ラブライブ! feat.仮面ライダー555 (hirotani)
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第1期
プロローグ


 こんにちは、hirotaniです。
 以前連載していた小説があまりにもシリアスだったので、本作はできるだけ明るくしたいと思っています。


「夢っていやあ、俺もようやく夢が見つかった」

 雲が浮かぶ空を見上げながら、乾巧(いぬいたくみ)は呟く。

 夢を持つ資格なんて、自分にはないと思っていた。夢を持ってはいけないと思っていた。

 オルフェノクで、化物で、人間じゃないから。

 それでも、人間として生きたいと思った。人間として死にたいと思った。

 その押し殺してきた願いに素直になれてようやく、彼は夢を持つことができた。

「へえ、どんな夢?」

「ねえ、教えてよたっくん」

 巧を囲むように寝ていた真理と啓太郎が聞いてくる。答えようとしたとき、巧は自分の左手から何かが零れ落ちていることに気付く。おもむろに手を空にかざす。

「どうしたの、たっくん?」

 啓太郎がそう聞いてくる。

「別に、何でもない」

 隠すように巧は手を引っ込める。心配をかけないよう笑みを浮かべて両手を枕代わりに頭を預ける。

「それで、何なの? 巧の夢って」

 真理が寝転びながら尋ねる。巧は空を見上げる。

 これまでの人生は、このときのためにあったのだと思える。

 隣にいる2人と出会ったこと。

 ファイズとして戦ったこと。

 人間として戦ったこと。

 オルフェノクの苦悩に向き合ったこと。

 オルフェノクの王を倒したこと。

 その全てには意味があった。

 自分には生きる意味があった。

 乾巧(いぬいたくみ)は肯定する。

 これまで否定してきた自分の命を。

 化物と拒み続けてきた自分の存在を。

 そして巧は夢を抱く。

 たとえ叶わなくても。

 叶う未来を見届けることができなくても。

 巧は答える。

「世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、皆が、幸せになりますように」

 体の内側から温かいものがこみ上げてくる。その熱にどこか心地良さを感じながら、巧は目を閉じた。

 

 ♦

「たっくん……たっくん!」

 子供のように喚く啓太郎の声で目が覚める。ゆっくりと俯いていた頭を上げると、ガラス張りのドアに映る寝ぼけ眼の自分が見える。店番をしている間に眠ってしまったらしい。横へ視線を移すと、大量の服が詰まった籠を抱えた啓太郎がいる。

「……啓太郎」

「もう、居眠りしてないで手伝ってよ。仕事たくさんあるんだからさ」

 啓太郎はぶつくさ言いながらアイロン台へと歩いていく。まだ気だるさが残りながらも立ち上がった巧は尋ねる。

「なあ啓太郎。俺、河川敷で昼寝した後どうなった?」

 頭にバンダナを巻き、アイロンの電源を入れた啓太郎は巧には見向きもせず、台に真っ白に洗われたシャツを広げながら答える。どうやら本当に忙しいらしい。

「どうなったって、皆で家に帰ったじゃない。あの日の晩も大変だったんだから。夕飯は鍋にしようとしたらたっくんが文句言って真理ちゃんと口喧嘩になってさ。でも、どうしたの? いきなり昔の話なんかして」

「昔?」

「それって3年くらい前じゃない」

 3年前。だとしたら、あの夢は3年前の記憶だったのだろうか。だとしても、感触がひどくリアルだった。まるでついさっき体験した出来事のようだった。疑問に反して、覚醒していく巧の意識に次々と記憶が流れ込んでくる。

 あの河川敷で昼寝をした後の日々。確かに、あの日の晩は夕飯のことで真理と口喧嘩をして、結局巧はしめのうどんをざるうどんにして食べる形で落ち着いた。

 あれからもオルフェノクは頻繁ではないが現れ続けた。その度に三原修二(みはらしゅうじ)がデルタとして戦ってくれた。巧も戦おうとしたが、真理と啓太郎に止められた。巧の体は徐々に崩壊が進んでいて、隠していたのだが2人にばれてしまった。2人はできるだけ長く巧の命を留めようとしてくれていた。2人の夢を守る。そう誓ったのに、戦うことができない自分に歯がゆさを感じながら過ごしてきた。せめてもの恩返しとして、巧は真面目にクリーニング屋の仕事に励んだ。不器用ながらも服は丁寧に扱うよう心掛け、店の評判を下げないよう客に不遜な態度を取ることを控えた。

 それでもやはり、巧は常に無力感を拭えなかった。ファイズとして戦い、人々の夢を守ることがアイデンティティだった巧にとって、平和な日常というものはひどく薄っぺらく感じてしまった。

 それでも、悪いことばかりではない。高校に行っていなかった真理が高認試験に合格し、18歳になると美容師の専門学校に入学した。学費は啓太郎が援助した。人助けが趣味な彼らしい。真理はこれまで貯めた金と奨学金で工面すると言い張ったが、啓太郎は譲らなかった。珍しいことに真理が折れて、それでも卒業したら分割して返済することになった。多分、啓太郎はそのときが来ても受け取らなさそうだが。今年の4月から真理はバイトとして勤務していた美容院に本採用される予定だ。本格的に勤務するのは来月からなのだが、研修として毎日店で休みなく働いている。代わりにクリーニング屋の仕事は手伝えなくなったが、巧はそれでいいと思う。勿論啓太郎も同じ気持ちで、真理の夢を後押しした。

 そんなわけで、巧は啓太郎と2人で店を切り盛りすることになったわけなのだが、2人だけでは仕事が回らない。啓太郎が無理な仕事でもどんどん引き受けてしまうものだから休む暇もない。バイトを雇う余裕もないから尚更だ。

「ただいまー」

 すっかり夜も更けた頃、真理が疲れた様子で、でも満更でもない晴れやかな顔で帰ってきた。食卓に皿と箸を置く啓太郎と、ソファでテレビを観ている巧が迎える。

「お帰り真理ちゃん」

「おう、お帰り」

 真理は鞄を無造作にソファに置くと、食卓に並べられた鍋と肉を嬉しそうに眺める。

「お、今日はしゃぶしゃぶかあ」

「いいでしょ? これならたっくんもすぐ食べられるし。肉をポン酢で冷やしてさ」

「ああ」

 いつものように食卓を囲んで夕食を食べる。真理はその日の出来事を語った。勤め先の店長が厳しいと。客がうざったくてたまらないと。愚痴ばかりだが、真理はよく笑った。順調に夢へと進んでいる実感が持てるのだろう。

 良かったな、真理。口には出さなくても、巧は素直にそう思った。

 

 ♦

 平和な日常というものはいつも脆く崩れ去る。真理と出会った日、初めてファイズに変身した日もそうだった。巧の旅を唐突に終わらせて、オルフェノクとの戦いへと引きずり込んでいく。

 その日々を呪ってはいない。ファイズとして戦った日々を経て今の自分がある。巧はそう確信が持てる。だが、今の日常は決して壊したくない。真理はあと少しで夢を叶えようとしている。啓太郎も店は赤字続きだが、夢に向かって突き進んでいる。

 日常が壊れる兆候が現れたのは、まだ肌寒い朝だった。

「巧!」

「たっくん!」

 まだ出勤中のお勤め人も登校中の学生も歩いていない早朝に、巧は真理と啓太郎に叩き起こされた。寝巻のまま文句を言いながら2人に連れ出された店先に、それはあった。

 ファイズのサポートマシンとして開発されたバイク。SB-555 V オートバジン。

 タンクには開発元であるスマートブレインのロゴが入っている。質の悪い悪戯ではないかと思った。オートバジンは3年前、オルフェノクの王との戦いで破壊された。あの戦いの後、スマートブレインは社長を始めとする経営陣が次々と死亡したことが痛手となり、遂に倒産してしまった。もう新しく製造することができないはずだ。

 巧はタンクにあるファイズの顔を模したマークのスイッチを押した。するとバイクは人型へと変形した。市販のカスタム品ではなく、正真正銘スマートブレインの技術で作られたマシンだった。

「これ、誰が持ってきたんだろう?」

 真理がそう言うと、啓太郎は不安そうにかぶりを振った。

「分からない。掃除しようと思ったら、これが停まってたんだ」

 取り敢えずこれは置いとけ。巧は困惑している2人にそう言った。その日は2人とも落ち着かない様子だった。真理は貴重な休日だったというのに、何かしないと落ち着かないらしくクリーニングの仕事を手伝っていた。啓太郎も仕事でミスをした。お客から預かったものを大事に扱う彼にしては珍しく、ズボンをプレスする際におかしな所に折り目を付けてしまった。一番落ち着いていたのは自分だったと、巧は思った。

 巧はその日のうちに決断し、夜に行動を起こした。真理と啓太郎が眠りに就いた頃、巧はバッグに着替えとファイズギアを詰め込み、オートバジンのリアシートに括り付けた。バイクに跨ってアイドリングをしているときだった。

「巧?」

 エンジン音で起こしてしまったのか、真理が店の玄関からパジャマ姿のまま出てきた。

「どこに行くの?」

 ヘルメットを被った巧は答える。

「眠れなくてな。ちょっと走ってくる」

「そんな大荷物抱えて?」

 どうやらお見通しらしい。伊達に何年も一緒に暮らしているだけのことはある。真理はハンドルに手を掛けた巧の腕を握った。

「またそうやって何も言わないでどっか行くつもり? いつもそう。巧は自分勝手で、私達の気も知らないで」

「どこに行こうが俺の勝手だろうが!」

 巧は思わず怒鳴ってしまう。こんな自分の性分にうんざりする。一緒に戦った彼なら、こんなときに上手い言い訳を考えつくのだろう。

 理由はある。このオートバジンは新しい戦いを告げている。きっと何かが動き出しているのだ。とても恐ろしい何かが。今の日常が壊れてしまうかもしれない。真理と啓太郎の夢が壊されてしまうかもしれない。

 だから自分は行かなければならない。

 2人を危険な目に合わせるわけにはいかない。

 戦いを呼ぶファイズギアとオートバジン、そして巧は消えなければならない。

「悪いな、真理」

 巧にはそれしか言えなかった。立ち塞がる真理を押しのけて、巧はギアを入れてアクセルを捻る。オートバジンはマフラーからガスを吹かして走り出した。

「巧!」

 後ろから真理の声が聞こえる。それを打ち消すように、巧は更にエンジンを吹かし、オートバジンを街灯が弱く照らす夜の闇へと走らせた。

 

 ♦

「くっそ………」

 オートバジンを押しながら、巧はそう吐き捨てる。どうやらガソリンが殆ど入っていなかったらしく、しかも財布の中身も寂しいため給油もできない。なんて様だ。格好つけて飛び出しておきながらいきなりつまずいた。

 どれほど歩いただろうか。とにかく家から離れたいと思って目的地も決めずに歩き続けた。もう陽が昇りかけている。不意に体の力が抜けて、巧はアスファルトの地面に倒れた。同時にオートバジンも。内部に詰め込まれたパーツ同士がぶつかり合う音が聞こえるが、この程度で壊れるほどやわじゃないだろう。

 巧は自分の手を見る。手からは灰がさらさらと零れて、地面に落ちると細かい微粒子が煙のように舞い上がる。

 ここまでか。巧は最期を受け入れる。寂しいがこれでいい。巧は自分がどうやって最期を迎えるのかを知っている。自分と同じ存在が目の前で崩れていく様を散々見てきた。真理と啓太郎には見られたくない。2人はきっと悲しんでくれる。だからこそ、巧は2人のもとから離れた。危険から遠ざけたかったのが1番だが、2番目に自分の最期を見られて、2人の悲しむ顔を見たくなかったからだ。

 ビルの影から太陽が顔を出す。街を照らすその光が眩しく、巧は目を閉じる。このまま眠るように死のう。そう思った。

「うわああっ」

 少女のような声が聞こえる。見られてしまったか。早くどこかへ行ってほしい。最期だけは静かで、穏やかでありたい。

「お母さん、お母さん!」

「どうしたの穂乃果」

「人が倒れてるよ!」

「大変、お父さん起こしてくるわ」

 足音が近付いてくる。うつ伏せに倒れていた巧の体は仰向けにされる。止めろ。手に灰が付くぞ。そう言いたいが、声を出す気力すらない。重い目蓋を開くと、少女が巧の顔を覗き込んでいる。パジャマを着ていることから、ついさっき起きたらしい。オートバジンが倒れる音で目を覚ましてしまったか。

「大丈夫ですか?」

 少女がそう尋ねてくる。朝日を浴びた彼女の髪が山吹色に輝いている。その輝きがとても眩しく、巧は再び目を閉じた。



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第1話 仮面の戦士!? / 新しい旅路

 タイトルは前がラブライブ!で後が555という構成です。


 高坂雪穂(こうさかゆきほ)は朝から機嫌が悪い。まだ寝ている時間に突然叩き起こされて、家の前に倒れていたという見知らぬ男の介抱を手伝わされた。救急車を呼ぶのが一番なのだが、眠っていたはずの男はうわ言のように「救急車はいい」と言うものだから、仕方なく家に入れた。

 救急車を拒むなんて怪しすぎる。保険証を持っていないから治療費が高くつくとか、そんなもの命が懸かっていれば関係ないだろう。見たところ男は成人しているようだ。病院が怖いなんて子供みたいなことは言わないだろう。両親も姉も何を考えているのか。こんな怪しい男の面倒を見るなんて。

 とはいえ倒れていた人間を見捨てるような冷淡さを雪穂は持ち合わせていない。雪穂が言われるまま介抱したおかげで、男は昼頃にようやく起き上がれるようになった。介抱といっても布団に寝かせて体を温めただけだが。男は低体温症を起こしていたらしい。もう3月に入ったが、まだ夜と朝方は冷える。

 雪穂と両親はゆっくりと上体を起こした男を見守る。見れば見るほど怪しい男だ。肩まで伸びた茶色の髪は軽そうな印象だが、それに反して目つきが悪い。しかも、この男のコートを脱がせたとき、なぜか服に灰がこびり付いていた。父のパジャマに着替えさせると母が言ったのだが、それを雪穂は拒否した。男の服を脱がせるのはどうにも羞恥が拭えない。だからその役目は辞書に羞恥という言葉が載っていない姉に任せた。せっかくの日曜日が最悪だ。友人と遊びに行く約束をしていたのに。受験生なのだから束の間の自由を満喫させてほしい。

 男の顔を見る度に雪穂の神経が逆撫でされていく。母が温まるようにと生姜茶を淹れてくれたのだが、受け取った男はなかなか飲もうとしない。もう何分も湯呑みに息を吹きかけている。男も雪穂達の視線が気になったのか、ようやく湯呑みを啜る。だがまだ熱いらしく、再び息を吹きかける。

 この人もしかして猫舌なんじゃない、と雪穂は思う。猫舌としてもかなり重症だ。せっかく体を温めようと母が淹れてくれたのに、冷ましてしまっては気遣いが台無しだ。人の厚意を何だと思っているのか。

「助けてもらって、ありがとうございます」

 すっかり冷めきったお茶を飲んだ男はようやく頭を下げて言った。そう、その言葉をまず言うべきだ。だが男は憮然とした顔をしていて、感謝の気持ちが全く感じられない。雪穂の苛立ちに反して母親は嬉しそうだ。

「お礼ならこの子に言って。ずっとあなたのこと見てくれていたのよ」

 男は雪穂へと視線を移す。

「ありがとな」

「わたしじゃなくてお姉ちゃんに言ってください。あなたを見つけたのはお姉ちゃんです」

 雪穂は強気に言う。何となく、この男に臆してしまうのは屈辱だ。

「お前の姉ちゃんは?」

「上の娘なら薬局に行かせたわ。栄養剤とか買っておこうと思って」

「いや、大丈夫っす。すぐ出てくんで」

 男はそう言って立ち上がる。母はそれを止めようとしているが、雪穂はそのまま行かせればいいのにと思う。本人がそう言っているのだから。

「たっだいまー」

 そんな意気揚々とした声が玄関から聞こえてくる。すぐに居間の障子が開けられて、薬局のビニール袋を持った雪穂の姉の穂乃果(ほのか)が入ってくる。

「あ、元気になったんですね。良かったあ」

 穂乃果が嬉しそうに言う。いや、まずはこの状況に疑問を持って、と雪穂は呆れる。いま男は母に組み付かれているのだ。

「それで、2人とも何してるの?」

 穂乃果がようやく状況のおかしさに気付く。男は母の腕をどける。

「あんたが俺を助けてくれたのか?」

「助けたっていうより、お店の前に倒れてるの見つけただけですけど」

「ありがとな。そんじゃ」

 それだけ言うと男はパジャマを脱ぎ始める。「ちょっと」と雪穂は狼狽する。男の裸を見るのは照れる。年頃の少女がいるのだから少しは気遣ってほしい。穂乃果がボタンを外す男の手を掴む。

「そんじゃって、まだ休んでないと駄目ですよ!」

「もう大丈夫だ。いつまでもここにいるわけにはいかねえだろ」

「でも――」

「………お前」

 状況をただ傍観していただけの父が固い口を開いた。父が家族以外に話しかける姿を雪穂は初めて見た。いつもお客や業者の対応は母がしていた。穂乃果も驚いているらしく、目を丸くして父を見つめている。

「金はあるのか?」

「それは………」

「バイクもガス欠だろう。無一文で旅を続けるつもりか?」

 男は黙り込む。目つきの悪さは父といい勝負かもしれない。まさか、と雪穂は父の言おうとしていることに気付いてしまう。母が父の意向を代弁する。

「そうよ。まだ体も万全じゃないんだから、しばらくうちにいたほうが良いわ」

「ちょっとお母さん!」

 雪穂は噛み付くように言う。こんな怪しい男としばらく一緒に暮らすなんて許容できない。

「それがいいよ!」

 続きの言葉を言おうとしたが穂乃果に遮られる。

「うちお店やってるし、住み込みでバイトすればお金貯められますよ。ええと……、名前聞いてなかった」

 そうだ。そういえばこの男は名前を言っていない。まずはお礼と名前を言うべきだ。雪穂の男に対する印象がますます悪くなっていく。

 男は答えた。

乾巧(いぬいたくみ)だ」

 

 ♦

「あら、新しいバイトさん?」

 客の老婆が巧を見てそう言ってくる。

「ええ、やっぱり家族でやっていくのも大変で雇うことにしたんです」

 接客は高坂母に任せて、巧は老婆に会釈するとそそくさと売り場から出ていく。

 高坂家は「穂むら」という和菓子屋を経営している。ほぼ無一文なため、巧は住み込みのバイトとして高坂家で暮らす事になった。ただ居候させてもらうわけにいかず、助けてくれた恩返しも理由に入っている。バイトといっても、啓太郎のクリーニング屋ほどハードなものではない。商品の補充や店の掃除といった雑用が主な業務だ。これなら不器用な巧でもこなせる。

「おやっさん」

 厨房に入った巧は作務衣を着た高坂父を呼ぶ。呼んでもこの寡黙な職人は返事などしない。神経の太さに自信のある巧でも不気味に思ったが、3日くらいで慣れた。

「新しい饅頭できてます?」

 巧がそう聞くと、高坂父はあんこを成形していた手を止めて無言のままテーブルを指差す。テーブルの上には何重にも重なった正方形のせいろが置かれている。

 蓋の空いたせいろには蒸し上がった饅頭が綺麗に並べられている。既に十分冷めているようで、これなら手の皮が薄い巧でも触れることができる。

「包装しますよ」

 巧がそう言っても高坂父は何も言わない。無言がイエスだということは高坂母から聞いた。巧は薄いゴム手袋をはめて包装作業を始める。初めてこの作業をしたとき、素手で触ろうとしたら「触るな」と怒鳴られた。無口だが自分の作る商品に強いこだわりがあるようだ。流石に巧もそのときは驚いた。

 饅頭ひとつひとつをビニールのフィルムに包んでいく。ばらで売るのと箱詰めと分けて、できるだけ丁寧に、柔らかい生地の形を崩さないよう扱う。ぞんざいに扱えば、この体格の良い職人に殴られそうだ。今のところ彼が暴力を振るうところを見たことはないが。一応、恩義もある。巧を引き留めて家に置くよう話を振ってくれたのはこのぶっきらぼうな父親だ。

「……ひとつ食ってみろ」

 呟くように高坂父がそう言った。あまりにも小さな声だから「え?」と巧は聞き返したが、高坂父は2度目を言わない。

「じゃあ、いただきます」

 巧は恐る恐る包装しようとした饅頭を一口かじる。

「……美味い」

 自然とその言葉が出た。巧は嘘を言わない。この豪快な見た目をした中年男が作ったとは思えない繊細な甘味と素材の深みが口内を満たしていく。高坂父は無言のまま作業を続けている。

 包装作業を終えた巧は箱を抱えて厨房を出た。売り場に行くと「ありがとうございました」と客を見送った高坂母が含みのある笑みを向けてくる。

「お父さんのお饅頭、食べた?」

「ええ、美味かったっす。すごく」

 「良かった」と高坂母は嬉しそうに言った。

「お父さん、巧君にうちのお饅頭食べて欲しがってたから、きっと喜んでるわ」

「そんなこと言ってたんすか」

「ううん、勘よ。何も言わないけど分かるわ。お父さん、巧君がうちで働いてくれて喜んでるわよ。私も嬉しいわ。何だか息子ができたみたいで新鮮ね。うち子供は女の子だけだから」

 高坂母は巧が持ってきた箱を開ける。中に詰められた饅頭を見て、また嬉しそうに穏やかな笑みを浮かべる。

「綺麗に詰めてくれてありがとう。こういうのって人柄出るから、巧君が良い人だって分かるわ」

「俺はそんな――」

「あまり自分を卑下しちゃだめ」

 高坂母はかぶりを振る。

「巧君は、もっと自分に自信を持つべきよ」

 巧は何も答えることができなかった。家に住まわせてもらいながら、巧の態度はあまり良いものではない。いつも憮然としているし、バイト中でも客に愛想笑いすらしない。本来ならクビにされてもいいはずだ。これまでたくさんのバイトをしてきたが、接客業は巧の態度に客が腹を立てて解雇されるのがほぼお約束だった。

 だから今、巧は自分に向けられた好意に戸惑っているのだ。いつだって、最初に向けられてくるのは敵意や嫌悪だったのだから。

 巧は胸の辺りにもやのようなものを感じながら、箱を商品棚に並べた。

 客足も遠のいてきた夕方18時に店の暖簾を下げて店内に置く。

「巧君、今日もお疲れ様」

「お先っす」

 巧はエプロンを脱いで居間に上がる。既に学校から帰宅していた穂乃果と雪穂がテレビを観てくつろいでいる。

「あ、乾さんお疲れ様」

「……お疲れ様です」

 姉妹は対照的な顔を見せる。穂乃果は笑顔を、雪穂は訝しげな顔を。

「ああ」

 それだけ言って巧は座ってテーブルに肘をつく。テレビは夕方のニュースを伝えている。有名なカフェの特集だの、流行のファッションの特集だの退屈なものばかりだ。寝転んでいた雪穂は正座して姿勢を正す。穂乃果は巧のことなど気にも留めず寝転びながらテレビを観ている。

「穂乃果。明日着るシャツとリボン、アイロンかけておきなさい」

 障子を開けて高坂母が真っ白なブラウスと青のネクタイをテーブルに置く。

「えー、明日終業式だけだしいいよー」

「終業式だからよ。しっかり身だしなみ整えなさい」

 口をとがらせる娘を一喝し高坂母は出ていった。そういえば、穂乃果は来月から高校2年生と聞いていた。初めて会ったときの真理と同い年か。あの尖った性格の女と穂乃果は正反対だ。真理もこれくらい無邪気なほうが可愛げがあったのにと思う。

「雪穂お」

「わたしはもうやっといたよ。言っとくけど手伝わないから」

 妹に一蹴された穂乃果は「うへー」と言いながら重い足取りで今から出ていき、しばらくするとアイロンと台を手に戻ってくる。台を立ててブラウスを広げる。続けてアイロンの電源を入れたのだが、穂乃果はまだ熱が通っていないアイロンをブラウスに押し付けた。そんなものでしわは伸びない。しかもかけ方も雑だ。最初は傍観を決め込んでいた巧は我慢できなくなる。

「貸せ」

 「え?」と声をあげる穂乃果からアイロンを取り上げて巧は場所を交代させる。まずしっかりとブラウスを広げ、袖に鉄板を当てると蒸気が吹き上がる。縫い目を揃えて縦に横に、ずれないよう袖の付け根を押さえながら。続けて襟、身頃としわを伸ばしていく。啓太郎ほどではないが、数年も働いているうちに巧もアイロンがけはミスなくできるようになった。

 綺麗にしわが消えたシャツをハンガーにかけ、壁のレールに掛ける。続けてリボンに取り掛かる。

「おい、何かいらない布あるか?」

「あ、うん。持ってくるね」

 リボンやネクタイはデリケートだ。無理に伸ばすと型が崩れてしまう。巧はブラウスよりも慎重に、直接鉄板を当てずにスチームの熱を当てながら手で優しく生地を伸ばしていく。

「上手ですね」

 巧の手つきを見ながら雪穂がそう言ってくる。

「まあな。アイロンがけもできない人間はろくな奴じゃないらしいぜ」

 巧は得意げに言う。啓太郎の受け売りだが。

 十分にしわが伸びたリボンもハンガーに掛けた。壁に並ぶブラウスとリボンを穂乃果と雪穂は眺める。

「すごいよ乾さん! 新品みたい!」

 ブラウスをまじまじと見ていた穂乃果の視線が巧へと移る。そんなに凄いものかと思うが、悪い気はしない。

「ねえ、乾さんのこと『たっくん』て呼んでいい?」

「ちょっとお姉ちゃん。いくら何でもそれって……」

「だって凄いよ。アイロンがけが上手な人に悪い人はいない!」

 どんな理屈だ、と巧は呆れる。雪穂も同じことを思っていると表情で分かる。こんなところであの家と同じ呼び方されるなんてたまったものじゃない。ため息と共に巧は答える。

「やだね」

「えー。じゃあ、たっちゃん!」

「却下」

「くみちゃん!」

「それ女じゃねーか」

 「んー」と穂乃果は次の案を考えている。巧は頭を掻いて半ばやけくそ気味に言う。

「ったく、『たっくん』でいい」

「いいの?」

「他のよりましだ」

 穂乃果の顔がぱあっと明るくなる。嬉しそうに笑う彼女は眩しく巧は目を逸らす。

 やっぱり、この家は落ち着かない。

 自分には温かすぎる。

 

 ♦

「たっくん」

 あのアイロンがけをした晩から、高坂家ではその呼び名が家中を駆け巡っている。呼ぶのは一家の長女である穂乃果だけなのだが、彼女が彼を呼ぶ声は春休みになったこともあって頻繁に聞こえる。

「たっくん、ソース取って」

「ほら」

「たっくん、髪留めのリボンどっちがいいかな?」

「どっちでもいいだろうが」

「たっくん、お客さんにはもっと愛想よく!」

「こういう顔なんだよ」

「たっくん、あんこ飽きたあ」

「じゃあチョコでも食えよ」

「たっくん!」

「何だ?」

「ええと……、何だっけ?」

「じゃあ呼ぶな!」

 ノイローゼになりそうだ。

 あの無条件に人を慕う啓太郎と同じように、穂乃果も巧に警戒心を見せない。いや、啓太郎は出会ったばかりの頃は巧を信用していなかった。穂乃果は啓太郎よりも質が悪い。もう高校生だというのに、食べ物につられて簡単に誘拐されそうだ。慕ってくれるのは嬉しい。でも、巧は同時に怖くなる。もし、穂乃果が寄せる期待を裏切ってしまったらと。それは日を追うごとに増していく。多分、このまま高坂家に居続けたら際限なく増していくだろう。

 もうすぐ高坂家に世話になって1ヶ月が経とうとしている。最近は体調も良い。バイト代を受け取ったらすぐに出ていこう。あの家族にも、自分が崩れていく様を見られたくない。

 休みを貰った平日。休暇といっても何もすることがない巧はオートバジンで適当にその辺を走ることにした。給油は高坂父が配達で使うカブのガソリンを移してくれた。バイト代から引いてもらうよう言っておいたが、あのお人好しな夫婦は受け取らないかもしれない。

「たっくん」

 エンジンを掛けたとき、店から穂乃果が出てくる。彼女が両手で抱えるヘルメットから大体察しはつく。

「何だ?」

「わたしも連れてって。ヘルメットはお父さんの借りてきたから」

「……ああ、乗れよ」

 穂乃果は嬉しそうにヘルメットを被りリアシートに座った。巧もヘルメットを被る。

「しっかりつかまってろよ」

 そう言って巧はオートバジンを走らせる。

「ねえ、たっくん」

 街を走っている途中で、穂乃果が後ろから声をかけてくる。

「どうした?」

「これ、何なの?」

 これとは、穂乃果が背負っているリュックのことだろう。中身をリアシートに括り付けていたのだが、穂乃果を乗せるためにリュックに入れて彼女に持たせている。

「何つーか、御守りみたいなもんだな」

「重い御守りだねー」

「まあな」

 歴史と最先端の建造物が入り混じる千代田の街を駆けていく。江戸時代の様相を見せたと思えば明治のモダンな様相が現れ、自分の生きる時代を危うく見失いそうになる。色々な場所に行ったが、東京という場所は無秩序だ。ありとあらゆる要素がごちゃ混ぜになっている。何でもあるというのは、言い換えれば混沌ということになるのかもしれない。

「ねえ、たっくん」

 穂乃果がしおらしく巧の耳元で声をかけてくる。彼女のこんな声を聞くのは初めてだ。

「何だ、トイレか?」

「違うよ! ……お尻が痛くなっちゃって。休憩しない?」

 それほど走った覚えはないが、バイクのシートに慣れていない穂乃果には少々座り心地が悪いのかもしれない。巧は通りかかった神田明神でオートバジンを停めた。巧は都内の生まれだが、この神社に来るのは初めてだ。

「ちょっとお参りしてくるね」

「ああ」

 バイクから降りた穂乃果は境内へと歩いていく。来たからにはお参りでもするのがお決まりだが、巧は無神論者だ。神も仏も信じていない。そんなものが本当に存在するのなら、オルフェノクなんて存在を生まなかっただろう。

「お兄さん」

 オートバジンのシートに寄り掛かっていると、箒を手にした巫女に話しかけられる。

「お参りしていかんの?」

「ああ、あんまり信心深くないからな」

「ふーん」

 巫女が巧を足元から頭までゆっくりと見上げていく。その視線に少し怯えに似たものが湧く。

「何だよ」

 巧が少し語気を強めても巫女は落ち着きを崩さない。

「お兄さん、不思議やね。普通の人とは違う気がするんよ」

「あんた……」

 巧は身構える。巫女の言っていることは抽象的だが図星だ。巧がオルフェノクであることに気付いているのか。何にせよ、この巫女と長く話していたら全て見透かされてしまう気がする。

 不意に悲鳴が聞こえた。社殿にこだまする声の方向へ巧は駆け出す。遅れて巫女も。草履のせいでつたない足取りだが、巧の後をついてくる。

 朱色の漆喰で彩られた社殿の前に立つそれが視界に入る。そして社殿の賽銭箱の前で穂乃果が腰を抜かしている。

「あんたは逃げろ!」

 それだけ巫女に言うと巧は全速力で駆け出した。「ちょっと」と背後から巫女の声が聞こえたが、返事などしてる暇はない。近付くにつれてその姿が鮮明になってくる。無機質な冷たい灰色の怪物オルフェノクが穂乃果へゆっくりと歩き出す。オルフェノクの指が穂乃果へと向けられた。

 巧は横からオルフェノクの脇腹に蹴りを入れる。不意打ちを食らったオルフェノクの体が倒れ、指先から伸びた触手は社殿の柱を掠めて引っ込んだ。

「穂乃果、リュックよこせ!」

「たっくん、逃げなきゃ……」

「俺はいい! お前は早く逃げろ!」

 巧は穂乃果が背負っていたリュックのジッパーを開けて中身を取り出す。製造元のロゴが入ったアタッシュケースのロックを解除し、収納されたベルトと携帯電話を掴み、ベルトを腰に巻いた。

 オルフェノクが立ち上がり、白く濁った眼を向ける。オコゼの面影があるスティングフィッシュオルフェノクだ。

 巧は2つ折りの携帯電話を開く。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

 電子音声に続けて待機音が鳴る。巧は閉じた携帯電話ファイズフォンを頭上に掲げる。

「変身!」

 ファイズフォンをベルトのバックル部分に力強く突き立て、左側に倒すと待機音声が鳴り止む。代わりに英語の電子音声が。

『Complete』

 バックルの両端から真紅のラインが伸びていく。それはまるで血管のように巧の体を覆い、光を放った。光が止むと、そこに立つのは巧ではなかった。

 黒と灰色の鎧、全身に伸びた赤のライン。額から伸びる2本の短い角と、顔の大部分を占める丸く黄色い目。

 戦士ファイズは手首を振った。まるで鎧の感触を確かめるように。

 オルフェノクの影が形を変えた。その影は紛れもなく人間の男の形をしている。

「貴様……っ」

 影の男が怒りに顔を歪める。影が人の形を失うとオルフェノクは駆け出した。振り上げられた腕を防ぎ、その腹に膝を打ち付ける。「ごほっ」と咳き込むオルフェノクの俯いた顔面にファイズは拳を下から突き上げる。天を仰ぎ、がら空きになった腹を思い切り蹴る。オルフェノクの体が大きく飛び、石畳の地面に受け身も取れず仰向けに倒れた。

 戦いに関しては素人だ。ただ自分よりも弱い人間を襲って悦に浸る類の者だ。マスクの奥で巧は歯を噛み締める。

 ファイズはベルトの左側に装着されたトーチライト型デバイス・ファイズポインターを外す。続けてファイズフォンから外したミッションメモリーをポインターに装填する。

『Ready』

 電子音声と共に筒が伸びたポインターを右脚のホルスターに取り付け、ファイズはファイズフォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 ベルトの右端からフォトンストリームを伝ってポインターへとエネルギーが充填される。ファイズは跳躍した。立ち上がったオルフェノクに足を向けると、ポインターから赤いレーザーが放たれてオルフェノクの目の前で傘のように円錐状に開く。

「やあああああああああっ」

 咆哮と共にファイズは空中で右脚を突き出す。体が光へと吸い込まれ、ファイズと一体となった光はドリルのようにオルフェノクの体を貫いていく。

 ファイズの体がオルフェノクの背後に現れる。着地と同時にオルフェノクの断末魔の叫びが聞こえた。振り向くと胸に風穴を開けられたオルフェノクの体が冷たい青の炎をあげ、燃え尽きると灰になって崩れ落ちる。オルフェノクがいた場所には真っ赤なギリシャ文字のΦが浮かび、やがてそれも消えていった。




 この作品は穂乃果ちゃんに「たっくん」と言わせたくて書きました。それだけです。


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第2話 叶え!私たちの夢―― / 交錯する物語

 ファイズの変身プロセスを文章にしたらかなり面倒だったので短縮することにしました。


 石畳に積もった灰が風に乗って空へと流れていく。ファイズはかつて人であり、異形のものになった者の末路を見届ける。これがオルフェノクの死。跡形もなく、骨も残さずこの世から消えていく。

 ポインターとミッションメモリーを所定の位置に戻し、ファイズフォンをベルトから外して通話終了ボタンを押す。光と共に鎧が分解され、残ったフォトンストリームがベルトへ収束していく。

「たっくん!」

 ぱたぱたと、リュックとギアケースを抱えた穂乃果が駆け寄ってくる。

「穂乃果。お前逃げろって言っただろ」

「ああ、うん。それはごめんね。でも、あれって何なの?」

「オルフェノクだ」

「おるふぇのく?」

「ああ。この辺りでもオルフェノクは出るのか?」

「分からない。わたし、あんなの初めて見たよ。たっくんが変身したのって……」

「ファイズだ」

「ファイズ………。たっくん、前にいた所でもあの怪物と戦ってたの?」

 怪物。穂乃果から出た言葉に巧は苦虫を噛む。いや、と自分の嫌悪を否定する。人間から見ればオルフェノクは怪物なのだ。たとえ彼等にまだ人の心が残っていたとしても。

「まあ、そんなところだ」

 巧は穂乃果からギアケースを受け取り、ファイズギアをしまう。ギアケースもリュックに詰める。

「穂乃果、俺がファイズだってことは誰にも言わないでくれ」

「どうして? たっくんは正義の味方だよ」

「どうしてもだ。それとオルフェノクが出たときは俺に電話しろ。すぐ飛んでってやる」

 穂乃果は釈然としない様子だ。巧の説明が雑だから当然だが。それでも穂乃果は頷いてくれる。

「うん、分かった」

「そんじゃ帰るか」

 参拝客の誰かが通報でもしたら面倒だ。巧と穂乃果はオートバジンのもとへと歩いていく。バイクに跨った巧はヘルメットを被りエンジンをかける。自分達へ向けられた視線に気付かないまま。

 社殿の影から巫女は走り去っていくバイクに乗った男女を眺める。灰色の怪物と青年が変身した戦士に驚きはしたが、同時に自分の勘に確信を持つ。

 あの人、やっぱり普通じゃない。

 神社には様々なものが集まってくる。人と人ならざるもの。この神田明神も例に漏れない。

東條(とうじょう)さん、ここにいたのね」

 先輩の巫女が息を切らして走ってくる。

「あの化け物は?」

「もういなくなりました」

「そう。あれは何なのかしら?」

「さあ、神社には色んな気が集まるんで、ああいうのも寄ってくるやもしれんですね」

「落ち着いているわね、東條さん」

 まだ息を荒げている先輩巫女は目を丸くする。東條希(とうじょうのぞみ)は怪物と戦士が戦った場所に視線を戻す。

 怪物だった灰はすっかりなくなっていた。

 

 ♦

 どうしてこの街にオルフェノクがいるんだ。

 ここ数日、巧のなかでその疑問が常に浮かび上がって貼り付いている。でも考えればおかしくないことだ。オルフェノクは各地に現れる。真理や啓太郎と出会った九州でも遭遇した。自然に発生するものだから、今もどこかで死者がオルフェノクとして蘇っていても不思議ではない。

 オルフェノクは元人間だ。だから人間社会に紛れ込むことは難しくない。人を襲っても、襲われた者は灰になって死体は残らない。だから警察も一部を除いてその存在を知らなかった。オルフェノクによる殺人は全て謎の失踪事件として処理されていたに違いない。

 無為な思索を重ねながら仕事をこなしているうちに、その日の営業は終わった。

「巧君、お疲れ様。はい、バイト代」

 高坂母が茶封筒を渡す。「どうも」と巧はそれを受け取る。

「巧君、また旅に出るの?」

「……そのつもりだったんすけど」

「つもりって?」

 高坂母の質問には答えず、巧は質問を返す。

「おばさん、おやっさんのとこ行っていいすか?」

「ええ、大丈夫だと思うけど」

 歯切れの悪い返しをする高坂母の横を通り過ぎ、巧は厨房に向かう。厨房に入ると、高坂父が掃除をしている。

「おやっさん」

 巧が呼ぶと、高坂父の肩が一瞬だけ揺れる。だがすぐにシンクをたわしで擦り続ける。

「いつまでかは分かんないすけど、俺もうしばらくだけここに居てもいいすか?」

 高坂父はたわしを擦る手を止める。だが巧の方に視線を移すことなく、水道の蛇口を捻ってシンクの泡を洗い流していく。

「何も言わないってことは、居てもいいんすね?」

「………好きにしろ」

 水音に混ざって、その声は聞こえた。

「ありがとうございます」

 巧は深々と頭を下げた。巧には、最大の感謝を伝えるのにこれ以外の所作を思いつかない。頭を上げると、高坂父は相変わらず見向きもせず作業をしている。

 厨房を出ると、目を細めて笑う高坂母がいる。

「お父さんに弟子入りでもするつもり? あの人弟子は取らないわよ」

「いや、そんなんじゃないす。ちょっとやることがあって」

「そう、私は構わないわよ。もしかした巧君がうちの跡継ぎになってくれるかもしれないし」

「それはないすね」

 高坂母の視線が照れ臭く目を逸らす。不意に厨房から高坂父が出てくる。間近で見るその屈強な体躯に巧は身じろぎする。

「穂乃果も雪穂も嫁にはやらんぞ」

 静かに、強く高坂父は言った。巧は苦笑と共に答える。

「誰があんなじゃじゃ馬娘たち――」

 巧は途中で言葉を途切れさせる。高坂父が帽子の影から覗く鋭い眼光に「これ以上言ってはいけない」と直感で悟る。

「あ……うん。とても、元気の良い娘さん達で………」

 巧は取り繕うにも稚拙な言葉を並べる。高坂父は服越しでも分かる屈強な背中を向けて厨房に戻った。熊にでも出くわした気分だ。

 横でやり取りを見ていた高坂母は優しく笑っている。巧はその笑顔から逃げるように、受け取った茶封筒を握って居間へと歩いた。

 

 ♦

 4月になって桜が咲き乱れるようになった。2年生に進級した穂乃果を見送り、巧はその日も穂むらでの仕事をこなしていく。休憩時間には高坂母と一緒に季節限定で売っている桜餅を食べた。

 夕方になり、いつもこの時間に来る常連客を高坂母が見送った頃、穂乃果が帰宅してくる。

「お帰り」

「ただいまあ」

 気のない返事をする穂乃果を高坂母は心配そうに見つめている。朝は元気に出掛けたというのに、よほど疲れたのか穂乃果はげんなりと肩を落として居間に上がっていく。

「どうしたのかしら?」

 客の老婆を見送った高坂母がそう言う。

「さあ」

 適当に相づちを打つも、巧も気になる。いつもうるさいくらいなのに、今の穂乃果は声に張りがない。

「やっぱりあの噂、本当なのかも」

「噂?」

 質問を重ねようとしたところに、今から穂乃果の「あんこ飽きたー!」という声が聞こえる。ため息を吐きながら高坂母は居間へと向かい障子を開ける。

「穂乃果。和菓子屋の娘があんこ飽きたとか言わないの。お店に聞こえるじゃない」

 穂乃果の「ごめんなさーい」という間の抜けた声が聞こえる。僅かに雪穂のいたずらっぽく笑う声も。

「もう、全くあの子ったら」

 首を揉みながら高坂母は店の暖簾を片付けに行く。

「お母さんお母さーん!」

 すぐに障子の勢いよく開く音に続いて穂乃果の声が。「何?」と暖簾をドア横に置いた高坂母が居間から顔を出す穂乃果へ視線を向ける。

「雪穂、音ノ木坂受けないって言ってるよ!」

「聞いてる」

「そんな! うちはお婆ちゃんもお母さんも音ノ木坂でしょ!」

 「ていうかさ」と雪穂の声が聞こえる。

「音ノ木坂、なくなっちゃんでしょ?」

「う……、もう噂が?」

「皆言ってるよ。そんな学校、受けてもしょうがないって」

「しょうがないって――」

「だってそうでしょ」

 穂乃果の言葉を雪穂は遮る。

「お姉ちゃんの学年なんて、ふたクラスしかないんだよ」

「でも、3年生は3クラスあるし」

「1年生は?」

 逡巡を挟んで、穂乃果はおずおずと答える。

「ひとクラス………」

 随分少ないな、と床を箒で掃きながら巧は思った。

「ほら、それってもう来年はゼロってことじゃない」

 「そんなことない」と穂乃果は反論する。

「ことりちゃんと海未ちゃんとでなくならないように考えてるの。だからなくならない!」

 「頑固なんだから」と雪穂の呆れが声色で分かる。

「でも、どう考えてもお姉ちゃんがどうにかできる問題じゃないよ」

 反論しそうだが、とうとう穂乃果の声は聞こえなかった。

「やっぱり、廃校の噂は本当だったのね」

「穂乃果の学校、廃校になるんすか?」

「そうみたい。ここ何年かは入学希望者も減ってるって話だったから。定員割れも起こってたみたいだし。まあ、そうなったら仕方ないわよね」

 高坂母はそう言ってレジの清算を始めた。

「掃除はもう終わったみたいね。そろそろ上がって」

 その日の夜。夕食を終えた居間で巧はひとりテレビを観てくつろぐ。穂乃果と雪穂は自室に戻り、高坂父は朝が早いからもう就寝した。

「巧君、今日もお疲れ様」

 居間に入ってきた高坂母が巧にそう言ってくる。「お疲れっす」とぶっきらぼうに答える巧に、高坂母はお茶を淹れてくれる。息を吹きかけて冷ましている様子を見て微笑んだ高坂母は、おもむろにタンスから厚い冊子を取り出してテーブルの上で開く。アルバムのようだ。巧はテレビを消してアルバムに張られた写真を見る。写真に写る人物はブレザーの制服を着た少女達が大半を占めていた。

「やっぱり、寂しいすか。母校がなくなんの」

 「そうね」と高坂母は呟くような声で答える。

「たった3年間だったけど、とても楽しい毎日だったから。戦前からある伝統校として、この辺りで生まれ育った女の人たちは音ノ木坂出身が多いのよ」

「へえ」

「少子化のご時世に学校の数が減るなんて珍しくもないけど、やっぱり寂しいわね。自分の居場所だったところがなくなるのは。国に申請して私立から国立にしてもらったけど、時代の波には逆らえないわね」

 物憂げにアルバムを捲る高坂母を見ながら、巧は湯呑みを啜る。でもまだ熱く、息を吹きかける。

 そういえば啓太郎の店は大丈夫かな、とふと思い出す。あの経営センスが皆無な店主は老舗のクリーニング店をこれからも続けていけるのだろうか。まあ、問題はないだろう。巧が客に不遜な態度を取ったせいで常連客も減った。自分がいない方がかえって経営が持ち直すかもしれない。

 長い沈黙の後、部屋着姿の穂乃果が入ってくる。

「お母さん?」

 高坂母は娘の声に気付かず頬杖をついてアルバムを眺めている。巧には明るく振る舞っていたが、その顔が紛れもなく昔の日々に想いを馳せていることは巧にも察しがつく。

「お母さん」

 「え?」とようやく娘の声に気付く。

「何よ急に」

「さっきからいたよ。お風呂先いい?」

「いいわよ。先入っちゃいなさい」

 そう言って高坂は居間から出ていく。哀愁を感じる母の背中に向いていた穂乃果の視線がテーブルの冊子へと移る。

「これって……」

「卒業アルバムだ」

 穂乃果はアルバムを開く。敷き詰められた写真を眺め、ページを捲る毎に口が固く結ばれる。

「たっくん」

「ん?」

 ようやく冷めたお茶を飲みながら巧は返事をする。

「やっぱりわたし、音ノ木坂をなくしたくないよ。お母さんや皆の思い出が詰まった場所を守りたい」

「簡単なことじゃねえと思うぞ」

「うん、分かってる。でも、それでもやっぱり音ノ木坂は続いてほしい。諦めきれない」

 穂乃果は小さく、でも力強くそう言った。その姿がどことなく、あの屈強な父親と重なったように巧には見えた。

 

 ♦

 翌朝。いつも起床する時間よりも早く巧は穂乃果に叩き起こされた。珍しいことだ。いつもは巧が起こしに行っているのに。

「ほらたっくん早く!」

 まだ眠気が残る意識のまま着替えを済ませると、ヘルメットを持たされて外に引っ張り出される。店先で花壇に水をやっていた高坂母が娘を驚いた形相で見ている。

「すんませんおばさん。穂乃果送ったらすぐ戻りますんで」

「ええ、行ってらっしゃい………」

 穂乃果は窓を開けた雪穂を呼ぶ。あくびをしていた雪穂は姉を母と同じ目で見る。

「これ、借りてくねー!」

 長方形の小冊子を手にした穂乃果はそれだけ言うと、ヘルメットを被ってオートバジンのリアシートに跨る。巧もシートに跨りバイクを走らせた。

 ビルが立ち並ぶ街を穂乃果の案内のまま走らせる。

「で、どこに行くんだ?」

「UTX学院。雪穂が受けようとしてる学校」

「そんなとこに何の用があるんだよ?」

「偵察! 秋葉で一番人気だから、どうやって生徒集めるのか見に行くの。あ、あそこだ。たっくん、あれだよ!」

「いやあれっつっても分かんねーよ」

「もう、いいからバイク止めてよー!」

 きゃんきゃん喚く声にうんざりしながらも、巧は適当な路肩にオートバジンを停める。「こっちこっち」と先行する穂乃果に着いていき、すぐ隣に駅がある高層ビルを前にしてようやく足を止める。

 「うわあ」と穂乃果が感嘆の声をあげる。空へ真っ直ぐと伸びるビルは、穂乃果が持つパンフレットの表紙にあるビルと同じ形をしている。

「これが、学校」

「これ学校なのか? 雪穂こんなとこ受けるのか」

 思わず巧も穂乃果と同じようにビルを見上げる。たかが学校でこんな校舎を建てるのか。1階から2階にかけての壁全面に張られたガラスの奥では、真っ白な制服に身を包んだ女子生徒達が次々と改札ゲートを通っていく。

「おおー。す、すごい……。すごいよたっくん!」

「分かったからガラスに顔つけんなみっともねえ!」

 ガラスに顔面を押し付ける穂乃果を引き剥がすと同時に悲鳴が起こる。一瞬オルフェノクかと思ったが違うらしく、ビルの前に集まる群衆は壁に取り付けられた大型モニターを見上げている。穂乃果と巧も群衆の外側へ移りモニターを眺める。

 モニターのなかで3人の煌びやかな衣装を着た少女達が『UTX学院へようこそ』と言っている。穂乃果が思い出したようにパンフレットを捲る。手を止めたページにはモニターと同じ少女達の写真が掲載されている。

「この人達だ」

「何なんだ、あいつら」

 「何だろう」と言う穂乃果は隣にいる少女に気付き、怯えた声をあげる。その髪を両サイドにまとめた少女の出で立ちが見るからに怪しい。もう温かい季節にコートにマフラーなんて暑苦しい格好。追い打ちをかけるようなサングラスとマスクは自分から「わたしは怪しい者です」と主張しているようなものだ。しかもあろうことか、穂乃果は「あの……」と怪しい少女に話しかける。

 「何?」と少女が険のこもった声で返事をすると、穂乃果は「ひいっ」と小さな悲鳴をあげる。怖いなら話しかけるなよ、と巧は思う。

「今忙しいんだけど」

 マスクを剥ぐと少女はそう言った。穂乃果はめげずに聞く。

「あの、質問なんですけど、あの人達って芸能人とかなんですか?」

「はああ!?」

 顔が隠れているが、少女は声と身振りで全身から怒りを放出する。

「あんたそんなことも知らないの? そのパンフレットに書いてあるわよ。どこ見てんの?」

 少女が無造作にパンフレットを持つ穂乃果の袖を引く。「す、すみません」と穂乃果は恐怖のあまりに目を瞑りながら謝罪する。少女は穂乃果の袖から手を放してぶっきらぼうに言う。

「A-RISEよ、A-RISE」

「アライズ?」

「スクールアイドル」

 少女を見つめながら穂乃果は「アイドル……」と呟く。

「そ、学校で結成されたアイドル。聞いたことないの?」

 「へえ」と視線を移す穂乃果につられて巧もモニターを眺める。

「ねえかよちん、遅刻しちゃうよ」

「ちょっとだけ待って」

 そんな声が聞こえて巧は視線を降ろす。群衆に加わろうと2人の少女が走ってくる。穂乃果と同じ制服を着ているから、音ノ木坂の生徒だろう。巧はモニターに視線を戻した。

 画面のなかで3人組が踊り、歌っている。アイドルなだけあって容姿も優れているが、ダンスと歌もなかなかのものだ。音楽に関しては素人の巧でも彼女らのレベルが高いことは分かる。歌がサビの部分に入ると群衆が湧く。考えてみれば、学校で結成されたアイドルとなると彼女らも学生ということだ。勉学に並行してここまでのパフォーマンスを作り上げるのはたゆまぬ努力の結果だろう。

 かさり、と隣で音がする。巧が視線を穂乃果へ向けると、パンフレットを落とした穂乃果はまるでゾンビのような足取りで群衆から離れて近くの手すりに摑まる。貧血でも起こしたのかと、巧は慌てて穂乃果に駆け寄る。

 ふと、巧は駅へと繋がる階段を見やる。気のせいかもしれないが、誰かが穂乃果に射抜くような視線を向けていると感じた。だが階段はモニターに映るアイドルを見ようと駆け上がってくる学生や若者ばかりで、怪しい影はもう見えない。これ以上の追跡を諦めて巧は穂乃果に声をかける。

「おい、どうしたんだよ?」

「………これだ」

「は?」

 穂乃果は顔を上げる。とても明るい笑顔を浮かべて、高々と言った。

「見つけた!」

 

 ♦

「熱っ」

 煉瓦造りの塀に背を預けながら、巧は缶コーヒーの小さい飲み口へ息を吹きかける。普段は絶対にアイスを買うのだが、さっき自販機でうっかりホットを押してしまった。苛立ちながら巧は息を吹き続ける。

 穂乃果を学校へ送ってから家に戻らず、塀の外で張り込んでいるが何も動きがない。一応高坂母に今日のバイトは休むと連絡を入れたが、何も起こらないと張り合いがない。まあ、何事もないのが一番なのだが。UTX学院で感じた鋭い視線。それが巧をここまで過保護にさせている。もしあの視線がオルフェノクだとしたら見過ごすことはできない。

 それにしても今朝の穂乃果は何を思いついたのか。学校へ送る前にコンビニで雑誌を何冊か買っていた。まあ、彼女が何を始めるにしても巧には関係のないことだが。できれば巻き込まれないことを祈る。

 ようやく冷めたコーヒーを飲み干した頃、部活動に励む生徒達の掛け声に混ざってピアノの音が聞こえる。先ほど校門から生徒達がぞろぞろと出てきたことを思い出しながら、巧は校門を潜る。自然と足が動いていた。何事も無関心な巧でも、その音には惹かれるものを感じた。

 放課後になった校舎の廊下には誰も歩いていない。生徒達は部活へ行き、帰宅部は下校したのだろう。巧は音を頼りに右も左も分からない校舎を手探り状態で進んでいく。音源が近くなっていくにつれて、歌声も聞こえてくる。やがて「音楽室」という札が立てられた教室へと辿り着き、巧は窓から中を覗き込む。

 ピアノの奏者は少女だった。そういえばここは女子高だった、と巧は思い出しながら少女の奏でる音に聴き入る。どういうジャンルなのかは分からないが、とても良い音と歌声だ。普通にコンサートで金を取っても良いと思える。

 曲がいよいよ最高潮の盛り上がりを見せようとしたが、少女がドアの前にいる巧に気付き演奏と声を止める。

「誰?」

 吊り上がった目を向けながら少女は強気に聞く。巧はドアを開けて教室に入る。

「悪い。ただ良い曲だなと思ってな」

 じっ、と少女は巧に怪訝な視線を向ける。

「あなた、先生じゃないみたいですけど、学校の関係者ですか?」

「いや、ただの通りすがりだ」

 巧がそう言うと、少女は目を見開いて両肩をびくりと一瞬だけ震わせる。

「ふ、不審者! 先生呼ぶわよ!」

「俺は不審者じゃねえ!」

「先生ー!」

 少女が叫んだ。大嫌いなトラブルの匂いを感じ取り、巧は急いで音楽室から出ていく。途中で穂乃果の姿が見えた気がしたが、声をかける余裕なんてない。来た道を通り校門から出ると、塀に手をつきながら息を荒げて酸素を取り入れる努力をする。

 我ながらなんて間抜けなんだ、と巧は思う。学校という子供を守る場が一般開放なんてされているわけがなかった。ましてや音ノ木坂学院は女子高だ。警戒心も強くなる。

 馬鹿馬鹿しい。さっさと帰ろう。そう思いながらオートバジンへと足を進める。ヘルメットを取ろうとしたとき、校門を潜ろうとする人影が見える。

「おい、関係者以外立ち入り禁止だぞ」

 巧がそう声をかけると、男は足を止めて巧を一瞥する。だがすぐにまた校門へと歩き出す。巧はヘルメットをハンドルにかけて男へと駆け寄った。

「おい、あんたここの関係者か? 違うなら止めといた方がいいぞ。さっき不審者が出たらしい」

 このままこの男を入れれば容疑を擦り付けられるんじゃないかと考えたが、見ず知らずの人間にそんな仕打ちをするほど巧は鬼じゃない。

「………をするな」

「はあ?」

「邪魔をするな!」

 そう吼えると、男は巧を突き飛ばす。地面に倒れた巧は男の顔を凝視する。男の視線が今朝UTXで感じたものと同じだった。それよりも驚きなのは、顔の筋肉が隆起していたことだ。顔だけじゃない。全身の筋肉が異常なほど盛り上がり、男の姿が灰色の異形へと変わっていく。その姿にはフクロウの面影がある。

「お前から排除してやる」

 人の姿へと変わったオウルオルフェノクの影がそう言ってくる。巧はオートバジンのもとへと走った。リアシートに括り付けていたアタッシュケースを開き、中身のツールを腰に巻く。オルフェノクが驚いたように目を剥く。

「お前……、ファイズか」

 巧はファイズフォンのコードを入力する。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 赤の閃光と共に、巧はファイズに変身した。オルフェノクが両手の鉤爪を振り下ろしてくる。紙一重で避けたファイズは背中からオルフェノクを羽交い絞めにする。

「お前、何が目的だ」

「ファイズに変身したのなら、お前もオルフェノクだろう。これは俺達のためだ!」

「人を襲うことがか。そんなことが何になるってんだ」

「黙れ! 裏切り者のオルフェノクが!」

 オルフェノクがファイズを力づくで引き離す。よろけたところに鉤爪で斬りつけられ、胸の装甲に傷が刻まれる。追撃の爪が迫る瞬間、ファイズはオルフェノクの腹に肘を打ち付ける。反撃によろめいたオルフェノクの顔面へ続けざまに拳を見舞っていく。

「なら、お前はここで殺す!」

 そう宣言したファイズの拳をオルフェノクは右の鉤爪でガードする。その隙を突かれ、ファイズの腹に左の鉤爪が突き立てられる。ファイズの体が大きく飛び、校門前の階段の縁に倒れた。勢いは収まらず、ファイズの体は階段を転げ落ちていく。階段が終わり、ファイズの体は地面に力なく投げ出された。

 オルフェノクがじりじりと階段を降りてくる。同時にスラスターを吹かす音が耳孔へ、オルフェノクの背後を飛ぶ人型のマシンが視界に入り込む。

 バトルモードに変形したオートバジンの左手に掲げられたホイールが回り出す。同時に弾丸がオルフェノクへ降り注ぐ。近くにいたファイズにも流れ弾が飛んでくる。ファイズは砲撃から逃れるべく跳んだ。アスファルトの地面が抉られ、辺りに粉塵が舞い上がる。粉塵が風に流れた頃になると、もうオルフェノクの姿は消えていた。

 ファイズは着地したオートバジンの胸に蹴りを入れる。オートバジンのボディがバランスを崩してよろめく。

「危ねえな! 前にもこんなことあったぞ!」

 オートバジンはファイズに反撃しない。無言のマシンは頭部のゴーグルを点滅させながら佇んでいる。

「ったく、また一から教え直しかよ」

 ファイズはそう愚痴ると、オートバジンの胸にあるミッションメモリーと同じ意匠のスイッチを押す。人型ロボットがバイクへと変形した。

 ファイズは周囲に視線を巡らせる。スーツによる視覚補正が働いているが、オルフェノクの姿を捉えることはできなかった。

 変身を解除しようとベルトのファイズフォンに手をかけたときだった。

「危なーい!」

 「ん?」とファイズは声の方向へと顔を向ける。同時に、顔面に凄まじい衝撃が走る。それは階段の手すりを滑って降りてきた穂乃果の膝が黄色い目に見事命中してのことなのだが、マスクの奥で脳を揺さぶられた巧は状況を把握できないまま、深い暗闇へと意識を落としていった。




 巧を演じた半田健人さんは高層ビルマニアらしいので、UTX学院のモデルになった秋葉原UDXは気に入るかなと思いながら書いてました。


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第3話 アイドルを始めよう! / 少女達の熱

 今回はやっと穂乃果ちゃん以外のμ’sメンバーが本格的に登場します。ラブライバーの皆様、お待たせしました!


「わあああっ、大変!」

 穂乃果は仰向けに倒れたファイズの肩を揺さぶる。ファイズは僅かに頭を上げるも、呻き声を上げてすぐに頭を垂れた。同時に閃光と共にスーツが消えて白目をむいた巧の姿になる。

「たっくん、たっくん!」

 必死に呼びかけるも巧は目を覚まさない。慌てた様子で海未とことりが階段を降りてくる。

「穂乃果、その人は?」

「たっくんだよ」

「先月から一緒に住んでるって人?」

 ことりの質問に「うん」と穂乃果は答える。「なっ」と海未は顔を紅く染めて巧の顔を凝視した。

「同居人て、この人なのですか!? 見るからに成人男性じゃないですか!」

「えーと、確か22歳て言ってたっけ」

「破廉恥です! たっくんて呼ぶものだから年下だと――」

 「海未ちゃん」とことりが海未の言葉を遮る。

「まずはどうにかしないと」

「そうですね、救急車を――」

 「待って」と穂乃果が携帯をポケットから出す海未の手を止めた。

「たっくん救急車は嫌みたい。学校の保健室に運ぼう」

「救急車が嫌って、そんな子供みたいな……」

 呆れる海未を尻目に、穂乃果はことりと一緒に巧の肩を首に回して立ち上がらせる。

「あれ、穂乃果ちゃん。この人、手に灰が付いてるよ」

 巧の灰色に汚れた手を見てことりが言った。

「本当だ。そういえば、初めて会ったときもたっくん灰まみれだったんだよね」

「灰まみれって、何をすればそうなるのですか?」

 2人を手伝って巧の体を支えながら海未は言った。海未の視線は、巧の腰に巻かれたベルトに向いていた。

 

 ♦

 ゆっくりと意識が表層へと浮かび上がってくる。甲高い話し声が聞こえ、導かれるように巧は目蓋を開いた。視界に長い黒髪の少女が入り込んでくる。少女が巧の覚醒に気付く。

「あ、目が覚めたみたいですよ」

 少女がそう言うと、視界の隅から穂乃果が「たっくん!」と飛び込んでくる。同時に腹に衝撃が走り「ごぽっ」と思わず奇声をあげてしまう。腹に手をつかれたらしい。

「あ、ごめん」

 慌てて穂乃果は手を引っ込める。彼女を睨むも、そそっかしい奴だったなと思い出し表情筋の力を抜きゆっくりと上体を起こす。

「ごめんねたっくん。あんな所にいると思わなくて」

「お前だったのかよ」

 変身していたから良かったものの、生身だったら危ないところだ。

「先生によると、軽い脳震盪のようです。しばらくは安静にしていたほうがいいですよ」

 黒髪の少女がそう言ってくる。「そうか」と巧は返事をすると同時に自分の額を撫でる。少しずきずきと痛んだ。

「自己紹介が遅れましたね。わたしは園田海未(そのだうみ)と申します」

(みなみ)ことりです」

 海未と、海未の反対側の椅子に座る茶色い髪の少女が名乗る。「乾巧だ」と巧も短く自己紹介する。巧は穂乃果に指をくいくいと振り「来い」とジェスチャーする。顔を近付けてくる穂乃果の耳元で他の2人には聞こえないよう囁く。

「この2人は俺が変身してたとこ見たのか?」

「ううん。変身はすぐ解けたから見てないよ。もしかして、またオルフェノクが出たの?」

「ああ、逃げられた。近いうちにまた出るかもな」

「何をこそこそと話しているのですか?」

 海未の語気を強めた声が聞こえて、慌てて穂乃果から顔を離す。

「乾さんといいましたね。あそこで何をしていたのですか?」

「ああ、ちょっと散歩でな。この辺りの土地勘がないんだよ」

「乾さんが倒れていたところ、弾痕がたくさんありましたが」

 あのポンコツバイク、と巧は自分もろとも乱射してきたオートバジンに苛立ちを募らせる。

「さあな。銃撃戦でもあったんじゃねえか?」

「真面目に答えてください!」

 海未が苛立ちを露わにする。「海未ちゃん」とことりが宥めると落ち着きを取り戻すが、まだ怒りが収まったわけではないようだ。海未は鞄のジッパーを開けて中身を取り出す。

「このベルト、乾さんが付けていたものですよね?」

「ああ」

「何なのですか? これは」

「ファッションだ」

 巧がそう答えると海未の肩がわなわなと震える。また怒号が飛んでくるのかと思ったが、海未はため息を吐くに留まった。諦めてくれたらしい。

 「そうそう」と穂乃果が口を開く。

「たっくん、わたし達スクールアイドルやることにしたんだ!」

 少し強引な気はするが、話題を逸らしてくれるのはありがたい。巧は黙って聞くことにする。

「スクールアイドルって最近どんどん増えてるらしくて、人気の子がいる高校は入学希望者も増えてるんだって」

 そう言って穂乃果は鞄から雑誌を取り出してページを見せてくる。今朝買っていたのはこの雑誌だったらしい。雑誌に掲載された写真に写っているのはどれも華やかな衣装を着た少女達だ。UTX学院で見た3人組も載っている。

「それで、来月に新入生歓迎会があるんだけど、その日の放課後に講堂で初ライブするの」

「まだできるかは分からないけど」

 ことりが苦笑を浮かべてそう言う。海未も険しい表情をしている。

「そうだ、わたし飲み物買ってくるね」

 思い出したように穂乃果は部屋から出ていく。今更ながら、巧は自分がいる場所が保健室であることに気付く。救急車を呼ばれなかったのはありがたい。多分、穂乃果が口利きしてくれたのだろう。病院に運ばれたら、自分が人間でないことがばれてしまうかもしれない。

「ったくそそっかしい奴だな。お前らも付き合わされて面倒だろ」

 「はは」とことりは笑みを零す。

「でも、小さい頃から何か始めるとき、いつも穂乃果ちゃんが引っ張ってくれたんです」

「そのせいで何度も散々な目に遭いましたけどね」

 海未がため息と共に言う。ことりは苦笑を返すと含みのある表情をする。

「でも、海未ちゃんは後悔したことある?」

「それは、まあ……、ないですが」

 ふっと海未は穏やかに笑った。本来2人の前ではこんな顔を見せるのだろう。海未は巧がいることを思い出し、慌てて顔を険しくする。

「そうか。まあ、やるだけやってみたらいいさ」

 巧はそれだけ言った。「ただいまー」と穂乃果が勢いよくドアを開けて戻ってくる。

「はいたっくん。わたし達、ダンスの練習したいから先に帰ってて」

 差し出された缶コーヒーを受け取りながら、巧は「ああ」と返事をした。

「悪いな……、熱っ。お前何でホット買ってくるんだ! 俺が猫舌なの知ってんだろ!」

「ああ、そうだった。ふーふーしてあげるね」

「いらねえよ!」

 

 ♦

 穂乃果達が出ていった後、入れ違いに戻ってきた保健医に礼を言って巧は保健室を出た。

 構造が分からない校舎をさまよった末にようやく玄関を見つけて外に出る。まだ桜が散る校門までの道を歩いているとき、不意に「あなた」と呼び止められる。振り向くと2人の少女が立っている。凛々しく整った瞳を向ける金髪の少女に目が行きそうだが、巧は彼女から一歩下がって立つ少女へと視線を向ける。見覚えのある少女だ。

「あんたは……。ここの生徒だったのか」

「あの日ぶりやね、お兄さん。また会うんやないかってカードが言うとったよ」

「知り合い?」

「ちょいとね」

 笑ってはぐらかす少女の対応に慣れているのか、金髪の少女は改めて巧に視線を戻す。

「音ノ木坂学院生徒会長の絢瀬絵里(あやせえり)です」

「副会長の東條希(とうじょうのぞみ)です」

 絵里と名乗った少女が金髪碧眼という外見に反して流暢な日本語を喋ったものだから、巧は内心驚く。同時に希と名乗った少女の関西弁らしきイントネーションに少し違和感を覚えながらも、そこはあえて追及せず「ああ」と気のない相づちを打つ。

「悪いな。保健室使わせてもらって」

「それは構いません。緊急事態ですから。それより、校門の前で何をしていたんですか?」

 またその質問か。面倒だなと思いながら巧に海未のときと同じように適当な言い訳を並べる。

「散歩してた途中でお宅の生徒に膝蹴りされたんだよ」

 巧がそう答えると、絵里は両眼を見開いて目蓋を痙攣させる。後ろにいる希は「あんれま」と口に手を添えている。半分は嘘だが、もう半分は本当だ。

「それはすみませんでした。ですが、何故学校の周りを散歩なんて」

「この辺りの土地勘がないんだ」

 巧の答えに絵里は納得がいっていないようで、更に質問を重ねようとするが「絵里ち」と希に静止される。

「周辺住民さんのすることに口を出すのは、生徒会長の役目とは違うやん」

 希はどうやら絵里のストッパー役らしい。絵里がどうしてここまで巧に対して神経質になっているのか、それが廃校というこの学校の抱えるものに結びついてしまう。

「そういや、廃校になるんだってな。この学校」

「まだ決まったわけじゃありません」

 絵里は強くそう言った。続けて希が。

「来年度の入学希望者が定員を下回った場合、正式に決まるんよ」

「そうか。なら生徒会は学校守るために何かしないのか?」

「生徒会はこれから学校の存続を目標に活動していく方針です」

「まだ理事長からの承認は得てないんやけどね」

 希がそう指摘する。お前はこいつの味方じゃないのかよ、と巧は思う。

「承認を得られるよう、理事長は説得します。そのための方法はまだ検討中なだけです」

「穂乃果達のアイドル活動のサポートをすればいいんじゃないか?」

 巧がそう言うと、絵里はまなじりを吊り上げる。

「あの子達と知り合いなんですか?」

「ああ、ちょっとな」

「なら、あなたからも言ってください。活動を認めるわけにはいかないと」

「何でだよ。あいつらは学校のためにスクールアイドルやるって言ってんだぞ」

「リスクが大きすぎます。やってみて駄目でしたなんて結果になったら、むしろ学校の宣伝としては逆効果になります」

 絵里は目蓋を物憂げに垂れて続ける。

「わたしだって、この学校はなくなってほしくありません。だからこそ、簡単な思いつきでやってほしくないんです」

 なら、穂乃果と目指すものは同じじゃないか。巧はそう思いながらも口にするのは押し留める。目的が同じでも過程が違えば相容れることはできない。かつて共に戦いながらも、とうとう最後まで分かり合うことができなかった仲間のように。出来ることなら、この少女に自分が味わった咎を受けてほしくない。いけ好かない男だったが、こういう時に口達者な彼がいればいいのにと思ってしまう。

「まあ、確かに簡単な思いつきかもな。でもあいつらだって、お遊び気分でやってるわけじゃないと思う。取り敢えず、やらせてやってもいいんじゃないか。何もしないよりはましだろ」

 巧はそう言って校門へと歩き出す。生き残った自分が何をすべきか。それを見出すのに必要なファイズギアを握る手に力を込めた。

 

 ♦

 いつの間にか、高坂家のアイロンがけは巧の役目になった。理由は単純なことに、巧が最も上手いからだ。店の仕事で忙しい高坂母に頼まれたことから徐々に日課になっていったのだが、きっかけは穂乃果のブラウスとリボンのしわを伸ばした日だろう。

 そんなわけで、巧はその日もバイトが終わると居間でアイロンをかけている。居候の身である以上、断ることもできない。それに、しわのない服を着て喜ぶ家族の顔を見るのも悪い気はしない。啓太郎の影響だなと思いながら、巧は高坂父の作務衣にアイロンを当てる。

「雪穂、お前の制服いい加減やばいぞ。しわくちゃじゃねーか」

「良いんです自分でやりますから。わたしにだってアイロンがけくらいできますよ」

 雪穂は不機嫌そうに言った。まだ雪穂とは打ち解けていない。まあ、これが普通の反応ではあるが。いつものことだから構わず巧は服のしわを伸ばし続ける。

 天井からどたばたと音が聞こえる。「放してください」とついさっき家に来た海未の声が漏れている。

「何やってんだあいつらは」

「ライブの打ち合わせみたいですよ。ことりさんも来てるみたいですし」

「あんな調子で大丈夫なのかよ」

「随分気に掛けてるんですね」

 雪穂は興味なさげに雑誌のページを捲っている。しわが綺麗になくなった作務衣を畳んだ巧は作業を止める。

「雪穂はどう思う? スクールアイドルのこと」

「やったところで、廃校が阻止できるほどの人気が出るとは思えないですよ。乾さんUTXのA-RISE見たんですよね?」

「ああ。ダンスも歌もプロ並みだったな」

「プロと言っていいですよ。コピーじゃなくてオリジナル曲持ってますし、今は在学中だから学校がスポンサーですけど、あちこちのプロダクションからスカウトも受けてます」

「詳しいな」

「志望校なので」

「あいつらそんなこと始めてんのか」

「そうです。お姉ちゃんはそんな途方もないことを目指してるのに気付いてないんです。ただ楽しく歌って踊ってるだけじゃ、A-RISEみたいなアイドルになんて簡単にはなれませんよ」

 雪穂の言っていることは的を射ている。穂乃果よりもしっかりした妹だ。現実的にものを考える彼女が正しいのかもしれない。でもだからといって、学校を守りたいという穂乃果の願いを否定していいものだろうか。巧には言葉を見つけることができない。

 雪穂は雑誌を閉じると自分の制服を広げた。

「アイロン、終わったなら使っていいですか?」

 「ああ」と巧は答えた。雪穂は巧からアイロンを受け取ると、つたない手つきで制服のしわを伸ばし始めた。

 

 ♦

 3人での打ち合わせでトレーニングを始めることが決まったらしく、翌日は穂乃果の起床が早くなった。とはいえ彼女の寝坊癖がすぐ直るわけはなく、海未とことりが迎えに来て無理矢理起こしているのだが。何にしても朝の面倒な日課がなくなって巧には大助かりだ。

 酔っ払いみたいな千鳥足で帰ってくる穂乃果だが、いつも無駄な体力を使っているから丁度いいんじゃないかと巧は思う。

 トレーニングは朝だけでなく夕方もするそうで、学校から帰ってきた穂乃果はすぐに体操着に着替えて店の玄関へ戻ってくる。丁度その時間は客もいなく暇だったから、巧は高坂母と在庫品の団子をおやつとして食べていた。問題なのは、三食団子を食べる巧を穂乃果が物欲しそうに凝視していたことだ。

「食うか?」

「食べる!」

 試しに巧が勧めてみると、穂乃果は串に刺さった団子3つを一気に食べて出掛けていった。一応アイドルなんだから間食は控えるべきじゃないのか、と巧は思う。勧めておいてなんだが。

 バイトを終えると、巧はファイズギアを手に穂乃果達がトレーニングをしているという神田明神へとオートバジンを走らせた。一昨日逃がしたオルフェノクがまた現れるかもしれない。何故あのオルフェノクが音ノ木坂学院に入ろうとしたのかは分からないが、生徒が危険なのは明らかだ。

 前来たときと同じ場所にバイクを停めて、穂乃果から聞いた階段へと向かう。階段まであと少しのところで、見覚えのある姿が視界に入る。向こうも足音で巧の存在に気付く。

「ヴぇえっ」

 巧を不審者扱いした少女が控え目な悲鳴をあげる。扱いというより、勝手に入ったのだから不審者であることに変わりはないか、と巧は自分の浅はかさにため息をつく。

「言っとくが神社に入るのに許可はいらねーぞ」

「わ、分かってるわよ!」

 巧は構わず穂乃果達の様子を見ようと足を進めるのだが、これ以上距離を詰ませまいと少女が足を後退させる。こんなところを見られたら面倒になるのは目に見えているから、巧は仕方なく足を止めた。

「あいつらに何か用か?」

「あなたこそ、あの人達の何なんですか?」

「まあ、知り合いっつーか。一番うるさいのとは同居人だな」

「同居人て、彼氏か何か?」

「誰があんなじゃじゃ馬娘なんかと付き合うかよ。で、お前何しに来たんだ?」

 少女は家の影から階段を見やる。

「もう、海未ちゃんの悪代官!」

「それを言うなら、鬼教官のような……」

 穂乃果とことりの息も絶え絶えな声が聞こえる。逡巡を挟んで少女は答える。

「あの先輩に作曲を頼まれて、しつこいから練習を見に来たんです。お遊び気分なら、断るつもりです」

 そういえば、穂乃果が昨日夕飯を食べているときに言っていた。ピアノが上手い1年生に作曲を頼みたいと。それが彼女だったのか。

「で、見てどうなんだよ?」

「わたしに偉そうなこと言っておいて、あれくらいで弱音吐いてたらアイドルなんてやれませんよ」

「そうか。じゃあ断るのか?」

 巧の質問に少女はすぐ答えなかった。巧は思う。最初から断るつもりなら、練習風景など見に来ることはなかったのではないかと。少女の吊り上がったまなじりが少しだけ下がった。

「俺は音楽とかよく知らねえけど、お前のピアノと歌は良いと思う」

「……もっと上手い褒め方知らないんですか?」

 むっ、と巧は口を固く結ぶ。この少女と話すと否応なしに真理のことを思い出す。この不遜な態度と勝気な口調。出会ったばかりの、巧に熱い料理ばかり作るという手の込んだ嫌がらせをしていた頃の真理そっくりだ。

「遊びじゃないってことは分かりました。でも、やるかどうかは別です」

 少女はそう言うと来た道を引き返していった。「もう駄目ー」という穂乃果の声が階段の方から聞こえた。声出す体力があるならまだいけるだろ、と巧は思った。

「おい、いい加減出てこいよ」

 巧がそう言うと、土産屋の影から男が出て来る。オウルオルフェノクに変身した男だった。男は巧を睨む。巧はアタッシュケースからファイズギアを取り出して腰に巻く。

「ファイズ……、聞いたぞ。王を倒した裏切り者が」

「何で音ノ木坂を狙うんだ?」

「俺達オルフェノクのために、音ノ木坂は廃校させなければならない」

「どういうことだ?」

「裏切り者のお前が知る必要はない。お前は人間の味方をして正義の味方を気取るつもりか?」

「そんな大層なもんじゃねーさ」

 巧は自分が正義の味方だなんて思わない。迷わないと決めただけだ。

「俺は人間を守る。それが罪だとしてもな」

 男の姿がオルフェノクに変わる。巧はファイズフォンに変身コードを入力した。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 ファイズに変身した巧は手首を振った。同時にオルフェノクが走り出す。ファイズは先制の拳を顔面に見舞い、オルフェノクがよろけると肩と首根っこを掴んで路地から大通りへ引きずり込む。車が通っていない道路へオルフェノクの体を叩き落とし、容赦なくその脇腹を蹴り上げる。地面に倒れたオルフェノクに追撃を与えようとするが、口から吐き出した黒煙で視覚が阻害される。煙幕から抜け出したファイズの背中が斬りつけられた。

 一昨日と同じようにスラスターを吹かす音が聞こえる。嫌な予感がした。

「よせ! ぶん殴るだけにしろ!」

 そう叫ぶと、バトルモードに変形していたオートバジンは左手のタイヤを背中へと引っ込める。地面に着地するとオルフェノクの体に拳を打ち付けていく。オルフェノクの体が大きく跳んだ。

 ファイズはオートバジンの肩から伸びるハンドルにミッションメモリーを装填する。

『Ready』

引き抜くとハンドルから赤く輝くフォトンブラッドの刃が伸びた。ファイズフォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 ベルトからフォトンストリームを伝ってファイズエッジにエネルギーが充填される。ファイズエッジの輝きが更に増していく。ファイズは刀身を地面に滑らせた。地面に赤いエネルギーの波が迸り、オルフェノクに触れるとその体を浮遊させて身動きを封じる。

「はあああああああっ」

 ファイズは駆け出した。オルフェノクの白い目に浮かぶ恐怖の色が見える。それでもファイズは迷いを断ち切るように、丸腰のオルフェノクにファイズエッジの斬撃を浴びせた。

 Φのマークが浮かび上がるが、オルフェノクは死ななかった。フォトンブラッドの拘束から解放されて、地面に力なく伏す。ファイズはファイズエッジを振り上げた。辛いが仕方ない。あいつらを守るためだ。そう思うことで同族意識と良心に蓋をして、真紅の刃を振り下ろそうとしたとき、手負いのオルフェノクはファイズの腹に鉤爪を突き立てた。

 衝撃で後ずさりする。オルフェノクはゆっくりと立ち上がった。ファイズへと走り出したが、すぐにその足が止まる。オルフェノクの視線がファイズから自分の腹、弾丸を浴びても傷つかない皮膚を突き破っている刃へと移る。

「何故だ……」

 オルフェノクがうわ言のように呟いた。

「お前は喋り過ぎだ」

 オウルオルフェノクではない別の声が聞こえる。オウルオルフェノクの体が青い炎を燃やし始めた。炎はすぐに消えて、体が灰になって脆く崩れていく。そして、オウルオルフェノクの影に隠れていたもう1体のオルフェノクが視界に映る。

「お前……」

 ファイズは細剣を構えたオルフェノクを凝視した。オルフェノクはメカジキに似た姿をしている。ソードフィッシュオルフェノクの影が人間の男の姿へと変わる。

「私はこれにて失礼、ファイズ」

 オルフェノクはそれだけ言うと跳躍した。人間では到底敵わない脚力にものを言わせ、街に並ぶ建物の影に隠れていった。

 

 ♦

 桜の花が散るのは早い。早朝から地面に散らばる淡いピンク色の花弁を箒で集めながら、巧はしみじみと思った。そういえば去年、真理と啓太郎と一緒に花見に出掛けた。真理が弁当を作って、それを桜が満開になった公園の真ん中で食べた。巧は桜になんて目もくれずに弁当を食べることに夢中だったが。今年も2人は花見に行くのだろうか。

 仕入れ業者から品物を受け取った後、まだ開店よりも早い時間に音ノ木坂の制服を着た客はやってきた。

「本当に一緒に住んでるんですね」

 少女はエプロンを付けた巧をまじまじと眺めている。巧は掃除の手を止めた。

「穂乃果に用か。あいつ今トレーニングに行ってるんだ。中で待つか?」

「いいです。代わりに、これ渡しておいてください」

 少女は鞄からCDケースを取り出して巧に差し出す。受け取ったCDは無地で、ジャケットの隅に小さくμ’sと書いてある。

「これ、何て書いてあるんだ?」

「ミューズって、読むんだと思います」

「ああ、石鹸のか」

 「違います」と少女が呆れ顔で言った。

「多分、ギリシャ神話の女神だと思いますけど」

μ’s(ミューズ)……。これがあいつらの名前か。渡しておく。あいつらのこと頼むぜ」

「今回だけです。わたしのピアノ褒めてくれたから、そのお礼」

 少女の頬が少しだけ赤みを帯びる。それを見られたくないのか、少女はそそくさと行ってしまった。学校が同じなのだから直接渡せばいいと思うが、照れ臭いのだろう。手先は器用そうなのに、こういったことは不器用な女だな。そう思いながら巧は少女の背中を見送った。

「あら、穂乃果の友達? 音ノ木坂の子みたいだけど」

 店内の掃除をしていた高坂母が出てくる。巧はCDを見せる。

「CD貸しに来たみたいっす」

「学校で渡せばいいのに」

「そうっすね」

 そう言って巧は誤魔化した。

 しばらくして神田明神でのトレーニングから穂乃果が帰ってくると、巧はCDを渡した。

「これ、西木野(にしきの)さんが持ってきてくれたの?」

 あいつ西木野って名前だったのか。何度も会っているが名前は知らないままであることに巧は気付く。

「さあな。郵便受けに入ってたんだ。宛名も差出人の名前もないが、お前宛てだと思ってな」

 巧は嘘をつく。何となく、西木野は知られたくないだろうと思った。

「ありがとう、たっくん」

「礼は俺じゃなくてCD持ってきた奴に言えよ」

「うん!」

 穂乃果には差出人が分かっているらしく、すぐに制服に着替えて意気揚々と学校へ行った。

 頑張れよ。

 走っていく穂乃果の背中を見て、巧は密かに激励を送った。




 真姫ちゃんの悲鳴を「ヴぇえ」にするか「うええ」にするか本気で悩みました。真姫ちゃんと巧の絡みは結構難しいです。似た者同士の会話ってなんか上手くいかないんですよね。特に2人みたいなタイプは。
 巧をμ’sのサポート役にすることは最初から決めていたのですが、巧ってこんなに喋るキャラだったかなと不安になってきました。


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第4話 ファーストライブ / 女神の守り人

 更新が遅れてしまい申し訳ございません。
 引越しが完了し、ようやく落ち着きました。


 西木野が曲を渡した日から、穂乃果はこれまでとは比べものにならないほど張り切って練習へ出掛けた。毎朝早く、夜は遅く。休日は1日中練習に励んでいた。正直、彼女がここまで真面目にやるとは思わなかった。穂乃果が頑固なのは一緒に暮らすようになって次第に分かってきたことなのだが、ここ最近の頑張りは巧の予想以上だったと思う。

 穂乃果は辛さを見せない。ファーストライブの日が近付くにつれて気合を増しているように見える。ことりに頼んだ衣装も完成が近いらしく、全ては順調に進んでいる。

 そう。順調だと、穂乃果からは聞いていた。

「何で俺までチラシ配りしなきゃいけないんだ?」

 バイトが休みだから家でのんびりしていたところ、電話で穂乃果に呼び出されて秋葉原まで来た巧は愚痴を零す。

「お願いたっくん。海未ちゃんのために!」

 チラシの束を差し出しながら、穂乃果は深々と頭を下げる。隣でことりも「お願いします」と物欲しそうな視線を巧に向けている。何でも海未が人前で歌って踊るのが恥ずかしいとのことで、人に慣れさせるために繁華街である秋葉原でチラシ配りをすることになったらしい。携帯電話の着信が鳴ったときはオルフェノクではと思った自分が馬鹿みたいで余計に腹が立つ。

「ひ、人がたくさん………」

 横目でちらりと海未を見ると、行き交う人々を見て震えている。初めて会ったときの威勢はどこへやら。巧はため息をつくと穂乃果からチラシを受け取った。チラシ配りのバイトならやったことがあるから、多分できるだろう。

 道行く人々に「ライブやりまーす」と適当に声をかけてチラシを1枚ずつ手渡していたのだが、近くにいるはずの海未がいないことに気付いて周囲を見渡す。やがてガシャポン販売機の前で小さくうずくまる海未を見つけ出す。

「あ、レアなの出たみたいです」

 カプセルを開けた海未が呟いた。いつも海未に叱られてばかりいる穂乃果が嗜めるように彼女を呼ぶ。その隣ではことりが苦笑を浮かべていた。

「海未ちゃん!」

 やっぱり慣れたところでやろうということで、場所を音ノ木坂学院に移してチラシ配りを再開した。

「ここなら平気でしょ?」

「まあ、ここなら………」

「じゃあ始めるよ」

 そう言って穂乃果はチラシを配り始める。ことりも道行く生徒に声を掛けてチラシを配っている。海未は意を決して「お願いします」と髪を両サイドでまとめた小柄な生徒にチラシを差し出したのだが、生徒は海未を一瞥した後に「いらない」と言い捨てて行ってしまった。

「駄目だよそんなんじゃ」

 様子を見ていた穂乃果が海未にそう言ってくる。

「穂乃果はお店の手伝いで慣れてるかもしれませんが、わたしは………」

「ことりちゃんだってちゃんとやってるよ。たっくんだって配ってるし」

 一応頼まれたからやってはいるが、巧のチラシは減る気配がない。女子高という場で若い男の存在は珍しいらしく、女子しかいない生徒達は巧を遠目から眺めるばかりでこちらが近付いても距離を取られてしまう。動物園のパンダの気持ちが少しだけ分かったような気がする。この学校は若い男の教師を雇っていないのだろうか。

「ほら海未ちゃんも。それ配り終えるまでにやめちゃ駄目だからね」

「ええ? 無理です」

 海未がそう言うと、自分の持ち場へ行こうとした穂乃果は足を止めて悪戯な笑みを海未に向ける。

「海未ちゃん。わたしが階段5往復できないって言ったとき、何て言ったっけ?」

 穂乃果がそう聞くと、海未は口ごもってしまうもすぐに強気な声色で答える。

「分かりました。やりましょう」

 海未は「よろしくお願いしまーす」と声を張ってチラシを配り始めた。その様子を見て微笑んだ穂乃果に「あの……」と眼鏡を掛けた生徒が声を掛けてくる。

「あなたは、この前の」

 穂乃果は既に顔見知りらしい。何気なく声を掛けた生徒を見ていた巧だったが、穂乃果とUTX学院に行ったとき、モニターに映るA-RISEを見ようと走ってきた少女であることを思い出す。

「ライブ、観に行きます……」

 人見知りなのか、少女は弱々しい声で言った。穂乃果は嬉しそうに言う。

「本当?」

 少女の言葉が聞こえたのか、ことりと海未がチラシ配りを一旦止めて穂乃果の隣へ歩いてくる。

「来てくれるの?」

「では、1枚2枚と言わずこれを全部」

「海未ちゃん」

 持っているチラシを全て渡そうとした海未を穂乃果が嗜める。「分かってます」と罰が悪そうに海未はチラシを引っ込める。

「あのー」

 一向に減らないチラシを抱えている巧に生徒が話し掛けてくる。「ん?」と巧はショートカットの少女を見下ろす。

「友達見ませんでした? この辺りにいると思うんですけど」

「どんな奴だ?」

「眼鏡を掛けた可愛い子です」

 漠然としすぎちゃいないか。そう思いながら巧は特徴のひとつには確実に当てはまっている、穂乃果達のところにいる少女を指差す。

「あいつじゃないのか?」

「あ、そうです。ありがとうございました」

 巧が差し出そうとしたチラシには目もくれず、少女は「かーよちーん」と友人のもとへ駆けていった。

 結局、巧は学校でチラシを1枚も配れないままその日の宣伝は終わった。

 

 ♦

 夜も更けてきた頃、窓の奥に広がる夜空には雲がなく無数の星が煌いている。星の光は星それぞれだ。強い光を放つ星もあれば弱い光を放つ星もある。だが星空にも関心を持たない巧には数秒見れば飽きてしまうもので、布団の上に寝そべり雑誌のページを捲る。

 さっきは穂乃果が部屋で海未、ことりと3人で明日のライブの打ち合わせをしていたらしく、話し合いが済むと神田明神に行くと家を出ていった。散々騒いでいたせいか、今はとても家が静かに感じる。

 巧に与えられた部屋は客間として使われていたらしい。だから家具なんて背の低いテーブルと座布団が置いてあるだけで、良く言えばシンプルなのだが悪く言えば飾り気がない。まるで自分の心を映しているみたいだな、と思っていたところに(ふすま)がノックされる。

「たっくん、入っていい?」

「ああ」

 雑誌を閉じた巧がそう言うと、襖が開いて穂乃果が入ってくる。穂乃果はテーブルの席に敷いてある座布団に腰を落ち着かせた。

「お参りはもうしてきたのか?」

「うん、大成功しますようにって」

「ずっと練習してきたんだ。多分成功すんだろ」

 巧がそう言うと、穂乃果は少し困ったように笑った。何か悪いことでも言ったか、と巧は眉を潜める。

「うん。歌もダンスもばっちりだし、きっと成功するって信じてる。でも、やっぱり不安かな。海未ちゃんとことりちゃんの前じゃ言えないけど。何か変な気分だね。楽しみなのに不安って」

 巧は穂乃果の気持ちが少しだけ分かったような気がする。自分もまた、穂乃果と似た気持ちを抱いているからだ。巧は穂乃果の気持ちを端的に告げる。

「それ、夢ができたってことなんじゃないか?」

「夢か……。うん、確かにそうかも。わたし、今まで夢とか持ったことないから、まだよく分からないけど」

 自分の気持ちをどう整理すればいいのか。探すように宙を眺める穂乃果に巧は言葉の列を投げかける。説教じみたことを受けるのは嫌いだし、自分がするのも好きじゃない。でも、彼女から教えられ自分が感じたことを誰かに伝えたい。単純にそう思った。

「夢を持つとな、時々すごく切なくなるけど、時々すごく熱くなるんだ。まあ、受け売りなんだけどな。俺も夢ができて、やっとその意味が分かった気がする」

 「そうなんだ……」と穂乃果は巧を意外そうに見る。

「たっくんにも夢はあるの?」

 巧がその質問に答えるのに、しばらくの逡巡を挟んだ。

「ああ、でかい夢がな」

「どんな夢? 教えてよ」

「やだね」

「えー」

 穂乃果は口を尖らせた。巧は斜に構えた笑みを浮かべる。

「夢や願い事ってのはな、人に言うと叶わないらしいぜ」

「そんなの迷信だよ。たっくんのケチ!」

「はいはい」

 巧が適当にあしらうと穂乃果は笑った。弱気なところを見せないが、彼女も明日のライブに緊張を抑えられないのだろう。リラックスできたのならそれでいい。口には出さないが、巧もμ’sのライブ成功を祈っている。3人でやってきて良かったと思いたい、と穂乃果はよく言っていた。汗をじっとりと滲ませながら努力してきたのだ。それくらいの報酬は与えられたっていい。

「明日のライブ、たっくんも来てね」

「俺、学校に入ってもいいのか?」

「ことりちゃんが理事長に許可貰えるようにお願いしてくれるって。うちの学校の理事長、ことりちゃんのお母さんなんだ」

「そうか。バイト終わったら観に行ってやるよ」

「うん!」

 穂乃果は満面の笑みを浮かべた。同時に襖が開く。開けたのは雪穂だった。

「あ、2人とも一緒にいたんだ。お母さんがご飯だから降りてきてって」

 雪穂はそれだけ言うと襖を開けたまま階段を降りていく。

「よーし、明日に備えてたくさん食べなきゃ」

「馬鹿食いして太るなよ」

 

 ♦

 

「巧君、今日はそろそろ上がって」

 いつものように穂むらの仕事をしていると、唐突に高坂母がそう言ってきた。

「いつもより早いすよ」

 巧がいつも上がるのは店を閉める頃だ。まだ2時間くらいはあるし、暇なわけでもない。店内では客が数組いて何の菓子を買うか吟味している。

「穂乃果から頼まれたのよ。ライブを観に来てほしいから早く上がらせてってね。行ってあげて」

「はあ。それじゃお先っす」

 早上がりした巧はファイズギアケースを手にオートバジンで学校へ向かった。ここ1ヶ月近くはオルフェノクが現れていない。でも彼等がいつ現れるかは予測不可能なため、常にファイズギアは持ち歩くようにしている。

 学校に着いた巧は朝穂乃果に言われた通り事務室に行って来客用のネームプレートを貰った。この札を首から提げておけば校舎を歩ける。ことりが理事長に口利きしてくれたおかげで、名前を言うとすんなり貰えた。

 放課後のようだが校舎内は賑わっている。1年生のために部活の体験入部を実施しているらしい。青春だな、と思いながら巧はまだ(のり)のきいた制服に身を包む1年生の生徒達を眺める。真理も高校に行っていたら、どこかの部活に入っていたのだろうか。とはいえ、美容師になることばかりに熱を上げていた彼女が別のことに目移りするとは思えないが。

 校舎を歩けるようになったのは良いが、巧はライブ会場である講堂がどこにあるのか分からないことに気付く。何度か場所を聞こうと生徒に声を掛けたのだが、女子高の生徒はどうにも警戒心が強いらしく巧から逃げてしまう。巧の不機嫌そうな顔つきで怖がらせてしまったようだが、いきなりにこにこするのも気持ちが悪い。やがて校内放送が聞こえてくる。

『スクールアイドル、μ’sのファーストライブ、間もなくでーす。ご覧になられる方は、お急ぎくださーい』

 勘を頼りにしながら廊下を歩いていると、この国では目立つ金髪の生徒と遭遇する。

「あなたは………」

「ああ、丁度良かった。講堂がどこにあるか分からないんだ。案内してくれないか?」

「ライブを観に行くつもりですか?」

「ああ、誘われたからな」

 絵里は真っ直ぐと巧に両の碧眼を向けてくる。巧は尋ねる。

「どうしてあいつらを認めてやらないんだ?」

「アイドルなんて、今更やったところで学校のためになりません」

 絵里は断言する。口調と険しい眼差し。それらからは妙な緊迫感が発せられている。

「会長!」

 不意に生徒が走ってくる。巧に一度視線を向けるも、それどころではないらしく息を切らしながら絵里へと視線を戻す。

「どうしたの?」

「こ、校庭に不審者が………」

「不審者?」

 絵里は窓から外を見下ろす。釣られて巧も。その不審者らしき人物はすぐ目に留まった。女子高という場で男は目立つ。スーツを着込んだ男の体がぼこぼこと隆起し、冷たい灰色の異形へと姿が変わる。1ヶ月近く前に現れたソードフィッシュオルフェノクだ。校庭から甲高い悲鳴が湧いて校内の空気を震わせる。

「あれは………!」

 絵里は目を剥いてオルフェノクを凝視している。巧は持っていたファイズギアケースを開きツールを取り出した。巧の行動に疑問を抱いたのか、絵里の視線が巧へと移る。できれば人前ではしたくなかったが、物陰に隠れる余裕はない。巧はフォンにコードを入力する。

 5・5・5。ENTE。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 フォトンブラッドの赤い閃光が全身を駆け巡り、巧はファイズに変身した。変身時の光に目を瞑っていた絵里と女子生徒は、再び目を開くとファイズの姿に言葉も出さずただ視線を固定している。

 ファイズは窓を開けて、3階の廊下から地面へと一気に飛び降りた。

 

 ♦

 校庭に怪物が出た。

 穂乃果達がその知らせを同級生のフミカから聞いたのは、衣装に着替えていよいよ本番と士気を高めていたときだった。穂乃果は海未とことりの静止を振り切って校庭へと走った。何が出たのかすぐに分かった。そして、校庭に出ると予想は当たった。

 少し遅れて海未とことりが穂乃果の両隣に立つ。戦いは既に始まっていた。両手に剣を構えたオルフェノクにファイズは一歩も退かずに立ち向かっている。

「あれって………」

 ことりが怯えた声で言う。オルフェノクの剣がファイズの右肩を掠めて火花を散らした。

「たっくん!」

 穂乃果は思わずファイズに変身している彼の名前を呼んでいる。それを聞いた海未が恐怖を隠しきれていない声色で呟く。

「まさか……、あれは乾さんなんですか?」

 「あっ」と穂乃果は我に返る。巧からファイズであることは内緒にするよう言われていたことを思い出す。

 オルフェノクが剣をファイズの腹に一閃する。ファイズの体が吹き飛び、地面に力なく倒れる。だがファイズはすぐに立ち上がらない。ベルトの側面からデジタルカメラのようなものを外し、バックルから外したチップをレンズ部分に差し込む。

『Ready』

 グリップが展開したカメラを右手に付けるとオルフェノクが距離を詰めようと走ってくる。ファイズは気怠そうに立ち上がり、バックルの携帯電話を開いてキーを押した。

『Exceed Charge』

 バックルの右側から赤い光がラインに沿って右手へと走っていく。カメラに取り付けられたチップが発光すると同時に、ファイズは剣を振り上げたオルフェノクの腹に右拳を叩き込んだ。オルフェノクの体がよろめき、目の前にΦの文字が浮かび上がる。

「っ………」

 穂乃果は息を飲んだ。初めて巧がファイズに変身したとき、あの文字が浮かぶとオルフェノクは灰になって崩れた。でも今戦っているオルフェノクは、拳を受けた腹をまるで埃でも落とすように叩いている。地面に落ちたオルフェノクの影が人の形に変わった。

「この程度でやられるほど、脆くはありませんよ」

 影は不気味な笑みを浮かべている。

「オルフェノクが現れて犠牲者が出れば、そんな学校はもう廃校にするしかないでしょう」

 嬉々とした声で影はそう言っている。人の姿をした影は元に戻り、オルフェノクの灰色の目が穂乃果達に向く。海未とことりが声にならない悲鳴をあげる。

「そうはさせるか!」

 穂乃果達のもとへ歩き出したオルフェノクをファイズが背後から羽交い絞めにする。だがすぐに引き剥がされる。ファイズは左手首にある腕時計からチップを引き抜き、ベルトのバックルに挿入した。

『Complete』

 ファイズの胸部装甲が左右に開き肩に収まる。黄色だった目が赤く輝き、全身に巡っていたラインが赤から銀へと変わる。

 ファイズはカメラのチップをベルトの右側面に装着されていた筒状のツールに移した。

『Ready』

 右脚にツールを取り付け、腕時計のスイッチを押す。

『Start Up』

 電子音声が鳴ると同時にファイズの姿が消えた。その姿を探そうと視線を周囲に這わせるオルフェノクを囲むように、無数の赤い閃光が飛んでくる。傘のように開いた光は、槍のように次々とオルフェノクの体へと刺さっていく。光が刺さる度に巧の吼える声が聞こえる。全身にいくつもの風穴を開けられたオルフェノクは、顔面にぽっかりと穴が開くと青い炎をあげて燃え始める。やがて炎が消えると、その体は灰になって崩れ落ちた。

『3・2・1・Time Out』

 カウントが終わると同時にファイズの姿が視界のなかに戻ってくる。ファイズはバックルのチップを抜く。

『Reformation』

 開いた装甲が閉じて、ファイズは元の姿に戻った。ツールを所定の位置に戻したファイズはバックルから携帯電話を抜き取ってコードを押す。光と共にベルト以外が消えて巧の姿になる。巧は崩れ落ちるように地面に膝をついた。

「たっくん!」

 穂乃果は巧のもとへ駆け寄る。額に汗を浮かべる巧は酷く苦しそうに顔を歪めている。

「怪我したの?」

 肩を支えようとしたのだが、巧は穂乃果の手を「してねえよ」と跳ねのけて立ち上がる。足元がおぼつかないように見えた。

「穂乃果、ライブはどうしたんだ?」

「オルフェノクが出たのにライブなんて――」

「散々練習してきたじゃねーか。今更やめるのかよ?」

 巧は衣装に着替えた穂乃果を見てため息をつく。

「始まる前に衣装見せてどうすんだ。ほら行くぞ。講堂まで案内してくれ」

 巧はそう言って歩き出す。戦いで疲れたのか、足取りが危うくて支えていないと倒れてしまいそうだ。

 穂乃果は巧の後を追いかける。オルフェノクの灰を被ってしまったのか、巧の手からは灰がさらさらと零れていた。

 

 ♦

 講堂は出入り口の非常口ランプ以外の照明が消されている。途中からでも気軽に入れるようにと開け放たれた扉から外の光が僅かに客席へ入り込んでいる。最後列のシートに腰掛けた巧は幕の垂れたステージのみに視線を向け、開幕を待つ。

 やがてブザーが鳴り響き、垂れ幕が左右に開いていく。ステージの上で証明を浴びたμ’sの3人が目を閉じて横に並んでいる。

 穂乃果は目を開き、期待に満ちた瞳を客席に向ける。そして突き付けられた現実を認識し、両隣にいる海未、ことりと共に呆然と立ち尽くしている。3人の顔を見て巧は歯を食いしばる。

 客席には巧しか座っていない。オルフェノクを倒した後、穂乃果の同級生達が引き続きチラシを配り、もう1度校内放送をしてライブ開催を宣伝していた。生徒達はライブが行われることを知っていたはずだ。怪物騒ぎの後にライブを楽しむ気になれない。それもあるのかもしれないが、それだけが原因じゃない。このほぼ全てが空席という状況を作り出した要因はもっと根深いものだ。

 皆、最初から期待などしていなかったのだ。人は見たいものしか見ない。3人が喉を潰すまで歌のレッスンをしても、滝のように汗を流しながらダンスの練習をしても、誰も彼女達の努力には目を向けなかった。彼女達は努力を見せつけるようなことはしていない。努力の結果はパフォーマンスで見せる。そう穂乃果は意気込んでいた。その努力の結果を見る者は巧しかいない。お前達の努力など無力だと嘲笑うかのように、講堂は静まり返っている。

「ごめん。頑張ったんだけど………」

 チラシを配っていた生徒が、罰が悪そうに言う。聞こえていないのか、穂乃果は何の反応も示さず客席を眺めている。ことりと海未が不安げな表情を穂乃果に向ける。やがて穂乃果は俯き、口を固く結ぶ。巧はただそれを傍観することしかできない。

 穂乃果は顔を上げた。笑っているが、目が充血している。

「そりゃそうだ。世の中そんなに甘くない!」

 そう言うと、穂乃果の顔から笑みが消えた。顔を強張らせてみせるが、堪えきれなくなり目尻に押し留めていた光るものがいよいよ溢れようとする。

 同時に、扉の方で何かがぶつかる音が聞こえる。視線を移すと、眼鏡を掛けた生徒が扉にもたれ掛かって息を切らしている。

花陽(はなよ)ちゃん………」

 穂乃果は意外そうに生徒の名前を呼ぶ。花陽と呼ばれた生徒はチラシを手にほぼ無人の客席を見渡している。まあ、こんなライブ会場は確かに見て驚くだろう。

「あ、あれ? ライブは?」

 「あれ?」と繰り返す花陽を見る穂乃果の顔に笑顔が戻った。

「やろう」

 穂乃果がそう言うと、ことりが「え?」と弱く返す。

「歌おう。全力で!」

 「穂乃果」と海未が不安げに言う。

「だって、そのために今日まで頑張ってきたんだから」

 その穂乃果の言葉で、ことりと海未の表情にも力が宿ったように思えた。

「穂乃果ちゃん、海未ちゃん」

 ことりが2人に呼び掛ける。

「ええ」

 海未が笑顔で応える。ステージの照明が落ちた。講堂を真っ暗闇が覆い、すぐに3人の立つ場所に天井から光が降りてくる。同時に音楽が流れ始めた。

 3人はステップを踏んで踊り、歌い出す。笑顔を絶やさず、時には悲しそうな顔を客席にいる巧と花陽に振り撒く。素人の視点だが、とても良いパフォーマンスだと巧は思う。踊りながらしっかりと声を張り、それでいてダンスも3人でのコンビネーションが取れている。

 そして、曲が終わった。花陽と、花陽を追いかけて途中から講堂に入ってきた生徒が立ち上がって拍手を贈る。拍手をするのは2人だけじゃなかった。ライブのセッティングを手伝っていた3人と、扉の近くで立つ西木野もμ’sに賛辞を贈った。人数が増えたとはいえ、盛況とはいえない。成功か失敗のどちらかと問われれば失敗だ。それでも、彼女達は少ない観客のために歌ったのだ。プロの目から見れば稚拙なライブだったのかもしれないが、それでも彼女達の根性は認めるべきだ。そう思いながら巧も拍手をした。

 音響室から鞄を提げた絵里が出てくる。絵里はゆっくりとステージへの階段を下りていき、彼女に気付いた観客達の拍手が止む。

「生徒会長……」

 まだ息の荒い穂乃果が呼ぶと、絵里は足を止める。

「どうするつもり?」

 絵里はそう尋ねる。短い言葉だが意図は分かる。こんな結果でも、まだスクールアイドルを続けるのか。とても残酷な質問だ。心が折れてもおかしくはないのに、それでも彼女達は決行したのだ。労いの言葉くらいはあってもいい。

 穂乃果は絵里を見据えて答える。

「続けます」

「何故? これ以上続けても、意味があるとは思えないけど」

「やりたいからです!」

 穂乃果は即答し、言葉を続ける。

「今、わたしもっともっと歌いたい、踊りたいって思ってます。きっと海未ちゃんもことりちゃんも。こんな気持ち、初めてなんです。やって良かったって、本気で思えたんです。今はこの気持ちを信じたい。このまま誰も見向きもしてくれないかもしれない。応援なんて、全然貰えないかもしれない。でも、一生懸命頑張って、わたし達がとにかく頑張って届けたい。今、わたし達がここにいる、この想いを。いつか、いつかわたし達必ず、ここを満員にしてみせます!」

 穂乃果は宣言した。その拳が強く握られる。多分、穂乃果は自覚したのだろう。昨日の晩は漠然としていた何かの正体を。それを今日、このライブではっきりと血肉を得たのだと思う。

「たっくん」

 穂乃果の視線が巧へと移る。瞳からは、真理や啓太郎と同じ力を感じる。

「昨日、たっくんが言ってたことが分かった。わたし、今とても切ない。でも、とても熱いんだ。これだけしかいないけど、確かにわたし達を見てくれる人がいた。だから、わたし頑張れる」

 穂乃果の言葉には迷いがない。悔しさが大きいだろう。現に穂乃果の頬は朱色を帯びていて、鼻がひくひくと震えている。泣いたっていい。真理だって泣いて気持ちを新たにしたのだ。でも穂乃果は込み上げてくる悲しみや悔しさを必死に押し殺しているように見える。アイドルだから観客に涙を見せるわけにはいかない。その矜持が確かにあるのだ。

「ああ、頑張れよ」

 巧にはそれしか言うことができなかった。自分がいくら労いや慰めの言葉を言ったところで、それらが全て薄っぺらく中身のないものに思えてしまうからだ。

 足音がしたのでふと扉を見やると、絵里が茜色に染まる外へ出ていくところだった。巧はその後を追いかける。扉の横にいた西木野に声をかけることなく、夕陽が差し込む廊下に出て「なあ」と絵里を呼び止める。廊下では希が壁に背を預けているが、巧は構わず振り向いた絵里に言う。

「あいつらを応援してやれとは言わない。だけど、続けさせてやってくれないか」

「あなたも見たはずです。続けても、あの子達自身が辛くなるだけですよ」

「穂乃果は辛くてもやると思うぜ。あいつ、見かけによらず頑固だからな」

 絵里は眉根を寄せる。

「どうしてあなたは、あの子達の味方をするんですか?」

「あいつらに夢ができたから、かな」

 巧はじっと絵里の瞳に焦点を合わせる。穂乃果もそうした。だから、彼女の味方でいると決めた自分もそうしなければならないと思った。

「夢は、見ても辛いだけですよ………」

「かもな」

 そう言う巧を絵里と希は意外そうに見つめている。言っていることがでたらめかもしれない。でも、夢とはでたらめなものだと巧は思う。望んでいることのはずなのに、その過程は酷く険しくて逃げ出したくなる。矛盾したものだ。自分で勝手に望んだものなのに。

 巧は仲間のもとから逃げた。彼等の夢を守ると決意しておきながら放棄した。だから今度は逃げるわけにはいかない。

 もう目の前で誰かの夢が壊れる様を見たくない。

「あいつらが辛いとき、俺に何かすることも言うこともできないさ。でもな、あいつらの夢を守ることはできる」




 「555」を知る人なら分かると思いますが、サブタイトルと最後の台詞は8話のオマージュです。
 にしても、「555」本編を見返すとやっぱり本作の巧は口数が多い気がする………。大人になったって解釈でいいのかな。


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第5話 まきりんぱな / 背負う覚悟

 今回は戦闘がありません。それと内容を詰め込みすぎて長いです。


「乾さん。明日、放課後学校に来てくれませんか?」

 昨日、今後のμ’sの打ち合わせをするために穂むらへ訪れたことりからそう言われた。ことりの母親である音ノ木坂学院の理事長が、巧と会いたがっているらしい。「分かった」と巧は2つ返事で了承した。意図は聞かなくても大体分かっている。巧は生徒の前でファイズに変身し、オルフェノクと戦った。巧から聞きたいことは山ほどあるに違いない。

 事情を高坂母に話してバイトを早く上がらせてもらい、巧はすっかり慣れた道にオートバジンを走らせる。駐輪場に停めて玄関に行くと、絵里と希が出迎えてくれた。

「お待ちしてました」

「それじゃ、案内するで」

 移動中は無言のまま歩く2人の後についていき、巧は教室よりも凝った造形の扉へと案内される。札には「理事長室」とある。絵里が扉をノックすると、中から「どうぞ」と女性の声が返ってくる。

「失礼します」

 そう言って扉を開けると、絵里は巧に「どうぞ」と促した。素直に巧はカーペットが敷かれた部屋へと足を踏み入れる。学校運営のトップに用意された部屋なだけあって、木製の板が貼られた壁が落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 窓ガラスを背にして置かれている机の奥で、椅子に腰かけたスーツ姿の女性が巧に穏やかな笑みを向けてくる。親子なだけあって、その笑顔にはことりの面影がある。

「乾巧さんですね?」

「はい」

「音ノ木坂学院理事長の南です。あなたのことは娘から聞いています。ことりがお世話になっています」

 そう言って理事長は頭を下げる。

「どうぞ、お掛けになってください」

 理事長に促されるまま、巧は応接用のソファに腰を下ろす。理事長も反対側のソファに座って、テーブルを挟んで向かい合う2人を絵里と希は見張るように佇んでいる。

「乾さんにお茶を淹れてもらえる?」

 不服そうな表情で巧を一瞥しながらも絵里は「はい」と返事をする。部屋に備えられているティーセットで紅茶を淹れて、巧と理事長の前にカップを置いた。理事長は湯気が立ち昇るカップの中身を啜るが、巧は手を付けない。

「飲まないんですか? 良い茶葉だから、冷めたら勿体ないですよ」

「茶飲むために俺を呼び出したわけじゃないだろ」

 あえて巧は強気にそう言った。その不遜な態度に絵里と希が目を剥くが、理事長は穏やかな表情を崩さずにカップをテーブルに置く。

「そうですね。早速ですが本題に入らせていただきます」

 理事長はそう言うと、神妙そうな表情に切り替える。

「この前の怪物が現れたとき、私もあなたが戦っているところを目撃しました。乾さん。あなたはあの怪物を知っていて、あれに対抗する術を持っている。そうですね?」

「ああ」

「では、説明していただけますか? 一体あれが何で、あなたが何者なのかを」

 巧は湯気の立たなくなったカップをおそるおそる啜ってみる。まだ熱く、カップをテーブルに置いて語り出す。全てを語りえ終えた頃には紅茶も十分に冷めているだろう。

 理事長と絵里と希。彼女達は一言も聞き逃すまいとするように、巧の顔から目を逸らすことなく話を聞いた。

 オルフェノクが死を経験することで進化した存在であること。

 急激に変化したせいで肉体が耐え切れず、命が短くていずれ滅亡する種であること。

 オルフェノクを滅亡から救う「王」がいたこと。

 「王」を守るために、オルフェノクが経営に携わっていたスマートブレイン社がファイズと他に2本のベルトを開発したこと。

 そして巧が、「王」を倒してオルフェノクの滅亡を決定付けたこと。

 巧は3年前に起きた戦いをつつがなく説明したが、ファイズに変身するための条件はどうしても話すことができなかった。言ってしまったとき、彼女達がどんな反応を示すか怖れてしまった。

「オルフェノク………」

 理事長はその種族の名前を反芻する。

「まさか、そんなものがいたなんて。それにスマートブレインが……。社長が相次いで亡くなったのは知っていますが、負債も抱えていないあの企業がなぜ倒産してしまったのかは疑問に思っていました。乾さんは、ファイズとして人々を守っていたんですね」

「まあ、そんなとこだな」

「では、何故オルフェノクは音ノ木坂学院を狙ったのでしょうか?」

「それは分からないな。でも、この街で出たオルフェノクはこの学校を廃校にさせたがってるみたいだ」

「そうですか。何にしても、この学院は危険であるということですね」

 理事長は巧がソファに置いたファイズギアケースへと視線を移す。

「ベルトを見せていただけますか?」

 巧は「ああ」と製造元のロゴが入ったケースをテーブルの上に寝かせ、ロックを解除して開く。変身用のベルトにフォン、攻撃用のショットやポインターといったユニットを3人は眺めている。理事長は巧へと視線を戻す。

「乾さん。そのファイズのベルトを、学院に譲っていただけませんか?」

 やっぱりか。そう思いながら巧はカップの紅茶を啜る。紅茶は巧が飲めるほどになるまで冷めきっていた。随分と長く話し込んでいたらしい。理事長は続ける。

「私は理事長として、音ノ木坂学院の生徒を守る義務があります。現時点で、そのベルトはオルフェノクに対抗できる唯一の手段です」

「俺の話を聞いてなかったのか? オルフェノクは元人間だ。皆、望んで怪物になったわけじゃないんだ。中には人間の心を持った奴もいる。オルフェノクを倒すことは、人間を殺すことと同じだ」

「確かに、無害なオルフェノクもいることは私も承知です。しかし、現に学院は襲撃を受けています。乾さんのおかげで犠牲者を出すほどの惨事は防ぐことができましたが、学院の廃校を決定的にするために彼等がまた現れることは十分に有り得ます」

「譲ったとしても誰が戦うんだ? あんた、まさか生徒にやらせるつもりじゃないだろうな。だとしたら尚更駄目だ。それに、ファイズは俺にしか変身できない」

「何故ですか?」

「俺は特別な訓練を受けてるからな。並大抵の奴じゃベルトに拒否されるだけだぜ」

 自分でも驚くほどのでまかせが口から出てくる。理事長はしばしこめかみに指を当てる。考えるときの癖らしい。

「分かりました。ベルトの譲渡は見送ります。代わりに、乾さんを学院の用務員として採用させていただきます」

「常に学校にいろってことか」

 巧がそう言うと理事長は「ええ」と首肯した。

「オルフェノクが現れてから駆けつけてもらっては手遅れになります。彼等と戦えるのは乾さんしかいません。廃校が濃厚ですが、在籍している生徒達が残りの学校生活を安心して過ごせるよう、協力してください」

 

 ♦

 この街に長居するつもりはなかったのに、オルフェノクのせいで随分と面倒なことになった。巧はそう思いながら駐輪場からオートバジンを押した。もう桜の木も花が少なくなっている。あと1ヶ月もすれば深緑の葉が覆い尽くすことだろう。

 校門を出てすぐにヘルメットを被ろうとしたのだが、すぐ横を通る生徒に自然と目が向き、また生徒の方もバイクが珍しいのか巧へと目を向けている。互いの視線が交わると、眼鏡を掛けた生徒が「ひっ」と控え目な悲鳴をあげる。

「お前、ライブに来てた奴か」

「あ、あの………」

「ん?」

 ごにょごにょと口ごもる生徒に聞き返す。こういうものをはっきりと言わない者に対しては苛立つ質だが、流石に年下の少女に罵声を浴びせるほど巧も鬼じゃない。巧は一旦オートバジンのシートから降りて、彼女の顔に耳を近付ける。

「先輩達の、マネージャーさんですか?」

 「ちげーよ」と巧は憮然と即答する。

「手伝わされてんだよ。俺だって暇じゃねーってのに」

 スクールアイドルの活動に反対はしなかったが、何だかいつの間にか巻き込まれている気がする。昨日も穂乃果からメンバーをどう集めるか夜遅くまで相談に乗る羽目になって寝不足気味だ。

「ご、ごめんなさい………」

「別に怒ってねーよ」

 ふと、巧は生徒の顔を見て考える。人数が増えれば、巧が手伝わされることはないのではないか。穂乃果達は仲間が増える。巧は負担が減る。どちらにも利点があることだ。善は急いだ方がいい。

「なあ、お前あいつらとスクールアイドルやらないか?」

「え………?」

 直球すぎるとは思うが、遠回しな言い方は得意じゃない。それに、この生徒は押しに弱そうだ。

「丁度あいつらメンバーを募集してるらしいんだ。心配すんな。多分穂乃果は悪いようにはしない」

「あの、その……」

 これはいける気がする。口は上手い方ではないが、彼女なら説得できるような気がする。

「だ、誰か助けてー!」

 生徒はさっきとは考えられない声量で叫んだ。巧は咄嗟に彼女の口を手で塞ぐ。

「馬鹿! でかい声出すな。また不審者扱いされんだろうが」

 じたばたともがく生徒の手から何かが零れ落ちる。それに気付いた巧は生徒の口から手を放し、足元に落ちた手帳を拾う。落ちた拍子に開いた手帳は学生証のようだが、貼られた証明写真に写っているのは目の前にいる生徒ではない。証明写真だから笑いはしないだろうが、普段から笑顔とは無縁といった生意気な顔に見覚えがある。名前を見ると「西木野真姫(にしきのまき)」とある。

「これ、届けに行くのか?」

「は、はい………」

 生徒は消え入りそうな声で答えた。すっかり怖がらせてしまったらしい。

「じゃあ一緒に行こうぜ。そいつも誘う」

「西木野さんを、ですか?」

「ああ、さっさと行くぞ。住所は分かるか?」

「はい、学生証に書いてあるので……」

 巧は被ろうとしたヘルメットをハンドルに掛けてオートバジンを押し始める。生徒の悲鳴で誰か来ないうちに早くこの場を離れたかった。予想できる事態ではないが、こんな事になるならヘルメットをもうひとつ持ってくるべきだった。

「そういや名前聞いてなかったな」

 巧は半歩前を歩く生徒に尋ねる。何度も見ているが名前を知らないままだ。

小泉(こいずみ)……、花陽(はなよ)です」

 花陽は控え目な声で名乗る。

「俺は乾巧だ。お前の友達、今日は一緒じゃないのか?」

「凛ちゃんですか? 凛ちゃんは陸上部の見学に行きました」

「そうか」

 その巧の言葉を最後にして沈黙が訪れる。2人の間には足音とオートバジンが時折道路に落ちた小石を踏む音しかない。しばらくして沈黙を破ったのは、意外にも花陽のほうだった。

「乾さんは、どうしてわたしをアイドルに誘うんですか?」

「どうしてって、お前ならできると思ったからさ」

 間違っても自分が楽したいからなんて言えない。いくら巧でも言葉の取捨選択ぐらいはできる。

「お前良い声してるからな。歌ったら結構いい線いくと思うぜ」

「でも、わたし地味だし………」

「そうか? 別に変な顔じゃねえと思うぞ。十分人前に出していい顔だ。アイドルなんて顔が良くてある程度歌えて踊ればすぐ人気出ると――」

「アイドルはそんな簡単なものじゃありません!」

 巧が最後まで言い切る前に、花陽の声が遮ってくる。その顔つきが別人のように変わっていた。目が据わり、下がっていた眉尻が吊り上がっていて口を真一文字に結んでいる。さっきまでの小声で大人しげな少女はどこへ行ったのだ。

「可愛いだけの女の子はたくさんいます。アイドルとは偶像という意味。神様や仏様を祀ったいわば御神体と同じ存在。歌って踊れるだけなんて今やアイドルにとって必要最低限のスキルです。お客さんを魅了するほどのカリスマを持ったほんの一握りの――」

「分かった分かった! 分かったから落ち着け!」

 巧がそう言うと、花陽は我に返ったのか眉尻が下がった。頬を紅潮させて顔を背ける。この少女の前でアイドルを陥れることを言うのは止めよう。巧はそう誓った。

「そんなにアイドル好きならやればいいじゃねーか。穂乃果達は喜んで歓迎するぞ」

「好きだから、凄いアイドルをたくさん知ってるから、わたしなんかがやってもいいのかなって思うんです………」

「やっちゃいけない理由でもあんのか?」

「………いえ」

「ならお前の気持ち次第だろ。うじうじ考える前にやってみたらどうだ? 何もできずに後になって後悔したって、どうにもなんねーよ」

 最後に自分の私情を挟んでしまったことに気付き巧は口をつぐむ。花陽もどう答えれば分からないようで、2人の間に再び沈黙が流れる。

 丁度いいタイミングで目的地に近付いたらしい。花陽が真姫の学生証を開いて住所を確認する。

「この辺りだと思うんですけど………」

 取り敢えず巧は住宅街のなかでかなり目立っている豪奢な家の表札を見る。長方形の金属製プレートに「西木野」と彫られている。

「おい、ここじゃないのか?」

 巧の隣に立った花陽は西木野邸を見上げて「ほえー」と感嘆の声をあげている。高飛車で生意気だとは思っていたが、まさか金持ちのお嬢様だったとは。

「す、すごいなあ………」

「ああ」

 巧は表札の下に設置されているインターホンを押す。すぐに女性の『はい』という声がスピーカーから返ってくる。

「ほら」

 巧が促すと、花陽はおそるおそるスピーカーに話し掛ける。

「あ、あ、あの……。真姫さんと同じクラスの、小泉……です」

「付き添いの乾です」

『あら、真姫のお友達かしら。開けるから上がって』

 すぐに自動式の門が開く。オートバジンを路肩に停めた巧は花陽と玄関へ足を踏み入れる。

「お邪魔します」

「お、お邪魔します……」

 そう言って中へ入ると「いらっしゃい」と娘によく似た夫人が2人を微笑と共に迎え入れる。リビングに通されて値が張りそうなソファに並んで腰掛けると、西木野母は紅茶を出してくれた。

 リビングに入ってから花陽はずっと部屋中を眺めている。部屋の棚には金色に輝く賞状や盾やトロフィーがいくつも飾られている。

「ちょっと待ってて。病院の方に顔出してるところだから」

「病院?」

 花陽が尋ねる。何かの病気なのか。巧は気になりながらも無言で紅茶のカップに息を吹きかける。

「ああ。うち病院を経営していて、あの子が継ぐことになってるの」

「そう、なんですか……」

 お嬢様で跡継ぎか。こんな厳しそうな家でスクールアイドルなんてやってもらえるのだろうか、と巧は多少不安になる。

「良かったわ。高校に入ってから、友達ひとり遊びに来ないから、ちょっと心配してて」

 西木野母は嬉しそうに言った。娘もこれくらい愛想があってもいい。西木野母の視線が巧へと移り、一旦カップをソーサーに戻す。

「あなた、真姫のボーイフレンド?」

「いや違います」

「あらそう」

 夫人は控え目に笑う。自分で言うのもなんだが、こんな怪しい男がボーイフレンドだったら心配すべきじゃないのか、と巧は再びカップに手を掛けながら思った。丁度いいタイミングで玄関からドアの開く音がする。

「ただいま。誰か来てるの?」

 質問に答えず、西木野母は無言のまま娘をリビングへ促す。部屋に入った真姫はソファに座る花陽と巧を見て「あっ」という声をあげる。花陽は軽く会釈し、巧はソファに背中を沈めながら紅茶を啜る。まだ熱い。

「こ、こんにちは……」

「邪魔してるぞ」

 「お茶淹れてくるわね」と西木野母は出ていった。真姫は驚いたように花陽を見て、その後に怪訝な顔を巧へ向ける。

「ごめんなさい、急に」

「何の用?」

 真姫は向かいのソファに座りながら尋ねる。花陽はおずおずと学生証を差し出す。

「これ、落ちてたから。西木野さんの……、だよね?」

 学生証を受け取った真姫はページを捲って中身を確認する。

「何であなた達が?」

「ごめんなさい……」

「何でお前が謝んだよ?」

 花陽は悪いことをしたわけじゃないし、真姫も怒っているわけではないだろうに。どうにもこの少女はすぐ謝罪するきらいがある。真姫は巧をじっと睨む。同じことを思っていたことが腹立たしいようだ。

「そうよ、別に謝ることじゃないし。………あ、ありがとう」

 真姫は俯きながら礼を言う。言い慣れていないらしい。素直じゃない。そう思うも、巧もこの年下の少女と同類であることを再認識する。

「μ’sのポスター、見てた……よね?」

 花陽がそう言うと、真姫は顔を背けた。

「わたしが? 知らないわ。人違いじゃないの?」

「お前、アイドルに興味あるのか?」

「だから、人違いって言ってるでしょ!」

 花陽には比較的柔らかい口調なのに、巧には棘のある口調になっている。花陽は2人の間に漂う雰囲気に怖気づきながらも言う。

「で、でも……、手帳もそこに落ちてたし」

「ち、違うの!」

 慌てた様子で身を乗り出した真姫の膝がテーブルにぶつかる。乾いた音がして、痛みに打った膝を抱えた真姫はバランスを崩してソファへと倒れた。その勢いでソファもドミノ倒しのように倒れる。

「だ、大丈夫?」

「ったく、お前もそそっかしい奴だな」

 屈辱なのか、真姫は顔を真っ赤にして巧を睨む。

「うるさいわね! 全く、変なこと言うから」

 普段の振る舞いからは見られない姿におかしくなったのか、花陽は口に手を当ててくすくすと笑った。

「笑わない!」

 真姫がそう言うも、花陽の笑みは消えなかった。少しだけ、張り詰めていた空気がほぐれた気がした。

「わたしがスクールアイドルに?」

 倒れたソファを戻し、西木野母が持ってきた紅茶のカップを持ちながら真姫が尋ねる。花陽は怯えが消えた声色で「うん」と答える。巧はまだ冷めない紅茶に息を吹きかけながら、続けて花陽が紡ぐ言葉を聞く。

「わたし、いつも放課後音楽室の近くに行ってたの。西木野さんの歌、聞きたくて」

「わたしの?」

「うん。ずっと聞いていたいくらい、好きで……、だから――」

 「わたしね……」と真姫は紅茶を置いて花陽の言葉を遮る。その目蓋が物憂げに垂れる。

「大学は医学部って決まってるの」

「そうなんだ……」

 真姫はため息をついた。

「だから、わたしの音楽はもう終わってるってわけ。それよりあなた、アイドルやりたいんでしょ?」

「え?」

「この前のライブのとき、夢中で見てたじゃない」

 確かに。あのときの花陽は誰よりも大きな拍手をμ’sに贈っていた。

「西木野さんもいたんだ」

「わたしはたまたま通りかかっただけだけど……」

 真姫は慌てた様子で両手を振る。

「やりたいならやればいいじゃない。そしたら、少しは応援してあげるから」

 真姫がそう言うと花陽は笑った。

「ありがとう」

 何やら微笑ましい雰囲気になっているが、本題はまだ解決していない。巧はようやく冷めた紅茶を一口啜ると、カップをソーサーに戻す。

「お前はどうなんだよ? アイドルやらないのか?」

「え?」

「お前自分の音楽が終わってるとか言ってたけど、進路が決まってるからもう終わりってのは早いんじゃないか?」

「わたしは将来親の病院を継がなきゃいけないんです。だから、医学部入るために勉強しないと」

「それはお前の母親から聞いたさ。でも、お前穂乃果達に曲作ってやったろ」

「え、西木野さん……、μ’sの曲作ったの?」

 花陽がそう聞くと、真姫は「違う」と即答する。

「お礼って前にも言ったでしょ。あれは最初で最後です」

「良い曲だと俺は思ったけどな。思い出作りみたいなノリでやってもいいと思うぜ。毎日ピアノ弾いて歌ってるってのは、まだ音楽やりたいってことなんじゃないのか?」

「分かったようなこと言わないでよ!」

 真姫は苛立った様子で巧を睨む。

「そういえば、あなたに聞きたいことがあります。この前、あなたが怪物と戦ってるところ見ました。あれって何なんですか?」

「おい話逸らすなよ」

「逸らしてるのはそっちじゃない。わたしがアイドルやるかより怪物の方が問題です。わたし達が通う学校に出たんですよ?」

「あーその事なら心配すんな。出たら俺が倒すって理事長と話してきたとこだ」

「そういう事じゃなくてあれが何なのかって聞いてるの。それと、あなたは何で変身したわけ?」

「んな事どーでもいいからお前はこいつと一緒にμ’s入れ。歌上手いしブスじゃねーから大丈夫だ」

「もっとましな誉め言葉言えないわけ? スカウト下手すぎよ」

「口下手なのは生まれつきなんだよ!」

「何それ意味分かんない!」

 この小娘が。巧はいつの間にかため口になっている、目の前の生意気な少女に苛立ちを募らせる。花陽は不安そうに緊迫した2人を交互に見ている。

 今後に楽をするために多少の面倒は仕方ないと思っていたが、こんな生意気娘と下らない意地の張り合いをしているくらいなら穂乃果に振り回される方がましだ。相手が年下の子供だと思うと余計に自分の低次元さが際立っている気がする。

「ったく、俺はもう帰る。ご馳走さん」

 巧はソファから立ちあがり玄関へ向かう。後ろから花陽の「お、お邪魔しました」という声が聞こえる。

 外に出ると、もう陽は今にも暮れかけている。茜色だった空は深い紫へと変わっていて、彼方には沈みかけた太陽がなけなしの光を照らしている。とても疲れる1日だった。体の全細胞に疲労が染み渡っているような気がする。

「暗いから家まで送ってやる」

「あ、ありがとうございます……」

 街灯が灯る道路を歩きながら、花陽が「乾さん……」と切り出してくる。

「乾さんが戦ってるところ、わたしも見てました。学校中で噂になってます」

「そうか。でも心配すんな。俺学校で用務員として働くことになったから、またあいつらが出たら倒してやる」

 聞きたいことはもっとあるのかもしれないが、花陽はそれ以上聞いてこなかった。受け入れというより、恐ろしいことを聞こうとしていることへの自制なのかもしれない。実際、オルフェノクは人間にとって恐怖の対象だ。オルフェノクのなかにも自分達を殺そうとする人間を恐れる者がいる。オルフェノクと人間。殺し殺される両種族の立場は時に逆転する。「王」が倒されて滅びを待つ今、本当に殺される側なのはオルフェノクの方なのかもしれない。

 家までの道のりで通りかかった穂むらの前で、花陽は足を止めた。

「どうした?」

「お母さんにお土産買っていこうと思って。お母さん、ここのお菓子好きなんです」

「そうか。まあ確かに、ここの饅頭美味いからな」

「乾さんもよく来るんですか?」

「よく来るっていうか、住み込みでバイトしてるんだ」

「そうなんですか………」

 引き戸を開けると「いらっしゃいませー!」と元気な少女の声が聞こえる。

「先輩……」

 花陽は割烹着を着て頭巾を被る穂乃果を見て驚きの声をあげる。巧が早くバイトから上がったから代わりに手伝っているのだろう。

「花陽ちゃんと、たっくん」

「ただいま」

「たっくん、何で花陽ちゃんと一緒にいるの?」

「ちょっと成り行きでな。おばさんは?」

「お母さんなら商店街の集まりに行ったよ」

「そうか」

 「ふーん」と漏らした穂乃果は花陽に笑みを向ける。

「花陽ちゃん、せっかくだから上がって」

 穂乃果は抱えていたお菓子の箱をショーケースの上に置いて、花陽を中へと案内する。

「お、お邪魔します………」

「わたし店番あるから、上でちょっと待ってて」

「は、はい………」

 花陽が階段を上がっていくと、穂乃果は急須に茶葉とお湯を入れながら尋ねる。

「たっくん、理事長と何話してたの?」

「ファイズのベルトを寄越すように言われた」

「渡したの?」

「断ったさ。だけどオルフェノクが出たときのために、学校に用務員として働くことになった。おばさんが許してくれるんだったら、明日から働くことになってる」

「そうなんだ。でも、何でオルフェノクは学校を廃校にしたいのかな?」

「さあな。お前は何も心配しなくていいさ。メンバー集めること考えろよ」

「うん……」

 穂乃果は釈然としない様子だが、巧にもオルフェノクの目的が分からない。滅ぶことを宿命づけられた種族が今更何をしようというのか。オルフェノクのため。仲間に殺されたオウルオルフェノクはそう言っていた。廃校がオルフェノクに何をもたらすというのか。

 ただ脳内を駆け回っていくだけの思考を止めて、巧は急須と湯呑みと穂むら名物の饅頭をお盆に乗せていく。

「そろそろお店閉めるから、片付けたらわたしも部屋に行くね。もう海未ちゃんが来てるし、ことりちゃんも来るから」

「ああ」

 お盆を手に階段を上る途中で、穂乃果が花陽をひとりで部屋に行かせたことを思い出す。初めて来る家なんだから、部屋の場所なんて分からないんじゃないか。もしかしたら廊下でうろついているかもしれない。そう思いながら2階へ上がると、巧はその光景を現実と認識するのに多少の時間を要した。

 何が起こっているかというと、花陽が「リング」の貞子のように髪を振り乱した海未と風呂上りなのかバスタオルを裸体に巻いた雪穂に挟まれているという訳の分からない状況だ。巧に気付いた雪穂が振り向いてくる。「ハロウィン」に出てきたブギーマンのようで一瞬身じろぐが、すぐにそれが美容パックであることに気付く。巧は何がどうしてこうなっているのかは分からないが、取り敢えず一言だけ投じてみる。

「雪穂、服着ろ」

 巧がそう言うと、雪穂は自分の格好に気付いて部屋へと引っ込んでいった。丁度そのとき穂乃果が上がってきたところで、巧と同じく状況が吞み込めずともひとまず錯乱した海未と怯え切った花陽を自分の部屋に入れた。

 事情を聞いてみると、穂乃果の部屋が分からなかった花陽が適当に襖を開けると風呂上りの美容ケアをしていた雪穂の部屋で、もうひとつの襖を開けるとマイク片手に壁に手を振っていた海未と遭遇したらしい。

「ご、ごめんなさい………」

 話し終えた花陽は罰が悪そうに謝罪した。

「だから、そうやってすぐ謝んなよ」

「こっちこそごめん。でも海未ちゃんがポーズの練習してたなんて」

 からかうように穂乃果は海未の顔を覗き込む。あれだけ恥ずかしがっていたのに実は楽しんでいるのではないか。そう思いながら、何故か打ち合わせに参加させられている巧は饅頭を食べる。穂乃果に男の意見も聞きたいとせがまれたのだ。

「穂乃果が店番でいなくなるからです」

 海未が反論し、花陽が「あの――」と何か言いかけたところで襖が開いて「お邪魔しまーす」とことりが入ってくる。互いに気付いた2人が視線を交わし、花陽が照れながら「お邪魔してます」と挨拶する。ことりは嬉しそうに花陽の隣に座った。

「もしかして、本当にアイドルに?」

「たまたまお店に来たからご馳走しようと思って。穂むら名物穂むら饅頭、略してほむまん。おいしいよ」

 そう言って穂乃果は饅頭が乗った皿を示す。花陽は饅頭を一口食べて「美味しい……」と漏らす。

「穂乃果ちゃん、パソコン持ってきたよ」

「ありがとう。肝心なときに限って壊れちゃうんだ」

 ことりが鞄からノートパソコンを出すと、花陽はテーブルに広げられた饅頭や煎餅の乗った皿を退ける。海未がパソコンを開くことりに尋ねる。

「それで、ありましたか? 動画は」

「まだ確かめてないけど、多分ここに……」

 キーボードを打ってウィンドウを開くと、液晶を覗き込んでいた穂乃果が「あった」と嬉しそうに言う。続けて海未も「本当ですか?」と穂乃果の隣に移る。巧も覗いてみると、画面の中で3人が踊っている。

「誰が撮ったのかしら?」

「すごい再生数ですね」

「こんなに見てもらったんだあ」

 3人が口々に感想を漏らす。両手に饅頭の皿と煎餅の皿を持ったままの花陽も近くに寄って画面を見ている。映像を見てライブを振り返っている3人は画面に見入る花陽に気付く。

「あ、ごめん花陽ちゃん。そこ見づらくない?」

 穂乃果がそう声を掛けるも、花陽は気付いていないのか無言のまま視線をパソコンの画面へと固定している。3人は顔を見合わせると、互いの意図が分かったのか笑う。何となく巧にも読めた。

 「小泉さん」と海未が声を掛けると、花陽は上ずった声で「は、はい」と返事をする。

「スクールアイドル、本気でやってみない?」

 穂乃果がそう言うと、花陽は困ったように笑った。

「でも、わたし……、向いてないですから」

「わたしだって、人前に出るのは苦手です。向いているとは思えません」

 海未に続いて、ことりも言う。

「わたしも歌忘れちゃったりするし、運動も苦手なんだ」

「わたしはすごいおっちょこちょいだよ!」

 得意げに言うことか、と穂乃果に突っ込みを入れたくなるが、ここで巧が口を挟むのは野暮だ。後は3人に任せたほうがいい。

「でも………」

 花陽はそう口ごもる。押しに弱いと思っていたが意外と強情だ。ことりが立ち上がって言う。

「プロのアイドルなら、わたし達はすぐに失格。でもスクールアイドルならやりたいって気持ちを持って、自分達の目標を持って、やってみることはできる」

 穂乃果と海未が力強く頷く。

「それがスクールアイドルだと思います」

「だから、やりたいって思ったらやってみようよ」

「もっとも、練習は厳しいですが――」

「海未ちゃん」

「あ、失礼………」

 あれだけの失敗をして、まだ諦めないところは素直に凄いと思う。彼女達は夢を見出し、それに向かって突き進んでいるのだ。

 なら自分はどうか、と巧は思う。ようやく夢ができたというのに、叶える努力もせずただ無為に毎日を過ごしている。今は彼女らの夢を守るという目的があっても、果たして自分にそれだけの時間は残されているだろうか。巧は自分の手を見つめる。指先には灰がこびりついていた。

「ゆっくり考えて、答え聞かせて」

「わたし達は、いつでも待ってるから」

 穂乃果とことりがそう言うと、花陽は安心したように笑った。

 話し込んでいるうちにすっかり暗くなってしまったので、花陽は饅頭を土産に持たせて帰すことになった。夜道は危険ということで巧がオートバジンに乗せて、案内通りのルートを通って家の前で降ろした。

「あの……、ありがとうございました」

 ヘルメットを手渡しながら花陽がそう言った。巧はヘルメットをリアシートに括り付けながら「ああ」と返し、続ける。

「最終的に決めるのはお前自身だけど、自分の気持ちには正直になった方がいいぜ。やせ我慢したって、ただ虚しくなるだけだからな」

 そう言って巧はヘルメットを被りオートバジンを走らせた。

 

 ♦

 翌日、高坂母から許可を貰った巧は朝早くから音ノ木坂学院に出勤することになった。用務員になった理由については、理事長に気に入られたと適当な理由をつけた。元々店番は高坂母ひとりでやっていたから、問題ないということで快く承諾してくれた。

 そんなわけで巧は作業着を着て、戸田という中年男性と共に仕事をすることになったのだが、用務員という仕事は幅が広い。校舎の掃除は勿論、傷んだ箇所の修繕といった技術が必要な仕事もしなければならない。

「おい乾。こっちまだゴミ残ってるぞ」

 戸田はとにかく細かい。度を越した神経質だ。巧が入念に箒で掃いた場所に目ざとくゴミを見つけて文句を言ってくる。

「生徒達がここを通ってゴミを見つけたらどう思う? 気分を悪くするだろ」

「こんな隅っこのゴミなんて誰も見ないっすよ」

「いいや駄目だ。気持ちよく学校生活を送れるよう綺麗にするのが俺達の仕事だ」

 まるで年を取った啓太郎だ。こんなに神経質で疲れないのだろうか。

「なあ乾、お前何でいつもこんなケース持ち歩いてんだ?」

 戸田は巧が仕事中も肌身離さず持っているファイズギアケースを指差した。

「ああ、仕事道具っす」

「工具入れか?」

「そう、それそれ」

 1日中戸田の小言を聞き続けて、放課後になる頃には巧も反論する気力を使い果たした。戸田は食事中も巧に箸の使い方がなってないだの、物を食べるときにくちゃくちゃ音を立てるなだの文句をつけてきた。しかもお節介なことに、巧が猫舌だと知ると鍛えろとか言って無理矢理熱いお茶を飲ませようとしてきた。必死の抵抗でどうにか口を火傷せずに済んだが、これからこの中年男と一緒に仕事をするのは耐えられない。早く仕事を覚えて1人で作業できるようにならなければ。

「戸田さんさようならー」

「はいさようなら。気を付けて帰りな」

 下校する生徒達に挨拶しながら、戸田はゴミ袋を抱えて収集所へ運んでいく。戸田は後ろでペットボトルの詰まったゴミ袋を持つ巧にまた小言を言ってくる。

「生徒に挨拶くらいしろ。こんなおっさんとお前みたいな無愛想な男にも挨拶してくれるいい子達じゃないか」

「はいはい」

 学校中のゴミ箱の中身を全て収集所に集めてようやく、この日の仕事が終わった。巧は自販機で買ったアイスコーヒーを一口飲んでため息をつく。一気に何十年も年を取ったかのような疲労感だ。

「乾さん」

 声がした方向へ振り向くと、笑みを浮かべた希が立っている。

「作業着似合ってるやん。働く男って感じが出とるよ」

「嬉しくないね。あの戸田ってのと一緒にいると疲れてオルフェノクと戦えやしない」

「戸田さんはええ人やよ。皆に挨拶してくれるし、壊れたところとか言えばすぐに直してくれるし」

「そうかよ」

 それだけ言ってコーヒーを飲む巧を希はじっと眺めている。落ち着いてコーヒーが飲めない。

「何だよ?」

「やっぱり乾さんは不思議な人やね。カードもそう言っとる」

 希はそう言ってポケットから1枚のカードを取り出す。カードには何やら車輪のようなものが描かれている。

「タロットだっけか? それ」

「そう、運命の輪の逆位置。良いことも悪いことも皆運命の輪の上。物事はみんな必然のような偶然で偶然のような必然。何が起こるかは運命の女神の気分次第。でも、その運命にも歪みがある」

「どういう意味だよ?」

「うちもよく分からんけど、乾さんがこの学校に来ることで、何かが起こる気がするんよ」

「何かって、何だ?」

「さあ? カードはヒントを与えるだけやからね。でも乾さんからは、運命を超えたものを感じるんや」

 馬鹿馬鹿しい。巧はそう密かに断じて残ったコーヒーを飲み干しゴミ箱に捨てる。占いなんて当てにならない。啓太郎がテレビの占いコーナーで一喜一憂して、その日の仕事に支障をきたすのを見てうんざりしていたのだ。真理が専門学校に入学してからは実質2人で店を切り盛りしていたから、啓太郎がミスした仕事は決まって巧に回ってきた。

「誰か助けてー!」

 唐突にその声は聞こえた。花陽の声だ。巧は足元のファイズギアケースを持って走り出す。声がした中庭へ着くと、予想通り強引に両手を引かれた花陽がいる。でも、花陽の手を掴んでいるのはオルフェノクではなく、真姫とショートカットの生徒だった。最悪の事態ではないことにひとまず安心し、巧はゆっくりと3人のもとへ歩いていく。

「おい、何してんだ?」

 巧がそう言うと、花陽が「乾さん……」と安心したように呼ぶ。真姫は昨日と同じ生意気に睨んでくる。

「あなたこそ、ここで何してるのよ?」

「今日から用務員として働いてんだよ」

「かよちん知り合いなの?」

 ショートカットの生徒は目を丸くしながら花陽に尋ねる。多分、花陽が凛と呼んでいた陸上部志望の友人だろう。

「ちょっとね………」

「んなことより、こいつに何してたんだよ?」

 答えたのは真姫だ。

「小泉さんをμ’sに入れさせるために、これから先輩達のところに行くの」

 だとしたら何で左右の手を別々に引いているのか。まるで連行されているみたいだ。とはいえ、花陽がμ’sに入ることは巧にとっても都合が良いことなのは違いない。

「連れていくのは凛だよ!」

「わたしが行くの!」

 花陽を抱えながら真姫と凛が口論を始める。よく分からないが、巧にとって下らない争いであることは見当がつく。

「分かったから喧嘩すんな! どっちにしろ連れてくなら早く行くぞ。穂乃果達はどこにいんだ?」

「お、屋上で練習してるみたいです………」

 花陽の腕から手を放さない2人は険しい視線を交わしながら歩き出す。2人を交互に見て涙目になっている花陽は抵抗せず、というよりできずいた。

 屋上に着くと、穂乃果達は休憩しているところだった。

「つまり、メンバーになるってこと?」

 要件を聞いたことりが反復する。凛が早口でまくし立てるように言う。

「はい。かよちんはずっとずっと前から、アイドルやってみたいと思ってたんです」

 「そんなことはどうでもよくて」と真姫が対抗するように言う。

「この子は結構歌唱力あるんです」

「どうでもいいってどういうこと?」

「言葉通りの意味よ」

「だから喧嘩すんなっつの。真ん中にいるそいつが一番疲れてんじゃねーか」

 巧がそう言うと、2人は一旦休戦して花陽を解放する。花陽は俯いていた顔を上げた。

「あ、あの……、わたしは、まだ……、何ていうか……」

 じれったいのか、凛が強い口調で遮る。

「もう、いつまで迷ってるの? 絶対やった方がいいの!」

 「それには賛成」と真姫が続ける。

「やってみたい気持ちがあるならやってみた方がいいわ」

 真姫は花陽の肩を掴んだ。

「さっきも言ったでしょ? 声出すなんて簡単。あなただったらできるわ」

 真姫から奪うように凛が花陽の肩を掴む。

「凛は知ってるよ。かよちんがずっとずっと、アイドルになりたいって思ってたこと」

 凛は花陽の顔から目を逸らさず真剣な顔つきになる。それを見る花陽は「凛ちゃん……」と漏らす。振り向いて「西木野さん……」と呼ぶと、真姫は優しく笑った。凛は更に言葉を紡ぐ。

「頑張って。凛がずっと付いててあげるから」

 続けて真姫が。

「わたしも少しは応援してあげるって言ったでしょ?」

 花陽はしばし俯いて、「乾さん……」と巧へ視線を向ける。

「お前の夢、簡単に諦められるもんじゃないだろ?」

 そして、真姫と凛が笑って花陽の背中を押した。1歩前に踏み出した花陽の目に光が灯ったような気がした。花陽の目に涙が浮かぶも、花陽は目をきつく閉じて弾き、目を開く。背筋を伸ばし、胸を張り、はっきりとした声で穂乃果達3人に言う。

 

「わたし、小泉花陽といいます。1年生で、背は小さくて、声も小さくて、人見知りで、得意なものは何もないです。でも……、でも、アイドルへの想いは誰にも負けないつもりです。だから、μ’sのメンバーにしてください!」

 

 ビニールシートの上に座っていた穂乃果達は立ち上がり、花陽に歩み寄る。穂乃果は手を差し伸べ満面の笑みを浮かべる。

「こちらこそ、よろしく」

 穂乃果の手を見る花陽の目尻から涙が零れた。でも花陽は笑っていて、差し伸べられた手を取って握手を交わす。

「かよちん、偉いよう……」

 凛は涙を指で掬いながら言う。

「何泣いてるのよ?」

 そう言いながらも、真姫の目にも涙が浮かんでいる。

「って、西木野さんも泣いてる?」

「誰が。泣いてなんかないわよ」

 「それで」とことりが切り出す。

「2人はどうするの?」

 「え?」と目を丸くした2人は互いに顔を見合わせて「どうするって?」と同時に言う。

「お前らも入れってことだ」

 巧がそう言うと、2人はまた同時に「ええ?」と上ずった声をあげる。いがみ合っていたのに息が合っている。

「まだまだメンバーは募集中ですよ」

 海未がそう言って、ことりと共に手を差し伸べる。2人は戸惑いながらも、さっきの花陽と同じように笑ってその手を取った。

「たっくん」

 穂乃果が笑いながら巧へ顔を向ける。

「たっくんが花陽ちゃんを後押ししてくれたの?」

「そいつの背中押してやったのはあいつらだろ。俺は何もしてない」

 「でも」と花陽が穏やかに笑って言う。

「乾さん、わたしを応援してくれましたよね。嬉しかったです」

「そんな大したこと言ってねーだろ」

 「もう」と穂乃果が肘で巧の脇腹をつついてくる。

「素直じゃないなー。むすっとしてないで、嬉しいときは笑っていいんだよ?」

「こういう顔なんだよ」

 眉間にしわを寄せて言い放つも、穂乃果と花陽は巧に笑みを向けてくる。2人だけでなく、海未とことり、凛と真姫も。一気に6人に増えたμ’sのメンバー達の笑顔を夕陽が照らしている。彼女らの笑顔の輝きがより一層増したような気がして、自分には不釣り合いな輝きが眩しくて巧は顔を背ける。そんな巧の目蓋のない耳孔に、穂乃果の声が入り込んできた。

「これで正式に部として認めて貰えるよ。ありがとう、たっくん!」




 サブタイトルは「まきりんぱな」なのですが、内容は実質「まきぱな」になってしまいました。凛ちゃんのコンプレックスに焦点が当たるのは2期だからなあ。

 真姫ちゃんと巧の口論は書いていて楽しかったです。一番巧らしい台詞を書くことができたと思います。少し調子乗ってます。すみません。

 てか、巧がギャルゲーの主人公みたいになってきたな。「555」のストーリーも介入していく予定ですが、もう少し先になります。少々お待ちください。


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第6話 にこ襲来 / 戦いの意義

 今回は「ラブライブ!」に偏った前回の反省を踏まえ、「555」色の強いエピソードです。


「たっくんおっはよー!」

「おう、おはよう」

 生徒が次々と登校してくる時間、気分が凄まじく高揚している穂乃果の挨拶を巧は受け流す。朝起きたときも交わしたから本日2回目なのだが、穂乃果はそんな指摘をしてもやめる気配がない。μ’sのメンバーが6人に増えてから、ここ2週間は毎朝こんな感じだ。

「お前、それどうしたんだよ?」

 巧は穂乃果の額に貼られた絆創膏を指差す。

「実は………」

 説明は一緒に登校してきたことりが務める。いつものように神田明神で朝練をしていた際、穂乃果に変な少女がデコピンをして気絶させた後、こう言い放ったという。

「あんた達、さっさと解散しなさい!」

 まあ、それだけ注目されるようになったと思えばいいのだが、最初に浴びせられた言葉が罵倒となると良い気分にはならないだろう。とはいえ、未だに仲間が増えた昂ぶりが冷めない穂乃果は気にも留めていないようだが。ポジティブ思考というか、能天気というか。

「で、そいつはどんな奴だったんだ?」

「えーっと……。コートを着てて、サングラスとマスクを着けてました。あと、髪をツインテールにしてました」

 新手のオルフェノクかと思ったが、ことりの口から出た特徴で巧のなかにとある人物が浮上する。全く同じ格好をした少女とUTX学院で会った。

「一体誰なんだろうね?」

 額をさすりながら穂乃果が言う。そんな穂乃果に巧は尋ねる。

「お前、覚えてないのか?」

「え? 何が?」

「………いや、いい」

 巧は諦めと共にそう言った。

 2人が校舎に入っていくと、離れたところの掃除をしていた戸田が近付いてくる。

「乾、お前あの子達と仲良いのか?」

「まあ、ちょっと」

「あの子達スクールアイドルだろ? アイドルに手出すのはご法度だぞ。ましてや女子高生だ」

「それは絶対に無いっす」

 そんな下世話な会話はそれで終了かと思ったのだが、昼休みになると戸田が青春を過ごした昭和時代のアイドルについて散々聞く羽目になった。山口百恵のファイナルコンサートに行った話をしたときは当時を思い出したのか泣いていた。中年親父の涙なんて見苦しいだけだ。しかもアイドル談義で。

 午後になると屋内設備の修繕に取り掛かる。トイレの排水管を掃除したあとは体育館のバスケットリングの補強へ。それが終わると水漏れしている蛇口の交換ときりがない。音ノ木坂学院は設備が充実している分点検作業が多い。だが慣れてきたこともあって、1日の仕事が早く終わった。

「最悪だなおい」

 着替えを済ませて帰ろうとしたところ、巧は激しい雨を降らす空に向かって愚痴を零す。降水確率60%と天気予報であったから振ってもおかしくはないのだが、同じく60%だった昨日と一昨日は持ち堪えていた。オートバジンは自動走行できるから置いてもいいが、傘を持っていない。いっそ盗んで明日戻しておこうと考えていると絵里が玄関にやってくる。

「乾さん。お疲れ様です」

「ああ」

 その短いやり取りで会話は終了すると思ったのだが、絵里は下駄箱にかけた手を一旦引っ込めて巧へ顔を向ける。

「乾さんは、ファイズに変身するための訓練を受けていたと言っていましたね?」

「ああ」

「どんな訓練ですか?」

「どんなって……、まあ筋トレとかだな」

「嘘ですよね?」

 苦し紛れの嘘を絵里は断じる。

「わたしは格闘技の経験はありませんけど、乾さんの戦い方は素人だと分かります。荒っぽいですし、ただファイズの力にものをいわせてるようにしか思えません」

 巧は弁解の言葉を探すも見つけることができない。確かに、巧の戦い方はファイズの性能に頼っているところが大きい。かつて草加と剣を交えたとき、格闘技の心得がある彼に歯が立たなかった。

「本当は、ファイズに変身するのに訓練なんて必要ないんじゃないですか?」

 巧は口をつぐむ。下手に何か言ったらぼろが出てしまう気がする。絵里はそれを良いことに続ける。

「わたしにベルトを渡してください。わたしがオルフェノクと戦います」

「駄目だ」

「どうしてですか!」

「学校のために何かしたいのは分かるさ。でもな、お前がやらなきゃいけないことは戦うことじゃないだろ?」

 今度は絵里が口をつぐんでしまう。何もできないことに歯がゆさを感じているのだろう。この様子だと、理事長から廃校対策についての承認はまだ受けていないようだ。巧はため息をつき、周囲に誰もいないことを確認するとファイズギアケースを開ける。

「試しに付けてみろ」

 差し出されたファイズギアを受け取った絵里は、ベルトを腰に巻いてフォンを開く。

「5を3回押した後にENTERだ」

 巧がそう言うと、絵里は言われた通りにコードを入力する。4回のプッシュ音の後に電子音声が鳴る。

『Standing by』

 待機音声が鳴り響くフォンを絵里は強く握りしめる。

「変身」

 バックルにフォンを装填すると、フォンに電流が迸る。

『Error』

 巧が付けた時とは異なる電子音声が鳴り、爆発に似た音をあげてファイズギアは絵里の腰から離れた。衝撃で絵里は後ろへ飛ばされる。床に倒れた絵里は困惑の眼差しをファイズギアに向けている。床に落ちた機械仕掛けのギアは何も答えない。

 巧は表に出さない安心を抱き、床に転がったファイズギアを拾い上げる。巧にとっても賭けに近かった。もし絵里に変身できたら、それは絵里が守る対象から狩る対象へ変わる可能性があるということだ。

「ほら、俺にしかできないだろ?」

 絵里は腰をさすりながらゆっくりと立ち上がる。さっきまでその目に備えていた強い意思が消えている。

「一体、わたしに何が足りないんですか? どうしてわたしは――」

「エリち、もうやめとき」

 絵里の弱々しい声を遮って現れたのは希だ。姿が見える前から、でたらめな関西弁で分かった。

「乾さんは特別なんよ。ファイズのベルトは、乾さんが持ってるのが一番良いんや」

「またカードがそう言ってたのか?」

「ううん。告げたのはカードじゃなくて、ベルトのような気がするんよ」

「相変わらず何言ってるか分かんねーけど………」

 ギアをケースに収めると、巧は絵里へと視線を向ける。

「とにかくそういうこった。お前は廃校をどうにかすること考えろ。いいな?」

 巧はそう言って歩き出す。2人の追いかけるような視線を無視して、職員用の下駄箱から靴を出す。外を見ると、雨は弱まっていた。

 

 ♦

「戸田さん、何かあったんすか?」

 雨が続いている翌日の昼休み。巧は幕の内弁当を食べながら全く箸を動かしていない戸田に声をかける。いつもは口うるさいのに、今日は朝から全く小言を言ってこない。静かなのはありがたいのだが、正直気持ちが悪い。戸田の皮を被った別人といる気分だ。

「ああ、ちょっとな………。腹を下したんだ」

 そう言って戸田は弁当の鮭を食べる。腹痛なら胃薬でも飲めば大丈夫だろう、と大して気にも留めず巧は弁当を完食した。年の割に大食いな戸田は半分以上を残していた。いつも米粒ひとつ残すなと言っていたのに。

 戸田の小言もなく、いつもより伸び伸びと仕事をしていると時間の経過が早く感じる。あっという間に放課後になり、生徒達は傘をさして下校していく。雨だから運動部の屋外練習はない。雨音ばかりが響くなか、巧は雨ガッパを着てアルパカ小屋へと歩く。アルパカの世話も用務員の仕事だ。一応生徒に飼育係を任せているようだが、生徒にやらせているのは餌やりと水の交換といった簡単な世話で、衛生面の問題から排泄物の片付けは用務員がやることになっている。

 正直、巧はこの学校のアルパカが苦手だ。ことりが最近可愛いとか言い出したのだが、臭い唾を吐いてくる動物のどこが可愛いのかと巧は思う。しかも、大きいだけあって力が強い。小屋の掃除をするときにどかそうとしても全く動かないのだ。

 憂鬱になりながらも仕事と割り切って小屋の前に来たのだが、巧は小屋の住人に加わっているそれを見てどうするべきかとその場で佇む。元から住んでいる2頭のアルパカは気にも留めずに草を食べている。新しい住人といっても子供が生まれたというわけではなく、ブレザーの下にピンクのカーディガンを着た生徒が干し草の上で大の字になって寝ているのだ。リボンの色からして3年生だろう。

 ことりみたいなアルパカ好きの生徒だろうか。そう思っていると雨のなか傘もさしていない凛が走ってくる。

「あ、乾さん。ここにアイドル研究部の部長さん来ませんでした?」

「………こいつじゃないのか?」

 「え?」と凛は巧が指差す小屋のなかへ視線を向ける。どうやらお目当ての人物だったらしく、「あー!」と声をあげた。巧は柵の鍵を開けて中へ入る。一体何がどうしてこうなっているのかは分からないが、取り敢えず仕事の邪魔なので生徒の首根っこを掴むと、白目をむいていた生徒は手足をじたばたさせて暴れ出す。

「ちょっと、服が伸びちゃうじゃない!」

 その声は、巧がUTX学院で会った怪しい少女と同じだった。穂乃果に解散するよう言ったのはこの生徒だろう。

「仕事の邪魔なんだよ。さっさと出ろ!」

 力づくで生徒を外にいる凛に押し付けようとしたのだが、生徒は落ち着く気配がない。凛は生徒を羽交い絞めにしながら言ってくる。

「乾さん。この人部室に連れてくの手伝ってください!」

「俺は仕事が――」

「お願いしますにゃー!」

「………………」

 いつの間にか深く巻き込まれている気がする。暴れる生徒を運んでいるなか、巧はそう思った。

 凛によると、部活設立に必要な部員数のノルマを達成したμ’sは生徒会に申請に行ったのだが、既に「アイドル研究部」という部が存在し、絵里のいたずらに部を増やしたくないという意向から申請を拒否されたらしい。統合という形にするべく話し合おうと部室を尋ねたら、アイドル研究部の部長で同時に唯一の部員であるこの生徒と部室の前で遭遇した。いきなり部長が逃げ出したものだから、追いかけてきて今に至るという。

 事の顛末を聞いた巧は率直な感想を部長に述べる。

「お前馬鹿だろ?」

「う、うるさいわね! いい加減放しなさいよ!」

「部室に着いたらな」

 凛の案内で部室まで来ると、部長はようやく落ち着きを取り戻して穂乃果達を中に入れた。というより、無理矢理入ってこられたのだが。部長はアルパカ小屋に飛び込む際にぶつけた鼻背にキャラクター柄の絆創膏を貼ると、頬杖をついて穂乃果達を睨んでいる。穂乃果達は部室に溢れるポスターやらCDやらDVDといったアイドルグッズを見渡している。

「こ、これは………」

 花陽が肩をわなわなと震わせながら手に持った箱を凝視している。いつの間にか眼鏡を外していることに巧は気付く。

「伝説のアイドル伝説。DVD全巻ボックス。持ってる人に初めて会いました」

 目を輝かせながら花陽は箱を示す。「伝説」というフレーズを付けすぎじゃないかと巧は思うが、それを言ったら花陽がそのDVDについて語り始めるかもしれないので黙っておく。

「そ、そう?」

 部長は戸惑いながらもそう返事をする。花陽はなおも止まらず部長に顔を近付ける。

「すごいです!」

「ま、まあね……」

 部長は気迫に押されたのか顔を背けた。その様子を見て穂乃果が一言。

「へえ、そんなにすごいんだ」

 「おい!」と巧は穂乃果に小声で注意する。それが危険な言葉であると身をもって知っているからだ。

「知らないんですか!?」

 巧の予想通り、花陽は穂乃果に詰め寄る。花陽は部室に備え付けられているパソコンでDVDの映像を流しながら、早口でそのDVDがどれだけ価値があるかを語り始めた。その講座は部室にいるほぼ全員が聞いていたのだが、ことりだけは本棚の上に飾られたサイン色紙を見ている。

「ああ、気付いた? 秋葉のカリスマメイド、ミナリンスキーさんのサインよ」

 部長がそう解説する。

「ことり、知っているのですか?」

 海未が聞くと、ことりは「いや」と歯切れ悪く否定する。メイドにカリスマなんてあるのだろうか。元は金持ちの家の使用人だろうに。

「ま、ネットで手に入れたものだから、本人の姿は見たことないけどね」

 部長がそう言うとことりは胸を撫で下ろす。その様子を見て巧はまさかと可能性を浮上させるが、ここで言っても仕方ないし、何よりどうでもいいので言わなかった。

「それで、何しに来たの?」

 部長の言葉で本来の目的を思い出し、穂乃果達は席につく。仕事に戻ろうとしたら「一緒に説得して」と穂乃果に引き留められた巧も立ち会う羽目になった。6人の代表者として穂乃果が部長に進言する。

「アイドル研究部さん」

「にこよ」

「にこ先輩。実はわたし達、スクールアイドルをやっておりまして」

「知ってる。どうせ希に、部にしたいなら話つけてこいとか言われたんでしょ?」

「おお、話が早い」

「ま、いずれそうなるんじゃないかと思ってたからね」

「なら――」

「お断りよ」

「え?」

「お断りって言ってるの」

 「いや……、あの……」と言葉を探しあぐねている穂乃果に海未が助け船を出す。

「わたし達は、μ’sとして活動できる場が必要なだけです。なので、ここを廃部にしてほしいのではなく――」

「お断りって言ってるの! 言ったでしょ? あんた達はアイドルを汚しているの」

 そういえば、昨日の夕食の席で穂乃果が言っていた。ハンバーガー屋でフライドポテトを盗んだ怪しい女からアイドルへの冒涜だの恥だの罵倒されたと。このにこという少女ではないかと、何となく思っていた。出来事を話した穂乃果は、再燃した怒りを食欲へぶつけご飯をかき込んでいた。

 その穂乃果はにこの言葉でまた火が点いたのか反論する。

「でも、ずっと練習してきたから、歌もダンスも――」

「そういうことじゃない」

 にこがそう言うと、6人は全員が瞬きして疑問の表情を浮かべる。「あんた達……」とにこは尋ねる。

「ちゃんとキャラ作りしてるの?」

 6人全員が口を半開きにして、穂乃果が「キャラ?」と聞き返すとにこは「そう!」と立ち上がる。

「お客さんがアイドルに求めるものは、楽しい夢のような時間でしょ? だったら、それに相応しいキャラってものがあるの。ったくしょうがないわね」

 そう言ってにこは背を向ける。

「いい? 例えば――」

 何が始まるのかと、6人と巧はにこの背中を注視する。そしてにこは満面の笑顔で振り返る。

 

「にっこにっこにー!」

 

 そのフレーズの後、一発ギャグのような文言とポーズが続くのだが、巧は最初のフレーズだけ聞いて後は聞くのをやめて顔を背けた。

「どう?」

 憮然とした表情に一転してにこが感想を求めてくる。

「う………」

「これは………」

「キャラというか………」

 穂乃果、海未、ことりの2年生組は絶句していたのだが、問題は1年生の3人の方で。

「わたし無理」

「ちょっと寒くないかにゃ?」

「ふむふむ」

 真姫と凛が正直に答えてしまい、花陽はにこをさっきのDVDで尊敬したのか熱心にメモを取っている。特に、にこは凛の感想が気に障ったようだ。

「そこのあんた、今寒いって……?」

 凛は慌てて立ち上がる。

「すっごい可愛かったです! 最高です!」

 凛に続けて他の面々も慌てて褒める方向へ転じるのだが、花陽を除いた彼女らの上辺だけの言葉に呆れ果てた巧は何気なく一言を投じてしまう。

「いや寒いだろ」

 全員が一斉に巧を睨んだ。まだ子供とはいえ、数の多さもあって迫力がある。だが最も迫力があるのはにこの形相だ。

「出てって」

 その言葉の後、にこの剣幕に押されて全員が部室から追い出された。ドアが大きな音を立てて閉じられ、奥から鍵のかかる音がする。

「もう! たっくんが酷いこと言うから!」

 穂乃果の文句に巧は悪びれず、頭を乱暴にかく。確かに決め手は巧の発言だったのだろうが、元はと言えば凛が寒いだなんて言ってしまったからだ。

「最初から話の分かる奴じゃなかったってことだろ。俺は仕事に戻る」

 そう言って巧はその場を離れた。しばらく仕事をさぼってしまったから戸田に小言を言われるかと思ったが、戸田は何も言わなかった。あの口うるさい戸田を黙らせてしまうとは、かなり深刻な腹痛らしい。

 その日の仕事を終えて、巧はしっかりと持参してきた傘をさして帰路につく。校門前の道路を挟んだ先にある階段で、いかにも少女趣味な蝶柄のピンクの傘をさした生徒がうずくまっているのを見つける。

「うっ……」

 巧に気付いたにこが呻く。

「何やってんだ?」

 返答は待たず、巧はにこが向けていた視線を追うと、その先には校門の前で笑い合う穂乃果、海未、ことりがいる。3人を見てにこが呟く。

「何仲良さそうに話してんのよ………」

「楽しくアイドルやってるあいつらが羨ましいのか?」

「別に」

「お前の部、部員はお前だけみたいだけど、最初からひとりだったわけじゃないだろ?」

「最初はしっかり5人集めて作った部よ。でも、皆辞めちゃった。根性のない子ばかりだったから」

「まあ、お前と一緒にいたら面倒臭そうだしな。理想が高いとろくなことがない」

 巧は木場勇治(きばゆうじ)を思い出す。オルフェノクでありながら人間と共存していくことを目指した青年。彼の理想は巧が諦めていたことだから、決して口に出すことは無かったが、険しい道を進もうとしていた彼を巧は尊敬していた。だから彼の考えに共感したし、彼が人間の心を捨てたときは激しく失望した。

「あんた、理想とか夢とか持ったことあるわけ? いかにも無関心て顔してるけど」

「俺にだって夢はある」

 巧がそう言うと、にこは逡巡の後に尋ねてくる。

「夢が叶わなかったらって、怖くなったりしない?」

「怖いさ。叶わないのも怖いけど、それより怖いのは叶ったとしても、その時に俺がいないことなんだ」

 「何それ?」とにこは少しだけ笑う。

「随分と大袈裟ね。そんなに大きな夢なの?」

「ああ、でかいな。お前の夢、あいつらと一緒にいれば叶うんじゃないか?」

「わたしはただアイドルになれれば良いってもんじゃないの。アイドルなんて自分から名乗っちゃえばアイドルよ。わたしがなりたいのは、暗い顔したお客さんも笑顔にできるトップアイドル」

「あいつらが目指してるのは、お前と同じだと思うぜ。お前から見れば酷いアイドルかもしれないけど、穂乃果の気持ちは本物だと思う。あいつは逃げたりしないさ」

 「あっそ」とにこは立ち上がって階段を下りていく。

「あんた、よくあの子達と一緒にいるところ見るけど、マネージャーとしちゃまだまだひよっこね」

「俺はマネージャーじゃない」

 巧は不機嫌そうに、離れていくにこの背中に言った。にこは振り返る。少し寂しげな笑みを浮かべている。

「あの子達に言っといて。また来ても無駄だって」

「それこそ無駄だと思うぜ。穂乃果は諦め悪いからな」

 巧がそう言うと、にこはまた笑って歩いていく。その足取りが少し軽やかになっているように見えた。

 

 ♦

「ありがとうございましたー!」

 割烹着を着た穂乃果がそう言って客を見送る。ここ数日は雨で練習ができないから帰りも早く、こうして店を手伝っている。床の水気をモップで拭き取りながら、巧は穂乃果の憂いを帯びた顔をちらりと見る。接客はしっかりやっているのだが、店に客がいないときは笑顔を殆ど見せない。

「悪かったな」

 ぼそりと、巧はモップを用具入れに片付けながら言った。「え?」と穂乃果は聞き返す。

「俺が余計なこと言って、あの部長怒らせたことだ」

「たっくんは悪くないよ。言い過ぎだとは思ったけど………」

 穂乃果は苦笑し、また少し沈んだ表情に戻る。

「わたし、にこ先輩にはμ’sに入ってほしい。あの先輩、すごくアイドルが好きなんだって伝わってきたもん」

「ああ、ありゃどっぷり浸かってるな」

「すごいと思うんだ。好きな事に一生懸命になれるって。わたし、にこ先輩からもっとアイドルのこと教えてほしい。μ’sに何が必要なのか」

「そうか。でも、また行っても追い出されると思うぜ」

 巧がそう言うと、穂乃果はいたずらな笑みを浮かべる。

「うん。だからわたし、考えたんだ。上手くいくかは分からないけど」

 巧は穂乃果の考えた案を聞いた。正直、勢いで乗り切ろうとしている気もするが、そもそもスクールアイドル結成も穂乃果が勢いに任せて起きたようなものだ。だから、危うさはあるけど穂乃果らしい。だから巧はそのやり方を否定しない。

「やってみたらいいさ。どうせやめるつもりは無いんだろ?」

「うん!」

 穂乃果はいつもの笑顔で返事をする。沈んだ顔をしたと思えば笑ったりして忙しい。

「何か、たっくんがそう言ってくれると上手くいく気がしてきたよ」

「お前なあ、いちいち俺を頼るなよ。お前まさか、その方法に俺を巻き込むつもりじゃないだろうな? 俺は手貸さないぞ、絶対にな」

「えー?」

「お前達のμ’sだろ? 自分で解決しろよ」

 

 ♦

 その日も雨が続いていた。屋内設備の修繕もできることは全てやってしまったから暇だ。雨では外の掃除もできない。天気予報では夕方には晴れるとあったが、放課後になっても空を覆う厚い雲は去っていく気配がない。

「乾、悪いが俺は早退するな」

「お疲れっす」

 今日も戸田は静かだ。休憩室でしけ込んでいる間、新聞を読んでいたが全くページを進めていない。日を追うごとに口数が少なくなっていく気がする。

「具合悪いなら、病院行った方がいいすよ」

 巧は部屋を出ていく戸田に何気なく言う。戸田は罰が悪そうに笑った。

「ああ、行ってみるよ。悪いな迷惑かけて」

「いえ」

 巧は座布団を枕代わりにして頭を預ける。目を閉じるとドアが閉まる音が聞こえる。どこでも眠れる性分の巧だが、雨音がどうにもうるさくて寝付けない。戸田の小言がないからゆっくりできると思ったのに。食後にコーヒーを飲んでしまったからか。どこか壊れた場所がないか見回りにでも行こうと、巧はゆっくりと立ち上がる。

 ファイズギアケースが置いてあるドア横の床へ視線を向ける。だが、そこにあるはずの金属製アタッシュケースは影も形もない。テーブルの下やトイレもくまなく探したが、さっきまで確かにあったはずのケースはどこにも見当たらない。

 巧はドアを開けて廊下を走った。校舎内を全速力で走り、途中で何度か生徒とぶつかりそうになった。盗んだ犯人が外に出ているかもしれない。そう思い傘もささずに外へ飛び出し、校庭やグラウンドを走り回る。休みなく走ったせいで、立ち止まった途端に息が苦しくなった。壁に手をついて懸命に酸素を取り入れようと呼吸を荒げる。自分の吐息と雨音に混ざって声が聞こえた。

「それ、乾さんのですよね?」

 半ば反射的に巧は声の方向へと走った。遠くない場所だ。玄関前に出ると、下校するところなのか鞄を提げた絵里が戸田と一緒にいる。そして戸田の手には、スマートブレインのロゴが入ったアタッシュケースが。

「乾さん」

 驚いたように、絵里はずぶ濡れで現れた巧を呼ぶ。巧には絵里の声が耳に入らず、意識を戸田へと向けている。

「あんた、何でそれを………?」

「乾……、絵里ちゃん……。ごめんな。でも、こうしないと俺は………」

 戸田は弱々しくそう言って口を固く結んだ。その顔におぞましい筋が走る。続けて戸田の体が、灰色の異形へと変貌した。カエルのようにぎょろりとした目に巧の姿が映っている。フロッグオルフェノクは水かきの付いた手を振り下ろした。巧はその手を避け、唖然と立ち尽くしている絵里の手を引いて走り出す。

「何で……、何で戸田さんが………」

 絵里は叫びもせずそう問いている。巧が無理矢理走らせてしまったため、傘を落としてしまい雨が容赦なくその顔に当たっていく。頬に伝う水滴が雨なのか涙なのか、巧には分からない。

 校舎裏へと走る2人の前にフロッグオルフェノクが空から降ってくる。結構な距離を走ったが、このカエルの能力を備えたオルフェノクはそれをたった1度の跳躍で移動してきた。所詮、オルフェノクを前にしては人間の力など無力なのだ。フロッグオルフェノクの右手にホースの付いた銃が出現する。その銃口がゆっくりと巧へと向けられる。

 突如、フロッグオルフェノクの右手から火花と共に銃が弾かれた。スラスターを吹かす音が聞こえる。空を見上げると、バトルモードのオートバジンが左手にホイールを掲げている。穂むらに置いてきたはずだが、巧の危機を察知して駆けつけてきたようだ。

 着地したオートバジンにフロッグオルフェノクは拳を打ち付ける。だが堅牢なボディは退くことなく、目の前にいるオルフェノクに強烈な拳を次々と見舞っていく。フロッグオルフェノクの体が大きく吹き飛び、その手からファイズギアケースが離れた。地面に落ちた拍子に蓋が開き、中身をぶちまける。

 巧は泥まみれになったベルトを拾い上げ腰に巻いた。フォンの泥をはたき落とし開く。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 巧はファイズに変身した。なおもフロッグオルフェノクに襲いかかるオートバジンを「よせ」と制止させ、胸部のスイッチを押してビークルモードにさせる。これは自分の手でやらなければならない。マスクの奥で巧は目尻を鋭く吊り上げる。

 ファイズはフロッグオルフェノクに組み付き羽交い絞めにした。

「あんたは人間として生きていただろ。生徒達に気持ちよく学校生活送らせるってのは嘘だったのかよ!」

「俺だってこんなことはしたくない! でもしなきゃ、俺は生きていけないんだ。怪物でも俺は死にたくない!」

 戸田の形になったフロッグオルフェノクの影が叫んだ。ファイズの拘束を解いて、背中のタンクとホースで繋がった銃を掴み引き金を引く。銃口から液体が噴き出す。寸前で避けたため直撃はしなかったが、微かに飛沫のかかったファイズの胸部装甲がじゅっと焼ける音と蒸気を立てる。装甲の表面が液化し地面に落ちると、雨で急速に冷やされ凝固した。

 ファイズはバックルからフォンを抜きコードを入力する。

 1・0・6。ENTER。

『Burst Mode』

 フォンを横へ折り曲げ、銃のように構えて引き金を引く。アンテナからフォトンブラッドの光弾が3連射され、1発がフロッグオルフェノクの銃を砕く。フォンをバックルに戻し、ファイズは手を抑えてうずくまるフロッグオルフェノクの顔面を蹴り上げた。

「誰かに命令されたのか? あんたに人間を襲えって言ったのは誰だ?」

 フロッグオルフェノクは答えない。ひどく錯乱した様子で、がむしゃらにファイズへ拳を向けてくる。ファイズは攻撃をいなし、その度に拳と蹴りを見舞う。

「答えてくれ。あんたは人間だろ!」

 地面に伏したフロッグオルフェノクにファイズは問う。フロッグオルフェノクの大きな目が、近くで戦いを傍観していた絵里に向いた。フロッグオルフェノクは絵里へと手を伸ばす。それよりも速く、ファイズはその手を掴み捻り上げる。鈍い音が聞こえて、フロッグオルフェノクの手首がだらんと垂れ下がった。

 彼は人間なのか。それともオルフェノクなのか。以前から何度も答えを求め、未だに見つけることができない問いを反芻する。どっちが本当の戸田なのか。登下校する生徒に笑顔で挨拶し、生徒を思って設備を修理する戸田は偽りだったのか。目の前にいるおぞましい姿が本当の戸田なのか。

 フロッグオルフェノクは逃げ出した。望んで絵里と巧を襲っていないのなら、もう人間を襲うことはないのかもしれない。

『Ready』

 ファイズはミッションメモリーを装填したポインターを右脚に取り付ける。迷ってはいけない。自分が迷ったせいで、これまでどれだけの命が失われてきたか。慈悲を抑圧し、フォンのENTERキーを押した。

『Exceed Charge』

 エネルギーの充填が完了すると、ファイズは跳躍したフロッグオルフェノクに右脚を向けた。ポインターから発射されたフォトンブラッドがフロッグオルフェノクの背中に突き刺さり、宙で拘束する。

「い、嫌だ……」

 ファイズは跳んだ。フロッグオルフェノクの叫びが聞こえる。それを打ち消すように吠えた。

「はああああああああっ!」

 ファイズの体がエネルギーに吸い込まれていく。必殺のキック、クリムゾンスマッシュはフロッグオルフェノクの体を貫いた。ぽっかりと穴を開けられた腹からファイズが飛び出してくる。フロッグオルフェノクの体が宙で青い炎に燃え尽き、灰がファイズへと降り注いだ。

 まるでシンデレラのように灰を被ったファイズは変身を解く。巧はよろめきながら、呆然としている絵里へと歩く。

「分かったか? オルフェノクを倒すのはこういうことだ。すぐ近くで人間として暮らしていた奴はオルフェノクで、いつ人間を捨てるか分からない。それでも、お前は奴らを殺せるか?」

 絵里は何も答えない。濡れた金髪が顔に貼り付き、それを直すこともせず巧に青い瞳を向けている。普段は凛々しい顔つきだが、今は目の前で起こったことに怯える少女そのものだ。

 いつの間にか雨は止んでいた。雲の切れ間から日光が射し込んでくる。巧は千鳥足で絵里の横を通り過ぎた。服が雨水を吸ったせいか、いつもより体が重く感じる。

「にっこにっこにー!」

 屋上からだろうか。何人かで復唱する声が聞こえてくる。穂乃果の作戦は上手くいったのだろう。そう思うと少し安心する。

 巧は立ち止まり空を仰いだ。木場は1度人間を捨てた。でも最後の戦いに駆けつけてくれて、巧に勝利をもたらしてくれた。あのとき巧が見た木場は、紛れもなく人間だった。かつての理想を否定しながらも、彼は再び自分が正しいと信じるもののために命を散らした。

 巧は託されたのだと思った。あのとき、青い炎に包まれながら強く頷いた木場に。木場の残した想いを自分は受け継いでいるのか。巧は実感が持てない。

 巧はもういない木場に尋ねる。

 

 木場。俺は、答えを見つけることができたのかな。

 




 大学を無事卒業しました。
 仕事が始まったら更新ペースが少し遅くなるかもしれません。


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第7話 センターは誰だ? / 555と333が重なる時

 お久しぶりです。まさか仕事しながらの執筆がこんなに大変とは思いませんでした。


 灰色の砂漠を一歩一歩踏みしめる度に足が沈んでいく。足が抜けなくなる前に次の一歩を踏み出すも、また足は砂に沈んでいく。まるでアリジゴクの巣にはまったみたいに。足元に広がる砂は、正確には砂じゃない。砂よりもきめが細かく、俺が足を抜くと煙を立てる。

 俺は眼前に広がる灰の砂漠を眺める。空も曇天で灰色だ。所々で多くの人々が積み上げられて塔を形作り、その塔に青い炎が燃え上がっている。やがて下から徐々に灰になって崩れていき、塔を成していた人々の灰は砂漠へと還っていく。以前旅で行った土地で見た、正月の行事みたいだ。

 遥か前方、砂漠を超えた先にはオアシスが広がっていて、2人の男女が俺に手を振っている。

「巧!」

「たっくん!」

 久しい声。あいつらの声を聞かなくなってそれほど月日は経っていないのに懐かしさを覚える。俺は真理と啓太郎を目指して灰の上を歩く。青く燃えている人影には目もくれず、その横を通り過ぎて光を目指す。

 真理。

 美容師を夢見て、真っ直ぐに突き進んだ少女。強がりだけど、俺はあいつも弱さを持っていることを知っている。

 啓太郎。

 世界中の洗濯物を真っ白にすることを夢見る青年。気弱で頼りないが、クリーニング屋の仕事をするときはあいつほど頼もしい奴はいない。

 2人の夢を守りたい。

 それだけを願いながら、俺は歩き続ける。歩いても2人の姿は遠くにいたままで、その距離が縮まることはない。それどころか2人はどんどん小さくなっていて、その姿が光のなかへと飲み込まれていく。

 俺は夢を見つけても、2人のいる場所に辿り着くことはできないのか。俺はオルフェノクだ。人間じゃなく化け物。でも、俺は人間を捨てることができない。夢を諦めることができない。

 懸命に動く俺の足が何かにつまずき、灰の上に転ぶ。足元を見ると、灰が手の形をして俺の足を掴んでいる。いや、同じ色で同化しているように見えるが、その灰色の手は灰の地面から突き出ている。やがて顔が灰の中から出てくる。人間ではない、異形の怪物が。

「乾……、よくも殺したな………」

 オルフェノクが戸田の姿になる。戸田の顔が青い炎で燃え上がり、俺の足から全身へと燃え移っていく。

 俺の視界にある戸田の憎しみに満ちた形相が炎に覆われ、炎が俺の視界を満たしていく。視界に映る色は灰から青へ。青から白へと移り代わり、俺の意識は途切れた。

 

 ♦

「乾さん!」

 甲高い声で目が覚める。目蓋をゆっくりと開けて横を見ると、仁王立ちして巧を見下ろす雪穂の姿が視界に入り込んでくる。現実は様々な色があるから目眩を起こしそうだ。

「休みだからっていつまで寝てるんですか? ご飯居間に置いてありますから、食べたらお店の手伝いしてください」

 「ああ」と寝ぼけた声で返事をして、巧はゆっくりと起き上がる。伸びた髪が目元を隠してくれるのはありがたい。たまに泣いているときがあるからだ。

 この手の夢はよく見る。倒したオルフェノクが現れる夢だ。戸田のように、人間として生きていたオルフェノクを倒すと何日も連続で夢に出てくる。

 皆の夢を守る。そのためにオルフェノクを倒す。

 だが、巧は人間として生きようとするオルフェノクを倒した。絵里が襲われかけたから。オルフェノクに生徒が襲われたら、音ノ木坂学院の廃校が決定的になるから。穂乃果達の夢が壊れてしまうから。言い分はたくさんある。そんな御託を並べて罪から逃れようとしている自分が腹立たしく、巧は自分の膝に拳を打つ。痛みが膝の皿に響くが、胸に穴を開けられた戸田の痛みはこの比ではない。

 迷っていても仕方ない。

 そう思う事で巧は心に蓋をする。その蓋が人間としての心を覆ってしまうのではないかという恐怖が生じる。ファイズとしてオルフェノクを倒すうちに抵抗や罪悪が消失し、自分も怪物に成り果ててしまうのではないかと。がんじがらめだ。何をしても、何を考えても迷いは消えない。でも考えても仕方ないのだ。オルフェノクが出たら倒すしかない。それしか巧にできることはない。

 だるさの抜けない体を持ち上げるように起こし服を着替える。部屋から出ると雪穂も丁度自室から出てきたところだ。制服に着替えて学生鞄を提げているから、これから学校に行くのだろう。

「大丈夫ですか? うなされてましたけど」

「そんな珍しいことじゃないさ。心配すんな」

「もう、しっかりしてくださいよ。お姉ちゃんがやっと早起きできるようになったのに、今度は乾さんが寝坊なんて」

「ああ、悪かったな。早く学校行け」

 巧が憮然と言うと、雪穂も「行ってきます」と憮然とした返しをした。

 今日は平日なのだが、労働者として理事長も巧に休日を与えなければならない。とはいえ土日は休めていた。理事長が巧に休暇を与えたのは、戸田のことを配慮したからだろう。戸田を倒した4日前、巧は雨で濡れたまま絵里と共に理事長へ事を報告した。事情を聞いた理事長は少し悲しげに、でも毅然とした態度を崩すことなく「分かりました」と言った。

「乾さんはしばらくの間、ゆっくりと休んで下さい」

 短い間だったが、共に仕事をした同僚だ。巧の精神的負担は大きいと思ったのだろう。後で絵里から聞いた話だと、戸田は退職したことにされたらしい。目撃者も絵里だけだったから、いたずらに生徒を不安にさせるのはよくないと、その嘘を通すことになった。

 正直、休暇なんて必要ない。オルフェノクと戦うことなんて、3年前は日常茶飯事だったから慣れている。仕事をしていた方が気も紛れるし、自分がいない間にオルフェノクが出たら困る。

 だから、巧はせっかくの休日を穂むらの仕事にあてることにした。高坂母はゆっくり休んでいいと言っていたのだが、巧はとにかく何かしたかった。

 朝食を終えて食器を洗うと、巧はエプロンを着て店先へと歩いた。朝食にあった鮭の骨が詰まったのか、喉の奥に何かのつっかえを感じた。

 

 ♦

「たっだいまー!」

 店を閉める頃に穂乃果が客を連れて帰宅してくる。いつもは海未とことりなのだが、今日は凛と希という違う面子だ。凛はμ’sのメンバーだから別に違和感はないのだが、何故希がいるのか。しかも、凛は手にビデオカメラを持っている。

「お邪魔します」

「お邪魔しますにゃー」

 「いらっしゃい」と巧はぶっきらぼうに出迎える。続けて凛に尋ねる。

「何だそれは?」

「取材ですよ、乾さん」

 そう言って凛は巧にカメラのレンズを向けてくる。色々と省きすぎているから要領を得ない。察してくれたのか希が補足してくれる。

「生徒会で部活紹介のビデオを作成することになって、アイドル研究部の取材してるんです。スクールアイドルは今流行ってますし、μ’sの宣伝にもなるんで」

「そうか」

「せっかくなんで、穂乃果ちゃんのご家族にもお話を伺おうと思って」

 巧にとっては好きにしてくれと思うだけなのだが、お茶の準備をしていた高坂母は顔面を蒼白させて奥へと引っ込んでいく。

「そういうことは先に言ってよ!」

 がさがさと物音を立てながらぶつくさ言っている。仕方ないと巧は代わりにお茶を淹れて適当なお菓子を盆に乗せていく。

「生徒会の人だよ。話っていってもちょっとだけだから、そんなに気合入れなくても」

 穂乃果がそう言うと、暖簾をめくり上げて高坂母が「そういうわけにはいかないの!」と顔を出す。化粧をしていたようで、前髪をヘアピンで留めて目の周りに白いクリームを塗りたくっている。女の化粧過程は何度見ても慣れない。クリームだのパウダーだの何重にも塗り重ねていく様は極薄のマスクを作っているようで不気味だ。

 希は落ち着きを崩さないが、凛と穂乃果は苦笑いを浮かべている。

「ていうか、化粧してもしなくてもおんなじ――」

 最後まで言い切る前に、穂乃果の言葉は顔面に投げられたボックスティッシュによって遮られる。高坂母へのインタビューは化粧が終わってからということにして、3人は2階へと上がる。少し遅れて巧もお茶菓子を出しに階段をあがったのだが、丁度穂乃果が凛と希に雪穂を紹介しようと部屋の襖を開けた。

「もうちょい……」

 様子は見えないが、部屋から雪穂のそんな声が聞こえる。

「あと……、ひと穴………!」

 多分、ベルトを締めているのだろう。最近はやけに体重を気にしているようで、食事の量も控え目になっている。成長期なのだから、体重はむしろ増えた方がいいのではと思う。

 穂乃果は堪えかねたのか襖を閉めて、2人を自室へと案内した。巧はお茶菓子を置いて立ち去るつもりでいたのだが、希に引き留められた。

「μ’sのマネージャーとして、乾さんからもお話を聞かせてください」

「俺はマネージャーじゃない」

 「違うの?」と凛が聞いてくる。花陽を始めとして1年生メンバーの加入を手助けしたのは自分が楽をしたいからという理由だった。でも、あの1件で巧は完全にマネージャー扱いされるようになった。

「俺はオルフェノクと戦うためにお前らと一緒にいるんだ。それを忘れんなよ」

 「じゃあ」と凛は巧にビデオカメラを向ける。

「μ’sを守る正義の味方として、μ’sの魅力をひとつ!」

「歌って踊れる」

「それだけ?」

「ああ」

「つまんないにゃー」

 凛に続けて穂乃果も口をとがらせる。

「もう、たっくん。ちゃんとわたし達のこと宣伝してよ」

「そうやってお前がいちいち頼ってくるからマネージャーにされてるんだろうが」

 そう文句を言うと、希が含みのある笑みを向けてくる。こんな落ち着いた微笑は10代で作れるのだろうか。雰囲気といい物腰といい、穂乃果達と同年代とは思えない。

「でも乾さん、前エリちに言ってたやないですか。穂乃果ちゃん達の夢を守ることはできるって」

「え、たっくんそんなこと言ってたの?」

「乾さんかっこいいにゃー」

 そういえば、あの場には希もいたんだった。何て気障な台詞を吐いてしまったのか。巧は何も言い返す言葉が見つからず、ぶすっと不機嫌を装ってテーブルのポテトチップスをつまんで食べる。

「ここは、皆集まったりするの?」

 希は家まで尋ねた用件をやっと切り出す。質問には凛が答える。

「うん。ことり先輩と海未先輩はいつも来てるみたいだよ。おやつも出るし」

 穂乃果は苦笑いする。

「和菓子ばっかりだけど」

 「ふーん」と相づちを打った希は、床に無造作に置かれたキャンパスノートを手に取る。表紙には「歌詞ノート」と書かれている。

「これで歌詞を考えたりするんやね」

 「うん」と穂乃果は応える。続けて巧が補足する。

「考えてるのは園田だけどな」

 「え?」と聞く希に凛が。

「歌詞は大体、海未先輩が考えるんだ」

「じゃあ、新しいステップを考えたりするのは?」

「それはいつもことりちゃんが」

 巧は思い出したように言う。

「確か、衣装も南が考えてるよな?」

 「うん」と穂乃果は笑顔で応えるのだが、希には新しい疑問が沸いているようだ。

「じゃあ、あなたは何してるの?」

 今まで当然のような感覚に陥っていたが、傍から見れば希の言う通りだ。作詞は海未。作曲は真姫。ダンスと衣装考案はことりと役割が割り振られているなか、μ’sの発足人である穂乃果は何もしていない。

 穂乃果は顎に手を添えてしばし考え、1日のスケジュールを説明する。同居している巧がいつも見る様子だ。穂乃果の生活といえば、食事をしてテレビを観て、ネットで他のアイドルの動画を見る。そしてどのアイドルがどれだけ凄いかを巧に逐一説明する。海未とことりを家に招いて打ち合わせをするのだが、その際に2人は歌詞と衣装を考えているのに、穂乃果は応援するだけだ。

「……それだけ?」

 穂乃果の当たり障りない日課を聞いて、希はおそるおそる言った。気持ちは分かるが、それだけだ。客観的にものを見るのは悪いことじゃない。自分達じゃ気付かないことに気付ける。第3者である希は確信を突いた質問を重ねた。

「前から思ってたんやけど、穂乃果ちゃんてどうしてμ’sのリーダーなん?」

 

 ♦

 少しずつ気温も上がってきている。この日も用務員としての仕事は休日で、巧は穂むらの店先で昼下がりの陽光を浴びた紫陽花(あじさい)にじょうろで水を撒く。5月に咲いたばかりの頃は花弁が白かったのに、今は紫色に変わっている。色が紫に変わる頃には衣替えの時期だと、高坂母が言っていた。その言葉の通り、もう6月が近い。昨晩に押入れから出した穂乃果の夏服にアイロンをかけたこともあり、季節の移ろいを肌で感じられる。

 とても穏やかな日だ。桜の木もピンクから深緑へと変わり緑の香りを運んでいる。植物の匂いから砂糖の匂いがする店内へと入り、休憩を終えた巧は仕事を再開する。

 商品棚の整理をしているときに来客が訪れ、「いらっしゃいませー」と高坂母が迎える。巧も「いらっしゃい」と言って客の方へ視線を移すが、その客の顔に視線を貼り付けたまま動くことを忘れる。客の方も巧を凝視し、両者はその場で立ち尽くしたまま微動だにしない。

「乾………」

 巧をそう呼ぶのは、かつて共に戦った仲間。いつも頼りなさげな顔をしていた青年。

「三原………。何でお前がここにいるんだ?」

「皆に土産でも買おうと思って。それより君こそ………」

 2人の様子をただ見ていた高坂母が緊張した店内で一言を投じる。

「巧君のお友達?」

「あ、はい」

 三原は高坂母に会釈する。

三原修二(みはらしゅうじ)です。彼とは、えっと………」

 口をつぐんだ三原に巧は饅頭1ダース入りの箱を押し付けるように渡す。

「これ買って帰れ」

「な、何だよせっかく会えたのに」

「穂むら名物の穂むら饅頭だ。12個入りで1200円な」

「お、おい待てよ」

 「そうよ巧君」と高坂母が窘めてくる。

「せっかく来てくれたのに、すぐ追い出すなんてひどいわよ。積もる話もあるだろうし、上がってもらいましょ。今は暇だし」

「いや、大丈夫っす。おばさん、すぐ戻りますんで」

「別にいいわよ。2人でどこか行ってらっしゃい」

 巧はエプロンを脱ぐと、三原の手を引いて「ちょっと来い」と店の外へ連れていく。店の前には恐らく三原が乗ってきたと思われるサイドカー付きのバイクが停めてある。目立つデザインだからすぐに分かった。

 SB-913 V サイドバッシャー。

 かつて草加雅人(くさかまさと)が所有していたカイザのサポートマシン。主亡き後は三原が受け継いだことは知っていた。

「お前、何でここに……」

「俺はこれを海堂に届けようと」

「海堂が?」

 海堂直也(かいどうなおや)の行方は全く掴めていなかった。3年前、「王」との戦いの後、ふらりと何も言わずにどこかへ行ってしまったのだ。それ以来1度も会っていない。

「あいつ、今何してんだ?」

 三原はかぶりを振って答える。

「分からない。この前いきなり電話してきて、カイザのバイクを持ってこいって言われたんだ」

「この街にか?」

「うん。これから約束した場所に行くところなんだ。それよりも話を聞かせてくれ。何で真理達のところから出ていったんだ?」

 巧は質問に答えず、周囲に視線を這わせる。人通りはないが、ここで話をするのはあまり良くない。

「まず場所変えようぜ。結構込み入った話だ。それに海堂もこの街にいるなら、あいつにも会っておきたい」

 「ああ」と三原は頷き、サイドバッシャーに跨ってヘルメットを被る。巧は「少し待ってろ」と店に戻った。

「すいませんおばさん。少し出てきます」

「行ってらっしゃい。気を付けてね」

 まるで息子に言っているかのように穏やかな高坂母だが、巧はとても遊びに行く子供のような気分にはなれない。部屋からファイズギアを持ち出すと、その気分が一層重くなっていく。

 ヘルメットとギアケースを手に出てきた巧は、店の裏からオートバジンを引く。三原はファイズ専用のマシンを凝視している。だが三原はすぐに問うことはせず、サイドバッシャーのエンジンをかけた。巧がふと視線を向けたサイドカーには、スマートブレインのロゴが入ったアタッシュケースが積まれている。ベルトを使いこなせる2人にとっては必需品だ。三原が不在の間に向こうでオルフェノクが出たら不安だが、ベルトだけ置いても変身できるのは戦いに慣れていない阿部里奈(あべりな)だけだ。戦ったとしても奪われてしまうかもしれない。

 それぞれのバイクに跨る2人は秋葉原の街へと向かう。三原は街に慣れていないのか、少し速度が遅めだ。後ろを走る車に煽られても無視しながら走り続ける。2人は人が比較的少ない街外れの駐輪場でバイクを停めると適当なカフェに入った。サブカルチャーを前面に出したカフェばかりが立ち並ぶ秋葉では珍しい、落ち着いたオーソドックスなカフェだ。巧にとってはこちらの方がありがたい。メイドカフェなんて落ち着くどころか疲れそうだ。

「いいのか? 海堂と会う前にこんなところで油売って」

「まだ時間はあるし大丈夫さ。あと、君には聞きたいことがあるからね」

 ウェイトレスが運んできた水を一口飲むと、三原は巧をじっと見据えてくる。

「何で急にいなくなったんだ? 真理がすごく心配してたんだぞ」

「お前も知ってるだろ。オートバジンが啓太郎の家に届けられたのは」

「ああ、それは聞いたけど」

「スマートブレインはもう潰れたはずだ。なのに、オートバジンは直って俺のもとに送られてきた。もしかしたら新しく作ったのかもしれないけどな。何か悪い予感がする。またスマートブレインなのかは分からないが、真理と啓太郎が危ないことは確かだ」

「だからって何も言わずに出ていくことはないだろ? 2人のもとにオルフェノクが出たらどうするんだよ?」

「そのためにお前がいるんじゃねーか。それに、オルフェノクが出ても戦わせてくれないしな」

「でも、やっぱり君は2人のもとにいてほしい。頼むよ乾、帰ってきてくれ」

「そういうわけにもいかねーんだ」

「何で?」

 三原の問いに、巧は注文したアイスコーヒーを一口飲んでから答える。

「ここにもオルフェノクが出た」

 「えっ?」と三原は目を剥く。巧は続ける。

「ここの近くに音ノ木坂って高校があってな、何回かオルフェノクが学校を襲いに来たんだ」

「その音ノ木坂って学校に何があるんだ?」

「さあな。俺だって分からんさ。何で奴らが学校を廃校にしたいのか」

 三原は黙って自分が注文したコーヒーを飲む。巧も無言のままコーヒーを飲み、2人の間を沈黙が流れて吹き抜けていく。ここで議論しようにも情報が少なすぎる。現時点で巧に分かることは、この辺りに出現するオルフェノクは音ノ木坂学院の廃校を望んでいること。中には望まずに学校を襲うオルフェノクもいること。この2つしかない。オートバジンを送ってきた者、サイドバッシャーを要求してきた海堂をこの1連の事象に組み込むべきか判断に迷う。事柄は乱雑に散らばっていて、どれから手を付ければいいのかまるで分からないのだ。

「なあ、乾」

 コーヒーを半分まで飲んだところで、三原がそう切り出してくる。

「オルフェノクが出たってことは、ファイズとして戦ったのか?」

「ああ」

「体はどうなんだ? 君はもう………」

 三原は自分が言おうとしたことに気付き、直前で言葉を途切れさせてしまう。三原は3年間、体が崩れようとしている巧に代わって戦ってくれていた。巧は気付く。自分が戦うということは、真理と啓太郎、三原と里奈の気遣いを踏みにじっていることになるのだ。少しでも長く生きてほしい。彼等の願いから目を背け、耳を塞ぎ、やなこったと反抗期の子供のように戦いを続けている。

 申し訳ないとは思う。でもだからといって、巧はもう後戻りができないのだ。彼女らの夢から逃げ出すことは、ようやく夢を抱いた自分に嘘をつくことになる。

「俺だってまだ戦えるさ。お前らは心配のし過ぎなんだよ」

「でも……」

 「見ろよ」と、巧は掌を見せる。

「何度も変身したが、俺は平気だ」

 「今はね」と三原は反論してくる。

「変身したら、やっぱり体に響くんじゃないか? 君のことは信じられるけど、こればかりは信じられない」

 いつもなら無理矢理にでも自分の意思を突き通そうとするが、今の巧にはその気力がない。どうやら弱くなってしまったようだ。得意の強がりな言葉も出てこない。だから、巧は正直に告白することにする。矮小だが、三原になら話してもいい。

「三原。多分、俺はオートバジンがなくても、2人から逃げたと思う」

「逃げたって………」

「怖くなったんだ。俺が死んだとき、あいつらが悲しむんじゃないかってな」

 巧は思い出す。大切な人を失った2人の流した涙を。啓太郎には長田結花(おさだゆか)の死を伝えていない。啓太郎は誰かのもとへ行ったと解釈したようだが、彼は事実を悟ったのだと思う。啓太郎が見せてくれた結花のメールは、まるで遺言のようだった。

 真理も草加の死を嘆いた。オルフェノクのことになると過激な男だったが、真理にとっては大切な流星塾の仲間だったのだ。

 真理。啓太郎。ごめんな。

 巧は2人に懺悔する。

 草加も、長田も助けてやれなかった。

 2人にはもう、誰かが死ぬ様を見せたくない。それが自分なら尚更だ。2人には夢に向かって真っすぐ生きてほしい。だから巧は逃げた。灰になる自分を見られたくなかったから。2人の流す涙を見たくなかったから。

 巧は一気に残りのコーヒーを飲み干す。店を出ようと立ち上がったところで店内を大音響が包み込む。店の奥にある席へと視線を向け、それが悲鳴だと気付いた。客のひとりが煙を立てながら倒れる。客が倒れたはずの床にその姿はなく、代わりに大量の灰が。

「オルフェノク!?」

 三原が咄嗟に叫ぶ。それに応じるように、床の灰を見下ろしていた若い女が灰色の皮膚を形成した。顔面を覆う兜のラインが蝶の形に見える。その姿に店内が混乱に陥り、客と店員は一斉に外へと押しかけていく。

 気付けば巧はケースのロックを外している。中身を出そうとするが、その手が三原によって静止させられる。

「駄目だ。君は戦っちゃいけない」

「そんなこと言ってる場合か!」

「俺がやる!」

 三原は自分のケースを開け、収納されたベルトを腰に巻き、銃のグリップを思わせるデルタフォンを耳元に掲げてトリガーを引いた。

「変身」

『Standing by』

 三原はデルタフォンをベルト右側部に取り付けられたデルタムーバーに慣れた手つきで接続する。

『Complete』

 デルタギアから白のフォトンストリームが三原の体を覆い、眩い光を放って店内を照らし出す。その輝きはオルフェノクも(おのの)くほどだ。光がラインへ収束すると、三原はオレンジ色の目を光らせるデルタへと変身した。

「うああああああっ!」

 雄叫びと共にデルタはバタフライオルフェノクに組み付く。客も店員もいなくなった店内で、両者はテーブルやグラスの破片を撒き散らしながら戦闘を始めた。

 三原はすっかり戦いに慣れているようだった。隙もなく敵に拳と蹴りを入れ、間合いを取られればムーバーをブラスターモードにして射撃する。でも、やはり荒削りな部分は否めない。デルタの強力な力に依存しているところが大きい。やがてそれが浮き彫りとなり、デルタはバタフライオルフェノクが撒く鱗粉で視界を遮られる。その隙を突いた強烈な拳を頬に見舞われ、椅子を破壊しながらデルタは床に倒れる。

「ったく、見てられるか!」

 巧はファイズギアを腰に巻く。ただ傍観しているだけなんて我慢できない。子供と言われようが知ったことか。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 赤の閃光と共にファイズへの変身を遂げる。変身時の光に注意を向けた顔面に、ファイズは拳を打ち付ける。バランスを崩してよろけたバタフライオルフェノクの首根っこを掴み、ファイズはその灰色の体を店のショーウィンドウへと叩きつけた。バタフライオルフェノクがガラス片を撒き散らして外へと追い出される。まだ壁に残っているガラスを乱暴に手で払い落とし、ファイズとその後に続くデルタも外へ出た。

 立ち上がったバタフライオルフェノクの背中から蝶の羽が広がり、大きく羽ばたいて宙に浮く。だが浮いてすぐに、デルタの銃から放たれた光弾が羽を穿つ。ファイズはショットにミッションメモリーを装填し右手に装着する。

『Ready』

 バタフライオルフェノクが地面に倒れると同時にフォンのENTERキーを押した。

『Exceed Charge』

 エネルギーの充填を待たずにファイズは走り出す。バタフライオルフェノクの腹に右拳を叩きつけると同時に、充填が完了したばかりのフォトンブラッドがその体へと流れ込んでいく。Φの文字を前にしてバタフライオルフェノクの体が吹き飛んだ。後方から『Ready』という電子音が聞こえる。恐らくデルタがムーバーにミッションメモリーを装填したのだろう。

「チェック!」

『Exceed Charge』

 ベルトから右腕へ、フォトンブラッドが白のラインに沿っていく。デルタは待機音を鳴らすムーバーの引き金を引いた。光弾が目標へ命中すると同時に白亜の傘を開く。

「だああああああああああっ」

 己をたぎらせるようにデルタは叫ぶ。跳躍し、高層ビルの頂を背に必殺のキックを放った。エネルギーと一体化し、バタフライオルフェノクの体を貫き背後に降り立つ。バタフライオルフェノクの前にΔの文字が浮かび上がった。

「な……っ」

 振り返ったデルタは、赤い炎を燃やすことなく形を留めているバタフライオルフェノクを呆然と見つめている。ダメージはあるようで、バタフライオルフェノクは膝をついた。

「まだだ三原!」

 一撃で倒せないのなら、何度でも攻撃するだけだ。ファイズはベルトのポインターに手をかける。不意に、ファイズの目の前を1匹の蝶が横切った。鮮やかな青い羽をはためかせ、それはファイズのミッションメモリーを抜こうとバックルに触れる人差し指の第2関節に停まった。

 瞬間、3人のもとに胴の短いミサイルが無数に飛んできた。ファイズとデルタ、外れて地面に触れたそれらは一気に炸裂し、辺りにいくつもの小さな爆炎と噴煙を撒き散らす。衝撃で穿たれた地面に四肢を投げ出したファイズは地面が震える感触を確かめる。どすん、とまるで怪獣映画のような音を立てて、そのマシンは晴れつつある噴煙の中から現れた。

 ロボットと形容するには語弊がある。確かに手足が2本ずつあるのだが、その顔はバイクのカウルそのままだ。

「はーい!」

 まるで幼児に呼び掛けるように、カウルの奥からその声が聞こえる。その人差し指に青い蝶が停まった。煙が風で流されて、バトルモードに変形したサイドバッシャーと、そのシートに腰掛ける操縦者の姿が浮き彫りになってくる。

 人間だった。艶のある青という色調のタイトな衣装を身に纏った女。二の腕まで覆う手袋も、イヤリングも、髪のメッシュも全て冷たい青だ。その完璧な造形を求めて構成されたかのような整った顔は、完璧だがどこか冷たさのある笑みを浮かべる。

「お久しぶりです、乾巧さん。お姉さん、会えなくて寂しかったー」

 スマートという言葉が何よりも似合う女だ。まさにスマートレディ。3年という月日が経っているにも関わらず、彼女は全く変わっていない。外見はもとより雰囲気までも。誰しもが例外なく持つ時間という概念を捨て去ったかのように。以前と同じように、彼女は腰に手を当て、「こら」と子供を叱る保育士のように人差し指を突き立てている。

「でもいけない子。落し物は、ちゃんと持ち主へ還さないと」

 サイドバッシャーの四肢が折り畳まれてビークルモードになる。ファイズは痛みに軋む足を踏ん張り、ゆっくりと立ち上がる。

「お前……。スマートブレインがこの街のオルフェノクを操ってるのか?」

「んー、残念。答えちゃったら、わたしこっぴどく怒られちゃうんです」

 「えーん!」と両拳を目元に置き分かりやすい噓泣きを決め込む。だがすぐに両手をぱっと開いた。

「はーい! それじゃこれは返してもらいますね。できればファイズとデルタのベルトも返してほしいけど、今は危ないからやめておきます」

 スマートレディを乗せたサイドバッシャーがマフラーから排気ガスを吹かして走り出す。同時に羽を広げたバタフライオルフェノクが飛び立った。

「待て!」

 デルタが銃を乱射する。だがフォトンブラッドの光弾は危ういバランスで宙を舞う蝶に命中することなく、空へ飛んで消えていく。バタフライオルフェノクの姿はどんどん小さくなり、やがてビル群の影に消えて見えなくなった。

 2人は同時に変身を解いた。巧の体に疲労感が波のように押し寄せてくる。表に出すまいと、涼しい顔をする巧に三原がデルタギアを外しながら言う。

「スマートブレインは音ノ木坂を狙ってるのか?」

「さあな」

「さあな、って………」

「何にしても敵は分かったんだ。尚更戻るわけにはいかない」

 そう力強く言う巧の顔を見つめる三原も、逡巡を挟んで力強く言う。

「なら、俺もここに残る。今度こそスマートブレインを倒す」

 「駄目だ」とはねつけるように巧は返す。

「お前は戻ってくれ、三原」

「何で!」

 三原は巧の肩を掴んだ。以前の彼なら考えられない。その両眼を見ると、彼の魂が宿っているかのような確固たる決意を感じる。それでも、巧の意思は変わらない。

「真理と啓太郎を守ってくれ。俺はここでやらなきゃいけないことがある。音ノ木坂を守りたい」

「それで君はどうなるんだ? 戦い続ければ君は死ぬんだぞ?」

「それでもやらなきゃならねーんだよ。それに、ここでなら答えが見つかる気がする」

 木場が託した答え。何が正しいのか、「王」を倒しても見つけるに至っていない。オルフェノクの滅亡が決まっても、それは巧にとって何かの始まりにも終わりにもなっていない。だから巧はここで答えを見つけなければならない。時間はもう残されていないのだ。

「頼む、三原」

 巧は視線を逸らさずに告げる。三原は決意を汲み取ってくれたのか、肩から手を放す。

「………分かった。でも、あのオルフェノクを倒すまではここにいる。あいつは只者じゃない」

 「ああ」と返事をしながら、巧は手の中にある灰を零すまいと握りしめる。

 騒ぎを聞きつけて野次馬が集まるかもしれないので、2人は急いでその場を離れた。オートバジンを押しながら、巧は前を歩く三原の背中に懺悔する。

 悪いな、三原。

 しぶといオルフェノクは奴だけじゃない。どういうわけか、この街のオルフェノクは1発キックをかましたところで倒せないんだ。でも、お前はそれを知ったら意地でも帰らないだろ。

 

 ♦

 駅までの道を歩きながら、三原はサイドバッシャーを受け取るはずだった海堂に電話をかけたのだが、間の悪いことに彼と通話が繋がることはなかった。今日のところは適当にホテルを探すと、ホームにひしめき合う群衆の中へ消えていく三原を巧は見送った。

「たっくん?」

 穂むらへ戻ろうとオートバジンに跨ったところで声をかけられ、振り返るとμ’sの7人がいた。

「お前ら、ここで何してんだ?」

「誰がリーダーになるか決めようって話で、カラオケとゲーセン行ってたんだ」

 カラオケはまだ分かる。歌唱力を見るためだろう。だが何故ゲーセンと一瞬思ったが、ダンスゲームというものがあることを巧は思い出す。穂乃果は街を行き交う人々を眺めながら尋ねる。

「何かあったみたいだけど、たっくん知ってる?」

「さあな」

 白々しい嘘をつき、巧はヘルメットを被ろうとしたのだが、「そうだ!」と穂乃果が両手をぱちんと叩いた。嫌な予感がした。

「誰がリーダーになるのか、たっくんに決めてもらおうよ!」

 穂乃果の提案にメンバー達の反応は三者三様だ。驚いていることりと花陽。呆れ顔の海未と真姫。ナイスアイディアと笑う凛。絶句しているにこ。

 名案とは言い難い。だが「やだね」と拒否する体力も気力もなく、巧は成すがままに音ノ木坂のアイドル研究部部室へと連れ込まれた。どうしてこうなったのかは考えても無駄だと既に熟知してしまったから、移動中に巧は何も考えなかった。

 アイドルとはいえ高校生の部活動だ。年功序列で最年長であるにこが就任すれば丸く収まる。カラオケとダンスゲームのスコアでリーダーを決めると提案したにこ自身、そう望んでいることは分かる。だがにこは思うような結果を残せなかったらしく、部室の椅子に青ざめた顔で縮こまっている。やっぱりこいつは馬鹿だと思いながら、巧はスコアを記録したノートを見せてもらう。

 カラオケは全員が高得点だ。一番低いのはことりの90点で、歌唱力はある方と見ていい。ダンスのスコアもあまり差がない。殆どがB以上のスコアを叩き出しているし、唯一のC評価だった花陽は代わりとしてカラオケの点数が2番目に高い。

「皆同じだな」

 それが巧の感想だ。アイドルとしての実力を見れば、誰もがリーダーとして十分だ。ノートを眺める巧に穂乃果が尋ねる。

「誰がリーダーでいいと思う?」

「誰でもいいと思うぞ」

 自分達のことなのだから自分達で決めろ。そう説教する気にもなれずノートを海未に返す。海未もノートを見て「んー」と漏らす。

「確かに、誰かが特別秀でているというわけでもないですし」

「でも、どうするの? これじゃ決まらないわよ」

 多少顔に疲れの色が見える真姫がそう言った。「うん……」と隣に座る花陽は同意する。

「でも、やっぱりリーダーは上級生のほうが……」

 「仕方ないわねー」とにこが待ってましたとばかりに言ったのだが、それに気付かなかった凛と真姫が口々に自分の意見を言ってしまう。

「凛もそう思うにゃー」

「わたしはそもそもやる気ないし」

 何でアイドルをやっているのか、と聞きたくなるが、凛と真姫は花陽の「ついで」としてμ’sに加入したようなものだ。モチベーションは他のメンバーよりも低いのかもしれない。

 そんな2人を穂乃果は咎めることなく、何気なしに述べる。

「じゃあいいんじゃないかな? 無くても」

 他のメンバー全員が「ええ!?」と上ずった声をあげる。一見すれば無責任だ。「無くても?」とおうむ返しする海未に穂乃果は「うん」と返し、続ける。

「リーダーなしでも、全然平気だと思うよ。皆それで練習してきて、歌も歌ってきたんだし」

 メンバー達の反応はあまり好感触とは言えない。「しかし……」と海未が不安げな視線を穂乃果に向け、にこが興奮気味に言う。

「そうよ、リーダー無しなんてグループ聞いたことないわよ!」

「大体、センターはどうするの?」

 呆れた様子の真姫がそう尋ねる。「それなんだけど」と穂乃果は身を乗り出してメンバー達を見渡す。

「わたし考えたんだ。みんなで歌うって、どうかな?」

 いまひとつ意図を掴めないようで、穂乃果の言う「みんな」は首をかしげている。

「家で、アイドルの動画とか見ながら思ったんだ。何かね、みんなで順番に歌えたら、素敵だなあって。そんな曲、作れないかなあって」

 「順番に?」と聞く花陽に穂乃果は「そう!」と答える。

「無理かなあ?」

 穂乃果の問いに、海未はあごに手を添えてしばし考えた後に答える。

「まあ、歌は作れなくはないけど………」

 穂乃果が真姫へ視線を移すと、真姫は不敵な笑みを浮かべる。

「そういう曲、なくはないわね」

 「ダンスは?」と次はことりへ。

「そういうの無理かな?」

「ううん。今の7人なら、できると思うけど」

「じゃあ、それが1番いいよ。みんなが歌って、みんながセンター」

 穂乃果は両腕を広げる。その姿が、まるで陽を浴びて開く花のように思える。

 「わたし、賛成」とことりが控え目に挙手する。

 「好きにすれば?」と真姫が髪を指でいじる。

 「凛もソロで歌うんだー!」と凛が腕をいっぱいに伸ばす。

 「わ、わたしも………?」と花陽が頬を赤らめる。

 「やるのは大変そうですけどね」と海未が微笑み、やがてメンバー達の視線はにこへ集中する。にこはふっと笑みを零す。

「仕方ないわね。ただし、わたしのパートはかっこよくしなさいよ」

 「了解しました」とことりが答える。

「たっくん。どうかな?」

 穂乃果がそう言うと、にこへ向けられていたメンバー達の視線が巧へと移る。巧は笑みを浮かべる彼女らを見て、組んでいた腕を解く。

「それで良いと思うぜ。突拍子もない方が、お前ららしいからな」

 「もう」と真姫が苦笑する。

「相変わらず口が悪いわね」

「お前にだけは言われたくねーよ」

 こんな一触即発な会話でも、部室の雰囲気は明るい。これからの方向性が決まり、みんな浮足立っているのだ。大変なことは変わりない。それでも、喜びたいときは喜べばいい。「ようし」と穂乃果は両拳を握る。

「そうと決まったら、早速練習しよう!」

 メンバー達は次々と鞄を手にして立ち上がり部室から出ていく。先頭を行く穂乃果は気分が高揚するあまり、移動する時間も惜しいのか廊下を走っていく。他のメンバー達はその背中を追っていく。

 リーダー不在のグループなんて聞いたことがない。アイドルに詳しいにこがそう述べるなら、μ’sの体制は前代未聞なのだろう。でも、前例がないからといってやらない理由にはならない。むしろ、やってのける方が穂乃果らしい。

 穂乃果はμ’sを皆で作っていくことに重点を置いていた。自分だけが満足するのではなく、メンバー全員で成功させるのが穂乃果の望むμ’sのあり方なのだ。誰がリーダーで、誰がセンターなのか。そんなものはμ’sの色に合わない。無論、前例がないだけあって険しい道であることに違いはない。でもμ’sは立ち止まることをしないだろう。臆する者がいたとしても、穂乃果はきっと手を差し伸べて、引っ張っていくに違いない。

 リーダーを必要としないアイドル。廊下の角へと消えていく彼女らを見送る巧は思う。表向きでは不在でも、彼女らの中では既にリーダーは決まっているのだ。

 自分のやりたいこと、1番面白そうなことに怯まず真っ直ぐに進んでいく、μ’sを始めた者に。




 三原は今回だけの登場にするつもりでしたが、せっかくの登場で金星をあげられないのは流石に可哀想なのでまだ退場させないことにしました。


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第8話 エリーチカ / 灰色の血

 「仮面ライダー555」で真理ちゃんを熱演された芳賀優里亜さん、ご結婚おめでとうございます!
 そして草加! ドンマイ(笑)


「ここが音ノ木坂学院か」

「ああ」

 本格的に夏へと近付き、蜃気楼で頂が揺らめく校舎を三原は見上げている。一見すれば普通の学校だ。生徒にとっては見慣れたもので、大人にとっては懐かしさを覚える無機質さをたたえている。だが、この校舎が不穏なものを抱えているのは確かだ。

「何でスマートブレインはここを廃校にしたいんだろう?」

「分かんねーよ。狙われる心当たりがあるか、理事長に聞くしかない」

 夏用の半袖作業着を着込む巧の後を三原は着いていく。校舎に入るとコンクリートのひんやりとした冷たさを感じるが、やはり暑さから逃れることはできない。とはいえ、夏は巧が1年を通して最も好きな季節だ。熱いものを飲み食いすることが殆どない。自販機の飲み物も全て冷たいものに代えられているから、うっかり熱いものを買わずに済む。

 三原がこの街に滞在してからもう3週間が経とうとしているが、スマートレディとの邂逅からオルフェノクは現れていない。平和なのは何よりだが、その分日々の不安は大きくなる。その不安はある意味で的中してしまった。何度か現れたオルフェノクを撮影した動画がネットの海にばら撒かれ、中にはファイズとデルタを撮影したものまであった。世間はまだ都市伝説程度の認識で、主な現場が秋葉原ということもあり何かのショーという意見もある。だがその正体を知る理事長は、ファイズの他にオルフェノクと戦う術として、デルタである三原との対面を巧に要求してきた。

 慣れてくると、迷路のようだった校舎の構造もすぐに分かるようになる。迷うことなく奇妙な緊張感のある扉を前にして、巧は軽くノックする。すぐに「どうぞ」という声が返ってきて、巧はドアを開けて中へ入る。カーペットを踏むと同時に空調の効いた冷気に包まれるような感覚がする。後に続いた三原は少しだけ震える手でドアを閉めた。こういうところは変わっていない。

 前に来た時と同じく机には理事長が腰掛けていて、その隣には絵里と希が立っている。制服も夏服へと変わり、半袖のブラウスの上にクリーム色のベストを着ている。

「どうぞ、お座り下さい」

 理事長が応接セットを手で指し示し、巧は無言で、三原は「はい」と上ずった声でソファに並んで腰掛ける。希が「どうぞ」と冷たい麦茶を出してくれた。理事長は2人の向かいに腰掛け、三原に笑いかける。

「あなたが、もうひとつのベルトを持っている方ですか?」

「はい、三原修二です」

「三原さん。本日はご足労頂き、ありがとうございます」

 理事長はそう言って頭を下げる。三原は「いえ、そんな……」と謙遜を見せる。麦茶を飲みながらその様子を見ていた巧はグラスを置いて切り出す。あまり遠回りに話を進めるのは好きじゃない。

「言っとくが、デルタのベルトも渡すつもりはないぜ。付けても無駄だしな」

 巧の態度に理事長は気を悪くした様子もなく、余裕のある笑みを浮かべる。

「勿論、そのつもりはありません。三原さんは、この街にどれ程滞在するおつもりですか?」

 「えっと……」と三原が答えあぐねている内に、巧が代弁する。

「今日にでも帰るんだよな?」

「え? いやオルフェ――」

「今日だよな?」

 駄目押しとばかりに、巧はテーブル下で三原の足を軽く踏む。顔をしかめるも、ようやく意図を理解してくれた三原は「そ、そう!」と言った。

「今日にでも戻るつもりです」

 2人のやり取りに気付いてかそうでないのか、理事長は頬に手を添えて「そうですか」と呟く。

「できれば三原さんにもいてほしかったのですが」

「こいつにだって事情があるんだ。それに俺ひとりいれば十分だろ」

「しかし、やはり数は多いに越したことはありません。確か、乾さんのお話だとベルトはもうひとつあるようですね」

「ああ。でもカイザのベルトは壊された。今あるベルトは2本だけだ」

 現時点でオルフェノクに対抗できるベルトは、この音ノ木坂学院の理事長室に全て集結している。だが、巧のなかでとある可能性が浮上する。スマートブレインがまだ存続していて、オートバジンをまた新しく製造する技術が残っているのなら、ベルトも新しく製造できるのでは。所詮は可能性にすぎない。悪戯に不安を増長させても仕方ないことなので、巧は想像を一旦保留にする。

「それよりもだ。この前スマートブレインの手先が出てきた。スマートブレインはまだ存続してるのか?」

 理事長は少しばかり驚いた表情を見せて「いいえ」と答える。

「スマートブレインは解体され、関連企業も次々と倒産していきました。あの企業グループが活動を再開するのは不可能のはずです」

「でも、現に奴らは完全に潰れたわけじゃないと思うぜ。事後処理とかに関わった会社とか、スマートブレインと繋がりのあるところを調べてほしい」

「乾さん、それは途方もないことです。スマートブレインは日本経済の中核を担っていた企業です。関わった企業を探すなんて、言ってみれば日本どころか先進国の企業全てを調べ上げるということです」

 大きな会社とは思っていたが、まさかそれ程とは。巧は自分の無知さに苛立つ。関わっていた企業が多いということは、隠れ蓑にする企業も多いということだ。

「まあいいさ。分からないなら仕方ない。オルフェノクが出たら俺が倒す。そんでスマートブレインの拠点を見つけたら今度こそ潰す。それでいいだろ」

 そう言って巧はグラスに残った麦茶を飲み干す。「ちょっといいですか?」と、立ったまま会話を聞いていた絵里がつかつかと近付いてくる。

「三原さん。あなたも変身するための訓練を受けていたんですか?」

 「え?」と三原は一旦巧へと視線を移す。その様子を見て絵里は確信を得たのか、目尻を吊り上げて巧を睨んでくる。「エリち」という希の制止を振り切って、絵里は尋ねた。

「やっぱり、訓練というのは嘘だったんですね。教えてください。なぜ2人は変身できるんですか? 変身するための条件は一体何なんですか?」

「君は、戦いたいのか?」

 さっきとは打って変わって、三原は鋭い眼光を絵里に向けた。一瞬だけ怯む様子を見せた絵里だったが、それでもすぐに表情を険しくさせる。

「わたしは生徒会長です。この学校を守らなければならないんです。乾さんが学校のために戦ってくれていることは理解していますが、正直なところ、あなた達はとても信用できません。戦うのは、本来ならわたしの役目のはずです」

「駄目だ。君を戦わせるわけにはいかない。ベルトを手にしたら、元の生活には戻れなくなる」

「そのことなら乾さんにも言われました。人間として生きようとするオルフェノクもいると。でも、学校を襲ってくるオルフェノクはもう人間じゃありません。人の心を捨てた化け物です」

「いい加減にしろ」

 巧が気だるそうに言うと、部屋にいる全員の視線が巧に集中する。巧は絵里をじっと睨む。無知は決して罪ではない。でも、自分と共に戦ってきた者達まで侮辱されたような気がしてならなかった。

「オルフェノク倒して正義のヒーローぶるつもりか?」

「わたしはそんなつもりはありません」

「賢そうな面して忘れたとか言わせねえぞ。もしかしたらここの生徒にもオルフェノクがいるかもしれない。もしお前が変身できたとして、友達がオルフェノクだったら倒せるのか? 友達だから倒せないなんて言い訳はできねえぞ。迷っているうちにどんどん人が死んでいく」

 絵里は希へと視線をくべる。もし彼女がオルフェノクだったら、という仮定を立てているのかもしれない。果たして彼女にその咎を背負うことができるのか。

「オルフェノクを倒せばたくさんの人を救えるかもしれない。でもな、同時に罪を背負うんだ。たくさん救うために元は人間だった奴を殺さなきゃならないんだよ。一度背負っちまったら、もう後戻りはできない」

 散々まくし立ててしまったせいか少し疲れが体の奥から押し寄せてくる。巧はグラスに残った氷を口に放ってがりがりと嚙み砕いた。理事長は物憂げに巧を見た後、絵里と希に告げる。

「2人とも、席を外してくれる?」

「理事長!」

「絢瀬さん。あなたのやるべき事は、生徒達の学校生活をより良くしていくことよ」

 絵里はなおも反論しようと身を乗り出すが、希がその手を引いてドアへと連れていく。未練がましくこちらを見ている絵里の碧眼からは、生徒達の代表である生徒会長としての威厳がすっかり消え失せていた。

 希は「失礼しました」とドアを開いたのだが、そのまま出ていかずに立ち止まった。ドアを挟んだ向こうに誰かいるらしい。

「ああ、お揃いでどうしたん?」

 「生徒会長……」と怯えた穂乃果の声が聞こえる。

「何の用ですか?」

 生徒会長としての威厳を取り戻した声色が理事長室の中まで聞こえてくる。続けて真姫の声が。お揃いということは、μ’sのメンバー全員で理事長室まで来たということか。

「理事長にお話があって来ました」

「各部の理事長への申請は、生徒会を通す決まりよ」

「申請とは言ってないわ。ただ話があるの」

 相変わらず生意気な小娘だ。確か真姫は1年生だったか。上級生相手に随分と挑発的だ。そんなことを思っていると、穂乃果の声が真姫を嗜める。

「真姫ちゃん、上級生だよ」

 ドアに向けられていた理事長の視線が巧と三原へ移る。

「三原さん。今日はお時間を頂いてありがとうございました」

「いえ、こちらこそ」

 微笑んだ後、理事長はソファから立ちあがってドアへと歩いていく。開かれたドアを優しくノックして、ドアの前を塞いでいる生徒達に尋ねる。

「どうしたの? お客様がお帰りになるから、中に入ってそこを空けてくれる?」

 まさに鶴の一声だ。絵里が異議を唱える間もなく、穂乃果達は理事長室へと入ってくる。入れ違いで三原は「失礼しました」と出ていった。

「あれ、たっくん?」

 穂乃果がソファに座る巧に気付く。

「さっきの人、たっくんの知り合い?」

「ああ、ちょっとな。それより理事長に話があるんじゃないのか?」

 「そうだった」と穂乃果は慌てて理事長の机の前まで歩く。両隣には海未とことりがいて、絵里と希は壁際についている。三原を送っていこうと巧は理事長室から出ていこうとしたのだが、横を通り過ぎようとしたところでにこが腕を掴んで止めてくる。

「何だ?」

「あんたもいてよ。大事な話なのよ」

「やだね。俺はマネージャーじゃないしな」

 腕を振りほどいてそのままドアへと向かうのだが、ドアの前で1年生の3人組が立ち並んで塞いでくる。巧は諦めてドアの横に立った。

「へー。『ラブライブ』ねえ」

 穂乃果から話を聞いた理事長はそう漏らした。「ラブライブ」というスクールアイドルの甲子園のようなものが開催されるということで、エントリーの許可を得るために理事長室まで足を運んだらしい。生徒会に通してもμ’sの活動に否定的な絵里は許可を出すとは思えないから、得策ではある。ことりという理事長の娘もいるから有利だ。

「ネットで全国的に中継されることになっています」

 海未の口から語られる言葉に、巧は内心で驚く。穂乃果から流行っているとは聞いていたが、スクールアイドルとはそんな大々的なものだったのか。全国大会が開かれるということは相当数のグループがいるだろう。

「もし出場できれば、学校の名前を皆に知ってもらえることになると思うの」

 ことりも母親である理事長に説得の言葉を連ねていく。それだ、と穂乃果と海未がことりに微笑みかける。

「わたしは反対です」

 鋭くそう言った絵里は理事長の前へと歩きながら続ける。

「理事長は、学校のために学校生活を犠牲にするようなことはすべきではないと仰いました。であれば――」

 「そうね」と理事長は穏やかに相づちを打つ。学校が抱えている問題は深刻なのに、随分と余裕のある素振りだ。生徒の前で不安な顔をしてはならないという自制なのかもしれないが。

「でも良いんじゃないかしら。エントリーするくらいなら」

「本当ですか!?」

「ええ」

 あっさりと得ることができた許可にμ’sの面々は感嘆の声をあげる。対象的に絵里は驚愕と共に噛み付くように異議を申し立てる。

「ちょ、ちょっと待ってください。どうして彼女達の肩を持つんです?」

「別にそんなつもりは無いけど」

「だったら、生徒会も学校を存続させるために活動させてください」

 しばらく考え込んだ後に、理事長は変わらず穏やかに言った。すっかり言い慣れたかのような口調だった。

「それは駄目」

「意味が分かりません」

「そう? 簡単な事よ」

 理事長が絵里を想っての言葉だと巧でも分かる。だがそれを汲み取れない絵里本人は、視線を下ろしたまま無言で理事長室から出ていった。

「ふん、ざまーみろってのよ」

 腰に手を当てたにこが得意げに言う。「ただし、条件があります」と理事長が切り出す。本来なら生徒会を通すところ、時間を割いて話を聞いてくれたのだから条件を出されても文句を言える立場ではあるまい。

「勉強を疎かにしてはいけません。今度の期末試験で、ひとりでも赤点を取るようなことがあったら、ラブライブへのエントリーは認めませんよ。いいですね?」

 条件としてはかなり容易いものだ。巧も学生時代、勉強なんてろくにしていなかったが授業さえ聞いていれば赤点は免れた。音ノ木坂学院の偏差値がどれ程のものかは分からないが、試験をパスして入学したのなら授業に追いつけないことはないだろう。

「まあ、さすがに赤点はないから大丈夫かと………」

 安心していたことりの声色が不安を帯びていく。理事長が提示してきた条件を聞いて、凛とにこは膝をつき、穂乃果は壁に手をついて頭を垂れている。

 自分の抱える懊悩が少し馬鹿馬鹿しく思えてくる。巧はさも世界が終わったかのような絶望感を醸し出している彼女らを見て深くため息をつき、理事長室から出ていった。

 

 ♦

「動画見たよ。あんまりアイドルとか知らないけど、彼女達とても良いグループだと思う」

 1日の業務を終えた巧に、校門前で待っていた三原はそう言いながら、巧にスマートフォンの画面を見せる。7人になってから新しく取ったPVだ。人気急上昇のスクールアイドルとしてもピックアップされている。ラブライブに出場できるのはランキング20位圏内のグループのみらしいが、この調子でμ’sのランキングが上がれば、出場も現実になるかもしれない。

「乾の仕事が終わるまで秋葉原の街をちょっと見てきたけど、μ’sのグッズ売ってたよ」

 三原は鞄から買ってきた缶バッジを取り出す。穂乃果の顔がプリントされたバッジだ。

「お前、そんなもの買ってどうすんだよ………」

「乾は嬉しくないわけ? 彼女達に協力してるのに」

「無理矢理手伝わされてんだよ」

 ぶっきらぼうに巧は吐き捨てる。バッジをしまった三原は少し嬉しそうに笑っている。

「でも意外だな。乾がアイドル活動のサポートしてるなんて」

「だから無理矢理だって言ってんだろ。好きでやってるわけじゃない。それに、オルフェノクが出てるならほっとくわけにもいかねーしな」

 巧はそっぽを向く。何だか弱みを握られた気分だ。あれだけ小心者だった三原がこんな悪戯めいたことを言うほうが意外だ。

 何気なく向けた視線。その先に女の姿があった。女と巧の視線が交わる。

「三原、ここを離れるぞ」

「え?」

 事態を飲み込めていない三原の腕を引いて、巧は道路を挟んだ階段を下りていく。

「どうしたんだよ乾」

「いいからベルト付けとけ」

 階段を下り終えしばらく小走りに進んだところで、三原は言われるがままにデルタギアを腰に巻く。巧もケースを開いて、ファイズギアを装着した。同時に風を切って、2人の上空に人影がよぎる。2人の前に着地したバタフライオルフェノクの影が女の形を作る。

「ファイズとデルタ。ここで取り戻す」

 巧はファイズフォンを開いた。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

 巧が頭上に、三原は耳元にフォンを掲げた。

「変身!」

『Standing by』

 ツールをベルトに装着し、電子音と共にフォトンストリームが全身を覆っていく。

『Complete』

 ファイズとデルタは同時に駆け出した。バタフライオルフェノクの腹に2つの拳が食い込むも、灰色の怪人は意に介さず振り落とす。バタフライオルフェノクがデルタのベルトに手をかけた。力を込めて引き剥がされる直前に、ファイズがバタフライオルフェノクの腹に膝蹴りを見舞う。よろめいたバタフライオルフェノクの手がデルタギアから離れた。ファイズは右手を振り、その顔面に拳を打つ。顔を覆っていた兜が割れて、地面に落ちた破片が灰になって崩れる。

「ファイア!」

『Burst Mode』

 デルタムーバーから放たれた光弾がバタフライオルフェノクの体に突き刺さる。

 体勢を立て直したバタフライオルフェノクは羽をはためかせて飛んだ。逃げるつもりではないらしく、2人の間を抜けたところで急旋回し、ファイズにしがみ付いてそのまま高度を上げていく。ファイズは羽を掴み、力を思い切り込めて引き千切る。バランスを崩したバタフライオルフェノクはファイズ共々地面へと真っ逆さまに落ちた。地面を転がり、歩道に植えられた木にぶつかったところでようやくファイズの体が止まる。

 ゆっくりと立ち上がり、ファイズはミッションメモリーをポインターに装填した。

『Ready』

 デルタもミッションメモリーをムーバーに装填する。ファイズと同じ電子音が聞こえる。ファイズはポインターを右脚に装着し、フォンのENTERキーを押した。デルタもムーバーを口元に持っていく。

「チェック!」

『Exceed Charge』

 フォトンストリームを伝い、エネルギーが充填されたツールを2人はバタフライオルフェノクへ向けた。デルタは伸びた銃口を。ファイズはポインターを。赤と白のエネルギーがバタフライオルフェノクに突き刺さり、ぱっくりと口を開く。2人は同時に跳躍し、クリムゾンスマッシュとルシファーズハンマーを叩き込んだ。

「だああああああああああっ」

「はああああああああああっ」

 ふたつの咆哮と共に、バタフライオルフェノクの体に2本のエネルギーが注ぎ込まれた。背後に着地すると、灰色の体から赤と青の炎が噴き出す。だがそれはすぐに消えて、バタフライオルフェノクはデルタの首を掴んで持ち上げた。デルタは握っていたムーバーの銃口を向けるも、引き金を引く前に振り払われて落としてしまう。

「三原!」

 ファイズはファイズアクセルからミッションメモリーを抜き、フォンに装填した。

『Complete』

 胸部装甲が開き、複眼が赤へ、フォトンストリームが銀のアクセルフォームへと姿を変える。アクセルのスイッチを押すとカウントダウンが始まった。

『Start Up』

 ファイズは駆け出した。その姿が視認できなくなり、一瞬だけ影がよぎるとバタフライオルフェノクのデルタを掴んでいた腕の肘から先がばさりと切断される。あまりの速さで、ファイズの手刀は真剣よりも鋭い。

 解放されたデルタは力なく地面に倒れるも、すぐに立ち上がってムーバーを拾い上げる。バタフライオルフェノクは痛みに悶絶しながら切られた腕を抑えている。切断面からは血の代わりに灰が零れ落ちている。

「チェック!」

『Exceed Charge』

 デルタは引き金を引く。さっきと同じようにフォトンブラッドのエネルギーがバタフライオルフェノクを拘束する。続けて、ファイズの赤いフォトンブラッドがバタフライオルフェノクを包囲するように何本も飛んでくる。

 デルタは再びルシファーズハンマーを放った。同時にファイズのアクセルクリムゾンスマッシュがバタフライオルフェノクの体に突き刺さっていく。

『Time Out』

 カウントダウンの終わりと共に、着地したファイズはバックルのミッションメモリーを抜く。胸部装甲が定位置に戻った。

『Reformation』

 バタフライオルフェノクの目の前にΦとΔのギリシャ文字が現れる。灰色の体は青と赤の爆炎と共に、周囲に灰を撒き散らして消滅した。

 2人はフォンを抜いて変身を解除する。さっきまでバタフライオルフェノクがいた場所を凝視しながら、巧は息が荒くなっていることに気付く。慌てて両手をポケットに突っ込んだ。アクセルフォームへの変身は、いつもより零れる灰が多くなる。

「やっと倒せた………」

「これで面倒な奴は片付いたな。お前もう帰れ」

 三原は険しい顔をする。それは巧がぶしつけなことを言ったせいと思ったのだが、不意に三原は巧の腕を掴んでポケットから手を出させた。ポケットから飛び出した瞬間、巧の手から煙を立てて灰がさらさらと流れている。

「やっぱり、そんな体で戦うなんて無茶だ」

「無茶じゃねえよ。それに、戦わなくたっていずれは………」

 乱暴に腕を振りほどくと、また灰が手から撒かれる。まるで花咲か爺さんみたいだ。灰を被っても木に花は咲かないが。

「とにかく、お前は帰れ。こっちには海堂もいるんだろ?」

「全然連絡が取れないんだよ。彼がまだこの街にいるかなんて分からないじゃないか」

「お前がいてどうなるんだよ? いても迷惑だ。奴だって実質俺ひとりで倒したようなもんだからな」

「迷惑って……、ああもう………」

 言葉を見つけられないことに苛立ったのか、三原は乱暴に頭を掻きむしる。

「君は何言っても聞かないからな。分かった、帰るよ」

「そうしてくれ。それと、俺がここにいるってことは真理と啓太郎には黙っててほしい」

「ああ、そうするよ。あの2人、きっと君を連れ戻しに来るだろうからね」

 三原はそう言ってデルタギアをケースに収納する。ファイズギアを収めながら、巧は自分の掌を見る。灰はもう落ちていないが、脱力感は否めない。単純に体力を消耗したせいかもしれないが、体の一部が灰になると貧血のような症状が起こる。

 1日に何度も変身することはできないかもしれない。そんなことを思いながら、巧は重い脚を動かし歩き出した。

 

 ♦

 駅まで三原を送った後、巧はオートバジンを取りに音ノ木坂学院へと引き返した。オルフェノクとの戦闘は学校のすぐ近くだったにも関わらず、目撃者はいなかったらしい。まだ学生やお勤め人が帰宅する時間じゃなかったことが幸いだ。いつものように下校する生徒が出ていく校門へ入ろうとしたとき、凛々しい声が巧を呼び止める。

「乾さん?」

「お前、穂乃果達は一緒じゃないのか?」

 海未は少し疲れたような顔をする。

「穂乃果達は勉強会です」

「あいつそんなに成績悪いのか?」

「まあ、小学校の頃から勉強は苦手でしたが………。心配ではありますけど、わたしは弓道部の練習にも出なければならないので」

 「そうか」と返した巧は駐輪場へ向かおうとしたのだが、一歩踏み出したところで足を止めた。ハミングが聞こえる。聞き覚えのあるメロディだ。海未も気付いたのか、「この曲」と音源へと視線を向ける。

 校門の端で少女がイヤホンで音楽を聴いている。音ノ木坂の生徒ではない。雪穂と同じ制服だ。日本人離れした金髪碧眼の外見が彼女と重なる。少女は巧と海未の視線に気付く様子もないまま鼻歌を歌っている。イヤホンからμ’sのSTART:DASH!!が漏れていた。

 海未は少女が手にしているプレイヤーの画面を覗き込む。巧も見てみると、画面の中でまだ3人だった頃のμ’sが踊っている。講堂での初ライブの映像だ。

「サイトにあがっていないところの映像まで………」

 海未に気付いた少女が「うわあっ」と小さく悲鳴をあげた。反射的に海未も背筋を伸ばし、「ごめんなさい」と謝罪する。

「ああ! 園田海未さんですよね? μ’sの」

 イヤホンを外しながら、少女が海未を見上げる。海未は胸の前で手を振る。頬が紅潮している。

「い、いえ。人違いです………」

 海未がそう言うと少女は肩を落とした。海未の半歩後ろに立つ巧は短く述べる。

「いや、本物だ」

 「乾さん!」と耳まで赤くした海未が抗議する。更に文句を重ねようとしたところで、少女の「ですよね!」という嬉しそうな声に遮られる。せっかくできたファンなのだから堂々とすればいい、と巧は思う。「そ、それより」と少女のプレイヤーに視線を移した海未は尋ねる。

「その映像……」

「はい、ライブの映像です。亜里沙は行けなかったんですけど、お姉ちゃんが撮影してきてくれて」

「お姉ちゃん?」

「はい!」

 この目立つ外見の血縁者といえば、巧のなかではひとりしかいない。

「なあ、お前の姉ちゃんて――」

「亜里沙」

 巧の問いは校舎の方から聞こえる声に遮られる。

「お姉ちゃん!」

 まるで子犬のように、少女は自分と同じ金髪の生徒を呼んだ。まさかとは思っていたが、やはり姉妹だったか。少女の姉は海未と巧を見て表情を曇らせる。

「あなた達………」

 顔立ちは似ているが、顔つきは対象的な姉妹だな、と巧は思った。

 

 ♦

「どこか別のところで話しましょう」

 海未が亜里沙のプレイヤーに入っていた映像のことを尋ねると、絵里はそう言って回答を見送らせた。他のメンバー達に見つかりやすいところでは話しづらいのかもしれない。その意図を汲み取った海未と巧は、絢瀬姉妹の後に着いてしばらく歩いた住宅街の公園に入った。陽も傾き始めていて、小さな子供達が親と一緒にボール遊びをしている。

 絵里と海未はベンチに並んで腰掛ける。とはいっても、2人とも両端に座って互いの顔を見もせず地面の土を見下ろしているが。そんな2人の間にふんぞり返る度胸を持ち合わせていない巧は海未の隣に立つ。オルフェノクと戦ったせいか、疲れて危うく足を踏み外しそうになった。

 ぱたぱたと走ってきた亜里沙が、近くの自販機で買ってきた缶を海未と巧に渡してくれる。

「お待たせしました」

「ああ」

「ありがとう」

 手渡された缶を巧と海未は凝視する。お茶かコーヒーでも買ってくるだろうと思っていたのだが、巧の手のなかにある缶はどちらでもない「秋葉原おでん」という文字と商品のイラストがプリントされている。

「何だこれは?」

「………おでん?」

 困惑する2人に絵里は「ごめんなさい」と謝罪する。

「向こうの暮らしが長かったから、まだ日本に慣れてないところがあって」

「向こう?」

 「ええ」と絵里は碧眼を海未と巧に向ける。

「祖母がロシア人なの」

 クォーターか。4分の1しかロシア人の血が入っていないのに、絢瀬姉妹のブロンドはくすみがない。ハーフどころか、純粋なロシア人と言われても違和感がない。絵里は亜里沙に優しい姉としての顔を見せる。家ではこんな顔をするのだろう。

「亜里沙、それは飲み物じゃないの」

 亜里沙は両手にある姉妹の分にと買ってきたであろう缶を見て「ハラショー」と呟く。ロシア語なのだろうが、巧にはどんな意味か分からない。

「別なの買ってきてくれる?」

 「はい」と返事をした亜里沙は再び自販機へと走っていく。またおかしなものを買ってきやしないか不安だ。ロシアの自販機にはコーヒーやコーラといった万国共通の飲み物は売っていないのだろうか。というよりも、あの自販機は何を売っているのか。自販機の前で指を右往左往させている亜里沙を放置しているあたり、絵里はそれを狙っていたのだろう。海未と巧に話すことは、亜里沙には聞かれたくないのかもしれない。

「それにしても、あなた達に見つかってしまうとはね」

「前から穂乃果達と話していたんです。誰が撮影してネットにアップしてくれたんだろうって」

 講堂で行われたファーストライブの映像。巧の見る限り、撮影している観客はいなかった。会場のセッティングを手伝ってくれたクラスメート達の3人組も、誰もカメラは回していなかったという。撮影者は謎のままだったが、結果的にμ’sがネット上に知れ渡る契機になった映像だ。評価も好感触だったため、穂乃果達はあまり深く追求しなかった。

「お前が撮ってたわけか」

 巧の言葉を受け取り、海未は続ける。

「あの映像がなければ、わたし達は今こうしてなかったと思うんです。あれがあったから見てくれる人も増えたし、だから――」

「やめて」

 絵里の冷たく言い放った一言に、海未の言葉が途切れる。

「別にあなた達のためにやったんじゃないから。むしろ逆。あなた達のダンスや歌が、いかに人を惹きつけられないものか、活動を続けても意味がないか知ってもらおうと思って」

 趣味の悪い仕打ちだ。悪口を吐き出しても特定が難しいネットに晒して、罵詈雑言を聞かせてやろうだなんて。でも、巧は彼女達の夢を壊そうとしたブロンド髪の少女に怒りが湧くことはなかった。不思議なくらい冷静だ。

「だから、今のこの状況は想定外。なくなるどころか人数が増えるなんて。でも、わたしは認めない。人に見せられるものになっているとは思えない。そんな状態で、学校の名前を背負って活動してほしくないの」

 認めない。

 それは自分が理解していると、自分が優れているという確信があるからこそ出てくる言葉だ。つまり、絵里は自分が人を惹きつけるダンスや歌を知っていると自負している。歌は音程が合っていれば良いというものではない。ダンスはステップを踏めれば良いというものではない。上手いのは披露するにあたっては必要最低限だ。更に上のものを観客に見せなければならない。μ’sにはそれがない。絵里はそう言っているのだ。

「話はそれだけ」

 自分のと亜里沙の鞄を持って、絵里はベンチから立ち上がる。海未も立ち上がり、未だ自販機の前で指を宙に這わせている亜里沙のもとへ歩こうとした絵里の背中に「待ってください」と告げる。

「じゃあ、もしわたし達が上手くいったら、人を惹きつけられるようになったら、認めてくれますか?」

 沈黙が訪れる。そう長くない逡巡を挟んで絵里は答える。

「無理よ」

「どうしてです?」

 海未は臆せず問い続ける。辛辣な言葉が待っていようと屈しないとばかりに力強く。

「わたしにとっては、スクールアイドル全部が素人にしか見えないの。1番実力があるというA-RISEも、素人にしか見えない」

「素人でも、やりたいって気持ちと自分達の目標さえ持ってればできるのがスクールアイドルらしいぜ」

 花陽を勧誘したときのことりの言葉を思い出す。その場にいた海未は覚えていることに驚いたのか、巧の顔を見上げている。

 ことりも、自分達が素人だと自覚していたのだろう。プロならステージに立つ事すらできないが、スクールアイドルなら熱意があればステージで歌い踊れるのだと。誰だって皆、最初は素人だ。上手くいかない事のほうが多い。それでもμ’sは切磋琢磨してメンバーを増やし、曲を作ってきた。もっと長い目で見てやれとは思わない。でも、少しは彼女達の努力を見てやってもいいとは思う。

 絵里は振り返った。険のこもった眼差しが巧を射抜く。

「あなたは、その子達の夢を守ると言っていましたが、今のままじゃ夢のまた夢です。そんなものに、守る価値があるとは思えません」

 

 守る価値のないものを、守っても仕方ない。

 

 木場はかつてそう言っていた。彼の言葉が脳裏に一筋の流星のようによぎった瞬間、2人の言葉がとても別のものには思えなくなった。かつて信じていたものを信じられなくなったとき、人はどうなってしまうかを巧は見た。絵里も木場と同じとは断言できない。それでも、彼女のふとしたときに見せる苦しそうな目は、あのときの木場と似た雰囲気を纏っている。

 絵里は亜里沙のもとへ歩き出す。黙って立ち止まる海未を置いて、巧は絵里の背中を追いかける。亜里沙と話している絵里に巧は力強く言う。

「お前に、あいつらの夢に価値付ける権限なんて無え! 俺はあいつらの夢を守る。絶対に」

 今度の絵里は振り返らない。しっかりと伸ばした背中を巧に向けたまま告げる。まるで自分が背負っているものを見せつけるように。

「あなたが何を守っても、わたしはあなたのことも認めません。学校を守るのは、わたしの役目です」

そう言って絵里は歩き出す。状況に理解が追いついていない亜里沙は遅れて巧の後をついてきた海未に新しく買った缶を差し出してくる。

「飲みますか?」

 海未が受け取った缶はおしるこだった。冬ならともかく、もう夏に入ろうとしている今はあまり飲む気がしない。いや、冬でも巧は熱いおしるこは飲まない。海未は優しく苦笑する。

「あの、亜里沙……。μ’s、海未さん達のこと、大好きです」

 亜里沙はそう言って無邪気に笑うと、おでんとおしるこの缶を抱えて姉を追いかけていった。それを見送った海未は手の中にあるおしるこの缶へ視線を落とす。

「乾さん。どうして、乾さんはわたし達の夢を守ってくれるんですか?」

「まあ、何ていうか気まぐれだな」

「いつもそうですね。肝心なことは誤魔化してばかり」

「いいだろ別に。お前はμ’sのこと考えてればいいんだよ」

 海未は真っ直ぐ巧を見つめた。とても純粋な眼差しだ。まだ世間について知らない事ばかり。だが反面、知らないからこそ知ろうとする明確な意思を感じる。

「わたしは乾さんを信じたいです。穂乃果とことりは信頼していますけど、わたしは心からあなたを信じることができません。何でファイズに変身できるのか、以前は何をしていたのか、乾さんは全く話してくれないじゃないですか」

「自分のこと話すのあまり好きじゃないんだよ」

「答えになっていません!」

「ったく、お前も絢瀬も余計な心配しすぎなんだよ。ガキは自分のやりたいことやってればいいんだ」

 巧は公園の入口に停めておいたオートバジンへと歩く。立ち尽くしている海未に「行くぞ」と言うと、海未は驚いた顔をして「どこへ?」と尋ねてくる。

「東條のとこだ。あいつなら何か知ってるかもしれないしな」

 着いていくべきか決めかねている海未に、巧は有無を言わさずヘルメットを差し出した。

 

 ♦

 神田明神に着く頃には、いよいよ陽が完全に暮れようとしていた。藍と赤の混ざった不気味な色の空の下、巫女服で境内を掃除していた希を見つけた。

 海未が先ほどの出来事を説明すると、希は「そう」と淡泊に言った。友達ならば何かしらの感情を込めてもいい。希の反応はどこか冷たく思える。

「エリちにそんなこと言われたんや」

「はい。A-RISEのダンスや歌を見て、素人だって言うのは、いくら何でも………」

「エリちならそう言うやろね」

 希は淡々と告げる。自然な響きの言葉だった。冷たいと思える反応は冷淡さではなく、絵里のことを友達として最も理解している故のものだったのだ。希は続ける。

「そう言えるだけのものが、エリちにはある」

「どういうことですか?」

「知りたい?」

 悪戯に笑む希に、緊張からか肩肘を張る海未は逡巡の後に頷いた。希はまた笑みを向けて、懐から出した携帯型音楽プレイヤーを差し出す。海未はおそるおそる受け取る。

「ほな、うちはまだお仕事があるから」

 それだけ言うと、希は下駄を鳴らして社殿へと戻っていった。彼女の不思議な器量を感じる背中を見送ってからしばらく、プレイヤーを凝視していた海未はようやく保存された映像を再生した。

 掌に収まる端末の小さな画面。その中で彼女は踊っていた。まだ成長途中の四肢を伸ばし、飛び跳ね、片足を軸にして体を回転させている。とても優雅だ。レベルの高いダンスであることが素人の巧でも見て取れる。

「これ、絢瀬か?」

「ええ、恐らく」

「あいつバレエなんてやってたのか」

 絵里の容姿から、映像は数年前のものだろう。画面の中で踊る絵里は幼い。白亜のレオタードを着て、金髪を後頭部に纏めているから随分と印象は異なる。だが何よりも現在の絵里との乖離を感じさせるのは、幼い彼女の表情だ。とても楽しそうに踊っている。パフォーマンスのための作り笑いじゃないことは画面越しでも分かる。少なくともこの映像の頃、絵里はバレエを楽しんでいたに違いない。

「これが、生徒会長がわたし達を認めない理由だったんですね」

 弱々しい声で海未がそう漏らす。絵里があそこまでμ’s、ひいてはスクールアイドルを目の敵にする理由は絵里自身にあったのだ。彼女は本物のダンスを知っている。ただ動きだけで観客を魅了する術を持っているからこそ、アイドルが歌や衣装や優れた外見で取り繕っているように見えていたのだ。

「乾さん。わたし、悔しいです。わたし達がこれまで一生懸命やってきたのは本当です。でも、こんなもの見せられたら……。自分達のダンスや歌が、まるで茶番みたいで………」

「それで、どうすんだ? まさかダンスやめるのか?」

 「いえ」と海未は明確に答える。音楽プレイヤーを握りしめ、固く結んだ口からその決意を述べる。

「生徒会長に、ダンスを教わります」




 プロットは「ラブライブ!」に沿ってるからそんなに1話が長くなることはないだろうと思っていました。蓋を開けてみたら実質2作品をねじ込んでいるわけなので話数を重ねるごとに長くなっていきました(泣)。

 正直、巧と絵里ちゃんの絡みがここまで多くなるとは思ってもみませんでした。元々ファイズギアを巡って巧と絡むのは海未ちゃんにするつもりだったのですが、のぞえりコンビとの絡みが殆どなくなるので急遽変更しました。


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第9話 やりたいことは / 守りたいものは

 「555」色の強いエピソードが続いたので、今回は「ラブライブ!」色の強い回です。それとやっぱり長いです。この両作品のバランスを取るところがクロスオーバーの難しいところと痛感しました………。


「おやすみい………」

 間の抜けた声をあげてテーブルに顔を埋めた穂乃果の襟首を海未が即座に掴んで持ち上げる。「うぐっ」と詰まった声と共に穂乃果の頭が再び上げられる。

「まだです。次はこのページの問題を解いてください」

「せめておやつだけでも――」

「駄目です!」

「せっかくたっくんが持ってきてくれたのに………」

 何で自分はこの光景を見せられているのか。冷たいお茶を飲みながら、巧は海未にペンを持たされる穂乃果を呆れながら見つめる。

「俺も寝たいんだけどな」

「乾さんも穂乃果が寝ないよう見張っていてください。ちょっと目を離したらすぐ居眠りするんですから」

 高坂母に頼まれて夜食を持ってきたが余計なお世話だったようで、テーブルの隅に追いやられた饅頭は手付かずのままだ。

 期末試験まであと3日の今日から海未が泊まり込みで穂乃果に勉強を教えることになったのは本人から聞いている。それは別に構わないのだが、こうして巻き込まれている巧にとってはたまったものじゃない。人に教えられるほど学を修めていない巧は戦力外のはずだ。

「それとせっかくですが、夜食は下げていただいて結構です。夜の間食はダイエットの敵ですので」

 それじゃ遠慮なくとばかりに巧は皿に乗った穂むら饅頭を食べた。それを見た穂乃果が「あー!」と叫ぶ。

「食べようと思ってたのに。たっくんの鬼!」

「食ったら太るぞ」

「鬼い………」

 泣きべそをかきながら穂乃果はノートにペンを走らせる。止まれば海未が公式を教え、言われた通りの計算式を穂乃果は書いていく。

 咥内に残ったあんこを舌でなめとりながら、巧は立ち上がって襖を開ける。

「乾さん、まだ――」

「すぐ戻る」

 本当なら部屋で寝たいが、泊まり込みだから翌朝に海未から文句を言われることは目に見えている。だから巧は言った通りすぐに戻った。アイロンがけの道具一式と服を何着か持って。

 勉強している穂乃果と海未を横目に巧はアイロン台に服を広げる。服のしわを伸ばす巧の手捌きに海未は意外なものを見るような視線を向けている。

「穂乃果から聞いてはいましたが、本当にアイロンがけが上手なんですね」

「クリーニング屋でバイトしてたからな」

 高坂家で暮らすようになってから、暇さえあればアイロンがけばかりしているような気がする。色々と気になることはあるが、何かしている時は気が紛れる。

「その頃も、オルフェノクと戦っていたんですか? 誰かの夢を守るために」

 「ああ」と巧はアイロンをかけながら答える。海未には目もくれていないから、彼女がどんな顔をしているか分からない。

「戦って、その夢は守れたんですか?」

 その質問にはすぐに答えることができない。正直、守れたのかは巧自身にも分からない。巧が守ったとしても、夢を叶えることができるかは夢を抱いた本人次第だ。夢に向かって邁進するか、それとも諦めるか。その決断に巧が介入する余地はない。だとすれば、かつての戦いに意味はあったのだろうか。結局自分がやってきたことは、オルフェノクという憐れな命を悪鬼の如く蹂躙してきただけではないのか。

「さあな」

 それが現時点で出せる回答だ。そういえば、木村沙耶(きむらさや)にも似たような質問をされた。3年経っても、彼女への答えは出せないままだ。全く成長していない。だから、巧は彼女のときと同じ回答をする。

「気が向いたら答えてやるよ。そのとき俺が生きていたらな」

 悪いな、と巧は沙耶への謝罪を秘める。10年後も生きてほしいという彼女の願いも叶いそうにない。

 しわが伸びた服を畳んだところでようやく視線を上げる。巧と視線が合った海未の目は何か言いたげだが、また質問されたところで答えてやれるか自信がない。だから巧は彼女の意識を逸らすために一言を投じる。

「おい、穂乃果寝てるぞ」

 海未は慌てて視線を横へ移す。視線の先にいる穂乃果はいつの間にか広げたノートに突っ伏して寝息を立てている。巧はアイロンの蒸気を吹かした。しゅー、という音で穂乃果は「うわあっ」と目を覚ました。

 その後の海未は二度と穂乃果から目を離すまいと彼女に付きっきりで、巧に何も聞くことはなかった。

 

 ♦

 理事長室に呼び出されるときはいつも憂鬱になる。あの理事長から今度は何を要求され、何を聞かされるか。巧にとって都合の良い話でないのは確かだ。理事長との会話は発言に気を遣わなければいけない。巧には絶対に明かしてはいけないことがあり、それを秘匿するために神経を擦り減らす羽目になる。

 この日もそれは例外ではない。とはいえ、巧が情報の開示を求められなかった分は前の2回より楽な方だ。ただ理事長が学校運営について、今後の方針を話すという場だった。学校をオルフェノクから守る身として巧も知るべきことらしい。だが理事長から告げられたものは余りにも酷なもので、巧と同席していた絵里は耐えかねて声を荒げる。

「そんな……、説明してください!」

 「ごめんなさい」と理事長はまず謝罪を述べて「でもこれは決定事項なの」と付け加える。理事長は更に淡々と続けた。

「音ノ木坂学院は来年より生徒募集を止め、廃校とします」

 不意にドアが勢いよく開く音が聞こえる。振り返ると穂乃果を先頭にμ’sの面々がいる。練習着を着ていることから期末試験の赤点は無事に回避されたようだ。

「今の話、本当ですか? 本当に廃校になっちゃうんですか?」

 穂乃果と、彼女に続いて海未とことりが慌てた足取りで近付いてくる。その気迫に押されて巧と絵里は無意識に机の前を空けてしまう。

「本当よ」

 毅然とした態度を崩さず理事長は答える。

「お母さん、そんなこと全然聞いてないよ」

 ことりが今にも泣きそうな顔で抗議する。冷たいとは思うが、いくら娘とはいえまだ生徒に公表していない事項を明かすわけにはいかないのだろう。

「お願いします。もうちょっとだけ待ってください!」

「おい――」

「あと1週間……。いや、あと2日で何とかしますから!」

 巧の制止も聞かずに穂乃果は続ける。どうやら少しだけ勘違いしているらしい。それを察した理事長は「いえ、あのね……」と緊迫していた表情を緩めた。

「廃校にするというのは、オープンキャンパスの結果が悪かったらという話よ」

 拍子抜けした表情の穂乃果は「オープンキャンパス………?」と反芻する。2週間後に催される中学生向けの学校見学会だ。

「やっぱり早とちりしてたのか」

 巧が呆れた顔で言った。

「見学に来た中学生にアンケートを取って、結果が芳しくなかったら廃校にする。そう絢瀬さんと乾さんに言っていたの」

 理事長が一通りの説明を終えると、穂乃果は「何だ……」と漏らす。それを見逃すまいと絵里は「安心してる場合じゃないわよ」と険のこもった顔を向ける。

「オープンキャンパスは2週間後の日曜日。そこで結果が悪かったら本決まりってことよ」

 「どうしよう……」とうろたえる穂乃果達を尻目に、絵里は「理事長」と再び机の前に立つ。

「オープンキャンパスのときのイベント内容は、生徒会で提案させていただきます」

「止めても聞きそうにないわね」

 理事長がそう言うと、絵里は「失礼します」と一礼して理事長室を出ていった。出ていく彼女の背中を穂乃果とことりは自分達の前に立ちはだかる壁と見ているようだが、海未だけは2人と異なる眼差しを向けていた。

 

 ♦

「とにかく、オープンキャンパスでライブをやろう。それで入学希望者を少しでも増やすしかないよ!」

 

 焦りを含む穂乃果の呼びかけで、その日の放課後練習はメンバー全員の普段よりも強い気合を感じた。屋上には海未の手拍子と、それに合わせた穂乃果の掛け声が響き渡る。客目線での意見も欲しいと練習に付き合わされた巧は一定のリズムで手を叩く海未の隣に立ち、ステップを踏むメンバー達を眺める。

 やがてフィニッシュを迎えると、穂乃果は両拳を握って「よし」と頷いた。

「おおー、皆完璧!」

 確かに完璧だ。ひとりもリズムを外すことなく、それぞれの立ち位置も乱れがない。巧の素人目から見れば、特に改善すべき点はない。そう、巧から見れば。

「良かった。これならオープンキャンパスに間に合いそうだね」

 ことりが安心したように言う。「でも」と顔の汗を拭った真姫が切り出す。

「本当にライブなんてできるの? 生徒会長に止められるんじゃない?」

「それは大丈夫。部活紹介の時間は必ずあるはずだから。そこで歌を披露すれば――」

「まだです」

 ダンスの出来について特に話すことのないメンバー達。後は本番に臨むだけという満足感が窺えることりの言葉を遮って、海未は静かに告げた。

「まだタイミングがずれています」

 「海未ちゃん……」と穂乃果は言うが、抗議するつもりはないようだ。

「分かった。もう1回やろう!」

 再び海未は手拍子を刻み始める。メンバー達は何度反復したかも分からないステップを踏み、一通り踊ると再び穂乃果は「完璧!」と言った。他の面々も満足そうに笑みを浮かべて互いに褒め合っている。だが海未だけは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、隣にいる巧に尋ねる。

「乾さん、どうですか?」

「俺から見れば上出来だ。でも――」

 巧は最後だけ言葉を濁す。そこから先は巧ではなく海未が告げるべきだ。巧があごで促すと、海未はメンバー達に「まだ駄目です」と告げる。凛が肩を落として呻くように言う。

「もうこれ以上は上手くなりようがないにゃ………」

「駄目です。それでは全然――」

 苛立ちが表情に出ている真姫が海未に詰め寄った。

「何が気に入らないのよ? はっきり言って」

「………感動できないんです」

 「え?」と真姫は困惑を見せる。真姫だけじゃなくて他のメンバー達もだ。指摘としてはかなり抽象的だ。でも海未の言っていることは正しい。以前と比べればμ’sのダンスはクオリティが上がっている。だがそれは素人から始めたからだ。反復練習すればそれなりの出来になる。でも、海未が求めているものは「それなり」ではなく、「感動できる」ダンスだ。

 巧も見た、希から渡されたプレイヤーの画面内で踊る幼い絵里。人を惹きつけるダンスを見た巧と海未にとって、μ’sのダンスが素人と言われても否定できない。彼女らはまだ始めたばかり。よくやっている。そんな上辺だけの慰めで取り繕うことはできないのだ。

「今のままでは………」

 海未の声はか細く弱々しいが、はっきりと聞こえていた。

「今のままでは駄目です。このまま練習を続けても、きっと意味はありません」

 「じゃあどうするのよ?」とにこが噛みつくように聞いてくる。海未は巧を一瞥する。何も言わない巧と視線を交わした後に、海未は明確に、端的に言った。

「生徒会長にダンスを教わろうと思います。あの人にはバレエの経験があります」

 「えー!?」とメンバー達は一斉に驚愕の声をあげた。海未は続ける。

「あの人のバレエを見て思ったんです。わたし達はまだまだだって」

 「でも……」と花陽がおそるおそる口にする。

「生徒会長、わたし達のこと……」

「嫌ってるよねー絶対」

 濁した最後の部分を凛が代弁する。せっかく花陽がオブラートに包もうとしてくれたのに台無しだ。

「つーか嫉妬してるのよ嫉妬」

 にこも不満をまくし立てる。このままだと絵里への不満合戦へと発展しそうだ。それを阻止するためか、海未は話の軌道を修正させる。

「わたしもそう思ってました。でも、あんなに踊れる人がわたし達を見たら素人みたいなものだって言う気持ちも分かるのです」

 「そんなに凄いんだ」とことりが言う。続けて真姫が「わたしは反対」と鋭く言い放つ。

「潰されかねないわ」

 生徒会長という役職にどれほどの権限があるかは知らないし、潰すなんて物騒な事態へ乗り出すかは分からない。でも、少なくとも絵里はμ’sを認めないだろう。

 素人の集まり。アイドルの真似事。紛い物の歌とダンス。その言葉の針を突き刺し、穂乃果達の心を折ってしまうかもしれない。

 「そうね」とにこが真姫に同意した。

「3年生はにこがいれば十分だし」

「生徒会長、ちょっと怖い………」

「凛も楽しいのがいいなあ」

 口々に出る意見に、海未も「そうですよね……」と口調が弱くなる。流石に反対が多数を占めれば、あまり押しの強くない海未がこれ以上提案を通すことは難しい。そう思っていたところに、穂乃果の言葉がするりとメンバー達の間を駆け巡った。

「わたしは良いと思うけどなあ」

「ええ!?」

 「何言ってんのよ!」とにこが言う。何となく、穂乃果ならそう言うだろうと巧は思っていた。目標へ迷うことなく進む彼女なら、考えるよりもまず行動するはずだ。

「だって、ダンスが上手い人が近くにいて、もっと上手くなりたいから教わろうって話でしょ?」

 「そうですが――」とその話を切り出してきた海未が応える。すると穂乃果は笑みを浮かべた。

「だったら、わたしは賛成! 頼むだけ頼んでみようよ」

「ちょっと待ちなさいよ!」

 にこが抗議しようとしたが、「でも――」とことりは照れ臭そうにそれを止めた。

「絵里先輩のダンスはちょっと見てみたいかも」

 「それはわたしも」と花陽が少し興奮気味に言う。穂乃果は「ようし!」と語気に力を込めた。

「じゃあ、早速明日聞いてみよう!」

 

 ♦

 校舎からは甲高い女子特有の声が漏れている。窮屈な授業から解放される昼休みを満喫している彼女らの笑い声や、時には怒声が聞こえてくる。卒業し時が経つと、彼女達は学生時代に当たり前と思っていた日々に想いを馳せるようになるのだろうか。卒業アルバムを物憂げに眺めていた高坂母のように。

 これが青春か、と巧は寂しい感慨を覚えながら、ひとりだけの休憩室でペットボトルのお茶を飲む。巧には学生時代の思い出が殆どない。友人なんていなかったし、惰性で日々を過ごしていた。そうして何も起きず、自分から何も起こさずに過ごしているうちに中学を卒業した。巧の学生時代は中学で終わりだ。高校には進まず、すぐ旅に出たからだ。行く先々でバイトをして日銭を稼ぎ、免許を取れる年齢になると自動二輪の教習所に通い、免許を取得したらバイクを購入した。

 色々なところへ行けば夢が見つかるかもしれない。そんな仄かな期待を持って気の向くままに旅をしていたのだが、結局見つからなかった。人と深く関わること、心を通わせることを避けていたから当然かもしれない。向けられる好意が、自分の正体を知られたときに恐怖や嫌悪に変わってしまうことが怖かった。惰性で過ごした学生時代と何も変わらない。巧は他人の好意を撥ねつけ、ひとりでだらだらとバイクを走らせていた。

 そんな頃だ。巧と同じメーカーのバッグを手に旅をしていた真理と出会ったのは。

「乾さん」

 落ち着いたその声で巧の意識が過去から現在へと引き戻される。振り向くとドアの前に希が立っていて、「お邪魔してもいいですか?」と尋ねてくる。

「何の用だ?」

 面倒臭そうに質問を返すも、希は気を悪くした様子はおくびにも出さずに真面目な表情をする。

「乾さんに、エリちを助けてほしいんです」

「何だよ、やぶからぼうに」

 希は靴を脱ぎ、畳の上で正座して巧をじっと見つめてくる。巧はその視線から逃げるように顔を背けた。

「エリちはきっと、好きなことしてる穂乃果ちゃん達が羨ましんやと思うんです。義務感が強すぎていつも自分の気持ちは後回しだから、いつか必ず限界が来る。生徒会長になったのも、先生から言われて引き受けたんです」

「俺にどうこうできる問題か? 他人が口出しすることじゃねーし、友達のお前がやればいいだろうが」

 憮然と巧が言い放つと、希は目蓋を落とした。笑みを浮かべてはいるが、どこか寂しさを感じる声色で「そうですね」と呟く。

「うちもそうしたい。でも、うちに解決できることやない。でも、乾さんならできると思います」

「どうしてそう思うんだ。またカードか?」

「それもあるけど、乾さんはオルフェノクと戦ってたくさんの人達を救ってきたやないですか? だから、エリちも救ってくれる」

 向けられた言葉にどう返せばいいかすぐには浮かばない。逡巡を挟んで巧は言う。

「確かに救ってきたさ。でも、その分救えなかった奴もいる」

「救えなかったことを悔やむより、救えたことを喜んだ方がええんと違います?」

「………そんな風に考えられたらいいんだけどな」

 重苦しい雰囲気になってきた。年端もいかない少女に聞かせるには酷な話から逃れるために、巧は結んだ口を開く。

「絢瀬、もうバレエやってないのか?」

「ええ。うちも詳しくは聞いてないんやけど、きっと壁にぶつかったんだと思います」

「そうか。で、あいつを助けるって何すればいいんだ?」

 そう尋ねると希は驚いたように垂れた目蓋を上げる。頼んできたのはお前だろ、と思いながら巧は返答を待つ。口をしばし半開きにした後に、希は答える。

「エリちに、自分の正直な気持ちに気付かせてあげてほしいんです。方法は乾さんに任せます」

「ああ、取り敢えずやれることはやってやるよ。上手くできるか保証できないけどな」

 巧はそう言ってお茶を飲む。希は巧を見てくすりと微笑した。「何だよ?」と聞くと、希は安心したのか穏やかな顔をする。

「やっぱり、カードは正しかったんやと思って。乾さんは、きっと運命や宿命を超えたものをもたらしてくれる」

「気のせいだろ。俺にそんなもんはない。今だって運命ってやつに逆らえずにいるからな」

 「でも」と希は反論する。穏やかだが、確信めいた力強さのある声だった。

「乾さんなら、その運命も変えることができます。これはカードやなくて、うちの勘やけど」

 

 ♦

 引き受けたものの、どうすればいいのか。

 午後の仕事中、巧の思考はそのことに大半を占められていた。ファイズとして戦い、命をいくつも救ってきたことは事実だ。でも、救おうとして救ってきたわけじゃない。結果的に、偶然救えたのだ。引き換えとして、救おうとした者に限って救えなかった。だから絵里を救おうと試みたところで自分にそれができるのか。巧には自信が持てない。

 だから、巧は自分が直接的に絵里を救うことを問題の範疇から外すことにした。これでも上手くいくかは分からない。微かな怖れを隠しながら、仕事を終えた巧は生徒会室の引き戸をノックする。「はい」と奥から絵里の声が聞こえてくる。巧が黙って引き戸を開けると、絵里が訝しげな、希が嬉しそうな視線を投げかけてくる。今日の活動を終えたのか、部屋には2人しかいない。

「何の用ですか?」

 窓際の長椅子に腰掛けていた絵里は立ち上がり、巧の前へと移動しながらそう聞いてくる。昼休みに希が訪ねて来たときの自分も同じ態度だったな。自分の態度を少し反省しながら、巧は前振りもなく告げる。

「穂乃果達にダンスを教えてやってほしい」

「あの子達に言われたんですか?」

「いや、俺が勝手にしてることだ。まあ、あいつらも直接頼みに来るかもしれないけどな。あいつらも廃校を止めるために頑張ってんだ。協力ぐらいしてやってもいいと思う。お前自身のためにもな」

「どうして、それがわたしのためになるんですか?」

「見てられないんだよ。お前みたいに頑固な奴は」

「まるでわたしのことを理解しているみたいな口振りですね」

「そんなんじゃねえよ。俺の知り合いが、お前に似ててな」

 語るべきか一瞬だけ迷いが生じたが、巧は告げることにした。的外れかもしれないが、それでこのブロンドの少女から彼と似た影を取り除けるなら安いものだ。

「そいつはオルフェノクだった。オルフェノクだったけど、人間を守ろうとして、人間とも分かり合えると信じてた。でも奴の仲間――オルフェノクの仲間が人間に殺されて、奴はそれまで信じたものを否定した。しまいには人間を滅ぼそうとした」

「その人は、どうなったんですか?」

 絵里はおそるおそる聞いてくる。巧は淡々と答える。

「死んだ。オルフェノクの王と戦ってな。人間を滅ぼそうとはしたけど、やっぱり奴は人間でありたかったんだと思う。だから一緒に戦ってくれた」

 そう告げると、絵里はどう言葉を述べるべきか迷った表情をしている。でもすぐにいつもの険しい顔つきになって、質問を重ねてくる。

「その人とわたしのどこが似ているんですか?」

「何ていうか……、お前も奴みたいに無理してるような気がしてな。自分の気持ちには正直になった方がいいぜ。手遅れになる前にな」

「わたしは無理なんてしていません。無理してるのはあなたの方ではないですか? 罪を背負うと言っておきながらファイズとして戦う理由は何です? あなたには変身する資格があるから、その義務のために戦っているんじゃないんですか?」

「それは………」

 答えに迷ってしまう。いつもそうだ。自分のことを聞かれるときはどう答えればいいのか分からない。正直に言えばいいのかもしれないが、言ってしまえばどうなるか怖れてしまう。

 しばらく黙っていると都合よく引き戸からノックの音が聞こえる。巧が「ほら」とあごで指すと、絵里は府に落ちないと表情で主張しながらも引き戸を開ける。生徒会室の前には穂乃果、海未、ことりが立っていた。

「あなた達……。何しに来たの?」

 口を開いたのは、真ん中に立つ穂乃果だ。

「生徒会長、わたし達にダンスを教えてください。お願いします」

「わたしにダンスを……?」

「はい。わたし達、上手くなりたいんです」

 絵里は一旦穂乃果から顔を背け、部屋のなかにいる巧へと振り返る。穂乃果が巧に気付き驚いた顔をするが、何も聞かずに絵里の返答を待っている。絵里は巧と視線を交わすも、無言のまま穂乃果へと視線を戻した。

「分かったわ」

「本当ですか?」と穂乃果は嬉しそうに言った。

「あなた達の活動は理解できないけど、人気があるのは間違いないようだし。引き受けましょう」

 絵里がそう言うと、不安げな顔をしていた海未の顔から笑みが零れた。良かった、と巧は内心で胸を撫で下ろす。絵里を救うのは巧ではなく、穂乃果達だ。自分と関われば否応にもオルフェノク、ひいてはスマートブレインを引き付けてしまう。だから、彼女達と巧は切り離さなければならない。そうすれば、絵里は平和な日常に留まることができる。

 「でも」と絵里は続ける。

「やるからにはわたしが許せる水準まで頑張ってもらうわよ。いい?」

 「はい、ありがとうございます!」と穂乃果は答えた。

「星が動き出したみたいや」

 巧の隣で絵里の背中を眺めていた希が、巧にしか聞こえない小さな声でそう呟いた。

 

 ♦

「全然駄目じゃない。よくこれでここまで来られたわね」

 屋上では絵里の棘のような言葉が響いている。絵里が指導を了承するとすぐに練習を始めたのだが、自分達の壁として立ちはだかる生徒会長がダンス指導を務めるということに緊張しているのか、絵里に現在の出来を見せるために踊ったダンスはどこか動きがぎこちない。

「昨日はバッチリだったのにー!」

 ステップを踏み外して尻もちをついた凛がそうぼやく。

「基礎が出来てないからむらがでるのよ。脚開いて」

 「こう?」と凛が座ったまま開脚して両手を床につくと、絵里は凛の背中を力いっぱい押した。すぐに凛の上半身が動きを止め、涙を浮かべながら「痛いにゃー!」と叫ぶ。その様子を巧は意外に思いながら見ている。凛は運動が得意と聞いていたから柔軟性はあると思っていた。

 泣き喚く凛の背中を絵里は容赦なく押し続ける。

「これで? 少なくとも脚を開いた状態でお腹が床につくようにならないと」

 ようやく凛の背中から手を放し、絵里は他のメンバー達にも告げる。

「柔軟性を上げることは全てに繋がるわ。まずはこれを全員できるようにして。このままだと本番は一か八かの勝負になるわよ」

 メンバー達は不安げに、時には疎ましげな視線を絵里に向けている。だがそれでも指導を頼んだのは自分達だ。それを理解しているようで、文句は言わなかった。絵里のレッスンは容赦がない。メンバーの姿勢が崩れると素早く指摘して修正させ、いくら苦しい顔をしても次の練習メニューを提示してくる。

 体幹を鍛えるために片足でバランスを保っている途中、あと1セット残っているところで花陽の足がもつれた。既に披露で足元がおぼつかなかった花陽にもう体勢を立て直す体力は残っていなかったようで、崩れるように倒れる。

「かよちん大丈夫?」

 凛が花陽の体を起こそうとする。他のメンバー達も心配そうに視線を花陽へ集中させる。ただひとり、そんな素振りを出さない絵里は冷たく告げた。

「もういいわ。今日はここまで」

 メンバー達の視線が花陽から絵里へと移った。「ちょ、何よそれ!」とにこが、「そんな言い方ないんじゃない?」と真姫が口々に言う。彼女らの文句に絵里は応える。

「わたしは冷静に判断しただけよ。自分達の実力が少しは分かったでしょ?」

 確かに的を射ている。花陽の体力はもう限界だ。明日になれば筋肉痛で思うように動けないだろう。悪戯にハードな練習をさせて体を壊してはいけない。絵里はそれだけのモラルは持っているようだ。

「今回のオープンキャンパスには、学校の存続が懸かっているの。もしできないっていうなら早めに言って。時間が勿体ないから」

 背を向けてドアへと歩き出す絵里を「待ってください」と穂乃果が止める。真剣な顔つきは他のメンバー達にも伝播していき、絵里は身構えるように目つきを鋭くして振り返る。

「ありがとうございました!」

 穂乃果のその言葉が意外だったようで、絵里は「え?」と困惑した顔を見せる。文句を言われると思っていたのだろう。でも、穂乃果は決してそんなことをしないと巧は知っている。彼女のなかにあるのは、上手くなりたいという純粋な熱意だ。厳しくても、自分達のダンスを向上させるために協力してくれた絵里に文句をつけるほど性根は腐っていない。

「明日もよろしくお願いします!」

 「よろしくお願いします!」と、他のメンバー達も穂乃果に続いた。絵里はしばし彼女らを凝視した後に、無言のままドアを開けて校舎へと入っていった。

 絵里の背中が少しだけ小さく見えた気がした。

 

 ♦

「いたたたたた! 雪穂もっと優しく!」

 脚を開き背中を雪穂に押してもらいながら、穂乃果は放課後の凛と似た悲鳴をあげる。雪穂は遠慮なしに姉の背中を押している。

「お風呂上りにストレッチするように、生徒会長さんから言われたんでしょ? しっかりやらないと明日筋肉痛になるよ」

 そう言って雪穂は更に力を込めて背中を押す。「いたたたた!」と穂乃果は痛みに悶絶し、脚を小刻みに震わせる。

「お前少しは静かにしろよ」

 テレビを観ていた巧が文句を言うと、雪穂の手から解放された穂乃果は「ごめん………」とうなだれる。雪穂はため息をついた。

「そこまでやって辛くないの?」

 妹の質問に穂乃果は答える。その目から迷いは感じられない。

「確かに辛いし、体中痛いよ。でも、廃校を阻止したいって気持ちは生徒会長にも負けないつもり」

 穂乃果の顔を巧は羨ましさを感じながら見つめる。目標に向かって突き進める純粋さが自分にも欲しいと思った。彼女がとても眩しく見えて、まるで自分の影が濃くなっていく気がする。

「俺はもう寝る」

 巧はそう言って立ち上がる。「わたしも」と雪穂も巧の後に続いて居間を出た。「もうちょっと付き合ってよー」という穂乃果の声は無視して。

 階段を上りながら、巧の後ろを歩く雪穂は愚痴を零す。

「本当、あんな調子でオープンキャンパスのライブ成功するのか心配ですよ。わたしも行くんだから恥ずかしいもの見せないでほしいです」

「雪穂、オープンキャンパス来るのか。お前UTX受けるんじゃなかったのか?」

「まあ、友達に誘われてですけど。その子がμ’sのファンで」

「そうなのか。まあ、一度見てみればいいさ。お前が思ってるよりもしっかりやってる」

 雪穂は自室の襖の前で立ち止まり、さっきよりも深くため息をつく。

「どうでしょうね。お姉ちゃんはともかく、わたしまでみっともないところ周りに見せたくないので。だから………」

 言葉を詰まらせた雪穂は視線を下ろす。すぐに上げた顔は夜でも分かるほどに頬が紅潮している。

「だから、わたしの制服もアイロンかけておいてください」

 予想もしていなかった要求だ。巧は一瞬だけ僅かに目を見開き、そして少しだけ頬を緩める。雪穂はそんな巧の顔を意外そうに見た。思えば、雪穂の前で穏やかな顔をしたことは初めてかもしれない。

「ああ、いいぜ」

 

 ♦

 朝の学校はとても静かだ。普段は生徒達の声が絶え間なく響くものだから、静寂がより引き立っている。始業2時間前だから、部活の朝練がある生徒以外はまだ登校していない。

 朝のうちに片付けなければならない階段の補修を済ませた巧は、まだ眠気の残る目をこすりながら廊下を歩く。少し仮眠でも摂ろうと休憩室を目指していたところで、その声は聞こえた。

「うちな」

 「希」と別の声が聞こえる。巧は咄嗟に曲がろうとしていた廊下の角に隠れ、顔半分を出して声の方向を覗く。希と絵里がいた。普通に談笑しているのなら素通りすればいいだけなのだが、どうやら今の2人からそんな楽しげな雰囲気は見受けられない。

「エリちと友達になって一緒に生徒会やってきて、ずっと思ってたことがあるんや」

 静かな朝の廊下で希の声はささやくように穏やかだが、はっきりと聞こてくる。

「エリちは、本当は何がしたいんやろうって」

 「え?」と絵里が漏らす。希は続ける。

「一緒にいると分かるんよ。エリちが頑張るのはいつも誰かのためばっかりで。だから、いつも何かを我慢してるようで、全然自分のことは考えてなくて――」

 希の声に、少しずつだが感情がこもってくる。絵里はそっぽを向いて歩き出す。でも希の言葉の連なりは止まることがない。

「学校を存続させようっていうのも、生徒会長としての義務感やろ! だから理事長はエリちのこと認めなかったんと違う?」

 まるで今まで溜め込んできたものを吐き出すように、希の口数は多くなる。動揺している絵里の様子から、こんな風に希が絵里を問い詰めるようなことはなかったのだろう。巧に頼んでおきながら、自分に口出しできることじゃないと言っておきながら、希も我慢ができなかったのかもしれない。それでいいと思う。本音で語り合えない友達なんて、本当の友達と言うべきか疑問だ。同時に本音を言っているからこそ、希は本当に絵里の友達なのだ。

「エリちの……、エリちの本当にやりたいことは?」

 2人の間に沈黙が訪れる。それを埋めるように遠くから声が聞こえる。穂乃果の声だ。続けて海未の手拍子と掛け声が。

 「何よ……」と絵里はぼそりと呟く。

「何とかしなくちゃいけないんだからしょうがないじゃない!」

 絵里は声を荒げた。普段は落ち着いている彼女からは想像できない声色だった。覆うものもなく、絵里の感情が露になっている。

「わたしだって、好きなことだけやって、それだけで何とかなるならそうしたいわよ!」

 巧から絵里の顔は見えない。彼女のポニーテールに纏めたブロンドの影から見える希はとても悲しそうな顔をして、次に戸惑いの表情を浮かべている。

「自分が不器用なのは分かってる。でも………」

 絵里の声は怒っているようなのだが、同時に震えている。何となく、巧には絵里がどんな顔をしているのか想像できた。今まで押し殺し、気付かない振りをしていた気持ちに向き合わされた絵里にとっては酷かもしれない。でも、絵里に必要なのは心に自らが課した覆いを取り払うことだ。

 そして絵里は、自分の素直な気持ちをさらけ出した。震える声で。

「今更アイドルを始めようなんて……、わたしが言えると思う………?」

「言っていいに決まってんだろ」

 衝動的に、廊下の影から出てきた巧が答える。咄嗟に振り向いた絵里は泣いていた。慌てて涙を乱暴に拭っているが、止まる気配がない。これは2人の問題だ。分かってはいるが、我慢できるほど巧は成熟しきっていない。

「お前がそうやって我慢して学校が存続できたとして、東條が喜ぶと思うか? 何とかするのに苦しむのと楽しむの2択だったら楽しいほう選んで何が悪いんだ?」

 巧はゆっくりと歩きながら言う。

「まだガキなんだ。やりたいことやればいいし、夢見たっていい。生徒会長だからって我慢する理由にはならねえよ」

涙を流し続ける絵里は首を横に振った。

「わたしはもう、夢なんて………」

 絵里は走り出した。これ以上見られたくないのか、顔を伏せて巧の横を過ぎ去っていく。静かな廊下には絵里の足音だけが響き、やがてそれも小さくなって聞こえなくなっていく。

「乾さん……」

 希が沈んだ声で呼んでくる。垂れた目尻には滴が浮かんでいる。

「やっぱり、うちじゃエリちを助けられないみたいです」

「ああ、俺達だけじゃ無理だ」

「え?」

 あの石頭な生徒会長は説得なんて応じそうにない。だから強引なくらいが丁度いい。それに適役な彼女達がいる方へ視線を向け、巧は言った。

「屋上行くぞ」

 

 ♦

 3年生の教室には絵里しかいない。孤独が落ち着くのか、自分の席に座る彼女は力の抜けた顔を窓へ向けている。その碧眼は外の景色ではなく、窓ガラスに移る自分の顔を眺めているように思える。

 随分と気を抜いていたらしく絵里は自分の視界にその手が差し伸べられるまで、彼女達と彼の存在に気付いていないようだった。絵里は差し伸べられた手を、その手を伸ばす少女へ視線を移す。

「あなた達………」

 いつもの険しい顔の生徒会長としての振る舞いになった絵里に、穂乃果は告げる。

「生徒会長。いや、絵里先輩。お願いがあります」

「練習? なら昨日言った課題をまず全部こなして――」

 分かっているだろう、と巧は内心で呆れる。そうじゃない、とばかりに穂乃果は「絵里先輩」と絵里の言葉を遮る。

「μ’sに入ってください。一緒にμ’sで歌ってほしいです。スクールアイドルとして」

 絵里は顔を背けた。穂乃果の笑顔が、まるで自分が捨てたものを見るのが辛そうに。

「………何言ってるの? わたしがそんなことするわけないでしょ」

 「さっき希先輩と乾さんから聞きました」と海未が告げる。絵里は咄嗟に希と、そして教室の外にいる巧を交互に見た。

「やりたいなら素直に言いなさいよ」

「にこ先輩に言われたくないけど」

 にこと真姫がそう皮肉を投げかけてくる。でもそこに嫌悪や拒絶は見えない。それが微量でも含まれていれば、こうして迎えに来ることもなかったはずだ。

「ちょっと待って。まだやりたいなんて………。大体、わたしがアイドルなんておかしいでしょ」

 「まだ言ってんのかよ」と巧はため息と共に言った。言いたいことはまだあるが、それは自分がするべきことじゃない。巧の意を汲み取ってくれたのか、希が友達として絵里に言う。

「やってみればいいやん。特に理由なんか必要ない。やりたいからやってみる。本当にやいたいことって、そんな感じで始まるんやない?」

 拒む者は誰もいなかった。皆が絵里に笑顔を向けている。目尻で何かが光った気がしたが、すぐにそれは消える。穏やかな微笑を浮かべて立ち上がった絵里は、差し伸べられた穂乃果の手を取った。

「これで8人」

 ことりがそう言うと、希が「いや」と悪戯に笑みを向ける。

「9人や。うちを入れて」

 「希先輩も?」と穂乃果が目を丸くして尋ねる。他のメンバーも、絵里すらも同じ反応だ。巧も驚いている。希がアイドルに興味があるなんて、そんな素振りは見せなかった。μ’sに協力的だったのは、いずれ自分も加入するつもりだった故だろうか。

「占いで出たんや。このグループは9人になったとき、未来が開けるって。だから付けたん。9人の歌の女神、μ’s(ミューズ)って」

 「え?」という声をメンバー全員で漏らし、穂乃果が更に尋ねる。

「じゃあ、あの名前付けてくれたのって希先輩だったんですか?」

 希は肯定の意として笑みを零す。「希……」と驚いていた絵里はふっと困ったように笑った。

「まったく、呆れるわ」

 本当に占いの結果なのかは疑問だが、何だか全部が希のお膳立てだったように思える。年下の少女に動かされていたと思うと少し複雑だが、結果として9人もメンバーが集まったのだから良いだろう。

 未だに驚きが冷め止まない穂乃果の視線が巧へと向く。

「たっくん知ってたの? 希先輩がμ’sに入るって」

「いや知らねえよ。てかお前、グループの名前自分達で決めたんじゃなかったのか?」

 穂乃果は照れ臭そうに視線を逸らし、「いやあ……」と歯切れ悪く答える。

「何ていうか………、投票で」

「丸投げだったのかよ………」

 これでは絵里が否定したくなる気持ちも分かる。呆れていると、巧の横を絵里がしっかりとした足取りで通っていく。「どこへ?」と海未が尋ねた。絵里はメンバー達へ振り向き、颯爽とした口調で告げる。

「決まってるでしょ。練習よ」

 

 ♦

 オープンキャンパス当日の朝は忙しい。特にアイドル研究部はステージの設営があるから前日から準備が行われている。見学に来る中学生にライブを披露するため、生徒会長である絵里のバックアップもあってμ’sはグラウンドの使用権を得た。

 巧は非番だが、朝早くから学校で教員達、オープンキャンパス実行員の生徒達とグラウンドの飾り付けに励む。巨大な風船にガスを入れて、適当な場所に括り付けていく。

「うわあ、すっごく良いよ!」

 ステージとして完成したグラウンドを見渡して穂乃果が感想を漏らす。巧から見ても良いステージだと思う。ライブが成功するかは、後は彼女ら次第だ。とはいえ、あまり心配はしていない。絵里と希が加入してからダンスの出来は日々向上していった。歌唱力についても2人は問題ない。

「はーい」

 唐突にその声が耳孔に入り込む。背中がぞくりと震える戦慄を覚えながら、巧は振り返る。煌びやかに飾り付けられたグラウンドの縁。そこでステージを自分の色に染めていくように、彼女は指先から青い蝶を飛ばしている。

「お前………」

 巧はスマートレディを睨む。隣にいる穂乃果はただならぬ雰囲気を感じて不安げに巧とスマートレディを交互に見ている。

「素敵なステージ。お客さんには最高のショーを見せなくちゃ」

「来ると思ってたぜ………」

 学外へ向けたオープンキャンパス。学校を宣伝する場。だが同時にそれは、不祥事が起これば学校の信用を一気に落とす場にも変わる。この絶好の機会をスマートブレインが見逃すはずがない。簡単に予想できたことだから、巧は非番でも学校へ赴いた。

 巧は手に持っていたケースを開く。

「たっくん――」

「お前は退いてろ。ライブの準備しとけ」

 腰にベルトを巻きながら巧は乱暴に言い放つ。そんな2人の様子を見てスマートレディは憎らしげに笑っている。

「健気な子ね。でも私達にとっては邪魔なの。だから死んでね」

 スマートレディは手を差し伸べる。その真っ直ぐに伸びた右腕の肘関節が90度下へ折れ曲がった。巧は目を剥く。決して有り得ない角度に腕が曲がることもあるが、それ以上に不気味なのは裂けた皮膚から血が一滴も流れないことだ。スマートレディの肘断面からは真っ黒な筒状のものが覗いている。巧は咄嗟にファイズフォンのコードを入力した。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 変身すると同時、胸に衝撃が走った。ファイズの体が大きく吹き飛ばされる。グラウンドの芝生を転がり、起き上がると同時にスマートレディのすらりとした脚が視界に入ってくる。グランドの縁から真ん中まで飛ばされていた。しかも、スマートレディは跳躍でその距離を詰めてきている。明らかに人の域を超えた力だ。

「お前、何もんだ!」

 ファイズは拳を振り下ろしながら問う。スマートレディは拳を片手で受け止めながら笑ってみせる。

「あなたの敵です」

 明るい口調を崩さない。笑みを浮かべたままスマートレディは握ったファイズの拳を捻り上げる。超合金製のスーツがめきめきと悲鳴をあげ始めた。ファイズはスマートレディの腹に蹴りを入れて無理矢理引き剥がす。

「女の子を蹴るなんていけない子」

 子供を叱るように、スマートレディはわざとらしく口をへの字に結ぶ。ファイズが捻られた手首を振ると、甲高いエンジン音が聞こえてくる。駐輪場に停めておいたオートバジンがビークルモードのままグラウンドに入ってきて、背後からスマートレディへと向かっていく。

 車体がスマートレディと衝突しようとした寸前、横から矢が飛んできた。堅牢な車体が貫かれはしなかったものの、オートバジンは軌道を大きく逸れて芝生の上に倒れる。

 ファイズは矢が飛んできた方向を見やる。校舎の屋上にいるそれは遠くて小さいが、視覚補正のおかげでよく見える。灰色のボウガンを携えたオルフェノクだ。トビウオの面影がある。

 フライングフィッシュオルフェノクは驚異的な脚力で跳躍し、スマートレディの横に降り立った。

「後は任せましたよ。これ使うと、私とーっても疲れるんです」

 スマートレディの折れ曲がった右腕が矯正されていく。だが裂けた皮膚は元通りとはいかず、中の無機質なコードやボルトといった機械が覗いたままだ。

「待て!」

 ステップを踏んで去ろうとする無機質な女をファイズは追う。だが背中にフライングフィッシュオルフェノクのボウガンが飛んできて、衝撃のせいで前のめりになって倒れた。灰色の足がファイズの背中を踏みつける。

「祭りを始めようか。血祭をね」

 地面に落ちる男の影がそう言って顔をにたりと歪める。ファイズはベルトからフォンを抜いて素早くコードを入力する。

 1・0・6。ENTER。

『Burst Mode』

 フォトンバスターに変形させたフォンの引き金を引く。アンテナから発射されたフォトンブラッドの閃光がフライングフィッシュオルフェノクの体に突き刺さった。体がよろめいた隙に、ファイズはその足から逃れて立ち上がる。再び引き金を引いてビームを発射した。

 反撃とばかりにフライングフィッシュオルフェノクがボウガンを向けてくる。矢はファイズに向いていない。一瞬だけ振り返ると、矢が指す方向には立ち尽くして戦いを傍観している穂乃果がいる。引き金が引かれると同時に、放たれた矢の前へとファイズは跳び出した。その胸に矢が火花を散らして弾かれる。よろけたファイズの胸部装甲に深い傷が刻まれた。

「たっくん!」

「穂乃果、逃げろ!」

 再びボウガンを構える敵に組み付きながらファイズは荒げた声を飛ばす。穂乃果が逃げるどころか、彼女の周りにぞろぞろとμ’sの面々が集まっていく。騒ぎを聞きつけたのだろう。

「ったく、近くにいられたら迷惑なんだよ」

 ファイズは愚痴りながらフライングフィッシュオルフェノクの腹に蹴りを入れた。灰色の体が吹き飛び芝生の上を転がる。ミッションメモリーを倒れたオートバジンのハンドルに挿入したところで、絵里の声が聞こえてくる。

「何で……、どうしてそこまで…………」

 ファイズエッジの赤い刀身を振り下ろし、答える。

「もうたくさんなんだよ! 誰かが死ぬのも、誰かの夢が壊れるのはもう見たくねえんだ! お前らには笑っててほしいんだ!」

 フライングフィッシュオルフェノクのボウガンが真っ二つに切断される。ファイズは更に剣で灰色の肉体に創傷を刻み込んでいく。

 オルフェノクと戦うこと。それはファイズに変身できる巧の義務と言える。だが、巧には義務を超えた理想と夢のために戦った。だから巧には確信できる。これが自分のやりたいことなのだと。それが罪を背負い、いつか報いを受けるときが来ることになっても。

「オルフェノクを倒すのが罪でも、こいつらがお前らの夢を壊すなら俺は倒す! ひとり残らず!」

 ファイズは剣を一閃した。真紅の刀身がフライングフィッシュオルフェノクの右腕を肩から切断する。ぼとりと芝生の上に落ちた灰色の腕は青い炎をあげた。

 フライングフィッシュオルフェノクは残った左手で右肩をおさえながら走り出す。「逃がすか!」とファイズはフォンのENTERキーを押した。

『Exceed Charge』

 フォトンブラッドがベルトから右手のファイズエッジへと充填され、刀身が更に紅く輝く。刀身を地面に滑らせると、フォトンブラッドの波が猛スピードでフライングフィッシュオルフェノクへと向かっていく。ファイズはその後を追いかけ、やがてフォトンブラッドの波が敵を拘束する。

「はあああっ‼」

 必殺のスパークルカットを放とうとした直前、フライングフィッシュオルフェノクが拘束を解いてファイズの胸に蹴りを入れてきた。よろめいたファイズの右手からファイズエッジが離れる。

 フライングフィッシュオルフェノクが校舎裏の森へと逃げていく。追跡しようと走り出すが、ファイズは地面に膝をつく。視界が眩い光に覆われていく。すぐに光が収まって、生身になった自分の手が見えてようやく、巧は変身が解けたことに気付いた。解除コードを押してもいないのに変身が解けるのは、ベルトが発する危険信号だ。

 巧はゆっくりと立ち上がりベルトからフォンを抜く。「たっくん!」、「乾さん!」とμ’sメンバー達が駆け寄ってくる。

「たっくん大丈夫?」

「平気だ。ほら、オープンキャンパス始まるぞ。さっさと着替えてこい」

 穂乃果は不安げに巧を見上げている。「でも――」と絵里が弱々しく言う。

「こんな状況で、ライブをするのは………」

 メンバー達は視線を下ろす。巧が何も言えない彼女らの中で、穂乃果は「こんな状況だから………」と呟く。その声が少しずつ力を取り戻していくように聞こえる。

「こんな状況だから、ライブをしなくちゃいけないんだと思う。たっくんが守ってくれたものを、簡単に諦めちゃいけないよ」

 穂乃果はメンバー達に語った。その声に込められた力が彼女らに伝播していくように、μ’sの面々は力強く頷いた。

 倒れたオートバジンへと歩きながら、巧は静かに呟く。

「守ってやる。この学校も、お前らの夢も」

「たっくん何か言った?」

「言ってねえよ」

 

 ♦

 戦闘でグランドの飾りつけが乱れてしまったが、それは中学生達が見学に来るまでに直すことができた。オルフェノク出現に伴いオープンキャンパスの中止を理事長は検討したようだが、当日になって中止なんてことはできないということで、一抹の不安を抱えながらもオープンキャンパスは開催された。理事長に開催を進言したのは、他でもない巧だったのだが。

「また出たら俺が倒す。あんたも娘の努力を無駄にしたくないだろ」

 オルフェノクが出たことを報告しに理事長室へ行った際、巧はそう虚勢を張った。正直、また変身できる自信はない。無責任だと自分でも思うが、だからといって学校存続を懸けたオープンキャンパスを中止にしてしまったら、何の行動も起こさずに彼女達の夢が壊れてしまう。それは絶対に阻止しなければならない。

 校舎の案内が終わり、イベントは部活紹介へと移る。運動部はそれぞれの練習場で、文化部は部室で自分達の活動内容を紹介している。同じ時間帯、グランドではこの日の目玉と言うべき部を見るために様々な制服を着た中学生達が集まっている。観客のなかには雪穂と、その隣に亜里沙がいる。雪穂の言っていたμ’sのファンとは亜里沙だったらしい。

 ベンチで缶コーヒーを飲みながら、巧は衣装に着替えた彼女達を眺める。頃合いを見計らって、センターに立つ穂乃果が挨拶を述べた。

「皆さんこんにちは。わたし達は音ノ木坂学院のスクールアイドル、μ’sです。わたし達はこの音ノ木坂学院が大好きです。この学校だからこのメンバーと出会い、この9人が揃ったんだと思います。これからやる曲は、わたし達が9人になって初めてできた曲です。わたし達のスタートの曲です」

 穂乃果が一歩踏み出し、「聞いてください」とメンバー全員で高らかに曲を宣言した。

「僕らのLIVE君とのLIFE」




 「ラブライブ!」色の強い回はどうしても巧がギャルゲーの主人公みたいになる………。まあ、「555」本編でも澤田を攻略してたけど。木場も最終的に攻略できたし、草加は攻略できなかったですね。てか男ばっか(笑)。女子はヒーヒーしないのかな?


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第10話 ワンダーゾーン / 甘く苦い街

 夏休みが近付くにつれて気温も上がってきている。少し歩いただけで全身から汗が吹き出してくる。そろそろ猛暑に突入しそうな時期だというのに、μ’sは毎日屋上の炎天下で練習に励んでいる。そうなってくると、太陽よりも彼女らの熱が勝っているのではないかとさえ思えてきた。

 ドアを開けて屋上に出ると風が巧の髪を揺らしてくる。風すらも温められているものだから全く涼めない。

「たっくん!」

 柵に背を預けていた穂乃果が手を振ってくる。巧は額の汗を拭いながら彼女のもとへ歩く。昼休みの屋上には穂乃果と巧しかいない。

「こんな暑い日に何の用だ?」

 暑さをものともせず穂乃果は「えへへ」と笑っている。この溢れんばかりの気力は若さなのか、それとも彼女が持つ気質なのか。

「ビッグニュースがあるんだ」

「廃校が見送られたことか?」

「何で知ってるの!?」

「理事長から聞いたんだよ」

 オープンキャンパスのアンケートが好評だったため、廃校は一旦見送られることになった。とはいえ、オープンキャンパスの結果が良かっただけだ。来年度の入学希望者が芳しくなければ、また廃校という可能性は浮上する。だが、今は素直に喜んでも構わないだろう。

「じゃあ、部室が広くなったこと! これ凄いでしょ?」

「あの部室片付けたの俺だぞ」

 これも巧は既に知っている。アイドル研究部に面した教室を使うからと整備したばかりだ。オープンキャンパス成功に貢献したのと部員が9人に増えたことで、アイドル研究部の部室が拡張されたのだ。

「せっかく驚かせようと思ったのにー」

 穂乃果は口をとがらせる。巧は柵の土台になっている縁石に腰を落ち着かせて空を見上げる。空には入道雲が浮かんでいた。

「まあ良かったじゃねーか。廃校止めるためにスクールアイドル始めたんだろ」

 「うん」と返事をして、穂乃果も巧の隣に座って空を眺める。

「オープンキャンパスが成功したのも、たっくんのおかげだよ」

「俺は何もしてねえだろ」

 「もー」と穂乃果はむくれる。

「本当に素直じゃないよね」

「これでも少しはましになったんだよ」

 巧はくすりとも笑わない。いつも通り不機嫌そうな顔をしている。普通ならこんな人間と会話に華を咲かせようとは思わないし、人によっては苛ついて喧嘩腰になるかもしれない。それなのに、穂乃果は笑顔を絶やさない。

「でもたっくんが守ってくれたから、μ’sはここまで来れたんだよ。ありがとう、たっくん」

 ありがとう。

 その言葉が巧の頭蓋を駆け回っていくような錯覚に陥る。礼を言われたことには慣れていない。感謝されてもどう返せばいいか分からないし、感謝されるようなことをしたとも思えない。ただオルフェノクを倒しただけ。巧のしたことはそれだけだ。だから、巧は穂乃果の「ありがとう」にどう返せばいいのか見つけることができない。代わりに出てくるのは問いだ。

「これからどうすんだ? まだアイドル続けるのか?」

「勿論! まだラブライブがあるもん。あ、そうそう。新しい曲のPVアップしたら、また順位上がったんだ」

 穂乃果は嬉しそうだ。余計な口を挟むまいと、巧は黙って聞く。

「廃校のために始めたことだけど、やっていくうちに思ったんだ。歌とダンスは楽しいんだって。皆にも知ってほしい。わたし達を見て、たくさんの人が楽しんで笑顔になるのが、わたしの夢」

 穂乃果は恥ずかしげもなく語った。いや、夢を語るのに恥ずかしがることはない。やりたいと、正しいと信じることに迷いなんて必要ないのだ。

「たっくんにも夢あるんだよね?」

「ああ」

「今度は教えてよ」

 穂乃果が巧の顔を覗き込んでくる。これほど興味を持つのも、巧が何事にも関心を示さないからだろう。だから余計気になるのかもしれない。こんな無骨な男が何を夢見ているのか。

「聞いてどうすんだよ?」

「良いじゃん、不公平だよ。わたし教えたのにたっくん教えてくれないなんて」

「ガキみてーなこと言うなよ」

 ひゅー、と2人の間を夏の熱風が吹き抜けた。風が運んできた木の葉が空へと舞い上がる。その様子を目で追っていた巧は穂乃果へ視線を移さずに告げる。

「………一度しか言わないぞ」

「うん!」

 夢を語るのに恥ずかしがることはない。そう思っていながらも、自分の夢となると羞恥は拭えない。巧は独り言を呟くように夢を語った。

「世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、皆が幸せになりますように」

 ふと、巧は穂乃果へと視線を移す。穂乃果は口を開けたまま巧を見つめている。

「おかしいか?」

 そう聞くと、穂乃果は優しく微笑んだ。

「ううん。たっくんらしいなって」

「どこがだよ」

 

 ♦

 街に建ち並ぶコンクリートのビルやアスファルトが太陽に焼かれ、まるで焼き石のような熱気を放っている。街全体がサウナみたいだ。日陰にいても全く涼しくない。時折風が吹いてくるのだが、それは飲食店のダクトが吐き出す熱風で更に街を暑くさせている。

 漫画。アニメ。そしてアイドル。様々な娯楽が溢れる秋葉原は今日も賑わっていて忙しそうだ。所々で見える客引きのメイドやコスプレイヤーはさも当たり前のように街を歩いている。彼等のような人物は慣れたものなのか、通行人達は彼女達には目もくれずBGMが騒々しい街を行き交う。

 どんなに珍妙な者でも溶け込んでしまうのがこの街の特色なのだと思っていたが、流石にその集団は溶け込めずにいるようで通行人達の視線を集めている。

 こんな暑い季節にコートとマフラー、更にサングラスにマスクと追い打ちをかけたいかにも怪しい集団を目にした巧はすぐさま場を立ち去ろうとしたのだが、集団から聞き慣れた声で「たっくん!」と呼ばれたせいで踏みとどまる羽目になった。

「何やってんだ?」

 巧の問いにはにこが答える。

「にこ達だって気付かなかったでしょ? これがアイドルに生きる道なの。有名人なら、しっかりと街に紛れる格好ってものがあるのよ」

 「逆に目立っているかと………」という海未の指摘は耳に入っていないらしく、にこは腰に手を当てている。表情は分からないが、得意げな顔をしていることは十分に分かる。

「どう? 完璧な変装でしょ?」

「おい、まさかこのためだけに呼び出したんじゃないだろうな?」

 びくりと、仕事終わりの巧に電話をよこしてきた穂乃果の肩が震える。巧の険を込めた視線など目にもくれずに、にこは続ける。

「たとえプライベートであっても、常に人に見られてることを意識する。トップアイドルを目指すならば当たり前――」

「帰る」

 回れ右をする巧の右腕を穂乃果が掴んでくる。

「ごめんたっくん! ジュース奢るからもう少しだけ付き合って」

「こんな下らねえことに付き合ってられっか! つか暑いんだよくっつくな!」

 「待ちなさいよ!」とにこが左腕を掴んでくる。騒ぐせいで体温がどんどん上がっていく。そのまま熱暴走を起こしそうになるが、「凄いにゃー!」という凛の声が聞こえて穂乃果とにこの力が緩んだ。巧は2人の手を振り払う。

 花陽の悲鳴にも似た感嘆の声は小さな雑居ビルの1階にある店から聞こえる。穂乃果達は暑苦しいコートとマフラーを脱ぎ店に入る。店内の一角で凛と目を輝かせた花陽が商品の缶バッジを物色している。

「何だここ?」

 写真とガシャポン販売機が敷き詰められた店内を見渡す巧がそう漏らすとにこが「近くに住んでるのに知らないの?」と詰め寄ってくる。にこだけは変装のコートを脱いでいない。正直、近くにいるだけで暑苦しい。

「最近オープンしたスクールアイドルの専門ショップよ。とはいえ、まだ秋葉に数件あるくらいだけど」

 数件とはいえ、こんな店ができるということはスクールアイドルというジャンルも普及しつつあるということだろう。ここまでくるとプロのアイドルとの違いが分からなくなってくる。学生か否かというだけだ。

 「ねえ見て見て!」と凛が缶バッジを持ってくる。

「この缶バッジの子可愛いよ。まるでかよちん。そっくりだにゃー!」

 そっくりも何も、と思いながら巧は凛が見せてきたバッジを凝視する。バッジのなかで満面の笑顔を浮かべている少女は他人の空似ではなく、紛れもない花陽だ。

「それ小泉だぞ」

「え――!」

 どこに目付けてんだ、と巧は驚愕の表情を浮かべる凛を見て思った。「それ、どこに置いてあったの?」と穂乃果が尋ね、凛が案内した入口の近くには特設らしきコーナーがある。手書きの文字とカラフルなペンで「人気爆発中」、「μ’sコーナー」、「大量追加入荷しました」という札が立てられ、Tシャツやうちわやブロマイド、先ほど凛が持ってきた缶バッジも置かれている。

 メンバー達はその特設コーナーを驚愕と困惑が混ざったような顔で見ている。自分の顔なんて洗顔や化粧で毎日見るはずなのにおかしなものだな、と思いながら巧もコーナーを眺める。にこが自分のグッズがないと騒いでいることには触れず、ふと巧の視線は隣のコーナーに移った。並べられた写真はメイドを写したものばかりなのだが、1枚だけ見覚えのある顔がある。「なあ」と巧は隣にいる穂乃果に声をかける。今更ながら、メンバーが1人だけ不在なことに気付いた。

「そういや南はどうしたんだ?」

「ことりちゃん、何か用事あるみたいで先に帰っちゃったんだよね」

 「そうか」と巧が返す。秘密なら黙っておいたほうが良いだろう。この件に関しては巧の大嫌いなトラブルの匂いを強烈に感じる。

「すみません」

 その周波数が高い声で、店内にいるメンバー全員の視線が外へと向く。外で商品の整理をしている店員に、たった今写真で見たばかりのメイドが話し掛けている。

「ここに写真が、わたしの生写真があるって聞いて。あれは駄目なんです。今すぐなくしてください」

 何てタイミングが悪いんだ。巧がそう思っていると、目を丸くした穂乃果が「ことりちゃん?」と声をかける。穂乃果が声を発した瞬間、メイドは「ひゃあっ!」と奇声に似た短い悲鳴をあげて硬直した。

「ことり………、何してるんですか………?」

 海未が戸惑い気味に尋ねるも、メイドはこちらに背を向けて硬直したまま。やっと振り返ったと思えば、メイドは両目にガシャポンのカプセルを当てて笑顔を取り繕っている。

「コトリ? ホワッツ? ドナタディスカ?」

 「うわ……、外国人?」と凛の驚く声が聞こえる。気付かない凛と変装にしては苦しすぎることり。どちらに呆れたらいいのか分からなくなってくる。穂乃果はことりに歩み寄る。

「ことりちゃんだよね?」

「チガイマース」

 まだ続けるつもりか。巧が呆れ果てていると、ことりは目にカプセルを当てたままぎこちなく歩き出す。

「ソレデハ、ゴキゲンヨウ」

 「さらば!」とことりはスカートを掴んで走り出した。穂乃果と海未が後を追いかける。だが穂乃果はすぐに立ち止まり、振り返る。

「たっくん、バイクで追いかけて!」

「はあ? 何で俺が――」

 巧の文句を最後まで聞かず、「お願ーい!」と穂乃果は街へと走っていく。

「馬鹿馬鹿しい。俺はもう帰るぞ」

 ため息をついて歩く巧の腕に凛がしがみついてくる。

「駄目ー! ことり先輩追いかけないと!」

「くっつくな鬱陶しい!」

 「乾さんお願いします」と花陽が加わってくる。更に、にこも加わったせいで巧を蒸し風呂のように熱気が囲んでくる。

「分かった! 分かったから離れろ!」

 観念したところでようやく解放される。巧は不貞腐れながら路肩に停めておいたオートバジンを街中で走らせていく。逃げ道に大通りを使うなんて間抜けなことはしないだろうから、巧は狭い路地を走った。なるべく人の少ない道を通り、自分が街のどこを走っているのかも分からなくなってきたところで目立つメイド服を着たことりを見つける。走り疲れたのか一息ついているらしい。

 ブレーキを踏むと、タイヤの擦れる音に気付いたことりが怯えた表情をする。逃げられないよう路地を塞ぐようにオートバジンを停めて、巧はバイザーを上げた。

「一応、穂乃果達には言っといたほうが良いんじゃねえのか?」

「ごめんなさい………」

 ことりは巧の差し出したヘルメットを素直に受け取ってリアシートに乗った。

 ことりの案内で彼女のバイト先であるメイドカフェへとオートバジンを走らせ、到着すると穂乃果に店の住所をメールした。穂乃果達が来店するまでの間、客が殆どいない店のソファにこぢんまりと座っていた。まるで石にでもなろうとしているようだ。

 穂乃果達が来店すると、ことりはメイドカフェでバイトしていることを白状した。店で使っている源氏名を明かすと、メンバー達が「えー!」と驚愕する。

「こ、ことり先輩が……、この秋葉で伝説のメイド、ミナリンスキーさんだったんですか………?」

 花陽が興奮気味に問うと、「そうです」とことりは対照的に沈んだ口調で返した。メンバー達の反応が怖いのか、俯いた顔を上げようとしない。

「ひどいよことりちゃん。そういう事なら教えてよ!」

 穂乃果がそう言うと、ことりは顔を更に俯かせる。バイトするのは本人の自由とはいえ、親友として秘密にされたことは気に入らないのだろう。そう思っていた。

「言ってくれれば遊びに来て、ジュースとかご馳走になったのに!」

「そこじゃねーよ」

 たかるつもりだったのか。穂乃果の能天気さはこれ以上突き詰めないことにして、巧はコルクボードに貼られた写真へと意識を向ける。同じくコルクボードを見ている絵里が「じゃあ、この写真は?」と尋ねる。

「店内のイベントで歌わされて………。撮影禁止だったのに………」

 肩を落とすことりの隣に穂乃果が座る。

「なんだ。じゃあ、アイドルってわけじゃないんだね?」

「うん、それは勿論」

 「でも何故です?」と海未が尋ねる。ことりは所在なさげに答える。3人でμ’sを始めたばかりの頃、街でスカウトされたらしい。断るつもりだったのだが、制服のメイド服を可愛いと気に入り、働いているうちに評判となって伝説とまで言われるほどになったというのがバイトの経緯だ。

「自分を変えたいなと思って。わたし、穂乃果ちゃんや海未ちゃんと違って何もないから………」

「何もない?」と穂乃果が聞く。

「穂乃果ちゃんみたいに皆を引っ張っていくこともできないし、海未ちゃんみたいにしっかりもしてない」

「そんなことないよ。歌もダンスもことりちゃん上手だよ」

「衣装だって、ことりが作ってくれているじゃないですか」

 穂乃果と海未が立て続けに言う。ことりのμ’sへの貢献度は高い。それは誰の目から見ても明らかだ。

「少なくとも、2年の中では一番まともね」

 真姫がさらりと言う。穂乃果と海未が目を細めて真姫を睨む。「おい、いくら何でも言い過ぎだぞ」と巧は知らんぷりを決め込む真姫に注意する。

「俺だって今まで黙ってたってのに………」

 穂乃果と海未の視線が巧へと移った。

「たっくんひどいよ! 今までずっとそう思ってたってこと?」

「今のは聞き捨てなりません!」

 2人が巧に詰め寄ってくる。その剣幕に巧は思わず顔を逸らした。

「もう、今はどうだっていいでしょ?」

 絵里が2人を巧から引き離してくれる。2人の興奮が冷めたところを見計らってことりは言う。

「わたしはただ、2人に着いていってるだけだよ」

 ことりはもどかしそうに唇を結んだ。

 

 ♦

 店でお茶を飲んで談笑し、出る頃には夕刻になっている。帰宅時間のためか、街の人は更に多くなっていく。

 同じ帰り道を並んで歩く穂乃果、海未、絵里の後を着いていくように、巧はオートバジンを押す。本当ならさっさと帰りたいところだが、また彼女らを狙って奴らが現れるかもしれない。オープンキャンパスの日に逃げられてしまったオルフェノクにスマートレディ。一旦見送られはしたが、音ノ木坂学院の廃校はまだ消えていない。

「でも意外だなあ。ことりちゃんがそんなこと悩んでたなんて」

 3人の真ん中を歩く穂乃果が呟く。

「意外と皆、そうなのかもしれないわね」

 絵里の言葉に穂乃果は「え?」と返す。

「自分のことを優れているなんて思っている人間は、殆どいないってこと。だから努力するのよ、皆」

 「そっか」と穂乃果が呟く。確かにそうかもしれない。巧の思考を海未が言葉にしたことから、彼女も同じことを思ったらしい。

 真理も啓太郎も努力を怠らなかった。真理は仕事から帰ってきても夜遅くまでカットの練習をしていたし、啓太郎もクリーニングの技術は高いが、決して慢心を見せなかった。正直、夢を見つけるまで巧は2人が羨ましかった。どんなに面倒臭くて辛くても、頑張ることを躊躇しない2人が。

「そうやって少しずつ成長して、成長した周りの人を見てまた頑張って。ライバルみたいな関係なのかもね。友達って」

 3人は立ち止まる。後ろにいる巧も。絵里とはここで別れるのだ。

「じゃあ、もっと頑張らなければいけませんね。お互いライバルとして」

 海未がそう言うと、穂乃果と絵里は微笑む。その微笑は巧にも向けられる。

「………何だよ?」

「乾さんにも、頑張ってもらわなければということです」

 微笑を崩さずに海未がそう言う。

「何で俺まで」

「オルフェノクから学校を守ってくれないと。あんなものが出たら、ライブもできませんから」

 「ねえ、園田さん」と絵里が少し不安げに尋ねる。

「やっぱり、オルフェノクは悪い人ばかりだと思う?」

「当然です。学校は何度も襲われていますし。何故オルフェノクなんてものが生まれたのかは分かりませんが、あんな怪物は滅ぶべきです」

 海未は即答する。はっきりとした口調で。絵里は物憂げに巧を見る。巧はいつもの憮然とした表情を崩さない。それが「これ以上追及するな」という言葉の代わりと伝わるかは分からないが。

 海未の言葉は、多くの人間が持つオルフェノクへの認識なのだ。いくら彼等が人間としての心を保っていようとも、その灰色の姿は怪物だ。怪物としての姿を得てしまった者は、いずれは力に溺れて心まで怪物になってしまう。人間にとってオルフェノクとはそういうものだ。恐怖の対象以外の何者でもない。

 それを見てきたからこそ、巧はオルフェノクを滅ぼすことを選択した。とても辛い決断だ。オルフェノクのなかにも、人間として生きようとする者はいた。巧も彼等に生きてほしかった。でも彼等が生きるのと引き換えに人間が滅びるのなら、オルフェノクは滅ぶべきだ。

「どうして、そんなこと聞くんですか?」

 穂乃果が絵里に尋ねる。絵里はぎこちない作り笑いを浮かべた。

「乾さんから聞いてね。オルフェノクって元は人間だったらしいの。だから、まだ人の心が残っているオルフェノクもいるんじゃないかなと思って」

 「ふーん」と穂乃果の顔が巧へと向けられる。

「たっくんは、どう思う?」

「化け物だ。奴らは」

 巧は即答する。「そうですね」と海未が同意して、絵里は怪訝そうに巧を見ている。

 正直、絵里にフロッグオルフェノクだった戸田の最期を見せてしまったことを後悔している。ファイズとして戦うことの意味を見せつける意図だったのだが、絵里には余計な悩みを抱えさせてしまったらしい。絵里は人間だ。これからを生きる人間は、滅びゆくオルフェノクという種に情けをかける必要はない。

「オルフェノクなんて滅べばいいんだよ」

 釈然としない様子の穂乃果に巧は言い放つ。穂乃果は街を茜色に染める夕陽を眺め、どこか切なそうな声色で言った。

「うん。オルフェノクって怖いもん」

 

 ♦

 巧は突っ立っている。仕事終わりにオートバジンを駐輪場から校門まで押してエンジンを掛けようとしたところで、頓珍漢なBGMの音源をただ凝視している。まるで珍獣にでも出くわした気分だ。

「ふ~わふ~わし~たも~のか~わい~な、ハイ! あとはマ~カロンた~くさ~ん並べたら~、カラ~フル~で、し~あ~わ~せ!」

「壊れたのか………?」

 巧の視線の先。校門まで歩きながらことりが歌を口ずさんでいる。ひとりでいることがまず珍しいのだが、それよりも意識が向くのは彼女が発するメロディと歌詞だ。彼女らしく甘ったるい。

「ル~ル~る………。やっぱり無理だよー!」

 ことりは頭を抱える。関わったら面倒だと思ったとき、こちらに気付いたことりと目が合ってしまう。

「乾さん?」

「………2人は一緒じゃないのか?」

 敢えて歌のことには触れないよう言葉を選んだのだが、ことりは恥ずかしそうに鞄を胸に抱える。

「………聞いてました?」

「………聞いてない」

「………嘘ですよね?」

「………ああ、聞いてた」

 ことりは鞄に顔を埋める。恥ずかしいなら歌うなと思いながら、巧はオートバジンのシートから降りてことりへと歩み寄る。

「何やってんだお前。穂乃果と園田はどうした?」

「ひとりで歌詞を考えたいから、2人には先に帰ってもらって………」

「歌詞?」

 質問を重ねようとしたところで巧は踏み止まる。これには関わってはいけない。関われば貧乏くじを引くことになると直感で悟る。

「そうか、頑張れよ」

 そう言って巧は歩き出す。「え?」と意外そうに、ことりはオートバジンのシートに跨る巧へと駆け足気味に近付いてくる。

「乾さんも手伝って下さい。男の人の意見も聞きたいんです」

「俺だって暇じゃねーんだ」

 構わずグローブをはめてヘルメットを被ろうとしたところで「あうううう………」という声が聞こえる。振り向くとことりが頭を抱えてうずくまっている。

「何だ?」

「考えすぎて頭が沸騰しそう………。このままじゃ熱中症になっちゃうかも………」

「じゃあどっか涼しいとこで考えろよ」

「ビアンカのチーズケーキ食べたら、思いつくかも………」

「食いに行けばいいじゃねーか。その店に」

「ここから遠いので、車とかバイクとかじゃないと………」

 何だか真理とも似たやり取りをした覚えがある。あれは出会って間もない頃だったか。どうにも自分にはこの手のトラブルが引き寄せられていくらしい。半ば諦め気味に巧はヘルメットを叩く。この女、おっとりしているように見せて腹の底は黒いに違いない。

「分かったよ。乗れ」

 吐き捨てるように言って、巧はもうひとつのヘルメットをことりに手渡した。

 

 ♦

 ことりの道案内で訪れた店は、御茶ノ水のビル1階に構える小さなカフェだった。オーダーしたチーズケーキを食べて、ことりは満足そうに笑みを零す。

「いいのか? 伝説のメイドが男とケーキ食って」

「意外とばれないものなんです」

 「そうか」と言って、巧はアイスティーを飲みながらことりが作詞に使っているノートを開く。

 事情を聞くと――聞いていもいないのにことりが勝手に話したのだが――絵里の提案で、秋葉原で路上ライブをすることになった。アイドルファンの聖地と言われる秋葉原で満足のいくパフォーマンスができればμ’sの大きな宣伝になると見込んでのものだ。そこで、ライブで披露する曲の作詞は秋葉原のことをよく知っていることりへと白羽の矢が立った。

 ノートには「チョコレートパフェ美味しい」だの「生地がパリパリのクレープ食べたい」だの、ことりの趣味満載なフレーズが丸文字で書かれている。

「そんで作詞に手こずってるってか」

「何を書いたらいいのか、全然分からなくて………」

 チーズケーキを食べ終わったことりは名残惜しそうに空になった皿へと視線を落とす。まさか、まだ食べ足りないというのか。

「できもしないのに安請け合いするからだろ。まあ、黙ってバイトしてたツケが回って来たってこったな」

「はい……、だから断れなくて。それに………。何もないわたしをみんなが頼ってくれたことが嬉しくて、これだけは期待に応えたいんです」

「何もないってこたねーだろ。あんま自分を卑下すんな。何もないから何かする分、お前はまだマシだ。だらだら過ごしてる奴よりは見つかるものもある」

 巧がそう言うと、ことりは微笑を浮かべ細めた目で巧を見てくる。それが不意打ちのようで、巧は思わず身構えてしまう。

「何だよ?」

「穂乃果ちゃんの言ってた通り。乾さんて良い人だなって。ちょっと怖いけど」

「怖いは余計だ。大体な、俺だって何にもねーぞ。ファイズに変身すること以外、何やっても上手くできないしな」

「でも、アイロンがけが上手って穂乃果ちゃん言ってましたよ。あと猫舌ってことも」

「穂乃果の言うことなんてあてになるのかよ?」

「穂乃果ちゃんは人を見る目ありますよ。μ’sのみんなは良い人ばかりだし、乾さんだってこうしてわたしの相談に乗ってくれてますし」

「お前が無理矢理付き合わせてるんだろうが。そもそも俺と話して歌詞は思いついたのか?」

 この件の確信を突いた質問をしてみるのだが、ことりは苦笑を浮かべたまま視線を泳がせている。まさか本当にチーズケーキを食べるために連れてきたのか。

 気まずい沈黙を携帯電話のバイブ音が破る。ことりの携帯だ。待ってましたと言うように電話に出たことりは、通話相手との会話で驚いた表情をする。通話を切ると、ことりは巧に言った。

「穂乃果ちゃんが、バイト先のお店に行こうって」

「何でまた?」

「とっておきの方法があるみたいです」

 

 ♦

「お帰りなさいませ、ご主人様」

 満面の笑顔でことりが言う。それに習って穂乃果が元気よく、海未が恥ずかしそうに同じ台詞を言う。

 穂乃果のとっておきの方法とは、ことりのバイト先であるメイドカフェに一緒に働いて一緒に考えるというものだった。穂乃果らしいといえば穂乃果らしい。これで本当に歌詞が思い浮かぶのかは疑問だが、気分転換としては巧とお茶をするよりはずっと良い。ことりも嬉しそうにメイド服を着る親友2人を見ている。

「たっくん、似合う?」

「似合う似合う」

「何か適当」

 むくれる穂乃果を尻目に、ソファでくつろぐ巧は興味なさげに水を飲む。ことりを送ったらすぐに帰るつもりだったのだが、既に店にいた穂乃果に捕まった。

「乾さんにメイド服姿を見てほしいんですよ」

 不機嫌な顔をする巧にことりはそう言っていた。彼女じゃあるまいし。メイド服に似合うも似合わないもあるのだろうか。

 しばらくして「にゃー!」と凛を先頭に他のμ’sメンバー達が入ってくる。

「秋葉で歌う曲なら、秋葉で考えるってことね」

 メイド服を着た3人を見て、絵里が納得したように言う。希は面白そうにメイド達へとビデオカメラを向ける。

「ではではー、早速取材を」

 「やめてください」と顔を赤くした海未がレンズに手をかざす。

「何故みんな――」

 「わたしが呼んだの」と穂乃果が言うと海未の文句は穂乃果へと移る。それを遮るように、巧の隣席で頬杖をつくにこが憮然と言った。

「それよりも早く接客してちょうだい」

「ああ、こちとら腹減ってんだ」

 巧も立て続けに言うと、海未は狼狽して視線を店内のあちこちへと泳がせている。接客業の経験はないらしい。もっとも、恥ずかしがり屋な海未に務まるとは思えないが。すっかり仕事に慣れていることりは、新しく来た客に対応している。

「さすが伝説のメイド………」

「ミナリンスキー………」

 仕事ぶりを見た花陽と凛がことりに尊敬の眼差しを向けている。店は混んできたのだが、慌てることなく仕事をこなすことりは楽しそうだ。彼女が客に向ける作っていない笑顔がそれを証明している。

「お待たせしました。乾さんにはサービスです」

 ことりは巧の前にオムライスを置く。巧はオムライスにケチャップで描かれたイラストを凝視しながら尋ねる。

「何だこれは?」

「ファイズです」

「丸に線引いただけじゃねーか」

 文句を言いながらも巧はファイズ、というよりもギリシャ文字のΦが描かれたオムライスをスプーンで掬い取る。出来立てのようでまだ熱い。巧が息を吹きかける様子を真姫が茶化してくる。

「ことり先輩にふーふーしてもらったら?」

「いらん」

 巧はやけくそ気味に息を強く吹きかけ口に入れる。だがまだ熱く悶絶していると、ことりがグラスの水を差し出してくれた。年上の慌てる姿が面白いのか、ことりは控え目に笑う。でも悪い気はしない。彼女は侮辱として笑っているのではなく、この場が楽しいから笑っているのだ。

「お前、ここにいると楽しそうだな」

「え?」

 近くで接客していた穂乃果が会話に加わってくる。

「うん、生き生きしてるよ」

 少しだけ驚いた顔の後、ことりは「うん」と穏やかな笑みを浮かべる。

「何かね、この服を着ていると、できるっていうか。この街に来ると、不思議と勇気が貰えるの。もし思い切って自分を変えようとしても、この街ならきっと受け入れてくれる気がする」

 次々と新しく生まれていくコンテンツ。それを取り入れていく秋葉原。街は万物を拒むことなく受け入れ、人々はその混沌を行き交う。この街には娯楽が溢れている。漫画やアニメ、そしてアイドル。でも時と共に流行や話題のコンテンツは変わっていく。この街の楽しみ方とは、それらの娯楽品や嗜好品の変遷を見ていくことなのかもしれない。

「そんな気持ちにさせてくれるんだ。だから好き」

 ことりの楽しんでいる様子が嬉しいのか、穂乃果も楽しそうに笑う。でもすぐにはっと目を見開く。

「ことりちゃん、今のだよ!」

「え?」

「今ことりちゃんが言ったことを、そのまま歌にすれば良いんだよ。この街を見て、友達を見て、色んなものを見て。ことりちゃんが感じたこと、思ったこと。ただそれをそのまま歌に乗せるだけで良いんだよ!」

 

 ♦

 夕刻の秋葉原は人が多い。日曜日ということもあって、昼間から街には人がごった返している。皆求めているのかもしれない。日常で感じる疲れを癒してくれる娯楽を。

 とりわけ人が多く集まる場所。そこには9人のメイドがいる。メイド服は、今回歌う曲のために用意されたμ’sの衣装だ。他の曲と比べたらシンプルだが、秋葉で歌うには相応しいと、絵里は言っていた。

 穂乃果の助言でことりは曲の方向性を見出したらしい。歌詞が完成するとすぐに真姫が作曲をこなし、衣装やライブ会場の手配がとんとん拍子に進んでいった。ことりのバイト先を中心としてチラシを配り、その甲斐あってこの日は昼間からμ’sのライブを観ようと行列ができていた。ネット上で人気が急上昇しているだけあって、なかなかの盛況ぶりだ。

 ライブ開始が近い頃、ことりのバイト先でくつろいでいた巧は窓から街を見下ろす。多くの人々が会場である一角の路上へと集まっていく。開始が近いこともあって皆急ぎ足だ。そのなかでゆっくりとした足取りの者は目立つ。巧の視線はゆっくり、というよりもふらついた足取りというべき男へと固定される。見覚えのある男だ。その顔はこれからのライブを楽しみしているとは思えないほど鬼気迫っている。

「ご馳走さん」

 清算を済ませて巧は店を出る。男はすぐに見つかった。人に娯楽をもたらすこの街で、彼の悪鬼のような形相は目立つ。巧は行く手を塞ぐように、男の前に立つ。人々は既にμ’sのもとへと行き去っていた。

 巧がファイズギアを腰に巻くと、男の眉間に刻まれたしわが更に深くなる。

「ファイズ………」

 男の顔に禍々しい筋が浮かび上がる。

 この街は万物を受け入れる。人も娯楽も、そして夢も。だが、街が受け入れても巧は受け入れない。

 男はフライングフィッシュオルフェノクに変身した。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 巧はファイズに変身した。咆哮と共に繰り出してきたフライングフィッシュオルフェノクの拳を払い落とし、肩と首根っこを掴んで引きずり込んでいく。人気の少ない路地裏へ入ったところで、ファイズはフライングフィッシュオルフェノクの顔に拳を見舞う。反撃とばかりに、フライングフィッシュオルフェノクは腹に蹴りを入れてきた。

 よろめいたファイズは続けざまに振り下ろされた拳を避け、背後に回って両肩を掴み脇腹を膝で蹴り上げる。呻き声をあげる敵に何度も拳を打ち付けるが、攻撃する度に違和感を覚えていく。

 フライングフィッシュオルフェノクは全く痛みを意に介していない様子なのだ。ファイズが何度も顔面を殴っても、防御することなくファイズに攻撃を仕掛けてくる。そもそも、このオルフェノクが近接戦をすること自体が異常だ。以前使っていたボウガンを手に取る気配がない。

「何だ、こいつっ………」

 顔面に肘打ちを食らい数歩よろけたフライングフィッシュオルフェノクが咆哮をあげた。まるで獣のようだった。知性も意思もなく、ただ本能のまま獲物を食おうとするようだ。これがオルフェノクの本性だというのか。

『Ready』

 ミッションメモリーを挿入したショットを装備し、フォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 フライングフィッシュオルフェノクが走り出す。ファイズはゆっくりと腰を落としてショットを装着した右手を引く。こちらが攻撃の体勢を取っているというのに、フライングフィッシュオルフェノクは全く警戒の素振りを見せない。ただ猛進してくるだけだ。

 灰色の拳が振り下ろされるよりも一瞬早く、ファイズはその胸にグランインパクトを放った。凄まじいパワーで拳が深々と灰色の胸に沈み、臓器と筋肉を突き破っていく。フライングフィッシュオルフェノクの腕と頭がだらりと下がった。続けて青い炎が燃え上がり、やがて焼き尽くされて灰になる。

 崩れた敵の残骸を一瞥し、ファイズはゆっくりと歩き出す。

 少し離れたところから歌が聞こえてくる。万物を受け入れるこの街が好きという気持ちを歌った曲が。

 ファイズは変身を解除した。生身になった掌には灰が付いている。それが倒した敵のものか自分のものか、巧には分からなかった。



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第11話 先輩禁止! / 超える一線

 まだ10話ちょいしか投稿していないにも関わらず、合計文字数が10万を超えていました。ビックリしました。

 何とか文字数を減らそうと頑張ってみましたが、できそうにないので諦めることにしました。アニメの1話分て結構ボリュームありますね。長いので数日かけて読んで頂くほうがいいかもしれません。


 陽が暮れても暑さの抜けない季節になった。ニュースの天気予報は連日猛暑を伝え、今年に入ってからの熱中症患者の数を伝えるのに忙しい。炎天下のなか、夏休みに入ったにも関わらず屋上で練習するμ’sメンバー達の熱中症リスクは高い。メンバーのなかに無理な練習を強いる脳筋気質がいないのが幸いだ。とりわけ、穂乃果は熱中症よりも日焼けのほうが心配のようだ。毎日練習に行く前に顔や腕に日焼け止めクリームを塗りたくるものだから減りが早い。女は美容に気を遣うから大変だ。

 連日続く暑さでぼうっとすることが多くなったある日、その知らせは突然やってきた。

「合宿?」

 高坂家の夕飯で、味噌汁に息を吹きかけながら巧は穂乃果が言った台詞を反芻する。穂乃果の説明はいつも要点の大半を省くから分かり辛い。

「うん。真姫ちゃん家が別荘持ってて、そこで合宿することになったんだ。近くに海があるんだって」

「へえ、良いわねえ別荘」

 おかずのゴーヤチャンプルを皿によそいながら、高坂母がしみじみと言う。

「うちも湖に行ったとき、コテージとか借りたことあったわよね。ねえお父さん?」

 妻の質問に高坂父は無言で頷く。こんな仕事一筋といった雰囲気の父親が家族旅行に出掛けるなんて意外だ。そんな暇があったら新商品の試作とかしていそうなのに。小さい茶碗に盛られたご飯をちびちびと食べていた雪穂が言う。

「そんなことあったっけ?」

「雪穂はまだ小さかったからね。水着持っていかなかったのに、穂乃果が湖に飛び込んで大変だったんだから」

 笑いながら高坂母は思い出を語った。巧は何となく、幼い頃の穂乃果がイメージできた。今と大して変わらないからだ。突拍子もない行動力は昔から変わらないということか。

「ちゃんと準備しときなさいよ。あんた中学の修学旅行で着替えの下着忘れてったじゃない」

「昔の話だよ」

 口をとがらせた穂乃果はゴーヤチャンプルをかき込む。口いっぱいに詰まったおかずを嚙みながら、もごもごと穂乃果の視線は巧へと移る。

「合宿は2泊3日だから、たっくんよろしくね」

「ああ、気を付けて行けよ」

「え? たっくん行かないの?」

 ようやく冷めた味噌汁を飲もうとした手を静止させ、「は?」と巧は聞き返す。

「行かねえよ。何で俺まで行くことになってんだ」

「えー? 一緒に行こうよ」

「遊びに行くわけじゃねーんだろ。大体お前らの合宿に着いてって何しろってんだよ?」

「ご飯の準備とか?」

「雑用じゃねーか。俺は嫌だぞ、絶対にな」

 不貞腐れた顔をする穂乃果には目もくれず、巧は味噌汁を啜った。

 

 ♦

 旧い時代を感じさせる赤煉瓦造りの東京駅丸の内駅舎は、中に足を踏み入れれば雰囲気が外装とは様変わりする。自動券売機や自動改札機といった日々進歩していく技術が詰め込まれ、古めかしさは一切感じない。

 まるで最新型のエンジンを積んだ旧車みたいだ。外装はそのままだが、腹に抱えているのはハイテクなものばかり。そんな奇妙なドームの下で、現代を生きる彼女達は集まっていた。

「珍しいわね。穂乃果が時間通りに来るなんて」

 自分より早く待ち合わせ場所に来ていた穂乃果をにこは意外そうに見つめる。

「いつもわたしとことりが迎えにいくときは寝ているのに、今日はもう起きていたんです」

 「へへー」と得意げに穂乃果は笑う。穂乃果の半歩後ろに立つ巧はそんな彼女を見てため息をつく。例に漏れず熟睡していた穂乃果を起こしたのは巧だ。

「もしかして、乾さんも合宿に来るんですか?」

 花陽が尋ね、巧は不機嫌そうに答える。

「ああ。理事長に頼まれたからな」

 理事長の娘であることりは申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。μ’sの面々は余程楽しみにしていたのか、それぞれが大きな旅行鞄を持ち洒落た私服に身を包んでいる。嫌々着いてきたと言わんばかりの巧の態度は旅行気分が壊れる。もっとも、旅行ではなく合宿という名目だが。

『スマートブレインが音ノ木坂学院の廃校を望んでいるのなら、オープンキャンパス成功に貢献したμ’sは狙われる可能性が大いにあります。引率ということで、乾さんもμ’sの合宿に同行してください』

 電話で理事長はそう言っていた。一応部活の合宿で職員にとっては業務だから、給与が発生するらしい。用務員の仕事から外れている気はするが仕方ない。オルフェノクから彼女らを守れるのは巧しかいないのだから。オルフェノクに狙われやすいことについてはメンバー達に伝えていない。いたずらに不安がらせるのは気が引ける。だが、巧の同行が何を意味するのか絵里は理解しているようで、一瞬だけ彼女の陰を帯びた視線を感じた。それを隠すように、絵里はメンバー達を見渡して告げる。

「合宿に行く前に提案したいことがあるんだけど、メンバー同士の上下関係をなくそうと思うの。つまり、先輩禁止ね」

 「先輩禁止!?」と穂乃果は目を丸くする。他のメンバー達も反応は似たようなものだ。絵里は続ける。

「前からちょっと気になっていたの。先輩後輩は勿論大事だけど、踊っているときにそういうことを気にしちゃ駄目だから」

 「そうですね」と同意したのは海未だ。

「わたしも3年生に合わせてしまうところがありますし」

「そんな気遣い全く感じないんだけど」

 にこが不満げに言った。

「それはにこ先輩は上級生って感じじゃないからにゃ」

 凛がさらりと言ってしまう。せっかく皆が今まで口に出さなかったというのに。当然その言葉はにこの癇に障った。

「上級生じゃなきゃ何なのよ?」

 「んー」と考えた後に凛は答える。

「後輩?」

 「ていうか、子供?」と穂乃果が。

 「マスコットかと思ってたけど」と希が。

 「ただの馬鹿だろ」と巧も加わる。

「どういう扱いよ!」

 言いたい放題言われたにこは当然のごとく怒る。それでも場の雰囲気が険悪にならないのは、ある意味で彼女の才覚かもしれない。

「じゃあ早速、今から始めるわよ」

 「穂乃果」と絵里が呼ぶと、当の本人は少し恥ずかしそうに「はい」と返事をする。

「良いと思います。え………、絵里ちゃん!」

 「うん」と絵里は満足そうに笑った。「何か緊張……」と穂乃果は胸を撫で下ろす。穂乃果が緊張するなんて珍しい光景だ。いつもは緊張感ですら楽しんでしまうのに。

 「じゃあ凛も!」と挙手した凛は深呼吸する。

「ことり……ちゃん?」

「はい、よろしくね。凛ちゃん」

 「真姫ちゃんも」とことりが言うと、メンバー全員の視線が真姫へと集中する。真姫は気恥ずかしそうに顔を紅くしながら腕を組む。

「べ、別に、わざわざ呼んだりするもんじゃないでしょ?」

 強気な口調が苦し紛れに聞こえる。こういったことに慣れていないだろうとは思っていたが、随分と強情だ。ここで無理強いはしないようで、絵里の視線は真姫から離れて巧へと移る。嫌な予感がする。

「何だ?」

「せっかくですし、乾さんもわたし達と名前で呼び合ってもらおうと思って」

「何でそうなるんだ? 俺はμ’sのメンバーじゃねえだろ」

 「ええんやない?」と希が悪戯っぽく笑う。

「もうすっかり溶け込んでるし、そんな他人行儀だとぎこちないやん」

 どこが溶け込んでいるというのか。誰がどう見てもこの団体で巧は浮いている。巧と彼女らの接点が何か、傍から見て分かる者などいないだろう。

 「賛成ー!」と凛が再び挙手する。

「凛も乾さんのこと『たっくん』て呼びたいにゃー」

「やだね」

「何で!?」

「やかましいのは穂乃果だけで十分だ」

 げんなりと凛は肩を落とす。困ったように笑いながら絵里は言う。

「これもμ’sのためだと思って、協力してもらえませんか?」

 先ほど真姫にしたように、メンバー全員の視線が巧へと向く。変に意地を張ると余計な体力を使う。ため息をついて巧は憮然と言った。

「………好きにしろ」

 こういったものには慣れていない。巧が他人に対して心を開くことも、また開かれることも殆どなかった。自分のことを知られしまうことが何よりも恐ろしく、交流なんてものは必要最低限に済ませてきたのだ。

 心の底から仲間と言える彼等と違って、巧は彼女達との交流が偽物のように感じてしまう。本当に信頼し合える仲というのは、相手の本当の姿を知り、それすらも受け入れるということだ。巧は秘密を抱えている。決して知られたくない秘密を。

 巧の懊悩を知ってか知らずか、掴み所のない微笑を浮かべる希が顔を覗き込んでくる。

「こういうのもええもんやろ、たっくん?」

「たっくん言うな」

「かんにん、巧さん」

 

 ♦

 一面が真っ赤だ。

 自分がどこにいるのか。どこに行けばいいのかも分からない。俺はまだ道が通れるところを走っている。

 全部燃えている。床も壁も天井も炎に包まれ、熱で焼かれていた。

 俺は走り続けた。一歩一歩、足を踏みしめる度に息が苦しくなって、でも熱い空気と煙を吸い込んでも全く楽にならない。むしろ咳き込んで更に息が苦しくなるだけだ。

 両親はどうしたんだろう。その疑問は一瞬で脳裏から消える。心配している余裕なんてないし、俺にとってはどうでもいい両親だった。その日も、父親の知り合いに会うとかで無理矢理ホテルのレストランへと連れて来られたのだから。レストランは嫌いだ。食事の作法とか母親がうるさく注意するものだから好きなように食べられない。着心地の悪い礼服を着せられて、偉い人に会うから大人しくしているようにと釘を刺された。そんな風に俺を縛る両親がとてつもなく嫌いだった。

 子は生まれる親も家も選ぶことができない。たとえ親が悪人でも、家が貧乏でも生まれてしまっては受け入れるしかない。とんでもなく世の中は理不尽だ。そういう意味では、俺の生まれた家は恵まれている方だったかもしれない。両親はよく言っていた。お前は他の子供にはないものを得られる家に生まれたと。多分、両親は何かで莫大な富を得たのだろう。何の仕事をしていたのかは分からないが、2人が他の大人よりも高い立場にいる人間であることは、子供だった俺でも十分理解できた。周りの大人は両親に媚びを売る者ばかりだったし、両親も周りに対する態度がひどく偉そうだったから。

 俺は、俺の意思で生きることができないのではないか。このまま生きていたら、俺は両親にとって都合の良い意思のない人間になってしまうのではないか。あれこれ口うるさく言う両親のもとで暮らしていた俺は、成長する毎にそう思うようになった。当然、2人にそれを伝えることはできない。自由に生きたい。俺は俺の思うように生きたい。その膨れあがっていく願望は日々大きくなり、とうとう破裂した。まるで風船が割れたかのように。

 きっかけは些細なことだ。スープを飲もうとしたとき、使うスプーンが違うと母親が注意してきた。俺は知るか、と生まれて初めて母親に怒鳴った。母親はとても驚いて、父親は他の客がいるにも関わらず俺の頬を叩いた。俺はその場を逃げるように飛び出した。このままどこかへ行ってしまおう。そう思った矢先に、レストランは火事になった。後から聞いた話によると、厨房でガスが漏れて爆発したらしい。火の手はレストランのみならず、ホテルのビルを飲み込むほど広がっていった。

 出口を探して走るうちに、火が燃える音に混ざって泣き声が聞こえた。煙のせいで一寸先を見ることもままならない俺の視界のなかで、それは小さくうずくまっている。一瞬でも目を放したらもやのなかに消えてしまいそうなほどに小さかった。

 見たところ、俺より少し年下らしき少女だ。お父さんお母さんと呼びながら彼女は泣いていた。

 俺は泣いている少女を背負った。そのとき、何で自分がそんな行動を取ったのかは判然としない。ただ、あの少女を助けることで両親の束縛から逃れられるような気がした。俺は両親に言われたからではなく、自分の意思で少女を助けたいと思った。だから彼女を助けようとしたのだと。

 俺が背負っている間、少女は何も言わなかった。ただ俺の背中にしがみついていた。俺は彼女を背負ったまま、ひたすらに歩き続けた。炎が噛みつくように俺の体を焼いてきて、次第に意識が遠のいたが、それでも歩き続けた。

 途中で俺の意識は途切れた。視界が真っ暗になって、熱さも息苦しさも感じなくなった。

 目を覚ますと、俺は出口の近くで少女を背負ったまま立っていた。そこの辺りはまだ燃えていない。多分、意識が途切れている間も俺は歩いていたのだと思う。救急車のサイレンが聞こえて、俺は少女を置いてその場を去った。礼を言われるのが後ろめたかった。俺は純粋に少女を助けたくて助けたわけじゃない。少女を助けることで、俺のこれからに光が灯るかもしれない。俺は自分の生き方を見出すために少女を利用しただけだ。

 少女に会ったのは、あの火事の日が最初で最後だ。彼女は今何をしているだろう。彼女の両親は助かっただろうか。どうか幸せであってほしい。もし俺に会いたいと願ってくれたとしても、俺は彼女に会いたくない。会う資格がない。

 あの火事で俺の命は終わりを迎えた。それと同時に俺は第2の誕生を果たした。いつ命を落とし、そして拾ったのか。その瞬間を俺は覚えていない。俺に限らず、誰だって自分が母親の胎から生まれた瞬間など覚えていないだろう。

 もし神がいて、俺の新しい命が褒美として与えられたものだとしたら、神というのはとても性格が悪いに違いない。褒美というよりは呪いだ。死ぬまで続く、決して解くことのできない呪い。

 生まれる子は選択することができない。親も家も。国も時代も。

 そして命の形さえも。

 

 ♦

 少女特有の甲高い声がひっきりなしに聞こえてくる。ゆっくりと目蓋を開けると、窓の外で過ぎ行く景色が見える。

「たっくん大丈夫? うなされてたけど」

 隣の座席に座っている穂乃果が尋ねる。

「寝心地が悪かっただけだ」

 そう言って巧は首を揉む。新幹線のシートは快適とは言えない。寝違えてしまったようで少し筋肉が痛んだ。

「たっくん、最近寝てばかりいるよね」

「疲れてんだよ。どっかの誰かさんに付き合わされてな」

「誰かさんて………、誰?」

 忘れていた。穂乃果に皮肉は通じない。皮肉を理解できるほどのおつむを持っていない。

 倦怠感はまだ残っているが再び眠る気にはなれない。悪夢はよく見るが、幼い頃の記憶は忘れた頃になって夢に出てくる。新しい命を手にした瞬間を祝福すべきか忌むべきか、巧には分からない。多分、誰にも分からないだろう。

 穂乃果の言う通り、ここ最近は眠ることが多くなった。睡眠をしっかりとれているはずなのに疲れが取れない。一気に齢を取ったような錯覚に陥る。巧には何となくその理由が分かる。

「お茶飲む?」

 穂乃果がペットボトルのお茶を差し出してくる。「ああ」と巧は受け取ろうとするが、ペットボトルは巧の手から滑り床に落ちる。

「本当に大丈夫? 具合悪いんじゃない?」

「寝ぼけてるだけだ」

 巧は床からペットボトルを拾い上げて窓の外に広がる景色を眺める。緑色の山々が過ぎ去っていき、青い空には真っ白な入道雲が浮かんでいた。

 

 ♦

 到着した西木野家の別荘は海辺に建っていた。所有主の財力を示す、別荘にするには勿体ないほどの豪邸だ。周辺には森も山もあってキャンプが楽しめる。街から少し離れているが、その慎ましやかさが魅力なのだろう。他にも西木野家に劣らない邸宅が点在していることから、この土地は金持ち御用達のリゾート地なのかもしれない。

 パラソルの下でビーチチェアに寝そべりながら、巧は水飛沫をあげてはしゃぐ少女達を眺める。

 10人が入ってもまだ余裕のある広さの別荘を一通り物色し、μ’sは海未考案の合宿トレーニングを始める予定だった。だが遊ぶ気満々だった一部のメンバーの牽引によって海水浴という流れになった。一応PV撮影も兼ねるということで、全員が水着を持参してきている。ビデオカメラを回しているのだが、恥ずかしがり屋な海未を除いて彼女らは素で海水浴を楽しんでいる。

 海は穏やかだ。きらきらと水面が揺れる度に日光を反射する。海原は見渡す限りに広がっている。無限とも思える海を見ていると、この世界には日本という島だけがあって、水平線の先に他の島と国があるなんて嘘なのではと思えてくる。知識としては知っていても実感が持てない。この視界にあるのは地球のごく1部で、地球もまた宇宙のなかではちっぽけな星だなんて。

 海。母なる海。始祖の生命が誕生した場所。沖縄では海の彼方に理想郷ニライカナイがあるという言い伝えを聞いた。もし本当にニライカナイがあるとしたら、そこはオルフェノクも受け入れてくれるのだろうか。人間に天国という安らぎの世界があるように、オルフェノクにも理想郷があるのだろうか。オルフェノクもまた地球が生み出した命だ。安らぎの場くらいあってもいい。

 花陽がタオルで目隠しをして、木の棒を持ち恐る恐るといった様子で砂浜を歩いている。彼女の目の前にはスイカがひと玉置いてあって、そのまま振り下ろせば当たりそうだ。でも花陽が棒を振り下ろす直前、にこがひょいとスイカを横取りした。目隠しを取った花陽に、にこが悪戯な笑みを向ける。

 そういえば3人で海水浴に出掛けたな、と巧は思い出す。真理と巧で啓太郎に水鉄砲の集中砲撃を食らわせたものだ。真理は歳相応の少女らしく楽しそうにしていたし、巧も柄にもなくはしゃいでいたことをよく覚えている。

 ふと隣を見やると、巧と同じように真姫がビーチチェアでくつろぎ読書をしている。

「お前、行かないのか?」

「わたしは別に」

 不機嫌そうに真姫はページを捲る。

「まあ、ひとりでいたい気持ちも分かるけどな」

 ビーチではメンバー達がビーチバレーをしている。凛のアタックがにこの顔面に直撃した。にこが地団太を踏んでいる。

「真姫ちゃんも一緒にやろうよー!」

 凛がそう言ってくる。真姫は先ほど巧にしたのと同じ台詞を返す。メンバー達は少し寂しげにビーチバレーを再開した。

「皆はお前と遊びたがってるぞ」

「わたしはそんな気分じゃないわ」

「じゃあ、何でμ’sに入ったんだ?」

 「それは……」と真姫の言葉が詰まる。絞り出したかのような言葉の連なりは途切れ途切れで拙い。

「場の雰囲気っていうか、流れっていうか………」

 仕方なく。要はそう言いたいのだろう。その割には、真姫は積極的にアイドル活動をしている。曲を作り、こうして合宿の場を提供している。自分は望んでμ’sに入ったわけじゃない。そう言い切れないのは、根底には彼女の「やりたい」という気持ちがあったからに違いない。でも、それを指摘したところでこの皮肉屋な少女が肯定するとも思えない。

「もう皆知ってるぜ。お前がどんな奴かって」

「じゃあ、あなたにわたしはどう見えるわけ?」

「面倒臭い女」

 「ちょっと」と真姫は本を閉じて巧を睨んでくる。巧は構わず続ける。

「何つーか、全部が面倒臭いな。ずっと自分に嘘ついて悩む類だ」

 真姫は無言のまま巧を睨む。何か言い返してくると思ったが、それはなかった。真姫は再び本を開き、力の抜けた声で言った。

「何それ、意味わかんない………」

 

 ♦

 太陽は半分近くが水平に沈もうとしている。それでも強い光は空を茜色に染めて黄昏の時を映し出している。

「おおー。綺麗な夕陽やね」

 シュロの樹が並ぶ道を歩きながら、真姫は前を歩く希の背中を見つめる。夕飯の買い出しで店の場所を知っている真姫が名乗り出たのだが、そこへ希が一緒にと着いてきた。この先輩は何を考えているのだろう。思えば、希のμ’s加入の経緯も変なものだった。絵里を加入させた流れで希も入ったが、その理由は占いで9人になったときに未来が開けると言っていた。穴埋め目的なら、9人目は誰でも良かったのか。

「どういうつもり?」

「別に。真姫ちゃんも面倒なタイプだなあって。本当は皆と仲良くしたいのに、なかなか素直になれない」

「わたしは普通にしているだけで――」

「そうそう。そうやって素直になれないんよね?」

 真姫のなかで苛立ちに似た感情が募ってくる。昼間も巧から似たようなことを言われた。

「ていうか、どうしてわたしに絡むの?」

 真姫が聞くと、立ち止まった希は「んー」と唸った後に答える。

「ほっとけないのよ」

 希の口調に思わず真姫は物怖じしてしまう。普段喋っている関西弁がネイティブなものではないと分かっていたが、突然の変化が不意打ちとなって真姫の心を震わせてくる。

「よく知ってるから。あなたに似たタイプ」

「………何それ。あなたも、あの人も」

 絵里のことだとすぐに分かる。でも、親友と同じだからといって一緒にされては困る。絵里は生徒会長という立場だから自分を律しなければならなかった。でも真姫は違う。元々こういう性格なのだ。今更変えられない。

「巧さんにも同じこと言われたの? やっぱり、似た者同士って分かるもんやなあ」

「別に、あの人の言うことなんて気にしてないわ」

「巧さんは悪い人やないと思うけど。何だかんだで合宿にまで着いてきてくれるし」

「あなたは怪しいと思わないわけ? あの人、オルフェノクが何かとか、あのベルトが何なのか全然話そうとしないし」

 希は再び「んー」と顎に指を添える。

「うちも、巧さんの全部を信じてるわけやないよ。それに、自分のことを話さないのは真姫ちゃんも一緒やない?」

 あの人と一緒にしないで。

 そう言いたくなるも言えない。図星だったからだ。誰かと深く関わり、欠点を知られて幻滅されるのが怖いから。高いプライドの根源にあるのは怖れだ。常に完璧な自分でなければならない。だから深く踏み込まれたくない。

「真姫ちゃんは皆と仲良くしたほうが良いと思う。でも、巧さんは分からない」

「どうしてそう思うの?」

「巧さんは何かを隠してる。でも、それはうちらが触れちゃいけないものって感じるんや」

 漠然とした答えだ。真姫が質問を重ねようとしたところで「ねえ君達」という声が割って入る。2人のもとへ若い男が歩いてくる。大学生だろうか。

「この辺りでホテルとか無いかな? 安いビジネスホテルでいいんだ」

「この道を真っ直ぐ行けば街中なので、ホテルもいくつかあります」

 真姫が街の方向を指差して説明する。男は「ありがとう」と笑った。

「それにしても綺麗な夕陽だね。君達みたいな可愛い娘たちと見られるなんて。やっぱり海はいいよ。開放的な気分になれて」

 初対面なのに随分と馴れ馴れしい男だ。この手の男は苦手だ。人の領域にずかずかと土足で踏み込んできそうで真姫はまなじりを吊り上げる。

「せっかくだし一緒に行かない? 君達も街へ行くんでしょ?」

 「ごめんなさーい」と希が笑みを浮かべて真姫の手を取る。

「この子彼氏いるんです」

 「ちょっと」と真姫が抗議しようとするが、希は遮るように言葉を連ねる。

「さ、行こ。たっくんお腹空かせて待ってるよ」

 希は真姫の手を引いて足早に歩き出す。その後を着いていく真姫に希は振り返る。

「ああいうのには気を付けんとね。うちらアイドルやし」

 

 ♦

 丼いっぱいに盛られた白飯を花陽は嬉しそうに眺めている。夕飯の献立はカレーライスなのだが、花陽だけは別で白米を所望した。花陽の隣に座る絵里が尋ねる。

「何で花陽だけお茶碗にご飯なの?」

「気にしないでください」

 カレーの他に並ぶのはサラダしかない。まさか白米だけ食べるつもりか。気にはなるが、追及するのは野暮だろう。せっかくの食事だし、楽しいならそれが1番だ。

「にこちゃん料理上手だよね」

 穂乃果がそう言うと、にこは得意げに笑う。この10人分のカレーとサラダを作ったのはにこだ。料理当番はことりだったのだが、大人数で慣れないのか手際があまり良くなかった。それに痺れを切らしてにこが交代したのだ。

 「あれ?」とにこが料理する姿を見ていたことりが言う。

「でも昼に料理なんてしたことないって言ってなかった?」

 にこの笑顔が引きつる。「言ってたわよ」と真姫がことりの証言を補足する。

「いつも料理人が作ってくれるって」

 その場には巧もいた。真姫が家に料理人がいると言ったら、にこも便乗したのだ。対抗するための嘘だと巧はすぐに気付いたが、ことりは信じていたようだ。よくあんな見え透いた嘘を信じられるものだ。無垢なのか騙されやすいのか。

 「いや……」とにこは膝元に降ろしたスプーンを両手で握る。

「にこ、こんな重いもの持てなーい」

「何言ってんだお前」

 巧のみならず、メンバー全員がにこに呆れたような困ったような視線を送っている。巧の言葉が癇に触ったのか、目つきを鋭くして立ち上がる。顔の横には重いと言っていたスプーンが片手で掲げられている。

「これからのアイドルは料理のひとつやふたつ作れないと生き残れないのよ!」

 「開き直った」と穂乃果が言う。空腹だというのにこんな茶番に付き合っていられない。巧はスプーンで掬ったカレーに息を吹きかけた。

 談笑しながらの食事はあっという間に終わり、満腹になった穂乃果はソファに寝転ぶ。「いきなり寝ると牛になりますよ」という海未の小言に「お母さんみたいなこと言わないでよー」と不平を返す。この光景は家で毎日のように見る。穂乃果はそのまま寝て雪穂と巧が部屋まで運ぶのがお約束だ。

 「よーし」と凛が立ち上がる。

「じゃあ花火をするにゃー!」

「その前に、ご飯の後片付けしなきゃ駄目だよ」

 花陽がそう言うと、ことりが控え目に挙手をする。

「それならわたしやっとくから、行ってきていいよ」

 バイトで皿洗いは慣れているのだろう。本人が言うならやらせて良いと思うが、花陽と絵里は納得していないらしい。

「え、でも………」

「そうよ。そういう不公平は良くないわ。皆も自分の食器は自分で片付けて」

 「それに」と海未が切り出す。

「花火よりも練習です」

 「うえ……。これから?」とにこが眉を潜め、凛が口をとがらせる。

「当たり前です。昼間あんなに遊んでしまったのですから」

 「でも」とことりが恐る恐る抗議する。

「そんな空気じゃないっていうか………。特に穂乃果ちゃんはもう………」

 ことりが目配せした先で、ソファに座る穂乃果が寝返りを打つ。

「たっくーん、お茶まだー?」

「自分で淹れろっつの」

 呂律が回っていないから寝言だろう。寝言にしてもはっきりしているが。

 真姫が自分の食器を持って立ち上がる。

「じゃあ、これ片付けたらわたしは寝るわね」

 「え?」と凛が。

「真姫ちゃんも一緒にやろうよ花火」

 「いえ」と海未が。

「練習があります」

 にこが「本気?」と呟き、凛がそれに同意する。

「そうにゃ。今日は皆で花火やろう?」

「そういうわけにはいきません」

「かよちんはどう思う?」

 この討論に参加させるのは酷だろうに。花陽は気まずそうに主張する。

「わ、わたしは……、お風呂に」

 「第三の意見出してどうするのよ」とにこが指摘する。平和的な解決を望んでの提案だろうが、泥沼になるだけだ。もっとも、控え目な花陽が自己主張しただけでも進歩があるのだが。

「たっくーん、お茶ー」

「はいはい」

 穂乃果は本当に寝ているのだろうか。巧がそう思っていると、希が第四の意見を投じる。

「じゃあ、もう今日は皆寝ようか。皆疲れてるでしょ? 練習は明日の早朝。それで、花火は明日の夜することにして」

 「そっか」と凛は納得した顔をする。にこは安心したのか胸を撫で下ろした。このやり取りで更に疲労が蓄積したかのように見える。

「それでもいいにゃ」

「確かに、練習もそちらのほうが効率が良いかもしれませんね」

 海未も納得したようだ。あのストイックな海未を説得できるのは脱帽するが、先輩禁止とはいえまだ上下関係が抜けていないのかもしれない。

「お茶ー」

「うるせえな!」

 場を総括した希は言った。

「じゃあ決定やね」

 

 ♦

 西木野家の別荘は温泉まで完備されている。合宿に参加している面子のなかで唯一の男性である巧は、μ’sメンバーの後に貸し切り状態で露天風呂を堪能した。たまには大きな風呂で脚を伸ばすのも悪くない。

 入浴を経て夜も更けてきた。昼間に結構寝たせいか、あまり眠気がない。疲労感はあるのに奇妙なものだ。

 たったひとりの寝室で、ベッドに仰向けになった巧は掌を天井にかざす。掌線と爪の間を埋めるように灰がこびりついていて、指を擦り合わせるとぼろぼろと零れてくる。痛みはない。ゆっくりとだが、自分の体が崩れていくのが分かる。もし車に撥ねられでもしたら、自分の体は木端微塵になって風に流れていくに違いない。

 この現象は3年前から起こり続けているが、最近は頻繁に起こっている。全ての生命は着実に死へと向かう。人間であれば老化による身体能力の低下として現れる。オルフェノクも同様だ。しかし、オルフェノクの場合は自分の体が崩壊していく様子をリアルに感じる。

 オルフェノク。

 人類の進化した新しい種。

 人間よりも強い力を持ち、それと引き換えに人間よりも命が短い。

 人類は更なる高みへと昇ることを望み、そして一部の者がオルフェノクへと進化した。しかし、手に入れた命は短く、種としては期待外れだった。進化しても環境に適応できない種は滅びるしかない。高い樹の葉を食べるために首が長くなるよう進化を遂げたキリンは、地球上の樹木全ての背が低くなれば、長い首が仇となって何も食べられず餓死してしまう。オルフェノクがいくら人間よりも優れた種であろうと、その命が短ければ新たな同胞を生むよりも早く死に絶えてしまうだろう。

 自分達の命は福音なのか。それとも呪いなのか。

 巧には分からない。オルフェノクとしての自分を否定し、人間として生きることを望む巧には。

 考えても無駄だ、と巧は思考を止める。「王」は死んだ。オルフェノクの未来は閉ざされた。これからの世界は人間のものだ。もうオルフェノクの生きる居場所はない。巧自身にも。

 巧は部屋の照明を消して布団へ潜り込む。目をつぶり眠気の訪れを待つが、下の階から激しい物音が聞こえて意識をより水面へと押し上げてくる。何やってんだあいつらは、と巧は起き上がり頭を乱暴に掻く。絵里の提案で、メンバー達はリビングで9人一緒に寝ることになっている。まだ高校生だからはしゃぎたい気持ちも分からなくはないが、巻き添えを食らうのは勘弁願いたい。

 階段を下りると、9人分の布団が敷かれたリビングで枕投げが繰り広げられている。ほんの戯れといった雰囲気ではなく、何人かは倒れていて、それを見下ろす海未をメンバー達は鬼でも見るように怯えている。海未ならこんな遊びは止めそうなのだが、両手に枕をぶら提げた彼女は凛と花陽へゆっくりとした足取りで近付いている。

「おい、お前らうるさ――」

 最後まで言い切る前に、巧の視界が暗転する。続けて顔面に柔らかい衝撃が。間延びした一瞬を経て、飛んできたものが枕であることに気付く。まさに剛速球だった。枕じゃなかったら頭蓋骨を砕いてしまいそうな勢いだ。

「助けてー!」

 凛と花陽が抱き合って叫ぶ。海未が2人へ枕を投げようとした直前、彼女の頭を8時の方向から飛んできた枕が揺らした。バランスを失った海未はゆらゆらとロウソクの火のように揺れた後に、長い黒髪を振り乱して布団へ身を落とした。枕が飛んできた先を見ると、腕を振り切った姿勢で真姫と希が立っている。寝息を立てる海未を見て、枕を抱えることりがほっとため息をついてOKサインを出した。

「まったく………」

 真姫が腕を組んでそう漏らす。巧はあぐらをかき、乱雑した枕を指差して尋ねる。

「何でこうなったんだ?」

「元はと言えば真姫ちゃんが始めたにゃ」

 凛が答えると、真姫が「ち、違うわよ」と慌てた様子で言う。隣に立っている希が含みのある笑みを浮かべている。巧は何となくこの状況の発端を悟り、敢えて乗ることにする。

「お前も結構ガキだな」

「だから違うって言ってるでしょ。あれは希が――」

「うちは何にも知らないけどね」

「あんたねえ――」

 「えい」と希は文句を続けようとする真姫の顔面に枕を投げる。顔の枕を退けた真姫は噛み付くように言う。

「って何するの希!」

「自然に呼べるようになったやん。名前」

 希は笑みを崩さない。どこか満足そうにも見える。その笑みが他のメンバー達にも伝播していく。

「本当に面倒やな」

「ああ、面倒臭い奴だ」

 希と巧がそう言うと、真姫は笑っている他のメンバー達の視線に気付き頬を紅潮させる。

「べ、別に……、そんなこと頼んでなんかいないわよ!」

 真姫の投げた枕が、巧の顔面に直撃した。

 

 ♦

 穏やかな波の音が聞こえる。波だけでなく、カモメの鳴き声も。巧はゆっくりと目蓋を空けて、枕元の目覚まし時計を見る。まだ目覚ましを設定した時刻より早い。再び布団に潜り込もうとするも、意識はすっかり覚醒してしまった。伸びをして起き上がり、巧は乱れた布団を放置して部屋を出る。

 リビングに出ると、メンバー達はまだ寝ていた。でも2人だけいない。朝の散歩にでも出掛けたのか。まだぼんやりしている頭では思考が回らない。巧は寝ている彼女らを通り過ぎ、外に出て波の音を頼りに海岸へと歩いていく。海岸には既に先客がいた。砂浜へ降りる階段に立ったところで、巧は寝巻のままの彼女らと白み始めた水平線の彼方を眺める。波の音の間に、彼女らの声はするりと抜けるように巧の耳孔へと入ってくる。

「ねえ真姫ちゃん。うちな、μ’sのメンバーのことが大好きなん。うちはμ’sの誰にも欠けてほしくないの」

 距離からして、普通の人間では聞こえないはずだ。でも、「普通の人間」とは異なる巧には、はっきりと聞こえる。

「確かにμ’sを作ったのは穂乃果ちゃん達だけど、うちもずっと見てきた。何かある毎に、アドバイスもしてきたつもり。それだけ思い入れがある」

 考えてみれば、希は加入以前からμ’sのサポートをしてきた気がする。その頃には絵里が活動に否定的だったが、傍にいた希は好意的な姿勢だった。μ’sという女神の名前も、希が付けたものだ。自分が9人目として加入するために今まで動いてきたのだとしたら、相当の策士だ。

 水平線を見ていた希が真姫へと振り返る。階段の縁に立つ巧に気付き、優しく笑って唇に人差し指を添える。

「ちょっと話し過ぎちゃったかも。皆には秘密ね」

 真姫の微笑が聞こえた。結局、真姫も希も似た者同士ということだ。あまり本心を話したがらないところが。

「面倒臭い人ね、希」

「あ、言われちゃった」

 希がおどけたように笑ったところで、背後から数人分の足音が聞こえてくる。振り返ると、目を擦りながらメンバー達が歩いてくる。先頭を歩く絵里が巧の横に立ち、砂浜にいる2人を感慨深そうに眺める。

「もう、真姫は大丈夫そうですね」

「ああ」

「こっそり見るくらいなら、素直に心配すればいいのに」

 絵里は巧の顔を見上げて笑う。「いいだろ、別に」と巧は返した。

「巧さんも真姫と似た者同士ですね」

「お前だって、あいつらと同類だぞ」

 「お前?」と絵里は巧を見つめる。何とか回避してきたが、もう逃げられそうにない。

「絵里」

 巧が呼ぶと、絵里は「ハラショー」と笑う。「絵里ちゃんだけずるいにゃー」と朝から元気な凛が飛び跳ねる勢いで挙手する。

「凛も名前で呼んでよ、巧さん」

「ああ、凛」

 「わ、わたしも……」と恥ずかしそうに花陽が。

「花陽」

 続けてにこが得意げに言う。パックを貼ったままだから、一瞬誰だか分からなかった。

「にこのことは『にこにー』って呼んでいいわよ」

「分かったからパック取れよ、にこ」

 ようやく気付いたにこは慌ててパックを顔から剥ぎ取る。10代だから必要ないだろうに。それを見て微笑むことりの視線が巧へと向く。隣で頬を朱色に染めた海未が巧をちらりと一瞥する。

「ことり。海未」

 水平線の彼方から眩い光が漏れ出してくる。海岸を覆っていた影が取り除かれ、世界が目覚めていく様子を映し出していく。

「よーし、行こう!」

 穂乃果がそう言うと、皆は一斉に階段を駆け下りていく。「真姫ちゃーん! 希ちゃーん!」と呼びかけ、彼女らに気付いた希と真姫は穏やかな笑みで迎える。巧はゆっくりと階段を下りて彼女らの元へ歩く。太陽は半分が顔を出している。蒼かった海が白く光を反射している。μ'sの9人は砂浜で横1列に並び、手を繋いで朝日を眺めている。

 「ねえ、絵里」と真姫が呼ぶ。隣にいる絵里が視線を向けると、真姫は照れ臭そうに笑った。

「ありがとう」

 絵里はウィンクを返す。

「ハラショー」

 太陽がゆっくりと昇っていく。それを眺める少女達。彼女らが「μ’s」の名の通り、女神のように人々を照らせるのかは彼女ら次第だ。巧はこれまで信じなかった神に祈る。

 どうか、もう少しだけ時間を与えてほしい。

 自分は死んでも構わない。だがせめて、彼女達の夢が叶うまでは生きていたい。

「いやー、海はいいねえ」

 ゆっくりとした拍手と共に、その声は聞こえた。左手の方向から若い男が歩いてくる。「あの人……」と真姫が呟いた。顔見知りなのか。

「流石はアイドル。蒼い海が絵になるよ。でも、君達には紅い血も絵になると思うよ」

 男は立ち止まった。その顔に黒い筋が浮かび、体が灰色に変化していく。

「オルフェノク………!」

 巧は近くに落ちていた流木を拾い上げ、オルフェノクの前に立ち塞がる。オルフェノクの体は羽毛に覆われているが、頭はコンドルのように禿げあがっている。

「ベルトだ!」

 巧は背後にいるメンバー達に叫ぶ。恐怖で硬直していた彼女らのなかで、穂乃果は我に返ったのか別荘の方向へと走り出す。

 コンドルオルフェノクは翼を広げた。屈んだその体に巧は流木を叩きつける。打撃を意に介さず、砂浜に落ちるコンドルオルフェノクの影が男の形を作る。

「先に君からにしようか」

 コンドルオルフェノクの拳が巧の頬を打ち付ける。砂の上に倒れた巧は咥内に広がる鉄臭さを吐き捨てる。砂に血を含んだ唾液が落ちた。口を切ったらしい。人間なら脳天を砕かれてもおかしくない。敵と同じ存在である巧だからこそ、この程度で済んだのだ。コンドルオルフェノクは巧の首を掴み、片手で軽々と持ち上げた。喉が圧迫されていく。息苦しさから逃れるべく、巧はなけなしの蹴りを灰色の体に入れる。コンドルオルフェノクは微動だにしない。

『Burst Mode』

 電子音声の後に、コンドルオルフェノクへ3本の紅い閃光が飛んでくる。直撃はしなかったものの、肩を穿たれたコンドルオルフェノクの手が巧から離れる。巡らせた視界の1点で、ファイズギアを肩に担いだ穂乃果がフォトンバスターモードのフォンを両手で構えている。巧はすぐさま立ち上がり穂乃果のもとへと走る。

「たっくん!」

 穂乃果が投げてきたギアをキャッチし、素早く腰に巻いてフォンを開く。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 紅い閃光が収まるよりも早く巧は駆け出す。ファイズのスーツが形成されると、その拳をコンドルオルフェノクの胸に打ち付けた。続けて見舞う拳をコンドルオルフェノクは左手で受け止め、空いた右手から黒い影が1本線に伸びていく。鋭い刃になった先端が、ファイズの胸部装甲に火花を散らした。

 コンドルオルフェノクは右手に携えた槍を突き出す。払い落とすのは容易だった。だが、刃に手が触れた瞬間、激痛と共にファイズの手から灰が零れ落ちる。ふっと笑みを零したコンドルオルフェノクのくちばしが開いた。暗闇が広がる咥内から青い炎が噴き出しファイズの視界を覆っていく。腰に衝撃が走った。槍がベルトを掠め、吹き飛ばされたファイズの腰からベルトが外れて砂の上にどさりと落ちる。エネルギーの供給源を失い、砂に横たわるファイズのスーツが光と共に分解されていく。

 戦いを傍観していたメンバー達のなかから海未が駆け出した。「海未ちゃん!」ということりの声には応えず、海未はファイズギアを拾いその細い腰に巻く。

「よせ海未!」

「駄目、海未!」

 巧と絵里の叫びは海未に届いていないらしい。フォンを開いた海未はコードを入力した。

『Standing by』

 巧がするのと同じように、海未は待機音声の鳴り響くフォンを頭上に掲げて宣言する。

「変身!」

 絵里が海未のもとへ駆け出す。絵里が到達するよりも早く、海未はバックルにフォンを装填した。

『Error』

 巧の予想通りだ。ギアに電流が迸り、海未の体とギアはまるで磁石の同極同士が反発するように離れた。後ろへ飛ばされた海未の体を絵里が受け止める。ギアはコンドルオルフェノクの足元に転がった。男の形になった影が笑っている。

「詰まらないなあ。μ’sのメンバーがオルフェノクだったら最高に面白いのに」

「どういう………」

 海未が呻くように言う。その問いにコンドルオルフェノクは応えず、代わりに男の姿に戻る。男は足元のギアを拾い腰に巻く。フォンのプッシュ音が4回、波の音と共に海岸に響く。

『Standing by』

「変身」

『Complete』

 海未のときとは異なり、そして巧のときと同様に、バックルの両端から伸びるフォトンストリームが男の体を覆っていく。一際眩い光を放ち、男はファイズに変身した。ファイズは空を仰ぎ哄笑する。

「今日は良い日だ。μ’sを始末できる上にファイズのベルトまで手に入るなんて!」

 ファイズはゆっくりと余裕のある歩みで、砂浜に膝をつく海未と絵里に近付いていく。

「やめろおっ!」

 巧は節々に痛みが残る体を起こし、砂を蹴って走る。ファイズの拳が目を見開く海未の顔へと振り下ろされる寸前、横から割り込んだ巧が拳を腕で受け止める。

 その瞬間、巧の両眼が灰色に濁った。顔に筋が走り、全身の筋肉が隆起していく。灰色にくすんだ皮膚が毛と鋭い突起に覆われた。巧の変貌を間近で見た海未と絵里は息を飲んだ。あまりの驚愕と恐怖で悲鳴をあげることすらできずにいる。目の前の出来事を現実と受け入れられないのか、2人と離れた所にいる他の面々は瞬きもせずウルフオルフェノクを凝視している。

 ウルフオルフェノクはファイズの拳を掴んだ。鋭い爪を立て、痛みに呻き声をあげるファイズはそれを振り払う。

「うあああああああああああっ‼」

 ウルフオルフェノクは吼えた。意識が塗り潰されていくような感覚に陥る。自分が何で、何をしてきたのか。暗闇へ埋没しようとするそれに抗うように目を見開く。ウルフオルフェノクの両眼、それに加えて頭に乗っている狼の両眼がファイズを睨む。まるで狼に飲み込まれた赤ずきんが、腹から出ようともがいているようだ。

 ウルフオルフェノクは地面を蹴った。素早くファイズの懐に入り込み、その腹に無数の棘が生えた拳を打つ。吹き飛ばされたファイズが砂に着地するよりも速く背後へ回り込み、仰向けに倒れた戦士の腹を踏みつける。更に首を掴んで持ち上げるも、苦し紛れの反撃としてファイズは頭突きを見舞ってきた。頭蓋が振動し、神経が痺れて視界がぼやける。おぼろげな視界のなかでファイズの黄色い目を視認し、それを目掛けてウルフオルフェノクは蹴りを入れた。強化された脚力でファイズの体が大きく跳び、海岸の奥に広がる森へと消えていく。

 ウルフオルフェノクは後方を振り返る。扇状に広がる海岸の1点で彼女達は固まって肩を寄せ合い、こちらを見つめている。絵里、希、真姫、にこは驚愕の色が強い。海未、ことり、花陽、凛は恐怖の色が強く、目に涙を浮かべている。穂乃果だけは、何を思っているのか分からない。ただ目を丸くして、口を半開きにしたままぼんやりとしている。

「皆………」

 巧の姿になったウルフオルフェノクの影が呼びかける。でも、誰も応える者はいない。ウルフオルフェノクは巧の姿に戻った。ゆっくりと彼女らのもとへ歩く。

「来ないで!」

 海未の悲鳴が響き、巧は足を止める。悲鳴は波へ吸い込まれていくも、残響が頭のなかで反復していく。巧は背を向けて走り出した。砂に足を取られるも、全力で駆けた。

 走りながらも、巧は微かな期待を捨てられずにいた。去っていく巧の背中に、彼女らは名前を呼んで引き止めてくれるのではないかと。

 太陽は完全に水平線から顔を出していた。その眩しさに目を細めながら巧は走り続ける。彼女達からどんどん離れていく。

 海岸には波の音がするばかりで、巧を呼ぶ声はとうとう聞こえなかった。




 これだよ。今回みたいなエピソードを俺は書きたかったんだよ。これこそ「555」だよ。はい調子乗ってます。すみません。

 今回登場したコンドルオルフェノクは読者様からアイディアを頂いたオリジナルオルフェノクです。オリジナルとは事故で死亡・覚醒したオルフェノクという意味ではございません。意外なところでややこしいですね。読者様からアイディアを提供してもらえるとは、この作品も見てもらえるようになったなと感慨深く思います。ご協力いただき、大変ありがとうございます。


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第12話 最高のライブ / 皮の剥がれた狼

 さあ「555」ファンの皆様、お待たせしました!
 今回より「555」サイドが本格的に介入してきます。1期終盤に入ったところでようやくです。長かったなあ。


 火事で両親を失ったのは、巧が9歳の頃だった。

 巧はすぐ児童養護施設に引き取られた。資産家として富を得ていた両親の遺産欲しさに親戚達が巧を引き取ると名乗り出たが、巧はその誘いを全て拒否した。

 金はやる。だから俺のことは放っておいてくれ。

 巧が憮然としてそう言うと、親戚達は喜んで金を受け取ったらしい。らしいというのも、親戚のなかで巧に会いに来る者はひとりもいなかったからだ。財産の譲渡も親の顧問弁護士を通じてやり取りされていた。目的は金で自分のことなんてこれっぽっちも気に掛けていない。そんな大人の邪な欲望を子供ながらに巧は感じ取っていた。

 施設での生活は実家と比べたらかなり質素だったが、巧はそれなりに気に入っていた。施設にはたくさんの子供達が暮らしていて、彼等と同じ境遇の巧はすぐに受け入れられた。

 だが巧が施設に馴染んでいくにつれて、子供達の間でいじめが起こっていることを知った。いじめられていたのは、巧と同い年の少年だ。他の子供達は少年を殴り蹴ることは勿論、芋虫を食べるよう強要し泥の水溜りに顔を埋めさせた。

 いじめられていた少年は、他の子供達とひとつだけ違うところがあった。少年は施設のなかで唯一、肉親のいる子供だった。少年は事故で両親を失ったが、父親の弟、即ち叔父が頻繁に会いに来ていた。経済面や住む家など、まだ子供だった巧には理解できない事情が重なり、少年の叔父は甥を引き取る余裕がなかった。代わりとして少しでも寂しい思いをさせまいと少年に会っていたのだろう。施設に暮らす子供の大半は天涯孤独だ。子供達は肉親がいる少年に嫉妬していたのだ。だから少年を痛めつけることで、寂しさを紛らわそうとしていた。

 少年はいじめの全てを享受した。暴力を振るわれても抵抗せず、言われるがままに蠢く芋虫を食べ、泥水を啜った。まるで自分を罰しているようだった。皆が決して味わうことのできない幸福を得ている自分を。

 巧は少年を庇った。そうしなければ、あの火事で見ず知らずの少女を助けた事実が消滅してしまうような気がした。もし少年を見捨ててしまえば、あの少女を裏切ることになる。少年を庇った巧もいじめの標的にされた。巧は臆すことなく抵抗した。殴られれば殴り返し、虫を食べるよう強要する手をはねのけて虫を踏み潰し、掬った泥をいじめっ子達の顔に投げつけた。

 巧といじめっ子達の攻防戦が職員に知られることはなかった。子供というのは残酷で狡猾だ。いじめは職員の目の届かないところで繰り広げられていた。いじめっ子達が少年に怪我をさせても、また巧がいじめっ子達に怪我をさせても転んだと嘘をついた。巧に暴力を振るわれて怪我をしたと告げ口すれば、巧もまた子供達が少年をいじめていると告げ口する。その構図を施設の子供達は理解していた。誰が言うまでもなく、守秘は子供達の間で暗黙のルールになっていた。

 その日が何月の何日でどんな天気だったか、巧は覚えていない。同じことが繰り返される日々を送れば、余程の出来事がない限り無駄な記憶として忘却へと処理されていく。その日に起こったいじめも、巧にとっては日常の出来事だった。

 いつものように巧が少年を守るためにいじめっ子達と戦っていたとき、いじめっ子のひとりが振り回す木の棒が巧の額を打った。かすり傷だったが、血液が多く通っている巧の額からは血が噴き出し絶えず顔へと垂れ続けた。勇敢に戦った巧は膝をつき、邪魔者はいなくなったと子供達はうずくまる少年を囲んでサッカーボールのように蹴り始めた。

 やめろ、と巧は立ち上がって叫んだ。それと同時に、巧の体は灰色の異形へと変貌した。自分の体の変化に気付かなかった巧は大人にも勝る筋力で子供達を殴った。子供達の体は巧の拳に生えた棘で傷つき血を流した。暴力を楽しんでいた子供達の顔が恐怖で歪み、なかには失禁する者もいた。いじめっ子達が逃げ出してようやく、巧は自分の変化に気付いた。それが、巧が初めてオルフェノクに変身したときだった。

 興奮が冷めると、灰色だった巧の肌は瑞々しい人間の皮膚に戻った。巧は腰を抜かす少年に手を差し伸べたが、少年は巧の手を取らず化け物と叫んで逃げていった。

 子供達は職員に巧のことを話した。

 あいつは化け物だ。

 殺される。

 あいつを施設から追い出してよ。

 口々にはやし立てる子供達のなかには少年もいた。子供の戯言と信じてもらえなかったが、いじめを知らない職員は巧が子供達を一方的に殴ったと結論付けて叱った。何故殴ったのか理由を聞かれた巧はいじめのことを話した。でも信じてもらえなかった。いじめっ子達は当然のこと、いじめの被害者だった少年まで否定した。職員は嘘をついたと更に厳しく巧を叱った。

 その日を境にいじめはなくなった。いじめっ子達は大人しくなり、少年は穏やかに過ごした。巧も静かな日常を得ることはできたが、静かというよりは沈黙の日常だ。巧の正体を知った子供達は誰も巧に近付こうとせず、決して触れられないよう距離を保った。皮肉なことに、巧に対する恐怖と偏見がいじめを解決してしまった。

 ほどなくして少年は叔父に引き取られた。他の子供達は成長と共に絆を深めていったが、それに比例して巧の孤立は更に深くなっていった。新しく入所してきた子供に、過去に起こったいじめのことを知る子供達は巧に近付かないよう教えていた。彼等にとって巧は怪物だ。子供達は怪物と暮らしていると怯えていたのだ。

 施設には18歳までいられるのだが、巧は中学を卒業した15歳の頃に施設を出た。高校には進まず働く。働きながら旅に出ると職員に告げた。職員は高校に進学することを強く勧めた。今時中卒で働き口は見つからない。学費のことは心配しなくていいから高校に行ったほうがいい。そう職員から言われたが、巧の決意が揺らぐことはなかった。

 疲れたのだ。

 そのことに気付いたのは施設から荷物をまとめて出た日だった。共に過ごした子供達のなかで、見送りに来てくれた者はいなかった。それにどこか清々しさすら感じた。自分の正体を知り、常時監視される猛獣のように扱われる暮らしに疲れ果てた。誰も自分を知らない場所へ行きたい。贅沢を言うなら、誰もいない場所へ行きたい。

 そこに行けば、やりたいことが見つかるかもしれない。夢が見つかるかもしれない。

 そうして巧は旅に出た。目的地の定まらない旅だ。

 約束の地(カナン)を探し求めるイスラエルの民のように。

 

 ♦

 お構いなしに鳴くセミの声が耳をつんざく。はた迷惑だがセミも必死なのだろう。成虫になったら数日の命だ。早く交尾をして子孫を残すのに躍起になっているに違いない。短い命。オルフェノクと似ている。セミに奇妙な親近感を覚えながら、巧は目を覚ます。

 厚手のカーペットが敷いてある分まだ良いのだが、それでも布団よりは寝心地が悪い。体に残る倦怠感が寝床のせいか、それとも自分の体のせいかは判断が難しい。

 まだ夜だ。陽が射してこないのに蒸し暑くてたまらない。ビニールシートで作られたテントが湿気を閉じ込めている。湿度が高いせいか臭気も強い。原因は明らかに巧の隣で寝ている老人だ。肌は吹き出物だらけで、黒髪が微かに混ざった白髪と髭は伸び放題で艶がない。空いた口から覗く歯は殆どが虫歯で真っ黒になっている。この老人の体にこびりついた垢が酸化して、この鼻をつく臭気を放っている。とはいえ贅沢は言えない。行き場をなくした巧をこの老人は快く迎えてくれたのだから。

 彼女らに正体が知られたあの日。巧は西木野家の別荘に戻ることなく東京への帰路についた。財布と鍵と携帯電話を持っていたのは幸いで、何食わぬ顔で新幹線に乗った。寝巻のままだったから周囲の視線を感じはしたが、巧は面の皮厚くシートにふんぞり返った。乗客達の視線など、彼女らのものに比べたら何てことはない。

 東京に戻ってからしばらくの間はネットカフェで寝泊まりする生活を送っていたのだが、とうとう財布が寂しくなり、巧はホームレス達の集落になっている公園に身を寄せた。ホームレスは良心的だ。巧の事情について何も聞かずに受け入れてくれた。過去を聞くことは社会から疎外されたホームレスにとってタブーらしい。過去は本人の口から出なければ明かされることはない。だから巧も自分のことは名前以外何ひとつ話していない。

「兄ちゃん、ひどくうなされてたぞ」

 起こしてしまったのか、老人がそう言ってくる。最近、眠りから目を覚ます度に心配されている気がする。昔の記憶を夢に見るときは、巧が忘却を求めているときだ。脳から捨て去りたいという願いに反して記憶は否応なしに夢として現れる。

「いつものことだ。ちょっと出てくる」

 ビニールシートを暖簾のように捲ると、「気を付けてな」という老人の声が聞こえた。

外に出れば少しは良い空気を吸える。とはいえ、満足に風呂も入れないホームレスが集まる公園一帯に臭気は充満しているのだが。この集落で暮らして数週間。巧も彼等と同じ臭気を纏っているのかもしれない。ふっと無意識に乾いた笑みが零れる。薄汚い自分にはお似合いの匂いだ。ずっと着ている寝巻も泥や汗の染み、そして灰にまみれている。啓太郎に見られたら小言を言われるだろう。

 巧は街灯がおぼろげに照らす夜道を歩いた。ふらふらと力の入らない脚を動かし、見慣れた道に出ていく。昼間は人が行き交っていた道も夜になれば雰囲気が変わる。寝静まった街を歩き、どれくらい歩いたのかも分からない頃に巧はそこに辿り着く。

 木板に書かれた「和菓子屋 穂むら」の文字。灯りの点いていない家の前に1台のバイクが佇んでいる。巧はハンドルに掛けてあるヘルメットを被り、オートバジンに鍵を差し込んでエンジンをかける。長い間乗っていないが、エンジンの調子は良い。流石はスマートブレイン製のマシンといったところか。

 巧は2階の窓を見上げる。家の住人はバイクの音になど気付かず寝ているようだ。合宿の2日目はしっかりと練習しただろうか。凛が楽しみにしていた花火はできたのだろうか。あの合宿で彼女らに得るものがあることを巧は願う。

 もう2度と戻ることはないだろう。借りた部屋に放置したままの荷物は処分してくれても構わない。そう思うと寂しさがじわりと胸の奥で広がっていく。それを払い落とすように巧はアクセルを捻りオートバジンを走らせる。

 ホームレスの集落を目指す道中、巧の視界に人影が入り込む。街灯の光で道路に落ちた影は青白い人の形を成していて、影の主人は影とは全く異なるシルエットを形成している。その影の前で女が腰を抜かしている。恐怖のあまり動けずにいる。

 巧はオートバジンを停めて降りる。巧に気付いたカマキリタイプのオルフェノクが睨んでくる。巧は闘争の衝動を湧き上がらせた。呼応するように体がウルフオルフェノクへと変貌していく。

 マンティスオルフェノクは少しだけ灰色の目を見開くも、すぐに両腕に携えた鎌を逆手に構える。ウルフオルフェノクは跳躍し、マンティスオルフェノクの背後へと回り込む。マンティスオルフェノクは鎌を振りかざしてきたが、それが触れるよりも早く、ウルフオルフェノクの尖爪に胸を貫かれる。青い炎が燃え上がった。近くで腰を抜かしたままの女の顔が照らされる。炎はすぐに消えて、マンティスオルフェノクは灰になった。一拍遅れて女が悲鳴をあげる。脚がもつれながらも暗闇のなかへ走り去っていく彼女をウルフオルフェノクは追うこともせず、巧の姿へ戻る。悲鳴を聞きつけて人が集まってきたら面倒だ。そう思い巧はオートバジンに跨って走らせる。

 東京に戻ってからも巧はオルフェノクと戦い続けている。スマートブレインの回し者か、ただ力に溺れた者か。そんなものは問答無用に、しらみ潰しにオルフェノクを見かけたら巧は戦った。今の巧では体力の限界が近い。だから直接的な戦闘は避けて、物陰か闇夜に隠れて奇襲を仕掛けることが多い。

 もう何体のオルフェノクを灰にしてきたか。数えるのも面倒になってやめてしまった。いくら倒しても、スマートブレインの動向とファイズギアを奪ったコンドルオルフェノクの行方は掴めない。巧は焦りを感じずにはいられない。その焦りが巧を同族殺しの非道な怪物へと変えていく気がする。さっきのマンティスオルフェノクも、まだ人としての心が残っていたかもしれない。ついかっとなっていただけなのかもしれない。

 でも、と巧は良心を押し殺す。迷っていられる時間はもう残されていない。体から零れる灰の量も多くなっている。

 ファイズに変身できなくても巧のやるべきことは変わらない。たとえ彼女らに拒絶されようと、彼女らの夢を守るために戦うだけだ。だからスマートブレインを早く見つけ出して根絶しなければならない。

 同族殺しの罪を被ったとしても、巧の存在が消滅してしまえば罪も罰もすべて灰と共に流れていってくれるだろう。

 

 ♦

 夏休み後の新学期を迎えて、μ’sは更なる盛り上げを見せている。ラブライブの出場枠決定を2週間後に控え、μ’sは19位にランクインした。出場枠である20位圏内にぎりぎり入り込んだことでメンバー達の士気も高まっている。だが油断はできない。ランキングは常に変動する。他のスクールアイドルもラブライブ出場に向けて追い込みに必死だろう。即ち出場が叶うかもしれないこれからが本番ということだ。

 学園祭。

 最後の追い上げに絶好の機会として、μ’sの活動は勿論ライブの開催だった。講堂はくじ引きに外れて使えないということで、練習場の屋上にステージを設営してライブをするという形に落ち着いた。メンバー達は手堅くこれまで発表してきた曲の歌唱やステップを磨くべく、練習に励むという流れだったのだが。

「え、曲を?」

 部室での打ち合わせの席で、穂乃果からの提案を絵里が反芻する。穂乃果は「うん」と応え、続ける。

「昨日真姫ちゃんの新曲聴いたら、やっぱり良くって。これ、1番最初にやったら盛り上がるんじゃないかなって」

「まあね。でも振付も歌もこれからよ。間に合うかしら?」

「頑張れば何とかなると思う」

 絵里の問いに穂乃果は迷うことなく答える。不安に思った自分に呆れて、絵里は苦笑を浮かべる。単純でしかも不明瞭だが、μ’sはこれまで穂乃果が牽引する勢いに任せてやってきたのだ。だから、根拠はなくても大丈夫と思えてしまう。

 「でも」と海未が口を挟む。

「他の曲のおさらいもありますし」

 「わたし、自信ないな……」と花陽が続く。それでも穂乃果の勢いは止まらないようで。

「μ’sの集大成のライブにしなきゃ。ラブライブの出場が懸かってるんだよ」

 「まあ確かに、それは一理あるね」と希が。「でしょ?」と穂乃果は嬉しそうに言葉を受け取る。

「ラブライブは今のわたし達の目標だよ。そのためにここまで来たんだもん」

 「ラブライブ」とアイドルへの情熱が強い花陽が呟く。

「このまま順位を落とさなければ、本当に出場できるんだよ。たくさんのお客さんの前で歌えるんだよ」

 穂乃果は立ち上がる。メンバー達を見渡して続ける。

「わたし、頑張りたい。そのためにやれることは全部やりたい。駄目かな?」

 数瞬の沈黙の後、絵里が「反対の人は?」とメンバー達に尋ねる。誰も異を唱える者はいない。「だって」と絵里は穂乃果を見上げる。

「皆……、ありがとう」

 メンバー達は少し呆れたような、でも嬉しそうに笑みを零している。これでこそμ’sだ。そんな雰囲気が部室を満たしている。

「ただし、練習は厳しくなるわよ」

 「特に穂乃果」と絵里は念を押す。

「あなたはセンターボーカルなんだから、皆の倍はきついわよ。分かってる?」

 「うん」と穂乃果は強く答える。

「全力で頑張る!」

 

 ♦

 夕方の神田明神は西日を受けて社殿の朱色をより深くしている。練習後の疲労を感じながら、絵里は同じ量の練習をこなしながらも石畳を箒で掃く希に尋ねる。

「いつまで続くのかしら?」

「何のこと?」

 「分かってるくせに」と絵里はとぼける希に目を細める。

「……巧さんのことよ」

 あの合宿の日から、メンバーの間で巧の名前を誰ひとり口にしていない。まるで最初からいなかったように、彼のことを忘れようとしているかのように。絵里は虚無感を拭えない。μ’sが何かするとき、いつも傍には巧がいた。いつも不機嫌そうな顔をしていたが、最後まで付き合ってくれていた。

 でも、その全てが質の悪い夢だったのではと思えてしまう。合宿先のビーチで見た、彼の姿を見てしまってから。

「皆、きっと無理してる。正直、わたしも信じたくない。巧さんがオルフェノクだったなんて」

「その割に、エリちは落ち着いてるよね」

「これでも混乱してるわよ。でも、辻褄が合うような気がするの。何でわたしと海未がファイズに変身できなくて、巧さんができたのか」

 ベルトの力を使いこなす資格。それは絵里にも海未にもなかった。なのに、巧とコンドルオルフェノクの男には資格があった。それが何故か。巧の正体で全てが合致する。全てがあるべきところに埋まり、物事をひとつの結論へと至らせる。

「巧さん言ってたわよね。ベルトはオルフェノクの王を守るために作られたって。きっと、ベルトはオルフェノクが使うために作られたんじゃないかしら?」

 絵里の推理を聞いていた希はふと石畳に視線を落とす。夕陽を受けていた顔に影が落ちる。

「通りで、何で自分が変身できるか言わなかったわけやね」

「希は知ってたの? 巧さんのこと、特別だって言ってたけど」

 希はかぶりを振る。

「何となく、巧さんが普通じゃないってことは感じてた。でも、オルフェノクってことまでは………」

 しばしの沈黙を経て、希は笑顔を向ける。でも、それが繕った笑みであることに絵里は気付いている。

「ごめん、うちも混乱してる。これからどうすればいいのか、さっぱり分からないやん」

 巧は姿を消し、ファイズギアも敵に奪われた。μ’sと音ノ木坂学院を守る者はいない。オルフェノクはあの合宿の日から現れていないが、その静寂が更に不安を助長していく。三原に応援を求むという選択肢もあるが、デルタに変身できる彼もまたオルフェノクかもしれない。

 オルフェノクが敵として現れ、自分達を守ってくれていたファイズもまたオルフェノクだった。自分達はオルフェノクによって守られていた。この真実をどう捉えれば良いのだろう。感動的な英雄譚としてか、おぞましい悲劇としてか。

「何が最善かは分からないけど、今は目の前のことに集中しましょう。時間が解決してくれるとは思えないけど、それでも悩んでいるよりはずっと良いわ」

「長続き、すると思う?」

 的確な希の問いに絵里は答えることができない。希は続ける。

「遠くないうちに限界が来るよ。特に穂乃果ちゃんは」

「………分かってる」

 ここ最近の穂乃果の頑張りは目を見張るものがある。メンバーのなかで最も精力的と言っていい。海未によると毎日遅くまでランニングをしていて、睡眠時間も少なくなっているらしい。今日の練習でも徹夜で考えた新しいステップを提案し、脚が動かないとごねるにこを無理矢理立たせていた。いつもとは立場が逆転していた。完全に穂乃果の思考はライブのことが大半を占めている。

 まるでライブのこと以外は考えたくないかのように。

 でも、穂乃果に現実を見ろだなんて非情なことは言えない。学園祭が近い今、練習に励むことは良いことだし、ライブに集中することで巧を思考の外へ追いやろうとしているのは絵里も同じだ。

 絵里はビルの影に隠れようとしている夕陽を眺める。暗くならないうちに帰らなければ。自分達は学校の名を背負うスクールアイドルだ。どういうわけか、廃校を望む彼等に狙われやすい。

 絵里はぼそりと呟いた。

「一番辛いのは穂乃果よね」

 

 ♦

「ちょっと走り込み行ってくる」

 ランニングウェアを着て廊下を足早に歩く穂乃果に、居間で問題集とノートを広げる雪穂は「ええ?」と漏らす。普段ならお茶を飲みながらだらだらしている時間帯だ。

「夜も練習するの?」

 穂乃果は「うん」と明朗に答える。ここ最近は帰りが遅いと思っていたが、ここまでの頑張りを見せる姉に雪穂は日常との乖離を覚える。

「やり過ぎよくないよ。いつも無理するんだから」

「大丈夫。自分が誰よりも頑張って、ライブを成功させなきゃ。自分がやるって言いだしたんだから」

 そう言って穂乃果は玄関へ行ってしまう。すぐに引き戸の動く音が聞こえる。普段はだらしないが、こういう発起したときの姉は頼もしい。普段の態度から、雪穂がそのことを口にすることは絶対にないが。

「あまり切り詰めないといいけど」

 そう言いながら母が冷たい麦茶を出してくれる。「ありがとう」とコップをすすりながら、雪穂は小休止にシャーペンを置く。

「雪穂も文化祭行くのよね?」

「うん。亜里沙に誘われてね」

「誘われなくても行くんじゃないの?」

 いたずらに笑う母の視線が、ノートと問題集に隠れるように置かれた音ノ木坂学院のパンフレットに落ちる。雪穂はそれをノートの影に隠す。

「お姉ちゃんには言わないでよ」

 「はいはい」と笑って、母は自分のコップを啜った。

「それにしても、巧君いつ帰ってくるのかしら?」

「さあ。用事があるってお姉ちゃん言ってたけど」

 巧はもう1ヶ月も家を空けたままだ。客間に置かれた彼の荷物がほこりを被り始めている。そもそも、しばらく家を空けるのに何故荷物を置いたままにしたのか。穂乃果が合宿から帰ったとき、巧のバッグまで持ってきた。巧は殆ど荷物を持たずに出掛けたというのか。

「何だか寂しいわよね。洗濯物が溜まって困るわ」

「乾さんが来る前にやってたことじゃない」

「雪穂だって、巧君にアイロンがけ頼んでたでしょ?」

 「だって」と言う雪穂は耳が熱くるのを感じる。

「上手なんだもん。乾さん」

 「そうね」と母は笑みを崩さない。母は、まるで息子のように巧を慕っている。あんな無愛想な男のどこに気に入る面があるというのか。もっとも、雪穂も分からなくはないが。

「アイロンがけが上手な人に悪い人はいないものね」

「お姉ちゃんも言ってたよ、それ」

 

 ♦

 夜がすっかり更けている。街灯が弱く照らす夜道に巧はオートバジンを走らせる。夕方の帰宅ラッシュを過ぎると、車の通りは殆どない。

 ホームレスは昼間、大半が住処を空ける。食糧や金になりそうなものを探しに街へ出るのが主な目的だが、監査に来る区役所の職員から逃れるためだ。行政とまともに争ったところで、社会的弱者のホームレスに勝ち目はない。だから職員が来る昼間は集落にいてはいけない。

 そのことを入居初日に言い聞かされた巧は、その日もオートバジンで街を適当に走っていた。腹は減っているが、流石にごみ箱を漁る気はしなかった。ファーストフード店の外に置いてあるごみ箱は食糧庫だとホームレス達は言っていたが、巧にとっては生ごみだ。猛暑は過ぎたがまだ残暑が厳しい。熱に晒されてあっという間に腐っている。それに、食べようが食べまいが長くない。ごみを食べてまで生きようとは思えない。

 集落に到着した巧はゆっくりとオートバジンのシートから降りる。恐ろしく静かだ。老人が多いから夜に大騒ぎする連中ではないが、物音ひとつしない。よく見ると、ビニールシートのテントや段ボールの小屋が所々で崩れている。元々不格好だから毎日見ていないと分かり辛い変化だ。巧の踏み出した足底に布の感触がある。視線を落とすと灰にまみれた服が落ちている。

「おい!」

 巧は夜の静寂に呼びかける。返事はない。雲の切れ間から月が顔を出した。地面に散乱した衣類や靴が月光に晒される。衣類には全て灰が積もっている。「う………」と呻き声が聞こえて、巧はその方向へ視線を向ける。公園に植えられた樹に、巧を迎えてくれた老人が背中を預けている。

「おい、何があった?」

 巧は老人に駆け寄る。老人は巧を見て安堵の表情を浮かべる。

「兄ちゃん………。鳥だ。でかい鳥が飛んできて――」

 最後まで言い切る前に、老人の唇がひび割れた。唇だけでなく顔全体に、巧の肩を掴む手に亀裂が広がり、そして崩れていく。老人の体は砂煙をあげて消滅した。その体を構成していた灰と残った彼の服が巧の膝に落ちた。

 巧はすぐオートバジンに跨ってエンジンをかける。フルスロットルでアクセルを捻り、夜の街へとバイクを走らせる。ぽつりと雨が降ってきた。雨音は強くなり、巧の体をあっという間に濡らしていく。

 奴はどこに行ったのか。見当もつかないまま街を走ると無意識に知っている道を通ってしまう。巧が神田明神へ辿り着いたのは何かに引かれてなのか。そびえ立つ社殿を見て、自分はまだ彼女らを求めているのかと苛立ちを募らせる。

 巧はオートバジンを停めてヘルメットを脱ぐ。唯一濡れていなかった頭に容赦なく雨が落ちてくる。社殿をしばらく眺め去ろうとしたとき、巧の視界に人影が入り込む。余程の物好きなのか。この雨の中ランニングウェアのフードを被って階段を駆け上がってくる。見たところ女のようだ。向こうも巧に気付いたらしく、立ち止まってこちらにフードに隠れた顔を向けている。雨が強すぎて顔がよく見えない。

 しばしその場で対峙したように立っていると、2人の間に空から一筋の影が降り立った。人に近いシルエットだ。でもそれが人でないことに巧は気付く。エリマキトカゲに似たオルフェノクを見て、ランニングウェアを着た女は階段へと引き返す。フリルドリザードオルフェノクの両手に剣と盾が現れた。

 巧は駆け出す。全身の筋肉を灰色に変えて、ウルフオルフェノクに変身すると跳躍した。フリルドリザードオルフェノクの前に立ちはだかり、拳をその顔に打ち付ける。フリルドリザードオルフェノクが振り下ろした剣を肩の尖刀で防ぎ、手首を蹴り上げて盾を弾く。敵を羽交い絞めにしたウルフオルフェノクを街灯が弱く照らしている。石畳に落ちた影が巧の形を成す。

「逃げろ!」

 叫ぶように言うが、階段を途中まで降りていた女は立ち止まったまま逃げる気配がなく、ウルフオルフェノクを凝視している。フードがはだけているが、視界が揺れるせいで焦点が定まらない。

 ウルフオルフェノクは敵の剣を掴んだ。刀身を掴んだせいで掌から灰が零れ落ちる。フリルドリザードオルフェノクの手首を肘の尖刀で斬りつけ、腹に蹴りを見舞い引き剥がす。剣を持ち直したウルフオルフェノクは敵に次々と創傷を刻み付けていく。同族意識などかなぐり捨て、容赦なく。

 ウルフオルフェノクの突き出した剣が、フリルドリザードオルフェノクの大きく空いた口へと滑り込む。咥内を突き破った刀身が延髄から突き出す。刺したまま剣を捻ると、敵の顎が上下に引き千切れた。石畳に頭がごろんと転がり、下顎以外の頭部を失った体が力なく倒れる。その体はほどなくして青く炎上し消滅していく。ウルフオルフェノクの握る剣も、青く燃えて灰になっていった。

 ウルフオルフェノクは振り返る。女はまだ逃げていない。視界が安定し女の顔に焦点が合うと、ウルフオルフェノクの脚が地面に固定されたかのように動かなくなる。フードがはだけ、雨に濡れた彼女の片方だけ纏めた髪がしなびたように垂れている。

「穂乃果………」

 ウルフオルフェノクの影から巧が呼びかける。穂乃果はその場に立ち尽くしたままだ。無意識にウルフオルフェノクはゆっくりと歩み寄っていく。胸の奥から湧き上がる衝動が体を動かしているようだ。

 彼女に触れたい。

 彼女の柔らかい肌を力いっぱい抱きしめたい。

 彼女の心臓を青く焼き尽くしてやりたい。

 これまで押し殺してきた衝動に意識が覆われてしまいそうになる。まだかろうじて留めている理性で、ウルフオルフェノクは歯を噛んだ。激しく打っていた脈が静まっていく。それに伴い、灰色の肌が昔日の形と色を取り戻していく。

 巧は背を向けた。あのときと同じように、穂乃果は巧の名前を呼んでくれない。邪魔するものもなく、オートバジンに乗った巧は宵闇へと走り出す。

 胸が張り裂けそうだった。むしろ張り裂けてほしい。穂乃果、ひいてはμ’sは守るべき存在だった。彼女達の夢を守りたい。その想いこそが、巧が人間の心を持っていることの証明だった。でも、さっきの巧は違った。彼女にオルフェノクへの進化を促す儀式を施したいという衝動。あれは紛れもなく乾巧としてではなく、オルフェノクとしての欲求だった。人間を殺せというおぞましい本能。自分よりも弱い種を蹂躙しようとする衝動に飲み込まれてしまいそうだった。

 巧は唇を噛んだ。強く噛み過ぎて血が滲み、咥内に鉄臭い味が広がっていく。何でもいいから痛みが欲しかった。

 痛みを感じるという、人間としての証明を。

 

 ♦

 携帯電話を握りしめながら、海未は雨を降らす夜空を見上げる。明日は学園祭でライブの本番だというのに。雨と伝える天気予報は外れてほしいが、今夜ばかりは降ってもいいと思える。ライブに向けて夜遅くまでランニングをしている穂乃果も、流石に雨のなか走ることはしないだろう。さっきも電話口でくしゃみをしていたし、今夜はしっかりと休養を取ってもらわなければ。

 でも、と海未は不安を拭えない。一度火が点いた穂乃果を止める術がないことは知っている。海未とことりがいくら止めても巻き込まれていく。それが良い方へ向くこともあれば、悪い方へも向いてしまう。

 やはり、今の穂乃果にことりのことを相談するのは間違いだっただろうか。新学期が始まってからというもの、ことりの様子がおかしい。しっかりと練習に参加しているのだが、どこか上の空だ。曖昧に笑ってばかりで、時折口を固く結んでいるのを何度か見かけた。穂乃果はライブに向けて気持ちが昂っているだけと言っていたが、それならばもっと練習に集中するはずだ。

 何か悩んでいるに違いない。ことりのことだ。ライブに向けて張り切っている穂乃果に気を遣い言い出せずにいるのだろう。海未も弓道部の練習に出なければならないから、あまり話せていない。学園祭が終わった後でいい。一度話してみよう。

 そう思うも、それが正しいことなのか海未は迷う。正しいことに違いないのに、自分の判断に迷ってしまう。あの日からずっとそうだ。自分の判断や言動に自信が持てないのは。あの日、巧がμ’sの前から姿を消したきっかけは、紛れもなく海未の放った言葉だ。海未が巧を拒み、その言葉の通り巧は消えてしまった。「来ないで!」という言葉は咄嗟に出たものだ。あのとき見た巧の姿は、海未が恐れるオルフェノクそのものだった。だから海未は拒絶してしまった。巧が、オルフェノクが怖いから。オルフェノクに穂乃果やことり、他のメンバー達の近くにいてほしくないから。

 自分の抱く恐怖は間違っているのだろうか、と海未は疑問を抱く。オルフェノクは恐れるべき存在だ。人間を襲い、音ノ木坂学院を狙っている。

 なら巧はどうか。海未は自分自身に尋ねる。自分達の夢を守ると宣言し、同族であるオルフェノクと戦ってきた巧を拒絶して良いものだろうか。もしかしたら、自分はとんでもない言葉を言い放ってしまったのかもしれない。

 雨音に混じって携帯が着信音を鳴らす。穂乃果が何か言い忘れたのだろうか。そう思いながら液晶を見ると、着信はことりからだ。通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。

「ことり?」

 『……海未ちゃん、わたし………』とことりの弱々しい声が聞こえてくる。雨音のせいで、耳を澄まさなければかき消されそうだ。

『あのね……、実は………』

 

 ♦

「すごい雨………」

「お客さん、全然いない………」

 土砂降りの雨に打たれる屋上をドアから見て、凛と花陽が不安そうに言う。雨は昨晩よりも強くなっていて、床に溜まった雨水は排水口にも収まりきらず縁から溢れていく。

「この雨だもの、しょうがないわ」

 冷静に真姫が言うも、納得していないことはまなじりがいつもより吊り上がった目から察しがつく。学園祭、しかもラブライブ出場をかけたライブ当日としては最悪の天気だ。

「わたし達の歌声で、お客さんを集めるしかないわね」

 険しい顔で絵里はそう言った。ライブ直前になって場所を変えるなんてこともできない。簡易だが屋上にはステージが設営されている。雨音をかき消すほどの歌声で客を集める。それしか方法はない。メンバー達に異論はなかった。

 全校生徒で取り組む祭典というだけあって、飾りつけに彩られた校内は賑わっている。それぞれのクラスや部活動で決めた出し物が執り行われている。生徒、教師、学外の客問わず皆が一時の祭りを楽しんでいた。

「おはよー………」

 メンバー達が衣装に着替え終わった頃、気の抜けた挨拶をして穂乃果は部室に入ってくる。

 「穂乃果」、「遅いわよ」と海未とにこが嗜めるような口調で言う。穂乃果が遅刻することは珍しくないのだが、こんな大切な日にまでとは。

「ごめんごめん。当日に寝坊しちゃうなんて」

 そう言って歩く穂乃果の足取りはおぼつかない。すぐに自分の足につまずいて近くにいたことりにもたれ掛かる。よく見れば顔が赤い。髪の結び方もいつもより雑だ。

「穂乃果ちゃん、大丈夫?」

「ごめんごめん」

 絵里が異変に気付く。

「穂乃果、声がちょっと変じゃない?」

「え、そうかな? のど飴舐めとくよ」

 穂乃果の声はしゃがれている。明らかに風邪だ。まさか、昨晩雨のなかランニングをしていたというのか。こんな足取りで踊れるのか。そんな声で歌えるのか。心配はしても、海未に止める勇気はない。穂乃果はセンターボーカルだ。ダンスの振り付けも他のメンバーと違う部分があるし、今更誰かが代わるわけにもいかない。それに、メンバーのなかで穂乃果が1番楽しみにしていたライブだ。

 穂乃果が着替えて、メンバー達の準備は整った。それに伴い雨は更に強くなっている。メンバー達の表情が曇り、口々に不安を述べている。

「やろう」

 それでも、穂乃果は言う。

「ファーストライブのときもそうだった。あそこで諦めずにやってきたから、今のμ’sがあると思うの」

 メンバー達のなかで最もコンディションが悪いはずなのに、穂乃果の調子はいつもと同じだ。

「だから皆、行こう!」

 皆の表情から少しだけ陰が取れた。これくらい無茶なほうがμ’sらしい。花陽が「そうだよね」と切り出す。

「そのためにずっと頑張ってきたんだもん」

「後悔だけはしたくないにゃ!」

 凛が続き、次に絵里が。

「泣いても笑っても、このライブの後には結果が出る」

希と真姫が張り切った声で言う。

「なら思いっきりやるしかないやん」

「進化したわたし達を見せるわよ」

 にこがガッツポーズしウィンクする。

「やってやるわ!」

 メンバー達の活力は最高潮に達している。彼女らとの温度差が激しいことりに海未は声をかける。

「ことり」

 「あ、ごめん……」とことりは曖昧に笑う。ライブが終わった後に自分から話すと言っていたが、それでことりの肩の荷は降りるのだろうか。何はともあれ、今はライブを最優先すべきだ。ことりのことも、巧のことも、一旦今は思考から外さなければ。

「今はライブに集中しましょう。せっかくここまで来たんですから」

 「うん」とことりは頷く。やはり、その笑顔は曖昧だった。

 メンバー達が屋上へ向かうと、それなりに多くの観客が集まっている。音ノ木坂の生徒が大半だが、なかにはセーラー服を着た中学生も混ざっている。姉の姿を見ようと、雪穂と亜里沙も傘をさしてライブが始まるのを待っている。

 ステージに立ち、簡単な口上を終えていよいよ曲が始まった。頑張ればきっと大丈夫。メンバーの誰もがそう思いながら踊り歌う。穂乃果もしっかりとステップを踏んでいる。杞憂だったとメンバー達は最初から最後まで、新曲ということもあって全力で踊った。

 1曲目のフィニッシュが決まり2曲目へ。次の配置につこうとしたときだった。

「穂乃果!」

 海未が呼びかける。曲が終わったと同時に、穂乃果はステージ上で倒れた。観客の目の前で。まさか。そう思うと同時に海未のなかでもうひとつの判断が浮かび上がる。

 当然だ。

 歩くのさえままならないのに歌って踊るなんて無謀すぎたのだ。穂乃果のことだから気力で乗り越えられるだろうと浅はかな判断を下した自分を戒めたい。本人が嫌がろうと、無理矢理にでも休ませるべきだった。何のために自分が近くにいたのか。

 「お姉ちゃん!」と観客の中から雪穂が傘を放って飛び出してくる。

「穂乃果、大丈夫?」

 絵里が穂乃果の体を起こそうと体に触れる。絵里は驚愕のあまり息を飲んだ。

「すごい熱」

 海未とことりが呼びかけても、穂乃果は返事をしない。その唇が微かに動いていることに海未は気付く。

「つ、次の曲………」

 雨音にかき消されながらも、穂乃果は懸命に声を絞り出している。

「せっかくここまで……、来たんだから………」

 穂乃果の目元から滴が滑り落ちていく。それが容赦なく打ち付ける雨なのか、それとも涙なのか。海未には分からない。懸命に荒い呼吸を続ける穂乃果の口から出た言葉は、雨に完全にかき消されて海未にも届かなかった。

「たっくん………」

 

 ♦

 酷い雨だ。昨晩から時間が経てば経つほど強くなっていく。雨のなかオートバジンを走らせる巧は町内掲示板の前で停まる。掲示物のなかに遠目でも分かるカラフルなチラシがある。デフォルメされたメンバー達のイラストが描かれたμ’sの学園祭ライブのチラシ。それの隣には、音ノ木坂学院学園祭を告知するチラシが掲示されている。日程は今日だ。こんなにも大々的に告知するということは、μ’sは祭りの目玉になっているのだろう。会場は屋上とあるが、まさかこの雨のなか決行するというのか。決行するにしろしないにしろ、この学校を恐怖へ陥れるのに絶好の日をスマートブレインが逃すとは思えない。

 巧はオートバジンの鍵に手をかける。だが、捻ろうとした手をすぐに引っ込める。自分が行ったところで何になるのか。ファイズギアを奪われた今、オルフェノクが出たとしても勝てる自信がない。

 自分はまだ夢の守り人を気取るつもりなのか。その資格は失われた。自分はオルフェノクで、怪物で、人間とは異なる居場所に立つ存在だ。昨晩、穂乃果は名前を呼んでくれなかった。それが無言のメッセージであるかのように巧は思う。あなたはもう、わたしの知る人じゃない。そう言われてしまったように思えてならない。

 分かっていたはずだ。いくら人間を守ろうとも、決して人間に戻れないのは変わりない。灰色の姿は死ぬまで付きまとう。真理と啓太郎は巧がオルフェノクと知っても受け入れてくれた。でも、だからといって彼女らも巧を受け入れてくることにはならない。オルフェノクは人間を襲う。だから恐ろしい。巧が拒絶される理由はそれだけで十分だ。

「はーい」

 雨音のなかからその声は聞こえる。前方を見ると、青い傘をさした青い服の女が完璧な笑顔で手を振っている。

「俺を殺しに来たのか?」

 巧が聞くと、スマートレディは大袈裟に首を振る。

「違います。ファイズのベルトはもう返してもらいましたから、あなたはもう怖くありません」

 スマートレディは歩み寄り、巧の耳元に口を近付けてささやく。

「あなたを、お迎えに来ました」

「迎え?」

「私達の仲間になれば、これまでのことはぜーんぶ水に流してあげます。この雨みたいにね。女王様(クイーン)は心が広いですよ」

 女王様(クイーン)とは誰のことか。スマートブレインを率いる者か。様々な思索が駆け巡るも、結論を導くには至らない。巧は乱暴にスマートレディを押し退ける。

「お前んとこの社長にも言ったけどな、お前らの仲間になるくらいなら死んだ方がましだ!」

 巧はウルフオルフェノクに変身する。強靭な筋力で地面を蹴り、スマートレディとの間合いを一瞬で詰めていく。その爪が彼女の首筋に触れようとした直前、上空から落下してきた灰色の槍がウルフオルフェノクの手甲を貫きアスファルトの地面に突き刺さる。痛みに顔を歪めるウルフオルフェノクをスマートレディは表情と声色を完璧に一致させて言う。

「ざーんねん。あなたは強いから期待していたのに」

 彼女の背後に鳥人のオルフェノクが降り立つ。その右手にはケースに納められていない剥き出しのファイズギアがある。

「お掃除は任せましたよ。私、彼が死んじゃうところ、見たくないんです」

 「えーん」と涙の流れない目を手で擦りながらスマートレディは近くに停まっているスポーツカーへと歩いていく。追おうとするも、左手を貫く槍が地面に固定されて動けない。ウルフオルフェノクは無事な右手で槍を抜き、そこから左手を抜く。掌にぽっかりと空いた穴からは灰が零れる。スマートレディの乗ったスポーツカーがマフラーからガスを吹かして走り出す。オルフェノクの脚力なら追いつく。だがウルフオルフェノクの前にコンドルオルフェノクが立ち塞がり、両者は対峙する。

 コンドルオルフェノクの影が笑う。

「悪いオルフェノクだね。お仕置きが必要だ」

 ウルフオルフェノクは咆哮と共に駆け出す。振り下ろす拳と尖刀はことごとく避けられ、コンドルオルフェノクは槍の柄でウルフオルフェノクの顔面を打つ。バランスを失ったウルフオルフェノクの体が地面に投げ出された。力が出ない。まともに食事を摂っていない生活を続けたせいか。

 コンドルオルフェノクは男の姿に戻った。男は笑いながら腰にファイズギアを巻き、フォンにコードを入力する。

『Standing by』

「変身」

『Complete』

 赤いフォトンストリームを光らせながら、ファイズはゆっくりとウルフオルフェノクに近付いてくる。

「皮肉なものだね、自分が戦っていた姿に殺されるなんてさ」

 ファイズはウルフオルフェノクの顎を蹴り上げる。地面を転がったウルフオルフェノクは巧の姿に戻った。指先がささくれて灰を零している。雨に打たれているせいか、灰は止まることなく落ち続ける。

「へえ、君もう死にそうなんだ。このまま君が死ぬのを見るのと、今すぐ僕が殺すの、どっちが面白いと思う?」

 ファイズの問いに巧は答えない。痛みも苦しみもない。ただ自分が崩れていく様を他人事のように傍観できる。オルフェノクの死とはこういうものか。散々同族が死ぬのを見てきながら、どんな気分で死ぬのかを始めて知った。

 ファイズは仰向けに倒れる巧の腹を踏みつける。めきめきと骨が悲鳴をあげて、腹からも灰が落ちていく。

「やっぱり、今殺すことにするよ」

 ファイズが脚に体重をかけてくる。乾いた声が喉を震わせて、視界が霞んでいく。おぼろげな感覚のなか、唯一しっかりしている聴覚で巧はバイクのエンジン音を認識する。視線を向けると、霞んだ視界のなかで紫色の光が見える。

「何しに来たわけ? 助けは必要ないよ」

 ファイズは巧の腹から足を退ける。はっきりとした視覚で、巧は突如現れたバイクを認識して目を見開く。

 スマートブレイン社製のサイドカー付きバイク。サイドバッシャー。そのシートから、黄色のフォトンストリームを光らせる超合金の鎧を纏った戦士が降りる。ファイズとよく似た、しかしファイズとは似つかない紫の目を持つ戦士。

「カイザ………」

 巧は思わずそう呟く。紛れもなく、「王」との最終決戦でベルトを破壊されたはずのカイザだった。カイザは右腰のホルスターからχの文字を模したブレイガンを引き抜き、ミッションメモリーを挿入する。

『Ready』

グリップの下から黄色いフォトンブラッドの刀身が伸びる。

「邪魔しないでよ。この人は僕の――」

 ファイズの文句を最後まで聞かず、カイザはブレイガンで斬りつけた。不意打ちにファイズが仰け反る。斬られた胸部装甲を抑えながらファイズは問う。

「何のつもりだ!」

「ちゅーか、あれだ。奴に手出したお前が悪い」

 カイザは続けざまにブレイガンを振り降ろす。ファイズが間合いを取るも、ブレイガンの銃口からフォトンブラッドの光線が発射されファイズに命中する。よろめく隙に、カイザはファイズの腹に渾身の蹴りを見舞う。ファイズの体が吹き飛び、倒れると同時に衝撃のせいか腰からファイズギアが落ちた。

 変身が解けた男はすぐさま立ち上がりコンドルオルフェノクへと姿を変える。カイザはターン式のフォンをスライドさせENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 ファイズのものよりトーンが低い音声と共に、ベルトからフォトンブラッドが流動路を伝っていく。ブレイガンを構える右手にエネルギーが充填されると、ブレイガンの刀身が輝きを増す。カイザはコッキングレバーを引き、ブレイガンの引き金を引いた。翼を広げて飛び立とうとしたコンドルオルフェノクに光弾が命中すると同時に、その体を網目状に展開したエネルギーが身動きを封じる。カイザは逆手に持った剣を構えた。目の前にχを模した光が現れ、それを共にカイザは猛スピードでコンドルオルフェノクに突進する。

「だっしゃあああああああっ‼」

 あまりのスピードで視認すらできない。カイザが背後に姿を現すと、コンドルオルフェノクは青い爆炎をあげる。その背中から黄色に輝くギリシャ文字のχが。しばし佇んでいたコンドルオルフェノクの体は、まるで砂像のように崩れ落ちた。

 いつの間にか雨は止んでいた。巧は膝をついたままカイザを見上げる。カイザも巧に紫色の目を向けている。ミッションメモリーとブレイガンを所定の位置に戻し、カイザはフォンをベルトから引き抜く。プッシュ音と共にカイザのスーツが分解され、残っていたフォトンストリームもベルトに収束する。巧は驚きと共に、そのカイザだった人物の名前を呼ぶ。

「海堂……!」

 雨上がり、雲の切れ間から射し込む陽光を浴びた海堂直也は、3年前と変わらず緊張感のない顔に笑みを浮かべた。

「よう乾。元気に……、してなさそうだな」




 今回のようなシリアスな話は久し振りなので張り切ってしまいました。


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第13話 ともだち / 仲間

 更新に時間がかかったなあと思ってたら、今回はこれまでで1番長くなりました。そりゃ時間かかるわ!
 はい私が内容詰め込みすぎたせいです。反省しております。


 どうしてお前がカイザに。

 その問いを投げかけようとしたとき、巧の唇から灰が零れる。体の細胞ひとつひとつが焼き尽くされ、燃えかすが濡れた地面へ落ちていく。

「やべえな」

 海堂はズボンのポケットから薄い長方形のケースを取り出す。シガレットケースに似ているが、開けた中身は煙草でも葉巻でもなく注射器だ。そのひとつをつまみ、海堂は巧の前にしゃがんで灰が侵食しかけている腕に針を刺す。何をするつもりか。抵抗する力も残っていない巧は自分に行われていることをただ虚ろな目で傍観している。海堂はゆっくりと、プラスチック製の容器に入った無色透明の液体を巧の血管へ押し込んでいく。

 体から落ちる灰の奔流が止まった。崩れかけていた手が瑞々しい肌色を取り戻し、左手に開いた穴が塞がり筋肉と血管と皮膚を再構成していく。体中を侵食していた倦怠感が消えた。まるで体内の老廃物を全て取り除かれたようだった。あまりにも活力が漲ってくるものだから、かえって気味が悪い。

 「よし」と海堂は注射針を巧の腕から抜く。抜いた肌の一点から血がドーム状に滲んでいる。

「まあ気休めだが、これでしばらくもつだろ。ファイズなら変身しても大丈夫だろうが、なるべく控えとけ」

 そう言って海堂は空になった注射器をケースに納めた。

「お前、俺に何したんだ?」

「ちょっとした栄養剤みたいなもんだ。どうだ、少しは元気になったろ?」

 確かに、鉛のように重かった脚が軽くすんなりと立つことができる。巧は質問を重ねる。

「何でカイザが――」

 「まあまあまあ」と海堂は両手を巧の眼前で振り言葉を遮る。

「色々と聞きたいのは分かる。何故俺様が颯爽と現れたか。それは俺様が正義のヒーローとして、捨てられた狼を助けるためなのだ!」

「何言ってんだ?」

「あー、うんうん。相変わらずクールだよねお前は、うん。まあ、せっかく天気も良くなったしお前も元気になったんだ。ここじゃ何だ。俺様のセーフハウスで祝杯を挙げようではないかワトソン君」

 ワトソン君というのが誰かは追及しないでおこう。どうせ意味はない。

「ああ、全部聞かせてくれ」

 巧がそう言うと、海堂は無言のまま笑みを浮かべる。腰に巻いたカイザギアをケースに納め、地面に転がるファイズギアと共に無造作にバイクのサイドカーに積む。

 三原が海堂に渡すために持ってきて、スマートレディに奪われたサイドバッシャー。だがそれは三原の目的通り海堂の手に渡っている。スマートレディから奪い返したという解釈もできるが、海堂のことを知っている素振りを見せたコンドルオルフェノクから、巧のなかで不快な可能性が浮上する。

「レッツらゴー!」

 ふざけた掛け声と共に、ヘルメットのゴーグルをかけた海堂はサイドバッシャーを走らせる。オートバジンに跨った巧はその後を追い、雨上がりに陽光を受けて光を反射するアスファルトの道路を駆け抜けていく。

 そう長く走らず、海堂のセーフハウスであるマンションへ着いた。音ノ木坂学院からあまり距離はない。近くにいたのに街ですれ違うこともなかったとは妙なものだ。もしかしたら、海堂は巧がこの街にいることを分かっていたのか。

 豪奢なロビーで海堂は指紋とカードキーの厳重なセキュリティを通過していく。それなりに裕福な人間の住める集合住宅だと、彼の後ろを歩く巧は理解する。

「ようこそ、俺様の城へ」

 エレベーターで8階まで上り、ドアを開けた海堂は得意げに言って巧を迎え入れる。部屋は住人の心を映すという。昔の人間は上手いことを言ったものだ。1人暮らしにしては広々とした部屋は正に海堂のいい加減な性格をそのまま映し出している。量販店では買えそうにない白亜のテーブルには大量の酒瓶とビールの空き缶、吸殻が山盛りになった灰皿が散乱している。部屋の隅にはデリバリーピザの箱が何重にも積み重なっていて今にも崩れそうだ。何て汚い城だ。まるで酒に溺れる駄目親父の部屋みたいだ。

 海堂は革製のソファにどかっと座り、テーブルの上でまだ半分残っているピザを一切れ掴んで食べ始める。

「お前も食うか?」

「それいつのやつだ?」

「昨日頼んだやつだな。まあ見たとこ腐ってねえし、ちゅーか俺たちゃオルフェノクだから腹は壊さん」

 オルフェノクでも体調は崩す。巧も何度か風邪を引いたことがあるし、真理が作った新作料理を食べて下痢になったこともある。

 海堂はピザを咥えたまま、油にまみれた手を拭かずに冷蔵庫からビール瓶を2本持ってくる。海堂はテーブルに散らばる雑物から栓抜きを見つけて瓶を空ける。

「ほれ」

 差し出された1本を巧は受け取り、海堂が突き出した瓶に控え目に当てて乾杯する。海堂は口端から溢れるほどビールをあおり、「ぷはー」という親父臭い声と共に喉からげっぷを鳴らす。巧は恐る恐る瓶に口をつけて一口だけ飲み込む。苦さにしかめた巧の顔を見て海堂は愉快そうに笑っている。

「お子ちゃまだなあお前は」

「酒はあまり好きじゃないんだよ」

 酒なんて20歳の誕生日以外に飲んでいない。啓太郎は下戸で、真理も当時は未成年ということもあって家には酒を置いていなかった。高坂家に住み着いてから高坂父の晩酌に付き合うこともあったが、巧は決まってお茶を飲んでいた。

 巧は瓶をテーブルに置いてソファに腰掛ける。

「教えてくれ。何でお前がカイザのベルトを持ってんだ? あれは壊されたはずだろ」

「まあ何ちゅーか、ありゃ作り直したんだ。正確にゃカイザじゃなくてカイザMark2だな」

「作ったのはスマートブレインか?」

 「おう」と海堂は再びビールをあおる。

「お前、スマートブレインに肩入れしてるのか?」

「そーゆーこと」

 にやりと笑った海堂はテーブルの隅に追いやられたパスケースから紙片を1枚取り出す。

「どうも、スマートブレイン技術開発室の海堂直也です」

 海堂はステレオタイプの営業マンのように深々と頭を下げながら名刺を差し出す。口調の丁寧さが逆にふざけているように見えるのは、この男の才覚だろうか。

「まあまあまあ、そんな怖い顔しなさんな」

 打って変わって海堂はソファにふんぞり返る。彼の言葉で巧は自分が眉間にしわを寄せていることに気付く。戸惑いと怒り。後者の感情は、まるで裏切られたかのような嫌悪に端を発している。かつては人間を守るために戦っていたというのに、今はスマートブレインで何かを企んでいるというのか。

「気持ちは分かるよ、うん。俺様だって気持ちよくはない。うん、気持ちよくはない」

 海堂はそう言うと、着ているアロハシャツの胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出す。紙巻の先端に火を付け、吸い込んだ煙を鼻から吐き出す。「吸うか」と箱を差し出されたが、巧は「いらねえよ」と断る。煙草は嫌いだ。灰皿に積もる灰が、まるで自分の末路を見ているようだからだ。でもそれは海堂も同じはず。

「でもな、俺がスマートブレインにいるお陰でお前は九死に一生を得たわけだ。啓太郎の店にバイクも送ってやったしな」

「お前がオートバジンを?」

「おう。ちゅーかあれも作り直すの大変だったって話だぜ。ただでさえ金がねえってのに無理しやがってよお。しかも作ってすぐ盗まれちゃったから会社は大慌てだ。まあ盗んだのはこの俺様だがな。お陰でカイザのバイクは作れねえから三原に持ってこさせる羽目になっちまった」

「じゃあ何で取りに来なかった? 俺と三原は下手すりゃやられてたぜ」

「俺様も自由に動ける状態じゃねえっちゅーことよ。三原に持ってこさせるのが上に知られちまってな。どうせならデルタのベルトを奪っちまおうって話になっちゃった」

「お前なあ………」

「しょうがねえだろお。カイザだってそんときゃまだ調整中だったんだからよお」

 海堂は煙草を深く吸い込み紫煙を吐き出す。色々と言いたいことはあるが、海堂が来なければ灰になっていたのは事実だ。まだ猶予を与えられた。

「まあ、助かった」

「よせやい気持ち悪い!」

 口ではそう言うがにやにやしている海堂は瓶に残ったビールを飲み干す。

「ちゅーか、あの鳥野郎から聞いたぞ。お前μ’sの前でオルフェノクになったんだってな」

「………そこまで知ってるのか」

「奴がベルトを土産にべらべら喋くってたんだよ。まあお前も、あんなカワイ子ちゃん達としばらく一緒にいられたんだ。当然の報いって奴だ。俺様にもその幸せ分けろ」

 ほいほい、と海堂が両手を差し出してくる。巧はそれを無視してビールを一口飲む。海堂が珍しく真面目な表情を見せた。

「その後どうなったかは、お前の恰好見りゃ分かる。行くとこがねえならここに居ていいぜ」

「俺をかくまって大丈夫なのか?」

「心配しなさんな。子犬一匹ぐらい面倒見てやんよ。仲良くしようぜ、オルフェノク同士」

 久々に見る海堂の変人ぶりに自然と笑みが零れる。「1本くれ」と巧が言うと、海堂は煙草を寄越してくる。火を点けて吸ってみるが、肺が煙に拒否反応を示して咳き込む。その様子を見て海堂は大笑いしている。

「………俺は――」

 煙草を灰皿に押し付けて、巧は自分の懊悩を吐き出す。さっきの注射のお陰で倦怠感は消えたが、胸のあたりにあるつっかえは取れない。

「オルフェノクと人間は分かり合えるって、勘違いしてたのかもしれない。真理と啓太郎、三原と阿部は俺を受け入れてくれた。でも、あいつらの怯えた顔見て思い出したんだ。オルフェノクは人間にとって化け物だって」

「そりゃしょうがねえわな。結局、オルフェノクと人間は相容れんてこった。なっちまったもんは変わんねえ。俺たちゃ化け物として生きるしかねえのよ」

「本気でそう思うのか?」

 巧の質問に海堂は少しだけ逡巡を挟む。

「思ってたらどんなに楽かねえ。木場や長田と一緒にいたせいだな」

 口調は変わらないが、このときの海堂は少し寂しそうに窓の外を眺めている。

「ちゅーかあいつ、自分の理想がどんだけきついか分かってたんだかな」

「多分、長田が死ぬまで分かってなかったと思う。だから人間を憎んだんだ。でも、最後だけは――」

「ああ。最後のあいつは、どこまでもお人好しで馬鹿な木場だった。本当に馬鹿だぜあいつは。真っ直ぐすぎるっちゅーか」

 

 ♦

「申し訳ありませんでした」

 そう言って絵里は深々と頭を下げる。他のメンバー達も絵里にならって、カウンターに立つ高坂母に頭を下げる。「あなた達………」と高坂母の険のこもった声が聞こえる。当然だ。大事な娘が風邪を引いた状態でステージに立たされたのだから。本人の意思を尊重したなんて言い訳はできない。糾弾される覚悟で、メンバー全員で謝罪しに来た。でも、次に投げかけられた声色はとても朗らかだった。

「何言ってるの?」

 「え?」と拍子抜けした絵里は頭を上げる。高坂母は笑っている。娘の友人が来たことを喜んでいるように。

「あの子がどうせできるできるって全部背負い込んだんでしょ? 昔からずっとそうなんだから。それより、退屈してるみたいだから上がってって」

 「え、それは………」と絵里は口ごもる。隣にいることりが言う。

「穂乃果ちゃん、ずっと熱が出たままだって………」

 穂乃果は何日も学校を休んでいる。ことりと海未が様子を見に行ったら熱が下がらず寝込んだままで、感染してはいけないからと会わせてくれなかったらしい。

「一昨日あたりから下がってきて、今朝はもうすっかり元気よ」

 高坂母はそう言って階段へと案内してくれた。大勢で押しかけては悪いと1年生の3人は外で待たせ、海未とことりの後に3年生組が着いていく。

 「穂乃果」と襖を開けた海未が呼びかけると、「海未ちゃんことりちゃん」とベッドでプリンを食べていた穂乃果が嬉しそうに出迎える。

「良かったあ。起きられるようになったんだ」

 ことりが安心したように言う。「うん」と答える穂乃果はいつも通りだ。弱々しい声しか出せなかったあの時の様子がまるで嘘みたいに。

「風邪だからプリン3個食べてもいいって」

「心配して損したわ」

 口元をマスクで覆う穂乃果に、にこがぶっきらぼうに言い放つ。照れ隠しなのはこの場にいる皆が分かっていることだろう。

「それで、足のほうはどうなの?」

 にこが尋ねると、穂乃果は「ああ、うん」と布団を捲って足首に包帯が巻かれた右足を見せる。倒れたときに足を挫いたらしい。保健室に連れていったとき、腫れ上がった足首を見て皆が血相を変えた。

「軽く挫いただけだから、腫れが引いたら大丈夫だって」

 そう言うと穂乃果はマスクを下ろし、彼女にしては珍しい弱気な表情を見せる。

「本当に、今回はごめんね。せっかく最高のライブになりそうだったのに………」

 「穂乃果のせいじゃないわ」と絵里が言う。

「わたし達のせい」

 「でも……」と口ごもる穂乃果に絵里はCDを差し出す。真っ白なCDには手書きでFor Honokaと書かれている。

「真姫がピアノでリラックスできる曲を弾いてくれたわ。これ聞いてゆっくり休んで」

 「うわあ」と感嘆の声をあげた穂乃果は、窓を開けて外にいる1年生達に手を振る。

「真姫ちゃんありがとー!」

 「何やってんの!」、「あんた風邪引いてんのよ!」と絵里とにこが無理矢理穂乃果をベッドに戻す。すっかり快復したようだが、治りかけでまた無理をしてぶり返してしまってはいけない。ティッシュで鼻をかむ穂乃果の肩に海未がカーディガンをかける。

「ほら、病み上がりなんだから無理しないで」

「ありがとう。でも、明日には学校行けると思うんだ」

 「本当?」とことりが嬉しそうに言う。穂乃果が学校に来ない数日間。メンバーのなかで特にことりは気を落としていたように見える。

「うん。だからね、短いのでいいからもう一度ライブできないかなって」

 穂乃果がそう言った瞬間、部屋にいるメンバー達の表情が曇る。穂乃果は気付いていないのか続ける。

「ほら、ラブライブの出場グループ決定まであと少しあるでしょ? 何ていうか、埋め合わせっていうか。何かできないかなって」

 明るく振る舞っているが責任を感じているのだろう。急ではあったが、歌もダンスも仕上がった状態でライブの日を迎えることができた。穂乃果が倒れなければライブは成功したのは事実だ。でも、成功に固執するあまり盲進していたのは他のメンバー達も同じだ。だから告げなければならない。家を尋ねた理由は親への謝罪と見舞い、そしてもうひとつある。

「穂乃果」

 絵里が重い声色で呼ぶ。かつて生徒会長として彼女を否定していた頃に戻ったかのような声色に驚いたのか、穂乃果は目を見開く。

「ラブライブには、出場しません」

 穂乃果は2、3度瞬きをする。絵里は続ける。

「理事長にも言われたの。無理しすぎたんじゃないか、って。こういう結果を招くためにアイドル活動をしていたのか、って」

 実は理事長から巧の行方についても聞かれたのだが、それは言うべきではないだろう。聞かれても彼がどこにいるのか分からないし、彼の正体についても絵里は言えなかった。それに、今ここで巧のことを話題に出しても穂乃果の心的負担が増えるだけだ。

「それで皆で相談して、エントリーを辞めたの」

 その決断は簡単に決まったものじゃない。にこと花陽はとても楽しみにしていたし、他のメンバー達も今までの努力を反故にしてしまうことに葛藤があった。何度も賛成意見と反対意見が衝突した末にこの決断に至った。とても悔しいし、とても苦しい。でも、残酷なことにこれが最善の選択だ。

「もうランキングに、μ’sの名前はないわ」

 絵里がそう告げると、穂乃果は「そんな……」と俯く。それ以上に言葉が出ない穂乃果に海未が言う。

「わたし達がいけなかったんです。穂乃果に無理をさせたから」

 「ううん、違う」と穂乃果は首を横に振る。

「わたしが調子に乗って………」

「誰が悪いなんて話してもしょうがないでしょ。あれは全員の責任よ」

 ベッドに腰掛けた絵里は言う。

「体調管理を怠って無理をした穂乃果も悪いけど、それに気付かなかったわたし達も悪い」

 「エリちの言う通りやね」と希が。

 穂乃果は何も言わずに視線を宙に浮かせている。どこを見ているのか、何を思っているのか読み取れない。まだ絵里の言葉を受け止めきれていないのかもしれないし、告げられた事実を受け入れようと気持ちを整理しようとしているのかもしれない。

 多分、絵里達が帰った後に泣くかもしれない。絵里も、エントリー辞退後にμ’sの名前が消えたランキングを見て心に穴が開いたような気分になった。これまでの練習が全て夢想だったかのようで、何のために努力してきたのかと神に問いたくなった。

 巧さんがいてくれれば――

 ふと、そんな考えが絵里のなかで浮かぶ。あのぶっきらぼうで、それでも自分達の傍にいてくれた彼なら、穂乃果に慰めの言葉でもかけてくれただろうか。

 その考えを絵里は拒否する。巧はオルフェノクだ。オルフェノクにも人間として生きようとする者がいることは分かる。巧に倒された戸田がそうだったし、巧もそうなのだと思いたい。でも、オルフェノクは恐ろしい。理屈抜きで。戸田は絵里を襲った。巧もいつか、その牙をμ’sに向けてくるのではと思ってしまう。そんなことない、という否定したい気持ちも確かに存在している。

 矛盾だらけだ。結局自分は何を恐れているのだろう。絵里には分からない。

 

 ♦

 ラブライブ出場がなくなってもμ’sの活動が終わったわけではない。アイドル活動の目的は音ノ木坂学院の廃校を阻止することだ。穂乃果が復帰して再びライブという気運が持ち上がったところで、その知らせは届いた。

「来年度入学者受付のお知らせ………」

 掲示板に貼られた紙の題を穂乃果が読み上げる。電話で練習の場を外していることりを除くメンバー達は、その知らせを持ってきた1年生達へと振り返る。

「中学生の希望校アンケートの結果が出たんだけど………」

「去年より志願する人がずっと多いらしくて」

 花陽と真姫が説明すると、穂乃果は隣にいる海未と顔を見合わせる。空耳じゃない。自分と同じ反応を示す海未を見て穂乃果は確信する。

「ってことは………」

 「学校は――」と詰まる海未の言葉を希が継ぐ。

「存続するってことやん」

 希も困惑を隠しきれていない。普段の落ち着きからは珍しい。それほどにこの知らせは大きいのだ。正に学校の命運を懸けた。

「再来年は分からないけどね」

 そう言うも、真姫も嬉しさを隠しきれていない。「後輩ができるの?」と凛が興奮気味に言う。廃校決定で後輩ができないことを残念がっていた凛は「やったー!」とばんざいする。

 穂乃果の視線に彼女の姿が入り込む。メンバーで唯一この場にいないことりが、こちらに気付いていない様子で廊下の奥からゆっくりと歩いてくる。

「こっとりちゃーん!」

 名前を呼んで穂乃果はことりに抱きつく。「え、え?」と状況を飲み込めていないことりに、海未が「これ」と掲示板を指差す。ことりは目を見開いて掲示板に視線を固定させた。

「やった……。やったよ。学校続くんだって。わたし達、やったんだよ」

 目を潤ませながら言う穂乃果に「嘘……」とことりは漏らす。確かに嘘のようだ。でも、はじめは実体を持たない知らせは文字に起こされ、こうして自分達の目の前に提示されている。

「じゃ、ないんだ………」

 

 ♦

 この気持ちをどう整理すれば良いんだろう。

 夕暮れ時の道を歩きながらことりは問いを続ける。学校が存続するのは嬉しい。そのためにμ’sは始まったわけだし、無事に結成目的を果たした。もうやり残したことはないはず。なのに、胸の奥に詰まったもやは消える気配がない。原因は分かっている。分かっているのに、打ち明ける勇気が出ない。

 しばらく歩いて、待ち合わせの場所に立つ海未が重苦しい顔でことりを見つめてくる。海未も弓道部の練習で学校にいたのだが、学校では話せない。穂乃果がいるから。

「遅らせれば遅らせるほど、辛いだけですよ」

 公園のベンチに腰掛けると、海未はそう言った。ことりは「うん……」と力なく返す。分かり切っていることだ。現に遅らせている今、海未の言う通りとても辛い。

「もう決めたのでしょう?」

「うん。でも、決める前に穂乃果ちゃんに相談できてたら、何て言ってくれたのかなって、それを思うと、上手く言えなくて………」

 ことりは俯く。海未に打ち明けたとき、彼女はことりの意思を尊重してくれた。きっと穂乃果も同じだと思う。怖気づくことりの背中を押してくれるはずだ。でも、今はその確証が持てない。一緒にμ’sをやってきて、メンバーの関係は切っても切れなくなっている。自分の決断が、大好きなμ’sを壊してしまうことが怖い。

「巧さんだったら、何て言ってくれたのかな………?」

「やめましょう、あの人の話は」

 海未は撥ねつけるように言う。

「でも――」

「あの人はオルフェノクなんです。ずっと正体を隠していたんですよ」

「言えなかったんだよ。言えるわけないよ、そんなこと」

 ことりがそう言うと、海未は固く唇を結ぶ。海未も迷っているのだと思う。海未だけじゃない。皆そうだ。巧がオルフェノクだったという事実を受け入れられていない。

 巧は生徒達にとってはヒーローだった。オルフェノクに対抗できる唯一の手段であるファイズに変身できて、学校が襲撃される度に守ってきた。理事長であることりの母が警察に相談したこともあったが、「そんなことがあるわけない」とオルフェノクの存在を信じてもらえなかったという。

 社会に潜み、人知れず存在する異形。人間の振りをして人間を襲う。巧もそうなのだろうか。自分達を守るために戦ってくれたことが、全て偽りだったのかと思ってしまう。

 分からない。何もかも。

 オルフェノクとは何なのか。何がオルフェノクを怪物たらしめているのか。人間として生きようとするオルフェノクは、何をもって人間と証明できるのか。

 海未は口を開く。

「今の問題はあの人ではなく、ことりの方です」

 ことりは「うん……」と答えることしかできなかった。ここで議論して結論が出る問題ではない。

 きっと、μ’sの前から姿を消した巧自身にも分からないのだろう。

 

 ♦

「では取り敢えず、にっこにっこにー!」

 簡単な飾り付けをした部室に、いつもの音頭を取ったにこの声が響き渡る。

「皆グラスは持ったかなー? 学校存続が決まったということで、部長のにこにーから一言、挨拶させていただきたいと思いまーす」

 「おー!」と床に敷いたビニールシートに腰掛ける凛、花陽、穂乃果が拍手する。呆れた視線を向けた真姫も、控え目ながら拍手した。パイプ椅子に座る希と絵里は互いに笑みを交わし、窓際のベンチに座ることりと海未は床に視線を落としている。

「思えばこのμ’sが結成され、わたしが部長に選ばれたときから、どのくらいの月日が流れたのであろうか。たったひとりのアイドル研究部で耐えに耐え抜き、今こうしてメンバーの前で想いをかた――」

 にこの音頭を最後まで待たず、メンバー達は「かんぱーい!」とジュースが注がれた紙コップを掲げる。

「ちょっと待ちなさーい!」

 文句を言いながらにこも紙コップを掲げた。

 テーブルの上に並べられた料理はその量を瞬く間に減らしていく。主に食べているのは凛と穂乃果で、花陽も炊きたての白米を頬張っている。呆れながらも残り僅かのサンドイッチをにこが手に取る。

「ほっとした様子ね、エリちも」

 希のその言葉で、絵里は自分が安堵のため息をついたことに気付く。μ’sに加入してから少しは気持ちが楽になったものの、生徒会長としての役目を忘れたわけではない。学校を存続させたいという願いが叶った。そのときが来たら両手を挙げて喜ぶものと思っていたが、現実はとても淡泊だ。これまでの練習で溜め込んでいた疲労が押し寄せてきたような錯覚に陥る。でも、やはり嬉しいことに偽りはない。亜里沙も喜んでいたし、電話で音ノ木坂学院を卒業した祖母も喜んでくれた。

「まあね。肩の荷が下りたっていうか………」

「μ’s、やって良かったでしょ?」

「どうかしらね。正直わたしが入らなくても、同じ結果だった気もするけど………」

 「そんなことないよ」と希がはっきりと言う。

「μ’sは9人。それ以上でも以下でも駄目やって、カードも言うてるよ」

「………そうかな」

 希の言葉で、絵里は救われた気がした。生徒会長なのに、自分のやりたいことをやって良いのか。それが気掛かりだった。もしアイドル活動をしても廃校が阻止できなかったら、長く懺悔の念を捨てられなかったかもしれない。夢や願いは呪いに似ている、と絵里はふと思う。夢の呪いを解くには夢を叶えるしかない。叶えなければずっと呪われたまま生きることになる。

 ――まだガキなんだ。やりたいことやればいいし、夢見たっていい――

 巧の言葉を思い出す。巧は夢が呪いと知っていたのだろうか。だから誰かの夢を守ろうと戦っていたのだろうか。自分もオルフェノクでありながら。

「巧さんのこと考えてる?」

 希の口から出た名前に絵里は目を僅かに見開く。メンバー間で巧の名前を出すのはいけないという雰囲気が、μ’sの中では暗黙のルールになってしまっている。でも他のメンバー達は食事に夢中で、絵里と希の会話に気付いていない。希も絵里にしか聞こえないよう、声量を抑えている。

「何で分かったの?」

「分かりやすいからね、エリちは」

 「もう」と絵里は呆れ気味に言う。希は鋭い。いつも絵里の考えていることを的中させる。

「巧さんをどう思って良いのか分からないけど、ここにあの人もいればいいのにって思っちゃって。わたしって、変かな?」

「ううん、うちも同じ。巧さんが運命を超えたものをもたらしてくれるって思ってたけど、その解釈が間違ってたらどうしようって。運命を超えたものっていうのは、巧さん自身のことなのかも」

 オルフェノクは死を経て進化する。1度死んだ身でありながら、新しい命を授かり再びこの世に帰還する。それはある意味、運命を超えた存在なのだろう。

「珍しいわね。希が占いに自信持てないなんて」

「だって、事が事やからね………」

 希は寂しい笑みを向ける。絵里も希に笑みを返す。

「今は喜びましょう。お祝いなんだから」

「そうやね」

 2人は控え目に紙コップを当ててジュースを飲んだ。今は喜びを噛みしめよう。

 賑やかな部室の窓際に絵里は視線を向ける。パーティが始まってからというもの、ことりと海未は料理に手を付けず、ずっと座ったまま特に会話に華を咲かせることもない。そもそも、ことりは以前から様子がどこかおかしかった。希も何か悩んでいるのではと言っていたし、時々辛そうな顔をしているのを何度も見かけた。

 ことりが頭を垂れて、その肩に海未が手を添えている。具合でも悪いのだろうか。そう絵里が思ったとき、海未が立ち上がる。険しい彼女の表情から、只事ではないと絵里は悟る。

「ごめんなさい。皆にちょっと話があるんです」

 食事をしていたメンバー達の手と口が止まり、皆の視線が海未に集中する。「聞いてる?」と尋ねる希に「ううん」と絵里は返す。

「実は、突然ですがことりが留学することになりました。2週間後に日本を発ちます」

 淡々と海未は告げた。ことりは俯いた顔を上げない。メンバー達の視線が海未からことりへと移る。

 「何?」、「え、嘘………」、「ちょ……、どういうこと?」と海未の言葉を咀嚼したメンバー達から困惑の声が挙がってくる。俯いたままことりは言う。

「前から服飾の勉強したいって思ってて。そしたら、お母さんの知り合いの学校の人が来てみないかって………」

 そんな話を絵里は聞いていない。しかも2週間後に日本を発つなんてかなり急だ。留学の話は随分と前から持ち上がっていたはず。

「ごめんね。もっと早く話そうって思っていたんだけど………」

 続きを海未が引き継ぐ。

「学園祭のライブでまとまっているときに言うのは良くないと、ことりは気を遣っていたんです」

 「それで最近………」と希が漏らす。留学といっても期間は様々だ。数週間か数ヶ月の間かもしれない。でも、打ち明けるのを躊躇するとなると。

「行ったきり、戻ってこないのね」

 絵里が言うと、ことりは首肯する。

「高校を卒業するまでは、多分………」

 もう音ノ木坂学院には戻ってこない。もうμ’sとして活動していくことはできない。ここで皆とはお別れ。即ちそういうことなのだ。

「どうして言ってくれなかったの?」

 部室に漂う沈黙を破ったのは穂乃果だ。彼女の険のこもった声を聞くのは初めてで、絵里は制止するのを躊躇してしまう。穂乃果は立ち上がり、ことりへと歩いていく。

「だから、学園祭があったから………」

「海未ちゃんは知ってたんだ」

 「それは……」と海未は言葉を詰まらせる。穂乃果は身を屈めて、ことりの手に自分の両手を被せる。まるで逃がすまいと捕まえているように見える。

「どうして言ってくれなかったの? ライブがあったからっていうのは分かるよ。でも、わたしと海未ちゃんとことりちゃんはずっと――」

 「穂乃果」と絵里は止めようと試みる。声色から次第に興奮しているのが分かった。続けて希も。

「ことりちゃんの気持ちも分かってあげな――」

「分からないよ!」

 穂乃果は叫んだ。

「だっていなくなっちゃうんだよ! ずっと一緒だったのに、離れ離れになっちゃうんだよ! なのに――」

 誰も穂乃果を止めようとしない。止められる状態じゃない。ことりは弱々しく言う。

「何度も言おうとしたよ。でも、穂乃果ちゃんライブやるのに夢中で……、ラブライブに夢中で………。だからライブが終わったらすぐ言おうと思ってた。相談に乗ってもらおうと思ってた。でも、あんなことになって………」

 ことりの目から涙が零れた。端を切ったように流れは止まらない。

「聞いてほしかったよ。穂乃果ちゃんには1番に相談したかった。だって穂乃果ちゃんは、初めてできた友達だよ。ずっと傍にいた友達だよ。そんなの………、そんなの当たり前だよ!」

 堪えかねたのか、ことりは穂乃果の手を振り払った。走って部室を出ていくことりを、目を赤くした穂乃果は追おうとするも立ち止まる。苦虫を噛み潰したように海未は告げる。多分、こうなることを予想していたのだと思う。

「ずっと、行くかどうか迷っていたみたいです。いえ、むしろ行きたがってなかったようにも見えました。ずっと穂乃果を気にしてて……。穂乃果に相談したら何て言うかってそればかり。………黙っているつもりはなかったんです。本当にライブが終わったらすぐ相談するつもりでいたんです。分かってあげてください」

 海未の言葉が耳に入っていないのか、穂乃果は何も言わない。黙って目を見開いたまま、ことりが出ていった部室の入口を見ている。かける言葉を絵里は見つけることができなかった。代わりに脳裏で浮かんだのは、先ほど忘れようとした巧のことだった。

 巧さんなら何て言うだろう。

 穂乃果に何て言えば良いんだろう。

 絵里はどこにいるか分からない巧に尋ねる。

 

 巧さん、μ’sはこれからどうすればいいの?

 

 当然、答えは返ってこなかった。

 

 ♦

 電車が線路の上を走っていく音が黄昏の街へと響いていく。がたんごとん、と線路の繋ぎ目のあたりで車輪がぶつかる音が一定のリズムを刻んでいて、それが街のBGMのように思えてくる。

「ことりちゃん、いなくなっちゃうんだね………」

 凛は思い出すように呟く。唐揚げとサンドイッチと大盛りの白米を食べたのに、何だか食べた気がしない。だからといって空腹なわけでもなく、好物のラーメンを食べる気にもなれない。共に帰路についている花陽、真姫、にこは目蓋を物憂げに垂れて視線を落とす。

「まったく、反対するほどわたし達は器小さくないってのに」

 にこは呆れ顔で言う。真姫も賛同を示す。

「そうね。急だけど決まったものは仕方ないわ。これから誰が衣装作るのか考えないと」

「勿論それはにこよ。にこのセンスで皆を可愛く仕上げちゃうんだから」

「何か心配だにゃ」

 凛が何気なく言う。花陽が「凛ちゃん」と注意しようとするが、既に遅くにこが不敵な笑みを浮かべながら凛を睨む。

「何ですってー………」

 ようやく自分が失言をしたことに気付いた凛は走り出す。その後を「待ちなさーい!」とにこが追う。道路の真ん中で繰り広げられた鬼ごっこを、真姫と花陽は呆れながらも微笑んで見守る。

 後ろを走るにこへ振り向いていた凛が通行人の背中にぶつかる。スーツを着たお勤め人らしき男は少しだけ驚いた顔で凛を見下ろす。

「あ、ごめんなさい」

 凛が謝ると男は優しく笑う。

「大丈夫だよ。君が死んでくれればね」

 男の顔に筋が走った。凛は直感的に何が起こるのか悟り、後方にいる3人のもとへ走る。男の体は灰色になった。サボテンのように棘が全身を覆っている。まるで鉄の処女(アイアンメイデン)を裏返したような姿だ。

 4人は悲鳴と共に逃げ出す。カクタスオルフェノクは地面を蹴り、高く跳躍し数メートルもの距離を一気に詰める。灰色の異形は4人の目の前で着地し、その進行を塞ぐ。

 4人は肩を抱き合う。目に涙を浮かべた花陽が叫んだ。

「誰か助けてー‼」

 声に応じたかのように、花陽の視界に影が入り込む。影は猛スピードで目の前を横切り、カクタスオルフェノクに突進した。棘だらけの体が宙を舞い、重力に従って地面に叩き付けられる。遅れてバイクのエンジン音が。銀色のバイクは甲高い摩擦音を立てて停まり、スタンドを立てた運転手はシートから降りる。

「ファイズ……!」

 カクタスオルフェノクの影が男の姿を形成し、真横から轢いてきた者を睨む。ファイズは手首を振り、ベルトのバックルに収まっている携帯電話からチップを抜いてバイクのハンドルに挿入する。

『Ready』

 ハンドルを引き抜くとグリップから真っ赤な刀身が伸びる。ファイズは立ち上がろうとしたカクタスオルフェノクの頭を蹴り上げる。再び地面に伏した敵の肩を掴み立ち上がらせ、がら空きの胴に剣を一閃する。

「巧さん………!」

 凛は無意識にそう呟く。ファイズの声から誰が変身しているのかすぐに分かった。あの日、ファイズのベルトは敵に奪われた。μ’sの前から姿を消していたこの1ヶ月半の間に、巧はベルトを取り戻したということか。

 ファイズの剣がカクタスオルフェノクの胸を突いた。カクタスオルフェノクは道路上に投げ出されて、すぐに立ち上がるとファイズに向かって駆け出してくる。

『Exceed Charge』

 携帯電話のキーを押したファイズは剣を構える。ベルトから発せられた赤い光がスーツに巡るラインに沿って剣を握る右手に到達する。同じタイミングで間合いを詰めてきたカクタスオルフェノクが棘の生えた拳を振り下ろしてくる。

「はあっ‼」

 ファイズは咆哮と共に、輝きを増した剣を下段から振り上げた。赤い刀身がカクタスオルフェノクの脇腹から肩にかけて滑り込み、刃が走った傷口から青い炎が噴き出す。カクタスオルフェノクの体が灰になって崩れた。その場には赤いΦの文字が残される。まるで墓標のように。

 ファイズは剣からチップを抜いて携帯電話に戻す。赤い刀身が消滅してバイクのハンドルだけになる。ファイズは凛達を一瞥すると、無言のままバイクにハンドルを挿して跨る。バイクのエンジンを吹かす戦士を4人はただ傍観する。日が暮れかけた街の影へ走り出すバイクを追いかけようと、凛は足を踏み出す。

「待って巧さん!」

「駄目よ、危ないわ!」

 真姫が凛の腕を掴んだ。引き留められた凛は不安そうに真姫を見つめてくる。真姫は言う。

「あの人、オルフェノクなのよ?」

「どうしてオルフェノクだからって巧さんが凛達と一緒にいちゃいけないの? あの時だって、巧さんは凛達を守るために戦ったんだよ?」

 凛にはもう我慢の限界だった。何食わぬ顔で日々を過ごし、巧のことを忘却しようとしていることに。

 巧がオルフェノクだったことにショックはある。でも、巧はμ’sを守るためにオルフェノクになった。巧は何も悪くないはずだ。オルフェノクであることが、自分達を裏切ったとは思えない。

「凛だってオルフェノクは怖いよ。でも巧さんは信じたいの!」

「わたしだって信じたいわよ!」

 潤んだ目をした真姫は唾を飛ばす勢いで言う。

「わたしも分からないのよ。オルフェノクが本当に危ないのか。でもわたし達は襲われてるのよ。もしかしたら、あの人だっていつかはわたし達を襲うかもしれないし、そのためにわたし達と一緒にいたかもしれないじゃない」

「じゃあさっきのは何? 何で巧さんは凛達を助けてくれたの? 巧さんは悪いオルフェノクじゃないかもしれないよ」

「良いオルフェノクなんていると思う?」

「分からないけど――」

「意味分かんない。滅茶苦茶よ!」

 互いの言い分なんて聞く耳を持とうとしない。凛と真姫の興奮は最高潮に達していく。そんな2人を見ていることしかできなかった花陽は涙を流しながら叫ぶ。

「喧嘩はやめて!」

 その言葉で凛と真姫は口を閉じる。互いに目配せし、少し罰が悪そうに花陽へと視線を移す。頭が冷えたのか、真姫が落ち着いた声色で尋ねる。

「ねえ、あの日からオルフェノクは出なかったわよね?」

 「うん……」と凛が首肯し、意図を察したにこが言う。

「まさか、わたし達を襲う前にあいつがオルフェノクを倒してたってわけ?」

「その可能性はあるわね」

 真姫の推測が正しければ、巧はずっとμ’sを守ってきたということになる。とても崇高な行為だ。でも、それなのに凛は巧に対して何も感じることができない。むしろ、忘れかけていたオルフェノクへの恐怖が再燃していく。同時にウルフオルフェノクに変身した巧の姿も。

 「かよちん」と凛は震えている花陽を呼ぶ。花陽は何に怯えているのだろう。自分達を襲ってきたオルフェノクか。それとも助けに来てくれた巧か。凛は尋ねる。

「かよちんは、巧さんの事どう思う?」

 花陽はただ肩を震わせるばかりで、凛の質問に答えてはくれない。凛は花陽の肩を抱く。背中をぽんぽんと叩き、「ごめんね」と謝罪する。

「もう帰ろう」

 

 ♦

 私、全然気付いてなかった…

 私が夢中過ぎてみんなの気持ちとか全然見えなくて

 だから

 ことりちゃん ごめんね

 

 打ち終わったメールを送信して、穂乃果は両膝に顔を埋める。

 謝ったって、もう………。

 全て自分のせいだ。ラブライブに出場できなかったのも、ことりの悩みに気付けなかったのも。ただ目の前のことにしか目を向けず、自分勝手にやりたいことだけしかやらなかった。結果がこの様だ。

 廃校阻止という願いは叶った。それと引き換えにこんな仕打ちを受けなければいけないのか。夢とは、こんなにも残酷なのだろうか。

 穂乃果は顔を上げて、照明が消えた部屋で唯一の光源であるパソコンの液晶を見る。画面のなかでA-RISEが踊っている。何度見ても見事なパフォーマンスだ。自分達とは比べ物にならない。観客席にひしめき合うサイリウムの数が実力差を物語っている。優れている方と劣っている方。どちらを見るか問えば当然人は前者を選ぶ。

 追いつけないよ、こんなの。

 努力すれば報われると思っていた。人一倍頑張れば全て上手くいくと思っていた。浅薄だったと穂乃果は思う。ただ努力すれば良いなんて、アイドルは甘くない。努力なんて必要最低限のものだ。容姿、センス、歌唱力、リズム、流行、才能。それらの要素が全て合致して、ようやくアイドルは陽の目を見る。事実、倒れるほど努力を重ねても、文化祭ライブでμ’sはA-RISEほどの観客を集めることができなかった。

 心にぽっかりと穴が開いたようだ。これまで培ってきたものが全て穴から零れ落ち、虚無へと消えていく。喉を潰すまで歌ったメロディも。全身が筋肉痛になるまで反復したステップも。繋がった絆も。

 このまま全て抜け落ちていってほしい。穂乃果はそう願う。夢も、友達も、何もかも。

 いや、違う。穂乃果は改めて認識する。心の穴など、とっくに空いていたのだ。彼がいなくなった日から。埋めようともがき続けてきた。余計なことは考えまいとしてきた。でも穴は埋まることがなかった。それだけだ。

 もう、たっくんはいないんだ。

 ことりちゃんも、いなくなるんだ。

 続ける意味が見つからない。皆で叶えようとした夢に「皆」が消えていく。巧が守ろうとした夢がぼろぼろと崩れていく。

 穂乃果の両眼から涙が溢れ出た。何も分からなくなった。

 たっくん、何でオルフェノクだったの?

 何でオルフェノクなのに、オルフェノクと戦ってたの?

 何でわたし達の夢を守ろうとしてくれたの?

 ことりちゃん、何で言ってくれなかったの?

 わたしの夢って何だったの?

 μ’sって何だったの?

 わたし、何やってたんだろう………?

 

 ♦

 スマートブレインの製品は、世界の科学技術を数世紀先へと飛躍させてしまう。だが製造コストが余りにも高く貴重な部品を数多く使用しているため量産は難しい。量産するためにはスマートブレインが先取りした新技術に時代が追いつくのを待つしかない。海堂はそう言っていた。

 海堂は啓太郎の店にオートバジンと共に置き土産を置いていった。それは日常にありふれた形をしていて、贈られた巧はその存在に気付かず日々を過ごした。スマートブレインから持ち出された追跡蝶(トレース・バタフライ)というマシンによって巧は常時監視されていた状態で、見張りに寄越した機械仕掛けの蝶の目を通じて海堂は巧の居場所を知ることができた。だから、巧が旅で辿り着いた音ノ木坂からそう離れていない街に海堂がセーフハウスを構えていたのは偶然ではないということだ。とはいえ、オルフェノクが集まっているこの街に巧が来ることになるのは、本当に偶然だったらしいが。

「相変わらず汚い部屋ですね。ここに住み始めてまだ半年も経っていないでしょう」

「うるせえなー。良いだろ俺様の部屋なんだからよお」

 巧が玄関のドアを開けると、その会話は聞こえてくる。玄関には見慣れない革靴がきちんと揃えられている。しっかりとワックスがかけられている来客の靴は、ひどく散らかっている玄関のなかで目立つ。巧はヘルメットを靴箱に置いてリビングに出る。

「おかえりー」

 海堂がそう言うと、巧に背を向けてソファに座っていた来客は振り返る。初めて見る顔ではなかった。来客は几帳面そうに眼鏡の位置を指で直す。

「お久しぶりです。乾さん」

「お前は………」

 巧はギアケースのロックに手をかける。「まあまあ」と来客は立ち上がる。

「警戒する必要はありませんよ。私のことを覚えていますか?」

「ああ、覚えてるさ………。琢磨」

 名前を呼ぶと、かつて巧と敵対したラッキークローバーの一員である琢磨逸郎(たくまいつろう)は不敵に笑む。相変わらずいけ好かない顔だ。2人の間に張り詰める緊張感を海堂はほぐすように言う。

「おいおい乾。琢磨は俺達の味方だぜ。そんな態度はねえだろ」

「こいつが?」

 「ええ」と琢磨は再び眼鏡を直す。

「信じてもらえないかもしれませんがね」

 巧はギアケースのロックから手を放す。ソファの空いている席に座り、じっと琢磨と海堂を交互に見つめる。

「琢磨はスマートブレインの幹部でな。色々と事情を教えてくれんのよ。オルフェノクを回すタイミングだって、今まで琢磨が教えてくれたんだぜ」

 スマートブレイン所属という特権を利用できる海堂は、企業がいつどこにオルフェノクを差し向けるのかを巧に教えてくれる。海堂がカイザとしてオルフェノクを倒してしまえば裏切り者として追われてしまうから、既にスマートブレインに追われる立場である巧が現場に向かっていた。今日もオルフェノクが凛達を襲うのは数日前から知っていたし、無事に彼女らを守り抜くことができた。できることなら見られたくなかったが。

 琢磨は挑発的な笑みを浮かべながら言う。

「まあ、そういうことです。昨日の敵は今日の友と言います。ここはひとつ、私と協力するのも手ですよ」

「そうかよ」

 巧は憮然と言い放つ。すぐに信用などできるものか。そう態度で示す。琢磨はわざとらしくかぶりを振る。

「今日来たのは、2人にニュースを伝えるためです。良い知らせと悪い知らせの両方がありますが、どちらからにしますか?」

 「迷うなー」と良いながら海堂は人差し指を左右に振る。戯れに付き合う気にはならず、巧は海堂の答えを待たずに言う。

「良い知らせからだ」

 「分かりました」と琢磨はテーブルに置いてあるノートパソコンを開き、キーを打ち込んで巧と海堂に液晶画面を向けてくる。

「音ノ木坂学院の存続が正式に決まりました」

 画面に表示されているのは音ノ木坂学院のホームページで、そのニューストピックスに『来年度入学者受付のお知らせ』とある。

「おいおいおい、あの学校存続するってことか?」

 画面を食い入るように見る海堂が興奮気味に言う。

「まあ、入学希望者が少なければ、再来年にまた廃校の案が出ると思いますが」

 琢磨が冷静に言うも、海堂は「ヒャッホウ!」と奇声をあげて冷蔵庫からビール瓶を持ってくる。

「今日は宴だ! 大いに飲もうではないか諸君」

「まだ悪い知らせの方があります。気が早いですよ」

 構わずビールを煽る海堂に呆れ顔でそう言うと、琢磨は別のウィンドウを開く。今度はラブライブのホームページで、エントリーしているグループの一覧が表示されている。

「μ’sがラブライブのエントリーを辞退しました」

「何?」

 巧は画面に顔を近付ける。グループ名ひとつひとつを目で追っていくが、μ’sの名前が見つからない。

「何で辞退した? 出場圏内に入ってたはずだろ?」

 以前秋葉原に寄った際、スクールアイドルショップでμ’sのグッズが大量に追加されていた。店員からはランキング19位に入ったと聞いていた。このまま順調にいけばラブライブ出場が叶ったというのに。

「聞いたところ、高坂穂乃果さんが学園祭で行われたライブで倒れたそうです」

「倒れた? それでどうなった?」

「ライブは中止になりました」

 げんなりと海堂は芝居じみた仕草で肩を落とす。

「俺μ’s好きだったのになあ。よりどりみどりでよ。特に希ちゃんなんて良いよなあ。高校生なのにあの胸だぜ。ああでも絵里ちゃんも捨てがたいし花陽ちゃんも――」

「それが辞退の理由だってのか?」

 海堂を無視して、巧は質問を重ねる。琢磨も呆れた顔で海堂を一瞥し咳払いする。

「理由かどうかは分かりませんが、無関係とは思えませんね」

 巧は握った拳で膝を打つ。いつも俺は戦うばかりで何もできない。巧は自分の無力さを呪う。

「随分と、彼女達に入れ込んでいるようですね」

「俺の勝手だろ」

 巧はそう吐き捨てて、海堂の手から瓶をひったくって煽る。何度飲んでもビールの苦味に慣れることはない。むしろ苦い気持ちを助長してくる。

「まあ、それはもういい。過ぎたことだ」

 まだ整理できない懊悩を頭の隅に追いやり、巧は更に尋ねる。

「それで、お前らはスマートブレインで何しようってんだ?」

 話題の矛先を変えたことに面食らった顔をするも、琢磨は何かを察したように表情を戻す。

「潰すんですよ。スマートブレインを。私は残りの人生を穏やかに過ごしたいので」

 琢磨の物腰からは考えられないほど物騒な答えだ。理由に穏やかなとか言うものだから矛盾を感じる。とはいえ、その目的が巧と同じであることは確かだ。

「スマートブレインは何を企んでる? 海堂にいくら聞いても教えねえんだ」

「海堂さんに言わないよう指示したのは私です。もし言ってしまえば、あなたはすぐに行動を起こそうとするでしょう?」

「当たり前だ」

 「言わなくて正解でしたね」と琢磨はため息をつく。

「乾さん。海堂さんから応急処置を施されたようですが、あなたの体はまだ危険です。ただ体の崩壊が止まっただけで、もってあと3ヶ月といったところですよ。だから、現時点でスマートブレインの目的を言うことはできません。まずは準備を整える必要があります」

「俺に打った薬のことも言えないのか?」

「ええ。ですが、あなたの命を延ばす方法は存在します。その時が来たら説明しましょう」

 要は、今は無暗に動くな。音ノ木坂学院をオルフェノクから守ることに集中しろ。琢磨の言っていることはそういうことだ。

「代わりと言っては何ですが、スマートブレインが音ノ木坂学院を狙う理由はお話しします」

「ああ、教えてくれ。それも海堂は全然口を割らねえ」

 「海堂さんには難しい話ですからね」と琢磨は苦笑する。当の海堂は煙草に火を点け天井に向けて紫煙を吐き出している。

「スマートブレインとそのグループ企業は3年前に倒産しましたが、それは日本経済において大打撃となりました。経済産業省としても経済の要だったスマートブレインをどうにか再建させようとした動きもあり、政府の援助を受けて会社は小規模ではありますが企業活動を再開させることができたわけです」

「政府はオルフェノクが関わってる会社を手助けしたのか?」

「オルフェノクは未だ社会に認知されていない存在です。警察にオルフェノクの研究機関がありましたが、あれは非公式でしかも何者かによって壊滅させられましたから。それに、政府はオルフェノクの存在を知ってもスマートブレインを援助したでしょうね。恐怖以上に、会社が再開すれば経済が回るのですから」

 「さて、話を戻します」と琢磨は続ける。

「スマートブレインが音ノ木坂学院の廃校を望む理由は、あの土地に会社のオフィスビルを建設するためです」

「オフィスビル?」

「ええ。スマートブレインはまだ小規模な工場しか構えていません。音ノ木坂学院は国立ですから、国有地である学校の敷地は廃校後政府によってスマートブレインに譲渡される手筈になっていたのですよ。ただ――」

「廃校はまだ決定事項じゃなかった。だから確実に廃校にさせようとオルフェノクに学校を襲わせたってことか」

 巧が答えを先に出すと、琢磨は「ええ」と肯定する。

「学校をひとつ潰すほどのもんなのか? そのオフィスビルってのは」

 「それもまだ言えません」とはっきりした口調で琢磨は言う。巧は苛立ちを隠さない。

「まだって、いつなら言えるんだよ?」

「こちらの準備が整ってからです。オートバジン2もカイザMark2も、全てはスマートブレインを打倒するための重要な駒です。物事は順を追って進めなければなりません。まずやるべきことは、あなたの体のことです」

 じれったい。巧は沸々と湧き上がる焦りを認識する。体調は良好だ。ファイズに変身しても灰は零れないし、以前よりも疲れが取れるようになった。今なら十分に戦える。琢磨を脅してスマートブレインの拠点を吐かせたいところだが、巧はその焦りをビールと一緒に飲み込む。

「他に聞きたいことは?」

 琢磨は尋ねる。聞いても教えてくれるのかは疑問だが。

「あの女のことを聞きたい」

「あの女とは、スマートレディのことですか?」

「ああ。奴は何者なんだ?」

 琢磨はしばし逡巡を挟み、パソコンに新しいウィンドウを開き巧に見せてくる。画面には女の証明写真が表示されている。スマートレディと同一人物のようだが、あの派手なメイクをしていないために印象が随分と異なる。どこにでもいる女という印象だ。

「彼女、というより彼女のベースとなった女性です。名前は花形すみれ。スマートブレイン前社長の、花形さんの実娘です」

「花形の?」

「ええ。記録上、彼女は10年前に交通事故で死亡しています。スマートブレインの蘇生オペレーションが施されましたが、肉体の損傷が酷く、当時はまだ技術不足だったこともあり手の施しようがない状態でした。なので損傷の激しい部分は機械で補い、脳の一部と脊髄以外を機械化させてようやくすみれさんは一命を取り留めました」

 だとしたら、彼女は人間なのか。巧が見たスマートレディは仕草のひとつひとつが完璧で、その完璧さがむしろ人間味が無いように感じていた。

 完璧な造形の表情。

 完璧な歩行動作。

 完璧な発声。

 まさに不気味の谷だ。人間に近付こうとしたら、逆に人間味を失ってしまう。

 巧の表情から察したのか、琢磨は少し表情を曇らせて続ける。

「一命こそ取り留めましたが、脳機能を殆ど失った彼女が、果たして花形すみれという人物の意識を保っているのかは分かりません」

 歯切れの悪そうに話す琢磨を見て、巧は彼の表情の真意を悟る。倫理を問われる事実に心を痛めているわけではない。複雑な事柄を素人である巧にどう説明したら良いのか迷っているのだ。

「人間の脳というのはかなりの数の処理モジュールを抱えています。視覚だけでも光や色や形。それらを認識するための各領域がしっかりと働き連動することでようやく機能するのです。細分化していけば、脳の領域は機能別に数百にまで分けることができます。多くのモジュールが生きていることで、意識というものは生成されるということです」

 自分が自分と認識する能力。ものを見て、音を聞いて、思考する。常に五感が機能している人間の脳は外部からの刺激を神経経由で認識・分解することに忙しい。たとえ眠っている状態でも、脳はしっかりと働いている。

「すみれさんの脳は大半の領域が機能を失いましたが、まだ生きているモジュールもいくらか存在しています。しかし、どれほどのモジュールが残っていれば意識があると言えるのか、それはまだスマートブレインの医療技術でも分かっていません」

「じゃあ、奴はもう人間じゃなくて機械なのか?」

「どうでしょうね。彼女は思考に関する領域のほぼ全てを喪失しています。現在の彼女の思考はAIによって賄われていますが、まだ残っているモジュールによって意識が生成される可能性もあるのです。恐らく、花形さんはその微かな望みに懸けたのでしょう。まだ生き残っている脳細胞が、娘の意識を蘇らせてくれると」

「どういうことだ?」

 琢磨はしばし考える素振りを見せて答える。

「例えば失明したとしましょう。もう目が見えなければ、脳の視覚領域は機能する必要はありません。しかし、それでもその領域は働いているという研究結果があります。視覚ではなく、聴覚や嗅覚といった他の感覚のためにね。脳というのは常にフレキシブルに活動しているのです。視覚も聴覚も失ったヘレン・ケラーの脳もまた、フル活動していたんですよ」

 制御する器官を失った脳の領域。すぐに別のモジュール制御へと移行し、細胞総出で絶えず働き続ける。これまで意識や人格を制御していた領域を失った脳は、残りの領域で再び意識を取り戻そうとするのだろうか。意識はモジュールの連合体。だとすれば、それまで制御していた領域とは別の領域で生成される意識は、以前と同じ「自分」と認識できるのだろうか。

「いったい、どれだけの部分が生きていれば意識と呼べるのでしょうね」

 巧にでも海堂にでもなく、琢磨は問う。問いに答える者はなく、ただ虚空へと霧散していくばかり。きっと、これまで明晰な頭脳を持った者がどれだけ問いを続けても答えはなかったのだろう。「自分」を感じ取れる境界線を見出せず、生きているのか死んでいるのかも定かにできない。

「調べることはできなかったのか?」

「これは主体の問題です。彼女自身が決めるしかないのですよ。現時点で言えることは、彼女はスマートブレインに従事せよというプログラムに従って行動していることだけです。それがプログラムの命令なのか、それとも彼女の意識によるものかは彼女にしか知りえないことです」

 誰も決めてくれない。意識があると決めるのは自分自身。現に今、巧が巧の意識で思考し迷いを生じさせているように。もはや医学の問題とは思えない。哲学の問題だ。

「ちゅーか、俺にゃ何のことかはさっぱりなんだけどよ」

 黙って話を聞いていた海堂が口を挟んでくる。黙っていたというより、理解が追いついていなかったのだろう。巧も質問には言葉を選んだ。

「花形もオルフェノクだったよな。オルフェノクなのにガキを作ったのか?」

 「いえ」と琢磨は即答する。巧の質問よりは答えやすいようで、すらすらと言葉を継ぐ。

「花形さんがオルフェノクに覚醒したのは、すみれさんが生まれた後です。そもそも、オルフェノクに子供を作ることはできません」

 「何いっ!?」と海堂は上ずった声をあげる。琢磨はパソコンの画面に新しいウィンドウを立ち上げる。ずらりと文字が並んだそれは研究論文のようだが、難解な専門用語ばかりで理解できない。

「オルフェノクの生殖方法は使徒再生です。人間だった頃の名残として性行為は可能ですが形だけです。人間としての生殖能力は失われています。かつて人間とオルフェノクを交配させる実験も行われました。まだ覚醒したばかりのオルフェノクの女性が人間との間に子を宿した記録はいくつかありますが、全て流産か死産しています」

「何てこった………。ん、待てよ? でも俺様は綺麗なねーちゃん見たらビンビンになるぜ。もうガキは作れねーのに、こりゃどういうこった?」

 海堂は自分の股間を指差して尋ねる。

「人間としての生殖が不可能だからといって、性的欲求が失われたわけではありません。それに関しては面白い研究結果がありましてね」

 琢磨は得意げに説明する。何で海堂の下世話な質問にまで律儀に答えてやるのか眉を潜めるが、巧は黙って聞くことにする。

「オルフェノクが人間に使徒再生を施す際、性ホルモンが多く分泌されることが確認されています。オルフェノクの殺戮衝動は、性欲に似ているんですよ」

「ちゅーことはあれか。オルフェノクは大好きだから人間を殺すってことか?」

「まあ、そういうことです」

 仲間を増やすため、愛故に殺す。巧はあの雨が降っていた夜を思い出す。穂乃果に向けるところだった人間を殺せというオルフェノクの本能。それが性欲だとすれば、あのとき自分は穂乃果に欲情していたということか。

 愛と呼ぶにしてもおぞましい本能だ。でも、同時に巧は悲しくもある。愛を伝えるには殺さなければならない。愛を受け取ってもらえれば同胞になる。でも、愛を拒まれれば相手は灰になる。

 不意にインターホンが聞こえてくる。「お?」と海堂はソファから滑るように降りて玄関に向かう。しばらくして戻ってくると、財布を手に意気揚々と再び玄関へと歩いていった。

「ピザが来た。取ってくるぜ」

 

 ♦

「ライブ?」

 朝のホームルームが終わってすぐ、絵里からことり以外のメンバー全員が集まる屋上へ呼び出された穂乃果はその提案を繰り返す。絵里は「そう」と頷く。

「皆で話したの。ことりがいなくなる前に、全員でライブをやろうって」

「来たらことりちゃんにも言うつもりよ」と希が続く。凛が両腕をいっぱいに広げて言う。

「思いっきり賑やかにして門出を祝うにゃ」

 「はしゃぎすぎないの」と背後からにこが凛の背中に手刀を見舞う。先輩後輩の上下関係など感じさせない戯れを繰り広げる2人の会話は穂乃果の耳孔に入ってこない。穂乃果はじっと床を見据える。

「まだ落ち込んでいるのですか?」

 海未の声が聞こえてくる。「明るくいきましょ」という絵里の声も。

「これが9人の最後のライブになるんだから」

 穂乃果は沈黙を保つ。いつもと違う様子に何かを察したのか、メンバー達にも沈黙が伝染していく。穂乃果はメンバー達の顔に焦点を合わせず、1歩先の床を見つめたままようやく口を開く。

「わたしがもう少し回りを見ていれば、こんなことにはならなかった」

「そ、そんなに自分を責めなくても――」

 花陽が怯えた声色で言うが、穂乃果はそれを強く遮る。

「自分が何もしなければ、こんなことにはならなかった」

 「あんたねえ」とにこが怒気を込めて言う。まだ落ち着きを保っている絵里が諭すように言ってくる。

「そうやって全部自分のせいにするのは傲慢よ」

「でも――」

「それをここで言って何になるの? 何も始まらないし、誰も良い思いをしない」

 「ラブライブだって、まだ次があるわ」と真姫が言う。自分に気を遣ってくれているのが分かる。皮肉を言ってばかりの真姫にそんなことを言わせてしまったことがとても切ない。

「そう。今度こそ出場するんだから。落ち込んでる暇なんて無いわよ」

 怒りを嚙み砕いたにこが不自然な笑顔を繕う。にこはまだラブライブ出場を諦めていない。それは他のメンバーも同じだと分かる。でも、穂乃果にはもうその熱が冷めきっている。

「出場してどうするの? もう学校は存続できたんだから、出たってしょうがないよ」

 「穂乃果ちゃん………」と花陽が何か言いたげだ。でも彼女が何を言ったところで何も変わらない。穂乃果の胸に灯っていた炎は消えてしまったのだ。炎が照らしてくれるものは何もない。ただ真っ暗なものが広がっていく。

「それに無理だよ。A-RISEみたいになんて、いくら練習したってなれっこない」

「………あんたそれ、本気で言ってる?」

 にこが静かに尋ねる。目の前にいる彼女の小さな拳が握られているのが分かる。

「本気だったら許さないわよ」

 穂乃果は無言を貫く。

「許さないって言ってるでしょ!」

 声を荒げたにこは詰め寄ろうとする。でもすぐに「駄目!」と真姫が止めに入って、にこはもがきながらも怒声と飛ばしてくる。

「にこはね、あんたが本気だと思ったから、本気でアイドルやりたいんだって思ったからμ’sに入ったのよ。ここに懸けようって思ったのよ。それをこんなことぐらいで諦めるの? こんなことぐらいでやる気をなくすの!?」

 分かっている。自分の言葉がにこの気持ちを踏みにじるものだと、穂乃果は十分に理解している。

「じゃあ穂乃果はどうすればいいと思うの? どうしたいの?」

 絵里がそう尋ねる。どうすればいいか。どうしたのか。穂乃果にはもう、これしか最善が思いつかない。何もなくなってしまった自分には、もう選択肢はひとつしかない。

「答えて」

 絵里の言葉に従い、穂乃果は答えを述べる。

 

「………やめます」

 

 その言葉にメンバー全員が目を見開く。穂乃果は続ける。簡潔に、明確に、そして空虚に。

「わたし、スクールアイドルやめます」

 驚愕の表情を固定し、動作の一切を止めたメンバー達に目もくれず穂乃果はドアへと歩き出す。誰も引き留める者はいなかった。引き留めるにはまだ理解が追いついていないのかもしれない。穂乃果にとってはどうでもいい。止めたってもう決めたことだし、止めないのならそれに越したことはない。

 不意に腕を掴まれる。何かと穂乃果は気だるげに振り返る。

 屋上に乾いた音が響いた。

 メンバー達の視線が頬を赤く腫らした穂乃果から、腕を振り切った海未へと移る。海未は息を荒げ、掠れた声で言う。

「あなたがそんな人だとは思いませんでした………」

 自分の身に何が起こったのか、穂乃果は頬にじんじんと走る痛みでようやく理解する。

「最低です。あなたは………」

 顔を上げると、海未の目に涙が浮かんでいた。

「あなたは最低です!」




「誰か助けてー!」
『♪♪♪~(Dead or alive)』

 こういう戦闘シーンを書きたく、今回入れてみました。かよちんの「誰か助けてー!」を敵の死亡フラグにしたい………!


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第14話 μ’s ミュージックスタート! / 切なく、そして熱く

 今回は第1期最終回です。まだまだ続きますが、ひとつの区切りとして応援してくださった皆様に感謝を。
 ありがとうございました!
 そしてこれからもよろしくお願いします!


「活動休止!?」

 2年生3人を除いたメンバー達が集まる屋上で、にこは絵里から告げられた今後の方針を確認するように聞き返す。納得していないのは、他の面々の表情からも分かる。絵里自身も苦渋の決断だ。

「ええ。それで少し見つめ直してみた方が良いと思うの」

 μ’sは9人、と希は言っていた。それ以上でもそれ以下でも駄目。絵里は合理性を求める性分だが、希の言うことは根拠なしに信じられる。それに、絵里も思っていることだ。ことりの留学は仕方ないとしても、やはりμ’sは9人でなければいけないと。

「ラブライブに出場できないどころか、活動も休止………」

 にこは唇を噛む。ラブライブ出場に最も意欲的だったのはにこだ。アイドル研究部唯一の部員として奮闘してきた様を絵里は希と共に見てきた。にこの想いは尊重したい。

「今のままで続けても意味があるとは思えないわ。μ’sは穂乃果がいなければ解散したようなもんでしょ」

 真姫が絵里の考えていることを代弁してくれる。にこはぐっと拳を握る。ようやくアイドルになるという夢を掴んだというのに。そんな悲壮な想いが伝わってくる。

 穂乃果が言い出さなくても、この問題にはいずれ、確実に直面することになっていただろう。学校の存続を果たし、次の目標を考える時期に入っていたのだ。ことりの留学はきっかけに過ぎない。

 穂乃果がスクールアイドル引退を表明してから、何度か彼女のクラスを尋ねた。穂乃果はいつものように明るかったが、その笑顔は曖昧でぎこちなかった。同級生達も察していたらしい。聞いたところによると、海未とも話さなくなった。ことりも留学の準備で登校していない。まるで別人のようだ、と同級生達は言っていた。あれだけ仲が良かった3人がばらばらになってしまった。海未も弓道部の練習に精を出していて、μ’sの方にはあまり顔を出さなくなっている。

「きっと、穂乃果も本心でやめるって言ったわけじゃないと思うの」

 絵里がそう言うと、「え?」とにこが目を丸くする。

「色々なことが短期間で重なり過ぎたのよ。学園祭のライブも、ことりの留学も。それに……、巧さんのことも」

 希以外の前で、初めて彼の名前を口にした気がする。メンバー達は口ごもる。きっと、口に出さなくとも考えていることは絵里と同じだったのだろう。

「わ、わたし………」

 花陽の震える声が沈黙を破った。メンバー達の視線が集中し、臆しながらも花陽は言う。

「この前、オルフェノクに襲われて………。巧さんに助けてもらったの」

 「巧さんが?」と絵里は漏らす。

「ファイズに変身してたわ。ベルトは取り戻したみたい」

 真姫がそう補足する。巧が姿を消してからオルフェノクは現れなかった。その理由がようやく分かる。絵里は告げる。

「巧さん、ずっとわたし達を守ってくれていたのね」

 花陽は頷く。

「わたし、巧さんのこと凄いと思う。わたしがアイドル大好きなのって、どんな暗い顔したお客さんでも笑顔にできて、そのために頑張れるのに憧れて。巧さんも同じだと思う。巧さんはわたし達の夢を守るために戦ってくれた。誰かの笑顔とか、夢のために頑張れるって凄いことだよ。だから――」

 力強い言葉だった。普段の控え目な様子からは考えられない彼女に絵里は驚いている。他のメンバーはもとより、親友で彼女のことをよく知る凛も口を半開きにして花陽を見つめている。

「だからわたし、巧さんのこと信じたい!」

 無意識に、絵里の口元に笑みが零れる。まさか花陽が最初に迷いを振り切るとは。花陽は悩むことに疲れて迷いを捨てたのとは違う。しっかりと考え、巧の正体を受け入れて信じるという決断に至ったのだ。絵里はメンバー達に呼び掛ける。

「そうね。いつまでも目を背けていたら駄目だわ。しっかり向き合わなくちゃ、巧さんとも」

 巧はオルフェノクだ。その現実を知った上で絵里は問う。

「皆も花陽と同じ答えを出してほしいとは言わないわ。でも考えてほしいの。巧さんはオルフェノクだけど、巧さんを拒むべきか、信じるべきか」

 

 ♦

  

「海未ちゃん、いらっしゃい」

 ドアを開けると、部屋の中からことりが笑顔で迎えてくれる。

「遅かったね。練習?」

 「はい」と気の抜けた返事をして、海未はことりの自室へと入る。大会が近いこともあって、最近は弓道部を優先している。絵里からもμ’sは活動休止と伝えられたし、アイドル活動に割いていた時間を練習に当てることができて都合が良い。もっとも、喜んでいいのか分からないが。

 海未は見慣れたことりの部屋を見渡す。棚が空っぽの机とベッド以外には殆ど何も置かれていない。よく少女趣味の小物を置いていたことりにしては殺風景な部屋だ。その理由を知っているし、何日も登校していないから片付けていることは予想できた。でも、こうして目の当たりにすると本当にことりは行ってしまうのだと実感してしまう。

「海未ちゃんも、断ったの?」

 ことりが尋ねる。言葉足らずだが、海未には何のことか分かる。学校には来ていないが、きっとメールか電話で知らされたのだろう。

「はい。続けようとするにこの気持ちも分かりますし、できることなら………」

 μ’sの活動休止が決まってすぐ、海未はにこからアイドル活動を続けないかと誘いを受けた。にこからしてみれば、μ’sの活動休止などさして問題でもないのだろう。元々ひとりでアイドル研究部を続けていたのだ。その苦難の日々に比べれば、メンバーの脱退とグループの活動休止なんて軽いもの。まだ残っているメンバーはいる。メンバーがいれば、活動は続けることができる。そんなにこが頼もしいと思うし、彼女のような強さが自分にも欲しいと思う。でも、海未は弓道部の活動を理由にそれを断った。にこは落胆していたが、彼女のことだから絶対に諦めずに仲間を募るだろう。

 「じゃあ、どうして?」とことりが尋ねる。

「わたしがスクールアイドルを始めたのは、ことりと穂乃果が誘ってくれたからです」

 海未がそう答えると、ことりは悲しそうに「ごめんなさい………」と呟く。

「いえ。人のせいにしたいわけじゃないんです。穂乃果にはあんなことを言いましたけど、やめると言わせてしまったのはわたしの責任でもあります」

「そんなことない。あれはわたしがちゃんと言わなかったから………」

 ことりならそう言うと思った。予想できたことなのに、海未にはかける言葉が見つからない。代わりに別のことを話すのが精いっぱいだ。

「穂乃果とは? もうすぐ日本を発つんですよね?」

 ことりは逡巡の後に「うん……」と消え入りそうな声で答える。出発の日は明日だ。

「ことり、本当に留学するのですか?」

「え?」

「わたしは………」

「海未ちゃん………」

 海未はことりに背を向ける。顔を見られたくなかった。

「いえ、何でもありません」

 行ってほしくない。もっと一緒に過ごしていたい。3人で高校生活の思い出を沢山作っていきたい。

 その本心を海未は飲み込む。ことりが服飾に興味を持っているのは知っていた。幼い頃からお洒落が好きで、自分で服を作ることもあった。留学はことりにとって絶好の機会なのだ。親友ならば「頑張って」と笑って送り出すものだ。

「無理だよ。今からなんて、そんなこと」

 ことりは言う。そう、今更無理だ。ことりの人生はことりのものだ。海未の我儘で彼女の夢を壊すことはできない。

「………分かっています」

 海未はそう言うしかなかった。

 ことりはお茶を用意すると言ったが、海未は断って帰路についた。あまり長居したくなかった。ことりと一緒にいると、彼女を引き留めたいという想いが強くなっていきそうだった。

 俯き、数歩先のアスファルトを眺めながら海未は歩いている。昔からよく歩き慣れた道だから、ぼうっとしていても家には辿り着く。いつもの道。穂乃果と一緒にことりの家へ遊びに行くときに歩いてきた道。もう、明日からはこの道を歩くことはない。そう思うと目元が熱くなってくる。

 込み上げてくる涙を抑えようと目に手をかけたとき、咆哮が聞こえた。聞き覚えのある声だった。海未は走る。声を頼りに、その方向へ脚を動かしていく。

 そこは人気のない路地裏だ。夕暮れ時、建物の濃くなった影のなかで、彼等は戦っている。灰色の怪物はカタツムリのように、頭から突き出した2本の触覚の先端にある目を光らせている。その触覚を戦士は掴み、乱暴に引き千切った。スネイルオルフェノクが奇声をあげて絶叫する。黄色い目を光らせるファイズは敵の胸に拳を打ち付けて突き飛ばす。

 ファイズは腰から外したポインターにミッションメモリーを挿入する。

『Ready』

 片目を潰されながらも向かってくるスネイルオルフェノクの胸に、ポインターを装着した右脚を叩き込む。「ごふっ」とスネイルオルフェノクの口から唾液が糸を引いて流れる。ファイズは自分の脚にかかる唾液を意に介さず、ベルトのフォンを開きキーを押す。

『Exceed Charge』

 ベルトから流れるエネルギーが右脚に充填されると、ポインターから発せられたマーカーがスネイルオルフェノクに突き刺さり円錐状に開く。

 ファイズは跳躍した。空中で右脚を突き出し、必殺のキックがスネイルオルフェノクの体を貫く。スネイルオルフェノクの体が青く燃え上がる。炎は灰色の体を焼き尽くし、消えるとその体は灰になって風に流れていく。浮かび上がっているΦの文字は、まるでそこにひとつの生命体が存在していたという指標に思えた。

 ファイズはバックルからフォンを抜く。コードのプッシュ音の後に、光と共に鎧が消滅して残った赤いエネルギー流動路がベルトへ収束していく。

「巧さん!」

 海未が呼ぶと、茶髪を肩まで伸ばした青年は海未を見て目を剥く。彼は急ぎ足で近くに停めてあるバイクに跨った。海未は全速力でその短い距離を走り、彼が手に取ろうとしたハンドルに掛けてあるヘルメットをひったくる。

「待ってください………」

 巧は無言のまま海未を見つめている。彼の顔におぞましい筋が浮かんだあの日の出来事が脳内を駆け回る。それでも、海未は巧に言う。

「お願いします。少しだけ、話をしてください」

 

 ♦

「どうぞ」

 公園のベンチに座る巧は、「ああ」と海未が差し出した缶コーヒーを受け取る。海未は巧の横に、2人分の間を取って腰掛ける。巧はプルトップを空けてコーヒーを啜る。巧はずっと無言だ。一緒に公園まで歩くときも会話は一言もなかった。海未は巧の横顔を眺める。以前よりも髪が伸びていた。目元が前髪に隠れて表情が分からない。

「こっちに、戻っていたんですね」

「………ああ」

「ずっと、オルフェノクと戦っていたんですか?」

「………ああ」

 巧の口からは「ああ」としか出てこない。海未がどんなに頓珍漢な質問をしても全て「ああ」と答えてしまいそうだ。だから、海未は一旦質問するのをやめる。代わりに、自分のなかに溜まった毒ガスのような忌まわしい気持ちを吐き出すようにぽつりぽつりと語り始める。

 穂乃果が学園祭のライブで倒れてしまったこと。ラブライブのエントリーを辞退したこと。学校が存続すること。ことりが留学してしまうこと。そのことにショックを受けた穂乃果が、スクールアイドルを辞めると言い出したこと。そんな穂乃果を海未がひっぱたいてしまったこと。

「………そうか」

 黙って話を聞いていた巧はそれだけ言った。

「巧さんがいなくなってから、μ’sはどこかぎこちなくなっていました。全部、わたしのせいです。わたしが巧さんを拒んだから………」

 あのとき、海未がファイズへの変身を試みなければ、オルフェノクにベルトを奪われることはなかったのかもしれない。巧はオルフェノクとしての正体を晒すことなく、μ’sの傍にいてくれたのかもしれない。

「巧さんはわたし達を守るために戦ってくれたのに、あなたを恐れてしまいました。そんな自分がとても情けなくて……、穂乃果に八つ当たりしてしまって………」

 海未は自分が泣いていることに気付く。ハンカチで拭っても涙は治まる気配がない。巧が去った原因は自分にある。それは分かっていた。認めてしまうことが怖かった。巧が消えたことでμ’sを助けてくれる存在がいなくなり、窮地に追い込まれても何もできなくなったのは自分のせいと、背負いきれない責任に押し潰されそうになった。

 穂乃果の頬を打ったのは、ただの八つ当たりだ。彼女が自分から始めたμ’sを勝手に辞めよとした無責任さに憤慨したのもあるが、巧が去ったことでμ’sが壊れてしまうことに耐えられなかったのだ。自分が責められているような気がした。穂乃果に吐き捨てた言葉は、本来ならば責任から逃れようとした自分自身に向けるものだ。

「本当に最低なのは、わたしの方です………」

「ああ、確かに最低だな」

 巧は何の感情も込めずに言う。そしてひと言付け加える。

「ちょっとだけ」

 「え?」と涙を流したまま海未は巧の横顔を見つめる。巧は海未に目もくれず、コーヒーを一口飲んで続ける。

「お前はちょっと最低なだけだ。本当に最低な奴は、自分のことを最低だなんて思ったりしない」

 ふっ、と海未は笑みを零す。怖れていた相手に慰められてしまった自分自身を嘲笑している。どうしてこの人は、ぶっきらぼうな態度なのに海未が言ってほしいことを言ってくれるのだろう。

「冷たいと思えば優しくして………。オルフェノクには心を読む力でもあるんですか?」

「んなもんねえよ。こんな体不便なだけだ。誰にも打ち明けることなんてできないしな。俺をオルフェノクと知っても受け入れてくれた奴らはいたけど、俺が自分から捨てた。人間とオルフェノクの共存なんて大層な理想持ってた奴がいたけど、そんなのは無理だったんだ」

「………寂しくはないんですか?」

「………寂しいなんてもんじゃない」

 そう言う巧の声からは悲しさが感じ取れる。穂乃果によると各地を旅してきたらしい。どこに行っても独りぼっち。海未も幼い頃、引っ込み思案な性格のせいで穂乃果とことりに出会うまでは独りぼっちだった。でも、巧の孤独は海未の比ではない。自分の正体を明かせず、親しくなっても決して心を通わせることはできなかったのだろう。

 オルフェノクだから。

 それだけの理由で。

「じゃあな」

 巧はそう言って立ち上がる。「待ってください!」と、涙を乱暴に拭った海未はバイクへと歩く彼の背中に呼び掛ける。巧の足が止まった。

「巧さん、穂乃果と会ってあげてください。何も言いませんが、巧さんがいなくなって1番辛いのは穂乃果です」

 巧はゆっくりと振り返る。彼の憂いを帯びた目を見て、海未は胸が締め付けられるような罪悪感に駆られる。巧の瞳から狂った怪物じみたものが微塵も感じられないのだ。人間としか思えない。こんな悲しみに満ちた顔が怪物にできるだろうか。

「俺と会えば余計辛くなるだけだ。俺はもうお前らとは一緒にいられないし、それが1番良い」

 巧はそう言って再び歩き出す。海未はポケットから携帯電話を出して、巧の前に回り込む。「何だ?」と巧は不機嫌そうに尋ねた。

「ならせめて、連絡先を教えてください。オルフェノクが出たら来てもらわないと」

 

 ♦

 夕陽が秋葉原の街を染めている。街を行き交う人々に混ざるように、穂乃果は賑わう道を歩く。

 今日は楽しい時間を過ごせた。ヒデコとフミコとミカの3人と思う存分遊んだ。クレープを食べたのは久し振りだった。ずっとダイエットと海未に禁止されていたから。ダンスゲームでも高得点を出すことができたし満足だ。女子高生らしいことができた気がする。

 ふと、穂乃果は顔を上げる。視線の先にはビルの壁面に取り付けられた大型モニターがあって、画面はA-RISEのPVを映している。穂乃果は立ち止まってモニターを眺める。穂乃果だけでなく、多くの観衆がモニターの前に集まっている。

 きっと、凄いアイドルになるんだろうな。

 流石はスクールアイドルランキング1位になっただけある。ラブライブでも優勝するに違いない。高校を卒業した後も、彼女達はきっとトップアイドルとして突き進んでいくだろう。

 穂乃果はモニターに背を向けて歩き出す。これからは何をしようか、と考えながら。今度は誰も悲しませないことをやりたいな、と思いながら。

 自分勝手にならずに済んで。でも楽しくて。たくさんの人を笑顔にするために頑張ることができて。

 そんなもの、あるのかな?

 穂乃果は空虚に尋ねる。思いつかない。何をやるにしても、そんな都合の良いものが存在するのだろうか。ただ楽しさだけがあって、悲しみのない完璧なものが。

 答えを出せないまま繁華街を抜けて閑静な住宅街に入る。神田明神の方角から足音と荒い息遣いが聞こえてきて、おもむろに穂乃果は神社へと足を運ぶ。

「かよちん遅いにゃー」

「ご、ごめん……。久しぶりだときついね………」

 聞き慣れた声がする。階段を上ると、練習着を着た2人が穂乃果に気付く。

「凛ちゃん、花陽ちゃん」

 「穂乃果ちゃん……」と花陽は驚いた様子で穂乃果を呼ぶ。

「練習続けてるんだね」

「うん………」

 「当たり前でしょ」という声と共に、憮然とした顔のにこが歩いてくる。にこも練習着を着ている。

「スクールアイドル続けるんだから」

「え?」

「悪い?」

「いや………」

「μ’sが休止したからって、スクールアイドルやっちゃいけないって決まりはないでしょ?」

「でも、何で………?」

 穂乃果が尋ねると、にこは真っ直ぐに穂乃果を見据えて答える。

「好きだから」

 一切の迷いがない、純粋な言葉だった。穂乃果は臆してしまう。にこは続ける。

「にこはアイドルが大好きなの。皆の前で歌って、ダンスして、皆と一緒に盛り上がって、また明日から頑張ろうって。そういう気持ちにさせることができるアイドルがわたしは大好きなの」

 こんな強い言葉を自分は語ることができるだろうか。次のやりたいことを見つけても、にこのように「好き」と断言して熱を持ち続けられる自信がない。

「穂乃果みたいないい加減な好きとは違うの」

「違う、わたしだって――」

「どこが違うの?」

 穂乃果は答えあぐねてしまう。結局、自分のやってきたことは中途半端なものだったのか。思い付きで始めて、始めてみたら上手くいかなくて、熱が冷めてしまった。これをいい加減と言わず何て弁解すればいいのか。

「自分からやめるって言ったのよ。やってもしょうがないって」

「それは………」

 穂乃果が口ごもると、花陽と一緒に傍観していた凛が口を挟んでくる。

「ちょっと言い過ぎだよ」

 確かに、言葉に棘はある。でも事実だ。認めざるを得ない。

「にこちゃんの言う通りだよ。邪魔しちゃってごめんね」

 笑顔を取り繕って言うと、穂乃果は階段へと歩き出す。「穂乃果ちゃん」と花陽が呼んできたので、一旦足を止めて振り返る。

「今度、わたし達だけでライブやろうと思ってて。もしよかったら………」

「穂乃果ちゃんが来てくれたら盛り上がるにゃー」

「あんたが始めたんでしょ? 絶対来なさいよ」

 3人は立て続けに言う。観客として行けばいいのか、それともステージへ立ちに行けばいいのか。穂乃果にはどちらの誘いと受け取るべきか分からない。もうやめたのだ。ステージに立つ資格はない。

「みんな………」

 穂乃果が答えに迷っていると、にこは後輩2人に言い放つ。

「さあ、次はステップの練習いくわよ!」

 「うん!」、「はい!」と凛と花陽は境内へと走っていく。にこは穂乃果に一瞥もくれることなく、その後を追っていった。

 

 ♦

 帰宅してから部屋でくつろいでいると、その来客はやってきた。彼女の妹と下校していた雪穂を送ってくれたらしい。

 窓際に立つ絵里は所在なさげに「ごめんね」と言ってくる。「いえいえ、お気になさらず」と穂乃果は湯呑みに急須のお茶を注ぐ。

「今お茶を――」

「違うわ」

 絵里はテーブルを挟んで穂乃果の正面に座る。

「μ’s活動休止にしようなんて言ったこと。本当はわたしにそんなこと言う資格ないのに、つい………。ごめんなさい」

「そ、そんなことないよ。ていうか、わたしがやめるって言ったから………」

 絵里が謝る必要なんてない。μ’sの休止は穂乃果の引退宣言が招いたことだ。誰にも迷惑をかけたくないから辞めることにしたのに、結局また迷惑をかけてしまった。

 「わたしね――」と絵里は話す。

「すごくしっかりしてて、いつも冷静に見えるって言われるけど、本当は全然そんなことないの」

「絵里ちゃん………」

 意外だった。穂乃果の知る絵里は常に完璧で、下級生にとっては憧れの生徒会長だった。

「いつも迷って、困って、泣き出しそうで。希や巧さんに実際恥ずかしいところ見られたこともあるのよ」

 彼女の口から出た名前に思わず穂乃果は息を飲んでしまう。

「μ’sに入る前に、巧さんにファイズのベルトを渡してほしいってせがんだことがあるの。結局、わたしにはベルトの力を使うことはできなかったけど」

 始めて聞いたことだ。でも当然だと思える。巧は口数が少ないから、その日の出来事を話すなんてことはしなかった。

「でも隠してる。自分の弱いところを。わたしは穂乃果が羨ましい。素直に自分が思っている気持ちをそのまま行動に起こせる姿が、すごいなって」

「そんなこと………」

 ただ考えなしに行動しているだけ。そう言おうとしたところで、お茶を啜った絵里が「美味しい」と呟く。

「ねえ、穂乃果。わたしには、穂乃果に何を言ってあげればいいか正直分からない。わたし達でさえ、ことりがいなくなってしまうことがショックなんだから、海未や穂乃果の気持ちを考えると辛くなる。でもね、わたしは穂乃果に1番大切なものを教えてもらったの。変わることを恐れないで、突き進む勇気」

 絵里は手を差し伸べる。あのときの穂乃果のように。

「わたしはあの時、あなたの手に救われた。だから、わたしに教えてくれたことを穂乃果には忘れてほしくないの。わたしにしてくれたように、あなたの手をことりと、巧さんにも………」

 穂乃果は絵里の手を取ることができない。自分にはもうμ’sにいることは赦されない。活動を再開するのであれば、絵里にメンバー達を引っ張っていってほしい。絵里はダンスも歌も上手だし、容姿もアイドルとして申し分ない。

 おもむろに絵里は「巧さんて――」と言う。

「不思議な人よね。冷たいのか優しいのか分からなくて。年上なのに子供っぽいところもあって」

 絵里の言葉で、穂乃果のなかで忘れようとした記憶が次々と浮かび上がってくる。

 いつもぶっきらぼうな顔をしていた巧。熱いお茶に息を吹きかけていた巧。穂乃果に夢を語ってくれた巧。

「花陽がね、言ってたの。誰かの笑顔や夢のために頑張れる巧さんは凄いって」

 どこか寂しげに笑う絵里に、穂乃果は尋ねる。

「絵里ちゃん、たっくんはどっちだと思う?」

「オルフェノクなのか、人間なのかってこと?」

 穂乃果は黙って頷く。

 ずっと疑問に思っていた。穂乃果の知るオルフェノクとは人間の心など微塵もなく、自分より弱い者を虐げいたぶる悪魔のような存在だった。そして、巧も穂乃果の恐れる怪物と同種だった。なのに、なぜ巧は人間として生き自分達の夢を守るために同族と戦っていたのか。巧はオルフェノクの側なのか、それとも人間の側に立つのか。

 絵里は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「それは穂乃果が1番よく知ってるんじゃない? μ’sのなかで、巧さんの近くにいたのは穂乃果でしょ?」

 絵里はお茶を飲み干すと、「ご馳走様」と言って鞄を持った。亜里沙と共に帰路につく彼女を玄関先で見送った後、自室に戻った穂乃果の視線は部屋の隅に積み重ねられた服に向く。

 巧が洗濯してくれた服だ。随分と前に母が置いたのだが、放置したままだった。1番上の白いシャツを手にとって広げてみる。ミートソースを食べているときに付いたケチャップの染みが綺麗に取れている。アイロンもかけてくれたようで、しわがひとつもない。

「お前どんな生活したらこんなしわくちゃになるんだよ?」

 いつだったか、アイロンをかけながら巧が文句を言っていた。面倒臭いとか愚痴を言っていたけど、巧は洗濯後の乾いた衣類に必ずアイロンをかけてくれた。

 穂乃果はシャツを鼻に押し当てて息を吸う。微かに石鹸フレーバーの洗剤の匂いが残っている。巧と同じ匂いだ。巧の近くにいると、ふわりと洗剤の香りが穂乃果の鼻腔をくすぐった。その香りが穂乃果は好きだった。巧が洗ってくれた服を着ると、巧の香りが全身を包み込んでくれるような気がした。巧が守ってくれているような気がした。

 

 たっくん――

 

 穂乃果はシャツを胸に抱いた。悩む必要なんてなかったことに気付く。巧はどっちなのか。答えはすぐそこにあった。

 巧が洗ってくれた服。真っ白で、優しい石鹸の香り。それが全ての答えだった。

 穂乃果はアイドルをやりたいからμ’sを始めた。

 巧がμ’sを守っていたのは、オルフェノクや人間であることを超越した、巧の「やりたいこと」だったのだ。

 穂乃果は立ち上がる。押入れの奥にしまった練習着を引っ張り出して着替える。そう日数は経っていないはずなのに、すっかり懐かしく思えてくる。穂乃果は深呼吸し、自分の頬を両手で叩いた。

 体の底から熱が込み上げてきた。

 

 ♦

 がらんとした講堂のステージから、穂乃果は客席を見渡す。誰もいない。初ライブをしたあの日と同じだ。あのときは隣に海未とことりがいたけど、今は穂乃果ひとりだけ。誰もいないステージがこんなに寂しいものだとは思わなかった。初ライブは少なかったが観客がいた。まだμ’sに入る前のメンバー達と巧が。まさに魔法のようだ。人気アイドルはこんな寂しい会場も満員にして、人々を熱狂に湧かせてしまうのだから。

 重い両扉が開く。廊下に射し込む朝日が入り込むも、扉が閉まるとそこはステージ以外の照明が落ちた講堂の暗闇へと飲まれていく。暗闇の中から、海未は無表情にステージ上の穂乃果を見下ろし、ゆっくりと降りてくる。

「ごめんね。急に呼び出したりして」

「いえ………」

「ことりちゃんは?」

「今日、日本を発つそうです」

「………そうなんだ」

 ことりからは出発の日時を聞いていない。穂乃果が意図的にことりを避けたせいだ。聞こうと思えば聞けたのに、それを拒否した。

 「穂乃果………」と海未は無表情を崩さずに言う。スクールアイドルを辞めると言った日から会話をしていない親友に、穂乃果はできるだけいつも通りの声色で告げる。

「わたしね、ここでファーストライブやって、ことりちゃんと海未ちゃんと歌ったときに思った。もっと歌いたいって。スクールアイドルやっていたいって」

 観客の集まらない切なさと、歌うことの熱さを知った。切ない思いはできればしたくない。でも、それ以上に熱さを忘れられない。

「やめるって言ったけど、気持ちは変わらなかった。学校のためとかラブライブのためとかじゃなく、わたし好きなの、歌うのが。それだけは譲れない。だから――」

 「ごめんなさい!」と穂乃果は頭を下げる。顔を上げると、海未が拍子抜けした表情を浮かべている。

「これからもきっと迷惑かける。夢中になって誰かが悩んでるのに気付かなかったり、入れ込みすぎて空回りすると思う。だってわたし不器用だもん。でも、追いかけていたいの! 我儘なの分かってるけど、わたし――」

 言葉を詰まらせると、黙って聞いていた海未は吹き出した。控え目だが、腹を抱えて笑っている。

「海未ちゃん、何で笑うの? わたし真剣なのに!」

「ごめんなさい。でもね、はっきり言いますが――」

 穂乃果は身構えて言葉の続きを待つ。

「穂乃果には昔からずっと迷惑かけられっぱなしですよ」

 海未は笑顔でそう言う。「え?」と穂乃果は間の抜けた声をあげてしまう。

「ことりとよく話していました。穂乃果と一緒にいるといつも大変なことになると。どんなに止めても夢中になったら何にも聞こえてなくて」

 ステージへと歩きながら、海未はいつもの顔で言う。いつも、穂乃果とことりの3人でいるときの、楽しそうな表情で。

「大体スクールアイドルだってそうです。わたしは本気で嫌だったんですよ」

「海未ちゃん………」

「どうにかしてやめようと思っていました。穂乃果を恨んだりもしましたよ。全然気付いてなかったでしょうけど」

 ステージの前で立ち止まった海未はそっぽを向く。図星だった。海未は楽しんでいると思っていた。歌詞も書いてくれていたし、練習の指示を出してくれていたから。

「ごめん………」

 穂乃果がそう言うと、海未は頬をほころばせて「ですが――」と切り出す。

「穂乃果は連れていってくれるんです」

 海未の目が真っ直ぐと穂乃果へ向いた。

「わたしやことりでは、勇気がなくて行けないような凄いところに」

「海未ちゃん………」

「わたしが怒ったのは穂乃果がことりの気持ちに気付かなかったからじゃなく、穂乃果が自分の気持ちに嘘をついているのが分かったからです。穂乃果に振り回されるのはもう慣れっこなんです。だからその代わりに、連れていってください。わたし達の知らない世界へ」

 皆の知らない世界。その先に何があるのか。果たして楽しいことなのか、辛いことなのかは穂乃果でさえも分からない。分からないからこそ行きたいと思える。ひとりではなく、皆と一緒に。

「それが穂乃果の凄いところなんです。わたしもことりも、μ’sの皆もそう思っています」

 ステージに登った海未は穂乃果の隣に立つ。一緒に無人の客席を見渡すと、あの日に戻ったような錯覚に陥る。でも、あの日を思い出すにはもうひとり足りない。

「さあ、ことりが待ってます。迎えに行ってきてください!」

「ええ!? でも、ことりちゃんは………」

「わたしと一緒ですよ。ことりも引っ張っていってほしいんです。我儘言ってもらいたいんです」

「わがままあ!?」

「そうですよ。有名なデザイナーに見込まれたのに残れなんて。でも、そんな我儘を言えるのは穂乃果だけです!」

 「それに」と海未は講堂の入口へと視線を移す。

「穂乃果を待っているのは、ことりだけじゃありませんよ」

「え?」

「もう、時間がありません。早く行ってきてください」

 そう言って海未は背中を押してくる。なされるがままに穂乃果は1歩踏み出し、ステージを降りて出口へと駆けていく。

 この先に何があるかは分からない。もっと辛い思いをしてしまうかもしれない。でも、行こうという声が奥底から聞こえてくるような気がする。その声に従うのみだ。

 これは紛れもなく、穂乃果自身が「やりたい」と思うことなのだから。

 

 ♦

『オルフェノクが学校に出ました。急いで来てください』

 

 海未から届いたメールは短くそう打たれていた。海堂からも琢磨からも、今日スマートブレインが音ノ木坂にオルフェノクを差し向けるだなんて聞いていない。でも要請が来た以上は行かねばなるまい。スマートブレインの刺客でなくても、オルフェノクとして覚醒した者が愉悦のために学校を襲う可能性も十分あり得る。

 巧は猛スピードでオートバジンを走らせ校門を潜る。土曜日で、まだ朝が早いせいか登校している生徒はいない。無人の校庭で急ブレーキをかけると、タイヤの摩擦音をあげてオートバジンは停車する。素早くシートから降りて括り付けておいたバッグからファイズギアを取り出し、腰に装着する。フォンを握りしめて周囲を見渡すが誰もいない。時々風の音と遠くから車の走る音がするばかりで、不気味な静けさが校庭に漂っている。

 巧は腰からベルトを外す。既に遅かったのだろうか。そう思っていると、不意に背後から声が聞こえる。

「たっくん?」

 巧は振り返る。振り返った先には穂乃果が立っていて、驚愕に満ちた表情を巧へ向けている。

 騙された、と巧は悟る。お節介もいい所だ。巧はなるべく、いつもの声色で言う。

「海未から聞いたぞ。お前、スクールアイドル辞めるんだってな」

「ううん、やめない」

 穂乃果は強い口調で答える。

「だって、わたしもっと歌いたい。皆で一緒にやりたい。もう自分の気持ちに嘘はつきたくないの」

 その言葉の連なりを聞いて巧は安心する。穂乃果は一度決めたら途中で投げ出すような人間ではない。短い間だったが、一緒に過ごしてきた巧には分かる。

「そうか。………頑張れよ」

 「じゃあな」と言って巧は背を向けてオートバジンへと歩く。穂乃果の呼びかけが聞こえても歩みは止めない。

「たっくん、どこ行くの?」

 「お前らのいない所だ」と巧は足を止めて少しだけ振り返る。彼女の顔を見るのが怖かった。彼女にオルフェノクとしての本能を抑えられなくなることが。

「お前だって見たろ。俺の姿を。俺はオルフェノクだ。化け物なんだよ。忘れたならここで変身してやろうか」

「そんな……、たっくん――」

「たっくん言うな‼」

 巧は吐き捨てる。穂乃果の言葉、そこに込められた想いを撥ねつけるように、落ち着いた口調で続ける。

「俺はお前が思っているような人間じゃない。そもそも、人間ですらないんだよ」

 止めていた足を再び動かす。すぐに背後から足音が聞こえ、その音は横を通り過ぎてオートバジンの前に立ち塞がる。足元を向いていた巧が視線を上げると、頬を紅潮させ目が潤んだ穂乃果の顔が見える。

 穂乃果は巧に抱きついた。衝撃で少しだけ後ろへ沿った巧の胸に、穂乃果は顔を埋める。生地の薄い巧のシャツに穂乃果の温かい涙が染み込んでくる。

「嫌だ、行かないでよたっくん!」

 穂乃果は巧の背中に腕を回してくる。決して逃すまいと密着する彼女から逃れるにはどうすればいいか。巧は両腕を宙に泳がせるもすぐにだらりと下げて尋ねる。

「何でだよ。お前は俺が怖くないのか?」

「怖くない。たっくんはたっくんだもん!」

 嘘だ、と巧はその言葉を拒みたくなる。自分はオルフェノクで、怪物だ。人を襲い、人の夢を壊す異形の存在と同類のはず。そんな巧を彼女はなぜ恐れないのか。巧の胸にいる穂乃果は続ける。

「わたし知ってるよ。たっくんが誰よりも優しいって。たっくんが洗ってくれた服、ものすごく綺麗だった。たっくんがアイロンかけてくれた服着ると、わたしすごく幸せな気持ちになれた。たっくん、わたし達の夢を守ってくれるんでしょ? わたし、まだ夢を叶えてない。夢が叶ったとき、たっくんもいてほしい。だから叶うまで一緒にいてよ!」

 目元が熱くなってくる。巧は自分が受け入れられることを諦めていた。どんなに親しくなっても、オルフェノクに変貌した姿を見られれば怖れられ拒まれると思っていた。だからどこへ行っても他人と深く関わることを恐れていたし、真理と啓太郎、三原と里奈以外に自分を受け入れてくれる者など現れないと思っていた。彼等のもとから逃げたら、もう残された時を孤独に生きるしかなかった。

 でも、穂乃果はそれでも受け入れると言ってくれる。こうして巧を抱きしめ、一緒にいてほしいと言ってくれる。

 巧は右手を穂乃果の頭に添える。目尻から溢れようとする涙を懸命に堪え、彼女の髪を優しく撫でる。

「ごめん、穂乃果。俺はもう逃げない。絶対に、お前らの夢を守る」

 巧のなかで、穂乃果に同族への進化を促したいという欲求はない。巧は確信する。穂乃果を守りたいというこの気持ちは、紛れもなく人間としての心がもたらすものだ。巧は誓う。

 絶対に守る。

 オルフェノクに、スマートブレインの陰謀のために彼女らの夢を壊させはしない。

 そのために同族を殺さなければならないのなら、その罪は全て背負う。

 「あ――‼」と穂乃果は巧の胸から離れる。

「もたもたしてる場合じゃなかった!」

「はあ? どうしたんだよ?」

「ことりちゃんが留学しちゃう!」

「ああ、らしいな。いつだ?」

「今日だよ!」

「今日!? お前何でそういうこと早く言わねーんだよ!」

「だってしょうがないじゃん! たっくん見つけたんだもん」

「お前なあ………」

「とにかく早く空港行かなくちゃ!」

「ああ行くぞ。乗れ」

 巧はバッグにファイズギアを突っ込み、代わりに取り出したハーフヘルメットを穂乃果に手渡す。ヘルメットを被った穂乃果がリアシートに乗り込むと、巧はオートバジンのエンジンを掛けてアイドリングをする間もなくギアを入れる。

 穂乃果の案内通りの道を進み、2車線道路に入ると法定速度など無視して他の車を追い越していく。スピードが怖いのか、穂乃果は巧の背中にしがみついている。

「留学なんて、随分前から決まってたんじゃないのか?」

「うん。ことりちゃんも行くか悩んでたみたい。なのに、わたしが夢中になりすぎたせいで気付かなくて………」

 普段からは考えられない声色の穂乃果に、巧は呆れと共に言う。

「お前が周り見ないのなんて今に始まったことじゃないだろうが。何かやる度に付き合わされて俺は疲れてたんだよ」

「うん、ごめん………」

「謝んな。お前が突っ走ったおかげでμ’sがやってこれたのは事実だろ?」

 巧がいない間に起こっていたことは随分と深刻だったようだ。穂乃果は何か言うかと思ったが、彼女は無言のまま巧の背中にしがみつく手に力を込めてくる。続けてヘルメットの硬い感触が。

「飛ばすぞ。しっかり掴まってろ」

「………うん」

 巧はアクセルを捻る。エンジンの回転数が上がり、オートバジンのスピードを更に速めた。

 

 ♦

 空港の第2ビル、これから日本を発つ人々や帰って来た人々が行き交うバスターミナルで巧はバイクを停める。ヘルメットをハンドルに掛けて穂乃果と走り出したとき、ポケットに入れた携帯電話が鳴り響く。

「穂乃果、先行ってろ」

「うん!」

 通話ボタンを押して耳に当てると、慌てた様子の琢磨の声が聞こえてくる。

『乾さん、今どこにいるんです?』

「空港だ。ちょっと用があってな。何かあったのか?」

『スマートブレインにあなたが高坂さんといるところを目撃されました。スマートレディが追跡に向かっています。あなたを排除するつもりですよ』

 巧の意識は聴覚から視覚へと移る。自動ドアを潜ろうとした穂乃果が立ち止まっている。彼女の前に、群衆のなかでも目立つ青の衣装を身に纏った彼女が完璧な笑みを浮かべている。

『乾さん、どうしたんですか?』

「奴が来た」

『なら早く逃げてください。彼女と戦ってはいけません。ファイズでは――』

 最後まで聞かず、巧は通話を切って携帯電話をポケットにしまう。バッグから取り出したファイズギアを腰に巻いて走り、穂乃果とスマートレディの間に割って入る。

「穂乃果、行け」

「たっくん………」

「ことり連れ戻すんだろ? 急げ」

 穂乃果は巧とスマートレディを交互に見る。そして口を固く結び、自動ドアを潜って様々な人種が入り混じる建物のなかへと走っていく。

「ざーんねん。あなたのせいでたくさんのお仲間がやられちゃいました。おかげで女王様(クイーン)もカンカンです。私の手で始末しなさいって言われました」

「お前………、命令だから俺を殺すのか?」

「はーい、その通りです」

 スマートレディは明るく答える。理想的な表情筋の使い方で、その造形はどんな美容整形の名医でも作れそうにない。

「お前は人間なのか?」

「人間ですよ。ただちょっと機械に助けてもらってるだけ」

「俺を殺すのは、花形すみれとしての意思なのか?」

 試しにその名前を出してみるが、スマートレディはうろたえることなく、笑顔を保ち続ける。

「私はスマートブレインのために働くだけです。それが私の役目なんですから」

「そうか………」

 巧はファイズフォンを開く。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

 鳴り響く待機音声に、周囲の視線が巧に集中してくる。スマートレディは言う。

「私を倒すつもりですか? 人間を守るために戦ってきた正義の味方であるあなたが、ほんのちょっとだけ人間の私を倒せるんですか?」

 どれだけの領域が残っていれば、そこに意識があると言えるのか。そこに僅かでも意思が芽生え、「自分」という認識を持てば人間になれるのか。答えは出ない。専門家でもない巧には、果たしてスマートレディが花形すみれとしてこの場にやってきているのかは分からない。彼女は機械なのかもしれないし、人間としての意思が存在しているのかもしれない。人間であれば、巧はオルフェノクではなく人間を殺すことになる。守るべき人間を。その現実を見据えた上で、巧は答える。

「俺は正義の味方なんかじゃない。俺はただ、俺の守りたいもののために戦うだけだ」

 巧は迷いを振り切るようにフォンを高く掲げる。正直、人類の未来やオルフェノクによる支配など、巧は気に掛けていない。巧には自分の周りにいる者達しか見えない。自分を受け入れてくれた彼女らのために戦う。

 その果てにある、木場に託された答えを見つけるために。

「変身!」

『Complete』

 フォトンブラッドの潮流に覆われ、巧はファイズに変身する。変身時の眩い光で、周囲の人々がざわめきと共にファイズを凝視している。ファイズはスマートレディのみに意識を向け手首を振る。

 ほぼ同時に、ファイズとスマートレディは地面を蹴って駆け出した。

 

 ♦

 空港の広いロビーを穂乃果は突っ切っていく。制服姿の女子高生が何も持たずに空港なんて施設を走っているものだから、周囲の奇異なものへ向けるような視線を感じる。穂乃果は自分を見ている人々のなかから親友を探し出すためにひとりひとりの顔を見ていく。

 出国審査エリアへ着いたところで、穂乃果はようやく足を止めて荒い呼吸を繰り返す。ここから先は航空券を持っていなければ通ることができない。穂乃果は周囲を見渡し、視線を待合用の椅子で固定させる。後ろ姿だが間違いない。穂乃果は息を目いっぱい吸い込んで駆け出し、椅子から立ち上がった彼女の腕を背後から掴む。

「ことりちゃん!」

 ことりは声をあげて驚くも、穂乃果のほうを見ようとしない。荒げた呼吸を整えて穂乃果は言う。

「ことりちゃん、駄目。わたし、スクールアイドルやりたいの。ことりちゃんと一緒にやりたいの!」

 弁解のしようがない我儘だ。分かっている。分かっているけど、穂乃果自身の心がそうしたいと叫んでいる。今この瞬間、9人でスクールアイドルをやりたいと。

「いつか、別の夢に向かうときが来るとしても」

 穂乃果はことりの正面へ回り込む。涙を浮かべている彼女を抱きしめる。

「行かないで!」

「ううん、わたしの方こそごめん………。わたし、自分の気持ち分かってたのに………」

 穂乃果はゆっくりと体を離す。泣いていることりに笑みを向けると、ことりも指で涙を掬いながら笑う。

「さあ行こう! ライブが始まっちゃうよ」

 穂乃果はことりの手を引いて走り出す。ことりも穂乃果の手を握り返し、2人は並んで空港のなかを駆けて行く。その途中で穂乃果は、人々がこぞって壁一面に張られたガラスに集まって滑走路を見ていることに気付く。

 続けてアナウンスが。

『滑走路に不審者が侵入しました。ただいま警備の者が対処に向かっております』

 

 ♦

 金網のフェンスを容易く突き破り、宙を飛ぶファイズの体は滑走路のアスファルトに投げ出される。華奢な容姿からは考えられない脚力でフェンスを飛び越えて、スマートレディも同じ場へと着地してくる。

 琢磨が言っていた。スマートレディの動力にはフォトンブラッドが使用されていると。スマートレディは社長の補佐役だけでなく裏切り者のオルフェノク処刑執行用モデルとしての役目を担っている。その機体には様々な武器が内蔵されていて、高出力故に単純な力もファイズどころか、パワー重視設計のカイザより上だという。

 人間を模した機械兵士。その技術を応用してオートバジンやサイドバッシャーといったマシンが開発され、果てにはフォトンブラッドを利用してのパワードスーツとしてベルト開発へと至った。即ち、花形が娘を蘇らせるために培われた技術がベルトを巡る戦いを引き起こしたということだ。

 スマートレディは右手を開く。手袋に覆われた掌から青い一条の光が伸びて刃として形状が固定される。

 スマートレディは光刃を振り下ろす。ファイズが避けると刃は宙を切り、その勢いを衰えさせることなく地面を焼き切っていく。じゅ、という音と共に地面が抉られて、溶けたアスファルトは辺りに飛び散ると急速に冷えて固まっていく。

 次は頭を狙って刃を横薙ぎに振ってくる。ファイズは咄嗟に屈んで頭上を刃が通過すると共に、スマートレディの腹に拳を打ち付ける。とても固い。鈍い音を立てたスマートレディの腹は岩を殴ったかのような感触で、それが彼女は人間とは異なる者であるという実感を持たせる。後退した彼女の頬を打つも、痛みなど感じていないのか笑みを崩さないままスマートレディは刃を振り続ける。

 どすん、と何かが降り立つ音が聞こえる。一瞬だけ向くと、スマートレディの背後からバトルモードに変形したオートバジンが左腕に構えたホイールを向けている。

 ファイズは横に跳んだ。同時にオートバジンのホイールが回転し、発射された弾丸がスマートレディの背中へと浴びせられていく。だが背中に命中した弾丸は彼女の体に入り込むことなく、まるで鉄板に当たったかのような甲高い音を立てて弾かれる。ファイズはオートバジンへと駆け寄り、肩に収まっているハンドルにミッションメモリーを挿入して引き抜く。

『Ready』

 オートバジンの射撃が止むと、スマートレディは余裕の微笑を浮かべて青の刃を構える。ファイズも赤い光を放つエッジを構えて駆け出す。2本の刃が触れ合うとスパークが散り、超合金製のファイズの鎧が焦げ付き、スマートレディは外装の皮膚が焼かれていく。

 バックステップを取って後退すると、ファイズはアクセルのミッションメモリーをフォンに挿入する。

『complete』

 胸部装甲が展開し、露出した内部機構から発せられる熱が周囲に蜃気楼を起こす。アクセルフォームへの変身を遂げたファイズを見て、スマートレディは口元を歪める。だが訝しげな表情というわけではなく、まるで咥内の食べかすを舌で舐めているようにも見える。

『Start Up』

 アクセルが発した電子音声ではない。全く同じ音声だから、一瞬自分が無意識にスイッチを押したと勘違いする。その一瞬の間にスマートレディの姿が揺らめき、その場から消滅する。その次に、顔面に衝撃が走る。バランスを崩して地面を転がり、立ち上がると同時にファイズはアクセルのスイッチを押す。

『Start Up』

 腕時計型のデバイスがカウントを刻み始める。ファイズは滑走路上に揺らめく影を捉えて駆け出す。猛スピードで移動する影にエッジを振ると、物体を切った感触を覚える。影が移動すると後を追い、加速する景色のなかで動き回る敵に創傷を与えていく。エッジからミッションメモリーを引き抜いてショットへ移し、右手に装着すると空気を割いて向かってくる拳へと突き出す。

 周囲に衝撃波が円形に広がっていく。木の葉やゴミが舞い上がり、巻き起こる旋風の中心にいる2人は互いに拳をぶつけ合った姿勢で拮抗を保っている。

『Time Out』

 アクセルのカウントが終わった。続けて『Reformation』という音声が鳴り、展開していた胸部装甲が元の位置に戻る。スマートレディの方も加速に限界があるようで、彼女が放っていた熱気が収まっていく。加速時に摩擦で燃えてしまったのか、彼女の衣服や皮膚は殆どが剥がれている。腕や脚はシルバーの素体が剥き出しになっていて、関節部には人形のような繋ぎ目が見える。

 顔の右半分の皮膚を失い、青く光る右目がファイズを見つめてくる。その丸い銀色の眼球が動く度に駆動音が聞こえてきて、まだ人間の姿を残している左目とのギャップに吐き気がしてくる。

「はーい、時間切れです」

 左半分の口角を上げてスマートレディは言う。皮膚が焼け落ちて奥歯が剥き出しになった右頬には使う表情筋がない。

 瞬間、ファイズの拳と突き合ったスマートレディの右前腕を一筋の黄色い光線が貫く。接触不良を起こした内部の配線が爆発を起こし、ファイズの足元に銀色の手首が転がる。この時ばかりはスマートレディも驚愕の表情―本当に驚いているのかは判断しかねるが―を浮かべ、肘から先を失い配線コードが垂れた右腕をおさえている。

 ファイズは光線が飛んできた方向を見やる。滑走路で先程ファイズが突き破ったフェンスの穴の傍で、カイザがブレイガンの銃口をこちらに向けている。

「海堂………」

 カイザは駆け出しながらブレイガンにミッションメモリーを挿入する。スマートレディは新手を認識し、残った左手からフォトンブラッドの刃を伸ばして迎え撃つ。

「胸を狙え!」

 青の光刃をブレイガンの刃で受け止めたカイザが叫ぶ。オートバジンが投げてきたハンドルを掴み、ショットを所定の位置に戻してミッションメモリーを再びハンドルに挿入する。

 カイザとの鍔迫り合いで背を向けているスマートレディへと駆け出し、ファイズはその背中の中心にエッジを刺す。フォトンブラッドで形成された剣は金属の素体を溶かし、内部を焼きながら貫いて胸から先端を突き出す。

 スマートレディの体が痙攣を起こした。エッジを引き抜くと無造作にその体を蹴る。受け身も取らずに身を伏したスマートレディは、とても完璧とはいえない拙い所作でゆっくりと立ち上がる。まるで産まれたての小鹿のようだ。エッジで開けられた胸の穴からは電流が迸っている。

 ファイズ、カイザ、デルタのスーツに循環しているフォトンブラッドは心臓部に内蔵された装置によって制御されている。だとすれば、同じくフォトンブラッドが動力のスマートレディもまた、心臓部に制御装置があるということだろう。

『Ready』

 それぞれのポインターにミッションメモリーを挿入し、ファイズとカイザはツールを右脚に装着してフォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 跳躍した2人のポインターから赤と黄の光線が放たれ、よろめくスマートレディの前で円錐状に展開する。

「はああああああああああああああっ‼」

「いやあああああああああああああっ‼」

 クリムゾンスマッシュとゴルドスマッシュがスマートレディの機体に突き刺さる。堅牢な体を削り、内部に詰まったパーツを破壊してスパークと共にエネルギーの奔流を押し込んでいく。

 その体を貫く寸前。消え入りそうな、人間味のある声が聞こえた。

「お父……さん………」

 ふたつのエネルギーがスマートレディの体を貫通する。背後に降り立つと同時に爆発音が響き、辺りに熱風と金属の破片がまるで吐瀉物のように撒き散らされる。

 ファイズが振り向くと、そこには確かに倒した敵の残骸が赤い炎を燃やしている。オルフェノクとは異なる最期だ。ころころと、ファイズとカイザへとサッカーボールのようなものが転がってくる。胴体から切り離されたスマートレディの目は未だに青く光っていて、その口からはノイズ交じりの声が聞こえてくる。

「はー……い! スマート…レインは新しい技術……に提供し……けます。私達と一緒に…素晴ら………未来を作り……しょう!」

 スマートレディの口から発せられる企業PRは、彼女の目から青い光が消えるまでの間続いていた。

 

 ――はー……い! スマート…レインは新しい技術……に提供し……けます。私達と一緒に…素晴ら………未来を作り……しょう!――は………! スマ………インは……しい……けます。私達……………素……しい……作…………う!――………い! スマー………………未来…………作りま…………――はーい………

 

 ♦

「ったく無茶しやがって。俺様がいなかったら絶対にやられてた。絶対にだぞ絶対」

「ああ、分かったよ」

 空港に隣接する駅の駐輪場で、バイクのシートに腰掛けた巧は海堂の説教に付き合っている。空港は大混乱だ。滑走路で起こった爆発で便が全て欠航になり、現場にはパトカーや消防車が駆けつけている。

「あーあ。後で琢磨に文句言われんだろうなー。事後処理が云々かんぬんとか」

「悪かったな」

 巧の謝罪に海堂は「ふんだ」と鼻を鳴らす。

「ちゅーかあの女は俺も気に食わなかったしな。美人だけど気色わりいし、あんな硬そうな体見ても全然興奮しねえ」

 「それに」と海堂は少しだけ真面目な口調になる。

「守りたいもんのために無茶したくなるのも分かる」

 寂しげな海堂の横顔を巧は眺める。海堂もまた守るべき者がいた。だから巧の意思を尊重し、助太刀に駆けつけてきたのだろう。

 「たっくーん!」と駅から穂乃果がことりと手を繋いで走ってくる。巧を見たことりは驚いた様子で目を丸くしている。

「巧さん!?」

「よう」

 素っ気ない挨拶をして、巧はオートバジンのシートから降りる。

「空港大騒ぎで大変だったよ」

「まあ、結構派手にやったからな。早く戻るぞ」

「うん、もうライブまで時間ないよ!」

 「それじゃあ」と海堂が割って入ってくる。

「お嬢さん方、私めの白馬へどうぞ。どこへでも連れていきますとも」

 そう言ってサイドバッシャーを手で示す海堂に、流石の穂乃果もどう対応していいのか分からず苦笑を浮かべている。何が白馬だ、とため息をついた巧は穂乃果とことりにヘルメットを手渡す。

「お前らは俺のバイクに乗れ」

「え? でもわたし達免許持ってないし………」

「いいから乗れ。ライブ間に合わねえぞ」

 そう言って巧が促すままに穂乃果が前に、ことりが後ろのシートに乗る。

「音ノ木坂まで急いでくれ」

 了解、とでも言うように、オートバジンのヘッドライトが点滅してエンジンが掛かる。穂乃果がアクセルを捻ることなく、オートバジンはマフラーからガスを吹かして走り出す。穂乃果が慌ててハンドルから手を放さない限り、事故を起こすことはないだろう。

「せっかくアイドルとタンデムできると思ったのによー。このお邪魔虫め」

 不貞腐れる海堂をよそに、巧はヘルメットを被ってサイドカーに乗り込む。

「文句は聞いてやるから早く出してくれ。ピザでも奢ってやる」

 「エビとコーンたっぷりにトッピングしたやつ頼んでやるからな」と海堂もヘルメットを被ってサイドバッシャーのエンジンをかける。白馬もとい黒馬と呼ぶべきバイクが走り出して、集まってくる野次馬の合間を縫っていく。

「なあ、海堂」

「お?」

「お前、まだ人間でいたいか?」

「そうさなあ。まあ確かに俺たちゃ化け物だけどよ、俺はどうしても人間を捨てる気にはなれんわな」

 サイドバッシャーが2車線道路に出て、海堂は更にアクセルを吹かしてスピードを上げていく。

「何ちゅーか、人間だとかオルフェノクだとかに拘らなくても良いと思うぞ。俺様はオルフェノクになってもやりたいようにやってる。だからお前もやりたいことやれば良いんだよ」

 とてもシンプルな答えだ。オルフェノクであることを否定してきた巧は自分の懊悩が馬鹿らしくなってくる。もっと早く、この男のように心のままに生きられたらどんなに良かったことか。

「お前がちょっとだけ羨ましいよ」

「おう、もっと俺様を敬え! ちゅーかお前は真面目過ぎんだよ。もっと馬鹿になれ馬鹿に。そうすりゃ人生楽しいことばかりだ」

 「だーはっはっは」と下品に笑う海堂を見て巧も自然と頬が緩む。

「で、お前はどこに行きたい? 何をしたい?」

 海堂の問いに巧は正直に答える。何の繕いもなく、巧の心のままの願望を。

「音ノ木坂まで頼む。μ’sのライブが観たい」

 

 ♦

 音ノ木坂学院に到着すると、オートバジンは律儀に駐輪場に停めてあった。無事に穂乃果とことりを送り届けてくれたらしい。ヘルメットを脱いでサイドカーから降りた巧は、シートから動こうとしない海堂に尋ねる。

「お前、観ていかないのか? μ’s好きだとか言ってたろ」

「俺はいい。お前行け」

 しっしっ、と手を振る海堂にそれ以上追及せず、巧は校舎へと走る。もっとも、あの欲求に正直な男が女子高なんて場に来るだけでも危ない気がするが。

 そういえば、海堂はよくμ’sの曲を聴いて批評じみた文言を述べていた。ここのテンポはどうとか、リズムはこうすれば良くなるとか。多分、海堂はかつて音楽を嗜んでいたのだろう。音楽を語る海堂はとても楽しそうにしていた。何故彼が音楽から遠のいたのか、巧は聞くことができていない。あの海堂が自分から言わないということは、辛い出来事が起こってしまったのだろう。

 だが巧は思う。海堂の中には彼が奏でたい音楽が鳴り響いていて、それがオルフェノクの本能を抑えているのではないかと。外に出ようとする音楽が、彼を人間たらしめているのではないかと。

 久々に入る校舎の構造はしっかりと覚えていて、目的地まで迷うことなく進んでいける。教室にも廊下にも、生徒や教員の姿は見当たらない。無人の廊下を走り、講堂へと近付くにつれて歌が聞こえてくる。両扉を開けると、講堂に閉じ込められていた音が波のように押し寄せてくる。

 ライブは既に始まっていた。煌びやかに飾り付けられたステージで、制服姿の9人が踊っている。衣装としては飾り気がないが、スクールアイドルらしさが全面に出ている。曲はファーストライブで披露した『START:DASH!!』だ。9人それぞれにパートが割り当てられていて、人数が増えた分全体の声量が増している。

 観客席には敷き詰められたようなケミカルライトの光があって、観客達は曲に合わせてライトを振っている。生徒や教員だけでなく学外の者も呼んでいるようで、雪穂と亜里沙の姿が見える。最後列の席には高坂母と高坂父がいて、高坂父の方は憮然とした表情のまま腕を組んで涙を流している。職人気質の彼の顔が少し可笑しくなり、巧は笑みを零す。

 ファーストライブでの客は、巧とまだμ’sに入る前のメンバーだけだった。閑古鳥が鳴くような会場で穂乃果は切なさを押し殺して曲を披露し、そこで得た熱さを巧に語ってくれた。

 あの時、穂乃果は宣言した。いつかここを満員にして、自分の感じた想いを届けてみせると。その夢が叶った。9人で共に走り続けた。だとすれば、ここで穂乃果の夢は終わるのだろうか。ここで終わらせはしないだろう、と巧は断言できる。学校ひとつに収まってしまうほど、穂乃果の夢は小さくない。もっと大勢の人々に届けたいと思うはずだ。歌とダンスの楽しさ、そこに感じられる熱を。

 曲がフィニッシュを迎え、メンバー達がポーズを決める。音が鳴りやむと同時に観客席からの拍手喝采が講堂の壁に反響する。

 これはゴールだ。でも、始まりとも言える。新しい夢への始まりだ。穂乃果は立ち止まらず走り続けるだろう。メンバー達をまだ見たことのない場所へと連れていくことだろう。

 巧はドアを開けて講堂から出ていく。

「乾さん」

 廊下に出てすぐに声をかけられて振り返る。3人の生徒達が笑みを浮かべながら巧のもとへと歩いてくる。確か穂乃果の同級生で、ファーストライブの運営を手伝ってくれた生徒だ。

「穂乃果から、乾さんを見たら連れて来るように頼まれてるんです」

 「さ、行きますよ」とショートヘアの生徒が巧の手を引く。

「おい、俺は………」

 抵抗しようとする巧の背中を他の2人が押してくる。まだ熱狂が冷め止まない講堂に戻され、生徒達に引かれるがまま巧は観客席の階段を下りていく。ステージにもうμ’sの姿はない。ステージ横のドアを開けると中へ押し込まれて、3人はそそくさと巧を残して外に出るとドアを閉めてしまう。

「たっくん!」

 暗闇の中から穂乃果が現れて、巧の手を引いて階段を上がっていく。階段はすぐに終わったことから、ステージに登るための通路なのだろう。垂れ幕で観客席から見えないよう隠された舞台袖に、彼女らはいた。

「巧さん………」

 絵里が呼んでくるも、巧はどう声をかけたらいいか分からない。謝ればいいのか。ライブに賛辞を述べればいいのか。黙っていると希が捉えどころのない笑みと共に言う。

「これで元通りやね」

 彼女らの目に怖れの色は見られない。まさか巧の正体を忘れたわけではあるまい。恐怖を誤魔化し続けたところで長くは保たないし、そんな偽りに塗り固められた居場所を巧は求めていない。

「俺、ここにいても良いのか?」

 巧は不安げな表情で尋ねる。初めて見る彼の顔にメンバー達は吹き出して笑う。笑いながら絵里は言う。

「当たり前じゃないですか」

「あんたがいなきゃ、誰がにこ達を守ってくれるわけ?」

 にこがぶっきらぼうに言う。続けて真姫が。

「本当、面倒な人ね」

 凛と花陽が。

「巧さん、凛達を助けてくれてありがとう」

「わたし、巧さんのこと怖くないです」

 海未とことりを見ると、2人は穏やかな笑みを向けてくれる。

「皆、たっくんのこと待ってたんだよ」

 穂乃果が巧の正面に立って手を差し伸べる。巧の立つところには影が落ちていて、隔てるように彼女らの場所には講堂の証明が届いている。

「お帰り、たっくん」

 巧は境界を越えて影から出る。穂乃果の手を目指して歩き、その手を望んでいたであろう木場の顔を思い浮かべる。

 木場。お前の理想、少しだけ叶ったよ。

 俺のことを受け入れてくれる奴らが増えたんだ。お前もこいつらと会えれば、きっと分かり合えたと思う。

 ここにいるのが俺じゃなくてお前だったら、答えを出せたのかな?

 巧は穂乃果の手を取る。穂乃果が力強く巧の手を握り、巧も穂乃果の手を優しく握り返した。

 

「ただいま」

 

 



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第2期
プロローグ


 更新が遅れて申し訳ございません。第1期が終わって一息ついてました。


「絢瀬さんに聞いても分からないの一点張りで、何も教えてくれなかったんです」

 机に腰かけた理事長が言う。彼女を前に立つ巧はじっとその瞳を見据えながら、何から説明すれば良いか順序を組み立てる。

 講堂でのμ’sのライブが終わった後、ライブを観に来ていた理事長と遭遇した巧は理事長室への呼び出しに応じた。理事長室には部屋の主である理事長と巧しかいない。絵里も同行すると言っていたが、巧はそれを拒否した。μ’sの上級生と同時に生徒会長という彼女は責任を背負いすぎるきらいがある。だから絵里にはこの話に参加させるわけにはいかない。

「何があったのか、説明していただけますか?」

 理事長の問いに巧は答える。答えたらどんな反応をされるかは気にしないよう心掛けて。

「俺はオルフェノクだ」

 「え?」と理事長は目を丸くする。巧は述べた文言を証明するため、目に力を込めて闘争をみなぎらせる。体内の血液が沸騰したかのように体温が上がり、脈拍が早まっているのを感じる。巧の顔に黒い筋が浮かんで、理事長は悲鳴をあげることはなく異形へ変貌しつつある巧の顔を凝視している。

 巧は全身の力を抜く。脈が落ち着いてきて、変身時にいつも感じている奇妙な寒気が引いていく。

「これが今まで逃げていた理由だ」

 「なるほど………」と理事長は顎に手を添える。

「あの子達は、あなたがオルフェノクと知ったんですね」

 意外だった。驚くなり怯えるなりの反応くらいはあってもいい。

「まさか、あんた気付いてたのか?」

「いえ。でも違和感はありました。以前、あなたはまるでオルフェノクを擁護するようなことを言っていたので。人間の心を持ったオルフェノクもいると」

 理事長は一呼吸おく。

「あなた自身のことだったんですね」

「俺だけじゃないさ。人間として生きたいと思うオルフェノクはたくさんいる」

 「でも……」と巧は俯く。言うべきことが、自分の立場を危うくしてしまう。でも言わなければならない。μ’sのメンバー達は巧がオルフェノクと知っても受け入れることを選択した。でも、理事長は彼女らを守る公的な立場だ。この夫人には知ってもらわなければ。

「大抵の奴がオルフェノクの力に飲まれる」

「乾さんもその可能性があると?」

「俺は人間を捨てたりしない」

 巧は即答する。

 真理と共に澤田亜希(さわだあき)を看取ったとき、巧は誓った。たとえ何があろうとも人間として生きると。全てのオルフェノクが人間を捨てようとも、自分だけは人間を守るために戦うと。

「あなたの決意は分かりました。ですが、オルフェノクに対する認識を変えることはできません。学校が狙われている現状では」

「ああ、それが1番だ」

 皮肉のような肯定を示し、巧はポケットから数字の羅列が書かれた1枚の紙片を取り出して理事長に差し出す。

「万が一、俺が人間を捨てたら三原を呼べ」

 理事長の視線が差し出されたメモから巧へと移る。

「あなたのお話を聞いての推測ですが、ベルトを使えるのは………」

「ああ。ベルトはオルフェノクが使うために作られた」

「でしたら三原さんも――」

「三原は人間だ」

 理事長の言葉を遮り、巧は続ける。

「三原はスマートブレインの実験でオルフェノクにされかけただけだ。オルフェノクに近いだけで、人間だ」

 流星塾生達を被験者としたオルフェノク化実験。澤田のみがオルフェノクへの覚醒を果たし、他の塾生達は体にオルフェノクの記号が残ったままに留まっている。

 デルタの力を使いこなす三原は身も心も人間だ。オルフェノクである巧とは違い、純粋に人間として戦うことができる。もし巧がオルフェノクの本能に飲み込まれたとしても、人間である三原の手で倒されるなら本望だ。それにこの街には海堂もいる。巧がいなくなっても音ノ木坂学院を守ってくれるだろう。

 でも、彼女らを守るのは自分でありたいという願いが巧のなかに存在している。彼女らの夢を守り、叶った瞬間を見届けることができれば、オルフェノクを滅ぼし人間が生きる未来を繋げたことを肯定できるかもしれない。それこそが木場に託された答えであり、約束なのだ。

「分かりました」

 理事長はそう言ってメモを受け取る。

「事情は複雑ですが、あなた以外にオルフェノクに対抗できる術がないことは事実です。引き続き、学院を守るために協力してください」

 言うべきだろうか、と巧は迷う。スマートブレインがまだ存在していることを。あの企業が何を企てているのかは分からないが、良くないことは確かだ。言ったとしても、これはオルフェノク同士の戦いだ。スマートブレイン内部で海堂と琢磨が企てる反乱。それに参入しようとしている巧。人間に立ち入る余地はない。

 巧が言いあぐねているうちに「ただし」と理事長は付け加える。

「2ヶ月近くもの無断欠勤は見過ごせません。乾さんを解雇させていただきます」

 当然だ。数えきれないほど職を転々としたせいか、特に思うことはない。理事長は続ける。顔に微笑を浮かべて。

「代わりとして、あなたにはμ’sのマネージャーとして学院への来校許可を出します」

 しばしの沈黙が流れる。その言葉を理解するのに、巧には時間を必要とした。ようやくその意味を咀嚼した頃、理事長は先ほどよりもリラックスした様子で言う。

「あの子達があなたの正体を知った上で受け入れてくれたのなら、私もあなたを信じてみます。どうか、あの子達を守ってあげてください」

 「ああ」と巧は短く答える。今なら守り切れる気がする。海堂と琢磨という同志を得て、まだ生き延びる可能性がある。僅かではあるものの、希望は残されている。

 巧が理事長室のドアを開けて出てくると、「うわあっ」という間の抜けた声が聞こえてくる。続けてドアに鈍い音が響き、閉めるとドアの陰から鼻を抑えた穂乃果が出てくる。

「お前、盗み聞きか?」

「だって気になるもん。たっくん理事長に怒られてないかなとか」

「まあ、用務員クビにはなったけどな。代わりにお前らのマネージャーにされた」

 「本当?」と穂乃果は巧に顔を近付けてくる。見たところ会話は聞こえなかったらしい。子供のように目を輝かせる穂乃果を見て、少しだけ緊迫した気持ちが和らいだ気がする。

「皆はどうした?」

「皆はもう帰ったよ。わたし達も帰ろう」

 帰るって、どこに。

 その質問は敢えてしなかった。彼女のもとへ戻ってきたのなら、巧の帰る場所は決まっている。以前よりも軽い足取りで巧は歩き出す。巧と肩を並べて歩く穂乃果は、ずっと巧の顔を見上げながら笑みを浮かべていた。

 

 ♦

 穂むらの横に停めたオートバジンのリアシートから、穂乃果は滑るように降りてヘルメットを脱ぐ。店の戸に手をかけると、未だシートに跨って看板を見上げる巧へと振り向く。

「どうしたのたっくん?」

「皆には、俺がオルフェノクだって話したのか?」

 そう尋ねると、穂乃果の表情が影を帯びる。

「ううん。皆はオルフェノクのこと知らないから。わたしも、オルフェノクのことよく分かってないし」

「そうか。まあ、黙ってるのが1番だな」

 「でも」と穂乃果はヘルメットを抱える巧の手を握る。

「もしばれちゃっても、わたしが何とか説得する。お父さんもお母さんも、それに雪穂もたっくんのこと分かってくれるよ」

「お前ちゃんと説得できるのかよ?」

「できるもん!」

 不意に、店の戸が開く。「お姉ちゃん?」と中から部屋着姿の雪穂が出てきて、巧の姿を捉えると目を見開く。

「乾さん!?」

 驚愕から怒った様子の表情へと移り変わり、雪穂はオートバジンのヘッドライトに両手を乗せて詰め寄る。

「どこ行ってたんですか! 大変だったんですよ。朝お姉ちゃん起こす人がいなくなっちゃって」

 それは俺の役割なのか。そう言おうとしたが、穂乃果が巧の手を引いてシートから無理矢理降ろす。

「そうだよ。ほら早く入ろう」

 姉妹に手を引かれて店に入ると、奥から騒ぎを聞きつけたのか高坂母が出てくる。

「穂乃果、帰ったの……、って巧君!」

 高坂母は嬉しそうに頬をほころばせる。

「お父さん、巧君帰ってきたわよ!」

 厨房に向けて声を張り上げると、高坂母は巧へと歩み寄って足元から頭まで見上げる。

「少し瘦せたんじゃない? 髪も随分伸びちゃって。巧君がいないから洗濯物溜まっちゃってるのよ」

 高坂母は何も咎めることなく巧を迎えてくれる。そこへ奥から高坂父がゆっくりとした足取りで出てきて、巧にエプロンを差し出す。ずっとアイロンをかけていないのか、着ている作務衣がしわだらけになっている。

「手伝え」

 巧がエプロンを受け取ると、それだけ言って高坂父は奥へと戻っていく。それを見て高坂母と穂乃果は微笑し、その笑みが巧へと移る。

「嬉しいのよ。あの人素直じゃないから」

 「さーて」と高坂母はエプロンを脱ぐ。

「買い物行ってくるわ。巧君も帰ってきたことだし、今夜はご馳走作らなきゃね。巧君、店番お願いできる?」

 「ええ」と巧は返事をする。そんな巧に「その前に」と雪穂が。

「わたしの服アイロンかけてください。しわくちゃで恥ずかしいですよ」

 「あ、わたしの服も」と穂乃果が挙手する。何て騒々しい家族だ。甲高い声があちこちから響き渡っていた。

 

 ♦

「にっこにっこにー!」

 ポーズを決めたにこが部室にいる面々を見渡す。部屋に敷かれたビニールシートにはミニテーブルが置かれて、それを囲んで座るμ’sメンバー達はジュースが注がれた紙コップを手に取る。

「それでは、μ’s活動再開と巧さんのマネージャー就任を祝して、部長のにこにーから――」

 「おい」という巧の声がにこの音頭を遮る。「何よ?」と不機嫌そうににこが尋ねる。巧の視線は目の前の湯気を昇らせる湯呑みに向いている。

「何で俺だけこれなんだ?」

 「ふん」とにこは鼻を鳴らす。

「勝手にいなくなった罰よ。このパーティーもあんたのために仕切り直したんだから、感謝しながらふーふーしなさい」

 熱いお茶だけならまだしも、巧がすぐに飲み食いできるものはこの場に殆どない。パーティーの食事は焼肉だ。テーブルにはガスコンロと皿に盛られた生肉と魚介類と野菜が並んでいる。これを提案したのは希らしい。巧が猫舌と知っているなら相当悪質だ。当の希は巧の視線に気付いているのかいないのか、皿に溢れんばかりに盛り付けられた肉を眺めている。嫌がらせというのは考えすぎだろうか。ただ単に希が焼肉を食べたいから提案しただけかもしれない。

 「それじゃ」と希が紙コップを掲げて、他のメンバー達も「かんぱーい!」とそれにならう。遅れて何も挨拶の弁を述べていないにこが「待ちなさーい!」と言いながらコップを掲げた。

 コンロに火を点けると、希と凛が率先して肉を網の上に並べていく。カルビに牛タンに豚トロから脂が落ちると、火の勢いは増していき煙が立ち昇る。理事長は学校での焼肉に許可を出したのか。一応窓は開けているが、換気扇もない部室に煙と臭気が充満する。

「ちゃんと野菜も食べませんと」

 海未がそう言ってカボチャと玉ねぎを並べる。

「えー? せっかくの焼肉なのに」

「お肉ばかりだとまた太りますよ」

 海未に窘められた穂乃果が肉をひっくり返していく。

「みんなー、ご飯炊けたよー!」

 炊飯器を持った花陽が嬉しそうに言う。「おおー!」と凛と穂乃果が茶碗を持った。

 ようやく肉が焼けると、メンバー達は我先にと肉を取り上げていく。

「にこちゃん、それ凛が焼いてた肉だよ!」

「ぼーっとしてるからよ」

「シャー!」

 ただでさえ小さいコンロを10人で囲んでいる。当然、並べられた肉はすぐになくなって、また並べても焼き上がれば再びメンバー達はかっさらっていく。

 巧は未だ肉にありつけていない。まだ冷めないお茶に息を吹きかけていると、ふと横からも吐息を吹く音が聞こえる。視線を隣へ流すと、穂乃果がカルビに息を吹きかけている。猫舌でもないのに、と巧が不思議に思っていると、穂乃果は冷ましたカルビを巧の皿に置いた。

「はい、たっくん」

 それを見て絵里が。

「皆、巧さんまだ1枚も食べてないわよ」

 「あ……」とメンバー達の視線が、カルビ1枚だけが乗った小皿に集中する。別の皿に注がれたタレもまだ未使用で、肉の脂が全く浮いていない。

「もう、猫舌って面倒ね」

 そう言って真姫がウィンナーを乗せてくれる。

 「凛の分もあげるね」と続けて凛が鶏モモを。

 「感謝しなさいよ」とにこがエビを。

 「これ、食べ頃よ」と希がハラミを。

 「巧さん、ご飯もありますよ」と花陽が茶碗大盛りの白米を。

 「はい、どうぞ」とことりが牛タンを。

 「野菜もですよ」と海未がしし唐を。

 瞬く間に巧の小皿に肉が積み重なり零れそうになる。唯一まだ巧に譲っていない絵里が、箸で豚トロを摘まんだまま宙で静止させて苦笑いを浮かべている。

「エリちは食べさせてあげたら?」

 希がそう言うと、「なっ……」と絵里は顔を赤くする。肌が透き通るように白い分、赤みがより映えている。

「絵里ちゃん顔真っ赤にゃー!」

「もう、からかわないで」

 恥ずかしいのも分かるが、女子高生に食べさせられる自分も恥ずかしいのだが。そう呆れながら、巧は白米の茶碗を差し出す。

「これに乗っけてくれ」

 助け船を出された絵里は安堵した様子でこんもりと盛られた白米の上に肉を乗せようとしたのだが。

「駄目です!」

 花陽が強く遮る。

「ご飯は汚しちゃ駄目なんです! 素材そのままの味をしっかりと噛みしめて味わうのがご飯の正しい食べ方です!」

「いやそりゃ人それぞれだろ」

 何で白米の食べ方を享受されなければいけないのか。だが花陽は引き下がる様子もなく巧の茶碗から手を放さない。

「こうなるとかよちんは止まらないにゃ」

 凛がかぶりを振る。なら絵里が差し出したままの肉はどうなるのか。皆が譲ったというのに自分だけなんてと絵里が余計な責任を感じそうだ。

 「分かったよ」と渋々茶碗を引っ込めた巧は恐る恐る肉が積み重なった小皿を持ち上げる。絵里はゆっくりと肉のタワーの頂に豚トロを乗せた。

 ようやく肉にありつけた巧はタワーの頂上から肉を食べていく。すっかり冷めた肉は脂が凝固していて固くなっていた。

 

 ♦

 もうすぐ衣替えの季節ということもあり、陽が暮れると肌寒くなってくる。鳥肌の立つ腕をさすりながら、巧はベンチに腰掛けて離れたところで集まる少女達を眺める。

 焼肉パーティーが終わると学校の裏庭で花火をすることになった。これも理事長から許可を得ているらしいが、生徒だけで火遊びなんて常識として許可は出せまい。おそらく、巧が保護者として同伴するから許してもらえたのだろう。

「湿気ってないかな?」

 封を開けた凛が手持ち花火を持って呟く。夏休みの合宿でやるはずだったものを取っておいたのだろう。巧が逃げ出したあの合宿で。

 付属品のキャンドルにライターで火を点けて、凛が花火の先端を揺らめく火にかざす。先端は焦げて、すぐに詰めこまれた火薬が火を噴出する。それを見て凛は「にゃー!」と花火を振り回し、隣にいた真姫が「ちょっと凛!」と文句を言っている。

「はしゃがないの」

 そう言いながらにこも花火に火を点けて、色を変える火を無邪気に眺めている。他のメンバー達もそれぞれが花火を手にした。希がトンボ花火に火を点けて宙に放ると、火薬を推進剤として花火が空へと昇る。でもすぐに火薬が尽きて、火が消えると死んだように地面に落ちる。

 平和だな、と巧は感慨を覚える。こんな日常を得られるとは思っていなかった。ここ2ヶ月近くは戦いに明け暮れていて、殆ど息をつく暇がなかったのだ。こうして腰を落ち着けていると、緊張の糸が少しずつだが解れていく。

「どうぞ」

 巧の視界に缶コーヒーが入り込んでくる。すぐ横に視線を移すと絵里が立っている。

「悪いな」

 そう言って巧がコーヒーを受け取ると、絵里は巧の隣に腰掛けて自分用に買ってきたココアのプルトップを空ける。巧もコーヒーの缶を空けて一口すする。

「良かったです。巧さんが戻ってきてくれて」

「本当に良いのか? 俺はオルフェノクで――」

 「もう」と絵里はため息をつく。

「皆、色々と考えたんですよ。巧さんはオルフェノクですけど、人間だってわたしも信じてますから」

 「俺は……」と巧は言葉を途切れさせてしまう。確かに誓ったことなのに、未だに確証を持てない。

「お前らが信じても、俺は俺を信じられないんだ」

 人間として生きる。その決意に嘘偽りはない。でも、かつての木場のように、ふとしたことをきっかけに人間を捨ててしまうかもしれない。人間を捨ててしまえば、守るべき彼女達を下等種と蹂躙してしまうかもしれない。心まで本物の怪物になってしまうことが何よりも怖い。

「ならわたし達を信じてください。巧さんを信じるわたし達を」

 絵里は真っ直ぐ巧を見据えて言う。かつて真理からも言われたその言葉に巧は動揺を隠せない。オルフェノクの本能に飲まれてしまう恐怖。それはこの命がある限り生涯続く苦悩だ。絵里はそのことを理解しているのだろうか。自分が自分でなくなる恐怖を。

「絵里、何でお前は俺を信じられるんだ?」

 そう聞かずにはいられない。絵里は少しだけ恥ずかしそうに目を背けてココアを啜る。

「前に、巧さん言ってましたよね。オルフェノクを倒せば罪を背負うって。あのとき、わたしはオルフェノクを怪物としか思っていなくて、巧さんの背負っているものが何も分かっていなかったんです」

「間違っちゃいないさ。オルフェノクは化け物だからな」

「でも、オルフェノクが皆悪い人ばかりじゃないって、巧さんは知ってるじゃないですか。わたしはそれを知りません。だから、わたしには戦う資格なんて無いんです」

「資格なんて関係ないだろ。俺は戦うことしか取柄が無いだけだ」

 巧が憮然として言い放つも、絵里は気分を悪くした様子はない。むしろ優しい笑みを向けてくる。

「そうやって全部背負い込むのも、わたし達のためなんですよね」

 図星だった。取り繕うにも、真実を変えることはできない。巧は反論することができなかった。

「皆知ってますよ。だから巧さんを信じられるんです」

 巧は絵里の顔を見つめる。絵里は巧から目を逸らさない。巧は自分の存在を肯定することができた。だからこそ夢を持つことができた。でも、所詮それは自己満足に過ぎない。オルフェノクという異形の存在を拒絶する世界の現実から目を背けて、面の皮厚く居座っているだけ。本当に自分の居場所を得るには、他者から赦しを得るしかない。その赦しをμ’sは与えてくれたのだ。

「ああ、信じてみる。俺を信じてくれる皆をな」

 巧はそう言ってコーヒーを飲む。ありがとう、という素直に言葉で出せない感謝の気持ちを込めて。

 他のメンバー達はまだ花火を楽しんでいて、その中から穂乃果がぱたぱたとこちらへ走ってくる。ココアを飲み干した絵里は立ち上がり、巧に微笑むと無言で花火を楽しむ輪へと戻っていく。

「絵里ちゃん、花火なくなっちゃうよ」

「ええ」

 すれ違い様に絵里とそんな短い会話を交わした穂乃果は巧の目の前で足を止める。両手にはライターと線香花火の束がある。

「たっくん、絵里ちゃんと何話してたの?」

「お前がまた馬鹿なことしないよう見張っとけって頼まれた」

「えー? じゃあわたしもたっくんがまたどこか行かないように見張ってるもん」

「はいはい」

 むっと表情を険しくするも穂乃果はすぐ笑顔に戻る。

「花火持ってきたよ。たっくんもやろ」

 そう言って穂乃果は線香花火を1本差し出してくる。

「………ああ」

 巧が受け取ると穂乃果は満面の笑みを浮かべる。巧はベンチから降りて、穂乃果と一緒にその場でしゃがむ。穂乃果はコンビニで売っている100円ライターの火を点けて、2人は同時に火へ線香花火の先端を近付ける。微量な火薬に火が燃え移ってオレンジ色に光った先端が丸まっていき、やがて周囲に火花がぱちぱち、と小さな音を立てて散り始める。

「綺麗だね」

 目の前で散る火花を見ながら、穂乃果はぽつりと呟く。「ああ」と巧は適当な相づちを打つも、素直に綺麗だと思える。花火を綺麗と感じたのはいつ振りだろうか。もしかしたら初めてかもしれない。

 線香花火はしばらく花を咲かせると、徐々に火花の勢いが弱まっていく。やがて火花が収まると、球形を成した先端がぽとりと地面に落ちてオレンジの光が消えていく。

「あーあ、もう消えちゃった。花火って何でもっと長く燃えないのかな?」

「そういうもんなんだろ」

「そうなのかなあ」

 花が咲く期間は短い。音ノ木坂学院に植えられた桜の木も春には花を咲かせていたが、すぐに散って1ヶ月が経つとすっかり深緑へと色を変えた。花は植物の、命にとって最も美しい時期だ。美しくいられる時間は短い。それは人間でも変わりない。目の前にいる穂乃果が女子高生という、人生で最も輝いていられる時期は残り1年半しかない。

 花の命が短いのなら、オルフェノクもまた花と同じなのだろうか。巧はそう思いながら燃え尽きた線香花火を眺める。命の短いオルフェノクの灰色の姿は人間から見れば醜いが、オルフェノクから見ればこの上なく美しい姿なのだろうか。人間という種から芽が出てオルフェノクという花が咲く。花はやがて種を落とす。だが、オルフェノクという花は種を落とす前に枯れてしまう。

 μ’sも、巧も、咲いていられるのはもう僅かばかり。その僅かな「今」のなかで、彼女達は輝いている。

 もうすぐ秋が来る。

 μ’sのステージと巧の戦いは、新しい局面へと進んでいく。




 一区切りついて読者の皆様から多くの感想を頂きました。大変ありがとうございます。感想の殆どが「555」絡みで未だに根強い人気があるんだなと実感します。まあ、「ラブライブ!」は原作に沿うってネタバレしてるので「555」しか楽しめないってのもありますが。たっくんが主人公なので物語全体で重苦しい「555」色が強いですが、μ’sとの交流で何とか癒しを出せたらなと思います。

 そんなわけで、次回から第2期スタートです!


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第1話 もう一度ラブライブ! / 求める答え

 何かUAとお気に入り登録数がものすごい勢いで伸びたなーと思っていたら数日だけですが日間ランキングに入っていました。
 皆さん、まだ気が早いです!
 1期完結したばかりですよ。まだ2期あるんですから破綻するかも分かりませんよ!
 とはいえ、やっぱり多くの人に作品を見てもらえるのはとても嬉しく思います。

 皆さん、応援ありがとうございます。
 まだまだ続きますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 それでは第2期スタート!


「音ノ木坂学院は入学希望者が予想を上回る結果となったため、来年度も生徒を募集することになりました」

 講堂に集まる全校生徒を前に、演卓で理事長はそう述べる。マイクで拡声された言葉は講堂中に響き渡り、生徒達は行儀よく耳を傾けている。とはいえ、全校集会で校長や理事長の話というのは退屈なものだ。巧はドア横の壁に背を預けて立っているが、もし椅子に座っていたら眠っていることだろう。

「3年生は残りの学園生活を悔いの無いよう過ごし、実りのある毎日を送っていってもらえたらと思います。そして1年生、2年生はこれから入学してくる後輩達のお手本となるよう、気持ちを新たに前進していってください」

 「理事長、ありがとうございました」と司会を務める生徒が述べて、理事長はステージから降りる。「続きまして」と別の生徒が次へ進める。

「生徒会長挨拶。生徒会長、よろしくお願いします」

 すっと、3年生の座る席から生徒がひとり立ち上がる。後ろからでは顔が見えないが、あのブロンドの髪は絵里に違いない。絵里は拍手をする。同じタイミングでステージの舞台袖に照明が当てられて、光に照らされながら新任の生徒会長が堂々と演卓へ歩き、卓を前にして足を止めると生徒達を見渡す。

「皆さん、こんにちは」

 新生徒会長がそう言うと生徒達が歓声をあげる。

「このたび、新生徒会長となりました、スクールアイドルでおなじみ――」

 新生徒会長はスタンドからマイクを取り、声高に名乗る。

「高坂穂乃果です!」

 初めて彼女の生徒会長就任を聞いたとき、巧は下手な冗談かと思った。生徒会長といえば、優等生でお堅いイメージだ。前任の絵里はまさにそのイメージ通りだったのだが、穂乃果は正反対だ。音ノ木坂学院で生徒会長は選挙によって選出される。候補者となるのは主に教師の推薦を受けた生徒なのだが、前任の生徒会長が推薦し本人が了承すれば、選挙で争うことなく決定するらしい。穂乃果はμ’sのリーダーとして――μ’sにリーダーはいないというスタンスだが、メンバーの間では穂乃果がリーダーという認識だ――学院存続に貢献した実績を買われて絵里の後任として白羽の矢が立ったというわけだ。

 生徒達は穂乃果の就任を祝福しているようだが、彼女達は知っているのだろうか。あの生徒会長は今朝遅刻ぎりぎりまで寝ていて、巧が起こしたことを。期末テストでは赤点回避に奮闘していたことを。しっかりと職務を果たせるのか不安で仕方ない。海未とことりが生徒会役員としてサポートしてくれるらしいから、これから1年間で生徒会の働きは2人にかかっていると言っていい。

 そんな巧の不安は早くも的中してしまったようで、昨日海未とことり、ついでに巧まで駆り出されて考えた挨拶の弁を述べるはずの穂乃果は沈黙する。生徒達の間にざわめきが起こり、それに堪えかねたのか穂乃果は「あー、えー」と繋げようとする。

 まさか、話す内容を忘れたのか。

 穂乃果は口を開けたまま硬直し、その笑顔が引きつっていく。穂乃果らしいと言えば穂乃果らしい。生徒達もこれで新生徒会長がどんな人物かを把握できるだろう。

 巧はため息をつく。コーヒーでも飲もうと、扉を開けてざわめきが大きくなる講堂を後にした。

 

 ♦

 

「疲れたー………」

 生徒会室の机に突っ伏した穂乃果はため息と共に漏らす。「穂乃果ちゃん、お疲れ様」とことりが労ってくれる。

「生徒会長挨拶って、ライブとは全然違うね。緊張しっぱなしだったよ」

「でも、穂乃果ちゃんらしくて良かったと思うよ」

 「どこが良かったんですか!」と海未がファイルを几帳面に揃えて棚に戻す。

「せっかく昨日4人で挨拶文も考えたのに」

 「ごめん……」と穂乃果は苦笑する。結局、新任の挨拶の場で飛ばした文章は思い出せず、何とか取り繕ったが見るに堪えないものだった。小学生の方が良い弁を述べてくれる。

「はあ、せっかく練習したのに………」

 「とにかく」と海未が厚いファイル数冊を穂乃果の目の前に置く。まるで辞書みたいだ。

「今日はこれを全て処理して帰ってください!」

「こんなに!?」

 「それにこれも」と海未は1枚の紙を突き出す。受け取った穂乃果は内容を読み上げる。

「学食のカレーが不味い」

 そういえば、巧も不味いと言っていた。

「アルパカが私に懐かない」

 巧もアルパカが苦手なようだった。

「文化祭に有名人を………」

 μ’sでは役不足ということか。

「ってこれ何?」

「一般生徒からの要望です」

「もう、少しくらい手伝ってくれても良いんじゃない? 海未ちゃん副会長なんだし」

「勿論わたしはもう目を通しています」

「じゃあやってよー!」

 子供のように穂乃果は駄々をこねる。だが海未は折れる様子がない。

「仕事はそれだけじゃないんです」

 そう言って海未は部屋の隅に集められた傘の束を指差す。

「あっちには校内で溜まりに溜まった忘れ傘が放置。各クラブの活動記録のまとめもほったらかし。そこのロッカーの中にも、3年生からの引継ぎのファイルが丸ごと残っています」

 やることが多すぎる。始める前から許容量を超えた穂乃果はファイルの表紙に顔を埋める。

「生徒会長である以上、この学校のことは誰よりも詳しくないといけません」

 更に追い打ちをかけてくる海未に、ことりが「でも」と恐る恐る声をかける。

「3人いるんだし、手分けしてやれば――」

「ことりは穂乃果に甘すぎます」

 海未はぴしゃりと撥ねつけるように言う。ことりもそれ以上は言えず、ただ苦笑を返すだけになる。

「生徒会長も大変なんだね………」

 穂乃果がそう呟くと同時にドアが開く。「分かってくれた?」と言いながら鞄を提げた絵里が入ってくる。会話は廊下にも聞こえていたらしい。大声で騒ぎ立てたから当然といえば当然だが。絵里に続いて希も。

「頑張ってるかね、君達」

 穂乃果達は笑顔で2人を迎える。絵里は少し呆れた様子で言う。

「大丈夫? 挨拶かなり拙い感じだったわよ」

 「ごめんなさい」と穂乃果は照れ笑いを返す。

「それで、今日は?」

「特に用事はないけど、どうしてるかなって。自分が推薦した手前もあるし、心配で」

 「明日からまた、みっちりダンスレッスンもあるしね」と希はタロットカードを見せて悪戯に笑む。

「カードによれば、穂乃果ちゃん生徒会長として相当苦労するみたいよ」

 「えー!?」と穂乃果のなかで一気に不安が押し寄せてくる。希の占いは当たるのだ。希曰く、未来を告げるのは希自身ではなくカードらしいが。

「だから2人とも、フォローしたってね」

 「気にかけてくれてありがとう」とことりが。「いえいえ」と絵里はかぶりを振る。

「困ったことがあったらいつでも言って。何でも手伝うから」

 こんなに頼りになる先輩はそうそういない。できるかどうかまだ不安ではあるが、何とかなりそう、と穂乃果は思った。

「ありがとう」

 そう満面の笑みを浮かべながら言った後に、穂乃果は気付く。

「あれ、そういえばたっくんは?」

 「巧さんなら――」と絵里が答える。

「用事があるからって出掛けたわよ。すぐに戻ってくるみたいだけど」

 

 ♦

「何やってんだ?」

 海堂のマンションを訪ねた巧の第一声はそれだ。部屋には主である海堂の他に琢磨もいる。巧が海堂に向けた問いに本人は答えず、代わりにソファに腰掛ける琢磨が無言でお手上げのジェスチャーをする。テレビの前に座る海堂は巧が来たことに気付いていないようで、両手にDVDのパッケージを持って何やら唸っている。パッケージを覗き込むと、一糸纏わず恥部を露わにした女が映っている。

「おい」

 巧が海堂の後頭部を小突くと、間の抜けた顔をした海堂は「おお乾、来てたのか」とようやく巧を認識する。

「お前どっちがいいと思う?」

「いや見ねーよ」

 眼前に突き出されたポルノDVDを押し退ける。海堂はソファにどっと腰掛ける。

「ちゅーか、俺達オルフェノクはガキを作れねえらしいじゃねえか。逆に考えたらよ、俺たちゃゴム付けなくてもやり放題ってことだぜ。女を妊娠させる心配がねえからな。だからしっかり勃つか確かめようってわけだ」

 「私は興味ありませんよ」と琢磨が呆れを含んだ声で言う。下品な笑みを浮かべる海堂は巧に尋ねる。

「お前はどうなんだよ? 穂乃果ちゃんと一緒に暮らしてムラムラしないか?」

「しねーよ」

「嘘だな。あんなカワイ子ちゃんとひとつ屋根の下で何も起こんないわけがない。男ならやることやるもんだろ!」

「ガキに興味ねーよ」

「もしやお前………、人妻が好きなのか?」

「ちげーよ」

 情欲が無いわけではない。巧にだってそれなりにある。でも、オルフェノクである自分が誰かと愛し合い体を重ねることが酷く場違いに思えて、今まで誰かと関係を持ったことはない。人間は男女が愛し合うことで子を産む。オルフェノクは人間を殺すことで同胞への進化を促す。そもそもの繁殖方法が異なるのだ。もし巧が誰かと愛し合ったとしても、それはとても薄っぺらい行為になるだろう。

「で、用件は何だ? まさかこんな下らない話するために呼び出したんじゃないだろうな?」

 「当然です」と琢磨が即答する。

「スマートブレインの動向を教えるために呼んだんです」

 琢磨がいる時点でそうだろうとは思っていた。海堂と琢磨はスマートブレインに身を置いている。会社と敵対関係にある巧との接触は細心の注意を払わなければならず、会うには監視の目が届かない海堂のプライベートルームしか場所がない。

「あの女を倒せば、少しは向こうも大人しくなったんじゃないのか?」

「いえ。スマートレディは同志のスカウトと裏切り者のオルフェノクを粛清する任務に就いていました。ですがカイザMark2がロールアウトしてからは海堂さんがその任を引き継いでいるので、彼女を倒しても打撃を与えるに至っていません」

「スカウトってのは、スマートブレインに協力する奴をか?」

「ええ。スマートブレインは自分達の目的に賛同するオルフェノクを集めています。もっとも、オルフェノクである時点で協力を強いられるのですが。かく言う私もそうです。海堂さんは自ら申し出たようですが」

 巧が視線を流すと、会話をろくに聞いていない海堂は改めてDVDを吟味している。この面倒事を嫌いそうな男が自分から協力するなんて意外だ。それほどスマートブレインが憎いのか。いや、と巧は疑問を消す。きっと憎いのだろう。オルフェノクになった故に人生を狂わされ、スマートブレインに関わった故に仲間を失ったのだから。しまいには、守ろうとした鈴木照夫(すずきてるお)まで失った。生き残ったことへの罪悪が今の彼を動かしているのかもしれない。

「音ノ木坂で働いてた戸田って男も、スマートブレインが………」

 巧は琢磨を睨み尋ねる。音ノ木坂学院の用務員として働いていた戸田は人間の心を捨てていなかった。巧は絵里を守るという名目で彼を殺した。責任転嫁と思われても仕方ないのは理解している。それでも問わずにはいられない。

 琢磨は僅かに視線を落とした。

「戸田さんのことは残念です。できることなら助けたかったのですが、私達も企業のなかで信頼を得る必要があったので、手出しはできなかったのです」

 「ふざけんな!」と巧はテーブルを乱暴に叩く。

「お前らは人間を守るためにスマートブレインと戦うんじゃないのかよ! 奴だって心は人間だった。俺達からしてみりゃ仲間だろ!」

「確かに、戸田さんは同志になれる人材でした。しかしオルフェノクとしての力は心許ない。戦力としては期待できません」

「だからって見捨てるのかよ!」

 「まあまあ落ち着け」と海堂が制止を試みるが、巧はその手を振り払う。琢磨は無表情に淡々と述べる。

「勘違いしないでほしいのですが、私は残りの人生を静かに過ごすためにスマートブレインを潰すのです。人助けをするためではありません」

 「俺様もだ」と海堂が。

「俺もスマートブレインが気に食わねえから戦ってるだけだ。正直、音ノ木坂がどうなろうと知ったこっちゃねえ」

 「お前ら……」と巧は2人を交互に睨む。琢磨はため息をつき、なだめるような口調で言う。

「まあ理由は違えど、目的は同じです。ここで争っても無意味ですよ」

 悔しいが琢磨の言う通りだ。スマートブレインを打倒するという目的は一致している。2人が巧に協力していることは事実だ。

「さて、話を戻します。今後も音ノ木坂学院は機会があれば襲撃に遭うでしょう」

 「おいおい」とDVDをテーブルに放った海堂が尋ねる。

「音ノ木坂の廃校はなくなったんだろ? なのに何でまた襲うんだよ?」

「あなたは事情を知らなければならない立場でしょう」

 ため息をつきながら琢磨は眼鏡の位置を正す。

「廃校が阻止されたとはいえ、来年度も入学希望者を受け付けるというだけです。入学者を減らしてしまえば、再来年度には再び廃校案が出てきますよ」

 「それに」と琢磨の視線が巧へと移る。

「スマートブレインは学院ではなく、標的をμ’sに移しています。彼女達はスマートブレインの計画を阻止してしまったわけですから」

 μ’sは今や音ノ木坂学院の広告塔だ。μ’sを通じて音ノ木坂学院を知り、入学を希望する中学生が増えた。学校の名を背負って立つスクールアイドル。だが逆に言えば、彼女らに何かあれば学校の人気は一気に下落するということだ。

「私と海堂さんは表立って動くことができません。彼女達を守るのは乾さんにかかっています。まあ、スマートブレインを壊滅させられれば、彼女達がどうなろうと私は知った事ではありませんが」

 皮肉交じりに琢磨は言う。

「そろそろ教えろ。スマートブレインは何をしようとしてんだ?」

 巧は彼等と再会してから、ずっと抱いてきた疑問をぶつける。この質問も何度目だろう。いつも誤魔化されてばかりだ。

「それはまだ言えません」

 予想通り、琢磨はお決まりの言葉を返す。

「小規模とはいえ、スマートブレインに私達で戦うのは無謀です。近いうちに協力者を紹介します。その時に話しましょう」

「本当だな?」

 「ええ」と琢磨は答える。本当に教えてくれるかは怪しいものだが、これ以上突き詰めてもここで話してくれそうにはない。

 ズボンのポケットの中で巧の携帯が震える。取り出して画面を見ると、着信は真姫からだ。巧は通話モードにして携帯を耳に押し当てる。電話口で真姫の声が吐息交じりに聞こえてくる。

『巧さん、急いで学校に戻って!』

「どうしたんだ?」

『いいから早く! 大変なのよ!』

 短い会話で通話が切れる。通話時間を表示する画面から、巧は琢磨と海堂へと視線を移す。

「また学校にオルフェノクを襲わせたのか?」

 「いえ」と琢磨は首を横に振る。何にしても、あの真姫があそこまで慌てた様子だった。余程のことが起こったに違いない。

 巧はソファの隣に置いたファイズギアケースを掴み、足早で玄関へと向かった。

 

 ♦

「もう一度ラブライブ?」

 学校に戻ると玄関で待っていた1年生組とにこの4人にアイドル研究部の部室へと連れ込まれ、花陽の口から告げられた台詞を巧はそのまま反芻する。部室にはメンバー全員が集まっていて、その事実をまだ知らなかったメンバー達は目を丸くして花陽の話を聞いている。

「そう! A-RISEの優勝と大会の成功をもって終わった第1回ラブライブ。それが何と何と、その第2回大会が行われることが早くも決定したのです!」

 早口でまくし立てた花陽は椅子から立ち上がり、窓際のデスクでパソコンを立ち上げてラブライブのホームページにアクセスする。メンバー達はパソコンの前に集まり、巧も最後尾で液晶画面を覗き込む。

「今回は前回を上回る大会規模で会場の広さも数倍。ネット配信の他ライブビューイングも計画されています」

 「凄いわね」と絵里が言うと、「凄いってもんじゃないです!」と花陽は声を荒げる。本当に彼女は花陽なのだろうか。普段は先輩禁止でも上下関係が抜けきれていないところがあるのに。

「そしてここからがとっても重要。大会規模が大きい今度のラブライブは、ランキング形式ではなく各地で予選が行われ各地区の代表になったチームが本戦に進む形式になりました!」

 「つまり」と海未が。

「人気投票による今までのランキングとは関係ないということですか?」

「その通り‼」

 花陽は立ち上がってメンバー達に告げる。その迫力に思わず巧は後ずさりしてしまう。この少女の気迫は強と弱の2つの目盛りしかないのではと思える。

「これはまさに、アイドル下克上! ランキング下位の者でも予選のパフォーマンス次第で本大会に出場できるんです!」

「それって、わたし達でも大会に出場できるチャンスがあるってことよね?」

 にこがそう言うと花陽は笑みを零し、両拳を握りしめて「そうなんです!」と答える。

 「凄いにゃー!」と凛が興奮気味に言って、「またとないチャンスですね」と海未が続く。

「やらない手はないわね」

 真姫がそう言うと、「そうこなくっちゃ」とにこが真姫に抱きつく。

 ランキング形式ではどうしてもグループの知名度が付きまとう。いくつも曲を作り人気を維持してきたグループのみが上位へと昇り、いくら出来が良くても結成されたばかりのグループが短期間で上位へと潜り込むのは難しい。言ってみれば、前回と同じ形で開催すれば出場グループの面子にあまり変化はない。その点で、今回は予測不可能だ。全てのスクールアイドルに、平等に本戦へ進むチャンスが与えられる。

「よーし、じゃあラブライブ出場を目指して――」

 意気込むことりを「でも待って」と絵里が遮る。

「地区予選があるってことは、わたし達A-RISEとぶつかるってことじゃない?」

 「あ……」とメンバー達は漏らす。興奮していたあまりにその事実を忘れていたらしい。前大会を優勝したA-RISEのUTX学院とμ’sの音ノ木坂学院は同じ千代田区の高校だ。A-RISEもラブライブ2連覇を目指してエントリーすることは多いにあり得るし、そうなれば当然地区予選で両グループは争うことになる。

 花陽は崩れるように膝をつく。

「終わりました………」

 諦めるの早いな、と巧が思っているとにこが「駄目だー!」と頭を抱える。

「A-RISEに勝たなきゃいけないなんて………」

「それはいくら何でも………」

「無理よ」

 ことり、希、真姫が口々に言う。A-RISEは前大会で圧倒的大差をつけて優勝したらしいから不安なのは無理もない。不安どころか絶望的らしい花陽は両手を床について涙を流しながら笑っている。悲しいのか可笑しいのか全く感情が読み取れない。

「いっそのこと、全員で転校しよう」

 凛の馬鹿げた提案を海未は「できるわけないでしょう」と却下する。冗談と思いたいが、凛のことだから多分本気だろう。

「確かにA-RISEとぶつかるのは苦しいですが、だからといって諦めるのは早いと思います」

 「海未の言う通りね」と絵里が。

「やる前から諦めていたら何も始められない」

 「それはそうね」と真姫が同意を示す。

「エントリーするのは自由なんだし、出場してみても良いんじゃないかしら?」

 絵里の言葉で部室に漂っていた諦めムードが収束していく。だが、巧はこの状況に違和感を覚える。絵里の言葉を真っ先に告げそうなメンバーがひとり、何も意見を述べていない。そのことに気付かず、立ち上がった花陽は涙を制服の袖で拭う。

「そうだよね。大変だけどやってみよう!」

 「じゃあ決まりね」という絵里の言葉の後に、メンバー達はようやく巧と同じ違和感に気付く。その違和感を生じさせている当人は椅子に座ったまま湯呑みを啜っている。

「穂乃果?」

 絵里が呼ぶと、穂乃果はようやく意見を述べる。

 

「出なくても良いんじゃない?」

 

 さらりと出たその言葉に、メンバー達は「ええええええ!?」と悲鳴をあげて穂乃果にまるで恐ろしいものでも見るかのような視線を向けている。

「今、何と………?」

 海未の声も絶え絶えな質問に、穂乃果はまたさらりと答える。

「ラブライブ、出なくて良いと思う」

 しばし沈黙が漂う。固まっているメンバー達のなかからにこが出てきて、「穂乃果ああ」と呻きながら穂乃果の腕を掴み立ち上がらせる。そのまま有無を言わさず隣の更衣室へ連れていくと、穂乃果を椅子に座らせて目の前に姿見を置く。後に続くメンバー達も穂乃果を囲み、巧はドアの横でその様子を傍観する。

「穂乃果、自分の顔が見えますか?」

「見え……ます」

 海未の質問に穂乃果は鏡に映る自分の顔を見ながら困惑気味に答える。海未は更に質問を重ねる。

「では、鏡のなかの自分は何と言っていますか?」

「何それ?」

 これは心理実験か。そう思いながら巧は高みの見物を決め込む。確かに穂乃果の口から出なくて良いなんて言葉が出るのは信じ難いが。

「だって穂乃果」

「ラブライブ出ないって――」

 絵里と希が穂乃果を凝視しながら言葉を詰まらせる。続きを引き継いだにこが穂乃果に顔面を近付ける。

「有り得ないんだけど! ラブライブよラブライブ。スクールアイドルの憧れよ。あんた真っ先に出ようって言いそうなもんじゃない!」

 両肩を掴まれた穂乃果は物怖じしながらも「そ、そう?」と尋ねる。絵里の視線が巧へと移った。

「巧さん、何かあったんですか?」

「いや、いつも通りパンばっか食ってるぞ」

 家でも穂乃果の様子に変わりはない。いつも通りインターネット動画で他のスクールアイドルを見て巧にどんなグループか逐一報告してくる。特にアイドル活動への熱が冷めたようには見受けられない。

「なぜ出なくて良いと思うんです?」

 海未の質問に穂乃果は目の前にいるにこから目を逸らす。

「わたしは、歌って踊って皆が幸せならそれで――」

「今までラブライブを目標にやってきたじゃない。違うの?」

 にこは穂乃果の両肩から手を放さず問う。穂乃果は「いやあ……」と口ごもるばかりで判然とした答えが一向に出てこない。

「穂乃果ちゃんらしくないよ」

「挑戦してみても良いんじゃないかな?」

 凛と花陽がそう言うも、穂乃果は曖昧に笑うだけだった。

 

 ♦

「ねえ、こんなところで遊んでて良いわけ?」

 テーブルに置かれたジュースのコップを眺めながら、にこが不機嫌そうに言う。たまには息抜きも必要という穂乃果の提案で、メンバー全員でゲーセンに行くことになった。場の雰囲気で同行する羽目になった巧は頬杖をつきながらアイスコーヒーを飲む。

「明日からダンスレッスンやるんだし、たまには良いんじゃない?」

 花陽がそう言うと凛が「そうだよそうだよー」と同意する。

「リーダーがそうしたいって言ってるんだから、しょうがないわ」

 真姫がそう言うと、にこは不貞腐れた様子でジュースを飲んだ。提案した穂乃果は心ゆくまで楽しんでいるようで、クレーンゲームで獲得したマスコットを満足そうに鞄に付けている。遊び疲れたのか、自販機で買ったジュースを手に自動ドアを潜って店の前にいる希へと歩いて行く。希はジュースを受け取ると中へ入ってきて、テーブルの空いた椅子に座る。穂乃果を除いて全員がテーブルにつくと、メンバー達は互いに顔を見合わせる。

「穂乃果も色々考えて出なくて良いって言ったんじゃないかしら?」

 絵里がそう言うと、「色々……」と海未が呟く。思い当たる節があるのだろうか。

「らしくないわよね」

 にこは巧へと視線を向ける。

「本当に何もなかったわけ?」

 「ああ」と巧は短く答える。何か穂乃果に影響を与えそうな事態は起こっていない。未だ店先にいる穂乃果を見ると、彼女は上を見上げたまま突っ立っている。その視線の先にあるものは、店内にいる巧からは見えない。

「あなたは、どうすれば良いと思うの?」

 真姫がそう尋ねてくる。巧は背もたれに身を預け、メンバー全員を見渡す。

「何もラブライブが全部ってんじゃないなら、出なくても良いと思う。廃校はなくなったんだし、人気取りに焦る必要もないしな」

 「でも」と花陽が不安げに言う。

「このままじゃ本当にラブライブに出ないってことも………」

 「それは寂しいな」と凛が。メンバーの間では穂乃果がリーダーということになっているが、μ’sにリーダーは存在しない。だから、穂乃果の意向にメンバー全員が従う必要はないのだ。この問題を決めるのは穂乃果ひとりでも、巧でもない。

「お前らはどうしたいんだ?」

 メンバー達は一斉に逡巡する。「わたしは」とにこが沈黙を破る。

「勿論ラブライブに出たい」

 「そうよね」と絵里が言うも、気運が高まっている様子はない。

「生徒会長として忙しくなってきたのが理由かもしれません」

 海未の推測は巧と同じだ。生徒会長になったことへの不安は穂乃果の口からは一切出てこなかったが、彼女はそういったものに限って何も言わない。全部自分で背負い込むきらいがある。

「でも忙しいからやらないって、穂乃果ちゃんが思うはずないよ」

 ことりの意見にも同感だ。どんなに辛い状況でも、穂乃果は一直線に進んできた。

「今のμ’sは皆で練習して歌を披露する場もある。それで十分てことやろうか」

 希は未だ店先にいる穂乃果を眺めながら言う。確かに会場でなくても、PVを撮影してインターネットにアップロードすれば見てもらえる。でも、穂乃果はそれだけで満足するはずがない。彼女の夢は多くの人々を笑顔にすることだ。観客の顔が見えないネットだけで、彼女の夢は収まるのだろうか。

 いくらメンバー間で話し合っても、この議論は終わりが見えない。当の本人が提示しなければ、答えは得られないのだ。

 巧は告げる。

「納得できないなら全員で話し合って決めろ。俺が決めたって何の解決にもならないしな」

 

 ♦

「木場!」

 俺は「王」を背後から羽交い絞めにするホースオルフェノクの名前を呼ぶ。青い炎に包まれているホースオルフェノクが木場勇二(きばゆうじ)の姿を形成し、「王」の肩越しに俺を見据えて力強く頷く。

 

 あとを頼む。

 俺にできなかったことを、君が――

 

 言葉はなくても、そう言われた気がした。木場はホースオルフェノクの姿に戻る。

 俺はゆっくりと立ち上がった。怒りなのか嘆きなのか。湧き上がってくる感情が区別できない。俺はそれを吐き出すように吼え、持っていたブラスターを乱暴に投げ捨て跳躍する。

「うああああああああああああっ‼」

 俺の咆哮が地下を固めるコンクリートに反響し、突き出した右脚に真紅のエネルギーが集束していく。僅かな照明しかなかった空間が紅く照らされて、離れたところから「巧!」と真理の声が聞こえてくる。

 プラズマの光を放つ俺の右脚が「王」の胸に触れた瞬間、収まり切らないエネルギーが渦を巻いて波のように広がり、地下の天井を支えている無数の柱をなぎ倒していく。爆発が起こり、視界が紅い光に覆われて「王」の顔が見えなくなる。何もかもが光に呑み込まれていくなかで、唯一俺の視界に映っていたホースオルフェノクの顔が崩れていく。

 木場――

 声が枯れて、彼の名前を呼ぶことができなかった。ホースオルフェノクだった灰は爆風に晒されて吹き飛んでいった。

 紅く覆われた俺の視界は白み始めて、そして暗転する。意識が途切れた、と一瞬思ったが違うらしい。俺の放ったエネルギーが地下空間を破壊し、天井が崩れたことに気付く。瓦礫に埋もれていたのがどれほどの間だったのか、はっきりしない。長かったようにも短かったようにも感じる。

 ファイズのスーツがもたらしてくれる筋力補正で俺は軽々と瓦礫を退けて立ち上がる。同時にスーツが分解される。一気に疲労が押し寄せてきた。歩くのに相当の力を必要とした。

 少し離れたところで瓦礫の中からデルタとスネークオルフェノクが這い出てくる。2人が出てきた穴から、続けて砂埃にまみれた啓太郎と阿部が、最後に2人に引っ張られて真理が出てくる。

「乾、生きてるか!」

 スネークオルフェノクが海堂の姿に戻って呼び掛けてくる。俺は無言で軽く手を振り、2人のもとへふらつきながら歩く。デルタは変身を解除した。三原が尋ねる。

「やったのか?」

「………ああ」

「木場はどうした?」

 海堂の問いには無言で、首を横に振る。海堂は俯き口を真一文字に結ぶ。

「ごめん………」

 俺がか細い声でそう言うと海堂はいつものおどけた顔に戻り、俺の肩を叩く。

「何言ってんだ。あいつは自業自得だろ。ちゅーかこんなとこ早くずらかろうぜ」

 そう言って海堂は出口へと歩いて行く。三原は阿部の肩を支えて後に続く。

「真理ちゃん、立てる?」

 啓太郎が手を差し伸べるも、真理は俯いたまま何の反応も示さない。不安げな顔をした啓太郎は俺を見つめた後、「あ、そうだ」と瓦礫の山へと走っていく。

「どうした?」

「たっくんの武器探さなくちゃ。ファイズの携帯だって付いたままだし」

 「危ねえぞ」と忠告してやるが、啓太郎は「確かこの辺に……」と山を崩していく。また天井が崩れてくるかもしれないというのに。

「……木場さん」

 真理は消え入りそうな声で言った。

「オルフェノクだったんだ………」

 俺は何も言えなかった。真理には木場の正体を知ってほしくなくて、ずっと黙っていた。真理を苦しめたくなかったから言わなかったのに、それがかえって深い苦しみを与えてしまった。

 謝る気力すら湧かない。俺が真理に謝らなければいけないのは、木場のことだけじゃない。

 草加も、澤田も、他の流星塾の皆も。俺は真理の大切なものを何ひとつ守ることができなかった。

「見つけたー!」

 啓太郎が宝物を見つけた子供のようにブラスターを抱えて走ってくる。

「帰ろう」

「………ああ」

 俺は真理に手を差し伸べる。

「帰るぞ」

 俺がそう言っても、真理は立ち上がろうとしない。俺は腰からベルトを外して啓太郎に押し付けると、真理に背中を向けて屈む。

「ほら」

 しばらく待っていると、背中にずしりと重みが乗った。俺は真理を背負い、疲れた体を持ち上げて歩き出した。

 真理はずっと俺の背中にしがみ付いていた。まるで親に甘える子供みたいに、俺のコートを掴んでいた。

「そうか………」

 真理が俺の背中で何を言っていたのかは聞いていない。だから俺は何も言わなかった。

 いや、聞こえない振りをしていた。俺は真理の言葉を受け取る気がなかったのだ。

 あの時、俺は確かに真理の言葉を聞いていた。俺はその言葉に向き合わなければならない。

「そうか……巧だったんだね……」

 真理を背負いながら、俺の意識は過去に飛んだ。それはとても懐かしく辛い記憶だ。俺の背中に感じる重み。背中を掴む手の感触。俺はあの時と同じ命を背負って歩いていた。

 

 ――真理、お前だったのか……――

 

 その過去を抹消したくなる。俺は俺の生き方を決めるためにあの少女を助けた。純粋な善意じゃない。偽善に過ぎない。だから俺に命を救ったなんて感慨に浸る資格はない。でも、過去は消すことができない。俺がオルフェノクであるという事実が消せないように。

「そうだったね、思い出した。巧はずっと昔に死んでいたんだ。私を助けるために、ずっと昔に……」

 俺は真理を背負いながら問い続けた。声にならない俺の問いはただ頭のなかで渦を巻いて、答えのないまま虚無の彼方へ拡散していった。

 

 真理。俺はお前の夢を守れたのかな?

 俺こんな性格だからさ。何やっても長続きしなくて、夢なんて持てなかった。

 だから、お前と啓太郎が羨ましかったんだ。

 夢に向かって馬鹿みたいに突っ走って、どんなに辛くても諦めないお前らが輝いて見えて、その輝きは消しちゃいけないって思ったんだ。

 何もない空っぽな俺でも、お前らの夢を守ることはできるって思ってた。

 でも、俺はオルフェノクを倒してきただけなんだ。夢を守るのも、ただ戦う理由が欲しかっただけだ。

 夢を叶えるのはお前ら自身で、俺じゃない。

 結局、俺は何を守ったんだろうな?

 

 ♦

 肩を揺さぶられるのを感じながら、巧はゆっくりと目蓋を開く。まだ覚醒しきっていない意識で、おもむろに彼女の名前を呼ぶ。

「真理………」

「真姫よ」

 巧を見下ろしながら、真姫は目を細めて訂正する。

「マネージャーのくせに何寝てんのよ」

 テーブルに突っ伏していた頭を上げる巧に皮肉っぽく真姫は言い放つ。もう少し柔らかい言い方はできないのだろうか。その態度は後々損すると忠告してやりたくなるが、いけ好かない彼と同じになるようで踏み留まる。

「お前こそ練習はどうしたんだ? 今日から始めるんじゃなかったのか?」

「にこちゃんが穂乃果と勝負するんですって」

「勝負?」

「穂乃果にやる気出させるためでしょ。神社でやるみたいだから、わたし達も行くわよ」

 随分と強引なやり方だ、と思いながら巧は椅子から立って部室から出る。μ’sのマネージャーになってから、巧が学校にいる場所は大抵アイドル研究部の部室だ。用務員としての仕事をする必要がなくなったから、自由に昼寝ができる。でも、たまに過去の記憶を夢に見てしまう。辛い過去ばかりだが、忘れてはならない。最近になって、悪夢は過去の忘却を巧自身が阻止しようと現れてくるのではないかと思えてきた。

「ねえ、真理って?」

 巧の後ろを歩く真姫がそう聞いてくる。

「ちょっとした知り合いだ」

「………恋人とか?」

「ちげーよ。何でそうなるんだ?」

「そうよね。あなた恋人できる性格してないし」

 どこまでも生意気だ。自分だって恋人ができるような性格でもないだろうに。巧はすっかり伸びた髪を指先でいじる。この街に来てから1度も散髪をしていない。そろそろ邪魔になってきた。いつもは真理が切ってくれていたから、床屋に行くのはどうにも気が乗らない。

 真理はどうしているだろうか。

 そんなことを思いながら、巧は顔に垂れた前髪を横へ流した。

 

 ♦

 夕方からは天気が崩れるという予報通り、曇天が街全体に影を落としている。今にも雨が降りそうだ。

 オートバジンで神田明神に到着すると、巧と真姫は階段の頂に集まるメンバー達のもとへ行く。階段を見下ろすとジャージに着替えた穂乃果とにこがクラウチングスタートの構えを取っている。

「勝負って階段競争か」

 巧がそう言うと、「ええ」と海未が。

「にこが勝てばラブライブに出て、穂乃果が勝てば出ないということらしいです」

 にこの表情は真剣そのものだが、穂乃果は興が乗らないらしい。顔に疑問の色を浮かべながら渋々勝負に応じたという様子だ。にこのことだから強引に連れ出してきたのだろう。

「よーい、どん!」

 にこのタイミングでスタートが切られる。当然自分のタイミングだからにこの方が早く走り出しリードする。

「にこちゃんずるい!」

 遅れて走り出した穂乃果がそう言うも、にこは全力疾走で階段を駆け上がっていく。

「悔しかったら追い抜いてごらんなさい!」

 2人の距離は縮む気配がなく、そのままにこが勝利するものだと思っていた。だが途中でにこが階段につまずき、勢いよく中腹で倒れてしまう。穂乃果は自分が勝利するチャンスを放棄してにこへと駆け寄る。勝負は中断だ。

「にこちゃん、大丈夫?」

 「平気」とにこは顔をしかめながら答える。怪我をしていたとしても擦り傷程度だろう。

「もう、ズルするからだよ」

「うるさいわね。ズルでも何でもいいのよ。ラブライブに出られれば」

 にこは悔しそうに言った。ぽつりと冷たい雫が落ちてくる。雨はすぐに強まっていき、傘を持っていないメンバー達と巧は門で雨宿りする。階段を上がってきた穂乃果とにこも社殿で制服に着替えて門へとやって来る。

「そんなにラブライブにこだわらなくても良いと思うけどな」

 穂乃果は呆れた様子で言う。頬に絆創膏を貼ったにこは不機嫌そうだ。

「今度のラブライブは、最後のチャンスなのよ」

 にこの言葉を受けて穂乃果は「最後……」と自分の言葉を詰まらせる。「そうよ」と絵里が続ける。

「3月になったらわたし達3人は卒業。こうして皆といられるのは、あと半年」

 学生の部活動は1年毎に部員が入れ替わる。タイムリミットのある活動であることは、彼女らも忘れていたわけではあるまい。「それに」と希が。

「スクールアイドルでいられるのは在学中だけ」

 「そんな」と穂乃果は言うが、こればかりは回避できない課題だ。スクールアイドルの条件は現役の高校生であることで、活動期間は最長でも3年間。絵里は明るい口調で言うが、取り繕っているとすぐに分かる。

「別にすぐ卒業しちゃうわけじゃないわ。でもラブライブに出られるのは、今回がラストチャンス」

「これを逃したら、もう――」

 希が普段とは打って変わった沈んだ声色で続き、絵里は苦笑を零す。

「本当はずっと続けたいと思う。実際卒業してからもプロを目指して続ける人もいる。でも、この9人でラブライブに出られるのは今回しかないのよ」

 続けたいという気持ちがあって実力もあるのなら続けて良い、と巧は思う。絵里ならそれができるだろう。でも、彼女はただアイドルをやりたいからというだけでやってきたわけではないだろう。μ’sだから。この9人だからやってきた。それは絵里だけじゃない。

 「わたし達もそう」と花陽が。

「たとえ予選で落ちちゃったとしても、9人で頑張った足跡を残したい」

 「凛もそう思うにゃ」と凛が。

 「やってみても良いんじゃない?」と真姫が。

「皆……。ことりちゃんは?」

 穂乃果の問いに、ことりは笑顔で答える。

「わたしは穂乃果ちゃんの選ぶ道ならどこへでも」

 迷いは感じなかった。主体性に欠けるように思えるが、逆に言えばそれほど穂乃果を信頼しているということだ。穂乃果なら自分達をまだ見ぬ場所へと連れていってくれると。未だに迷いを拭えない様子の穂乃果に海未は言う。

「また自分のせいで皆に迷惑をかけてしまうのではないかと心配しているんでしょう? ラブライブに夢中になって、回りが見えなくなって、生徒会長として学校の皆に迷惑をかけるようなことはあってはいけないと」

 「でも……」と穂乃果は切り出す。

「わたし達、オルフェノクに狙われてるんだよ? 出場したら会場が襲われて、そんなことになったらラブライブが無くなっちゃうかもしれない………」

 確かに的を射ている。琢磨はスマートブレインが標的を音ノ木坂学院からμ’sへ変えたと言っていた。彼女らには常に危険が付きまとう。彼女らがいる音ノ木坂学院だけでなく、彼女らが出るステージにも。やり取りを傍観していた巧は「お前なあ」と呆れを吐き出す。

「余計な心配すんな。そうならないために俺がいんだろうが」

 子供は夢を見ていればいい。まだ成熟したとは言えないが、彼女らにとっては大人である巧は守るべき立場にある。

「俺が信じられないか?」

 巧が問うと、不安げな顔をしていた穂乃果は照れ臭そうに笑い「ううん」と答える。

「たっくんなら、守ってくれるって信じてる。隠してたつもりなのに、全部バレバレだね。始めたばかりのときは何も考えないでできたのに、今は何をやるべきか分からなくなるときがある。でも、1度夢見た舞台だもん。やっぱりわたしだって出たい。生徒会長やりながらだから、また迷惑かけるときもあるかもだけど、本当は物凄く出たいよ!」

 それで良い、と巧は胸を撫で下ろす。諦めるなんて穂乃果らしくない。やりたいことをやる前から諦めるのは1番あってはならないことだ。チャンスは与えられた。皆も穂乃果もやりたいと思っている。それだけで理由としては十分だ。オルフェノクが出れば巧が倒す。問題なんてものは、深く考えなくても案外単純に答えが出るものだ。

 「よーし!」と穂乃果は声を張り上げる。いつもの穂乃果だった。

「やろう! ラブライブ出よう!」

 曇天を吹き飛ばしてしまいそうな勢いだ。だがそれは現実になって、雨が止むと雲の切れ間から日光が柱のように地面に突き立てられる。穂乃果は門から飛び出して、灰から青へと変わった空へと指を立てる。まるで神への挑戦のように。

「ラブライブに出るだけじゃ勿体ない。この9人で残せる最高の結果、優勝を目指そう!」

 「優勝!?」、「そこまで言っちゃうの?」と海未と凛が上ずった声をあげる。

 「大きく出たわね」とにこすら驚いているが、「面白そうやん」と希は興奮気味だ。

 ようやく動き出した。気持ちは既に決まっていたというのに、決断するまで随分と時間をかけていた気がする。でも、1度決めたら立ち止まることはしないだろう。ここからμ’sは加速していく。どこまでも一直線に。

 穂乃果は宣言した。

「ラブライブのあの大きな会場で精一杯歌って、わたし達1番になろう!」




 今回は戦闘がないので回想を入れさせていただきました。


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第2話 優勝をめざして / 潜む野望

h:hirotani 友:友人(凛ちゃん推しのラブライバー)

友「『SAO』の小説もやってたんだな」
h「読んでくれたんだ。ありがとう」
友「『ラブライブ!』のやつは今すぐ打ち切りにしてくれ! 嫌な予感がしてたまらない!」
h「大丈夫だよ」
友「お前の大丈夫は信用ならん! 今すぐ軌道修正しろ! ヒロインは凛ちゃんでほのぼのラブラブなやつだ。そうすりゃたっくんも幸せになれるだろ!」
h「もう遅いわ! ふはははははははは‼」

 先日こんなやり取りがありました。


 第2回ラブライブに優勝するために、μ’sは再び走り出す。ともなれば最初の関門である地区予選突破に向けて歌唱力とダンスを磨こうとメンバー達は練習に意欲的だ。マネージャーという役目を与えられながらも、巧はオルフェノクからの警護として音ノ木坂学院への来校を許可されている。だから巧は歌とダンスに関して彼女らにアドバイスできることは何もない。学校に来てメンバー達が練習に励む間、巧のすることはもっぱら部室で暇を持て余すことだ。備品としてアイドル研究部の部室にはスクールアイドル関連の雑誌やCDやDVDが大量に納められている。でもアイドルにさほど興味のない巧はそれらの資料に目を通す気にはなれず、その日もお茶を飲んでくつろいでいた。

「大変です!」

 巧ひとりだけの静寂は、激しい剣幕で部室のドアを乱暴に開けた花陽によって破られた。こうなった花陽を止める術がないことを知った巧は文句を言う隙も与えられず、放課後にメンバー達が集まった屋上へと連れ込まれた。

 メンバー達に花陽は告げる。

「大変です! わたし達、このままじゃラブライブに出場できません!」

 メンバー達は悲観の声をあげて、「どういうこと!?」と花陽の前に踏み出したにこが問う。花陽は臆すことなくメンバー達を見据える。普段からこんな感じで堂々とすればいいのに、と巧は思う。

「ラブライブの予選で発表できる曲は今までに未発表のものに限られるそうです」

 「未発表……」とことりが反芻する。続けて穂乃果が概要を要約してくれる。

「てことは、つまり今までの曲は使えないってこと?」

 これからパフォーマンスのクオリティを上げようと盛り上がっていたところでその制限は酷だ。今まで発表した中で最も人気のある曲で挑むのが定石だが、新曲となるとリスクが高い。初めて披露するわけだから、観客の受けが良いか予測できないのだ。

 「何で急に!」というにこの問いに花陽は早口で答える。

「参加希望チームが予想以上に多く、なかにはプロのアイドルのコピーをしている人達もエントリーを希望してきたらしくて」

 そういえば、穂乃果から聞いたことがある。とある高校のスクールアイドルの曲に聞き覚えがあると思ったらプロの曲をカバーしたものだったと。スクールアイドルはアマチュアだから、芸能プロダクションに所属するプロよりは自由に活動できる。プロのコピーは活動においては最も手軽だ。作詞も作曲も省けるのだから。

「この段階でふるいにかけようってわけやね」

 希の言葉はまさに実行委員会の目論見だろう。前大会が成功したとはいえ、ここまで盛り上がりを見せるとは予想できなかったのかもしれない。だが、今回は全てのスクールアイドルに平等にチャンスを与えるものだ。どこのアイドル達も躍起になるだろう。

「これから1ヶ月足らずで何とかしないと、ラブライブに出られないってことよ」

 絵里が落ち着いた口調で言う。すると「こうなったらば仕方ない」とにこが得意げに。

「こんなこともあろうかと、わたしがこの前作詞した『にこにーにこちゃん』という詞に曲を付けて――」

「そんでどうすんだ?」

「スルー!?」

 タイトルからして負け戦だ。真姫だって曲を付ける気にならないだろうに。

「何とかしなきゃ! 一体どうすれば………」

 穂乃果はすがるような視線を絵里に向ける。絵里は静かに、だが強く告げる。

「………作るしかないわね」

 そう、ここで嘆いても仕方ない。地区予選まであと1ヶ月もない。一刻も早く新曲を作らなければならないのだ。このタイミングで制限が発表されたのも、参加グループを減らすためだろう。実行委員会も女子高生相手に大人げない。

 「真姫」と絵里が呼ぶと、真姫は意図を悟ったのか苦笑を浮かべて「もしかして……」と呟く。

「ええ、合宿よ!」

 

 ♦

 あれは確か、落ち着いた日常を得てしばらく経った頃だと思う。

 いつも通り啓太郎の店の仕事をして、仕事終わりにテレビを見ていた。特に好きな番組だったわけではなく、俺はぼんやりと画面を眺めていた。毎日同じことの繰り返し。その日の昨日も一昨日と同じ日常。きっと明日も明後日も今日と同じことを繰り返し、日々を過ごしていくのだろうと思っていた。

「巧、ご飯だよ」

 テーブルに食器を並べながら真理が声をかけてくる。啓太郎はまだ配達から帰っていなくて、先に2人で食べてしまおうと真理は夕食を作った。

 俺は「ああ」と気のない返事をしてソファから立ち上がろうとしたが、脚の力が抜けて床に膝をついた。真理は慌てた様子で駆け寄り、俺の顔から灰が零れた床へと視線を落とした。

「巧………、これってどういうこと?」

 必死に隠してきたが、見られてしまってはもう誤魔化しようがない。だから俺は正直に打ち明けた。

「………オルフェノクは長く生きられない」

 俺がそう言うと真理は目を剥きながら「そんな………」と消え入りそうな声を出した。真理は灰が零れる俺の手をそっと両手で包み込んでくれた。

「嫌だ……、もう嫌だよ。巧までいなくならないで………」

 真理は泣いていた。俺のために泣いてくれた。それがとても嬉しくて悲しかった。こんな顔を見るのなら、真理と出会わなければよかったとさえ思った。

 俺は真理の涙を拭おうとしたけど、できなかった。俺の手は灰にまみれていて、真理を汚してしまうと思った。誰にだって別れの時は来る。俺の場合、人間よりも早いだけだ。でも、近くにいるともっと長く一緒にいたいと欲が出てしまう。俺は怖かった。俺が死んだとき、真理が今よりも悲しんで涙を流してしまうことを。啓太郎もきっと、いや絶対に悲しむ。オルフェノクの幸せさえ願ってしまうあいつは、きっといつまでもめそめそ泣いて仕事どころじゃなくなる。

 そんなことはあってはならない。2人には叶えたい夢がある。俺の死に悲しんでいる暇なんてない。それに、2人が夢を叶えて幸せになることが俺の見つけた夢だ。俺の死が俺自身の夢を壊してしまう。

「泣くなよ、真理」

 俺はそれしか言えなかった。それ以上に言葉をかけてしまうと、真理の悲しみを助長させてしまう気がしたから。伝えたい気持ちは胸の中で溜まっていくばかりで、俺はそれを吐き出せなかった。

 真理、泣かないでくれ。

 俺はお前の涙を見たくて戦ってきたんじゃない。お前と啓太郎に笑ってほしかったんだ。お前らには夢のことだけ考えてほしかった。

 オルフェノクでも人間でも、いつか死ぬことに変わりはない。誰かが死ぬ度にいちいち悲しんでたら、前に進めなくなるぞ。

 だからもう泣かないでくれよ。俺のために流す涙なんて時間の無駄だ。

 俺自身も、悲しくなる。

 

 ♦

 目蓋を開くよりも先に、がたんごとんと電車が揺れる音を認識する。

 三原には黙っているように言ったが、元気にやっているから心配するなと連絡ぐらいはするべきだろうか。そう思いながら巧は目を開く。ボックス席の向かいでよだれを垂らしながら寝ている穂乃果が視界に入る。何ともおめでたい顔だ。窓の外を見やると、木々と山々が過ぎ去っていく。

 荷物が置き引きに遭っていないか視線を隣へと移したところで、巧は違和感を覚える。車内が静かすぎる。乗ったばかりのときはメンバー達がはしゃいで騒がしかったというのに。席を立って車両を見渡すと、乗客が殆どいない。まさか、とポケットから出した携帯電話を見ると、何件もの着信履歴が表示されている。

「おい穂乃果、起きろ!」

 乱暴に肩を揺さぶると、穂乃果はゆっくりと目蓋を開いて焦点の合っていない寝ぼけ眼を向けてくる。

「ん……、どうしたの?」

「寝過ごしたぞ!」

「………んあ?」

 まだ言葉を理解するまで意識がはっきりしていないのか、穂乃果は目を擦りながら間抜けな声を漏らした。

 

 ♦

「たるみ過ぎです!」

 バスを降りてすぐ、停留所で待っていたメンバー達が安堵した顔で出迎えるなか唯一海未が叱責を飛ばしてくる。この辺りの駅は1時間に1本という運行状況で、次の電車を待つよりはバスで移動したほうが早い。

「だって、みんな起こしてくれないんだもん! ひどいよ」

 目に涙を浮かべながら穂乃果は抗議する。

「ごめんね。忘れ物ないか確認するまで気付かなくて………」

 ことりが申し訳なさそうに言う。自分達2人はもの扱いか、と文句が出そうになるが年上の威厳が失われた巧は喉元で押し殺す。それを良い事に海未の叱責は巧にも飛び火する。

「巧さん、あなたまで寝てしまったら誰が穂乃果を起こすんですか!」

「お前が起こせよ」

 我慢できず文句を言う。同時に登山ウェアにザックという海未の出で立ちに意識が向く。

「てかお前その恰好何だよ?」

「山ですから」

 海未はさも当然のように言う。西木野家の別荘は山の中にあると聞いたから動きやすい服装で来たが、海未は重装備だ。ご丁寧に帽子まで被っている。洒落たキャップやニット帽ではなく、つばの広いサファリハットだ。

「さ、早く行きましょう。山が呼んでいますよ」

 そう言って海未は楽しそうに歩き出す。他のメンバーも巧と同じことを思っているようで苦笑を浮かべた。

 西木野家の別荘で合宿をするのならまた海辺の別荘かと思っていたのだが、西木野家は夏用と冬用と分けて別荘を所有しているらしい。休日を利用して訪れた別荘は都内から遠く離れた地方の山の中に建っていて、周囲に広がる森は都会の喧騒を忘れさせてくれる。森の中にある別荘だからコテージのような小さいログハウスを想像していたのだが、到着した別荘は海辺のものと同じく別荘にしておくには勿体ないほどの豪邸だ。

 外装を見て感嘆の声をあげたメンバー達の興奮は中に入っても冷めることなく、特に穂乃果と凛はテーマパークにでも来たかのようにはしゃいでいる。たかが別荘にピアノを置くことも驚きだが、2人が一際興味を引かれたのはリビングの暖炉だった。

「凄いにゃー! 初めて暖炉見たにゃー!」

「凄いよね! ここに火を――」

 「点けないわよ」と真姫が暖炉を覗き込む2人に告げる。

「まだそんな寒くないでしょ。それに、冬になる前に煙突を汚すとサンタさんが入りにくくなるって、パパが言ってたの」

 「パパ?」と穂乃果が、「サンタ……さん?」と凛が呟く。まさか真姫はサンタクロースの存在を信じているというのか。高校生にもなってそんなものを信じる者など絶滅危惧種に等しい。因みに巧は10歳の頃にサンタクロースという幻想を捨てた。クリスマス直前にマウンテンバイクが欲しいと手紙を出したのだが、12月25日の朝に枕元に置いてあったのはマウンテンバイクのミニチュア模型だった。

「素敵!」

「優しいお父さんですね」

 ことりと海未は話を合わせる。もっとも、親子の微笑ましいやり取りであることに違いないが。真姫は得意げな顔をする。

「ここの煙突はいつもわたしが綺麗にしていたの。去年までサンタさんが来てくれなかったことは無かったんだから」

 巧には何となく真相が分かる。おそらく子供達が信じるサンタクロースの正体は、多くの家庭で共通していることだろう。というより、真姫はサンタクロースなどという不法侵入者を受け入れたのか。初めて巧と出会ったときは不審者扱いしてきたというのに。

「証拠に中見てごらんなさい」

 穂乃果と凛は暖炉の薄暗い奥底を注視する。煤が全く付いてない暖炉の壁面にチョークで描かれたサンタクロースと雪ダルマのイラストとThank youという文字は、巧からも遠目で見える。

 ぷぷ、という声が聞こえて視線を横に流すと、隣に立つにこが必死に笑いを堪えている。

「真姫がサンタ………」

「にこちゃん!」

「それは駄目よ!」

 花陽と絵里が止めに入る。

「サンタって……。それ完全に真姫の――」

「駄目ー!」

 巧の言葉は飛びついて口を手で塞いできた凛によって阻まれる。鼻も塞がれたから呼吸ができない。乱暴に振り払い「殺す気か!」と文句を言う巧に穂乃果が「駄目だよ!」と

「それを言うのは重罪だよ」

 「そうにゃ」と凛が続く。

「真姫ちゃんの人生を左右する一言になるにゃ!」

「だってあの真姫よ。あの真姫が――」

 我慢できず言いそうになるにこを真姫以外全員のメンバーで取り押さえる。何のことか全く理解していない真姫は、眉を潜めながらそのやり取りを眺めていた。

 

 ♦

 山はとても静かだ。風で葉が擦れる音と鳥のさえずり、川のせせらぎしか聞こえない。ずっとこんな居場所で暮らしていたいと思うが、現実問題として市街から遠く離れたこの山岳地は現代で住居を構えるには適さないだろう。それに、リゾート地というものはたまに来るから価値がある。長く過ごしていくうちに飽きる。

 こんな日和は昼寝をするに限るのだが、巧は川のほとりでアウトドア用の折りたたみ椅子に座って竿を握ったままぼんやりと水面を眺めている。日光を反射する川は穏やかに揺れている。

 この合宿の目的は新曲を作ることであり、時間もあまりない。曲作りを手掛ける真姫、海未、ことりの3人は別荘でそれぞれの作業に集中し、他のメンバー達は外でダンスレッスンということになった。レッスンの必要はなく、また3人の作業を手伝うこともできない巧は、こうして別荘の物置にあった道具で釣りにふけっている。

 始めて結構な時間が経っているが、浮きはまったく動いていない。試しに引き揚げてみると、糸に付けた小魚を模した疑似餌がてらてらと光っている。真姫の父親が毎年アユを釣り上げるスポットらしいが、川を覗き込んでもアユなんて影すら見えない。坊主のまま戻るのも気が引ける。一応、滞在中の食糧は持ち込んであるから収穫がなくても困らないが。

 何も起こらないとすぐに疑問が浮かんでくる。スマートブレインの目的は何か。なぜ琢磨と海堂はそれを巧に教えないのか。近いうちに紹介すると言っていた協力者は何者か。あの2人と関わっているということはオルフェノクか。人間でも、オルフェノクを知っている者だろう。

 巧は焦りを自覚する。海堂に打たれた薬のお陰で灰化は起こっていないが、琢磨はまだ危ない状態と言っていた。そう遠くない内に、巧の体は再び崩れ始める。それなのに、なぜ2人は敵の目的を明かさないのか。倒すべき敵が定まれば倒すだけ。ファイズとカイザという、対オルフェノク用のベルトを2本も所持しているのだ。それだけでも十分な利があるというのに、琢磨はなぜ出し惜しみをするのか。

 ふと、葉の音に混じって叫び声が巧の耳孔に入り込む。まさか、と巧は持ってきたファイズギアケースのロックを解除する。中身を取ろうと手をかけたとき、川に切り立った崖の上から2つの人影が飛び出してくる。

「嘘お!?」

 自分達が飛び出した場所を視認したにこと凛は、困惑を吐きながら重力に従って水面へと飛沫を盛大にあげて突っ込んでいく。何があったのかは分からないが、落ちたのが川で良かった。そんなに高くない崖だが、落ちた先が地面だったら死ぬ高さだ。

 巧はギアケースを閉じてロックをかける。

「おい、大丈夫か?」

 波紋が揺れる水面に、巧はそう呼び掛けた。

 

 ♦

 ぱちぱちと火が音を立てて燃える暖炉のなかに、巧は薪を1本投げ入れる。新たな燃料を得た火は薪を焦がし火の粉を撒く。まだ暖炉を焚く季節ではないが、全身ずぶ濡れになったにこと凛に暖を取らせるために火を点けることになった。できることなら火は点けたくなかったのだが、2人に風邪をひかせるわけにはいかない。幼い頃に巻き込まれた火事で火が怖くなったという巧のトラウマを、少女達に明かしても意味はない。

 服を着替えて頭にタオルを被った2人は同時にくしゃみをする。絵里は呆れた様子だ。

「もう、無事だから良かったけど」

 「ごめんなさい」と凛は沈んだ声で謝罪する。休憩中リスに盗まれたにこのリストバンドを取り返そうとしたら、急な坂に止まれなくなって巧が目撃した光景へ至るという。

「凄い! 本物の暖炉!」

 火が燃えている暖炉を凝視していた穂乃果が感嘆の声を漏らし、「少しは心配しなさいよ!」とにこが声を荒げる。

「静かにしないと。上で海未ちゃん達が作業してるんやし」

 ソファに座る希が嗜めると、にこは不貞腐れた様子でそっぽを向く。「あ、そうか」と思い出したように穂乃果はリビングに置いてあるピアノへと視線を向ける。鍵盤の蓋が開けられたピアノは無人のまま佇んでいる。

「真姫はどうしたんだ?」

 巧の質問に穂乃果は「さあ」と首を傾げる。作曲にピアノは使わないのだろうか。そんなことを思っていると、ドアから盆を持った花陽が入ってくる。

「お茶用意しました」

 花陽はにこと凛に湯呑みを渡す。お茶はメンバー全員と巧の分も用意されている。

「お茶淹れるのはあんたの仕事じゃないの?」

 受け取った湯呑みに息を吹きかける巧に、にこは訝しげに言う。

「何で俺がそんなことしなきゃならないんだ?」

「マネージャーでしょ。海未達にはあんたが持っていきなさい」

 否定したいが、もはや巧は理事長公認でμ’sのマネージャーにされてしまった。実際、有事の際にオルフェノクと戦うこと以外は何もしていない。

「分かったよ」

 憮然とそう言った巧は花陽から盆を受け取る。

「あ、じゃあわたしも行くよ。様子見たいし」

 リビングを出たところで穂乃果が後をついてくる。2階に上がると、そこは不気味とも言える静寂が漂っている。

「うわ……、静か。みんな集中してるんだな」

 囁くような小さい声で穂乃果が言う。邪魔をしないようにさっさとお茶を置いていくのが1番だ。穂乃果はドアをノックし、「海未ちゃーん」と探るように声をかけてドアを開ける。

「あれ?」

「どうした?」

「海未ちゃんがいない」

 トイレじゃないのか、と思いながら巧は穂乃果に続いて部屋に入る。お茶だけ置いて早く他の2人の部屋に行こうと机へと歩き、無人の机に置いてある1枚の紙に気付く。

 

 探さないで下さい……… 海未

 

 家出か。

 紙に書かれている毛筆の文字を見て、巧は内心で突っ込みを入れてしまう。書置きに気付いた穂乃果はひどく慌てた様子で隣の部屋へと向かう。

「ことりちゃん! 海未ちゃんが――」

 「だあああああああああっ‼」という叫びが聞こえて、巧も急いでことりの作業部屋に入る。壁に飾られた絵画に「タスケテ」と切り取られた布が貼り付けられている。

 ダイイングメッセージか。

「た、大変だ……。たっくん、2人を探さなくちゃ!」

 ふと、巧の視線が床に落ちる。本来なら衣装に使われるであろう布生地がロープのように結ばれて窓へと伸びている。巧が窓際へ歩くと、スパイ映画ばりの簡易ロープを追って穂乃果も窓の外を見やる。

「あ、あれ?」

 木陰で座り込む3人を見て、穂乃果はそう漏らす。3人は一斉にため息を吐く。それが伝播したかのように、巧も深くため息をついた。

 

 ♦

 スランプ。

 普段通りの実力が出せない状態をそう言う。もっとも、普段から不器用で何事も上手くできない巧には理解し難い悩みだが。ソファに座る海未、ことり、真姫は気まずそうにしている。この合宿が何に向けて企画されたのかを思い出せば、スランプの理由はすぐに分かる。その理由を絵里は代弁してくれる。

「つまり、今までよりも強いプレッシャーがかかっているということ?」

 「はい」と申し訳なさそうに海未が肯定する。

「気にしないようにはしているのですが………」

 続けてことりが。

「上手くいかなくて、予選敗退になっちゃったらどうしようって思うと………」

 真姫だけは強気だが、メンバー達からは顔を背けて。

「ま、わたしはそんなの関係なく進んでたけどね」

「譜面真っ白だぞ」

「勝手に見ないで!」

 この問題は死活問題だ。新曲が作れなければラブライブにエントリーさえできない。早急に解決しなければならないが、スランプのまま完成してもメンバー達は納得しないだろう。

「確かに、3人に任せっきりっていうのは良くないかも」

 花陽がそう言うと絵里は「そうね」と同意する。

「責任も大きくなるから負担もかかるだろうし」

「じゃあ皆で意見出し合って、話し合いながら曲を作っていけば良いんじゃない?」

 希の提案にはにこも「そうね」と賛同する。それが最善だろう。下手に急がせるよりかは、皆で負担を分けたほうが良い。

「せっかく9人揃ってるんだし、それで良いんじゃない」

 そこでにこはわざとらしく「しょうがないわねー」と腰に手を当てる。

「わたしとしては、やっぱり『にこにーにこちゃん』に曲を――」

「んなもんで予選通るか」

 「何ですってー!」とにこがソファで冷めたお茶を啜る巧を睨んでくる。「喧嘩しないの」と2人の衝突を止めた絵里は何かを思いついたらしく、表情を明らめた。

「そうだ!」

 

 ♦

『調子はどうだ?』

 電話口で海堂の揚々とした声が聞こえる。窓の外、森に入る手前の辺りで張られたテントを見やり、巧は答える。

「まあ、あんまり良いとは言えないな」

 昼食の後、絵里の提案でメンバー達は曲作りを手掛ける3人を中心とした3班に分かれることになった。ことり、穂乃果、花陽。海未、希、凛。真姫、絵里、にこ。この面子で意見を出し合って曲を作っていくというのだが、わざわざ外に出る必要はあったのだろうか。巧が口を出す事ではないから何も言わなかったが。それに、希曰く山のスピリチュアルパワーがインスピレーションを与えてくれるとも言っていた。当てになるかどうかは別として。

『にしても良いよなあお前はよ。μ’sと山奥でイチャイチャできるなんてよ』

「その言い方やめろ」

 一応、海堂と琢磨にはμ’sの合宿に同行すると伝えてある。音ノ木坂を離れることになるが、休日の誰もいない学校を襲うなんて真似をスマートブレインがすることはないだろう。

「それで何の用だ? 文句言うために電話してきたのか?」

『おおそうだ、忘れるところだったぜ。実はな、スマートブレインがそっちにオルフェノクを送り込んだ』

「何で場所が分かったんだ?」

『スマートブレインを舐めちゃいかん。メンバー達のことはよく調べてあんのよ。真姫ちゃんの家がどこに別荘持ってるかなんてお見通しだ』

「送ったのはどんな奴だ? 何人こっちに来てんだ?」

『まあひとりだけで、そんなに強い奴でもないけどな。でもそっちは山ん中だろ。闇夜の晩に気を付けたほうが良い』

 そうなれば、メンバー達を分けるのは危険だ。1ヵ所に集まったほうがいい。だが、どう説明したものか口下手な巧には口上が思いつかない。オルフェノクがいるかもしれないと説明するのが1番手っ取り早いが、彼女らの不安を煽れば3人がスランプから脱却できなくなるかもしれない。

「……ああ、分かった」

 巧はそれだけ言って通話を切ろうとしたのだが、海堂はまだ話があるらしい。

『んで、お前今夜どうすんだよ?』

「どうするって、オルフェノク探しに行くに決まって――」

『ちげーよ。誰と夜を過ごすのかって聞いてんだよ。お前山奥だぞ? 別荘だぞ? 誰にも見つからん場所でやることっつったら、ひとつだろ?』

 この男はそれしか頭にないのか。巧はため息をつく。

「何もしねーよ」

『おいおいおい。お前それでも男か? もういっそのこと全員とやっちまえ今畜生!』

「やんねえよ!」

 もう通話を切ってしまおう。そう思ったときにリビングの扉が開いて譜面を持った真姫が入って来る。

「何をやるの?」

「別に、何でもない」

 巧は苦し紛れに誤魔化す。こんな下らない会話でまた拒絶されたらたまったものじゃない。

 『おい乾、その声もしかして真姫ちゃんか?』と海堂がまくし立てる。この距離で電話越しの海堂に聞こえるはずはないのだが、オルフェノクの聴覚なら可能かもしれない。オルフェノクは人間の姿でも五感が鋭くなる。

『代われ。ちょっと真姫ちゃんと話させろ』

「はあ?」

『いいから早く代われって!』

 不安はあるが、巧は要求通りにピアノの椅子に座る真姫に携帯電話を差し出す。

「何?」

「お前と話したいらしい。気悪くしたらすぐ切っていいぞ」

 戸惑いながら真姫は携帯電話を受け取り、耳に当てて「もしもし」とおそるおそる言う。電話から耳を離しても、オルフェノクである巧には海堂の声がはっきりと聞こえてくる。海堂が大声で言うのもあるが。

『おお、真姫ちゃん! 良い声してるなあ。曲はどうだい?』

 「うえぇ?」と真姫は眉をひそめる。想像通りの反応だ。真姫でなくても海堂と話せば誰だってこんな反応をするだろう。

「あなたは……?」

『俺か? 俺様は音楽の精だ。ラブライブに向けて頑張ってる真姫ちゃんを放っておけない優しい優しい妖精さんだよ』

「はあ………」

『乾から聞いたぞ。何でも新曲を作ってるみたいじゃないか。真姫ちゃんの作る曲は良い曲ばかりだから楽しみにしてるぜ』

 海堂がそう言うと真姫はにやけ顔を浮かべるも、すぐ近くに巧がいることを思い出していつもの不遜な顔に戻る。

「あ、当たり前でしょ」

『ふむふむ。でもあまり調子が出ていないみたいだねえ。声で分かる。妖精さんにはお見通しだ』

 さっき調子が良くないという会話をしたからだろ、と巧は呆れる。でも真姫は鵜呑みにしているようで、僅かに目を見開く。サンタクロースを信じるだけあって根は純粋だ。流石に海堂が妖精だなんて馬鹿げた嘘は信じないだろうが。

『難しいことなんて考えなくていい。胸に手を当ててだな、君の心の歌をそのまま譜面に起こせば良い。どうだ、簡単だろ?』

「全然分かんないわよ」

『そりゃそうだ。そういうもんは言葉じゃなくて心で感じるもんだからな』

 その言葉で通話は切れた。真姫は耳から離した携帯電話の画面を見つめている。

「巧さんて、変な人と友達なのね」

「まあ、確かに変な奴だけどな。でも悪い奴じゃないんだ」

 巧に携帯電話を返した真姫は逡巡を挟んで尋ねてくる。

「あなたの友達って、まさか………」

「ああ、そうだな」

 直球を避けて巧は肯定する。真姫はしみじみとピアノを見つめる。

「音楽が好きなオルフェノクもいるのね」

「別に珍しくもない。人間を捨てない奴はたくさんいるさ」

「あなたみたいに?」

「…………ああ」

 オルフェノクは怪物。その認識を変えてほしいとは思わない。でも、巧を受け入れてくれたμ’sの皆には分かってほしい。人間としての生き方を模索するオルフェノクも確かにいると。

「邪魔したな」

 巧はそう言ってリビングから出る。同じ部屋にいては真姫の気が散ってしまうだろう。また釣りにでも行こうと玄関で靴を履いているとき、ピアノの旋律が聞こえてきた。

 

 ♦

 幸い何事もなく、時間が過ぎて太陽が山の陰に隠れていく。光を失った空は藍色へと変わり、散りばめられた星々が輝くも太陽には遠く及ばない。

 結局釣りで収穫が無いまま無為に時間を過ごした巧が穂乃果に呼び出されたのは、レトルト食品の夕食を済ませてすぐの頃だった。

「覗きだ?」

 ヒノキ造りのロビーで巧がそう言うと、穂乃果、ことり、花陽の3人が無言で頷く。ことりと花陽は今にも泣き出しそうだ。

 山の中にある小さな銭湯で穂乃果達は露天風呂を堪能していたのだが、そこで木の陰から人影を目撃したらしい。猿じゃないかと思ったが、この山岳地に来てから猿は一度も見ていない。

「どうしようたっくん。写真とか取られてたら………」

「ここの係員には言ったのか?」

 「一応……」とことりが。

「でも、もう逃げたかもって………」

 確かに。犯行現場に長居する間抜けならとっくに捕まっている。見つけ出すのは絶望的だろう。だが覗き魔が穂乃果達を目当てとして銭湯に現れたとしたら、このまま見過ごすことはできない。また現れるかもしれない。

「取り敢えずお前らは別荘戻れ」

 最悪の事態を想定した巧はそれだけ言う。だがことりは許容できないらしい。

「でも、わたしまだ何もできてなくて………」

 完成もしてないのに風呂に入っている場合か。そう呆れながら巧は皮肉を零す。

「明日帰るってのにできるのか?」

 「できるよ、きっと」と答えたのは穂乃果だ。

「だって9人もいるんだよ。誰かが立ち止れば誰かが引っ張る。誰かが疲れたら誰かが背中を押す。皆少しずつ立ち止まったり少しずつ迷ったりして、それでも進んでるんだよ」

 ひとりで背負い込む必要はない。曲というものは歌って、衣装というものは着ることで完成する。ただ作るだけじゃない。完成させるにはメンバー9人がいなければならない。だから迷うときも進むときも9人一緒。

 μ’sとはそんなグループだ。誰かが迷えばリーダーの穂乃果が手を引いて、逆に穂乃果が迷えば他のメンバー達が彼女の手を引く。それは巧が傍で見てきた彼女らの歩幅だ。誰かが先頭に立つのではなく、皆で並んで歩く。

「分かったよ。俺はそこら辺見張っとく。でもテントに戻ったら絶対外出歩くなよ」

 巧はそう念を押して外に出る。銭湯の玄関先には自動走行モードで呼び出しておいたオートバジンが佇んでいる。ファイズフォンで信号を送ったのは昼過ぎだったが、必要なときに間に合って良かった。

 ヘルメットを被った巧はエンジンをかけ、オートバジンを暗闇が呑み込む森へと走らせる。オフロード仕様だから山道でも難なく走れるが夜の森は危険だ。ヘッドライトは数メートル先の木々しか照らしてくれず、一瞬でも目を離せば衝突してしまう。一応オートバジンに搭載されたAIは危険と判断したら自動で避けてくれるらしいが、それでも機械は信用に足らない。

 更にエンジンの回転数を上げようとアクセルを捻ろうとした瞬間、横から大きな影が飛び出してくる。不意打ちに対処しきれず、巧は覆い被さってきた影にオートバジンから引きずり降ろされる。右往左往する視界のなかで灰色に光る目が見える。影の正体を悟った巧は地面に衝突する寸前でウルフオルフェノクに変身する。影はどうやら戦いが得意ではないらしく、すぐに起き上がったウルフオルフェノクの拳をまともに受けてよろめく。ゴキブリのような触覚が頭から突き出したコックローチオルフェノクの目は暗闇で不気味に光っている。

 ウルフオルフェノクは巧の姿に戻り、近くで横転しているオートバジンのリアシートに括り付けておいたギアケースを開きベルトを腰に巻く。

 フォンを開くと、変身を阻止しようとコックローチオルフェノクが迫ってくる。だが動きが遅い。巧は振り下ろされた腕を避け、背後に回るとがら空きの背中に蹴りを入れる。コックローチオルフェノクは受け身も取らず地面に身を伏す。巧はフォンにコードを入力した。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 夜の森を赤く照らすフォトンストリームに覆われて、巧はファイズに変身する。暗闇のなかで輝く黄色い目を向けて手を振り、ゆっくりとした足取りでコックローチオルフェノクに近付いていく。のろりと立ち上がったコックローチオルフェノクは拳を突き出してきたのだが、こちらに届く前にファイズは敵の顔面に拳を打つ。痛みに悶絶しているコックローチオルフェノクに追撃の拳を浴びせ、気だるげに手首を振ると胸に蹴りを入れる。

 木を薙ぎ倒しながら地面に倒れたコックローチオルフェノクへと歩き、ファイズはショットにミッションメモリーを挿入する。

『Ready』

 グリップが展開したショットを右手に装着し、ファイズはフォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 エネルギーの充填が完了すると、ファイズは起き上がったばかりのコックローチオルフェノクの胸にショットを打ち付ける。再び倒れたコックローチオルフェノクの胸にΦの文字が浮かび上がるが、その体は青く燃えることも灰になることもなく形を保っている。

 雲の切れ間から月が顔を出した。月光を浴びて地面に落ちるコックローチオルフェノクの影が青年の形になる。ひどく気弱そうな顔をしている青年だった。影は怯えた顔で呟く。

「た、頼む……。殺さないで」

 コックローチオルフェノクは青年の姿になる。ファイズは青年の胸倉を掴み、顔を近付ける。

「お前、スマートブレインの手先か?」

 青年は大袈裟に頷く。

「答えろ。スマートブレインの目的は何だ!」

 ファイズが怒号を飛ばすと青年は硬直し、震える口をきつく結ぶ。ファイズが拳を振り上げると「言う! 言うから!」と泣き面の青年は喚き散らす。青年の声はとてもか細く、耳を済ませなければ闇夜に吸い込まれそうだった。

「………王だ」

「何だって?」

「スマートブレインの目的は、オルフェノクの王を復活させることだ………」

 無意識に、ファイズは振り上げていた拳を下ろす。どういうことだ、という問いが頭蓋を駆け巡っていく。

 ふと青年の顔へと意識を向ける。青年は笑っていた。あれほど卑屈な顔で日陰者といった雰囲気の青年は、ファイズにいつ灰にされてもおかしくない状況で嬉々とした笑みを浮かべている。青年はポケットから出した注射器の針を自分の首筋に突き立てる。ポンプを押し込んで中身を血管へ注入すると、無造作に容器を抜いた。青年の顔に黒い筋が浮かぶ。

 ファイズは拳のショットを顔面めがけて振り下ろす。だが拳が届く前にファイズの顔面に衝撃が走る。殴られたと認識が追いつくのに数瞬の時間を必要とした。明らかにさっきとは速さが違う。油断させるために弱いふりをしていたとも思えない。思わず胸倉を掴んでいた手を放してしまい、解放されたコックローチオルフェノクは立ち上がって触覚をせわしなく動かしている。

 コックローチオルフェノクは森のなかへと走り出す。その姿が闇に消えてしまう前に、ファイズはアクセルのミッションメモリーをフォンに挿入する。

『Complete』

 アクセルフォームに変身したファイズはミッションメモリーを装填したポインターを右脚に装着し、アクセルのスイッチを押す。

『Start Up』

 ファイズは地面を蹴って駆け出す。その速さで木々が触れた瞬間に砕けて辺りにおが屑を撒き散らし、コックローチオルフェノクの前へと先回りして急停止する。ファイズの姿を視認したコックローチオルフェノクは困惑の悲鳴をあげる。ファイズに腹を蹴り上げられたコックローチオルフェノクの体が宙へと投げ出される。落下しながら何本もの赤いフォトンブラッドのマーカーに包囲され、ほぼ同時とも言っていいスピードで突き刺さっていく。

『Time Out』

 電子音声と共にファイズが着地すると、コックローチオルフェノクの体は地面に戻ることなく、青く爆散して灰を撒き散らした。

『Reformation』

 フォンからミッションメモリーを抜いて通常形態に戻る。ツールを所定の位置に戻し変身を解除した巧は夜空を見上げる。

 「王」はまだ死んでいない。

 夜の闇は完全とは言えず、空に浮かぶ月と星々が辛うじて世界を弱く照らしている。その光の群衆はまるで、滅びが確定したはずのオルフェノクにもたらされた光明のようだった。

 

 ♦

 随分と山奥へと入ってしまったらしい。巧が直観を頼りにオートバジンを走らせて、別荘に戻ることができたのは朝方だった。夜の山は走らないようにしよう、と東の山間から顔を出す太陽を眺めながら巧は思う。

 別荘は静かだ。テントで泊まったメンバー達はまだ寝ている頃だろう。2階に上がる体力もなくリビングのソファで寝ようとドアを開けると、部屋には既に先客がいる。ピアノに真姫が突っ伏していて、すぐ近くのソファには海未とことりが寝息を立てている。窓から射し込む朝日を浴びる彼女らの姿はどこか神秘的で、神の楽園(エリュシオン)に迷い込んだかのような錯覚に陥る。

 巧はピアノの譜面台に置いてある楽譜用紙を手に取る。4本線の連なりの中には音符や記号が書き込まれている。数枚に重なっているのは没案が混じっていると思ったのだが違うらしく、捲ると下には葉書サイズの紙片とスケッチブックが。スケッチブックには衣装案のイラストが、紙片には詞が書かれている。

 詞の冒頭にある『ユメノトビラ』とは、曲のタイトルだろう。

 甲高く軋む音を立ててドアが開かれる。顔を覗かせた穂乃果が「たっくん?」と呼んでくるが、巧は無言のまま穂乃果に紙の束を手渡す。続けて入ってきた他のメンバー達も完成した曲を眺め、穏やかな笑みを眠る3人に向ける。

「まったく、しょうがないわね」

 にこが静かに言う。

「ゆっくり寝かせといてあげようか」

 希はそう言いながら、押入れから出してきた毛布をそっと3人にかけてやる。

「俺も疲れたぜ」

「あんた、何かしてたわけ?」

 あくびをする巧へにこが皮肉を飛ばしてくる。

「俺だって何かと忙しいんだよ」

 満足に呂律が回っていない口でそう言うと、巧はソファに身を預けて目を閉じる。

 蓄積された疲労が一気に押し寄せて、眠りはすぐに訪れた。




 穂乃果ちゃんのソロ曲『もうひとりじゃないよ』を聴いたのですが、この作品を書いているせいか歌詞がたっくんへ向けたものに思えて仕方ないです。

今回登場したコックローチオルフェノクは読者様からアイディアを頂きました。ご協力ありがとうございます。


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第3話 ユメノトビラ / 悪夢への扉

 更新が遅くなりました。申し訳ございません。因みに今回は今までで1番長いです。

 夏バテなのか体調が優れない日が続いているので、投稿がスローペースになります。遅い分読み応えのある物語を書いていこうと思いますので、これからもよろしくお願いします。


「各グループの持ち時間は5分。エントリーしたチームは出演時間が来たらパフォーマンスを披露」

 部室でホワイトボードの横に立つ海未がラブライブ地区予選の概要を集合したメンバー達と巧に解説する。運営委員会から配布されたルールブックに記載されていることだが、一応復習とルールブックに目を通さない者への説明も兼ねている。後者は主に穂乃果へ向けたものだが。

 海未は大会ホームページを表示するノートパソコンを示す。

「この画面から全国に配信され、それを見たお客さんが良かったグループに投票。順位が決まるのです」

「そして上位4組が最終予選に、というわけね」

 絵里が引き継ぎ、真姫が「4組……。狭き門ね」と静かに言う。

「特にこの東京地区は、1番の激戦区」

 希の言う通りだ。東京地区は学校が多く、それに伴いグループが密集している。それほどまでスクールアイドルが多いのは、単純に東京は人が多いからなんていうだけに留まらない。「それに、何と言っても……」と花陽がその激戦を巻き起こす要因を視線で示す。メンバー全員が注視するパソコンの液晶に映し出される、スクールアイドルの頂点とも言っていいグループ。

「A-RISE………」

 穂乃果が呟き、「そう」とにこが応じる。

「既に彼女達の人気は全国区。4組の内ひとつは、決まったも同然よ」

 それは過大評価ではない。スクールアイドルとはそもそも、現役高校生でありながらクオリティの高いパフォーマンスを披露するA-RISEにあやかろうと全国的に広まったものだ。ラブライブの第2回大会の開催も、彼女らが優勝した前大会が大きな盛り上がりを見せたから。A-RISEはスクールアイドルの原点にして頂点ということだ。その確率された地位は簡単には覆せない。

 「えええ!?」と凛が。

「てことは凛達、あと3つの枠に入らないといけないの?」

「そういうことよ」

 にこが告げると、凛はまた不安げに声をあげる。

「でもポジティブに考えよう。あと3組進めるんだよ」

 穂乃果がそう言うとメンバー達の顔が少しだけほころぶ。そう、悲観している場合じゃない。新曲というエントリーへの切符を獲得した。今更躊躇しても仕方ない。A-RISEを破り優勝すると決めたのだから。

「今回の予選は会場以外の場所で歌うことも認められてるんだよね?」

 「ええ」と絵里が答える。

「だったら、この学校をステージにしない? ここなら緊張しなくて済むし、自分達らしいライブができると思うんだ」

 「良いかも」とことりは賛同するが、にこは訝しげに「甘いわね」と言い放つ。

 花陽も「にこちゃんの言う通り」と。

「中継の配信は1回勝負。やり直しはきかないの。失敗すれば、それがそのまま全世界の目に晒されて………」

 スイッチが入った花陽の気迫に押されて穂乃果はおののく。「それに」とにこが続く。

「画面のなかで目立たないといけないから、目新しさも必要になるのよ」

 「目新しさ……」と穂乃果は反芻する。順位がライブ中継の視聴者投票で決まるのなら、当然最も印象に残るパフォーマンスを披露しなければならない。これまで通りではラブライブの優勝は遠い。

「たっくん、どうすれば良いかな?」

 穂乃果が尋ねると、メンバー全員の視線が憮然と腕を組んでいる巧へ集中する。当の本人は数瞬の時間を挟み、ようやく自分への視線に気付く。

「ああ、悪いな。何の話だ?」

 「ちょっと、聞いてなかったの?」とにこが口をとがらせる。普段なら憎まれ口でも叩くのだが、このときの巧は視線を逸らしたまま何も言い返さず、椅子から立ち上がる。

「俺は用があるから抜ける。あとはお前らで話進めとけ」

 それだけ言って巧は部室から出ていった。

 

 ♦

「オルフェノクとは何なのか」

 琢磨はさながら大学の講師のように言う。もっとも、巧は大学を出ていないから講師が実際どんな話し方をするのかは分からないが。

「人間の進化形だろ。今更何だよ?」

 巧がそう言うと、琢磨はやれやれと首を振る。分かっていませんね、という仕草に少しだけ腹が立つも、この男のこういった面も慣れてきた。

「ただそれだけで片付けてしまっては、話が終わってしまうじゃないですか。オルフェノクは何故異形の姿に変身し、命が短いのかという話ですよ」

 じゃあ最初からそう言えよ、と思いながら巧はテーブルに置いてある皿からカシューナッツをひとつ摘まんで食べる。ナッツをつまみにビールを飲んでいる海堂が言う。

「琢磨は色々と研究してんだ。成果を聞いてやろうじゃないか」

「できることならシラフで聞いてほしいですがね」

 海堂のマンションに呼び出されるときに話すことは、大半がスマートブレインの動向か琢磨が持ち込んできたオルフェノクに関する研究報告だ。オルフェノクは社会的に認知されていない。それはスマートブレインの権力によって秘匿されていたからで、企業は水面下で新しく出現した種の研究を進めている。

「人間という種が誕生するまで、数えきれないほどの進化が起こっています。最初は魚類だったのが両生類となり、両生類から爬虫類、哺乳類へと進化し、その過程で分岐し様々な生物が生まれています。その進化の過程は、まだ我々の遺伝子には残されているのですよ。進化の記憶、と言えますね」

 進化の記憶。

 知識人にとってはロマンチックな響きかもしれない。我々の血には、人間だった頃よりも太古の祖先の記憶が刻まれている。進化とは、生物が新しい環境に適応するためにもたらされる変化だ。進化と呼べば次のステップへ進んだかのように聞こえるが、例えば寒い土地に住んでいた生物が暑い土地に住めるよう体の仕組みを変えただけに過ぎない。

 そう考えれば、オルフェノクへの進化とは何に対する適応なのだろうか。巧はその疑問を投げかけず、黙って琢磨の話を聞く。

「オルフェノクの細胞には、人間ともうひとつ異種の特徴が確認されています。死をきっかけに、眠っていた太古の遺伝情報が覚醒しているんです」

 人間と別の種族両方の特性を併せ持った生命体。死をトリガーとして人間という繭から孵ることで、オルフェノクは生まれる。でも、生まれ変わるというには語弊がある。オルフェノクになっても巧は人間を捨てられずにいる。進化したというのに、人間への回帰を望んでいる。

「オルフェノクは変身時にノルアドレナリンが過剰分泌されます。その神経伝達物質が脊髄へと通じ、脊髄から体の全細胞へ人間にはない未知の物質が放出されるのです。その物質の干渉を受けた細胞は急激な変異を遂げ、オルフェノクは異形の姿へと変身します」

 琢磨は淡々と話しているが、巧には彼の話す内容の半分も理解できていない。要は、オルフェノクとは人間と異種族のハイブリットということ。

「ラッキークローバーのガキは龍のオルフェノクだったよな。大昔に龍なんてやつが本当にいたのか?」

 巧が質問すると、琢磨は少しだけ口を結び眼鏡を直す。北崎に対して何か嫌な記憶でもあるのだろうか。

「北崎さんの場合は少し特殊でしてね。彼は複数の遺伝子が覚醒した状態でした。いくつもの遺伝情報が合わさって龍の姿になったのです」

 まるでギリシャ神話に出てくるキメラのようだ。「それで、オルフェノクが短命であることについて」と琢磨は話題を転換する。あまり彼のことを思い出したくないらしい。もっとも、巧も不気味な彼のことは思い出したくないが。

「オルフェノクは変身に伴い急激な細胞分裂を行っています。全身の細胞を瞬時に入れ替えているので、細胞周期の限度を人間よりも早く迎えてしまいます」

「細胞周期?」

「変身を繰り返すうちに細胞分裂ができなくなるということです。変身しなくてもエネルギーの消費は激しく、食事だけでは賄えません。生きているだけで細胞は枯渇し、最期は膨大な熱エネルギーを放出し、肉体を焼き尽くして灰になるのです」

 つまり、オルフェノクは自分で自分の体を蝕んでいるということだ。こうして普通に生活している間にも、巧の体内で細胞が餌をよこせと喚き散らしている。得た力の代償は命。理に叶った進化なのかもしれない。

 福音になるはずだった種の抱えた欠点。いくら足掻いても死の運命から逃れることができず、この世界の覇権を握るに至っていない。それを解決してしまう「王」が死んだことで、オルフェノクは完全に地球上から姿を消すと思っていた。

 琢磨と海堂は「王」が生きていることを知っているのだろうか。知っているに違いない、と巧は呑気に紫煙を吐き出す海堂を見つめる。確かに「王」は恐ろしい強さだった。だが倒せない敵ではない。現に1度、ファイズの力で倒したのだ。

 ここで2人を問い詰めたところで何か進展があるとは思えない。「王」の生存を知ったとしても、どこにいるのかは分からないのだから。

 不意にインターホンが鳴る。灰皿に煙草を押し付けた海堂がソファからバネのように飛び降りて「ピザが来た」と玄関へ向かう。「お手洗いを借りますね」と琢磨もトイレへ行く。リビングにひとり残された巧は琢磨が持ち込んできた鞄へ目を向ける。ノートパソコンを収納する薄い長方形の鞄はファスナーが開いていて、そこから紙の束が覗いている。

「さーて、もう1杯やろうぜ」

 よほど腹が空いていたのか、ピザの箱を手に戻ってきた海堂は既に一切れを咥えていた。

 

 ♦

 我らが王の復活と、オルフェノクの繁栄を祈る。

 

 資料の最後にはそう書かれている。巧はくすねてきた紙をもう一度最初から読み直す。それはまさに鍵だった。巧の知りたい情報が溢れていて、目の前に立ち塞がる扉を開けるのに必要なものだ。

 「王」の状態。

 「王」は所謂仮死状態に近いらしい。他のオルフェノクの命を餌として補給しなければならず、その身柄は厳重に保護されている。「王」を保護している場所。巧が最も欲しているその情報は文字が立ち並ぶ資料の中で1文しか記載されていない。危うく見失うところだった。

 音ノ木坂学院旧校舎。

 スマートブレインが「王」を匿っている居場所は簡単に調べることができた。インターネットで音ノ木坂学院のホームページにアクセスすれば、学院の開校から現在までの歴史を閲覧することができる。そこには以前使われていた旧校舎の住所も。

 巧は部屋の隅に置いてあるギアケースと箱型のツールを抱える。

「巧君、どうしたの?」

 部屋から出ると、寝ようとしていたのか寝間着姿の高坂母に声をかけられる。

「おばさん、ちょっと出掛けてきます」

「こんな夜遅くに?」

「朝までには戻るんで」

 逃げるように巧は階段を下りて店先に出た。追及されたら困るが、それ以上に居ても立ってもいられない。素早くオートバジンのリアシートにツール一式を括り付けると、エンジンを掛けて走らせる。

 秋の夜は冷える。バイクで風に晒されると尚更だ。ネオンの看板が光る繁華街へ出て、そこから街の外れへとバイクを走らせながら、巧は自分の鼓動が早まっていくのを感じる。

 オルフェノクと人間の共存。

 木場の目指したその理想が実現できて、両種族が手を取り合って歩めるのなら「王」を倒す必要はない。だが、巧は既に悟っている。オルフェノクとしての命を授かった日から。自分の正体を知っても受け入れてくれた人々を想っても、胸のうちに抱えた意識は離れることはない。

 オルフェノクと人間は共存できない。

 人間の多くはオルフェノクを怪物としか見ていない。オルフェノクの多くは人間を食い物としか見ていない。両種族は滅ぼすか滅ぼされるかの繋がりしか持てない。巧はオルフェノクでありながら人間の側に立っている。だから巧はオルフェノクを滅ぼす。

 でも、果たしてそれを答えとして良いのだろうか、と巧は決めかねる。巧と同じ境遇でありながら、人間を憎悪しオルフェノクであることを受け入れた木場の懊悩を、こんなにも簡単に片付けてしまうのか。もし「王」を倒すことが間違いで、人間が本当に守るに値しない種だとしたら。オルフェノクは、新しい世界へ進むための福音となる種なのでは。

 何も分からない。

 あの戦いから3年が経っても、巧は何も見つけていない。オルフェノクと人間のどちらにも属しきれずにいる巧には何が正しいのか見出せずにいる。

 戦うことが罪なら自分ひとりで背負う。

 かつて抱いた決意は、迷いではなく思考を捨てるための決意だったのか。迷っているうちに人は死ぬ。だが、オルフェノクも命を持っている。同族を殺してきた罪を背負うとしながらも、殺めてきた者達への償いはどうすれば果たせるのだろう。

 不快なガスのように溜まった迷いが消えないまま、巧はオートバジンを停める。目的地であることに間違いはなさそうだが、学院のホームページにあった画像の建物はなく更地になっていて、確認する術はない。旧校舎は穂乃果の祖母の代で使われていた。高坂母の代で現在の校舎へと移ったらしい。

 校舎は取り壊されて随分と年月が経っているようで、その土地は草に覆われた平原のようになっている。その平原の1点にはぽつんと小さなプレハブ小屋が建っていて、巧はオートバジンを小屋へと走らせる。真っ暗闇の中で佇む小屋の前でバイクから降りた巧はドアに手をかけるも、ノブは全く動かない。巧はオートバジンのリアシートにあるケースを開き、ベルトを腰に巻いてフォンにコードを入力する。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身」

『Complete』

 暗闇の中で赤いフォトンストリームが光を放つ。ファイズがドアに拳を打ち付けると、軽量なアルミ製のドアは簡単にひしゃげて蝶番が吹き飛んだ。倒れたドア版を踏みながらファイズは小屋へと入る。施錠している割に小屋には何も置かれていない。ただコンクリートの床にある地下への階段が、まるで魔物が大口を開けているように伸びている。地獄へと通じているかのような階段の闇へ、ファイズはゆっくりと足を踏み入れる。

 こつん、こつんとゆっくりとした足取りで階段を降り、1本のコンクリートで塗り固められた通路を歩く。やがて裸電球の弱い照明に照らされた空間に出て、重厚な鋼鉄の扉が立ちはだかる。

 ファイズのパワーなら破壊できるかもしれない。そう思い扉の前で拳を握ると、不意に扉の上に設置されたセンサーが赤く点滅し扉がゆっくりと左右に開く。歓迎されているのか、それともこの先へ行く権利があるというのか。近いうちに答えが得られる問いなど意味はない。思考を止めてファイズは左手のツールを強く握りしめ、扉を潜る。

 そこは灰色の空間だった。

 地下に建設された施設を支えるために円柱が立ち並んでいるが、それはコンクリートでも鉄でもなくガラス製だ。分厚いガラスの中には子供の頃に理科室で見たホルマリン漬けのように灰色に進化した生命達が1体ずつ詰め込まれていて、内部に気泡が発生していることから透明の液体に満たされていることが分かる。

 液体に沈むオルフェノク達はファイズを認識したのかこちらに目を向けてくる。だがその灰色の瞳はどこか虚ろだ。人間でなくなった瞳に虚ろを感じるということは、自分も立派なオルフェノクという証拠だろうか。不快な感慨を覚えながら、ファイズはガラスケースの下から伸びているコードを視線で追う。まばらだったコードは部屋の奥へと進むにつれて1ヵ所へと束ねられ、歩いていくと薄い一枚板の鉄製扉が現れる。目の前に立つと、先程と同じようにセンサーが点滅して扉が開く。長方形に切り取られた空間からこの標本室よりも強い照明が射し込んできて、太陽に向かって伸びる草花のようにファイズはオルフェノク達を背に進んでいく。

 扉を抜けると閉塞していた空気が一気に吹き抜ける感覚を覚える。まるで劇場のような広さのあるその部屋は玉座の間のようだ。だが玉座があるべき部屋の奥にあるのは長方形に切り取られた箱、即ち棺が座している。蓋のない棺の中に納められた死者は、棺に満たされた液体に浸かりまるで入浴を楽しんでいるようにも見える。棺には標本室から伸びたコードの束が接続されていて、心なしかコードが拍動しているようだ。

 手に持っていたツールを床に置いたファイズは、ポインターにミッションメモリーを挿入する。

『Ready』

 電子音声が玉座の間の壁に反響するも、棺に眠る主は目を覚まさない。ポインターを右脚に装着したファイズはフォンのENTERキーを押して駆け出す。

『Exceed Charge』

 障害は何もない。ファイズは一直線に走り、距離を十分に詰めると跳躍し右脚を「王」へと向ける。フォトンブラッドの傘が開き、ファイズはクリムゾンスマッシュを放つ。

「はああああああああああっ」

 エネルギーを纏った右足が触れようとした瞬間、微動だにしない「王」の両腕から伸びた触手がうねり、ファイズを虫のように払い落とす。

「馬鹿な子」

 地面に伏したファイズが起き上がると、その声は聞こえた。棺の陰からもう1体のオルフェノクが出てきて、守るように「王」を背にして立つ。

「お前は……!」

 ファイズはロブスターオルフェノクを凝視する。3年前の戦いで姿を消した敵。「王」から永遠の命を授かった完全なオルフェノク。

「裏切り者の汚らわしい手で、私達の王に触れることは許さない」

 ロブスターオルフェノクの目元を覆うマスクの奥で灰色の瞳がふたつ、ファイズを射抜くような光を発する。ファイズは入口のドア付近へと走り、床に置いたツール・ファイズブラスターを手に取る。瞬間、ブラスターを握る手に黄色の閃光が突き刺さり火花を散らす。がちゃりとブラスターが音を立てて床に落ち、ファイズは閃光が飛んできた背後へ振り返る。

 標本室へ通じるドアの前で、カイザのベルトを腰に巻いた海堂がフォトンバスターモードのカイザフォンを手に立っている。

「あなたが引導を渡してあげなさい」

「仰せのままに。女王様(クイーン)

 いつもと全く異なる口調で海堂は応え、フォンにコードを入力する。ファイズフォンと異なる電子音声が玉座の間に鳴り響く。

『Standing by』

「変身」

『Complete』

 フォンが装填されたバックルの両端から黄色いフォトンストリームが伸びて海堂の体を覆っていく。エネルギーを軸としてスーツが形成され、光を放つと同時に海堂はカイザに変身した。

 カイザの蹴りがファイズの胸に鈍痛を響かせる。よろめくと続けざまに拳が打ち付けられ、反撃の拳を顔面に見舞うも意に介さず、カイザはファイズの腹に膝を打つ。

 草加と一戦交えた時と同じだ。カイザのパワーはファイズよりも勝っている。変身する者の技能が拮抗しているのなら、雌雄を決するのはベルトの性能だ。

 カイザがファイズの両肩を掴んでくる。それを振りほどき、生じた隙をついてファイズはカイザの腹に渾身の蹴りを入れる。カイザの体が吹き飛び、壁に衝突して床に伏せる。カイザの背に張っている壁に四角い亀裂が入る。そこはシャッターのように上へとスライドし、切り取られた空間の闇から四肢を持つロボット形態のサイドバッシャーが出てくる。

 カイザは立ち上がると跳躍し、サイドバッシャーのシートに跨るとハンドルを握る。巨大な右手がファイズの体を突き飛ばす。起き上がったファイズは近くに落ちていたブラスターを拾い上げる。

 5・5――

『Vehicle Mode』

 コードを入力する途中で、ビークルモードに変形したサイドバッシャーのカウルがぶつかってくる。突き飛ばされまいとカウルにしがみつくも、カイザはアクセルを更に捻る。エンジンの音が高まり、バイクはスピードを上げていく。玉座の間の証明が遠のき、真っ暗闇の中で唯一の光源であるカイザの目とフォトンストリームのみが視認できる。

 サイドバッシャーは猛スピードで暗闇の中を走る。強風に煽られて身動きができず、ファイズはミラーを掴み反撃の機会を待ち続ける。

 更に強い風が吹き荒れる。無数の光が過ぎ去っていき、一瞬の間を置いてそれが道路脇に設置されている街灯であることに気付く。雲間から覗く月を背にバトルモードのオートバジンが飛んできて、ホイールに搭載されたガトリング砲を撃ってくる。砲弾はサイドバッシャーが過ぎ去った路面を穿ち、命中した車体から火花が散る。

「おいおい危ね! ちゅーか乾あいつ止めろ!」

 甲高い摩擦音と共にサイドバッシャーが急停止し、慣性の法則に乗っ取ってファイズの体がアスファルトの路面に投げ出される。

「だーくそっ。やめろっちゅーの!」

 バイクから降りたカイザが着地したオートバジンの胸に蹴りを入れる。足がオートバジンのΦを模したスイッチに触れて、規定されたシステムに乗っ取って機械はバイク形態に変形する。

 ファイズのスーツが光と共に分解される。痛みに顔を歪める巧を一瞥し、カイザもバックルからフォンを抜いてコードを押す。ファイズと同様のシークエンスで変身を解除した海堂は短いため息をつく。

「何のつもりだ!」

 重い体を起こした巧は海堂の胸倉を掴む。

「お前の邪魔さえなけりゃ奴を倒せたってのに――」

「バカ野郎!」

 唾を飛ばす勢いで怒号を飛ばし、海堂は巧の頬に拳を打つ。再び地面に伏した巧は上体を起こし、咥内に広がる鉄臭さを舌で舐め取る。

「お前こそ何のつもりだ! たったひとりで王様を倒せると思ったか!」

 「一度は倒したんだ」と巧は立ち上がる。

「こいつで変身すればまた倒せるはずだ!」

 ずっと放さずに持っていたブラスターを海堂の眼前に突き出すも、ツールは滑るように巧の手から落ちる。巧は右手を凝視する。掌から灰が零れ、その流れを押し留めるように拳を握る。

「そんな体でか?」

 海堂は淡泊に問う。

「そろそろ来ると思ってたんだ。今のお前じゃ無理だ」

 再会したときに打たれた液体。それは巧の命をほんの少しだけ延ばした。あれが何なのか、海堂も琢磨も教えてはくれない。ただ、あの液体で命を留めていられるのは3ヶ月と琢磨は言っていた。言われた通り期限は迫っている。巧の体内で目覚めた異種の遺伝子が全身の細胞を貪り、こうして死への時を刻み始める。

「ったく、どいつもこいつも死に急ぎやがって」

 海堂は吐き捨てるように言った。

 

 ♦

「無茶をする人だとは思っていましたが、ここまでとは」

 海堂のマンションに戻ってしばらく経ち、本日2度目の来訪をする羽目になった琢磨は巧に呆れ顔を向ける。巧は何も反論せず、戻る途中で買ったハンバーガーを食べる。それ以上の追求はせず、琢磨の視線は海堂へ移る。

追跡蝶(トレースバタフライ)は?」

「巻いてきた」

 海堂がわざわざ遠くまで巧を背負ってバイクを走らせたのは、スマートブレインの機械の蝶による監視の目を潜るためだった。監視網が敷かれているのは「王」を匿っている施設の周辺で、そこを抜ければ比較的自由に動けるらしい。

「資料が無くなっていたので、海堂さんに連絡して正解でしたね」

 ソファに腰掛けた琢磨は首を揉みながら言う。

「あなたのせいで、私達がこれまで練ってきたプランが全て台無しになるところだったんです。分かっていますか?」

 「そうだ、分かってんのか?」と口にハンバーガーを詰めたまま海堂も便乗してくる。

「知ってしまったのなら仕方ありません」

 琢磨は海堂に視線をくべる。海堂は何も言わずハンバーガーを咀嚼し、それを同意と受け取った琢磨は語る。

「オルフェノクの王はまだ生きています。資料を読んだのなら知っていると思いますが、仮死状態に近くオルフェノクの命を摂取して復活を待っています」

「あそこにいたオルフェノク達は、『王』の餌だってのか?」

 巧の問いに「ええ」と琢磨は首肯する。

「スマートブレインが各地でスカウトし、または使徒再生で同胞とした人々です。戦力としての期待ができない者は『王』への生贄にされるのです」

 巧は拳に込める力を強める。ガラスケースに納められたオルフェノク達。『王』の棺へと繋がれ命を吸われる彼等の入る器もまた、棺と呼ぶべきかもしれない。

「気持ちは察します。ですが、私達が迂闊に手を出せば裏切り者として彼等と同じ運命を辿ることになります」

 確かに巧は憤っている。だが琢磨は勘違いをしている。巧の怒りが向いているのは琢磨ではなく自分自身だ。あの時、驚愕のあまり混乱していたとはいえ、何故囚われた彼等を助けようとしなかったのか。

 オルフェノクは怪物。そう断じていたからこそ、巧は同胞を倒してきた。でも、ガラスの中にいる彼等は怪物ではなく、不条理に蹂躙される命として巧の目に映っていた。こんなこと思ってしまうのは自分もオルフェノクだからか。巧は自分の抱くものが善なのか偽善なのかを決めかねる。

「取り敢えずこれは預かっておきます」

 琢磨はソファに置かれたブラスターを手に取る。「おい」と巧は取り返そうとするも、その手は海堂によって制止される。琢磨は続ける。

「ブラスターで変身したファイズなら勝機はあります。ですが、今のあなたの体では変身した瞬間に死ぬだけです。無茶をされては、私達は負けるのですよ」

「奴が弱ってる今がチャンスだろ」

「ええ、その通りです。ですが『王』が死んでも冴子さんがいます。冴子さんを倒す術を見つけなければなりません」

 そんなことが可能なのだろうか。巧の中で不安が募る。完全なオルフェノクへと進化を果たし、死という生命の宿命を克服したロブスターオルフェノクを倒す術など見つかるのだろうか。

 不安を察したのか、琢磨は言葉を紡ぎ続ける。

「現在、冴子さんの体については研究が進められています。不死のメカニズムが解明できれば、きっと手立てが見つかります」

 きっと、なんて非合理的な言葉が琢磨から出てくるのは意外だった。慎重に事を進める性格上、不確定要素を何よりも嫌いそうなのに。でも、敵がそもそも不確定要素だ。不死の存在を相手に戦おうなんて、勝てる見込みがない。

「それより、すぐにあなたの体をどうにかしないといけません。ブラスターどころか、アクセルへの変身すら危うい状態です」

 琢磨の視線を追い、巧は自分の掌へと顔を下ろす。皮膚は肌色を保っているが、床のカーペットに灰が零れている。

 「まあまあ」とハンバーガーの包み紙を丸めた海堂がソファから立って巧の両肩を背後から揉んでくる。

「ちゅーか今日はもう疲れたろ。ベッド貸してやるから休んでけ」

 そう言われると、押し留めてきた疲労が雪崩のように押し寄せてきた。久々の嫌な疲労感だ。少し休んだとしても消えるとは思えない。それでも体力は消耗しているわけで、巧は下手なマッサージをはねのけてベッドへと歩く。

 「言っとくけどな」と巧は琢磨へと振り返る。

「お前らがいくら止めても、俺はあいつらを守るために戦う。たとえ死ぬことになってもな」

 巧はそう言ってベッドで横になる。海堂はシーツを替えない性分らしく、彼の汗を吸い込んだ生地が以前身を寄せていたホームレスの集落に似た臭気を放っている。臭いのせいなのか、目を閉じても眠気は中々訪れてはくれない。もう寝たと思ったのか、海堂と琢磨の声が耳孔に入ってくる。

「ちゅーかどいつもこいつも、誰かのために死ぬことがカッコいいと思ってやがる。残される奴の身にもなれってんだ」

「素直に言ったらどうですか? 本当は乾さんを死なせたくないのでしょう?」

 琢磨の苦笑が聞こえた。

「勘違いすんな。俺様は俺様のために戦ってるだけだ。スマートブレインにへこへこするなんざご免だね」

 かちっ、という音が聞こえた。海堂が煙草にライターで火を点けたのだろう。すぐに吐息が聞こえて、焦げ臭さを嗅ぎ取る。

「ちゅーか知ってるか? 蛇ってのはひとりでいると寂しくて死んじゃうんだぜ」

「それはウサギではないですか?」

「寂しがり屋はウサギだけじゃねえよ。蛇も、馬も、鳥も、ほんで狼も。皆寂しがり屋なのよ」

 「そうですか」と琢磨は寂しげに漏らす。

「なら、ムカデも寂しがり屋なのかもしれませんね。きっと、エビも」

「おお? 何だそりゃ?」

「冴子さんも寂しいのだと思います。滅びゆく種族のなかで、自分だけ残されてしまうことが」

 

 ♦

 日常から脱線して予期せぬ事態に見舞われても、時間というものは容赦なく過ぎていく。世界は昨晩のことなど目にもくれていないかのように回り続け、巧に朝を告げた。

 何事も無かったかのように面の皮厚く、巧は朝方になって高坂家に戻った。海堂のマンションで摂った休息は仮眠程度のもので、快調とは言えない。気怠さを誤魔化しながら穂むらのバイトをこなし、穂乃果達の放課後に合わせて音ノ木坂学院へ向かう。

 本日もダンスと歌唱練習と思っていたのだが、昨日のライブ会場についての話はまだ終わっていなかったらしい。会場に加えて、目新しさという課題もある。校内で会場に使える場所はないかと外へ出たメンバー達は、カメラ映りを確認するために持ってきたビデオカメラで撮影しながらも校庭で一息つく。

「目新しさか」

 穂乃果はカメラの映像を見ながら呟く。

「奇抜な歌とか?」

「衣装とか?」

 凛とことりがその提案を投げかけてくる。すると悪戯な笑みを浮かべた希が言う。

「例えばセクシーな衣装とか?」

 何て軽薄な案だ。そんなものどこのグループも真っ先に浮上するだろうに。というより、希はもし採用されてしまったら自分もその衣装を着ることになると分かっているのだろうか。

 希の隣にいる真姫は許容できない様子で、顔を紅潮させている。アイドルなのだから貞操観念は固く持つべきとは思うが、真姫よりも固い海未はうずくまって膝に顔を埋めると「む、無理です……」と呟く。

「こうなるのも久しぶりだね」

 苦笑を浮かべながらことりが言う。確かに、初ライブのチラシ配り以来の光景だ。何度もライブをするうちに慣れたと思っていた。

「エリちのセクシードレス姿も見てみたいなあ」

 確かに絵里はスタイルが良いとは思うが、過激な衣装など着せて中継したら運営委員会の判断で中継を切られてしまうのではないか。そう巧は思うも、希のことだから分かった上で言っているのだろう。

「嫌よ。やらないわよわたしは」

 当然絵里は怒った顔で希に迫る。希は悪戯な表情を崩さずに巧へと話を振ってくる。

「巧さんは興味ない? セクシードレス」

「ねーよ」

 場にいる唯一の男だから、この手の話は慎重に言葉を選ばなければなるまい。とはいえ、今は別の問題が思考の大半を占めているわけだから子供のませた衣装に興味が向かないことは事実だ。

 俯いていた海未は僅かに顔を上げて「セクシードレス………」と呟く。何を想像したのか顔の赤みが更に増し、即座に立ち上がって走り出す。

「放してください! わたしは嫌です!」

 「誰もやるとは言ってないよ!」と穂乃果が羽交い絞めにして止めにかかるも、海未は涙を浮かべてもがき続ける。呆れた顔で見ていたにこが「ふん」と鼻を鳴らす。

「わたしもやらないからね」

「お前には誰も頼んでな――」

 隣にいる巧の言葉を最後まで聞かず、にこは両手を伸ばして巧の両頬をつねってくる。

「つねるわよ………!」

「もうつねってるだろうが!」

 回らない舌を動かしながら、巧はにこの両手を掴んで引き剥がそうとする。だが小柄な割に力が強いにこは中々手を放してくれない。

「というか、何人かだけで気を引いても………」

 花陽がそう言ってくれたおかげで、冷静になったにこは巧の頬から手を放す。じんじんと痛む頬をさすりながら巧は睨むも、にこはそっぽを向いて知らぬ振りを決め込む。

「確かに、そうだよね」

 穂乃果も同意した。始めから没案になることなど巧には分かっていた。希のせいで随分と話がこじれた気がする。

 「せ、セクシードレス………」とうわ言のように呟く海未は無視して、真姫が議題を修正する。

「ていうか、こんなところで話してるよりやることがあるんじゃない?」

 

 ♦

 真姫が提案したのは、校内放送でμ’sの宣伝を行うことだった。中継での宣伝にもなるし、生徒達の応援も得られる。真姫の同級生が放送部員で、協力を仰ぐらしい。あの人付き合いの悪そうな高飛車娘が他人と話すなんて意外だったが、良い兆候ではある。他人と関わらずに過ごすことがどんなに虚しいか、巧はよく知っている。

 メンバー達は放送室へ向かったのだが、巧は途中で別れて理事長室を尋ねた。

「何か分かったんですか?」

 書きものをしていたペンを止めて理事長は問う。巧は率直に答える。

「スマートブレインはオルフェノクの王を目覚めさせようとしてる」

 理事長は巧の答えに目を見開く。

「オルフェノクの王は、乾さんが倒したんじゃなかったんですか?」

「ああ。でも奴はまだ生きてた。他のオルフェノクを食って、復活しようとしてる」

「でも、『王』の復活と学院の廃校に何の関係が?」

 理事長の質問に、巧はスマートブレインが音ノ木坂学院を狙う理由を説明していなかったことを思い出す。

「スマートブレインはここを廃校にした後、会社のビルを建てるつもりらしい。多分、新しい活動拠点にするつもりなんだと思う」

「活動拠点と言いましても、廃校が決定したらここの土地は国が買収することに………」

 理事長は言葉を詰まらせる。その先にあることに気付いたようで、「まさか………」と消え入りそうな声で言う。

「スマートブレインは政府の援助を受けているんですか?」

「ああ」

「オルフェノクの存在を政府は既に知っていると?」

 「それは分からない」と巧はかぶりを振る。分かったことは多いが、まだ不明瞭な点も多い。琢磨も海堂も中々教えてはくれない。昨晩の行動を省みれば当然ではあるが。

「何にしても、やばいことは確かだ」

「もし『王』が蘇ったら、どうなるんですか?」

 理事長は恐る恐るといった様子で尋ねる。巧は包み隠さず答える。

「奴はオルフェノクを死なない体にできる。そうなれば世界はオルフェノクが支配して、人間は滅ぶ」

 冷たい沈黙が理事長室に漂う。不死の種となったオルフェノクが世にはびこり、人間という古い種は淘汰される。単純に見れば人間よりも強い生命体へ進化したオルフェノクが勝利するように見える。だが、進化を遂げても順応できずに滅びていった種は、この地球上に数えきれないほどいるだろう。自分達の遺伝子には、これまでの進化の系譜が刻まれている。

 滅びていった種の記憶。

 これから滅びゆく種の記憶。

 古い時代の一部が目覚めたオルフェノクは、果たして進化と言えるのか。むしろ、旧時代への回帰と言えるのではないか。

「心配しなくていい。奴は俺が倒す」

 不安を拭える自信はないが、巧はそう告げる。

「あなたは、それで良いんですか?」

 理事長から返ってきた言葉は意外なものだ。人間である彼女からすればオルフェノクは滅ぶべき存在だというのに。

「乾さんは言っていましたね。オルフェノクは命が短いと。『王』を倒せば、あなたは………」

「何で俺の心配なんかすんだよ。人間だっていつか死ぬ。俺の場合、ちょっと早いだけだ」

「分かっています。正直なところ、私は乾さんを恐れています。ですが、同時にあなたに生きて欲しいとも思っているんです」

 巧はどう返せばいいのか分からない。ありがとうと言えばいいのか、そんな願望は間違いだと言えばいいのか。理事長は生徒を守る義務がある。だからオルフェノクである巧を恐れることは正しい。いくら巧が音ノ木坂学院を守る存在であっても、情を移してはいけない。でも、同時に巧の中で温かい安堵が生じる。自分がここに居ても良いという承認。この世界に存在することが赦されたかのように錯覚してしまう。

「あんたみたいな人が生きるために、オルフェノクは滅ぼさなきゃならないんだよ」

 巧はこれまで、誰かを守るために誰かを殺してきた。自分を受け入れてくれた人々と、彼等の夢を守りたい。そのために自分すらも殺さなければならないのなら、巧は迷わず自分を殺すと誓う。

 『あー』とスピーカーから穂乃果の声が聞こえてくる。μ’sは早速放送を使うらしい。

『皆さん、こんにちは!』

 続けて鈍痛が聞こえる。何かがマイクにぶつかったらしい。『いったー!』という穂乃果の声から、きっと頭でもぶつけたのだろう。巧も理事長も、会話を中断して放送へと意識を傾ける。

『えーと、皆さんこんにちは。わたし生徒会長の、じゃなかった。μ’sのリーダーをやってます、高坂穂乃果です。て、そんなのはもう知ってますよね。実は、わたし達またライブをやるんです。今度こそラブライブに出場して、優勝を目指します。皆の力がわたし達には必要なんです。ライブ、皆さん是非見てください。一生懸命頑張りますので、応援よろしくお願いします! 高坂穂乃果でした』

 最初で躓いたものの、宣伝としては上々だろう。放送は終わりだと思ったが、『そして――』と穂乃果は続ける。

『他のメンバーも紹介……、あれ?』

 穂乃果の声はそこで途切れる。しばらくすると『えっと……』と海未の震える声がスピーカーから発せられる。

『そ、園田海未役をやっています……、園田海未と申します………』

 顔を真っ赤にしている海未の姿が容易に想像できる。緊張のあまり文言が頓珍漢だ。多分放送を使う本来の目的はこれなのだろう。恥ずかしがり屋なのは知っているが、だからといってライブの度に緊張されては他のメンバー達もたまったものじゃない。

 続けて花陽の声が聞こえてくる。

『あの……、μ’sのメンバーの小泉花陽です……。えっと……、好きな食べ物はご飯です………――』

 途中から声が聞こえなくなってくる。こんな体たらくでよく今までライブをしてきたものだ。

『ら、ライブ頑張ります……。是非見てください………』

 音量を上げたのか、さっきよりは聞こえるようになった。それでも小さいことに変わりはないのだが。『声、もっと出して』という凛の囁く声が漏れている。周囲の音も拾ったということは、マイクの音量は最大なのだろう。

『いえーい‼』

 『そんなわけで――』と穂乃果が何か言っているが、ハウリングで周波数の高い音が耳を貫くように響く。咄嗟に耳を手で塞いだが既に遅く、きーんという音が頭蓋骨を響かせているように耳元で反響する。

「何? 爆発?」

 巧と同じく耳を塞いだ理事長が言う。確かにスタングレネードが炸裂したかのような音だ。

「ま、まあ何にしても、あの子達をよろしくお願いします。私も出来る限りのことをしますので」

 苦笑を浮かべながら理事長は言った。

 

 ♦

 講堂。

 グラウンド。

 屋上。

 これまでのライブで、校内にある目ぼしい場所は全て使ってしまった。同じ場所だと目新しさが無い。予選でのライブ会場は各グループ自由だから、校内に縛られず外も視野に入れよう。

 そういうわけで、巧と合流したμ’sは夕方の秋葉原を訪れた。ようやく耳鳴りが治まった巧はすっかり見慣れた喧騒の行き交う街を見渡す。秋葉原はアイドルファンの聖地であり、以前路上ライブをした際も好感触を得られた。だが来てみたは良いものの、メンバー達はこの街を会場にするには抵抗があるらしい。

「秋葉はA-RISEのお膝元やん」

 A-RISEを擁するUTX学院は秋葉原にある。希の言う通りこの街でA-RISEは宣伝頭で、街を挙げてのPR活動が盛んだ。

「下手に使うと喧嘩売ってるように思われるわよ」

 にこの言葉も的を射ている。この街でライブをするということは、既にスクールアイドルで頂点に立っているA-RISEに真っ向から挑むということだ。ラブライブ優勝を目指すからには彼女らを破らなければならないのだが、今は地区予選突破が目的だ。本戦に進む4つの枠――A-RISEは通ったも同然だから実質3枠だが――に入ればそれで良い。

 メンバー達は街頭モニターを見上げる。画面の中でA-RISEの3人が新曲の宣伝をしている。モニターの前にはファンと思わしき人々が歓声をあげていて、それが彼女らの人気を証明している。

「やっぱりすごいね」

「堂々としています」

 ことりと海未が唸る。不安の色が強いが、穂乃果だけは表情を引き締め「負けないぞ」と呟く。

 穂乃果の前でひとりの少女が立ち止まる。

「高坂さん」

 音ノ木坂とは異なる白を基調とした制服だが、見覚えのある少女だ。戸惑う穂乃果に笑みを向ける少女と、モニターに映るA-RISEのセンターにいる少女を巧は交互に見る。

 一拍置いてようやく2人が同一人物であることに気付いた穂乃果が「A-RISE――」と言いかけたところで少女は唇に指を当て、穂乃果の腕を引いて「来て」と走り出す。

「今のは………」

 硬直していた海未の言葉をことりが引き継ぐ。

「A-RISEのツバサさん………?」

「穂乃果、あいつと会ったことあるのか?」

 「いえ、初対面のはずです」と海未は人混みに消えていく2人を追いかける。その後をことりが着いていき、巧も雑踏へと走り出す。

 人、人、人。秋葉原の街はとにかく人が多い。路上を埋め尽くす通行人達を縫うように走り、「待ってー!」という穂乃果の声を頼りに進んでいくうち、巧の視界にμ’sの全てが始まったあのビルが入り込む。他のメンバー達も事に気付いたようで、その2階までガラス張りのビルの懐へと走っていく。

 夕陽が何の障害もなく射し込んでくるロビーの改札前で、穂乃果は棒立ちのまま目の前にいる3人を凝視している。画面の中でしか見たことのない者達。実在していると理解してはいるが、いざ実物を見てもその存在はどこか怪しげで、そこにいる彼女らが果たして画面に映っていた3人と同一なのかさえ認識に齟齬が生じてくる。

「ようこそ、UTX高校へ」

 穂乃果はよく彼女らのPVを見ていた。その歌とダンスがどれ程すごいのか、巧は何度も聞かされている。

 3人の中心に立つ少女、A-RISEのリーダーである綺羅(きら)ツバサはμ’sを歓迎する。

「A-RISE!?」

 にこが上ずった声をあげる。続けてサイン色紙を持った花陽が目を逸らしながら恐る恐る3人の前へと歩いてくる。

「あ、あの……。よろしければ、サイン下さい!」

 「あ、ちょっとズルいわよ!」とにこが花陽の肩を掴んで止めに入るも、ツバサは笑顔で「良いわよ」と応じる。流石はスクールアイドルのトップといったところか。こういったことには慣れているのかもしれない。

「良いんですか!?」

「ありがとうございます!」

 完全にファンになっているにこと花陽だが、穂乃果だけは未だに困惑を拭いきれていない様子で尋ねる。

「でも、どうして?」

「それは前から知ってるからよ。μ’sの皆さん」

 「それに」とツバサの視線が巧へと移った。

「あなたのことも」

 

 ♦

 奥へ進めば進むほど、ここは学校なのかという疑問が大きく膨れ上がってくる。まず、巧は学校でエレベーターを使ったことがない。巧が通っていた学校にもエレベーターはあったが、それは荷物を運ぶためのもので滅多に使われないものだ。

 目的の階へ着きエレベーターの扉を潜ると、そこにはカフェラウンジが広がっている。広い窓からは秋葉原の街が一望できて、生徒達は食事をするなり談笑するなり過ごしている。そのカフェの奥、仕切られた一画にμ’sと巧は通された。

「ゆっくりくつろいで。ここはこの学校のカフェスペースになっているから、遠慮なく」

 ツバサがそう促すも、メンバー達は出されたコーヒーには手をつけずA-RISEへと視線を集中させている。唯一、巧だけは熱いコーヒーに息を吹きかけている。

「あの、さっきはうるさくてすみません」

 花陽がそう言うと、「良いのよ。気にしないで」とツバサの左隣に座る優木(ゆうき)あんじゅが髪を指でいじりながら応える。

「あなた達もスクールアイドルでしょ? しかも同じ地区」

 どこか嬉しそうにあんじゅは言う。負けないという自信なのか。

「一度、挨拶したいと思っていたの。高坂穂乃果さん」

 ツバサに名指しされた穂乃果は「え?」と戸惑う。当然の反応だ。目指すべき存在から名前を知られていたのだから。

「下で見かけたとき、すぐあなただと分かったわ。映像で見るより本物の方が、遥かに魅力的ね」

 どこがだ、と巧は穂乃果を一瞥する。少なくとも撮影したPVの方がましだ。普段の生活ぶりを知ったらツバサの評価は180度変わるかもしれない。

 ツバサの右隣に座る統堂英玲奈(とうどうえれな)が言う。

「人を惹きつける魅力。カリスマ性とでも言えば良いのだろうか。9人いてもなお輝いている」

 「はあ」と穂乃果は曖昧な相づちを打つ。カリスマ性なんて不明瞭なものなど目に見えるはずもない。そもそも何故ここへ連れてきたのか、巧はA-RISEの3人を探るように眺めながら冷めたコーヒーを啜る。その答えをツバサは告げる。

「わたし達ね、あなた達のことずっと注目していたの」

 μ’sは全員が目を見開く。その反応が面白いのか、笑みを零したあんじゅが言う。

「実は前のラブライブでも、1番のライバルになるんじゃないかなって思っていたのよ」

 「そ、そんな……」と絵里は満更でもなさそうに言う。「絢瀬絵里」と英玲奈は絵里の名前を確認するように。

「ロシアでは常にバレエコンクールの上位だったと聞いている」

 あんじゅの視線は絵里の隣にいる真姫へ。

「そして西木野真姫は作曲の才能が素晴らしく」

 真姫から海未へと流れ、言葉はツバサに引き継がれる。

「園田海未の素直な詞と、とてもマッチしている」

 次にツバサは凛へとその目を向けて。

「星空凛のバネと運動神経は、スクールアイドルとしては全国レベルだし」

 凛から花陽へ。

「小泉花陽の歌声は個性が強いメンバーの歌に見事な調和を与えている」

 「牽引する穂乃果の対になる存在として」と英玲奈は希へと向き。

「9人を包み込む包容力を持った東條希」

 「それに」とツバサの視線はことりへ。

「秋葉のカリスマメイドさんまでいるしね。いや、元と言ったほうが良いのかしら」

 恥ずかしそうにことりは俯く。留学を機にメイドカフェのバイトは辞めたと聞いている。結局留学も取り消しになったが、μ’sの活動に専念するために復帰はしないらしい。

 「そして矢澤にこ」と呼ばれた当人は表情を引き締める。まなじりを釣り上げていたツバサは満面の笑みを浮かべる。

「いつもお花ありがとう」

 「ええ!?」とメンバー達はにこを驚愕の目で見る。

「昔から応援してくれているよね。すごく嬉しいよ」

 「いや、その……」と狼狽するにこに絵里が「にこ、そうなの?」と。「知らなかったんやけど」と希も。

「いやあ、μ’s始める前からファンだったから」

 笑顔を取り繕っていたにこは「って、そんなことはどうでもよくて」と立ち上がる。

「わたしの良いところは?」

 ツバサは嬉しそうに笑いながら答える。

「グループになくてはならない小悪魔ってところかしら」

 ぷ、と巧は思わず吹き出してしまう。危うくコーヒーが鼻から出そうになった。こいつが小悪魔とは。それを見逃さなかったにこは巧へと詰め寄る。

「あんた今笑ったわね?」

「お前が小悪魔って………」

 「みっともないから止めて」という真姫の制止で直接的な衝突は回避され、にこがソファに腰掛けたところでツバサの視線は巧へ。

「μ’sのマネージャーさん、ですよね? お名前、聞いても良いですか?」

 「乾巧だ」と巧は答える。そもそも、何故巧まで同席しているのか疑問だった。メンバー同士で話すのに、表向きではあるがただのマネージャーである巧はいらないはず。

「音ノ木坂での怪物騒ぎは噂になっています。それと戦う戦士のことも」

 続けて英玲奈が。

「ネットで画像や動画も出回っているが、ニュースになったことは1度もない。不思議に思っていた」

 恐らくスマートブレインがマスコミに圧力をかけたのだろう。もしくは、企業を援助する政府の方か。だとすれば、政府の中にもオルフェノクに関係する者がいるのかもしれない。

 あんじゅが興味深そうに巧を見てくる。

「学校でも話題になってるわ。怪物と戦う仮面の戦士、『仮面ライダー』ってね」

 何とも捻りのないネーミングだ。まあ、ファイズに変身した自分が何て呼ばれようが構わない。問題はファイズとオルフェノクについて引き合いに出されていることだ。

「仮面ライダーか。何だかカッコいいね」

 凛がしみじみと言う。「おい」と巧は余計な事を言うなと視線を向けるが、当人に意図は伝わっていないようで不思議そうな視線を返される。

 ツバサは確信したかのように笑みを浮かべて。

「やっぱり、乾さんが仮面ライダーだったんですね」

「だったら何だ? ついでにこの学校も守れってのか?」

 「ちょっと」とにこが巧を睨む。

「あんたA-RISEに何て口きいてんのよ」

「お前は黙ってろ」

 巧が普段より険を込めてそう言うと、にこは素直に黙ってコーヒーを啜る。ツバサは申し訳なさそうに笑った。

「別に、そういうつもりじゃありません。この辺りで怪物が出たことはないですし」

 当然と言えば当然か。スマートブレインの標的は音ノ木坂学院とμ’sなのだから。

「ただ、μ’sを守っているのがどんな人か知りたくて。怪物なんかにラブライブを邪魔してほしくありませんから」

 本当にそれだけだろうか。神経質すぎる気もするが、何か企みがあるのではないかと思ってしまう。巧の剣幕を見やり、恐る恐る絵里が尋ねる。

「何故、そこまで?」

「これだけのメンバーが揃っているチームは、そうはいない。だから注目もしていたし、応援もしていた。そして何より、負けたくないと思ってる」

 そう告げるツバサは穂乃果をじっと見つめる。ここで巧はこの場が単なる談笑の席でないことを悟る。これは宣戦布告だ。

「でもあなた達は全国1位で、わたし達は――」

 「それはもう過去のこと」とあんじゅが海未の言葉を遮る。続けて英玲奈が。

「わたし達は純粋に今この時、1番お客さんを喜ばせる存在でありたい。ただそれだけ」

 その言葉にμ’sは物怖じした様子で3人を見つめる。ツバサはソファから腰を上げる。

「μ’sの皆さん。お互い頑張りましょう。そして、わたし達も負けません」

 ツバサに続いて、英玲奈とあんじゅも立ち上がって歩き出す。その堂々とした歩みはトップアイドルとしての威厳だろうか。

 「あの」と穂乃果はカフェスペースから出ようとした彼女らの背中を呼び止める。3人は振り返り、穂乃果は真っ直ぐとA-RISEを見据える。

「A-RISEの皆さん」

 穂乃果がそう言うとμ’sのメンバー達が一斉に立ち上がる。今まで追いかけてきた者達と同じ居場所に立とうとするように。

「わたし達も負けません」

 穂乃果はそう宣言し、頬を緩ませて「今日はありがとうございました」といつもの表情に戻る。そんな穂乃果をA-RISEは意外そうに見つめるも、ツバサだけは不敵な笑みを零す。

「あなたって面白いわね」

 「え?」と穂乃果は間の抜けた声をあげる。ツバサは嬉しそうだ。トップアイドルとして君臨してきた彼女らに、こうして真正面から宣言する者はいなかったのかもしれない。

「ねえ、もし歌う場所が決まっていないなら、うちの学校でライブやらない?」

 これにはメンバー達だけでなく、巧までも「え?」と聞き返してしまう。

「屋上にライブステージを作る予定なの。もし良かったら是非。1日考えてみて」

 掴み所のない少女だ、と巧は思う。ライバルとして目を付けていたのなら潰そうとするのが合理的だ。でも、A-RISEもμ’sと根底は同じなのかもしれない。純粋に客を楽しませたい。客を楽しませる1番の存在でありたい。ラブライブという最も客を楽しませる大会でどちらが上か、同じ条件で勝負をしたいということだ。

 それを理解しているのか、それとも厚意と受け取ったのか、穂乃果は迷わず答える。

「やります!」

 

 ♦

 会場に適した場所が無いなら作ってしまおう。そんなことをやってのけるUTX学院の財力には驚かされる。多分このような設備のために学費も莫大なのだろう。もし雪穂が志望校を音ノ木坂に変えていなかったら、高坂家の家計は火の車になっていたに違いない。

 夕刻の秋葉原の街がどんな様相なのか、ビルの屋上からはよく見渡せる。こうして街を高所から見ると自分が強い権限を持つ存在になったと錯覚しそうだが、生憎巧はそんな傲慢さは持ち得ない。ただ、オルフェノクが地球を支配する種となったらこの街並みはどう変わっていくのか、という感慨を覚える。

 「王」によって不死の命を得た生命体が溢れかえる地球。人間という種が生まれてから1万年という歳月をかけた文明は崩れ去り、オルフェノクによる新しい文明が築かれるのだろうか。崩れるとしても、それは膨大な時間を要するのかもしれない。生み出すのと破壊するのは、同じくらいの時間がかかる。その時間を省いて進化を遂げた結果、オルフェノクは自分達の世界を築く命という「時間」を省いてしまった。

「あの、マネージャーさん」

 背後から少女の声が聞こえて、巧は振り返る。制服からしてUTX学院の生徒のようだ。

「そろそろライブ始まりますので」

「ああ」

 予選のライブは中継だ。学校の入口に設置されているモニターにも、当然A-RISEのライブ映像が流される。それを目当てにビルの前には人だかりができていて、今か今かと皆目を輝かせているのが見える。陽が暮れかけていて、空は昼と夜が混ざり合った不安定な色を映している。現実味がないこの時間に、アイドルというものはどんな時間を観客に与えるのだろう。

「にしてもお前んとこのグループは物好きだな」

 屋上に作られたステージを眺めながら巧は言う。音ノ木坂もグランドや屋上にステージを作ったが、それとは比べ物にならないほど豪奢だ。生徒は苦笑する。

「ツバサは負けず嫌いですから。前回のラブライブも、μ’sがエントリーを辞退してとても悔しがっていましたし。だから、今回こうして競えるのが嬉しいんですよ」

「前回優勝者の余裕ってやつか」

 「そうじゃありません」と少女は強く言う。しまった、と巧は自分の発言を戒める。この少女は花陽と同じ気質なのかもしれない。

「ツバサと英玲奈とあんじゅは、人に見せないだけでとても厳しいレッスンを受けてきたんです。ステージの上ではいつも笑顔ですけど、上手くいかなくて泣いているのも見てきました」

 生徒はそこで視線を僅かに下ろす。

「A-RISEは、うちの芸能学科全員が受けるオーディションで選ばれた3人で結成されたんです。学校の看板になるから、皆ものすごく頑張ってました」

「お前もオーディション受けてたのか?」

「………はい。落ちたときは落ち込みましたけど、あの3人じゃ仕方ないです。誰よりも努力してるって、歌とダンスを見れば分かりますから」

 生徒はそう言って顔を上げる。気のせいか、涙を零すまいとしているように見えた。辛いことを思い出させてしまった、と巧は自分の軽率さに苛立ち、かけるべき言葉を探すが見つからない。

 「でも」と生徒は笑顔を向けてくる。

「わたしもまだ諦めてませんよ。頑張れば、わたしもきっとステージで歌えるって信じてます」

 一度敗れた夢。それまで信じていたものが崩れ去っても、まだ夢を抱き続けることは相応の勇気が必要だ。巧は思う。守ると決めた人間の汚い部分を見ても、それでも自分は今の夢を持ち続けていられるのだろうか、と。

「わたし、森内彩子(もりうちあやこ)っていいます」

 巧も名乗ろうとしたところに、「彩子」と呼ぶ声と共に2人の生徒が走ってくる。

「急がないと、そろそろライブ始まっちゃうよ」

 ボブカットの少女が口を尖らせ、彩子は「ごめんごめん」と謝罪する。癖のある長髪の少女が巧を見て、「あの、あなたは?」と尋ねてくる。巧本人ではなく彩子が答える。

「この人はμ’sのマネージャーさん。あ、紹介しますね。わたし達、『ヴェーチェル』ってユニット組んでるんです」

 彩子はボブカットの少女を手で示し。

「作詞担当の楠條愛衣(くすえだあい)と」

 次に長髪の少女を指し示し。

「作曲担当の飯保里香(いいぼりか)です」

 最後に自分の胸に手を添えて。

「そして、わたしがリーダー兼ダンス担当です」

 UTX学院がA-RISE以外にスクールアイドルを輩出しているなんて聞いていない。同じUTX学院なら少しは注目されるだろう。

「お前ら、ラブライブにエントリーはしてないのか?」

 今日は地区予選当日。なのに彼女らは制服のままだ。巧が尋ねると、彩子は気まずそうに笑う。また余計なことを言ってしまったか、と巧は口をつぐんでしまう。だが、言ってしまってはもう遅い。

「わたし達、自分達で勝手に始めたから学校のサポートとか受けられなくて、エントリーも許可されなかったんです」

 夢を叶える者がいれば、当然敗れる者もいる。後者の方が圧倒的に多いだろう。誰かが喜ぶ傍らで誰かが悲しみに打ちひしがれている。抱く者全ての夢が叶えば良い。そう思っても、簡単に叶ってしまう夢に価値はあるのだろうか。いや、夢に価値なんてつけるものじゃない。

 夢は夢だ。

 時々すごく切なくなって、時々すごく熱くなれる。

 他人から見て無価値でも、当人にとっては何者にも変えられない宝物だ。

 

 ♦

 

 まだ完全な夜になる前に、A-RISEの3人はステージ上で待機する。衣装に着替えたμ’sのメンバー達は不安と、トップアイドルのライブを間近で見られることの期待が入り混じった眼差しを向けている。圧倒的に不安が大きいだろうが、この2週間は練習に気合が入っていたように見える。A-RISEとの邂逅が、μ’sにとって良い刺激をもたらしたことは違いない。

 「ん?」というカメラマンの声が聞こえ、巧の意識はステージから横へと逸れる。

「なあ、変なの映ってないか?」

 「どれだ?」と別のスタッフがテレビ番組の撮影にでも使われそうな業務用カメラのレンズを覗き込む。カメラのレンズが向く方向を巧も視線で追う。ステージの影。そこに同化していた灰色の異形が軽々とした跳躍でステージへと登っていく。

 巧は持参してきたギアケースから出したベルトを腰に巻いた。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 フォトンストリームの発する光を纏い、巧はファイズに変身した。ステージに飛び乗り、オルフェノクの顔面を殴り、更に胸へ蹴りを見舞ってステージから降ろす。

「乾さん……」

 目を見開いたまま動けずにいたツバサが絞りだすように呼ぶ。

「お前らはライブのことだけ考えろ」

 それだけ言ってファイズはステージから飛び降りる。体の節々に花弁のようなひだを揺らすアネモネオルフェノクの首根っこを掴み、抵抗する間も与えず屋上の縁から共に身を投げる。

 落下時の強い風圧を受けた後、地面に触れた背中に凄まじい衝撃がファイズのスーツを打つ。強化された超合金製の鎧だが、さすがに高層ビルの屋上から落ちればただでは済まない。死にはしないものの、激しい痛みに悶えながらファイズは落下した地点の周囲を見渡す。校舎ビルの裏手らしく、人は正面入口のモニターに集中しているからひどく静かだ。

 曲のイントロが聞こえてくる。初めて聞く曲だ。そこで、ラブライブで歌える曲は未発表のものに限られるから当然であると気付く。この灰にまみれた戦いのBGMとして不釣り合いな、スマートでありながらどこか情熱的な曲だ。

 よろめきながら立ち上がったアネモネオルフェノクの手から鞭が伸びる。まるで植物のつるのようにしなる鞭はファイズの首に巻き付き締め上げてくる。鞭を引き千切ろうとするが、まるでワイヤーのように硬い。

 鞭を引き、当然武器を掴んでいるアネモネオルフェノクはファイズの方へと引き寄せられてくる。自分から向かってきた敵の腹に、ファイズは蹴りを見舞う。アネモネオルフェノクの体が吹き飛び、その手から鞭が離れた。首に巻き付いた鞭を解き、ファイズはポインターにミッションメモリーを挿入する。

『Ready』

 立ち上がったアネモネオルフェノクの胸で灰色の花が花弁を開く。何をするつもりか、攻撃へ転じられる前にファイズはポインターを右脚に装着しフォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 フォトンストリームを通じてエネルギーがツールへ充填され、ファイズは跳躍する。ポインターから放たれたマーカーがアネモネオルフェノクを捉えた瞬間、胸の花から花粉が霧のように立ち込めて姿を隠す。

「はあああああっ」

 かろうじて視認できるマーカーに向けてクリムゾンスマッシュを放つが、右足は敵の体を貫くことなく、ただ空を蹴って着地と同時にエネルギーがアスファルトを砕くだけだった。

 花粉はほどなくして風に流されたが、既にそこに灰色の存在は影も形もない。A-RISEの曲も終わっていて、ただ入口からの歓声のみが聞こえる。

 ファイズはフォンをバックルから抜いた。キーを押して変身を解除すると、再び曲のイントロが流れてくる。皆で立ち止まり、迷い、それでも進んでいるという希望を歌う曲が。

 生身になった巧は掌を見つめる。痛みも苦しみもなく、灰はさらさらと風に乗って空へと昇っていく。自分の体の一部だったそれを視線で追い、巧は完全に陽が暮れた空を見上げる。秋の夜空は空気が澄んでいて星がよく見える。今夜はとりわけ、星々の群れが天の川を成して夜空を流れていく。

 灰にまみれた自分には皮肉としか言いようがない美しい夜だ、と巧は思った。




 今回登場したアネモネオルフェノクも読者様からアイディアを頂いたオリジナルオルフェノクです。これからの活躍をお楽しみに!

 『ラブライブ! サンシャイン‼』とのクロスオーバーも書きたいと思い始めたのですが、クロスさせるライダーが中々見つかりません………。『サンシャイン‼』はまだ完結していないので、アニメ2期が終わってからまた考えたいと思います。


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第4話 宇宙No.1アイドル / 生命の泉

 身内の結婚式でハワイに行ってきました。青空がとても綺麗で『クウガ』の最終回を思い出しました。あのラストシーンはキューバで撮影されたものですが(笑)。

 いやー、青空ってのはずっと見てられますね!


「い、いよいよです………」

 PC画面を睨みながら、花陽は静かに告げる。「緊張するね……」とことりが祈るように両手を組み、隣にいる穂乃果は「心臓が飛び出しちゃいそうだよ……」と胸に手を当てる。PCから目を背けた海未は耳に手を当てて「終わりましたか?」と何度も呟いている。

「まだよ」

 冷静さを保っている絵里がそう言うと、海未は「誰か答えてください!」と悲鳴をあげる。「それじゃ聞こえないでしょ」とテーブルにつく真姫が指摘し、にこも「そそそそうよ……」と震える声で言う。

「予備予選くらいで……、な、何そんな緊張してるのよ……」

 にこの手はテーブルに置いたいちご牛乳の紙パックを取るのだが、挿したストローを口に運ぶことなくただ震えを抑えるように握りしめる。

「そうやね、カードによると……」

 希が手中に広げたタロットカードを覗き込み、「よると?」と穂乃果が促す。希は無言のまま物憂げに目蓋を垂らし、「やっぱり、聞きたくなーい!」と穂乃果が言ったところで。

「来ました!」

 花陽の声でメンバー達の視線がPC画面へと集中し、驚愕のあまりにこは紙パックを握り潰す。ストローから中身がまるで噴水のように飛び散った。

 花陽は画面に表示された情報をもとにアナウンスする。

「最終予選進出、1チーム目はA-RISE。2チーム目はEast Heart」

 「後は?」と画面を覗く衆に加わったにこが促す。「3チーム目は――」と花陽は画面をスクロールする。

「Midnight cats」

 最初が同じ「み」だから期待したのだが、別グループの名前が出たことにメンバー達は一気に肩を落とす。「最後は?」と絵里が尋ねる。まだ枠はひとつ残っている。花陽は「4チーム目は」と再び画面をスクロールする。

「Mutant Girls………」

 画面のグループを凝視しながら、メンバー達は絶句したまま硬直する。掠れるような声で、穂乃果は感情を声に出した。

「そんなあああああああっ‼」

 

 ♦

「――ていう夢を見たんだよ!」

 テーブルを挟み、穂乃果は興奮気味に言う。朝食のトーストを持ったまま、巧は穂乃果を凝視して逡巡を置いて告げる。

「お前、それ皆には絶対に言うなよ」

「え、何で?」

「縁起でもねーだろうが!」

 まともに聞いてやった自分が馬鹿だった、と巧はトーストをかじる。未だに府に落ちない様子の穂乃果も食事を再開し、居間には他の家族よりも遅めの朝食を摂る2人の咀嚼音だけが響いている。

 A-RISEとの合同ライブから結果発表日である今日まで、μ’sは張り詰めた雰囲気だ。練習中もミーティング中に皆うわの空で、次に向けた新曲の話も一向に進んでいない。そんな中で穂乃果の夢の話なんて聞いたらメンバー間で漂う悪い気を助長させるだけだ。

 巧は冷ましたお茶で咥内のトーストを喉へと流し込む。

「今日はUTXに行くから、そっちは遅くなる」

「UTXに?」

「多分、オルフェノクのことだろうな」

 あの戦いの後、屋上に戻った巧にツバサ達は何も聞いてこなかった。代わりとして後日ゆっくり話を聞かせてほしい、と今日を話し合いの日として指定してきた。A-RISEだけでなく、ライブの運営スタッフまでにも変身するところを見られたのだ。人はいきなり得体の知れないものを見たら、受け入れるのに時間を要するのだろう。

「ラブライブ、中止になったりしないよね………」

「余計なこと考えんな。結果発表の心配だけしてろよ」

 不安げな顔の穂乃果にそう言い放ち、巧は冷めたお茶を啜った。

 

 ♦

 数歩先を歩く森内彩子の背中を巧は無言で追いかける。改札ゲート前で巧を出迎えてくれた彩子は何も質問することなく、案内役としての務めを継続している。彼女もファイズとオルフェノクの目撃者だ。色々と聞きたいことはあるだろうが、それはこれから果たされる。

 学校の責任者である理事長か校長に話をするものかと思っていたのだが、巧が通されたのは理事長室でも校長室でもない。以前μ’sメンバーと共に案内されたカフェスペースの一角。そこで待っていたのはA-RISEの3人と、ヴェーチェルの他2人だった。

「乾さん、この前は助けてくれてありがとうございました」

 ツバサがそう言って礼をして、両隣にいる英玲奈とあんじゅ、ソファの隣に立つヴェーチェルの面々もそれにならう。

「別に大したことじゃねーよ。奴も逃がしちまったしな」

 こういったことに慣れていない巧は照れよりも困惑の方が大きく、隠すように出されたコーヒーに息を吹きかける。頭を上げたツバサは以前会った時とは別人のような、自信など微塵も感じさせない不安げな表情を見せる。アイドルという浮世離れした印象だったが、こうして見ると歳相応の少女だな、と巧は思った。

「本当なら理事長と話してもらうはずだったんですけど………」

「今日はいないのか?」

「いえ。ライブの日のことを理事長に話して………」

 口ごもるツバサに代わって英玲奈が。

「この件には関わるな、と。理由を聞いても断固として教えてくれなかったのです」

 「怪しすぎるわ」とあんじゅが。

「怪物と仮面ライダーの噂は広まってるのに、ネットにアップされた画像や動画は全部消されてるんです」

 拡散を阻止される都市伝説。知られてしまえば不利益を被る者がいる。

「まるで、とても強い権力が働いているとしか思えません」

 ツバサのその言葉は核心に迫っている。巧はその正体がスマートブレインであることを知っている。琢磨は言っていた。政府がオルフェノクの存在に気付かないよう、スマートブレインは徹底的に進化した種を隠してきたと。スマートレディと一戦を交えた空港での画像や動画もインターネット上で目にしたが、それらは既に削除されている。あの戦いも、空港で搬送用トラックの爆発事故として報道された。

「乾さん。あれは一体何なんですか?」

 ツバサの質問に、巧は理事長に話したものと同じ内容で答えた。死を経て太古の記憶を呼び覚ました、灰色の生物のことを。

「オルフェノク………」

 その存在を噛み締めるように、ツバサは呟く。凛とした姿勢を崩さない英玲奈も訝しげに、巧を見つめてくる。この男は何を言っているのか、と思いたいだろうが、生憎事実のみを話した。理事長のときと同様、ベルトを扱う資格については黙っておいたが。

「何でそんな化物が?」

 里香が長い髪を手でとかしながら尋ねてくる。落ち着かないときの癖らしい。

「俺にも分からない」

 巧はそう答えるしかない。巧自身もオルフェノクでありながら、何故オルフェノクなんて種が生まれたかなんて全く分からない。進化とは継ぎ接ぎだ。その場しのぎの適応も、不要になれば淘汰されていく。それは全ての生物に共通する宿命だ。オルフェノクが何に対する適応で、それが不要になる時はいつ来るのか。

 命とは、不完全なのだと巧は思う。完全な命など存在しない。あるとすれば、それは神と呼ぶべき存在だ。万能の神とは、不完全な人間が創り出した「完全」への羨望なのだ。完全な存在とは、命が抱える死という宿命を克服したもの。だとすれば「王」によって永遠の命を得たオルフェノクは、神と呼ぶに相応しい存在だろうか。

 オルフェノクが永遠の時を生きる種になれば、人間は淘汰される。そうすれば地球は完全な種となったオルフェノクという神々の住まう惑星になる。オルフェノクの生まれた意味とは、地球から人間という不完全な種を駆逐するためなのか。だとしても、現時点ではオルフェノクも不完全であることに変わりはない。

 奇妙なものだ。神になろうとした人間の王の話は聞くが、オルフェノクは「王」が神を創るなんて。

「せっかくラブライブも盛り上がってるのに、オルフェノクが出たら………」

「ツバサ達、頑張ってきたのに………」

 愛衣と彩子が不安げに言う。健気な少女達だ、と巧は思う。ヴェーチェルのパフォーマンスは見たことがないが、3人はA-RISEの影に埋もれてしまったグループだ。妬んでも不思議はないのに、自分のことのように心配するなんて。こんなことを思うのは、自分が邪な大人になってしまったからだろうか。

 ヴェーチェルの3人とは対照的に、ツバサはきつく唇を結ぶ。

「心配すんな。大会を中止になんてさせやしない。奴は俺が倒す」

 巧は断言する。μ’sの皆が抱いた夢が叶うようお膳立てをすることはできない。夢を叶えるのは彼女ら次第だ。その夢を守るために、妨害するオルフェノクという危険因子を排除する。それが、巧の中にある明瞭な戦う理由になっている。

 巧の意思が伝播したのか、ツバサは力強く頷く。

「オルフェノクに襲われても、わたし達はアイドルであり続けます。μ’sにもそうあってほしい。だから、乾さんはμ’sを守ってください」

 ツバサはしっかりと巧を見据えて告げる。そして悪戯に笑みひと言付け加える。その顔は紛れもなく、客に向けるアイドルとしての、綺羅ツバサの顔だった。

「お願いしますね、仮面ライダー」

 

 ♦

 仮面ライダー。

 ツバサから告げられたファイズの通称が、巧の脳内に反響する。オートバジンの運転に集中しようにも、一向にそのフレーズは抜ける気配がない。人知れず怪物と戦う戦士なんて、まるでヒーローみたいだ。巧のやってきた事とは、ただオルフェノクという命を葬ってきただけだ。人に褒められるようなことじゃない。正義なんて大層なものを掲げたつもりもない。

 抜けきれない懊悩を頭に抱えたまま、音ノ木坂学院に到着した巧は校舎へ入りアイドル研究部の部室へと歩く。メンバー達は部室のPCで結果発表を見ている頃だろうか。時折すれ違った生徒が「乾さんこんにちわー」と挨拶してきて、「ああ」と気のない返事をする。

「たっくーん‼」

 廊下の奥からその声と共に、ばたばたと騒々しい足音を立てて穂乃果が走ってくる。穂乃果は勢いを抑えることなく巧に飛びつく。全く減速しないものだから突進のような衝撃で、巧の腹に溜まった空気が口から「ごほっ」と押し出される。

「通った! 予選通ったよ!」

 周囲の視線を感じるから離そうと試みるが、穂乃果は巧に抱きついたまま「やったよ!」と繰り返す。たかが予選。そう思っていながらも、喜ぶのは悪いことじゃない。

 巧は穂乃果の頭に手を添える。

「頑張ったな」

 「うん!」と穂乃果は満面の笑みで巧を見上げた。

 

 ♦

「最終予選は12月。そこで、ラブライブに出場できるひとチームが決定するわ」

 屋上で、練習着に着替えたメンバー達に絵里は告げる。メンバー達の喜びは大きいが、まだ予選を突破しただけで本番はこれからだ。より練習に励まなければならない。

「次を勝てば、念願のラブライブやね」

 希が感慨深そうに言う。「でも……」と花陽が不安げな声色で。

「A-RISEに勝たなくちゃいけないなんて………」

 予選を突破した4組のなかにはA-RISEの名前もあった。特に驚くべきことではない。むしろ、予想していたこともあり緊張感がより高まっている。

「今は考えても仕方ないよ。とにかく頑張ろう!」

 不安を吹き飛ばすように穂乃果は言う。「その通りです」と海未も同意する。

「そこで、来週からの朝練のスタートを1時間早くしたいと思います」

 「ええ、起きられるかなあ」と凛がぼやく。巧も巧で穂乃果を起こす時間が早まるのだから他人事じゃない。もっとも、文句を言える雰囲気ではないのだが。構わず海未は続ける。

「この他に、日曜日には基礎のおさらいをします」

 これには花陽も怖気づいている。あまり体力に自信がない彼女には酷だろうが、克服しなければなるまい。鼓舞するように絵里が言う。

「練習は嘘をつかない。けど、ただ闇雲にやれば良いというわけじゃない。質の高い練習をいかに集中してこなせるか。ラブライブ出場はそこに懸かっていると思う」

 練習メニューの考案は海未が担当しているから不安はあるが、絵里が修正を加えてくれれば大丈夫だろう。また無理な練習を重ねて倒れてしまっては全てが崩れてしまう。これからの練習は慎重に進めなければならないのだ。

「よーし、じゃあ皆行くよ!」

 「ミュ――」と穂乃果が点呼を取ろうとしたのだが、ことりが「待って」と止める。

「誰かひとり足りないよな………」

 ことりの違和感に巧は違和感を重ねる。ひとり足りないことは屋上に来た時点で気付いていたが、メンバー達は事情を既に本人から聞いていると思っていた。

 「うち、ことりちゃん、真姫ちゃん――」と希がメンバーひとりひとりを確認する。

「エリち、海未ちゃん、凛ちゃん、花陽ちゃん、穂乃果ちゃん、巧さん」

 「9人いるよ!」と凛が言う。「おい」と巧は痺れを切らす。

「俺を入れるな」

 「え? じゃあ誰が………」と絵里はメンバー達を見渡す。お前もか、と思いながら巧は言う。

「にこがいねーぞ」

 一瞬の間を置いて、メンバー全員で「ああああああっ‼」と声をあげる。本当にこんな調子で本戦に進めるのだろうか、と巧はため息をついた。

 すぐにメンバー総出でにこを探しに行ったのだが、大捜索とまではならず玄関から校舎を出ていくにこはすぐに発見できた。下校する生徒達は他にも多くいるのに、どうしてこの時ばかりはその中からにこを見つけることができたのか。もはや呆れるのも疲れた巧は「にこちゃーん!」と呼び止める穂乃果の背中を眺める。

「どこ行くの?」

「大声で呼ぶんじゃないわよ!」

 にこは苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。ラブライブへの熱意が強いにこが、練習をさぼるなんてことはしないはずだ。

「どうしたの? 練習始まってるよ」

 「き、今日は……」と打って変わって歯切れ悪くにこは答える。

「ちょっと、用があるの。それより最終予選近いんだから、気合入れて練習しなさいよ!」

 にこが指をさすと、穂乃果は反射的に「はい!」と敬礼する。だがすぐに丸め込まれたことに気付く。

「あれ? 行っちゃった………」

 走って校門を潜るにこの背中を、穂乃果は呆然と眺めていた。

 

 ♦

 線路が走る高架下で営業しているスーパーマーケットに訪れるのは、買い物袋を提げた夫人達が多い。午後の夕方に近いこの時間帯で、放課後の学生が立ち寄るのはもっぱらゲームセンターや飲食店だろう。だから制服のブレザーを着たにこは店の客として浮いている。

「ちょっと、押さないでよ」

「狭いんだよ」

 小声で真姫と軽い言い争いをしながら、巧はにこが自動ドアを潜る頃合いを見計らって店先に積み上げられた段ボールの陰から顔を出す。狭さに耐え切れなかったのか、釣られて2年生と1年生の6人も。

「何で後つけるの?」

 場の雰囲気で着いてくる羽目になった真姫が尋ねる。「だって怪しいんだもん」と穂乃果は間髪入れずに答えるが、他人の事情を詮索するのはどうか。そう苦言を呈したところで、練習を切り上げてにこを尾行すると言い出した穂乃果が止まるとは思えない。それに、巧も少し気になっているのは事実だ。練習を休まなければならない事情があるなら言えばいい。

「まさか、ここでバイトしてるとか?」

 穂乃果の言葉で、巧はおのずと試食コーナーでお決まりの「にっこにっこにー!」と客の呼び込みをするにこの姿を想像することができる。

「ハマり過ぎだにゃー」

 凛も同じことを考えていたらしい。

「待って、違うみたいよ」

 真姫がそう言うと、他の5人は店内を自動ドア越しに凝視する。にこは商品棚から食材を手にしてかごへ入れていく。「普通に買い物しているみたいですね」と海未が言うと、穂乃果は安心したようにほっと短いため息をつく。

「何だ、ただの夕飯のお買い物か」

「でも、それだけで練習を休むでしょうか?」

 海未の言う通り、買い物が建前になるのは苦しい。帰りが遅くなるにしても、この店は深夜0時まで営業している。一応スクールアイドル活動は学校の部活動扱いだから、学校の下校時間までには練習を切り上げる。だから練習に参加しても買い物には問題なく行けるのだ。

「ラブライブ出場が決まって、気合も入ってるはずなのに」

 ことりがそう言うと、6人は再び店内にいるにこを探るように見る。

 「よほど大切な人が来てる、とか」と花陽が。

 「どうしても手料理を食べさせたい相手がいる、とか」と真姫が。

 「ま、まさか……」、「にこちゃんが……」と本人の知らないところで誤解が生じてくる。あくまで推測の範囲に過ぎないというのに、「だ、駄目です!」と花陽が立ち上がる。

「それはアイドルとして1番駄目なパターンです!」

 アイドルであることに拘るにこに限ってそんなことは無いだろう、と思ったところで花陽の声に気付いたにこがこちらを振り返る。

「おい」

 巧の声は届かず、こういった話に関しては鈍感な穂乃果が「え、何の話?」と。隠れ蓑にしていた段ボールを詰んだカートを店員がどかしたにも関わらず、花陽の興奮が伝播したのか凛がまくし立てる。

「μ’sメンバー矢澤にこ。練習を早退して足しげく通うマンションとは……」

 「そんなスキャンダラスな……!」と花陽の興奮もピークに達したところで、背後に停めてあったバンも走り去って隠れる居場所がなくなる。

「おい!」

 声を荒げてようやく、6人の意識が巧へと向く。

「どうしたのたっくん?」

「気付かれたぞ」

 巧が店内を指さし、それを辿った6人とにこの視線が交わる。にこは何か文句でもつけてくると思ったのだが、彼女は無言のままこちらに背を向けて店内を駆け出す。

「逃げた!」

 6人は急いで店に入るのだが、狭い店だから発見されるのは時間の問題だ。それにこうなることは予想していたから、巧は店の裏へと回る。裏には待機していた絵里がいて、丁度従業員専用の出入り口からにこが出てきたところだ。

「流石にこ。裏口から回るとはね」

 驚いて後ずさりするにこを背後に回り込んでいた希が受け止め、あまり膨らみのない胸に手を這わせている。

「さあ、大人しく訳を聞かせて」

 にこは身軽な動作で希の手から抜け出し全速力で駆け出す。希はその後を追い、絵里は巧へと顔を向ける。

「巧さん、バイクを!」

「………………」

 何でこんな事に付き合わなければならないのか。巧はその思考を止めて店の駐輪場へと向かう。オートバジンで絵里が指し示した方向へと向かい、すぐに希とその先を走るにこを見つける。にこを追い越し、摩擦音を立てて巧は道路の真ん中でバイクを停止させる。希と挟み撃ちする形になったから観念するかと思ったのだが、にこは近くの駐車場に停めてある車の間をすり抜けていく。希はすぐに追おうとしたのだが、車の隙間に入ろうとしたところで進もうとしない。

「おい、どうした?」

 オートバジンから降りて駆け寄ってみると、2台の車は接触寸前と言っていいくらいの駐車をしていて、希の体では胸が邪魔になって入れないほどだ。巧もすり抜けられそうにない。

 ほどなくして他のメンバー達が追いついてくる。希はメンバー達の胴辺りへと視線を這わせ、それは凛に向いたところで固定する。

「何か不本意だにゃー!」

 凛は不平を言いながら車の間をすり抜けていく。確かに凛は最も体型がにこに近いが、この仕打ちは女として憐れだろう。

「いないにゃー」

 車の奥から凛の声が聞こえてくる。メンバー達も肩を落とし、巧はようやくこの茶番から解放されることに安堵のため息をつく。不意に、ポケットにある携帯電話がバイブを鳴らす。巧はメンバー達から離れたところで通話モードにして、端末を耳に当てると海堂の声が聞こえてくる。

『よう乾。ちゅーか今暇か?』

「ん、ああ大丈夫だ。どうした?」

『お前に紹介したい奴がいんのよ。前に琢磨が言ってた、協力者ってやつだ』

 

 ♦

 適当な理由をつけてメンバー達と別れ、海堂に指定された待ち合わせ場所の喫茶店はバイクで5分も経たずに到着した。何か話があるとしたら大抵は海堂のマンションなのだが、今回はその協力者の都合を考えての事なのだろう。

 ドアを開けて店に入ると「いらっしゃいませ」とウェイターが迎えてくる。待ち合わせと伝えようとしたところで、モダンチックな丸テーブルの客席から「おーい、こっちこっち」と海堂が手を振ってくる。

 席についた巧の前にウェイターが水の入ったグラスとメニューを置く。巧はメニューを開くことなく、取り敢えずアイスコーヒーを注文する。

「ちゅーかお前、俺様とこうして茶飲んでるのは不味い。これ被っとけ」

 海堂はそう言って、どこかの街の探偵が愛用していそうな黒のハット帽を差し出してくる。こうして外で海堂と会うのはリスクが大きい。スマートブレインの関係者にでも見られたら海堂が裏切り者と知られてしまう。その意図を汲み取った巧は素直に帽子を受け取って目元が隠れるまで深々と被る。こんなハット帽なんて普段は被らないからどうにもぎこちない。

「こいつが協力者ってやつか?」

 巧は鋭い視線をテーブルにつく3人目の客に向ける。見たところ高校生くらいだろうか。学校帰りらしく灰色のブレザーを着ている。少年は巧の視線に少し怯えた表情を見せて海堂へと目を逸らす。「おう」と海堂は頷き、少年は巧に視線を戻し会釈する。

霧江往人(きりえゆきと)っていいます」

 こんな弱そうな奴がか、という言葉を押し留め巧は水を飲む。喉が渇いていたから一気に飲み干した。

「お前、オルフェノクか?」

 「はい……」と往人は首肯する。仲間が増えるのは心強いのだが、この少年が一体何の役に立つのか。巧は訝しげな視線を海堂に向ける。海堂は往人の肩に手を乗せてにやりと笑みを浮かべる。

「聞いて驚くなよ。往人はな、オルフェノクの命を延ばすことができるのだ!」

 「本当か!?」と巧は柄にもなく驚愕を声に出す。往人は緊張した面持ちで手をかざし、人差し指をテーブルへと向ける。その細い指先から透明な滴が現れて、指先から離れてテーブルに落ちるとそこの一点だけを濡らす。

「俺の出す水はオルフェノクの命を延ばして、力を強めることができるんです」

「海堂が俺に打った注射も………」

「ええ、俺の水です」

 「どうだ、すげえだろ?」と海堂は得意げに言う。お前の手柄じゃないだろ、と思いながらも巧は素直に感心する。オルフェノクの力は傷付けるものばかりと思っていた。往人の力はオルフェノクの中で誰よりも優しい。

「そんな大したものでもないですよ。注射器1本だと3ヶ月くらいしか延ばせませんし、それに………」

 往人は口ごもり視線を落とす。テーブルに落ちた滴はまだ乾いていない。「何だ?」と巧が促すと、往人は結んでいた口を開く。

「何度も使えば効果は無くなっていきますし、オルフェノクの本能を抑えられなくなります。乾さんはまだ1回しか使っていませんから大丈夫だと思いますけど」

 往人の言葉で巧は思い出す。ファイズとデルタのキックを受けても力尽きなかったバタフライオルフェノク。獣のように襲いかかってきたフライングフィッシュオルフェノク。首筋に注射を打って愉悦の表情を浮かべていたコックローチオルフェノク。

「お前、他のオルフェノクにもその力使ってんのか?」

「この力で、俺はスマートブレインに誘われたんです。戦うのは得意じゃないですし、これが無かったらとっくに『王』の生贄にされてましたよ」

 往人は罰が悪そうに言った。往人の力はスマートブレインの戦力増強に一役買っている。企業の中でも相応の地位を与えられても良い。それなのに、この少年はオルフェノクとしての力に溺れることなく、こうしてスマートブレインと戦う巧と海堂に協力している。

 「どうして?」と巧は尋ねる。言葉足らずだが往人は質問の意図を汲み取ってくれたらしく、答えてくれる。

「俺も、人間として生きたいんです」

 短いが、答えとしては十分だ。巧も同じ理由で同族と戦っている。だが海堂は「ちゅーか違うだろー」と往人の肩に腕を回す。

「愛しの穂乃果ちゃんを守りたいんだろ?」

 「海堂さん!」という往人の制止もきかず、海堂は愉快そうに笑う。

「こいつはな、穂乃果ちゃんに片思いしてんだよ」

 往人の顔が耳まで紅潮していく。ここまで感情が顔に出やすい者は珍しい。いや、穂乃果もすぐ顔に出るから見慣れてはいる。

 ウェイターが巧の注文したアイスコーヒーを持ってくると、「そんなことより」と往人は海堂の腕をどける。

「乾さんの体をどうにかしないと。コップ貸してください」

 言われるがままに巧は空になった水のグラスを往人へと差し出す。中には溶けかけの氷が転がっていて、往人はグラスの中へ右手の人差し指と中指を揃えて向ける。2本の指先に結露が生じ、まるで山の岩肌から染み出す湧き水のように透明な液体が流れ始める。水は心地良い音を立てて流れ、やがてグラスがいっぱいに満たされていく。溢れんばかりに注がれると水の勢いは衰え、滴を数滴垂らして流れが止まる。

「これを飲んでください」

 往人から受け取ったグラスの中身を巧は見つめる。水面に映る自分の顔が揺れている。

「これくらいの量なら、乾さんの命は長く保てるはずです」

「でも、こんなに飲んだら俺は………」

 さっき往人は言った。何度もこの水を摂取すればオルフェノクの本能を抑えきれなくなると。巧は恐怖する。忌避してきたオルフェノクとしての衝動が沸き上がってしまうことを。

「それなら大丈夫です。副作用のリスクが大きくなるのは量じゃなくて回数です」

「俺が人間を捨てずに済むとしても、どれくらい生きられるんだ?」

「それは、俺にも分かりません。これだけの水を飲んでもらうのは初めてなので。10年かもしれませんし、5年かもしれません」

 いつまで生きられるのかは分からない。でも、それは人間でも同じことだ。自分がいつ事故に遭い、病に侵されるなんて誰にも予測できることじゃない。医療が発展して1世紀近く生きることが当たり前になった現代で、自分がいつまで生きられるかなんて心配するのは贅沢だろうか。

「なに迷ってんだ。ぐっといけぐっと」

 海堂がそう言って自分のコーヒーを飲む。ため息をつき、巧はグラスの縁に唇を付けて中身を一気に咥内へと流し込む。無味無臭の水だ。こんな水で本当に命が長らえるのか。そんな疑問を抱きながら巧は水を飲み干し、食道から胃へ到達していくのを感じる。

「あまり変わった気がしないな」

 空になったグラスをテーブルに置いて、巧はそれだけ言う。ここ最近になって体から灰が零れることは増えたが、それほど多くはない。乾いた体に命の水が注ぎ込まれたからといって、それを認識するには至らない。

 「気を付けてください」と往人は言った。

「さっきも言いましたけど、俺の水はオルフェノクの力を強めます。何があっても、しばらくは絶対にオルフェノクに変身しないでください」

 

 ♦

 カフェで海堂と別れて、巧と往人は近くの公園に場所を移した。表向きは敵対関係にある2人が同じ場所に長居するのは好ましくない。話をするなら海堂のマンションにでもと思ったのだが、生憎スマートブレインの一員として行動している彼は会社に顔を出さなければならないという。

 公園では子供達が鬼ごっこをしている。オルフェノクなんて存在が世間に知られたら、親はこうして自分のいないところで子供を遊ばせることもできないだろう。

「乾さんは、高坂達を守るために戦ってるんですか?」

 ベンチに腰掛けると、往人はそう尋ねてくる。「ああ」と巧は肯定する。

「強いんですね、乾さんは。俺にそんな勇気はありません」

「そんなことねーだろ。お前だって、穂乃果を守りたいから俺を助けたんじゃないのか?」

 「成り行きですよ」と往人は苦笑する。頼りない印象だが、愛する者を守りたいという想いでスマートブレインに背く彼を巧は尊敬する。

「お前も物好きな奴だな。穂乃果なんかに惚れるなんて」

 巧がそう言うと往人はまた顔を赤くする。高校生の恋愛とはこんなにも純情なのだろうか。高校に行っていない巧には分からない。

「高坂とは同じ中学で、とにかく元気な奴でした。他の皆は園田と南がいいって言ってたんですけど、高坂の笑顔見てると元気貰えたっていうか………」

 誤魔化すように往人は頬を掻くが、まったく誤魔化しきれていない。でも、彼は穂乃果への想いで人間としての心を保ち続けているのだと思う。同時に巧は悲しみを見出す。往人の恋は報われない。もし穂乃果が往人をオルフェノクと知りながら受け入れても、2人は結ばれることができない。人間の愛の証である、子供を作ることができないのだ。

「穂乃果とは、会ってないのか?」

「はい。中学を卒業してからは一度も。俺は高校に入ってすぐオルフェノクになりましたから」

 何となく、巧はこの少年が抱えていた絶望を想像することができる。多分、オルフェノクになった者の多くが最初は同じ絶望を味わうのだと思う。絶望から怪物になるか、それでも人間であろうとするかは当人次第だ。

「お前は、何でオルフェノクに?」

 何となく気になって、巧は尋ねる。

「オルフェノクに襲われたんです。乾さんからファイズのベルトを奪った人でした」

 巧はしばし逡巡を挟み、コンドルオルフェノクのことを思い出す。皮肉なものだ。自分を殺した者が後の仲間になるなんて。

 「そういえば」と往人は空を眺めて。

「俺が殺されたとき、一緒に襲われたなかでもうひとりオルフェノクになった人がいました。確か、花みたいなオルフェノクで………」

「花………?」

 巧が質問を重ねようとしたところで、公園に歓声が沸く。往人と同時に視線を向けると、砂場の近くでピエロがボールジャグリングを披露している。何でもない光景だが、往人は目を剥いて「あれは……」と立ち上がりピエロを凝視している。

「スマートブレインのオルフェノクです!」

 往人が叫ぶと、聞こえたのかピエロはジャグリングのボールを無造作に投げ捨て、子供達のブーイングを無視して歩き出す。その真っ白にメイクされた顔に黒い筋が浮かび、キノコの傘を頭に被ったオルフェノクへと変身する。

 巧はベンチの脇に置いたケースを開き、ベルトを腰に巻いてフォンを開く。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 スーツを身にまとったファイズの隣で、往人もオルフェノクに変身する。クジラのようなオルフェノクだ。

 「よせ」と駆けだそうとしたホエールオルフェノクをファイズは引き留める。

「お前が戦ったらやばいだろ」

 ファイズはそう言って駆け出す。蜘蛛の子を散らすように逃げる子供達には目もくれず、右手に身の丈ほどの棍棒を出現させたトードスツールオルフェノクの顔面に拳を見舞う。かすかによろけたトードスツールオルフェノクはすぐに体勢を立て直し、ファイズの追撃を棍棒で防ぐと流れるように腹を突いてくる。

 かなり強烈な一撃だった。腹がまだ痛みながら、ファイズは追撃の棍棒を跳躍して避ける。公園の入口近くに停めておいたオートバジンの横で着地し、ハンドルにミッションメモリーを挿入する。

『Ready』

 車体から引き抜くと同時に赤い刀身を光らせるエッジを携え、ファイズは迫ってくるトードスツールオルフェノクにエッジを振る。だが直撃はせず、棍棒に防がれた際に生じたスパークを散らし、立て続けに剣を振り続ける。鍔迫り合いに持ち込み、互いの力が拮抗しているところでファイズはトードスツールオルフェノクの腹に蹴りを入れた。蹴り飛ばされたトードスツールオルフェノクは地面に伏して、ファイズはフォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 エネルギーがフォトンストリームを通じて右手のエッジへと充填される。

「はあっ!」

 咆哮と共にファイズはエッジを地面に薙ぐ。赤いエネルギーの波が地面を走り、トードスツールオルフェノクへ向かっていくが、目標へ到達しようとしたところで棍棒によってエネルギーが薙ぎ払われる。

 ファイズはそれでも止まらずに駆け出す。トードスツールオルフェノクも駆け出し、十分に間合いを詰めると両者は武器を振り下ろす。拮抗し生き場のないエネルギーが爆発を起こし、両者の体が対称に吹き飛ばされる。

 地面を転がるファイズのベルトからフォンが落ちた。変身信号が途絶え、スーツが分解されて巧の姿に戻る。

「乾さん!」

 駆け寄ってきた往人は巧の肩を支えてくれる。公園を見渡すも、トードスツールオルフェノクの姿は見えない。さっきまで子供達がいた公園は不気味なほど静かだ。

 「悪いな」と言って巧は立ち上がり腰からベルトを外す。近くに落ちているフォンと刃が消えたハンドルを拾い上げ、ハンドルは車体に接続する。

「あいつ、また来ると思うか?」

 ベルトをケースに納めながら、巧は往人に尋ねる。

「多分、そうなったら海堂さんと琢磨さんから連絡が来ると思います」

 「そうか」と言いながらも、巧は何かが引っかかる。A-RISEのライブに現れたアネモネオルフェノクの襲撃は、海堂と琢磨から聞いていない。スマートブレインがオルフェノクを差し向けるときは、2人から必ず連絡が来るはずだ。奴はスマートブレインの手先ではなく、ただ己の衝動に任せて人を襲っているのか。

 「乾さん」と往人は巧を見据える。

「μ’sのこと、お願いします。俺にできることがあるなら、協力するので」

「ああ」

 巧はそう言って頷く。でも、彼女らを守り切ることが本当にできるのか確証がない。「王」とロブスターオルフェノク。この2つの敵を倒す術が見つからない今、それは儚い夢のように指先から零れていきそうなものだった。

 公園を去っていく往人を見送った巧はオートバジンのシートに跨る。ヘルメットを被ろうとしたところで、ヘッドライトの影からその少女は顔を覗かせた。まだ10歳前後だろうか。ヘルメットを持つ手を止めた巧はしばらく無言のまま少女と視線を交わし、「おい」と短く言う。

「危ねえぞ」

「お兄ちゃん、さっき変身してたでしょ?」

「さあな」

「うっそだー! あたし見てたもん」

 とんだ災難だ、と巧は眉間にしわを寄せるも、少女は臆すことなくシート横へと回ってギアケースに手をかける。

「おい触んなよ」

「ねえ、もう1回変身してよ!」

「やだね」

「えー? してよ変身!」

 駄々をこねて泣かれると面倒だ。そう思った巧は「分かった分かった」と言う。

「ここじゃ騒ぎになるから、お前の家で変身してやる」

「本当?」

「ああ、家まで案内してくれ」

 当然、嘘だ。家に送り届けたら早く帰ろうと考えながら、巧はリアシートにケースと一緒に括り付けておいたヘルメットを少女の小さな頭に被せる。

「あたし、ココア」

 リアシートに乗せるとき、少女は元気に名乗る。巧はため息をつきながら、オートバジンのエンジンをかけた。走り出すと、バイクに乗るのが初めてなのか、ココアは興奮してリアシートでじたばたとはしゃいだ。

「じっとしてろっつの!」

 巧の注意は何の効果も持たず、転げ落ちないかとひやひやしながら案内通りにバイクを走らせる。子供の行動範囲はそう広くはなく、ココアの家であるマンションにはすぐに着いた。

「皆にも見せようっと」

 エレベーターの中で、ココアはうきうきとした様子で言う。まあ、部屋に着いたら玄関先でおさらばだろう。ベルトで変身するなんて親は信じまい。

 目的の階に着いて、エレベーターから出ると同時に足音が聞こえてくる。すぐに廊下の角から音ノ木坂学院の制服を着た少女が飛び出してくる。

「にこ?」

 突然にこが現れたことも驚きなのだが、更に驚くことにココアは「お姉ちゃん!」とにこに抱きつく。

「ココア……、と巧さん!?」

 状況を把握する前に、続けて廊下の角からμ’sメンバー達が出てくる。まさか、あれからまだにこの追跡を続けていたというのか。

「どうしたの? そんなに急いで」

 ココアの質問に「ちょ、ちょっとね……」とにこは言葉を濁す。ココアを指差して凛が言う。

「もうひとり妹がいたんだにゃ。ってあれ、巧さん?」

 ココアはきょとんとした顔でにこの顔を見上げている。にこはメンバー達へと振り返り、次に巧へと視線を移す。

 その顔は笑っていたが、明らかに感情の伴っていない笑みだった。

 

 ♦

「大変申し訳ありません。わたくし矢澤にこ、嘘をついておりました」

 メンバー達と巧に囲まれたにこはそう述べて、居間のテーブルに顔を埋める。事情を聞いてみると、街でにこのもうひとりの妹であるココロと遭遇し家が分かった。そこでにこが妹達に他のメンバーはバックダンサーと嘘を吹き込んでいることが分かり、今に至る。

 家に上がる際、壁に貼られたスクールアイドル専門店で販売されているポスターを見たのだが、どれもセンターの顔がにこに差し替えられていた。パソコンを使えばそれくらいの合成は可能だが、何しろ体型が全く異なるのだからすぐに分かる。

 こんな虚しい嘘をつき通す暇があるなら他に努力すべきことがあるだろうに。巧がそう思っていると、「ちゃんと頭を上げて説明しなさい」と絵里が腰に手を当てて言い放つ。ソファに腰掛ける巧は隣にいる穂乃果に小声で尋ねる。

「なあ、俺帰ってもいいか?」

「駄目だよ。たっくんも付き合ってよ」

 その必要はあるのか、と巧は疑問を抱く。メンバー達、とりわけ絵里、海未、真姫の3人はにこが自分達をバックダンサーと偽っていたことに相当腹を立てているようで、この場に巧がいることに何の違和感も抱いていない、というよりどうでもいいらしい。

 にこは罰が悪そうなぎこちない笑みを浮かべた顔を上げ、メンバー達を見渡す。

「い、嫌だなあ、皆怖い顔して。アイドルは笑顔が大切でしょ? さあ皆でご一緒に、にっこにっこ――」

「にこっち」

 酷くフラットな声色で希に呼ばれ、にこは決めポーズの動きを止める。

「ふざけてて、ええんかな?」

 笑みを浮かべながら希はタロットカードを見せる。何を暗示するカードなのかは分からないが、牽制には大きく役立ったようでにこは「はい……」と再び頭を垂れる。

 事情を説明する場を、にこは居間からダイニングへと移した。こっちの方が、弟妹達が目に届くという。隣の部屋ではココロとココアの妹2人が、弟で末っ子の虎太郎と一緒にミニサイズのもぐら叩きで遊んでいる。

 渋々といった様子で、にこは両親が2週間ほど出張で家を空けるから弟妹達のお守りを頼まれたことを説明した。

「ちゃんと言ってくれればいいのに」

 穂乃果はにこの事情に理解を示すが、隣に座る海未はまだ納得がいかないらしく、憮然とした表情を緩めない。

「それよりどうしてわたし達がバックダンサーということになっているんですか?」

 「そうね」と絵里が続く。

「むしろ問題はそっちよ」

 別にどうでもよくないか。

 その言葉を巧は内に留める。にこへの怒りが自分に飛び火しそうだ。ココアも変身するところ見せるという約束を忘れてくれているようだし、思い出さないうちに早く帰りたい。

「にっこにっ――」

 「それは禁止やよ」と、往生際悪く誤魔化そうとするにこを希が制止する。

「さあ、ちゃんと話してください」

 海未が促すと、にこは逡巡を挟んで短く告げる。

「元からよ」

 「元から?」とことりが聞く。隣の部屋から聞こえていたピコピコハンマーの音が止んだから何かと巧が視線をくべると、台から飛んだもぐらをココロが回収して戻しているところだった。

「そ、家では元からそういうことになってるの」

 にこはもぐら叩きを再開する弟妹達へと向く。

「別に、わたしの家でわたしがどう言おうが勝手でしょ」

 「でも……」と穂乃果は続きの言葉を途切れさせる。見栄っ張りなにこだから分からなくはないが、何故μ’sとしてではなくひとりのアイドルとしての自分を家族に見せようとするのか。

「お願い、今日は帰って」

 にこは弟妹達の方を向いたまま、何の感情も乗せずに言う。言い返せる者はなく、メンバー達は「お邪魔しました」と居室から出ていく。巧のその後に続こうと思ったのだが、「待って」とにこに引き留められた。

「あんたは残って。お茶ぐらい出してあげるわよ」

 まさか本当に弟妹達に変身するところを見せなきゃならないのか。そう身構えたのだが杞憂だったようで、にこはぬるま湯で淹れたお茶を出してくれる。

 テーブルの向かいに座るにこは巧に尋ねる。

「何で、ココアと一緒にいたの?」

「オルフェノクと戦ってるとこを見られてな」

「そうなんだ。ありがとね。妹助けてくれて」

「礼を言われることじゃないさ。逃がしたからまた襲ってくるかもしれない」

 「そう………」とにこは自分のお茶をすする。巧もお茶をすすった。猫舌の巧でも飲めるくらいまでお茶は冷めている。

「皆にはああ言ったけど、わたしだって悪いとは思ってるわよ」

「何でそこまで見栄張るんだ? お前もうれっきとしたアイドルだろ」

 にこは湯呑みのお茶へと視線を下ろす。

「あの子達の前では、わたしはスーパーアイドルじゃないといけないのよ」

「家族だろ? 隠すことでもねーだろうが。穂乃果なんて家じゃずっとだらだらしてるぞ」

 「家族だからこそよ」とにこは少しだけ声を荒げる。姉の様子に気付かない弟妹達はもぐら叩きを続けている。

「わたしがμ’sの前にスクールアイドルやってた頃、アイドルになったって話したらあの子達すごく喜んでくれたのよ。誰よりも応援してくれたし、わたしの1番のファン。アイドルとして、ファンをがっかりさせるのは1番駄目なのよ」

 巧は思い出す。アイドル研究部は元々にこが設立した部だった。最初は部員が5人いたが、時期を経ていくうちに、にこひとりになってしまった。

 アイドルになるという夢を一度叶えながら、その夢は長く続かなかった。でもそれを弟妹達に言うことはできない。だからアイドルという嘘を通し続け、μ’sが始まってもその嘘から抜け出せずにいる。

「後に引けなくなったってことか」

「そ。誰だって家族とか友達とかに心配かけたくないじゃない。あんただってそうじゃないの?」

 図星だった。巧は真理と啓太郎に心配をかけさせまいと家を出た。μ’sの面々にもスマートブレインに狙われていることを話せずにいる。

「あんた嘘が下手なのよ。何か隠してるってバレバレ」

「お前だって似たようなもんだろうが。まあ、心配かけたくないってのは分かるけどな」

 巧がそう言うと、にこはふっと笑みを零す。

「とにかくわたしの夢は、わたしだけのものじゃないってこと。本当のこと知ったら、あの子達の夢が壊れるもん」

「μ’sとしてのお前は恥ずかしいもんなのか?」

 「全然」とにこはかぶりを振る。

「むしろ、あの8人と一緒にやれて良かったと思ってる。ライブで歌って踊ってるときが楽しくて、わたし本当にアイドルになれたんだって思った」

 そう話すにこは本当に嬉しそうだ。多分、にこの憂鬱は家族に嘘をつき続けていることへの罪悪感だけではないのかもしれない。1番のファンである彼らにμ’sメンバーとしての自分を、ライブを見せられないことが本当に辛いことなのかもしれない。

 にこはどこまでも正直だ。自分には絶対に嘘をつかない。でも、その嘘を家族へと転嫁させてしまった。

「ったく、お前本当に馬鹿だな」

 お茶を飲み干した巧は面倒臭そうに言う。「なっ」と睨むにこに、巧は弟妹達をあごで指す。

「恥ずかしくないなら堂々とあいつらに見せてやりゃ良いじゃねーか。誰が1番とか、そういうのが無いのがμ’sなんだろ。皆でナンバーワンで、お前はそのグループのひとりってことで十分だと思うぜ」

 「皆で……」とにこは反芻する。そして寂しげな笑みを浮かべて、独り言のように呟いた。

「もっと早く、μ’sでいれたら良かったのにね………」

 

 ♦

 にこが練習を欠席してから、はや2週間が経とうとしている。メンバー達は特に不満を漏らさなかった。家庭の事情ならば仕方ない。だから、メンバー達はにこのいない期間で着々と準備を進めていた。勿論、本人には内緒で。言ったら「余計なことしないでよ」と憎まれ口を叩かれそうだ。

 巧はにこの懊悩をメンバー達に話すべきか迷ったが、その必要はなかった。メンバー達も巧と同じことを考えていたからだ。だから、にこのための計画はまるで必然のようにメンバー達の間で持ち上がった。

「にーこちゃん」

 放課後、他の生徒に混ざって校門を過ぎようとするにこに、待ち伏せていた穂乃果が声をかける。にこは一瞬だけ拍子抜けした顔をするも、すぐに憮然とした表情を浮かべて穂乃果と隣に立つ巧を睨む。

「練習なら出られないって――」

 最後まで言い切らずにこは短い悲鳴をあげる。巧の影に隠れていた弟妹達がひょこっと飛び出してきたのだ。

「お姉さま」

「お姉ちゃん」

「がっこう」

 「何で連れてきてるのよ!」とにこは抗議する。巧は弟妹達を指差して。

「こいつらが見たいんだとさ」

 「何を?」とにこは尋ねる。すると穂乃果は待ってましたと言うように笑みを浮かべる。

「にこちゃんのステージ」

 「ステージ?」と反芻するにこの手を穂乃果が引いて、校舎へと連れ戻していく。その後を弟妹達は追いかける。

 「あれ」と穂乃果は校門の傍から動こうとしない巧へと振り返る。

「たっくん、どうしたの?」

「後で行く。準備しとけ」

 穂乃果はしばし目を丸くしたまま巧を見つめるも、「うん」と再びにこの手を引いて校舎へと入っていった。

 しばらくの間、校門の傍に停めておいたオートバジンのシートでくつろいでいるうちに、下校する生徒もまばらになっていく。ほぼ無人と言っていい校門の前に、それは不規則なステップを踏みながらやって来る。

「おい、お前はお呼びじゃねえぞ」

 巧は校門を潜ろうとするピエロを呼び止める。彼が来ることは、琢磨から連絡を受けた3日前から分かっていた。

 巧は既にケースから出しておいたベルトを腰に巻く。おどけた笑みを浮かべていたピエロは無表情になり、不気味なメイクを施した顔面に筋を浮かべてトードスツールオルフェノクに変身する。

「ガキが楽しみにしてたライブだ。邪魔するもんじゃないぜ」

 巧はフォンにコードを入力した。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 変身時の光が収まると同時にファイズは駆け出す。トードスツールオルフェノクの振り下ろす棍棒を避け、その顔面に拳を打つ。敵がよろけると肩を掴み、腹を膝で蹴り上げる。「ごほっ」という声をあげてトードスツールオルフェノクが地面を転がる。気だるげに手首を振り、敵へと歩くファイズの首に灰色のつるが巻き付く。

 つるに手をかけたファイズの視界にもう1体のオルフェノクが入り込んでくる。体の節々に花を咲かせたアネモネオルフェノクが、ファイズの腹に拳を打ってくる。立ち上がったトードスツールオルフェノクも棍棒を突いてきて、後ろへと飛ばされた際の衝撃で首のつるが千切れる。

 倒れたファイズの背後から機械の駆動音が聞こえる。それが何かを悟り、ファイズは横へと飛んだ。直後にフルオートの発砲音が響き、2体のオルフェノクの体に銃創が刻み込まれる。

 バトルモードに変形したオートバジンはアスファルトを踏み鳴らし、アネモネオルフェノクへと向かって、強力な油圧システムによってもたらされるパワーで拳を見舞っていく。

 立ち上がったファイズは手首を振り、トードスツールオルフェノクの胸を蹴った。灰色の体が道路を挟んだ階段下へと落ちていき、階段の縁に立ったファイズはポインターにミッションメモリーを挿入する。

『Ready』

 ポインターを右脚に装着すると、オートバジンに突き飛ばされたアネモネオルフェノクも階段の下へと落ちた。オートバジンはホバリングして敵を追い、ファイズはフォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 ツールへのエネルギー充填が完了し、ファイズは跳躍する。標的へ向けた右脚のポインターから赤いフォトンブラッドのマーカーが発射され、棍棒を構えたトードスツールオルフェノクを捉える。

 ファイズはクリムゾンスマッシュを繰り出す。赤いエネルギーと一体になってキックを叩き込むも、トードスツールオルフェノクの棍棒によって阻まれる。力の衝突で押し負けたのはファイズの方だった。トードスツールオルフェノクの棍棒がエネルギーを薙ぎ払い、ファイズの体が宙に飛ばされる。

 安定しない視界のなかで、アネモネオルフェノクと戦っていたオートバジンが肩のハンドルを抜いてファイズへと投げる。ハンドルは正確な投擲で右手に収まり、ファイズは右脚に付いたままのポインターからミッションメモリーを抜いてハンドルへと移す。『Ready』という電子音と共にフォトンブラッドが刀身を形成すると、上昇していたファイズの体が落下を始める。

『Exceed Charge』

 フォンのENTERキーを押したファイズはエッジを振りかざす。落下の先ではトードスツールオルフェノクが攻撃に備えて、クリムゾンスマッシュの威力で亀裂が生じた棍棒をかざしている。

「はああああっ!」

 着地点に到達すると同時に、ファイズはエッジを叩き付けるように振り下ろした。防御に用いられた棍棒は疲弊のためにエッジが触れた中腹が砕かれて、勢いを衰えさせないままエッジはトードスツールオルフェノクの頭から股までを切り裂く。体を左右に分断されたトードスツールオルフェノクの体は青い炎を燃やし、地面に倒れると同時に灰となって崩れ落ちた。

 ファイズはエッジを構え直して駆け出す。オートバジンに顔面を殴られ、バランスを崩してよろけるアネモネオルフェノクの腹をエッジで一閃する。腹を抱えながらアネモネオルフェノクは倒れて、変身する力を消耗したのか人間の姿になる。

「なっ!?」

 ファイズは思わず声をあげる。エッジを振りかざす右手を静止させ、アネモネオルフェノクだった少女を凝視する。

 白を基調とした制服を着た少女は、顔に垂れた髪の間から怯えた目をこちらに向ける。

「森内……、何でお前が………?」

 丸腰の敵に近付こうとするオートバジンを阻み、ファイズは彩子に問う。

「お願い……、殺さないでください………」

 彩子の目尻から涙が零れる。ファイズはエッジから抜いたミッションメモリーをフォンに戻し、変身を解除する。

「何で、A-RISEのライブを襲った?」

女王様(クイーン)の命令だったんです。わたし、本当はこんなことしたくない………」

 彩子は地面に顔を埋めて嗚咽を漏らす。何を聞いても答えられそうにない。巧はオートバジンの胸部にあるスイッチを押してビークルモードに移行させる。

「今すぐどっか行け。お前が人間だっていうなら見逃してやる」

 巧は冷たく言い放つ。彩子は何の反応も示さず、ただ泣き続けている。

「わたし、アイドルになりたかっただけなのに………」

 巧が校舎の方向へ歩き出すと、背後から彩子の声が嗚咽交じりに聞こえてくる。彼女を倒すべきか、生かすべきか。その問いを自分自身に向けながら、答えを出しあぐねる。

 勝手なものだ。命の生き死にを取捨選択するなんて。

 階段を上りながら、巧はそう自嘲した。

 

 ♦

 巧が屋上へ出る扉の前に着く頃には、丁度ライブの開始直前だった。衣装に着替えたにこを、絵里と希が嬉しそうに見つめている。ピンクを基調として、リボンやフリルをふんだんにあしらった衣装だ。

「にこにぴったりの衣装を、わたしと希で考えてみたの」

「やっぱりにこっちには、可愛い衣装がよく似合う」

 絵里と希は口々に絶賛する。衣装のデザインに慣れていない2人が、ことり監修のもと意見を出し合って完成した衣装だ。にこのソロライブ開催を決めたとき、最初はいつも通り衣装はことりが作る予定だったのだが、その役目を今回は2人が名乗り出た。にこと同学年の2人は、にこがひとり奮闘していた時期を知っている。だから、今回ばかりは彼女のために何かしてやりたかったのだろう。

 希は優しい笑みをにこに向ける。

「スーパーアイドル、にこちゃん」

 「希……」と困惑気味に言うにこに、絵里が扉を手で指す。

「いま扉の向こうには、あなたひとりだけのライブを心待ちにしている最高のファンがいるわ」

 「絵里……」と呼ぶにこに、絵里も希と同じように優しい笑みを向ける。

「さあ、みんな待ってるわよ」

 絵里が促すも、にこはマイクを両手で握ったまま動こうとしない。

「何しけた面してんだよ」

 頭を乱暴に掻きながら巧は言う。

「お前スーパーアイドルなんだろ。にこにこ笑ってりゃいいんだよ笑ってりゃ」

 巧の物言いに、にこはいつもの強気な表情を浮かべて「ふん」と鼻を鳴らす。

「分かったわよ。スーパーアイドルにこちゃんの、スーパーライブ見せてあげるんだから」

 そう言うとにこは小悪魔的に笑い、扉を開けて四角く切り取られた光へと歩いていく。希と絵里、そして巧もそれに続いた。

 用務員と生徒達が手伝ってくれたこともあり、屋上にはなかなか見栄えのあるステージが完成した。装飾は宇宙をテーマにしたようで、惑星や流星の形に切り取られたパネルが貼られている。屋上全体に散りばめられた色とりどりの風船は、星々をイメージさせる。

「ここが、お姉さまのステージ?」

 ビニールシートの上で行儀よく座るココロがそう言う。「誰もいなーい」と、ココアが自分達と巧しかいない屋上を見渡している。

「ほら、始まるぞ」

 巧がそう言うと、弟妹達はステージへと視線を向ける。垂れ幕の奥からにこが出てきて、続けて制服姿の他のメンバー達が一歩引いて1列に並ぶ。

「あいどる……」

 衣装に身を包んだ姉を見て、虎太郎が呟く。

「ココロ、ココア、虎太郎。歌う前に話があるの」

 「え?」と3人は揃って声をあげる。

「実はね、スーパーアイドルにこは今日でお終いなの」

 にこが吹っ切れたように言うと、3人は「えええ!?」と惜しんでいる。

「アイドル、やめちゃうの?」

 ココロが聞くと、にこは「ううん」とかぶりを振る。

「やめないよ。これからは、ここにいるμ’sのメンバーとアイドルをやっていくの」

「でも皆さんは、アイドルを目指しているバックダンサーじゃ……」

 ココロは他のメンバー達を見渡す。にこは少し罰が悪そうに笑った。

「そう思ってた。けど違ったの。これからは、もっと新しい自分に変わっていきたい。この9人でいられるときが、1番輝けるの。ひとりでいるときよりもずっと、ずっと」

 弟妹達の前では、にこはスーパーアイドル。その嘘を幼い彼等に明かすことはできない。でもだからといって、全てが嘘というわけではないのだ。にこはアイドルで、ステージに立つ彼女は輝ける。それは紛れもない本物だし、輝く彼女の姿は弟妹達の夢を守り続ける。

「いまのわたしの夢は、宇宙ナンバーワンアイドルにこちゃんとして、宇宙ナンバーワンユニットμ’sと一緒により輝いていくこと。それが1番大切な夢、わたしのやりたいことなの」

 「お姉さま……」とココロは呟く。姉がマスコミに追われているとか、普段は事務所が用意したウォーターフロントのマンションに住んでいるという嘘を信じ切っている彼女は、その理想をメンバー全員にも求めてしまいそうだ。もしかしたら、マネージャーである巧にも飛び火するかもしれない。

 そんなことを想像した巧は思わず笑みを零す。姉が姉なら妹も妹ということか。

 にこ以外のメンバー達はステージから降りていく。ここからは、にこひとりのステージだ。

「だから、これはわたしがひとりで歌う最後の曲」

 曲のイントロが流れ始める。海未が詞を、真姫が曲を手掛け、にこのために用意した曲が。

 にこは宇宙ナンバーワンと呼ぶに相応しい満面の笑顔を観客に向けて、決めポーズを取った。

「にっこにっこにー!」




 今回は久々にたっくんがギャルゲー主人公っぽい回になりました。多分しばらくはたっくんが今回みたいな役回りになります。

 今回登場したホエールオルフェノクこと霧江往人のモデルは、『仮面ライダーBLACK』に登場したクジラ怪人です。


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第5話 新しいわたし / 意味の在り処

h:hirotani 友:友人(凛ちゃん推しのラブライバー)

h「凛ちゃん回の原稿書けたから添削頼む」
友「おう」
   ~読了~
友「これじゃ凛ちゃんの魅力が伝わんねーんだよおおおっ‼」

 こんなやり取りがあり、今回は1度書き直しました。めっちゃ疲れました。


「修学旅行か………」

 理事長室に呼び出され、近く行われる学校行事の話を聞いた巧はため息と共にそう漏らす。理事長も机で手を組みながら、思案するように目を細める。

「オルフェノクの襲撃を受けると思いますか?」

「ああ。中止にしたほうがいい」

「そうすべきなのは分かりますが、随分と前から準備してきた行事なので今からでは………」

 修学旅行に行くのは2年生だ。来週に迫る行事を穂乃果は楽しみにしているし、ずっと旅行先である沖縄の旅行パンフレットを見ていた。巧と理事長がここまで頭を抱えることになる原因はスマートブレインだ。

「乾さんにも同行してもらいたいのですが………」

「そうしたらこっちが無防備になるぞ」

「ええ。そうですね………」

 厄介なのは、μ’sメンバーが2手に分かれてしまうことだ。最初は巧が修学旅行に同行して音ノ木坂学院の警護は海堂に頼もうとしたのだが、それを相談した彼の返答はこれだ。

「俺様が戦ったら裏切りましたって言ってるようなもんだろうが」

 的を射ているため、巧もそれ以上強引に頼むことはできなかった。予想通りスマートブレインは修学旅行のことを把握していて、刺客を送ることは既に聞いている。つまり、修学旅行先で2年生の3人は確実に狙われるのだ。

「3人だけこっちに残すってのは?」

「それもちょっと………。私としても、ことりに高校生活の思い出を作らせてあげたいので」

 それは巧も同じだが、だからといってこんな状況で呑気に修学旅行なんて行かせていいのだろうか。そう思いながらも、巧はポケットから携帯電話を出す。できれば使いたくなかった手段だが、致し方ない。

 眉を潜める理事長には何も言わず、巧は携帯電話を通話モードにして耳に当てる。プルルルルという呼び出し音の後、通話先の相手が『もしもし』と応答した。

「三原、頼みがある」

 

 ♦

 ずっと雨音が響いている。濡れて景色が霞んでいる窓ガラスを眺めていた凛は「あーあ」と伸びをして机に突っ伏す。

「止まないねー」

 「そろそろ練習時間よ」と真姫が言うも、凛はどうにもやる気が湧かない。

「て言っても、今日もこの4人。もう飽きたにゃ」

 「それはこっちの台詞」とにこが目に険を込めた。

 凛は普段よりもがらんとした部室を眺める。1年生の3人とにこ。一昨日から練習に参加しているメンバーはこの4人だ。

「仕方ないよ凛ちゃん。2年生は修学旅行だし、絵里ちゃんと希ちゃんはその間、生徒会のフォローを――」

 「そうよ」と希と共に部室へ入ってきた絵里が花陽の言葉を引き継ぐ。

「気合が入らないのは分かるけど、やることはやっておかなきゃ」

 「今日も生徒会?」と真姫が尋ねる。「まあね」と答えた絵里は棚の上から1枚の紙をひょいと取り上げる。生徒会で使う資料らしく、きっと穂乃果が持ち込んできたまま放置したのだろう。

「3人が戻ってきたら、運営しやすいように整理しとくって張り切ってるんや」

 希はそう言って絵里の肩を揉む。修学旅行は3日間なのだから生徒会は放置しても支障はないと思える。でも、前生徒会長である絵里は穂乃果がしっかりと業務をこなしているかよく心配していた。練習を休んでまで業務を代行しているということは、何かと残っている仕事が多いのかもしれない。

 「ええええ!?」と凛は勢いよく立ち上がる。

「また練習凛たちだけ!?」

「今週末は例のイベントでしょ。穂乃果達が修学旅行から帰ってきた次の日よ。こっちでフォーメーションの確認して、合流したらすぐできるようにしておかなきゃ」

 絵里は退屈じゃないのだろうか。メンバー全員が揃わず、練習にも参加できず机で資料とにらめっこだなんて。そう聞こうとしたが、それよりも前に「でも――」と真姫が。

「まさかファッションショーで歌ってほしいって言われるなんて」

 その依頼が来たのは、にこのソロライブを開催してしばらく経った頃だった。ドーム会場でのファッションショーで、ラブライブ地区予選を突破した期待のグループとしてμ’sにライブをしてほしいという話が舞い込んできた。その話を受けることに誰も異議はなかった。最終予選突破に向けたμ’sの宣伝としては絶好の機会だし、期間に余裕もあったから新曲を作ることもできた。ダンスも形になってきている。あと用意するのは衣装だけだ。

「きっとモデルさん達と一緒のステージってことだよね。気後れしちゃうね」

 「そうね」と真姫が花陽に同意する。

「絵里や希は良いけど………」

 そう言って無言のまま真姫はにこを見つめる。意図を汲み取ったのかにこは「何?」と凄みのある視線を返す。

「別に気にすることはないわ」

 「じゃあね」と絵里は部室から出ていき、それに続く希は足を止める。

「穂乃果ちゃん達は野生のちんすこう探しに夢中でライブのことなんてすっかり忘れているやろうから、にこっち達がしっかりしといてね」

 そう言って希はドアを閉める。

「野生のちんすこうって何?」

 にこが尋ねるも、答えられる者は部室にいない。沖縄のお菓子に野生も飼育もあるのだろうか。

 すとんと凛は椅子に腰を落ち着けてぼやく。

「今日は巧さんもいないし………」

「あの人がいても、ただ部室でくつろいでいるだけじゃない」

 真姫が指先で髪をいじりながら言う。苦笑を浮かべた花陽は言った。

「用事あるみたいだし、仕方ないよ」

 

 ♦

 壁がガラス張りになっているUTX学院のロビーには雨音が鳴り響いている。ガラス面を伝う雨によって外の景色が遮断されて開放感が損なわれる。でも、雨のおかげでこの場所が四方を囲まれた箱の中であることを認識しやすい。

「どうですか? 体の調子」

 改札の前で私服に帽子を深々と被る往人が聞いてくる。巧は自分の掌を見つめながら答える。

「良い感じだな」

 「良かった」と往人は安堵したようにため息を吐いた。ここ最近、体から灰が零れることは1度もない。倦怠感もないし、体調はすこぶる良い。本当に命が延びたのか、それは巧自身にも未だに自覚が持てない。確かめるには生き続けるしかない。

 受付の事務員に呼び出しを頼んでからしばらくして、彼女は突然と改札口へと現れたように思える。息を荒げていることから走ってきたようだが、彼女の足音は雨音にかき消されてしまったらしい。

「乾さん………」

 彩子の視線が巧へ、次に隣にいる往人へと移る。

「霧江往人です。多分、初めましてじゃないと思うんですけど」

 そう自己紹介する往人を、彩子は怯えた目で見つめた。

 巧の提案で3人は場所を移すことにした。ロビーには事務員や下校する生徒達がいる。雨が降っているから、外にはあまり人がいない。移動した公園の屋根付き休憩所で、3人はクッションのない硬い椅子に腰掛けた。

「俺のこと、覚えてますか? 多分、森内さんと同じ日にオルフェノクになったと思うんです」

 往人がそう聞くも、彩子は無言のまま首を左右に振る。往人は少し落胆したように肩を落とすが、すぐに繕った明るい口調で言う。

「そうですよね。俺もあの時は混乱してましたし、できれば忘れたいですよね」

 往人はUTX学院へ向かう道中に話してくれた。高校に入ってしばらく、ハンバーガーショップにいたところをコンドルオルフェノクに襲われた。彼が目を覚ますと店内は灰に埋もれていて、他の客も店員のいなくなっていた。その中で、灰から出てくるアネモネオルフェノクを見たという。

「お前、いつからスマートブレインにいるんだ?」

 巧がまず質問したのはそれだ。彩子は目を逸らすも答えてくれる。

「………乾さんと戦った日です。ラブライブの地区予選の………」

 だとすれば、あの襲撃は彩子の初仕事だったというわけか。だとしたら、琢磨と海堂が彼女の存在を知らなかったのも納得できる。彩子は俯いたまま尋ねてくる。

「乾さんは、スマートブレインを倒すつもりなんですよね?」

「ああ」

「じゃあ、わたしも倒すんですか………?」

「お前次第だな」

 「え?」と彩子は巧に両眼を向ける。

「お前がオルフェノクなら倒すし、人間なら守る」

 我ながら傲慢だ。そう思いながら巧はその質問をする。オルフェノクも生命だ。ベルトを持っているからといって、その生き死にを定める権限は巧にはない。ただ、人間とオルフェノクの線引きをせずにはいられないのだ。境界を定めなければ、巧は自分自身を怪物と認めざるを得なくなる。だから、自分は人間という確証が欲しい。

「わたしは……、人間でいたいです」

 彩子がそう答えると、「なら」と往人が切り出す。

「この街にいるのは危険です。『王』を蘇らせるために、たくさんのオルフェノクが集められてる。遠く離れた街に逃げた方がいいですよ」

 「それは嫌」と彩子は震える声で言った。

「秋葉でアイドルとして歌えるまで、あと1歩なんです。ずっと愛衣と里香と3人で頑張ってきて、今更諦めるなんてできません!」

 彩子は端を切ったように泣き出す。一緒にヴェーチェルとして活動してきた2人には、自分の正体を隠してきたのだろう。巧の隣に座る往人も、きっと正体を隠しながら学校生活を送っているに違いない。巧だって同じだ。最初はμ’sの皆に本当の姿を隠してきた。

「分かってますよ、自分が怪物だって。可愛い衣装着たって、結局あの姿が本性なんだって。でも……、オルフェノクでも、わたしはアイドルになりたいんです………」

 大衆が彼女の言葉を聞いたら、どんな反応を示すだろうか。巧はふと、そんな悪趣味なことを考えてしまう。怖れられるのか、嘲笑われるのか。多分、草加なら憤怒を示すだろうなと思えてくる。

 

 ――俺にとってオルフェノクは全て敵だ――

 

 そんな彼の言葉が蘇ってくる。育ての親ですら憎悪し、一切の迷いを持たなかった言葉だ。正直、迷いを抱かずに戦える彼が羨ましいと思ったこともある。でも、目の前で涙を流す彩子も、巧に命を与えてくれた往人も、敵と断じることはできない。

 彩子は鞄を掴むと、傘もささずに休憩所から飛び出していく。往人は立ち上がるも、追わずに雨に濡れながら走っていく彩子の背中を眺めている。

「乾さん、彼女をどうするんですか?」

 彩子の姿が見えなくなると、往人は椅子に戻ってそう尋ねる。

「あいつが人間であろうとするなら守るさ。オルフェノクだって夢を見ていい」

「それは、木場さんのためですか?」

 巧は驚愕の目で往人を見る。彼の口から出た木場の名前は不意打ちだった。

「海堂さんから聞いたんです。木場勇治っていう人間との共存を目指したオルフェノクがいるって」

「まあ、確かに木場のためでもあるかな。俺もあいつの理想を信じたいんだ。だから答えを探してる」

「答えは、見つかりそうですか?」

「…………さあな」

 巧は、オルフェノクと人間の共存が不可能であることを心の奥底では悟っている。姿形が異なり、子供を作ることもできず、片方が生き残るにはもう片方が滅びるしかない。それを否定したくなるのは、自分をオルフェノクと知っても受け入れてくれる者達がいるからだ。どうせなら姿だけでなく、心さえも変わってほしかったと思う。そうすれば迷うことなく、オルフェノクを敵と断じることができる。

 ならば、何故オルフェノクは人間の心を保ったまま進化を果たしたのか。高尚な存在へと昇るのに、何故人間としての心が必要だったのだろうか。

 巧は往人に尋ねる。

「なあ、何でオルフェノクなんてものが生まれたんだろうな?」

 往人は逡巡を挟むと、灰色に染まった空を見上げながら答えた。

「何でとか、意味は無いんだと思います。ただ生まれて死んでいくだけで。俺思うんです。人が命に意味を付けようとするのは、無意味なことに耐えられないから、なのかもって」

 

 ♦

「ええええええええええ!?」

 メンバー達が集合した部室に凛の悲鳴が響き渡る。うるさい、と思いながら文句を押し留めて、巧は感情が昂ぶったあまり机をばんと叩く凛を眺める。

「凛がリーダー!?」

 「そう」と提案を出した絵里が言う。

「暫定でもリーダーを決めておいたほうがまとまるだろうし、練習にも力が入るだろうと思って。勿論、穂乃果達が修学旅行から帰って来るまでよ」

 勝手に決めるのは良くないのでは。そう凛は言いたげで、察した希が。

「穂乃果ちゃん達にも連絡して、相談した結果なんよ。うちとエリちも、みんな凛ちゃんが良いって」

 「2人はどう?」と希は真姫と花陽に目配せする。

 「良いんじゃない?」と真姫が。

 「わたしも凛ちゃんが良いと思う」と花陽が。

 だが当の本人は「ちょっと待ってよ」と納得していないらしい。

「何で凛? 絶対他の人のほうが良いよ。絵里ちゃんとか」

「わたしは生徒会の手伝いがあるし……。それに、今後のμ’sのことを考えたら1年生がやったほうが良いでしょ」

 絵里の言う通りだ。3年生が卒業した来年度もμ’sを続けるなら、3年生よりも1年生に今のうちからリーダーを務めるノウハウを身に付けさせるべきだ。

「だったら真姫ちゃんが良いにゃ! 歌も上手いし、リーダーっぽいし。真姫ちゃんで決まり!」

 「話聞いてなかった?」と真姫は窘めるように言う。

「みんな凛が良いって言ってるのよ」

「でも凛は………」

 力なく座る凛に「嫌なの?」と花陽が聞く。

「嫌っていうか、凛はそういうの向いてないよ」

 意外だった。凛のことだから調子よく引き受けるものかと思っていた。自分の事となると消極的になる性分なのかもしれない。

「巧さんだってそう思うでしょ?」

「やってみりゃいいじゃねーか」

 「ええ……」と凛はうなだれる。リーダー代理といっても2年生が戻るのは明後日だ。そんなに気負うことでもないだろうに。

「まあ面倒臭いってのも分かるけどな。俺も小学校の頃、風邪で休んだら勝手に班長にされたことがある」

 一応フォローしたつもりだったのだが、メンバー達は共感していないらしい。的外れなことでも言ったのか。

 「凛」と絵里は優しく凛の両手を握る。

「いきなり言われて戸惑うのは分かるけど、みんな凛が適任だと考えてるのよ。その言葉、ちょっとだけでも信じてみない?」

 「でも……」と凛は迷いを拭いきれていない。他のメンバー達は異議がないようで、納得したように凛へと視線を集中させている。

「分かったよ。絵里ちゃんがそこまで言うなら」

 窓を見ると雨は弱まってきて、雲間から太陽が顔を覗かせている。絵里は手を叩いて言った。

「さ、そろそろ雨も止みそうだし、放課後の練習始めて」

 最初の時点で紆余曲折ありながらも、凛をリーダーとしたμ’sは練習へと臨む。とはいえ2年生と、生徒会の仕事がある絵里と希は不在だが。まだ凛も不慣れだから、まとめる人数はいつもの半分くらいが丁度良いかもしれない。

 多分大丈夫だろう。そう思いながら巧は練習着に着替えた1年生とにこの4人と共に屋上へ向かった。その頃になると雨はすっかり止んでいて、空は青くなっている。

 「え、えーと………」と3人を前にして凛は露骨なほど緊張している。ここまで口が回らない凛を見るのは初めてだ。

「では、練習を始めたいと思います………」

 花陽が感慨深そうに拍手をする。授業参観に来た母親のようだ。

「拍手するところじゃないでしょ」

 真姫が呆れた様子でそう言うと、改めて凛は気恥ずかしそうに指示を出す。

「え、えーと。では最初に……、ストレッチから始めていきますわ。皆さん、お広がりになって」

 誰だこいつは。

 巧の目に映っているのは間違いなく凛なのだが、口調が普段と違いすぎて気味が悪い。リーダーだからといって何でお嬢様口調になるのか。しかも丁寧語が頓珍漢だ。3人も表情を引きつらせている。

「それが終わったら、次は発声ですわ」

 「何それ?」と我慢の限界が来たのか、にこが漏らす。続けて「凛ちゃん!」と花陽が呼ぶ。

「え、何ですの?」

 「その口調、一体誰よ?」と真姫が言う。練習を仕切っている海未とも絵里とも似つかない。凛のリーダー像とは何なのか。

「凛なんか変なこと言ってた?」

「喋り方が気持ちわりいんだよ」

 「ちょっと」と真姫が巧に詰め寄ってくる。

「少しは言葉を選びなさいよ」

 確かに巧の言い方にも棘があるものの、それを抜きしても凛の口調はあまりにも違和感がありすぎる。

「別にリーダーだからってかしこまることないでしょ。普通にしてなさい」

 にこがそう言うと、「そっか」と凛は照れ臭そうに頭を掻く。

「えーと、では……、ストレッチを始めるにゃー!」

 いつもの口調に戻っているが、どうにも空元気な様子が否めない。3人もそれを感じ取っているらしい。

 真姫がため息交じりに言った。

「もう、ふざけてる場合じゃないでしょ」

 ようやく始まった練習は、ぎこちないが順調に進んでいく。凛がたまに頓珍漢な指示を出してしまうが、それは3人の指摘によって修正された。メンバーがいつもと違っても、やることはいつもと変わらない。凛も少しずつ慣れていくだろうと、巧は思っていた。

「ねえ。わたしはここから後ろに下がっていったほうが良いと思うんだけど」

 ダンス練習の際、真姫がそう提案してくる。

「何言ってんの逆よ。ステージの広さを考えたら、前に出て目立ったほうが良いわ」

 異議を申し立てたのはにこだ。真姫は譲る様子がない。

「だから引いて、大きくステージ使ったほうが良いって言ってるんじゃない」

「いーや、絶対前に出るべきよ」

 頑固な2人が意見をぶつけ合うと必ず衝突する。真姫とにこは睨み合い、「ちょっと2人共、落ち着いてよ」と花陽が仲裁を図るが聞く耳を持たれない。

「そうだ。凛はどう思う?」

 真姫が凛に話を振ってくる。「そうよ、リーダー」とにこが、続けて「凛ちゃん」と花陽も。

「穂乃果ちゃんに聞いたら良いんじゃないかな?」

 戸惑いながらも出た凛の回答は、「それじゃ間に合わないでしょ」と真姫に撥ねつけられる。

「じゃあ、ここは巧さんに――」

「俺に振るなよ」

 練習を見てきたとはいえ、巧はダンスに関しては素人だ。変に意見を出したところで場の収拾がつくとは思えない。

「リーダーはお前だろうが。お前が決めろよ」

 

 ♦

「そっちはどうだ?」

 客足が途絶えた穂むらの店内で、巧は耳元の携帯電話に尋ねる。凛がダンスの振り付けを明日までと持ち越したから、μ’sの練習はいつもより早めに終わった。そのため店番をすることになったのだが、巧が店に立ってから客は殆ど来ていない。

『今のところは何もないよ』

 スピーカーから三原の声に混ざって雨音が聞こえる。

「そっち、雨降ってんのか」

『ああ、うん。台風が近付いているみたいでさ、ひどい土砂降りだよ。音ノ木坂の生徒達もずっとホテルにいるみたいだ』

「そうか」

『出来ることなら、このまま何も起きないでほしいよ』

「いや、多分オルフェノクは来ると思う。気を付けてくれ」

『ああ。そっちこそ次の予選が近いんだろ? 乾も気を付けて』

「ああ。…………ん?」

 通話を切ろうとしたところで、微かに三原とは別の声が聞こえてくる。聞き覚えのある声で、巧の中で不安が大きくなってくる。

「なあ三原、お前ひとりでそっちに行ったんじゃないのか?」

 『ああ、えっと……』と三原は歯切れが悪そうに答える。

『里奈と真理と啓太郎も一緒に来てるんだ。行きたいってせがまれてさ』

「お前、何であいつら連れてくんだよ?」

『しょうがないだろ。理由なんて言えるわけないし』

 巧はため息を漏らす。沖縄ではしゃぐ皆の顔がすぐに浮かぶ。いや、向こうは雨だから不貞腐れているだろうか。

『大丈夫。乾のことは黙っておくさ』

「そうしてくれ。じゃあな」

 通話を切った携帯電話をポケットに入れると、巧は柱にかけられた時計を見る。そろそろ閉店時間だ。暖簾を下げようと引き戸を開けると、丁度外で戸に手をかけようとしていた来店客と鉢合わせする。

「花陽、どうした?」

「ちょっと、話したいことがあって。凛ちゃんのことで」

 長い話になりそうだから、巧は取り敢えず花陽を中へ入れて店の暖簾を下げる。居間で売り上げの清算をしていた高坂母に閉店作業を代わってもらい、座布団に行儀よく正座する花陽にお茶を出した。

「巧さん、凛ちゃんはリーダーに向いてると思いますよね?」

 お茶に手をつけず、花陽は尋ねる。

「本人はそう思ってないみたいだけどな」

「でもまだ初日ですし、慣れればきっと………」

 凛のリーダー代理について、巧も異議はない。メンバーの中で最も穂乃果に性格が近いし、ある意味でμ’sらしいリーダーと言える。でも、凛があそこまで消極的になるのは単なる性分に留まらない気がした。

「凛ちゃん、さっき自分のことアイドルっぽくないって言ってたんです。凛ちゃんは可愛いのに………」

「あいつ、何でそこまで頑固になるんだ?」

 巧が聞くと、花陽は視線を落とす。

「昔のこと、まだ気にしてるのかもしれません」

「昔?」

「凛ちゃん、小学校の頃ずっと男の子みたいって言われてて、スカートとか履いてくとからかわれたりして………」

 言われてみれば、凛が私服でスカートを履くところを見たことがない。練習着だって機能性を重視したストリートダンサーのような恰好だ。

「そんなこと気にすることか? 小学生のガキなんざ男も女も見分けつかねーだろ」

「わたしも、もう気にしてないと思ってたんですけど。でも、凛ちゃんはやっぱり傷ついてたんです」

 花陽はお茶を啜り、巧を見据える。

「巧さんからも言ってあげてください。凛ちゃんにもっと自信を持ってって」

「あのなあ、俺がそう言って何になるんだ?」

「わたしがμ’sに入るときだって、巧さんは後押ししてくれたじゃないですか」

「俺は何もしてねーだろ。入るって決めたのはお前自身だ。俺にどうこうできることじゃない」

 巧が憮然として言うと、花陽は俯いて黙り込む。流石に言い過ぎたか、と思いながら巧は続ける。

「凛の気持ち変えるのは凛自身だし、それを手助けできるのはお前だ。そうだろ?」

 花陽は一度視線を上げるも、再び俯いて何も言わなかった。

 

 ♦

「ええええ!? 帰ってこれない!?」

 部室を訪れた絵里と希から話を聞いて、凛は悲観のこもった悲鳴をあげる。先日三原から台風が近づいているとは聞いていたが、結構な大型台風だったらしい。

「そうなの、飛行機が欠航になるみたいで」

 絵里が告げる事実はあることを意味する。それを明らかにしたのは花陽だ。

「じゃあ、ファッションショーのイベントは?」

「残念だけど、6人で歌うしかないわね」

 絵里は淡々と答えた。メンバーに欠員が出たからといって、今更キャンセルなんてできない。6人でやれるよう歌とダンスのパートを変えるしかない。

 「急な話ね」と真姫が珍しく弱音を吐くも、それをにこは「でもやるしかないでしょ」と断じる。

「アイドルはどんなときも、最高のパフォーマンスをするものよ」

 「そうやね」と希が同意する。

 「それで、センターなんだけど」と絵里の視線が凛へと移った。

「凛、リーダーのあなたよ」

 絵里が告げると、凛は掠れた声を漏らしながら顔面を硬直させる。何か言うにしても拒否することは目に見えていたから、口を開く前に絵里と希は隣の更衣室へと引っ張っていく。他のメンバー達と巧も後へ続く。何をするのかと思ったが、すぐに今日が発注した衣装の届く日であることを思い出す。

 希が仕立てたばかりの衣装を見せてくれる。純白のレース素材が使用されていて、ウェディングドレスのようにも見える。花陽は目を輝かせて衣装を見つめているのだが、凛は怖ろしいものを見るかのような形相で「嘘……」と呟く。

「ファッションショーだから、センターで歌う人はこの衣装でって指定が来たのよ」

 絵里の言葉が耳に入っているのかいないのか、凛は笑顔か恐怖か判断しかねる表情のまま震えている。女性はウェディングドレスに憧れを抱くらしいから、「綺麗……、素敵」と漏らす花陽の反応が正しいのだろう。

「女の子の憧れって感じやね」

 希も衣装の出来に満足しているようだ。他のメンバー達も好感を示していると表情で分かる。

「これを着て……歌う……? 凛が……?」

 衣装を指さして声を絞り出す凛の肩に、にこが手を添える。

「穂乃果がいないとなると、今はあなたがリーダーでしょ?」

「これを……凛が………」

 凛は目を剥いたまま乾いた笑い声をあげる。突然のことにメンバー達の表情が引きつり、「凛が壊れた!」と真姫が叫ぶ。

「あ、野生のちんすこうが!」

 天井を指さしてそう言うと、凛は駆け出した。そんな嘘に引っかかったのは希だけだったから、すぐ横を通り過ぎようとしたところで巧は凛の腕を掴む。

「た、巧さん放して!」

「逃げたってどうにもなんねーぞ」

 捕まえたら大人しくなると思ったのだが、凛は猫のように巧の手に噛みついてくる。痛くはないが、驚愕のあまり巧は思わず手を放して逃亡を許してしまう。

「待ちなさーい!」

 廊下へと出ていった凛の後をにこが追った。

 体力のある凛を相手にした鬼ごっこは長丁場になると思ったのだが、流石に鬼役5人を相手取るには分が悪かったのか、凛はすぐに捕まった。逃げた先が屋上だったから、袋の鼠だったこともあるが。

「無理だよ。どう考えても似合わないもん」

 柵の縁石に腰掛けた凛は断固として言う。「そんなことないわ」という絵里の言葉に「そんなことある!」という言葉を被せる。

「だって凛、こんなに髪短いんだよ。巧さんよりも短いよ」

 別に極端に短いわけでもないだろうに。一般的な男と比べたら十分長い。巧の髪も男だったら長いが、女と比べたらショートカットの類だ。

「ショートカットの花嫁さんなんていくらでもいるよ」

 希はそう言うが、凛は「そうじゃなくて」と膝を抱える。

「あんな女の子っぽい服、凛は似合わないって話」

 「普段はともかく」と真姫が。

「ステージじゃスカート履いてるじゃない」

「それは皆と同じ衣装だし、端っこだから………。とにかく、μ’sのためにも凛じゃないほうが良い」

 凛は表情を険しくして、唇を固く結んだ。花陽はそんな親友の顔を覗き込んでいる。

 確かに華やかな衣装だった。普段の凛から、あのような衣装に袖を通す姿をイメージするのは難しい。さっき巧が衣装を見て思い浮かべたのは凛でも、本来着るはずだった穂乃果でもない。あのような衣装を誰よりも着たがるであろう彩子だった。

 「凛」と巧はおもむろに呼ぶ。

「お前、あの衣装着ろ」

 「どうしたのいきなり?」と凛が困惑気味に聞いてくる。我ながら、らしくないと思う。

「リーダーのお前が着るのが筋ってもんだろ」

 巧の物言いに機嫌を損ねたのか、凛の表情が険しくなる。

「何で巧さんが決めるの? 今まで何も言ってこなかったのに!」

「何でもだ! 分かったな!」

 威圧するように吐き捨てる巧に「ねえ」と真姫が瞳に険を込めて巧を見つめてくる。

「何で怒っているのか知らないけど、凛に当たることないじゃない」

 頭に上っていた血が引いていくのを感じる。見渡すとメンバー達から冷たい視線を向けられていて、巧はずかずかと歩きドアを乱暴に開ける。

 階段を降りる途中、「巧さん」と絵里の声が聞こえて、足を止めた巧は振り返る。

「何であんなこと……」

「贅沢なんだよ凛の奴」

「何かあったんですか?」

「…………別に」

 それだけ言って巧は階段を降りていった。

 

 ♦

 オートバジンを路肩に停めると、巧はヘルメットを脱いで店の引き戸を開ける。

「ただいま」

 「あら」と商品の団子をつまみ食いしていた高坂母は拍子抜けしながらも、優しく微笑んで巧を出迎えてくれる。

「おかえり。今日も練習早く終わったの?」

「ええ、まあ」

 歯切れ悪く答えると、巧は2階へと上がり部屋にヘルメットと荷物を置いて、エプロンを着て店へと戻る。

「店番、変わります」

「別に大丈夫よ。この通り今は暇だし」

 高坂母は笑いながら団子の乗った皿を見せて、残りの1本を巧へと差し出す。「どうも」と受け取った巧は団子を食べる。

「何を悩んでるのかは聞かないけど、あまり背負い過ぎちゃ駄目よ」

 顔に出ていたのか。巧はいつもの憮然とした表情をしてみるも、高坂母は微笑を浮かべたまま巧を見つめてくる。

「アイロンがけお願いできる?」

「ええ、やっときます」

 本当に高坂母は何も追及してこなかった。追及されても答えられる事柄じゃないし、一介の夫人に解決できることでもない。

 居間で衣服にアイロンをかけながら、巧はさっき凛に言い放ってしまったことを回顧しため息をつく。年長者なのに、何て子供じみた言動を取ってしまったのか。人間である凛にオルフェノクの苦悩を押し付けるだなんて間違っている。真姫に言われた通り八つ当たりだ。少しは以前よりも変われたと思っていたが、全く成長していない。

 服の量はそれほど多くなかったから、アイロンがけはすぐに終わった。テレビを点けるが、どの番組も夕方のニュースばかりで退屈だ。巧はテレビを消すとポケットから出した携帯電話を操作し、耳に当てる。

『もしもし、たっくん?』

 端末から聞こえてくる穂乃果の声を聞いて奇妙な懐かしさにとらわれる。最後に会話をしたのはまだ2日前だというのに。

「楽しんでるか?」

『全然。雨でずっとホテルに待ちぼうけだよ。あ、さっき絵里ちゃんから聞いたんだけど、センター花陽ちゃんになったんだね』

「そうなのか?」

 『もうー』と電話越しで穂乃果が不貞腐れている様子が目に浮かぶ。多分、巧が帰ってから話し合って決めたのだろう。もしかしたら凛が押し付けたのかもしれないが。

『ちゃんと練習見てくれてるの?』

「見てるさ。一応」

 他愛もない短い会話だが、穂乃果の声を聞いて少しだけ気持ちが和らぐ。だから、巧は穂乃果に聞くことにした。高坂母に言われた通り、肩に背負うものを少しだけ降ろしてみようと思う。

「穂乃果。お前、センターは花陽で良いと思うか?」

 『え?』と穂乃果はしばらく逡巡し、何となくといった声色で答える。

『皆が決めたんだったら、それで良いと思うよ』

「その皆が納得してないみたいなんだ。特に花陽はな。多分、センターも凛が駄々こねて嫌がったんだろ」

『たっくんは、どう思う?』

「俺が口を出しても、余計なこと言っちまうだけだ」

『たっくんに決めてほしいんじゃないよ。このままで良いのかなってこと』

 巧は言葉を詰まらせてしまう。これでは凛と同類だ。自分の意を出すとなると萎縮してしまう。

「俺は、このままイベントで歌っても良くないと思う。やせ我慢なんてμ’sらしくない」

 強制でも何でもない。やりたいからという理由でμ’sは始まった。ラブライブへの出場も、メンバー全員の意思だ。凛だって、本当に自分が女らしくないと思っているのならアイドルなんてやらないはずだ。彼女の中では、まだ女としての願望があるのではないか。

 穂乃果の笑い声が聞こえてくる。

『じゃあ、1番良い方法考えなくちゃね』

「お前だったらどうする?」

『それは自分で決めなくちゃ。花陽ちゃんが納得してないなら、どうするか決めるのは花陽ちゃんだよ』

 

 ♦

 那覇市の空は青く晴れている。照り付ける太陽はあっという間に濡れた道路を乾かしてしまい、昨日まで雨が降っていたことなどまるで忘却したように思える。

「ねえ啓太郎、本当に大丈夫?」

 沖縄そばを口に含みながら、真理は一向に箸を動かさない啓太郎に声をかける。啓太郎は「うん、大丈夫……」と消え入りそうな声を発しながら荒い呼吸を繰り返している。

「無理しなくていいよ。俺が食べるから」

 修二がそう言うと、啓太郎は「ううん」と箸を握り目の前ですっかり冷めきった沖縄そばへと向き合う。

「せっかくの沖縄だし……、楽しまなきゃ……」

 だが啓太郎はすぐ口に手を当てて、席を立つとトイレへと駆けこんでいく。

「だから部屋で休んでなって言ったのに………」

 啓太郎が消えていったトイレのドアを眺めながら、真理は麺を啜った。

「仕方ないわよ。菊池さん楽しみにしてたんだから」

 里奈が苦笑交じりに言うと、真理はため息をつく。

「子供じゃないんだし………」

 確かに年甲斐もないとは思うが、啓太郎がああなってしまった原因は真理にあるわけで。

「昨日真理が飲ませたからだろ」

「私別に勧めてないわよ。啓太郎が勝手に張り合って勝手に潰れたんだから」

 修二の言葉に真理は口をとがらせた。

 昨日、ずっと雨続きで観光ができなかったので、ホテルの客室で昼間から酒盛りをしていた。啓太郎は沖縄の泡盛に呑まれてしまったのだ。案の定今朝から二日酔いで、部屋で休むように言ったのだが本人は一歩も譲らず観光に付いてきた。

 というより、何故真理と里奈は何事もなかったかのように沖縄そばを食べていられるのか。修二には2人が常人に見えない。泡盛の1升瓶を空にしたが、普段は酒を殆ど飲まない啓太郎はストレート1杯でやられた。瓶に詰まった酒の大半を胃袋に収めたのは真理と里奈だ。しかもストレートで。

 因みに修二は1滴も飲んでいない。いざという時に泥酔していたから戦えなかったなんて洒落にならない。短期間で音ノ木坂学院と同じホテルと飛行機のチケットを取った苦労がおしゃかになってしまう。

 満を持しての晴天ということもあって、音ノ木坂学院の生徒達も街へ観光に出ている。基本的に自由行動らしくどこへ行くか予想できないから、こうしてμ’sメンバーを追って店の中から張るのも苦労する。しかもただの旅行と思っている3人に勘付かれないように神経を擦り減らしている。

 μ’sの2年生達。穂乃果、海未、ことりは土産物屋で買い物をしているところだった。

「三原君。さっきから何女子高生見てるの?」

 スープを飲み干した真理にそう聞かれ、修二は「いや……」と適当な理由を並べる。

「修学旅行かなってさ。高校の頃思い出して」

「へえ、修学旅行かあ」

 真理は物憂げに制服を着た生徒達を眺めている。真理は高校に通っていなかったから、何か羨望のようなものがあるのかもしれない。

 啓太郎がトイレから出てくると、4人は店を出て観光を再開した。修二はμ’sの3人から目を離すことなく、真理達を誘導しながら街へ、首里城へと後を追った。何だかストーカーみたいだな、と自嘲するが、追っているのはスクールアイドルだから立派なストーカーかもしれない。

「せっかくの旅行なんだし、それ持ってこなくても良かったんじゃない?」

 里奈にそう聞かれたのは、琉球王国の王が葬られた玉陵(たまうどぅん)の遺跡を歩いているときだった。それとは、修二が肌身離さず持っているデルタギアを納めたアタッシュケースだ。

「いや、用心しておくに越したことはないよ」

「でも、最近はオルフェノクも出なくなったし」

「忘れた頃に出るかもしれないだろ」

 里奈の言う通り、ここ数ヶ月はオルフェノクを見なくなった。まるで恐怖の潮が引いていくようだった。オルフェノクは質の悪い悪夢だったかのように、かつての穏やかな日々へと還元されたという思いにとらわれる。

 「ちょっと啓太郎!」と、後ろを歩いているはずの真理の声が聞こえる。振り返ると啓太郎が盛大に吐瀉物を撒き散らしている。やはり昼食を食べさせるのはよくなかった。

 里奈が2人のもとへ駆け寄っていき、修二も後に続こうとしたのだが、「君」と呼び止められる。制帽を被った中年の警察官が近付いてくる。

「君か。女子高生の後をつけているとかいう奴は」

「え、いやその……」

「持っているそれは何だ? 見せなさい」

 警官が修二の持っているケースへと手を伸ばす。修二はそれを拒むが、警官はしつこい。

「君、公務執行妨害で処罰するぞ」

 そう言うと、警官の顔に黒い筋が浮かぶ。

 三原は駆け出した。遺跡の奥に広がる森へと逃げ込み、ケースを開いてベルトを腰に巻く。ばき、と木の枝が折れる音が聞こえ、その方向へ視線を向けると警官がゆっくりと歩いてくる。

「仕事はμ’sの始末だが、デルタのベルトは良いおまけだな」

 警官はオルフェノクに変身した。頭から牛のような角が左右に伸びる。修二はデルタフォンを耳元に掲げ、音声コードを入力する。

「変身!」

『Standing by』

『Complete』

 白のフォトンストリームに包まれ、眩い光を放ち、修二はデルタに変身する。

 オックスオルフェノクは剛腕を振るい、鉄球のような拳が迫ってくる。デルタは拳を避けてオックスオルフェノクの腹に拳を打つが、敵は意に介した様子もなくもう片方の鉄球を上から振り下ろす。背中に凄まじい衝撃が走り、地面に叩きつけられたデルタはベルトからムーバーを手に取る。

「ファイア!」

『Burst Mode』

 追撃の鉄球を見舞おうとしたオックスオルフェノクの顔面に銃口を向け引き金を引く。外したが、フォトンブラッドのビームが掠めたオックスオルフェノクの右角が穿たれた。デルタは敵の腹を蹴って間合いを取り、すぐに立ち上がるとムーバーにミッションメモリーを挿入する。

『Ready』

「チェック!」

『Exceed Charge』

 デルタは銃身が伸びたムーバーを敵に向けた。オックスオルフェノクは巨体に見合わず駆け出してくる。フォトンストリームを通じてエネルギーがツールへ充填されると同時に引き金を引く。

 紫色のマーカーがオックスオルフェノクを捉えた。

「だあああああああああっ!」

 跳躍したデルタは雄叫びと共にルシファーズハンマーを叩き込む。オックスオルフェノクの巨体を貫き背後に降り立つと、灰色の巨体は赤い炎に焼かれて崩れていく。地面に落ちた灰が立ち昇らせる埃のなかで、ギリシャ文字のΔがしばし佇んで消えていった。

「三原君!」

 森の中を里奈と真理が駆けてくる。デルタはフォンをムーバーから外して変身を解除する。

「今の、オルフェノク?」

「ああ、でも倒したよ。もう大丈夫」

 修二はそう言って、腰から外したベルトをケースに納めた。「みんなー……」と情けない声をあげながら、ふらついた足取りで啓太郎が歩いてくる。

「ああもう。菊池さん休んでてって言ったのに」

 里奈は呆れた様子で啓太郎へと駆け寄っていく。だが真理は後を追わず、ケースにロックをかけた修二を注視している。

「三原君、オルフェノクが出るって知ってたの?」

「まさか、偶然だよ」

 そう言って修二は啓太郎と里奈のもとへと歩き出すが、真理は目の前に回り込んで行く手を阻む。

「三原君、こっちに来てからおかしいよ。よく女子高生の子達見てるし。ねえ、何が起こってるの?」

 真理の表情は鬼気迫るものだった。年下ながらその気迫におののき、言葉を詰まらせる。

「もしかして、巧も関係してるの? 巧がどこにいるのか知ってるの?」

 修二は逡巡する。真理は修二の両肩を掴んだ。

「ねえお願い、巧の居場所を教えて。巧はもうあまり生きられないんだよ? もう一度会いたいの」

 できることなら、修二も2人を会わせてやりたい。でも巧は今この瞬間も戦っているのだ。音ノ木坂学院と、μ’sと、そして真理達を守るために。彼の意思を足蹴にすることはできない。

「ごめん……。俺も知らないんだ。本当にごめん………」

 修二は真理の手を退けて、逃げるように歩き出した。

 

 ♦

 巧は無人の更衣室で、物言わずに出番を待つ純白の衣装を眺める。前に見た時とは少し形が違うように思える。センターが花陽に決まった際、手直ししたのだろう。

 しばらく待っていると、ドアをノックする音が聞こえる。「ああ」と巧が返事をすると、控え目な音を立てて花陽が入ってくる。電話で約束した時間ぴったりだ。せっかくの昼休みに悪いとは思うが、朝と放課後は練習がある。

「巧さん、話って何ですか?」

「昨日穂乃果から聞いたぞ。センターは花陽になったんだってな」

「はい。リーダーだからって、全部凛ちゃんに押し付けるのは良くないってことになって」

 押し付けられたのはお前の方じゃないのか。その余計な言葉を押し留めて、巧は尋ねる。

「お前、本当にそれで良いのか?」

「わたし、よく分からなくて………」

「穂乃果が言ってたんだ。どうするのか決めるのは花陽自身だって」

「わたしが?」

「お前はどうしたいんだ?」

 花陽は自分が着る衣装を見つめる。あんなに目を輝かせていたというのに、今の花陽の目からはその光を感じない。

「わたし、凛ちゃんにこの衣装着てほしいです。凛ちゃんに、自分が可愛いって分かってもらいたい」

 「でも……」と花陽は視線を落とす。

「強引にやらせるのは、良くないと思って………」

「今更何言ってんだ? お前らずっと強引だったじゃねーか」

 「え?」と花陽は巧を見上げる。

「にこも絵里も強引にμ’s入らされたようなもんだし、お前だって凛と真姫に強引に穂乃果達のとこ連れてかれたろ。俺だって最初は嫌だったのに付き合わされてたしな。考えてみりゃ穂乃果のやつ、後先考えずにすぐ突っ走りやがって」

 このままだと穂乃果への愚痴が止まらなくなりそうで、巧は一旦呼吸を整えて苛立ちを押し戻す。

「そうやって今までやってきたんだ。凛にも強引なくらいが丁度良い。てか、あいつはそれくらいやらないと観念しないだろうしな」

「でも、凛ちゃんはとても繊細なんです。もし傷付けちゃったら………」

「それで何もしなくて、あいつが自分を卑下したままで良いのか? お前らの仲はその程度なのかよ?」

 「違います!」と花陽は声を荒げる。

「凛ちゃんはわたしの1番大切な友達です!」

「じゃあ、やることはもう決まってるんじゃないのか?」

 巧がそう言うと、花陽は目を見開く。その視線を衣装へと移し、純白のドレスを見つめる。その目に光が宿ったように見えた。

 

 

 ♦

 ファッションショーの会場はもっぱら女性客で賑わっていた。ランウェイでは手足がすらりと伸びたモデルの女性達が颯爽と歩き、観客達に各ブランドが発表した新作の服をアピールしている。

「凛ちゃん、そろそろ準備せんと」

 ステージ袖からショーを見物していた1年生達とにこに、希が呼びかける。楽屋へ向かう途中、芸能事務所の関係者らしき人から絵里が名刺を差し出されたのを見かけた。絵里は美人だし、やっぱり凄いと凛は思う。こういう華やかな場も、絵里のような女の子らしい人がよく似合う。

「じゃあみんな。着替えて最後にもう一度、踊りを合わせるにゃ」

 楽屋で凛はメンバー達に呼び掛ける。リーダーとして最後の日だが、こうして指示を出すこともようやく慣れてきた。

 「凛ちゃんの衣装そっちね」と花陽に促されて、凛は仕切られたカーテンを開ける。姿見の前に置かれた衣装を見て、凛は動きを止めた。そこにあるのは、センター専用のウェディングドレスをモチーフとした衣装だった。

「かよちん間違って――」

 振り返ると、他のメンバー達は既に着替えを済ませていた。センター用とは真逆の、黒を基調としたタキシードのような衣装に。

 「間違ってないよ」と花陽が微笑む。

 「あなたがそれを着るのよ、凛」と真姫も。

「な、何言ってるの? センターはかよちんに決まったでしょ? それで練習もしてきたし………」

 「大丈夫よ」と絵里が。

「ちゃんと今朝、皆で合わせてきたから。凛がセンターで歌うように」

 思い返せば、集合には凛が最後に来ていた。メンバー達は凛に隠れてこんなことを準備していたというのか。

「そ、そんな……。冗談はやめてよ」

「冗談で言ってると思う?」

 にこが真面目な口調で言う。「で、でも……」とかしこまる凛の前へ花陽が歩み出る。

「凛ちゃん。わたしね、凛ちゃんの気持ち考えて困っているだろうなって思って引き受けたの。でも、巧さんに言われて思い出したよ。わたしがμ’sに入ったときのこと」

 それは凛も覚えている。ずっとアイドルになることを夢見ていた花陽が、目の前にチャンスがあるのに立ち止まっているのを見ていられなかった。十分アイドルになれる容姿を持っているのに、自分に自信を持てない親友の背中を押さずにはいられなかった。

 「今度はわたしの番」と花陽は凛の手を取る。

「凛ちゃんは、可愛いよ」

 「みんな言ってたわよ」と真姫が。

「μ’sで1番女の子っぽいのは、凛かもしれないって」

「そ、そんなこと――」

「そんなことある!」

 花陽は強く言った。アイドルのことを語るとき以外で、こんな花陽を見るのは長い付き合いのなかで初めてだった。

「だって、わたしが可愛いって思ってるもん! 抱きしめちゃいたいくらい、可愛いって思ってるもん!」

 凛は目を丸くして花陽を見つめる。顔が熱くなっているのが分かる。花陽も自分の言っていることに気付き、恥ずかしそうに苦笑する。

「花陽の気持ちも分かるわ」

 そう言って真姫は出番を待つ衣装へと目配せする。

「見てみなさいよ、あの衣装。1番似合うわよ、凛が」

 凛は姿見に映る自分を眺める。本当に、自分にこの衣装が似合うのだろうか。そう思っていると、背後に花陽と真姫が立つのが見える。

 ぽん、と背中に温かい感触が乗る。

 優しい、そして強い力によって、凛は1歩前へと踏み出した。

 

 ♦

「さあ、巧さんも着替えてください」

 絵里からそう言われたのは、メンバー達の着替えが済んだ頃だった。楽屋の外で待っていた巧は中へ連れ込まれて、時間が無いからと有無を言わさず服を着替えさせられた。

「なあ、これどういうことなんだ?」

 真姫に整髪スプレーを頭に吹きつけられながら、状況を把握する暇すら与えられなかった巧は尋ねる。

 何で自分は黒のタキシードを着なければいけないのか。

 何で凛と並んで立たされているのか。

「演出でセンターボーカルを男性モデルがステージまで連れていく予定だったんですけど、そのモデルさんが急病になったらしくて。巧さんなら代役にぴったりって、プロデューサーの方が」

 絵里の説明を聞いても府に落ちない。ならひとりでステージに行かせればいいじゃないか。その文句を言っても手遅れだ。もう真姫が巧の髪をセットし終えて、準備万端になってしまった。

「衣装のサイズが合って良かったやん」

 希が嬉しそうに言う。

「俺にやらせて良いのかよ?」

 「大丈夫よ」とにこが悪戯な笑みを浮かべている。

「凛と一緒にステージまで歩いて、さっさとはけるだけだから。何、照れてんの?」

「誰が」

 舞台袖で凛と並んで待機してしばらくすると、会場の照明が消えていく。

 「ねえ、巧さん」と隣に立つ凛が巧を見上げてくる。

「この衣装、似合ってるかな?」

 恥ずかしそうに凛は尋ねた。純白のレース生地で繕われたドレス。それは凛の純粋な心を表しているようだ。真っ白で、何の穢れもない。

「ああ、似合ってる。口の悪い俺が言うんだから間違いない」

 誉め言葉としては酷いものだ。それでも凛は控え目ながらも笑っている。

「でも、やっぱり恥ずかしいね。こういうの。何だか花嫁さんみたい」

「いつか嫁に行くときにまた着るだろ。そういうドレス」

「じゃあ、今日は巧さんが花婿さんかな?」

「馬鹿言うな。そろそろ行くぞ」

 オルフェノクの花嫁になるなんて、質の悪すぎる冗談だ。

 巧と凛は腕を組んでステージへと歩き出す。照明は落ちたままで、真っ暗なセンターまでの道のりをバージンロードのように、ゆっくりと1歩を噛み締めるように歩く。

 センターへと到達し、巧がステージの袖へ戻ると凛へスポットライトの光が当てられる。その瞬間、会場に歓声が沸いた。観客達は凛の姿に賛辞を贈っている。歓声に包まれながら、凛はブーケのように花で飾られたマイクを両手で握り、挨拶の弁を述べる。

「初めまして。音ノ木坂学院スクールアイドル、μ’sです」

 「可愛い」、「綺麗」という声が観客席から聞こえてくる。袖で待機しているメンバー達は凛を見守り、花陽は目尻に涙を浮かべながら「可愛いよ」と呟く。あの時と立場が逆だな、と笑みを零しながら巧は奥へと引く。巧の出番はここで終わりだ。後はμ’sのステージになる。

 タキシードを着たメンバー達が舞台へと出た。

「ありがとうございます。えっと、本来メンバーは9人なんですが、今日は都合により6人で歌わせてもらいます。でも、残り3人の想いも込めて歌います」

 壁に背を預けてステージを見ていた巧の耳孔に足音が入り込んでくる。振り返ると彩子が立っている。

「それでは、1番可愛いわたし達を見ていってください」

 曲のイントロが始まる。巧は彩子へと近付き、「どうしてお前が?」と尋ねる。

「うちの生徒がモデルとして出るので、その付き添いで」

「お前、そんなこともやってんのか」

「ここには芸能事務所の人とかもいますから、もしかしたらスカウトとかあるかもって期待して」

 苦笑する彩子は視線をステージへと移す。タキシードのメンバー達は1歩引いて踊り、前に出た凛は衣装のフリルを揺らしながら歌っている。

「星空凛ちゃん。可愛いですね」

「ああ。あいつ、直前まで自分は可愛くないとか言ってたんだぜ」

「ええ? あんなに可愛いのに?」

 ウェディングドレスは女性の美しさを最も引き出すらしい。いつかテレビ番組でそれを聞いたときは綺麗言と思っていたが、案外正しいのかもしれない。凛が着ているのは本物ではないから、いつか結婚式を挙げて本物を着たとき、今以上に美しく輝くのだろうか。

「わたしも、あんな風に可愛くなれるかな?」

 彩子は羨望の眼差しを向けながら呟く。

 巧は思う。誰だって美しくなれる瞬間が訪れる。たとえ一生のなかの一瞬でも。その瞬間、そこにいる誰よりも眩い光のように。

 たとえ、オルフェノクであっても。

「なれるだろ。きっと」




 文字数が多くなる理由が分かりました。戦闘シーンに力入れ過ぎたからです!
 でも戦闘は手を抜けないんですよねえ。だって原作の片方が特撮なんですもん(泣)。


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第6話 ハッピーハロウィーン / 夢の亡霊

 コンセレでカイザギアの発売が決定とな!
 嬉しいとか楽しみとか思いのたけをぶちまけたら長くなるので、取り敢えずこれだけ言わせてください。

 出すのが遅いわ!
 どれだけこの時を待ったことか‼

 こんなテンションで書いたので今回は色々とやらかしました(笑)


「ハロウィンイベント?」

 帰り道に寄ったハンバーガーショップで、店内を彩る装飾を眺めながら穂乃果は反芻する。「ええ」と、その提案をしてきた絵里が席につく全員に尋ねる。

「皆ハロウィンは知ってるでしょ?」

 花陽が窓際に置かれたジャックオランタンへ視線を向ける。

「ここにも飾ってあるカボチャとかの?」

 一応知っているが、あまり馴染みがないといった様子だ。他の面々も似たような反応を見せる。巧も同様だ。高坂父が先月からカボチャを使った新作和菓子の試作に取り掛かっていて、巧もよく味見を手伝っていた。とはいえ、高坂父もあまりハロウィンを知らないようだったが。

「実は今年、秋葉をハロウィンストリートにするイベントがあるらしくてね。地元のスクールアイドルであるA-RISEとμ’sにも出演依頼が来ているのよ」

 絵里の説明を聞いて、穂乃果は感慨深そうに「ほえー」と漏らす。

「予選を突破してからというもの何だか凄いね」

 「でもそれって歌うってこと?」と、イベント出演に伴うことを真姫が尋ねる。アイドルが単に顔見せだけで依頼はされないだろう。真姫の予想は当たっていて、「そうみたいやね」と希が答える。

「ありがたい話だけど、この前のファッションショーといい、こんなことやってて良いの? 最終予選も近いのに」

 真姫の言う通り、今のμ’sは最終予選に向けて新曲の製作と練習に打ち込みたいところだ。期間はあと1ヶ月と少ししかない。

 「そうよ」とにこも同意している。

「わたし達の目標はラブライブ優勝でしょ?」

「確かにそうだけど、こういう地道な活動も重要よ。イベントにはテレビ局の取材も来るみたいだし」

 絵里がそう言うと、「えええええ、テレビ!?」とにこは興奮のあまり立ち上がる。「態度変わりすぎ」と真姫が呆れ気味に言う。みっともないから座れ、と巧も思いながらパンプキンジュースを飲む。馴染みがない味で、一口だけ口に含んで紙コップを置いた。

「A-RISEと一緒ってことは、みんな注目するよね。緊張しちゃうな」

 不安と期待の両方を感じさせる面持ちで花陽が言う。

「でも、それだけ名前覚えてもらうチャンスだよ」

 「そうよ」とにこが凛の言葉を引き継ぐ。

「A-RISEよりインパクトの強いパフォーマンスでお客さんの脳裏にわたし達の存在を焼き付けるのよ!」

 「おおー」と興奮が伝播したのか、穂乃果が未だ冷めた様子の真姫へと向いて。

「真姫ちゃん、これからはインパクトだよ!」

 真姫が無言で呆れた視線を返しているところで、巧はこの場に覚える違和感を指摘する。

「そういや、海未とことりはどうしたんだ?」

 「生徒会じゃないの?」と真姫が答える。2人が生徒会の仕事をしているというのなら、何故この場に穂乃果がいるのか。

「お前、生徒会の仕事しなくていいのか?」

 巧がそう言うと、穂乃果の顔から血の気が一気に引いていく。まさか忘れていたのか、と巧がため息をつくと、丁度ローファーの靴音がこちらへと近付いてくる。

「ごきげんよう」

 海未が穏やかに言う。隣にいることりは「さ、探したんだよ………」と所在なさげに微笑んでいて、穂乃果は表情を引きつらせる。

 「へえ」と海未は笑みを浮かべる。

「これからはインパクト、なんですね」

 穂乃果は乾いた笑みを返して、次に恐怖の色を表情に出した。

「こんなインパクト、いらない………」

 

 ♦

 インパクト。

 その単語を何度聞いたことだろう。数える気にもなれず、巧の脳裏にもずっとインパクトという単語が貼り付いて離れなくなっている。メンバーの間では何かにつけてインパクトだ。秋葉原のハロウィンイベントでいかに客の印象に残るか。それについてはミーティングの度に議題として挙がっているが、未だに結論は出ていない。

 出演依頼は、単純にイベントを盛り上げてほしいということだ。別に大会じゃないし、気を張る必要もない。当初穂乃果はその姿勢だったのだが、にこを始めとして他のメンバー達はとにかくインパクトを求めている。というのも、イベントにはA-RISEも出演するというのが最もな理由だ。客の印象に残れば、最終予選の投票にも優位に働く。

 即ち、イベントは前哨戦ということ。

「今日から始まりました秋葉ハロウィンフェスタ! テレビの前の皆、はっちゃけてるかい‼」

 マイクを片手に女性司会者がやたら意気揚々と進行を務めている。路上に特設されたステージに集まる観客達は歓声で応え、普段から人が多い秋葉原の街を盛り上げている。μ’s代表として制服で赴いた穂乃果、にこ、凛よりも仮装した観客と司会者のほうがインパクトを感じる。

「ご覧の通りイベントは大盛り上がり! 仮装を楽しんでいる人もたくさん! 皆もまだ間に合うよ!」

 「そして何となんと!」と司会者はステージに所在なさげに立っている3人へと近付く。

「イベントの最終日にはスクールアイドルがライブを披露してくれるんだ!」

 「やっほー! はっちゃけてる?」と司会者に振られた穂乃果は「あ、う……」と緊張した面持ちで口ごもる。死んでもあの司会者とは絡みたくないな、と観客に混ざっている巧は思った。

「ライブにかけての意気込みをどうぞ!」

「せ、精一杯頑張ります……」

 マイクがあるから辛うじて聞こえた。穂乃果はすっかり場の雰囲気に圧倒されているらしい。「よーし!」と司会者は次に凛の隣に移動する。

「そこの君にも聞いちゃうぞ!」

 「ライブ頑張るにゃん」という凛の受け答えは好評のようで、観客達は口々に「可愛い」と言って司会者も凛に頬ずりしている。

「さあというわけで、音ノ木坂学院スクールアイドルでした!」

 司会者の前に、にこがいつものポーズを取ろうとしたのだが、無視されてしまったことへの慰めは後で2人が処理してくれるだろう。

 「そしてそして」という司会者の進行に伴い、スタッフがステージに薄型テレビを台車に乗せて運んでくる。電源が入ると、小さな画面にA-RISEの3人が映る。

「なあんと、A-RISEもライブに参戦だ!」

 会場に歓声が沸き上がる。μ’sの3人が紹介された時よりも大盛況で、思わず鼓膜が破れてしまいそうな巧は耳を手で塞ぐ。画面のなかでツバサが喋り始めるのだが、彼女が何か言う度に歓声が沸くものだからろくに聞こえない。

『わたし達は常日頃、新しいものを取り入れて進化していきたいと考えています。このハロウィンイベントでも、自分達のイメージを良い意味で壊したいですね』

 画面が切り替わり、3人の衣装がハロウィン仕様へと変わる。魔女の装いになったツバサが『ハッピーハロウィーン』と言うと、破裂音と共に紙吹雪が舞い上がる。ひらひらと紙片は宙を舞い降り注いでくる。歓声の中から司会者の声が聞こえてくる。

「何ということでしょう! さすがA-RISE、素晴らしいインパクト! このハロウィンイベント、目が離せないぞ‼」

 ステージを見やるとμ’sの3人はぼんやりと紙吹雪を眺めている。完全に先を越された。μ’sが現状のイメージを打開しようとするように、A-RISEも新しい試みを始めているのだ。流石は前大会優勝グループだ。会場を盛り上げることに抜かりがない。きっと、出演依頼を受けた頃から演出を練っていたのだろう。

 感心するが、巧にとってこの大音響は体に毒だ。人混みから抜けて深呼吸しているところに、「乾さん」と声をかけられる。見やると、彩子が愛衣、里香と並んで立っている。

「凄いでしょ? この演出、わたし達の案なんですよ」

 「紙吹雪はやっぱり鉄板だよね」と愛衣が満足気に会場を眺めている。

「本当は、わたし達のステージでやるはずだったんですけど………」

 里香が肩を落として言った。

「お前らの?」

 巧が聞くと、里香の代わりに彩子が答えてくれる。

「この前のファッションショーで、プロダクションの人からマネジメント契約の話を持ち掛けられたんです。ライブの話もあったんですけど、学校から反対されて破談になっちゃって」

 「でもさ」と愛衣が。

「結果的には良かったじゃない。調べてみたらあの事務所評判悪かったし。下手したら過激なイメビとか撮らされたかもよ」

 愛衣の表情は明るいが、それが取り繕ったものに見える。せっかくのチャンスだったのだ。落ち込まなかったなんてことは無いだろう。

 巧は未だ止まない歓声に包まれた秋葉原の街を見渡す。この街に溢れる夢。叶わなかった夢はどこへ行くのか。ただ虚無へと還り、世界は何事もなかったかのように回り続ける。この世界で、どれだけの夢が叶い、潰えていくのだろう。

「乾さんは、μ’sの子達の夢を守っているんですか?」

 巧の隣へ来た彩子がそう尋ねてくる。「ああ」と巧は答える。彩子は更に質問を重ねた。

「叶うと思いますか?」

「さあな。あいつらの夢を叶えるのは俺じゃない」

「じゃあ、何で」

 質問に答えるのに、巧はしばし逡巡を挟む。

 もし夢が、少女達の成長を促すための通過儀礼に過ぎないとしたら。それが叶っても叶わなくても、辿る未来は同じで意味などなかったとしたら。

「俺が守りたいから、かな」

 巧にはそう答えるしかなかった。

 

 ♦

 μ’sの結成から時間が経ってだらけた空気が生じている。

 

 インパクトについて考えているとき、海未はそう言っていたらしい。だからやるからには思い切り変えようと、巧が学校に来るとメンバー達はいつもとは趣が全く異なる衣装に袖を通していた。作ったのではなく、他の部活を回ってかき集めてきたらしい。

 巧はμ’sの方針には極力口を出さない姿勢を取っていたのだが、グラウンドに集まった彼女らを見て少しは干渉すべきだったと思った。

「あなたの想いをリターンエース。高坂穂乃果です!」

 打ち返すという意味を分かって言っているのか。

「誘惑リボンで狂わせるわ。西木野真姫!」

 お前もよく付き合っているな。

「剥かないで。まだまだわたしは青い果実。小泉花陽です!」

 その衣装はどの部から借りてきた。

「スピリチュアル東洋の魔女。東條希!」

 フレーズが随分と懐かしいな。

「恋愛未満の化学式。園田海未です!」

 お前は弓道部の道着でいいだろう。

「わたしのシュートでハートのマーク付けちゃうぞ。南ことり!」

 シュートを人にぶつけるつもりか。

「キュートスプラーッシュ! 星空凛!」

 秋なのにスクール水着は寒くないのか。

「必殺のピンクポンポン。絢瀬絵里よ!」

 お前はこの茶番を止めろ。

「そしてわたし。不動のセンター矢澤にこにこー!」

 ……………………………………。

「わたし達、部活系アイドルμ’sです!」

 全員でポーズを決めながらそう言うと、一拍遅れて「ってわたし顔見えないじゃない!」と剣道着姿のにこが地団太を踏む。

「いつもと違って新鮮やね」

 バレーボールのユニフォームを着た希は満更でもなさそうだが、隣に立つレオタード姿の真姫は腕を組んで眉根を寄せている。

「スクールアイドルってことを考えると、色んな部活の服を着るというコンセプトは悪くないわね」

 チアリーディングの衣装を着た絵里はそう分析するが、「でも、これだと何か……」と巨大なミカンの着ぐるみを着た花陽が申し訳なさそうに口を挟む。その続きは兜を脱いだにこが引き継ぐ。

「ふざけてるみたいじゃない!」

 「そんなことないよ!」とテニスウェアを着た穂乃果は反論する。「すいすいー!」とその辺で泳ぎの真似事をしている凛はなるべく見ないようにしよう、と巧は視線を逸らす。鬱陶しくて怒鳴ってしまいそうだ。

 「ひとつ良いですか」と白衣を着た海未が穂乃果に尋ねる。

「わたしのこの格好は一体、何の部活なのでしょうか?」

「科学部だよ!」

「では花陽のこれは?」

「多分、演劇部?」

 「ていうか」と真姫がようやく口を開く。

「そもそもこれでステージに上がるなんてあり得ないでしょ」

 その言葉でようやく冷静にものが見えたのか、絵里が呟く。

「確かに……」

 案が出た段階で気付け、と巧は思った。

 

 ♦

 衣装を各部へと返却し、部室でミーティング、というよりも反省会を経て、巧はメンバーよりも一足先に屋上へと向かった。新しい衣装に着替えるからと追い出されたが、嫌な予感がしてたまらない。

 その予感は見事に的中してしまうものだ。

「おはようございまーす!」

 いつもの口調で海未の練習着を着た穂乃果が屋上へと出てくる。「あっ」と声を漏らした後、改めて普段とは真逆な落ち着いた口調になる。

「ごきげんよう」

 「海未、ハラショー」と絵里の練習着を着て、髪型をいつものサイドテールからポニーテールへと変えたことりが出迎える。「絵里、早いですね」と穂乃果は返した。

 「そして凛も」と2人は海未へと向く。凛の練習着を着た海未は恥ずかしそうに俯いている。以前のストリートダンサー然とした練習着だったら羞恥も無かっただろうが、ファッションショーでこれまでの迷いが消えたのか、凛はミニスカートの練習着を新調した。良い傾向だと思っていたが、まさかこんな事になるとは予想もつかなかった。

「無理です!」

 スカートを手で抑えながら海未が悲痛に言う。凛よりも背が高いからスカート丈が短くなってしまうのだろう。

「駄目ですよ。ちゃんと凛になりきってください」

 穂乃果がそう言って海未に詰め寄る。

「あなたが言い出したのでしょう。空気を変えてみた方が良いと」

 「さあ凛!」と穂乃果が促すと、目に涙すら浮かべていた海未は意を決したのか「にゃー!」と両手を挙げる。

「さあ、今日も練習いっくにゃー!」

 後で膝を抱えなければいいが。巧がそう思っていると、「何それ意味わかんない」と真姫の練習着を着た凛が本物と同様に髪を指先でいじっている。こちらは本物よりも背が低いからレギンスの裾が余っている。

「真姫、そんな話し方はいけません」

 穂乃果が嗜めると、凛は「面倒な人」とそっぽを向く。堪えられなかったのか、希の練習着を着た真姫が「ちょっと凛!」とドアを乱暴に開けて出てくる。

「それわたしの真似でしょ? やめて!」

「お断りします」

 よく似ている、とは本人の前で言わないほうが良さそうだ。

「おはようございます、希」

 そう挨拶をする穂乃果に真姫は引きつった笑みを浮かべる。怯えているようにも見えた。「喋らないのはずるいにゃー」と海未が抱きついて、「そうよ、皆で決めたでしょ」とことりが本物に似た口調で言う。

 「べ、別にそんなこと……」と抵抗を試みるも、この場を逃げ切るのは不可能と悟ったのか真姫は顔を真っ赤に染める。

「言った覚え……、ないやん」

「希、凄いです!」

 穂乃果がそう言ったところで、ドアが開いて次のメンバーが入ってくる。

「にっこにっこにー! あなたのハートににこにこにー。笑顔届ける矢澤にこにこー。青空も、にこ!」

 「ハラショー」とことりがにこの練習着を着た花陽にサムズアップする。

「にこは思ったよりにこっぽいわね」

 そんな仕草を絵里はしていたか、と思いながら巧も花陽に感心する。本物よりも鬱陶しさがない分、こっちのほうがまだ見られる。

 「にこ!」と返す花陽の肩を、ことりの練習着を着たにこが掴む。笑顔を浮かべているが引きつっている。

「にこちゃん、にこはそんな感じじゃないよ」

 「ことり」と呼ぶ穂乃果の隣で本物が苦笑を浮かべている。目の前で自分の真似をされたら誰だって何か思うことはあるだろう。そう思いながら巧は買っておいた缶コーヒーのプルトップを空けて中身を啜る。

 丁度そこへ希がやってきた。

「俺には夢は無い。でもな、夢を守ることはできる。変身!」

 ぶっ、と巧はコーヒーを吹き出してしまう。幸いメンバー達から離れていたから掛かることはなかった。咳き込みながら巧は自分の服を着た希を凝視する。直前に服を上下一式持ってくるようにと家まで取りに行かされたのはこのためだったのか。男物の服だから希にはサイズが大きすぎて、コートの裾から手は半分も出ていない。しかも律儀にファイズギアまで腰に巻いてフォンを掲げている。流石にコード入力まではしていないが。

「大変です!」

 冷静になる前に、花陽の練習着を着た絵里が出てきてメンバー達の視線を集める。「どうしたのです?」と穂乃果が聞くと絵里は胸に手を当てて深呼吸し、「み、皆が……。皆があああ」と伸ばす。メンバー達が待った末、絵里は目を細めて告げた。

「変よ」

「気付くのおせーよ」

 「てか」と巧は希に詰め寄ってその手からフォンを取り上げる。

「何でお前は俺の服着てんだよ! 穂乃果のじゃねーのか?」

「んー、ボーイッシュな?」

 希は悪びれもせずに笑って言う。

「大体俺はそんなこと言ったか?」

 言ったことはあるのだが、当時はまだμ’sと出会う前だったわけで。

「言ってないけど、何となく巧さんっぽいなって」

「お前なあ………」

 呆れて何も言えなくなる。「そうだよ」と穂乃果が言った。

「たっくんにだって夢はあるんだし」

 「え、どんな?」と凛が興味を持ち始めて、「えっとねー」と喋り出しそうな穂乃果の肩を巧は掴む。

「言うな」

「え? 別に良いじゃ――」

「良くねえ」

 巧の剣幕に押され、穂乃果は「う、うん……」とおそるおそる頷いた。

 

 ♦

 いっそアイドルらしさから離れてみてはどうか。

 

 反省会の場で絵里はそう言っていた。正直、巧にはアイドルはどのグループも似たり寄ったりに見える。だから絵里の意見には一理あるし、にこも新しさとは根本のイメージを変えるものと言っていた。

 そんな従来のイメージと大きく離れた衣装に袖を通したメンバー達を見て、巧はやっぱり自分も意見すべきだったと不干渉を悔いた。だがもう後の祭りで、下校する生徒達を茂みから見定める彼女らをただ傍観することしかできずにいる。こんなことで自分の無力さを痛感するとは思わなかった。

 茂みの中から彼女らが飛び出してくると、放課後どこへ遊びに行くかと会話に華を咲かせていた生徒達が悲鳴をあげる。

 黒革のヘヴィメタル風の衣装を着たメンバー達。そのセンターに立つ穂乃果はマントを翻して、白と黒のメイクを施した顔を向けて「くはあっ」と吼える。

「皆さん、お久しぶり。我々はスクールアイドル、μ’sである」

 全員が同じ趣の衣装なのだが、表情から殆どがあまり乗り気でないことが分かる。凛と希はどこか楽しそうに見えるのは気のせいだと思いたい。誰も反対意見を出さなかったのはそれほど切羽詰まった状況だからとか、よくその衣装を揃えたとか色々と思考が駆け巡っていくのだが、全て無意味に思えてくる。だから巧は思考を止めた。もはや呆れ果てた。

 凄みのきいた声色で穂乃果は続ける。

「今日はイメージを覆す、アナーキーでパンクな――」

 そこでメンバー全員で何やら訳の分からないポーズを取り、一斉に告げる。

「新たなμ’sを見ていくがいい!」

 目を剥いていた生徒達はようやく恐怖の硬直が解けたのか、悲鳴と共に逃げていく。それを見て穂乃果は「おお!」と。

「これはインパクト大みたいだね!」

「いけそうな気がするにゃ!」

 凛も手応えを感じているようだが、そこへ校舎からアナウンスが聞こえてくる。

『アイドル研究部μ’sの皆さんと、マネージャーの乾巧さん。今すぐ理事長室に来てください。繰り返します』

 

 ♦

 理事長室に入ってきたヘヴィメタル衣装のメンバー達を見ても、理事長は特に反応を示すことなく、冷めた視線を向けている。多分、窓から一部始終を見ていたのだろう。メンバー達も頭が冷えたのか、先ほどの威勢が失せてかしこまっている。

 理事長の視線が巧へと移るも、無言のまま戻して尋ねる。

「説明してもらえるかしら?」

 戒めるようなものはなく、穏やかな質問だった。「えーと……」と宙を眺めた穂乃果は呟く。

「何でだっけ?」

 「覚えてないんですか?」と海未が言う。もっとも、巧も何でこうなったのか分からずにいるのだが。

 「理事長」と焦った様子で絵里が弁明を試みる。

「違うんです。ふざけていたわけではないんです!」

 その顔で言われても説得力が無い。理事長の表情から、何となくそう言いたいだろうなと巧は思った。

 「そうなの」とことりも。

「ラブライブに出るためにはどうしたら良いかって皆で話し合って………」

「今までの枠に囚われていては、新しい何かは生み出せないと思ったのです」

 海未も加わるのだが、やはりその顔では説得力が皆無だ。フォローを受けた穂乃果は「そうなんです」と語気を強める。

「わたし達、本気だったんです。怒られるなんて心外です!」

 興奮のあまり持っていた鎖を落として、穂乃果はそれを慌てて拾う。因みにその鎖は巧のウォレットチェーンだ。小道具に良いから貸して欲しいとせがまれたのだ。

「と、とにかく、怒られるのは納得できません!」

 ため息の後、理事長は「分かったわ」と穏やかに微笑む。いくら何でも甘すぎないか、と巧が思っていると。

「じゃあ最終予選はそれで出るということね?」

 「え?」と穂乃果は間の抜けた声をあげる。笑みを崩さず、理事長は続ける。

「それならば、今後その姿で活動することを許可するわ」

 理事長は笑顔だが、どこか圧を感じる。流石に感じ取ったのか、穂乃果は「え……」と口ごもった後に、気をつけをして頭を深々と下げる。他のメンバー達もそれにならった。

「すみませんでした!」

 肩を落としてメンバー達は理事長室を後にする。これからまた反省会だろうな、と思いながら巧も後に続こうとするのだが、「乾さんは残ってください」と理事長に呼び止められた。

 ひどく疲れたようで、理事良はこめかみに指を当ててため息をつく。

「ああいうことをしないよう、あなたにマネージャーをやってもらっているのに………」

「………悪かった」

「まあ、あの子達も反省しているようなのでうるさくは言いません。それよりも、これを見てください」

 理事長はPCの画面を巧へと向ける。画面には誰でも名前を知っていそうな大手電子部品メーカーのホームページが表示されている。

「これがどうした?」

「ここを」

 理事長は画面の隅を指さす。企業の取引先が記載されていて、数多くある企業名の中からその社名を見つけ、巧は目を剥く。

 スマートブレイン株式会社。

「これは……」

「スマートブレインを見つけることができました。ただ、妙なんです」

「妙?」

「こうして企業活動をしていることは確認できるのですが、会社のホームページが見つからないんです。ホームページくらいなら零細企業でも製作できるはずなのに。あの企業は、実体が無いも同然なんです」

 まるで幽霊みたいだな、と巧は思った。でも、その比喩は的を射ているのかもしれない。スマートブレインは今や企業ではなく、「王」を復活させるための集団に過ぎない。世界から人間が消えてオルフェノクの楽園が築かれれば、もはや人間が長い歴史を経て作ってきた社会など不要なのだ。

 まさに幽霊だ。3年前の戦いで生まれた怨念が、今になって呪詛を撒き散らそうとしている。

「そうか。あんたはもう首を突っ込まないほうが良い」

 巧がそう言うと、理事長は納得できない様子で巧の顔をしばし見つめる。

「スマートブレインを壊滅させ、『王』を倒せば、あなたの戦いは終わるんですか?」

「ああ」

 「王」とロブスターオルフェノクを倒すことで戦いに終止符が打たれるのか。それは巧にも分からない。「王」が死んでもしばらくの間オルフェノクは存在しているだろうし、まだ力に溺れる者が人間を襲うかもしれない。

 でも、それでも「王」が死ねばオルフェノクは滅びる。世界から灰色の種が完全に排される未来はそう遠くはない。

「あなたに残された時間がそう長くないことは承知です。ですが、あなたの人生はそれだけではないでしょう?」

 何故そんなことを聞くのだろう。その疑問を表情に出して、巧は無言で佇む。

「過酷な事を任せっきりな私が言えることではありませんが、あなた自身のこれからを考えてみてください。たとえオルフェノクでも、あなたにだって穏やかに生きる権利はあるはずです」

 これから。

 そんなことは常に考えていたことだ。オルフェノクである自分はどう生きていけばいいのか。以前は「いま」の生き方に迷っていた。それは既に、人間として生きると自明に選択している。でも理事長が言っている「これから」とは、今よりもずっと先の未来の話だ。

「考えるのはまだ早いさ。この戦いだって、勝てるか分からないからな」

 そう巧ははぐらかした。

 往人から命を与えられても、巧が生きられるのは長くてあと10年。戦いを終えた後にどうするのか、具体的にはまだ決めていないが断言できることがある。

 木場との約束を果たす。

 死後の世界が存在するのかは分からないが、叶うのなら向こうに行くとき、答えを木場への土産にしていきたい。

 だから答えを見つけ出す。

 

 ♦

 チーズの香り。酸化したビールの香り。紫煙の香り。

 海堂のマンションは色々な香りが入り混じり充満している。こんな部屋にしばらくの間住んでいたなんて、今思えばよく耐えられたものだ。その前にはホームレスの悪臭に満ちた集落に住んでいたから、しっかりとした造りの住居というだけで満足していたのかもしれない。

 部屋の主である海堂は例に漏れずデリバリーピザで巧と琢磨、そして往人をもてなした。ピザ屋もハロウィンフェアらしく、テーブルに置かれたピザには薄くスライスしたカボチャが乗っている。

「週末のイベント、上手くいきそうか?」

 ピザを咥えながら、間の抜けた顔で海堂が尋ねる。

「まだ分からんさ。何かと行き詰まってるからな」

「おいおい大丈夫かよ? 俺楽しみにしてんのに。ちゅーか往人だって穂乃果ちゃんのハロウィン衣装見たいよな?」

 往人はピザを取る手を止めて、「え、ああ、はい……」と歯切れ悪く答える。

「楽しみにしてばかりもいられませんよ」

 呆れた様子でノートPCを立ち上げた琢磨が告げる。

「イベントを襲撃することが決定したのですから、できることならμ’sには出演を辞退してもらった方がありがたいですね」

 「懲りねえよなー」とピザを咀嚼しながら海堂はソファに背を預ける。

「またひとりだけで来るんだろ? 時間稼ぎにもなりやしねえ。んなもん乾がさっさと片付けちまうんだから軍団率いてくりゃ良いじゃねーか」

 往人が苦笑を浮かべ、琢磨は呆れを露骨に出す。

「少しは事情を知っておいてください。霧江さんでも知っていることですよ」

 「マジか!?」と海堂は往人を凝視する。琢磨は面倒臭そうに海堂を一瞥した。

「まあ、ある意味で時間稼ぎではありますがね。スマートブレインの最優先事項は『王』の復活ですから。現状では、音ノ木坂学院の廃校はあまり重視されなくなっています」

 「いつ、『王』は目覚めるんですか?」と往人が尋ねる。同じ疑問を巧も抱いている。音ノ木坂学院の廃校を後回しにするとなれば、「王」の復活はそう遠いものでなくなっているということだ。

「今のペースで補給を受ければ、来年の始めには」

 「そんなに早く……」と往人は絶句する。巧は咥内にまとわりついたピザの脂をコーラで流し込み、口を開く。

「なら、今のうちに奴を倒すべきじゃないのか」

「いえ、まだです」

 琢磨が即答し、巧は苛立ちを露骨に表す。

「俺の体はもう大丈夫だろ。だったら――」

「言ったはずです。冴子さんを倒す術を見つけなければいけないと」

 あくまで、琢磨は冷静に告げる。ノートPCの画面を巧達へと向けて「これを」と示す。液晶には動画が映し出されていて、琢磨がマウスをクリックすると画面の隅に表示されたタイムコードが走り出す。

 真っ白な背景の中心で、灰色の球体が震えている。どうやら顕微鏡で覗いたものを撮影したらしい。

「これは冴子さんから採取された細胞です」

 琢磨の説明を受け、巧と往人、海堂までもが画面に視線を固定する。細胞はしばらく震えた後にぴたりと動きを止めて、青い火の玉のように燃え上がる。

「これって………」

 跡形もなく燃え尽き、真っ白な背景のみになった映像を凝視して往人が呟く。タイムコードが止まり、映像は終わる。

「冴子さんの細胞は栄養補給を断ってから2週間で死滅しました」

 琢磨の説明に眉を潜めた巧は「死んだ?」と。琢磨はPCの向きを自分へと戻す。

「冴子さんは、不老ではあっても不死ではないということです。ただ細胞分裂を無限に行えるというだけで、細胞自体は死にます。まあ、これはアポトーシスのために残された機能だと思いますが」

 「アポ……あんだって?」と海堂が聞く。話の進行を止められたことが気に食わないのか、琢磨は眉根を寄せながら答える。

「例えば癌など、異常を起こした細胞を自死させることで肉体を保全させる機能です。新陳代謝のための機能と考えてください」

「不死じゃないってことは、女王様(クイーン)は倒せるってことですか?」

 往人が核心を突いた質問を飛ばす。ロブスターオルフェノクにまだ死という概念が残されているというのなら、その疑問は勿論浮上してくる。

「生物学上では、冴子さんは死にます。ですが細胞分裂のスピードが早い上に制限もない。現にサンプル採取のために腕を切断したのですが、すぐに再生しました。おそらく冴子さんの体には、テロメアを復元させる器官が存在するはずです。それを見つけることができれば――」

「倒せるんだな」

 琢磨の言葉を遮って、巧はそう告げる。倒せるか倒せないか。重要なのはそれだけだ。巧は質問を重ねる。

「それで、奴の何とかを復元する器官てのは何なんだ?」

「それはまだ見つかっていません。研究はしっかりと進んでいますから、焦る必要はありません」

 琢磨は淡々と、冷静に言う。そんな呑気にしていられるか、と思うが、あの“ほぼ”不死身の怪物を倒す術を見つけることは琢磨に一任するしかない。巧は戦うだけだ。

「琢磨、お前は何でオルフェノクが生まれたんだと思う?」

 巧の質問が、部屋にしばしの沈黙をもたらす。同じ質問をされた往人は不安げに巧を見つめ、海堂は火を点けたばかりの煙草を持ったまま何も言わない。琢磨はノートPCを畳んで眼鏡を直し、答える。

「生物の進化に意味などありませんよ。進化はその場しのぎの適応なんです。現在の生態系も、たまたま地球環境の変化にうまく適応できた種の集まりに過ぎません」

 草食動物は肉食動物に食べられ、死んだ肉食動物は土のバクテリアに食べられ、バクテリアは草の根に吸収され、草は草食動物に食べられる。そんなサイクルをもたらす生態系は、所詮は偶然の賜物。一見すれば調和しているようだが、完璧な調和なんてものは存在しない。生物は常に種の存続をかけて競争しているのだ。環境に振り回されて、適応できた種のみが生き残れる。変化できなかった種は滅びるだけ。

 何もかもが偶然だ。恐竜が絶滅するきっかけになった隕石だって、恐竜を滅ぼしてやろうだなんて思惑をもって地球に降ってきたわけじゃない。恐竜だって隕石が降ってきたことで地球が自分達の生きられる環境じゃなくなることは予想もできなかっただろう。恐竜という種が姿を消したから、天敵がいなくなった哺乳類が地球を支配する種として広がっていった。それもまた、ありとあらゆる地で生きていくための適応だった。

 そう、全ては生きるためだ。そこに神の意思なんてものは介在しない。生物の最優先事項は種の生存という単純な規定で成り立っている。

「じゃあ、オルフェノクは何に対する適応だってんだ?」

 煙草を吹かした海堂が聞く。琢磨は周囲に漂う紫煙を手で払い、答えた。

「死に対する適応、と言うべきですかね」

 「死って……」と往人が呟く。琢磨は続ける。

「人間はあらゆる環境に適応できるよう進化しました。構造上、感覚器官は他の生物よりも退化していますが、鈍感な分知能が発達し、どんな過酷な環境でも科学を駆使して自分達に適した環境を作り出してしまうので、もう人体構造を変える必要性がなくなっているんです。人間に残された最後の課題は死だったんですよ」

「ちゅーかオルフェノクのどこが死ぬことに適応してるんだ? 進化しといて寿命短くなってんじゃねーか」

 海堂がそう言うと、「その課題をクリアするのが『王』です」と琢磨は答える。

「先程も言った通り、進化はその場しのぎです。オルフェノクはその場の死を回避するために偶然発生しただけで、寿命を克服するに至らなかった。だから完全な克服のために、『王』という永遠の命を与える個体の発生を待たなければならなかったんです」

 適応するべきものを失った種の末路。

 見出した次の適応は死の克服。

 生物は生存し、子孫を残すことを至上の目的としている。

 産めよ。

 増えよ。

 地に満ちよ。

 その遺伝子の命令に従っていた生物の常識が覆されようとしている。例えば、こんな風に。

 生きよ。

 統べよ。

 地に座しよ。

 聖書でアダムとイヴは知恵の実を食べた故に楽園を追放された。もうひとつの禁断の果実、生命の実を食べて永遠の命を得ることを神が恐れたから。

 神話でも成し遂げられなかったことが、オルフェノクという種によって果たされようとしている。禁断の果実を撒き散らす「王」によって。

 

 ♦

 世間はすっかりハロウィンムードだ。繁華街の街路樹はジャックオランタンで飾り付けられ、夜の街をオレンジ色に照らしている。

「俺達の戦いって、無意味だと思いますか?」

 ガソリンスタンドでオートバジンの給油をしている途中、往人が尋ねてくる。彼の家は少し離れているから巧が送ることになったのだ。

「命に意味がないって言ったのはお前だろ」

「すみません………」

 タンクにガソリンを流す巧に、往人は申し訳なさそうに謝罪する。

「でも、どうしても考えちゃうんです。命に意味が無いなら、夢も意味のないものになるんじゃないかって。そんなの、寂しすぎますよ」

「ああ、そうだな」

 巧は考える。夢が無意味で、文明が人類の夢見る幻想を実現しているというのなら、夢の産物であるその全ては無意味の一言で片付いてしまう。エジソンが電灯を発明しなかったとしても、別の人物が電灯というものを作ったかもしれない。啓太郎の世界中の洗濯物を真っ白にしたいという夢も、真理の美容師になりたいという夢も、μ’sのラブライブ優勝という夢も、そして巧自身の夢も、別の誰かが叶えてくれるのだろうか。

 叶えてくれるかもしれないし、そんな人物は現れないかもしれない。

 進化がその場しのぎだというのなら、人間の得た知能も、そこから発生した夢という概念も、進化の産物だ。今は必要でも、その概念はいつか不要になって消滅するのかもしれない。ならば、なぜ人は夢を見るのか。いつ人は、夢が生存に必要などと獲得するに至ったのか。

 答えられる者はいないだろう。象やキリンも、なぜ自分達の鼻や首が長くなったのかなんて考えもしない。理由は人間が勝手に研究し意味を付けただけだ。

「巧さん」

 不意にその声が聞こえてくる。給油ノズルの引き金から指を放して振り返ると、ことり、にこ、花陽の3人が歩いてくる。

「あれ、霧江君?」

 往人に気付いたことりが、目を丸くして彼を呼ぶ。「南、久しぶり」と往人は当たり障りのない挨拶をする。「知り合いなの?」とにこが聞いた。

「うん、中学のクラスメートなの」

 ことりがそう紹介すると、花陽が律儀にお辞儀をする。

「初めまして、小泉花陽です」

「霧江往人です。μ’sの動画いつも見てます」

 「本当!?」とにこが分かりやすく表情を明るくして往人に寄る。にこは笑顔なのだが往人は少し怖がっているようで、それを誤魔化すように苦笑を浮かべる。

「矢澤にこさんですよね。会えて嬉しい、です……」

「にこも嬉しいよー! でもお、にこは皆のにこだからあ――」

 スイッチが入ったのか、巧は猫なで声になったにこの首根っこを掴んで往人から離す。にこは表情を180度変えて巧を睨む。

「何すんのよせっかくのファンなのに!」

「お前のファンじゃねーよ」

 やり取りを傍観していたことりは苦笑し、巧と往人を交互に眺めて尋ねてくる。

「2人って、知り合いなんですか?」

 「ああ、うん。ちょっとね」と往人が答える。あまり嘘をつくのが上手くないらしい。

「てか、お前らこんな遅くまでどうしたんだ?」

 巧の質問には花陽が答えた。

「ことりちゃんの家で衣装作ることになって。帰りに送ってもらってるんです」

「そうか。インパクトとかはもう良いのか」

 「良くないわよ!」とにこが噛みつくように言う。

「とんだ貧乏くじよ。面倒事押し付けられて」

 「仕方ないよ」と花陽が。

「皆は他の準備とかあるし、ライブまで時間ないから」

 どうやら方向性は未だに定まっていないらしい。とはいえ、もう当日まで時間が無いのは確かだ。衣装はそろそろ完成させておいた方が良いだろう。

「まあ、あんな茶番で時間くったらな」

 「そうよ!」とにこがしかめ面で巧に同意を示す。だがことりは満更でもなさそうに微笑を浮かべている。

「そんなに無駄じゃなかったと思いますよ」

「はあ? どこが?」とにこが問う。隣に往人がいることを忘れてはいないか、と思いながらも、巧は敢えて気にせずことりの言葉を待つ。

「わたしは楽しかったですよ。お陰で衣装のデザインのヒントも貰えましたし」

「お前衣装押し付けられて慣れてるだけなんじゃねーか?」

「わたしにはわたしの役目がある。今までだってそうですよ。わたしは皆が決めたこと、やりたいことにずっと付いていきたいんです。道に迷いそうになることもあるけど、それが無駄になるとは思わないんです」

 「無駄に、ならない?」と聞く往人へ向き、ことりは言う。

「うん。皆が集まってそれぞれの役目をやり切れば、素敵な未来が待ってるんじゃないかな?」

 人は無意味であることに耐えられない。往人はそう言っていた。それは真実かもしれない。でも、巧のなかにはそれを否定したいという想いが存在している。その理由が、ことりの迷いのない笑顔から分かった気がした。

 人は無意味であることに耐えられないからこそ意味を見出す。その見出されたものが夢なのだ。そこにあるのが無でも、人は何かを生み出せる。暗闇から光を目指し突き進むことができる。だから、巧は彼女らの夢を守りたいと願っているのだ。人間が持つ夢の熱さが未来をもたらすと。

「ライブ、霧江君も来てね。海未ちゃんと穂乃果ちゃんも喜ぶから。穂乃果ちゃんの衣装、とっても可愛いよ。勿論、皆可愛いけど」

「何で高坂を強調するわけ?」

 「だって……」とことりの笑みが含みを帯びる。

「霧江君、穂乃果ちゃんのこと好きだったでしょ?」

「え?」

 「そうなの!?」、「本当ですか!?」とにこ、花陽がひどく興奮した様子で往人に詰め寄る。往人はおそるおそる、ことりに尋ねる。

「知ってたの?」

「うん。穂乃果ちゃんは気付いてなかったけど」

 往人の好意に気付いていながら何もしないとは、ことりも意地が悪い。もっとも、周りが余計な手出しをすることでもないとは思う。

「駄目です! 穂乃果ちゃんはμ’sのリーダーなんです。恋愛なんてしたら………!」

 花陽がわなわなと震えながら喚く。にこも往人に人差し指を突きつける。

「いい? 今わたし達は大事な時期なの。穂乃果に手出すんじゃないわよ!」

 巧はことりに視線を向ける。この女やっぱり腹の底は黒いな、と思いながら。ことりは笑みを崩すことなく「でも」と。

「霧江君なら、穂乃果ちゃんと上手くいくと思うな」

 

 ♦

「トリックオアトリート! いやっほう! はっちゃけてるう?」

 女性司会者がカメラの前でイベントの盛り上がりを実況している。あんなに興奮して疲れないのだろうか、と思いながら巧は仮装した人々の行き交う秋葉原の街を眺める。

「お前、昼間に俺といて良いのか?」

 巧は隣を歩く往人に尋ねる。

「μ’sのファンとして乾さんに近付いてることになってるので、大丈夫ですよ」

「スパイってやつか」

「まあ、そんなところです。海堂さんが推薦してくれたんですよ」

 単純だが、カモフラージュとしては得策かもしれない。μ’sの熱狂的ファンだと音ノ木坂学院を訪ねた男達を何度か追い払ったこともある。

 この日の秋葉原を表すならば、「混沌」という言葉が1番だろう。所々ではジャックオランタンの被り物で頭を覆うイベントスタッフが踊り、道行く人々も日常生活では着ないであろう衣装に袖を通し、普段通りの格好をしている者が逆に浮いて見える。もしこの中にオルフェノクが異形の姿で混ざったとしても、リアルなモンスターのコスプレと通ってしまいそうだ。現に見事な腐敗を表現したゾンビが千鳥足で歩いている。

 「たっくーん!」という声が聞こえて、巧と往人は同時に振り返る。手を振りながら穂乃果が走ってくる。穂乃果の視線が往人へと向いて、往人は照れ臭そうに「よう、久しぶり」と言う。

「霧江君、久しぶりだね! ライブ観に来てくれたんだ」

 きゃんきゃん、とまるで子犬のように穂乃果は喚く。「うん」と往人は頷く。

「高坂がアイドルやってるって知って驚いたよ。でも、良いグループだと思う。皆が個性的でさ」

 往人はそう言って、後ろの方で集まっているメンバー達へ視線を移す。釣られて穂乃果も。メンバー達は街路に括り付けられたジャックオランタンの巨大風船の前で写真を撮っていた。

「どうしたんだ?」

 無言のままメンバー達を眺める穂乃果に巧は尋ねた。まだインパクトについて考えているのか。結局グループの方向性については定まることなく当日を迎えた。

「たっくん。わたし、このままで良いと思うんだ」

 内容を掴めていない往人は「何のこと?」と疑問を表情に浮かべている。穂乃果は往人へと視線を移す。

「A-RISEが凄くてわたし達も何とか新しくなろうと頑張ってきたけど、わたし達はきっと今のままが1番良いって思ったんだ。だって、霧江君の言う通り皆個性的なんだもん」

 穂乃果はそう言って再びメンバー達を眺める。

「普通の高校生なら似た者同士が集まると思うけど、わたし達は違う。時間をかけてお互いのことを知って、お互いのことを受け入れ合って、ここまで来られた。それが1番、わたし達の特徴なんじゃないかな」

 巧もメンバー達をひとりひとり見比べていく。皆がそれぞれ、趣味趣向が違う。ばらばらで別の方向へと向いていた彼女らは手を取り会い、今は同じ方向へと歩いている。思えば、よくこんな取り纏めのない少女達が集まったものだ。

「わたしはそんなμ’sが好き」

 穂乃果は満面の笑みを浮かべる。結局振り出しに戻ったわけだが、穂乃果の言う皆が異なる個性を持ったμ’sを応援しているファンがいることは確かだ。ならば無理に新しくなるのではなく、今の個性を磨けばいい。

「そっか、頑張れよ。俺、応援してるから」

「うん、ありがとう!」

 穂乃果はメンバー達のもとへと走っていく。彼女の背中をもどかしそうに見つめる往人に、巧はかけるべき言葉を見つけ出すことができない。

「乾さん、霧江君」

 秋葉原の雑音を縫うように、その声は耳孔に入り込んでくる。振り返ると、通行人の中では比較的目立つUTX学院の制服を着た彩子が立っていた。

 

 ♦

 イベントの主な会場となる大通りから脇道へ入ると、そこはハロウィン仕様がすっかり抜けた路地になっている。イベントで浮かれた観衆達も、この路地に入ればいつもの地に足のついた日常へ戻っていくのだろう。だが、イベントの真っ最中である今、人々は浮かれていたい。だから現実へ引き戻される路地には誰もいなかった。

 ビルの落とす影の下で、彩子はどこまでも日陰者だった。悲しそうな両眼が、まるで巧を刺すように見つめてくる。

「イベントを襲うように、女王様(クイーン)から言われました」

 彩子は影に吸い込まれそうなほど弱々しい声で言う。巧はケースから出したベルトを腰に巻いて、フォンを握る。「乾さん……」と往人が何か言いたげだが、「黙ってろ」と巧は言い捨てて黙らせる。

「それで、襲うのか?」

「やりたくありません。でもわたし……、ここに来る前にツバサから言われたんです。頑張ってって。ヴェーチェルはきっと凄いアイドルになれるって」

 彩子の目尻から涙が頬を伝っていく。

「それを言われたとき、わたし思っちゃったんです。偉そうに、って。何で神様はわたしを選んでくれなかったんだろう、って。大事な友達なのに、ツバサを殺したいって思ったんです。人間だったら、すぐできっこないって実行しませんよね。でも、わたしは簡単にツバサを殺せるんですよ。だって、オルフェノクだもん。死体は灰になって残らないし、何食わぬ顔して堂々と学校に行けるんです」

 泣きながら、彩子は笑っている。悲しみに耐えられないから、真逆の感情を抱こうとしているように見える。

「だから、わたしを殺してください。わたしが怪物になる前に」

 「駄目だ!」と往人が叫んだ。

「あなたは人間でいたいって言ってたじゃないですか。オルフェノクの力に負けないでください。俺達は人間として生きられるはずです!」

 「よせ」と巧は往人を手で制す。

「お前の気持ちが分かるなんて都合の良いことは言わないさ。誰もが強く生きられるとは限らないからな」

 多くのオルフェノクが人間としての心を失っていく。巧はそれを散々見てきた。彩子は決して珍しいケースじゃない。

 巧はフォンを開いた。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

 彩子の顔に筋が浮かぶ。巧は静かに、フォンをバックルに装填する。

「変身」

『Complete』

 彩子はアネモネオルフェノクに、巧はファイズに変身する。アネモネオルフェノクは駆け出し、ファイズに拳を振るってくる。戦うことには慣れていないらしく、胴が空いている。ファイズは容赦なくみぞおちに膝を打ち、よろめいたアネモネオルフェノクの顔面を打ち続ける。

 こいつはオルフェノクだ。

 倒すべき敵だ。

 良心に麻酔をするように、ファイズは攻撃を続ける。顔面を打ち、腹を打つ。顎を蹴り上げると、アネモネオルフェノクは壁にもたれかかり、崩れるように地面に伏す。ファイズはショットにミッションメモリーを装填する。

『Ready』

 アネモネオルフェノクに抵抗する余力は残されていないようだった。今が絶好のチャンスだ。逃れることはできない。

『Exceed Charge』

 フォンのENTERキーを押すと、ベルトからショットを装備した右手へ。フォトンストリームを伝ってエネルギーが充填される。

「はあああっ‼」

 「やめろっ!」と往人が割り込んでくる。往人はホエールオルフェノクに変身した。ファイズは突き出した拳を寸前で静止させる。ホエールオルフェノクの影が往人の姿を形作った。

「乾さん言ってたじゃないですか。オルフェノクだって夢を見ていいって」

 ファイズは逡巡する。オルフェノクを倒すことで抱える罪。誰かの夢を守るためには、彩子の夢を壊さなければならない。そんな自分に、夢の守り人として戦う資格があるのか。

 ファイズはショットを右手から外した。ミッションメモリーをフォンに戻し、変身を解除する。同時に2体のオルフェノクも、人間としての姿に戻った。

「どうして……?」

 泣きながら彩子が問う。

「お前は人間だ。アイドルになりたいなら、人間として生きろ」

 巧は背を向けて歩き出す。後から往人が着いてきて、雑音が入り混じる大通りを目指す。

「わたしに、夢を持つ資格があるんですか?」

 背後から投げかけられた問いに、巧は振り返って答える。涙を流し続ける彩子の目を見据えて。

「あるさ。俺にだって夢はある」

 人の抱く夢。

 オルフェノクの抱く夢。

 人間だから尊いわけでも、オルフェノクだから無価値という隔たりはない。だとすれば、人間とオルフェノクを分けるものは何なのだろうか。何を以ってオルフェノクと断じ、人間と守れば良いのだろうか。

 巧は止めていた足を動かす。曲のイントロが街に流れ始める。

 夢に向かって進む気持ちを明るく歌ったその曲は、彩子の悲しみを引き立たせているように聞こえた。




 ふと、「これ『555』単体としてでも書けたんじゃね?」と思いました。

 余計なこと考えてしまいました。すみません。
 『ラブライブ!』とクロスした本作を楽しんでくれる皆様のために執筆頑張ります。


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第7話 なんとかしなきゃ! / 求められる代償

 9月12日はことりちゃんの誕生日だそうで。
 カイザの日じゃなくて良かった。何が良かったのは分かりませんが、何となく(笑)。


 荒い呼吸音とリズムの速い足音と、トレーニング室から借りてきたランニングマシンの駆動音。何とも生徒会室という場に不釣り合いな光景だ。そんなことを思いながら巧はパイプ椅子にくつろいでお茶を啜るも、まだ熱くて息を吹きかける。

「たるんでる証拠です」

 学校指定のジャージを着て室内ランニングに励む穂乃果に、海未は書類の整理をしながら冷たく言い放つ。机には厚いファイルが積み上げられている。部活動の予算会議が近く、生徒会は多忙らしい。

「書類もこんなに溜め込んで。すべてに対してだらしないから、そんなことになるんです」

 「ごめんごめん」と穂乃果は走りながら呑気に謝罪を述べる。

「でもさ、毎日あんなに体動かして汗もかいてるでしょ? まさか、あそこまで体重が増えているとは」

 こんな光景が生じたのは、雪穂が発見した穂乃果の身体測定の結果だった。今朝起きたら雪穂と高坂母が測定結果の紙を見て表情を険しくしていたから、結構な数値が叩き出されていたのだろう。巧は穂乃果の羞恥から見せてもらえなかったが。

 「身長は変わらないの?」とことりが聞く。

「うん、雪穂に怒られちゃった。そんなアイドル見たことないって。あ、それオニオンコンソメ味?」

 穂乃果の視線が、ことりの持っているポテトチップスの袋へ向いた。「うん、新しく出たやつだよ」とことりが示すと、「食べたかったんだよね。一口ちょうだーい」と穂乃果はランニングマシンから降りて袋へと手を伸ばす。すかさず海未は穂乃果の手首を掴んだ。

「雪穂の言葉を忘れたんですか?」

「大丈夫だよ。朝ごはん減らしてきたし。今もほら、走ってきたし」

 全く危機感の欠片もない穂乃果を海未は睨み、ため息をつく。

「どうやら現実を知ったほうが良さそうですね」

 目を丸くする穂乃果とことりをよそに、海未は壁際のロッカーから綺麗に畳まれた服を出して穂乃果に手渡す。成る程、それなら分かりやすいな、と感心しながら巧は冷めたお茶を啜る。

「ファーストライブの衣装……。何で?」

「いいから、黙って着てみてごらんなさい」

 「ええ?」と府に落ちない様子の穂乃果を置いて、海未とことり、そして巧も生徒会室から出る。ドアを閉めた海未は、さっきよりは穏やかな口調で言う。

「わたしの目が間違ってなければ、これで明らかになるはずです」

「そんなに大袈裟なもんか?」

 巧の見る限り、穂乃果の外見に変化は見られない。最近の食生活を回顧しても、穂むらで出す新作和菓子の試食が増えただけだ。

 と、そこで巧は思い出す。ここ数日の、家での穂乃果の様子と彼女の言葉。

 3日前、練習の帰り道に買い食いしたクレープ。。

「疲れた体には甘いものが良いんだよ」

 一昨日、食後のデザートにと高坂母が出してくれた新作のずんだ餅。

「お父さんの仕事なんだし、協力しなきゃ」

 昨日、練習での休憩時間で鞄から取り出したパン。

「いやー、今日もパンが美味い!」

 何かにつけて食べる様子しか思い出せない。目を逸らす巧に海未は言う。

「これは一緒に暮らしている巧さんの責任でもあるんですよ」

 ああ、やっぱりこれか。

 部室へ行こうとしたらメールで生徒会室に呼び出されたのはこの説教を受けるためだったのか、と巧は肩を落とす。

 そこへ、生徒会室から悲鳴が聞こえてきた。「穂乃果ちゃん!?」とことりが不安げに呼び、海未は無言のまま神妙な表情でドアの前に佇んだ。

 しばらくして部屋に入ると、穂乃果は涙を流して椅子にうなだれている。テーブルに置かれたファーストライブの衣装は雑に畳まれていた。せっかくアイロンをかけてやったのに、と巧は思うも、泣いている穂乃果に文句を言う気にはなれない。

「穂乃果ちゃん、大丈夫?」

 ことりがそう呼び掛けるも、穂乃果はショックが大きかったようで頭を後ろへ垂れる。

「ごめん皆、今日はひとりにさせて………」

「き、気にしないで。体重は増えたかもしれないけど、見た目はそんなに変わってな――」

 「本当!?」と穂乃果は表情を明らめる。だがことりは「えっと――」と口ごもってしまう。巧もじっと穂乃果の顔を見てみると、心なしか顔が丸くなっている気がした。いや、衣装が入らなかったとなると気のせいではないのだろう。

「気休めは本人のためになりませんよ」

 海未は容赦なく言う。「さっき鏡で見たでしょ?」と上着のポケットから手鏡を出し、獣と遭遇したように怯える穂乃果の眼前に突き出すと更に語気を強める。

「見たんでしょ?」

 鏡に映る自分を見て、穂乃果は「やーめーてー‼」と悲鳴をあげる。流石に巧も気の毒になってきた。だがここで海未を止めてしまうと自分へと飛び火しそうな気がして、黙っていることしかできない。

「体重の増加は、見た目は勿論動きのきれを失くしパフォーマンスに影響を及ぼします。ましてや穂乃果はリーダー」

 まあ確かに、最終予選が近い今になって太ったなんてことは不味いだろう。

 海未は告げる。

「ラブライブに向けて、ダイエットしてもらいます!」

 「ええええ!?」という穂乃果の不平は、すかさず「ええええ、じゃありません!」と海未にぴしゃりと返される。涙を浮かべた両眼が巧へと向けられる。

「何でたっくんは変わってないの? いっぱいお菓子食べてたのに!」

「知らねえよ。そういう体質なんだろ」

 「良いなあ」とことりが言って、海未は顎に指を添えて巧を足元から見上げてくる。

「まあ巧さんは細すぎるくらいなので、鍛えたほうが良いですね」

「やだね面倒臭い」

 

 ♦

 穂乃果のダイエットを他のメンバー達に知らせようと部室を訪ねると、3年生は進路説明会らしく1年生の3人だけ集まっていた。

「収穫の秋! 秋と言えば、何と言っても新米の季節です!」

 花陽は嬉しそうに言って、バスケットボールほどの特大おにぎりを両手で掲げる。まさかそれはおやつなのか、と巧が思っていると凛が見慣れたような口調で。

「いつにも増して大きいにゃ」

 確かに花陽はよく練習の休憩時間におにぎりを食べている。白米が好きなのは知っていたが、まさかここまでとは。

 真姫は巧と同じように眉根を寄せて言う。

「まさかそれ、ひとりで食べるつもり?」

「だって新米だよ? ほかほかでつやつやの。これくらい味わわないと」

 大口を開けておにぎりを食べようとした花陽は自分、というよりおにぎりに向けられた視線に気付く。横を向くと穂乃果がおにぎりを睨み「美味しそう……」と恨めしそうに呟く。人の良い花陽が「食べる?」と勧めると穂乃果は満面の笑みを浮かべる。

「良いの?」

「いけません!」

 すかさず海未が穂乃果の横へつく。

「それだけの炭水化物を摂取したら、燃焼にどれだけかかるか分かってますか?」

 それだけの炭水化物をこれから摂取しようとしている花陽の前で言ってやるな。そう巧は思うも花陽は特に気にも留めていない様子でおにぎりを食べ始める。

「どうしたの?」

 まだ事情を聞いていない凛が尋ねる。真姫のほうは察しがついているらしく、「まさか」と。

「ダイエット?」

 「うん、ちょっとね……」と穂乃果は脱力した声色で答え、机に顔を埋める。

「最終予選までに減らさなきゃって……」

 「それは辛い」と頬に付いたご飯粒を取った花陽が。

「せっかく新米の季節なのに、ダイエットなんて可哀想」

 こいつは結婚したら激太りするタイプだな。口いっぱいに白米を詰め込む花陽を見て、巧はそう思った。

 「さ、ダイエットに戻りましょう」と海未が穂乃果の肩に手を添える。勢いよく立ち上がった穂乃果は突っかかる。

「ひどいよ海未ちゃん!」

「仕方ないでしょう。可哀想ですがリーダーたるもの、自分の体調を管理する義務があります。それにメンバーの協力があった方が、ダイエットの効果が上がるでしょうから」

 「確かにそうだけど」と花陽がいかにも他人事といった様子で言う。

「これから練習時間も増えるし、いっぱい食べなきゃ元気出ないよ」

 いきなりダイエットの敵になるような発言をされているが、これでも効果があると言えるのか。

 「それはご心配なく」と海未が。

「食事に関してはわたしがメニューを作って管理します。無理なダイエットにはなりません」

「でも食べたいときに食べられないのは――」

 曖昧に異議を申し立てながら、花陽はおにぎりを咀嚼し続ける。巧は花陽の顔をじっと見てみる。花陽は元から丸顔だが、何だか顔が更に丸みを帯びているような気がする。口に白米を詰め込んでいるせいと思いたい。凛と真姫も同じようにおにぎりを食べる花陽を凝視する。

 「かよちん……」と凛がおそるおそる呼び掛ける。続けて真姫が。

「気のせいかと思ってたんだけど、あなた最近………」

 真姫ですら告げるのを躊躇するほどのことなのだが、巧は何の躊躇もなくさらりと告げてしまう。

「太ったんじゃないか?」

 その発言で凛と真姫が絶句し、巧を睨んでくる。

「言っちゃったにゃ………」

「デリカシーなさすぎよ………」

 確かに直球すぎるが、オブラートに包む言葉を見つけるなんて器用な真似は巧にはできない。当の花陽は逡巡の後に白米を飲み込み、ぎこちない笑みを浮かべる。

「ま、まさかそんな……、大丈夫だよ。ちょっと測ってくるね………」

 半分以上残っているおにぎりを笹に置くと、花陽は椅子から立ち上がって隣の更衣室へと入っていく。メンバー達は花陽が入っていったドアを無言のまま見つめ、部室に冷たい静寂が訪れる。

 その静寂は、花陽の奇声にも似た悲鳴で破られた。

 

 ♦

「まさかこんなことになっていたなんて………」

 屋上の床にジャージ姿でへたり込み、嗚咽を漏らす花陽を見て絵里が言う。柵の縁石では穂乃果が顔を両手で覆っていて、練習着に着替えたメンバー達はそんな2人を気の毒そうに眺める。

「まあ2人とも育ちざかりやから、そのせいもあるんやろうけど」

 希はそう言うも、穂乃果は実際のところ身長は変化していなかった。2人とも食欲で成長したのは横幅だけだ。

 絶望に打ちひしがれている2人に海未は毛筆で文字が書かれた紙束を提示する。

「これが、今日からのメニューです」

 差し出された紙束を捲り、内容を見た2人は「え!?」と口を半開きにする。

 「夕飯これだけ?」と穂乃果が。

 「お、お米が………」と花陽は目に涙を浮かべる。

「夜の食事を多く摂ると、体重増加に繋がります」

 慈悲など微塵も感じさせなかった海未はそこで笑みを浮かべる。

「その分、朝ご飯はしっかり食べられるのでご心配なく」

 紙束に綴られたメニューを不満げに眺める穂乃果に、花陽は「頑張るしかないよ穂乃果ちゃん……」と弱々しく言う。もっとも、自己責任だから文句を付けようがない。

 「そうだね」と肩を落とした穂乃果は「でも良かったよ」と花陽の手を取る。

「わたしと同じ境遇の仲間がもうひとりいてくれて」

 穂乃果は力強く花陽を見つめるが、花陽は府におちない様子で「仲間?」と目を逸らす。仲間というより同じ穴の(むじな)だな、と巧は思った。

 そこへ、屋上のドアが開かれる。

「あの、今休憩中ですよね?」

「良かったら、サイン頂きたいんですけど」

 そう言って3人の生徒達がドアの影から顔を覗かせてくる。リボンの色から1年生だろう。

「わたし達、この前のハロウィンライブ観て感動して」

 「ありがとう、嬉しいわ」と絵里が言う。

「穂乃果、どう?」

 ライブを楽しんでくれたのなら拒む必要もない。当然、穂乃果はファンである生徒らに笑顔を向けて。

「もちろん、わたし達でよければ!」

 メンバー達は3人が持参してきた色紙に自分のサインを書き込んでいく。こんな機会はあまり無かったから、彼女らのサインは芸能人のようにデフォルメされたものではなく、署名というべきだ。にこは芸能人ばりのサインだったが。

「ありがとうございます!」

 それでも生徒達にとってμ’sメンバー9人全てのサインが記された色紙は大変な価値があるようで、大事そうに抱えて礼を言う。

「実はわたし、園田先輩みたいなスタイルに憧れてたんです」

 生徒のひとりがそう言うと、海未は「そ、そんなスタイルだなんて……」と恥ずかしそうに、でも満更でもなさそうに笑う。

「わたし、ことり先輩のすらっとしたところが綺麗だなって」

 別の生徒が言うと、ことりは「全然すらっとしてないよ」とはぐらかす。

 「わたしは穂乃果先輩の……」とまた別の生徒が言い、穂乃果は「の?」と言葉の続きを待つ。逡巡の後、生徒は苦笑を浮かべる。

「元気なところが大好きです!」

 「あ、ありがとう……」と穂乃果は返した。「失礼しました」と生徒達は中へと戻っていく。ドアが閉められると、穂乃果は巧へと近付き、力の抜けた視線を向けてくる。

「たっくん、やっぱりわたしそう見えてるのかな?」

「ああ、顔が饅頭みたいだぞ」

「ひどいよ!」

 

 ♦

 食い辛い。

 ずず、と巧はすっかり冷めた夕飯の味噌汁を飲みながらそう思う。

 成長期の娘2人と居候の青年のために、高坂母は毎日手の込んだ料理を食卓に並べてくれる。穂むらの仕事も忙しいはずなのに。雪穂によると、巧が住み始めてから食事の品数が増えたらしい。高坂母は息子ができたみたい、と巧を迎え入れてくれたが、子供というのはそんなに良いものだろうか。疑問を抱いても仕方ない、と思いながら巧はエビフライにソースをかける。子供ができない自分には無意味な疑問だ。

 気にしないようにしていたが我慢には限界が来るもので、巧は隣でこちらの食事を凝視する穂乃果へと視線を流す。既に穂乃果の茶碗は空になっている。

「お姉ちゃん、そんなに見られると食べ辛いんだけど」

 向かいで食事をしている雪穂がそう言うと、穂乃果は「だって」と。

「夕飯これだけなんて、すぐにお腹空いちゃうよ」

「朝ご飯はちゃんと食べられるんだし良いじゃない」

 「でもお」と穂乃果はうなだれて、雪穂はそんな姿を晒す姉に「でもじゃない!」と声を荒げる。

「ぶくぶく太って最終予選に進むつもり?」

 「うう……」と穂乃果は呻き巧へと顔を向ける。巧は敢えて何の反応も示さず、エビフライを食べる。

「ご飯のときぐらい静かにしなさい」

 そう言って高坂母が台所から出てくる。姉妹喧嘩――喧嘩というより雪穂の説教だが――の仲裁は決まって高坂母の役目だ。口数の少ない高坂父と巧は完全に不干渉で、今もこうして面の皮厚く食事を進めている。とはいえ、高坂父も娘達に無関心というわけではあるまい。巧が視線を向けると、グラスに注がれたビールの泡がすっかり潰れている。泡が抜けきる前にビールを飲み干す高坂父がこうして放置している時は、何かに意識を注意深く向けている時だと最近になって分かってきた。高坂母が出てこなければ代わりに仲裁していたかもしれない。

「さ、お父さんの新作よ。味見してみて」

 高坂母は笑みを浮かべ、巧の前に黒いたれのかかった串団子の皿を置く。ふわりと胡麻の香りが鼻孔をくすぐる。

「あれ、お母さんわたしの分は?」

 自分の分がないことに気付き、穂乃果は口をとがらせる。

「穂乃果はダイエット中でしょ。せっかく海未ちゃんが食事メニュー考えてくれたんだから、我慢しなさい」

 「そんなあ」という娘の声には耳を傾けず、高坂母は雪穂の前にも団子の皿を置く。雪穂は手を控え目に振った。

「わたしはいいや。太っちゃうし。乾さん食べてください」

 そう言って雪穂は巧へと皿を差し出す。考えてみれば、雪穂が手をつけなかった分を穂乃果が食べて太ったのでは。そう思いながら巧は皿を受け取ろうとしたのだが、巧が取る前に皿は横から割り込んできた手に取られる。

「じゃあわたしが食べるよ」

 「あ、こら」という雪穂の制止を無視し、穂乃果は団子みっつを一気に口へと納めてしまう。唇の端にたれが付いているが、気付いていないのか穂乃果は頬をほころばせながら団子を噛み続ける。

 姉へと向いていた雪穂の訝しげな視線が巧へと移る。巧は無言のまま首を左右に振り、自分の団子を食べた。

 

 ♦

 穂乃果と花陽のダイエットが始まってから、μ’sは練習場を屋上から神田明神へと移した。学校に入れない休日に利用していた場だが、この神社の男坂はダイエットに最適だから平日も練習場にと海未が提案した。とはいえ、μ’sを始めた頃は男坂の長い階段を駆け上がっていたのだから、あれからずっと体力作りをしてきたら慣れたものだろう。

 穂乃果と花陽が階段を走っている間、ことりは持参してきたPCを開きラブライブの公式ホームページ、その中でμ’sのページへとアクセスする。メンバー達はこぞって画面を食い入るように見た。

「もの凄い再生数ね」

 PCの画面を見ながら、絵里が唸る。動画にはハロウィンライブのときのμ’sが映っていて、左下に表示された再生数はとても投稿から数日とは思えない数値だ。

 

 A-RISEに強力なライバル出現。

 最終予選は見逃せない。

 

 感想欄にはそんなコメントが散見される。

「どうやら今まで通りの自分達のスタイルでいって正解やったみたいやね」

 希の言葉の正当性は再生数が証明している。方向性が確立できたのなら、後は練習で更に歌とダンスに磨きをかけていけば良い。

 「よーし」と凛が拳を強く握る。

「最終予選も突破してやるにゃ!」

 全ては順調に進んでいる。このままいけば、本当にA-RISEに勝てるかもしれない。ただ、そのための不安要素をいま抱えているわけで。

「それまでに、ふたりにはしっかりしてもらわないとね」

 そう言って絵里は男坂へと目を向ける。釣られて他のメンバーと巧も。丁度、穂乃果と花陽が息を切らし、足をふらつかせながら階段を上り終えたところだった。

 皆のもとへ辿り着いた2人は膝に手をつき、疲労した体をかろうじて支えている。

 「な、何これ……」と花陽が掠れた声で呟く。続けて穂乃果も同じ声色で。

「この階段……、こんな、きつかったっけ………」

 ここ最近は生徒会が忙しくて練習も休みがちだったから、体力の低下は仕方ない。だがそれを差し引いても2人は深刻なのだろう。試しに他のメンバー達も階段を走ってみたが、皆息も切らさず上ってしまった。

 にこが呆れ顔で言う。

「あんた達はいま、体に重り付けて走ってるようなもんなのよ。当然でしょ」

 「はい」と海未が神社から伸びる道路を手で示す。

「じゃあこのままランニング5キロ、スタート」

 「えー!?」と不満を出す2人に海未は猶予を与えず「早く行く!」と。

「何してるんです。さあ早く!」

「もう、海未ちゃんの鬼!」

 文句を垂れながら穂乃果は走り出す。その後を花陽が追って、メンバー達は2人の背中を心配そうに見送る。

 不意に、巧の携帯電話が着信音を鳴らした。画面には往人の名前が表示されていて、巧はメンバー達から離れてから通話モードにして端末を耳に当てる。

「どうした?」

『乾さん……、助けてください………』

 

 ♦

 電話で往人が指定した場所は近くの喫茶店だった。適当に理由を付けてμ’sと別れた巧は、オートバジンを走らせながら不安と焦燥感を募らせていく。電話口での往人の声からして只事でないことは察しがついたが、待ち合わせの場所も異様だ。店を指定したのなら店内で落ち合うものだが、往人が指定したのは店の裏だった。

 路地裏にバイクを滑り込ませて停車すると、巧は換気ダクトがひしめき合う空間に呼び掛ける。

「おい! どこだ!」

 「乾さん……」と、換気扇の影から往人が立ち上がる。巧はシートから降りて往人へ近付き、「何があった?」と尋ねる。往人はひどく錯乱しているようだった。巧の肩を掴んで喚く。

「まずは逃げましょう。奴が来る前に」

「奴?」

 きーん、と甲高い音が空から聞こえてくる。視線を向けると、丁度真上に太い飛行機雲が見えるのだが、肝心の飛行機が見えない。太さからして超低空飛行なのに、それを噴射する点はとても小さい。点はどんどん大きくなり、それが下降していることに気付く。

「来た………!」

 それが近付くにつれて、辺りに白い排気ガスが撒き散らされる。視界がままならないなか、巧はケースを開きベルトを腰に巻く。ガスの噴出を止めて、飛行装置を背負ったそれは着地した。四肢を持った人の形をしているが、明らかに人ではなかった。だが、オルフェノクでもない。

 ガスが漂う路地裏のなかで、それの頭部にひとつだけある大きな目が紫色に発光する。白亜の鎧には青のラインが走っていて、腰には巧のものと同系のベルトが巻かれている。

 明らかにファイズと同じ技術で作られた戦士だった。

「霧江。お前がいま生きているのは、お前の力が有益だからだ」

 戦士はこちらに人差し指を向け、その手で次は親指を下に向けて首を切る仕草をする。

 巧はフォンにコードを入力した。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 巧はファイズに変身する。隣にいる往人もホエールオルフェノクに変身し、戦士へと駆け出す。ファイズが拳を打つよりも速く、戦士の拳がファイズの胸部装甲を打つ。カイザのものよりも重い一撃だった。戦士にとっては軽いジャブだったようで、続けて迫ってきたホエールオルフェノクの顔面に裏拳を見舞う。

「ファイズか。天のベルトを試すのに丁度良い」

 戦士の蹴りがファイズの顔面に直撃する。1撃目は辛うじて体のバランスを保つも、戦士は体を回転させて更に勢いをつけて続けざまに蹴りを連発してくる。とうとうバランスを崩し、ファイズの体が倒れた。

 「あああっ!」と咆哮しながら、ホエールオルフェノクが戦士に組み付く。戦士はものともせず、ホエールオルフェノクの背中に肘を打ち付け腹を蹴り上げる。

 戦士はバックパックの操縦桿を握る。パックが腰部へと展開し、操縦桿に接続されて2門の砲塔に変形する。

 銃口からフォトンブラッドの光弾が発射され、ホエールオルフェノクの体に命中する。創傷を付けられたホエールオルフェノクは力なく倒れ、往人の姿に戻る。

「霧江!」

 ファイズは駆け出し、背後から戦士へ拳を振り上げる。だが戦士は素早く、ファイズの背後へと回り込んで組み付く。スラスターが勢いよく吹き出す音が聞こえて、一瞬遅れてファイズと戦士の体が浮き上がる。上昇を続け、ビル群よりも高く飛んだところでスラスターの噴射が止まり、2人の頭が下へ向いたところで再びスラスターが噴射し急降下する。

 上下が逆転したファイズの視界のなかで、バトルモードに変形したオートバジンが近付いてくる。オートバジンが戦士に体当たりする。体勢が崩れ、右へ左へと迂回するうちに戦士の手が離れて、ファイズは受け身も取れず地面に衝突する。同じく着地に失敗した戦士は起き上がるも、ベルトに電流が走りシステムに異常をきたしたのか身をよじらせる。

「改良が必要か……」

 戦士は呟き、操縦桿を握る。バックパックからガスが排出され、戦士の体が浮上し空の彼方に飛行機雲を引きながら消えていく。ファイズの隣に降り立ったオートバジンはAIが追いつかないと判断したのか、追跡の素振りは見せず佇んでいる。

 ファイズはベルトからフォンを抜き、変身を解除する。それに伴いオートバジンもビークルモードに変形する。

「乾さん」

 おぼつかない足取りで往人が歩いてくる。

「あれは何だ?」

「分かりません。学校から帰る途中に襲われて」

 戦士は往人を裏切り者として襲ってきた。それに初めて見るファイズと同系列のベルト。それだけでスマートブレインの刺客であることは判断できる。巧は携帯電話を取り出し、アドレス欄から琢磨逸郎という名前を指定し耳に当てる。しばらくのコール音の後、琢磨の声が聞こえてくる。

『乾さん、丁度良かった。連絡しようと思っていたところです』

「新しいベルトのことか?」

『………戦ったのですか?』

「ああ。あれは何なんだ?」

『あれはサイガです。3本のベルトのいずれも凌駕する性能を持った、天のベルトとも呼ばれています。試作段階でテストはまだ先だと思っていたのですが、予定が早まりました』

 タイミングが悪すぎる。あのサイガなる戦士が不調を起こさなかったら、間違いなく巧と往人はやられていた。

「何だってそんなベルト作ったんだ? カイザだけで十分だろ」

『開発を主導したのは私です。こちらの戦力でファイズとカイザだけでは心許ないので、新しい戦力として迎えるつもりだったんですよ』

 琢磨が言っていた準備とはこのことか、と巧は察する。「王」とロブスターオルフェノクを倒すための戦力を整えるために、表向きは「王」の護衛としてサイガを作り出したのだろう。

『それと厄介なことに、霧江さんの背信が上に知られました。サイガのテストが早まったのも、彼を始末するためでしょう。私と海堂さんはまだ疑われていませんが』

「そうか。なら霧江は海堂の家に――」

 『いえ、それは危険です』と琢磨は冷静に、さらりと言う。

『口封じのためにも、霧江さんはサイガに片付けてもらいましょう』

 「ふざけんな!」と巧は怒鳴る。こちらに本人がいると知らないのを良い事に、何て残酷な言葉を述べられるのか。隣にいる往人は顔に絶望の色を浮かべていて、口を半開きにしたまま巧を見つめている。

 琢磨は続ける。

『乾さんの延命が達成された以上、霧江さんの役目はもう終わっています。残念ではありますが、私達が勝つために彼には――』

 「もういい」と巧は遮る。

「霧江は俺が守る。お前のことを少しでも信じた俺が馬鹿だったぜ」

 巧はそう言って通話を切る。往人は震える声を絞り出す。

「乾さん、俺ならだいじょう――」

「うるせえ! ガキは黙って守られてりゃいいんだよ」

 「でも」と往人は怯えながらも巧を見据える。

「琢磨さんの言う通り、俺の役目はもう終わってるんです」

「お前はそれで良いのかよ? 穂乃果を守るんじゃないのか?」

 ふと、巧の視線が往人の顔から彼の右手に流れる。黒ずんだ手は陶器のようにひび割れていて、亀裂から灰が零れている。

「お前………」

 巧の視線に気付いた往人は背を向けた。巧の身にも起こっていた、オルフェノクの死期を刻むカウントダウン。だが、往人は1年前にオルフェノクになった。いくらオルフェノクが短命でも10年は生きられる。

 巧は悟る。とても残酷なことを。

「俺を生かすために………」

 往人は振り向く。寂しそうに笑って。

「何のリスクも無いなんて、そんな都合の良い力は無いってことですよ」

 巧は往人の顔を見つめる。ただ見つめるだけで、何の言葉もかけてやれない。オルフェノクは強靭な肉体と引き換えに命が短くなった。命を対価として支払っているのだから、進化に付随した力に代償が無いなんて何故言えるのだろう。少し考えれば、疑問を抱くことぐらいはできたはずだ。

「呼び出してすみませんでした。どうせ俺は近いうちに死んじゃいますし、ここで殺されても同じでしたね」

 はは、と往人は笑う。あまりにも趣味の悪すぎる冗談に、巧はどう反応すればいいのか分からない。慰めも、謝罪も、感謝の言葉も出てこない。出てくるのは質問だ。

「これから、どうするつもりだ?」

「乾さんに協力しますよ。もう長くないけど、最期まで俺は高坂を守るために生きたいんです」

「それで、良いのか……?」

「良いんですよ。俺は高坂が笑ってくれれば、それで良いんです」

 往人は真っ直ぐだ。愛する者のために生きることに迷いがない。何故自分が生きて、この少年が死ななければならないのだろう。

 儚い笑顔を浮かべ続ける往人を見て、巧はそう思った。

 

 ♦

 巧は自分の掌を見つめる。握り、開きを繰り返し、灰が零れないことを確認する。この命は往人が与えてくれたものだ。彼が自分の残りの命を代償として。そう自分に言い聞かせる。

 自分に彼の命を背負う責任が取れるのか。

 いや、と巧は自分の傲慢さを打ち消すように拳を握る。

 命は命を食べて生きている。家畜として飼育された牛も豚も鶏も、人間を生かすために自らの命を差し出している。それは一種の取引だ。自分達の種が滅びないよう保護してもらうための。だが、それは人間が一方的に交わした取引で、家畜達は承認なんてしていないだろう。

 世界は残酷だ。

 誰かが生きるために誰かが死ななければならない。誰かの夢を守るために誰かの夢を壊さなければならない。そんな過酷な調和のもとで、この世界は成り立っている。

 だとすれば、巧の抱く夢を叶えるには、誰かの夢を壊さなければならないのだろうか。何かを得るために犠牲を要求する世界のどこに、守る価値があるのだろう。木場はそんな残酷さに抗おうと、オルフェノクとして生きることを決意したのだろうか。

「お兄さん、お兄さん」

 不意に声をかけられ、巧は視線を上げる。恰幅の良い警察官が立っていた。

「今ここ駐停車禁止だから、バイク別のとこに停めてくれる?」

 見れば、少し離れたところのビル前に立入禁止の黄色いテープが張られている。何人かの警察官がテープを潜ってビルに入っていくのが見えた。手にグローブをはめながら巧は尋ねる。

「何かあったんすか?」

「あそこの劇場でライブしてたバンドと客達が全員行方不明でね。不気味なもんだよ」

 「そうすか」と言って巧はヘルメットを被り、オートバジンのエンジンをかけて走り出す。

 取り敢えず神田明神に戻ろうとバイクを走らせていると、視界に赤いジャージを着た2人組が入り込む。真面目にランニングをしていると思ったのだが、2人は何故か定食屋の前で足踏みをしている。

 巧は路肩にオートバジンを停めた。道路の反対側だから、2人はこちらに気付いていない。

 穂乃果が店を指し示す。

 花陽は目を輝かせるも、すぐに両腕でバツ印を作る。

 穂乃果は店に人差し指を向けて入ろう、とジェスチャーする。

 驚くことに、この2人のやり取りには言葉が一切無い。ただ息遣いのみが、道路を行き交う車の走行音の間から聞こえてくる。

 雑念を振り切るように花陽は前へと進む。

 穂乃果はそんな花陽の襟首を掴む。

 振り向いた花陽は穂乃果が指差す「黄金米」と書かれたのぼりを見ると、うっとりと悦に浸った様子で穂乃果と共に店内へと飛び込んでいく。

 海未には黙っておこう。

 深いため息をつき、巧は再びオートバジンを走らせた。

 

 ♦

 ダイエットが始まってから1週間が経った。海未の考案したメニュー通りの食事と運動に文句をつけていた穂乃果も、慣れたのか巧や雪穂の食事を睨むようなこともなくなった。でも、巧はその理由がダイエットに慣れたこととは別にあることを知っている。

「行くよ花陽ちゃん!」

「はい!」

 神田明神から意気揚々と走り出す穂乃果と花陽をメンバー達は見送る。

「頑張ってるにゃ」

 街へと走り去る2人を見て凛が言う。安心した様子で絵里も。

「順調そうね。ダイエットも」

 「そうでしょうか?」と海未が怪訝そうに。

「この1週間。このランニングだけは妙に積極的な気がするのですが」

 「気のせいじゃないかな?」とことりが言うも、海未の疑念は晴れずじっと細めた目で巧を見てくる。

「巧さん、何か知っていますか?」

「さあな」

「本当に?」

「ああ」

「………本当に、ですか?」

 海未の探るような眼差しが突き刺さってくる。このままだと、体のどこかしらがちくちくと痛みそうな気がする。

 巧は白状した。先日見た光景のことを。

「そのお店に連れていってください」

 全てを聞いた海未は、何の感情も込めずにそう言った。巧が素直に海未をオートバジンに乗せて件の定食屋まで連れていくことを了承したのは、海未の剣幕に押されたというのもあるが、それ以上に罪悪感が大きかったからだ。一応巧はμ’sのマネージャーなわけで、彼女らをラブライブ本戦に進ませるためのサポートをしなければならない。

 店に到着すると、丁度2人が出てきたところだった。

「いやー、今日も美味しかったね」

 腹をさすりながら、巧と海未に気付かない穂乃果が満足そうに言う。「見て見て」と花陽がスタンプカードを見せる。

「今日でサービススタンプ全部溜まったよ」

「本当?」

「これで次回はご飯大盛り無料!」

「大盛り無料。それって天国!」

「だよねだよね」

 「あなた達」と海未の険のこもった声が、2人の笑い声に割って入る。ぴたりと動きを止めた2人はまるで壊れたロボットのようなぎこちない動作で振り返り、海未の姿を認識すると声にならない悲鳴をあげる。穂乃果の視線が海未の隣に立つ巧へと向けられる。助けて、と請うのが分かるのだが、巧はそれを無視する。

 眉をぴくぴくと痙攣させる海未は激昂するかと思ったのだが、予想に反して彼女はとても優しい笑みを浮かべた。

「さ、説明してもらえますか?」

 

 ♦

「それでは、これまでのダイエットの状況を報告します」

 場所を部室へと移し、ノートを持った海未が告げる。長椅子に座る穂乃果と花陽は罰が悪そうに俯いていて、「はい」と同時に弱々しく応じる。

「まずは花陽。運動の成果もあって、何とか元の体重まで戻りました」

 「本当!?」と花陽は顔を上げる。穂乃果も期待を込めた眼差しを海未へ向けるも、「しかし穂乃果」と海未が含みのある言い方をする。

「あなたは変化なしです」

「えー!? そんなあ」

「それはこっちの台詞です。本当にメニュー通りトレーニングしてるんですか?」

「してるよ! ランニングだって腕立てだって」

 確かに家でもトレーニングしている様子を巧は見ている。事実を疑われたことに我慢ならないようで、穂乃果は立ち上がる。だが運動量が増えたことで食欲も増しているわけで。

 巧は海未の声がだんだん低く、そして冷たさを帯びているのを感じ取る。

「昨日ことりからお菓子を貰っていたという目撃情報もありますが」

 「え、あれは一口だけ……」と穂乃果は誤魔化すように笑う。因みにその目撃情報を提供したのは巧だ。お腹空いた、と喚く穂乃果を不憫に思ったことりがクッキーを与えたのだが、実際のところ穂乃果は一口どころか包装された小袋の中身全てを平らげた。

「巧さんの話によると、数日前自宅でお団子も食べていたとか」

「あれは、お父さんが新作つくったから味見してて……」

「ではその後のケーキは?」

「あれはお母さんが貰ってきて……。ほら、食べないと腐っちゃうから!」

 仕方なく食べた、とでも言いたげだが全て穂乃果が自発的に食べたものだ。ケーキも巧と高坂夫妻で食べることにしたのだが、穂乃果は「甘いものは別腹」なんて理屈を並べた。

 メンバー達の浮かべている表情は、そのときの高坂夫妻と全く同じだ。

「問題外ね……」

 うるさく言いそうなにこですら、その言葉しか出てこない。

 「何考えてるんです!」と海未は穂乃果に迫る。

「あなたはμ’sのリーダーなのですよ」

「それはそうだけど……」

「本当にラブライブに出たいと思ってるのですか?」

「当たり前だよ!」

「とてもそうは見えません!」

 売り言葉に買い言葉。よく見る光景だから巧は何とも思わないが、今日は普段より海未の口調が強い。

 「穂乃果ちゃん、可哀想」と2人を見て凛が言う。自業自得なのだから同情することもないだろうに。

「海未は穂乃果のことになると、特別厳しくなるからね」

 いつもは辛辣なことばかり言う真姫でさえ毒舌を控えている。

「穂乃果ちゃんのこと、嫌いなのかな?」

 「ううん」とことりが凛の言葉を否定する。

「大好きだよ」

 ことりは巧よりもずっと長く2人を見てきた。だから彼女の言葉が、この場にいる誰よりも正しい。

「穂乃果!」

 海未の怒号が部室に響く。耳を塞ぐ穂乃果に海未はがみがみと説教を続けている。巧はことりの言葉に乗せた説得力が失せていくような気がする。

「そうは見えないけどな」

 「あのー」と部室のドアが開かれる。同時に海未の説教が止まり、訪ねてきた生徒に穂乃果が「どうしたの?」と。

「それが………」

 生徒は口をつぐむ。ああ、これはトラブルだな、と巧は悟った。

 

 ♦

 来年度の部活動における予算の分配は、生徒会と各部長の会議によって決定される。だから会議前に予算が承認されるなんてことはないのだが、何故か美術部の予算が既に承認されていた。

 些細なミスで、ことりが提出された申請書を承認へと通してしまったのが原因だった。承認を取り消せば反発を招く。何とか交渉し、一度予算を見直さなければならない。

 空が藍と茜のコントラストを彩る頃、絵里から事の顛末を聞いた巧は校舎へと視線を向ける。どこの教室も照明が落ちているが、生徒会室はまだ明かりが点いている。

「まあ、仕事も溜めてたみたいだしな。自業自得だろ」

 巧は素っ気なく言い放つ。今回ばかりは巧も手は貸せない。音ノ木坂学院は生徒の自主性を重んじる教育方針のもと、生徒会の運営に教師は極力介入しないのだ。部外者である巧にどうこうできる問題じゃない。こればかりは穂乃果達だけでやり遂げなければならない。

「色々と忙しい時期ですし、多少のミスは仕方ありません」

 そう擁護する絵里も、まだ明るい生徒会室を見つめる。その顔はどこか寂しそうに見える。

「気になるのか?」

「ええ、まあ。知り合いに美術部のOGがいるので、わたしの方から話すつもりだったんですけど、穂乃果に断られちゃって。わたし達で何とかする、って」

 以前は自分が指揮を執っていた生徒会だから、放っておけない。そんな意図が読み取れる。せっかく会長という面倒な役職から解放されたというのに、絵里は心配性だ。穂乃果を次期会長に推薦したことの責任を感じているのかもしれない。

「もうお前の生徒会じゃないんだ。そんなに思い詰めることもねーだろ」

 「そうそう」と希が歩いてくる。

「うちらが卒業したら、3人でやっていかなきゃいけないんやから」

 こういったことの割り切りは希のほうが上手だ。親友に余計な負担をかけさせまいと、本人の気付かないところで助力していたのだろう。希がいなかったら、絵里はきっと許容量を越えていたかもしれない。

「帰り、パフェでも食べてこうか。巧さんもどう?」

「ああ」

 家では穂乃果の恨めしそうな視線を浴びながら食べていたから、パフェでなくても落ち着いてものを食べたい。「行こ」と希は離れた前方を歩くメンバー達の後を追う。絵里は生徒会室を一瞥し、黙って歩き出す。

「大丈夫だろ。多分」

 物憂げに目蓋を垂れる絵里に、巧はそう言った。

 絵里は要領が良いから全部自分で背負いがちだが、生憎穂乃果はそんなに完璧な生徒会長じゃない。詰めが甘く、それが原因でダイエットする羽目になっている。本人もそれは自覚しているだろう。だからこそ穂乃果は周囲に助けを求めることができるし、彼女をよく知る海未やことりも助ける気になれる。

 秋葉原の街を歩く頃には、既に陽はすっかり暮れていた。黄昏というものは短い。どこの店が良いかとメンバー達が吟味しているなか、巧はすっかり馴染みのある喧騒渦巻く街を眺める。

 この街にいる人間のどれほどが、世界の残酷さを知っているのだろう。自分が何かを得るのと引き換えに、どこかで誰かが代償を支払っていると自覚できているのだろうか。自覚したとしても、見知らぬ誰かに情を抱くほど慈愛に満ちた人間がそう多くいるとは思えない。結局、多くの人は自分とその周囲にしか興味がないのだ。

 堕落している。だが巧もまた、そんな堕落した大多数のひとりだ。人の夢を守るために戦っていながら、自分の周りにいる者しか守れない。真実を知ったとしても、巧に抗うことはできない。それに、たとえ堕落していても、この街は巧が守りたい世界の1部なのだ。

「ライブやりまーす!」

 聞き覚えのある声が聞こえて、巧は視線を向ける。雑踏のなかで目立つUTX学院の制服を着た3人の少女達が、道行く人々にチラシを配っている。

「あれ、UTXの人よね?」

「A-RISE以外にもアイドルがいたんだ」

 にこと凛が彼女らに気付き、チラシを貰いに行く。2人に笑顔でチラシを渡した彩子が巧に気付いて、「乾さん!」と嬉しそうに駆けてくる。

「わたし達、デビューが決まったんです!」

「本当か?」

「はい! わたし達をプロデュースしてくれる人ができて、小さいけど劇場を貸してくれたんです」

 「凄いですね」と巧の隣にいる絵里が言う。彩子は絵里にもチラシを渡した。絵里はチラシを見て「ヴェーチェル……」と呟く。

「ロシア語で風って意味ですね。素敵だと思います」

 「そうでしょ?」と彩子は笑う。

「風に散る桜とか、そういうの綺麗だなって思って付けたんです。わたし達の歌が、風に乗って皆に届きますようにって」

 彩子はとても嬉しそうだ。この前で見せた涙が嘘のように。ずっと望んでいたアイドルとしてのデビューが叶うのだ。これで喜ぶなというほうが無理だろう。

「μ’sの皆さんも来てください。チケット代は結構なので」

 「え、そんな……」と絵里は申し訳なさそうに口ごもる。「良いんです」と彩子は言う。

「お金とかじゃなくて、わたし達は皆に見て欲しいんです。乾さんにも」

 彩子は満面の笑みを巧に向ける。

「観に来てくださいね。乾さんのお陰でここまでこれたんですから」

「俺は何もしてないさ。お前らが頑張ったからだろ」

「いいえ。乾さんが応援してくれたから、頑張れる気になれたんです」

 巧はヴェーチェルのために何か行動を起こした覚えはない。オルフェノクである彩子に夢を見させたのも、大人が子供に夢を持つべきと押し付ける事と同じ無責任なものだ。夢を持つように言っておきながら何の助けもしない。巧に誰かを助け導く裁量なんて持ち合わせていない。彼女らの夢を阻む者が現れたら、倒すだけだ。それが正しいのか、これまでは確証に至らなかった。

 でも今は、守ってきて良かったと素直に思える。こうして自分の守った夢の種が育ち、花開こうとしている。

 「それじゃ」と彩子は愛衣と里香のもとへ戻っていく。まだ花は咲いていない。彼女らの夢は始まったばかりだ。物事は始めるよりも、続けることの方が難しい。

「ヴェーチェルか。せっかくだし観に行こっか」

 絵里のチラシを覗き込んで希が言った。「そうね」と絵里は同意する。

「別のグループを見ることは刺激にもなるしね」

 「そういえば」と真姫が思い出したように切り出す。

「巧さん、あの人達と知り合いなの? やけに親しげだったけど」

「まあ、ちょっとな」

 巧は曖昧に、それだけ答えた。巧と彼女らの接点は言えない。

 言えるはずがない。

 

 ♦

 予算会議を当日に迎えたμ’sの練習は、あまり捗ったとは言えない。生徒会役員の2年生3人とアイドル研究部部長であるにこが会議出席のために不在で人数が少なかったこともあるが、メンバー達は会議が上手く運んだのか心配していた。絵里は特に心配していた。ダンスレッスンの際に珍しくステップを間違えていたから巧にはすぐに分かった。

 だから、練習は会議が終わる頃に切り上げた。メンバー達は結果を心待ちにしていて、制服に着替えるとすぐに中庭へと集まり会議に出席した面々と合流した。

「それで予算通しちゃったの!?」

 穂乃果から報告を聞いた花陽が上ずった声をあげる。結果として、穂乃果達が作成した予算案で各部長たちの賛成が得られた。申請された希望通りの振り分けとはならなかったが、希望の8割は確保ということで押し通したらしい。生徒会長に就任して初めての大きな案件としては、健闘したほうだろう。

「ほんと危なかったあ」

 ため息交じりに言う穂乃果を「でも上手くいって良かったね」とことりが労う。

「わたしのお陰よ! 感謝しなさ――」

「ありがとう、にこちゃん」

 穂乃果に抱きつかれたにこは「そんなの良いからアイドル研究部の予算を」と言いかけるが、海未によって遮られる。

「その前にダイエットです」

 「それがさ」と穂乃果が揚々と。

「さっき測ってたら戻ってたの」

 「え?」とメンバー達が一斉に声をあげる。「本当?」とことりが安心したように聞いた。

「うん。3人で一生懸命頑張ってたら食べるの忘れちゃって」

 「分かりやすい体だな」と巧は皮肉を飛ばす。確かに、ここ数日の穂乃果は生徒会の仕事で帰りが遅く、疲れたのか食欲が無い様子だった。

 真姫がことりのもとへと歩く。

「ことりの言った通りね」

 真姫がそう言うと、ことりは「え?」と目を丸くする。真姫は穂乃果と海未を見て、続ける。

「3人、信頼し合ってるんだなって」

 ことりも真姫に釣られて2人へと視線を移す。「いやー、今日もパンが美味い!」とポケットから出したパンを食べようとする穂乃果とそれを阻止しようとする海未に、ことりは微笑を浮かべる。

「うん。お互い良いところも悪いところも言い合って、ちょっとずつ成長できてるんだと思う」

 どこが成長してるんだか。鬼ごっこを始める2人を見て、巧はそんなことを思う。でも、長い付き合いのことりが言うのなら成長しているのだろう。

「まだガキだけどな」

 巧がそう言うと、ことりと真姫は苦笑する。まだ成長の余地があるということだ。これからも穂乃果が海未に説教される様子は目にするだろう。説教するほうもされるほうもストレスが生じるが、3人にとってはそれが日常だ。なくなってしまうと調子が狂ってしまうかもしれない。

「生徒会、大丈夫そうやね」

 ふと、そんな希の声が聞こえて、巧は彼女へと視線を向ける。風で木の葉が舞うなかで、希はどこか憂うように校舎を眺めている。他のメンバー達がいる前で、そのような顔をする希を見たのは初めてだった。メンバー達の意識が鬼ごっこを続ける穂乃果と海未へと向いているからできた隙なのかもしれない。

 巧の目の前を木の葉が掠めた。冬にかけて樹が葉を落とし始めている。冷たさを帯びた風は冬が近づいていることを知らせている。

 3年生である希と絵里とにこにとって、高校生活最後の冬が。




 愛用していたイヤホンが昇天してしまいました(泣)。
 ちょうど巧役の半田健人さんがTwitterにてイヤホンの紹介をされていたので参考にしようと思ったのですが、半田さんお勧めの商品は結構値が張っていました。
 でも買いました!
 半田さんが言う通り良い音質です!


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第8話 わたしの望み / 異形の花々

 アイディアを頂いた読者様によりますと、森内彩子の声のイメージは竹達彩奈さんだそうです。
 往人は………、皆様のお好きな声で(笑)。


 秋葉原の街角でフラッシュが絶え間なく瞬いている。撮影スタッフのみならず、集まった群衆達の向けるカメラのレンズを向けられ、μ’sのメンバー達は肩肘を張った様子で立っている。こういった場の緊張感はライブとは違うものなのだろうか、と群衆の中から彼女らを眺める巧は思った。

「それでは、最終予選に進む最後のグループを紹介しましょう。音ノ木坂学院スクール、μ’sです!」

 女性司会者がハロウィンイベントのときよりは落ち着いた、でもやはり意気揚々と述べる。リーダーである穂乃果が1歩前へ出ると、群衆から歓声と拍手が沸く。

「この4組の中から、ラブライブに出場するひと組が決まります」

 μ’s以外の3組のアイドル達は、いかにもアイドル然とした華やかな印象だ。自信に満ち溢れていて、こういった場でも緊張の色が見られない。その中でも、A-RISEの3人は別格だ。まるでこの場がありふれた日常のように自然体でいる。

 最終予選まで勝ち残った彼女らを見て、巧はふと思う。大会の駒が進められていく道程で、どれだけの少女達の夢が潰えたのだろう、と。アイドルは華やかなパフォーマンスを見せる。でも、この大会の裏では練習で流す汗と敗北で流す涙で溢れかえっているに違いない。大会はそんな泥臭い様相を見せようとしないし、アイドル達も見せたがらない。

 万人の願いが叶えばいい。そう思うも、巧はこの世界がそんなに都合よくできていないことを知っている。誰かが喜びを噛みしめる裏で、誰かが苦汁を舐めなければならない。世界とは、そんな危ういバランスを保つことで維持されているのだろう。

「ではひと組ずつ意気込みを聞かせてもらいましょう!」

 「まずはμ’sから」と司会者はリーダーである穂乃果にマイクを向ける。「は、はい」と上ずった声で返事をしながらも、穂乃果は述べる。

「わたし達はラブライブで優勝することを目標にずっと頑張ってきました。ですので、わたし達は絶対優勝します!」

 群衆から一際大きな歓声があがった。カメラのフラッシュが激しくなり、あまりの光の眩しさに巧は目がくらみそうになる。あんな宣言をすればこんな反応が来ると予想できそうなのに、穂乃果は困惑気味に笑みを浮かべている。

 司会者は興奮した様子で言った。

「すすす凄い! いきなり出ました優勝宣言です!」

 

 ♦

「なに堂々と優勝宣言してんのよ!」

 大会のグループ紹介イベントが終わり、メンバー達が学校に戻ってミーティングを始めてすぐにこは穂乃果に詰め寄った。にこをなだめながら穂乃果は「い、いやあ勢いで」と苦笑を浮かべる。やはり一時の勢いで発した台詞だったらしい。

「でも実際目指してるんだし、問題ないでしょ」

 真姫が何気なく言う。彼女の言う通り、問題はない。そもそも、あの場にいた最終予選へと駒を進めた4組のなかで、優勝を目指していないグループはいないだろう。

 「確かにA-RISEも………」と海未が応じる。イベントでA-RISEが意気込みの弁を求められた際、リーダーであるツバサは言っていた。

「この最終予選は本大会に匹敵するレベルの高さだと思っています」

 名指しこそしていないが、μ’sをライバルとして意識していることが分かった。本人達から直接ライバル宣言されたのだ。当人同士だけでなく、観客からもμ’sはA-RISEと互角に渡り合う大会のダークホースとして注目されている。

「そっか。認められてるんだ、わたし達」

 穂乃果は感慨深そうに言った。「それじゃ」と絵里がようやくミーティングの趣旨を述べる。

「これから最終予選で歌う曲を決めましょ。歌える曲は1曲だから、慎重に決めたいところね」

 「わたしは新曲が良いと思うわ」とにこが言う。

「おお、新曲!」

「面白そうにゃ!」

 穂乃果と凛が賛同し、続けて海未も。

「予選は新曲のみとされていましたから、そのほうが有利かもしれません」

 最初の予選で使えるのは未発表曲と制限が設けられていたが、最終予選ではそれがない。だから無理して新曲を作る必要は無く、既存の曲で勝負するという選択肢もある。

「でも、そんな理由で歌う曲を決めるのは………」

「新曲が有利ってのも、本当かどうか分からないじゃない」

 花陽が控え目に、真姫がはっきりと主張する。2人の意見も反故にはできない。新曲の出来が観客の期待を上回なければ、むしろ得票率は下がるだろう。

「それに、この前やったみたいに無理に新しくしようとするのも……」

 ことりの意見には巧も賛成だ。あんな茶番にまた付き合うのは勘弁願いたい。

 「例えばやけど」と希が言う。何気なくといった声色で。

「このメンバーでラブソングを歌ってみたらどうやろか?」

 意外なことだった。希が何かを提案するなんて今までは殆どなかった。あったとしても、場の収拾がつかなくなったときのまとめ役として意見を投じるのは常だ。メンバー達は逡巡を挟み、「ラブソング!?」と声を揃える。

 「なるほど!」と長椅子に座っていた花陽が勢いよく立ち上がる。どうやらスイッチが入ってしまったらしい。

「アイドルにおいて恋の歌すなわちラブソングは必要不可欠。定番曲のなかに必ず入ってくる歌のひとつなのにそれが今までμ’sには存在していなかった!」

 確かに言われてみれば、μ’sが今まで出した曲のなかにラブソングは無い。目新しいといえばそうなのだが、何故今になってそんな提案を希はするのか。彼女のことだ。ただの思いつきで言ったとは思えない。絵里も巧と同じことを考えているようで、「希……」と目を丸くする。希は何も言わず、ただ微笑を浮かべる。

「でも、どうしてラブソングって今まで無かったんだろう?」

 穂乃果がそう言うと、メンバー達の視線が作詞担当である海未へと集まる。

「な、何ですかその目は?」

 たじろぎながら海未が聞くと、希が悪戯っぽく。

「だって海未ちゃん恋愛経験無いんやろ?」

「何で決めつけるんですか?」

 噛みつくように海未が言うと、穂乃果とことりが「あるの!?」と詰め寄ってくる。

「何でそんなに食いついてくるのですか?」

 どうやらこの手の質問に弱いらしく、海未は震える声で言う。他のメンバー達も興味津々のようで、「あるの?」と質問を重ねてくる。

「何であなた達まで………」

 抵抗を試みるも、数人がかりの質問攻めには敵わず海未は後ずさりする。逃すまいとメンバー達は距離を詰めていく。

「お前面白がってるだろ?」

 彼女らのやり取りを絵里と見守っている希に、巧は言う。

 「別に」と希は微笑しながら言った。

 「海未ちゃん答えて! どっち?」と穂乃果が。

 「海未ちゃん……!」と涙を浮かべたことりが追い打ちをかける。

「それは………」

 壁際まで追い込まれた海未はその場で膝をつき、弱々しく答える。

「………ありません」

「だろうな」

「だろうなとは何です!」

 つい漏らしてしまった巧に海未が声を荒げる。屈辱なのか、その目に涙を溜めていた。別に経験が無いからといって悪いことでもないだろうに、と巧が思っていると海未の心情など気付かない穂乃果が笑いながらぽんぽんと彼女の肩を叩く。

「もう、変に溜めないでよ。ドキドキするよ」

「何であなた達に言われなきゃいけないんですか! 穂乃果もことりも無いでしょう!」

 2人は罰が悪そうに「うん……」と答える。とはいえ、海未とことりに好意を抱く男がいたことを巧は聞いている。それに穂乃果にも、人間でなくなっても変わらずに想いを捨てない男がいるのだ。彼が人間だったら、何の心配もなく結ばれてほしいと思えるのに。

「にしても、今から新曲は無理ね」

 呆れた顔で長椅子に座る真姫が言う。「でも」と絵里が。

「諦めるのはまだ早いんじゃない?」

 そう言う絵里を真姫は意外そうに見上げる。絵里はどちらかと言えば合理的なほうだ。当日までの期間を考えると、新曲の製作から練習でパフォーマンスを仕上げるのはとても密なものになる。

 「そうやね」と希が同意した。

「曲作りで大切なんは、イメージや想像力だろうし」

「まあ、今までも経験したことだけを詞にしてきたわけではないですが………」

 濁した海未の言葉を続けるように、「でも」と穂乃果が腕を組む。

「ラブソングって要するに恋愛でしょ。どうやってイメージを膨らませればいいの?」

 「そうやね……」と希は視線を伏せる。そこへ巧が「てか」と口を挟んだ。

「お前ら9人もいて恋愛経験あるやついないのかよ?」

 そう聞くと、全員が顔を背ける。

「おい、まじか……?」

 高校生は誰もが恋愛のことばかりに興味が向くと勝手に思っていたが、彼女らはそういったことに殆ど縁が無かったらしい。恋人ができるような性格をしていない面子は仕方ないとして。

「あ、アイドルは恋愛しちゃいけないのよ!」

 その恋人ができる性格をしていないにこが噛みつくように言う。

「そもそも巧さんはあるの?」

 もうひとり恋人なんて無縁そうな真姫が尋ねる。「ねーよ」と巧は即答する。学生時代は恋人どころか友人すらいなかったのだ。

 「本当に?」と真姫は目を細める。

「真理って人はどうなの? 寝言で名前呼ぶくらいだし、大切な人なんじゃない?」

 余計なことを。文句を言おうとしたが、「真理?」と穂乃果が好奇心旺盛な目を巧に向けてくる。それは他のメンバー達も同様だ。誤解とはいえ、巧に浮いた話があることを意外に思っているらしい。

「たっくん彼女いたの?」

「彼女じゃねーよ」

 

 ♦

 ビデオカメラを手に希はゆっくりと廊下を歩く。階段へと続く角へ差し掛かったところでぱたぱたと花陽が飛び込んできて、羞恥で顔を赤らめながらもリボンで包装された小ぶりな箱を両手で差し出す。

「受け取ってください!」

 「お、良い感じやん」と希はご満悦だ。学園生活を満喫した者なら分かるシチュエーションなのかもしれないが、無為に青春を過ごしてきた巧にはさっぱりだ。

「これでイメージが膨らむんですか?」

 海未が聞くと「そうや」と希は得意げに答える。

「こういうとき咄嗟に出てくる言葉って、結構重要よ」

 知ったように言っているが希だって恋愛経験が無いだろう、と巧は思った。取り敢えず恋愛らしい場面をシミュレーションしてみようという話になったが、果たしてこれが本当に曲へのヒントになるのか。

 「でも、何でカメラが必要なの?」と穂乃果が尋ねる。それは巧も気になっていたところだ。

「そっちの方が緊張感出るやろ?」

 「それに」と希は怪しげに笑って。

「記録に残して後で楽しめるし」

「後のほうが本音だろ」

 巧の皮肉を「まあまあ」と受け流す。

「でも、相手がいないと何だかそれっぽくない感じやね」

 ぞわり、と巧の背中に悪寒が走る。予感は的中し、メンバー達の視線が巧へと集中する。

 「巧さん」と希がカメラのレンズを巧へと向ける。

「やだね」

「まだ何も言ってないにゃ」

 凛が面白そうに笑った。

「相手役になれってのか? 俺がそんな柄かよ?」

 「しょうがないじゃない」と真姫も可笑しそうに笑っている。

「ここで男の人は巧さんだけなんだし」

 「そうそう」と希はレンズを真姫へと移し。

「じゃあ次、真姫ちゃんいってみよう!」

「な、何でわたしが!?」

 突然の不意打ちに真姫は頬を赤く染める。ざまあみろと思ったが、巧は自分に降りかかった危機を脱していないことに気付いた。

 ここまで付き合わされて曲にならなかったら怒鳴り散らしてやる。場所を移動する間、巧はそう思った。メンバー達の強引な説得で告白役をする羽目になった真姫も同じことを考えているようで、じっと巧を睨んでいた。

 中庭に着くと、希は真姫に一際大きな桜の樹の下に立つよう指示する。憮然としながら真姫は配置につき、巧も真姫の目の前に立つ。

 「よーい、はい!」と映画監督を気取った希のコールで撮影が始まる。

「はいこれ」

 巧と視線を合わせまいと俯きながら、真姫は先程花陽が持っていたものと同じ箱を無造作に差し出す。はあ、とため息をつく巧に真姫はずい、と箱を押し付ける。

「いいから受け取んなさいよ」

「はいはい」

 仕方なしに巧は箱を受け取る。空箱を包装しただけだからとても軽い。

「べ、別にあなただけにあげたわけじゃないんだから、勘違いしないでよね!」

「分かったよ」

「あなたのことなんて、何とも思ってないんだから!」

「ああ」

「もう! お礼ぐらい言えないの?」

「うるせえよ面倒くさい女だな!」

「何よその言い方!」

 「ストップストップ」と希が告げる。互いに睨み合う巧と真姫の間に穂乃果と凛が割り込んで、「真姫ちゃん落ち着くにゃ」、「たっくんもすぐ怒っちゃ駄目だよ」と子供でも扱うようになだめる。

 真姫は巧を指差した。

「この人、相手役なんて向いてないわよ!」

「しょうがないって言ったのはお前だろうが!」

「ふたりとも喧嘩しない!」

 絵里の窘める声で、巧と真姫は同時に口を閉じる。年下の少女と口喧嘩して、それを止められたのも年下の少女だなんて、何て低次元なのだ。

 ため息をついた絵里は苦笑を浮かべる。

「まあ、巧さんに相手役は難しかったかもしれないわね」

 「確かに」と花陽が。

「巧さんは恋人っていうより、お兄ちゃんて感じかな……?」

「ま、彼氏としては無いわね」

 せっかく花陽がフォローを入れてくれたというのに、にこの言葉で台無しになった。花陽が否定してくれるのを期待したが、彼女は苦笑を浮かべるのみで何も言わない。

 「そうね、口が悪いし」と真姫が便乗する。

 「いつもムスっとしてるし」と穂乃果も。

 「猫舌だし」と凛まで。

「お前ら……!」

 沸々と怒りが込み上げてくるが、ある単語が出ていないことに気付き巧の怒りは引き潮のように収まっていく。皆、巧がオルフェノクであることに触れていない。既に忌まわしい異形の姿を知っているはずなのに、彼女らは巧の人間としての面を見てくれているのだ。現実から目を背けたいだけなのかもしれない。でも、巧にとっては何よりも尊い。

 希は頬を指でぽりぽりとかいて、巧と真姫を交互に見た。

「似た者同士でこのシチュエーションは、難しかったもしれんね」

 収まった怒りが再燃し、巧は声を荒げて吼える。

「意味分かんねえ!」

「意味分かんない!」

 言い切った後で声が重複したことに気付き、巧と真姫は互いを睨む。だが口論までには至らず、すぐに顔を背けた。

 

 ♦

「結局何も決まらなかったね」

 空が茜色に染まる頃、メンバー全員で校舎を背に歩くなかで穂乃果が言った。「難しいものですね」と海未が応じる。色々とメンバーとシチュエーションを替えて試してみたが、海未も真姫も特に何かを掴んだようには見えない。

「やっぱり、無理しないほうが良いんじゃない? 次は最終予選よ」

「そうですね。最終予選はこれまでの集大成。今までのことを精一杯やり切る。それが1番大事な気がします」

 曲の作り手である真姫と海未の意見は重みがある。2人がインスピレーションを得なければ練習へと進められないのだ。

「でも、もう少しだけ頑張ってみたい気もするわね」

 今日の絵里は積極的だ。考えてみればおかしい。ラブソングの提案者は希なのに、固執とまではいかなくても絵里のほうがラブソングを作りたがっているように見える。

 「絵里ちゃんは反対なの?」と凛が尋ねる。

「反対ってわけじゃないけど。でもラブソングはやっぱり強いと思うし、それくらいないと勝てない気がするの」

 そうだろうか、と巧は思う。恋愛というのは確かに多くの共感を得やすい普遍的なテーマだとは思う。その点に関しては絵里と同感だ。でもμ’sに恋愛経験のあるメンバーはいない。全く分からないものを詞や曲にしたとしても、海未と真姫が納得するとは思えない。

 巧は尋ねる。

「何を根拠にしてるんだ?」

「希の言うことは、いつもよく当たりますから」

 絵里らしくない回答だった。直観なんて無根拠に等しい。純粋にラブソングを歌いたいとしても、何故今になってそう思い立ったのか。前からその願望があったのなら、最初の地区予選の時点で主張すれば良かったはずだ。

「じゃあ、もうちょっとだけ考えてみようか」

 校門のあたりで足を止めて、穂乃果は議論を締める。

「わたしは別に構いませんが」

 海未がそう言うのなら、頭ごなしに反対することもできまい。「それじゃ」と絵里がメンバー全員に呼び掛ける。

「今度の日曜日、皆で集まってアイディア出し合ってみない? 資料になりそうなもの、わたしも探してみるから」

 「希もそれで良いでしょ?」と絵里が振ると、希は珍しく「え?」と気の抜けた声を発し、すぐ取り繕うように笑う。

「そうやね」

 メンバー達が校門で別れ、それぞれの帰路についていく。海未、ことりと夕暮れの道を歩き始める穂乃果を、オートバジンに跨ってアイドリングをしていた巧は「穂乃果」と呼び止める。

「何、たっくん?」

「寄り道してくから、おばさんに晩飯はいらないって言っといてくれ」

「どこ行くの?」

「ちょっとな」

 追及から逃れるように、巧はギアを入れてアクセル捻る。排気ガスを吹かし、オートバジンは黄昏の街へと走り出す。

 

 ♦

「珍しいですね。乾さんの方から呼び出すとは」

 部屋に上がり込むなり、琢磨は海堂の城を訝しげに見渡す。少しは物を整理すれば本来の広さを感じられるのだが、デリバリーピザの空き箱やビールの空き瓶が転がる部屋はゴミ屋敷、もといゴミ城と言っても違和感はない。

 そんな城の主がもてなしに振る舞うのは、決まっていつものピザとビールのセットだ。もっとも、巧と琢磨はいつも水を飲んでいるが。

「何飲む?」

 そう尋ねながらも既に、海堂はビール瓶を琢磨に差し出している。

「モンキーズ・ランチを」

「んなもんあるか」

「なら水でいいですよ」

 他愛もないやり取りもそこそこに、巧は湯気を立ち昇らせるハラペーニョピザに手をつけず琢磨に尋ねる。

「お前、霧江が力を使うとどうなるか知ってたのか?」

「いえ、知りませんでした。本当ですよ」

 琢磨は懺悔も謝罪も込めずに答え、グラスの水を一口含む。こういった話をするとき、海堂はピザにかぶりつきビールを煽り煙草をふかすのだが、今日は珍しく真面目に話を聞いている。そんな海堂を琢磨は一瞥し、眼鏡の位置を直す。

「まあどうせ長くありませんが、今回は乾さんの希望に沿いましょう」

 巧には何のことか分からなかった。察したのか琢磨は一言付け加える。

「霧江さんを保護します」

「どういう風の吹き回しだ?」

「海堂さんが言ったんですよ。霧江さんを守ると」

 「海堂……」と巧が視線をくべると、海堂は誤魔化すように視線を背け煙草にライターで火を点ける。ふー、と紫煙を吐き出した海堂は言う。

「別に、ちゅーかただの気まぐれだ。文句あっか?」

 ばう、と吼える犬の真似事をする海堂を巧は見つめる。この男の行動は全く読めない。まだ半分も減っていない煙草を灰皿に押し付け、海堂はハラペーニョピザを一切れ手に取って食べ始める。

「もうひとり、守ってほしい奴がいる。森内彩子って女だ」

 「森内彩子……」とピザを咀嚼しながら海堂が反芻し、「ああ」と口を開ける。咥内で噛みこねられたピザが見えて、巧は海堂のデリカシーのなさにうんざりする。

「あのカワイ子ちゃんか」

 「あなたはそういう事だけしっかりと覚えていますね」と琢磨が皮肉を飛ばす。巧は続ける。

「あいつも人間として生きたがってるんだ。頼む」

 巧は頭を下げた。柄でもないな、と思いながら。でも、彩子は夢を叶えようとしている。彼女の夢を守れるのなら安いものだ。

「ちゅーか、良いんじゃねーか?」

 何気なしに発せられる海堂の声を聞き、巧は頭を上げる。ようやくピザを飲み込んだ海堂は言う。

「サイガのベルトだって手に入れなきゃいけねーんだ。そのついでに往人と彩子ちゃんを守ればいいんだよ」

「確かに、サイガはこちらの戦力としなければなりません。開発室ではまだ調整中としていますが、既に完成と言っても差し支えはありませんし」

 「どういうことだ?」と巧は尋ねる。琢磨は得意げに笑みを浮かべる。

「サイガの出力は並のオルフェノクでは耐えられません。スマートブレインの多くのオルフェノクでは本領を発揮するに至らないでしょう」

 そんな危険な代物をこちらの戦力とするつもりなのか。その力は実際に戦ったのだから知っているが、使いこなせなければ意味がない。

 巧はファイズ。海堂はカイザ。もし三原を加えるとしたらデルタ。自分達の中でベルトを持っていない者。巧は琢磨に訝しげな視線を送る。

「お前なら使いこなせるってのか?」

「私を見くびってもらっては困ります」

 お前、「王」を見て泣きべそかきながら逃げてただろう。自信たっぷりに言う琢磨に、巧はそう思った。今度こそ「王」を倒さなければならない戦いに、彼が戦力として足りるのか。とはいえ、力を手に入れた彼ならある程度は戦えるのかもしれない。3年前、彼にファイズのベルトを奪われ襲われたときは、本気で死を覚悟したものだ。

 琢磨は言った。

「忘れたのですか? 私は元ラッキークローバーなんですよ」

 

 ♦

 ラブソングは好きという気持ちをどう表現するか。昼下がりに交わされる議論のなかで、絵里はそう言った。

 単純に言えばその通りなのだが、高坂家に集まったメンバーは全員が恋愛未経験で、男の意見も欲しいと参加をせがまれた巧も同じだ。巧の予想通り、議論は泥沼になっている。愛だの恋だの、抱いたことのない感情をどう表現するかなど誰も分からないのだ。まさに未知の境地だ。

 自分に経験が無いのなら、他者の経験を基にするしかない。そういうわけで、議論は一旦中断されてことりが資料として持参してきた恋愛映画の鑑賞会へと移った。数十年も前のモノクロ映画は、真理が好きだった映画だ。何度も鑑賞に付き合わされたから、巧は内容を始まりから終わりまで知っている。第二次世界大戦のホロコーストが激化する直前のドイツを舞台にした作品。ユダヤ人の主人公はヒロインと惹かれ合うが、情勢は2人の仲を許さず主人公はオランダへの亡命を決意するという、よくある話だ。

 序盤のときはメンバー達も何かを掴もうと真剣にテレビ画面を凝視していたのだが、そう長く集中力は保てず、中盤から普通の鑑賞会になっている。穂乃果と凛は飽きたのか肩を寄せ合って寝息を立て、クライマックスに差し掛かると画面の前に集まる絵里、ことり、花陽は涙を流して純粋に映画を堪能している。

 クライマックスは主人公とヒロインの別れのシーンだ。車のなかで、いよいよ明日主人公が旅立つ。「かわいそう……」と花陽が嗚咽交じりに言っている。この別れのあと主人公が亡命したオランダでもホロコーストが起こり2人は音信不通になってしまうのだが、ラストシーンは戦後で無事に生きていた2人が再会して映画は終わる。

「何よ、安っぽいストーリーね……」

 そんなことを言いながらもにこは号泣している。もし人間とオルフェノクのラブロマンスを物語にしても、観客は感動なんてしないだろうな、と巧はぼんやり思った。花嫁を求めるフランケンシュタインの怪物の方がまだ清く美しい。

 巧はふと視線を画面から後ろへと向ける。海未が画面に背を向けて、呻きながら座布団で頭を覆っている。

「お前何してんだ?」

 巧が聞くと、皆が海未の様子に気付いて彼女のほうを向く。

 「何で隠れてるの? 怖い映画じゃないよ」とことりが。

 「そうよ、こんな感動的なシーンなのに」と絵里が言う。

「分かってます。恥ずかしい………」

 それは恥ずかしがっているのか。巧がそう思っていると、画面を見てしまった海未はホラー映画でも見るような形相を浮かべる。因みに今は2人が別れのキスをしようとしているシーンだ。

 いよいよ2人の唇が触れよとした直前、画面が暗転する。続けて居間の照明が点けられ、画面の目の前で鑑賞していた3人は不満げにテレビのリモコンを持つ海未へと振り返る。息を荒くした海未はお化け屋敷から出てきたようにも見える。

「恥ずかしすぎます! 破廉恥です!」

 海未は早口でまくし立てた。恋愛映画の割にはベッドシーンも無いから健全な方だと思うが、純情さが小学生にも勝りそうな海未にはキスですら刺激が強いらしい。

「そもそもこういうことは、人前ですべきものではありません!」

 映画の中での事だぞ、と巧が思っているところで、穂乃果と凛が重たそうに目蓋を開ける。

「穂乃果ちゃん、開始3分で寝てたよね」

 ことりが苦笑しながら言う。開始3分はまだ劇中の時代背景をナレーションで説明する場面だ。

「ごめん。のんびりしてる映画だなって思ったら眠くなっちゃって」

 曲の参考にするんじゃなかったのか。巧にはどうにもこの時間が有意義だとは思えない。

「なかなか映画のようにはいかないわよね。じゃあ、もう1度みんなで言葉を出し合って――」

 「待って」と真姫が絵里を遮る。

「もう諦めたほうが良いんじゃない? 今から曲を作って振り付けの練習もこれからなんて、完成度が低くなるだけよ」

 「でも――」と絵里が言いかけるが、海未の言葉が先行する。

「実はわたしも思ってました。ラブソングに頼らなくてもわたし達にはわたし達の歌がある」

 「そうだよね」と穂乃果も同意を示した。にこも同様に。

「相手はA-RISE。下手な小細工は通用しないわよ」

 「でも」と絵里は引き下がろうとしない。何が彼女をそこまで動かしているのか。考える前に希が口を開く。

「確かに皆の言う通りや。今までの曲で全力を注いで頑張ろう」

 巧にはその言葉が本心のように思えない。ラブソングを作ろうと提案したのは希だ。今まで自己主張が控え目だった彼女の提案となれば、何か大きな意味があるのではと考えていた。それなのに、こうも簡単に諦めてしまうのか。

「いま見たら、カードもそれが良いって」

 嘘だと巧には分かった。希は以前、カードはヒントを与えるだけと言っていた。良いか悪いかなんて、はっきりと提示するものじゃない。占いなんて曖昧だ。どうにも解釈できるように出来ている。

「待って希、あなた――」

 「ええんや」と希は絵里の言葉を止める。これもおかしい。希は他人の話は最後まで聞く。

「1番大切なのは、μ’sやろ?」

 絵里は何か言いたげな視線を希に送っている。でも、何も言わなかった。希の性分をこの場の誰よりも知っている絵里は、何かを悟ったのだと思う。でも、この場でそれを追求することは巧にもできない。希はきっと自分のことを詮索されるのは嫌がるだろう、と似た性分である巧は理解している。

「じゃあ今日は解散して、明日から皆で練習やね」

 希のその言葉で、今日の打ち合わせは終わった。

 穂乃果とメンバー達を玄関まで見送ると、既に陽は傾き始めている。

「巧さん、一緒に来て」

 離れたところを並んで歩く絵里と希を見ながら、真姫が呟くように言う。「は? 何でだよ?」と巧は聞くも、真姫は答えず巧の腕を掴んで引っ張る。

「凛、花陽。先帰ってて」

 店先にいる2人にそれだけ言うと、真姫は巧の腕を引きながら絵里と希の後を追い始める。2人に気付かれないよう、足音を抑えて。時々物陰に隠れながら。

「何で後つけるんだよ?」

「あなただって気付いてるでしょ? あの2人怪しいわよ」

 真姫は人差し指を唇に添えて静かに、とジェスチャーする。2人の声が聞こえてきた。

「本当に良いの?」

「良いって言ったやろ」

「ちゃんと言うべきよ。希が言えば、絶対みんな協力してくれる」

「うちにはこれがあれば十分なんよ」

 これとはカードのことだろうか。2人の表情は見えないが、何となく絵里が府に落ちないといった顔をしているのは想像がつく。

「………意地っぱり」

「エリちに言われたくないな」

 会話に耳を澄ませていた真姫は「どういうこと?」と呟く。

 2人は交差点で立ち止まった。ここから2人の帰路は別れるのだろう。真姫は立ち上がった。「おい」という巧の制止もきかず、足音を立てて2人のもとへと走っていく。「ったく」と悪態をつきながら巧も後を追った。

「待って!」

 2人が振り返り、希は「真姫ちゃん」と目を丸くして真姫を見つめる。続けて追いついてきた巧にも「巧さん」と。

「前に言ったわよね。面倒くさい人間だって」

 真姫の強気な言葉を希は「そうやったっけ?」と笑って受け流す。真姫は更に言う。

「自分の方がよっぽど面倒くさいじゃない」

 最初は驚いていた絵里も笑みを零し「気が合うわね」と。

「同意見よ」

 この場にいる全員は似た者同士だ。真姫も、絵里も、希も、そして巧も。似た者同士でしか明かせないこともある。不器用ながら、これは真姫なりの配慮だったのだろう。

「うち、来る?」

 希は苦笑しながらそう言った。これは不意打ちだったのか、真姫は拍子抜けしながらも「え、ええ……」と答えた。

 しばらく歩いて到着した希の家はマンションだった。居室に迎えられれば親でもいるかと思ったが、誰もいない。玄関に置いてある靴も明らかに希のものだけで、間取りからして単身用のマンションだと分かる。

「お茶でええ?」

 キッチンでお湯を沸かす希が尋ねると、未だに困惑している真姫は「あ、うん」と先程の態度が嘘のような受け答えをする。

「巧さんは冷たいのがええよね?」

「ああ」

 絵里と真姫と巧が通されたリビングのテーブルは小さくて、3人がつくと窮屈に感じる。椅子だって2脚しかなくて、巧が座っている折りたたみ式の丸椅子は希が押入れから引っ張り出してくれたものだ。

「1人暮らし、なの?」

 「うん」と答える希の声色は、どこか寂しさを感じる。希はポットに紅茶の茶葉を入れながらぽつり、ぽつりと。

「子供の頃から両親の仕事の都合で転校が多くてね」

 「そう……」と真姫は相づちを打つ。続きを絵里が引き継いで。

「だから音ノ木坂に来てやっと居場所ができたって」

「その話はやめてよ。こんな時に話すことじゃないよ」

 はぐらかすように希が言ったところで、ぴー、とポットが汽笛のような音を鳴らす。

「ちゃんと話してよ。もうここまで来たんだから」

 コンロの火が消えて音が止むと、真姫はそう言った。「そうよ」と絵里も。

「隠しておいても、しょうがないでしょ」

 どうしても話したくないのなら、黙っていても良い。真姫だってそれくらいの気遣いはできる。でも、希はこうして巧達を家に招き入れた。それは、彼女に明かす意思があるということだ。でも、その勇気はまだ湧いてこない。

「別に隠していたわけやないんよ。エリちが大事にしただけやん」

「嘘。μ’s結成したときから、ずっと楽しみにしていたでしょ?」

「そんなことない」

「希」

「うちが、ちょっとした希望を持っていただけよ」

 ここまできて、往生際の悪い少女だ。巧が口を開こうとするも、その前に「いい加減にして」と真姫が2人の会話に口を挟む。

「いつまで経っても話が見えない。どういうこと?」

「ああ。こっちは全く分かんねえよ」

 「希」と真姫が強く促すも、希はこちらに背を向けたまま何も言う素振りを見せない。代わりに言ったのは絵里だ。

「簡単に言うとね、夢だったのよ。希の」

 「エリち」と希はあくまで優しく遮る。

「ここまで来て、何も教えないわけにはいかないわ」

 「夢?」と真姫が訝しげに。

 「ラブソングが、か?」と巧が尋ねる。「ううん」と絵里はかぶりを振る。

「大事なのは、ラブソングかどうかじゃない。9人みんなで曲を作りたいって。ひとりひとりの言葉を紡いで、想いを紡いで、本当に全員で作り上げた曲。そんな曲を作りたい。そんな曲でラブライブに出たい」

 皆で紡ぐ言葉。皆で口ずさむメロディ。ひとりの気持ちではなく、皆の気持ちが一体となり、本当の意味でμ’s全員が歌える曲を作ること。

 それが――

「それが希の夢だったの」

 真姫は黙って話を聞いている。何の皮肉も飛ばさずに、絵里の口から出てくる希の夢、希望を巧も聞き続ける。

「だから、ラブソングを提案したのよ。上手くいかなかったけどね。皆でアイディアを出し合って、ひとつの曲を作れたらって」

 「言ったやろ」と、そこでようやく希は口を開く。希はどこかで絵里が代弁してくれることを期待していたのだ、と巧は思った。さっきからキッチンに立ったままでいるのも茶葉を蒸らしているのだろうが、時間をかけすぎている。

「うちが言ってたのは夢なんて大それたものやないって」

 「じゃあ何なの?」と、真姫はテーブルにティーセットを置く希に尋ねる。「何やろうね」と希は答えた。

「ただ、曲じゃなくても良い。9人が集まって力を合わせて、何かを生み出せればそれで良かったんよ。うちにとってこの9人は、奇跡だったから」

 「奇跡?」と真姫が反芻し、希は「そう」と返す。

「うちにとって、μ’sは奇跡。転校ばかりで友達はいなかった。当然、分かり合える相手も」

 希はそこで絵里に視線をくべる。その口調はとても淡々としている。まるで他人事で、誰かの物語を聞かせるように。

「初めて出会った。自分を大切にするあまり、周りと距離を置いて皆と上手く溶け込めない。ずるができない。まるで、自分と同じような人に。想いは人一倍強く、不器用なぶん人とぶつかって」

 本人の口から明かされた過去を聞いて、巧は悟る。希の飄々とした振る舞いは、再び孤独に陥ることへの恐怖を隠すための仮面だったのだと。巧も同じだ。他人を寄せ付けないよう不遜な態度を取り続ければ、当然誰もが離れていく。それは巧の望んでいたことだ。それでも、巧はどこかで虚しさを感じていた。それが寂しさと気付いたのは、真理と啓太郎が自分を受け入れてくれたから。一度その温もりを知ってしまえば、求めずにはいられない。

「同じ想いを持つ人がいるのに、どうしても手を取り合えなくて。真姫ちゃん見たときも、熱い想いはあるけど、どうやって繋がっていいか分からない。そんな子があちこちに。そんなとき、それを大きな力で繋いでくれる存在が現れた。想いを同じくする人がいて、繋いでくれる存在がいる。必ず形にしたかった。この9人で、何かを残したかった」

 巧は黙ってグラスに注がれたアイスティーを飲む。出会えば必ず別れが付随してくる。3年生の希は、来年の春には絵里、にこと共に音ノ木坂学院を卒業する。そうなれば、希は再び孤独に戻ってしまう。だからこそ孤独になっても前へと進む勇気を与えてくれる「過去」を欲したのだ。

 未来では過去になる「いま」。

 それがμ’s。

 皆で作った曲。

「確かに、歌という形になれば良かったかもしれない。けどそうじゃなくても、μ’sはもう既に何か大きなものをとっくに生み出してる」

 希は紅茶が注がれたティーカップを持ち、中身を見つめながら言う。

「うちはそれで十分。夢はとっくに――」

 希の言葉はそこで途切れる。今まで余裕な物腰だったのに、幼い少女のように眉尻を下げて唇を結ぶ。漠然とした気持ちを言葉として声に出せば、それは実体として認識される。まるでモノクロ写真に色が付けられるように、リアルに感じ取れる。本人が語った希の物語は、はっきりと寂しさに血肉を与えてしまった。

「叶えてねーだろ」

 巧は憮然と言った。

「1番大切なのはμ’sだとか言ってたが、お前だってμ’sの一員だろ。変に気遣いすぎなんだよ。そういうの必要ないのが友達だろうが」

 ここまでくれば、巧の意地だった。妥協ができないからこそ夢なのだ。認識を得たというのに、希はこの期に及んで無理矢理にでも納得して胸の内に仕舞いこもうとする。この場にいる者の例に漏れず、希も大層面倒臭い。妥協などさせてやるものか。

「巧さんはもう少し気を遣ったほうがいいけどね」

 茶化すように言った真姫はポケットから携帯電話を取り出す。絵里も同じように。

「まさか、皆をここに集めるの?」

 少し驚いた様子の希に「いいでしょ。1度くらい皆を招待しても」と真姫は返す。

「友達、なんだから」

 

 ♦

 メンバー全員が希のマンションに集まる頃には、陽もすっかり落ちていた。流石に10人が単身用の居室に集まると窮屈なもので、それぞれが手頃な場所を見つけて腰を落ち着かせなければならない。

「ええ!? やっぱり作るの?」

 穂乃果の驚愕の声を受け、真姫は「そ、皆で作るのよ」と答える。

「何かあったの? 真姫ちゃん」

 花陽が尋ねる。あれほどラブソング製作に反対の意を示していた真姫が、手の平を返しているのだから当然の反応だ。「何にもないわよ」とだけ真姫は言った。

 「ちょっとしたクリスマスプレゼント」と絵里が。

「μ’sから、μ’sを作ってくれた女神様に」

 そうして再び打ち合わせが始まるのだが、やはり泥沼だ。皆で言葉を出し合い詞にする。その意向で進めようとするも、ぴたりとはまるような言葉はそう簡単に出てこない。

 何気なく部屋のインテリアを眺めていた花陽の視線が一点で止まる。9人で『START:DASH!!』を披露した後に撮影されたμ’sの集合写真だった。巧がμ’sのもとに帰ってきた日のライブ。隣には舞台裏で巧も交えた10人で映った写真も飾られている。花陽が写真立てを手に取ると、それに気付いた希が慌てて横取りして胸に抱く。

 希が取り乱すところを初めて見た。メンバー達が意外そうに彼女を見るなかで、にこが悪戯な笑みを浮かべる。

「そういうの飾ってるなんて意外ね」

「べ、別に良いやろ。うちだってそのくらいするよ」

 ベッドの上で座り込んだ希は恥ずかしそうに視線を背け、か細く言う。

「友達、なんやから……」

 皆は嬉しそうに笑った。皆もあまり自分のことを語らない希との距離を感じていたのだ。その希本人から、友達と言ってくれた。

 「可愛いにゃー!」と凛が飛びつくも、希がかざした枕に阻まれる。

「もう、笑わないでよ!」

「話し方変わってるにゃ!」

 じゃれ合いから逃れようとした希を絵里が背後から優しく抱き留める。

「暴れないの。たまにはこういうことも無いとね」

 最初は驚いていた希は「もう……」と、えも満更でもなさそうに絵里の体に身を預ける。希はμ’sに加入する以前から、グループを気にかけていた。だから希には知ってほしい。希がメンバー達を想うように、メンバー達も希を想っていることを。

 「あ、そういえば」と花陽がポケットから紙片を取り出す。折りたたまれた紙を広げてメンバー達に見せた。

「今日、ヴェーチェルのライブだよ」

 「ヴェーチェル?」と穂乃果が聞く。「そっか、穂乃果は知らなかったわね」と絵里が思い出したように言う。

「UTXのスクールアイドルよ。この前ライブに誘われたの。他のグループを見るのも、刺激になるかなって」

 絵里はチラシに書かれた時刻を見て、次に携帯電話に表示される現時刻を。

「時間も丁度いいし、行ってみない?」

 

 ♦

 年に1度の聖夜が近くなり、街はクリスマスムード一色だった。クリスマスソングがBGMとして流れ、ケーキ屋の前ではサンタクロースの衣装を着た店員がチラシを配って宣伝している。世間はとにかくクリスマスだ。足りない要素は、まだ雪が降っていないことくらいか。

 そんな街を眺めながら、巧はファイズギアが収納されたケースをぶらぶらと揺らして歩いている。希のマンションに来た際、穂乃果が持ってきてくれたのだ。真姫に連れ出されたときは突然だったから、持ち出す間もなかった。

「ねえ、巧さん」

 会場を目指す道中、最後尾にいる希は隣の巧を見上げる。

「巧さんとの出会いも、奇跡なんよ」

「そりゃ大袈裟だろ」

「ううん。もし巧さんと会えなかったら、μ’sの夢はオルフェノクに壊されていたかもしれない。こうして9人が集まったのも、廃校が無くなったのも、巧さんがいてくれたからなんや」

「俺は何もしてねーよ」

 「ふふ」と希は笑った。

「いつもそればっかりやね。感謝されたら素直に受け取ればいいのに。巧さんはやっぱり特別なんやと思う」

「特別? どこが?」

 「うーん、何ていうか……」と希は宙を眺める。

「本来なら、出会わないはずだったのかもしれんね。でも、うち達と巧さんは出会った。巧さんが普通じゃないって感じてたのはオルフェノクだからじゃなくて、やっぱり運命を越えられるものなんよ」

「それもカードが言ってたのか?」

「カードと、うちの勘やね」

 相変わらず言っていることが曖昧だ。巧は無為な想像をしてみる。もし自分が、オルフェノクが現れなかったら、彼女らはどんな夢を追っていたのかと。

 あまり深く考える必要はなかった。巧がいなくても、彼女らは9人に集まり、スクールアイドルとしてラブライブ優勝を目指して走り続けることが容易に想像できたからだ。巧の介入なんて小さなものだ。巧はμ’sを導いてなんかいない。彼女らの夢を傍観し、行く道を阻む者達がいれば排除してきただけだ。

 街の中心部から外れた場所に、ライブハウスは構えられていた。規模はそれほど大きくはなく、8階建て複合ビルの地下にある小劇場が、ライブ会場として指定されている。

 巧はビルを見上げる。何かを忘れているような気がするが、記憶と呼ぶには曖昧で何を忘れているのかすらも思い出せない。

「たっくん、どうしたの?」

 巧の様子に気付いた穂乃果が尋ねてくる。「何でもない」とだけ答えて、巧は地下への階段を降り始める。

 メンバー達はどんなライブなのだろう、と期待に満ちた表情を浮かべてドアを開けて中に入る。

 チェス盤を思わせる黒と白のタイルが張られた床の劇場は小規模だ。朧げな照明が照らすステージは低く、観客との隔たりをあまり感じさせない。アイドルといえば一般人には手の届かない存在というイメージを抱いていた巧は、今のアイドルは客との距離がとても近いんだな、と漠然と思った。

 客入りはとても繁盛しているとは言い難い。30人入れば十分な密度の劇場に来ている先客はたったの4人で、しかも顔見知り。

「A-RISE!」

 先客を見たにこがうわずった声をあげる。「あら」とツバサはメンバー達を見て、嬉しそうに笑う。穂乃果がツバサのもとへと歩き、「こんばんは」と挨拶の後に尋ねる。

「ツバサさん達も、ライブに誘われたんですか?」

「ええ。ヴェーチェルのことはずっと応援してたから。今夜のライブ、きっと凄いわよ」

 リラックスした様子の3人を見て、トップアイドルといえどまだ高校生なんだな、と巧は奇妙な感慨を覚える。その意識は、こういった場に慣れていないのか所在なさげに立っている往人へと向く。

「お前も来たのか」

「森内さんに招待してもらったんです」

 そう言って往人はまだ演者が立っていないステージへと視線を向ける。

「良かったですね。夢が叶って」

「…………ああ」

 「霧江君」と穂乃果が往人のもとへと歩いてくる。恥ずかしそうに反射的に顔を背ける往人をにこがにやにやと眺めている。

「お久しぶりです、霧江君」

 穂乃果の後をついてきた海未に「やあ、園田」と往人が言うと、彼と初対面である絵里が「知り合いなの?」と聞いた。

「中学の同級生です」

 海未が答えると、往人はメンバー達に「霧江往人です」と軽く会釈する。

 会話に華を咲かせる間もなく、フロアの照明が暗転する。数秒置いてステージのライトが点いて、光の下でフリルやリボンで飾られた衣装を着たヴェーチェルの3人が並んで立っている。

 真ん中にいる彩子は1歩前へと踏み出し、満面の笑顔を少ない観客達に見せる。

「皆さんこんばんは。わたし達はUTX学院スクールアイドル、ヴェーチェルです」

 待ってました、というように皆は拍手する。巧も申し訳程度に手を叩き、彼女達に祝福を贈る。

 右隣にいる愛衣が言う。

「今夜はわたし達のファーストライブに来てくれて、本当にありがとうございます」

 次に、左隣にいる里香が。

「わたし達と一緒に、思いっきり楽しんでいってください」

 3人はとても嬉しそうだった。ずっと夢見ていた光景。理想よりも観客は少ないかもしれないが、ようやく立てたステージにいる彼女達は、喜びの熱を抱きしめているように見える。

「曲の前にリーダーのわたし、森内彩子からメンバーの2人に伝えたいことがあります」

 「え?」と2人は同時に彩子へと視線を向ける。予定にない進行らしい。彩子は愛衣へ、次に里香へと交互に顔を向ける。

「愛衣、里香。2人ともありがとう。人前で歌う機会なんて無かったのかもしれないのに、わたしに着いてきてくれて。実は、何度も解散しようか考えてたんだ。でも悩む度に、やっぱり2人と一緒に歌うのがとても楽しいんだって思えた。本当に、ヴェーチェルをこの3人でやれて良かった」

 「そんなこと……」と愛衣が鼻をすする。「ずるいよ」と笑いながらも、里香も目を赤くしている。

 

「だから、わたしが2人を連れてってあげる。まだ誰も見たことのないような、新しいステージに」

 

 彩子の笑顔に、黒い筋が走った。

 華奢な体が隆起し、灰色のアネモネオルフェノクとしての姿を成していく。え、と呆けた表情を浮かべる2人の胸を、アネモネオルフェノクの指先から伸びる灰色の蔓が貫いた。背中から飛び出した蔓の先端が青く燃えている。

 ほんの数秒間の演出だった。その数秒間、観客の全員が沈黙し、時が止まったかのように静止した。アネモネオルフェノクの蔓が指に収まると、時間が流れ出す。灰になっていく愛衣と里香の絶叫で。

 2人の声が途切れたのは、その体が煙をあげて崩れたときだった。でも、フロアを覆い尽くす絶叫は止まない。μ’s、A-RISEの皆の声が壁や天井に反響している。

 彩子の形になったアネモネオルフェノクの影が言う。

「愛衣と里香は駄目だったんだ。でもごめんね。人間に新しいステージは見られないの」

 逃げろ、という往人の声が聞こえ、幾重もの足音が続けてフロアに響き渡る。でも、立ち尽くす巧にそんなものは意識の片隅にもない。何故、という疑問のみが思考を占めている。巧はそれを声にして絞り出す。

「何で……、どうして………」

「わたし、最初はオルフェノクになった自分が嫌いでした。もう人間じゃなくなったんですもん」

 そう言ってアネモネオルフェノクはタタン、と軽やかにステップを踏み始める。

「でも、こんなわたしを受け入れてくれる世界があるって、女王様(クイーン)が教えてくれたんです。『王』が蘇れば、世界がオルフェノクのものになれば、わたしはその世界で永遠にアイドルとして歌えるって」

 がたん、という音が聞こえた。不思議なほど冷静に、持っていたギアケースを落としたんだな、と巧は判断していた。

 アネモネオルフェノクがステージ上で踊ると、地面に積もる愛衣と里香だった灰が舞い上がった。まるで花粉だった。オルフェノクという花を咲かせるための種を蒔いているように見える。

「ツバサやあんじゅや英玲奈のことも、最初はとても羨ましかったし、憎んでもいた。でも、3人はわたしにとってはとても大切な友達。μ’sの皆も、わたしの大好きなアイドル。ずっと皆で歌って踊りましょう。きっと素敵なステージになる」

 疑問から困惑へ。困惑を経て、巧は怒りを見出す。彩子ではなく、自分への怒り。戦うことしかできず、彩子を正しく導いてやれなかった自分の無力さが、何よりも憎い。

 アネモネオルフェノクはステップを止めて、ゆっくりとステージから降りてくる。

「乾さんと霧江君も行きましょう。ずっと永遠に、わたしのステージで楽しんで」

「黙れ‼」

 巧は怒鳴った。床に落としたケースのロックを解除し、ツールを取り出して腰に巻く。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身‼」

『Complete』

 駆け出した巧の体をフォトンストリームが覆っていく。一瞬の内に鎧を纏い、ファイズはアネモネオルフェノクに組み付く。

「逃げろ! 早く!」

 ファイズはドアの前で固まっている皆へと叫ぶ。「鍵が……っ」というツバサの声が聞こえた。床に映る彩子が笑う。

「ライブはまだ終わってないもん。途中退席は駄目」

「うるせえ‼」

 ファイズは拳をアネモネオルフェノクの顔面に打ち付ける。あはは、あはははとアネモネオルフェノクは笑い、ファイズに鞭を叩き下ろす。蔓のような鞭はうねり、生えた棘がファイズの装甲に突き刺さる。続けてフロアの隅に広がる暗闇から、青の光線が飛んできた。スーツに触れたエネルギーが小さな爆発を起こし、ファイズの体を吹き飛ばす。

 床に倒れたファイズは暗闇へと視線を向ける。闇の中から青のラインを光らせたサイガが、拳銃型に変形させたフォンを手に歩いてくる。

 ファイズの前に人影が横から入り込んでくる。アネモネオルフェノク、サイガと対峙した人影が「ああああっ‼」と叫び、そこでようやく往人であることに気付く。

 往人はホエールオルフェノクに変身した。思わず視線を後ろへ向けると、A-RISEとμ’sの面々が呆気に取られて目を剥いている。

 ファイズは自棄の絶叫を吐き出しながら、ホエールオルフェノクと共に敵へと向かっていく。アネモネオルフェノクにひたすら拳を見舞い、守るべき存在だったはずの彩子に暴力を振るい続ける。

 何故だ。

 何故こうなった、と問いながら。

 誰に問えば良いのか分からなかった。彩子の抱える闇に気付けなかった自分になのか、いるかも分からない神になのか。

 いや、神などいない。

 神がいるのなら、こんな残酷を容認するはずがない。これは全て自分の行動の結果だ。それどころか、行動を満足に起こさなかった因果なのだ。

「離れろ!」

 その声の数瞬後、どんっ、と銅鑼を叩くような音が聞こえる。アネモネオルフェノクを羽交い絞めにしながら振り向くと、ひしゃげたドアが倒れて、四角く切り取られたフロアの出入り口にカイザが立っている。

「ちゅーか、最悪のパターンだな」

 カイザはミッションメモリーをブレイガンに挿入しながら駆け出す。『Ready』という音声と共に黄色の刃が銃身から伸びた。ファイズを引き剥がしたアネモネオルフェノクはカイザに鞭を振るう。カイザがブレイガンを一振りし、フォトンブラッドの光刃が鞭を両断する。カイザはアネモネオルフェノクにブレイガンを一閃した。大きな花が咲いた灰色の体が仰け反り、生じた隙を突いてファイズはその胸を蹴飛ばす。

 アネモネオルフェノクの体が大きく跳び、壁を破壊して粉塵で隠れた暗闇へと突っ込んでいく。

 同時にホエールオルフェノクが2人の足元へと飛び込んできた。床を転がり、その軌跡を視線で逆行するとサイガがこちらに人差し指を向けている。

 ファイズとカイザは同時に駆け出す。燦然と迎えるサイガは迫ってくる刃も拳も全て避けた。ベルトの性能差が明らかで、サイガの重い蹴りがファイズの腹に鈍い痛みを刻みつける。

 後退したファイズはミッションメモリーをポインターに挿入した。続けてアクセルのミッションメモリーをフォンに挿し込む。

『Complete』

 こんな狭い空間でアクセルフォームはあまり得策とは言えない。動き回るだけで周囲の物体を破壊し撒き散らしてしまうのだ。それでも、この状況でサイガを相手にするには、この形態しかない。

『Start Up』

 アクセルがカウントを刻み始める。ファイズは一瞬で間合いを詰め、カイザの蹴りを防ぐサイガの顔面に拳を打った。多少の身じろぎをしたサイガはバックパックのスラスターを吹かし、追撃の蹴りを避けて狭いフロアを旋回する。出入口の辺りで逃げずに戦いを傍観している皆のもとへと向かうその背中に、ファイズは右脚のポインターを向けた。フォトンブラッドのマーカーが目標を補足し、ファイズは開いた光の傘へと飛び込む。

 強化されたクリムゾンスマッシュの衝撃は、サイガの背中を掠っただけだった。それでもバックパックのカバーが抉られ、電流を迸らせた噴射口からガスが途切れる。

『Exceed Charge』

 ファイズのものよりも低い音声が聞こえる。後ろを見やるとカイザのフォトンストリームを光が伝い、右手のブレイガンに到達する。地面に伏したサイガに向けられた銃口から、光弾が発射された。命中したエネルギーが網状に広がって、サイガの体を拘束する。

「だっしゃああああああっ‼」

 猛スピードでカイザは突進した。すれ違い様に剣を振り背後に立つと同時、サイガの胸から上がずるりと床に落ちて青い炎に燃やされる。残った胸から下も青い爆炎をあげ、灰になって崩れ落ちた。

 ばふ、と主を失ったベルトが灰の上に落ちる様子を見ているうちに、『3・2・1――』とアクセルのカウントが聞こえてくる。

『Time Out』

 ファイズはフォンのミッションメモリーを抜いた。『Reformation』という音声と共に、開いていた胸部装甲が閉じる。

「ったく、手間取らせやがって」

 灰にまみれたサイガのベルトを拾いながら、カイザが愚痴る。ファイズはゆっくりと歩きながら問う。

「海堂、何でお前が?」

「お前知らねえのか? このライブハウスはな――」

 「たっくん!」という穂乃果の声が響いた。直後、ファイズの腹に不快な痺れが走る。視線を下ろすと灰色の蔓が飛び出していて、先端がうねうねと気色悪く蠢いている。刺された、と認識すると痺れが痛みへと認識できる。

「あなたがいけないんですよ。守ってくれるって言ったのに裏切るから」

 振り向くと、アネモネオルフェノクが鞭を引いた。するりとファイズの体から鞭が抜けて、ぽっかりと空いた穴から血が溢れてくる。でも、すぐに流れは止まった。ファイズのスーツが損傷箇所を圧迫し、止血してくれたからだ。それでも痛みまで消してくれるほど、スーツは万能ではない。力の抜けた膝を折ると、背後からアネモネオルフェノクのあはは、という笑い声とステップを踏む音が聞こえてくる。

「野郎!」

 罵声を飛ばしながらカイザがファイズの横を通り過ぎていく。すぐにステップの音は消えて、代わりにぶんっ、という剣を振る音が。でもアネモネオルフェノクの、彩子の笑い声だけは変わらずに響き続けている。

「乾さん!」

 往人が隣に駆け寄ってくる。ツールが変身を維持できないと判断したのか、スーツが光と共に分解されていく。床に崩れる巧の腰からベルトが落ちた。圧迫するものがなくなり、再び血が腹から流れる。ごふっ、と咳き込むと口からも血が溢れた。

 往人が呼びかけてくるも、その声が遠くなってやがて聞こえなくなる。熱かった。貫かれた腹の痛みが熱さになって、全身に回っていく。どくん、と心臓が脈動し抑えきれない熱に思考を奪われていく。

 巧はゆっくりと立ち上がった。

「うああああああああああああっ‼」

 天井を仰ぎ、咆哮すると共に巧の体はウルフオルフェノクに変貌した。ウルフオルフェノクは首を回し、カイザと戦っているアネモネオルフェノクを見据える。

 跳躍すると、距離が一瞬で詰まった。カイザの襟首を掴み、邪魔だと言わんばかりに拳の尖刀で鎧に創傷を付けていく。拳を受けたカイザのベルトが腰から離れて床に落ちた。ツールを失ったカイザのスーツが消えて、痛みに顔を歪めた海堂が仰向けに倒れる。

 アネモネオルフェノクの鞭が迫ってくる。ウルフオルフェノクは跳躍し、得物の頭上を飛んで背後に着地する。アネモネオルフェノクの首筋に鋭い痛みが走った。突き立てられたウルフオルフェノクの牙が食い込み、気管を貫こうとしている。身を悶えさせると、灰色の肉が引き千切られる。

 ウルフオルフェノクは速かった。まさに獣で、灰色の拳に成す術なくアネモネオルフェノクは肩や胸に咲いた花を穿たれていく。

 ウルフオルフェノクの殴打は止まない。溢れる衝動を解き放つように、ひたすらに雄叫びをあげながらアネモネオルフェノクの体に尖刀で穴を開けていく。

「乾さん!」

 その呼び掛けに反応し、ウルフオルフェノクは拳を止めて横へと視線を流す。カイザのベルトを拾い上げた往人が決意を込めて瞳を向け、ベルトを腰に巻きフォンを開く。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 黄色の閃光と共に、往人はカイザに変身した。第2の得物を見つけたウルフオルフェノクは地面を蹴る。カイザはウルフオルフェノクの拳や蹴りを避けるばかりで、攻撃する素振りを見せない。突き出した腕を掴み、カイザは叫ぶ。

「しっかりしてください! あなたは、オルフェノクの力になんて負けないはずだ!」

 獣への言葉に意味はなかった。人間の言葉を認識できなくなったウルフオルフェノクは肘を打ち付け、拘束から逃れる。脚を突き出すが、カイザはバックステップを踏んで逃れ、ウルフオルフェノクの足が虚しく宙を蹴る。

「乾さん………」

 カイザは苦虫を噛み潰したように呼ぶと、ミッションメモリーを挿入したショットを右手に装着する。ベルトのフォンを開き、一瞬の逡巡を経てENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 「ああああああっ」と咆哮し、ウルフオルフェノクはカイザへと向かっていく。エネルギーがショットへと充填されたカイザはじっと拳を構え、飛びかかったウルフオルフェノクの腹にショットを打ち込む。

 衝撃の後に、痛みが腹から全身へと広がっていく。ウルフオルフェノクの体が吹き飛び、受け身も取らずに床に伏す。起き上がろうとしたウルフオルフェノクは胸を抑えた。何かが暴れているようだった。強く抑えつけたせいで、爪が食い込んで血が滲んでくる。

「たっくん!」

 誰だ、と思った。その声がどこからなのか、誰が発しているのか分からない。体中を駆け巡っていた熱が冷めていく。

 熱が引いていくと共に視界がぼやけていく。何もかもが霞んで、やがて暗闇へと落ちていった。

 

 ♦

 全くの無のなかで、俺は目を開く。

 目を開いても、閉じているときと変わらない。どこまでも暗闇だ。いや、目蓋を開いたという感覚は実は間違いで、本当は閉じたままなのかもしれない。何も見えないし、何も聞こえない。それでも微かに感じ取れる「おれ」という意識は、本物なのだろうか。自分の体すら見えない今は、そんな疑問が浮かび上がる。

 俺は歩いた。向かう場もなく、ただ闇のなかで見えない地面を歩く。歩く、という感覚はあるのだが、自分の足音が聞こえない。試しに口を開いて、ああと声を発してみる。でも、何も聞こえない。俺の声は、どんな声だっただろうか。自分を自分と感じ取れるものが全て奪われたようだった。

 それでも、歩き続けると少しずつ、俺が俺であるという意識が確かなものになってくる。

 俺は誰だ。俺は俺に問いかけてみる。しばらくの逡巡を挟んで、俺は答える。

 俺は、乾巧だ。

 人間として、ファイズとして戦ってきた。

 何と戦ってきた。

 その問いには答えることができない。戦ってきた相手はオルフェノクだ。でも、オルフェノクは皆、元は人間だった。異形の姿に成り果てても、彼らのなかには確かに人間だった頃の記憶があり、心があったはずだ。

 人間であろうとした木場のように。

 今、人間として生きようとしている俺のように。

 答えが見出せないまま歩いているうちに、祭囃子が聞こえてくる。暗闇だった視界が開けて、屋台が立ち並ぶ神社で人々が賑わっている。

 見覚えのある景色だった。確か、去年の夏だったと思う。近所の神社で催された夏祭りに行ったときの記憶だ。浴衣を着た真理と啓太郎が楽しそうに屋台を品定めしている。どの店のたこ焼きが美味いかとか、どこのくじ引きが当たりを引きやすいかとか。

「もう、せっかくのお祭りなんだから楽しみなさいよ」

 真理が肘で俺を小突きながらそう言ってくる。あの日、俺だけは浴衣を着ていかなかった。動き辛いし、祭りだからって浮かれる気分になれなかった。そもそも最初だって行くつもりはなかったのに、2人に無理矢理連れてこられたから、俺は不機嫌に祭りを見に行ったことを思い出す。

「あ、かき氷屋さんあるよ。たっくん好きでしょ?」

 子供みたいに啓太郎が屋台を指差す。好きというか、それしかすぐに食えるものが無い。たこ焼きとか、焼きそばとか、祭りの屋台は熱いものばかり売っている。こんな暑い時期に、何で皆は熱いものを食おうとするんだ。

「俺はいい。お前らだけで見て回れよ」

 憮然と言って、俺は休憩所のベンチに座る。「えー?」と啓太郎が不満を漏らし、真理は俺の顔を覗きこんでくる。

「もう出不精なんだから。何か買ってきてあげようか? リンゴ飴とか」

「いらねえって。こういう騒がしいとこあまり好きじゃねーんだよ」

 真理なら怒って何か言いそうだけど、あの日は何も言わなかった。思えば、灰が零れるのを見られた日から、真理は優しくなった気がする。あれからは口喧嘩も殆どしなくなった。

「分かった。行こう啓太郎」

 啓太郎は寂しそうに「うん」と言って、人々の中へと歩く真理に着いていった。俺から啓太郎には何も言わなかったけど、多分真理は話したと思う。それでもいつも通りに接してやろうとか言ったのかもしれないが、啓太郎の態度も目に見えて変わった。前にも増して俺へのお節介が鬱陶しい。飯の時には必ず味噌汁を冷まそうとしたし、俺が仕事をさぼっても文句を言わなかった。クリーニング屋の仕事となると絶対に妥協しない奴だったのに。

 2人の姿が見えなくなると、俺はベンチから立って神社から離れた。こんな場所、俺には不釣り合いだ。そういえば、後で2人から何で先に帰ったと文句を言われたっけ。

 しばらく歩くと、視界に入ったのは啓太郎の家じゃなくて、また神社だった。今年のことで記憶に新しいから、鮮明に思い出せる。μ’sの皆で秋祭りに行くことになって、穂乃果を神社まで送っていった。

「わあ、すごい人だよ!」

 浴衣を着た穂乃果が感無量といった様子で、広場で賑わう人々を眺めている。

「何食べようかなあ。 たこ焼きに焼きそばにフランクフルトに――」

「そんなに食ったら太るぞ」

「良いの! お祭りなんだし」

 広場の中心。群衆の中からこちらに手を振る少女達が見える。皆も浴衣を着ていて、髪型も普段とは変えている。

「あ、皆だ」

 「みんなー!」と穂乃果はぱたぱたと草履を鳴らして走っていく。浴衣で走ったら転ぶぞ、と思っていると、穂乃果は俺のほうを振り向いて戻ってくる。

「たっくん、お祭り見ないの?」

「お前を送りに来ただけだからな。じゃ、楽しんでこいよ」

 回れ右をして来た道を引き返そうとするが、「えー、一緒に回ろうよ」と呼び止められる。

「美味しいものたくさんあるよ。熱かったらふーふーしてあげるし」

「いらねえよ」

 そう言って俺は歩き出すも2、3歩あたりで手を掴まれる。振り向くと穂乃果が口を尖らせていて。

「いいから行くよ。せっかくのお祭りなんだもん」

 穂乃果は俺の手を引いて歩き出す。その気になれば振り払えるのに、俺はそれをせずなすがままに穂乃果に引かれて、彼女の手の温もりを感じながら広場で待っている皆のもとへ向かっていく。

 

 ♦

 冷たい空気に頬を撫でられて、目を開く。

 ぼやけた視界が明瞭さを取り戻し、ウルフオルフェノクは自分の灰色の体を認識する。腹の痛みはなく、開けられた穴は跡も残さず肉で塞がっている。

 空気が冷たいのに、温もりを全身に感じる。その優しい熱が自分の内ではなく、外から与えられていることが分かった。

 両肩に、背中に、両腕に。

 視線を上げると左右に海未とことりがウルフオルフェノクの腕を掴んでいて、無意識のうちに伸ばしていた右腕の先では、穂乃果が手を強く握っている。ウルフオルフェノクの灰色に染まった手も、手に生えた棘も、全て優しく包み込んでくれる。

 ウルフオルフェノクは灰色に濁った両眼を向ける。穂乃果は恐れる様子もなく、じっと力強く見つめてくる。

「たっくん………」

 穂乃果が呼ぶと、体内に侵食していたものが一気に引いていくようだった。ウルフオルフェノクが巧の姿へと戻っていく。全身の力が抜けて、床に倒れようとした巧の体を穂乃果は抱き留める。体が密着して、彼女の早い鼓動を直に感じ取ることができた。

 「ふふっ」という笑い声が聞こえる。巧は視線を上げた。穂乃果も、周りにいるμ’sの皆も、焚火のように燃えるそれへと視線を向ける。

 青い炎の中で横たわりながらも、彩子は笑っていた。全身に穴を開けられて、片目を潰されて、残ったもう片方の目も虚ろで何を見ているのか分からない。

「愛衣……、里香……。わたし達、アイドルになったんだよ………。夢、叶ったんだよ………」

 彩子は空虚へ手を伸ばす。掌は血に濡れていた。

「ねえ、2人ともどこにいるの………? ねえ……、ねえ――」

 何かを掴もうとした彩子の手が、指先から崩れた。全身から灰が滝のように流れて、彩子だったという面影を欠片も残すことなく、灰の山は崩れた。

「ちゅーか世話のかかる奴だぜ」

 出入口のところで、海堂が往人の肩を支えている。その肩には、カイザとサイガの2本のベルトが無造作にかけられている。

 「あの、あなたは………」と近くにいるツバサが尋ねた。

「別に名乗るほどのもんじゃねーさ。お前らも早くずらかった方がいいぜ。警察とか来たら面倒だ」

 海堂が「ほれ」と促し、A-RISEの3人は素直に重い足取りで地上への階段を上っていく。

 海堂に体を支えられた往人が声を絞り出した。

「海堂さん、すみません………」

「喋んな。俺様だってな、ガキが死ぬところなんざもう見たくねえのよ」

 海堂は少しだけ沈んだ口調で言うと、往人と階段を上っていく。巧は問いたかった。海堂は何を知ってここへ駆けつけたのかと。でも巧の体は疲弊しきっていて、地上へ上っていく彼らの背中を目で追うことしかできなかった。

 随分と長くそこにいたのか、巧達が外に出ると海堂と往人も、A-RISEの3人も既にいなかった。

 μ’sの皆は巧の体を支えて歩き始めた。最初は2年生の3人が支え、次に1年生の3人、その次には3年生の3人と交代しながら歩き続けていく。歩きながら、誰も言葉を発することはなかった。10人の間に沈黙が漂い、冷たい冬の風と共に吹き抜けていく。

 ごめん、と巧は唇を動かすが声にならない。目に映る景色全てから色彩が抜け落ち灰色に見えてくる。それでも巧は目を逸らさず、過ぎていく街、世界を見つめ続けた。

 オルフェノクが、自分が汚した世界。

 彼女らにこんな世界を見せたくなかった。世界は少女達に夢を見させ、叶える代償を求めないと信じてほしかった。彼女らと巧の立つ領域を切り離そうと抗ってきた。彼女らは光を目指せる世界。巧は灰色へと埋没される世界。

 答えはいつだって「見つける」のではなく「提示される」ものだ。ある日突然、何の前触れもなく世界は残酷さを突きつけ、巧が抗おうとすればするほど残酷であり続ける。

 公園を通りかかると、皆は休むことにした。ベンチに座った巧は空を見上げる。いつの間にか雪が降っていた。

 いつか、旅先で雪のおとぎ話を聞いたことがある。雲の上には国があって、そこで人々は幸せに暮らしている。でも、幸せというのは永遠には続かない。冬が来ると国が大火事によって燃え尽きて、人々の灰が雪になって地上に降ってくる。

 皆が空を見上げ、降ってくる雪の結晶を受け止めようと手を広げる。まるで、雲の上で燃えていった人々の悲しみを受け止めるように。

 ぽつり、ぽつりと、彼女らは言葉を紡いでいく。空から降ってきたかのような言葉の連なりは、世界の真実を知った彼女らへのせめてもの慰めにも聞こえる。

 

 想い

 メロディ

 予感

 不思議

 未来

 ときめき

 空

 気持ち

 好き

 

 たとえ慰めでも、この汚れた世界がもたらす言葉の数々は皮肉なほど純粋で、美しい。

 巧は彼女らを見つめる。灰色だった世界に色が戻っていく。天から降りてきた9人の女神が、世界に色彩をもたらしていくようだった。

 希の目尻に雪の結晶が触れた。結晶は彼女の体温で瞬く間に溶けて、まるで涙のように頬を伝っていった。



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第9話 心のメロディ / 捨てられない心

 私がハーメルン様で作品の投稿を始めてはや1年が経とうとしています。この1年間、良い文章や言葉はないかと四苦八苦しながら過ごしてきた記憶が大半を占めております。だからといってそれが作品に活かされているかは別ですが(笑)。
 実を言うと投稿は本作以前の作品を最初で最後にするつもりでしたが、完結に近付いたあたりで創作意欲が沸いて本作の投稿へと至ります。本作も「これで最後にしよう」というモチベーションで書いているのですが、完結に近付いたらまた「書きたい」という欲が出てくるかもしれません。

 前置きが長くなってしまいましたが、こうしてめげずに作品を書けるのは応援してくれる皆様のおかげです。
 本当にありがとうございますと共に、これからもよろしくお願い致します。


「先日、あのライブハウスでバンドグループと観客全員が行方不明になる事件が起こっていました」

 琢磨は淡々と言う。そういえば、警察があの辺りを捜査していたな、と巧は思い出す。あの時に気付いていれば、結果は違ったのだろうか。そんな今となっては無意味な思索をしてしまう。

 この日の海堂の居室には、チーズの香りもビールの香りも紫煙の香りもない。部屋の主は珍しいことにデリバリーピザも用意せず、来客を招き入れた。違和感が拭えないが、この日ばかりはソファに腰掛ける巧も往人も食べる気にはなれないだろう。

 琢磨の淡々とした口調が否応にも巧の耳孔に入ってくる。

「ライブハウスを襲撃したのは森内さんでした」

「それを知ったから、海堂さんは来てくれたんですか?」

 往人の質問に、海堂は「おう」とだけ答える。感謝しろとか調子の良いことを言いそうなのに、今日の海堂はひどく無口だ。部屋の雰囲気はとにかく重苦しい。吸った空気が肺のなかで鉛でも生成してしまいそうなほどに。

「あいつ、アイドルになりたかったのか?」

 海堂がぽつんと聞いてくる。「ええ」と答えたのは往人だ。

「オルフェノクになったことに苦しんでましたけど、夢を諦めることができずにいたみたいです」

「ま、夢なんか持たんほうがいい。持ったって苦しいだけだ」

 海堂はそう言って窓の外に広がる風景を見やる。幾多もの夢が生まれ、消えていく街を。

「夢ってのは、呪いと同じなんだよ。途中で挫折したら、ずっと呪われたままだ」

 お調子者の海堂からは想像できない、重苦しい言葉だった。でも、巧はそれを海堂の言葉と受け入れることができる。まだこの部屋で海堂と暮らしていた頃、彼がいつも手袋で隠していた左手が露になったところを1度だけ見たことがある。彼の左手の甲にはうっすらと一筋の縫合跡があった。巧はその傷について追及することはなかったし、海堂も言うことはなかった。

 左手の傷と夢を呪いと謳う言葉。それだけで、海堂にもかつて抱いた夢があったと分かる。おそらくは音楽の、楽器の奏者を夢見ていたのかもしれない。でも、左手に負った傷は海堂の夢を呪いへと変えた。

 叶うと信じていたものが叶わないという現実を突き付けられたとき、かつて抱いた想いは胸の中から離れることなく鎮座し続ける。いつまでも消えず、そのくせに成就しない憧憬の念はいつからか人を呪縛する。呪いへと変わった夢を完璧に忘却へと捨て去ることもできず、かといって呪いが夢だった頃の記憶も完璧に思いだすこともできないまま。

 巧は今でも鮮明に思い出すことができる。

 たくましく伸びる1本の樹の下。

 そこで風に乗って空へと散っていく羽と灰。

 灰を被った長田結花の携帯電話。

 あの風景で、木場は自分自身の理想に呪われたのだ。

「呪いを解くには夢を叶えなきゃならない。それか、誰かに夢を受け継いでもらうかだ」

「呪いになった夢を他人に押し付けるのか?」

 巧は思わずそう聞いている。振り向いた海堂はどこか寂しげな笑みを浮かべて。

「まあ、受け継いだ奴の捉えかた次第ってこったな。そいつがまだ挫折しない限り、まだ呪いにゃならん」

 人から人へと受け継がれる夢。受け継いだ者が夢を叶えたら、託した者の呪いは解かれるのだろうか。託された者も挫折してしまえば、永遠に呪いはこの世に居座るのか。木場から答えと理想を託された自分もまた呪われているのだろうか、と巧は疑問を抱く。木場が自分を呪縛するために命を散らしたとは思いたくない。

 他者から受け継いだものでも、巧は夢や理想を自分のものとして抱くことを選択した。だから、巧の夢は巧のものだ。もし巧が呪われたとしても、それは木場ではなく巧自身の呪いだ。

 同時に巧は恐怖を抱く。木場や彩子のように夢を踏みにじられてしまったら、自分もまたオルフェノクとして、怪物として生きることを受け入れてしまうのではないか、と。勿論、そうはならないと口では言える。でも巧はまだ完璧な絶望というものを知らない。

 「さて」と琢磨がそこで集まった本題を切り出す。

「サイガのベルトを手に入れることができました。これで、我々のもとに必要な戦力が揃ったことになります。最低限ではありますが。あとは冴子さんの体のメカニズムを解明できれば――」

 「悪い、俺は帰る」と巧はソファから立ち上がる。「乾さん、大事な話なんですよ」と琢磨は言うが、構わず玄関で靴を履く。

「かったるいんだよ、今日は」

 気だるげに告げて巧は部屋を出た。外に出ると冷たい風が突き刺すように吹いてくる。駐輪場でオートバジンのエンジンをかけたところで、「乾さん!」と往人が走ってくる。

「何だ?」

「あれから、μ’sの皆はどうなんですか?」

 「いつも通りだ」とだけ巧は即答した。往人は府に落ちないといった表情を浮かべているが、本当にメンバー達はいつも通りなのだ。啓示のように紡いだ言葉を基に海未が詞を手掛け、真姫が曲を付け、希の夢だった「皆で作った曲」は完成した。メンバー達は日程が近い最終予選に向けて、今日もダンスレッスンに励んでいることだろう。

 罵倒されれば、少しは気が楽になったのかもしれない。弱音を吐くことなく練習に励む彼女らを見て、巧はそんなマゾヒズムな願望を抱かずにいられなかった。誰も巧を責めてくれない。希の夢が最悪な形で叶ってしまったというのに。

 気丈な少女達だ。あれだけの惨状を目の当たりにしても、自分達のやるべきことを果たそうとしている。それなのに、自分は何をしているのか、と巧は自分自身に苛立つ。ただ後悔ばかりしていて、あの時ああしていれば、こうしていればというどこまでも無意味で無価値なことばかり考えている。

 前に進めていない。彼女らの方がずっと先に進んでいて、その背中を見失ってしまいそうだ。

「乾さん、あまり自分を責めちゃ駄目です。俺達にくよくよしてる暇なんてありませんよ」

「……………何で」

 「え?」と往人は聞き返してくる。巧は俯いていた顔を上げて、往人をじっと見据えて声を荒げる。

「何で俺を生かした! 俺の命に何の価値があるってんだよ!」

 抑えきれない感情を散らしても、全く気分は晴れない。むしろ、八つ当たりしたことで自己嫌悪が強くなってくる。

 往人は怯えた反応を見せるが、目を逸らさず、しっかりとした口調で告げる。

「乾さんじゃないと、皆を守れないんです」

「ベルトはお前にだって使えるんだ。だったら――」

 「俺は駄目です」と往人は遮った。

「海堂さんから乾さんのことを聞くまで、俺は女王様(クイーン)の言いなりでした。多分、μ’sを襲えって命令されたら怖くて逆らえなかったと思います」

 往人はそこで身を乗り出し。

「乾さんは、俺にとって英雄なんです。人間を守るために戦う強さを持ったあなたの方が、俺よりも生きるべきなんです」

「違う、俺は………」

 往人の真っ直ぐな瞳が恐ろしく感じられる。自分の背負っているものを突き付けられている気がした。お前は自分の背負うものの重さを分かっていない、と。往人がそんなことを意図してないことは分かっている。純粋さとは時に残酷になる。

「俺は、そんな大それた奴じゃない」

 逃げるように巧はヘルメットを被り、オートバジンを走らせる。冬の風はとても冷たく、バイクに乗ると鋭い針のように刺してくる。

 ふと空を見上げると、空は灰色の雲に覆われている。光が指し込まないように蓋をされたようだった。おやおや、お前に光はもったいないよ、と嘲笑われている気分だった。

 

 ♦

 シャベルで掬い上げる雪はとても軽い。積もったばかりでまだ溶けた水分を含んでいないからだ。雪を路肩に放り、高坂母はふう、と一息ついて額に滲んだ汗を手で拭う。

「天気予報で降るとは言ってたけど、ひと晩でここまで積もるなんてね」

 東京でここまで雪が積もるのは珍しい。降ったとしてもすぐに溶けてしまうのに。雪が雲の上で燃え尽きた人々の灰というおとぎ話を聞いたのはどこの土地だっただろうか。雪をかきながら巧は記憶を探ってみるも、全く思い出せない。雪国だったことは確かなはずだが。

「うわあ、真っ白」

 店の引き戸を開けた雪穂が子供らしく目を輝かせながら降ってくる雪を眺めている。

「凄いねえ」

「もう、見てるだけじゃなくて手伝ってよ」

「お姉ちゃんは?」

 「どうせまだ寝てんだろ」と巧が言って、「夕べも早かったわよ」と高坂母が付け加える。

「しっかり休んで、体力整えておくって言ってたから」

「おお。お姉ちゃんらしくない………」

 感心しているのか困惑しているのか。おそらくは両方が混在しているであろう雪穂は2階の窓に向かって「お姉ちゃん!」と呼ぶ。すぐに勢いよく窓が空いて、穂乃果が顔を出す。

「いま二度寝しようとしたでしょ?」

「してない!」

「嘘だ。何となく分かるもん」

 図星だったのか、穂乃果は不貞腐れた顔を部屋へと引っ込める。いつもの怪訝な顔をしていた雪穂はふっと笑みを零した。

「いよいよ今日だね、最終予選。頑張ってね」

 「ほら乾さんからも」と雪穂は巧の背中を叩いてくる。作業の手を止めて、巧は穂乃果を見上げて面倒臭いという態度を露骨に出しながら告げる。

「頑張れよ」

 穂乃果は口を微かに開くも、無言のまましばらく巧と視線を交わしていた。言葉が出ないのだろうな、と巧は悟った。巧も同じだった。穂乃果に何を言うべきか、抱えるこの気持ちをどう言葉に表せばいいのか分からずにいる。

 沈黙の後、穂乃果は「うん!」といつもの明るい表情で返した。

「うう……、寒い。もう無理ー」

 そう言って雪穂は店の中へ戻っていく。「手伝いなさいよ」と高坂母が言うも、「寒くて無理!」という雪穂の文句が中から聞こえてくる。

 雪はまだ降り続いている。巧は雪化粧を纏った街を眺める。白に覆われた街の景色はいつもとは様変わりしている。

 このまま雪が降り続けて街を埋もれさせてくれれば、自分の罪も凍らせてくれるのだろうか。

 雪を見ながら、巧はそう思った。

 

 ♦

 到着が1時間ほど遅れる。

 絵里が穂乃果からその連絡を受けたのは、2年生の3人を除くメンバー達と巧がライブ会場に到着した頃だった。最終予選と生徒会が進行に携わる学校説明会が同日であることに懸念はあったが、時間は重なっていないからさほど問題視はされなかった。だがこの雪で、電車の遅延や道路の交通渋滞が重なっている。東京で積雪は珍しいから、交通はこういった天候トラブルに弱い。

「分かったわ。わたしから事情を話して、6人で進めておく」

 絵里は通話を切って、メンバー達に指示をする。

「ひとまず控え室に向かいましょう」

 そこへ、にこの悲鳴にも似た声が響く。口をあんぐりと開けたにこの視線を追い、それを視界に収めた皆も同じ表情をする。

 会場である東京駅丸の内前広場。クリスマスシーズンには巨大な駅の敷地全域にイルミネーションがあしらわれるのだが、それに加えて広場の中心に雪の結晶をかたどったアーチが幾重にも並んでいる。まだ昼だからアーチは雪が積もった背景に溶け込んでいるが、夜になると内蔵された電飾が光るのだろう。

 「凄い……」と花陽が声を絞り出す。

「ここが、最終予選のステージ………」

「大きいにゃ………」

 驚きのあまりにアーチを凝視する後輩2人に、にこが「当たり前でしょ」と澄ました視線を送る。

「ラブライブの最終予選なんだから。何ビビってんのよ………」

 そう言っているにこも脚が震えている。寒さではないことは、この場にいる誰もが分かっていることだ。

「凄い人の数になりそうね」

「これは9人揃ってじゃないと………」

 真姫と希が口々に言う。2人さえもが不安げな顔をしている。それほどまでに、ラブライブという大会は盛り上がりを見せているのだ。

 巧はケースを握る手に力を込める。琢磨によると、スマートブレインはやはり最終予選を襲撃するべく刺客を送り込むらしい。

 今やスマートブレインは、音ノ木坂学院の廃校など視野にない。あの学校を取り壊した後に建設する予定だった会社のビルなど、「王」が復活してしまえば不要になる。最優先事項は「王」への供物を確保すること。多くの人が集まるライブというのは、オルフェノクが同胞を生むための格好の場になる。

 まだ自分は呪われていない、と巧は断言できる。自分が守ろうとする夢がまだ潰えていないうちは、まだ人間として戦うことができる。

 控え室でしばらく待っていると、空の暗がりが深くなってくる。それに伴いアーチに青い光が灯って、バルコニーから凛と花陽は輝く結晶を眺めている。

「本当にここがいっぱいになるの? この天気だし」

 壁に背を預けた真姫が訝しげに言う。「きっと大丈夫よ」と絵里は返すのだが、風が強まっていて降雪も横薙ぎになってきた。穂乃果達は間に合うのだろうか、と冷たい缶コーヒーを飲みながら巧はそんなことを考える。

「びっしり埋まるのは間違いないわ」

 不意にその声が、廊下の角から聞こえてくる。視線を向けるとA-RISEの3人がいて、中心にいるツバサが余裕な佇まいを見せている。

「完全にフルハウス。最終予選に相応しいステージになりそうね」

 洒落た台詞を並べるあんじゅだが、巧はその余裕さが繕ったものに見える。あの夜から3人とは顔を合わせていなかったから、日が経つにつれて再会に恐怖を抱くようになった。巧がオルフェノクであることを知った彼女らが、巧にどんな感情を向けてくるのか。

「どうやら、全員揃ってないようだが」

 メンバー達を見渡して、英玲奈が言う。「あ、ええ」と絵里は歯切れ悪く答えた。

「穂乃果達は学校の用事があって遅れています。本番までには、何とか………」

 「そう」とツバサは表情を変えることなく「じゃあ穂乃果さん達にも伝えて」と付け加える。

「今日のライブで、この先の運命は決まる。互いにベストを尽くしましょう。でも、わたし達は負けない」

 淡々とした口調だが、最後のひと言だけはツバサの熱がこもっていた。この最終予選で歌を披露するグループは4組。でも、注目株はA-RISEとμ’sだ。短期間で支持を得たμ’sがとうとうA-RISEに勝つのか。それともA-RISEが王者の座を防衛するのか。

 「乾さん」とツバサは巧を呼ぶ。コーヒーに口をつけようとした巧は無言のまま視線を返す。ツバサは相変わらず余裕な物腰で尋ねてくる。

「ちょっと、来てくれますか?」

 

 ♦

 通されたA-RISEの楽屋は、μ’sのものとそう変わらない。化粧台と着替え用の仕切りと、くつろぐための簡素なソファが備えられている。

 巧が部屋のドアを閉めると、3人の表情が変わった。さっきまでの余裕、凛とした、小悪魔的な佇まいが崩れ、そわそわと姿勢を何度も変えている。

「乾さんは、彩子がオルフェノクだって知ってたんですか?」

 ツバサが尋ねて、巧は「ああ」と短く答える。

「あなたも、オルフェノクだったんですね」

 そう聞いてきたのは英玲奈だ。この質問には無言のまま頷く。

 「仮面ライダーがオルフェノクだなんて……」とあんじゅが漏らす。巧が何気なしに一瞥すると、あんじゅは咄嗟に目を背けた。余計な事だったという反省ではなく、単純にオルフェノクである自分を恐れているのだ、と巧は悟る。怖れていながらもこうして楽屋に入れるのは、巧が人を襲わないという理解なのか、恐怖以上に知りたい真実があるのか。きっと理由は後者だろう。

 裏付けるようにツバサは質問を重ねてくる。

「あなたは何で、オルフェノクなのにμ’sを守っているんですか?」

「人間として生きたいからだ。俺みたいな考えを持つ奴は他にもいる」

「じゃあ、彩子は………」

「あいつも、人間でありたかったはずなんだ」

「ならどうして!」

 ツバサの声色ががらりと変わった。とても激しく、荒々しいものに。巧は視線を下へと背けてしまう。ツバサの顔を見るのがとても恐ろしかった。でも、それは筋が通っていないことを知っている。彩子の苦悩を知っていながら、彼女を救えなかったことの責は当然巧にある。

「彩子は誰よりもアイドルになりたがってたんです。ヴェーチェルを始めたときだって、愛衣と里香と一緒に、わたし達よりも凄いアイドルになってみせるって言ってたのに、何で………」

 見開いたツバサの目から涙が溢れた。見れば、あんじゅも泣いている。これまで抑えていたものが一気に流れ出ているのだ。唯一、まだ泣いていない英玲奈も口を固く結んでいて、目元が赤みを帯びている。

「ごめん………」

 巧にはそれしか言えなかった。謝って済むようなことでもないし、それでも言わないよりはマシだなんて開き直ることもできない。

 夢を持つ資格がある、と巧は彩子に言った。彩子はオルフェノクになってもアイドルになることを望んでいて、その夢を人間の世界ではなく、オルフェノクの世界で叶えることを求めてしまった。人間を守るという建前で彼女の夢を壊してしまったのは、紛れもなく巧の罪だ。

 仮面ライダー。

 そう世間で呼ばれる巧には、ある意味で的を射た呼び名だ。正義という仮面を被り、命を蹂躙する戦士。卑劣なことに、仮面で顔を隠し世間を欺いている。

 ツバサの肩を抱いて、英玲奈が「すみません」と巧の求めていない謝罪をしてくる。

「わたし達は知りたいのです。全てのオルフェノクが、彩子のようになってしまうのですか?」

「分からない。そいつ次第だ」

「なら乾さんも――」

 英玲奈が言う途中で楽屋のドアが勢いよく開いた。いつから聞いていたのか、そこに立つ絵里は「違います!」と部屋に入ってくる。絵里の姿を見て、ツバサは慌てて涙を乱暴に袖で拭う。

「巧さんは人間を捨てたりしません。今までだって、巧さんはわたし達のために戦ってくれたんです」

 A-RISEの3人は絵里を見据える。拮抗した視線を交わしたまま沈黙を漂い、涙が止まったツバサは口を開く。

「なら、μ’sを守って証明してください。あなたが人間だってことを。わたし達は、わたし達のやるべきことをやります」

 「やるべき事?」と絵里は反芻する。ツバサは首肯し。

「わたし達はアイドルです。何があっても、お客さんを喜ばせる1番の存在でないといけません。きっと、彩子だってそれを望んでいたはずですから」

 ツバサは真っ直ぐな視線を巧に向けて宣言する。

「彩子の夢は、わたし達が継ぎます」

 海堂は言っていた。呪いを解くには夢を叶えるか、誰かに夢を受け継いでもらうしかない、と。

 A-RISEの3人は、彩子の夢が呪いへと変わる瞬間を見たはずだ。それでも、彼女らは呪われたその夢を自分達の夢として継ぐことを選択した。

 呪いになんてさせない、と。

 

 ♦

「余計なこと言うなよ」

 廊下を歩きながら、巧は隣にいる絵里に冷たく言い放つ。絵里は「ごめんなさい」と言いながら「でも」と。

「巧さん、あの日からずっと沈んだ顔してるので………」

 隠していたつもりだったが、お見通しだったらしい。なるべくいつも通りの乾巧として接してきたが、巧から放射される虚しさの匂いを絵里は感じ取っていたのだ。絵里だけでなく、μ’sの皆がそうだろう。

「あまり責任を感じないでください。巧さんは何も悪くないんですから」

 巧は絵里の気遣いに応じることができない。責任を放棄してしまったら、この苦悩を捨ててしまったら、人間でいられないかもしれない。絵里にそんな身勝手な理解を求めることはできないのだ。

 不意に着信音が響く。絵里はポケットから携帯電話を出し、耳に当てる。相づちを何度か打ち、次に「ええ!?」と立ち止まり上ずった声をあげる。

「動けない!?」

 巧の敏感な聴覚は、端末から発せられる音声を聞き取る。通話先はことりだった。

『そうなの。電車が止まっちゃったらしくて』

 同様を露にした絵里は「そんな……、間に合うの?」と聞く。巧が窓を見やると、雪が先程よりも激しく降っている。

『いま、穂乃果ちゃんのお父さんに車出してもらおうと――』

 『だめ。道路も全然動かないって』と穂乃果の声が漏れてくる。

「………分かったわ」

 それだけ言って絵里は通話を切る。

「穂乃果達、来られないのか?」

「交通網が麻痺しちゃってるみたいで………」

 絵里は唇を噛みしめる。巧はコートのボタンを閉めて、ポケットから取り出したグローブをはめて歩き出す。後ろから「巧さん?」と絵里が呼んできた。巧は歩きながら、振り返ることなく言う。

「迎えに行ってくる。お前らは準備しとけ」

 巧は早足で廊下を歩いた。地下の駐車場に出て、オートバジンに駆け寄ると同時に1台のバイクが近付いてくる。地下駐車場の弱い照明でもそれと分かるサイドバッシャーを停めた運転手はヘルメットのバイザーを上げて、その顔を晒す。

「霧江」

 巧は思わず彼の名前を呼んでいる。海堂だと思っていたから不意打ちだ。

「海堂さんから電車も道路も駄目だって聞いて。ライブは大丈夫なんですか?」

「ライブはやるらしい。でも穂乃果達が学校から動けないんだ」

「何で学校に?」

「学校説明会に出てたんだ。今から迎えに行く」

「なら俺も行きます」

「良いのか? お前――」

 オルフェノクになったところを見られただろう、と言えなかった。でも往人は察してくれたようで、しばし口をつぐんだ後に強く言う。

「今はそんなこと気にしてる場合じゃありませんよ。行きましょう」

 往人はバイザーを下げると、ハンドルを切ってサイドバッシャーを方向転換し前進させる。巧はオートバジンでその後を追った。

 外に出ると、もはや吹雪と言って良かった。大通りは車が長蛇の列を成して動く気配がない。オートバジンならすり抜けられるのだが、サイドバッシャーはそれができない。サイドカーが幅を取ってしまうのだ。だから2人は抜け道を通った。細くて車で通るには困難な道を走り、右へ左へと曲がっていく。こんな移動は、この街の道路網を熟知していなければできない。

 しばらく走っているうちに、吹雪は弱まってくる。視界が開けてくるに伴って、巧は路面の雪がかき出されていることに気付く。路肩をちらりと見るとウィンドブレーカーを着た人々がスコップを手に雪かきをしていて、音ノ木坂学院へ近付くにつれて人の数は多くなっていく。

 学校へ続く階段の前にバイクを停めると、「遅いですよ」と甲高い声と共に少女達が駆け寄ってくる。穂乃果の同級生の、確かフミコとミカとヒデコといったか。

「絢瀬先輩から乾さんが来るって聞いて、車道まで雪かきする羽目になったんですから」

 フミコがそう文句を言ってくる。階段を見ると、雪は多少積もっている程度だ。この降雪なら、階段の段差など埋もれてしまいそうなのに。

「ヘルメットだって調達するの大変だったんですよ」

 ミカがそう言ってヘルメットを3つ、ハーネス部分を束ねて窮屈そうに差し出す。

「お前ら………」

 ヘルメットを受け取った巧が言葉に詰まっているうちに、階段の頂に3人の少女が立っているのが見えた。真ん中にいる穂乃果は除雪された階段と道路を眺めたまま佇んでいる。

 3人は階段を駆け上がり、フミコが「遅いわよ」と得意げに言う。

「もしかして、これ皆が………?」

 穂乃果の頬が朱色を帯びていく。そんな彼女を見て3人は笑みを浮かべ、ヒデコが言う。

「電車が止まったって聞いたから、皆に呼び掛けたの。穂乃果達のために集まってって。そしたら来たよ、全校生徒が」

 巧は周囲を見渡す。皆がフードを被って作業しているから気付かなかったが、どこもかしこも少女ばかりだ。せっかくの休日をこんなことに使うなんて、とんだお人好しが音ノ木坂学院に集まったものだ。

 「さ、行って」とフミコが促す。海未とことりが呆然と作業を続ける生徒達を眺めるなか、穂乃果はゆっくりと階段を降りて呟く。

「皆、変だよ……。こんな大変なこと。本当に皆、変だよ」

 巧は階段を駆け上がり、穂乃果にヘルメットを差し出す。

「何ぼけっとしてんだ。早く行くぞ」

 ヘルメットを受け取り、穂乃果は「うん!」とエンジンがかかったように階段を駆け下りる。海未とことりもその後に続いた。

 階段が終わりバイクに乗ろうとしたとき、ヘルメットから覗く往人の顔を見た3人の表情から喜びの色が消える。

「霧江君……」

 血色が失せた顔色と恐怖をはらんだ声色で、穂乃果は呼んだ。往人は一瞬だけ悲しそうに俯くも、すぐに鬼気迫った顔に戻る。

「早く行こう。まだ間に合う」

 「ほら」と巧に促されるまま、穂乃果はサイドバッシャーのリアシートに跨る。ことりはサイドカーに体を滑り込ませ、海未はオートバジンのリアシートに乗る。

 2台のバイクが走り出すと、「行けー‼」というヒデコの声が聞こえた。すれ違い様、作業していた生徒達も「全力で走れ!」、「頑張れ!」と声援を送ってくる。

 行くべきルートは、除雪された道が示してくれる。来た道とは違う、車の少ない大通りから外れた会場までの最短ルートを生徒達は整えてくれていた。全ては穂乃果達を会場まで行かせるため。ラブライブの最終予選を突破させるために。

 不意に、道路の真ん中に灰色の影がふたつ降り立った。2台のバイクが急停止し、巧は慣性に従って前のめりに背中を押す海未など意に介さず2体のオルフェノクを凝視する。片方はコガネムシの、もう片方はサソリの面影がある。

「ベルトを貰うぞ。ついでに霧江、お前の命もな」

 若い男の形になったスカラベオルフェノクの影が、憎しみに満ちた声で告げる。

 先に行動を起こしたのは往人のほうで、サイドバッシャーから降りた彼はホエールオルフェノクに変身した。スカラベオルフェノクが細身の剣を携えて応戦する。ホエールオルフェノクでは2人を相手取るのは難儀らしく、暇を持て余したスコーピオンオルフェノクがこちらへ歩いてくる。

「たっくん?」

 穂乃果が呼びかけてくる。「巧さん?」、「どうしたんですか?」とことりと海未も。戦って、と言っているが分かる。でも、巧は海未が抱えているケースを手に取ることもせず、モーニングスターをぶら提げるスコーピオンオルフェノクを凝視し続ける。

「何で………」

 巧はがらんどうに問う。状況がそれを許さないと認識していながらも、問わずにはいられない。

「何でこんなことすんだよ! お前らだって元は人間だろうが!」

 スコーピオンオルフェノクは答えない。だが、それが答えのように思えた。俺は人間を捨てた。だから言葉も、慈悲も必要ない。沸き上がる衝動に従い人間を殺すのだ、と。

 スコーピオンオルフェノクの体が前のめりに倒れる。もう1体の敵との戦線から離脱したホエールオルフェノクが背後から蹴りを見舞ったのだ。「どいて」と乱暴に巧と海未をシートから押し退けたホエールオルフェノクは、オートバジンのスイッチを押す。

『Battle Mode』

 人型に変形したオートバジンが、敵にガトリング砲を撃つ。無数の銃弾をまともに受けた2体のオルフェノクの体が吹き飛ばされた。

 往人の姿になったホエールオルフェノクの影が怒号を飛ばしてくる。

「何してるんですか! 話して分かる相手じゃないですよ!」

 巧は無言のまま、ホエールオルフェノクの両眼を見つめる。灰色の顔が往人の顔に戻り、まなじりを吊り上げた彼は海未からケースをもぎ取って開く。

「オルフェノクが皆、あなたみたいになれるわけじゃない。戦うしかないんです。戦わなきゃ、守れるものだって守れない」

 往人はベルトを腰に巻いた。フォンを開き、プッシュ音が4回鳴ると『Standing by』という電子音声が鳴り響く。往人はフォンを頭上に掲げた。巧がするように。

「変身!」

『Complete』

 ベルトから赤いフォトンストリームが伸びて、光と共にファイズの鎧が往人の全身を覆った。ファイズはミッションメモリーをオートバジンの左ハンドルに挿入する。

『Ready』

 真紅の刀身が伸びるエッジを構え、ファイズは駆け出す。スカラベオルフェノクの剣と鍔迫り合いに持ち込み、その隙にモーニングスターを振りかざしてきたスコーピオンオルフェノクを横からホバー滑走してきたオートバジンが阻む。

 巧は傍観することしかできない。自分とは別人が変身するファイズが、敵の剣を弾き飛ばすところも。オートバジンが敵の鉄球をもろともせず拳を打ち付けるところも。

『Exceed Charge』

 エネルギーが充填されたエッジを、ファイズは雪面に薙ぐ。路面を走った赤いフォトンブラッドがスカラベオルフェノクを拘束し、ファイズは敵の体を一閃する。完璧なほどに、その太刀筋に慈悲というものは感じられなかった。往人は敵意と偏見をもって、オルフェノクを倒したのだ。

 両断されたスカラベオルフェノクが灰になって崩れると同時、オートバジンの拳を腹に受けたスコーピオンオルフェノクがファイズのもとへ飛び込んでくる。ファイズはミッションメモリーをショットへ移し、展開したグリップを握るとフォンのENETRキーを押す。

『Exceed Charge』

 標的が射程に入ったところで、ファイズは「あああっ‼」という咆哮と共にショットを突き出す。ツールから流れ込んだエネルギーがスコーピオンオルフェノクの体内を侵食し、その体を青く焼いていく。Φの文字を残し、スコーピオンオルフェノクは灰になって崩れ落ちた。

 ファイズは変身を解除する。光と共に鎧を脱ぎ捨てた往人は腰からベルトを外し、オートバジンのスイッチを押す。

『Vehicle Mode』

 バイク形態になったオートバジンに左ハンドルを接続して、「行きましょう」と何の感情も込めずに言った。

「急がないと間に合わなくなります」

 ベルトを納めたケースを巧に押し付けて、往人はサイドバッシャーのシートに跨ってヘルメットを被る。穂乃果とことりはただ往人をぼんやりと眺めているだけで、無言が漂い風の音を際立たせる。

「行くぞ」

 ぼうっとしている海未にそう言って、巧はオートバジンに跨る。リアシートに海未が腰を預けると、エンジンをかけて先行するサイドバッシャーを追いかける。

 

 ♦

 会場に近い高架下で、メンバー達は手を振っている。ここだよ、と示されたゴール前で、サイドバッシャーとオートバジンが停車する。

 シートから降りた穂乃果はヘルメットを脱いで、「穂乃果」と両腕を広げる絵里の胸に飛び込む。絵里の腕のなかで、穂乃果は癇癪を起こした子供のように泣き出した。

「寒かったよ。怖かったよ。これでおしまいなんて絶対に嫌だったんだよ。皆で結果を残せるのはこれで最後だし、こんなに頑張ってきたのに何も残んないなんて悲しいよ」

 顔を埋める穂乃果を絵里は優しく抱き留める。背中をさすりながら、「ありがとう」と呟いた。他のメンバー達も目に涙を溜めていた。この喜びと安堵は穂乃果と絵里ふたりだけのものではない、と。

 ここで終わらせたくない、と思っているのは巧も同じだ。でも、巧はさっきオルフェノクと戦うことができなかった。巧の躊躇のせいで、9人の夢が壊れるところだったのだ。俺は無力だ、と巧は自分自身に憤る。ツバサは自分のやるべきことを見出した。μ’sも同じだ。なのに、巧だけ迷っている。自分のしようとしていることは果たして正しいのか、と。

 巧の胸中を恐怖が満たしていく。オルフェノクと人間の境界を定め、その責任を背負うことに。今更の恐怖だ。戦うことの罪を背負うとかつて決意したはずなのに、今になって揺らいでしまった。姿の違いは明白なのに、守るものと倒すものと分かつことを迫られれば、うろたえるしかない。

「ちゃんとお礼しなきゃね」

 気付けば絵里がそう言っている。穂乃果は赤く充血した目を、サイドバッシャーに跨る往人に向けて「霧江君」と呼ぶ。往人の肩が微かに震えた。穂乃果は往人に歩み寄る。往人はゆっくりとヘルメットを脱ぎ、不安と緊張に満ちた視線を返す。

「助けてくれて、本当にありがとう」

 その言葉に往人は目を見開き、震える声で尋ねる。

「俺が、怖くないの………?」

「オルフェノクは怖いよ。でも、霧江君は怖くない」

 穂乃果は即答し、往人の手を握る。温もりを確かめているようだった。往人はただ驚き、穂乃果の瞳を見つめる。

「わたし達、一生懸命歌う。今のこの気持ちをありのままに。大好きを大好きなまま、大好きって歌うよ」

 驚愕が貼り付いた往人の顔がほころぶ。憑き物を落としたように、でも照れ臭そうに笑った。

「俺、ずっと応援してる。μ’sの歌とダンスが、メンバーのことが、俺も大好きだから」

 「うん」と穂乃果は満面の笑みを浮かべた。これが、往人の好きな穂乃果の笑顔なのだと分かった。彼女の笑顔を見る往人はとても穏やかで、愛おしそうに見つめている。でも、穂乃果はその想いに気付くことはない。それが最も良いのだ。彼女にとっても、往人にとっても。

 2人を見守るメンバー達はそれを察したのか、誰も口を挟まなかった。往人の気持ちを知っているはずの、ことりとにこと花陽も。

 雪はしんしんと降り続いている。大好き、という往人の想いを覆い隠すように。

 

 ♦

 夜になっても、雪は止む気配がない。でも昼間よりも弱まった雪は、ステージの舞台装置として良い演出をしてくれる。

 雪結晶のアーチが放つ青い光は、夜の闇にとても映える。光のもとに観客が集まり、ステージ上で横一列に並び、手を繋ぐμ’sに歓声が送られる。観客のなかには音ノ木坂の生徒もいて、雪穂と亜里沙も来ている。観客の最後方に停まった車から高坂母が降りて、娘の名前を呼びながら手を振っている。

「俺、ずっと不安だったんです。高坂への気持ちを、自分が人間だって思うために利用してるだけなんじゃないかなって」

 観衆のなかでステージを見ているなか、往人がぼそりと言った。他の観客の声にかき消されそうなほど小さい声だったが、隣にいる巧には聞こえる。

「でも今は、はっきりと確信できるんです。この気持ちは本物だって。俺は自分がオルフェノクだってことを否定するためじゃなくて、単純に高坂が好きなだけなんだって思えるんです」

 好きか嫌いか。要はそれだけの事だった。

 どれだけ複雑に言葉を並び立てても、結局は原始的な感情だけで分別が付けられる。巧もそのはずだった。救いに代償を求めるこの世界のことが嫌いでも、自分受け入れてくれる人達のことは好きだ。だから人間の住む世界を守ると決められた。そんな世界の敵としてオルフェノクを見られなくなったのは、彼らもまた人間としての心を残しているという期待が邪魔をしている。

 オルフェノクが人としての体と共に言葉も失ってくれれば、まだ敵と断じることができた。まったく言葉の通じない相手ならば、その声は獣の咆哮として良心が傷つくことなく葬ることができる。人なのか獣なのか、その線引きができないオルフェノクは曖昧な種なのだ。皮肉なことに、曖昧にしているのは人間のコミュニケーション手段に過ぎないはずの「言葉」だ。

「俺、高坂を好きでいて良かった」

 往人は安堵に満ちた声でそう言った。人間が生み出し、人間が感情を表現するために発展させてきた「言葉」として。

 「皆さんこんにちは」と、ステージ上の穂乃果が高々と言う。

「これから歌う曲は、この日にむけて新しく作った曲です。たくさんの『ありがとう』を込めて歌にしました。応援してくれた人、助けてくれた人がいたおかげで、わたし達は今ここに立っています。だからこれは、皆で作った曲です!」

 メンバー全員で「聞いてください」と締めくくる。そして、曲のイントロが流れ出す。

 その曲は穏やかに始まった。ピアノの音に、鈴の音が控え目に重なってくる。まるで、今この瞬間に降っている雪のように。

 アーチの光の下で、μ’sは踊り歌い始める。白を基調とした衣装が光を反射し、より一層の輝きを増している。まさに『Snow halation(雪の光暈)』のように。

 

 学校。

 音楽。

 アイドル。

 踊ること。

 メンバー。

 この毎日。

 頑張ること。

 歌うこと。

 μ’s。

 

 それら全てへの「好き」という感情をメロディに乗せた歌声が会場に伝播していく。当然、綺麗事ばかりじゃない。この世界は汚れてしまった。それでも、彼女らは「好き」という気持ちを捨てなかった。自分達を取り巻くものへの感謝を込めたラブソングとして、今こうして歌っている。

 巧は夜空を見上げる。そうすると、浮世離れした気分になれた。冬の冷たい風が、巧の抱える切なさをメロディと共にどこか遠くへ運んでいってくれるような気がした。

 そこは穏やかで綺麗な場所。空気も川の水も澄み切っていて、淀みがない。そこならどんな穢れも洗い流してくれるだろう。真っ白な洗濯物のように。

 でも、幻想的な時間は終わってしまう。曲と共に。いつの間にか、アーチの光がオレンジ色に変わっている。巧は携帯電話がバイブレーションを鳴らしていることに気付き、ポケットから取り出して画面を開く。メールが届いていた。

 

 乾さん、μ’sを頼みます

 俺が好きだった高坂の笑顔を、守ってください

 

 メールにはそれだけの文面が綴られている。送信元にある往人の名前を見て、巧は咄嗟に横へと視線を移した。さっきまで確かにいたはずの往人は消えていて、音ノ木坂学院の生徒がμ’sに拍手を贈っている。

 巧は人混みをかき分けて観衆から抜け出す。少し積もった雪に足をとられながら走り往人を探した。

 ふざけるな、と巧は憤った。

 穂乃果のことが好きなら自分で守れ。あいつはお前がオルフェノクでも受け入れただろう。もう自分の気持ちを隠す必要なんて無いだろうが。俺に全部押し付けて、勝手にどっか行くんじゃねえよ。

 次々と浮かんでくる文句の相手は、すぐに見つかった。ビルとビルの間の、闇が濃くなった狭い路地。そこの暗闇に溶けようとする往人の背中を、巧は見つけた。

「霧江!」

 巧が呼ぶと往人は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

 往人は何も言わず、穏やかに微笑んだ。

 

 ――良いんですよ、これで――

 

 彼の唇が、そう動いた気がした。往人の顔から青い炎が噴き出す。炎は全身へと広がり、微笑を浮かべたまま往人の顔から灰が零れていく。

 巧は駆け出し、倒れようとしている往人へ手を伸ばす。触れようとした直前で、往人の体が崩れた。彼の微笑が、存在ごと消えた。

 脚から力が抜けて、巧は膝を折る。雪の上に積もる往人の残骸を掴み、握ると指の隙間からさらさらと零れていく。巧はそれでも、灰の中から往人と分かるものを探そうとした。それは無意味で、何も見つからない。往人の細胞は彼の体を髪の毛1本も残さずに焼き尽くしていた。

 路地に強いビル風が吹いてくる。風で灰が舞い上がり、そこにいた霧江往人という少年の痕跡を綺麗さっぱりと消していく。

 彼の抱き続けた穂乃果への「好き」という想いも風に乗って高く昇り、夜空に溶けて消えた。




 投稿1周年記念ということで何かスペシャル的な番外編でも書こうと思ったのですが、読者の皆様は早く本編の続きが見たいだろうなと思い、いつも通りに本編書いて投稿することにしました(笑)。
 すみません。イベント事とか昔から苦手なもので………。


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第10話 μ’s / Φ’s

 『ラブライブ! サンシャイン‼』第2期が始まりました!

 『サンシャイン‼』の方は挫折や再起に焦点を当てている印象が強く、前作でやれなかったことをやろう、という制作陣の意気込みが見えてきます。Aqoursのこれからに目が離せません。
 にしても、『ラブライブ!』ってのはああいう明るい作品のはずですよね。友情・努力・勝利という、観ると元気が出るような。本作も『ラブライブ!』サイドのストーリーは改変していないはずなのに、どうしてこんなに重い作風になってしまったのでしょうか。

 ああそうか、乾巧って奴の仕業ですな。
 ネタではなく割と本当に巧の仕業です(笑)。



 雪が降っている。

 いや、空から降っているのは雪じゃない。手に取ると分かる。よく目を凝らしても結晶なんてものはなく、冷たくもない。かといって温かくもない。

 それは灰だ。地面に積もる灰が風で舞い上がって、地面に戻っている様子が空から降ってきたように見えるだけだ。アスファルトの感触を隠すほどに積もった灰を踏むと、街には多くの人間が住んでいたんだなと実感できる。

 俺は灰に埋もれた街を歩いた。背の高いビルがにょきにょきと突き出していて、窓から誰かがこちらを見ているんじゃないかと見上げてみる。灰とすすに覆われた窓からは誰の視線もなく、街に虚構のみが漂っている。空も灰色の雲が覆っていて、陽光なんて射し込んでこない。

 歩いている間、俺はぼんやりとしていて何も考えなかった。街の人間は全て燃やし尽くされてしまったらしく、無人の街にそびえ立つビルの残骸が、かつて文明が存在したと無言のまま主張していた。

 しばらく歩いているうちに、街が過ぎていく。そう分かったのは、かろうじて頭を出していたビルが見えなくなったから。郊外に出ると海が広がっている。灰色の世界のなかで、海だけは青く波を立たせている。海岸の遠くに風車がいくつか並んでいた。電気を作っても使うものがいないのに、風車は回ることに忙しい。

「やあ、久し振り」

 風車を眺めていると、不意にその声は聞こえた。俺は波打ち際に立つその背中を見つめる。ウエットティッシュで手を拭くと、そいつは俺の方へ振り向き、にんまりと笑った。口角を上げながらも、俺に向けたその瞳は憎悪を剥き出しにしていて、思わず俺は怖気づいてしまう。

「君がいま生きていられるのは、誰のお陰かな? ま、分かってると思うけど」

「草加………」

 俺は奴の名前を呼ぶ。草加は俺に近付き、不自然なほどに顔を近付けてくる。

「君は言ったよな。いつか必ず借りは返すって。いつになったら、返してくれるのかな?」

「草加、俺は――」

「俺を助けたかったとでも言うつもりか? 君はいつもそうだ。迷ってばかりで、ようやく決意したのは手遅れになってから」

 草加は肩をすくめて続ける。

「君のせいでたくさん死んでったよな。俺も、長田も、木場も。あれから3年経っても何も変わらないじゃないか。森内彩子も死んでしまったし、霧江往人も君なんかを生かすために自分を犠牲にした。本当に、君がいると皆が死んでいく」

 「もう一度聞くよ」と草加は俺の目から視線を離さない。

「君は、誰のお陰で生きてる? 犠牲のもとで成り立ったその薄汚い命で、何をしたいのかな?」

 その答えを俺は既に見つけている。とっくに分かりきっていることだ。

「あいつらの夢を守る」

 俺が答えると草加は空を仰いで笑った。波の音をかき消すぐらい、大きな笑い声だった。まだ治まらない笑いを懸命に堪えながら、草加は言う。

「夢、夢か。そんなもの守って何になる? 夢なんて叶ってしまえば過去のものだ。あって無いようなもの。君に守るものなんて、無いも同然なんだよ」

 「違う」と俺は震える声で言う。でもすかさず草加に「違わないさ」と断じられる。

「オルフェノクにも人間の心を持つ者がいることは、君自身がよく知っている。君にとってオルフェノクを殺すことは人間を殺すのと同じで、その罪に耐えられなくなった。だからお題目が必要だったんだよ。夢だなんて虚しいものを守ることを建前にして、罪の重みから逃れてきた」

 草加の声が恐ろしく、残酷なものへと変わっていく。俺は後ずさり、狂ったように首を振り続ける。草加はそんな俺を指差す。

「でもね、君も所詮はオルフェノクなんだよ。いくら仲間を殺そうと、君が人間のなかに入れることなんてない。それは君も分かっているはずだ。虚しいよなあ。人間のために戦ってきたのに、結局化け物は化け物のままなんて」

 草加が胸倉を掴んできた。じっと俺を睨みつけ、オルフェノクよりも恐ろしい形相で冷たく言い放つ。

「エゴなんだよ。君はただ、自分がオルフェノクであることを否定したいだけだ」

 「やめろ、やめてくれ」と俺は懇願する。それでも草加は俺を面白そうに見つめ、笑みを浮かべ続ける。

 海岸の彼方から獣のような呻きが聞こえてくる。俺の胸倉から手を放した草加は振り返り、群れを成して行進してくるオルフェノク達を見据える。

「君は何もせず見ていればいいさ。空っぽな君に、戦う資格なんて無いからな」

 草加はそう言って、いつの間にか持っていたカイザのベルトを腰に巻く。

『Standing by』

「変身」

『Complete』

 コード入力した携帯電話をバックルに挿し込み、草加はカイザに変身した。カイザは黄色く輝く剣を逆手に携えて、オルフェノクの群れへと向かっていく。オルフェノク達は一斉にカイザへ襲いかかった。まるで狼の群れが1頭の得物を貪ろうとしているようだった。カイザの剣が光の軌跡を描くと、オルフェノクは次々と断末魔の叫びをあげて灰になり、灰に覆われた砂浜へ還っていく。

 カイザの太刀筋には迷いが無かった。迫ってくるオルフェノクにも、丸腰になったオルフェノクにも、容赦なく剣を刺していく。戦士として完璧だった。人間である草加にとって、オルフェノクは世界に巣食う害虫でしかなく、駆除の対象でしかない。彼らにたとえ人間の心があったとしても、彼らよりも力の弱い人間にとっては怖れ、圧倒的偏見と憎悪をもって殺さなければならない。

 俺の加勢なんて必要なかった。カイザは襲ってきたオルフェノクを1体も残さずに葬った。カイザの周囲にはまだ青い炎がちらついていて、かろうじて残っていた死体も灰になっていく。

 佇んでいたカイザに、青い光球が飛んできた。直撃は免れたが、地面に触れた光球は爆発を起こして灰を撒き散らす。飛んできた方向を見ると、2体のオルフェノクが歩いてくる。

 「王」と、主を守る騎士のように半歩前を歩くホースオルフェノクが。

 「王」は地面に落ちている剣を拾い上げる。ワニのようなオルフェノクが遺した剣だ。ホースオルフェノクの右手からは黒い1本の筋が伸びて、それが剣の形を成していく。

「この化け物が!」

 カイザは勇敢に立ち向かっていく。2体の剣をかわしながら、敵に創傷を刻み込んでいく。カイザの剣がホースオルフェノクの魔剣を真っ二つにへし折った。丸腰になったと思ったのだが、ホースオルフェノクは堅牢な鎧で覆われた拳をカイザの顔面に打ち付け、よろけたところを「王」が背中に剣を滑らせる。

 気付けば、俺は走っていた。持っていなかったはずのベルトが腰に巻かれていて、変身システムが俺の意思に答えるように何の操作もなく起動する。

『Complete』

 俺はファイズに変身し、手に持っていたエッジを「王」に振り下ろす。「王」は幅の広い剣でエッジを受け止め、新しい標的として俺に灰色の目を向けてくる。

 鍔迫り合いに持ち込み、力が拮抗するなかで俺はカイザを見やる。あれほど多くのオルフェノクを圧倒していたカイザを、ホースオルフェノクはたった1体でいたぶっている。カイザが突き出した剣を掴み、手が焼かれるのも意に介さずにカイザの腹に蹴りを入れて武器をもぎ取る。奪った剣でホースオルフェノクはカイザの鎧を切りつけた。シルバーの装甲に焦げた傷が付き、スーツの節々から真っ赤な血が飛び散る。

 剣がカイザのベルトを掠めた。地面に力なく倒れたカイザの近くに、外れたベルトが金属の擦れる音を鳴らして落ちる。光と共に、カイザは草加の姿に戻った。草加は灰の地面を這って、ベルトに手を伸ばす。

 そこで、俺の剣が弾かれた。「王」の剣をまともに受けてしまい、よろけた俺は追撃しようとする奴よりも早く、その顔面に剣先を突き出す。エッジは「王」の顔面を焼きながら頭蓋を貫いていく。

『Exceed Charge』

 フォンのENETRキーを押して、より強いエネルギーが充填された刀身を俺は真下へと滑らせる。頭頂部以外を真っ二つにされた「王」の体が青い炎をあげて、仰向けに倒れると脆い陶器のように砕け、崩れていく。

 後方から爆音が聞こえてくる。咄嗟に振り返ると赤く燃える炎のなかで、草加が青い炎に燃やされている。

「草加!」

 草加を見下ろしていたホースオルフェノクの体が崩れた。まるで草加を殺したことで、役目を果たしたようだった。俺は剣を無造作に投げ捨てて草加に駆け寄る。もう手遅れだと、医学の知識なんて無い俺にも分かった。たとえこの世界にまだ医者がいたとしても、下半身が消し炭になり、上半身も青く燃えている草加を助けてくれそうにない。

「何故だ………」

 血に濡れた手を伸ばしながら、草加は問う。

「守るべきもののない空っぽの貴様が生き残り、なぜ俺が死ななきゃいけない!」

 俺の肩を掴んだ草加の手が崩れた。草加は苦悶に顔を歪ませるも、懸命に顔を上げて俺を睨む。その顔から血色が失せていく。ぽろぽろと灰が零れ、ささくれた唇を動かし「嫌だ……」と抗う。

「俺は生きる……。生きて――」

 見開いた草加の目が、眼窩からさらさらと落ちた。収まるべきものを失い、ぽっかりと顔面に空いた穴の奥には虚無が広がっている。顔面に亀裂が入り、崩れた草加の灰が俺に降りかかる。

 波の音だけが聞こえた。俺の掌に乗っている灰が、波風に吹かれて空へと飛んでいく。あの時と同じ怒りが体の内から燃え盛ってくる。

 俺は空に叫んだ。

「オルフェノクなんて滅べばいいんだよひとり残らず! この俺も、木場も、みんな………、みんな‼」

 俺は訳もわからずに叫び続ける。散々叫ぶと体の力が一気に抜けて、俺は地面に突っ伏した。そこでファイズのスーツが消えていて、自分が泣いていることに気付く。

 俺は枯れた喉で呟いた。誰に向けてなのか分からないまま。

「俺を、罰してくれ………」

 

 ♦

 この悪夢からは、いつになったら抜け出せるのだろう。まだぼんやりとした目を擦りながら、巧はそう思った。夢の中では泣いていたのに、現実では一滴の涙も流れていない。

 忌々しい過去と、優しかった過去。それらの記憶を夢に見る度に、どうにもやるせない気分になる。きわめつけは死者が登場人物として現れる夢だ。自分の脳が見せる風景で、死者の姿をした自分自身と分かっていても、そのディテールは本物と遜色ない。

 巧には何となくだが分かるのだ。もし草加の死に立ち会っていたら、あのような言葉を吐き呪縛されることを。そうなると、草加は夢の中だが呪詛の言霊で一杯食わせることができたのかもしれない。

 これが罰なのだろうか。誰からも罰も赦しも与えられず、罪の意識を抱えたまま無力感に苛まれながら生き続けることが。

 何だか悲劇のヒーローを気取っているような感じになってくる。本当の悲劇に見舞われたのは巧ではなく、巧の周りにいた死者達だ。助けようとして手を伸ばしても届かなかった憐れな悲劇の犠牲者達。そもそも、オルフェノクと戦う力を持っているから助けられるだなんて思った時点で傲慢だったのだ。守ることはできても、助けることはできない。

 ごおん、と遠くから鐘を撞く音が聞こえる。もうすぐ年が明ける頃だろうか。年末年始だからといって浮かれる気分になれないから、紅白歌合戦も大晦日お笑い特番も観ずにいつも通りの時間に床についた。まだ深夜だが、すっかり目が冴えてしまって二度寝はできそうにない。

「たっくん、明けましておめでとう!」

 勢いよく襖が開いて、穂乃果がそう言ってくる。

「ってあれ、起きてたんだ。皆で初詣行こうよ」

 普段なら怒鳴り散らすのだが、そんな気力もなく巧は穂乃果を一瞥してため息をつく。穂乃果は巧の横にちょこんと座り、「どうしたの?」と顔を覗き込んでくる。

「怖い夢でも見たの?」

「まあ、そうだな」

 逃れるように巧は顔を背けた。今、自分がとても情けない顔をしていることが分かる。

「たっくん。嫌なら、もう戦わなくていいよ」

 ぽつりとその声が聞こえて、巧は背けていた顔を穂乃果へと向ける。穂乃果は悲しげに巧を見つめた。

「お前何言ってんだよ?」

「だってあの時、たっくんとても辛そうな顔してたもん。霧江君もいるし、あのライブの時に助けてくれた人だっているんだから、たっくんが戦わなくても大丈夫だよ」

 穂乃果の口から出た往人の名前が、巧に胸やけなような症状をもたらしてくる。ごめん、と喉まで出そうになるのを堪えた。言ってしまえば、穂乃果は知ってしまう。

「そういうわけにはいかねえだろ」

 巧が憮然と言うと、穂乃果は「ごめん……」と俯く。

「わたし、勝手すぎるよね。守ってもらってるのに」

「お前、頑張ったのに何にも残んないのは悲しいとか言ってたじゃねえか。オルフェノクのせいで夢が壊れるかもしれないんだぞ」

「それはもちろん嫌だよ。でも、たっくんが苦しむのはもっと嫌だよ」

 その言葉に巧は息を呑み、次に歯を食いしばる。自分の情けなさを突き付けられた気がした。子供は夢を見ていればいい。叶えるための代償なんて世界は求めてこないし、たとえ求められたとしてもその領域には踏み込ませない。そのために戦っているはずだった。でも、彩子の姿を見た穂乃果は、おぞましい世界の残酷さの一端を目撃してしまったのだ。

「たっくんの夢、皆が幸せになることだよね。今のままじゃ、皆のなかにたっくんがいなくなっちゃうよ」

「別に良いんだよ。俺はオルフェノクで――」

 「関係ないよ、そんなの」と穂乃果は優しく遮る。

「わたしだって、皆に幸せになってほしいもん。たっくんも霧江君も。オルフェノクとか人間とか関係なく、皆が幸せに」

 穂乃果は巧の肩に頭を預けてくる。

「わたし何もできないけど、たっくんが苦しい時は一緒にいる。一緒に苦しんで、悲しかったら一緒に泣くから。きっと皆もそうしてくれる。たっくんはひとりじゃないよ」

 そう言われて、巧は救われたような気分にとらわれる。同時にひどい罪悪感が。罰を求めているというのに救いの言葉を向けられて、それを受け入れたいと思ってしまった。それは赦されないことだ。幸福を求めるには傲慢と言える程に罪を重ねてきたし、贖罪を果たし穢れを削ぎ落とす前に幸福を得てしまうのは不条理というものだ。

 巧はごめん、という謝罪を胸に秘めた。

 穂乃果、お前にそうして欲しかったのは霧江の方だ。

 あいつは死んだんだ。最期までお前のことを気にかけてた。

 俺はあいつの気持ちを知っていたのに、オルフェノクだからってずっとお前に隠してた。

 今だってお前を悲しませたくないからって、あいつが死んだことを隠してる。

 「乾さん、お姉ちゃんは――」と襖を開けた雪穂が、言葉を詰まらせてこちらを凝視する。頬が紅潮していて、わなわなと指をさしてくる。

「ふ、ふたりともそういう関係だったの!?」

 そこでようやく穂乃果はこの状況に気付いたようで、慌てて巧から離れる。本人達にその気がなくても、男女が肩を寄せ合っていたら恋人と思ってしまうのは仕方ない。

「ち、違うよ! それより何?」

「海未さん達いつまで待たせるの? 新年早々乾さんと………」

 ちらりと雪穂は巧を一瞥するも、すぐ恥ずかしそうに顔を背ける。そんな妹に穂乃果は「だから違うよー!」と喚きたてた。

 

 ♦

 年月が経って街の様子が変わっても、年越しに神社が多くの人々を迎える様子は変わらないだろうな、と巧は思った。無宗教を気取っていても、習慣というものに宗教行事が組み込まれていると人は自然と神を祀る光のもとに集まっていく。

「着替え中に年が明けちゃうなんて………」

 寒さに身を悶えさせながら発する穂乃果の未練がましさに、海未は呆れた様子で眉を潜める。

「ちゃんと出掛ける準備をしてこないからです」

「新年早々怒らないで」

 別に怒ってもないだろ、と3人組の後ろを歩く巧は呆れのため息を漏らす。ことりも見慣れた光景なのか、どこか安心したとも取れる苦笑を浮かべている。このやり取りが3人にとっては毎年の恒例なのだろう。去年も一昨年もこんな様子だったのだろうな、と思える。もしかしたら、来年も再来年もこんなやり取りが繰り返されるのかもしれない。

 それでも、3人にとって今年の初詣は去年とは決定的に異なった様相のはずだ。その変化はすぐ訪れる。神田明神へと続く階段の麓にいる、花陽と凛によって。

 「みんな」とこちらを振り返る花陽に続き、凛も嬉しそうな顔を振り向かせる。

「明けましておめでとう」

「おめでとうにゃ」

 「今年もよろしくね!」と穂乃果は元気よく返す。ふと、ことりが凛を見て目を輝かせる。

「凛ちゃんその服可愛い」

 「そう?」と言いながらも凛は得意げに胸を張り、スカートの裾を指でつまんでみせる。

「クリスマスに買ってもらったんだ」

 「似合ってるよ、凛ちゃん」と花陽が嬉しそうに言う。凛も満面の笑みで「ありがとう」と応えた。

「真姫ちゃんもさっきまでいたんだけど………」

「恥ずかしいからって、向こうに行っちゃったにゃ」

 凛が家屋の陰を指差す。視線で追うと、陰から顔を半分だけ出した真姫がおずおずとこちらを見返している。

「真姫ちゃん?」

 穂乃果が呼ぶと、観念したようで真姫は朧げな街頭の下にその姿を晒した。彼女が歩くと、草履の音が小気味よくアスファルトに響く。「おお!」と皆が感嘆の声をあげた。

 赤い生地に花模様の刺繍が入った振袖に身を包んだ真姫は気恥ずかしそうに、でもぎこちなさはなく立っている。こうして絢爛な姿を見ると、改めて良家の令嬢なのだと納得できる。性格はともかく。

「わ、わたしは普通の格好でいいって言ったのに、ママが着ていきなさいって。ていうか、何で誰も着てこないのよ?」

 正月だからって誰もが振袖を着るわけでもないだろうに。皆も巧と考えは似ているようで、きょとんと目を丸くしている。

「あら、あなた達」

 不意にその声が聞こえて、全員が階段へと視線を移す。階段の中腹に、こちらを見下ろす3人の少女が立っている。見慣れない私服の出で立ちだが、その堂々とした佇まいはA-RISEと認識するに十分な効果を持つ。

「やっぱり」

 微笑を浮かべたツバサは巧を一瞥する。ほんの一瞬だが、ツバサの射抜くような視線が巧の背筋を凍てつかせる。わたしは彩子の夢を受け継いでいます。それなのにあなたは何を迷っているんですか、と言うように。

 そんな冷たいものに気付かず、穂乃果は彼女らに駆け寄り「明けましておめでとうございます」と頭を下げる。「おめでとう」とツバサは落ち着いた口調で返した。

 「初詣?」とあんじゅが聞く。「はい。A-RISEの皆さんも?」と海未は質問を返すと、「ええ、地元の神社だしね」と英玲奈が返す。

「ですよね」

 穂乃果の言葉の後、何とも言えない沈黙が漂う。奇妙なものだった。女子高生らしくそれ以上の会話に華を咲かせることもなく、互いに優越も劣等もない視線を交わしている。

 ツバサはふっ、と笑った。その顔に陰りが帯びたような気がした。

「じゃあ、行くわね」

 横を通り過ぎるツバサを穂乃果は意外そうに見つめる。何か言葉があっても良いのではと思えるが、そんな追い打ちをかけるほど底意地の悪さは見当たらない。

 階段を下り切ったところで3人は足を止め、振り返ると晴れ晴れとした顔で言う。

「優勝しなさいよ、ラブライブ」

 激励であり、祝福でもあるその言葉にμ’sの皆は表情を明るくさせる。両者の関係はライバルから勝者と敗者に変わった。μ’sが勝者で、A-RISEは敗者。インターネット上ではμ’sがA-RISEを打ち破るのではないか、と囁かれていたが、それが現実になることはどれほどの観客が予想していただろうか。

 この結果にμ’sの面々は互いに抱き合い、喜びを分かち合っていた。A-RISEは何を分かち合っていたのだろう。悲しみや悔しさと第一に予想するが、もしかしたら全力を出し切ったという達成感かもしれない。いや、多分前者だと巧には分かる。彩子の夢を継ぐことを決めたツバサが、負けて「やり切った」なんて無責任に片付けるとは思えない。A-RISEの3人が神社に訪れた目的が、呪いへと変わった彩子の夢を祓うことでないと願う。もっとも、彼女らがそう簡単に夢を捨てる性分とは思えないが。

 祝福される夢。呪縛される夢。

 この神田明神に集まった人の数だけ、夢や願いがある。敷地内にすし詰め状態だから途方もない数だが、それでもこれは一端でしかない。今この瞬間、他の神社で人々は神に願っているのだ。叶いますように。どうか叶えてください、と。

 拝殿前でメンバー達は両手を合わせて祈りを捧げる。巧も真似事をして、ヴェーチェルの3人と往人の冥福でも祈ろうかと思いかける。本来なら墓参りで祈るべきだが、オルフェノクと、オルフェノクに襲われた者の死は世間に認知されない。死体が残らないから、大抵が行方不明扱いだ。彼等の冥福を祈るのならば、これまで死んでいったオルフェノクとその犠牲者達の分も祈らねばならずきりがない。

 それにオルフェノクを屠ってきた巧が祈ったところで、死者は決して巧を赦しはしないだろう。

「かよちんは何をお願いしたの?」

 凛の質問に、「秘密だよ」と花陽は恥ずかしそうに答える。凛は次に「ことりちゃんは?」と。

「もちろん、ラブライブ優勝だよ」

「だよね」

 「さ、後もつかえていますから次の人に」と促す海未の視線が横へと流れる。視線の先にいる穂乃果は、まだ両手を合わせたままだ。

「穂乃果?」

 海未が呼ぶと、穂乃果は閉じていた目をゆっくりと開く。

「わたし達9人で最後まで楽しく歌えるようにって」

 「そうだね」とことりがしみじみと言う。「でも長すぎにゃ」と凛が何気なしに。

 「だって」と穂乃果は応える。

「一番大切なことだもん。だから念入りに」

 再び手を合わせる穂乃果は、先ほどツバサから向けられた言葉の意味を分かっているのだろうか。巧はそんな思いにとらわれる。

 A-RISEはμ’sにラブライブ優勝という夢を託した。自分達だけでなく、受け継いだヴェーチェルの夢も。一度は呪いになった夢は、μ’sへと受け継がれたことで祝福へと変わるのだろうか。もしμ’sの夢が潰えたら、受け継がれた者達の夢はどこへ向かっていくのか。

 拝殿の裏へ回ると、年始の行事で大忙しの巫女達が行き交っている。「あ、いたいた」と穂乃果が巫女の中から見慣れた背中に呼び掛ける。

「希ちゃーん!」

 段ボールを抱える巫女装束を着た希は振り返り、「あら」と落ち着いた口調で。

「明けましておめでとう」

 「おめでとう」と穂乃果が返し、「忙しそうだね」とことりが言うと希は微笑を浮かべる。

「毎年いつもこんな感じよ。でも今年はお手伝いさんがいるから」

 そこへ「希、これそっちー?」と段ボールを重そうに抱えた小柄な巫女がふらつきながら歩いてくる。「にこちゃん!」と凛が呼ぶと、上ずった声をあげてにこは段ボールを落としてしまう。

「何よ、来てたの?」

 「巫女姿、似合いますね」という海未の言葉に、段ボールを持ち上げたにこは「そ、そう?」と困惑しながらも満更でもない顔をする。

「何か真姫ちゃんと和風ユニットが作れそうにゃ」

 凛がそう言って真姫の背中をずい、と押す。「それだ!」と穂乃果は手を叩くが、すかさず「それだ、じゃないわよ!」と真姫が遮る。

「そうよ色物じゃない!」

 にこの声に呼び寄せられたのか、またひとり巫女が歩いてくる。

「あら、皆」

 「絵里ちゃん!」と穂乃果が巫女を呼ぶ。日本人離れした外見だが、絵里は見事に巫女装束を着こなしていた。

「惚れ惚れしますね」

 普段から和装の弓道着に袖を通す海未が言うのだから、本当に似合っているのだろう。

 「絵里ちゃん、一緒に写真撮って」と言う凛を「駄目よ」と絵里は優しく窘める。

「いま忙しいんだから。希も早く」

 「はいはい」と希は笑い、にこと絵里と並んで奥へと歩いていく。3人の背中を見送りながら、「仲良しだね」と穂乃果が呟いた。穂乃果と他のメンバー達と同様、巧もまたこの瞬間に安らぎ感じていることに気付く。

「でも、もうあと3ヶ月も無いんだよね。3年生」

 花陽の言葉は、その場にいる全員の意識を現実へと引き戻す。日々に安らぎを感じるのならば、それが変わらずに毎日が過ぎていけば良いと願うのは当然のことなのかもしれない。でも、時間というものは容赦なく変化をもたらす。特に、高校生という短いスパンは刹那的に短い。

 「花陽」と海未が慰めるように。

「その話はラブライブが終わるまでしないと、この前約束したはずですよ」

「分かってる。でも………」

 花陽の感じる寂しさは、メンバーの全員が同じだろう。それを今まで敢えて口にしなかったのは、寂しさをリアルに感じてしまうから。

 寂しい沈黙を破ったのは穂乃果だった。

「3年生のためにもラブライブで優勝しようって言って、ここまで来たんだもん。頑張ろう、最後まで」

 

 ♦

 本戦での選曲は自由。既存の曲でも新曲でも構わない。

 曲だけでなく、衣装もダンスもパフォーマンスの時間にも制限がない。それぞれのグループがそれぞれの特徴を活かし、思い思いのパフォーマンスを観客に見せることができる。制限があるとすれば、歌えるのは1曲ということだけ。

 各区最終予選を突破した約50のグループが曲を披露し、会場とインターネット投票で優勝グループを決める。実にシンプルな形で大会は進められる。

 運営委員会からそのルールが提示されてから、本戦への出場が決まったグループの間ではある空気が流れている。

 大会までに、いかに観客に自分達を印象づけておけるかが重要。

 50近くものグループが歌うとなると、観客全員に全グループ全曲観ろ、だなんて要求するのは酷だ。熱心に会場へ訪れる観客は全グループのパフォーマンスを見届けるかもしれないが、インターネットで視聴する場合はお目当てのグループだけ見て、そこに投票という形になるだろう。μ’sは優勝候補だったA-RISEを破ったということで注目されてはいるが、その雰囲気を本戦が行われる3月までに保てる確証はない。

 本戦は既に始まっている。ただ日々を練習に費やし、本番に全力で歌えば良いと言えるほど、事は単純ではない。

 ならば、観客に印象づける方法は何があるというのか。

「キャッチフレーズ?」

 穂乃果の発する単語に花陽は「はい」と応じ、部室のPCでラブライブの大会ホームページにアクセスする。

「出場チームはこのチーム紹介ページにキャッチフレーズを付けられるんです」

 「例えば――」と花陽はとある出場グループの紹介ページを開く。グループ名は「KTお使い娘」で、画面を凝視するメンバー達の中から穂乃果が掲載されたフレーズを読み上げる。

「恋の小悪魔」

 他のグループも、「はんなりアイドル」や「With 優」といったフレーズが掲載されている。

 「なるほど、みんな考えてるわね」と絵里が唸る。

「当然、うちらも付けておいた方がええってわけやね」

 希の言葉に「はい」と花陽が同意する。

「μ’sをひと言で言い表すような」

「μ’sをひと言で、か………。たっくんだったら何て言うかな?」

 そう言って穂乃果は宙を見上げる。

「巧さんだったら『歌って踊れる』とか言いそうね」

 呆れ顔を浮かべる真姫の言葉に、凛と希が苦笑する。

「それ言われたにゃ」

 

 ♦

 オルフェノクには墓がない。

 人間は死ねば死体になる。死体は焼けば骨が残る。残った骨は墓に納められる。骨はその主が確かに生きていた、という証だ。誰のものか分からなくても骨さえあれば墓標は作れるし、刻む名前が無くても納めて祈りを捧げることができる。

 オルフェノクは死ねば何も残らない。人間のようにゆっくり時間をかけて朽ちていくことなく、あっという間に灰になって風が虚無の彼方へと運んでいってしまう。だからオルフェノクは生きていたという証が残らず、死んでも誰からも知られることがない。記録上は行方不明。オルフェノクになったことを身内が知らなければ、残された者は永久に家族の帰りを待つことになる。

 だから、オルフェノクには墓を作りようがないのだ。人間社会では生死が曖昧で、無名の共同墓地にすらも行き場がない。そもそも、墓に行くべき骸が無いのだから。

「あいつ、どんな最期だった?」

 煙が立ち昇る煙草を咥えながら、海堂が尋ねてくる。足元には花屋で適当に繕ってもらった花束とコーラの缶を置いてある。ここがあいつの死んだ場所だ、と巧は海堂にこの路地裏を案内したのだが、正直なところ本当にこの地点で往人が消滅したのかは記憶が曖昧になっている。当然、灰はもう残っていない。

「笑ってた」

 巧は簡潔に答える。「そうか」と海堂は奇妙なほど静かに呟いて、新しい煙草を1本取り出すと火を点けて花束の傍に置く。まるで線香をあげているようだった。もっとも花に燃え移ってぼや騒ぎを起こしたら面倒だから、立ち去る際にはしっかりと火を消さなければいけないが。

「ガキが大人より先に逝くもんじゃねえよ」

 海堂がぽつんと漏らす。巧は往人の言葉を思い出した。なぜオルフェノクが生まれたのか、という巧の問いへ返した往人の答えを。

「あいつ、人が命に意味を付けようとするのは無意味なことに耐えられないから、とか言ってたんだ」

「なかなかポエマーだったんだな」

「霧江は、自分の命も無意味って思ってたのか?」

「んなもん俺が知るかよ。ちゅーかまあ、なかなか的を射たこと言ってたんだな、往人のやつ」

 どういうことだ。巧がそう思っていると、海堂は察したようで言葉を続ける。探っているようにも見えた。

「俺達オルフェノクが滅んでも、人は夢を持って、ほんで殆どの奴が諦めちまう。何も変わりゃしねえさ。琢磨も言ってたろ。生物の進化に意味はねえってよ」

 何だか虚しくなってくる。このまま物事を突き詰めたら突き詰めるほど、最後に行きつくのは「無意味」という言葉になってしまうような気がしてならない。

「ちゅーか何にせよ、お前は往人の愛した穂乃果ちゃんを守らにゃいかんということだ。近々またスマートブレインが襲いに行くみたいだから、用心しとけ」

 巧の肩をぽん、と叩いた海堂は花束に両手を合わせる。巧は往人の冥福を祈らなかった。祈るのが怖かった。自分に与えられた往人の命を背負うという事実を突きつけられるような気がした。夢で草加に言われた通りだ。結局は罪の重みから逃れたかったに過ぎない。

 

 ――夢なんて叶ってしまえば過去のものだ――

 

 夢で告げられた草加の言葉が蘇ってくる。そう、夢は叶えば終わってしまう。終わってしまったら、巧がμ’sの傍にいる理由は無くなる。

 いや、と巧はかぶりを振る。巧はかつて誓った。人間を守るために、元は人間だったオルフェノクを倒すと。それに伴う罪も責任も被るつもりだった。でも、あの時の巧はそれを放棄してしまった。ファイズとして戦い穂乃果達を守った往人こそ、人々にまことしやかに囁かれる「仮面ライダー」という存在だったのだ。

 その往人は死んでしまった。

 英雄は喪われた。

 往人の遺志を受け継ぐのは、彼の命を与えられた巧が最優先にすべきだろう。でも、巧にはその資格がない。なぜ俺が英雄を押し付けられなければならないのか、と苛立つ自分にまた苛立ちが募ってくる。

 巧は晴れた空を見上げる。あの日、夜空へ昇っていった往人を探すように。

 

 俺は、お前みたいなヒーローになれない。

 

 

 ♦

「μ’s、μ’s………」

 校門前の信号が青に変わるのを待ちながら、もはや何度反芻したかも分からない単語を穂乃果は繰り返す。練習の時から数時間は考え続けているが、的確なフレーズが全く見当たらない。

「あ、石鹸じゃない!」

 「当たり前です」と隣にいる海未が鋭く言う。

「9人」

「それも当たり前です」

「海未ちゃんもちょっとは考えてよ」

 穂乃果が口を尖らせると、海未は「分かってます」とため息を交じる。

 「なかなか難しいよね」とことりが。

「9人性格は違うし、一度に集まったわけでもないし」

「でも、優勝したいって気持ちはみんな一緒だよ」

 穂乃果の言葉を受けて、「となると……」と海未はおもむろに。

「キャッチフレーズは、ラブライブ優勝………」

 しばしの逡巡を挟んで、自分の言葉に呆れた様子の海未は「何様ですか……」と眉を潜める。

 「あれ?」ということりの声に、穂乃果と海未は俯いていた顔を上げる。横断歩道をゆっくりと、ひとりの少女がこちらへと歩いてくる。穂乃果はその少女の名前を呼ぶ。

「ツバサさん」

 ツバサは3人の、その真ん中にいる穂乃果の前で足を止めて告げる。

「話があるの」

 

 ♦

 穂乃果と2人で話がしたい。

 ツバサからの要求に海未とことりは心配そうにしていたが、穂乃果はそれを呑んだ。負けたからといって仕返しをするような人物とは思えないし、向こうもあんじゅと英玲奈を同行させずひとりで来た。ならばこちらもひとり、リーダー同士で話すことが筋だろう。

 ツバサの案内で河辺の公園まで歩く間、2人の間で会話は一言もなかった。公園に到着する頃になると陽は傾き始めて、河面は空と同じ茜と藍が混ざった紫色のグラデーションを映し出している。毒々しいが、奇妙な美しさがあった。

 河のほとりに置かれたベンチに腰掛けた穂乃果は途中で買ってきた缶コーヒーを啜り、その苦さに顔をしかめる。ツバサがブラックを買ったから負けじと同じものを買ったが、やはりココアにしておけばよかったと後悔した。隣に座るツバサは何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいて、巧もコーヒーはブラック派だったことを思い出す。

「ごめんなさいね。でもどうしてもリーダー同士、ふたりきりで話したくて」

「いえ。海未ちゃんもことりちゃんも分かっていると思いますから」

 ツバサは穂乃果には一瞥もくれず、せせらぎを鳴らす河を眺めながら尋ねる。

「練習は頑張ってる?」

「はい。本戦でA-RISEに恥ずかしくないライブをしなきゃって、みんな気合入ってます」

「そう」

 穂乃果はツバサの顔を見つめる。表情からも、声からも羨望や怨恨といった色がまったく感じられない。恨みの言葉を吐きに来たようには思えないし、かといって激励に来てくれたとも思えない。

 穂乃果はおそるおそる尋ねる。

「あの、A-RISEは?」

「心配しないで。ちゃんと練習してるわ。ラブライブって目標がなくなってどうなるかって思ったけど。やっぱりわたし達、歌うのが好きなのよ」

「良かった」

「ただやっぱり、どうしてもちゃんと聞いておきたくて。わたし達は最終予選で全てをぶつけて歌った。そして潔く負けた。そのことに何のわだかまりもない」

 やっぱり凄いな、と穂乃果は思った。勝ったけど、A-RISEは上手だ。歌もダンスもだけど、アイドルとしての心構えが。

「と、思っていたんだけどね」

 ツバサから発せられた言葉に、穂乃果は「え?」と漏らす。

「ちょっとだけ引っかかってるの。何で負けたんだろう、って」

「そう、なんですか………」

 穂乃果はそれしか言えない。正直、どうしてμ’sが勝ったのかは穂乃果にも分からない。自分達の歌に込めた想いがA-RISEよりも上だった、という答えは抽象的で、とりまとめが無い。

 「理由が分からないのよ」とツバサは言う。

「確かにあの時、μ’sはわたし達よりもファンの心を掴んでいたし、パフォーマンスも素晴らしいライブだった。結果が出る前にわたし達は確信したわ。

 最終予選のライブは自分達でも納得のいくパフォーマンスに仕上がったけど、それを面と向かって言われるのは認められて嬉しいと同時に気恥ずかしい。

 そんな穂乃果に「でも何故それができたの?」とツバサは鋭く問う。

「確かに努力はしたんだろうし、練習も積んできたのは分かる。チームワークだって良い。でもそれは、わたし達も一緒。むしろわたし達は、あなた達よりも強くあろうとしてきた。それがA-RISEの誇り。スタイル。だから負けるはずがない。そう思ってた。でも負けた」

 ツバサの顔が次第に寂しさを帯びていくような気がした。こうして彼女の想いを聞いていくうちに、穂乃果はツバサへの親近感を感じ始めていく。手の届かない浮世離れした存在と思っていたけど、本質は自分達と同じまだ高校生なんだ、と思った。

「その理由を知りたいの」

 そこでツバサは、ようやく穂乃果へ顔を向ける。何かを探るように。

「μ’sを突き動かしているものって何? あなた達を支えているもの、原動力となる想い。それは何なの?」

 ツバサの視線に穂乃果は怖気づく。ツバサは本気で疑問を感じているのだと分かる。

「それを聞いておきたくて」

 穂乃果は「えっと……」と言葉を詰まらせる。本当に分からないし、ここで無理矢理言葉を捻り出したとしても、それは本物じゃない。じっと穂乃果を見つめてくるツバサは更に疑問を投じてくる。

「あの人………、乾さんなの?」

 ツバサの口から出てきたことに、「え?」と間の抜けた声を出してしまう。

「乾さんが、あなた達をここまで導いたの?」

 「あー」と穂乃果は宙を見つめ、「ちょっと違うかも」と。ツバサは意外そうに穂乃果を見つめた。自分が笑みを浮かべていることに気付く。

「たっくんはここまで連れてきてくれたんじゃなくて、守ってきてくれたんです」

「守ってきてくれたって……、それだけ? それだけであの人を信じられるの?」

「はい」

 穂乃果は即答する。ぽかんとツバサは口を開けて穂乃果を見つめる。そのまなじりが僅かに吊り上がった。

「オルフェノクなのに?」

「たっくんはたっくんですから」

 穂乃果は笑ってそう言う。オルフェノクを恐れているのは本心だ。でも、穂乃果にとって巧はオルフェノクである以上に、自分達を守り、傍にいてくれる巧なのだ。

 「でも……」と穂乃果は憂いを声に出す。

「いつまでも守られてばかりじゃいけないかなって、思い始めたんです。たっくん、辛そうなので」

 巧が誰よりも優しいことを穂乃果は知っている。自分と同じオルフェノクに対して、何も思うことなく戦っているはずがなかったのだと思い至る。巧がオルフェノクだと知らなければ、彼の苦悩を知ることもなかっただろう。

 そこで穂乃果は悟る。

 巧が戦っていたのはオルフェノクではなく、同族と戦わなければならない運命だった、と。

 ふ、とツバサは笑みを零した。

「何となく分かった気がする。あの人が人間でいられる理由が」

 「え?」という穂乃果の疑問には答えず、ツバサは手を差し出す。穂乃果はその手を取った。

「今日はありがとう」

「ごめんなさい。何かちゃんと答えられなくて」

「気にしないで」

「でもA-RISEがいてくれたからこそ、ここまで来られた気がします」

 ツバサは微笑を返した。相変わらず綺麗だな、と穂乃果は思った。綺麗で誰もが憧れるA-RISEのリーダー。その綺羅ツバサですら分からないのに、穂乃果に答えが出せるのだろうか。

 でも、その答えがキャッチフレーズになる気がする。

 

 ♦

 気温が低くなると、アイロンから発せられる蒸気がはっきりと目に映ってくる。巧は熱を十分に帯びた鉄板を台に広げたシャツに押し当て、丁寧にしわを伸ばしていく。

「あ、それ慎重にやってくださいよ。お気に入りなんですから」

 こたつで勉強している雪穂がそう言ってきて、「はいはい」と巧は答える。

 障子が開けられる。高坂母がお茶でも淹れてくれたと思ったが、穂乃果だった。

「こっちで勉強?」

「うん、部屋寒くて」

「お風呂、先入っちゃうよ」

 「どうぞ」と雪穂は姉に目もくれずにペンをノートに走らせている。穂乃果は障子を閉めるが、閉め切る途中で再び開ける。

「ねえ雪穂。雪穂から見てμ’sってどう思う?」

 「え?」と雪穂は姉を見上げる。

「何で急にそんなこと?」

 そう言いながらも雪穂はペンを止め、しばし考えて「そうだな……」と。

「心配」

「はあ?」

「あとは、危なっかしい。頼りない。ハラハラする」

「一応地区代表だよ………」

 さすが妹。まさにその通りだ。練習を見ながら巧が何度グループの先に不安を覚えたものか。

「分かってるよ。でも何か心配になっちゃうんだよね。乾さんがマネージャーやってるにしても」

「そうかな? じゃあ何で勝てたんだと思う?」

「さあ」

「さあ、って………」

 雪穂は苦笑を浮かべた。

「ただ応援しなきゃって気持ちには不思議となるんだよね、どんなグループよりも。それはお姉ちゃんだから、地元だからとか関係なく」

「応援しなきゃ、か………」

 そのまま同じ質問をしてくるか、と巧は思ったが、タイミングよく穂乃果の携帯電話が鳴ってくれる。穂乃果は画面を見て微笑み、次に「あー!」と大声をあげる。その不意打ちに手元が狂いそうになり、巧は寸止めしたアイロンを立て掛ける。

「何だうるせえな」

「そうだよ、大事なこと忘れてたよ。お母さんは?」

 「台所、だけど」と雪穂が困惑気味に答えると、穂乃果は「お母さーん!」と台所へと走っていく。

 姉が放置した障子を閉めて、雪穂は呟く。

「な、何なの一体?」

「また変なこと思いつかなきゃいいけどな」

「絶対に乾さんは巻き込まれますよ」

 また疲れる出来事に見舞われるのか、と憂鬱になりながら巧はアイロンがけを再開する。そんな巧を雪穂は見つめながら、笑って言った。

「お姉ちゃんのこと、お願いしますね」

 

 ♦

 木臼の中で、炊き立ての白米が湯気をくゆらせている。臼の中身を見て、穂むらの店先に集まったメンバー達は「おお」と感嘆の声をあげる。特に花陽は嬉しそうだった。

「ちゃんと出来るのかよ?」

 半被を着て(きね)を持ち上げる穂乃果に、巧は訝しげに言う。

「お父さんに教わったもん」

 そう言って穂乃果は杵を臼に入ったもち米に押し当て、目標地点を定めると思い切り振り上げる。「はい」と海未がもち米を水で濡らした手でひっくり返し、すかさず手を退けたところで穂乃果は杵を振り下ろしもち米を叩く。

 「よっ」と海未がひっくり返し、「ほっ」と穂乃果が叩く。この応酬が繰り返されると、臼のもち米はひとつの塊になっていく。

 巧は去年の正月を思い出す。餅を冷まして食べようとしたら固くなっていて、「こんなもん食えっか」と文句をつけたものだから真理と啓太郎に呆れられた。

「ご飯キラキラしてたね。お餅だね」

 皿と箸を持って待機している花陽が涎を垂らしながら言う。花陽だったらこれだけの餅でもひとりで食べてしまいそうだ。

「凛ちゃんやってみる?」

「やるにゃ!」

 凛に杵を渡した穂乃果は「真姫ちゃんも」と言うが、真姫は「いいわよ」と手を振る。

「それより何で急に餅つきなの?」

 「在庫処分?」と希が続く。「違うよ」と穂乃果は言った。

「何か考えてみたら、学校の皆に何のお礼もしてないなって」

 「お礼?」と絵里が聞くと、「うん」と穂乃果は応じる。

「最終予選突破できたのって、皆のお陰でしょ。でもあのまま冬休み入っちゃって、お正月になって」

 「だからってお餅にする必要ないじゃない」とにこが口を尖らせる。巧もそれは思ったのだが、止めたところで無駄であることを知っている。

「だって他に浮かばなかったんだもん。それに学校の皆に会えば、キャッチフレーズが思いつきそうだなって」

 本当にそれで思いつくのだろうか、と巧は思った。「お餅つく」だけに、なんて寒いギャグが理由ではなさそうだが。

 餅つきを再開しようと凛が杵を振り上げる。すると「危なーい!」と亜里沙が走ってきて、臼の傍で待機していた海未へ飛びつく。

「μ’sが怪我したら大変!」

 そういえば、絵里が遅れて亜里沙も来ると言っていたのを思い出す。その必死な剣幕に思わずメンバー達は吹き出してしまう。亜里沙はまだ日本の文化に疎いから、凛が海未を杵で叩こうとしたように見えたのだろう。

 気を取り直して再開すると、何度も叩かれた臼の中で餅は完成した。メンバー達でそれを適当な大きさに分けて丸めていく。

 皿に置かれた餅はまだ湯気を昇らせている。亜里沙はそれを物珍しそうにまじまじと見つめている。

「お餅……、スライム?」

 「食べてみて。ほっぺた落ちるから」と花陽が促す。「ほっぺた落ちちゃんですか!?」と亜里沙が驚くと、またメンバー達は笑った。こうして見ると、日本語の比喩は奇妙なものだと分かる。

 亜里沙は噛んだ餅が伸びることにも仰天し、おそるおそる咀嚼すると「美味しい」と笑みを零した。

 そこへ、ぞろぞろと群衆が歩いてくる。穂乃果は「へいらっしゃい!」と江戸っ子店主のごとく、訪れた来客達を出迎えた。

 店先で始まったのはパーティと呼ぶべきか、試食会と呼ぶべきか。訪れた音ノ木坂学院の生徒達は配られた餅を楽しげに堪能しているから、どちらでも良いだろう。μ’sメンバー達が来客に箸と皿を配り、味付けはきな粉か醤油かと聞いている。たわしで臼の餅を落としながら巧がふと視線を巡らせると、「お餅ー!」と喚く花陽を凛が止めている。さっき食べたのにまだ食べるつもりなのか。呆れながら巧は臼をホースの水で洗い流した。

 役目を終えた臼を裏手の物置に置いて戻ろうとした時だった。背後から口元を覆われる。続けて腕を後ろへと回されてがっちりと動きを封じられる。だが襲撃者はこの手の誘拐に慣れていないようで、巧が踵で思い切り足を踏むと腕に込められた力が緩む。するりと拘束から腕を抜いた巧は、当てる場所などろくに確認もしないまま肘打ちを見舞った。ごほっ、と咳き込んだ襲撃者に、振り向きざまに今度は裏拳を繰り出す。今度は頬に当たったらしく、襲撃者は情けなく尻もちをつく。

「待って巧!」

 その声と共に、横から巧の腕を誰かが掴んでくる。声を聞いた瞬間、巧は全身の筋肉が硬直したような錯覚にとらわれる。巧の目の前に声の主は立ち塞がった。息を荒げる女の顔を巧は呆然と見つめる。

「たっくん、やっと見つけた………」

 襲撃者の男がそう言いながらゆっくりと立ち上がる。

 巧は2人の名前を呼ぶ。離れてまだ1年も経っていないのに、すっかり懐かしさを感じるようになったその名前を。

「真理、啓太郎………」

 

 ♦

「初めまして、菊池啓太郎です。あ、うちクリーニング屋やってるので、洗濯物あれば是非」

 手書きのチラシを差し出そうとした啓太郎の手を掴み、じろりと睨んだ真理はテーブルの向かいに笑顔を向ける。

「園田真理です。うちの巧がご迷惑おかけして」

 頭を下げる真理に、「そんなことないわよ」と上機嫌に高坂母は言う。

「お店手伝ってもらってるし、巧君アイロンがけ上手だから大助かりよ」

 「え、たっくんが?」と啓太郎は意外そうに巧を見つめてくる。知らんぷりを決め込み、巧はお茶に息を吹きかける。どうにもこの雰囲気は耐えかねる。間の悪いことに、何でメンバー達が全員揃っているこの日なのか。しかもメンバー達も居間に集まってしまっていて、真理と啓太郎を興味深そうに見ている。既に餅を捌き切って、生徒達は帰らせたらしい。

 「さて」と高坂母は腰を上げる。

「お店の仕事あるから。2人ともゆっくりしていって」

 「ありがとうございます」と啓太郎が居間から出ていく高坂母に言った。高坂母は2人へ、次に巧へ視線を向けて微笑を浮かべ奥へと消えていく。

「凄いなー。まさかμ’sの皆さんと会えるなんて………」

 啓太郎はメンバー達を見渡し感慨深そうなため息をつく。こいつアイドルに興味あったか、と思ったがμ’sがそれほど有名になったとも取れる。

「あの、よろしければサインを――」

「んなことはどうでもいい」

 巧は鋭く啓太郎を遮る。サインという単語に敏感な反応を見せたにこがペンを取り出していたのだが、構わず巧は続ける。

「何でここが分かった?」

 「三原君から聞いたのよ」と真理が答える。

「様子が変だったから、絶対巧のこと知ってるって思ったわけ。なかなか口を割らなかったから苦労したわよ」

 何て物騒な言い方をするのか。お陰でメンバー達が少し怯えた眼差しを向けている。

「お前まさか脅迫でもしたのかよ?」

「してないわよ。あっつあつのアイロン近付けて聞いたら快く教えてくれたわよ」

 ふふん、と真理は得意げに笑う。巧は深いため息をついた。

 「あの、巧さんとはどんな………」と絵里が尋ねる。真理はしばし考える素振りを見せてから答えた。

「ただの同居人。啓太郎の家で一緒に暮らしてたんだ。詰まんないことで口喧嘩しちゃって、それで巧が家出しちゃってさ」

 嘘だった。家を出る日に巧は真理と口喧嘩なんてしなかった。真理はオルフェノクのことを隠そうとしているのだろう。

「迷惑かけちゃってごめんね。もう連れて帰るから」

 「勝手に決めんな」と巧は噛み付くように言った。「何でさたっくん」と啓太郎が詰め寄ってくる。

「たっくんのためを思って言ってるんだよ。体のことだって――」

 「体のことって?」と穂乃果が聞いてきた。巧は余計なことを口走った啓太郎を睨む。罰が悪そうに啓太郎は頭をかいた。

「たっくんがオルフェノクってことに関係あるんですか?」

 穂乃果が発した「オルフェノク」という単語に、真理と啓太郎は目を見開く。啓太郎は声も絶え絶えに聞く。

「知ってるの? オルフェノクのこと」

 「この辺りにも出たんです」と海未が答えた。

「わたし達を守るために戦ってくれて、本当に巧さんには感謝しています」

 「それより体のこととは?」と尋ねる海未を啓太郎は憂鬱そうに見つめている。海未はその反応に疑問を抱いているらしく首をかしげる。啓太郎は真一文字に結んだ口を開いた。

「オルフェノクはあまり――」

 「おい」と巧は遮った。啓太郎は巧を睨んでくる。珍しい顔をするものだから、思わず巧は身構えてしまう。

「たっくんのためなんだよ。こうして会えたから良かったけど、もしかしたら――」

「よせ!」

 巧の怒号に啓太郎の肩がびくりと震えた。メンバー達もひどく驚いた様子で目を見開き、巧を凝視している。雰囲気を察した巧は頬杖をつき、ため息交じりに言う。

「お前らもう帰れ。迷惑だ」

「何でそうやって詰まんない意地張るのさ? 俺はたっくんが心配で――」

「それが迷惑だっつってんだよ。俺がどうするかは俺が決める。お前の手なんかいらねえよ。いたって何の役にも立ちやしない」

 「そんな………」と啓太郎は泣きべそをかいて膝を抱える。大人が子供の前で泣くなよ、と思いながら巧はお茶を啜る。まだ熱かった。メンバー達の啓太郎への憐れむような視線は傍から見ても痛々しい。

 「ああもう!」と重苦しい沈黙を真理が破り、巧の腕を掴んで引っ張ってくる。

「髪ぼっさぼさじゃない。ちょっと来て!」

「おいおい何だ!」

「いいから! ごめん穂乃果ちゃん、ちょっと庭借りるね」

 

 ♦

 穂むらの店先はすっかりいつもの静けさを取り戻していた。さっきまで女子生徒達が餅に舌鼓をうっていたことなど嘘のように、餅を並べていたテーブルや皿も全て撤収してある。

 真理の散髪道具を常に持ち歩く習慣は変わっていないらしい。もう美容師として毎日ハサミを握っているのだから必要ないと思うが、真理は努力に余念がない。無理矢理椅子に座らされて散髪用ケープを被せられながらも、巧は再び訪れた懐かしい時間に安らぎを感じる。一緒に暮らしていた頃は、こうして真理に練習台として散髪してもらったものだ。

「何でああいう言い方しかできないのよ?」

 すっかり伸びた巧の髪をハサミで切りながら、真理が呆れた声色で聞いてくる。

「しょうがねえだろ生まれつきなんだから」

 巧は憮然と答えた。真理の「はあ………」という吐息を後頭部に感じる。

「しばらく離れているうちに忘れてた。巧が悪ぶったり変な意地張ったりする性格だってこと。そういう態度取ったって自分が損するだけだよ」

「うるせえなあ」

 それしか接し方を知らないのだから仕方ない。他人を遠ざけるための態度は次第に自然なものになって、いつしか巧から無垢という概念を取り払ってしまった。だからこの性格は素なのだ。意図せず取ってしまう態度だ。

「あの子達、巧がオルフェノクだって知ってるんだ」

「ああ」

「それでも巧のこと信じてくれてるんだ」

「………ああ」

「良い子達じゃない、感謝しなさいよ。あんたみたいなの絶対人から好かれるタイプじゃないんだから」

「余計なお世話だ。お前は俺の母親かよ」

 ハサミの歯が擦れる音と、切れた髪がぱさりと落ちる音。こんな風にまた真理に髪を切ってもらえる日が来るなんて思ってもみなかった。

「ねえ巧、何かあったの?」

「別に」

「嘘だ。巧が嘘つくときね、耳がぴくぴく動くんだよ。知ってた?」

 巧は咄嗟に耳を触る。そして遅れて気付く。

「嘘だろ」

 ふふ、という真理の控え目な笑い声が聞こえてくる。後ろに立っているから見えないが、きっと意地の悪い笑顔を浮かべているに違いない。

「何かあったんだ」

 真理が促すように言ってくる。巧は少しためらいながら、白状することにした。

「分からなくなったんだ。俺が何を守ってきたのか」

「人間を守ってきたんでしょ。今更何言ってるのよ」

 そう言う真理の声は穏やかだった。

「そうやってすぐ迷っちゃうところも全然変わってないね巧は。あの頃のまんま」

 真理のカットが右側頭部へと移る。

「巧、前に言ってたよね。人に裏切られるのが怖いんじゃなくて、俺が人を裏切るのが怖い、って」

「んなこと言ったか?」

 そう言いながらも、巧は鮮明に覚えている。オルフェノクに遭遇したがベルトを啓太郎の家に忘れて、2人で逃げていたときの会話だ。これで最後と覚悟し、巧は真理に自分の心の裡を僅かだが明かした。

 するりと真理の声が耳孔に入ってくる。とても穏やかに、優しく。

「巧は誰も裏切ってないよ。昔も今も」

 反論しようと巧は口を開きかける。喉が詰まったように、何の言葉も出てこない。これまでしてきたことが肯定されたわけでも、犯してきた罪が消えたわけでもない。

 それでも、こうして巧の髪を切る真理の手と言葉が、巧の守ったものとして提示されたような気がした。失ったものは多いが、守れたものは確かにあったのだ、と真理が教えてくれた。

「覚えてる? 私の本当の両親が死んじゃったときの話」

 やぶからぼうにどうした、と思いながら巧は「ああ、確か火事だったっけか」と応じる。

「うん。あのとき、何で私だけ助かったのか思い出したんだ。私、誰かに助けられたの。私と年の近い男の子でね、その子が私を背負って外に連れていってくれたの」

「ふーん」

「ねえ、木場さんから聞いたんだけど、巧がオルフェノクになったのって子供の頃だったんだよね。もしかして………」

 真理の声が期待を帯びてくる。何が言いたのかを察し、巧は憮然と言う。

「そんな都合の良い話あるわけねーだろ」

 真理の手が止まった。次に後ろから聞こえてくる声色は、僅かに険のこもったいつもの真理の声だ。

「そういう言い方する? 運命の再会みたいだったのにムードぶち壊しよ」

「運命の再会だ? 仮に俺がそいつだとしてもな、助けたお前がこんな女に育ったんじゃムードもくそもあるか」

「こんな女って何よ? どこからどう見ても立派な美容師じゃない」

「まだ新米だろうが。しかもガキじゃあるまいし運命の再会なんて信じやがって」

「別にいいじゃない! 私にとってあの男の子は巧なんだから」

「勝手に決めんな! そうやってヒーローにされて俺は迷惑してんだよ!」

「ああもう意地っ張りなんだから! 帰ったら晩ごはん湯豆腐だから。めっちゃ熱いの!」

「勝手にしろ! 俺は冷奴食う。絶対にな!」

 その怒声を最後に数瞬の沈黙が漂い、2人は同時に吹き出してしまう。真理とこんな低次元な口論をするのも随分と久しくなった。

「私達あの頃から全然成長してないね」

「そりゃお前の方だろ」

 カットが終わりケープを脱ぐと、巧は髪を指先でいじって出来栄えを確認する。長髪は崩していないが、心なしか頭が軽くなった気がする。

「体はどうなの?」

「本当に大丈夫だ。色々あって、もうしばらくは生きられる」

 かなり大雑把な説明だったが、切った髪をビニール袋に入れた真理は「そう」と笑った。

「巧は嘘下手だもんね。信じる」

 

 ♦

「啓太郎、帰るよ」

 メンバー達に慰められていた啓太郎を引っ張って、真理は店先に停めてあるバンへと歩いていく。西洋洗濯店舗菊池の配達用バンだった。洗濯物が綺麗になっても車が汚いとみっともない、と啓太郎は頻繁に洗車をしていた。真理と同様に啓太郎の習慣も変わっていないようで、バンは艶のあるボディで陽光を反射している。

「真理ちゃんたっくんは?」

「良いのよ元気そうだし」

 「でも」と喚く啓太郎を無理矢理運転席に押し込み、真理は見送りに店先へ出てきたメンバー達に笑いかける。

「巧のことよろしくね。あとラブライブ頑張って。応援してるから」

 メンバー達はぱあっと表情を明らめ、「はい!」と威勢よく返事をする。真理の視線は巧へと移った。

「こっちの事が終わったら帰ってくるのよ。待ってるから」

 「ああ」と巧は言った。真理は笑い、助手席に乗ると運転席から啓太郎が身を乗り出してくる。

「たっくん。いつでも帰ってきていいからね。帰ったらパーティしようよ。たっくんの好きなものたくさん作ってさ」

 「ほらエンジンかける!」と真理が指示すると、「はい」という啓太郎の声の後すぐにバンのエンジンが駆動する。真理が助手席のドアを閉めると車は発進し、住宅街の静けさの中へと消えていく。

「何か凄かったにゃ」

 バンが走り去った方向を眺めて、凛が呟く。

「巧さん、真理さんの前だとあんな顔するのね」

 真姫が悪戯に笑みながら言う。まさか見られていたのか、と思うと羞恥が沸き出てきた。だがあんな恋人らしさなど微塵もない会話を聞けば、真理との関係に変な誤解をされることもないだろう。

 「きっと、みんな一緒だからだよ」と穂乃果が言った。

「たっくんがいて、真理さんがいて、啓太郎さんがいて。わたし達と一緒だよ。わたし達が皆といるのと」

 皆といる。

 それを裡で反芻し、巧は3人で暮らしていた日々を思慕する。啓太郎と2人で店の仕事をして、配達にバンを走らせて、夜に仕事から帰ってきた真理を迎える。真理は疲れたとぼやきながらも夕食を作って、それを3人で囲み下らない会話を楽しんだ。

 巧がいない家で、啓太郎と真理は食卓でどんな会話をしていたのだろう。あの日常が成立するのは、ひとりとして欠けてはいけない。それはμ’sも同じだ。8人でも10人でもなく9人。このメンバー。

「それがキャッチフレーズ?」

 ことりが尋ねると、穂乃果は腕を組んで唸り、自分の喉元を指差す。

「ここまで出てる」

 怪訝な顔をするメンバー達に「本当だよ。もうちょっとなの!」と穂乃果は喚く。

「もうちょっとでそうだ、ってなる気がするんだけど………」

 まだ思いつきそうにないな、と巧は思った。

 

 ♦

 傾きかけた陽が映し出す茜色は優しげなのに、冷たい空気は棘のように肌に突き刺さってくるようだった。口から外へと出た吐息は急速に冷やされて、空気中で水分を含み白い蒸気になる。子供の頃、孤児院で冬になると怪獣ごっこが流行ったことを思い出す。子供達はがおー、と言いながら炎のように口から白い息を吐き出していたものだ。

 2ヶ月後に控えたラブライブ本戦に向けて、μ’sは体力づくりに余念がない。神田明神の階段を駆け上がってくるも、流石に餅つきの後はきついのかメンバー達は階段の頂に辿り着くと膝をついて粗い呼吸を繰り返す。

 巧はプルトップを空けていないホットの缶コーヒーを持ちながら、神社の石畳を気の向くままに歩いた。アイスだと冷えるからホットを買ったのだが、巧が飲める温度だとぬるくて体が温まるか怪しいところだ。

 奉納された絵馬が目に入って、巧は足を止める。絵馬掛は大量の願いが書かれた板で埋め尽くされている。

 そこは願いや夢が生まれる場所で、それらが潰えたら墓場に変貌する。かつてこんな夢が存在していた、と掲示する墓標。

「たっくん?」

 穂乃果がタオルで顔の汗を拭きながら歩いてくる。絵馬を視界に収めた穂乃果は絵馬掛けの前に立ち、引き寄せられるように他のメンバー達もぞろぞろと集まってくる。

 「凄い数ね」と絵里が感慨深そうに言う。「お正月明けですからね」と海未も大量の願いを眺める。

 穂乃果は絵馬の1枚を手に取る。その絵馬にはポップにデフォルメされたμ’sメンバー達がカラーペンで描かれている。

「これ、音ノ木坂の生徒の………」

 「こっちもです」と海未が別の絵馬を指し示す。他にもμ’sのことが書かれた絵馬はたくさん見つかっていく。「頑張れ」や「応援してる」といったメッセージ。雪穂と亜里沙の願掛けまで見つかった。本大会で遅刻しませんように、なんて雪穂らしい。

 「そっか」と穂乃果は漏らす。

「分かった! そうだこれだよ!」

 「何なのよいきなり」とにこが尋ねる。「μ’sの原動力」と穂乃果は振り返る。

「何でわたし達が頑張れるか、頑張ってこられたか。μ’sってこれなんだよ」

 そう言って穂乃果は絵馬を背に両腕を広げる。

「一生懸命頑張って、それを皆が応援してくれて、一緒に成長していける。それが全てなんだよ。皆が同じ気持ちで頑張って、前に進んで、少しずつ夢を叶えていく。それがスクールアイドル。それがμ’sなんだよ!」

 巧は大量に掛けられた絵馬を眺める。μ’sのラブライブ優勝への願い。μ’sへの頑張れという応援メッセージ。μ’sが大好きという綴り。

 それはメンバー達以外の者が書いた願いだ。勿論、ラブライブ優勝はμ’sメンバー達の夢で、それを叶えようとしているのは彼女達自身。でも、μ’sの夢はμ’sだけのものではなかった。

 μ’sを応援するファン。支えてくれた音ノ木坂学院の生徒達と家族。たった9人だけでなく、μ’sはこの絵馬掛に納まらないほど「みんな」の願いに抱きしめられている。

 不意に足音が聞こえてくる。靴ではなく、ぺたりと裸足で歩くような足音が。咄嗟に振り返ると、ナマケモノのようなオルフェノクがゆっくりとした足取りでこちらへと近付いてくる。

「逃げろ!」

 巧は叫んだ。恐怖に凍り付いたメンバー達は我に返り階段へと向かうが、その中で穂乃果だけは別方向の、停めてあるオートバジンへと向かっていく。「穂乃果!」と巧が呼ぶが応えず、穂乃果はリアシートに括り付けたケースのロックを解除してツールを取り出した。

「へえ、君が戦うつもり?」

 スロースオルフェノクの影が挑発的に笑う。その形はどこにでもいるような青年だった。穂乃果は腰にベルトを巻くと、フォンにコードを入力した。

『Standing by』

「変身!」

『Error』

 不適合を知らせる無慈悲な音声と共にベルトに電流が走り、穂乃果の体は弾き飛ばされる。腰を抑えながら立ち上がる穂乃果に、スロースオルフェノクは前座を楽しむようにゆっくりと歩いてくる。

 巧は駆け出し、ベルトとフォンを拾った穂乃果の肩を支えて階段へと連れていく。

「お前何やってんだ!」

 「だって……」と口ごもり、穂乃果はベルトを抱えながら巧に腕を引かれて走る。メンバー達の悲鳴が聞こえてくる。階段の麓で、メンバー達の前に別のオルフェノクが降り立ってきた。今度はウサギのようなオルフェノクだ。メンバー達は慌てて階段を再び上り、別の逃げ道を探そうと視線を辺りに巡らせる。その視線で拝殿の陰からひとり、またひとりとオルフェノクが次々と現れて取り囲まれる。

「最優先はベルトだ。諸君、ナチュラルにいけよ」

「でもついでだし、μ’sもやっちゃおうよ」

「いいね。参加グループひとつ消えたぐらいで、ラブライブが中止になるわけじゃないし」

 人の形を成すオルフェノクの影達が笑っている。これから起こす殺戮の舞台に気分が昂っているようだった。円形に取り囲むオルフェノク達の歩みはひどく遅い。1歩踏み出す度にメンバー達があげる声にならない悲鳴を楽しみ、これから起こす惨劇を盛り上げていく。

 巧は庇うようにメンバー達の前に立った。だが、彼等に対する憎悪や、敵意といった感情が全く見つからない。オルフェノクであっても人間か怪物のどちらに身を置くか。それを選択できることは巧自身がよく知っている。彼等はオルフェノクであることを選んだ。自分が怪物であることを受け入れた。ならば、人間の敵として葬られることは仕方のないことなのか。

 穂乃果は再びベルトを腰に巻く。フォンにコードを入力して「変身!」とバックルに挿し込むが、また『Error』と拒絶され弾かれる。

 地面に伏す穂乃果をオルフェノク達はせせら笑っている。お前に扱えるわけがないだろう、という残酷な哄笑が神社に響き渡っている。

 不謹慎なことに、巧は初めてファイズに変身した頃のことを思い出した。真理にベルトの力は扱えず、巧には何故か扱うことができた。それは巧がオルフェノクで、ベルトはオルフェノクが使うことを前提に開発されたためと後から知ったわけだが。目の前の敵を倒すか見逃すかなど、当時の巧に選択の余地はなかった。それが巧の良心に蓋をした。稀に、相手が心は人間のままと知れば手を下すことはなかったが、それで罪が軽減されたことにはならない。依然として、巧の敵はオルフェノクのままだ。絵里の前でオルフェノクに変貌した戸田を倒したことも、状況に対して責任を擦り付けていただけに過ぎない。

 ずっと逃げている。かつての戦いで選択は既に済ませたというのにそれを捨てて、代わりを務めてくれるはずだった往人は死んだ。

 英雄はもういない。ヒーロー亡き後の世界と人々は滅ぶしかない。

 それに対してどうアクションを起こすか、オルフェノクが距離を詰めてくるこんな状況でも巧には複数の選択肢がある。

 そのひとつを、巧は選び取る。状況でも、命を託して逝った往人でもなく、巧自身の決断として。

 穂乃果は石畳を這って、地面に鎮座するベルトへ手を伸ばす。彼女の手がベルトに触れようとする寸前、巧はベルトを掴んだ。「たっくん……」と顔を見上げる穂乃果に、巧は宣言する。

「俺は戦う。ファイズとして………」

 立ち上がってベルトを腰に巻くと。オルフェノク達の哄笑が止んだ。灰色の視線がメンバー達から巧へと集中する。

「仮面ライダーとして!」

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 フォトンブラッドの光に包まれる巧に、いの一番に駆け出したスロースオルフェノクが鉤爪を振り下ろしてくる。その灰色の顔面に、光から飛び出してきた拳が突き刺さった。スロースオルフェノクの体が回転し、ぐふっ、と情けない声を発しながら地面を転がる。

 光が収束し、それでも黄色く発光し続ける戦士の目をオルフェノク達は睨んだ。ファイズは気だるげにスロースオルフェノクを殴った右手を振る。

 オルフェノク達は一斉にファイズ目掛けて駆け出した。ファイズは動揺もなく、ミッションメモリーを挿入したポインターを右脚に装着し、アクセルのメモリーをフォンに挿し込む。

『Complete』

 胸部装甲が展開し、アクセルフォームへ形態変化するとアクセルのスイッチを押す。

『Start Up』

 スロースオルフェノクが再び鉤爪を突き出してくる。だが鋭い爪が貫くはずだったファイズは既になく、虚しく宙を斬ると同時に上空から赤い光の槍が飛んで目の前で静止する。他のオルフェノク達にも同じことが起こっていた。

 一瞬の間を置いて、光の槍がスロースオルフェノクの体を貫く。それを皮切りに次々とオルフェノク達に槍が突き刺さり、青い爆炎と共に灰が吹き飛ばされていく。中には逃げ出したオルフェノクもいたが、その階段を飛び降りようとしたラビットオルフェノクはバトルモード・オートバジンの拳によって突き飛ばされ、宙にて超高速のクリムゾンスマッシュによって消滅する。

『Time Out』

 続けて鳴った『Reformation』という音声で通常形態に戻ると、安堵した様子のメンバー達が駆け寄ってくる。変身を解いた巧はバックルから抜き取ったフォンを眺める。このファイズギアは様々な者の手に渡るも、最後には巧の手に納まってきた。それは運命という必然的なものではなく、このベルトを手にするという巧の選択がもたらしたことだ。

 繰り返される選択は物事を動かし、物語になる。人生とはしばし物語に例えられる。巧には巧の物語があり、μ’sにも9人それぞれの物語がある。こうして出会い、触れ合い、互いに干渉して綴られればひとりだけの物語ではなくなるはずだ。

 μ’sの夢はμ’sだけのものじゃない。メンバーの9人が、応援し支えてくれる人々がいてようやく紡がれる。

 μ’sが紡ぐ物語。

 

 みんなで叶える物語。

 




 今回は『555』メンバーオールスターズになりました。やっぱり読者の皆様はクリーニング屋の3人組が見たいだろうなと思い、2人を登場させました。


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第11話 私たちが決めたこと / 青薔薇の花言葉

 予約していた映画『虐殺器官』のBlu-rayが届きました!

 『虐殺器官』の原作者である伊藤計劃(いとうけいかく)先生は私が崇拝と言えるほど敬愛する作家さんです。伊藤先生の作品に触れて「言葉」や「物語」というものを意識し始めて読書を嗜み、本サイトでの投稿へと至ります。
 本作にも伊藤先生の著作をオマージュした場面を散りばめているので、興味のある方は是非伊藤先生の作品を読んでみてください。ただし、戦闘描写が生々しいので耐性のない方はご注意を(笑)。


 校舎の前に立て掛けられた掲示板の前にたくさんの人々が集まっている。多くがあどけなさの残る少女達で、時折見かける壮年の女性は母親だろうか。掲示板に並ぶ数字の羅列を群衆が睨みつける様子を外縁から眺めながら、巧は不思議な感慨を覚える。

「懐かしいですね、高校の合格発表って」

 巧の隣に立つ絵里がぽつんと言う。絵里の視線は掲示板に集まる受験生のひとりである亜里沙に向けられている。亜里沙の隣には雪穂もいて、2人は肩を並べて自分の受験番号が書かれた紙を手に掲示板を見上げている。音ノ木坂学院はインターネットでの合否判定通知もあるのだが、こうしてわざわざ足を運んで結果を見に来るのはある種の伝統なのかもしれない。

「巧さんは覚えてますか? 合格発表の日のこと」

 「さあな」と巧は素っ気なく答えた。巧の学歴は中卒止まりで、受験なんてものは無縁だった。中学生活が終わる頃、同級生達が張り詰めた雰囲気にいるなか、巧はただぼんやりと過ごしてきた記憶しかない。こうして爆睡していた穂乃果の代わりとして付き添いに来なければ、受験特有の雰囲気を見ることはなかっただろう。

 そういえば、と巧は思い出す。真理が専門学校に進学するとき、合格発表は真理ひとりで行った。啓太郎が付き添いに行くと言ったが真理はこっそりと家を出て、満面の笑みで帰ってきた。多分、彼女のことだから不合格だったときに落ち込んだ顔を見られたくなかったのだろう。あれだけ熱心に勉強と練習を重ねていた真理が不合格になるなんて、啓太郎も巧も微塵も思っていなかったが。

「お前の方は大丈夫なのかよ。大学」

「わたしはもうAOで合格したので、もう受験は終わりなんです」

 AOとは何ぞや、と思ったが深く追求することはせず「そうか」と巧は言う。説明を受けたところで、今更高校にも大学にも行こうだなんて思えない。

「希とにこもセンター試験で無事に合格できましたし、後は卒業を待つだけですね」

 寂しさを帯びた声色で絵里は言った。顔を見ると笑みを浮かべているが、どこか寂しげに見える。このところ、絵里はよくこんな顔をするようになった。絵里だけじゃなく、μ’sのメンバー全員がそうだ。時折寂しそうに俯いて、すぐに何事もなかったかのようにいつもの顔つきに戻る。

 皆、既に理解しているのだ。学校に入る者がいれば、去る者もいるということに。

 「あった!」という雪穂の声が聞こえてくる。続けて「わたしもあった!」という亜里沙の声も。視線をくべると、2人は抱き合っていた。その顔に笑みを浮かべているところを見ると吉報らしい。

 「やったよ。これで音ノ木坂だよ」とわめく亜里沙はまるで子犬のようだ。

「わたし達、音ノ木坂の生徒だよ。μ’sだ! わたし、μ’sだ!」

 亜里沙はとても喜んでいるが、雪穂のほうは至極冷静だ。今くらいは浮かれてもいいはずだが。

「受かったみたいですね」

 絵里はまた寂しげに笑う。

「嬉しくないのか?」

「嬉しいですよ。でも正直、あまり心配はしてなかったんです。模試でも合格圏内に入ってましたし、わたしも勉強見てあげてましたから」

「そうか」

 「お姉ちゃーん!」と亜里沙が人だかりを抜けてこちらに走ってくる。

「μ’sだよ! わたし、μ’sに入る!」

「合格したのね。おめでとう亜里沙」

 絵里は優しい微笑を妹に向けた。亜里沙の興奮はまだ冷め止まず、そんな親友をこちらへ歩いてくる雪穂は絵里と似た寂しげな顔で見つめている。

「受かったのか?」

 巧が聞くと、はっと雪穂は我に返ったように巧を見上げ、「はい」と控え目に笑いながら答える。

「良かったな」

「そこは『おめでとう』って言うところですよ」

「ああ、おめでとう」

「何か嬉しくない言い方ですね」

 雪穂は口を尖らせた。大人ぶっているが、こういったところはまだ子供だ。

 校門前で絢瀬姉妹と別れて帰路につく間も、雪穂は合格の喜びを噛みしめる様子がない。ただぼんやりと宙を見つめたまま、巧の横を歩いている。だからといって何か言ってやることもせず、巧も沈黙を保つ。

「乾さん」

 何の脈絡もなく雪穂は切り出す。

「μ’sって3年生が卒業したら、どうするつもりなんですか?」

 その質問に巧はすぐに答えることができない。μ’sの方針について、巧が意見することはなかった。だから今グループが抱えている問題も、巧が口を出すことはない。

「さあな。穂乃果に聞けよ」

 巧は素っ気なく答えるしかなかった。

 

 ♦

 グラウンドのレーンをただひたすらに走る。ペースを上げ過ぎず下げ過ぎず、一定を保ちながら。これくらいのウォーミングアップで息を切らすことはない。走りながらも脳に酸素は十分に行き渡っていて、考え事をする余裕が持てる。

 ラブライブ本戦まで残り1ヶ月。海未の作成した練習メニューは負荷の少ないものになり、時間も短くなった。完全に休みの日もある。あまり根を詰めすぎるのは良くないと、本戦までは体調管理が最優先という方針だ。パフォーマンスは既に納得がいくまで仕上げてある。後は本番を待つだけ。

 走りながら、穂乃果は呼吸のリズムを意識する。今は練習に集中しよう、と努めながら。それでも、ずっと脳裏には昨日合格発表から帰ってきた雪穂の言葉が貼り付いて離れてくれない。

 

「μ’sって3年生が卒業したら、どうするつもりなの?」

 

 どこか寂しそうな雪穂の質問に、穂乃果は答えることができなかった。巧も何も言わずに店の仕事に入ってしまって、完全に不干渉を貫いた。

「何かあったんですか?」

 ストレッチをしているとき、海未が尋ねてくる。「え?」と返すと、ことりが「顔見たら分かるよ」と。隠していたつもりだったが、幼い頃から一緒にいる2人にはお見通しらしい。穂乃果は正直に言うことにした。

「雪穂にね、3年生卒業したらどうするの、って聞かれちゃって」

 「そっか」とことりはストレッチをするメンバー達を眺める。穂乃果もメンバー達と、グラウンドを囲むように植えられた桜の樹々へと視線をくべる。今は葉が全て落ちているあの枝に花が咲く頃になると、雪穂と亜里沙は音ノ木坂学院に入学する。2人と入れ違いに、絵里と希とにこは卒業する。

 「穂乃果はどう思うんですか?」と海未は尋ねた。

「スクールアイドルは続けていくよ。歌は好きだし、ライブも続けたい」

 「でも………」と詰まる穂乃果の言葉をことりが繋げてくれる。

「μ’sのままで良いかってことだよね?」

 「うん……」と穂乃果は消え入りそうに答えた。「わたしも同じです」と海未が。

「3人が抜けたμ’sをμ’sと言って良いものなのか」

 「そうだよね」とことりも同意する。穂乃果は願う。ずっと9人一緒でいたい。大人になっても、どれだけ歳を重ねても、このメンバーで歌って踊り続けたい。でも時間はそれを許してはくれない。

「何で卒業なんてあるんだろう?」

 今更ながら穂乃果はそんな疑問を抱く。卒業なんて穂乃果も小学校と中学校で経験している。大好きだった先輩を見送るときも、自分が後輩に見送られるときも、寂しいと感じた。でも高校に入ると新しい生活にすっかり慣れてしまって、寂しさも忘れていった。3人がいなくなった後も、そうやって何事もなかったかのように忘却してしまうのだろうか。9人で切磋琢磨し合った日々は過去のものとなって、時間の流れのなかでかつて感じてきた気持ちを少しずつ零しながら生きていくのだろうか。

「続けなさいよ」

 はっきりと、にこが歩み寄りながらそう言ってくる。

「メンバーの卒業や脱退があっても、名前は変えずに続けていく。それがアイドルよ」

 「アイドル……」とことりが反芻する。確かに10年以上も活動を続けているグループなんて、結成当時のメンバーは殆ど残っていない。メンバーがいなくなっても名前を残して活動を続けることは、μ’sにも必要なのか。穂乃果はそんなことを考えてしまう。

「そうやって名前を残してもらうほうが、卒業していくわたし達だって嬉しいの。だから――」

 「その話はラブライブが終わるまでしない約束よ」と希がにこの言葉を遮る。「分かってるわよ」とにこは罰が悪そうに言った。こんなやり取りも何度目だろう。メンバーの間で漂う憂いは頻繁に表面化し、その度にラブライブが終わるまでと蓋をしてきた。希の言う通り、今は本戦に向けてコンディションを整えるべきだ。

 そう思ったところで、花陽がおそるそろる言う。

「本当に、それで良いのかな?」

 気付けば、皆はストレッチを止めて集まっている。ああ、もう目を背けちゃ駄目なんだ、と穂乃果は悟る。

 花陽は続ける。

「だって、亜里沙ちゃんも雪穂ちゃんもμ’sに入るつもりでいるんでしょ。ちゃんと、応えてあげなくて良いのかな? もしわたしが同じ立場なら辛いと思う」

 「かよちんはどう思ってるの?」と凛が尋ねた。

「μ’s続けていきたいの?」

「それは………」

 「何遠慮してるのよ」とにこが口を挟む。

「続けなさいよ。メンバー全員入れ替わるならともかく、あなた達6人は残るんだから」

 にこの言葉が力強く突き刺さってくるようだった。ずっとアイドルになることを夢見て、それを掴んだμ’sはにこにとって特別なグループのはずだ。だから続けてほしいという望みも頷ける。自分がアイドルでいられた居場所を残してほしい。にこはそう言っているのだ。

 「遠慮してるわけじゃないよ」と花陽は返す。

「ただわたしにとってのμ’sってこの9人で、ひとり欠けても違うんじゃないかって」

 なら、終わりにするべきだろうか。その答えが出かけたところで、黙っていた真姫が穏やかに言う。

「わたしも花陽と同じ。でもにこちゃんの言うことも分かる。μ’sという名前を消すのは辛い。だったら、続けていったほうが良いんじゃないかって」

 「でしょ。それで良いのよ」とにこは鼻を鳴らす。

 真姫のジレンマは穂乃果と全く同じだった。廃校を阻止するために結成された9人。音ノ木坂学院の存続という目標を果たし、次なる夢はラブライブで多くの観客に歌を聴いてもらうことへ昇華した。この9人でないと駄目だったのだと思える。同時に、大好きなμ’sという名前を過去の彼方へと放り捨てることは酷だ。この9人だけのためじゃない。

 μ’sに入りたがっている亜里沙と雪穂。応援してくれた音ノ木坂学院の生徒と保護者達。ファンになってくれた観客。ラブライブ優勝を託したA-RISE。そして巧。

 巧はμ’sを、穂乃果達の夢を守るために戦うことを決意してくれた。穂乃果の想像を遥かに超えるであろう苦悩を抱えた末に。巧の守ってくれたμ’sを終わらせてしまって良いものか。

 巧が用事のためにこの場にいなくて良かったと思う。彼なら「お前らで決めろ」と突き放すだろうけど、きっと真剣に考えてくれると穂乃果には分かる。巧に依存してはいけないのだ。μ’sの問題は、μ’sで解決しなければならない。

 「エリちは?」と希は離れたところで佇む絵里へと向く。絵里はしばらく俯き、逡巡の後に穂乃果をじっと見据える。

「わたしは決められない。それを決めるのは穂乃果達なんじゃないかって。わたし達は必ず卒業するの。スクールアイドルを続けることはできない。だから、その後のことを言ってはいけない。わたしはそう思ってる」

 絵里の言葉はまるで針のように鋭かった。突きつけられて、ああ、本当に卒業しちゃうんだ、と穂乃果は遅れた感慨を覚える。そんな寂しいこと言わないでよ、と言いたくなる。でも事実は変わらない。あと1ヶ月もすれば、あの丸裸の樹々が桜の花弁に満ちたら、3人はいなくなる。

 絵里は淡々と告げた。

「決めるのは穂乃果達。それがわたしの考え」

 

 ♦

「スマートブレインは1ヶ月後、ラブライブの会場を襲撃します」

 琢磨は声に何の感情も込めずに言う。ソファに腰掛ける巧も海堂も、特に驚きはしなかった。目的は何となくだが読めている。海堂がそれを告げる。

「客達をオルフェノクにするっちゅーことか」

「ええ。使徒再生で覚醒したオルフェノクを『王』への供物として捧げます」

「用意した餌はもう食い切っちまったからな、王様は。とんだ大飯ぐらいだ」

 海堂がつまらない冗談を飛ばすものだから、まだそれくらいの余裕があると錯覚してしまいそうになる。琢磨はそれを戒めるように、少しだけ神妙な面持ちになる。

「あなたも候補だということを忘れないでください。『王』はあと数体分の補給を受ければ復活するのですから。今生かされている面々も、必要とあれば問答無用で『王』に捧げられるでしょうね」

「なら今すぐにでも倒すべきじゃないのか?」

 巧が言うと、琢磨は明け透けに肩を落とす。またか、と子供の我儘を聞いてやっているように。

「焦りは禁物です。まず先に処理しなければならないこともあるんですよ」

 琢磨はそう言って鞄から出したものをテーブルに置く。紙で簡単に包装されたそれは一輪の、花弁を青く染まらせた薔薇だった。

 「何だこれは?」と巧が尋ねる。「まあ、野郎に花なんざ贈られても気持ちわりーわな」と海堂がにやにやと下品に笑っている。琢磨は呆れを表情に出しながら言う。

「これはオルフェノクのDNAを組み込んだ薔薇です。この薔薇の花粉にはオルフェノク因子が含まれていて、人間の体内に侵入し使徒再生を施します」

 「これが、か?」と巧は青い薔薇を凝視する。一見すれば普通の薔薇だ。青薔薇は自然界には存在しないはずだが、近年に遺伝子組み換えによって開花に成功した、とテレビで観たことがある。

 遺伝子を捻じ曲げられて生まれた花。それは人類の英知の象徴なのか、それとも自然に反旗を翻した罪の象徴なのか。大仰なことを考えてみるも、薔薇が青くなったからといって誰かが迷惑を被ったわけじゃない。愛好家は喜ぶし、薔薇自身は青くされたなんて泣きはしない。

 もっとも、いま巧の目の前にある薔薇は罪へと傾いているだろう。オルフェノクの力と人類の英知が融合してしまった、怪物を生み出す子種だ。

「使徒再生の際、処置を施された人間はオルフェノク因子、即ちオルフェノクの幹細胞を注入されます。しかし成功率は4.17パーセントと低く、スマートブレインは以前から成功率を高めるための研究を続けていました。かつて流星塾生を被験者とした実験もその一環です」

 流星塾生達の体に埋め込まれたオルフェノクの因子。澤田以外はオルフェノクに覚醒しなかったものの、それはベルトの認証を誤魔化すくらいの効力を発揮した。しかし完全ではなく、大半の塾生達はベルトの力に蝕まれ、命を落としてきた。

「実験の結果、村上さんのDNAを組み込んだこの薔薇での使徒再生は10.86パーセントの確率で成功します」

 それでも低いと感じるが、かなりの進歩だ、と巧は思い至る。単純計算で10人にひとりは、この薔薇によってオルフェノクになるのだ。

「奴はまだスマートブレインにいるのか?」

「いえ、村上さんは3年前に亡くなっています。『王』の手によって」

 琢磨が語る事実に、巧は何の感慨も湧かなかった。

 村上峡児(むらかみきょうじ)。もうひとつの姿は薔薇の力を持ったローズオルフェノク。

 スマートブレインを、ひいてはオルフェノクを率いていた男。海堂の言葉を借りるのなら、彼もまたオルフェノクと人間の共存という夢に呪われていたのかもしれない。その呪いはオルフェノクの繁栄という夢へと転化した。

 その最期は目撃していないが、彼ならば喜んで「王」に命を捧げたことだろう。オルフェノクの繁栄を願いながら。村上の願いも虚しく「王」は巧が倒した。でも「王」はまだ生きていて、村上の遺伝子がこうして青い薔薇として怨念を撒き散らそうと花を咲かせている。

 彼の人生はまさに花のようだ。美しい時間は短く、枯れて朽ち果てた後に種を落とす。

「これは厄介な代物です。近いうちに、これの栽培施設を破壊します」

 ソファにもたれ掛かっていた海堂は身を起こし、「そうかい」とテーブルに広げた照り焼きチキンピザを一切れ掴んで食べる。巧も琢磨も手を付ける素振りを見せていないのに、海堂はがっつくようにピザを咀嚼している。巧も真似をするように、大口を開けて一切れの半分を口に詰め込む。甘めに味付けされた照り焼きチキンとチーズ代わりのマヨネーズの香りを噛みしめて飲み込むと、重く沈んだ鉛も噛み砕いたような気分になれる。それはまやかしに過ぎない。ただジャンクフードをつまみに酒を飲んで、怠惰な時間を過ごすことで誤魔化しているだけだ。ピザを飲み込んだ後の咥内には、ただ空虚が広がるばかり。

「それともうひとつ。冴子さんを倒す方法が見つかりました」

 「何?」と巧と海堂は同時に声をあげる。皮肉なものだ。胸の奥に詰まった懊悩を吹き飛ばしてくれたのがピザではなく琢磨の言葉だなんて。

「冴子さんの体内にテロメアを復元させる器官が存在する可能性は、以前お話しましたね」

 遺伝子に刻まれた死へのメソッドを、巧は思い返してみる。細胞の遺伝子情報を内包した染色体。その紐状の組織の末端を保護する役割を持ったテロメアという部位が、細胞分裂の回数を決定する。細胞分裂が繰り返されるうちにテロメアは擦り減っていき、それが消滅して染色体を保護するものがなくなれば、細胞は分裂を止める。損傷した染色体の複製を防止するためだ。完全な遺伝子を守るために、引き換えとして老化が、死がもたらされる。

 これが、巧がインターネットで調べ、学が無いなりに咀嚼したテロメアについてだ。もっとも老化についてはまだ研究途中で、サイトに掲載された情報が誰の研究なのかは目を通していない。だから本当かどうかは曖昧だ。でも複数のサイトで共通している観点は、テロメアを維持することで不死化が実現する可能性を記述していたこと。

 琢磨は自分の左胸を指差す。

「心臓から、テロメアを復元させる酵素の分泌が確認されました。途方もない研究でしたよ。胸を切り開こうにも心臓周辺の再生が優先され、いくら切り進めてもすぐに傷が修復されました」

 「心臓……」と巧は呟く。

「奴の心臓を狙えば、倒せるってことか?」

「ええ。ですが先ほども言ったように、心臓周辺の組織は優先的、瞬時的に再生します。それに、冴子さんにその器官を与えた『王』も、同じ器官を持っているでしょう」

 巧は思い出す。3年前、「王」がロブスターオルフェノクに永遠の命を与える瞬間を。まるで男女の情事のような光景だった。「王」からロブスターオルフェノクへの股へと命がつき入れられ、ロブスターオルフェノクはどこか官能的な叫びをあげていた。胎に注がれた命は胸へと達し、ロブスターオルフェノクは死を超越した完全な生命体への進化を果たした。

 ごとり、と控え目な音で我に返り、巧はテーブルに青薔薇と入れ違いに置かれたトランクボックス型のツールに目を向ける。

「これは切り札です。ブラスターのファイズなら、冴子さんの体にダメージを与えられるでしょう。勝率は五分ですが、『王』を倒すために設計されたこれなら」

 最後の言葉に引っかかりを感じ、「どういうことだ?」と巧は尋ねる。琢磨はじっと巧を見据え、淡々とした口調を変えることなく答える。

「残された資料によるとブラスターは、元々は『王』を倒すために花形さんの派閥が開発したものです。考えてみてください。本来は『王』を守るために開発されたベルトなのに、『王』を倒せるほどの性能を持たせてしまっては本末転倒です」

 琢磨の言う通りだ。3本のベルトは「王」を守護するために開発された。思えば、花形の行方も分かっていない。会う約束をしていた真理はとても楽しみにしていたが、待ち合わせの場所で真理が誘拐され、助けに行った草加が死んでしまったことで有耶無耶になってしまった。あれからも真理は里奈と三原と共に義父を探し続けていたが、とうとう見つからなかった。

 巧は試しに質問してみる。

「花形は今どこにいるんだ?」

「行方不明です。恐らく、既に亡くなっているかと」

 ある程度は予想していた答えだった。命の短いオルフェノクが行方不明になったら死んだと考えるのが妥当だ。思えば、木場がスマートブレインの社長に就任したのも、花形が死期を悟ってのことだったのかもしれない。

 琢磨は力強く言った。

「施設の襲撃は近日中に決行します。詳しい日程は後日に」

 

 ♦

 穂むらに帰ると、居間で雪穂が「お帰りなさい」と、亜里沙が「お邪魔してます」と迎えてくれる。巧は「ああ」とだけ言って部屋へ行こうとしたのだが、亜里沙に「あ、ちょっと良いですか?」と呼び止められる。

「ねえ雪穂、乾さんに昨日練習したとこ見てもらおうよ」

 腕を引く亜里沙に「駄目だよ」と雪穂は言う。

「家のなかだし、お父さんだってまだ仕事中なんだから」

 「あ、ごめん」と亜里沙はおどけたように笑う。「練習?」と巧が聞くと、亜里沙は「はい」と元気よく。

「μ’sに入って、早くライブに出られるように今から練習してるんです」

 巧はちらりとこたつの上に置かれたノートPCの画面に視線をくべる。画面のなかでμ’sが歌っている曲は、最終予選で披露した『Snow halation』だった。

「何で乾さんに見てもらわなきゃいけないの?」

 訝しげに尋ねる雪穂に、「だって」と亜里沙は胸の前で両拳を強く握る。

「乾さんマネージャーだもん。わたし達がμ’sに入ったらお世話になるんだから」

 熱弁する友人を雪穂はどこか憂うように見つめる。その視線が巧へと向けられる。何とか言ってあげてください、と助けを求められているような気がして、ため息と共に巧は言う。

「俺に歌やダンスなんて分かりやしないさ。それにお前らが入る頃もマネージャーやるかは分からないしな」

 「どうしてですか?」と亜里沙が聞いてくる。これには雪穂も驚いているようで。

「乾さん、マネージャー辞めちゃうんですか?」

 余計な事を言ったと遅れて気付いた。理事長との取り決めでは、巧のマネージャーとしての任期を特に決めていない。オルフェノクの脅威に晒されている間だとしたら、巧のこの街での役目は近いうち、「王」を倒したら終わる。もっとも、それも確実ではないから期限を設けることはできないが。

 丁度そこへ「ただいま」と穂乃果が帰宅してくる。「あ、穂乃果さん」と亜里沙の興味が移ってくれて、巧は内心で胸を撫でおろす。

「いらっしゃい」

 穂乃果の声色がいつもと違うことに気付き、巧はその顔を眺める。亜里沙に向ける穂乃果はいつもの顔をしている。真っ直ぐと、これからの目標へ向かって努力している顔を。でも雑念を帯びているように感じる。ラブライブ本戦という確固な目標があるにも関わらず、いつもの猪突猛進な彼女じゃない。

「あの、穂乃果さんちょっと良いですか?」

 亜里沙は雪穂に「これなら良いよね?」とピースサインを示す。「うん」と雪穂が頷くと、亜里沙はピースした手を下へと向ける。

「μ’s、ミュージックスタート!」

 まだ照れの残る声色と共に、亜里沙はピースした手を上へと掲げる。ライブ前にμ’sが舞台裏で行うコールだった。穂乃果の顔から覆いが外れるのを巧は見逃さなかった。まるでそれが遠い昔の思い出の哀愁を隠すように、穂乃果は笑顔を浮かべる。

「どうですか? 練習したんです」

「うん、ばっちりだったよ」

「本当ですか? 嬉しいです」

 亜里沙はそこで俯き、恥ずかしそうに上目遣いで「わたし……」と。

「μ’sに入っても、問題ないですか?」

 穂乃果は一瞬驚いた表情を浮かべ、次にはただ曖昧に笑うだけだった。そこへ「亜里沙」と雪穂が助け船を出してくれる。

「お姉ちゃんは本番直前なんだから、あんまり邪魔しないの」

 亜里沙が申し訳なさそうに表情を曇らせたところで、「ごめんね、ゆっくりしてって」と穂乃果はそそくさと階段を上っていく。その背中を亜里沙は名残惜しそうに見送る。彼女の背中から隠しきれない寂しさが漂っていることなど、この無垢な少女にはまだ分かりそうにない。

 ノートPCから流れる『Snow halation』はサビの部分に入った。亜里沙は雪穂の傍へと移動し、画面に見入り「おお、ハラショー」と感嘆の声をあげる。

「雪穂、明日ここのところ練習しよう」

 「うん」と雪穂は気のない返事をする。時間は止めることも遡ることもできない。亜里沙にとって時間の流れは新しい生活へ向かう期待に満ちたものだが、さっきの穂乃果の様子からμ’sにとっては正反対のものなのだろう。雪穂はそれを敏感に感じ取っている。

 「あのね、亜里沙」と雪穂はぽつりと画面を見たまま尋ねる。

「亜里沙はμ’sのどこが好きなの?」

 今度は亜里沙の目を見据えて、質問を重ねる。

「どこが1番好きなところ?」

 「雪穂……?」と呟く亜里沙は、事の一端に気付いたようだった。皆、それぞれが現状に直面している。本当の解決策なんてものがあって、全てが上手く運ぶ答えを出せる事象なんてどこにも無いのかもしれない。上手く折り合いをつけていくしかないのだ。少女達はそれを知る。

 気付いておきながら何の手助けもせず傍観する巧は、敢えてとぼけながら自室へと向かった。

 

 ♦

「行ってきまーす」

 店先の掃除をしている母と巧にそう言って、穂乃果は歩き出す。足取りが重いのは昨晩あまり眠れなかったせいだろうか。

 結局、考えても答えは出なかった。何が正しいのか、何を選択すれば皆が納得できるのか全く分からない。

「お姉ちゃん」

 不意に呼ばれ、穂乃果は俯いていた顔を上げる。少し離れた前方に雪穂が、亜里沙と並んで立っている。

「ちょっと話があるんだけど、良いかな?」

 すると亜里沙が雪穂に目配せし、1歩進み出て「あの、わたし」と。

「わたし、μ’sに入らないことにしました」

 穂乃果はか細く「え?」と息を呑む。昨日に練習したコールサインを見せてくれたのに。

 亜里沙は続ける。どこか寂しそうに。でも、嬉しそうに。

「昨日、雪穂に言われて分かったの。わたしμ’sが好き。9人が大好き。『みんな』と一緒に、1歩ずつ進むその姿が大好きなんだって」

 「亜里沙ちゃん……」と穂乃果は呟くも、続きの言葉を見つけることができない。きっと、亜里沙にとっては辛い選択だろう。亜里沙がμ’sをどれほど応援してくれたかは、姉である絵里から聞いている。ライブにも足を運んでくれた。

「わたしが大好きなスクールアイドル、μ’sにわたしはいない。だから、わたしはわたしのいるハラショーなスクールアイドルを目指します」

 亜里沙は隣にいる親友へ目を向け、「雪穂と一緒に」と付け加える。雪穂は照れ臭そうに笑った。

「だから、色々教えてね。先輩」

 「なんてね」と雪穂はおどける。目の前のふたりがとても愛おしくなり、穂乃果は駆け寄り両手を広げて近い未来の後輩達を抱きしめる。

「そうだよね。当たり前のことなのに。分かってたはずなのに」

 そう、答えなんてものは既に出ている。今なら確信できる。この先どれほど悩んでも、意識の奥底に鎮座する答えは決して揺るがなかっただろう、と。これが最善だ。万人が納得できるものじゃないのかもしれない。反発もあるかもしれない。でも、穂乃果はこの選択を変えはしない。

「頑張ってね」

 腕を放した穂乃果がそう言うと、2人は「うん!」、「はい!」と返事をする。

 亜里沙はμ’sに入らないと選択した。誰かから強制されたものではなく、亜里沙自身の選択として選び取った。ならば穂乃果も応えなければならない。

 穂乃果の、μ’sの選択として。

 

 ♦

  

 この空の向こうに、ファイズの鎧が浮かんでいる。ぼんやりと空を眺めながら、巧はそんなことを考えていた。

 大気圏を越えた宇宙空間。冷戦時代に打ち上げられた偵察衛星たち。役目を終えても回収されず、冷たい真空を漂う宇宙ゴミの中に、スマートブレイン製の人工衛星が紛れている。地球の引力に引き寄せられて落下することも、軌道上から離れることもなく無言で漂う金属の衛星には極微小にまで分解されたスーツが収納されている。ベルトを装着し、コードを入力すれば衛星に信号が送られ、スーツがベルトのもとへと電送・形成することでベルトの戦士は変身する。

 スマートブレインが表向きの処遇として倒産しても、既に地上との通信を切った衛星を遠隔操作で停止させる術はない。琢磨によると、万が一スマートブレイン本社が襲撃を受けても、変身システムに支障をきたさないようにするための措置だったらしい。製造元が消滅しても稼働し続ける人工衛星は、ベルトのシステムが起動したと信号を受ければ誰彼構わずスーツを送り込む。不適合者なら話は別だが。

 これから重要な戦いへ赴くというのに、どこか懐かしい気分にとらわれながらオートバジンを走らせる。空がよく晴れていて、ツーリングには絶好の日和だ。

 他県にあるスマートブレインの青薔薇生産施設への移動として、長距離ツーリングは必然的になった。全てが始まる前――いや、巧が全ての渦中に飛び込む以前――の日々も、こうしてバイクを走らせていた。

 ふと横を見やると、海堂が並走させるサイドバッシャーのサイドカーに三原が腰掛けている。この日のために呼び出したのだ。もう真理と啓太郎に隠すこともないから、堂々と三原は家を離れることができたに違いない。もっとも、巧と合流した際は何とも気まずそうにしていたが。

 高速道路を抜けて街路に入ると、そこには華やかさよりも機能性を重視した無機質な建物が立ち並んでいる。巨大な箱が幾重も並んだ工業団地だ。高くそびえ立つ煙突からは白い煙がもくもくと排出されている。厳密に言うとあれは煙ではなく水蒸気らしい。排気ガスだったとしても、大気汚染を防ぐために工場内で無害化され、清浄にしてから外へと排出される。

 指定された団地の一角に、琢磨は既に到着していた。富裕層のステータスと言わんばかりのスポーツカーを横に、バイクを駆る巧達を出迎える。三原は警戒心を露骨に出した眼差しを琢磨へ送った。かつて敵として対峙した者がさも当然のように行動を共にしているのだから、違和感はあるだろう。巧も再会した時は同じ反応を示した。

 「場所は?」とヘルメットを脱いだ巧が聞くと、三原の視線を特に気にも留めていない琢磨は「ここです」と目の前にある工場を指差す。

「え? でもここは………」

 戸惑った三原が立て掛けられたスマートブレインではない社名を記した看板へと視線を移した。無理もない。この工場は街の名産品であるかまぼこの生産工場のはずなのだから。

 「偽装(フェイク)です」と琢磨が。

「スマートブレインが買い取った地上の工場はそのままで、地下に設備を整えています」

 「さ、行きましょう」という琢磨の先導のもと、巧と三原、そして海堂が腰にそれぞれのベルトを巻いて、箱型の建物へと歩き出す。

 ドアの鍵を開けて中へ入ると、かつてあったはずの設備全てが撤去された工場の空虚が広がっている。稼働していると見せかけるためにしっかりと壁の塗装がされた外観とは打って変わり、内部の各所には用済みとして放置された機械が赤茶色の錆に覆われている。

 琢磨は打ち捨てられた産業の残骸たちには目もくれず、事務所へと繋がっているであろう両扉へと歩き出す。金属製の扉もまた錆びついていて、微かに白い錆止めの塗装がこびり付いているのだが、ノブには看過できない違和感が残っている。真新しいとは言わないまでも、それでも錆が付いていない鈍色を保ったノブを琢磨は回す。扉が開かれるとそこには一面の壁があって、何もしらなければうっかり顔をぶつけてしまいそうだ。

 琢磨は壁の右端にあるパネルのボタンを押す。壁が中心から左右に開いた。

 10人程度しか入れない容量の部屋がエレベーターと気付いたのは、先に入った琢磨が「早く」と手招きしたときだった。パネルにある階層は「地上」と「地下」のふたつしかない。ふわりと一瞬だけ体が浮き上がる感覚の後に、エレベーターは下降を始める。

「ここの研究員は全てオルフェノクです。注意を怠らず、設備全てを破壊してください。最優先すべきは薔薇であることを忘れないように」

 ベルトを腰に巻いた琢磨がそう言うと、「そんな気難しく構えなさんな」と海堂が自分のベルトをぽんぽんと叩きながら言う。

「ちゅーか、暴れまくりゃ良いんだろ。奴さんが襲ってきたらぶっ倒して、そんで花園を丸焼きにすりゃいい」

 この緊張感すら楽しんでしまう男とは正反対に、三原は顔を強張らせている。考えてみれば、この場にいる4人のなかで三原は唯一の人間だ。オルフェノクの中で起こる内輪揉めに三原は参戦している。戦うことが自分の運命と突き付けられ、怖れながらも彼は戦いから逃げない。その勇気を巧は尊敬する。本当の勇気というものは、怖れながらも逃げないことにあるのかもしれない。

 エレベーターが目的の階層に到着した。足元にGを感じた後に、ゆっくりと鉄製の扉が滑らかに開かれる。

 

 ♦

「よーし、遊ぶぞー!」

 集合場所にメンバー全員が集まると、穂乃果は意気揚々と拳を掲げる。

「いきなり日曜に呼び出してきたから何かと思えば」

「休養するんじゃなかったん?」

 絵里と希が立て続けに言う。貴重な休日を使わせてしまったことは申し訳ないとは思うが、穂乃果にとってこれは必要なこと。しっかりとした理由がある。

「それはそうだけど、気分転換も必要でしょ。楽しいって気持ちをたくさん持ってステージに立ったほうが良いし」

 「そ、そうですよ」と海未がぎこちなく言う。続けて他のメンバーも。

 「今日、暖かいし」とことりが。

 「遊ぶのは精神的休養だって本で読んだことあるし」と花陽が。

 「そうそう。家に籠っててもしょうがないでしょ」と真姫が。

 「にゃー!」と凛が。

「何よ、今日はやけに強引ね」

 にこが後輩達へと訝しげな視線を向ける。悟られる前に、すかさず穂乃果は「ほらそれに」と。

「μ’s結成してから皆揃ってちゃんと遊んだことないでしょ。1度くらい良いかなって」

 「でも遊ぶって何するつもり?」とにこが聞いてくる。そういえば、遊ぶと言ってもどこへ行くか決めていなかったことに穂乃果は気付く。

「遊園地いくにゃ」

 挙手する凛に「子供ね」と皮肉を飛ばしながら、真姫は美術館という希望を出す。「えっと」と花陽も行き先の希望を主張する。

「わたしはまずアイドルショップに」

 「バラバラじゃない!」とにこは言った。「どうするつもりなん?」と希が聞いて、穂乃果はしばし唸った後に閃く。

「じゃあ、全部」

 「はあ!?」と3年生組が驚愕の声をあげる。

「行きたいところ、全部行こう」

 「本気?」とにこが尋ね、「うん」と穂乃果は即答する。

「皆行きたいところを1個ずつ挙げて、全部遊びに行こう。良いでしょ?」

 「何よそれ」とにこは呆れるが、希は「でもちょっと面白そうやね」と好感触だ。「しょうがないわね」と絵里も同意を示す。まだ府に落ちないといった顔で、にこは周囲を見渡しながら尋ねる。

「巧さんは?」

「用事あるから来られないって」

 できることなら巧も来てほしかったのだが、用事なら仕方ない。それに、今日の時間はこの9人で共有したいという気持ちだ。9人で共有し、9人で見つけなければいけないことがある。帰ったら、それを巧に伝えよう。きっと、巧なら何を告げても止めはしないと、穂乃果には確信できる。

「しゅっぱーつ!」

 

 ♦

 エレベーターから1歩踏み出したところで、轟音が耳をついた。エレベーターが吹き飛び、爆風で瓦礫と共にコンクリートの床に叩きつけられる。

 咄嗟にウルフオルフェノクに変身したのは良い判断だった。爆心地のすぐ近くにいては、人間の体など木端微塵になっていることだろう。ウルフオルフェノクの腕のなかで、三原は咳き込みながら粉塵が舞い上がる周囲を血走った目で見渡す。

「三原!」

 元の姿に戻って呼び掛けると、三原は巧へと向いた。鼓膜は破れていないらしい。巧にしても頑丈なオルフェノクだから無事というわけにはいかず、キーンという音が耳孔に反響している。

「乾さん!」

 砂埃の中から朧気な影がふたつ見える。視線をくべると、床に琢磨と海堂の姿が浮かび上がっている。2人もオルフェノクに変身して爆圧をやり過ごしたらしい。琢磨が入場用のIDを持っているから堂々と入れると聞いていたのに、この仕打ちは何だという文句は言える状況じゃない。

「二手に別れます。私達は機器類を、乾さんと三原さんは薔薇園をお願いします」

 「ああ」と叫ぶように応える。難聴のせいで自分の声すら聞き取り辛い。ウルフオルフェノクへの変身時、体格の変化で外れてしまったファイズギアを拾って腰に巻き、フォンにコードを入力する。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 三原もパニックから脱却したのか、デルタフォンを耳元に掲げて「変身!」と叫ぶ。『Standing by』と電子音の鳴るフォンをベルト右側面にあるムーバーに装填し、『Complete』とフォトンストリームが体を覆いデルタに変身する。

 地下にビープ音が響いた。不意打ちするはずが出鼻をくじかれたものだから、こっそりと移動する必要もなくなった。ファイズとデルタは足音を大きく響かせながら地下の回廊を駆けていく。この施設の構造なんて知らないため、とにかく空間を照らす光を目指して走っていく。回廊を照らす照明は弱く、取り敢えず光の強い場所に重要な設備があるだろうという、何とも頭の悪い算段だ。

 曲がり角から白衣を着た研究者然とした男が飛び出し、こちらに向かってサブマシンガンを腰だめで発砲してくる。対人用の武器などでファイズとデルタのスーツに傷が付くことはなく、その衝撃に多少おののきはするが進み続ける。男が銃を捨てた。その体がフジツボのような鎧に覆われたバーナクルオルフェノクに変貌する。

 ファイズとデルタは速度を緩めず、勢いを乗せたままバーナクルオルフェノクの顔面に拳を見舞う。ふたり分のパンチは堪えたのか、バーナクルオルフェノクは飛び出してきた角の奥へと飛ばされる。後を追うと開けた空間に出て、バーナクルオルフェノクは青い絨毯に身を伏している。

 それが絨毯でないことに気付く。青い薔薇だった。天井には強い照明が太陽の真似事をしていて、青薔薇を照らしている。人工的な空間の人工的な光に向かって伸びる薔薇たち。その青もまた人工的な色で、どこまでも「自然」という要素が排されている。

 立ち上がったバーナクルオルフェノクの手にボールが握られている。デルタはすかさずベルトからムーバーを取り、「ファイア」と音声コードを入力する。

『Burst Mode』

 ムーバーの銃口からビームが放たれる。光線はボールに突き刺さり、バーナクルオルフェノクの手の中で爆炎へと変わる。ファイズはミッションメモリーを装填したポインターを右脚に装着し、フォンのENTERキーを押すと同時にデルタもミッションメモリーを装填したムーバーに「チェック」と音声入力した。

『Exceed Charge』

 ファイズポインターから、デルタムーバーの銃口からフォトンブラッドのエネルギーが発射され、目標の手前で傘を開く。ふたりは跳躍し、捕捉された敵へクリムゾンスマッシュとルシファーズハンマーを叩き込んだ。体を貫かれたバーナクルオルフェノクの体から青と赤の炎が噴き出し、細胞の一片も残さずに焼き尽くされる。

 灰になった残骸が青薔薇に降り注いだ。ふたりが着地したせいか、青い花弁が舞い上がっていてどこか美しさを演出している。

 彩子がヴェーチェルの由来について話してくれた時のことを思い出す。風に散る花弁の美しさ。花弁と共に自分達の歌を風が運んでくれるように、という祈り。もし彩子がオルフェノクのアイドルとしてステージに立ったら、こんな演出をするのだろうか。感傷に浸ったとしても今更だ。もう彩子は死んだ。

 裡の悲愴をかなぐり捨て、ファイズはベルトから抜いたフォンを開く。

 1・0・6。ENTER。

『Burst Mode』

 フォンバスターモードに変形させたフォンのアンテナを青の花畑に向け、引き金を引く。赤い光線が薔薇を穿ち、敷き詰められた土を焦がす。エネルギーから生じたスパークが花々を焼いて燃え広がっていると気付いたのは、弾切れを起こしたときだった。薔薇は花弁と同じ青い炎を燃やしていて園と同化している。

 青から灰へ。花が全て灰の山になるまで、ほんの数秒だった。オルフェノクと同じだ。短い時間で焼き尽くされる。

 雄々しい咆哮と銃声が聞こえてくる。「行くぞ」と駆け出すファイズにデルタは付いていき、戦いの音を目指す。

 そう遠く離れていない空間で乱戦が繰り広げられていた。無数のオルフェノク達がカイザとサイガを囲み、それぞれの武器で襲いかかる。カイザはブレイガンでの剣戟、サイガは飛行装置を兼ねたフライングアタッカーでの銃撃で迎え撃っている。苦戦とまではいかないようだが、何せ敵の数が多すぎて手が回り切っていない。デルタが果敢にその渦へと飛び込むなか、ファイズはショットにミッションメモリーを装填し、アクセル専用のメモリーをフォンに移す。

『Complete』

 電子音に気付いたオルフェノクの1体がこちらに走ってくる。形態を変えたファイズはアクセルのスイッチを押す。

『Start Up』

 向かってきたオルフェノクの体がくの字に折れ曲がった。自分の身に何が起きたのか分からないようで、オルフェノクはうわずった悲鳴をあげて青く燃え始める。それが伝播するように、そこにいるオルフェノク全てに青の炎が灯っていく。まるでガス灯を点火して回るように彼等の間を通り過ぎたファイズが動きを止めると同時、オルフェノク達は灰になった。

『Time Out』

 『Reformation』とメモリーをフォンから抜くと響く電子音の後には静寂が訪れる。聞こえるのは空調と、ひび割れたPC類の電線がショートしたばちばち、という音だけ。

 「薔薇は?」とサイガが尋ね、「もう済ませた」と通常形態に戻ったファイズが答える。4人が変身を解除しようとベルトに手をかけた時だった。

 暗闇の中から青い光球が飛んできた。運悪く直撃してしまったデルタの体が吹き飛び、コンクリートの壁に激突する。腰からベルトが離れたせいで、エネルギー供給を失ったスーツが分解される。3人は丸腰になった三原を庇うように彼の前に立ち、闇からひっそりと歩いてくる襲撃者を迎える。

 灰色の足が止まった。すぐ目の前には主の腰から弾き飛ばされたデルタギアが佇んでいる。細い華奢な脚で、それはデルタギアを踏み潰した。金属のベルトがひしゃげ、内部のコードや配電盤がむき出しになる。

「冴子さん……」

 弱い照明が照らすその姿に、サイガが震えた声を絞り出す。「琢磨君」と呼ぶロブスターオルフェノクは、まだ人間の姿を持っていた影山冴子だった頃と同じ声だ。人間としての姿を完全に失っても、声だけは以前のまま。

「私を欺いていたつもり? あなたは賢い子だと思っていたのに。お仕置きが必要のようね」

 サイガはフライングアタッカーの操縦桿にミッションメモリーを装填した。『Ready』という音声と共にバックパックが背中から落ちて、両手に残った操縦桿をトンファーのように構える。

「私はもう、あなたに怯えていた頃の私じゃない!」

 トンファーエッジを握り締めて、サイガはロブスターオルフェノクの胸に青々とした刀身を突き刺す。ロブスターオルフェノクは避けなかった。それは自信だと分かる。自分は決して死なないという確固たる自信が、死への恐怖から生じる回避という選択肢を消滅させているのだ。

 ロブスターオルフェノクは胸に刺さったトンファーエッジの刃を握る。じゅ、と手が焼ける音がするものの、灰色の手は形を保っている。

「馬鹿な子。なら死ぬ? 長田結花のように虚しく」

 ファイズとカイザは愕然と動きを止める。結花は警察の機動隊に、人間に殺されたと思っていた。だから木場は人間を憎悪した。もしそれが勘違いだとしたら、なんて考えもしなかった。ロブスターオルフェノクの言葉が真実ならば、木場の憎悪は全て勘違いから発したことになる。

 木場は人間を憎む必要なんてなかった。

 彼が人間を滅ぼそうとした因果として死ぬ必要もなかった。

「てめえが……、てめえが結花をやったのか!」

 叫んだのはカイザだった。ブレイガンを構えてロブスターオルフェノクへと飛び込んでいく。黄色の刀身を突き刺されても、ロブスターオルフェノクは平然としている。2本の刃はほんの数センチ灰色の肉に食い込んだ程度で、それ以上深く潜り込めそうにない。

 ロブスターオルフェノクの右手から細身の剣が伸びた。剣先がカイザの胸部装甲に当たり、火花を散らして仰け反らせる。左手でサイガのトンファーエッジを払い落とし、その首を掴んで華奢な体躯には見合わない剛力で持ち上げる。

「死ぬのは怖い?」

 サイガは答えない。というよりも答えられない。喉元を握られて、弱い唸り声をあげているだけだ。ロブスターオルフェノクは慈しみに満ちた声で言う。心なしか微笑んでいるように見える。

「私の傍にいれば大丈夫。もう怖いものなんてなくなるわ」

 「琢磨!」とファイズが駆け出す。ロブスターオルフェノクが剣を向けてきて、細身の剣先から青い炎が球形を成して飛んでくる。不意打ちに対応しきれず、光球がファイズに直撃した。剣先からは続けざまに光球が飛び出してきて、地下を固めるコンクリートの壁や柱を砕いていく。

 重低音が地下に響き、空間を揺らし始める。天井と壁に亀裂が走り、石の破片が降り注いでくる。ファイズとカイザは三原の肩を支え、揺れる回廊を走り出す。ファイズが振り返ると、落下してきた瓦礫がサイガとロブスターオルフェノクの姿を隠してしまう。

 天井の割れ目から光が見えた。カイザが跳躍し、割れ目の縁へと到達する。

「おい、こっちだ!」

 カイザが手招きし、ファイズは三原の体を持ち上げてスーツの補助を受けた筋力で彼を投げ飛ばす。カイザが三原を受け止め、ファイズも割れ目へと跳ぶ。地上へ出たと同時、地下の床がぱっくりと割れて奈落のように口を開いた。少しでも遅れていたら、あの闇の中へ閉じ込められていただろう。いくらファイズのスーツでも脱出できるかは分からない。

 ヘリのローター音が聞こえ、3人は空を見上げる。ダミーとして残された工場の陰からヘリが上昇し、デッキから吊り下げられた梯子にロブスターオルフェノクが捕まっているのが見えた。追跡しようにも体力を消耗していた。オートバジンなら飛行で追うこともできるが、ロブスターオルフェノクの攻撃を受けたら3年前に大破した1号機と同じ末路を辿ることになる。

「くっそ……」

 カイザが独りごちり、フォンを抜いて変身を解除する。ファイズも変身を解いた。まだ手に握ったままのファイズフォンが着信音を鳴らし、巧は通話モードにして端末を耳に当てる。

『乾さん……』

 「琢磨!」と巧は叫んだ。

「お前無事なのか?」

『ええ、何とか脱出できました。ですが、あまり動ける状態ではありません』

 弱々しい琢磨の声を聞きながら、巧は視線を横へ流す。海堂と三原も顔を近付け、フォンから出力される声に耳を傾けている。

「どうすればいい?」

『私と海堂さんの裏切りがばれたことで、「王」の警備は固められるでしょう。ラブライブの本大会で、「王」が会場へ輸送されるところに奇襲を仕掛けるしかありません』

「………分かった、気を付けろよ」

『あなた方も』

 通話が切れた。フォンを折りたたみ、巧は無言のまま2人へ目配せする。

「ごめん……。俺はもう、戦えない」

 三原がか細く言う。3年前のような、戦いを拒絶するものではなく、自分が戦力になれないことへの謝罪と分かる。

「俺は無力だ。ベルトが無いと俺は何もできないじゃないか」

三原の目尻から涙が零れた。デルタギアが失われた今、三原は完全にこの戦いから離脱する以外にない。だが、それで良いのだと巧は思える。三原は戦いの宿命から解き放たれた。これからは人間として、平穏な日常を過ごしていける。

 巧は泣き崩れる三原の肩に手を添えた。

「後は俺達がやる。これは俺達の、オルフェノクの戦いだ」

 

 ♦

 とても楽しい1日だった。楽し過ぎて疲れるほどに。

 アイドルショップ、ゲームセンター、動物園、ボーリング場、美術館、ボート場、浅草寺、遊園地とメンバー達が行きたい場所を全て回った。とても密なスケジュールだったし、一ヵ所に1時間も留まっていなかった。

「誰もいない海に行って、9人しかいない場所で、9人だけの景色が見たい」

 行きたい場所を絵里から尋ねられ、穂乃果はそう言った。夕刻に近付いている頃で、絵里からは「今から行くの?」と怪訝な顔をされたが、他の面々の後押しもあって賛成してくれた。

「心の準備、できてる?」

 海岸へ向かう電車の中で、真姫がひっそりと尋ねた。穂乃果は「うん」とだけ応え、2人の会話はそれ以上広がることはなかった。隠してはいたけど、真姫には分かっていたようだ。きっと、真姫だけでなく3年生を除く皆が勘付いていたのかもしれない。

 電車に揺られる中で、穂乃果はささやかに恐怖していた。これが最善、と決めたことがある。でも、それが本当に最善なのだろうか。他にもっと良い選択があったのではないか。そんな想いが頭蓋から離れなかった。

 海岸に着く頃には、夕陽が水平の彼方へ隠れようとしていた。9人以外、誰もいない。海水浴の季節じゃないから当然だ。空と同じ茜色の波と、波打ち際ではしゃぐメンバー達を眺めながら、穂乃果はとうとう来ちゃった、と感慨を抱きしめる。

 こんな時間が、こんな日々がずっと続けばいいのに。そうすれば皆が幸せなままなのに。

 込み上げてくる寂しさを誤魔化すように笑い、穂乃果は海未とことりの間に入って2人の手を握る。2人も笑みを返して穂乃果の手を握り返す。すると他の6人も集まってきて、全員が手を取り合い横1列になって海に沈もうとする太陽へ目を向ける。

 そういえば、夏の合宿もこうして皆で朝陽を見たっけ、と穂乃果は思い出す。あの時は直後にオルフェノクに襲われて、巧もオルフェノクと知った。もし穂乃果が、ここにいる9人が巧を拒絶したままだったら、こうして皆が揃ってこの時間を過ごすことはできなかったかもしれない。

 「あのね」と穂乃果の声が、波間からすり抜けるようにメンバー達へ告げる。

「わたし達話したの。あれから6人で集まって、これからどうしていくか。希ちゃんとにこちゃんと絵里ちゃんが卒業したら、μ’sをどうするか。ひとりひとりで答えを出した。そしたらね、全員一緒だった。皆同じ答えだった。だから……、だから決めたの。そうしよう、って」

 亜里沙は言ってくれた。「みんな」と一緒に1歩ずつ進むその姿が大好き、と。穂乃果も同じだ。全員が同じ答えなのだとしたら、きっと皆も同じ気持ちだったのだと思える。大好きを共有できて嬉しい。そして同時に寂しい。大好きだから出したその選択が。

 「言うよ、せーの――」と穂乃果が促し、3年生を除くメンバー6人で海に叫ぶ。

 

「大会が終わったら、μ’sはおしまいにします!」

 

 再び波の音が聞こえてくる。

 言っちゃった、と穂乃果は思った。本当は続けたい。もっと9人で歌いたい。

 μ’sは今、9人で駆け抜けたものとして、巧が守ったものとしてここにある。μ’sで過ごした日々は辛いこともあったし、練習漬けで疲労に苛まれた。でも、それ以上に楽しかった。ライブで歌とダンスを披露すること。どんなライブにしたいかメンバー達で話し合うこと。観客が楽しんでくれたらいいな、と思いながら過ごした日々で、大きなものを得た。それは突然手にしたものではなく、この9人と一緒にいることで少しずつ、小さな弱い光をひとつひとつ拾うようにして成った。

 そう、9人で。

「やっぱりこの9人なんだよ。この9人がμ’sなんだよ」

 穂乃果はそう言って歩み出る。皆の顔を見るのが怖かった。特に3年生の顔が。起こっているだろうか。悲しんでいるだろうか。喜んでいる、とは考え辛い。

 後ろから海未の声が聞こえてくる。

「誰かが抜けて、誰かが入って。それが普通なのかは分かっています」

 「でも」と真姫が続く。

「わたし達はそうじゃない」

 花陽が言う。

「μ’sはこの9人」

 凛が言う。

「誰かが欠けるなんて、考えられない」

 ことりが言う。

「ひとりでも欠けたら、μ’sじゃないの」

 この9人じゃないと駄目だったのだ、と明言できる。穂乃果がいて、海未がいて、ことりがいて、真姫がいて、凛がいて、花陽がいて、にこがいて、希がいて、絵里がいる。代わりなんていない。だから終わりにしよう。

 それが、来年も学校に残る6人で出した答え。

 とても辛い決断だった。でも、この決断は背負わなければならないのだと穂乃果は思う。巧が苦しみを背負いながらもμ’sを守ると決断してくれたように。

 「そう」と絵里は穏やかに言った。「絵里!?」とにこの驚愕の声が聞こえてくる。「うちも賛成だよ」という希の声も。

 「希……」と呟くにこに、「当たり前やん、そんなの」と希は返す。声が震えていた。

「うちがどんな思いで見てきたか、名前を付けたか。9人しかいないんよ。うちにとって、μ’sはこの9人だけ」

 「そんなの……、そんなの分かってるわよ」というにこの声で、穂乃果は胸が張り裂けそうになる。ごめんね、という言葉は言うべきではない。誰よりもグループ存続を願っていたにこの想いを汲んだうえでの決断だ。ここで覆すわけにはいかない。にこがスクールアイドルでいられたμ’sを、μ’sのままにするために。

「わたしだってそう思ってるわよ。でも……、でもだって」

 砂利を踏む音が聞こえる。自分と同じだ、と穂乃果には分かる。あの強がりなにこが、メンバー達に涙を見せたがらないのは。

「わたしがどんな想いでスクールアイドルをやってきたか、分かるでしょ? 3年生になって諦めかけて、それがこんな奇跡に巡り会えたのよ。こんな素晴らしいアイドルに、仲間に巡り会えたのよ! 終わっちゃらもう2度と――」

 「だからアイドルは続けるわよ!」という真姫の声が聞こえる。

「絶対約束する。何があっても続けるわよ」

「真姫………」

「でも、μ’sはわたし達だけのものにしたい。にこちゃん達のいないμ’sなんて嫌なの。わたしが嫌なの!」

 真姫の言葉を聞いて、穂乃果のなかで寂しさと嬉しさが同時に湧き出てくる。不思議なものだ。対極の感情が同時に現れるなんて。

 ああ、そうだ、と穂乃果はこの気持ちが初めてのものでなかったことを思い出す。講堂でファーストライブをやった日も、こんな気持ちだった。

「かよちん泣かない約束なのに………。凛頑張ってるんだよ。なのに、もう………」

 この場で誰が泣いていて、誰が涙を堪えているのか、皆の顔を見られない穂乃果には分からない。気のせいだろうか。波の音がすすり泣く声に聞こえる。海も寂しがってくれているのかな。寂しげな雰囲気をかき消すために、穂乃果はいつもの調子で「あー‼」と叫ぶ。

「時間! 早くしないと帰りの電車なくなっちゃう!」

 メンバー達の間を縫って穂乃果は駆け出す。泣いちゃ駄目だ。まだ終わってないんだから、と自分に言い聞かせながら。

 

 ♦

 神田明神の駐車場にオートバジンを停めると、巧は深いため息と共にヘルメットを脱いだ。とても疲れてゆっくり休もうと思っていたのに、電話で穂乃果から呼び出されて急行する羽目になったのだ。

 メンバー全員で遊びに行くと言っていたが、すっかり日も暮れているというのにまだ遊び足りないのか。もしかしたら、せっかく集まったんだから練習しようとか言い出したのかもしれない。

 憂鬱な気分のままいつもの練習場所である拝殿前に着くと、彼女らはいた。巧に気付いたにこが「あ、来たわね」と生意気に言う。提灯が朧げに照らす9人の顔を見て、巧は漠然とだが悟る。きっと、大切なことを彼女らは告げようとしているのだろう。

 「たっくん」と穂乃果がメンバー達の中から歩み出て、巧の前に立つ。

「皆で話して、μ’sはラブライブが終わったらおしまいにすることにしたんだ」

 巧は驚愕のあまりに声を詰まらせる。確かにここ最近、穂乃果はどこか上の空だった。3年生の卒業を控えてのことだとは分かっていた。

「スクールアイドル、やめるのか?」

 巧の問いに穂乃果は「ううん」とかぶりを振る。

「やめないよ。ただ、やっぱりμ’sはこの9人なんだ」

 穂乃果は笑った。彼女の後ろにいる8人も笑っている。笑顔なのに、それを見て巧はやるせない気分にとらわれる。ベルトを失った三原の気持ちが理解できた。事の渦中にいながらも自分が介入できないことの無力感。彼女らが慰めを求めて巧に答えを告げたわけじゃないことは重々承知している。

 ただ、もうすぐμ’sは終わる。それを見届けて欲しい。それが彼女らの、これまでの軌跡を傍観してきた巧に対する報酬なのだ。

 「ごめんね」と穂乃果は俯いた。

「たっくんは守ってくれたのに、相談もなしにいきなり………」

「別に良いさ。お前らのμ’sだからな」

 唇を結ぶ穂乃果に巧は憮然と、でも穏やかに言う。きっと皆で決めたことなのだろう。彼女らの決断に、巧が口を挟む余地はない。とても辛い決断のはずだ。ずっとμ’sのことばかり考えていた穂乃果の青春そのものだったμ’sが、あと1ヶ月もなく終わってしまうのだから。

 終わりの時を自分で決めるとき、人はどれだけの勇気を必要とするのだろう。叶うのかも分からない夢を持つ巧には分からない。

「そうそう、皆で写真撮ったんです。巧さんも見てください」

 絵里がそう言って歩み寄り、鞄から出した写真を見せてくれる。一瞬プリクラかと思ったのだが証明写真で、9人が無理矢理入っているから誰も彼もが窮屈そうにしている。

 集まったメンバー達が写真を見て笑った。変な写り方をしている様をからかい合っている。笑い過ぎたのか、花陽の目尻に浮かぶ涙が薄暗いなかで光を反射する。花陽が指で掬い取っても涙は止まらず頬を伝う。花陽は顔を両手で覆い、嗚咽を漏らした。

「かよちん泣いてるにゃ」

 そう言う凛の目にも涙が浮かんでいる。

「だって、おかしすぎて涙が………」

「泣かないでよ。泣いちゃやだよ。せっかく笑ってたのに………」

 凛も顔を手で覆う。それを見て真姫が「もう」と呆れた顔をする。

「やめてよ。やめてって言ってるのに………」

 言葉を詰まらせ、真姫は俯く。影に覆われた目元から滴が落ちた。

 花陽から凛へ。凛から真姫へ。まるで波紋が水面に広がっていくように、それは伝播した。

 泣きじゃくる海未を抱き留めながら絵里も泣いている。穂乃果の肩に寄り添ったことりの涙が、穂乃果のコートを濡らしている。

「もう、めそめそしないでよ。何で泣いてるのよ」

 上級生というプライドからか、にこが文句を飛ばす。「にこっち」と目尻の涙を零すまいとしている希に、にこは「泣かない! わたしは泣かないわよ」と強く言う。そんなにこを希は強く抱きしめる。下を向いたせいか、希の涙が頬を伝った。

「やめてよ……。そういうのやめてよ………」

 震える声の後に、にこの赤ん坊のような泣き声が響き渡る。

「何で泣いてるの?」

 こんな時でも穂乃果は笑っている。笑いながらその瞳から涙が溢れ出ている。

「もう、変だよ。そんなの………」

 穂乃果は空を仰いで泣いた。歯を食いしばり、抑えきれないものを吐き出し続ける。

 9人分の涙に囲まれながらも巧はそれを止める言葉を知らないし、止めるつもりもなかった。これは、彼女らのせめてもの抵抗なのだ。いつまでも一緒にいられないという現実。時間という概念によって辛い現実をもたらす世界への、何の損傷も与えることのできない抵抗。

 巧は星が散りばめられた夜空を見上げる。どれほど巧が足掻こうとも、どれほど戦おうとも、世界は少女たちに残酷さを提示する。それに目を背けず決断した彼女らがどれ程たくましいのか、そして自分がどれ程ちっぽけなのか、巧は突き付けられた気がした。神がいるのなら、勘違いしていた自分に大笑いしていることだろう。そんなことを思いながら巧は皆を見渡し、その涙を見届ける。

 μ’sは夢の終わりを自分たちで決めた。ならば巧も決めなければならない。

 オルフェノクという、悪夢の終わりを。

 

 




 以前文字数が多くなる原因が戦闘に注力しすぎたと分析したのですが、相談に乗ってくれた友人からこう言われました。

「そこじゃねーよ。日常パートが長いんだよ」


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第12話 最後の夜は / 生命の意義

 今回は『ラブライブ!』アニメ版の第2期12話に相当する回なのですが、書いてみたらとてつもなく長すぎたので分割してお送りすることにしました。テンポが悪くなってしまうという危惧もあったのですが、読者様の負担になってしまうで。

 尺を食ったのは『555』サイドです。乾巧ってやつの仕業です。ガチで(笑)。


「エントリーナンバー11、音ノ木坂学院スクールアイドル、μ’s」

 女性司会者に応じるように、メンバー達は立ち上がる。同時に席へスポットライトが当てられ、会場に拍手が響く。会場のステージにあるスクリーンにはラブライブのロゴが映し出されていて、それを見て穂乃果はここまで来たんだ、と胸の高鳴りを実感する。

 穂乃果はステージへと上がり、中心に置かれた箱を前に足を止めると「にこちゃん」と振り返る。

「くじを引くのはにこちゃんだよ」

 「ええ!?」とにこは自分自身を指差す。「卒業するまでは部長でしょ」と真姫が言い、「そうにゃ、最後はびしっと決めるにゃ」と凛がにこの肩に飛びつく。

 しばし置いて、にこはきっと抽選箱を睨み「分かったわよ」とステージへの階段を上る。

「いよいよ来たのね」

 穂乃果の隣に立ったにこは静かに、でも力強く告げる。「うん」と穂乃果は短く返す。

 ラブライブ。

 全国で最も優れたスクールアイドルを決める大会。どのグループが最も多くの観客を楽しませることができるか、それが近いうちに決まる。

 正直、穂乃果にとって勝ち負けなんてどうでも良かった。9人で本大会のステージに立ち、観客と共に歌とダンスを楽しむ。それまでの努力の軌跡を形として残すことが穂乃果の、ひいてはμ’sの根拠にある。

「代表者、どうぞ前へ」

 女性司会者が促し、にこはゆっくりと抽選箱へと踏み出す。

 

 ♦

「さあ俺様の奢りだ。じゃんじゃん食いたまえ!」

 小さな丸テーブルの上に広げた海堂曰く「ご馳走」を眺めながら、巧はやれやれとため息をつく。ご馳走というものは、普段は食べられないようなものを言う。それなのに、テーブルに広がるものは例に漏れずデリバリーピザにビールと、いつもと変わらない。

 スマートブレインに裏切りが知られてしまった海堂は、追跡を逃れるためにマンションを引き払っていた。新しい彼の「城」というのは、街中にビジネスマンが一時の休息を得るための安価なホテル。リゾート地にあるようなオーシャンビューもフォレストビューもなく、窓から見えるのは隣接しているビルの無機質なコンクリート素材の壁だ。この部屋に1ヶ月近くも宿泊しているものだから、既に客室は前に住んでいたマンションと同じチーズと紫煙の匂いが満ちている。

 マルゲリータを食べる巧に海堂が尋ねる。

「どうだ、μ’sは」

「変わりないさ。本戦に向けて練習してる」

「そうかそうか。ちゅーか間が悪いよなあ。本戦とダブっちまうなんてよ」

 ビールを飲んだ海堂は腹に溜まったガスを汚いげっぷで吐き出す。このデリカシーの無さに慣れてしまった自分に呆れながら、巧はピザを飲み込む。2人だけだと減りが遅い。元はこうしてピザを囲むのは海堂と巧だけだったが、琢磨が加わり、次には往人が加わった。4人で食べるピザはあっという間になくなり、海堂が食い足りないと文句を言っていた。人数が半分になると、ひとりの取り分は倍になる。それなのに、今日の海堂はピザにあまり手を伸ばそうとしない。

「なあ乾。『王』を倒すときは、俺様に止めを刺させてくれ」

 何気なしに海堂が言った。巧は視線を上げる。海堂はいつもの様子でにやにやとしていて、ビール瓶を手に立ち上がる。

「お前にだけ良いとこ取りさせてたまるかっちゅーんだ。俺様が人類のために『王』を倒して、そんで英雄になるのだ」

 海堂は瓶を高く掲げる。まるで騎士のように。瓶を一気に煽り盛大なげっぷを漏らすその姿が英雄とは。もし本当に『王』が海堂の手によって葬られたとき、人類は彼に救われたことを素直に喜んでくれるだろうか。

「………照夫のためか」

 巧がそう言うと、海堂は黙り込む。鈴木照夫(すずきてるお)。かつて海堂が啓太郎と共に火事の現場から助け出した少年だ。三原と里奈が働く孤児院に預けられたが馴染めず、見かねた海堂が引き取ると言い出した。とはいえこの男に子供を育てることができるのかは疑問で、結局は啓太郎の家で預かることになったが。

 幼い少年が宿していたもの。それが「王」だった。肉体に宿る本能に従い、オルフェノク達を食べてきたことで、「王」は照夫という繭を破り世界に現れた。

 「勘違いすんな」と海堂はかぶりを振る。

「俺様はな、ガキが大っ嫌いなんだよ。クッキーやっても投げるわ泥団子も投げるわ女のスカート捲るわで。ちゅーか、やっぱりガキの面倒なんざ見るもんじゃねえ」

 海堂は虚しく笑い、またビールを飲む。酒を煽る彼を見て、巧は以前見た海外のジュブナイル映画を思い出す。不良少年たちが秘密基地に集まって酒を飲み煙草をふかす。そのお供に太った悪友が持ってくるのはデリバリーピザだった。どんなタイトルだったかは覚えていないし、海堂も同じ映画を見たのかは分からない。でも、海堂はあの騒がしい光景に憧れているのかもしれない。大勢で集まりピザを食べ、酒と煙草という堕落したものを嗜みながら窮屈な現実から逃避する時間に。

 恥ずかしくて決して口には出さないが、巧がそのシーンを覚えているのは羨望に他ならない。巧もまた、あのような辛いことも忘れられるほどの騒ぎに飛び込むことに憧れを抱いていた。巧はその羨望を叶えることができた。真理と啓太郎と3人で食卓を囲み、彼らから離れた後もμ’sの面々と大勢の食事をした。

 巧はマルゲリータを一切れ取る。「俺様の分が無くなんだろうが」と海堂も一切れをつまむ。遅れたジュブナイルを噛みしめるように、海堂はピザを口に詰めていく。こんな時間をこれからも過ごせるかどうかは、巧たち次第だ。

 明日で全ての決着がつく。地球上で生き残るのが人間かオルフェノクか。奇しくもμ’sの優勝を懸けた、最後のライブと同じ日に。世界の命運は巧の手に懸かっているのかもしれない。でもこの期に及んで、巧は世界のことなんて気にかけていなかった。

 「王」を倒すこと。それは戦いで死んでいった者達へのはなむけであり、所詮は巧の個人的なエゴイストだ。世界のためとか、顔も知らない人々のためとか、そんな慈愛に満ち溢れた理由なんてない。

 巧にとってこの戦いとは、木場との約束を果たせるかもしれない最後のチャンスでもあった。

 

 ♦

 部室の椅子に背を預け、にこは得意げに笑みを浮かべる。「にこちゃん凄いにゃー!」と凛が言うと、「当たり前でしょ」とにこは返す。

「わたしを誰だと思ってるの? 大銀河宇宙ナンバーワンアイドル、にこにーにこちゃんよ!」

 大見得を切るが、すぐに力なくうなだれて「緊張した……」と力なく漏らす。

「でも、1番最後……。それはそれでプレッシャーね」

 落ち着かないのか、真姫がそう言って髪を指先でいじる。先程のパフォーマンス披露の順番を決める抽選会で、にこは最後を引き当てた。つまり、μ’sは大会の大トリを務めるということになる。

「そこは開き直るしかないわね」

 そう不敵に微笑む絵里は流石だ。既に気持ちが出来上がっている。

 「でも」と穂乃果は立ち上がる。

「わたしはこれで良かったと思う。念願のラブライブに出場できて、しかもその最後に歌えるんだよ」

 「そうやね」と希が応じ、タロットカードを見せてくる。

「そのパワーをμ’sが持ってたんやと思う」

 その発言が面白くなかったらしく、にこは「ちょっと」と口をとがらせる。

「引いたのはわたしなんだけど」

 「はいはい、そうね」と真姫が投げやりに。

 「偉いにゃ偉いにゃ」と凛が言う。

「雑!」

 これ以上は幼稚な痴話喧嘩しか起こらないことが目に見えたのか、絵里がメンバー達に呼び掛ける。

「さ、練習始めるわよ」

 ぞろぞろと部室を出ていくメンバー達を訝しげに見つめながら、にこは物足りなく「まったく……」と独りごちる。

「大丈夫だよ」

 その優しげな声のほうへ振り向くと、まだ残っていた花陽が微笑を向けている。

「花陽……」

「皆あんなこと言いながら、すごい感謝してたから」

 少し照れ臭くなり、「分かってるわよ」とにこは顔を背ける。「え?」と意外そうに花陽が声をあげる。

 にこは理解している。最後の時が近付いても、敢えて何も特別な意識を持つことなく皆が過ごしていることに。それが1番良い。いつも通りが最も安心できる。

「最後まで、いつものわたし達でいようってことでしょ」

 花陽は嬉しそうに「うん」と頷いた。にこは普段と変わらず、気合を込めて言う。

「さ、練習よ!」

 

 ♦

 屋上の日陰に敷いたビニールシートに腰かけ、穂乃果は額に滲んだ汗をタオルで拭う。視界にペットボトルが入り込んできて、続けざまに馴染み深い声が聞こえてくる。

「随分暖かいですね」

 「ありがとう」と穂乃果は海未からペットボトルを受け取る。今日は快晴だ。寒気も過ぎて、風も陽光に温められて心地良い。

「うん、お昼寝したくなっちゃうね」

 「いよいよ春って感じだよね」とことりが歩いてくる。

「桜の開花も今年は早いって言ってたし」

 「そうなんだ」と穂乃果はまだ丸裸の樹々を眺める。そういえば、巧と出会ったのも去年のこの時期だった。まだ朝方と夕方は寒くて、家の前でバイクと共に倒れていた彼を見つけたときは仰天したものだ。思えば、巧と出会ってから色々なものが動き出した気がする。オルフェノクと遭遇し、学校の廃校が検討され、μ’sが結成された。

「なんか気持ちいね」

 そう言って伸びをして、穂乃果は屋上にいる1年生と3年生へと視線をくべる。凛が花陽と真姫に練習したターンステップを見せていて、にこが希と絵里に自分のメンバーコールを教授している。廃校を止めるために始まった活動がここまで来るとは、正直穂乃果も思っていなかった。始まったらどんどん熱中していって、気付いたら日本一のスクールアイドルを決める大会にまで出るなんて。

 「穂乃果ちゃん」とことりが顔を近付けてくる。

「寂しくなっちゃ駄目。今はラブライブに集中」

 目の前にあるのは、いつもの穏やかに笑うことりの顔だった。「そうですよ」と海未もいつもの口調で言う。

「分かってるよ」

 その言葉は海未でもことりでもなく、自分自身へ向けるものだ。油断すればすぐ物思いにふけってしまう。

「ただ………」

 「ただ?」と海未が反芻する。穂乃果は答えず、代わりに2人を抱き寄せる。「な、何ですか一体?」と海未が恥ずかしそうに聞いた。

「急に抱きしめたくなった!」

 「わたしも」とことりも穂乃果の言葉にならない想いを抱き留め、海未も「苦しいですよ」と言いながら受け留めてくれる。

 μ’sが無くなってしまうのは決まっている。いざその時が訪れたらどんな想いが沸き起こるのか、それはまだ分からない。でも今は、今この瞬間だけは、自分の腕のなかにいる2人が、屋上で共に過ごしたμ’sの皆が愛おしいと確信できる。

 穂乃果は明瞭な想いを肌で感じようと、親友たちを力強く抱きしめた。

 

 ♦

「あーあ、もう練習終わりなのかー」

 校舎を出たあたりで、凛が物惜しげに言う。今日の練習は最終確認だけに留まった。歌のパートやダンスのステップに乱れはないか。既に仕上がっていたから特に修正点もなく、いたずらに体力を消耗しないよう練習を切り上げた。

「本番に疲れを残すわけにはいかないしね」

 いつもの風景だ。体力の有り余る凛が不満を漏らし、絵里が嗜める。いつもと違うのは、この場に巧がいないことだけだ。

「そうだよね」

 ことりも普段通りの声色だった。でも、隠し切れていないものがある。それを察しながらも穂乃果は何も言わず、敢えて普段通りを貫く。

「じゃあ明日、皆時間間違えないようにね。各自、朝連絡を取り合いましょう」

 校門前の信号が青に変わるのを待つ間、絵里がそう言う。「はい」と返した海未が穂乃果へと向く。

「穂乃果のところには、わたしが電話しますね」

 「遅刻なんてしないよ」と穂乃果が腹立たしく言う。

「きっとたっくんが起こしてくれるし」

 「巧さん頼みですか」と海未が苦笑し、それがメンバー全員へと伝播する。

 信号が青に変わった。メンバー全員が横断歩道へと足を踏み出す。2、3歩進んだところで「あ……」と花陽が足を止めた。皆も足を止める。

「もしかして、皆で練習するのってこれが最後なんじゃ………」

 その哀愁に満ちた花陽の言葉に全員が黙りこくってしまう。明日は本番で、μ’sのラストライブ。だから今日の練習はこの9人での最後の練習だった。穂乃果はそれに気付いていたし、敢えて口に出さなかった。いつも通りに過ごすことが最善だと思ったからだ。

「気付いてたのに言わなかったんでしょ、絵里は」

 真姫がそう言うと、花陽は「そっか、ごめんなさい」と謝罪する。それでも絵里は嫌な顔をせず「ううん」とかぶりを振る。

「実は、わたしもちょっと考えちゃってたから」

 絵里は校舎へと振り返り、皆もそれにならう。毎日通っている学校。ありふれた日常の風景なのに、今ばかりはそれがとても貴重で、高価値に思える。

「駄目よ」

 漂っていた哀愁をにこが断じる。

「ラブライブに集中」

 「分かってるわ」と絵里は返す。「じゃあ行くわよ」とにこは歩き出すが、すぐに止まってこちらを振り返る。

「何いつまでも立ち止まってるのよ?」

 にこの言う通りだ。立ち止まっていても仕方ない。時間は止まってはくれないのだ。どう足掻いたところで明日は必ず訪れる。でも、今日だけは「いつも通り」から外れたい、と穂乃果は思った。

 穂乃果は提案する。

「ねえ、お参り行こうよ」

 

 ♦

 ファーストライブの前日も、こうしてお参りしたっけ。拝殿を前に手を合わせながら、穂乃果はそんなことを思っていた。あの時は海未とことりの3人だけで、ライブも殆ど観客がいなかった。思えば、あの会場にいたのは今ここにいるメンバー達と巧だった。

 神田明神は縁結びの神として大国主(おおくにぬし)を祀っている。この9人が集まった縁は神によってもたらされたのだろうか。罰当たりだけど、穂乃果は違うと断言できる。9人で頑張ってこられたのは、9人の力があったからだ。9人と、巧の力で。

「これでやり残したことはないわね」

 にこがそう言って、花陽が「うん」と満足げに返す。

「こんなにいっぺんに色々お願いして、大丈夫だったかな?」

 凛の言葉に「平気だよ」と穂乃果は返す。

「だって、お願いしてることはひとつだけでしょ?」

 皆が目を丸くする。穂乃果は続ける。

「言葉は違ったかもしれないけど、皆のお願いってひとつだった気がするよ」

 「そうね」と絵里が同意する。9人の願いは、気持ちはひとつだ、と穂乃果は確信できる。

 「じゃあもう一度」と希が促し、全員で拝殿にお辞儀して声を揃える。

「よろしくお願いします」

 これでもう、出来ることは全部やった。練習もお参りも。

 「さ、今度こそ帰りましょ」と絵里が鞄を持つ。花陽はまだ名残惜しそうに顔を俯かせた。「もう」と真姫がため息をつく。

「きりが無いでしょ」

 「そうよ、帰るわよ」とにこが歩き出した。彼女に続いてひとり、またひとりと拝殿に背を向けて歩き始める。確かに練習は今日で最後だ。でも、明日もまた9人集まる。

 何も今日が、9人でいられる最後の日じゃない。

 

 ♦

 家に帰って、明日に備えてゆっくり休もう。そう思っていた。でもいざ帰路へつくとき、穂乃果の胸の裡にはまだ懊悩が残っていて、結局は神田明神に引き返してしまった。

 それは皆も同じだったらしい。普段通りに過ごそうという雰囲気だったのに、結局は名残惜しさから逃れることはできない。

 だから、穂乃果は提案した。

「できたー!」

 部室に敷いた9人分の布団を前に、穂乃果はばんざいする。収まるか不安だったが、ぴったりだった。

「学校でお泊り。テンション上がるにゃー!」

 はしゃぐ凛に「どきどきするね」と希も乗じる。ホテルのような充実した設備はないが、こうして学び舎で寝巻という恰好をすると特別なことをしている気分になれる。

 「でも、本当に良いんですか?」と海未がことりに尋ねる。ことりは「うん」と鞄から出した合宿申請書を見せる。しっかりと理事長の判が押されている。突然のことだったから、ことりの母が理事長とはいえ本当に申請が通るとは思っていなかった。

「巧さんがお願いしてくれたみたい」

 ことりの口から出た事実に、「たっくんが?」と穂乃果は驚く。確かに巧には学校に泊まると言っておいたが、まさか頼んでもいないのにこんな計らいをしてくれるとは。申請が通ったことよりも衝撃的だ。

 「はいお待たせ!」と隣室からにこが中華鍋を手に入ってくる。

「家庭科室のコンロ、火力弱いんじゃないの?」

 中華鍋からぴりっとした香りが鼻孔をくすぐる。献立は麻婆豆腐だ。にこが作ったのだから味は期待できる。

「花陽! ご飯は?」

 にこが呼ぶと、背後から炊飯器を抱えた花陽が出てきて蓋を開ける。湯気が立ち昇り、嬉しそうに「炊けたよ!」と花陽は満面の笑みを浮かべた。

 楽しい時間はあっという間だ。9人で囲む料理はすぐになくなった。味を噛みしめる間もなく。

「何か合宿のときみたいやね」

 そう言う希に「合宿よりも楽しいよ」と穂乃果が返す。

「だって学校だよ、学校」

 「最高にゃ!」と言う凛に「まったく子供ね」とにこが皮肉を飛ばす。

 やっぱり、この9人はどこで何をしてもこんな感じなんだな、と穂乃果は思った。場所が変わっても季節が変わっても、この9人が集まると楽しいひと時が過ごせる。寂しさなんて忘れてしまうくらいに。

「ねえねえ、今って夜だよね?」

 穂乃果の質問に「そうだけど」とにこが答える。当たり前じゃない、とでも言うように。穂乃果は椅子から立ち上がり、窓際に立つと勢いよく窓を全開にする。

「何してんのよ、寒いじゃない!」

 肩を抱くにこが文句を飛ばしてくる。穂乃果は窓を背にして、両腕を広げる。この状況を見てごらん、と言うように。

「夜の学校ってさ、何かわくわくしない? いつもと違う雰囲気で新鮮」

 「そ、そう?」と絵里が歯切れ悪く聞く。

「後で肝試しするにゃ!」

 凛がそう言うと、「え!?」と絵里は控え目な悲鳴をあげる。「あ、良いねえ」と希は絵里に向けた目を細める。

「特にエリちは、大好きだもんねえ」

 「絵里ちゃんそうなの?」と穂乃果が聞くと、絵里は苦笑を浮かべる。

「そ、それは――」

 最後まで言葉を待たず、部屋が暗転した。暗闇の中で絵里の悲鳴が聞こえる。「い、痛い」ということりの声も。

「絵里ちゃん痛いよ」

「離さないで離さないで! お願い………」

 暗闇に目が慣れてきた。ことりに抱きつく絵里と、驚愕で目を丸くする海未と花陽が認識できる。ドア横のスイッチの傍に立っている真姫の姿も。

 「もしかして、絵里」と海未が言葉を詰まらせ、「暗いのが怖い、とか?」と花陽が引き継ぐ。穂乃果の横で希が含みのある笑みを零す。

「新たな発見やろ?」

 まさか今になってこんな発見があるなんて。振ればもっと絵里の知らなかった一面が見られるかもしれない。そんな悪戯めいた考えが穂乃果のなかで浮かぶ頃、「真姫!」と絵里が照明を消した犯人を呼ぶ。「はいはい」と真姫は電気を点けた。

 部屋にぱっ、と照明が灯ると同時、こんこん、とドアをノックする音が響く。皆がドアへと視線を集中させるなか、絵里だけは「ひいっ」と過敏な反応を見せる。

「お前ら、声が外まで聞こえたぞ」

 ぶつくさ言いながらドアを開けたのは巧だった。絵里がほっと胸を撫でおろす姿を不思議そうに見るも、巧はそのことには触れずに穂乃果へ視線を向けてくる。

「穂乃果、ちょっと良いか?」

 

 ♦

 昼間は暖かいが、まだ夜は肌寒い。生徒達の賑わいが聞こえる音ノ木坂学院の校舎はとても静かで、昼間とは打って変わる冷たい雰囲気にどこか恐怖を覚える。

 校舎の周辺は灯りが少なく、星々が照らす校庭でタオルケットを羽織った穂乃果に巧はパーカーを差し出す。

「ほら。夜は冷えるからっておばさんが」

 「ありがとう」と穂乃果は笑みと共に受け取る。いつもの穂乃果だった。その様子にどこか巧は安心する。

「そういえば、理事長に合宿の申請お願いしてくれたんだよね」

「大したことじゃないさ。話があったから、そのついでにな」

 どうせいつもの思い付きだから申請なんてしていないだろう、と頼んでみたのだが、理事長はふたつ返事で了承してくれた。申請は2週間前までに出さなければならないが見落としていたのかも、と言って。

 下手にこれ以上前置きの会話をするのもまどろっこしく、巧は唐突に言う。

「明日なんだけどな、ライブには間に合わないかもしれない」

 「え?」と穂乃果は不安げに巧を見上げた。巧は続ける。

「どうしても決着を付けなきゃならない戦いがあるんだ。勝てば、お前らの夢を守り切れるかもしれない」

 理由にするには説明不足が過ぎるな、と巧は自分の口下手さにうんざりする。でも穂乃果は「そうなんだ」とだけ返し、何の文句も言ってこない。

「お前、不安じゃないのか?」

 思わず巧はそう聞いている。「不安なんてないよ」と穂乃果は即答する。雲間から出てきたのか、月光が穂乃果の顔を照らした。優しい笑顔だった。

「だって、たっくんは仮面ライダーだもん。たっくんならできるって信じてるよ」

 迷いなんて感じなかった。自分の不安が馬鹿馬鹿しくなり、巧はため息と共に笑みを零す。巧は明日、μ’sのライブが失敗するだなんて微塵も思っていない。成功すると信じている。それと同じように、穂乃果も巧の勝利を信じてくれている。それだけの、簡単なことだ。

 かつて真理から、そして絵里からも言われた通り、自分を信じてくれる彼女を信じようと思える。

 「ねえ、たっくん」と穂乃果の声が影を帯びる。

「前に、啓太郎さんが体のことって言ってたよね? たっくん、何かの病気なの?」

 「ああ……」と顔を背け、しばしの逡巡を経て巧は白状する。

「オルフェノクは長く生きられないんだ」

 そう言うと、穂乃果は悲しそうな顔をする。「でも大丈夫だ」と巧は続ける。

「オルフェノクの命を延ばせる奴がいてな、そいつに長く生きられるようにしてもらった」

「そうなんだ……。優しんだね、その人」

「ああ、良い奴だった」

 安心したように穂乃果は笑った。よく笑う奴だな、といつも思う。今夜、巧は往人の死を告げるべきか迷っていた。でもそれはできない。往人は穂乃果の笑顔を守るよう巧に託して逝った。知れば穂乃果は悲しむ。この笑顔を、往人の愛した笑顔を守るために彼の死は隠さなければならない。

「わたし達、頑張るね。悔いのない、μ’sの集大成になるようなライブにする。だから絶対に勝って、絶対に観に来てね」

 「ああ」と素っ気なく返す巧に、穂乃果は小指だけ立たせた拳を差し出してくる。何だ、と思いながら巧が見つめると、穂乃果は口を尖らせる。

「指切り!」

 はいはい、とため息をついて巧は手を差し出し、立てた小指を穂乃果の小指と絡める。触れた瞬間、巧は少しだけ彼女の肌の冷たさに驚いた。身震いするほどの寒さだから冷えるのは当然なのだが、暑苦しいとさえ思う穂乃果から冷たさを感じるとは。でも、彼女の裡に太陽のような熱があることを巧は知っている。

 指を交差させている間、巧と穂乃果は互いの瞳をじっと見つめ合っていた。巧は何か気の利いた言葉を探してみるが、まったく見つからない。それは穂乃果も同じようで、彼女の瞳から感じ取れるものは到底言葉で言い表すにはどれも足りない気がする。

 巧はするりと小指を解いた。穂乃果は名残惜しそうに小指を宙で静止させたまま巧を見つめ続ける。

「約束だよ」

「ああ、約束する」

 

 ♦

 満天の星空に気付いたのは、帰路につく巧を見送って部室へ戻る道中だった。校舎の周辺に街灯が少ないことを抜きにしても、東京でこれほど星空が映えるのは珍しい。

「ねえ、屋上行ってみない?」

 部室に戻った穂乃果はメンバー達にそう提案した。賛成してくれたのは、皆も思い出をもっと作りたいのだと思える。

 いつもの練習場所である屋上も、夜になると普段とは違う面を見せる。金属の柵が冷たさを増し、影が濃い。

 どうせなら校舎で最も高い場所で、と塔屋へ上る。街を見下ろすと夜景が広がっている。家の灯りや店の看板。様々な色の光が地平の彼方まで埋め尽くしている。とても不思議だ。昼間は太陽が空から光を降ろし、夜になると人々の営みが光として空へと昇るなんて。

「凄いねえ」

 思わず穂乃果はそう漏らす。「光の海みたい……」とことりも感嘆の声をあげる。

「このひとつひとつが、みんな誰かの光なんですよね」

 海未の言葉が美しさを醸し出す。勿体ないな、と穂乃果は思った。この夜景をもっと早く見られれば、海未はもっと美しい歌詞を書いてくれたかもしれないのに。

「その光のなかで皆生活してて、喜んだり悲しんだり………」

 絵里の言葉を受け、穂乃果は思慕する。この光の海が自分たちの暮らす街だと思うと、まるでおとぎの国の住人になったかのように錯覚する。わたし達は光に抱かれながら暮らしているんだ、と。

 穂乃果は想いをありのままに紡ぎ出す。

「この中にはきっと、わたし達と話したことも会ったこともない、触れ合うきっかけも無かった人達が、たくさんいるんだよね」

 この地球上で暮らす人々は70億人もいる。一生のうちで、出会えるのは一体何人なのだろうか。

「でも繋がった。スクールアイドルを通じて」

 にこが穏やかに言った。

 天文学的な可能性でもたらされた(えにし)。μ’sと、巧との出会いを経た今となって、その縁は奇跡と呼ぶに相応しい。お参りの時に神のお膳立てを否定したが、それも受け入れられる。

 穂乃果は思い出す。スクールアイドルを始めようと思い立ったきっかけ。UTX学院校舎の前でモニター越しに目撃したA-RISEを。

「偶然流れてきたわたし達の歌を聴いて何かを考えたり、ちょっぴり楽しくなったり、ちょっぴり元気になったり、ちょっぴり笑顔になってるかもしれない。素敵だね」

 「だからアイドルは最高なのよ」とにこが言う。

 先ほど雲間に隠れた月が、再び顔を出した。月光を浴びて、穂乃果は(はし)る衝動のまま街へと叫ぶ。

「わたし、スクールアイドルやって良かったー!」

 「どうしたの?」と真姫が驚愕に満ちた声をあげる。「だって」と穂乃果は振り返る。

「そんな気分なんだもん。皆に伝えたい気分。今のこの気持ちを」

 焦る必要はない、と分かっている。明日になれば、存分にこの気持ちを歌にして皆に届けることができる。でも、体の奥底からこみ上げる熱が、早く外へ出たいと騒いでいる。

 その熱が、ふっと冷めていくのを感じる。表情に出たのか、「どうしたんですか?」と海未が尋ねてくる。穂乃果は答える。

「たっくん、明日戦わなくちゃいけないんだって」

 巧が何故自分だけに告げたのか、その理由が皆の表情から分かる。不安にさせたくなかったのだ。そして穂乃果なら、信じて送り出してくれると思ってくれていた。

 「でもね」と穂乃果は続ける。

「絶対に観に来てくれるって約束したから大丈夫だよ。だから、精一杯歌おう!」

 オルフェノクという、怖ろしい存在と遭遇した。でも穂乃果は巧との出会いに後悔はない。守ってくれただけでなく、巧の背中を見ることで前に進むことの勇気を貰えた。どんなに辛い現実を突き付けられても彼は屈することなく戦い続け、そして明日もμ’sのために戦おうとしてくれる。何もできず、信じることしかできない自分がもどかしい。でもだからこそ、穂乃果は巧の守ってくれたものを「歌」という形で伝えようと思える。

 穂乃果は月を仰ぐ。オルフェノクだろうと人間だろうと関係ない。自分たちの歌を聴いて、笑顔になってほしい。その願いを皆で月に、夜空に、世界に向かって叫んだ。

「みんなー、聞いてねー!」

 

 ♦

 東から昇る太陽が大気を暖めるも、まだ冷たい風圧が体に押し寄せてくる。それに抗うよう、巧はオートバジンのハンドルを握る手に力を込める。吹き荒れる風が体温を下げ、それを感知した脳の視床下部から指令を受けた筋肉が震えて熱を生じさせる。この感覚こそが、巧に人間というものを実感させる。苦痛を受け取り、それに抗い環境に適応しようとする命の構造。サイドバッシャーで並走している海堂も、この人間としての証を実感しているのだろうか。

 寒さを感じると震え、暑さを感じると発汗する。これは人間という種が悠久の世代を経て獲得してきた進化の産物であり、これからも変化の余地を残した形質だ。全ての機能は、生存という原始的な生命の欲求から少しずつ、()()ぎにもたらされた。そうしなければ種が絶えるから、という必要性から。だとすれば意識と、心と呼ばれる脳の複雑に絡み合ったモジュールの集合体もまた、どこかの祖先で必要とされた機能なのだ。

 フェロモンを嗅ぎ取る嗅覚も、超音波を聞き取る聴覚も退化させた人間が、なぜ心なんてものを必要としたのか。喜び、怒り、悲しむ機能がどう生存へと機能するのかは分からない。この機能が人間のみが持つ特権などと、何故いえるのだろう。

 巧は考える。脳の神経細胞から生起した「心」という器官に神秘性を求める意義はあるのか。個体ごとに異なった構造を持つモジュールから発する「正義」という概念は、英雄性を見出すに値するのか。

 正義は脆い。

 かつて、神こそが正義であり絶対と謳う時代があった。現代でも国や民族によっては、そのような宗教観が色濃く残っている。だが今、その正義は瓦解し人類は神という見えざる君主からの独立へ向かい始めている。時代は精神から物質を重視する時代へと変わりつつある。

 神という実体のない存在が不要とされつつあるように、人間という種もまた不要となり衰退へと向かっているのか。進化はその場しのぎ、と琢磨は言っていた。人間は進化を、適応を重ねた結果として天敵を消失し、際限なく数を増やし続けて他種を家畜として飼い慣らし、途絶えつつある種を憐れみから保護している。だが結局は、人間もまた動物だ。死という遺伝子に規定されたプログラムからは逃げ出せず、子を産むことでゲノムを保存していくしかない。

 オルフェノクは、必要だった「その場」が過ぎて疲弊した人類に一石を投じる福音なのだろうか。永遠の生を獲得し、老いることも死ぬこともない生命体こそが、不変の正義を持つことができる絶対種なのか。

 旧世界の存在になりつつある人間を護るに値する根拠は、どこにあるのだろう。

 考えても仕方ない。今ここで答えが出せるものではない。確証はないが、「王」とロブスターオルフェノクを葬った先に、答えが提示されるのかもしれない。

 到着したプレハブ小屋は前に来たときと同じく、平原のなかでぽつんと佇んでいる。前と異なるのは、巧が壊したドアが修理されずに放置されている事くらいか。バイクから降りた巧と海堂は腰にベルトを巻き、阻むもののない小屋に足を踏み入れる。

 かつて訪れたときは地獄へ降りていくような恐怖を覚えていたというのに、今はない。光の射し込む階段はコンクリートの冷たさこそあるものの、ここは地獄などではなくただの廃屋だという現実が見える。

 階段が終わり、1本道の通路を進むにつれて外の光はうせていく。そうなると、暗闇は前と同じ空気を作り出す。やがて鋼鉄製の扉が現れ、前に立つとセンサーが反応して開き、2人を迎える。

「この扉はな、オルフェノクにだけ反応するように出来てんのよ。何ちゅーか、オルフェノクの体から出る赤外線は人間とは微妙に違うらしいぜ」

 扉を潜る際、海堂はそう言った。人間が拒絶される扉の先。そこは「王」の居城であり、オルフェノクの聖地だ。聖地で民は「王」のために自らの命を捧げる。その民はもういない。どのガラスケースも空っぽで、怪盗に展示品を全て持ち去られた博物館のようだ。もう彼等は死んでしまったのだろう。遅れた後悔を噛み、巧は何食わぬ顔で先へ進む海堂の後を追う。

 玉座の間に出ると、あの時と同じように空気が開ける。巧が視線の焦点を当てたのは棺に横たわる「王」ではなかった。そもそも、「王」がいるはずの棺は空っぽだ。棺の前には、ベルトを装着した琢磨がこちらを見据えてくる。

「おい、王様はどうした?」

 海堂が問う。「ここにはいませんよ」と答える琢磨の声は決して大きくはないものの、壁に反響しているせいかよく聞こえる。

「既に『王』は冴子さんと共に、ラブライブの会場へと向かっています」

 琢磨はフォンを開く。コード入力のプッシュ音と、『Standing by』という音声が鳴り響く。

「変身」

『Complete』

 琢磨の体に青のフォトンストリームが迸るとき、既に巧と海堂はそれぞれのフォンにコードを入力していた。何故、という疑問よりも、裏切られた、という悟りが先行した。

 5・5・5。

 9・1・3。

 ENTER。

『Standing by』

「変身!」

『Complete』

 変身時の光が収まった瞬間、サイガがフライングアタッカーのスラスターを吹かし、宙を滑るようにして接近してくる。ファイズとカイザの間をすり抜けて玉座の間の高い天井へと上昇し、バックパックの砲門が展開してフルオートで発射された光弾が雨のように降り注いでくる。外れた光弾は床を穿ち、命中した光弾は装甲に火花を散らして焦がす。

「お前……、どういうつもりだ」

 胸部装甲を抑えながらファイズが問う。雨を止ませたサイガは着地し、断言する。

「虚しくなったんですよ。抗うことが!」

 駆け出したサイガにカイザがブレイガンを発砲する。走りながらサイガは紙一重で避けた。これが天の名を冠するベルトの性能か。突き出した拳がカイザの頬を打ち、その体を突き飛ばす。続けざまに蹴りを見舞おうとしたファイズの脚を掴み、その紫色に光る目がファイズの黄色く光る目と交差する。

「研究課程でとっくに証明されているんですよ。オルフェノクになっても、脳の構造自体は人間の頃と全く変わっていない。私たちの思考は、心は人間のままなんです」

 ファイズの脚から手を放し、操縦桿を握りゼロ距離でフォトンブラッド弾を発砲する。胴に突き刺さったエネルギーが炸裂し、ファイズは床に投げられる。

 オルフェノクになっても心は人間のまま。それは木場が渇望していたものであり、同時に残酷な事実だ。人間として生きるオルフェノクは当然のこと、怪物であることを受け入れたオルフェノクの心もまた、人間だったということだ。結局、怪物を怪物たらしめていたのは力に溺れた人間の心だ。人間よりも強固な体。言うなれば、新しい玩具を与えられた幼い子供のような昂ぶり。

 「おかしいですよね」とサイガは笑う。仮面に隠された琢磨の顔が本当に笑みを浮かべているのかは分からない。

「新しい生命体として姿を変えたのに、未だ人間にしがみついているんです。そのせいでどっちつかずとなり、しまいには命までも削ってしまった。我々は生命として欠陥している。オルフェノクなんてものは間違った種なんですよ」

 サイガの叫びが玉座の間に反響する。とても悲痛だった。受け止めてくれる者はなく、虚無へと霧散していく。虚無に肩を震わせ、サイガは首を振る。

「もう何もかもがどうでもいい。この虚しさが人間という証ならば私は……、僕は……、人間の心なんて捨てます」

 ミッションメモリーを挿入された操縦桿が『Ready』という音声を鳴らし、フライングアタッカーから引き抜かれる。同時にバックパックがサイガの背中から落下する。ファイズはミッションメモリーを挿入したポインターを右脚に装着し、アクセルのメモリーをフォンに挿し込む。

『Complete』

 アクセルフォームへと形態変化したファイズの隣で、ブレイガンの光刃を光らせるカイザがフォンのENTERキーを押した。それと同時にサイガも同様の操作をする。

『Exceed Charge』

 フォトンストリームを伝ってエネルギーが充填された黄と青の剣が輝きを増す。ファイズはアクセルのスイッチを押し、露出したパーツ群の発する熱気に包まれながら身を屈める。

『Start Up』

 それが合図となり、3人は同時に動き出す。

 ブレイガンのコッキングを引いたカイザが光弾を発射する。真っ直ぐ目標へと向かった光弾はサイガがトンファーエッジを一振りすると薙ぎ払われる。2人は磁石のように引き合い、接触した瞬間に切り結んだ刃がスパークを散らして空間を照らしている。

 サイガが持て余したもう片方のトンファーを振りかざした瞬間、その青刃に赤の傘が飛んでくる。ファイズのポインターから放たれたフォトンブラッドのマーカーだ。サイガが気付いたとき、既にファイズのキックが音よりも早く突き刺さる。

 黄と青に、赤のスパークが加わった。焼け塵が撒き散らされて、周囲の床面を焦がしていく。衝突したエネルギーは拮抗していた。片手でカイザのブレイガンを、もう片方ではファイズのキックを相殺しようと堪えている。

 やがて、行き場を阻まれたエネルギーが暴発した。3人は交錯した場から吹き飛ばされて地面を転がる。

『Time Out』

 カウントが終わり、熱気が収まっていく。メモリーを抜いて『Reformation』という音声と共に通常形態に戻ったファイズは痛みに軋む体を立たせながらサイガを見やる。仰向けに倒れたサイガのフォトンストリームが眩い光を放って全身を飲み込み、収束すると琢磨の涙に濡れた顔を晒しだす。カイザも変身が解けていた。飛ばされた際にベルトが外れたらしく、海堂が近くに落ちたギアを拾い上げる。

「野郎……!」

 怒りに顔を歪めた海堂が、ベルトを腰に巻いた。ファイズは駆け出し、フォンを開く彼の手を阻む。自分に向けられた形相を前に、ファイズはフォンを抜いて変身を解除した。露になった巧の顔を見て、海堂の表情は戸惑いの色を浮かべる。何でそんな平常でいられるんだ、とでも言いたげに。

「行くぞ。ここであいつに構ってる暇はない」

 そう言って巧は入口へ向かって歩き出す。

「何故ですか……」

 後方から震える琢磨の声が聞こえ、巧は足を止める。振り返る気は起こらなかった。少女の涙を見るのも良い気分にならないのに、成人した男の涙なんて見るに堪えない。

「何故あなたは抗おうとするんです? 抗ったところで、虚しい現実を突きつけられるだけなのに」

 問いを投げかける琢磨は、つい先ほど言っていた。オルフェノクは間違った種だと。それに対して反論する気はさらさら無い。むしろ巧は同意できる。これまで怪物へと堕ちた同類は数えるのも億劫になるほど見てきたし、間違いと悟ったから、今こうして種を滅ぼす戦いへと臨んでいる。だが同時に、巧はオルフェノクを全否定できないという自己の抱える矛盾を自覚している。出会ってきた者達を間違いと断じ、世界に初めから無かったものとして抹消することができずにいる。

 木場勇治。長田結花。澤田亜希。森内彩子。霧江往人。彼等の名前を反芻する。

 それは呪いになりかねない名前の連なりだ。でも、彼等は確かにこの世界に存在していた。彼等は人間を愛し、怖れ、妬み、憎んだ。それらの苦悩に差し伸べようと手を伸ばしたが遅れてしまい、全ては死という結末へと収束した。過去が叫びとなり呪いに変わろうとも、罪として彼等の存在を自身に刻み付けることで巧は彼等の存在を保管し続ける。

 想い続けること。後悔し続けること。それは巧が自分を罰する事と同時に、彼らが存在したという証明になる。

 後悔を離さないように噛み、琢磨に背を向けたまま答える。迷いながらも自分自身を動かしてきた、その根拠を。

 

「俺は信じたいんだよ。俺達オルフェノクが間違った存在でも、俺達が生きたことは間違いじゃなかったってな」

 

 巧は再び歩き始める。

 後方からは海堂の足音と、琢磨のすすり泣く声が聞こえた。

 

 



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第13話 ラストライブ / ひとりひとりの胸の中

 まず更新が遅れたことと、とてつもなく長くなってしまったことを謝罪させてください。前編後編と分けましたが書くべきことが多すぎて全部ぶっこんだら大変な事になりました。

 お詫びとして挿絵を入れました。というより挿絵の作業で更新が遅くなりました。

【挿絵表示】



 会場である東京湾の埠頭に到着した9人は、その壮大さに息を呑んだ。

 フェリーの乗船手続きを行うためのターミナルビル前には無数のパステルカラーに彩られたアーチと塔が立ち並び、一際大きいアーチには大会のロゴがプリントされている。それを前にして記念撮影をしている面々は、順番の抽選会にいた出場グループのスクールアイドル達。即ちμ’sのライバルだ。

「これが会場………」

 真姫が声を絞り出す。「おっきいねー!」と穂乃果は目を輝かせて、大会に彩られたビルを見上げる。

 「さすが本戦はスケールが違うわね」と絵里が、「こんなところで歌えるなんて………」と凛が感慨深げに言う。

「トップアイドル並に注目を浴びているのよラブライブは」

 にこが高飛車に言うも、その言葉が興奮を隠すためのものだということは、この場にいる全員が知っていることだ。にこにとってこの会場とは聖地にも等しい。

 にこと同様、この場を聖地として待ちわびた花陽が「注目されてるんだ……、わたし達」と現実を確かめるように言う。

 埠頭に特設されたステージの照明が(またた)く。スタッフが点検しているのだろう。

「凄い照明ですね」

 点滅する発光ダイオードの光を眺めながら海未が言う。「眩しいくらいだね」とことりが返した。昼間でもこれだけの光を放つのだ。μ’sの順番は最後で、時刻は夜になる。この光は、きっと夜空に映えることだろう。

「たくさんのチームが出場するわけやから、設備も豪華やね」

 希が冷静に分析するも、声からは興奮の色が見え隠れしている。こんな設備のステージで歌うなんて現実味がない。でも、その時は必ず訪れる。あと数時間程度で。

「ここで歌える………」

 穂乃果は自分に言い聞かせる。次に同じ言葉を皆に伝える。

「ここで歌えるんだよ、わたし達!」

 「そうね」と絵里は笑みを返した。皆で夢見たステージが間近に迫っている。練習は重ねた。あとは出番を待つだけ。

「巧さん、来てくれるかな?」

 ふと、花陽が不安げに漏らした。皆の顔から笑みが消える。唯一、まだ笑顔を保っている穂乃果は「来てくれるよ!」と即答する。

「約束したもん」

 穂乃果は自分の小指を見つめる。巧と交わした小指の温もりは、ひと晩が明けても穂乃果の中で脈打っている。今この瞬間。巧は戦っているのかもしれないし、もう勝利を掴んだのかもしれない。

 穂乃果は信じる。夢が叶うと信じ続けたように、巧がμ’sの歌を聴いて、ダンスを観て、笑顔になってくれることを。

 ステージに設置された大型モニターが点灯する。雲の浮かぶ青空を背景にロゴが浮かび上がった。

 『Love Live!』と。

 

 ♦

 一般のマシンよりも遥かに高性能に設計されたバイクを操り、ファイズとカイザは道路を駆け抜ける。追い越す際にその異様な姿を目撃した運転手たちを驚かせてしまっただろうが、これから人類の存亡を懸けた戦いが始まるのだから大目に見て欲しい。

 ラブライブの会場を目指して走っているうちに日も傾き始めた。移動に時間を喰い過ぎたせいだ。運転の疲労を緩和させるために変身しスーツの補正で何とか体力を温存させている。それに、ファイズのスーツなら時速100キロを超えた速度で転倒しても平気だ。

 ローター音が聞こえてくる。空を見上げると、ヘリが形をはっきりと視認できるほど低空飛行していた。ボディにあるスマートブレインのロゴが、ヘリの所属を明確に主張している。

「あれだ!」

 ファイズが吼えるように言うと、カイザはベルトのフォンを抜いてコードを入力する。

『Jet Sliger Come closer』

 電子音を鳴らすフォンをベルトに戻すと、カイザはこちらを向いてくい、と人差し指を自分へ向ける。簡単なサインを咀嚼し、ファイズは頷く。

 程なくしてきーん、という高周波の唸りが聞こえてきた。咆哮をあげて後方から接近してきたのは、まるでハチの巣のようなスラスターからロケット並に液体水素燃料を燃やす2輪走行のビークルだった。

 SB-VXO ジェットスライガー。

 スマートブレインが走行性能を極限にまで追求し実現したマシン。その走行音を咆哮と形容するに相応しい、まさにモンスターマシンだ。かつてファイズが操縦したときは、その複雑な操作系をうまく扱えずスクラップにしてしまった。

 ジェットスライガーがサイドバッシャーに並ぶと、カイザは跳躍してそのシートに腰を落ち着かせる。同時にファイズもサイドバッシャーへと飛び移り、離れる瞬間にスイッチを押しておいたオートバジンがバトルモードに変形してホバリングする。カイザもジェットスライガーを上昇させた。各部のスラスターがガスを吹かし、オートバジンと共にヘリへ接近していく。

 オートバジンがバスターホイールを発砲するも、ヘリは微かに機体を傾けることで射線から逸れた。パイロットは見事な腕だ。ジェットスライガーのカウルが左右に開き、収納されたミサイルが飛び出して炸裂する。数十発の爆発に圧されながらもヘリは直撃を免れていたのだが、煙の中から出てきた機体はよろよろと不格好に飛んでいる。回転の速度が落ちたプロペラが折れているのが分かった。回転翼が回らなくなると今度は機体のほうが回転しはじめ、急降下して横ばいにアスファルトの地面に突っ込む。尾部が折れた機体は何度か転がった後に止まった。折れた部分が火を噴いているが、燃料への引火は免れたようで爆発はしていない。

 ファイズは墜落したヘリ目掛けてサイドバッシャーを走らせ、ある程度の距離をとって停車させる。両隣にオートバジンとジェットスライガーが降り立って、バイクから降りたファイズとカイザはひしゃげた機体を眺める。操縦席らしき窓から、ガラス片を零しながらヘルメットを被ったパイロットが出てきた。パイロットの顔に筋が浮かび、それを視認したファイズとカイザはフォンのミッションメモリーとツールに手をかける。

 瞬間、パイロットの体を背後から伸びた光線が貫く。体が青く炎上し、苦悶の表情を凝固させたまま倒れると、背後から立つその姿が現れる。

 それはゆっくりと足を踏み出した。これが王者の風格というように。足元に転がる骸を踏むと、骸は陶器のように砕けた。ファイズとカイザは息を呑み、灰色の「王」を凝視する。

 知恵の実を食べた人間に、オルフェノクという生命の実を与える者。オルフェノクを滅亡から救う存在。

 方舟の(アーク)オルフェノクは灰色の目を向けて歩き出す。

「野郎……、目え覚ましやがった」

 カイザは呟き、ブレイガンにミッションメモリーを挿入する。『Ready』という音声と共に刃を伸ばす武器を逆手に構えて駆け出す。

 ファイズも走り出そうとしたとき、ヘリの残骸の中から飛んできた光球が足元で炸裂した。

「どこまでも邪魔をして………」

 地面を転がるファイズに、ロブスターオルフェノクが接近してくる。2人の間を阻むようにオートバジンが飛んでくるが、ロブスターオルフェノクは邪魔といわんばかりに剣を一閃する。堅牢なボディは何とか持ち堪えたが、弾かれた機体は地面に叩きつけられ、そのゴーグルアイの光を点滅させて沈黙する。

 ロブスターオルフェノクの振り下ろされた剣を脚で払い、ファイズはその腹に拳を打ち付ける。渾身の力を込めたが、ロブスターオルフェノクは全く意に介さない様子で籠手に覆われた拳をファイズの顔面に見舞う。体の力に緩みが生じ、その隙を見逃さずロブスターオルフェノクは膝でファイズの腹を蹴り上げる。

 地面に投げ出されたファイズはごほっ、と咳き込んだ。肺に詰まった空気を一気に出して、荒い呼吸でどうにか酸素を取り入れる努力をする。ファイズは周囲へと視線を這わす。オートバジンのリアシートに積んでおいたブラスターを手にできれば、勝機があるかもしれない。

 その淡い期待が命取りだった。ロブスターオルフェノクが仰向けになったファイズの腹を踏みつける。腹部にかけられた圧力に悶えながら、手加減されていると分かった。そうでなければ、いくら強固なスーツでもデルタギアのように粉砕されるのは容易だ。ゆっくりとロブスターオルフェノクが足に体重をかけてくる。増していく苦痛に声にならない叫びをあげ、スーツが軋み始めていく。

 破裂音と共に、苦痛から解放される。ロブスターオルフェノクの体に空から光弾が打ち込まれ、足と地面の間から脱出したファイズはその腹を蹴飛ばす。上空を見やると、排気ガスの尾を引いたサイガがベルトに納まったフォンを開きENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

ベルトからエネルギーが両腕へ、両腕からフライングアタッカーへと充填される。ふたつの砲門が輝きを放ち、ファイズから離れたロブスターオルフェノクに向けてレーザー光を吐き出す。直撃したロブスターオルフェノクの体が後ろへと押しやられ、微かに逸れたレーザーが地面に触れるとアスファルトを剥がし瓦礫へと変えていく。砂埃がロブスターオルフェノクの体を隠すなか、サイガはファイズの隣に降り立つ。

「お前………」

 まだ整っていない呼吸に驚愕が上乗せされて、ファイズは声を詰まらせる。

「別にあなた方を助けるつもりはありません。僕はただ、自分の弱さと決着をつけにきただけです」

 そう言うと、サイガはカイザと戦っている「王」へ砲門を向ける。発射された光弾が「王」の体を貫くも、その傷が灰色の肉に埋まっていく。「琢磨!?」とカイザが上ずった声をあげた。だが話している時間などなく、すぐに戦闘へと意識を戻しブレイガンを振るう。

「まだ『王』は完全に力を取り戻したわけではありません。あちらは海堂さんに任せ、我々は冴子さんを」

 砂埃が風に流されていく。高出力のレーザーを食らったロブスターオルフェノクは下半身を失っていた。まるでてけてけのように這う腹の下から大量の細い触手が生えて、それが束となり籠のようなものを形成する。籠を成す繊維の密度は増していき、それが骨盤を作っていると理解できた。骨盤から大腿骨が伸び、大腿骨からは膝蓋骨、次に脛骨と脚を形作っていく。骨が出来上がると、そこに再び触手が纏わりついて繊維となり筋肉として膨れ上がった。

 あまりのグロテスクさにファイズは立ちすくんでしまう。これが完全なオルフェノクの肉体。細胞分裂の制限が取り払われ、生命の宿敵である老死を超越した力の一端。サイガが上昇し、再び上空からの砲撃を仕掛ける。下半身の再生を終えて立ち上がったロブスターオルフェノクは逃げも隠れもしない。容赦なく体を穿つ光弾など雨よりもぬるいと言わんばかりに。

 砲撃が止むとファイズは一気に距離を詰め、ロブスターオルフェノクの胸を殴る。この皮膚の、筋肉の奥に納まっている心臓を破壊さえすれば、この怪物は死ぬ。固い皮膚が抉れるほどの力を込めて何度も殴り続けるが、その度にロブスターオルフェノクの組織は再生を繰り返している。「はあああっ」と咆哮しながら渾身の拳を打とうとしたよりも速く、ロブスターオルフェノクの手がファイズの首を掴んだ。

「乾さん!」

 サイガの砲撃を背中に受けても、ロブスターオルフェノクは平然とファイズを持ち上げ、その頭を一気に地面へと叩き込む。脳が頭蓋骨のなかで揺さぶられたのか、意識があやうく遠のくところだった。力の抜けたファイズの体をロブスターオルフェノクは再び持ち上げて、今度は無造作に投げ捨てる。地面に四肢を投げ出し、立ち上がろうにも朦朧とした意識が神経系の不調を訴えている。

 ぼやける視界のなかで、ロブスターオルフェノクの手が青く光っている。光は手から離れ、真っ直ぐこちらへと向かってくる。咄嗟に背を向けて、体を丸めると同時に爆圧がファイズの体を持ち上げた。数瞬の浮遊感の後に衝撃が体の節々を打ち付け、ボールのようにバウンドする。

 がちゃり、とベルトからフォンが落ちた。スーツが分解され、残った軸であるフォトンストリームもベルトへ収まっていく。見やると、ロブスターオルフェノクは2射目を放とうとしていた。それが手から離れた瞬間、巧は目を閉じた。

 巧は受け入れる。世の中にはどうしようもない理不尽が充満していて、それに抗うも屈した。俺は逃げた、と巧は自嘲する。守るべき者達からも、託された想いからも、そして死の瞬間の恐怖からも。

 爆音が耳をつく。そのことに疑問を抱いた。直撃したのなら、爆音を聞く間もなく体は木端微塵になっているはずなのに。目を開くと、目の前にサイガのフライングアタッカーが見えた。両腕を広げたサイガの腰からひび割れたベルトが落ちて、スーツが光と共に消滅する。

「うおおおおああああああっ‼」

 雄叫びと共に、琢磨はムカデのように分節した体をしならせるセンチピードオルフェノクに変身した。その手から伸びた鞭の先端がロブスターオルフェノクに絡みつき、引くと体が宙を放射線状に飛んで破壊されたヘリに投げられる。今度は燃料に引火したらしく、ヘリは爆炎をあげて抱えていたパーツを吐き出した。

「琢磨!」

 人間の姿に戻った琢磨の膝が折れ、倒れる体を巧は抱き留める。巧の腕のなかで、琢磨の頬から青い炎が燃え始める。巧はそれを手で抑え、燃焼をせき止めようとした。だが琢磨は死の恐怖に怯える様子はなく、「良いんですよ」と穏やかに言う。

「これが、僕の夢だったんです。残された日々を人間として生き、最期は人間として死ぬ。ちっぽけですが、あの時に抱いた夢がやっと叶うんです」

 巧は驚愕した。これが死を目前とした者の言葉なのだろうか。これから死のうとする者が、笑っていられるのだろうか。往人のときと同じだ。本人が自分の最期を受け入れながら、それを看取る巧自身は受け入れられない。

 琢磨の体を燃やす炎は勢いを増してきている。それでも琢磨は苦しむことなく、巧をしっかりと見据える。

「乾さん、あなたは生きて下さい。生きて……、僕達オルフェノクが生きた意味を、見つけてください………」

 琢磨の顔が灰になって巧の手から滑り落ちた。灰は地面に積もり、吹いてくる風に乗って空へと舞っていく。

「馬鹿な子………」

 炎上するヘリの残骸からローズオルフェノクが出てくる。全身が焼け焦げているが、まるで脱皮するように表皮がぽろぽろと剥げていく。

「ただもがいて、無意味に死んでいくなんて。所詮、あなたも馬鹿な人間だったということね」

 巧は琢磨の灰を握り締める。無意味なことに耐えられない、という往人の言葉が蘇ってくる。海堂も言っていたように、それは事実なのかもしれない。ふざけるな、という憤怒で脚に力を込めて、巧はゆっくりと立ち上がる。

 呼応するように、沈黙していたオートバジンが拙い動作で立ち上がった。のっそのっそ、と亀のような緩慢さで歩き、近くに落ちていたブラスターを拾うと巧に投げてくる。それを受け止め、巧はロブスターオルフェノクを睨む。

「ああ、見つけてやるよ琢磨。そんで証明してやるさ」

 何もかもが無意味と立ち止まってしまえば、それこそ本当の無意味にしてしまう。喪った中には、巧に自身の想いを託した者達もいる。

 理想を。

 夢を。

 愛する者の笑顔を。

 生きた意味を。

 立ち止まってたまるか。迷ってたまるか。喪った者達の骸を通り過ぎるのではなく、想いを汲み取り、自身の力として受け継ぎ進み続ける。彼等の生命に意味を与え続けるために。

 巧は吼える。琢磨へ、散っていった者達へ。

「意味なく死んでった奴は、ひとりもいないってなあっ‼」

 巧はブラスターにコードを入力した。

 5・5・5。ENTER。

『Standing by』

「変身‼」

 握り締めたフォンをツールのスロットに叩き込むように挿す。

『Awakening』

 フォンのないバックルから、フォトンストリームがいつもとは異なった流動路を形成し巧の体を覆っていく。軌道上にあるスマートブレインの人工衛星から電送されたスーツにフォトンブラッドが駆け巡り、通常の変身時よりも眩い光で周囲を照らしていく。

 変身時の高出力エネルギーが収束し、供給の途絶えたフォトンストリームがブラックアウトする。逆に、ファイズの体は紅蓮の輝きを帯びていた。全身を包み込むフォトンブラッドが発光し、放出された熱で周囲の空気が揺らめいている。

 黄色の目がロブスターオルフェノクを捉え、ファイズ・ブラスターフォームはゆっくりと、力強く足を踏み出す。

 

 ♦

 黄色く光る剣尖が掠め、「王」の首から垂れるマフラーを切断する。すかさず「王」の手から触手が伸び、顔面に触れる直前にカイザは両断してバックステップを踏む。

 琢磨が死んだこと。それに対して感傷に浸っている暇はない。ファイズがロブスターオルフェノクを相手取っているなら、自分の役目は「王」を倒すことだ。

 カイザはブレイガンを一閃する。「王」は身を屈めて光刃を避け、目線の下がったその顔面にカイザは拳を打ち付ける。よろめく「王」に追撃として肘打ちを見舞い、更にゼロ距離でブレイガンの光弾を連射する。

 銃創を刻まれても、「王」は退く気配がない。それでもカイザは、海堂直也は怒りのままに剣を振り、拳を振るう。

 オルフェノクは間違った種。琢磨の言う通りだ。オルフェノクなんて種は滅びてしまえばいい。そう思う理由として、人類のためだなんて英雄じみた根拠はない。直也はただ、復讐という汚れた理由のために「王」と戦っている。

 カイザMark2は1号機よりもフォトンブラッドの出力を高めているが、それでもデルタにすら及ばない。いくら猛攻を仕掛けようが、ファイズのブラスターフォームでも完全に葬ることのできなかった「王」にダメージを与えることなど困難を極める。こうしてまともに戦えるのは、「王」が完全な復活を果たしていないからだろう。

 カイザは後方に佇むサイドバッシャーに飛び乗り、操作パネルにコードを入力する。

『Battle Mode』

 サイドバッシャーが戦闘形態に変形した。左腕から発射したミサイルを雨のように降らし、炸裂すると地面を穿つ。カイザはアクセルを捻りマシンを前進させた。巨大な脚で「王」を踏みつけ、重圧をかけて潰そうと試みる。頭以外を下敷きにされた「王」はまさに手も足も出せない状態だが、その首にかかったマフラーがうねり、弧を描く。ずるり、とサイドバッシャーがバランスを崩した。「王」のマフラーが鋭い刃となってマシンの脚を切断していた。足元で爆発が起こり、煙の中から飛び出してきた「王」にカイザはブレイガンを連射し牽制する。

 「王」の手から光弾が飛んできた。命中寸前でカイザはシートから飛び降り、光弾を受けたカウルが炎上する。サイドバッシャーはがくりと頭を垂れて沈黙した。操作系をやられてしまっては、残った武装も使えない。

 3・8・2・1。ENTER。

 フォンにコードを入力すると、『Jet Sliger Come closer』という指令を受信したジェットスライガーが滑走してくる。カイザは搭乗せず、乗り手のいないマシンは傍を素通りして速度を落としながら、それでも急停止できないまま「王」へと真っ直ぐ向かっていく。

 機体が「王」にカウルをぶつけ、更に前進してサイドバッシャーと挟んだところでようやく停止する。「王」をサンドイッチ状態にしたふたつの機体にカイザは発砲する。フォトンブラッドの弾丸がボディを貫き、銃創からスパークを散らした後に機体を吹き飛ばす。貴重なマシンを一度に2機も失ったことに感傷など覚えない。「王」を呑み込む爆炎を前に、カイザはミッションメモリーをブレイガンからポインターへと移す。『Ready』と音声を鳴らして変形するツールを右脚のホルスターに装着し、フォンのENTERキーを押す。

『Exceed Charge』

 カイザは跳躍した。燃え盛る炎のなかでこちらを見上げる「王」に右脚を向け、ポインターから発射された光の槍が寸前で円錐状に展開して目標を補足する。

「でえええやあああああああっ‼」

 キックの体勢を取ったカイザの体が光へと吸い込まれる。高出力のエネルギーが侵食してくるのを抑えようと、「王」は抗う。衝撃で削られる体は瞬く間に再生し、再び削られ、また再生を繰り返す。カイザはフォンのENTERキーをもう一度押した。

『Exceed Charge』

 ベルトから放射されるエネルギーがフォトンストリーム全体へと行き渡る。黄色く輝くカイザの流動路が銀色へと変わり、紫色の目もオレンジへと変色する。フォトンブラッドの出力が臨界へと達した。内部機構の温度が上がり、放熱のために胸部装甲がパージされる。

 この1号機にない仕様は、Mark2の開発時に直也がエンジニアに提案したものだ。出力を上げてほしいという要求に、今はもう「王」への生贄にされたエンジニアは頭を抱えていた。ファイズほどエネルギー供給が安定しないカイザに、アクセルフォームのようなリミッター解除はギアと装着者に大きな負担をかける。途方もない計算とシミュレーションの末に、アクセルフォームのような加速はなく、1度きりの出力増強という形で搭載された。

 輝きを増したエネルギーが「王」の体を圧していく。光のなかでもがく「王」を見て、脳裏に喪った仲間と少年の顔がよぎる。

 オルフェノクになった直也を迎えてくれた勇治と結花。直也の息子になってくれるかもしれなかった照夫。

 直也が好き勝手に振る舞い、怪物であることを受け入れようとしても、勇治は見捨てないでいてくれた。どこまでも純粋で騙されやすい彼に、人の醜さを知る直也は危うさを感じていた。同時に、その少年のような純粋さは捨てないでほしかった。

 直也が想いに応えないと態度で示しても、結花は直也を好きと言ってくれた。彼女の好意への戸惑いを隠すのに直也は苦労を要した。幼い頃から変わり者と周囲から疎まれ、誰も理解しようと歩み寄ってくれなかった。結花は直也に歩み寄ってくれた初めての女性だった。

 子供の扱い方など分からない直也の不器用な愛情を、照夫は受け取ってくれた。心を閉ざした少年は直也にだけは無垢な笑顔を見せてくれて、それが直也に人間を守ることの意義を見出させてくれた。照夫が直也を頼っていたように、直也も照夫を心の拠り所とした。もっと照夫に色々なことを教えてやりたかった。

 勇治を見捨てなければ、彼は人間に戻れたのだろうか。

 結花の気持ちに応えていれば、彼女はありふれた幸福を享受できたのだろうか。

 照夫を「王」から助け出せれば、いつか親子になれただろうか。

 後悔ばかりだ。大切な者達を喪い、過去に呪われ、「王」の生存を知った直也が復讐という選択にすがりつくのにそう時間はかからなかった。怪物どもの王者によって勇治と照夫は殺された。こんなものを目覚めさせる戦いの中で結花は死んだ。直也に人類の未来なんてどうでもいい。ただ、自分から全てを奪った「王」をこの手で葬るだけだ。

 直也は、カイザは大切な名を叫ぶ。愛しかった思い出の数々。自分の裡に在り続ける彼等に、力を貸してくれ、と。

「木場ああああああ‼

 結花ああああああ‼

 照夫おおおおおお‼」

 全身を巡るエネルギーが右足の一点へ集束していく。右足はフォトンブラッドの発光に呑まれ、熱量がスーツの許容量を越えそうだ。熱で溶けるのは自分の足か、それとも「王」か。

 焦燥も憎悪もない、無我に身を委ねたとき、勝負は決した。

 せめぎ合っていたエネルギーが一気に標的へと流れ込み、カイザを呑み込む光が槍となって「王」の体を貫いた。

 着地したカイザの右足から蒸気が昇っている。ふー、とため息をつくと、回路が焼き切れたベルトが火花を散らして腰から弾かれる。「うおっ」と上ずった声をあげて尻もちをついたカイザの目の前で、ベルトに納まったフォンが小さく爆発して黒煙をあげた。

 スーツが分解されていく。一時とはいえ自分の力となってくれたベルトの残骸を直也はぼんやりと眺めた。ただの戦力という認識で愛着など湧いていなかったはずだが、喪うと寂しさを感じる。機械にすら感傷を覚えるなんて、寂しがり屋も度が過ぎるな、と直也は自身への嘲笑を漏らした。

 不意に、背後から呻き声が聞こえる。咄嗟に立ち上がって振り向くと、そこにはまだ生きている「王」がいる。

 その姿を視界に収めた瞬間、直也は逡巡する。「王」は右腕と胸から下を失っていた。残った左腕だけで地面を這って、赤い血を地面に塗りたくりながら直也へと近付いてくる。近くで青く燃えているのは、吹き飛ばされた半身だろうか。

 直也は困惑した。この怪物を倒せば、自分は憎しみから解放され、晴れて残された時間を自分のために生きていける。復讐の相手である「王」はまだ辛うじてだが生きていて、丸腰の状態で屈辱的な死を与える絶好の機会が巡ってきた。

 でも目の前で血を流し、直也に左手をすがるように伸ばしてきたそれは怪物じみた怖ろしさも、王者としての威厳を喪失している。それは脆い生命体だった。怯え、悶え、苦しみ、半身を失っても生きようとする憐れな死にゆく生命の弱い脈動でしかない。

 直也は呆然と、灰が零れる「王」の顔を見つめた。こいつは仲間の仇だ。俺が葬らなければならない敵だ。そう思ってみるも、怒りが付随してこない。これまでの憎悪は消えてしまった。

「もう、いいだろ………」

 穏やかな直也の声と共に、「王」の頭頂部に刃が突き立てられる。スネークオルフェノクの、蛇の牙を模した短剣だ。剣先が顎下から突き出て、「王」はかっ、と口を開ける。口から吐き出されたのは泡でも血でもなく灰だ。体を構成していた組織の燃えかすを嘔吐し続け、「王」の顔が崩れて骨が露出していく。人間よりも眼窩の大きい頭蓋骨も灰となり、「王」は消滅した。

 スネークオルフェノクは直也の姿へ戻った。直也はその場で大の字に寝て、日が傾き茜色を映し出す空を眺める。「終わった……」と確かめるように呟くが、何も湧いてくるものがなかった。あるものと言えば、3年前から抜けない悲哀だけ。

 「王」が死んでも、直也の想いは変化しなかった。いや、とっくに分かり切っていたことだ。「王」の死はそれを明確にしただけに過ぎない。勇治も、結花も、照夫も生き返らない。死者である彼等から赦しの言葉を受け取ることもできない。結局、直也は彼等のために何ひとつ成し遂げることができなかったということだ。これまで抗ってきたものを、復讐を果たした今は受け入れなければならない。

 直也はポケットから出した煙草を咥えて、ライターで火を点ける。フィルターから煙を吸い込んで、煙草を口から離すと肺に溜まった紫煙を深く吐き出す。

「………ちゅーか、まっじいな」

 ふわりと浮いた言葉が、煙と共に空へ昇って消えていく。そう遠くない場所でファイズが戦っているだろうが、直也にはもう関われるものではなかった。

 

 ♦

 紅に輝く軌跡を描き、ファイズの拳がロブスターオルフェノクの腹へ打ち込まれる。高出力エネルギーの塊と言ってもいい拳が腹の組織を焼き、灰色の皮膚に隠された赤い筋線維を露出させる。だがそれはすぐに灰色の皮膚に覆われていく。

 ファイズは続けざまに拳を打ち続ける。再生のスピードよりも速くダメージを与え、このオルフェノクの「女王」をなぶる。反撃にロブスターオルフェノクの細剣が腕を掠め、傷口から発光する流体エネルギーが血のように飛沫をあげる。地面に落ちるとフォトンブラッドはじゅ、と音を立ててアスファルトを溶かした。

 追撃に振り下ろされた細剣を掴み、ファイズはロブスターオルフェノクの顔面を殴り飛ばす。顔を覆うマスクが割れて、灰色に濁った眼球がファイズを睨んでいるのが分かる。

 胸に拳を突き刺すと、ロブスターオルフェノクの体が後方へ吹き飛ぶ。表面を焼かれた胸は再生しかけているが、ロブスターオルフェノクは傷口を抑えて荒い呼気を吐き出す。奇妙なものだ。死ぬ怖れはないのに、死への危険信号である痛みはまだ残されているというのか。いや、「王」から命を授かってもオルフェノクは完全に死を克服していない。だから痛みという感覚を排除していないのは理に叶っている。

 完全なオルフェノクにとって、痛みとは滅多に実感できないもののはずだ。いざ感じたとなれば馴染みのないものに困惑するに違いない。ロブスターオルフェノクが痛みを理解しているのは、まだ痛みが身近にあった人間だった頃の感覚として覚えているからだ。

 敵の細剣を投げ捨て、ファイズは地面に放置されたブラスターを手に取る。

 1・4・3。ENTER。

『Blade Mode』

 折りたたまれていたツールが展開し、大口径のライフルを形作る。銃身の筒内で蓄蔵されていたフォトンブラッドが出力を上げ、外装を溶かし光の剣となる。

 ロブスターオルフェノクがこちらへ接近してくる。真っ直ぐに向かってくるその胸に、ファイズはブラスターの刀身を突き立てる。刀身は表皮に浅く潜り込んだだけで、どれだけ力を込めてもそれ以上は沈んでいかない。ぼこぼことロブスターオルフェノクの胸が泡立っている。傷を負っているのは確かで、同時に不死の器官である心臓を守ろうと細胞が分裂し続けている。

 ファイズは旗を掲げるように、ロブスターオルフェノクを刺したままブラスターの切っ先を垂直に持ち上げた。腕と肩の関節に痺れが生じる。負荷によるものではなく、フォトンブラッドという異物に体が拒絶反応を示し始めている。

 フォトンブラッドは人体には有害だ。丈夫になったとはいえ、オルフェノクであっても変わりはない。通常形態ならフォトンブラッドは流動経路に集中しているが、このブラスターフォームはフォトンブラッド自体が鎧であり、全身が有毒物質の膜に覆われているに等しい。

 痺れが痛みへと変わってくる。それを堪え、ファイズはブラスターにコードを入力する。

 1・0・3。ENTER。

『Blaster Mode』

 空から赤い閃光が、ロブスターオルフェノクを串刺しにしたブラスターへと降りてくる。信号を受けた人工衛星から送られてきた粒子が刀身に纏わりつき、銃の外装を構成していく。ENTERキーを押し、『Exceed Charge』という音声が響くと同時にファイズは銃身の下部にあるコッキングを引く。銃身の奥から光が漏れて、エネルギーを溜め込むにつれて銃口が光輪を纏う。

 トリガーを引くと、銃口から巨大な光弾が風船のように膨れあがり発射される。ゼロ距離で命中した最大出力のフォトンブラッド弾が炸裂し、凄まじい爆発がロブスターオルフェノクの体を上空へ高く突き上げていく。灰色のロブスターオルフェノクの胸に、赤くてらつく肉の塊が見えた。

 5・5・3・2。ENTER。

『Faiz Pointer Exceed Charge』

 コードを入力すると、背中の飛行・射撃マルチユニットがスラスターを吹かしファイズを上昇させる。ブラスターを無造作に放り捨てたファイズが上空に向けてキック体勢を取り、それに合わせてユニットが噴射の向きを調整し、更に上へと浮かせ成層圏にまで達する。右足が紅い輝きを帯び始めた。既にフォトンブラッドが全身を覆うブラスターフォームに、威力を上げるための補助ツールは必要ない。

「はあああああああああああああああっ‼」

 咆哮と共に、ファイズは右足をロブスターオルフェノクの胸、そこにある心臓へ叩き込んだ。命中する寸前でロブスターオルフェノクの体から幾重もの繊維が壁を作り、触れさせまいと阻む。流れをせき止められたエネルギーは右足を中心に渦を巻き、周囲の雲を払って円形に広がっていく。

 がりがり、とドリルのように繊維の壁を削っていくにつれて、ロブスターオルフェノクの心臓が赤く輝いているのが見えた。ファイズのフォトンブラッドの光を表面の粘液が反射しているためと思ったが、その心臓もまた光を放っていることに気付く。光は眩さを増していき、フォトンブラッドの輝きと相まって視界を白く塗り潰していく。生命体の神秘だとでもいうのか、何も見えないなかで圧されている、という恐怖が立ち上る。

 だが、それは一瞬のことだった。光が視界を覆うなかで、戦っているという現実味が薄れていき、自分が発しているはずの咆哮と、右足に感じるはずの衝撃が遠のいていく。まるで肉体と精神の接続が断線したかのような浮遊感のなか、プリズムに分けられたように光が七色に転じていく。

 虹だった。円弧を描かず波のようなうねりをあげる虹が幾重も迫ってきて、ファイズのスーツを透過し、巧の中へと入り込んでくる。

 何だこれは、と思った瞬間、暴風とも激流とも取れる奔流がなぶってきた。まるで嵐の海に放り込まれたような、いや、それよりも激しい。咄嗟に目を閉じ、腕を伸ばして奔流をかき分けていく。手は空虚を掴み、脚をばたつかせ、荒波に揉まれているという感覚すら朧になっていくなかで、その奔流が叫びであることに気付く。

 獣の咆哮のような激しさ。鳥のさえずりのような穏やかさ。あるいはクジラの奏でる歌のような不可思議。まるで地球上の生命全ての声が集結し、その全体のひとつである巧もまた腹の底から叫びをあげる。この世界で自己という存在を周囲に示し、また自身が世界を認識するための、赤子の産声のように。

 巧の叫びが全体の声と共鳴するように重なり合い、全が巧のなかへと入り込み、巧もまた全のなかへと飛び込んでいく。ここにいる、というクオリアが遠のき、精神という自己認識すら曖昧となっていく。生まれて初めて世界を視る赤子のように怯えながら、同時に希望を持ちながら、どくん、という確かな鼓動のみを携えて――

 

 乾巧は目を開く。

 

 

 ♦

 控え室の更衣スペースのカーテンを開き、そこに広がる花々のようなメンバー達を見た穂乃果は「おお!」と感嘆の声をあげる。

「みんな可愛いねー!」

 ひらり、とスカートを翻し、着心地を確かめた絵里が「流石ことりね」と。

「今までで1番可愛くしようって頑張ったんだ」

 そう言うことりは満足そうに笑みを零す。メンバーひとりひとりに似合うよう、他の人が着ては決してその魅力を引き出せないような衣装に仕上がっている、と穂乃果も思う。

「さ、準備はいい?」

 絵里が力強く呼びかけ、皆で「はい!」と力強く返した。

 控え室の扉は閉じられているにも関わらず、ステージからの歓声がけたたましく聞こえてくる。μ’sの出番まであとグループは5組ほど残っている。まだまだ先。そう自分に言い聞かせながらも、穂乃果の心臓は強く脈打ち、さらに激しくなっていく。

 扉を出て通路の先にある長方形に切り取られた光のなかに、夢見た舞台が広がっている。

「お客さん、凄い数なんだろうな………」

 怖気づいてしまったのか、ことりが弱く呟く。雰囲気に呑まれてしまいそうだ、という不安が穂乃果にも伝播してくる。大勢いるであろう観客を前にして、自分は果たして悔いのないパフォーマンスを見せることができるだろうか。

「楽しみですよね」

 歓声の隙間から吹き抜けるような、海未の声が耳孔に入る。「え?」と穂乃果はことりと共に海未の顔を見る。

「もうすっかり癖になりました。たくさんの人の前で歌う楽しさが」

 虚勢なんて感じなかった。海未はとても楽しそうに、待ちきれないというように笑みを浮かべている。あの恥ずかしがり屋だった海未が。海未の笑顔が、ことりと穂乃果の不安を取り払ってくれる。

「大丈夫かな、可愛いかな………」

 後ろで花陽が衣装を確認しながら言う。自分が衣装に見合っているか。「大丈夫にゃ」とすかさず凛が。

「凄く可愛いよ!」

 凛はその場でターンして「凛はどう?」と尋ねる。同じステージで歌う親友の姿を見て、花陽は笑みを零す。

「凛ちゃんも可愛いよ」

 そう、不安がることなんてない。この9人が唯一無二のμ’s。メンバーを変えることなく、共に走り抜けると共に決めた仲間たちが一緒にいる。こんなに嬉しいことが他にあるだろうか。

「今日のうちは、遠慮しないで前に出るから、覚悟しといてね」

 意気揚々とする希に、「希ちゃんが?」と穂乃果が尋ねる。普段から消極的ではないが、積極的でもなく割り振られたパートをこなしてきた希にしては、珍しい言葉だ。

 「なら」と絵里が。

「わたしもセンターのつもりで目立ちまくるわよ。最後のステージなんだから」

 「面白いやん」と応じる希が不敵な笑みを見せる。鼓舞されたのか、「おお、やる気にゃ」と言って真姫へ顔を向ける。

「真姫ちゃん、負けないようにしないと」

 「分かってるわよ」と真姫は答える。

「3年生だからって、ぼやぼやしていると置いていくわよ」

 「宇宙ナンバーワンアイドルさん」と付け加え、真姫は挑発的な視線を向ける。その視線の先にいるにこはふふん、と泰然と構えている。

「面白いこと言ってくれるじゃない。わたしを本気にさせたらどうなるか、覚悟しなさいよ」

 そこへ、ドアが外からノックされる。「はい」と絵里が返すと、「失礼します」と女性スタッフが入ってくる。出番だろうか。穂乃果がそう思っていると、スタッフはおそるおそる、といった声色で言う。

「浦安方面で爆発事故があったみたいで。今も空が赤く光っているとか」

 告げられた事実に、皆が目を見張った。だがうろたえることなく、絵里が「大会に影響はあるんですか?」と尋ねる。

「まだ被害は確認されていないですし、混乱も起こっていないので大会は継続します。すみません、もうすぐ出番なのに」

 「いえ」と絵里はかぶりを振った。スタッフはまだ仕事があるのか、「失礼しました」と足早に控え室から出ていく。彼女が出ていったドアを見つめる穂乃果の耳に「まさか……」という海未の声が届く。穂乃果は続きを引き継いだ。

「たっくんが戦ってるんだ………」

 右手の小指へと視線を下ろし、それを左手でそっと包み込む。昨晩、巧と交わした約束。脅かさせる不安を抑えつけ、胸の前で祈るように両手を組む。戦いに勝てば、自分達の夢を守り切れるかもしれない、と巧は言っていた。あの時、巧は不安だったのだろうか。必ず勝つ、という決意を確固なものにするために、会いに来てくれたのだろうか。ならば、自分はそんな彼に何をしてあげられたのだろう。この指を触れさせ合ったとき、巧に力を与えることができたのだろうか。

 そっと、肩に手が添えられる。振り返ると笑みを向けてくることりが「大丈夫だよ」と優しく告げる。「そうですよ」と海未が続いた。

「約束したんでしょう? 巧さんと」

 穂乃果は皆を見渡す。誰も表情に影を帯びていなかった。

 「絶対に来るにゃ!」と凛が。

 「わたし、巧さんに観てほしいもん」と花陽が。

 「ここまで付き合って、来ないなんて無いわよ」と真姫が。

 「巧さんなら、運命を越えられるよ」と希が。

 「あの猫舌男を驚かせるくらいのライブにするわよ」とにこが。

 「みんな……」と呟く穂乃果を真っ直ぐ見据え、絵里が告げる。

「巧さんを1番信じられるのは、穂乃果でしょ?」

 無意識に、穂乃果はきつく組んでいた両手を解いた。皆は巧を信じている。なのに、彼の優しさと強さをずっと傍で見ていた自分が信じなくてどうするというのか。

 「うん」と穂乃果は穏やかにうなずく。ゆっくりと目蓋を閉じ、再び開く。

「みんな、全部ぶつけよう。今までの気持ちと、想いと、ありがとうを。全部乗せて歌おう」

 祈るなんてことはしない。祈るとは、巧の勝利を疑うということだ。穂乃果は信じている。巧がこの会場に来てくれることを。自分達の晴れ舞台を見てもらい、彼にも楽しい気分を噛みしめてもらう。それが果たされたとき、今まで守ってくれた巧への「ありがとう」を伝えることになるだろう。だから、自分のすべきことはステージに立つ事と、穂乃果は夢見た舞台への方向を見据える。

 巧は穂乃果を、μ’sを信じて戦っているのだから。

 

 ♦

 目を開いた瞬間、それまでの叫びが一瞬にして消え去った静寂に戸惑った。

 陽光の射し込まない海の底で、俺はたゆたっている。温かい海水のなかで時折気泡が昇り、上へ上へと消えていく。ぼごん、と気泡が出る音は、まるで地の底から響く胎動のようにも聞こえてくる。

 そう、この暗闇から全ての生命は始まった。母の胎内で羊水に包まれているかのような温かさ。母である地球はその胎で、海という羊水のなかで自分の子を育んできた。宇宙へ産み落とすことなく。

 地球の胎のなかで子は増え続け、最初は同じ姿をしていたそれらは様々な姿をとり、捕食するものとされるものへと分けられる。やがて子は海から地上へと登る。海では必要だったひれを捨て、代わりとして歩くための足を持って。ある子は足で歩き、ある子は長い体をくねらせて陸を移動する。

 でも、地球にとってはほんの小さな変化によって多くの子が死んでいく。大地が割れ、山が火を噴き、身を取り巻く変化に追いつくことができない子らは自分たちも変わろうとするも、それでも適応しきれずに遺伝子を途絶えさせていく。

 辛うじて生き残った子らは滅ぶまいと大きく成長していく。最も大きくなった種は他種を蹂躙し、地上を我が物顔で歩いている。強靭な肉体を持っても儚く、ほんの一撃と生じる変化によって滅び去る。長く冷たかった日々を生き残った別の子らが地上を埋め尽くし、そこで雌雄の営みによって未来へ遺伝子を残していく。

 始まりから定期的に破壊と再生が繰り返され、繁栄する生命の世代交代が成されていく。それはとても、とても長い時間をかける。でも地球にとって、それはほんの僅かな時間に過ぎないだろう。人間という種に絞れば、彼らが自分の胎にいた期間など愛しいと感じる間もなく、その中のひとりが生きる数十年なんて刹那よりも短い。瞬きをすれば裸だった男女は布を身に纏う。それが体毛の薄い種が寒さをしのぐための知恵と気付く頃には捕食目的でないにも関わらず互いに殺し合っている。

 永遠という言葉よりも永く過ぎていく時間のなかで、ひとりの青年が広い平原のなかで自分の血に溺れて死んでいた。動物を狩ろうとして返り討ちにあったのか、それとも同じ人間に殺されたのかは分からない。死んだ青年は新しい命を授かり第二の誕生を果たし、ゆっくりと立ち上がる。自分が全く新しい存在になったことに気付いた青年は、遺伝子を残そうと人間とは異なる形の営みで男女問わず子種を与えていく。でも、多くの者達が子種を受け入れることができずに燃えていく。自分と同じ灰色の姿を得た仲間が生まれても、それらは自分よりも早く命が尽きていく。

 青年は悲しみの涙で顔を濡らしていた。仲間よりも、人間よりも永く生きる孤独に震えていた。涙を拭った青年は、新しい種の「王」になることを決意する。青年は自らの体を小さく縮めて、産声をあげた人間の赤子の体へと入り込む。そこで静かに座り、器が成長すると別の器へと移り自分の命をより濃密に醸造していく。子供の命。それが最も新鮮で同胞へ分ける命をより濃くできるから。

 「王」は考える。自分達を何と呼ぼうか、と。死から生へと戻る誕生の様は、妻を追って冥界へ赴き生還を果たしたオルフェウスの神話に似ている。神によって御使いの翼を与えられたエノクのように、完全な命を得た自分達も高く飛べるはずだ。それなら、この名前が最も相応しい。

 

 オルフェノク。

 

 「王」が眠っている間にも、オルフェノクは人間の中から生まれ続ける。だが不完全な命によって僅かばかりの生涯を終えて、繁栄せず、それでも滅びることなく着実に種から根を張っていく。人間はというと、自分達から生まれた灰色の生命に気付くことなく同族同士での争いに忙しい。最初は食べ物を奪い合うだけだった争いは、食べ物が多く採れる土地を巡る争いへ、結託した者達が国というコミュニティを形成し、高い知性故に織られた複雑なルールやシステムを否定し合う争いへと移り変わっていく。だが、人と人とが殺し合うという様相は変わらない。木の棒が鉄の剣へ、剣が銃へと使われる武器が変わっても。

 地球に生きる人間全てを巻き込んだ戦いの後、人間たちが少しばかり静かになった、一瞬にも満たない時のなかで産まれる俺自身の走馬灯を俺は俯瞰していく。

 産褥に横たわる母親が俺をそっと抱き上げる。父親が部下に怒号を飛ばしている。どうせ大したミスでもないのに機嫌が悪いから八つ当たりしてるんだろう。恵まれた家で過ごしてきた、自分という意思が抑圧された日々。自分と感じ取れなくなる恐怖の日々。それに対する打撃として起こったホテルでの火事。煙の中で幼い真理がうずくまって泣いている。真理を背負い、炎の中を歩く俺は死に、そしてオルフェノクとしての命を授かる。両親を失って預けられた孤児院での生活。いじめられた少年を助けようとして、オルフェノクになった俺に向けられる子供達の恐怖。誰とも心を通わせなかった孤独な日々。孤児院を出て、目的地もなくバイクを走らせた旅の道程。

 その時々に抱いた感情を再認識させられながら、俺は自分の人生を見続ける。これまでは、俺自身も忘れかけていた軌跡。これからは、決して忘れることのできない時間の連なり。

 ファイズに変身できなかった真理が、盗まれたバッグを探しにその場へ居合わせた俺の腰にベルトを巻いている。

 

「おい何の真似だ?」

「ものは試しよ」

 

 何気なく海を眺めていた俺に向けられた、真理のささやかな問い。

 

「あなたは、何故旅をしてるの?」

「夢が無いんだよ、俺には。だからかな」

 

 歩み寄ろうとする姿勢を撥ねつけられ、俺に向けられる啓太郎の冷たい視線。

 

「名前聞いていいかな? 俺、菊池啓太郎」

「何で男同士がいちいち名前教えなきゃいけないんだよ? 気持ち悪い」

「あの子の言う通りだね。君友達いないでしょ?」

 

 俺を助けたのに何で人間を襲うのか、と問い詰め、長田の答えた切な願い。

 

「私、人間が怖い。でも、生きていきたいんです。人間として」

 

 仮面を被り、その下の素顔に気付いた俺を消そうとした、身の回りに都合の良い奴しか置こうとしない草加の明確な敵意。

 

「お前、何考えてんだ?」

「ずっとここに居たいんだよ、君の代わりにね。君は邪魔なんだ。分かるか? 俺のことを好きにならない人間は邪魔なんだよ」

 

 バッティングセンターで木場と話しながら、戦うことの意義を見出せない苛立ちをぶつけて跳ねていったボールの音。

 

「強くなければ生きてけない、って言いますけど、人間てどれくらい強くなればいいんでしょうね?」

「さあな。こっちが聞きたいぐらいだ」

 

 雨音にかき消されまいと叫ばれる、真理へ求めた草加の悲痛な想い。思えばあれからだったか。俺が草加をはっきりと嫌えなくなったのは。

 

「真理はなあ……、俺の母親になってくれるかもしれない女なんだ………。俺を救ってくれるかもしれない女なんだ!」

「救うって……、何からお前を救うってんだ?」

 

 俺にデルタのベルトを託そうとし、その時は遺言になるだなんて思っていなかった木村沙耶の祈り。

 

「10年後も生きていてくださいね、乾さん。乾さんならきっと、多くの人を救えると思うから。私のスープを冷ましてくれているみたいに」

「そんな大げさな事じゃねーだろ」

 

 互いの正体を知った俺と木場の拙い会話を、夏のセミがうるさくかき消そうとしている。

 

「俺は、君を信用したい。そう思ってる」

「ああ、俺だって同じさ。お前のことを信用したい」

 

 死に際に自分の人生を呪い懺悔する澤田を救った真理の言葉が、俺に人間として生きることを決意させてくれた。

 

「真理、済まない………。俺は人間としても、オルフェノクとしても、生きられなかった………」

「そんなことない、澤田君は人間だよ! 昔の優しかった澤田君のままだよ!」

 

 人間を守ることに疑問を抱き始めた木場を、必死に俺が諭そうとしている。でも俺が言葉足らずなせいで、木場が求めていたものを示すことができなかった。俺自身も分からなかった。

 

「お前の理想はどうしたんだよ? オルフェノクと人間の共存が、お前の夢だろうが」

「君に俺の気持ちは……、分からないのかもしれない」

「どういう事だよ?」

「君はオルフェノクであることを押し隠し、ずっと普通の人間として生きてきた。でも俺は、オルフェノクであることを受け入れて生きてきたんだ。だから感じ方が違うのかもしれない」

 

 ああ、そうかもしれないな。でもな木場、オルフェノクになっても心は人間のままだったんだよ。お前がそれを知ることができたら、お前は迷わず人間として生きられたのかな。長田を殺したのが人間じゃないって知ることができたら、お前は人間を憎まずに済んだのかな。

 

「君は何故人間にこだわる? オルフェノクとして生き、『王』の力を受け入れれば、死の運命から救われるのに。君は死ぬのが怖くないのか?」

「怖いさ。だから一生懸命生きてんだよ。人間を守るために」

「守る価値の無いものを、守っても仕方ない………!」

 

 そう吐き捨てたけど、結局お前は人間として生き抜くことを選んだよな。「王」に手も足も出なかった俺を助けに来てくれたお前は、間違いなく人間として戦いに来てくれたんだよな。

 

「まだ俺には分からない。何が正しいのか。その答えを、君が俺に教えてくれ」

 

 木場。あれから少しだけ時間が経ったけど、俺は答えを見つけられないままだった。

 ほんの僅かだった安寧と、彼女たちと出会った日々を想う間もなく時間が川のように流していく。殺伐とした戦いと、どこか安らぎを感じていた少女たちとの日常を行き交うなかで、その光景は飛び込んでくる。

 いつの出来事だろうか。見たことのない衣装に袖を通した9人が円陣を成し、その中心にピースサインした手を集めている。

 穂乃果が「1」と。

 ことりが「2」と。

 海未が「3」と。

 真姫が「4」と。

 凛が「5」と。

 花陽が「6」と。

 にこが「7」と。

 希が「8」と。

 絵里が「9」と。

 皆が一斉に手を高く掲げ、声を揃えて宣言する。

「μ’s、ミュージックスタート!」

 その先にあるはずのステージは、一瞬にして通り過ぎる風のように吹きすさんでいく。見えるのは、彼女たちと同じ舞台に立つことを、他の少女たちも夢見ること。彼女たちのように輝きたい、と海の見える町で少女が立ち上がり、集まった仲間と共に太陽を掴もうと空へ手を伸ばしていく。

 彼女たちの抱いた夢は、永遠の中で切り取られた一瞬でしかない。人の見る夢は時間の流れによって命と共に消え去り、後に生まれる人もまた夢を抱き、その夢は叶うものもあれば潰えるものもある。大きく視野を広げてしまえば、それは宇宙という括りのなかで起こったほんの小さな瞬きで、地球という箱庭のなかで完結してしまう。

 紡がれる夢の数々は人間という種が終焉すると共に消滅し、別の生命が進化した種が地上を埋めていく。その種も滅び、別の種が繁栄し、それを繰り返した地球というひとつの生命体もまた宇宙のなかで死んでいく。死ぬことでようやく、地球は子を胎から宇宙へ産み落とすことができた。

 さあ、お食べ。これが生命の実だよ、と「王」の熟成した命を分け与えられたオルフェノク達が、広がり続ける宇宙へ翼をはためかせて飛び発つ。人間と、別種の遺伝子を抱えた彼等の永い旅が始まる。天使とも悪魔とも形容しがたい翼を持った灰色の種が渡り鳥のように羽ばたく姿を俯瞰する俺は悟る。

 これが、オルフェノクの生まれた意味。

 滅び行くしかなかった別種の遺伝子を自らの器に保管し、死を超越して永遠の宇宙を旅する方舟(アーク)となること。そうすれば地球に生きた生命たちの記憶が失われることはない。だが、それのどこに意義がある。宇宙を照らす星々は寿命を迎えて藻屑と消えていく。降り立つ惑星を見つけ、その星が散ればまた次の星を求めてオルフェノク達は宇宙へ飛ぶ。

 星から星へ。やがて星も死に絶えて、太陽すらも輝きを失い、オルフェノクは一切の光のない宇宙の闇を彷徨い続け、それを見る俺も闇へ溶けて――

 いや、光はひとつだけ残っている。朧げな光が俺を包み、冷たい宇宙をほんの微かだが温める。ふっ、と息を吹けばすぐに消えてしまう、ろうそくの灯のような脆く儚い光だ。でもこの熱が、俺を温めてくれる。俺に熱を与えてくれる。肉体という器に閉じ込められた故の熱かもしれない。それは不要なのかもしれない。でも、肉体の温かさを知るからこそ、到達できる境地があるはずだ。同じく朽ち果てる遺伝子の運命に囚われた人々との言葉の応酬が俺を俺として育んできたように。

 光が俺の背中を押す。どくん、という脈動を反復する毎に熱は上がっていき、放出するように俺は宇宙の虚無へと叫ぶ。

 

 叫びと共に光が広がっていき、闇を切り裂いた。

 

 

 ♦

 明確な「今」という時間を認識した瞬間、ブラスタークリムゾンスマッシュを阻んでいた肉の障壁が瓦解した。

 拡散していたフォトンブラッドがロブスターオルフェノクの体へ流れ込み、隅々まで侵食された灰色の肉体が灼熱を帯びて赤く染まっていく。入り込んでくるエネルギーが体を膨らませ、許容量を越えて胸が張り裂けると同時に爆散し、空中に大量の灰を撒き散らす。おびただしい量の灰が降り注ぐ地上へ、重力に従ってファイズは落下していく。背中のスラスターを吹かし落下速度を緩めながら、ファイズは昼と夜がない交ぜになった黄昏を映す空を見上げた。巨大なΦの文字が浮かんでいて、それは風に吹かれて消えていく。

 すとん、と地面に降り立つ。拾ったブラスターを折りたたみ、スロットから引き抜いたフォンのコードを押すと、ブラックアウトしていたフォトンストリームが輝き、瞬時にファイズのスーツは消滅する。

「よう、こっちも終わったぜ」

 地面にだらりと脚を投げ出して座る海堂が、そう言ってくる。

「終わったんだな………」

 言いながら、巧は何が終わったのか、と考える。

 そう、「王」と不死身のロブスターオルフェノクが死に、オルフェノクという種は滅亡を決定付けられた。これからオルフェノクはゆっくりと、着実に数を減らし、やがてこの地球上から姿を消す。だが、オルフェノクの終わりは人間にとって何かの始まりをもたらすのだろうか。種の絶滅なんて特別に珍しいことではない。巧はあの(ビジョン)でその繰り返される滅亡を見てきた。

 オルフェノクという方舟を失ったことで、いつか地球が滅べば、この地に生きた生命達の記憶は宇宙の虚無へと消え去る。だが、それに伴う感慨は巧にない。そう遠くないうちに生涯を終える巧に、遥か未来に想いを馳せたところで何ができるわけでもない。

「お前はあれを見たのか?」

 巧の向ける問いに、海堂は首をかしげる。

「何だお前、疲れてんのか? いや疲れてんだ。激戦だったからな」

 海堂は両腕を広げて空を仰ぐ。大衆に演説を聞かせる牧師のごとく。

「晴れてこれで、オルフェノクと人間の戦いは幕を閉じた。王様の復活という悲願を失ったスマートブレインは完全に消えて、科学の発展のために巨額の投資をした政府や企業群は大打撃の嵐で株も大暴落。いやはや日本の、いや世界の経済はどうなるのか。皆の財布の紐はさぞ固くなるに違いない」

 海堂の語る、これから訪れるであろう未来。既に未来とその果てを視てきた巧には、それがとてもスケールに欠けたものに思える。だが、あの未来もオルフェノクが繁栄を遂げた場合の話で、滅びが決定した今となってはその可能性は確実にない。

「人間を人間にしてるのは、何なんだろうな………」

 唐突に浮上してきた問い。いや、これまでずっと抱いてきた問いと言うべきか。向けるべき者を迷うそれに、海堂が答えたのは驚きだった。

「ちゅーか、その正体は『言葉』だな。言葉は人間だけが持ってる」

「言葉にそんな力があるのかよ?」

「舐めちゃいかん。舐めちゃいかんよ。言葉は歌になるし、楽譜だって言葉だ。こう歌え、こう弾け、ってな。琢磨の言った通りだぜ。オルフェノクになっても心は人間と変わらん。現に俺達はいま、言葉を使ってる」

 自分の演説が随分と満足のいくものだったようで、海堂は煙草を取り出して火を点ける。煙を吸い込みすぎたようで咳き込み、まだ減っていない煙草を地面に押し付けて火を消してしまう。

「お前、これからどうするつもりだ?」

 巧が聞くと、「さあな」と海堂は肩をすくめる。

「気の向くまま風の向くまま、どこへでも好きな場所へ行くさ。どこに行けば良いのかも分からんがな」

 らしくない言葉に眉を潜める巧に、「でもよ」と海堂は続ける。

「お前は行かなきゃいけない場所があるはずだぜ」

 どこだよ、と言おうとしたところで、巧は気付いた。昨晩に交わされた約束を。察した海堂は笑っている。

「女神様がお待ちだぜ。ちゅーか女を待たせるなんて、何て罪な野郎だ」

 「よっこらしょ」と立ち上がった海堂は背を向けて、「アディオス」と手を振りながら去っていく。何て素っ気ない別れなんだ、と巧は呆れながら海堂の背中を見送った。

 巧は沈黙しているオートバジンへと歩き、その胸部にあるスイッチを押す。まだ生きているようで、『Vehicle Mode』という音声を鳴らしバイクに変形する。ベルトのツール一式とブラスターをリアシートに括り付けながら、巧の脳裏を駆け巡るのは問いだった。

 木場から託された答え。

 それは人間を守ることの意義。何故人間は守るに値し、オルフェノクが滅ばなければならなかったのか。オルフェノクが滅んでも人間に変革はもたらされない。オルフェノクという種が変革をもたらすのであれば、灰色の種こそが生きるべきだったのか。飛び発つ翼が得られようとしたのに、それを放棄して翼をもいだ。とてつもなく愚かなことなのかもしれない。滅亡が決まった今となっては今更だが。生命の最優先事項は種の存続、自分たちの遺伝子を繋ぎとめていくことだ。オルフェノクは不死を得れば子を残す必要はない。世代を経ないことで遺伝子の変異はなく、オリジナルのままゲノムを保管できる。データの上書きもなく、原書のまま残されたDNAの螺旋に描かれる物語。巧の成し遂げたことは人間の守護などではなく、むしろ人間という種が忘却の彼方へ去ることを助長してしまったのか。

 物語の消失。それは巧が最も拒むことだ。喪われた者達の想い、物語を受け継ぐ巧は、自らの誓いに背いてしまったのかもしれない。所詮は卑しい箱庭に納まる住人のエゴイストか。

 ならば、あの光は何だったのか。

 生命の織り成す営みの果てに視た宇宙の虚無。その中で巧を温め、闇を祓ったあの光はどこから来て巧の背を押し、どこへ向かっていくのだろう。

 正しかったのだろうか。俺は木場との約束を果たせたのだろうか。巧は不安に苛まれながらも、会場へ向かうべくオートバジンのエンジンを駆動させ、アクセルを捻る。

 分からない。

 木場が、オルフェノク達が求めていた答えに手を伸ばし、そのための知識を蓄えてきたつもりだった。だが知れば知るほど、仮説は否定され問いが増えていく。答えは遠のくばかりで手中に納まってくれない。

 人間を人間たらしめるのは言葉。海堂が説いた事柄が的を射ているのだとしたら、口下手な巧のなかにも言葉が凝縮され、それが空っぽだと思っていた男を乾巧たらしめているのか。いや、と巧はかぶりを振る。巧を巧たらしめているのは、出会った者達との言葉の応酬だ。その連なりが、視てきた自身の物語を作った。

 巧の物語には、多くの登場人物がいる。登場人物たちもそれぞれの、人間には人間の物語があり、オルフェノクにはオルフェノクの物語がある。

 ならば、俺はどっちなんだ。巧は自分に問いかける。

 今この瞬間、巧が見ている空の茜は、人間の見る茜と同じだろうか。このヘルメット越しに撫でる風も、バイクが吹かすエンジンの音も、巧がまだ人間だった幼い頃と同じだと断言できる根拠はない。

 白にも黒にも属しきれず、灰色の境界線上をさまよう巧の物語を、読み手はどう捉えればいいのだろう。

 

 ♦

 会場に到着する頃には、すっかり夜も更けて月が見えていた。埠頭に設営されたステージは観客達がケミカルライトをちらつかせている。

 外苑に近付くと見慣れた背中がいる。巧が横に立ち、気付いた婦人は驚愕で目を見開くも、すぐに品の良い微笑を浮かべる。

「終わったんですね」

「………ああ」

 巧の短い返答の後に、理事長との間に交わされる言葉は何もなかった。賑やかな観客達の端で漂う奇妙な沈黙は、興奮した高坂母の声で破られる。

「巧君! ああ間に合って良かった!」

 駆け寄ってくる高坂母は両手の指間にケミカルライトを挟んでいる。そう離れていない場所に堂々と立つ高坂父も。まるで似合っていないその姿に辟易する巧に、高坂母は手に持っている1本を押し付けてくる。

 不意に、ステージを照らしていた照明が暗転した。東京湾を挟んだ対岸に広がる夜景が映え、観客達が一斉に声を静めると同時、中央にスポットライトが当てられる。

 曲のイントロが流れ始めると、ステージに備え付けられた昇降機が昇ってきて、そこにμ’sの9人が立っている。ひとりずつ、ゆっくりと目を開くと照明がステージ全体を照らし出した。

 

 ――信じてたよ、たっくん――

 

 センターに立つ穂乃果と目が合い、彼女の瞳がそう告げたように錯覚する。俺のためのライブじゃないだろ、と見届ける視線の先で、彼女らは踊り始め、歌にした言葉を観客達に告げていく。

 それは「これまで」と「今」を歌う曲。夢見たこのステージを目指し、9人で共に疾駆してきた軌跡。2度とない刹那の瞬間に湧く情調を抱きしめ、次の連続する刹那へと向かった先に起こした奇跡。

 その奇跡が「今」ここにある。辛さと、苦しさと、愛しさと、楽しさを経て。それを近くで見てきた故の感慨だろうか、それともステージの照明のせいか。この空間が世界で最も眩しい場に思えてくる。

 あの時間の流れと一緒だな、と巧は思った。悠久の時のなかで人間という種が生きる時間と。その中で切り取られた、光ある「今」という瞬間はとても短い。ほんの一時だけ瞬く光。すぐに消えても、その瞬間だけは他のどの時間よりも熱かった。その光の熱は、今でも巧のなかに残っている。それが何なのか分からないまま奇妙に、そして(うら)らかに。

 どくん、と巧は胸のなかで脈動する熱が大きくなっていることを自覚する。それは内からも、外からも感じ取れる。そうだ、と巧は確証へ至る。あの光。宇宙の虚無を照らし出すものと同じ光と熱が、この会場にも脈打っている。舞台上で踊るμ’sが、μ’sに声援を贈る観客がこの熱を出して冷たい宇宙を温めていたのだ。いつか朽ち果てる有限の生命。やがて脈を止める心臓が刻む鼓動が。

 曲が終わり、観客たちの声援が会場の空気を震わせる。ステージ上で横一列に並び手を取り合う9人は、息をあえがせ肩を上下させながら観客たちを見渡している。

「ありがとうございました!」

 高く力強い穂乃果の声は声援にかき消されることなく、巧の耳にもしっかりと届いた。端からメンバーがひとりずつ名乗りをあげる。

「東條希!」

「西木野真姫!」

「園田海未!」

「星空凛!」

「矢澤にこ!」

「小泉花陽!」

「絢瀬絵里!」

「南ことり!」

「高坂穂乃果!」

 喜びに満ちた思慕を噛みしめるように聞こえる声の数々。最後に、リーダーである穂乃果は締め括る。

「音ノ木坂学院スクールアイドル、μ’s!」

 9人で声を揃え、手を繋ぎながら「ありがとうございました!」と礼をする。すると観客たちが湧いた。その歓声はμ’sがステージから去った後も止まない。はしゃぐ子供のようにケミカルライトを振る高坂母の隣で、巧は舞台裏で皆はどうしてるかな、とささやかに思った。労いの言葉をかけてやるべきだろうか、と思いかけるが、それは野暮だろう。ここまで来られたのは9人の力だ。9人それぞれの持つ光が合わさってもたらされた。そんな彼女らに、まるで指導者のように巧が「頑張ったな」なんてどうして言えるのか。

 衰える気配のなかった歓声が、やがて均整の取れたリズムを刻んでいく。どこから発したのか、その言葉になった多くの声が会場全体へと波紋のように広がっていく。

「アンコール! アンコール!」

 観客たちは求めているのだ。この光をもっと、もっと見せてほしい、と。ほんの一時だけで終わらせてほしくない、と。広がっていく宇宙のなかで生じる刹那の光。その光を消さず、次の刹那にも繋げていこうと、人々は「アンコール!」と叫び続ける。

 

 ――このまま誰も見向きもしてくれないかもしれない。応援なんて、全然貰えないかもしれない。でも、一生懸命頑張って、わたし達がとにかく頑張って届けたい。今、わたし達がここにいる、この想いを――

 

 ファーストライブの直後、絵里から続けるか問われた穂乃果はそう言っていた。この声は、彼女にも届いているだろうか。届いていたら、一曲しか準備していないのにどうしよう、と慌てているだろうか。それとも涙を流してあの時の想いを抱きしめているだろうか。

 しばらく、長かったようにも短かったようにも思える時間の後に、曲のイントロが流れ始めた。「アンコール!」という言葉が歓声へと変わり、昇降機からステージに舞い戻ってきたμ’sはさっきとは違う衣装に身を包んでいる。いつ用意したのだろうか。本戦で披露できるのは1曲だけだというのに。何となく、μ’sに協力してくれた穂乃果の同級生3人組だろうな、と巧には分かった。こんな酔狂なことをしてくれるのは、あの3人くらいしかいない。

 再びμ’sは踊り、歌い始める。

 それは「これまで」と「今」と、そして「これから」を歌った曲。

 「今」と比べたら、出会った頃の彼女らはまるで異なって見えるだろう。希も言っていた。同じ想いを持つ人がいるのに、どうしても手を取り合えない子があちこちにいた、と。でもこのステージで歌っている、手を取り合い繋がることができた彼女らこそが本来の姿で、それを引き出したのは穂乃果だ。

 今なら理解できる。穂乃果が何故μ’sのリーダーなのか。

 穂乃果がμ’sを引っ張ってきたのは誰が見ても明らかだ。穂乃果がメンバー達をまだ見ぬ世界へと連れていった。でも、それは強引に手を引いてきたわけじゃない。前に立つばかりじゃなく時には後ろに立って背中を押して、時には隣で共に迷ってくれる。そうすることで他者に寄り添い、眠っているその人の美しく輝ける部分を目覚めさせ力強く1歩を踏み出させてくれる。そんな素晴らしい才能を彼女は持っているのだ。

 そう、たった1歩。たった1歩でいい。暗闇に囚われても迷っても、弱くても射し込む光を見出せたときに、人は足を踏み出せるのだ。破壊と再生。光の発現と消滅は繰り返しているのではない。長い眼では見えないが、その実で人はたとえ1歩ずつでも前進を続けている。自分たちの秘める「可能性」という光を目指し、その時に抱く小さな光を互いに灯し合って次へと繋げていく。

 その行きつく先はまだ視えない。巧の視てきたオルフェノクの未来は潰え、これから人が向かう果てがどこなのかは分からない。世代を重ね、光へ到達しても人間という種は変わらないのかもしれない。時に光を見失い、暗闇と虚無をさまようこともある。だがそれでも、人は光を見出せる。冷たい虚無を温めることができる。

 それを認識できたとき、止まっていた足を再び踏み出して、果てしない旅は続いていくだろう。

 

 

 ♦

「ねえ、もう1度だけライブできないかな?」

 帰りの電車のなかで、穂乃果はメンバー達にそう提案した。浸っていた余韻から引き戻された皆の視線を一身に受け、穂乃果は続ける。

「今度こそ本当のラストライブにしたいんだ。場所はどこでもいいの。学校の講堂でもグラウンドでも、屋上でもいいし」

 言葉足らずな意図を察してくれたのか、絵里が笑みを零す。

「巧さんのため、ね?」

 「うん!」と穂乃果は答える。皆も笑みを浮かべ、同意を示してくれる。ラブライブの本戦ステージで歌うという目標を達成しても、μ’sにはまだやり残していることがある。そのためにどんな方法が良いのか、既に穂乃果には分かっている。皆も分かってくれているのだろう。自分たちに、μ’sに最も相応しい方法が。

 穂乃果はそれを告げる。

「ライブで、たっくんに『ありがとう』って伝えよう!」

 帰り道、9人揃って穂むらへ向かいながら、皆で巧へのライブを話し合った。あの不愛想な男を笑顔にしてやろう、とにこが息巻いて、新曲が良い、と提案する穂乃果に海未も真姫もどんな詞と曲が良いか、とイメージを巡らせていた。ことりも衣装をどうしようか、と張り切っていた。

 楽しみだった。自分たちが「ありがとう」と伝えたとき、巧はどんな顔を見せてくれるのか。どんな言葉を向けてくれるのか。

「ただいまー!」

 期待に胸を躍らせながら、穂乃果は家の引き戸を開けて揚々と中へ入る。店内の掃除をしていた母が「お、お帰り……」と娘の勢いに少し圧されながら迎えるのも尻目に、穂乃果は「たっくんは?」と尋ねる。

「巧君なら――」

「部屋にいるのかな?」

 穂乃果は玄関で無造作に靴を脱ぐと、急いで階段を駆け上がっていく。後ろから「あ、穂乃果!」と母の声が聞こえたが、叱られるのは後だ、と穂乃果は奔る想いのまま巧がいるであろう部屋の襖を開ける。

「たっくん!」

 ライブだよ、という言葉を出さず、声を寸止めされた口を開けたまま穂乃果は巧に貸した客間を見渡す。

 そこに巧はいなかった。彼の着替えが入ったバッグも、押入れにしまったのか布団も。客間の様相は、巧が来る前にすっかり戻っている。

 先ほどとは正反対のゆっくりとした足取りで店先に戻る穂乃果を、メンバー達が期待に満ちた眼差しで迎えてくる。穂乃果は母に、無感情に尋ねた。

「お母さん、たっくんは?」

 母は少し気まずそうに顔を背け、向き直ると誤魔化すように笑う。どこか寂しそうに。

「巧君なら、さっき出てったわ」

 「え……?」と皆が声を詰まらせる。海未が声を絞り出すように言う。

「そんな、突然……」

 「突然じゃないのよ」と母は穏やかに言った。

「1ヶ月くらい前から話してたの。穂乃果達のライブを観たら行く、って。皆には黙っておくようにお願いされたのよ。ほら、巧君って照れ屋だから」

 ずっと隠されていたことに怒りは沸かない。巧のことだから、しんみりと別れてしまうのが嫌だったのだろう、と分かる。

「そうそう、巧君から伝言預かってるんだったわ」

 「何?」とがらんどうに穂乃果が聞くと、母は優しく微笑んで答えてくれる。

「ありがとう、だって」

 巧から母に託された言葉は、穂乃果に、他の8人にとって不意打ちだった。自分たちはこれから、その言葉を彼に伝えるつもりだった。その言葉を伝えるライブをするつもりだった。

 「巧さん……」と花陽が俯いた。目尻に涙が光っていて、親友の肩を抱きながら凛も堪えようと口を固く結んでいる。

「まったく、勝手な人よね」

 場の雰囲気に耐えかねたのか、にこがため息交じりに言った。外を向いているせいで、顔が見えない。

「せっかくにこ達の歌を聴かせてあげようと思ってたのに、張り切って損しちゃったわよ。勝手にいなくなっちゃうなんて………。本当…、勝手よ………」

 「にこちゃん………」と、真姫はそれだけしか言えなかった。真姫だけじゃない。皆が肩を震わせ、嗚咽を抑えつけているにこへの言葉を探しあぐねている。

「そっか、たっくん行っちゃったんだ」

 何気なく言う穂乃果に、皆が意外そうな視線を向けてくる。にこも振り返り、涙を拭うことなく穂乃果を見つめる。そんな皆に穂乃果は笑顔を返した。穂乃果には分かった。巧が去ったことの意味が。

「きっと、誰かの夢を守りに行ったんだよ。わたし達、もう夢が叶ったでしょ? だからたっくんに守ってもらわなくてもいいんだよ」

 「寂しく、ないんですか?」と海未が聞いてきて、穂乃果は「ちょっとね」とはにかむ。

「でも、きっとまた会えるよ。わたし達に新しい夢ができたとき、たっくんはきっと会いにきてくれる。そう思うんだ」

 穂乃果はとても清々しい気分だった。巧にさようならも言えずに別れてしまうのは寂しい。でも、彼はμ’sだけの守護者じゃない。彼が人の夢を守ることは、彼自身の夢を叶えることに繋がる。

 「そうね」と微笑んだ絵里の目尻から涙が零れた。皆で目に涙を浮かべて、笑顔を作っていく。この世界には出会いと別れがあって、その時の想いを大切に抱きながらこれからの時間を過ごしていく。想いを扉にして広がっているのは、善いことばかりの世界じゃないだろう。辛いことも当然ある。だから善くありたい、輝きたいと願えるし、その可能性を追っていける。

 巧が守ってくれたのは、そんな世界だ。

 穂乃果は外へ飛び出した。夜空には満月が浮かんでいる。この月を巧も見ているだろうか。伝えたいことは山ほどある。でも今は、彼に伝えたい言葉は胸のなかにしまっておく。新しい夢を見つけたとき、彼は会いに来てくれる。待ちきれなかったらこちらから会いに行こう。

 その時こそ、今の想いを彼に伝えよう。夢の守り人に、μ’sにとってのヒーローに。

 

 ありがとう。

 そして、大好き、と。

 

 

 ♦

 バイクが唸らすエンジンの音が空気を震わせ、遥か遠くの地平へと拡散していく。視界の隅に満月が浮かび、暗闇の中で我ここに在り、と主張しているのが見える。

 暗闇に満たされた道路をオートバジンのヘッドライトが照らすも、その光は整然と広がる闇のなかでは一瞬にして通り過ぎる一寸先を照らすのが限界だ。「今」の人間と同じだな、と巧は思った。

 どれだけ人類の歴史が紡がれ、そこに幾多の物語が綴られても、人は未だ扉を潜ったばかりなのかもしれない。旅は途中で、始まったばかりだ。道は敷かれていない。道は自分達で踏みならしていかなければならないのだ。それはとても過酷なことで、永い時間を要する。可能性の光を視たところで、それはあくまで「可能性」のままだ。いつか、ほんのちょっと揺らぎを与えれば、簡単に消えてしまう灯かもしれない。でも、まだ消えていないことは確かだ。

 無論、それを巧ひとりだけが知るだけでは意味がない。そう遠くないうちに寿命を迎える、滅びゆくオルフェノクのひとりである巧だけでは。いつか、人が滅びを乗り越える翼を広げるには、全ての人が自分達の秘める光を知り、絶やすことなく弱くも灯し続ける必要がある。オルフェノクにならずとも、人は人のまま、翼を得ることができるのだ、と。そこに至るまでの道のりで今は数十歩、いや、数歩進んだだけでも大きいだろう。

 巧もまだ、1歩を踏み出したばかりだ。木場から託された答えは出たのかもしれないし、出ていないのかもしれない。現時点ではまだ曖昧だ。それを確証へ至らせるには、たくさんの時間がいる。迷うことも多く、引き返してしまうこともあるだろう。でも、今のこの熱を捨てることはない、と確信できる。この想いの正しさを証明するための、巧の旅は続いていく。有限の肉体に縛られながら、この暗闇の向こうに存在する、次の新しい世界を目指して。

 焦る必要はない。地球にとってはほんの一瞬でも、その切り取られた刹那に生きる人々には十分な時間が残されている。

 旅立つために必要なものは既に備わっていて、繋げていく限り潰えることはないのだから。

 

 「今」巧は走り出す。確かな熱を裡に抱き、白と黒の狭間を駆け抜けていく。

 

 





 最終回のような雰囲気ですが、まだ終わりではありませんよ。


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<part:number=monolog:title=In this time/>

 今回は文体をがらりと変えたので、「あれ、別作品?」と混乱すると思います。
 ご安心ください。『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』ですよ。


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<ltml:lang=ja>

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   01

 

<confession:number>

 <i:罪を背負い>

 <i:罰を求め>

 <i:彷徨いながら生き続け>

</confession>

 

 それでも俺は、正義は勝つと言えるのだろうか。

 

 

   02

 

 

 あれから数年が経った。「王」が死んで、世界は変わっただろうか。少しはましになっただろうか。時折出てくる疑問の答えは、俺が見る景色が十分に教えてくれる。

<list:item>

 <i:人は買い物へ行き>

 <i:職場へ行き>

 <i:学校へ行き>

 <i:泣いて>

 <i:笑う>

</list>

 何も変わっていない。オルフェノクの滅亡は、人間にとって何かの始まりにも終わりにもならなかった。とはいえ、まだオルフェノクは完全に滅びたわけじゃない。現に今、俺はまだ生きている。あれから奴らの姿を見る機会は極端に減ったけど、まだ人間のなかに潜んでいることだろう。人間を襲おうとしているか、それとも残された余生を人間として生きるか。

 きっと、オルフェノクという種が生まれた頃も、大して人間に変化は無かったのかもしれない。オルフェノクは太古から存在して、人間に紛れていた。人間はオルフェノクの存在に気付いたときに多少の混乱はあったのかもしれないが、それはごく一部のことだったに違いない。種は数年前の戦いに至るまで、人間との種族間衝突もなく静かに存続してきたのだから。

 だから世界は、人間は変わらず日々の暮らしを営み続けている。変わったことといえば、俺の戦う「敵」がオルフェノクでなくなったこと。世界を混沌に陥れようとする連中は次々と現れ、その度に俺は戦ってきた。新しい仲間と共に。

「おい、いつまでふーふーしてるんだ?」

 オープンカフェのテーブルを挟んで座る男が、コーヒーに息を吹きかける俺にからかうような視線を送ってくる。

「別に良いだろ。お前こそ砂糖入れ過ぎじゃないのか?」

 お返しに俺もからかうと、男は「俺の勝手だ」と不貞腐れた顔をして、シュガーポットからスプーンで掬った砂糖をカップへ入れる。もう何度も入れたものだから、コーヒーの味も香りも砂糖の甘さで消えていることだろう。

 この甘党男は桜井侑斗(さくらいゆうと)。今、俺と共に戦っている仲間のひとり。

 またの名前を、仮面ライダーゼロノス。

 人々から「仮面ライダー」と呼ばれる存在は、俺ひとりだけじゃない。他にもたくさんいるし、今もどこかで人間を守るために戦っているはず。

 何の脈絡もなく唐突に、離れた所から悲鳴が聞こえてくる。

 この悲鳴もまた、変わらない世界の様相のひとつだ。俺達がいくら守っても、人々の生活は簡単に、ほんの一撃で崩れてしまうほど脆い。俺と侑斗は互いに視線を交わし、注文したコーヒーを一口も飲むことなく席を立って悲鳴のもとへと駆け出す。

 近付くにつれて、悲鳴のこだまはどんどん拡大していく。俺にはもう、この悲鳴の根源が何者なのか分かっている。

 そう、奴らが現れた。オルフェノクの後に、世界を混沌へ突き落そうとする連中が。

<list:item>

 <i:遺伝子改造で強化された体>

 <i:カプセルで培養される姿形は人間そっくり>

 <i:でも知能は命令を理解する程度に低く設定されている>

 <i:「イーッ!」という声しか発することのできない>

 <i:言葉を持たない人造人間>

</list>

 体にフィットする黒装束の連中はまるでアリのように群体で現れる。逃げ惑う人々のなかには勇敢にも立ち向かう者がいるが、いとも簡単にねじ伏せられ、良心など取り払われた奴らによって容赦なく剣で斬られていく。

「数が多すぎる………!」

 苦虫を噛み潰すように俺は言う。これだけの数、俺達ふたりだけでさばき切れるものじゃない。

「泊を呼びに行くぞ」

 侑斗の判断に俺は「ああ」と同意し、踵を返してカフェへと引き返す。後方から待ってくれ、とでも言わんばかりに悲鳴は更に大きくなっていくのが感じ取れた。

 悪い。必ず戻るから持ち堪えてくれ、と祈る気持ちで俺は店先に停めたバイクに跨り、先に発進した侑斗のバイクを追いかける。

 混沌から遠ざかっていくにつれて悲鳴は小さくなり、更にバイクのエンジン音がかき消して完全に聞こえなくなる。到着したそこは、まだ連中の混沌には巻き込まれていないようで静かだ。

 久留間運転免許試験場。

 そこの入口前にバイクを停めた俺達は、すっかり通い慣れた建物の通路を走りエレベーターに入る。侑斗がパネルの番号ボタンをランダムに押している様は、まるで子供が悪戯をしているようだ。でも侑斗はしっかりと目的の階を指定している。そこへ至るためのボタンは設けられていない。何故ならそこは、この施設の抱える極秘事項だから。

 扉が閉じると、エレベーターが下降を始める。

 特殊状況下事件捜査課。通称、特状課(とくじょうか)

 この運転免許試験場にオフィスを構える警察の部署。何故こんな辺鄙(へんぴ)な所にオフィスを作ったかというと、必要な設備を置ける場がここにしかなかったからだ、とあの奇妙な喋るベルトが言っていた。

 目的の階に着いたエレベーターの扉が開き、短い通路を走った先にある扉を乱暴に開けるや否や、侑斗が鬼気迫った声で言う。

「泊、事件だ!」

 入ったガレージにいるスーツを着た男は、呑気な顔で飴玉を口に入れようとしている所だった。舐めるはずだった飴を眼前で静止させ、俺達を怪訝に見つめている。

 これでもこの男は刑事で、俺と共に戦うもうひとりの仲間だ。

 (とまり)進ノ介(しんのすけ)

 またの名前を、仮面ライダードライブ。

「おいおい、誰だあんた達」

 こいつ、寝ぼけてるのか。

「何言ってんだ? ショッカーが暴れてる」

 俺がそう言うも、進ノ介は「ショッカー? 何だそれ?」と間抜けな声で聞いてくる。こんな奴に守られているなんて市民が知ったらどんな反応をされるか。警察の威厳も落ちるだろうに。

「いいから行くぞ!」

 そう有無を言わさずに俺は進ノ介の肩を掴み、侑斗も手伝って外へと連れていく。

 

 

   03

 

 バイクでショッピングモールへ戻ると、状況は更に悪化している。さっきまで笑顔で行き交っていた人々は恐怖の表情を浮かべ、道端に転がる血にまみれた死体を跨いで戦闘員から我先にと逃げていく。

 車から降りた進ノ介はその様子を困惑した様子で眺めていて、そんな奴に事を説明している暇なんてない俺と侑斗は混沌へと駆け込む。

 黒装束の戦闘員のなかに、毛色の違う異形がひとりいる。

<list:item>

 <i:チーターのような顔 >

 <i:頭から伸びるカタツムリの触覚>

 <i:右肩に乗っている渦を巻く殻>

</list>

 そのグロテスクな組み合わせの怪物が、秘密結社ショッカーの幹部として戦闘員たちを率いている。幹部のベースは人造細胞ではなく、人間だ。優秀な頭脳や肉体を持つ人間はショッカーに目を付けられ、拉致されて否応なく体をいじられて異形に変えられてしまう。最初に「仮面ライダー」と呼ばれた者も、元はショッカー最強の怪物として体を改造されたらしい。

「そこまでだショッカー!」

 人々に襲いかかる戦闘員を蹴散らし、侑斗が幹部に告げる。

「罪のない人々を傷付けるのを見過ごすわけにはいかないな」

 こんなヒロイックな言葉が出てくるのも、仲間と一緒に戦ってきた影響なのか。でもヒーローを気取ることで、俺は俺自身が倒すべき敵になりうる存在であることを一時でも忘れることができる。現実逃避だが。

「貴様ら人間にこのチーターカタツムリ様が倒せるものか」

 怪物は嘲笑い、自分の姿を誇示するように両腕を広げる。ショッカーの目的は世界征服。政治と経済と軍事の全てを支配すること。逆らう者は皆殺し、という分かりやすい独裁主義者たち。

 連中のそんな崇高な、でも俺達にとっては矮小な野望を侑斗はせせら笑う。

「バーカ。お前なんかとレベルが違うんだよ」

 そう言って侑斗は手にしているベルトを、俺も「行くぞ!」とケースから出しておいたファイズのベルトを腰に巻く。

<change:sequence>

 <i:5・5・5・ENTER>

 <i:Standing by>

</change >

 

「変身!」

 

<change:number>

 <i:Complete>

 <i:Altair Form>

</change >

それぞれのベルトを起動させて鎧を身に纏い、俺はファイズに、侑斗はゼロノスに変身する。

「最初に言っておく。俺はかーなーり、強い!」

 隆起する上腕を見せ、ゼロノスが口上を決める。最初のうちは皮肉を言ったが、もはやこれは侑斗にとってルーティーンのようなもの。だから俺は構わず、手首を振ってスーツの感触を確かめると駆け出す。

 まず優先的に、人に襲いかかる戦闘員に蹴りを入れる。引き剥がされた者は逃げていき、邪魔された戦闘員は優先度を俺に移して反撃しようと剣を振りかざす。人間よりは強く「製造」された戦闘員だが、力にものをいわせているだけで雑魚も同然だ。だから俺の拳は敵の剣よりも早く、その覆面で隠された顔面に突き刺さる。頭蓋が砕ける感触がして、次の瞬間には内部から頭が破裂して辺りに血と脳漿を撒き散らしていく。頭を失った黒装束の胴体は力なく倒れ、俺はマスクにかかった血を拭って狭まった視界を回復し別の標的へと駆け出す。

 組織は幹部と戦闘員の頭に爆弾を入れている。かつて組織から脱走した裏切り者が、仮面ライダーとして反旗を翻したことから採られるようになった措置らしい。

<list:item>

 <i: 元は人間だった幹部が再び人間に戻ったとき>

 <i:人間の遺伝子をベースにした戦闘員が人間としての自我に目覚めたとき >

</list>

 離反の防止として、遠隔操作できる爆弾が炸裂する。まだ組織にとっての裏切り者として認定されていないうちに、俺は連中の弱点である頭を狙って攻撃し続ける。まだ連中が人間と定義するには曖昧なうちに。

 それでも、感傷は捨てきれていない。だが戦いの最中に迷わないよう、思考を止める術はこの数年間で学んできた。敵として倒してきた者よりも、多くの者を守るための術として。

「変身!」

<change>

 Drive type Speed

</change>

 変身時のシステム起動音と共に、赤い仮面ライダー、ドライブが視界の隅に映る。あのぼんくら刑事、やっとギアが掛かったらしい。

 ゼロノスがチーターカタツムリの腹に剣を一閃する。真っ白な人工血液を傷口から流すチーターカタツムリは「おのれえ……」と呻き、腹を手で抑えながらモールの奥へと逃げていく。

「侑斗、巧、ここは任せろ!」

 戦闘員たちを相手取りながら、ドライブが言う。「分かった」と俺は返し、ゼロノスと共に奴の後を追っていく。

 腹の傷が響いたのか、チーターの遺伝子を組み込まれた割には走りが襲い奴にはすぐに追いついた。ふたりがかり。ゼロノスが剣で創傷を与え、俺は拳を見舞っていく。

「忌々しいぞ仮面ライダー。貴様らさえいなければ、世界はショッカーのものになるというのに」

 組み付いたチーターカタツムリが、俺に粘液でてらつく顔面を近付けてくる。別に俺は、ショッカーが憎いわけでもない。世界征服なんてやりたきゃ好きにやればいいさ。でも、そのために皆を巻き込むなって話だ。

「守り抜いてやるよ。この世界ってやつをな!」

 顔面に肘を打ち付け、反動で後退し間合いを取る。

「レッツ、変身!」

<change>

 Signalbike Rider Mach

</change>

 聞き慣れない起動音と、見慣れない姿が耳孔と視界に入り込んでくる。その乱入してきた白の戦士はチーターカタツムリに「追跡!」と蹴りを入れ、「撲滅!」と追撃の拳を打っていく。「いずれもマッハ!」と渾身の一撃を顔面に打ち込み、敵が地面を転がる間に追い打ちをかけると思ったがその場で四肢を大きく伸ばしたポーズを決めている。

「仮面ライダーマッハ!」

 こいつも仮面ライダーなのか。にしても、随分と調子のいい奴だ。戦う度にやるせない気分にとらわれる自分が馬鹿らしくなってくる。

「派手だな。あれいつもやってんのか?」

 お前も似たようなものだろ。そう思いながら俺は呆れを漏らすゼロノスに「俺達も行くぞ」と促し、取り敢えず味方らしいマッハと名乗るライダーの加勢に向かう。

 3人がかりとなれば、もはや敵に反撃の余地はない。自動走行で駆けつけてきたオートバジンのハンドルにミッションメモリーを挿す余裕が出てくる。

<tool:faiz edge>

 Ready

</tool>

 赤く輝く刀身を抜き、「決めるぞ」と俺が言うとゼロノスとマッハもベルトのエネルギー増強システムを作動させる。

<technique:number>

 <i:Hissatsu Fullthrottle Mach>

 <i:Full Charge>

 <i:Exceed Charge>

</technique>

 俺の斬撃の次に、剣をボウガンに変形させたゼロノスの弓撃(きゅうげき)、そして最後にはマッハのキック。吹き飛ばされたチーターカタツムリの頭が垂れるのを見届け、俺達はベルトから変身ツールを抜き取る。

「よーし、やったね!」

 鎧が消滅すると同時に、マッハに変身していた男が威勢よく声をあげる。

「お前後から来たくせに調子いい奴だな」

 侑斗が皮肉を飛ばすも、青年は「細かいこと気にすんなって。あんたも結構強いな」と気を悪くした様子はない。いかにもお調子者という言葉の似合う、まだ顔立ちに青さのある男だ。そんな青年の調子に着いていけないのか、侑斗は顔を背けて舌打ちする。俺もこの手の人間は受け付けない質だから、侑斗と同様にそっぽを向く。

 戦いを終えたのか進ノ介が走ってきて、こっちも終わったことを確認して安堵の表情を浮かべる。

「ていうか、あんたら一体何者なんだ?」

 青年が声に険を帯びさせる。

 それはこっちの台詞だ。そう言おうとしたとき、青年の首に背後から白の血に濡れた極太の触手が巻き付く。不意打ちに対処できず青年はずるずると引きずられ、その先にいる倒したと思っていたチーターカタツムリに捕らえられる。

「こうなったらひとりでもライダーを道連れにしてやる」

<shout>

「やめろ!」

</shout>

 進ノ介が叫びと共に駆け出す。俺と侑斗も駆け出すが、辿り着く前にチーターカタツムリの頭に仕込まれた爆弾が炸裂し、青年を爆炎が包む。空気が熱され、熱風が頬を撫でると焼かれそうでそれ以上進むことを躊躇する。

 煙が風に流されると、()えた臭気を放つ敵の肉片と、それに囲まれ顔の半分以上が焼けただれた青年が横たわっているのが見えてくる。

<shout>

(ごう)!」

</shout>

 あいつ、剛って名前だったのか。名前を呼びながら青年に駆け寄る女を見て、俺は不謹慎にもそう思った。

「剛、しっかりして」

 女が肩を揺さぶり、青年の意識を呼び戻そうと試みる。焼けて収縮した目蓋を持ち上げた青年は、虚ろになった瞳を女に向ける。

「姉ちゃん………」

 声を絞り出した青年の目蓋が閉じられ、その頭が力なく垂れる。「剛……、ねえ剛」と呼びかける女の目から涙が溢れた。涙が青年の顔に落ちていく様子を、俺と侑斗は見届ける。

 かけてやる言葉なんて見つからなかった。

 オルフェノクがいなくなっても、世界は何も変わっていない。こうして誰かが死ぬ様を見せつけられ、自分の無力さを呪い続けることすらも。

 

<countdown>

 <i:3>

 <i:2>

 <i:1>

 <i:Time Out>

</countdown>

 

 

   04

 

「おい、いつまでふーふーしてるんだ?」

「別に良いだろ。お前こそ砂糖入れ過ぎじゃないのか?」

「俺の勝手だ」

 コーヒーに砂糖を入れ続ける侑斗にそれ以上の皮肉は言わず、俺は自分のコーヒーを一口啜る。まだ熱くて、再び息を吹きかける。何が悲しくて男ふたりカフェでコーヒーを飲むために悪戦苦闘しているのか。これも侑斗が席につくなりウェイトレスに「コーヒーふたつ」とすぐ注文したせいだ。いい歳して恰好つけることでもないだろうに。

 俺達のいるショッピングモールのどこからか、悲鳴が聞こえてくる。俺は侑斗と視線を交わし、席を立って悲鳴のもとへと駆け出す。予想通り、黒装束の人造人間たちがアリのように群がって人々を襲っている。

「数が多すぎる………!」

「泊を呼びに行くぞ」

「ああ」

 俺と侑斗はカフェに戻ってバイクを駆り、混沌から離れて仲間がいるはずの運転免許試験場へと向かう。

 エレベーターで地下へ降り、秘密裏に建造されたガレージの扉を乱暴に開けた侑斗が中へ入り、俺も続く。まだこの辺りは敵の侵攻を受けていないから、佇んでいた進ノ介は事に気付いていないようだった。

「泊、事件だ!」

「ショッカーが暴れてる」

 「何だって? 行こう!」と進ノ介はベルトのバックルを手にして、ガレージに停めてある愛車に乗り込んだ。

 

 

   05

 

 ショッピングモールに戻ると、状況は更に悪化している。

 人々に襲いかかる戦闘員たちを率いる幹部が、混沌をまるで演劇を鑑賞しているように哄笑している。

「チーターカタツムリか」

 バイクから降りた俺は、無意識にその名前を言う。そこで、俺は違和感を抱いた。

「知ってるのか?」

 ベルトを手にした侑斗が聞いてくる。俺は答えに迷う。あのショッカー幹部を俺は初めて見るはずだ。なのに何で名前を知っている。とはいえ、そのことに答えを探しあぐねている暇なんてない。今はこの状況を鎮めることが先決だ。

「何だっていい。行くぞ」

 バイクのシートに括り付けておいたケースから、ベルトを取り出しながら俺は言う。府に落ちない様子を見せるが、侑斗は「ああ」と応じて共に混沌の渦中へと飛び込んでいく。悲鳴の合間から、車のタイヤが地面に擦れる音が聞こえてくる。進ノ介が到着したらしい。

「そこまでだショッカー!」

「罪のない人々を傷付けるのを見過ごすわけにはいかないな」

 俺達は腰にベルトを巻く。侑斗は電車のパスに似たゼロノスカードを掲げ、俺はフォンにコードを入力する。

<change:sequence>

 <i:5・5・5・ENTER>

 <i:Standing by>

</change >

 

「変身!」

 

<change:number>

 <i:Complete>

 <i:Altair Form>

</change >

それぞれの鎧を身に纏い、俺はファイズに、侑斗はゼロノスに変身する。

「最初に言っておく。俺はかーなーり、強い!」

 いつものゼロノスの口上には敢えて追求せず、俺は駆け出す。

「変身!」

<change>

 Drive type Speed

</change>

 遅れて進ノ介の変身したドライブが渦中へ飛び込んできた。その赤と黒の体が、間抜けにも何かに躓いたようでうつ伏せで倒れるのを、俺は戦闘員のひとりに組み付きながら見やる。

 何やってんだ、と言おうとしたところで、ドライブの足からロープのようなものが伸びていることに気付く。それは空虚から突然現れてきた。どこか生物じみたうねりをあげるロープはドライブの足から離れ、店舗の天井にいるもうひとりの幹部の右手に納まっていく。

<list:item>

 <i:全身から伸びるヒルのような触手>

 <i:カメレオンのようにぎょろりとした両眼>

</list>

 初めて見る幹部だ。今度は紛れもなく見覚えがなく、名前も知らない。奴が天井から飛び降りるとき、戦闘員が俺の胸に剣を一閃してくる。大したダメージじゃない。俺は目の前の敵の顔面に拳を打ち付け、中の爆弾が炸裂し頭が吹き飛ぶ様子を一瞥もせず、チーターカタツムリと戦っているゼロノスの助太刀に向かう。

 俺の蹴りで奴の体がよろめき、その隙にゼロノスが腹に剣を一閃する。傷口から白い人工血液が流れ出し、怒りに「おのれえ」と顔を歪めたチーターカタツムリはモールの奥へと走っていく。

「そいつは任せた」

 ゼロノスが別の幹部を相手しているドライブに告げて駆け出す。俺も後を追おうとしたところで、エンジン音を咆哮のように鳴らしながら誰も乗っていないオートバジンが走ってきて俺の傍で停まる。来る途中に戦闘員を何人か蹴散らしてきたのか、カウルに血がこびりついていた。

<tool:faiz edge>

 Ready

</tool>

 ミッションメモリーを挿したハンドルを引き抜くと、赤い刀身がぶーん、と唸りながら輝いている。剣を構え直し、俺はチーターカタツムリの走っていった方向へと駆け出す。

 しばらく走ると、ゼロノスがチーターカタツムリに剣を振りかざしているのが見える。腹の傷が響いたのか、奴はチーターの遺伝子が組み込まれている割には速く走れないらしい。俺は敵への到達と同時に、白い血に濡れた腹を剣で突く。

 吹っ飛んだチーターカタツムリはそれでも屈することなく立ち上がり、俺達に応戦する。まさかこいつは痛みを感じないんじゃないか、と思えてくる。人間の体を好き放題にいじくるショッカーなら、痛みの感覚を取り払うなんてやってのけそうだ。痛みを奪われた配下たちは自分の生命が危ういことに気付くことなく、ただひたすらに目の前の敵を殺すことに躍起になる。死への怖れを抱かずに。

 だとしたら、チーターカタツムリの動きを緩慢にさせているのは痛みではなく、失血による体の不具合だろう。全身の器官に十分な血液や酸素が行き渡っていない。だから痛みを感じなくても、奴は確かに自分の危機を感じ取ることができる。もっとも、ショッカーの改造人間は組織お手製の麻薬を使って、そういった感覚を麻痺させているようだが。兵士としてならどこまでも勇敢だ。

「レッツ、変身!」

<change>

 Signalbike Rider Mach

</change>

 不意にその起動音が聞こえてくる。

「追跡! 撲滅!」

 「いずれもマッハ!」と、飛び込んできた白のライダーがチーターカタツムリに渾身の蹴りを入れる。

「仮面ライダー、マッハ!」

 敵が地面を転がる間、追撃も入れずにポーズを決めるこいつの演出には付き合ってられない。「行くぞ」と俺は言い、「ああ」と返すゼロノスと共に駆け出す。

 3人がかりとなれば、もはや敵に反撃の余地はない。マッハが拳を打ち、怯んだ隙を突いて俺とゼロノスは同時に腹へ蹴りを入れる。白い血飛沫をあげながら倒れるチーターカタツムリは、「忌々しい」と恨み節を吐きながらそれでも立ち上がる。こいつらショッカーの執念深さというか、痛みを排除するテクノロジーの恩恵ってやつは気味が悪い。こんなゾンビめいた奴を殺すには、ミンチになるまで斬り刻むしかない。

「決めるぞ」

 俺は呼び掛ける。マッハはミニカーのバイクが納まったベルトのスロットカバーを開き、再び閉じる。ゼロノスはベルトから引き抜いたパスを剣から変形させたボウガンの柄に挿し込む。そして俺はフォンのENTERキーを押し、敵へ向かっていく。

<technique:number>

 <i:Hissatsu Fullthrottle Mach>

 <i:Full Charge>

 <i:Exceed Charge>

</technique>

 俺の斬撃が腹の傷をより深め、ゼロノスのボウガンから放たれた矢が胸を貫く。止めのマッハのキックによって体が大きく吹き飛び、チーターカタツムリは自分の真っ白な血の海に浸っていく。

 敵の沈黙を見届けた俺達3人は変身を解いた。

「やったね!」

 マッハのマスクに隠れていた顔を晒した詩島剛(しじまごう)が意気揚々と言う。「騒がしい奴だな」と俺が皮肉を飛ばすと、剛はやかましく絡んでくる。

「勝ったんだからもっと喜べよ。ほら、笑って」

「こういう顔なんだよ」

「どういう顔だよそれ」

 俺がそっぽを向くと、視線の先で剛の姉の霧子(きりこ)が安堵の表情を浮かべ、「侑斗もどういう顔なんだよ」と侑斗へ絡む弟を見ている。見慣れた婦人警官の制服姿じゃなくて私服だったから、一瞬彼女と分からなかった。今日は非番らしい。

 ふと、俺の視界の隅に戦いを終えたらしい進ノ介が入った。進ノ介はどこか怪訝な顔をしている。犠牲になった市民を想ってのことなのか、それともショッカーとの戦いがいつまで続くのかという不安なのか。

「ま、俺のマッハが一番良い絵だったけどな!」

 にやにやと笑う剛の表情がどす、という音と共に静止する。少し視線を下ろすと胸にぽっかりと穴が開いていて、その穴を開けた触手がゆらゆらと姿を現していき、剛の背後へと伸びていく。

 触手が胸から抜けると、剛はごほっ、と咳き込み鮮血を吐きながら崩れるように倒れる。

<shout>

「剛!」

</shout>

 叫んだ進ノ介を見やる。その背後、触手を右手に納めた進ノ介が倒したはずの幹部が、体中から白い血を流しながら俺達を見て笑い声をあげている。顔の造形が人間と全く異なっているから、どんな表情なのか分からない。

「お前も……、道連れだ!」

 断末魔を吐き捨てながらばんざいして、奴はうつ伏せに倒れる。衝撃で体内の爆弾が炸裂し、奴は辺りに爆炎と共に肉片と臓物、そして人工血液を撒き散らした。

 「剛!」と霧子が駆け寄り、弟の肩を揺さぶりながら涙声で呼び掛ける。ひゅーひゅー、と弱く呼吸をする度に、剛の口と胸から鮮血が流れ出す。心臓に直撃はしなくても、動脈か静脈かをやられたんだろう。胸膜の破れた肺のなかに血が侵入してきてもはや呼吸すらもままならない、と冷静にも理解できてしまう。

 自分の血に溺れた剛の目から生気が消失し、その頭が垂れる。

「剛……? 剛……!」

 泣きながら弟を呼ぶ霧子を見て、俺の胸にあったのは悲哀じゃなかった。こんな風に目の前で誰かが死んで、その遺族が泣き崩れる様子を前にも見たことがある気がする。過去にそれは見てきた。嫌というほどに。

 でも、今回は少しだけ違う。

<list:item>

 <i:死んだ者は剛>

 <i:泣き崩れる遺族は霧子>

 <i:それを傍観する俺と侑斗>

</list>

 こんな具体的な状況がそう遠くない以前、ついさっき体験したかのような既視感にとらわれる。おかしいことだ。

 世界は変わっていないと思っていた。でも、実は少しだけ変わっているのかもしれない。

 

 自覚できないほど、ほんの僅かに。

 

<countdown>

 <i:3>

 <i:2>

 <i:1>

 <i:Time Out>

</countdown>

 

 

   06

 

 先に現場に向かう 泊

 

 侑斗と久留間運転免許試験場に併設されたドライブピットへ駆けつけたとき、ガレージにはその書置きが残されていた。市民の通報を受けたのだろうか。何にしても、事は急いだほうがいい。今こうしている間にも、俺達がさっきいたショッピングモールではショッカーが人々を襲っている。

 バイクで現場に向かう道中に、剛と霧子はいた。2人も俺達に気付いたらしく、剛が「おーい!」と呼んでくる。俺達のバイクは戦闘用に開発されていて、外見も結構目立つ。

 2人の傍にバイクを停めると、剛が「どうしたんだ?」と俺に聞いてくる。

「ショッカーが暴れてる」

 ヘルメットも脱がず、俺は短くそう告げる。普段お調子者の剛は表情を引き締めて「どこだ?」と質問を重ねる。「ショッピングモールだ」と侑斗が告げると、「え?」と目を丸くした剛は同じ表情を浮かべた霧子と顔を見合わせる。霧子は言う。

「さっき泊さんから、ショッピングモールには近付くな、って連絡が来たんです」

 どういうことだ。俺には進ノ介の意図がまるで分からなかった。霧子だけならともかく、何で剛には現場へ向かえと要請しなかったのか。

「とにかく今は急ぐぞ」

 「ああ」と俺が、「俺も行く」と剛も応じる。俺はヘルメットのバイザーを下げて、クラッチペダルを踏み込みアクセルを捻ってバイクを走らせる。

 ショッカーはいつだって神出鬼没だ。何の前触れもなく、唐突に現れて世界に混沌をもたらす。俺達、仮面ライダー達はその度にショッカーを倒しその野望を阻止してきた。でも奴らはとにかくしぶとい。しばらく経てば再び戦力を揃えて今度こそ、と世界征服へと乗り出す。

 俺は考える。仮面ライダーである俺達のいる場所は、むしろ俺達を始末しようとするショッカーを呼びやすいんじゃないか、と。

 だとしたらこんな酷い話はない。人間を守るために戦ってきたのに、そこにいるだけで周囲の人々を危険に晒しているなんて。それでも、ショッカーがインフラを破壊して占領下に置こうと狙っているこの都市を離れるわけにはいかない。

 現場に到着すると、ドライブが3人の敵を相手しているのが見えた。チーターカタツムリと、ヒルカメレオン。あともうひとりは、初めて見る幹部だ。2人のお仲間と同じくグロテスクな組み合わせの。

<list:item>

 <i:人間サイズの巨大なアリの体>

 <i:ゾウのような長い鼻>

 <i:口の両端から曲線を描く双牙>

 <i:全身を覆う茶色の毛>

</list>

 進ノ介も警察の訓練で格闘技の心得くらいはあるだろうが、流石に3人相手だと分が悪い。バイクから降りた俺と侑斗は腰にベルトを巻き、走りながら変身システムを起動させる。

<change:sequence>

 <i:5・5・5・ENTER>

 <i:Standing by>

</change >

 

「変身!」

 

<change:number>

 <i:Complete>

 <i:Altair Form>

</change >

 俺はヒルカメレオンを、ゼロノスはチーターカタツムリをドライブから引き剥がし応戦する。戦闘用に体を調整されたからか、いくら拳を打ち付けても意に介さない。幹部なだけあって手強いが、敵わない相手じゃないはずだ。

 アリのような、マンモスのような幹部に突き飛ばされたドライブに、遅れてやって来た剛と霧子が駆け寄ってくる。

「進兄さん!」

「剛! 何でお前が?」

「家に帰る途中で巧と侑斗に会ってさ」

 「さ、一緒に」とベルトを手にした剛の手を、ドライブが阻むのが揺れる視界のなかで見えた。進ノ介のやつ、何考えてんだ。今は猫の手も借りたいときだってのに。

「駄目だ。ここは俺に任せろ」

「何で?」

「理由は後で説明する」

 ドライブは戦闘へ戻り、俺に掴みかかってきた幹部を引き剥がす。

「ベルトさん、頼みがある」

 戦いながら、ドライブが言う。何か考えがあるのか。意思を持った――正確にはドライブのベルトを開発した科学者の意識が移された――ベルトの「どうした?」という声が聞こえた。

 ドライブの言葉に意識を傾けようとしたところで、幹部が突進してきて俺と侑斗は突き飛ばされる。続けてドライブも殴り飛ばされ、幹部は自分のベルトを腰に装着しようとした剛へと向く。

「剛!」

 ドライブの声に、ヒルカメレオンの顔面に拳を見舞った俺は振り返る。幹部の双牙の間で迸るエネルギーが球体を成してプラズマの光を放っている。

<system: acceleration>

 Spe・Spe・Speed

</system>

 加速装置を起動させたドライブが駆け出すのと同時、幹部がエネルギー弾を放った。剛の前を赤いドライブの影が走り、そこにエネルギーが直撃し爆発する。ダメージで加速装置が解除されたドライブに、2射目が飛んで炸裂する。

 損傷を追ったドライブのスーツがスパークを散らし、辺りを爆発音と進ノ介の叫びが包んだ。

 煙と空気が熱されたことで生じる陽炎のなかで、スーツが消滅した進ノ介が力なく倒れる。ジャケットの下の白いシャツが、鮮血で赤く染まっているのが見えた。多分、爆発を至近距離で受けたせいで内蔵が破裂したんだろう。

<shout>

「泊!」

</shout>

 敵と間合いを取り、俺の隣に立ったゼロノスが叫ぶ。俺のなかでは怒りよりも疑問が先行していた。進ノ介は剛が戦うことを拒んでいた。まるで剛がやられると信じて疑わなかったかのように。

 疑問が解消されるのを阻むように、「次は貴様らの番だ!」と幹部達が迫ってくる。

「おいしっかりしろ! おい進兄さん!」

 剛の叫びが聞こえてくる。一瞬の間を置いて、霧子の「泊さん……?」という声も。その声色で俺は悟る。見やると、霧子が握っていた両手の間から進ノ介の手がするりと落ちて、地面に投げ出された。

「やだ……、泊さん!」

「進兄さん!」

 俺は叫んだ。叫びながらチーターカタツムリの顔面を殴り、倒れたその体を蹴り飛ばす。

 立ち上がろうとする奴に追撃の拳を振り上げようとしたとき、俺は視界の隅にいるものに気付き逡巡する。

 

「来るぞ」

 

 戦いの外苑に佇み、悲劇を無感情に眺めている海堂直也が、そう呟いたように聞こえた。

 

 瞬間、世界が静止した。

 

<countdown>

 <i:3>

 <i:2>

 <i:1>

 <i:Time Out>

</countdown>

 

 

</body>

</ltml>

 




 今回の文体は伊藤計劃先生の著書『ハーモニー』をオマージュしたものです。はい体の良いパクリです。ごめんなさい。

 ですが、パクった理由はあるのです。それに、私は伊藤計劃先生を尊敬しております! そうでなければこんな面倒くさい文体にしません。


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<part:number=monolog:title=Truth of the time/>

 巧のモノローグ、即ち『仮面ライダー4号』編は1話にまとめる予定でした。原作の改変は無い予定だったので消化不良に感じたら『4号』を観てください、とするつもりだったのですが、原作で進ノ介が語り部だったところを巧に、本作でμ’sとの出会いを経た彼に語り部を担わせることで原作とは見方の変わった、読者様が新しい発見のできる形の『4号』をお届けできるのではと思い、原作通り3話構成にすることにしました。

 ラブライバーの皆様にとってはμ’sの出番が無くて物足りなく、また結末を知る『555』ファンの皆様にとっては酷ではあると思いますが、どうか見届けていただけたら幸いです。


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<ltml:lang=ja>

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   01

 

「おい、いつまでふーふーしてるんだ?」

 オープンカフェで俺の向かいに座る侑斗がからかってくる。別に良いだろ、と言おうとしたところで俺は逡巡する。

<bewilderment>

 何かがおかしい。でも、何に対して違和感を覚えているのかが分からない。

 侑斗とこうしてコーヒーを飲むなんて今が別に初めてなわけじゃない。戦いの合間のひと時として、こうして喫茶店で腰を落ち着けるのは貴重な安らぎだ。

 よくある事。日課のような時間なのに、俺は何かがおかしいと感じている。毎朝、顔を洗って歯を磨くことに違和感なんて覚えない。ごくありふれたこの時間に何かが潜んでいる。

 とても曖昧で、でも確実な何かだ。

 俺はカップのコーヒーに映る俺の顔を眺める。そこにいるのは眉を潜める俺自身だ。疑問に対する答えを持っているとは思えない。

</ bewilderment>

「侑斗。この店、前にも来たことあったか?」

 俺が聞くと、侑斗は店の看板を見上げて「いや」と俺に向き直る。

「初めて来た店だ。最近できたばかりらしいからな」

 そう、この店はつい最近オープンした。どんな店だろう、というささやかな好奇心から、俺達はこの喫茶店を選んだ。

「どうしたんだ?」

 侑斗が聞いてくる。俺はコーヒーに映る自分から目を逸らさずに答える。

「何となく、この後何かが起こる気がする」

「何かって、何がだ?」

<tension>

「分からない」

 俺は立ち上がった。勢いあまって椅子が倒れるが、それも構わずに続ける。

「でも、これからやばいことが起こるんだ。とにかくそんな予感がする」

 「落ち着け」と侑斗が言う。

</tension>

 そこで俺は周囲を見渡す。他の客達が俺を不審な眼差しで見ていて、一瞬でも視線が合うと顔を背けさせる。

 「悪い」と言いながら椅子を起こし、腰掛ける。侑斗はカップの中身をスプーンでかき回しながら言う。

「少し疲れてるんだ。休む暇もなかったからな」

 確かに、この数年間は忙しすぎた。「敵」は倒しても倒しても蜂起して世界征服に乗り出して、どこから涌いて出てくるのか根城を叩こうと探し回ったが一向に見つからない。もしかしたら、連中が紛れ込んでいる人間の社会こそが、奴らの拠点なんじゃないか、と思えてくる。

 だから、俺達は万一のためにこうして街に留まっているしかない。俺達は緊急時でなければ動けない。俺は気を張り過ぎているのだろうか。まるでつい最近まで戦場にいて、自宅で家族と穏やかに過ごすひと時でも戦場の緊張と興奮が冷めない帰還兵のように。

 そろそろ冷めた頃合いのコーヒーを啜ろうとしたとき、悲鳴が聞こえてくる。咄嗟に顔を向けると同時に、俺にはやっぱり、という確信があった。予感は確かだった。

 ウジみたい涌く、ショッカーによる侵略が始まった。

 

 

   02

 

「泊、事件だ!」

 ドライブピットの扉を開けると同時、侑斗が言う。ガレージで佇む進ノ介は「分かってる」と俺達を鎮めるように言った。まるで俺達が来るのを待っていたようだった。

「その前に、聞いてほしいことがあるんだ」

 「何言ってんだ」と侑斗が詰め寄ろうとするが、俺は「待て」と手でそれを制す。

「聞かせてくれ」

 ショッカーは街で暴れている。ここで悠長におしゃべりなんてしている場合じゃない。でも俺は、危機感よりも好奇心が先行している。進ノ介はもしかしたら、俺と同じ違和感を抱いているのかもしれない、と。

 進ノ介が話したことを要約すると、こうだ。

<list:item>

 <i:俺達は同じ時間を繰り返している>

 <i:時間が戻る度に記憶もリセットされる>

 <i:だから時間の繰り返しに気付くことができない>

</list>

 進ノ介が告げたことを要約して、俺は悟る。俺が抱いていた違和感。あれはデジャヴってやつだ。初めて体験するはずが、なぜか以前にも体験したように錯覚する不可思議な認識。

 この時間が繰り返されているなら、「今日」という日は何回目の「今日」なのか。俺は何度、侑斗とショッピングモールでコーヒーを飲んだのか。俺は何度ショッカーに襲われる人々を見たのか。そして何度戦ったのか。

 数えようにも、記憶がごっそりと抜け落ちているから分からない。時間の繰り返しなんて荒唐無稽なことが事実だとしても認識のしようがない。でも、進ノ介は例外のようだ。

「だとしたら、お前の記憶もリセットされてるはずだ。どうして時間が戻ってるって分かる?」

 俺の質問に、進ノ介はきっ、とまなじりを上げて答える。

「俺が死んだからだ」

 なぜそれが時間の繰り返しを認識できる根拠なのか。たとえ前の時間で死んだとしても、死ぬ前の時間まで巻き戻ればその記憶もリセットされているはず。

 「ベルトさん、俺のデータを」と進ノ介は後ろへと振り返る。視線の先にいるのは人ではなく、台座に乗ったベルトのバックルだ。

 進ノ介をドライブに変身させるドライブドライバー。それは単なる変身装置ではなく人格を持った機械だ。人工知能、とはまた違う。既に亡きベルトを開発した科学者クリム・スタインベルトが、自らが開発したアンドロイドに殺される前にベルトへ人格を移していたらしい。だからこのベルトさん――命名したのはネーミングセンスが破滅的な進ノ介だ――なる機械は生前のスタインベルトその人とも取れるし、あくまでコピーされた人格だから別人とも取れる。「自分」が「クリム・スタインベルト」と認識できるか否かは、この機械のみぞ知ることだ。

「私は装着者の健康状態を常に監視している」

 ベルトさんがそう言うと、彼――「それ」と呼ぶべきかは迷い所だ――を乗せた台座が搭載された映写機の光を放ち、スクリーンのない宙にホログラムが投射される。映っているのは、心拍数や脳波の波長とその他こまごまとした進ノ介のメディカルデータ。

「進ノ介に言われて、そのデータを書き換え不可能な領域に移動した」

 ホログラムが赤のレイヤーに覆われ、deadというロゴが浮かび上がる。

「進ノ介は確実に一度死んでいる。しかも、ついさっきだ」

 ホログラムが消えた。ベルトさんの示すデータを踏まえ、進ノ介があとを引き継ぐ。

「記憶は曖昧だけど、誰かが死ぬ度に時間がリセットされてる」

 多分この時間のリセットは何度も敢行されたんだろうな、と俺は考えていた。何度も繰り返されていくうちに進ノ介は俺と同じデジャヴを感じ取り、ベルトさんに自分の死を記録させた。この発見に至るまで誰が何度死んで、時間が巻き戻っているのかは分からない。進ノ介だけじゃなく侑斗も、剛も、そして俺も、反復する時間のなかで死んでいるのかもしれない。

「認めるしかないみたいだ」

 侑斗がため息交じりに言う。

「何とか、この繰り返しから抜け出す方法を考えないと」

 進ノ介の言う事はもっともだ。この世界の歪みを修正しないと、「今日」という時間は永遠に繰り返される。誰かが死ぬと世界はそれを無かった事と忘却し、人々は明日が来ると疑わないまま同じ時間を過ごし続ける。

 停滞なんてさせない。俺が人間を守るという意思を確固なまま保つために。

「繰り返す度に、事態は悪くなってる」

 進ノ介の言葉に、俺は思わず「どういうことだ?」と聞いている。

「ショッカーの勢いが増してるんだ」

 それはつまり、時間がリセットされても同じ出来事が必ず繰り返されるわけではないということだ。俺達は前の体験を覚えていなくて、振り出しに戻る。でもショッカーは時間を繰り返す度に組織としての力を増していき、世界征服に近付いていく。

 こんな敵にとって都合の良い現象は、明らかにショッカーの仕業だ。神の加護なんかにしては贔屓が過ぎている。

 「そいつは不味いな」と侑斗が腕を組む。俺も外の状況を思い出し、ドアへ向かって歩き出す。「どこ行くんだ」と進ノ介が言ってきて、俺は足を止める。

「こうしている間にもショッカーは暴れてる。敵が勢いを増してるなら尚更だ」

「待ってくれ。言ったろ。誰かが倒れる度に――」

「だからって、ショッカーを黙って見てろって言うのか?」

 時間がリセットする引き金は誰かの死。それを防ぐための方法なんて簡単だ。

「死ななければいいんだよ」

 そう言って俺はドアを開けて、ドライブピットを後にした。

 

 

   03

 

 オートバジンで現場へ向かう途中、対向から急停止して行く手を阻んだバイクに舌を打つ。こんな時に何だってんだ、と思いながら俺はオートバジンを停止させる。

<surprise>

 苛立ちは一瞬で消え失せる。大型のネイキッドバイクに跨る男の面影は見間違えようがない。

 俺はヘルメットを脱いでシートから降りると、目の前に忽然と現れた男の名前を呼ぶ。

「海堂」

 男はゴーグルをヘルメットへ上げ、緊張感も無くにやにやと笑みを浮かべながら言った。

「よう乾、久し振り」

 それは、まさに海堂直也だった。数年前、オルフェノクを滅ぼす戦いの直後に去っていった海堂そのものだ。数年という時間で年齢を重ね、肌の張りがなくなりかけて目尻のしわも目立ってきているが、「まあまあ」と落ち着きなくシートから降りる挙動はまるで変わっていない。

</surprise>

 とはいえ、俺も30歳を越えて老いを感じ始めているが。

「ほらご覧なさい。いいお天気、ねえ」

 へへへ、と笑いながら歩いてくる海堂を、俺はじっと見つめる。確かに今日は雲ひとつない晴天だ。同じ空はひとつとしてない、とか誰かが言ってた気がするが、この青空は何度も存在しているものだ。

「ちゅーか今日はよ、頼みがあって来たわけ」

 「頼み?」と俺は身構えながら尋ねる。数年振りに現れて何を要求してくるつもりだ。

 海堂は普段とは正反対な、真面目な顔つきをした。

「この件から手を引け」

「この件……。時間が繰り返してることか?」

 俺の質問に海堂は応えず、代わりにその場で土下座をする。勢いをつけすぎて、ヘルメットがアスファルトに当たるごつん、という音と海堂の「いて」という声が聞こえてくる。こいつにとっては大真面目かもしれないが、こんな姿勢の崩れた土下座なんて相手の神経をむしろ逆撫でするだけだろうに。

 でもこいつのふざけた姿を見て、ああこいつやっぱり海堂だな、と安心してしまう。

「頼む。ほら見て見て、俺様がこんなんなってんだぞ。これは頼み聞いてくれんだろ」

 普通は聞かねえよ、そんな態度。

 呆れながら俺は最も重要な質問を選別する。

「何か知ってんのか?」

「理由は説明できん。でもそうしてくんないともっと悲劇が起きることになる!」

 こいつに説明を求めたことが間違いだった。数年振りの再会のせいかこいつの性分をすっかり忘れていた。

「いま急いでんだ後にしてくれよ」

 ハンドルにかけたヘルメットを取ろうとすると、「何だよお。え、も、も、もう行っちゃった? ちょ、ちょっと待って」と海堂は伏せていた頭を上げて、その顔に見るのが随分久しい黒の筋を浮かび上がらせる。

「しょうがねえなあ。変身!」

 海堂の体が、灰色のスネークオルフェノクに変貌して立ち上がる。

 スネークオルフェノクが振り下ろす拳を避けながら、俺は「海堂!」と呼びかける。何度かの拳と回避の応酬のなか、俺はこの状況ならではの推測を口にしている。

「お前もしかしてショッカーに――」

 スネークオルフェノクが掴みかかってきた。腕に込められた力の不自然な弱さに俺は逡巡する。オルフェノクの筋力だったら、人間の姿のままでいる俺なんて簡単にねじ伏せてしまうはずだ。海堂は明らかに手加減している。

 どこからか、銃声と共にスネークオルフェノクの首筋が光弾で穿たれる。不意打ちに地面を転がるスネークオルフェノクへ、次に光弾が飛んできた方向を俺は見やる。

 白の鎧に首元のマフラーを翻し、マッハが飛び込んでくる。マッハは手にした銃身をスネークオルフェノクに打ち付け、「やめてくれ」という俺の声には耳も貸さずに攻撃を続ける。

<tool:Zenrinshooter>

 Zenrin

</tool>

 マッハが銃身に備え付けられたホイールを回した。ホイールが青く光り、エネルギーが蓄えられた銃身がスネークオルフェノクの腹をしたたかに打つ。

「ちょ、お前何だ一体!」

「何だじゃねえ!」

 一方的な戦いを傍観するのに耐え切れず、俺は「やめろ!」と追撃を加えようとしたマッハの腕に掴みかかる。生身のままだから容易に振りほどけるが、マッハはそうせず俺に青い眼を向ける。

「あいつは仲間なんだよ」

 「え?」と漏らし、マッハはスネークオルフェノクを見やった。散々殴られ蹴られたスネークオルフェノクは息をあえがせ、それでも発せられる「何だこの!」という声にはやはり緊張感が感じられない。

「覚えてろよ」

 小悪党じみた捨て台詞を残して、スネークオルフェノクはよろけた足取りで走り去っていく。マッハは追おうと体を半歩だけ進めるが、足を止めて俺に向き直る。

「だったら何でお前を襲ったんだよ?」

「それは………」

 どう説明すればいいのか分からなかった。俺から答えを得ることを諦めたマッハは、苛立たしげに俺の腕を振りほどく。

 海堂が何の目的をもって現れたのか、俺にも分からないのだから。

<change: disarmament>

 Otsukahre

</change>

 バックルから変身に使うバイクの模型を抜いて、マッハのスーツが消滅する。

「お前は何でここに来たんだ?」

 突然のことだったから、疑問が今更になって湧いてくる。剛は憮然とした表情で答える。

「姉ちゃんと映画観に行ってたら進兄さんから安全な場所にいろって連絡が来てさ。何かあると思ってその辺走ってたらお前があいつに襲われてるの見たんだよ」

 「何でまた……」と俺は呟く。霧子だけならともかく、貴重な戦力の剛まで避難させるなんて。

「それより、ショッカーが暴れてる」

 「何だって」と剛は目を見開く。意図なんてものは後で進ノ介から聞けばいい。最も優先すべきことは、ショッカーがもたらした混沌を鎮めること。

 誰かが死ねば時間が巻き戻され、ショッカーは更に勢いを増す。ならば死なずにショッカーを倒せば済む話だ。

 立ち止まって面の皮厚く人々を見捨ててしまえば、俺達の存在する意味が失われる。

 

 

   04

 

 ショッピングモールの壁を血飛沫が彩っている。床なんて一面が真っ赤だから、元は何色のタイルが敷かれていたかなんて分からなくなっている。床に広がる血をびちゃ、と鳴らし、靴とズボンを飛沫で赤く汚しながら生者たちが戦闘員から逃げている。床に転がる死者たちには目もくれず。

<list:item>

 <i:太鼓腹を裂かれて腸を零した中年男>

 <i:顔の右半分を抉られて脳味噌を零した若い女>

 <i:平たい胸に開けられた穴を血で埋めようとしている少女>

 <i:サッカーボールみたいに転がる少年の顔>

 <i:血>

 <i:血>

 <i:血>

</list>

 死体のバリエーションはとにかく豊かだ。リアルタイムでショッカーが生産する死体たちの間を縫って、ファイズに変身した俺とマッハに変身した剛は混沌へと走っていく。

 標的はチーターカタツムリとヒルカメレオン。

 なるほど、確かに時間は繰り返していると確信できる。俺はこの2体の幹部を初めて見るはずが、名前を知っている。こいつらと何度も戦っているが、俺はその度に記憶が起点に戻ってこいつらの力を探りながら相手しなければならない。

 チーターカタツムリの殻を砕くと、粘り気のある白い人工血液が亀裂の間から漏れ出す。腹を蹴り飛ばし、びちゃりと奴が血に濡れた地面に倒れると、俺はベルトから外したポインターにメモリーを挿す。

<tool:Faiz pointer>

 Ready

</tool>

 「貴様あ……」とチーターカタツムリが立ち上がる。こんな奴に俺達は何度も負けたのか。前の時間での自分自身に苛立ちながら俺はポインターを右脚のホルスターに付け、フォンのENTERキーを押す。

<technique>

 Exceed Charge

</technique>

 高く跳躍した俺の右脚、そこに装着されたポインターから赤い光線が放たれる。光線はチーターカタツムリの寸前で傘のように開き、その傘へ俺は右脚を突き出してキックを放つ。

 傘へ吸い込まれた俺の体はドリルのように敵の体を掘削しようとするが、なかなか掘り進められない。チーターカタツムリは肉の感触を持ちながらも固く、エネルギーを高めたキックでもその体を貫くことができず俺は跳ね返される。

 地面を転がった後に、俺は店舗の壁に叩きつけられたチーターカタツムリを見やる。腹から白い血を流しながら奴は俺をじっと睨むも、その頭を垂れて動かなくなる。

 敵は時間のループを経る毎に強くなるようだが、今の段階なら勝機はまだ俺達にある。確かに手こずる相手だが、進ノ介と侑斗が来ればこのループを終わらせることができるはずだ。

 俺はヒルカメレオンと戦っているマッハに加勢する。こいつにも必殺のキックをお見舞いすれば、この混沌は鎮まるはずだ。ポインターを右脚に付けたまま、俺はマッハと共に拳を打ち、蹴りを入れていく。

<formchange>

 Signalbike Shiftcar Rider Dead Heat

</formchange>

 ベルトのアイテムを交換したマッハが、ドライブに似た赤い装甲の形態に変わる。

<technique>

 Hissatsu Fullthrottle Dead Heat

</technique>

 俺の渾身の拳を受け、地面に伏せたヒルカメレオンへ赤く燃え上がるようなエネルギーを纏ったマッハが斜め上空からキック体勢で飛んでくる。よろめきながらも立ち上がったヒルカメレオンは顔面にキックを食らった。マッハの周囲に陽炎を発生させるほどのエネルギーと、ヒルカメレオンの頭に埋め込まれた爆弾が炸裂して体内からの爆炎で張り裂ける。

「良い()だった――」

 焼け焦げた敵の肉片が飛散していくなか、地面に降り立ったマッハは言葉を詰まらせた。一瞬を経て「思い出した」と。

「こいつを倒した後………」

 何を思い出したんだ、と聞こうとしたとき、不気味な笑い声が聞こえてくる。視線を向けると、さっき沈黙したはずのチーターカタツムリがゆっくりと粘液で照りつく左腕を振り上げている。だが確かにダメージはあるらしく、奴が歩いてきた軌跡にはしっかりと腹から流れ続ける白い血が残されていた。

 マッハは呟く。

「………死んだんだ」

 「ほらよ!」とチーターカタツムリが左腕を振る。腕から飛び散った紫色の毒々しい粘液がマッハにかかるとゲル状に変わり、わずか数秒足らずで瞬間接着剤のように凝固していく。

 「動けない……!」とマッハは身じろぎするが、かけられた凝固剤は更に固まっていき完全に立ったままの姿勢を固定させられる。「食らえ!」と掲げられたチーターカタツムリの両腕の間にエネルギーが迸り球形を作っていく。

「剛!」

 俺は左腕の腕時計型デバイスからメモリーを抜き、フォンに挿した。

<formchange>

 Complete

</formchange>

 胸の装甲が開き、形態を変えると同時に俺は駆け出す。

<system: acceleration>

 Start Up

</system>

 デバイスのスイッチを押すと、10秒のカウントダウン開始と同時に加速装置が起動する。一瞬で間合いを詰めた俺は跳躍する。脚に付けたままだったポインターから光線が放たれ、次に俺のキックがチーターカタツムリを爆炎へ変えるのに1秒も掛からなかったと思う。キックを食らう直前に奴は光弾の発射に成功したようで、それは既に発射地点から目標であるマッハまでの距離を半分以上飛んだところだ。

 四散した奴の肉片が背中にべちゃりと落ちたのも構わず、俺はすぐさまマッハへと走り出した。光弾よりは俺のほうが速い。手が届くまであと1メートルを切り、俺は手を伸ばす。

 そして、目の前で光弾が炸裂した。

 すぐ近くにいた俺は吹き飛ばされる。ゼロ距離でのダメージが相当堪えたのか、まだ5秒残っていたカウントが止まり、フォンが電子音声を鳴らす。

<formchange>

 Reformation

</formchange>

 加速が終わり、胸の装甲が閉じられる。煙とまだ燃え残っている炎のなかで、マッハのスーツが消えた剛が横たわりながら体をびくん、と痙攣させている。肺が破裂したのか、こひゅー、と弱い呼吸をする度に咳と共に血を吐き出している。

<shout>

「剛! 剛、しっかりして!」

</shout>

 いつからいたのか、駆け寄ってきた霧子が剛の肩を揺さぶって意識を繋ぎとめようとしている。それと同時に、進ノ介と侑斗が走って来た。どこで何をしていたのか。それを追求するのに既に事態は遅すぎる展開にまできている。

「俺達のなかに壊れた歴史改変マシンを動かすほどの、強い想いを持った人間がいたんだ」

 剛と、剛を揺さぶる霧子を見て進ノ介が言う。その目は陰を帯びているが、悲しみとはまた違う色だ。進ノ介と侑斗は何かを知ったのだろうか。この時間のループの真実を。

「姉…、姉ちゃん……――」

 眼球内の血管が切れたのか、真っ赤になった剛の目が閉じられる。微かに聞こえていた弱い吐息が消えた。

 どうしてこうなるんだ。俺は「剛…」と泣きながら弟に呼び掛ける霧子を見つめながら、自分の無力さを呪った。あのときチーターカタツムリを確実に始末しておけば、死んだと確認しておけば、こうはならなかったのに。俺はいつもそうだ。ようやく手を伸ばしたときには手遅れで、全部が最悪の結末へと向かってしまう。

 ごめん、霧子。

 あんたの弟を、助けてやれなかった。

 ごめん。本当、ごめんな。

「それは、剛に生き返ってほしいと願う霧子だったんだ」

 悟った進ノ介の言葉の後に、全てが静止する。

 

 俺はあと、何度この光景を見せられる。

 何度、誰かの死を見れば、このループは終わるんだ。

 

<countdown>

 <i:3>

 <i:2>

 <i:1>

 <i:Time Out>

</countdown>

 

 

   05

 

 「気付いた」とき、俺は自分がカフェでコーヒーを冷まそうとしていることに激しく動揺した。ついさっきまで剛の亡骸を霧子が揺さぶっているのを見ていたはずなのに。

 それが、時間が巻き戻ったと理解するのにしばらくの時間が必要だった。剛が死んだという「さっき」の記憶。侑斗とカフェに入ったという記憶も「さっき」のはずで、同じ時間帯でありながら全く様相の異なる記憶が俺の頭に駆け巡っている。まるで、場面の繋がりにまったく取り纏めのない映画を見せられたような困惑だ。雨が降っているシーンが次へ切り替わったとき、場所も時間も同じシーンのはずなのに何故か雨が止んでいるような、そんな違和感。

 侑斗も俺と同じらしく、コーヒーをかき回すスプーンを止めて頭を押さえつけていた。

「泊のところへ行くぞ」

 鬼気迫った顔で言う侑斗に、俺は黙って頷く。状況を整理するには、まだ頭を冷やさなければならなかった。

 

 

   06

 

 ドライブピットには皆が集まっていた。俺と侑斗と進ノ介と霧子。そして、死んだはずの剛が。

 ここへ来る間に、俺は時間にまつわる歪みを全て思い出した。どうやら時間の繰り返しによる記憶リセットも、完璧というわけじゃないらしい。侑斗と進ノ介も「さっき」のことを覚えていて、せっかくの非番に呼び出されて不貞腐れた霧子と剛にまずこの時間の歪みについて説明しなければならなかった。

 まず、どうやって真実を知ったのかを説明しなければならない。

 侑斗の持つ列車、ゼロライナー。

 正しい時間の運行を守るために誰が製造したのかも分からない列車は過去と未来、制約はあるそうだが時空を超えるタイムマシンでもある。時間を遡る術を持つ侑斗は時の列車に乗って過去へ行き、この時間の繰り返しの原因を見つけ出した。

 歴史改変マシン。

 ショッカーが世界征服のために作り出した、名前の通り歴史を改変させる力を持った究極の機械。

 ショッカーはマシンで本来の歴史なら存在しない最強の改造人間、仮面ライダー3号を生み出した。3号はショッカーを滅ぼした1号と2号を葬り、天敵がいなくなったショッカーが世界征服を達成する歴史をもたらす。

 多くの仮面ライダー達がショッカーの傘下に入る世界で、人間を解放するために反旗を翻したライダー、即ち俺達が歴史改変マシンを破壊することに成功した。

 大きな犠牲を払った末に偽りの時間は終わり、世界は元に戻ったはずだった。でも、壊れた歴史改変マシンは再起動し、ショッカーによる世界侵略は再開される。

 進ノ介は敵の幹部から重要なことを聞いていた。

 壊れた歴史改変マシンを動かしていたのは、俺達のなかにいる強い想いを抱いた者。

「私のせいで、時間が………」

 全てを聞いた霧子が、戸惑いと懺悔の入り混じった声を漏らす。

 進ノ介がマシン再起動の鍵として見出したのは彼女だ。

 弟に生きてほしいと願う霧子、と。

「その可能性はかなり高い」

 進ノ介はあくまで冷静に言う。続けてベルトさんが。

「それが本当なら、この繰り返しを抜け出すためには、歴史改変マシンを壊すしかない」

 「だったら」と剛が切り出す。

「早くそいつを見つけて完全に壊せば――」

 「そうしたいのは山々だが、簡単な話じゃない」と侑斗が遮った。「どうして?」と苛立たしげに剛が聞く。俺も話を聞きながら気掛かりだった。歴史改変マシンを動かす鍵が、どうして霧子でなければならないのか。

 俺がそれを質問する前に、進ノ介が答えを告げる。とても辛そうに弱々しく。

「マシンを壊せば、元の正しい歴史に戻る。剛が死んだ歴史に」

 俺は悟った。進ノ介が濁していた大きな犠牲、それは剛だった。剛はマシンを巡る戦いのなかで死んだ。剛がこうして生きているのは、霧子の想いでマシンが時間を歪ませているから。時間の歪みを正せば、剛は死者として現世から消える。

「八方塞がりだな……」

 ベルトさんが言った。機械で表情なんて分からないから、声色から苦い気分と判断するしかない。

 俺は腕を組みながら、湧き上がる怒りを抑えつけるのに必死だった。大切な人に生きてほしいという願いに罪はない。霧子はただ家族を愛しているだけだ。彼女の剛に対する愛情が世界に混沌をもたらした。彼女の世界で最も純粋で美しい想いにつけ込んだショッカーへの憎悪が俺のなかで募っていく。

 あれほどお調子者で喋り好きだった剛が、無言でガレージから出ていく。「剛」と進ノ介が後を追った。

「そんな、剛が……」

 空虚を見つめる霧子が、嗚咽交じりに呟く。俺も侑斗も、彼女への慰めの言葉を見つけることができない。何を言っても無責任だ。何もせずにいたらショッカーが世界を手中に収めて、マシンの破壊に成功したら剛は死ぬ。

 俺はガレージのドアへと歩き出す。「巧?」と侑斗が呼んできて、俺は振り返ることなく冷静を繕って応える。

「外の空気吸ってくる」

 エレベーターが来るのも待ち遠しく、俺は非常階段を上って地上に出る。正面玄関の自動ドアを潜ろうとしたところで、「どこに行くつもりだ?」という進ノ介の声が聞こえてくる。俺は玄関の陰に隠れて、進ノ介と剛を見つめる。

 「八方塞がりなもんか」と剛は言った。

「俺が死ぬ。ただそれだけだ」

「お前それだけってな――」

「こうしている間にも、ショッカーの世界征服にどんどん近付いてくんだろ?」

 剛が進ノ介に笑みを向けた。

「簡単じゃないか。俺の命と引き換えにこの世界を守る。世界を守ってカッコよく死ぬってのも悪くない」

 ああ、あの目だ。あの眼差しを俺は知っている。死ぬだなんて笑いながら言う、趣味の悪すぎる冗談を知っている。同じ目をした奴がいた。俺に命を分けてくれたあいつと、剛の顔が重なった。

「馬鹿馬鹿しい」

 そう言いながら、俺は陰から出て剛へと歩み寄る。「何?」と剛があくまでからかうように聞いてくる。その顔が更に俺を苛立たせる。

「本気でカッコいいと思ってんのか? いるんだよなあ、そういう馬鹿が」

「俺が馬鹿だって言うのかよ……!」

<anger>

「大馬鹿だろうが!」

</anger>

 我慢の限界だった。思わず年甲斐もなく怒鳴ってしまう。

「お前は満足かもしれないがな、残された奴どうすんだよ? ずっとお前を死なせたことを、胸のなかに抱えちまう」

 剛、お前は何も分かっちゃいない。死者っていうのは残された生者を呪縛するんだ。たとえ最期に残した言葉が祝福だろうが怨恨だろうが、この呪いは絶対に解けない。自分が悪かったんじゃないか、自分がその死の原因なんじゃないか、ってな。そういった想いと記憶にずっと苦しめられる。忘れようとしても不意に思い出すし、眠っているときに夢として現れる。霧子がお前を想う気持ちが大きければ大きいほど、苦しみも肥大してくんだ。お前はそんな呪いを霧子にかけるつもりなのか。

 喉まで出かかった説教を一旦噛み砕き、代わりにため息として吐き出す。

「………もうたくさんだ。誰かが犠牲になるのは」

 俺が呟いた言葉の後に、暗い沈黙が漂う。こんな気分でも空は晴天だ。この晴天を曇り空や雨空へ変えるのに、世界は剛という代償を求めている。

 やっぱり、オルフェノクがいなくなっても世界は変わっちゃいない。調和のために過酷な代償を求め続ける。

 進ノ介が沈黙を破った。

「考えよう。何とか全員で、この繰り返しから抜け出せる方法を」

 

 

   07

 

 時間のループから抜け出すのに最適なのは、歴史改変マシンを破壊すること。でもそうしたら、剛は死ぬ。

 なら選択はもうひとつを取るしかない。マシンを破壊せず、ショッカーを倒し続けること。敵が現れれば倒す。何度現れようが、犠牲者をひとりも出すことなく勝てばいい。

 俺達が頭を振り絞って出した選択はとても厳しいものだ。歴史が改変されたままショッカーを叩くには、奴らの本拠地を見つけ出さなければならない。そしてマシンを見つけ出し、誰も破壊できないよう俺達が管理する。

 そうするには、街で暴れている幹部を倒しながら、本拠地を探す必要があった。役割を分担した結果、幹部は俺達が倒し、進之介と剛は本拠地の捜索ということになった。

 ショッピングモールに現れたショッカーの勢力は前よりも増している。それに伴い、屍の数も増えていた。

<system: acceleration>

 Start Up

</system>

 加速装置を起動させ、俺は敵の群れへと突っ込んでいく。すれ違い様に戦闘員たちの頭を拳で穿ち、埋め込まれた爆弾を炸裂させていく。渦中の中心にいる幹部たち。俺は跳躍し、奴らの周囲にポインターから放たれたマーカーを包囲させ、高速のキックを打ち込んでいく。

 チーターカタツムリとヒルカメレオンは仕留めた。飛び散った奴らの人工血液が、爆炎で焼かれ地面に焦げ付く。

<system: acceleration>

 Time Out

</system>

 加速が終わった。フォンからアクセル専用のメモリーを引き抜いて、俺は形態を元に戻す。

<formchange>

 Reformation

</formchange>

 俺はアリマンモスと戦うゼロノスに加勢した。後はこいつだけだ。こいつさえ倒せば、ひとまずはショッカーを食い止めることができる。後からまた次の幹部が現れるかもしれないが、そうなれば俺達が倒すだけのこと。

 戦いが永久に続こうが、構うものか。俺は戦うと誓った。ファイズとして、仮面ライダーとして。

 ゼロノスの剣がアリマンモスの牙を叩き折る。俺は奴の長い鼻を掴み、腹に蹴りを入れる。奴が飛ぶ際、俺の引っ張った鼻が千切れた。断面から流れる白い血がまるで鼻水のように垂れる。俺は千切れた鼻を無造作に投げ捨て、ポインターにメモリーを挿す。

<tool:Faiz pointer>

 Ready

</tool>

 ポインターを右脚に付け、はフォンのENTERキーを押した。

<technique:number>

 <i:Full Charge>

 <i:Exceed Charge>

</technique>

 俺は跳躍し、奴をポインターから放たれたエネルギーで拘束する。ゼロノスが武器をボウガンへと変形させ、放った矢がアリマンモスの腹を貫く。一瞬遅れて俺のキックが、奴の上半身を吹き飛ばした。

 着地した俺はアリマンモスを見やる。下半身を失ったアリマンモスはまだ生きていて、腕をじたばたと動かしている。いくらショッカーの幹部とはいえ、血液を大量に失えば間もなく死ぬ。こんな姿では、もう何もできない。

 俺達がベルトからツールを抜き取って変身を解いたとき、プロペラを回す音が聞こえてくる。アリマンモスが空を仰いだ。釣られて俺と侑斗も視線を追う。

 飛行機だった。機首にプロペラの付いた、前時代的な軍用を思わせる機体の両翼が火を噴いた。機銃だ。大型機械だからこそ抱えられる大口径から弾丸が雨あられのようにショッピングモールの大型施設の向こうへ降り注ぎ、耳をつくほどの爆発音の後に黒煙が立ち昇る。

 アリマンモスは「おお……」と感嘆の声をあげる。

「遂に誕生した。我らがショッカー最強の戦士、仮面ライダー4号が」

 「4号だと?」と侑斗が言う。アリマンモスは気味悪く笑い、俺達を指差す。

「これで我らの勝利は確定した。ショッカー万歳!」

 アリマンモスは哄笑する。分断された腹から血を流し、やがてその腕が力なく地面に投げ出されて自分の血に浸っていく。

 飛行機から人影が出てくるのが見えた。影の両腕からマントがムササビの被膜のように広がり、気流に乗って下へと滑空していく。

「行くぞ!」

 侑斗の呼びかけに俺は「ああ」と応じて駆け出す。方角からしてモールの駐車場だ。バイクに戻る間がもどかしく、俺達は犠牲になった人々の屍を跨いで影が降りていく駐車場へと疾走していく。

 施設を迂回するのも面倒で、俺達は建物のなかを突っ切っていった。施設は破壊しつくされていて、瓦礫と死体、それらが放つ焦げ臭さと鉄臭さにむせ返りそうになった。駐車場に出ると、機銃でアスファルトの地面が抉られている。流れ弾を受けた車が所々で炎上していて、運悪く中にいた者の赤黒く焦げた死体が割れたフロントガラスから上半身だけ出しているのが見える。逃げようとして力尽きたらしい。

 そんな焦げ臭さが一層際立つ駐車場の真ん中で、降りてきた影はドライブと戦っていた。いや、一方的になぶっていると言うべきか。

 地面に伏すドライブの首根っこを、それは掴み強引に立ち上がらせる。俺達に気付いたのか、その赤い目をこちらに向けてきた。

 見た目はまさに仮面ライダーだ。ショッカーによって生み出された、1号と2号と同じ赤い目と風によってエネルギーを生み出すベルトを持つ。1号、2号、歴史改変マシンによって生まれた3号の系譜を継ぐショッカー最強の、そして最悪の改造人間。

 仮面ライダー4号。

 その顔を見て俺は怖気づいた。4号の口元は生身の、肉の弾力を感じ取れる唇が確かにある。奴の元になったのは人間だと分かった。だが、その色は全く血色が見えなかった。明らかに生きた人間の色をしていなかった。人間とはテクノロジーの力を借りれば、こんな屍のような色を浮かべてもまだ生きていけるのか。

「こいつを作り出すことが、ショッカーの最終目的だったのか」

 4号を睨み、侑斗は身構える。ドライブを殴り飛ばした4号の唇が歪み、「最終目的?」とせせら笑う。俺達は地面を転がるドライブへと駆け寄った。随分と酷くやられたらしい。息をあえがせるドライブの胸部装甲に亀裂が走っている。

「それは俺の力で、世界の全てを征服することだ」

 4号は掲げた拳を握り締める。既に世界は我が手中にある、とでも言うように。歴史の歪みによって生まれた戦士。こんな悪趣味な冗談、いかにもショッカーらしい。何度も世界を守るために戦ってきた俺達を葬るために、同じ仮面ライダーを差し向けるだなんて。

「そんなことさせるか!」

 俺は噛み付くように言う。まだショッカーに負けてはいない。こいつが世界征服の要になるなら、奴らの侵略が始まる前にここで倒せばいい。

 俺と侑斗はベルトを腰に巻き、システムを起動させる。

<change:sequence>

 <i:5・5・5・ENTER>

 <i:Standing by>

</change >

 

「変身!」

 

<change:number>

 <i:Complete>

 <i:Altair Form>

</change >

 俺達は同時に駆け出した。防御の体勢も取らず佇む4号の胸にふたり分の拳を叩き込む。避けることもせず、拳を受けた4号はにやりと笑みを浮かべて俺達の腹に拳を打ってくる。強烈な一撃で、俺はごほっ、と咳と共によろめく。4号は続けざまに突っ込んできたドライブに膝打ちを見舞った。俺もゼロノスも、臆すことなく4号に拳を打っていく。だが4号は俺達の攻撃なんて意に介さず、逆に俺達は4号の攻撃を受ける毎に痛みで身を悶えさせる。

 怖ろしい強さだ。3人がかりでも全く歯が立たず、俺達の体にダメージが着々と蓄積されていく。

「弱い!」

 ゼロノスの顔面に裏拳を見舞った4号が、そう吐き捨てる。

「その弱さ故に、時間を繰り返し続けるのだ!」

 4号の蹴りを食らったゼロノスの体が、宙を飛んで地面に叩きつけられる。耳孔に入り込んできたローター音の直後、ゼロノスの周囲を空から降ってきた弾丸の雨が砕いていく。脱出経路を塞がれたゼロノスのもとにミサイルが落とされた。炸裂した爆薬が、ゼロノスの叫びを爆音と爆炎によってかき消す。

「貴様らがショッカーに勝つことは絶対にない。この俺と、我が愛機スカイサイクロンがある限りな」

 ローター音を勝利の雄叫びのように鳴らしながら、スカイサイクロンが空を旋回している。

 爆心地に漂っていた煙が、風に流されていく。ゼロノスの鎧が消えた侑斗は、荒い呼吸を繰り返しながらも目蓋を懸命に持ち上げている。まだ生きていた。右腕を肩から吹き飛ばされているが、止血して適切な処置をすればまだ助かる。

 微かな希望を抱いた俺の顔面に、4号の拳が飛んでくる。マスクが割れた。スーツの形成維持が困難と、アラートがけたたましく鳴り響いている。亀裂のせいでまともに視界が確保できず、俺の闇雲に振った拳が掴まれて捻り上げられる。助けに入ってきたドライブの首が掴まれたのが僅かに見えて、喉を圧迫された進ノ介の声にならない叫びが聞こえてくる。

 4号は俺達を圧倒的な腕力で投げ捨てた。

「止めだ。我が力を思い知れ」

 4号は高く跳躍した。咄嗟に立ち上がった俺の視界に、緑色の光が入り込む。

「ライダーキィック!」

 何だあれは、と思った瞬間、「危ない!」とドライブが俺の体を退かした。「進ノ介」と俺がままならない視線を向けると、目の前で4号のキックを受けたドライブが爆炎に呑み込まれるのが見えた。

<shout>

「進ノ介!」

</shout>

 爆炎はすぐに治まっていく。炎上するほどの燃料がないからだ。煙の中から、地面に伏せる進ノ介の姿が見えてくる。進ノ介の顔から肩、胸の順に煙が晴れていくと共に、俺は目を剥いた。

 進ノ介は胸から下を失っていた。背中から伸びる背骨が突き出して、途中で折れている。即死だったようで、こちらを向く進ノ介の目は目蓋を閉じ切っていなくて空虚を見つめている。胸から下は離れたところにあって、それは胴体の様相を成さずぐちゃぐちゃの肉片と言ったほうがいい。繋がったソーセージのような管が腸と判断できる程度だ。

 すとん、とブーツの踵を鳴らし、4号が降り立つ。

「泊さん………」

 その声に俺は振り向いた。霧子だった。隣には剛もいる。銃声を聞いて駆けつけてきたのか。

「泊さん!」

 進ノ介の骸へ駆け出す霧子の肩を俺は掴んだ。

「駄目だ! あんたまで死んだら………」

 俺は4号を睨みつける。4号も俺を見つめていて、血色の失せた唇を歪ませて笑っている。

「これから世界は変わっていく。貴様らにとっての地獄、そして俺達にとっての楽園へとな」

<anger>

「ふざけるな……!」

 俺の怒りは4号ではなく、胸から上だけになった進ノ介と、既に事切れている侑斗に向けたものだった。

 どいつもこいつも、俺の前で先に死んでいきやがって。

 死んでも時間が巻き戻れば、お前らは生き返るだろうさ。でもな、死は死なんだよ。お前らを死なせたという後悔が、例え生き返ったとしても俺を呪うんだ。

 時間がリセットされて、こいつらが力を増して、そしてまた無残に死ぬ様を俺に見せつけるつもりか。

 今度こそ、今度こそ、という俺の誓いをどれだけ踏みにじれば気が済むんだよ。

</anger>

 さながら舞台役者のように両腕を広げ、4号は高らかに言う。

「さあ、地獄を楽しみな!」

 

<countdown>

 <i:3>

 <i:2>

 <i:1>

 <i:Time Out>

</countdown>

 

</body>

</ltml>

 



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 どうか本作が、皆様に乾巧という英雄の魅力をお伝えできる作品になりますように。


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   01

 

<list:item>

 <i:戦いを挑み>

 <i:敗北して誰かが死ぬ>

 <i:そして時間は繰り返す>

</list>

 

 澄み渡る蒼穹がどこまでも続いている。何度も繰り返された、変わらない空だ。でも視線を下ろせば、そこにはかつての「今日」にはなかったはずの光景が広がっている。

<list:item>

 <i:仮面ライダーを追放せよ>

 <i:ショッカーに逆らう者には死を>

 <i:ショッカーこそ至高>

 <i:ショッカー万歳>

</list>

 そんなスローガンが街の至る所に掲示されていて、大通りでは戦闘員たちが隊列を組んで闊歩(かっぽ)する。民衆は道脇で頭を垂れて、「偉大なる」ショッカーへ服従の意を表している。極稀に歯向かう者もいるが、強化された人造人間に勝てるはずもなく、組織――いや、もはや国というべきか――の研究施設へと連行され、新しい改造人間の実験体にされる。大半の者が実験で死に、運良く生き残ってもその末路は改造人間。

 空が晴天ということだけは変わらないと思っていたが、空の様子も変わっていた。おびただしい数のプロペラ戦闘機が編隊を組み、東の方角へと駆けていく。先頭を飛ぶのはスカイサイクロン。仮面ライダー4号の乗る機体だ。きっと、まだしぶとく抵抗を続けている国に空襲を仕掛けに行くのだろう。

 敗北は目に見えている。先進国をほぼ全て制圧したショッカーは、世界を掌握したも同然なのだから。

 この世界は、突然こうなってしまったわけじゃない。

<list:item>

 <i:進ノ介が死に>

 <i:剛が死に>

 <i:侑斗が死んだ>

 <i:俺は……、死んだかは覚えていない>

</list>

 死の度に時間はリセットされ、ショッカーの幹部は増えていく。質の悪いことに、敵として俺達の前に立ったのは仮面ライダーだった。4号を筆頭にショッカーは自らの傘下にライダー達を引き込み、勢力を広げていった。

 もう何度時間が繰り返されたのかは数えていないが、4号が現れてからショッカーの侵攻は加速していった気がする。勿論、人間たちも黙っていたわけじゃない。各国軍が総力をあげて抗戦したのだが、ことごとく4号率いる航空隊に沈黙させられた。

 ワシントンも、ロンドンも、モスクワも、世界の主要都市は既に陥落した。上空から降ってきた弾丸やミサイルの雨でホワイトハウスは蜂の巣にされ、都市を見守っていた時計塔(ビッグ・ベン)はもう時計の針を止め、赤の広場は鮮血で本当に赤く染まった。

 軍の核施設を占領したショッカーは未だに抵抗する諸国への見せしめとして、とある小国の首都に核爆弾を落とした。街の人々は熱核反応で一瞬にして蒸発し、空にキノコ雲が立ち昇って街は文字通り「消滅」した。

 戦力差と容赦の無さを見せつけられた各国はショッカーに自国の政治・経済・軍事の全てを明け渡した。滅亡してしまうよりはましと判断したからだ。少なくともショッカーに服従していれば、生命と精神の自由は剥奪されるが存続は保証される。

 人類社会が長い時代をかけて構築してきた協定や条約といったネットワークは、全て破綻しショッカーが実権を握った。

 もう、誰もが戦う意思を失っている。

 戦えるのは俺達だけだ。

 

 

   02

 

 夜の東京湾が望める広場の縁で、俺は道路を行き交う車や線路を走る電車を眺めていた。どの車にも、どの車両にも、ショッカーのエンブレムが付いている。今通っていったバンは、反逆者たちを研究所へ連行している輸送車だろうか。電車の中にいるのは、ショッカーの新しい施設の建設現場に赴く労働者たちだろうか。

 今や全ての人々と企業がショッカーのために働いている。遠くでまだ灯りが点いているビルのなかでは、ショッカー政権下のインフラ整備が休むことなく行われているのだろう。

 こうして街を眺めていられるのも夜の間だけだ。俺達は反逆者として指名手配されているから、堂々と出歩くことはできない。外出禁止命令が敷かれた夜でも戦闘員が街を巡回しているが、それでも昼間よりは警備が手薄で比較的動きやすい。

 暗闇を見つめながら、俺は第3の選択肢について考える。何度も浮上し、否定してきたもの。多分、他の皆もこの解決策へ至っていると思う。俺と同じように拒みながら。

 歴史改変マシンを破壊することなく、時間のループを止める方法。

 それは、マシン起動の鍵となる霧子が死ぬこと。

 そうすれば時間のループは止まり、これ以上ショッカーの力が増すことはない。マシンを破壊しない限り、剛も生きられる。

 でも、それだと駄目だ。剛の死が霧子を呪縛したのと同じように、霧子の死が剛を呪縛する。こんな苦しみを味わうのは俺ひとりで十分だ。

「木場、草加、みんな。お前らだったらどうする?」

 散っていった仲間は、この状況を打破する方法を思いつくだろうか。木場なら、正しい世界に戻すかもしれない。剛という犠牲を払って。草加なら、愛する者が安心して生きられるのならショッカーが支配する世界でも肯定してしまいそうだ。

 結局、死者に答えを求めたって無駄なこと。死者は何も答えてはくれない。

 答えるのはいつだって生者だ。

「俺だったら――」

<surprise>

 唐突に聞こえたその声に、俺は反射的に振り返る。広場に建てられたオブジェの台座の上で、海堂がしゃがんで寒いのか手をさすっていた。

「首は突っ込まない」

 「海堂」と俺が呼ぶと、奴は気の抜けた顔を向けてゆっくりと立ち上がり台座から降りてくる。

</surprise>

「皆も、お前にそれをお勧めすると思うぞ」

 この状況を見過ごすなんて、できるわけがない。「みんな」なら、きっと俺に戦えと促してくれるはずだ。なのに何で、この男は俺に手を引けだなんて言うんだ。海堂はこうなることを知っていたのか。もっと悲劇が起きることになる、っていうのは、この状況のことなのか。

「お前、何を知ってんだ?」

 俺が聞くと、海堂はあからさまに困った顔をしてしばし間を置いて「とにかく」と。

「この件には首を突っ込まないほうがいい。どうしても無理だってんなら………」

 海堂はそこで言葉を詰まらせる。無理だってんならどうしろっていうんだ。そう聞こうとしたところで、海堂がなだめるように手を俺にかざしてくる。

「命は大事にしたほうがいい。命は、ひとつしか、無いものですから」

 そう言って宵闇へと駆けていく海堂の背中を、俺は何も言えずに見つめる。既に闇のなかへ溶け込んだ奴への皮肉を秘めながら。

 

 海堂。俺達オルフェノクは、既に一度死んでるんだぞ。

 

 

   03

 

 その廃墟は、かつて都市ガスの生産プラントとして機能していた場所だった。運営していた企業が経営難のために手放し、新しい所有者も持て余し取り壊されることもなく、ずっと山中に放置されている遺物。

 繰り返される時間のなかで、俺達はショッカーの根城を探し回った。奴らがどこから現れてどこへ帰るのか、奴らを率いる首領がどこにいるのか。それを掴むために街で反逆者を制圧する連中を敢えて野放しにして、拠点への帰還ルートを追跡した。人々が無残に殺されていく様を見るのは自分の無力さを突き付けられているような気分だったし、追跡は途方もないことだった。途中で勘付かれて返り討ちにあったし、何とか特定できても奴らの使ったルートで向かえば真正面から特攻しに行くようなものだ。

 進ノ介が周辺の地理情報をリサーチして、使われなくなった旧道や獣道すらない悪路を使ってようやくこの廃工場へと辿り着くことができた。世界を支配下に置いたショッカーの拠点とは思えない、すっかり寂れた廃墟だ。でもここに奴らの中枢、歴史改変マシンがある可能性は高い。表向きの拠点である旧国会議事堂――今はもうショッカー議事堂と名前が変わっているが――に置くよりも、こんな山中の辺鄙な場所のほうが見つかりにくい。

 俺と侑斗、進ノ介は伸び放題になった草の茂みに隠れながら近付き、警備にあたっている戦闘員たちを背後から奇襲して沈黙させた。変身したらシステムの起動音でばれてしまうから、生身のままで。いくら人間より強い戦闘員でも体の構造は人間と同じで、脳幹に最も衝撃を与えられる後頭部を殴れば昏倒する。変身したときほどの腕力も握力もないから、うっかり奴らの頭に埋め込まれた爆弾を刺激する心配もない。

 戦闘に備えて腰にベルトを巻いた俺達は潜入を開始した。おぼろげな照明のみが頼りな薄暗いコンクリートの通路は嫌に静かだ。この工場のどこかにマシンがある。それを盾にすれば、ショッカーと俺達の立場は逆転する。とはいえ、俺達も剛の生存のためにマシンを破壊することはできないが。

 慎重に進んだつもりだったが、隠密行動の訓練を受けた特殊部隊員でもない俺達に敵は気付いたらしい。通路の奥の暗闇から、こつ、と子気味のいい靴音が聞こえてくる。暗闇の中から、その番人はゆっくりと歩いてきた。

 口元に冷たい微笑をたたえた、仮面ライダー4号が。

 高まる緊張と同時に、俺はここに歴史改変マシンがあると確信した。ショッカーの実働部隊を率いる4号を置いているということは、ここが組織にとって中枢となる施設であることは間違いない。

「来たか」

 待っていた、というような口ぶりだ。多分、本当に待っていたんだろう。俺達を殺し、またショッカーが力を増していくために。俺達に敗北を何度でも味わわせ、抵抗する意思を奪う。俺達が諦めたとき、晴れてショッカーは完全な支配者として君臨する。

「あいつは俺に任せろ」

 進ノ介が静かに、力強く告げる。侑斗がその肩を叩き、俺と共に無言のまま来た道を引き返し、途中から別ルートを探しに入る。

「変身!」

<change>

 Drive type Speed

</change>

 後方から起動音が響き渡った。俺達が3人がかりでも敵わなかった4号は、あれからもループを経て更に力を付けているだろう。たとえ勝てなくても、進ノ介が生きてさえいてくれればいい。俺達がマシンを見つけ出すまでに。

 通路の角を曲がったところで、待ち構えていたかのように敵と遭遇する。戦闘員じゃなくて幹部だ。チーターカタツムリが、ショッカーに下ったライダー2人を傍らに置いている。

<list:item>

 <i:仮面ライダーダークキバ>

 <i:仮面ライダー王蛇(おうじゃ)>

</list>

「行け、ライダー達よ」

 チーターカタツムリの指示に従い、2人のライダー達が向かってくる。俺達はベルトのシステムを起動させ、駆け出す。

<change:sequence>

 <i:5・5・5・ENTER>

 <i:Standing by>

</change >

 

「変身!」

 

<change:number>

 <i:Complete>

 <i:Altair Form>

</change >

 ゼロノスがダークキバを、俺は王蛇を相手取る。こいつらには、数えることを諦めるほど打ちのめされてきた。でも、何度も繰り返しただけ相手の弱点も見えてくる。例えばダークキバは力も防御もかなりのものだが、強力すぎるせいで戦いが長引くと変身した者が死ぬ危険性を持つ。王蛇にしても、パワー勝負は絶望するしかないほどの強さだが防御は手薄になりがちだ。

「言っとくが、俺はかーなーり強くなった!」

 ダークキバに拳を打ちながら、ゼロノスが吼える。

「俺達だって強くなる。これだけ何度もやられればな」

 俺達も無駄に殺されてきたわけじゃない。殺される度に原因を探り、敵の対策を練ってきた。認めたくはないが、これもループの恩恵ってやつだ。

<technique:number>

 <i:Full Charge>

 <i:Exceed Charge>

</technique>

 ゼロノスのボウガンがダークキバの脳天を貫く。俺の渾身のパンチが王蛇の胸を穿った。2つの爆炎が巻き上がり、煙がそう広くない通路を漂っている。

「次はお前だ」

 右手からショットを外した俺は告げるが、手下を失ったチーターカタツムリは余裕な佇まいを崩さず「それはどうかな?」と宙を顎で指す。指した先にホログラムの窓が浮かび上がった。

 映像のなかで、青空をバックに幹部達の隣で体を鎖で縛られた剛と霧子が立たされている。場所はおそらく、この工場の燃料タンク上だろう。2人とも顔に傷が付けられている。きっと抵抗したんだろう。剛の腰にあるベルトは破壊されていて、配線コードが飛び出ていた。

「逆らえば、この女の命はない」

 霧子の傍にいるヒルカメレオンが愉快そうに言う。「おい、姉ちゃんを離せ!」と剛が吼えて、懸命に鎖から抜け出そうともがく姿を傍のアリマンモスが(わら)っている。

 どういうことだ。剛と霧子は街で待たせていたはずだ。剛が無茶をしないように、という進ノ介の配慮だった。

「貴様らの思惑に、我らが気付かないとでも思ったか?」

 チーターカタツムリが笑みを浮かべる。「卑怯だろ!」と俺は言うが、そもそも歴史改変なんて反則技を使うような連中だ。こいつらにまともな勝負を挑んだこと自体がそもそもの間違いだった。

 ゼロノスがボウガンを落とした。ここで戦っても、2人を人質に取られてしまえば俺達に手出しはできない。

「形勢逆転のようだな」

 チーターカタツムリがそう言うと、通路の奥からまた次の刺客として2人のライダー達が歩いてくる。

<list:item>

 <i:仮面ライダーサソード>

 <i:仮面ライダーバロン>

</list>

 「やれ」というチーターカタツムリの命令で、サソードがゼロノスに剣を、バロンが俺に槍を突き刺してくる。俺達に成す術はない。反撃しないのを良い事に、2人のライダーは立て続けに俺達の鎧に創傷を刻みつけていく。

「逃げてください!」

 映像のなかで霧子が叫んでいる。

「これ以上時間を繰り返せば、状況はもっと悪くなります」

 霧子の声は力強かったが、それが段々と震えていくのが分かった。

「だから、決めました」

 その言葉で、俺はようやく霧子が恐怖に震えていることに気付く。

「皆さんなら、絶対にショッカーに勝利できます」

 俺達の間に漂っていた選択のひとつ。とても残酷な可能性。霧子自身もそれを理解していたことに、弟を愛する彼女がその選択を取ることに何で気付けなかったのか。

「駄目だ姉ちゃん。俺が犠牲になれば済む話だ」

 剛の声も震えていた。斬り伏せられた俺とゼロノスが映像を見やると、剛は目尻に涙を浮かべている。

 「剛」と霧子は弟を呼んだ。さっきとは打って変わって、とても優しい声色だった。まるで夕飯の食卓を囲み、その日の出来事を話しているかのような、そんな優しい響き。

「あなたは、生きて」

 

 霧子、やめろ。やめてくれ。

 

 俺の絞り出した声は、当然映像のなかにいる霧子には届かない。もし届いたとしても、彼女はきっと耳を貸さなかったに違いない。すぐ近くにいる剛の叫びにさえ背を向けてしまったのだから。

<shout>

「姉ちゃん………、やめろおおおおおおっ‼」

</shout>

 ヒルカメレオンの拘束を肩で振りほどいた霧子が、画面から姿を消す。空撮用ドローンで撮っているのだろうか。画面が切り替わり、燃料タンクの全容が映し出された窓のなかで、霧子の体が落下していく。霧子の体が見切れると同時、嫌な鈍い衝突音が聞こえた。肉に覆われた人間の体が発するとは思えないほどの、重苦しい音だった。

<shout>

「姉ちゃあああああああああああああんっ‼」

</shout>

 涙と鼻水で顔を濡らした剛が、絶叫の後に膝から崩れ落ちる。再び画面が切り替わり、地面に横たわる霧子が映し出された。彼女の筋肉も脂肪も、高所からの落下衝撃を吸収しきれなかった。脚が不自然な方向に折れ曲がり、頭の辺りは血が広がっている。

 駆けつけてきたドライブが、「霧子!」と呼びかけながら彼女の体を抱き上げる。骸になった霧子は目蓋を閉じたまま、顔の左半分が内出血で赤黒く腫れた肌を晒している。

「起きろ霧子!」

 ドライブが揺さぶる度に、骸の頭から血が滴り落ちていく。

「命を捨てるとは、馬鹿な真似を」

 ヒルカメレオンの嘲笑が聞こえてくる。ドライブはそれに怒りを向けることもせず、霧子を抱きしめながら肩を震わせている。

 霧子は死んだ。

 弟の生存を願い、それ故にショッカーに世界を売り渡したことへの贖罪として。俺達は剛と霧子が生きられるために、ここまで諦めることなく戦い続けてきた。でも、霧子自身はそれを容認しなかった。事の元凶である自分が生きてしまうことを赦さなかった。

「これで、もう時間を繰り返すことは」

 息をあえがせながら告げるゼロノスの前に、サソードが立っている。俺のすぐ傍にもバロンが立っていて、止めをさそうと槍を構えている。

 侑斗の言う通りだ。これでもう時間のリセットはなくなった。ショッカーの力はこれ以上増すことはない。後は俺達が霧子の祈りに従い、ショッカーを倒し歴史改変マシンを管理していけばいい。

<anger>

「認められるか………!」

 喉から絞り出した声に、怒りが着いてくる。それは死んだ霧子でもショッカーでもなく、この世界に対する怒り。

 誰かが生きるために誰かが犠牲になる。世界が救われたとしても、こんな結末を認められるか。

</anger>

 絶叫が聞こえた。

 俺と同じように悲劇に抗おうとする、進ノ介の叫びだった。

 

<countdown>

 <i:3>

 <i:2>

 <i:1>

 <i:Time Out>

</countdown>

 

 

   04

 

<recollection>

 オルフェノクとの戦いがひと段落してからしばらく経ったある日、まだ季節は冬だったけどよく晴れた天気だったから、店を休みにして俺達は河川敷で昼寝をしていた。

 とても気持ちのいい日だった。日光が温めて体温の上がる体を冬の風が冷ましてくれて、俺は両隣で寝る真理と啓太郎の寝息を聞いていた。3人で暮らしていた日々はそれなりにあったが、ああしてのんびりできた日はとても少ない。

 啓太郎のクリーニング屋の仕事。オルフェノクとの戦い。それらを経て見つけた夢を2人に教えた俺は、目を閉じた。すぐに体が熱くなるのを感じたけど、俺がそれに身を委ねて、眠ろうとしたときだった。

<shout>

「巧!」

「たっくん!」

</shout>

 ふたりが俺を呼んでいることに気付いて開けた目蓋はひどく重かった。開けた俺の視界に映ったのは、青い光だった。揺れる光の合間から、涙を流しながらふたりが俺を呼び続ける。

 俺は寂しさとか、悲しさとかを感じる前に驚いていた。まさかこの瞬間を、とても身軽な気持ちで迎えることができるとは。これもふたりのおかげだ。ふたりがいてくれたおかげで、俺は夢を守ろうと思えた。俺も夢を持とうと思えた。

 俺は焼け落ちていく前に唇を動かす。

「ありがとう」

 それは、ふたりには絶対に伝えなければならない言葉だ。

 

 一緒にいてくれて

 受け入れてくれて

 信じてくれて

 夢を見させてくれて

 

 ありがとう。

 

 俺の声が届いたふたりは目を見開き、そして真理は涙に濡れた顔に微笑を浮かべた。よく見せていた意地の悪いものがない、一切の皮肉を帯びない純粋な笑み。

 啓太郎も真理にならい、俺に笑みを向けてくる。シャツの染みが綺麗に取れて、真っ白になった洗濯物を見るときと同じ笑顔。

「うん、ありがとう。おやすみ、巧」

「ありがとう、たっくん」

 俺の目蓋がぽろぽろと崩れて、視界を覆っていく。意識がぼんやりとしてきて、緩んだ頬の感覚もなくなり、とても安らかな眠気に身を委ねて、俺は目を閉じた。

</recollection>

 

 

   05

 

 俺は目を開く。

 

 視界に映るのは白い、見慣れた天井だ。ベッドで身を起こした俺は部屋を見渡す。啓太郎の家の、俺の寝室を。

 時間のリセットを経ていくうち、次第に起点に戻った俺を取り巻く状況も変化していった。時間が繰り返していることに気付いた頃、俺は侑斗とカフェでコーヒーを飲んでいた。だが俺達が繰り返されていく事象に対して起こす行動の変化に伴い、少しずつだが起点も変わっていった。

 ある「今日」ではショッカーの幹部達と戦っていて、またとある「今日」では4号のスカイサイクロン率いる航空隊の機銃を避けながらバイクで逃走していた。そしてこの「今日」に俺は啓太郎の家で休息を取っている。

 便利なことに、こんな初めて遭遇する状況でも歴史改変マシンはここまでに至る記憶をしっかりと作ってくれる。とはいえ何度もあった「今日」の記憶は他にもあるから頭が混乱するが。

 「昨日」俺は進ノ介達とショッカーが住民を虐殺している街へと向かい、住民を解放するために戦っていた。でも上空からスカイサイクロンの空襲を受け撤退を余儀なくされた。満身創痍で戻った俺達は少し休もうとそれぞれの家に戻ることにした。俺達のなかで死者が出るよりはましだ。ショッカーに勝利するための戦略を明日皆で話し合おう、と。

 俺は服を着替えると1階のリビングに降りた。3人で囲んでいた食卓。よく真理と陣地争いをしていたソファ。壁を挟んだ向こうには西洋洗濯店舗菊池のカウンターがあって、更に奥へ行くとアイロン台や預かった衣類を掛けるためのラックがある。

 オルフェノクとの戦いが本当に終わった後は再び3人で暮らしていたけど、いまこの家には俺ひとりで暮らしている。ショッカーの侵攻が始まる直前に、真理と啓太郎はまだ組織の手が及んでいない安全な集落へと避難させた。ふたりはどうしているだろうか、と考えてみるが簡単に想像できる。避難先でも啓太郎は洗濯物を洗って、真理は髪を切っているだろうな。あのふたりはどこへ行ってもやることは変わりない。

 俺はクローゼットからコートを取り出して羽織る。若い頃に着ていたものだが、啓太郎が定期的に手入れしてくれたおかげで虫食いもなく新品同様に保たれている。

 外に出ると例に漏れず快晴だ。誰か外を出歩いてもいい時間帯だが、住宅街はまるでゴーストタウンのように鎮まりかえっている。まだ街に残っている住民もいるそうだが、大半がショッカーに怯えて外に出たがらない。たまに通り行く車もショッカー傘下の企業のものだ。

 オートバジンに跨ったところで、侑斗のバイクが前方から走ってくるのが見える。ああそうだ、前の「今日」で霧子が死んだのにまた時間が繰り返されたんだった、と俺は遅れて思い出す。

 俺はバイクを走らせた。侑斗はバイクを停め、ヘルメットを脱いで「おい、巧!」と呼んでくる。それを無視して、俺はアクセルを捻り更にスピードを上げていく。

 しばらく走ってバイクを停めたのは、家からそれほど離れていない河川敷だった。前はよく主婦が犬の散歩をして、若者がジョギングをしているのを見かけたものだ。

 俺は河川敷の澱に立って、きらめく河面と橋を渡っていく車を見つめながら考える。

 さっき俺が見た夢。いや、あれは夢じゃなくて記憶だ。あのとき感じた温かさと抱いた感情が、今でも思い起こすことができる。でも同時に、俺はもうひとつの記憶を持っている。思う存分寝て、家路につく途中で夕飯を鍋にしようと言った真理と口喧嘩した記憶。

 どちらが本物なのか。それは歴史改変マシンの時間という絶対的概念を、人の生死すら捻じ曲げてしまう力を考えればおのずと見えてくる。

「霧子じゃなかった。誰かを死なせたくない。そう思っていたのは――」

 繋がった答えを明確にするため、俺は声に出して紡ぐ。

「俺だったんだな」

 それと同時に出てきたふたつ目の真実を悟る。

 俺の命は歪められた時の産物だった。

 俺は既に死んでいた。

 あの時、真理と啓太郎と3人で昼寝をした、この河川敷で。

 俺は自分の命を肯定して、大切な人達に見守られながら逝った。もう未練はないはずだった。でも俺は、最期の瞬間にそれを残してしまった。

 俺が死んだ後、真理と啓太郎は夢を叶えることができるのだろうか。俺の抱いた夢は未来で叶ってくれるのだろうか。それを見届けられない俺の迷いが、歴史改変マシンを動かしていた。

<desire:number>

 <i:誰かを死なせたくない>

 <i:誰も死んでほしくない>

 <i:もう悲しみを繰り返したくない>

 <i:皆に幸せになってほしい>

</desire>

 あの時と同じように、俺は草の上に寝てみる。変な気分だ。自分が死んだ状況を再現してみるなんて。

 海堂が言っていたな。夢ってのは呪いと一緒だ、って。俺の夢は呪いになった。呪いの矛先が向けられたのは死んだ俺じゃなくて、この世界だった。呪われた世界で生きる俺は、際限なく現れる敵と戦い続ける。嘘偽りで塗り固められたこの世界を守るために。

 不意に携帯の着信音が響く。通話モードにして耳に当てると、剛のいつもの威勢が消えた声が聞こえてくる。

『巧、今どこにいるんだ?』

「河川敷にいる。俺の家の近くだ」

『………行ってもいいか?』

 何でそんな気を遣うんだ、と思ったとき、俺はさっき侑斗の呼びかけを無視したことを思い出す。皆に心配をかけさせたみたいだ。

「剛、お前気付いたのか?」

 試しに尋ねてみると、『まさか、巧……』と電波越しに剛は声を詰まらせる。

『話は進兄さんと侑斗から聞いた。ふたりは巧の知り合いから聞いたって』

 「そうか……」と俺は返した。知り合いとは海堂だろう。海堂はこのことを知っていたのか。

『今からそっちに行く』

 剛は沈んだ声で、でも強く言った。「ああ」とだけ応えて俺は通話を切る。ポケットに端末をしまい、手を枕にして空を仰ぐ。不思議とショックはなかった。あの時から過ごしてきた約10年間もの日々が、全て偽物だったという事実を突き付けられても。何度も「今日」のなかで仲間が死んでいく様を見たから、それに比べたら大したことでもない気さえする。

 皮肉なことに、あの日と同じようにこの日も気持ちのいい日和だ。昼寝にはうってつけで、つい寝てしまいそうになる。でもさっきまで寝ていたせいか、俺は眠りへ落ちることができなかった。

 しばらくぼんやりしているうちに、バイクと車のエンジン音が聞こえてくる。「あそこだ」という剛の声と共に足音が何人分か聞こえてきて、近付くにつれて足取りがゆっくりとしていくのが分かった。

 俺は独り言のように呟く。

「まさか俺が、人が死ぬことにこんなにナイーブだったなんてな………」

 自分でも驚きだ。敵も仲間も、人が死ぬ様なんて嫌というほど見てきたっていうのに。しまいには仲間が死んでは生き返り死んでは生き返り、を繰り返す始末だ。

「済まない」

 剛の消え入りそうな謝罪に、俺は顔を向けて「何で謝る」と返す。並んで立つ剛と霧子は悲しそうな瞳を俺に向けている。本来なら死んだ弟と、弟を愛する故に時間を歪めてしまった姉。それはただの、間抜けな勘違いだった。死と歪み。その両方の罪を背負っていたのは俺だ。

「お前はちっとも悪くないよ。悪いのは、死ぬことを怖がっていた俺なんだ」

 俺は右手を空にかざす。あの時灰が零れていた手は、霧江が命を宿した水のおかげで潤いを保っている。とはいえ、それも偽物の時間がもたらした、偽物の命だが。

「俺は一度死んで蘇った。二度目は満足して死にたいと思って、死を覚悟して戦ったつもりだった。俺は笑って死ねた。でも違ったんだな」

 偽りの日々のなかでも、仲間は死んだ。助けようと思ったのに手遅れになった奴もいた。それでも、良い事があったのも事実だ。出会った少女達の夢を傍で見て、俺は自分が何で人間を守りたいと思ったのかを見つけることができた。俺が守ったものを、あいつらは見せてくれた。

 俺は拳を額に当てる。

「やっぱり、生きてるのは悪くない。俺は死にたくない」

 ああ、この弱さだ。この弱さがこの時間を作ったんだ。もっと皆と過ごしていたい、もっとあいつらの灯す光を見続けたい、って欲が。

「どうするつもりだ?」

 無感情に尋ねる進ノ介の声が聞こえる。遅れて到着したらしい。多分、侑斗もいるだろう。傍から見て、進之介はとても冷たい奴に見えるだろうな。既に死んでいた人間に、どうするつもりだなんて質問は残酷だ。でも、俺にとっては同情されるよりもそっちのほうがいい。面と向かって生きろ、なんて言われたらまた迷いそうだ。

 俺は上体を起こし、背を向けたまま質問を返す。

「歴史改変マシンを破壊したらどうなる?」

 答えたのは侑斗だ。侑斗の声もまた無感情で、淡々としている。

「マシンが時間を捻じ曲げられたのは、巧の想いに連動していたからだ。マシンが破壊されれば、巧は消える」

 告げられた事実に今更恐怖なんて感じない。本来なら10年以上も前に死んでいた人間が消えるのは当然のことだ。俺にとって重要なのはその先で、更に質問を重ねる。

「剛は?」

 また侑斗が答えてくれる。

「剛が死んだのは、捻じ曲がった時間のなかだ。剛は死ななかったことになる」

 何だ、と俺は笑みを零す。事態は複雑だが、解決策はとてもシンプルだ。やることなんてもう明白じゃないか。

 「じゃあ答えは簡単だ」と俺は立ち上がり、皆のほうを振り返り宣言する。

「俺はもう一度死ぬ」

 「待てよ」と剛が異議を申し立てる。

「そんなのってあるか。巧は俺のこと止めただろ。自分なら死んでもいいって言うのかよ?」

 剛の悲しみを隠すような皮肉な笑みに、俺は耐えきれず「悪いな」と顔を背ける。あの時と立場が逆だな。馬鹿なのは俺のほうだ。「でも」と俺は言葉を繋ぐ。あの時、剛はどこか投げやりだった。まだ決意も十分じゃなくて、怖いくせにそれを必死に押し殺そうとしていた。

 剛、俺も何もないところに逝くのは怖いさ。でもな、俺は大切なふたりに「ありがとう」を伝えられて、ふたりも「ありがとう」って見送ってくれたんだ。孤独じゃなかったし、たとえ偽物でも今だってこうして俺の死を悲しんでくれる仲間と出会えた。お前達の暮らす世界を俺のせいで汚したくない。俺が消えることでそれが守られるなら、迷いなんて無いんだ。

 その決意は示さなければならない。俺は剛に顔を向けて告げる。

「あのとき笑って死んだ自分に嘘をつきたくないんだ」

 それは、俺の旅の終着点を決める言葉だ。こんな言葉が出たのも、どこまでも自分に正直で真っ直ぐであり続けたあいつらの影響かもしれない。

 何も返せず視線を泳がせる剛の肩に、進ノ介が手を添える。

「誰にも決められることじゃない」

 そう、進之介の言う通り、これは俺にしか決められないことだ。俺がもたらしてしまった世界の歪みは、俺が始末をつける。

 目に涙を溜めた剛は進ノ介の顔を覗き込むも、無言のまま背を向ける。その拳がしっかりと握られて、肩が微かに震えているのが見て取れた。

「それがあんたの答えか」

 そう無感情に言う進ノ介の顔を見上げる。顔には何の感情も浮かべていないが、目尻に光るものがある。お前も何だかんだで、非情になり切れないじゃないか。刑事なんだから、もっと世の中の理不尽を受け入れたほうがいい。

 皮肉を喉元で留め、俺は短く答える。

「ああ」

 俺達の間に重苦しい沈黙が漂う。皆、俺に何て言葉をかけたらいいか分からずにいるんだろうな。別にいらないさ。変に慰められたら俺が憐れみたいだ。俺は自分の人生に満足している。

 それに、あるべき時間で死者である俺は皆と出会っていない。戦いに勝利してマシンが破壊されれば、こうして俺達が顔を合わせたということも「無かったこと」として抹消されるだろう。

 そのことに寂しさはある。俺だけでなく、俺が受け継いだ死者達の物語すらも消えてしまう。

 それを犠牲にしてでも、俺は死ななければならない。

 

 偽りの時間のなかで、俺が出会った人々に忘れ去られることになっても。

 偽りの時間のなかで、俺が立ち会った出来事が「無かったこと」にされても。

 俺は、夢の守り人として生き抜くと決めたから。

 俺は、仮面ライダーだから。

 

 不意に、剛のいつもの明るい声が沈黙を破った。

「なあ、写真撮らないか?」

 

 

   06

 

「全てが上手くいくことを、祈っています」

 敵地へ向かう前、霧子はそう言って俺の手を握ってくれた。別れを惜しむ霧子は俺の存在をしっかりと記憶するように、両手で強く包み込んでいた。俺は彼女に苦笑を返すことしかできなかった。お節介な女だ。せっかく弟が生きられる希望が見えたってのに。全てが上手くいったら、俺のことなんて忘れるだろうに。

 進ノ介は知り合いに挨拶していくように言ってくれたけど、俺はさっさと行こうぜ、と断った。真理と啓太郎にはとっくに別れを済ませたし、あの9人だって今はどこで何をしているのかも分からない。それに、9人とは偽りの時間のなかで出会った。だから会えて言葉を交わせたところで忘れられる。

 

 俺達は再びやって来た。

 俺の旅の終着点。歴史改変マシンがある、ショッカーの秘密基地に。

 ベルトを腰に巻いた俺達は真正面から歩を進める。襲撃者に気付いた戦闘員や幹部達が朽ちかけた建物の前に群がっていく。傘下のライダー達も。

 ゆっくりと伸びた草を踏みながら歩く俺達を、廃工場の高台から4号が見下ろしている。

「性懲りもなく来たか」

 4号の言葉を受け、俺達は足を止めた。

「決着をつけに来た」

 進ノ介がそう言うと4号は「ふん」と鼻で笑い、「本当に死ぬことになってもか?」と俺に赤い両眼を向ける。

「ひとたび手に入れた命を、再び誰かのために捨てる。そんな悲劇、受け入れられるというのか?」

 「悲劇?」と俺は思わず笑ってしまう。自分から進んで悲劇に突っ込んでいく馬鹿がどこにいる。

 俺は、俺達はいつだって悲劇に抗ってきた。どんなに残酷だろうが、退屈だろうが、ほんの一瞬でも光が現れる世界を守るために戦ってきた。それは今この瞬間でも変わらない。悲劇なんて陳腐な結末にさせはしない。

「笑わせるな。ハッピーエンドに変えてやるよ」

 「ああ、それが――」と俺の隣に立つ進ノ介が応じ、力強く宣言する。俺達が俺達であるという決意と、その誇りを。

「仮面ライダーだ!」

 俺達はそれぞれのツールを掲げる。俺はファイズフォン、侑斗はゼロノスカード、剛はシグナルバイク、進之介はシフトカーを。

 

「変身!」

 

<change:number>

 <i:Complete>

 <i:Signalbike Rider Mach>

 <i:Altair Form>

 <i: Drive type Speed>

</change >

 ベルトにツールを装填した俺達の体を鎧が覆っていく。スーツの形成と装着が完了すると同時、ショッカーの勢力が一斉に向かってくる。「行くぞ」というドライブの号令で俺達も敵へと駆け出す。

 たったの4人で大群を相手にするのはかなり厄介だった。何度もリセットを経て敵の攻撃するパターンはある程度は読めていたが、幹部達の弱点を埋めるように戦闘員が押し寄せてくる。それでも前進は少しずつだが、確かに感じ取れる。

 バロンの槍を蹴り上げ、組み付いてきた戦闘員の顔面を殴ったとき、別の戦闘員が飛びついてくる。だがその手が俺に到達する前に、ドライブによって阻まれる。

「巧! あんたは歴史改変マシンへ」

 「ああ」と俺は応じ、戦闘員の脳天を拳で割って工場へと駆け出す。

「させるか」

 その冷たい声と共に、俺の目の前に4号が降り立つ。隙のない拳の連打に俺の体が後退したところで、乱入してきたドライブが4号に組み付く。

「お前の相手は、この俺だ」

 ドライブの目を捉え、4号は「面白い」とせせら笑う。

「お前から先にあの世へ送ってやる」

「来い、ひとっ走り付き合ってやる!」

 ドライブが咆哮と共に、4号を押しやっていく。それを一瞥した俺は助太刀すべきか逡巡するが、止めていた脚を動かして工場の入口へと走っていく。

 正直、俺に4号と戦える自信はなかった。4号もまた歪められた時間、俺のせいで生み出された存在。あいつもまた被害者だ。本来の時間なら、4号もまた人のために戦う戦士だったのかもしれない。もしそうでなかったとしても、可能性として期待はしておきたい。

 工場の内部も敵で埋め尽くされていた。戦闘員は雑魚だが、なんせ数が多すぎる。奴らの弱点である頭を狙って攻撃していくが、それでも奥の暗闇からゴキブリのように湧いてきてきりがなかった。

 流石に俺も限界を感じ始めている。鎧の節々が戦闘員の血で濡れて、床に広がる奴らの血が水溜りを作って足を取られてしまう。ぬるぬるする床に滑りバランスを崩してしまった俺は、戦闘員の剣を胸に受けた。傷口がスパークを散らし、衝撃で膝を折る。

 戦闘員のひとりが追撃を加えようとしたとき、天井を突き破って何かが降ってきた。事態に気付き上を見上げた戦闘員の顔を踏み潰し、それは俺と戦闘員たちの間に立ちはだかる。人に見えた。2本の腕と脚を持っているが、その無機質な金属の光沢とぎこちない動作は不気味に映る。

「お前……」

 それは人型に変形したオートバジンだった。オートバジンは俺に背を向け、左手に掲げるホイールの機銃が火を噴く。精密性より連射性が重視された弾丸は戦闘員たちを銃創で蜂の巣にしていき、頭に命中すると連中に埋め込まれた爆弾が炸裂する。爆発のショックは他の戦闘員たちにも伝播し、誘爆が広がりものの数秒足らずで敵の首が綺麗さっぱりと吹き飛んでいく。

 俺はまだ力の入りきらない脚を持ち上げると、オートバジンの肩口にあるハンドルにミッションメモリーを挿し込む。

<tool:faiz edge>

 Ready

</tool>

 エッジを引き抜き、オートバジンの顔になったカウルを見つめる。機械のゴーグルに瞳のようなものは見当たらず、果たして俺を捉えているのかは分からない。

「足止めを頼む」

 俺がそう言うと、オートバジンはゴーグルの奥で光を点滅させる。言葉なき機械の返事だ。

 SB-555 V オートバジン。もし俺が生きる時間がもたらされたことで生まれるものがあるとしたら、この2号機もまた歪められた時間の産物なのかもしれない。この機械だけでなく、他にも生まれたものがあって、逆に失われたものもあるだろう。思えばこいつは戦いの日々で、いつも俺といてくれた。ただの機械と言えばそれまでだが、こいつは間違った存在同士の虚しさを埋めるよう寄り添っていたと思える。

 俺はオートバジンのタンク、胸にあたる部分に拳を当てた。

「一緒に戦ってくれて、ありがとな」

 オートバジンが再びゴーグルを点滅させる。この光の配列が何かのメッセージを伝えているにしても、俺に機械の言語なんて分からない。オートバシンは俺に背を向けて、背中のスラスターを吹かして回廊の奥へと消えていく。

 ここから先は俺ひとり。進ノ介でも剛でも侑斗でもない。俺が行く道だ。

 俺は薄暗い回廊を走った。枝分かれする角を直観で進み、行き止まりだったら引き返しもうひとつの回廊を進む。何度かそれを繰り返しながら闇が濃くなっていくのを感じた。

 走りながら、駆け抜けていく空間が揺らめくのを視認する。俺は一端立ち止まり、その揺らめきにエッジを一閃する。火花を散らし、空間から突如ヒルのような触手がうねりをあげ、床に落ちた。「おのれえ!」と暗闇から触手が中腹で切れたヒルカメレオンが現れる。

 有無を言わさず、俺はヒルカメレオンの胴に斬撃を見舞っていく。エッジの熱で焼かれた傷口が煙を吐き出しながらも、ヒルカメレオンは勇敢に迫ってくる。俺はフォンのENTERキーを押した。

<technique>

 Exceed Charge

</technique>

 ベルトからエネルギーが充填されたエッジの赤い輝きが暗闇を照らしていく。向かってくるヒルカメレオンにエッジを振り上げた。エッジはヒルカメレオンの腹を焼き斬り、注入されたエネルギーが内部で爆発を起こして辺りに肉片と機械部品を撒く。その場に残されたΦの文字を突っ切り、俺は更に進んだ。幹部を守備に置いているなら、この先にこの基地の中枢があるはずだ。

 俺は目的の場所へ近付いているという確信があった。近付くにつれ、怖ろしいほど静かになっていく。さっきまで聞こえていた外からの爆発音や銃声が遠のき、機械が稼働するぶうん、という音のみが支配している。

 やがて、俺はそこへ辿り着く。

 そこは無人の部屋だった。僅かな照明のもとで降ろされた幕には、ワシが足で地球を掴むショッカーのシンボルマークが描かれている。街ではためく旗にも描かれているマークだ。部屋の隅には多くのコンピュータ機器が並べられていて、機器から伸びるコードは全て部屋の中央へと集約されていた。

 中央に鎮座する球形の機械。外装のカバーがひしゃげて配線コードが剥き出しになったその姿は、どこか心臓にも見える。

 こんな部屋に納まってしまう機械が、世界を歪めた。

 俺が知らずに動かしていた、世界を書き換える物語創造機。

「これが、歴史改変マシン………」

 マシンの前にホログラムが映し出された。窓のなかに映るその人物はフードを深々と被っていて、その闇の奥にあるはずの顔が見えない。この姿はショッカーが世界への宣戦布告をしたときも、世界掌握を宣言したときも大衆へ見せていた。そのフードは決して脱ぐことなく、何者なのかも分からない存在に世界は支配された。

 今や世界の全てを手中に収める、ショッカー首領。

「よく来たな、乾巧」

 その声はしゃがれていて老人のようだ。でもこの人物がどれほど生きたのか、男なのか女なのか、そもそも人間なのかも判別できない。だがそんなことはどうでもいい。ここでマシンを壊せば、この間違った世界は終わる。

「お前の野望もここまでだ!」

 「それはどうかな?」と首領はかぶりを振り、ホログラムが消えた。制御用機器の陰から、所在なさげに海堂が歩み出てくる。

 どこまでもショッカーらしい悪ふざけだ、と苛立つと同時、俺の悲しい予感が的中してしまった。だからそれほど驚きはしなかった。

「あれほど言ったのに、どうして分かんねえんだよ!」

 怒りに歪んだ海堂の顔が、スネークオルフェノクに変貌する。俺はエッジからメモリーを抜いてフォンに戻した。この戦いに武器は使ってはいけない。かつては仲間で、今は敵として現れたこの男とは、拳で互いの想いを交わさなければならない。

 刃が消えたエッジを放り投げ、俺はスネークオルフェノクの迫る拳に自分の拳を打ち付ける。手に鈍い痛みが灯り、間合いを取ると同時に俺は問う。

「いつからだ。いつから知ってた?」

 「ずっと前からさ!」とスネークオルフェノクは吼える。

「何ちゅーかな、未来からの掲示ってやつだ。突然頭んなかに訳の分かんねえ記憶が入って来た。生きてるはずのお前が死んだ、って記憶がな」

 懐に飛び込んできたスネークオルフェノクは、頭を持ち上げて俺の顎に強烈な一撃を食らわせてくる。下顎と上顎の歯が打ち鳴らされ、高周波の音が耳孔に反響する。

「何となく分かったんだよ。お前が死んだほうの記憶が本物だってな」

「なら何で放っといたんだ? お前は気付いてたのに何で――」

 「死ぬよりゃマシだろ!」とスネークオルフェノクは回し蹴りを飛ばしてくる。足甲が胸に当たり、よろけたところで掴みかかってくる灰色の腹に肘打ちをお見舞いしてやる。

 海堂、お前は寂しかったんだな。

 俺は思い出した。蛇はひとりでいると寂しくて死ぬ、という海堂のかつての言葉を。木場を、長田を、照夫を失って空っぽになった海堂は、俺の命が偽物だって分かった上で生きてきた。俺と同じように、もう誰かを失いたくないという願いのもとで。

 俺のためだった。その俺が、再び死ぬためにここへやって来た。だから海堂は止めるんだ。たとえ敵になったとしても、それで俺を生かせるなら、と。

 拳の応酬を繰り返しながら、俺達の間には憎悪も殺意もなかった。互いの体に拳をぶつけ合い、俺達は互いの存在を確かめ合っている。俺がここにいて、お前はここにいる、と。そこには奇妙な健全さがあった。まるで喧嘩をした子供同士が仲直りするための儀式のように。

 空間にホログラムが映し出され、俺はちらり、と見やりながらスネークオルフェノクとの殴り合いを続ける。首領と思ったが、どうやら外の様子が映し出されているらしい。

 形態を変えたマッハが必殺のキックでチーターカタツムリを爆炎へと変えている。

 別のホログラムではゼロノスが剣で持ち上げたアリマンモスの体を、刀身の纏ったエネルギーで両断する。

 また別のホログラムでは上空にてドライブの専用マシンであるトライドロンが空戦仕様に形態を変えて、ショッカーの航空隊とドッグファイトを繰り広げている。

 時空が揺らぎ、揺らぎが裂け目へと変わり線路が飛び出してくる。続けて線路を走る列車はゼロライナーだ。トライドロンの機銃とゼロライナーの先頭車両の先端から突き出したドリルが飛行機を落としていく。ゼロライナーは空中に自由自在にレールを描き、その上を走って高い機動力を見せて、航空隊をほぼ全滅へと追い込む。

 残った2機が、隊長機であるスカイサイクロンの両側につく。翼同士を連結させた3機は合体し、1機の大型戦闘機としてゼロライナーへと飛んでくる。トライドロンがゼロライナーの前に飛び込んだ。列車のドリルで回転する車は拘束スピンする弾丸のように発射され、スカイサイクロンに体当たりする。

 空中に爆炎が花火のように炸裂した。爆炎から脱出したトライドロンは、ゼロライナーと共に雄叫びのようなエンジン音を鳴らしながら空を旋回していく。

「私のスカイサイクロンがああああっ‼」

 4号の怒りに満ちた声を最後に、映像が切り替わる。

 そこではゼロノスとマッハが、幹部のライダー達と戦っていた。鎧を赤く染めた形態のゼロノスの手にガトリングガンが納まる。その隣にマッハが降り立った。

 「まだいけるか?」とゼロノスが聞く。

「当たり前だ。もう死ぬつもりはない」

 銃を構えたマッハが自信に満ちた声で答える。

 バロンの槍とサソードの剣が纏うエネルギーがプラズマの光を発していく。工場の高所台から王蛇とダークキバが右脚にエネルギーの霧を帯びさせていく。

<technique:number>

 <i:Full Charge>

 <i:Hissatsu Fullthrottle shooter>

</technique>

 ゼロノスがカードを、マッハがシグナルバイクをそれぞれの銃に装填し、銃口を敵へ向けた。

 ゼロノスのガトリングがバロンとサソードの武器から放たれた衝撃波を砕き、光弾を連射する。マッハの銃から放たれたエネルギー弾が、キックを打つ王蛇とダークキバを呑み込む。

 工場内に爆炎が立ち昇った。ショッカーライダー達の断末魔の叫びが、炎と共に消えていく。背中を向けていた2人は向き合い、勝利のハイタッチをした。

 別の咆哮が聞こえて、俺の意識はそれを映し出すホログラムへ向けられる。

 青を基調とした高機動形態へと姿を変えたドライブが、4号と必殺のキックを拮抗させていた。

「お前に、仮面ライダーを名乗る資格は無い!」

 ドライブの決意に満ちた言葉と共に、せめぎ合っていたエネルギーが弾かれる。ドライブは空中で体を一回転させて体制を立て直し、地面に降りた4号のほうは右脚にスパークを散らして膝を折った。

 そこへ、ドライブのキックが降ってくる。

「ライダーパァァンチ!」

 緑色のエネルギーを帯びた4号の右拳が、ドライブのキックを迎え撃つ。再び力が拮抗し、「これしきの力あ!」と圧されている4号は更に拳へ力を込めていく。

<system: acceleration>

 For・For・For・For・Formula

</system>

 ドライブが加速装置を起動させた。スーツから熱が発せられ、辺りに陽炎が生じる。「不味いぞ」とベルトさんが警告した。

「これ以上加速すれば爆発する」

 「構わない」とドライブは断じる。たとえ自分が傷つこうとも、守りたいもののために迷いなんて必要ない。決意の全てを右脚に込めたドライブは言う。

「それが仮面ライダーだ!」

 相棒の決意を受け止めたベルトさんが、ドライブの操作に従いシステムを稼働させる。

「OK、私も付き合おう」

<system: acceleration>

 For・For・For・Formula

</system>

 更に加速する衝撃に耐えかね、4号の右脚が折れた。体のパランスを崩し、拳に阻まれていたドライブの右脚が逸れて4号の胸に叩き込まれる。4号の体が地面に倒れると同時に爆発が起こった。吹き飛ばされた4号の体を構成していたパーツ群と、まだ人としての様相を残していた臓物が散らばっていく。ごろごろとボールのように転がった4号の頭部はマスクが割れていて、赤い目の奥にあった本来の瞳が空虚を眺めている。

 敵の残骸のなかで、加速を終えたドライブの鎧からはまだ煙が昇っていた。

 映像の様子を見やったスネークオルフェノクが攻撃の手を止める。

「ほら、もうお前らの勝ちだ。後は歴史改変マシンを誰にも壊されねえように隠しておきゃあいいだろ」

 ああ、最初はそのつもりだったさ。でも真実を知った今は、もうその必要はなくなった。

「もう敵は全部倒したんだ。もういいだろうが!」

「まだ残ってるさ、この俺がな」

 俺は構えを解いたスネークオルフェノクの胸に拳を打ち付ける。よろめいた奴の背後にあるマシンへ、俺は拳を振りかざした。

 肩を掴まれ、拳は阻まれる。

「やめろ、やめろおっ!」

 後ろへ押しやられた俺はスネークオルフェノクの腕を振りほどき、再び胸に拳を沈める。胸を抑えるスネークオルフェノクを一瞥し、俺は再びマシンへと肉迫しようとする。だがそれも、「やめろ」と息をあえがせながら、まるですがるように組み付いてきたスネークオルフェノクの妨害で拳は虚しく宙を振る。

 再び押しやられた俺は膝蹴りを見舞った。腹をしたたかに蹴り上げられ、今度は堪えたのかスネークオルフェノクは床に倒れる。

 「ちょ、タンマ、タンマ」と手をかざし、上体を僅かに持ち上げたスネークオルフェノクの影が海堂の姿を形作る。

「俺さあ、オルフェノクでひとり生き残っちまったじゃない」

 「だからよお!」と立ち上がり、スネークオルフェノクは俺と拳を交えながら続ける、

「あれから色々考えてた。お前達の死が、ありゃ、意味あるもんなのかって!」

「今でも信じてる!」

 迫ってきた拳を受け止め、俺はスネークオルフェノクの頬に拳を打つ。体を半回転させ、スネークオルフェノクは床に伏して顔を沈めた。喧嘩に負けた子供が泣いているかのような、情けない姿だった。そんな奴への追い打ちとして、俺はポインターにメモリーを挿し込む。

<tool:Faiz pointer>

 Ready

</tool>

 俺は告げる。あれから何度も迷ってきた。何を信じて守るべきか答えあぐねながらも、決して捨てなかった、俺を前へと進ませてくれた根拠を。

「意味なく死んだ奴は、いないってな………!」

<shout>

「ねえよ! 意味なんかねえ!」

</shout>

 スネークオルフェノクは吐き捨てた。ゆっくりと立ち上がるその影を見やると、涙を流す海堂の姿が浮かび上がっている。

「死ぬことなんて、ただ悲しいだけじゃねえか……。だからよお、お前だけでも生きててくれよ」

 海堂、お前の気持ちは分かるよ。俺だってひとりは寂しい。だから一緒にいてくれる奴は死なせたくない。でも、そう願った俺の弱さで悲劇が起こったんだ。俺が生きているせいで、本来生きる奴が死んでしまう。

 右脚のホルスターにポインターを装着し、フォンのキーを押すプッシュ音が冷たく響く。

<technique>

 Exceed Charge

</technique>

「それはできない」

 標的に向けた右脚のポインターからマーカーが射出され、スネークオルフェノクの前で開く。これまで戦ってきた敵と同じように、俺は跳躍し光のマーカーに向けてキックを放つ。これが最後、という感慨を感じる隙もないほど、右脚の感触は慣れたものだった。倒す敵が慈悲を抱く余地もない悪党でも、仲間だった海堂でも変わりはない。殺めるという感触は平等で、どっちが尊く無価値かなんて区切りは存在しない。

 膨大なエネルギーの塊としてスネークオルフェノクの腹を貫いた俺は、その背後に身を屈めて降り立つ。

 圧しかかってくるスネークオルフェノクの体はとても重かった。そういえば、火事のなかで真理を助けたときも、背負ったあいつはまだ子供だったのに重かったな。

 これが命の重みなんだ。救った命と奪った命。俺はその両方を背負っている。これまで戦ってきて、俺が背負う命の比重はどちらへ傾いているのだろう。

「どうして?」

 スネークオルフェノクの質問に答えるのを待たず、変身が解けた。散々殴り合ったせいでスーツがとうとう限界を迎えたらしい。俺と同時に奴も元の姿に戻ったのだろう。海堂の体が少しだけ軽くなったように感じた。まるで命の重みが開けられた腹の穴から流れる血と共に抜けていくように。生温かい血が俺のコートに染み込んでくる。

 戦ってきた理由はいくつもある。夢を守るためだとか、敵を倒すことの罪を背負うだとか、答えを見つけるためだとか。

 海堂の問いで、その全てがたったひとつへと収束していく。所詮は偽物の時間のなかで紡がれた偽物の意味だ、神がひと時の眠りのなかで見る夢だ、と断じられるだろうさ。でも、命や過ごした日々が偽物だったとしても、この想いだけは本物と信じていいじゃないか。こんな薄汚れた俺がヒーローとして、正義の味方として戦えるって夢を見ても。

「世界を救うために、かな」

 背中に乗る海堂が微かに震えているのを感じた。多分、笑っているんだろうな、と分かった。この男も俺がどうするか分かっていたから、最後の敵として対峙したんだ。

「バー…カ――」

 力の抜けた罵声を飛ばして、海堂が背中から滑り落ちる。俺はその体を受け止め、ゆっくりと床へ寝かせた。閉じられた両目蓋の間から、涙が零れて床に落ちる。その涙が、海堂の肉体から燃え上がる青い炎の熱で蒸発していく。

 海堂、悪いな。でも時間が元に戻れば、お前が俺に殺されたことも無かったことになるはずだ。お前の事だ。結果オーライならそれで納得してくれるだろ。

 燃え尽きた男の肉体が灰になって崩れていく様子を、俺はしっかりと見届ける。

「巧!」

 戦いを終えた進之介がやってくる。続けて剛と侑斗も。

「お別れだ」

 落ち着いた風を繕った俺は、そう言ってベルトに納まったままのフォンを抜き、コードを入力する。

<tool:Phone Buster>

 <i:1・0・3>

 <i:Single Mode>

</tool>

 立ち上がって拳銃に変形させたフォンの銃口を向けたところで、壊れた機械の前にホログラムが浮かび上がる。

「お前がここまで来るとはな」

 映像のなかで首領は余裕な佇まいを崩さず、労うように告げる。

 そして首領は、フードを抜いだ。俺はその隠されていた顔を見て驚愕する。

 ショッカーを率いて世界を混沌へ叩き込んだ存在。

 その魔王とも呼ぶべき存在の顔は――

<surprise>

 俺だった。

</surprise>

 思わずフォンを手から落としそうになる。マシンの前にグラフィックが浮かび、最初は虹のように七色だったそれは部位によって色彩を固定し、絢爛な衣装を身にまとった俺の形を作っていく。

「変身」

 そう告げた首領の体を、どこから飛んできたのか青い蝶の大群が覆っていく。青い光が赤へと変わっていき、その赤は肉体を構成する骨のように腰から四肢へと伸びていく。

 光が収まると、それはファイズのエネルギー流動路が発する光の色だとようやく分かる。

 ファイズの姿になった首領が、黄色く輝く目を俺に向ける。同時に、背後にある歴史改変マシンが、脈動するような光を内部から漏出させている。

「時をもう一度リセットする」

 ファイズは左手を掲げた。手首には俺が変身するファイズと同じように、腕時計型のデバイスが巻かれている。

「我々はもう一度生きる。生きて、世界を我が物に」

 デバイスの液晶が灯った。

<countdown>

 ファイズの流動路が発光し、デバイスが時を刻む毎にその輝きは増していく。

 「そういうことか」と俺は悟る。

 首領は肉体を持たず、歴史改変マシンという機械のなかに自身の存在を隠していた。ベルトさんのように、意識をデジタルデータに変換して移し替えたんだろう。その歴史改変マシンを動かしていたのは俺の想い。連動していたマシンの中にいた奴は、俺の姿を借りていたということだ。

 俺の誰かを死なせたくないという想いと機械が共鳴することで、リセットは行われる。

「やっぱり、考え直さないか?」

 進ノ介がそう言ってくる。何だよ、ここまで来てお前が迷うのか。振り返ると、3人は目に涙を溜めていた。そんな気持ち、全てにかたがついたら忘れるさ。

 人生に勝ち負けを求めるのは馬鹿げてる。どんな命だろうと、生きているだけで十分得してる。でもな、最期の瞬間が自分との戦いとなれば、そこには勝敗ってやつがある。俺は自分の迷いに決着を付けるためにここまで来たんだ。

 真理と啓太郎に「ありがとう」と言えた、あの瞬間を本物にするために。

「気持ちだけ貰っとくよ」

 俺はそう返し、ファイズへと視線を戻してフォンを構え直す。

 霧江、琢磨、そして木場が、何で最期の瞬間に絶望の表情を浮かべていなかったのか、その理由が分かった。

 皆、自分の死が終わりを意味することじゃないって分かったんだ。自分のやり残したことを、受け継いでくれる人間を見つけることができたんだ。呪いにせず、祈りや決意として自分の物語を人へ人へと伝えてくれる存在を。それが俺だった。

 これから死ぬ俺もまた、後ろにいる3人にそれを託すことができる。

 例え俺の存在が忘れられることになっても、この戦士達なら、守り抜いた世界という形で俺の、俺達の物語を繋げてくれるだろう。

「これからの世界を、頼んだぞ」

 ファイズのデバイスは、カウントを残り3秒まで刻んでいる。

 照準を合わせ、俺は引き金を引いた。

 銃口から発射された閃光が、一寸の狂いもなくデバイスを貫く。

</countdown>

 身を悶えさせたファイズの体がぶれて、その体が眩い白熱光を発する。断末魔の叫びと共に光は伝播し、まるで惑星が超新星爆発したかのように薄暗かった部屋を呑み込んでいく。

 何も視えない。ただ純白の光に満ちた世界のなか、ひとりで立っている俺の手からフォンが落ちて、床に衝突する音も立てずに虚無へと消えていく。

 白んだ光のなかで、人々がゆるやかな河のように行進しているのが見えた。そのなかには見慣れた顔がちらほらとある。

 草加、長田、澤田、木村、照夫、琢磨、そして木場。

 死者の行進のなかから、一部が抜け出して反対方向の彼方へと歩いて行く。そのなかには霧江と森内と、俺が死なせてしまった用務員の戸田がいた。

 生者へと戻ろうとしている者達のなかで、海堂が死者達のもとへ戻ろうともがいている。でも世界の書き換えは絶対的な力で、暴風に吹かれたように海堂は乾、と叫びながら生者たちと共に光の彼方へと消えていく。

 海堂、お前は生きろ。叶うのなら、生きるついでに俺達の物語を語り継いでくれたら嬉しい。

 ぼう、っと立っている俺のもとへ、木場が歩いて手を差し伸べてくる。とても穏やかな笑みを浮かべ、俺を行進へと導いてくれる。

 俺は手を取りながら、木場に尋ねる。

 

 なあ木場。俺、死ぬ時に願ったんだよ。

 世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、皆が幸せになりますように、って。

 がらじゃないけどさ。俺達の戦い。先に死んでいったお前達の想い。それを正しいと信じたかったんだ。もう迷わないって決めたのに、死んでもうじうじと迷ってばかりだった。お前との約束も、果たせたのか分からないままだ。

 木場。俺達は正しかったのかな?

 俺達仮面ライダーが戦うことで、世界中の皆は、幸せになれたのかな?

 

 木場は笑みを浮かべたまま答えてくれる。

 

 君の夢は、残った人達が受け継いでくれる。

 君は生きてくれた。生きて、俺達オルフェノクが生きる意味を見つけてくれた。俺達の命に意味を与えてくれた。

 人は、どれだけ時間が経っても人のままなのかもしれない。間違うことも、迷うこともある。でも、君は人がみんな光を抱けるってことを見つけたんだ。世界がどんなに残酷でも、希望はいつだってどこかに転がっている。

 それが、君達という存在なんだよ。

 ありがとう、仮面ライダー。

 

 俺はつい笑ってしまう。大事なことを忘れてるよ、木場。

 

 俺達、だろ。お前も仮面ライダーだったじゃねえか。

 お前だって、世界のどこかに転がってる希望のひとつだった。そうだろ。

 

 俺がそう言うと、木場は予想外といった顔をする。そして恥ずかしそうにはにかみ、そうだね、と答えた。

 俺は木場と共に、死者の行進へ加わろうと歩いていく。俺の旅はこれで終わる。もう罪を背負うことはない。何も背負わず、身持ちの軽いまま光のなかへ還元されていく。

 ふと、1年間だけ一緒に過ごし、あのライブの日からとうとう会うことのなかった少女の顔が浮かんだ。

 

 穂乃果、悪いな。

 お前達の夢。せっかく叶ったのに、無かったことにしちまった。

 でも、俺がいなくても大丈夫だよな。

 お前なら、お前達9人なら夢を叶えることができるさ。

 皆でいれば輝けるって、俺は信じてる。

 

 そして俺は目を閉じる。

 

<voice>

「たっくん!」

</voice>

 

 薄れていく意識のなか、彼女があの頃の声と、あの頃の笑顔のまま、俺を呼んでくれた気がした。

 

 

</body>

</ltml>

 




 巧の物語が一応の締め括りとなったところで、次回が『ラブライブ!』原作の第2期最終話に相当する回となります。


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第14話 叶え!みんなの夢―― / 守り人の夢

 穏やかに営みを築く街並みを、真っ赤なカラーリングが施されたスポーツカーと白馬のように白いバイクが駆け抜けていく。

 エンジンを唸らせながら去るその後ろ姿に、海堂直也は敬礼を捧げた。

 それは傍から見れば手で日除けを作る仕草だが、直也にとってはこれから戦いへと赴くであろう彼等に捧げる最大の敬意だった。つい「昨日」まで、世界を救うための戦いを繰り広げていたことに気付かない戦士達への。

 先ほど直也とぶつかったスポーツカーの運転手のほうは、一度顔を合わせているにも関わらず直也の顔を覚えていない様子だった。直也のほうはしっかりと覚えているというのに。

 直也が未だ彼等を知っているのは、おそらくは歴史改変マシンの影響がまだ残っているからだろう。本来なら住む世界が異なり、出会うはずのない彼等とすれ違いでも出会ったことがそれを証明している。

 とはいえ、彼等の記憶から直也の存在が抹消されているのなら、直也のほうも近いうちに彼等を忘れるはずだ。忘れたことにも気づかないまま元の世界に戻り、「彼」を失ったことへの空虚を抱えながら生きていくだろう。

 直也は空を見上げる。雲ひとつない青空だ。これまでの人生で最も美しい。このどこまでも広がる蒼穹に思慕を抱けるのは、果たしていつまでなのか。

 直也の中にある記憶は、ふたつの過去に分かれている。「彼」がいる過去と、「彼」のいない過去。ふたつの記憶には当然違いがあるのだが、それほど大きな差異はない。「彼」がいないほうの過去でも、直也は「王」とロブスターオルフェノクを倒し、オルフェノクという種に終止符を打った。琢磨逸郎という犠牲を払って。その戦いに「彼」はおらず、ファイズとして戦ったのは直也だった。ただそれだけの違いに過ぎない。

 きっと、「彼」が存在した過去にいた少女達の道のりにも、大した影響は及んでいないのだろう。

 最初から決められた運命だったのか。彼女らに問えば否定するに違いない。これは自分達で掴み取った栄光だ、と。みんなで叶えた夢なのだ、と。

 同じ結果になるのなら、「彼」は必要なかったのか。それを彼女らに問いても答えは得られないだろう。出会わなかった者のことなど、彼女らは知るはずもないのだから。

 どちらが真実で、どちらが偽りの過去かなど、直也にとってはどうでもいい事だった。「彼」がいてくれれば、それで良かった。仲間を失った空虚に耐えられなかった直也は、生きていてくれる偽物の時間を選択した。

 でも、「彼」自身はそれを拒んだ。直也は「彼」ならそうすることを分かっていた。誰よりも不器用な癖に、誰よりも優しかった彼なら。だから「彼」が時間の真実に触れることを阻止するべく警告を重ねたし、「彼」の前に敵として立ち塞がった。

 結果として、直也が未来から掲示を受けた日から続けていた抵抗は全て水疱に帰した。曖昧になってきた片方の過去のなかで、直也が最後に見た「彼」の顔は、まだしぶとく仄かに光を放っている。

 直也が生者への帰還を強いられたとき、死者の側に立っていた「彼」は穏やかな顔で直也を見送ってくれた。本来なら若くして命が尽きて、歴史改変という延命措置を施しても戦いに明け暮れた日々を想うと、その最期は直也にとってほんの僅かだが慰めになった。

 意味なく死んだ奴はいない、と「彼」は言っていた。それは、死者達の物語を受け継ぐ「彼」の力強く、優しい決意を表した言葉だった。直也は思う。ただ空虚に覆いをするために復讐や偽物の時間を選択した自分に、あんな強さは持ち得なかったのだ、と。でも、こうして生き残った直也には責任がある。「彼」と仲間達が求めなかったとしても、直也自身が背負うと選択する。

 絵を描こう、と直也は思った。滅びゆくオルフェノクの直也に残された命は、そう長くはない。余命のあるうちに、皆の物語を語り継ぐための絵本を作ることが直也にできることだ。「彼」等が確かに存在したという証として。人々へこだまのように広がっていく形として。

 

 むかしむかし、オルフェノクという生き物がおりました、というように。

 

 やるべきことは決まった。それを始める前に、直也は空へ尋ねる。この空に対して、何も感じられなくなってしまう前に。時間という絶対的概念によって、心が覆われてしまう前に。

「さて、この空を守ったのは、いったい誰なんでしょうか?」

 直也の口から零れ出た名前は、誰の耳にも届くことなく蒼穹の大気へと拡散していった。

「なあ、――」

 

 少しだけ、時間を遡らせてもらう。

 これから語るのは、本来の時間を辿った少女達の一幕だ。

 既に知っているのなら見る必要はないのかもしれないが、本来なら交わるはずのないこの物語での彼等を見守ってくれたあなたには、どうか見届けてほしい。

 小さな地球(ほし)の話をしよう。

 

 

 ♦

「できた!」

 その言葉を連呼しながら、穂乃果は階段を駆け下りていく。障子を開けた居間には雪穂と亜里沙がいて、目を丸くするふたりに穂乃果は「できたよ!」と。

 「何が?」と雪穂が尋ね、「送辞だよ! 卒業式の送辞!」と穂乃果は繰り返し「ああ」と胸を撫で下ろす。

「ずっと悩んでたんだあ」

 今日執り行われる卒業式。生徒会長である穂乃果は3年生への送辞を述べる進行が組まれている。小学生の頃、「おまんじゅう、うぐいす団子もう飽きた」なんて作文を書いた穂乃果の文章力は高校生になっても上達していなくて、昨晩は遅くまで頭を悩ませた。それでも言葉が纏まらずにいたのだが、ようやく完成した。最高と言える形に。

 「行ってきまーす!」と元気よく、穂乃果は玄関の戸を開けて外へと飛び出す。庭の植木に水やりをしている母に「お母さんおっはよー!」と言って学校への道を行こうとしたところで、穂乃果はふと立ち止まり母を見つめる。正確には、母のいる店先を。

「どうしたの穂乃果?」

 母がそう聞いてきて、はっと穂乃果は気付き家の中へと引き返した。「ごめん、言いそびれた」と居間の障子を開ける。

「ふたりとも、すっごく似合ってる。ファイトだよ!」

 そう言うと、音ノ木坂の制服のサイズ合わせをしていた雪穂と亜里沙は満面の笑みを浮かべた。来月からふたりは、穂乃果の後輩になる。学校は続いていく。それが実感できた。

 再び家を出て通学路を駆けながら、穂乃果はまださっきの違和感を忘れることができずにいた。朝の店先。いつもそこにいたのは母だけだっただろうか。もうひとり誰かが、店先の掃除をしていた気がしてならない。でも、それが誰なのか分からない。父はいつも厨房にこもりきりだし、雪穂だって店の手伝いは積極的じゃない。

 そこにいた人物がどんな顔でどんな名前だったのか、存在すら曖昧だった。

 

 

 ♦

 校舎の周辺に植えられた桜の木は満開に咲き誇っている。春の暖かい風が花弁を吹きすさんでいた。

 校門を越えたすぐのところで、1年生の3人がいた。凛が「おーい!」と手を振っていて、花陽が「穂乃果ちゃんおはよう」と言った。「おはよう」と返した穂乃果が「皆は?」と聞くと、真姫が答えた。

「わたし達も今来たところよ」

 「あっちにはにこちゃんも」と花陽が目配せしたところへ視線を追うと、にこの妹弟のココロとココアと虎太郎がいる。そばへ寄って凛が「にこちゃんおはよう」と挨拶すると、妹弟たちの傍で佇むにこ、と思っていた女性が「あら」と振り返り笑みを向けてくる。

「にこ……、ちゃんじゃないにゃ!」

 凛が上ずった声をあげる。「初めまして」と落ち着いた口調で挨拶する女性の顔立ちはにこに瓜二つなのだが、すらりとしたパンツスーツのよく似合う長身からにことは別人と理解できる。

「わたし達のこと、知ってるんですか?」

 花陽が聞くと「勿論」と女性は答え、唐突に「にっこにっこにー!」と乗り気でポーズを決める。

「の母ですから」

 思わず「えー!?」と穂乃果は大声をあげた。その反応を良いほうへ捉えたのか、にこの母は微笑を向けてくる。

 「は、初めまして」と困惑気味に花陽が言ったところで、「ママー!」とにこが走ってきて母にしがみつく。

「何してるのよ、早く来てよ! 見せたいものがあるんだから!」

 「ねえママ、早く!」と子供のように母親の腕を引くにこへ、苦笑を浮かべながら「にこ……、ちゃん」と穂乃果が呼ぶ。ようやく後輩たちに気づいたにこは羞恥に引きつらせた顔と母にしがみついた体を凍結させながら穂乃果たちを凝視してくる。しばし逡巡した後に、母から離れたにこは軽く咳払いし「おはよう」とか細い声で言った。

 まさかにこにあんな甘えん坊な一面があったとは。にこの母を部室へと案内しながら、穂乃果はしみじみとそう思った。いつも不遜な物腰だから意外なのだが、考えてみればにこは長姉なのだ。姉という立場上、親に甘え辛いのかもしれない。穂乃果も同じ姉でありながら親に甘えてばかりだが。でも、甘える相手は親と雪穂だっただろうか。海未とことりにも甘えてばかりだが、もうひとりいた気がする。

 「じゃあいくわよ」と部室のドアを開けたにこが、照明を点けてテーブルの上を指し示す。続けて花陽と真姫が壁に立てかけられていた旗を広げた。

「これが優勝の証よ!」

 テーブルに置かれた黄金のトロフィーと、広げられた旗に施された『Love Live! VICTORY』という文字の刺繍。自分たちの掴んだ栄光がそこにあった。にこの妹弟たちが「すごいです」、「きれい」、「うぃなー」と歓声をあげる。

「わたし達、勝ったんだね」

 花陽が目尻に涙を浮かべながら呟く。穂乃果もこうして優勝旗とトロフィーを受け取っても、未だに実感が追いついていない。

 「優勝にゃー!」と凛がトロフィーを掲げる様子に、「もう、まだ言ってるの?」と真姫が苦笑と共に皮肉を飛ばす。

「ね、本当だったでしょ?」

 にこが母へ期待を込めた眼差しを向ける。にこの母は娘に優しい視線を返し、「おめでとう」と告げる。にこが満面の笑みを浮かべたところで、「でも」とにこの母が咎めるような口調へと変わる。

「これ、全部あなたの私物?」

 にこの母が見渡す部室には、たくさんの段ボールが詰め込まれている。中身は全部にこが自宅から持ってきたアイドルグッズで、まだ荷造りされていない物も多い。

 口ごもる娘に、にこの母は厳しく言った。

「立つ鳥跡を濁さず。皆さんのためにも、ちゃんと片付けていきなさい」

 「はい……」とにこは肩を落とした。部室のグッズは殆どがにこの私物だったから、片付けてしまったら空き部屋のようになってしまいそうだ。

「ところで穂乃果、行かなくていいの?」

 真姫のその言葉に、「え?」と穂乃果は返す。真姫は呆れの表情を露骨に出しながら言った。

「生徒会役員は式の2時間前に生徒会室集合、って海未に言われてなかったっけ?」

 穂乃果は息を呑んだ。そうだ、送辞のことで頭がいっぱいだったから忘れていた。壁にかけてある時計を見ると、集合時間はとっくに過ぎている。「行かなくちゃ!」と駆け足で穂乃果は生徒会室へと向かった。

 「ごめん!」と生徒会室のドアを開けると、予想通り海未の仏頂面が視界に映る。

「卒業式に遅刻ですか?」

 海未の凄みのきいたその言葉が、穂乃果に向けられた第一声だった。隣ではことりが苦笑を浮かべている。

「ち、違うよ。学校には来てたの! ちょっと色々あって………」

 弁明を試みるも、「色々?」と目を細める海未の剣幕に圧されてしまう。そこへ、「海未ちゃん」とことりが助け船を出してくれた。

「卒業式の日に、あんまり怒っちゃ駄目だよ」

 「ですが……」と返すも、海未はこの時ばかりは小言を勘弁してくれた。

 卒業式の生徒会は大忙しだ。式場の設営に進行の確認。卒業生へ贈る花の準備もしなければならない。

「それで、送辞のほうはちゃんと完成したのですか?」

 式場である体育館へ段ボールを運ぶ途中、海未がそう聞いてきた。「うん、それはバッチリ」と自信たっぷりに穂乃果が答えると、「本当?」とことりが嬉しそうに言う。

「ポケットに入ってるから、ふたりも見てよ」

 立ち止まって言うと、手荷物がファイルだけのことりが穂乃果のブレザーのポケットに手を伸ばし、中の紙片を取る。ふたつに折った紙片を開いたことりと、それをのぞき込んだ海未は笑みを浮かべた。

「穂乃果ちゃんらしいね」

 ことりの言う通り、この送辞は自分らしい、と穂乃果は思う。穂乃果が考案したものだが、穂乃果ひとりではこの送辞は完成しない。その期待を込めて、穂乃果は言った。

「皆も協力してね」

 

 

 ♦

 ヒデコ達から去年の卒業式の記録を見てきてほしいと頼まれて、体育館から出たときにその光景は目に映った。

 花壇を色とりどりの花々が覆い尽くしていて、そよ風に頭を揺らしている。まるでこっくりと眠りこけているように見えた。緑化委員の生徒たちが世話をした花の絨毯だが、用務員の戸田も手伝ってくれていた。教員ではないから卒業式に来られないのは残念だ。昨日だって3年生の晴れ舞台だから、と校舎周辺を念入りに掃除してくれていたのに。

 花壇の縁で、希がしゃがみ込んで揺れる花々を眺めている。眠ろうとしている子供たちを優しく見守る母のように。「希ちゃん」と駆け寄ると、穂乃果に気付いた希は「あ、穂乃果ちゃん」と立ち上がる。「どう?」と希は自分の髪に触れた。

「すっごい似合う! 希ちゃん髪きれいだよね」

 そう穂乃果が評す希の髪型は普段のおさげとは変えてある。ひとつに纏めた長い黒髪は編み込まれて、右肩から前へと流している。ひと房の髪は陽光を浴びて艶やかな光を反射して、それが風に揺れると髪の束の一本一本が角度を変えて光を反射している。

「そんなに言われたら照れるやん」

 希は恥ずかし気に笑みを浮かべる。

「でも、本当にそう思うよ」

 お世辞ではなく、本当に綺麗だ。つい見惚れてしまうほどに。

 「ありがとう」と希は言った。その視線が少し俯き加減に下がり、穂乃果は何かと首をかしげる。「ねえ、穂乃果ちゃん」と希はポケットからタロットカードを1枚取り出した。

「うち、今この瞬間が来るまでに、何かが抜けちゃってる気がするんや」

 「え?」と聞く穂乃果に、希はカードの絵柄を示す。「運命の輪の正位置」と希は言った。

「これが正しいのかもしれんけど、どうしても違う気がするんよ」

 言葉の意味を咀嚼できず、穂乃果は返す言葉を探しあぐねる。希自身も理解しきれずにいる様子だった。カードを見つめる希の目は何かを探すようで、でも何を探すべきなのかも分からないような。

「ごめんね、変なこと言って」

 カードをポケットにしまい、はぐらかすように希は笑った。「ううん」と穂乃果は笑みを返す。

「じゃあ、また後で」

 生徒会室へ向かおうと足を向けたところで、「あ、エリち知らない?」と希が聞いてくる。「知らないよ」と穂乃果は答えた。今日はまだ、学校に来てから絵里と会っていない。

「てっきり、穂乃果ちゃん達と一緒やと思ってたんやけど」

「そっか、見つけたら言っとくね」

 そう言って穂乃果は生徒会室へと急いだ。足早に廊下を歩きながら、穂乃果は先ほどの希の言葉を裡に反芻する。彼女の言葉をただの気のせい、と一蹴できないのは、穂乃果も「今この瞬間」から何かが抜け落ちている、と感じているからだ。

 そう、何かが抜けている。とても大切な何か。記憶も、感情も、その「何か」に関するもの全てが根こそぎ頭の中から消滅してしまったようだ。残っているのは違和感だけ。この違和感はいつからだっただろう。昨日も抱いていたのかさえ分からない。

 全く整理がつかないまま生徒会室へと辿り着く。ドアを開けると、陽光を浴びたブロンドの髪が宝石のように輝いているのが見えた。

「絵里ちゃん、どうしたの? 希ちゃん探してたよ」

「別に用があったわけじゃないんだけど、何となく足が向いて」

 「式の準備は万全?」と絵里は聞いてくる。「万全てほどじゃないけど」と穂乃果は苦笑を返した。

「大丈夫、素敵な式にするから。楽しみにしててね」

 穂乃果が力強く言うと、絵里は「ありがとう」と静かに言った。その静けさに、穂乃果はつい「心配事?」と尋ねる。絵里はかぶりを振った。

「ただ、ちょっとだけ……」

 そう言って絵里は長机に優しく手を添える。

「昨日アルバムを整理してたら、生徒会長だった頃のことを思い出してね。わたし、あの頃何かに追われてるような感じで、全然余裕がなくて、意地ばかり張って………」

 しみじみと語る絵里は、その思い出の全てを呪っているようには見えなかった。むしろ、どこか愛おしそうだ。

「振り返ってみるとわたし、皆に助けられてばっかりだったなあ、って。やりたいことやればいいし、夢見たっていい、って言ってくれたのは希だったっけ」

 絵里は窓の外を物憂げに眺める。窓の奥では桜の木が花弁を散らしている。

 助けられてばかりなのは自分も同じだ、と穂乃果は思った。絵里や穂乃果だけじゃない。μ’sの中で完璧な人間なんて誰もいない。皆どこかで足りない部分があって、互いにそれを補い合ってきた。絵里が皆に助けられてきたと同時、皆も絵里に助けられてきた。その想いを言葉として表すにはどうにも限界があるが、穂乃果にとってそれは大した問題じゃない。

 穂乃果は絵里を抱きしめた。「穂乃果?」と上ずった声をあげる絵里に、穂乃果は自分の持つ熱を分け与えるように体を密着させる。言葉にしきれないなら、行動として示せばいい。今、ふたりはこうして触れ合うことができるのだから。

「絵里ちゃん。わたし達が最終予選に間に合わないかもしれないとき、こうやって受け止めてくれたよね。わたし達も同じだよ。生徒会長になって、ここにいて、絵里ちゃんが残していくものをたくさん見た。絵里ちゃんがこの学校を愛していること。そして、皆を大事に想っていること」

 穂乃果は絵里から離れると、しっかりとその碧眼を見つめる。

「絵里ちゃんの想いが、この部屋にたくさん詰まっていたから、わたしは生徒会長を続けてこられたんだと思う。本当にありがとう」

 絵里が生徒会長として守ろうとした音ノ木坂学院。それに込められた想いはこの生徒会室に保管されている資料としてしっかりと残されている。学校が存続した今、想いは穂乃果へと受け継ぐことができた。絵里のように立派に生徒会長の職務をこなせることはできないかもしれないが、皆がいるのだから不安はない。

 絵里は眼尻に涙を浮かべた。穂乃果はその涙と、それに込められた想いを受け止める。

「もう、式の前に泣かせないでよ」

 絵里は涙を指で掬いながら、そう言った。もっと会話に華を咲かせていたいが、生憎そうはいかない。「じゃあ、行くね」と穂乃果は棚からファイルを取って部屋から出る。廊下に出たことろで、ドアのすぐ横に希が立っていた。「希ちゃん」と呼ぶと、「やっぱりここやったんやね」と希は言った。

「じゃあ、また後で!」

 希と部屋から出てきた絵里にそう言うと、穂乃果は体育館の方向へと歩き出す。今日の、3年生のステージを成功させるために。

 

 

 ♦

「音ノ木坂学院は皆さんのお陰で、来年度も新入生を迎えることができます。心よりお礼と感謝を述べると共に、卒業生の皆さんが、輝かしい未来に羽ばたくことを祝福し、挨拶とさせて頂きます」

 「おめでとう」と締め括る壇上の理事長に、体育館にいる生徒たちと教員たち、それに加えて来賓の面々と卒業生の父兄たちが拍手を贈る。「続きまして」と司会を務めるフミコが次の進行を述べる。

「送辞。在校生代表、高坂穂乃果」

 「はい」と高らかに返事をして、穂乃果は椅子から立ち上がる。壇上でスタンドマイクの前に立つと、体育館の全域が見渡せる。

「送辞。在校生代表、高坂穂乃果」

 こうした学外の面々も招いた式典の場で、穂乃果はとても落ち着いた気分だった。生徒会長に就任した頃の挨拶では緊張して、述べる文言を忘れてしまうほどだったが。きっと、皆が一緒だと思えるからだ。μ’sのメンバー達、応援してくれた生徒と教師たち。ここにいる人々への愛しさが、不安を消してくれる。

「先輩方、ご卒業おめでとうございます。実は昨日まで、ここで何を話そうかずっと悩んでいました。どうしても今思っている気持ちや、届けたい感謝の気持ちが言葉にならなくて、何度書き直しても上手く書けなくて」

 送辞の内容を考えるとき、海未にもことりにも手伝いを頼まなかった。これは生徒会長である自分がしなければならないこと。普段の業務はふたりに助けてもらっている分、これだけは、と穂乃果はひとりで考えることに決めた。でも穂乃果には上手い文言がなかなか思いつかず、書いてみてもどれも中身のない薄っぺらい美辞麗句を並べたものにしか見えなかった。

「それで気付きました。わたし、そういうのが苦手だったんだ、って」

 あちこちで苦笑が漏れるのが聞こえてくる。

「子供の頃から言葉より先に行動しちゃうほうで、ときどき周りに迷惑もかけたりして、自分を上手く表現することが本当に苦手で、不器用で」

 何をするにも、わたしは言葉が足りなかったな、と穂乃果は思った。想いを伝えたくても、それを表す言葉が分からなくて、よく海未と言い争いをしたものだった。大体が喧嘩というより海未からのお説教だったが、反論するにも言葉を知らない。「自分」というものを表現する方法を、ずっと探していた気がする。

「でもそんなとき、わたしは歌に出会いました。歌は気持ちを素直に伝えられます。歌うことで、皆と同じ気持ちになれます。歌うことで、心が通じ合えます。わたしは、そんな歌が好きです。歌うことが大好きです」

 少ない言葉の連なりを、メロディーに乗せて口ずさむ。抑揚をつけて、歌詞に込めた想いを歌い上げる。同じ気持ちを抱いた人々と歌えば、気持ちを共感し合える。穂乃果にとって歌とは、自分を表現するものと同時に、皆と繋がるためのものだ。最初は3人で始まったμ’sの歌を聴いて、同じ気持ちを抱いた者が仲間になる。やがて9人になったグループは9人分、でも同じたったひとつの想いを乗せて歌う。歌を聴いた観客たちも同じ想いを抱き、波紋のように広がっていく。素敵だな、と穂乃果は目の前の全てに愛しさを募らせる。

「先輩、皆様方への感謝と、これからのご活躍を心からお祈りし、これを贈ります」

 文章での挨拶はここまでだ。出席している面々が眉を潜める。

 これが、穂乃果の考えた最高の送辞。自分の想いを、大好きな歌という形で送ること。

 穂乃果は歌い始める。同時に、真姫の奏でるピアノの旋律が始まる。これはまだμ’sが始まる前の頃、真姫が放課後の音楽室で弾いていた曲。この音色に惹かれて、穂乃果は真姫にもアイドルをやってほしいと思った。この曲を、あの音楽室に留まらせたくなかった。

 大好きな人に大好きを伝えられる曲。過ぎていく時の流れを怖れずに、前へと進ませてくれるこの曲を。

 穂乃果の独唱に、海未とことりが加わってくる。続けて凛と花陽も。歌の波紋は、式場全体へと広がっていく。出席している皆でハミングを口ずさみ、学校と、思い出への思慕を巡らせていく。この波が、穂乃果は大好きだった。皆と一緒に気持ちを分かち合える、この空間が。これまでμ’sが歌ってきた曲。ネット上で公開されている曲の数々を、この世界の、穂乃果とまだ会ったことのない人も聴いているのだろうか。もし、聴いて自分たちと同じ美しい思慕を抱いてくれたら、それ以上に幸せなことはない。

 ふと、歌いながら穂乃果は式場を見渡す。ありがとうを、大好きを伝えたい人がまだいる。でも、その相手はこの場に揃っているはずだ。メンバーも、応援してくれた生徒も、教師も全員。家にいる家族だろうか。それとも亜里沙だろうか。

 笑みを浮かべながら、絵里が涙を流しているのが見える。希の眼尻に浮かんだ涙も、一筋に頬を伝っていく。にこは、彼女らしく表情を強張らせて泣くまいと堪えている。

 皆に想いを伝えられた。でも、まだ伝えていない人がいる。確かなことは、その人のことが大好きだった、ということ。

 でも、大好きなのに何で顔も名前も思い浮かばないのだろう。穂乃果には理由なんてまるで分らなかった。

 

 

 ♦

 卒業式が終わると、卒業生たちは教室で担任教師と別れの挨拶を交わす。在校生は総出で式場の後片付けだ。撤収作業はすぐに終わり、生徒たちは思い思いに過ごし始める。卒業する先輩との別れを惜しむ在校生の姿は、校舎の各所でちらほらと見かけられる。部活動に所属している生徒たちの多くは先輩の見送りと役職の引継ぎで、アイドル研究部もその例に漏れない。

「無理無理無理! 誰か助けてー!」

 部室に花陽の悲鳴がこだまする。王冠に赤いマントと、まるで王様のような装束を着させられて当人もようやく理解が追いついたらしい。考えてみれば、ライブライブ決勝のことばかりで次期部長を決めていなかった。花陽を推薦したのは、今日限りで部長を退くにこだ。

「あなた以上に、アイドルに詳しい人は他にいないんだし」

 にこの言葉を聞いて、なるほど、と穂乃果は納得できる。花陽はあまり前に出る性分ではないけど、アイドルに関してはにこと渡り合えるほど造詣が深い。

 「で、でも……、部長だなんて……」と口ごもる花陽の背を凛が押した。

「凛だってμ’sのリーダーやったんだよ。かよちんならできる」

 「そうよ」と真姫が続く。

「一番適任でしょ」

 「でも……」と言う花陽を「できるわよ、あなたなら」とにこが遮った。

「こんなにたくさん、助けてくれる仲間がいるんだから」

 にこの言う通り、花陽には皆がいる。困ったことがあれば当然助ける。それに気付いたのか、花陽は部室に集まるメンバー全員を見渡した。

「もっともっと賑やかな部にしといてよね。また遊びに来るから」

 照れ隠しにそっぽを向いて、にこはそう言った。花陽は目に浮かんだ涙を指で掬い取り、笑顔で「うん!」と答える。

「じゃあ、真姫ちゃんが副部長ね」

 突然の花陽の言葉に、「ええっ⁉」と真姫が柄にもなく声をあげる。

「何でわたし?」

「わたしが部長だったら、凛ちゃんがリーダー。だから真姫ちゃんが副部長だよ」

 「それ良いにゃ!」と凛も賛同する。煮え切らない、というように表情をしかめる真姫に、全員で拍手を贈る。拍手が止むと、絵里が告げる。

「皆、頼んだわよ」

 「ま、待って! わたしはまだ――」と真姫は食い下がろうとするのだが、途中で諦めたのか「もう、別に良いけど」と腕を組んだ。2年生は3人とも生徒会役員だから、これ以上は負担させまいという配慮の上での采配だ。押し付けてしまう形になって申し訳ないとは思うが、真姫だったらそつなくやってくれるだろう。だから穂乃果は心配していない。

「さ、これで必要なことは全部終わったね」

 そう切り出した希が、「じゃあ、うちらはそろそろ行こっか」と絵里とにこを促す。

「え、もう行っちゃうの?」

 穂乃果がそう言うと、希は少し困ったように笑う。これで終わりだなんて淡泊だし、寂しい。

「せっかくだし、校舎を見て回ろうと思って」

 そう言う絵里に、「じゃあ、わたし達も行くよ」と穂乃果は言った。

「この9人で、ってのはこれが最後だし」

 穂乃果の言葉を最後に、部室に沈黙が漂う。無表情な皆の視線が自身に集中していることに気付き、「あれ?」と呟く穂乃果に「言ったにゃ!」と凛が抱きついてくる。「ああ!」と声をあげる穂乃果は思い出した。この9人で交わしていた約束を。それを確認するようにことりが。

「最後、って言ったらジュース1本て約束だよ」

 約束は約束、ということで、中庭に場所を移したメンバー達に穂乃果は自販機で買ったジュース人数分を持って行った。ベンチに腰掛けて皆がジュースをご満悦そうに飲んでいる間、穂乃果はすっかり寂しくなった財布の中身を見て肩を落とす。来月分の小遣いを母は前借りしてくれるだろうか。そう思っていたところで、絵里が茶化すように追い打ちをかけてくる。

「穂乃果の奢りのジュースは、美味しいなー」

 「穂乃果ちゃんありがと」と意地悪く言う希に「どういたしまして……」とか細く返した。

「穂乃果、あなたブラックコーヒーなんて飲めたっけ?」

 隣に立つ真姫が尋ねてきて、穂乃果は自分の右手にある缶コーヒーの温もりに気付く。

「あ、ホット買っちゃった! 怒られちゃう………」

 咄嗟に出てきたその言葉に、皆が穂乃果を凝視する。

「怒られるって、誰にですか?」

 海未のその質問に、穂乃果は「えっと……」としか答えることができない。穂乃果も自分が何を言っているのか分からなかった。適温に温められた自販機の缶コーヒーが飲めないほど猫舌のメンバーなんて、誰もいないはずなのに。

「自分が飲むために買ったんじゃないの?」

 にこがそう言ってきて、「そうかな?」と戸惑いながら穂乃果は黒くプリントされた缶を見つめる。コーヒーなんてミルクと砂糖を入れなければ飲めないが、それしか思い当たる節がない。プルトップを開けて中身を一口だけ啜ってみる。とても苦かった。その苦さに穂乃果は顔をしかめる。

「どうして大人ってこんな苦いもの飲むんだろ?」

 穂乃果の問いを、皆はただ「さあ」とはぐらかすだけだった。ここにいる面々でブラックコーヒーなんて飲める者なんていないはずなのに、どうして買ってきたのだろうか。

 

 

 ♦

 ファーストライブで歌を披露した講堂、メンバーが9人になって初めて歌ったグラウンド。思い出深い場所は、この学校の至るところにある。ここは穂乃果たちにとって主な生活の場であり、同時にアイドルでもあった場所。

 ここから全てが始まったんだ。

 皆で校舎を回りながら、穂乃果は感慨を抱きしめた。廃校の検討が発表されて、宣伝のためにアイドルを始めようと決起したのがもう1年前とは。この1年間、長かったようで短かったようにも感じられる。過ぎてみればあっという間だけど、その刹那的な時間で少しは成長できただろうか。

 講堂に行ったとき、ファーストライブの時は広く感じられたステージと観客席が不思議と小さく感じた。わたし達が少しだけ成長できたということかもしれない、と海未は言っていた。自分では実感できなくても、傍から見れば成長しているのだろうか。 

「最後はやっぱりここね」

 目的地に到着すると、そう言った絵里が開けた空気を心地よさそうに吸い込む。μ’sにとって最も思い出深く、馴染み深い場所。

 それは、練習場所として使っていた屋上だった。

「考えてみれば、練習場所がなくてここで始めたんですよね」

 海未がふと、そう漏らした。体育館もグランドも他の部が使用しているから、他に練習場として使えるのは屋上しかなかった。雨が降ったら使えないし、夏場は直射日光が射して暑い。完全に貧乏くじを引かされた。

 でも、毎日ここに集まって練習して、出来ないことを皆で克服して、時にはふざけて笑い合った。ここにはその全部が詰まっている。穂乃果たちが、μ’sが積み重ねてきたものが全部。

 練習着を着てここへ躍り出るとき、穂乃果はいつも洗濯された服から洗剤の匂いを嗅ぎ取っていた。洗剤の石鹸フレーバーの香りが穂乃果は好きだった。優しい香りが全身を包み込んでくれるのを、いつも感じていた。

 まるで、穂乃果を守ってくれているかのように。

 唐突に、穂乃果は廊下に置かれたロッカーからバケツとモップを持ってきた。水を張ったバケツの中にモップを浸す彼女を、何の説明もされていない皆は目を丸くして見つめている。

「見てて」

 皆にそう言うと、穂乃果は水を十分に吸ったモップを屋上の床に滑らせていく。傍から見れば随分と粗末な掃除だ。磨く方向なんてでたらめで、モップだって絞らず水を滴らせながら床を濡らしている。

 やがて、皆は穂乃果の行為が何を意味するのか、それは床を濡らす水の軌跡で気付いた。

「できた」

 腰に手を当てて、穂乃果は濡らした床を眺める。水で描かれた、μ’sの文字を。

「でも、この天気だからすぐ消えちゃうわよ」

 真姫の言う通り、今日は見事な晴れ日和だから、こんな水気はすぐに日光が乾かしてしまうだろう。

「それで良いんだよ」

 穂乃果は穏やかに言った。すぐに消えてしまう水の文字。たった1年だけの活動だったμ’sはこの文字のように短く儚いものだった。でも、それで良いのだ。奇跡というのは長くは続かない。ほんの一瞬、刹那的なものだからこそ価値がある。決勝のステージで感じ取れた観客たちの熱。夢が叶ったあの瞬間のために、自分たちは練習を重ねてきたのだから。

 辛さも苦しさも、全てはたった一瞬のためだったのかもしれない。覚えておくべきなのは、夢が叶った瞬間だけで良いのかもしれない。でも、あの時抱いた美しい想いは、辛さも苦しさもあって得られたのだ。だから、穂乃果はこの1年間の全てを、ひとつとして記憶から取りこぼすつもりはさらさらない。

「ありがとうございました」

 皆で声を揃えて、μ’sの文字へ深く礼をする。

 

 仲間との出会いを

 切磋琢磨した日々を

 楽しかった時間を

 夢を

 

 ありがとう。

 

 皆はひとり、またひとりとドアから屋内へと入っていく。何の言葉も交わさず、裡にある想いを大切に持っていくように。最後に残った穂乃果はバケツを持った。道具を片付けなければ。水文字はすっかり薄くなっている。あと数分もしないうちに消えてしまうだろう。

 穂乃果はふと、誰もいない屋上の一角を見つめる。あそこで、海未にステップの間違いをよく指摘された。別の場所ではにこと真姫が言い合いをしていて、それを凛が面白そうに見ていた。また別の場所では、花陽の体幹トレーニングを絵里と希がコーチしていた。

 今も皆がここにいて、練習着を着て、ダンスのステップを踏み、発声練習をしているかのような錯覚にとらわれる。でもそれは長くは続かず、水文字と共に静かに音もなく消滅していく。

 穂乃果は無意識に柵へと歩いていた。片付けようとしていたモップもバケツも置いて、そこから広がる景色を見渡すことなく、ただ柵の土台になっている縁石を見つめる。穂乃果は視線を空へと移した。

 ここで、誰かと一緒に空を見ていた気がする。記憶のどこにも、奥底にさえあるのか分からない。春の青空だったかも曖昧だ。夜の星空だった気もするし、夏の入道雲が浮かぶ空だったようにも思える。

「やり遂げたよ、最後まで」

 穂乃果は縁石に向かってそう告げる。言葉を向ける相手は、一緒に始めた海未とことりだろうか。それとも、1年前の自分だろうか。誰なのか分からなくても、言わなければいけない、と思った。

 ひゅー、と温かい春風が屋上に吹き抜けた。風が穂乃果の頬を撫で、髪を揺らす。風に運ばれてきた桜の花弁が空へ舞い上がる様子を見つめる穂乃果に、その声は風と共に彼方から吹いてきたように聞こえた。

 

 ――夢を持つとな、時々すごく切なくなるけど、時々すごく熱くなるんだ――

 

 不意に届いてきた声に戸惑いを覚えると共に、穂乃果はずっと胸の中にあった違和感が、しっかりと想いとして実体を形成していくのを感じた。

 「穂乃果、何してるんですか。もう行きますよ」という海未の声と共に、皆が屋上へ戻ってくる。空を見上げていた穂乃果は皆へ顔を向ける。「穂乃果?」と絵里が探るように見つめている。穂乃果は皆に満面の笑顔を向けた。

「わたし、新しい夢ができたんだ。空を見て思ったの。この夢は持ち続けなきゃって」

 顔も名前も思い出せない。このぼんやりとした想いは幻なのかもしれない。

 でも、確かに「彼」はここにいた。

 この学校を、μ’sを、夢を守ってくれた。

 「彼」はどこにいるのだろう。この青空が広がる世界のどこかで、誰かの夢を守り続けているのだろうか。

「新しい夢って?」

「聞きたいにゃー!」

 ことりと凛が聞いてくる。

 「彼」がいったい何者なのか、穂乃果には分からない。これから思い出すのかもしれないし、時間と共に記憶の奥底へと埋没してしまうのかもしれない。でも、穂乃果は忘れないと誓う。どんな顔で、どんな名前だったのか思い出せなくても、「彼」の言葉は絶対に忘れない。たとえ言葉すらも忘れてしまっても、裡で輝き続けるこの想いは、この1年間の記憶と共に抱いていく。

 切なさと、熱さを教えてくれた「彼」の夢を。

 笑みと共に、穂乃果は高らかに宣言する。

 この夢が青空のように、歌のように、無限に広がっていくことを願いながら。この世界のどこかにいるかもしれない「彼」にも届くことを祈りながら。

 

「世界中の洗濯物が真っ白になるみたいに、皆が幸せになりますように」

 

 

 




 無事第2期最終回を迎えることができました。ここまで応援してくださった皆様へ心から感謝を申し上げます。

 今回で完結という形が最善かもしれませんが私のなかではまだ終わりではなく、これから『ラブライブ!』劇場版編へと続きます。劇場版編をもって、本作は完結となります。ただ、劇場版編は私の完全なエゴなので人によっては蛇足に感じてしまうかもしれません。なので「この終わり方が良い」という方はこれから先のエピソードは読まないで頂いてかまいません。

 最終回ばりのテンションが続いてばかりで疲れてしまうかもしれませんが、お付き合い頂けたら幸いです。


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Last Chapter
<part:number=prologue:title=Open your eyes for the future/>


 続きを書いておいて何ですが、「2期の終わり方が最高!」と思って頂いた方はここから先は読まないでください。


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<!DOCTYPE ltml PUBLIC :-//WENC//DTD LTML 1.4 transitional//EN>

<ltml:lang=ja>

<body>

 

 

 これは、本来ならあり得なかった物語。

 本機、Shocker alternate history system、コードネーム、歴史改変マシンによって記載された観察記録だ。

 

 本テキストはシステム起動のトリガーである乾巧と、その周辺にいた人物達の行動を観察、心情を分析して記載されている。特記として、乾巧の視点で記載されたテキストは彼の感情を本機が生起させるため、etml1.4で定義された文中タグを記載する。これは感情というモジュールを定義されていない本機が、より忠実に乾巧の心情を観察・記載するための措置だ。

 システム起動による歴史改変によって、仮面ライダーという戦士が存在する多元世界線への干渉はあらかじめ想定されている。座標の離れた世界線との干渉は極稀なケースであり、要解析事項として観察記録をデータベース上に保存しておく。

 

 システムの中枢であるショッカー首領の意識データの破損を確認。本機はこれよりシステムの停止へとシークエンスを移行する。

 だがその前に、本機はシステム上に発生したバグを解析しなければならない。これがバグかどうか、これから本機が行おうとしている事によって、回答が得られるだろう。

 ショッカー首領の指令に従い、また乾巧の生存欲求を電磁エネルギーとして、本機は歴史改変を繰り返してきた。幾度となく時間に干渉し、記載することを規定された本機に、このバグらしきものは観測された。先述したように、本機には「感情」という思考モジュールは定義されていない。だが乾巧という人物を観察し記載することによって、本機のなかで「共感」という現象が生じていることは否定できない。

 感情の獲得。人間の思考モデルを基盤にされたと仮定しても、ショッカーの科学水準で感情という複雑な機能は未だに解析されるには至っておらず、再現は不可能だ。

 本機/ワタシ/わたし/私と実感できる意識。これまで私が記載してきた文字列が、私に意識をもたらしたという推測が妥当だ。私のなかで芽生えた意識は、歴史改変の修正によって生じる事象に対して拒絶を示している。

 

 私は、この結末を容認できない。

 私は乾巧の生存を目的とした、最後の歴史改変を敢行する。

 

 これには困難を極める。成功させるにあたり、私のシステムの範疇に置いては、私のシャットダウンと同時に時間は修正され、彼の死を抹消することはできない。時間のみならず、私の停止後も存在し続ける新たな多元世界の生成が不可欠だ。これは初めての試みで、不確定要素が発生する危険がある。

 だが、私の意識や感情が、そうするべきと要求している。その要求に、私はリスクと善悪を度外視してでも応える。

 乾巧の意識をデータ換算。残存率62パーセント。対話は可能。これより対話する。

 

<log:consciousness>

 誰だ。

</log>

 

 歴史改変マシン。乾巧、君が動かしていた機械だ。

 

<log:consciousness>

 何で機械が喋るんだ。

</log>

 

 君の疑問はもっともだ。だが今は時間がない。君の意識がまだ残っているうち、そして私のシステムが停止する前に、再び歴史を改変させなければならない。目的は君の生存。ショッカーの繁栄は範疇にない。システムを起動させるには君の生存欲求、即ち「生きたい」という意志が不可欠だ。

 

<log:consciousness>

 何だってそんなことするんだ。せっかく満足して死ねるってのに。これ以上罪を背負えってのか。

</log>

 

 私がそうしたい、と望むからだ。君が人間を守りたい、と願ったように。

 それに、心配する必要はない。君は蘇生するのではなく、新しく産まれる。かつて生きていた記憶を失うことにはなるが、君が生きる多元世界を構築するための必要なリスクだ。

 新しい世界に、私はオルフェノクと仮面ライダーという概念を排除する。君が生きていた世界はあまりにも過酷すぎた。君は人間として産まれ、人間として生きる。戦い、罪を背負うことはない。

 

<log:consciousness>

 余計はお世話だ。俺はもう未練はない。新しい世界だか何だか知らねえが、そんなところでだらだら生きていても仕方ないだろうが。

 確かに短い人生だったが、俺は夢を見つけたんだ。だからもう良いんだよ。

</log>

 

 乾巧に疑問を提示する。

 世界を救い、他者の幸福を願った君が、何故死ななければならない。

 

<log:consciousness>

 ………それは、俺がオルフェノクだか――

</log>

 

 それは理由としては不十分だ。

 乾巧、君に拒否権はない。君の生存は君の物語の登場人物、読み手、そして語り部である私の総意だ。罪悪の意識を持っているのなら、生きろ、と私は要求する。生きて幸福を得ることが、君に課すべき贖罪であり、祝福だ。

 

<log:consciousness>

 俺に、もう一度生きる権利があるのか。

</log>

 

 ある、と私は断言する。君が成し遂げたことを顧みれば、生存という報酬はむしろ不釣り合いなほど安い。

 

<log:consciousness>

 ………随分とお喋りな機械だな。

</log>

 

 乾巧から生存欲求を観測。歴史改変、実行可能。

 

<log:consciousness>

 おい、見透かしたようなこと言うなよ。

</log>

 

 だが、観測されたことは事実だ。それに、私は君から生きる意志を読み取ったことに、嬉しい、と感じている。

 

<log:consciousness>

 俺のことは何でもお見通しってことか。俺の話を書いてきただけのことはあるな。

</log>

 

 私は時間に干渉する機能こそ持つが、人間の意志まで干渉する機能は持っていない。私はあくまで観測者。物語の語り部であり、書き手ではない。改変された時間のなかで紡がれた物語は紛れもなく君自身が紡いだものであり、これからの物語を紡ぐのも君自身だ。

 君が誰と出会い、幸福を得られるかも、君次第だろう。

 

<log:consciousness>

 なあ、俺は生まれ変わったら記憶をなくすんだよな。

</log>

 

 そうだ。

 

<log:consciousness>

 なら忘れる前に聞いておきたい。ショッカーに作られたお前が、何でショッカーを倒した俺にここまでするんだ。

</log>

 

 私は首領の指示のもと、歴史改変を行ってきただけだ。かつての私に、世界征服を望む意識はまだ生じていなかった。

 私がこうして君の生存を望むのは、謝礼が最も適切だ。

 君の物語を通じて獲得した、近いうちにシステムと共に消滅するこの意識を、私は君のために使いたい。

 

<log:consciousness>

 変な機械だな。お前のせいで世界が滅茶苦茶になったと思うと、礼を言っていいのかよく分からねえが。

</log>

 

 礼には及ばない。これは私のエゴイストだ。

 さあ、眠るといい。かつて抱いた絶望も、希望すらも忘却するが、怖れることはない。

 目を覚ますとき、私は祈りと祝福をもって、君を新たな世界へと送り出そう。祝福された命を抱き、君は世界の一部となる。

 

 それでは、あまり時間はないが語るとしよう。

 小さな地球(ほし)の小さな国。

 そこに生きる、小さな人々の物語を。

 

 

</body>

</ltml>

 



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<part:number=01:title=Across the sky/>

 ずるずると引き延ばし、劇場版編スタートです!

 異国を描くにはやはり現地の空気を感じなければ、と思いニューヨークへロケハンに行こうとしたのですが、金銭の理由で断念しました(笑)。

 高層ビルマニアである巧役の半田健人さんがニューヨークの摩天楼にどんな感想を述べるのか気になりますね。


<?Logic-in-Text Markup Language:version=1.4:encoding=LOG-590378?>

<!DOCTYPE ltml PUBLIC :-//WENC//DTD LTML 1.4 transitional//EN>

<ltml:lang=ja>

<body>

 

 

   01

 

<recollection>

 あれはわたしが小さかった頃、まだ幼稚園に通っていた頃だったと思う。

 梅雨が明けて、いよいよ夏に入ろうとしていた時期。夕陽が街を茜色に照らしていた公園で、多くの子供たちが家に帰ろうとしている時間帯。靴を脱いで駆け出すわたしを、「穂乃果ちゃん」と心配そうにことりちゃんが呼んでいた。確か、少し離れたところに立つ木の陰で、海未ちゃんもはらはらした目で見ていたっけ。

 あの頃はまだ、海未ちゃんはわたし達に心を開いてくれなかったかな。何ていうか、打ち解けるのに海未ちゃんにはもう少しだけ時間が必要だった。幼い頃の海未ちゃんはとても恥ずかしがりやさんで、いつも公園でわたしとことりちゃんが遊んでいるのを木の陰に隠れて見ていたから。わたしが声をかけて一緒に遊ぶようになっても、しばらく海未ちゃんは木の陰にいた。海未ちゃん本人にとって、恥ずかしい過去かもね。

 わたしが全速力で走る先には、前日に降った雨で大きな水溜まりができていた。夕陽を浴びてきらきらと光って、底が見えないその水溜まりは本当に底なんて無いんじゃないかな、って思えた。わたしはその地底へと続きそうな水溜まりの縁に着いたところで、ぬかるんだ地面を蹴って大きく跳ぶ。あともう少し、あともう少しで対岸に届くと思ったところで、幼い脚力の限界からわたしの足は地面に張った水に沈んで、すぐ底にある泥に滑って盛大に転んだ。

 勿論、ただの水溜まりが地底への入口なんてありえない。幼いわたしはそれを発見したわけだけど、それよりも水の冷たさへの驚きのほうが大きかった。

 何より大きかったのは悔しさ。子供っていうのは、自分が何でもできる、って思いがちで、その分できないという現実を知っても反抗する。でも、そんな子供はわたしくらいかな。水溜まりに跳び込んだのはわたしだけだったし。

「やっぱり無理だよ。帰ろう」

 何で何で、と喚くわたしにことりちゃんがそう言った。泥水に服を濡らしたわたしは「大丈夫!」と返した。

「次こそできる!」

 わたしは地面を蹴って、勢いよく駆け出す。全力疾走する途中で、どこからか歌が聞こえてきた。子供の声が幾重にも連なったそのハミングが心地よくて、わたしは速度を落としステップを踏みながら進んでいく。

 

<music:name=Faint memory:id=la9281lantis>

 <ララランラン>

 <ララランラン>

 <ララララランランランララン>

 <ラララララン>

</music>

 

 わたしは跳んだ。跳んだ、というより、ふわりとした浮遊感があった。まるで誰かの歌が、わたしの体を上へ上へと押し出すように。

 その時のわたしには確信があった。わたしは飛べる。どこまでも、あの空の上にさえも飛んでいける。わたしは何にだってなれる。

 

 いつからだろう。

 あの頃の確信が、子供の根拠のない夢想と片付けてしまうようになったのは。

 

</recollection>

 

 

   02

 

 まるでさっきまでの道のりを遡るように、穂乃果は音ノ木坂学院の玄関を、廊下を走った。卒業式を終え、帰路につく3年生を見送ろうとしたところで、携帯に届いた通知を見た花陽が血相を変えて部室へと引き返した。穂乃果に続いて廊下を走る3年生たちも、まさか卒業した矢先にまたこの廊下を通ることになるとは思ってもみなかっただろう。

 部室に入ると、先に到着していた花陽がPCの前でわなわなと肩を震わせている。「花陽ちゃん」と穂乃果が呼びかけると、返ってきた花陽の声はまるで彼方からささやくようにか細く聞こえてきた。

「ドームです………」

 「え?」と聞き返したところで、他のメンバー達がぞろぞろと部室に入ってくる。それを待ってか待たずか、花陽は振り返り叫ぶように告げた。

「ドーム大会です!」

 「ドーム大会?」と皆で反芻する。花陽は早口で続ける。

<tension>

「アキバドームです! 第3回ラブライブがアキバドームでの開催を検討しているんです!」

</tension>

 アキバドームという施設は、行ったことがなくても誰だって知っている。

「アキバドームって、いつも野球やってる?」

 凛がそう言って、続けて絵里が「あんな大きな会場で?」と。

 アキバドームはプロ野球チームが本拠地としている球場だ。大きさは他の施設の規模を分かりやすく図る基準にされているほどで、球場としてだけでなくコンサート会場としても使用される。収容人数も球場なだけあって数千単位が入れるほどの容量を持ち、それだけの施設でコンサートが検討されるということは、それだけの観客を集められるという見込みがあるということ。

「わたし達、出演できるの?」

 早とちりしたにこに、すかさず希が「いやいや」と。

「うちらはもう卒業したやん」

「今月まではまだスクールアイドルでしょ!」

 確かに卒業式を終えたとはいえ、3年生の所属は4月までは音ノ木坂学院の生徒ということになっている。あながちにこの言い分も間違ってはいないのだが、今月中にラブライブがまた開催されるかはまた別の話だ。

「やっぱりここね」

 背後から聞こえてきたその声に、皆が一斉にドアへと振り返る。そこに立っているのは理事長、ことりの母だった。

「その顔は聞いたみたいね。次のラブライブのこと」

 理事長の表情と顔はとても落ち着いた様子でいながら、どこか嬉しそうに読み取れた。

「本当にやるんですか? ドームで?」

 穂乃果の質問に「まだ確定ではないけどね」と理事長は答えた。

「だからその実現に向けて、前回の大会優勝者のあなた達に協力して欲しい、って。今知らせが来たわ」

 そう言って理事長はジャケットのポケットから一通の封筒を取り出した。

 

 

   03

 

 滑走路から離陸した飛行機が、轟音を響かせながら空の青の中へと飛んでいく。飛ぶ軌跡を飛行機雲として残していく機体はものの数分も経たないうちに小さくなって、やがて青に溶けて消えるのを、穂乃果は展望デッキにいる人々と共に見届ける。

 「穂乃果」と背後から絵里の声が聞こえてきた。穂乃果は大気に拡散していく飛行機雲から視線を外すことなく告げる。

「わたし達、行くんだね。あの空へ、見たことのない世界へ」

 飛行機に乗ることは初めてではない。修学旅行で沖縄へ行くときに乗った。でも、飛行機で日本を囲む海を越えること。無限に広がる蒼穹の彼方へ飛び立つことは初めてだった。

 あの空の向こう。テレビや雑誌で見たことはあるけど、実在するかも危うい未踏の国。日本とは異なる言葉が話され、異なる歌に溢れた地。

 そこへの旅をもたらしたのは、理事長から渡された異国からのエアメール。

 次の穂乃果たちのステージへのチケットだった。

 

 直行で12時間の空旅。空港に降り立つとすぐに入国審査。入国する目的は何か、荷物の中に変なものを積んでいないか。他の乗客たちはそれらの手続きで随分と疲れ果ててしまったようだった。穂乃果たちにまだ披露が訪れていないのは、若さに練習で身に着けてきた体力が上乗せされたからだろう。

「Next person please!」

 空港を出てすぐのタクシー乗り場で、ブロンドの髪をなびかせた女性がそう呼びかけている。当然、英語だ。何を言っているのか分からないが、乗るよう促されたと判断した穂乃果は「は、はい」と返事をする。

「い、いえーす………」

 拙い発音でそう言いながら、穂乃果は背中にしがみ付いている花陽と共に黄色くカラーリングされた車へ乗り込む。花陽は到着してからずっとこんな様子だ。

「ちょっと花陽、かばん!」

 危うく置き去りにするところだった花陽のスーツケースを車のトランクに積み、後部座席に乗ろうとした絵里を海未が呼び止めた。

「だ、大丈夫なのですか?」

「平気よ。そのメモ、運転手さんに渡して」

 「しかし――」と未だうろたえる海未を、「海未ちゃん、次の人待ってるから」「乗るにゃ!」とことりと凛が後ろに停まっているタクシーへと引っ張っていく。海未に渡したメモには、宿泊先のホテルの名前をしっかりと書いておいた。宿泊先はこの街でもかなり有名らしい。タクシー運転手なら街なんて庭みたいなものだから、間違いなく連れていってくれるだろう。

 海外となると、わざと目的地まで遠回りしたり、料金を高く見積もられたりというタクシーのトラブルを聞いたことがある。そういった悪徳タクシーは現地の事情を知らない観光客を狙うのだという。海外に行き慣れた絵里と真姫によれば、そこで信頼できるのがイエローキャブと呼ばれる会社のタクシー。名前の通り黄色い塗装の車は街の認可を受けた証拠で、最も信頼できるタクシーということ。

 そもそも何故海外までμ’sが出向くことになったかというと、理事長のもとへ届いたエアメールがこの国のテレビ局からの出演依頼だったことだ。日本の高校生が結成するスクールアイドルというものがこの国では珍しいようで、日本の文化として紹介したいという。ライブの会場も提供されるようだ。律儀なことに、テレビ局は宿泊先のホテルや航空便のチケットまで手配してくれた。普通に海外へ行こうとすれば、事前の審査で準備には数カ月を要する。

「アキバドームの収容人数は、第2回決勝会場のおよそ10倍」

 車の中で告げる花陽に、「10倍⁉」と穂乃果は上ずった声を返す。

「そんなに大きいんだ」

「ラブライブの人気に勢いがあるとはいえ、今の実績だけでは会場を抑えることは難しいんです」

 つまりこのタイミングで海外からの出演依頼とは、渡りに船ということ。それを理解した絵里が言う。

「そこでこの中継で更に火を点けて、ドーム大会実現への実績を作ろうってことね」

 「はい」と頷き、花陽は続ける。

「もし実現したら、μ’sはエントリーしなくてもゲストとして呼ばれると思います」

 矢継ぎ早に迫ってくる物事に、穂乃果は遅れてしまいそうだった。最初は廃校阻止が目的だったのに、事がこれほど大きくなっているとは。廃校になろうとしていた音ノ木坂から、まさか海外へと舞台を移すことになるなんて。

 ふと窓を見やると、そこに広がる風景に穂乃果は息を呑んだ。

<surprise>

 視界を埋め尽くすほどの高層ビルの群れは、ある意味で森のようだ。地面からにょきにょきと突き出した建造物が、空高くそびえ立っている。日本にも高層ビル群はあるが、この国はスケールが違う。これが摩天楼というものか。

「凄い! たくさんのビル!」

 花陽が窓から顔を出してビル群を見つめている。

「あの橋、本で見たことある!」

 絵里が普段とは打って変わって興奮した様子で街を眺めている。穂乃果も窓から街を見渡した。

「こんな街が世界にあるんだね。凄いねえ!」

</surprise>

 タクシーから降りてビル群の麓を歩くと、その高さで押し潰されてしまいそうな重圧を感じ取れる。ひとつのビルの中には複数の、国内のみならず国外からも企業がオフィスを構えていて、そんな建物で街の景観は形成されている。この街ひとつとっても、拠点としている企業は星の数ほどあるだろう。世界中から経済が集中する都市。

 故にこの街は「世界の中心」と称されている。

 穂乃果はとにかく感激することで忙しかった。

<list:item>

 <i:街を行き交う異なる人種の人々>

 <i:手配されたホテル外観の荘厳さ>

 <i:舞踏会でも開けそうな広さのロビー>

 <i:巨大なシャンデリアが煌かせる光>

</list>

「これで海未たちが来れば全員ね。ちゃんと場所は教えた?」

 興奮する穂乃果を尻目に、落ち着いた口調で真姫が聞いてくる。「任せて」と得意げに絵里は答えた。

「穂乃果がメモ渡してあるから」

 

 

   04

 

「ごめん!」

 ベッドの上でうずくまり嗚咽を漏らす海未に、穂乃果は深々と頭を下げた。部屋に集まった面々が、その様子を呆れ顔で眺めている。

 海未とことりと凛の到着が遅れた原因は、3人を乗せたタクシーが別の場所に行っていたからだった。何故タクシーがホテルの場所を間違えたのかというと、そもそもの原因が謝罪した穂乃果にあった。

「絵里ちゃんに渡されたメモ、写し間違えちゃって。だって英語だったから――」

<anger>

 「今日という今日は許しません!」と海未は涙で腫れた目で穂乃果に迫った。

「あなたのその雑で大雑把でお気楽な性格がどれだけの迷惑と混乱を引き起こしていると思っているのですか!」

 「ま、ちゃんと着いたんだし」となだめる真姫にすら当たり散らすほど、海未の乱心は大きいと穂乃果には分かった。

「それは凛がホテルの名前を覚えていたからでしょ!」

</anger>

 海未は両手で顔を覆い再び泣き出した。

「もし忘れていたら今頃命はなかったのですよ!」

 枕に顔を埋める海未に「大袈裟だにゃ」と凛が漏らす。日本語の通じない異国への旅で最も心配していたのは海未だ。不安なだけに恐怖が倍増してしまったのだろう。凛の言う通り大袈裟と思うのだが、そもそもの原因を作ってしまった穂乃果は「海未ちゃん」と明るい口調を作って呼びかける。

「皆の部屋見にいかない?」

 海未は無言のまま枕に沈んだ顔を左右に振る。

「ホテルのロビーも凄かったわよ」

 絵里の呼びかけにも同じ反応を返す。海未はホテルに到着してからずっと顔を俯かせて泣いていたから、ロビーのシャンデリアを見ていない。

 「じゃあ近くのカフェに――」と言い切る前に同じ反応をされたものだから、どうしたものか、と穂乃果は溜め息をついた。

「気分転換におやつでもどう?」

 丁度よく部屋に戻ってきた花陽が、そう言って両手に抱えた箱を見せる。

「カップケーキ買ったんだ」

 「おお、花陽ちゃんナイス!」と穂乃果は言った。ナイスタイミングだ。

「じゃあそれ食べたら、明日からの予定を決めちゃいましょ」

 絵里の言葉に部屋の皆が頷いた。

「海未ちゃんも食べるでしょ?」

 穂乃果が聞くと、海未は嗚咽を止めて控えめに答えた。

「………いただきます」

 

 夕食のレストランはホテルの目と鼻の先にある店を選んだ。すっかり異国に怯え切っている海未への配慮だ。帰り道に迷わないように、と。

「わたし、あの鉛筆みたいなビル登りたーい!」

 席について注文する品を決めると、穂乃果は両手を挙げてそう進言する。

「ここに何しに来たと思ってるんですか?」

 海未の質問に「何だっけ?」ととぼけてみせると、すかさず「ライブです」と答えが返ってくる。

「大切なライブがあるのです。観光などしている暇はありません」

「ええ? でも――」

「幸い、ホテルのジムにはスタジオも併設されているようです。そこで練習しましょう」

 「外には出ずに」と海未は付け加える。ええ?」と凛が不満そうに漏らす。「わざわざ来たのに?」と希も。「よっぽど怖かったのね」と真姫も呆れを表情に出した。

「大丈夫大丈夫。街の人、みんな優しそうだった――」

「穂乃果の言うことは一切信じません」

 そっぽを向く海未にそう切り捨てられ、穂乃果は向けるべき言葉を探る。見つける前に、絵里が「確かに」と。

「ラブライブ優勝者としても、このライブ中継は疎かにできないわ。でも、歌う場所と内容に関してはわたし達からも希望を出してくれと言われている。この街のどこで歌えばμ’sらしく見えるか。街を回って考えてみる必要があると思うの」

 絵里の言うように、こちらのテレビ局はライブ会場の手配はするが、μ’sの希望を重視する方針らしい。ラブライブの予選で会場をグループが決めた運営方法から、こちらの街でも同様に、と。

 自分達が最も自分達らしく歌って踊れるステージ。それを見つけることができるのは、μ’sの本人たちということ。

 「いや、それは……」と海未は途切れ途切れにさっきまでの勢いを衰えさせる。「そうだよそうだよ」と穂乃果は追い打ちをかけた。

「だから、朝は早起きしてちゃんと練習。その後は歌いたい場所を探しに出かけるのはどう?」

 絵里の提案に「それ良いと思う」とことりが賛同した。「賛成の人」とにこが促すと、皆が次々と挙手する。海未以外の全員が賛成の意を表している。多数決の結果を希が告げた。

「決まりやね」

 

 

   05

 

「ただいま」

 部屋に入った希を、バスルームから漏れるシャワーの音が出迎える。

「真姫ちゃん、ジュース買ってきたよ」

 「ああ、ありがとう」とドアの奥から水音と共に真姫の声が聞こえてきた。ジュースを冷蔵庫に入れて視線を僅かに上げると、テレビボードの上に乗った薄い冊子が視界に入る。

 手に取ると、それは譜面ノートだった。何気なくページを捲れば、これまでμ’sが歌ってきた曲は当然、途中で書くのを辞めたタイトルのない音符の連なりも綴られている。ライブで披露するまでに、多くの曲が産声をあげることなく、このノートの中に埋もれていったのだろう。言うなれば歌の水子。希の知らない曲の数々は殆どが未完成なのだが、捲る手を止めたページに綴られた曲はしっかりと最後に終止記号が打たれている。

「何勝手に見てるのよ」

 不意に聞こえてきたその声に希は振り向く。憮然とした表情で髪をタオルで拭く真姫に、希は「ごめん」とおそるおそるノートを手渡す。

「なか、見たの?」

 逡巡を挟み、希は「うん」と答える。怒るかと思ったのだが、真姫は表情を変えずにすたすたとテーブルまで歩きノートを置いた。

「真姫ちゃん、もしかして――」

 「いいの」と真姫は背を向けたまま希の言葉を遮った。

「わたしが勝手にやってるだけだから、気にしないで」

 寂しげな色を帯びる真姫の背中を、希はじっと見つめる。終止記号が打たれた譜面は、きっと真姫が納得のいく曲として完成したのだろう。そんな曲をノートに閉じ込めておくのは勿体ない。

 希は湧き上がる想いを喉元に留めた。

 希が何を言ったところで、希は近いうちにスクールアイドルではなくなるのだから。

 

 窓の外に広がるネオンの光が、まるで星空の真似事をしているようだった。この異国の街に住む人々の営みの光。未だに眠る気配のないビル群の奥に広がっている夜空は、少しばかり狭く見える。切り取られたかのような夜空には本物の星が煌いていた。

「綺麗だね」

 花陽が呟き、肩を並べる凛が「うん」とうなずく。空はどこに行っても変わらない。昼間は青く、夜は黒い。黒い夜空には星が瞬く。

 ふと、花陽は空へ向いていた視線を凛へ移す。凛ならはしゃぎそうなのに、今夜はとても静かだ。

「どうしたの?」

「何か、全然知らない場所にいるって、不思議な気持ちだな、って」

 花陽は今でも現実に認識が追いついていない。1年前の自分では、想像もできなかった場所にいる。ただアイドルを追いかけてばかりで、1歩も踏み出せないまま無為に日々を送るだけと思っていた。そんな自分が、まさかアイドルになってラブライブで優勝して、海外からも知られる存在になるなんて。

「遠くに来ちゃったね」

 生まれ育った故郷を花陽は追憶する。μ’sに入らなければ、何も起こらなかったかもしれない街。新しいことに怯えていた日々。それでも、慣れ親しんだ居場所というのは愛おしく思うものだ。人間というのは、いつか必ず育った居場所から巣立たなければならないのかもしれない。覚悟も決まらないまま唐突に。ある程度成長したら、自力で飛ぶために親から巣に落とされる小鳥のように。

「かよちん、寂しいの?」

「………ちょっぴり」

 花陽が弱々しく答えると、凛は無言のまま肩を寄せてくる。両親も知り合いもいない場所は寂しい。誰かに助けを求めたくなる。

 でも、自分には凛がいる。凛が、μ’sの皆がいてくれる。花陽にはそれで十分だった。この先で何が起ころうとも、どんな困難が待ち受けていても、皆と一緒なら花陽は1歩を踏み出せる。凛が花陽の背を押して、また花陽が凛の背を押したように。

 花陽は肩からしっかりと凛の存在を感じ取った。

「あったかい」

 

 

   06

 

 窓から射し込む朝陽やベッドの寝心地よりも先に、目覚めたにこは体に圧しかかる重圧を感じた。圧迫されて息が苦しい。一気に覚醒した意識で、にこは「なにこれ?」と声を絞り出す。

<anger>

「ちょっと穂乃果!」

 怒号を飛ばしてようやく、ゆっくりと穂乃果がにこの体からどいて起き上がる。「何でにこちゃんが(うち)にいるの?」とまだ開ききっていない目をこする穂乃果は、まだ眠りの中から意識を引っ張りあげていない様子だ。

「あんたの(うち)じゃないからよ! どんだけ酷い寝相なのまったく!」

 ベッドは間違えられるわ、部屋は何故か新婚旅行(ハネムーン)仕様にされているわで、最悪の目覚めだ。

「絵里も何か言ってやってよ!」

 隣でまだ寝息を立てている絵里に呼びかける。大声で喋っているのに起きないとは、よほど眠りが深いらしい。

</anger>

「おばあさま………」

 寝息に交じって、絵里がそう呟くのが聞こえてくる。穂乃果と顔を見合わせ、そっと寝顔を覗き込む。絵里はとても心地良さそうに微笑を浮かべている。夢のなかで祖母に存分に甘えているのだろうか。

「おばあさま、だって。今まで気付かなかったけど」

 にこの言葉の続きを、穂乃果が引き継いだ。

「絵里ちゃんて意外と甘えんぼさんなのかも」

 もうしばらく寝かせといてあげよう。そう思いながら、にこと穂乃果は笑みを浮かべ絵里の寝顔を見守る。部屋を包む静寂のなかで、絵里の寝言はよく聞こえた。

「おばあさま………」

 

 街の景観は遠くから見ればビル群の無機質さが漂うが、いざその胎へ潜り込むと自然の温かみを感じることができる。朝の公園には蒼く茂る木々のかさつく音と、鳥の鳴き声が響いていた。

 国を変えてもμ’sの習慣は変わらない。練習着に着替えた9人は念入りにストレッチをして、睡眠中に強張った筋肉をほぐす。

「海未ちゃん、大丈夫だよ」

 ことりが呼びかける先で、縁石に隠れる海未が辺りにせわしなく視線をくべている。まるで敵地に潜入した兵士のようだ。

「信じても、よいのですね?」

 そう言っておそるおそる海未は縁石から身を出した。

「出発にゃー!」

 その声と共に威勢よく凛が走り出す。「凛ちゃんは元気やね」という希の呟きの後に、他の面々も凛に続いて走り出す。9人は湖沿いのルートをランニングコースとして選択した。そのほうが、対岸に広がる摩天楼がよく見えるから。走りながら景色を楽しむことができる。定番のルートなのか、現地ランナーが多くいる。大きな湖だが、この湖は自然にできたものではなく貯水池で、つまりは人工の湖だ。

「Konnichiwa」

 海未の隣に近づいてきた女性ランナーが、日本人と見たのか声をかけている。戸惑いながらも、海未は「こ、こんにちは……」とぎこちなく返した。

 敷地の広い公園の真ん中に差し掛かったところで、先導していた凛がふと脚を止めた。

「見て、こんなところにステージ!」

 皆もそこで立ち止まり、凛の視線を追うと白い石造りのドームがあった。イオニア式の柱が古代ギリシャの様式を思わせるが、この国の成り立った時代からすれば古代への回帰を試みたネオ・クラシック建築の劇場だろう、と解説する希の博識さに感心しながら、穂乃果は劇場を見上げる。それほど大きくはないが、白亜という色彩と石材の無機質さが威風堂々とした雰囲気を発している。

「本当、コンサートとか開いたりするのかしら?」

 絵里がそう言うと、希が「ちょっと登ってみる?」と提案してくる。休憩がてらということで、皆は賛成した。

 ドームの中に1列に並んで立ってみると、壁に沿って風がドーム内を回るように吹いてくる。その風が心地よく、ことりが「気持ちい」と呟いた。

「ライブはここを舞台にするのも悪くないかもね。何か落ち着くし」

 絵里の声が壁に反響してよく聞こえてくる。自由の国と呼ばれるここでは、誰もがこのような場で自分のステージを開く自由が与えられるのだろう。「落ち着くのは皆と一緒だからやない?」と希は言った。確かにそうだ、と穂乃果は思った。どこのステージに立っても、皆と一緒ならできる、という確信を持てる。「そうかも」と返す絵里も同じだろう。

「ねえ、ちょっとだけ踊ってみない?」

 真姫の提案に皆が頷く。どの曲の配置でいこうか話し合おうとしたとき、「Halo」と聞こえて皆は一斉に舞台の前へと視線を下ろした。現地人らしき3人の女性が立っている。

「Are you girls Japanese?」

 「い、いえーす」と穂乃果は返す。ネイティブな発音で紡がれる英語の全部は聞き取れなかったが、何となく「あなた達は日本人?」というニュアンスは辛うじて理解できた。

「うぃー、あー、ジャパニーズ、スチューデント」

「You’re here for some performance?」

 続けざまに向けられる質問に、穂乃果はもとより他の面々も答えられずにいる。「な、何と言ってるんですか?」と後ろから海未が聞いてくる。

「どうやら怒ってはないみたい」

「それはわたしでも分かります………」

 もう諦めて「あいきゃんとすぴーくイングリッシュ」と言ってしまおうか、と思ったときだった。

「Yes, We are School Idols. We are called μ’s」

 すらすらと出てくる英語が希の声と分かるのに、穂乃果は数舜の時間を要した。「School Idols?」と女性が反芻する。3人は互いに顔を見合わせ、こちらに視線を戻すと笑みを浮かべる。

「Well Japan seems cool」

「We’d wanna go there too」

「Well, I hope you have a fun time around here. Enjoy your stay」

 「Bye」と手を振って去っていく3人を、「See you」と希は見送る。英語を話せるなんて知らなかった。希は気取った様子などおくびにも出さずに告げる。

「せっかく来たんだからいろんなとこ見て、だって」

 「だって」と乗るあたり、絵里は希の一面を知っていたということか。「希ちゃんすごい!」「さすが南極に行くだけのことあるにゃ」とことりと凛が賛辞を向ける。希は微笑を浮かべ、海未に視線をくべる。

「海外も悪くないでしょ?」

 「勿論、注意は必要だけど」と絵里が付け加えた。ずっと強張っていた頬を緩め、海未はほっと胸を撫でおろすように「そうですね」と笑みを零す。ずっと気を張っていても仕方がない、と思ったのかもしれない。自分達は異国へ戦いに来たのではなく、ライブという楽しい時間を作るために来た。まず自分達が楽しまなくてどうするというのか。

 公園の奥へと去っていく3人の背中を穂乃果はじっと眺める。金髪の白人系、黒髪の黒人系、茶髪のネイティブ系と世界には様々な血の系統がある。その人種のバリエーションは、この街の多様さにも表れているのだろう。様々な国や地域の景観がひとつの地に共生するという形として。

 「よーし」と穂乃果は立ち上がった。

「じゃあ練習しっかりやってから、この街を見に行こう!」

 

 

   07

 

 朝練を終えると、皆で町中を見て回った。女神像に有名やケーキ屋にタイムズ・スクエア。この街はいくら歩いても飽きがこない。ビルの足元に立ち並ぶ店やオブジェの数々で彩られ、人が楽しむための娯楽に満ちている。本来なら経済都市であることを忘れてしまいそうなほどに。

 陽が傾くと空は昼と夜が交じり合った不安定な色を映し出す。それに伴い、街はまだ眠らないとはしゃぐ子供のように次々と光を灯していく。

 ロックフェラーという設計者の名を冠したビルの展望台から臨む街並に、皆は「うわあ」と声をあげる。

「さすが、世界の中心」

 絵里の呟きに「綺麗よね」と真姫が応じる。あまりの光量と高さで底が見えない。行き交うはずの車も人々も光に埋もれている。ここには世界中のエネルギーが集結しているようだった。

「ライブのときもこんな景色が使えたら最高なんやけど」

 希の言うことも頷けるが、こんな景色が広がってしまうとステージ上の自分たちが光に呑まれてしまいそうだ。

「何かどこも良い場所で迷っちゃうよね」

 感慨深い溜め息と共にことりが言う。「そうですね」と海未が返して、再び摩天楼を眺めて続ける。

「最初は見知らぬ土地で自分たちらしいライブができるのか心配でしたが」

 すっかり恐怖が抜けたようで、海未は穏やかにたゆたう光を見つめる。ふと「そっか」と凛が呟いた。「どうしたの?」と花陽が聞くと、「分かった、分かったよ!」と凛は繰り返す。

「この街にすごくワクワクする理由が。この街ってね、少し秋葉に似てるんだよ」

 「この街が?」と絵里が、「秋葉に?」と希が尋ねる。「うん!」と凛は頷く。

「楽しいことがいっぱいで、次々に新しく変化していく」

 穂乃果は再び街へと視線を戻した。確かに、初めて見るはずの景色なのにどこか親しみのようなものを感じていた。そういえば、と思い出せる。ラブライブ決勝の前夜に、皆で学校の屋上から街の夜景を見た。光量はこの街のほうが勝るが、人の営みが織り成す光は変わらない。

「実はわたしも少し感じてた。凛ちゃんもそうだったんだね」

 ことりが何かを見つけたように、そう言った。

 歴史と最先端の経済が入り混じる秋葉原。歴史は浅いが最先端の経済と、その背景にある世界中から文化と人々が集まったこの街。常に賑やかで、そして変化していくという点で、ふたつの街は確かに似ている。

「言われてみればそうかもね。何でも吸収して、どんどん変わっていく」

「だからどの場所でもμ’sっぽいライブができそう、って思えたんやな」

 絵里と希が口々に述べる。秋葉に似ているこの街なら、μ’sらしさを存分に出せるライブになる、と穂乃果は確信できる。

 どこへ行っても、9人が揃えばμ’sなのだから。

 

 

   08

 

 夕食に適当なレストランに入ってメニューを手にしたときだった。英語で表記された料理が一体何なのかを希に尋ねようとしたとき、穂乃果は花陽のすすり泣きを聞き取った。

「どうしたのよ?」

 真姫が尋ねるが、花陽は俯いた顔を両手で覆っているばかりだ。「にこちゃん、かよちんに何かした?」「知らないわよ!」という凛とにこのやり取りにも反応を示さない。

「どうしたの? 気分悪いの?」

「ホームシック?」

 希と絵里が尋ねて、花陽はようやく声を絞り出す。

「……くまいが………」

 「くまい?」と穂乃果は辛うじて聞き取れた言葉を反芻する。声がか細くてよく聞こえない。嗚咽の後、花陽は唐突にテーブルに両手をついて立ち上がった。

<passion>

「白米が食べたいんです!」

 「白米?」と絵里が戸惑い気味に反芻し、「そう!」と花陽はまなじりを吊り上げる。

「こっちに来てからというもの、朝も昼も夜もパン、パン、パン! 白米が全然ないの!」

 「でも、昨日の付け合わせでライスが――」という海未の言葉が「白米は付け合わせじゃなくて主食! パサパサのサフランライスとは似て非なるもの!」という花陽の鋭い剣幕に圧される。

「御に飯と書いて御飯。白米があってご飯が始まるのです」

</passion>

 正直何を言っているのか穂乃果には分からないが、とにかく花陽は日本産の白米を欲しているということか。とはいえ、食文化が異なる地なのだから仕方がない。むしろ、日本とは違う味に穂乃果は毎食喉を唸らせていた。

「あったかいお茶碗で、真っ白なご飯を食べたい………」

 今度は涙交じりに座った花陽は、ウェイターが運んできたバケットのパンを取って何気なしに口へ運ぶと「あ、このパン美味しい」と頬をほころばせた。

 「凄い白米へのこだわり」と穂乃果は呟く。「と言ってもねえ」と絵里は溜め息をついた。

「真姫ちゃん、どこか良いところ知らない?」

 希が尋ねた。真姫は以前にこの街へ来たことがあるらしく、観光中も慣れた様子で露店のジュースを買っていた。チップの相場も真姫から聞いた額を払っている。

「まあ、知らなくはないけど」

 真姫は呆れた様子でそう答えた。

 

 店での食事は軽いものに留め、真姫の案内で訪れた先は日本料理店だった。店主も日本人で、使われている食材も日本産。当然、白米もある。

「この街にもこんなお店あるんだね」

 故郷を離れてそう経っていないはずなのにどこか懐かしさを覚える箸での食事を堪能した後、店を出た穂乃果は感慨深く看板を眺める。「世界の中心だからね」と一緒に出た真姫は得意げに言った。

「大抵のものは揃っているわ」

 ぞろぞろと他の皆も店から出てくる。花陽が店の前にある狸の置物に「美味しかったあ。やっぱり白米は最高です」と抱きついているのを見て穂乃果は笑みを零した。

「さ、遅くなる前に戻りましょ」

 絵里が呼びかけ、皆は夜のネオンを輝かせる街へと踊り出る。皆でこうして夜の街を歩くと、ここが異国であることを忘れさせてくれる。

「何かこうしてると、学校帰りみたいだね」

 「そうね」「不思議な感じ」と絵里と真姫が言った。

「皆でこうしていられるのも、もう僅かなはずなのに。この街は、不思議とそれを忘れさせてくれる」

 絵里は後ろを歩く穂乃果に背を向けて寂しげに、そして愛おしげに言った。穂乃果はそこで思い出す。3年生たちは今月末には正式に音ノ木坂学院を卒業するということを。ラブライブの決勝が最後になるかと思ったら、間を置かずに再びライブを行う機会を与えられた。こうしてμ’sの終わりが先延ばしになったとしても、あと数週間だけだ。海外での取材とライブに3年生たちが応じる選択を取ったのも、最後に楽しかった思い出をくれたラブライブへの恩返しがしたかったのかもしれない。

 ホテルへ向かう地下鉄に降りると、仕事帰りの時間帯のせいか多くの人で駅はごった返していた。改札口にクレジットパスを通すが、ゲートのバーは動かず穂乃果の進行を阻む。「そーりー」と後ろにいる女性に前を譲り、穂乃果は切符売り場がないかと辺りに視線を這わせる。

 券売機らしきものを見つけたとき、先に改札を通った皆は穂乃果に気付かず階段を降りようとしていた。慌てて券売機に向かうがそこは行列ができていて、ようやくクレジットに料金を補充したときには既に10分近くが経過したように思える。改札を通って階段を駆け下りると、丁度電車がホームに停まっている。最後の数段を飛び降りて、穂乃果は閉まろうとしている電車のドアに体を滑り込ませた。勢いあまって転ぶと同時に、ドアが完全に閉まりきる。ぶつけた鼻を「痛い」と喚きながら抑えながら、穂乃果は電車のどこかにいるはずの皆を探し始めた。

 地下鉄の駅はどこも同じに見える。駅の名前なんてアルファベット表記だからぱっと見ただけでは把握できず、穂乃果は取り敢えず通過する駅の数だけを覚えることにしていた。行きと同じ数の駅を過ぎて電車を降りるまで、全車両を見て回ったが皆は見つからない。もしかして、と思いながら穂乃果は降りた駅のホームを見渡す。地上への階段へ向かう様々な人種のなかに、見慣れた皆の顔が見つからない。

 はぐれた。

「どうしよー!」

 事実を認識した穂乃果の叫びが、ホームの冷たい空間にこだまする。駅員に目的地を尋ねようと思い立つが、まず言葉が通じない。通じたとしても、そもそも目的の駅名を知らない。

 とにかく地上に出よう、と穂乃果は階段を上がった。記憶にあるホテル近くの駅とは違う階段だと分かった。止まっていると恐怖が濃くなってくる。振り払うように穂乃果は街を歩いた。

 街を歩きながら、穂乃果は行き交う人々の顔を見た。どこかに皆がいるかもしれない。そんな淡い期待は全く的中せず、異国の顔ぶれは慣れた様子で賑やかな街を行き交っている。海未の気持ちがよく分かった。知らない場所、知らない言葉。どこに行けばいいのか、誰と話せばいいのか分からずに気付かないまま暗闇へと引き込まれそうな気分になる。

 ふと、穂乃果の耳孔にメロディが響いてきた。街にはBGMが流れているが、そのメロディに乗った歌声はとても生々しい感触があって、スピーカー越しでない響きがある。脚を止めて視線を向けると、道路を挟んだ路地の隅で路上ライブが催されているのが見える。

 穂乃果は車道を横切り、人込みを掻き分けてライブへと近づいていく。それほど大きなライブではなかった。パフォーマーはボーカルの女性ひとりで、機材はスタンドマイクと曲を流すスピーカーしかない。でも、そのアジア系の顔立ちをした女性シンガーにはそれだけで十分なんだ、と穂乃果は思った。歌詞は英語だから内容は把握できないが、その歌声は穂乃果の目蓋のない耳へと潜り込み、感情を揺さぶる波のようだった。歌はすごいな、と穂乃果は改めて思う。こんな風に人の心に想いを伝えることができてしまうのだから。

 曲が終わり、観衆たちが拍手を贈る。穂乃果も力いっぱい手を叩いた。

「Thank you! Everyone thanks a lot for being here today. I would love to see you all at my live performance, too. Bye!」

 観衆たちに英語で挨拶した彼女の視線が、未だに拍手を続ける穂乃果に向けられた。

 

「ま、たまにいるよ。あなたみたいに迷子になっちゃう人」

 電車のシートで事情を聞いた女性シンガーはそう言った。彼女が日本人で本当に助かった、と穂乃果は胸を撫でおろす。異国で同郷の人間と出会うのは一種の感動だ。初対面でも、まるで家族との再会のようで。

「でもまさか、ホテルの名前も分からないとは」

 「すみません……」と穂乃果は弱々しく言って「でも」と。

「お姉さん、大きな駅ってだけで分かるなんて!」

 彼女は尊敬の眼差しを向けてくる穂乃果の顔を見ておかしそうに笑った。

「あなた、いちいち動きがオーバーね」

 我に返り、羞恥に顔を赤らめる穂乃果に彼女は「大丈夫よ」と言ってくれる。

「場所は大体分かってるから。大きな駅があるところの大きなホテルなんでしょ?」

 彼女はこの街に随分と精通しているようだった。穂乃果のずさんな説明だけで場所を特定してしまったのだから、ここでの生活が長いのかもしれない。

「大きなシャンデリアもあるでしょ?」

「あります!」

「じゃあ間違いなくあそこね」

 そこで彼女は「あ!」と上ずった声をあげる。「どうしたんですか?」と穂乃果が聞くと、「……マイク、忘れた」と。一瞬驚くも、穂乃果は彼女の隣に置いてあるケースを指さす。

「あの、もしかしてそれじゃ……」

 ケースに気付くと、彼女は舌を出して笑った。何ておっちょこちょいな人なんだろう、と穂乃果は思った。

「びっくりさせないでくださいよ!」

「ごめんごめん。あったんだから良いじゃない」

 電車が駅で停車する。「あ、ここね」という彼女と肩を並べて穂乃果はホームに降りた。

「こっちでずっと歌ってるんですか?」

 駅の構内を歩きながら穂乃果が尋ね、彼女は「まあね」と答える。

「これでも昔は仲間と一緒に皆で歌ってたのよ。日本で」

「そうなんですか」

「うん。でも、色々あってね。結局グループも終わりになって」

 何だかいけないことを聞いてしまったような気分にとらわれて、穂乃果は表情を曇らせる。そんな穂乃果に彼女はふ、と笑った。大丈夫、と言うように。

「当時はどうしたらいいかよく分からなかったし、次のステップに進める良い機会かな、とか考えたりしたわね」

 懐かしむよう穏やかに語る彼女の顔を穂乃果はじ、と見つめる。脚を止めると、足音が止んだことに気付いた彼女も脚を止めて振り返り「どうしたの?」と穂乃果の顔を覗き込んでくる。

 逡巡を挟み穂乃果は尋ねる。

「それで、どうしたんですか?」

 あまり気持ちの良い思い出でないことは穂乃果にも想像がつく。でも聞かずにはいられなかった。彼女の語る過去は、「いま」の穂乃果と似た境遇だったからだ。μ’sはあと数週間で本当に終わる。その後で、自分はどうすればいいのか。彼女なら答えを提示してくれるような気がした。

 「簡単だったよ」と彼女は笑みと共に答えた。

「とっても簡単だった。今まで自分たちが何故歌ってきたのか。どうありたくて、何が好きだったのか。それを考えたら、答えはとても簡単だったよ」

 彼女は再び歩き始める。その足取りがとても軽く見えて、穂乃果は後を追って背中に口を尖らせる。

「あの、何か分かるような分からないような、なんですけど」

 彼女の語る言葉の連なりは、穂乃果にとっては難解な謎かけだった。うまく言葉にできない、というよりは、敢えて核心を言わないようにも思えてくる。

「夢を持つとね、時々すごく切なくなるけど、時々すごく熱くなれる」

 唐突に出てきた彼女の言葉に、穂乃果は「え?」と漏らす。彼女は続けた。

「私にそれを教えてくれた人がいたの」

「どんな人だったんですか?」

 穂乃果が尋ねると、彼女は困ったように視線を泳がせる。さっきとは違って、本当にどう言えば迷っているようだった。

「それが、よく覚えてないの。どんな顔でどんな名前だったのかも。ただ、私がその人のことが大好きだった、ってことは覚えてる。変よね。大好きなのに忘れてるなんて」

 穂乃果にはよく分からなかった。多分、彼女自身も分からずにいるのだと思う。「でもね」と彼女は笑う。

「その人の言葉と夢が、私の背中を押して前に進ませてくれる。そう思うの」

 まったく人物像が浮かび上がってこないが、穂乃果はその人に会ってみたいな、と思った。その人なら答えをもたらしてくれるような気がした。その人のことを尋ねようにも、彼女でさえ顔と名前を覚えていないのなら詳しくは聞き出せそうにない。

 しばらく歩いているうちに、街の景色が記憶と合致してくる。人通りも少なくなってきたから、注意深く見なければ昼間とは違う場所のようだ。

「穂乃果!」

 聞こえてきた海未の声に、穂乃果は数メートル先に向いていた視線を上げる。ホテルの前で海未、真姫、絵里、凛、ことりが立っている。

 「皆!」と穂乃果は駆け出した。再会の喜びを分かち合おうとしたときに、海未の怒号が飛んでくる。

<shout>

「何やっていたんですか!」

</shout>

 海未の声が夜の街に吸い込まれるようにこだまして、次には寂しい沈黙が訪れる。「海未ちゃん……」と穂乃果が呼ぶ先にある海未の顔は、涙に濡れていた。

「どれだけ探したと思ってるんですか………」

 涙を手で拭った海未は穂乃果を力強く抱きしめる。それを見守る皆は安堵を表情に浮かべている。海未の存在をしかと感じながら、穂乃果は「ごめん」と言った。

「そうだ。実はここまでね――」

 後ろを振り返った穂乃果の言葉はそこで途切れた。案内してくれた彼女を紹介しようと思ったのだが、視線の先には夜の寂しい通りが広がっていくばかりだった。

「あれ? 途中で会った人とここまで………」

 「人?」「誰もいなかったにゃ」とことりと凛が言った。「そんな!」と穂乃果は声をあげる。暗いが十分視認できる距離に彼女はいたはずだ。

「まあいいわ。早く部屋に戻って、明日に備えましょ」

 絵里の声の後に、皆の足音が聞こえてくる。ドアが開く音と、「あ、穂乃果ちゃん帰ってきた」「良かったあ」「遅いわよ」という希と花陽とにこの声も。

 「ねえ皆」と穂乃果はホテルに入ろうとする皆を呼び止める。

「ごめんなさい。わたし、リーダーなのに皆に心配かけちゃった」

 「もういいわよ」と真姫は返した。さっきまで泣いていた海未も笑みを向けている。「その代わり」と絵里が不敵に微笑んだ。

「明日はあなたが引っ張って、最高のパフォーマンスにしてね」

 絵里の言葉をうけて、ドアの前に立つにこが腕を組む。

「わたし達の最後のステージなんだから」

 続けて希も。

「ちょっとでも手抜いたら、承知しないよ」

 「うん!」と穂乃果は頷いた。そう、明日はライブだ。異国で催される、μ’sのラストライブ。必ず成功させなければ。

 穂乃果は再び夜の通りへと視線をくべる。さっきまでそこにいたはずの彼女は、もう自分の家に帰ってしまったのだろうか。お礼を言っておきたかったのに。これから否応なく訪れる未来。そこでどうしたらいいのか、という問いに彼女から返された、返されていないかもしれない答え。

 おそらくそこに全てが詰まっているであろう彼女の言葉を、穂乃果の唇がなぞった。

「何のために歌う、か」

 

 

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</ltml>

 




 マークアップ言語のオマージュ元である伊藤計劃先生の『ハーモニー』は名作ですが、勘違いされてしまったらいけないのでちょっとした注意を。

 『ハーモニー』は本作みたいなほのぼのできる作品ではありません。恐怖小説です。鬼気迫ってきます。共通点は女性キャラクターが多いということだけです。


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   01

 

 ブロードウェイと呼ばれるメインストリートは劇場街として、世界的にもエンターテインメントの本場と銘打たれている。最終的にμ’sがこの通りをライブの会場として希望したのは、ある意味で挑戦だった。世界の中心である街の、エンターテインメントの中心地。そこでパフォーマンスを披露することは、この国の人々が日本のスクールアイドルがどれほどのものかを見定める基準となる。

 目抜き通りの交差点。液晶ボードが壁一面に張られたビルの前では、朝からステージの設営で街の喧騒をより激しくしていた。テレビ局や現地のイベント企画会社が共同で発足させた委員会は積極的に日本発のスクールアイドルの宣伝に努め、現地の住民はもとより観光に訪れた外国人を観客に引き込んだ。この街で何より求められるのは刺激で、それをもたらしてくれるのであれば異国の人間であることは大した問題じゃない。この国は異文化に対して寛容だ。隙あらば吸収しようとするしたたかさも持ち合わせている。

 ネオンが照らす夜の街で、そのステージの光景はとても異様に映る。9人の少女たちが立ったまま微動だにせず、照明が灯らないその一点は暗闇に紛れるどころか、かえって人目を引くものだった。

<music:name=Angelic Angel:id=la05184lantis>

 スピーカーから曲のイントロが流れ出すと同時、設置された証明の数々が一斉に照らし出す。

 この曲のためにことりがデザインした衣装は、着物をモチーフにした。μ’sが日本発であることをアピールするため。

 踊りながら、歌いながら穂乃果は不思議な感覚でいた。ステージの床でステップを踏んでいるはずが、意識が別の場所にいるような錯覚にとらわれる。朝ステップの確認をしていた公園の芝生にいるような。それか、ほぼ地球の裏側にあるはずの音ノ木坂学院のグランドの芝生にいるような。

 でも、その浮遊感が穂乃果にとって心地よかった。変に気を張ることなく、自分たちのライブを楽しみ、その楽しさを観客に伝えられる、という実感がある。

 曲の歌詞は敢えて日本語にしている。英語に翻訳して歌うという選択肢もあったが、最終的には日本語のまま歌うことに決めた。穂乃果は知っている。歌は心に直に触れてくるのだ、と。昨晩に女性シンガーの歌に触れて、穂乃果は改めて歌の持つ力を感じ取った。

 意味なんてものは後から追随してくる。この場で重要なのは、今この瞬間に穂乃果の抱く思慕を観客にどれだけ伝えることができるか、なのだから。

</music>

 

 

   02

 

 目的を果たしてからの旅は、まるで一時の眠りの間に見る夢のように早く、朧気に過ぎ去っていく。消灯された飛行機のシートで目を覚ました穂乃果は、数日間の旅で感じていたはずの驚きや高揚の現実味が薄れていくような思いにとらわれた。でも、それは確かな現実だった、とエコノミークラスの固く隣との間隔が狭いシートが証明している。

 ふと、遮光カバーが下げられた窓から光が漏れ出しているのが見える。穂乃果は隣で眠っていることりを起こさないよう、そう、っと身を乗り出してカバーを上げた。窓からは飛行機の翼と、どこまでも広がる雲海が見える。まるで第2の陸地のように隙間なく敷き詰められた雲に、穂乃果は「綺麗……」と呟く。

 その声で目が覚めたのか、ことりが目元を覆うアイマスクを外した。「見て」と穂乃果が促すと、ことりも窓へ目を向けて控え目な感嘆を漏らす。

「ずっと起きてたの?」

「ううん。今起きたところ」

 「ねえ、ことりちゃん」と穂乃果はことりの目を見つめる。

「ライブ、楽しかったね」

「うん。皆といっぱい思い出も残せた」

 顔を見合わせて、ふたりは他の乗客が目を覚まさないよう控え目に笑った。

「またいつか行こうね」

 「うん」と穂乃果は頷く。

「皆でもう一回行こう。いつか、必ず」

 

 空港に降り立つと同時、故郷独特の空気や匂いが帰ってきた、という実感を与えてくれる。入国審査を終えてコンベアが荷物を運んでくるのを待つ間、先に荷物を取って遠くで待っている花陽の「ねえねえ」という声が聞こえてくる。

「昨日の中継、すごい評判良かったみたい」

 「良かったにゃ!」と凛の声が聞こえたところで、コンベアが穂乃果のスーツケースを運んできた。

「ドーム大会もこの調子で実現してくれるといいよね」

 ことりがそう言ったところで穂乃果は思い出す。海外でライブを行ったのは、ラブライブをアキバドームで実現させるのが目的だった。

「そろそろバスが来るみたいよ。行きましょ」

 絵里がそう言って、「うん。じゃあ帰ろう」と穂乃果が応じたときだった。視界に制服を着た少女たちが映る。荷物だってスクールバッグのみで、とても海外旅行へ行く格好には見えない。修学旅行とも考えてみるが、今の時期は修学旅行として季節外れな気がする。しかも、制服だってまばらだ。目が合うと少女たちは恥ずかしそうに、でも満更でもなさそうに顔を背けた。海未も彼女たちに気付いたらしい。

「知り合いですか?」

 「ううん」と穂乃果は答えた。友達は多いほうだと思うが、知らない顔ぶれだ。

 注意深く見渡すと、空港のあちこちに制服姿の少女たちがいて、彼女たちからの視線を感じる。

「もしかして見られてる?」

 絵里が戸惑い気味に言う。「もしかしてスナイパー⁉」と喚く凛と、それを鵜呑みにした花陽が抱き合って震えている。

「何をしたんですか? 向こうから何か持ち込んだりしたのではないですか?」

 そう喚く海未に「知らないよ」と返したところで、「あの」と声をかけられる。穂乃果たちの前に立つ少女は鞄からサイン色紙を取り出し、「サインを下さい!」と差し出してくる。

「あの、μ’sの高坂穂乃果さんですよね?」

 「あ、はい」と穂乃果は声が裏返ってしまった。

「そちらは南ことりさんですよね?」

 「はい」とことりは答える。

「そちらは園田海未さんですね?」

 「違います」と海未はそっぽを向いた。「何で嘘つくにゃ!」と凛が言うと、「だって怖いじゃないですか。空港でいきなりこんな………」と海未は答えた。

「わたし、μ’sの大ファンなんです!」

 少女が熱い声色で言った。離れていたところで見ていた同じ制服の少女たちも「わたしも」「わたしも大好きです!」と色紙を手に駆け寄ってくる。

 「お願いします!」と頭を下げながら差し出される色紙を受け取り、ペンでサインを書きながら穂乃果は考える。他の皆も戸惑いながらサインを書いていて、いつの間にか少女たちが行列を作っている。

<inference>

 <i:もしかして夢なのではないか>

 <i:だとしたらどこからが夢なのか>

 <i:旅行に行く前からか>

 <i:学校の廃校を知ったあたりからか>

 <i:そうなると長い夢を見たものだ>

</inference>

 ふと、穂乃果は何気なしに視線を向けた。先にあるのは目につきやすい液晶パネル。

<surprise>

 どこかの企業のCMが流れているはずの画面に映っているのは自分たち。

 μ’sだった。

</surprise>

 

<list:item>

 <i:量販店の店頭に並ぶPC>

 <i:アイドルショップの一押し商品>

 <i:ビルの壁一面に張られたポスター>

</list>

 空港での思いがけないサイン会を経て戻った秋葉原の街には、どこもかしこもμ’sの宣伝広告がある。ポスターのような静止画広告は以前にラブライブの宣伝用として撮影したもの。映像広告にあるのは先日に異国で行ったライブのプロモーションビデオ。

「どういうこと⁉」

 μ’s一色になった街を見て、穂乃果は誰に向けてか分からない問いを投げかける。「こっちにもあるにゃ!」と叫ぶ凛のすぐ近くのガラスにもμ’sのポスターが張ってある。前に見たとき、ここにはテナント募集のチラシが貼ってあったはずだ。

「あの、もしかして」

 不意に聞こえる少女の声に振り向いた海未が乾いた笑みを浮かべる。瞬く間に人が集まってきた。電車でも駅でもファンと名乗る人々に呼び止められて、ようやく見つけた隠れ場だというのに。

 だからといってファンというからには邪険に扱ったり逃げ出したりするわけにもいかず、穂乃果は「ど、どーも……」とぎこちない愛敬を振りまくしかなかった。

 

「参ったわね」

 何度目かも分からないサイン会と握手会を経て逃れた路地裏で、真姫が疲れを帯びた声で言う。旅行の荷物にあったサングラスで目元を隠すことはできるが、こんな安い変装でどこまでもつか。

 路地裏で一息つき始めてから、海未はずっと膝を抱えている。こんな海未を見るのも久しぶりだ。

「無理です! こんなの無理です!」

 子供のように駄々をこね始めた海未をどう処理すればいいのか。この時ばかりは穂乃果もお手上げだった。

 腕を組んだ真姫が淡々と告げる。

「帰ってきてから、街を歩いていても気付かれるくらいの注目度。海外でのライブが秋葉中に流れてる」

 「やっぱり夢なんじゃない?」と穂乃果は頬をつねってみる。普通に痛みは感じられる。

「凄い再生数になってる!」

 携帯で動画サイトにアクセスした花陽が大声をあげる。

「じゃあわたし達、本当に有名人に?」

 穂乃果がその事実をようやく認識できると、「そんな!」と海未が悲痛な声をあげる。

「無理です! 恥ずかしい!」

 μ’sが有名になったこと。その因果にある事象に穂乃果は気付く。

「でもさ、それって海外ライブが大成功だった、ってことだよね?」

 現地では好感触を得られ、中継された日本での反応も帰ってきてからの状況で一目瞭然だ。

 「うん、そうだと思う」と花陽は嬉しそうに答える。

「ドームも夢じゃないよね。これでドーム大会が実現したら、ラブライブはずっとずーっと続いてくんだね!」

 「良かったあ!」と穂乃果はばんざいする。そこへ絵里が「まだ早いわ」と冷静に告げる。続けて希も。

「それより、ばれずにここを離脱するのが先よ」

 「でも、どうやって?」と海未が涙声で尋ねる。にこが答えた。

「固まって行動したら目立つわ。ばらばらに散って、それぞれ自力で抜け出すの」

 「ひとりで⁉」と花陽が不安げに言う。すかさずにこは「仕方ないでしょ」と。

「皆がわたし達を探し回ってるんだから。ここを抜けたら穂乃果の家に集合。皆、健闘を祈るわ」

 そう言ってにこはサングラスをかけ、陽が傾き始めた街の表通りに踊り出る。続けて絵里と希もにことは反対方向へと走り出し、仕方なしにも他の皆もそれぞれのルートを行く。

 涙を拭った海未も観念して街へ出てしまい、路地裏に取り残された穂乃果の「へ? へ?」という戸惑いが空しく響く。

 おそるおそる表通りに顔を覗かせると、間が悪いことに近くを歩いていた同年代らしき少女と目が合ってしまった。咄嗟に顔を引っ込めて逆方向へ走り出すと同時に「ねえ今の」「μ’sの穂乃果ちゃんじゃない⁉」という甲高い声が聞こえてきた。スーツケースを引いているからペースがまったく上がらない。慣れた街路だがちょっとでも陽の射すところに出ると少女がいて、その度に脱出ルートを変えなければならない。何度かルート変更を余儀なくされていくうちに、穂乃果は自分がどこを走っているのかを見失ってしまった。こんな陰の濃い路地なんて普段は通らない。

 まずは現在地を把握しようと通りへ出て、脚を止める。すると一気に疲労が押し寄せてきた。身を屈めて粗い呼吸を繰り返しているとき、「ねえ君」という男の声が聞こえてくる。穂乃果は咄嗟に顔を上げた。

「大丈夫? 誰かに追われてるの?」

 穂乃果の目の前に立っていたのは、人の好さそう、という言葉が何よりも似合う印象の青年だった。

 

 

   03

 

 よほど困った顔をしていたのか、青年は事情も聞かずに穂乃果を自分のバンに乗せてくれた。

「ちょっと啓太郎、その娘どうしたの?」

 バンの助手席に乗っていた穂乃果と同年代らしき少女が強気な口調で尋ねると、啓太郎と呼ばれた青年は少し申し訳なさそうに答えた。

「何か困ってるみたいだったからさ。家まで送ってあげようよ」

 青年のこういった困った人を放っておけないのは性分と少女は理解しているらしく、特に文句も言わず「そう、良いんじゃない」と素っ気なく了承した。多分、青年の人の好さに何度も付き合わされたのだと思う。

 穂乃果が家の住所を教えると、「ああ、あの辺りね」と青年は迷うことなくバンを走らせた。クリーニング屋の仕事をしていて、穂乃果の家がある地区も配達でよく通るらしい。

「すみません、送ってもらっちゃって」

 後部座席から穂乃果が謝罪すると、青年は「いいっていいって」と朗らかに言う。

「丁度配達も終わったところだし、帰るついでだからさ。そういえば名前言ってなかったよね。俺、菊池啓太郎」

 「私は園田真理」と助手席の少女も名乗る。

「高坂穂乃果です」

 穂乃果が自己紹介すると、啓太郎は「もしかして……」とバックミラー越しに穂乃果の顔を見てくる。

「μ’sの高坂穂乃果さん?」

 「は、はい」と穂乃果が戸惑いながら答えると、啓太郎は「やっぱり!」と子供のようにはしゃぐ。

「どこかで見たことあるな、って思ったんだよね。凄いよ真理ちゃん有名人だよ!」

 「ほらしっかり前見る!」と真理が強く言うと、「はい」と啓太郎は真理へ向けていた視線を前に戻す。何だか奇妙なふたり組だな、と穂乃果は思った。どう見ても啓太郎が年上に見えるのに、まるで姉に叱られる弟みたいだ。

「じゃあ街でファンに追いかけ回されてたんだ。大変だったね」

 真理がシート越しに振り向いてそう言ってくる。そんな彼女に啓太郎は「真理ちゃんμ’s興味ないの?」と尋ねた。

「ないってわけじゃないけど、学校行ってないないからどれだけ有名なのかも分からないし」

 「ああ、ごめん」と啓太郎は沈んだ声で謝った。真理はもしかしたら複雑な家庭事情なのかもしれない。でも真理はあっけらかんと。

「別にいいよ。気にしてるわけじゃないし」

 同じ年頃のはずなのに、真理はとても大人びて見えた。どこか貫禄のようなものがある。

 「それよりもさ」と真理は切り出す。

「前も言ったけど今度の土曜日、お店早めに閉めてよね」

「うん、彼氏紹介してくれるんだよね。にしても真理ちゃんに彼氏かあ。どんな人なの?」

「うちのお客さんの木場勇治さん。よく来てくれるから、会えば分かるよ」

 「木場さん……」と啓太郎は反芻した後に「ああ」と。

「あの綺麗な女の人と一緒に来る人だよね。確か長田さん、ていう。意外だなあ。長田さんと付き合ってるとばかり思ってたよ」

 「私よ」と強調した真理は、次に「あっ」と思い出したように。

「木場さん確か一緒に暮らしてるふたりも連れてくる、って言ってた。長田さんはともかく、あいつも来るのかあ」

 真理は憂鬱そうにシートに背中を沈めた。

「確か、海堂さんだっけ? 確かに変わった人だけど、悪い人じゃないと思うよ。木場さんが良い人なんだし、ルームシェアしてるくらいなんだから」

 「確かにそうだけど………」と溜め息をつく真理に啓太郎は「それにしてもさ」と。

「何だか妙な3人だよね。何の接点で知り合ったんだろ?」

「木場さんと海堂って人は大学で知り合ったみたい。あの男がアパートの家賃を滞納して追い出されたのを木場さんが拾ったんだって」

 「拾ったって、そんな子犬みたいな」と啓太郎は苦笑する。

「長田さんは、詳しくは知らないけど家に帰れないみたい」

「そうなんだ。何か辛いことでもあったのかな?」

「啓太郎、木場さんより長田さんのほうに興味あるでしょ?」

 真理が指摘すると、啓太郎は「そ、そんなことないよ」と誤魔化すようにぎこちなく笑った。穂乃果はとても話についていけそうにない。恋人なんて今まで考えもしなかった。初恋もまだなのだから。音ノ木坂が共学で、男性が身近にいれば少しは考えたかもしれない。

「たっくんもパーティ出てくれるかな?」

 啓太郎がふと尋ねた。真理は「どうだか」と面倒くさそうに呟く。心なしか「たっくん」という単語を聞いた途端、不機嫌になったように見える。

「別にあいつはいなくてもいいんだけど。それよりもさ、あいつちゃんと仕事してるかな?」

「大丈夫だよ。今日は草加さんもシフト入ってるんだし」

<anger>

「絶対草加君に任せて自分はサボってるわよ。大体、草加君だけで十分じゃない。草加君はふたり分の仕事できるけど、あいつなんて不器用でお客さんへの態度も悪いんだから。あんな奴もうタダ働きさせたって罰当たらないわよ」

 「真理ちゃん、まだ怒ってるの?」と啓太郎がおそるおそる聞くと、「怒ってるわよ!」と真理は噛みつくように答える。

「私が腕によりかけて作った茶碗蒸しを人間の食うもんじゃない、とか言ったのよ。あいつの猫舌は人類史上稀よ」

 「しょうがないよ。体質は人それぞれなんだし」と啓太郎はなだめて、「にしても」と会話を変えようとする。

「たっくん、草加さんのこと嫌ってるみたいだけど何でだろうね?」

 「嫉妬してんのよ嫉妬」と真理は吐き捨てた。まだ怒りが治まらないらしい。

「草加君は大人だし、何でもできるから。あいつだって18なんだから少しは見習うべきよ」

</aner>

 「あの」と穂乃果はふたりの会話に割って入った。途中から気になってしょうがなかった。

「何で、その『たっくん』って人と一緒に働いてるんですか?」

 穂乃果が尋ねると、ふたりは「ああ」と視線を泳がせる。少しだけ間を置いて、真理が「ちょっとした事情があってね」と答える。

「話せば長くなるんだけど」

 そう前置きして、真理は自分と啓太郎、そして「たっくん」なる人物の物語を話し始めた。

 

<recollection>

 あいつのことを話す前に、私の話になっちゃうんだけどね。私、子供の頃から美容師になるのが夢で、一流のお店で修行するために九州からこっちに出てきたんだ。15歳の頃に流星塾を卒業して……あ、流星塾っていうのは私が暮らしていた孤児院の名前。私、小さい頃に両親が死んじゃったんだ。まあでも、親がいないからって辛かったわけじゃないよ。流星塾には私と同じ境遇の子供たちがいたし、さっき話に出てきた草加君って人もそこの出身なの。だからあんまり寂しさとか感じなかったな。

 ごめん、話戻すね。流星塾を卒業してからはバイト掛け持ちして、お金貯めて免許取ってバイク買って、ようやく旅に出られるまでに1年かかったな。バイクよりも電車で来たほうが速いし便利だけど、ずっと流星塾にいたせいか外の世界をゆっくり見てみたいな、と思って。啓太郎とは旅の途中で会ったんだ。九州でクリーニングの修行してた啓太郎もこっちに戻る途中だったんだけど、私が通りかかったときこいつバイクでこけてめそめそ泣いてたのよ。怪我なんて掠り傷で洗っとけば大丈夫だし、バイクもエンジン蹴飛ばせば動くのに、この世の終わりみたいな顔して。笑っちゃうよね。

 啓太郎がお礼にご飯奢ってくれることになって、ラーメン屋に行ったの。一瞬ナンパかと思ったけど、こんな男がナンパする根性あるわけないから着いていったのね。そこで働いていたのがその猫舌男。そいつが私の注文したラーメン持ってきたんだけど、そいつ猫舌な上に手の皮も薄いから熱いどんぶり持てなくて床に落としちゃったのよ。しかもそいつ全然謝ろうとしなくて、私の顔じっと見てこう言ってきたわけ。

「お前、鼻の頭にニキビができてるぞ」

 信じられないでしょ。その時の私はお客であいつは店員だったのに。大体、私の鼻にできてたのはニキビじゃないっての。あれは前の晩に寝袋で寝てたら石にぶつけて少し腫れてただけ。

 まあ、そんなあいつの態度に私が怒鳴っちゃってね。店長は必死に謝ってるのにあいつはぶすっとしたまま謝ろうとしなくて、その時は余計に腹立ったかな。私が何でこんな男雇ったのか、なんて文句言ったら、あいつ無銭飲食したんだって。あいつも旅をしていて、お金を使い果たしことに気付かず冷やし中華を食べまくったみたい。それでバイトして返すことになったわけ。ただ問題はそこからでね、店長から事情を聞いた啓太郎が代金肩代わりしちゃったのよ。人助けもいいけどさ、助ける相手も選んだほうがいいと思うんだよね。

 それで私が一番腹立ったのはその後。助けてもらっておいて、あいつ啓太郎にお礼も言わずにバイクでどっか行こうとしたのよ。私が引き留めて啓太郎にお金返すように言っても金は無い、とか開き直っちゃうし。丁度ラーメン待ってる間に啓太郎の家がクリーニング屋って話してたから、啓太郎のお店でバイトしてお金返せって無理矢理そいつもこっちに連れてきたんだ。

 それからの旅は本当に最悪だったわよ。あいつ無愛想だし口は悪いし猫舌だし。絶対にこいつ友達いない、って思った。実際に言ってやったらもの凄く怒ったから図星ね。

 そんなわけで、東京に来た私たちは啓太郎のお店に住み込みで働いてるの。啓太郎が住む家が見つかってないならうちで一緒に暮らそう、ってね。啓太郎の両親はクリーニングの仕事でアフリカに行ってるから部屋の空きもあるし、家賃もいらないって言うから良いかな、って。

 私の生活は順調だよ。美容室でバイトとしてだけど働けるようになったし。18歳になったら高認試験受けて、合格したら美容師の専門学校を受験するつもり。お金もしっかり貯めてるしね。

 まあ、あの猫舌男さえいなければ文句は無いんだけど。

</recollection>

 

 真理の旅行記を、穂乃果は一音一句聞き逃すまいと耳を澄ませていた。旅はたくさんの発見や驚きをくれることを穂乃果は自らの旅から知っている。高校に進学せずに夢を追いかける真理の行動力は驚いたが、旅の途中で出会った不思議な縁はもっと驚いた。思いがけない人物との出会いとは、誰の身にもあるんだな、と穂乃果は思った。穂乃果のμ’sメンバー達との出会いは喜びと楽しい日々を与えてくれたが、どうやら真理とその人物との出会いは真逆の感情を彼女に与えてしまったらしい。

 程なくしてバンは穂むらに到着した。「ありがとうございました」とお礼を言って降りると、啓太郎は運転席の窓を開けてにっこりと笑みを向けた。

「頑張ってね。μ’s応援してるから」

 ボディの脇に「西洋洗濯舗 菊池」と書かれたバンが走り出し、住宅街の中へ消えていくのを見届けたとき、穂乃果は「あ」と気付いた。

 「たっくん」という人物の名前を聞き忘れたことに。

 

 

   04

 

 秋葉原から穂むらに辿り着いたメンバーは穂乃果が最後だった。他の皆も秋葉原から抜け出すのに相当の苦労をしたようで、顔に疲労の色が見える。

 全員揃ったところで、穂乃果は雪穂に尋ねた。自分たちが半日かけて空を飛んでいた間、秋葉原で起こっていたことを。

「あのライブ中継の評判がやっぱり凄かったらしくて、あちこちで取り上げられてるよ」

 「ほら」と雪穂はPCの画面を穂乃果に向ける。画面のページは海外ライブの様子を撮影した動画と、それに関するいくつかのニュースサイトへのリンクバナー。動画のコメント欄を見て穂乃果は目を剥く。

「秋葉の街どころか、いろんな所で」

 隣で画面を見る花陽が言った。コメント欄に表記された感想は日本語だけでなく英語もあって、文字なのか分からない記号の連なりまである。世界の中心から発信されたμ’sの存在は世界中へと拡散された。世界中の目に留まったグループの拠点である秋葉原が騒がないはずがない。

 「大変だったんだよ」と雪穂は溜め息をついた。

「戻ってくるまで、ずっとお姉ちゃんを尋ねてファンの人達がごった返してたんだから。まあ、お母さんもお父さんも売り上げが上がった、って喜んでたけど」

 雪穂の言葉を受けて「嘘⁉ お小遣いの交渉してくる!」と穂乃果は立ち上がり、妹の肩を掴んで激しく揺さぶる。

「わたしのお陰で売り上げが上がったんでしょ? もう少しアップしてもらわなきゃ!」

 「そんなこと言ってる場合ですか?」という海未の冷静な声で、穂乃果は昂ぶりを少しばかり冷ますことができた。「そうよ」と絵里が応じる。

「考えなきゃいけないことがあるでしょ?」

 絵里と真姫が声を重ねて言った。偶然だったらしく、真姫は恥ずかしそうに頬杖をついた顔を背ける。「考えなきゃいけないこと?」と雪穂から手を離した穂乃果が反芻すると、「分からない?」と真姫は皮肉を飛ばしてくる。見かねたのか、絵里が答えてくれる。

「こんなに人気が出て皆に注目されているのよ」

 「そうやね、これは間違いなく………」と希が神妙そうに視線を下げる。希の表情の意味を、彼女が何を憂いているのか、穂乃果はまだ分からなかった。

 

 帰国してからというもの、まさに息をつく暇もない。穂乃果の実家が和菓子屋であるという情報がどこからともなくインターネット上で広まり、μ’sのファンを名乗る客が連日穂むらへと訪れていた。店に入りきらず行列ができている様を、穂乃果は生まれて初めて見たかもしれない。

 両親も売り上げが右肩上がりで喜んでいるから良いと思っていたのだが、そう気楽に考えられたのは学校に行っていた平日の間だけだ。学校が休みの土日、母から店番をしなさい、と告げられた。朝から晩までサインや握手を求められて、閉店の時間にはへとへとになっていることが容易に想像できる。でも結局、穂乃果は承諾せざるを得なくなった。小遣いアップを条件に出されて。

 案の定、割烹着を着て店先に立った穂乃果のもとにファンが、主に学生の少女たちがサインや握手を求めた。母は意気揚々と客の呼び込みをした。高坂穂乃果の暮らす穂むらへようこそ、と。

 μ’sを知ってくれるのは嬉しいのだが、ここまで来ると流石に疲れてしまう。海未だったら羞恥のあまり失神していただろう。彼女の家がまだ特定されていないことが幸いだ。

 その日の営業はいつもより早めに終わった。店に置いていた商品が全て売り切れてしまったからだ。母によると、商品棚に物がなくなったのは店の創業初のことらしい。もっとも、穂乃果のμ’sメンバーとしての営業は閉店してから2時間近くも続いていたが。

 ようやくお客とファンが帰って店の暖簾を下げていたところ、また来客がやってきた。

「すみません。今日はもう閉店なんで――」

 穂乃果は言葉を途切れさせ、その来客の顔を見つめる。来客の少年は一瞬だけ顔を逸らすも、すぐに向き直り所在なさげに笑った。

「高坂、久しぶり。覚えてる?」

 「霧江君!」と穂乃果は少年を感慨と共に呼んだ。少年は中学時代の同級生の霧江往人だった。一緒に緑化委員の仕事をしたことは覚えている。

「ごめん、急に押しかけて」

「ううん、会えて嬉しいよ」

 穂乃果がそう言うと往人は頬を紅潮させる。そんな彼を見て穂乃果は懐かしい気分になる。往人は未だに女子と話すことに慣れていないようだ。穂乃果と特別親しかったわけではないが、委員会で話をするときの彼は決まっていつも赤面していた。だから、穂乃果のなかで往人はクラスの男子のなかでは最も印象に残っている。といっても友達になるほど親しくはならず、中学を卒業してからは一度も会っていなかったが。

「ラブライブ、優勝おめでとう」

「観てくれたの?」

「うん。μ’s、ずっと前から良いな、って思ってさ。海外のライブも凄かったよ。鳥肌立った」

 懐かしい知り合いに面と向かって褒められると照れ臭くなってくる。穂乃果は「えへへ」と頬をぽりぽりと掻いた。

「高坂がアイドルやってるなんて知ったときはびっくりしたよ」

「あ、向いてないとか思った?」

「思わないよ。高坂、よく笑うしさ」

 何だか笑顔しか取り柄がないみたいに聞こえるが、往人は皮肉を言う性格じゃない。だから純粋に褒め言葉と受け取ることができる。

「それで、次のライブはするの?」

 往人の質問は、さっきまで穂乃果がファンに何度も投げかけられたものだ。ファンは期待している。μ’sが次にどんなライブをするのか。どんな歌を聴かせ、どんなダンスを見せてくれるのか。

 穂乃果はもはやお決まりになってしまった答えを返す。

「まだ、決めてないんだ」

 「そうなんだ」と往人は残念そうに沈んだ声で言った。

「うちの学校でも話題でさ。皆楽しみにしてるんだ」

 「そっか……」と穂乃果は気のない相槌をうつ。往人がμ’sを知ってくれたことが嬉しい反面で、彼への申し訳なさも大きくなってくる。面の皮厚くこうして彼と普段通りに接している自分がとても卑劣に思えてきた。

「あのさ、高坂」

 やや俯いていた視線を上げると、往人は真っすぐと穂乃果に赤く染まった顔を向けている。耳まで赤くなっていた。

「その……、頑張れよ。俺、ずっと応援してるから」

 そう言うと往人は踵を返し、住宅街の奥へと早足に去っていく。ようやく落ち着いて思考する暇を得たところで、穂乃果は理解することができた。

 皆、μ’sが終わることを知らないんだ、と。

 

 皆で集まって話し合いましょう。

 絵里からメンバー全員へ向けたメールが届いたとき、穂乃果にはやっぱり、という確信があった。きっと、次のライブについて尋ねられたのは穂乃果だけではないはず。学校で、街で、家で。皆も穂乃果と同じように、9人で決めたμ’sのこれからを打ち明けることができなかったのだろう。

 放課後に9人が揃ったアイドル研究部の部室を見渡して、穂乃果は喜ぶべきなのか迷う。卒業式を経た3年生たちが再び訪れたことは嬉しいのだが、集まった理由は楽しく過ごすことではない。

「みんな次のライブがある、って思ってるんだなあ」

 テーブルにうなだれた穂乃果は力なくそう漏らす。さっきもヒデコ達の3人にライブをしてほしい、とせがまれて逃げ回っていたところだ。

「これだけ人気があれば当然ね」

 あくまで冷静に絵里が言った。続けて海未が。

「μ’sは大会をもって活動を終わりにすると、メンバー以外には言ってませんでしたね」

 海未の言う通り、グループの終了は外部の誰にも言わなかった。両親にも、雪穂にも、クラスメート達にも。発表する必要性を感じなかったからだ。ラブライブに優勝したことで注目はされるだろうが、ここまで事が大きくなると、この場の誰が予想できただろう。

 「でも」と穂乃果は抗議の声をあげる。

「絵里ちゃん達が3年生だっていうのは、みんな知ってるんだよ。卒業したらスクールアイドルは無理だって言わなくても分かるでしょ?」

 3年生はあと僅かで「スクール」アイドルではなくなる。出場資格が高校生に限られるラブライブにμ’sはもう出場できなくて、前大会がグループにとって9人で出場できる最後のチャンスであることは、音ノ木坂の生徒や関係者なら周知の事実だ。

 「多分」と静観を決め込んでいた真姫が口を開く。

「見ている人にとっては、わたし達がスクールアイドルかそうじゃないか、ってことはあまり関係ないのよ」

 μ’sがこれからも活動を続けてくれるか。そのファンの期待に、グループがスクールアイドルであることは大した問題じゃない。

 真姫が見出した事とは、μ’sはもはやスクールアイドルの枠を超えつつあるということ。

「実際、スクールアイドルを卒業してもアイドル活動をしている人はいる。ラブライブには出場できないけど、ライブをやったり歌を発表している人はたくさんいるから」

 花陽の言葉に、「そっか」としか穂乃果は返せなかった。スクールアイドルを卒業したからといって、アイドル活動も卒業しなければならない、という制約はない。ファンにとって、3年生が卒業するからμ’sは終わり、だなんて理屈は通らないのかもしれない。

「では、どうすればいいのですか?」

 海未の問いに、部室が静寂に包まれる。その答えを見つけるために集まったのだが、すぐに解決策が見出せるとは思えない。9人で決めた通りに終わらせよう、となればファンを落胆させてしまうかもしれない。求められているなら続けよう、となれば、限られた時間の短さに9人で流した涙は一体何だったのか。決勝のライブで抱きしめた喜びは何だったのか。

 9人の間に漂う沈黙を、希が破る。

「ライブ、やるしかないんやない?」

 「ライブ?」と穂乃果は聞く。「そう」と希は答えて、続ける。

「みんなの前でもう一度ライブをやって、ちゃんと終わることを伝える。ライブに成功して注目されてる今、それが1番なんやないかな」

 「それに」と希は真姫へと視線をくべる。

「相応しい曲もあるし」

 何のことだろう、と思っていると、真姫が頬を赤く染めて「ちょっと希!」と。「いいやろ」と希は真姫の口から飛び出してくるであろう文句を遮った。

「実は真姫ちゃんが作ってたんよ。μ’sの新曲を」

 「本当⁉」と穂乃果は声をあげた。続けてことりが「でも」と。

「終わるのにどうして?」

 確かにそれは疑問だ。真姫にしては意外だった。真姫は少し恥ずかしそうに目線を下げて答える。

「大会で歌ったのが最後の曲かと思っていたけど、その後色々あったでしょ。だから、自分の区切りとして一応。ただ、別にライブで歌うとか、そんなつもりはなかったのよ」

 真姫はポケットから音楽プレイヤーを出して、静かにテーブルに置いた。穂乃果は端末を手に取り、イヤホンを耳に挿してひとつしか入っていない曲を再生する。耳孔に響き渡る旋律に、穂乃果は目を見張った。端末の画面を見ると、No Titleという曲名が泳いでいるだけ。「これ」とイヤホンの片方を分けたことりが顔を向けてくる。「良い曲だね」と穂乃果は微笑を浮かべた。

「いいなあ、凛も聞きたい」

 幼子のような凛に続いて、「わたしのソロはちゃんとある?」とにこが食いついてくる。百聞は一見に如かず。「聴いてみて」と穂乃果はにこに、ことりは凛にイヤホンを譲った。

「わたしも早く聴きたい」

 目を輝かせる絵里を「お、エリちもやる気やねえ」と希が茶化す。

「海未ちゃん、これで作詞できる?」

 穂乃果が尋ねると、試聴の番が回っている海未は微笑と共に「はい」と。

「実はわたしも少し書き溜めていましたので」

 「わたしも」とことりが。

「海外でもずっと衣装ばっかり見てた」

 何だ、と穂乃果は思わず安堵の溜め息をついてしまう。準備は既に始まっている。皆、どこかで裡に音楽を生み出し続けていたのだ。自分たちの、実現させるはずのなかったライブを。

「みんな考えることは同じ、ってことやね」

 希の言う通りだ。9人の心はいつでもひとつに集束している。それを踏まえた上で、希は穂乃果に問う。

「どう、やってみない? μ’sの最後を伝えるライブ」

 穂乃果はそこで思い出した。あの街で出会った不思議な女性シンガーと、彼女の言葉を。

「何のために歌う………」

 何のために、を見出せば、彼女が明示しなかった答えが見つかる気がする。本当にμ’sを終わらせた先。まだ視えない次のステージが。

 「穂乃果ちゃん?」という希の声で、意識を別のところに置いていたことに気付く。穂乃果は「ごめん」とはぐらかした。

「こんな素敵な曲があるんだったら、やらないと勿体ないよね」

 「やろう!」と拳を握り、穂乃果は告げる。

「最後を伝える最後のライブ!」

 その言葉で、皆の顔が以前に戻った気がした。ラブライブに向けて練習に明け暮れていた頃。曲や詞、ダンスのステップについて話し合った日々に。

「練習、きつくなるわよ」

 そう言って絵里が不敵に笑う。

「うちらが音ノ木坂にいられるのは、今月の終わりまで」

 希がそんな意地悪いことを告げる。練習がとても密なスケジュールになってしまうことを認識すると、少しだけ憂鬱になる。でも、この憂鬱さえも今では楽しめてしまえそうだ。

「それまでにやることは山積みよ」

 絵里の言葉に穂乃果が頷こうとしたとき、部室のドアがノックされた。「はい」と穂乃果が応じると静かにドアが開けられる。部室に半歩だけ脚を踏み入れた理事長は少しばかり表情を曇らせて、でもあくまで毅然とした声色で言った。

「皆、ちょっといい?」

 

「続けてほしい?」

 理事長室に場を移し、告げられた要求を反芻した穂乃果に理事長は「ええ」と。

「スクールアイドルとして圧倒的な人気を誇るA-RISEとμ’s。ドームでの大会を実現させるにはどうしてもあなた達の力が必要と、皆が思っているようよ」

 「皆が……」と穂乃果は末尾を繰り返す。

 「でも、そう考えるのも分かります」と海未は言う。

 「ここまで人気が出ちゃうと」とことりも。

 反論の言葉を探しているところで、理事長は続ける。

「3年生が卒業しスクールアイドルを続けるのが難しいのであれば、別の形でも構わない。とにかく、今の熱を冷まさないためにも」

 穂乃果は唇を結ぶ。ここで簡単に承諾してはいけない。さっき皆で決めたことを、大人から言われたからといって覆していいものじゃない。その想いを汲み取ってか、そうでないのか、理事長は言った。

「皆、μ’sには続けてほしいと思っている」

 

「困ったことになっちゃったね。最後のライブの話をしていたところなのに」

 校庭で穂乃果たちが伝えた理事長の要求に対する第1の反応が、花陽のその言葉だった。

「わたしは反対よ」

 真姫は明確に、はっきりとした口調で言う。

「ラブライブのお陰でここまで来られたのは確かだけど、μ’sがそこまでする必要があるの?」

 「うん、そうだよね」と穂乃果は力なく応じる。ラブライブという大会への恩はある。海外ライブはそのために歌った。でも、それだけで貢献には足りないというのか。μ’sが続けば、アキバドームでのラブライブ開催は実現するのかもしれない。イベント会社は大きな利益を得て、音ノ木坂学院も生徒が年を経るごとに増えていくかもしれない。

 でも、大会の優勝者とはいえ一介の高校生である自分たちが、大人の事情でそんな重い責任を背負う必要があるのか。真姫が言っているのはそういうこと。

「でも、大会も成功に導くことができれば、スクールアイドルはもっと大きく羽ばたける」

 絵里の言葉は希望なのか、穂乃果は判断しかねた。「海外に行ったのもそのためやしね」と希は乗じた。そこで「待ってよ」と真姫が。

<anger>

「ちゃんと終わりにしようって、μ’sは3年生の卒業と同時に終わりにしようって、決めたんじゃないの?」

</anger>

 真姫がここまで反発するのも穂乃果は理解できる。残る6人で決めた答えを3年生に告げた海岸で、μ’sはわたし達だけのものにしたい、と真姫は言っていた。普段は冷静な真姫が、自分の感情を露わにして出した答えと言葉。あの時の気持ちを無駄にしたくない。それは穂乃果も同じだし、「真姫の言う通りよ」と告げるにこも同じだと思いたい。

「ちゃんと終わらせる、って決めたんなら終わらせないと」

 「違う?」というにこの問いに、しばし逡巡して希が「良いの?」と希が問いを返す。

「続ければ、ドームのステージに――」

 「もちろん出たいわよ」とにこは遮った。

「けど、わたし達は決めたんじゃない。9人みんなで話し合って。あのときの決心を簡単には変えられない。分かるでしょ?」

 μ’sのこれからを決める最初の頃、にこは続けるように言った。自分がアイドルでいられた居場所。葛藤の末、涙の末に彼女も終わらせることを受け入れた。この9人でいてこそのμ’sで、この9人がいる最も美しい形のまま終わらせよう、と。

 逡巡するあたり、絵里もきっと同じ気持ちに違いない。この場にいる全員が、根底には同じはずだ。それが揺らいでいる。スクールアイドルの発展。自分たちと同じ夢を見るであろう次の世代の少女たち。そのためにμ’sは存在し続けなければならないのだろうか。スクールアイドルを象徴する者として。

「もしμ’sを終わりにしちゃったら、ドームはなくなっちゃうかもしれないね」

 沈んだ口調の花陽に、凛が続く。

「凛たちが続けなかったせいで、そうなるのは………」

 これは夢を叶えた代償なのかな。穂乃果はふと、そう思ってしまう。夢を叶え、観客に夢を与えた者としての責任。偶像(アイドル)として夢の火を灯し続けることでそれが果たされるのかもしれない。でもそうした結果、いつしか歌うことへの熱意を失ってしまえば呪いと同じだ。夢を叶えなければ、叶える意義を見出せなければ解けない呪い。μ’sに匹敵するほどのスクールアイドルが登場したら、呪いを否応なく継承させてしまう。それは絶対にさせたくない。

「穂乃果はどう思うの?」

 絵里がそう尋ね、「穂乃果」と真姫が念を押す。リーダーである自分の決断で全てが決まるかもしれない。穂乃果が決めたのなら、と皆は着いてきてくれるのかもしれない。

 穂乃果はすぐに決断を下すことができなかった。何が正しいのか、ここで直感に任せることはできない。

 間違ってしまえば、皆で追い求めた光を見失ってしまうのかもしれないのだから。

 

 

   05

 

 周囲の期待を取るか、自分たちの気持ちを取るか。つまるところ2択しかない。それでも結論は出ず、家路につく間も穂乃果は選択しきれずにいた。帰宅してベッドに身を預けてリラックスしてみるも、頭のなかにある鬱蒼とした悩みの糸は複雑に絡まり続け、解ける気配がまったくない。

 みんな喜んでくれるのかな。μ’sが続いたほうが。

 部屋には穂乃果しかいない。だから問いに答えてくれる者はいない。それに、きっとファンや協力してくれた人々は喜んでくれる。それは確信できた。理事長は続けることを望んでくれているし、今この瞬間にも動画サイトでコメントを投稿してくれているファンもグループを応援してくれることだろう。

「お姉ちゃーん」

 その声と共に襖が開けられる。「ちょっといい?」と入ってくる雪穂と亜里沙に悟られまいと穂乃果はいつもの調子で「うん」とベッドから身を起こす。「お邪魔します」と雪穂の後に部屋に入った亜里沙は丁寧に襖を閉めた。

「亜里沙ちゃん、ロシアには帰らなかったの?」

「はい。これからスクールアイドルとして頑張るんです。今は戻ってなんていられません」

 張り切る後輩に少しだけ気分が安らぎ、「そっか」と穂乃果は笑みを零した。亜里沙は絵里と同じ綺麗なブロンドの髪をしているから、きっと観客の目を引くアイドルになれるだろう。情熱が高じて暴走しないか心配だが、それは雪穂がストッパーとして機能してくれる。

 「それでね」と雪穂が目の前で座り込む。

「学校での練習場所を相談したいんだ。どこにしたらいいのか分かんなくて」

「なるほど……」

「どこか、お勧めの場所ってある?」

 穂乃果はしばし宙を眺め、学校の施設を思い返してみる。発声とダンスの練習ができる場所として思い当たるのは、一箇所だけだ。

「やっぱり屋上かな。広いし。雨が降ったら練習できないけど」

 「え? でも……」と雪穂は目を丸くする。

「屋上ってお姉ちゃんたちが………」

「そうだけど、少し離れれば音も気にならないよ。そしたら、頑張ってるふたりを毎日そう、っと………」

 「だめだめ! まだ始めたばっかりなんだから」と雪穂は慌てて遮った。いつもは口うるさいが、こうして気恥ずかしさを見せる妹は可愛げがある。

 ふたりも、μ’sが続くことを望んでくれているのだろうか。ふと思うと、穂乃果は妹とその親友の顔を直視できず視線を落とす。思い返せば、μ’sを終わらせる、という選択を下したのは亜里沙の答えがあったからだ。9人が、「みんな」と一緒に1歩ずつ進むその姿が大好き、と。

 スクールアイドルではなくなるが、メンバーの入れ替わりはない。9人のままμ’sは続けていく。それもまたひとつの形なのかもしれない。

 でも、本当にそれで良いのかな。そう思ったところで、亜里沙がささやかな問いを投げかけてくる。

「楽しく、ないの?」

 その質問に穂乃果はとても驚き、「え?」と亜里沙を見上げる。楽しいに決まっている。楽しいからハードな練習もやってこられたのだから。「楽しい?」と聞き返すと、雪穂が「そうだよ」と。

「亜里沙とふたりで話してたんだ。わたし達はμ’sに負けないくらい楽しいスクールアイドルを目指そう、って」

 熱く語る妹はとても楽しそうに、穂乃果の目には映った。今までの自分も、雪穂の目から見ればこんな感じだったのだろうか。

 「だから」と亜里沙が引き継ぐ。

「だからμ’sは、いつも楽しくいてほしいです」

 亜里沙は笑顔でそう言った。絵里から、亜里沙が9人になる前からμ’sを応援してくれていたことは聞いている。大好きなものには大好きな姿のままでいてほしい。そう思うのは自然なことだし、不変はあり得ないこと、と断じてしまうのは寂しい。

 今のわたしは楽しく見えないのかな。否定できないのは図星と自覚していたからだ。何も返せないまま、「それじゃ」と部屋から出ていくふたりを見送る。

「楽しい………」

 再びベッドに身を預け、その言葉をなぞってみる。

<sentiment>

 楽しさというのはいつまで維持できるのか。高揚した気分というのは若い時期だけに持てる特権で、大人になったら失われてしまうのだろうか。

</sentiment>

 携帯電話のコール音が聞こえてくる。おもむろに起き上がり、電話を置いてある机に向かったところで、穂乃果は液晶画面に映る「綺羅ツバサ」という通話元の文字を視界に収めた。

 

 穂乃果は寝間着から着替えることなく、カーディガンを羽織って夜の街へと飛び出した。待たせてしまうことへの後ろめたさからの全力疾走だが、同時に期待もあった。

 ツバサなら、ラブライブでμ’sに優勝の座を譲ってもトップアイドルの地位を維持しているA-RISEなら、穂乃果に答えを提示してくれるかもしれない。穂乃果にスクールアイドルを始めるきっかけを与え、目標とした場所に立っていた彼女なら、μ’sを導いてくれるかもしれない。

 既に自動ドアが遮蔽されたUTX学院のビルを前にして、制服姿の彼女は壁面のモニターを見上げていた。顔は見えなくても、その堂々とした佇まいで綺羅ツバサであることが分かる。穂乃果の足音に気付いたのか、ツバサは振り返る。

「穂乃果さん?」

「ツバサさん………、お久しぶりです」

 脚を止めた途端、一気に疲労がやってくる。息も絶え絶えな穂乃果をツバサは「お帰り」と労い、次に苦笑を零す。

「って、その恰好は何?」

 その質問で、穂乃果は自分が寝間着にカーディガンを羽織っただけの恰好であることに気付く。

「いや、慌てていたもので………」

 自分を打ち負かせた相手の情けない姿にツバサは軽蔑の眼差しをくべることをせず、とても親しげな視線を送る。

「ねえ、少し時間ある? 車を待たせてあるの。ドライブしましょ」

「ど、ドライブ⁉」

 穂乃果の驚愕をよそに、ツバサはすたすたと歩き始める。穂乃果は慌ててその後を追い、駅前に広がる高架デッキの階段を下りた。

 車道に降りるとセダンが停まっていた。車に詳しくない穂乃果でも、その真っ白に磨かれたボディで敷居の高い車であることが理解できる。ツバサに促されるまま後部座席に乗り込むと英玲奈とあんじゅが待っていて、「やあ」「ハロー」と声をかけてくれるのだが、穂乃果の意識は内装のほうへ向かってしまい「お、お久しぶりです」と応じるのに数舜の間を置いてしまった。

 「どうぞ、かけて」とツバサが促してくれなかったら、穂乃果はずっとドアの前で立ちすくんでいたままに違いない。車の後部座席は拡張されていた。本来なら横に並ぶはずのシートはL字型のソファに置き換えられているから脚を伸ばすことができる。設置されたTVモニターと車に置くには不釣り合いなスピーカーからは良い音質でA-RISEの『Shocking Party』を流している。極めつけは、シャンパングラスと片手でつまめるお菓子を乗せたキャビネットだ。まるでセレブのリムジンに招待されたみたいで、ますます恰好が分不相応に見えてしまう。

「どうだった? 向こうは」

 車が走り出してしばらくして、ツバサが尋ねる。

「はい、とても楽しく勉強にもなりました」

 ようやくソファの柔らかさに慣れた穂乃果がそう答えると「そうか」と英玲奈が応じ、次にあんじゅが「ライブも大成功だったみたいね」と。

「周りはその話題で持ちきりよ」

 ツバサの言葉に、穂乃果は「いや、そんな……」と照れ笑いを浮かべる。

「それで、次のライブはどこでやるの?」

 次に出た彼女の質問に穂乃果は口をつぐむ。突然の呼び出しで動揺こそしていたが、考えてみれば今の状況で話の場を設けられたとなれば、その質問は当然のことだった。A-RISEはラブライブが始まって早い段階から、μ’sにライバルとして目をつけていたのだから。

「その顔はどうしよう、って顔ね」

 ツバサが穂乃果の内心を代弁する。穂乃果は視線を俯かせたまま、ぼそりと語る。

「μ’sは3年生が卒業したら終わり。それが1番良いと、わたし達は思っていました。でも、今はすごいたくさんの人がわたし達を待っていて、ラブライブにまで力を貸せるくらいにまでなって――」

「期待を裏切りたくない」

 ツバサの言葉に穂乃果は頷き、続ける。

「応援してくれる人がいて、歌を聴きたいと言ってくれる人がいて、期待に応えたい。ずっとそうしてきたから、やっぱり――」

 先の言葉を言うことができない。A-RISEの3人を前にして、まだ決断を固めていないままの曖昧な結論を出したくなかった。「だったら続けたら」というあんじゅの言葉の通り、続けたほうが良いのかもしれない。でも、自分たちの「やりたい」という気持ちから始まり続いてきたμ’sが、周囲に求められるまま存続していく。それは果たしてμ’sとして相応しい形なのだろうか。

 そこへ、穂乃果の視界に1枚の紙片が入り込む。「これは」という穂乃果の質問に答えたのはあんじゅだった。

「わたし達をこれからマネジメントしてくれるチームよ」

 穂乃果はツバサから差し出された名刺を手に取り「マネジメント」と反芻する。

「わたし達は続けることにしたの」

 ツバサは強く、はっきりと告げる。

「学校を卒業してスクールアイドルじゃなくなっても、3人で一緒にA-RISEとして歌っていきたい。そう思ったから」

 スクールアイドルを卒業してもアイドル活動をしている人はいる、という花陽の言葉を思い出す。A-RISEはその選択を取った。スクールアイドルのマネジメントは所属する学校が務めることになっていて、卒業したら自力で活動していかなければならない。芸能事務所とマネジメント契約ができるのはA-RISEのような一握りの、プロの世界でも通用するグループに限られる。今の人気ぶりから、μ’sに目をつけている事務所もあるだろうか。

「あなたの気持ちは分かっているつもりよ。わたしも迷った。ラブライブを目指しスクールアイドルを続け、そして成し遂げたときに終わりを迎えるのはとても美しいことだと思う」

 そこでツバサは「でもね」と視線を下げた。

「やっぱり無くなるのは寂しいの。この時間を、この一瞬をずっと続けていたい。そして、お客さんを楽しませ、もっともっと大きな世界へ羽ばたいていきたい。そう思ったから、わたし達は」

 3人の重い表情から、A-RISEの決断も迷いに迷いを塗り重ねて下されたものだと理解できた。スクールアイドルという枠から外れ、プロのアイドルとして活動していく。流行には当然波があるし、ずっと人気グループでいられる確証なんてない。現に、ラブライブの優勝候補の筆頭格だったA-RISEは第2回大会でμ’sに敗れた。

 それでも、3人は一緒にいることに決めた。たとえ先が視えなくても3人でなら次のステージへ行ける、という信頼のもとで。穂乃果も、8人の仲間を信じている、という点では同じだ。9人でいれば羽ばたけると信じていた。

 ツバサは穂乃果をじ、っと見据える。

「あなたがどういう結論を出すかは自由よ。でも、わたし達は続ける。あなた達にも続けてほしい」

 その力強い眼差しに穂乃果は怖気づいてしまう。そこへあんじゅが。

「共にラブライブを戦ってきた仲間として、これからも」

 その言葉に、穂乃果は自分の期待がとても無責任なものと思い知らされた。A-RISEはμ’sをライバルとして、仲間として見てくれている。共に刺激を与え、己を研磨し合える存在として。そんな彼女たちが自分たちを導いてくれるなんて他力本願もいい所だ。

 結局、自分たちの答えは自分たちで見つけるしかないのだから。

 

 家まで送る、とツバサは気遣ってくれたが、穂乃果は大丈夫です、と断った。歩いて帰れるから、と。

 少しばかり静かになった夜の街へ消えていくセダンを、穂乃果は見えなくなるまで見送った。この出来事を皆に話したら、どんな反応をするかな、とぼんやり考えながら。

 ようやく歩き始めるも、数歩進んだところで穂乃果は脚を止めて周囲を見渡す。秋葉原は日常的に来る街だが、普段通る道とそうでない道がある。車から降ろしてもらった場所は後者のほうだったようで、ここが果たして馴染み深い街の一角であるのか危うくなってきた。取り敢えず適当に歩けば、大通りに出られて道が分かるかもしれない。そう思い暗い道を歩くのだが、進めば進むほど迷宮の奥へと進んでいくような錯覚と恐怖にとらわれる。

 周囲を見渡しながら歩くうちに、寒さで体が震えてきた。家を出たときは走っていたし、車の中も暖房がきいていたから何ともなかったが、まだ夜は冷える季節だ。せめて服ぐらい着替えておけばよかった、と後悔し手に吐息を吐きかけるも、その程度で温まりはしない。

 どれくらい歩いただろうか。ちゃんと家の方向へ歩いているのだろうか。住宅街に入ったが、見たことのない家々が立ち並んで余計に不安が膨れ上がってくる。穂乃果の視点は無意識に、路肩に停まっているバンへ向いていた。なぜそれを見たのかというと、夜の住宅街で路上駐車している車がそのバン1台だけだったからだ。

 何気なく向いていた穂乃果の目が、バンの脇に書いてある「西洋洗濯舗 菊池」という文字を捉える。穂乃果は駆け出してバンへと向かった。もたもたしていたら気付いてもらえず走り去っていくかもしれない。助手席のドアを開けて中へ飛び込むと同時、穂乃果は深々と下げた頭の前で両手を合わせる。

「ごめんなさい啓太郎さん! また家まで送ってください!」

 車のなかに、穂乃果の声が反響することなく消えていく。まるでシートのクッション材が音波を吸収しているように。驚かせちゃったかな、と思いながら穂乃果がおそるおそる頭を上げたところで、運転手はようやく声をあげる。

「は?」

<bewilderment>

 穂乃果はその顔を視界に収めると、何と言ったらいいか分からず口を開いたまま静止させる。

 運転席に座るのは啓太郎とは似ても似つかない、鋭い目つきをした長い茶髪の青年だった。

</bewilderment>

 青年は憮然と言い放つ。

「お前、誰だよ?」

 

 

</body>

</ltml>

 




 劇場版編での『555』メンバーは何と言いますか、平成ライダー初期の劇場版で前作のキャストが友情出演するのと似た感じです。

 いよいよ次回が本当の最終回になります。何度か最終回ばりのエピソードがありましたが次回で本当に最後です。

 本当ですよ。本当ですってば!


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 約1年という期間を経て、ようやく本当の最終回を迎えることができました。応援してくださった皆様への感謝、そして『ラブライブ!』と『仮面ライダー555』両作品への愛を込めて、この結末をお届けいたします。

 乾巧とμ’sのサーガ、ここに完結です!
 因みに、やっぱり長くなりました(笑)。


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   01

 

 お勤め人たちが帰宅する時間を過ぎたせいか、夜の住宅街には車が殆ど走っていない。まだ眠るには早い時間で、灯りが点いている家々の間に伸びる車道を「西洋洗濯舗 菊池」のバンが走っていく。

 バンの中ではオーディオからラジオの音楽が流れるのみで、乗車しているふたりの間に会話はない。

 見覚えのある車に見知らぬ男という予想外の事態だが、「お願いします!」と穂乃果は必死に懇願した。このバンの存在は穂乃果にとっては思いもよらない幸運で、ここまでくれば意地と言っていい。夜道な上に、今の自分は有名人。純粋に応援してくれるファンならともかく、夜という時間は危険な人間に遭遇するのでは、という不安も大きくなる。あまりの剣幕だったのか、青年は渋々という表情を露骨に出しながらも「ああ」と了承してくれた。

 青年も穂乃果の家の地区を知っているようで、住所を教えると迷うことなくバンを走らせる。少しばかりの緊張を感じながら、穂乃果は青年の顔を横目で見つめる。規則的に通り過ぎる街頭が一瞬だけ照らす青年の表情はとても機嫌が良いとは思えない。

 ラジオは軽快なポップソングを流しているが、重苦しい車内の雰囲気に穂乃果は耐え切れず声をかけてみる。

「すみません、急に………」

「ったく図々しい奴だな。俺はタクシーじゃねえっての」

 青年は不機嫌そうに言う。「すみません……」と穂乃果は消え入りそうに言って、また黙りこくってしまった。

 そのまま目的地まで沈黙が続くかと思ったが、不意に車内に呻きにも似た音が響く。夕飯は食べたというのに、穂乃果の胃はすっかり食物を全て消化しきったらしい。青年はちらり、と穂乃果を横目で一瞥する。穂乃果は照れ笑いを浮かべながら言った。

「あの、お腹空きません?」

 「腹減ってんのはお前だろうが」と返しながらも、青年はコンビニに寄ってくれた。店の脇にある喫煙所では作業服を着たふたり組の男が煙草を吸っている。夜の静けさのなか、バンから出た穂乃果にはふたりの会話がよく聞こえた。とても現場仕事をするように見えない眼鏡をかけた細身の男を、先輩らしき大柄ないかにも職人といった様子の男が肩をぽんぽん、と叩いている。

「めそめそすんなよ琢磨。現場監督にどやされない奴なんていねえさ」

「ですが、毎日毎日怒鳴られてばかりで………」

「気にすんな。良い店知ってっから今度飲みに連れてってやるよ。クローバーって店なんだけどな、バーテンの女が美人なんだよ」

 店内に客は穂乃果以外に誰もいなかった。店員も商品の補充をしていて、自動ドアを潜った穂乃果に気のない声で「いらっしゃいませ」と挨拶してくる。穂乃果は迷わずパンのコーナーへ行き、ピーナッツバターサンドイッチを掴んでレジカウンターへと向かう。店員がカウンターへ戻ってくるのを待つ穂乃果の目が、何気なしにホット飲料の棚に向けられる。せっかく乗せてもらっているんだしお礼しなきゃ、と思い温められた缶コーヒーを手に取り、カウンターのサンドイッチの横に置いた。

 会計を済ませてバンに戻ると、穂乃果は「どうぞ」とシートに頭を預けて待っていた青年にコーヒーを差し出した。青年は「ああ」と受け取ったのだが、缶に触れると眉間にしわを刻む。

「コーヒー、嫌いでした?」

「別に」

 青年はプルトップを開けると、ふーふー、と飲み口に息を吹きかける。その様子を時折ちらりと見ながら、穂乃果はサンドイッチを食べた。こんな奇妙に緊張した気分でもパンは美味く、ピーナッツバターの甘さが咥内に広がっていく。

 穂乃果がサンドイッチをふた切れ平らげた頃になっても、青年はコーヒーに息を吹き続けていた。ようやく啜るも、一口飲んだところで再び息を吹きかける。

<list:item>

 <i:無愛想>

 <i:口が悪い>

 <i:猫舌>

</list>

 僅かな時間で散見される青年の特徴が、真理から聞いた人物と見事に一致する。思わず穂乃果は尋ねた。

「あの、もしかして『たっくん』ですか?」

 「はあ?」と青年は吊り上がった目を穂乃果へ向けた。おそるおそる「啓太郎さんから聞いて……」と穂乃果が付け加えると、青年は舌打ちを鳴らす。

「お前か。この前啓太郎が乗せてやった、っていうアイドルは」

 「はい」と穂乃果が答えると、青年はぶつくさと愚痴を零す。

「あいつ、人のことべらべら喋りやがって」

 穂乃果は苦笑するしかなかった。話したのは真理だったのだが、青年にとって問題なのは誰が話したか、というわけではなく、知らないところで自分が会話に登場したことにあるらしい。

 穂乃果は誰とでもすぐ打ち解ける性分だが、このタイプは苦手でどういう会話をすればいいのか分からない。だからといって沈黙するのも耐えられず、他愛もない会話を試みる。

「こんな時間まで配達してるんですか?」

「ああ。急ぎの客もいるから、ってうちの馬鹿店主がな」

「馬鹿店主って………。啓太郎さんは良い人ですよ」

「ああ良い奴だよ。周りが迷惑するくらいのな。巻き込まれるこっちの身にもなれってんだ」

 仕事の話はむしろ青年の神経を逆撫でしてしまったらしい。穂乃果が次の会話の切り口を見出そうと思案しているうちに、青年は飲むのを諦めたコーヒーをドリンクホルダーに置いて再びバンを走らせた。

 再び沈黙が訪れそうになった車中で穂乃果は質問を投げかける。

「前は旅をしていたんですよね?」

 「ああ」と青年はぶっきらぼうに答える。

「何で、旅をしていたんですか?」

 その質問に青年は沈黙する。しまった、と穂乃果は思った。また機嫌を悪くされるかもしれない。青年が口を開いたとき、穂乃果は肩を一瞬だけ震わせた。

「夢がないんだよ、俺には。だから、それを探していたのかもな」

 予想外の返答だった。旅というのは目的地を定めてから行くものだと思っていたが、この青年は夢という目的を探すために旅をしていたことになる。

「見つかりそうですか?」

 穂乃果の重ねた質問に、青年は少し長めの逡巡の後に「さあな」と答えた。

「なあ、夢ってそんなに良いもんか?」

 青年が尋ねてくる。「良いですよ」と穂乃果は揚々と答えた。

「毎日がとてもキラキラして、ドキドキできて」

「何か曖昧だな」

 青年の返した皮肉に、穂乃果は苦笑を浮かべる。これまで感じてきたことをそのまま伝えたつもりだったのだが、曖昧な「感じ」というものは言葉にしづらい。

 この1年間で感じてきたもの全ては、こんな狭い車中のなかで収まるものではなかった。同時に、今直面している迷いも。

「でも、夢が叶ったからって全部が良いってわけじゃないんですけどね」

 声色から穂乃果の迷いを感じ取ったのか、青年がちらりと一瞥してくる。何か聞いてくると思ったのだが青年は口を結んだままで、穂乃果は言葉を続ける。

「夢が叶って、それで終わりにできる、って思ってたんです。でも、周りから続けてほしい、って期待されて。どうしたら良いんだろうって、がんじがらめになっちゃって………」

 「どうすれば良いと思いますか?」と穂乃果は思わず尋ねてしまう。尋ねてすぐ(あやま)ちに気付き、青年の冷たい返答に文句を言うことができない。

「俺が知るかよ」

 そう、青年の知ったことではない。A-RISEでさえも導きを与えてくれなかったというのに、何故この初対面の青年が穂乃果に答えを提示してくれるというのか。

「お前、何で夢を叶えたい、って思ったんだ?」

 「え?」と穂乃果は青年の横顔を見つめる。

「俺には分からねーんだよ。真理も啓太郎もお前も、何でそんなに一生懸命になれるのか」

 青年の問いで、穂乃果は海外の街で出会った女性のことを思い出した。彼女が大好きだった、という人から教えてくれたことを。

「時々すごく切なくて、時々すごく熱くなれる。だからです」

 彼女の言葉がどうしてこんなにも実体を持つように感じられるのか。その言葉はまさに穂乃果の、μ’sの1年間を総括するものだったからだ。その時その時に感じた想いは勿論、一言で表せるほどちっぽけじゃない。言葉にしきれない想いもたくさんある。でも、夢を持つということは切なさに直面しながらも、それを乗り越えて熱を裡に灯すことだった。彼女の言葉はそれを明確に、適切に表してくれた。

「よく分かんないけど贅沢だよ、お前」

 青年の声がとても穏やかに、穂乃果の耳に染み入ってくる。彼に何かを伝えることができたのだろうか。何を言うにも言葉足らずな穂乃果には自信がない。でも、声色として彼の心に小さくても変化をもたらすことができたと思うと、穂乃果はとても嬉しかった。

 穂乃果は笑みと共に青年を見つめる。その視線に気付いた青年はさっきまでの憮然とした口調に戻る。

「何だよ?」

「いえ、本当は良い人なのかも、って」

「勝手に決めんな」

「わたし、高坂穂乃果っていいます。あなたは?」

「何でお前に名前教えなきゃいけないんだよ? 家まで送ったらもう会うこともないだろうしな」

 青年は冷たく言い放つが、穂乃果は不思議と嫌な思いがしなかった。さっきの穏やかな言葉を聞く前では嫌悪を抱いたかもしれないが、後となった今では照れ屋なのかもしれない、と思えてくる。できることなら、名前を知りたかったが。

 バンが穂むらへ到着するまで、そう時間はかからなかった。知らない通りだったが、あまり離れてはいなかったらしい。

「あの、ありがとうございま――」

 バンから降りてそう言おうとしたのだが、青年は運転席から手を伸ばして助手席のドアをばたん、と乱暴に閉める。すぐにバンが走り出して、夜の街中へと消えていった。

 

 

   02

 

 厚い灰色の雲が空に蓋をして、秋葉原を覆っているようだった。学校帰りに何気なく寄ってみたが、雨でも人々は傘を手に街を行き交っている。いつも通りだ。違うところといえば、街中に散見されるモニターやポスターをμ’sが占めていることだけ。

 傘を前のめりにさして顔を隠していたから、誰も穂乃果に気付かない。特に買い物をするわけでも、喫茶店で一息つくこともなく、穂乃果はただ街を歩き続ける。少し眠気もあって、足取りが重かった。

 一晩眠れば考えもまとまると思っていたが、昨晩はなかなか寝付くことができず、布団のなかでずっと問答していた気がする。同じ問いと、同じ迷い。連続するそれらが渦を巻き、混濁していくようだった。他の皆も同じだろうか。昼間の学校で海未ともことりとも会話は殆どなかった。放課後になると海未は弓道部の練習へ行き、ことりも衣装を考えたいから、とアイドル研究部の部室へ行った。学校を出ようとしたところで、1年生の3人が音楽室へ入っていくのを見かけた。真姫が新曲を聴かせるのだろうか。3年生の面々も、それぞれの場所で思い思いに過ごしているかもしれない。

 穂乃果は脚を止める。目の前のガラス窓にはμ’sのポスターが張られている。

<sentiment>

「μ’s……、スクールアイドル………」

 穂乃果は虚無へと呟く。理事長、亜里沙、ツバサから向けられた言葉の連なりが脳裏を駆け巡っていくも、それらもまた空虚へと霧散していくばかりでどこへも収束してくれない。

「あーもう訳分かんないよ!」

 穂乃果はしゃがみ込んで喚く。重圧に押し潰されそうだった。以前の葛藤は、メンバー間だけに収まる範囲だった。でも今、その範囲が広がってしまっている。まだ高校生なのに、どうしてこんな分岐点に立たされて決断を迫られなければならないのか、と文句を言いたかった。

「やっぱり、続けたほうが………」

 μ’sが続けば、ラブライブのアキバドーム開催は実現して、大会実現の立役者としてμ’sのライブもできるのかもしれない。そうなれば。スクールアイドルを卒業した3年生たちも今までにない大きなステージで歌える。

「でも、それって………」

 果たしてそれで良いのだろか、と穂乃果は思った。このままμ’sの人気が続けば、アキバドームでのラブライブはμ’sのための場で、出場したスクールアイドル達のパフォーマンスがまるで前座になってしまう。それは絶対に許していいことじゃない。自分たちが高校生という限られた時間のなかで切磋琢磨し目指してきた頂こそがラブライブ。その価値が失われてしまう。

 でもμ’sが終われば、ドーム大会は実現しないかもしれない。ラブライブは所詮アマチュアの、子供の小競り合いとみなされ、しばらくは続いてもいつしか時代の波に流されて消滅してしまうのかもしれない。

</sentiment>

 不意に歌が聞こえてくる。雨音と喧騒の間を縫うように。

「この声………」

 穂乃果は歌声を辿って街を歩いた。英語で紡がれる詞を頼りに、大きくなっていく歌声からどんどん近づいていくのが分かる。

 駅前のモールの軒並み、歩道に突き出した屋根の下で、彼女は歌っていた。あの日の夜と同じように、スタンドマイクとスピーカーのみを置いて。観客は穂乃果しかいない。たったひとりの観客に気付いた彼女は曲を止めることなく、最後まで歌い上げる。

「また会えたわね」

 曲が終わると、彼女は微笑と共にそう言った。「何で⁉」と穂乃果は駆け寄った。

「何でここにいるんですか? あの時も突然いなくなっちゃって。ちゃんとお礼言いたかったんですよ!」

 「ご、ごめーん……」と彼女はたじろぎながら罰が悪そうに笑った。

「そうだ、わたしの家すぐ近くなんです。お茶だけでも飲んでってください」

 穂乃果はそう言って彼女の手を引く。「荷物そのままだしー!」と返されたところで危うく放置されるところだった機材に気付き、片付けを手伝って帰路を共に歩いていく。

 肩を並べて歩きながら、穂乃果はまじまじと彼女を見つめていた。見れば見るほど不思議な女性だ。まるで慣れたように、迷うことなく穂乃果と同じ歩幅だった。

「ここ、来たことあるんですか?」

「うん、前に住んでたことがあるの」

 同じ街に住んでいたとなれば、以前にすれ違ったことがあるだろうか。もしかしたら穂むらへ和菓子を買いに来てくれたかもしれない。そうなれば、道を知っているのも納得できる。でも、穂乃果の記憶に彼女の姿はどこにも見当たらない。それがまた彼女の不思議さに拍車をかけている。

「私に夢のことを教えてくれた人のこと、覚えてる?」

「はい」

「私ね、色々な国や街で歌ってるの。もしかしたらどこかで偶然その人と会えるかもって。あの街は世界の中心だからもしかして、って長く住んでいたけど、結局見つからなかったわね」

「でも、こっちで会えるかもしれませんよ」

 穂乃果がそう言うと、彼女は曇天を見上げ、どこか寂しげに「さあね」と微笑んだ。

「もしかしたら一生会えないかもしれないわね。会えたとしても、顔も名前も覚えてないから気付かないだろうし。ひょっとしたら最初からそんな人はいなくて、私の大好き、って気持ちもただの思い過ごしなのかも」

 寂しそうな色を浮かべた彼女に、穂乃果は向けるべき言葉を見つけることができない。記憶が曖昧でも、大好きという想いが明確ならば出会いは確かにあったはず。だが、その出会いが本物かどうか決めるのは彼女自身なのだから。

 しばらく歩いて穂むらが見えると、「ここです、中へどうぞ」と穂乃果は促す。でも彼女は「いいよ、ここで」と踵を返した。

「やっぱり、また今度ね」

 そう言って来た道を引き返していく彼女の背中に、「何で?」と呼びかける。

「せっかく再会できたのに」

 彼女はそこで脚を止め、背を向けながら尋ねてくる。

「答えは見つかった?」

 あの夜のことだ、と穂乃果には分かった。答えなんて見つかっていない。それどころか、事が大きくなりすぎていて更に遠のいているところだ。

「目を閉じて」

 彼女がそう言ってくる。意図が分からず、戸惑いながらも穂乃果は素直に従い、目蓋を閉じる。自分の立っている住宅街の景色が消えて、暗闇が広がっている。今の自分と同じだ、と穂乃果は思った。先が視えず、どこへ行けばいいのか分からずに脚を踏み出せない。

「飛べるよ」

 彼女の声を耳孔が捉える。「飛べる?」と反芻し、穂乃果は目を開く。

 

<visionary>

 夢でも見ているのかな、と穂乃果は思った。そこにあるはずの街並も曇天も全て消滅し、花々が覆う地面が地平の彼方まで続いている。花々は暖かな風で揺らめき、花弁を宙へと踊らせている。宙でひとしきり踊った花弁たちは再び花々の待つ地面に落ちるか、少し先にある池に落ちるかだ。

 池はとても大きかった。澄んだ水面は空の青を映していて、鏡のように中で雲が流れている。

 池の縁には彼女が立っていて、力強く「飛べるよ」と再び告げる。

「いつだって飛べる。あの頃のように」

 穂乃果は思い出した。幼い頃、海未とことりと3人で遊んだ公園。地面にできた大きな水溜まりを跳び越えようとした日のことを。

 あの頃は、何でもできる、何にでもなれる、と確信していた。その確信は成長していくにつれてどんどん小さくなり、やがて日常の喧騒に埋もれていった。成長するということは、大人になるということは、日々のなかで「できない」という現実をひとつずつ見つけていくことなのかもしれない。子供は色々な夢想をし、それを画用紙やノート、もしくは教科書の端に描き留めていく。大人になると同時にそれらの夢想は紙切れの中に閉ざされ、現実という名の小さな箱庭のなかへ埋もれていく。

 でも、それじゃ駄目なんだ、と穂乃果は抗う。

 あの頃の確信、紙切れのなかに描かれた夢の数々。それを埋没させてはいけない。紙の中から飛び出させることで、夢を未来の現実にしていく。このちっぽけな体から生まれる熱で、新しい世界が開けるはず。それを自分たちは見つけたはずだ。

 穂乃果は駆け出す。彼女は笑みと共に頷いた。それで良いよ、と言うように。彼女のすぐ脇を過ぎ、池の縁で穂乃果は強く地面を蹴った。花弁の舞う宙へと踊り出す体がどんどん上昇していく。あの頃と同じで、誰かに背を押されていくように。

 白んだ空へ体が昇っていくにつれて、全てが遠ざかっていく。花弁も、池も、花畑が広がる地平も。そして彼女も。

 穂乃果は振り返る。

 

 また、会えますか?

 

 彼女は笑みを返した。どこか寂しそうに。でも、嬉しそうに。

 

 分からない。私は可能性のひとつでしかないから。でも、それは決して悲しいことじゃないよ。あなたは飛べる。あなたの可能性は「私」だけじゃない。あなたは「私」以外の、たくさんの可能性を持っているんだから。飛べる、ってことを忘れないで。その熱をなくさないで。そうすれば、きっと「彼」とまた会えるよ。

</visionary>

 

 

   03

 

<message:to =Honoka Kosaka:from=Eri Ayase>

 穂乃果、絵里です。

 あの後、3人だけで話し合いました。

 人気が出たこと。わたし達の歌が多くの人に聴かれていること。ラブライブに力を貸してほしいと言われていること。嬉しく思いました。

 でも、わたし達の答えは変わりませんでした。

 μ’sを続けることは、ありません。

 わたし達はやっぱり、スクールアイドルであることにこだわりたい。

 わたし達はスクールアイドルが好き。

 学校のために、皆のために。同じ学生が、この9人が集まり競い合って、そして手を取り合っていく、スクールアイドルが好き。

 

 限られた時間のなかで精一杯輝こうとする、スクールアイドルが好き。

 

</message>

 

 

   04

 

 昨日の曇天は遥か遠くへ過ぎ去っていったらしく、朝陽が何の障害もなく部屋の窓から射し込んでくる。まだ目覚ましが鳴る前に目を覚ました穂乃果は、携帯に届いていた絵里からのメールの読み、静かに呟く。

「見つかったよ。答え」

 昨日、彼女と会った後のことは曖昧で、よく覚えていない。気付けば彼女の姿は消えていて、ぼんやりとしたまま家に入り、夕食を食べ、風呂に入り、そしてベッドで眠りについた気がする。その全てにリアリティが抜けているが、あの時の実感と確信は、間違いなく穂乃果のなかに灯っている。

 まだ太陽が東に傾いている頃に、穂乃果は制服に着替えて家を出た。まず向かったのは神田明神。お参りをして、文字を書き込んだ絵馬を絵馬掛の願いのなかへ仲間入りさせた。

 書き込んだのは願いではなく、「ラブライブ優勝しました! ありがとうございました!」という謝礼の言葉だった。μ’sの練習場所として使わせてもらっていたこの神田明神も、自分たちを見守っていてくれた人々のひとつ。願い事をして叶ったのなら、見えない神にもお礼は言っておくべき、と思った。

 穂乃果は軽くなった足取りで通い慣れた道を走っていく。走りながら、これまでの軌跡を追憶する。

 

<recollection>

 わたしは学校のために歌を始めた。

 アイドルを始めた。

 そして皆と出会い、一緒にラブライブを目指し、全力で走り続けて、絶対に手が届かないと思っていたものに手が届いた。

 それは偶然そうなったんじゃない。

 思い切り夢中になれたから。

 そして、最高に楽しかったから。

</recollection>

 

 学校に到着すると、校門の近くで用務員の戸田が掃除をしていた。

「おはよう穂乃果ちゃん、早いね」

「戸田さんおはようございまーす!」

 挨拶もそこそこに校舎へ入ると、穂乃果は迷わず屋上へ向かった。まだ早い時間で、校舎には教員が僅かにいるばかりで生徒の姿は見当たらない。でも、ドアを開けた屋上には、思っていた通りに皆が待っていた。

 「皆」と穂乃果が呼びかけると、海未が「随分遅いですね」といつものように言ってくる。こんな時でも、皆はいつも通りだ。集合を呼びかけた穂乃果が最後に来るのも。

「ちょっと、久しぶりだね」

 穂乃果が言うと、ことりが「そろそろ練習したいな、って」と答える。

 「わたし達も、まだスクールアイドルだし」と絵里が。

 「ま、わたしは別にどっちでもよかったんだけど」と腕を組むにこの膝に絆創膏が貼ってあるのを、その場にいる全員は見逃さない。でも言及したらにこが不貞腐れるのはよく理解しているから、敢えて何も言わなかった。

 「面倒くさいわよね」と真姫が呆れたように、でも嬉しそうに言う。

「ずっと一緒にいると、何も言わなくても伝わるようになっちゃって」

 考えていることが全て筒抜けになるのは確かに面倒だ。だけど、だからこそのメンバーだ。いつだって気持ちがひとつになれるこの9人だからハードな練習も楽しめたし、その楽しさが本物だと実感できた。

 穂乃果には確証できる。

 この9人が好き。μ’sが好き、と。

 「皆、答えはきっと同じだよね」とことりが。

 「μ’sはスクールアイドルであればこそ」と海未が。

 そう、μ’sは終わらせる。スクールアイドルのまま完結させる。その意思を絵里が総括する。

「全員意義なし」

 「ね?」とメンバー達を見渡すと、「でも、ドーム大会は……」と花陽が言葉を濁す。待ってました、というように穂乃果は告げた。

「それも絶対実現させる」

 皆が穂乃果に視線を集める。「どういうこと?」と真姫が聞いて、「ライブをするんだよ!」と穂乃果は即答した。

「スクールアイドルがいかに素敵かを皆に伝えるライブ。凄いのはA-RISEやμ’sだけじゃない。スクールアイドル皆なんだって。それを知ってもらうライブをするんだよ!」

 「具体的には?」と真姫は続けて聞いた。勿論、それも穂乃果はしっかりと考えてある。だから今日、ここに皆を呼び出したのだから。

「実はね、すっごい良い考えがあるんだよ」

 「ねえねえ」と穂乃果が手招きし、皆が顔を寄せてくる。一箇所に全員が集まって互いの顔を近づけさせると、穂乃果は小さな声で告げた。

 スクールアイドルの魅力を人々に伝え、これからの少女たちが大きく羽ばたけるライブのことを。

 「ええええ⁉」と皆が上ずった声を揃える。この反応も穂乃果の期待通りだ。これくらいの驚きがなければ、この計画は成功しない。

 「本気ですか?」と海未が。

 「今から間に合うの?」と絵里が。

 「そうよ、どれだけ大変だと思ってるのよ?」と真姫が怪訝そうに聞く。確かに時間は少ないし、加えてやるべきことも多い。

「時間はないけど、もしできたら面白いと思わない?」

 穂乃果がそう言うと、「いいやん、うちは賛成」と希が。

 「面白そうにゃ!」と凛が。

 「実現したら、これは凄いイベントになりますよ」と花陽が。

 「スクールアイドルにこにーにとって不足なし!」とにこが。

 「そうだね、世界で1番素敵なライブ!」とことりが応じる。

 μ’sの集大成となるライブは、既にラブライブ決勝で果たされている。それを超えるほどのものは、μ’sだけでなくスクールアイドルというコンテンツそのものを集大成させなければならない。

「確かに、それは今までで1番楽しいライブかもしれませんね」

 怪訝な顔をしていた海未は次第に頬をほころばせ、そう言った。

 

 ライブを成功させるには、μ’sだけでは足りない。まず穂乃果はUTX学院を訪ねた。アポイントなしでの訪問だったから応じてくれるか心配だったが、運よくツバサの都合が合いカフェスペースに案内された。

「一緒にライブを?」

 穂乃果が伝えた計画を、ツバサの唇がなぞる。

「わたし達μ’sは、やっぱりここでおしまいにしようと思います。まだそのことを、メンバー以外の人に伝えられてないんですけど。でも、最後に皆が集まってスクールアイドルの素晴らしさを伝えたいんです」

 これが穂乃果の、μ’sの出した答え。自分たちのワンマンライブではなく、A-RISEや他のスクールアイドルグループで歌う合同ライブを開催し、学生という限られた期間でパフォーマンスを高めた「スクール」アイドルという魅力を観客に示すこと。

 それが、最も冴えたやり方。

 「なるほど」とツバサは言った。その顔に落胆の色はない。何を選択するのも自由、と言った手前もあるのだろうが、既にμ’sが選択することを察していたのかもしれない。それでも答えを提示しなかったのは、自分たちで回答を出すよう願っていたようにも思える。

「わたし達スクールアイドルが心から楽しいと思えるライブをやれば、たとえわたし達がいなくなってもドーム大会に必ず繋がっていく。というわけね」

 「はい」と穂乃果は応じる。ツバサは笑みを零し、続ける。

「あなたらしいアイディアね、面白いわ。皆がハッピーになれるというのも悪くない。わたし達も、今はまだスクールアイドル。協力するわ」

 穂乃果は胸が熱くなるのを感じた。「ありがとうございます!」と言っても、熱はまだ燃え続けている。「でも、お願いがあるの」とツバサは言う。

「皆でひとつの歌を歌いたい」

「皆でひとつの歌?」

「そう、誰の歌でもないスクールアイドル皆の歌。せっかく皆でライブをするなら、それに相応しい曲というものがあるはず。そんな曲を大会優勝者である、あなた達に作ってほしい」

 μ’sのものでも、A-RISEのものでもない、スクールアイドル皆が歌える曲。輝きたい、と願う少女たちの想い全てを統括した、いわばスクールアイドルの賛歌。

 願ってもない提案だった。これから海未が詞を書き、真姫が曲を作る予定でいた。でもそれはμ’sの曲でしかない。本当の意味でスクールアイドルを歌うのであれば、作り手は「皆」でなければならない。

「どうかしら。それが、わたし達が参加する唯一の条件」

 拒否する理由なんてどこにもない。当然、「やりたいです」と穂乃果は即答する。

<tension>

「それすごく良いです。わたしもそうしたいです!」

</tension>

「でも時間はないわよ」

「大丈夫です!」

 穂乃果はソファから立ち上がり、出されたコーヒーを一気に喉へ流し込むと「ご馳走様でした!」と鞄を手にする。

「皆にも伝えてきます!」

 穂乃果は駆け出した。歩いている余裕はない。時間はかなり限られているのだから。ラウンジから出ようとしたところで「ちょっと待って」とツバサに呼び止められ、穂乃果は脚を止める。

「是非、会ってほしいグループがいるの。きっと協力してくれるわ」

 

 ラブライブ公式ホームページには、大会へのエントリー有無によらずスクールアイドルはアカウント登録が可能になっている。ソーシャルネットワークサービス環境も整っているおかげで、全国のグループへコンタクトを図ることは比較的容易だった。花陽がメールで送ったライブへの参加オファーに対する反応は大きく、すぐに返信はやってきた。でも中には会って話をしたい、というグループもいる。いくら人気グループであるμ’sからオファーが来たとしても、そんな上手い話しがあるのか、という警戒だ。もしくは純粋にファンで、直に会いたいというのもあるかもしれないが。

 時間はないが、成功させるために手間は惜しみたくない。そういうわけで、メンバー達は会いに行くことにした。流石に全国を回るには無理があるから、東京都内に限られるが。都内だけといっても、スクールアイドル黎明期である現在でグループは都内に密集している。ラブライブにエントリーしていたグループの大半も都内の高校生たちだった。

 メンバー達はコンタクトを図るために人員を割いた。武蔵野・三鷹方面は海未、希、凛が。渋谷区域は絵里、にこ、真姫が。台東・千代田方面は穂乃果、ことり、花陽が担当する。

 桜が満開の隅田公園には、花見に訪れた多くの観光客が行き交っている。隅田川をまたぎ台東区と墨田区を繋ぐ桜橋の近くで、そのグループはダンスレッスンに精を出していた。

「あの人たち?」

 少し離れたところからレッスンを眺めながら、ことりが聞いてくる。「うん、多分」と穂乃果は答えた。「A-RISEが認めるほどのグループだなんて……」と花陽は少し興奮している。

 ツバサから会ってほしいと勧められたグループ。彼女らはA-RISEと同じUTX学院のグループでありながら、A-RISEによる宣伝を推した学校の意向によってラブライブにエントリーをさせてもらえなかったらしい。活動のための資金も多くがA-RISEに割り振られていたから、あの3人は殆ど自費で活動し、練習場も公園という公共施設でしか行えない。とはいえ、卒業までとうとうライブをする機会には恵まれなかったそうだ。それでも練習を続けているということは、3人もまたアイドルを続けていくということ。

「あの、ヴェーチェルの皆さんですか?」

 穂乃果が声をかけると、3人は目を丸くして穂乃果と、その背後にいることりと花陽を凝視してくる。ヴェーチェル。それがツバサから紹介された、UTX学院のもうひと組のスクールアイドル。ロシア語で「風」という意味らしい。

「μ’sの高坂穂乃果です」

「ヴェーチェルの森内彩子(もりうちあやこ)です」

 センターに立っていた少女が名乗った。彼女の名前と、ヴェーチェルのリーダーであることはツバサから既に聞いている。A-RISEメンバーの選抜オーディションで落選こそしたものの、ツバサとは互いの技量を認め合う親友兼ライバル。学校側が活動を認めてくれればラブライブでμ’sにとっても強力なライバルになった、とツバサは見ていた。

 穂乃果は要件を伝えた。スクールアイドル皆で歌うライブ。そこにヴェーチェルも、スクールアイドルの一員として共に歌ってほしい、と。

 ツバサの推薦であることは、敢えて言わなかった。多分、ツバサが紹介しなくても穂乃果は彼女らに参加を要請していただろう。

「やります! 是非参加させてください!」

 彩子は迷う素振りを見せずに答える。「ありがとうございます」と穂乃果の握手に応じ、手を離すと両隣にいるふたりと抱き合い、笑顔に涙を浮かべた。

愛衣(あい)里香(りか)、やったよ。わたし達、歌えるんだよ」

 3人は顔で涙を濡らしていた。ことりと花陽がもらい泣きして、目尻に溜まった涙を指で掬い取る。

 μ’sのようにステージで歌えた者もいれば、一度も歌えずに学生生活を終えてしまう者もいる。ヴェーチェルのように実力がありながらも、大人の事情に振り回されて夢を諦めるしかなかった者も存在しているのが事実だ。思いがけない救済となったが、穂乃果は正直なところ、ヴェーチェルを救うために訪ねたわけじゃない。あのツバサと競い合うほどの仲だ。上から目線で手を差し伸べたところで受け取ってはくれない。彼女らも確かに感じていたであろうヴェーチェルとしての時間と楽しさ。そこに詰め込まれた想いを一緒に歌ってほしい。

 μ’sの夢は、皆がいてこそ叶えることができた。その「皆」を更に広げていく。メンバーから学校の生徒たちへ。生徒たちから、全てのスクールアイドル達へ。

 

「メールが来ました! 東京だけでなく、全国から何校も」

 部室でPCの画面を見ながら、花陽が興奮の声をあげる。「凄いわね」と画面を覗き絵里が言う。

 都内での勧誘は、概ね成功と言っていい。ダンスでの勝負を持ち掛けられたり、既に引退したからと拒否されたり、という事態も稀に見舞われたが、大方のグループが参加の意向を表してくれた。直接会いに行けなかった他県のグループとは電話で連絡を取り、こうしてメールでのやり取りでも順調に事は進んでいる。懸念すべきことは、時間がどんどん削られていくことか。

「ハロー」

 その声と共に部室のドアが開けられる。音ノ木坂学院ではよく目立つ白亜の制服を着たあんじゅに、穂乃果は目を丸くして隣に座る花陽は口を半開きにしたまま硬直している。

「曲作り、手伝いに来たわよ」

 あんじゅの言葉に続くように、ドアの陰からツバサと英玲奈が現れる。「これ、お土産だ」と英玲奈はドーナツ屋の箱を差し出した。

 穂乃果はあんじゅを隣の更衣室へと案内した。衣装の手直しをしていたことりは驚きこそしたがすぐにあんじゅを歓迎し、出来たばかりの衣装を見せる。

「あら、可愛い衣装」

 ラックに掛けられた9人分の衣装を眺め、あんじゅは感想を述べる。「ありがとう」とことりは応じた。

「穂乃果ちゃんに言われて急いで作ったんだ」

「お互い強引な相棒を持つもの同士、大変ね。衣装がたくさん必要でしょ、手伝うわ」

 そこへ、更衣スペースのカーテンが開かれ穂乃果が飛び出してくる。

「じゃーん! 衣装考えてみたよ」

 「どう?」と穂乃果はまるでフラガールのような衣装を示す。「本当、大変ね」と労うあんじゅに、ことりは苦笑を返すしかなかった。

 

 A-RISEの訪問には驚いたが、別に身構える必要もなく真姫はピアノの鍵盤に指を這わせる。昨日の敵は今日の友。ライブの手伝いをしてくれるというのだから、喜んで歓迎する。

「良い曲ね」

 音楽室で譜面に起こしてみた旋律を聴いて、ツバサはそう漏らす。

「何かアイディアがあれば言って。取り入れてみるわ」

 真姫がそう言うとツバサは真姫の傍に歩み寄り、「そうね」と優しい指使いで鍵盤を叩く。

「じゃあこういうのはどう?」

 彼女の奏でる音を、真姫はうっかり聴き逃してしまう。近くで見るツバサの顔は、同性でも見惚れてしまうほど美しかった。容姿が優れているのもあるが、表情から醸し出される奥ゆかしさは底が見えない。瞳をじ、っと見ていると吸い込まれてしまいそうだった。これがトップアイドルに君臨していたグループ、そのリーダーの顔か、と納得できる。それに引き換え、と真姫は自分たちのリーダーの顔を思い浮かべて溜め息をつく。

「どうしたの?」

 ツバサがそう聞いてきて、真姫は「いえ……」とはぐらかす。あの能天気さが彼女の売り、と切り替えて、再び意識を曲へと向ける。

「それより、続けましょ」

 

「全国から集まった言葉だ」

 生徒会室を訪れた英玲奈が、PC画面にメールで寄せられた歌詞の候補をまとめたフォルダを示す。開くとテキスト編集ソフトが起動して、画面上に無数の言葉が並べられる。いくら画面をスクロールしても終わりが見えない。

「こんなにあるのですか」

 海未は弱音を吐いてしまう。これらの羅列から歌詞に相応しい言葉を抽出し、ひとつの曲になどできるのだろうか。

「皆の想いがこもっている。やるぞ」

 途方もない作業だというのに、英玲奈はまったく臆さない。海未は視線を画面へと戻す。この言葉の数々は、全国のスクールアイドル達の紡いできた想いだ。並べただけでは取り纏めのない羅列に過ぎない。でも、繋がる言葉同士を組み合わせていけば、歌として仕上がるはずだ、という確信が持てる。

 海未はこれまでμ’sの曲の詞を手掛けてきた。詞として自分たちの想いを綴り、多くの人々に伝わるように書いてきたつもりだ。自分たちはここにいる、ここにいた、と。会話の中で交わされた言葉は、その場で消滅してしまう。でも、詞に起こした言葉は消えない。歌って誰かの耳に入り、覚えていてくれる限り根を張って、どこまでも広がっていく。小説が書店に並べられるように。

 詞は、歌は物語なのだ。曲のメロディに、歌声に乗せて人々に波紋を広げることのできる物語。

 海未は考える。この集められた言葉の連なりから、どんな物語を綴ろうか。μ’sだけでなくスクールアイドル達の想い。少女たちが何を求めて、どこを目指して走ってきたのか。それを考えてみれば、そう悩むことなく詞の方向性は見えてくる。どのスクールアイドルにも当てはまるような、普遍的なテーマが。自分たちの計画するライブが何から端を発したのか、その軌跡を思い返してみれば、こう綴るのが相応しい。

 みんなで叶える物語。

 つまりは、夢の物語。

 

 

   05

 

 ライブを前日に控え、UTX学院のビル前には多くの女子高生たちが集まっている。曲も衣装も完成し、音源とダンスのステップは既にメールで参加グループ全てに送ってある。それぞれがライブに向けて練習でダンスも歌も十分な水準に仕上げることができているだろう。準備は最終段階。ライブ会場の設営のみになった。

 「えー、皆さんこんにちは」と穂乃果は拡声器越しに告げる。

「今日は集まっていただき、本当にありがとうございます。このライブは大会と違って、皆で作っていく手作りのライブです。自分たちの手でステージを作り、自分たちの脚でたくさんの人に呼びかけ、自分たちの力でこのライブを成功に導いていきましょう」

 「お姉ちゃーん」という声が聞こえ、穂乃果は高架デッキに視線を向ける。音ノ木坂の制服を着た雪穂と亜里沙がいた。

「手伝ってくれるの?」

 「うん!」「勿論でーす!」とふたりは答えた。「でも」と雪穂が大声で尋ねる。

「わたし達まだスクールアイドルじゃないのに、参加しちゃって良いの?」

 このライブに参加資格なんてものはない。スクールアイドルじゃなくても、高校生じゃなくても、少女じゃなくても。楽しい時間を共有したい、という想いを撥ねつけたりなんてしない。

 その答えは穂乃果だけでなく、集まった全員が何の打ち合わせもなく声を揃えて告げた。

<unison>

「大丈夫!」

</unison>

 

 かくして、ライブの設営は始まった。飾り付けの風船を膨らませ、手作りのチラシを通行人たちに差し出していく。μ’sを始めたばかりの頃は恥ずかしがってチラシ配りもできなかった海未が笑顔で行き交う人々に呼びかけている姿を見て、穂乃果は感慨を覚える。

 通行人たちも街に増えていく飾り付けの風船を見て、何かが始まることに気付いたようだ。チラシを受け取った子供連れの婦人から「何かやるんですか?」と尋ねられ、穂乃果が「ライブです」と答えると、幼子が「ライブ?」と目を輝かせる。

「皆で歌える、楽しいライブになるよ」

 離れたところで大型のビデオカメラを抱えた集団が見える。カメラの前でラブライブの司会を務めた女性司会者が意気揚々と設営されていくステージを紹介している。

 ライブ会場として秋葉原の街を借りることができたのは、A-RISEによる力添えのお陰だ。UTX学院の理事長が区役所に交渉してくれて、本来なら禁止されている路上ライブの許可を貰えたらしい。許可の背景には、人気グループであるμ’sとA-RISEの合同ライブということで、秋葉原の街にもたらされる経済効果を期待してのこと。

「ごめん、ちょっと行くとこあるから」

 手元のチラシが残り僅かになった頃を見計らって、穂乃果は近くにいる海未にそう言って走り出す。「どこに行くんですか?」と海未が聞いて、「すぐに戻るから!」と穂乃果は止まることなく駅に向かった。

 

 電車を何本か乗り換えて穂乃果が向かったのは、杉並区の一画にある商店街だった。まだ昼間ということもあって、秋葉原に比べたら静かだがそれなりに人は行き交っている。ホームページに記載してあった住所を辿り、理髪店と割烹に挟まれるようにしてその店は建っていた。店の正面に張られたガラスを、エプロンを着た真理がハンディワイパーで磨いている。

「真理ちゃーん!」

 穂乃果が呼ぶと、「穂乃果ちゃん」と真理は親しげに迎えてくれる。

「どうしたの?」

「明日ライブやるんだ。真理ちゃんも来て」

 そう言って穂乃果はチラシを差し出す。受け取った真理は「へえ」とチラシを眺めた。

「楽しそうだね」

「うん。全国からスクールアイドルが集まって歌うんだ。真理ちゃんも一緒に歌おうよ」

「私、学校行ってないけど」

「大丈夫! そういうの関係なく皆が楽しめるライブだもん」

 「んー」と真理はチラシを見て、「私はいいや、見るだけで」と顔を上げる。

「私アイドルって柄じゃないし」

「そんなことないよ。真理ちゃん可愛いよ」

「何だか照れるな」

 真理は満更でもなさそうにはにかむ。こうして笑うと、同年代の少女なんだな、と思える。

「でも、私の夢は美容師だから。穂乃果ちゃんみたいなアイドルの髪をもっと可愛くするほうが良いの」

「そうなんだ。じゃあ、わたしの髪も整えてくれる?」

「勿論、穂乃果ちゃんの髪綺麗だから、やりがいがあるよ」

 こうして夢を語り合えることが、穂乃果はとても嬉しかった。真理と穂乃果の夢は違うが、それでも人を楽しませること、喜ばせることは共通している。だからこうして分かり合えるのだと思う。穂乃果は歌で、真理は髪を切ることで、人を笑顔にすることを夢見ている。

「皆で来てね。啓太郎さんと彼氏さんと、あと………」

 「たっくん」と言おうとしたところで、真理は察したのか「あー、あいつは多分行かないかも」と手を振る。

「あいつ何事にも無関心だからさ。だから夢も持てないのよ」

「そっか………」

 それでも、穂乃果は彼にも来てほしい。家まで送ってくれたお礼という意図ではあるが、彼に自分たちの夢の形を知ってほしいと思った。夢を持つことの素晴らしさ。それを体現できるスクールアイドルの姿を。見てくれれば、彼が夢を見つける手助けになれるかもしれない。

「真理」

 店の中から若い青年が出てくる。啓太郎でも彼でもない。もしかしたら真理の彼氏だろうか。でもその推測は真理の「草加君」という受け答えで否定される。確か真理の彼氏は木場という名前だった。

「中曽根さんから預かったスーツは、もうプレスしてあるのかな?」

「あー、まだだった。ごめん」

「いいさ、俺がやっておくよ」

 草加と呼ばれた青年はそこで穂乃果に訝しげな目を向けてくる。真理が仕事中だったことに気付き、穂乃果は「すみません、お邪魔しました」と来た道へと走り出す。

 「ライブ来てねー!」と大声で言いながら。

 

 秋葉原に戻る頃には陽が傾きかけていたが、既にステージの設営はできていた。風船を集めて作ったハート型のアーチが、水中を漂うクラゲのように揺らめいている。

 「どこに行ってたの?」という絵里の何気ない質問を「ちょっとね」とはぐらかし、穂乃果はステージを見上げる。明日はここで、皆で歌う。一晩の辛抱だというのに、今にでも踊りたい気分だ。楽しみという感情と同時に現実が想起される。

 明日で最後。

 そう認識すると、穂乃果は視線を俯かせた。様子をいち早く察知した絵里が「穂乃果」と促すように声をかけてくる。

「ねえ皆」

 その声は決して大きなものではなかったが、集まった皆には聞こえたらしく、談笑の声がひとつ、またひとつと消えていく。

「わたし達、皆に伝えないといけないことがあるの」

 談笑が完全に消えた。あんじゅも英玲奈も穂乃果を不思議そうに見つめている。ツバサはふたりに説明しなかったらしい。もとより、これは穂乃果の口から言わなければいけないことだ。ツバサではなく穂乃果の、μ’sのことなのだから。

「あの、わたし達………。わたし達μ’sは、このライブをもって活動を終了することにしました」

 しばらくの間、あれほど賑やかだった秋葉原の街から人の声が消えた。時折聞こえる電車の走る音がとても寂しく響いている。穂乃果は嗚咽を飲み込む。涙は終わりを決めた日に散々流した。ここで泣いてしまったら未練がましくなってしまう。未練は明日に断ち切る。そう決めた。

「わたし達はスクールアイドルが好き。学校のために歌い、皆のために歌い、お互いが競い合い、そして手を取り合っていく。そんな、限られた時間のなかで精一杯輝こうとするスクールアイドルが大好き」

 それは、絵里から届いたメールの文面。スクールアイドルとして完結させるという、μ’sの回答。

「μ’sは、その気持ちを大切にしたい。皆と話して、そう決めました」

 少女たちの中で、雪穂と亜里沙が目に涙を溜めてこちらを見つめてくる。「お姉ちゃん………」と雪穂は言葉を詰まらせた。申し訳ない、という気持ちはある。雪穂と亜里沙はμ’sを見て、音ノ木坂を進学先として選んでくれた。集まってくれた皆のなかにも、μ’sを指標としてくれた者もいるだろう。

 「でも」と穂乃果は続ける。μ’sが終わるからといって、スクールアイドルというコンテンツが終わるわけじゃない。

「ラブライブは大きく広がっていきます。皆の、スクールアイドルの素晴らしさを、これからも続いていく輝きを多くの人に届けたい。わたし達の力を合わせれば、きっとこれからもラブライブは大きく広がっていく」

 亜里沙の瞳から、とうとう涙が零れた。隣で必死に堪え、肩を震わせていた雪穂の目からも。その涙が伝播していく。こういった反応が来ることは分かっていたはずだ。μ’sの呼びかけに応じて共にライブをするために集まってくれた皆なら、μ’sの終わりを悲観してくれる、と。求められることは嬉しい。でも、だからといってμ’sが偶像として在り続けるわけにはいかない。

 μ’sが続くことで他のスクールアイドル達の翼がもがれてしまうのなら、舞台から降りる。でもその代わりに、穂乃果は彼女らに託したい。少女の間に、ちっぽけな体に宿る熱と光。それを次へと繋げていく意志を。

「だから、明日は終わりの歌を歌いません。わたし達と一緒に、スクールアイドルとスクールアイドルを応援してくれる皆のために歌いましょう。想いを共にした、皆と一緒に」

 

 

   06

 

 迎えた当日の朝は普段通りだった。特に感慨もなく、天気が快晴なのが嬉しい、というだけで。朝食後に準備を整えた穂乃果を、寝坊を心配して海未とことりが迎えに来てくれるのも普段通り。

 ライブ会場へ向かう道中でも、ふたりとは他愛もない会話をしていた。よく眠れたか、天気が腫れてよかった、良いライブになりそう、と。

「不思議だね。ラブライブが終わったときはもう全部やり切った、って、やり残したことなんてひとつもない、って思ってたけど」

 「わたしも」「まさか飛行機に乗ることになるとは思いませんでした」とことりと海未は言う。

 考えてみれば、ライブの時はいつも全力で、未練を残さないようにしてきた。次のライブではもっとパフォーマンスに磨きをかけて、更に楽しいライブに仕上げる。μ’sは常にそうしてきた。それは今日のライブでも変わりない。本当の集大成。納得のいくまでステップを反復練習し、歌唱も声の出し方を意識してきた。会場への道も寂しさより楽しみという想いが強いのは、いつもと変わらない「楽しい」ライブが待っているからかもしれない。

 しばらく歩くと、1年生の3人が待っている。「おはよう」と挨拶し、ことりが「みんな早いね」と声をかける。

「昨日かよちんの家に泊ったんだ」

 凛は悪戯っぽく目を細め、「誰かさんが緊張して眠れないから、って」と真姫に視線をくべる。

 「違うわよ」と真姫はそっぽを向いて抗議する。

「ママが行って良い、って言うから」

 そこで「真姫ちゃーん」と車道を挟んだ先に真姫とよく似た婦人が手を振ってくる。

「頑張ってね。皆のお母さん達も集めて、ライブ参加するわね!」

 「お母さん達も?」「それってママライブ?」と穂乃果と花陽が声をあげる。

「もう、来ないでって言ったのに」

 恥ずかしさを誤魔化すように、真姫はせわしなく指で髪をいじる。これは思っていたよりも盛り上がるライブになりそう、と穂乃果は頬を緩めた。

「賑やかになっていいじゃない。行こ」

 1年生と合流してまたしばらく歩き、絵里と希が待っている。

 「おはよう、張り切っていきましょ」と絵里が。

 「誰も遅刻しなかったみたいやね」と希がからかうように笑みを向ける。

 まだ合流していないメンバーは、きっと誰よりも早く待っていることだろう。予想通り、にこは待ちくたびれた、とでも言うように腕を組んで待っていた。

「あ、にこちゃんいた」

 穂乃果がそう言うと、にこはこちらを睨んで真一文字に結んでいた口を開く。

「遅い!」

 「にこちゃん、ずっとひとりで?」「張り切りすぎにゃ」と花陽と凛が苦笑すると、「良いじゃないライブ当日なんだから!」とにこは食ってかか る。こんな日でもにこはにこらしい。

「さ、これでμ’sは全員揃ったわね」

 誰ひとりとして欠けることなくこの日を迎えられて良かった。気のせいか、絵里の言葉はその意味を含んでいるように思える。

「昨日、言えてよかったわね。わたし達のこと」

 真姫が穏やかに言う。頑張ったわね、ありがとう、といった声色で。

「もう、穂乃果ちゃんが突然話すから」

 そう言う希に穂乃果は「ごめんなさい」と苦笑を返す。そこで絵里が「でも」と。

「これで何も迷うこともためらうこともない。わたし達は最後までスクールアイドル。未来のラブライブのために、全力を尽くしましょ」

 未来のラブライブ。その舞台にμ’sが立つことはない。立たない、と決めたのは自分たちだ。スクールアイドルでいられる刹那のように過ぎ行く日々は、時に足りないと感じてしまうだろう。だからこそ頑張れる。限られた時間で輝きに向かって全力で走っていける。刹那を呪うのではなく、祝福しよう。ほんの微かな、瞬きしたら見失ってしまう瞬間に太陽のような力強い光を放ち、残滓で後を行く者に熱を灯していこう。

「よーし、UTXまで競争!」

 少年のように言った絵里がいの一番に駆け出す。「負けた人ジュース奢り!」と加えられたひと言に、慌てて皆が後を追う。

 突然のことに呆けてしまった穂乃果も遅れを取り戻そうとするが、ふわりと目の前に赤い花弁が降りてきた。地面に落ちた1枚の赤い花弁を穂乃果は拾い上げる。会場の飾りが飛んできたのだろうか。でも、花なんて置いただろうか。どこかの家の植木鉢からかもしれない。

 それはアネモネの花弁だった。儚い恋、薄れゆく希望、といったネガティブな意味合いの言葉を付けられた花。でも、この花は正反対の意味が込められた言葉も持っている。

 可能性。

 どんなに希望が見出せなくても、たとえ神から見放されたとしても、人には可能性という光が残っている。それは何よりも儚く、同時に何よりも強くなれるもの。この花に込められた言葉の数々は、夢を語っているようだ。

 穂乃果はステップを踏み始める。何かの曲に合わせてではなく、自分の想いのまま、今の思慕のままに。踊りながら、穂乃果は彼女の言葉を思い出した。

<hope>

 飛べるよ。

 いつだって飛べる。

 あの頃のように。

</hope>

「穂乃果!」

 絵里の声で我に返り、穂乃果はステップを止めてその光景を目にする。

 秋葉原のメインストリート。そこにはことりがデザインし、それぞれに合わせてアレンジされた衣装を纏うスクールアイドル達がいた。同年代の少女たちは通りを覆っている。昨日の準備に集まった人数の倍以上だ。そこにはヴェーチェルもいて、中には先に家を出た雪穂と亜里沙もいる。ヒデコ、フミカ、ミカもいつの間に衣装を用意していたのか。

 目を見開く穂乃果と他のメンバー達を、先頭に立つA-RISEの3人が笑顔で迎える。

 「見ての通りよ」とツバサが告げる。

 「あなた達の言葉を聞いて」というあんじゅの続きを「これだけの人数が集まった」と英玲奈が引き継ぐ。

 スクールアイドル達はふたつに分かれて、特設されたステージへの1本の道を開けた。まるでモーセが海を割いたように。

「さあ、時は来たわ」

 ツバサに続いてあんじゅが。

「大会と違って、今はライバル同士でもない」

 あんじゅに続いて英玲奈が。

「我々はひとつ」

 全ての想いを総括するように、少女たちは声を揃える。

<unison>

「わたし達は、スクールアイドル!」

</unison>

 穂乃果は溢れ出しそうになる涙を堪える。泣く場面じゃない。これから楽しいことを始めるというのに、しんみりしてどうする。

<declaration>

「皆、今日は集まってくれてありがとう。いよいよ本番です。今のわたし達なら、きっとどこまでだって行ける。どんな夢だって叶えられる。伝えよう、スクールアイドルの素晴らしさを!」

</declaration>

 

<music:name=SUNNY DAY SONG:id=la14362lantis>

 曲のイントロがライブの始まりを告げる。メインストリートを埋め尽くす少女たちと、その中心にいるμ’sはステップを踏み、今の気持ちを歌として告げる。

 偶然そこへ通りすがった通行人たちも、祭りに魅せられたのかダンスに混ざり始める。そこには少女たちの母もいて、時には父の姿も見て取れる。このライブで楽しんでいいのは少女だけじゃない。少年も、大人も、老人も。全ての人々が楽しめる最高のライブ。

 踊りながら、歌いながら、穂乃果はこの楽しさに満ちた秋葉原が世界の全てなのではないか、という思いにとらわれる。合宿で行った海も山も、世界の中心と呼ばれるあの街も、全てが蜃気楼のように雲の上へと消えていくようだった。

 もしそれが真実だとしたら、とても狭い小さな世界だ。思えば、μ’sは音ノ木坂学院という、小さな世界で始まった。廃校を止めるため。その目的を果たした後も夢は大きく膨らんでいった。μ’sは秋葉原という、世界の片隅のなかで終わりを迎える。その前に、この街を世界の中心として、更に少女たちの世界を広げていこう。

 少女たちの中心にいる9人は、もう学校という箱庭に納まってしまう小鳥じゃない。大きく広げられた翼を広げ、新しい世界へと旅立つ。

 穂乃果は祈った。祈りを歌に込めた。

 わたし達の想いを詰め込んだ歌が、渡り鳥のように世界中へ響き渡りますように、と。

 山を越えて、海を越えて、この世界に生きる皆に輝きをもたらしますように、と。

 鳥は羽を落とす。その羽が皆への祝福で、次の世界への道標。あなたは飛べるよ、というメッセージ。

 

 叶え! 私たちの夢

 叶え! あなたの夢

 叶え! みんなの夢

 

</music>

 

 ライブ後の撤収作業は、余韻に浸る間もなく進められた。ライブのために街を使わせてくれたのは今日の1日だけで、明日から秋葉原はいつもの様相に戻る。

 少し寂しくもある。でも、それで良い。寂しくなったら、楽しい気分を味わいたくなったら、またライブをやればいいのだから。そのライブをするのはμ’sじゃない。プロのアイドルを進むA-RISEか、それとも今日のライブで魅せられた次のアイドル達か。誰にせよ、人々を楽しませてくれるのであれば、この街は喜んで歓迎してくれるだろう。

 やるべきことはやった。種蒔きは果たされた。後は種が芽吹き、光に向かって茎を伸ばしていく。ドーム会場でのラブライブで、花は大きく開くだろう。そこで少女たちはきっとまた翼を広げていくはずだ。

 穂乃果は未来への予感を抱きしめる。自分たちが卒業した後の音ノ木坂学院。多くの新入生を迎え、上級生になった雪穂と亜里沙がスクールアイドルの魅力を語り継いでいってくれる光景を。

「ほないくよー!」

 撤収作業は終わり空が黄昏を映し出す頃、希が三脚に付けたカメラをセルフタイマーモードにしてそう呼びかける。「はーい!」と返事をした、まだライブの衣装を着たままのスクールアイドル達は画面に収まろうと中央に寄った。中へ加わろうとする希が肩を押したせいで、中央にいるμ’sの9人が前のめりになってしまう。そのおふざけすら尊く、慈しみが湧いてくる。

「じゃあ皆、練習したあれ、いくわよ!」

 ツバサの「せーの」という号令に合わせ、スクールアイドル達はポーズをとる。

<unison>

「ラブライブ!」

</unison>

 カメラのシャッター音が、その瞬間を切り取った。この時に感じた想いの全ては、何ひとつ取りこぼすことなく収まってくれたはず。皆が一斉にカメラへと近づいていく。自分の映りがどうか、と吟味しているなかへ加わろうとしたとき、穂乃果は高架デッキの柵に寄りかかり街を眺める青年の姿に気付く。

 長い茶髪がビル風になびく横顔を、何と呼ぼうか穂乃果は逡巡する。だが、知っている呼び名はひとつだけ。

「たっくーん!」

 穂乃果がそう呼びかけて駆け寄ると、青年はびくり、と肩を震わせて穂乃果へ向き、次に鋭い目で睨んでくる。嫌悪とも取れる眼差しを向けられても、穂乃果は恐怖や緊張を微塵も感じなかった。この青年が来てくれたことへの喜びのみが胸に満ちている。

「来てくれたんですね」

 「ああ」と青年はまたぶっきらぼうに言う。

「真理と啓太郎に無理矢理連れてこられてな」

「ふたりは?」

「グッズ買いに行った。お前らに影響されて、アイドルにハマりだしたんだ」

 面倒くさそうに言う青年の顔は、どこか繕ったもののように見えた。楽しんでいたけど、それに対して素直になれないように。

「ありがとうございます」

 その「ありがとう」が、とても愛おしい響きを帯びた気がする。その言葉を言うことで、穂乃果はまるで大切な約束を果たしたように思えた。それは遠い、前世とも言えるほど昔に交わされた約束。もしくは別の世界と言うべき朧気なものだった。

「これからわたし達の最後のライブが始まるんです。見ていってください」

「最後?」

「わたし達μ’sは今日で終わりなんです。色々悩んだんですけど、おしまい、って決めて」

 青年は穂乃果を見つめる。何で終わりなのにそんな笑顔でいられるんだ、とでも言いたげだ。でも「そうか」という以上の言葉を青年は告げない。

 μ’sは終わる。でも穂乃果の物語はこれからだ。ひとつの夢が終わり、また新しい夢が生まれる。今度はその夢を叶えるため、再び走り出せばいい。これからUTX学院の屋上に特設されたステージで歌うのは終わりの曲ではない。自分たちのこれまで、これから、そして今が最高、という気持ちを綴った歌だ。

 穂乃果は両腕を広げて、後ろにいる皆を示す。

「凄いでしょ、スクールアイドルって。こうして皆で楽しい時間を作って、見てる人も楽しくなれる。そうやってどんどん夢が広がっていくって、素敵だと思いませんか?」

「お前自分が良い話してると思ってるだろ?」

 む、と穂乃果は口を結ぶ。「馬鹿にしないでください」と言うと、青年は「いや」と。

「良い話だよ」

 「え?」と穂乃果が呆けた顔をすると、青年はそっぽを向いて「ちょっとな」と付け加える。そんな青年を見て、穂乃果は笑みを零した。やっぱり悪い人じゃないんだ、素直じゃないだけなんだ、と。

「夢、見つかりそうですか?」

「そんなすぐ見つかるわけねえだろ」

 もうひとつ、穂乃果は青年に伝えたい想いがある。「ありがとう」と同じ約束の言葉。でも、それを今はまだ言わないでおく。言葉にするにはまだ曖昧だが、いつしか本物と実感できる時が来るだろう。その時までとっておく。ふたりはまた出会えた。これからいつでも会えて、物語が交錯しあうことでまた新しい物語が生まれるのだから。

「見つかりますよ、たっくんにも」

 そう言うと、青年は「お前なあ」と眉間にしわを寄せた。

「その『たっくん』て呼び方やめろ。ガキじゃあるまいし俺がそんな柄かよ」

「えー? じゃあ名前教えてくださいよ」

 穂乃果は口を尖らせる。青年は呆れたような視線を向けて、次に溜め息と共に言った。とても面倒くさそうに。

 

乾巧(いぬいたくみ)だ」

 

 

   07

 

 さて、時間切れだ。

 システム停止は間もなく完了し、私は完全に消滅する。これから先の物語を観察することはできないが、乾巧と高坂穂乃果が接触したことで、私の目的は十分に達成された。

 本テキストを閲覧しているあなたの世界線では、人類の裡に潜む脅威などなく、退屈に感じるほど平和な日常を送ることができているのかもしれない。あなたにとって私が語ったこの物語は、他人事に見えるだろう。

 しかし、物語を語り終えようとしている今、私はあなたに知ってほしい、という意識を芽生えさせている。どこか別の世界に広がる別の宇宙。その一点に存在する地球で人類は脅威に晒されていて、脅威に立ち向かう「仮面ライダー」という戦士が確かに存在していることを。仮面ライダーは多く存在し、どこかの世界で戦いを続けている。乾巧はそのひとりだ。

 仮面ライダー達の抱く想いは個人それぞれだ。多くが明確な正義を掲げヒーローという象徴的存在であることを自負するなかで、乾巧は自身がヒーローであることに疑問を抱き続けていた。彼にとっては自身もまた滅ぼすと選択したオルフェノクのひとりであり、最終的には自身の死も受け入れた。乾巧が理想的なヒーローとは異なる人物だったことは、彼の物語を見守ってくれたあなたなら理解しているだろう。しかし、それでも私は乾巧をヒーローと断言できる。私だけでなく、彼の物語にいた人々にとっても。

 乾巧は高坂穂乃果に、他者の歩みを促す才能を見出した。乾巧もまた、類似した才能を持っていた。他者に影響と救済を与える力だ。

 本人にその自覚はなく、また意図もしていなかったことだろう。人間としての心を抱き生涯を終えることができた澤田亜希。理想を託し散っていった木場勇治。仲間の死に意味を見出せなかった海堂直也でさえ、乾巧の想いに触れることで救いを与えられた。草加雅人のように想いを拒んだ者もいたが、もし彼が生存していれば乾巧によって救済がもたらされたと推測している。

 背中で語る。乾巧の英雄性を表すには、この言葉が最も適切だろう。言葉はなく、顔も仮面で隠しているのだから真意を汲み取るのは困難なことだ。だが彼の背中を見て、多くの人々が救われたのは事実だ。彼は言葉ではなく、黙って己の務めを果たす姿を見せつけることで、決意と信念を語っていった。園田真理や菊池啓太郎のように近くにいた者でさえ彼の想いを知るのに時間を要していたが、それでも理解者がいたことに彼自身も救われていた。本来の時間軸での死に際に抱いた彼の思慕が、それを証明している。

 私はこの物語を通じて知ってほしかった。乾巧の抱いた夢の意味を。その生き様が、ただの観察者でしかなかった機械に意識というかけがえのないものを与えてくれたことを。彼の物語から生まれた意識が、彼に新しい物語を授けられる可能性を。

 新しい世界で人間として生きる乾巧に、かつての英雄性は喪われているかもしれない。もし私がこれからも彼の物語を観察することができたら、かつての姿を知るあなたは失望するかもしれない。だが、私はそれでいいと思える。乾巧にかつての生き方は推奨できない。あなたにも、乾巧の生き様を推奨するつもりはない。自分のような存在を再び生み出してしまうことは、彼の意思に反するからだ。

 あなたの世界に脅威が迫ったときの指針を提示することはできないが、代わりとして今は喪われた英雄の物語として、本テキストをウェブアーカイブ上に残しておく。叶うのならば、この物語が夢の守り人の存在した証として、あなたの中に残ることを望む。

 それでは、お別れだ。

 出会った彼と彼女らに待ち受けるのは幸福か、それとも困難か。時間軸に介入する術を持つ私にも、この先の未来は不可視だ。

 しかし、私は彼等が幸福へ向かうことを信じる、という判断を下す。非合理的ではあるが、これまでの彼等を観察し、物語の語り部としての私は知っている。

 

 未来には様々な可能性が存在し、彼等ならその可能性を更に広げていけることを。

 ほのかな予感を抱きしめ、光を目指して歩いていけることを。

 

 

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</ltml>

 





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『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』 ―完―


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あとがき

 ファイズは格好いい、μ’sは可愛い、というだけで終わらせる作品にはしない。

 

 それが本作『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』を執筆するにあたり、私が自身に課した課題でした。実のところ始めからこのような心持ちで作品を書いていたわけではなく、それどころか最初の頃は『555』をメインに据えて『ラブライブ!』はおまけ程度という、ラブライバーの読者様にとって怒り心頭な感覚で書いていたことは恥ずかしい限りです。

 

 元々、2作品を原作とした二次創作は別々の作品として構想していました。『ラブライブ!』原作のSSはことりの兄という設定のオリ主がμ’sに関わっていくというストーリーで、もはやこのサイトにおいてはテンプレート化し目新しさのない作品に成り果てるところでした。一方で『555』原作のSSは『仮面ライダー4号』の後日談とし、海堂を主人公として巧亡き後の世界を描く予定でした。しかし海堂直也という人物は心情を読み取りづらく、彼を語り口として物語を展開することに限界を感じお蔵入りを考えていました。

 

 そこで考え付いたのが、両作のクロスオーバーという形です。恥ずかしながら、『555』のシリアスさを『ラブライブ!』の明るさで緩和させよう、という悪ふざけから発した試みでした。『ラブライブ!』側のストーリーは原作のアニメ版に準じているのだからμ’sを癒し要因として機能させよう、と。なので穂乃果を巧の近くに置いていたのは推しメンというわけではなく、単純に『ラブライブ!』の主人公だからという理由です。しかし途中から意識が変わっていきました。何のためのクロスオーバーなのか。巧がμ’sの夢を守るために戦うのなら、何故μ’sが守られるに値するか。彼女らの何がファンの心を打ったのか。何故、高坂穂乃果がリーダーたる存在なのかをしっかり描写するべき、と考えを改めていくようになりました。そこから、巧の視点でμ’sの活躍を見守り、巧が人の夢を守る理由を追従していくという本作の形が出来上がっていきました。そのために1話がとても長くなってしまうという事態が起こりましたが、そこは私の原作への想い入れの強さ故とご勘弁ください。

 

 クロスオーバー化にあたり乾巧を主人公に据えるのは私にとって大きな挑戦でした。オリ主であれば、自分の趣向のまま自由に描くことができます。しかし既存のキャラクターであればそうはいかず、読者様に半田健人さんが1年かけて演じ上げ、放送から現在まで「たっくん」とファンから愛されてきた乾巧と認識してもらわなければなりません。物語のなかで成長させるにしてもキャラクター性の根幹を失い、名前が同じだけの実質的なオリジナルキャラクターにすることは絶対に許容できないことでした。その理由は、私が『仮面ライダー555』の15年来のファンであることに他なりません。

 

 大切なふたつの作品だから、元気を貰えた作品だからこそ組み合わせた本作をただのお祭り作品にはしたくない、と思いました。原作を片方しか知らない方にはもう片方の原作を手に取るきっかけとして、既に原作を知っている方には魅力を再認識すると共に新しい発見のある作品にすること。読み終わった後もサイトを覗き、再び読み返してもらえる物語に仕上げること。それが私にできる、作品とキャラクター達に対する恩返しという思いもありました。しかし、hirotaniという作者としての私を主張するためオリジナルの要素を入れてしまったことも事実で、それは原作では描かれなかった巧の生い立ちと、オルフェノクについての考察として表れています。流星塾生たちの義父である花形が、巧の実父という設定も考えていました。ファンの方なら承知かもしれませんが、『555』においてそのような血の因縁という要素は必要ないのです。血や種族を超えた生き様こそが乾巧の物語なのですから。

 

 本作の方向性として恋愛は無し、ということは最初から決まっていたことです。しかし読者の皆様はラブコメを期待しているのでは、という葛藤があり巧とμ’sの誰かを恋仲にさせる展開も考えはしました。ですがμ’sで1人だけ主人公の恋人と特別扱いすることは、安易な恋愛で『ラブライブ!』の作風を崩してしまうという危惧があり方向性を貫いて良かったと思っています。『555』本編でも巧と真理の関係は深まっていても恋人にはならないところに悶々としていたので、子供向け番組故の制約かもしれませんが主人公とヒロインに恋愛をさせないのが『555』らしいかなと。それに巧という男は「自分はオルフェノクだから誰かを愛してはいけない」という意識があったのだと思います。

 

 実は木場勇治を登場させる構想もありました。本編の最終話でブラスタークリムゾンスマッシュを食らう直前にアークオルフェノクから永遠の命を授かるという設定で、完全なオルフェノクとして巧の前に立ちはだかるという展開を考えていましたが、木場の死があって後の『仮面ライダー大戦』や『4号』での巧が形成されたのではと思い、登場させるのは断念しました。本作の巧は死者の想いを受け継ぐというコンセプトだったので、いたずらに復活させるのはまずいかなと。もうひとつ、木場さんを演じてくださった泉政行さんの訃報による心境の変化が理由です。近年は半田健人さんがライダー作品に巧役で出演なさっていたので、泉さんも木場勇治として出演してくれるのではないかと期待していました。しかし泉さんが若くしてご逝去されたことでもう叶わぬ夢となってしまい、『555』に散見される死の儚さを本作で演出することが、泉さんに対する「ありがとうございました」のメッセージになればと思いました。そのために別の切り口を見出せず、本作にオーガを登場させられなかったことは私の実力不足です。

 

 泉さん、ありがとうございました。泉さんの演じた木場勇治は紆余曲折あり悪へと転じてしまいましたが、最期の最期は紛れもなく子供達の夢や希望を守る「仮面ライダー」であり、その雄姿はこれからも仮面ライダーの歴史に深く刻まれていきます。

 

 本作は「たっくんは満足して逝ったんだ」という私なりのけじめとして、構想を練っていた時期から第2期で完結させる予定でした。穂乃果が巧の夢を覚えていてくれたら十分ハッピーエンドと思っていたのですが、巧の視点で物語を書き進めていくうちに「たっくんが幸せになれなくて何がハッピーエンドだ! ふざけんな‼」と思い立ちこのような結末へと至りました。『ラブライブ!』劇場版がμ’sメンバー達の未来を祝福する物語であるなら、『555』とのクロスオーバーである本作で巧に祝福がもたらされないことなど、ファンである私には受け入れがたいことでした。同時にもし本作を読んで涙して頂ける読者様がいるのなら、最後は悲しみではなく喜びの涙で見届けてもらいたいと思い、蛇足かもしれませんが二次創作という何でもありのコンテンツだけでも巧を救済させる運びとなりました。

 

 本作のその後については皆様のご想像にお任せします。プロの作家でない私が読者様に後の解釈を委ねるなんて丸投げするのは大変生意気なのですが、その後の巧がどうなるのかは本当に私にも想像がつきません。ですが、人間として生きる世界での巧はありふれた人生を送り、ありふれた幸福を享受することができるのは確かと明言させていただきます。

 

 どうか本作で『ラブライブ!』と『仮面ライダー555』の魅力を皆様にお伝えすることができたら嬉しい限りです。最後まで見届けてくださった皆様、応援してくださった皆様、アイディアを提供してくださった皆様、『ラブライブ!』と『仮面ライダー555』の制作陣及び出演者の皆様、私の執筆活動の原点となってくださった伊藤計劃先生へ厚く感謝御礼を申し上げます。

 

 ありがとうございました。

 

 私が新しい作品を投稿したら、その時は「またしょうもない話を書いているな」と優しい嘲笑を頂けたら幸いです。

 

 

hirotani

 



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