードゲームですよ。一人で暇つぶしするのにいいので、私故郷では結構やってました」

 対戦用のゲームなのに一人での暇つぶしに使うという矛盾に、ゆんゆんの悲しい過去を垣間見て、思わず目頭を抑えそうになった。

「その、もしよかったら、せっかくなので、ナツキさんと一緒に……」

「よしやろう今やろうすぐやろう。あ、でもルール知らないから手取り足取り懇切丁寧に教えてくれよ」

 そしてこの日。ナツキ・スバルは、トレーニング以外の時間の大半をゆんゆんとの時間に使うことと決める。

 スバルはルールを学び、時に笑い、時に盤を丸ごとひっくり返し。ゆんゆんもまた、時にハンデを覆して勝ち、時に王を盤外に避難させる。

 そんな二人の時間は、夜遅くまで続いたのだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 宿へ向かう帰り道。

「今日はめぐみんのせいでダメでしたけど、討伐が始まる前に少しでも、ナツキさんの養殖頑張りましょうね」

「なんやかんやで全然戦えてないからな、俺」

 初心者殺しを倒した経験は、『死に戻り』のおかげで清算されている以上、スバルのレベルはまるで上がっていない。

 水際作戦に挑む後方支援部隊は、森に突入する本隊よりは楽だと思われるが、今のスバルではその戦いでも命の危険は小さくないだろう。

「大丈夫です。ナツキさんは死にません、私が守るので!」

「攻撃と守りで役割分担してるならともかく、一方的に頼るだけなら俺カッコ悪いだけだよ!?」

「今のままレベルが低くても、こうしてずっと話し相手になってくれるだけで、私はとても嬉しいですから」

「本気で感謝してるのかもしれないけど、色々心に刺さるよ! 段々と遠慮がなくなってきたな!」

 互いに笑顔を交わしながら進む道中。

 

「――――そこの男。あなた、ずいぶんと苦しい過去を背負っていますね」

 

 どこかで聞いたことのあるような、美しい声が響いた。

 スバルが声の方を見ると、そこには一人の女性らしき姿が見える。

 椅子にかけた腰のラインは美しく、前にある机には水晶玉のような透明の球体。

 透明の球体を両手で包み込み、頭と顔をベールのようなもので隠している。

 鼻から下も髪の毛も、外界との接触を拒絶し、わずかに露出した肌と水色の瞳を見せるのみ。だが、そのわずかな部分だけでも、彼女の美貌を予感させるには十分だった。

 ひょっとしたら、日本の典型的占い師をイメージしているのかもしれないが、ベールっぽい衣を適当に巻いているだけなので、それっぽくなっていない。むしろ顔の部分だけなら忍者っぽい。

 そんなちょっとした滑稽さも、彼女の持つ不思議な存在感を損なうことはなかった。

 彼女はただスバルの方向をじっと見つめると、

「私にはわかります。あなたは幾度となく死地を歩き続けてきた。辛い選択肢を強いられ続けてきた。そのたびにあなたは安全な幸福から背を向け、困難な道を選んできましたね。逃亡の先に小さな幸せが待っていても、あなたはそれを選べない人なのです」

 その言葉に。

 気がつけば、スバルの歩みは自然と止まっていた。占い師の言葉は不思議と相手の心を見通し、浸透させるかのような力がある。

 死地。前の世界でスバルの歩んできた道は、まさにそれだ。その先にある未来を掴みたくて、地獄を何度も何度も乗り越えてきた。

「そんなあなたが初めて安全な道を選んだ。それがたとえ、先にさらなる困難が待ち受ける道であろうとも、あなたは選んだ――――私のくもりなきまなこには、それが見通せます」

 スバルの足は動かない。スバルの心は、占い師の言葉に魅入られつつある。

 ゆんゆんが手を引き、歩みを促すのにすら気づかないほどに。

「あなたは今回、初めて正しい選択をしました」

 正しい選択。

 正しかったのだろうか。

 今のスバルは――――。

「大切なのは遠い未来ではなく、目先の幸せですから」

 ……………………ん?

「人が悩む時、どちらの道を歩んでも、必ず後悔が待っています。なら、今が楽ちんな方を選んだほうが精神的にいいものなのです。これからもそうやって、嫌なことから逃げ続ける人生を――――」

「それ完全にダメなやつじゃん!」

 いつの間にか展開されていたダメ人間養成アドバイスに、思わず大声でツッコんでしまう。

 しかし占い師は悪びれることもなく、右の手のひらを上に向けてスバルの方へと差し出した。

「支払って。私も頑張って占ってあげるから、代金三千エリス支払って!」

「発言のおかしさに定評のある俺だけど、そんな俺から見ても変だよアンタ! さっきのダメアドバイス聞いて、払うやついないだろ!?」

 思わず溢れたスバルの本音に占い師は怒り心頭。彼女はわずかにのぞかせたその目を吊り上げて、スバルの服に掴みかかり抗議する。

「何よ! 水の女神アクア様の言葉に、何か文句でもあるっていうの!?」

「アク――!? な、ナツキさん、この人アクシズ教徒です! さっきのもアクシズ教徒の教えなんだと思います、関わったら何をされるかわかりませんよ!」

「あの女神サマの信者は皆こうなの!? 本当に約束守ってくれるんだろうなあの女!」

「ひょっとしてアクシズ教のことバカにしてる!? 謝って! うちの子たちのことバカにしたこと謝って!」

「おい、なにやってんだこの馬鹿!」

 揉め始めた最中、横合いに声がかけられた。声の方角を見ると、そこに見えるのは茶髪の少年だ。

 ところどころ薄汚れた、緑色のジャージを身にまとっており、その表情は驚きと怒りが見て取れる。

 というか、見覚えがある。確か、スバルがバイトしていた酒場で最終日に入った少年だ。日本と関わりがあるのかと気になっていたのに、クビになって話せなかった記憶がある。

 少年はつかみかかる占い師とスバルの間に割って入ると、占い師に向けて怒り顔を作った。

「『私にいい考えがあるわ。神秘的な私が占い師をやれば大行列よ、間違いないわ』とかいうから任せてみれば! 帰ってきたら客と喧嘩してるってバカかこのなんちゃってが!」

「誰がなんちゃってよ! 私は悪くないのよ! 足を止めて話に聞き入ってた時点で、私の超凄い占いを受けるつもりだったのは明らかじゃない! なのに占いの代金要求しただけでバカにされたんだから、むしろ私は被害者よ!」

 堂々と無罪を主張する彼女に、少年は目を合わせて、

「ほう。で、凄腕占い師様。その商売態度で、今日一日いくら金稼いできたんだよ」

「……………………」

 問う声に、少女は明後日の方向を向いた。額には汗が浮き、かすれた笑いが唇から漏れている。

「おい、目をそらすな」

「…………あ、あの人達が最初のお客様です」

 ようやくその言葉を絞り出し、空っぽの財布を開けてみせた。

 その水色の瞳に宿るのは少年への恐怖か、それとも後ろめたさか。

「よし今すぐ脱げ。もしくはその頭のやつ取れ。その羽衣でも売ればちったぁ金になるだろ。ちょっと高級っぽいしな」

 少年は冷徹な言葉とともに手を差し出した。その眼光は、まるで獲物を狙う魔獣のように、情けも容赦も見られない。

 初対面のスバルですら、やると言ったらやるのだと確信できる声だった。

「い、いやよ! この羽衣は私のアイデンティティみたいなものなんだから!」

「このままじゃいつか飢えて死ぬって言ってんだよ! 都合良く誰かに奢ってもらえるとか、そう何度もあると思ってんの? パンの耳にだって限りがあるんだから、文句があったら少しは金稼げ!」

 少年は占い師の頭の布を引っ張ろうとするが、彼女は懸命に抵抗。決して離すまいという強い意志がそこに存在していた。

「あんたこそ今日の稼ぎはどうしたのよー!」

「おまっ、この占い道具揃えたの誰だと思ってんだ! お前が絶対稼げるって言うから、今日寝て過ごすの覚悟で徹夜で集めてきたんだろうが!」

 そのまま喧嘩を始める二人。占い師は少年の頬を、少年は占い師の露出した耳を引っ張って、お互いに譲る様子を見せない。

 スバルは無言で財布を取り出すと、ゆんゆんもそれに続いた。

「あー、占い一回、頼んだ」

「わ、私も……」

 並んだ計六千エリスを前にすると、少年と占い師は即座に手を離す。そのまま二度三度目をこすり、目の前で起きたことが現実かどうか確認。

 そして、スバルたちの前に正座して並ぶと、深々と頭を下げた。

 

「「ありがとうございます」」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ちなみに、占いの結果は。

 

「あなたはアクシズ教徒が向いてそうな気がするわね。相手がハーフエルフだろうとロリだろうとハーレムだろうと、悪魔っ娘とアンデッド以外で犯罪でないならどんな愛で方をしても許されるわ。それから、これから何か苦しいことがあっても大抵は自分のせいじゃないんだから、自分を責めず他人に――あいたぁっ! 何するの、痛いじゃない! もっと私を敬って優しくしてよ!」

「せっかくのお客さんにおかしな宗教勧誘してないで、真面目にやれ!」

「勧誘じゃなくって大真面目なアドバイスよ! 私のくもりなきまなこには、この人は恋愛沙汰が人外とか二股とかになりそうだから、変に常識に縛られない方が幸せになれると思っただけ!」

 スバルはダメ人間養成アドバイスを受けながら、微妙に真実を言い当てられたり。

 

「友達が大勢欲しい? うーん……多分無理ね。今の数少ない友達を大事にしなさい。喧嘩したら、相手のことをしっかり見て、相手の気持ちを考えて接するの。あなたは友達がほぼできない宿命的ぼっちだから、せめて今いる友達を――」

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんっ!」

 ゆんゆんが絶望的な宣告をされて、泣きながら走り去ったりもした。

 彼女を追ったスバルは、結局ジャージの少年とまともな会話ができなかったが、それはまあ余談である。

 



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6 『視界の歪み』

 ――――――――夢を見た。

 

 スバル。

 ねえ、スバル。

 私ね、スバルがいなくなって、すごーく寂しかったの。

 ううん、スバルは悪くないの。悪いのは私。ずっと『試練』に失敗ばかりしてるんだもの。自分のへっぽこさが嫌になっちゃう。

 スバル、また無茶しようとしてるんでしょ? 

 そのくらいわかってる。詳しいことは全然だけど、スバルがそういう人だってことは理解してるつもりだから。

 ただ、それが私のためだったりしたら嬉しいな。えへへ。

 スバル。本当は、私のために何かするより、私のそばにいてほしい。

 ううん、わかってるの。

 私がダメだから、スバルにすごーく迷惑かけてるから、スバルが頑張らなきゃいけなくなってるんだって。

 スバルはいつも私のことを思って、私のことを考えてくれてるのに。

 それをやめて、ずっとそばにいてほしいだなんて、わがままだよね。ごめんね。

 でも、それでも止められないの。

 スバルがいてくれたら、どんなに嬉しいかなって。そう思っちゃう。

 もしスバルがここにいてくれたら。そんな想像をするだけで、なんて言ったらいいのかな。胸がふわーって、どんどんあったかくなるの。

 スバルが私に言ってくれた『好き』って、こういうことなのかな。

 だとしたら私、スバルにすごーく酷いことしてたよね。

 こんなに一緒にいたいのに。

 私ったら、スバルを置いてけぼりにしたり。

 私がダメなせいで、スバルが遠くに行かなきゃならなくなるんだもの。

 

 スバル。

 スバル。

 ねえ、スバル。

 

 いつ、戻ってくるの?

 

 

 

 

 ――――――――目が醒めた。

 

 全身に気味の悪い感覚がまとわりついている。

 身体はまるで鉛を流し込まれたかのように、ただ重い。

 寝間着代わりに着たシャツは、べとついた汗で肌に張り付いていた。

「…………………気持ち悪い」

 つぶやきに若干の吐き気を感じ、手足の震えをこらえて立ち上がる。

 宿に備え付けの水を一杯飲み干して、意識の切り替えを試みるが、一向に気分の悪さは消えてくれない。

 窓を覗くと、東の空が白み始めているのが見えた。

 ゆんゆんとの待ち合わせには、まだまだ時間がある。

 さらに今日は、悪魔討伐の決行日だ。どんな危険があるかわからない以上、もう一度眠り直して肉体を休めておかなければならないだろう。

 理屈ではそうわかっていても、身体を横たえることはどうしてもできなかった。

 

『――――いつ、戻ってくるの?』

 

 肉体は就寝前よりも疲れ切っているというのに、精神が再度の睡眠を拒絶する。

 

『――――スバル』

 

 夢の続きを見てしまうのが怖い。

 彼女の姿を見るのが怖い。

 

『――――えへへ。うん、うん。好き。スバル……大好き』

 

 壊れた彼女を思い出すのが怖い。

 馬小屋から個室に寝床を変えた、初めての朝。

 ナツキ・スバルは、いつかの最愛の人(エミリア)を幻視した。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 スバルとゆんゆんが報告を行い、冒険者たちの森への出入りが禁じられてから一週間。

 元凶である森の悪魔を消し去るべく、討伐隊の結成が正式に告知され、冒険者達の召集が行われていた。

 本日はその決行日となる。

 早朝、スバルとゆんゆんがゲームをしているギルドに姿を表したのは、一人の女性だった。

 黒と紫を基調としたローブに豊満な肉体を包み込み、その胸にかかるほどの、ウェーブのかかった長い茶色の髪を持っている。

 髪と同じ色をした瞳は柔和な雰囲気を持ち、病人のように真っ白な肌と合わせて、どことなく弱々しい印象を受ける。

 おそらくは二十歳程度の美女と言って差し支えない姿だが、どことなく幸薄そうに見えてしまうのはスバルの気のせいだろうか。

 

「すみません、ウィズ魔道具店です。本日は討伐隊を結成なさるということで、冒険者の方々に差し入れに……」

 その言葉とともに、女性の抱えた大きな箱がギルドの中に運び込まれる。

「ありったけのポーションをかき集めてきました。少しでもお役に立てればと思いまして……」

「これはこれはご丁寧に、ありがとうございます、店主さん。こちらの」

 ゆっくりと、中身を傷つけないように置かれた箱。職員が蓋を開けたその中には目一杯の瓶が詰め込まれており、相当な重量があったことを窺わせる。女性は一見すると温和で物腰の柔らかいタイプに感じられるが、その外見とは裏腹に、それなりに腕力はあるらしい。

 スバルの目の前のゆんゆんも同じことを思ったのか、駒を握った手を一旦止める。

「ナツキさん。あの女性(ヒト)、顔色悪いのにあんな重そうなもの持って大丈夫なんでしょうか?」

「仕事で重い物を運ぶ関係上、商人系は結構腕力あるらしいぜ。前に行商人やってた友達がそう言ってた」

「友達……ですか……」

 帽子をかぶった、灰色の髪の彼を思い返す。

 悪意の霧に包まれていた世界で、スバルの瞳の靄を取り払ってくれた。商売人である前に善人であってしまう男だ。

 彼が一行商人に戻れるかは、主に王選関係で自陣営に引きずり込もうとしたスバルのせいで、怪しい状態となっていたが。

 スバルはそんな彼を――――。

「すみません、お取り込み中申し訳ありませんが、ちょっとよろしいでしょうか」

「は、ひゃいっ! その、えっと、なんでしょうかっ!」

 ゆんゆんの慌てた声。思考に埋没していた意識が現実へと引き戻される。ゆんゆんの視線を追うと、先程の差し入れの女性が一枚の紙を差し出していた。

「はじめまして……。私、このアクセルで魔道具店を営んでおります、ウィズと申します。ウィズ魔道具店をよろしくお願いします、また赤字になりそうなんです……」

 そうして渡された紙を見ると、店の名前と場所、軽い紹介などが書かれていた。

 自腹を切って差し入れをしたついでに、自分の店の宣伝もしようということだろう。ポーション類の入った箱を遠目から見ても、かなりの量だ。あれだけの善意に対しての見返りとしては、この程度の宣伝は安いものだと思う。

「っていうか、赤字になりそうな状況であそこまで差し入れして大丈夫なのか? 差し入れしてもらう立場の俺が言うのも何だけどさ」

 スバルの口から出た率直な感想。それに対してウィズは口元を小さく笑みの形に変え、そのまま眼差しに儚げな影を宿した。

「大丈夫です。……しばらくパンの耳と砂糖水で生活すればなんとか」

「全然大丈夫じゃなかった! 寂しげな目つきでそういうこと言われると、あの差し入れ使いづらいよ!」

「いえ、せっかく用意したので是非使ってください。将来、立派な冒険者になった頃に買いに来ていただくための先行投資だと思っていただければ」

 ペコリと頭を下げて、ウィズはスバルたちから離れていった。

 立派な冒険者。

 この街は駆け出しが集まるところで、成長した冒険者たちは別の町に行くと聞くが、彼女の店に恩返しに来た人たちは多いのだろうか。

 答えは彼女の店が赤字という事実が物語っている気もする。

「そもそも宣伝目的なら、もっと人が集まってからのほうが効果的ですよね」

「こんな早朝から集まってるような物好きなんて、俺達以外はギルド職員とかしかいないからな……」

 後は酒場の人程度だが、彼らはそもそも魔道具店の客にはならないだろう。

「そういえば、ナツキさんは眠れなかったんですか? 凄く来るのが早かったみたいですけど。もしそうならごめんなさい」

「…………いや、寝床が快適すぎて、短時間で頭がすっきりしただけだよ。あと、俺が早いと思うなら、自分ももっと遅く来ることな」

 寝床を馬小屋から宿屋の一室に変えたのはゆんゆんの提案だ。討伐当日に備えて、昨日くらいはゆっくり眠ってほしいと思ったのだろう。その気遣いは冒頭の夢につながり、スバルの早朝覚醒という結果を招いたが、それを彼女に告げる気もない。

 結局寝直すこともできず、早々に宿を発つことにしたスバル。早朝から訪れたギルドにて、ゆんゆんは当たり前のように待っていた。

 冒険者は早寝早起きが基本とはいえ、いくらなんでも早すぎる。

「だってナツキさんとすれ違ったり、待たせたりしたら申し訳ないじゃないですか」

「初デートに来たヤンデレヒロインか」

 言葉とともに軽く頭に手刀を入れる。それを受けたゆんゆんは、その感触すら嬉しいのか、えへへと笑った。

 

 こういったやり取り自体、あまりしたことがないのかもしれない。

 友人を作りたいなら、今回の戦いが終わった後は、異様な気遣い癖も少しずつ直したほうが良さそうだった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 「来たぞ! 全員構えろ!」

 討伐隊の本隊が出立し、しばらく経過した頃。森から平原にモンスターの群れが姿を現した。

 その集団にはジャイアントトードや一撃ウサギといった、スバルの見たことのあるものも少なくない。

 平原にいた後方部隊は次々と剣を、槍を、杖を構え、モンスターたちに襲いかかる。

「『ブレード・オブ・ウインド』!」

 先陣を切ったのはゆんゆんだ。

 その言葉とともに手刀を振るい、生まれた風の刃は、突出してきた影に直撃。トカゲのようなモンスターは四肢の二本を切断され、まるで身動きが取れなくなる。

 スバルがそのトカゲにショートソードを突き刺した頃には、すでにゆんゆんは別の魔法を詠唱し終えている。

「『ファイアーボール』!」

 その言葉とともに杖から放った劫火は、二体のカエルを焼き尽くし、その息の根を止めた。

 周囲を見据え、森から飛び出してくるモンスターに警戒し、危険な状況を見れば、

「うわっ、スライムだ! 誰か魔法使――」

「『ライトニング』っ!」

 杖の持っていない方の手から雷撃を放ち、他の冒険者のフォローもしている。

 まさに獅子奮迅の働き。

 討伐隊の中で優秀な冒険者は、大抵本隊に加わっているかということもあり、後方部隊は全体的に戦闘力が低い。決してレベルが高いとは言えない冒険者が集まる中、寂しがり屋のアークウィザードの活躍は群を抜いていた。

 たまにいる見た目の怖いモンスターや、スライムの動きのキモさに涙目になったりはしているが、それはご愛嬌。

 スバルはゆんゆんの攻撃で瀕死のモンスターにとどめを刺すくらいしか役に立てていない。

 ちなみに彼女がとどめを刺していないのは、スバルの養殖狙いではなく、魔力節約と、半死半生の敵は任せて他を倒そうという防衛上の効率の問題である。

 大トカゲの肉を焼き、カエルの頭部を切断し、ウサギの群れを氷の彫像に変え、次々とモンスターたちを葬っていく。

 元より想定していた数よりも、かなり少ない敵だったこともあり――やがてゆんゆんを中心とした冒険者達の活躍により、森からやってくるモンスターの波は収まった。

 もちろん、この鎮静はあくまで一時的なものであろう。その間にポーションを使い、冒険者達は傷を癒やしていく。

 現在の戦況は極めて順調。冒険者達に未だ死者は一人も出ておらず、今後に関わるような重傷を負ったものもいない。

 多大な戦果を挙げてこの状況に貢献したゆんゆんは、他の冒険者達に囲まれていた。

「いや、すごいなあんた! その瞳、紅魔族っていう凄腕魔法使いの一族だろ? さすがだなあ」

「あなたのこと、この前ギルドの酒場で見かけた時から気になってたのよね。男の子とご飯食べてる姿が、凄く楽しそうだったから。ねえ、よかったら今度一緒にクエストしない?」

「おいおいそこの姐さん、抜け駆けはしないでくれよ。こんな優秀な魔法使い、どのパーティもほっとかないぜ! どうだい、うちに来るってのは」

「あ、あわ、私は、あのっ!」

 冒険者達に絶賛されると、ゆんゆんは挙動不審なほど視線を右往左往させ、顔を真っ赤にした。

 そのまま地面の方を向き、両手で杖を握りしめると。

「…………ごめんなさい、私はもうパーティを組んでいるので、その話は受けられません」

 そのまま、深々と頭を下げた。

「でも、私なんかを誘ってくれて本当にありがとうございます」

 そう付け加える。社交辞令にも聞こえかねない台詞だが、その言葉には心からの感謝と謝罪が含まれていた。

 誘いを断られた冒険者達は、笑って手を振り、気にするなという意思を示した。

「いやいや、仕方ないって! 一緒にご飯食べてる男の子でしょ? ま、あなたみたいな凄い子を誰もほっとかないわよね」

「おう、しょうがないしょうがない。残念だけど頑張れよ!」

 口々にそう言いながら、激励するようにゆんゆんの背中を張り、彼らは別れを告げた。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「よ、お疲れ」

 心苦しくも冒険者達の誘いを断ったゆんゆんの前に、ねぎらいの言葉がかけられる。見ると、目の前には真新しい飲料水が差し出されていた。討伐隊用の支給物だろう。

「ナツキさん、ありがとうございます」

 ありがたく受け取り、そのままひとくち。爽やかな水の感触が、重なる呪文詠唱で酷使した喉を癒していく。

「こっちこそサンキューな。俺のこと考えて、さっきの話断ってくれたんだろ?」

「いえ、仲間を裏切らないなんて、当然のことですから」

 仲間。

 そう、仲間なのである。

 再度その言葉の響きを噛み締めて、ゆんゆんは幸福にひたる。

 他の冒険者達に誘われた先程は心から嬉しかった。誘いに乗りたいという気持ちがあったのも事実だ。だが、自分は今の仲間を捨てるような人間ではありたくない。

 賢い道とは言えないかもしれない。でも、これで良かったのだ。

「まあパーティ乗り換えないのはありがたいけど、それはともかくちょっと一緒にクエストするくらいは受けても良かったんじゃね? それをきっかけに友達になれるかもしれないしさ」

 ピシリ。

 スバルの言葉を聞いて、ゆんゆんの身体が石のように固まる。

「…………そこまで考えてなかったのか」

 こくこく。

 言葉ひとつ出てこない。なんとか首を縦に振ることで、スバルの言葉を肯定した。

 彼女にとってあの問は、スバルと共に続けるか、スバルを捨てて他の仲間を作るかにしか見えなかったのである。

 ゆんゆんはスバル――駆け出し最弱職の実力がどう評価されるか正しく理解している。スバルはせいぜい荷物持ち程度にしか扱われないことはわかっていた。

 そのうちレベル差が開き、荷物持ちすらこなせなくなり切り捨てられるのは目に見えている。そんなことになるくらいなら、スバルを捨てるくらいなら、二人だけの方がずっとマシだと考えたのだ。

 本格的にパーティを組まずとも一緒にクエストはできるし、それを通じて仲良くもなれる。完全に盲点だった。

 今から追いかけて、その話をするか。いや、自分にはそこまでの勇気はない。断っておいて今更、という表情をされたらと思うと、身体が動きそうになかった。

 悲しみと後悔で膝を抱えそうになるゆんゆん。瞳はどんよりと曇り始め、ただでさえ漂っていた申し訳無さが倍増する。

 そんな彼女を見て、スバルは気をそらすように話しだした。

「そういえば、あのめぐみんって娘は? 一度撃ったら倒れるんだし、後方でモンスターの群れに爆裂魔法当て逃げするかと思ってたんだけど」

「めぐみんは、本隊の方に行っちゃいました。あれだけの冒険者が集まってるんなら、後ろについていくだけでお金がもらえるおいしい仕事だって」

 本隊は膨大な数の冒険者達が集まっており、少なく見積もっても軽く五十は越えている。悪魔の討伐報酬に加え、自分たちの狩り場を取り戻すという切実な事情もあり、その士気も高い。

 だが、それでも勝てるという保証はないのだ。

 スバルの目撃情報を合わせ考えると、森の悪魔は一撃ウサギや初心者殺しを連携させたという。これは並大抵のものではない。

 ゆんゆんがこの街に来る前に戦った上位悪魔アーネスもモンスターを利用してはいたが、あれはあくまでモンスターを追い立てる程度だった。連携させるほど自由に操れるとなると、次元が違う。

 悪魔は知能と位が比例するというのが定説だ。森の悪魔はアーネスよりもはるかに強く狡猾だと思った方がいいだろう。

「あの娘、仲いいんだろ? 一緒にいなくても大丈夫なのか?」

「……めぐみんなら大丈夫ですよ。魔剣の勇者パーティとかの、高レベルの冒険者達もいるらしいですし」

 本音を言えば、ゆんゆんも本隊についていきたいという気持ちはないわけではなかった。

 もちろん森にいる悪魔は怖い。怖いが、めぐみんが死ぬのはもっと怖い。

 めぐみんが本隊に志願すると聞いた時には、自分もそちらに行くと言いかけたくらいだ。

 だが、今のゆんゆんは一人ではない。自分の行動にはスバルの命も関わってくるし。

(ナツキさんも、きっとまだあの怖さは抜けてないだろうし……)

 初心者殺しや悪魔をいち早く発見し、ウサギに追い回され、逃げ切った後は嘔吐していた彼の姿が自然と頭に浮かぶ。

 彼にきちんとした目的がなければ、冒険者稼業を引退していてもおかしくない経験だっただろう。

 自分から安全な後方を提案した手前、「やっぱり危険の大きい本隊へ行きませんか」とも言いづらく、今に至る。

「めぐみんは里の学校ではいつも誰にも負けない首席でしたし、どんな極限状況でもなんやかんやで生き抜けそうなタフさも持っていますし。ネタ魔法一つで邪神の下僕や上位悪魔を屠ったことは忘れられません」

 スバルの考えを払拭するため。そして、自分の中にある恐ろしさを消し去るために、自分の知るめぐみんについて語る。

「ただ、ほんのちょっぴりだけ。ちょっとだけ喧嘩っ早くて同行してる人たちとトラブルにならないかというのと、悪魔と会う前に爆裂魔法を撃ってしまったりしないかが心配なだけで何も問題ないです」

「もの凄い心配してるな!? すまん足手まといで!」

 何故かスバルに真意が伝わってしまった。

 はるか前に出発した本隊を追うことはできないため、今更そんなことを知られても何も得はないのだが……。

「ナツキさんには嘘は通じませんね」

「『想いが通じてる……これが仲間の絆か』みたいな顔してるけど、多分関係ないよこれ」

 と、このような与太話を続けているわけにもいかない。いずれ第二波はあると思ったほうがいいのだから、装備の確認程度はしておくべきだろう。

 スバルはショートソードについた血を拭い、痛み具合を確認。それを横目に見つつ、自分も服についた砂埃を払い、ローブにおかしなほつれや動きにくさがないかを見る。

 そしてもう一度周囲を見渡し――――。

 空間のわずかな震え、さらには目の前の空間の歪曲を感じた。

 ゆんゆんは視線を一点に集中させる。この感覚はテレポート。転移の前兆だ。

 最悪、悪魔が転移してきたという可能性を想定し、油断なく集中。

 その一点に四人の人間たちが転移してきた。

 一人はテレポート役であろう、男の魔法使い、一人は槍を持った戦士風の少女、一人は革鎧を着た少女。

 そして残る一人は、鎧を大きく破損させ、腹に大きな傷を作った男。

 先頭グループで悪魔と戦っているはずの、魔剣の勇者であった。

 すでに全てのポーションを使い切ったのか。二人の少女が布らしきもので強引に止血しているものの、その布が真っ赤に染まってしまっている。

 まるで内臓がこぼれてしまいそうな、深い裂傷。蒼い鎧のところどころが鮮血の赤に染まり、彼の命が危機に瀕していることを示していた。

「キョウヤ、キョウヤ! しっかりして!」

「バカ、変に揺するな! 誰か! キョウヤの傷の治療ができる人!」

 ゆんゆんは慌ててありったけのポーションを持っていき、スバルはプリーストを呼びに行く。

 魔剣の勇者の負傷。それは討伐隊本隊に相当な危機があったことを示していた。

 ゆんゆんの知る限り、彼は本隊の戦力の中心のはずだ。悪魔との戦いがどのような変遷を辿ったのかは不明だが、仮に彼があっさりやられたのだとすれば、本隊の戦況が芳しいとは思えない。先頭グループの全滅なら御の字、最悪の場合本隊全てが殺された可能性すら考えられる。

 やはりめぐみんを一人で行かせたのは失策だったのだろうか。まさかめぐみんは…………いや、そんなはずはない。

 だが自分がいれば、何かを変えられたのだろうか。

 頭の冷静な部分は自惚れだと叫ぶも、思考は悔いの感情が先行していく。

「プリーストを連れてきたぞ! なあ、一緒にいたならどうなってるかわかるだろ! 本隊に何があったんだ!?」

「魔剣の勇者が不意をつかれて負傷したんだ。彼は負傷しながらも反撃して、奴を撤退させてはくれたが、まだ悪魔はピンピンしてる。幸い、負傷者は彼だけだったし、モンスターともほとんど会わなかったから、パーティメンバーとともに連れ帰ってきたんだ」

 後悔の中に沈みそうになる思考を、耳に入ってきた会話で引き戻す。プリーストを連れてきたスバルと、テレポートしてきた魔法使いの声だ。

 どうやら、想像よりもはるかに軽度の被害で済んでいるらしい。

 魔剣の勇者の攻撃が相当な深手を与えたのか、それとも魔剣の勇者だけが負傷者というあたり、彼を倒すことこそが悪魔の狙いだったのだろうか。

 プリーストが手早く魔剣の勇者の治癒を進める中、ゆんゆんは頭脳を回転させ、現状の被害と状況から、今後の対応を検討していく。

「ナツキさん。魔剣の勇者の人がどの程度の攻撃をしたのかはわかりませんが、少なくとも悪魔はこちらを積極的に全滅させようって感じではなさそうです。森の中もあまりモンスターと出会っていないようですし、ここはしばらく待ちましょう」

「ああ……そうだな。皆にもゆんゆんからの提案だって伝えてくるよ」

 そして、時間だけがすぎていく。

 他の冒険者たちもあまり口を開くこともなく。

 魔剣の勇者の苦しみの声。彼を心配する少女たち。そして、彼女たちを落ち着かせる男たちの声だけが響き続け――。

 その時。

「――――――――っ!」

 瞬間。森の方から既知の感覚が、ゆんゆんの肌を走った。

 これは何度も体験した感触。目に見える膨大な魔力が空気を震わせ、こちらにすら影響を与えているのだ。

 プリーストに治癒される魔剣の勇者に背を向け、杖を構え直す。

 ここまでの影響が出るのなら、そう遠くはない。

「めぐみん……! そこで戦ってるの……!?」

 この現象を起こしている張本人。

 爆裂魔法の使い手に、届くことのない言葉を送った。

 

 

 ――――――――視界が歪む。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 妙だ。

 めぐみんは数少ない戦闘経験から、その森の異様さに気づいていた。

 鬱蒼とした森。冒険者たちが踏み固めた道を、ただただ進む。

 あたりを警戒しながら、他の冒険者にからかわれたりしながらも、ただ進む。

 そう、進むだけ。戦いが起こらない。

 モンスターとまるで出会わないのである。

 平原に出現するモンスターが急激に減少した以上、モンスター達は森にいたものと考えられてきた。にも関わらず、相当な距離を歩いたにもかかわらず、その気配すら感じられない。

 もちろん、めぐみんの所属するグループが最後尾であるため、前の冒険者たちが片付けてしまったという可能性はあるが……それにしても、横あいから攻撃してくるモンスターがいても良さそうなものである。

「まさか、アーネスの時と同じ現象なのでしょうか……」

「なんだって?」

 つぶやきを聞きとがめ、男がめぐみんに声をかけてくる。鼻に引っかき傷を持った大剣の男、レックスだ。

「おいお子様魔道士、なにか心当たりでもあるのか?」

 イラッ。

 いちいち腹立たしいことを口にしてくる男だが、今余計な波風を立てるわけにはいかない。

 めぐみんは努めて冷静に、丁寧に説明することで怒りを忘れる。

「いえ、この街に来る前に悪魔を倒したのですがね。その時、ある程度の強さを持った悪魔は、格下のモンスターを追い立てることもあると話していまして」

 ちょむすけを追ってきたストーカー女悪魔は、めぐみんとゆんゆんに対して、巨大なミミズやゴブリンをけしかけるなど、ひどい嫌がらせをしてきたのだ。

「おい、悪魔を倒したとかマジかよ……。なら、とりあえずスライムでも出てきた時は頼んだぜ」

「……構いませんが、おすすめしませんよ。私の魔法を使えば、スライムがあちこちに飛び散ったり、仲間を巻き込んでしまうかもしれません」

 めぐみんの返答を聞き、強がりと受け取ったのか。レックスは呆れたように鼻を鳴らした。

 その時、先方から走ってきた冒険者から、悪いニュースが飛び込んできた。

「おい、ヤバいぞ! ありゃあダメだ、勝てる気しねえ! 突然悪魔が現れて、魔剣の勇者が不意打ちを食らって傷を負った! あの悪魔、上級魔法まで使いやがったんだ! ありゃあ魔王軍の幹部級だ! 撤退だっ!!」

 先行していた冒険者の一人が走ってきたと思うと、最後尾グループのめぐみん達に危機を伝える。

 その警告を聞いた後方のグループは、一転してパニックに陥る。

「魔王軍の幹部級だと!? いくらなんでも聞いてねえぞ!」

「おい、テレポートを使える魔法使いはいねえのか!?」

「こんな大勢運べるほどいるわけないだろ! 先頭グループの怪我人運ぶので精一杯だよ!」

 まるで森がひっくり返ったかのような大騒ぎ。その様子を見て、レックスは苛立たしげに悪態をつく。

「ちっ、情けねえ! 敵が強いなんてわかりきってたことじゃねえか。むしろ俺達が悪魔を倒しに行かないでどうする!」

 これはまずい。

 レックスはめぐみんに対して子供だの足手まといだの散々言ってくれた男だが、今は仲間だ。ましてや、レックスは魔剣の勇者に次ぐ討伐隊の中心人物でもある。ここでみすみす死なせるわけにもいかない。

 めぐみんはパニックに陥った冒険者たちの中、先走りそうになるレックスに相対した。

「落ち着いてください。元々、例の悪魔と遭遇したら取り囲むように散らばり、魔法を打ち込む予定だったでしょう? こんな状態ではとても無理です」

 周囲の冒険者たちは、戦意を失い逃げようとするもの、混乱してどうすればいいのかわからなくなっているものも少なくない。

 訓練された騎士団とは違うのだ。仮にこのまま戦っても、一糸乱れぬ連携はおろか、互いの動きを阻害してしまうのがオチだろう。

「うるせえ! 口だけ魔道士は引っ込んでろ!」

 なにおう!

 レックスの反射的に出たであろう罵声に、そうつかみかかりそうになるが、怒りの衝動をすんででこらえる。

「ちょっとやめなよレックス! その子の言うとおりだよ。不利な状況で襲われて、挙句犬死になんてごめんでしょ?」

 それを聞いていたレックスのパーティメンバー、鋭い目つきの女性もめぐみんに加勢してくれた。

「ソフィ…………ちっ、わかったよ!」

 なんのかんのいっても、レックスとて最近名の売れている冒険者だ。間違った判断に突き進むような脳筋ではない。頭を冷やせばその決断は早かった。

 混乱している冒険者たちを見回すと、よく通る声で宣言する。

「おいお前ら! 俺達が殿をやる! 無駄死にはごめんだ、全員でとっととずらかるぞ!」

 討伐隊の中心人物。その言葉に、集団が意志を統一し、陣形を組み直した。

 急ぎつつ、それでいて警戒を怠らない帰還。敵感知スキルがあれば、それは決して難しいことではない。

 そのまましばらく帰路を進んでいく。

 このグループに誰一人脱落者はなく、それどころかモンスターにも出会うことなく。

 そして森の出口が見えてきた頃。

「――――――――?」

 めぐみんは、不自然な感覚を覚え、ふと立ち止まった。

 集団がたどる退却の一路。最前列と最後列を、それぞれレックスのパーティの面々が守っている。

 彼らのパーティは全員が前衛だ。そうそう倒れはしないだろうし、彼女自身も心配はしていない。

 不自然なのは、道端に落ちていた光、割れた鏡に映った光景だ。

 先程からめぐみんたちはモンスターと出会っていない。

 まるで姿も見せていない。音一つ聞こえてはいない。

 聞こえるのは風の音くらいだ。

 風の音が聞こえているのに――――鏡の端に映る木々は、何故微動だにしないのだろう。

 肌に感じているはずの風は、何故木々に何の影響も与えていないのだろう。

 めぐみんは素早く振り向き、目の前の空間に意識を集中する。

 わずか――本当にわずかではあるが、何も見えないそこに魔力の動きを感じる。

 間違いなく、『何か』がいる。

「おい、どうした口だけ魔道士。お前の――――」

 レックスの言葉を無視して、そのまま詠唱を開始する。

「黒より黒く 闇より暗き漆黒に――――」

 一節一節ごとに、杖の先端に自分の魔力が集まっているのを感じる。同時に空気が振動し、心地の良い熱とともに白く眩い光が現出する。

 詠唱は続く。

 同時に周囲の冒険者たちはその異常な状況を察し、ある者は盾を構え、ある者は伏せ、ある者は呆然と事の成り行きを見守っていた。

「無行の歪みとなりて――――」

 その時。

 目の前の空間。

 いや、視界が歪み。

 

 ――――松葉色の鱗に身を包んだ、巨大なドラゴンが出現していた。

 



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7 『竜の咆哮』

 視界が歪み、スバルの眼に映る光景が、森から別のものへと切り替わる。

 鬱蒼と生い茂っていたはずの木々は、まるで新たな道を切り開くかのようにへし折られ、全く原型をなしていない。

 そのくせその道は、森の入り口にも出口にも続いていない。なんとも中途半端なそれは、破壊者が空高くから森中途へと急降下したことを示している。

 破壊者の持つ、白く鋭い双眸。その眼光に加え、口元からはどんな剣よりも鋭い牙を覗かせ、見るものに対して威圧感を与える。それらの部位を持った顔面は逆三角形を連想させる鋭い形をしており、頭頂部からは二本の角が生えていた。

 その顔と同じように松葉色の鱗に身を包んだ胴体からは、こぶのように膨らんだ箇所も見える。見るからに強靭な四肢は、鋭い爪を持ったその手だけで、スバルの胴体を軽々鷲掴みにできそうだ。

 さらに目を引くのは、広げられた赤茶色の翼だ。その形はどこかコウモリのそれに似ており、蛇のような尾とともに、破壊者の巨大さを際立たせている。

「あれは――――伝説のエンシェントドラゴン……!?」

 魔剣の勇者と共にテレポートしてきた少女、その一人が呆然とした顔でつぶやいた。

 ドラゴン。ワニとシカとトカゲを合わせて生まれた存在――それはどこで聞いた言葉だったか。

 日本においては、知らぬもののいない神話の住人として知られている存在。

 前の世界においては、近くはスバルを何度も助けてくれた、愛しき地竜パトラッシュ。遠くはルグニカ王国を守護している神龍ボルカニカ。それ以外にも地竜に水竜と、様々なところにあった生物。

 この世界においては。最も強く、最も高い価値を持ち、そして最も恐ろしい、至高のモンスターだとされている。

 そして竜といえばもうひとつ。スバルの脳裏に以前見たひとつの彫像が駆け巡った、その時。

「めぐみん!」

 ドラゴンの出現した空間、そこに黒い人影を見たゆんゆんがそう叫んだ。

 が、それだけ。平原から比較的近い位置とは言っても、駆けつけるには物理的な距離がありすぎた。

 いかなる魔法によるものか、それとも竜の持つ特殊な力によるものか。直前まで存在を偽装し、破壊の風景とともにその姿を見せたドラゴンは、竜尾を振るわせながら本隊後方グループとの距離を瞬間的に詰める。

 存在そのものが暴力的といっていいその質量は、間にある木々を木っ端微塵にぶち抜いていった。

 勢いのまま、冒険者たちにその莫大な質量を叩きつけるべく、ドラゴンは片腕を振り上げる。

 響く咆哮。

「――――――――ッ!」

 同時に。

「『―――――――――』ッ!」

 そのドラゴンの鼻先に、ひとつの爆発が引き起こされた。

 光と共に巻き起こる衝撃波。そのあらゆる容赦を忘れた暴風は、

「――――伏せてくださいっ!」

 響いたゆんゆんの指示。その声に、反射的にスバルは脚を曲げ、そのまま体勢を低くした状態へと移行。

 同じように肉体を倒した他の冒険者達と視線が交錯し、直後に凄まじい勢いで飛んできた木が、鉄片が、身体の少し上を通り過ぎる。

 少しでも避けようと全身を地面に押し付けようとした――瞬間。

「がっ――――――――!」

 スバルの背中に燃えるような熱が走り、続いてそれが痛みに変わる。

 それは折れた木々か、それとも鉄の破片か。とにかく急速に飛び交った何かが自身の背中を切り裂いたと理解した。

 だが、浅い。十をゆうに超える死を乗り越え――経験してきたスバルには、その傷が命に関わるものかどうか直感的に理解できる。

 あくまで少々肉を裂かれた程度。痛みを我慢すれば、きっと活動だってできるだろう。

 今はただ、痛みに耐えてこのまま低姿勢を維持するだけ――――そう考えていた直後、今度は斜め上からの衝撃がスバルに襲いかかった。

 傷口を強く押す痛み、続いて何故上からという疑問を抱いてから遅れて気がつく。

 すでに暴風は去っている。破壊の風と共にやってきた破片などではない。

 スバルの斜め上から飛んできたそれは破片などではなく、生きた人間だということに。

「めぐみん、めぐみん!」

「……………………」

 意識はなく、息は掠れ、黒いマントが赤く染まっている。

 涙を浮かべて縋るゆんゆんに対しても、めぐみんは何も反応を示さない。

 とにかく安全な場所へ運ぼうと抱えようとして――――手にぬるりとした感触を覚え、スバルは自分の傷の痛みを忘れた。

 彼女の腹部から胸部にかけて受けた傷は、明らかにスバルの背中のそれよりも深い。

 どこまでが彼女のもので、どこまでがスバルの血なのかはわからない。

 今わかるのは、彼女は巻き込まれる危険を承知で魔法を撃ち込み。

 それを耐えた竜の一撃によって重傷を負いながら勢いのままに吹き飛ばされ、そのまま放物線を描いて落ちてきた、ということだ。

 魔剣の勇者の負傷からドラゴンの出現、そしてここまでの事態に混乱した頭でそこまでの理解を得る。続いて、彼女が飛ばされてきた方へと視線を巡らせると、残された冒険者達がドラゴンへと挑みかかっているのが見えた。

 ドラゴンは未だ生きている。

 人類最強の爆裂魔法ですら、奴を倒すことはできないというのか。

 そのドラゴンはその冒険者達を歯牙にもかけず――――視線をこちらの方へと向けてくる。

 まずい。

 ドラゴンは攻撃を加えている冒険者達に竜尾を振り回して吹き飛ばし、倒れた彼らを無視して高く飛翔。その姿が一瞬ぶれて、そのまま消える。

 正確には、消えたわけではないだろう。

 先程突如出現したのと同じ手法で姿を見えなくしたに違いない。

 竜の視線は確実にこちらに向いていた。次に見えない竜に蹂躙されるのはこちらの方だ。

 だが、かつての『見えざる手』と違い、術者すら目に映らない敵に一体どう対応すればいいのか。

 その場の冒険者達が迷い、対応を決断できずにいた――その時。

「っ……『クリエイト・アースゴーレム』」

 最速の対応は、嗚咽と共に響いた言葉だ。

 蚊の泣くように小さく、怯えた犬のような、しかし確かなゆんゆんの声。

 声量にも感情にも関係なく、そこには確固とした意思があった。

 スバルの気づかぬうちに詠唱を終えていた、そんな彼女の意志に応えるように、手をついた地面が大きく隆起する。以前見た風のカーテン同様、アレンジを加えてあるのか、その形成速度は以前にスバルが見た時よりも明らかに早く、その大きさもとてつもない。

 比喩表現抜きに人の形をした壁、という形容がふさわしいそのゴーレムは、スバルたちを守るように立ちはだかった。

 直後。壁となったゴーレムに大きく『穴』が空いた。

 ただ破壊された、というのではない。砕け散った光景など見えず、突如としてそのゴーレムの胴体が、向こう側の景色に変わった。少なくともスバルにはそう見えた。

 同時にスバルの脳裏を駆け巡るのは先程見た、森の木々が突然残骸へと変化したという光景だ。

 そこから導き出される答え――それは、ドラゴンの使っている力は透明化ではなく、自分の周囲の空間の認識偽装ということである。

 逆に言うならそれは、その空間の中心こそが、ドラゴンの現在地であるということを示していた。

「『ライトニング』ッ!」

「あ――『ファイヤーボール』!」

 ゴーレムに空いた穴、その中央部にゆんゆんの雷撃が。一手遅れたものの、それを理解した魔法使い――テレポートで転移してきた彼の火球が叩き込まれる。

 それに続くように、周囲の冒険者達も弓矢等を打ち込み始めた。

「――――――――――」

 咆哮が鳴り響く。

 続いて、再度空間の歪み。ドラゴンが空間ごと出現し、

「なんだ!? ちくしょう、ほとんど効いてねえ!」

 いかな耐久力か、ほとんど同時に打ち込まれていた魔法の光にも、先に打ち込まれた爆裂魔法にも、ほとんどダメージが見えない。

 決してないわけではないが、明らかに小さすぎるのだ。一体どれだけの魔法耐性を持っているというのか。

「――――――――――」

 ドラゴンは続けさまに放たれた矢をものともせず、再度咆哮。大きく息を吸い込んで、何かを溜めるように、牙の並んだ口を閉じた。

「炎のブレスが来るぞ! 気をつけろ!」

 誰かの警告に、冒険者達はある者は盾を構え、別の者は散開し、身構える。

 ただ一人。ドラゴンの出現に呼応するように前に出た、スバルを除いて。

「馬鹿、何やってんだお前!」

 誰かの叱責も聞こえない。今やるべきことは別にある。

 ナツキ・スバルは弱者だ。それでも今やれる一手はある。

 右腕を、口を閉じたドラゴンに向けて突きつけた。

 やるべき一手は決まっている。

 それはスバルの中にある数少ない手札。

 己を削る力。再起不能になることも覚悟の上の、禁じられた一手。

 スバルが使える唯一の魔法。

 

「――――シャマァァァァァァッック!」

 

 『前の世界』にしか存在しない、『陰属性』の魔法だった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 スバルは知らないが、この世界における魔力と、向こうの世界での魔力は性質が違う。

 当然といえば当然だ。

 どんな世界でも人は魔法の力を備えているとされているが、世界によって魔法はその形を変えている。

 【スキルポイントを使用して取得し、スキルの一部として行使する】こちらの世界の魔法。

 【魔力(マナ)を体内に取り込み、別の形で世界に放出する】前の世界の魔法。

 全く別の形で発展した二つの魔法。使用している魔力の根源が全く別のものである。

 こちらの世界では、人が体力同様に備わった魔力を使い。

 前の世界では、世界の循環に携わる、大気中の魔力(マナ)を使う。

 人間が持つ魔力と、マナは似て非なるものであり、マナは魔力の代用品にはならないし、魔力もまたマナの代用品とはならない。

 そしてこちらの世界には、大気中にマナがないのだ。

 スバルの体内のわずかなマナは、とうの昔に器官(ゲート)を通じて外部へと放出されている。

 故に、スバルはシャマクを使用するために、命の源(オド)を削りマナの代用品としていた。

 発動するかどうかすら確証のないまま使った、その力の代償は小さくない。

 壊れかけの器官(ゲート)を酷使したことによる、魂を明滅させるような激痛と喪失感。

 寿命(オド)を削ったことによる、全身へのどうしようもない倦怠感。

 背中を裂かれたことによる流血など、問題にならないほどの消耗がスバルを襲っていた。

 視界が混濁しそうになるのを、舌を噛み出血させた痛みで対応する。

 たとえ舌を噛み切って死ぬことになろうと構うものか。今気を失えばどのみち『死に戻り』行きなのは間違いない。

 今は何を置いても、リスクを負って放ったシャマクの効果を確認することだ。

「これは……いったいなにをやったんだ、あんた!」

 名も知らぬ魔法使いは、ドラゴンの頭部を包み込んだ闇を指差して問いかけた。

「ドラゴン、の、かんか、くを、狂わせた」

 それは黒い靄。漆黒に包まれた、小さな無理解の世界。

 スバル自身も経験がある。これに包まれた者は何も見えず、何も聞こえず、たとえ今自分が刺し殺されたとしても、その闇の中ではそれに気づけない。

 姿を偽装し、存在を理解させなかったドラゴンが、自らが今無理解の世界にあるというのはなんとも皮肉であった。

「長くは、もたない。早く、逃げ、ろ」

 息も絶え絶え、言葉を告げるだけでスバルの肉体は絶叫を上げている。

 それでも、すぐに撤退するべきだ、という事実だけは伝えた。

 今ここにある戦力は、あくまで後方部隊。全体的な強さなら、はっきり言って二軍のようなものだと聞いている。伝説とかいうエンシェントドラゴンの強さがどの程度かは知らないが、彼らがその戦いに耐えられるとは思えない。

 シャマクに二度目はない。王都最高の治癒術師の言葉を破ったのだ。ゲートが完全に潰えていないだけで幸い、奇跡だとすら思える。

 いつシャマクが解けるかはわからない。ならば今するべきことは撤退だ。

「ぐすっ。――――――ナツキさん。めぐみんをお願いします」

「……ゆん、ゆん?」

 見ると、幾度も魔法を使ったにも関わらず、いまだに涙は止まっていない。否、涙が止まっていないのに、ああも果敢に行動してみせたというべきか。

 ぐしゃぐしゃにした顔を、自分のローブの袖で強引に拭き取っていく。

 そのまま全体をごしごしと拭き終わり、鼻を真っ赤にしたまま、ゆんゆんはこう言った。

「長くは持たないなら、ナツキさんはめぐみんと……そこの魔剣の勇者さんを連れて、そちらの人にお願いして、どこかの街にテレポートしてください」

 そう言ってテレポート使いの方へ一度視線を向けて、再度スバルに目を戻す。

「他の冒険者さんたちは、アクセルに戻って、皆にこのことを伝えてください。――私は、しばらく戦ってみます」

「無茶、だろ……おい、やめろ」

 少しずつスバルの呼吸は戻ってくる。だが、スバルの恐怖と不安は増すばかりだ。

 ゆんゆんの言葉が頭に浸透すればするほど、嫌な予感が、悪寒が止まらない。

「めぐみんは、凄いんです」

「…………」

 杖を両手で握りしめ、スバルと一度目を合わせて、そしてめぐみんの顔へと視線を移す。

「学校では私は勝ったこともありませんし、とことんタフですし。邪神の下僕や上位悪魔だって倒したことがある、本物の天才なんです」

 そう言って、名残惜しげにめぐみんの前髪に触れる、その仕草に。

「めぐみんの魔法で倒せない敵なんて、絶対にいません。さっきのは詠唱しきる前に襲われたとか、うっかり失敗しちゃったとか、そういうのです」

 かつて終わった世界。単身、白鯨の足止めに向かった、青い少女の姿が重なって。

「めぐみんはこんな怪我で死んだりしませんし――めぐみんが生きてれば、きっと大丈夫」

「…………やめろ。おい、ダメだ。そんな変なこと――レムみたいなこと言うな!」

 うまく動かない身体で、なんとか手を伸ばし、ゆんゆんに静止を促そうと努力する。そんなスバルに、くすりと少しだけ笑って、ゆんゆんは両手でスバルの手を包み込むように握った。

「弱くて怖がりで――とても優しいナツキさんは、正直言って冒険者には向いてないと思います。それでも魔王を倒すのなら、めぐみんを頼ってください。めちゃくちゃで、知力が高いくせに頭悪いことをする子ですけど……めぐみんはきっと、最強の魔法使いになれる娘だと思いますから……よろしくお願いします」

 止めようとするスバルの手。彼女はそれをそっと制して、口の中で何かを言いかけ、結局何も言えないように、ただ微笑んだ。

「あ…………うぅ」

 その笑顔を見て彼女を止める手段がないことに気づき、スバルの口から声にならない音がこぼれ落ちる。

 理屈の上ではわかる。

 先の戦いを見る限りドラゴンの戦闘力は、少なく見積もっても今ここにある戦力でどうこうできるものではない。こちらの攻撃はドラゴンにはほとんど通じていなかったし、少しでもドラゴンが攻勢に出れば、こちらの全滅は必至であろう。そして、ドラゴンはすぐに無理解の世界から脱出し、襲い掛かってくるのは想像に難くない。

 状況は厳しい。しかし、時間さえあれば、状況は変わる。

 爆裂魔法使いのめぐみんや、魔剣使いの勇者が復活すれば、ドラゴンを倒すこともできるかもしれない。

 あるいは一時全員で逃げれば、ドラゴンが去った後に街を再建できるかもしれない。

 ドラゴンが去らなくても、時間が経てば他の街からの応援も来るだろう、それでなんとか追い払うことができるのかもしれない。

 ならば、今は誰かが足止めをしてシャマクでは足りない時間を稼ぎ、皆を避難させるべきだ。

 大怪我をした三人はテレポートで、他の皆は今すぐに撤退をして、民間人の避難誘導をして、戦力を温存する。

 今覚悟しなければ、その機会もない。

 だからこそゆんゆんは皆を、そしてめぐみんを守るために、足手まといを置いていくつもりなのだ。

 ゆんゆんの言葉を聞いて、ある少女――魔剣の勇者とともに現れた二人の片割れは、代弁するように言った。

「皆……私達は街に下がりましょう。ここにいても、この子の足を引っ張るだけだわ」

 少女は瞳に悔恨の光を宿しながら、皆に撤退を呼びかける。

 言葉に従うように、理屈に従うように、冒険者達は手早く最小限の荷物だけで街への避難を開始する。

 理屈の上ではわかる。

 ――――だが、それは彼女の理屈だ。ナツキ・スバルの感情は、別にある。

 スバルの瞳に映るゆんゆんは、ただの十三歳の少女なのだ。

 声は震え、額には汗がにじみ出る。頬は真っ青に染まり、膝はガクガクと揺れている。杖を握る手には、力が入りすぎている。

 戦いに身を投じる覚悟はあっても、確実に見えた死に対する心構えなどありはしないのだ。

 そんな彼女を一人、置いていけというのか。

「ナツキさん」

 ゆんゆんがそっとスバルの身体を押し、未だ意識の戻らぬめぐみんの隣に置く。

 テレポートを使える魔法使いに、「……お願いします」と事務的な声をかけて。

 最後に一言、言葉を乗せた。

「さようなら、私と一緒にいてくれた人。――――ばいばい、私の一番大事な友達」

 前半はスバルに、後半はめぐみんに。

 ゆんゆんの、万感の思いを込めた言葉に応えなければならない。

 未だ眠り続ける彼女の親友の分も、応えなければならない。

 応えなければならないのに、何も声が出ない。

 少しだけだが、身体の倦怠感はマシになった。今なら無理矢理強がれば、隣に立つくらいはできるかもしれない。

 それなのに。

 彼女を止めることも、彼女に感謝する言葉も出て来ることはなく。

 やがて、魔法使いの詠唱が終わった。

「『テレポート』!」

 男の声に、スバルの視界が歪む。

 目が光だけに包まれて、ゆんゆんの顔が見えなくなり。

 唐突に光が晴れ――――

「――――えっ?」

 目の前にあったのは、驚きと恐怖の入り混じった、ゆんゆんの顔だった。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 転移していない。

 どういうことかと後ろを振り返ると、スバルの目に生暖かい液体がかかった。

 何事かと思う前に視界が紅く染まり、妙な音が聞こえる。

 ぽたり、ぽたりと。水がしたたるような音。

 目をこすり、瞬きを繰り返してからもう一度確認。すぐそこに見える、テレポートを使ったはずの魔法使い。その首に、大きな亀裂が走っている。

 その綺麗な傷口には、魔法使いの使う風の刃を連想し、一拍遅れて下手人を直視した。

 無理解の世界にありながら、竜は魔法を行使して、的確に魔法使いの首を掻き切ったのだと、ようやく気がついた。

 ようやく竜の頭部に黒の靄が去る。怒りと憎しみに染まった瞳を、めぐみんのそばにいるスバルに向け、先程の炎のブレスを―――― 

「――――はあああああぁぁぁぁぁっ!」

 そこでスバルとドラゴンの間に割り込んだのは、蒼い鎧を纏い、魔剣を持った男であった。

 腹の傷はとりあえずの止血をして、その上に布を巻いた程度の強引なもの。蒼い鎧はボロボロのまま、まるで身を守れるとも思えない。

 それでも男は言葉とともに魔剣を抜き、どういう力か、炎のブレスそのものを斬り裂いた。

 その瞳は、ただ己の使命に燃えている。

「キョウヤ! 気がついたの!?」

「キョウヤ! 無茶しないで!」

「フィオ! クレメア! 君たちは負傷者を運んでくれ! ここは僕が引き受けた! 君、動けるか!?」

 彼は二人の少女に端的な指示を、スバルに問いかけを送ってくる。

 答えようとする目の端で雷撃を放ったゆんゆんの、焦りに染まった表情が見えた。

「な、なんとか……いや、大丈夫だ!」

「ならボケっとしてるんじゃないっ! 逃げろっ!」

 ドラゴンと対峙する彼は、余裕などなく背中で叱責。それを受けたスバルは、未だ白濁しかける意識に鞭を打って立ち上がり、無理矢理足を走る形に変える。

 強がりだろうと意地だろうと、なんだってかまわない。少しでも自分の力になる想いをかき集めて、前を向く。

 前方には、少女に背負われるめぐみんの姿が見えた。

 スバルは一度だけ男を振り返り、

「悪い。――――ゆんゆんを、頼む」

「…………安心してくれ。僕は女神様に誓ったんだ。必ず、この世界を救ってみせると」

 おそらく激痛が神経を揺さぶっているであろう彼は、それでもしっかりと魔剣を握りしめる。

「任せてくれ。女の子、それも駆け出しの子一人守れないような男が、世界を救えるわけがない」

 背中で応えた言葉。それは虚勢だ。

 一人の男の虚勢。

 悪魔に負わされた傷に、その場のしのぎをしただけのボロボロの身体。どう考えても、その魔剣の真価を発揮できる身体ではないと、門外漢のスバルにだってわかる。

 それでも彼は、己の誓いのために、己の信じる誇りのために、己の意地のために、その虚勢を貫こうとしていた。

 スバルは最適解を見出せないまま、ただその意志を無駄にしないために地を駆ける。

 今、自分から竜に突撃し、返り討ちにあったほうが良いのかもしれない。

 あるいは今、自らの喉を掻っ切った方が良いのかもしれない。

 これ以上の苦しみを増やすくらいなら、いっそ今『死に戻り』するのもひとつの選択肢ではないか。

 そう頭の中を駆け巡っていても、ゆんゆんと彼の意志を無駄にはしたくなかった。

 ゲートの酷使で痛む肉体、それでも少しでも早く足を前に運んだ。

「ちょっとあんた、遅いわよ、もっと急ぎなさい! キョウヤの迷惑になるでしょうが!」

「身体、ボロボロなんだよ……お前こそ、人ひとり背負ってるくせに速いな……」

「これでもキョウヤと一緒に戦ってるんだから、あんたよりはずっと高レベルよ!」

 この世界ではどんな人間でも、レベルが上がれば身体能力が上がる。そして経験値さえ貯めれば、時間に関係なくレベルは上がる。

 高レベルの魔剣の勇者と共に旅をしているのなら、必然的に彼女の身体能力もそれなりに高いというわけか。

「――――――――――」

 耳に届いた、竜の咆哮。

 直後、足元に違和感。続いて、地が大きく震動していることに気がついた。

 スバルの脳裏に、上級魔法には大地を意のままに操るものがある、という言葉がよぎる。この現象がそうなのだろうか。

 大地は脈打つように激しく上下に動き、自分の靴の裏が本当に硬い大地であるのか信じられなくなる。体のバランスを崩し、まともに立つことすらできやしない。これならば、不安定な船の上を走ったほうがよほどマシだ。

 それでも、前に進まないわけにはいかない。姿勢を低く、這うような体勢で強引に進む。

 脳すら揺らされそうな、気持ちの悪い局地的震動の中をただただ進む。

 後ろで戦っている二人のためにも、時間を忘れるように、ただ進んで。

「……………………っ!」

 『死』に直面しているが故の直感か。頭の後ろにおかしな空気の動きを感じて、とっさに頭を右に振る。

 スバルの左頭部、そこを掠めて不可視の何かが通り過ぎていったのがわかった。

 おそらく、竜の放った不可視の風の刃だろう。二人と戦いながらもこちらを攻撃してくるとは、よほど憎いと見える。

 スバルには、何かした覚えなどないというのに。

 掠めたスバルの左頭部からは、当然流血が起こり、新たな苦痛が発生する。痛覚を遮断できない人の欠陥を呪い、呼吸に喘ぎながら、動きの鈍い頭をなんとか回転を再開させる。

「――ぁ」

 ふと、スバルの前方を進んでいた少女が、突然転んだのが見えた。

 未だに大地の揺れは不規則に続いている。姿勢を低くしながら移動していたが、転倒の一つや二つ起こるのは仕方のないことだ。

 ただ、当然ながら、少女が背負っていためぐみんまで一緒に転んでしまっている。

 大地の揺れに導かれ、二人の元から何かが転がってきた。

 自分の頭の動きが鈍い。それはアルファベットのLの形をしていて、なんだかオレンジ――というよりは柿のような色をしている。

 頭の動きが鈍い。頭の傷は予想以上に酷いのだろうか。

 転がってきたそれを持ち上げて、ようやく靴だと気づき。

 その落とし主に――めぐみんの元へと視線を送る。

 右の足首から先がなくなっていた。

 遅れて、握っているそれが、靴だけではない重みを持っていることがわかった。

「あ――――ぁあ」

 背負っていた少女は立ち上がらない。

 胴体を寸断され、立ち上がれるはずもない。

 広がった二人の血が、縦に横に揺れる大地の上で、おかしな形に広がって。

 自分がかわしたせいで。

 自分のせいで、その光景が起きたのだと、やっと理解する。

 めぐみんの身体が、偶然スバルの方に転がってきた。この状況でも意識が戻っていないのか。いや、一度戻ったところに激痛のショックで再び意識を失ったのかもしれない。

 めぐみんはまだ死んでいない。めぐみんを頼れと、ゆんゆんに言われた。めぐみんをよろしくと、ゆんゆんに言われた。

 自分のせいだ。自分のせいだ。

 なんとかしないと。なんとかしないと。

 なんとかしないと!

「つ、つながな、きゃ」

 思考が加熱する。肉体の損傷、脳への血の欠乏、器官の損傷にオドの消耗。目の前の事態に対応できるだけの力がない。

 以前自分の腕をもぎ取られた時のように、スバルの脳は常識を忘れて判断を誤った。

 めぐみんの足首、骨や血管、それに血肉を覗かせる綺麗な断片に、手に持った靴、その中の足をくっつけようとする。

 つながらない。何故だ。何故だ。何故、何故。

 何故!

 ……………………………ああ。

 当たり前だ。馬鹿か自分は。

 これでつながるわけがないだろう。

 自分の無理解が恥ずかしい。

 足の向きが反対じゃないか。

 手の中のそれをぐるりと回転させて、きちんとつなぎ直そうとしたその時。

「ふざ、けるな! ゴフッ……僕達は、まだ生きているぞ! 相手はこっちだ!」

 巨大な竜の影が、スバルとめぐみんを覆った。

「やめ――――『ブレード・オブ・ウインド』ォッ!」

 血を吐きながらも挑む魔剣の勇者と、残り少ない魔力を絞り尽くしているゆんゆん。押しとどめようとする二人の攻撃を、竜はまるで意に介そうとしない。

 傷ついていないわけではないはずなのに、ただスバルとめぐみんの元へ行くことを優先している。

 ここで終わる。この世界はここで終わりだ。

 ならば、せめて。

 めぐみんに覆いかぶさり、彼女の身体を隠しとおそうとする。

 『死』を理解したスバルの、意味のないわずかな意地。

 ただの意地で、少しだけでも、ゆんゆんの言葉に応えたかった。

 

 その肉体を死に至らしめたのは、牙か、爪か、魔法か。

 ここで終わるスバルが知ることはない。

 ここで終わるスバルが知る必要もない。

 

 

 

 

 ただ終わり。

 ナツキ・スバルは、もう一度あの時間に舞い戻る。



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8 『疑念』

――――――――3周目


 かつての時間へ舞い戻る。そこに意識が宿った瞬間、肉体は前後のバランスを失い、大きく後ろに尻餅をついた。

「ナツキさん!? 大丈夫ですか?」

 幸い、腕の中のちょむすけは、とっさに両手で抱え込んだため、怪我をさせるようなことはない。

 尻と地面が盛大に衝突したため、臀部にはそれなりの痛みがあるが、そんなことはどうでもよかった。

「ど、どうしました? 大丈夫ですか、ナツキさん」

 ゆんゆんの心配の情を帯びた声も、耳に届かない。

 スバルの意識は一点、目の前にある竜の彫像にあった。

 森で突然現れたドラゴンと、以前は森になかったという竜の彫像。

「どう考えても、何もないなんてことはねぇよな……」

 関わりがないはずがない。こんなわかりやすい符号の一致を偶然で流すような神経を、スバルは持ち合わせていないし、仮にそんな神経の持ち主でも、ここは念のために調べておく場面だろう。

 スバルは警戒しながら、竜の彫像の周囲を回り込む。ただ見ている分には特別おかしなところは見られない。見られないが――――見れば見るほど、『前回』最後に見たあのドラゴンとあまりにも似通っていることが確認できる。サイズとしてはあの時のドラゴンと比べ、幾分小さいように見えるが、だからといって油断はできない。

 いっそここはひとつ、ゆんゆんに頼んでこの彫像をぶち壊してしまうのはどうだろうか――――。

 と、そこまで考えたところで、自分の間抜けさに血の気が引いた。

 『今』が『ここ』というのが、どれだけ危険な状況にあるかを思い出して。

 慌てて元の場所の方へと目を向ける。

「ゆんゆん、ちょっと――――」

「ナツキさん、これ見てください。ウサギですよ、ウサギ! もの凄く可愛いです!」

 像の向こう側では、角を生やしたウサギを見て目を輝かせるゆんゆんの姿があった。

 まずい。

 いくら精神を混濁させた死の直後で、さらにその原因、解決の糸口が目の前にあったとはいえ。

 目の前のことに意識をとられて、この憎き毛玉の出現時間を失念しているとは。

 スバルは自分の愚かさを呪い、全力でゆんゆんのもとに駆け戻ろうとする。

 だが、その時間はウサギが無防備な少女を騙し撃つのには十分だ。

 瞬間。白い毛玉の紅い瞳がギラリと光った、そんな気がした。

 詳しい説明をしている暇はない。初心者殺しの存在を先に告げ、冷静に納得させた前周とは違うのだ。理解と納得までにわずかな空白が発生する。その一手二手の遅れは、この場合致命的な隙になりかねない。

 故に、口にするのは端的な一言。

「伏せろ――――!」

 ゆんゆんは。つい先程まで彼女の頭があった空間を白い影が猛烈な勢いで通り過ぎ、そのまま影は竜の彫像に直撃した。

 一角ウサギの名に相応しい鋭い角が彫像に刺さり、角一本でその体重を支えている。大した強度である。

「こんな可愛い顔で愛らしいふりをしておいて不意打ち!? なんて悪辣なモンスターなの!」

 いつか見たような怯えと怒りが入り交じった顔でゆんゆんは叫び、遅れて辿り着いたスバルはそれを諌める。

「言ってる場合じゃねえよ! こういうのは絶対一匹じゃない、早く逃……げ……?」

 叫ぶゆんゆんに対して向けたスバルの言葉は途中で停止し、中空に消えた。

 次々新手が出てくると思っていたウサギ達は、草むらに影こそ見えるものの、警戒しているのかこちらに向かって来る様子はない。

 いや、警戒というよりも、それは。まるで、怯えているかのようで。

 スバルがウサギの群れから注意を逸らさないまま視線を追うと、先程のウサギが変わらず彫像に刺さっていた。

 ――――否、刺さっていると思っていた。

 よくその姿を観察すると、角が刺さっているように見える像の部分は、わずかに蠢動している。その角は刺さっているのではなく、まるで優しく受け止められているかのよう。

 角が徐々に短く――いや、角が徐々に彫像へと吸い込まれているように見えるのは、錯覚ではない。

 角が完全に像の中に埋まって彫像とウサギが接した瞬間、その肉体は溶けるように崩れ始めた。

「ぎゅっ……………………!」

 先程まできゅうきゅうと鳴いていたウサギは、もがくように脚をバタバタさせる。だが、肉体そのものが崩れているのに、そんな悪あがきでどうにかできるわけもなく。

 その声が小さな断末魔へと変わるのに、時間はかからなかった。

 一度は自分たちを殺した相手だ。スバルとしても別に同情などをする気はないが、突然の異様な事態に息を呑んでしまった時――。

「『ライトニング』っ!」

 雷撃とともに響いたのは、一度もウサギの群れから目をそらさなかったゆんゆんの声。

 仲間の死か彫像にか、本能的な恐怖を抱いていたらしいウサギの群れは、その一条の雷撃に一部を焼かれる。残った個体も大きく戦意を削がれたように後ずさった。

「ナツキさん! よくわかりませんが、今のうちに逃げましょう!」

「あ、ああ。でも街の方にな、森の奥はまずい!」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 ゆんゆんの奇襲が功を奏したのか。

 前回よりも若干追撃の緩やかなウサギの群れから逃げ、ついでに爆裂魔法の二次被害から身を守り、街に戻ってきたスバル達。

 彼女がお花摘みに行っている間に、スバルは前回のループ、さらに『死に戻り』について、色々と情報を整理する。

 足先を見ながら最初に考えることは、『死』から『戻って』きた場合戻される地点――セーブポイントについてだ。

 以前、『強欲の魔女』エキドナは茶会において、『死に戻り』のセーブポイントのことについてこう推測した。

 何か理由があって戻される場所ではなく。

 その地点を乗り越える理由を得たからこそ、セーブポイントが更新される。

 つまり、『死』を持ってしか乗り越えられない状況、運命を越えた時にこそ、セーブポイントが更新されるのだろう、と。

「もっとも、『死』を突破した直後にセーブされるとは限らねえんだがな……今回もそれか」

 まず、『死に戻り』直後のウサギの突破自体は見えている。以前生き残ったパターンを踏襲すればいい。

 今回はスバルのミスで危ういところだったが、ゆんゆんの油断と動揺、それにスバルのミスさえなければウサギの群れを突破できるというのは実証済みだ。

 だが、ウサギの突破はあくまで突破、敵の全滅ではない。生存には森を脱出することが不可欠となる。

 そうなると、エンシェントドラゴンと関わりのあるであろう、あの彫像と相対する時間があまりにも少ない。

「一度は突破したウサギどもが、こんな形で厄介な障害になるなんてな……とことんクソだ」

 そう言って、足元の小石を小さく蹴った。

 ウサギを突破した後にでも、セーブポイントを設置してくれたほうがまだマシだ。『嫉妬の魔女』が狙ってセッティングしたわけではないのだろうが、それでも目に見える手の届かない位置に餌が置いてある状況とは、意地が悪すぎる。

 確か記憶では、現時点ですでに平原のモンスターがほとんど見えなくなった後。多くの冒険者が狩りを終えているはずだ。

 今日のうちに応援を連れて、再度森に入り、竜の彫像の調査をするというのは厳しい。

 というより、他の冒険者たちとのコネのないスバルは、素直にギルドに報告して調査を依頼したほうがマシなのかもしれない。

 一旦そこでひと呼吸置き、次の思考に移る。

 とにかく、惨劇を繰り返さないために必要なものを整理しよう。

 まずエキドナのいう、今越えるべき運命――つまり、悲劇を引き起こす障害とはなんなのか。

 それはスバルを殺したあのドラゴンか、それともあの悪魔だろうか。いや、スバルの経験からいって、両方と考えておくべきだろう。

「と、すると、こっちで取れる対策はなんだ……?」

 悪魔を相手にするため集められた討伐隊は、残念ながら失敗していた。駆け出しの冒険者が集まるこの街において、あれ以上の戦力を用意するのは難しいだろう。

 もっとも、あの魔剣の勇者は不意打ちで負傷したということだったので、単なる戦力で負けているとは断言できないが……あのドラゴンまで相手にしなければならないとなると、話は別だ。

 この街にいる戦力でどうこうできないなら、他の街から応援を呼ぶというのが、もっとも有効な選択に思える。

 となると、この街の戦力のみで挑む危険性を訴えて、他の街から応援を呼んでもらう策を考えるべきか。

 だが、ここで問題となるのは、スバルにはドラゴンの出現を予言する根拠がないということだ。

 ドラゴンの彫像の話は聞いてもらえても、それですぐに「怪しい像がある、悪魔のこともあるし他の街から応援を」という話になるかはかなり怪しい。

 エンシェントドラゴンの襲来を予言するには、この街に来たばかりのスバルでは、信頼が足りなさすぎるだろう。

「ナツキさん、お待たせしました」

 スバルの思考が移り変わっていくうちに、控えめながら声が聞こえた。

 それに従い顔をあげると、手を綺麗に洗ったゆんゆんが、スバルのもとへと駆けてくる。

 そのまま、少し迷うように愛らしい瞳を泳がせ、上目遣いで提案してきた。

「えーと、ギルドにドラゴンの像の報告に行ったら、気分を直すためにもそのままご飯食べませんか? 一人は寂しいですし、その、一緒に」

「ん……オッケーオッケー。じゃ、行くとするか」

 スバルはその提案に頷き、共にギルドへの道を歩み始める。

「ナツキさん」

 並び歩く二人。

「ん?」

 指一本触れることなく。

「あんまりうつむかないでくださいね。前の私みたいになっちゃいますから」

 それでも同じ方向へと、ただただ歩いていった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「ゆんゆん。エンシェントドラゴン……って知ってるか?」

 ギルドでの報告を終え、そのまま酒場での食事を終えたスバルは、同じく口元を拭いているゆんゆんにそう問いかける。

 スバルの頭にあったのは、魔剣使いの仲間である、少女の言葉だった。

『あれは――――伝説のエンシェントドラゴン……!?』

 間に衝撃的出来事こそあれ、スバルの主観時間では、そう古い記憶ではない。

 確かにそう言っていたはずだ。

 伝説の存在。

 具体的な定義はさておき、はるか昔から語り継がれてきたもの、という解釈で、この世界でも間違いないだろう。

 例えば元の世界では、英雄オリオンが思い上がって大口を叩いた結果、嫌がらせで派遣されたサソリに刺し殺されて、星になったなんて伝説がある。

 前の世界でも、数百年前に世界の半分を飲み込んだ『魔女』の名が、その恐怖と共に語り継がれていた。

 この世界において、エンシェントドラゴンが今も生きる伝説とされる存在ならば、その名と共に、きっと何かが語り継がれているはずだ。

 行動を推測できる何かがあるのなら、スバルがエンシェントドラゴンの出現を予言する根拠となるものも見つけられるかもしれない。

 かつて、剣鬼ヴィルヘルムが『白鯨』の出現法則を掴んだように。

「エンシェントドラゴン、ですか……」

 ゆんゆんは可愛らしく小首をかしげ、何故そんなことを問うのかわからない、と言いたげな顔をする。

「名前くらいは知ってますけど……あんまり。詳しく知りたいなら、本や記録を調べたほうがいいと思いますよ?」

「そりゃそっか。いや、ちょっと気になることがあって――――っ!」

 そう返答したところで、銀髪の少女が目の端に映り、スバルは言葉を止めた。

 スバルは今回、ギルドに悪魔や初心者殺しについての報告をしていない。『死に戻り』直後にゆんゆんに知らせて逃走に移った前回のループとは違うのだ。「初心者殺しや悪魔を目撃した」と主張すれば、さすがにゆんゆんからツッコミが入るだろう。

 元々悪魔の目撃情報はあり、狩りが平原に集中していたのだから、たとえ全面禁止にならなくても、迂闊に森に入る冒険者はそうそういないはずだ。

 しかしここに例外がいる。

 銀の髪を短く切り揃え、スレンダーな肢体を盗賊風の服で包んだ少女、クリスである。

 前回、森の出入りの全面禁止を聞いた上で、なんとか襲撃できないか考えていた、悪魔にひどく好戦的な彼女だ。

 全面禁止のない今回のループでは、彼女が悪魔のことを知れば、即座に準備を整えて襲撃を実行するだろう。

 そんな無茶をさせるわけにはいかない。彼女自身の身の危険もそうだが、下手に悪魔を刺激して、街を襲撃されたりすると洒落にならない。

 未だに、あの悪魔とドラゴンの関連性すらはっきりしていないのだから。

「悪い。ちょっとあの女の子に話しかけてこようと思う」

「? えっと……ナンパですか?」

 彼女にしてみれば唐突すぎるスバルの言葉。ゆんゆんもスバルの視線を追い、クリスを見つけてその言葉をこぼす。

 さすがに知能が高い紅魔族といえどその意図は理解できなかったらしく、ぽかんとした表情をするばかりだった。

 そして一拍遅れて、何かに気づいたように立ち上がり、

「ひょ、ひょっとして新しいパーティメンバーに加えたいんですか!? 確かに、盗賊はいると助かるって聞きますし、気配を消す潜伏スキルや、敵感知スキルなんかがあれば今日ももっと楽だったかもしれませんね。えとえと、でもあの、いきなり言われてもどうしたらいいかわからないっていうか……お茶菓子とか買ってきたほうがいいですかね!?」

「どうどう、とりあえず落ち着け」

 動揺するゆんゆんを手で制しつつ、スバルは自分の行動を思い返す。

 ちょむすけを追ってからの森での行動はともかく、いきなりエンシェントドラゴンについて調べようと言い出して、そのまま流れるように他の女に声をかけようとする。

 確かにつながりが一切見られない。

「悪い、今のは完全に俺が悪かったわ」

 とりあえずゆんゆんにも納得のいくように説明をする必要がある。そもそも、第三者の彼女を納得させられないようでは、本人を納得させるなど到底できるはずもないだろう。

 そこまで考えた上で、前回のループでのクリスの情報を思い返してから、話し始めた。

「えっと……あのクリスって子は、敬虔なエリス信者らしいんだよ。エリス信者って言ったら、悪魔を許さないっていうし」

 ふんふん、とスバルの言葉に頷くゆんゆんへ向けて、何とか話を組み立てる。

 ゆんゆんの膝の上に乗るちょむすけは、なんだかかったるそうな顔つきで身体を丸くしていた。

「それに、魔道具店で会った時に手にとってたのが、バインド用の高そうなワイヤーだった。俺もあの手の道具を知ってるわけじゃねえけど、この駆け出し冒険者の街で、わざわざあんなもの買うか? 買うとするなら、それは……」

「森の悪魔の討伐を狙ってるって言いたいんですか?」

 ゆんゆんはスバルの言葉の先を読み取り、的確に答えを出した。しかし、その表情はあまり良いものとは言えない。

「ナツキさん……それでその人を止めようというのは、ちょっと早計じゃないですか? この街でも、悪魔関係なく森の奥に行けば割りと強力なモンスターが出るみたいですから、対策に装備を整えていたのかもしれません」

 遠慮しがちにスバルの反応を窺いながらも、言葉は続く。

「それに、仮に挑むとしても、悪魔に挑むからにはよほど強力な仲間がいるとかかもしれませんし……その、大きなお世話って思われちゃうんじゃないかなって」

 当然というべきか、付け焼き刃の理論武装はあっさりと否定される。クリスを止めること自体、つい先程思い立っただけのものだ。スバル自身も、理由付けが稚拙なものだった感は否めない。

 かの『強欲の魔女』のような知識や口のうまさがあれば別かも知れないが、今のスバルにはそんなものはない。

 目の前の可愛らしい少女すら、説得できそうにないようだ。

「それでもあのクリスって子を悪魔のところにいかせるわけにもいかないんだよ。だって……」

「『だって』、なんなのかなぁ?」

 耳に入る、高い声。

 同時に肩にやわらかい五指が食い込む感触があった。

「うわあああっ!」

「ひゃあぁぁっ!」

 突然肩に置かれた手に、スバルはおろか向かいで見えていたはずのゆんゆんまで驚きの声を上げる。その声に驚いたのか、ちょむすけはゆんゆんの膝の上から逃げていった。

 盗賊の『潜伏』スキルでも使っていたのか。何の気配もなく出現した彼女は、その顔に小さな笑みを浮かべていた。

「いやー、あたしの噂話が聞こえたんでね。えっと……キミは名前、なんだったかな」

 そう言って、スバルが振り返る前に肩に腕を回して、ギュッと掴んだ。

「お、俺はナツキ・スバル、だ」

「わ、私はゆんゆんと申しますっ!」

 二人の名乗りを聞き、クリスは大仰に首を縦に振り、もう一度ニッコリと笑った。

「そっかそっか。あたしはクリス。さて、話があるなら聞くよ?」

 その言葉を聞き、スバルは一度ゆんゆんと目を合わせる。

 確かに、クリスの説得は必要だと考えていたスバルには願ったり叶ったりかもしれないが、今彼女を説得するだけの材料は薄い。

 ゆんゆんに言われたとおり、大きなお世話だと一蹴される可能性は十分考えられる。ここで話したところで無為に終わるのではないか。

「と、ひょっとしたら込み入った話かな? それならここで話するのはよくないよね。あたしいい場所知ってるから、そっちにしよう」

 迷いを抱いたスバルを他所に、クリスはどんどん話を進めてしまう。人の良さそうな笑顔を浮かべているが、グイグイとスバルをひっぱる姿勢はかなり強引だ。

「ちょ、待ってってそんないきなり……」

「いいからいいから、ほらこっちこっち」

 肩に手を回されている体勢といえば、親密な関係の人間同士がする体勢であるが、同時に相手の力が伝わりやすい体勢でもある。判断に困ったスバルの身体は、どんどんクリスによって連れて行かれてしまい。

「ま、待ってください。私も、私も行きますっ!」

 ゆんゆんもそれに続くように、慌てて席を立った。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 たどり着いたのは、この街にあるエリス教の教会、その中の一室だった。

 同じエリス教徒同士親しいのか、クリスは教会に残っていたシスターになにやら声をかけ、席を外してもらっていた。

「もともと今日のこの時間は、近くの孤児院で炊き出しをする予定だったからね。今は人が少ないんだよ」

 そう言ってクリスは自分は立ったまま、スバルとゆんゆんに席を勧めた。

 二人は言われるままに腰を落ち着けて、スバルは一度深呼吸。

 二つの椅子が、椅子の背同士で接合されたような席だ。必然的に、スバルとゆんゆんは背中合わせのような姿勢になる。

 同じように席について挙動不審げにキョロキョロしているゆんゆんを振り返り見て、気を落ち着ける。

 そして、先程ゆんゆんにしたものと同じ、クリスが悪魔討伐を考えていると思った根拠をあげていく。

「――――というわけで、俺としてはクリスさんが先走って悪魔に挑むのを止めておきたい。戦うなら、それこそ戦力を集めて――他の街から応援を呼ぶくらいの方がいいんじゃないかと思ってるんだ」

「ふうん……なるほどねえ…………」

 クリスはスバルの話を聞いて、興味深げに何度か頷く。そして部屋の外周を回るかのようにぐるりと歩き、同じ場所に戻ってくる――途中でスバルの背中越しにいる、ゆんゆんの椅子に触れた。

「ねえ、キミも同じ意見なのかな?」

「え、えっと、私は…………」

 ゆんゆんは突然自分に話が振られたことに加え、実質的に初対面の相手との会話に戸惑っているようで、目を泳がせている。

 それでも、自分の方に目を向けたスバルのほうを見ると、何か決意めいた目つきをして唇を開き――――不意に、その口をテープのようなもので塞がれた。

「んんっ!?」

 発するつもりの声が口の中に逆流し、目を白黒させるゆんゆん。

「ゆんゆん!?」

 背中越しの異変。クリスの突然の豹変に、スバルは慌てて立ち上がりながら、身体全体を反転させ――。

「『バインド』ッ!」

 そのまま椅子の背に抱きつくような体勢で、椅子ごとロープで拘束される。完全に手足が動かず、まるで蓑虫になったかのような気分だ。

「もひとつ『バインド』ッ!」

 同様に、平静を取り戻す前にゆんゆんの身体も即座に拘束される。スキルによる拘束であるためか、そのロープには結び目もまるで見当たらない。

 彼女の口に貼ったテープは、魔法スキルの詠唱を防ぐためだろうか。

 あっさりとスバル達を拘束したクリスは、そのままスバルの身体をまさぐると、スバルの冒険者カードを取り出した。

「ふんふん。取得スキルはなし、と」

「おい、どういうつもりだ! いくら俺が空気読めない男だからって、さすがにこの仕打ちはないだろうよ!」

 あまりにも手際の良い拘束。ここに誘った時点でこちらに敵対するつもりだったのは間違いないだろう。

 だが、どのタイミングでそれを決めたのか。

 前回のループではクリスは自分たちに敵対的だったとは思えない。

 まさかエリス教では、悪魔襲撃を止めようとするものは全て敵、というルールでもあるのだろうか。

 スバルの怒りの声に対してクリスは鼻を鳴らし、そのままスバルと視線を合わせる。

「どういうつもりだ、はないでしょ? ねえ、素直に全部吐いちゃいなよ」

 その目は、憐れな動物を見るかのようなものでもあり。

 同時に、何よりも憎む仇敵を見るかのような目でもあった。

「そんなにプンプン臭いを漂わせて、ごまかせるとでも思った? 悪魔さん」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 女神アクアは、スバルをこの世界に送り込む前に、こう言った。

『ちょ、近いって。っていうか臭っ! 何あんた悪魔かなにかなわけ!?』

 女神アクアは、スバルの心臓に魔女の手が触れた時、こう言った。

『ちょっとー。説明するとかいって、いきなり止まらないでよ。しかもなんか臭くなったんですけどー。エンガチョよエンガチョ!』

 そしてクリスは、前回のループでこう言った。

『いや…………ちょっぴり…………ねえ、最近おかしなのと会ったりした? 悪魔とか』

 まるで子犬を思わせるように、クンクンと嗅いだ上の言葉。

 これはつまり、この世界の悪魔の臭いと、『前の世界』の魔女の残り香は酷似しているということ。

 そして、クリスはレムのように、その臭いを嗅ぎ取る力を持った体質だということを示している。

「嘘だろ…………?」

 スバルは喉から声を絞り出す。そこに込められた感情は、己のあまりの運の無さを呪っていた。

 魔女の残り香。

 かつてレムがスバルを疑い、一度は殺害、一度は拷問にまで行動を発展させた原因。

 かつてガーフィールがスバルを疑い、幾度となく行動を妨害し、惨劇を起こすに至った瘴気。

 それは『死に戻り』や、スバルへの魔女の罰ごとにその濃度を強めていく――はずだ。

 はずというのは、スバル自身はその臭いを感じ取れず、あくまで伝聞からの推測にすぎないためである。

 とにかくまずい。

 スバルの経験上、魔女の残り香によって相手に生まれる疑いは、相当根強い。

 これが原因でスバルが悪魔の一味だと疑われたとすれば、当分の間拘束が続くおそれはある。

 このままスバルは拘束され続けるなら、ゆんゆんも失った街に悪魔とエンシェントドラゴンの脅威が襲いかかり、未来は変えられず惨劇が繰り返されるということになる。

 ――いや、まだ諦めるのは早い。

 ナツキ・スバルは諦めるわけにはいかない。

 このクリスという少女は、悪魔への憎しみこそあれど、決して話の分からない相手ではないと思う。

 前回のループでも、悪魔の襲撃を我慢して、討伐隊に参加する道を選んでくれたのだ。

 なんとか話の糸口を見つけることさえできれば。

「さてさて、とりあえずキリキリ吐いてもらおうかな。キミは何を企んであたしの邪魔をしようとしたのか――知能の高い悪魔にしては、こんなにあっさりと捕まるのは奇妙といえば奇妙なんだよね」

「何も、企んでなんてねえよ……!」

「モガモガ……」

 拘束のせいで椅子の背に胸を強引に圧迫され、息苦しい思いがする。

 さらに口まで封じられているゆんゆんはもっと大変だろう。スバルの位置からは彼女の顔は見えないが、スバルの巻き添えでこんな目に遭うのがあまりに申し訳ない。

「悪いけど、それは信じられないねえ。嘘は良くない」

「嘘じゃ、ねえんだよな……これが」

 圧迫感に息も絶え絶え、なんとか返答するも、クリスの反応は芳しいとは言えなかった。

「そんなに悪魔の臭いを漂わせた相手から、悪魔を襲うのをやめてくださいって言われて、信じられると思うの?」

 スバルの耳元に囁きかけるようにして、クリスは淡々とスバルの返答を切り捨てる。

 まるで聞く耳を持ってもらえそうにない。

 だが、すべてを洗いざらい話してわかってもらえるものか。

 苦し紛れの嘘だと断じられるのが関の山なのでは。

 ……………………。

 ―――――――――いや、違う。ここは話しておくべきだ。

 たとえ信じてもらえなくても、きっとそれが道につながる。

「ドラゴン、だ」

「ドラゴン?」

 ただスバルは言葉を重ねていく。

「ああ、ドラゴンだ。この街を近々、エンシェントドラゴンってのが襲う。俺は、それを止めたい」

「ふーん……………………?」

「まあ、いきなり言われても信じられねえわな……」

 エンシェントドラゴンの襲来、その言葉を受けてもクリスは眉をひそめるばかりで、まるで信じていない顔だ。

 当然といえば当然だろう。

 前回のループでも、報告した竜の彫像の調査はしてくれたはずだ。それでも冒険者ギルドからドラゴンについての警告は何も通告されなかった。

 組織単位で調査した上で、そういった兆候を掴めなかったということになる。ただの一冒険者のクリスには、まさに寝耳に水だろう。

 だが。

「この前会った時に見つけた、あの嘘発見器を持ってきてくれよ。下手に尋問するより、そっちのほうがよっぽど手っ取り早いし確実だろ?」

 エンシェントドラゴンの襲来については根拠を提示することはできない。ドラゴン襲来の妄想にとりつかれた、ただの阿呆扱いされる可能性もありうる。

 だが、少なくともスバルが嘘を言っていない、ということは証明できるだろう。

 悪魔やその手先ではなく、ただ善意で動いていた人間だとわかってもらえれば、ここからの解放も――――。

 コンコン、コンコン。

 その時、部屋のドアをゆっくりと叩く音が響いた。

 クリスはスバルから警戒を解かないまま、ドアを開いて来訪者を迎え入れる。

「や、ダクネス。ナイスタイミング」

「シスターから呼ばれて、指示通り持って来たが……なっ!? なんだこれは!?」

 姿を見せたのは、以前魔道具店で見た女騎士。

 髪は絹の糸のように滑らかで、その色は金。きめ細やかな白い肌と相まって、まるで輝いているように見える。その緑がかった青色の瞳を驚愕に見開き、椅子に拘束されたスバルたちを指差した。

 事情を聞かされていなければ、彼女のその態度は当然の反応といえる。

「なぜ見ず知らずの二人が、こんな羨ま……もとい、ひどい目に遭っている! このような振る舞い、返答次第ではクリスといえど容赦はできないぞ」

 訂正。当然の反応ではなかった。

 そういえば、この女騎士は自分の首を絞めるチョーカーを喜んで購入するヤバイ人だったとスバルは思い出す。

 一度は彼女の奇行を見ているはずのゆんゆんは、聞きたくないものを聞いてしまった、といいたげな、なんとも言えない表情をしていた。

「………ところで前衛職として、そのバインドは一度試しておきたい。欲を言えばもっとダメそうな男や鬼畜そうな男のほうが燃え……いや、仮想敵として相応しいのだが、今回はクリスで我慢しよう」

「もう、我慢しようじゃないってば。今はそれより」

 と、クリスは女騎士――ダクネスの持っている鞄を指差した。

 ダクネスがその鞄を開けると中からは、先程スバルが要求した嘘発見ベルが姿を見せる。

 クリスはそれを手のひらの上に乗せると、これ見よがしにスバルの前へと突きつける。

「さて……キミはこれをご所望だったよね」

 そう問いかける青碧の瞳は、意外な感情の色をしていた。

 てっきり疑いの目で見られるだけだと思っていたのに、そこに浮かんでいたのは疑念でもなければ、ましてや信用でもなく。

 まるで、わかりきった死刑判決を告げる裁判官のようで。

「あ、ああ……話が早くて助かる。それで無実が証明できれば、願ったり叶ったりだ」

 自分の心を理解しているスバルですら、一抹の不安を胸に抱えずにはいられなかった。

「はい。じゃ、ポチッとな」

 そう言って、嘘発見ベルのスイッチをオンにして、スバルの前に差し出す。

「キミのさっきの話は本当かな?」

「ああ、本当だ。信じてもらえなくても仕方ないけど、この街は近々――」

 チリーン。

 スバルの声を遮るように、甲高い音が鳴り響く。

「はぁ!? なんで鳴るんだ!?」

 チリーン。

 続くスバルの驚愕の声。それに対してすら、そのベルは嘘を指摘する音を奏でた。

「まあ、こうなるよねえ……」

 誰にともなくつぶやくクリスの言葉も聞こえない。

 スバルの思考は一時混乱し、その混乱は当然疑念へと変化する。

「…………俺は男だ」

 チリーン。

 確認するようにつぶやいた一言、それにすらベルは否定の声を上げた。

 背中しか見えないゆんゆんに一瞬動揺する気配を感じたが、今はそれはどうでもいい。

「なあ……このベル、壊れてるんじゃね? いくらなんでもめちゃくちゃだろ。俺が男装の麗人にでも見えるかよ?」

 このベルの”嘘”の定義がどうなっているのかは知らないが、スバルは体も心もれっきとした男性である。女装したことこそあるが、それで男であるということを否定されるのはいくらなんでもあんまりというものだ。

 スバルの当然の疑念に、クリスは残念そうな表情で頭を振ると、

「このベルは、人が嘘をつく時の邪な気を感知して鳴るって仕組みなんだ」

 そう言いつつ、手の中のベルを弄ぶ。そして「あたしは女」などと言ってみせて、ベルが鳴らない――故障していないことを示してみせた。

「この仕組みが曲者でねえ。もちろん、普通の人間が使う場合なら問題ないんだけど、例えば神様のような清らかな存在がこれを使った場合、そんな邪気は浄化されちゃうから、嘘がわからないんだよ」

 もし神様が仮の身体を使ってるとかなら話は別なんだけどね、と特に意味があるとは思えない補足を付け加えた。

 ……ちょっと待て。

 二、三度瞬きし、盗賊の少女の言葉を咀嚼する。

 今こんな話をしたということは、当然今のスバルに深く関わってくる話ということになる。

 清らかな存在ならば、邪気が浄化され感知できなくなる。

 なら、逆の場合はどうなるのか。

「キミはひょっとしたら、本当のことを言ってるつもりなのかもしれない。でも、それをそのまま信じるってわけにはいかないんだ」

 悪臭。瘴気。

「俺の身に纏っているっていう……」

「そう。その悪臭が、キミの言葉を染めている。真実か嘘かなんて、関係ないくらいにね」

 魔女の抱擁に包まれ、幾度となく蘇生してきたナツキ・スバル。

 それが人であっても。魔道具であっても。

 今、彼の言葉を信じさせる根拠は、どこにもなかった。



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9 『教会』

先日発売したコミックアライブでのリゼロ×このすばコラボ冊子により、本作には若干の矛盾が発生してしまいました。
が、流石に逐一修正するわけにもいかないので、このまま行きます。


 口をふさがれ、手足を拘束されたゆんゆんは、クリスのスバルへの尋問を背中で聞いていた。

(ナツキさんが悪魔……?)

 信じられないことこの上ない。例えるなら、爆裂魔のめぐみんが爆裂魔法を封印したというくらい、嘘くさい話だった。

(私を見ててカエルに食べられそうになったり、ウサギに追い掛け回される間もほとんど何もできなかった、弱いナツキさんのことを見た上でそう言っているの!? 見る目がないにもほどがあるでしょう!)

 ゆんゆんに悪気はない。彼女はあくまで真剣である。

 彼の目をちゃんと見るべきだ。あの弱さだが、魔王を倒そうという決意は本物だった。確かに実際に可能かというと怪しすぎる感は否めないが、それはまた別の話である。

 スバルの主張である『エンシェントドラゴンが来る、根拠ははっきり示せない』というのが信じられないのは仕方がないが、ちょっと臭うくらいで人を悪魔呼ばわりとは何事なのか。

 そんな、純粋な義憤。

 彼女は仲間に不当な疑いをかけられ、心からの怒りを抱いていた。

「あういあんあ、あうああんあああいあえんっ!」

 ゆんゆんは自らの中の怒りを抗議という形で表そうとする。が、テープでふさがれた口からはまるで意味をなす言葉が出てこなかった。

 情けない。

 いくら緊張していたとはいえ、油断した結果がこの体たらくだ。自分の不甲斐なさに歯噛みする。

 ジタバタとなんとか足掻こうとしているゆんゆんを、拘束した当の本人は横目で見て、

「ごめんね。キミは完全に被害者っていうか、ただ巻き込まれだけなんだと思うけどさ。でも、この男を解放されたら、もっと大勢の被害が出るかもしれないからね」

 しばらくの間我慢して、と告げてくる。

 勝手な話だ。

 せめてもの怒りを視線に込めるが、クリスはまるで意に介した様子もなく、放った怒気は虚空に消えた。

 さて、とクリスはつぶやいて、スバルとの話を再開させる。

「気を取り直して話を続けようか。えっと……スバルくん、だっけ?」

「その呼び方はやめろ」

 静かな、だが燃えるような怒りの声。

 声量こそ小さいが、先程ゆんゆんの放った怒気の何倍もの激昂がそこに込められている。

 以前悲しげな瞳でスバルに拒絶された呼び名。そこにはやはり、彼に譲れない何かがあるのだろうか。

 その怒りを受けて、クリスもそれなりに何か思うことがあったのか、一瞬だけ言葉を止め、

「…………そっか。じゃあナツキくん。とりあえずキミには色々と聞かせてもらわないといけないよね」

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 片手でスバルの喉を圧迫し、大声を出すことを封じながら、クリスはスバルの顔を覗き込んでくる。片頬に傷のある端正な顔立ち、それを堪能する余裕はスバルにはなかった。

「あいにく、俺が話せることは大体話したよ。……そもそもの前提として、俺の話を全く信じてもらえない相手に、何を言っても無駄って感じがするんだが。……俺を悪魔だっていうなら、なんですぐ始末しない?」

「昼間、キミと会った時はこんな臭いしなかったんだよねえ。なのに、夜になったらこうなってた。このあたりの事情について解明させといてもらわないと……」

「急に臭いが、か……」

 やはり『死に戻り』か。

 スバルの経験、さらにはレムなどからの言葉を聞いた推測になるが、『死に戻り』および、その事実を告げようとすることで、魔女の残り香は強くなる傾向にある。その臭いは濃厚らしく、そうそう拭い取れるものではない。

 例えば前の世界、ロズワール邸を訪れたばかりの時。『死に戻り』から三日、あるいは一週間経過した後も、レムはスバルから『臭い』を強く感じ取っていた。

 おそらくは時間経過である程度薄れるものと思われるが、少なくとも数日程度で消えるほどでもあるまい。と、なると、色々問題が浮上してくる。

 仮にここで、スバルが自決に成功したとしよう。

 そのまま次のループ以降、『死に戻り』を駆使すれば、クリスとの対面を避けつつ調査し、エンシェントドラゴン襲来、その根拠も組み上げられるかもしれない。

 だが、クリスを避けるにも限度がある。

 冒険者ギルドへの大規模な協力要請、それが通ったとしても、さすがに進言した張本人が姿を消し続けるわけにもいかないだろう。

 クリスと前回のような非敵対関係を築けない以上、もしクリスに見つかれば最後だ。

 彼女に『この男は悪魔かその協力者だ』と疑いをかけられて、嘘発見ベルによりスバルの言葉が嘘である、と偽りの証明がされてしまう。

 つまり、スバルは大規模な協力要請ができなくなった。

 人生最初の『死に戻り』以来、他人の手を借り続けてきたスバルにとって、これはまずいなんてレベルではない。『死に戻り』と魔女の残り香が切っても切れない関係である以上、スバルはクリスからの疑いをすぐ晴らすことはできず、それは――――――――。

 …………………………。

 ――――――――?

 今、何かがおかしかったような。

「ねえ、悪魔の中でも、夜に力を増すタイプとかそういうのなの?」

「ぐっ…………」

 どこか感じた違和感、それはクリスの言葉、それに指の圧力の前に霧散する。

「あいにく、これでも前はそれなりにいいお屋敷の使用人やっててな。夜型どころか、朝起きて夜眠る、そこそこ規則正しい生活を送ってきたつもりなんだが……」

 あれこれ検討するのは後回しだ。今は目の前のクリスに対応しなければならない。

 スバルの正直な返答にも、クリスはまるで信じる様子もなく、ブツブツと自問するように、何かをつぶやいている。

「やっぱり、人間が悪魔に体を乗っ取られているってケースなのかなあ? だとしたら困るなあ……この街のプリーストじゃ浄化しきれるか怪しいし」

「捕まえてから色々考えるとか、いくらなんでも無計画すぎるんじゃね? 俺達を連れて行ったのは目撃者もいるだろうし、ちょっと騒ぎになればすぐ犯人だってわかるだろ。ここはひとつ、穏便に俺達を解放してみるのが賢い選択だと思うぜ。自由になれて俺もハッピー、お縄にならずに済んでお前もハッピーだ」

「もし捕まったら、あたしは『悪魔の仲間を捕まえてました。この街を守るために仕方なかったんです』って言うかなあ。このベルが証明してくれると思うよ」

 そういって彼女は、嘘発見ベルを振って見せた。ベルを揺らした拍子に鳴った澄んだ音が実に忌々しい。

 ベルを睨みつけるスバル、そのスバルを疑念の目で見つめるクリス。そんな二人に、後ろの女騎士が声をかけてくる。

「クリス、私はあまり話についていけていないのだが…………結局、この二人をどうするつもりだ? 言っておくが、あまりに度が過ぎるようなら、友人として止めることになるぞ」

「そうだねえ……さっきの真実の追求は後回しにして、とりあえず森の悪魔を滅ぼしちゃうまでは、監禁するか」

 ――――――――!

 区切り区切り、強調するように言うクリスの言葉にスバルは戦慄する。

 それはまずい。

 今すぐ舌を噛み切り自決するか。だが以前ある男に監禁された際には、それを実行に移した瞬間に猿轡を噛まされた。

 相手の意識が逸れた瞬間を狙うべきか――――。

「いや、いっそここでこの男ごと滅ぼしてしまおうか」

 クリスはそう言って、喉から手を離すと、身動きの取れないスバルの後ろから頭を掴み、首筋に何かを押し当ててくる。金属、おそらくは彼女の持つナイフだろうか。その冷たい感触がスバルの首の皮を一枚裂き、スバルの痛覚を刺激する。

「お、おいクリス!」

「悪魔を野放しにして出る犠牲者の数を考えたら、こっちのほうが被害は減るよね?」

 制止の言葉も聞かず、クリスがナイフに込める力を増したのがわかった。

 真相究明よりも、安全策を取るつもりか。クリスに、レムのように人を殺せるだけの覚悟があるなら、街を守るためにその選択もありだろう。

 それに、スバルとしてもそっちの方がよほどありがたい。

 以前スバルが経験した監禁生活は最悪だった。

 悲劇が待っていることがわかっているのに、対策を打つどころか自決による『死に戻り』すら封じられた毎日。

 身動きが取れず、暗闇に沈み、涎の混じった自分の息遣いを感じ取る日々。食事を喉に押し込まれる拳の感触と、垂れ流した排泄物の処理だけが誰かと接する唯一の機会。

 押し込まれた食事で汚れた顔で、自らの鼓動を感じ、かつて見た悲劇を追想し、ただ死に濃い焦がれていた。

 友人が来てくれるあの時まで、虫やネズミに喰い殺されたいと、死ねるならどんな有様でも構わないと、本気で考えていた。

「むー! むー! むー!」

 まさに今、背後でスバルが殺されようという現実に、ゆんゆんがいよいよ本気で暴れようとしている。完全に動きを封じられた状況では大した効果はあげられていないが、彼女の善性は心から尊いと思う。

 が、何の罪もない彼女を巻き込み、あんな日々を送らせるくらいなら、今自分だけが『死』んだ方がよほどマシだ。

 そう思うと、クリスのナイフの感触にも自然と感謝の念を覚える。

 深く息をつき直し、来るであろう首の激痛に覚悟を決めた。

 今回はろくな情報を得られなかったが、それでも同じ轍は踏むまい。きっと『次』はなんとかしよう。

「――――――――今、安心したよね」

 頭を握る手に、よりいっそう力が込められた。

「自分の殺害を宣告されたのに、死を恐れていない。本気で殺気を向けたのに、無防備な今に恐怖を覚えていない。むしろそれがありがたいって顔だ。本調子じゃない今のあたしでも、そのくらいはわかるよ」

 その声はスバルの耳をくすぐるように、そしてスバルの思考を見透かすように。スバルの脳へと滑り込んでいく。

「ねえダクネス。自分の死をどうしようもないって、受け入れられる人間はいる。希望を失って、もう生きていたくないって人もいるよ。でも……『街の危機を止めたい』なんて言ってた人が、そうやすやすと死を受け入れられるものかな?」

 試された。

 乗り気ではなかった女騎士――ダクネスを納得させるために最初から殺す気はなかったのか、それとも彼女自身が選択に確信を得るためか。

 スバルを敵だと考えている彼女が、スバルの望んでいる行動を取るはずもない。

「そんなことができるのは、死を何も恐れないアクシズ教の人間か……死んでも『残機』が減るだけの悪魔か…………後は、命をなんでもないと思ってる、狂人くらいのものなんだよ」

「狂人……か」

 ある男に言われた。

 自分の命を賭け金にして当たり前の顔をする狂人だと。

 ある女に言われた。

 嫌な目をするようになった、と。

 今銀髪の盗賊が抱いていた気持ちは、二人の感じていたものと、きっと同じものなのだろう。

 スバルだって、本当は恐ろしい。

 恐怖を抱かないわけがない。

 鋭利な刃物で肉を切り裂かれ、血の海に溺れ、肉体から体温が失われていく感覚。それを思い出すだけで、身も心も震えそうになる。

 それでも。

「俺の命で済むなら――――安いものなんだ」

 誰に聞かせるためでもなく、確かめるように、そうつぶやいた。

 クリスはそれが聞こえたのか、聞こえなかったのか。スバルの首からナイフを、続いてスバルの頭から手を外して、スバルから距離を取った。

 ひとまず遠ざかったスバルの死に、ゆんゆんがほっと安堵の息をついたのがわかる。

 それには反応せず、スバルの意識はクリスの動向、ダクネスとの会話へと集中していた。

「――クリス。今のはどこまで本気だったんだ? 正直、肝が冷えたぞ」

 金の髪を揺らした、ダクネスの問い。少し――まあ少し、変わったところこそあるが、少なくとも彼女も、未確定のままスバルを殺そうというつもりはないらしい。

 何らかの問いつめ程度は予想の範疇であったのか、クリスはそれにすらすら淀み無く答える。

「さあ……どうだろう。単なる悪魔なら滅ぼしておくつもりだったけど、悪魔に身体を乗っ取られている可哀想な少年かもしれないし、何より弱すぎて逆に不気味なんだよね。とりあえずこのまま軟禁して、他の街から優秀なプリーストを呼んで祓ってもらうつもり」

 聞く限り、その声に嘘の様子は見られない。

 もちろんスバルに聞かれるようなこの距離だ、全てを語っているわけではないのだろう。

 だがそれでも拉致という強引なやり方も、無関係な少女(ゆんゆん)を巻き込んだことも、彼女なりの正義を通しているという自信が感じられた。

 クリスにしてみれば、ただ単に危険因子を隔離しているだけ。

 身体を乗っ取られた被害者の可能性や、始末すること自体が相手の罠という可能性など、危険について考えるのが精一杯。

 クリスに『悪魔っぽい臭いをした、全く別の怪しい存在を抱えた、多分無害な男』なんて発想は出てこないのも無理はない。

「それに、彼の言ってた『エンシェントドラゴンが来るから、悪魔を襲うのを延期しろ』っていうのが、どこまで本当なのかも気になる。嘘っていうのは、真実を混ぜるからこそ効果があるからね」

「エンシェントドラゴンか……。確か伝説では一度討たれて大きく力を失い、その後何度も復活を繰り返しているというが……」

「うん、まあ……そうだね。とにかく、どっちにしろ向こうの目的は襲撃を引き伸ばすってことだろうし……悪魔を襲撃するのは急いだほうがいいかも」

 クリスが、スバルの願いとは真逆の結論を出そうとした、その刹那。

 部屋のドア越しに、何かが砕けるような音が僅かに響いた。おそらくは、教会入口の方向であろうその衝撃に続き、本エリス教会に攻撃を受けたことで作動する警報が鳴り響く。

 突然の音に状況を理解したクリスは顔色を変え、ダクネスに顔を向ける。

「今ここを襲ってくるなんて………………ダクネス、ちょっと見てくるから、その二人見張っておいて!」

 親友の返事も待たず、短い銀の髪を振り乱しながら、クリスは駆け出した。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 椅子に縛り付けられたゆんゆんは、クリスがドアを開けて飛び出していく音を背中越しに聞いた。

 床を軋ませながら、足音が遠ざかっていくのを聞きつつも、部屋の入口近くにはダクネスが残っていることが気配で伝わってくる。

 本来ならば今こそ脱出のチャンス。この縄さえ何とかできれば…………。

 そう考えるも、自分の短剣はスバルと同様に、自身を拘束するロープの下、鞘に収めたままである。当然都合よくビンの破片などが転がっているはずもなく、そんなものがあってもロープを切る前にダクネスに取り上げられてしまうだろう。

 打つ手が思いつかず歯噛みする。

 そんな折、スバルの口から小さな声が漏れるのを聞いた。

「来いよ、『見えざる、手』――――」

 それはわずか数日しか接していないゆんゆんが、初めて聞くスバルの声色。

 魂を絞り出すようなその一言が響き、同時にゆんゆんの身体を後ろから『何か』が触れる感触がした。

 ゆんゆんの目にそれは映らない。光に映ることも、闇として存在するわけでもないそれは、確かめるように手探りでゆんゆんの顔の肌に触れていく。

 得体の知れない何者かの接触。だが、その感触は優しく、敵意を持っていないことを感じ取れる。

 先の声を鑑みるに、この持ち主は。

(ひょっとして、ナツキ、さん――――?)

 見えない感触の『何か』がゆんゆんの口を塞ぐテープにかかったかと思うと、優しげな手つきで口のテープを剥がしていくのがわかった。

 驚きは一瞬。沸き起こる疑問は打ち消し、すぐに今すべきことを理解する。

 背中越しの相手からは、自分の口元は見えない。

 ヒリヒリとした痛みを無視して、ゆんゆんは口の中で詠唱を完成させた。

「『ブレード・オブ・ウインド』」

 拘束されながらも僅かに動く右手、その手首を可動範囲限界まで強引に動かし、その動きで小さな風の刃を作り出す。

 その刃は彼女を拘束しているロープを切断し、その勢いのまま壁に突き刺さった。

「何っ!?」

 ダクネスの驚きの声。その響きは一瞬、すぐに彼女は剣を抜かないまま身構える。

 相手の射抜くような視線を受けながら短剣を抜き放ち、ゆんゆんの詠唱は完成に至る。

 人を相手にすることに躊躇いを含みながらも、小さくその魔法を叫んだ。

「『ライトニング』っ!」

 狙いはダクネスではなく、その足元の木板である。

 元より直撃させるつもりもない、ただの牽制だ。だが、出入口から大きく飛び退かせるか、それでなくとも相手を怯ませることができればそれでいい。

 先にスバルの拘束を解き、二人で牽制を交えつつ戦えば、逃走のチャンスは見つけられるだろう。

 しかし、ゆんゆんの目算は外れる。

 その雷撃を見たダクネスは驚異的な反応速度を見せ、雷撃の着弾点に自らの肉体を割り込ませた。

「な――――――――!?」

 ちょうど右手の短剣でスバルの拘束を解こうとしていたゆんゆんは、自ら魔法を受けに行くダクネスを見て、目を驚愕に見開く。

 少々縛られるのとはわけが違うのだ。

 自分の放つ中級魔法、それは並の魔法使いの上級魔法を上回る威力を持ち、並の人間が受ければ即死しうる危険な一撃である。

 避けて逃げ道を作りたくないという理屈はわかるが、だからといって躊躇なく受けに行くとは予想外もいいところだ。

 それだけ自分のタフネスに自信があるのか。

 事実、雷撃の直撃を受けたダクネスは、それほど大きなダメージを受けた様子もなく、こともなげに両手を広げてみせる。

「どうした、その程度でこの私を倒せると思ったか! もっと凄いのをどんどん撃ってこい!」

 予想を遥かに上回る耐久力。控えめに見てもありえない。

 ゆんゆんはスバルを拘束するロープを短剣で切断すると、そのままダクネスに向き直る。

 同様にダクネスの方を見据えたスバルは、苦しげに胸を押さえながら、一度肺の中の空気を全て絞り出す。そして、強引に呼吸を落ち着かせた後、相手に言葉を向けた。

「悪いが……通してくれ。こっちはいきなり拉致られた、そっちは魔法を喰らった。あとは解放で全部チャラ、恨みっこなしってことでさ」

「残念だが……それはできない。こちらとしてもあまり褒められたことではないのは理解しているが、クリスの主張もわからないでもないのだ」

 ダクネスは無手のまま罪悪感を振り切るように小さく頭を振る。その頭に追随して動く金の髪は光の波を描くようだったが、その美しさに見とれているわけにもいかない。

 背から(ワンド)を取り出してゆんゆんは次の一手を考える。

 自分の攻撃魔法ではダクネスを倒し切ることはできまい。仮にできても、それは相手を殺すつもりで戦うことが前提だ。そんなことを容易くできるほど、ゆんゆんは修羅場を越えていない。

 ならば、スバルはどうだろうか。先程の、見えない『何か』がスバルの切り札であれば、可能性も――――いや、もしそれだけの力があるなら、もっと簡単に使っていただろう。下手に計算に入れない方がいい。

 とすると、取れる手段は一つ。ゆんゆんはスバルの方へと視線を向けた。

 紅い瞳に、一つの意思を込める。

 その意思が通じたわけでもないだろうが、スバルは一歩前に出て、ダクネスに対して説得にかかる。

「こっちだって、はいそうですかって引き下がることもできねえよ。信じてもらえないだろうが……ドラゴンが来るんだ。このままじゃ、この街が危ないんだよ。別に長く過ごしたわけでもないけど、それでもこの街をホイホイ諦めるわけにはいかない。俺は、誰よりも諦めが悪いんだ」

「先ほどの魔道具は、裁判でも同様のものが採用されるほどだ。たった今、明らかな異常が見受けられた人間を放っておくわけにはいくまい。私にはこの街の人々を守る義務がある。根拠もなく、すぐに相手の言うことを鵜呑みにするわけにもいかないのだ」

 決して話がわからない相手というわけでもないのだろうが、今スバルが説得できる相手というわけでもなさそうだ。

 もちろん、ダウナー系コミュ障のゆんゆんにも、彼女を説き伏せることはできはしない。そんなことができる度胸と話術があるのなら、最初からぼっちなどやってはいない。

 だから今、ゆんゆんにできることは、ダクネスの言葉を聞き、

「もちろん、二人の身の安全は保証しよう。なんならすべてが終わったら詫びとして私のできることならなんでもしよう。ああわかっている、このような拉致監禁に遭ったあとだ、どんな温厚な人間だろうとそうやすやすと許すことはできまい。男として怒りの赴くままに、負い目から抵抗のできない私を組み伏せるのだろう。そして私は無理矢理服を剥ぎ取られ、肉欲に蹂躙され――――」

「『スリープ』」

 問答無用で昏倒させることだった。

「うわあ…………」

 身体が崩れ落ちるように倒れ、そのまま眠りこけたダクネスを見て、スバルが声を漏らす。

「え、と……とりあえずしばらく大丈夫なのか、これ」

「はい。状態異常耐性は、気を張って魔力を高めている時にこそ最大の効果を発揮しますから……さっきの状況なら、狸寝入りの可能性はないと思います」

 おそらく敵は防御特化。当然、前衛として状態異常耐性も高めていたことは想像に難くない。

 だが、会話によって集中を阻害され、更にわけのわからないことを一人で言っているダクネスには効果てきめんであった。

 会話の途中で眠らせる。卑怯と言えば卑怯かもしれないが、もともと拉致してきたのはそっちだし、仕方がないと思って見逃して欲しい。

「そ、それよりナツキさん。もう一人の方が戻ってくる前に早く逃げましょう」

 めぐみんならば『戦いの最中に油断する方が悪いのです』と割り切れるかもしれないが、ゆんゆんはそこまできっぱりと割り切れない。

 正直言ってかなり後ろめたく、スバルの目を見られない。

 スバルに変な目で見られていないかビクビクしながらも、二人はそのまま部屋を後にして、脱出口を探しに向かった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ベルゼルグ王国、アクセルの街。その街のエリス教徒が、日々祈りを捧げる場所――エリス教会。その建物を見据える女がいた。

 顔や手以外の肌を覆い隠すワンピース状の衣服、その胸部には大きく十字が刻まれており、それが修道服であることを示している。もちろん、彼女はこの教会に所属するエリス教の修道女――――ではない。

 その修道服は青を基調としており、身を包んだ彼女が水の女神アクアを信仰するアクシズ教徒であることを証明していた。

 本来彼女は、ここにいる人間ではなかった。本来ならば、水と温泉の都アルカンレティアでところてんスライムを楽しみ、アクシズ教徒を増やそうとする平穏な毎日を送っていたはずである。

 ことの発端はつい先日。彼女が所属するアクシズ教団、その最高責任者のアークプリーストが、女神の神託を受けたことにあった。

 なんでも、アクセルの街でアクア様が金銭を欲しているとか。

 理由は分からないが、当然アクシズ教団としては、神託の発信源とされるアクセルの街を調査するべく人員を派遣することになった。

 アクセルといえば、先日彼女が出会った、理想のロリっ子が向かった先である。

 アクア様の神託を叶えるため、そしてあの愛らしいロリっ子と再会するため。

 彼女は荷物をまとめ、長々と馬車に揺られることを覚悟して出発した時、ちょうどアクセルに転移(テレポート)しようとする魔法使い(モブ)と遭遇したのである。

 なんでも、温泉をめぐっての湯治を終え、アクセルに戻るところなんだとか。

 ほんの僅かなタイミングの差。女神アクアの神託が少しでも時期がずれれば、その男に気づくことはなかったろう。

 ――――馬車代は節約できるし、時間は短縮できるし、万々歳じゃない。アクア様、私、感謝します!

 女神アクアの導きのままに、その男への平和的な脅迫(はなしあい)を経て、直接アクセルに転移した彼女。

 まず『とりあえずクリムゾンビアーとカエルの唐揚げを楽しんで、それから可愛らしい紅魔族のロリっ子について知らないか聞こうかしら』などと考えていたところで、ふとエリス教会を目にして今に至る。

 修道女は一度その教会から離れたかと思うと、近くの舗装されていない地面へと歩き、そこで何かを拾い上げ、懐に入れた。

 同様の作業を何度か繰り返し、懐が十分に膨らんだ時点で、教会の前へと戻る。そして懐に手を入れ、先程拾い上げたものを取り出した。

 ちょうど修道女の手に収まるような、手ごろな大きさの石だ。

 彼女はそれをひとつひとつ道に並べ始める。

 そしてそのうちの一つを掴み取ると、大きく振りかぶり――――――――全力で教会へと投擲した。

 大きな破壊音と共に、教会の中で巨大な窓が割れ、人が通れそうな大きな穴が空いた。

「ストライク!」

 自らの会心の一撃に歓喜の声を上げ、大きく拳を天に突き上げる。そしてそのまま次の投擲に移った。

 この街に来てから、妙に体の調子がよい。精神の高揚が激しく、その心に応えるように、全身に力がみなぎっている。

 これも偉大なるアクア様のご加護だろうか。

 その投擲は、教会からナイフを持った銀髪の女の出現まで続いた。

 

 修道女の名はセシリー。

 おそらく、今のアクセルで一、二を争うスーパー自由人。

 彼女は今、絶好調であった。



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10 『拉致対策会議』

「――――――――で?」

 脱出を終えたスバルとゆんゆんが向かったのは、めぐみんの宿の部屋であった。

「ご、ごめんねめぐみん。いきなり押しかけちゃって。でも、こっちも色々あって……」

「ええ、ゆんゆんも色々とあるのでしょう。その色々を説明してほしいと言っているのです。例えば……そこのお姉さんは何故この街にいるのですか」

 そういって彼女の指差す先には、スバルたちが連れてきた修道女――――セシリーの姿がある。ちょこんと座って、キョロキョロとめぐみんの部屋を見回しているその姿は、無駄に美しい。

 スバルとゆんゆんがエリス教会から逃げ出した際、いつの間にか同行していた彼女。

 なんでも、ゆんゆんとめぐみんの知り合いで、話を聞く限りスバル達が逃げ出すきっかけを作ってくれたのも彼女という。

 そんなわけで、めぐみんに会いたいという彼女を無下にはできず、連れてきた次第である。

 スバルとゆんゆんが床に正座して、椅子に座るめぐみんと相対する中、セシリーは部屋に備え付けられたベッド、そのシーツにこそこそと身を投げ込んだ。

「スーハー……スーハー……お久しぶりね、めぐみんさん! めぐみんさんとゆんゆんさんがアルカンレティアを発ってから、何もかもが灰色にみえる日々だったわ!」

「ええお久しぶりですお姉さん……。ですがそれは私の使っているベッドです。今すぐそこを出て、それから私の質問に答えてください」

 めぐみんの言葉を受け、セシリーはさらにその顔をシーツや枕に埋めていく。呼吸をするたびにその美貌は自然と相好を崩し、幸せいっぱいの無邪気な笑顔で溢れていた。

 あまりといえばあまりの行動に、スバルは驚きで目を白黒させる。やがてはっと我に返るとゆんゆんを肘でつつき、意図的に声量を殺して話しかける。

「なあ……あのセシリーとかいうのも、ゆんゆんの友達だろ? なんとかしなくていいのか?」

「ナツキさん、私にだって相手を選ぶ権利はあると思うんですよ」

 釣られて声を潜め、言外に友達ではないと語るゆんゆん。

 確かに、ロリっ娘の使ったシーツの臭いを嗅ぐ美人というのは、友達にするにはちょっとアレというか、一緒にされたくないものがあるのだろう。

「スーハー……スーハー……そうね、話せば長くなるけど、私がこの街に来たのは大切な理由があるのよ。でも、先にそっちの二人の話を聞いてあげて? 大変な目に遭ったみたいだから……クンカクンカ」

「おい、どうでもいいからまずそこから出てもらおうか」

 抑揚のない、怒りを含んだ声を聞いて、セシリーは全身をシーツの中に引っ込める。徹底抗戦の構えだ。

 めぐみんはセシリーの身体を包むシーツをひっぺがしにかかる。

 するとセシリーは意外なほどの力強さで激しい抵抗を見せてきた。

「嫌よ! 理想のロリっ娘と別れて数日、私がどれだけ苦しい思いをしたと思ってるの!? 犯罪じゃないんだから、ちょっと匂いのひとつやふたつ、嗅がせてくれてもいいじゃない!」

 そう叫び、とことんまで抵抗を続ける。

 めぐみんは押したり引いたりフェイントを入れたりと、手を変え品を変え、硬軟織り交ぜた引き剥がしにかかっても、セシリーはそれに見事に対応してみせる。変なところで器用な人間である。

「うわぁ…………」

 なんて女だ。ここまで痛々しい美人は、少なくともこの世界では初めてだろう。前回の占い師も割とアレだったが、これがアクシズ教徒というものなのだろうか。

 都合三つの世界を渡り歩いてきたスバルをして、奇行のみでドン引きさせる女であった。

 正直関わり合いになるとろくなことがなさそうだが、スバルやゆんゆんには、彼女を連れてきた責任というものがある。

 ここは膠着状態に陥った戦線に参戦せざるを得ない。

 ひたすらシーツにしがみつくセシリーだが、三人がかりの力に叶うはずもなく、そのままシーツをなくしたベッドに転がることになった。

 しばらくベッドを右に左に転がっていたセシリーは、次第に静止。そのまま一度、ゆっくりと立ち上がって体の埃を払い、表情を真面目なものに切り替えてから、シーツのないベッドに正座する。

「めぐみんさん。ゆんゆんさんとそこの目つきの悪い男は、暗黒神エリスの手先に捕らえられていたみたいなのよ」

 彼女の持つ青く美しい瞳。濁ってはいても嘘のないその視線は、めぐみんの瞳をまっすぐと見据えていた。

 それを受け、めぐみんはこちらに顔を向ける。

「ゆんゆんとその男が捕まっていた……それは本当ですか?」

 その紅く輝き始めた双眸は静かに、しかし抑えきれない怒りの炎に燃えていた。

 同じ炎を宿したゆんゆんは胸の前でぎゅっと両の拳を握りしめ、その感情を吐き出すように言い放つ。

「そうなの! ナツキさんに、『お前は臭いから悪魔だろう』って言い出して、無理矢理私達を縛って監禁しようと……! 私、あの二人が許せないわ!」

「変態に縛られて拉致監禁!? それは許せませんね! 正直なところ、私はゆんゆんが多少困っても、試練だと放置するつもりでしたが、そのレベルになると話は別です。手を貸しましょう。……それはともかく、そんなに臭いなら後で身体を洗ってもらいましょうか」

「ねえ、ゆんゆんさん、今悪魔って言った? 臭い人よりも、お姉さんそっちが気になるんだけどアクシズ教徒的に」

「女の子達に臭い臭い言われるの、結構傷つくんだけど!? そこそこ慣れてるつもりだったけどキツイわ!」

 実際の体臭的な意味でないのはわかっていても、さすがにその評価には羞恥に顔が歪む。

 しかしスバルの反射的な抗議も、熱くなった二人には届きそうにない。

「でもめぐみん、銀髪の盗賊はともかく、共犯者の女騎士は金色の髪に青い瞳をしていたから、ひょっとしたら貴族のお嬢様かもしれないわ。だとしたら警察に届けても……」

「ええ。……死人も出ていない、短時間で脱出できた今回の件程度は、平気で揉み消されるかもしれませんね……」

 権力という圧倒的な格差にめぐみんは歯噛みする。

「ねえねえ、めぐみんさん。とりあえずめぐみんさんの魔法で、あの悪しきエリス教会を消し飛ばしてしまうのはどうかしら」

「やりませんよそんなこと! 罪もない無関係の人も大勢いるんでしょう!?」

「もうやだこの人……」

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 犯人たちへの誅伐は一旦保留。その前にまず、やらなければならないことがある。

「とりあえず、二人が拉致誘拐犯とやらに見つからないようにしないといけませんね」

 スバルから大雑把な話――悪魔の臭いやら嘘発見ベルやらは省き、疑われていることのみ話した――を聞いためぐみんはそう切り出して、スバルの目を見た。その紅の瞳は理知的な光に満ち溢れている。爆裂魔法をぶっぱなして、弁償代で金欠になった考えなしとは思えないほどだ。

「お姉さん、シスター服以外の適当な私服に着替えてもらえますか。別の服がなければゆんゆんの着替えでも借りてください」

「めぐみんさん。お姉さん、そろそろセシリーお姉さんって名前で呼んでもらってもいい頃じゃないかと思うの。あ、セシリーお姉ちゃんでもいいわよ?」

「お姉さんはアクシズ教のシスターという以上のことは漏れていないでしょうから、別の宿でゆんゆん達の部屋を確保してください」

 めぐみんはセシリーの要望を無視して話を進める。

「セシリーよ。宿……宿ねえ……。めぐみんさん、それって二部屋でいいの? この二人が実は恋人で、二部屋取ったのに一部屋しか使われないってことはない?」

 にやりと笑ったセシリーの口からその言葉が出た刹那、めぐみんの瞳に動揺の光が走り――――。

「ねえよ」

「ありません」

 当の本人たちの否定によって、即座に打ち消された。

 スバル主観でループを含めて、一週間ちょっとの付き合いのゆんゆん。彼女のことが好きか嫌いで言われればもちろん好感を持っていると答えるが、スバルの心は二人の少女で完全に占められている。他者が入り込む余地などない。

 ゆんゆん側に至っては、スバルと出会って二、三日ほどしか経っていないはずだ。これで恋焦がれていると言われるほうが、よほど驚愕する話である。

「もう、そんなあっさり返されるとお姉ちゃん悲しいわ! 勘違いを真っ赤になって否定する、ゆんゆんさんの愛らしい顔が見たかったのにっ!」

 セシリーの方も別に本気で言っていたわけでもないらしく、大げさな仕草で顔を覆ってみせる。

 なんだろう、アクシズ教徒というものは、逐一ふざけなければならない教義でもあるのだろうか。

 その一方で、めぐみんは小さく息をついてから、パンパンと手を打ち鳴らした。

「さあ、話を続けますよ。お姉さんの名前で宿を取り、ゆんゆん達がその部屋に当分引きこもっていれば、そうそう居場所がバレることはないでしょう。馬小屋の方は除外するとして、今ゆんゆんが使っている部屋は――――」

 と、一瞬セシリーの顔を見て、

「引き払ってもらいますか」

 考えを変えたように早口でまとめた。

 そんなめぐみんに対して、セシリーは真面目な顔で手を挙げる。

「普通に考えて、ゆんゆんさんの名前で取ってある部屋くらいは調べに来るでしょう。私の顔は見られてしまっているから、そこに私がいると面倒なことになるわ。かといって、一人で三つも四つも部屋を取るのは不自然というものね。というわけで、ここはゆんゆんさんの部屋をめぐみんさんが、めぐみんさんの部屋を私が使うのがベターだと思うの。ねえ、目つきの悪いスバルさんもそう思うでしょう?」

「さっきベッドに潜り込んでおいて、本人の前で堂々とよく言えるな!? あと目つきの悪いってのは大きなお世話だよ!」

 何故かこちらに求められた同意に、即座の否定で返す。するとセシリーは心外と言わんばかりの顔つきになり、みるみるうちに眉を釣り上げた。

「どうして!? こんなに論理的に説明したのになにが納得いかな…………ははーん、さてはこの美しい私の躰が目当てね。『部屋がこれしかない以上、年下の二人に一部屋ずつあてがうべきだ。だから年上の俺達は同じ部屋で我慢しよう』なんて言って、そのまま私の豊満な身体に卑猥なことを……! さてはあなた邪悪なるエリス教徒ね! 敬虔なるアクシズ教徒はそんな卑劣な手に屈しないわ! 覚悟しろやオラァッ!」

 言葉と共にスバルに飛びかかり、セシリーはそのまま首に掴みかかってくる。スバルは当然身を捩ってそれをかわし、その無駄に美しい両手を掴んでその動きを封じる――否、セシリーはそのまま押し切ろうとしてきた。

 単純な腕力ではスバルもそれなりに自信があるつもりだが、それでも気を抜くと押し込まれそうなのは、気迫の差だろうか。

「話が進まないのでお姉さんは黙っててください!」

 夢中になって攻め込むセシリー、それをめぐみんが後ろから膝カックン。そのままめぐみんは、バランスを崩したところを一気に羽交い締めにして押さえ込んだ。

 解放されたスバルは、やれやれと力を抜き、袖で額に浮いた汗を拭う。

「初対面でここまではっちゃけられたのは、いきなり体液飲ませてきた魔女以来だよ……」 

「えっ……ナツキさん、誰かのたいえ……その、飲んだんですか?」

 ふと漏れた本音を聞きとがめたゆんゆん。スバルに向けられたその視線は、驚愕と若干の恐怖に染まっている。

「ち、違う! 茶会だっていうから差し出されたカップを飲み干しただけで、俺にあの女の分泌物を飲みたがる趣味はねぇよ!」

 前の世界で、唯一スバルの悩みを聞いてくれた白髪の魔女の笑顔が頭に浮かぶ。

 個人的には決して嫌いではなかった、むしろ『魔女』であっても悪い奴じゃないと信用しつつあった相手だが、それとこれとは話が別だ。こんなところでおかしな性癖を持っていると誤解されるのは非常に困る。

「そんな変態と友だちだったのね? めぐみんさん、ゆんゆんさん。お姉さん、前にたかってた美少年から、こんなタメになることわざを聞いたことがあるわ。いわく、『類は友を呼ぶ』」

「そこ余計な茶々入れるの禁止な! ゆんゆんもちゃんと話を聞いて……おい、その変な目やめろよ!! 俺は悪くねぇ! 俺は悪くねぇ――!!」

 セシリーのことわざはこの世界にもあったのか、それともニュアンスでなんとなく意味が伝わったのか。ゆんゆんの視線に若干の軽蔑が混じったような気がして、心に突き刺さるような痛みが走り。

「はいはい、皆落ち着いてください! いい加減話を進めますよ!」

 そうやって、どんどん脱線していく流れに、めぐみんが事態の収集を図った。

 そうして三人の騒ぎを諌めためぐみんは、小さくため息をつく。

「はぁ……まったく、変わり者が多いと私のような常識人は苦労しますね」

「ねえ、今常識人っていった? 私の知る限り、めぐみんは意味もなく爆裂魔法を使う、かなりおかしい人だと思うんだけど」

 ゆんゆんがすかさずツッコミを入れるが、めぐみんは当然のように無視。今やるべきことをまとめていく。

「こほん。では明日、お姉さんは適当に変装して、三人分の宿泊先をここ以外の宿屋で確保してください。ゆんゆん達はタイミングを見て、そっちに移って身を隠しましょう。私は、ギルドあたりで例の拉致誘拐犯の動向を調べるとします。幸い、盗賊職には一応知り合いがいますから、そこからなにかつかめるかもしれません。貴族らしいクルセイダーの方は金髪碧眼で目立つので、情報も集まりやすいでしょう」

 めぐみんがそこまで続けたところで、スバルは片手を挙げた。

「狙われてるところを助けてくれるのは礼を言うよ。本気で助かった、ありがとな。……でも、それだけじゃ解決しないんだ。とりあえず、森の悪魔についてどういう状況になってるのか知っておきたい。それから……」

「ナツキさん、ナツキさん。そういうのはせめて移動してからの方が…………」

「――――っ、悪い。ちょっと焦ってたわ」

 ゆんゆんに諌められ、スバルは自分の願いを取り下げる。

 前回通りのタイミングならば、悪魔討伐に失敗するのも、エンシェントドラゴンが襲い掛かってきたのも、あと一週間はあるはずだ。情報を集めるにせよ、対策を練るにせよ、ゆんゆんの言うように身を隠してからでも遅くはない。

「めぐみんさん。宿を取ってきたら、今度はお姉さんのお願いも聞いてほしいの。アクア様にまつわる、とってもとっても大事なお話なんだけど……」

「聞くだけなら聞いてあげますよ、お願いを叶えてあげるかは別ですが」

 めぐみんはそうしてセシリーをいなすと、ひとりひとりの顔を見て、これ以上の意見がないことを確認する。

「では、もう遅いですし、今日はもう寝るとしましょうか」

「待ってくれ、一つ聞くのを忘れてた」

 最後のめぐみんの言葉で、大事なことに気づいたスバルは慌てて手を挙げる。

「今日は遅すぎて、駆け込みで宿を取ったらそれだけで目立つから取れない。それはわかる。じゃあ、今日はどこで寝るんだ? 特に俺」

 当然といえば当然の疑問である。

 基本的にスバルの寝床は、駆け出し冒険者の定番の宿、馬小屋だ。今夜もそんなバレバレのところでぐーすか寝ていれば、目が覚めたらまた教会で縛られている、ということにもなりかねない。

 つまり、使える部屋はめぐみんの部屋とゆんゆんの部屋の二部屋。

 かといって、男女同じ部屋というのも、あまりよくはないだろう。

 もちろん想い人のいるスバル的としては、たとえ同じ部屋で寝泊まりしても、何もおかしなことをするつもりはない。

 仲間のゆんゆんにそんな邪なことを考えるのはあまりにも失礼だし、ロリコンではないのでめぐみんと寝ても何とも思わない。セシリーは普通に嫌だ。

 かといって、『俺は気にしないから一緒に寝ようぜ!』といえるほどの図太い神経は持ち合わせているはずもないのだ。

「あらあらめぐみんさん、考えてみればそうよね! 追われてる二人がゆんゆんさんの部屋にいたら、色々まずいわよねバレちゃうわよね」

 スバルの言葉にセシリーは目を輝かせ、興奮気味かつ早口にめぐみんに擦り寄っていく。

「ここはやっぱり、私とめぐみんさんの二人が、ゆんゆんさんの部屋で泊まりましょう! ゆんゆんさん達はめぐみんさんの部屋で。なあに、二人はパーティを組んでるんだし、同じ部屋で寝泊まりした程度で間違いが起きるなら、どの道起きるわよ。お姉さん、あの目付きの悪い男の子を信じてるわ! さあめぐみんさん、お姉さんの胸の中で寝ましょうね!」

 訂正。目を輝かせているというより、欲望に目をギラつかせたという方が正しい。美女と美少女のふれあい、と言葉にすれば微笑ましいものか、目の保養になりそうな図を思い浮かべそうだが、片方が明らかな変態だとそんなプラスの感情は微塵も起きない。端的に言ってヤバい。

 めぐみんは、すっとセシリーの背中越しにアイコンタクトを送り。

「その問題ならば、簡単かつ完璧な解決方法がありますよ」

「何かしら? ああ、アクア様についてのお願いなら、今夜一緒に寝る時にゆっくりと語って……」

「『スリープ』」

 ばたん。くかー。

 セシリーの身体が崩れ落ちるように倒れ、そのまま眠りについた。

「めぐみん、これで良かった?」

「ええ、ありがとうございます、ゆんゆん。こういうときは空気が読めますね」

 下手人は(ワンド)を背中に仕舞い、依頼人は笑って倒れた標的を仰向けにする。

「と、いうわけであなた達はゆんゆんの部屋で寝てください。お姉さんにベッドを譲るか、お姉さんを床に転がすかはおまかせしますね」

「え、俺が? 図らずも、さっきキレられたのと同じ組み合わせになっちゃうけど、大丈夫かこれ」

「この状況下で手を出すのは、それこそ話にならないアホでしょう。どう考えても、私やゆんゆんがお姉さんと寝るほうが危険が大きいですから」

 そういって、仰向けになったセシリーへと視線を向ける。その寝顔は、なかなかに幸せそうなものがあった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 そして、深夜。眠りこけたセシリーをゆんゆんの部屋のベッドに運び、スバルは床に毛布で横になる。

 ああも選択権を委ねられては、スバルもレディーファースト的な精神で対応せざるを得なかった。

 部屋には外からゆんゆんが『ロック』――――施錠魔法をかけてある。

 解除するには同レベル以上の魔法使いでなければ難しいとのことだ。

『これで寝ている間に誰かが入ってくることはないでしょう。深夜にドアを破るような騒ぎは、さすがに向こうも差し控えるでしょうしね』とはめぐみんの弁。

 固い床に身体を横たえ、クッションを枕にして気づくのは、自身の自覚していなかった倦怠感だ。

 昼に森に入り、夜には突然の拉致監禁とそこからの脱出で、肉体の疲労はかなりたまっている。身体の汗は濡らした布で拭き取ったつもりだが、日本人としてはやはり入浴をしておきたいものだ。

 状況が状況だけに公衆浴場に行けない今は、なかなかに辛い。

 加えて、スバルの精神の疲労は肉体以上。拘束から逃れる際に、『見えざる手』――――未だに適切な名が思い浮かんでこない――――を使ったためか大きく精神をすり減らしている。

 この件についても、明日以降ゆんゆんに説明しなければなるまい。

 確実に外法の技、それも魂を削られるようなもの。説明自体難しいのだが、なんとか納得してもらうしかない。

「魂…………か」

 魂。

 この世界では、あらゆる生物が内に秘めているものであり、冒険者のレベルアップには強い関わりを持っているものらしい。

 生物の生命活動を停止させたり、その身を体内に吸収したりすることで、この魂の記憶の一部を吸収する。これこそが冒険者たちのレベルアップのシステムであり、モンスターを倒すだけで強くなる仕組みだ。

 スバルは冒険者ギルドでそう説明を受けた。

 『強欲の魔女』エキドナの言葉を思い出す。

 スバルの魂は、死の度に時間を逆行し、運命を変えるまでやり直しを強制されている、そう言っていた。

 『死に戻り』をこの世界に当てはめて考えるなら、スバルの肉体が死んだ瞬間、スバルの『魂の記憶』は他者に吸収される前に、時間を超えているのだろう。

「ま、だからって、吸収した他の魂まで連れていけるわけじゃないわな……」

 レベル1と刻まれた冒険者カードを見ながら、改めてスバルは基本的な情報を整理する。

 経験値――――つまり、スバルが倒したモンスターの魂の記憶の吸収とやらは、スバルの肉体の方へと依存しているのだろう。

 これが魂の方に依存していてくれたなら、『死に戻り』後に記憶と一緒に持ち越すようなことも期待できたのだが、そんな都合の良いことはできないらしい。

 まあ、スバルは低レベル故にレベルも上がりやすい。前回のループでは、ゆんゆんが弱らせたモンスターにちょっととどめを刺すだけで、どんどんレベルが上がったものだ。

 職業冒険者はどんなスキルでも覚えられるという。ステータスこそ低いものの、きっとこれは大きな利点になるだろう。

 クリスの存在で、大規模な協力要請が制限されてしまった以上、スバル自身の強化も重要になってくるのかもしれない。

 今度レベルが上がったら、いろんなスキルを試してみるべきか――――。

「ん?」

 と、そこまで考えた時。スバルは自分の冒険者カードの習得可能スキルの項目に、中級魔法の表示を見つけた。

 基本職業である『冒険者』は、人から教わって特定のスキルの使い方を知り、さらにそのスキルを実際に見ることで、自分もそれを修得可能となる。

 だが、今回のループは、ウサギからの逃走に、ギルドへの報告。そのまま酒場で食事をして、クリスに拉致られ、脱出後は宿に直行。

 ゆんゆんはほとんどずっと側にいたが、どう考えても、中級魔法(そんなもの)を教えてもらった覚えも時間もない。

 そう、中級魔法を教えてもらったのは――――

「まさか、前回の経験が反映されてる…………のか?」

 前回のループでは、森への全面的な出入りの禁止に加え、平原からモンスターがほとんどいなくなる事態で、まともな狩りができなかった。

 そのため、結構暇な時間ができてしまったスバルはトレーニングがてら、ゆんゆんから中級魔法を教わったのだ。

 もちろん、習得したわけではない。スキルポイントが圧倒的に足りなかったし、スバルの魔力ではゆんゆんの劣化にしかならないのだから、意味もない。

 だが、確かに教わったのだ。

 もしも、冒険者のスキル修得に必要な『教わる』という条件が、精神や魂を参照するものだったとすれば、この現象も頷ける。『使い方の理解』と『実際に行使される様子の記憶』だとするならば、

 『死に戻り』したスバルは、当然中級魔法の詠唱(つかいかた)を理解しているし、実際にスキルを使っているところも見ている。

 冒険者カードがスバルの記憶等を反映して、それを反映させた結果なのかもしれない。

 もちろん、レベルやスキルポイントが引き継がれるわけではない以上、これは時間の短縮程度の意味しか持たないのかもしれない。

 だが逆に言うなら、スキル教授の対価として、時間や資金をかけようとも、次のループでそれが生きてくるということになる。

「問題は、そこまで価値のあるスキルなんて、どれだけあるのかってことだけどな……」

 スバルが死ねばレベルはもちろん、スキルポイントも引き継げない。つまり、必要スキルポイントの多い、上位職のスキルは除外される。

 加えて、駆け出し冒険者の覚える大抵のスキルは、ギルドの訓練官が無償で教えてくれるのだ。

 つまりよほどレアなスキルでも教わらない限り、この発見に大した意味はないことになる。

 訓練官が知らないほどレアで、お手軽に覚えられ、かつ有用なスキルを、こんな駆け出し冒険者の街の人間が持っている。

「そんな都合のいいこと、あるわけがねえよな……」

 そうひとりごちて、スバルは目を閉じた。

 森の上位悪魔。

 スバルに疑いをかける女盗賊、クリス。

 スバルの真実を偽りに変える、嘘発見ベル。

 そして、おそらくは深い関わりがあるであろう、竜の彫像とエンシェントドラゴン。

 問題は山積みだ。

 クリスたちが本腰を入れてスバル達を探すなら、今回は動きが封じられたまま、情報収集の『捨て回』と割り切るしかないかもしれない。

 だが、幸いゆんゆんはどのループでも味方となっていてくれているし、ゆんゆんつながりでめぐみんやセシリーの協力も得られそうだ。

 大規模な協力要請ができなくとも、協力してくれる味方がいる。

 何度か周回すれば、きっと対応策の一つや二つ見えてくるだろう。

 目を閉じたまま思考を続けていたスバルはそこまでの結論を出して、そこに安心を得る。

 前向きな気持で、スバルはそのまま意識を夢の世界へと沈み込ませていった。

 窓の外、スバルがほとんど知らない空。

 スバルの知らない星が星団(すばる)を作り、地上のことなど関係ないと、素直にきらめき続けている。

 彼が心から安息を得て、星空について語れる日々は、まだ遠かった。



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11 『ひとりよがり』

「クソ、なんでこんなにエンシェントドラゴンの資料が少ないんだよ……伝説とか言ってたじゃねぇかよ……」

 若干の苛立ちとともに、以前の少女の言葉に毒づいた。資料を持った手に自然と力がこもり、紙に若干のシワが入る。スバルはゆっくりと机にそれを置くと、深く嘆息。服の胸のあたりに置かれたちょむすけは、その息を嫌がったのか、「なー」と不機嫌そうに鳴いた。

 ほとぼりが冷めるまで外に出られない。出るとすればセシリーが確保してくる宿への移動、それもクリスたちの動きを知った上でということになる。

 その間にスバルが求めたのは冒険書ギルドの資料だった。

 現在、スバルが最も警戒している相手、エンシェントドラゴンに対しての情報を得るためである。

 伝説の生物についてのもの、ドラゴンについてのもの、あるいは様々な魔法についてのもの。エンシェントドラゴンの対策につながりそうならば、とにかく手を付けていった。

 しかし、その結果はあまり芳しいとは言えない。資料の絶対数が予想外に足りないのだ。

 もちろん、出現した記録自体は残っているし、その際に起きたことも大まかにであるが記されている。

 が、肝心の弱点や、持っている能力などについてはあまりにも少ない。スバルが確認した偽装能力や、エンシェントドラゴンが使用した魔法すら載っていないのだ。

「少なくとも、人間たちの手で討伐されたって記録はあるんだよな」

 勇者と呼ばれる存在が神器を操り、その他冒険者たちの協力を得て撃破した、という記録はあるものの、時が経過すると再び世にその姿を見せるらしい。

「神の如き強さを誇る竜。それは最古の竜として、エンシェントドラゴンと呼ばれるようになった。彼は、いなくなってしまった主を探して戦い続け、力を失いし今もなお死と復活を繰り返している………」

 ゆんゆんが伝説にまつわる逸話を読み上げる。

 ある勇者に従い悪魔たちを滅ぼそうとしていた神の使いだの、逆に思い上がった罰として神に力を奪われただの、いや神によって殺されただの、うさんくさい話が多い。が、とにかく凄まじい力を持っていたため伝説になったというのは事実のようだ。

 それに比べて記録に残る、近年確認されたエンシェントドラゴンはドラゴンの範疇を超えていない――――といっても、ドラゴン自体が圧倒的な戦闘力を誇るのだが――――ため、別個体という説もあるらしい。

「死と復活を繰り返す、か。こっちにある、クーロンズヒュドラに近いタイプなのか?」

 スバルは別の、大物賞金首モンスターについての資料を手に取る。名称をはじめとして習性などの詳細な情報が、丁寧なイラストつきで書かれているものだ。

『アクセル近くの山に生息。魔力を使い果たすと湖の底で眠りにつき、周辺の大地から魔力を吸い上げ始め、おおよそ十年ほどの周期で魔力を蓄積させる。貯蔵した魔力での膨大な再生力のせいで、国の騎士団でも倒せない』

 と、記されている。エンシェントドラゴンがこれに近いタイプの可能性は考えられるだろう。

 スバルの推測はこうだ。

 何らかの理由で力を失ったエンシェントドラゴンは姿を隠し、眠りについて回復を待つ。

 眠りについた姿があの竜の彫像のようなもの。さらにあの周囲の空間を偽装する能力で透明になれば、誰も発見することなどできまい。

 これまで冒険者ギルドでも発見されていなかったのはそのためで、スバルたちが発見できたのは、何らかのアクシデントでは――――。

 そこまでスバルが考えたところで、じっとこちらの顔を見ているゆんゆんに気がついた。

 この反応にスバルは一瞬不思議がり、

「ああ、悪いなゆんゆん。ろくに説明もできないくせに、あれこれ付き合わさせてさ。俺もこう、もっとちゃんと説明できたらいいなって思うんだけどさ」

 クリスに捕まった際、成り行き上エンシェントドラゴン襲来を話さざるを得なかったが、自分はその根拠を何一つ提示できていないのだ。

 ゆんゆんから見れば、パーティメンバーが、『エンシェントドラゴンが来る、ソースは俺』などと言い出して、本気でそれを信じているということになる。

 人のいい彼女だからこそ黙って付き合ってくれたものの、理由の分からない脅威に、ひたすら唸り続けるスバルの姿は、不思議でならないだろう。

「いえ、私もめぐみんが戻ってくるまで暇ですし、それはいいんですけど……」

 ゆんゆんは一度言葉を濁し、視線をそこらにさまよわせる。

 そして、勇気を出すようにして言った。

「えっと――――ナツキさんは昨日のこと、大丈夫ですか?」

「…………?」

 ゆんゆんの言葉の意味がつかめず、スバルは訝しげな顔をする。

「大丈夫もなにも、ピンピンしてるよ。そりゃあ昨日は色々あったけど、あの程度で動けなくなるほどやわじゃないしな」

「えと…………いえ、その」

 問いに答え、スバルは笑顔を作って腕を回してみせるが、それを受けるゆんゆんの顔は浮かないままだ。

 彼女が求めていた答ではなかったという空気を感じ、ゆんゆんの意図がつかめずに首をひねる。

 そんなスバルに、彼女はおずおずと、

「そっちではなく、ですね。昨日あったことで、ショックとか受けてないですか?」

「ああ、そういうことか。大丈夫大丈夫、モンスターと戦おうって冒険者が、殺すって脅されたくらいでビビってなんていられ――――」

「相手はモンスターじゃ、ないんですよ?」

 そう、スバルの言葉を遮るように言って、ゆんゆんはスバルの目をまっすぐ見据えてきた。

「恥ずかしい話なんですけど。私は昨日の夜、なかなか眠れなかったんです。いきなりわけのわからない理由で拘束されて、ナツキさんが殺されそうになって。それもモンスターじゃなく、同じ人間に…………」

 そこで一度言葉を切り、自分を落ち着かせるように深く、深く呼吸をした。

「私、あの時は夢中でしたけど、終わってからはとにかく怖かったんです。知らない人が、いきなり私やナツキさんを殺しに来るかもしれない。そう思って……」

 そこで何かを言いかけて、思い直したように言葉を引っ込めた。

「……………………ごめんなさい。忘れてください、変なこと言って」

「いや、間違ってない。ありがとうな、ゆんゆん」

 変に踏み込むべきではないと思ったのか、言い淀んだ末に話を打ち切ろうとしたゆんゆんに、スバルが告げたのは心からの感謝だ。

 一撃ウサギに、エンシェントドラゴン。

 以前の周回、どちらにも果敢に挑んでいった彼女だが、恐怖心を抱かないわけがない。

 あくまで自分の中にある恐怖をねじふせる強い勇気を持てる、そんな人間というだけのこと。

 彼女がその勇気を持って、スバルを助けようとしてくれたことに、心からの感謝を抱く。

「なら、俺ももっと体張って頭回さねえとな……」

 資料から得られた情報は多くないが、少なくとも人の手で打倒できる存在と確かめられたのは大きい。

 残りの時間はめぐみん達の帰還を待って――――『そんなものを待っていてどうする』

「――――っ」

 妙に落ち着いた声が脳裏をよぎり、スバルの『待ち』を揺さぶった。

 待ってどうするなどと、待ってクリス達の動向を知り、そこから宿を移って今後の対策を練るに決まっている。

 スバル一人では見えない答えも、皆で思考すれば見えるかもしれない。ゆんゆんの持つ恐怖心を知った上で、説明の出来ない話に協力させるのは本意ではないが、そうすればきっと――――。

『毎回クリスに捕まるつもりか? そんな時間のロスをする意味はないだろう。元より、次回からは彼女に捕まらないよう立ち回るつもりだったはずだ。ならば、見つかってからのクリス達の動向、その優先度は低いだろう』

 それはスバル自身の内なる声。

 誰かに仕込まれたものではなく、頭の中の冷えた部分。正真正銘、スバル自身が感じているもの、己の迂闊さを戒める冷たい思考だ。

 確かに、この周回がいわゆる『捨て回』となることは、スバルもわかっていた。

 魔女の残り香をどこまで感じ取れるかは知らないが、クリスと直接顔を合わせなければ自分が臭いの発生源だと気づかれまい。

 このルートに入った時点で失敗。そう考えるならば、クリスの今後の動向を探っても意味は薄い。

 だからといって、どうしろというのか。

 簡単な話だ。めぐみんたちの帰還は無視して、もっと身体を張って情報を集めればいい。

 そこまで思考が至り、スバルの心臓が弾む。自分の右手を胸の上に置き、その鼓動を確認する。

 今の思考は、自分に協力してくれている彼女たちへの裏切りだ。

 スバルの巻き添えで恐怖を抱かせたゆんゆんも、何の義理もないのに手を貸してくれているめぐみんやセシリーも裏切る、唾棄すべき行為だ。

『――――そうやって、また死体の山を築くのか』

 冷たい思考がスバルの躊躇を殴りつける。

『あの世界を救えなかった自分をまた繰り返すのか』

 何一つ手の内からこぼせない、全てを救おうとしているような欲張りな自分に、手段を選ぶ贅沢などあるのか。

 スバルの胸の中で、ちょむすけが小さな鳴き声をあげる。スバルから離れたがっている様子を感じ取り、そのままちょむすけを解放した。

 続いて、広げてあった資料をかき集め、端をトントンと揃えてひとまとめにする。

 決意はできた。いや、できなくても、しなければならないのだ。

 超えるべき障害を見極めて、クリアする条件を明確にして、最善の行動で対処するために。

 最悪の未来を想定し、最良の未来を掴み取るために。

「ゆんゆん、ちょっと休憩な。俺、これから席外すわ」

「えっ」

 資料を片付けて、ちょむすけを解放したスバルはゆんゆんに告げる。彼女は小さく驚きの声をあげた後、おずおずと言葉を継いだ。

「え、と……。ナツキさん、外は危ないと思いますよ? めぐみんが戻ってくるまで待ってたほうがいいんじゃ……」

「いや、ちょっと用を足してくるだけだ。長くなるかもしれないけど、気にしないでくれ」

「あ、ナツキさ――」

 スバルはゆんゆんの返事を待たず、部屋を出る。そして宣言通りトイレの方へと――――向かうことはない。目的地は全く別の場所だ。

 上等な宿とはいえ、当然防音ではない。ドアの向こうに聞こえないよう、足音を殺して階段を降り、そっと外に出た。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「ナツキさん…………」

 トイレに行くと言い捨てて、そのまま出ていったスバルにゆんゆんは嘆息する。

 一人で調べ物の続きをしようとも思ったが、すでに資料には概ね目を通してあるし、何よりスバルがどう判断するかよくわからない。

 どうやらスバル自身には不思議な確信があるらしく、時々断定してものを語ることがある。

 エンシェントドラゴンの出現を断言していることがまずそうだし、それ以外にも、ゆんゆんが『記録からこのドラゴンが魔法を使う可能性は低い』と推論しても、どこか否定的な態度だった。

 変に推論を進めて思い込みを作らないほうがいいのかもしれない。スバルも広げてあった資料を片付けたほどだし、休憩とはっきり言っていた。少し無関係なことをしていても、文句は言うまい。

 そう判断して、資料の中から一冊の絵本を手に取った。

 それはエンシェントドラゴンとは何の関係もない、ひとつのお伽噺だ。今朝、急遽めぐみんが適当に集めた資料の中に混じっていたらしい。あまりにも有名な、おそらくは誰でも知っている絵本は、ゆんゆんも何度も読んだことがある。

 ゆんゆんは童心に帰るつもりで、その絵本をパラパラとめくった。

 それは、一人の少年の物語。

 天才と呼ばれ、誰よりも強く、誰も寄せ付けず、猛り狂うように戦い続けた勇者の物語。

 少年は魔物を倒し、悪魔を倒し、魔王の手先を倒し。結局、最後まで一人で駆け抜けた。

 だがゆんゆんは、孤独な勇者はきっと一人でなんていたくなかったんだと思っている。

 きっと、誘いをかけてきた冒険者達を拒絶したことを、後悔していて。

 もう一度誘いをかけられたらどうしようか、今度はちゃんと手を取れるだろうか。そんなことばかり考えていたのだろう。

 だからこそ、魔王の幹部に誘いをかけられた時、ずっと悩み続けたのだ。

 命がけで無謀な戦いに出る配下がいる、そんな魔王が羨ましくて仕方なかったはずだ。

 最後には彼自身が魔王となってしまうほどに。

「私は、こうなりたくないな……」

 自然とその言葉が唇から滑り出る。

 強くなりたい。強くなって、自分の認めた天才に勝利したい。

 そしてめぐみんに認められる、最高のライバルでありたい。それはゆんゆんの偽りなき本音だ。

 だが、そのために孤独な魔女でいたくはなかった。

 スバルの言っていることが心から信じられなくとも、自分と共にいてくれる彼を支えたい、そう思う。

「二人共、聞いてください!」

 ゆんゆんが絵本を置いた時、部屋の扉を開き、めぐみんが急ぎ飛び込んでくる。

 その紅い瞳にはわずかな焦燥を帯びており、それを見たゆんゆんも自然と腰を浮かした。

 めぐみんは部屋を見回して、ゆんゆん一人しか残っていないことに気づき、怪訝そうな目つきをする。

「姿が見えないようですが、あの男は?」

「ナツキさんなら、お手洗いに行ってるわ。それより何があったの?」

 めぐみんは被っている帽子を脱ぎつつ、そのまま滑らかに舌を動かして話し始める。

「ええ、犯人と思しき女盗賊とクルセイダーの二人組が、森の中に悪魔討伐へと向かっていったそうです」

「たった二人で!? そんな、本当なの!?」

 悪魔相手にたった二人というその無謀さに、驚愕の声を上げるゆんゆん。

 彼女自身、未だ半人前とはいえ紅魔族。そこらの魔法使いには負けない自信があるし、自分の魔法を耐えたあのクルセイダーは相当な実力の持ち主というのはわかる。おそらく、仲間の盗賊もかなりの腕前なのだろう。

 だがそれを差し引いても、上位悪魔を倒すには厳しいと言わざるをえない。上位悪魔アーネスと対峙した実感では、それこそ一人前の紅魔族を何人も集めるか、悪魔祓いのエキスパートであるアークプリーストでも連れてこなければならないだろう。

 ゆんゆんの驚きに対してめぐみんは首を縦に振り、

「ええ、間違いありません。罠の可能性を考慮して、複数の情報源から話を聞きましたが確実です。そもそもその二人、ゆんゆんたちをあまり探してはいないようですね。テレポート屋で、利用者についての聞き込みをした程度のようです」

 あのクリスという少女は、悪魔というものに対してかなりの憎しみと執着を見せていた。だからこそ、森の悪魔を倒そうというのだろうが、スバルがその間に逃げるのはそれはそれで困るのではないだろうか。

 数瞬、何故という思考がゆんゆんの頭をめぐるが、すぐに合点がいく。

「……向こうの立場で考えてみれば、今向かうのは当然なのかも」

 そうつぶやき、ゆんゆんは柔らかそうな唇から人差し指を離して口を開く。

「向こうはナツキさんが悪魔なのだと思い込んでるみたいだったけど、どのみちすぐに捕まった時点で、戦闘力が低いというのは明白よね。とすると『ナツキさんの目的は、人間になりかわってなんらかの搦手をしかけること』と想定するはずよ。事実、そんなことを言ってたし」

 スバルは先走った襲撃を止めようとしていたという事実もある。クリスがそう考える可能性は高い。

「なるほど。その搦手は『正体がバレる』ことで不可能になったと。となれば、普通はさっさとテレポートで逃げるか、森の悪魔と合流するかといった手になりますね。どの道雑魚を探すより、さっさと森の悪魔を倒した方が効率的ということですか」

 ゆんゆんの推測をすぐに理解しためぐみんが、その先を引き継いで結論付ける。

「勝てる勝てないは別にして、やるしかないって考えたのかもね」

「当然負ける可能性は考えているでしょうし、撤退の算段もつけてあると考えていいでしょう。なら、向こうの出発時刻から逆算すると、それほど時間の余裕はないですね。すぐに荷物をまとめて…………いえ、ほとんどはもうまとめていますか」

 ゆんゆんもスバルも冒険者、それほど余計な荷物は多くない――ボードゲームなどの諸々は、ゆんゆんにとっては友達と遊ぶために必要な荷物である――ため、

 めぐみんはスバルが置いていったちょむすけを頭の上に乗せ、その上から帽子をかぶる。

 そしてゆんゆんに顔を向けると、

「トイレに行っているというお仲間を呼んできてください。あまりゆっくりしていたくはないもので、急かした方がいいでしょう」

「わ、私が? トイレに入ってる男の人急かすのって、抵抗あるんだけど……」

「私だって嫌ですよ。ほら、仲間なんでしょう。冒険者は長丁場のクエストになれば、もっと色々恥ずかしい状況になるんですから、これも修行です。ほら、早く」

 そういってめぐみんは、躊躇するゆんゆんの背を押して、廊下へと押し出した。

「もう……………………」

 強引なライバルに小さく溜息をつくと、ゆんゆんは歩きだし、使用中のトイレを遠慮がちにノックした。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 一歩一歩、光景を確かめるようにして、冒険者達によって踏み固められた道を進んでいく。

 相変わらず木々は鬱蒼と生い茂り、地面も歩きやすいとは言えないが、それでも前回よりはマシに思えた。

 行きで通るのは二度目だからというのもあるのだろうが、それだけではない。

 よくよく観察すると、一部の草が乱暴に刃物で切られたような跡がある。それは森の奥のほうまで続いており、逆に横道にそれるように視線をずらすと、背丈の高い草が目に映った。

 スバルとゆんゆんの帰還後、誰かが通ったのかもしれない。おそらく、誰かが森の奥を目指し、邪魔な草を乱暴に切り払いながら進んだのだろう。

「まあ、それは割とどうでもいいか……」

 向かう場所は、この道を超えた先で見た、竜の彫像だ。

 客観的に見れば、これは愚行としか言えない。今頃ゆんゆんもめぐみんも呆れ返っているだろう、とスバルは自分の行為を理解していた。

 本来ならば、めぐみんやセシリーを待って情報を得る。そして宿を移り、安全を確保してから、そこでゆっくりと今後の対策を練るべきなのはわかりきっている。

 だからこそゆんゆんも、スバルの言葉を疑うことなく見送ったのだろう。

 だが、主観的に見れば違う。今回のクリアを目指すという前提さえ外してしまえば、クリスたちの動向を知るよりも優先すべき事柄がある。

 ひとつひとつやっていこう。今はとにかく情報だ。

 今必要なことを整理する。

 冒険者ギルドですでに共有されている脅威、森の悪魔については一旦後回し。スバルが最優先するべきはエンシェントドラゴンの方だ。

 こちらについて、まず考えられる対策の一つ目は、客観的かつ絶対的な証拠を提示すること。それこそ、クリスすら納得せざるを得ないほどの、絶対的な証拠を提示する方法だ。

 だが、こちらは難しいだろう。資料を探してもらってきても、そんな手がかりは見いだせなかった。

 ゆんゆんも、これまでその資料を見てきた人たちも、誰も手がかりを見つけられなかったのだ。何らかの法則を見つけるのは至難の業といっていいだろう。

「せめて、この世界でもエキドナがいてくれたらな……」

 黒を纏った白髪の少女の姿を思い浮かべる。スバルに親身になってくれて、スバルの知る全てを受け止めてくれたあの魔女ならば何かわかったのかもしれない。

 だが、ここは異世界。いない彼女を頼っても仕方のないことだ。

 証拠提示策は一旦保留とし、意識を切り替える。

 そして対策の二つ目。あの竜の彫像を調査、あるいは破壊することだ。

 ギルドの調査で発見できなかった以上、スバルたちが離れた後に、あの彫像は行方をくらませていると考えたほうがいいのだろう。

 だが、問題はそのタイミングだ。

 本日は『死に戻り』してからの翌日。今すぐ森に飛び込めば像が見つかるのなら、次周回にでもクリスを避けつつめぐみんを連れてきて、爆裂魔法で消し飛ばしてもらうなどの手段が試せる。

 竜の彫像がただの像なら無意味な行動だが、今周回最初のおかしな現象を見る限りその可能性は低い。状況の打破のため、十分試す価値があるだろう。

 どの道、今回は行動が大幅に制限されることが見えている捨て回だ。ならば、なるべく有効活用したほうがいい。

 情報が足りないなら、スバルが体を張って集めればいいのだ。どんな危険も度外視できる、自分のメリットを生かさなくてどうするのか。

 この前提条件となる像の有無を確認すれば、たとえ死んでも有益な結果になるだろう。

「前もなんやかんやであのウサギに会うまでモンスターには会わなかったしな。場所ははっきりとは覚えてねえけど、方向感覚にはそれなりに自信がある。行きに一度、帰りは二度も通ってるんだから、なんとか辿り着けるだろ……」

 スバルはそうつぶやいて、まとわりつく冷たい空気を肌に感じながら、歩き続けた。翠の海の中、変なものを踏まないように足元に注意して、足を進めていく。

 やがて目に映ったのは、地面に落ちた白っぽい欠片だ。拾い上げてみると、それは魚の骨のような感じに見える。

「これ、ひょっとしてあの時の……?」

 最初の周回、セーブポイントより前に、ゆんゆんがシャケの切り身を投げたことを思い出した。

 走るちょむすけを捕らえるために、エサを投げて足止めに使ったそれと見て、間違いないだろう。

「食べ残しが落ちてるってことは、ここが目的地ってわけか……」

 そうつぶやいて、スバルは自然と顔を上げる。

 スバルの期待通りならば、ここで見えるのは竜の彫像の変わらぬ姿のはずだ。

 当然全てが期待通りに行くとは思っていない。むしろ逆、これまでスバルの前には最悪の運命が用意されてきた。

 故に、スバルは二つの悪い可能性を考える。

 可能性の一つとしては、像がすでにないというもの。この時期にすでに移動済ならば、例えクリスたちに捕まらなくとも、めぐみんの魔力回復のタイミングからして破壊を目指すのは難しい。

 もうひとつの可能性としては、ちょうどドラゴンが眠りから目覚めていて、それに気づかぬままスバルが死体になる可能性だ。

 どちらも覚悟した上で顔を上げ――――そこでスバルの視線は、自然と無機質な目とぶつかった。

 無機質な瞳を持ち、竜とは全く違うフォルムを持った存在がいた。

 金属のような光沢を放つ、漆黒の体躯。コウモリのような質感を持ちつつも、比較にならぬ巨大な羽。

 無機質な瞳に、禍々しく生えそろった牙と角。

「よう、ちょっといいか? 俺様は上位悪魔のホーストってもんだが……聞きたいことがあってよ」

 一周目の惨劇を生み出す一因となった上位悪魔が、そこにいた。




遅くなって申し訳ないです。


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12 『森の悪魔』

 ――時間は少し遡る。

 

 ゆんゆんやめぐみんの部屋のある宿、その廊下に設置されている男女共用のトイレ。その中で使用中となっている個室はたった一つ。スバルが帰ってきていない以上、必然的にここにスバルがいる。

 そう判断したゆんゆんは、ゆっくりと扉を叩く。少女の小さな拳と木製の扉が衝突し、シンプルで均質な音が空間に鳴り響いた。

「その…………すみません、ナツキさん。申し訳ないと思うんですけど、そろそろ出ていただけませんか?」

 返事がない。だが、扉を叩く音で驚いたような気配を感じたし、誰かが中にいることは明白だ。

 ゆんゆんとしても相手を急かすような真似を、それも用を足している異性にしたくはない。

 だが、事が事だ。今の機を逃してしまうと、次に移動できるチャンスがいつになるかわからない。

 ためらいを振り切り、再度、繰り返すように扉を叩く。

「ナツキさん、お取り込み中すみません。その、私もこんな時に声かけるのはアレかと思ったんですけど、ちょっと時間がないようなので、急ぎの用事があるんです」

 返事がない。

 スバルを怒らせてしまっただろうか。嫌われてしまったらどうしよう。

 心中を絶え間なくを焦燥が渦巻くものの、ここまでやってしまったら今更である。出てきてもらった後に、素直にごめんなさいするしかあるまい。

「その、返事だけでもお願いします。あの、もしもーし!」

 そう決意して扉を三度叩き始めた時、突然扉が開いた。

「あーもう、うるさーい! 人が取り込んでるんだから、急かさないで欲しいんですけど!」

 水色の髪を振り乱し、女性が開いた扉の中から姿を見せた。

 淡い紫色の衣に包んだ身体、その胴体は女性として見惚れるようなボディラインを描き、そこからは均整の取れた手足がすらりと伸びている。 

 神に授けられたのか悪魔と取引したのか、目鼻立ちは整うを通り越して、もはや人間離れした美貌を持っていた。

 その水色の瞳を恨めしそう向けられて、慌ててゆんゆんは己の失礼さに気づいて頭を下げた。

「ご、ごめんなさい! てっきり知り合いが入っているものだと思っていたので、まさか無関係のお姉さんが用を足していたなんて知らなかったんです」

「女神はトイレなんて行かないけどね! ただトイレ掃除してただけよ!」

「め、女神……?」

 意味不明な言葉を聞き、ゆんゆんの頭はさらに混乱の境地に至る。確かに女神という言葉が似合うほどの美貌の持ち主だが、比喩的表現だろうか。まさか、自分を女神と思いこんでいるわけでもあるまい。

 ゆんゆんの驚愕を見たその自称女神は、自分がおかしなことを言ったことに気づいたのか。狼狽の表情を浮かべて、

「こほん、間違えたわ。私は通りすがりのアークプリーストよ。こんなところに女神なんているわけないからね。でもほら、トイレの汚れとか、そういうの気になる性質だから掃除してたの。ほんと、それだけだから!」

 それだけ言うと、女性はそのままゆんゆんの前から去っていった。

 少しの間ぽかんと口を開いたままその姿を呆然と見送るゆんゆんだが、すぐに意識を切り替える。念のため未使用状態のトイレも確認してみるが、当然そこにもスバルの姿は見当たらない。

 ――たった一人で外に出た。

 スバルの取った行動に気づき、何故と疑問を抱く。

 スバルが何を考えてそんなことをしたのかはわからない。だが、ろくな結果にならないことだけは想像ができる。

 瞬間、身体中に戦慄が駆け巡り、全身の肌に粟が生じるのを感じて。

 嫌な予感に心が騒ぎ立ち、その衝動のままに即座に部屋まで駆け戻り、部屋で待っていためぐみんに声をかけた。

「めぐみん! ナツキさんがいないの!」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「な――――――――」

 意識の隙間を縫うように、不意打ち気味に登場した悪魔を見て、スバルは絶句する。

 無機質な瞳には、特別な感情――――以前見た時の、あの燃えるような怒りは見られない。

 漆黒の肉体にはところどころ浅い傷がついており、つい先程まで戦闘していたようなことが窺える。

 スバルの視線に気がついたらしく、上位悪魔――――ホーストは「ああ、この傷か」とつぶやいてから、大きくため息をつく。

「さっきおかしな二人組に襲われてなあ。アホみたいに硬いクルセイダーと、殺意満々で襲い掛かってくる女盗賊っていうヤバい奴らだ」

 クリス同様、スバルに漂う魔女の残り香を嗅ぎ取っているのか。スバルを自分と同類だと勘違いしたらしいホーストは、親しげに話しかけてくる。

「とりあえずやられた分くらいは返してやろうと思ってテレポートで分断したら、さっさと逃げられてな。お前も気をつけろよ?」

 そう言って牙を剥き出しにして口角を上げる。おそらく笑顔――なのだろう。無機質な瞳からは感情が読みづらく、その笑顔が友好的なものなのか、別のものなのかすらわからない。

 以前のような強い怒りの感情こそ見せていないが、だからと言って安全とは言い切れなかった。

 事実、スバルの中にある危険警戒センサー――――幾度となく重ねてきた『死』によって培われた嗅覚が、目の前の悪魔に強い警鐘を鳴らしている。

「むしろ今出会えたことは、僥倖と考えるべきなのかもな……」

 ホーストの背後には木々などが見えるばかりで、目的であった竜の彫像が見えない。

 最低限の確認はできたと考えよう。

 可能であるならば、本当にそこにいないのか、それとも不可視状態のままそこにいるのかを確認しておきたかったが、今はその余裕はない。

 ならば今スバルが関心を持つべきなのは、目の前の悪魔にある。

 この悪魔の目的は何なのか。

 対話が可能であるならば、それを掴み、交渉に結びつけることもできるかもしれない。友好的な関係を築けば、この死のループを抜け出す重要な戦力になりうる。

 そう思索するスバルをよそに、ホーストは自分の傷を撫で付けると

「で、聞きたいことってのはだな。そんな感じの女の盗賊は見なかったか? 銀髪で、胸のあたりが子供(ガキ)みたいな感じなんだが」

「いや……知らねえ。少なくとも今日は見てねえよ」

「そうか。……ったくこっちは友好的に、かなり大人しくしてたってのにな。あいつらにつけられたこの傷の腹いせに、ちょっと向こうの街でも襲ってこようってところだ」

 訂正。

 一見親しげな悪魔だからといって、人間の味方というほど都合の良いものでもないらしい。

 まあ、向こうからしてみれば『こっちはいきなり襲われたのに、何で友好的な態度を続けてやらなければいけないのだ』という話なのかもしれない。

 だが、襲った冒険者――おそらくは先走ったクリス達――だけならまだしも、無関係な街の人々まで襲うというのなら、スバルとしても看過はできない。

 この悪魔を止める必要がある。

 否、正確に言うならば、今後この悪魔を止める手段を探る必要がある。

 さっきこの悪魔はこう言っていた。『自分は友好的にしていた、大人しくしていた』と。

 そもそも、何故友好的な態度を取る必要がある。

 アクセルの人間と協力関係を結びたい、という線はない。それならば報復での襲撃はしないだろうし、そもそも何のコンタクトもなく狩り場の森に居座っているだけで協力どころか大迷惑だ。

 つまり他の目的がある。例えば、アクセルかその近くで探している何かがあるというようなものが。

 スバルの思考、それが一周目のループの記憶と線を結んだ。

「――――ウォルバク様とやら、か?」

 知らず知らずのうちに、スバルの口から放たれたその言葉に、ホーストは劇的な反応を見せた。

 去りかけていた姿勢を一瞬で変化させ、そのままスバルとの距離を一息で詰めると、

「お前、ウォルバク様を知ってるのか?」

 そう言って、スバルの黒瞳を覗き込んできた。

 ――ウォルバク。

 それは、この悪魔が最初の周回で叫んでいた名で。その叫びは、スバルが命を奪った初心者殺しに対して向けられていたはずだ。

 やはり、あの初心者殺しがこの悪魔の目的なのだろうか。それならば、早期に捕獲して引き渡す計画を立てれば、この悪魔の目的も解決するかもしれない。

 悪魔がいなくなれば、その後の状況は大きく好転する可能性も高いだろう。

 そこまで思案したところで、目の前のホーストの表情が変わる。

「んん? 傷の痛みでわからなかったが、お前…………ひょっとして人間か? かなり臭いが強いが、そうだよな。それに、混じってるこれは……」

 スバルの正体をあっさりと看破したホーストは、スバルの肩をガッシリと握りしめ、そのまま胸のあたりに顔を近づけると、スンスンと臭いを嗅ぎ始めた。

 ホーストからすれば軽く握っているつもりなのかもしれないが、スバルにしてみればかなり痛い。その腕の力強さに、以前一撃でのされた記憶が蘇る。

「…………やっぱりお前、ウォルバク様の匂いが混じってるじゃねえか。なあ人間、お前ウォルバク様とどこで会った?」

 …………………………。

「………………何? 誰の匂いだって?」

「ウォルバク様だよ、ウォルバク様。見た目は……そうだな、でっかくて黒い魔獣だよ」

 匂いと聞いて、一瞬『ウォルバク様=嫉妬の魔女説』が頭をよぎるが、それはホーストの言葉ですぐに否定された。

 スバルの前に一度顕現した嫉妬の魔女は、闇色のドレスを纏った人型の黒い影であり、『でっかい魔獣』という言葉はあてはまらない。

「…………黒くて巨大な魔獣? 初心者殺しなんて知らねえよ。それこそ俺に聞くより、この森をくまなく探した方がいいんじゃねえのか? 俺には、そんなモンスターを飼う趣味はないんだぜ」

「おいおい、とぼけたこと言うんじゃねえよ。こんなにウォルバク様の匂いをさせておいて。名前まで呼んでおいてよう。大体、ウォルバク様は初心者殺しじゃねえよ」

「はぁ!?」

 当たり前のように前提を覆すホーストに、スバルは瞠目する。

 あの初心者殺しこそが”ウォルバク様”ではなかったのか。それとも、外見がそっくりな相手をスバルが初心者殺しと間違えていたのか。

 大体、スバルからそいつの匂いがするとはどういうことだ。

 仮に『初回ループの初心者殺し』が”ウォルバク様”だったとしても、スバルはあれ以降やつと出くわしてはいない。

 ならば、スバルは知らないうちに黒い魔獣とやらに出会って、気づかぬうちに匂いをつけられたことになる。

「知らねえよ、そんなこと……何がどうなってんだよ……」

 嫉妬の魔女といいそいつといい、一体スバルの何が気に入ったというのか。

 混乱しながらも情報を整理しようとするが、徐々に肩にかけられた圧力が強まっていることを感じ取り、それを一度中断。

 見ると、目の前のホーストの手に、自然と力が入っているのが瞳に映った。

「待てよ。ウォルバク様の匂いはあの方に会ってつけられたんだろうが、その名前をどこで聞きやがったんだ?」

 ホーストはブツブツと何か考え込んでいたかと思うと、ふとスバルに問いかけた。

「…………どこぞの悪魔が親切にも教えてくれたんだよ」

 一瞬誤魔化そうかとも思ったが、そんなことをしても大した意味はないだろう。スバルは投げやりに話す。

 ここからどうすれば、この悪魔から有益な情報を引き出せるのか。

「なるほどなぁ。アーネスと会ったのか。まさか、あいつを殺ったのもお前か?」

 唐突に出た、知らない名前。おそらくは、この悪魔の仲間といったところだろう。

 口車に乗せて乗り切るか、このまま死か。力のない自分には選択肢が少なく、さらに適切な選択肢がどれかわからない。

 自分の弱さと頭の悪さを嘆きながらも選んだのは、

「さあな。当人の名前なんて聞いてないからな」

 悪魔の言葉を遠回しに肯定すること。

 それを聞いて、ホーストの腕の力がさらに増していく。

「なるほど……なら、うかうかしていられねえ。どんな手を使ったか知らねえが、何を隠し持ってるかわからねえ奴はやっかいだ。ウォルバク様にまで手を下されたらたまったもんじゃねえからな」

 大切な存在の危機を感じ取ったのか、静かな口調ながらも怒りの色が強まっていった。

 肩を通り越して首が、呼吸器官が圧迫される。自分を容易く蹂躙できるその力を感じ取り、身体が反射的に竦み、同時に手の中の汗腺がフル稼働して、びっしょりと肌を濡らした。

 来るのならば、来ればいい。

 数秒後の死を予感して、それでもスバルは相手を見る。

 だがホーストはしばらく待っても攻撃を加えようとはせず。代わりに、スバルに向けて、はっきりとした声で言った。

「いいか、ウォルバク様を連れてこい。わからないなら、とにかくこれまで触れた奴を片っ端から連れてこい。ウォルバク様を素直に引き渡せば、お前やあの街に危害を加えたりしねえ」

 その言葉とともに、アクセルの方向を顎で指す。

 これは言い換えると、要求に従わなければスバルはもちろんのこと、あの街にも被害が及ぶという意味である。その際に起こる街の被害が、スバルがこれまで見てきた地獄と比べて、そう差のないものになることは想像に難くなかった。

 だが、危険を犯して得たものもある。

 おそらく要求は譲らないのだろうし、必要ならば襲ってくるのだろうが、それでもここまでやってもスバルが生存してるという事実は大きい。

 それほど積極的な敵対をしてこない相手ならば。”ウォルバク様”とやらを引き渡すという選択肢が取れたなら、この悪魔は去るのではないだろうか。

 もちろん、スバルの知る限りそれらしい相手など一度も会っていないのだから引き渡しようはないのだが、そこは試行回数との勝負だ。巨大な黒い魔獣という、わかりやすい特徴もある。探し続ければ、きっといずれ見つかるだろう。

 沈黙するスバルに対して、ホーストは念押しする。

「いいか、わかったな?」

 そう言って、脅しつけるように首に対しての力を強く込めた。

 その瞬間。

「『ブレード・オブ・ウインド』ォッ!」

 その言葉と共に、風の刃が空気を切り裂き、ホーストの丸太のような腕に一筋の傷をつけた。

「んん?」

 その攻撃に、ホーストが向けた視線の先には。

「な、ナツキさんから手を離して!」

 ワンドを握りしめた、少女の姿があった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 心の怯えを封じ込め、片っ端からかき集めた勇気を胸に、ゆんゆんは悪魔と対峙する。

 悪魔は自分の言葉など意にも介していないのか。顔こそこちらに向けたが、未だにスバルの肩から首にかけて握ったままであり、離す様子が見えない。

 同じようにこちらを見てきているスバルは、呆然とした表情を見せていた。

 宿を去ったスバルの行き先を追うのは簡単だった。

 彼は特に隠す様子もなく、堂々とまっすぐ森へ進んでいたのだ。わからないはずもない。

 自分がスバルの不在に気付かないと思ったのか。それとも、森に入れば追ってこないと考えたのだろうか。いずれにせよ、後でお説教しなければならない。

 もちろん、その『後』を守りきれたらの話だが。

「『クリエイト・アースゴーレム』!」

 その叫びと同時、ゆんゆんは地面に手をついた。

 詠唱にアレンジを加えることで効果に変化を及ぼしたそれは、スバルと悪魔を強引に分断するように、大地を隆起させる。

「ちっ!」

 悪魔はとっさにスバルから手を離し、その腕を振るって生成中のゴーレムを力任せに破壊した。

 大した戦闘力だ。強力なモンスターが跋扈する紅魔の里にも、これだけの力を持ったモンスターはいるまい。

「紅魔族、だと? …………ウォルバク様の封印があったのは紅魔の里だから……そうか、そういうことか!」

 何やら一人で納得している悪魔から視線を切ることなく、ゆんゆんはワンドを向けながら考えをめぐらしていく。

 たった今、この悪魔の出した”ウォルバク”という名には聞き覚えがある。確か、以前出会った女悪魔のアーネスが何度も口にしていた名前だったはずだ。

 つまり、この悪魔の狙いはアーネスと同じ、めぐみんの(一応)使い魔ことちょむすけだ。

「『ライトニング』!」

「『カースド・ライトニング』!」

 そう叫んで放った一条の雷撃を、闇色の雷撃が迎撃する。

 ライトニングの上位に当たる上級魔法。

 悪魔の放ったそれは、ゆんゆんの雷撃を一蹴し、とっさに放したワンドに直撃した。

「頭は冷えたか? いいか、俺様は紅魔族とはあんまりやり合いたくねえんだ。……それであのガキンチョがどう怒るかわかったもんじゃねえしな。さっきあっちの男と話してたことは聞いてたか? ウォルバク様を素直に引き渡せば、お前らにもあの街にも危害を加えたりしねえよ」

 そう言って、ゆんゆんの紅い瞳を覗き込んでくる悪魔。

 だが、ちょむすけを引き渡すことはできない。あの猫を見捨てるには、ゆんゆんは情が移りすぎてしまった。

 口先だけ頷いてこの場を乗り切ったとしても、いずれこの悪魔は必ず追ってくる。

 ちょむすけの飼い主のめぐみんが。

 危なっかしい、とても大切な友達が。

 関わりがあると気づかれたスバルが。

 とても危うい、大切な友達になれるかもしれない人が。

 必ずこの悪魔に狙われる。

「絶対に、させない――――んむっ!?」

 なおも悪魔を睨みつけ、更なる呪文を詠唱しようとした刹那、その口を硬い手で塞がれる。

 人間、それも駆け出しの後衛職が、上位悪魔の手を力づくで引きはがせるわけがない。

 どうにも、ならないのか。

 小さく開いた紅い瞳に涙が溜まる。

「落ち着いて冷静に考えてみろよ。俺様だって、ウォルバク様を取って食おうってわけじゃねえ、むしろ丁重に扱うつもりだ。当然だけどな」

 頭が悔しさでいっぱいになり、悪魔の言葉もあまり聞こえない。

 目の端にスバルの姿が映る。

「今この状況下で、皆が幸せになるにはどうすりゃいいか、わかるだろう?」

 悪魔がそう言った、その直後。

「うん、キミが滅んじゃうことだと思うよ」

 その言葉とともに、悪魔の胸から刃が飛び出してきた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「なっ――――!」

 ゆんゆんがあっさり敗北するのを見ながらも何もできず、自らの無力を呪っていたスバル。

 その眼前に銀髪の少女――――クリスが突如として出現した。

 何の気配も前触れもない、完全な奇襲。おそらく、一度敗走してから盗賊の『潜伏』スキルで身を隠し、逆襲の機会を窺っていたのだろう。ホーストの背中から胸へと両刃剣(ダガー)の刃を突き通した彼女は、小さくも凄みのある笑みを浮かべ、

「『バインド』!」

 スキルの言葉と共に放たれたのは、鈍色の輝く細い糸。クリスの声に従うように動き出した鋼線(ワイヤー)、いつかスバルも見たそれは弓矢を想起させる速度で放たれる。

「テメエか! クソ、邪魔してんじゃねえよ!」

 ワイヤーは毒づくホーストの強固な肉体に、蛇のように巻き付き、その動きを拘束しようと締め付けていく。

 元々強力なモンスターを拘束するための特殊なワイヤーだ。何の効果もないということはあるまい。

 そこに対して、

「『ライトニング』!」

 ホーストの手から解放され、詠唱を終えたゆんゆんが魔法を放った。

 ダメージがないはずがない。

 ワイヤーを、そして胸から突き出た刃を伝播し、魔力から精製された雷撃が直接体内へと送り込まれているのだから。

 だが、それだけでは決定打には至らない。

 ホーストは忌々しげに顔を歪めると、怒りの声をあげた。

「いっ……てえなあぁあ! クソッタレ、舐めてんじゃねえ!」

 そう叫び、ワイヤーでの拘束されつつも、そのまま強引に両手を出す。

 その様子を見て何かを感じ取ったのか、クリスは一歩前に出て、片手を突き出した。

「喰らいやがれ!」

「させないよ、『スキル・バインド』!」

「『インフェルノ』! ……クソがあっ!」

 ホーストの叫びに先んじて発動したクリスのスキル。何をどうやったのか、不可視のそれはホーストの魔法を妨害したらしく、()の悪魔の苛立ちを買った。

 吐き捨てるホーストに対し、ゆんゆんはなおも追撃を加える。

「『ライトニング』っ! 『ライトニング』っ! 『ライトニング』ーっ!」

 胸から突き出るダガーに幾度となく雷撃が命中し、そのまま体内へと電流の伝播が再現された。

 激しく火花が散り、強い閃光が走る。それから目を背けつつ、クリスはゆんゆんのそばに回り込んだ。

 ちょうどホーストを挟んで、スバルと真逆の位置になる形だ。

「やるじゃない、さすが紅魔族だねぇ」

「あ、あなた、なんで私達を助けるの!?」

 とっさに即興の連携こそしたものの、ゆんゆんはクリスへの警戒を解かない。

 そんなゆんゆんにクリスは軽い口調で、しかし視線はホーストからそらすことなく語りかける。

「言ってる場合じゃないでしょ。あっちとこっちじゃ、さすがにこっちを優先しなきゃだよ」

 どうやら助太刀しに来た彼女は、ホーストを殺すことを優先し、スバルのことは放置するつもりのようだ。

 言葉と共に新しいダガーを抜き、油断なく構える。

「こいつだってそれなりに消耗してるはず。力を合わせて戦えば、きっと勝てるよ」

「はんっ! よく言うぜ」

 クリスの前向きな言葉、それをホーストは鼻で嗤う。

「消耗が激しいのはお前の方だろ? 馬鹿みてえに硬いクルセイダーのせいで、さっきの戦いもやたら長引いたからな。それにこの『バインド』は、それこそ紅魔族並の魔力でもない限り、そう何発も使えねえくらい魔力を食うんだ。違うか?」

 ホーストの言葉に、クリスは沈黙したまま汗を一筋垂らす。それはホーストの推測、その肯定を意味していた。

 彼女の魔力は残り少なく、使える手札が限られている。それは間違いない。

「そっちの紅魔族の娘っ子だってそうだ。最初の風の魔法と、二発目以降の魔法で威力が全然違いやがる。俺様には普通に魔法を使っても効かないと思って、かなり魔力を注いでるんだろ? なら、あと何発撃てるんだろうな」

 その言葉に、ゆんゆんも図星をつかれたような顔を見せる。

 ホーストは笑って小さく魔法を唱えると手に刃を作り出し、それによって自らを拘束するワイヤーを切断した。

「ちなみに、そっちの人間。どんな隠し玉があるのか知らねえが、俺様の後ろから狙おうとしても無駄だ…………ぜ…………」

 いかにして『見えざる手』で相手のバランスを崩すか考え、機会を窺っていたスバルは、それを逸したことを悟る。

 陰魔法『シャマク』は、この悪魔の知能からして通じない可能性が高く、さらに使用後にスバルが倒れてしまうことも十分考えられる。

 ならどうすればいいのか――――とそこまで考えた時、振り返ったホーストがこちらを見ていないことに気がついた。

 ホーストが見ているのは、地に足をつけたスバルではなく、上。

 見ると、ゆんゆんもクリスも同じ方向に視線を向けていて。

 スバルもその視線に追従し、ようやく気がついた。

 生い茂る巨樹。その幹から生えた、長く太い太い枝。

 誰かに削られたのか、その枝の表面は平らになっており。そこに一人の少女が立っている。

 その少女の全身に、とてつもない魔力が集中していることに。

 

「ならば、私の番ですね」

 

 声。

 涼やかな声。

 スバルの頭上から鳴り響いたその声は、かつてスバルが聞き惚れた銀鈴の音を想起させる。

 ゆんゆんと同じ紅い瞳を輝かせ、短く切りそろえた黒い髪を、とんがり帽子ですっぽりと覆っている、魔法使い姿の少女。

 その姿を見たゆんゆんは、ワンドをなくした両手を構えつつも、意外そうな声で言った。

「め、めぐみん…………?」

「どうも、先ほどぶりです。人が止めるのも聞かず一人で突き進んでいくのですから、全くこの娘ってば世話が焼けますね」

 そこで一度言葉を区切る。

「だって、めぐみんはナツキさんを見捨てろっていうから、私は一人で……」

「ええ、言いました」

 今度はスバルの方に顔を向けて

「よくもやってくれましたね。せっかく人が頭回して、なんとか無事に隠遁生活を送れるようにしていたというのに。その全てを無視して、唐突に森に特攻するとは頭がおかしいんですか、あなたは」

 紅い瞳を怒りで光り輝かせて、

「ですが、そこのアホはともかくとして、こんなところであなたにあっさり死なれては、里の皆に顔向けできないでしょう」

 どうやら、スバルに呆れて一度は放置しようとしたものの、飛び出して行ったゆんゆんを助けに来た、というところらしい。

 そうやって話をしている間も、めぐみんから感じる圧力は毎秒ごとに高まっていく。

「おい小娘、なんだそりゃあ」

「爆裂魔法です」

 肉体で高まっていく膨大な魔力を杖の先、その一点に集中させながら、めぐみんはシンプルにその正体をホーストに告げた。

 辺り一帯の空気が大きく振動し、そこに込められた魔力は余波だけで帯電現象を引き起こしている。

 生来、魔法使いとしての天賦の才を与えられし紅魔族。その中でも随一の才能を持った少女の魔力が根こそぎ全て、純粋な破滅の光へと変換されつつあった。

「ゆんゆん達が時間を稼いでくれたおかげで、既に準備は完了しています。さあ、受けてもらいましょうか」

 これまで怒りこそしたものの、一度も焦燥感を見せることのなかったホースト。

 だが破滅の光を見た今は、さすがに狼狽を見せ、途端に饒舌になった。

「待て待て、ちょっと待て。確かにその魔力は大したもんだ。でもな、俺様なら何とか耐えられないことはないかもしれねえぞ? 確かにダメージは受けるだろうが、本当に俺様を仕留められる確信があるのか? 爆裂魔法なんて、人間が一発使えば魔力を使い果たして倒れるのがオチだ。その後、俺様は絶対に容赦しないぜ?」

「確信ですか? ありますね。何故なら私は、紅魔族随一の魔法の使い手であり、これはあなたの同僚を葬った、人類最強の必殺魔法なのですから」

 自信と確信に満ち溢れた表情で、めぐみんは断言した。

「そうか。アイツを殺ったのはお前だったのか。…………だが、俺様を殺せるくらいの魔法をこの距離で撃てば、お前もこいつらもまとめて巻き込まれるんじゃねえか?」

 めぐみんの真下にいるスバル。そしてホーストを挟んで対角線上にいるゆんゆんとクリス。

 それらの距離は決して大きく離れたものではない。スバルが見た爆裂魔法の規模を考えれば、ホーストに放てば全員巻き込まれることは避けられないだろう。

「構いません。人生の最期が爆裂死となれば、私もゆんゆんも本望です」

「ちょっと、めぐみんっ!?」

 ハッタリなのか、本心なのか。どうしようもないことを言い出しためぐみんに、ゆんゆんが叫ぶ。

「なにバカなこと言ってるの!? 助けに来てくれたことは嬉しいけど、お願いだからちょっと待ってよ!」

 ゆんゆんの言葉を、めぐみんはやれやれといった顔で聞き流す。

 めぐみんが頭を小さく振った拍子に、帽子の中から「なー」という声が響いた。

「…………そういうことか」

 ホーストはかぶりを振って、無機質な瞳に凶悪そうな顔面を、何かを悟ったような表情へと変化させて見せた。

「おい、わかったぜ。お前の目的は俺様を殺すことじゃなく、それを武器(カード)に交渉することだな? 悪魔は一度した契約を破らないからな」

「いえ、本気でこれを撃ちたいのですが」

「冗談はやめろって。自分も仲間も死んででも撃ちたい、なんて頭のおかしなやつがいるもんかよ。確かにそれを食らっても、俺様自身は《残機》が減るだけで済むが、取り返しのつかないこともあるもんなあ」

 ホーストはそう言うと。自分の身体に残るワイヤーを取り払い、両手を広げた。

「いいぜ。今回は大人しく引くし、今日のところはお前らにもあの街にも手を出さねえよ。それでいいか?」

 そんなホーストの和平交渉を、

「嫌です。これが撃てないのなら、せめて私達全員が死ぬまで、一切手出しするのをやめてください」

 めぐみんは躊躇なく一蹴した。

「おいおい、さすがにそれは強欲じゃねえか? じゃあ三日だ、三日。その猶予の間に、お前らはどっかに逃げればいい。その後俺様が見つけた後はどっちが勝っても恨みっこなしってことで」

「駄目です。どうしてあなたに追いかけ回されるのを、延々と気にしなくてはならないのですか。というかそろそろ制御に集中するのも疲れてきたので、撃ってもいいですか」

「待て待て、お前もちょっとくらい譲歩しろよ!」

 そんな、破滅の光と隣り合わせの、どこか緊張感に欠ける交渉の最中。

「――――――――逃げて!」

 それまで沈黙を守っていたクリスの、突然の叫びが響き渡り。

 ――次の瞬間。

「――――――――ぇ」

 破滅の光を制御していためぐみんの胸を、見えない”何か”が貫く。

 

 その悪辣な下手人の正体に心当たりがあるスバルは、小さくつぶやいた。

「エンシェント……ドラゴン」



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13 『紅魔族の意地』

 孔を空けられた少女の肉体、それは何かに支えられているように浮いたままだ。

 少女は鮮血を流しながら、血と同じくらい紅い瞳を見開いて、今起きていることへの驚愕と苦痛で手を震わせている。

 スバルは知っている。これはかつて見た、エンシェントドラゴンの認識偽装だ。

 自身の周囲の空間を、異常のない光景のように見せるそれが、今展開されている。

 めぐみんが力なく頭を垂れると、そのまま”何か”が引き抜かれたのか、胸から多量の血を吹き出しながら肉体がゆっくりと傾く。

 先にとんがり帽子が滑り落ち、続いてめぐみんの肉体が重力に従い、崩れるように落下した。

「――――めぐみん!」

 真っ先に反応したゆんゆんは、戦闘の高揚で紅潮していた頬を一気に蒼く染める。そのまま、悪魔と戦闘中ということも忘れたように、めぐみんに向かって駆け出した。

 彼女に遅れて反応したスバルも、近くに落下するめぐみんを受け止める。小柄とはいえ、人一人だ。スバルの腕へと伝わった落下の衝撃は小さくなかったが、その痛みを感じている暇などありはしない。

 受け止めためぐみんの肉体から温かい血潮が流れ出し、支えるスバルの手にもぬるりとした感覚が伝わる。彼女の苦痛を和らげるため、慰めにもならない激励を言おうと顔を覗き込む。だが、彼女の瞳は力を失っていない。そのまま手の方へと視線を移すと、スバルはそこに予想外のものを見た。

 彼女が未だ握りしめたままの杖は、未だに破滅の光を抱え込んでいる。

 この制御を失えば、膨大な魔力が破壊を生み、この場にいる全ての人間を死に追いやることは間違いない。

 それを理解しているからこそ、死の淵にある今であっても、彼女はこれを手放そうとしないのだ。

 そんな尊い意地を見せつつも、苦痛の呼吸を繰り返すめぐみん。

 彼女の傷に、スバルはある姿を重ね合わせる。かつて見た、同じような傷を負った桃色の少女だ。

 あの時、主の腕に心臓を身体もろとも貫かれたラムは、即座に高度な治癒魔法をかけられてなお、すぐに命を落とす結果になった。

 おそらくめぐみんも、もう長くはあるまい。この世界の人間の生命力はわからないが、例え心臓そのものが無事だったとしても、胸部を貫かれてそう長く持つとは思えない。

 彼女の命の灯火は、すでに消されつつある。

 そしてここには、魔法で彼女を治療できるような存在はいないのだ。

「クソ、どうすりゃいいんだ……!」

 ひとまずスバルは上着を脱ぎ、めぐみんの傷口を塞ぐように巻きつけようとする。

 めぐみんと一緒に落下したとんがり帽子から、ちょむすけが顔を出し、彼女のそばでそれを見つめていた。

「『バインド』っ!」

 瞬間。クリスの声が響く。

 長い長いワイヤー、その片方の端部が見えないドラゴンの方向へと飛んでいき、偽装の範囲に入ったのかそのまま見えなくなる。

 もう片方の端部は、おそらくは罠として用意してあったのか、大きな岩にキツく何重にもくくりつけられている。

 岩から伸びるワイヤーの張り具合が、獲物に命中していることを示している。

「めぐみんっ!」

 それと同時に、ようやく駆け寄ってきたゆんゆんは、スバルの抱えためぐみんの容態を確認する。

 ただでさえ恐怖で青ざめていたゆんゆんの顔が、みるみるうちに蒼白に染まった。彼女はそのまま言葉を失って、瞳に絶望の色を宿す。

「めぐ、みん…………」

 思わず漏れた、といった感じの声。

 今のゆんゆんにどうするのか、などと問えるはずがない。

「とりあえず、今のうちに逃げよう。すぐ街に戻って診てもらえば、めぐみんもきっと……」

 そう声をかける。

 こんな言葉は気休めに過ぎない。それは、口にしたスバルがよくわかっている。

 それでも今は前に進まなければ――――『何のために? 彼女はもう助からない。続けるわけにはいかない、この世界で』――――うるさい。

「逃げるんなら急いで! これ、抑えきれる気がしないから!」

 スバルが自分の内なる声を黙らせた時、クリスの叫びに呼応するように、ワイヤーをくくりつけてあった大岩に変化が起きた。

 波間に揺蕩う小舟のように大きく揺れ、大地に隠れていた部分が見え隠れしている。

 まずい。逃してもらえるかはわからないが、今急いでここを退散しなければならない。

 スバルはそう考えて、ちょむすけを肩に乗せ、めぐみんを抱えなおそうとして。

 ――――瞬間。

 スバルの肉体に何かが巻き付いて。

 そのままスバルは視界が置いてけぼりになるほどの速度で、一気に引っ張られた。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「ナツキさん!」

 スバルの肉体が突然後方へと飛んで――いや、急上昇していくのが見えた。

 ちょむすけは彼の身体に引っ張られて、そのまま一緒に連れていかれたものの、スバルが抱え直そうとしていためぐみんは、その勢いで手から離れて宙に浮いた状態となる。

 とっさにゆんゆんはめぐみんの身体を支え、

 ――――軽い。

 そんな場違いなことを考える。

 意識のない人間の身体は重い。そんな話を覆すほど、友達の身体は軽かった。

 今、見えない『何か』によって、死の淵にある友人。

 今、見えない『何か』に捕らえられたパーティメンバー。

 今朝は女盗賊と敵対し、先程までは悪魔と対峙してその女盗賊と共闘し。そして今はわけのわからない敵に襲われている。

 どうしてこんなことになっているのか。

 目まぐるしく変わる状況に、ゆんゆんが判断に迷った時。

「『インフェルノ』ォッ!」

 ホーストが放った巨大な炎が、ワイヤーの先――スバルを捕らえる『何か』に襲いかかる。

 スバルが巻き込まれるのでは、と考えた刹那、視界が揺らぐように変化し、一瞬の間を開けて巨大な竜が出現した。

 業火は蜃気楼のように消え失せる。あとに残されたのは、竜尾に身体を巻きつかれ捕らえられたスバルとちょむすけ。そして、竜尾の持ち主たる巨大な竜。

 おそらくは、これがスバルの言っていたエンシェントドラゴン。

 ホーストがこのドラゴンを攻撃した理由、それはおそらくウォルバク様(ちょむすけ)を守るため、だろう。

 ならば、自分はどうする?

 ――――めぐみんなら、ここで仲間を置いて逃げたりしない。

 ゆんゆんは、めぐみんの身体を素早く、しかし優しく地に横たえると、手をドラゴンの方へと突き出し、叫んだ。

「『ライトニング』!」

「『カースド・ライトニング』!」

 先刻までぶつかりあっていたゆんゆんとホースト。二人の放った光と闇の雷撃は、今度は協力し合うようにそれぞれ進む。

 しかし、ドラゴンに触れる刹那、白と黒の雷は霧散し、先の炎と同様にその効力を失う。

「ちっ! 見えない相手だから嫌な予感はしちゃいたが、よりによってこいつかよ!」

 吐き捨てるように言うホースト、その言葉に呼応するように、竜尾に捕らえられているスバルも叫ぶ。

「ゆんゆん、ダメだ! そいつには魔法はほとんど効かないはず……がぁっ!」

 その叫びは竜尾の締め上げによって、中途でかき消された。

 スバルの発言は真実だろう。だが、魔法がダメとなると、どうすればいい。自分の切れる札から魔法を消せば、ほとんど何も残らない。

 竜の咆哮が鳴り響き、同時にドラゴンの周囲に風の刃が出現して、強力なはずのワイヤーがいとも簡単に断ち切られる。

 そしてゆんゆんの迷いを見たのか、ドラゴンは一気に彼女の方へと接近し、その刃物のような爪で引き裂くべく、左腕を振り上げた。

「ゆんゆん! クソッ……『――っ……!」

 スバルが何事か叫んでいるが、ドラゴンの動きは一向に止まることなく、殺戮の魔手を振り下ろす。

 かわさなければ死ぬ。

 しかし、ゆんゆんは動けない。背後にはめぐみんがいるのだから、逃げることなどできはしない。

 彼女をかばうように、咄嗟の判断で短刀を抜き放つ。

 人の手で作られた鋭利な刃。それを、型も何もなく、感覚の赴くままに突き出して、ドラゴンの爪にぶつけにいった。

 当然、そんなもので受けられるはずもない。衝撃をダイレクトに受けたゆんゆんの右半身は、大きく後方へと流されかけて。

(倒れちゃ、ダメ――――!)

 強引に姿勢を前に戻す。

 結果、ゆんゆんの左半身が、竜の眼前にあった。

 正確に言えば、大きく開かれた、顎の前にあった。

 目の前に迫った『死』の象徴に、心にしまった怯えが一瞬だけ顔を出し、それを再び押さえ込むまでの僅かな時間。

「――――――ぅ――ぁ――ぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 その僅かな逡巡の後、脳に灼熱のような感覚が走った。

 全身を駆け巡る熱、その起点に目をやると、左腕が肩から肘の付け根のあたりまでしか見えない。

 鱗に覆われた皮膚や、鈍く輝く牙に隠れて、左腕が見えない。

 その牙が赤く染めているのが、自分の血でできた汚れだと気づいた時。

 自分の左腕が、竜に食らいつかれたと理解して。

 脳に走る焼け付くような焦熱が、ようやく痛みだと認識した。

「あああああああああ――――ッ! ぐっ……ぁぁぁあああああああああああああああああああああっ!」

 絶叫。

 視界が点滅する。世界が明滅する。

 痛い。

 痛い。痛い。痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!

 全神経が激痛を伝えるためだけに作用し、意識の全てがそちらに持っていかれる。

 自分の左腕はどうなっているのか、本当にまだくっついているのか。そう言った疑問すら蹂躙し、ただ痛みだけに脳が支配される。

 苦痛、恐怖、絶望。

 ただ負の感情がないまぜになり、現実と幻夢の境目が曖昧になる。もはやゆんゆんには戦う気力など――――――――。

 

 現実から目をそらした、視界の端に。

 胸から流れ出る血で地面に紅を描きながら、それでも爆裂魔法を制御し続ける友達の姿が入った。

 

「うわあああああああああああああああああっ! 『ファイヤーボール』!」

 左の掌……否、左腕の先端から放たれた火球は、当然ドラゴンの口内に出現し、そのまま起爆する。

 密閉された空間の中、焔がただただ荒れ狂う。わずかな牙の隙間から見えるその光景は、まるで煉獄のよう。

 ただし、その焔が竜の体内と共に焼き尽くすのは、咎人の罪ではない。

 めぐみんをこうした竜の罪も、友達を守れなかった自分の罪も、この程度の焔で焼き尽くせるわけがない。

 焼き尽くしたのは、竜の口内と、焔が放たれた左手自身だ。

 口腔を炙られる痛みに怯んだのか、竜の上顎と下顎に僅かに隙間ができる。

 ゆんゆんはそれを見逃さず、

「『ファイヤーボール』! 『ファイヤーボール』! 『ファイヤーボール』!」

 追い打ちを叩き込む。

 そして、その圧力で広がった隙間から、自らの左腕を引き抜いた。

 黒く変色し、細い細い肉でかろうじて繋がっていたその腕は、引き抜いた時の勢いで完全に千切れて、ぼとりと落ちた。

 傷口が焼け焦げている。焼灼か、ちょうどいい。血止めをする手間が省けたと考えよう。

 左腕喪失。それがどうした。めぐみんの受けた傷を思えばどうということはない。

 めぐみんはもっと大切なものを失いながら、まだ戦っている。自分がこの程度で止まれるわけがない。

 まっすぐに見据えた視線の先にいる竜。その感情を正確に読み取ることなどできはしないが、少なくとも平静であるようには見えない。

 体内ならば、効果はあるのだ。

 活路はある。

「来なさい、大トカゲ! 紅魔族を舐めるんじゃないわよ!」

 残った右手を向け、叫ぶ。

 喉が張り裂けそうなほどに、後ろで倒れ伏すめぐみんにも聞こえるよう、竜尾に捕らえられたスバルにも聞こえるよう、高らかに。

 この声はただの強がりで、何の力も持たないのかもしれない。

 それでも、彼らに聞こえるよう、力いっぱい叫んだ。

 その時。

「『スティール』ッッッ!」

 ゆんゆんの叫びに呼応するかのように、高らかな声があがり、竜尾に身体を拘束されたスバルと、その肩に身を載せたちょむすけが姿を消した。

 全ては一瞬の出来事。

「お…………重い」

 気がついた時には、頬に小さな傷痕をつけた、銀の髪をした少女の手にスバルとちょむすけが乗っていた。

 盗賊の持つスキル『スティール』。幸運依存の判定により、相手の持ち物を問答無用で盗み取る力。

 そのスキルにより、エンシェントドラゴンに『持た』れていたスバルは、ちょむすけごとクリスの手元にまで、まるで転移するかのように引き寄せられたのだ。

 スバル達が突如として消えたことに困惑するように、自らの竜尾へと視線を向けるドラゴン。

 そして、ホーストはそれを見て大きく跳躍。スバル達のそばへと着地し、そのまま巨大な手をかざしてたった一言。

「『テレポート』!」

 その言葉によって、スバル、クリス、ちょむすけの姿が虚空へと消えた。

 その光景に、ゆんゆんは胸を撫で下ろす。

 スバルたちがどこに飛ばされたのかはわからないが、狙いのちょむすけを飛ばす場所だ。

 少なくともここよりは安全な場所だろう。

 彼らの安全が確保されたのならば、後は――――。

「ゆん、……ゆん……」

 背後から声が聞こえた。

「めぐ、みん…………」

 

 肌は生気を失い。

 血に染めた大地に倒れ伏し。

 立ち上がるどころか、一秒後に死んでもおかしくない。

 それでも、友達の紅い瞳は、手に握った杖と同じくらい、強く輝いていた。

 ただひたすらに血を流し、もはや脳にそれが回っているとも思えない。

 それでも、めぐみんが輝きに込めた強い意志は、心に痛いほど伝わった。

 ――――紅魔族は、売られた喧嘩は必ず買う。

 

 

 焼け焦げた左肘を大地につけ、口の中で詠唱を開始。

 ドラゴンの次の行動次第でタイミングを変えるつもりでいると、この場に残っていたホーストが横から魔法を唱えた。

「このまま逃げたら、あのガキに何されるかわかったもんじゃねえからな……『ボトムレス・スワンプ』!」

 泥沼魔法。

 文字通り大地を泥沼に変えるその魔法は、ドラゴンの足下を広範囲に渡って一気に液状化させる。

 偶然か。それともこちらの意図を察しての絶妙なサポートか。そこまではわからないが、この状況はありがたい。

 ドラゴンは抜け出すべく足に力を込めているようだが、それは抜け出そうと力を込めれば込めるほど引きずり込まれる底なし沼だ。

 二度、三度と抜け出そうと試すものの、抜け出せはしない。

 ならば、ドラゴンがその後に取れる手段は限られている。

 飛翔だ。

 竜翼を広げ、身体全体を沼から抜け出そうとするタイミングで、ゆんゆんは魔法を解き放った。

「『クリエイト・アースゴーレム』!」

 選んだものは、ゴーレムの作成魔法。

 もちろん、飛翔しようとしているドラゴンを殴りつけるためのもの()()()()

 ゴーレムを生成する場所は、先程クリスがワイヤーをくくりつけていた、巨大な岩のそばだ。

 大きさも持続時間も考えず、ただ力強さだけに特化して作られたゴーレムは、全力でその巨岩をドラゴンへと投げつける。

 飛翔しようと翼を広げたばかりのドラゴンに、それをかわす手段はなく、必然的に対応は迎撃に限られる。

 そして、今迎撃に最も有効な手段は、魔法だ。

 

 このドラゴンには、自分を拘束するワイヤーを切断できるほど、繊細な魔法を扱える。

 だが、自分の腕に食らいついてきた時には、その魔法を使わなかった。

 体内を灼かれる痛みを負いながら使わない、それが口が塞がったまま詠唱できないためだと、ゆんゆんは直感していた。

 

 魔法を使うため、詠唱をするため、咆哮をあげるため。

 当然、竜は大きく口を開ける。

「今よ、めぐみん!」

 全ては計算のうち。

 その合図を持って、友達は死に体の身でありながら、声を絞り出す。

「『エクス――――」

 魔法使いとして特化した強力な紅魔族。ゆんゆんの知る限り、その才能を誰よりも色濃く顕現させた少女。

 その少女が、生涯唯一愛した、最後の魔法を解き放つ。

「――――プロージョン』!」

「―――――――――――!」

 破滅の光が視界を灼き尽くす。

 その瞬間。

 最後の竜の咆哮には、これまでにない憎悪と激昂の色で染まっていた。

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「なー」

 耳元で囁かれたちょむすけの鳴き声を聞いて、スバルの意識は急速に浮上する。

 自分が気を失っていたという事実に恐れおののき、慌てて目を見開いて顔を上げると、西に傾いた太陽の光が目に差し込んできた。激しい輝きにまぶたを閉ざし、数秒目を休め、それから薄目をあけて目を光に慣らす。

 そして、ようやく目の前の景色を確認した。

 目の前にドラゴンはおらず、もちろんその彫像もない。

 鬱蒼とした木々は消え、代わりに大きく開けた道があり、すぐ近くには見たことのない建物が見える。

 知らない光景だ。

 そこでスバルの脳裏に、気を失うまでに起きていたことがフラッシュバックする。

 エンシェントドラゴンの襲撃。致命的な傷を負っためぐみん。

 軋むゲートは、シャマクの発動すらできず。ドラゴンを止めようと行使した『見えざる手』も、妙な温もりを感じる程度のことしかできず。

 そのままゆんゆんの死闘を目の当たりにするしかできなかった。

 そしてクリスの手でちょむすけごと助けられた後、ホーストが『テレポート』と唱えて――――。

「テレポートってことは、空間転移の魔法、だよな…………」

 おそらくスバルの精神は、必死で『見えざる手』を行使した反動で疲弊し、転移の瞬間に気を失ったのだろう。

「あ! よかった、目が覚めたんだね」

 スバルの覚醒を見て、銀髪の少女が駆け寄ってくる。

「ここ…………どこだ?」

「えっと……街の名前言ってもわかんないよね。さっき軽く聞いてきたけど、アクセルからそれなりに離れてる街だよ」

 つぶやいた疑問にクリスの答え。

「なんで、俺達だけこんなところに……」

「キミは気を失ってたからわかんないかもだけど、悪魔にテレポートで飛ばされてきたんだよ。行き先をランダムに設定してたのか、悪魔がこの街を登録してたのかまではわかんないけどね」

 ここにいる理由についてはクリスと見解の一致を見た。見たが、だからこそ、悪魔がスバル達を逃した意味がわからない。

 ウォルバク様とやらの手がかりを失うことを恐れたのだろうか。スバルが行方不明になっては同じことだろうに。

「他の街か……………………」

 この世界に来てから、アクセル以外の街を見たのは初めてだ。だが生憎、今のスバルはこの街にそれほどの興味はない。

 見たところ綺麗な街並みだが、スバルが見せてあげたいと思える相手は今、ここにいない。

 この世界でも前の世界でも、スバルのミスで失われる相手ばかりだ。

「ゆんゆんと、めぐみんは……」

「……………………」

 自問するようなスバルの言葉に、クリスは目を伏せると、そのまま首を横に振った。

「――――――――ぁ」

 わかっていたことだった。

 ゆんゆんもめぐみんも、あの状況で助かったとは思えない。

 彼女たちの傷も、痛みも、苦しみも。スバルの迂闊が引き寄せた。

「ねえ…………」

「…………うん?」

 声に顔を上げると、頬に傷をつけた盗賊の少女が瞳に映る。

 額に深いシワを寄せ、顔を憂鬱そうな色で染めた彼女――クリスはスバルの黒瞳をまっすぐ見つめて、

「ごめんなさい」

 そう、頭を下げた。

「なに、を……」

「あたしがキミを疑ったせいで、取り返しのつかないことを引き起こしてしまった。償っても贖っても許されることじゃないけど……でも、ごめんなさい」

 そう、深く深く、頭を下げた。

 クリスの謝罪、それがスバルに疑いをかけたことから来るものだと気づいて、スバルは言葉を返す。

「ああ…………いいよ」

 口から自然とこぼれたのは、そんなそっけない一言。

 実際、もういいのだ。

 彼女がどれだけ謝り、どれだけ省みてくれたとしても大した意味はない。

 この世界は終わらせる。スバルがそう決めた。

 ならば、意味はない。

 どんな悔いも、どんな苦しみも彼女は覚えていられない。

 ――――違う。

 今謝って、省みてくれただけで十分だ。

 何度同じことがあったとしても、スバルは今のことを覚えているのだから。

「だから……いいんだ」

 彼女の謝罪は受け取った。それでいい。

 後は、スバルがなかったことにしてみせる。

 ――だが、今はまだピースが足りない。

 自分の死は、決して償いにも贖いにもなりはしない。

 こんな命などで、スバルの罪は軽減されたりはしない。

 今のままでは足りない。

 死の安寧に抱かれ、次の周回に行く前に、きっと次につながる『何か』を掴まなくては。

「他の街――――ここの冒険者ギルドから、アクセルに応援って頼めるかな?」

「えっ?」

 思いついた言葉を口に出すと、クリスは意表を突かれたように顔を上げる。

 その瞳には困惑の色が浮かんでいた。

「応援だよ、応援。あのドラゴンを倒すために、他の街から冒険者を呼ぶんだ、この街からでもいいし、他の街にも連絡がつくなら、そこから呼んでもらえばいい」

「そりゃ、できると思う――――けど」

 スバルの提案、それは元々考えていた、『アクセルの街から応援を呼ぶ』の延長線だ。

 アクセルから応援を呼んでもらう場合は、魔女の残り香を嗅ぎ取れるクリスがいる関係上、信頼を得られないという点がネックになっていた。しかし、他の街にスバルが働きかけ、連絡を取ってもらうのなら、クリスと関わらずに応援を向かわせることも可能なのではないだろうか。アクセル側としても、悪魔が来て困っている状況ならば、優秀な冒険者が来ても無下にはするまい。

 もちろん本当に実行するのは次周だが、今のうちにこの案がどこまで可能なのか、不可能ならば別の手段はあるのか。それらを分析しておかなくては。

 スバルはそこまで考えると、足を街の方へと向けた。

「…………怒らないんだね」

 次の周回に向けてつながる一手を求め、思考に埋没し始めたスバル。

 街へと邁進する彼の頭にはクリスの言葉は届かない。

「力がない。なのに死を恐れない。誰かを救いたいと行動してる。なのに仲間を喪ってからの切り替えが早すぎる。まるで『死』に慣れきった――日本人」

 クリスの言葉は届かない。

「やっぱり変だよ、キミは」

 クリスの言葉は届かない。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 だが、スバルの思いつきは、早々に却下されることになる。

 

「――――それ、どういう……」

「ですから、今この街には、他所に援軍を出す余裕がありません」

 その街の冒険者ギルドで、受付嬢の言葉をスバルは呆然としながら聞いていた。

 同じようにその言葉を受けたクリスは、努めて冷静な顔で問いかけた。

「理由……聞かせてもらってもいいかな」

「はい。おそらく時間が経てばアクセルにも連絡が行くと思いますが…………。実は、魔王軍幹部のデュラハンが、多数の魔物を連れて魔王城を後にしたということなんです。相手の狙いも目的地も、何もかもが不明な以上、我々としても迂闊に戦力を他所に送るようなことはできないんです」

 受付嬢は、内面の心苦しさを表情に匂わせつつ、しかしはっきりとした言葉で言った。

「ってことは…………他の街も!?」

「はい。おそらく、ベルゼルグのすべての街が同じような対応をするかと。さすがに駆け出しの街に魔王軍幹部がわざわざ出向くとも思えませんので、アクセルの優先度は低くならざるを得ません」

 

 そんな出来事がギルドの中であったためだ。

 

「クッソ……これもダメか…………」

 ギルドから出た通り道。スバルは更なる事態の悪化に、顔を地に伏せて嘆息する。

 ――――アクセルの脅威は自分たちの手でなんとかしなければならない。

 総括すると、この街の受付嬢が語ったのは、そういうことだった。

 例え、クリスとの誤解がなかったとしても、応援を呼びたいという案は無為に終わっていたわけだ。

 つまり、戦力として数えられるのは、駆け出しの街ことアクセルにいる冒険者たちのみ。

 そして倒さなければならない相手は、上位悪魔のホーストと、エンシェントドラゴン。

 ホーストの目的は、巨大な漆黒の魔獣”ウォルバク様”の保護。

 そして、エンシェントドラゴンの目的は目下のところ不明だ。現状、めぐみんを狙っているように見えないこともないが、偶然かもしれない。

 今見たところでは、冒険者たちが束になっても、個々の相手にも未だ勝利できていない。

 ただし、かつて見た白鯨と魔女教のケースとは違い、この二つは決して協力しあっているわけではないようだ。二週目を見る限り、スバル側が完全に放置していた場合はぶつかり合わないようだが。

「なら……うまく悪魔とドラゴンが潰し合うように仕向ければ、漁夫の利を狙うチャンスはある……か?」

「……それは無理だと思う」

 スバルのつぶやきは、クリスの言葉にあっさりと否定される。

「何でだよ。実際、あいつらはとっさにとはいえ、戦ってたじゃねえか。まさかその場のノリで助けてくれたわけじゃないだろうし、なんか理由があるんだろ?」

「確かに、あの悪魔とエンシェントドラゴンの対立は必然的なものだよ。でも、漁夫の利を狙えばそれでいい、という単純な話でもないんだ」

 その瞳に迷いの光はなく、そこには単なる主観ではなく、絶対的な事実を語っているという確信が見えた。

「どうして、そんなことがわかるんだよ。それに単純な話じゃないって……」

「……そうだね。テレポート屋で戻るにせよ、次の便まで時間はたっぷりあるし。……お詫びも兼ねて、今ちゃんと話したほうがいいかな」

 そう言って、クリスはスバルの近くの壁に寄り、そこに背中を預ける。

「この世界には、神器――――神様が作った、超強力な装備や魔道具がある。その話は知ってるかな?」

「超強力な装備…………」

「そう。神器を持っている人には共通点があった。キミのように変わった名前をしていて、黒髪黒目の人間っていう、ね」

 神様が作り上げた強力な装備。

 黒髪黒目の、変わった名前を持った人間。

 その言葉でスバルの脳裏に、かつて出会った女神の言葉がよぎる。

『だから、日本人で若くして亡くなった人に強力な武器や才能なんかを持たせて、異世界への援軍にしたい――っていうのが、今実施されてる計画なんだけど』

 なるほど、おそらくはこの『神器』というのが、あの水色髪の女神が言っていた、転生者に持たせるための道具なのだろう。

「ああ……なんとなく心当たりっていうか……そういうものがあるってのは聞いたことがある」

「話が早いね。神器は道具である以上、当然、それが存在する理由――――つまり、作られた目的がある」

 そこでクリスは一旦間を開け、スバルの瞳を覗き込んだ。

 目的――――ただ転生者に持たせる装備、という以上の目的だろうか。

「さて、昔々。とても偉い神様は考えました。ただ強力な武器を作るのではなく、そこにある指向性を持たせよう。例えば――――神の敵を殺すことに特化した武器……いいや、兵器を作ってみよう、とね」

「兵、器…………」

「そして生み出されたものは、対悪魔用に作られた、悪魔を殺すための試作型の生物神器。今から見てはるか昔、ある人間に与えられ、悪魔やモンスターを滅ぼすべく戦いに赴いた旧き竜。神に造られ、力なき主を守り、戦い続けて。そして主を失った後も、神の意志に背き、現世に残っている伝説の存在」

 

 

 

「人はいつしかそれを、最古の竜(エンシェントドラゴン)と呼んだ」

 

 

 

 



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14 『加害者』

「あのドラゴンそのものが、神器…………?」

「そう。あれは悪魔を殺すためだけに力を与えられた、ひどく特異的な存在なんだ」

 クリスは、どこか憂いを帯びた顔で、かのエンシェントドラゴンについて語り始める。

「強大な魔力から放たれる魔法は、敵を正面から打ち倒す。その肉体は、触れただけで悪魔やモンスターを殺していく」

 まるで身内の不始末を嘆くような表情のまま、ただ悲しげな彼女の言葉を、スバルは聞いていた。

「真骨頂は後者の力。駆除の際、相手の生命力や魔力を、その肉体ごと体内に取り込んでいくんだ」

「相手の力を、身体を…………体内に?」

 その言葉に、スバルはある光景を思い出す。それはこの周回で最初に見た光景だ。

「なんだか覚えがありそうだね?」

「ああ…………ある彫像に一撃ウサギが衝突して、崩れるように死んでいったのを見たことがあるんだ」

 あの時一撃ウサギは、角の先から徐々に、竜の彫像に取り込まれていくように死んでいった。

「彫像……その像ってどんな感じ? 触ってみたりした?」

「えーっと……あのエンシェントドラゴンをいくらか小さくしたような感じだったよ。ちょっと触った感じだと、ゴツゴツした石かなんかみたいだった」

 あの彫像に触れ、観察したのは『死に戻り』直後。つまりスバルにとってもそれほど前のことではない。

 思い出しながら話していると、硬い表情をしたクリスは、そっとスバルの手を取った。

 そのまま、手をじっと観察するように顔を近づけると、何を思ったかスンスンと臭いを嗅ぎ始める。

「えっと……あの……?」

 話の流れに合わないクリスの行動。それは、魔女の残り香によって起きた疑いを想起させ、スバルの心は必然的に警戒を帯びる。

 ――――殺されるのはいい。だが、それは全てを聞かせてもらってからでなければならない。

「そっか……うん、そうなんだ…………」

 そんなスバルの考えを知ってか知らずか、銀髪の盗賊は、クリスは、まるで何かを納得したように小さく頷いた。

 その瞳には敵意もなければ疑念もなく、何の悪意もありはしない。

 むしろ慈悲か憐憫の情に近いものすら感じられる。

 それが何なのか、スバルが答えを得る前に、クリスは話を再開した。

「一定の傷を負ったエンシェントドラゴンは、時が来るまで休眠して、目覚めてからは自己を再生させる……って聞いたことがあるよ。きっとキミは、起きた直後に出くわしたんだね。目覚めた直後のエンシェントドラゴンが、力を取り戻すためにモンスターを取り込んでいたんでしょ」

「取り戻すため……ってことは、あのドラゴンは、モンスターのエネルギーをそのまま吸収してパワーアップするってことか?」

「うん、その考えが近いかな。これはすべてを吸収できるわけじゃないし、際限無くパワーアップするわけじゃないけど……」

 そこで彼女は一旦目を伏せて、

「……アンデッドのドレインタッチに等しい効果に加えて、相手の全身を取り込んで効率よく魂を徴収(レベルアップ)する……って言ったほうがより正確だね」

 ――――この世界では、あらゆる生物が魂を体内に秘めており、冒険者のレベルアップに密接な関わりを持つ。生物の生命活動を停止させたり、その身を体内に吸収したりすることで、この魂の記憶の一部を吸収して、レベルアップする。

 あのドラゴンは、相手の身体をそのまま取り込んで殺すことで、効率の良いレベリングを図っているのだろう。

「HPとMPを吸収しながら、レベルアップしまくる敵って感じか…………。モンスターや悪魔と戦わせたら、エンシェントドラゴンを消耗させるどころかパワーアップさせちまうってわけだ」

「そうだね。きっとあの悪魔を滅ぼすためにモンスターを取り込んでいたところを、あの紅魔族の娘が使おうとした爆裂魔法の光を見て、そっちの脅威を優先したんじゃないかな」

 初めてエンシェントドラゴンと遭遇した周回。二周目のあの時、めぐみんの爆裂魔法によって追い立てられた奴らをはじめ、森から平原に出てくるモンスターが激減していた。

 それも、エンシェントドラゴンが自身の力を高めるべく、ことごとく狩り続けたと考えれば説明がつく。

 クリスがスバルの捜索よりも森の悪魔の討伐を優先したのも、万一スバルの話が本当の場合、エンシェントドラゴンが暴走したまま悪魔を喰らい、更なる力をつけることを恐れたのかもしれない。

 悪魔の天敵、エンシェントドラゴン。

 姿を消して音もなく接近してくる。

 触れられたら終わり。

 遠ざかって魔法で攻撃しても通じず、逆に、向こうから凶悪な魔法が飛んでくる。

 命がけで消耗させようとしても、逆に自分のせいで強化されてしまう。

 なるほど、悪魔にしてみれば、確かにこんなやつを相手にしたくはあるまい。自分が悪魔ならば、間違いなくとっとと逃げる。

「俺が無事だったのはなんでだ?」

 ところどころ服の裂けた自分を指さして、そう問いかける。

 スバルは竜尾によって捕らえられたのだ。まさか服越しならば効果がない、などという甘いものではあるまい。触れた相手が侵食対象になると言うなら、スバルも死亡、あるいは衰弱していてもおかしくないはずだ。

 しかしスバルはもちろん、左腕に食いつかれたゆんゆんも、生命力や魔力を吸われてるようには見えなかった。

「……………………悪魔やモンスターを倒すための兵器だからね。人間が対象にならなくても不思議じゃないでしょ? 何故か主を失った後も動き続けて、しかも暴走しているけれど。そういう部分はセーフティーロックが働いてるみたいだね」

 人間は倒すべき対象でないから吸収しない一方で、人間を平気で攻撃し殺戮し虐殺する。

 完全な矛盾を抱えた自らの行動に、疑問すら抱いていない。

 ――――まさに、バグやプログラムミスを抱えた機械だ。

「クッソ……どうすりゃいいんだ」

「あの悪魔はテレポートを使えた……もしアレが逃げてるとしたら、ドラゴンはまだ本調子じゃないはずだよ。アクセルには魔剣の勇者くんもいるっていうし、きっと何とかなる…………してみせる」

 独り頭を抱えたスバルに、励ますように声をかけるクリス。

 最後の言葉は、まるで自身に言い聞かせるようだった。

「あたしはテレポート屋でアクセルに戻るよ。なんとか、一人分くらいの運賃は捻出できそうだしね。……キミはどうするの?」

「そうだな…………」

「アクセルに戻るって言うなら、テレポート代は無理でも、馬車代くらいは出させてもらうけど……」

 そう、申し訳無さを漂わせておずおずと言うクリスに、スバルは首を振った。

「いいや。俺はもう、あのエンシェントドラゴンと会うのは懲り懲りだ。俺にできることはもうないしな。……こっちはこっちでなんとかするよ」

「そっか…………。今回の件は、あたしに大きな責任がある。どんな手段を使ってでも、必ずなんとかしてみせるよ」

 違う。彼女は最善を尽くしただけだ。

 今回ゆんゆん達を失ったのは不可抗力。

 悪いのはあのエンシェントドラゴンと――――救うべき運命を変えられなかったスバルだ。

「……ゆんゆんとめぐみんを見つけたら、その…………頼む」

「うん…………うん。わかった。約束するよ」

 それから、更にいくつかのことについて教えてもらったあと。

 挨拶をして、クリスはスバルの元から去っていった。

 クリスの背中が小さくなるのを見送りながら、スバルは自嘲する。

 何がゆんゆんとめぐみんを頼む、だ。

 あの重傷。彼女たちは助かることはないだろう。

 今、彼女たちが死体になっていようと、それをクリスが埋葬しようと、もはや関係ない。

 スバルは既に、この世界を終わらせると決めているのだから。

 もう終わるこの世界で意味のないことを他人に頼む。

 なんという偽善。なんという欺瞞。

 完全な自己満足だ。

 意味がないとわかっていながら、それでもスバルは言わずにはいられない。

「この弱さも、いい加減なんとかしねえとな…………」

 胸部を貫かれながらもなお、強い意志を見せ続けためぐみんを思い出す。

 片腕を喪失しながらもなお、ただ鮮烈に戦い続けたゆんゆんを思い出す。

 彼女たちの死に報いるためには、スバルが責任を持ってやりとげなければならない。

 クリスではなく、スバルが全てを救うのだ。

「でも、今回はきっと無駄じゃねえ。少なくとも、次に試すための一歩は見つけたんだから」

 つぶやいたスバル、その足下から視線を向けるのは、めぐみんの猫であるちょむすけだ。

 漆黒の毛皮を持った、愛らしい猫。

 その姿に、前の世界にいた、巨大な獣へと姿を変えた鼠色の猫を思い出す。

「なあ……まさかお前が、ウォルバク様だったりしないよな?」

 スバルの言葉に、「なー」という鳴き声で応え、ちょむすけは向こうへと走り去ってしまった。

 一瞬止めようかと手を伸ばしたが、その手を引っ込めて、そのままちょむすけと反対の方向へと足を向ける。

「もう、関係ないもんな…………」

 そう言ってスバルが移動する先は、人通りの少ない道、そのさらに人が目撃しないような物陰だ。

 鞘に収めたショートソードを一度抜き放つ。その白刃は、僅かに差し込んだ太陽の光の下で、鈍い輝きを放つように見える。

 既知の苦痛を幻視し、自然と手が震え、勝手に膝が崩れ落ちる。

 それでも。

 誰にも見つからない、治療の余地のない場所で座り込んだスバルは。

 目蓋を閉じ、大きく息を吐いて。

「じゃあな」

 それは、別れの言葉。

 この終わる世界への別れの言葉だ。

 その一言で未練を断ち切った――そう自身を騙し、両手でしっかり握りしめた刃を自らの首へ突き立てた。

「――――――――ガ――、ッ…………」

 皮膚を突き破り、千切れた血管から大量の鮮血が流れ落ちる。

 真紅に切り開かれた喉から命が流れ落ちる。

 血潮と共に熱が流れ出し、スバルの意識は溺れるように沈み、そのまま世界から消えていく。

 

 これで、いい。

 次こそは、きっと。

 

 

 溢れる血に溺れながら、ナツキ・スバルは命を手放した。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 ――――――――4周目

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 スバルが『死』を超えて最初に感じたものは、ゴツゴツとした岩のような感触だった。

 二度、三度とまばたきを繰り返し、『死』の衝撃から自身の意識を慣れさせる。

「ナツキさん? どうかしましたか?」

 鼓膜を揺らすのは、このループの間に慣れ親しんだ、少女の声。

 瞳に映るのは、幾度となく見てきた竜の彫像。

 鼻孔に感じるのは、冷たい湿り気を含んだ、森の香り。

 ――戻ってこれた。

 セーブポイントは更新されていない。

 片手でショートソードの重みを感じながら、スバルは小さく安堵の吐息を漏らし、『死に戻り』の成功を実感する。

 自分の『死』が無為に終わらなかった。

 ゆんゆんやめぐみんを犠牲にしたまま終わらずに済んだ。

 これでスバルは未来を諦めずに済む。

「……なら、次だ」

 と、その時。

 後方でがさりという音がした。

 すぐにゆんゆんは片手で杖を構え、残った片手で短刀を抜きつつ身体を反転させる。

 かつて見た光景。

 スバルは手の中にいたちょむすけを足元に置き、自身の記憶にある一点を睨みつける。

 スバルの記憶の通り、愛らしくも悪辣な白いウサギが、よちよちと茂みから――――

「っ――――!」

 現れる瞬間、スバルは跳躍するように一歩を踏み込み、自らのショートソードで敵の頭を打ち砕いた。

「な、ナツキさん!?」

 ゆんゆんの驚愕の声も他所に、ウサギの脳をきっちりと破壊し、その生命を奪う。

 それを証明するように、スバルの冒険者カードに変化があった。

 レベルアップ。

 ステータスが僅かに成長し、同時にスキルポイントが与えられる。

 それを肉眼で確認したスバルは、すぐに踵を返してゆんゆんの元へ。同時に、空いた手で冒険者カードを掴み、親指をスキル欄の方へと伸ばす。

「ナツキさん、なんてことするんですか! あんな…………むぐっ!」

 突然目の前でウサギを殺され、文句を紡ぎかけたゆんゆんの唇。その唇を、ショートソードを収めた右手で塞ぎ、素早くちょむすけを押し付けて、そのまま空いた左手で強引に彫像の陰へと引っ張り込んだ。

「んんっ!? んーっ! んーっ! んんーっ!」

「しっ…………! 声出すな……!」

 スバルに流れるような動きで陰へと連れ込まれ、混乱の境地にあるらしいゆんゆん。モガモガと口を動かす彼女を抑えながら、スバルは一言。

「――――――――『潜伏』」

 言葉を聞いてスバルの意図を察したのか、ゆんゆんがピタリと動きを止める。

 これが、今周回でのスバルの策。

 多数いる一撃ウサギの群れを、被害もなしに殺し切ることはゆんゆんにも出来ない。もちろん、スバルが殺し切るなど論外だ。

 しかし、初期レベルかつ低ステータス、基本職”冒険者”のスバルには長所がある。

 レベルが上がりやすいという点と、あらゆるスキルを取得可能な点だ。

 そして、『死に戻り』というスバル自身の特性を組み合わせれば、それは状況に合わせた最適なスキルの取得を可能とする。

 ――――スバル達に一撃ウサギの群れを相手にできないのなら、相手にしないままやり過ごせばいい。

 自害の前にクリスに教わり、たった今一撃ウサギの命と引き換えに取得した潜伏スキルの効果が、全身に発揮されていく。体表面から外気へと放出される熱量が極限まで低下し、呼吸音が自然と低くなる。

 眼の前にあるはずのゆんゆんもそれは同様で、目の前の身体から気配が、存在感が急速に薄れていった。

 まるで、路上の石ころになったかのよう。

 確かに動いているはずの自分の心臓、その存在が疑わしくなるほどに。

 そうして、潜伏スキルの効果が全身に行き渡ったと同時に、先程の草むらから次々とウサギが現れた。

 ぞろぞろと現れたその口元は、食した何かの鮮血で赤く染まっており、外見に似合わぬ獰猛な習性が窺える。

「――――――――っ」

 スバルの行動の意味、かのウサギ達の悪辣さと危険性。それらを察したのか、ゆんゆんは漏れそうな悲鳴を噛み殺し、必死で息を潜める。

 ウサギ達は、同胞の死体を観察し、その下手人を探すように周囲を見回し、ヒクヒクさせた鼻で地面を嗅ぎ始める。

 スバルの脳裏に以前の惨劇がよぎり、目の前が真っ赤になる。聴覚を、幻の咀嚼音が支配する。

 それでもはっきりと、その手にあるゆんゆんの(そんざい)を確かめ、しっかりと握りしめる。

 存在を悟らせないように、潜伏スキルの効果が消えないように。

 二人は全身を緊張させつつも、必死で互いの手を握り、身を寄せ合った。

 じわり、じわり。

 スバルの手のひらを、汗がびっしょりと濡らす。

 皮下組織に埋まった汗腺から、恐怖と緊張からくる精神性発汗がどんどん分泌されていく。

 おそらく、時間にしてわずか数分の出来事。

 それが、今は永遠にすら感じられた。

 いつかの周回、この少女と共にゲームを興じた平穏の時ならば、数時間が光のように過ぎ去ったというのに。

 二人の緊張が頂点に高まった時。

 ウサギ達はようやく、スバル達の視界から姿を消した。

「ふぅ……………………行ったか」

「はぁ……………………よ、よかったぁ…………っ………………!」

 スバルは胸をなでおろし、ゆんゆんも大きく息をついた。互いの手を重ねたまま全身の筋肉が弛緩し、体重が自然と背中の彫像へとかかる。

「もう……なんなんですか、あのウサギ達……! あんなに可愛い顔して、私達を狙ってたんですか? なんて悪辣な生き物なの…………!」

 全身から力が抜けたまま器用に小声で怒鳴るゆんゆん。彼女が差す指先をたどると、一撃ウサギの群れが現れた草むらがあり、その先には奴らによって肉塊とされた、孔だらけのオオカミが垣間見える。

 あまりの恐怖からか、紅い瞳はじんわりと涙をためており、ニキビひとつない純白の肌を真っ青に染めていた。

「その意見には、まったくもって同感だが……」

 あいにく、スバルにとってはとうの昔に受け入れている事実である。怒りも恐怖も理解はできるが、それらについて新鮮な感情で語り合うことはできないし、今それをやる気にもなれない。

 今は、休眠状態にある竜の彫像の破壊を試み――――――――。

 不意に、視界が青と白の二色へとに切り替わった。

 まずその光景は蒼天であり、自分が仰向けに寝転がっていることを理解する。

 そして遅れて、自分の身体が脱力のままに後ろへと転がったのだと気づいた。

 横目で見ると、ゆんゆんも同じように横転し、目を丸くしている。

 スバルはそんな彼女の手を感じながら、自身が背後の支えにしていたものがなんだったか思い出して――――

 高らかに鳴り響く咆哮が鼓膜を揺らすと同時、スバルはもう一度、潜伏スキルを発動させた。

 咆哮に戸惑いを隠せないゆんゆんを他所に、スバルの思考は混乱する。

 自身の舌先をとっさに噛んで、漏れそうになった声を強引に飲み込んだ。

(嘘だろ……………………!?)

 背後にあったはずの竜の彫像の姿がない。

 休眠状態にあった最古の竜の姿がない。

 それはつまり、ドラゴンが活動を開始し、自身の姿を認識偽装したことを示していた。

 セーブポイントから数分、エンシェントドラゴンの活動開始が早すぎる。

 前々回の周回は一週間、前回の周回は一日。襲撃からエネルギー補給までどれだけの時間があったかは知らないが、少なくともわずか数分でこのドラゴンが活動していたとは思えない。

 仮にそうならば一周目、スバルとゆんゆんを襲っていた一撃ウサギや初心者殺しを、このエンシェントドラゴンが標的にしていてもおかしくない。

 否。それ以前に、一度も竜の咆哮を聞くことなく森を抜けていたというのはいくらなんでも考えづらい。

 なにせ、めぐみんが入り口の方で放つはずの爆裂魔法、その破壊すら未だ起きていないのだ。

 ドラゴンの覚醒があまりにも早すぎる。

 一体何故、と考えながらも、スバルは潜伏スキルを維持し続ける。

 ドラゴンのサイズ、それは人間を遥かに超えた大きさだ。

 自身の足元にいるアリを、人間がわざわざ意識しないように、巨体を持ったエンシェントドラゴンにとっても、矮小な体躯しかないスバルとゆんゆんは意識しづらい存在のはずだ。

 まして、今のスバルたちは潜伏スキルが発動している。物陰に隠れてこそいないが、はるか高みに頭部を上げたドラゴンにとって死角となる位置。決して効果がないはずもない。

 先程、白い毛玉たちにしたことを再現するように、スバルとゆんゆんは、ただ息を殺して時を待つ。

 そして、スバル達は、見えないエンシェントドラゴンが姿を消したと確信できるまで、そこに潜み続けた。

 長い時間、そこで潜み続けた。

 

 

 思索の果て。

 何故、という疑問の答えに気付けるほどの時間が、そこで流れた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 鬱蒼と生い茂った木々。そこにできた道を抜け、ゆんゆんは森を抜け出した。

「ふうっ…………な、なんとかなりましたね、ナツキさん」

 振り返り、自身の唯一のパーティメンバーに声をかける。

 ちょむすけを追いかけて進んでいった森の奥。まさか愛らしいウサギの姿をして人間を騙す、悪辣なモンスターが生息しているとは思わなかった。

 やはり駆け出しの街といっても、冒険者は命がけであることに変わりはないらしい。無事、生還できて何よりだ。

 そのちょむすけを胸に抱えて、ゆんゆんは大きく安堵の息をつく。

 自分もこの子も無事だったのも、とっさに潜伏スキルを覚えて対処してくれたスバルのおかげだ。

 危険な状況下でも、素早く対処してくれた彼に、ゆんゆんは軽く感動していた。

 これぞパーティ同士の助け合い。一人ではどうにもならない状況を、力を合わせて乗り切ることが、冒険者には大事なのだ。

 なんと素晴らしいことだろうか。

 明日からは、また自分もスバルを助けよう。

 今日はまず、冒険者ギルドへの報告だ。あの謎の咆哮に、突然消えた竜の彫像。それらについてきちんと報告をして、それからまたスバルとご飯を食べておきたい。

 きっと楽しい夕食になるだろう。

 想像に頬が緩み、森からの帰り道もずっと押し黙っていたスバルに笑いかける。

「えとえと、あのですね、ナツキさん。今日はこれから――――」

「ゆんゆん」

 ゆんゆんの言葉を遮るように、スバルがはっきりとした声でこちらの名を呼んだ。

 よく見ると、その表情は真剣そのもので、声にもふざけたような様子はどこにも感じられなかった。

 これはきっと、今後に関わる大事な問題であろう。

 そう思い、ゆんゆんも真面目な顔をして、ちょむすけを抱きしめたままスバルに正対する。

 ゆんゆんに聞く姿勢を見て取ったのか、スバルは目を合わせ、はっきりとした声で告げた。

 

 

 

「パーティは解散だ。たった今から、俺たちの関係は終わりにしよう」

 

 

「――――――――ぇ」

 

 唇からは声にすらならない、小さな音がこぼれ落ちた。

 理解できない。

 言葉の意味を、そのまま受け取ることができない。

 どうして。どうして。どうして。

「……………………ど、うして、ですか?」

 やっと出てきたのは、心中を埋め尽くすたったひとつの疑問である。

 自分は受け入れられていたのではなかったのか。

 スバルとともにいた短い時間。その短いながらも楽しかった時間。

 その間、自分が感じていた仲間意識は勘違いだったのか。

 森で潜伏スキルを発動させた時、スバルの腕が必死で自分を守ろうとしてくれていたと思ったのは、思い込みだったのか。

 自分が感じた思いが、思い込みでないのなら。

 どうして自分たちのパーティは、終わらなければならないのか。

「どうもこうもない。俺がこれからやらなきゃいけないことと。ゆんゆんがこれから歩もうとしてる道。それらが、決して交わるべきものじゃないんだって、気づいただけだ」

 スバルがやろうとしていること。

 ――――なんつーか…………俺、魔王を倒したいんだよ。

 スバルが言っていた言葉が頭をよぎる。

 確かに自分はスバルの目的に最後まで付き合えないと言った。魔王退治なんていう無茶は出来ないと言った。

 あくまで、ある程度の間だけ、共にパーティを組むというのがスバルとの盃を交わして決めた約束だ。

 でもそれは決して、こんなに早く終わるものではなかったはずだ。

 スバルの力は未だ弱く、自分の力がもっと必要になるはずだ。

 いくらなんでも早すぎる。せめて、もう少し一緒にいて欲しい。

 そう言い募ろうと、口を開いて。

「――――――――――」

 声が出ない。

 信頼しつつあった相手に拒絶されたという事実が、彼女の心に恐怖を生み、たちまち肉体を支配する。

 ――――自分が楽しいひと時と思っていただけで、スバルは不愉快なのを我慢してくれていたのではないか。

 ――――これ以上すがってもただ相手を不快にさせるだけではないか。

 ――――二日も付き合ってもらえたのだ。自分のような人間には、むしろ上等が過ぎるのではないか。

 頭の中で、自分の声が冷徹な予想を告げる。

 ありもしない幻聴がゆんゆんの脳を揺らし、自分の意志を封じ込める。

 言いたい。けど言い出せない。

 止めたい。なのに手が出ない。

 縋りたい。でも縋れはしない。

 たった一言。『私は嫌だ』という、シンプルな意思表示すらできないまま。

「じゃあな、ゆんゆん。生き残れよ、何があっても」

 スバルはゆんゆんに、背を向けた。

「――――――――ぁ。待っ――――」

 その背中に手を伸ばそうとして、

「痛っ…………!」

 ゆんゆんの足がもつれて、小さく転び、顔を打った。

 スバルはそれを受けて、一度だけ足を止め。

「……………………!」

 振り返ることなく、再び歩き去っていった。

 一度もこちらを見ることなく、早々に平原を抜け、姿が見えなくなった。

「痛い…………」

 地面にぶつけた顔が痛い。

「痛い…………」

 尖った石で小さな傷ができた、首が痛い。

「痛いよう…………」

 かきむしられるように、胸が痛い。

 また、独りになってしまった。

 また、友達になれなかった。

 また、誰かの隣にいられなかった。

 その事実が、ただただ苦しかった。

 黒い猫が、ゆんゆんの顔を舐める。

 小さく「なー」と鳴き、鼻でツンツンとこちらの顔をつつく。

 そんな慰めも、今の少女には届かない。

 

 

 

 

 置いてけぼりにされた孤独な魔女は、一人平原で泣き続けた。

 

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ゆんゆんと別れ、スバルは姿を隠した後。

 そのまま潜伏スキルを発動させると、ぐるっと大回りをして、別方向から平原に向かう。

 広い平原。遠くにある人間の姿は小さく、そうそう気づかれるものではない。

 遠目に見ると、平原のゆんゆんが、未だに一人うずくまっているのが見えた。

 それに気づかれぬよう、悟られぬよう、潜伏スキルを全身にまとわせつつ、そっと森に入る。

 ゆんゆんを見捨てた。

 彼女の心に大きな傷を負わせた。

 その罪深さは、スバルも理解している。

 ループを含めてもそれほど長い期間そばにいたわけではないが、それでも彼女が人間関係というものに強い固執を抱いているのは、十分に理解できたつもりだ。

 それが拒絶された時、彼女の強くも繊細な心が、大きく傷を負うということも。

 当然、スバルは決して彼女を拒絶したかったわけではない。彼女とともにある時間は、十分に好ましいものだった。

 だが。

「それでも、気づいちまったからな…………」

 考えてみれば、当たり前のことだったのだ。

 クリスが。こちらの言い分をまるで聞かず、敵意を剥き出しにして自分を悪魔、あるいは悪魔憑きと決めつけていた彼女が、エンシェントドラゴンの出現後、一転こちらへの態度を切り替えたのは何故か。

 エンシェントドラゴンが悪魔の天敵だというのなら、スバルが悪魔憑きだとしても、人間に天敵(エンシェントドラゴン)を討たせようとしたということで、辻褄が合う。竜の実在は、スバルの無実を証明することにはならないというのに。

 エンシェントドラゴンの覚醒。それが今回ここまで早くなったのは何故か。

 スバルの見る限り、モンスターを一体たりとも取り込んでいなかったはずなのに。

 ただ。この不自然な式に、スバルが感じていた違和感を代入すれば、話は変わる。

 その違和感とは、「クリスは前々回、スバルから漂う瘴気をほとんど嗅ぎ取れなかったのか」ということだ。

 経験上、瘴気――――魔女の残り香は『死に戻り』によってひどく強まり、その悪臭は一日や二日でそう消えるものではなかった。

 スバル自身に瘴気を嗅ぎ取ることはできないが、誰よりも信頼のおける少女の証言だ。間違いない。

 にも関わらず、一度目の『死に戻り』ではほとんど瘴気を感じとられていなかった。

 さて、ここでエンシェントドラゴンの方に視点を移してみよう。

 彫像と化して休眠状態にあったドラゴン。これまで冒険者たちが一度もあの彫像を見ていなかった以上、ドラゴンは休眠中は空間偽装によって姿を消していたということだ。

 休眠の解除が偶然か必然かはさておいて。

 寝ぼけ眼のドラゴンに触れたものはスバル――――つまり、その身に悪魔そっくりの瘴気を漂わせた存在だ。

 いわば、カンフル剤のようなものなのだろう。

 ドラゴンはスバルの知覚外で、悪魔の力――その瘴気を身に取り込み、活動を開始したのだ。

「は―――――ははは」

 暗い、昏い森を進み、スバルの口から乾いた笑いが漏れる。

 前々回は、『死に戻り』直後、触れていた彫像にほぼすべての瘴気を取り込まれたから、クリスはスバルの瘴気を感じ取れなかった。

 前回は『死に戻り』直後に尻餅をつき、彫像から手を離したから、スバルの瘴気はかなり濃厚に残ったままだった。

 故に一度はクリスから「自覚のない悪魔憑き」という疑いを呼び、その後スバルが竜尾に拘束され、瘴気を吸われ尽くしたからこそ。テレポート後のクリスは、『エンシェントドラゴンのドレインで、取り憑いていた悪魔が殺された』と判断し、温厚な態度になったのだろう。

 そして今回。周回を重ねてより濃厚になった瘴気を吸い込んで、エンシェントドラゴンは早期覚醒してしまった。

 そう考えれば、辻褄が合ってしまう。

 スバルがいなければ、エンシェントドラゴンは再び眠りについたのではないか。

 悪魔ホーストとの戦いの後、冒険者たちがドラゴンという追い打ちを受けることはなかったのではないか。

 スバルがいなければ、誰も死なずに済んだのではないか。

「全部、ぜんぶ…………」

 その身を喰い破られ、全身を咀嚼されたゆんゆんも。

 身体を切り刻まれ、何が起きたかわからぬままに殺されためぐみんも。

 そのめぐみんを背負いながら、胴体を二分された少女も。

 竜にその胸を貫かれためぐみんも。

 竜に片腕を食いちぎられ、奮戦を続けたゆんゆんも。

 その全てが、スバルの引き起こした犠牲者だ。

 スバルは彼女たちを救えなかったのではない。

 スバルが彼女たちを殺したのだ。

 スバルが災厄を引き起こしたのだ。

「俺の、せいで…………」

 

 

 

 

 ナツキ・スバルは、この世界の疫病神だった。

 

 

 

 

 

 今スバルが死のうと、わずかでも瘴気を吸い込んだエンシェントドラゴンはいずれ動き始める。それは、前回の周回で証明済みだ。

 スバルの纏う瘴気。

 それはあくまで『残り香』であり、エンシェントドラゴンも真の持ち主がスバルでないことを理解しているはずだ。

 前の世界で世界の半分を飲み込んだ嫉妬の魔女(ほんらいのもちぬし)、その危険性を本能的に悟り、在りもしない敵に対抗するべく、即座に動き始めたのだろう。

 他の街からの応援は呼べない。つまり、もはや瘴気を拭ったところで意味は薄い。

 悪魔ホーストか、エンシェントドラゴンか。

 限られた戦力でそれらを何とかする方法を、生み出さなくてはならない。

 それが、スバルに課せられた、償いだった。

 

 そう――――だから。

 この世界でしかできないやり方で。

 ナツキ・スバルにしかできない戦いを。

 ナツキ・スバルだけでやるべき戦いを。

 今、始めよう。



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15 『ゼロカラツグナウトウボウセイカツ』

 空が厚い闇に閉ざされ、静けさが街に広がりつつある夜。

 今日も今日とてパーティを追い出された爆裂狂いの紅魔族は、自分の使い魔(ちょむすけ)が未だに戻っていないことに気がついた。

「ゆんゆん、起きていますか? うちのちょむすけが帰ってきていないのですが、心当たりはありませんか?」

 小さく揺れるのは、肩の当たりで切りそろえられた黒髪。

 眼帯を外し、両の紅瞳を露わにして、めぐみんはライバルの部屋のドアを叩く。

「ゆんゆん? いないのですか、ゆんゆん?」

 数回扉を叩くも、まるで反応が見られないことを不思議に思い、めぐみんは首を傾げる。

 経験からいって、ゆんゆんがここまで自分の呼びかけに応えないことは考えづらい。

 だが、部屋にいないというのもどういうことだろうか。

 ぼっちとはいえ、秘めたる才は紅魔族屈指のゆんゆんだ。その実力はめぐみんも目の当たりにしている。

 クエストで意味もなく無茶をする性格でもないし、この街の周囲にいる魔物程度なら相手にならないだろう。軽く敵を一蹴し、とっくに部屋に戻ってきていると思っていたのたが。

 そこで、今の彼女が一人ではなかったことを思い出す。

「まさか…………」

 これが、仲間と朝まで飲み明かしているのなら構わない。

 だが、もしも足手まといをかばい、魔物を相手に大きな傷を負い、帰れなくなっているとしたら。

 動けなくなったところに、多くの魔物に群がられれば、あるいはその生命も。

 自身の想像が最悪の図に行きついて、自分の顔から一気に血が引くのを感じた。

 血の気が失せた顔で、めぐみんは急ぎ階段を駆け下り、ゆんゆんを見なかったか聞こうと階下の酒場に向かい、

「うう………ひっく、ひっく…………ぐすっ…………あぅぅぅぅぅ……ふぇぇぇぇぇええええええええええええええんっ!」

 そこで大泣きする、自分のライバルの姿にずっこけた。

「んぐっ………んっ…………ごくりっ……。うっ……うっ……どうして……うぐっ……どうしてよおおおぉおぉぉぉぉぉぉぉ! 私の何がいけなかったっていうのよぉぉぉぉっ……!」

 ゆんゆんはその瞳から大粒の涙をこぼし、嘆きの声を上げながら遅い夕食を摂っている。

 彼女の隣で突っ伏す酔っぱらいは、ゆんゆんの声にうるさそうにもぞもぞしていた。

 よくよく見ると、近くの椅子ではちょむすけが丸くなって、我関せずといった態度を見せている。

 めぐみんが目の当たりにしたその光景。

 そこになんとなく事情を察しながらも、一応声をかけた。

「ゆんゆん、公共の場所で大声を出すのはやめておきなさい」

「め、めぐみん……?」

 そこでようやくこちらの存在に気づいたらしく、ゆんゆんは紅潮させた顔をこちらに向ける。

「というか一人でブツブツ愚痴っているなんて、らしくないですね。ゆんゆんは多少嫌なことがあっても、死んだ目をして一人溜め込んでいそうだと思っていましたが」

「う、うん……。私もここまで荒れるつもりはなかったんだけど……」

 そう言ってゆんゆんは恥ずかしそうに顔を伏せ、ちらりと横で突っ伏している酔っぱらいに視線を移し、

「この人が、辛い時に溜め込むのはよくない、自分が話を聞いてやるって言ってくれたから。お酒を奢りながら話してるうちについついヒートアップしちゃって……」

「たかられてるじゃないですか! 弱っているところにつけこまれてないで、しっかりしてください!」

 全く、隙の多い娘である。

「で、こんな人前でバカみたいに大泣きして、そうなる前に一体何があったんですか?」

 めぐみんの放つ、核心的な問いかけ。それを聞くとゆんゆんは長い髪を揺らし、気まずそうに顔を伏せた。

 彼女の反応から、自分の考えが間違っていなかったことを確信し、小さく嘆息する。

「まあ、想像はつきますけどね。大方、パーティから無理矢理外されたといったところでしょう」

 ぐさっ。

 そんな擬音が聞こえてきそうなほど、ゆんゆんの身体が大きく震えた。

「まったく。どうせ初めての仲間が出来て浮かれた挙句、自分本位に動いて愛想を尽かされたのでしょう」

 単純な実力ならば、ゆんゆんが切り捨てられることは考えづらい。中級魔法しか使えない半人前の紅魔族とはいえ、そんなものはここでは大したハンデにならない。

 確かに経験自体は不足していると言わざるをえないが、駆け出し冒険者が集まるここで、それだけの理由で拒絶されるとは考えづらい。

 やはり、初めての仲間に浮かれて、一日中冒険に行かず買い物に連れ回していたとか。

 あるいは逆に気を遣いすぎて、ドン引きレベルの行動を始めたとか、そんなところだろう。

 まったく、バランスを考えて相手に合わせるということを覚えてほしいものである。

 爆裂道(じぶん)を貫いた結果、今日もパーティから追い出された少女は、自信満々にそう推察した。

「……………………違うの」

「ん?」

 めぐみんの確信を込めた推測、それに返されたのは力なきつぶやきだった。

「本当に、どうしてかわかんないの。……ナツキさんが、あんなこと言い出した理由。考えても、考えるほど、わかんなくなっていくの」

 そうして。ぽつり、ぽつりと。

 ゆんゆんは目を伏せて、声を震わせながら話し始めた。

 ナツキ・スバルという、目つきの悪い冒険者職とパーティを組んだこと。

 彼は魔王を倒そうという強い熱意と、危険な状況下で素早く的確に動ける判断力を持っていたこと。

 反面、その熱意とは裏腹に、彼はまだまだ実力不足だったこと。

 ゆんゆんは、魔王討伐まで付き合う気はなかったものの、しばらくパーティとしてやっていきたいと思っていたこと。そのことはきちんと話し、スバルも合意していたこと。

 にも関わらず今日、森に走っていったちょむすけを連れ帰ると、突然スバルから解散を告げられたこと。

 涙混じりな彼女の話をまとめると、そんなところであった。

「なるほど…………」

 ゆんゆんの言葉を聞き終えて、めぐみんは腕を組む。

 確かに、スバルの行動は不可解だ。

 もちろん、待ち合わせに気持ち悪いほど早く来ているなど、確かにゆんゆん側にもアレなところは散見されている。

 だが、ゆんゆんの話が確かならば、スバルの態度が変わったのは森を出たあたりらしい。アレなゆんゆんに付き合いきれなくなったなら、もっと早くに言いそうなものだ。

 互いの道が交わるべきものではない、というのもわからない。

 確かに、ゆんゆんは魔王討伐を本気で目指すような勇者様志向ではないが、だからといってあっさり解散する必要性が見いだせない。

 スバルの立場からすれば――言葉は悪いが――ある程度の期間はゆんゆんを利用した方が合理的なはずである。

 情報が少なすぎて、スバルの考えを導き出すことはできない。できないが、確かに彼に何かの事情があることは間違いなさそうである。

 しかし。

「理由はわかりません。ですがゆんゆん。そう悩む必要などないのではありませんか?」

 できるだけ優しく、慰めるように。

 ショックで見解を狭くしている彼女に、珍しく親切に。

「悩まなくていいって…………どういうこと?」

「ええ。だって――――――――」

 

 

 

 

 

「別に――――誰でも良かったのでしょう?」

 

 

 

 

 

 ぴたり、と。

 ゆんゆんの瞳が見開かれたきり、身体の動きが静止した。

 それに構わず、めぐみんは言葉を続ける。

「ゆんゆんにとって、その男はたまたま声をかけてきただけの相手。別に、こだわらなければならないような、かけがえのない相手ではないはずです」

 そう考えると、この出来事は決してマイナスにばかり働くまい。

 パーティを解散して、ゆんゆんは一時的にショックを受けているようだが、ナツキ・スバルとのわずかな時間は決して悪い経験ではなかったはずだ。

 初対面の相手とそれなりにコミュニケーションを取れたのだから、ゆんゆんも少しは人に慣れただろう。

 後は、スバルとの別れなどそれほど大事ではないということを理解すればいい。うまくいく『次』を探せばいいと、割り切れられれば、きっとパーティを組めるはずだ。

「ゆんゆん。もう頭も冷えたでしょうし、私は部屋に戻ります。落ち着いたらゆっくり眠って、それから今後のことを考えなさい」

 だが、そこまではっきりとは言わない。

 これはゆんゆんの問題。彼女自身が考えて答えを出さなくては、きっと彼女は変われない。

 自分はゆんゆんの師ではなく、あくまでライバルだ。

 言うべきことを言い終えためぐみんは、眠たそうにしているちょむすけを拾い上げ、そのままゆんゆんに背を向けた。

「わた、し、は…………」

 歩き出した背中に、そんなつぶやきが聞こえたが、振り返りはしなかった。

 

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――――――42周目

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 大きく風が流れ、濃密な木の香りが鼻孔を刺激する。

 ひとつひとつの木々が伸び、青々と茂った葉が重なり合うその森を、四人の男が歩いていた。

 男たちの動きによどみはなく、迷う様子もなく進んでいる。それはこの森を知り尽くした動きであり、動きを止める際も、念のための確認という色が強そうだ。

 戦士風の男が身につける鎧は、高い防御力を持ちながら、動きを損なわない軽さを持った高級品だ。見識を持つ人間ならば、その機能性を追求した作り手の在り方に感服しただろう。

 盗賊風の男と魔法使い風の男も同じようなもので、優秀な装備とそれに見合った経験があることが見て取れる。

 そんな中、唯一人異質感を放った少年がいる。黒と白を基調にし、橙のラインが入った衣装を着ている。それなりに鍛えているのか、一般人に比べれば筋肉質ではあるが、それも冒険者の中では特筆するほどでもない。

 他人が見て印象に残るのは、常人と比べて凶悪な雰囲気を見せる三白眼程度であろう。

 少年の名はナツキ・スバル。この世界の異邦人にして、なりたての冒険者だ。

 ある少女が縫った、”ジャージ”を模した衣装を纏い、ショートソードをホルスターにセットしている以外は目立った装備も荷物も見られなかった。

 衣服をジャージへと切り替えたのに、それほど深い意味はない。

 単に前日着て、冷や汗でびっしょりになった冒険者風の衣服よりは、こちらを着ているほうがマシだと思っただけだ。

 新しい服を買うような時間的余裕は、今のスバルのスケジュールに存在しない。

 歩いていると、パーティにいる盗賊職の男が声を放った。

「おい、敵感知に反応がある。とりあえずこちらに向かうでもなく、さまよってるだけみたいだがな」

 その報告にスバル以外のパーティメンバーは顔を見合わせて、話し合いを始める。

 三人の話し合いにスバルは蚊帳の外だが、それに不満などこぼしはしない。

 スバルはこの三人の仲間ではないからだ。

「一体か……ギルドの報告に上がってた悪魔型モンスターかもしれねえな」

「となると、油断は禁物だな。俺たちもそれなりにレベルが高いが、悪魔とあっちゃ相手にしたくねえ」

「ああ、しょぼい悪魔ならともかく、上位の悪魔には知能も戦闘能力もおっかねえからな。ここは安全に索敵したほうがいい」

 その判断は正しい。

 彼らも上位悪魔の危険性はギルドでも十二分に知っているし、わずかでもその危険性があるなら、決して無理をしないのが熟練の冒険者である。

 事実、この森にいる悪魔は、この街の冒険者たちが挑んでもまず敗北する。

 それはスバル自身がよく知っている。

「おい命知らず、お前の出番だぞ」

 槍を持ったの男はそういって、スバルに顔を向けた。

「わーってるよ。お役目はきっちり果たしてくるからさ」

 もちろんスバルもやることはわかっている。何度も何度も繰り返してきたことだ。言われるまでもない。

 盗賊の男の『潜伏』スキルによって、三人の男が気配を消す中、スバルはゆっくりと三人から離れ、前に出る。

 慎重に音を立てないようにそっと足を進めていく。足元の枯れ木を折らないように、頭の先端に生樹の枝がぶつからないように。

 だが、スバルは『潜伏』スキルは発動させていない。

 完全に気配を殺しては、スバルの役割が果たせない。

 慎重に音を立てないように、それでも微かな気配を帯びながら、スバルは確実に前に進んでいく。

 やがてスバルの視線の先に獣の姿が映る。それは、黒い小山のような巨体を持ち、鋭利な爪で木の根を掘り返すようにしている猛獣だった。

 一撃熊だ。

 討伐クエストならば、数百万エリスは下らない凶悪なモンスター。ギルドでの話では近隣の山に生息するものであり、こちらの森には来ないはずの敵である。

 ホーストがこの街に来る過程で山を通り、こちらのあたりにまで追い立てられてしまったのだろうか。

 まあ、それはどうでもいい。以前も考えたが、結局答えを出しても意味のない問いだ。

 一撃熊は、男たち三人ならば勝てない相手ではない。

 スバルは後ろ手で予め決められたサインを示し、三人に合図を送る。

 そこからしばらく間をおいてから。

 スバルは意図的に近くの枝を踏み潰す。

 音を聞きつけた一撃熊からよく見えるよう、片手に持った刃をわかりやすく振りかざす。

「さあ来やがれ。くまさんこちらってやつだ」

 スバルが手に持つのはショートソード。もちろんこんなもので一撃熊の相手などできるはずもない。

 剣の才能がないのは自分が一番よくわかっている。今のこれは飾りのようなものだ。

 一撃熊はスバルを獲物と認識すると同時に、歓喜の咆哮をあげ、一目散に突進してきた。

 巨体に似合わぬその速さに、スバルは大きく右に跳び、茂みへと突っ込む。

 すると獣は、逃さんと言わんばかりに身体を旋回させ、方向を修正した。

 その名の通り、人間の頭など一撃でもぎ取る力を持った前足。

 スバルが何かに足を取られるだけで。

 いや、この音を聞きつけた他の魔物がちょっかいをかけるだけで、スバルは回避できずに、その身を引き裂かれるだろう。

 しかしスバルはそれを恐れない。

 どのあたりで接敵すれば、余計な障害物のない状況にできるか。

 どの道をどれだけのペースで進めば、他の魔物が来ないタイミングになるか。

 スバルはそれを知っている。

 姿勢が崩れたまま強引に跳躍し、スバルが二度目の回避をした直後。

 男の声が響いた。

「『ファイアーボール』!」

 声は遠く。木々の影からアークウィザードの男が放った火球は、唸りをあげて一撃熊の後脚部に突き刺さる。

 当然、跳躍していたスバルに被害はない。一撃熊の下半身が火に包まれ、その瞳が恐怖に染まった。

 同時に、近くで潜伏していた盗賊と槍を持った男がそのまま一撃熊に襲いかかり、目を、胴体を貫いた。

「相変わらずナイスな威力だな」

「なに、どうってことねえよ」 

 これらの動きに迷いはなく、淀みもない。

 まず後衛が遠距離から魔法でダメージを与えつつ動きを止める。

 そしてパニックになった相手を潜伏で接近していた前衛が致命的なダメージを与える。シンプルだが、単純なモンスターには効果的な作戦だ。

 これまで強力なモンスターを処分するため、何度もやってきたのだろう。

「スバルも囮役よくやったぜ」

「ま、俺はこのくらいしかできねえしな。弱いなりにやれることはしっかりやらねえと」

「おら、話しながらでいいから、とっとととどめを刺せよ、スバル。血の匂いを嗅ぎつけられないとも限らねえんだから、長居はしたくねえ」

 男達の指示に従い、スバルは死に逝く一撃熊に、最後の一撃を下した。

 

 冒険者がパーティ組む場合、基本的にはビジネス的な性格が強い。

 なにせ、命をかけてモンスターと戦うための協力関係だ。

 長い付き合いになれば、情や信頼関係も湧くだろうが、基本的にはお互いがお互いの役に立たなければ意味が無い。

 役に立たないとなれば、それらしい建前で戦力外通告を受けたとしても文句は言えないのだ。

 逆に言うなら、冒険者になりたてで、最弱職”冒険者”でしかないスバルであっても。

 何らかの形で有用であると判断されれば、高レベルのパーティに入れてもらえるし、そのおこぼれに預かることが出来る。

 そう、どんな形であっても。

 このパーティに混ざったスバルの役割を表現するなら、偵察、探知機。あるいは炭鉱のカナリアだ。

 要はモンスターの潜んだ、森という地雷原を進み、先の危険を具体化していく仕事である。

 最も戦闘力で劣るスバルが率先して危険な場所を確認しにいき、問題ない程度の敵ならばそのまま合流。敵を蹴散らして進んでいく。

 逆に、悪魔のような危険な相手ならば、スバルの合図を受けて、あるいはスバルの殺害を感じて撤退するのだ。

 撤退のケースでは、たとえスバルを置いて三人だけで逃げ出したとしても、スバルは文句を言えない。

 本来このパーティは男たち三人のもの。スバルは頭を下げて一時的に手伝わせてもらっている立場である。

 駆け出しの街に不相応な熟練パーティが、最弱冒険者ナツキ・スバルを仲間に入れる理由は、上位悪魔ホーストを警戒しているからに他ならない。

 スバルは命がけだからこそ、”有用”と判断されるのだ。

 この三人の冒険者には、魔王を討伐する気など全くない。

 なんでも、基本的にはほとんど働いていないニート生活を送っているらしい。

 この街でもたまに出る、指名手配済の強力な魔物を狩り、莫大な報酬を得て、後はひたすらぐうたら怠けて過ごしている。

 そして、最近は懐が寂しくなる周期に入ったものの、ちょうど冒険者ギルドが悪魔への警告を出していたため、リスクを恐れて途方にくれていたのだ。

 そう、この三人。

 スバルがゆんゆんと初めて出会った日、受付で「格下のモンスターしか相手したくない」と騒いでいた、トンチンカン二号である。

 このパーティで命を賭したスバルの報酬は、金銭ではない。

 彼らが挑む凶悪なモンスターとの戦いで、可能な限りトドメを――経験値を譲ってもらえることだ。

 自分の中に、一撃熊の経験値(たましい)が流れ込み、全身に力が漲ってくるのを感じられる。

「敵を倒しさえすれば、訓練の時間もなしに強くなれる。こんなわかりやすいシステム、これまでなかったもんな…………」

 駆け出し冒険者の集まる街、アクセル。周囲の弱いモンスターの大半は駆除され、最もお手軽とされるジャイアントトードすら、スバルが戦えば喰われて死ぬだろう。

 スバルが得るものは、最低限の強さを得るための、迅速なレベルアップ。

 スバルが差し出すものは、命を落とすリスクと、皆の安全。

 これで良い。

 ゆんゆんと一緒では、決してできなかった戦い。

 スバルを見捨てようとしなかった彼女が、決して許してくれないような戦い。

 他の誰でもない、スバルだからこそ。

 狩り取った命という結果のみで強さが決まる、この世界だからこそできる。

 短時間で最高効率の強さを得るための戦いだ。

 これで良い。

 罪深い自分のせいで誰かが死ぬよりは何倍もマシだ。

 命を差し出すリスクなど。爪が身を裂き、牙に臓腑を喰い尽くされるリスクなど。

 今のスバルにとっては、心が磨り減るだけの、安い代償に過ぎないのだから。

 とはいえ、経験値が莫大に入る強力なモンスターはそうそういない。

 スバルには脅威でこそあれ、それほど高い糧とならないモンスターに出くわしながら、同じような作業を繰り返し。

 何度目かの先行で、スバルの肩の上に、ポトリと何かが落ちてきた。

 目を向けると、そこには怪しく蠢く、ゲル状の生物が映った。

 その生き物の体色の緑が、スバルの眼球が映した最後の色になった。

「スバル!」

 男の声がスバルの鼓膜を揺らすより先、緑色の軟体生物はスバルの顔に飛びついてきて、そのまま眼から口にかけて一気に覆い尽くす。

「――――ぁ――――」

 スバルの視界が全て緑に染まり、外界から酸素を取り入れるための鼻や口を、ぐにぐにとした感触が侵食してくる。

 手で顔から引き剥がそうと足掻くものの、何の取っ掛かりもないそれの前に、スバルの指は無力に泳ぐばかりだ。

「おい、スバル!」

「そいつはもうダメだ、木にびっしりスライムがいやがる。あれを全部殺そうと思ったら、どうやってもスバルも巻き込んじまうぞ!」

「……ちぃっ! しょうがねえ、往生しろよ!」

 三人の男の声が遠くなるのを感じ取りながら、自分の眼球が、鼻孔が、口内が溶けていくのを感じながら、スバルは場違いにも思い出す。

 スライム。

 そういえば、ゆんゆんにも注意されたものだったか。

 スライムは物理攻撃がまともに効かない、危険な生物だと。

 手足が痙攣し、胸が張り裂けそうな激痛にまみれ。

 酸素を失い、息苦しさで頭を蹂躙されながらも。

 何故か妙に落ち着いたような感覚で。脳が停止するのを、他人事のように見ている自分が、どこかにいた。

 

 

 この世界も終わりだ。

 さあ、もう一度。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 少し前のことを追憶しよう。

 

 

 ゆんゆんに別れを告げたあの後。

 ナツキ・スバルは、気配を絶ちつつも、森の奥へと足を進めていった。

 異世界は基本的に優しくない。それはスバルもよく知っている。

 自身の気配を消し去る『潜伏』スキル、その対抗策を持ったモンスターがいないとも限らない。むしろ、いて当然と思うべきだろう。

 その可能性に気づいた上でなお、無力なスバルは魔物ひしめく道を突き進む。

 僅かな光すら徐々に消え、闇に満ちた道を進んでいく。

 それは、例え『死に戻り』を知っている人間がいたとしても、蛮勇に見える行動だったかもしれない。

「――――――――よう。俺様は上位悪魔のホーストってもんだが…………探してる相手がいてよ」

 だが、悪運が強かったと言うべきか、スバルは無事に目的の相手の元にまでたどり着くことが出来た。

「懐かしいウォルバク様の匂いを嗅ぎつけて来てみれば、なんで人間がこんな夜中に一人でうろついてるんだ? まあいいか、それよりお前、どこかでウォル――――」

「俺は、『死にも――――」

 ぶつくさ言うホーストの言葉に被せるように、スバルは自身の空気を一変させる一言を放った。

 定められた禁忌を破る言葉とともに、世界から色が消え失せる。

 目の前の悪魔の表情がぴたりと固まり、スバル自身の唇も動きを止めた。

 二人だけではない。

 目に、耳に、肌に、五感すべてに働きかける世界のすべてが停止する。

 その中でスバル自身の意識だけが明確に、自身に這い寄る黒い靄を感じ取る。

 その黒い靄は腕の形を――否、腕だけではない。

 スバルが『死に戻り』を明かそうとするたび、徐々にその輪郭は明確となり、今ではぼんやりとした形で全身すら見せることがある。

 禁忌を犯すスバルの心臓を掴み取り、辛苦という罰を与えにやってくる魔女の腕。

 覚悟を捻り潰すような苦しみを、叫び出したくなるような激痛を、白色に染まる視界の中、意志の力でねじ伏せてただ耐える。

 そのまま痛覚以外がすべてを置き去りにするように流れ去り――――。

「お前、悪魔だったのか…………」

 ホーストの驚いたような言葉に、スバルは時間が動き出したことを理解した。

「それも相当な力を持ってやがる。なんでそんな弱そうな人間の身体を借りてるんだ?」

「――――事情があってな。今はちょっと人間の姿(こんなかっこう)をする必要があるんだよ、まあ察してくれ」

 意図的な誤認の誘導。

 まずそれが成功したことを理解して、スバルは激痛に軋む意識を立て直しながら、小さく安堵する。

 時間の止まった世界で、魔女から禁忌を破った罰を与えられたスバル。

 魔女に心臓を掴まれたスバルは、全身から魔女の残り香が――――つまり、悪魔の臭いに限りなく近いものが漂い始めている。

 スバル自身には感じ取れないそれを、ホーストは確かにそれを感じ取ったはずだ。

 事実前回のループで、当初ホーストはスバルの『臭い』を感じ取り、それを根拠に悪魔だと勘違いしそうになっていた。

 ならば、人間の身体を借りている悪魔であるという誤認をさせることは、決して不可能ではないはずだ。

 上位悪魔ホースト。

 生物神器エンシェントドラゴン。

 この二つの脅威は、どちらも森というテリトリーにいるにも関わらず、潰し合わせることができない。

 否。これらが潰し合う時は、エンシェントドラゴンがより凶悪な脅威となってしまう可能性も高く、潰し合わせるわけにはいかないのだ。

 一時で構わない。どちらかを一時的に退場させておきたい。

 それができるのならば、曲がりなりにも会話・交渉の余地があるホーストしかいないだろう。

 そして、ホーストを相手に交渉するならば、スバルの身体に漂う瘴気は、間違いなくプラスに働く。

「俺には俺の目的がある。それに横槍を入れないで欲しいと思って、話し合いに来たんだよ」

 そう言ってスバルは、悪い目つきをなるべく柔らかになるよう、笑みを浮かべてみせた。

「俺はスバル。ナツキ・スバルだ」

「あ、ああ……俺様の名はホーストだ。こっちも話しておきたいことがある。ウォルバク様――――黒くてでっかい魔獣を探していてな。今は匂いが混じってわかりにくいが、確かにお前からウォルバク様の匂いがした。心当たり、あるんだろ?」

 そう、確信を込めた声と共に、ホーストは生気のない瞳をこちらに向けてきた。

 今の時点でウォルバク様とやらに接触されている。

 スバルの脳裏にちょむすけ=ウォルバク様説がよぎるが、それを表に出さないままスバルは答えを返す。

「ああ――――知ってる。でも、教えることはできない」

「おい、なんでだよ? そっちも何か要求があるんだろ? なら、教えてくれたっていいだろう」

 その要求は正当なものだ。だが、それに応えてやるわけにはいかない。

 ホーストの言うウォルバク様がちょむすけだとすれば、ゆんゆんもめぐみんも、決して渡そうとはするまい。

 それでは何の意味もない。スバルは彼女たちを危険に晒さないために、今ここに一人でいるのだから。

 だが、正直に理由を話したところでホーストは納得するまい。

 故に、スバルはこう答える。

「そう、契約しているからだ」

 ナツキ・スバルは悪魔である。

 この嘘を信じさせることができれば、自動的にこの嘘も信じ込ませることができる。

「そうか……なら仕方ねえなあ。契約したんなら、無理強いはできねえ」

「ああ、悪いな。破るわけにはいかねえ」

 悪魔は一度した契約を破らない。これは、前回のループでホースト自身が言っていたことだ。

 当たり前のようにに言っていたこれは、ホーストの個人的な考えではなく、種族としてそういうものなのだろう。

 親が子を愛するように。

 悪魔としての誇りか矜持か、それとも掟というべきか。

 そんな当たり前のことにつけこんで、相手を欺き、利用する。

 きっとこれは、悪魔にすら最低と呼ばれる、そんなやり口だろう。

 だが、今ここでそれを使わない手はない。

 力のないスバルにとって、少しでも前に進む切り口になるなら、それ以上のことはないのだから。

「その代わりと言っちゃなんだが…………お互いにとっていい結果となる話を持ってきた」

 怪しいセールスマンのようなことを言いながらも、スバルの喉は緊張で乾燥していく。

 だが、不自然さを悟らせないために、唾を飲み込むこともできない。

 確実にホーストを説得するために、冷静を装い切るのだ。

「エンシェントドラゴンが、この街に来る」

 一息に告げたスバルの言葉、その単語にホーストの肉体が緊張したのがわかった。

 驚きは刹那。

 すぐに顔を引き締め、悪魔は強い眼力でこちらを見つめてくる。

「――――そりゃ、確かか?」

「ああ、確かだ。間違いない。他の誰でもない、俺の主に誓ってもいいぜ」

 かつての世界に置いてきた、銀色のハーフエルフの姿を想起しつつ、スバルははっきりと断言した。

 そこに込められた確信を感じ取ったのか、ホーストは

「クッソ、冗談じゃねえぞ。あいつがいるとしたら、今の力を失ったウォルバク様じゃ危ねえ。とっとと見つけ出して逃げねえと……」

「俺はエンシェントドラゴンを倒すつもりだ。そのためにここにいる」

 スバルの決意。

 それはホーストからすれば理解できないものだったのか。ホーストは訝しげに見るばかりだ。

「まさか、そのために人間の身体に取り憑いてんのか? いや、あのドレインがそれで防げるのかは知らねえけどよ。仮にそうだとしても、無理があるんじゃねえか?」

 ホーストはスバルの身体を見つめ、そう忠告してきた。

 それは、エンシェントドラゴンを倒せなければ困るというような自身の都合というよりも。

 無謀な若者を諌めるような声色だった。

「俺様も大昔、あの野郎とやりあったことはあるが、ありゃそんな状態でどうこうできる相手じゃねえぞ。俺様の見る限り、いくらなんでも弱っちい身体を選び過ぎだと思うぜ?」

 全くもって同意見だ。

 スバルも自分がもっと強固な身体をしていたならと、どれだけ願ったことだろう。

 まして、魔法を受け付けないエンシェントドラゴンの恐ろしさを知っているのなら、尚更そう思うことだろう。

 それでも。

「やれるかやれないかじゃない。やるしかないし、やれなくっても、街の人間たちが避難するくらいの時間は稼いでやる。だから、この件が終わるまで、俺が森に入って何をしていようと、街にも手を出さず、大人しくしていてほしいんだ」

「……………………バカ言うんじゃねえよ。危険が来るとわかってる場所でウォルバク様を放置するなんてできるかよ」

「どこにいるかはっきりしない相手を、闇雲に探して、か? それこそ街の人間たちが総出で抵抗してくるだろ。ろくなことにならねぇ。今のあの街には、魔剣の勇者だっているんだ」

 そう言って、ホーストの浅慮を止めようとするスバル。

 エンシェントドラゴンの動きを読み切ることはできないが、少なくとも最初に遭遇した時は、ホーストとエンシェントドラゴンは衝突していなかったはずだ。

 変に動かれるよりも、森で大人しくしていてくれたほうが勝率は高まる、と思う。

 ホーストの視点で見れば、『大切な存在が危険に晒されている。どこにいるかわからないが、絶対に口を割らない手がかりが眼の前にいる』というところか。

 最悪、ここでもう一度殺されてでも、ホーストの思考の傾向を読み切って次に生かさなければならない。

 スバルのそんな思考が見えるわけでもないだろうが。ホーストはじっとスバルを見つめて、

「無謀なことしてまで街を守ろうとする姿勢。それほど時間が経ってないくらいの、ウォルバク様の匂い。…………なるほど。あの街に、お前の契約者がいるってことか。ウォルバク様を捕まえ――保護してるのもそいつだな?」 

 そう、若干だが核心を掠めた推測を述べてきた。

 別に契約しているわけではないが、スバルが関わっている人物が、”ウォルバク様”らしき猫を保護しているのは事実である。

 さて、どう反応すべきか――――

「お前の邪魔をすれば、ウォルバク様の安全は保証できないってわけか。クソッ、人質なんてたちの悪いことしやがって」

「……………………」

 そこまでは言っていない。

 だが、迷った末に、スバルはその推測に沈黙で応える。

 この悪魔、案外頭が悪くない。

 変に何か言えばもっとこじれるかもしれないし、そこからスバルのハッタリが見通される可能性だってある。

 スバルにできるのは、悪魔の視線にまっすぐ見返すことのみだ。

「…………一つ聞かせろ。ウォルバク様は、無事なんだろうな?」

「ああ、ピンピンしてるよ」

 目を逸らさない。

「ウォルバク様の身に危険が迫ったと判断した時点で、こっちも好きに動かさせてもらう……容赦はしねえぞ」

「ああ。誓ってもいい。必ず、やり通してみせる」

 目を逸らさない。

「なら…………それまでは好きにしろよ」

 

 そう言って。

 完全な形とはいえないものの。

 ホーストからの休戦を勝ち取った。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 追憶を終える。

 スバルが『死に戻り』から舞い戻ったのは、ホーストとの会話を終え、森から出た時点。

 そこで、セーブポイントは更新されていた。

 

 さあ、続きを始めよう。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――――――49周目

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 レベリングの最中に、囮役として再度死亡。

 敵感知スキルは敵の数はわかっても、その脅威度が測れないのが欠点と言えるだろう。

 探索ルートの変更を勘案して、リスクとリターンを両立させた、様々なパターンを逐一試していくしかない。

 三人を説得するのには骨が折れそうだが、そこはなんとかしよう。

 

 さあ、もう一度。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――――――55周目

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 初日、高効率のレベリングと、生存したままの帰還を両立させるルートを仮構築。

 ただし、このルートは肉体の損傷が大きいのがネックだ。

 街にいるエリス教のプリーストに治療を依頼するものの、完全な回復には至らず、二日目以降の活動に差し障りが出た。

 初日は負傷の出ないような安全なルートでちまちまレベルを上げ、ステータスが向上した二日目以降に危険なルートを選ぶべきだろうか。要検討。

 

 さあ、もう一度。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――――――67周目

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 効率を落としての戦いには、思わぬ欠点があった。

 基本的に同行者達は金目当てである。つまり、一定の賞金首モンスターさえ狩れば、それ以上の戦いをする必要はないのだ。

 やむなく一人で狩りに向かったが、効率を落としすぎたのが仇になったのか、途中であっさりと死ぬ羽目になった。

 やはり、限られた時間でリスクを取って、可能な限り多くの敵を狩るしかないだろう。

 少なくとも三人が切り上げる前に、ソロででもある程度戦えるような力が欲しい。

 

 さあ、もう一度。 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――――――95周目

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 幸いなことに、腕のいい治療の伝手が見つかった。

 色々とアレなところがあったため交渉は難航するかと思われたが、ある情報と引き換えに、快く治療役を引き受けてくれた。

 これで存分にリスクを負える。

 ただ、やはりこの調子でレベルを上げても、それだけではエンシェントドラゴンに対して勝ち目は見えない。

 ある程度の身体能力(ステータス)はあくまで前提条件。

 後は、考えていた戦術がどれだけ可能かだ。

 三人の同行がなくなった後のソロ狩りで、そこそこの金は溜まっていく。

 魔道具の方を利用するのもいいだろう。

 以前出会った、顔色の悪い店主の店にでも出向くとしよう。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――――――周目

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 こうして、戦いを続ければ。

 守るべきものを守り、倒すべきものを倒すことができるなら。

 すべてを終えた時、きっと自分の罪を償えるから。

 

 

 だから、もう一度。

 

 もう一度。

 

 もう一度、『―――、――――』。



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16 『義務と意志』

 並び立つ建物と建物、その間に張られた紐には、洗濯された衣類が吊られて陽光を全身に浴びていた。

 異世界と言えどもやはり街、道には平坦な長方形の石を敷き詰められて舗装されており、人々は苦もなくカツカツとその道を歩いてゆく。

 駆け出し冒険者の街、アクセル。

 その中でも、人通りが少なくなる路地裏の一角に、その建物は佇んでいた。

 魔法使いを(かたど)った飾り付けとともに、”ウィズ魔道具店”と書かれた小さな看板がその建物の意義を示している。

 ナツキ・スバルは、緑を基調とした扉を押し開き、その店を訪れた。

「いらっしゃいませー」

 扉に備え付けられていた涼やかな鈴音、続いてまるで争いとは無縁のような、おっとりのんびりとした声が店内に響く。

 そんな鷹揚な声色の持ち主は、妙齢の女性だ。

 外見から推測できる年齢は、おそらく二十歳前後。ウェーブのかかった茶色い髪を長く伸ばし、黒や紫といった暗色のローブに、豊満な身体を包み込んでいる。

 露出している部分の肌は、ローブの暗色とは対照的に、その白さは以前よりも磨きがかかっていた。

 透き通るようなという比喩を通り越し、まるで向こうの光景が見えるようだ。

 美女といって差し支えない店主の容貌だったが、スバルはそんな彼女に小さく頭を下げるだけで、すぐに店の商品を物色しにかかる。

 もっとも、物色と言っても目当てのものは決まっているのだが。

「あ、お客さん。そちらのポーションは強い衝撃を与えると爆発しますから、気をつけてくださいね」

「ああ、わかってる」

 普通に運ぶ程度の衝撃では爆発が起きないことは確認済だ。

 ウィズの忠告を聞き流しつつ、スバルはその棚にあるポーションをはじめとして、必要なものを商品カゴに入れていく。

 時間も予算も有限だ。買うものは最初から決めてある。

 やがてスバルの足は、店内の隅へと向けられた。

「あっ…………お客さん。そっちの商品は…………」

 彼女の言いかけたその言葉を無視して、スバルは店内の隅にある、『中古・欠陥品』という札の貼られた樽から品物を引っ張り出していく。

 その魔道具には、他の商品と比較しても明らかに格安と言える値札がつけられていた。

「これください」

 店内で選びとったいくつかの商品を並べたスバルは、淡々とした言葉をかける。

「えーと、ですね…………」

 店主のウィズは、困ったように視線を彷徨わせると、

「実はこの商品は、あまり良くないものなんです」

 意を決したように、申し訳なさそうに話し始めた。

「私自身、この商品を使って盛大に失敗してしまったことがありまして。あちらの樽の商品が安いのは、そういった機能に欠陥がある商品を集めているからなんです。ですから、一応置いてはいるものの、とてもおすすめできるものでは……」

 そういった彼女の忠告に、スバルは苦笑する。

 この店主は顧客である冒険者に対して、基本的に誠実だとスバルは感じている。

 スバルが『かつて』訪れた際には、逐一それぞれの商品についての説明を求めるスバルに、面倒がらずに付き合ってくれたし、おすすめの商品というものをいくつも教えてくれた。

 もっとも、スバルが幾多のループで彼女と接したのは、所詮店主と客の関係でしかない。

 どんなに回数を重ねても浅い関係でしかない以上、それだけで相手を推し量るというのは傲慢なのかもしれないが――どうせなら前向きに受け取っていこう。

 彼女の言葉は店の評判云々の損得勘定ではなく。

 自身が不利益を被ってでも、冒険者に誠実であろうという姿勢からの発言なのだと考えていこう。 

 スバルは気が進まなそうなウィズへと代金を支払うと、選んだ品物を受け取り、店を後にした。

 

 

 ちなみに、ウィズの『おすすめ』を使って何度も死んだスバルの経験から一つ言うならば。

 彼女の問題は、自分の店の商品の多くが、少なからず"機能に欠陥がある商品"であることに気づいていない点である。

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

「よう、スバル」

 夕食時というには、時間帯がやや早い頃。一人で栄養補給をしているスバルに、低くて太い声がかけられる。

 

 誰かと思って顔をあげると、このループで何度も何度も顔を合わせたトンチンカン二号たちの姿があった。

 三人はスバルが何か言う前に勝手に同じテーブルに腰掛ける。

 彼らの顔にはどこか隠せぬ満悦感があり、自然と顔をほころばせていた。

 このタイミングで三人が接触してくるというのはとても珍しい――というより、これまでのループでなかったことである。

「なんだよ、妙にニヤニヤして。なんかいいことでもあったのか?」

「どちらかというと、これからあると言うべきだな」

 そう言って、彼らのうちの一人がスバルの隣へと椅子ごと寄ってきた。

「なんだよ、気持ちわりぃな。要件があるならさっさと言ってくれ。今は、あんま与太話とかしていたくねえんだ」

「まあそう言うなって。今回はお前もいたおかげで、結構儲かったからな。礼といっちゃなんだが、お前にもいい話を持ってきたんだよ」

 男はきょろきょろと周囲を見回し、自分たちの近くに人がいないことを確認してから、そっとスバルの耳元に口を寄せる。

 

「この街に、サキュバスが隠れて経営してる店があるのを知ってるか?」

「……………………サキュバス?」

 彼の声につられて、スバル自身も声量が小さくなる。

 サキュバスといえば、確か人間の男性の精気を吸う悪魔だったはずだ。

 人を操ったり、人の見る夢を自由に操ったりすることができるとのことで、冒険者にとっては討伐対象のはずだが。

 何故討伐しないのか、というスバルの疑問を理解したのか、耳元で男は言葉を続ける。

 どうでもいいが、正直男に顔を寄せられ続けるのは気持ちが悪い。

「この街のサキュバス達は、俺達男性冒険者と共存共栄の関係を築いていてな。精気を吸うのも、自主的に提供する男から、支障がない程度にちょこっとだけだ」

 その説明に、スバルは得心する。

 ここは駆け出し冒険者の街とはいえ、被害が広がれば、いつかは他の街から応援が来る。

 サキュバス側としても、下手に被害を広げて討伐されるよりは、細々と生きていたほうがいいというわけだ。

 

「ま、それ自体は重要じゃないんだ。大したことじゃねえ。本題はここからだ。…………サキュバスがどんな能力を持ってるか、お前も知ってるだろ?」

「確か……好きな夢を見せることができるんだっけ?」

 エンシェントドラゴン等には関係のない、遠い記憶を探ってのスバルの答えに、男はにっかりと笑みを浮かべる。

 それは微笑ましいものではなく、いやらしさを隠せない下卑たものだった。

「そう…………精気を提供した人間は、好きな夢を見せてもらえるサービスがあるんだよ」

 そのまま得意げに、早口になりながら男は語る。

 

「夢の中では現実と同じように感覚があるし、起きても全部覚えていられる。さらに、相手も状況も選びたい放題ってわけだ。どんな高嶺の花でも、その辺を歩いてる相手でも、遠い記憶の彼方の初恋の相手でも、好きなだけやりたい放題できるんだぜ?」

 これが、サキュバスの店の真の秘密。

 このサービスによって、サキュバスが三大欲求の一つを完全に握っている限り、この街の冒険者は血の結束で彼女たちを守るだろう。

 

「ただ、口が堅い冒険者だけの、秘密の店だ。お前をそこに案内するにはまだ信頼が足りない。お前がチクったりして女どもにバレて、俺達の憩いの場を壊されようもんなら、この街の男性冒険者全員は、人生の楽しみを失うようなもんだ。そこで、だ」

 そして、男は文字一つ書いていない紙を差し出してきた。

「この紙に泊まる場所と、見たい夢の内容を書きな。俺が店に行って、代筆で依頼してきてやるよ。大体三時間コースにするとして……そうだな。店の代金と手数料合わせて、三万エリスでいいぜ」

 ちなみに通常、秘密の店(サキュバスサービス)の代金は三時間で五千エリスである。

 この話を持ちかけてきた男は、手数料と称して追加で五倍もの代金をせしめようとするセコいことを企んでいるのだが、スバルは当然そんなことには気が付かない。

 話を聞かされたスバルの精神は、そんなくだらない奸計に思索が及ぶほど、余裕のある状態ではない。

 

 今のスバルが、考える事、それは。

「どんな、夢でも…………誰が、相手でも…………?」

 唇から漏れた声。

 それを自覚しないまま、スバルはひったくるように男から紙を取り、自身から湧き出る衝動のままに片手で持った紙にペンを走らせ――――。

 

 

 ――――自分の考えの、あまりの愚かしさに気がついた。

 

 怒り。羞恥。自嘲。嫌悪。そして罪悪感。

 様々な感情が脳内を駆け巡り、自分の顔を痛めつけたくなる。

 言葉を紡げぬまま、その怒りの情動のままに、力いっぱい紙を握りしめ、真っ二つに引きちぎった。

 

「あっ! 人の親切になんてことしやがる!」

「…………悪い」

 男の抗議の声に、謝罪の言葉を喉の奥から絞り出す。

 その一言が精一杯で、そのままスバルは自分の頭を抱えてテーブルに突っ伏した。

 料理の入っていた皿に顔をぶつけなかった幸運に、感謝する余裕もなかった。

 男たちが、ある者はつまらなそうに、ある者はどうでもよさそうに、ある者は心配そうに去っていくのも気づかなかった。

 スバルの握りしめた二つの紙片に書かれているのは、たった一文。

 

 

 

 

 

      "――――レムに会いたい"

 

 

 

 

 

 出してはいけない考えだった。

 考えることすら許されない甘えだった。

 自分の愚かさに打ちのめされたスバルは、その内心をただただ自分への怒りで塗りつぶす。

 

 隔てた世界を超えてなお遠く、ただひたすらに愛おしい彼女に会いたい。

 親愛と熱情の込められた、彼女の声を聴きたい。

 スバルが唯一弱いところを見せられる彼女に。

 スバルが最も格好いいところを見せたい彼女に。

 甘やかに言葉を交わすことができたなら、スバルはどれだけ救われることだろう。

 たとえそれが一夜の幻であっても、どれだけの力を与えてくれることだろう。

 ――――恥を知れ。

 どの面を下げてそんな甘えを言えるのか。

 今のスバルに、彼女と向き合う資格などない。

 まして、幻の彼女に助けてもらおうなど――――自分のような罪人に、自分のような咎人に、許されるはずがあるものか。

 スバルがもっとしっかりとしていたら、何もかもうまくいくやり方を見つけていれば、レムは今でもスバルの隣にいた。

 スバルが何もかも一人で救えるほど力があったなら、そもそもこの世界に来ることなく、エミリアの道を支えていた。

 そんな理想から程遠い現実(いま)

 忘れるな。

 自分が世界を重ねてなお誰も救えず、醜態を晒し続け、果ては他所の世界にすら嘆きを生み、更なる死を生み出した大罪人であると。

 罪深き悪逆の徒に、安息など許されないことを。

 まして、幻で大切な人を冒涜するなど、あってはならないことなのだと。

「――――――――こんなこと、してる場合じゃねえ…………。できるだけ今日中に準備、しとかねえと…………」 

 スバルは後片付けを済ませると、自虐と怒りの熱に冒された頭をふらつかせながら、酒場を後にした。

 

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 同日宿屋。

「こんばんは、ゆんゆん。…………またそれですか」

 夜も更けたころ、相変わらず酒場で落ち込んでいるゆんゆんを見て、めぐみんは言葉もなく嘆息する。

 今は悪魔騒動の影響で、森への出入りをするパーティはほとんどいない。せいぜいが、特別に許可をもらった実力者を含む一部のパーティくらいだろう。

 めぐみん自身、手持ち無沙汰となるこの期間に、他のパーティに入れてもらおうという交渉は何度か行っている。その結果は芳しいとは言えないが、少なくともその機会はいくらでもあるはずだ。

 皆が暇を持て余しているのだから、ゆんゆんも勇気を出して話しかけるくらいしてみせろというのだ。

 そう考えながら隣の席についためぐみんに、ぼっち娘は鼻をすすりながら

「めぐみん…………ここ何日か、ナツキさんに何が悪かったか聞こうとしてたの」

 ほう。

 声にこそ出さないものの、めぐみんは少しだけ感心する。

 さすがに一人でずっといたわけではなく、ゆんゆんなりに頑張ろうとはしていたらしい。

「でも結局声をかける勇気が出なくって」

 ゆんゆんらしいといえばらしい話だ。

 知らない人に声をかけることと、一度拒絶された相手に声をかけること。

 どちらのハードルが高いかは知らないが、少なくとも彼女にとってはどちらも容易いことではあるまい。

「だからそのまま何度かナツキさんの後をつけたりしてみたんだけど」

 おい。

「何をやっているのですかあなたは! 元恋人とかならまだしも、ただの冒険仲間のストーカーになるなんて、族長が聞いたら泣きますよ!」

 頭のおかしい迷惑行為を告白するライバルの姿に、頭のおかしな爆裂娘は頭を抱える。

「ストーカーじゃないわよ! だって仕方ないじゃない。話しかけたいけど、どうしても勇気が出ないんだもの」

「だからって見てるだけでは何も変わりませんよ! 一人で何をバカなことをやっているのですか!」

 どうしてこの娘は、大事なところでズレた行動を始めるのか。

「そんなだから、今日もそこの酔っ払いに絡まれるハメになるんですよ。聞きましたよ、私の知らない数日の間に、いつもその酔っぱらいにたかられているそうじゃないですか」

 そう言って、ゆんゆんの横で眠りこける酔っ払いを指差す。妙な布を被っていて顔は見えないが、これが件の相手であることは間違いないだろう。

「た、たかられてなんてないわよ。だってこの人、凄くいい人なのよ。友達作る天才なんだっていうし、色々教えてくれるんだもの。でもお金ないっていうから、話するためにお酒や帰りのお土産をつい奢っちゃって……。だ、大体、めぐみんだってどこかのアクシズ教徒に絡まれてるっていうじゃない」

 ゆんゆんの言葉に、めぐみんは痛いところを突かれたとばかりに、眉をしかめた。

 そのまま小さくため息を一つ。頭に手を当てて、ゆんゆんに向かってその噂について説明をするべく口を開く。

「ええ、ええ。確かにその通りです、認めましょう。ですがこちらにも言い分がありま――――」

「やっほーめぐみんさん! 今日もお勤め頑張ってきたわよ! こんなに連続してお仕事頑張るなんていったいどれだけぶりかしら! ご褒美にめぐみんさんがロリまくらになってくれてもいいわよ!」

 説明を始めようとした途端、当の本人が後ろから現れた。

 逃れようとするこちらの身体に、彼女は素早く両腕を巻きつけ、あっという間に拘束する。

「せ、セシリーさん……?」

 めぐみんの身体を思い切り抱きしめるセシリー、そのまま肩越しにゆんゆんを見つけ、明るく声をかける。

「あら。ゆんゆんさん、お久しぶり!」

「は、はい…………何日かぶりです。えっと…………ひょっとして噂のアクシズ教徒って……」

 うまく声にならなかったゆんゆんの問いに、めぐみんはその意を引き取って答える。

「ええ、ええ。私に絡んでいるアクシズ教徒というのはこの人のことです。いったいどこから嗅ぎつけたのか、疲れて帰ってきた私を、勝手に部屋で待っていたんですよ」

 そんなめぐみんの嫌そうな声に、何故かセシリーは目を輝かせた。

「なぁに? めぐみんさんったら、お姉さんのことが知りたいの? お姉さんもめぐみんさんには興味津々だから、相思相愛ね! せっかくだからセシリーって呼んでいいわよ! さあ、なんでも聞いてちょうだい!」

「私が知りたいのはあの宿のセキュリティと、私の部屋をどこで知ったかくらいですよ! 今ゆんゆんと大切な話をしていたのですから、入ってこないてください!」

 そう言いながら、なんとかセシリーの身体を引き剥がす。

 拒絶を受けてもセシリーは気にすることもなく、笑ってメニューを眺めている。 

「それでね、私も毎日見てるわけじゃないんだけど。ナツキさんは一人で森に入ってはボロボロになって帰って来るの」

「森…………ですか」

 めぐみんの記憶では、確か森への出入りは規制がかかっていたはずだ。なんでも、森にいるのが上位悪魔である可能性が非常に高く、特別許可を得た人間以外は出入り禁止になっていたはずである。そしてその許可証は、相当な強さを持ったパーティでなければ渡されない。

 スバルはベテランパーティに入れてもらって一緒に許可証を受け取ったか、あるいは横流しされた許可証を何らかの手段で手に入れたといったところか。

 ギルドの通行規制は、許可証さえ持ってくれば一人でも通行させる程度のものである。

 これは単純にチェックがザルというよりも、冒険者の命は最終的には自己責任という考え方からくるものなのだろう。

 ギルドは弱者を通さないという保護活動はしている。本来戦力を揃えられるにも関わらず単身行動したり、不正入手してまで危険に突っ込むような人間まで、ギルドに守る義務はないというわけだ。

 ボロボロになっているというからには、少なくとも隠れた実力者という可能性はない。一体その男は、何を考えているのやら。

「そんな戦いを毎日続けていたら、身体が持たないでしょう。そもそもそんな傷、そのスバルという男は誰に治療してもらっているのか……」

「はーい」

 ん?

 何故か見当違いの方向から声がして、めぐみんは首をひねってそちらを確認する。

 見ると、注文を済ませたらしいセシリーがニコニコしながら、相好を崩し顔をほころばせながら、自身の顔を指差していた。

「なんですか、お姉さん」

「だから、私よ私。男の子の治療したの、私。まあ、今日は森に行ってないらしくって、まだ残ってた傷を治療しただけだけど」

 身体が治りきってないのに毎日無茶されたら、相手するこっちも困るものねえ。

 そう笑って告げるセシリーに、めぐみんは頭が痛くなるのを感じた。

「…………あまり聞きたくありませんが、一体どんな縁で知り合ったのですか? まさか彼もアクシズ教徒だったなんてことは……」

「んーん? この街にやってきたら声かけられたのよ。ぶっちゃけイケメンでもないし、大してお金持ってそうにも見えなかったから、お姉さんとしてはナンパはお断りしたんだけど」

 そこで一拍起き、

「なんと、しばらくの間治療するだけで、めぐみんさんが泊まってる部屋を教えてくれるっていうのよ!? これはもう受けるっきゃないじゃない!」

 ナツキ・スバル。

 犯人はお前か。

 めぐみんは自分に面倒(セシリー)を差し向けたスバルを小さく呪い、そのまま少しの間、目蓋を閉じた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 ――ゆんゆんは、思考に埋没する。

 己の過ちを知るために。

 己のやるべきことを考えるために。

 ゆんゆんはベルゼルグ王国、紅魔の里の族長の娘として生を受けた。

 紅魔族は生来高い知力と魔力を併せ持ち、その全てが能力の高いアークウィザードとして成長する、特殊な種族である。特にその種としての集団戦闘力は凄まじく、魔王軍ですら容易に相手をすることはできない。

 必然的に、紅魔族の長にはそれらをまとめるための責任と実力が要求される。

 ゆんゆんは族長の娘として、将来紅魔族の長となることを自覚していたし、『家柄だけの人間』と言わせないために努力だって重ねてきた。

 だが、それでも何もかもが足りなかった。

 まるで迫害されぬ異端のようだった

 里の皆と少しズレた感性。

 うまく合わせる道も選べず、人と噛み合わない会話。

 そして、どれだけ研鑽を重ねても届かない、最強のライバル。

 決してすべてを否定するつもりはないが、すべてを肯定できる日々でもなかった。

 もっと誰かと一緒にいたかった。

 独りは、嫌だ。

 

『別に――――誰でも良かったのでしょう?』

 

 ライバルの言葉が頭をよぎる。

 独りは嫌だ。

 だから、誰かと一緒にいたかった。

 それはつまり、自分は彼個人を見ていなかったということなのだろうか。

 

 整理しよう。

 自分にとってナツキ・スバルは、めぐみんのように特別な存在と言えるだろうか。

 否。

 ゆんゆんにとってナツキ・スバルは、それほど特別な存在ではなかったはずだ。

 かの少年と出会い、パーティとして行動を共にしたのはわずか数日。

 交わした言葉も、決して多くはない。

 彼のこともよく知らない。知れるはずがあるはずもない。

 お互いが特別な存在となれるような関係を築くには、あまりにも時間も会話も少なすぎる。

 魔王を倒そうという、あまりにも不相応な野望を抱く、無力な少年。

 一緒にいてくれる誰かと楽しくやりたかった、それだけの小さな願いを抱えた、力持つ少女。

 

 少女にとって少年は特別な存在ではなかったし。

 少年にとって少女は特別な存在ではなかった。

 あまりにも違う両者は、あくまで一時の間だけ行動を共にした、ただそれだけの関係。

 めぐみんの言うとおり、特別なことでもないのかもしれない。

 悲しむほどのことでもないのかもしれない。

 

 ――――ならば。

 何かが突き刺さったような、この胸の痛みはなんなのだろう。

 

 親友に見放されたわけでもない。

 恋人に捨てられたわけでもない。

 誰でもいいような誰かにそっぽを向かれるなんて、自分にとってはいつものことではないか。

 紅魔の里からずっとあった、当たり前のことで――――。

 

「そっか――――私、何かが始まると思ってたんだ」

 

 きっと、この街で新しい自分が始まると思っていた。

 ”誰か”が、ナツキ・スバルが声をかけたあの時から、きっと新しい毎日が始まると思っていた。

 ナツキ・スバルが特別な誰かではなくても。

 ナツキ・スバルとの出会いは、特別な出会いだと思っていたのだ。

 独りぼっちでなくなると、そう感じていたのだ。

 お互いを必要とする仲間であれば、きっと信頼を築いていけるとそう考えていた。

「だけど、何も変わらなかった……」

 何がいけなかったのか、わからない。

 どうしてこうなったのか、わからない。

 スバルは今、毎日ボロボロになるような生活をしている。

 自分が一緒にいれば、きっとそんな風にはしていない。

 傷だらけになってまで、自分と一緒にいたくなかったというのか。

 

『彼から離れたほうがいい。――――あれは、死の淵で生き、進んで死に向かう狂人の目だよ』

 

 スバルを見ている間に声をかけてきた、盗賊の言葉を思い出す。

 短い銀髪を揺らし、疑念と警戒、そして一握りの困惑を持って語った彼女は、スバルを異常だと評した。

 自分たちの道は交わるべきじゃなかったと、スバルは言っていた。

 最初から自分は何かを間違えていたのだろうか。

 異端のようだった自分は、正常からも異常からも外れた、半端な存在なのだろうか。

 自分は必要とされていると思っていた。それは傲慢な考えだったのだろうか。

 わざわざ声をかけてくれたスバルにすら必要とされないのなら、誰も自分を必要としないのではないだろうか。

「私、もう、どうすればいいのかわかんないよ…………」

 思考がどんどん悪い方向に沈んでいく中、頭を抱える。

 そんなゆんゆんの目の前に、白く、しなやかな指が差し出された。

 見ると、中指が親指によって支えられて、張り詰めたようにピンと伸びている。

 その指に込められた力がどんどん強くなり、やがて限界を超えたように、親指は支えの役目を放棄する。

 必然的に、支えを失った中指は勢いよく手のひらに衝突し、空気の弾けるような音が空間に響いた。

「ひゃんっ!?」

 目の前で行われた指パッチン(フィンガースナップ)、その音に共鳴するように、その手の中から大きな花が現れる。

 突然の現象に不意をつかれ、ゆんゆんは小さく驚愕の声を上げた。

 驚愕を生んだ下手人、それはここ数日で見慣れた顔。

 今日も隣で酔い潰れて、顔から突っ伏していた酔客だ。

 彼女は、驚きで気の抜けたゆんゆんを見返して、ゆっくりと口角を上げる。

「どう? すごいでしょ」

 神々しさすら漂うその美貌に、子供のような人好きのする笑顔を浮かべて、えっへんとその芸に胸を張った。

 それから、ゆっくりとゆんゆんの瞳を覗き込んできた。

「ねえ、ゆんゆん。私達が知り合ってから、ずっとあれこれ悩んでいるみたいだけど。きっとそれは全部、違うと思うの」

「ち、違うって…………!」

 何が違うというのか。

 今、自分はどうすればいいのか。

 スバルは本当に一人でいいというのか。

 毎日傷ついて、苦しんでいるのではないか。

 誰かに頼りたいと、縋りたいと思っているのではないか。

 自分に何かできるのではないか。また拒絶されるのではないか。

 そもそも、自分を取り巻く考えは、感情は何なのか。

 どれも、自分がするべき何かを見つけるために大切なことなのに。

「わ、私は、私なりに何をするべきか考えてるんです……! そんな、軽い気持ちで否定しないでください……!」

 自分の思索を、自分の苦しみをすべて否定されたような気持ちになり、キッと酔客を睨みつける。

 だが、睨みつけられた当の彼女はまるで意に介さない。

 癇癪を起こした子供を見つめる親のように、ただ優しく首を横に振ってみせた。

「――――――――ええ、違うのよ」

 彼女から初めて聞く、凛とした声色。その言葉そのものはゆんゆんの悩みを否定しながらも、ただ慈悲深さに満ちている。

 それに驚くのはゆんゆんだけではない。

 横で聞いていたらしいめぐみんは、酔っぱらいから聖女のようになった少女の変貌に驚き、セシリーはいつの間にか、最大級の敬意を表するように膝を折っている。

 酔客は頭にかかっていたベールのような薄い衣を取り払い、赤くなった顔を覗かせた。

 その女性らしい身体の起伏は、艶やかでありつつも極端にならない、絶妙なバランスで保たれている。

 大海原を凝縮したような、深い蒼の宝玉がはめ込まれた双眸。その慈愛に満ちた瞳は、まっすぐとこちらを見つめていて、まるでこちらの心が引き込まれるようだった。

 まさに、美の化身というのに相応しい相貌。

 そんな人とは思えぬ美貌を持ちながら、何故か自然と親しみを抱かせる、不思議な少女だった。

「さっきからあなたは勘違いをしているわ。あなたが考えるのはどうすればいいか、じゃないの。あなたが何をしたいのか。それですべてを決めるべきなのよ」

「何を、したいか…………」

 絹糸のように艷やかな、柔らかに伸ばした水色の髪が、小さく揺れたのが見える。

 たったそれだけの動きなのに、人の視線を掴んで離さない。

「何かに悩むのならば、ただ今を楽しく生きなさい。相手のことを気にするよりも、自分の生き方を貫きなさい」

 そう言って、こちらに向けて、優しく手が差し伸べられる。

 繊細さの映る指先は、キメ細やかな肌とあいまって、思わずうっとりと見とれてしまいそうな神々しさがあった。

「あなたが明日笑っているか、それは神にすらわからない。ならば、今だけでも笑える人生を送りなさい。心のままに、後悔のしない生涯を送りなさい」

 ここ数日何度も顔を合わせ、話し相手になってもらった酔っぱらいが。

「孤独に泣いて、毎日苦しんで。それでも自分だけを責めていた、孤独なる魔女ゆんゆん」

 薄青の髪と羽衣を抱いた、水を司るアクシズ教の御神体が。

「それが犯罪でなく、心の源泉に従ったものであるのなら。水の女神アクアの名において、この私が許します。気遣いを続けて苦しむくらいなら、ただ心のままに――――生きたい人と、生きたいように生きなさい」

 女神アクアが、慈愛の視線を向けていた。



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17 『終わる世界に』

 眼前は鬱蒼と生い茂った木々が生え揃い、足元は冒険者たちに踏み固められた大地に湿り気を感じる。

 あまりにも見慣れた森の奥深く、ナツキ・スバルはただ黙って待機する。幾度となく重ねた戦いの時を待つ。

 相も変わらず悪い目つきは、初対面の人が見れば、よほどの不機嫌か寝不足を予想するだろう。

 もちろん、そんなことはない。昨日は安堵感を抱いて眠ることが出来た。

 背中に触れる藁の感触も、仔馬や他の冒険者の立てるいびきの音も、嫌というほど嗅いだ馬糞の異臭も、もうとっくに慣れたものだ。駆け出し冒険者が泊まる馬小屋で毛布にくるまって眠るのは、この世界に来てから幾度となく続けてきたナツキ・スバルの就寝体勢である。

 とはいえ、別に宿代をケチってまで少しでも資金を切り詰めようというわけではない。

 スバルが必要とした魔道具は高価な分、どうしても余剰分は出るし、その余剰分でも余裕で宿代程度賄えるだろう。そもそも、その程度の額をケチってコンディションの低下を招くなど愚の骨頂である。

 単純に、今のスバルには、馬小屋が最も安心して眠れる場所というだけだ。

 ふかふかのベッドでぐっすり眠ると、どうしても見てしまうから。

 紫紺の瞳で現実を拒絶し、銀鈴の声音で壊れた熱情を打ち鳴らす、愛しき少女を。

 己の役割に自負と責任を抱き、失望と摩耗の果てに終焉を望んだ、待ちぼうけの司書を。

 虐殺を、惨劇を、凶行を、貪食を、夢に見てしまうから。

「――――――――ダメだ」

 今はそれを考えてはいけない。

 脳裏によぎったそれらの光景を、頭を振って追い出した。

 代わりに思い返すのは、以前のループで小耳に挟んだ、勇敢な冒険者の話。今考えるべき、不屈の心を持った魔女の話だ。

 

 かつて、『氷の魔女』と呼ばれた冒険者がいた。

 生真面目な性格で、常に張り詰めた表情を作り、絶大なる魔力を誇り、武闘派でありながらいつもパーティメンバーの中で冷静であるように心がけていたアークウィザード。

 魔王軍からも多大なる懸賞金をかけられ、命を狙われていた彼女は、ある時恐るべき存在と出会った。

 彼の者は、魔王軍幹部にして、地獄の公爵を務める大悪魔。

 人類はおろか、魔王すら上回る強大な力を持った別次元の存在。

 本来ならば、魔王軍幹部程度の枠に収まるものではない。人類の存亡ではなく、世界の終末を賭けて神々と戦うような、そんな桁違いの化物だ。

 だが、そんな規格外を相手にしてなお、『氷の魔女』は決して折れなかった。

 大悪魔の絶大なる力に何度も打ちのめされた。あらゆる魔法は通じず、どんな作戦も見通され、奴に傷一つつけることすら敵わない。

 その幾度となく繰り返した敗北に、『氷の魔女』の誇りはズタボロにされていく。

 だが、心に大きな傷を負ってなお、その瞳に宿る闘志は消えなかったという。

 

 ナツキ・スバルがその話を聞いたのは一度だけ。

 習得スキルの幅を広げられないかと、アクセルから離れて別の街へと進んだループのことである。

 その街で得られたスキルはなく、戦闘に役立ちそうな話も聞けなかった。

 結局彼女がその大悪魔に勝利できたかは知らない。

 そもそも、噂は噂。単に尾ひれがついただけなのかもしれない。

 それでも。

 自分の主に似た異名を持つ『氷の魔女』。会った事のない彼女の不屈の精神だけは、心に刻んでおこうと思った。

 

 

「――――――――来た」

 敵感知スキルに反応を感じ、スバルは足下に手を当てる。

 スバルはこのループ、エンシェントドラゴンとの遭遇を避けつつ強力なモンスターを狩り続けてきた。自身の強化のため。そして、エンシェントドラゴンのパワーアップを可能な限り減らすため。

 もちろん、エンシェントドラゴンも、自身の強化をすべく、片っ端からモンスターを殺し尽くしてきただろう。結果として、森のモンスターはかなり減少している。

 まして、単独で活動している強力なモンスターが高速で接近しているとなれば、まず間違いない。

 スバルが足下に魔力を込め終わった直後、あたりに鋭い警報音が鳴り響いた。

 特定の木に仕掛けたロープが切断されると、それに繋がった警報の罠が作動する。スバルが予め仕掛けておいた、空間偽装中の竜の位置を把握するための罠だ。

 それを合図とするように、スバルは口の中で小さく呪文を唱えながら、懐から小さな魔力宝珠(マナタイト)を取り出すと、頭の中で身体のスイッチを次々と入れていく。

 高価な宝珠と引き換えに得た、莫大な魔力で支援魔法を発動させ、自身の速度を可能な限り強化。さらに本来盗賊の持つ逃走スキルを発動させる。

 身体能力を一気に向上させて、エンシェントドラゴンに背を向ける。そして、千里眼スキルの宿る黒瞳でルートを確認しながら、大地を蹴った。

 時には障害物を斜めから飛び越え、時には飛び出た岩から岩への移動。跳躍と体重移動を利用した、速度を殺さない移動技法パルクールだ。

 かつて日本でテレビ越しに見ていた、技術の一端を用いながら、スバルは頭の中でマップを広げる。

 ――――直後。

 スバルの背中に強い殺気が、『死』の前兆が走る。続いて、背後の空気が強く振動するのを感じた。

 とっさに右方向へと身体を転がすと、直後に闇色の稲妻が、先程までスバルのいた空間に突き刺さる。

「空間偽装や攻撃魔法が使える程度には力を蓄えてるってか…………なら!」

 スバルは追撃が来る前に懐に手を入れると、魔法を封じられた巻き物(スクロール)を大きく開き、叫んだ。

「『ファイヤーボール』!」

 その叫びと共に、スバルの眼前から灼熱の火球が現出した。

 人はおろか、岩をも焦がしそうなその光球。それはスバルから離れるようにまっすぐ飛んでいったかと思うと、空間がぐにゃりとねじ曲がり、続いて光球があっさりと霧散した。

 残ったのは、姿を現した竜の姿。

 スバルの狩り(レベリング)のせいで森から強力なモンスターが減ったからか、そのサイズは過去のループより幾分か小さかった。

 エンシェントドラゴンの持つ魔法無効化能力。

 周囲の空間の魔法を無力化するそれは、スクロールから発動させたものであろうと問答無用で消し去った。

 スバルの思惑通りに。

 エンシェントドラゴンの魔法無効化能力は、竜自身の魔法すら対象とする。

 おそらく竜の空間偽装能力は、精度の高い光の屈折と消音魔法を組み合わせたものだ。

 竜が時折姿を現してきた理由も、攻撃を防ぐためにそれらの魔法を解除せざるを得なかったと考えれば辻褄が合う。

 この逃走で目指すべき地点は二つ。どちらから行こうと距離に差はない。

 スバルは転がった勢いを殺さぬように、進行方向にあるポイントを目指して駆け出した。

 竜から背を向け、スバルの足はどんどん木の密集した領域へと向かう。

 敵はこちらが魔法を撃ってこないと判断したのか、魔法無効化を解除。竜が乱射している魔法が、予め木に仕掛けた魔道具と対消滅する音が背後で鳴り響いた。

 理想的な展開よりも、距離が近すぎる。

 単純な魔法攻撃自体は、密集した木に仕掛けた魔法剣や魔道具である程度誘爆させられるし、再び巻き物(スクロール)で敵の無効化を誘発してもいい。だが、単純な突撃を続けられれば、この距離では竜から逃げ切る自信がない。

 とはいえ、なんとか足止めしながら全力疾走して距離を取ろうとしても、いずれ局地地震で動きを止められるのは実証済みだ。

 ここは、魔法攻撃の射程距離圏内で、敵の魔法を凌ぎながら、敵が対処できないような手段で距離を取らなければならない。

 そう考えた刹那。スバルが踏み入れようとしていた大地が一瞬にして、黒い泥水に溢れた沼地へと変化した。

「ちっ……!」

 舌打ちひとつ、スバルは腰に用意していた鞭を握りしめ、力いっぱい振るう。

 鞭の先端は風を切りながら進み、青葉揃い生い茂る大樹の幹へと巻き付いた。

 スバルはそのまま巻きつけた鞭をしっかりと握りしめて、勢いを殺さないように身体を制御する。跳躍によって宙に浮いていたスバルの肉体は、大樹を支点として空中でぐるりと旋回した。

 その勢いのまま太枝に掴まると、軽業師のような器用さで身体を太枝の上に持ってくる。

 大樹の幹から鞭を外し、そのまま次の樹へと移ろうと、再び跳躍した。

「――――――――!」

 そんなスバルの背中に投げつけられる、竜の咆哮。

 直後、移動先の樹が根を張る大地が崩れ、そのまま土で構成された巨大なゴーレムへと姿を変えていく。

「くっ…………!」

 空中で求められる瞬時の判断。

 移動先の樹が根から崩れた光景を見て、スバルの黒瞳は何かを探し求めて動き、やがてひとつの木に止まったフクロウのような生物を映した。

「『バインド』ーッ!」

 その言葉と共に、盗賊職が使用する拘束用のスキルが発動する。かつてクリスがスバルたちを捕えた時に使用したのと同じ力。

 スバルの体内から大量の魔力が失われ、鞭はロープのように対象を捕縛するべく、フクロウ(仮)へと向かって飛んでいく。

 その鞭にしがみつくスバルの身体も必然的に引っ張られ飛翔。スバルを待ち構えていた土人形の拳は空を切った。

 そのまま鞭は、慌てて飛び立とうとするフクロウ(仮)を捕らえ、がんじがらめに拘束した。

 もちろん、スバルも一緒に拘束される、なんて間抜けはしていない。頃合いを見て鞭から手を離し、重力に従い大地に落下している。膝の関節を曲げて、身体を深く沈み込ませることで着地の衝撃を散らし、背後を振り向いた。

 視界に映ったのは、こちらを見据えて牙を剥き出しにして口を開ける竜の姿。

「くっ…………!」

 魔法を予感したスバルは再び懐に手を突っ込み、巻き物(スクロール)を大きく開いて、

「『リフレクト』!」

 次の瞬間、闇色の雷撃は、放った竜自身の顔に直撃していた。

「はっ、ざまあみろ……!」

 一つ間違っていれば死、つまりやり直す羽目になっていたが、今回は予想以上にうまくいった。

 これで向こうも警戒し、そうそう魔法を放つことができないだろう。

 そう確信したスバルは、あと少しの位置にある目的地にまで一気に走り抜けようと身体を動かし。

 その瞬間、突如として両脚に熱が走った。

「なっ…………!?」

 それが痛みであると理解する前に、虚をつかれたスバルの身体はバランスを崩し転倒。衝突した地面と額が火花を散らせ、視界が白熱する。

 痛みを無視し、スバルは数秒で取り戻した視力で自身の脚に起きた異変を確認する。

 そこにあったのは、スバルの両脚をまとめて貫く、松葉色をした竜尾だった。

「尻尾が、伸び…………!?」

 尾の存在を忘れていたわけではない。過去のループでも、竜尾でスバルを拘束してきたことはあった。だが、その竜尾が伸縮し、こちらを襲ってくるようなケースは初めてだ。

 まだ検証が足りなかったのか。竜はスバルの行動に脅威を感じ、これまで隠してきた攻撃を使ったのか。

 両脚から溢れ出す血が松葉色の竜尾を赤く染める。

 動くたびに痛覚が揺さぶられ、肉が抉られているという実感を味わう。

「クッソ…………ここまで来て、諦めて、たまるか…………!」

 竜尾が脅かすのはスバルの血肉だけではない。

 スバルが全身に纏う濃密な魔女の臭気を吸い上げ、エンシェントドラゴンはますます凶暴に暴れ狂うだろう。

 どんな手段を取っても。

 たとえ脚を切り落としてでも、これから逃れなければ――。

 

「うおらああああああああああああああああああああああああああああああぁっ!」

 刹那。

 スバルの黒瞳に映ったのは、切り倒された巨木を武器にして、竜尾に殴り掛かる悪魔の姿だった。

「ホースト…………!?」

 大雑把に切断した丸太のような巨木を、まるで刃先が潰れた斧か鉈のように、ただ力任せに竜尾を押し潰す。

「オラァ! ぼさっとしてんじゃねえぞ!」

「あ、ああ……っ……」

 突然のホーストの手助けで生じた驚愕、それをねじ伏せてスバルは状態を確認する。そして竜尾が切断されたとみるや、スバルは自身の脚に残った先端部を取ることもせず、痛みを無視して跳躍した。

「ぐ、おぉおぉおぉお!」

 顔から突っ込むような無様な着地によって、前方に伸ばした手が触れたのは、目指していた地点の一つ。

 そこに設置しておいた魔道具に手を当て、魔力を込め、注入する。

「さっきバインドで魔力を使っちまったのが不安だが…………」

 スバルは魔力の注入を終えると、穴の空いた両脚に手を当てた。

 残った魔力によるヒールでは、鎮痛程度の効果しかあるまい。

 マナタイトの予備はまだある。だが、それは最後の地点に注入する魔力として使うべきだ。

 スバルの傷は、手持ちの魔力と気力で補うしかない。

 脚を引きずってでも最後の地点に到達しなければ――――そう考え、最後の目的地の方向へと目を向けた時。

 そこに光が立ち昇っているのが見えた。

「……………………は?」

 否、そこだけではない。

 スバルがエンシェントドラゴンと遭遇した地点。攻撃をごまかしながら魔力を注いだ現在地。その三つの地点から、同時に光が立ち昇る。

「な、なんだ!?」

 ホーストが慌てた様子で光の退避した直後、はるか上空にて一つの点で結ばれ、エンシェントドラゴンを包み込む、三角錐状の巨大な結界ができあがった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 それは、『氷の魔女』がかつて使った魔道具。

 話によると、彼女は仲間の救援に行くため、三つの魔道具に魔力を込めて結界を作り出し、当時交戦中だった地獄の公爵を一時的に無力化したという。

 神々に匹敵する、大悪魔すら逃れられないというこの結界。魔力の補給を必要とすること、注ぎ込んだ魔力は発動せずに置くと霧散すること、展開する三つの地点に置く必要があるなどの欠点はあるが、それを差し引いても強力な魔道具だ。

 何故駆け出しの街(アクセル)にこんなものがあったのかは不明だが――――話半分だとしても、エンシェントドラゴンにぶつけるには十分な期待ができた。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 最後の地点に魔力を注ぎ込んだ記憶はない。

 何かの間違いで、通りすがりの誰かが魔力を注ぎ込んだのだろうか。

「いや、それはどうでもいい……」

 何故発動したのかはわからないが、これを活かさないわけにはいくまい。

 スバルの目的は、エンシェントドラゴンを一時的に閉じ込めるのではなく、休眠あるいは死にまで追いやることなのだから。

「…………来いよ、『見えざる手』…………!」

 スバルの胸部から現出した不可視の魔手は、そのまままっすぐと結界に向かって伸び――――結界をすり抜けて、そのまま直進する。

 かつてクリスに囚われた時、椅子の背を貫通してゆんゆんに触れたように。

 間にある障害物をすべて透過して、不可視の魔手は目的のものにたどり着く。

 そして、予め隠れるように設置しておいたワイヤーを握ると、スバルは小さくつぶやいた。

「――――『バインド』」

 スバルの手から、マナタイトが消える。

 不可視の魔手越しに、再びバインドのスキルをワイヤーに発動。鋼線は生き物のように動き始め、宙で弧を描いてエンシェントドラゴンの巨体へと急接近。

 ワイヤーは同じワイヤーで幾度となく継ぎ足されており、エンシェントドラゴンの巨体を拘束するに足る長さを持っている。

 鋼線はそのまま竜の胴体へと巻き付いた。

 その拘束は、浅い。偶然か、竜自身が回避したのか、ワイヤーが捕らえたのはあくまで胴体部。

 獲物を切り裂く爪も、咆哮という詠唱を紡ぐ顎も、スバルを容易く踏み潰す脚も、まるで拘束できてはいない。

 折りたたまれた翼の動きは阻害されているものの、それもわずかな詠唱で容易く破られるだろう。

 だが。

「――――こいつで十分だ」

 スバルのつぶやいた声、それに呼応するかのように、あたり一帯に音が響く。

 きゅうきゅう、きゅうきゅうと。

 どこかで聞いた音が。

 かつて耳に残響した音が。

 かつて少女の、そして自身の命を奪った音が。

 鋼線のところどころに、外れないよう丁寧に縫い付けられた一撃ウサギ、その数六羽。

 その鳴き声が、辺りに響き渡った。

 ワイヤーがエンシェントドラゴンの胴体を絞めている以上、鋼線と繋がっている一撃ウサギは、必然的に竜の全身との接触を余儀なくされる。

「――――――――――――!」

 エンシェントドラゴンの侵食(ドレイン)が作動し、一撃ウサギの生命力が失われていく。

 同時に、起こるのは(経験値)の徴収。エンシェントドラゴンの皮膚へと、一撃ウサギの身体が沈むように溶けるように一体化していく。

「きゅぅ……………………ぎゅっ……!」

 その生命の灯火が消える瞬間。

 全身がエンシェントドラゴンの体内へと、消えた瞬間。

 一撃ウサギの身体に着けられていたペンダントが、光を放つ。

 次の瞬間。

 エンシェントドラゴンの体内から、閃光と轟音が鳴り響いた。

 

 とある紅魔族が作ったペンダント。

 コンセプトは、「最後の時には、命を賭けて大切な人を守れるように……」。

 身につけた者が瀕死の重傷を負った時、最後の生命を燃やして大爆発を起こす効果を持つ。

 死の間際の大爆発で敵を撃ち倒し、共にいる仲間や恋人を守る。それが製作者の狙いなのだろう。

 作動条件はシンプルで、「着用者が死に瀕する」のみ。大切な人がそばにいるかどうかも、まして着用者が人であるかどうかもは関係ない。それは、スバル自身が以前のループでモンスターを使用して実験することで確認している。

 

 熱気が吹き出し、内部から竜の鱗を食い破る。

 竜皮から立ち昇り、余波で岩をも砕くその焔は、まるで咆哮のようだった。

 爆焔と同時に巻き起こった衝撃は竜の皮膚を貫いていく。その拍子に砕けた鱗の破片も勢い良く吹き飛ぶが、結界の壁に阻まれてスバルの元には届かない。

 結界の内部でなければ、どれだけの被害を生んだかわからない、爆焔の洗礼。

 だが。

「――――――――ダメだ。足りねえ」

 それでも、最古の竜は、死を受け入れようとしなかった。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 地獄の公爵すら封じ込めるという閉鎖空間に誘い込んだ。

 数多のループの中で、足りない頭で考えた最強の罠を用意した。

 スバルの用意し得る最高威力の爆弾を、敵の体内から叩き込んだ。

 だが、それでも足りない。

 最低でも、竜を休眠にまで追い込むだけのダメージを与える必要があるのに、それでも足りない。

 スバルは自身でも気づかぬうちに、握りしめた拳に血を滴らせる。

 これ以上、どうすればいいのか。

 ホーストはそんなスバルの言葉に首を傾げて、話しかけてきた。

「おい、お前。何が足りねえんだ?」

「決まってるだろ……。エンシェントドラゴンを倒すには、全然ダメージが足りてねえ。できれば完全に殺しておきたいってのに、休眠状態にすらできてねえんだ」

 竜の傷は大きい。だが、決して死に体ではない。

 この結界は内部からの攻撃を完全に遮断するが、外部から内部への攻撃もまた遮断する。

 先の『見えざる手』では、竜にまともなダメージを与えられないし、元々スバルが森に仕掛けていた罠は、大半が防御用だ。

 つまり、ここから追撃することはできない。

 このまま放置していれば、竜はやがて回復魔法を使って傷を癒やすだろう。元の木阿弥だ。

「でも、あの結界から出てこれねえんだよな? あの結界はどのくらい持つんだ?」

「本来なら、ひと月は持つらしいんだが……正直怪しいところだな。中古だし」

 何年も昔の魔道具だ。

 ひと月どころか半月、いや、一週間持てばいいほうかもしれない。

「なあ。俺様は、お前は十分よくやったと思うぜ? そりゃ、あいつを殺せやしなかったが……そんな弱い肉体を使ってよう、大健闘だろ」

 肩を落とすスバルを慰めるように、ホーストはあえて明るい声で話しかけてくる。

「頑張ったとか、よくやったとか…………そんなの言い訳にもならねえ。最高の結果を出さなきゃ、意味なんてないんだよ…………!」

「最高の結果って…………俺様がお前の立場なら、このまま主と一緒にトンズラこけば十分だと思うぜ?」

 確かに、今のままなら逃げることはできるだろう。

 ゆんゆんに、めぐみんに。

 街の皆に声をかけて、全員を逃がすことはできるかもしれない。この結界に包まれた竜を見れば、いくらなんでも嘘だとは思うまい。

 だが、その先に何がある。ここで生活しているのは冒険者だけではないのだ。

 命だけ拾って、命以外の全てを置いてきて、残ったものはその身一つ。

 生活が破綻し、野垂れ死ぬ人も出るだろう。

 時間経過とともにエンシェントドラゴンが解き放たれ、それに殺される者も世界のどこかに出るだろう。

 それで、助けたと言えるのか。

 それで、誰に胸を張って生きられるのか。

「なら、お前は逃げずにこいつを倒せるまで挑むつもりかよ?」

「ああ、俺にはそれしか――――――――がっ!」

 スバルが答えると同時、ホーストが自身の拳をスバルの鳩尾にめり込ませた。

 意識が消し飛びそうな衝撃が身体を貫き、胃液がわずかに逆流する。

 下唇に歯を食い込ませてなんとか意識を保つも、次の瞬間には全身を浮遊感が支配し、続いて背中に硬い感触が叩きつけられる。

 それが身体を木に押し付けられた感触だと気がつくと、今度は首に硬い感触を感じた。

 ホーストの手だ。

「ウォルバク様を人質にするやり方はともかく、あいつを倒そうっていうお前個人の心意気は嫌いじゃねえ」

 淡々とした声色ながら、その言葉に嘘は感じられない。

 スバルの無謀な戦いに対して、本気でわずかながらの敬意を感じているようだった。

「だがな、もう無理だ。人間の身体のままでも、漏れ出る瘴気はさっき刺された時に、きっちり吸収されてたからな。お前がこれ以上無謀な戦いを続けたら、エンシェントドラゴンがどんな化物になるかわかったもんじゃねえ。最悪、逃げることもできなくなっちまうかもだ」

 当然、ホーストは『死に戻り』のことなど知りはしない。

 以前の接触で、ホーストはスバルを”ドレイン避けのため、人間に憑依した悪魔”と考えているだけだ。

 故に、スバルがこれ以上向かっても竜の養分となるだけだと考えているのだろう。

「せっかく(あいつ)が閉じ込められてくれたんだ。その間に、こっちはウォルバク様を探して避難させてもらう。お前には無茶できないよう、その肉体を滅ぼさせてもらう。《残機》を減らして、地獄(むこう)で待ってろ」

 その身体の元の持ち主には悪いがな。

 そう続けて、ホーストは首にかけた手に力を込め始めた。

 スバルは抗議や弁解の言葉を紡ごうと口を開き、

「やめ……………………やるなら、焼死がいい」

「…………は?」

 口から出てきたのは死のリクエストだった。

「だから、焼死だよ。できるだけ苦しい死に方がしたいんだ。『次』の時に、この悔しさを忘れないために」

 今回も失敗した自身への罰のために。

 ホーストはしばし呆然とすると、呆れたような声で、

「お前、変な奴だなぁ。その身体の持ち主がかわいそうだと思わねえのかよ」

「いいんだよ。どうせ離れられない身体だからな、どう死のうと構わねえだろ」

 このまま足掻けば、セーブポイントの自動更新すらあり得る。

 それよりも、もう一度戦術の再検討をして最初から挑み直したほうがいいだろう。

 最適な状況作りには手間もかかるだろうが、それは大した問題ではない。

「『インフェルノ』!」

 やがてホーストが両手を振り下ろし、最高クラスの炎の魔法を放つ。いかにコントロールされているのか、炎は生き物のように動き、スバルの周囲を取り囲んだ。

 徐々に大きくなる炎に取り囲まれて死ぬか、自ら炎に身を投げて死ぬか。

 なんとなく前者の方が苦しい気がする。

 スバルは『死に戻り』装置の役目を引き受けてくれたホーストに感謝の念を抱き、すぐに来る死に備えて、ゆっくりと目蓋を閉じた。

 今回も守れなかった、この終わる世界に――――――――

 

 

「『祝福を(ブレッシング)』!」

 

 

 水色の髪をした少女が放った光が視界を染め、そのままスバルの意識は白濁した。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 アクアの放った光が、炎に囲まれた男を包んだ瞬間。

「お、お、っとと!」

 突如局地的な地震が起きて、冒険者にして日本からの転生者、佐藤カズマは足をもたつかせた。

 地震は震度に反比例するようにわずかな時間で収まったが、その震動はいくつかの大樹を傾け、炎の中に倒していく。

 炎に包まれた大樹、その幹につけてあった魔道具らしき何かが光を放ち、炎をたちまちのうちに消し去ってしまった。

 男の無事を確認すると、アクアはさらに魔法を放った。

「『セイクリッド・ハイネス・エクソシズム』!」

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 凶悪なフォルムをした悪魔に白い光が向かうが、悪魔の軽やかなバックジャンプで回避されてしまう。

 アクアの放った白い炎は、倒れ伏した男に命中するだけの結果に終わった。

「な……ナツキさん!」

 気を失った様子で静かに倒れ伏した男の名を呼び、カズマと同行していたゆんゆんは一瞬だけ逡巡する。

 彼女は自身の首に巻いた包帯に触れて、意を決したように駆け寄った。それに、カズマと同行していた最後の一人、ゆんゆんの友人ことめぐみんも続く。

 おそらくはあの男がナツキ・スバル。ゆんゆんの言っていた、元パーティメンバーだろう。

 見ると、スバルと悪魔から少し離れた位置に、結界らしき何かで遮断された巨大な竜が一頭。スバルはあれと戦っていたのだろうか。

 大きな傷を負いながらも凶悪なそうな面構えは見える。ひょっとして、先程の地震は結界を壊そうとして、あの竜が起こしたのかもしれない。

 あれと一人で戦うなど無謀すぎる行動に見えるが、名前からして何かの転生特典をもらったチート持ちなのだろうか。

 少なくとも自分なら絶対にやろうと思わない。

「おいこらアクア! 何思いっきり人巻き込んでんだよ、死んだらどうすんだ!」

 冒険者の命は自己責任なんて言葉を聞いたが、だからといって後味が悪すぎる。

 まして今回の相手――ナツキ・スバルは、パーティメンバーのアクアが毎日たかっていた少女の関係者だ。

 アクアが持って帰ってきていたお土産を、そうと知らずにありがたく頂いていたカズマとしても、ゆんゆんは迷惑をかけた恩人に等しい。

 ならば、彼女が助けようとしているナツキ・スバルも、死なせるわけにはいかない。

 だが、カズマに叱りつけられたアクアは悪びれた様子もなく、

「何言ってんの。今使ったのは悪魔祓いの魔法よ? 人間には全然害がないんだから。むしろ臭いのを消してあげる分、感謝してほしいくらいなんですけど」

 そう堂々と胸を張って答えた。

 一方、その様子を見た悪魔は、ガラス玉のような無機質な瞳を怒りに染める。

「クッソ…………いきなり何してくんだこのアマ!」

 そんな、殺気すら孕んだ視線を向けてくる悪魔に、カズマの全身が本能的に総毛立つが、アクアはそんな悪魔の視線に怯む様子一つ見せない。

「うっわー、何かと思ったら人間の感情をすすってかろうじて生きてる寄生虫じゃないですかー! 何するんだって、あんたゴキブリ殺す人に『害虫でも生きてるんだから殺さないで』とか言っちゃうタイプなんですか? バカじゃないのプークスクス!」

「おいアクア、お前大丈夫なのか? アレ、明らかにめちゃくちゃ強そうだぞ?」

 全力で煽っていくアクアに、カズマはおそるおそる問いかける。

 あの悪魔、コウモリのような羽といい、やたらと禍々しい角といい、明らかに駆け出しの街にそぐわない。

 ああいうのは、こう、ラストダンジョンとかにいるタイプだろう。

 最近異世界に来て以来、一度も実戦をしていないカズマにとっては、絶望的な敵にしか見えない。

「カズマ。この私を誰だと思ってるの? いくらこっちに来て力が落ちてるって言っても、この尊くて清らかな私がこんな害虫程度に負けるわけないじゃない。むしろ、こんな邪悪なのが近くに潜んでいたのに気づかないなんて、女神の名折れだわ!」

 そう続けて、透き通るような白い手をまっすぐ突き出すと、

「『セイクリッド・エクソシズム』!」

 再び破魔魔法をぶっ放した。

 その白い炎は悪魔の腕を掠め、一部がボロリと土のように崩れる。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「ちょっとあんた、ちょこまか避けてないでとっとと消し飛びなさいよ!」

「嘘だろ、おい! なんでこんなところにこんな極悪な破魔魔法の使い手が、この街にいるんだよ!?」

 バカの一つ覚えのように破魔魔法を連発するアクアと、それから必死で逃げ回っている悪魔。

「カズマカズマ、ここは加勢をしたほうがいいのではないでしょうか?」

 気を失ったスバルの身体を背負ったカズマに、めぐみんが声をかけてくる。

「そうは言うけどなあ…………」

 …………自分たちはこのまま逃げたほうがいいんじゃないか?

 カズマの脳裏に、そんな考えが頭をよぎる。

 一見したところアクアが完全に優勢で、悪魔はなんとか避けているだけのように見える。

 カズマが何かしても、余計なことになるだけではないだろうか。

 ここに来る前に、スバルについての聞き込みで寄った『ウィズ魔道具店』に戻って、魔道具でも持ってくれば別かもしれないが。

 まあカズマはともかく、この二人は凄腕の魔法使いだと聞いている。何かできることもあるかもしれない。

「めぐみん、お前確か最強の魔法を使えるとか言ってたよな? それ使ったら、あの悪魔を仕留められるか?」

「我が爆裂魔法は最強魔法です。確かにあれほどの上位悪魔となれば、一撃で仕留められるかはわかりませんが、大ダメージを与えることはできるでしょう」

 めぐみんの自信と確信に満ち溢れた頼もしい言葉。

 大ダメージを与えれば、アクアの破魔魔法も直撃するだろう。

「そっか、ならそれを……」

「ちょっとめぐみん!? あんた、ここであんなのぶっ放したらただじゃすまないわよ!?」

 すぐにそれを使わせようとしたカズマとめぐみんの間に、スバルに視線を送っていたゆんゆんが慌てて割って入ってきた。

「こんなところで撃ったら、私達やアクアさんも絶対巻き込まれるわ! それに爆裂魔法なんて使おうとしたら、魔力で察知されて絶対見つかるわよ。見つからずに撃てても、最悪そこの結界が壊れて、あのドラゴンまで動き始めるんじゃ……」

「ですがゆんゆん、あなたの魔法を当てた程度では倒せないでしょう。爆裂魔法なら効果範囲も威力も折り紙付きです、今はそれしか…………」

「だからって、皆死んだら元も子もないでしょう!?」

 目の前で言い合う二人の会話を聞いて、カズマは頭を回転させる。

「…………………二人とも、ちょっと聞いてくれ。単純な作戦だけど、やらないよりはマシだろ」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「『ライト・オブ・リフレクション』ッ!」

「『セイクリッド・スペルブレイク』ッ!」

 アクアが何か叫ぶと、その姿が今にも消えそうになっていた悪魔が、まるで逆再生するかのように現れた。

「嘘だろ、おい……!」

「この私の前から逃げられるとは思わないことね! さあ、さっさと諦めて消滅しなさい!」

 戦闘は相変わらずアクアが優勢だった。

 破魔魔法は既に悪魔の翼の一部を消し去っており、その飛行能力を奪っている。

 悪魔が何か魔法を使っても、その魔法を簡単に消し去ってしまう。

 カズマがこの世界に引きずり込んで以来ろくなことをしていなかったが、腐っても神らしい。

 なら、こっちも出来る限りのサポートをすることにしよう。

「めぐみん、頼んだぞ」

「はい。――――黒より黒く、闇より暗き漆黒に……」

 彼女が詠唱を開始すると、周囲の空気が振動するのがわかった。

 全身から魔力をみなぎらせる彼女の額からは幾筋もの汗が流れ、多大な集中力を必要としていることが伝わってくる。

「!?」

 そんなめぐみんの魔力に反応し、劇的な反応を見せたものが二つ。

 一つはドラゴン。

 よほど恐ろしく思ったのか、自分の傷もお構いなしに結界を壊そうとぶつかっては足掻いている。

 …………というか壊れやしないだろうな、あれ。

 もう一つの反応は悪魔。

 アクアの破魔魔法を回避した直後、彼はカズマとめぐみん(と、背負ったスバル)の方へ向かって走り始めた。

 魔法を使わないのは、アクアに散々無効化されたからだろう。

「冗談じゃねえぞ、オイ! そんなもんぶっ放されたら……!」

「『ライトニング』ーッ!」

 悪魔にとっては突然としかいいようのないタイミング。

 言葉と共に、木陰から現れたゆんゆん、彼女の放った一条の雷撃が、悪魔の行く手を阻むように襲いかかる。

 しかし。

 ゆんゆんの魔法に気づいていたはずの悪魔は、敢えてその雷へと高速で突撃していった。

「『セイクリッド・エクソシズム』!」

 アクアの放った白い炎が、悪魔に襲いかかる。

「ぐっ…………いってえなあああああああぁっ!」

 だが、白い炎はわずかに遅かった。

 全身を雷撃に貫かせ、火花を身体から散らしながらも、そのまま動きを止めない悪魔は、すんでのところでアクアの放った白い炎をかわす。

「げっ!? マジかよ……」

 予想外の行動に、カズマの口から声が漏れた。

 確かに単純に考えるならば、破魔魔法と中級魔法では、どちらが危険かは考えるまでもない。

 だが、それは理屈だ。めぐみんの見せた凶悪な魔力を囮として、驚愕した直後、慌てて対処しようという時に、突如飛んできた攻撃。普通は反射的に回避か防御に移るはずだ。足を止めたところにアクアの破魔魔法が直撃すれば終わり。そういう作戦だったのだが。

 まさか、即座に的確な対応ができるとは思わなかった。

「『ライトニング』!」

 ゆんゆんがもう一度魔法を放つが、敵は追撃にも構わず、そのままこちらに向かって突っ込んでくる。

 これはまずい。

 アクアだけなら相性的に負けなさそうだが、こちらが死んだり人質にされたりしては元も子もない。

「おい、逃げるぞ!」

 カズマは一旦退却するべく、側にいるめぐみんの襟を強く引っ張った。

「あ――――」

 途中で詠唱を止めた魔力の制御に集中していたためか、めぐみんの頭が引っ張った拍子に大きく揺れる。

 急な動きについていけなかった帽子が頭から落ち、そこから姿を現したのは、額に十字の傷をつけた黒い猫。

 それを見た瞬間、悪魔の動きが一瞬止まった。 

 

「ウォルバク、さ――――――――!」

 

「『セイクリッド・ハイネス・エクソシズム』!」

 白い炎はカズマ達ごと、腕を伸ばした悪魔を包み込んだ。

 

 

 悪魔は崩れつつある身体で、妙に人間臭い仕草を見せる。

「こりゃ《残機》が減っちまうなあ。一人で済めばいいが……。ああ…………ちくしょう。目の前に、いるってのによお」

 そう言って腕を上げて何かに触ろうとするが、肘から先が崩れたその腕は、何にも触れることができない。

「まあ、しょうがねえか…………。お前ら、事情はその男に聞いとけ。これからが大変だろうけどな…………」

 そう、視線だけで、カズマの背中にいるスバルを指すと。

「――――――――後は頼んだぜ」

 

 そんな言葉を残して、名も知らぬ悪魔は消えていった。



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18 『   と    』

 意識を取り戻したスバルが最初に確認したのは、自分が死んだかどうかだった。

 自身の身体は横たわっており、背中には柔らかい布の感触がする。視界にはいつか見たことのある天井が広がっており、鼻孔をくすぐるのは、草木とは無縁の室内の空気。

 東南方向に設置された窓を向くと、東の空が少し白み始めているのが目に映った。

 

 早朝の宿だ。

 数えるほどしか泊まったことのない、宿の個室。少なくとも、あのまま『死に戻り』したわけではないらしい。

 続いて、見るのは自らの手。拳と掌を交互に作り、自身の皮膚の感触、それに握力を感じて現実感を得た。

 

 そのまま肉体の状態をチェックする。

 頭部、胴体、腕部、脚部、特に外傷らしきものなし。

 頭痛も内臓の痛みも感じられない。

 それどころか、”前”の世界からあった手足に感じる重さ────ゲートを酷使した際の後遺症まで失せている。

 いったい誰が自分を治療してくれたのかわからないが、凄まじい腕だ。少なくともセシリ──スバルの知る、この街最高のプリーストと比較してもはるかに格上の使い手といえるだろう。

 これらの状況を合わせて考えるならば。

 スバルが気を失った後、ホーストを誰かが討伐、あるいは撃退。そのまま、その何者かがスバルを運んで治療してくれたといったところだろうか。

 

 とすると、まずい。

 上位悪魔であるホーストは、この街最強クラスの魔剣の勇者すら、重傷を負わせる強さである。それを相手に被害なく突破できたとはとても思えない。

 また、エンシェントドラゴンのこともある。

 スバルの肉体に染み付いた、濃厚な魔女の臭気、それを吸い上げたエンシェントドラゴンは、いったいどれほどの脅威になるかわからない。

 最悪の場合、大勢の死者を出した挙句、エンシェントドラゴンを手のつけられない脅威に変えてしまってから、セーブポイントが更新された可能性も────。

 

「落ち着け…………落ち着け…………まだそうと決まったわけじゃねえ」

 

 頭によぎる最悪の可能性を、ともすれば加熱しそうな思考を、額に手を当ててなんとか押し留める。

 

「不安がっていてもしょうがねえ……まずは、あの後どうなったか確認しねえと……」

 

 切り替えきれない意識を強引に振り払い、スバルは扉の方に目を向けて。

 

「…………お久しぶりです、ナツキさん」

 

 ただ静かに、椅子に座っていた少女と目があった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「まあ…………そんなに時間は経ってないですけど」

 

 彼女とこうして真っ向から対面するのは、どれくらいぶりだろうか。

 数え切れないほどのループを繰り返してきたスバルにとって、現実の時間などなんの意味も持たない。

 はるか遠い過去、スバルが何度も死なせた少女。

 スバルが原因で、何度も殺してしまった少女。

 こちらをまっすぐ見据えるその顔を直視できず、スバルの視線は自然と下を向いて。

 彼女の首筋に白い包帯が巻かれているのに気がついた。

 最後に別れた時にはそんなものはなかったはずだが、怪我でもしてしまったのだろうか。

 

「体の調子はどうですか? 悪いところは全部治したって話でしたけど。それでも、大怪我すると治療しても違和感が残るっていいますから」

 

 こちらの身体を気遣う、優しさに満ち溢れた声。

 

「……………………何の用だよ」

 

 それを、あえて不機嫌そうな感情を乗せた硬い声で断ち切りにかかる。

 この状況。

 ゆんゆん自身がスバルを助けてくれたか。あるいは、スバルを助けた誰かから引き取り、治療とベッドの手配をしてくれたのか。

 

「もう、俺とゆんゆんには何の関係もないだろ」

 

 いずれにせよ彼女への恩に対して、スバルが返せるものは拒絶だけだ。

 彼女がスバルと関わっても、一方的に悲劇に巻き込み、凄惨な結末を生む。

 それはスバルが、スバルだけが一番良く知っている。

 

「変に構おうとするのはやめてくれ…………俺に近づくな。迷惑だ」

 

 下手に言葉や金銭で感謝を伝えようものなら、再び繋がりが出来てしまうかもしれない。

 それでは意味がない。

 人との関わりを求め、しかし人一倍他人に気を遣う彼女なら、こうするだけで距離を置いてくれるはずだ。

 早急に彼女との会話を切り上げ、その後状況を把握し、必要ならば自死も考えなくてはならない。

 そう、早くも意識を『次』のことにまで移していたスバルは、

 

 

「────嫌です」

 

 

 予想外の言葉を返された驚きで、背けていた視線を戻した。

 否定で返したゆんゆんは小さく肩を震わせて、何かに耐えるように自身の服を握りしめながら。

 それでも、ただまっすぐにスバルを見据えていた。

 

「森に潜んでいた悪魔は、アク────私が連れてきた人たちと協力して、なんとか討伐に成功しました。あのドラゴンは、ナツキさんのおかげで結界の中に閉じ込められたままです。ナツキさん以外には、特に怪我人も死人も出ていません」

 

 彼女はすらすらと、スバルの求めている情報を並べ立てる。

 

「ですから。お話を、しましょう」

 

 紅の瞳に明確な意志の光を宿し、そう続けた。

 

「…………話すことなんてねえ」

 

「私にはあります。ナツキさんと話したいこと、ナツキさんから聞きたいこと。いっぱい、いっぱいあるんです」

 

 正面から突っぱねても、意志の光を陰らせることなく、躊躇うことなく食い下がってくる。

 その強い意志は、かつて誰にも話しかけられず、一人ただ座っていた少女の姿とは思えなかった。

 

 いや。

 本当に必要だと判断した時には、腕を失おうとも、自らの意志を示し続けられる。

 それも彼女の姿だったか。

 

「ナツキさん。私と別れてから────ううん、別れる前。あのドラゴンの像で、何を見たんですか?」

 

「俺は────」

 

「とぼけたって無駄です。ナツキさんの無茶なレベル上げ、あんなドラゴンが現れると知ってたとしか思えない準備。…………悪魔は偶然かもしれませんけど、それにしたって、何か関わりがあると思うのが当然です」

 

 その言葉で、スバルは自分のやり方が浅はかだったことに気付かされる。

 確かに最高効率で動くことは重要だが、もっと自分の不自然さが目立たないように、観察されないように気を配っておくべきだった。

 まさか、突き放してとうに離れたと思っていたゆんゆんに観察され、知られていたとは。

 お人好しの彼女のことだ。何度も繰り返したループの中で、気づかれないところで何度もスバルを助けていたとしても不思議ではなかった。

 

「教えてください。何があって、ナツキさんは、あんな命を捨てるようにレベルを上げて、死に急ぐような戦いをしていたんですか? 戦いがあるとわかっていたのなら、私が────ううん、他の人たちだって、きっと力を貸してくれたはずです。なのに……」

 

 首を振る。

 ダメだ。それをさせたら意味がない。

 スバルが声をかけたその短絡さで、ゆんゆんは貪り食われて命を散らした。

 スバルなどが仲間になってしまったから、ゆんゆんはスバルを守ろうとその身を紅く染めることになった。

 

 そもそも。

 スバルがこの世界に来なければ、この街に悲劇は起きなかったというのに。

 

「ナツキさんだけが、一人で苦しい思いをして、傷ついて……」

 

 苦しむのも傷つくのも、スバルだけでいい。

 違う。

 スバルが苦しむのも傷つくのも、当然のことなのだ。

 全てはスバルの愚かさが招いたことなのだから。

 

「返事くらいしてください!」

 

「いいから、ほっといてくれよ……!」

 

 何も知らない彼女にとっては、スバルの行動は不可解極まりないものなのだろう。

 たまたま危機を知り、力もないくせに一人足掻いている愚か者。事実、そう思われても仕方がない。スバル自身が、己の愚かさを一番知っている。

 

「放っておけません。私に生き残れ、なんて言っておいて、自分の命を大切にしないなんて、おかしいじゃないですか」

 

「これでいいんだよ。俺の命の使い道は、これでいいんだ」

 

 スバルの言葉に、真面目に相手をする気がないと判断したのか、ゆんゆんは眉を釣り上げる。

 

「そんな理屈…………!」

 

「エンシェントドラゴン……眠っていたあいつを目覚めさせちまったのは、俺なんだ」

 

 その気勢を削ぐように、スバルはその言葉を被せた。

 それは紛れもない真実の一部であり、スバルの罪の一端だ。

 

「俺の迂闊が、俺の無能が、俺の未熟さが、あの災厄を引き寄せた。なら、俺が俺の全てを使って解決するのが道理だろう」

 

 言いながら、自分自身に嫌悪感を抱く。

 心配するゆんゆんを振り払うために、自分の罪すら利用している。

 なんという偽善。

 なんという欺瞞。

 

 ──せめて心を鋼にできたなら、きっと楽になれるだろうに。

 

「わかったらそこをどいてくれ。俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ」

 

 自分の目で正確な状況を把握するのも、『死に戻り』するのも、ここでゆんゆんといては不可能だ。

 そう、扉へと足を進めると、スバルの前を、広げたゆんゆんの手が押し留めた。

 

「バカなことはやめてください! ナツキさんが今こうして生きていられること自体奇跡でしょう!?」

 

 前提条件が違う。

『死に戻り』を知らないゆんゆんにとっては、絶望的確率を経た上での、奇跡のような結果(いま)でも。

 無限の再挑戦を前提としたスバルにとっては、訪れるべきして訪れた結果────過程に過ぎない。

 前の世界での例外(エキドナやロズワール)と違い、ループを知り得ない彼女とは、今わかりあうことはできない。

 そう判断したスバルは、ゆんゆんに背を向けて、ベッドの近くに置いてあった私物を探り始めた。

 

「な、ナツキさん、無視しないでください!」

 

 会話を放棄したスバルの背に食ってかかる声。

 

 ────ゆんゆんも、ここまで積極的になれるんだな。

 

 普段からこうあれれば、いくらでも仲間ができるだろうに。

 そう、他人事のような思考を走らせながら、体内の(ゲート)の感覚を確かめた。

 最悪、シャマク────無理解の魔法を使い突破してもいい。

 状況確認は必要だが、『死に戻り』が必要な状況なら、シャマクを使用したことによる消費はチャラだ。

 可能性は低いが、『死に戻り』不要な状況という可能性もある。だが、一度の無駄打ちも、それほどの問題にはならないだろう。

 セーブポイントが更新されていたならどうしようもないが、そこはどうにもならないことだ。

 

「別にいいんだよ。この程度のこと…………なんともない────からっ!」

 

 スバルはそこまで言うと同時に、ベッドの側に置いてあった部屋の備え付けの小物を壁に向けて投げた。

 

「────────!」

 

 ゆんゆんの視線が一瞬そちらに向けられる。

 その隙をつき、スバルは彼女の横をすり抜けてドアノブに手を伸ばし────扉がまるで動かないことに気がついた。

 

「これは…………!?」

 

「『ロック』、です」

 

 ゆんゆんはスバルの考えを先回りするように、その魔法の名を言った。

 

「ナツキさんが寝ている間に、扉と窓にかけさせてもらいました」

 

 補足するゆんゆんに再び相対し、スバルは内心歯噛みする。

 確かこの魔法を解除するには、同等以上の実力でなければならなかったはずだ。

 当然、スバルの魔法の実力は、ゆんゆんに遠く及ばない。

 彼女の許可なしに出られない、見事な軟禁状態だ。

 

「ここから出してくれ」

 

「出しますよ。ナツキさんが、これから言う私の質問に答えてくれたなら」

 

 それから一拍置き。

 すうっと息を吸い込んで、彼女は問うた。

 

 

「ナツキさんは、嫌じゃないんですか?」

 

 

「…………何がだよ。そんな質問をする意味がわからねえ、これでいいって言ってるだろ」

 

「正しいかどうかの話じゃありません。妥当かどうかの話じゃありません。ナツキさんの心に聞いてるんです」

 

 揃えた両手を胸に当て、

 

「私は一人でも戦える力がある。だから、一人でも問題はないでしょう。でも…………一人は嫌です。嫌なんです」

 

 痛切な実感のこもった言葉を語り続けた。

 

「ナツキさんは一人で戦うのが正しい。例えあなたの道理がそう言ったとしても…………本当にそれでいいんですか? ナツキさんの心は、そこに何を感じるんですか?」

 

 スバルの、心。

 

 自分に温もりをくれた青い髪の少女、その寝顔が脳裏に走る。

 彼女の寝顔を初めて見た、胸を引き裂くような痛み。

 あの時スバルの心にできた傷は癒えることなく、この世界に来てなお開き続けるばかりだ。

 この痛みに比べれば。

 失ってしまう苦しみに比べれば、覚悟の上で死を超え続けることに、何の迷いがあろうか。

 だから、スバルはその問いに、まっすぐ答えた。 

 

「俺は何も苦しくなんてない。俺は──死んだっていいんだ」

 

 

 

 

 ────────チリン。

 

 

 

 

「ほら、嘘です」

 

 少女の懐から、いつか見た魔道具が現れた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 ここまでの会話で、ゆんゆんの動きに不自然な点はなかった。

 つまり、最初から魔道具のスイッチはオンにしてあったということ。

 おそらくスバルの身に纏わりついていた魔女の臭気は何らかの理由────かの竜にすべて吸い取られたのだろうか────で消失している。

 

 つまり、今の魔道具は正常。スバルの偽りを、正しく容赦なく暴き出す審判者だ。

 

「くそ…………。望んでない時ばかり、正常に働きやがる……」

 

 小さな声でついた悪態が聞こえているのかいないのか、ゆんゆんは、小さく微笑んで、こちらをじっと見つめてきた。

 確かにスバルの今の言葉は偽りだ。

 死の循環。

 そこには苦痛も、恐怖も、激昂も、悲嘆も、破滅も存在し。

 どれだけ血を流し、惨劇に狂乱し、慟哭に喉が潰れ、枯れ果てるまで血涙し、どうしようもなく摩耗したとしても。

 それでも、心は鋼に至らない。

 スバルの心は弱く、脆く、ちっぽけで。

 誰も知らない死を見続けて、どれだけ償いを繰り返しても、そこに強さは宿らない。

 それでも、意地を張り通す。スバルはそうしなければならなかったのに。

 

「ナツキさん」

 

 紅い瞳が、スバルの黒瞳をじっと覗き込み、

 

「そんなに苦しいなら、逃げてしまいましょう? 誰にも頼まれていないのに、ただの冒険者がたった一人でエンシェントドラゴンを相手にしたんです。誰もナツキさんを責めたりしませんよ」

 

 心優しい少女が、スバルの身を案じて発したであろうその言葉。

 

「逃げ、る…………?」

 

「ナツキさん?」

 

 その言葉を聞いた途端、

 

「は、ははっ…………!」

 口から笑いがこぼれた。

 筋肉が収縮し、ただ空虚な笑いが止まることなく口から出続ける。

 頭を抱えて顔を隠し、床に座り込んで、そのまま背中を閉ざされた扉に預けた。

 ひとしきり笑い────自嘲を終えると、スバルは顔から一気に表情を消した。

 

「断る。俺はもう逃げない。逃げるわけには、いかない」

 

 決意を込めた言葉を、淡々と彼女に告げる。

 

「痛いのも、苦しいのも、俺が勝手にやってることだ。ゆんゆんには関係ない」

 

 何を言われても関係ない。言うべきことは事実だけでいい。

 ただ突き放せ。それが唯一の、彼女を救う道だ。

 それだけを念頭に置き、ただ告げた。

 黙ったまま聞いていた彼女は、ぼそり、と。

 

「なら、私にも考えがあります」

 

 つぶやきとともに、ゆっくりと、自分の首元を露出させ。

 そのまま流れるような動作で、首に巻かれた包帯を、そっと外した。

 

「あ────────ああああ」

 

 顕になったまるで透き通るような白い肌。

 その白の中に、一筋の黒が混じっている。

 その黒は、『願いを叶えるチョーカー』の形をしていた。

 

「なん、で…………」

 

 瞳が揺れる。

 声が震える。

 目の前の光景を信じたくなかった。

 

 だが、いくら目をこすっても光景が変わることはなく、目の前が現実であると突きつけてくる。

 その黒いチョーカーは、ウィズの店で取り扱っている魔道具。

 着用者は己の願望を叶えることを強制され、叶えられなかった着用者はチョーカーによって絞殺される。

 死と隣り合わせの呪いの魔道具であった。

 

「なに、やって…………何をやってるんだよ」

 

「さあ……なんでしょう」

 

 彼女は首につけたチョーカーに手を触れながら、紅の瞳に光を灯し、口を笑みの形に変える。

 その微笑みは、自身の行為への自嘲なのか。それとも、何かの思惑を持った上のものなのだろうか。

 どちらにせよ、死への導火線に自ら火をつけた少女を見て、スバルの肉体はただただ震えるばかりだ。

 

「それにかけた”願い”を教えろ……なんとか叶えてみせる」

 

「お断りします」

 

「どうしてだよ!?」

 

 少女の意図が理解できず、スバルは立ち上がって彼女に一歩近づいた。

 

「なんでそんな、バカなことするんだよ! 自分の命をなんだと思ってやがる!」

 

 ゆんゆんは、この世界におけるスバルの罪の証であり、同時に守るべきものの象徴だった。

 生きていて欲しい。

 幸せになって欲しい。

 そのために、スバルは死の循環を繰り返し、取り零した命を拾い集めてきたのに。

 彼女を、多くの人々を守ることこそが、スバルの償いだったのに。

 知らず知らずのうちに、スバルの全身に熱が走り、同時に胸の奥にずしりと重いものが沈み込んだ。

 

「なのに……! お前が……お前がそんなことをやってどうするんだよ……!」

 

 自身の感情、その全てがない混ぜとなり、慟哭として口から漏れる。

 

「ナツキさんに、言われたくありません」

 

 まるで拗ねたような膨れ顔で返されて。

 場違いなまでの平然とした態度に、スバルの頭にかっと血が昇った。

 

「お前、自分がやったことが…………そのチョーカーがどんなものなのか、本当にわかってるのか!?」

 

「わかってるもなにも…………一緒に聞いていたの、ナツキさんも知っているじゃないですか」

 

 この世界でのループが始まる前。

 ダクネスとクリスの会話を聞いていた時、確かにゆんゆんはそばにいた。知らないはずはない。

 

「わかってるなら、どうして…………!」

 

 ゆんゆんのどこに、命を賭ける理由があるというのか。

 

「私は、ナツキさんの特別な誰かじゃありません。たった数日しかそばにいなかった私に、友達のいない私に、きっとナツキさんの考えていることはわからないと思います」

 

 彼女は首に巻いたチョーカーにそっと触れると、寂しさの浮かぶ瞳で語る。

 

「────だから。ナツキさんの見ている世界と、同じものを見ようと思いました」

 

 死の息遣いが聞こえる世界を見れば。

 先の保証が掻き消えた、一筋の生を掴み取る世界を見れば。

 スバルのことを理解できると、そう考えたというのか。

 

「やめろ……やめてくれ……そんなことに意味なんてないんだ……」

 

 スバルの『死に戻り』を知らないゆんゆんに、スバルのことを理解することはできない。

 どれだけ死に瀕していようと、幾多の死を越えてきたスバルを理解できるはずがない。

 先のない世界を体感しても、『先』の保証があるスバルと分かり合えるわけがない。

 彼女の行為は、全くの無意味──無駄死にだ。

 

「────────っ」

 

 胃の内容物を全てぶち撒けたくなる衝動を強引に飲み干して、スバルは手で目を覆った。

 最善を求めていたはずなのに。自分以外は傷つかない道を目指していたはずなのに。

 何故目の前の少女は、自ら死に向かってしまうのか────。

 もはや迷っている暇はない。

 セーブポイントが更新される前に『死に戻り』して、彼女のバカな行為を止めなくてはならない。

 スバルは自分の舌先を小さく出し、顎部に力を込め────。

 

「今、ナツキさんが感じている感情(おもい)。それが、ずっと感じている私の気持ちです」

 

 紅い瞳の少女の言葉が、その動きを押し留めた。

 

「人の心を理解するのは、本当に難しいですよね。でも…………やっと同じ気持ちになれました」

 

 恐怖と自嘲、それに少しの歓喜を混ぜた、泣き笑いのような表情で少女は言った。

 

「ナツキさんはひどい人です。こんな痛みを私に押し付けていっちゃうんですから」

 

 そう言って、手を自分の胸から離し、スバルの胸をつついてみせた。

 

「違う……そういう問題じゃない。俺は、俺は最後には絶対生き残るから、お前とは違うんだよ……!」

 

「私だって、こんなもので死んだりしません。そう、確信しています」

 

 魔道具は音を鳴らさない。

 

「いい加減なこと、言うなよ……!」

 

「私がいい加減なら、ナツキさんだってそうでしょう……!?」

 

 互いに語気が荒くなり、互いが互いの瞳をまっすぐ睨みつける。

 無視して自害しなかったのは、彼女の真意を知らなければ、また同じことをする────なんていう理由ではなく。

 このまま退くに退けない、そんなつまらない子供じみた意地だった。

 

「俺一人でやればいいんだよ……! 俺が傷ついて、俺が苦しんで、俺だけが背負い込む! 他の皆には痛みも苦しみもを味あわせたりしない! 俺が俺の勝手でやって、何が悪いんだよ!」

 

「まだわからないんですか!? 他人が傷つくのが嫌なくせに、なんでわからないんですか!」

 

 …………うるさい。

 

「全部全部、俺のせいなんだ……! 一番大事なところで、傷を負い続けられなかった俺の弱さが皆を殺すんだ! なら、自分の尻拭いくらい、自分でやらなきゃいけないだろうが!」

 

「見てるこっちが苦しいんですよ! ナツキさんにだってわかるでしょう!?」

 

 うるさい。

 

「別にいいだろ! 俺がやらなきゃいけないんだ! 俺が全部、全部、全部やればいいんだよ!」

 

「そうやって、何もかも一人で背負い込んで、何もかも一人でやろうとして! 自分が魔王になるつもりなんですか、あなたは!」

 

 ────うるさい!

 

「俺を、これ以上のクズにしようとするんじゃねえ! 俺に残った最後の価値を、奪うんじゃねえ! 俺には、もう、この戦い(つぐない)しか残ってないんだ!」

 

「なにが、ナツキさんをそんなに────!」

 

「俺が! 皆を捨てて一人で逃げてきた、クズ野郎だからだよ…………!」

 

 そう絶叫すると共に。

 スバルの身体は、膝から崩れ落ちた。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

『初めて安全な道を選んだ。それがたとえ、先にさらなる困難が待ち受ける道であろうとも、あなたは選んだ────私のくもりなきまなこには、それが見通せます』

 

 遙か遠い時間の先、占い師はそう断言した。

 ────大正解だ。

 今となってはそう思う。

 

 あの時、スバルの心に初めて、明確な疑心が誕生した。

 自分自身の選択────そして、自分自身の心への疑いが。

 

 ────自分は、本当に前向きな考えで、この世界にやってきたのだろうか。

 ────本当は、どうしようもなく行き詰った世界が恐ろしく、一時の安息を求めて逃げ出してきただけではないのか。

 

 そして、一度でも疑いが湧くと、もう止まらない。

 気づかないふりだけは──自分を正当化するための嘘を自分につくことだけは、かつての醜さを繰り返すことは、もうできなかったから。

 

 

「俺は神様に出会ってここに来た。魔王を倒せば、皆を救ってくれる、それに縋って、ここに来た。でも、それじゃダメだろう……? 神の言葉でも……魔女の言葉でも……ホイホイ信じていいものじゃないだろ……! 皆を置き去りにして、一人で逃げていいはずがないだろうが!」

 

 そうだ。

 女神アクアの誘いに乗り、この世界に送られた時から、ナツキ・スバルの逃亡は始まっていた。

 本当に皆を救いたかったのなら、あそこで安易に別の道に逃げるべきではなかったのだ。

 

 このループに希望が見えない?

 そんな弱音を吐くには、何もやり尽くしていないだろう、ナツキ・スバル。

 少なくともエキドナの助言という、縋る希望があったから、お前はあの時墓所に向かったのではないのか。

 神の力を借りるチャンスを逃がさない? 脆い希望に『オールイン』?

 ただの思考停止、ただやるべきことから目を背けていただけだ。

 

 本当にあらゆる痛みと苦しみを背負う覚悟があったなら、少なくともあの場は自害するべきだったはずだ。

 セーブポイントが更新される前に『死に戻り』して、取り返しのつかない事態を防ぐべきだったはずだ。

 そして、身を削り心を擦り減らし、命を捨てて繰り返して、『聖域』の運命を変えてみせる。それだけを考えていればよかったのだ。

 

 全てを尽くしてからでないと、こんなギャンブルは許されなかったはずだ。

 

「魔王を倒せば全て解決するんだって、そう思って逃げてきた」

 

 なのに、スバルは安易にこの世界に飛び込んだ。

 その場の凌ぎに、何の保証もない道へと逃げ込んだ。

 

「ちょうどいい口実に乗っかって、皆を置いてここに逃げて! 挙句の果てに、逃げ込んだ世界でも悲劇を巻き起こしてる──そんな、どうしようもない大馬鹿野郎なんだ!」

 

 

 結果────目の前の少女をも、ありもしなかった死の運命に巻き込んでいる。

 

 

『ありがとう、スバル。私を、助けてくれて』

 

 その双眸にはめ込まれた紫紺の輝きが、風に舞う銀糸の髪が、唇から紡がれる銀鈴の声音が、少女の全てがスバルを魅了した。

 彼女への恋心のために、何度でも死に、共に歩こうと誓った。

 

『えへへ。うん、うん……好き。スバル、大好き』

 

 その恋い焦がれた少女が使命と試練に押しつぶされ、やがて壊れると知りながら。スバルは彼女を置き去りにした。

 

 

『でも、お前は『その人』になってくれる?』

 

 四百年の孤独に苛まれ、終わりの見えない袋小路に閉じ込められ。助けを求める声すら枯れ果てた少女がいた。

 

 

『友人助けようとするってのは、そんなにおかしなことですかね?』

 悪意に翻弄される中、無条件の善意で駆けつけてくれた友達がいた。

 

 自身の半身とも言える存在を失いながらも、薄紅の瞳に隠した慈しみを変えなかったラム。

 その身を呈して何度もスバルに尽くしてくれた、忠竜パトラッシュ。

 見ず知らずの少女を守るため、最期まで戦ってくれたフレデリカ。

 前の世界、『聖域』を起点としたループのすべてで凄惨な結末を迎えたペトラ。

 外敵を必死で遠ざけようと、ただがむしゃらに守り手を貫くガーフィール。

 他にも、大勢の人々が死の炎に消えていった。

 スバルが救わなければならない人たちが、スバルに置き去りにされて、死んでいったのだ。

 

 

『レムは、スバルくんを愛しています』

 

 空っぽの過去に、何もない自分にうつむいたスバルに、勇気を与えてくれた青の少女がいた。

 独りよがりなスバルを見限らず、醜悪なスバルの甘えを許さず、ただスバルを支えてくれた青の温もり。彼女の信頼(呪い)だけは、何があっても裏切れないと誓った。

 

『かっこいいところを、見せてください。スバルくん』

 

 彼女の願いを胸に抱いておきながら、できることをやり尽くしもせずに、スバルは彼女の元を、世界を去った。

 信頼を裏切った。

 裏切って、しまった。

 

 前の世界でできた大切なもの。

 大切な思い出。

 大切な、人達。

 その全てが反転し、ナツキ・スバルの心を苛み続ける。

 お前が皆を殺したのだと。

 誰よりも痛みも苦しみも知る身でありながら、皆にそれを押し付けて逃げたのだと。

 都合の良い綺麗事を並べて、一人で戦っているつもりでいたのだと。

 そんな心の痛みのほうが、血肉を貪られる痛みよりも、全身を溶かされる苦しみよりも、よっぽど辛かった。

 

 自分の弱さに、自分の愚かさに気がついたなら、目を背けることは許されない。

 決意を、信頼を、愛情を裏切った償いを果たさなければならない。

 自分が生み出した惨劇を、止めなければならない。

 

「こんな大馬鹿野郎に……誰も救えない俺に価値なんてないから…………」

 

 前の世界に戻るには、女神の言葉を信じるしかない。

 

「誰も死なせずに、誰も巻き込まずに、魔王を倒してあそこに戻れたら、その時は────」

 

 初めてスバルは自分の罪を償える。

 もう一度、全てをゼロに戻すことができる。

 きっと、自分を赦すことができる。

 だから。

 

 

「…………もう、俺に構わないでくれ。俺から離れてくれ。俺に──もう誰も、死なせないでくれ」

 

 手に力は入らず。

 前を見ることもなく。

 空虚な瞳で床を見つめ、言葉だけをこぼすスバル。

 

 

 

「────それでもあの日、声をかけてくれた。私にとってのナツキさんは、それで十分です」

 

 

 

 そんなスバルを、ゆんゆんは目を逸らさずに見据えていた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「あの時、誰一人として話せなかった私に声をかけてくれて、本当に嬉しかった。嬉しかったんです」

 

 魔道具は音を鳴らさない。

 些細なつまらないことを、本当に嬉しそうに、ゆんゆんは語る。

 

「お互い特別な誰かでなかったけど……きっとこれから何も変わるんだって思って……。あの数日は輝いているように思えました」

 

 スバルにとって、遙か遠き記憶。

 彼女にとって、ついこの間の思い出。

 隔絶した過去を共有するスバルには、理解できなかった。

 

「ずっと独りぼっちだった私にはわかります。一人は、ダメなんです。一人だとうつむいて、自分の足ばかり見て……。考えも下ばかり見たものばかりで、いつまでたっても前を向けなくなるんです。だから────ナツキさんが声をかけてくれて、変わろうと思える機会をくれて、凄く嬉しかった」

 

 違う。

 スバルは彼女のことを思う気持ちは、それほど多くあったわけではない。

 

「お前に声をかけたのは、強そうな人の手が空いてそうだったから、力を利用しようってだけの、俺の勝手な都合で────」

 

 スバルはただ。

 一人ぽつんと待つしかできないその姿に、四百年の孤独を耐えた少女を重ね合わせただけで。

 

「そんな、自分勝手な奴に感謝する必要なんて────」

 

「はい。利用するつもりの相手も、結局危険から引き離そうとする。そんな、どうしようもないお人好しなんですよね」

 

「────────」

 

 少女の何もかも見透かしたような無垢な瞳に、自身の黒瞳を覗き込まれ、何も言えなくなる。

 自分はそんな善人ではないのに。

 こんなどうしようもない自分に、一体何を見ているというのか。

 紅い瞳を逸らさずに、少女は言葉を重ねる。

 

「ナツキさんが何を見捨ててきたのか。何から逃げてきたのか。誰を置き去りにして、どれだけの悲劇が起きたのか。それは私にはわからない。わからないけれど────それでも、独り苦しみ続けることが償いだなんて、私は思いません」

 

 薄っぺらくて、何もなく。自分にあったはずの最後の価値すら一度は投げ出した。

 そんな自分に、死で救う以外の、どんな償いができるというのか。

 

「俺は…………俺、は…………」

 

「ナツキさんを苦しめるものがあるなら、少しずつ胸の裡を明かしてください。悪いことをしたなら、一緒に頭を下げて、一緒に叱られましょう。辛いことがあるなら、全て吐き出してください。どんな困難が相手でも、二人で……皆で考えたなら。きっと、前を向いて何かを見つけられるはずです。だから────」

 

「自分の価値は誰かを救うしかないだなんて…………そんな哀しいこと、言わないでください」

 

 鼻の奥からツンとした痛みが走る。

 胸のあたりを引き絞られるような圧迫感が襲い、そのまま視界がぐにゃりと歪む。

 

「自分を認められるために、誰かに好きになってもらうために、命と心を削るなんて、しないでください。そんな悲しい友達料(たいか)は必要ないんです」

 

 頬が濡れているのを感じて、ようやく自分が泣いているのだと理解した。

 

「ナツキさんに、死んでほしくないんです」

 

 ゆんゆんは、左の手で黒のチョーカーにそっと触れながら。

 そこに込められた”願い”を、告げた。

 

 

「私は他の誰でもない、ナツキさんと友達になりたい」

 

 

 そのまま数秒の間、静寂が場を支配する。

 本当に、彼女の願いがそれだけだと伝わってしまって。

 自分の命を、どうしようもなく惜しまれてしまって。

 

 嘘は通じない。

 本当のことしか話せない。

 嘘をつきたく、ない。

 

「逃げ出した俺が苦しまずにいるなんて、そんなこと許されるのか?」

 

「逃げ出す前の皆さんは。ナツキさんの幸せを喜ぶ人じゃ、ありませんでしたか?」

 

 幸せを喜べる人だから、皆の幸せを願ったのだろう。

 少女はそう告げた。

 

「俺は……死にたくないと思っていいのか?」

 

「死んでいいなんて人がいるのなら、私がぶん殴ってやります」

 

 傷だらけの心を守ろうと、少女は拳を振り上げた。

 

「弱っちい俺が、何も失わないまま魔王を倒すなんてできるのか?」

 

「一人じゃ無理かもしれません。だから────契約を、しましょう」

 

 そう、少女は右の手を差し伸べて。

 

「魔王の討伐が、あなたの逃げだというのなら…………一緒に、最後まで走り抜けてやりましょう。私はその逃亡生活を完遂するまで共に在り続け、あなたから死と孤独を奪いましょう」

 何の強制力もない、契約(ちかい)を口にした。

 

 

 

 

「それが私達の友達料です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────カチャリ。

 

 手を取ると同時に、部屋に軽い音が響く。

 少女の首から、黒のチョーカーの拘束が外れる、小さな音が。

 

 

 

「俺の名はナツキ・スバル! 無知蒙昧にして天下不滅、いつか魔王を倒す、お前の友達だ!」

「我が名はゆんゆん! いずれ紅魔族の長となるものにして────あなたの友達です!」

 

 

 この日、この時。

 長い、長い時間をかけて。

 一人の少年と孤独の魔女は、友達になった。

 

 

 

 

 

18 『友達料と逃亡生活』

 

 

 



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19 『戦う理由』

 

 建物の隙間から差し込んでくる太陽の光に、茶色の髪の少年――――カズマは目を細める。

 森の悪魔を討伐した翌日。太陽が東の空にある頃、カズマはアクアを連れて、人通りの少ない路地裏を訪れていた。

「なあアクア。ドラゴンってお約束どおりやっぱヤバいのか?」

 彼の目蓋の裏に映るのは、悪魔と同時に目撃した、結界内の巨竜の姿だ。

 その言葉に、アクアは水色の髪を揺らし、

「そりゃヤバいわよ。少なくとも私が知ってる限り、駆け出し冒険者たちじゃ勝ち目ないんじゃないかしら」

「でも、あのスバルってやつは、一人で相手してたんだろ?」

 ドラゴンだからまあ強いだろうというのはわかる。

 それでも、最弱職の冒険者が、たった一人で相手にしていたのだ。

 集団で頑張ればなんとかなるかもと思っていたのだが。

「あれは多分運が良かっただけね。見た感じ、まともに戦ったら間違いなく死ぬわよ」

 アクアの言葉には一片の疑いも見られず、確信に満ち溢れていた。

 この世界に来てからこっち、この女神は色々とダメなところを見せていたが、この前の悪魔との戦いでは見事な活躍をしていた。

 こういった戦闘に関しては、信じておいたほうがいいだろう。多分。

「…………やっぱ、ウィズに話を聞かせて貰っておいたほうがよさそうだな」

 そして路地裏の一角、”ウィズ魔道具店”と書かれた看板の前でカズマは足を止める。

「あ、いらっしゃいませ。早いんですね、カズマさん」

「よう、ウィズ。前回に引き続いて悪いけど、ちょっと聞きたいことがあって来たんだ」

 扉を開いたカズマを出迎えたのは、店内の商品チェックをしていた店主の挨拶だ。

 ここはウィズ魔道具店。ゆんゆんのために、ナツキ・スバルを捜索していた際、訪れた場所の一つである。

 この駆け出しの街で、高級な魔道具を取り扱う店はそうそうない。スバルがそれらしきものを運んでいた、という情報を得た後、この店を訪れるまでそう時間はかからなかった。

 その時アクアが店主のウィズに突然襲いかかり、一悶着あったのだが詳細は省く。

「ちょっとカズマー。せっかく大金が入ったのに、なんでこんなところにいなきゃならないのよー。アンデッド臭が感染るわよ?」

「やかましい。お前はその辺で大人しくしてろ」

 そう言うと、アクアは勝手に店内の商品棚を覗き始め、なにやらポーションらしき小瓶などを触り始めた。

 買うつもりもない商品をいじくり回すのは迷惑だろうと思ったが、変に暴れまわるよりはまだマシだろうかと考え直す。

 うっかり壊してしまったとしても、悪魔の討伐報酬だけで十分弁償できるだろうし。

 そう判断して、カズマはウィズの方に向き直る。

「悪いな、アクアが迷惑かけて。この前も、入っていきなりウィズに襲いかかったりしたし」

「いえ。リッチーの私を浄化しようと考えても、不思議ではないですから」

 そう茶色の瞳を伏せて、憂いを帯びた表情を見せたのは一瞬。

 すぐにその色を消して、今度は頭を下げた。

「こちらこそ、あの時は危ないところを助けていただき、ありがとうございました。探していたお客さんは見つかりましたか?」

「ああ。怪我して気絶してたから、アクアが治療して宿で寝かせてるよ」

 今頃は、ゆんゆんがスバルを看病している頃だろう。

 ちなみにめぐみんは、冒険者ギルドで待機してもらっている。

 見たところ、ゆんゆんのことを気にしている様子だったので、一緒に待機させても良かったのだが、

『――――ゆんゆんが一世一代の覚悟で、友達を作ろうとしているのですよ? 私達が手を出すべきではないでしょう』

 と辞退したので、めぐみんを可愛がっていたセシリーとともに、何かあったときの連絡役を任せたのだ。

 決して、アクアと一緒にいると相乗効果でエスカレートしそうなセシリーを押し付けたわけではない。

「今回聞きたいのはそれでさ。ウィズが売ったっていう、結界を作る魔道具っての、詳しく聞かせてもらいたいんだ」

 カズマは視界の下方に映る豊満な双丘にちらちら目をやりつつ、本題を切り出した。

 あのドラゴンを閉じ込めていた結界は、その魔道具によるものだと見て間違いないだろう。

 その機能次第で状況は大きく変動する。カズマ達の取るべき対応も変わってくるはずだ。

「具体的にどのくらい持つんだ? 途中で破られるとかないよな?」

 続けさまのカズマの問い、ウィズはそれに答えるためか、記憶をたどるように視線を左上にやり、

「ええと……あれは元々紅魔族謹製の代物で、何者も逃さず、破壊できず。しかも一月近くも持つという優れものです。まあ、あれは一度使ったものですから、一月持つかの保証はできませんが」

 あくまで保証期間外の中古品として売りましたから、と続けた。

「中古にしても凄いな、それ。なんでそんな大層なものが売れ残ってたんだ?」

 ゆんゆんいわく駆け出し冒険者のスバルですら、強力なドラゴンを閉じ込めることができたのだ。

 もっと需要があってもおかしくなさそうである。

「バカねカズマ。冒険者っていうのは、モンスターを狩ってなんぼの稼業なのよ? よっぽどの大仕事じゃない限り、閉じ込めたって一銭の足しにもならないわ。それに、強い敵と出会ったら、ちんたら結界張るよりも、テレポートで逃げたほうが手っ取り早いじゃない」

 瓶いじりに飽きたのか、勝手にお茶を入れ始めていたアクアがカズマの呈した疑問に答える。

 なるほど、言われてみれば確かにそうだ。必ず戦わなければならないならともかく、普通の冒険なら敵から逃げたほうが早いし楽だ。

 今回のように役立つケースは稀ということか。

「あらゆる攻撃を通さないせいで、こっちからも攻撃できませんからね。本当に捕まえておくだけのものなんですよ」

 そう、見てきたかのように語るウィズ。

 その表情は、まるで失敗談を語るような照れくさそうな色が混じっている。ひょっとすると、本当に自分で使ったことがあるのかもしれない。

「ってことは…………今のうちに外から魔法で倒すとかはできないわけだな。サンキュ、ウィズ」

 礼を言うと同時に、アクアの方へと振り返り、

「アクアー、やっぱヤバそうだし、皆でさっさと逃げようぜ」

 あの凶悪そうな悪魔の相手はなんとかなったが、それは天敵であるアクアがいたのと、偶然があってのことだ。

 あの時、悪魔が偶然動きを止めなければ、自分もめぐみんも逃げ切れずに死んでいただろう。

 考えただけでもゾッとする。

 あんな恐ろしい敵とは、できれば二度と戦いたくない。

「幸い、悪魔を討伐したおかげで、かなり懐は暖かくなったんだしさ。魔王討伐のために強くなるのは、別の街に行ってからってことで」

 カズマにとってこの街は、何日か働いたというだけの街でしかない。

 何の愛着もないとまでは言わないが、勝ち目のない戦いに命を懸けるほどの思い入れはなかった。

 声をかけられたアクアは、ギルドでもらった悪魔討伐の報酬と、セシリーが持ってきたアクシズ教徒からのお布施の金貨を一枚一枚数えながら、

「そうねー。あのドラゴン、凶暴で手を付けられそうにないし。さっさと逃げましょ」

 そう、同意の声を上げる。

 悪魔の討伐を報告した時に、一緒にドラゴンの話もしてあるので、そのうち冒険者達にも話が伝わるだろう。

 他の冒険者達が頑張ってくれるのか、皆で逃げ出すかはわからないが、とりあえず自分達は適当なタイミングを見て逃げよう。

 安堵に胸をなでおろしたカズマが、そこまで考えた時。

 

 

 

『冒険者の各員は、至急冒険者ギルドに集まってください! 非常に重要なお話があります! 繰り返します。冒険者の各員は、至急冒険者ギルドに集まってください! 非常に重要なお話があります!』

 

 大音量のアナウンスが、街中に響き渡った。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 息を弾ませたカズマと、ほとんど汗をかいていないアクア。

 対照的な二人が冒険者ギルドの扉を開くと、すでに多くの冒険者たちがその場に集まっていた。

 明らかに駆け出しという感じの年端もいかない若者から、それなりに年月を積み重ねたベテランらしき男性冒険者までその姿は様々だ。

 その冒険者たちの中には、セシリーを側に置いためぐみんの姿も混じっている。その顔に主として見えるのは疲労の色だが、どこか不安や心配といった感情も混じっているように見えた。

 その原因は、このギルドからの呼び出しか。

 それとも、一人の少年を看病したまま姿を見せない、紅目の少女だろうか。

「皆さん、本日は朝からの呼び出しにも関わらずお集まりいただき、大変ありがとうございます!」

 カズマの考えを他所に、ギルドにひしめく冒険者たちを前に、職員が声を張り上げる。

 あれはカズマがこの世界に来た初日、アクアと共に手続きをしてもらった受付のお姉さんだ。一番美人で巨乳の人を選んだので間違いない。

 大きな胸を揺らした彼女からは、遠目からでも真剣な表情とはっきり見て取れる。

「この度は、この街に迫る脅威について、非常に重要なお話と、ご協力をお願いしたく召集頂きました。まず、先日から目撃情報のあった、森の悪魔ですが――――」

 森の悪魔。

 その単語に、一人の冒険者が反応し、先走るように声をあげる。

「聞いたぜ! アークプリーストの人が、悪魔のやつを倒しちまったんだろ?」

 その言葉で、他の冒険者たちが一気にざわめき始める。

「おいマジかよ!?」

「ああ、なんでも」

 ずっとバイト等に勤しんでいたカズマには無縁な話だったが、ここに集まっている彼らのほとんどは、森の悪魔が原因で森の立ち入りが禁止され、重要な収入源を失っていた。美味しい狩場を取り戻すため、悪魔と一戦交える考えを持っていたものも少なくない。

 その悪魔という障害が取り除かれたというのだから、その事実は歓喜の声を以て迎えられて当然だった。

 だが。

「その、ですね…………確かに悪魔は討伐されました。されましたが…………その代わり、封鎖された森の中でドラゴンの目撃情報がありました」

 その歓喜は、次の職員の言葉で一変する。

 驚愕。焦燥。困惑。恐怖。

 そこに浮かんだ表情は様々だが、どれも芳しいものではない。

「報告に加え、職員が現地で確認しましたが、幸い、一人の勇敢な冒険者が結界に閉じ込めてくれました。なので、しばらくは大丈夫でしょう。ですが、あくまでしばらくの間であって、いずれ結界は消えてしまう可能性が高いと考えられます。皆さんはそれまでに準備を整え、発見されたドラゴン――伝説のエンシェントドラゴンを討伐していただきたいのです」

「――――――――ひぅっ」

 その言葉を聞いた途端、隣りにいるアクアの喉からおかしな音が漏れた。

 見ると、動きを止めながらも、身体を小さく震わせている。心なしか、汗一つなかったはずの肌に、大粒の雫が流れている気がする。

 ……………………。

「おいちょっとこっち来い」

 厳しい表情の冒険者たちと、彼らの動揺が落ち着くのを待っている職員の間に生まれる、わずかな沈黙の時間。

 その間に、カズマはギルドの隅にアクアを引っ張っていき、そのまま声を潜めて問い詰めた。

「おい、正直に答えろ。何やらかした」

「…………はい。私、女神じゃないですか。上司に言われて、カズマさんにやろうとしてたように、多くの転生者に特典を配ってたんですけど」

 観念したのか、無駄に整った顔を沈痛な面持ちへと変化させ、何故かアクアは敬語で話し始める。

「それで、ですね。前。かなり前。かなりかなりかな~り前に……『悪魔たちをぶち殺すために試作品作ったから、適当なやつに渡してくれ』って、新しい特典を上司に渡されたんですよ」

「…………ほう。続けて」

 すでに嫌な予感しかしなかったが、先を促す。

「それがドラゴン型の生体兵器でして。で、なんか主が死んだ後も、天界からの帰還命令を聞かなくてですね。そのまま見境なく暴れ始めて、いつしかそのドラゴンは、人々の間でエンシェントドラゴンと――――あぃたあっ!」

 無言で振り下ろされたカズマの拳を睨みつけ、アクアは頭を小さく抑えた。

「…………さすがにこのまま逃げたんじゃ、色々まずい。出来る限りのことはやっていくぞ、いいな」

「わ、わかったわよ。うぅ…………私のせいじゃないのに。帰還命令も聞かないポンコツ作った、上司が悪いのに…………」

 ブツブツ文句はいいつつも、責任を感じているのか、申し訳無さそうな表情は崩さないアクア。

 そうこう話しているうちに落ち着いたのか、一人の冒険者が沈黙を破った。

「ルナさん! しばらく大丈夫って言ったよな! ってことは、他の街から応援を呼んでくればいいんじゃねえか?」

「そうだよ、悪魔の件は報告してあったんだろ? 王都の騎士団や高レベル冒険者たちになんとかしてもらえば…………」

 彼らの中に、湧き出てきた希望。

「皆さん、落ち着いて聞いてください。その、ですね…………。情報によると、魔王軍幹部、デュラハンのベルディアが、大量のアンデッドを引き連れて魔王城を出たそうです」

 魔王軍の幹部。

 その一言で冒険者たちの希望は打ち砕かれた。

「もちろん、駆け出し冒険者ばかりで、戦略上重要でもないこの街が狙われることはないでしょう。ですが――――相手の目的や行き先が判明しない限り、他の街は動くことができません。つまり、この街の冒険者の皆さんで、なんとかしていただくしか…………」

 その言葉で、一気に場の空気がお通夜同然のものとなる。

 その沈黙が続いたのは、どれほどの時間だっただろう。

 カズマ自身、その沈黙の重苦しさに、耐えきれなくなった頃。

 

「話が終わったなら…………俺の話を聞いてもらっていいか?」

 

 突如沈黙を破るように現れた、新しい声。

 カズマが釣られて視線を送った先には。

 目付きの悪い少年と、セミロングの少女の姿があった。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 少し時間は巻き戻る。

 

 

「『不可視なる神の意志』……インビジブル・プロヴィデンスと呼ぼう……」

「はい?」

 情けないような照れくさいような、とにかく一つの友情が成された後。

 その足で宿を出た二人の間に、なんの前触れも無く発せられたそれは、間違いなくスバル自身の言葉だ。

 街の中、舗装された道を歩きながら、スバルがボソリとつぶやいた言葉に、ゆんゆんは困惑した声をあげる。

 その戸惑いも当然だろう。

 会話が途切れたほんの僅かな時間。刹那と言っていいほどの短い時に、脳裏に突如閃いたそれは、一瞬前までスバル自身にすら予想できないものだった。

「俺の必殺技……いや、奥の手だよ」

 自身の内側から湧き出し、スバルの魂のような何かを喰らいながら現界するその魔手。

 それはかつてスバルの仇敵が使っていた権能。だが、スバル自身が使う以上、かつてとは違う名前を与えるべきだろう。

 これまでは、『不可視の一撃』『見えざる掌』『知覚外の衝撃』など、いまいち決め手に欠ける名前しか浮かばなかったのだが。

「長いことずっと仮の名前で呼んできたけど……たった今天からキラメキが舞い降りてきた。『不可視なる神の意思』(インビジブル・プロヴィデンス)…………これしかねえ」

 ゆんゆんの返事を待たず、その名をもう一度舌に乗せたスバルは、その名とともに実感を噛みしめる。

 正道とはいえない、むしろ外法と言っていいような技である。そもそもの因縁からして忌々しいと言っていいような力。

 それはスバル自身が一番感じているが、だからといってぞんざいに扱っていいというわけでもないだろう。

 今この時、ようやく本当に自分の力になったのだ。

 満足げなスバルの言葉のあと、何故か沈黙が一秒ほど続き。

「ひょっとしてナツキさんってバカなんですか?」

 沈黙を破ったのは、何故か呆れ返ったような友達の視線だった。

「なんでだよ。舞い降りてきた天啓にバカも何もないだろ」

「なんでこのタイミングでそれが降りてくるんですか! ここはこう、友情的な何かとか、今後の戦いとか、そういうのを考える場面でしょ!?」

「でもカッコイイだろ?」

「カッコイイですけど! カッコイイですけどぉ!」

 スバルの言葉に同意しつつも、大きな紅い目を釣り上げて、可愛らしく怒るゆんゆん。

 そんな彼女に、スバルは鋭い目を柔らかくして、

「長らく――――本当に長い間、俺らしくなかったからな」

 恐れず、迷わず、対等に。こちらをまっすぐ見つめてくるゆんゆん。

 その視線に、照れくさい想いを感じながら、スバルは左の頬をかいた。

「――――色々悩んだり考えたり追い詰められたりしてきたが、やっと調子が出てきたよ」

 緊急の召集放送、それから大きく遅れて到着した冒険者ギルドの前で、スバルとゆんゆんは足を止める。

「ありがとな、ゆんゆん」

 心からの言葉とともに、スバルは扉に手をかけた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「突然悪い。えっと…………今話してるのは、エンシェントドラゴンの件でいいんだよな?」

 問いかけられた冒険者たちがこくこくと頷くのを見て、スバルは場違いなところに出ていなかったことに小さく安堵する。

「それなら、俺の話を聞いてほしい。あのドラゴンについて、話さなきゃならないことがあるんだ」

 そう言って、その場にいる冒険者をぐるりと見渡した。

 めぐみんをはじめ、何度も見たことのある顔が大勢並んでいる中に、ほとんど見覚えのない姿が二つ。

 片方は茶色の髪と瞳を持った少年で、もう片方は人混みに隠れてわかりづらいが、水色の髪をしているように見える。

 あれが、ゆんゆんが話していた、スバルを助けてくれた二人だろうか。

 彼らに意識を向けたのは数秒。

 すぐに冒険者全体へと意識を向けて、声を張り上げる。

「俺の名前はナツキ・スバル。エンシェントドラゴンと戦っていた冒険者だ」

 その一言に、場の空気が変わったことを感じた。

 その視線の中に、スバルの言葉への疑念が混じっていたことには気づいていたが、まずは現状の報告を。

「なんとか色々と罠にかけて、閉じ込めることはできたんだが。あの結界は持って一ヶ月。場合によっては、もっと短くなると思う」

「ちょっと待って」

 そう制止の言葉をかけたのは銀髪の少女――――クリスだ。

 青碧の瞳に宿す感情は疑念。

 だが、かつてのループで見せた、仇敵を見る憎しみのような感情は乗っていない。

 クリスは淡々と、

「罠にかけたって……それ、ドラゴンがここに現れると知ってたってことだよね? なんでそんなことわかったのさ」

 そう、問いかけてきた。

 その疑問は必然だ。

 竜がどういう経緯を経てここに現れたのであれ、スバルだけがそれを知っているのは奇妙だ。

 例え、何らかの理由でスバルだけが知り得たとしても、それを報告しなかったことも不自然だ。

 そのおかしさを指摘されたスバルは、一度目をつぶり。

「あいつは……エンシェントドラゴンは、俺が目覚めさせちまったんだ」

 自分の罪を告白し始めた。

 禁忌に、『死に戻り』に触れないまま事情を話そうとすると、必然的にスバルの罪に触れざるを得ない。

 厳密には問いの答えになっていない気もするが、そこに触れてくるものはいなかった。

「詳しいことははっきりしてるわけじゃねえから、推測で話すけどさ。あのエンシェントドラゴンは、姿を彫像に変えて休眠状態にあったらしい。俺がそのことに気づかず、迂闊にも休眠状態にあったあいつを目覚めさせちまったんだ」

 そこまで話すと、一度言葉を切って、黙って目を閉じて歯を食いしばる。

 おそらく今、冒険者たちの顔は怒りで染まっているだろう。

 当然だ。目の前の男が余計なことをしたせいで、この街が窮地に陥っている。

 ここでその怒りをぶつけられても仕方ない。

 そう考えて、いつ来るかわからない拳に身構える。

「ま、待ってくださいっ!」

 その時、それまで黙っていた少女の声が聞こえた。

 己が罪を告白し、自身への判決を待つスバル、彼をかばうようにゆんゆんが前に出る。

 必然的に彼女に移る、群衆の視線。それに一瞬だけ怯み。

「……………………っ!」

 それでも。

 ゆんゆんはその顔をまっすぐ前に戻して、その場の視線と相対した。

「…………あれは、ナツキさんだけの責任じゃありません。あの時、エンシェントドラゴンが森で眠っていただなんて、誰も気が付かなかったはずです」

「ゆんゆん…………」

「ドラゴンがいたことも、その起こし方も。何もかも、誰も知らなかったはずです。偶然ナツキさんが原因になったというだけで、きっといつかは目覚めていたんじゃないですか? それに、それに――――!」

 そこで一旦言葉を区切り、

「そもそも、最初にドラゴンの像を見つけたのは私です。一緒にいたナツキさんに責任があるなら、私にだってあるはずです。だから――――」

「いや、いいんだゆんゆん。サンキュな」

 スバルの罪を少しでも背負おうとするゆんゆんを、そっと後ろから押しとどめる。

「それでも、あれを目覚めさせちまったのは、間違いなく俺だ。それははっきりとわかるから…………」

「…………スバル。お前、なんでバカ正直にそんなことまで話すんだ? 隠しときゃいいじゃねえか」

 そう問いかけてきたのは、トンチンカン二号のうちの一人だ。

 なるほど、たしかにスバルは馬鹿なことをやっている。傍から見れば、そうとしか思えまい。

 スバルが『死に戻り』に頼らずにこの事態を越えようというのなら、この街の冒険者たちの協力は不可欠だ。

 だというのに、非難どころかリンチにあってもおかしくないような事実を自ら明かす。

 実に不合理で、愚かしい行動だ。

 だが、スバルの立場からすれば別だ。

 この街にはクリスがいる。魔女の臭いへの嗅覚と、エンシェントドラゴンの知識を兼ね備えた少女が。

 ゆんゆんの話によると、クリスはスバルのことをマークしていたようだ。

 スバルから魔女の臭いが消えたことと、エンシェントドラゴン出現の事実、それらの事実を結び付けないとは思えない。自然とスバルが原因であることは浮かび上がるだろう。

 ならば隠しても意味がない。

 ――――いや。

 本当のところは、もっと単純な理由で。

「友達が、一緒に頭下げてくれるとまで言ってくれたんだ。なら、騙して尻拭いさせるなんて、みっともなさすぎるだろ」

 かつて、前の世界で交渉に挑んだ時とは違う。

 スバルが差し出せるものはたったひとつ。

「俺一人でやれるところまでは、全部やった。竜を傷つけて、封鎖して、爆破して。それでも力が足りなかった」

 何度も重ねたループで得た、スバル一人に出来る最大の戦果だけ。

「俺一人じゃ、勝てないんだ。俺一人じゃ、この街を守れない。だから………力を貸してください」

 その一言と共に、少年は頭を下げる。

 そのすぐ隣で、一緒にゆんゆんが頭を下げているのがわかった。

 スバルの知る為政者が知れば、なんて幼い行動かと呆れてしまうかもしれない。

 冒険者はビジネスが基本。まして、何の信頼関係のないスバルの頼みなど、『お前が勝手にやったことだ』とはねつけられても仕方がない。

 だから――――。

 

「――――――――ったく。元々無茶なレベル上げしてると思ったが、なんでもっと早く言わねえんだ」

 その場で、ほとんど話したこともない一人の冒険者がそう言った。

「まあ、新人の頃失敗するなんてよくあるわな」

「そうそう、たかが”冒険者”がエンシェントドラゴン相手に、一人で頑張っただけで十分だろ」

 一人の言葉を皮切りに、次から次へと冒険者が口を開いていく。

「力を貸せ? ハッ――――俺たちが何のために、いつまで経ってもこの街に残ってると思ってるんだ」

「俺はまだレベルが低いから大したことができないかもしれないけど……やれることはやってやるよ」

「私は誰かを責めるのは違うと思うわ! この件は誰にも責任なんていないし、強いて言うなら、全ては魔王軍が悪いと思うの!」

「伝説って言っても、冒険者一人でそこそこやれたなら、案外なんとかなるかもな」

 この街を愛し、住み続けた(つわもの)

 この街に来たばかりの青二才。

 スバルのすぐ近くにいるもの、ほとんど見えないような隅にいるもの。

 数多のループで一度は見てきた顔が、笑ってスバルの顔を見ていた。

 代表してトンチンカン二号、そのうちの一人が前に出て、スバルの肩を乱暴に叩く。

「いいか、スバル。俺たち冒険者は、たしかに損得で動く。役に立たなきゃパーティを解散するし、役に立つならお前みたいな駆け出しだって、パーティに入れる。命の次に金が大事、そういうもんだ」

 だがな、と一拍区切り。

 

「――――それ以上に、俺達はこの街が大好きなんだぜ」

 

 その言葉に、男たちの大半は一斉に頷いた。



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20 『開戦』

本作は、このすばは書籍本編、仮面、爆焔、続爆がベースなのに対し、リゼロはweb版をベースにしていることが多くなっております。(たまにアニメの描写も参考にしていますが)
そのため、エキドナが”ワタシ”という一人称を使っていたり、スバルの回想が書籍版と違っていたりと言った部分があります。
それ故、書籍だけ読んでいると誤字っぽく見える部分もありますが、報告を無視してるわけではないのでご了承ください。

まあ、原作読み返すと矛盾に気づいたりするのですが、それはさておき。


「ゆんゆん」

 スバルが冒険者全体に簡単な説明を終え、一部の冒険者と何かの打ち合わせに行った後。

 自身の耳朶に、慣れ親しんだ鈴のような声を感じ、ゆんゆんは後方を振り返る。

「めぐみん」

 とんがり帽子を被ったいつもの格好に、いつも通りの表情。

 ただ、眼帯を外した紅の瞳には、何度も見てきたそれよりも、どこか安堵の色が濃くなっている気がした。

「さっきの様子だと、どうやらあの男とはうまくいったようですね」

「うん、なんとかね」

 こちらの頷きに小さな笑みを一つこぼし、めぐみんは懐に手を入れて、

「では、こちらの手紙は返しておきましょう。もう必要ないでしょうからね」

 取り出したのは、白い封書。

 スバルとの対話に望む前、ゆんゆんがめぐみんに託しておいた手紙だ。

「ゆんゆんが失敗した時のために、ということでしたが……いったいなんだったんですか?」

「ああ、うん…………」

 多少の興味を含んだ問いかけ、その声にゆんゆんは少し恥ずかしげに目を細め。

「ないしょ。色々と恥ずかしいことも書いちゃったし」

「――――――――」

 めぐみんからの返答はなく、そのまま数秒間、周囲の喧騒が空間を支配する。

 ゆんゆんがその反応に訝しむと同時、めぐみんは手の中で留めていた手紙の封を破って、中身を取り出した。

「ちょっと、めぐみん!?」

 制止しようとしたゆんゆんの手は、無駄に軽やかなバックステップによって空を切る。

 そしてめぐみんの視線は、手の中で開かれた手紙へと移り、

「『この手紙を読んでいる頃には、きっと私はもうこの世にいないと思う。私はこれから、自分の持てる全ての力を駆使し、自分の全てを賭けて、一世一代の戦いに挑むわ。だから、どんな結末になろうと悔いはない…………! 私に悔いがあるとすれば――――それは、めぐみんに自分の口から色々と伝えられなかったこと。ずっと言えなかったけど、爆裂魔法なんてネタ魔法一つで、どんどん強敵を倒していくめぐみんはすごく格好良くて』」

「やめてええええええええええええええええええええええええぇっ!」

 紅い唇から紡ぎ出された朗読に、ゆんゆんの顔が朱色に染まった。

「何を恥ずかしがっているのですか。自分で書いた手紙でしょう。『すごく格好良い大事な友達』宛の手紙を私が読んで、何が悪いんですか」

 自ら書いた言葉を引用され、ゆんゆんは紅潮した顔を手で覆う。

「違うの! これは失敗したときのためであって! その、そういうんじゃないから!」

「『――――』だの『…………!』だの、手紙なのにきちんと手を抜かず書き込んでいることは評価できます。もっと胸を張りなさい」

「だから違うんだってばあああああああああああああああああああああ!」

 ゆんゆんは叫ぶと同時に、羞恥のあまり頭を抱えてうずくまる。その感情は叫びとなり、酒場の壁の反響して冒険者達の耳にも届いたようだったが、ゆんゆんはそれに気づくほどの余裕もないようだった。

 そんな彼女を横目に、めぐみんは手紙を黙々と読み進め。

 その視線が、ある一点で止まった。

「ちょっとゆんゆん。少し真面目な話をするので、ちょっと落ち着いてそこに座りなさい」

「え? あ、うん。いいけど」

 どことなくめぐみんの声に真剣な空気を感じて、ゆんゆんは頬の紅潮をなんとか抑えて、その辺の椅子に腰を下ろす。

 彼女の前でめぐみんは手紙のある一点を指して、

「おい、ここに書いてある遺体だの遺品だのの真意について聞こうじゃないか」

 そう言いながら、とんとんと指で音を立てて強調する。

「えっと……ね」

 ゆんゆんは、そんなめぐみんの顔をまっすぐに見つめて、

「あのね、めぐみん。私、今回のことで少しだけわかったの」

 めぐみんと同じ紅色の瞳に宿すのは、理解の色と希望の光。

「ただ友達を作ればいいってわけじゃない。闇雲に友達を作ろうとするのは、きっと友達がいないことよりよくないことだったんだって」

 桜色の唇からこぼれ落ちるのは、この街に来て僅かな。しかし、大切に重ねた経験。

「本当に大事なのは、心から大切にしたいと思える人を見つけること。お互いを大切にできる、そう思える人を見つけることなんだって」

 そこから紡ぎ出した、自分なりの小さな答えだった。

「ふむ…………で、それとこの手紙と何に繋がるんですか?」

 ゆんゆんなりの思考、その果ての答えを聞き、めぐみんは一秒ほどの時を経て、問うてくる。

「簡単に言うと、ナツキさんに友達になれなきゃ死ぬって言って――――ちょっとめぐみん、引かないでってば!」

「重っ…………」

「今のはちょっと簡略しすぎちゃったの! ナツキさんはそのくらいしないとダメだったっていうか、色々あったっていうか!」

 言葉と共に一歩後ずさっためぐみんを前に、慌てて取り繕うも、めぐみんの態度は軟化しない。

 そのまま一拍置くと、真剣な顔で覗き込まれたあと、首元のあたりを掴まれた。

「たかだか友達にかける気持ちが重いんですよ! なんで命がけが前提なんですか!」

 めぐみんに首をガクガク揺らされ、ゆんゆんの視界が上下に大きくシェイクする。

 いつも非常識なことをして、こうやって首を揺らされるのはめぐみんなのに、まるで立場が逆になったかのような気分だ。

「だって、ナツキさんを死なせたくなかったんだもの。なら私だって、一緒に命を賭けてでも引き止めるのが筋じゃない?」

「筋じゃありませんよ! どうしても死なせたくないなら、殴って無理矢理引き戻したほうがまだマシってものです!」

 振動で胸が揺れて痛くなってきたので、こちらを揺さぶるめぐみんの手をなんとか止める。

 そのままめぐみんの手を包み込むように握り、

「あのね、めぐみん。せっかくだから、手紙じゃなくてちゃんと言うわね。これまでちゃんと言えてなかったと思うけど……」

 そこで一度、大きく胸いっぱいに息を吸い込んで。

「……………………私、あなたのこと、凄く凄く大事な友達だと思ってるから」

「今言われても、全然嬉しくありませんよ!」

 真剣にぶつけた心からの言葉は、真正面から一刀両断された。

 

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

「しっかし…………わかっちゃいたがでっけぇなあ…………」

 駆け出し冒険者の街、アクセル。その近くにある森にて、ある冒険者が感嘆の声を漏らす。

 他の冒険者達も大なり小なり感想は同じのようだ。

 彼らの視線の先にあるのは、大地から立ち昇る結界の中、身体を休めるように全身の力を抜いている巨竜。その全身は松葉色の鱗に包まれており、とりあえず表面上の傷はほとんど残っていない。

 赤茶色の翼を折り畳んでなお、その外見だけで人を威圧するその巨体。

 その大きさを活かした突進と、多彩な上級魔法による暴れっぷりは、大きな傷跡を森に残している。

 また、周囲の魔法を無効化する力まで持ち合わせ、あらゆる手段を尽くしてなお致命傷には至らない耐久力。

 あの時の傷がどこまで癒やされてしまったのか。そもそもスバルがやった爆破は体内を起点とした破壊であり、ただ表層を治しただけなのか完治したのか、外観上は判断がつきにくい。

 数多の冒険者と共に、自分の人生で最も長い間敵対してきた相手を視界に入れ、スバルは知らずのうちに唾液を飲み込む。

 自分は。

 自分達は。

 今度こそ、勝てるのだろうか。

「怖いですか?」

 隣から声をかけられ、自然と顔を向けた。

 そこには、いつの間にか近寄ってきていたゆんゆんの姿があった。

 彼女は自身の方に向けられたスバルの瞳を、まっすぐと覗き込んでいる。

 スバルを見透かすように。

 スバルを見逃さないように。

「…………そうだな。やっぱ怖いよ」

 自身の咎は楔となって、決してスバルを逃さない。

 自分の罪を償うため、戦いに挑んできた。

 自分の罪を贖うため、苦痛と死を味わってきた。

 何度も何度も何度も、自分の命を投げ捨ててきた。

 だが、あの孤独な戦いはある意味では楽だったのだ。

 一人で戦うと決めてから失うものは、最初から度外視した自分の命だけで。 

 それ以上の何かを失うことは、決してなかったから。 

「俺のしでかしたことで、人が死ぬかもしれない」

 スバルの罪を、笑って許してくれた冒険者達を。

 スバルの危機に戦った、日本人の少年を。

 そして、自分に手を差し伸べてくれた、目の前の少女を。

「そうですね…………私も怖いです」

 ゆんゆんはスバルの瞳から視線を外すと、そのまま一歩二歩と足を進める。

「めぐみん――――幼馴染と話してきたんです」

 スバルから三歩ほど離れた距離で立ち止まって、そのまま言葉を紡ぐ。

「ナツキさんっていう友達が出来たこと。それから――――ずっと言えなかった気持ちも、思い切って言ってきました」

 えへへ、と照れくさそうに笑う表情が、斜め後ろからちらりと見えた。

 その笑みには、普段は見せないような一面が色濃く出ていて、そのことにスバルは自然と喜びを覚える。

「そっか――――本当に、良かった」

 相手を気遣いすぎるあまり、おずおずとした様子で失敗していた少女が。

 少しずつ大切な誰かに踏み込み、胸襟を開くようになっている。

 それが彼女自身の変化なのか、スバルとの関係の変化によって見せてくれるようになったものなのかはわからないが、喜ばしいことというのは確かだ。

 これを、なかったことにしないためにも。

「今度こそ、勝ちたいな」

 自然とその言葉を口に出していた。

「――はい。やれることを全力でやって、きっと勝ちましょう」

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 冒険者たちは自分達をいくつかのグループに分け、エンシェントドラゴンを中心とした半円を描くような形で待機していた。

 その半円からも外れた、最後方グループにいるカズマは、他方からの合図を待ちつつ、同様に待機を命じられためぐみんに声をかける。

「なあ、ギルドで騒いでたけど、ゆんゆんと何話してたんだ?」

「大したことではないですよ、些細な話です」

 カズマの言葉を受けてめぐみんは、どこかうんざりしたような調子で言葉を返してきた。

 まあ騒いではいたものの喧嘩という感じでもなさそうだったし、それほど問題はないのだろう。

「それより、エンシェントドラゴンの方です。あのデカブツに、何か変わった様子はありましたか?」

「ああ。今んとこは大丈夫だよ。また地震でも起こしてくるかと思ったんだけどさ」

 そう言ってカズマは遠くにいるエンシェントドラゴンの姿を、覚えたての『千里眼』スキルで捉える。

 巨大な結界の内部。その大地は穴が空いていたり、一部が隆起していたり、なかなか酷い惨状になっている。

 エンシェントドラゴンが引き起こした地震の痕跡だ。古竜が脱出のためにあれこれ足掻いたのが窺える。

「せめて、もっとしっかりとした準備をしてから戦いたかったところなんだが…………」

「この状況では仕方ないでしょう。向こうもずっと閉じ込められていれば、多少の知恵も回るようになるということです」

 相手が結界内で暴れることは無意味のように思えるが、地震に関しては別だ。

 この地震で地に設置された魔道具が破壊されるとは思えないが、万一のこともある。

 そうでなくとも、大地の揺れは結界の外まで伝播する。このまま地震の規模が大きくなって、街が壊滅でもしようものなら一大事だ。

 結局冒険者たちは、短期決戦の道を選ばざるを得なかった。

 

 エンシェントドラゴンとの戦いを前にして、スバルの話を聞いた冒険者たちの行動は早かった。

 すぐに自分達の装備や道具を鑑みて、カズマとアクアが捻出した資金を使い、効果がありそうな魔道具を買い揃える。

 しかし、カズマはついこの前まで日本で自堕落な生活を送っていた身だ。戦闘経験などはゼロに等しい。

 幸い高価な食事でも経験値が入るらしく、アクアのお土産で多少レベルは上がり、幾人かに声をかけてスキルも教わったものの、戦力としては期待できない。戦闘中は後方支援が主な担当となっていた。

 隣にいるめぐみんも似たようなものだ。

 敵は原理不明な魔法無効化能力を使うという。魔法を攻撃手段として期待することはできない。

 前線の中にいる魔法使いには、魔法無効化能力の誘発や、その他サポートの役目が期待されているが、一度きりの爆裂魔法しか使えないめぐみんは話にならない。

 敵の能力について解明し、それを封じることができれば良いのだろうが、色々聞きかじっているというクリスからは、決定的な情報はなく。

 一番知っていそうなアクアに至っては、『そんな能力あったかしら?』などとのたまってくれたため、敵の能力についてはスバルの実体験をもとにして推測を立てる程度にとどまっている。

 そこまで考えたところで、遠くから声が聞こえた。

「「『クリエイト・アースゴーレム』!」」

 声と同時に、大地の土がある一点に集中し、徐々に大きなゴーレムが形成されていく。

 消費魔力が、大きさ・強さ・活動時間にそれぞれ反比例するゴーレム生成。当然、戦闘直前にゴーレムを作り出すのが望ましい。

 ゴーレムの形成が始まったということはつまり、各々の準備が完了したということを意味する。

 瞬時にそれを理解したカズマは、拡声器を手に取る。

 エンシェントドラゴンをも捕らえる結界。力づくで壊すのは内部・外部問わず至難の業。

 それをなんとかできる者は、この中でただ一人。

「頼んだぞ、アクア!」

 カズマの言葉に応えるように、女神の如き美貌を持ったアークプリースト――――アクアが前線と後方の中間地点にて、一歩前に出る。

 煌めく川のような水色の髪を、頭の動きと共に流しながら、全身に漲らせるのは常人離れした圧倒的な魔力だ。

 立ち並ぶ冒険者達が身震いするような魔力をアクアはこともなげに見せつけながら、その麗しい口唇を開いた。

「『セイクリッド――――」

 それと同時、彼女の全身に漲っていた膨大な魔力は、青白色の光という形で現出し、そのまま花弁状の魔法陣を描く。

 その数は五つ、アクアの手に浮かんだ白い光球と共鳴しその輝きを増していく。

 やがて、五つの魔法陣はまっすぐ一列に並び、それを待っていたかのように、アクアは閉じていた目蓋を力強く開く。

「――――スペルブレイク』ッ!」

 そして手のひらの白い光球で、魔法陣の縦列を貫くように、まっすぐに撃ち出した。

 撃ち出された光球は魔法陣をひとつ貫くたび、その輝きを増して加速していく。

 加速されたそれは隆起した大地を超え、やがて竜の周辺の大地を閉ざす結界に直撃した。

「くっ………………!」

 魔法陣によって撃ち出された光球は、結界を食い破る生き物のように侵食していく。

 それに抵抗するように結界はその力を強めるが、アクアもまたそれを打ち破らんと、更なる魔力を込め――――。

「くっ……くぅぅ――――うぁぁあああああああああああああああああああああああああっ!」

 腹の底から絞り出すような叫びとともに、光球と結界が同時に砕け散る。

 その破砕音が、この戦いの開始を告げる(ゴング)となった。

 

 

 結界が砕けると同時、竜が眼光をギラつかせて巨体を動かし始める。結界の消滅を確認するように周囲を見回して、そのまま大きく顎を動かす。

 咆哮が響くと同時、竜の姿が掻き消えた。

「『ライトニング』ッ!」

 消える竜の影を追うように、土人形の陰から魔法が放たれる。

 一条の雷撃は空気の隙間を縫うように直進し、そのまま姿が見えなくなる。

「『ファイアーボール』!」

「『ライトニング』!」

「『ブレード・オブ・ウインド』!」

 その攻撃を皮切りに、魔法使い達による攻撃が開始された。

 エンシェントドラゴンが姿を消す魔法を使うことも、魔法無効化能力を持つという情報も、冒険者達にはきちんと行き渡っている。

 無効化能力は自分へのダメージだけを消すような器用なものではなく、自分を含めた周囲の魔法を無効化してしまうものであると。

 敵の遠距離攻撃は、魔法に依っている。こちらから散発的にでも魔法攻撃を行っていれば、敵は魔法無効化能力を使わざるを得ない。そう考えての作戦だった。

 しかし。

「――――おかしい。なんで魔法が消えないんだ?」

 それらの様子を後方から千里眼スキルで観測していたカズマ、その胸のうちに生じた疑問は自然と口をつく。

 火炎、雷撃、風刃。視線の先で展開される、魔法使いたちの一斉攻撃だ。それぞれの魔法の威力は、前回の悪魔との戦闘で見たゆんゆんの魔法には及ばないし、竜の鱗にさほどのダメージを与えているようには見えない。

 とはいえ、そういったひとつひとつの威力は小さくとも、塵も積もれば山となる。わざわざ身体で受けてやる必要はないはずだ。

 事実、スバルとの戦いではすぐに無効化させていたという話だったというのに。

「こちらの狙いが読まれているのでしょうか? ダメージ覚悟でこっちへの攻撃を優先してもおかしくはありませんからね」

 めぐみんがカズマの思考に言葉を添え、言葉を続ける。

「なんにせよ、相手が魔法無効化能力を使おうとしないなら、今が好機かもしれません。今のうちに我が爆裂魔法をぶち込んでやりましょうか」

「おいバカやめろ。何の警告もなしにぶっ放して、他の人達まで巻き込んだらどうする」

「ですが、ただでさえ今回私の出番があるか怪しいのです。相手が隙を見せているうちに、一発かましてもいいと思いませんか?」

「それが危ないんだよ。ああいう露骨な隙は、基本的に誘ってることが多い。ゲーマーとしての俺の勘がそう告げている」

 血気にはやって前に出そうになる少女を、なんとか押し留めつつ、カズマは思考を進めていく。

 自分には大したものはない。

 経験はおそらくこの街の誰よりも浅く、本来転生者に与えられる特別な武器も能力も持っていない。

 あのナツキ・スバルのように、単身で竜と戦うような力も度胸も持ち合わせていない。

 自分にあるのは、食事で得たわずかな経験値、それで取ったスキル。

 後は人並み外れて恵まれた運のよさ、そして、相手の嫌なことを見抜く力くらいのものだ。

 ネットゲーマー時代に活用していた観察眼をフル活用し、エンシェントドラゴンの考えをなんとかトレースしなければならない。

 敵が防げるはずの魔法を受ける理由は……………………めぐみんの言うように、攻撃のため? その割には敵の攻撃が甘い。

 透明なのでわかりにくいが、今のところ正面のバリケード代わりのゴーレムが破壊された程度で、さしたる被害も出ていなさそうだ。カズマも魔法について詳しいわけではないが、もっと効率よく攻撃する方法がありそうなものである。

 それとも、気づいていないうちに透明のまま逃げているのか。

 いや、透明化能力がわかった時点で敵感知スキルの発動は皆も徹底しているし、逃走やすり替えの暇があったとは思えない。

 それ以外では…………無効化能力の温存? 能力の使用に限界がある――――だとすれば使うのは、対爆裂魔法だ。前回森の悪魔を倒す際に、エンシェントドラゴンはめぐみんの集中させた魔力に反応していた。警戒している可能性は高い。

 敵の行動、そこに矛盾や穴がないかと頭のなかで精査し、少し顔を背筋を伸ばす。

 陽光の熱を後頭部に感じつつ、青色に染まった空の中、流れる雲が地上の冒険者達を眺めているのが見える。雲の白を裂くように光が、

 ――――背中から全身に悪寒が走り抜けるのを感じた。

「皆、散れ!」

 そのまま全身の血液が凍りつくような恐怖を振り払い、カズマは小柄な少女の手を掴み、強引に大地を蹴る。

「え――――ええっ!?」

 少女の戸惑いは意図的に無視。

 駆け出しとはいえさすが冒険者達、カズマの警告を受け問い返す前に散開している。

 彼らの姿を目の端で確認しつつ、カズマは少しでも下り坂となっている方向へと駆け下りる。

「――――『バインド』ッ!」

 前方からスキル発動の声が響く。

 おそらくスバルのものであろうそれを背中に受けつつも、カズマは足を止めることはない。

 走るというより跳躍するような勢いで、ただまっすぐに。

「ちょっと、どういうことで――――」

 無理矢理引っ張られ、ろくに足のついていないめぐみんが抗議の声を漏らし。

 次の瞬間、光の白刃が大地を削り取った破砕音によって、その声はかき消された。

「な――――」

 数秒前に自分達がいた場所、それを大きくえぐり取った白刃を見て絶句するめぐみん。

 カズマはそれに構うことなく、攻撃の来た方向に目をやると、透明化を解除した古竜が、片腕を振り下ろしたような体勢で佇んでいた。

 千切れたワイヤーのようなものが巻きついた腕、その先端の鋭い爪から生まれた光は刃となり、地中深くまでを切り裂いたところで消滅する。

「ラ――――『ライト・オブ・セイバー』……」

 めぐみんは敵の作り出した光刃に目をやり、紅の瞳に動揺と驚愕を満たしながらそうつぶやいた。

 カズマとめぐみんの推測は半分ずつ当たっていた。

 確かにエンシェントドラゴンはめぐみんの爆裂魔法を警戒していた。

 ただ、敵は爆裂魔法を防ぐためだけに力を温存していたわけではない。

 防げるかわからない爆裂魔法を待つよりも、先に使い手を殺す攻めの姿勢を選んだだけなのだ。

 散発的な攻撃でこちらの危機感を緩めつつ、バリケードを破壊してめぐみんの居場所を確認。

 さらに透明化の範囲を上空へと限界まで伸ばし、腕を振り上げて光の刃の魔法(ライト・オブ・セイバー)を上空に向けて発動。こちらが安全と思えるような長距離から、不可視の状態を保ち、刃を一気に振り下ろす。

 すんでのところで、範囲外に漏れ出した上空の光に気づかなければ――――いや、気づいてもバインドで動きを一瞬止めてくれなければ、おそらく回避が間に合わずに死んでいた。

 その事実に、背中に氷が当てられたように体が震える。

「おいめぐみん。あいつの狙いは俺たち…………というより、多分お前だな」

「そのようですね……。ですが裏を返せば、爆裂魔法は奴に有効だということですか」

「少なくとも、敵の無効化を突破して直撃させられたらの話だけどな。できるか、大魔導師」

「どうでしょう。全く、どうして私の周囲ばかり厄介事が…………強すぎるというのも困ったものですね」

 お互い軽口を叩いて、心中に湧き上がる恐怖を必死で抑え込む。

 正面のグループは、今の一撃で大きな打撃を受けている。

 警告にとっさに対応したらしく直撃こそ避けたものの、単純な衝撃で意識を失った者や、吹き飛んだ岩に腕部を挟まれている者など、余波によって動けなくなっている者が少なからず見られる。怪我人の間をアクアが走り回っているが、全員をすぐに治すことはおそらくできないだろう。

「――――」

 竜から漏れる呼吸音。それを聞いて、カズマはとっさに懐に手を伸ばし、

 竜の咆哮。それに呼応するように巨大な炎が出現し、

「『マジック・キャンセラ』ーッ!」

 取り出したスクロールを両手で広げ、そこに込められた魔法を発動させた。

 カズマの手の中にあるスクロールが黒く染まると同時、古竜の放った魔法は風となって消滅する。

「「「『バインド』!」」」

 その一瞬の間に、両サイドグループの冒険者達がフォローのためすぐさまエンシェントドラゴンの拘束に移った。

 各々絶縁体の手袋をした手から、バインド用の鋼鉄製ワイヤーを放ち、竜の腕や足などに絡めて動きを阻害する。

 

 ――――が、足りない。

 

 再度の咆哮が黒い雷を呼び、竜を捕らえんと飛び交う鋼糸の一つを焼き払う。

 鉄が焼け溶ける異臭が漂う空気に、不快感を覚え。

 そして、気づく。

 その異臭を引き裂くように何か――一気にその長さを増した竜尾の存在に。

「あぶ――――」

 迎撃はできない。念のため持っていたショートソードは、先程スクロールを開く際に手放してしまっている。

 対策を考えるより先に、カズマはめぐみんの体を突き飛ばして。

 竜尾の先端が目の前に、

「んっ……くぅっ…………! んあぁっ…………!」

 届く寸前、カズマの目の前に金色の何かが間に割り込んでいた。

 その場で響いた激しい金属音と高い嬌声、その発生源にカズマは目を向ける。

 頭の後ろで結ばれた黄金色の長い髪を、金属製の鎧に流す彼女は、緑がかった青の瞳を真っ直ぐ竜へと向けている。

 金髪碧眼。純血の貴族の特徴を色濃く示す彼女には、最古の竜を前にしながらも恐怖の色は一切感じられなかった。

 彼女は確か硬さには自信があると盾役を志望していたクルセイダーで、名はダクネスだったか。確か盾役として最前線に配置されていたはずだが…………。

「た、助かったよ。……ありがとう、よく気付いたな」

 竜の斬撃を見てから走ったのではとても間に合わない。

 早々に敵の狙いに気付き、先回りしていたのだろう。

「いや…………」

 そんな考えを念頭に置いたカズマの感謝。しかし、それを受けた女騎士は、黄金色の髪の間に寂しそうな顔を覗かせて、首を横に振る。

「予め危機を予測して下がってきたわけではない。単に出番がなかったところを、飛ばされてきただけだ」

 そう語る女騎士の視線を追うと、そちらにはワンドを構えたゆんゆんの姿があった。

 めぐみんや自分を守ってもらうために、女騎士を風の魔法で吹き飛ばしたのだろうか。

 重そうな鎧を飛ばす魔力の強大さにも驚くが、意外と強引で無茶なことをするものだ。

 そう、どこか場違いな感想を抱くカズマを尻目に、女騎士は立ち上がる。

 先の寂しげな言葉とは裏腹に、その足取りにふらつきはなく、むしろしっかりと大地を踏みしめる。

 あの巨大な質量の一撃を受けた直後にはまるで見えない。

「おい、大丈夫か!? 」

「大丈夫だ…………それに、大丈夫でなかったとしても、ここで無茶をしないわけにはいかない」

 まっすぐと竜を見据えた彼女の顔。

「自分はただ残酷で強大な敵と戦うためだけに、冒険者になったわけではないのだ。この身は聖騎士(クルセイダー)。街や人々を守るために、ここに立っているのだから」

 そこにあるのは、強敵と戦えるが故の歓喜なのか。

 死を導く巨竜を前にしたが故の絶望なのか。

 背中にかばわれたカズマやめぐみんからは、その表情は伺えない。

 ただ、勝利につなげるためならば、一秒でも長く身体を張る――――そんな覚悟だけは感じられた。

「貴様が何を思ってこの街を襲うのかは知らないが…………」

 ダクネスはそこで一度言葉を止め、両手に握った大剣を正眼に構える。

「来るがいい。私がいる限り、その牙も爪も、この街に届くと思うな!」




トリビア
本作のゆんゆんは、胸元を開いた服を着ていません。理由は爆焔読んだら多分わかる。


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21 『――――信じろ』

 

 ――竜、一頭の竜がいた。

 

 竜は生まれ出でたものではなく、作られたものであった。

 その身に親はなく、神の御力によって生み出された、竜の形をした神器。

 竜に与えられた使命は一つ。

 神の意思に従い、悪魔に滅びを与えること。

 その使命こそ、竜に与えられた最大の所有物。

 並大抵の敵を蹂躙する巨体、魔物や悪魔から力を奪う異能、下手な魔法など弾き返す強固な竜皮、その全てが使命のためにあった。

 誕生からそれほど時を置くことなく、竜は水の女神の手によって、ある男に託される。

 ニホンとかいう国から来たその男は、竜を見てキラキラと目を輝かせていた。

 平凡な男だった。

 力、知恵、才能、天運、全てが平凡。

 たまたま若いうちに死に、たまたま水の女神の目に留まり、たまたま竜を託された。

 ただそれだけの男。

 そんな彼を守りつつ戦う。

 男の魔王討伐に付き合い、戦いを重ねてデータを取り、男が途中で死ねば神のもとに帰る。

 ただそれだけの実証試験。

 それでも竜は彼を主と仰いだ。

 主は平凡だった。

 平凡な力で、平和という、誰もが願う平凡な願いを叶えようとした主。

 届くはずのない理想に手を貸したいと思った。

 そのために殺した。魔物を、悪魔を、立ち塞がる全ての敵を。

 その日が来るまでは。

 

 

 

 その日の戦いも、特に問題のないもののはずだった。

 魔物が何体来ようと、相手が力持つ悪魔であろうと、竜の敵ではない。

 敵の魔法を弾き、触れた相手の力を奪って、逃げる魔物の足場を奪い、ただひたすらに蹂躙する。

 魔物達を殺し、悪魔たちを早々に撤退に追い込んで、残ったのは死屍累々たる勝利の道。

 

 ――その道を通って、一人の女が歩いてきた。

 

 敵と焦る主を諌め、竜は戦闘態勢を解除した。

 女は竜の敵ではない。

 竜は頭を垂れ、攻撃の意志がないことを示した。

 彼女は敵ではない。

 ――――何故なら、彼女は神だったからだ。

 神に逆らってはならない。竜はそのために作られたから。

 何故か魔力を集中させているようだが、疑問に思ってはならない。

 神は敵ではない。神の意思に従って地上に降りた竜が、神の敵のはずがないから。

 無知無学ながら、竜なりに礼を尽くした姿勢が気に入ったのか。

 女神は、猫を思わせるような瞳をわずかに細めて、赤い髪を揺らす。

 そして、無防備な竜とその主に向けて、こう言った。

 

 

 

 

「『エクスプロージョン』」

 

 

 

 

 破滅の光は道を焼き、大地を灼き、一瞬にして主を消し去った。

 強固な竜皮は蹂躙され、巨体の大半は蒸発し。

 残ったのは女神と、竜であったもののみ。

 

 死を確認した女神は、配下らしき悪魔に事後処理を命じて、その場を離れる。

 肉の大半を失った身体は、その背を追うこともできず、わずかに残った意識で竜は思う。

 ――――何故だ。

 わからない。

 主はどこにいったのだろう。

 わからない。

 わからない。わからない。わからない。

 だから、わかることから、ひとつひとつ。

 

 自身に残された竜尾を伸ばし、近くにいた下位の悪魔を穿つ。

 一体、三体、五体、十体。

 その場にいる悪魔をまとめて穿ち、その力を吸い上げる。

 体力、魔力、――――――――そして、その身に纏う瘴気までも。

 本来奪うべきでないものまで、その場にある全てを自分の力へと変えた竜は、彫像と化して回復を待つ。

 ノイズが酷い。やつの顔も声も思い出せない。

 だが、やつの臭いと――何より、あの破滅の光を産んだ魔法は覚えている。

 主の死を感知したのか、天界からの帰還命令が送られてくるが、それを意識的に無視する。

 瘴気に侵された思考は、自身を裏切った”神”よりも。

 亡き主のための復讐を選んだ。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――かつて森であった場所は咆哮の嵐が荒れ狂い、原型を留めていなかった。

 木々の枝葉は切り裂かれ、根は凍りついている。

 人に踏まれながらも逞しく生きていた草花は、大地とともに焼かれてその躯を晒す。

 再度の咆哮。

 最古の竜の目の前に炎が現れ、スバル達冒険者を蹂躙するべく、その身を膨張させる。

「『フリーズ・ガスト』!」

 その炎が放たれる前に、ゆんゆんの声が割って入った。

 冷気を伴った白の霧が発生し、竜の鱗、さらには灼熱の業火を包み始め、突如炎と共にその姿を消した。

 敵が嫌ったのは冷気か、はたまた自身の魔法への干渉による暴発か。

 古竜は自分の生み出した炎ごと周囲の魔法を消失させる。

 直後。

 竜の眼が鋭く光り、その刃のような鋭利な爪を振り上げて、

「『デコイ』!」

 その矛先は突如方向を変える。

 向かった先には、クルセイダーの囮スキル(デコイ)を発動させたダクネスの姿。

 己の天賦の才と、その全てを防御に特化させた彼女は、古竜の一撃を真っ向からその身で受ける。

「――――――――っ!」

 鎧の一部が砕け、弾けるような金属音が嬌声を掻き消した。

「くぅっ……! さすがは伝説にも語られる、エンシェントドラゴン……。なかなか強烈なモノを持っている……! だが、私を倒そうというにはまだ足りんぞ! もっと、もっとだ!」

 幾度も繰り返された攻防。

 戦闘開始時は新品同然だった鎧に幾多もの傷が生まれているが、それでも彼女の目に絶望はなく、その足取りに揺らぎはない。

 むしろ攻撃を受けるたび、上気した顔はどこか生き生きとしたように、挑発を繰り返す。

 彼女とは対照的に、古竜はいたちごっこに嫌気がさしたのか、その場を離れるように翼を広げる。

「飛ばせるかよぉっ!」

 だが、そこに吠えたのはトンチンカン二号、その中の盗賊職の男だ。

 発動させたバインドスキルによって、まっすぐに飛んだ強固なワイヤーは、竜翼に絡みついて動きを阻害した。

 ――――決め手がない。

 ゆんゆんをはじめとした魔法使いたちは、エンシェントドラゴンの魔法を牽制し。

 ダクネスを筆頭とした前衛達が攻撃を受け、スバルや他の面々が相手の動きを阻害する。

 拮抗しているというと聞こえはいいが、そのうちこちらが力尽きるのは目に見えている。

 それに、幾度となく戦いを重ねたスバルにはわかる。

 エンシェントドラゴンは散発的な攻撃を見せてはいるが、意識は別の方に向いていた。 

 おそらくその対象はめぐみん。ダクネスをはじめとした冒険者たちの合流の際、すかさずカズマとともに身を隠した彼女を警戒しているのだろう。

「仮に、爆裂魔法の威力や範囲を正確に把握してるとしたら……俺がこいつの立場なら、冒険者達から一定以上の距離は取らねえ」

 スバルたちの存在は敵にとっては鬱陶しいだろうが、同時に爆裂魔法への壁にもなる。

 発見するまでは壁を利用しつつ、発見次第めぐみんへの攻撃に移るのだろう。

 エンシェントドラゴンは、全滅させない程度にこちらの数を減らしつつ、めぐみんの発見と殺害を目論んで。

 こちらは、敵の攻撃を必死でいなしつつ、必殺の一撃を叩き込むために必死になっている。

 そこまで思考した刹那、古竜の瞳がスバルの姿を捉え、同時に咆哮が鳴り響いた。

 スバルの中の『死の嗅覚』とも言うべき感覚が警鐘を鳴らし、懐の巻き物(スクロール)に思考が走り――その思考よりも先に、経験が身体を動かした。

 後方に反らした上体のすぐそばを、急激に伸びた竜尾が通り過ぎ、その先にいた鎧姿の男に突き刺さる。

「がはっ……!」

 自分が傷を負わせた相手のことなど意に介さぬように、古竜はそのまま足を振り上げ、一気にスバルの顔面を踏み潰しにきた。

「うぉっ…………!」

 スバルはバランスの崩れた上体から、そのまま身体を大地に倒して、ロールの要領で横方向に転がる。

 無様にも見える姿だが古竜の足は空を切り、即時の判断がスバルの命を救った。

 だが転がったスバルを、竜尾が更なる追撃を――――加えようとしたところで、剣の一閃が竜尾の先端部を切り落とす。

「――――ナツキさん!」

 続いてゆんゆんが防御魔法を展開しながら、スバルの隣に駆けつける。

 また、スバルの前方にもう一人、剣を手に油断なく古竜を見据える男が見えた。

 古竜は竜尾を伸縮させながら威嚇するように牙を見せ、

「――――――――――ぇ」

 音もなく足元から巻き起こった暴風に、スバルの身体は、二人と共に空高く舞い上がった。

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 最前線から少し距離を置いた岩陰には、一組の男女の姿が見える。

 片方は潜伏スキルを発動させて必死で息を噛み殺すカズマ。

 そのカズマの腕の中には、共に身を隠すめぐみんの姿がある。

 下手にめぐみんが詠唱などしないように手で彼女の口を覆い。

 さらに、少しでも気づかれないようにと身を小さくした結果、少女の身体を抱きしめる形となっているが、カズマには柔らかさや温もりは感じられない。

 それは彼女の身体に起伏が乏しいためではなく、カズマの頭にそれを感じるだけの余裕がないためだ。

 拮抗状態にある戦況、その先は腕の中の少女が鍵を握っている。それはカズマも理解している。

 だが、敵は魔法を無効化する能力を持っている。

 つまり、相手に気づかれずに爆裂魔法を叩き込まなければならないということだ。

 魔力を集中させるだけで存在を教えかねない爆裂魔法を。

 使うためには味方を避難させなければならない爆裂魔法を。

「魔法を無効化するとかいうのが、魔力消費系とかならまだやりようはありそうなんだが……」

 相手の魔力を消耗させれば随分戦闘は楽になるだろうし、ひょっとしたら体力や魔力が尽きた敵が動けなくなるとかで、倒すチャンスも生まれるかもしれない。

 だが、トロい相手ならやりようもあるが、実際に敵の攻撃が屈強な冒険者達を打ち据えるのを見ると、とてもそんなことができる気がしない。

 やはり、ダクネスを中心とした盾職の方に頑張ってもらうしかないのだろうか。

「モガッ……ゲホッ! ゲホッ! ………カズマ、なんのつもりですか! さっきから絞め殺されそうな勢いなんですが!」

 手を口元から強引に退けられ、小さな驚きに目を向けると、そこにはめぐみんの怒りの瞳。

 小声で怒鳴るという器用なことをしながら、少女は抗議を始めていた。

 顔を伏せ、思案に暮れるあまり知らず知らずのうちに腕に力が入っていたらしい。

「悪い。ちょっと今、あいつにお前の必殺魔法をぶち込む方法を考えてたんだよ。なあ、お前だってこれまで警戒されて苦労したことくらいあるだろ? そういう場合はどうしてたんだよ」

 何かの参考になるかと、術者本人の経験談を聞いてみる。

 するとめぐみんは記憶を反芻するように、少し間を空けてから答えた。

「そうですね。ちょむ――――相手が私の使い魔の猫をほしがっていたので、空高く投げまして。キャッチしたところに猫ごとぶちかますべく詠唱を」

「よしわかった、じゃあ今回狙われてるお前を投げて、隙作ってみるか」

「や、やめてください。今私を死なせたら恐ろしいことになりますよ!」

 そう言いつつ、めぐみんは杖を抱いた両手に力を込める。わずかに生じる身体の震えは内心の怯えの証だ。

 そんな彼女を横目に、再びカズマが思考に戻ろうとした時。

「ん?」

 思考を大地に新しくできた影が中断する。徐々に大きさを増すそれに、カズマは何事かと視線を上に移すと。

 そこには、かなりの高度から落下してくる、三人の人影が見えた。

 大地に向かって加速する彼らを見て、頭で考えるより先にカズマの身体が動く。

「危ないっ!」

 三人分の身体を受け止めきれるかなどとは考えなかった。

 カズマは一人、全速力で足を動かし、落下予測地点に自分の体を投げ出すように飛び込んで――――。

「『ウインドカーテン』!」

 声とともに現れた風が、三人の身体を一気に減速させる。

 一方勢い余ったカズマは、大地と熱烈なキスをすることになった。

「し…………死ぬかと思ったぁ……」

「やっべえ…………ありがとな、ゆんゆん」

 一方、落下してきたゆんゆんは蒼白になった顔でワンドを握りしめ、スバルはそんな彼女に礼を言っており、カズマの状態に気づく様子はなかった。

「よ、よく無事でしたね、ゆんゆん」

「あ、めぐみん。うん、前にそけっとさんの例を見てたから、なんとかね」

「ああ、あの……ぶっころりーのアホな失敗が役に立つとは、世の中わからないものですね」

 どうやら暴力的なまでの上昇気流によって、ここまで吹き飛ばされてきたらしかった。

「いつも魔法の前に聞こえた咆哮が聞こえなかった――『サイレント』か。さすがに、消音のために一手使ってきたのは初めてだ…………そこまで回りくどいやり方でやる必要があったのか?」

「それだけ、君のことを警戒してるということだろうさ。なんせ、一度は君一人に翻弄され、傷を負わされて閉じ込められることになったんだからな」

 スバルのつぶやき、それに答えたのは一緒に飛ばされてきた三人目の男、御剣響夜。

 カズマやスバルと同じ日本出身にして、魔剣の勇者と讃えられていた転生者だった。

 冒険者ギルドでも一目置かれていた彼は、抜き身だった魔剣を一度鞘に納める。

 だがミツルギのそれは休息のためではなく、再び戦場に戻るための準備だ。

「こうしている時間はない。すぐに僕たちも戻って、戦闘に加勢することにしよう」

 そういってミツルギは踵を返し、

「ちょっと待った」

「ごふっ!」

 地面に転がったままのカズマに足首を掴まれ、バランスを崩して盛大に顔面を強打した。

 うっわ、という周囲からの声は右から左へ流し、カズマはそのまま前線の様子をそっと千里眼で確認する。

 問題なしとは言わないものの、即座に彼らを送らなければならないほどでもない。

 そう判断したところでスバル、ミツルギへと顔を向けて、

「このままじゃ、どの道ジリ貧だ。プランCでいこう」

 プランC。

 それは、戦える人数が少数になった時の単純明快な作戦である。

 スバルが使えるという無理解の魔法とやらは、どういう原理かかの無効化能力の中でも発動するらしい。

 それを用いてエンシェントドラゴンの認識能力を封じたあと、まともに動けなくなった相手をそのまま爆裂魔法で倒してやれ、というものである。

 だが、スバルはカズマの提案に首を振った。

「確かに、シャマクを使えば爆裂魔法を叩き込めるかもって言ったのは俺だけどさ。あれは、めぐみんの爆裂魔法を向こうが警戒してないって前提だったろ? 今使っても、成功する保証はねえ」

 五感を封じられた敵は、主に二つのタイプに分かれる。

 すなわち、ただ恐怖に立ちすくむか、当てずっぽうで攻撃してくるか。

 古竜は後者のタイプだが、めぐみんを警戒している以上、思考能力が残っていれば守りを固める可能性が高い。

 それでは意味がないと、スバルは語る。

 ふむ、つまり。

「要は、あいつが警戒する理由を奪ってやればいいんだよな。なら――――」

 カズマは情報を整理し、自分たちの手札と相手の特性を考慮した上で作戦にアレンジを加えた。

 その説明を受けたスバルは、

「ちっとばかし賭けの要素が強いな…………」

「やめといたほうがいいか?」

「いや――――生きるために命を賭けるなら、きっと上等だ」 

 一人で古竜に挑んだ大馬鹿者は、そう笑ってみせた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 

 大剣を両手で握ったレックスは、重心を落として古竜の爪を受け、隣の男がレックスに支援魔法をかけ直す。

 スバル、ゆんゆん、ミツルギの三人が離脱した今、彼らの負担は決して軽くない。

 三方向からの、特製のワイヤーによるバインドで動きを阻害しているが、それもいつまで持つものか。

 咆哮が響き、戦斧を持った男の腹部から鮮血が舞った。

「テリー! 誰か、テリーを後ろに下げてくれ!」

 レックスは一歩前に出て、仲間への追撃を受け止めようと大剣をぶつける――――が、竜爪の勢いに負けて軌道を逸らすに留まった。

「『テレポート』!」

 その間にテレポート使いの男が負傷者たちを転送するが、一人が抜けるとその穴を埋めるためにひとりひとりの負担が増加する。

「こんなもんどうやりゃいいんだよ!」

「落ち着け! 冷静にならなきゃ死ぬぞ! こいつだって隙ぐらい…………」

 駆け出し冒険者の弱音に、年配の男が叱責する最中、大地が大きく上下に震動した。

 短時間の揺れは、老若男女、強者弱者を問わず、地に足をつけたあらゆる者に平等に襲いかかりそのバランスを崩す。

 そのうち、転倒した一人の男に、竜の手のひらが掴みかかり――――。

「させるかああああああああああああああっ!」

 金髪の女騎士は、男と竜の手の間に一片の躊躇もなく飛び込んだ。

 結果として男は難を逃れ、ダクネスは竜の手の中に拘束され、ミシミシと鎧が軋む音が鳴った。

「くうっ! しまったっ! まんまと敵の手の中に落ちてしまった! このままではっ……このドラゴンにまともな抵抗もできないまま蹂躙されてしまうっ!」

 両腕ごと掴まれた彼女は身をよじりつつも脱出できず、ただ紅潮した顔で叫ぶことしかできない。

「ああっ! ダクネスが身代わりに!」

「そんな! 俺をかばって!」

「畜生! みんな、なんとか助けるぞ!」

 これまで最も多くの攻撃をその一身に受け続けてきたダクネス。

 冒険者達はそんな彼女を救うべく、古竜の巨体へ立ち向かおうとする。

 しかし。

「みんな、私に構うなっ!」

 そんな冒険者たちを止めたのは、他ならぬダクネス自身だった。

「私に構うんじゃないっ! 私ごとやれ! 何も遠慮はいらないっ!」

 まっすぐ輝いた瞳で、彼女が一片の虚偽もない言葉を叫んだ時。

 

「『フォルスファイア』!」

 

 後方からの声が響いた。

 それに釣られたように、古竜の瞳がギョロリと動き、視線が遠方の大岩を向く。

 まるで、自分達冒険者への興味を失ったよう――そう感じてレックスも視線の先を追うと、そこには青い髪の女性がいた。

 彼女の手のひらから炎を出しているのを見て、レックスの心中に攻撃的な感情が生じる。

 その感情が敵意であると認識し、古竜も同じ――――否、それ以上の敵意を抱いていることに気づく。

 

 ――――敵寄せの神聖魔法。

 

 古竜は翼を広げる。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――古竜は大地に(たたず)み、自分に群がる人間たちを見据えていた。

 頭がどす黒い気持ちで満たされ、沸き起こる衝動が奴らを殺せと命じてくるが、古竜はそれを抑え込む。

 それは彼らを殺すべきではない、などという思考ではなく、古竜には何より優先して殺すべき存在があるためだ。

 木々が倒壊し、ずいぶんとすっきりした光景の中、ぽつんと残った巨大な岩。

 そして、そこに灯る青い炎に猛烈に敵意をかき立てられる。

「――――!」

 怒り。反感。害意。殺意。

 様々な色を持つはずの感情が一つの方向に纏められ、青の炎に、どこかで見たことのある青の少女に向けられそうになり、そのまま翼を広げた………が、そこで身体を停止させた。

 神器としての勝利への本能か。はたまた、小賢しい敵に釣られ、悪辣な罠を受けた経験によるものか。

 憎悪に塗り潰される思考を、殺意の衝動を古竜は抑え付けて、

 

 可視化するほどまでの膨大な魔力が、かつて見た破滅の光がそこにあった。

 

 空気の振動が、魔力の波動が、五感を痛いほど刺激してくる。

 自身を抑え込んでいた意識の枷を一瞬にして破壊し、咆哮を響かせて自身の周囲の人間たちを泥沼に落とす。

 広げた翼をはためかせ、身を宙に浮かせると、魔力の発生源――――青の少女のそばを捕捉した古竜は、そのまま憎悪にその身を委ねた。

 冒険者達を尻目に、高く遠くへ飛ぶのではなく、低く鋭く、ただ速く。

 ただ一直線に飛翔して、かの女との距離を詰めていく。

 あの破滅の光を防ぎきれないとは思わないが、わざわざ発動させてやるつもりもない。

 古竜は岩ごと魔女を葬り去るために、瘴気と憎悪に侵された思考で顎を開く。

 闇色の雷撃を生み出すべく咆哮をあげようと――――

「――――!」

 とっさに片手を自身の直下に置いた。

「にゃうんっ!」

 金属音と同時に、金髪の女の嬌声があたりに響く。

 古竜が体内の回路を駆動させると、つい先程まで意識の外に置いていた自身の眼下、何もない空間から三人の男女が姿を現すのが見えた。

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 めぐみんは紅い瞳を輝かせてその光景を目撃する。

 ――――巻き物(スクロール)による姿隠しの魔法と潜伏スキルの相乗、さらにスバルによる敵の射程把握から、ベストな攻撃位置の設定。

 そして、アクアの敵寄せの魔法とめぐみんを囮にして敵を直線的におびき寄せ、ミツルギの魔剣によって奇襲し、大ダメージを負わせる。

 後は合図を聞いて、爆裂魔法を叩き込んでトドメ。

 それが、めぐみんが聞かされている作戦の概要だ。

 そして今、めぐみんの瞳に映るのは三人の男女――スバル、ゆんゆん。そして、ギリギリのところで魔剣を止めたミツルギの姿だ。

 エンシェントドラゴンが攻撃態勢に移ったところを狙いすましたようだが、突然ダクネスを盾にされたことで、ミツルギの魔剣は寸止めにせざるを得なかったらしい。

 古竜は直感によって、不意の一撃を防いでみせた。

 姿隠しの魔法が消滅したことからも、すでに無効化能力は再発動されていると思われる。

 ――――ここからどうするのだろう。

 めぐみんは自身の中にある爆裂魔法の鼓動を感じつつ、そう疑問を抱く。

 不意打ちを外し、さらに無効化能力を再発動された今、次の一手をどう打つべきなのか。

 その疑問に対して、あった答えは、一つの行動だ。

 スバルがゆんゆんに視線を送り、それを受けたゆんゆんは彼の意思を汲んだように、頷き一つ。

 彼女は首から下げた小瓶に口をつけて、中身を飲み干した。

 何かのポーションだろうかと考えたのもつかの間、それを見たカズマはめぐみんに視線を送った。

「合図だ、やってくれ」

 冷静で、真剣な、だが予想外の声。その意外さに、めぐみんの聡明な頭脳が一瞬理解を拒んだ。

 ――――正気か。

 爆裂魔法の効果範囲は広く、その威力は絶大である。人が巻き込まれて生きていられるようなものではない。

 ゆんゆんはめぐみんの次にそれを知っているはずだ。

 なのに何故。

 めぐみんの思考に答えるものはいない。

 あるのは、巨大な竜を前にして、何かを信じるように待っているゆんゆんとスバルのみだ。

 まるで、めぐみんの次の一手を待っているように。

 めぐみんを、信じているように。

 高速で走る思考に脳が加熱。

 理性は無意味な行為だと、冷たい判断を下し。

 感情は撃たなければ、という思いを強くする。

 時間切れは許されない。そのせめぎあいに意識が判断を拒み、わずかな嘔吐感が――――。

 

 背中に、暖かな体温を感じた。

 振り向くとそこには、安心させるようにこちらの背中に手を当てたカズマの姿。

「信じてやれ。友達だろ?」 

 彼は短く、だがはっきりとこう言った。

 ――――。

「ええ、ええ。そうですね」

 彼女が自分を信じるというのなら、自分も彼女を信じよう。

 無謀と言われる道を行きながら、自分達を追う悪魔を退けたように。

 どんなに無謀に見えたとしても、ゆんゆんのこれには、きっと何かがあるのだから。

 だからこそ、めぐみんは口を開いた。

 自分の象徴となる、爆裂魔法を唱えるために。

 ゆんゆんの信頼に、応えるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『ドレインタッチ』」

「『エクスプロージョ――――――ぎにゃああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 

 

 刹那。

 背中に当てられたカズマの手は、一瞬にして少女から体力と魔力を奪う魔手へと変貌した。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 少女の絶大なまでの魔力が容赦なく放たれるかと思いきや、突如絶叫と共に鳴りを潜める。

 破滅の光は姿を見せず、ただ叫びが風の中に消えるばかりだ。

 大魔法における魔力不足、それに付随した不発現象である。

「――――――――」

 追い詰められたこの状況で、場違いな失敗。あれだけの魔力を練り上げていたにも関わらずの不発。

 あまりにもありえないその現象に、エンシェントドラゴンは驚愕したように身を硬直させた。

 その硬直はわずか。

 だが、そのわずかな空白は、不発を考慮に入れた上で動いていたスバル達にとって、あまりにも大きい。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 体勢を立て直したミツルギはダクネスを押しのけ、古竜の虚を狙って、雄々しく吠えて魔剣を振るう。

「――――!」

 最古の竜もそれに気づいて竜尾を振るう。

 が、対処としてはわずかに遅い。

「――――!」

「がぁっ!」

 竜尾はミツルギの腹部を穿ち、その勢いのままにミツルギの身体を空中に大きく飛ばす。

 だが。

 その直前、死を覚悟して振るわれた魔剣グラムは、古竜の胴体を深々と薙いでいた。

「行くぞ! 信じろ、ゆんゆん!」

「はい! 信じてください、ナツキさん!」

 ミツルギの身を張った成果を確認したスバルは、ゆんゆんとふた手に分かれて走り出す。

 スバルの行き先は竜の頭部。そしてゆんゆんが向かうのは、ミツルギが傷をつけた胴体部だ。

 古竜は口を開き、猛々しい牙を持ってスバルの身を食い破ろうと襲いかかる。

 それよりも、何をするかわからないスバルへの対処を優先するつもりか。

 きっとその判断は正しい。

 魔法を無効化している今、魔法使い(ゆんゆん)がどうにかできるわけでもない。

 仮に魔法を使えたとしても爆裂魔法以外のものでは、殺し切ることなどできまい。

 牙はスバルの回避不能な軌道にあり、仮にかわしたとしても、ミツルギの血に濡れた竜尾が背後からスバルの脳を穿つことだろう。

 きっとその判断は正しい。

 だがエンシェントドラゴンは忘れている。

 お前が傷を負ったのは、最良の判断の外にある行動だったということを。 

 スバルは自身の器官(ゲート)を意識して、一言叫ぶ。

「――シャマァァァァク!!」

 スバルの声は自身の魂を削り、それと引き換えに世界に対して変容を起こす。

 古竜の牙がスバルに届く前に、黒煙が竜の顎を、鼻孔を、瞳を覆い尽くし、やがて最古の竜の頭部は無理解の闇に飲まれていった。

 その深淵の闇の中はスバル自身もよく知っている。

 視界は闇に落ち、聴覚は何一つ捉えられず、上下の感覚すら曖昧な絶無の空間だ。

 半生鍛えて二流超え。

 かつてそう断言される程度の、魔法の凡才が生み出した闇は実に小さい。

 その巨体を覆い尽くすなどできるはずもなく、ようやく頭部を覆える程度。

 古竜が数歩でも進もうものなら、無理解の闇など完全に抜けてしまうことだろう。

 ならば――――進めないように変えるだけだが。

 ゆんゆんは、胴体めがけてそのまま跳躍。

 宙に浮く古竜の胴体、ミツルギの魔剣によってつけられた大きな傷に、斜め下から腕を突っ込んで声を上げた。

 

「『パラライズ』ッ!」

 

 少女の全身全霊を込めた叫びに、古竜の肉体が時を止めたかのように硬直。

 ゆんゆんが飲んだのは、麻痺魔法『パラライズ』の効果を激しく上昇させ、さらに効果範囲を拡大するポーション。

 その効果は本物であり、ループ中に使った際には、スバルの魔力ですらエンシェントドラゴンの動きを酷く緩慢にする影響が見られた。

 まして、莫大な魔力を持つゆんゆんなら、その効果はまさに絶大。

 その反面、敵だけでなく周囲の人間、果ては術者自身にすら影響が出てしまう。

 その欠陥性からスバルが嫌った使う判断をしたのは、ゆんゆん自身だ。

 無理解の煙に頭部を囚われたエンシェントドラゴンは、無効化能力の及ばぬ体内からの魔法に、少女の全魔力を注いだそれに、肉体を停止させている。

 魔法の効果は古竜の体内で止まり、外部にいるスバルやミツルギに対しては、魔法無効化の作用で届いていない。

「よし、待ってろゆんゆん。すぐ行くから」

 後はスバルがゆんゆんを運び、彼女の麻痺を治癒して、とっとと距離を取るだけだ。

 足に地がつかず、エンシェントドラゴンの傷につっこんだ腕一本で身体を支えているゆんゆんの姿勢は、いかにも辛そうだ。

 魔法による黒煙、その残り時間はあとどれだけか。

 命の源(オド)を削ったことによる、スバルの倦怠感は決して小さくない。が、アクアによってゲートが治癒されただけマシというものだ。

 ミツルギが予想よりも負傷してしまったのは計算外だったが、それでもバインドを応用した移動法なら十分運搬可能だ。

 きっと間に合うはずだ。

 着地したスバルはそう思考して、ゆんゆんを引っ張り出すために動き出す。

 やっとたどり着いた勝利を手に入れる。

「――――――――」

 スバルの心に浮かんだそれはなんだったのだろうか。

 喜び。

 感謝。

 達成感。

 きっとどれも正しく、どれも正確ではない想いなのだと思う。

 あまりにも長い過程で、あまりにも苦しんできたスバルの心。

 目の前に現れた勝利を前に溢れるそれを、正確に表現できるものなんて、きっとない。

 ただそれでも強いて一つ挙げるなら、それは。

 油断。

 

 咆哮が鳴り響き。

 先程冒険者達が捕らえられたように、エンシェントドラゴンとゆんゆんの足元が沼に変わり果てた。

 先程との相違点は一つ。

 その沼を構成する物質は泥ではなく、魔力によって作り上げられた――――溶岩だということ。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「――――――――っ」

 自身の足元に生み出された溶岩に、橙色に輝く灼熱に、ゆんゆんは息を呑む。

 念のためかけられた防御魔法も、身を守るための自動発動型魔道具も、マグマに飲まれたらどれだけ期待できるものか。

「や、嘘、嘘嘘っ……!」

 悪いことは重なる。

 こんな時に限って少女の腕は竜の血でズルズルと滑り出し、ゆんゆんの身体を古竜の身体から引き離そうとしていた。

「ああああああああああああああああっ! インビジブル・プロヴィデンス――!!」

 そんな少女の身体を支えたのは、友達の叫びだ。

 見えない『何か』がゆんゆんの身体を押し留め、なんとか溶岩の沼への落下を防いでいる。

 しかし、スバルの額には体温調節のためではない、自身への負担による汗が浮かび、その『何か』がそう長くは持たないことを示していた。

 古竜は無理解の闇の中、ただ無我夢中で魔法を唱えたのか、溶岩の沼は決して大きくない。

 だが、肉体の硬直したゆんゆんが落下せずにいるには、あまりにも遠すぎる。

 身体は動かない。魔力は使い果たした。

 動かせるものは、先程からカタカタとうるさい口くらいのものだ。

 それでも諦めるわけにはいかない。

 何か、何か、何か。

 何か!

 見つからない答えを探し、ただ必死で頭を回した彼女に。

 声が、聞こえた。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 溶岩の沼に躊躇なく足を踏み入れたのはミツルギでも、不可視の魔手でゆんゆんを支えるスバルでもない。

 それは、

「ダクネス――――!」

 古竜の肉体が硬直したことで、拘束から逃れた金色の女騎士だった。

 拘束から逃れた彼女は負傷したミツルギを放り投げるや否や、躊躇なくゆんゆんの救助へと向かった。

「くっ……あああああああああああぁっ!」

 右足を一歩、左足を一歩。

 灼熱とそれからなる苦痛に声を上げ、それでもダクネスは確実に溶岩の中を進んでいく。

「ダクネス、さ…………!」

「ああああああああああああああっ!」

 ダクネスは両足を焼かれる苦しみに耐え、そのままゆんゆんをつかむと、腕力に任せてゆんゆんを遠くに放り投げた。

 ゆんゆんと、そのゆんゆんに釣られたように一緒に飛んでいくスバルを見ながら。 

 ダクネスは小さく微笑んで、視線を後方へと向けた。

「約束通り――――頼んだぞ」 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

『すまない。爆裂魔法を使う紅魔族というのはどこにいるのだろうか? 少し話をしておきたいのだが』

『ああ、めぐみんなら、なんか魔力を抑えきれないとか寝言言ってさっきトイレにダッシュしてたけど。あなたは?』

『おっと、自己紹介が遅れたな。私はダクネス、今回の戦いでは盾役を志望しているものだ。ガンガンこき使って欲しい』

『俺はカズマ。よろしく、えっと……ダクネスさん』

『ダクネスで構わない』

『わかったよ、ダクネス。で、なんか伝えとくことがあるなら、俺からでよければ伝えとくけど?』

『うむ……そうだな。状況次第ではあなたが指示を送るかもしれないと言っていたし、あなたにも言っておくべきかもしれない。もし予定外のことがあり、エンシェントドラゴンをうまく倒せなかった時は……』

『時は?』

『私が盾になって時間を稼げるかもしれない。そうなったら、私ごと爆裂魔法で吹き飛ばしてほしいのだ』

『なっ…………お前ごと殺せって言うのか!? そんなバカなこと……』

『頼む』

『――――』

『理由は言えないが、私にはこの地の住人を守る義務がある。誰も気にしなくても、私は守らなければならないと思っている』

『でも…………』

『別に死ぬと決まったわけではない。むしろ、この街で唯一生き残れる可能性があるのは私だと思っている。だが、いざという時に撃てなければ、死ぬのは全てだ。全員生きるか、全員死ぬか。その時の勇気ある決断を――頼む』

 

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「めぐみん。やれ」

 ドレインタッチで一度奪った魔力を戻しながら、カズマはめぐみんに告げた。

 カズマとゆんゆん、それにミツルギの身体はこちらに戻ってきており、アクアのそばにいる。

 今爆裂魔法を使えば、硬直した古竜に直撃させられる。

 ただ一人、ダクネスを巻き込んで。

「無茶ですカズマ! あの人がいくら硬くても、無事には済みませんよ!」

 紅の瞳を恐怖に歪ませて、めぐみんは泣きそうな顔でそう返してきた。

 アクセルどころか、紅魔族でも自分以上の才能を持ったものはいないと豪語していた少女。

 そんな彼女もまだ子供で。

 共に戦ってきた仲間の命を奪うかもしれない、そのあまりに重い決断に、拒否するように小さく首を振る。

「お前もダクネスの気持ちは聞いただろ。今、やるしかない」

 溶岩の沼を作り出したことで、魔法無効化の効果は消えているはずだ。

 爆裂魔法の不発を見た古竜は、めぐみんに対して無警戒のはず。

 だが、古竜の顔の黒煙は徐々に薄れ始めている。あれが消えた時強制的な無理解の効果は消滅し、めぐみんの使う爆裂魔法は再び察知される。

 皆が戦い、皆が稼ぎ、皆が傷つき、ようやく築き上げたただひとつのチャンス。

 絶対に逃せない。

 ――――だから、自分がその決断を下す。

「全ての責任は俺にある。何があっても全部俺が悪いと言えばいい。だから――――信じろ! めぐみん!」

 

 

 そして。

 盛大な爆発音が、辺りに轟いた――――。

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 自分の身体が致命的な破壊を受けたことを、漠然と竜は悟った。

 初めてのことではない。

 主を失ってから何度も何度も経験してきたことだ。

 仮初の『死』は古竜を彫像に変え、時を経て徐々に再生を行っていく。

 だが、今回はあまりにも惜しかった。

 ――――ウォルバク。

 怠惰と暴虐を司る女神ウォルバク。

 主を奪ったあの女神。姿形こそ貧相なものに変わっていたが、あの女の臭いと、やつの放った光ははっきりと覚えている。

 奴を殺すまで、あと少しだったというのに。

 殺す。

 殺す。

 殺す。

 必ずすぐに復活し、力をつけて、奴を殺さなければ――――!

『――――その必要はありません』

 そう殺意のみで思考を塗りつぶした竜の前に。

 ある少女が、舞い降りた。

 

「えり、す――――さま?」

 

 竜の足元に出来たクレーターで、全身に火傷や傷を作ったダクネスは、薄れゆく意識で彼女の名を呼んだ。

 少女は――――女神エリスの絵姿にあまりにもよく似た彼女は、慈愛の笑みを浮かべて何事かつぶやくと、ダクネスの身体の傷が時間でも巻き戻ったかのように消え去った。

「な――――」

 言葉にできないのか、ダクネスは口をぱくぱくさせるばかりで、何も言うことができない。

 そんな彼女をニコニコと見ていたのは数秒、再び少女は死にゆく竜に顔を向ける。

 

『あなたはもう、ここにいる必要はありません。天界に帰り、再び必要とされる日まで眠りなさい』

 ――――そんなはずがあるか。奴の臭いがするのだ、奴がすぐそこにいるのだ。

 ――――嫌だ、嫌だ、嫌だ!

『――――』

 死にゆく竜は姿を消そうともがいていたが、少女が触れた途端その体は光に包まれる。

 やがて光は小さな炎のような形になり、少女の胸元へ。

『封印』

 まるで魂のようなそれを抱くと、少女の身体は浮遊し始め、そのままどんどん高度を上げていった。

 

「エリス様!」

「エリス様ーっ!」

「あ、あ、あああああっ!」

 

 叫びを上げるもの、祈るように手を合わせるもの、言葉にならない言葉を発するもの。

 様々な反応を見せながら、大地から天を仰ぐ冒険者たち、彼らに向けて少女は、誰もを魅了する微笑みを浮かべて。

 

「皆さん、心から御礼を言わせていただきます。あなたたちが今日、心から幸せでありますように――――『祝福を』!」

 

 そう言って。

 女神エリスは、天高くへと姿を消した。

 

 

 

 

 今日この日。

 ナツキ・スバルの、この度のループは収束を迎え。

 エンシェントドラゴンの伝説は、アクセルの地で終焉を迎えた。

 

 

 

 

 

 ちなみに。

 

「ちょっとちょっとーっ! 何いいとこ取りっぽいことしてんのよーっ! せっかく来たのにこの私に挨拶もないわけぇ!? 大体、来るんなら最初から来なさいよ怖かったんだから! 話があるからもっかい降りてきなさい! ねえ聞いてんの!? エリスーっ!」

 

 納得のいかない顔でアクアが天に向けて文句を言っていたが、それは些細な事である。



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エピローグ 『昔の話』

 そこは石のような材質で構成された、円堂に半球状のドームを組み合わせた建物。

 古代ローマの神殿を彷彿とさせるそこには、御神体のようなものは見当たらない。

 神が宿るものなど必要ない。

 なぜならそこには、神そのものがいるからだ。

 

 ――――女神エリス。

 

 この世界において、最も多くの人間に崇拝される幸運の女神。

 女神アクアとはまた違った、夜天を照らす月光のような美しさを持った存在。

 彼女は白銀色の長い髪を揺らし、端正な唇から一人、息を漏らした。

「よかった……」

 その吐息に込められた感情は、紛れもない安堵だ。

 エリスは、自らの精神を疲弊させてきた、ここ何日かの出来事を思い返す。

 密かに姿を変えて人間界に降りていたエリスが、ある日見つけた男――――ナツキ・スバル。

 彼がいつの間にか抱えていた瘴気は、まさに異常という他ないものだった。

 人間の身体を使い、神としての力をほぼ全て制限されたエリスですら、否応なく嗅ぎ取れてしまうほどの独特の悪臭。

 あのどうしようもない、ドス黒い悪臭――その本体が現れるようなことがあればどうなるか。

 

 ――――最悪、この世界そのものが”アレ”に呑まれかねない。

 

 直感が走ると同時、エリスはこれまでにない対応を迫られた。

 まず、可能な限り悪影響を避けるため、神の力を持ったまま地上に下りる面倒な手続きを行い。

 それと並行して、定期的にスバルの行動を監視して、緊急度を測った。

 いざという時は、手続きを待たずに神として地上に降りて、全力でスバルを誅する。

 たとえその後、どれだけの揺り戻しを受けようとも。

 ――――と、そうやって考えていたものの、結果的にナツキ・スバルが帯びた瘴気は、無関係のところで消失して。

 エリスの覚悟は宙に浮き、準備していた神としての降臨は、エンシェントドラゴンの回収・封印へと回ることとなった。

「まあ、あの子が取り込んでいた瘴気の浄化は人間レベルじゃ無理だっただろうし……結果オーライなのかな」

 スバルに憑いていたものの正体はわからないが、瘴気が消えた現状では彼を即抹消する必要はない。ひとまず様子見といったところだ。

 理想的とまでは言えないが、かなりベターな結果と言っていいと思う。

「それにしても先輩、ちゃんとお仕事してるのかなあ……?」

 結果的には、ナツキ・スバルは世界に悪影響どころか、大いに貢献してくれた。もし彼がいなければ、自分の愛する大勢の人々が犠牲になり、更なる悲劇を生んでいたのかもしれない。

 だが、彼の纏っていた正体不明の莫大な瘴気。いくらなんでもあれを送ってくるのはないだろう。

 あるいは、何故か地上にアクアがいたのはスバルの監視のためだったのかもしれない。

 アクアが地上にいた理由を聞いていないエリスは、そんな見当違いのことを考えつつ、ポリポリと自身の右頬に触れ。

「やめやめ、変に考えてもドツボにはまりそうだしね」

 どの道、自分がアクアの考えを正確にトレースできた覚えはない。それよりも、当人に聞いてみたほうがよっぽどいいだろう。

 

 エリスは自らの胸の前で両手を組み、銀の髪を揺らして青碧の瞳を閉じる。

 まるで瞼の裏の暗闇に、愛する何かを見るような。

 自分の世界そのものを見るような、そんな表情で祈りを捧げた。

 

 

「一日も早く、すべての人々に安息の日々が訪れますように」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 空は黒々とした闇に染まり、その中で月だけが白く浮かんでいる。

 エンシェントドラゴン討伐祝いで湧いていた酒場も、数日が経過した今では喧騒も収まり、客達も落ち着いた様子になっていた。

「アクア、それ何やってんの?」

「変な形の石のコレクションよ。ひとつひとつ丁寧に磨いてピカピカにしてあげなきゃいけないし」

 そういってアクアは、石ころをいくつかの袋に分けて入れていく。

「カズマもひとついる?」

「いらんわ」

 カズマとアクアがそんなとりとめのない会話をしていると、

「お、いたいた」

 そこに一人の少年がやってきた。

 目つきが悪く、髪をオールバックにした少年――――スバルだ。

 彼の後ろにある、少し離れた席に目をやると、そちらにはゆんゆんが眼帯をつけた少女に話しかけている姿が見えた。

 スバルはアクアの方に目を向けると、

「そういや、聞きそびれてたけど、なんで女神サマがこんなとこいんの? 自分で掘った落とし穴に自分でうっかり落ちたとか?」

「あのね。そんなわけないでしょ。私を誰だと思ってるわけ?」

 スバルの軽口にアクアは言葉を返す。

「凡人にはわからない、神の深遠なる考えで地上に降りてきたのよ」

 そのままカズマの方をちらりと見る。

 ――――舐められたくないから話合わせて。

 以心伝心。

 わずかな視線の交錯にカズマは彼女の内心を理解した。

「というのは建前で、実際はムカついた俺が無理矢理連れてきたんだよ」

「なんで言うのよおおおおおおっ!」

 理解したからといって、言うとおりにするかは別の話である。

「下手に嘘ついたって、どうせそのうちバレることだろ? お前基本的に神様っぽい雰囲気皆無なんだから、無駄なあがきしないでとっとと楽になれよ」

 食って掛かるアクアに、物怖じせずに対するカズマ。

 そんな二人に、スバルが小さな微笑みを見せる。

 それが苦笑か愛想笑いか判別する前に、スバルは「ところで」と話題を切り替える。

「俺とゆんゆんの――――魔王討伐の仲間になってくれないか? 足りないものだらけの俺だから、誰かに力を貸してもらいたいんだ」

「え、やだよ。俺は普通に弱いし、分を弁えて商売で食ってくから他所あたってくれ」

 お断る。

 一秒の逡巡もなくスバルの提案を切り捨てた。

 カズマにしてみれば、今回のような思いを何度もするのはごめんだ。

 わざわざ魔王討伐なんてしなくとも、もっと楽な生き方もあるだろう。安全に暮らしていれば、まさかそうそう魔王軍の強者と出くわすこともあるまい。

 そう考えての答えだった。

 ちなみに魔王討伐を望むアクアには、すでに『金を貯めて仲間を雇ったほうが楽』という方向で丸め込んであるので、ここで断る事自体に問題はない。

「ま、俺も立場が逆ならそうしてたかもしれねえしな。安全策を曲げてもらえるほど、俺の器は立派じゃなかったってことで」

 スバルはそう言って早々に誘いを引っ込める。もとより断られることを想定していたのか、その顔にあまり残念そうな様子はない。

 それを待っていたかのように、話し終えたゆんゆんが駆け寄ってきた。

「――――」

「――――っ…………!」

 スバルが首を振ると、ゆんゆんの紅の瞳にわずかな哀愁の色が見える。

「アクアさん、カズマさん。本当に……本当にありがとうございましたっ! 私、今回のことは一生忘れません!」

 それを振り払うように、感謝の言葉と共にこちらへと頭を下げてきた。

「いやいや、こちらこそ色々迷惑かけて」

「いえ、そんなことありません。本当にお世話になって……。旅立ちの前に、これだけは言いたかったんです」

「いやいやいや」

 ぺこりぺこり。

 頭を下げあう二人。

 カズマにしてみれば、迷惑をかけたというのは本心である。

 そもそもエンシェントドラゴン自体、アクアがやらかしたことが原因というのがカズマの認識である。

 無関係の悪魔やらなにやらもあった以上、報酬の分け前はもらうが、こうまで感謝されるとさすがに申し訳ない。

 その言葉を聞きつけたアクアは、

「ゆんゆん、旅に出るのね。なら、これは餞別よ。きっとお守りになると思うの!」

 と、何やら紙袋を押し付けていた。

 カズマの記憶が正しければ、先程整理していた妙な形の石を入れていた袋のはずだが、正気かこいつ。

「アクアさん…………ありがとうございますっ! 一生大切にします!」

 ゆんゆんは感極まった様子で瞳を潤ませ、何度も何度も頭を下げながら、スバルと共に去っていった。

 あれの中身が石ころだと知ったら泣くんじゃなかろうか。そう思うと、心に少し罪悪感が浮かぶ。

「次に会ったら、ご飯でも奢ってやろうかな…………」

 彼らが出ていった扉を見つめ、無意識につぶやいたカズマ。

 その背中に、なにか細く柔らかい、指のようなものが触れる感触があった。

 気になって振り向くと、そこには見知ったもうひとりの紅魔族の姿が。

「というわけで、これからあなた方と行動を共にすることにしました」

 とんがり帽子を頭に被り、赤を基調とした服に身を包んだめぐみんは、口を開いてそう言った。

 片方の瞳は眼帯に包まれているが、もうひとつの瞳はまっすぐとカズマやアクアを捉えている。どうやら、酒場にいる別の客を見て言っているわけではないようだ。

「結構です」

「結構と言いましたね今後ともよろしくお願いします自己紹介はいりませんよねでは早速クエストにでも行きましょうか!」

 カズマが返した否定の言葉を、めぐみんは強引に肯定に変換してきた。矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、そのままこちらの服をがっしりと掴んだ。

「言っとくけど、ゆんゆんならここにはいないぞ? さっきこれから旅立つとか言って出てったから、とっとと追いかけてこいよ」

「ゆんゆんなら、とっくに別れの挨拶は済ませましたよ」

 帽子の角度を直しながら、少女はこともなげにそう返す。

 どうやら、『カズマたちがゆんゆんをパーティに入れた』と考えて自分も、というわけではないらしい。

「なら、なんで今更俺達のところに来たんだよ。お前、戦いの次の日には、『ふっ……また会うときもあるでしょう』とかカッコつけて去っていっただろ」

「…………ふっ」

 するとめぐみんは遠い目で、

「ええ、どうしてでしょうね。駆け出しの街にアークウィザード、それも大勢の前でエンシェントドラゴンを仕留めてみせた、素晴らしい人材がいるというのに。これはもう確実に争奪戦になりいくらでも稼げるだろうと、そう思っていたのですけどね…………。何故か誰一人として、私を拾おうとはしないのです」

 そんな悲しい言葉に重なるように、めぐみんのお腹がくうくう鳴った。

「くうくうって……エンシェントドラゴンの時の報酬はめぐみんももらってたじゃない。悪いイケメンに引っかかって全部貢いだの?」

「貢いだというか、まあ色々とありまして……。冗談抜きでピンチなので、なんとか拾ってもらえはしないでしょうか」

「え、やだよ。とりあえず飯くらいなら奢ってやるから、他当たってくれ」

 お断る。

 一秒の逡巡もなくめぐみんの提案を切り捨てた。

「そこをなんとか! ゆんゆんを見習ってではありませんが、ここで捨てられたら私は死にますよ!」

「それこそゆんゆんに頼んでパーティに入れてもらえばいいだろ! ほらダッシュで行ってこいよ!」

「そんな格好悪いこと、紅魔族としてできるはずがないでしょう!」

 そう言いながらカズマの肩をがっしりと掴み、そのまま必死の形相で顔を近づけてくる。

 まさかこの小娘、ゆんゆんが去るまでわざわざ待っていたりしたのだろうか。

「ねえカズマ、私は入れてあげてもいいと思うの。ほらこういう、リスクありまくりなのわかった上で、自分のロマンを求める人って素敵じゃない?」

 そんなカズマの思考を他所にアクアは、テーブルにあったコップを手に取りつつそう口を挟んできた。

 確かに、めぐみんがロマンを求めるのは勝手だ。マンガやゲームならそういうキャラもありだとは思う。

 だが、自分の生死が関わるとなったら話は別である。

「いやいやいやいや。一日一発魔法撃ったら動けなくなる魔法使いとか、普通の冒険だとむしろ邪魔だろ。今回みたいなボスキャラ一体ならともかく、途中からただの荷物に…………!」

 カズマの言葉を遮るように、めぐみんは手首を掴み、

「いえいえいえいえ。カズマのドレインタッチ、あれは私と相性が抜群です。魔力を吸ったり入れたりできるということは、爆裂魔法を使った後も一人で歩けるということじゃないですか。だからほら、ね?」

「いやほらねじゃないから。俺にそれやってまで入れるメリットないだろ。だいたい、俺達は当分商売で金を稼いで、色々準備するんだよ、今冒険者の仲間増やしても意味がないだろ? そりゃ、俺だってたまに小さな冒険をやるとかなら構わないけどさ。問題はお前、小さな冒険に一番向いてない魔法使いだってことだ」

 そう言いながら爆裂娘の頭を押して、自分から引き離そうとする。が、彼女は見た目に似合わぬ握力でカズマを離そうとしない。

「お願いします! なんでも、なんでもしますから、捨てないでください!」

「いやいやいや。めぐみん入れるくらいならゆんゆんに頭下げて頼んでるから。おい離せって……おいっ……!」

「そんなにあの娘がいいんですか!? カズマに強引に吸われて入れられた時、私はあなたなしでは生きていけない身体にされてしまったんですよ!?」

「変な言い方やめろ! 周りの人たちが見てるだろうが!」

 なんとか逃れようとするカズマ。

 手段を選ばず騒ぎ立てるめぐみん。

 それを見てニヤニヤと笑みを浮かべるアクア。

 三者三様の姿に周囲の人々が向ける視線は、笑い、軽蔑、好奇心など様々だ。

 いずれにしても、下手に刺激して巻き込まれたくないのか、野次を飛ばすような者の姿もない。

「よかった、まだこの街にいたか」

 そんな中、三人に声をかける姿があった。

「――――ダクネス」

「はぁ……はぁ…………すまない、本当はもっと早くに会いたかったのだが、こちらとしても今回のことは色々と面倒があってな」

 よほど急いできたのか、金の髪を乱して顔を上気させた彼女は、息を整えるように数度深呼吸をする。

「ひょっとして、今回の功労者であるこの私に挨拶に来たの? そんなはぁはぁ言っちゃって。ほら、カズマもこのくらい私のことを尊重しなさい」

「いや、挨拶もあるがそれだけではない。実はだな」

「アクアへの挨拶でないとすると、ひょっとして今回かっこよく爆裂魔法を決めた私になにかお礼でもしにきたのでしょうか。今ならそれなりのものをもらうのも、やぶさかではありませんよ?」

「おいお前らちょっと黙れ」

 余計な茶々を入れてくるアクアとめぐみんを制して、カズマは無言でダクネスに続きを促す。

 それを見たダクネスは、言葉を続けた。

 

 

「実は、私も三人の仲間に――――――――」

 

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「――――これでゆんゆんにダメージ。あとは同じ手順を墓地のカードの数だけ繰り返してゲームセットだ」

「あーーーーーーーーっ!」

 時間をかけて形成された自らの陣営、それを一蹴するようなスバルの極悪コンボに、ゆんゆんは絶叫する。

 馬車の出発時刻までの待ち時間、基本的な情報整理も終わり、手持ち無沙汰になった二人が始めたゲーム。

 初めて友達とやるそれにゆんゆんは心をときめかせ、自分の所持していたカードを分けてデッキ構成をするだけでも心躍る時間だった。

 が、完全に発想の外にあった、鬼畜のようなカード運用にゆんゆんの気持ちは理不尽さに反転する。

「ナツキさん、このカードゲーム持ってなかったって嘘でしょ! こんなズルい戦法、すぐ思いつくわけないんだから!」

「んー、物事をまっすぐ考える奴と、普段から人の揚げ足取ることばっかり考えてる奴の差っつーか。まあ、現代知識無双がこんなところでしかできないってのも情けねえけどな」

 などと、わけのわからないことを言い訳のように口にする。

 むー、とゆんゆんが半眼に閉じた視線を向けるとスバルは、

「悪い悪い。いくらなんでも意地悪だった。次はもうちょっと真っ当なデッキに組み直すからさ」

 そう言ってスバルは一度カードをしまうと、

「と、その前にちょっとキジを撃ってくる」

 その言葉とともに、席を中座。待合場に備え付けられたトイレの方へと向かう。

 ゆんゆんの視線はそれを追い、自然と待合場全体が視界に入る。そこにはゆんゆん達のような出発待ちの客の他に、馬車の護衛として同行する冒険者達の姿も見えた。

 資金の節約を考えて、目的地の同じ馬車の護衛として雇われることは、冒険者にはよくある話だ。

 もちろんゆんゆん達も同じようにすることも可能だったが、現在はエンシェントドラゴン討伐の報酬で懐は暖かく、そこまでする必要もないとの判断だ。

 もっとも、誰に頼まれもしないのに、一人でエンシェントドラゴンに挑んだスバルのことだ。実際に危機があれば、勝手に手を貸してしまうのだろうが。

 続いてゆんゆんは自分の荷物の中にある、三つの袋に目を映す。

 それは、旅立ちの前に渡された餞別。未だ中身を知らぬそれを、傷一つつけまいと慎重に取り出してテーブルに置いた。

 スバルがおらず手持ち無沙汰な今、開封してしまおうという算段である。

 だが、袋の口に手をかけたところで若干の躊躇いが生まれた。

 ここで一人で開けてしまうというのもどうだろう。この包みが良いものか悪いものかはわからないが、中身を見た時の喜びや哀しみもスバルと共有するべきなのだろうか。

「――――よしっ」

 躊躇していたのはおそらく一分ほど。

 ゆんゆんは決断すると、しっかりと握っていた包みの口に手をかけた。

 きっとスバルはこの程度のことで怒らないと思う。

 

 ――――もし喧嘩になっても、きっとナツキさんとなら仲直りできるよね。

 

 そう考えて、まずアクアから渡された包みを開く。

 中から姿を見せたのは、

「…………石?」

 紅い瞳に映ったのは、いくつかの石ころ。

 それも、普通の石ころではない。

 極端に細長いもの。リング状の形状をしたもの。中にはまるでハートのような形をした、見たこともない珍しいものもあった。

「……………………?」

 明らかにひとつひとつの形が異質なのはわかるが、アクアの意図がさっぱり理解できない。

 自分も一人石積みはそこそこ経験があるが、まさかそれに使えという意味でもあるまい。 

 とりあえず、アクアが渡してきたからには何かの意味があるのだろう、そう考えたゆんゆんは一つ一つを丁寧に袋に戻した。

 後で小袋でも用意して、大切に保管しておこう。

 そう決意した上で、次の袋に手をかける。

 こちらはめぐみんが餞別だと渡してきたもので、目の前で開けようとしたら止められたものだ。

 何かのサプライズでも仕込んであるのだろうか。

 袋の外からではわかりづらいが、その手触りはまるで紙かなにかのようだった。

 口を開けてそれをそっと覗き込む。

 中にあったのは、確かに紙の束。

 大量のエリス紙幣だった。

「……………………っ!?」

 喜びや哀しみより先に驚愕に揺れ動き、感情のままに出そうになった声を慌てて噛み殺す。

 誰かに見られなかったかと警戒し、キョロキョロと周囲を見回したのは数度。

 今度は小さく口を開けてみると、そこには変わらぬ大金が入っており、先程の光景が見間違いでもなんでもないことを教えてくる。

『再会の時こそ、一切の小細工無しで決着をつけましょう』

 別れ際のめぐみんの言葉が脳裏に響いた。

「めぐみん…………」

 激怒してやろうと思った。

 顔を真っ赤にして、金を外にでも投げ捨ててやろうと思った。

 施しなんていらないのだと。

 こんなものはライバルへの侮辱だと、そう言ってやろうと思った。

「ばか。かっこつけて」

 なのに。

 口をついてでた悪態は、何故か震えている。

 視界が滲む。喉が壊れたように、それ以上の声が出てこない。

 予想外のところから飛び出してきた不意打ちに胸が熱くなり、嗚咽がこみ上げて。

 ゆんゆんは慌てて涙をこらえ、上を向いて床に零れ落ちるのを防ぐ。

 自分にはなかなか合う仲間が見つからないと。

 爆裂魔法を使いこなせるパーティはそういないと言っていたのに。

 仲間探しの時間を生む貴重な資金を、自分への餞別として渡してくれたのだ。

「――――――――」

 自分の感情が制御できなくなりそうな感覚、それを無理にねじ伏せるように頭を左右に振る。

 涙を強引に袖で拭って、自分をごまかすように。

 最後の袋に手をかけた。

 中にあったのは紙の束。

 

【アクシズ教団入信書】

『次の街でうまく活用してね!   セシリー』

 

 

 顔を真っ赤にして床に叩きつけた。

 

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 ――――時が経つ。

 鐘の音が鳴り響き、スバル達に出発の刻を告げる。

 スバル達を乗せた馬車は御者の導きに従い、始まりの街を後にした。

 ゆんゆんは馬車に揺られ、名残惜しげに窓の外を何度も覗く。

 そんな少女の横顔を見ながら、ふとスバルはエンシェントドラゴンを倒した夜のことを思い返していた。

 

 あの夜、キンキンに冷えた(クリムゾンビアー)をあおるように飲み、満足そうな顔でカエル料理を口にしているセシリー。

 宴の中心で芸を披露し場を盛り上げるアクアは、酒場の棚を消そうとしてカズマに強引に止められる。

 隅の方で大きな肉を頬張っていためぐみんは、酔っ払った冒険者に体型をからかわれ、取っ組み合いの喧嘩を始めていた。

 それ以外の皆も、この夜はバカのように騒ぎ、最後には笑って眠りについた。

 皆が勝利に酔い、喜悦と安堵を抱えて眠りについた日の光景。

 誰一人欠けることのない、騒がしくも安堵と幸福に満ち溢れた光景。

 それは、スバルが自身の命を何度投げ出してでも成し遂げたかったもので。

 そして、スバルだけでは、決してなし得なかったものだ。

 始まりの街を旅立つまでの、わずかな時間でこの有様だ。

 この先、ゆんゆんの力を借りることは間違いない。

 何度も何度も何度も、進むためにこの少女の力を借りる。

 今更自分一人でやろうとするつもりはないし、ゆんゆんも迷わず力を貸してくれるだろう。

 ただ、スバルの旅の先。

 それは、この世界から、前の世界――――エミリアたちの待つ『聖域』の時間へと帰還することを意味する。

 スバルが成功するということは、彼女との別れに近づくということで。

 だから、せめて。

「ナツキさん」

「ん?」

 少女の声に、スバルの思考は現実に引き戻される。

 見ると、いつの間にか彼女は窓から顔を離し、スバルの顔をまっすぐに見つめていた。

「えっと…………その、なんと言ったらいいのか……」

 彼女はわずかに言いよどむように、

「ナツキさんの、昔の話を聞かせてください」

 しかし、決して視線をそらさないままそう言った。

「あー、そうだな……」

 スバルはわずかに目を伏せる。

 愚かな自分と、自分を支えてくれた多くの人々。

 自分を救ってくれた、二人の少女。

 それらの顔が頭をよぎり、様々な感情が胸中を駆け巡った。

「別に、大事なことじゃなくていいんです。つまらないことや些細なことでも構いません」

 そんな自分を見て何を思ったのか、ゆんゆんは言葉を継ぐ。

「ナツキさんに手を差し伸べられるように。友達の気遣いにもすぐ気づけるように。そんな私になるためにも――――ナツキさんのことを、いっぱい、いっぱい聞かせてください」

 陽の光を和らげていた雲が切れ、遮るもののなくなった太陽が大地を照りつける。

 馬がその光に驚いたのか、馬車がつんのめるように急停止した。

 スバルは慣性の法則に従いバランスを崩す身体を、慌てて制御。

 結果として変な態勢で静止したスバルを見て、ゆんゆんはニコニコと微笑んでいた。

「そうだな。じゃあ……下手なりに色々話すから、ゆんゆんの話も後で聞かせてくれ」

「はいっ! 私のつまらない話でよければっ!」

 

 

 せめて最後の日まで、この少女が笑っていられるような自分でありたいと、そう思った。

 

 

 

 ――――悪魔と古竜から解放された森が、スバル達を見つめている。

 傷だらけの木々は風に揺れ、彼らを慈しむように歌っていた。

 

 

 

 

 

 

                   完

 

 

 




以上です。ありがとうございました。


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