俺たちの伝説の夏 (草野球児)
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プロローグ

 高校野球といえば甲子園、甲子園といえば高校野球、と形容の呼応関係は成立している。

 しかしそれは、全ての高校球児が甲子園を目指しているということを意味しているわけではない。例えば、通常の高校生活を犠牲にしてまで甲子園を目指すわけではなく、仲間たちと野球を楽しむことに重きを置く球児というものもいるし、それは俺の知る範囲でさえ少なくない。というより、自分自身がそれに近い存在である。

 

 県立神山(かみやま)高校。

 岐阜県神山市。その北部に位置する我が校、通称「神高(かみこう)」は、進学校でありながら部活動が盛んなことで有名である。

 ただしそれは文化部に限った話。

 運動部は、決して広くないグラウンドを互いに分け合い、細々と活動しているのが実状だ。

 俺はそんな神山高校野球部のキャプテン・長坂尚也(ながさか なおや)

 「主将」といっても多数決によって押しつけられた貧乏くじであり、世間一般の「チームを背負う」というようなものではない。ただ神高野球部キャプテンというのは伝統的にそういうものであり、先輩たちも「今まで通り気楽にやればいいよ」と言って主将を任せてくれた。

 狭いグラウンド、不十分な設備、笑顔の絶えない部員。俺はこの野球部の風景が嫌いじゃない。だからこそ

「自分も先輩たちと同じように和気あいあいと野球をして、最後の夏に1勝くらいできたらいいな」

なんてことを思っていた。

 

 あの天才がやってくるまでは。

 

 

 

                  ◇ ◇ ◇

 

 

 神高野球部の雰囲気をひとことで表すと「ゆるい」。

 選手のミスに対して監督から怒号が飛ぶとこもなければ、野球を通して仲間とぶつかる事もない。みんな「程々に」部活をこなしているのだ。その結果、3年間公式戦未勝利という不名誉な記録から抜け出せないでいる。

 ただ、自分はこの雰囲気を批判する訳ではない。そもそも自分自身は「熱血すぎない」からこそ、キャプテンに選ばれたという側面もあるのだ。

 

 去年の夏、先輩たちが最後の夏の大会を初戦敗退という結果で終え、秋になって自分たちの代の新チームが発足した。

 自分自身もレギュラーの座を掴み、意気込んで望んだ秋季大会だったが初戦であっさりコールド負け。この頃から部内の空気は、さらに「ゆるく」なっていった。

 

「石浦が辞めるらしいぞ」

 秋季大会で敗退した翌日の練習前、副キャプテンの塩谷優輔(しおや ゆうすけ)が切り出してきた。

 

「石浦が!?なんでレギュラーなのに急に辞めるんだよ」

「野球に飽きたんだとさ。それできっと今回の秋の大会を区切にするつもりだったんだろ」

 1年生の石浦はセカンドのレギュラー。実力はそれなりにあったが不真面目な部分があり、練習には出たり出なかったり。最近は特に手を抜いていると思ったが、こういう事だったのか。

 

「なあ塩谷。なんとかならないか」

「もう退部届は出したって言ってたし、規則の上ではもうどうしようもないだろう」

「そんな・・・・じゃ、じゃあ監督になんとかするよう頼んでくれよ」

「そういうのはキャプテンのお前が話せよ。それに頼んだとしても、あの監督が動いてくれるとは思えんな」

 

 神高の野球部監督は現国担当教員の片野(かたの)先生である。秋になったというのにまだ日焼け跡の残る黒い肌と、がっちりとした体形でいかにもスポーツマンというなりをしていて一見頼れそうな雰囲気をしている。

 が、その実体は「極度な面倒くさがり屋」。

 「自主性」「放任主義」と言って練習メニューやノックを部員に任せることも多いし、土日練習にもなにかと理由をつけて出てこないこともある。

 

 遅れて部活に顔を出した監督に、ダメ元で退部した石浦への説得を懇願したが「そういうのは本人の意思を尊重するべきだろう」という『説得するのが面倒くさい』の裏返しとも思える言葉で一蹴された。

 

 こうして神高野球部はあっさりと正セカンドを失い、二年生の秋は暮れていった。



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1話 「いつもどうり」に

 年が明け、冬が去り、3月になった。

 高校野球では12月から3月にかけて、試合を行なうことが禁止されている。なんでも、冬に練習のできない北国と差をつけないための決まりだそうだが、室内練習場を有している強豪校も多いことを考えると、この制度に効果はあるのかいささか疑問になる。

 

 神高でも試合解禁と共に、練習試合が組まれた。対戦相手はさほど野球の強くない進学校、実力でいえば若干こちらが上かもしれない。

 先発投手は俺。捕手は控えの二年生・多村(たむら)が務めた。

 自分は二年の夏の大会までずっと捕手一本でやってきたが、去年の秋より三年生引退による投手不足を解消するため、捕手と投手を兼任している。

 

 今年に入ってフリーバッティングで打者相手に投げることは何度かあったが、試合となると雰囲気が違う。なんとも新鮮な気分だ。

 久々の実践のマウンドを味わいつつ、持ち味の直球をメインにした投球で討ち取る。しかし、神高打線も相手投手を打ちあぐね、試合は4回まで互いに0行進で進んだ。

 俺はここまで結果的に打者を討ち取ってはいたが、コントロールが悪いこともあって球数は既に85球に達していた。「1イニング15球」が理想とされるなかで、この球数は明らかに多い。久々のマウンドということもあって、疲労がいつもより顕著に現れた。

 

「ボール!フォア!」

5回表、いきなり連続フォアボールを出してしまった。ノーアウト一塁二塁。打席には二番打者が入る。

 初球はスライダーがワンバウンド、これを捕手の多村は後逸してしまい二塁三塁へとランナーが進んだ、これで今日3つ目のバッテリーミス。

 このミスに怖じ気づいて直球を投げたところをセンター前に弾き返され、2失点。この後は無失点に抑えたが先制を許してしまった。

 

 俺は6回で降板。マウンドを二年生サイドスローの河崎(かわさき)に譲り、自分は慣れ親しんだ捕手のポジションに就いた。

 リリーフした河崎と俺のバッテリーは調子よく7、8回を無失点。その好投の応えるるように、7回に神高は四番・川原(かわはら)のタイムリーで2対2の同点に追いついた。

 続く8回にも一死三塁のチャンスを迎えたが、後続の打者が三振とサードゴロに打ち取られ勝ち越し点は奪えず。

 

 この無得点で流れが悪くなったのか、9回表、エラーで無死二塁のピンチを迎えてしまった。 

 ここでの1点が試合の勝敗を分ける重要な場面。打者はもちろん送りバントの構え、セオリーどうりの作戦で来た。サードとファーストに前進するようサインを送り、バントに備える。

 河崎がセットポジションから投げ込む。打者のバントはピッチャー正面の強い打球。

「サード!間に合う!」

 河崎は迷わず三塁へ送球したが、これが二塁方向へ逸れたうえにワンバウンドになってしまい、サードの塩谷は倒れ込みながらも捕球しようとしたが失敗。ボールが転々する間に二塁走者がホームを踏み、これが決勝点となった。

 

 

「ありがとうございましたー」

 ゲームセットの瞬間ネクストサークルにいた俺は、ヘルメットを被ったまま試合後の礼を済ませた。

 正直、格下相手の敗戦はショックではあった。

 だが、周りを見ると皆思ったほど落胆していない。前向きな言葉を互いに掛け合っていた。

 よかった。「常に前向き」、これぞ神高野球部の雰囲気だ。

「切り替えていこう!次は勝てる!」

明るく振る舞うナインにそう声を掛けて、グラウンド整備の準備を始めた。

大丈夫、次は勝てるはずだ。

 



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2話 来たれ野球部

 気温もずいぶんと暖かくなり、いよいよ春の大会が迫ってきた。

 練習試合ではいつもどうり勝ったり負けたりを繰り返しているが、戦力的には今のチームは悪くないと思う。

 四番の岸川は相変わらず打ちまくってるし、ショートの神田(かんだ)の守備も安定してきた。センターの末広(すえひろ)も調子に乗れば充分活躍できる。

 

 四月一日、入学式。

 

 それとともに神高では新入生の争奪戦が始まる。「争奪戦」というのは誇張表現ではない、文化部の数が50近く存在するため、どの部活も新入部員を求めて必死の勧誘活動を行うのだ。

 

 入学式の次の月曜日から新入生勧誘週間という特別週間が設けられ、朝と放課後、一年生は常にどこかの部活から勧誘されているような状態になる。

 部活に興味のない生徒からすれば何とも迷惑な話だが、この部活熱があるからこそ「部活の殿堂神山高校」が受け継がれていると考えると、ある意味仕方ないのかもしれない。

 勧誘週間中、放課後には体育館のステージで部活紹介が行われる。ただ、部活動数が多いため月曜日から木曜日までの四日間に分けられ、野球部の出番は最終日、木曜日の四日目に割り振られた。

 

「長坂、部活紹介出ろよ」

 勧誘週間の初日。昼休憩に職員室に呼び出され、片野監督から部活紹介を任された。キャプテンである俺にお鉢が回ってきたのは予想どうりではあったが、ひとつ気になることがあった。

「出るのは俺一人だけですか?」

「そうだ。文化部は実演とかできるけど、ウチはムリだからな。喋るだけなら1人で充分だろう」

 一年生だった頃に見た部活紹介の記憶を思い起こす。確かに文化部のステージは華やかなものであった。演劇部は寸劇を披露し、奇術部は大がかりな人体消失マジックを成功させた。

「舞台上でキャッチボールとかピッチングとか見せたらいいんじゃないですか?」

「万が一逸れた時に危ないって理由でダメだった。まぁ、気張らずに頑張れや」

「・・・わかりました」

 さて、どうしようか。指名される事は予想していたが、何も事前に準備はしていないし、自分は決して口が上手いほうではない。喋りの上手い部員に代打を頼もうかと思ったが、監督に「キャプテンが出るんだぞ」と念を押されて逃げ道は無くなった。

 とりあえず公式戦のユニフォームを着てステージに上がることだけしか決まらず、ダラダラと日にちは過ぎて当日の木曜日を迎えた。

 

 

 

「まずい・・・」

 目の前の舞台では、先番の古典部の部員がユーモアを交えた見事なトークで会場を盛り上げている。部活のことにはあまり触れていない点が気になったが、今は他の部活の心配をしている場合ではない。

 実をいうと、話す内容はまだこの段階で纏まっていない。「紹介を簡単に済ませる部活も結構あるらしい」という話を聞いていたので、じゃぁアドリブで大丈夫か。とタカを括っていたが、この上手い喋りの後に出るのはどうも気が引ける。

 

「続きまして、野球部の部活紹介です」

 体育館のスピーカーから流れたアナウンスを聞き、舞台袖からステージの中央へと歩み寄る。

 ステージ中央には演説用の台が設けられ、その上に無造作にマイクが転がっていた。ここまで用意してくれるならマイクスタンドも用意しておいて欲しいものだ。

 マイクを持ち上げ、スイッチを入れる。

 

「えーっと・・・野球部、キャプテンの長坂尚也です」

「自分たちは甲子園を目指して、日々練習に取り取り組んでいます」

「決して強いチームではありませんが、部員全員仲がよく、明るい雰囲気で野球を楽しんでいます」

「野球を通して仲間との絆を深めたい。野球を通して大切な仲間と青春を送りたい、という人は、グラウンドにぜひ来てみてください」

「そして、野球部には興味のない人も、7月の県予選の時には、応援よろしくお願いします」

 礼をすると、それなりに拍手が起こり、とりあえずやりきったことに安堵してマイクを置くこうとした。が、ある事を思い出し、慌ててマイクを持ち直した。

 「あっ!あと、マネージャーも募集してます!特に女子に来てもらえると嬉しいです。今はマネージャーいないんで、男子マネージャーでも大歓迎します。よろしくお願いします」

 最後の慌てように一年生からは失笑が起こった。だが、ひとまず使命をまっとうした満足感で一杯になった。



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3話 天才の片鱗

 新入生勧誘週間が終了し、神高はいつもの落ち着きを取り戻しつつあった。

 

 片野監督から聞いた話だと、新入部員7人のうち6人は勧誘週間の初日。つまり体育館で部活紹介を行うより前に仮入部届けを出してくれたそうで、結局自分の演説にはあまり効果が無かったようだ。

 ちなみに、今年もマネージャーの仮入部希望者はゼロ。「最後の夏こそ女子マネージャーを!」と意気込んでいた三年生は落胆していた。

 

 正式な入部手続きが終わり、改めて野球部新入部員がグラウンドに顔を見せた。一列に並んだ一年生のその顔ぶれを見て思ったのだが、二歳下とは思えないほど若々しいというか「中学生っぽく見える」。

 自分もこんな感じだったのだろうか。

 二年前の自分を思い返す。いや、当時の俺はそんなに「中学生っぽさ」はなかったと思う。たぶん。

 

 入部してくる一年生は大抵、緊張していて、どこかよそよそいしい態度を見せるものである。

 カチカチの敬語を駆使し、あいさつは「ちわっ」という部活あいさつではなく「こんにちは」。お調子者の三年生・末広が放つショーモナイ冗談にも真面目に耳を傾け、手にする硬球の扱いづらさに驚く。

 今思えば俺も一年生の時はこんな感じだった気がする。

 

 風物詩ともいえる例年どうりの一年生の様子ではあったが、その中に一人例外がいた。

 そいつは低い身長の割に、常に堂々として自信に満ちた表情で、その振る舞いには二、三年も若干困惑していた。

 「生意気」という意味ではない、ほかの一年と同じように敬語で話かけてくるし、俺の言うことも素直に聞き入れるおとなしさがある。

 ただ、一緒にグラウンドに立ってみるて分かる「雰囲気」というものがあり、まだプレーを一度も披露していないのにも関わらず、気付けば一年生集団を引っ張るリーダー的な存在にもなっていた。

「一年生らしくないな」

 悪い意味ではない。俺も率直な印象としてそう思った。

 

 その一年生の名前は「久々野(くぐの) 和巳(かずき)」。右投げ右打ち。希望ポジションは投手。

 

 

 部内での久々野の評価が「なんか雰囲気のある一年生」から変わったのは、新入部員をショートの守備位置に集めてノックをした時の事だった。

 

「一年生!行くぞー!」

 二日ぶりにグラウンドに現れた片野監督が三遊間へとノックを打つ。

 最初に受けた一年生はボールには追いついて打球の正面に構えたが、綺麗に又の間を抜けトンネルしてしまった。

「腰しっかり落とせー!もう一丁!」

 捕手の俺は苦笑いしながら監督へとボールを渡す。今度は腰はしっかりと下げていたが、グラブの土手に当ててこぼした。

 その後もほとんどの一年生がまともにボールを捕れない。投げれない。だがこれは毎年のこと。一年生は中学の部活を卒業してから半年以上、まともに野球をしていないのだ。

 俺も入部して最初のノックでいきなりミゾオチに打球を食らったのは今となってはいい思い出だ。

 

 6人目の一年生がボールを弾いたうえにファーストに大暴投した後、久々野に順番が回ってきた。

「お願いします!」

 ショートの位置からグラブを掲げて久々野が大きな声を出す。あの一年生がどんな動きをするのか、グラウンド全員の注目が久々野の一点に集まった。

 俺は監督にボールを渡し、監督は三遊間へとノックバットを振るった。

「あっ!ゴメン!」

 監督も思わず声が出るほど、打ったボールが三塁方向に大きく逸れた。

 しかし久々野は体を素早く打球の方へ向けてダッシュすると、追いついて逆シングルで捕球。

 その時点で周りから「おおっ」という驚きの声が上がったが、そこから久々野はさらに予想以上のプレーを見せた。

 右足を思い切り踏ん張って一塁へ送球。三遊間の深い位置から投げられた剛速球は低い軌道で「シューッ」という音を立てて一直線に一塁へ。

 ファーストの福寺(ふくでら)は予想外の快速球に驚き、体勢を崩しながら捕球。凄まじい音でミットに収まった。

 

 二、三年生を含めても、神高にこんなボールを投げる選手はいない。今のワンプレーを見れば久々野が「別格」であることは明らかだった。



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4話 剛球と変化球

 ボールを受ける左手が痛い。人差し指の感覚が無くなりそうだ。

 昨日のノックで快送球を見せ、非凡な才能の持ち主であることを誇示した久々野は、今日は監督の指示でブルペンに入って本格的な投球練習を行っている。キャッチャーは正捕手の俺。

 そのボールは凄まじいもので、140km/h近いであろう速球と、それに加えて変化の大きいチェンジアップ。キレの鋭いフォークも投げることができた。

 ボールを受けてみて改めて分かる。コイツは天才だ。

 

 キャッチングに苦労しながらもブルペンで良い音を響かせると、内野でノックを受けている何人かが驚いた顔をしてこちらの方を見た、そしてニヤニヤとした表情に変えて近くにいた奴と何かを話し合っていたのであった。恐らく「スゲェな」とか「ヤベェな」とかそういった類だろう。実際、ボールを受けている俺も嬉しくて仕方がなかった。弱小公立高の神高にこんなにも良いピッチャーが来てくれたのだから。

 

 嬉しいことには嬉しかったが、左手が本格的に悲鳴を上げ始めた。今日のところは限界だと悟り、投球練習を切り上げさせる。

「終わりですか?」

「まだ入部して間もないだろ、抑えめに行こう。ほれ、クールダウン」

 緩い山なりなボールを投げてキャッチボールを促した。

「改めて実感したけど、お前やっぱり凄いよ」

「そんな事ないですよ」

 スピードは無いながら、ノビのあるボールが返ってくる。

「いや、俺が受けた投手の中で一番凄い。素直に感動した」

「感動は言いすぎでしょう」

 とにかく今は「凄い」という単語しか出てこない。人を褒める語彙力の無さに悲観した。

「いやいや、まぁ、凄いよ。お前は。一応聞くけど中学時代は硬式だよな?」

「はい、中一から硬式でやってました」

 野球の強い学校から誘われなかったのか?と聞こうとしたが躊躇した。久々野のレベルなら間違いなく強豪校からのスカウトはあっただろう。ただ、何らかの事情で行けない、もしくは行かなかったに違いない。

 まだ知り合って二週間しかない俺がその事情に踏み入るのは横柄な気がした。

「やっぱりか、それなら硬球に慣れてるのも納得した」

 その事情を聞くのはしばらく後にして、ひとまず天才が神高野球部に来てくれた喜びを噛み締めることにする。

「そうだ、この後のフリーバッティングで投げるか?早いうちに実践に慣れといた方がいいだろう」

「はい!投げたいです!」

 どうやら久々野自身は投げたくて仕方がないというタイプだ。投手向きな性格ではあるが、放っておくと投げすぎてしまうこともあるので、球数の管理が必要かもしれない。

 

 監督にフリーバッティングでの登板について訊くと「三人だけなら投げていいよ」と了承を得られたので、久々野に準備しておくよう伝えた。

 

 その日のフリーバッティングでは二三年生が新しく入った後輩に「さすが先輩」という所を見せたかったのか、大振りが目立った。ただそれでも、時折の大飛球に一年生は驚きの声を上げ。先輩打者はその度にドヤ顔で応えた。

 

「あと打ってないヤツは?」

 周りに聞くと。控えの二年生二人と、マウンドの河崎が返事をした。

「三人か・・・よし、河崎、下がっていいぞ。久々野ー、マウンド上がれー!」

 ベンチ前でキャッチボールをして肩を暖めていた久々野を呼び付け、マウンドに上げる。捕手も二年生でキャッチングに難のある多村に代わって、俺がマスクを被った。

「軽めでいいぞ、軽くで。落ち着いて」

 ミットを叩いて自分自身も落ち着けさせる。

 

 久々野は指示どうり軽く投げていたようだが、マウンドから投じられたボールにはブルペンの時とはまた違う迫力があった。綺麗なスピンの掛かったストレートに打者は完全に振り遅れ、さらに時折チェンジアップを織り交ぜる投球であっという間に軽々と三人を抑え込んだ。ある程度の結果は予想していたが、こうも完璧にねじ伏せられるとは・・・。

 翌日のフリーバッティングにも久々野は登板。今度は主軸のメンバーが挑んだが全く歯が立たず、その後もバッティングピッチャーを務めるたびに完璧な投球を披露した。

 

 その頃から部内に変化が現れ始めた。

 数人の二三年生部員が部活終了後も自主練習を行うようになったのだ。一年生に抑えられた悔しさからか、天才を目の前にして触発されたかは分からないが、俺のその輪に加わって汗を流した。

 もっとも俺は「キャプテンなのに自主練に参加しないのでは顔が立たないから」という理由ではあるが。

 

 春の大会を前にしての、単なる悪あがきかもしれないが、それでも部の雰囲気が変わりつつあることは確かだった。

 



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5話 天才。マウンドに起つ

 春。快晴。程良い気温。いや、少し暑いかもしれない。

 一年中この気候が続いてくれないかと願いたくなるような、まさに最高の野球日和という素晴らしい天候の下、これから始まる練習試合に向けて体を入念に動かす。

 今日の相手は過疎地域にある学校の弱小野球部。お互いの学校の距離と野球のレベルが近いという理由で何度か練習試合を組んだことがあるが、俺の知ってる範囲では確かこちらの全勝だったはず。

 そして、片野監督はこの試合の先発ピッチャーに久々野を指名した。久々野の事を認めているのは選手である俺たちだけではなかったようだ。ただし、あくまで練習試合なので久々野が投げるのは3回まで。その後を俺と二年生の河崎のリレーで繋ぐことが伝えられた。

 

「ずいぶん簡単に先発の座を奪われたな。元エース」

 試合開始直前、塩谷からヤジを飛ばされたが、俺自身マウンドにそこまでこだわりはない。キャッチャーボックスからグラウンドを見渡すほうが性に合っている。

「元々は捕手の方が本職だしな。それにアイツが一番良いピッチャーなのは間違いない」

「まぁ、そうだよな。俺が監督でもそうする」

 すぐさま肯定されると、それはそれで傷つく。だが言い返すのも面倒なので、塩谷の背中を強めに叩いて内野陣のキャッチボールの和へ送り出した。

 

 規定の投球練習が終わり、1番打者が明らかに動揺しながら左打席に入って構える。

 このグラウンドにいるチームとは不釣り合いなレベルの直球に、相手ベンチのざわめきはまだ収まらない。おいおい、まだ全力は出させていない。8割程度でしかないぞ。

 

 俺は一度息を吸って落ち着く。ストレートのサインを出す。久々野は頷き、モーションに入った。

 綺麗なワインドアップのモーションから、投球練習の時とは段違いの速球が投げ込まれる。

 外角低め一杯に速球が決まった。

「ストライク!」

 球審が高らかにコールした。打者は打ちにいこうとはしたが手が出なかった感じで、すぐさま打席を外し間を取る。

 

 二球目。またストレート投げさせたが空振り。もう一度打席を外してバットを短く持ち直し、素振りをして打席に戻る。

 三球目。外に外したストレートが高く浮いた。が、バットが目の前で空を切る。空振り三振。

 俺は三振に討ち取ったボールを元気よくサードに回した。久々野を見ると、特に表情も変えずスパイクでマウンドを均している。ナイスボール!と声を掛けると帽子に手を掛けて「ありがとうございます」と早口気味に答えた。

 今の一番打者への投球を見て確信した。打たれる気がしない。小手先の技術ではどうしようもないレベルの力量の差、というものがある。相手打線と久々野の関係がまさにそうだ。

 片野監督の前でそれを言えば満心だ、と言われるに違いないが、少なくとも久々野の後ろで守っている味方ナインもそう思っているのではないだろうか。

 

 大丈夫だ、打たれない。そう声を掛けたい気持ちを抑えて、俺は二番打者に対する初球のサインを出した。

 



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6話 どうして君は神高へ?

 結果だけを言うと、神高は見事勝利した。

 久々野は予定どうり3回を投げてノーヒットの快投。打線も序盤のうちに大量6点を奪った。

 チームとしてはこの上ない順調な滑り出しのように見えたが、ここからがまずかった。4回からリリーフした俺は四球を連発し3点を献上。神高打線も中盤からは全くの不発に終わり、追加点が奪えない。

 そうしている間に7回からマウンドを引き継いだノーコンサイドスロー・河崎も四球に暴投連発で失点を重ね1点差にまで追い上げられた。そこで痺れを切らした片野監督は河崎を降板させ、元ピッチャーの外野手・千島(ちしま)、塩谷も登板する総動員体勢。

 辛くも逃げ切り6―5で薄氷の勝利を掴んだのであった。

 

 試合が終わると、久々の勝利で高陽した部員たちは鮮烈なデビューを果たしたルーキーを褒め称え、久々野も恥じらいながらそれに応えてみせた。自分も3回3失点という結果を棚に上げて、その和に加わった。よくやった、ルーキー。だが高校野球はこんなもんじゃないぜ。先輩としてそんなことを伝えようとしたが、それはコイツが打ちこまれて高校野球の壁にぶつかった時にでも言ってやろう。と思って心に留めた。

 だが、そのタイミングはなかなか訪れなかった。

 

 翌日の練習試合にも久々野は先発し、前回より長い5回を投げ無失点。さらに翌週の試合でも7回を投げて、またまた無失点。三振も13個奪った。これで都合15イニング連続の無失点。それまでの対戦相手は決して強くないチームではったが、ボールの威力を見れば久々野が好投手であることは誰が見ても分かることだった。

 最近の練習試合を神高グラウンドで行っていたこともあって久々野の快刀乱麻のピッチングは一般学生の間にも知れ渡り、入学から1ヶ月経たないうちに一年生怪物投手は神高でも知れた人物となっていた。

 

 もちろんその事自体は嬉しい。喜ばしい出来事だ。

 久々野が投げていると打たれる気がしない。負ける気がしない。実際に久々野が投げた練習試合は3連勝中、この頃片野監督の機嫌もずっといい。

 だからこそ、ひとつの疑問が膨らんでいった。

 

 『なぜ、天才・久々野和巳は神山高校を選んだのか』

 

 そのことは野球部内では誰も触れられずにいた。あれほどの実力なら進学の際に強豪校からも声は掛っていただろう。しかし現実に久々野は、野球では名の無い進学校・神高を選んでいる。

 そこには間違いなく何かが隠されているはずだ。

 最初は、実は素行が悪いのではないかと予想したが、今のところその様子は見受けられない。むしろ、爽やかでひたむきな「模範的高校球児」とも言える。

 試合になるとひどく委縮するタイプなのか、とも思ったが15イニングを投げて失点0という結果の前ではその予測は外れであると言わざるを得ない。

 他の可能性を挙げるならば、家庭の事情じゃないのか。中学時代にヒジや肩を怪我したんじゃないのか。と、そんな調子で様々な憶測が部員たちの頭を巡る中、その答えはあまりにも唐突に明かされた。

 

「そういえば、久々野ってなんでウチの学校に来たんだ?」

 気になるなら本人に聞くのが一番早い。とばかりに、典型的な後先考えず行動するタイプ、センターの末広が久々野に突然切り出した。授業終了と練習開始の狭間の弛緩し切った時間帯、その一言で狭い部室の空気が一気に張り詰めた。

 皆、気になりつつも口にしてはいけないと警戒していただけに、厳しい視線が集まる。俺は慌てて止めようとしたがもう遅い、聞き手に徹することを決め、耳を寄せる。

 末広は悪びれる様子もなくさらに続けた。

「その実力ならどこ行っても通用するだろ。・・・あ、そういう意味じゃないよ、単純に気になっただけ」

 皆、身を前に乗り出す。注目が久々野へと集まり、不自然な沈黙が流れる。

 だが、久々野は笑みを浮かべてなんともあっさりと答えてみせた。

「家から近かったんで神高にしました。だってほら、その方が便利じゃないですか」

「俺と同じじゃん!やっぱり近いほうがいいよな!」

 なんとも拍子抜けした話だ。天才の考えることはよく分からない。

 周りを見ると全員が呆気に取られた顔をしている。そして、やれやれという顔をして三々五々、ぞろぞろと練習に向かうのであった。

 末広と久々野はそんな周りの様子も気にせずに高校選び談義に花を咲かせる。

「でも野球推薦の話なんかはあっただろ?県外から誘われたりはしたのか?」

「そうですね、愛知とか大阪とかの高校から声は掛けられました」

 エナメルバッグを左肩に掛け、黙々と部室を後にする準備を始める。

「いやー、大阪からの誘いとは凄いな。それにしても、わざわざウチに野球しに来てくれてありがとな~!」

 なんでもない一言のようには聞こえたが、そこで久々野の表情が曇ったのが見えた。

 常に自信を持って堂々としている久々野がこんな表情を見せるのは初めてのことだ。

「おい!ちょっと!」

 思わず声を掛けてしまった。二人がこちらに顔を向ける。久々野はいつもどうりの明るい表情に戻っていた。

「・・・そろそろ練習始まるぞ」

「わかった!今すぐ行く」

 末広は足元の通学用カバンからはみ出ている制服を力ずくで中に押し込み、荷物を纏め始める。

 

 さっきの表情はなんだったのか。そう思案する俺の横を通って久々野はグラウンドへ向かった。

 



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7話 春季大会開幕

 さすがに日が落ちると凍てつくような寒さはではあったが、夜間の自主練習は熱気を帯びていった。

 最初に自主練を始めたのは、副キャプテンの塩谷とショートの神田。そして二年生の控え捕手・多村の三人だけだった気がする。そこに俺が加わり、四番の川原が加わり、今では部員の大半が参加するようになった。

 人数が増えると、可能な練習の幅もより広がる。

 最近はサッカー部がグラウンドを使っているうちは内野でトスバッティングやバント練習。サッカー部が解散し外野が確保できるようになると守備練習やシートバッティングを行うのが通例のメニューとなった。

 俺はというと、久々野のフォークを確実に捕れるようにするため、同じキャッチャーの多村と共にキャッチングの練習を重ひたすら繰り返していた。

 

 

『よし来ーい!もう一本!』

『集中しろ!今のは投げてれば間に合ったぞ!』

『体で止めろ!サードがそんなんでどうする!』

 照明灯のカクテル光線に照らされながら白球を追う。捕れない打球にも食らいつき、ユニフォームを真っ黒にしながら「もう一本!」と声を上げる。その風景は神高に入って初めて見る「本物の野球部」そのものだった。

 夏の大会のシード権を賭けた春季大会。もしかしたら、このチームなら。

 

 そんな想いを胸に春季大会が開幕した。

 

                   ◇ ◇ ◇

 

 グラウンドに寒さを含んだ春風が吹く。春季大会一回戦、関市民球場。

 公式戦のユニフォームを着るのは新入生への部活紹介の時以来であったが、これを着て体育館の舞台に立つのとグラウンドに立つのでは気分が違う。

 神高ユニフォームのデザインは黒が基調。ソックスもアンダーシャツも帽子も黒。そして、胸には草書体で「神山」と入る、昔から変わっていない伝統のデザイン。

 地味なんじゃないかという意見もあるが、このシンプルさはいかにも高校野球という感じがして自分としては好みだ。

 

 ベンチからグラウンドへ出ると、一塁側のスタンドにちらほらと神高生徒を確認することができた。そういえば何人かに「試合見に行くよ」とは言われていたが、そう話していた人数よりも明らかに多い。そもそも神高には野球部強豪校のように全校で応援に駆けつける行事はないため、野球部関係者以外が試合を見に来る事は稀だった。

 他の部員も気に掛かっていたようで、試合前の練習中でもついついスタンドに目がいってしまう。

 

「おいお前ら、集中」

 ベンチ前に並んで整列を待つ段階になってもスタンドを気にしている部員がいたので、さすがに喝を入れる。するとさすがに全員がキリッとグラウンドの方へ集中し、あとは審判の合図を待つのみとなった。

 

「整列!」

 審判の声に合わせてグラウンドの中央へ駆け寄る、いつもより大きい拍手がナインの背中を後押しした。

 

 一回戦の対戦相手は「藤柴(ふじしば)高校」。野球部だけ極端に規則が厳しいそうで、部員は全員丸刈り坊主、そしてゴツイ体格とデカイ声で威圧感満点。甲子園を目指せるほどの強さはないが、神高と比べれれば明らかに格上であった。

 名前だけを比べればコールド負けも覚悟しなければならないような実力差、背番号1番を背負った一年生エースの久々野はそんな怖さを知ってか知らずかいつもと同じように堂々と投げ込み、先頭打者を空振り三振。二番をピッチャーゴロ。三番をキャッチャーフライに討ち取る好調な滑り出しでスタートした。

 対する藤柴高校のエースも対抗するように速球で神高打線を抑え込み、試合は投手戦となった。

 

 5回まで終わって0対0。

 ここまで神高の放ったヒットは3本。それに対して藤柴高校のヒットはゼロ。なんと久々野は高校公式戦初登板にして、ノーヒットノーランをやってしまいそうなピッチングを続けているのだ。

 弱小校であるはずの神高に超高校級の投手がいたこと。そしてその超高校級の投手に完璧に封じられるという全く予想できない展開に、藤柴高校のベンチは焦っていた。円陣を組み、その中心で小太りな監督が顔を真っ赤にしながら怒号を飛ばす。それが終わると全員が肩を組み、球場中に響きわたるような「ウオォーッ」という声を上げて円陣が解けたのだった。

 

 俺はその様子に見とれ、内心怖じ気づいてしまったが、ここでキャプテンが弱気になるわけにはいかない。

 円陣の中心に歩み出て、余計な考えを振りはらうよう精一杯の声を張る。

「今のところは藤柴高校相手に互角に戦ってる、正直よくやってると思う。だけど互角にやるだけじゃダメだ!6回表を0で抑えて流れ作って、先制しよう!勝つぞ!」

「「オウ!!」」

 相手方のような迫力は無いけれど、虚勢というほどでもないはずだ。

 

 1点。この試合は1点あれば充分だ。今の神高にはそれを最後まで守りきる力がある。



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8話 予想外の

◇春季岐阜県大会一回戦
   一二三 四五六 七八九 計
藤柴 000 00      0
神山 000 00      0



 グラウンド整備を挟み、内野のコンディションも試合開始の時と同じまっさらな状態へとリセットされた。スコアも0対0のまま。試合開始の時から変わっていない。

 

 6回表、藤柴高校の攻撃。

 片野監督からは「グラウンド整備で流れがリセットされた後の、6回の攻防には注意しろ」と言われていたので、用心しなければならない。

 気合いを入れて声を出す。

「6回表ノーアウト、しまって行こう!」

 おおーとか、シャーとか、さほど意味を含まない元気な声が帰ってくる。

 どうかこの回も何も起きませんように。

 

 久々野が初球を振りかぶって投じる。振り抜くと鈍い音を立てて打球はファーストへのゴロ。ファーストの福寺は慎重に腰を落としたがバウンドを上手く合わせられず、前に大きく弾いてしまった。慌ててボールを押さえて打者にタッチしようとするが間一髪回避され、打者は一塁を駆け抜け手を叩く。

「ドンマイ!ファースト、次は頼むよ!」

 福寺は申し訳なさそうな顔の前で手を立てる仕草をして、ピッチャーにボールを返した。

「悪い、久々野」

「いいですよ、ゲッツー取りましょう」

 先頭打者を出したのにも関わらず、涼しい顔をしながらボールを指で上に弾いてもてあそぶ。まだ心理的にも余裕があるようだ。

 

 打順はトップに帰り一番、だがここまで完璧に抑えられている藤柴高校は送りバントを選択した。打者はバントを決めてランナーは二塁に進塁。この試合で両チームを通じて初めて、まっさらなセカンドベースへランナーが到達した。

『二番、ライト、横野くん』

「ウス!」

 横野は右打者。前の二打席は久々野のストレートに全く手が出ずピッチャーゴロと三振。

 ここまでタイミングは合っていないが今はピンチの場面、慎重にリードしなければいけない。それを踏まえて外角のボール球を要求する。

 フルスイングしたバットの先端に当たり、ゴスッという音を立てて打球は後ろに飛んだ。

「オイ!横野ォ!」

 藤柴高校ベンチから監督の声が飛び、打者は縮みあがった。突然の攻撃的な声に思わずキャッチャーの俺も反応してしまった。

 サインを確認するため打席を一旦外し、少しオドオドした表情で構え直す。

 

 二球目の外角ストレートはボール。三球目のチェンジアップでファールを打たせツーストライクに追い込む。

 チェンジアップを見せたので、次のストレートが効果的になるはずだ。四球目。自信を持ってストレートを要求し内角に構えた。

 久々野が投じる。

 ウラをかいたはずだったがバットの根元で強引に捉えられ、右中間へ力のないフライが飛んだ。タッチアップするには微妙な距離だ。

 ・・・いや待て、まだ誰も落下地点に入れていない。

 視界の左端からセンターの末広が駆けつけ、飛びつく。だが無情にもボールは末広のグラブの遙か先でバウンドし外野を転々と抜けた。

 神高側のスタンドからひと際大きな悲鳴が発せられる。

 

 ライトの千島がフェンスの手前でやっと打球に追いついた頃に、藤柴高校の先制点となるランナーが余裕を持ってホームを踏んだ。

 

 間に合わなかったというより、目測を大きく誤ったようだった。普通にやっていればセンターフライ。タッチアップも阻止できれいば二死二塁だったかもしれない。

 ああいうミスでの失点は想定外だ。だが俺が慌てても仕方ない、ひとまず俺自身を落ち着かせる意味も含めてタイムを取り、マウンドに駆け寄る。

「久々野、点を取られはしたが、打球は完全に詰まってた。内容的には抑えてたんだ。だから気にしすぎるな」

「気にしてないですよ。自分の方こそ、ちょっと真ん中寄りに投げちゃったんでダメでした」

「ムリして末広を庇う事はない。仕方なかったと思って忘れろ。

 とにかく、ここからクリーンナップだから気をつけろよ」

 返事は無い、その代わりに頷いて返答をしてきた。

 もう一度「気にするな」と声を掛けるべきか迷ったが、踏ん切りが付かなかったので何も言わず、背中を軽く叩いてホームの方へと戻る。

 バッターランナーは二塁に残り再びのピンチではあったが、久々野は続く三番四番を連続三振に切って取り波乱の6回表は終了した。

 

「末広さん、ドンマイっす」

「スマン!打って返すから!」

 ベンチに帰る途中、久々野に声を掛けられた末広は明るく返す。だが、この時だけはその明るさが少し癪に障った。

「おい、末広!ホントに頼むぞ」

「任せろ、俺の一打でちゃんと逆転してやるよ」

 末広という男は切り替えの早いタイプだ。前のプレーの失敗を引きずらない性格がプラスに働くこともあれば、マイナスに働くこともある。そして何の巡り合わせか、6回裏の神高の攻撃は9番から始まるので2番の末広に必ず回る。これが吉と出るか凶と出るか。

 

 とにかく、このイニングに2、3点入らなければ回って来ない打順にいる俺は、ただ戦況を見守るしかなかった。

 

 



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9話 期待に応える?

◇春季岐阜県大会一回戦
   一二三 四五六 七八九 計
藤柴 000 001     1
神山 000 00      0



キィン

 バットの先で引っかけた打球はライト線へ上がり、丁度ファウルラインの真上に落ち白粉が舞う。

「フェア!」

 審判がフェアグラウンドを指してコールすると神高ベンチは盛り上がった。

 打った久々野は俊足を飛ばし二塁へ到達、ノーアウト二塁のチャンスを作った。点を取られた直後の攻撃は重要である、そういう意味でもこの回のチャンスは生かしたい。

 

 一番の千島は送りバントを三塁線に決めて久々野は三塁に進塁。ワンナウト三塁。

 先ほどの守備でミスをした二番の末広に、この場面で打席が回った。汚名返上を意気込む末広に対して、片野監督がいつもより前に身を乗り出してサインを出す。出たサインは「待て」。

 初球をちゃんと見送ってワンストライク。2球目、今度は低めに外れるボール。1ストライク1ボールとなったところで監督はスクイズのサインを出した。ベンチ内にも緊張が走る。そういえば以前、スクイズのサインが出た際に緊張でベンチが静かになりすぎてしまった事があったので、監督に「スクイズの時もいつもどうりにしろ」と言われた事があった。

「末広ー!行けー!」

スクイズを悟られないよう緊張を押し込み、いつもどうり檄を飛ばす。

 投手がセットポジションからモーションに入ると、三塁ランナー久々野は完璧なスタートを切った。前進守備の内野がさらに前進してくる。

 投手が投げたボールはストライクゾーンへ、末広が体勢を低くしバットを横に寝かす。

 決まった!そう確信した。しかし、ここで信じられないプレーが起こった。

 

 末広がまさかのスクイズ空振り。

 既にホームの手前まで来ていた久々野は左脚でブレーキを掛けて慌てて切り返すが、そのまま捕手にタッチされアウト。同点のチャンスが一瞬で潰えてしまった。

 ベンチが「あぁー・・・」というため息で溢れる。

 打席の末広はぎこちない動きでベンチのサインを窺う、さすがの末広も青ざめているようだ。

 片野監督は右手を横に振り「打て」という仕草をした後「切り替えろ!思い切れ!」と手をメガホンの形にして声援を送った。

 ツーアウトランナーなし。スクイズを空振りしていたため、カウントはツーストライク。

 雰囲気がまずい。

 この空気のままだと次の回の守備にも影響が出てしまうかもしれない。頼む末広、せめて塁に出てくれ。

「行け!まだチャンスあるぞ!」

「末広さん!ここから追いつきましょう!頼みます!」

 

 スクイズの緊張感の反動からか、藁にもすがるような思いからか、ベンチの全員が必死に声援を送る。しかし想いも虚しく、末広は外のボール球を空振りして三振。

 スクイズ失敗の時よりも大きなため息が流れる中、6回裏が終了した。

 



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10話 次の1点

◇春季岐阜県大会一回戦
   一二三 四五六 七八九 計
藤柴 000 001     1
神山 000 000     0



 痛恨のスクイズ失敗でチャンスを逸した後、守備に就くナインには重い空気が流れていた。

 それに影響されたのか、久々野は先頭打者に対してド真ん中に棒球を投げてしまいサード強襲の内野安打。次打者のバント失敗で一息つけるかと思いきや、続く七番打者に痛烈なライト前ヒット、八番には死球を与えてしまいワンナウト満塁のピンチ。

 ここに来て久々野の投球が荒れ始めた。これはマズい、久々野が崩れたら神高はもう終わりだ。

「どうした、疲れてきたか?」

「まだ全然大丈夫です。気合い入れ直します」

「頼むぞ、打たれても優秀な先輩達が守ってやるから。安心して投げろ」

「任せてください」

 グラブを差出し、ボールを要求してくる。まっすぐとこちらを見据えた瞳からは、まだ闘志を感じることができた。押しつけるように渡したボールが良い音を立ててグラブに収まる。

「よし!絶対に抑えよう!

 バックも頼むぞー!」

「おう!」「来いや!」「0点で切ろう!」

 この守備を無失点で切り抜けられれば、こちらに流れが来る。そこでせめて追いつくことができれば、充分勝機はある。

 

 バッターは今日2打席連続三球三振の九番。バットを短く持って速球に対応しようとする打者に、上手くチェンジアップを打たせてセカンドゴロに討ち取った。

 セカンド花川はがっちりとボールを掴んで二塁送球、ダブルプレーへ・・・かと思いきや、送球すること無くボールを右手に持ち替えて、ゆっくりとセカンドベースへと向かった。瞬間的に花川が何を考えているかが分かった。アイツは今がツーアウト(・・・・・)満塁だと勘違いしている。

「おい!まだワンナウトだぞ!ファースト!ファースト!」

 俺がボーンヘッドに気づき必死に一塁を指す後ろで、藤柴高校の2点目となるランナーがホームインを決めた。

 アウトカウントを間違えるなどという初歩的なミス。それで失った2点目はあまりにも大きい。

 怒りと焦りから、思わず強いため息が出た。キャプテンとしてこういう行動は控えるべきなのだろうが、反射的に出てしまった。

 

 これ以上ない効果的なタイミングで2点目を失った神高に反撃する勢いもなく、リードを許したまま9回裏ツーアウトとなった。

『5番、キャッチャー、長坂くん』

 ツーアウトではあるがフォアボールで出塁した塩谷を一塁に置いて、打席には五番の俺。

 本来長打を狙うタイプではないが、ここは自分で決める。俺がツーランを打って追いつけば、今日のマズイ雰囲気もチャラにできる。

 完全なる長打狙い。甘いコースのみを狙って他の球は完全にスルー。それでもフルカウントとなった。

 6球目、真ん中の甘いボール。

カキィン!

 渾身の力で捉え、快音が響き球場が沸く、完璧な感触だ。藤柴高校のセンターが猛ダッシュで後退する。自分でも信じられないくらいに打球が伸びていく。神高ベンチとスタンドからも期待と驚きを乗せた声援が大きくなっていいく。

 一直線に後退していたはずのセンターの足がフェンスの手前でピタッと止まった。

 大飛球が落ちてくる。白球はグラブの中に消えた。

 

 俺たちは負けた。

 

◇春季岐阜県大会一回戦

   一二三 四五六 七八九 計

藤柴 000 001 100 2

神山 000 000 000 0



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11話 衝突

 天才一年生投手・久々野が入部し、部内の雰囲気も大きく変わった。

 そうして迎えた春季大会。今までにない確かな自信を持って挑んだが、その結果は無残にも『初戦敗退』。

  

 この結果は受け入れ難いものであった。

 

 もちろん、大会の数週間前からやる気を出したところでチームが劇的に変わるとは思っていない。

 だが、エラーで失点し淡泊な攻撃で0点に終わる「いつもどうりの負け方」でひとつの大会を失ってしまったのだ。自滅、完敗、これは「次に繋がる負け」という類の敗戦ではない。

 

 ・・・春季大会はもう終わった、悲観に暮れても仕方がない。

 残されたのは夏の選手権、高校最後の大会のみ。それに向かって悔いのないよう全力を尽くそう、まだ上を目指せるはずだ。そう思っていた。

 

 

 だが、事態は思いも寄らぬ方向へ向かっていった。

 

 いつも通り練習を終え、自主練習に取りかかろうとしたときの事だ。

 

「おい、末広、何してんだよ」

 帰宅の準備を始めた末広を、副キャプテンの塩谷が呼び止める。

「何が?」

「何って、自主練しないのかよ」

「自主練は自由参加だろ?俺は帰るよ」

「昨日の試合でマズイ守備とバント失敗しただろ?それなのに帰んのか」

「あぁ、あれは悪かった。まぁ次の試合はもうあんなミスしないから」

 笑ってごまかしながら帰る準備を進める。塩谷は憮然とした表情のまま変わらない。

 ここまでは、まだいつもの雰囲気であった。真面目な性格の塩谷と正反対の末広が言い合う事は度々あったが、それでも程度は知れていた。

 次の一言で急転した。

「分かってんのか?下手クソ。お前のせいで春季大会負けたんだぞ」

 スパイクの土を落とす手を止め、末広が眉を潜める。

「は?」

 明らかに末広の声質が変わった。他の部員も異変に気づき、視線が集まる。

「お前だけじゃねえぞ、試合で足引っ張ったのは自主練出てない奴ばっかじゃねーか。おい、花川!福寺!お前らのことだぞ」

 二人を見つめる集団の中から、花川と福寺に向けて言い放つ。

「自主練に出ない奴らは、普段の練習の時もあんま真剣ににやってねーしさ・・・

 真面目にやれよ!俺は勝ちたいんだよ!」

 

「おい塩谷。落ち着け」

 場を納めるため二人の間に割って入った。取り巻きはまだ事態が飲み込めずに困惑している。

「いくらなんでも言い過ぎだ、誰だってエラーすることぐらいあるだろ」

「だとしても、1年の久々野が頑張って抑えたのに、俺たち3年生が足引っ張って負けたんだぞ!悔しくねぇのかよ!」

 塩谷の気は収まりそうにない、今にも掴み掛かりそうな勢いだ。

 

「・・・何なんだよ、急に必死になってさ」

 ここまで沈黙を守り続けていた末広がゆっくりと口を開く。

「そんなに『勝ちたい勝ちたい』って言うなら、何で二年までは必死にやらなかったんだよ」

 正論を言われ、塩谷はたじろぐ。

「それとも何だ?『凄い一年生が入って来たから頑張れば甲子園にでも行けるかも』とでも思ってんの?バカじゃねーの。

 俺らは三年間で1回も公式戦勝ててないんだぞ、行けるわけねーだろ!はっきり言って巻き込まれるのは迷惑なんだよ!」

 希望とは程遠い現実を突きつけられる。

 末広は塩谷の様子を伺うが、意気消沈して何も返せない。その場も静まり返り、ただ沈黙が続いた。

 その雰囲気の中にいることに末広は気まずさを感じたのか

「・・・とにかく俺は帰る。もう巻き込むな」

 最後にそう言い捨ててグラウンドから去った。

 一旦の間を置いた後、帰宅組が後を追うようにグラウンドを後にした。

 

 

 たった一試合でここまでバラバラになってしまう程、この野球部のチームワークは脆いものだったのか。

 いや、違う。

 元々、神高野球部は「野球を楽しむ」というスローガンの元で団結していた。エラーしても「ドンマイ」負けても「次は勝とう」と声を掛け合う。神高の野球とはそういうものであった。

 だが、久々野の入部によって「勝利」が今までよりも手に届きそうなものとなった。あともう少し手をのばせば勝てる。その「あと少し」のために必死になり、部員の間には大きなギャップができていた。

 

 キャプテンとして、そこに気づけなかったのは痛恨であった。

 俺は俺なりにチームを引っ張ろうとして練習を重ねた。努力を重ねることでキャプテンらしさを演出できたつもりでいたが、実際にそれは自己満足でしかなく、チームの事には何一つ目を向けれていなかった。

 

 部員の大半が去ったグラウンドに、この時期にしては少し冷たい風が吹き抜けた。



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12話 相反する正しさ

 兆候はあった。

 

 十年に一人の天才一年生ピッチャー・久々野(くぐの)和巳(かずき)の入部。

 それに触発され「勝利を目指す部員」が現れ始めた。しかし、時を同じくして「それを煙たく思う部員」も現れた。

 それでも互いに干渉する事は無く均衡を保っていたが、あの一件でそれが決壊。両者の間はより明確になり、方向性の違いはより広がって行った。

 

 かつて時折自主練にも顔を出していた花川と福寺は普段の練習も手を抜くようになり、末広に至っては練習にも姿を現さなくなった。

 それに対して、塩谷や神田といった「勝利主義」とする部員たちは普段の練習メニューの強化を提案し、若干の無理強いをしながら練習に臨んでいる。

 

 このように二極化しつつある中、特に3年生部員の対立は深く、互いを牽制し合あうようなピリピリとした雰囲気が漂う。

 

 

 

 週末の練習試合。県の古豪「岐阜第一商業(ぎふだいいちしょうぎょう)」との対戦が組まれた。

 しかし、格上の相手こんな状況ではまともな試合になる訳もなく、無様にもエラーと連携ミスを連発。普段は安定感抜群の久々野も険悪な雰囲気に影響されたのか四球を重ね、0-9と酷いスコアで負けてしまった。

 

「「ありがとうございましたー」」

 整列を終え、唇を噛みながらベンチへと向かう。

 そこで再び2つの集団に別れ、塩谷達のグループはこの結果に憤怒し、悔しさを滲ませた。末広達のグループはこの結果を気にせず、いつもどうり明るく前向きに振舞って見せた。

 それは互いに「自分たちが正しい」と主張して見せつけているようで、なんとも幼稚な演出のように思えて仕方なかった。

 

 

 

 日も傾きかけた頃、家路につく。学生服姿の野球部員たちが人通りの少ない休日の夕方の道を、目一杯広がって歩く。

 練習試合後、陸上部に速やかにグラウンドを明け渡す必要があったため、すぐさま解散とした。

 残念な話ではあるが、部員がグラウンドでいがみ合う姿を見ることの無いこの瞬間こそが、一番安心できるかもしれない。

 

 気付けば帰る方角が俺と同じ、塩谷、久々野の3人のみとなっていた。

 塩谷は試合後の怒り任せな状態と打って変わって冷静さを取り戻し、他愛もない雑談に講じている。今のタイミングならあの話をしても受け入れてもらえるかもしれない。

 

「なあ塩谷、末広らと話し合う気はないか?」

「また突然だな・・・『放っておけ』って言ってきたのは向こうだ。取り繕うつもりはない」

「いつまでもそんなんじゃ、ラチが明かないだろ」

「正直俺は今のままでもいいと思ってる。これからは勝ちたいヤツだけで戦えばいい」

 これ以上議論する気が無いという意思の表れか、塩谷は目線を明後日の方向に逸らした。

 俺達の後ろに付いている久々野はというと、この険悪なムードに気まずそうにしている。

 

 塩谷とは長い付き合いになるが、コイツは時折強情になる場面がある。そういった時は放っておけば自然と普段の冷静さを取り戻すはずだが、今の俺達にはその「時間がない」。

 夏の大会まではあと2か月ほどしか時間が残されていないし、今のままでは間違いなく勝てない。残酷ともいえるその事実を突きつけるべきか、悩んだ。

 

 

 

「ちょっと君、久々野くん?」

 野太い声が突然後ろから掛けられ、振り返る。見覚えのないスーツ姿の中年男性が立っていた。日焼けした黒い肌がよく目立ち、そして野球部の俺達にも劣らない大柄な体格からはどことなく威圧感を感じた。

「久々野和巳くんだね?元、愛知山本中学の・・・いや、鏑矢(かぶらや)中学の」

「・・・藤成(ふじなり)監督」

「久しぶりだな、2年前の夏以来か」

 「藤成監督」と呼ばれたその男は笑顔で語り掛けたが、久々野は困惑した表情を見せる。

 「監督」は俺と塩谷の存在を無視しているようで、こちらにはお構いなしに久々野との会話を進めた。

「急で申し訳ないが、少し話したいことがある。来てくれないか」

 

 その男は付いてくるよう促し、踵を返して歩み始めた。久々野は付いていくか一瞬躊躇するように立ち止まり、こちらに軽く礼をしてから後を追った。やがて久々野がその男に追いつく頃に、2人は曲がり角に消えていった。

 

 突然の展開に呆気に取られ、俺と塩谷のみが残された。

「何だ今の人・・・。久々野が付いていったけど大丈夫なのか」

「何か様子がおかしかったよな」

 おかしい。久々野は明らかに「距離を置きたい」というリアクションをしていた。

 なのにも関わらず『付いていかざるを得ない』事情があるのか?

 

「いや、長坂。やっぱり気にしなくて大丈夫なんじゃないか?」

「どうしてだ」

「そういえば久々野はあの男を『監督』って呼んでた。って事は普通に考えて中学の野球部の監督だろう」

 塩谷が自信を持って答えてみせる。

 俺も始めはそうだと思った、だけど何か引っかかる。

 久々野と「監督」と呼ばれる男の間で交わされた会話を思い起こす。

 

 ・・・そうか、分かった。

「残念だが、その予想は多分違う。

 男は久々野に会うのが『2年前の夏以来』だと言っていた。だが、前に久々野と同じ鏑矢中学出身の1年生から聞いた話だと、確か転校して来たのは去年の夏の事だ」

 塩谷は首を傾げてみせる。

「どこかおかしい所があるのか?」

「考えてみろ。

 もしあの男が久々野の『転校前の中学の監督』だったら、会うのは学校を去った『去年の夏以来』になる。男が転校後の『鏑矢中学監督』なら、会うのは卒業した『今年の春以来』の再会になるはずだ」

 塩谷がはっとした表情を見せ、腕を組んで考え込む。

 

「分かった。硬式のクラブチームの監督だろう。それなら説明がつく」

 それも矛盾が生じる。

「入部した時『自分は軟式野球出身』だと言っていた。ちなみに言うと、久々野は『中学から軟式野球を始めた』と言っていたから少年野球時代の監督でもないぞ」

 なるほど。と呟いて再び腕を組んで熟考を再開する。

 しばらく経ってそれが解けると共に、真っ直ぐこちらを見据えた。

「確かに。それなら久々野に『2年前の夏ぶりに会う監督』はいるはずがない」

 

 謎は深まるばかりだ。「久々野が会ったことの無いはずの監督」「その人物に付いてく状況」。

 

 なんだろうか、胸騒ぎが止まらない。

「追いかけるぞ」

「えっ?」

「いいから行くぞ!!」

 普段なら絶対にこんな行動には出ないだろう。だが、この日の俺はどこかおかしかった。

 この時の選択が大きな意味を持つことも知らず。俺は2人の後を追い始めた。



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13話 知られざる過去と未来

 久々野と謎の男「監督」が向かったのは、そこからほど近い喫茶店「パイナップルサンド」。

 

 2人が入店したのを確認し、窓からこっそりと覗き込む。

 落ち着いた雰囲気の店内。学校帰りに通う飲食店といえばラーメン屋くらいしか選択肢のない野球部からすれば、おおよそ縁のない空気に少し引けを取る。

 

 久々野らが店内で一番奥のテーブルに腰掛けているのが見えた。

 丁度2人を発見したタイミングで、マスターが注文を伺うためかその席へと向かう。

「今だ」

 塩谷に合図を出し、久々野らの注目がマスターへと向けられるタイミングで素早く入店。向こう2人からは死角に入るカウンター席につく。身を屈めればこちらの姿を完璧に隠すことができる絶好の位置。

 

「なんで俺達が隠れるんだよ」

 塩谷が声を潜める。

「まだあの男が怪しいってだけで、何者か分かった訳じゃない。それに勝手に後を付けてる俺達の方がどっちかと言えば問題だ」

 

 改めて店内を見回す。店内には久々野ら2人と俺達2人の他に、カウンター席に腰掛けて新聞を読みふける男がいた。

 音楽も有線放送も流されていない静かな店内。これならなんとか2人の会話を聞き取ることはできそうだ。

 このままただ居座るのも申し訳ないので、こっそりとアイスコーヒーを2つ注文した。身を屈め小声で注文する高校生2人組。こんな怪しい客を相手に、マスターは平然としたまま「少々お待ちください」と言って笑顔で対応してくれた。

 

 

 

「・・・久々野君がまた野球を始めたって噂を聞いた時は驚いたよ。それも岐阜の無名校で始めてるとはね」

 謎の男から会話を切り出したようだ。耳に神経を集中させ聞き入る。

「君が中学生だった時を思い出すよ。あの時から君は、将来を嘱望されたピッチャーだった。

 中学生離れした剛速球でねじ伏せる圧倒的なピッチング。それはまさに『天才』と呼ぶのにふさわしいモノだった。」

 

「だが、中学2年の夏の大会直前、突然野球を辞めた。その原因は確か肩の故障だったかな」

 

 久々野が故障?今は140キロを超える速球をビシビシ決めているのに「故障持ち」だったのか?

 

「君は怪我の直後すぐさま野球部を退部し、夏休みのうちに岐阜県の鏑矢(かぶらや)中学に転校。そこでも野球は再開しなかった。

 失礼を覚悟で言うと、そこで『天才プレーヤー・久々野和巳』は終わったと思った。ケガをしてフェードアウトなんてのはよくあるから、残念ながらそのパターンだと思っていた」

 

「だけど今年の春季大会の後、岐阜県の『神山高校』なんていう聞いたことのない公立高校で、久々野君がとんでもないボールを投げてる。って噂が入ってきた。

 それを聞いて何試合か神山高校のグラウンドにこっそり足を運んだうえで、今日に至るって感じかな」

 

 知らなかった・・・。久々野にそんな過去があったとは、塩谷と目を合わせ互いに驚きの表情を浮かべる。

 

 

 

「・・・藤成(ふじなり)監督。結局話ってのは何ですか」

「そうだった。すまない、まだ一番重要な部分を話してなかったね」

 

 

 

「久々野くん。君にはぜひ、ウチの高校に来てプレーして欲しい」

 

 ウチの高校?どういうことだ?やっぱり何者なんだあの男は?

 混乱して状況が飲み込めない。

「思い出した!」

 塩谷が静かながらも威勢のある声を上げ、指を立てる。

藤成(ふじなり) 俊生(としき)監督だよ!アイツは愛知の名門『名京商業(めいきょうしょうぎょう)高校』の監督、藤成監督だ!」

 名京商業高校。それは野球をやっている者なら誰もが知っている「超強豪校」。これまでに8度甲子園優勝を果たし、プロ野球選手も数多く輩出している。

 

「『名京(めいきょう)』の監督が久々野をスカウトしに来たんだ!」

「言われなくても分かってる」

 どうだ?久々野は今何を考えている?ここからは久々野の表情を伺うことができない。

 

 

「君が中学生の時から、何度か名京に来ないかと誘ってきた。今でもそれは変わらないよ、君のにはぜひ名京のユニフォームを着て甲子園のグラウンドに立ってほしい。

 どうだい?久々野くん。怪我から完全に復活した今、君の実力なら愛知でも充分やっていける。

 そして今、君の力が必要なんだ。どうだ?一緒に甲子園を目指さないか」

 

 断るはずだ。断ってくれ。久々野に去られたら、今の神高野球部はもう・・・。

 

 そこからの沈黙は永遠のように永く感じられた。追跡を始めた時は、こんな事態になるとは勿論思っていなかった。今後の神高野球部の運命を握るような、重要な場面に立ち会うことになるなんてのは。

 

 

 

「・・・行きます。名京商業に。」

 

 

 それを聞いてすっと血の気が引き、思わず店を飛び出した。

 後ろから塩谷が後を追って店を出た事が感じられたが、そんな事はどうだってよかった。

 

 エースが去る。これでもう何もかも終わりだ。

 何も考えたく無かった。ひたすら走った。走り続けた。

 

 苦しい、気持の悪い汗が止まらない。滅茶苦茶な足取りで走り続けた足は悲鳴を上げ、スピードが緩んでいく、足が止まる。気づけば見覚えのない住宅街へと差し掛かっていた。

 両手を膝について鼓動を落ち着ける。顔を上げると辺りは既に真っ暗で、目の前の路地は進むにつれて闇に飲み込まれていた。

 

 それはまさに、自分の未来を暗示しているようだった。



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14話 この才能を

 昨日の事が頭から離れない。

 

 あの後は塩谷から連絡が入り、店に置き去りにしていたスポーツバッグを受け取った。「あの事」には触れる気にならず、その日は別れた。

 それから家に帰り、自室で倒れ込むように眠った。

 

 日が明けて登校しても頭はボーツとしたままで授業の内容もロクに頭に入ってこず、1日を浪費した。

 今日は久々野にも塩谷にも会っていない。あの2人は今日、何を考えながら過ごしているだろうか。

 

 今日は朝からずっと雨。五月特有の重さを持った雨が降り続ける。

 予報だと明日まで晴れることはない。神高野球部では、雨でグラウンドが使えない日のメニューは自由参加の自主練となる。恐らく、末広らのグループは練習に顔を出すこともなく帰宅するだろう。

 だがそんな事はどうだって良くなってしまった。

 今日は俺も練習なんぞする気にならない。今は何をしたって無駄な足掻きであるようにしか思えない。

 

 監督に相談する事も考えたが、アノ人は一番はアテにならない。いざこざを嫌う省エネ主義のあの人は、面倒事の気配を感じると引っ込んでしまう。

 今現在、部員たちがバラバラになっている事を把握しているはずだ、それでも明らかに「知らないフリ」をしている。

 

 

 

 練習に足が向かない俺は、7時限目が終了してもダラダラと教室に居座り続けた。一人去り、また一人去っていき、気付けば誰もいなくなっていた。隣のクラスもとっくに空になっているようで、窓ガラスに打ち付ける雨音だけが聞こえる。

 

 

「・・・長坂?」

 女子の声だ。反射的に反応し、目が覚める。いつの間にか眠りかけていたみたいだ。

 声に反応し顔を上げると、そこにはショートカットの女学生が立っていた。

 去年まで同じクラスだった『河内(こうち) 亜也子(あやこ)』。サッパリして活動的な性格で、自分から人を引っ張っていくタイプ。そして頭もよく切れる。

 

 今はクラスこそ違うが、去年は何度も隣の席になったのでそれなりに軽口を言い合える仲ではある。

 かと言って俺と河内は「仲がいい」というほどではない。知り合いよりは深く、友達よりかは浅い関係といったところか。 

 

「やっぱ長坂じゃん。何してんの?」

「んん?いや、寝てた」

 話すのは久々になる気がするが、向こうはさほど気にしていないようだ。

「部活は?塩谷とか神田とかは体育館行ってたよ」

 塩谷はちゃんと練習に向かうのか。あいつの真面目さには頭が上がらない。

 

「いや、今日はなんだか気分じゃないんだ・・・」

 

「・・・何か様子おかしいよ」

 首を傾げ、俺の表情をより見つめる。

 

「何かあったんじゃないの」

 これまで、人に野球部の悩みを話すことはできるだけ避けてきた。

 他人に相談すれば、それは事態が深刻であることを認めてしまうようで、どうしても憚られた。

 だがもうそれはどうだっていい、最早「思い出話」みたいなものだ。

 

「・・・確かに河内の察する通り、色々あった」

「愚痴っぽい話になるけど聞いて貰っていいか。聞いてくれるだけでいい」

 

「まぁ、聞くだけなら」

 河内が隣の席に腰掛ける。俺は一度息を吐いて覚悟を決めた。

 

「この前から野球部の様子がおかしくなってな・・・」

 机にもたれ掛かる態勢のまま、どこでもない虚無を見つめながら話し始めた。

 

 春先、天才が颯爽とやって来た事。自信満々で臨んだ春季大会で惨敗した事。それを境にチームが分裂した事。そして今から、その天才が去っていくこと・・・。

 

 こう振り返ってみると、意外と少ない。

 

 

「率直な感想言っていい?」

 話を聞き終えた河内は、少しだけ語気を強めて続けた。

「その久々野くん?の立場で考えたことある?」

「久々野の立場・・・」

 そういえば久々野がどう思っているか、はあまり考えていなかった。ただ絶望に打ちひしがれて、それを考える余裕まではなかった。

 

「少し大袈裟な話になるけど、私は『才能は生かされるべき』って思ってる。

 例えば、野球が上手い人は野球の強いチームで野球をするべきだし、絵の上手い人はそれを生かす道に進むべき。だと思ってる」

 

 やっぱりそうか、結局世の中そうなのだ。才能のある者は上の世界へ、俺みたいな凡人は下へ下へ。

 机に突っ伏した体を起こし、背伸びをする。

「なんか今ので、久々野が転校するのも少しだけ受け入れられた気がする」

 

「チームも全然揃ってなくてバラバラだし、向かってる方向は揃ってなさすぎるし。もうダメだってのも受け入れられそうだ」

 

「・・・バラバラ?私にはそんなふうには思えないけど」

 少し意外な答えが返って来た。河内はこういう状況で単なる気休めの言葉を掛ける性格ではない。

 

「ちょっとだけ私の話もしていい?」

 断る理由もない。頷いて了承する。

「私、部活やってた時は『漫画研究会』にいたんだよね。3年の始めくらいまで。

 それで、一応「漫画が好き」ってことで集まってる部活なんだけど、その中でも方向性ってバラバラでさ。漫画を描くのが好きな人もいれば、漫画を読むのが好きな人もいる。それぞれの求めるモノって全然違う。

 『漫画なんか絶対書く気もない』って人もいれば『漫画を本気で描きたい』って人もいるし」

 

「ウチのいた部活はそんな感じだったんだけど・・・

 野球部って目指すモノはひとつじゃん。『甲子園』。

 全員がそれを全力で目指してる、とはならなくても、みんな心のどこかに『甲子園に行きたい』ってのはあるんじゃないの」

 

 

 その言葉にひどく納得した。

 確かに全員に「甲子園への想い」というのはあるはずだ。「全力で目指す」のか「程々に目指す」のが異なっているだけで、最終的に甲子園に辿りつけるなら、高校球児である皆にとって最高の結果となることは間違いない。

 そして久々野だって、名京商業に行かずとも、この神山高校からでも甲子園に行けるというなら・・・。

 

 

 

「河内。さっき『才能は生かされるべき』って言ってたよな。才能を持ってるなら、それを最大限に生かすべきだって」

「じゃあ、もしもウチの野球部に『甲子園に出場できる才能』があるなら、甲子園を目指すべき。だよな」

 

「なんだか嬉しそうね」

 思わず表情が綻んでいたようだ。

 ひとつの打開策を思いついた。この状況を逆転するような、とんでもない方法だ。

 

 

 全員が甲子園を目指している。という方向性は合っている。あとは足並みを揃えればいい。

 「全力で甲子園を目指す」という歩み方に揃えればいい。

 

 そして全員を「全力で甲子園を目指すようにさせる方法」それならば、ある。

 

 

 だがこれは大きな賭けになるだろう。失敗すれば今度こそ部は壊滅状態になる。それに上手くいったところで好転する保障もない。

 

 9回裏2アウトまで追い込まれたような状況。どうせダメになるなら、最後はフルスイングで終わらせよう。

 

 バットを握るときと同じように拳を強く握り直し、覚悟を決めた。



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15話 俺達は甲子園の夢を見るか?

 俺が計画した『作戦』の準備はトントン拍子で進み、準備は全て整った。まぁ、何より自分が半ば強引に進めたせいでもあるが。

 

 そして、全てを実行に移す時が訪れた。

 

 2日間降り続いた雨が上がり、清々しい晴れ間が訪れた水曜日。

 いつもどうりに午後の授業が終了し、グラウンドにわらわらとユニフォームを着た部員が集まってくる。今日は末広の姿も見える。

 久々野もいつもどうりグラウンドに現れた。「あの事件」以来、久々野はこちらを気にしているようで俺や塩谷とはできるだけ顔を合わせないようにしているようだった。

 

「みんな!練習始める前にちょっといいか?」

 注目を集め、俺は前に勇み出る。

「監督から伝言を預かってる」

「急な話になるが、次の日曜日に『垣田商業(かきたしょうぎょう)』と練習試合を行う。集合時間や場所は追々伝える。それに向けて各自調整しておくように!以上!」

 「垣田商業」という言葉を口にした瞬間、全員が仰天し目を丸くさせた。

「垣田商業って、この春のセンバツ甲子園でベスト4の?」

 そう聞いてきたのは末広だった。

「そうだ」と返すと末広は大袈裟に両手を広げてみせ、何か言いたげな表情を浮かべたものの何も続けてはこなかった。

「向こうは1、2年生メインのメンバーで来るそうだが、それでも名門であることに変わりない。全力でぶつかって行こう」

 

「・・・何か質問は?」

 静まり返った部員たちからの反応はない。

「無いな!じゃあ練習始めるぞ!」

 奇妙な空気を振り切るように勢いよく区切りを付け、キャッチボールの準備を始めた。

 

 

 『垣田商業』は本県の高校野球を長年牽引してきた超名門校。ウチの県で甲子園に行くなら「垣田商業に行くか、もうひとつの強豪・翔陽学園に行くか」と言われるほどで、県内では最強に近い強さを誇っている。

 そして同校はこの春のセンバツ甲子園にも出場。他県の強豪を次々と下し、見事ベスト4に輝いた。

 

 

「何があったんだ!?」

 事態の飲み込めない塩谷が、血相を変えて問い詰めてきた。

「甲子園4強との練習試合をセッティングなんて大がかりな事を、あの省エネ監督がするとは思えない。あるとすれば長坂、お前の差し金か何かがあったに違いない!何をしたんだ!?」

 

 その通り。この練習試合を行う直接のキッカケを作ったのは俺だ

 

「そうだな。これはどこから話せばいいのか・・・」

 それにしても余り食いつきがいいので、少しだけ勿体ぶってみせる。

「実はウチに県内の強豪から練習試合の誘いが多数来てるのは知ってたか?」

 塩谷がキョトンとして首を振る。

 

「そういえば最近、格上のチームとの練習試合が多いなとは思ってたけど・・・。あれこそ監督が申し込んでくれたんじゃないのか?」

「逆だ。強豪校から『ウチに向けて』申し込みが多数寄せられている。

 そして、なぜウチのような万年初戦敗退のチームに、強豪が練習試合を頼み込むのか?その理由は簡単だ。それはひとえに『久々野のおかげ』だ」

「『天才1年生投手』。県内の高校にとってあと2年間は久々野は脅威ともいえる存在だ。だからこそ、早いうちに対戦しておきたい。というのがあるんだろう」

 驚いた表情を浮かべ、ここで一旦納得したのか頷く。

 

「そこでだ。監督に『申し込みの来ている中で一番強い県内の高校はどこか』と聞いたところ。それが垣田商業だった。ってワケだ」

 それでも一筋縄で試合にこぎつけることができた訳ではない。監督はそれまでの強豪から練習試合の申し込みを、なんとほぼ全て断っていたのだ。なので垣田商業からの練習試合申し込みは存在すら中々明かそうとしなかったが、粘り強い交渉の末この練習試合を実現することができた。

 

「でもちょっと待ってくれ。それにしても何で、いきなりそんな『甲子園ベスト4』との試合なんだ?普通は身の丈に合ったレベルのチームと試合していくのがセオリーだろ?それがなんでいきなり県内最強の・・・」

 そう。今度の練習試合の最大の要点はそこだ。

「県内最強が相手じゃないとダメなんだよ。県内最強と戦わないと、俺達が甲子園に行けるかどうか、分からないだろ」

「甲子園・・・?」

 唐突な「甲子園」という非現実的なワードに、塩谷は再び目を丸くさせる。

 

「いいか、日曜日の垣田商業との試合で『俺達は甲子園に行けるかどうか』ってのをハッキリさせるんだ」

 言葉が出ないのか、困惑の表情のみを浮かべ何も返してこない。 

 

 

 

 そして、垣田商業を選んだ理由はもうひとつある。今年の春のセンバツ甲子園で、垣田商業が『愛知の名京商業(めいきょうしょうぎょう)に勝利している』ということだ。

 そう、名京商業は久々野が転校する予定の高校だ。

 

 バカバカしい程単純な話、名京に勝った垣田商業に神山高校が互角に戦えば・・・。何か久々野へのアピールになるのではないか、と心のどこかで思った。

 

 この試合で重要なのは「俺達でも本気でやれば甲子園に行けるかもしれない」という事を、全員に体感して貰うことだ。

 

 仮に成功して末広たち「ほどほどに野球をやりたい」奴らがヤル気を出したとしても、久々野が去ってしまえば元も子もない。

 垣田商業に大敗し、完璧に打ちのめされるような事になった場合。もうこのチームは二度と元に戻らないだろう。本気でやっていや者たちも目を覆いたくなるような現実に意気消沈し、部員全員が腑抜けたような状態で夏を迎える可能性すらもある。

 

 とにかくこれは賭けだ。上手くいく保障もないし、上手くいったとして事態が好転する保障もない。

 神山高校野球部は破滅か再生か、どちらかの道へと走りだした。



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16話 俺たちの求めるもの

「なぁ末広、どう思う」

 同じカウンター席で隣に腰掛ける千島が、顔をどんぶりに下ろしたまま聞いてきた。千島の向こうで福寺がラーメンを啜っているのが見える。いつもと同じ3年生帰宅組のメンツだ。

 

 俺達が今いるのは、神高からほど近い運動部行きつけのラーメン屋。いつも「ラーメン屋」としか呼んでいないので、正式な店名は忘れた。

 放課後のこの時間帯は部活帰りの神高生徒が大勢押し掛け、店内にはモヤモヤとした汗臭さが籠っていた。

 

「何がどう思うって?」

「日曜日にある垣田商との練習試合だよ」

「あぁ、長坂が言ってたヤツか。とりあえず、なんでそこ相手に試合すんのか訳がわかんないわ」

「やっぱりそうだよなぁ、この前に岐阜一商にボロ負けしたから、あんまり強いところとやりたくないんだよね」

 

 なんとも面倒な話だ。強いトコとやってレベルアップを計ろうなんてのは分かるが、実力差がありすぎてまともな試合になるかどうかも怪しい。

 まぁ、大敗して塩谷らガチ勢が意気消沈してくれるならそれも悪くないか。

 ガチ勢はそっちだけで勝手にやってほしい、俺は俺達と同じくらいの弱小校と試合をやって、勝つか負けるかのスリルを味わう方がよっぽどいい。

 

「点差がヤバイことになりそうだな」

「確かにな、垣田商打線は抑えられないだろ。久々野も前回はボコボコに打たれてたし。

 そういえば垣田商業はセンバツで17対0なんて試合やってたよな?俺らとなら30対0とかあり得るんじゃないか」

「いや、久々野はなんやかんやで結構凄いからな。取られるとしたら15点くらいじゃないか」

 

 とにかく、勝負はもう決しているようなものだ。

 

『結果の見えている試合ほどつまらないものはない。』

 

 そんな、とあるプロ野球選手の言葉を思い出す。今回の試合はそういうことだ。

「何であいつらあんなに必死にやるのかね。頑張れば甲子園に行けるとでも思ってんだか」

 

 どんぶりの中にもう麺が残っていないことを箸で確認すると、スープを喉に流し込んだ。

 完食。

 ただ、まだ若干小腹が空いている。

 隣の千島を見ると完食間近だったので、今から餃子やらを注文するのは気が引ける。財布を確認すると手持ちもそう多くない。

 店内を見回すと、ほとんど神高の運動部で埋め尽くされる中で一組、神高ではない制服の男女がいた。男子生徒の方は俺と同じラーメンを注文していたが、随分小柄な女子の方は杏仁豆腐をなんとも幸せそうに食している。

 腹の減りが深刻になる。デザートを食べる腹を決めた。

「大将!杏仁豆腐ひとつ」

「はいよ!」

 

 俺にとっては手の届かない甲子園よりも、今から手元に届く杏仁豆腐の方が楽しみだ。



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17話 運命へのプレイボール

 県北部にある神山高校から、南部まではるばる電車を乗り継いでついに到着した。

 

 決戦の地、岐阜県立垣田商業高等学校。

 

 そしてその学校の敷地の多くを占める『垣田商業野球部専用グラウンド』。

 内野にきめ細かい黒土が敷き詰められ、バックネット裏には数段のスタンドが設けられている。まさに学校の敷地内に野球場があるといった感じだ。

 ストレッチの最中に専用グラウンドを見渡し、神高が他の部とグラウンドを兼用している状況とは天と地ほどの差であることを改めて痛感した。

 

 一塁側のベンチ前では、対戦相手の垣田商業1、2年生がキビキビとキャッチボールをこなしている。

 自分より年下とはいえ、さすが名門校。ガタイだけなら明らかに俺よりひとまわりもふたもわりも大きい者がいるし、口調から関西出身であろうと思われる者もいた。

 そして彼らの着ている練習着には、右胸に「垣田商業」の文字が。その名前は野球を始めた頃から高校野球の中継で何度も見てきた。

 

 この練習試合を前に1、2年生の有力選手を調べておいた。

 2年生の中で春季大会のレギュラーに抜擢されたのは2人。

 センターを守る俊足好守の守備職人『青野(あおの) (たける)

 そして大阪出身、強肩強打の大型捕手『三国(みくに) 大也(ひろや)

 他にも、今日のスタメンには春季大会でベンチ入りを果たした有力1、2年生が名を連ねている。だがそれでもこの2人は頭ひとつ抜けていると言っていい。要注意すべきだろう。

 

「オイ、最後に長坂、何か言っとけ」

 整列直前、円陣での監督から促された。

 自分にとっては決戦ともいえる大事な試合の直前、自身に言い聞かせる意味も込めて叫んだ。

「俺は今日、甲子園4強相手に『健闘しよう』なんて微塵も思ってない。絶対に勝とう!いくぞ!!」

 オウ!と力強い声が返ってきた。末広らは苦笑していたが俺は本気だ。

 

 垣田商業が先攻、俺達神山高校は後攻で、神高野球部の決める運命の練習試合は始まった。

 1回表、垣田商業の攻撃。

 

 要注意の俊足・青野をいきなり先頭打者として左打席に迎える。

 内野安打とセーフティを警戒し、サードの塩谷とファーストの福寺を前進するようサインを出す。

 

 第1球目。最も自信のあるストレートを選択。

 しなやかなフォームから快速球が放たれる。アウトローへと構えたミットに向かって一直線に迫り来る。よし、決まった。

 キィン!

 迷うことなくバットを鋭く振り抜かれ、レフトへ大きなフライが上がった。

「レフトー!!」

 岸川がバックしてボールに追いついた。

「アウト!」

  

 ・・・アウトは取れた。だが久々野の自慢のストレートを、試合開始直後の初球でいきなり振り抜かれた。

 想定以上の青野の能力の高さに困惑し、ひとつめのアウトを素直に喜べずにいた。

 

 だが、それは青野に限った話では終わらなかった。

 

 続く2番打者も追い込みはしたが、空振りを取りに行ったチェンジアップを芯で捉えられ痛烈なセカンドゴロ。

 3番にも初球のストレートをセンターに弾き返されピッチャーラナー。

 

 それまで対戦したチームは大抵、超高校級ともいえるストレートに圧倒され初回に鋭い当たりが飛ぶことなど滅多に無かった。だが、今日はいずれのボールも簡単に打ち返された。強豪校の打線というのはこうも違うのか。

 垣田商を三者凡退という結果に歓喜するベンチをよそ目に、ひどく悲観的な気分でナインはグラウンドから引き揚げた。

 

「長坂さん」

 ベンチの一番奥に腰掛け捕手防具を外す最中、久々野が話しかけてきた。

「今日の自分のボール、正直なところどうですか」

 表情は茫然としている。やはり打たれた本人が一番気になってるようだ。

「良いボールは来てる。だが、残念なことに向こうが何枚も上手(うわて)みたいだな」

 まだ1回表が終わったばかりだ、この調子で残り8イニングを戦い抜くことができるのだろうか。

 不安に駆られ思わず俯いてしまう。

 

「シャーッ!!ナイセン末広!」

 鋭い声に反応し意識が試合へと戻った。

 グラウンドに目を向けると末広が一塁に向かい、二塁に千島が立っていた。

 

 1、2番の2人が出塁しているという事は、つまりまだノーアウトで一二塁のチャンス。これからクリーンアップへと繋がる。

 1回表で圧倒されたことから攻撃面でも苦戦を強いられると覚悟していた。しかし、予想外とも言える大きなチャンスがいきなり生まれた。これは何としても生かすべきだろう。

 

「塩谷!頼むぞ!」

 ベンチの最前列に乗り出し、打席に向かう塩谷の背中に向けて祈るような気持ちで声援を送った。




◇練習試合
    一二三 四五六 七八九 計
垣田商 0           0
神 山             0


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18話 マスク越しの交渉

 無死一二塁といういきなりのピンチに捕手がマウンドへと向かった、投手は帽子を取って二、三言短く返事をすると、捕手はマウンドを離れていった。

 

 片野監督が続く3番塩谷へ出した指示は送りバント。手堅い選択ではある。それに応えて塩谷は三塁側へと上手く転がした。

 しかしピッチャーが素早く打球に回り込み、流れるように三塁へ送球。

「アウト!!」

 サードが一塁にも送球したが、そちらは間一髪セーフ。併殺は免れた。

 それでも、完璧に「決まった」と思ったバントが防がれ、あわやダブルプレー。さすが超強豪、やはり守備は相当鍛えられている。

 

 4番の岸川が打席に向かい、5番打者の俺はネクストへ。

 

 頼れる主砲・岸川はいつもどうりの積極的なスイングで鋭いファールを連発。投手にプレッシャーを掛け、フルカウントにまでもつれ込んだ。

 フォアボールでいい、俺に繋いでくれ。「二死一二塁」と「一死満塁」では大きく違ってくる。

 

 8球目。外角への緩いカーブ。見逃せばボールという球を強振しバットが空を切った。

 背後のベンチから「あぁ~」という声が漏れる。

 

 二死一二塁。この回の全ては5番打者の俺に託された。まさか初回からこんな場面で回ってくるとは。

 ボックス内でいつも以上に足場をしっかりと固め集中する。

「なぁ?君、キャッチャーやろ」

 右側下方、垣田商の捕手・三国に声を掛けられた。人が集中しようとしているときに囁くとは何事か。

「そうだが、それがどうした」

「今からピッチャーが何投げるか教えたるわ」 

「!?」

 突然呼び掛けてきたかと思えば、こいつは何を言い出すのだろうか。

 真面目に取り合わないことに決め、無視に徹して投手に視線を合わせる。捕手の三国は俺にしか聞こえないように声を殺して続けた。

「次に投げる球教えたるから、逆に俺が打席に立った時に久々野が何投げるか教えてくれ。久々野打って評価上げたいねん」

 なるほど、そういう事か。

 いや、こう言っておいてウラをかいて来るかもしれない。

 

「カーブ行くで」

 

 緩いボールが投じられる。すっぽ抜けたカーブが高く浮き、これを見逃す。

「用心しすぎやわ。騙すわけないやん」

「次、ストレート」

 

 予告通りのストレートが飛んでくる。今度こそ裏をかかれると思い込んでいた俺はこれも見逃してストライク。

 

「じゃあ分かった、オマケでエエ事教えたるわ」

「俺達の今日の練習試合の目的は『久々野を打つこと』。やから野手は1、2年の主力で固めて本気モードやけど、登板させる投手はBチーム(2軍)のしょーもないピッチャーばっかり」

 どうりでか。

 久々野を圧倒した野手陣に比べ、迫力が劣るはずだ。こちらが初回からチャンスを作ることが出来たのも「偶然」という訳ではなかったようだ。

「それでも中盤からは、春季大会でベンチ入りした主力投手陣が投げる。点取っとくなら今のうちやぞ」

 

 

「タイムお願いします」

 タイムを掛けて間を取り、しゃがんで靴紐を結び直すフリ(・・)をする。

「おい・・・その話はいつまで有効だ?」

「どういうことや」

「お前の第1打席で俺が久々野の投げる球を教えたら、俺の第2打席でも教えてくれるか?」

「もちろん。全打席で教えてくれるなら、こっちもそうするわ」

「ただこの話はチームメイトに言うたらアカンで。何かの拍子でこんな『八百長まがい』が監督にバレたらドヤされるからな」

 この交換条件。悪くもない気がする。

 何よりも、ひとまずは目の前のこのチャンスを生かしたい。頭の中はそれで一杯だっだ。

「わかった、その話に乗る。何を投げるか教えてくれ」

 視界の隅で、三国が小さく頷いたのが見えた。

 

 靴紐を直すフリをやめ、バットを一度振って構え直す。

 三国はボソッと「ストレート」とだけ呟いた。

 

 ワンストライクワンボールからの3球目。勿論ストレートが投じられた。

 コンパクトなスイングで引っ張る。

 打球はライナーでショートの頭上を越え、左中間を深々と破った。二塁ランナー、次いで一塁ランナーの末広もホームイン。

 セカンド塁上でストップ。甲子園4強の垣田商業相手に、先制点となる2点タイムリーツーベース。

 

 今にも飛び出しそうな勢いで歓喜に沸くベンチに向かって、ガッツポーズで応えてみせる。

 キャッチャーの三国は目が合った。するとこちらを指差し「打たせたんだから分かってるよな」という仕草をしてきた。

 

 これからの展開は考えものだが、予想外の形で先制点を奪うことができた。

 

 野球部の運命を掛けた練習試合。誰もが予想だにしない「神高先制」という形でゲームは動き始めた。

 




◇練習試合
    一二三 四五六 七八九 計
垣田商 0           0
神 山 2           2


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19話 捕手の神髄

 2回表、垣田商業の攻撃は4番の三国から。

 コイツとは同じキャッチャー同士として「互いが打席に立った時、投手が何を投げるか教え合う」という協定を結んでいる。

 

「よろしくお願いします」

 一礼して打席に入る。続いてこちらに目をやり大袈裟に

「どうも!よろしゅう」とわざとらしく挨拶し直してきた。面倒なヤツだ。露骨に嫌な顔をしてみせるが効果は薄く、あっけらかんとしていた。

 

 さて、『名門の2年生正捕手』に向かって何を投げさせるべきか。

 三国は構えに入ると、投手を見据えたまま全く動くことはない。じっと構えている。それでいてリラックスしているようにも見える隙の無いフォーム。

 

 正直、どんなボールも打たれそうな気がする。それならば一番威力があるストレートで勝負すべきだろう。

 

「ストレート行くぞ」

 

 三国にこっそり伝えた後ストレートのサインを出し、久々野が投じる。外角いっぱい、かなり厳しいコースに決まる直球にバットが向かっていくのが見えた。

 一瞬「仕留めた」かと思ったが、三国はそこから目一杯手を伸ばして鋭くスイングしてみせた。

 痛烈な打球が一塁線を抜け、一塁審がフェアボールのジェスチャーをする。長打コース。一塁キャンバスを強く蹴り、悠々と二塁に到達した。

 完璧な流し打ち。久々野の快速球を無理に強振する事無く、最小限のコンパクトなスイングでツーベースにしてしまった。

 

 直球がダメならばと、次打者にはチェンジアップを投げさせた。しかしこれも痛烈に弾き返され、サード塩谷を強襲する内野安打。

 打球が速すぎたためランナーは動けず、ノーアウト一塁二塁。

 

 アウトが取れない。アウトはおろか空振りすら奪えない。久々野とバッテリーを組んで1か月程になるが、ここまで苦しい状況は初めてだ。タイムを掛け、マウンドの久々野の元へ駆け寄る。

 どうすればいい。と俺が訊こうとするより先に、久々野が口を開いた。

「長坂さん・・・、どうすれば抑えられますか」

 これまで百戦錬磨の超高校級ピッチャーが吐くとは思えない、弱気な台詞に少し驚いた。

 

「どうすればって、そんなのお前が一番知って・・・」

 いや、違う。

 久々野は約2年間もマウンドから離れていた。それでも持ち前のセンスで打者を手玉に取ってきたが、自分の投げるボールが通用しない苦しいマウンドは「何年ぶり」というレベルの経験なのだ。

 

 久々野は本当にどうすればいいか分からないんだ。

 

 いつもの自信満々な表情は消えて伏目になり、粒の大きい汗がつらつらと流れていた。

 

「伝令出します!!」

 俺達バッテリーが既にアップアップであることを察したのか、ベンチから片野監督がタイムを掛け伝令を送ってきた。それに同調して内野手もマウンドに集まる。

 2年生で控え捕手の多村がキャッチャーの防具を付けたまま、カチャカチャと音を立ててマウンドに駆け寄る。

 

「多村、監督は何て言ってた」

「キャプテンに『馬鹿野郎』だと言ってました」

 俺に?窮地で焦ってる状況だというのに、これ以上追い詰める言葉を掛けてどうするのか。

 

「続けて監督は『相手をナメるな』と・・・」

「『今までのレベルの相手ならストライクを投げ込むリードでも抑えられたかもしれないが、今日の相手は甲子園4強のチームだということを忘れるな。相手が自信を持ってスイングしてくることろで、真っ向から力勝負をする必要はない。お前がちゃんと久々野を助けろ』とのことです」

「へー、監督もそれっぽい事言うんだな」

 塩谷が茶々を入れているが、監督の言っていることには一理ある。いや、まさに的を射た言葉だろう。

 

 

 久々野は間違いなく天才だ。だからこそストライクゾーンのど真ん中に投げ込むようなピッチングでも打者を圧倒することができた。

 それが今日は全く通用しない。それなのにまだ、まだ心のどこかで「久々野なら真っ向勝負でも討ち取れるはずだ」と縋るように信じ続け、ミットをストライクゾーンへと構える自分がいる。これなら監督に『相手を見下している』と言われても無理はない。

 俺はキャッチャーとして考えるべきことを放棄して、過度な期待を久々野に全てを背負わせていた。

 

 

 ベンチの方へ目線を移し、光明を授けてくれた監督を探す。

 監督はというと、腕組をしながら誇らしげにして「俺だって良い事言うだろう」とでも言いたそうに笑みを浮かべていた。

 惜しい。ここで毅然としていれば、それこそ『名将の風格』というものが出ただろうに。やはりウチの監督はどこか小市民感が否めない。

 

「そして内野手!」

 対象が突然と切り替えられ、内野陣がビクついて反応する。

「監督から『ってことでバッテリーが攻め方を変えるから、リズムが若干変わるけど集中切らさないように』とのことです!」

「「おう!!」」

 多村は普段から真面目でで口調も硬い。こいつが伝令を務めると、グラウンドの空気がグッと引き締まる。

 

 マウンドの輪が解け、俺達バッテリーの2人が残された。

「久々野、俺は『真っ向勝負じゃ抑えられない』ってのを受け入れる。攻め方を変えよう」

 やはり投手という人種の心情として、それは少し引っかかるようだ。

「抑えられない。なんてのはあくまで『今日のところは』だ。またいつか、リベンジしよう」

「わかりました。今日のところはトコトン『逃げのピッチング』でいきましょう」

 久々野は悪戯っぽく笑って見せ、俺はそこでやっと安堵することができた。

 

 キャッチャーボックスでしゃがみ、手早くサインの交換を済ませる。

 初球、顔面付近へのストレート。速球がズドンとミットを叩き、打者は思わずのけぞる。2球目は外角一杯へのチェンジアップ。緩急のついたボールに手が出ず見逃しのストライク。

 1-1からのフォークボール。風を切るような鋭いスイングはボールを捉えることなく空振りに終わる。

 

 追い込まれたにも関わらず打者は自身満々といった様子で悠然と構え「どんな球でも打ってやる」という気概で溢れていた。

 それを嘲笑うかのような高めの釣り球。中途半端に回ったバットに、審判は「スイング」の判定を下した。

 空振り三振。ワンアウト。

 

 続く7番打者は、チェンジアップを続けた後の内角を抉るストレートで詰まらせボテボテのセカンドゴロ。一塁でアウトを取った。

 ツーアウト二塁三塁。

 

 「真っ向勝負しない」投球術。積極的にスイングしてくる垣田商打線への効果は抜群だ。

 

 左打席に立った8番打者はフルカウントから「ボール球」のストレートを打ち、真上にフライを上げた。

 マスクを投げ捨て上空を見上げる。

 真っ青な空から白球が落ちてきた。

 

 いつもと同じように、ボールを両手で抱え込むようミットに収めた。

「アウト!」

 

 窮地に陥りかけた波乱のこのイニング。無失点に抑えることができ、そして何より大きく成長することができた。

 興奮を抑えきれない俺は、思わず小さなガッツポーズをしていた。

 




◇練習試合
    一二三 四五六 七八九 計
垣田商 00          0
神 山 2           2


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20話 押せ押せ!

 「真っ向勝負しない」投球術を駆使した俺達バッテリーは、ランナーを出しつつもその後を無失点。

 2点のリードを保ったまま、試合は5回裏。神高の攻撃へと突入した。

 

 この回は先頭の守備職人・神田が粘って四球で出塁し、次打者が送りバントを決めて一死二塁。チャンスを作ってラストバッターの久々野へと繋いだ。

 投球に専念させるため打順が9番ではあるが、久々野は打者としても非凡なセンスを持っている。

 レフトへライトへ打ち分ける柔軟さを持ちつつ、時折長打を飛ばすパンチ力。それでいてバントなどの小技もしっかりこなすことのできる器用さも兼ね備え、「何をやっても上手くこなす」というあたりは流石天才としか言いようがない。

 そんな久々野だったが、厳しいコースを2球見逃してあっという間にツーストライク。

「振っていけよ!転がせば何か起こるぞ!」

 久々野はこちらの声援に目配せすらしない。いつにも増して凄まじい集中力を放つ。

 

 カキィン!

 鋭いスイングで低めの直球をすくい上げ、レフトへ大きな打球が伸びた。

「越えろー!!」

 ベンチの全員で必死になって叫び、打球の行方を見守る。

 ボールは必死に背走するレフトの遥か向こうへ落ちた。

 2塁ランナーの神田は両手でガッツポーズをしてホームイン。久々野は余裕のツーベース。ベンチは今日2度目のお祭り騒ぎとなった。

「久々野すげぇ!!よくあんな飛ばしたな!」

「この1点はデカいよ!!」

 垣田商業相手に3点のリード。正直、追加点はあまり期待していなかったが、久々野自身が自らの手で勝利をグッと近づける一打を放った。

 

「続けー!千島ぁー!!」

 押せ押せムードに乗り、千島は慎重にボールを見極めて3-1。

 四球を意識して甘く入ったストレートを振り抜いた。

 

 セカンドの頭を越そうかというハーフライナー。

 越えろ。越えてくれ。

 セカンドがジャンプするが届かず、差し出したグラブを僅かに越えた。

 

 かと思われた。しかし猛ダッシュして来たセンターの青野がセカンド後方の落下地点に素早く入りスライディングキャッチ。

「嘘だろ・・・」

 内野のすぐ後ろに落ちる打球にセンターが追いつくなんて・・・。

 打球が外野へ抜けると判断していた久々野は既に三塁の手前。ゆっくりと余裕を持ってセカンドへ送球されスリーアウト。

 

 超ファインプレーを決めた張本人の青野はというと、勢い余って脱げた帽子を深く被り直し、表情ひとつ変えず颯爽とベンチへ帰って行った。

 

 一連のプレーに圧倒されたベンチの俺達は、動けず固まったままでいた。

 チェンジだというのに誰もグランドへ向かおうとしない。

「お、おい。切り替えろ!取れなかった点の事は考えるな!守備に集中!」

 自分に言い聞かせるように声を張り上げ、余計な考えを振り払うように駆け足で守備に散った。

 

 だがそれでも、今のスーパープレーで神高の「流れ」は完全に遮られた。

 

 6回表、垣田商の攻撃は先ほど好守備を魅せた1番の青野が左打席へ。その際のスライディングのせいで右脚部が真っ黒に汚れている。

 こういう『流れを変えた選手』は塁に出すと厄介なものである。内野安打を警戒し、内野手をより前に出す。

 左打者の青野に対し、外角低めに沈むチェンジアップを投げた。

 上手くタイミングを外すことに成功し、弱々しい打球が三塁の後方へ上がった。

「まずい」

 打球が上がった瞬間に悪い予感はした。その予想は的中し、先ほど前進させたサードの後ろへぽとりと落ちた。

 通常ならアウトにできていたはずの打球。結果的に前進させたことが裏目に出た。

 

 一塁塁上で不適な笑みを浮かべる青野。彼も「流れが変わった」ということを感じ取ったのだろうか。

 

 不運な形で走者を許しただけである。リード3点もある。

 それでも、神高にとって不穏な空気がグラウンドには流れつつあった。

 




◇練習試合
    一二三 四五六 七八九 計
垣田商 000 00      0
神 山 200 01      3


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21話 変わるべきもの

 6回表、ファインプレーで追加点を阻まれた直後、先頭打者に出塁を許した。

 

 一塁塁上、細身の青野は見た目のとおりの快足ランナー。盗塁を警戒し2度、3度と牽制球を挟んだ。

 そこから長く間を取り、クイックで久々野が足を上げる。青野はそれと共にスタート。セカンドへ良いボールを投げたが、青野が数コンマ先に到達した。

 

 警戒をかい潜られ余裕の盗塁成功。それに気落ちする間もなく、2番打者は意表をついて三塁線へ絶妙なセーフティーバントを仕掛けた。サードの一歩目が遅れ、もどこにも投げることすらできずオールセーフ。

 

 ノーアウトのまま一塁三塁とピンチ拡大。

 この場面1失点は仕方ない。犠牲フライでも併殺崩れでも、何でもいいからアウトを取って「1点を献上して1アウト一塁」くらいを目指すのがセオリーだろう。併殺を奪って「ツーアウト走者なし」ならばそれこそ最高だ。

「内野ゲッツー!1点はあげていいよ!」

 神田と花川の二遊間コンビはグラブを挙げて「了解」と示した後、ベース寄りの位置へ移った。

 

 「強豪校の猛追」というなかなか経験えない場面においても、内野陣は冷静を保っていた。走者の状況を確認し、アイコンタクトで意思疎通を図る。声もしっかりと出ている。

 迎撃態勢万全はずであったが、先ほどのミスに責任を強く感じていたサードの塩谷だけは、この時冷静さを欠いていた。

 

 快音が響きサード正面へ強いゴロが飛ぶ。ダブルプレーを取るには余裕の打球。

 打球は一旦塩谷のグラブの中に収まった、が暴れるように飛び出し零れていった。足元で転がるボールを拾い直すことすら諦め、塩谷は膝に手をついてその場で項垂れた。

 痛恨のタイムリーエラー。アウトをひとつも取れず1点奪われ、神高のリードは2点に縮まった。

 

 未だノーアウトのまさに最悪の状況。そして続く打者は、今日2安打を放っている4番の三国。

 

「アピールの大チャンスやわ。さて、教えてや」

 バットを2度3度回しながらこちらを伺ってきた。

 今まではある事情から三国が打席に立つ度にこっそり球種を伝えていたが、この場面でそんなことをしている余裕はない。無視を貫き通す。

「どないしたん?早よせんとプレー掛かるやん」

 サインを出し、平然としたままミットを叩く。

 

「・・・そうか」

 悟ったのか、それ以上は何も言って来ずバットを構えた。

 三国とは初めての『まともな勝負』となる。勝算があるわけではないが、勝てない理由もない。

 

 これまでとは少し攻め方を変え、初球からフォークを投げさせ空振りを奪った。続く2球目はアウトロー一杯の絶妙なストレートでストライク。

 そこからはチェンジアップを内角と外角に散らし、最後にストレートで仕留めるための布石を張った。

 カウント2-2。決め球「ストレート」のサインを出し、外角低めにミットを立てる。

 

 渾身のストレート。ミットに向かって一直線に伸びる最高のボール。三国の身体が開き、スイングがやや遅れて始動する。

 次の瞬間には目の前でバットとボールが重なった。

 

 空に向かって大きな打球が伸びていく。

 「これが名門校のバッティングか」と冷静に半ば開き直ってしまうような素晴らしい打球は、全力で追いかけるセンター末広の途方もなく後ろに落ちた。

 

 1人、もう1人ホームを駆け抜ける。同点。三国は三塁へ滑り込み、塁上で右手を突き上げた。

 神高ベンチは静まり返り、垣田商ベンチは歓喜に包まれた。

 

 真っ向勝負で完全なる力負け。「天才・久々野」の完敗に、守備陣の動揺は隠せない。

 浮足立ったまま「ノーアウト三塁」のピンチを切り抜けることができる訳もなく、次のショートゴロをあっさりとエラーして逆転された。

 

 逆転となるランナーがホームを駆け抜けた瞬間、ナインからは落胆の声も出なかった。叱咤する声もなければ、励ます声もない。淡々と失点を受け入れる姿に、去年までの「弱小・神高」の姿と重ね合わせた。

 おかしいだろ、こんなのは。

 あんなにぶつかったのに、あんなに覚悟を決めたのに、何も変わっちゃいないのか?

 エラーして縮こまる塩谷も、試合を投げて集中を切らす末広も。何も変わってないじゃないか。

 

 ふざけるな。

 

「2、3年声出せ!!俺らが下向いてどうする!!!」

 気付けば叫んでいた。そこには何の思惑もない。だた「怒り」「憤り」に近い感情だけで突き動いていた。

「エラーして黙りこんで、そんなの今までと同じじゃねぇか!俺達は強くなったんだ!!甲子園に行くんだ!!!」

 甲子園4強のチームを目の前にして『甲子園』を叫ぶ。相手方からの苦笑が耳に入ったが、そんなことは気にしない。

「だからまだ諦めるな!俺達は勝てる!!!」

 

 永遠のように長い、一瞬の沈黙が流れる。

 

「バッチこーい!守り切ろう!!そして逆転しよう!!」

 真っ先に反応したのはレフトの岸川、グラブをポンと叩いて大きく掲げ、白い歯を見せる。

 その声は伝搬する。その想いは広がる。

「シャーッ!久々野、俺のほうに打たせろ!」

「久々野、真ん中に投げろ!俺達が守ってやるから!!」

 それは徐々に広がり、グラウンド全体へと広まる。

 

「長坂!」

 久々野を鼓舞する声が続く中、俺を呼ぶ声が聞こえた。声の主はすっかり活気を取り戻した塩谷だった。

「ありがとな、ナイス声掛け」

 親指を立てて笑顔を見せる塩谷に、ミットを掲げて応えた。

「逆転しよう!甲子園に行けることを証明しよう!」

 その一言が、たまらなく嬉しかった。

 

 弾丸のようなストレートがミットに突き刺さる。

 神高内野陣は鼓舞する声を上げ、垣田商ベンチは静まり返った。

 

 大丈夫、俺達はまだ戦える。

 




◇練習試合
    一二三 四五六 七八九 計
垣田商 000 004     4
神 山 200 01      3


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22話 リベンジ

 復活した神高ナインは、垣田商の強力打線が放つ打球に食らいつきホームを守り抜いた。

 しかし、マウンドで人一倍プレッシャーを感じながら立ち向かってきた久々野は、疲労の色が隠せないでいた。変化球のキレがなくなり、ボールが上ずる場面も徐々に増えていった。そうして何度も走者を出しながらも、なんとか『気力』で抑えた。

 

 全身全霊を掛けた必死の守り。その勢いは攻撃にも現れた。

 7回裏、デッドボールで出たランナーを粘り強く進めて、ツーアウトながらランナー三塁。同点に追いつくチャンス。

 そして、この重要な場面で打席に立つのは・・・俺。

 

 緊張とも集中とも区別のつかない、不思議な感覚でボックスに入った。

 マウンド上の垣田商業の4人目のピッチャーは、春のセンバツ甲子園でも登板した2年生投手。投げるボールの殆どが重い質のストレートで、まさに典型的なパワーピッチャーだ。

 

「前の俺の打席で教えてくれへんかったやろ、こっから球種のヒントはナシやで」

 

 三国が意地悪気にそれを伝えてきた。なんというか、こういう力でゴリ押しするタイプの投手が相手では配球も球種もクソもないだろう。

 球威に負けないようバットを短く持ち、コンパクトなスイングを心掛ける。

 

 こちらのストレート狙いを感じ取ったのか、バッテリーは珍しくスライダーから入って来た。外に逃げるスライダーを見逃してボール。

 もう一球スライダー。これも外に外れてツーボール。

 

 カウント2-0。次はストライクを投げれれてもおかしくない。バットを強く握りしめる。もう試合は終盤の7回、ここで凡退すればもう俺に打席は回ってこないかもしれない。

 

 狙いどおりの重いストレートが飛んでくる。速い、だけど「久々野よりは遅い」。

 

 鋭いライナーが三塁線を襲った。垣田商のサードが飛びつき、グラブに当ててファールゾーンへと弾いたのが見えた。

 

 そこからは視線を一塁ベースに向け、必死になって走る。弾いたボールの行方は分からない。

「滑り込め!!」

 一塁コーチャーの神田が声を張り上げた。自分の背後の雰囲気からも「一塁に送球されている」ということはすぐに感じ取れた。

 一塁まであと数メートルというところで、重心を下げて倒れ込むようにベースへ両手を伸ばす。視界の隅でファーストが伸び、送球を受けようとしているのが見える。

 ボールがファーストミットに収まる乾いた音と、指先がベースに触れた感覚がした。ほぼ同時だった。

 

「アウト!スリーアウト!!」

 

 顔をうずめる。無念、わずかに届かなかった。

 

「長坂、ナイスラン。惜しかったぞ」

 土の混じった唾を吐き、励ます神田と共にベンチへ戻る。

「アウトになったら意味ねえよ」

「ああいう姿勢はチームに伝わるから。またお前に絶対回してやるから、信じろ」

 

 それが真はどうかわからないが、神高の守備には良い流れが来つつあった。直後の8回表には、ワンナウト満塁からピッチャー返しを久々野が好フィールディングでダブルプレー。

 9回表には、ツーアウト三塁のピンチでレフト岸川が豪快なダイビングキャッチを決めてまたまた0点に抑えた。

 

 岸川のファインプレーを讃え、皆興奮気味にベンチへと戻る。

 9回裏、最後の攻撃に向けて自然と円陣が組まれた。

「いいか、俺達はよく守った!1点差のまま守り切った!」

「だけどこれだけじゃ満足できないよな!?」

 いつになくオーバーにアクションをしてみせる。周りからは思わず笑いが起こる。

「勝とう!逆転して絶対に勝とう!行くぞ!!」

「「オウ!!」」

 

 垣田商ベンチから監督が出てきた。球審に歩み寄り、このゲームを締めくくるための投手の交代を告げた。

「ピッチャー交代!古宮に代わって、友江!!」

 

 

 ついに来たか。勝利を目指す神高にとって、最後にして最大の難関。

 甲子園4強・垣田商業のエースピッチャー『友江(ともえ) 祥文(よしふみ)

 




◇練習試合
    一二三 四五六 七八九 計
垣田商 000 004 000 4
神 山 200 010 00  3


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23話 5月のゲームセット

 垣田商業エース『友江(ともえ) 祥文(よしふみ)』。

 端正な顔つきで、自分の活躍を信じてやまないビックマウス。そんなキャラクターはマスコミからのウケもよく、何をしても注目されるあたりは「スター性」というものなのだろうか。

 勿論実力も折り紙付き。しなやかなフォームから繰り出される一級品のカーブとシンカーで、甲子園でも数々の強豪を手玉に取った。

 

 9回裏、1点ビハインド、最後の攻撃。

 神高の打順は1番の千島から。

 

 友江のピッチングは、悪く言えば「大雑把」よく言えば「圧倒的」であった。

 千島をキレのあるストレート2球で簡単追い込こみ、3球目のシンカーで空振り三振に切って取った。

 2番の末広も初球、あわや危険球というコースからストライクゾーンに曲がり落ちるカーブに腰を引かせ、続く2球のストレートにはスイングすらさせず三球三振。

 あっという間に二者連続三球三振でツーアウトと追い込まれた。あとひとりでゲームセット。

 

「まだだ!諦めんな!!」

 まだ打順の遠い俺は声援を送ることしかできない。それが歯がゆくて仕方がなかった。

「おい塩谷、絶対に繋いでくれ!!」

「任せろ!まだ終わらねぇ!」

 

 カウント1-1からのストレートを強振、鋭いゴロが一塁線に飛ぶ。

 身を乗り出してボールの行方を追う、捕られればほぼ間違いなくゲームセット。

 

 ライン寄りに守っていた一塁手がゴロを掴んだ。

「ファール!ファウルボール!」

 

 試合終了の危機を逃れ、ほっと安堵する。

 これでツーストライクに追い込まれはしたが、ストレートにタイミングは合っている。だが決め球のシンカーも念頭に置いておかなければならない。

「ヤマ張りすぎんな!変化球あるぞ!!」

 若干山なりなボールが右腕から放たれる。シンカーだ。

 ワンバウンドするほど沈む鋭い変化に、塩谷のバットが空を切った。

 

 終わった。

 そう思った瞬間、キャッチャーの三国の脇からボールが零れ落ちたのが見えた。

「振り逃げだ、走れ!」

 俺の声に反応した塩谷は咄嗟に一塁へと駆け出す。三国が送球しようとしたが、慌てたのか握り替える際にボールを落として塩谷は一塁へ生きた。

 

 あわやゲームセットから、なんとか首の皮一枚繋がった・・・。

 

 4番の岸川が打席へ、5番打者の俺はネクストサークルへ向かう。

 もしかしたら俺まで回るかもしれない。

「岸川ー!自分のスイングで行け!お前が決めてもいいぞ!」

 岸川がシンカーの上っ面を叩く。高いバウンドで丁度ピッチャーとファーストの間へと跳ねた。

 高く跳ねた打球を見上げ、ピッチャーの友江がグラブを掲げて捕球の態勢を取る。ダメだ、鈍足の岸川じゃ内野安打にはならない。

 

 しかし、ここで再び垣田商にミスが出た。ボールを捕ろうとした友江とファーストが交錯したのだ。ボールは誰の手にも渡らず、岸川は無人の一塁ベースを岸川は駆け抜けた。

「痛ってぇな!ファースト出すぎだろ!声出せよ!」

「友江さん、スンマセン!」

 ファーストを務めていたのは終盤に代打で登場し、そのまま守備に就いた一年生。普段の試合では無い組み合わせが、連携ミスを引き起こした。

 

 繋いだ。

 完全に討ち取られたはずが幸運の一打となり、岸川は一塁上で何度もガッツポーズを繰り返した。

 神高ベンチの雰囲気も最高潮に達する。 『神高が甲子園4強に逆転サヨナラ』 という奇跡を信じ、必死で声援を送る。

 

 7回裏に俺が凡退した時、神田に「絶対にお前まで回す」と言われた。その時は「まさか」くらいにしか思っていなかった。

 だが、本当にこうやって。しかもゲームの行方を左右する場面で俺に回ってくるなんてな。

 

 

 右打席でバットを構える。焦りも、力みも全くなく、自分でも恐ろしいほどに落着いて「友江って結構身長高いんだな」なんてことを呑気に考えていた。

 

 先ほどの守備で交錯した影響を友江は全く感じさせず、それまでと変わらない早いテンポで投げ込んできた。

 第1球。ヒザ元に決まるストレートを見逃しストライク。スピンの掛かったボールのノビはハンパなものではない、ミットに収まるときの音が段違いだ。

 第2球、外角低めのストレート、球審の右手が上がった。絶妙なコントロール。

 

 捕手からの返球を受けた友江は、余裕の笑みを見せる。

 友江のペースに吞まれてる。そう感じて多少なりの焦りが生じる。

「タ、タイムお願いします!」

 思わず打席を外す。

 ここまでの振舞いから察するに、間違いなく格下の俺達を見下している。だからこの俺を「三球三振」で圧倒してゲームを終わらせようとするはずだ。

 つまり、次の三振を狙いに来るボールを俺は打たなければならない。

 

 落ち着け、冷静になれ。

 

 

 友江はカーブとシンカー主体の「変化球投手」。それでいてストレートのキレも素晴らしい好投手。

 だが、その中でも『投げづらい球種』はあるはずだ。

 思い起こせば、塩谷の振り逃げはシンカー、岸川の内野安打もシンカーを投げた結果によるもの。友江の意識の中に「今日はなんとなくシンカーが良くないな」というものが生まれていてもおかしくない。

 ならば後は『ストレート』か『カーブ』のどちらが来るか。

 

 この2つを両方狙うというのは不可能に近い。完全なる勘で、カーブに狙いを定めた。

 

 バットを短く持つことで「ストレート狙い」を装い、さり気なくベース寄りの位置に立つことでシンカーを投げずらい状況を作った。

 頼む、カーブよ来てくれ。

 

 9回ウラ、1点ビハインド、ツーアウト一塁二塁、ツーストライク。

 これで状況は全て揃った。

 

 審判がプレー再開をコールすると、友江は待ってましたといわんばかりに第3球を堂々と投げ込んだ。

 ムチのようにしなる右腕からフワッと浮き上がるボールが放たれる。

 高めへの釣り球か?いや違う、これは

 

 カーブだ。

 

 これ以上ない最高のスイングで捉える。

 確かな感触を残したライナー性の打球は、今日ファインプレー連発のセンター青野の左へと飛んだ。

 またアイツのところに飛んだか、自分の不運を呪いつつ駆け出す。

 

 青野が信じられない加速でボールに迫る。右足で地面を思い切り蹴って飛び込んだ。

 伸ばされる左手、開かれるグラブ。青野のグラブの動きと、ボールの軌道が重なる。

 

 黒土が舞い上がり、青野が倒れ込む。

 

 

 

 舞い上がった砂塵から白球が勢いよく抜けた。

 

 神高ベンチからこれ以上ない歓声が上がり、ボールは左中間を転々とする。

 二塁ランナーの塩谷が打球の行方を振り向きもせず、必死の形相でホームを駆け抜けた。同点。

 

 レフトがやっと打球に追いつき、一塁ランナーの岸川は三塁の手前に迫る。

 ベンチから飛び出した全員が腕を大きく回しホーム突入を強く促す。岸川は迷いなく三塁を回った。

 

 俺は一塁を回ったところで立ち止まり、ホーム突入を見つめる。ここで再び俺は「見届ける」ことしかできなかった。

 

 ショートからのバックホームと岸川の突入はほぼ同時。下手なスライディングのせいでタックルするような形になり、審判が判定を下すのを一瞬躊躇った。

 

 

 重い沈黙を置いた後、両手が左右に開いた。

「セーフ!ゲームセット!!」

 

 そこからは仲間にもみくちゃにされた事しか覚えていない。

 




◇練習試合
    一二三 四五六 七八九 計
垣田商 000 004 000 4
神 山 200 010 002 5


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24話 伝統ある野球部の復活

 県南部から地元の神山市へ、2時間掛けて高速バスで帰還。

 到着した頃には、既に市の西に位置する連峰に夕日は沈み、時刻は夕方から夜へと移り変わろうとしていた。

 

「全員いるかー?」

 神山市の中心部、神山駅。駅前の広場で点呼を取る。

 日曜の夕方とあって人通りが少ないとはいえ、20人ばかしの集団がこのままたむろする訳にはいかない。ミーティングを手短に済ませる。

「全員いるな?よし。今日はお疲れさん」

 面々の顔を伺うと、激闘と長旅から疲労の色を隠せないようでいた。

 一刻も早く解放してやりたいが、今日のうちに、今のうちに言っておかなければいけないことがある。

 

「・・・今日の試合前に『負ける』と思ってた奴。手を挙げてくれ」

 唐突に問いかける。

 皆は一瞬困惑したが一人二人と手を上げ始め、結局殆どが『負けると思っていた』ということを明かした。

 

「・・・まぁ、そうだろうな」

「だけど俺達は勝った。つまり、自分たちの実力を何ひとつ分かっちゃいなかった。ってことだ」

 

「・・・じゃあ次に聞こう。『甲子園4強に勝った俺達は強いか?』」

 ほぼ全員が頷く。

 「勝った」という事実を改めて噛み締めた部員から、笑みがこぼれる。

 

「よし、・・・最後にもうひとつ聞こう『この夏、甲子園に行くのは俺達だ』。そう思ってる奴は手を挙げてくれ」

 『甲子園』。

 その言葉の重さからさすがに雰囲気が引き締まり、どうリアクションをしていいのか迷っているようだった。

 隣の者と顔を見合わせ、難しいだろう、甲子園なんて、と自信の無い言葉が交わされる。それは塩谷や多村といった「ガチ勢」の面々も同じ。重い雰囲気のまま停滞してしまった。

 

 ダメか、やはり万年初戦負けチームの想いなんてのはそう簡単に変わらないものなのか。

 俯きかけたその時、誰かが手を挙げたのが見えた。

 

 手を挙げたのは末広だった。

「行けるよ!単純な話だろ?俺達は甲子園に出たチームに勝ったんだ!だから、俺は自身を持って言える。甲子園に行くのは俺達だ」

 同調するように徐々に手が上がり始める。「つられて」ではない。全員が今日の試合で自分たちでも勝てることを身をもって味わった、そして本気で「甲子園に行ける」と信じ、強い意志をもってそれを表す。

 最後のひとりが手を挙げた瞬間。神高野球部の想いはひとつになった。

 

「俺達が甲子園に行こう。神高の歴史に残るような、伝説の夏にしよう」

「「おう!!」」

 

 沈む夕日とは対照的に、俺達は希望で煌々と燃えていた。

 

 

 

 

「いやー、今日は勝てて本当に良かった。それにしても最後は上手くまとめてくれたな」

 

 暗くなった夜道。塩谷と並んで家路につく。

 駅から更に徒歩で暫く歩くことになる俺達。疲れから自然といつもよりゆっくりな足取りになる。

 

「あんなの何も考えずに言っただけだ」

「それでも改めて部の総意をひとつにできたのは大きいよ。じゃないと『ただ勝っただけ』になるところだった」

 『勝っただけ』か、そもそも今日の試合を仕組んだ目的はチームの想いを統一するためだったのだ。だから「甲子園4強を相手に勝つ」というのはあくまで通過点でしかなかったということになる。

「『勝ちを通してチームを纏める』それがこの練習試合の目的でもあったからな。全部が良いように転がってくれた」

「じゃあ、もしも今日の試合。ボロ負けでもしたらどうするつもりだったんだ?」

「それは・・・どうしたんだろうな、考えてなかった」

 塩谷が驚愕し、困惑の表情を見せる。今言ったことは本当だ、上手くいかなかったときのプランなんか用意してなかった。

「ま、まあ何より、長坂のおかげもあって最高の状態で夏を迎えられるわけだ」

 

 歩みを止める。

「いや、まだ全部が解決したわけじゃない」

 塩谷はその意味を理解できなかったのか、首を傾げた。

 

「長坂キャプテン、塩谷さん」

 聞き覚えのある声を背後から掛けられる。

「久々野、いたのか!」

「話があるんですけど、今からいいですか」

 塩谷の呼びかけを遮って切り出される。

 

 久々野の只ならぬ雰囲気から直感した。

「『あの話』だろ?」

 久々野は何も言わず頷く。

 神高の抱えるもうひとつの問題、それは『エース・久々野の引き抜き』。暫くはそれに関する動向こそなかったが、久々野は「愛知の名門・名京商業へ転校する」という意思を一度表明している。

 転校のリミットは夏の大会まで、時期としてそろそろ。といったところである。

 

「・・・よし分かった。塩谷、お前も付いてきてくれ」

 

 神高野球部にとってターニングポイントとなった激動の1日。今日はまだ終わりそうにない。



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