朝と夜 (くろん)
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第一話 麦の葩

 ツガクが寺送りになった、という噂が僕らの間で流れ出したのは、ちょうど春の気配も漂い始めた如月の頃のことだった。

 

 最初僕らはそのことを面白がって、冗談の種にしていたくらいだった。大方あのツガクの野郎がまた嘘を吹聴しているのだろう、とはじめは皆そう思っていた。

 でも実際に、ツガクが一月、二月と法級を休むようになった辺りから、それこそまるでツガクなんて人間はこの栗山法級に最初から存在しなかったかのように、皆の間で彼に関する噂話はぱたりと止んでしまった。そうしてうっかり誰かがその名を口にしようものなら、級室中の空気が急にしん、とまるで凍りついたように張りつめてしまうのだ。

 

 吉条(よしじょう)先生はただ一言、神妙に眉根に皺を寄せて、ツガク君はご家族の意向で寺に入教することになったのだ、とだけ僕らに言い伝えていた。

 そうして、ほんの少し前まで、やんちゃで陽気でお喋りな少年のいた席には、ぽっかりと空白が開いてしまった。

 

 それから、皆が彼のことなど綺麗さっぱり忘れかけていた頃のこと、虫送りの季節がやって来た。

 

 虫送りというのは、供養という名目で虫を駆除する祭礼のことである。本来は、大量発生による蝗害を防ぐため、生みつけられた卵や孵化したばかりの幼虫を文字通り焼き払うという意味合いで使われていたらしいのだが、今日では単に虫を屠る儀式として知られている。

 栗山法級では、秋の稲刈りに備えて毎年寺で行われる虫送りの手伝いをすることになっていた。

 

 その日は妙に眠たい日だった。僕は級室の床の複雑に伸びる木目を眼で追いながら、頭に染み入ってくる睡魔と戦っていた。

 

 暗い底に意識が落ちかけたところで、左隣から僕の肩をとんとんと叩く者がいた。安眠を妨げられていささか憤りながら振り向くと、仏頂面の、ヒサグの顔があった。

 

「起きなさい」

 ヒサグは、きっぱりと、大きな声でそう告げると、ほんとうにしょうがないわね、といった呆れ顔で僕を見下げた。瞼を擦りながら周りに目をやると、級徒たちがくつくつと笑いを堪えていた。

 

 くそ女が。心の中で毒づく。何もそんなに大きな声で注意しなくてもいいじゃないか。

 

 ほんとうに、名に違わず男みたいな奴だった、ヒサグは。髪は短いし、それに頬骨が出ていて、色黒で、とにかくおよそ十二歳の少女には見えないような風貌をしている。

 こんな奴と同じ班になってしまうとは、全くついていないとしか言いようがない。

 

「しっかりしろよ、セブキ」

 うしろの席のナラズミが、僕の背を手の平でばんばんと叩いた。爆笑が級室中に渦巻いて、僕は恨みをこめた眼で窓から覗く景色を睨みつけた。

 澄み切った青空のもと、黒々とした山並みがなだらかに連なっていて、平地との境界線のあたりからは青々とした水田が続いている。

 そんな清涼感を含んだ景色も、窓から吹く涼しい風も、余計僕を苛立たせるだけだった。

 

 ようやく爆笑が収まって、授業が再開した。

吉条先生が墨板に、付近の水田の略図を書き出した。山に沿って、点々と、全部で六つの印がつけられていく。

「これが、各班の配置だ」

 吉条先生はそれから、長々と虫送りに関する説明を始めた。

 

「今年も、例年通り、密生した莢被(さやかぶ)りの巣を焼き払う。襲撃自体はあちらがやってくださるそうだから、法級では包囲から抜け出してきた莢被りを山側へ追い払う役をすることになる」

 

 それは僕も知っていた。栗山法級では年長組がその役目につくことになっていて、毎年火蓑棒(かぎづる)を振り回して莢被りを追う上級生の姿にちょっぴり憧れを感じたものだ。

 隣を見れば、ヒサグが生物観察の教科書を取り出して頁を繰っていた。節脚虫目、カラムシ科。莢被り―本土の分類上、正確に言うなら、大蜜殻虫(オオミツガラムシ)の頁を見つけると、しげしげと記載された挿絵や文を眺めている。

 

 莢被りは、多分、栗山では最も名の知られている虫だろう。ここらで虫といえば、大抵莢被りのことを指す。体は扁平で、節毛に覆われた細い脚が横っ腹から突き出ている。特徴としては、腹から尻にかけて体が盛り上がって上を向いているところだろうか。雄は繁殖期になると磨り潰した葉や食べ残しの粕を口から分泌する粘液で固めて、体を覆う殻のような物体をつくる。これを背負ってちょこまかと歩いているところが、まるで莢を背負っているようだということから、莢被りと呼ばれているらしい。

 教科書にはそのようなことが書いてあった。

 

「絶対に莢被りに近付いたりしちゃいけないからな。くれぐれも危険な目に遭わないように、節度を守って取り組むこと、いいな」

 

 気のない返事が二、三飛んで、授業が終わった。

鐘が鳴り終わらない内に、ナラズミが傍によって、話しかけてきた。

 

「なぁ、先生はあんなこと言うけどさ、俺莢被りなんて何度も触ったことあるぜ」

「ああ、そうかよ」

 ナラズミはいけ好かない野郎だ。何かと僕に付き纏ってからかってくる。それに話す内容は、大方自慢話に決まっている。

「嘘じゃねえぜ、この前も、こんなに大きい奴の背に跨ってやったんだ」

 

「馬鹿じゃないの、あんた。くだらない」

 

 ヒサグが、心底軽蔑するといった視線で僕らを見やった。ナラズミが何か言い返して、口喧嘩になりかけるのを、まあまあとスクがとりなした。

 

 スクについては、特に綴ることもない、弱虫の野郎としか思っていなかった。いつもにこにこと穏やかげな笑みを浮かべていて、放課後になれば動物や虫を探して野山を駆け回っているという噂だ。

 それでも、この四人班の中ではまだ信頼できるたちだろう。人畜無害というやつだ。何かにつけて説教を始める訳でもないし、しつこく絡んでくるわけでもない。

 

 ナラズミは一言、おとこ女!と吐き捨てると、大げさに椅子を引いてどこかへ行ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから帰り道、畦道を歩いていると、偶然にスクと出会った。彼は道のふちに屈みこみ、鈍く光る田圃の水面に目を凝らしていた。余りにも真剣そうな表情をしているので、僕が怪訝に思い近付いていくと、彼はうわっと声をあげて飛び退った。その拍子に重心を崩して、水田にずぼりと右腕が突き刺さってしまった。

 

「何してんだよ」

 僕がそう訊ねると、スクは泥から腕を引き抜いて立ち上がり、言った。

「オタマジャクシを見てたんだ」

 

 スクは繁る稲の隙間から覗く黄褐色の水面を指差して、セブキも見てみなよ、かわいいよ、と続けた。急いでいるわけでもなし、言われるがままに底を覗き込んでみる。

 暗く濁った水の下に泥が深く堆積していて、底のあたりで数匹のオタマジャクシが尾をゆらゆらとくゆらせながら跳ねるように泳ぎ回っていた。よく見ると、体から小さな脚が生えているものもいた。

 

「うわ、こいつ脚なんて生やしてやがる。気持ち悪ぃ」

「大人と子供の間だからだよ」

 

 スクはまんじりともせずにオタマジャクシに見入っている。

段々と僕は気味が悪くなってきた。といっても、別にスクに嫌悪感を抱いたわけではなく、ただ脚の生えたオタマジャクシが妙に不格好で不気味なように思われたのだ。

 何かがおかしい、何かが間違っている。そういう違和感を覚えた。別段不思議なことなど何もないのだろうけれど、薄暗く、何一つ動くものなどいないはずの水の底で蠢く異形の存在は、僕を慄かせるには十分だった。

 

「ずっと見てたいよね」

 

 スクが出し抜けにそう言った。

 

 僕は適当に頷いて、その場をあとにした。

何の理由もないのだけれど、この時僕の頭を過ぎったのは、春先に級室から姿を消したあの少年のことだった。

 

 

 

 

 

 

 



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第二話 燃え盛る火、火、火

 

 その日は朝から級徒のみんながみんな浮足立っていたようで、級室中に何となくそわそわした空気が漂っていた。お祭りの前の、あの何ともいえない高揚感。ナラズミなど誰彼かまわず興奮してぺちゃくちゃと喋り立てるものだから、いつもより一層煙たがられていた。

 

 二限目、生物観察の時間には、教科を担当する根賽(ねさい)先生が授業を一旦切りやめ、莢被りについての話をしてくれた。

 

 生物室は正方形に半円をのっけたような形をしていて、根賽先生が立っている教壇は半円側に位置している。その教壇を取り囲むようにして並ぶ本棚が、ある種の威圧感を根賽先生の頬のこけた顔に少なからずは与えているようで、生物室での授業は居眠りをする者がいないと評判になっていたほどだ。

 級徒用の細長い机は全部で七つあって、うちのひとつは座る者がいないためにたった一脚ぽつんと窓からの日差しを浴びている。

 

 僕らの班はその空机の前の机に腰をおろしていた。

 

 根賽先生の話の内容は、虫送りに際しての注意事項や約束事から、いつの間にか莢被(さやかぶ)りの生態についての講義に移り変わっていた。熱心に話に聞き入り、筆帳に覚え書きをしているヒサグの横顔をぼうっとしながら盗み見ていると、隣に座るナラズミが肩を組み合わせてからかってきた。

 

「何だよう、セブキ。覗き見か」

 

 うるせえよ、とあしらったが、ナラズミはしつこく冷やかしてきた。終いにはヒサグとスクまでもが疑惑の眼差しで僕を見たほどだ。

 

「セブキ君、私の筆帳を写させて欲しいのなら、素直にそういえばいいのに」

「違うよ、もう」

 

 根賽先生は、僕らの痴話喧嘩などには目もくれずに熱弁をとばしていた。

 

「つまり、莢被り、大蜜殻虫(オオミツガラムシ)のように大きな巣をつくって集団で暮らす、と。こういった行動形式をとる虫を総じて社会性虫と呼ぶわけであります。把中近辺では土掬(つちすく)いのような大型鎧虫類が似たような集団をつくることで知られていますが、あちらとは階層や仕組みからして全く別の類であります」

 

「土掬い。知ってる」

 ヒサグがそう呟いた。

無論僕も土掬いの名なら耳にしたことがある。

 

「個体は全部で三種類にわけられます」根賽先生は続けた。「雄、雌、そして女王です。まず雄ですが、これは働き手(ワーカー)などと呼ばれている輩ですな。莢被りといえば大抵はこれを指すわけでありますが、働き手の仕事は冬が来るまでにより多くの獲物を獲り、女王の産んだ幼体を育てることにあります。奴らが殻のように背負っているあの大きな塊は、摂取した獲物―四十雀(シジュウカラ)などの鳥類を始め蚯蚓蝦(ミミズエビ)熊蜻蛉(クマトンボ)などの小型の虫まで、まあ、多岐に渡りますが―や栄養分を効率よく持ち運ぶため、自らの体に纏うといった目的でつくっているのでありまして、ああして苦労して持ち帰った餌を巣で待つ幼体どもに与えるわけであります。そして女王はこの夏の間に新たな女王候補を産みます。

「雄たちが出払っている間、幼体の世話をするのは雌たちの役目です。彼女らには繁殖能力はありませんから専らこの仕事につきっきりになるわけです。やがて冬になると、働き手たちが外に出ることはめったになくなります。もう狩りをする余力も残っていないということですね。彼らは新しい世代に命を託して、一匹また一匹と眠りにつくわけであります。ちなみにこの頃は一番巣の賑わう時でありまして、卵から孵った新働き手や女王候補などで溢れかえっております。そして春になり新女王が巣の半数以上の個体を引き連れて新たな場所へ引っ越しを行うと、まあこうして莢被りの一年が終わるわけでありまして……」

 

 確か、莢被りの大行列と呼ばれているやつだ。先頭に異様に腹の膨れた莢被りがたち、数百匹に及ぶ数の個体が後に続く、と。

 

「とまあ、要するに、いま巣房に産みつけられた女王候補の卵を一掃してしまえば、新たな巣がつくられる危険性がなくなるわけであります。虫送りとはそのためにあるのですね」

 

 ようやく根賽先生が話を終えた頃には、級徒のみんなはげっそりして、呆けたような顔つきをしていた。それでもただひとり、ヒサグだけが目を光らせて立ち上がり、質問を発した。

 

「先生。今の話を聞いていて思ったのですが、なぜ最初から女王を殺してしまわないのですか?普通の、雌の莢被りには卵が産めないのだから、そうしてしまえば、巣自体を殲滅できるのではないでしょうか」

 

「いい質問ですね」根賽先生が皺をつくってにこりと微笑んだ。

 

「どこがいいもんか」ナラズミが小声で毒づいたのが聞こえたが、ヒサグは気にしなかった。

 

「確かにそうすれば、巣の莢被りを根絶やしにすることはできるでしょう。けれども、それでは我々は彼らの領域に深く立ち入りすぎてしまうのです」

 

「領域、とは?」

 根賽先生は頬を歪ませてさらに微笑んだ。

「つまりはですね、折り合いをつける、ということです」

 

 授業はそれで終いになった。

僕らは上の空のまま午後の授業を受け、一旦帰宅したのち、親に連れられて再び法級を訪れた。無論、虫送りの前準備をするためである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脂が混じっているみたいに、じとっとした空気が充満していた。

級庭の真ん中に焚かれた大きな篝火が風を受けてゆらめくと、辺りを包む闇と橙に光る炎との境目が曖昧になる。

 僕らは篝火を囲んで、順番に各々火蓑棒(かぎづる)を受け取っていった。

 

「こいつで莢被りを追い払うわけだな」

 

 ナラズミが火蓑棒を振り回してそう言った。

振れ幅の炎に照らされて、一瞬級庭の裏に聳え立つ木々の輪郭が浮かび上がり、それからすぐに消えるのが見えた。

 

 恥ずかしい話だけれど、僕は燃え盛る篝火のあまりの巨大さに圧倒されてしまって、瞬きもせずに見入っていた。

 炎は絶えずかたちを不定形に歪ませながら、暗闇を舐め回すようにその舌先をちらつかせていて、火蓑棒が引き抜かれる度に全体がびくんと波打つのだった。

 

 これは命をうばうためのものだ。

晴れてこの地に舞い降り、芽吹くはずだった数多の命を、奪ってしまう炎。美しいと感じたのは、やはりそういう背景があったからなのだろうか。

 

「よし、では、移動するぞ、皆列になってついてこい」

 

 吉条先生がそう告げるまで、僕は我を忘れて、吸い寄せられるように篝火に注視し続けていた。

ナラズミに肩を叩かれて、ようやく我に返った。ヒサグ、僕、ナラズミ、スクの順番で、五班の後尾についた。

 こうして皆で連れだって法級を出るというのは何とも不思議な気分を催させるもので、火蓑棒の明かりに照らされた皆の顔は、何故かいつもより一回りも二回りも大人に見えた。

 

 前を行くヒサグは、五班のハヅルと女同士おしゃべりに耽っていた。いつもは物静かで優等生なハヅルの顔もみんなと同じく汗ばみ朱に染まっていて、別の人を見ているような感じがした。

 

 ナラズミはいつの間にか駄弁りに列の前の方へ行ってしまっていて、僕の後ろにはスクと引率の金田先生のふたりきりだった。スクは浮かない顔で火蓑棒を低く腕からぶら下げていて、しきりに金田先生に何かを訴えているようだったが、皆のお喋りのせいで聞き取れなかった。

 

 それから、水田に沿って畔をしばらく歩くと、木立のまばらに生えた斜面が見えてきた。

正装に身を包んだ先生方、それに虫送りを見物に来た村の衆たちも集まって、中々に賑やかげな雰囲気を醸し出している。僕らが手を振ると、みんなも応えてくれたのがこそばゆかった。

 

 森の奥の方からは明かりと人声、それに物音が梢の風にざわめく音とともに漏れ出ていていた。

 

 吉条先生の短い話が終わると、いよいよ持ち場に分かれて虫囲いをすることになった。僕ら六班に割り当てられた場所は、山と田の境目の切り開かれた小径で、万が一のために金田先生と伎楽の教科を担当する橋玖波(はしくば)先生が傍についていてくれた。

  追われた虫が飛び出て来るまではまだ時間があって、ヒサグはその間楽しげに先生二人と話し込んでいる。

 僕とナラズミとは、さもつまらなさそうにそれを眺めていた。

 

「あいつ、やたら先生に気に入られてやがるよな」

 ナラズミが口をとがらせた。これに関しては、珍しく彼に同意できた。

「筆帳に覚え書きをして、媚を売ってるんだ。浅ましい女さ」

 そう言った時、傍らのスクが薄く涙をながして暗い森を眺めているのに気付いた。金田先生が言葉をかけて慰めてはいるが、耳に入らぬようで、俯きながら赤い目尻を肘で拭っている。

 

「どうしたんだスク」

 ナラズミが大股に近寄っていくと、スクはぷいと顔を背けてしまった。金田先生も困り果てた様子で、僕らに話しかけてきた。

 

「莢被りがかわいそうだっていうのよ。今までは何とか我慢してたらしいんだけど、根賽先生の話を聞いてから、殊更そう思うようになっちゃったみたいで」

 

 僕は半ば呆れながらスクを見やった。全くもって、彼の真意は測りかねた。

 

「スク、お前は虫の化身か何かか?」

 ふざけてそう言っても、彼は受け答えもしなかった。まるで、それこそ何も告げずに、彼だけの深く暗い世界―あの水田の、黒いオタマジャクシが蠢く底が思い浮かんだ―に一人沈み込んでしまったように僕には思えた。

 

 

 

 

 

 



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第三話 虫を殺さば

 

 スクがそんな状態だったものだから、僕らは、木立の合間からひょいと顔を覗かせた一匹の莢被りの姿に、はじめは全く気が付かなかった。

 

 やっと僕が火蓑棒の明かりの下に影を認めた時には、そいつは畔を乗り越えて水田へ出ようとしていた。

 

「いかん!」

 いつもしかめっ面で無愛想な橋玖波先生が、はっとして大声をあげた。

ヒサグのきゃあという悲鳴が風を切った。僕も慌てて火蓑棒を振りやったが、金縛りにでもあったようにその場から動けずにいた。

 

 一瞬間を置いて、すぐにナラズミが駆け出した。

続いて橋玖波先生が後を追う。交差する火蓑棒の明かりに照らされて、いくつもの影が踊っているのを横目に、僕も弾かれたように駆け出した。

 

 草履を脱ぎ捨てて足袋だけ履いた脚で地を蹴り、水田に駆け寄った。泥水に脚が沈み込んで、とても冷たい。

 

「そっちにいったぞ、セブキ!」

 

 左手で火蓑棒を振り回しながら、ナラズミががなりたてた。

僕はぬかるみに脚をとられないよう慎重に早足で駆け、稲を踏み倒しながら町の方へ這っていく莢被りの巨体を追った。

 

 莢被りの体は、近くで見ると小さな毛のようなものに全身を覆われていた。

半身を水に沈めながら、脚を小刻みに動かして這っている様子は、まるで赤把犬(アカハイヌ)が犬かきをして泳いでいるようで、どこか滑稽でもあった。

 

 僕より先に、橋玖波先生が追いついた。先生は火蓑棒を莢被りの突き出た尻に振り下ろした。

金属を擦り合わせたような悲鳴とも怒鳴り声ともつかぬ音が辺りに響き渡って、莢被りは激しく体を捩らせた。その拍子に水飛沫をまともに喰らって、僕は泥水をしこたま飲んでしまった。

 

 騒ぎを聞きつけたのか、先生方と、それに野次馬が集まり始めた。

大勢に囲まれた莢被りは、しばらくはめちゃくちゃに体を振って抵抗していたが、菌針(きんし)の吹き矢を射られると、体を痙攣させはじめ、やがて沈黙した。

 

 生き絶える刹那、莢被りの脚のうちの一本がぴくぴくと震えていたのが、僕の目に留まった。嫌なものを見てしまったなぁ、と思った。

 実際僕はといえば、茫然としながらそれを見守っていたに過ぎないのだが、脚も手もきんきんに冷えていたのに、頭だけははっきりとしていて、まるで夢の中にいるような、変な感じがしていたのだ。

 

 細かく震える、莢被りの毛の生えた脚の残像が、いつまでも僕の頭に残って消えないようだった。

 

 これだけでことが済めばよかったのだが、不運なことに騒ぎを聞きつけた興心寺(こうしんじ)の僧正が激怒し、そんな頼りない追い子には虫囲いを頼めないと、はねつけてしまったのだ。

 先生方は莢被りの死骸を処理するため持ち場に戻り、僕ら級徒は追い返されるようにしてとぼとぼと帰り路についた。

 

 言わずもがな、六班には無言の非難の視線が向けられ、スクなどはがっくりと頭を垂れていて落ち込んでいる様子だった。

 

「莢被りは何も悪いことなんてしてないのに。痛かっただろうなあ、菌針を打ち込まれて」

 

 そう、スクがぶつぶつと呟いているのが後ろから聴こえてくる。

 

 重苦しい行進だった。

月に照らされたヒサグの横顔を見ると、意外にも彼女なりに責任を感じているのか、きっと口を結んで前を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 狂騒の夏が終わって、栗山に秋が訪れようとしていた。

葉月の中ごろ辺りになると、もう寒さが忍び寄ってくるものだから、僕らは子供ながら気付けば夏が過ぎ去ってしまったという感傷に胸を打たれたものだ。

 

 まだ紅葉が色づくのには早いけれど、自然は刻一刻とその姿を変えつつあった。

 

 僕は脚をとめて、水田を眺めやった。

稲刈りの終わった水田には、夏の頃の面影はなく、ただ湿った黒い泥の中に、まばらに茎の刈り口が覗くばかりである。

 莢被りが踏み荒らした辺りも、今は綺麗に整地されてしまっていて見分けがつかない。

 

 やがて栗山法級の角ばった級舎が視界に映り始めた。僕は肩のかけ鞄を背負い直し、畦道を急いだ。

 

 級室の戸をがらがらと開けて机に向かうと、六班の班員三人が顔を合わせていた。

「あ、セブキ君」すぐに、ヒサグが顔をあげて僕を呼び止めた。「今、ちょうど今度の、林間法級について打ち合わせをしてたんだけど」

 

 言われて思い出した。記憶がおぼろげだが、確か昨日そんなことを吉条先生が話していた気がする。

「課題をやらなくちゃいけないんだってさ。行った先で、そこの文化について書式にまとめて提出するんだそうだ」

 

 ナラズミがそう言って、貧乏揺すりをした。僕は荷物を脇に吊るして、腰を席におろした。

「私は、奥原(おくもと)の自然環境について。……ううん、それより、自然とそこに暮らす人々との関わりについて調べてみようと思っているのだけれど、どうかしら」

 

「そんなもん適当でいいよ。社会学の教科書の文章を写して書いちまえばいい」

 ナラズミが自分で言って、はははと笑った。僕もつられて笑ってしまった。課題なんぞ億劫だし、できることならヒサグひとりに任せきりにしてしまいたかった。

 

 ヒサグはそんな僕らをきっと睨みつけると、話を再開した。

 

「もう、こんな奴ら相手にしてらんない。スク、どう。何か意見ある?」

 

 スクはもじもじと数秒戸惑った後、恥ずかしげに声を絞り出した。

 

「寺について、なんてどうかな」

「寺ぁ?」

 ナラズミが聞き返すと、スクはどもりながらも話し出した。

「ほら、奥原にはあの、大きな寺があるじゃないか。地元の人たちと親密に関わってきたわけだから、文化とも関係があるわけだし」

 

「おお、いいね」

 僕は素直にそう告げた。寺を調べさせてもらうならば、野山に調査に出る必要もないし、何より話を聞いて覚書をするだけで済んでしまう。中々の名案なんじゃないだろうか。僕はちょっとスクを見直した。

 

「よし、多数決にしようぜ」

 ナラズミが言って、ヒサグの案とスクの案とを順々に告げた。二対一で、スクの案が採用されることに決まった。ヒサグは不満そうだったが、僕としては儲けものだった。

 

 そして、このところ気分が打ち沈んでいたらしいスクが、久しぶりに笑顔を見せてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四話 知らないもの

 林間法級を先に控えたある日のことだった。級庭に、大きな黒い虫の死骸が打ち捨てられていた。

初めに発見したのは級徒委員のキヌイで、彼によれば一目見た時には倒木か何かだと勘違いしたそうだ。僕が法級に着いたのは、三々五々下級徒たちも投級してきて、騒ぎが一段と大きくなってきた頃のことだった。

 

 物知りのキヌイでさえ知らなかったのだから、僕らにその虫の正体がわかるはずもなかった。級室の窓に面した辺りで、ああでもないこうでもない、と議論が交わされていた。 

 

 虫は大きかった。土掬(つちすく)いより大きいかもしれない、とキヌイが興奮した調子で喋り立てていたが、僕自身生物学の教科書に掲載された挿絵でしか土掬い―本土の分類でいうなら大黒銅鉦(ダイコクドウガネ)―を見たことがなかったから、いまいち実感が湧かなかった。

 やがて吉条先生が長髪を靡かせて級室に入ってきた。

 

「先生、あれは何なんですか」

 

 ナラズミが窓の外を指差してそう訊ねると、吉条先生はさして興味もなさげな様子で歩み寄り、黒い虫の死骸に目を凝らした。

 

「何だかねえ。根賽先生に聞いてみないことには、先生にもわからん」

 

 それっきり黒い虫に関する話は途切れてしまって、いつものごとく授業が始まった。

でも、何しろ級庭のど真ん中にそいつがいるのだから、気にならないはずがなかった。僕も水面下で、誰かまた口を開いてくれないものかと密かに願っていたが、結局誰も触れずに一時限目が終わってしまった。

 

 休み時間になると、下級徒たちが一斉に死骸に駆け寄って行った。すぐに先生に止められて皆すごすごと引っ込んでいってしまったが、そうしたい気持ちは僕も山々だった。

 

「なあセブキ、どう思う」

 後ろの席のナラズミが顔を近付けて話しかけてきた。

「さあね」

 僕が気もなさげに返事をすると、ナラズミはさらに顔を近付けてきた。

 

「俺は、莢被りの呪いだと思う」

「呪い?」

 

「ああ」ナラズミは頬を上気させた。「虫送りの時、先生が菌針で莢被りを射ち殺しただろう。きっと恨みをもって、出てきたんだよ」

 阿保らしいことこの上ない。第一、あの虫と莢被りとでは形も大きさも全然違うではないか。そう指摘すると、ナラズミはむきになって言い返してきた。

「ちげえよ、死んだ莢被りが、冥界から虫を引き連れてきたんだ。だからあれは、ここらじゃ全然見かけないような姿をしてんだよ」

 

 そんなふうに語らっていた時、突然に、ぶるんぶるんと風を切る音がして、級室の窓枠が細かく揺れ始めた。

 窓から身を乗り出して上空を見やると、曇り空に黒い点がぽつぽつと浮いていた。

 

熊蜻蛉(クマトンボ)だ」

 

 ナラズミが言った。

 

 熊蜻蛉自体は、別に珍しいものではない。

節翅虫目アキツ科に属する虫。大きさは狸か鼬ほどのもので、名前の語源としては褐色の甲殻が羆を思わせるという説や、その特徴的な翅音が同じく羆の唸り声を連想させるといったものなど諸説が存在するらしい。

 またここらでは獲物を求めて上空を旋回しているのをよく見かけるから、姿自体は見慣れたものだった。けれども、級庭に転がる得体の知れない虫の死体と、どんよりと灰色に濁った空の色も相まって、熊蜻蛉の空気を震わせるような翅音は僕に何とも不吉な印象を抱かせた。

 やがて熊蜻蛉が翅を羽ばたかせながら降りてきた。

黒い虫が大きいせいもあるのだろうけれど、やたらに小さく見えた。

 

 熊蜻蛉は細長く伸びた頭部を伸ばして黒い虫の体にちょこんと触れた。その拍子に複眼の下の、千切れかけた触覚がゆらりと揺れ動くのが見えた。

 

「きっと、あの死体をいただくつもりなのよ。卑怯なやつ」

 いつの間にかヒサグが窓によって、そんなことを呟いていた。

 

 狩りをして捕えた谷地鼠(ヤチネズミ)北狐(キタキツネ)蝦夷栗鼠(エゾリス)なんかをぶら下げて重そうに飛んでいるのを見かけたことはあったが、屍肉をあさっている所は初めて見る。

 鳥が啄ばむようにして、熊蜻蛉が黒い虫の甲殻に喰いついた。しばらく見守っていると、一匹を残してみんな山へと飛び去っていってしまった。

 

「あれ、行っちゃった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休みになって、先生方が皆級庭に出てきた。

その内に虫の死骸は縄で括られて、荷車でどこかへと運ばれていった。

 既に根賽先生のもとには級徒たちが大勢訪れていて、先生は矢継ぎ早に投げかけられる質問の波にいささか混乱しているようだった。そして、級徒たちが落ち着いた頃合いを見計らって、根賽先生はたった一言重い口を開いた。

 

「皆、もうあれのことは忘れなさい」

 

 僕も含めた級徒たちは、皆一様に、きょとんとした顔で根賽先生を見返した。

その声音には何だか有無を言わせぬものがあって、皆は気圧されたようにして刹那黙り込んでしまった。空気までもが凍てつくような一瞬を置いて、またお喋りと質問攻めとが始まったが、根賽先生は何も言わずに職員室を出て行ってしまった。

 

「何だよ、あれ」

 

 不満そうにナラズミが呟いた。僕も傍らでもやもやした気持ちを抱えていたのだが、そんな時、じっと根賽先生の萎びた顔を見つめるスクの姿が視界を過ぎった。

 

横詰飛蝗(ヨコツメバッタ)だ」

 スクは静かに、低い声で囁くように、そう告げた。

キヌイが、え、何だって?と聞き返したが、スクはなにも答えなかった。

 僕は内心、スクの言葉に動揺していた。

そうだ。なぜ今まで気付かなかったのだ。あの細長くて脚が異様に太い不格好な姿は、横詰飛蝗そのものじゃないか。

 しかし、言わずともそんなことは有り得ないのだ。把中に広く分布する横詰飛蝗は、大きめの個体でもせいぜい僕らの指の先から肘くらいまでの体長しかない。

 

 だから、あんな羆よりも大きな横詰飛蝗がいるはずがないのだ。

そう思った途端に、背筋を冷たいものが流れ過ぎた。

 

 じゃあ、あれは何なのだ。

先生方はあれをそさくさとどこかへ運んでいってしまった。まるで僕らの目から隠すようにして。 

 

 僕はしばし逡巡したけれど、結局何も言わなかった。

踏み入ってはいけない。僕自身、あまりそういうものを信じるたちではないのだけれど、直感的にと言うべきか、そう感じ取ったのだ。

 

 帰り路、山裾の方で大きな煙がもくもくと立ち昇っていて、その上を熊蜻蛉が輪を描いて飛んでいるのを僕は見た。

 凄く嫌な感じがして、すぐに目を背けてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五話 奥原の森

 

 川底に積もった小石の原の上を、蚯蚓蝦(ミミズエビ)が滑るようにして這っていった。

ナラズミが何事か喚き、僕もすかさず尻尾を掴み取ろうと水の中に腕を突っ込んだが、蚯蚓蝦はするりと両手を抜けていってしまった。

 

「何やってんだ」

 蚯蚓蝦は水面をざわめかせて恐ろしい速度で移動し、慌てふためくスクの股下をくぐって逃げ去っていく。

 僕が間髪を入れずにナラズミに怒鳴り返した時、蚯蚓蝦はヒサグの足元まで来ていた。ヒサグはきゃあと悲鳴をあげると、すぐさまざぶざぶと水をかきあげ河原に上がった。

 

 その内蚯蚓蝦は下流の方へと姿を消してしまった。僕は覆い被さってくる徒労感にはあとため息をつき、膝を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕らが林間法級に訪れた奥原(おくもと)は、ただ黒々とした山と野以外には何もない土地だった。川沿いにはぽつぽつと小さな集落が広がっているが、人口は減るばかりだという。

 

 荷車に計十時間も引かれて辿り着いたのが、こんな田舎の村落なのだから、落胆は大きかった。けれども途方に暮れている暇もなく、僕らには夕食の食材集めという指示が与えられた。山に分け入り、汗を流して野外活動を行うことが、心身の鍛練になるとのことで、僕ら六班は宿泊場所の中栄寺にほど近い沢で蚯蚓蝦を捕まえることになったのだ。

 

 蚯蚓蝦とは把北から把中にかけて広く分布する小さくてすばしっこい虫で、栗山でも浅い川底や堰なんかでよく見かける。体はやわらかく弾力のある茶褐色の殻で覆われていて、頭部からは髭に似た長い毛が伸びている。

 また身ごもっている雌の体からは、卵嚢管と呼ばれる卵のいっぱい詰まった袋がぶらさがっていることがあって、一時期僕らの間ではそれを無理矢理引っ張って千切り取るという残酷極まりない遊びが流行っていたことがあった(先生方に発覚してからは禁止されてしまった)。

 

「ああ、くそ」

 

 ナラズミが腹立ちまぎれにばしゃばしゃと脚を踏み鳴らして、呪詛を呟いた。沢に面した、切り立ったちさな崖に声が吸い込まれていった。

 僕らはここに至るまでまだ一匹しか蚯蚓蝦を捕えられていなかった。引率をしてくれた吉条先生も、他の級徒たちの様子を見に行くなどと言って立ち去ってしまっていた。

 

「やっぱり場所を変えた方がいいのよ」

 不機嫌そうに顔をしかめて、ヒサグが言った。僕もそうした方がいいと思った。そもそもここらには蚯蚓蝦があまり生息していないようで、たまに見つけたと思ってもすぐに先刻のごとく逃げられてしまうのだ。

 

 誰が言うともなく、日差しが照りつける中を僕らは川沿いに歩き出した。

沢を渡って、向かい側の蝦夷松(えぞまつ)水楢(みずなら)が生い茂る鬱蒼とした森に足を踏み入れると、空気が一瞬にしてひんやりとしたように感じられた。

 川はゆるやかに傾斜を描いて流れていて、僕らが上流に近付くにつれてだんだんとその幅を狭めていった。

「やっぱり山の中だから、空気がおいしいね。セブキ君」

 

 ヒサグが、白樺(しらかんば)のささくれ立った幹をゆっくりと撫でながら言った。

「別に珍しくもないよ」

 

 ちょっとからかってやろうとそう口にすると、ヒサグはきっと僕を睨みつけてきた。

「な、何だよ」

 その眼つきが余りにも凄かったから、僕はちょっと狼狽えてしまった。

「ここに来てまでそんなこと言うの」

 

 前を行くスクが振り返って僕をじっと見つめた。何だか悪いことをしたのを咎められたようで、僕はそれを誤魔化すためにぎこちなく笑った。

「ただの、冗談だろうが。そんなに怒るなよ」

「馬鹿みたい」

 

 ヒサグは、悲しいような、怒ったような顔をすると、一言吐き捨ててそっぽを向いてしまった。

 

 傍らのナラズミが、にやつきながら肩を組み合わせてきた。吐息が顔にかかって、不快だ。

「傷つけちゃったなあ、セブキ」

「何をだよ」

 

 ナラズミはヒサグを指差して言った。

「あいつなあ、きっとお前と話したかったんだと思うぜ」

「そうかよ」

 

 全くわけのわからない女だ。いきなり怒り出したりして。

 

 やがて苔むした岩に囲まれた渓流が見えてきた。小さな滝があちこちに点在していて、川の流れも分散しているようだった。まだ夕暮れにはほど遠いけれども、空は曇ってうっすらと暗くなっていて、さっきまで川面にさんさんと降り注いでいた木漏れ日も忽然と消えている。

 

「さ、早いとこ捕まえちまおうぜ」ナラズミがそう言って、笊を手に岸に向かった。僕らも後を追う。

 

 さっきの沢とは打って変わって、蚯蚓蝦は面白いほどによく見つかった。川幅が狭いせいもあって逃げ場も限られているので、簡単に捕まえられる。たちまち僕らの笊はいっぱいになってしまった。

 

「凄いな、こんなにいるなんて」僕が感嘆していると、笊の中でぴちぴちと水を散らす蚯蚓蝦をじっと見つめながら、スクが言った。

「きっと上流の方が栄養が豊富だから、ここに集まって繁殖してるんだ」

 

「おい、凄いぞ。見てみろよ」

 

 ナラズミの声が上方から響いてきた。僕とスクは鎮座する巨石をひょいひょいと伝って、滝の上に出た。ナラズミは先の、恐らくは源流に近い流れを指差して喚いていた。

 

「何だろう」

 

 近寄ってみると、そこには大量の蚯蚓蝦が急な流れにもびくともせず、身を寄せ合って蠢いていた。ナラズミは得意気に胸を張って、俺が見つけたんだ、としきりに主張している。

 

 僕は水面に顔を近付けて、蚯蚓蝦たちを観察してみた。

長い髭をくゆらせて、川底に張り付いているかのようにその場を動こうとしない。遠くから見れば、石だと勘違いして気付かないかもしれない。

 僕は顔をあげた。

「でも、こんなにいっぱい持ち帰れないぞ」

「そんなの、後から先生方を呼べばいいだろ。なあセブキ、先行こうぜ。もっといるかもしれねえぞ」

 

 ナラズミは瞳を輝かせてさらに上流へと駆けていってしまった。

おい待てよ、と僕が呆れながら後を追うと、スクもすこし間を置いてついてきた。ヒサグのことが一瞬頭を過ったが、やっぱり不愉快だったので、すぐに追いやってしまった。

 

 

 

 

 

 



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第六話 寺送り

 

 ようやくナラズミに追いついた。彼は川辺に歩み寄り、腕いっぱいに蚯蚓蝦をすくいとっては凄え凄えと喚いている。

 僕もさすがにいらついてきて、いい加減にしろよと吐き捨てながらナラズミの袖をぐいと掴んだ。

 

「何するんだ」

「帰るんだよ」僕は言って、川下の方を指差した。ナラズミは僕に指図されたのが気に食わないのか、へん、と胸を張って言い返してきた。

「お前はほんと、いつもそうだな。偉そうに、自分だけが正しいって顔しやがって。皮肉屋でも気取ってるつもりなのか?」

 

「何だと」

 僕は一瞬、我を忘れてナラズミの首根っこに掴みかかろうとした。やめてよセブキ、とスクが悲痛そうに止めてくれなかったら、きっと取っ組み合いになっていただろう。

 ナラズミは冷淡な瞳で僕を見下ろしていた。憤っているのは僕だけで、彼は至極落ち着いている、というのが無性に腹立たしかった。

 

「……とにかく、早く沢に戻ろう。もうじき暗くなる」

 

 僕はナラズミと真正面から向かい合った。

彼もさすがに、夜の山に取り残されるのは御免だと思ったのか、決まりの悪そうに、渋々と腕に抱えた蚯蚓蝦を川に放してやった。

 

 三人の間に、何とも気まずい沈黙の波が押し寄せてきた。僕が何か言おうと口を開きかけたとき、スクが辺りをきょろきょろと見回して言った。

 

「あれ、ヒサグがいない」

 僕はぎょっとして、滝の下を見やった。確かに、河原にいたはずのヒサグの姿が見えない。森は既に夕暮れの色に染まってきていて、黒々とした梢が赤い空に飲み込まれるようにざわざわと蠢いていた。

 

「ヒサグ、おーい」

 僕は岩づたいに下まで降りると、木立に分け入ってヒサグの名を大声で呼んだ。返事はない。

 

「どうしよう、ヒサグ、どこ行っちゃったのかなあ」

 スクは今にも泣き出さんばかりに顔を歪ませていた。僕もナラズミも刻々と暗くなりつつある空に焦りを感じていた。

 

 上流を目指して歩いている時には意識しなかったけれど、森には色んな音が響いている。野鳥の断続的な鳴き声に、川のせせらぎ、風に揺れる木立。僕はそういうものの中からヒサグを探そうとしたのだけれど、彼女の姿は一向に見つからなかった。

 

 スクとナラズミと手分けして森の中を歩き回っていると、脚にかなり痛みが溜まっていることに気付いた。ここまでかなりの距離をあるいたのだから、当然といえば当然だ。

 そういう疲労も相まって、僕は何度も同じ道をぐるぐると巡っているような気分になってきた。この変な方向にねじ曲がった幹を見るのも、もう三度目になるだろうか。それともただの錯覚なのだろうか。

 

 僕自身少なからず責任を感じてもいたから、焦燥にかられるあまり一種の狂騒状態にあった。ナラズミの大声で意識が呼びさまされた時には、まるで夢から覚めて覚醒した時のように、黒と緑が散りばめられた景色がはっきりと目に飛び込んできた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナラズミとスクが、夕日を浴びて黒い二つの影となって立ち竦んでいる。その傍にはこんもりと葉をしげらせた大きな椴松(とどまつ)がどっかりと腰をおろしていて、幹にもうひとつ、影がもたれかかっていた。

 

「ヒサグ」

 喉がひゅうっと音をたてて、擦れた声を絞り出した。

 

 ヒサグは泣いていた。

長い睫毛を濡らして、人差し指で瞼を擦りながら、声を押し殺して、呻くようにして泣いていた。しゃっくりをしているみたいだった。

 僕が近寄っていっても、ヒサグは顔もあげなかった。顔を見られるのがいやなのか、俯いたまま、また指で瞼を擦った。

 

 僕がヒサグの手を引いて立ち上がらせようとした時、丘を挟んだ向かい側の木立の方から、藪を踏み分けるざわざわという音が聞こえてきた。それに、数人の話し声も。

 

「……まったく、どこまで逃げたのやら、あの餓鬼は」

 一間置いて、しわがれた声が返す。

「把中一帯に網を敷いてるらしいが、まだ見つかってないそうだ」

 

 ざわざわという音が近付いてきた。僕らはまるで金縛りにでもあったかのように動けなかった。

 

「あれが本土にでも渡ったら、大変なことになるだろう」

「総来寺のぼんくら僧どもが悪いのだ。ちゃんと監視の目を光らせておかないから……」

 

「そういや何といったっけかな。あの餓鬼の名前」

 また、しわがれた声。

「ちょうど今来てる、栗山の法級から送られてきたもんだろう。ツガクとか言ったっけか。全くこの忙しい時に林間法級など、何という間の悪さよ……」

 

「ツガクだって?」

 

 ナラズミが驚いて、大声を出した。

その瞬間、僕はまるで、奥原の時間が止まったかのような錯覚を覚えた。森から聴こえる様々な音もぴたりと止み、川もその流れを休止したかのように凍りついた。

 

 丘の向こうで不気味な静寂がおこって、瞬く間に辺りを支配した。

目を伏せていたヒサグも、異様な波に飲まれてはっとして顔をあげた。

 

 沈黙を破ったのは、丘の向こうから聴こえてくる実体のない声だった。

「誰かそこにいるのかい」

 

 四人、顔を見合わせた。

咄嗟に僕が代表して口を開く。

 

「栗山法級の年長組です」

 

 沈黙。

間を置いて、草地に伸びた樹木の影から、にょきりと人の影が伸びたかと思うと、袈裟に身を包んだ三人の僧人が顔を出した。三人とも鉢笠を被っていて、手にはそれぞれ太い樫の枝を手にしていた。

 

「ここは寺の私有地であるぞ。何故に来たか」

 

 一番若いと思われる、長身の僧人が厳めしい声でそう告げた。目元は笠の影に隠れてよく見えなかった。

 

「その、夕食のために、蚯蚓蝦を獲っていたんですが」

 長身の僧人が微かに身じろぎした。傍らの二人と、ひそひそ声で話し始めた。話は長くて中々終わらない。僕らがいい加減じれったくなってきた頃、ようやく話がまとまったのか年嵩の僧人がこっちに近寄ってきた。

「今夜はもう遅いから、中栄寺に泊まっていきなさい」

 

 えっ、と思わず驚きが僕の口をついて出た。

咄嗟に後ろを振り向くと、ナラズミも困惑した表情で僧人を見やっていた。ヒサグはといえば、目を赤く腫らして何も喋らない。スク―スクは、今にも逃げ出したそうに体を震わせていた。

 

「いや、でも流石に」ナラズミが苦笑いしながら拒否の意を伝えようとしたが、年嵩の僧人は、泊まっていけばよろしいと繰り返すばかりだ。

 気がつけば、僕ら四人を囲むようにして僧人が立っていた。

大変なことが起きた。巻き込まれた。直感的にそう感じた。焦燥と、小便が漏れそうになる感覚。

 

「中栄寺はすぐそこでよ」

 

 年嵩の僧人がそう言った。それで、僕らは追い立てられるようにして歩き出した。胸が得体の知れない心細さに包まれて、張り裂けそうだった。

 

 空は真朱に染まっていて、それはこれから僕らを待ち受ける壮絶な運命を示唆しているようだった。

 

 

 

 



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第七話 闇の奥

 

 僕らは三人の僧人に連れられて、中栄寺にやって来ていた。

正門をくぐると、石庭の真ん中を貫いて白い道が伸びていた。石庭に散らばる落ち葉と道とが、薄闇の中で光を発しているように見えた。

 

 年嵩の僧人が灯篭の脇を通って寺の中に入っていってから、僕らはしばらく待たされた。若い僧人と髭面の僧人は一瞬の隙もなく樫の枝を構えていて、僕らが少しでも口を聞こうものなら、私語は慎めと低い声で告げるのだった。

 そうこうしているうちに、年嵩の僧人が戻ってきた。僕らは引き立てられるようにして道の上を歩かされた。樹木に囲われて黒々とした中栄寺の輪郭に小さなからだが押し潰されるようだった。

 

 軋む階段を登ると、左右に開いた木の扉の奥から、真っ黒な闇が口を開けていた。

草鞋を脱いで鴨居を潜ると、ひんやりとした空気が鳥肌を起こさせた。影で皆の顔も黒く染まってしまっていて、ひどく心細い。

 床に裸足の脚をつける度に、張り付くような悪寒がぶるぶると体を通り抜ける。まるで土か水の上を歩いているように冷たかった。

 

 やがて年嵩の僧人は、一枚の襖の前で足を止めた。夕食をつくるから、ここで休んでいるように。そう告げると、三人連れだって廊下を戻って行った。

 僕は恐る恐る襖を引き、敷居を跨いで真っ暗な部屋に脚を踏み入れた。何の変哲もない和室だった。床は畳張りで、向かい側の襖の上には欄間の窓が開けられている。

 

 

 

「どこをほっつき歩いてたんだ」

 全員部屋に入るなりナラズミが、怒気をはらんだ口調でヒサグを問い詰めた。ヒサグは引き結んだ唇をゆっくりと解き解して、か細い声をだした。

 

「言わないで」

「はぁ?」

「どうせ皆、私が悪いって思ってるんでしょ」

 

 ヒサグは頭を抱えて呻いた。僕も何か言葉をかけてやろうと思ったが、うまく言葉が浮かばなかった。

 

「糞、どうすんだよ」

 闇の中から太い声がした。遅れてナラズミが喋ったのだと気付く。

 

「とりあえず、泊まっていったらいいんじゃないかな。ご飯だって作ってくれるみたいだし」

 これはスクの声だろうか。即座に、ナラズミが怒鳴り返した。

 

「馬鹿、何だってあいつらを信用できるんだ」

「ええ、なんで」

「中栄寺には法級から連絡が入ってるはずなんだぞ。俺らだけを泊めるなんておかしいだろうが」

 

「きっと僕たちが話を聞いたからだ」僕は唇をすり合わせて声を発した。「そうに決まってる。きっと、何か聞かれちゃまずいことを話してたんだ。だから」

 

「ツガクか!」やや興奮しているのか、ナラズミが大きな声を出した。「ツガクが逃げたとかいう話、あれか」

 

「ちょ、ちょっと待ってよ。それってどういうこと?」

 

「そんなでかい声を出すな、ナラズミ。聞こえるだろうが」僕は声をひそめた。「とにかくそれは、間違いないと思う。だからきっと、口封じのために僕らを……消すつもりなんだ」

 

 静寂が走った。

言い終わってから、言葉の重みがのしかかってきた。気付けば膝が震えていた。

 

「殺す……ってこと?」スクの声は余りにも無垢で純粋で、僕らを覆う闇にも重みを含んだ言葉にも似つかわしくないものだった。

 

「いや、もちろんそうじゃない可能性もあるかもしれない。だけども……」

「セブキ君」

 

 僕の言葉を遮るようにして、ヒサグの声が覆い被さって来た。

いつもの凛とした調子とは打って変わって、暗く沈んだ感じの声だった。

 

「セブキ君は私のこと嫌いなの?」

 

 耳を塞ぎたい気分だった。

「いや……別にそんなわけじゃ……。とにかく今はそんなことを話してる場合じゃないんだ」

 

「そんな話って何よ」ヒサグは言った。しまった、と思った。「大体いつもセブキ君はそうだった。私のことなんてどうでもいいんだ。セブキ君だけじゃない。みんなみんな。馬鹿みたい」

 

 嗚咽が続いた。わからない。何がそんなにヒサグの気に触れたのだろうか。何もかもがわからないことだらけで、僕は徒労感に押し潰されそうだった。

 

「ヒサグ、とりえあず落ち着いて」僕が言いかけた時、襖が横に開くするっという音がした。闇の奥に薄ぼんやりとした光を纏って、さっき会った若い僧人が突っ立っていた。

 

 表情はうかがい知れなかった。ただ一言、食事だ。そう告げて盆と蝋燭を床几の上に置くと、すたすたと立ち去って行ってしまった。

 

 僕らは気圧されたようにして彼を見つめていた。息のつまるような一瞬ののち、互いに顔を見合わせあった。蝋燭の薄明かりに照らされた級友の顔は、皆能面のような無表情だった。

 

 それでも、人の顔が見えたことで大分気分が安らいだようだった。僕はヒサグの冷たい視線を感じつつも、盆に置かれた惣菜に手を伸ばした。

 

「待ってセブキ」スクが言った。

 

「なんだ、スク」

「もし本当にセブキの言う通り、あいつらが僕たちを始末しようとしてるんだとしたら、これには手をつけない方がいいと思う。その、毒が入ってるかもしれないから」

 

 言われて初めて気付いた。疲れのせいか注意力が散漫になっているようだ。僕は自らを恥じて、手に取った箸を盆に置き直した。ナラズミがこんなものいらねえ、と吐き捨て欄干から椀の中身(汁と惣菜、それに漬物)を外に放ってしまった。

 

 それから僕らは十分くらい、思い思いに畳に寝転がって休み始めた。話したいことは色々あったけれど、何だか疲れてしまっていた。もう寝よう、というのは四人の総意だったようで、僕らは蝋燭の明かりのもと静かに目を閉じた。

 

 襖の向こうからにじり寄るような足音が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。あの冷たい床を擦る足音は次第に大きくなってきて、やがて部屋の前でぴたりと止まった。

 

 襖はぴったりと閉じられていて、相手の姿はうかがい知れない。僕はばくばくと波打つ心臓を必死に抑え、息をひそめた。

 

 首を向けたいが、我慢する。

襖一枚隔てた向こうで音がした。襖がゆっくりと滑った。実体のない闇が忍び込んでくるようだった。

 

 僕は反射的に目を閉じた。

 

 僧人は二人いるようで、部屋の中を歩き回る足音だけが頭の後ろの方から聞こえてきた。

 

 永遠にも思える時間が過ぎていった。

僧人は一通り部屋を調べ終わったのち、中央の床几のもとに座ったようだった。しばらく息をひそめて出て行くのを待っていると、出し抜けに、地の底から響いてくるように僧人の声が聞こえてきた。

 あの若い僧人と、髭面の僧人に相違なかった。

 

「……全部食べたようだな」

「死んだだろうか」少し不安げな、若い僧人の声。

 

「いや、菌が完全に回るまでにはまだ時間がかかる」髭面の僧人の声。「明朝にまた、様子を見にいこう」

 

 それからしばらく、取り留めのない話が続いた。主に寺の上層部に対しての愚痴や、寺子の修行態度がなっとらん、といったものなど、話題は多岐に及んだ。

 

 立ち去る間際、若い僧人が、仲の良いもの同士が遊びの約束をする時のような軽い調子で言った。

 

「死体はどうしようか」

 

「森にでも捨てて置けばいいだろう」

 

 髭面の僧人が、同じく、軽い口調でそう返した。

襖が閉じられて、再び部屋に静寂が戻って来たけれど、もうそこには平穏はなかった。僕は彼らが立ち去るのを十分に待ってから腰をあげ、言った。

 

「逃げよう」

 

 

 

 

 

 

 



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第八話 中天の月

 

 最早一刻の猶予もないという現実が、僕らの小さな体を奮い立たせていた。

目を真っ赤に腫らして繰り言をいうヒサグをなんとか宥めながら、僕は僧人たちに気付かれずに中栄寺を脱出する方法を考えあぐねていた。

 

足音の方向からして、あの二人の僧人は暗い廊下をわたり右手の奥の部屋へ行ったはずだ。

 

「よし、まず誰か一人、玄関口に回って見張りがいるかどうか見てきてくれ。奴らきっと安心しきってるだろうけど、一応だ」

 

 僕らは顔を見合わせた。結局誰も申し出なかったので、じゃんけんで決めた。みんなを代表してスクがおそるおそる襖を開け、暗い廊下へと出て行った。

 

 永遠にも思える時間が過ぎていって、僕がいてもたってもいられなくなった頃、スクが襖の陰からひょいと顔を出した。

「どうだった?」

 ナラズミが勢いあまって訊くと、スクは、頬をぶるぶると震わせながら言った。

 

「わからない」

 

「わからないってどういうことだ」

 スクはそうナラズミに詰め寄られて、狼狽えた。「わかんなかったんだよ。開け放した門の向こうで、何かがちょっと動いたような気がしたんだ。でも気のせいかもしれないし」

 

 要領をえないスクの言葉に多少いらついたが、今はそんなことに腹をたてている場合ではない。僕は、今すぐ出発する、と告げて、腰をあげた。それから、思い当たったことをみんなに聞いた。

 

「みんな、菌針(きんし)は持ってるよね」

 

スクと、ナラズミと、それからヒサグが頷いた。僕らには護身用として法級から一本ずつ菌針が渡されていた。

 

「もし見つかったら、躊躇わずに、菌針を打ち込むんだ。奴らは僕らを殺そうとしたんだ。同情してやる価値なんてない」僕はそう言い放ったが、内心はひどく怯えていた。

 

 必要最低限の荷物を抱えて、僕らはひっそりと部屋を出た。先頭が僕で、後ろにナラズミ、スク、ヒサグが並ぶ隊列だった。廊下はしんと静まり返っていて、物音ひとつしない。

 

 足音をたてぬよう、慎重に脚を動かす。

何せ周囲は一面の真っ暗闇だから、壁に手をつけていないと自分がどこにいるのかすらわからなくなりそうだ。

 

 もうどれくらい歩いただろうか。

精神的、肉体的な疲労もあって、僕が歩きながら微睡に入りかけたとき、肩に手が伸びた。

 

 びくんと肩を波打たせて振り向くと、闇の中にナラズミの輪郭がかろうじて視覚できるほどの薄さで浮かんでいた。ナラズミは左手の方を指差した。

 どうやらもう門に着いていたらしい。僕は闇の中で眠りかけていた自分を恥じ、静かに回れ右をするとナラズミのあとについて歩き出した。

 

 三和土の辺りはすこし明るかった。ヒサグとスクは菌針をかまえながらそこで待っていて、僕らが闇の奥から姿を現すと、ふたりとも心底ほっとしたような笑みを浮かべた。

 再び僕が先頭にたち、鴨居を潜って外に出た。

途端に、体にはりつくような寒気が襲ってきた。僕は全身に鳥肌が立つのを感じながら、敷き詰められた砂利を踏み歩き、森に入ろうとした。

 

 後ろから、闇を切り裂くような金切り声があがった。

僕の心臓がきゅっと音をたてて縮こまった。振り向くのが怖かった。体中が硬直してしまったようで、ただ目だけが血走ったように見開かれていた。

 間を置いて、振り返った。

 

 腰を抜かしてへたり込んでいる少女。我先に駆け出そうとする大柄な少年と、わなわな震えながら立ち尽くしている少年。傍には、三人よりも大きな丸っこい輪郭。

 

 誰が言ったのか、逃げろ、という叫びが聞こえた気がした。

続いて砂利を踏み荒らす音。ナラズミと思われる大きな影が前を通り過ぎてゆき、あとに続くように小柄な影が砂利を踏み抜いていった。

 寺の中から物音がした。

丸い輪郭が軽く身じろぎして、森の方へと引き返していく。それと入れ違いに、三和土からにゅっと首が突き出た。

 

 ヒサグが身を起こして、駆け寄ってきた。

僕は後ろを見ずに走り出した。すぐに、何かにけつまずいて盛大に転んだ。爪が剥がれるような激痛を脚に感じた。

 灌木を飛び越え、張り出した蔦や枝を潜りながら、一心不乱に森を突き進んだ。

 

 頭の中で閃光がまたたく。

森に入るやいなや鼻に飛び込んできたむっとする臭いが一層強くなってきた。暗闇の中に長時間いたせいか目が慣れているようで、かろうじて障害物を見分けることができた。

 

 坂にさしかかった。

呼吸が苦しくなってきた。口の中に溜まった唾と痰を飲み込もうとしたが、うまく噛み切れない。

 

 喉をぜえぜえいわせながら坂を駆け上った。視界がひらける。

朦朧としかけた意識の中に、月が綺麗だな、という陳腐極まりない言葉が一瞬浮上して、すぐに消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第九話 怪物

 

 長い夜が明けようとしていた。山並みが燃え立つように赤々と染まり、日が顔を出すと共に、樹幹を覆っていた黒い影も姿を消した。

 

 ほっと一息ついて立ち上がろうとすると、左足首に鋭い痛みが走った。僕はぐうと呻いた。

 

 僕は辺りをきょろきょろと見回した。草いきれの立ち込める叢にヒサグが身を投げ出してすやすやと眠っているのが見えた。こっちは結局一睡もできなかったというのに、呑気なものだ。

 僕は半分夢の中にいるような心地で、これからするべきことを考えていた。ヒサグが、寺の前で草を食んでいた苔頭(コケガシラ)に驚いて大声を出したせいで、僕らは散り散りになってしまった。何とか叢の密集する手頃な盆地を見つけて夜を明かしたものの、問題は山積みだった。

 

 追手から逃れるためにかなりの距離を移動したから、まずここがどこかさえわからない。身を守るものといえば、菌針がたったの二本だけ。

 

「どうすんだよ、もう」

 僕は歯噛みしながら呟いた。

それに反応してヒサグがみじろぎ、身を起こした。眠たげに半分開いた目で僕を見ている。

「起きろよ」そう言って肩をゆすった。髪はぼさぼさだし、目頭には目やにがくっついているし、ひどい有様だった。ヒサグは虚ろな視線で赤く染まる空をしばらく見上げていたが、それで夢から覚めたかのように、口を開いた。

 

「あ、セブキ君。起きててくれたんだ。ありがとう」

「見張ってたんだ」ヒサグの言い方は素っ気なかった。仮にも自分のせいでここまで逃げる破目になったというのに、よくもそんな口がきけたものだ。僕は怒りを通り越して半ば呆れていた。

 今度はヒサグに見張りを頼み、少しばかり仮眠をとってから、出発することにした。

 

「ナラズミとスクを探しに行こう」

 昨日の激情はどこへやら、ヒサグは平然と頷いてみせた。そして僕が懐から菌針を取り出すのを見てあっと声をあげた。

 

「ごめん、私、菌針落としちゃった」ヒサグはすまなさそうに俯いてもじもじした。嫌なことは立て続けに起こるものだ。僕は叢を抜けて森に踏み入った。

 記憶を頼りに、中栄寺の近くまで戻るつもりだった。

危険ではあるが、闇雲に歩き回るよりはましだろう。もし、最悪の場合、ナラズミとスクが見つからなかったら―それからさきのことは考えたくなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 森は、夜とはまた違った様相を見せていた。樹木はぎらぎら光る朝の陽光に葉を光らせながら佇んでいて

、視界の上方はその梢にほとんど覆い尽くされていた。

 足元には青々とした羊歯が密生していて、脚で踏む度にぱきゅっという音をたてる。

 

「セブキ君、私昨日考えたんだけれど」

「何を」つっけんどんに返した。

「ツガク君について」ヒサグは羊歯の葉を踏み分けながら続けた。「吉条先生は、ご家族の意向で寺に修行に行かせるなんていってたけれど、私はまずそこから怪しいと思ったの」

 

 遠くから、蜘蛛蜂(クモバチ)の羽音が風に乗って流れてきた。

 

「ツガク君は無理矢理寺に連れていかれて、そしてきっと、そこで何かを見たのよ。それで、寺子たちみんなで画策して逃げ出した。うまく逃げおおせたのは彼だけみたいだったけれど」

 

「何かって何だよ」

「さあ、そこまではわからない」ヒサグは言った。「でも、知った者を始末しようとするくらいだから、きっと、寺にとって都合の悪いことなんだわ」

 ヒサグのいうことは中々筋が通っているように思えたが。それを解き明かしたところで何になるというのだろう。いまするべきことは、ツガクを取り戻すことでも、寺の陰謀を明るみに出すことでもない。ナラズミとスクに、何とかして合流することだ。

 

 ほんとうなら名前を呼び合うのが手っ取り早いのだろうが、追手がすぐそこまで来ているかもしれないのだから、そんな余裕はない。

 ヒサグは、それにしてもお腹がすいたね、などとしきりに話しかけてくる。その調子には許しを請うような響きも多少は含まれていたように感じた。

 

 ヒサグは、いやヒサグだけじゃない、女の子というのは不思議なものだ。これみよがしに怒ったり泣いたり、とにかく落ち着きがなくて、腹では何を考えているのか全く知れない。

 

 空がだいぶ明るくなってきた頃、僕は見覚えのある小道を見つけた。

小道は落ち葉に埋もれた平地へ続いていて、近くからは川のせせらぎが聞こえていた。

 

「しめた、川だ」僕は言って、駆け出した。川沿いに山頂へ向かって進めば、ひらけた場所に出れるかもしれない。落ち葉を踏みしだきながら小走りに進んでいると、後ろからヒサグの声が飛んだ。

 

「セブキ君、ここら辺の樹、変よ」

「何だって」

 

 ヒサグは幹を指差して言った。「なんだか、何かを巻きつけたみたいな痕がついてる。もしかしたら、近くに人がいるのかもしれない」

 

 言われてみれば、確かにそうだった。聳え立つ木々のほとんどには、幾重にもぐるりと削り取られた痕が残っている。僕は微かに、違和感のようなものを抱いて立ち止まった。

 どことなく妙な地形だった。切り立った崖に囲まれた低地に、木々がまばらに生えていて、そして、さっきまでうるさいほどに鳴り響いていた野鳥の鳴き声がぴたりと止んでいることに僕は気付いた。

 

「ヒサグ、ここはおかしい」

 言い終わったか終わらぬ内に、突如落ち葉を水飛沫のごとく中空にいっぱい跳ね散らせて大きな長いものが姿を現した。

 それが鎌首をもたげて突進してきた。落ち葉が土くれが縦横無尽に吹き飛び荒れ狂った。腕で顔を庇うのを忘れたために目に土の飛沫が入ったようで、僕はよろめいた。目が開けられない。真っ暗な中に赤い光が明滅していて、体内では血が沸騰するかのごとく滾っている。

 

 すぐ横を突風が通り過ぎていき、風圧をもろに喰らって柔らかい落ち葉の海の中に倒れ込んだ。ヒサグの、鳶のような甲高い悲鳴が尾をひいて、それに続き紙屑を箒でかき回すようなかさかさかさっという音がした。

 やっと目が開いた。瞼に睫毛にびっしり土片がこびりついていて、瞬きするたびに涙が出そうなほどに痛かった。僕は肘で瞼を擦り、立ち上がった。落ち葉の海がざわざわと揺れ動いている。

 

 奴はどこへ行った。

目で追う。急峻にそびえたつ崖。それに寄りかかるようにして立っている樹木。ヒサグの姿が視界に入った。

 

 落ち葉を踏み分けて全速力で駆け寄った。ヒサグが口を動かして何か言ったようだが聞こえない。ヒサグの手を掴むよりもはやく落ち葉のうみの一辺がもこもこと立ち昇り続いてまたしても棒のようなあいつが飛び出してきた。

 目が痛んだ。瞬きを繰り返しても土片はとれない。

 

 ヒサグの腕を無理矢理ぐいと掴んだ。相対して這ってくる巨大な虫の全貌がようやく見渡せた。いくつもの節に分かれた蛇のような細長い躰。頭から飛び出す長い触覚。下には丸いふたつの口腔がぽっかりと口を開けていてそこからは腐った樹のいやな臭いが漂ってくる。

 

山百足(ヤマムカデ)だわ」ヒサグが喉を鳴らして言った。

 

 栗山ではまず見かけることはない。把省島でも限られた地域にのみ分布していて、成体にもなれば体長は十五尺をゆうに超える。腐葉土や他の虫の糞を食するいわゆる分解者だが、巨体を維持するために野鳥や小型の哺乳類も捕食の対象に入りうるという。

 

 山百足が上体を持ち上げた。枝のような脚がもぞもぞと蠢き口腔からはしゅるしゅるしゅるという何かを咀嚼するような音がしている。

 足元に山百足が寄ってきた。

恐怖に体がすくみかけたが、ヒサグのぬくもりが冷静さを取り戻させてくれた。僕は後ろ手でヒサグを庇いながら慎重にじりじりと下がり、樹の後ろ側に回った。

 

 少なくともこれで間隔が保てる。ひとまずそう安心しかけた矢先に、山百足が俊敏な動きで宙を泳ぐようにして飛び上がり、幹にその体を叩きつけたかと思うとぐるりととぐろを巻いた。

 

 やっと樹についた傷の意味がわかった。こいつは、本来なら遮蔽物となるはずの樹を逆に利用し、枝や幹を伝って移動することで相手を追い詰めるのだ。

 矢のごとく山百足の体が放たれた。

たちまち落ち葉と腐葉土の煙幕が立ち昇った。僕がヒサグの手を握り締めて左方に駆け出すと、山百足はそれを既に見越していたのか、細い白樺の幹を中継して後を追ってきた。

 

「どうしよう、どうしよう」

 ヒサグは顔から鼻水と涙を垂れ流して呪文を唱えるようにそう繰り返し呻いていた。僕は目頭に人差し指を突っ込んでぐるりとほじり返し、入り込んだ土を取ろうと懸命になっていたが、うまくはいかなかった。目をつむっていれば何とか痛みはしのげるが、それだとすぐに山百足に追いつかれてしまう。

 

「ヒサグ、目がだめだ、やばい。手を引いてくれ」

 そう叫んで一瞬立ち止まった。ヒサグは困惑したような、焦ったような、変な顔で僕を見た。

 

 刹那、時が止まったように感じられた。

肉体から抜け落ちた魂だけで動いているような感じだった。だから、僕らが立ち止まったままでいる間、山百足もぴたりとその脚を止めたことにも気付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十話 流れの中に

 

 山百足は脚を地に伏せ、ぴたりとその動きを止めていた。

僕は黒く明滅する視界の隅に、ヒサグの白い手を捉えた。手招きするようにひらひらと掌を動かすヒサグの唇が、何かを伝えようとするかのようにゆっくりと開閉した。

 僕は目を擦りながら、耳を澄ました。ヒサグは丸みを帯びた唇を僕の耳に近付けて、風の音に吹き飛ばされそうなくらい小さな声で囁いた。

 

「セブキ君、気付いた?」

「何が、だ」僕は目を瞑ってしばし痛みを堪えた。目の奥のほうに土くれが所在なさげにごろごろ転がっているのが感覚できて、それが溜まらなく気持ち悪い。

「あいつ、音に反応してるんだわ」

 

 間を置いて、ヒサグは唇を舐めた。

「大きな音がしたら、その方向に向かって体を射出してる。そうよ、根賽先生が言ってたもの。山百足の仲間は視覚が退化してる代わりに、聴覚が敏感なんだって……」

 

 ヒサグは尚も喋りたそうにしていたが、段々と声が上ずって来ていたので制止してやった。僕は黒い闇の中で点滅する色とりどりの光に目を凝らして考えた。

 

「ヒサグ、荷物を」僕は瞼をこじ開けて、ヒサグに言った。彼女は察しているのかいないのか、迷いなくすぐに背嚢を肩からそっと下ろした。

「あっちに投げ捨てるんだ」僕は崖を指差した。「奴が反応して崖の方に向かったら、すぐに下流に逃げよう」

 

 ヒサグの顔を逡巡が走り抜けた。

僕らは今、生きるか死ぬか、ちょうどそういう局面にいるのだ。駆け引きに勝てば、ほんの僅かの間かもしれないけれど、儚い望みと命をつなぐことができる。負ければ、死ぬだけだ。

「ヒサグ頼む、やってくれ」

 

「ここで死ぬかもしれないってことだよね」

 ヒサグの声は氷のように冷たかった。彼女は昏い視線を僕、微動だにしない山百足の順に向けて、それから、決意したように言った。

 

「じゃあ最後に言わせて」

「うん」

 

 ヒサグは息を吸い込んだ。胸が膨らんだ。

「わたし、林間法級がずっと楽しみだった。セブキ君と二人きりで、その、ちゃんと話せるかもしれなかったから」

 

「うん」

 僕は口元を拭った。

「だから本当は、こんな時だけれど、セブキ君と一緒にいれて、わたしは……」

 そこまで言ってから、ヒサグは俯いて顔を隠した。今までただのことばの連なりとしか思えなかったヒサグの声が、初めて胸の中にすっと入ってきた気がした。

 すぐに、日焼けした腕から背嚢がむささびのごとく放たれて、枝間をすり抜け落ち葉が堆積する崖下に落下する。

 

 失敗だったのは、僕が急ぎ過ぎたことだ。

僕はここから逃げ出すことにばかり気をとられていて、細かなことに注意が向かなかった。そういう意味では、ヒサグの方が状況をよく見ていたのかもしれない。

 

 僕は背嚢がヒサグの手から放たれるやいなや、だっと地を蹴って川沿いに駆け出していた。ヒサグが真ん丸に口を開けて手を伸ばしていたことにも気付かなかった。途端に、それまで石のように動かなかった山百足が、止まった時間から解放されたかのように脚をくねらせて僕らを追い始めた。

 

 僕は無我夢中だった。痛む目頭を右手で拭いながら気狂いのようにめちゃめちゃに躰をばたつかせて走り、そして斜面で脚を滑らせて盛大に転んだ。ずざざざっと落ち葉の流れに飲まれ、ふくらはぎを泥で擦り、僕は川面に投げ出された。

 あまりにも水が冷たくて、僕は喉の奥から悲鳴とも喚き声ともつかぬ音を絞り出した。水深はかなり深い。爪先が川底の石を掠めてじたばた動き、僕はげほげほと咽いだ。

 

 背後に首を回せば、岸にヒサグが立ち尽くしている。背後の木には、山百足が節を中継して頭部を覗かせていて……

 

「飛び込め」

 それだけ言ってから、僕の頭に大きな衝撃があった。

意識がぷつんと途切れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長い夢の中にいた。

夢の中で僕は栗山法級にいて、級室ではいつもの如く吉条先生が壇にたっている。

 

 吉条先生の話していることはひどく難しくて、僕はよく理解できなかった。後ろを振り向くと、揺れる黒髪の下からヒサグの鼻が突き出ていた。

 

 級室からひとりずつ級徒たちが退出していく。ツガクもハヅルも、キヌイも、ナラズミもスクもいなくなって、級室には僕とヒサグのふたりきりになってしまった。

 

「ヒサグ―」

 思わず名を呼ぶと、ヒサグは椅子をひいて立ち上がった。

 

 

 

 場面が切り替わった。僕は把省島を空の上から眺め渡していた。緑に覆われた島の付け根からは、それよりもずっと大きな本土が続いていて、本土の人たちが武器を手に把省島へと攻め込んでいる。

 

 虫たちが焼き払われ、殺されていく。

そうして、島も、森も、みんな死んでいってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 僕は半分くらい瞼を開けた。 

 ヒサグの黒い瞳が滲んだ絵の具のように白目の中に浮いている。水の中から見上げるようにぼやけて見えていたけれど、やがて散らかっていた焦点がひとつにまとまり、僕は呻きながら寝返りをうった。

 

「セブキ君!?」ヒサグがぎょっとして、僕の後頭部に手を差し入れて頭を持ち上げた。僕は目を瞬かせて、ああ、土は取れたんだな、よかったな、と思った。

 

「セブキ君、生きてるの?」

 ヒサグは何度も僕の体を揺り起こして鶏のような甲高い声を浴びせかけてきた。

僕はうるさい、と一言呟いてから再度寝返りをうって一時間ほど寝、ようやく身を起こした。まだ頭の芯の方がふらついていて、立つのにもヒサグの手助けが必要なほどだった。

 辺りを見回すと、どうやら木の洞らしき場所にいることがわかった。岩のような根や幹に覆われた薄暗い穴の縁からは白い光が僅かながらさしていて、僕には、それが僕らを絶望の淵から救い出してくれた希望の手のように思えた。

 

 僕はふらふらよろめきながら縁に駆け寄り、辺りを見回してみた。

今までいた所とは大分様相が異なっていた。鬱蒼と茂っていた巨木は数を減らし、代わりに丈の低い低木や雑草がそこら中に繁茂している。その間からは牡蠣の殻のような岩肌がまちまちと顔を覗かせていて、見晴らしのいい斜面の向こうからは青空を背後に雪を被った山並みの姿も垣間見える。どうやら山地帯にいるらしいことがおぼろながら僕にもわかってきた。

 後ろから、ヒサグが寄りかかってくる。

どうやらまた泣いているらしく、服に涙が沁み込んでいくのがわかった。よかった、よかった、としきりに繰り返し、僕の名を呼んでいる。

 

「何があったんだ、話してくれ」

 僕はそう言った。川に落ちてからの記憶がすっぽり頭から抜け落ちていた。ヒサグは喘ぎ、咽びながら語り出した。

 

「あの後、セブキ君は岩に頭を思い切りぶつけて、気を失っていたのよ。私も後を追って川に飛び込んだけれど、山百足が水蛇みたいにするする水の中を泳いで近付いてきたの。もう駄目なのかと思ったけれど、そしたら、山百足が掘り起こした土の中の小虫を狙って、蜘蛛蜂や蛇腹天道(ジャバラテントウ)がいっぱい群がってきて、山百足がそれを捕まえに岸に戻ったから、それで、何とかセブキ君に追いついたの。」

 ヒサグは息をついた。

「何度揺り起こしても、頬を叩いてもセブキ君が起きないから、とにかくここから離れたら岸に引き上げることにして、しばらく流されるままになってた。でもそしたら、今度は逆鯉(サカゴイ)がセブキ君を死体だと勘違いして寄ってきて、何とか追い払ってたんだけど、わたしまで溺れそうになっちゃったの。セブキ君を岸に引き摺りあげて、肩に背負って、どこか休めそうな場所を探してたんだけれど、森の中は虫がいっぱいいそうで怖かったから、開けた地帯を探して歩き回ってて、それでようやくここに辿り着いたってわけ」

 

 ヒサグはいっぺんに喋りすぎて喉を傷めたのか、げほげほと咳込んだ。

 

「どのくらい眠ってたんだ?」と僕。

 

「三日くらい、かな」

 

 僕は愕然とするとともに、その間ずっと傍にいてくれたヒサグに対する感謝やら申し訳なさやらで頭の中が沸騰しそうになった。一言ありがとう、とこぼし、僕は、背嚢を投げ捨てる直前のヒサグの声を思い出していた。

 一緒にいてくれる人がいる。ただそれだけのことが、とても頼もしく感じられた。

 

 

 

 

 



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