かんパレ ~波濤幻想~ (しょっぱいいぬ)
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ひとつのおわり

1997年11月17日 〇七二一 対馬要塞 比田勝軍港 

 

 

 水平線から差し込む朝日が、埠頭を照らしている。

 目を焼く朝日を、彼女は横たわったままぼんやりと見つめていた。

 

 そこかしこから立ち上る煙。

 出撃の時にあれほど頼もしく見えた砲台は全滅し、焼け焦げた鋼鉄の残骸と化している。

 破壊しつくされて原形をとどめていないあの瓦礫は、確か軍港の管制棟だったはずだ。

 まっぷたつに折れた護衛艦の艦首が、沖合の波間からのぞいていた。

 

 埠頭のコンクリートに広げられたシートの上に、無数の少女たちが横たわっている。

 みな血に塗れ、痛みに(うめ)き、苦しげに息をしている。

 目を閉じたまま、ピクリとも動かない者もいる。

 その中の一員である彼女は、だが、それらの光景にいちいち心を動かすには摩耗しきっていた。

 ただ、まるで光に吸い寄せられる虫のように、無意識に明るい方向を眺めていただけだった。

 

「おい! お前たち、気を確かに持てよ! すぐ輸送船が来る!」

 

 自分たちに向かって人影がかがみこみ、なにかを怒鳴っている。

 

「こんなところで死ぬな! 勝ったんだ、俺たちは勝ったんだぞ!!」

 

 勝った? ……私達が?

 

 視線を動かさないまま、彼女はぼんやりと考える。

 

「深海棲艦の奴らはほとんど沈めた! 九州に渡ろうとした幻獣どもも海の底に叩き込んだ! これで九州は、日本は大丈夫だ! 俺たちが勝ったんだ!」

 

 勝ったの? 本当に?

 

 人影の言うことがいまいち理解できなかった。

 

 だって、勝ったのなら、なんで、誰もいないんだろう。

 ――さんがいない。――もいない。――さんですら帰ってこなかった。他のみんなも。

 

 ――官、も。

 

 

 わたしが、私だけが、生き残った。

 

 

 どこかで、すすり泣く声が聞こえる。

 

 ……――督。

 

 誰かのつぶやきが、風に乗って彼女の耳に届いた。

 

 ……ああ、そうか。

 ……周りの子たちも、おんなじなんだ。

 

「だから、こんなところで死ぬんじゃない! 生きて、鎮守府に帰るんだ! 家へ帰るんだ!」

 

 (いえ)に、帰る?

 

 純粋に、疑問を感じた。

 

 だって帰っても、もう、私以外誰もいない。そんな場所は、私の(いえ)じゃない。

 

 でも、それじゃあ 私の(いえ)はどこなんだろう。

 

 

 

 だれも い ない のに

 

 

 わたし は どこ に かえれば いいん だ ろう?

 

 

 

 

 ゆっくりと意識が薄れていく

 小さく、しかし深く息を吐いて、彼女はゆるやかに目を閉じる。

 

 

 

 青く澄んだ空に高く高く上る雲が、やけに目に残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 幻獣が九州に上陸したのは、それから1か月後のことだった。

 

 

 



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第一章 学兵提督(1999年2月20日~3月9日)
第1話 熊本警備府


 1945年8月。

 

 終結を目前にしていた第二次世界大戦は、世界中の誰一人として予測しない形で幕を下ろすこととなった。

 

 衛星軌道上に突如現れた黒い月、そしてそれに続く陸海からの人類の天敵の出現である。

 

 人類は、天敵――幻獣(げんじゅう)、そして深海棲艦(しんかいせいかん)と名付けられた異形のものどもと、種の存続をかけて戦うことを余儀なくされた。

 

 

 

 ―――それから50年、戦いはまだ、続いている。

 

 

 

 1997年4月、ユーラシア大陸最後の砦、仁川要塞が陥落、人類は4000万の死者を残してユーラシア大陸から絶滅する。

 これにより人類の生存圏は北米、南米の一部、南アフリカ、そして日本を含む東アジアの一部のみとなる。

 

 同年11月、日本侵攻の動きを見せる敵勢力の意図を(くじ)くべく、日本自衛軍海軍は西日本の海上戦力を動員。朝鮮半島からの侵攻ルートを遮断するため、要塞化した対馬(つしま)を中心とした周辺海域の制海権を奪取すべく、深海棲艦勢力に対し一大海戦を仕掛ける。

 

 後に言う、対馬海戦である。

 

 この戦いにおいて海軍は、艦娘(かんむす)の集中投入により、数に勝る深海棲艦隊を撃破。一時的に同海域の制海権を奪取する。

 しかし、損害は実に参加戦力の半数以上にのぼり、対馬要塞もその機能を喪失。西日本の海上戦力は著しく低下した。

 その結果海軍は、対馬海戦のわずか1か月後、対馬を迂回するように韓国済州島から侵攻した幻獣の上陸部隊を阻止しえず、幻獣の九州西岸上陸を許すという痛恨の失態を演じることとなる。

 

 そして翌1998年9月、九州に上陸した幻獣に決戦を挑むべく、自衛軍は陸軍のほぼ全戦力に当たる20万を九州南部八代(やつしろ)平原に結集する。

 対する幻獣は2000万。

 

 八代会戦と名付けられたこの戦いで、自衛軍は生物兵器をも投入し、同地を焦土としながらもかろうじて戦術的勝利を得る。

 しかし、その代償として参加兵力の8割を失い、陸軍は事実上無力化する結果となった。

 

 

 

 1999年1月、悪化の一途をたどる戦況を受け、日本国国会において三つの法案が可決される。

 

 一.本州への幻獣上陸阻止を目的とした、熊本要塞を中心とした九州中部の防衛線の構築

 二.壊滅した佐世保鎮守府の戦力再編と、その間の代替としての熊本警備府の設立

 

 三.14歳から17歳までの少年兵、『学兵(がくへい)』の強制召集

 

 これによりかき集められた10万人の少年少女達が、本州防衛の時間稼ぎのため熊本要塞に投入されることとなる。

 政府は、これらの学兵の大半が夏の自然休戦期を待たずに死亡すると見ていた。

 

 そして1999年1月29日、九州南部をほぼ制圧した幻獣が熊本へと侵攻を開始。未完成ながら辛うじて要塞化の成った防御陣地群がこれを迎撃し進行を阻止。

 また、海上でも同日、深海棲艦隊が東シナ海より襲来。新編間もない熊本警備府艦隊が五島列島沖でこれと交戦し、撃退する。

 

 

 ――熊本の地をめぐる、約3か月に及ぶ陸海の戦いが、この日をもって、幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 かんパレ ~波濤(はとう)幻想~

 

 

 

 

 

 

1999年2月20日 〇二二六 東京発熊本行 軍用列車「橋立(はしだて)」2両目車内 

 

 

『ご乗車の皆様にお知らせします。当列車はまもなく広島駅に到着いたします。停車時間は15分となります』

 

 照明が半分落とされた薄暗い車内に、控えめなアナウンスが流れる。

 乗客もまばらな客車内、前から3列目の窓側の座席、軍服姿の小柄な人影が身じろぎした。

 眠っていたのだろう、倒したリクライニングシートからそっと身を起こし、目深に引き下ろしていた白い制帽を取る。下から現れたのは、まだ年若い少女の顔だった。

 短めに切りそろえた黒髪がさらりと揺れ、白い詰襟の軍服によく映えた。

 

 少女は車窓のカーテンを細く開け、車窓から外をのぞく。

 

「何をしているの?」

 

 隣の座席から声がかかった。同じくらいの年頃の少女だ。こちらは長い髪に水兵服に似た白いワンピースを着ている。

 

「ごめん、叢雲(むらくも)、起こしちゃった?」

「別に。さっきのアナウンスで目が覚めただけよ」

 

 叢雲、と呼ばれた少女は面白くもなさそうな声で言うと、座席から身を起こして目をこすった。

 

「で、窓の外がどうかしたわけ?」

「うん、呉鎮守府が見えないかなと思って」

「はあ? ……あのね、呉は山陽本線から5キロ以上南よ。おまけに山を2つ3つ越えた先。ここから見えるわけないじゃない」

「あ、そうなんだ。知らなかったわ」

 

 あははと小声で笑う少女に、叢雲は呆れたようにため息をついた。

 

「しっかりしなさいよ、一乃(いちの)。アンタ、一応それでも海軍少佐殿になるんでしょ?」

 

 叢雲の言葉に、少女……一乃は自分の着ている軍服の階級章を見やる。

 

「うん、びっくりよね。でも、あくまで臨時の少佐待遇で、実際の階級は百翼長(ひゃくよくちょう)の学兵だから」

「それはもう何度も聞いたわよ。それに百翼長だって自衛軍で言えば中尉か少尉相当じゃない。士官なら国内の主要拠点の場所くらい押さえておきなさいよ」

「仕方ないじゃない。実質半年ちょっとしか海軍士官学校にいなかったんだから。対馬と八代がなければ、まだ田村提督候補生だったはずだもの」

 

 一乃はそう言ってため息をつく。

 叢雲はふん、と小さく鼻を鳴らした。

 

「とにかく、見えもしない鎮守府なんか見ようとしてないで、少しでも寝といたら? 熊本に着いたら忙しいわよ」

「うん、そうね。そうする」

 

 一乃が素直にうなずくと、叢雲は座席に背を預け目を閉じる。

もう一度窓の外に目をやるが、時たま人家の明かりが通り過ぎるだけで、窓の外の暗闇には何も見いだせない。

 

 一乃はかぶりを振ると、叢雲にならって座席に背を預け再び帽子を目深に下ろした。

 

 

 

 

 目を閉じた、と思った瞬間、不意に浮遊感を感じた。次いで全身に衝撃。

 

 

 気が付くと一乃の上に叢雲が覆いかぶさっていた。

 いつの間にか片手に拳銃を引き抜き、ぱっちりとした目が油断なく周囲の様子をうかがっている。彼女の髪を結んでいる赤い飾り紐が、一乃の頬をくすぐった。

 

「叢雲……?」

 

 口に出したところで、自分の体が座席の足元の狭い空間に押し込まれているのに気が付いた。列車はどうやら停車しているらしい。

 

「静かに。……迂闊(うかつ)に頭を上げるんじゃないわよ」

 

 叢雲が慎重に身を起こし、白式(はくしき)拳銃を手に油断なく窓の外をうかがう。高性能をうたわれるシグ・ザウエルP226のライセンス生産品だが、彼女の手には少々大きく見える。

 

 さすがに異常を察し、一乃も慌てて足元の荷物から私物の拳銃を引っ張り出した。

 

「む、叢雲、何があったの? 敵なの? ここは?」

「質問は簡潔に、重要なことから聞くようにしなさい、指揮官ならね。列車が急停車、状況は不明、福岡と熊本の県境くらいよ」

 

 叢雲の答えに反射的に時刻を確認。〇五〇七。目を閉じてから数秒しか経っていないと思っていたが、どうやらだいぶ眠っていたらしい。

 

『乗客の皆様にお知らせします。この先の大牟田(おおむた)駅付近にて少数の小型幻獣が確認されております。現在鉄道警備隊が掃討中です。安全が確認され次第発車いたしますので、しばらくお待ちください』

 

 緊迫した口調のアナウンスに、客車のあちこちからざわめきがおこった。

 

「幻獣……!? こんなところに」

 

 一乃は目をしばたく。

 

「ふうん……なるほど、あそこだわ」

 

 叢雲が窓の外を凝視しながらつぶやく。一乃もそろそろと外を覗き込んだ

 

 

 暗闇の向こう数百m先、いくつものマズルフラッシュが断続的に(きら)めいている。

 

 探照灯の光に照らされ、奇怪な影絵のように異形の影がいくつも飛び跳ねる。

 

「あれは、ゴブリン…?」

 

 一乃がつぶやく。

 

 ゴブリンは体高1mほどのいびつな人型をした一つ目の小型幻獣だ。軽快に跳ねるように移動し、主にその発達した両腕に握られたトマホークで、寄ってたかって人間を引き裂く。

 飛び道具はもたず、武装した兵士ならば一対一では大した相手ではないが、とにかく数が多い。大陸の戦いでは、津波のように押し寄せるゴブリンの群れに、人類は何度も後退を余儀なくされている。

 

「ふん、前線はまだまだ先なのに、こんなとこまで浸透を許してるとはね」

 

 叢雲が目を細める。

 

 単体の幻獣としては最弱の部類に入るゴブリンだが、非武装の民間人では対処はほぼ不可能である。小型幻獣の後方への浸透は、大陸戦のころから人類にとって重大な脅威だった。

 

「とはいえ、大した数じゃなさそうね。あのぶんなら警備小隊で十分対処できるわ」

「わ、わたし達も援護した方がいいんじゃないかな」

「こんな拳銃(オモチャ)で? 陸さんの邪魔になるだけよ」

 

 声を潜めて囁きをかわしていると、ひときわ重い音とともに、これまでとは比較にならないマズルフラッシュが連続して瞬いた。重機関銃だろうか。曳光弾が連続して尾を引き、ゴブリン達が次々となぎ倒されていく。

 

「ほら、援軍もご到着だわ。この列車もいちおう防弾車両だろうけど、流れ弾が怖いから頭下げてなさい」

 

 ほどなくして銃火は徐々におさまり、あわただしくライトの光が行き交う様子が見て取れた。

 

『友軍により幻獣は掃討されました。進路上の安全が確認できましたので、当列車の運行を再開いたします』

 

 安堵の色が隠せないアナウンスとともに、列車が動き出した。

 

 

「まったく、とんだ足止めだったわね」

 

 叢雲はうん、とひとつ伸びをすると、座席に座りなおし、細い足を組んだ。

 

「あれが、幻獣なんだ……」

 

 一乃にとって、遠目とはいえ映像ではない実際の幻獣との戦闘を見るのは初めてだった。

 あの闇の中で、命をかけた戦いが行われていたであろうことを考え、一乃は小さく身を震わせた。

 

「そういう意味じゃラッキーだったかもね。安全な特等席で戦闘が見物できたんだから」

 

 肩をすくめてみせた叢雲だが、口調をやや改めた。

 

「覚悟はしておきなさいよ、一乃。鹿児島本線の線路際まで小型幻獣が出没するくらいだもの、陸の戦いは相当危ういわ」

 

 一乃にも叢雲の言うことは理解できた。

 

 鹿児島本線は西九州の大動脈であり、軍にとっては最重要防衛目標のひとつである。にもかかわらず、小型幻獣の浸透を防ぎきれていないという事実が、戦況を明確に表していた。

 

「まあ、陸の戦いは陸軍に任せるしかないわね。あんたの仕事は一日でも早く海の戦いに慣れることよ」

「……うん」

 

 知らずうつむく一乃。遠目とはいえ本物の戦いを見たことで、あらためて学兵として戦地に赴くことの現実を突き付けられた気がしていた。

 だが、叢雲はそんな彼女の肩をぐいとつかんで顔を寄せた。

 

「自信がないのは当たり前。怖気(おじけ)づくのも当たり前よ。最初から自信満々の怖いもの知らずなんて、単なる莫迦(バカ)。けどね、一乃。当面は弱気を見せるのは私の前だけにしなさい。内心じゃがたがた震えてても、見せかけだけでも冷静に、余裕綽々(しゃくしゃく)。それも指揮官の大事な仕事よ」

「叢雲……」

「胸を張りなさい。たとえ中身がなくてもね。あんたは私たち艦娘を率いる、『提督』になるんだから」

 

 車窓から見える空は、うっすらと白み始めていた。

 

 

 

 

 

「すごい混雑ね」

 

 列車から降りた一乃がつぶやく。

 

 早朝だというのに、熊本駅の構内は行き交う人間で混雑していた。そのほとんどが兵士や軍の関係者のようだ。強化装甲服ウォードレス姿の人影もあちこちに見受けられる。

 列車の後方、切り離された貨物車両からは次々と物資が運び出されている。

 

「熊本要塞の大動脈だもの。兵士に物資に、いくら運び込んでも足りないわ。それに…」

 

 叢雲が駅舎の外に目をやる。

 駅前のロータリーには、大きな荷物を持った人々が長い列を作っていた。老若男女様々だが、みな一様にどこか疲れた顔である。

 

「民間人の本州への疎開も進んでるみたいだしね」

「…そうね」

 

 そちらを見やった一乃が、ふとロータリーの一角を指す。

 

「あ、あれ、士魂号(しこんごう)L型じゃない?」

 

 6個の巨大な車輪が付いた、装輪式の戦車が数台、ロータリーの一角に並んでいた。

 

「確か九州にしか配備されてない戦車なのよね。初めて見たわ」

「私も見るのは初めてね。装輪式を主力戦車にするなんて、この戦いが最初から市街戦前提なのがよくわかるわね」

「え、そうなの?」

「……アンタにもわかるように思いっきり簡単に言うと、装輪式戦車はキャタピラ式戦車より悪路に弱くて装甲が薄いけど、そのかわり速度が速いの。道路が整備されていて遮蔽物も多い街中で戦うんだったら、機動力重視って上は判断したんでしょ」

「なるほど、そういうことなんだ。叢雲は物知りね」

 

 感心して何度もうなずく一乃に、叢雲はやれやれと首を振った。

 

「いくら陸のこととは言っても、軍人ならこのくらい常識レベルだからね。恥ずかしいから他の人に聞くんじゃないわよ。ほら、迎えの人も呆れてるじゃない」

 

 叢雲の言葉に振り向くと、海兵の制服を着た伍長が慌てたように敬礼をした。

 

「し、失礼いたします、少佐! 熊本警備府よりお迎えに参りました!」

 

 一乃は顔を赤くして答礼した。

 

 

 

 

 熊本警備府は熊本市中心部から西に数km、有明湾に突き出た人工島、熊本港に併設されている。元々は佐世保鎮守府所属のいち泊地に過ぎず、熊本港の敷地の片隅に存在する小さな施設だった。しかし、熊本要塞計画に伴い、急遽(きゅうきょ)独立した指揮系統を持つ警備府に格上げされ、佐世保鎮守府に代わって九州西岸の守りを担うほどの規模となっていた。

 

 一乃と叢雲を乗せた高機動車は陸地から数百メートルの大橋を渡り、人工島へと入る。未だ拡張工事の最中なのか、警備府の敷地の周囲ではクレーンなどの重機が何台も稼働し、工事の騒音が響き渡っていた。埠頭には護衛艦と思しき艦艇も係留されている。

 無骨なコンクリート造の庁舎の前、高機動車から降りた二人に近づく人影があった。

 

「田村少佐、お待ちしておりました。熊本警備府第一秘書艦、長良型軽巡4番艦由良(ゆら)、個体識別番号五五一号です」

 

 

 長い灰白色の髪を後ろでポニーテールにした少女が、きびきびとした動作で敬礼した

 

「本日配属になりました田村です。お迎え恐れ入ります。」

 

 答礼する一乃。叢雲も答礼するが、ふっと表情を緩めて由良に笑いかけた。

 

「同じく本日配属になった。特型駆逐艦5番艦叢雲、個体識別番号五九二号よ。…しばらくね、由良」

「やっぱり、あの叢雲ね。お久しぶり、元気だった?」

 

 親しげなやりとりに、一乃がきょとんとする。

 

「叢雲と由良さんは、お知り合いなの?」

「そ、同じ艦隊にいたわけじゃないけど、遠征や共同作戦で何度か顔を合わせたことがあるわ。駆逐艦と軽巡は何かと一緒に動くことも多いしね」

「少佐さんの秘書艦として叢雲が来ると聞いていたので、もしかしたらとは思ってましたけど」

 

 由良は優しげな口調で微笑んだ。

 

「少佐さん、この叢雲が秘書艦なら、安心ですよ。戦闘経験は十分ですし、この前の作戦だって……」

「由良、褒めてくれるのは嬉しいけど、あんまりあんたの提督を待たせても悪いんじゃないの?」

「あ、いけない」

 

 叢雲が苦笑して由良の言葉を遮り、由良は一つ咳払いをする。

 

「田村少佐、失礼しました。どうぞこちらへ。警備府長官がお待ちです」

 

 

 

 外の騒がしさと違い、警備府の庁舎内はひっそりとしており、あまり人影がなかった。

 

「申し訳ありません。本来でしたら長官への申告の後で、警備府艦隊の主だった艦娘が少佐さんにご挨拶する予定だったんですけど、今朝がた五島列島の沖合に深海棲艦隊が接近中との情報が入りまして……警備府直属艦隊のほとんどが出撃してしまっているんです」

「警備府の直属艦隊が出撃するということは、それなりの規模の敵なんですか?」

「ええ。対馬海戦からはしばらくは深海棲艦も目立った動きはなかったのですが、最近になってまた、まとまった艦隊が出没するようになってきました」

 

 そんな話をしながら歩を進め、ほどなく3人は、長官執務室と書かれた扉の前に立っていた。

 由良が扉をノックする。

 

「長官、田村少佐をお連れしました」

 

 中から返事が聞こえたのを確認し、由良は扉を開けて一乃を促す。

 

「どうぞ、田村少佐」

 

 一乃は軽く息を吸うと士官学校で習ったとおり、「入ります!」と声を上げて室内へ足を踏み入れた。叢雲が後へ続く。

 部屋の中、執務机から立ち上がった人物と正対し、敬礼する。

 

「申告いたします! 日本自衛軍陸軍関東方面軍所属学兵、田村一乃百翼長は、日本自衛軍海軍出向を命じられ、館山士官学校にて第1期提督速成特別課程を修了し、本日付けをもって海軍臨時少佐に任命され、熊本警備府勤務を拝命しました!」

「館山士官学校所属特型駆逐艦5番艦叢雲、個体識別番号第五九二号は、本日付けをもって熊本警備府配置を拝命しました」

 

 申告を受け、二人の前に立つ海軍大佐の階級章をつけた人物はうなずくと、手振りで休めの姿勢を促した。

 

「館山からの遠路ご苦労だった。熊本警備府長官を拝命している原口だ。以後よろしく頼む。田村少佐、叢雲」

 

 原口長官は中背だががっしりとした体格をした五〇半ばの軍人だった。半ば白髪が混じった髪、日焼けした顔に引き結んだ口元が厳しさを感じさせる。

 

 原口は2人に執務室の一角の応接セットのソファを勧める。3人が腰かけると、手際よく由良がコーヒーを運んできた。

 

「例によってまずい代用コーヒーですまないが、まあうちの秘書が淹れたものだからそこそこ飲めるはずだ」

 

 すすめられて一乃はコーヒーに口をつける。確かに代用コーヒー独特の風味がしたが、原口の言うとおり淹れ方がよいのか、おいしい、と思えた。

 

 このご時世、本物のコーヒーはなかなかの高級品である。かつての主要なコーヒー産地のほとんどが、現在では幻獣や深海棲艦の手に落ちているからだ。

とはいえ、海軍大佐、特に警備府長官ともなれば、入手はさほど難しくはないはずである。あえて代用コーヒーを出すあたりが原口の人柄を感じさせた。

 

「それにしても、ずいぶんとまた長い申告だったな、田村少佐。よくおぼえきれたものだ」

「は、はい…」

 

 一乃は顔を赤らめた。実際、おぼえるのに少々苦労した身である。

 

「まあ、学兵提督の()えある第1期生だからな。前例のない身分ともなれば、そうなるのもやむをえんか」

 

 この時代の『提督』とは艦娘を指揮運用する能力を持った軍人を指す。しかし、艦娘の指揮運用には先天的な適性が必要であり、提督としての適性を備えた人間は非常に稀少だった。このため、適性を持つ者はその大半が海軍へ『志願して』入隊する。彼らは海軍士官学校で約3年間の特別教育を受けた後、海軍少佐として各地に任官、艦娘を指揮することになる。

 士官学校を出ていきなり少佐の階級を与えられるのは、仮にも『艦隊』を率いるからであり、なかば名誉階級に近い。

 

 

 だが、一乃たち『学兵提督』の場合は少々事情が異なる。

 

 対馬海戦で多くの提督が戦死したことにより、提督の補充は海軍にとって急務となった。そこで海軍上層部が目をつけたのが、学兵制度である。

 

 通常、提督の適性を持つ者は、18歳の徴兵規定年齢となってから海軍士官学校に入学する。だが、学兵制度が施行されれば、18歳未満の提督適性者であっても、学兵として徴用することが可能となる。

 これにより、提督の適性を持つ少年少女に速成教育を施し、提督として任官させる、『学兵提督』が誕生することとなったのである。

 

 

『臨時少佐』なる怪しげな階級も、学兵提督のために用意されたものだった。

 

 

「それにしても、1種軍装は支給されていないのかね?」

 

 原口は一乃の白い軍服を見て不思議そうに尋ねる。

彼自身が着用しているのは濃紺の海軍1種軍装だ。日本自衛軍海軍においては、白の2種軍装は夏季の制服だった。

 

「はい…いいえ、その、これは海軍2種軍装ではなく、学兵提督の制服なんです。文部省から支給されていまして……」

 

 一乃がしどろもどろに答える。

 

 学兵達は学籍のまま召集されており、その所属は文部省であるが、実戦においては防衛省――実質的には学兵が配属される自衛軍陸軍───の指揮下に入る形になる。

 このため学兵提督は、文部省に所属していながら自衛軍陸軍の指揮下にあり、かつその上で海軍へ出向して提督として任官しているという、非常にややこしい身分となっていた。

 

 先ほど原口が指摘したように、彼女の長い申告は身分の複雑さも示している。

 

「なるほど。よく見れば2種軍装とは細かい部分が違うな。九州総軍の制服も白だし、白い方が映える、とでもお役人が考えたかな」

 

 原口が感心したように言う。

 

「しかし、田村少佐、気をつけたほうがいい。私も夏は2種軍装を着ているからわかるが、白い制服は汚れが目立ってな。それこそコーヒーでもこぼしたら台無しだ」

 

 一乃は思わず手に持ったコーヒーカップを両手で押さえた。

 原口が笑う。笑うと厳しい口元が緩み、ずいぶん人の良さそうな顔になることに、一乃は気づいた。

 

「いや、すまん。おどかすつもりではなかったのだが。……さて、では本題に入るとしようか」

 

 由良が、進み出て一乃の前に数枚の書類を並べた。

 

「田村少佐、君には新編艦隊を率いてもらうことになる。本来ならば艦隊の発足式その他をするところだが、見てのとおり当警備府自体が突貫工事もいいところでね。すまないが省略ということにさせてもらいたい」

 

 一乃は「失礼します」と断り、テーブルの上に広げられた書類を手に取った。書類の表題には『熊本警備府所属第816艦隊』と書かれていた。

 

「軽巡1名に駆逐艦が叢雲を含めて3名……水雷戦隊でしょうか」

「そうだ。1個艦隊の定数6名には足りんが、欠員は都合がつき次第補充する。駆逐艦2名は建造から間もないが、軽巡はそれなりの実戦経験を積んだ艦娘を配置する。君の秘書艦ともども、隊の核にするといいだろう」

 

 由良が手際よく熊本要塞の地図を広げる。原口は地図の西側、つまり九州西岸部を指しながら続けた。

 

「816艦隊の主任務は沿岸部の哨戒、警備だ。具体的には主に天草灘(あまくさなだ)と島原湾の哨戒を担当してもらうことになる。上天草(かみあまくさ)市の大矢野島(おおやのじま)港湾監視所に隊舎を用意した」

 

 一乃はじっと地図を見やった。熊本市の西南から尻尾のようににょっきりと突き出た宇土半島、その先に続く天草諸島。なるほど、この場所なら島原湾、天草灘と八代湾の両方ににらみを利かせられる。周囲は海のため、飛行型を除いて幻獣の接近は困難であり、とりあえずは深海棲艦との戦いを考えればよいだろう。

 

「島原湾、天草灘は熊本からの海の玄関口だ。ここの安全を確保することは熊本防衛上、極めて重要となる。深海棲艦を相手にする際は他の艦隊とうまく連携してもらうことになるだろう」

 

 原口は顔を上げると、一乃の眼を見て言った。

 

「今日の情勢では艦娘も、提督も貴重だ。田村少佐、くれぐれも無理はしないようにしてくれ」

「了解しました」

 

「叢雲も、秘書艦として少佐をよく補佐してやって欲しい」

「言われるまでもありません」

 

 原口は二人の返事にうなずくと、壁にかけられた九州中部域戦線全体の戦況図を見やった。

 

「816艦隊の発足をもって、熊本警備府艦隊計15個艦隊が揃うことになる。我々の目的はただ一つ、5月の自然休戦期までの3か月間熊本の海を守り抜くことだ」

 

 戦況図には原口の、いや由良の手によるものか、地図のあちこちに几帳面な字で、陸海の最新の戦況が書き込まれているようだった。

 

「陸軍も幻獣の圧倒的な物量を相手に、あらゆる戦力を投入して防衛にあたっている。学兵もその例外ではない。我々が粘れば粘るほど、陸の戦いが楽になる。……子供たちを守る助けにもなる」

 

 原口は一乃の方を見て、気が差したようにかぶりを振った

 

「いや、いまさら貴官に言うべきことではなかったな。田村少佐、貴官の勇戦に期待する」

「はっ! 微力(びりょく)を尽くします!」

 

 一乃は立ち上がって敬礼した。

 

 

 

 

 

 上天草(かみあまくさ)市は熊本市内から西南に約50km、車でなら1時間半ほどの距離にある。

 海軍大矢野島(おおやのじま)港湾監視所は、上天草市の西南、島原湾に面した海辺にあった。

 

 港湾監視所の敷地に入り、警備府の高機動車から降りた一乃と叢雲の前に3人の少女が並び、一斉に敬礼した。

 

球磨(くま)型軽巡5番艦木曾(きそ)、個体識別番号第五七一号」

 片目を黒い眼帯で覆った少女が不敵に笑った。

 

睦月(むつき)型駆逐艦8番艦長月(ながつき)、個体識別番号第一〇一二号!」

 三日月の形の髪飾りをつけた少女が、生真面目に背筋を伸ばす。

 

(あかつき)型駆逐艦2番艦(ひびき)、個体識別番号第一〇二一号…」

 黒い帽子をかぶった少女が、落ち着いた口調で申告する。

 

「以上3名!本日付けで第816艦隊に配置されました!」

 

 黒い眼帯の少女――木曾が代表して申告し、一乃は丁寧に答礼する。

 

「本日付で第816艦隊司令を拝命しました田村です。こちらは秘書艦の叢雲。館山士官学校より配属となりました。以後よろしくお願いします」

 

 ちょっと言葉を切って叢雲のほうをちらりと見る。叢雲がかすかに頷く。

 

「……それから、わたしに対しては『普段どおり』の言葉遣いで結構です。――わたしも、そうさせてもらうわ」

「はっ―――それじゃ遠慮なく、提督のご命令のとおりにさせてもらおうか」

 

 木曾が姿勢を崩して首を回した。

 

 それを横目で見た長月は少し迷ったようなそぶりを見せた後、休めの姿勢をとった。

 

「あー、それでは、改めて。長月だ。よろしく頼む、司令官」

「こちらこそよろしくね、長月」

 

 一乃は微笑んだ。

 

 この時期、大半の艦隊において艦娘たちの艦隊司令に対する言葉遣いは『黙認』されている。

 大戦中の軍艦の記憶を持つとされる彼女たちからすると、軍隊式の上下関係に準じた敬語はどうも馴染まないらしい。乗員であった旧軍の軍人達はいわばパートナーではあるが、上官でも部下でもなかったからだ。また、彼女たちの性格、言葉遣いは彼女たちの自己認識の形成に関わっており、無理に矯正をすると精神安定に悪影響を与えるという学説もあった。

基本的にほとんどの艦娘は司令官の命令に忠実に従うし、礼儀や上下関係もおおむねわきまえている。

 言葉遣いくらいは、というのが多くの現場の提督の方針だった。

 

 

「聞いてはいたけど…やっぱり学兵なんだ」

 

 興味深そうにこちらを見る響に一乃は向き直る。

 

「ええ。だから少佐といっても『臨時』少佐なの。私の本来の階級は百翼長。それだって、文部省が海軍に出向させるにはある程度の階級が必要だからって、無理やり2階級も特進させただけだもの。」

 

「2階級特進の前渡しってか? 縁起でもないな」

 

 木曾の端的(たんてき)な感想に、長月が一瞬ひやりとした表情を浮かべるのがわかる。

 

 一乃は一瞬考え、そしてことさらおおげさにふき出してみせた。

 

「本当にね。でも、すでに一度死んでるんだったら、二度死ぬことはない、そう考えることにしてるわ」

 

「……なるほど、確かにそうだな」

 

 木曾は一乃の目を見てにやりと笑った。

 

 

「いつまでも立ち話というのもなんだし、とりあえず、一乃に隊舎を案内してもらえるかしら?」

 

 叢雲が、口を挟んだ。

 

「それもそうだな。ま、これからよろしくな、提督」

「こちらこそ、木曾」

 

 響もね、となおこちらを興味深げに見る響に、一乃は笑いかける。

 

「では、まずは艦隊司令執務室に案内するよ。こっちだ、司令官」

 

 長月が先に立って歩きだし、一乃はそのあとに続く。

 

 

 

 

 埠頭に打ち寄せる波が、夕日を反射してきらきらと光っていた。

 

 

 

 



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第2話 第816艦隊

 艦娘とは、第二次世界大戦当時の軍艦の記憶と能力を持つものたちの総称である。

 幻獣、深海棲艦の出現後、これに呼応するかのように彼女たちも現れた。

 外見こそ可憐な少女の姿だが、艤装と呼ばれる装置を接続することで海上に2本の足で立ち、疾走し、砲撃戦や雷撃戦、さらに小型の艦載機による航空戦までこなし、深海棲艦と互角以上に渡り合う。

海に囲まれ、海路が遮断されればたちまち干上がる日本が、今日まで何とか持ちこたえているのは、彼女たちの存在が大きい。

 彼女たちの出自や能力はそのほとんどが軍事機密、という名の厚いヴェールでおおわれている。それでも、その存在自体は国民に広く知られ、海の守り神として讃えられていた。

 

 

 なお、彼女たちの身分は、自衛軍海軍の所有する“物品”である。

 

 

 

 

1999年2月21日 一〇二一 大矢野島海軍監視所敷地内 熊本警備府所属第816艦隊隊舎 艦隊司令執務室

 

 

 

 第816艦隊の施設は、上天草市大矢野島(おおやのじま)港湾監視所敷地内の、艦隊隊舎および隊員寮の2棟の建物から成っている。このうち艦隊隊舎は埠頭から海にせり出すように建てられた2階建ての建物であり、艦隊事務室、艤装保管庫、出撃用設備などが備えられている。

 

 階段で2階に上がってすぐの部屋が、艦隊司令の執務室だった。

 

 

 

「入渠ドックがない、というのが心配ね……」

 

 まだ段ボールが積み上げられた執務室、真新しい執務机で、田村一乃海軍臨時少佐は備品の目録に目を通しながらつぶやいた。

 

「あんな高価(たか)いもの、こんな小規模艦隊にまで置けないわよ。この監視所は警備府まで近いから、そっちで直せってことね」

 

 傍らの秘書艦机で叢雲が応じる。

 

「わかってるけど…やっぱり緊急時のことを考えるとね」

 

 入渠ドックは高機能医療ポッドと艤装の修理装置を組み合わせたような機械である。

 艦娘の肉体と艤装を極めて短時間で修復でき、たとえ欠損した部位があっても、ものの数日できれいに再生してしまうほどだ。

 クローン再生技術を元とする通常の高機能医療ポッドと違い、入渠ドックの構造は未だ謎の部分が多く、一基生産するのに莫大なコストがかかるとされている。

 

「そのうち建造ドックや開発工廠が欲しいとか言い出すんじゃないでしょうね」

「さすがにそんな物があってもかえって困るけど……でもそういえば、建造ドックって見たことないなあ」

「一応軍機だもの。まあ、熊本警備府には1基あるらしいから、お願いすれば見学くらいはさせてもらえるかもね。新米少佐ごときが興味本位で覗いたら後が怖いだろうけど」

 

 建造ドックは艦娘を建造する施設であり、開発工廠は艦娘用の艤装を生産する施設だ。一応どころではない最高レベルの軍事機密である。横須賀、呉、舞鶴、佐世保、大湊、那覇の各鎮守府ほか、日本国内でもごく限られた場所にしか存在しない。

 

「工作艦でもいいんだけどなぁ……」

 

 一乃が予算請求書の決済欄に判をつき、数字が誤っている部分を赤鉛筆で囲って叢雲のほうによこす。

 

「あれが欲しいこれが欲しいって、子供みたいにダダこねるんじゃないわよ」

 

 叢雲が即座に誤りを確認し、二重線をひいて訂正して訂正印をつく。

 どこか気の抜ける会話をしつつ、二人とも書類を処理する手は止まっていない。喋りながらでも仕事ができるタイプのコンビのようであった。

 

「器用だな、お前ら」

 

 入室してきた木曾が、半ば呆れ、半ば感心したように言った。

 

「提督、司令部機器の業者が来た。調整に立ち会ってもらっていいか?」

「あ、もうそんな時間だっけ?」

 

 一乃は壁の時計を見る。

 

「予定時刻より若干早いわね。遅配よりはいいけど」

 

 叢雲が応じ、ふと木曾の足元に目を止める。

 

「木曾、そっちは?」

「ああ、そうだ。提督、妖精たちが到着したぞ。提督に挨拶したいそうだ」

 

 

『妖精』

 掌に乗るサイズの、人間を3頭身にデフォルメしたようなこの存在は、艦娘とほぼ同時に人類の前に姿を現した。

 艦娘の艤装の修復や整備、そして開発はこの妖精が行っており、さらに艦載機の操作も妖精のサポートによるものだ。入渠ドックや建造ドックの構造が謎とされるのは、妖精がその工程の大半を行っているためでもある。艦隊運営には必要不可欠な存在であり、当然ながら彼女たちの存在も重要な軍事機密だった。

 

 

「じゃ、じゃあ、挨拶に行かないとね」

 

 一乃はどこかぎくしゃくと立ち上がる。

 

「ん? 挨拶も何も、ここに来ているじゃないか」

「あ、こ、ここに?」

 

 何やら眉間にしわを寄せてうろうろと床に視線をさまよわせる一乃を見て、木曾が怪訝な顔になる。

 叢雲が小さくため息をついて口を開いた。

 

「木曾、一乃は、妖精を視るのが『下手』なのよ」

「えっ、そいつは……あー、その、珍しいな」

 

 木曾は軽く目を見開いた。

 

 妖精は、なぜかほとんどの人間の眼には見えず、カメラなどの光学機器でも姿を捉えることができない。彼女たちの姿を見ることができる人間はごく一部であり、その理由は未だにわかっていない。

 提督としての適性を持つ人間は、そのほとんどが妖精を視認することができるとされている。一昔前は、妖精を視認できるかどうかを提督の適性検査にしていた時期もあった。

 

「その、まったく見えないわけじゃないの。こうやって目の焦点をずらしてね、視界の端っこのほうで見れば、なんとなくうすぼんやりとは見えるんだけど……」

 

 そう言って遠い眼で木曾の足元を凝視する一乃。

 意図的に焦点をずらした視界の端で、こちらを見上げる小さな影が数個、確認できた……ような気がした。

 

「提督、だいぶ妙ちきりんな顔になってるぞ」

 

 木曾に言われて、一乃は顔を赤らめた。咳払いして、影が見えたあたりに向かって敬礼。語りかける。

 

「816艦隊へようこそ、歓迎します。ええと、いまの話のとおり、わたしの能力不足のせいで、あなた達には何かと不自由をかけるかもしれません。なにかあったら、木曾や叢雲を通してでもいいから、遠慮なく言ってね。あ、それから……」

 

 一乃は執務机の引き出しをあけると、平たい箱を取り出す。

 

「これは着任のあいさつ。良ければ、みんなで、食べて」

 

『ミリーチョコレートカムパニー』とロゴの入った箱。ちかごろ値上がり(いちじる)しいお高めの甘味であった。熊本へ着任する前に東京で奮発して買っておいたものだ。

 古来より妖精への貢物(みつぎもの)は甘味と相場が決まっている───らしい。叢雲に教えてもらった。

 相変わらず一乃の眼には彼女たちの姿が見えないが、何やらざわ、とざわめく気配が感じられた……ような気がした。このあたりかな、と目星をつけてしゃがみこんで箱を差し出すと、ふわり、と箱が浮く。

 

「代表がお礼の敬礼をしてるぞ」

 

 木曾がいい、一乃は慌ててチョコレートの箱あたりに向けて敬礼を返す。

 床から10cmほど浮き上がったチョコレート箱は、そのまますいー、と流れるように司令室の外へ出て行く。その箱の下、嬉しそうに両手で箱を持ち上げる小さな影たちが……やっぱり見えたような気が、した。

 

 

 一乃はため息をつく。

 

 妖精は言葉を発することはないが、人間の喋る言葉は理解するし、身振り手振りで意思疎通を図ってくることもある。艤装の整備や修復を請け負う彼女達と直接コミュニケーションを取れないことは、艦隊司令としての職務にプラスにならないことは明らかだ。

 特に才能のある提督だと、なんとなく妖精たちの言いたいことがわかるらしい。俗に、妖精とコミュニケーションをとる能力が高いほど提督としての能力も高い、とも言われている。

 まったく見えないよりは、うすぼんやりと見えるだけでも十分マシと言えるのだろうが、練習や努力で改善できる問題ではないだけにもどかしい。

 

 が、悩んでいてもしょうがない。

 

 ひとつ頭を振って気を取り直すと、一乃は木曾に向かって言った。

 

「あの、そういうわけだから、悪いけど、妖精さんたちから何か要望でもあったら、聞いてあげてくれないかな」

「ああ、分かった」

 

 木曾は馬鹿にした風でもなくうなずく。

 

「あいつら、喜んでたぞ。悪くない手土産じゃないか、提督」

「え、そ、そう? 叢雲の言うとおりにしただけなんだけど、喜んでもらえたなら、よかったかな」

 

 照れて頬をかく一乃。叢雲は軽く肩をすくめただけで何も言わなかった。

 

「おっと提督、業者を待たせてるぞ」

「あ、そうね、すぐ行くわ」

 

 一乃はうなずいた。司令室を出がてら、叢雲のほうを振り向く。

 

「司令部機器の設置が終わり次第、艦隊運用のテストと艦隊運動訓練を実施します。叢雲、長月と響に声をかけておいて」

「わかったわ」

 

 

 

 数時間後、隊舎のすぐそばの海上に立つ、4つの人影があった。

木曾、響、長月、そして叢雲の第816艦隊所属の艦娘4名である。4人とも艤装を装着し、実弾こそ装填していないが出撃時とかわらない完全武装だった。

 

「水雷戦隊、というには少しばかり人数が寂しいかな」

 

 2本の足で海面に立ち、海風になびく髪を押さえながら長月が言った。

 

「欠員の補充の予定はもう決まっているのかい?」

「原口長官は都合がつき次第、なんて言ってたけど、どうかしらね。今はどこも艦が足りてないはずだし」

 

 響の問いに、叢雲が肩をすくめて答える。

 

「当分はこの4人で頑張ることになるかもしれない、ということか」

 

 生真面目に考え込む長月。

 

「ま、当面の担当は付近の哨戒みたいだし、定数割れの水雷戦隊にあまり無茶な命令も回ってこないと思うわ」

「対潜哨戒は問題ないと思うけど、航空戦力に遭遇すると難しそうだね」

「その通りだな。夜戦に持ち込めれば別だが……そもそもこんな沿岸部で、悠長に夜になるまで敵を野放しにするわけにもいかないだろう」

「対空兵装を増設するか? まあそれで雷撃や対潜がおろそかになったら元も子もないけどな」

「確か25mm機銃が配置されてたわよね。状況によっては一人くらいは防空担当艦になるのもありかもしれないわ」

 

『えー、本日は晴天なり、本日は晴天なり。各局感鳴(かんめい)いかがですか? えー、みんな聞こえる?』

 

 戦術談義の最中にいきなり間延びした通信が割り込み、4人は思わず顔を見合わせた。

 

『あれ、ダメかな? えー、本日は晴天なり、本日は晴天なり。各局感鳴いかがですか? ……ええと、叢雲、聞こえない?』

 

「聞こえてるわよ。あのねえ一乃、その能天気な無線試験やめてくれる? 力が抜けちゃうんだけど」

『え、でも自衛軍海軍の無線規程だと、これが正規の試験文だって習ったけど』

「そういう問題じゃないっての…」

 

 額を押さえる叢雲。

 正規とはいえ、いまどきこんな間の抜けた試験文を守っているのは、それこそ士官学校の1年生くらいだ。

 前線部隊でこれをやらかしたら、他隊からしばらく笑い者になるだろう。

 

「ふ、こういうとこは新米少佐殿だな」

 

 木曾が通信を切ってにやりと笑って叢雲の肩をたたく。

 

「……はぁ。ま、新米少佐のいいところは、新しいぶん素直なとこよ。今の話、戻ったら一乃も交えて続きをしましょ。まだ変に頭でっかちになってない分、みんなの意見もちゃんと聞くはずよ」

 

 

 

「あれ、また聞こえなくなってる? やっぱり調整がうまくいってないのかな…」

 

 インカムをつけた一乃は首をかしげた。

 彼女がいるのは提督のために設けられている戦闘指揮室である。敵の攻撃に備えて隊舎の地下に設けられた部屋は薄暗く、いくつものモニターの光が彼女の顔を照らしている。この狭苦しい部屋こそが彼女の戦場、たったひとりの艦隊司令部だった。

 

『さっきからクリアに聞こえてるわよ。感鳴に問題ないわ』

「あ、よかった。応答がないから聞こえてないのかと思ったわ」

 

 叢雲の回答にとりあえず安堵する一乃。これで通じないとまた業者を呼んでの機器調整が必要になり、スケジュールが大幅に遅れてしまう。

 

『あー、こちら長月。司令官、大丈夫だ、こちらも問題ない』

『こちら、響。問題ないよ』

『こちら木曾、問題なしだ。提督、全員所定の位置についてるぜ』

 

 全員の回答を確認し、一乃はうなずいた。

 

「うん、では、これより司令部機器と艤装の接続テストを行います。各艦、接続準備」

『了解。1番艦、スタンドバイ』

『2番艦、スタンドバイ』

『4番艦、スタンドバイ…』

『遅れた。3番艦、スタンドバイ』

 

「全艦のスタンドバイを確認」

 

 一乃は左手首の多目的結晶を露出させ、司令部機器端末のソケットに接続した。

 

「神経接続開始。『艦隊運用』システム起動」

 

 一乃の視界が白く染まる。神経接続の際に発生するグリフ、と呼ばれる白昼夢だ。真っ白な世界の中、一瞬どこか懐かしい風景がよぎる。次の瞬間、隊舎の外、海上に立つ4人の姿が網膜に浮かび上がり、司令部機器から情報が津波のように押し寄せてくる。歯をかみしめて情報の奔流をこらえ、一乃は息を吐きながらゆっくりと目を開いた。

 

 多目的結晶を介して一乃の脳が司令部機器に接続され、さらに4人の艤装とデータリンクを形成する。4人の身体状態や装備、周囲の状況その他あらゆる情報が一乃の脳を介して集約され、そしてまた4人にフィードバックされる。それだけではない。司令部機器を介して海軍のネットワークから戦況、他隊の状況、そして敵艦の分析情報すら含むあらゆる情報を収集し、指揮下の艦娘にリアルタイムで伝達することができる。その情報量は、既存の軍事データリンクシステムをはるかにしのぐ。

 

 この『艦隊運用』こそが提督と呼ばれる者たちが持つ能力であり、艦娘の運用に提督が必要な理由だった。この提督の能力によって、艦娘はあたかも一個の生き物のように統制のとれた戦闘行動が可能となり、数で圧倒的に勝る深海棲艦に対し、これまでのところ質で対抗することができているのだ。

 

 そういう意味では提督の役割は指揮官であるとともに、オペレーターの性格も強かった。

 

「艦隊各艦を掌握……各艦、状況を報告してください」

 

『了解。艦隊司令部からの情報受信、良好よ』

『艤装とのリンクはスムーズだ、司令官』

『射撃管制システムの反応も悪くないな。ちょっと慣熟訓練をすればすぐ使えそうだ』

『九三式水中聴音機の稼働も良好。問題ないよ』

 

 各艦が艤装を点検し次々と報告が入る。

 

「了解。それでは、これより艦隊運動の訓練を開始します。各艦、司令部から伝達される仮想データに従って行動を開始してください。状況開始まで30秒」

 

 

 

 

 

「うん? 15km先に友軍の反応? どこの艦隊だ?」

 

 熊本警備府第1艦隊旗艦、航空戦艦日向は、巡航速度で海上を航行しながら首をかしげた。

 

 昨日、熊本警備府第1艦隊および第2艦隊は五島列島沖での深海棲艦の目撃情報にもとづいて出撃し、戦艦級を含む有力な深海棲艦隊を発見。

五島(ごとう)泊地所属の第808、809艦隊、通称五島艦隊と連携してこれを強襲し、撃退に成功していた。

 

 昨夜は五島市にある五島泊地で補給と休息をとり、念のため午前中に周辺海域の哨戒を行った後、熊本警備府へと帰投する途上だった。

 

 

「第3艦隊と第4艦隊はもう警備府に帰投しているはずじゃな……814艦隊ではないのか?」

 

 追随する重巡利根がいう。

 

 熊本警備府第1艦隊は、航空戦艦日向を旗艦とした、強力な打撃力を有する水上打撃部隊である。特に今回は有力な敵水上部隊との交戦が予想されたため、随伴艦は利根以下の重巡を中心に編成されていた。

 

「814艦隊の哨戒区域は下島方面だぞ。ここまではあまり出張って来ないとは思うが…それとも八代艦隊か?」

「八代艦隊にしては数が少ないのではないか? 4隻しかおらんようじゃぞ」

 

『二人とも、昨日の予定、もう忘れたの?』

 

 艤装を通して会話を聞いていたか、100mほど離れて後続する第2艦隊旗艦、飛龍から通信が入った。

 第2艦隊は正規空母飛龍を旗艦とした機動部隊である。

 

「昨日の予定? 確か明け方5時に出撃命令が下って、その後まっすぐ五島列島だったはずだが…」

「いや日向、それは当初の予定ではないぞ。しかし昨日の予定……なんか関係があったかの?」

 

 二人して顔を見合わせて首をかしげる伊勢と利根。

 

「日向、姉さん、昨日は第816艦隊司令の着任予定日だったでしょう?」

 

 見かねたか、後に続いていた利根の姉妹艦である利根型重巡2番艦筑摩が口を挟んだ。

 

「ああそういえばそうか。それで由良の奴が居残りになったんだったな。だが、それがどうかしたのか?」

『816艦隊の隊舎は上天草市大矢野島よ。ちょうどいま反応があるあたりじゃない』

 

 ちょっと呆れたような声である。

 

「なるほど、そういうことか。まったく覚えていなかったな」

 

 日向は腕を組んで頷いた。

あまりほめられた内容の発言ではないはずなのだが、こういう仕草に妙に貫禄があるのが日向という航空戦艦娘だった。

 

「わ、吾輩は覚えておったからな! ただ816艦隊司令と今の話が結びつかなかっただけじゃ!」

「はいはい」

 

 利根がわめき、筑摩が姉に見えないように口元を押さえる。

 

『そういえば、816の提督は学兵だっていう話だったわね』

「そうじゃったな。女子学兵と聞いたが……正直、大丈夫なのかのう」

「だからこそ、うちの長官も沿岸哨戒が主任務の816を任せたんでしょう。それに、木曾がいますし」

「そうか。木曾が816に転属になったんじゃったな」

 

 一時期第4艦隊に所属していた軽巡のことを思い出し、利根が頷く。

 

「ふむ、そろそろ見えてくるかな。前方一時の方向だ」

 

 電探を装備している日向が言う。

ほどなく、自分たちと同じように海上に立つ人影が見えてくる。

 

『どうする、日向。寄り道してあっちの提督に挨拶していく?』

 

 飛龍からの通信に、日向は腕を組んで少し考える。

 

「……いや、やめておこう。見たところどうやら艦隊運用の訓練中のようだ。いま行くとかえって迷惑になる」

『なるほど、そうね。挨拶は次の機会にしましょうか』

「だが、そうだな…よし」

 

 日向はうなずくと声を張り上げた。

 

「各艦、階梯(かいてい)陣形を取れ!針路速度そのまま!」

「ほう、面白いではないか」

 

 利根がにやりと笑って日向の右後方へと移動。筑摩が後に続く。

 

『まったく、提督に怒られるわよ? ……第2艦隊も階梯陣形!』

 

 笑いを含んだ飛龍の声。

 第1、第2艦隊総数12隻が、階梯陣形を形成する。

 

「全艦針路固定、速度そのまま。816艦隊にぃ!かしらー、右っ!」

 

 先頭の日向が体をひねって挙手敬礼。後ろに続く艦が針路は保ったまま一斉に、顔だけを816艦隊のほうに向けた。

 

 

 

「おいおい、日向も飛龍も何やってるんだ。観艦式かっての」

 

 木曾が苦笑しながら言った。

 数km先の海上を階梯陣形を取った第1、第2艦隊の面々が、こちらに『かしら右』の姿勢を保ち通過していく。

 

『すごい…』

 

 一乃の感嘆の声。

 実際の軍艦の大きさとは比べるべくもないが、それでも海原いっぱいに広がった艦娘達の階梯陣はそれなりの迫力がある。

 

 はたで見るほど簡単ではない。

視線を横に固定したまままっすぐ進行するというのは陸上の行進でも難しい。波の影響のある海上で、しかも前を行く艦を目印にすることができない階梯陣ではなおさらだ。

 事前に練習などしていないだろうに、一糸乱れぬ美しい陣形は、第1、第2艦隊の練度の高さを示していた。

 

「わ、わたし達も何かやったほうがいいのだろうか?」

「やろうったって俺たちには真似できないだろ? とりあえず敬礼でもしときゃいいさ。というわけで、各艦整列。第1、第2艦隊に敬礼」

 

 木曾がぴ、と警備府艦隊に向けて挙手敬礼。他の三人も横列に整列し、敬礼する。

 

「瑞雲だの烈風だのまで飛ばしてまあ……全員ノリノリだなまったく」

『そういえば、木曾も元は警備府艦隊所属なんだっけ』

「第4艦隊にな。まあほんの2か月ほどだったけどな」

 

「発光信号確認。『カンタイ イチト゛ウ テイトク ノ チヤクニン ヲ シユクス』」

「まったく、普通に通信してくればいいのに趣味人ねえ。どうする、一乃?」

『あ、ええとじゃあ返答を……なにかこう、それっぽく……』

「はいはい。『カンケ゛イ ヲ シヤス イス゛レ イクサハ゛ ニテ センシ゛ンヲ キソワン』……こんなとこね」

『ちょ、ちょっと偉そうじゃないかな?』

「ははっ、いいじゃないか。そのくらいはハッタリきかせないとな」

 

 そんな会話をする先で、警備府の戦力の中核たる二個艦隊は通過していき、やがて陣形を戻しつつ警備府のほうへと航行していった。

 

 

『さすがの練度、まさに精鋭艦隊って感じね』

「そうか? まあ確かに腕はいいけど、見てのとおりけっこう悪ノリが好きな奴らだぞ。第1の日向は黙ってりゃ威厳たっぷりだが口を開くと妙なボケをかますし、第2の飛龍はまともそうに見えて訓練になると人が変わるしな」

 

 木曾は敬礼を解いて笑った。

 

「ま、提督、見てのとおり悪ふざけは好きな奴らだが、悪い奴はいない。機会があったら挨拶でもしてやってくれ」

『そうね……そうします』

 

「さ、いいもの見せてもらったところで訓練を再開しましょうか。階梯陣形でも組んでみる?」

 

 冗談めかして叢雲が言った。

 

 

 階梯陣こそ組まなかったが、この後の艦隊運動の訓練にいっそう熱が入ったのは、思わぬ副産物だった。

 

 

 

 



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第3話 出撃準備よろし

 熊本警備府は、対馬海戦において戦力の大半を喪失した佐世保鎮守府の代替として、設立された。

 ただしその任務は九州西岸の守備、言い換えれば熊本要塞の海の守りに特化されている。他に佐世保鎮守府の管轄であった九州北部海域の守備や沖縄諸島へのシーレーン確保などは、呉鎮守府が代行することとされていた。

 熊本警備府の戦力の母体となっているのは旧佐世保鎮守府所属の艦娘たちである。佐世保の戦力は対馬海戦で大幅に減少していたため、九州各地の泊地、要港部に所属していた艦娘たちがかき集められた。

 急造の警備府に残存戦力を寄せ集め、何とか自然休戦期まで時間を稼ぐ。その間に佐世保鎮守府の戦力を回復させ、自然休戦期明けに陸軍と協働して九州南部の奪回作戦を仕掛ける、と言うのが自衛軍の方針だった。

 この時期の自衛軍の公文書にも、おおむねこの(むね)の記述がみられる。

 

 

 

 ――― 少なくとも、この年の3月頃までは。

 

 

 

 

 

1999年2月22日 第816艦隊隊員寮202号室 〇六一〇

 

 

 雪に閉ざされたウラジヴォストーク港に、穏やかな冬の日差しがきらきらとさしかけている。

 埠頭にはソヴィエト連邦太平洋艦隊の艦艇が並び、水兵たちが甲板の上を忙しく行き交う。

 

 ああ、また夢を見ているな、と響は思った。軍船の記憶、駆逐艦『響』の記憶。艦娘『響』ならみんな等しく持っている記憶だ。もっとも、このころは別の名前で呼ばれていたけれど。

 

 甲板をデッキブラシで磨く兵たちの笑いあう声が、海鳥の声とまじりあう。湾内の穏やかな波が『響』の船体(からだ)を揺らす。生まれ故郷とは人も言葉もずいぶん違うけれど、この穏やかな時間は変わらない。

 

 港の埠頭に、母親に連れられた小さな男の子が立っている。よく港に(フネ)を見に来る子だ。なぜか『響』がお気に入りらしい。くるくると巻く金色の髪に、寒さで赤くなったほっぺ。きらきらとした目で『響』の方を飽きずにずっと眺めている。ときおりこちらを指差して何か熱心に言い、優しそうな母親がうんうんと頷く。

 

 

 あの子は、現在(いま)どこでどうしているのだろう。だってここ(ウラジヴォストーク)はもう―――

 

 

 

 そこで、目が覚めた。カーテンの隙間から日が差し込んでいる。響はしばし天井を見つめた後、ベッドの上に上半身を起こした。

 第816艦隊隊員寮、響の個室である。部屋は意外とゆったりとした造りで、広さだけなら警備府の寮よりも広いな、と配置された時思ったものだ。

 

 響はひとつ頭を振って夢の残滓(ざんし)を追い出すと、ベッドから出る。

 今日は確か艦隊に各種資材が搬入されるはずだ。司令官はそれが済んだら射撃訓練を行うと言っていた。準備は着々と整ってきている。816の初陣もそう遠くはないだろう。

 ひとつ大きく伸びをする響。ふと、机の上に何枚も重ねられた紙に目を止める。昨夜はこの作業にかかりきりで少々遅くなってしまった。が、その分納得の出来になった。一枚とってのぞきこみ、響は満足げに頷く。

 それから、顔を洗うために洗面室に向かった。

 

 

 

 何台もの貨物トラックが横付けされ、次々と段ボール箱やドラム缶が荷卸しされ、保管庫へとおさまっていく。

 作業員達のてきぱきとした動きに、第816艦隊司令田村一乃臨時少佐は感心して見とれていた。

 保管庫内の作業台の上では、弾薬や鋼材が、ひとりでに箱から取り出され、また箱に戻されている。一見オカルトな光景だが、それは一乃にそう見えているだけだ。いまその作業台の上では、妖精たちが運び込まれた資材を検品しているのである。見る者が見れば、手のひらに乗るサイズの3頭身の妖精たちが、一生懸命走り回っているのが視えるはずである。……それはそれでオカルトな光景といえるかもしれないが。

 

 何とか妖精たちの姿を(とら)えようと目を凝らす一乃に、す、と横から書類が差し出された。

 

「田村少佐、燃料、弾薬、鋼材。各種資材の納品の伝票です。ご確認ください」

 

 長良型軽巡4番艦、由良がふわり、とほほ笑んだ。

 

『資材』は艦娘の戦闘に必要な物資の総称である。燃料や弾薬などと呼ばれているが、通常兵器に用いられるそれらとは根本的に異なる物質だ。その成分や製造法は例によって軍事機密として厳重に秘匿(ひとく)されている。これらの資材が欠乏すると、艦娘はその性能を大きく落とすことになる。

 

「ありがとうございます。わざわざ警備府第一秘書艦に来ていただいて、恐縮です」

「いえ、長官からも何かご不自由はないか、よく聞いてくるように言われています。何かありましたらご遠慮なく申し付けてください」

 

 姿こそ優しげな年若い少女だが、由良はかなりのベテラン艦娘のはずだ。戦闘力だけでなく、事務能力や参謀としての資質がなければ秘書艦は務まらない。ましてや、原口長官の信頼する警備府の第一秘書艦なのだから、彼女の優秀さは()して知るべしだった。

 

「今回の納入分で当座に必要な資材量はあるかと思います。とはいえ、新編艦隊ですし、長官も出撃を焦る必要はないとおっしゃっていました」

「ありがとうございます。でも、出撃できる態勢はすぐにでも整えます。わたし達だけいつまでも後方でのうのうとしているわけにはいきませんから」

「……ご立派です、少佐さん」

 

 由良は微笑む。励ますような笑顔に、一乃は少々気恥ずかしくなった。

 

「今日は、これから訓練ですか?」

「ええ、弾薬も搬入されましたし、射撃訓練を行う予定です。隊員のみんなもそうですけど、わたしも射撃管制の調整をしないといけないので」

 

「もしよろしければ、見学させていただいてもいいでしょうか?」

「え……?」

 

 由良の意外な言葉に、一乃は目を瞬いた。

 

 

 

 

 

「それで、由良がいるわけか」

 

 埠頭に立ってにこにことこちらに手を振る由良を見て、艤装を装備し海上に立つ長月はなんだかなー、という顔になった。

 

『うん。816の仕上がり具合を見てくるようにって、長官からのご指示みたい』

「なるほどな……」

 

 しかし、由良に見られながらの訓練は少々緊張するな、と長月は内心思った。

 由良は原口長官とともに南方から異動してきた艦娘である。長月が警備府で一緒だった期間はほんの2か月あまりにすぎないし、秘書艦として忙しい身の由良とはそれほど接点があったわけではない。それでも、彼女が戦闘力と事務能力を兼ね備えた優秀な艦娘であることはよく知っている。

 

『頑張ってここで『準備万端、いつでも出撃できます!』ってところを見せないとね』

「――― ああ、そうだな。その通りだ、司令官」

 

 もう少し()れた提督なら、このような馬鹿正直な物言いはしないだろう。なるべく訓練を引き伸ばして、少しでも艦隊の編成期間を稼ぐはずだ。新米少佐ならではの気負(きお)いと言えばそれまでだが、長月は一乃の生真面目さを好ましく感じた。

 

 と、埠頭に立つ由良に木曾が片手をあげて歩み寄っていくのが見えた。何やら談笑している。そういえば木曾も、もともとは南方からの異動組だったな、と長月は思いだした。

 

『司令官、標的の配置が完了した』

 

 射撃訓練の準備をしている響から通信。

 

『それじゃ、長月、準備はいい?』

「大丈夫だ。いつでも行ける、司令官」

『了解。艦隊運用開始』

 

 艤装と艦隊司令部のデータリンクが形成され、各種兵装のロックが解除される。

 

『10秒後に訓練を開始します。……4,3,2,1、状況開始!』

 

 一乃の合図と同時に、艦隊司令部から海上の進行ルートと標的の位置情報が送信されてくる。

 

 

「よし、長月、訓練を開始する!」

 

 

 長月は主機の出力を上げ、一気に30ノット超まで加速した。

 最初の標的を確認。右手に装備した12cm単装砲をひと撫ですると、長月は眼前に砲を突き出した。

 

「砲撃開始!」

 

 12cm砲が火を噴き、標的のやや前方に水柱が上がる。弾着の位置を確認し、すぐさま誤差を計算、さらに艦隊司令部から送信される射撃管制データと照合し照準を修正。間をおかず放たれた2射目は見事、標的を粉砕した。

 

 艦娘の武装は旧軍の軍艦に搭載されていた武装と同じ名を持つ。()()()はそのままに、艦娘が携行できるほどに小型化した、といった外見である。

 もちろん、元となった艦砲等と同じ威力を持つわけではない。ないのだが、そのサイズからは十分にあり得ないほどの威力を誇る。戦艦娘の大口径主砲などは、主力戦車の戦車砲をしのぐ威力を持つほどだ。また、提督による弾道計算他の高度なサポートにより、砲雷撃の正確さは旧軍時代の軍艦とは比較にならないほど向上している。とはいえお互いの(まと)の小ささも比較にならず、そうそう当たる物ではないという点はあまり変わらない。

 結果として深海棲艦と艦娘の間では、海上30ノット超の速度での目まぐるしい高速砲撃戦が繰り広げられることになる。

 

 長月は高速でターンしながら、12cm砲を連射する。標的の至近に連続で着弾するも、直撃には至らない。舌打ちしつつも、すぐ頭を切り替えて次の標的へ。今度は初弾から命中した。すかさず身をひるがえして最後の標的へ照準。1発、2発、3発目で標的は粉々に吹き飛んだ。

 

『状況終了。長月、おつかれさま』

 

 指定された訓練ルートを航行し(走り)きり、長月は深呼吸して息を整える。

 

『標的の破壊率、8割以上。すごいわ』

「まだまだ、だ。2割近くは外している。それに、浮かんでいるだけの標的(ダミー)相手だからな」

 

 一乃の賞賛に、長月は首を振って答えた。

 

「だが、司令官のサポートは的確だった。ずいぶんと動きやすかったよ」

『ありがとう。でも、わたしもまだまだよ。射撃管制がよければ、長月の命中率ももっと上がっただろうし』

「そうか。では、お互いまだまだ向上の余地あり、ということにしておこうか」

 

 仮にも艦隊司令官相手に、気安すぎる物言いかな、とも思ったが、一乃は気を害した様子もなく、『そうね』と笑った。

 

『司令官、標的の再設置を始めてもいいかい?』

『うん、お願い。次は響の番ね』

 

 響からの通信が入り、一乃が答える。長月も準備を手伝うべく、隊舎の方に航行する。

 

「しかし……この標的は響が用意してくれたのか?」

 

 現在使用している標的は、適当な廃材や発泡スチロールを寄せ集め、想定座標の海面に浮かべただけの物である。鎮守府などではセンサーを内蔵した専用の訓練用標的なども使用しているが、前線の小規模艦隊にはそんなものを用意する余裕はない。日常の訓練だったらこれでも十分である。

 

 その手作り感ただよう標的には、マジックペンで何やら角が生えて牙をむき出した怖い顔の女と、『ぶらーじぇすきぃ・からーう゛ぃ(敵艦)』と書き込まれた紙が貼り付けられていた。

 

『そうだよ。この方が実戦をイメージしやすいだろう?』

『うん、いいアイディアよね』

「あ、ああ……そうだな」

 

 どちらかというと、先日警備府で行われた節分の豆まきを思い出した、とは言わないでおこう。と長月は賢明にも思った。

 

 

 

 

 

「ご苦労さまね、由良」

「叢雲」

 

 艦隊隊舎の入り口で、由良はばったりと叢雲と鉢合わせた。

 

「そろそろお帰りかしら?」

「ええ、長月と響の様子も見せてもらったし、田村少佐にご挨拶だけさせてもらおうと思って」

「そう。長官にいい報告はできそうかしら?」

「そうね、二人ともいい動きだったわ。田村提督の艦隊運用も問題なさそうだったし、すぐにでも実戦に出られそうね」

「長官の思惑はどうあれ?」

「……そういじめないで」

 

 由良は苦笑した。叢雲はひょいと肩をすくめる。

 

「そんなつもりじゃないわよ。お互い、秘書艦は楽じゃないってこと。そうでしょ?」

「それは同意するけど……」

 

 由良はふと唇に指を当てて言った。

 

「そうね、ひとつ言っておくわ。木曾にね、聞いてみたの。田村少佐はどう?って。そうしたら怒られちゃったわ」

「木曾に?」

「ええ。『あのなあ、俺はもう816の艦なんだぞ。つまらないことを聞くな』って」

「……そう」

 

 叢雲は言葉少なにうなずく。

 

「辛いところよね、お互いに。……それじゃあね、また来るわ」

 

 そう言ってすれ違う由良の背に、「戦闘指揮室は地下の突き当たりよ」と声がかかる。

 振り向くと、叢雲は肩越しに手を振りつつ、埠頭へと歩いていくところだった。

 

 

 この日の射撃訓練は、夕刻まで続けられた。

 

 

 

 

 

 

 第816艦隊の隊員寮は隊舎から徒歩30秒の距離、つまりすぐ隣に建てられている。

 鉄筋コンクリートの四角い3階建ての建物であり、そっけない外見だが、作りは意外としっかりしていた。

 1階の半分が食堂や浴場などの共有スペースであり、1階の残りと2,3階が隊員の居室となっている。洗面室やトイレは共用だが、各居室は比較的余裕をもって造られており、各部屋を個室として使用しても最大2艦隊、12名が入居可能である。

 

 1階の食堂兼談話室も、1度に10人以上が食事を取れる広さがあった。ただし、今は住人が艦隊司令以下5名しかいないため、少々寂しい、といえるかもしれない。

 それでも、816艦隊の面々は、夕食後のくつろぎの時間を思い思いに過ごしていた。

 

「あっ……」

「おい、あぶないぞ、提督」

 

 椅子から立ち上がった途端ふらついた一乃の腕を、木曾がつかんでいた。

 

「あ、ありがと。木曾」

「気をつけなさいよ、一乃。アンタただでさえとろいんだから。艦隊運用の後は急な動きは控えなさい」

 

 羊羹を切った皿を卓の上に乗せながら、叢雲が注意する。

 

 艦隊運用時、提督は神経接続によりネットワークと脳を直結し、膨大な情報を処理する。個人差や慣れはあるが、長時間の神経接続は脳にかなりの負担をかけることとなる。今日は特に半日ずっと射撃訓練を行っていたため、一乃の脳にはそうとう疲労がたまっているはずだった。

 

「大丈夫かい、司令官?」

「うん、ありがとう響。何度か神経接続しているうちに、脳が少しずつ適応していくはずだから」

 

 一乃はそう言うと手に持ったマグカップに緑茶のティーバッグを入れ、備え付けの電気ポットから湯を注ぐ。安物の茶でも、胃に入ればとりあえず体をあたためてくれた。

 食堂に置かれた型遅れのブラウン管テレビでは、学兵部隊の特集が流れていた。お決まりの突撃行軍歌(ガンパレード・マーチ)とともに、学兵の駆る装輪式戦車、士魂号L型が勇ましく突撃し、一斉砲撃で中型幻獣ミノタウロスを撃破する。

 

「雑な編集だな」

 

 木曾が一言で斬り捨てた。

 学兵戦車隊の映像と、爆散するミノタウロスの映像では、明らかに周囲の風景が異なる。少し注意をして見ていればわかる、いい加減な造りの戦意高揚番組だった。

 

「陸では学兵がろくな訓練もされず、次々と投入されているらしいな。あんな風に見事に戦車を操れる学兵部隊が、果たしていくつあるのか……」

 

 長月がテレビを見ながら言った。

 

「熊本の学兵の訓練期間は6か月だったかしら?」

「当初はな。その後、1か月減り、2か月減り、今の訓練期間は1か月まで減らされている。もっとも、その訓練期間もなかば守られていないらしい。当然、戦力としては当てにならず、本当にただの数合わせとして投入されていると聞いた」

「そうなんだ……」

「っ、いや、司令官も学兵だったな、すまない」

「気にしないで。……わたしも提督適性がなかったら、今頃ああいう学兵部隊に配属されていたんだろうけど」

 

 羊羹をひとつつまむ。甘い。

 テレビの中では士魂号L型に搭乗した女子学兵が凛々しく敬礼していた。

 

堅田(かただ)女子……熊本市内の学校だね」

「すでに実戦にも投入されているそうよ。女子学兵は戦車兵が多いらしいわね」

「戦車兵が?」

「ええ。女子の方が小柄だから狭い車内に向くし、男子よりも粘り強く戦う、なんて説もあるみたいよ」

「へえ、そうなんだ」

 

 叢雲と響の会話を聞きながら、一乃はぼんやりと茶をすすった。召集され、戦車兵となった自分を想像してみる。申し訳程度の訓練期間で戦車に乗せられ、幻獣との戦いの最前線に放り込まれる。仲間は一人減り、二人減り、そして……ひとつ身を震わせ、一乃はかぶりを振った。自分はここで、のんきに何をしているのだ。

 

「……ごちそうさま。そろそろ、部屋に戻るね」

 

 茶を飲みきり、今度はゆっくりと立ち上がる。その背に声がかかった。

 

「一乃、焦るんじゃないわよ」

「……え?」

「陸は陸、海は海、アンタはアンタよ。あんたはただ、816と自分のことだけ考えてなさい」

「……わかってるわよ、それじゃあ、みんな、おやすみ」

 

 一乃はそう言って背を向け、2階の自室へと向かった。

 

 

 

「……といって、わかってないわね、あれ。部屋に戻ったらさっそく仕事してるわよ。おおむね素直だけどへんなとこ頑固だから」

 

 叢雲が羊羹をつまみながらため息をつく。

 

「まあ、新米少佐はそんなもんだろ。最初から(はす)に構えてるよりはいいさ」

「叢雲は司令官のことをよくわかっているんだな」

「士官学校の間、一緒だったからね。軍機だから詳しくは言えないけど、それこそおはようからおやすみまで、24時間一緒だったわ」

「その、提督速成特別課程、というのはみんな君のように最初から秘書艦がつくのかい?」

「ええ、秘書艦の先払いね」

「なるほど。最初から秘書艦とコンビで学べるわけか。確かに合理的だな」

 

 長月が感心したようにうなずく。

 が、叢雲は肩をすくめた。

 

「まあ、私と一乃はうまくいった方よね。……お互いの相性がいまいちだったコンビは、あまり愉快じゃないことになったわ」

「なるほど……」

 

 全員がそろって顔をしかめる。艦娘の立場からすれば、提督との相性が合わないというのは非常に深刻な問題である。艦隊運用はある意味お互いの感覚を共有するにも等しいため、信頼関係がとにかく重要となるのだ。

 

「ま、一乃がこの先どうなるかはみんな次第ね。甘い顔しないで、せいぜいかわいがってやって頂戴(ちょうだい)

 

「秘書艦兼艦隊参謀兼先任軍曹殿は大変だな」

「さりげなく先任軍曹役まで押し付けないでくれるかしら? その辺は木曾に任せるわよ」

 木曾の混ぜっ返しに、叢雲は澄まして答えた。

 

 

 

 

 

 くしゅん。

 

 一乃は自分のくしゃみで目を覚ました。

 もたれていた机から身を起こす。どうやら書類を書きながら眠ってしまったらしい。時計を見ると深夜の1時だった。肌寒さを感じ、ぶるり、と身を震わせる。まもなく3月とはいえ、まだまだ夜は冷える。日頃から体調管理については、叢雲に口うるさく注意されている。風邪でもひいたら何を言われるかわかったものではない。

 静かに部屋の扉を開ける。深夜の寮の廊下は、しんと静かだった。

 足音を忍ばせて洗面室へ。コップに水を汲み、あおる。

 窓の外からは波の音が聞こえる。そういえば、熊本に来てからなんだか波の音がずいぶんと複雑に聞こえる。館山でもさんざん聞いていたはずだけど、土地が違うと波の音も違うのかな……などとぼんやりと考える。

 

 窓を押し開けると、冷たい空気とともに潮の香りが吹き込んでくる。

 

 闇の中にたゆたう海を、一乃はじっと見つめた。

 

 

 

 

 第816戦隊に出撃の命令が下ったのはこの2日後、2月24日のことだった。

 

 

 



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第4話 初陣

 人類の海の天敵を、深海棲艦(しんかいせいかん)という。

 幻獣と同じく、黒い月の出現と同時に出現したこの存在は、世界大戦にて急速に発達した人類の海上戦力をもってしても、対抗の難しい力を持っていた。

 いびつな魚類のような物からヒトに近い姿をしたモノまで。それらが一様に備えていたのは、自らよりはるかに巨大な軍艦とも渡り合える火力、速力、耐久力。そしてなにより圧倒的な数だった。深海棲艦の出現により、シーレーンは各地で寸断され、海はもはや人類にとって安全な場所ではなくなった。それは長大な海岸線を有する沿岸国ほど大きな脅威であり、島国などその最もたるものだった。

 

 時を同じくして艦娘が現われていなければ、日本はとっくに滅びていただろうというのが、専門家たちの共通した見解である。

 

 

 

1999年2月24日 〇五二三 第816艦隊寮2階206号室

 

 

 多目的結晶が情報を受信。

 一乃の意識が、急激に浮上した。窓の外はまだ暗い。

 布団にくるまったまま寝ぼけ眼で多目的結晶を確認する一乃だったが、その動きが止まる。ゆっくりと、表情がこわばっていった。

 

 ―――来た―――ついに―――

 

 身を起こして情報を確認。

 

『第816艦隊出撃命令。敵艦隊迎撃任務』

 

 この場で確認できるのはこれだけだ。細かい内容は司令部端末で確認しなければならない。

 急いでベッドから降りて立ち上がろうとしたところで、膝がどうしようもなく震えるのに気付いた。

 

 大丈夫……そのために、半年間とはいえ、館山できびしい訓練を積んできたんだ。大丈夫……

 

 自分に言い聞かせる。

 

 部屋のドアが、ノックされた。

 

「一乃? 起きてるわね?」

 

 聞きなれた声。叢雲の声だった。

 

「3分、あげるわ。1分間、深呼吸したら、2分で支度して艦隊司令室まで来なさい」

「……うん」

 

 いつも通りの、そっけない声。だが、そのそっけない声が不思議と、震えを鎮めてくれた。

 

 一乃は言われた通りたっぷり1分間深呼吸し、それから大急ぎで着替えはじめた。

 

 

 

「作戦内容を伝達します」

 

 艦隊司令室に並んだ隊員4名を前に、第816艦隊司令田村一乃臨時少佐は口を開いた

 

「約1時間前に甑島(こしきじま)監視所所属の哨戒機が北上中の深海棲艦隊を発見。現在も天草灘(あまくさなだ)へ接近中と推定されます。敵戦力は軽巡3、駆逐5を確認。」

 

 艦隊司令室の壁に貼られた海域図に、敵の推定針路を指し示す。

 

「816は第814艦隊と共同でこれを迎撃、敵艦隊の天草灘への侵入を阻止します。」

 

 第814艦隊は天草下島の牛深(うしぶか)港に配置されている艦隊だ。八代湾や天草灘の入り口およびその周辺海域の哨戒を主任務としており、816にとっては『お隣さん』にあたる。

 

「確か814は定数の6隻編成だったわよね?」

 

 叢雲が木曾に確認する。

 

「ああ。重巡と軽巡が1隻ずつ所属してるな。確か……熊野と長良だったかな」

「戦力としては私達よりだいぶ強力だな」

「ええ、だから814とタイミングと合わせて、挟撃を狙います。816単独だと戦力的に劣勢だから、くれぐれも814との連携を第一に動くように」

「了解」

 

 響の返答。心なしか声がやや硬い。彼女と長月は建造されてからまだ間もなく、他の二人に比べれば実戦経験は少ない。それでも完全な初陣である一乃よりはましだろうが。

 

「それから、艦隊旗艦は木曾とします」

「俺でいいのか?」

 

 木曾がちょっと意外そうな顔をする。

 艦隊旗艦は実際の戦闘において提督に代わって僚艦の指揮を執る、いわば現場指揮官である。戦闘力に加えて指揮官としての能力が必要であり、そして何よりも提督との間に信頼関係がなければ務まらない。

 訓練ではこれまで、叢雲と木曾の2パターンの編成を試していた。

 

「ええ。わたしがそう判断しました」

 

 一乃はうなずく。実際には叢雲と相談しての上だが、こう言うように念を押されていた。

 知ってか知らずか、木曾はにやりと笑って「了解」と敬礼して見せた。

 

「他に何か質問は……?」

 

 4人の顔を見回す。木曾は不敵に笑い、長月、響は真剣な眼差しでこちらを見返す。

 最後に目を合わせた叢雲は、こちらの視線を受け止め、小さく頷いてくれた。

 一乃は息を吸い、きっと前を見据えた。

 

「よろしい。わたしたちの初陣です、各員の奮励努力を期待します。第816艦隊、出撃!」

 

 4人が一斉に敬礼し、一乃は答礼する。

 その手が震えていることに全員が気づいていただろうが、それを指摘する者はいなかった。

 

 

 

 朝焼けの天草灘を、4つの影が疾駆する。

 

「天気晴朗なれども波低し、ってとこだな」

敵前回頭(トーゴ―ターン)でもする気? 言っとくけど、付き合わないわよ?」

 

 先頭を行く木曾が軽口をたたき、叢雲が応じる。

 

「木曾、水偵を飛ばさなくていいのか?」

「敵の推定速度から考えてもう少し後だな。いま飛ばすと敵発見の前に燃料が尽きて、肝心の時に帰艦中、なんてマヌケなことになりかねないからな」

 

 木曾が運用する零式水上偵察機は816の眼ともいえる存在だ。

 艦娘の運用する航空機の航続距離は、実際の航空機に比べ圧倒的に短い。偵察機を運用できる艦が2隻以上いる艦隊ならば交互に偵察機を飛ばすといった工夫もできるが、現状の816の編成では運用に慎重にならざるを得ない。

 

『814の水上偵察機が敵艦隊を発見したわ。位置情報を送付します』

 

 一乃から通信。814から送られてきた敵艦隊の情報が、艦隊司令部を介して全員に送付される。

 

「これは……司令官、敵艦隊がふたつに分かれたみたいだね」

 

 響の言うとおり、深海棲艦隊を示す光点が二つの集団に分かれていた。まっすぐ北の方角に向かう艦隊主力から少数の艦が分かれ、北東の天草灘方面…つまりこちらに向かっている。

 叢雲が頷いた。

 

「追撃する814に気付いたのかもね。二手に分かれて向こうも挟撃を狙う気かしら」

 

『814より入電。作戦を変更。814艦隊はこのまま北上する敵主力艦隊を追撃。816は前進、天草灘に接近する分艦隊を迎撃するわ。なお、814の水偵が触接を継続中』

「正面対決ってとこか。ま、わかりやすいな。各艦、散開して並列陣で索敵にあたるぞ。叢雲が右、長月が左、俺と響が正面だ」

「了解した」

 

 木曾の言葉に、長月が唇を引き締める。

 816は並列陣をとり、原速まで速度を落としながら慎重に前進する。

 

 右翼方向を警戒していた叢雲がさっと身をかがめ、手を水平に横に伸ばして合図した。

 ほかの3人も素早く姿勢を低くする。

 

 右1時方向、水平線に影。

 

「深海棲艦を確認。ふん……僥倖(ぎょうこう)ね。敵はまだこちらを発見してないみたい」

 

 海洋ほ乳類に似たその形状からシャチ、などとも綽名される、醜怪な歯をむき出しにした異形が2、そのシャチもどきの上に白い仮面をつけた人間の上半身を生やしたような姿が1。

 

『…分析完了、駆逐ロ級2、軽巡へ級1。いずれも通常の個体と推定』

 

 深海棲艦達は816の眼前を横切る形で一心に天草湾方面を目指している。敵偵察機は後方を警戒しているのか姿が見えず、身をかがめて様子をうかがう4人に気付いた様子はない。

 

 絶好の、好機だった。

 

「一乃、仕掛けるなら今よ」

 

 通信の向こうで、大きく息を吸い込む気配がした。

 

『各艦、戦闘を許可します、攻撃開始!』

 

「よぉし! 単縦陣で仕掛けるぞ、続け!」

 

 木曾が一気に最大戦速で突進した。各艦が後に続く。

 

 ここにきて深海棲艦側もようやく、急接近する816に気付いたようだ。慌てて陣形を変更しようとしている。

 が、

 

「遅いな!」

 

 その機先を制するかたちで、木曾の装備する14cm単装砲2門が火を噴いた。

 一隻の駆逐ロ級の至近に水柱が上がり、木曾は即座に誤差を修正、第2射。

 艤装の観測機、そして艦隊司令部からの観測情報の支援を受けた一発は狙いたがわず、駆逐ロ級の『装甲』を突き破り、ロ級はその醜悪な歯の間から形容しがたい声を絞り出し、傾いた。

 この間、わずか5秒強。

 

『ロ級中破!』

「続けて仕掛けるわ!長月、響、続いて!」

 

 砲撃を続行する木曾の脇をすり抜け、3隻の駆逐艦が敵艦隊に向けて一気に接近しながら砲撃を開始。

 接近戦は駆逐艦が最も得意とするところだ。3隻の統制のとれた砲撃が次々と敵艦に命中する。

 

『駆逐ロ級1撃沈、軽巡ホ級小破。反撃、来るわ!』

 

 傷つきつつも軽巡ホ級が5inch単装砲を発射。だが、不利な体勢でこちらの砲撃にさらされながらの応射である。先頭を航行する叢雲は高速で蛇行。危なげなく砲撃を回避してみせる。そちらに気を取られたロ級を、木曾の砲撃がまともに捉えた。

 

 深海棲艦のもつ『装甲』は正確には『装甲力場』、と呼称されている。一言でいえば、不可視の、力場(エネルギー・フィールド)とでもいうべきものだ。艦娘も、艤装を装備することで同様に発生させることができる。

 基本的に元となった艦種が装甲の厚い艦種であるほど出力が高い、つまり『厚い』。

 駆逐級の装甲力場とて小火器程度ならば寄せ付けない出力を持つが、巡洋艦の砲撃をまともに受けて無事で済むか、問われれば、答えは否だ。

 

 結果として木曾の14cm砲から放たれた徹甲弾は、持てる運動エネルギーをロ級の装甲に叩き付けて力場を突破。船体に突き刺さり、コリオリの力でもって存分に引き裂いた。

 ロ級は半ばまっぷたつになり、ひとたまりもなく海中に没した。

 

『ロ級1、撃沈!』

 

「魚雷、発射する!」

「了解。合わせる」

 

 距離を詰めた長月と響が61cm魚雷を発射。6発の魚雷がわずかな時間差を置いてへ級に殺到。へ級は回避行動をとろうとするが、すでに損傷を受けたその動きは、6本もの魚雷を回避しきるにはあまりにも遅かった。

 

 爆発。

 

 下半身を砕かれたへ級は一瞬天を仰ぐようにのけぞり、そしてゆっくりと沈んでいった。

 

『ホ級、撃沈。敵艦隊の殲滅を確認』

 

 一乃の声に、長月が息を吐く

 

「やったか……」

「まだよ。気を抜かないで周辺警戒を継続」

「む、すまない」

 

 しばし周辺を警戒する面々。こちらの索敵をすり抜けた残敵、特に潜水艦がいるとかなり厄介なことになる。

 が、幸いなことに、どうやら今回に限ってはそれは杞憂(きゆう)だったようだ。

 ほどなくして一乃から通信。

 

『814艦隊から入電。敵艦隊を撃破したそうよ。他に敵影確認されず。作戦は終了です。……みんな、お疲れ様。念のため周辺を哨戒してから、帰投してください』

 

 叢雲がふっと息を吐いた。

 木曾が口の端を上げ、単装砲を肩に担ぐ。

 

「勝った……勝ったんだな」

 

 長月が笑みをこぼし、響が無言で微笑み、頷いた。

 

 

 

 神経接続を解除した一乃は、薄暗い戦闘指揮室の中で一人、ほっと息をついた。

 

 初陣は、戦闘開始から終了までわずか5分足らず。目まぐるしく押し寄せる各種の情報を制御するのに必死で、指揮官として何か考えるまもなく終わってしまった。

 だが、結果として、816は誰ひとり傷つくことなく、敵を殲滅した。これ以上ない戦果と言えるだろう。

 思い出したように、どっと疲労が押し寄せてくる。

 

「見事な勝利だったわ。みんな」

『こちらより数の少ない敵を先に発見して、有利な状況で攻撃を仕掛けたんだ。ここまでいい条件がそろってれば負けるほうが難しいさ。特にほめられるような話じゃあない』

 

 でも、ま、と木曾は続けた。

 

『勝ちは勝ちだな、提督。ラッキーな勝ちってのも悪くない。初陣ならなおさら、な』

『そうだね。幸先がいい。司令官、君は運がいいね』

 

 響が同意する。

 

「あはは、ありがとう。そうね、わたし、運がいいのかも」

 

 一乃は笑ってみせた。木曾の言うとおり実に幸運な勝利だったな、とつくづく思う。

 そうそう、あとで814艦隊の司令官にもお礼を言っておこう。作戦開始前に映像通信ですこし話しただけだが、確か自分と同じ新米少佐だと言っていたし…

 

 そこまで考えたところで、不意に頭に鋭い痛みがはしり、一乃は思わず息が詰まった。

 

「つっ……!」

 

『一乃? どうかした?』

「……ううん、なんでもないわ」

『……大丈夫なわけ?』

 

 叢雲の声のトーンが低くなった。

 

「ちょっと緊張して疲れただけだから。みんな、気をつけて帰ってきてね」

 

 一乃は何とかそれだけ言うと、こちらからの送信スイッチをオフにした。

 初出撃の緊張は予想していたよりずっと脳に負担をかけたようだ。頭の中で割れ鐘がなっているようだ。

 手探りで指揮卓の引き出しを開け、鎮痛剤を数錠とりだし、口に放り込んで噛み砕く。

 あれ、これ噛んじゃいけない薬だったかな、などと痛む頭の隅で考えながら震える手でヘッドセットを外すと、椅子に背を預けた。

 

 提督の脳を介し膨大な情報処理を行う艦隊運用では、副作用として頭痛が出ることは珍しいことではない、そう士官学校で習っている。

 これまで頭痛なんて出たことがなかったから油断していた。いや違う、816に着任してから初めてだ。士官学校では訓練の後に何度も頭痛に襲われてたじゃないか。

 ああもう、考えもろくにまとまらない、と一乃は眉根をギュッと寄せて鎮痛剤が効いてくるのを待った。

 

 ――― でも、勝った後なら、頭痛も悪くないかな。

 

 痛みに耐えながらも、ふとそんなことを思った。

 

 

 

「ふむ、816も無事勝利したようじゃのう」

 

 熊本警備府第814艦隊所属、初春型駆逐艦1番艦、初春は愉快そうに口を開いた。

 

『ああ、作戦は成功だ。ご苦労だった』

 

 落ち着いた若い男の声の無線が入る

 

『あちらも損害無しだそうだ。定数割れの新編艦隊の初陣だったが、見事だな』

 

 どこか安堵の色をにじませた声に、初春はからかうような笑みを浮かべた。

 

「随分と816に入れ込んでおるな。3か月前の貴様を思い出すかの、司令官?」

 

 第814艦隊司令、(ひがし)少佐は3か月前に館山海軍士官学校を出たばかりの新米少佐だった。ただし、彼の場合は徴兵年齢到達後に『志願』した正規の軍人であり、3年間の正規の提督教育を修了している。

 卒業と同時に創設間もない熊本警備府に配属され、第814艦隊の指揮を執っていた。

 

『そうだな。あの頃の僕ではああうまくはやれなかっただろう』

「そのとおりじゃな。あの時のお主は、まったくおたついておったわ」

 

 涼しい顔でしれっと即答した着任時からの秘書艦に、しばし憮然とする気配。自分で言うたことであろうに……初春はくすくすと笑う。

 

「まあまあ、そう言ったものではありませんわ」

 

 お嬢様然とした口調の、重巡熊野が口を挟んできた。

 

「提督は初陣でも十分素敵でしたわよ? わたくしがうっかり被弾した時なんか、声を裏返らせて怪鳥(けちょう)のような声まで上げて心配してくださって……」

『……それは、ほめてもらっていると取っていいのだろうか』

 

 情けなさそうな声。

 あやつの場合あれで実際ほめてるつもりだから始末に困るの。我が814の最大戦力なのじゃが、ちと奇矯(ききょう)なところがあるのが難点じゃ、などと考える初春。自分のことは棚の上に勢い良く放り投げている。

 

「ま、何はともあれ816の初陣がうまくいって良かったではないか。何せお隣さんじゃからの。これから何かと一緒に動くことも多かろう」

 

 814は天草諸島下島の西南、牛深(うしぶか)港に拠点を置いており、八代湾入り口、そして甑島(こしきじま)列島方面の海域の確保が主任務である。

 上天草に拠点を置く816とは初春の言うとおり“お隣さん”であり、共同作戦を取ることも多くなるだろう。

 

『ああ、我々もより一層努力しないといけないな。……できれば田村提督に無理はさせたくない』

 

 初春は扇で口元を隠す。まったく司令官のお人好しにも困ったものだ。そこがかわいらしくて良いのだが。そして、からかいたくなる。

 

「ほほう、それは構わぬが……しかし貴様、あの年頃の娘が好みであったのか。今日の世相からすると、少々年下趣味が過ぎるのではないか?」

「あら、提督はロリータ・コンプレックスでいらっしゃいますの? それは困りましたわね」

『いや待て、それはむしろ田村提督に失礼だ。熊野だって彼女とそこまで外見年齢は変わらないだろう』

 

 莫迦(ばか)め、それは墓穴を掘るというのじゃ。

 

「まあ、それではわたくしもロリータ・コンプレックスの対象となるのですね。安心しましたわ」

『なぜそこで安心する!?』

 

 案の(じょう)熊野に追撃され、たまらず叫ぶ東。

 

「司令官、付近哨戒完了しました。敵影、ありませーん」

 

 と、そこへ軽巡長良が水偵を回収しながら戻ってきた。

 

『そ、そうか。ご苦労だった。全艦、帰投してくれ』

「司令官、あの……」

『……なんだ』

「長良はいいと思います! 応援しますよ!」

『…………もう好きにしてくれ』

 

 戦闘指揮室で頭を抱えている姿が目に浮かぶようだ。まったく()い奴め。

 

 初春はころころと笑った。

 

 

 

 二〇〇〇かっきり、由良は腕時計で時間を確認すると、長官執務室の扉をノックした。

 

「長官、失礼いたします」

 

 ワゴンを押しながら入室。食堂で用意させた食事を乗せている。

 

 

「長官、お食事をなさってください」

 

「ああ、すまないな、もうそんな時間かね」

 

 書類が山と積まれた執務机に向かっていた原口は書類から目を上げ、腕時計を見やった。

 

「あ……」

 

 秘書艦机に向かっていた特型駆逐艦九番艦磯波(いそなみ)がハッしたように由良を見て、それから気まずそうに(うつむ)いた。どうやら気がついたようだ。

 あえて厳しい顔を向ける由良を見たか、原口は頬を緩めて背もたれに体を預けた。

 

「すまないな磯波、気が付かなかった。君も少し休んで、食事を取ってきなさい」

「……はい、あの……もうしわけありません」

 

 俯いて司令室を出ていく磯波の背を見送る由良に、原口が声をかける。

 

「昼からぶっ続けで決済処理を手伝っていてくれたんだ。まあ大目に見てやってくれないか」

「よくやっているのはわかっています。でも、よくやっているだけでは駄目です」

 

 提督は替えが利かないのだ。忙しいのは仕方ないにしても、食事を取らせず仕事をさせるなど健康管理上、言語道断。(さと)してでも食事を取らせるのが秘書艦の仕事だ。

 

「磯波の秘書艦教育はまだ始めたばかりだろう」

「だからこそです。現地教育なんですから、なおさらきちんと教えないと」

 

 秘書艦となる艦娘は本来、海軍学校で専門教育を受ける必要がある。秘書艦は艦隊運営全般で提督を補佐することが求められ、時に参謀の役も務めるなどの任務は多岐にわたるからだ。

 しかし、対馬海戦以降は艦娘の補充が急務となり、とにかく艦娘の新造とその教育が最優先にされている。このため、秘書艦教育は各艦隊による現地教育とされていた。

 

「だが、彼女は君に言われる前に気付いたようだったぞ。だから君も口に出しては叱らなかったのだろう?」

「だからと言ってそこで甘い顔をするわけにはいきません。それに…」

 

 応接セットのテーブルに食器を並べながら、由良はちょっと息を吐いた。口調を仕事モードから切り替える。

 

「……提督さんこそ、とっくに食事の時間を過ぎているのに気付いていたんじゃないですか? そのままでいれば、由良が食事を運んでくることもわかっていたでしょう?」

 

 原口は苦笑した。

 

「降参だ。さすがに君にはお見通しか」

「秘書艦教育まで気を使っていただいてありがたいですけど、そのくらいは由良達に任せてください。ただでさえお忙しいんですから」

 

 さ、冷めないうちに食べてください、と促され、原口は箸を手に取った。由良は二人分の茶を入れると、ソファーの端に腰掛ける。

 

 と、執務机上の端末から情報受信を知らせる着信音が鳴る。由良は素早く立ち上がり、内容を確認した。

 

「816艦隊司令部……田村提督からですね。戦闘報告書が届いています」

「そうか。初陣の直後なのに、真面目だな。今日ぐらいは大いに飲めばいいだろうに……いや、田村少佐は未成年か」

 

 そう言えば、と顔を上げる原口。

 

「この前はすまなかったな、スパイの真似事までさせて」

「いえ、お気になさらないでください」

「この時期になって中央から落下傘(らっかさん)の新米少佐だからな……。最初に聞いた時はいったいどこの派閥が手をつっこんできたのかと思ったが」

 

 箸を止め、ため息をつく。

 

「ふたを開けてみれば学兵提督の第1期生だからな。二重の意味で予想外だったよ」

 

 徴兵年齢の引き下げにより誕生した学兵提督。彼女たちのために急遽用意されたであろう「臨時少佐」という怪しげな階級。提督速成特別課程なるシロモノは軍機の厚い殻でおおわれ、詳細な内容は原口にも開示されていない。

 彼女と同じ教育を受けた同期は10名ほどいるらしいが、熊本警備府に配属されたのは彼女だけだ。

 

「だが、今日の勝利は初陣ながら見事なものだった。814の東少佐もなかなか頼れるようになってきたようだし、我々みたいな年寄りはそろそろ引退だな」

 

 冗談めかした口調だが、816の初陣には少しでも成功率の高い作戦を、と彼がずいぶん気を使っていたのを由良は知っている。学兵召集法案成立のニュースに憤っていた原口の姿を、由良は思い出した。

 

「まったく、あんな健気な娘さんを捕まえて、どこぞのスパイかと疑っているのだから、大人というものは(ロク)でもないな」

 

 原口はかぶりを振る。

 

 そもそも彼が警備府長官を務めていること自体が、軍内政治の奇妙な妥協の産物だった。

 

 いまでこそ熊本警備府は、佐世保鎮守府に代わる九州西岸の守りの要となり、横須賀、呉、舞鶴、大湊、那覇などの各鎮守府に次ぐ一大戦力を有している。

 しかしその一方で、海軍上層部の人間は、熊本警備府が熊本要塞ともども本州防衛のための捨て石であることを正しく認識していた。

 維新の時代から軍内の最大派閥である会津閥、対馬海戦と八代会戦で大きくその勢力を減じた薩摩閥、そして新興の芝村閥。軍内の各勢力は、捨て石とわかりきっている拠点の長に人材を出すことを渋り、さりとて海軍でも有数の戦力を指揮するポストを、他の派閥の人間が占めることも嫌がった。

 ババの押し付け合いか、はたまた取り合いか。

 そんな駆け引きの末に白羽の矢が立ったのが、派閥から距離を取っていた原口だったのである。

 

 警備府長官に就任する前、原口は那覇鎮守府に所属し、主に沖縄―九州間のシーレーンの防衛の任に就いていた。

 それ以前の軍歴も、前線の艦隊司令がほとんどであり、言ってみれば地方回りが大半を占めている。これは彼が軍内政治から距離を取っていたことと無関係ではない。実戦では堅実に軍功をあげており、もうすこし出世欲があればとっくに将官にはなっていただろう、というのが周囲の評価である。もっとも本人は、欲をかいたらどこかでしくじってとっくにクビになっているよ、と返すのが常だったが……

 

 このような人物だからこそ、軍上層部にとっては熊本警備府長官に適任だったともいえる。

 地方回りの偏屈(へんくつ)な戦争屋が、清廉(せいれん)な歴戦の勇将として、捨て石警備府の看板に祭り上げられた、というわけだ。

 指揮下の提督たちも、軍内政治にあまり関わりのない、よく言えば実戦派、悪く言えば世渡り下手な者たちが配属された。

 

 たが、そうなったらそうなったで、今度は一部のお偉いさんが、熊本警備府が原口をトップに軍閥化するのではないかと心配しだしたらしい。中央の意を受けた人物が艦隊司令部に無理やりねじ込まれたり、情報畑の人間が警備府の周囲をうろつくようになった。

 そもそも熊本が5月まで持ちこたえることができるかどうかもわからないというのに、まったくうんざりさせられる話だった。

 

「まあ、田村少佐に関しては、そういった心配は必要なさそうに見えたがな。学兵とは思えんほどそつがなかったが、そのあたりの仕事ができるほど大人にも見えなかった」

「はい。由良も、そう思います」

「彼女の秘書艦はどうだね? 君は面識があると聞いたが」

「……わかりません、そこまで接点があったわけではないので。彼女……叢雲五九二号は、戦闘経験も豊富ですし、秘書艦としても優秀だったと思います」

 

 由良は言葉を慎重に選びながら答えた。

 

 最初に顔を合わせたとき、彼女は呉鎮守府旗下の桂島泊地艦隊に所属していた。

 当時那覇鎮守府に所属していた由良は沖縄-九州間の輸送船団の護衛任務を担当しており、桂島艦隊とも合同で作戦を行う機会が多かった。その頃から由良は原口の秘書艦を務めていたし、叢雲も秘書艦資格があるということで、何度か作戦の打ち合わせなどもしていた。

 一昨年の対馬海戦でも、お互いに那覇、呉からの応援艦隊の一員として参戦しており、作戦前に偶然顔を合わせて久しぶりに挨拶をしたのを覚えている。

 

 ――― その後桂島艦隊は、対馬要塞を巡る攻防で、提督の指揮艦もろとも壊滅した。

 

 辛くも後退に成功した由良は、桂島艦隊で生き残ったのは彼女のほかわずか数人だったことを戦闘詳報で知り、胸を痛めた。

 しかしその後は顔を合わせる機会もなく、彼女がどういう経緯をたどって田村少佐の秘書艦となったのかまでは、由良も知るすべもなかった。

 

「この前も、釘を刺されちゃいました。秘書艦はお互い大変ねって」

「あー、それはなんと言うか、重ね重ねすまなかったな」

 

 由良は苦笑し、「いいんです」と手を振った。

 

「……でも田村少佐との相性は良さそうでした。秘書艦の仕事もきっちりこなしていましたし」

「ふむ、なるほどな。まあ、本来はどこの派閥にいようが、余計なことをせずにきっちり仕事をしてくれる限りは何の問題もないんだが」

 

 茶をすすり、ほう、と息を吐く。

 

「まったく、南にいたころはこういったわずらわしいことまで考えずに済んだんだがなあ」

 

 そう言って笑う原口の白髪が、近頃一層増えた気がして、由良はいたたまれなかった。

 

 由良は警備府艦隊の中でも、もっとも原口と付き合いが長い艦の一人だ。沖縄諸島、東南アジア、大陸戦と数多くの戦場で苦楽を共にしてきた。

 

 たとえ誰が相手でも、由良だけは最後まで提督さんの味方。

 そう、決めていた。

 

 まあ、とりあえずは……

 

「提督さん、おかわりはいかがですか?」

 

 かたわらに置いていた、小さなおひつを示す。

 

「ん、ああ、いや、今日は一日書類漬けだったからな。そんなに腹が減っているわけではないんだが……」

「毎日お忙しいんですから、しっかり食べるものは食べてください」

「しかし、腹が出てもみっともないしな」

「何をおっしゃるんですか。提督さんはむしろもう少し恰幅(かっぷく)がよくなったほうがいいんです。疲労で痩せほそった司令官なんて、部下が不安になりますよ。……ね?」

「わかったわかった。いただくよ。君にはかなわないな」

 

 照れたような、はにかむような笑顔は、ずっと昔から変わらない。

 

 提督さんから茶碗を受け取り、由良は飯をよそい始めた。

 

 

 



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第5話 大矢野の日々

 わずかな月明かりを頼りに、木曾は水平線に目を凝らしていた。

 3時方向に100mほどおいて響が並び、同じく西方を警戒している。さらにその100m向こうでは、叢雲が同じように警戒に当たっているはずだった。

 

『814、815とも未だに会敵せず。引き続き索敵中。816はこのまま、現海域の警戒を継続してください』

 

 心なしか(ひそ)めた声の、一乃からの通信。木曾も「了解」と短く答えた。

 

 この日の一九〇三、東シナ海を哨戒中の哨戒機より、2個艦隊相当の深海棲艦が九州西岸へ接近中との一報が入った。

 警備府司令部はただちに814、815の両艦隊に迎撃命令を発令。さらに、816艦隊にも、後詰(ごづめ)として後方警戒の任があてられた。

 816艦隊は一九五〇に出撃し、814,815艦隊の後方約10kmの海域で待機、警戒態勢に入った。このころになるとすでに日は没し、海上は暗闇に包まれていた。

 

 深海棲艦の特性として、レーダーを始めとする電子機器類ではなぜか姿を(とら)えにくい、というものがある。人類はこのきわめて重大な『なぜか』を解明するために50年以上に渡って研究を進めているが、残念ながらほとんど成果は得られていない。このため、航空機による索敵は目視に頼るところが大きく、日没後はその困難さが飛躍的に増すこととなる。

 今回の場合でも、哨戒機は日没後の深海棲艦隊の追尾をあきらめ、一時帰投していた。

 

 木曾はなおも水平線に目をこらす。

 816艦隊においては、叢雲が対水上電探を装備している。艦娘の電探はこちらも『なぜか』通常レーダーに比べれば深海棲艦に有効ではあるが、絶対ではない。

 結局最後に頼りになるのは艦娘自身の目視だった。

 

 ふと、肩を叩かれる。振り向くと、長月だった。交代の合図である。

 目視による索敵はかなりの集中力を必要とする。30分見張り、10分休む。4人編成の816ゆえの、交代サイクルだった。

 無言でうなずき、長月と場所を入れ替わる。夜戦での警戒中は灯火類は一切点けず、不必要な声も出さない。

 木曾はすれ違いざま、緊張した面持ちの長月の肩を叩いてやった。

 

 と、そこで一乃から通信。

 

『警備府司令部より入電。再出撃した哨戒機が東シナ海沖で深海棲艦隊を発見。迎撃目標の艦隊と推定。なお、敵艦隊は西方に撤退しつつあり。敵艦隊の追撃を禁ず。敵艦隊が哨戒域を離脱するまで、引き続き警戒を実施せよ』

 

 誰ともなく、安堵の息が漏れる。どうやら、今日の戦闘は回避されたらしい。

 

「目のいい哨戒機で助かったな。まだ気は抜くなよ。814と815が戻ってくるまでは警戒を続行するぞ」

 

 木曾はそう宣言すると、もう一度長月の肩を叩いてから後方へ下がる。

 

 

 

 第816艦隊の2度目の出撃は、こうして一発の砲火も交えることなく終わった。

 

 

 

 

 1999年2月27日 一二四九 上天草市大矢野島(おおやのじま)港湾監視所前

 

 

 

「あのぉ、あなた、田村さん?」

「はい?」

 

 ちょうどあくびをかみ殺したところで、不意に背後から声をかけられ、一乃は驚いて振り返った。

 

 監視所の正門を出て数十m。

 昼食を取ったあと、眠気覚ましに、外の国道沿いに設置されている自販機まで飲み物を買いに出てきたところである。

 

 振り返ったこちらを覗き込んでいたのは、スタイルの良い美女だった。

 ピンク色のミニのスーツが鮮やかである。美人じゃないとなかなか着こなせない服だなぁ、と一乃は思った。

 

「あなた、田村さんでしょう?」

「は、はぁ、そうですが……」

「やっぱり!」

 

 女性はぱっと笑うと、ずかずかと近付いてきた。

 ずい、といきなり眼前にマイクを突き出される、一乃は固まった。

 

「テレビ新東京です! 田村さん、初陣はどうだった?」

「え、ええ!?」

 

 いつの間にかカメラマンが美女の背後に立っており、カメラをこちらに向けている。

 

「初の学兵提督としてひとことどうぞ!」

「い、いえ、あの……」

「提督のお仕事は大変? 訓練は週何回くらいかしら? やっぱり腕立て伏せとかランニングとか、鬼軍曹にしごかれるのかな?」

 

 な、何を言ってるんだろう、このレポーターさん。

 海軍と陸軍、さらには学校の部活動をごっちゃにしたような質問に一乃は目を白黒させた。

 

「そ、その、軍務に関することは、立場上お答えできませんので……」

「あら、緊張しなくていいのよ。リラックスリラックス、笑って。あ、彼氏はいるのかしら?」

 

 どうしよう、話が通じてない……

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、一乃は目を回しそうになった。

 助けを求めて監視所の正門の方向を見るが、歩哨詰所からは角度的に微妙に死角になっている……

 と、ちょうど正門から叢雲が姿をあらわすのが見えた。

 た、助かった……と思った一乃だったが、直後に顔が引きつる。

 叢雲はこちらを見るや、目を吊り上げて猛然と走ってくる。あれは、かなり怒っている顔だ。

 普段はクールに見えて、叢雲は怒ると過激である。

 走ってきた勢いでそのままカメラマンに飛び蹴りでもかましかねない。テレビ局のカメラが回っている前で、血の雨でも降ったら大変なことになる。ど、どうしよう……

 半ばパニックになった一乃の眼前に突き出されているマイクを、不意に横から伸びた手がひょいとつまんだ。

 

「おやおや、これはテレビ新東京さんですか、お仕事ご苦労さまですな」

 

 海軍大尉の階級章をつけたやや恰幅(かっぷく)の良い初老の男性が、にこにことほほ笑んでいた。

 マイクをつまんだまま、ごく自然な動作で、一乃とカメラの間に体を滑り込ませる。

 

「あの、あなたは?」

「おお、失礼、申し遅れましたな。小官は、この大矢野島監視所の責任者をしております、倉田(くらた)と申します」

 

 テレビ新東京さんの番組はいつも楽しく拝見させていただいております、と倉田と名乗った老大尉はぺこりと頭を下げた。

 マイクはつまんだままである。

 

「本日は、当監視所に、どのようなご用向きですかな?」

「それは、その、田村さんにインタビューをさせていただきたいと思いまして……」

「田村少佐、にですか。それはご苦労さまです。しかしお嬢さん、まことに申し訳ありませんが、当施設における取材は熊本警備府広報課の許可が必要でして。取材許可証を拝見できますかな?」

 

 微笑みを絶やさず言う倉田に、レポーターとカメラマンはばつが悪そうに顔を見合わせる。

 

「その……て、天下の公道での取材は自由かと思いますけど」

「なるほどなるほど。確かにそれはおっしゃる通りですな。とすると、田村少佐のご了解があればですが……」

 

 倉田は振り向いて見せるが、その時にはすでに一乃は叢雲に腕をつかまれ、監視所の門をくぐっていた。

 

「おや、これは申し訳ありません。田村少佐はもう午後の執務の時間ですな。大変恐縮ですが、取材は後日改めてお越しください」

 

 あくまで申し訳なさそうな顔で、ああそれから、と倉田は付け加えた。

 

「まことにお手間ですが、海軍とマスコミの皆様には戦時取材協定がございますので、本日取材された内容は忘れずに警備府広報課のチェックをお受けください。本日いらしたことはワタクシの方から警備府に連絡しておきますので。ああ、もちろんご存じだとは思いますが、念のため」

 

 

 

「いやはや、田村提督、ご災難でしたな」

 

 監視所の正門をくぐり、外から見えないところまで進んだところで、倉田大尉は一乃に笑いかけた。

 

 倉田はこの大矢野島港湾監視所の所長であり、かつ、海兵2個小隊から成る海兵警備中隊の隊長も兼ねている。つまりこの監視所の本来のトップでもある。816にとって、ある意味大家さんのような存在と言ってもよいかもしれない。

 50がらみでやや恰幅のよい体つき。丸い赤ら顔に丸い鼻、丸い目がちょこんと配置されており、いつもにこにことしている。

 一乃は初めてこの大尉と対面したとき、おなかを空かせた子供に自分の顔を食べさせるヒーローを連想した。

 

「倉田隊長、ありがとうございました。わたし、パニックになってしまって……」

「助かりました。中隊長」

 

 礼を言う一乃に続き、叢雲も神妙に頭を下げる。

 

「とんでもない。むしろこちらの方がお詫びをしなければなりませんよ」

 

 倉田がそう言ったところで、先ほどの叢雲に負けず劣らずの勢いで走ってくる影があった。

 第1小隊の軍曹が、こちらの目の前で急停止、直立不動の姿勢を取った。一瞬前まで走っていたのに、息ひとつ乱していない。

 一乃に向かい敬礼するや、雷のような声を張り上げた。

 

「田村少佐、たいへん申し訳ありませんでした! 全責任は自分にあります!」

「え、そんな、責任なんて……」

「軍曹、少佐にはワタクシからよくお詫び申し上げておきます。田村少佐、まことに申し訳ありませんでした」

 

 戸惑う一乃にかわり倉田が答え、こちらに向かって頭を下げる。

 叢雲に肘で脇腹をつつかれ、一乃はハッと我に返って慌てて手を振った。

 

「と、とんでもありません! 謝っていただくようなことは何もないです」

「と、おっしゃっておられます。軍曹、少佐の広いお心に感謝しなければなりませんな」

「はっ! 寛大なお言葉、ありがとうございます、田村少佐!」

「ああ、それと軍曹。そういえばワタクシは、少佐と叢雲さんとお話しするのに夢中で、歩哨が誰だったか見ていませんでした。ま、そういうことで、後はよろしく頼みますよ」

「はっ! 中隊長、面目次第もございません! お心遣いに感謝します!」

 

 軍曹は一乃に向かって敬礼すると、踵を返して正門の歩哨詰所に大股で歩いて行く。

 

「この間抜けども、お前らの目は節穴(ふしあな)かっ! 隠れてたのがテレビ屋だったからよかったものの、これが幻獣や共生派どもだったらどうするつもりだっ! 今すぐ監視所の周囲を巡回してこい! 10周、1時間以内だ! 1分遅れるごとに腕立て伏せ100回を追加してやる! いけっ!」

 

 こちらまで縮みあがりそうな怒声。若い兵が二人、詰所から転がるように出てきて、必死に走りだした。

 

「と、いうわけです。いやはや、まことに申し訳ありませんでしたな」

「わたしがきっぱり断っていればいいだけの話だったんです。あまり、歩哨の方たちを怒っていただかなくても……」

「いえいえ、基地の周囲の警備もろくにできていなかったなど、警備中隊としてお恥ずかしい限りです。816のみなさんはもちろん、民間人にも安心して外を歩いていただけるようにするのが我々の仕事ですからな」

 

 恐縮する一乃に、それに、と倉田は片目を(つむ)って見せた。

 

「失敗した時に叱ってもらえるのは、若い者の特権ですよ、田村提督」

 

 親子、いや下手すると祖父と孫ほどに年齢の離れた大尉と少佐だが、幸いなことに、倉田と一乃の関係は良好といってよい。一乃としてはおそれ多くて倉田を下級者扱いなどできなかったし、倉田もそのあたりを()んでくれているようで、一乃を上位者として立てつつも、816の艦隊運営から日々の生活まで、様々に世話を焼いてくれている。

 

「間抜けは私もです。こんなところまでテレビ屋が来るとは思いませんでした。うかつだったわ」

 

 叢雲がまだ腹立たしそうに言う。

 

「まあ、そこは仕方がありませんよ。本来、田村提督への直接取材は警備府の広報課の方でほぼすべて断っているはずですからな」

「直接取材…… わたしに、ですか?」

「あんたは一応、学兵提督の一期生でしょ。そこそこのニュースネタにはなるわよ」

「まともなメディアなら、通すべき(すじ)は通してから取材に来るものです。今日の連中はまあ、うっかりさんの勇み足、といったところでしょう」

「うっかりさん……」

 

 失礼ながらあの美人リポーターにいかにも似合っている気がして、一乃は思わず噴き出した。

 

 

 

「昨夜の出撃は、お疲れ様でしたな。とにもかくも、艦隊の皆さんがご無事で何よりでした」

 

 並んで歩きながら、倉田が言う。

 

「ありがとうございます。しばらくは、他の艦隊との支援と、哨戒任務がメインになると思います」

「島原湾と八代湾の保持は熊本防衛の上で必要不可欠ですからな。陸の状況も厳しいですし、原口長官も頭が痛いでしょう」

「陸は、やはり苦戦してるんでしょうか?」

 

 一乃の問いに、倉田は肩をすくめて見せた。

 

「ある程度は予想されていたことですが、大混戦状態ですな。熊本市内への侵入を狙う幻獣を防御陣地群が迎え撃つ形で、互いに入り乱れて戦力を削り合っています。特に、東の阿蘇特別戦区と、南の八代戦区で押し合いが続いとるようですな」

 

 八代市は先の八代会戦でその8割が焦土と化している。

 だが同地が九州中部の要地であることに変わりはなく、陸軍は有力な防衛陣地群を築いており、熊本警備府も八代泊地を設置して戦艦を含む強力な2個艦隊を配置していた。

 

「幸い天草はまだ静かですが、宇土半島への小型幻獣の浸透の噂もぼちぼち聞こえとりましてな。外出の際は銃を必ず携帯なさってください。ウォードレスも着ずに素手でゴブリンどもとやり合うというのはぞっとしませんからな」

 

 倉田の指揮する海兵警備中隊は、天草地区に浸透した小型幻獣の掃討も行っている。小島が近接して点在する天草地域は、舟艇を有する海兵による警戒が不可欠だった。

 

「たとえウォードレスを着て銃を持っていたって、一乃じゃ猫に勝てるかどうかね……」

「ちょっと、叢雲!」

 

 思わず頬を膨らませる一乃だが、自分の士官学校での射撃訓練の成績を思い出すと、強く言い返せないのが辛いところである。

 倉田は、はっはっは、と笑って見せた。

 

「艦娘にしても、油断は禁物ですよ。艤装なしでは、いくら艦娘でも幻獣と渡り合うのは骨がおれるでしょう」

 

 倉田の言うとおり、艤装を装着していない艦娘は通常の人間よりやや身体能力が優れる程度の存在である。

 

「そうね。ありがとうございます、中隊長。他の艦娘にもよく言っておくわ」

 

 叢雲が頷く。

 

「憲兵隊が巡回を増やしているようですし、我々も警備を強化していますが、何事も絶対はありませんからな。どうぞお気をつけて」

 

 ちょうど816艦隊隊舎前に到着。それでは、とひょいと頭を下げ、老大尉は歩き去った。

 

 

 

「電探に反応なし、だな」

 

 島原湾、海上。

 長月は髪をなびかせながら、顔を上げて空を見やった。

 本日の天気は快晴。海上をごく穏やかに風が吹き抜けている。

 

「響、そちらはどうだ」

「水中聴音機も異状なしだよ」

 

 少し後ろを航行する響が答える。

 

 長月と響は、島原湾、天草灘の定時哨戒任務に就いていた。

 

 まだ警備府創設から日の浅い熊本の海は、沿岸防備や警戒網が非常に脆弱(ぜいじゃく)である。

 それを補うのが艦娘による哨戒であり、816艦隊の重要な任務だった。

 

「E-2機雷群、敷設状況に異常なし……ん、一四〇〇、ちょうどだ」

「わかった。定時報告はこちらでする」

 

 長月はうなずくと、艦装を介して通信を送る。

 

「816艦隊司令部、聞こえるか。こちら長月。定時報告。一四〇〇現在、E-2機雷群付近を航行中。異状なし」

『こちら司令部、了解だ』

 

 司令官とは明らかに違う声に、長月は首を傾げる。

 

「ん? 木曾か?」

『ああ、提督は執務室で書類と格闘中だ。せっかくのいい天気だし、のんびりやってくれ』

「のんびり……いや、了解した。『適当に』やるさ」

『おっと、そうだな。怖い鬼軍曹に走らされない程度には、真面目にやってくれ』

「ん、なんのことだ?」

『戻ったら、教えてやるよ』

 無線の向こうで木曾の笑い声が聞こえ、『今夜はカレーだとさ』という言葉と共に無線が切れた。

 

「カレーか……叢雲のカレーはどんなカレーだろうね」

「うん、そうだな……叢雲は元は桂島と言っていたし、やはり桂島流のカレーだろうか」

 

 艦娘達がカレー談義を始めると、長い。

 旧軍の時代より、海軍とカレーの縁が深いのは周知の事実である。

 加えて艦娘の場合、軍艦時代の記憶、建造された鎮守府、そして配属された艦隊と、それぞれで味もレシピもまったくばらばらであり、結果として個人の味の好みも千差万別となるからだ。

 

 ちなみに、創設間もない熊本警備府において「警備府公式カレー」のレシピを巡って艦娘たちの間で激論が交わされたのは、一部の艦娘たちの間で有名である。

 佐世保からの異動組と、その他の基地からの転入組、そして警備府の前身である熊本泊地出身組の三国志から始まり、熊本なんだから馬肉を入れるべきだ、いやいっそ熊肉を放り込めなどという暴論、いっそカレーうどんにしようという斜め上派、そもそもカレーとは何ぞやという哲学派まで、警備府全体を巻き込む百家争鳴(ひゃっかそうめい)の大激論が巻き起こった。

 事態を重く見た警備府司令部は着任間もない原口長官の発案で、地域交流のイベントを兼ねた警備府公式カレー決定戦、『K(警備府)C(カレー)1グランプリ』の開催という奇策で事態の収拾を図った。

 結果は第一艦隊旗艦日向考案の『瑞雲カレー』が地域の子供達に人気を博して来場者票の多くを獲得。警備府公式カレーの栄誉を勝ち取り、ここに熊本警備府カレー事変と呼ばれた一連の事態は終結した。

 ちなみに後日、日向が第二艦隊旗艦飛龍に「長官と由良の頼みで参加したが、他の『日向達』はともかく、私個人としてはそこまで瑞雲にこだわりはないんだがな……」などとぼやいていたのは、長月や響が知る(よし)もない余談である。

 

 しばしカレー談義を続けながら哨戒を続行する長月と響。

 不真面目にも見えるが、長時間一定の緊張を保つ上で、適度な雑談は有効である。

 

 ふと、長月は口調を改めて問いかけた。

 

「……なあ、響。これから先、どうなると思う?」

「それは、何について、かな?」

 

 響の言葉に、自分の言葉が抽象的に過ぎたことに気づき、長月はちょっと顔を赤らめる。

 

「ひとことにまとめるならこの戦い、だろうか。私たちの役目は、5月の自然休戦期の開始までなんとか熊本の海を守りきることだ。それは、わかる」

 

 毎年5月10日になると、幻獣はなぜか一斉に侵攻を停止する。ここから侵攻が再開される夏の終わりごろまでを、人類は自然休戦期と呼び、戦力の回復に努めるのが常だった。

 ただし、深海棲艦相手には当てはまらない概念でもあったが。

 

「もし、自然休戦期まで守りきれたとして……その後は、どうなるんだろうか」

 

 長月の言葉に、響はちょっと考える素振りを見せた。

 

「そうしたら……自然休戦期明けに自衛軍が反攻作戦を開始するんじゃないかな。今は本州で必死に八代と対馬の損失を穴埋めしているそうだし」

「そうだな。陸軍は熊本・福岡・長崎のラインから南に向けて進軍し、幻獣に奪われた土地を奪還する。海軍は九州西部海域の制海権を奪還して、再び大陸からの侵攻に備えて防備を固める……普通に考えればそうなんだろうが……」

 

 長月は通信がオフになっていることを確認すると、響に肉声が届く距離に近づいた。

 

「あくまで噂なんだが……佐世保鎮守府が、呉への機能移転…いや、機能統合を進めているらしい」

 

 長月の耳打ちに響はわずかに眼を見開いた。

 

「佐世保を、()てるってこと?」

「わからない。あくまで噂だしな。ただ、同期の水無月がまだ佐世保にいるんだが、この前それとなく聞いてみたら、口を濁された」

 

 事実無根であれば、口を濁す必要などない。そんな事実はない、の一言で済む。

 

「司令官はそれを知っているのかい?」

「それもわからないな。ただ、司令官はあまり私達に隠し事をしたがるタイプではないと思う。この噂も折を見て耳に入れるつもりだ」

「それがいいだろうね。でも、先に叢雲に話を通しておいた方がいいかもしれない」

「ん、確かにそうだな。戻ったら話してみる」

 

 長月は湾の対岸を見る。やや霞がかった島原半島、雲仙岳が見える。あの向こう側が長崎、さらにもう少し向こうが佐世保のはずだった。

 

「いずれにしろ、私達は私達にできることをするしかないさ。とりあえずは、目の前のできることをしよう」

 

 響の言葉に、長月は何かを振り払うようにうなずいた。

 

「……ああ、そのとおりだな。さっさと哨戒を片付けて、叢雲のカレーを楽しみに戻るとしようか」

 

 

 

 艦娘は、通常の人間より多量のカロリーを必要とする。

 その特性は大型艦になるほど顕著であり、戦艦娘や航空母艦娘になると、相撲取りでも目を剥くような食事の量になる。

 鎮守府や大規模泊地などでは、下手な料理人顔負けの腕を持つ給糧艦娘や補給艦娘が所属して艦娘たちに食事を提供している場合が多いが、前線の小規模艦隊ではさすがにそのような贅沢はできない。

 

 816艦隊においては、食事当番制が採用されている。

 

 海軍監視所内には警備中隊の隊員食堂があり、当初、倉田大尉は3食の提供を申し出てくれた。

 しかし、警備中隊の隊員向けの通常メニューでは艦娘にとって必要カロリーが足りないという問題があり、また、出撃や哨戒が長時間に渡ることも多く、食事の時間が不規則になりがちとなることも予想された。

 これらを踏まえて艦隊内で話し合った結果、警備中隊に昼食の提供のみを依頼し、朝食と夕食を食事当番制とすることになったのだ。

 

 現在のところ所属艦娘4名で当番を回しており、哨戒などの日常の任務は、食事当番でない艦娘で編成される。つまり、ある意味通常任務より食事当番が優先されている形だ。

 

 いましも、隊員寮の厨房では、本日の当番である叢雲が、食材の山を前に奮闘していた。

 

「そ、それにしても、毎度すごい量だよね」

 

 一乃が若干顔をひきつらせながら言う。

 近くの食料品店から配達された食材が大きな段ボール2箱分。一乃を含めた5人が、朝食と夕食だけで消費する量である。

 

「うちは軽巡と駆逐艦だけだから人数の割に少ない方よ。戦艦や空母みたいな大食艦連中がいたら、もっと量は増えるわ。喰うボ、なんていうあだ名もあるくらいよ」

 

 大きなボールに山盛りのジャガイモの皮を剥きながら、叢雲が答えた。

 

「大体でいいから、みんなの食べる量把握しときなさいよ。明日の日曜は、あんたもやるんでしょ、食事当番」

「あ、うん。そうね」

 

 艦隊司令としての仕事は山ほどある。普通なら、当然だが提督は食事当番の対象外だ。

 しかし一乃は、提督だからといってただ作って貰うだけというのは、抵抗があった。

 

 と、いうことで話し合いの末、816では日曜日の夕食のみ提督が食事当番、ということに決められていた。

 

「なんだ、提督。ここにいたのか」

 

 厨房の入り口から木曾が顔を覗かせた。

 

「哨戒班は異常なしだそうだ。これから帰投するってよ」

「了解したわ。無線番ありがとう」

 

 一乃にひらひらと手をふると、木曾は食材を眺め、豚肉のパック(2kg)を手に取った。

 

「ふうん、桂島のカレーはポークカレーだったのか?」

「今回は一乃の見本も兼ねてるから、残念ながらごくノーマルなポークカレーよ。桂島レシピは朝から牛すじを煮込んで、隠し味にチョコレートやインスタントコーヒーを入れてたわね」

「へえ、トロみとコクの強い濃い口タイプって感じだな」

「そうね。ファンは多かったけど、私はさらっとしたカレーの方が好きなのよねぇ」

 

 ぼやきつつもどんどんジャガイモの皮を剥く叢雲。一乃が感心して見ほれるほど手際がいい。

 

「ちょうど手が空いたし、何か手伝うか?」

「他の仕事なんていくらでもあるでしょ、と本来は言うべきとこだけど…… そうね。そこの人参だけでも皮を剥いてもらえると助かるわ」

 

 叢雲がざるにいっぱいの人参を指し示す。

 

「ん、了解だ」

「あ、わたしも手伝うわ」

 

 木曾に続いて一乃も包丁を取る。

 

「一乃、あんたは量だけ確認したらあとは執務に戻りなさいよ。書類、たまってるじゃない。」

「うん、人参だけ切ったら戻るから」

 

 言いつつ人参を左手に持ち、ふと、動きを止める。人参と、包丁を見比べ、小首を傾げる。

 

「なんだ、どうした?」

 

 手際よく人参の皮を剥きながら、木曾が尋ねる。その木曾の手元を見て、一乃も包丁を人参に当てる。

 

「お、おい、大丈夫か?」

 

 危なっかしい手つきに、木曾がちょっと焦った声を出す。

 しかし、危なっかしかったのは最初だけで、一乃はすぐに、木曾ほどではないにしても、それなりに慣れた手つきで人参を剥き始めた。

 

「うん、そうそう、こんな感じだったわね。ちょっと考えちゃった」

「なんだ、ヒヤッとしたじゃないか」

「あのね。いくら士官学校でしばらく料理と縁がなかったからって、人参の皮の剥き方なんてふつう忘れる?」

「ちょっと悩んだだけよ。手はちゃんと憶えてたし」

 

 叢雲の呆れた声に、一乃は口をとがらせる。

 

「はいはい、わかったからそれ切ったら、ボロが出る前に執務室に戻りなさい。アンタの血の味がするカレーなんて、ごめんこうむるわ」

「むぅ、失礼な……明日の夜になったら覚えてなさいよ……!」

 

 切った人参を投げつける真似をする一乃に、木曾が忍び笑いをもらした。

 

 

 しばらくして、執務室で書類を片付ける一乃の元まで、香ばしいカレーの匂いが漂ってきた。

 

 



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第6話 八代艦隊

 艦娘の艦隊は、6隻が基本編成である。

 提督による艦隊運用に、この数が最も適しているとされているためだ。むろん、7隻以上の艦隊運用ができないというわけではない。

 ひとりの提督が2個艦隊以上を同時に運用する場合、旧軍の伝統にならって連合艦隊と呼称される。連合艦隊は数が多いぶん強力な打撃力を誇るが、個々の艦娘に対する提督のサポートは1個艦隊の場合より劣るという側面も持つ。

 鎮守府、警備府に次ぐ規模の泊地においては、連合艦隊を編成できる2個艦隊が配置されていることが多かった。

 

 熊本警備府においても、八代(やつしろ)泊地、五島列島泊地、甑島(こしきじま)泊地などに2個艦隊が配置されている。

 

 いずれも、熊本防衛に不可欠な要地であった。

 

 

 

 1999年2月28日 〇八五五 天草灘(あまくさなだ)沖海上

 

 

 

 この日の816艦隊の任務は、船団護衛だった。と、いっても輸送船団の護衛ではない。

 

「おおい、そっちを寄せてくれ!」

「こん馬鹿たれ! さっさと網を巻かんね!」

 

 やや甲高いディーゼルエンジンの音と、それに負けないたくましい男たちの声が飛び交う。

 2隻の漁船の間に張られた巨大な網が巻かれ、飛び跳ねる魚が次々と水揚げされていく。

 

「なんというか……ここが最前線だということを忘れそうになるな」

 

 並んで航行する長月のつぶやきに、響は無言でうなずいた。視線の先では、10隻以上の漁船が一団となって漁を行っている。

 

 天草灘沖における操業中の漁船団の護衛。これが816艦隊の本日の任務だった。

 

 漁業は、深海棲艦の出現によってもっとも被害を受けた産業のひとつである。

 先の大戦によりただでさえ疲弊していた日本の漁業は、深海棲艦により一時壊滅寸前まで追い詰められた。艦娘の登場によって多少は海の戦況が安定した現在でも、ある程度安全に漁が行えるのは、沿岸海域とごく限られた近海域の一部だけである。このため、漁船団が海軍の護衛のもとで操業を行うことも決して珍しくはない。

 とはいえ、最前線となり民間人の疎開が進みつつある熊本である。

 この光景は、やはり異例といっていいだろう。

 

「ま、結局、人間も艦娘も食べないと生きていけないしね。それに、自衛軍側の事情もあるし」

 

 叢雲が肩をすくめる。

 彼女の言うとおり、これだけの漁師たちが未だに疎開せず残っているのは、自衛軍の思惑もかかわっている。漁船とその船員である漁師たちが残っていれば、いざという時に輸送手段としてそのまま徴用することができるからだ。

 熊本警備府がわざわざ漁の護衛に艦隊を出しているのは、その引換え条件と考えることもできるだろう。

 

「おーい、嬢ちゃんたち、茶でも飲まんか!」

 

 声がかかった。見れば、1隻の漁船の船長が手招きしている。確か、地元漁協の組合長だったはずだ。

 

「司令官、こう言われているけど……」

 

 響が通信を送ると、少し間があり、一乃からの返答があった。

 

『せっかくのお気づかいだし、いただいて。ただし、ひとりずつ交代でね』

「わかった。響、先に行ってくれ」

「了解」

 

 響はうなずくと、漁船に近づいた。

 

「寒いなか朝早くからご苦労さんだな、嬢ちゃん。ほれ」

「いただきます」

 

 湯気の立つマグカップが差し出され、響はありがたく受け取って口をつけた。

 働く男の茶とでもいうべきか、苦すぎるほど濃く出された茶だった。

 

「あんたらの司令さんは学兵だってな。出港前に挨拶の電話をもらったよ。若いのに大したもんばい」

 

 禿頭にねじり鉢巻きを巻いた組合長は、熊本弁交じりに話しかけてくる。

 

「俺の親父も16で、海軍に船ごと徴用されてな。親父は命だけは助かったばってん、一緒に徴用された仲間はほとんど戻らんかったそうばい」

 

 大戦中、多くの漁師たちが軍によって徴用されて海防任務に従事し、その多くは還らなかった。戦後の混乱の中、この犠牲はほとんどかえりみられることなく、現在でも、漁師たちの軍に対する不信感は根強い。 ただ、実際に体を張って海を守っている存在である艦娘たちに対しては、比較的良い感情を持っている漁師が多かった。

 

「そんで今度は学兵だもんな。50年以上もたってまた同じことしとるんだからまあ、人間ってのも進歩がないねえ」

「……でも、同じ人間が相手じゃない分だけ、50年前よりはいいかな」

 

 響はポツリと言った。

 太平洋での戦いの後、講和条約の賠償艦としてロシアに渡り、深海棲艦、そして幻獣と戦った記憶。

 信頼の名で呼ばれていたあの頃は、太平洋以上に厳しい戦いの連続だったが、それでも人間同士の殺し合いよりずっとマシだった。

 

 組合長はちょっと目をしばたたかせたが

 

「確かにそうだな。俺達もこうしてまだ漁ばできとるし、あんまりくだらんこつばっか考えとってもしょうがなかね」

 

と、豪快に笑った。

 

「ごちそうさま。ありがとう」

「おう、あっちの嬢ちゃんも呼んできな」

 

 礼を言ってカップを返す響に、組合長は気のよい笑みを浮かべて長月の方を指した。

 

 

 

「はい、本日のみんなの成果が、こちらになりまーす」

 

 芝居がかった仕草で、一乃が皿を置いた。

 816艦隊隊員寮食堂、夕食の席である。日曜日であるこの日の夕食は、彼女が食事当番だった。

 

「なるほど、ガラカブ、か」

 

 皿の上の魚を見て、長月はうなずいた。

 ガラカブは熊本名産の魚であり、カサゴの一種である。大きな口に大きな目、どこかユーモラスな顔をしているが、ヒレに鋭い棘(とげ)も隠し持つ魚だ。

 

「昼過ぎに組合長さんがみえてね、ご挨拶にって、たくさんいただいちゃったの。からあげや煮つけにするとおいしいってお話だったから、今日は煮つけにしてみたわ」

 

 ささ、味見してみて、と一乃に勧められ、長月はガラカブに箸をつけた。

 身離れのよい白身を口に運ぶ。

 

「うん、いい味だ、司令官」

 

 脂の乗った身はしっかりとした旨味があり、煮過ぎて固くなってもいないし、味も抜けていない。甘辛い煮汁に、ほのかに香る生姜(しょうが)が、いいアクセントになっていた。

 ひれの棘はもちろん、えらや鱗もしっかりととってあるし、一緒に煮つけてある人参やゴボウも、よく味が染みている。

 食卓には煮つけの他にもポテトサラダやおひたしなどが並んでおり、簡素ながらバランスもしっかり考えられた献立だった。

 

「煮汁も濃すぎず薄すぎず、ちょうどいいな」

「おいしいよ、司令官」

「本当? よかった」

 

 一乃は嬉しそうに笑って傍らの叢雲をつついた

 

「だって、叢雲。ちゃんと聞いてる?」

「聞こえてるわよ」

「叢雲の感想も聞きたいな~?」

「……イラッとくるんだけど、その顔」

 

 なにやら妙にグイグイと押す一乃と、眉間(みけん)にしわを寄せる叢雲。長月と響は顔を見合わせたが、木曾は何か事情でも知っているのか、にやにやと笑っていた。

 

「実は20匹近くいただいちゃったの。まだまだあるから、みんなたくさん食べて」

「へえ、豪勢だな、ガラカブって、たしか地元じゃそれなりにお高い魚だろ?」

「え、そうなの?」

「そういえば前に店で見た時も結構高かったかな。佐世保(あっち)ではアラカブ、っていう名前だったけど」

「……う、受け取っちゃまずかったかしら。ワイロとか、そういう話にならないかな」

 

 急に心配そうな顔になる一乃。生真面目というか、(とし)の割に妙なところにまで気が回るな、と長月は思った。

 

「まあ、大丈夫だと思うぞ、司令官。漁協の側としても、今の熊本の状況では、なかなか地元に(おろ)すのも難しいんだろう。イワシやアジなんかは軍がまとめて買い上げるだろうが、こういう地元魚はそうもいかないからな」

「熊本市内の飲食店もどんどん疎開しているらしいしね。足の早い魚だし、向こうにとっては手土産にちょうど良かったんじゃないかな」

「そ、そう? それなら良かった」

 

 長月と響のフォローに、一乃がホッと息をつく。

 

「そういえば、野菜もものすごく高くなってたわ。スーパーをのぞいてびっくりしちゃった」

「戦争税もまた上がるみたいよ。私達は軍の補給があるからまだいいけど、民間人は大変でしょうね」

「食べられるうちに食べておくのが正解ってことだな。と、いうわけで提督、もう2,3匹頼む」

「はーい、おかわりね」

 

 木曾から早くも骨だけになった皿を受け取り、一乃は嬉しそうに微笑んだ。

 

「叢雲も、おかわりいくらでもあるからね~」

「だから腹立つっての、そのどや顔」

 

 

 

 

 

 

 海上、激しい風が頬を打つ。

 速度は30ノット超。響は前を進む木曾の背を必死に追った。

 

「敵艦発砲! 回避ッ!」

 

 木曾の叫びに、考えるより先に体が反応した。

 面舵いっぱいに回頭した直後、敵の砲撃が7時方向に着弾し、巨大な水柱が上がる。

 取り舵での回避を選んでいたら、完全に直撃していた位置だった。

 正確な予測射撃に、思わずゾッとする。

 

「足を止めるなよ! 相手は高速戦艦だ。びびって足を緩めたら、一方的に砲撃で叩かれるぞ!」

 

 木曾の叱咤。響は歯を食いしばり、懸命に主機の出力を上げる。

 速力は限界のはずだが、相手に全然接近できている気がしない。むしろ、砲撃に対して回避行動をとるたびに引き離されている気がする。

 

「くぅ!」

 

 後ろを航行していた長月に至近弾。その速度ががくん、と落ちた。主機に異常が生じたようだ。

 

「長月、大丈夫か!?」

「くっ、こうなったら、わたしが(おとり)になる!二人は隙を見て距離を詰めてくれ!」

「待て! 自棄(やけ)を起こすな!」

 

 木曾が制止するが、長月は敵艦めがけてまっすぐ針路を変更、主砲を連射しながら突進する。

 が、それはあまりにも無謀な行動だった。

 水平線上の敵艦から発射煙が噴出したのが見えた、と思った次の瞬間、長月の周囲に敵弾が連続して着弾。

 長月の体が水柱の中に消える。

 

「長月!」

 

 思わず叫ぶ響。自分が敵艦から一瞬注意をそらしてしまったことに気付いたのは、水柱の向こう、巨大な砲を一斉にこちらに向ける敵艦の姿が目に入った時だった。

 キロメートル単位で距離が離れているにもかかわらず、敵艦の眼がギラリと光るのが見えた気がした。

 とっさに面舵をいっぱいに。が、時すでに遅かった。

 10発を超える大口径砲弾が次々と装甲力場に着弾し、響はひとたまりもなく吹き飛ばされた。

 

 

 

「みなさん、なかなかいい動きでしたよ」

 

 トレードマークである眼鏡を光らせてそう言ったのは、金剛型高速戦艦4番艦の霧島である。

 八代泊地所属806及び807艦隊、通称『八代艦隊』。彼女はその旗艦だった。

 

「ったく、遠慮なしだな。霧島」

 

 コンクリートの上にあぐらをかいた木曾がペットボトルの水をあおりながら応じた。まだ寒い季節にも関わらず、額に汗が光っている。

 

 この日、816艦隊は八代艦隊と艦隊演習を行うため、八代泊地を訪れていた。

 一乃は叢雲を伴って艦隊司令同士の打ち合わせ中であり、残りの3名で霧島との対大型艦演習を実施しているところだ。

 

「しかし……さすがの金剛型というべきか……雷撃を当てられる気がしない」

 

 同じく座り込んで水を口に含みながら長月が言、隣の響も無言で頷いた。

 駆逐艦の主砲では戦艦の装甲を抜くのは難しい。となれば有効打を与えるためには砲撃の嵐を潜り抜けてなんとか距離を詰め、雷撃を仕掛けるしかない。

 しかし、霧島はその快足を存分に活かし、一定の距離を保ちながら正確な砲撃の雨を降らせてくる。

 

 3対1にもかかわらずここまで0勝3敗、いいようにやられっぱなしである。

 

「それはまあ性能もあるけど、練度が違うもの」

 

 霧島が微笑む。

 艦娘は、旧軍の軍艦であった頃の戦闘や訓練の記憶を持っている。つまり、記憶の点だけから言えば、すでに熟練兵と言って良い。

 しかし、かたや数百mの鋼鉄の体、かたや2mにも満たない生身の体である。艦娘として生を受けてからしばらくは、記憶と身体のギャップに悩まされることとなる。

 訓練や実戦を通して練度を高め、艦娘としての身体を使いこなせるようになることで、徐々に本来の力を発揮できるようになるのだ。

 

「さすがは大陸戦でも大暴れした佐世保の金剛型、ってとこだな」

「自分は2回も当ててきておいて、よく言うわね」

 

 また貴方のデータ、更新しないと、と霧島が苦笑する。

 木曾は3戦を通して砲撃と雷撃を1回ずつ霧島に命中させていた。砲撃は装甲力場にはばまれてかすり傷だったし、雷撃も霧島がうまく艤装の装甲部で受けて小破判定だったが、正確無比な弾雨を体をねじ込むようにかいくぐり霧島に食らいつていく木曾の動きは、後ろから見ていても感嘆すべきものだった。

 後に続く自分や長月が同じような動きができるようになれば、百戦錬磨の金剛型とはいえ決して勝てない相手ではないな、と響は改めて思った。

 

「月月金金で訓練あるのみ、か」

 

 響と同じことを思ったか、長月がつぶやいた。

 

「そのとおり。さて、ひと休みしたことだしもう一戦しましょうか?」

「ああ、お願いする」

 

 長月が立ち上がる。

 水を飲み干し、響も後に続いた。

 

 

 

「君の艦隊はなかなか熱心だな」

 

 艦隊司令執務室の窓から訓練の様子を眺めながら、中佐の階級章をつけた男が一乃に言った。

 八代艦隊司令、氷川(ひかわ)中佐は口ひげを蓄えたがっしりした体格の壮年の男性だった。傍らには秘書艦である陽炎型2番艦、不知火が控えている。

 

「ありがとうございます、氷川司令。お忙しい中演習に時間を割いていただきまして」

 

 一乃は改めて頭を下げる。こちらは叢雲を伴っている。

 提督着任の挨拶、そしてお互いの艦隊の連携についての打ち合わせの席だった。

 

「なあに、816はお隣さんだからな。何かと協力する機会も多いだろうし、お互い艦隊の練度を上げておくことに越したことはない」

 

 氷川は呵々(かか)と笑った。いかにもつわもの、といった感じの陽気で豪快な笑いだ。

 

「どうぞ、田村提督」

 

 不知火がコーヒーのお代わりを運んでくる。良い香りが一乃の鼻孔をくすぐった。

 

「警備府長官ご推薦の代用コーヒーはもう味わったかね? うちの大将はおおかたの点でまあ文句はないが、あの趣味ばっかりは何とかして欲しいもんだ」

 

 氷川の遠慮のない物言いに、一乃はかろうじて苦笑を返した。

 

「あはは……その、由良さんの()れた代用コーヒーは十分おいしかったです」

「ああ、確かにあの秘書艦どのが淹れれば多少はマシだな。しかしな田村少佐、秘書艦はうちや君のところのように、駆逐艦が一番だぞ」

 

 氷川はにやりと笑う。

 

「なにせ、間違いを起こす心配がないからな」

 

「はあ、まちがい、ですか?」

 

 首をかしげる一乃。

 

「そうだ。その意味では、警備府の秘書艦どのはいかんな。軽巡の割にちょいと色気がありすぎる。あれは間違いの元だな。まあ大将は確か男やもめだったはずだから、よしんば何かあったとしても、どうということはないだろうが」

「司令、田村提督相手にその発言は、ハラスメントです」

 

 横に控えていた不知火が、口をはさんだ。

 

「失礼だな。これはコミュニケーションというんだぞ、不知火」

「もう一度言います。その『コミュニケーション』とやらも、八代艦隊(うち)の皆ならばまだ広い心で許します。が、よその女性相手に司令のそれは、完全な、ハラスメント、です」

 

 不知火は、氷川をじろりとにらみ、一語一語区切るようにして断言した。はたから見てても微妙に背筋が寒くなるほどの視線である。

 彼女の両眼から氷川へ向けて一直線に青白い光線が照射されている、そんな錯覚を一乃は覚えた

 

「わ、わはは」

 

 高笑いする氷川だが、先ほどの陽気な笑いと違って微妙にひきつっており、いまいち誤魔化しきれていない。

 

「ね、ハラスメントって、なにが?」

 

 とりあえず前後がよくわからなかったので、小声で叢雲に聞いてみる一乃。

 

「……わからないなら、わからないままにしときなさい」

 

 なぜか、非常に残念なモノを見るような眼で見られた。

 

「……あー、その、不知火。俺が悪かったようだ。……すまん」

「……猛省してください」

 

 視線を転じるとなぜかいきなり氷川が頭を下げ、不知火も沈痛な表情でそれを受けている。

 一乃はますますわけがわからなくなった。

 

 

 と、その時、遠雷のような音が響き、卓におかれたコーヒーカップがカタカタと小さくなった。

 

「ふむ、やっとるな」

 

 氷川はふと真顔になり、埠頭とは別方向の窓へと歩いていく。

 

「見てみるかね、田村少佐」

 

 言われて一乃も立ち上がり、氷川に並んだ。

 

 

 地平線の彼方から、遠く、砲撃音が響いてくる。

 眼下には、荒涼とした荒野。

 巨大なクレーターがいくつも穿たれて、草一本生えていない。まるで、月面のような光景だった。

 

 八代市は、八代会戦において20万の自衛軍と2000万の幻獣との決戦の舞台になった。

 自衛軍は数の不利を補うべく日本中から火砲をかき集め、とにかく幻獣に砲弾を叩き付けた。海軍も動かせる艦娘にくわえ、『こんごう』『しなの』『あかぎ』など、虎の子であるホンモノの戦艦、空母を動員して八代平原を埋め尽くす幻獣を攻撃し続けた。

 自衛軍は最終的に生物兵器を投入、敵味方もろともに自爆させたといわれており、その戦力の8割と引き換えに辛うじて戦術的勝利を手にした。

 

 その激戦の結果のひとつが、今、一乃の目の前に広がっている風景だった。

 

「知っての通り、この八代の地は幻獣との最前線でもある。現在ここから二十キロほど南で、陸軍の陣地群と幻獣どもが押し合いをしとるんだ」

 

 万が一あそこの陣地が破られたら、こっちは尻に()かけて逃げにゃならん、と氷川は笑った。

 

「もっとも、一蓮托生(いちれんたくしょう)なのはお互い様でな。我々が八代湾に深海棲艦の侵入を許せば、背後からの艦砲射撃で陣地群はたちまち崩壊することになるだろう。幸い、八代湾は閉塞率の高い湾だから、守りやすくはある。湾の入り口は814と816が押さえてくれとるしな」

「814の(ひがし)司令には、先日の初陣でもお世話になりました」

「おう、そうか。あの青二才も少しは艦娘を使いこなせるようになってきとるみたいだからな。ま、せいぜいこき使ってやってくれ」

 

 先輩を青二才と断じられ、一乃はただ引きつった苦笑を浮かべるしかない。とはいえ、氷川中佐からすれば一乃はもちろん東少佐も青二才に過ぎないだろう。

 氷川中佐は大陸の戦いでも勇名を馳せたと聞いている。

 彼の指揮下の八代艦隊は、旗艦の霧島を筆頭に警備府所属艦隊中でもその精強さで知られていた。

 

「哨戒中の第2艦隊もそろそろ帰投するはずだ。霧島との対大型艦演習が一段落したら、次は隼鷹と対空射撃演習をするといい。どちらも敵には多く、我々に足りんものだからな」

 

 氷川の言うとおり、熊本警備府には戦艦と航空母艦が致命的に不足していた。

 旧佐世保鎮守府所属の主だった戦艦や正規空母の多くは対馬海戦で戦没しており、その残存戦力を母体としている熊本警備府は、巡洋艦以下を主戦力として戦うことを余儀なくされている。

 定数15個艦隊の警備府全体で見ても、戦艦は片手の指で足りる数。正規空母にいたっては、警備府第2艦隊旗艦の飛龍ただ1隻のみだった。

 

「君の艦隊は水雷戦隊だからな。空母の1隻でも相手に混じってれば、そりゃ苦労することになるぞ」

「はい……士官学校でもそう習いました」

「まあ、旧軍の対米戦争の頃に比べればまだマシだがな。あの時代の軍艦と航空機ほど、艦娘とその艦載機の関係は絶対的ではない。対空装備さえ充実しとれば、機動部隊相手でも対抗するくらいはできるからな」

 

 艦娘が使用する艦載機は、彼女たちの使用する兵装の中でも最も謎の多いもののひとつである。旧軍の航空機を模した、ラジコンサイズの自動操縦兵器、とでも形容すればいいのだろうか。

 艦娘と同じく、戦闘力はモデルとなった兵器そのままというわけではないが、武装は侮れない威力を誇る。

 戦闘機の機銃は軽ウォードレスの装甲をやすやすと貫通するし、爆雷撃機の集中攻撃を受ければ、新鋭の護衛艦でも撃沈は免れない。

 一方でモデル元に比して大きく低下しているのが速度と航続距離である。これにより軽巡や駆逐艦、さらには通常の陸上部隊でも、適切な火器さえあればなんとか対抗できるとされていた。

 

「ま、お互い5月までは我慢だな、田村少佐。困ったことがあったら何でも言ってくれ。これでもう、知らん仲でもないからな」

「はい、ありがとうございます」

「八代市は見てのとおりだが、熊本市内にはまだイイ店がのこっとる。こんど一杯やろうじゃないか……と言いたいところだが、すまんな。不知火がまたすごい目でにらんどる」

 

 まあ5年後のお楽しみにしておこうか、と氷川は笑った

 

 

 

 不知火と叢雲が連れ立って埠頭に姿をあらわしたのは、ちょうど4戦目の演習が終わったタイミングだった。

 

「あら、提督同士のお話は終わりかしら」

「いえ。ですが、ちょうど第2艦隊が戻ってきましたので。次は隼鷹に対空射撃演習を、との司令のご指示です」

 

 不知火が指差す先には、沖合からこちらに向かってくる艦娘の一団があった。

 

「今度は叢雲も参加するのか?」

「ええ、そのつもりよ」

 

「ただいま~っと。お、そういや816が来てたんだっけ」

 

 埠頭に上がった飛鷹型軽空母2番艦、隼鷹(じゅんよう)が手にした巻物を巻きながら歩み寄ってくる。

 彼女は八代第2艦隊の旗艦であり、貴重な航空母艦娘だった。

 

「隼鷹、ひと休みしたら、816さんと対空射撃演習をお願いね」

「りょーかい。そんじゃ、ちょーっと燃料を補給してくるかな」

「くれぐれも、燃料と称してアルコールを摂取しないように」

「似たようなもんじゃないか。ちょっとした景気づけだよ、景気づけ」

 

 まったく不知火は固いなーと口をとがらせる隼鷹。

 

「うー、やれやれ、おなか空いたク……お?」

 

 隼鷹に続いて埠頭に上がってきた艦娘が、ふと木曾の方を見て立ち止まった。

 

「ん?」

 

 木曾とその艦娘が見合う。

 白と水色を基調とした丈の短い水兵服は、どこか木曾のものと似ている。柔らかそうな栗色の髪。一筋だけ流れに逆らった毛が、風に揺れた。

 

「……なんだ、だれかと思えばわが『妹』かクマ」

「あー、『姉貴』か。そういや、八代艦隊に一人いたんだったな」

 

 忘れてた、と頭をかく球磨型軽巡5番艦木曾を見つめ、球磨型軽巡ネームシップ、球磨は「ふっふっふ」と怪しい笑みを浮かべた。

 

「816に木曾がいることは聞いていたクマ。1月の警備府着任から今日に至るまでお姉ちゃんに挨拶の一つもないとは、いい度胸だクマ……」

「いや、姉貴の識別番号いくつだよ。俺は五七一だけど」

「六〇一だクマ」

「やっぱり俺の方が建造年早いじゃないか」

 

 艦娘は基となった艦1隻につきにひとりだけ、というわけではない。同じ名の艦娘は同時に複数存在し得る。

 このため、個体の識別に用いられるのが個体識別番号であり、これを見ればその艦娘の建造年と建造順がわかるようになっていた。

 ちなみに、姉妹艦でも順番に建造されるわけではないため、このように年下の姉、年上の妹という状況が発生することは珍しくない。

 

「そのような些細(ささい)なことは関係ないクマ。重要なのは球磨はお姉ちゃんで木曾は妹だということクマ。この歴史的事実は未来永劫揺らがないクマ」

「いや、そりゃフネの時はそうだけどさ……」

 

 普段はいかにも腕利きといった言動の木曾が、妙にやりにくそうにしている姿に、長月が目を丸くしている。

 

「ふふふ、木曾がどうしてもと言うなら、このお姉ちゃんが抱きしめてあげてもいいクマよ?」

「言ってねえ」

「ぎゅーしたげるクマ、ぎゅー。名付けてくまはっぐクマ」

「ハナっから締め上げる気満々のネーミングじゃねえか」

 

 同じ艦の艦娘は、それぞれ同じ姿形をしているが、性格はまったく同一というわけではない。

 考えてみれば当たり前の話だ。艦娘も人間と同じく、周囲の環境や経験によって日々成長し、それにより性格も変化する。

 故にこの若干過剰なほどのフレンドリーな対応も、『球磨六〇一号』個人の性格によるもののはずだが……

 

「いや、俺の知ってる球磨姉は、どいつもこいつもだいたいこんな感じだったな……」

「血のつながったたった一人のお姉ちゃんをつかまえて、ドイツ艦だのオランダ艦だの呼ばわりとはひどいクマ、お姉ちゃん泣いちゃうクマ」

「つながってねぇし一人じゃねぇし呼ばわってもいねえ。ついでに言うなら、つかまえようとしてるのは姉貴の方だ」

「半分で良ければロシア艦呼ばわりしてもらっても構わないよ」

「そっちも頼んでねぇ」

 

 じりじり迫る球磨とじりじり下がる木曾。

 霧島を中心に円を描くように追い、逃げる。

 

「あの……目が回ってくるんですけど」

「霧島、ちょっと協力するクマ。そこの素直じゃない()()()()()を捕まえるクマ」

「いや、そこの頭の()いた()()()()()をどうにかしてくれ」

「……なんというか、日本語って難しいですネー」

「霧島、貴方までノらなくていいです」

 

 急にカタコト交じりの怪しい口調になって肩をすくめる霧島に、不知火が冷静につっこんだ。

 

「ふふ、なんかお姉様たちが懐かしくなっちゃって」

 

 霧島は舌を出しつつ球磨の襟首を捕まえ、いとも簡単にひょい、と持ち上げる。

 

「むっ、なにをするクマ。人をクレーンゲームのぬいぐるみかなんかみたいに扱うなクマ」

 

 じたじたと抵抗する球磨だが、片手一本で持ち上げている霧島はびくともしない。

 

「はいはい。816さんは次は対空射撃演習をするんだから、邪魔をしないの」

「ぐぬぅ、屈辱クマ~」

 

 抵抗をあきらめ、ぐてっと持ち上げられる球磨。

 

「あっはっは。ま、そんじゃあ、いっちょうやるかい?」

 

 ケラケラ笑いながら成り行きを見ていた隼鷹が、笑いをおさめて巻物を取り出した。

 

 

 

 この日の演習における816艦隊の通算成績は、2勝7敗だった。

 

 

 

 



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第7話 大規模作戦計画

 提督による艦娘の艦隊運用は、距離による影響を大きく受ける。

 司令部機器の出力や艦種などの条件によって若干異なるが、おおむね100kmを超えるあたりから、情報の伝達に支障が生じ始めるとされていた。

このため、大半の艦隊には司令部機能が備えられた指揮艦艇が配置されている。長距離の出撃の場合、提督は指揮艦艇に座乗、艦隊に同行して戦闘指揮をとるわけだ。

ただし、沿岸警備を主とする小規模艦隊などは指揮艦艇が配置されていないことも多い。こういった艦隊に大規模作戦等で長距離出撃の必要が生じた場合は、指揮艦艇を持つ他の艦隊の提督に、艦隊の指揮権を一時的に委譲(いじょう)することで対応することが一般的だった。

 

 熊本警備府所属第816艦隊も、現在のところ、このような運用を想定されていた。

 

 

 

 1999年3月6日 一四三三 天草諸島下島西岸沖

 

 

 

 この日は、九州全域に強風波浪警報が発令されていた。荒天の中、816艦隊は艦隊訓練を実施していた。

 

 冷たい雨混じりの叩きつけるような風が吹き荒れ、海面は激しく波打っている。

 万里(ばんり)波濤(はとう)、とはよくいったものだな、と長月は内心ぼやいた。

 艦であった時も楽とは言えなかったが、この小さな艦娘の体になるとまたひときわ厳しい。なにせ海面の高低差は下手すると10メートルを軽く超える。3階建ての建物の屋上まで持ち上げられ、すぐに1階まで下ろされる。これを絶え間なくくりかえされるようなものだ。

 

『みんな、がんばって。戻ってくる頃には、お風呂、沸かしておくわ』

 

 そう励ます一乃の声。彼女の方も、決して楽ではないだろう。

 提督は強風や波浪により目まぐるしく変わる周囲の状況を把握、分析して艦娘にフィードバックし、索敵その他の能力の低下を少しでも補わなければならない。荒天下での艦隊運用は、穏やかな海に比べて数倍の情報処理能力が要求される。そういう意味では、荒天時の訓練は艦娘だけではなく、提督の艦隊運用の訓練でもあるのだ。

 

「お風呂……。なんだか、とても遠い世界の気が、するね」

 

 響がひときわ大きな波を乗り越えながらいった。

 

「まったくだ。さっさと訓練を終わらせて帰りたいところだが……それにしても、こんな状況で砲撃や雷撃など、当てられるのか?」

 

 長月は標的代わりに浮かべた発泡スチロール箱に単装砲を向けようとして、悪戦苦闘していた。自分も標的も波風にもみくちゃにされている状態では、ろくに狙いをつけることもできない。

 

「当たらないなら当たる距離まで近づくのよ。こんな風にね」

 

 叢雲がそう言いつつ、波間を縫って標的に接近。ほとんど手が届きそうな至近距離で12.7cm砲をぶっ放し、標的を吹き飛ばした。

 

「もしくは、こうだな」

 

 木曾が別の標的に近づくと、やおら腰の超硬度カトラスを抜き放ち、目にもとまらぬ速さで標的を串刺しにした。見ているこちらの方がぞっとするような手並みだった。

 

『か、格闘戦って……』

「士官学校じゃ教わらなかったろうけど、けっこう有効なのよ。今日みたいな大しけの日だとか、月のない闇夜とかね」

「発砲音がしねぇし故障とも無縁だからな」

 

 絶句する一乃に、叢雲が肩をすくめ、木曾もうなずく。

 

「対馬海戦なんかでも、水雷戦隊が闇夜をついて敵艦隊に突入して、超近接戦で戦ったことがあったぞ」

「あら、木曾もあの作戦に参加してたの?」

「なんだ、叢雲もだったのか。知らなかったな」

「あの闇夜だし、自分の艦隊以外は味方の顔もろくに見えなかったものね。敵はもちろん、味方が全部で何人参加してたのかもわからなかったし」

「ま、どっちにしろあんな滅茶苦茶な乱戦は二度とごめんだな」

「同意するわ」

 

 心底うんざりしたような顔の二人を見て、長月と響は思わず顔を見合わせた。

 

『叢雲の(それ)ってそのためのものだったんだ……』

 

 一乃の納得したような声

 

「あのね、格闘戦のためでないなら今までなんだと思ってたのよ」

『ええと、趣味かなって。ほら、大きなシルバーアクセサリー、みたいな?』

「アンタの中の私はいったいどんな趣味してんのよ!」

 

 叢雲の声がきん、と無線を震わせる。一乃は耳を押さえているに違いない。

 

「しかし、こう上下運動が激しいと、目が回ってくるね」

 

 響がぼやいた。

 彼女は駆逐艦の中でも小柄な部類に入る。体躯は長月もあまり差はないが、特型駆逐艦の背負う艤装は、睦月型のそれにくらべてかなり大きい。いつものクールな表情は崩していないが、さすがに動きに疲れが見えた。

 

「ま、この小さな体でも良いことはあるわよ」

「良いこと?」

「とりあえず、波で首がもげる心配はしなくても済むじゃない?」

「……なるほど、確かにそうだね」

 

 涼しい顔で言う叢雲に響は笑った。

 だが、長月は笑おうとして失敗した。木曾もなんとも言えない顔をしている。

 

『あの……叢雲……』

「なによ」

『それ、笑えないんだけど……』

 

 さすがに司令官も、あの事故(第四艦隊事件)は知ってるか、と長月は苦笑いした。

 

 世界を驚嘆させた特型駆逐艦ならではの自虐ユーモアだったが、当の本人達以外には、少々刺激が強すぎるようだった。

 

 

 

 

 816艦隊隊員寮の浴室はこの規模の寮としてはかなりの広さを持つ。

 ゆうに10人は入れる浴槽は、毎日たっぷりと湯が張られる。戦時下にいささかぜいたくにも思えるが、艦娘寮では決して珍しいことではない

 風呂好き民族の作った船だからというわけでもないだろうが、なぜか艦娘は入浴を非常に好む。艦隊の士気にも無視できない影響を及ぼすほどであり、このため、多くの基地では入浴設備をできる限り充実させていた。

 

 広々とした浴室で、一乃はひとり、湯に浸かっていた。

 艦隊運用は脳を酷使するため、直後の入浴は好ましくないとされている。疲労からうたた寝をして溺れたり、貧血をおこしたりする危険があるからだ。

 だが、この肌寒い日に熱い風呂の誘惑は、艦娘でなくても(あらがい)いがたいものがある。叢雲に見つかったら怒られるかな、とちらりと考えたが、今日の訓練は比較的短時間で頭痛もおきなかったし、眠気防止にカフェインの錠剤を飲んだのでたぶん大丈夫だろう。……という自己判断、もしくは自己欺瞞(ぎまん)の末に、艦隊司令たるものが秘書艦の目を盗んで、こそこそと湯に浸かっているわけである。

 

 そんな一乃の内心は、だが、のんきに入浴を楽しむという状態からはやや遠かった。

 

「……いいのかな、このままで」

 

 天井を見上げ、独り言が口からもれる。

 816の初陣から約10日。あれから出撃は2、3度あったが、艦隊戦といえるほどの規模の戦闘には参加していない。 警備府全体としても、ここしばらく大きな戦闘はないようで、熊本の海の戦いは、小康状態を保っているようだ。

 戦闘がないぶん、艦隊の訓練に時間を割けるのはありがたい。ありがたいのだが、一乃は漠然とした不安をもて余していた。

 こうしている間にも陸では、幻獣と陸軍との間に絶え間のない激戦が繰り広げられており、自分と同じ学兵たちも命を懸けて戦っている。味方が犠牲になっているのに、自分たちは楽をしているのではないか。―――そんな思いがどうしても付きまとってしまう。

 理性ではそんなことはないとわかっているし、とにかく目先のことをやるだけだ、そう考えるようにしている。いるのだが、どうしても、これでいいのかという不安が頭から離れなかった。

 

 ぼんやりと手で湯をすくう。指揮官たるもの不安を兵に見せてはならないと教わっている。気分を変えようとばしゃりと顔に湯をかけたとき、浴室の扉が開く音がした。

 

「ん、 提督、いたのか」

 

 叢雲かと思ってどきりとしたが、タオルを肩にかけて入って来たのは木曾だった。

 

「艦隊運用の後は、風呂入るとよくないんじゃなかったのか?」

「あ、ええと、今日はさっき眠気覚まし飲んだから、眠くならないかなって」

 

 いささか言い訳っぽくなったかと思ったが、木曾は「ふーん、そういうもんか」と、気にした風もなく洗い場に腰を下ろした。

 

「木曾も、もうお風呂は入ったんだと思ってたわ」

「ああ、妖精たちと艤装の調整をしていたんだ」

 

 ちょっと舵の利きがしっくり来ないんだよな、などと言いながらシャワーを頭からかぶると、木曾はこちらに歩いてきて湯船に身を沈めた。

 しなやかに引き締まった、しかし要所は意外なほど女性らしい丸みがある肢体が湯気の向こうに見え、一乃は視線を逸らした

 

 そういえば、木曾とこういう形で一対一になるのは初めてだった気がするな、と思って横目で見る。

 木曾は眼帯に覆われていない方の眼を気持ちよさそうに閉じている。お風呂でも眼帯は外さないんだ、などとどうでもいいことを思った。

 

「どうかしたか?」

「あ、ううん、なんでもないわ」

 

 ちょっと慌てて手をふるが、木曾はじっと一乃の方を見つめる。

 

「なんだ、提督。さっきから不景気な顔してるな。どうかしたのか?」

 

 そんなことはない、と反射的に答えようとしたが、ふと思い直す。前を向き、正直に口を開いた。

 

「うん……ちょっと、このままでいいのか不安になっちゃって」

「このままで?」

「初陣以来、戦闘がないから……その、戦闘がないのはいいことだし、哨戒や訓練が大事だっていうのはわかってるんだけど、なんだかこう、楽をしているような気がして、それで―――」

「戦争を楽しもう、平和が怖い。か」

「え?」

 

 木曾はふ、と笑って、湯の中で体を伸ばした。

 

「なあ提督。仕事や訓練の時はともかく、そうでない時は戦いのことなんざ忘れとけ」

「忘れる……って」

「戦時の軍隊ってのは、出撃と待機の繰り返しの日々だ。いっつも戦争戦争じゃ疲れちまう。休む時は休んで、遊ぶときは思いっきり遊べ。戦いのことは考えるな」

「け、けど、指揮官としてそういうわけには……」

「普段から気ばっかり張ってると、一番肝心な時に失敗するぞ。たまには頭をリセットしてやるのも必要さ。士官学校でどう教わったかは知らないが、大事なのはメリハリだ。」

 

 木曾はそういえば、と言って一乃の方を向いた。

 

「提督、お前、なにか趣味はないのか」

「趣味?」

「ああ。スポーツ、旅行、映画、なんでもいい……そうだな、料理なんかもいい。食事当番の時なんか楽しそうだったじゃないか」

「確かに気分転換にはなったけど、趣味と言えるほどでも……」

 

 言われて思わず考え込む。

 

「えーと……本を読むのは、好きかな」

「なるほど。こっちに着任してから、本は読んでるか?」

「ううん、それどころじゃなかったし」

「それだ、提督。とりあえず新しい本でも仕入れてこいよ。明日、日曜だろ」

「ええ? でも、この辺に本屋さんなんて……あっても、疎開しちゃってるだろうし」

「なんなら熊本市内まで足をのばしたっていいさ。図書館くらいはあるだろ。お前には、戦争以外のことを考える時間が必要だ」

 

 肩に湯をかけながら、木曾は言った。のんびりとした口調だが、その言葉にはなぜか説得力があった。

 

「ああ、もちろん、仕事の本なんか選ぶなよ。戦争と関係のない、趣味の本だ。お前は何の本が好きなんだ?」

「うーん、ファンタジーとか神話は好きかも。あとは動物の本とか……」

 

 そういえば昔、猫の神様が出てくる絵本が好きだったな、とふと思い出した。

 

「なるほどな。いい趣味じゃないか」

「あはは、妖精とか魔法使いが出てくる本は好きだけど、実際の妖精さんを()る才能はないんだけどね……」

「好かれてはいるみたいだけどな。今も風呂に何人か入ってるし」

「え、ほんとに?」

 

 慌てて回りを見回し、目を細めて湯気を透かしてみる。

 浮き輪に乗ってトロピカルジュースを片手にくつろぐ小さな姿が…視界の端にうすぼんやりと見えた気がした。

 

「……なんだか、すごく優雅っぽいものが視える気がするんだけど」

「ああ、だいたい合ってるな。ま、お前もこいつらのオンオフの切りかえを見習ったらどうだ?」

 

 見習おうにもそもそも視えないし、お風呂はビーチやプールじゃないんだけど、などといろいろ言いたいことはあったが、妖精を視ようと目を凝らしすぎたせいか、頭がぼんやりしてきた。

 

「なんかのぼせそうになってきたかも……先に上がるね」

「ああ。足元に気をつけろよ」

 

 そそくさと浴槽から上がってバスタオルを体に巻き、一乃は浴室の扉を開ける。

 

 叢雲が腕を組んで(たたず)んでいた。

 

「……げ、叢雲」

「ふーん。自室にもいなければ、執務室にもいない。隊舎と寮を散々さがしまわった秘書艦に対するご挨拶が、それ?」

 

 ジロリ、と半眼で睨まれる。

 怒られる、と身を固くした一乃だったが、その眼前にぴ、と一枚の紙が差し出された。

 

「高速暗号通信よ。各艦隊司令は明朝、警備府へ出頭されたし、だって。一乃、どうやら楽しい戦争のお時間が始まるみたいね」

 

 

 

 

 熊本警備府庁舎2階、第3会議室。

 一乃は()の字型に並べられた会議用テーブルの末席に座っていた。

 熊本警備府所属の提督たちや本部付の参謀たちがそれぞれの席に着いている。彼らが身に着けている濃紺の第一種軍装の中にあって、自分の学兵提督の白い制服はいかにも目立つような気がして、どうにも落ち着かない。

 もっとも、各提督の後ろには秘書艦たちがそれぞれの服装で控えているため、全体としてはさほど悪目立ちはしていないかもしれないが。

 

 昨日、警備府長官原口海軍大佐名で、熊本警備府旗下の各艦隊司令に召集命令がかかった。

 さすがに警備上すべての提督の参加というわけにはいかず、一部の提督は映像通話での参加であるが、それでも一〇名近い提督達がここに集まっていることになる。

 歴戦の海軍軍人たちに囲まれて、一乃の背は強張っていた。

 

「田村少佐。そう緊張することはないよ」

 

 見かねたか、隣席の第814艦隊司令(ひがし)少佐が声をかけてきた。

 

「は、はい。ありがとうございます」

「といっても、緊張するなという方が無理か。僕にしても新米もいいところだ。これだけ先輩方が並ぶ席では緊張もする」

 

 髪こそ軍人らしく短く刈り込んでいるが、眼鏡をかけどこか理知的な印象を与える東はかすかに笑った。

 

「まあ、取って食われるようなことはないよ。すぐに慣れるさ」

「ふむふむ、お優しいことじゃのう」

 

 背後から囁き声が聞こえた。彼の秘書艦である初春が口に手を開けてくすくすと笑っている。

 

「何か言いたいことがあるのか? 秘書艦殿」

「とくにありませんぞ、司令官殿」

 

 肩越しにちょっと睨む東と、わざとらしく扇で口元を隠す初春。仲の良さそうなやりとりに、少しだけ緊張がほぐれた。

 ちらりと自分も後ろを見ると、叢雲と目が合う。

 

「なに、アンタも漫才やりたいわけ?」

「ま、漫才ってそんな失礼な……」

 

 言いかけたところで、会議室の扉が開き、原口長官が姿を現した。

 室内の提督たちが一斉に立ち上がり、敬礼する。一乃も、慌ててそれにならった。

 原口は答礼すると、全員に着席を促し、自らも席に着いた。後ろに、原口に続いて入室してきた第一秘書艦由良をはじめ、警備府艦隊のおもだった艦娘たちが控える。

 

「急な召集にもかかわらず、お集まりいただき感謝する」と原口が口を開いた。

 

「まずは、熊本警備府長官として、諸君に礼を言わせてほしい。警備府の設立から3か月余り。これまでのところ、我々は当初の計画通り深海棲艦を撃退し続け、九州西岸の制海権を維持している。これは、諸君らの勇戦と献身の賜物(たまもの)だ」

 

 重々しい口調で言う原口。

 着任の時は気さくに接してくれたけれど、やっぱり偉い人なんだな、と一乃は改めて思った。

 

「さて、まずはこの画像を見てほしい」

 

 原口の言葉とともに由良が立ち上がり、端末を操作する。

 スクリーンに映像が映し出され、室内からどよめきが上がった。一乃も思わず目を見張る。

 高々度から撮影したらしきやや不鮮明なその画像には、海上に浮かぶおびただしい数の深海棲艦達が写っていた。

 

「この画像は、約13時間前、旧韓国領済州島の南、約50km付近で哨戒機が撮影しました。分析の結果、少なくとも10個艦隊相当の深海棲艦が確認されています」

「10個艦隊だと……」

 

 呻き声があがる。

 

「さらに、問題はこの後です」

 

 由良の言葉とともに、画像が切り替わる。深海棲艦隊の中心を写した拡大画像だ。

 

 周囲の深海棲艦よりひときわ大きい、小山のような醜怪な黒い鉄の塊。針山のように突き出た砲塔と、紅い燐光に(いろど)られたカタパルト。

 

 その上に、白い、女が立っていた。

 

 今度はどよめきは上がらなかった。

 かすかな唸り声。息をのむ気配。身じろぎ。

 むしろ静かな反応が、逆に衝撃の大きさを物語っていた。

 

「これは鬼級……いや、姫級か」

「画像分析の結果、97%以上の確率で空母棲姫と推定されています」

 

 姫級、と呼称される艦種は深海棲艦の最上位に位置するクラスだった。

 単体での戦闘力がきわめて高いうえ、しばしばその個体を中心にして大艦隊が形成される。深海棲艦側の切り札ともいえる存在だ。

 

 次の画像、女は哨戒機の方を見上げていた。

 微笑む女の周囲から、異形の艦載機が蜂の群れのごとく一斉に飛び立っている。

 この世のものとは思われないほど美しい、しかし同時にとてつもない禍々しさを感じさせる笑みに、一乃は小さく身を震わせた。

 

 そこで、画像は終わりのようだった。

 

「敵戦力はこの空母棲姫を中心とした空母機動部隊のようです。他に正規空母級が少なくとも6。軽空母級がその倍確認されています」

 

 由良が淡々と続ける。

 

「この画像を撮影した哨戒機はどうなりました?」

「撮影後、即座に反転して逃げを打ったようです。夕暮れ時だったのが幸いして何とか離脱に成功して、この画像を持ち帰ってきました」

「これだけの情報、勲章ものの働きだな。甑島の哨戒機か?」

「警備府から感状の2枚や3枚は出してやらねばいけませんな」

 

 言葉を交わす出席者たちを見回し、原口が口を開く。

 

「率直に言って、これだけの戦力が一度に侵攻してきた場合、現在の警備府の戦力では守りきれん。敵空母に行動の自由を許せば、九州沿岸部の被害は甚大なものとなるだろう。熊本要塞の崩壊につながる危険すらある」

「ふん、ここのところやけに静かだと思ったら、コソコソとそんなところに戦力を集めとったのか。油断も隙もないな」

 

 八代艦隊司令、氷川中佐が目を細めて鼻を鳴らした。

 

「このまま指をくわえて見ているわけにもいかんでしょうな。どうします、長官」

「氷川司令のおっしゃる通り、このまま手をこまねいているわけにはいかない」

 

 一度言葉を切って瞑目。自然、室内の視線が集まる。

 原口は、ゆっくりと目を開き、宣言した。

 

「先手を取ってこちらから一発、思いきり殴りつけようじゃないか」

 

 瞬間、室内の空気が一変した。

 ()たりと膝を打つ者、目を光らせて口の端を吊り上げる者、こぶしと手のひらを打ち合わせる者。

 目に見えぬ熱気が、提督たち、そして艦娘たちの間から立ちのぼり、こちらにふきつけてくるように一乃には思えた。

 

 深海棲艦との戦いの最前線に身を置く者たちが、みな、獲物を見つけた餓狼のように、(たかぶ)っていた。

 

 

 

 

箕尾(みのお)司令、それでは失礼します」

「ああ、では、よろしく頼む、田村少佐」

 

 一乃は第815艦隊司令である箕尾少佐にぺこりと頭を下げると、(きびす)を返して高機動車の助手席に乗り込んだ。

 

「予定通り、熊本駅の物資集積所に寄ってから戻るってことでいいのね?」

「うん、お願い」

 

 運転席の叢雲にうなずく。

 あそこはお辞儀じゃなくて挙手敬礼だったかな、と気づいて思わず顔を赤くしたのは、叢雲が車を発進させた後だった。

 

 会議は2時間ほどで終了していた。

 作戦計画はすでに警備府司令部によって作成されており、会議の後半は各艦隊への任務の割り振りと、細部の打ち合わせが主となった。

 経験したことのない大規模作戦である。会議の内容を追うのに精いっぱいで、一乃には発言する余裕などなかった。

 発言したのは、816艦隊の任務について確認を求められた時に返事をしたくらいである。緊張で裏返った声が出てしまい、顔から火が出そうになった。

 

「815の提督と少しは話せた?」

 

 ハンドルを握る叢雲が口を開いた。

 

「とりあえず、ご挨拶はできたわ」

「作戦では連携することになるものね。後方警戒とはいえ、お互い、意思疎通は重要よ」

 

 816艦隊は、815艦隊とともに後方警戒の任を割り当てられていた。

 新米提督が指揮する定数割れ艦隊であることを考えれば妥当な配置だが、一乃は内心、816が危険な前線に配置されなかったことに胸をなでおろしていた。

 もっとも、叢雲に言うとまた怒られそうだったので、口には出していない。

 

「後でまた改めて連絡しておくといいわ。状況によっては816の指揮権を委譲することもあり得るし、できるだけしっかり話し合っておきなさい」

「う、うん。わかったわ」

 

 一乃はあいまいに頷く。

 箕尾少佐とは今日初めて顔を合わせた。提督としては比較的若手だろうが、ソフトな雰囲気の東少佐とはまた違って、がっしりとした体格のいかにも軍人らしい雰囲気の提督だった。建前の上では同じ階級だが、こちらは臨時少佐かつ学兵の身分であるし、提督としてのキャリアも向こうがはるかに先輩である。一乃としてはどうしても遠慮と気おくれが先に出てしまうところだった。

 

 高機動車が信号待ちで停止する。一乃は気分を変えようと窓の外に目をやった。

 対向車線側の歩道では、重そうな背嚢とアサルトライフルを背負った少年少女たちが歩いている。一乃と同じ年頃だ。体操服姿のところを見ると、学兵だろう。行軍訓練だろうか。

 士官学校での地獄の夜間行軍訓練を思い出す。あれはつらかったな……などと思いながら一乃はぼんやりとそちらを眺めた。

 ゴーグルをつけた少年が二人分の荷物を背負い、華奢な少女の手を引いてやっている。

 懐かしいな……わたしもあんな風にへばって、同じ班の仲間に手を引いてもらったっけ。佐上くん、元気にしてるかな。

 ほんの数か月前のことなのに、ずいぶんと昔のことのように思える。

 信号が変わり、車が動き出す。一乃は心の中で二人に、がんばれ、と声援を送った。

 

 その拍子に道端の標識が目に入り、一乃は思わず声を漏らした。

 

「あ……図書館……」

「なに、どうかしたの?」

「……ううん、なんでもないわ」

 

『←熊本市立図書館』と表示された標識から目をそらし、一乃は首を振った。

 

 木曾はああ言ってくれたが、さすがに大規模作戦を控えて趣味の本を物色する気にはならない。

 

 新しい本はまた今度、作戦が無事に終了してからにするね、と一乃は心の中で木曾に謝った。

 

 

 

 

 

 

 3月9日、〇三〇〇。

 

 熊本警備府司令部は各艦隊宛に作戦開始命令を発出。

 

 これにより、当初の作戦計画に基づき、警備府所属の各艦隊が一斉に作戦行動を開始した。

 

 

 

 

 後にいう、五島沖(ごとうおき)海戦の幕開けである。

 

 

 

 

 

 

 



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第8話 五島沖海戦

 

 

1999年3月9日 〇五二一 東シナ海

 

 

 

 払暁、東シナ海。

 

 薄い霧に覆われた海上で、うごめく影たちがあった。

 

 醜怪な海洋哺乳類の出来損ないのような形のモノから、ヒトに近い姿をしたものまで。

 少なく見積もっても10個艦隊以上の深海棲艦達が、この海域に集結していた。

 彼らは巨大な輪形陣を形成し、時おり思い出したように身じろぎするのみで、まるで体を休めているかのように海上に静止していた。

 

 

 東の空から、朝日が昇り、霧のただよう海上に陽光をさしかける。

 

 

 数体の深海棲艦が、ピクリと何かの音に反応した。

 

 刹那、10数機の艦載機が、直上から霧を割って急降下してきた。

 彗星、とかつて名づけられた艦上爆撃機のミニチュアが、一斉に爆弾を投下。海面に盛大な水柱が立ち上り、数体の軽空母級が巻き込まれる。ほぼ同時に東の方向から海面ぎりぎりを水平に接近してきた艦上攻撃機流星の編隊が、航空魚雷を投下。航跡の尾を引いて殺到した魚雷が、艦隊外縁部にいた駆逐級に突き刺さり、周囲の艦を巻き込んで爆発した。

 

 爆風でかきまわされた霧の向こう、海上。弓を構える正規空母飛龍を先頭に、数人の航空母艦娘が、仁王立ちしていた。

 

「第二次攻撃、開始!」

 

 矢が、符が、次々と天に向かって放たれ、艦爆や艦攻へと姿を変えて深海棲艦隊へ突進。ふたたび、爆発が霧をかき乱す。

 

 しかし、そのころには深海棲艦隊たちも動き出していた。

 形容しがたいうなり声とともに一斉に対空射撃が火を噴き、数機の彗星が急降下爆撃を断念して回避する。

 雷撃体勢に入ろうとした一機の天山が、発艦した敵艦載機に追い立てられ、慌てて身をひるがえした。

 

「さすがに、そう簡単にはやらせてはくれないわね」

 

 鉢巻を巻いた顔を上げ、飛龍がつぶやく。その視線は深海棲艦の集団の中心、空母棲姫の姿を捉えていた。

 蠱惑(こわく)的な笑みを浮かべて立ち上がった白い女の足元から、艦載機が一斉に飛び立つのが見える。周囲の空母級からも、次々と異形の深海機が発進していた。凄まじい数だ。

 

 飛龍は口を引き結ぶと、さっと弓を上げて仲間に合図を送る。

 

「直掩機は全機発艦! さあ、特編(とくへん)機動部隊、後退開始! 逃げるわよ!」

 

 

 

 

 飛龍が声を張り上げた海上より東に50km。

 

 指揮護衛艦『かいりゅう』艦橋内、熊本警備府艦隊司令部にオペレーターの声が響き渡る。

 

「特編機動部隊、第3次攻撃を中止。後退を開始しました!」

「敵艦隊、動き出しました。特編機動部隊を追撃してきます」

 

 警備府長官原口大佐は、無言で戦況画面に目をやっている。周囲の司令部要員たちも、食い入るように画面を見つめていた。

 

「かいりゅうも後退開始。作戦通り、戦闘海域からの距離を保て」

 

 幕僚の一人が指示を出した。

 

『かいりゅう』は熊本警備府艦隊の総旗艦である。

 かいりゅう型は提督が座乗し艦隊司令部として運用されることを前提に設計された指揮護衛艦であり、護衛艦としては比較的小型だが、艦隊司令部にふさわしい高度な情報処理能力を有している。また、艦対『艦』ミサイルやバルカンファランクスなどの武装が搭載されており、深海棲艦隊相手でもある程度対抗できる戦闘力を持つほか、遠洋における艦娘たちの拠点としての機能も有するなど、様々な能力をコンパクトにまとめた高性能艦だった。

 今回の作戦においても警備府艦隊総司令部となり、原口長官自らが座乗して総指揮を執っていた。

 

「作戦参加各艦隊に伝達。各艦隊は所定の作戦計画に従って行動せよ」

「了解! 各艦隊は、所定の作戦計画に従って行動せよ!」

 

 原口が重々しく言い、オペレーターが復唱する。

 

「ここからだな……頼むぞ……」

 

 幕僚の一人が、祈るようにつぶやいた。

 

 

 

 夜明けの空を、艦載機が目まぐるしく飛び交う。

 零式艦上戦闘機やその後継機たる烈風、紫電改。対するは駆逐イ級を小型化したような異形の深海機。互いに複雑な軌道を交えながら、追い、追われ、銃火を煌めかせる。

 その眼下の海上では、熊本警備府所属の航空母艦娘たちが、全速で東を目指していた。

 時折、熾烈な航空戦の隙間を抜けて突っ込んでくる深海機の爆撃や雷撃にさらされながらも、決してその足を緩めない。

 少しでも速度を緩めれば、追撃してきている圧倒的多数の深海棲艦隊にたちまち追いつかれ、袋叩きにされることがわかりきっているからだ。

 

「うひゃー、すごい空だ。本日の天気は敵機ときどき爆弾。ところによっては魚雷が降るでしょうってね!」

 

 今しも雷撃を回避した軽空母娘隼鷹が、陽気に叫んだ。

 

「隼鷹!大丈夫!?」

「あっはっは、だいじょうぶだいじょうぶ! こんな速度で航行する機会なんて滅多にないからね。ごっ機嫌だよ!」

 

 隼鷹は自らの艤装に外付けで接続された新型タービンと高温高圧缶を指し、高笑いしてみせる。増設された缶とタービンにより、彼女の航行速度は通常時に比べて大幅に上がっていた。

 だが、頭上を敵機が飛び交い、爆弾が降り注ぐこの状況下である。平然と笑う彼女の姿は、僚艦の眼には頼もしく映っていた。

 

「ったく、能天気なこと言っとる暇があったら対空射撃をせやっ! ま~た飲んどるんか!」

「りゅ、龍驤さん、いくら隼鷹でもさすがに飲んではいないと思うけど」

 

 ……一部、例外もいるようだが。

 軽空母龍驤が怒鳴りながら高角砲を連射。あとに続く祥鳳が思わず口元を押さえて笑いをこらえた。

 

 正規空母である飛龍、そして軽空母である龍驤、隼鷹、祥鳳。

 彼女達4隻が、現在熊本警備府が保有する空母戦力のすべてだった。

 

「護衛部隊に損害は?」

「現在まで全艦無事じゃ! この程度ならまだまだいけるぞ」

 

 護衛部隊の指揮を取る重巡利根が叫び返す。高速の駆逐艦、巡洋艦からなる護衛艦隊は、空母の周囲をとりまく輪形陣を形成しつつ、襲来する敵機に対して対空砲火の網を張っていた。

 

「全艦、進路速度このまま!」

 

 飛龍は声を張り上げ、弓を引く。立て続けに放たれた矢は艦上戦闘機烈風へと姿を変え、押し寄せる敵艦載機を迎え撃つ。

 圧倒的多数の敵艦載機に対抗するため、4人とも艦上戦闘機をとにかく積めるだけ積んでいる。後退を開始してから艦戦はすべて艦隊の直掩に回しており、護衛艦隊の艦娘たちの対空砲火もあって、ここまでのところ何とか持ちこたえていた。

 海面に薄く立ち込めている霧も、逃げる側に味方していた。霧というよりはむしろ靄と呼ぶべき濃度だったが、上空の敵艦載機に対する目くらましの役目には十分だった。

 

「敵艦隊、なおも追撃してきます。敵艦隊の艦列も伸びてきているわ」

 

 二式艦上偵察機を運用する祥鳳が報告する。

 

 特編機動部隊は、熊本警備府旗下15個艦隊の中から選抜された空母4隻とその随伴艦で構成された特別編成の機動部隊だ。

 とにかく艦隊の速力を重視して編成されており、隼鷹のように本来速度に不安のある艦娘も、外付けの缶とタービンで速力を補っている。

 結果として、これを追撃している深海棲艦隊は、低速艦が速度についてこられず徐々に後方に置いていかれており、その艦列は長く伸びていた。

 

 上空から見れば、巨大な蛇が転がる卵を追いかけているようにも見えるかもしれない。

 

 

 このままなら、十分逃げ切れるかな、という考えが一瞬飛龍の頭をよぎる。

 

「飛龍、前だっ!」

 

 隼鷹の声に、飛龍はとっさに急減速。次の瞬間、飛龍のすぐ前に敵機から投下された爆弾が落下、爆発した。

 衝撃の大部分は装甲力場が防いだものの、正面から盛大に波をかぶり、飛龍は顔をしかめる。

 

「隼鷹、ありが――1時方向っ!」

 

 お礼を言いかけて、迫る魚雷に気付き、警告。隼鷹は「わっ」と声を上げながらも回頭、雷撃を回避した。

 

「飛龍、どーも敵機の動きが妙や。敵さん、やり口を変えてきたんちゃうか?」

 

 龍驤は最前線である五島列島泊地に所属している歴戦の艦娘で、頼りになる空母仲間だ。

 彼女の言葉に、飛龍は改めて周囲の状況を観察する。

 

 確かに、先ほどまでに比べて敵機が攻撃を仕掛けてくる頻度が増している。しかし、そのぶんその狙いは不正確であり、爆撃も雷撃もずいぶん手前から大雑把に放り込んできているように見えた。

 いましも、敵艦爆が味方の烈風に追いたてられながらも、祥鳳めがけて爆弾を投下。しかし、やはり狙いは甘く、爆弾は祥鳳の前方の海面で爆発し、祥鳳は右に大きく舵を切り、衝撃をかわした。

 

 数的有利に物を言わせて、数撃ちゃ当たる作戦に出てきたってこと? でも、この程度なら、減速や回頭で簡単に回避できるけど……

 そこまで考えて、飛龍はハッと顔を上げた。

 

「祥鳳っ! 敵艦隊との距離は!?」

 

 叫んだ視界の端で、あちゃー、そういうことかいな、と額に手をやる龍驤が見えた。

 

「彼我の距離……縮まっています! 敵機の攻撃により、こちらの艦隊の速度が、低下しているわ」

「うげっ、足止めがあっちの狙いってか?」

 

 敵艦載機の動きは、味方艦への直接攻撃よりも、艦隊の航行の妨害を目的としたものだったのだ。

 狙いは甘くとも、とにかくこちらの進路に魚雷や爆弾を放り込み、逃走を妨害。少しでもこちらの足が鈍れば、そのぶん後方から追撃してくる敵艦隊との距離が縮まることになる。

 厄介なことに航空戦力で劣るこの状況下では、相手の意図に気付いてもそれを覆すのは難しかった。

 

「敵先頭集団が二手に分かれました! このままだと包囲されるわ!」

 

 敵艦隊の先陣が左右に分かれ、一気に加速する。まさに蛇が大口を開けて卵を飲み込もうとするかのようだった。護衛部隊が砲撃で牽制するが、もとより対空砲火に手いっぱいで、有効な牽制にはならない。

 このまま包囲されてしまえば、一巻の終わりだ。圧倒的な数の敵艦隊に袋叩きにされて全滅するだろう。

 

「深海棲艦のわりに、頭が回るじゃない……」

 

 飛龍が肩越しに振り返る。その視線が、敵艦隊の中心でこちらを睥睨する空母棲姫の視線と咬み合った

 白い姫は薄い笑みを浮かべ、ゆっくりと飛龍の方を指す。

 

「シズメ……ヒノ……カタマリトナッテ……」

 

 その唇が謳うように、言葉をつむいだ。

 

 とどめとばかりに凄まじい数の艦載機が飛び立ち、こちらに向かって殺到する。

 飛龍は迫る艦載機の大群をまっすぐに見つめ、呟いた。

 

「けど、ちょっと遅かったわね」

 

 瞬間、東の空から零式艦上戦闘機21型の大編隊が姿を現わし、敵艦載機群に襲い掛かった。

 今しも機動部隊に攻撃を加えようとしていた敵艦載機群は不意を突かれ、混乱する。

 

 そして、予期せぬ奇襲に慌てて艦戦を発進させようとした軽空母ヌ級が、不意に爆発した。遅れて、砲声がとどろく。

 

 次の瞬間、多数の砲弾が轟音と共に深海棲艦隊に降りそそぎ、空母棲姫を取り巻いていた随伴艦が次々と爆発、炎上する。

 

 霧の向こう、北の方角、伊勢型航空戦艦日向が白刃を高々と振り上げた。

 

「ワレ、敵機動部隊ト遭遇ス、だ。第一特編打撃部隊、攻撃を開始するぞ。続けっ!」

 

 

 南の海上、金剛型高速戦艦霧島が、眼鏡を指で押し上げる。

 

「計算通りのタイミングね。第二特編打撃部隊、突撃開始! さあ、いくわよ!」

 

 

 南北から水上打撃部隊が敵艦隊に向けて突入する。包囲する者とされる者の立場が、一瞬にしてひっくり返った。

 

 

 

 

「基地航空隊、敵機動部隊へ攻撃開始しました!」

「第一および第二特編水上打撃部隊、接敵に成功、攻撃を開始!」

 

 オペレーターの報告に、おお、と、どよめきが上がる。

 熊本警備府総旗艦『かいりゅう』艦橋。艦隊司令部内は興奮にわき立っていた。

 

 警備府所属の各艦隊より空母をかき集めて高速の機動部隊を編制。停泊中の敵艦隊に一撃を加えて離脱し、敵艦隊の追撃を誘う。

 追撃する敵艦隊の艦列がのびきったところで、待ち伏せていた水上打撃部隊と基地航空隊により、一気に敵艦隊に大打撃を与える。

 

 3つの連合艦隊による一大作戦が、見事に的中していた。

 

「お見事です、長官! 敵は混乱しています。この分なら敵機動部隊に相当な打撃を与えられます」

「このまま空母棲姫を沈めることができれば、あとは烏合の衆です!」

 

 口々に幕僚たちが賞賛する。

 敵艦隊に突入した水上打撃部隊は、二隻の戦艦を中心に縦横に暴れまわっている。機動部隊も反撃に転じ、基地航空隊と連携して航空攻撃を仕掛けていた。

 

「第一打撃部隊、正面の敵集団を突破! なおも前進中!」

「第二打撃部隊、敵本隊へ砲撃を開始!」

「鳳翔より入電。基地航空隊、第2次攻撃の準備が完了。ただちに出撃す!」

 

 矢継ぎ早に報告が入る。いずれも、味方の奮闘を伝えるものだ。数だけならまだまだ深海棲艦隊の方が多いのだが、流れは完全にこちら側に傾いていた。

 敵の艦列は各所で寸断され、ろくに反撃もできずに一方的に叩かれ、引き裂かれていく。

 

「やりましたね、長官! 水上打撃部隊の突入のタイミングが完璧でした! 霧も味方してくれました」

 

 若手の司令部付参謀が頬を紅潮させて言う。だが、原口は厳しい表情を崩さなかった。

 

「確かに前線部隊は奮闘してくれているが、総戦力で劣っている状況は変わらん。空母棲姫を沈めるまでは、安堵していい段階ではない」

「……はっ、失礼しました」

 

 慌てて姿勢を正す参謀に、原口は頷いてみせた。

 

「戦場の霧による優位は、同じ戦場の霧によって容易にひっくり返るものだ。最後まで油断はできん。これよりかいりゅうは前進。護衛艦隊も含め予備戦力を投入する。貴官は戦闘に参加していない警戒艦隊に警戒を強化するように伝達してくれ」

「はっ」

 

 参謀は敬礼すると、オペレーター席に歩み寄った。

 

「後方警戒の各艦隊に通達。警戒を強化せよ」

「復唱します。後方警戒の各艦隊は警戒を強化せよ。これでよろしいでしょうか」

「む……少し待ってくれ」

 

 少々抽象的な命令である気がして、参謀は考え込んだ。具体的な指示もなくただやみくもに警戒を強化しろと言われても、命令された側は対応に困るかもしれない。

 ちらりと原口の方を振り返るが、原口は他の幕僚たちとともには前線の指揮を執るのに集中しているところだった。

 

 参謀は元は横須賀鎮守府に所属しており、中央の意により警備府司令部に送り込まれた。理論派の若手エリートではあるが、実戦経験は決して多いとは言えない。

 本人は誠実に勤務に精励(せいれい)していたが、叩き上げの多い警備府司令部では、周囲との意思疎通がやや円滑にいかない部分があった。

 参謀はちょっと考え、ごく常識的な思考に従って口を開いた。

 

「乱戦のどさくさで潜水艦の一隻でも近海に侵入されると厄介だ。各艦隊は警戒を強化し、潜水艦を含む敵艦の侵入に備えよ。この内容で頼む」

 

 通常であればごく無難なはずのこの命令が、後日、大きな論議をよぶことになる。

 

 

 

 

 戦場から南東に約10kmの海上。

 

 レシプロエンジンの音が響き、かつて零式水上偵察機と呼ばれた水上機のミニチュアが霧の中から飛びだした。そのすぐ後ろを、異形の深海機が追いすがる。深海機の発射した機銃を、水偵はぎりぎりで回避した。速度は深海機の方が勝っているようで、水偵は敵の猛攻をなんとしのぎながら逃げている状況だった。

 何度目かの交錯で機銃がかすめたか、煙の尾を引いて水偵が高度を下げ、ちょうど霧が濃くなった一帯に突っ込んだ。すかさず深海機が後を追って高度を下げる。

 が、霧の中から現れたのは波打つ海面のみで、先ほどまで追っていた水偵の姿は影も形もなかった。

 深海機は何度か周囲を旋回したが、やがてもと来た方角へと引き換えしていった。

 

「……行ったかな?」

 

 深海機の唸り声のような独特の駆動音が遠ざかったのを確認し、伊号潜水艦娘伊26は海中から、ひょこりと顔をのぞかせた。

 

「ごくろうさま。ありがとーね」

 

 伊26(ニム)は手に取っていた水偵をねぎらうようにひとなですると、非実体化させて格納筒に納める。

 霧の彼方から、砲火の響きが遠雷のように聞こえてくる。

 

「みんな、がんばってるな~」

 

 麦穂の色の豊かな髪を揺らし、伊26は霧の向こうを見やった。

 

 伊26は熊本警備府艦隊に所属する唯一の潜水艦娘だった。

 彼女は、ほんの1年前に佐世保鎮守府に配置された。当時の佐世保には他の伊号潜水艦をはじめ、先任の潜水艦娘たちが複数所属しており、建造間もない伊26は彼女たちの指導の下、日々訓練に励んでいた。

 しかし、間もなく勃発した対馬海戦に出撃した彼女たちは還らず、残ったのは後方待機だった伊26のみだった。

 そして、他の生き残りの艦娘達とともに佐世保鎮守府から熊本警備府に転属となった今も、伊26はたった一人の潜水艦娘として、索敵連絡その他数多くの任務に従事していた。

 今も、戦場の外縁で、水偵による敵艦隊の監視と索敵補助をおこなっていたところである。

 

「うーん、やっぱりこの霧じゃ水偵をとばしてもいまいち成果が挙がらないなあ……敵機も多いからあんまり無理はさせたくないし……」

 

 一人での出撃が多いと、ついつい独り言が増える。気をつけようと思っていても、なかなか治らない癖だった。

 

「電探があればいいんだけどなあ」

 

 潜水艦搭載用の電探は開発されたばかりで数が少なく、配備されているのは横須賀、呉などの大規模鎮守府に限られている。急造の熊本警備府ではなかなか望めない最新装備だ。

 

 

「とりあえず、もう少し戦闘海域に近づいてみようかな。そうすれば少しは……」

 

 言いかけたところで、伊26は不意に、首筋にちりりとした感触を感じた。

 とっさに海中に身を躍らせる。

 

 ―――戦場での直感には従うべきなの。

 ―――特に嫌な予感にはね。

 

 かつて教えてもらった言葉に、自然に体が従っていた。

 結果として、それは正解だった。

 

(うそ……なんで……)

 

 海中に潜った伊26の聴音機は背後から接近する複数の深海棲艦の音を捉えていた。

 

(なんで、あんな方角から……)

 

 その数、10隻以上。2個艦隊相当だ。

 潜行があとほんの数秒遅かったら、発見されていただろう。

 

(この霧のせいだ……霧のせいで、こっちの索敵をすり抜けちゃったんだ……)

 

 深海棲艦隊は伊26の潜行地点から50mと離れていないところを航行していく。

 とっさに、かいりゅうに敵発見の情報を送信しようと思ったが、寸前で思いとどまる。通信を探知された場合、この距離では間違いなく発見されてしまう。

 

 

 発見されたら、最後だ。たった一隻の潜水艦など、間違いなくなぶり殺しにされる。

 

 

 伊26は両手で口を押さえ、鳴りそうになる歯を必死に喰いしばった。

 

(大丈夫……伊号潜水艦は、隠れるのは得意なんだから)

 

 必死に自分に言い聞かせ、体を丸め、身を縮める。

 

 恐怖をこらえながら、横目で海上を通過していく影を確認し、敵艦の数をかぞえていく。

 敵重巡級の燐光を放つ目が海面越しにこちらを見たような気がして、伊26は悲鳴を押し殺した。

 

 

 

 永遠とも思える時間の後、敵艦隊が遠ざかってからも、伊26はしばらくの間動けなかった。

 恐る恐る海面に上がり、周囲を確認。あたりに敵艦の姿がないことを確認してから、息を吐き出し、激しく喘いだ。

 極度の緊張から解放され、全身が酸素を求めていた。今さらながらに体が震え、のどの奥から酸っぱいものがこみあげてくる。

 

 何とか息を鎮めながら、敵艦隊が去った方角を確認し、地図情報と照合する。

 

「……う、うそ。やばい!」

 

 伊26は呟き、慌ててかいりゅうに敵発見の情報を送信した。

 

 後に五島沖海戦と呼ばれる一連の海戦の終盤において、この情報は極めて重要な意味を持つことになる。しかし、伊26(ニム)自身は、せめてあと5分早くこの情報を伝えることはできなかったのかと、後々まで自分を責めることとなった。

 

 

 

 

 

「警備府司令部より入電。『各艦隊は警戒を強化し、潜水艦を含む敵艦の侵入に備えよ』……潜水艦?」

 

 第816艦隊隊舎、指揮司令室。816艦隊司令田村一乃臨時少佐は、モニターに表示された命令内容を確認し、ちょっと首をかしげた。

 

『なんだ、敵潜水艦発見の情報でも入ったか?』

 

 木曾から通信。

 

「……ううん、そういうわけでもないみたい」

 

 情報を確認し、一乃は答えた。

 

『なんだか中途半端な命令ね……』

 

 叢雲の呟き。

 

「なにか、対応した方がよさそう?」

 

 一乃は通信を個別通信に切り替え、叢雲に通信を送った。

 

『必要ないと思うわ。所定の作戦計画の通りで問題ないわよ』

「うん、わかった」

 

 通信を再度艦隊通信に切り替える。

 

「816は引き続き、担当区域の警戒を継続。索敵に努めてください」

 

 816艦隊は現在、第815艦隊とともに天草灘沖の約20kmの海上で後方警戒にあたっていた。

 約100km西方の海上では、警備府艦隊が深海棲艦隊と激闘を繰り広げている。この方面の他の艦隊はすべて戦闘に投入されており、他に警備府の水上戦力は存在しない。

 815,816の両艦隊はある意味では最終防衛ラインと言ってもよかった。

 

『どうやら、前線の方は今のところ上手くいってるみたいだな』

 

 木曾からの通信。

 816にも、戦況はデータリンクによりリアルタイムに伝達されていた。

 

「水上打撃部隊が敵機動部隊への突入に成功したみたい。長官の作戦通りね」

『警備府艦隊の日向や飛龍に、八代の霧島たちもいるんだろ? あの脳筋どもが相手じゃ、深海棲艦のやつらが気の毒になるな』

『脳筋……いや、腕利きなのは確かだが……』

『しかし、霧が濃くなってきたね』

 

 響がふと、つぶやいた。

 確かに、彼女たちの周囲の霧の濃度はやや増しているようだった。一乃は多目的結晶を介して指令機器を操作し、気象情報を確認する。

 

「気象情報によると霧はしばらくしたら晴れるみたい。電探に影響が出る濃度じゃなさそうだけど、海域によって多少ムラがあるみたいだから、みんな索敵には注意して」

 

『一乃、815艦隊との距離がだいぶ離れてるわ。向こうから連絡はあった?』

 

 電探を確認したらしい叢雲から通信が入る。

 

「……あれ、ほんとだ」

 

 816艦隊は作戦計画の警戒区域内から移動していない。815艦隊が10kmほど北西に前進していた。作戦計画の警戒区域より少し前に出ているようにも見える。

 

『……まずいわね。一乃、815の提督に、すぐに艦隊を戻すように連絡しなさい』

「え、でも……」

 

 叢雲の言葉に、一乃はちょっと首をかしげる。

 確かに所定の警戒区域から少し外れてはいるが、815艦隊司令である箕尾(みのお)少佐が判断したことであれば、こちらが口を出すのは筋違いな気がしたのだ。

 

『これ以上お互いの距離が離れると、いざという時に連携が取れなくなるわ』

「それなら、816がもう少し前進すればいいんじゃ……」

『わたし達だってこれ以上前に出ると作戦計画の警戒区域から外れるわ。それに、距離的にあんたの艦隊運用にも支障が出るでしょ』

 

 叢雲の言うとおりだった。816の警戒区域は、隊舎の指揮司令室から指揮を執る一乃の艦隊運用に支障が出ない距離ぎりぎりに設定されている。提督用の指揮艦艇を持たない816では、これ以上前進すると戦闘で提督の支援を受けられなくなる。

 

「わかったわ。とりあえず連絡してみる」

 

 一乃はそう言うと、815艦隊指揮艇、『はちくま』に通信を入れた。

 

『どうした。田村少佐』

 

 通信画面に箕尾少佐が現われる。

 

「あの、箕尾少佐、815艦隊がだいぶ前に出ていらっしゃるみたいですが」

『ああ、先ほど艦隊司令部からの命令に従い、対潜警戒のために前進させている』

 

815艦隊は軽巡と駆逐艦からなる水雷編成である。確か対潜能力もなかなか高かったはずだ。

 

「作戦計画の警戒区域からはやや外れていますけど……」

『当初の警戒区域だけでは潜水艦を見逃す恐れがあるからな。司令部からの指示に対応するためにはやむをえまい』

「ですが、あの、距離が離れすぎますと、いざという時の連携が……」

『田村少佐、2個艦隊で当たらねばならんほどの数の潜水艦が忍びこんでくるとは、いくらなんでも考えにくいと思うが』

 

 何を当たり前のことを、という調子を含んだ答えに、一乃は言葉に詰まった。

 確かに箕尾の言うとおりに思える。速成教育を終えて1か月も経っていないひよっこの自分が先達に意見するなど、という遠慮もあった。

 そんな一乃の思いを察したか、箕尾少佐はやや口調をやわらげた。

 

『なに、貴官の艦隊には距離の問題があることは承知している。816は当初計画の警戒区域を警戒していてもらえればそれでいい。不足分はこちらで警戒する』

「はい、失礼しました」

 

 一乃はそういって通信を切る。

 

「815は潜水艦捜索のために前進中みたい。816は計画の警戒区域を担当していればいいって言ってくれたわ」

 

『……一乃、私は815艦隊司令に、すぐに所定の警戒区域に戻るよう伝えるように言ったんだけど』

 

 心なしか、叢雲の声のトーンが下がった。

 

「伝えたわ。でも、対潜警戒には所定の警戒区域だと不十分だって……」

『あのね一乃、私達の任務は後方警戒。そして後ろには味方艦隊は存在しない。そうでしょ?』

 

 一乃の言葉を遮り、叢雲が強い口調で言う。

 

『とにかく敵艦隊を絶対に熊本に通さないのが最優先事項よ。たとえ潜水艦が1隻や2隻いたって、後ろにさえ通さなければいいの。箕尾少佐がなんて言ったか知らないけど、中途半端が一番危ないわ。―――今すぐ、もう一度、815に後退を強く打診しなさい』

「で、でも……」

 

木曾も、真面目な口調で言った。

 

『提督、叢雲の言うとおりだ。ホントに大事な時は新米少佐だの学兵だのなんてのは関係ねぇ。言うべきことは言うべきだ。それで何もなかったら俺や叢雲がマヌケだっただけの話だ。だが、マヌケになるのを恐れて味方を死なせる奴はクズだ』

『どうしても考え直さないようだったら、いっそ816の指揮を一時的に箕尾提督に預けて、私達の方が前に出るのもやむを得ないわ。とにかく、合流を急ぐべきよ』

 

「う、うん……わかった……」

 

 いつになく真剣な二人の声音に気圧され、一乃も渋々ながら再度『はちくま』と通信をつなげようとする。

 

 が、その瞬間、警備府司令部からの緊急コールの甲高い電子音が耳を打った。

 

「313秒前に有力な敵2個艦隊を確認?……位置が…西北西約20km!?」

 

 一乃は思わず目を疑った。

 

 

 次の瞬間、再度の緊急コール。

 

 味方が敵艦隊と遭遇したことを示す、緊急コールだ。

 

 815艦隊からだった。

 

 

 戦況画面の情報が更新される。

 

 

 815艦隊に、2個艦隊の敵が襲いかかっていた。

 

 完全な、奇襲だった。

 

 

 

 

 鳴り響く警報音のなか、一乃は、呆然と立ちすくんだ。

 

 

 

 

 



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第9話 816艦隊、前へ!

 飛龍は、弓を油断なく構えていた。

 

 敵弾がかすめたか、こめかみをひと筋の血がつたっていた。はちまきは千切れ、かろうじて耳に引っかかっている。横に並ぶ形で日向が、さらに反対側には霧島が、それぞれ大口径砲を構えている。

 彼女たちの視線の先には、猛火に包まれながらゆっくりと沈んでいく空母棲姫の姿があった。

 

 艦体は何発もの砲撃により大穴があき、砲塔は吹き飛んでいる。カタパルトがへし折れ、すでに原形をとどめていない。

 本隊である空母棲姫も、右の半身をほぼ吹き飛ばされ、断面は無残に黒く焼け焦げていた。

 人間ならば確実に即死の状態だが、白い女は膝を折りつつもなお、艦体の上でこちらに顔を向けていた。

 その視線が、飛龍のそれと絡み合う。唇がかすかに動いた。

 

「クリカエス……ナンドデモ……」

 

 業火にかき消されそうなそのつぶやきは、なぜか飛龍の耳にはやけにはっきりと聞こえた。

 

「ヨキユ………アシキ…メ……ユキテ……モドリテ……シズメ……シズミ……」

 

 沈みゆく女は、やはり笑みを浮かべていた。戦いの間終始浮かべていた嘲りの笑みではない。どこか静かな笑みだった。

 その顔が、よく知っている誰かにひどく似ている気がして、飛龍の胸がざわめいた。

 

「……マタ……ドコカノウミデ、アイましょう」

 

 空母棲姫の体が、静かに波間に消えた。

 

 

「……空母棲姫の撃沈を確認」

 

 飛龍はゆっくりと息を吐き、弓を下ろした。

 わっ、と周囲が沸き立つ。

 

「見事だったよ、飛龍───よし、敵の残存艦隊を殲滅するぞ!」

 

 近付いてきた日向が飛龍の肩をひとつ叩くと、後ろを振り返って声を張り上げた。

 

「さすがの活躍ね───第二打撃部隊、敵艦隊を追撃するわ。陣形を再編!」

 

 霧島が眼鏡を直してひとつウィンクすると、自艦隊の方へ向かう。

 

 わずかな呼吸を挟み、警備府艦隊がふたたび敵撃滅のために動き出す。

 

「なあ、飛龍。あの空母棲姫な、なんか言うとったんか?」

 

 すれ違いざま、ふと龍驤が聞いてきた。

 

「……ううん、私にも、よく聞こえなかったわ」

「……そか」

 

 龍驤はそれ以上聞かず、離れていく。

 

 飛龍も短くなったはちまきを締め直し、さあ、「残りは烏合(うごう)の衆よ!」と声を励まして叫んだ。

 

 

 

 艦隊司令部から緊急通信が入ったのは、そのわずか数十秒後のことだった。

 

 

 

 1999年3月9日 〇七二五 東シナ海上 熊本警備府艦隊旗艦かいりゅう 艦橋内

 

 

 

 警備府艦隊司令部は、怒号に包まれていた。

 

「後方海域に浸透(しんとう)した敵艦隊は2個艦隊と推定されます!」

「伊26が重巡級2隻を確認している模様!」

「815艦隊、奇襲を受けた模様です! 大破2、中破1、…あ、いえ、大破3になりました!」

 

 オペレーターの叫び声が交錯する。

 

「816艦隊は!?」

「10km後方に位置しています!」

「815がなぜそんな前に出ているんだ!」

 

 司令部要員はいずれも蒼白になっている。

 無理もない。815,816の両艦隊はこの戦いにおける最終防衛ラインだ。この2個艦隊の後ろに熊本警備府の水上戦力は存在しない。

 せめて両艦隊が共同で敵と当たっていれば話はまた違っただろうが、815単独で倍の敵に奇襲されては、結果は見えていた。

 

 横須賀鎮守府や呉鎮守府などと異なり、急造の拠点である熊本警備府は、港湾防備施設の整備が間に合っておらず、沿岸防備が脆弱である。深海棲艦に対抗することはほぼ不可能だ。

 無防備な島原湾、有明湾に敵艦隊が突入すれば、警備府が存する熊本港はもちろんのこと、最悪の場合は熊本市の西半分が敵艦砲射撃の射程にすっぽりおさまってしまう。

 

「基地航空隊は出せんのか!?」

「先ほど全力出撃したばかりです! 再度の出撃には相当の時間が……」

「なぜ2個艦隊もの浸透に気づかなかったぁ!」

 

 幕僚の一人がらちもないことを叫んだ。

 通常ならば、12隻もの深海棲艦隊を見逃すことなどあり得ない。

 敵主力を目標とした戦力の集中投入。それによる敵味方の大乱戦状態、そして朝方からの霧。

 数で劣る警備府艦隊が勝利をたぐり寄せるために取った策が、この瞬間に限ってはことごとく裏目に出ていた。

 

 がたん、という音がして、司令部要員の眼が一斉にそちらに向く。原口警備府長官が、指揮席から立ち上がっていた。

 

「第二水上打撃部隊は反転し、ただちに天草灘(あまくさなだ)方面へ急行。続いて甑島(こしきしま)泊地の笹野提督に伝達。『待機中の甑島艦隊はただちに出撃。天草灘付近に侵攻中の敵艦隊を迎撃されたし』」

 

「りょ、了解しました! 第二水上打撃部隊はただちに陣形を再編し反転せよ」

「甑島艦隊に命令を伝達します!」

 

 原口の低いが落ち着いた声に、司令部はわずかながら平静を取り戻す。

 

「九州総軍司令部にも警備府長官名で支援を要請。続いて、沿岸部の港湾警備隊に迎撃命令を発令」

「はっ! 九州総軍司令部に伝達、ならびに各隊に迎撃命令を発令します」

 

 オペレーターがうなずくが、その表情は険しい。

 艦娘を持たない港湾警備隊は、小型幻獣相手ならともかく、深海棲艦相手に対抗できる火力は持っていない。

 他ならぬ熊本の危機だ。九州総軍司令部───陸軍も動くだろうが、深海棲艦相手に対水上戦闘が可能な部隊は決して多くない。限られた時間の中で、どこまで対応できるかはあまりにも不透明だ。

 

「長官、816に815の救援命令を出します!」

 

 幕僚の言葉に、原口はそちらをちらりと一瞥(いちべつ)し、短く言った。

 

「無用だ」

「長官!? な、なぜですか」

「間に合わん」

 

 にべもない言葉に、幕僚が絶句する。

 

「で、ですが長官、まだ戦闘は……」

「『はちくま』、撃沈されました!」

 

 なおも言いつのろうとした幕僚の言葉を、悲鳴に近いオペレータの叫びが遮った。

 原口は奥歯をかみしめ、無言で戦況画面に向きなおった。

 

 

 

 

『あ、うそ……そんな、こんな……簡単に……』

 

 無線から、一乃の呆然とした声が流れる。

 815艦隊は、戦況画面からすでに消失していた。緊急入電から5分もたっていない。

 

「2倍の敵から不意討ちを食ったんだ。無理もないな」

 

 815の連中は気の毒だったな、と木曾が淡々と言いながら、単装砲の砲弾をチェックする。

 

『……警備府司令部より入電。敵艦隊の艦数は重巡2を含む2個艦隊相当。天草灘方面……つまり、こちらに向かって進軍中。816艦隊は当該敵艦隊を迎撃せよ……』

「なお、撤退は許可できない、というところか」

 

 長月がつぶやく。

 

「司令官、援軍の当ては?」

『第二特編水上打撃部隊が反転して急行中。南の甑島泊地からも艦隊が緊急出撃したわ。けれど、どちらもどんなに早くても、あと1時間は……』

 

 1時間もあれば敵艦隊は湾内に殴りこみ、破壊の限りを尽くすだろう。撃退がかなわないまでも、せめて盾となって時間を稼ぐ、それが、816に課せられた使命だった。

 

「ここは腹をくくるしかないみたいだな。ふん、やっとらしくなってきたじゃないか」

 

 木曾が獰猛な笑みを浮かべて砲を構える。

 

 霧が、薄れてきていた。

 

 

 

 モニターの光に囲まれた指揮司令室でひとり、一乃はインカムを握り締めて呆然としていた。

 

 迎撃? 盾?

 たった4人の水雷戦隊で重巡級を含む2個艦隊相手に?

 

 みんなに死ねと言っているようなものだ。

 

 ……違う、みんなに死ね、と命令しているんだ。

 

 最後の一人までことごとく敵と戦って死ね、と言っているんだ。

 

 

 

 ───()()()()()()()()

 

 

「あ……わたし……そんな……」

 

 全身が震えだした。カチカチと自分の歯が鳴る音が、まるで遠くから響いてくるように聞こえた。

 

(わたしのせいだ……)

 

 自責の念が、鋭く全身を貫く。

 

 もっと早く815の前進に気付いていれば。もっと強く箕尾(みのお)少佐を制止していれば。816を前進させて艦隊を合流させていれば。

 いくらでも機会があった。ひとつでも正しい判断をしていれば、こんなことにならなかったのだ。

 

 その責任があったんだ。指揮官であるわたしには。

 

「ど、どうしよう……わたしのせいだ……わたしの……」

『し、司令官、どうした、大丈夫か』

 

 長月の気づかうような声は、しかし、よけいに一乃の罪の意識を締め上げる。

 

 何が運のいい提督、だ。

 わたしは自分の無能のツケを、みんなに払わせるのだ。

 みんなに死ねって命令するんだ。

 

 一人だけ、安全な指揮司令室から。

 

「ごめ……ごめんなさい……わたし、わたし……」

 

 視界がゆがむ。言葉が出ない。

 

 

 ―――だって、わたし、本当は……

 

 

 

『こらっ! パニくってんじゃないわよ、いまいちのっ!』

 

 無線越しに叢雲の声が炸裂、一乃の頬をぴしゃりと打った。一瞬、思考が止まる。

 

「む、叢雲……だって……」

 

『うるさいっ、いいからいったん黙りなさいっ!』

 

 とんでもない剣幕に、思わず気おされて黙る。

 

『ごちゃごちゃつまんないこと考えてどツボにはまるの、アンタの悪いクセだわ! 要は味方が来るまで粘ればいいんでしょ? 私達だけであいつらを撃破するのは無理だけど、時間稼ぎだけなら戦い方もあるはずよ』

 

「だ、だけど、戦い方っていっても、どうすれば……」

 

『それを考えるのがアンタの仕事でしょ、この、いまいちの!』

 

 再び、ぴしゃり。今度は逆の頬を張られた気がして、一乃は思わず頬を押さえた。

 

『そんなんだからアンタはいまいちのなのよ! ちょっとは士官学校から進歩しなさいよね、いまいちの!』

 

「な、何度もいまいちの、いまいちのって言わないでよぉ……」

 

 叢雲の勢いに圧倒され、知らず、情けない声が口からもれた。

 

 そんなこと言ってる場合じゃないのに。あれ、でもそもそもわたし何を言うべきなんだっけ?

 

 さっきまで考えていたことが、どこかに飛んでいってしまっている。

 バケツの底が抜けたみたいに、感情が抜けてしまっていた。

 

『む、叢雲? その、いま……は、司令官の……?』

『そ。士官学校時代のあだ名ね。おつむは悪くないくせに、いまいちどんくさくて、いまいち頼りないから“いまいちの”」

『…っく』

『ぶふっ!?』

 

 長月が笑いをこらえた。後ろで木曾がおもいきり噴き出している。

 

『他にも、真っ先に失敗して教官に怒られて他の生徒の反面教師となる“いちの()罰百戒”とか、演習でうっかりミスで自艦隊を全滅させた“いちのう(一網)打尽”、あとは剣道の授業でのあまりにもへっぽこな打ち込みを称して “いちのぺち(一の太刀)”なんてのもあったわね』

 

「ぜ、ぜんぶ叢雲が作って流行(はや)らせたんでしょお!!」

 

『司令官……いじられキャラだったんだね』

 

 響のしみじみと優しげな声がまともに突き刺さり、一乃は轟沈した。

 

 長月が耐え切れずふきだす。

 木曾の爆笑がさらに大きくなった。モニターに木曾の生体情報(コンディション)の異常を示すアラートが表示される。『酸欠』と書かれていた。

 

『や、やめろよぉ……手ぇ、手が震えて、狙いがつけられねえだろうがぁ……』

 

 息も絶え絶えといった声で木曾が抗議する。

 

『ま、まったくだ。さ、作戦中にする話ではないだろうに』

『そう? じゃあ今夜、隊舎に戻ったら山ほど聞かせてあげるわ。田村一乃提督候補生のいまいちのエピソード集』

『っぷ、やめろ、やめてくれ……』

 

「あ……」

 

 半ば呆然として交信をきいていた一乃は、しかし不意にすとん、と胸に何かが落ちる感覚を覚えた。

 

 そうだ、今夜、隊舎だ。

 きっと叢雲は士官学校時代の自分の恥ずかしいエピソードを容赦なくばらすだろう。自分も同席してなんとしても叢雲を阻止しなければならない。

 

 ───そのためには、誰ひとり、欠ける事なく帰ってきてもらわなければならない。

 

 叢雲も、みんなも、誰ひとりあきらめてなんかいない。それなのに、わたしが絶望してどうする。

 みんなに帰ってきてもらうために全力を尽くすのが、今のわたしに許されたただひとつのことだ。

 

 一乃は、ふと腰に手をやった。腰のホルスターに、護身用の拳銃がおさまっている。指先に、銃把の冷たい感触。

 もしみんなが帰って来なかったら、わたしはこれで自分のこめかみを撃ち抜くことになるだろう。それで許されるとも思わないが、他にできることはない。

 

 けれど、今はまだ、わたしにも提督としてできることがある。

 

 

 後悔も絶望も、後だ───

 

 

 袖でごしごしと目をこすってひとつ深呼吸。

 握りしめたままだったインカムから指をひきはがし、頭につけ直す。

 

「ありがとう、叢雲。───再起動した」

『ようやくお帰りね。まったく、このお代は高くつくわよ』

 

 相変わらずそっけない叢雲の声が、嬉しかった。

 口を引き結び、モニターを見据える。左手の多目的結晶を端末に接続し直し、敵の情報を確認。

 

「敵艦隊は依然こちらへ進軍中。接敵まで推定5分」

『了解、こちらはいつでも行ける』

 

 木曾の返答。

 

「みんな、ごめんなさい。帰ってきたら、いくらでも謝るから、いまは、わたしに力を貸して」

 

『大丈夫だ。私たちを信じてくれ、司令官』

 

 長月の凛々しい声。

 

『この名にかけて、君の信頼は裏切らないよ』

 

 響が誓うように言う。

 

 みんな、こんなわたしを信じてくれている。

 

 ───なんだ。わたし、やっぱり、運のいい提督だ。

 

 一乃は束の間目を閉じ、そして目を開けて言い放った。

 

「816艦隊は、これより接近中の敵艦隊を迎撃します。全艦前進!!」

 

 

 

『各艦。叢雲が言ったとおり、敵を無理に殲滅する必要はありません。作戦目的は敵艦隊をできる限り拘束し、沿岸部および熊本市内への攻撃を阻止すること。なお、第二打撃部隊が4分前に50km沖から反転、こちらに急行中。甑島艦隊も緊急出撃準備中。時間はこちらの味方よ』

「提督、迎撃座標の指示はあるか?」

 

 木曾が零式水偵を格納しながら訪ねる。少し間があって一乃からの返信。

 

『包囲、挟撃だけは絶対に避けなければならないわ。そこから1km後方、ポイントG-3の機雷群に敵を引き込んで。有効な打撃にはならないだろうけど、相手の行動を制限することはできるはずよ。うまく活用して』

「なるほど。あのあたりなら何度も哨戒している。私達なら目をつぶっていたって、通り抜けられるさ」

 

 一乃から送られてきた座標に、長月が頷く。

 4人は散開しつつ、機雷群の後方に布陣。ほどなく、響が海上の一点を指した。

 

「司令官、敵艦隊を確認した。まだこちらに気付いた様子は見えない」

『情報を確認。解析完了。重巡リ級2、軽巡へ級1、軽巡ホ級2、駆逐ロ級1、駆逐イ級4』

 

 即座に一乃が敵艦隊の情報を解析する。

 

 総数10隻。2個艦隊の定数にやや満たないのは、815艦隊の意地か。

 

「2隻欠員ってとこか。――なんだ、条件は816(うち)と同じじゃないか、なあ?」

「まったく、一乃の次ぐらいにおめでたいわね、あんたは」

 

 木曾の軽口に叢雲が応じる。二人とも目が凶暴に光っている。

 

「よし、迎撃する! 適当に戦った後機雷群まで下がるぞ」

 

 迎撃態勢を取る4人の前方、水平線上に影が現われはじめる。

 

「敵重巡、発砲!」

「さすがに発見されたか!」

 

 響の警告に4人が一斉に回避機動。彼女たちの前方、50mほどのところで水柱が上がる。

 

 艦娘と深海棲艦隊の戦闘における砲撃の有効射程は、第2次世界大戦の艦隊戦に比べ、はるかに短い。砲自体の射程もそうだが、互いに的が小さく動きが早く、おまけに体高の低さから互いに視認距離が短いためだ。だが、それでも砲ごとの射程差は厳然として存在する。

 

 2隻の敵重巡が8inch砲を続けざまに発砲。次々と4人の周囲に着弾する。木曾が舌打ちしながら砲撃を開始するが、14cm単装砲の有効射程では牽制程度にしかならない。逆に敵重巡が木曾に砲撃を集中し、木曾は砲撃を中断して回避運動に専念。その隙をついて敵軽巡級、駆逐級が前進を開始する。

 これに対し、叢雲、長月、響が艦列を揃え、一斉に砲撃を開始。

 艦数こそ少ないものの統制のとれた砲撃に、敵艦隊の前進が停止。しかし、射程で勝る軽巡級が応射を開始し、さらに木曾を狙っていた重巡級も、前に出てきた駆逐艦組に砲撃を加える。

 必死に回避運動を取りつつ後退する3人。その機に駆逐級が一気に前進しようとするが、先頭の一隻が小型機雷に接触し、爆発が起きた。

 装甲力場のため大した損傷は与えられないが、艦列が乱れた隙に木曾が敵前衛に砲撃。一発が駆逐イ級の至近に着弾し、衝撃波にさらされた駆逐イ級は大きく体勢を崩す。

 しかし、直後に木曾は第二撃を中断し高速機動。1秒前まで木曾がいた海面に、無数の水柱が立った。

 

「ちっ、仕留めきれなかったか」

 

 毒づきながら砲撃を回避する木曾を援護すべく、駆逐艦組がふたたび砲撃を再開する

 

 

 戦闘開始からの最初の5分間は、機雷群を挟んでの砲撃の応酬に終始していた。

 数の差、そして射程の差を押し付けられる側の816艦隊は、じりじりと圧迫されつつも、機雷群のおかげで何とか攻撃をしのいでいる状況だった。

 

『各艦、損害状況は?』

「ありがたいことに、こっちは損害なし。いまいましいことに、向こうのほうもね」

 

 全身から海水をしたたらせた叢雲が、敵をにらみつけながら答える。

 答えて初めて、いつの間にか敵艦隊の砲撃の密度がまばらになっていることに気付いた。

 

『敵艦隊に陣形変換と思われる動きがあるわ。様子見は終わり、ということみたいね。一気に前進してくるわよ』

「軽巡級が前に出るみたいだ。次が駆逐艦級。重巡級は後列」

「重巡の支援砲撃下で一気に機雷群を突破するつもりか……」

 

 長月が歯を食いしばる。

 

『乱戦になったら終わりよ。くれぐれも正面からぶつかろうとは考えないで。機雷群を突破されたら、後退しつつ戦闘を継続して』

 

 後退しながらの遅滞戦闘がどれだけ困難かは、今さら言うまでもない。

 

『後退ルートを送信するわ。確認して』

「このルートは……下島(しもじま)の沿岸沿いに後退するのかい?これじゃあ、居住区にも……」

『下島沿岸には今朝から避難命令が出ているわ。この状況下で沿岸部への被害を考慮しろとは言いません。地形を最大限に活用して遅滞戦闘を継続して。責任はわたしがとります』

「あんたにしちゃ大見得(おおみえ)きったわね。いちおう、ほめてあげるわ」

「奴らが動き出した! 来るぞ!」

 

 長月の警告。重巡級が再度前進し、砲撃を再開。それに合わせ、縦列で軽巡級が機雷群に突入する。

 4人は一斉に砲撃するが、自分たちが敵重巡の砲撃を回避しながらの状況では、有効打とならない。時折機雷の爆発にさらされながらも、軽巡級は機雷群を突き進む。

 

「なめるなっ!!」

 

 木曾が()えざま腰を落とし、2門の14cm単装砲を連射。うち一発が機雷群を突破した先頭の軽巡へ級に命中。軽巡へ級は形容しがたい苦悶の声とともに、大きく傾く。

 戦闘開始から初めての有効打である。

 しかし、後続の軽巡級が一斉に応射。木曾の周囲に無数の水柱が立ち、桜色の装甲力場が激しく明滅する。

 

「木曾! 大丈夫か!?」

 

 長月が叫んで12cm単装砲を連射。響がこれに続き、軽巡級の艦列が乱れ、その隙に木曾が追撃から逃れる。

 

「ちょっと欲張ったな。悪い悪い」

 

 全身ぬれ鼠になりながらも、不敵に笑って後退する木曾。だが、その右そでが裂け、血が滴っていた。

 

莫迦(バカ)!! 無茶してるんじゃないわよ!」

「司令官、潮時みたいだ」

 

 軽巡級に続き、駆逐級も機雷群を突破。さらに、重巡群も機雷群に侵入した。

 

『各艦、後退を許可します。引き続き、遅滞戦闘を継続』

 

 命がけの鬼ごっこが、始まった。

 

 

 

 

「816艦隊、深海棲艦隊と接触、遅滞戦闘を継続中!」

 

 艦橋内にオペレーターの報告が響きわたる。司令部のほぼすべての人間が、816に注目していた。

 いまや半人前の学兵が指揮する定数割れの艦隊が、熊本の最後の守りと言ってよかった。

 

「田村少佐は、よく決断しましたな」

 

 司令部要員の賞賛の声は、だが同時に無意識の軽視も含んでいる。

 彼らからすれば、半人前の学兵提督が恐怖にかられ、戦闘を放棄してしまうのが最悪のシナリオだった。

 が、今回は若者ゆえの生真面目さが有利に働いたようだ。816は勝ち目のない戦いに身を投じている。

 第二打撃部隊と甑島艦隊が現場に急行中であり、816がこの調子で時間稼ぎに努めてくれれば、たとえ彼らが全滅しても、市内への被害は最少限に抑えられるだろう。

 

 戦術としてはまさに理に適っている。倫理的にはともかくとしてだが。

 

 原口は無言で戦況画面を見つめていた。

 彼の秘書艦がこの場にいれば、指揮卓の下に隠された拳が、爪が皮膚を突き破らんばかりに固く握りしめられていることに気付いたかもしれない。

 

 

「長官、総軍司令部より通信が入っています……これは」

 

 そう報告したオペレーターが、途中で口ごもった。

 

「どうした?」

 

「その、下島付近の陸軍各部隊から問い合わせが入っているそうでして――――」

 

 困惑した様子のオペレーターから詳細を聞いた時の彼の顔こそ、見ものだった。

 

 

 戦闘開始時より終始感情を表に出さなかった原口が、ぽかん、と口を開けたのである。

 

 

 

 

 816艦隊が後退を開始してから20分。自分たちは良く持ちこたえていると言っていい、と響は思った。

 

「響、そっちの残弾はどうだ!?」

「まだ半分は残ってる。大丈夫さ」

 

 長月に答えつつ最大戦速で(みさき)を回りこむ。背後で敵の砲撃が岬に着弾し、派手に岩を砕く。

 

 天草灘が816にとって哨戒区域内、いわば庭のようなものであったことが幸いしていた。加えて重巡級のうち一隻が、815との戦闘による損傷のためか、最大速度が出せない様子なのも幸運だった。

 おかげで戦力で圧倒的に劣る816は、地の利と速度を生かして何とか遅滞戦闘を継続している。

 

 ここまでの戦闘で有効打と言えるのは、木曾が軽巡級を中破させた一撃だけで、あとは敵味方とも大きな損害は出ていない。しかし、816の4人には細かい損傷が積み重なっている。危ない場面も何度もあった。

 20分は決して長い時間ではないが、その間つねに瞬時の判断と無理な機動を強いられている。

 

 緊張の糸が切れたら最後だ、と響は自分に言い聞かせた。

 

 風切り音とともに周囲に連続して弾着。

 

「来るわよ、全速後退!」

 

 敵艦が島影から次々と姿を現し、砲撃を浴びせてくる。叢雲が12.7cm砲を連射して牽制し、長月と響がその隙に後退する。さらに後方から木曾が砲撃し、叢雲はその隙に何とか砲撃を回避しつつ後退する。

 

 長月と響は、目星をつけておいた岩陰に飛び込む。直後に周囲に連続して敵砲撃が弾着。

 響は援護射撃のタイミングを計るため、そっと岩陰から顔を出そうとした。

 

「っ、なにっ!? 響っ!」

 

 いきなり長月に思い切り突き飛ばされる。次の瞬間、長月の装甲力場に砲撃が突き刺さった。

 

 轟音と共に水柱が上がる。

 

「あぁっ!?」

 

 長月の体が吹き飛ばされ、小石のように海面を何度も跳ねた。

 

『しまった、観測射撃っ!』

 

 一乃の叫び声。ハッとして顔を上げた響の目に、飛び去る敵偵察機が映る。

 偵察機にあらかじめ待ち伏せされ、曲射で遮蔽物越しに観測射撃を受けたんだ、と響は理解した。

 地形を利用した動きを読まれ、逆手に取られたのだ。

 

『長月、中破!! みんな、援護して!!』

 

 悲鳴じみた一乃の声。

 木曾が砲を連射し、叢雲が長月に向かって疾走する。

 とっさに響は敵艦隊の方向へ向けて魚雷を全弾発射した

 有効射程には遥か遠く、6発の魚雷はやすやすとかわされる。しかし、回避機動を取ったため、敵艦隊の砲撃が一時中断された。

 その隙に、叢雲が長月を引き起こす。

 

「しっかりしなさい!」

「だ、大丈夫だ、直撃では、ない……」

 

 長月が歯を食いしばって立ち上がる。艦装は大きく破損し、額から赤いものが滴っている。

 

航行でき(走れ)る? 後退するわよ!」

「ああ、航行は、可能だ……」

 

 叢雲が肩を貸すようにして長月を下がらせる。

 

「響、ナイスだ! とにかく弾をばらまけ!」

 

 砲撃しながら木曾が叫ぶ。響もすぐに木曾の援護にまわった。

 

 しかし、あと何秒持ちこたえられるか。

 

 響は唇を噛んだ。

 

 

 

「長月、無茶はしないで!」

 

 長月の生体情報を確認しながら一乃は思わず叫んでいた。

 装甲力場出力低下、照準装置異常、対空兵装全損、水上航行が可能なのが救いか。

 本人も全身の打撲、頭部裂傷に軽い脳震盪、そして肋骨に複数のひびと満身創痍だ。

 

『大丈夫だ、司令官。それに、いま無茶をしないで、いつするんだ』

 

 弱々しいが、しっかりとした長月の声。つまらないことに言った自分に、一乃は歯噛みをする。

 

 だが、ここまでだ。速力の落ちた長月を抱えては、遅滞戦闘を継続することはできない。

 

 お願い……どうか……

 

 その時、不意に無線が入電。内容を確認した一乃は、思わず叫んでいた。

 

 

 

『各艦!直ちに海岸線沿いに2キロ後退して!』

 

 突然の一乃の指示。

 

「一乃? 言われなくても後退の真っ最中よ!」

『違うわ! 遅滞戦闘を中断、全速で後退して!』

「司令官、へたに下がると、総崩れになる。敵の勢いを止められなくなるよ」

『構わないわ! 後退を優先して!』

「わかった、つまり何か考えがあるんだな!?」

 

 木曾が回避運動を取りながら、続けざまに砲撃を放った。

 

「今だ! さがれ!」

 

 叢雲と響が長月を庇いながら全速で後退。木曾も砲撃をばらまくと、思い切りよく後ろを向いて後退を開始する。

 深海棲艦隊が盛んに砲撃しながら追撃してくるが、未だに艦速はわずかだが816のほうが早い。

 

「指定座標に着いたぞ!」

『その地点で敵艦隊に逆撃を加えるわ。陣形を整えて』

 

 一乃の命令に長月が目を剥く。

 

「司令官!? 今さらそれは…」

 

 だが、長月が言い終わる前に、風切り音が聞こえ、深海棲艦隊の周囲に、いくつもの水柱が立った。

 

「砲撃!どこから……?」

 

 予期せぬ砲撃に艦列を乱す敵艦隊に、より正確な第2射が降り注ぐ。1発の榴弾が駆逐艦イ級の至近で炸裂。イ級が大きく傾く。

 

「いた、あそこだ」

 

 響が陸地のほうを指す。下島沿岸の国道上、こちらを見下ろす位置。4両の装輪式戦車、士魂号L型がこちらに砲塔を向けていた。

 

『付近に展開していた戦車小隊が支援に応じてくれたの! 堅田女子高校の桜81、82戦車小隊よ!』

「学兵の戦車隊か!?」

 

 木曾が驚くのと同時に、三度目の一斉砲撃。二度の弾着修正を加えた榴弾が深海棲艦隊に降りそそぎ、装甲力場が明滅し、軽巡ホ級一隻が煙を吐く。

 

 ここにいたって敵艦隊も戦車隊の位置に気づき、応射を開始。重巡級の砲撃が戦車隊の周囲に次々と着弾する。すると、戦車隊は即座に移動して稜線の向こうに退避、敵艦隊の視界から逃れた。

 だが、その数秒後、再び敵艦隊の周囲に続けざまに着弾。先ほどの戦車隊とは全く別の方角から数両の士魂号L型小隊が砲塔を向けていた。敵艦隊がそちらに応射を始めると、素早くその隊もひっこむが、今度は最初の小隊がいつの間にか姿を現し、一斉砲撃を開始する。

 

(うま)い……」

 

 見事な連携に、長月が思わず感嘆の声を漏らした。

 

 

 

「82小隊は後退! 81小隊、砲撃開始!」

 

 桜81戦車小隊、隊長車。士魂号L型の車長席で、少女は叫んだ。

 

「隊長、次はポイントB-3に逃げ込みます!」

 

 運転席の隊員が叫ぶ。

 

「いい目してるわ! 石丸(いしまる)、81小隊は次はポイントB-3に隠れるわ。フォローよろしく!」

 

 前半は運転席に向かって、後半は無線で82小隊を率いる後輩に叫ぶ。

 

 警戒任務中、隊の専用周波数にいきなり海軍から救援要請が飛び込んできたときは何事かと思った。

 聞けば、相手はすぐ近くの海上で深海棲艦と戦闘中の艦隊だった。どうしてこの専用周波数をと尋ねてみて、帰ってきた返答に正直ひいた。

 なんと、自衛軍学兵問わず付近に展開している部隊の周波数を片っ端から解析し、直接救援を頼みまくっているらしい。

 陸軍と海軍である。お互い支援を行うことは当然あるが、普通は互いの司令部を通して要請と命令が行われるはずだ。艦隊から現地部隊に直接支援を要請するなんて、指揮命令系統を半ば無視した行為だ。

 そもそも海軍が陸軍の専用周波数を勝手に解析すること自体、相応の情報技能がないとできない、ハッキングすれすれだ。

 どちらも軍規的に限りなく黒に近いグレーの行為であり、当然ながら、付近の他の自衛軍部隊には、のきなみ断られたらしい。

 

 最初は、自分も断った。陸軍司令部からの命令はなかったし、正直言って、自分たちを駒扱いする自衛軍は好きじゃなかった。陸軍はもちろん、海軍だってイメージは同じだ。

 自分は隊長なのだ。仲間をむやみに危険にさらしたくはない。この前だって友達が死んだばかりだった。

 

 けれど、てっきりオペレーターだと思った女の子の声が実は艦隊司令のもので、しかも同じ学兵だと聞いたとき、少女は反射的に救援要請を受諾していた。

 学兵の艦隊司令なんて聞いたこともなかったが、あのすがるような声が嘘をついているなんて思えなかった。

 自分と同じ学兵の隊長の危機を見過ごすことなんてできなかった。

 

 ───なにより、仲間を見捨てるなんて、自分に憧れて戦車兵になったなんて言ってくれた男の子に、顔向けができないじゃない。

 

館野(たての)さん、82小隊、後退しまっす!』

 

 やや訛りの強い後輩からの無線に「了解」と返し、きっと前を見据える。

 

「さあ、81小隊、砲撃開始! 海の仲間に堅田魂を見せてあげるわよ、かきまわせぇーっ!」

 

 

 

 みたび、戦車小隊の一斉砲撃。思わぬ陸からの攻撃に翻弄され、敵艦隊の陣形は乱れている。

 一瞬816から敵の注意が逸れたその瞬間を、叢雲は見逃さなかった。

 

「突撃するわ! 援護頼むわよ!」

 

 叫びざまに姿勢を低くし、敵艦隊へ向けて一気に加速。

 

「響!」

 

 長月がとっさに自分の魚雷発射管を外し、響に向かって放る。受け止めた響もすぐに察して、叢雲の後ろに続く。

 急速接近する2隻に気づいた数隻の敵艦が混乱しつつも迎撃の構えをとろうとするが、長月、木曾が砲撃をくわえ、動きを妨害した。

 

「沈みなさいっ!」

 

 叢雲が三連魚雷管から魚雷を発射し、素早く旋回して敵艦隊の射線から逃れる。追随していた響も魚雷を発射し逆方向に旋回、二人の航跡で海面にYの字が刻まれる。

 6発の魚雷は敵艦隊に殺到、うち2発が乱れた艦列をすり抜け、重巡リ級に命中。大爆発を起こした。

 元から損傷していた重巡リ級は、断末魔の声と共に真っ二つに折れる。

 

『重巡リ級の撃沈を確認!』

「第二次雷撃に移るわっ!」

 

 叢雲が旋回し、再び肉迫雷撃を試みようとする。が、追従する響は陣形を立て直してこちらに砲を向け始めた軽巡群に気付く。

 

「叢雲、ダメだ!」

 

 警告の叫びに反応し、叢雲が舌打ちしつつ即座に魚雷を発射し急制動、急旋回をかける。彼女が直進するはずだった一帯にいくつもの水柱が立つ。射程外からの雷撃は敵艦隊に容易く回避されるが、その間に木曾の14cm砲が駆逐艦一隻を仕留めていた。

 

『敵が立ち直りつつあるわ。みんな、潮時よ』

 

 一乃から通信。深海棲艦隊は戦車隊の方向に盛んに砲撃しつつ、陸地から離れようとしている。深海棲艦隊を翻弄していた戦車隊も、敵観測機に張り付かれたようで、機銃を撃ちながら回避に専念していた。

 

『堅田女子から入電。『戦車小隊は後退。ご武運を祈ります』よ。みんな、今のうちに陣形を再編。もうひと踏ん張りよ、お願い、頑張って……!』

 

「……いや、司令官。その必要はなくなったみたいだ」

 

 そう呟いた長月の頭上を双発機の編隊が飛び過ぎ、敵艦隊に襲い掛かった。

 一式陸上攻撃機の十八番である高々度からの爆撃に、不意を討たれた敵艦隊は、再び大混乱に陥る。

 

「基地航空隊か! 鳳翔の奴、よっぽど急いでくれたな」

 

 木曾がにやりと笑みを浮かべた。

 

 その直後、風切り音とともに敵艦の周囲に次々と砲撃が弾着。816の砲撃とは比べ物にならない威力だ。

 

『待たせたわね! 第二特編水上打撃部隊! 到着したわ!』

 

 艤装に缶とタービンを強引に接続した霧島が水平線から姿をあらわし、35.6cm砲を連射。うち一発が重巡リ級に直撃し、装甲力場ごと楽々と粉砕する。

 

『呼ばれて飛び出て、お姉ちゃんが参上クマよ~!』

 

 霧島の横を追い抜く形で、軽巡球磨が深海棲艦隊に向けて突撃。続いて第2打撃部隊の艦娘たちが次々と現れ、深海棲艦隊に攻撃を開始した。

 

『第二打撃部隊も……! 間に合ってくれた……!』

 

 一乃がなかば声を詰まらせながら言った。

 

 わずか数分後、これまでの苦闘が嘘のように、深海棲艦隊はあっさりと殲滅されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 深夜の艦隊司令執務室は、しんと静まり返っていた。

 

 叢雲はひとり机に向かっていた。

 3月とはいえこの日の夜は冷えこんでいた。石油ストーブの燃える音がかすかに聞こえている。

 

 部屋の外に足音を聞きつけ、端末操作の手を止め、顔を上げる。

 

「よう、報告書作りお疲れさん、だ」

 

 顔をのぞかせたのは木曾だった。

 

「艤装の出撃後点検終了、異常なしだ。……提督はどうだ?」

 

 木曾が差し出した書類を受け取って内容を一読したのち、叢雲は艦隊司令の決済待ちの書類入れに放り込む。

 

「あのままぐっすり寝てるわ」

 

 

 戦闘終了後、隊舎に帰投した4人を出迎え、一乃は大泣きし、そして直後に昏倒した。

 816艦隊の一連の戦闘は時間的には決して長くなかったが、あのぎりぎりの戦闘では提督の消耗も大きかっただろう。

 

「明日は長月が警備府のドックに入渠するだろうから、念のため市内の病院で検査を受けさせるわ」

「ふうん……なるほどな」

 

 叢雲が再び端末に向きなおろうとする。木曾はその机の端に腰掛けた。

 

「大丈夫なのか?」

 

 窓の外を見ながら、何気ない調子での問いかけ。

 

「何についての『大丈夫』かしら?」

 

 対する答えも、何気ない調子である。

 

「そうだな、俺たちが命を預けても、とでも言っとくか?」

「……」

「確かに、情報接続は提督の脳に大きな負担をかける。それは他の提督も同じだ。けどな、ああいう消耗の仕方は、俺はちょっと見たことがない。戦闘後に頭痛でひっくり返るようなのはな」

 

 響や長月なんかは建造されて日も浅いし、新米提督ならそんなもんか、と思ってるかもしれねえけどな、と、木曾は続ける。

 

「指揮官としては率直に言って未熟もいいところだ。判断は場当たり的で、思い切りも悪い。終始自信なさげなところもマイナスだ。まあ、あの歳で、しかも半年間の速成教育じゃ当たり前だな。今日に関しちゃ、一回キレた後の指揮は合格点をやってもいいが」

 

 木曾は窓の外を見ている。叢雲は端末から顔を上げない。

 

「だが、艦隊運用の能力、特に情報処理能力は新米にしちゃでき過ぎだ。本人はあまり自覚しちゃいないだろうが、情報分析や射撃管制なんかは下手すりゃその辺のベテランの提督並みだな。それに加えて、今日のアレだ」

 

 机の上に広げられた、書きかけの戦闘報告書を手に取る。

 

「あのキツい遅滞戦闘をサポートしながら、並行して陸軍のデータリンクから各部隊の専用周波数を解析する(抜く)なんて曲芸みたいな真似、誰ができる。しかも、半年教育を受けただけの学兵が、だ」

 

 外の波音が、遠くに聞こえる。

 

「───かと思えば、軍事知識の基本的なところは穴だらけ。極めつけは妖精もロクに()えねえときた。考えれば考えるほどちぐはぐだ」

 

 石油ストーブが、かすかな音を立てた。

 

「ま、余計なことを考えちまうわけだ。いろいろとな」

 

「それで、いろいろと余計なことを考えた結果、わたしに聞きたいことでもあるわけ?」

 

 叢雲が顔を上げる。表情は平静なままだが、その眼は何とも形容しがたい光をたたえていた。

 

「……いいや、俺のひとりごとだ。どうやらな」

 

 だが、木曾はするりと視線をかわし、机から腰を浮かした。

 

「誰ひとり何も知らない、ってのは最悪だ。何かあった時にどうしようもなくなるからな。誰かわかってるやつがいるならいい。───今のところは」

 

 邪魔したな、とひらひらと手を振って、木曾は執務室を出ていった。

 

 

 しばし無言でその背を見送った後、叢雲は席を立った。

 

 執務室の窓を開け、白い息を吐きながら空を見上げる。空は不機嫌に曇っており、星の光も見えない。

 

「これだから、夜は好きじゃないのよ」

 

 叢雲はポツリとつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 

 ───ワタシタチハ、ナニものナンダロウ。

 

 最初に頭に浮かんだのは、いつのことだっただろう。まだ彼女がこの姿を取る前、波間にたゆたっていた頃からもしれない

 

 

 

 静かな海を、彼女は滑るように進んでいた。

 

 闇に包まれた海上は、朝方の死闘が嘘のように静かに凪いでいた。

 わずかな風が、大きな帽子からのびている彼女の銀の髪をなぶった。

 

 戦いの気配に気づいた彼女がこの海域に来たときには、すべてが終わっていた

 

『姫』の気配は既になく、取り巻きの艦達はその多くが討ち果たされ、散り散りになって敗走していた。

 偵察機で艦娘たちの姿を確認し、付近の敗走艦をまとめ、彼女は西へと撤退した。深追いを恐れたのか、艦娘たちが追撃を途中で中止したのが幸いだった。

 

 そして今、暗闇にまぎれ、『姫』が水底へと還った海に、彼女は来ていた。

 

 

 ───いったいなぜ、私はここに来たのだろう。

 

 彼女は考える。

 

 

『姫』、とは顔見知り、という程度の関係以上のものではなかった、と思う。

 自分は仲間たちの中でも、変わり者だ。他の同胞たちの勢力とも交わらず、旗艦として他の艦を導くこともなく、いつも独りでいることを好んでいた。

 あの『姫』とも、配下になることもなく、かといって敵対することもなく、一定の距離を保っていた。なにかの機会に数度、言葉を交わしたことがあったくらいだろう。

 

 

 ただ、『姫』の言葉は、今も覚えている。

 

 ───アナタノ、ギモンハヨクワカル。ワタシモ、ソレガシリタイ

 

 自分と同じ疑問を持つ同胞に出会ったのは、その時が初めてだった。

 

 ───アノコタチトタタカッテイレバ、ソレガワカルカモシレナイ

 

 そう言った『姫』の眼は、ここではないどこかを覗き込んでいるようだった。

 

 

 足を止めてかがみこみ、指でそっと、海水を掬う。

 

 水底へと還るとき、『姫』は、答えを得ることができたのだろうか。

 

 

 ───ああ、そうか。私は、それが知りたくて、ここに来たのか。

 

 

 ふいに、爆音が耳をつき、彼女は思索を中断した。

 

 上空に目をやる。

 

 巨大な哨戒機が、闇を割って姿をあらわした。彼女の優れた視力は、こちらを見下ろしながら無線に向かってしゃべる搭乗員の姿を捉えていた。

 

 その唇の動きは、空母ヲ級、と読めた。

 

 そう、彼らが自分たちを空母ヲ級、と呼んでいるのは知っている。

 もしかしたら、私がなにものか、彼らの方がむしろよく知っているのかもしれない。

 

 

 彼女はかすかに笑みを浮かべ、哨戒機を指差した。

 

 次の瞬間、彼女の大きな帽子から、衣の裾から、青い燐光を放つ艦載機が一気に飛び出し、その丸っこいフォルムからは想像もつかない速度で急上昇した。

 哨戒機は即座に反転して逃走を図る。迅速な判断だったが、それでも彼女の艦載機()からは逃れるには遅すぎた。

 2度、3度、光の尾を引いて艦戦が交錯し、機銃の掃射を受けた哨戒機はパッと炎に包まれた。

 

 燃え上がり下降していく哨戒機にはもう構わず、彼女は踵を返す。

 

 ───私がなにものなのか、今はまだわからない。

 

 ───けれども、戦い続ければ、その先に、何かが見えるかもしれない。

 

 

 ゆっくりと遠ざかる彼女の背を、雲からわずかに顔を出した半円の月が照らしていた。

 

 

 

 

 

 1999年3月9日、熊本警備府艦隊は旧韓国領済州島沖に集結した空母棲姫を中心とする深海棲艦隊に対し、保有戦力の8割を動員した一大作戦を決行。

 

 乱戦の中いくつかの危機的局面があったものの、結果的には敵主力の撃破に成功し、勝利を収める。

 

 五島沖海戦と呼ばれることになるこの戦いにより、熊本防衛戦における海の戦いは、人類側有利に大きく傾くことになった。

 

 この戦いは、熊本警備府艦隊がその創設以来最大の戦力を投入した戦いとしても知られている。

 

 ───結果的に、これ以後の戦いにおいても、この海戦以上の戦力を投入(でき)た戦いはなかったわけであるが。

 

 

 



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第二章 砂の砦(1999年3月11日~)
第10話 邂逅


 甑島(こしきじま)泊地は、鹿児島県の西の海上、甑島列島の上甑島(かみこしきじま)に位置している。

 

 もともと甑島列島には東シナ海の哨戒を主任務とする自衛軍空軍の基地があり、甑島泊地はこれの警護を目的とした小規模泊地だった。

 

 だが、対馬海戦、そして八代の相次ぐ敗戦の後、甑島泊地の運命は大きく変わる。

 熊本警備府長官に就任した原口大佐が、熊本の南の盾としての甑島列島の重要性に着目したのだ。

 原口長官は即座に甑島の要塞化に着手。海兵大隊を中心とした守備隊を駐屯させるとともに、第810艦隊,第811艦隊の2個艦隊から成る強力な水上打撃部隊、通称、甑島艦隊を配置した。

 

 結果として、甑島艦隊は南から襲来した深海棲艦隊を数度にわたり撃退、熊本の南の盾としての有用性を証明した。さらに、その後鹿児島が陥落したことにより、甑島泊地は、敵地と化した九州南部に対する、のど元のトゲとなったのである。

 南方の島嶼域での戦闘経験が豊富な原口長官の、慧眼(けいがん)というべきだろう。

 

 

「ま、トゲはトゲで、大変なんだけどね」

 

 甑島艦隊所属、長良型軽巡二番艦、五十鈴(いすず)はそう呟いて双眼鏡をのぞきこんだ。

 

 海に突き出た高い岬の上、木々に埋もれるように設けられた監視所である。

 古びたあずまやのような貧相な外見だが、東の方角を警戒するこの監視所は、いまや敵地と化した鹿児島方面を警戒するための重要な施設だ。

 眼下の海岸にはトーチカ陣地が設けられ、155mm砲の砲身が東を睨んでいる。

 同様の監視所は海岸線の各所に設けられており、海兵大隊に所属する兵士や目の良い艦娘が交代で監視にあたっている。

 

 甑島艦隊の第一秘書艦をつとめる五十鈴だが、その眼の良さ(索敵能力)から、手の空いているときはこうして監視の任にあたることも多かった。

 

 

 双眼鏡で東を睨む五十鈴。その傍らに、不意に湯気の立つ紙コップが差し出された。

 

「あれ、山城?」

「……冷めるわよ」

 

 そう言ったのは、おなじ甑島艦隊に所属する航空戦艦山城(やましろ)だった。手に魔法瓶を持っている。

 

「珍しいじゃない。ここまで上がってくるなんて」

 

 紙コップを受け取った五十鈴が目を丸くして言う。

 超弩級戦艦娘であり、その名に恥じない巨大な艤装を持つ山城は、艤装が重いとよく愚痴をこぼしている。艤装装着時はあまり陸上を歩きたがらず、海面から高低差30mはある階段を登って、この監視所まで来ることはめったになかった。

 

「……別に、たまには高いところから空が見たくなっただけよ」

 

 山城は面白くもなさそうにそう言うと、灰色の空を仰ぐ。

 

「そう思っただけなのに、不幸だわ。そういう時に限って、天気が悪いんだもの」

「はいはい、まーた始まった」

 

 五十鈴は笑った。

 何かにつけてこぼす「不幸だわ」は山城の口癖だ。曇りだなんて、階段を上がる前からわかっているだろうに。

 

 ありがたく、紙コップに口をつける。代用でない、本物のコーヒーのいい香りが広がった。こういった嗜好品は前線に優先的に回される。本物のコーヒーを味わえるのは、ある意味で最前線の特権だった。

 

「そういえば、戦闘日報を読んだけど、五島沖の海戦、相当すごかったみたいね」

 

 双眼鏡を覗き込みながら、五十鈴はふと口にした。

 

「多数の敵機動部隊相手に殴りこんで大立ち回り、なんて水上部隊にとっては夢みたいな状況よね……815のみんなには気の毒だったけど」

 

 五島沖海戦時、甑島艦隊は、南への備えとして泊地に待機していた。

 しかし海戦の終盤、浸透した敵の2個艦隊によって後方警戒の815艦隊が敗北したことにより、彼女達にも緊急出撃命令が下ったのである。

 

 幸い816艦隊が敵の足止めに成功し、五島沖から反転した第2特編水上部隊が間に合ったため、甑島艦隊は結局戦闘に参加することはなかったが。

 

「定数割れの水雷戦隊で2個艦隊相手に持ちこたえたんだから、816は大したものよね。しかも提督は学兵だって話じゃない」

「幸運よね。羨ましいわ」

「すぐそこに持っていくんだから……と、」

 

 五十鈴の眼がすっと細まった。言葉を切り、双眼鏡を覗き込む。

 

 水平線には約20km先の鹿児島西岸がわずかに見えている。すでに人類の領域ではなくなった地だ。

 

 その手前の海上、無数の影が、ゆっくりとこちらに向かって近づきつつあった。

 

 

「まったく、こりない奴らよね」

 

 五十鈴は呟いて山城に双眼鏡を渡すと、監視所に備え付けられた通話装置の受話器を手に取った。双眼鏡で東を確認した山城が、ため息をついて魔法瓶のふたを閉める。

 

 そうしている間にも、影はどんどん増えつつあった。

 

 見かけはまるで浮遊する岩礁、あるいは巨大な海亀の甲羅のようだった。大きさはタテ横数百メートル。ゆっくりと移動するその岩礁の上には、ミノウタウロス、ゴブリンその他、幻獣がぎっしりと載っていた。

 

 この『海亀』は、いわば幻獣の揚陸艦である。

 

 甑島泊地は、鹿児島陥落以来、数度にわたって鹿児島からの幻獣の上陸部隊の襲撃を受けていた。

 幻獣側としても、のど元のトゲであるこの甑島泊地を放置しておきたくないのだろう。甑島艦隊と守備隊は、南からの深海棲艦隊、そして東からの幻獣の上陸部隊を相手取り、日夜戦っていた。

 

 彼方の上空に、飛行型幻獣きたかぜゾンビが編隊を組んでこちらへ向かってくるのが見える。

 敵を確認したか、眼下の海岸では、トーチカ陣地が砲撃を開始。155mm砲が轟音と共に次々と火を噴いた。

 

「さーて、お仕事の時間ね」

 

 艦隊司令部に敵の情報を伝達した五十鈴は、通話装置の受話器を置いた。

 

 山城が、ゆっくりと立ち上がる。

 

「重たい艤装を背負ってここまで上がってきたときに限って、なんで敵が来るのかしらね……」

 

 愚痴っぽい言葉とは裏腹に、そう言った口の端は不敵につり上がり、両の眼は幻獣の群れを鋭く見据えていた。

 

 甑島艦隊旗艦、航空戦艦山城。

 彼女は甑島泊地の戦力の中核であり、警備府第1艦隊旗艦の日向や、八代艦隊旗艦の霧島に勝るとも劣らない、歴戦の戦艦娘だった。

 

「それじゃ、行くとしましょうか!」

 

 五十鈴は海へと続く階段を駆け下りる。

 

 不幸だわ、と愚痴った山城が、後ろに続く気配がした。

 

 

 

 

 

 1999年3月11日 一○一五 九州総軍司令部ビル

 

 

 

 

 

 その日、田村一乃(たむらいちの)海軍臨時少佐は、熊本市中心部にある九州総軍司令部ビルを訪れていた。

 

 司令部ビルの正面玄関、立哨の衛兵が一瞬こちらを怪訝な顔で見て、それから慌てて敬礼する。兵の視線が、どう見てもミドルティーン以上には見えないだろう一乃の顔と、その肩の海軍少佐の階級章の間をせわしなく往復している。

 一乃は顔を赤らめて丁寧に答礼し、正面玄関をくぐった。

 

 司令部ビル1階のロビーはホテルを思わせるような内装だった。軍服を着た人間がせわしなく行き交っている。学兵と思われる高校生の制服を着た人間も見受けられた。

 

 書類を手に持ち、司令部ビルの受付に向かい、用件を告げる。さすがに受付の事務官は一乃に驚くことはなかった。内線電話をかけ、二言三言話すと受話器を置く。

 

「少佐、担当の者が参りますので、恐れ入りますがロビーでお待ちいただけますか?」

「はい、わかりました。ありがとうございます」

 

 文部省のフロアを教えてもらうだけのつもりだったので、ちょっと意外だったが、おとなしく待つことにする。

 なるべく目立たない隅のほうのソファに腰を下ろし、学兵提督の白い制服に、汚れがついていないか改めて確認する。

 

 一乃は昨日、市内の病院に検査入院して一泊している。今日は退院したその足での司令部ビル訪問だった。

 叢雲は同行するつもりだったようだが、今回は一乃が断った。この日、816艦隊は待機休養日に指定されている。叢雲に限らず、艦隊のみんなにはなるべく体を休めてほしかった。

 

 

 ロビーに設置されている大きなテレビに目をやると、ニュース番組が、先日の五島列島沖での海戦を特集していた。

 

 戦意高揚のためだろう、あからさまに戦勝を強調した報道で、熊本警備府艦隊の勇戦が大いに脚色されて報道されている。

 海戦終了後の映像だろうか、日向、飛龍を先頭に戦闘に参加した艦娘達が警備府へ凱旋し、原口警備府長官に帰投の報告をする場面が映し出されていた。

 

 そういえば、長官にはずいぶんご迷惑をかけたなあ、と一乃は思った。

 

 天草灘の戦闘で一乃が行った陸軍への救援要請は、軍紀違反すれすれの行為だった。

 あからさまな軍紀違反にはならないように、周波数の解析には受動的に収集した情報のみを使用し、通信もあくまで正規の通信機器を介して行うなどの工夫はしたが、大声で自慢できる手法とはとても言えない。

 さらに張本人の一乃は、816の帰投直後に昏倒、そのまま翌日まで呑気に眠ってしまっていた。

 だが、その間に長官がいろいろと手を打ってくれたらしい。

『とりあえず勝ったから不問、そういうことにしてくれたみたいね』

 目覚めた一乃に、肩をすくめてそう告げたのは叢雲だった。

 それから、あんた、なんだか勲章とやらが貰えるみたいよ。とつづけた叢雲に、一乃は目を丸くした───

 

 

 ぼんやりとテレビを眺めていた一乃だったが、突然、『戦場に咲くヒロイン、第816艦隊のなでしこ学兵提督』なる派手なテロップとともに出現した自分の映像に、凍りついた。

 

 思わず、制帽を深くかぶり、身を縮める。

 

 どこであんな映像を───ああ、そういえば前に、港湾監視所の前で()られたっけ。

 

 番組では816の奮戦ぶりが実際の5割増しで紹介され、勝利の立役者、とたたえられていた。

 

 

 ───何が勝利の立役者だ。わたしは自分の無能で、危うくみんなを沈めるところだったのに。

 

 

 うつむいたまま、一乃は唇を()んだ。

 

 艦隊の危機にパニックに(おちい)り、指揮官としての義務すら放棄しかけた。

 叢雲に叱咤(しった)され、みんなに励まされて、やっとのことで立ち直った。

 

 自分の頭を撃ち抜かずに済んだのは、みんなが奮戦してくれたからだし、助けてくれた人たちがいたからだ。

 

 

 ───わたしは運が良かった。ただ、それだけなのに。

 

 

 

 やがてニュースの話題は、陸の戦況に切り替わった。隅のほうにいたおかげか、幸い、周囲には気づかれた様子はない。

 

 恐る恐る制帽のつばを上げた一乃は、手に持ったままの書類に目を落とし、ため息をついた。

 

 きょう彼女が司令部ビルを訪れたのは、ビル内にある文部省のオフィスで、勲章の伝達を受けるためだった。

 

『生徒会連合特別徽章』

 

 熊本生徒会連合の名において業績抜群の学兵に授与される徽章(きしょう)である。正確には勲章ではないのだが、実質はそれに準じて扱われていた。

 おそらく、一昨日の五島沖海戦での戦果による受章だろう。戦闘からわずか2日後の受章だが、勲章というものが乱発される昨今では、珍しいことではない。

 

 勲章なるものをもらうのは初めてである。もう少し嬉しくてもいいはずだが、自分がそれにふさわしい成果を上げたとはどうしても思えず、素直に喜べなかった。

 

 

 そんな物思いにふけっていたせいか、一乃は後ろから近付いてきた人物に気がつかなかった。

 

「田村少佐でいらっしゃいますか?」

 

 九州総軍司令部の白い制服を着た女性の中尉が敬礼していた。慌てて向き直って答礼する。

 西洋系の血が入ったようなスラリとした美貌の中尉で、一乃は一瞬見とれた。

 

「九州総軍司令部のウィチタです。ご案内いたします」

「く、熊本警備府所属、第816艦隊の田村です。わざわざお出迎えいただき、恐れ入ります」

 

 いまでこそ海軍臨時少佐を名乗っているが、一乃のもともとの身分は百翼長(少尉相当)の学兵である。このあたりの上下関係は微妙なところだった。

 

「では、こちらへ」

 

 ウィチタと名乗った中尉は落ち着いた声で言うと、先に立って歩き出した。慌てて後を追う。

 モデルのように姿勢よく歩く中尉に、一乃は気後れしてなかなか声をかけられなかった。

奥まったエレベーターを使ってビルの上階まで上がり、長い廊下の突き当たりの部屋の前で彼女が足を止めるまで、結局ひとことも思いつかなかった。

 と、いうか、自分がどこに連れてこられたのかも把握していないことにやっと気が付き、一乃はあわてた。

 

「あ、あの……」

「では、しばらくお待ちください」

 

 口を開こうとした鼻先でドアが閉まった。

 

 ひとり取り残された一乃はため息をつくと室内を見回した。

 

 

 広々としているが、殺風景な部屋だ。事務用のスチール机と椅子がひとつ。上に置かれた大きな砂時計はインテリアだろうか。

 てっきり文部省のオフィスで勲章を渡されるだけだと思っていたのだが、もしかしたら少しばかり偉い人の部屋に連れてこられたのかもしれない。

 受付でちゃんと行き先と用件は告げたはずなのだが…

 

 所在無げにたたずんでいると、壁に貼られた九州中部域戦線の地図が目に入った。

 

 以前に熊本警備府の長官執務室で見た戦況図と同じもののようだ。味方部隊や敵戦力を表しているのだろうか。いくつもピンが刺さっている。

 海軍の日報には陸の戦況も記載されており、当然一乃も毎日確認している。だが、その日報のデータと比べても、この戦況図は明らかに詳細で、そしておそらく正確だった。

 

 一乃は知らず戦況図に見入っていた。

 

 鹿児島はほぼ幻獣勢力の手に落ち、宮崎では自衛軍が北へ後退しつつ、山岳部で遅滞戦闘を継続している。

 現在、熊本要塞は南と東から幻獣勢力の圧迫を受けている状態だ。

 特に東は、阿蘇山を中心とした阿蘇特別戦区に敵味方とも戦力を集中し、激闘が繰り広げられていた。

 

 いっぽう、海上においては五島列島、甑島列島の周辺海域をめぐり、熊本警備府艦隊が深海棲艦と渡り合っている。

 一昨日の五島沖の海戦で、海の戦況は一時的にせよ人類側に傾いているようだ。

 

 指で戦況図をなぞっていた一乃は、上天草市大矢野島に刺されている小さな青いピンをみつけて、思わず微笑んだ。

 

「そなたの艦隊が気になるかね?」

 

 不意にかけられた声に一乃はあわててそちらを向いて敬礼し―――固まった。

 

 部屋に入ってきたのは固太りの大柄な男だった。九州総軍司令部の純白の制服に準竜師の階級章をつけている。

 

「その地図は俺の趣味でな。気に入ったかね?」

「は…はい……」

 

 喉に物がつまったように返事する一乃。

 

『少しばかり偉い人』どころではなかった。

 陸軍所属でない一乃ですら、顔を知っている相手だ。

 

 

 芝村勝吏(しばむらしょうり)準竜師───日本自衛軍九州総軍の実質的なトップが、にやりと笑っていた。

 

 

 

 

「ああ構わん少佐、楽にするがいい」

 

 芝村準竜師は固まる一乃に構わず事務机のほうに歩み寄ると、巨体を椅子に沈めた。椅子のスプリングがぎしぎしと抗議の悲鳴を上げる。

 

 一乃からすれば、言われてそうそう楽にできるわけがなかった。

 

 準竜師(じゅんりゅうし)は学兵の階級であり、自衛軍でいえば中佐相当である。しかし、芝村準竜師の場合は、学兵組織の指揮者として仮に準竜師の階級をつけているにすぎない。

 

 彼の本来の階級は陸軍少将。九州総軍の参謀長に当たる人物である。

 

 原口警備府長官ですら、海軍大佐である。臨時少佐なる怪しい階級の一乃からしてみれば、雲の上の人物であった。

 

 とりあえずぎこちなく休めの姿勢を取る。準竜師はそんな一乃を見て胡散くさい笑みを浮かべた。

 

「そなたに勲章を伝達するはずだった総務係長は急な会議のため出張中でな。俺がその代わりというわけだ」

 

 代わりって、総務係長の代わりに芝村閥の若手筆頭って……!

 一乃は内心で絶叫した。

 

 芝村一族は、ここ数十年で急速に勃興した新興の名族だった。

 軍需産業を核としてこの国の政治、経済、軍事に急速に影響力を拡大。いまや明治維新の時代からの勢力である会津閥と薩摩閥に匹敵するほどの勢力を誇っている。

 また、芝村一族と言えば、その強烈なキャラクターでも知られている。

 徹底した能力主義を取り、優れた者は血縁など関係なく一族に迎え入れる。その物言いは傲岸不遜(ごうがんふそん)。『いつか世界は我ら芝村に征服される』そう言ってはばからない者たちだった。

 

 とりあえず、絶対関わっちゃいけない悪の結社っぽい人たち。

 小市民である一乃などからすれば、そんな印象だった。

 

 が、現実にはまさに今、その悪の結社の大物幹部が目の前でふんぞり返っているわけである。

 半分パニックになりながらも、一乃は、何とか姿勢を正して声を絞り出した。

 

「その、お、恐れ入ります。熊本警備府所属第816艦隊司令、田村一乃海軍臨時少佐であります。本日は……」

「田村少佐、芝村に挨拶などという無駄な物はない。覚えておくがいい」

 

 挨拶の途中で凍りつく一乃。

 典型的な芝村的物言いである。もはや涙目の一乃だった。

 

 

 準竜師は分厚い顔をゆがめてにやりと笑った。

 

「そなたが来ると聞いて、一度顔を見ておきたいと思ってな」

「は、はあ……」

「先日の五島列島沖の海戦では、見事な戦果を上げたそうだな。良い部下をもって、原口長官も鼻が高いのではないか?」

「い、いえ自分は決してそのような……」

「田村少佐。芝村には挨拶はないと言った。それは見え透いた謙遜(けんそん)も、世辞も同じだ」

 

「……はい、いいえ、準竜師。あの戦果はわたしの力ではありません。ただ、艦隊のみんなの奮戦と、周りの人たちの助けがあったからこそです」

 

 ───勝手に口が動いていた。

 

 勝手に口が言いきって、それから初めて、一乃は慌てた。

 

「ふむ……」

「い、いえ、その……た、大変失礼いたしました」

 

 慌てて気をつけの姿勢を取る一乃。準竜師は興味深そうに一乃のほうを見ていたが「まあ、よかろう」と椅子に背を預けた。

 

「そなたがそう言うのならば、そうなのであろう。配下の艦娘に恵まれたようだな、少佐」

「は、はい。恐縮です」

 

 準竜師はデスクの引き出しをあけて小箱を取り出し、立ち上がった。

 

「受け取るがいい、田村少佐」

 

 無造作に差し出された小箱を、一乃は若干ぎこちなく受け取った。箱の中には、金色を基調とした生徒会連合特別徽章が納まっていた。

 

「当初、この安っぽいバッジをそなたに渡すために、文部省が式典を計画していてな。市役所からも、熊本市長が直々に授与者を務めたいとの申し出があった。人気者だな、少佐」

「は……?」

 

 式典? 熊本市長? 一乃は思わず耳を疑った。先ほどロビーで見たニュース番組といい、なんだか自分のことなのに完全に自分の手を離れてひとり歩きしている気がする。

 

「それぞれに思惑があったのだろうが、どちらも原口長官から辞退の申し出があり、単なる伝達となったわけだ。まったく、お優しい親父殿だな」

 

 芝村準竜師は愉快そうに哄笑した。

 そんな事情があったとは夢にも思わなかった。

 

「その安っぽいバッジをどう使うかは、そなた次第だ。せいぜいうまく使うがいい、田村少佐」

「は、はい、ありがとうございます」

 

 かかとを合わせ、あえて学兵式の敬礼をする一乃に、準竜師はひとつうなずいたが、ふと思いついたように言った。

 

「ふむ、そういえば田村少佐。そなたは陸の学兵部隊に所属したことはなかったな?」

「はい、そのとおりです」

「今日はこの後、なにか予定はあるかね?」

「は……? はい、いいえ。わたしの艦隊は本日待機休養日ですが……」

 

 戸惑いながら答えると、準竜師はにやりと口元をゆがめた。

 

「後学のために、陸軍の学兵部隊を視察してみる気はないかね? ああ、無理にとは言わんが」

 

 陸軍少将にこう言われて、嫌といえるわけもない。

 

「は、はい! 喜んで!」

 

 一乃はほとんど反射的に返事をしていた。

 

 

 

 

 九州総軍司令部ビルから車で10分と少し。一乃は学校の門の前でぽつねんとたたずんでいた。

 

 手には『第62戦車学校』と書かれた紙片。九州総軍司令部の車でここまで連れてこられ、この紙切れ1枚で、ぽい、とひとり置き去りにされたのである。

 

「表記が違うけど……本当にここでいいのかな……」

 

 何度も校門と紙片を確認する。

 

 校門にかけられた看板には、『尚敬高校』と刻まれていた。

 

 

 

 とりあえず、入ってみなければ始まらない。一乃は気を取り直すと、校門をくぐり校舎へと足を進めた。

 

 やや不安ではあったが、正直なところ、同じ学兵として陸軍の学兵部隊には興味がある。よくよく考えてみれば、芝村準竜師の提案は一乃にとってもある意味では渡りに船だった。

 

 校舎に入ると、まずロビーに設けられた売店が目に入った。

 

「あの、第62戦車学校はこちらでよかったのでしょうか」

 

 とりあえず売店にいた女性に尋ねてみると、女性は目を瞬かせた。

 

「あら、こちらは尚敬高校ですよ。確かにいまは戦車学校ですけど……」

「ええと、その……」

 

 やはり何かの手違いか?しかし、いくらなんでも仮にも総軍司令部が……

 言いよどむ一乃をみて、女性ははっと手を打ち合わせた。

 

「あら、もしかしたらプレハブの子たちのことかしら。ええと、ごめんなさい。つい最近ここに間借りした子たちがいて……あ、ちょうどいいわ、ねえ、ちょっとそこの人!」

 

 後半は一乃の背後に向けての呼びかけだった。

 

「はいな、なんでしょ?」

「あなたたちにお客さんみたいよ。案内してもらっていいかしら?」

 

 振り返ると、白が基調の制服を着て、髪を明るい色に染めた少女が歩いてきた。おそらく一乃と同年代だろう。

 

「ええですよ。どちらさんのご用で?」

「第62戦車学校の設営隊長はいらっしゃいますか?」

「委員長やね。司令室におりますよ。ウチは第62戦車学校の加藤いいます」

「熊本警備府の田村です」

「警備府……ああ、見慣れん制服や思うたら海軍さんですか───んん?」

 

 加藤と名乗った少女は一乃の制服を見て、一瞬不思議そうな顔をした後、慌てて敬礼した

 

「あわわ、少佐さんだったんですか。し、失礼しました」

「あ、その、気にしないでください。わたしも学兵なんです。あくまで海軍での仮の階級ですから」

 

 一乃の方も慌てて顔の前で手を振った。同年代の学兵にかしこまられると、また違った居心地の悪さがあった。

 

 

 

 

 一乃が加藤に案内されたのは、学校の裏手に当たる敷地だった。2階建てと1階建て、大小の2つのプレハブが建っている。

 

「ウチ達はここの女子高の敷地に間借りしてるんです。あっちが校舎で、こっちが隊長室です」

 

 小さい方、工事現場にあるような部屋ひとつぶんくらい大きさのプレハブ小屋に案内される。

 

「委員長~、いてはりますか~? 海軍のお客さんですー」

 

「ああ、加藤さん。入っていただいてください」

 

 加藤にどうぞ、と促され、一乃は足を踏み入れる。

 

 執務机に向かっていた人物が、さっと立ち上がって敬礼をした。一乃も急いで敬礼をする。

 

「お初にお目にかかります。第62戦車学校設営委員長、善行です」

「熊本警備府所属、第816艦隊の田村です。本日はお忙しいところお時間を割いていただき、誠に申し訳ありません」

 

 善行と名乗った千翼長は、痩せ型の引き締まった体つきをしていた。髪を自衛軍風に刈り上げ、丸い小さなレンズの眼鏡をかけている。若いと言えば若いが、学兵という年齢ではない。

 学兵小隊はその編成の間、自衛軍の軍人が教官兼隊長を務めることが多い。善行もおそらく、自衛軍出身なのだろう。

 

「ありがとうございます、加藤さん。授業に行っていただいて結構ですよ」

「あー…ほな、失礼します」

 

 こちらを興味津々という顔で伺っていた加藤は、小さく舌を出すと部屋を出て行った。

 

「申し訳ありません。なにぶんまだ召集されたばかりの学兵ですので……」

 

 謝る善行に一乃は慌てて手を振る。

 

「いえ、わたしも同じです。少佐なんて名ばかりの学兵の身分ですから」

「……そうでしたか。なるほど、816艦隊───失礼、道理でお若いと思いました」

 

 善行はちょっと目を見張った後、眼鏡を直した。

 

「それで田村少佐、せっかくお越しいただいて申し訳ないのですが、実はわが隊はまだ戦車が配備される前でして」

 

 なるほど、周囲に戦車やその格納庫と思しき建物が見えなかったはずだ。

 

「そうなんですか。やっぱり配備されるのは士魂号なんですか?」

「……ええ、その通りです。あれは少々特殊な兵器でしてね。整備の人員と一緒に到着する予定です」

 

 善行は眼鏡を押し上げながらうなずいた。

 

「特殊……というと、足まわりあたりでしょうか?」

 

 先日の海戦で816を支援してくれた士魂号L型の巨大な車輪を思い出す。

 

「さすが、よくご存じですね。ええ、なにぶん脚部に負担がかかる戦車ですので」

「え、きゃくぶ、ですか?」

 

 聞きまちがいだろうかと首をひねる一乃。

 

「はい。人工筋肉は柔軟ですが、無理をすればねんざや肉離れを起こすのは人間の足と同じです」

「ねんざや肉離れ……戦車がですか!?」

 

 ますますわけが分からなくなる。あの巨大な車輪が捻挫? シャフトの故障か何かの現場用語だろうか?

 

「まあ、そこはやはり、通常の戦車とは違いますので……何しろ120mm砲を撃たせたら反動に耐えきれず脚がもげたという例もあったぐらいで……」

「え? わたしの見た戦車小隊は問題なく120mm砲で一斉射撃をしていましたよ!?」

 

「は?」

 

 ぽかんとした顔をする善行。

 

「え?」

 

 一乃もようやく、自分と善行の間で、何かが食い違っているらしいことに気がついた。

 

「……あー、その、田村少佐。私は芝村準竜師から、熊本警備府から提督が視察に見える、とだけ聞かされておりまして……不躾(ぶしつけ)ですが、本日の視察の目的はどのような……?」

 

「は、はい、準竜師はその、後学のために、と……」

 

 一乃はしどろもどろに説明を始めた。

 

 

 

「なるほど、そういうことでしたか。あの方も人が悪いというか、お戯れが過ぎるというか、なんというか……」

 

 説明を聞き終えた善行はこめかみのあたりを押さえて下を向いた。

 ひとつため息をつき、気を取り直そうとするかのように冷めた茶をすする。

 

「あの、善行隊長……?」

 

「失礼。───田村少佐、貴方は人型戦車という兵器はご存知ですか?」

「人型戦車ですか? ええと、たしか陸軍で開発されていたロボット兵器ですよね。開発に失敗したと聞いていますが……」

 

 そう言いかけて、一乃はハッとした。

 

「まさか、この小隊に配備される戦車って……」

「はい、お察しのとおり人型戦車なのです」

 

 善行は重々しくうなずく。

 

「でも、先ほど『士魂号』と……」

「装輪式戦車の『士魂号L型』とは違い、『士魂号M型』は人型戦車なのですよ。確かに、同じ士魂号の名を冠しているのが不思議なほど異質な兵器ですがね。まあ、そこは開発予算獲得の都合というか、独立独歩の熊本の気風というか……」

 

 善行が苦笑交じりに説明する。

 

「なるほど、脚部というのは、本当に(あし)のことだったんですね」

 

 一乃は納得してうなずいた。

 

「先ほどまで、てっきり人型戦車の視察にみえたのだと思いこんでいまして。失礼しました」

「とんでもありません。でも、それは確かに、配備前なのが残念ですね。そんな珍しい『戦車』なら、ぜひ見てみたかったです」

「あー、私としてもぜひご覧いただきたかったのですが、まさにそこが問題といいますか、なんと申し上げたらよいか……」

「問題、ですか?」

 

 いまひとつ要領を得ない一乃に、善行は言いにくそうに口を開く。

 

「この隊はいわば人型戦車の実験小隊です。人型戦車の開発を推進していたのは陸軍内の一派……具体的に言えば芝村です。付け加えるなら、私も一応、芝村閥の人間ですね」

 

 前半はともかくとして、後半は一乃でもある程度は予想はついた。芝村準竜師の紹介なのだ。芝村の息のかかった隊であるのは当然だろう。

 

「それがなにか……」

「私のような末端の千翼長でも、海軍の日報は閲覧できます。───先日の五島列島沖の海戦における第816艦隊の活躍ぶりはよく存じ上げています。テレビでも盛んに報道されていますしね」

 

 思わぬ言葉に、一乃は顔を赤らめた。

 

「いえ、あれはただ隊のみんなが頑張ってくれただけで……」

「ああ、申し訳ありません。お世辞のつもりではないのです。田村少佐」

 

 善行は一乃の方をまっすぐ見た。

 

「中央の肝いりの学兵提督の第1期生、当初不安視されていた新米提督が、わずかな戦力で倍以上の敵を防ぐという抜群の戦果をあげたわけです」

「い、いえ、ですからそれは……」

「そんな新進気鋭の注目株、勇将原口長官の秘蔵っ子が、今日、九州総軍トップにして芝村閥の重鎮である芝村準竜師と面会。直接勲章を授与され1対1で密談し、さらにそのあと、準竜師子飼いの新兵器実験小隊を視察した」

「……は?」

「そういうことになるわけです。はたから見ると」

 

 善行の言葉を理解し、一乃の顔からみるみる血の気が引いた。

 誰だ、その三文戦記小説に出てきそうな華麗なる若きエリート軍人は。

 そんなど派手な存在、軍内の各派閥の怖い人たちが放っておかないだろうことぐらいは、一乃でもわかった。

 

「あ、あのっ! それはいくらなんでも事実誤認というか、誇大広告というか……! むしろ詐欺、詐欺です!!」

「お気持ちはわかりますが、このさい事実がどうであるかは関係ありません。周囲からどう見えるかが問題なのです」

 

 正論だった。ぐうの音も出ない。

 長官が式典だの市長だのを辞退してくれたのは、わたしがなるべくこういう面倒事に巻き込まれないように考えてくれてたんだ……と一乃はいまさら気づいた。

なのにわたしときたら、芝村準竜師の誘いにのってホイホイとこんなところまで来てしまった……!

 

「そ、その、勲章の伝達といい、視察といい、準竜師は、なんのお考えがあってのことなんでしょうか……」

「あー、申し訳ありませんが、それは私にも分かりかねます。何かの布石かもしれませんし……あの方の性格上、あるいは単なるお(たわむ)れかもしれません」

 

 お、お戯れ……

 

 一乃は気が遠くなってきた。

 

 バッジをひとつ貰いに来ただけのはずが、なんでこんなことになるんだろう───

 

「あの、倒れても、いいでしょうか……」

 

「心中お察ししますが、それはできればご勘弁を」

 

 善行は苦笑した。

 

 

 

 

 尚敬高校の校門を出た一乃は、肩を落としてトボトボと歩いていた。

 

 善行隊長はどうやら同情してくれたようで、何かと親身になってくれたが、この事態をどう報告するか、考えただけでも頭が痛い。

 とりあえず善行のアドバイスのとおり、警備府にすぐ連絡して原口長官との面会の約束を取り付けた。ついでに叢雲に連絡をして、きっちり怒られた。

 

「まずいと思ったら、とにかくすぐに報告して謝ってしまうのが一番です」とは彼の弁であった。

 

 長官は夕方まで外出中ということで、面会の約束は17時となった。時間を確認すると、まだ14時前。警備府までの移動時間を差し引いても2時間以上はある。

 そういえばまだ昼食を取っていなかったが、食欲がない。それよりも、少し静かなところで頭を冷やしたかった。

 

 けど、この目立つ制服で、あまり変なところをうろつくのも良くないかな……

 

 と、一乃は道端の標識に目を止めた。

 

「あ……図書館……」

 

 見覚えのある標識だった。そういえば、先日の作戦会議の帰りに通った道だ、と今さらながらに気が付いた。

 

『お前には戦争以外のことを考える時間が必要だ』

 木曾との会話を思い出す。

 

 あの時は、作戦のことで頭がいっぱいで、そんな余裕がなかった。

 ちょうどいい、少し本でも眺めながらクールダウンしよう、と一乃は図書館の方角に足を向けた。

 

 

 

 熊本市立図書館のロビー。一乃は深々と息を吸い込んだ。本の匂いを嗅ぐのも、ずいぶん久しぶりな気がした。

 

「仕事以外の本、よね」

 

 呟き、館内へと足を進めた。

 

 戦時中である。図書館の中は照明も抑え気味で、閑散としていた。が、それでも窓際の閲覧席には人影があった。

 おそらく学兵だろう。一乃と同年代の女子学兵が、机に本を積み上げ、熱心に調べ物をしている。

 難しそうな専門書をすごいスピードで読み込んでおり、一乃は思わず感心した。

 

 と、一乃の視線を感じたか、少女が本から顔を上げ、こちらを見た。

 まっすぐな眼差しがまともにぶつかり、一乃は思わず中途半端に会釈をして視線を逸らした。

 

 取りつくろうように傍らの本棚に向き直って、動物に関する本が並ぶ棚だったことに気が付いた。

 目についた本を、一冊手に取って開いてみる。イルカの写真集だった。海が深海棲艦の領域となってからは、海洋生物の写真は貴重だ。

 もともと動物は好きなほうだ。イルカたちの愛らしくも優美な姿に、一乃は思わず立ったまま写真に見入っていた。

 

 さほど厚くない写真集である。結局立ったまま読み切ってしまい、一乃は本棚に写真集を戻した。どうやら上下巻の2冊組みのようだったが、もう1冊は貸し出し中なのか、本棚には見当たらない。

 

 未練がましくしばらく周囲の本棚を探していた一乃だったが

 

 

 

「探しているのは、この本ではないのか?」

 

 

 

 不意に後ろから声がかかり、驚いて振り返った。

 

 

 

 

 



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816艦隊の日常1:駆逐艦長月における密航事件とそのてんまつ

 昼下がりの穏やかな陽光が、島原の海に降り注いでいる。

 島と島をつなぐ大橋をくぐると、816艦隊隊舎のある大矢野島港湾監視所まではもうすぐだ。

 

 こうしてまた、隊舎に帰ることができるというのは、ほんとに幸運だったな、と長月は思った。

 

 先日の五島海戦で中破した長月は、海戦の翌日に熊本警備府の入渠ポッドに入渠し、治療を受けていた。

 幸い、肉体の負傷は大したことなかったため、入渠は一日で済み、隊舎へと帰還してきたところだった。

 

 入渠が済んだばかりの艤装は快調に波をかきわけ、長月はあっという間に隊舎へと到着した。主機を停止させ、艤装の調子を確かめながらゆっくりと埠頭に上がる。

 

 艤装庫で艤装をおろし、妖精たちに点検を頼む。妖精たちは長月の帰還にうれしそうに敬礼してくれた。

 

 

 荷物を入れた大きなスポーツバッグを肩にかけ、艦隊寮の扉をくぐると、甘い香りが鼻をくすぐった。

 

「あら、お帰り。早かったじゃない」

 

 厨房の入り口から顔をのぞかせたのは、叢雲だった。レトロな白い割烹着を着て、三角巾で髪をまとめている。

 

「入渠は無事すんだみたいね」

「ああ、おかげできれいに直してもらったさ。……そうだ、頼まれていたものだ」

 

 長月は頷くと、手に持ったスポーツバックを開き、ビニール袋を取り出した。

 厳重に包装されたビニールをはがすと、甘い香りがふわりと広がり、いくつかの袋に小分けされた砂糖が姿を現した。

 

「ありがと。助かったわ。あとでお金払うわね」

 

 叢雲が顔をほころばせる。

 

 砂糖はここ最近、特に入手が困難になっている物資だった。

 

 近隣の砂糖の主要な産地のうち、インドや東南アジア諸国は既に幻獣の手に落ちている。国共合作政府が(こも)って抵抗を続ける台湾とは辛うじて海路が確保されているものの、のんきに交易をしていられる状況とはとても言えない。

 国内の主要産地である沖縄からは細々と供給はあったが、鹿児島が陥落した現在、沖縄諸島への海路も日に日に深海棲艦に圧迫されている。

 熊本では、いまや砂糖はわずかな配給があるのみで、店頭にはめったに並ばない。

 この砂糖も、叢雲に頼まれた長月が今朝、熊本市内にある闇市から手に入れてきたものだ。

 

「これで、仕事がはかどるわ」

 

 満足げに微笑む叢雲。

 

「しかし……いくらなんでもこれは、作り過ぎではないのか?」

 

 長月は厨房を覗き込み、ちょっと顔をひきつらせた。

 

 厨房の中では、大きな寸胴鍋が火にかけられ、大量の小豆(あずき)が煮られている。

 

 周囲にはタッパー、ボウル、クッキー型、その他さまざまな容器がところ狭しと並べられており、例外なくあんこと寒天や小麦粉が流し込まれ、各種羊羹(ようかん)へと成形されつつあった。

 

「作れる時に作り置きしておくのよ。羊羹は保存が聞くし、非常食としても優秀だしね」

「いや、少なくとも水羊羹(みずようかん)は、あまり日持ちはしないと思うんだが……」

 

 製氷皿にみっちりと詰まった水羊羹を見て、長月はなんだかなーという顔になった。

 

 ───羊羹作りに使うので、砂糖を10kgほど手に入れてきてほしい。

 警備府でそう連絡を受けた時は、叢雲がお菓子作りとは意外だな、と思ったものだ。お菓子作りにしてはずいぶんと量が多いが、隊としての備蓄も兼ねているのだろうと、そこは不思議には思わなかった。

 

 だが、この分だと、下手をすると羊羹作りだけで10kg近く使っているかもしれない。

 

 たしかに叢雲は寮でもよく羊羮をつまんでいた気がするが、ここまで好きとは思わなかった。

 

「人間も艦娘も水がないと生きていけないでしょ? 水羊羹だって同じことよ」

「そ、そうか……」

 

 長月はそれ以上のコメントを避けた。羊羹の何が叢雲にここまでさせるのだろうか。

 

 ()()()()がここまで羊羹好きだとはあまり聞いたことはないから、これは多分()()()()の個性なのだろう。

 

 満足げに胸を張る様子は、昔ながらの割烹着と三角巾で髪をまとめた姿もあいまって、普段のスマートな彼女とはずいぶん雰囲気が違う。

 司令官といる時の優秀でしっかり者の秘書艦というイメージが強いが、案外こんな一面もあるのか。

 長月はこっそり笑いをかみ殺した。

 

「なに、どうかした?」

「いや……そういえば、他のみんなは?」

「木曾ならあそこよ」

 

 叢雲が食堂兼談話室におかれた古ぼけたソファを指差す。

 と、ソファの背からにょっきりと白い手が突き出され、こちらに手のひらを向けた。

 覗きこむと、タンクトップにショートパンツというラフな格好の木曾が、顔に雑誌を乗せて寝そべっていた。窓の外にトレーニングウェアが干してあるのが見える。軽く体を動かした後、シャワーを浴びてひと眠り、といったところだろうか。

 

「いま戻った。心配をかけたな」

 

 長月が声をかけると、木曾は寝そべったままひらひらと手を振って見せた。普段の頼もしさからは不似合いなほど白くてきれいな手だな、と長月は少々意外に思った。

 

 

 と、階段を下りてくる軽い足音がして、小脇に本を抱えた響が食堂に姿をあらわした。

 

「……おかえり、長月。もういいのかい?」

「ああ、見てのとおりすっかり快調だ」

「それは、よかった」

 

 丈の長いTシャツの部屋着姿の響は、こちらもうたたね寝でもしていたのか、寝癖のついた頭で、こくん、とうなずいた。まだ眠そうである。

 

 響はマグカップを取り出すと、紅茶のティーバッグ放りこみ、食堂備え付けのポットからどぼどぼとお湯を注いだ。

 

「君もいるかい?」

「ん、いただこう……ありがとう」

 

 長月は湯気の立つマグカップを響から受けとり、ひと口すすった。紅茶がじんわりとお腹の中から体を温めてくれる。

 

 響は本を片手に食堂の椅子に座り、紅茶をすすっている。しかし、その目は相変わらず眠そうにとろんとしていた。

 

 

 

 先日の五島沖海戦において、816艦隊は後方に浸透した2倍の敵を相手に、死闘を繰り広げた。

 

 時間としては決して長い戦闘ではなかったが、ほんの一歩間違えれば艦隊が全滅していてもおかしくはないギリギリの戦いだった。

 中破した長月だけでなく、他の3人も細かい負傷は数知れなかったし、それ以上に精神をすり減らしていたと言っていい。

 

 艦娘の肉体の傷は、入渠ですぐ治癒するが、心の方はそうはいかない。

 

 彼女たちは、こうしてそれぞれのやり方で、ゆっくりと戦闘のストレスをほぐしていた。

 

 

「司令官は、病院からまだ帰っていないのか?」

「そ。なんでも、勲章をもらえるみたいなの。総軍司令部での伝達が終わったら、連絡を寄越すはずよ」

 

 そういえばちょっと遅いわね、と叢雲が、食堂の壁にかかっている時計を見て言った。時刻は午後の2時をまわっている。

 

「──ああ、そうだ。闇市で、砂糖の他にもいろいろと買ってきたんだ」

 

 長月は、傍らに置いていたスポーツバッグに手を突っ込んだ。

 

「自衛軍の横流し品がいっぱいあってな。医療キットや工具箱なんかもあった。きっと役に立つはず……」

 

「みっ」

 

 

「……?」

 

 長月は、怪訝な顔をした。

 

「……響、何か言ったか?」

「何も言ってないよ」

「叢雲?」

「あんたの方から、聞こえた気がするけど」

「いや、今のは私じゃないぞ」

 

 そう首をひねりつつバッグの中を探っていた長月だったが、不意に固まった。

 

 スポーツバッグをまじまじと見つめ、恐る恐る手を引き出す。

 

 

「なぁ」

 

 

 とぶら下げられた黒い子猫が鳴き

 

「なぁっ!?」

 

 と長月がのけぞった。

 

 

 

 

「長月、どうしたんだい、この子」

 

 響が目を丸くして問いかけた。

 

 騒ぎを聞いた木曾も、あくびをしながら起き上がる。

 

「なんだ、どっかで拾ってきたのか? 飼うんなら、提督に許可はとったか?」

 

 言いながら指で子猫の喉をくすぐる。子猫は「にゃあ」と存外に愛想よく鳴いた。

 

「い、いや、そういうわけではない。だいたい、私にも身に覚えが……あっ」

 

 しどろもどろに言った長月だが、ふと思い出した。

 

 砂糖を購入した、闇市の店。バッグを置いて店主と値引き交渉をしていた時だ。

 ふと気配を感じて振り返ると、野良猫の親子がバッグを嗅ぎまわっていた。砂糖の匂いを嗅ぎつけたのか、と慌てて長月が走りよると、親子は蜘蛛の子を散らすように四方八方に逃げ去った。

 ざっと見たところバッグの中身に荒らされた様子はなく、長月はホッとしてファスナーを閉めた───

 

「あの時に、バッグの中に潜り込んでいたのか……!」

 

 頭を抱える長月。

 

「市内から密航してきちゃったのか。じゃあ、外に追い出して終わり、というわけにはいかないね」

 

 響が言う。熊本市内からここ上天草までは直線距離で50kmはある。外に放り出したとして、この子猫が自力で母親の元に帰れるとは思えなかった。

 

「どうにかして、元の場所に───いや、しかし今日は816(ウチ)は待機休養か」

 

 待機休養日は、完全な休日とは違い、緊急時に出撃できる体制を確保しておかねばならない。公務であれば話は別だが、私用で遠出するわけにはいかなかった。

 

「な、なんとか司令官に頼み込んで、外出許可を……叢雲、司令官は今どこに───」

「まだ帰ってきてないってさっき言ったでしょ。ちょっと落ち着きなさいな」

 

 叢雲が呆れたように言う。

 と、その時、食堂の電話が鳴った。

 

「噂をすれば一乃みたいね……もしもし、勲章の伝達は終わったの?」

 

 受話器を取った叢雲だったが、ひとこと、ふたこと話すうちに、その眉が急角度につり上がった。

 

「ちょっと、なによそれ……なんでそんなことになってるの。───なんでそこでうかうかと乗っちゃうのよ、おバカ!」

 

 叢雲の甲高い声が響き、長月は思わず響と顔を見合わせる。

 

「……ああもう、わかったからそんな情けない声出すんじゃないわよ! とにかく、その隊長さんの言うとおりになさい。長官との面会の約束が取り付けられたら、また電話しなさい、いいわね?」

 

 叢雲は、そうまくし立てて電話を切った。ため息をついて、額を押さえる。

 

「───莫迦(ばか)は、あの子じゃなくて私の方ね……多少強引にでも総軍司令部に同行するべきだったわ」

「なにか、トラブルか?」

「ええ。どちらかというと、笑い話の(たぐい)のね……一乃を連れ帰ったら話すわ」

 

 さて、まずは由良にコンタクトを取って、それから───、となにやらぶつぶつと呟いていた叢雲だったが、ふと、長月の方を見た。

 

「そうね。長月、帰ってきたばかりで悪いけど、警備府まで一緒に一乃を迎えに行ってもらえるかしら? 倉田隊長に頼んで、警備中隊の車を借りるから」

「えっ、それは───」

「向こうでしばらく時間がかかると思うから、市内に用事があるんだったらその間に済ませてきちゃいなさいよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

長月は一瞬迷ったが、卓の上にちょこんと座っている子猫を見て、叢雲の厚意に甘えることにした。

 

「……ああ、そのとおりだ。すまない、助かる」

「なんのこと? ほら、さっさと支度しなさいよ」

 

 長月が頭を下げると、叢雲はそっぽを向いて言った。視界の端で、木曾がやれやれと笑って肩をすくめるのが見えた。

 

 

 

「なるほどなるほど、もちろん、喜んでお貸しいたしますよ」

 

 大矢野島港湾監視所の所長であり、駐屯する警備中隊の隊長でもある倉田大尉は、温顔でうなずいた。

 

「しかし、迷子の黒猫ちゃんですか。さしずめ、名前はルドルフといったところですかな」

「るど……?」

「ああ、失礼。いや、娘が小さいころに好きだった童話がありましてなぁ」

 

 老大尉はそう言って笑った。

 

「しかし、行きはいいですが、お帰りの際は少々ご注意ください。またぞろ、田村司令目当てにテレビ屋さん方がおいででして」

「また、ですか」

 

 叢雲が眉をひそめる。

 倉田が指差す方を見ると、確かに、港湾監視所前の路上に、数台の車が停まっている。

 

「まあ、このご時世ですからな。戦場の『英雄』など、週替わり日替わりでいくらでも現れます。もう2、3日もすれば、テレビ屋さん達も新しい英雄の方に関心が向くでしょう」

 

 なんでも阿蘇特別戦区では真っ赤なロボットが大暴れしている、という噂まであるくらいです。本当ならぜひ見てみたいですな、と倉田は笑った。

 

 

 

 

 熊本市中心部、ムーンロード。

 

 開戦前は多くの市民で賑わっていたこのアーケード商店街は、現在は熊本駅の物資集積所からの横流し品が集まり、半ば公然とした闇市と化している。

 前線の各部隊にとっては必要な物資を物々交換で調達する場所であり、いまだ市内に残る市民にとっても、高価とはいえ生活必需品を入手できる数少ない場所である。警察や憲兵隊も、必要悪として黙認していた。

 

 長月は公営の駐車場に高機動車を停め、子猫を抱いて車から降りた。ムーンロードは相変わらず多くの兵士や学兵達が行き交っている。警備府に所属していたときにも何度か訪れたことがあるが、そのときに比べても薄汚れた兵士達の姿が目立つ気がした。

 

 長月が足を向けたのは、そのムーンロードの奥まった一角、とあるビルの地下にある店だった。

 

 正式な店名は誰も知らない。ただ、「裏マーケット」と兵士や学兵たちの間でよばれている。

 店主の老人は、この闇市の中でもかなりの実力者らしい。

 

 決して広くない店内にところせましと雑多な品が積み上げられており、明らかに自衛軍横流しと思われる各種の銃器から星印製菓の天然チョコまで、ありとあらゆる品がそろっている。長月が午前中に砂糖を買いに来たのもこの店だった。

 

 子猫を抱いて店内に足を踏み入れた長月を、店主の老人が鋭い目でじろりとにらんだ。

 

「猫は買いとらんぞ・・・・・・」

「い、いや、そういうわけではないんだ」

 

 長月は首を振った。

 最近はアルバイトと思われる女子学兵も見かけるのだが、いまは姿が見えなかった。

 

 子猫がバッグに紛れ込んだのは、おそらくこの店での買い物中のことだろうと長月はあたりをつけている。

 きょろきょろと店内を見回す長月だったが、その背に、声がかかった。

 

「長月?」

 

 振り向くと、見知った顔が訝しげにこちらを見ていた。

 

不知火(しらぬい)か。どうしたんだ、こんなところで」

「それはこちらのセリフです」

 

 そう言って歩み寄ってきたのは、八代艦隊の秘書艦である陽炎型駆逐艦2番艦不知火だった。

 

「不知火は、買い出しです。・・・・・・どうしたんです、その猫は?」

「いや、それがその、迷子の子猫というか・・・・・・」

 

 

「そういうことですか。なんというか、ずいぶんと親切ですね」

 

 長月が事情を説明すると、不知火はあきれたように言った。

 だが、その目がちらちらと子猫の方を見ているのに長月は気付いた。

 

「その、撫でてみるか?」

 

 試しにそう言ってみると、不知火はあからさまにギクリとした。

 

「い、いえ、結構です。不知火は目つきが悪いので、猫に嫌われますので」

 

 口ではそう言いつつも、視線が長月の顔と子猫をせわしなく往復している

 

「別に嫌われてないと思うぞ。ほら」

「あ」

 

 ひょい、と長月が不知火の手を取り子猫の頭に持ってくると、子猫は自分から不知火の手に頭をすり付けた。

 

「う・・・・・・」

 

 不知火は顔を赤らめ、しばしそのまま身動きしなかったが、ハッとしたように身を引いた。

 

「し、失礼。取り乱しました」

「別に取り乱してはいないと思うが・・・・・・」

 

「買わないのなら商売の邪魔だ。とっとと出ていけ」

 

 無愛想な声が割って入り、不知火と長月は顔を見合わせてそろって顔を赤くした。

 

「っと、すまない。えー、さて、ここからお前のお母さんやきょうだいがどこへ行ったかだな……」

 

 長月が改めてあたりを見回すと、子猫がにゃあと鳴いた。

 店の天井近くにある通風窓を見上げている。

 

「そこは……」

「……通風のために普段は開けている。たまにそこから野良猫が侵入してきて困っている」

 

 相変わらずの無愛想な声だったが、長月は思わず目を見張った。

「そ、そうなのか……ありがとう、親父さん」

「わかったらとっとと出ていけ。商売の邪魔だと言っている」

「不知火、その、すまないが……」

「わかりました、本当に、親切ですね」

 

 不知火はうなずき、壁に手をついた。長月は子猫を服の胸元に入れると、彼女の背を足場に、通風窓へとよじ登る。窓は、長月でもなんとか通り抜けられた。

 

「すまない、助かったよ。この礼は、今度させてもらう」

「お礼をしてもらうほどのことはしていませんが……でも、そうですね。こんど、冒険の顛末(てんまつ)を聞かせてください」

 

 不知火はこちらを見上げ、わずかに微笑んだ。

 

 

 

 通風窓の先は立ち並ぶビルの隙間だった。小柄な長月でも、通り抜けるのがやっとだ。

 

「こっちでいいのか?」

「にゃあ」

 

 昼間でも薄暗いビルの間を抜け。

 

「ここをよじ登るのか……」

「みっ」

 

 2mはありそうな塀をよじ登って、その上を歩く。

 

 すでに長月は、全身ほこりまみれになっていた。

 

「とりあえず、私でよかった。木曾や叢雲の白い制服じゃ目も当てられないからな」

「にゃあ」

 

 そんな言葉を交わしつつ、さらに奥へ。

 

 

「にゃっ」

 

 と、子猫が不意に長月の胸元から飛び出し、走りだした。

 

「あっ、おい!」

 

 慌てて後を追う長月。

 

 子猫の後を追って曲がり角をまがって、思わず足を止めた。

 

 路地の先の袋小路、ちょっとした広場のようになっているそこに、無数の猫たちが集まっていた。子猫はそのうちの一匹の猫にすり寄っている。たしか、あの時見かけた母猫だ。

 

 喜ぶべき場面だろうが、長月はそれどころではなかった。

 

 こちらを半ば取り囲むかのように並ぶ猫たちの間から、明らかな敵意がこちらに向けられている。

 

「いや、待て。確かにその子を連れて行ったのは私だ。だが……」

 

 つばを飲み込み、慎重に口を開くが、猫たちの敵意には変化がない。低い唸り声が、そこかしこから聞こえてくた。

 ちょっとでも刺激したら一斉に襲われかねない。長月の背筋が寒くなった。

 

 が、その時

 

「ぶにゃう」

「うわっ?」

 

 いきなり長月の背後から低い鳴き声がひびき、長月は驚いて振り返った。

 

 いつの間に近づいてきたのか、長月のすぐ後ろに大きな猫がこちらを見上げていた。1mはあろうかという巨大な猫で、茶色い毛並みに赤いチョッキのようなものを着ている。

 

「ニャーゥ」

 

 猫は長月を見上げ、一声鳴いた。やたらと威厳のある声だった。

 

「ねこさーん、どこー?」

 

 高い、声がして、さらに向こうから、小さな人影が走ってくるのが見えた。

 駆逐艦娘である長月よりさらに頭ひとつ分は背が低い。おそらく10にも満たない少女だった。

 

「こっちに来るな、危ないぞ!」

 

 慌てて声をかける長月。少女は目を丸くしてこちらを見たが、直後にパッと顔を輝かせた。

 

「あ、ねこのおかあさんのこども、かえってきたのね。えへへ、よかったねぇ」

 

 少女はにぱっと笑った。頭の両側でむすんだ、黄色いリボンが揺れた。

 

「おねーさんが、つれてきてくれたんだ。えらいねぇ」

「あ、ああ。いや、元はといえば、私が連れて行ってしまったんだが……」

 

 言いながら長月は驚いた。

 赤いチョッキを着た猫と、そして少女が現われてから、周囲の猫たちの敵意が嘘のように霧消していた。

 

 猫たちは一声鳴き、一匹、また一匹と、広場から姿を消していく。

 最後に残ったのは、赤いチョッキの猫と、親子だけだった。

 

「ぶにゃう」

 

 また、チョッキを着た猫が鳴いた。

 

「ええとね、わかいものたちをゆるしてほしい、って。このこがかどわかされたと思っていたのだ……かどわかさ、ってなにかな?」

 

 少女がいい、首をかしげた。

 

「あー、さらわれる、という意味だな。いや、そもそも私が間違って連れて行ってしまったことには変わりないんだ。むしろ謝らせてほしい」

 

 長月はそう言って首を振った。

 まるで猫の言葉を通訳しているかのような少女の言葉だったが、なぜか疑問を感じなかった。長月の前に、親子が進み出てくる。

 

「すまなかった。きみを親元に帰せて良かったよ。気をつけてな」

 

 長月が声をかけると、子猫が「みぃ」と鳴き、母猫は、長月に、まるで頭を下げるようなしぐさをした。

 

 親子は身をひるがえし、いつのまにか現れた他のきょうだいたちとともに、路地の奥へと姿を消した。

 

「にゃーお」

「うきしろのむすめよ、かんしゃを、だって。さんねんのおんもみっかでわすれるなどとぬかすやからもいるが、われらはうけたおんは9のせいをへてもわすれぬ……ふぇぇ、むずかしいよ」

 

 長月には、巨大な猫がまるでにやりと笑ったように思えた。

 

「ナーオウ」と猫は別れを告げるかのように鳴いて、くるりと踵を返して歩み去る。

 

「あ、まってなの、ねこさん」

 

 少女がててて、と後を追いかけたが、不意にぴたりと足を止め、くるりと振り返った。

 

「おねーさん、ありがとうね。ねこのおかあさんのこどもがかえってきて、とっても嬉しかったのよ」

「……ああ、私も、あの子をお母さんの元に帰してやれて、嬉しいよ」

 

 少女はにこっと笑って、ばいばい、と手を振り、巨大な猫の後を追って駆けて行った。

 

 長月は、自然と微笑んでその背を見送る。

 

 普段ならあんな幼い少女がひとりで出歩いていて大丈夫なのかと心配になるところだが、あの大きな猫がついていれば大丈夫だと、なぜか思った。

 

「さてと、」と長月は口に出し、ほこりまみれになった制服を手ではたいた。

 

 これから警備府に戻って、司令官と叢雲を迎えなければならない。ああそうだ、不知火にもまた改めて礼を言わないとな。

 

 長月は足取りも軽く歩き出す。

 

 

うきしろ(浮城)のむすめ』、そう呼ばれていたことに気づいたのは、ずっと後になってからのことだった。

 

 

 

 

「あれ、長月ちゃん?」

 

 警備府の駐車場に高機動車を停め、そのそばで海を眺めていた長月は、聞き覚えのある声に振り返った。

 柔らかそうな黒髪を後ろでふたつ三つ編みにした、おとなしそうな印象の少女が、こちらに歩いてきた。

 

「ああ、磯波(いそなみ)か。しばらくだな。元気だったか?」

 

 特型駆逐艦9番艦である磯波は「長月ちゃん、この前は大変だったね」とおずおずと微笑んだ。

 

「長月、待たせたわね」

 

 その後ろには、叢雲と、そして一乃が続いている。

 一乃は長月の顔を見るなり、小走りに駆けよってきた。

 

「あ、長月、もうケガはいいの?」

「大丈夫だ、司令官。そういうそちらこそ、顔色が良くないぞ」

「あはは、その、いろいろとあってさすがに疲れた、かな」

 

 一乃は苦笑いした。

 

「ええと、それじゃあ磯波、いろいろとありがとうございました。長官にもよろしくお伝えください」

「とんでもないです。田村司令、お気をつけて」

 

 磯波はぺこりと頭を下げ、「長月ちゃんごめんね。こんど時間のある時に、ゆっくりお話ししようね」と告げ、小走りに去った。

 

「長月は、磯波と知り合いなの?」

「ああ、磯波とは建造時期が近いんだ。佐世保ではよく、磯波や響と一緒に教艦にしごかれたよ。しかし忙しそうだな」

「秘書艦見習い中みたいよ。長官との会談にも同席してたわ」

「そうか、そういえば前にそんなことを言っていたな」

 

 そんなことを話しながら高機動車の扉を開け、乗り込む。

 

「司令官、いろいろとあったそうだが、大丈夫だったか?」

 

 大まかなあらましは、行きの車中で叢雲から聞いていた。

 

「うん、とりあえず。……原口長官、気にすることはないって大笑いしてくれたわ。悪ふざけの好きな御仁(ごじん)だから、って」

「ほんと、アンタ上司には恵まれてるわね。救援要請の件といい、長官にはよくよく感謝しときなさいよ」

「わ、わかってるってば」

「ま、いい勉強にはなったわね。九州総軍の参謀長と個人面談なんて、なかなかできる経験じゃないわよ?」

「うん……でも、あんな経験は、もう最後でいいかなあ」

 

 茶化すように言う叢雲に、一乃はひきつった顔で答えた。芝村準竜師との面談は、だいぶトラウマになっているらしい。

 

「大変だったな、司令官」 

「ありがとう、長月。……でも、そうね。今日はいろいろな人に会えたから、そこは良かったかな」

「そうか、奇遇だな。私もだ、司令官」

「長月も?」

「ああ。私の方はむしろ『人』は少なかったんだが」

「え? どういうこと?」

 

 きょとんとした顔をする一乃。

 

 長月は口の端を吊り上げ、さて、何から話そうかと思いながら、高機動車を発進させた。

 

 

 

 

 



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第11話 嵐の前に

 

 1999年3月14日 〇九〇三 第816艦隊隊舎 艦隊司令執務室

 

「みんなにニュースがあるわ」

 

 朝方の司令執務室、艦隊全員を集めた田村一乃海軍臨時少佐は、おもむろに切り出した。

 

「警備府から内々に連絡がありました。近日中に816に補充要員2名が配置されます。晴れて、正規編成の6隻体制になるみたい」

「おお、ついにか」

 

 長月が思わず声を上げた。

 816艦隊の発足から約1か月。長月だけでなく、艦隊全員が待ち望んでいた知らせであると言っていい。

 響もうなずく。

 

「誰が来るか、決まっているのかい?」

「そこまでは教えてもらえなかったわ。そこは正式な通達を待たないとね」

 

「たぶん、ひとりは磯波(いそなみ)で決まりよ」

 

 叢雲が横から、あっさりとそう言ってのけた。思いがけない言葉に、一乃は目を丸くする。

 

「えっ、なんで?」

「この前の長官との面会に同席してたでしょ? あれはたぶん、あんたとの顔合わせだわ。秘書艦の見習い期間もそろそろ終わりのようだったしね。あんたと話してる様子を見て、長官が問題ないと思ったら、たぶん決定よ」

「なるほど、確かに筋は通ってるな。秘書艦ができるやつも、もうひとりぐらい必要だろうからな」

 

 腕組みをしている木曾がうなずく。

 秘書艦の業務は、艦隊運営の補佐から参謀役まで多岐にわたる。このため、秘書艦の資格を持つ艦娘は、小規模艦隊でも2名以上配置されることが多い。

 ベテランの叢雲と新米秘書艦である磯波の組み合わせならば、バランスも取れている。

 

「でしょ? だからもし磯波がこなかったら、一乃のほうになんか問題があったってことね」

「……なんだかその理屈、ズルい気がするんだけど」

「あー、確かに、何というか隙のない論法だな」

 

 一乃の抗議に長月が苦笑いした。

 

「仮にひとりが磯波とすると、もうひとりは誰なんだろうね。やっぱり駆逐艦かな」

「そうね。軽巡がくれば(おん)の字ってとこだけど、なかなかそううまくはいかないでしょうね」

「水偵が運用できる軽巡が来てくれればうれしいけど、やっぱり難しいかな……」

 

 一乃がため息をつく。

 偵察機は艦隊にとって重要な眼である。だが816は今のところ、木曾が運用する零式水偵1機に頼っている状態だ。索敵や戦闘時の弾着観測を考えると、せめてもう1機は欲しいところだった。

 しかし、だからといって木曾が水偵を2機積もうとすると、積載量の関係で2門の14cm単装砲のうち1門を下ろさなくてはならなくなる。

 816の最大火力である木曾の主砲を減らしてまで水偵を積むかというと、なかなか悩ましいところだった。

 

「15.2cm連装砲があればまだいいんだけどな」

「申請はしてるけど、現状装備はどこも足りてないから・・・・・・。長月の分の12.7cm連装砲もまだ都合がつかないし」

 

 木曾の14cm単装砲、そして長月が装備する12cm単装砲は標準的な艦娘の主砲ではあるが、やや旧式の部類に入る。最前線の艦隊としては、より性能の良い新型の装備へと更新したいところだ。

 だが、一乃の言葉のとおり、艦娘の装備は不足ぎみで、末端の艦隊まではなかなか更新が行き届かないのが現状だった。

 

 一乃はボールペンをもてあそびながら考え込む。

 

「こんど警備府に演習に行く時に……木曾と長月にそれぞれ15.2cm砲と12.7cm砲の試射をさせてもらえるようにお願いしてみようかな……で、試射のあとそのまま()()()()()()()()持って帰ってきてもらうとか」

「司令官司令官、さらりと危険な妄想を口走るのはやめてくれ」

「計画のみみっちさがいかにも一乃ね。大発に戦車を乗っけて警備府に押し込むくらい言いなさいよ」

「そっちも煽るんじゃない、秘書艦!」

「勲章授与の後はあんなに落ち込んでたのに、司令官も意外とたくましいね」

 

 響が苦笑いした。

 

 

 

 

「失礼するぞ、提督……なんだ、いないのか」

「あ……お疲れ様です、日向さん」

 

 報告書を片手に長官執務室の扉をくぐった警備府第一艦隊旗艦、航空戦艦日向は、主のいない執務机を見て軽く眉を上げた。

 机を拭いていた秘書艦見習いの磯波が、会釈した。

 

「司令官は、私室に戻られました」

「珍しいな……いや、そうか。そういえば、今日は日曜か」

 

 日向がカレンダーを見やって言った。

 戦時とはいえ、戦闘待機にある艦隊を除き、日曜日は休日に指定されている。

 もっとも、警備府長官ともなれば、休日などあってないようなものだ。第一秘書艦である由良などは原口の健康を心配してたびたび休むように進言しているが、今日も昼過ぎのこの時間まで執務をしていたのだろう。

 

「休みのところ申し訳ないが、この報告書だけは持っていくか。ありがとう、磯波」

 

 日向は踵を返し、庁舎内の原口長官の私室へ足を向けた。

 

 警備府長官ともなれば、市内にちゃんとした官舎も用意されている。しかし原口は、そちらにはあまり足を向けず、警備府庁舎の一角にある大して広くもない私室に寝泊まりをしていた。

 

「提督、失礼するぞ」

 

 開け放たれた扉を軽く叩き、室内を覗き込むと、原口はこちらに背を向けて座っていた。

 

「ン……日向か」

「休みのところすまない。報告書を持参した……が」

 

 歩み寄って原口の手元をのぞき込む。

 

「貴方が将棋を(たしな)むとは知らなかったな」

「形だけだがね。偉大なる歴代の先輩方の真似事なんだが、どうにも私はいまいち向かないらしい。てんで弱くてね」

 

 詰め将棋の本を片手に原口は笑った。そのかたわらに置かれた書類の束に、日向は気づいた。

 

「やはり、海軍司令部からは色よい返事はなかったか」

 

 日向の問いに、原口は無言で微笑んだ。

 表紙にそっけなく「甲作戦案」と書かれた書類の束を手に取り、めくる。

 

 甲作戦案は、五島沖海戦の翌日に熊本警備府司令部名で海軍司令部あてに提出された。東シナ海済州島付近の深海棲艦の残存勢力に対して積極攻勢をかけ、これを殲滅することを目的とした作戦案だった。

 警備府艦隊だけでは戦力が足りないため、呉鎮守府や対馬要塞からの増援が前提となる。しかし、この作戦により付近の深海棲艦隊を一掃できれば、少なくとも夏の自然休戦期までの間は九州西岸の安全は確保される。そういった観測に基づいた作戦だった。

 

「『当該作戦計画に理あると認めるも、昨今の情勢に鑑み、なお検討を要す』か。まあ、(てい)のいい却下だな。五島沖での戦果がある分、東 京(海軍司令部)も言葉だけは丁重に返してきたみたいだが」

 

 書類の末尾に朱書された『司令部意見』をみて、日向が皮肉気に口の端を曲げた。

 

「こちらとしてはその『戦果』を確かなものにするための作戦のつもりなのだがな。もどかしいな、提督」

 

 五島沖海戦において警備府艦隊は、空母棲姫を中心とした敵主力を撃破することに成功したものの、損害の大きさと、後方に浸透した敵艦隊への対応のため、早い段階で敵の追撃を断念していた。このため、主力艦隊以外の深海棲艦の多くが、撤退に成功したと推定されている。

 おそらく、いまだに数だけなら警備府艦隊以上の敵戦力が同海域に存在している。それが、警備府司令部の出した結論だった。

 核である空母棲姫を失って烏合の衆と化している隙にこれを叩き、人類側の優位を確かなものにするというのがこの作戦の目的だったのだが……

 

「熊本のために呉や対馬の戦力を投入する、というのはやはり、東京からすれば認められんのだろうな」

 

 熊本要塞の位置づけに関しては、同じ日本自衛軍でも、陸軍と海軍の間では明確な温度差があった。

 

 海に囲まれた日本という国を守るうえで、陸軍と比べて、海軍が守るべき領域は圧倒的に広い。

 いまや数少ない人類の生存圏である米国へ通じるオホーツク・アラスカ航路は絶対に死守せねばならないし、沖縄・台湾航路もまた別の意味で失うことなどできない。かといって長大な本州の海岸線にも絶対に深海棲艦を寄せ付けてはならないし、そのためには島しょ部を深海棲艦の手に渡すわけにもいかなかった。

 戦力がいくらあっても足りない。それが、海軍の正直な心情だろう。

 幻獣に対する本州防衛の要として戦力をかき集める陸軍と違い、深海棲艦と対する海軍にとって熊本は、あくまでいち拠点に過ぎないのだ。

 

 そもそも海軍は、昨年の対馬海戦後、佐世保鎮守府の再建を軸とした戦略を進めており、熊本など当初は頭の片隅にもなかった。ところが、八代会戦後、急きょ陸軍の提案で政府が熊本要塞計画を策定し、その一環として、海軍は熊本警備府の設立と、佐世保鎮守府の事実上の放棄を余儀なくされたのである。

 いわば陸軍に横からくちばしを突っ込まれ、防衛省から頭を押さえつけられた格好だったが、幻獣の九州上陸を阻止できなかった負い目のある海軍は、これを呑むしかなかった。

 

『お義理で陸軍に付き合ってやっている』

 

 海軍上層部の一部には、そんな認識すらあった。原口の長官就任の理由の一端も、このあたりにある。本来、寄せ集めとはいえこれだけの戦力を持つ警備府の長官ならば、将官クラスでもおかしくはないのだ。

 

「まあ、お偉いさん方の考えることもわからんわけでもないのが、辛いところだな」

 

 原口とて海軍の軍人である。

 とりあえずこの方面での優勢が確保されたのなら、無理に冒険をすることはない。最低限の戦力で、自然休戦期まで何とか逃げ切る。

 絶対的な戦力の不足に悩む海軍上層部が、そう断を下したくなる気持ちもわかるのだろう。

 

「が、正直なところ、歯痒くないと言えば嘘になるな。熊本戦の開始以来、我々が初めて主導権を握れるかもしれない局面だったのだが……」

 

 警備府長官に就任する前、南西諸島での原口は、機動力を生かし積極的な行動で数的劣勢を補う、勇将タイプの提督だったと聞いたことがある。

 甲作戦案も、原口の意を受けて、迅速な行動を旨としている。もし作戦案が承認されていれば、警備府艦隊は今頃すでに出撃準備に入っていたはずだ。それだけに、今の状況はもどかしいことだろう。

 

 日向は、頭をひとつ振った。

 

 

 

「戦力の補充は、認められたのか?」

 

 空気を変えようとするような日向の問いかけに、原口も頭を切り替えて、うなずいた。

 

「さすがに、そのくらいは認めさせた。まだ未決定だが、重巡を含む数名の艦娘の配属が決まりそうだ」

「ほう、重巡か。悪くないな」

 

 日向が顔をほころばせる。

 小規模艦隊なら旗艦が務まるし、大規模艦隊においても水上打撃部隊の中核を担える。重巡洋艦娘は、そういった使い勝手の良さがあった。大型艦娘の数が少ない熊本警備府にとっては、なおさらだ。

 

「贅沢をいうなら正規空母が欲しかったところだが……まったく、こういう時に()()を面倒くさがっていたつけがまわってくるな。」

「いまからでも遅くないんじゃないか? つい三日前も、ラブコールがあったそうじゃないか」

 

 悪戯っぽく笑う日向に、原口は苦笑した。

 

「ああ……田村少佐には、可哀想なことをしたな」

 

 面会した時の田村少佐の落ち込んだ様子を思い出す。

 良かれと思って田村少佐の勲章授与式典を辞退した原口だったが、まさか芝村準竜師……いや、芝村少将が直々に彼女と面会するとはさすがに予想していなかった。

 

 大まかな事情を聴きだし、原口はあえて大笑いをして見せた。

 

『君が気に病む必要はない。芝村少将は、悪ふざけの好きな御仁(ごじん)だから』と。

 

 嘘は言っていない。が、すべてを説明したわけでもなかった。

 

 原口の見るところ、芝村少将の振る舞いはむしろ、芝村閥からの原口自身への明確なアプローチだ。平たく言えば、日向の言葉のとおり『ラブコール』といっていい。

 田村少佐は、いわば、ダシにされたに過ぎない。彼女が視察した学兵小隊を調べてみたところ、善行(ぜんぎょう)という設営隊長は、大陸で戦った元海兵小隊長だったということも判明している。まったく、実に念の入ったやり方だ。

 諜報に優れた芝村のことだ。おそらく、その前日の警備府による甲作戦案の上申をも把握した上でのことだろう。

 迅速にして果断、そして強引にして露骨。実に、かの一族らしいやり方だった。

 

 確かに、日向の言うとおり、いっそ思い切って芝村閥に接近する手もある。芝村の後ろ盾があれば、作戦案の上申にしろ補充の戦力にしろ、もっと違った展開があったかもしれない。

 だが、芝村閥には敵も多い。

 ただでさえ警備府の軍閥化に神経を尖らせている海軍上層部である。原口を筆頭に熊本警備府が丸ごと芝村閥に転べば、どんな反応を示すかわかったものではなかった。

 

 考えに沈んでいた原口は、ふと、気配を感じて顔をあげた。対面に腰を下ろした日向が、にやりと笑って見せた。

 

「提督、詰め将棋もいいが、たまには盤の向こうに相手がいないと勘が鈍るぞ。私でよければ、一局、どうだ?」

  

 

 

 数分後、原口の私室にコーヒーを運んできた由良は、原口の対面に座る日向を見てちょっと目を丸くした。

 

「日向? あなた、将棋なんて指せたの?」

「まあ、たまにはな」

 

 笑って日向は、ひょいと銀を指す。

 

「日向……銀は、横には動けないと思うけど」

「おや、そうだったかな? さて、提督の番だぞ?」

「ん、私か、どれ……ああ、由良、ありがとう」

 

「提督さん、いいんですか?」

 

 代用コーヒーを原口の前に置き、由良が訪ねると、原口は目を瞬いた。

 

「ああ、すまん、考え事をしていた。なにがだね?」

「───だ、そうだ」

 

 片目をつむってみせる日向。

 

 提督さんのことだ。たぶん、艦隊運営について考え込んでいたんだろうけど、対局中に相手の指し手も目に入らないほど考え込んでいるようじゃ、それは強いわけがない。

 

 盤面を見ておや?と首をひねる原口に、由良は苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 群青の海の向こう、複数の艦娘たちが、複雑な軌道を描いて交錯している。

 

 一乃は、夕日のまぶしさに目を細めながら、埠頭に立ってそちらを眺めていた。

 

「君の艦隊は、いい動きをするね」

 

 並んで立つ814艦隊司令、(ひがし)少佐が言った。

 

 この日、午後から814艦隊と816艦隊の演習が行われていた。いまは艦娘たちが提督の指揮を離れ、個別訓練に励んでいるところだ。

 

「ありがとうございます。みんな、わたしの指揮にはもったいないくらいで」

「この前の海戦での奮闘は戦闘詳報で読ませてもらったよ。4人とも、素晴らしい戦いぶりだった。遅滞戦闘のお手本のような動きだったよ」

「……ありがとうございます」

 

 一乃は頭を下げた。艦隊のみんなが褒められるのって、こんなにうれしいものなんだな、とふと思った

 

「けれど、814こそ、さすがの練度ですね」

「まだまだ警備府艦隊や八代艦隊のようにはいかないけどね。それでも、提督が新米で頼りないと、むしろ艦娘はがんばってくれるものみたいだ」

「あはは、東司令はともかく、わたしのほうはそれ、合ってます」

 

 一乃は思わず笑った。このあたりは新米提督同士ならではの共感、といったところだった。

 

「提督としてはせめて、運営面でできる限りのサポートはしたいところなんだけど、なかなかね。たとえば、うちの熊野は航空巡洋艦への改装には充分すぎる練度なんだが、改艤装を陳情してもなしのつぶてさ」

 

 艦娘には、建造時から装備している艤装の強化改修型ともいうべき改艤装が存在する。扱うには艦娘も相応の練度を擁するがその効果は大きく、また艦娘によっては、艦種そのものが変わる改艤装やさらに性能が向上する改二型と呼ばれる艤装も存在した。

 ただし、改艤装は通常の艤装以上に貴重品であり、たとえ練度が高い艦娘がいたとしても、それに応じた改艤装は配置待ちという状況は珍しくなかった。

 

「わたしも、装備の更新を陳情してるんですが、やっぱり難しそうですね……」

「そうなのか。何の装備を陳情したんだい?」

「……ええと、15.2cm連装砲に12.7cm連装砲と8cm高角砲、四連装酸素魚雷管を人数分と新型電探を……」

「それは……なんというか、その、豪気だね」

「今がチャンスだからとにかく頼めるだけ頼んどきなさいって、その、叢雲が」

 

 ずいぶんと欲張った内容に目をみはる東に、一乃は顔を赤らめた。

 

「……それに、五島沖の時みたいな思いは、もう、二度としたくないんです」

 

 本音だった。あの時みたいに土壇場で後悔するぐらいだったら、身の程知らず、欲張りと罵られた方がずっとマシだった。

 

 東は一乃の横顔を眩しそうに見て、沖の方に視線を転じた。

 

「815艦隊の再建は、当分先になりそうだね」

「そうですか……」

 

 あの奇襲の結果、815艦隊は過半の艦娘が轟沈したと聞いている。一乃は目を伏せた。

 

「田村少佐、君のせいじゃない。君は提督として自分のできる最善を尽くした。君が、熊本を守ったんだ」

 

 東少佐は、言葉に力を込めて言った。過分な言葉だが、その気持ちは嬉しかった

 

「815が抜けたぶんは、しばらくは他の艦隊が補うことになるだろうね」

「815艦隊は、長崎と五島列島周辺海域の哨戒が主任務でしたよね?」

「そうだね。周囲の艦隊が少しずつ哨戒域を広げて、その穴を埋める形になる。靴下にあいた穴を、(つくろ)うのと同じことだね。周りの繊維を少しずつ引っ張ってきて、穴を埋めるのさ」

「靴下の穴、ですか?」

 

 思わず一瞬きょとんと東の方を見る。

 しまった、という顔をしている東。一乃は思わず口をほころばせた。

 

「東司令、裁縫なんてなさるんですね」

 

 いかにも秀才、といった東の外見からは、少し意外だった。

 

「……あ、ああ、まあね。その、変だろうか」

「いいえ、素敵だと思います。わたしなんかぶきっちょで、縫いものはいまいち苦手で……」

 

 一乃は慌てて手を振った。

 

 ふと見ると、沖合いの演習は一段落したようだった。814艦隊の第一秘書艦である初春が、こちらを見て何やら口に扇を当てているのが見える。

 

「……まったく、あいつがどんなことを言っているのか、簡単に予想がつくな」

 

 憮然として言う東に、一乃は首をかしげた。

 

 

 

「くくく、初々しいのう。見ていて微笑ましいではないか?」

 

 初春は、意地悪気な笑みを浮かべながら埠頭に立つ二人の提督を見やって言った。叢雲が横に並び、呆れたように腰に手を当てる。

 

「あんたも物好きねえ。近所のおばちゃんみたいになってるわよ」

「何をいう。司令官が自らおちょくるネタを提供してくれているのじゃぞ。これを活かさん方がかえって失礼というものじゃ」

「それは、失礼、なのかい……?」

「うむ、失礼じゃ。(わらわ)は司令官をおちょくることが三度の膳より好きじゃからな」

「そうそう。姉さまは、司令官が、大好きなんだよー!」

子日(ねのひ)……肝心なところだけ省略するでない」

 

 扇でぺしりと額を叩かれ、初春の姉妹艦である子日はきゃーと笑いながら逃げた。

 

「なんにせよ、提督同士、仲が良いのは結構なことですわ」

「あれ、熊野、余裕だねー。提督、取られちゃうかもよ?」

「おあいにく様。いい女は、あのくらいのことでいちいち目くじらを立てたりしませんの」

 

 軽巡長良が冷やかすが、熊野がすました顔で答える。

 

 いずれもさして本気ではない軽口だ。

 東は威厳のあるタイプではないにしても、艦隊の艦娘たちに好かれているということがよくわかる。

 

「貴様は、田村少佐とは士官学校時代からの付き合いなのだろう? どうじゃ、司令官の()()()()の気配を感じて、なんぞ思うところはないのか?」

 

 初春に水を向けられ、叢雲は肩をすくめる。 

 

「思わないしそもそも感じないわよ。だいいちあの子、そういうことについてはまだまだお子様だもの」

「眉間にシワがよってるぞ」

「誰が」

 

 通りざまに茶化す木曾を、叢雲はぎろりと睨み付けた

 

「ま、からかい甲斐があるのもわかるけどね。あんたのとこの司令、真面目そうだもの」

「くく、一見そう思うであろう? だがな、あやつも、堅物(かたぶつ)に見えて実は、(うち)になかなかの闇を秘めておるのじゃ。あやつの秘蔵の品の隠し先から入手ルートまで、(わらわ)はしっかり把握しておる」

「ああ、一乃の寮の私室の机の、鍵のかかる二番目の引き出しの中身みたいなものね」

「いつかタグ付けして、綺麗に机の上に並べてやるのが楽しみでのぅ」

「イイ趣味してるわねえ。ま、わたしもアンタのサイズじゃそれ着けるのは無理って、いつか宣告してやるつもりだけどね」

 

「うわぁ……」

「秘書艦、こわっ!」

「ちょっとそこ、もう少し詳しく!」

 

 突如勃発(ぼっぱつ)したベテラン秘書艦2名の大暴露大会に、2個艦隊は騒然となった。

 

 

 

「間違いなく、ロクな話じゃないな」

「なんとなく、わたしもそんな気がしてきました……」

 

 何やら盛り上がる沖を見て、一乃がそう言った時だった。

 

 不意に左手の多目的結晶が情報を受信した。

 

 はっとして情報を確認する。東も、多目的リングで情報を受信したようだった。直後、艦隊隊舎のスピーカーから、サイレンとともに出撃指令の音声が流れだす。

 指令は814艦隊の出撃と、816艦隊の警戒待機を告げていた。

 

「出撃命令か。すまない、田村少佐。演習の途中だが……」

「いいえ。816は警戒待機のようです。どうかお気をつけて」

 

 数秒前までふざけ合っていた両艦隊の艦娘たちが即座に艦列を組み、全速でこちらに戻ってくるのが見えた。

 

「ありがとう。機会があったらまた新米同士、愚痴に付き合ってくれるとうれしいな」

「もちろんです。わたしの方こそ、いろいろと教えてください」

 

 一乃の敬礼に東は答礼し、指揮艇の方へ足早に歩み去った。

 

 

 

 

 3月だと言うのに、この日は南の方角からやけに生ぬるい風が吹いていた。月は雲の向こうに完全に隠れている。

 

 とっぷりとした闇の中を、814艦隊は前進していた

 

『深海棲艦隊の現在位置はいまだに不明だ。引き続き警戒態勢を取ってくれ』

 

 (ひがし)艦隊司令から通信。今回の出撃は近海のため、東は指揮艇は出さず、天草下島牛深(うしぶか)港にある隊舎の指揮司令室から指揮を執っている。

 

 夕刻、甑島(こしきしま)基地所属の哨戒機が、東シナ海より接近する複数の深海棲艦隊を発見。これを迎撃すべく八代艦隊、そして814艦隊に出撃指令が下った。

 哨戒機は日没とともに深海棲艦隊の追跡を断念しており、今は814と八代艦隊が分担して索敵に当たっていた。

 

「甑島泊地から連絡はありませんの?」

『ないみたいだな。あちらはいま、戦闘の真っただ中だろう』

 

 甑島泊地は、夕刻より鹿児島からの幻獣の攻撃にさらされている。甑島艦隊もこれを迎撃していたはずだ。

 

「甑島のみんなも大変だよね。今月何回目だろ」

『深海棲艦隊の目的は幻獣の上陸部隊の支援かと思ったが……この分だと杞憂のようだな』

 

 東が、誰にともなく呟いた。

 

 深海棲艦と幻獣の関係は、未だ謎に包まれている。

 とりあえず互いに敵対はしていないようだが、積極的に協力する様子も見えない。人類の領域に対して侵攻するという戦略は共通するが、戦術的に連携を見せることもほとんどない。だだ、数は少ないが、知性体と呼ばれる言語能力を持つ個体同士が互いにコミュニケーションをとる例も確認されていた。

 

「どうも気に入らんぞ……」

 

 初春が、ぼそりと口にした。

 

「姉さま、どうしたの?」

「こうな、首筋のあたりがちりちりとするのじゃ。どうにも、気に食わんぞ」

 

 気遣わしげな子日の言葉に、初春はいらいらとした様子で眉間にしわを寄せて答えた。

 

「大体じゃな、本来ならとっくに会敵しておっていい頃じゃ。奴らはなぜ、いまだ姿をくらませておる」

「五島沖海戦の後だから、逃げ腰になってるんじゃないの?」

 

 長良があえて楽観論を言う。

 

「だといいがの。司令官、八代艦隊の方はどうじゃ?」

『ああ、八代艦隊もまだ会敵していないようだ。八代の氷川(ひかわ)司令からは、引き続き分担して索敵に当たるよう指示を頂いている』

 

 東が答える。

 八代艦隊は、前方5kmほど東に位置しているはずだ。

 

『こちら八代艦隊旗艦、霧島です。814、聞こえますか?』

 

 ちょうど良いタイミングというべきか、聞き覚えのある声の通信が入る。

 

『八代艦隊は現時点まで、敵影を見ず。そちらはいかが?』

「こちら814初春。こちらも同じく、敵影を見ず、じゃ」

『こちら八代第2艦隊球磨。こっちも特に異状なしクマー』

 

 軽巡球磨が独特の口調で、報告してくる。 

 

『なんだか落ち着かない雰囲気クマね。敵はどこに雲隠れしてるクマ?』 

『八代艦隊は引き続き、索敵に当たります。814も、くれぐれも気を付けて』

 

 初春が了解、と返そうとしたとき、東がいぶかしげな声を上げた。

 

『うん、ちょっと待ってくれ……九州総軍司令部から緊急報? なぜ、陸軍から……?』

 

 八代艦隊秘書艦の不知火から通信。

 

『八代の艦隊司令部でも確認したようです。いま、氷川司令が陸軍に確認を……』

 

 その通信が、不意に、途切れた。

 

「む、どうした、不知火?」

 

 初春が呼びかけるも、応答がない。

 

「変ですわね。霧島? 球磨?」

 

 熊野も通信を送るが、やはり、反応がない。その時、子日が不意に叫んだ。

 

「姉さま、戦況画面を見て! 八代艦隊が!」

 

 ただならぬ子日の声に初春は戦況画面を確認し、ぎょっとした。

 八代艦隊の反応が、戦況画面から消滅していた。

 

「そ、そんな、まさか、やられちゃったの?」

「馬鹿な。近くに敵の反応はありませんでしたわ!」

「じゃあ、どうして────」

 

『これは……おそらく、艦隊司令部だ』

 

 呆然とした東の声。

 

「なんじゃと?」

『八代艦隊司令部との通信が途絶している。おそらく、八代艦隊の司令部に何らかの異変があって艦隊の情報接続が───なにっ!?』

 

 不意に東が切羽つまった叫び声をあげた瞬間、無線の向こうから轟音が響いた。直後に無線は雑音に包まれる。

 

「な、司令官!? どうした!?」

 

 無線からは雑音が返ってくるだけだった。

 

「っ! 前方に影……敵影っ、発砲したわ! 回避ぃーっ!」

 

 長良の叫び。とっさに回避機動をとった814の周囲に、敵弾が次々と着弾する。。

 

「司令官、何があった! ……たわけ、応答せんか! 司令官、司令官っ!」

 

 降り注ぐ敵の砲撃の中、初春のさけびごえが、響いた。

 

 

 

 



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