東方短編「贈り物」 (えいちゃ)
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東方短編「贈り物」
雨が止んでから間もない午後の森。木々に映える深緑は赤々とその身を染め、一枚一枚ゆっくりと枝を離れ地に落ちていく。
今の季節は秋の半ばといった所だろうか。これから冬に向かい、刻々と寒くなっていく時期である。
当然雨など降ろうものなら、気温はうなぎ下がりもいい所。外出する事も少し躊躇われるような、そんな寒さがこの地に訪れる。
しかし、それは彼女にとって、とても都合の良い話であった。
読んで字の如く、秋雨日和の昼過ぎ。秋にも関わらず鬱蒼と茂る森の目前に建つ建物へ、一人の少女がやってきた。
空からゆっくりと地に降りる彼女は、俗に妖怪と呼ばれる種族である。際立った特徴といえば、頭に生えた鼠を思わせる耳であったり。着ているスカートの端から姿を現した――これまた、鼠を思わせる細長い尻尾であったり。
鼠の妖怪であろう少女の名は、ナズーリンという。
彼女は目の前にある奇妙な建物――香霖堂と呼ばれる商い屋に、ちょっとした用事があった。
「やあ店主、冷やかしにきたよ」
薄暗く埃っぽい店内に、ナズーリンの声が響く。その声に気付いたのか、店主らしき男性が店の奥から顔を見せるも、彼女の顔を見るや露骨に嫌な表情を見せた。
「なんだ、君か――冷やかしならお断りだよ」
そう言葉を返すと、店主はすぐに顔を引っ込める。彼の対応にナズーリンはムッとするが、構わず店内に足を踏み入れた。
極めて雑然に商品が陳列された店内は、はっきり言って物置である。この店の店主は、正直商いをする気があるのか無いのか分からない(恐らくは後者であろうと彼女は考えている)が、それでも珍しい品物を求めての客足はあるらしい。まったくもって、その客も酔狂なものである。
そう考えながら店内を進んでいると、乱雑に置かれた商品の内、とある品物に目が止まった。
それは、厚紙と透明な貼り物で中身がうかがえる作りになっている箱であった。中には酷く不細工な人形が一体、威圧的な雰囲気を醸しだし鎮座している。
箱の表面には『喋って反応する楽しいオモチャ、ファーB』と大々的に書かれていた。この玩具はファーBという物らしい。こんな玩具では、子供は泣き止まないのではないかとナズーリンは思ったが、外の世界では存外こういった物がウケているのだろうと、一人納得した。
「ああ、そのファーBなんだがね」
いつの間に背後へ回っていたのか、奥に居たはずの店主がひょっこりと姿を現した。普段ならカウンター越しに声を投げてくる筈の彼が、珍しく陳列棚まで長距離出張である。
まさか、この気味の悪い人形を推して来るのではないか――と、ナズーリンは警戒したが、予想とは裏腹に、店主は玩具を一瞥すると苦々しい顔で口を開いた。
「あまりオススメはしないよ、僕が置いといて言うのもアレだけど」
彼が放った一言は、彼女が予想した言葉とは真逆の非推奨であった。それはそうだとナズーリンも納得するが、そもそもの話、そんな物は処分した方がいいのではないかという疑問も浮かぶ。
まあ、こんな物ではあるが、一応外の世界にあった珍品である。処分するのは勿体ないのだろう。一応それなりの値は付くのだし。
「使った事があるのかい?」
ナズーリンの言葉に、まぁねと彼は頭を縦に振った。彼の反応からして、本当にゲテモノだったのだろう。
「それの扱いには困ったよ。口に手をやると噛み付くし、持ち上げると奇妙な声で笑うし――腹部を押すとゲップときたもんだ」
これが玩具と呼べるのか定かではないと、使った時を思い出したのか店主は一つ溜息を吐き、ファーBを混沌とした商品達の中に紛れ込ませた。きっと光を浴びる事は二度と無いだろう。
「プレゼントにはなりそうもないね、それ」
「まったくだよ――うん?」
闇の中に葬られた玩具の事は、早々に忘れよう。そう考え、話題を変えるべくそうしたのか、はたまたそうでないのか、彼はナズーリンの言葉に眉をピクリと動かした。
「プレゼント、と言ったね?」
「ああ、プレゼントと言ったよ」
店主の疑問に、彼女は頷いて答える。
ナズーリンが此処――香霖堂へやってきた理由は、某自身の上司に対してのプレゼントを探してのことだった。人里に行くのも手ではあったが、彼女の住居である命蓮寺が建ってから幾許も経っていない為、見ない妖怪がやって来たと驚かれても困るので此処へやって来たのである。
此処ならば珍品に事欠くこともないし、珍客しかやって来ないのだから妖怪だと驚かれることもない。強いて言うならば、(良く分からない)珍品が多すぎて逆に迷ってしまいそうであるが。
「悪かったね、珍品しか置いて無くて」
「おっと、聞こえていたか」
考えていた事を彼女は口にしていたらしく、それを聞いた店主が口を尖らせる。そんな彼に事実なのだから仕方ないだろうと、悪びれもなく彼女は聞き流した。
「そんな事より、何かプレゼントになるような物はないのかい?出来れば頭が固くて生真面目でドジな所があって大事なものを平気で落とす某上司に贈れる様な物が良いんだが」
「――それはまた、素敵な要求だね。うん」
半ば愚痴のような物を含んだナズーリンのリクエストに、少しばかり呆れながら店主は店の奥へ歩き出す。どうやら店の奥にも陳列させていない商品があるらしく、それを引っ張り出してくるようである。
少しだけ待っていてくれ――と言う言葉を残して、彼は店の奥へと姿を消した。間を置かず、積み上げられた何かが崩れる音と、陶器か何かが落ちて割れる音が店内に響きわたる。
どれだけ物が雑然としているのだ。
それから少しして、奥に引き篭もる前は綺麗だった衣服をボロボロにした店主が、大量の商品を抱えて戻ってきた。
「これで、全部、か――」
ドスンと音を立たせ、店主は商品を床の上に商品を降ろす。
「あ」
否、床の上にぶちまけた。
間の抜けた声とともにガラガラと散らばる、見てくれが謎の商品達。所狭しと四方八方に転がっていく大中小の球体。店内が混迷を極めた瞬間だった。
混沌とする床上と、その光景を目の当たりにしたナズーリンの「お前なにやってんの」といわんばかりのジト目。中腰で商品を置くポーズのまま暫く微動だにしなかった店主は、それを見て状況を理解したのか、そのままの姿勢でずれた眼鏡を掛け直すと、冷静な声色で言った。
「やってしまったね」
「まったくだよ」
「で、これはなんていう道具なんだい?」
ガラスに近い、楕円状に厚くなった透明な円盤が重なっている道具をひょいと拾い上げ、ナズーリンは口を開く。二つの円盤の間には、細い紐がグルグルと巻かれていて、先端には指二本分入るであろう輪が作られていた。
携帯できる狩猟用の小型道具だろうか。紐を伸ばして、遠い標的に向かって叩きつけると痛そうである。
「それは確か――ヨーヨーというものだったかな?」
ヨーヨーと呼ばれた物体を見た店主は、ちょいと失敬と彼女からそれを受け取ると、立ち上がりながら輪の中に紐を通し、その間に自分の人差し指を入れてきゅっと紐を締め付けた。
締め付けたら血が通わなくなるのでは、とナズーリンは思ったが、もしかしたら血を通わなくさせて指を刃物で切断させる道具なのかもしれないと、開こうとした口を閉じる。
「こんな」
そう口にしながら、彼は伸ばした紐を巻き戻し 、手のひらを天上に向けヨーヨーを持つ。
「感じ」
そのまま肘を曲げ手を持ち上げると、勢いをつけて振り落とした。
「かな」
振り落とすと同時に包むように持っていたヨーヨーを離し、床に向かって投げ下ろす。強い縦回転を起こして床へ直進するヨーヨーは、床擦れ擦れの位置で急停止すると、強い回転を保ったまま制止した。
ヨーヨーの正体は、芸人が小ネタとして扱うような小道具であった。それにしても、内側に紐が括り付いている筈のそれが絡まずに回転しているとは、とても不可思議な物である。
あの回転を保ったまま相手にぶつけたらきっと痛いのだろうなと、ヨーヨーを見つめナズーリンは思う。円盤の隙間に仕込み刃を入れて振り回してみると面白いかも知れない。
「まあ、今の所はこれといくつかしか使い方が分からないんだけどね」
苦笑しつつも、指先をちょんと動かしてヨーヨーを引き戻そうとする店主。普段は理知的な彼も童心に帰るのか、心なしではあるが楽しそうでもある。
これならばうちの上司も気に入ってくれるに違いない。ナズーリンの中で、何かがそう判断を下した。指に紐が付いているから、早々無くしはしないだろうし、ただ下に投げ下ろすだけだから回りに被害が及ばない。どうして紐が巻かれているのに絡まったりしないのかという謎もある為、考える事には事欠かないだろう。
ならば善は急げ、スカートの中に潜めていた小金を取り出して、彼女は口を開いた。
「店主、そのヨーヨーとやらを貰おうか」
会計を終え店内から外へ顔を出すと、いつの間に雲間から日が出ていたのか、空には虹が掛かっていた。
曰く、虹の根元にはこの世たり得ない財宝が眠っているという。そんな話があるが、あんな物は嘘っぱちであると、ナズーリンは知っていた。
何故なら、虹の根元をダウジングしても何も反応しないからである。
自分の能力である『探し物を探し当てる能力』も相まって、彼女は生粋のダウザーであった。探し当てた失せ物は星の数、食べ物は子分の鼠に食い荒らされるのでほんの少し、その為自分に探し当てられないものは無いと自負していた時期がある。
その時期に終止符を打ったのが、この虹の根元にある財宝であった。財宝を求め――ていた訳では無いが、誰も見たことが無いその財宝を、自分ならば見つけることが出来るはずだと意気込んだナズーリンは、この話に挑戦したのだ。
結果は、推し量るべくも無く惨敗である。
そもそもの話、虹の根元の位置が何処なのかがあべこべなのだ。虹の見える距離に目星を付けて向かったとしても、目的地に辿り着く前に虹が消えてしまう。周辺を二刻程探し回った事もあったが、これっぽっちも反応が無かった。
だから虹の根元には、何も無いのである。絶対に、何も無いのである。
閑話休題
そんな過去の思い出に浸りながらも、ナズーリンは自分の暮らしている住居――命蓮寺へと帰ってきた。
あっという間に薄暗くなった空には、一つ二つと強い輝きを放つ星が見える。命蓮寺の裏に設けられた住居部分もちらほらと明かりが点き始め――まあ、なんというかホッとするような光景に移り変わる。
固定された住居で暮らした事が少ない彼女にとって、この光景はとても新鮮だった。場所が定まらぬ幽霊船で大体の寝食を過ごし、失せ物探しとなれば野宿が多い。決まった帰り道は存在しないし慣れる事も無い。そんな彼女に出来た、初めての動かない住居――それが命蓮寺である。
質素ながら、剛健に造られた寺の正門。それを潜るのと同時であろうか、正面に見える本堂の中から人気に気づいたらしく、半開きとなった戸の隙間から見慣れた少女の顔がひょっこりと姿を表す。
「やあ、ただいま帰ったよ」
片手を上げ、それに帰宅の挨拶を投げかけるナズーリン。やってきたのが彼女だと理解した少女は、半開きの戸をするすると開くとナズーリンの元までふわりと飛んできた。
「おかえり、ナズ。また失せ物探しでもやっていたの?」
頭に被った紺色の頭巾を揺らめかせて着地した少女――雲居一輪はナズーリンにそう返すと、彼女が手に持っている紙袋に気づき視線をそちらに向ける。
「いや、今回は別件だよ」
そう言って、持っていた紙袋を一輪の前掲げるナズーリン。紙袋には店主の自筆であろうか、達筆な文字で『貴方とコンビにCOOLINDO』と記されている。
流石は店主、商品や店構えだけではなく袋にまで奇抜なセンスが滲み出ている。それを見せつけられた一輪は、あまりの奇抜さからか若干引き気味であった。
「え、ええ――そうみたいね。ナズが買い物なんて珍しい」
「私だって私用で買い物ぐらいはするさ」
表情を若干引き攣らせた一輪の言う通り、ナズーリンが私用で買い物に行くのは珍しい事である。普段外出する事があっても、大抵は失せ物探しかお使い程度。ちょっとした用事なら子分のネズミに任せてしまえば彼女自ら出向く必要がないため、頼まれた事以外の理由で外出するのは極稀であった。
そんなナズーリンが私用で外出、しかも香霖堂という奇妙な商い屋へ買い物に行くとはどんな風の吹き回しであろうか。
彼女の行動について、紙袋の衝撃から開放された一輪は思考する。
ついに彼女も、摩訶不思議な外界の道具に魅了されたのだろうか。まあ、確かに外界の道具は面白い。一輪も最近になって、外界の遊びとされるサッカーを相棒の雲山と一緒にやることが多くなった。手を使ってはいけないらしいので、雲山は専らゴールキーパーであるが。
それともただ単純に、自分が使っている道具を買ってきただけなのか。ダウジングの道具がどんなものかは分からないが、あの店の事だからその辺は豊富に取り揃えてあるのだろう。
或いは――。
「逢引か――そうね、逢引ね」
「いやいやいや、たかが買い物でなんて事考えるんだ君は」
一輪の発言にナズーリンはゲンナリとした表情で口を出す。ただ買い物に行っただけで、そんないかがわしい事を想像されたらたまったものではない。
その言葉を聞き、あら違うの?と言わんばかりに可愛らしく首を傾げる一輪に、彼女は若干の目眩を覚えた。
雲居一輪は柔軟性のある思考はしているが、変なところで頑固である。彼女がそう確信したら、下手なことではその考えが曲がらない事が非常に多い。それが周囲にあらぬ誤解を招く事は珍しくはないし、ナズーリンも幾らかの被害を被った事が少なからずあった。
「うーむ、相手は誰なのかしら?買い物だけじゃ分からないわ」
「いや、分からないで結構だよ。というか、君のその考えがそもそも間違っているし、当人がいる眼の前でそういった詮索は止めて欲しいんだが――」
「いいじゃない、減るもんじゃないのだし」
「私のSAN値が大幅に削り減らされるんだが」
「私は横文字苦手なのよ」
ガクリと項垂れるナズーリンを横目に、今夜はお赤飯かしらと機嫌の良い足取りで一輪は本堂の中へと姿を消した。この際のナズーリンに対する救済措置は皆無である。
先程の一輪との出来事を幻想郷の遥か彼方に投げ飛ばし、何とかSAN値を持ち直したナズーリンが向かう先は命蓮寺の住居部分。最近になってようやく慣れてきた、ナズーリンにとっては新しい我が家である。
「ただいま戻ったよ」
玄関の戸をガラガラと開き、お決まりの掛け声を一つ。挨拶は心のオアシスとは命蓮寺の主、聖白蓮の言。関係ないが、賽銭だけが心のオアシスとは某神社の紅白の言である。
ナズーリンの声に気づいたのか、パタパタと音を立てて廊下の曲がり角から一人の少女が姿を現した。洒落気を重視していないのか、ざんばらに切り揃えられた黒の混ざった金色の髪。彼女の大元である、虎という気質が残っているのか、その瞳はやや釣り上がり、細く綺麗な形をした眉も相まって、彼女の顔に凛々しさを作り出している。
この少女――寅丸星こそがナズーリンの上司、今現在の主人に当たり、今回彼女が外出した理由に当たる人物である。
「ああ、おかえりなさいナズ。お夕飯はもう直ぐ出来ますから、少し待っていてくださいね」
花も恥じらうような満面の笑みでナズーリンを、まるで主婦の様に恭しく迎える星。これでも彼女はナズーリンの上司である。――蛇足ではあるが、星は調理中だったのか割烹着を着ていた。本当に傍から見たら主婦にしか見えない。
「ただいまご主人。そうか、今日はご主人が当番だったのか。てっきり一輪なものかと――」
「そうでしたか?うーん、一輪は確か明日だったと思いますよ?」
「あ、ああ、うん、そうだったね。それならいいんだ、それなら」
「はあ」
ナズーリンはこの時、当番が星で良かったと心から、本当に心から思った。尻尾で表現するなら、忙しないほど左右にぶん回す位である。
あらぬ疑いで赤飯が出てくるなんて、余りにも気まずすぎる。命蓮寺の主を筆頭に、何人かの(生暖かい)視線を受けるなんて苦行は御免被りたい。
「珍しいですね、ナズがそんな事を聞いてくるなんて」
「まあ、ちょっとね。色々あるんだよ」
「そうですか――ん?」
ふと、何かに気づいたのか、星は開いた口を止める。ナズーリンの普段は言うはずのない奇妙な言動に、何か頭の中で引っ掛かったのだろうか、彼女はナズーリンに向けている瞳をすっと細めた。
「な、なんだいご主人?私の顔にな、何かついているのかい?」
何かを勘付かれたか、星の視線に射抜かれたナズーリンの背中に一筋、冷たい汗が流れ落ちる。買い物袋はスカートの中に隠してあるし、挙動不審にもなっていないはずだ。まさかここに来て、今日は星の勘が冴えているとか、そんな冗談みたいなことは起こっているのか。
「もしかしてナズ、貴方は――」
「いや、まて、これはその――!」
ずずい、と顔を寄せる星。吐息が掛かりそうな距離で、見つめ合う形となったナズーリンの鼓動はどんどん早まる。もちろん、鼓動が早まる理由は焦りからである。目と目が合うだけでは、好きだとかそんなものは普通気づかない。
ナズーリンは戦慄していた。何故今日に限って酷く運が悪いのだろうと、心の底から思った。この時、某悪趣味な館のメイド長が時を止めればいいのにと、結局自分の時も止まるのだから意味がないと分かっていることを考えるほど。
星の、薄紅色の瑞々しい唇がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
ああ――自分はもう終わりだと、小さな賢将はきゅっと瞳を閉じた。自身の(社会的な)死を感じ取った彼女の、閉じた瞼の裏側に走馬灯が過ぎっていく。
ある時は星が落とした宝塔を探して、紅白の巫女にちぎって投げられたこと。ある時は宝棒の代わりに借りてきた由緒正しい三叉戟を、星が転んでへし折ってしまった事について上司である毘沙門天にこっ酷く怒られたこと。ある時はナズーリンのお気に入りである方角記号を模したダウジングロッドを、星に物干し竿代わりにされたこと。ある時は――
走馬灯が過ぎるたびに、ナズーリンの目頭が酷く熱を持っていく。走馬灯が彼女の苦労しか過ぎらないことも原因であるが、何よりも瞼の向こう側にいる人物がその全ての苦労の大元であることが一番の原因だったからだ。
苦労は後の人生の糧となり財産となる、と宣った人物は一体どこの誰だろうか。上手いこと言ったつもりなのだろうが、ナズーリンには寧ろ糧ではなく枷にしかなっていない。
というか、私の不幸の始まりは今のご主人に出会ったことか。ナズーリンはここでもゲンナリとなった。
引っ張ってくる財宝のベクトルが違う、と声に出して叫びたかった。誰が上手いこと言えと言った、とも。だが、それはもう叶わないことである。傾けた砂時計の砂は上に戻らないし、折れた三叉戟は直らない。全てが手遅れであったのだ。色々な意味で。
全てに絶望し、ゆっくりと開いたナズーリンの網膜には綺麗に咲いた星の笑顔が映り、鼓膜には星の栗金団のような甘い声が響いた。
「とてもお腹が空いていたのですね!」
「――は?」
二人だけしかいない玄関に、ナズーリンの気の抜けた声が響く。まあ、それは当然である。
彼女自身、自分目的が言い当てられることを予期して、彼岸の死神サボマイスターの迎えを座して(いないが)待っていた。その為、ここまで方向を間違えた発言をされるとは露ほどにも思っていなかったのだ。
そもそもの話、あのおっちょこちょいかつマイペース天然な星の事である。ちょっとした普段の言動と違う発言をした位では、彼女のセンサーには掠りもしない。グレイズ機能は不採用である。
「もう、遠慮せずに言ってくれれば、いつもより早く作ったんですよ?」
「いや、ご主人。そういったわけじゃあ――」
「今日はナズの好きな肉じゃがですよ。沢山作りましたから、楽しみにしてくださいね!」
ナズーリンに発言の余地を許さず、言うことだけ言って星はそそくさと廊下の角へ消えていった。一輪といい星といい、ここの住人は話を聞かない人物ばかりである。――蛇足ではあるが、肉じゃがは好きでも嫌いでもない。
「まあ、でも、助かった――ということなのか?」
星が消えた廊下の先を見つめ、ナズーリンはポツリと呟く。事実、彼女は星の勘違いによって救われたのだ。
一番の危機が去った今、あとは夕餉の後にナズーリンが購入したヨーヨーを星にプレゼントを贈る作業を残すのみである。
やりきったからか、それとも無駄に緊張した分の肩透かしを喰らったからか、一人だけぽつんと残された玄関に、ダウザーの深い溜息が吸い込まれていった。
命蓮寺の面々が集う夕餉の席で、ナズーリンは自身の口の端をひくつかせざるおえなかった。
今彼女が目にしているのは、星お手製の肉じゃがとたくあんやかぶを筆頭にしたお新香がいくつか。そして手元に山盛りによそわれたお赤飯である。
今日の当番は星であるはずなのに何故赤飯が――ナズーリンはふっと星の方へ振り向くが、とうの本人はこちらの視線に気づいておらずただニコニコと微笑んでいるだけである。
「すまないわね、今日はどうしてもお赤飯にしたかったのよ」
そう口を開くのは、話を聞かない住人の片割れである一輪その人。ナズーリンに向けた彼女の微笑みを言葉で表すとしたら「いいのよ、私は分かってるから」といった所だろうか。
そんな一輪に対し、ナズーリンは心の中でこう返した。
『いや、お前何も理解できてないから』
だがそれは口には出さない。一輪はきっと話を聞いてくれないし、話が捩れるのが目に見えている。
というか、何故星は赤飯なんて注文に許可を出したのだろうか。そんな簡単に赤飯がポポポポーン――ポンポン出てきていいものではないはずなのだが。
これもまた彼女の天然というか、そういったものだろうか。お互い話を聞かない者同士、見解の相違をしまくったまま赤飯になったのだろうかとナズーリンは予想せざるをえなかった。
それにしても、星は分からなくもないが――命蓮寺の主である聖白蓮を筆頭とした他の住人たちから赤飯になる事に異見や疑問は上がってこないのは何故なのだろう。赤飯を前にしても彼女たちは何事もないように佇んでいる。
もう一度星の方へ振り返るが、やはり彼女はニコニコしているだけである。
終始ニコニコした星と何も口を出さない住人達を疑問に思っていたナズーリンだが、ふとその理由に気がつき、そういう事かと理解しふっと口元を緩めた。
「そうか、ご主人は赤飯が好物だったね。そういえば――」
この時期の夜は、しんとした寒さが身に染みる。しかし、それは空気が澄んでいるようにも感じられるのだから、不思議なものだ。
空に浮かんだ月は、夏に比べこころなしかくっきりと姿を表しているようにも見える。それもこの寒さで空気が澄んでいるからなのだろう。お月見の時期は生憎と過ぎてしまったが、月見酒が出来るなら是非一杯頂戴したくなるような、そんな月夜である。
「それで、ナズ。私に何か用事ですか?」
部屋の隅に灯された蝋燭の火が、部屋の中央に座る星の横顔を淡く照らし出している。湯浴びを終えた彼女の髪は普段よりも垂れ下がり、凛々しい印象が若干であるが可愛らしい印象に取って替わっていた。
星の言葉に、向かい合うように座ったナズーリンは肯定だと首を縦に振った。彼女も同じく、湯浴びした後なのか髪に少しばかりの湿り気がある。
「ご主人、今日は何の日だったか覚えているかい?」
問いかけられたナズーリンの言葉に、星は首を傾げる。今日の日は大安、満月にはまだ早く暦的にも祝は無い。誰かの誕生日かと言われても、妖怪の生は長く殆どの者はその日を覚えていないはずだ。
「ええと――ごめんなさいナズ。私には何の日だかさっぱり――」
ナズーリンの問いに答えられず、ションボリと肩をすくめる星。そんな彼女を見たナズーリンは、やっぱりかと表情を崩し微笑んだ。
ナズーリンは星がこの日を覚えてないのは分かりきっていた。
時にしてみれば、ざっと100年以上は昔の出来事である。その頃は白蓮が魔界に封印されたり、星が毘沙門天の弟子として奮闘していたりと、何かと忙しい時期でもあった。
それでも、どんなに目まぐるしくとも、ナズーリンはその日を忘れず覚え続けている。
「ご主人」
「ナズ――?」
星に向かって差し出された、女性特有の細く白いナズーリンの手。その手にはガラス細工で出来たような円盤状の物が握られていた。
「今日は、私とご主人が初めて会って、初めて上司と部下になった日だよ」
その言葉にはっとして、星は下げていた顔を上げナズーリンの顔を見つめる。
見つめられた彼女の頬は、若干ながら紅潮していた。ナズーリンにとっては照れ隠しなのであろう、星と目があった瞬間にふいと顔を明後日の方向に逸らしてしまう。
「ま、まぁ!思えば私も、ご主人の部下になってからは大概苦労させられたよっ!よく物を落とすし、毘沙門天様から拝借させてもらった三叉戟もへし折るし、それどころか――!」
少しでも恥ずかしさを軽くするために、矢継ぎ早に言葉を紡ぎ出すナズーリン。軽くなるどころか、その頬は更に赤みを増している。
それを自分で気づいているのか、彼女は口を開くことを止めない。だがその御蔭で、更に頬を紅潮させる悪循環が生まれてしまう。
「だ、だいたい!宝塔を落とした時だって私――」
「ナズ」
「が――」
星の声と共に、ナズーリンの言葉が途切れた。――否、続けることができなかった。
額に感じる柔らかな感触、後頭部に回された腕。そして何よりも、暖かい包容感が彼女の言葉を遮った。
「――ご主人?」
先程までの羞恥は何処へやら。星に抱擁されていることに気がついたナズーリンは、驚きと戸惑いの混じった声で彼女に呼びかける。
「ありがとう、ナズ」
返された星の言葉は、感謝の意味を持つそれであった。その声は、微かではあるが震えている様にも感じられる。
「貴方が部下で、一緒にいてくれて、本当によかった」
その言葉と共に、少しだけ抱きしめる腕に力が篭ったのを、ナズーリンは感じた。もう戸惑いは感じられない。今彼女が感じているのは大きな安堵感だけである。
「ナズーリン、大好きです。これからも一緒に居てくれませんか?」
「――ははっ」
――それはプレゼントを持っている私が言う事だと思うんだがね。
と、ナズーリンはそんなことを考えるも、今この場でそれを口にするのは無粋であろうと、言葉には出さない。
そもそも、もうここから先は言葉は要らないのだろう。答えを口にする代わりに、星の体を抱きしめることでナズーリンはその問いに答えた。
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