毒々の国のアリス (柏木祥子)
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一日一回投稿します


  それはひどい夏のことだったわ。隣の家の犬はへたれて仕方ないみたいだし電線はぐにょぐにょ。死にたくなるほど暑いのかもしれない夏に私は風邪をひいてしまったの。
 
 キンキンに冷えた部屋でドリトスと冷茶で映画を見たあと熱を測ってみたら下がってなかったの。むしろ一分上がっていたわ。まあ下がるなんて思っていなかったし別にいいんだけど、でもなんか微妙よね。それでもう一本なんか見ようと思ってね、暇なもんだから。ああ、ああ。暇だよ~!いっそ寝込むぐらいの熱だったらよかったのにね?38度じゃちょっと怠いかな?ってくらいよね。昔からそうなの、私!熱あると逆に興奮しちゃったもんでさーあ?いっつも小言いってくるお母さんが頼めばゼリーだのプリンだの買ってきてくれるんだから、ホント、私ちゃんにとってイベントみたいなもんだったのよ。部屋を駆けずり回って尻を叩かれたこともあったわ。まー最近はお母さん働いてるから風邪っぴき一人でそこもひまーな原因よね。
 んで、話を戻すと私、映画探していたんだな。そうね……そんなに難しくないのがいいな。あんまり頭使いたくないから。そういうわけでDVD入った棚からいくつか抜き出してみたの。「フェイス/オフ」「ドーンオブザデッド」「スターシップトゥルーパーズ」「スパイダーパニック」「エスケープフロムLA」エトセトラエトセトラ・・・
 ほかにも何本か出していたんだけど…クーラに当たりすぎて頭が変になってたのかな?それとも案外悪質な風邪だったのかしら。選んだのはシュバンクマイエルの「アリス」だったわ。なんてこったい。でも私の頭はそのときおかしくなっていたからね。そのままデッキに入れてしまったの。
 それでね、はく製のウサギが動き出すのを見てね、ふと気づいたのよ。
 ドリトスがないってことに!キャーッ!冷茶はあるのにねっ!プリングルスもポップコーンもハリボーだってありゃしないのよ!冷茶はあるのにねっ!
 イヤーッッ!
 ええ、ええ。この時の衝撃ったらなかったわ、頭がガツンと、いや中からジグワ~っと痛むような……。とにかくこのままじゃ映画なんて見れないわ。だから岩場を歩くアリスを停止して私は財布を手にして外服に着替えたの。
 お気に入りの水色のワンピース。レースのついたワンピース。黒い先の丸まった革靴を履いて私は外に出たわ。
  ▼
 外は夏でした。まさしく夏への扉といったところですが彼女の家の外へと続く扉は11、いえ12もなく正門と裏口たったの二つでした。そのうち庭から出ていきたくなったのかアリス(ではない)は裏口へ靴を持って行ってそこから外へ出ていきました。
 外は夏でした。風のない夏でした。草木はもはや水の過剰供給によって生きながらえているのではという暑さで蒸発した水分が空間を歪めアリスは平衡感覚を狂わされて転んでしまいそうでした。
実際転んで芝生に頬を付けたまま寝そうになったあと立ち上がったアリスは、ジグワ~ッがジグググワ~ッになっていることに気づいていませんでした。頭寒足熱からの急展開が脳を収縮させることは必至です。視界だけ不便にされているならまだしも蝉がカルテットと化しゆがむ視界は異世界への扉のようで、蝉たちが演奏しているのはロイツマ。
 (っでぃっでぃどぅーどぅでぃきだんでぃん♪ でかだんでかだんでかだんだんどぅー♪蝉さん蝉さん何故フィンランド語の歌を歌えるの?とアリスが訊くと蝉たちはそれは日本とフィンランドがかつて地続きだったからさ、確かパンゲアとか云うんだったかなと答えました。アリスは歩きました。イトーヨーカドーに向けて歩きました。
 小石の敷き詰められた道路は歩きやすいものですがどうにも熱をためやすいらしく、そこかしこに蜃気楼が立っています。アリスは小石を削りながら歩きました。
「机…机はどこ…」
 アリスがぶつくさ文句を云いながらも歩いてみると、ふと、目の前を白兎が通りました。真っ白な白兎でした。左手になにやらチューブをもって片手は頬に置かれ自分の頬をくりくりやっていました。前を通るのでアリスが止まると白兎はアリスを見てあたふたしていました。彼女は気づいていませんでしたがその兎とやらは彼女の知り合いでした。白兎がてってってーとアリスを横切って走り抜けていきました。アリスは白兎のあとをおっかけました。白兎は追っかけるものと相場が決まっていたのです。
 白兎は体躯のわりにすばしこいのか中々距離が縮まりません。アリスはそれでも追いかけました。白兎は言いません。遅刻だ遅刻だ!チューブから半透明のジェルがぼたぼた落ちていました。
 白兎がすっころびました。
「大丈夫?兎さん。すごい転び方をしたわ」
 兎はなにやら危なげなポーズでアリスを見上げました。目には怯えの色すら走る気がします。チューブの中身が半分以上地面ににゅるにゅるでした。アリスはにゅるにゅるが手につくのもいとわず白兎の手を取りました。
「せっかくだから一緒に行きましょうよ」
 白兎は云いました。引きずられながらです。
「あの、あの隣の……えと、お姉…さん。すごい顔色なんですけど、大丈夫ですか」
「ぜひぜひお姉ちゃんと呼んで!これから長い道中になるのにお姉さんなんて他人行儀が過ぎるというものよ!顔色はどっちかっていうと貴方のほうが白いわ!」
 アリスは多少土色でした。あと二十時間で青白くなるでしょうしもっとたてばチタンホワイトの輝きを土に汚すことになるでしょう。
 白兎は懐疑の表情を浮かべ引きずられていましたが大人しく歩くことにしました。靴をすり減らすのが嫌だからでした。
 酷い夏でした。公園を遊ぶ子供がたくさんいたって可笑しくないのに一人もいませんでした。それほどまでにひどい夏でした。(平日の11時に外にいる子供はいない)アリスと白兎は手をつないで歩きました。姉妹には見えませんでした。それが何故なのか賢明な誰かならわかるでしょう。
 そういうわけで二人はともにイトーヨーカドーへ向かうことになりました。アリスは鼻歌ですいみん不足を歌い始めました。実のところ風邪の原因は夜更かしによる免疫低下と風邪菌にあったのです。

 Today is an always sleepless day , a body will hotness and hotness ,
A usually school , a usually classroom
The child’s always healthly!

Suimin suimin suimin suimin suimin busoku !
                     《英訳:アリス・リデル(ではない)》

 ところで白兎には心配事がありました。それは隣のアリスの顔色やアリスの歩が早く少し辛いことやまあまあ値の張るにゅるにゅる等もありましたが、専ら考えていたのは肌の焼けることでした。ええ、ええ。白兎にとって色はアイデンティティですからね。もし肌がまだらになってしまったらそれは白兎ではなく斑兎なのです。だからあまり外を歩きたくはなかったのですが、なんとなくアリスの手をにぎりにぎりとしていると落ち着いて、とりあえず何も考えないことにしました。
「お姉ちゃん、どこに行くの?」
「永遠の豊穣を約束された神の土地、エル・ドラドよ。桃源郷、ヘヴン、ルートビアとも呼ばれているわ。そこには無数のドリトス(ナチョチーズ)の葉を持つ木と缶コーラの湧き出る泉があるのよ。酒池肉林のようなところよ」
「しゅちにくりん?」「食欲と性欲を一途に満たせる場所よ」
 聞いてもわからなかったのでますます白兎は考えるのをやめました。それは愚かしい選択でしたが健康的ではあります。足が棒にならなければ歩くのは簡単でしたから。
 二人は公園を横切りました。てってこてってこ歩きました。歩いているうちにアリスはこのままだと白兎が辛いかもと思い若干握っているほうの肩を下げました。
 長い旅路とアリスは云いましたがイトーヨーカドーは歩いて二十分ぐらいのところにありました。直線距離です。地図にすればわかりやすいでしょう、アリスは頭に地図を浮かべて歩いていました。ところが統計学上女性は地図を読めない場合が多く、アリスもその限りではありません。結果としてあっという間に迷ってしまいました。
 女性差別ではありません。統計学上の事実です。
 ここはどこかしらとアリスは思いました。地図を浮かべても現在地は浮かんでいませんでした。
 左手にあるのは森でした。森といってもアリスがそう思っただけで事実は雑木林程度のものでしたが入らなければ同じようなものですしイトーヨーカドーがちゃんと舗装された道にあったことは流石にわかっていたので入る気はありませんでした。蝉がなきカブトムシめいたものが飛び蠅が死体にたかっていました。白兎は云いました。
 右側には古びた工場のようなものが立っていました。閉められた門は敗残兵の様に錆を身に着け無意味に孤立していました。
「お姉さん、ここは……?」
「迷ってしまったようね」アリスは素直でした。
 白兎としては当然不安になるべきでしたがアリスがあんまりにもはっきりと云うので混乱していました。それ以前に白兎は多少頭にぼうとしたものを抱えていました。
 白兎は云いました。
「戻りますか?」
「いえ、今戻っても道がわかるわけでもなし……そうね、誰かに聞きましょうか」
「でも誰もいません」「ちょっと待ってれば来てくれるわよ」
 アリスは道端に座りました。ひざを叩いて白兎をのせました。白兎は柔らかいと思いました。いわゆる双房という奴でした。
 アリスは白兎を抱えて道端に座り、誰かを待ちました。照り付ける太陽がじんじくアリスから体力を奪いましたが地面を見ると木陰によろうとは思えませんでした。
「こうやって誰かを待つその時間は贅沢なものだわ…時間の無駄を惜しまないということだものね」
「はあ…そうですか」白兎は言いました。よくわからないなと思いました。
 夏でした。夏らしく夏でした。
 程なくしてその誰かは、前から歩いてきました。
 蜃気楼の先、その巨体は背中に星条旗を背負っていました。近くまで来ると服装がわかりました。ぼろぼろのズタ布のようなものが肌に張り付いているようでよく見るとバレエようのセパレートでした。そいつは全身の筋肉が隆起していました。一目で強靭な肉体を持っているとわかりました。しかしそれよりなにより目をついたのは醜い顔です。全体がでこぼこで左目のほうが歪に膨れていて、左右の目が斜めになっているのです。右目は正常かといえばそんなことはなくこちらも多少に膨れています。肌は緑色でした。口と思われる部分には無駄に綺麗な歯がそろい白く輝いていました。
 チープな左目がきょときょと動いてアリスと白兎のほうを見ています。
「ど」アリスは感動のあまり叫びました。「毒々モンスターだわっ!」「……あ、サボテン」
 愛と正義の味方ッ!地獄からの使者!その名も毒々モンスター!
トキシィィィッック アヴェンジャーッ!
 アリスはどきどきしていました。ここはまさかトロマヴィルなのかしら?原子力発電所以外売りのないあのトロマヴィルなのかしら。だとしたら危ないわ、とっても危ないわ。
 毒々モンスターはアリスと白兎の前に立つと親しげに話しかけました。
「どうしたんだいこんなところで。この先は海しかないよ」
「海!トロマヴィルは内陸ではなかったのっ!?」
 突然叫ぶアリス。トロマヴィルは時空と空間の裂け目になりえる土地ですから、時に海があり、時に火山があるのです。それを忘れてしまったのでしょうか?毒々モンスターはアリスを悲しげに見つめました(いいえ)。
「いったいこの街に何が起きてるというのかしら……」
「いや、もしかしたらすごーくでかい湖だったかもしれないけどね」「でも危険よ毒々モンスター。あなた海水に浸かったら浄化されて死んじゃうかもしれないじゃない」「神父がどうこうしたわけじゃないから浄化なんてされないよ」
 聖水じゃないからね、と締めた毒々モンスター。白兎のほうに対象をシフトして話しかけました。
「どうしたの。この壊れかけのレディオみたいな人に連れてこられたの」
「まあ…うん」
 毒々モンスターは白兎をぎゅっと抱きかかえるアリスを見やりました。顔は土色、お花畑みたいな服を着ています。目は変に充血していて、呼吸が妙に荒いです。
「警察行こうか?」「駄目よ!トロマヴィルの警察なんてっ!コカイン吸って市街を爆走するような連中よっ!」アリスが乱入しました。「子供の前でコカインとか云っちゃだめだよ」
「大丈夫だよ」白兎はアリスの双房に頭を押し付けました。「こないだすごい怖い映画見たの……最後は廃人……コケインなんて吸わないよ。この人は悪い人じゃないし……それに迷っただけなの、わたしたち」
「そう?ならいいんだけど」
 毒々モンスターはあっさり云いました。左目がきょときょと動きました。
「で、どこに行きたいんだ。もう帰るから途中までだったら送るよ」
「えっとね、エルドラドに行きたいの」「アンデス山脈に行きたいわけじゃないよね」「山には行かないけど……」「エルドラド?」「え、え、確かあの、コーラの湧き出る泉があるって……ドリトス(ナッチョチーズ)の葉が生える木も…」「うーん」毒々モンスターは唸った。「似たようなとこなら知ってるんだけどな」「どこ?」
「ウィリーウォンカ」「……どこ?」「アメリカだなー。似てるだけだよ。チョコレート工場だもん。ガムとかもあるけど」
 ガムとチョコレートって食い合わせ悪くない?とアリスは思いました。
 でもガムが溶ける感触を味わえるならまあ多少味に目はつぶれるのではないでしょうか。
「他になんかないの」
「あと?あとは……とーげんきょー、あっそうだ。しゅちにくりんみたいなところだって」
 毒々モンスターの眉はありませんでしたが毒々モンスターの眉がピクリと動きました。
「酒池肉林?」「食欲と性欲を一途に満たせるって。性欲ってなーに?」「登り棒だよ。まいったな……その説明じゃわかんないや」
「そう…」白兎はがっくりと項垂れました。その様子を見た心優しい毒々モンスターは脳をフル回転させました。アリスは白目をむいて後ろに倒れそうになっていました。
 蠅の飛び交う音がぶんぶか聞こえる。悪臭とも落ち着くにおいとも取れない林の臭いが三人の嗅覚を刺激していた。それはもしかすると誘惑を意味するのかもしれない。もの知らぬbutterflyや羽虫が捕食者たちに食い荒らされていました。
「ああ。ああ。そうだ、ドリトスだったらあるとこ知ってる」
「コーラの湧き出る泉は?」「そりゃー知らんなぁ」毒々モンスターは云いました。「コーラだったらまあ一杯あるとは思うけど」「そこは?」
 毒々モンスターはもったいつけて顎を引き、云いました。
 …………。
 ………………。
「OKだよ」
                 ▼
「О、K?」やや時間があり白兎は小さく呟きました。そこには全てのアンサーが込められているようで、あり。幼い白兎は完璧な回答と見まがうその語感に戸惑いを隠せません。
「そう、OKだ。万物を紙幣貨幣と交換できる人類の叡智の総決算さ。ドルは使えないけどね」「ドルが……使えない」「そう。香港ドルもオーストラリア・ドルも使えない。日本円だけだ」それはどっちかっていうと日本人の叡智の総決算なのでは?とは誰も突っ込みませんでした。そんな余裕のあるやつはこの場にいませんでした。
「お姉さん」白兎はアリスを見上げました。「OKだって」
 アリスは云いました。「OKってなにかの略語なのかしらね。オールド・カインダ―フックかしら。謎だわ……何故OKなの。意味と合わせてこれほど謎な英単語も少ないでしょう……そうね、bautifullを美しいと訳すぐらい謎だわ」
「そりゃ確かに謎だな。ちょっとずれてるけど」毒々モンスターは星条旗を背負い直し、アリスたちが来た道へ顎をしゃくりました。「じゃあ行こうか。近くまで送るよ」
 アリスは立ち上がりました。アリスが立ち上がるので、少し名残惜しそうにしながらも白兎も立ち上がりました。(どうやら白兎熱さには強いらしい。流石恒温動物)アリスは白兎の手を握りました。白兎はアリスを見上げ、きゅっきゅっと柔く握り返しました。
 一行はもと来た道を引き返します。魔界に匹敵する林が畑に代わり、さほど高くないブロック塀に移行するのに大した距離はありません。
 車の音が流れ、三人の前をハーレー・ダヴィットソンの群れが通過しました。交差点に到着したのです。72度角、五首の交差点は県で屈指の交通事故数を誇る交差点でした。ダヴィットソンが通った後、追うようにして一台のマスタングがっ!
 マスタングが一番後ろのダビットソンに接触し、大炎上しました。
「ここまで来ればあとはもう単純だからね」
「ありがとう。ありがとう毒々モンスターっ!感謝してもしきれないわ!」
 と、アリスは毒々モンスターの手をぶんぶか振り回しました。毒々モンスターはその手を静かに振り払うと紙にメモを書き白兎に渡しました。ついでに頭も撫でました。
「じゃあね、これ見ればOKつくから。気を付けてってね」
「うんありがとう。今度チューペットあげるね」
「じゃ、もういくね」
 よっこいしょと星条旗を背負い、毒々モンスターは去っていきました。しばらく見ていた二人。ひときわ大きなトラックが通るのを合図に、歩き出しました。
 照り付ける日がアスファルトを抉るようです。
「そういえばお姉さん、毒々モンスターってなあに?」
「醜い顔の下熱く煮えたぎる正義の心を隠し持つ、人呼んでトキシックアヴェンジャー。そんなに孤独でもないヒーローよ」
「孤独じゃないの?」「街の人に愛されてるし……巨乳の彼女もいるのよ」
「孤独じゃないね」
「いいことよ」
 二人は他愛もないことを喋りながら毒々モンスターに渡された地図をもとに悦楽と堕落の地、OKに向かいます。彼女らを見送る一対っぽくない目が静かに細められ、静謐な一言を落としました。
「大丈夫かなあの人、ほんと壊れかけのレディオみたいな顔色だったけど」
 アリスの中で割れ鐘が鳴っていました。
 ええ、ええ。二人は歩いていました。OKはまあまあ遠い場所にありました。地図によればずっと直進していけばいいそうです。確かに単純だな、と白兎は思いました。
 道路のアスファルトは今にも溶けだしそうに脂ぎった光を放ちます。風がひゅうとふくと軽く汗の浮いた肌を不健康に冷やされます。それで白兎は、アリスへ身を寄せました。
 白兎から見たアリスは、変な人でした。いろいろと変なので一々槍玉にあげるのがバカバカしくなるぐらい変でした。ハカバカしくバカバカしいのです。今さらながら白兎はついてきちゃったなぁと思いました。
 何故この人はわたしを連れているだろう、と白兎は思いました。いえ、いえ。頭の中ではもう、多分ちゃんとした答えはないんだろうなあと漠然答えを出していたのですが、感覚的でもいいから、アリス自身から答えを聞きたいなあと白兎は思っていたのです。
 大きな金物屋の前を通りました。白兎は、握った手にきゅっきゅっと力を入れ、アリスにモーションをかけました。アリスは先ほどから鼻歌を歌っていました。はじめてのチュウでした。
「お姉さんは…」白兎は云いかけて口を噤みました。アリスが、ん?どうしたの?という顔で見下ろしています。前見ないと危ないぐらいにふらついていました。
「迷惑かけるわね」アリスがどことなく遠い目をして、云いました。今までと違う感じでした。何だか目がうつろです。
「そんなこと……ないです。いきなりでしたけど、いやじゃありません」
「そういってくれると助かるわ…いい子ね、メレンゲ買ってあげる。まあまあ高いのよあれ」
 白兎は、アリスを見上げました。アリスは、物で懐柔しようとしている風ではありません。他意なしにそう云っているようでした。もしそうだとしたらやっぱり変な人だなあと白兎は思いました。それと同時に、不思議な感覚が胸にありました。
 白兎には百合っ気があったのです。その手の情報をレクイエム・フォー・ドリームぐらいしか持ち合わせない幼い白兎は戸惑いました。
 白兎は頭をぶんぶか振りました。でもじっとりと濡れた互いの掌が正気を取り戻させてくれるばかりか、より生々しく音声付きでまで白兎の頭に現れるのです。白兎はアリスの顔を見ないよう地面の硬貨を探し始めました。でもそうすると、左手の感触がより強く頭に残ってしまってもう、まいったものです。
 隣の白兎がもんもんとしているのもつゆ知らず、アリスははじめてのチュウを歌いました。鼻歌が漏れ出たあの感じです。歌詞が歌詞なのでさらに白兎は悶々としてしまいます。
 はじめてーのチュウ、君とチュウ、
 アリスはチュウと歌うたび、潤んだ唇をすぼめる動作をするのです。肉厚のそれが破裂するような音を聞くと、そのたびに白兎の脳でなにかが死滅する気がしました。実際暑さで大数が死滅しているのでしょうが、それは失わせるというより希薄にさせる感覚でしたので、なかなか自分では気づきにくいものです。白兎のなにか薄れていくようなのです。
 早く次の歌詞に行ってほしいのに、アリスったらそこしか覚えていないのか、壊れかけのレディオのようにはじめてーの、チュウ、君とチュウ、と繰り返します。
 本人も多少飽きがこんでいるのか、趣向を変えて質問するようだったり命令するようだったり誘惑するようだったり妙な声音ではじめてのチュウを歌っています。
「はじめてーのっ、チュウ、君と、チュウ?」
 アリスは白兎の視線に気づくと、にっこり笑って唇をちゅーっと突き出しました。
 ちゅーっ。アリスには唇の皮をむく癖があるのか、血管の近くまで削がれた唇は天然の薄紅色をしていました。
「…………」白兎は無意識に唇をすぼめていました。
 これでは、まるで、チュウのおねだりのようです。
 幸か不幸か、二人の身長差は唇で埋まるものではありませんでした。きっと歩いている限りは大丈夫なはずです。白兎は、自然、足を緩めました。
「あらあら?」とアリスがよろけました。近くにあった電柱に手を置き、荒い息を吐くわけでもなく、ただ酩酊に頭を揺らしています。「ちょっと休みましょうか?あの公園あたりで」果たして指さした方向に公園はありました。小さい公園で遊具は公衆トイレしかありません。あの公園あたりでと自分で言ったわりよろけてなんだか遅いので白兎はアリスを引っ張りました。手汗がひどくて滑りやしないか心配するほどでした。
 公園につくとアリスはベンチを探しましたがライターが置いてあったのでやむなくトイレで休みを取ることにしました。小さい公園の小さい公衆トイレはかろうじて男女にわかれているという風で、敷居の壁は薄っぺらです。男女どちらも全体が黄ばんでいるようでした。空気の循環も悪く、それがますますトイレを黄色く濁らせました。「これでコーラでも買いなさい」一番奥の洋式トイレに座ったアリスは白兎に120円を渡しました。さて自分の分も買ってきてもらおうと思い財布の中のお金を計算したところ、120円を抜くとドリトスとメレンゲを買うので精一杯しかないことがわかりまして、アリスはあれあれと疲れた風に笑いました。「さあコーラでも買ってきなさい」アリスは洋式トイレを椅子にしました。「ありがとう」といって走っていく白兎をトイレの個室から頭を出して見送ると、アリスは頭にまたジュワワワワが浮かび、その場に倒れこみそうになりました。
 一方白兎は困りました。コーラは130円だったからです。白兎はコーラの代わりに何を買おうと思いました。全部130円でした。「…ええ」白兎はさらに困りました。アリスにお金の催促をすべきか悩みました。白兎はあまりアリスに迷惑をかけたくないと思いながらも悩みました。本気で喉は乾いていたのです。ごく、と集積した乾いたつばきを飲み下すと、渇きは前頭葉のほとんどを占める欲求となり、白兎は公衆トイレに戻りました。
 塩素とアンモニア、faexの混じる公衆トイレに戻ると、これはやはりひどい匂いなのだなと白兎は思いました。
 一番奥のトイレの個室で、アリスは死んだように腕を垂らしていました。
「おっお姉さんっ!大丈夫ですか!?」「うーん…楽だからこうしてるだけよ」アリスは弱弱しく頭を上げ、にこりと笑って見せました。「そ、そうですか…」
その時です。アリスの髪から汗が落ちて、白兎の手の甲に浮かびました。白兎はまた、つばきを飲みました。アリスの汗玉は白兎の汗と混じり合い、その形を崩しつつあります。白兎は自然と、手の甲に舌を這わせていました。
舌は夏で熱くなっていました。手は肉厚の布団のような熱を内にこもらせ唾液の通るあと残るのは呪縛のような肉垂れでした。
白兎は自分の手の溶けるよう感じました。不思議と抵抗感なくどろどろと手の肉が落ちて行き白兎は熱の塊になっていると思いました。もう溶けきってしまうと思う時折、またアリスの髪からしずくが垂れ、白兎はそれをなめました。舐めるたび溶けきるはずの白兎は延長されますが舐めるたび熱の塊としての白兎は一層熱くなりました。
「んー?」とアリスが不思議そうに白兎を見下ろしていました。
 白兎はそれでも手の甲に落ちる雫をなめていました。アリスの体が揺れ動き、ぽたぽたと複数の汗が垂れると、白兎は一旦舐めるのをやめてアリスを見上げました。アリスの口元から一筋の液が流れ出ました。つーっと滴るその先に掌を差し伸べ、白兎は目で追いました。重力に従って白兎の掌に溜まるそれを白兎はしばらく見ていましたが、それが小さな水たまりを作るに至ると、おもむろにそれを舐めあげました。白兎は不思議な味だ、と思いました。味は濃いと思われましたが何の味ということもできずただただ塩分の過多をおかずに白米を掻き込むがごとく中毒性を白兎は覚えました。白兎はアリスを見上げました。アリスは目をつむっていました。白兎は線となって落ちるつばきを舐めるだけに飽き足らず、小さな口を懸命に開けて直接つばきで舌を穿ちました。口の中に溜まるつばきを飲み下し、白兎はこれは甘味なのだと理解しました。それは濃密な甘味でした。濃密でありながらもどかしいほどに淡く白兎は脳のしびれる思いを味わいました。ゆっくりと白兎の口がアリスの口に近づき、舌が唇を舐めあげるほどに近づきました。ど、う、し、た、の~アリスがささやくように言い、吐息が白兎の人中を湿らせました。
 白兎は我慢が効かなくなった、と思いました。気が付くと白兎はアリスの半開きの口に自分の口を重ねていて、その責任の半分をアリスに押し付ける形で舌をアリスの歯に這わせました。
 アリスは不思議なほど抵抗せず、ほとんど塞がれた口で軽く笑い声をあげました。対して白兎はひどくまじめな顔でアリスに吸い付きました。「あっ」アリスが体勢を崩し、公衆トイレの床に膝をつきました。「にゅあははははは、ばっちぃ」と笑うアリスの首筋に白兎が吸い付きました。髪が床に揺れていることはほとんど気にならないようでした。アリスはくすぐったそうに笑って、白兎の背に手をまわし持ち上げて便座に座りなおしました。甘えたいの、とアリスは云いました。声は明るいのにダウナーな重さがあり、着崩れたアリスワンピースを含めて奇妙な色気がありました。白兎は脳裏で別に甘えたいわけじゃなくて、と思いましたが本当に一瞬で本人すら気づきませんでした。白兎はアリスの胸に顔をうずめ、アリスワンピースの中ごろのボタンをはずして下着と肌を舐めました。これにもアリスはくすぐったい声を出して応えるので、白兎の脳は混迷を極めました。
 白兎には、エスカレートしている自覚がありました。でもそれ以外にはありませんでした。これは不味いんじゃないかな、と幼心に思いながらも舌を這わせていて、甘い肉と不道徳を叱る頭の二律背反がますます白兎の興奮に火をつけました。
 アリスは笑うばかりでした。時折愛おし気に胸を舐める白兎の頭に手をのせて、くすぐったがっていました。こればっかりは白兎の愛撫が下手だったことが幸いでした。
 白兎はアリスワンピースをめくりあげ、腹を舐めました。それから土下座するように頭を地面すれすれにもっていってアリスのスカートの中に潜り込みました。アリスがこらぁと楽し気に叱りました。白兎はレクイエム・フォー・ドリームの分だけ性的な知識を持っていました。内訳すると普通に男女で致すものが大半でしたがジェニファー・コネリーの双頭ディルドーも記憶にありました。思えば白兎の初恋はジェニファー・コネリーだったかもしれません。彼女の知的な目、力強い相貌、厚い唇は白兎の目を惹きつけて病まないものでした。アリスは、多少タイプの違う顔立ちでしたが年上らしい大人っぽさを持った日本的美人でありながら頭がちょっと変という部分が白兎を惹きつけました。白兎は、アリスのパンティに口を近づけました。鈍重な酸の臭いが薄く香りました。今の白兎にそれは凶暴な色気となって降りかかりました。白兎は歯でパンティーをずらしました。トイレの電灯がアリスのスカートを突き抜けて朧げに明るく、露呈したそれが曖昧に白兎の目に映りました。白兎は躊躇なくアリスのそこを舐めました。毛と毛の間に不定形の肉の塊が感ぜられました。唾液の何倍も美味しい、と白兎は思いました。
 アリスもこれにはたまらず足をすぼめました。頭をももに挟まれ苦しげな声を出しながらも白兎はアリスの蜜を吸いました。「はっ」アリスは天井を仰ぎ、喉から音を噴出させました。ニキビから出た膿のようでした。じゅるじゅると下半身で音がして頭の中に耳鳴りがオブラートに包まれました。は、とアリスはまた声を出しました。
 アリスはアリスのそこに残尿感めいた感覚を覚えました。白兎の舌はやはり上手くありませんでしたがもどかしさが膀胱をせきたてました。
 は、は、とアリスは断続的に息を吐きだしました。カウントダウンでした。白兎が深く顔をうずめるごとに「は」の瞬が増えました。アリスの目の奥でちかちかと光が点滅しました。アリスはほんの一瞬だけ正気に戻り、これはいったい何だろうかと思いました。が、水分不足が思考力を一気に奪い、気づいた時には決壊が始まっていました。
「は、は、」と耐えると息が漏れ、大きく満足を浮かばせる声とともに尿が白兎の喉に流れ込みました。アリスの耳に喉奥に下される尿の音が聞こえました。アリスワンピースの内側やすねにつく感触も感ぜられました。「こほっ、こほっ」時間にしても量にしても大したものではありませんでしたが、白兎はせき込みました。衝動任せの延長戦には何もなく、ただこの先になにがあるのかと訝りました。アリスの気は遠くなり、また床に倒れこみそうになりましたが、白兎が抑えました。抑えようとしました。しかし完全に気絶した高校生を支えきることはできず、あえなく床に正常位の形をとりました。
 白兎の脳裏に第二ラウンドという文言が浮かびました。
 この発情兎め。
 しかし白兎にもその余裕はありませんでした。アリスの体に潰され、息はし辛くこもった熱が白兎の意識をも奪おうとしていたのです。というか、睡魔に耐え切れず眠ったのでした。
         ▼


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 時間は永遠に続くように思われました。世界は暗闇に包まれ終焉に達しようとしていてそれを防ぐ者はおらず、ただただ太陽を侵食するそれを眺めるばかりでした。炭を垂らすようにじわじわと広がる黒。それはこの先の不吉の予兆でした。
       
 公衆トイレから出てきた二人はひどい恰好をしていました。一様に髪はぼさぼさ、額や頬に数本の髪が張り付き、服はぐちゃぐちゃで事後にしか見えませんでした。片方は黒髪に似合わないアリスワンピースを着ていて方が半分はだけているのをふらふらしながら直していました。アリスワンピースの裾から滴が滴っていて、寝ぼけているのか小声で歌っていました。らいらららいらららいらららいらららいらららっぱっぱー、もう片方は背の低い童女でこれまたふわりとした白い服を着ていましたがところどころにシミができています。特に背中には黒ずんだ斑点がいくつか浮かんでいます。顔は真っ赤で肩を上気させていました。こしこしと口元を拭きました。「ん~、足の調子がいいわ。休んでよかったわね」アリスは云いました。白兎の手を取り、歩き出そうとします。白兎はびくりと体を震わせました。今さらながらとんでもないことをしてしまったという意識が浮上してきていてまともにアリスの顔を見ることができません。後悔しているはずなのに、なおアリスの手の感触を悦ぶ自分を白兎は叱咤しました。そしていつか父親が唱えていた呪文を唱えました。色即是空色即是空……。上でアリスが悪魔の呪文を歌うのでありがたい効果はもらえそうにありませんでしたが、白兎の気持ちは紛れました。
 気まずさを宿してアリスを見上げると、さっき見た時よりも舟をこぐような調子で頭をゆらゆらと揺らしていました。何で倒れてないのかというほどでした。
「さあ行きましょうか」「は、はい」淀みない声でした。淀みなく、しかし張りはありませんでした。
 白兎はアリスがどう思っているか気になりました。なにもかもをどう考えているか不思議でなりませんでした。さっき適当に納得してしまったなんもかもを気にすべきなのではという気になりました。「お姉さん、そんな感じでしたっけ」
「こんな感じじゃない?」「いっつも鼻歌を唄いながら帰ってくるのはたびたび見てましたけど、澄ました顔で唄ってた気がしてなんだか…」「なんだか?」「無理してません?」
 アリスはん~と首をかしげて考え始めました。細い指を髪に埋めて関節の頂で頭皮をぐりぐりやりました。ふらっとよろけました。「うん、うん、無理はしてないよ、うん」
「そうは見えないんですけど…」やっぱり具合悪いんだこの人と白兎は思いました。白兎は意を決して言いました。「お姉さん、もう帰りましょう」「なんで?」「なんでって…」白兎はくいくいアリスの手を引っ張りましたがびくともしません。困った白兎は周囲を見渡しまし、OKを見つけました。白い頭にOKを乗せた巨大な建物がそびえたっています。車道のほうを走る車のほとんどはあの場所に向かっているように思えました。
 全ての答えを孕む場所、OK。白兎は思いました。あそこに行けばだいたい何でもそろっているだろうし、この人の問題も解決できるかもしれない。
 白兎は歩き出しました。アリスはその横でクエスチョンマークを浮かべていました。
        ▼
 立体駐車場入り口を横切って二人はOKの前までやってきました。OKは大きい建物でした。入口がそこかしこにあるのでどこから入ればよいのだろうと白兎はとんちんかんなことを思いました。
 みんなが二人を見ていました。大概にも大概な風体だったからでした。二人の後ろから子供連れの両親が警察呼んだほうがいいかしらと云いながらOKに入っていきました。途中具合の悪そうな清掃夫にぶつかって夫のほうが怒鳴りました。
 白兎はもちろんそれに気づいていました。アリスは相変わらずらいらららいらららいらららいらららいらららいらららっぱっぱーでした。白兎はアリスの手を引いてOKに入ろうとしましたが、アリスがそこから動こうとしませんでした。
「どうしました?」白兎は尋ねました。アリスは唄いながら建物を見上げていました。胡乱気な顔つきでした。白兎の問いかけにも応えず、アリスは唄っていました。ようやく口を噤んだかと思うとそれは伴奏だったようでしばらくするとまた唄い始めました。白兎はタイミングをつかめず「ここで動かず待っててくださいね」と云いながらOKに入っていきました。
 アリスは入口の前に残されました。人波がアリスをじろじろ見ながら建物に入っていきます。アリスはそんな視線など気にも留めず、歌を唄っていました。アリスは唄いながらここイトーヨーカドーじゃねえなと思っていました。
 唄い終えると、不機嫌な顔でOK、オールカインダーフッド、と呟きました。うつろな頭で答えを出そうと必死になっているように見えました。
 その頃白兎はOKの中を走っていました。店内は程よく冷房が効かされ、外から来た白兎の体温を奪いました。白兎は肩をぶると震わせ、走りました。OKの中は巨大でした。まず、鮮魚コーナーが四レーンあって、野菜コーナーも同じ数だけありました。肉はその二倍ありました。そのほかに菓子に調味料、スプレーガンなどが売っていました。その間をところ狭しと人やカートが行き交い、体の小さい白兎にとってもひどい通りにくさでした。
 白兎の目指すところはお客様サポートセンターでした。サポートセンターは一階と二階両方にあるらしく、三階は立体駐車場入り口でした。白兎は一階のサポートセンターが人で埋まっているので二階を目指していました。階段とエスカレーター、白兎はまずエスカレーターを目指しました。どちらもギュウギュウ詰めでそれなら歩かなくとも上に行けるエスカレーターに乗ったほうがいいと考えたからでした。
 人がバケツの肉塊のように商品棚に群がっていました。みんな安い商品に目を血走らせ商品を手にとってはカートに突っ込んでいました。遠くのほうで罵声が聞こえた、と思うと近くで「それ私のよ!」と大きな声が聞こえました。そうした波に逆らって業務を続ける店員は見るからに憔悴しているように見えました。白兎は大変だなと思いつつも肉をかき分けて行きました。そうすると、引っ込んでいた汗が復活するのを感じました。じっとりとした肉の壁に白兎はアリスを思い出しました。「ちょっと!気をつけなさいよ!」白兎が足でも踏んだのかひどい形相の女の人が喚きました。白兎は気おされ、のけぞりましたが気を引き締めてさらに突き進みました。「クソガキ!アバズレ!」無視された女の人はひどいことを叫びました。それを聞いた別の女の人がなんだと!と女の人をぶん殴りました。よろけた女の人が男の人にぶつかりまた殴られました。今度は鼻の折れる音が聞こえました。「あああああ!」女の人は叫びました。叫び声につられて振り返った大根を持った女の人が鼻血に滑って転びました。頭をしたたかにうち、呻いているところを百貫デブに踏まれて悲鳴を上げました。
 悲鳴は波及しました。ひどくひどく波及しました。襲う波のような悲鳴が悲鳴を呼び、店内の客を包みました。店員はなぜか笑っていました。虚ろな顔でした。
 白兎は逃げるようにしてエスカレーターを目指しました。白兎にはやはり逃げるように足の浮いた人たちが大勢いて、みんな一様にエスカレーターを目指していました。上の商品は日用品が主でした。文房具やニスなどが売っていました。白兎はエスカレーターにどうにか乗り込みました。黒と黄色のボーダーの床に乗って動くがまま任せました。上からアナウンスが降ってきました。『ただいまより三十分間、総菜コーナーのから揚げが200円になります。先着順になっておりますので、皆さん落ち着いて一列になってください』白兎にはどこらへんが‘ので’なのかわかりませんでした。200円のから揚げが安いかどうかもわかりませんでした。でもやっぱり求めている人は多いみたいで登るエスカレーターから牧羊犬に追い立てられた肉みたいな綺麗な方向転換が見えました。下りのエスカレーターに「どいてどいてどいて!」と駆け降りる影がいくつも見えました。エスカレーターとエスカレーターの間を滑っていこうとする者もおり、駆け降りる誰かが起こって殴りつけました。殴られた滑る人は上りエスカレーターを過ぎて向こう側へ落ちていきました。殴りつけた人は結果的に手助けした形になったのでした。
 OKって戦場なんじゃないかもしかしてと白兎は思いました。
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 アリスはゆらゆら揺れていましたが、それに飽きると階段の中ごろで座っていました。俯いてやっぱりゆらゆら揺れてアリスは考えていました。といっても思考力の低下から、もっぱら期待されるのは単語の羅列からのひらめきでした。
 ドリトス(ナッチョチーズ)。コーラ。メレンゲ。OK、オールカインダーフッド、白兎、トキシィックアベンジャァーッ。「…………」
「ここイトーヨーカドーじゃないな。OKだよここは」
 アリスは立ち上がりました。立ち眩みがしたふらふら揺れました。片足が半円を描き、転びそうになりましたが耐えました。「イトーヨーカドーじゃないと…」アリスは歩き出しました。右手をわしわしやって少し不思議そうな顔をして「OKじゃダメだよ~」と唄いながら歩きだしました。そのとき、アリスに声をかける影がありました。
 男は言いました。「今何て言った?」
 アリスは振り返りました。それは清掃夫でした。目に強い怒りを感じました。モップを持つ手がぷるぷると震えていましたが、よく見ると震えているのは全身でした。
 アリスはこの人どっか悪いのかしらと思いました。思うとぱっと頭?と単語が出てきたので、アリスは微笑みました。
                ▼
「つまりその女の人は具合が悪そうなんだね?」サポートセンターのおじさんは云いました。禿頭でした。
 サポートセンターは二階の端っこにありました。事務所のようなところでした。タイムセールのおかげで二階の客はそれほど多くなく、大した苦も無く白兎は辿り着けました。
「はい」白兎は云いました。「それもすごく悪そうで…」
「外にいるんだよね、今。とにかく見てみないと、店的には救急車何て呼びたくないだろうからね、案内してくれるかな」ハゲのおじさんは云いました。なんか目が変だなと思いましたが白兎は気にしないことにしました。
 ハゲのおじさんは事務所の後ろの扉を開き、手招きしました。「えと、そこから行くんですか?」「ああ、下は邪魔が多いからね」おじさんは笑いました。「後ろに非常口があるから、そこから行こう」白兎は迷いました。おかしいような気がしましたがどうおかしいのか白兎は納得のいく説明ができませんでした。強いて言うなら警鐘とでもいうべきかもしれません。早鐘のように胸が音をたてましたが走ったせいでもなければまして恋でもないだろうとおじさんが聞けばツンデレだツンデレだとはしゃぐようなことを白兎は思いました。白兎は渋い顔をしました。「表から出ないと、案内できないかも…」「どうしてだい?」「非常口の先を知らないから、知らないところに出ても知ってるところには行けないから」
「はは、中々哲学っぽいことを言うね、おじさん好きだよそういうの」
 はははとおじさんは笑いました。白兎はひどい気分になったと思いました。実際、眉間に不快を覚えていました。振り払いたくなる感でした。
 空調の廻る音が聞こえました。サポートセンターには椅子と机、机の上には大量の資料と粉袋が置かれていてその向こうに扉がありました。おじさんは白兎の斜め前に立っていました。エアコンディショナーの風が何を運ぶのかこびりついたなにかを払うように自分の禿頭を撫でました。涼しい気のはずなのに顔がてかてかと光っていました。油でした。
 白兎は落ち着かない思いを感じていました。時間が止まっているような気がしました。黙っておじさんを見つめる自分と笑ったままのおじさんとあまりの動きのなさでした。背後から走る客の声が聞こえました。飾られたテレビの音が近くに来たように思えました。「わたし、先に下に降りてますね」白兎は支離滅裂なことを云いました。背後の扉に手をかけました。「はは、何を言ってるんだい。非常口から行ったほうが早いよ。さあ行こう」気づいたらおじさんは扉の前に立っていて開かないように抑えていました。素早い動きでした。それ以前に白兎の背筋に冷たいものが走りました。逃げなくてはと頭の中を暴れまわりどうしようもないと白兎は思いました。おじさんはニコニコしていました。
 白兎は賢かったので悲鳴を上げようとしました。鈴の断末魔のような声がサポートセンターの中を飛び跳ねました。「ここ防音加工なんだよね。駄目じゃないかそんなことしちゃ」
 おじさんが笑いながら白兎の口を抑えようとしました。その前に白兎は自分で口を抑えました。口に触られたくないと思ったからでした。おじさんは残念そうに手をひらひらさせると、言いました。「そうしてなさい」白兎の肩に手をかけました。
 手で口を抑えたまま白兎はアリスに助けを求めました。なぜアリスに助けを求めてしまうのかと白兎は思いましたが、どのみち聞こえる話ではありませんでした。
             
「だからっ!今何て言ったかって聞いてんだよボケガキ!」
 清掃夫はアリスを怒鳴りつけました。横に飛んで行った白い泡を見送り、アリスはぼうと立っていました。突然のことにアリスは戸惑いを覚えていました。さっき何を云ったかと問われて思い出すのは悪魔の呪文でしたがそれは違うだろうなと考えていました。
 アリスは清掃夫に絡まれていました。第三者的に言うとその原因はアリスがOKを軽視する発言をしたからですがアリスは覚えていませんでした。
「はあ、ええと、らりぱっぱー、です」アリスは取り敢えず言いました。
「違う!よしんば言ったとしてもそこじゃない!もっと後だ!」
「らいらららいらららいらららいらららいらららいらららっぱっぱーです」
「ホーカスッ!ポカス!おめえ頭おかしいんじゃねえのか!?俺はッ、お前が何の権利があって俺の職場を悪く言ったのか聞いてんだ!」激高した清掃夫はじだんだを踏みました。変な揺れ方もしていました。らいらら?とアリスは思いました。そして思い出しました。「イトーヨーカドーのほうが好きなんだもの」
「イトーヨーカドーだっ?は、あんなとこ。高すぎて庶民向けじゃねえ、お高く留まってるわりに品質が高いわけでもねえ、クソだろ」
 アリスはなんだか知らんがカチンと来ました。ふらっふらの足で地面を踏みしめアリスワンピ―スの尻についた砂粒を払うと言いました。
「you(fuckin)stupid,(fuckin)bastard,(fuckin)bitch,(fuckin)asshole.Mother fucker.
did you want digging me? did you want digging me? Huh? Pretty cute ass.bitch.」
 アリスはあらん限りの罵倒語を繰り出しました。日本語で罵倒すると回りくどくなりそうだからでしたが失敗でした。清掃夫はマザーファッカーしかわからなかったのです。
 清掃夫は一瞬気圧された顔をして一瞬青くなって次の瞬間、顔を真っ赤に染めました。アル中の鼻頭のような顔色になりました。
「なんでうちの母ちゃんのこと知ってんだ!」清掃夫は殴り掛かりました。モップを振り上げ、アリスの頭を粉砕せんと振り下ろしました。
 アリスは空を見上げました。思えば遠くまで来たような気がすると思いました。足がガックガクです。さっきまで座っていたのにガックガクでした。空にモップの影がかかりました。いやにスローモーなモップを見て、アリスは自分の脳漿の色を思いました。脳漿の色は赤という映画と、灰色であるという映画の両方をアリスは見ました。どっちが正しいのかは知りませんでしたが、毀れるならその色は赤だろうと思いました。そう言えば脳には痛覚がないのだということも思いました。なら頭痛とはどこから来るのだろうか、頭のどこが痛くなれば内側からぶんなぐられるような風になるのだろうか。
 殴られた衝撃は一度ではなくて、まず表面的な接触部から中に衝撃が伝わる。衝撃は波となっていろんな箇所に影響を及ぼす。頭なら衝撃波で脳が揺さぶられて意識を失うか、それに近い状態に陥る。酷いと脳挫傷という症状を引き起こして、最悪死ぬ。次に抵抗が起こる。殴ったらその分の反動が殴った側に伝わる。殴ったんだなとわかる。拳なら壊れるかもしれない。モップなら折れるかもしれない。アリスは思いました。
 しかしモップが折れたところで自分の頭が破裂することに変わりはないな。
 モップが振り下ろされる。暗転。暗転。瞼を透けた太陽が、瞳をほんの少し痛ませる。キャッチャーミットのような音を立てて、モップの先が何者かの手に握られていました。
 その肌は奇妙に焼けただれ、緑色になっていた。上半身は裸、身に着けているのはバレエのセパレート。盛り上がった筋肉が列をなし、象徴するは正義の心。
 
 清掃夫は毀れそうなぐらい目を見開いていました。アリスは、恐る恐る目を開きました。モップの柄をつかむ、緑色の醜い手が見えました。
「やっぱり付いてきてよかった…大丈夫?アリスワンピースの人」
 トキシィィィックッ!アヴェンジャーッ!
 アリスは目を見開きました。「毒々モンスター!毒々モンスターじゃないの!助けに来てくれたのね!」「まあ似たようなものかな。君ほんと話聞かないね」毒々モンスターはふ、と笑いそれから清掃夫に向かいました。モップがぎりぎりと空中で動いていました。毒々モンスターは一瞬で清掃夫の手からモップを奪いました。
 彼はモップをしげしげと眺めた後、前戯のごとく振り回した。風切り音が鳴り、ほこりやら泥水っぽいのやらが飛び散る。獲物を失った清掃夫はカーゴからナイフを取り出した。刃渡り45㎝、立派な銃刀法違反だった。
「さて」毒々モンスターは言った。「お掃除の時間だ(it's a cleaning time)」
 清掃夫が奇声を上げ毒々モンスターに突っ込んでいく。毒々モンスターは白刃を横に避け、その手をつかんだ。そして力任せに振り回し、清掃夫を階段の下に叩き落した。嫌な音、あれは肋骨がイッた音に違いない。誰もが終わりを感じたが、その意に反し、清掃夫は立ち上がった。右手に謎の錠剤を持っていた。「くそっ(domn it)」清掃夫は錠剤をのんだ。とたんにだらしのない背筋がピンと立ち、目に生気が宿った。
「あれはまさかヤバい薬ッ!?」
 清掃夫はにやりと笑い、突然飛び上がった。だいぶん自信を含んだ声で手すりを駆け上がり、曲芸じみたその動きにアリスは目を疑う。ナイフを後ろ手に忍者のような動きで手すりを駆け上がった清掃夫は手すりのdead end で毒々モンスターにとびかかった。毒々モンスターは前に出て清掃夫の足をつかみ、地面に叩き付けた。またしてもヤバい音がしたが、清掃夫にはもうヤバい薬を使うことができなかった。Knock down だ。
「ふう」毒々モンスターはモップを左手に掴み、息を吐く。そしてアリスのほうを向いた。「それで?白兎の姿が見えないけど、どこに行ったの?」「付いてきてたんじゃ…」「トイレ行ってたんだよね」毒々モンスターはいい笑顔だった。

 おじさんは日よけを降ろしてことの顛末を見守っていました。清掃夫の敗北を見届けると、これ見よがしに舌打ちをしました。「奴め…やはりあれぐらいではダメだな…」おじさんは机の上の無線機に手を伸ばしました。「各自に通達、汁を使え。人員をかき集めてあいつを迎撃するんだ」おじさんは疲れた顔で椅子に座り、部屋の隅に目を向けました。そこには白兎がさるぐつわを噛まされて転がっていました。
「まさか毒々モンスターが現れるとはね。予想外だ」白兎はふごふご言いました。「白い肌に白い服…君が白兎だね…?やれやれ、僕のyarakで有効活用しようと思っていたんだが、取りあえず君にはホステージになってもらおうかな」こいつトルコ系かと白兎は思いました。おじさんは引き出しからタウルスを取り出し、カートリッジの弾を確認しました。タウルスを腰にしまったおじさんは言いました。「アピールしやすい場所に行こうか」



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 ブラック・ローカストと呼ばれるイナゴの軍勢がアメリカの農場を襲う話は有名である。彼らは黒煙のごとき噴で麦穂に襲い掛かり、畑を跡形もなく喰い尽す。ブラック・ローカストが過ぎた後に残るのは麦の根だけだ。その無残な光景に人々はかの《ブラック・デス》を重ねざるを得なかったという。
 奔流と呼ぶに相応しい数の人がOKの入り口から溢れ出てきていた。内部で何が起こっているのかレジ袋を持っているもの持っていないもの必死の形相で逃げ惑う人の中に、OKの店員らしき制服を着た奴らが混じっている。「レジカウンターが36…そのすべてに人がいたとして36人、在庫管理に4人、警備員が3人、清掃夫が6人-1=5人…このほかにいるかな?」毒々モンスターは言った。
 店員の一人が五十路の女性の肩を踏み台に飛び上がり、毒々モンスターに襲い掛かる。毒々モンスターは手にしたモップを握りしめ、それを迎え撃った。
 毛先で店員の胸を打ち、次いで左右から来る店員たちを牽制する。階段を後ろに飛んで降り、モップを振り回しやすいよう手すりから離れる。襲い掛かる店員たちは皆一様にさきの清掃夫と同じ目をしていた。ヤバい薬だ。「アリスワンピースの人!早く君も避難を…」毒々モンスターは振り返った。そこには誰もいなかった。もう逃げた…かな?だといいんだけど…。毒々モンスターは店員のシャベルをいなし、鼻っ面にパンチを挿れた。背後に降り立った店員の胸に石突を突き込んだ。毒々モンスターは囲まれていた。
 階段の上にシャベルを構える店員が数人、後ろにも数人、階段の左右にあるテラスに鎌を持った店員が見える。毒々モンスターはこの絶対的なピンチにも笑みを浮かべた。
「さあ骨を折られて退場するか棺に入るか選ぶんだ」
アリスはふらふらと歩いていました。客の波を避けるよう、OKの建物をぐるりと廻っていました。華美で集客に力を注ぐ正面に比べ、側面はそこかしこが灰色で華がありません。業務用入り口らしきシャッターの降りた空間があり、その前にトラックが数台停まっていました。警備会社の車も見えました。2011年製造の新しめのダッヂ・チャレンジャーと見ました。さすがに旧式は走っていないのでしょう。少し寂しくなりました。
 喧騒は背後にありました。こうして対岸をフラフラと歩いていると、現実離れする感が頭を支配するようで、ただでさえ朦朧としている意識を夢見心地にしていくのでした。
 アリスはスカートをたくし上げました。先が変色していました。アリスは空を見上げてなにかを飲み干すようなしぐさをして、倒れるように歩きました。声は枯れかけているのか、ぁを滲ませた息を吐きました。
 白兎はどこだろうとアリスは思いました。あの可愛らしい兎を見失っているなとアリスは思いました。アリスは匂いを嗅ぎました。もちろんそれで分かるものというわけではありませんが、何だか奇妙なにおいがする気がして、アリスは建物の裏を目指しました。

 携帯をしまった毒々モンスターはOKの中に突入しました。階段に死屍累々を残し、モップを構えて。店内に残る客はまばらでした。買い物を目的として残っているわけでないことを鑑みると客と定義することはできないかもしれません。大半が痛みから起き上がれないようで、ここで何らかの事件があったことは明らかでした。毒々モンスターは足元に流れる血から退きました。
 レーンとレーンの間に店員が数人固まっていました。彼らは手に思い思いの凶器を持っていました。店員の中には血の付いた肉の塊を持つ者もいて、その手から血を滴らせていました。口元にも血がついています。想像したくない話でした。
 毒々モンスターは店員に見つからぬよう、慎重に移動しました。毒々モンスターの目指すところは、店長がいるだろう場所でした。バックヤードです。受注や発注の管理などもこなさなければならないでしょうから、少なくともパソコンのある部屋であることは予想がつきました。となれば、二階だろうと毒々モンスターは思いました。一階は生鮮食品が大半を占めているため、運搬を考えると裏には冷凍庫があるだろうと。つまり商品の在庫とパソコンを一緒にはしないだろうということでした。
 二階に向かう手段としては非常口で上がるかエスカレーターかエレベーターがありました。毒々モンスターはエスカレーターに向かっていました。毒々モンスターは店員を伺いました。店員たちの数が減っています。何かを探しているのでしょうか、隠れて毒々モンスターの姿を伺っているのでしょうか。
 毒々モンスターは音をたてぬよう素早く動きました。エスカレーターはまだ稼働していました。一番下で老女の死体がピストンのような動きをしていました。腕がエスカレーターに持ち上げられ、ある程度持ち上げられると滑って上半身が落ちて…。毒々モンスターは老女をまたいでエスカレーターに乗りました。店員の姿が見えました。死体を物色して、肉を切り取っています。中にはそのまま齧り付くものも。「地獄の窯でも開いたのか?」毒々モンスターは言いました。店員がうなり声をあげました。毒々モンスターは身を屈めました。エスカレーターはごうんごうん言っていました。
 二階について毒々モンスターが立ち上がった矢先、横合いに店員がぶつかってきました。若い店員でした。白い泡を吹き、目が飛び出さんばかりに張られています。まともにタックルを喰らった毒々モンスターは壁際まで店員と一緒に転がりました。毒々モンスターの屈強な体に若い店員の拳が入ります。包丁を持った女の店員が三人、毒々モンスターに群がろうとしていました。
 毒々モンスターは若い店員の腹を蹴って浮かせ、真ん中の女の店員の足元に転がしました。そして足元のモップを横にもって走りました。女の店員たちはガードに腕を上げ、体格差で押し負けて倒れました。真ん中の女の店員は毒々モンスターの膝を喰らって鼻をへし折られました。
 エスカレーターの下から怒号が聞こえました。仲間をやられたことを知った店員たちの声でした。
 毒々モンスターは走りました。音を立てるのも気にせずモップを構え。中途襲ってくる店員をなぎ倒し、パソコンのある部屋を目指しました。
『あ~店内を勝手に歩いている君!』
 スピーカーが音をたてました。
『僕たちがどこにいるかはわかっていると思う。そして僕が拳銃を持っているってことも、なんとなく察しがついてるんじゃないかな』おじさんの声でした。
 そりゃそうだ。じゃなきゃ俺に逆らう気なんて起こさないだろう。毒々モンスターは思いました。『その拳銃は今、君の友人の頭に向けられている。ブラジル製のセルフローディング・ピストルだ。簡単に脳みそをばら撒けるぞ!そんなのは君の本位じゃないだろう。悪いことは言わない。引き給え。君の手に負える事件じゃない』
 放送室か、と毒々モンスターは思いました。放送室はどこにあっただろう――毒々モンスターは考え、すぐに答えを出しました。「迷子センターか」
『お~動き出したな。だがそっちじゃないだろう、エスカレーターに向かい給え!君が外に出るまで店員には手を出させないでおく!』毒々モンスターは構わず進みました。
 おじさんはマイクに手を当て、唸りました。「なんだあいつは。何考えてるんだ」少なくともこの瞬間、白兎の頭に拳銃は向けられていませんでした。
『もういい!君に人質は無駄なのかな?それともいよいよ切羽詰まらなければ殺しはしないだろうと考えてるのか?どっちでもいい!いずれにせよ君は私のもとにたどり着く前に死ぬからな!おい!動けるものは全員、あれを使え!』
 あれとはつまりヴァルキリーのことでした。ヴァルキリー:valkyrieは米国で多数の死亡事故を引き起こす麻薬の一種。かの有名なDEAの捜査官、マックス・ペインが現役最後に追っていた麻薬であり、痛みをなくし感覚を限界まで引き上げる。
 毒々モンスターの前で店員がブルーの錠剤をのみ下し、毒々モンスターが脇を悠々通過するをよそに苦しみだしました。毒々モンスターは走りました。「冗談じゃないぞ」
 迷子センターは建物の奥まった場所に何故かありました。毒々モンスターは天井につるされた表示を頼りに家電コーナーを走りました。『なにやってる!早く追え!』おじさんの怒号が店内に響き渡りました。
 店員が体を痙攣させ、白目をむいています。これは本当に大丈夫なのでしょうか、少なくとも自分の身は大丈夫なんじゃないかと思った矢先、店員が跳ね起きました。
 毒々モンスターはモップを構えました。毒々モンスターの目の前で店員は気持ちの悪い動きをしていました。手を触角のようにやたらと動かし、足が滑るように持ち上がり、ナイフを持って毒々モンスターに突進しました。
 ハエほどの速さでした。毒々モンスターは店員が動き出す瞬間を見ていましたが、対応は遅れました。モップでナイフを叩き落とそうと払いをかけましたがそれは店員の頭上を切り、店員のナイフが毒々モンスターに迫りました。毒々モンスターは後転倒立の要領で切っ先を避け、店員の顎を狙ってモップを振り上げます。突進を繰り返していた店員は頭を傾げただけで攻撃を潜り抜け、体勢を整えきれない毒々モンスターの懐に飛び込みました。一瞬の交錯、毒々モンスターはモップを捨て、店員の腕をつかみました。ファインプレーでした。店員の体を振り回し、商品棚に叩き付けました。もしモップを持ったままだったなら店員の持つナイフが毒々モンスターの屈強な肉体に突き刺さっていたでしょう。冷たい海に沈むマーク・ウォールバーグを映していた液晶のテレビが割れました。
 冗談じゃないと毒々モンスターは思いました。一人一人がこの強さではさすがに対応しきれないかもしれません。毒々モンスターはモップを拾い上げました。これは早急に事件を解決せねばなるまい。毒々モンスターは走りました。背後から店員たちの軽い足音が聞こえてきていました。
 毒々モンスターは数を思い出しました。ここまで倒してきた敵の数からすると、残っているのは6、7人といったところです。面倒な人数だと思いました。各個撃破できる数ではないからです。敵はツ―マンセルかスリーマンセルで動いているに違いありません。毒々モンスターは振り返らず走りました。迷子センターに今行ってもどうしようもありません。
 家電の積み上げられた棚の上を疾走する店員の姿がありました。二人でした。二本足なのに口にナイフを加え爬虫類か何かのように器用な動きで棚から棚へ移動し、毒々モンスターを狙っています。
 と、店員の一人が空中を移動中に別の店員にぶつかって落ちました。「ん?」別の場所でも店員が店員に接触して一緒に転がったりしていました。『おいお前ら仲間同士でつぶしあってどうする!』
 これは単純に毒々モンスターを狙いすぎたことによるミスでした。感覚的に鋭くなっていた彼らは毒々モンスターにばかり集中し、毒々モンスターの隙をつくことばかり考えていたのです。ツ―マンセルスリーマンセルになって動く頭はある割に、別の班のことはすっぽり頭から抜け落ちていたのか仲間とぶつかりまくっていました。
 結果として互いを障害と認識した彼らは、やがて仲間同士で戦いを始めました。ナイフでお互いの頬を抉り二階から落とし金的を喰らわせストーンコールドスタナーをかけて相手を豪快に飛び跳ねさせました。
 最後に残った店員を毒々モンスターは殴り倒しました。
 釈然としない顔でした。
                  ▼
「くそっ、どこに仕舞ったっけ」おじさんは言いました。机の引き出しを乱雑に開けては中を捻り回しなにかを探していました。さっきからない:ない:ないを繰り返していて、こういうときついつい何を探しているの?と白兎は言いたくなりますが、猿ぐつわを噛まされているので何も言えませんでした。差し引いても今回は何も言う気にはなれませんでしたが。
 おじさんは車のカギを探していました。
「まあ殺せるなんて期待はしていなかったがね、まさかこんなに早く来るとは思わなかった」原因は実力不足だけではないでしょう。理性的でなかったのも問題でした。白兎は縛られた両手を動かしました。ぎりぎりと縄が食い込み、肌を傷つけるその下を猛烈にひっかきたい欲求に駆られていました。「あーあーあーくそ片付けときゃよかったな」おじさんはちらりと監視カメラを見ました。毒々モンスターは迷子センターの窓口へ足を踏み入れていました。後ろから襲い掛かった店員をモップで軽くいなし、部屋の奥へと進んでいきました。おじさんは未だ見つからぬ鍵を求めて額の油を増やしていました。
 白兎はおじさんの様子をじっと見ていました。心中でアリスはどうしているだろうと思いました。こんな状況になってしまって、自分はどうすればいいのだろうと思いました。明らかな心細さを感じていました。毒々モンスターが助けに向かっている今でもそれは変わりません。アリスは今どうしているのでしょうか。監視カメラの映像ではどこにも映っていないように見えて、ひどく心配になりました。あんなふらふらしている人だからまさか客の流れに押しつぶされてやしないだろうか……と白兎は心配になり、自然と顔が青くなるように思えました。
 そのときお客様サポートセンターの扉が大きな音をたてました。衝突音と思われました。おじさんはビクリと肩を震わせ、扉を向きました。
 また扉が大きな音を立て、全体が大きくきしみました。木材の割れる嫌な音も聞こえました。おじさんは叫びました。「扉の前にお前の友達がいるぞ!」扉の向こうで巨体が静止したのが分かりました。
 おじさんはせせら笑いながら腰のタウルスを抜きました。マガジンリップに弾薬が入っていることを確認すると、扉に向けて数発の弾丸をたたき込みました。
 おじさんは黙りました。白兎も動きませんでした。誰しもが動きませんでした。穴の空いた扉から数筋の光が漏れていました。おじさんは何も倒れる音がなかったことに気づいていました。じっと銃口を扉の先に向け、何らかのアクションを待っていました。白兎が足をさすりました。扉から漏れる光が塞がれる気配はありません。おじさんは壁際に座らせていた白兎に駆け寄り、猿ぐつわを外しました。タウルスの先を白兎の頭に向け、何か言えと言いました。白兎はこんなことを言いました。
「お、お姉さんはどうしてますか」
 場がまたしても沈黙に包まれました。おじさんは何だこいつという顔をした後白兎の猿ぐつわを戻し、また銃口を扉に向けました。
 白兎はアリスがどうしているだろうと再び思いました。
 おじさんが非常口の近くまで来たとき、突如として天井が割れ毒々モンスターが姿を現しました。おじさんのタウルスが火を噴きましたが、見当違いの場所に命中しました。おじさんは気を取り直して毒々モンスターに狙いを定め、硬直しました。
 毒々モンスターはその手にスプリングフィールドを持っていたのです。鉄色の銃口がおじさんに向けられていました。
「アリスワンピースの人は……大丈夫っだっ」毒々モンスターは白兎に言いました。あまり説得力のない言い口で、白兎は若干不安になりました。
 ここでようやくおじさんはアリスワンピースの人が一体だれを指すのか理解しました。が、ますますなんなんだこいつらと思っただけでした。
 すべてが終わりに近づいていました。
 毒々モンスターはスプリングフィールドを構えたままデスクへ目を向けました。白い粉の入った袋が鎮座していました。「お前はここで終わりだ」毒々モンスターは言いました。
おじさんは銃口を白兎に向けました。「お前に撃てるかな?」
 白兎はアリスをずっと思っていました。銃口を向けられる前も後も考えていました。ふらふらのアリスが今どこで何をしているのか気にする気持ちが沸き上がると銃口を思い出し気持ちが掻き消えてしかし恐怖を消したいからか無意識がアリスを思い出させました。
 アリスとの思い出が走馬灯のように駆け巡りました。大半がトイレでの一件で、これは拳銃のことをずいぶん忘れさせてくれました。
 白兎は顔を赤くしました。手がうずきました。体がうずきました。アリスの柔らかい体に飛び込みたい欲求に駆られて体を動かすとおじさんが暴れるなと言って、ようやく現実に引き戻されるのでした。
「撃てるとも」毒々モンスターは言いました。毒々モンスターは気持ち、おじさんの脳髄を狙っていました。正確に打ち抜くことさえできれば、死後の反射作用が起こらないからです。
 おじさんはもちろんそれに気づいていました。軽い白兎を片手で自分の顔の前にもっていきました。タウルスはもちろん、白兎の体に突き付けています。
 毒々モンスターはそれでもおじさんを狙いました。今、射線を外すことは瓦解に直結すると思いました。かといってこのままこの状況を続けるわけにもいきません。おじさんが白兎を片手で持ち上げるのに疲れるを待つとしても、時間が分からないのです。遠くからサイレンの音が聞こえてきました。毒々モンスターは舌打ちしました。今警察に来られれば話がどんなふうに抉れるか分かったものではありません。
 膠着が続きました。
 しかし、有利なのは明らかにおじさんでした。白兎がいる限り毒々モンスターはスプリングフィールドを撃てません。一方のおじさんは早打ちで負けさえしなければ毒々モンスターを処理できる可能性すらあります。おじさんの顔には余裕が浮かんでいました。人質の有用性を改めて思い知ったようでした。
 おじさんは後退しました。毒々モンスターは射殺す目でおじさんを見ながら、しかしその動きを止められませんでした。
 おじさんは尻でノブを下しました。タウルスを白兎の頭に向けたまま、非常口の扉を開きました。毒々モンスターから目は離さず、非常階段へと降り立って――
 丸形の革靴を踏んづけて、足を滑らせました。「うぉっ?」
 非常階段にアリスワンピースの少女が突っ立っていました。ふらふらとひどい格好で、今にも非常口のノブに手を置こうとしていたタイミングでした。
 白兎がおじさんともども落ちようとすると、柔らかい手に腕をつかまれました。「あら??」と脳がしびれるような声が白兎の耳に届きました。
 白兎は浮かぶような調子で、ふわりとスカートをたなびかせ、地面に着地しました。
 おじさんが物凄い音を立てて転がり落ちていくさまを、二人して目を丸くしてみていました。
              ▼
「あ、アリスワンピースの人」スプリングフィールドを下げた毒々モンスターが素っ頓狂な声を出しました。
              ▼
「イトーヨーカドーよね」アリスは言いました。
「はい!」白兎は意味も分からず満面の笑みでした。喉から悦びが迸っていました。アリスワンピースをちぎれんばかりに握りしめ、アリスの胸に顔をうずめていました。「ここはOKだから。イトーヨーカドーじゃないと」ダメなの、とアリスはふらふらしながら言いました。顔はさっき別れた時よりも土色でしたが、白兎は気づきませんでした。「はい!そうですね!」白兎は言いました。言ってからああでも私はイトーヨーカドーの場所知らない……と思いました。
 毒々モンスターはおじさんの落ちた先を覗いていました。おじさんは非常階段を転がり落ちた勢いで手すりを乗り越え、下のゴミ捨て場に落ちていました。毒々モンスターはすぐ追おうと考えました。その前に、と。
「いや、君たちには迷惑かけたね。埋め合わせは必ずするから…」「あ、あの!」白兎は叫びました。「わたしたちイトーヨーカドーに行きたくって!」
 毒々モンスターは一瞬だけ呆けた顔をして、微笑みました。「君がそんなに自己主張するところ初めて見たよ。そっちの人のおかげかな」「え、は、はあ…。で、イトーヨーカドーなんですけど…」下から銃声がしました。毒々モンスターは下を覗きました。急行した警官に向けておじさんがタウルスを撃った音でした。おじさんはそのまま車道に出て一般人の車を奪いました。「ふむ…よし、送ろう。車は…」「あ、あそこ」白兎はデスクの下を指さしました。
 鈍色の鍵が光っていました。

「イカした車だ」ダッヂ・チャレンジャーに乗り込んだ毒々モンスターは言いました。後部座席のドアを開けてアリスたちを招き入れ、エンジンをスタートさせました。
「冷房が壊れてるみたいだな…まあいいか。じゃあ行くぞ、シートベルトは絞めたね?」
 二人の返事を待たずして車は発進しました。

 いつもは静かなはずの県道を二台の車が走っていました。前方、逃げる車は銀色のアウディ。乗っているのは脂ぎった中年のおじさんです。サスペンションを盛大に軋ませ、交差点を曲がりました。それに続き、焼けたタイヤの匂いを残すダッヂ・チャレンジャー。追う、追われるの構図を崩さぬまま全力で走り続けます。

「もうすぐ着きますよ、お姉さん」アリスに体を預けた体勢で白兎は言いました。「ここまで長かったですね…」感慨深げでした。
「ひい、ふう…」アリスは懐から財布を取り出して中身を確認していました。車がやたらと揺れるので数えづらそうでした。「まあ足りる」白兎はアリスに身を寄せました。「お姉さん、わたし怖かったです。銃頭に突き付けられて…。慰めてほしいなぁ…なんて」
 アリスは無言で白兎の頭を撫でていました。ほぼ無意識でした。

 ダッヂ・チャレンジャーのフロントバンパーがアウディを捉えました。鈍い衝突音、チャレンジャーもアウディも大きく揺れました。苦し紛れにおじさんが放ったタウルスが地面に弾かれます。チャレンジャーのコントロールを得た毒々モンスターは再び体当たりを敢行しました。アウディも小さくありませんが、いかんせんマッスルカ―が相手では分が悪いです。おじさんは横転しないよう走らせるだけで精いっぱいでした。

 白兎はアリスにすり寄りました。「色んなことがありましたね…正直言って最初、お姉さんのこと変な人だなと思ってたんです」白兎はアリスの胸を触っていました。「でも今は素敵だなって、お姉さんのお姉さんらしいところ、素敵だと思うんです」
 車内はじっとりと湿っていました。熱せられた空間とどこかから香る酸い匂いは公衆トイレを思い出します。白兎は自然とアリスの口に口を寄せていました。

 チャレンジャーとアウディが並走しています。

「お姉さん、わたし思うんです。隣同士なのは運命だったのかななんて」

 アウディから放たれた銃弾は見当はずれの方向に飛んでいきました。毒々モンスターはハンドルを切ってアウディに体当たり。車体重量の差はいかんともしがたくアウディは軽く揺さぶられます。
 おじさんは低く呻きました。頼みの綱を早々に失い、このカーチェイスに勝たなければ未来はないとみて間違いありません。
 チャレンジャーの体当たり。それを避けるように右へ移動するアウディ。しかし永遠に右へ行けようはずもない。ブレーキでチャレンジャーの体当たりを避けることも考えたが、一度避けたところでむしろ追いつめられる未来しか見えない。チャレンジャーを走行不能にしなければならなかった。

「お姉さん、これが終わった後もまた一緒に遊びましょうね。お互いの家に行ったり、出かけたり…勉強も見てほしいです。お姉さん、確か凄くいいところに行ってるんですよね」
「んー?」アリスは言いました。「そう」
 アリスはフロントガラスの向こうの建物に目を奪われました。

 アウディは一か八かこちらから攻撃を仕掛けることに決めました。しつこくぶつかってこようとしてくるチャレンジャーから距離を置きます。加速で前に出ようと試みますがうまくいきませんでした。スピードを落として後ろに遅れようともしましたが、それも防がれました。扱いづらいダッヂ・チャレンジャーで随分器用な真似をするものです。
 アウディは車線を移動してチャレンジャーから距離を話し、タウルスを撃って近づかせまいとしました。偶然にも弾の一発がサイドミラーに命中、ミラーのかけらが後方へ散らばります。しめた、とおじさんは思いました。ハンドルを両手で持ち、ダッヂ・チャレンジャーに向けて特攻を仕掛けました。

(衝突の直前、かぼそくも通る声が聞こえた)

「止まってーっ!」とアリスは叫びました。ここに来て初めての叫びに、白兎は目をむき、毒々モンスターは思わずアクセルとブレーキを間違えました。
 ええ、イトーヨーカドーについたのです。
 アウディが中央分離帯に乗り上げ、横転しました。
 
 アリスは降りました。びっくりしたまま白兎も降りました。毒々モンスターは後部座席のドアを支えながらアリスたちと、横転したアウディを見比べました。アウディのドアを持ち上げ、満身創痍のおじさんが現れました。毒々モンスターは困惑した表情で言いました。「あ~…近々また会うと思う。……それじゃ」
「本当にありがとうございます」白兎は言いました。
「いいっていいって」毒々モンスターは笑いながら車を降りておじさんのほうへ走っていきました。毒々モンスターに気づいたおじさんは折れた足を引き釣りながらぴょんこぴょんこ逃げていきます……タックルを喰らって転倒しました。
 アリスはイトーヨーカドーを見上げました。純白の建物は清潔で、掃き掃除しているのは天使のように品の良い店員でした。「OKとは大違いね」アリスは白兎の手を握りました。白兎はアリスの顔を見上げました。
 二人は歩き出しました。足は棒のようで、体や服のあちこちが汚れ、心も憔悴しきっていましたが、その顔は晴れ晴れとしていました。 
 アリスはイトーヨーカドーに入りました。で、倒れました。

                  ▼

 原因はまあ、熱中症が多くを占めている。あとは疲れていたからか、急な温度変化に体がついていかず、意識をぶつりと途絶えさせたのである。仮にOKの店内に入っていた場合その場で倒れていただろう。ああ、これは非常に運が良い。(うん)
 
 運命。アリス(ではない)は暗い意識の中で白兎の言葉を思い出す。今日起こったことすべて運命で決められていたとしたら…。どんなに奇妙なことも、もしかしたら起こるのかも知らぬとアリスは思う。例えばリンゴを落としてみる。これは重力が働いているためと思われるが、実際にそれを観測するすべはない。少なくともアリスは知らない。リンゴを落とした。地面でつぶれた。これが過程であり結果であり…その中途にどのような理論が働いているかは誰にもわからない。確かめてみないことには何もかもわかりはしないが、確かめられることは存外に少ないのだ。人の感情などは、その最たるものか。明確な理論づけはされておらず、それらしい意見が正しくないところを多く見てしまう。不安定仕方なく、不条理仕方ない。しかもその不条理さを本人は把握できないから、改善がひどく難しい。少なくとも一人で意識改革なんぞやれる奴は一握の砂である。
 運命とは不条理極まりない。そこにあると設定してみても誰も観測できず、しかし誰もがその内容を知っている。これほど感情に左右されるものもないだろう。(感情それ自身を除いて)しかしということは、運命なんてものがあっても関係はないということである。我々は自由なのだ。何に縛られていようとそれには気づかない。気づかないということは、そんなものないということと主観的に見れば変わりはないのである。
                             ≪アリス(ではない)≫

                  ▼

 規則的な機械の音で目を覚ましたのだろうか、とアリス(ではないが)は思った。そんなはずはないがそう思った。そこにはそれ以外の音がなかったから。アリスは身を起こした。薄暗い、病室であることが分かった。「うおー頭いてぇー」ぐわんぐわんする。拡大と縮小を繰り返しまくった後のようだ。脳がシェイクされたような気もする。
 身を起こしてみると、ベッドの横の衣装掛けにアリスワンピースがぶら下がっている。自分が今着ているのは病衣だった。そして隣に男が座っていた。パイプ椅子に。いつからかは知らないが、手帳をこちらに向けて提げている。よく見ると警察手帳だった。
「やあ。起きたね、体調はどうだい」手帳をしまい警官は言った。ジュード・ロウの吹き替えみたいな声だった。「頭はなんか変なんですけどそれよりもなんか…」「なんか?」「いえなんでもありません」もしかして未成年淫行でしょっぴこうとしてますかとは聞けなかった。
「君は重度の日射病と風邪で運ばれたんだよ。ここに運ばれた時には水分が致死量近くまで減っていた。いやほんと、危なかったよ」「はあ…」君死ぬかもしれなかったんだよと言われてもアリスはいかんせん実感がわかなかった。頭痛以外にその残滓はなかったし、警官のいい口はとても軽いかったから。
「なにか気になることは?」
「えー、あーっと、なんで警察のかたが私のところに?」
「覚えてない?」警官は不思議そうな顔をして言った。「夢遊病患者みたいな感じだったけど受け答えはちゃんとしてたみたいだし、一応記憶はあると思うんだけど」
「え?まああるにはありますけど何かピンク…アクション映画みたいな感じで」
「へえ、どんな?」
 アリスは差しさわりない部分だけ答えた。公衆トイレ以外はほとんど話した。
 話し終えると警官は顔に愉快そうな表情を張り付けている。なるほど、あの人は毒々モンスターか。と呟いた。
「あはは、極度の日射病になるとそんな幻覚を見るのかぁ。まあ概ね間違ってないよ。僕が君に聞きたいのは一応、OKでの件だったんだけど、これじゃ証言は取れそうにないね」
「はあ…すいません。…あのどっから現実なんですか?」
「概ねね、あのOKは近くにイトーヨーカドーやイオンがあったせいで経営不振に陥っていたんだ。そこでオーナー…君がおじさんと言っていた人だね、彼は中国産の安い麻薬を仕入れて商品に混入させていた。軽い中毒にしてしまえば客足は遠のかないと考えたんだね。我々はずいぶん前から疑って……ああ、勘違いしないで上げてくれよ?レイモンド・ハリス捜査官…毒々モンスター、彼は休暇中のフェデラル・ビューロー・インテリジェンスなんだ。今回のことは全然知らなかったんだよ。君が病院に搬送されたとき死にそうな顔をしていたな。責任感が強いから」警官は低く笑い声をあげた。「だから彼がOKの店員相手に大乱闘を繰り広げたのは本当。中毒が行き過ぎて暴走する人がいたのも本当だ。違うのは、君が見てないところかな。ヴァルキリーという麻薬は高いからね。たぶん、ゲームが想像に混じったんだろう」
「は~」ほんとにアクション映画みたいだったよとアリスは思った。あれ?「あの、小さい女の子がいませんでしたか?」アリスはベッドの横の空中に手を水平において小さいを表現した。警官はそれを見て言った。「ああ、白兎ね。もう終わるころだと思うけど、彼女はカウンセリングを受けているよ。頭に拳銃を突き付けられたんだ。僕ならちびってる」
「あの…白兎にはもう話を聞いたんですか?」
「聞いたよ」警官は真顔になった。アリスはヤバいと思う。「日射病で曖昧だったとはいえあんな小さな子を連れまわしたんだ、ちゃんと謝らないとね」警官はまた笑顔になった。
「あ、あれ?それだけですか?」「それだけとは?」
 いやなんかもっとなんかなかったのかとはもちろん言い出せない。アリスは口をぱくぱくさせた後なんでもないです…と縮こまった。「まあ、彼女もそれについては気にしてないみたいだし君も……」そのとき、ノックの音がした。警官は首だけ振り向いて、立ち上がる。客の応対をした。アリスはぼんやりと誰だろうと思って、いやもしかしたら幻覚だったんじゃないかあれはと考えた。少なくとも過剰にはなってるはずだ。せめて、ほんとせめてキスどまりであってほしい。
「君にお客だ。噂をすれば影ってやつだね」警官が笑った。手の先に、真っ白い女の子がいた。アリスは思わず震えた。「じゃあ僕は出てるから、二人仲良く、ね」アリスは出ていく警官を見送った。隠語にしか聞こえなかった。
 扉が閉められると、いよいよ病室には二人しかいない。なぜ個室なんだとアリスは思った。幻覚だったのだと信じたいとアリスは思ったが、記憶は生々しい。
「あの――」白兎が口を開いた。可愛い声だとアリスは思った。「お姉さん、倒れたとき凄く驚いて、心配して…」うん。「わたし、最初から体調悪そうだなって思ってたんです。あの時ちゃんと言ってれば……すいません」「い、いやいや。君が謝ることじゃないよ~私のほうこそ、もうどう謝って許されるか…」アリスは頭をかいて俯いた。
「じゃあ、慰めてください」白兎の体が俯いたアリスの視界に入った。アリスは焦燥感や罪悪感に苛まれていた。
「慰める…とは?」アリスは聞いた。神に質問する心持だった。
「撫でる…とか」白兎は言った。存外に普通でアリスは拍子抜けした。
 ともあれアリスは白兎の頭を撫でた。高級なシルクでも撫でているような感触で、撫でてるうち色んな悩み事が消える気がする。楽しくなった。
 撫でていると、白兎がアリスに寄りかかる。少し驚きはしたものの、そのまま撫でる。
 病室に二人の時間が流れていた。長い無言はあらかじめそうと決められた時間のようで気にならず、アリスは優しく白兎の頭を撫でた。白兎は気持ちよさそうに目を細めている。いつまでも撫でていいとすら思った。
 やはりあれは幻覚だったのだ。
 こんな清純で純粋でピュアでイノセントな子と致したりなんてしてないのだ。アリスは目をつむった。
「お姉さん、退院したら遊んでくれますか?」
「うん、いいよ」アリスはすっかり安心していた。「メレンゲも買ってないしね」
「メレンゲ…」
 メレンゲ。いやに乾いた声が聞こえた。
「お姉さん、覚えていたんですね…。やっぱり幻覚じゃなかった」「え?え?」「わたし、お姉さんとのこと話したんです。でもわたしの体にはどこにも跡がなかったから信じてもらえなくて…。ずっと話して、それは日射病で見た幻だ、夏は魔物だからって…」白兎は涙ぐんでいた。アリスは何が何だかわからなかった。(いやほんとはわかっていたけれど)
 白兎の顔が近づいた。アリスは目をぎゅっと閉じてベッドに横たわって逃げた。アリスは布団をかぶった。ほんとは逃げ出したかったが足は未だ疲労から回復しておらず、うまく動かなかった。暗い布団の中、アリスの耳にごそごそと白兎の入り込む音。
 パニック状態の中、アリスはしかし思い出している。
 病衣が捲られていた。捲られた先から湿ったものがアリスの肌を通っていた。くすぐったいような、くすぐったいで止めておきたい。胸の下のあたりを舐められたときは少し声が出た。そのすぐ先に双房があったが白兎はそこにはいかない。白兎がアリスと同じ目線まで登ると、互いの吐息が感ぜられる。
アリスは叫びたくなったが、そうもいかなかった。
数秒すると、叫ぶ気もなくなった。

                    ▼

 主観的に見れば、あらゆる出来事は現実であり間違っているのは周囲である。これは一種言葉遊び的なエッセンスを持っているが、信じようと思えば信じられないことはないし、そっちのほうがいいならそっちを信じたほうがいい。結局のところ、あらゆることは主観的であるから、幸せと思えば幸せなんだろうし不幸と思えば不幸なのだ。例えそれがそうと見えなくても、他人がそれを指摘するのはマナー違反というもので、それにそうした指摘は真実味に欠ける。真実ではないからだ。
 それぐらい信じられれば、気が楽でいいのだが。


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