――――声が聞こえる。地鳴りのような歓声が耳朶を打つ。
薄暗い部屋の中に闇色のローブで体を包んだ男が一人佇んでいる。僅かに振動する天井と歓声が男に時を告げ、その合図により男は動き出す。
部屋を出て、わずかな明かりで照らされた通路を進む。
明かりは敢えて絞られ、ローブを纏った男は闇に溶けてしまうかのようだ。しかし、そのような暗闇の中でも、迷いの無いしっかりとした足取りで男は歩を進める。
通路は出口に近づくにつれて明るくなっていく。敢えてそうなるように作られているのだ。
自らの歩みに合わせ強さを増していく光。出口から差し込む光が増すとともに、これから始まる
最も、この男にとっては意味のないものである。男の目は例え月の光の無い夜であったとしても昼間のように周囲を見渡すことができる特別製であるからだ。
地を揺るがす観客の歓声も、熱を呼び起こす仕掛けも男には響かない。男の心は冷めていた。
――――思い出すのは糞のような
『パンとサーカスってやつさ』
男がかつて揶揄した言葉。この闘技場はまさにそれを象徴するようで。
かつて男が憎み、抵抗し、そして無様に敗北したものを彷彿とさせる。故に男の心は冷え切っていた。
徐々に近づく出口からはうるさいくらいに歓声が聞こえる。きっと挑戦者の入場が済んだのであろう。闘技場のボルテージは上昇し続け、留まることを知らない。
挑戦者も、観客も、武王の登場を今か今かと待っている。
一方で、武王と呼ばれる男はゆっくりと歩を進める。男は挑戦者について事前に調べたことはない。これまでも、そしてこれからも。ただ打ち倒すだけの存在に興味など抱かない。
だが出口に差し掛かるとき、男の脳裏にはいつだって決まった光景がよぎる。よせばいいのに、在りし日の幻想を思い浮かべずにはいられない。
――――それは、ついには叶うことのなかった光景。
絢爛豪華な玉座の間に集う異形の者達。難攻不落な墳墓において異質な、護衛もトラップも無い玉座の間。そこに乗り込んできた勇者たちを見下ろし、傲慢に言い放つ悪魔の王。
「よくぞここまで来た。褒美として私たち自らの手でお前たちを屠ってやろう」
男は通路を抜け白日の下にその姿を現す。目に映るは醜悪な現実。力有る者に踊らされ、与えられた蜜を享受する弱く愚かな民衆。仮面で己が冷めた表情を隠しながらも、万雷の歓声を一身に受ける男。すべてが滑稽であった。
だが一方で、男の胸に去来するものもあった。それは僅かばかりの興奮――――戦いへの渇望。
仮面の下で僅かに口角が上がる。この時ばかりは期待せずにはいられないのだ。見下し、しかし同じ存在に堕ちてまで求めるのは、勝利への渇望。生命の実感。
男は相対するは挑戦者。この場に存在する者の中で最も『生きている』者。これを打ち倒すのだ。
そして男は、あわよくば自分を打ち倒すであろう挑戦者をゆっくりと見やった。その逞しい体は溢れんばかりの力に満ち、闘技場の王を打ち倒すために今か今かと気力を漲らせている。
男はこの光景が好きだった。
「少しは歯応えがあるんだろうな?チャレンジャー」
かつては虚構。今は現実となった強大な力にふさわしい、傲慢な振る舞いも板についた。軽口を叩き、自らの勝利を微塵も疑わない。そういう態度で挑戦者を挑発する。
挑戦者は勇ましくそれに応える。試合開始前から火花を散らす両者に、観客は怒号のような野次を飛ばし囃し立てる。
惜しむらくは、既に男の目には数刻後に地に倒れ伏す挑戦者の姿が映っていること。
彼我の実力差は絶大。魔法は封じている。装備も貧弱。だが戦士としての戦いですら男は負けることは無い。
だからこそ、男は
男の密かな決意を他所に、実況が闘技場を盛り上げる。高らかに宣言される男の名は。
『迎え撃つはこの男! 正体不明の絶対王者! ウルベルト・アレイン・オードル!!』
爆発的な歓声。闘技場史上最も強く、最も気高い悪の登場に空気が一変し観衆は口々にその男の名を叫ぶ。
そのすべてを一身に受け、ゆっくりと――時間を引き延ばすかのように――ウルベルトは中央で待つ挑戦者の前まで進み、その両手を広げ宣言する。
「よくここまで上り詰めた。褒めてやるよ。だが――――勝つのは俺だ」
王の宣言により、戦いの火蓋が切って落とされた。
最初に見た空は綺麗だった。
茫然と眺めていれば、日が昇り、雲が流れ、星が瞬いた。一つとして見た事が無く、何にも代え難い美しさだった。
そうして何日も過ごした後。ふと自分の手を見ると、鉤爪の付いた手がそこにはあった。
夢も、野望も、自分の体さえも。全てを失った男は、どことも知れぬ世界へ流れ着いた。
悪魔の体を与えられ、憎むべき者も倒すべき者もいない世界に独り放り出された男は放浪する。
死ねない体でただ独りきりで。
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