幼女と胃痛、恋をする。 (廣井 樹)
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幼女、呼び止められる。
どうも皆様こんにちは。ターニャ・デグレチャフ中尉であります。
ぽかぽかと暖かく、穏やかな昼下がり。絶好の勉強日和でございます。
皆様如何お過ごしでしょうか。
休日なのでといつも通り、陸軍大学の図書室で知見を広げようと思い立ったのがつい先ほど。
ラーケン衛兵司令にライフルを預けていたのが、たった今。
陸軍大学の図書室に向けて、何事もなく構内へ進もうとしたところ。
「待ちたまえ」
背後から呼びかけられるという、突然のイレギュラー発生。周囲には、誰もいない。
となれば、やはり対象は私であろう。問われるまま、振り返る。
「はい、私でありますか……これは失礼致しました」
そこにいたのは、参謀本部のエーリッヒ・フォン・レルゲン少佐。順調にエリートコースを歩み、既に人事課長に上り詰めている出世頭だ。後方勤務を渇望する私としては羨ましい限りである。
はて、と内心首をかしげる。ぜひともお近づきになりたい参謀本部のエリート様に間違いないのだが、しかし、そのようなお方が私に何の用向きなのだろうか。少なくとも、往来で声をかけられるようなことをした覚えは無いのだが。
勿論、いついかなる時に誰と会っても問題が無いよう、座学も演習も抜かりなく予習しており、私生活においても目立つような行為は避け、質素に慎ましく過ごしている。勉学に励む真面目な大学生を心がけていたはずだ。
そこではたと、いま私の懐には隠し持った演算宝珠があることを思い出す。
……もしや、少佐殿は既に演算宝珠に気づいており、衛兵に武装を預けず大学構内に進もうとしたことについて声をかけられたのだろうか。
まずい。非常にまずい。これは非常によろしくない。
単純に提出し忘れたと言ってしまえば、私の落ち度はそれまでだ。ただし、守衛を努めるラーケン准尉はどうなるだろうか。
目に見えるライフルと提出された演算宝珠だけで安堵して本人のボディチェックを怠り、本来預かるべき演算宝珠を見落としている。事実としてそれを受け止められてしまえば、彼のキャリアに傷がついてしまう。しかも少佐は人事局の人事課長。不祥事として取り扱われた場合は、その影響は計り知れない。
ラーケン准尉は非常に有能な下士官だ。普段から私を若輩者として粗暴に扱わず、1人の士官として応対してくれる。下士官の鑑と言っていい。
そんな彼に、私の落ち度で迷惑をかけたとしたら、どのような恨みを買うだろうか。誰にも頼ることが出来ない軍内部において、尊敬に値する下士官の反感を買うことはなんとしても避けたい。彼という人脈を喪失するだけではない、彼を通じて、他の優秀な下士官から距離を置かれることは、指揮官としては非常に致命的である。
手元の演算宝珠について指摘されることは、なんとしても回避しなければならない。
まずは相手の出方を伺わなければ。
「自分はターニャ・デグレチャフ中尉であります」
「あぁ、突然すまない。人事局のレルゲン少佐だ。今日は急ぎの用事はあるかね?」
「はい、いいえ、少佐殿。自分は自学目的のため図書室へ向かっていた次第です」
嘘は無い。元々そのつもりだ。日ごろから自学のために図書室へ通いつめているので、周りの人間も証言してくれる。何の疑いの余地も無い。
「そうか。それは良かった……であれば少し時間が有るだろうか、聞きたいことがある」
呼び出しパターン。想定外である。移動を伴うのであれば、少なくとも胸元の演算宝珠に関してのお咎めでは無さそうだ。
「承知しました」
「では、この近くに行きつけの店がある。珈琲が特に素晴らしくてね、そこに行くとしよう」
近くのカフェ。しかも少佐の行きつけ。これはお咎めですらない可能性が出てきた。レルゲン少佐は事の外、私に興味を持っておられるようである。最初は演算宝珠の事かと思い焦ってしまったが、どうやら杞憂であり、心配するようなことは無さそうだ。真面目な学生生活を送っていた甲斐があるというものである。ラーケン准尉にも迷惑をかけずに済む。願ったり叶ったりだ。なんと素晴らしいことか!
思いがけない幸運に思わず小躍りしたくなるが自制。お誘い頂いた事に関する感謝の意を示すため、しっかりと少佐に向けて笑顔を答える。
「はい、少佐殿! 自分でよろしければ、是非!」
っと、いけない。少し声がうわずってしまった。上官からの呼び出しに変わりは無い、慎重にならねば。気を引き締めなおそう。
さて、少佐殿との楽しい会食である。とはいえ、ここで安心してはならない。むしろ、ようやく第一段階を突破したと言える。ここからの対応如何によっては、せっかく私に興味を持ってくれている少佐殿からの評価は水泡に帰してしまう。
「……中尉の口に合うと良いが」
作戦本部の将官と知己になれることは、何事にも代えがたい幸運だ。知己になれた程度で引き上げられるとは露にも思わないが、相手も同じ人間。信頼できる見知った顔が困っていれば、自分の懐が痛まない程度には面倒を見てくれるだろう。少なくとも、利害関係を度外視した悪意を向けられることはない。
要は、自分に好印象を持つ人間が上層部に増えることが重要である。そのなかで業績を上げれば、自然と参謀本部内での覚えも良くなることだろう。参謀本部内での評価とは間違いなく、後方勤務への大いなる前進だ。
なんとしても、ここで少佐殿と懇意にならなければ。
「はい、楽しみであります!」
私は心の底から、そう発した。
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誤字を修正。ご指摘、ありがとうございます。
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