FATE/ZERO 符咒士の足跡 (北国から)
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FATE/ZERO 符咒士の足跡

 
 某所でオリジナルを書いていましたが、筆があんまり重くなってきて気分転換に二次創作を久方ぶりに書きました。

 鏢、切嗣とも時臣とも相性最悪だな~……そう言えば、光覇明宗は西洋魔術厳禁だったな。

 なんて考えに端を発した思いつきです。

 でも、Fateは難しすぎてとっても難物。 

 難しい設定や時系列なんかはとりあえずおいといて、ふわっとした気持ちで読んでいただければ幸いです。どうぞ、お手柔らかに。

 ハーメルン初投稿ですので、機能をまだまだ活かしきれずにいるので、次回はもう少し文字サイズとか使いこなしたいです。

 その前に、次弾装填予定が未定ですけどね。1.5章がアレだし、FGO魔界都市“新宿”編とか、ありかな?

 これを投稿したら、記念にガチャをやるんだ……来たれ、狼王……!




  

 

 

 

 香港……九龍。

 

 そこには、あつらえたような廃ビルがあった。

 

 いや、廃ビルと言うよりも集合住宅が寂れきった成れの果て、と言う方がより正しいだろう。

 

 あちこちに洗濯物が干されているが、建物そのものが今にも崩れ落ちそうなほどにぼろぼろで生活感がまるでない。様々な事情で勝手にここに住んでいる不法入居者……より正確に言うと不法侵入者が居着いているだけなのだから、生活も何もない純然たるスラムタウンなのだ。

 

 風が吹き抜けてもの悲しくも大きな音を鳴らしていく有り様は、まるで人の命の空しく枯れ果てた終わりを象徴しているかのような寒々という言葉でも追いつかない虚ろな雰囲気を醸し出している。

 

 その中には常に争いがあった。

 

 夜と言わず昼と言わず、どこかで誰かが罵りあい、傷つけ合っている。理由はホームレスのささやかな小銭の奪い合いであり、黒社会の住人によるマリファナやヘロインに代表される禁止薬物の奪い合いであったりした。この地震どころか酔っ払いの蹴り一つで崩れそうな老朽化した頼りない建造物は明らかに住むには値しないが、無法地帯となっているからこそ重宝する輩がいるのだ。

 

 だから、例え隣室で誰かが死んでも誰も気にしない。せいぜい、残された死体の身ぐるみを剥げば幾らになるかと期待するだけだった。

 

 だからだろう。

 

 そこはいつでも血の香りがする。

 

 ただ、それ以外にも生臭い臭いが混ざることが度々あった。

 

 一体いつからかは分からないが、嫌な臭いが漂うようになったと不法に住んでいる不届き者達は誰もが眉をしかめるようになった。

 

 血の臭いとは違う。

 

 そこらに垂れ流されている糞便の臭いでも、珍しくもない頻度で転がされている死体の臭いでもない。 

  

 何の臭い、と言える住人はなかなかいないが、誰もが眉を顰めるくらいにその臭気は漂っていた。

 

 そんな中、昼間でも薄暗い一つの部屋で三人の男達が出会っていた。

 

 二人の男が一人を囲むような構図だった。向かい合う三人はお互いにはっきりと剣呑な雰囲気を隠そうともせずに殺気立っている。漂う空気が指し示す起こりうる争いは殴り合いですめばいい方だろうが、この三人を見てそれですむと思う暢気者は子供でもいない。

 

「へへへ。お前がオレらをどーすんだって……?」 

 

 三人の男達は、全員が揃って黒社会の住人らしい風体だったが、それぞれに格の違いがあった。

 

 嘲りの声を上げる一人の男は額が広く頬骨の突き出した目の細い男であり、それに相づちを打つ男は対照的に頬の肉がブルドッグのように弛んでいるのが印象に残る顔立ちをしており、どちらも安っぽい服と衛生観念に真っ向から喧嘩を売る不潔さが粒子になって周囲を漂っている。いかにもチンピラ然としていた二人組だった。

 

 気軽に殴ってくるどころかナイフでも抜きそうな安物の危険さが、善良な市民にわかりやすい危機感を抱かせる。つまらない理由で気軽に人を殺すような、そんな印象を抱かずにはいられない二人であり、それは事実だった。

 

「無法の地でも秩序は必要だ。お前らは外でもここでも人を殺しすぎた」

 

 鉄のような声が、鉄のような冷徹さを篭めて応えた。

 

 声を発したのは、彼らと対面している男だった。真っ白いスーツを着て白いボルサリーノも被った男がポケットに左手を突っ込みながら二人のチンピラをつまらなそうに見ている。

 

 無造作に伸びた黒髪と四角いサングラスに隠れているがその下の目はひどく鋭い男で、薄汚れている二人とは全く違うが善良な市民はむしろこの男の方にこそ怯えるだろう。彼と対峙している二人組は街にたむろしている悪質なチンピラそのものだが、スーツの男は正しく殺し屋そのものだったからだ。

 

 鉄の刃のような雰囲気は共通しているが、その質が錆びた上に欠けたナイフと手入れされた研ぎ立ての短刀ほどに違う。

 

 人を殺しすぎた。

 

 そんな言葉がひどく似合う男達であり、それらがぶつかり合う形で出会ってしまえば先に起こることを想像するのは無意味なくらいに簡単な話だった。

 

「ここの数人のボスにはそれが気に入らない。ここに悪党はいていいが……」

 

 白い男はスポットライトのように陽光を浴びて、スーツの白がそれを照り返している。にも関わらず、男は影のようだった。

 

「妖怪はダメだってよ」

 

 男はそんな事をあっさりと言った。

 

 化け物はダメ、と言ったのだ。ひどく大真面目に、とても当たり前に、鉄のように冗談など産まれてから一度も口にしたことがありませんという顔で、そんな馬鹿なセリフを吐いた。

 

「キサマ殺してやる!」

 

 男達はそう言うと、彼らそのもののような錆びてちっぽけな光り物を抜いた。スーツの男が言ったのは失笑物のセリフだが、奇妙なことに彼らはそれに真っ正直に怒りを示した。馬鹿にしやがってと言うのではなく、まるで彼らが本当に化け物であるかのような勢いだった。

 

 二人のナイフは素晴らしい勢いで、スーツの男へと襲い掛かる。一見すると安っぽいチンピラにしか見えないというのに、瞠目に値する速さで相手の肉と骨、それどころか命そのものを突き刺さんばかりに襲い掛かり、しかして彼らのそれは容易くいなされた。

 

 慣ればかりではない、尋常ならざる身体能力を証明する速さで差し向けられた二本の刃物をスーツの男は至ってあっさりと、しかし巧みにかわしてみせた。一人のナイフは左手でいなされ、もう一人など右膝と肘の間に腕を挟み捕らわれてナイフを落としてさえいる。

  

 正に見事な体術だったが、それを成し遂げた男本人は何でもないように男達を見下ろしている。

 

「正体をあらわせ、お前たち!」

   

 サングラスに隠れているはずの瞳が冷たく男達を見下ろしているのがはっきりと見えた。

 

「かかとがない虎人なんだろ?」

 

 男は、そんな事を言った。

 

 こじん、虎の人。

 

 今時子供だましで滑稽な冗談にもならない、妖怪変化の類だと言っていた。

 

 しかし、何と男に襲い掛かった際に光の下に現われた男二人の足は揃って裸足だったのだがスーツの男に言う通りにどちらもかかとがないのだ。そういう生まれつきという可能性もあるが二人の間に血縁関係というモノは見受けられず、ならばどうしてそのような特徴を備えた男達が揃うのか。

 

 男達は自分を見下ろす目と目を合わせた。奇妙な事にサングラスを突き通して見える彼の瞳は、青かった。どこかの遺伝子が混ざっているようには見えない男のそこだけが青い。それも、生身の青ではなくどこか硬質で宝石のような青だった。

 

「うるせえ! この姿のままでもお前なんぞ」  

  

「目が青いっ……!? あっ、おい……やめろ、そいつは鏢だ!!」

 

 その目を見て一人が顔色を変えるが、もう一人は素手で襲い掛かる。やはり猛獣か何かのような鋭く速い攻撃だったが、鏢と呼ばれた男はそれをあっさりと手の平でいなして躱してしまう。男の攻撃は人並み外れた膂力を用いた拳だったが、いなした鏢は熟練の技量と言うべき対照的なモノだった。

 

「いかにも」

 

 そのまま躱し様に彼は手に持った何かを男の顔に張り付けた。

 

「ぐわ!」

 

 それは札だった。どこぞの出店で売られているような、少なくとも素人目にはそうとしか思えないような代物だったがなんとそれを張られた男は顔面を張られたかのようにのけぞって悲鳴を上げたのだ。映画のような光景だっただろう、札を貼られたチンピラがまるで妖怪のように苦しんでいるのだ。

 

 撮影と訝しがられても不思議ではない光景だが、それ以上の……あるいは、そのものの光景が生み出された。スプレーのような異音が生じると、男の顔に貼られた札から火でもついているかのように煙が発生した。炙られているわけではないようだったが、男は痛みに耐えて苦悶する。

 

「ぐええぇ!」

 

 そしてなんと、男は異形の姿に変貌したのだ。

 

 爪は伸び、全身に黄色の下地に黒の縞模様の体毛が余すところなく生え、何よりも顔が……耳元まで裂け突き出た口、その間から除く牙、正に猛獣の顔となった男は正しく虎と人の合いの子だった。虎人、それは比喩でもなく冗談でもなく確かな事実だったのだと満天下に知らしめていた。

 

「追召貴逐、天地陰陽の理のもとに命ず」

 

 変わり果てた男を前に、鏢は指で何らかの印を組みつつ右手を顔の前に、左手を胸の前に置いて踊るようにステップを踏み始めた。そして懐から数枚の札を取り出すと鋭く叫んだ。

 

「禁!」

 

 風のように札が飛んだ。

 

 刃物に札を刺し、手裏剣のように投げたのだ。いや、手裏剣ではなく苦無でもない。縄付きのそれは縄鏢と言われる持ち主と同じ名前の凶器だ。いや、持ち主こそが凶器に倣ったのか。

 

 いずれにしても、彼はまるで名前の通り武器の申し子となったかのような投擲を見せ、縄鏢は見事虎人の顔面に三本突き刺さる。

 

「ぐえ!」

 

 悲鳴は上がるが、全ての生物に共通した最硬にして最厚の骨である頭骨を投擲で貫く事はできなかったらしく虎人は生きていた。しかし、刃物と一緒に襲い掛かった三枚の紙切れが再び煙を上げた。それを感じ取った虎人は、札を引っぺがそうと手を伸ばしながら恐怖にうわずった声を上げ続ける。

 

「あっ、あっ」

 

 その声を閃光と爆音がかき消した。何の変哲もないはずの札は、なんと爆弾のように弾けたのだ。

 

 後には、何も残らない。 

 

「くそォ! 金もらって妖怪を殺すクソ符術士の鏢かよ!」 

 

 それを見たもう一人のチンピラ……いや虎人は、符術士と呼んだ鏢に背中を向けると虎と言うよりも兎のように逃げ出した。しかし逃亡先は兎と言うよりも鳥のように、彼は近場の窓からガラスを割って飛び出した。

 

「あばよ!」

 

 それはヤケになった自殺のようにも見える。だが男の捨てゼリフにはそんな捨て鉢さは感じられず、今この瞬間は殺された仲間のことも忘れたのかしてやったりと言う痛快ささえ持っていた。飛び降りても平気でいる自信が窺えた。

 

 その背中を追い掛ける数本の縄鏢があると気がついていたなら、男は恐怖に顔を歪めていただろう。 

 

「ぐっ! ぐおおお!」

 

 結果を言えば、彼の逃亡は一瞬以下の時間しか成立せずに縄に首や手足を巻き取られた男は空中で捕らわれて再び薄暗い世界に引き戻されてしまった。

 

「くそっ!」

 

 悪態をついて何とか身体を起こした男だが、その顔に影が差す。

 

「げっ!」

 

 鏢が扇のように開いた二枚の札……虎人曰くの符を片手に顔面を踏みつけたのだ。

 

「ひ」

 

 男の顔は凍りついた。

 

 “お前達は人を殺しすぎた”と言われた虎人は、これまでにどれだけの人にこんな顔をさせてきたのだろうか。打ちのめした相手の顔を踏んできた数は、両手両足で足りるだろうか。その時、いったいどんな顔をしてきたのか。善良な相手ばかりだとも思えないが、そうでない相手ばかりとも思えない。

 

「ひひひ……な、なあ、鏢……たのむよ。みのがしてくれよ……」

 

 男は無様に哀願した。それを無様とは思ってもいないような顔をして、仲間の仇を相手に自分がこれまで散々色々な誰かにさせてきたような顔をして鏢の足に縋っている。ひどく卑しく情けなく、これまで彼自身が足蹴にしてきた誰よりも醜く浅ましい、尊厳とは無縁の顔だった。

 

 鏢は眉一つ動かさず、内心の全く窺えない鉄の顔で見るに耐えない男を見下ろしている。冷たいと言うどころではなく、ゴミか路傍の石を見るかのような次のアクションが想像しがたい顔だった。

 

「金か? おまえら符術士は金で雇われてんだろ?」

 

 仲間の仇など頭によぎることもありません、と顔中に冷や汗で描きながら虎人は鏢に提案する。相手によってはむしろ怒り出しそうな提案だったが、男はそれを思いつくような性根ではなく、何よりも他に差し出せる物など無かった。

 

「やっ、やるよ。いくらでもやるよ。いくらだっ!?」

 

 ここから逃げられるのなら、全財産を失っても構わない。命あっての物種という言葉を知っているのかも定かではないが、肌でそれを実感している男は怖々と鏢の答えを待った。

 

「そうだな……キサマを殺すのもめんどうだし、一万で手をうってやる……」

 

 しばし考えた後で鏢は鉄のように応えて、男はどうにか生を勝ち取った。

 

「そのかわり、ここから消えろよ……」

 

「へへっ、もちろんさ。ありがとよ、鏢さん……」

 

 冷や汗の間から喜色を醸し出した男は力を抜いて、自分を殺そうとした男に礼を言った。

 

 鉄の男は言葉に出しては何も応えず、そんな鏢の気が変わっては大変だと慌てて金を用意する虎人を視界の端に収めていたが……視界の端に、白い物を見つけた。

 

 それは人骨だった。

 

 太くて長い、おそらくは大腿骨。その側には肋骨が形をとどめて放置され、更にしゃれこうべが虚ろな眼窩で恨めしそうに天井を見上げていた。

 

 喰ったな。

 

 丁寧に洗ったように綺麗に肉がこそぎ落とされた有り様を見た鏢はそう判断した。そしてそれだけだった。

 

 平然と殺しを行い、金で依頼人を裏切り、無惨に殺された被害者を見ても眉一つ動かさない。非道な殺し屋と聞いて多くの人が想像する悪党そのもののような姿の鏢だった、のだが……そんな彼が目を見開いた。

 

 白い骨の中で、一つだけカラフルな何かが転がっていた。

 

(子供の……くつ!?) 

 

 鏢はそれまでの鋼鉄の印象を覆して驚きを露わにすると、かけていたサングラスを外して見直した。表情が見る見るうちに歪んでいく。鏢の右目には三本の獣の爪でついたような深い傷痕が残っていたが、それよりも印象に残ったのは青い瞳と眉間にしわを寄せた憤怒の形相の凄まじさだった。  

 

「おい……」

 

 篭められたものの凄まじさは、まるで溶岩のようだ。

 

 鉄をもどろどろに融かす溶岩が、人の形を取ってそこにいた。

 

「へ?」

 

 その凄まじさを察せられずに振り返った男の愚鈍さを責めるのは酷だろう。男は死の恐怖から解放されようと必死なのだから、その必死さを責めるのは間違いだ。

 

 だから誰も虎人を責めはしない。そして守りも庇いもしない。鏢はゆっくりと帽子を脱いだが、それは抑えがたい物を抑え込むためにしか見えない。

 

「キサマ、子供を食ったろう……」 

 

 いつしか背中を向けて影になった顔は、見えないからこそ倍も恐ろしい。それに虎人が気がつくよりも早く鏢は振り返って鬼の形相を露わにした。帽子もサングラスも外して遮る物がなくなった彼の顔は、正に鬼と呼ぶのに相応しいほど歯を食いしばり、目を見開いている。もし仮に、そこにいるのが変化を解いた虎人だとしても、形相の凄まじさでは一歩も二歩も譲るだろう。

 

「子供を食ったんだな!?」

 

 手には一枚の符を持っていた。それは既に音をたてて何か陽炎のような物を振りまき、見ただけで特別な物だと分かる凄まじい力を発していた。

 

 鏢はそれを、無造作に虎人の左目に突き込んだ!

 

「ぎゃあああ!!」

 

 たまらず悲鳴を上げながら、虎人は変化を解いて先の殺された同胞と同じように人と獣の間に立つ姿をさらす。元々へし折れていた戦意など保ちようもなく、音をたてて変化しながら逃げ惑う虎人の背中を鏢は視線さえ同じ名前の刃物になったかのような目で見下ろしていた。

 

「子供ぐらいいい……じゃねぇかよォ。ひぃっ」

 

 哀願する虎人の言葉は、彼が触れた鏢の逆鱗を更に逆撫でした。

 

「お前は子供を食った!」

 

 哀願がどうした。約束がどうした。この妖怪だけは、許しておけるものか。目は潰れ、背中を向けて逃げ出した虎人には見えない鏢の全身がそう叫んでいた。

 

「それがゆるせるか!」

 

 右手の平を掲げて逃げ惑う虎人に向け、左手を脇に添えて支える。大きく足を開いて大砲を撃つような構えを取った鏢は、鋭く絶対の殺意をこめて叫んだ。

 

「禁」

 

 虎人は、その一言で何を言い残すこともできず真っ二つに切り裂かれた。まるで地獄の裁きで真っ向から唐竹割りにされたような凄まじい死に様だった。どさり、と虎人の半身が倒れて恨みがましく伸ばすように鏢の足元に手が転がる。酸で解かしたような音が周囲に広がる中で、鏢は沈痛な面持ちに変わり噛みしめるように呟いた。

 

「……まただ」

 

 鏢はそれまでの鋼鉄の冷たさともそれを溶かす溶岩の怒りとも違う、老人のように疲れ果てた様子で砂のような声を吐いた。

 

「こいつらでもなかった……」

 

 誰にともなく誰かを探していると言った鏢は重たい疲労感を感じずにはいられない姿で、とうとう重みに耐えかねたように膝をついてしまった。彼の膝は、真っ二つに裂かれた妖怪が流した血の池につかりあっと言う間に染まり始めたが、気にする様子もなかった。

 

「どこにいるんだ……」

 

 鋼鉄は錆びた。

 

「あれから十五年だぞ……十五年……」

 

 鏢の脳裏で一体どんな記憶が甦っているのかはわからない。余人が知るべきでは無い重たい記憶であるのは一目瞭然であり、その記憶こそ彼を押しつぶしているのも一目瞭然だった。記憶の重みそのものが彼に膝をつかせている。しかし、彼に膝をつかせたのがその記憶なら立たせるのも、その記憶だった。

 

 疲れ果てた老人のようだった鏢の横顔だったが、いつしか錆びていたはずの鋼に研ぎが入るように鋭さを取り戻していった。彼の中でどんな葛藤があったとしても、それが外に漏れたりはしない。ただ彼の中で全ては昇華されて新しい力となっていった。

 

『今日は不思議なフィルムをおおくりしましょう』

 

「!」

 

 どこからかそんな声が聞こえてくると、気力を再燃させた鏢は気を取り直して立ち上がった。

 

『日本国からの映像です……これは、妖怪……でしょうか……?』

 

 テレビかラジオの音声らしいそれが、鏢が呆然としている間に流れていたらしい。隣の部屋からアナウンサーの困惑するプロらしからぬ声が通り過ぎていった。 

 

『すぐれた特殊撮影ではないかとの意見もありますが……』

 

 妖怪。

 

 その単語が鏢の目を誘導した。彼の目に映ったのは、奇妙な映像。猛獣のような、しかしどこか人間臭い奇妙な生き物がオンボロで旧式のブラウン管に映し出されていた。

 

「!」 

 

 雑然と放り捨てるように置かれた斜めの画面を見た瞬間、鏢は凍りついた。世界が一瞬で反転したような気になった。

 

 虎のような奇妙な生き物が映し出されていた。

 

 第一印象は虎のようだが、明らかに違う。体躯はよほど大きく一回りから二回りは違い、体型も純粋な獣とは明らかに違う、人と獣の間のようで特に獣よりに位置している体格だ。体毛は虎のようだが黄色と言うよりも黄金という方が正しく光っているかのようで模様の配置も随分と違う。特に顔面は歌舞伎役者のようであり、頭に生えた長い鬣が正に役者の鬘そのものでますますそれらしく見える。

 

 さらに、両手から生えている爪は猛獣どころかまるで刀剣だ。

 

 妖怪、アナウンサーの言葉が至極真っ当と頷くより他にはない奇妙で既存の常識には当てはまらない生き物だった。

 

 いつしか鏢はブラウン管に食いついていた。

 

 そのまま画面の中に入り込んで映し出されている妖怪を引きずり出してしまいそうな、それほどの執着を見せている。目がぎらぎらと、ぎらぎらと輝き始める有り様は正しく刃物が研がれていく姿だ。

 

(こいつだ!)

 

 それは歓喜のようだった。

 

(こいつだ!!)

 

 それは憎悪だった。

 

(暗闇から突然あらわれた黒いカゲ……)

 

 それは歓喜のような憎悪であり、憎悪のような歓喜だった。

 

(わたしの右目と、もっとも大切なものを奪ったヤツ!!)

 

 それが青い瞳の中に凝縮し、新星のように光った。

 

(絶対に逃がさん!!)

 

 鏢は画面の向こう側に映る化け物へと突き立てるように光る得物を指の間に挟み込んで握りしめた。彼の顔は再び鬼の形相を取り戻し、その全てが握りしめた刃に篭められていた。

 

(日本か……!!)

 

 怨念。

 

 怒りでも憎しみでもなく、そうとしか言えない鈍色に輝く刃を胸の奥で研ぎ澄ませながら鏢はその場を後にした。

 

 奪った命も、奪われていた命も既に忘却の彼方へと消え去り、脳裏に刻まれているのはただ黄金に輝く妖怪の事だけ。

 

 彼は想像もしていなかった。

 

 化け物にだけ気を取られて、もう一人映像に映っていた意識を向けてもいない少年がとてつもない物を持っていることを。

 

 そして出会って一日と立っていない子供の拳が、言葉が彼の中に深く突き刺さることを。

 

 彼らとの出会いが、彼を本当に渇望している再会へと導くことを。

 

 

 そして彼らが出会い、別れてすぐ……日本に入国した彼の存在をかぎつけた一人のジャーナリストが依頼に訪れることを、彼は知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 鏢は夜の公園にいた。

 

 ぼう、と公園の真ん中に備えられた時計を見上げれば時刻は21時を回ろうかという所で、自宅の庭で花火をしていた一家が片付けを始めている頃だった。

 

 香港にいた時とはうって変わって服のような黒尽くめにきめている鏢の全身はボロボロで、疲労感が全身を漂っている。しかし、それでも倦怠感を感じないのはどうした訳か。

 

 そんな彼は一人ではなく、側に一人と一匹がいた。

 

 一匹は妖怪だった。

 

 あのニュースに映っていた妖怪がうずくまっていた。今さっきまで誰かと争っていたかのように傷つき疲れ果てた様子だったが、鏢の様子を見れば何があったかは一目瞭然だろう。

 

 両者は争ったのだ。

  

 お互いにぼろ切れのようになるまで、精根尽き果てるまで、戦ったのだ。

 

 ……なのに、どうしてだろう。

 

 彼らは決着をつけていないようにしか見えない。殺し合ったとしか見えない二人が、ただ並んでいる。とてもおかしな話だと言えた。それどころか、彼らは互いを意識せずにそれぞれの態度で別の方を気にしてやまないようだった。

 

「う……ん」

 

 二人が気にかけていた何かが呻き声を上げた。

 

 ベンチから一人の少年が身を起こしたのだ。一人の人間と一匹の妖怪は一斉に彼に注目したが、そこに危険な色はなかった。

 

「気がついたか」

 

 相変わらず鋼鉄のような鏢の声だったが、確かに気遣いの色があった。それを受けたのは、彼に負けず劣らずボロボロの少年だった。

 

「ひ……鏢さん……いててて!」

 

 誰かに相当殴打されたような傷に、あちこちについている十は優に超えている刀傷、そして一際目立つのは顔面に鏢と同じようについている四本の傷。相当にひどい目に遭ったようだが、傷にはある程度の応急処置が施されているらしくどうにか大事はないらしい。

 

 顔をしかめている彼は学生ズボンに半そでの白Yシャツとわかりやすい学生の格好からもわかるように、おそらく十四、五歳程度と身体が作りかけの年齢だったがひ弱とも脆弱とも言えない活発そうな少年で生命力もなかなか強そうだ。

 

 今は傷だらけだが、広い額の下でやけに強く真っ直ぐに光る大きな瞳とその上にどんと構える太い眉毛が特徴的でまるで昔ながらの腕白坊主と言った風体で、生命力が強いどころか元気の塊に見える。痣だらけの傷だらけでも、それほど心配いらなさそうに見えるのはいい事か悪い事なのか。

 

「しっかり手当てしておけよ。薬はぬったが応急だからな……」  

 

 そういう鏢だったが、彼の顔は香港でニュースを見つけた時とはうって変わっており憑き物が落ちたようだった。決して愛想がよくはないが、近付いただけで切り裂かれてしまいそうな刀剣の鋭さが抑えられている。言うならば、抜き身が鞘に収まったという所か。抜けば切るが、抜かなければという奴だ。

  

 顔をしかめて手を押さえる少年に向かって鏢が笑いかけた。利かん気の子供に向けるような随分と不器用な苦笑いだった。  

   

「しかしムチャな子供だ。15個の鏢の前に立ちふさがるなんてな……しかもその理由が……」

 

 つまり、少年の怪我は鏢のせいらしい。

 

「わたしに間違いをおこさせないため……か……フフ……まいったな……」

 

 そう言った鏢の笑顔には疲れや苦悩はなく、どこか晴れやかだった。何か、とてもすっきりした顔だった。それに気がつかないらしい少年は、傷の痛みを堪えながら妖怪を指さした。  

 

「違うよ。オレはただ……スジの通らないコトがやだっただけさ。それにさ、責任上ヤツはオレがやっつけたいんだよ!」

 

 それまで大人しくしていた妖怪は指さされてのこのセリフに眉をしかめる。どうやら見た目にはそぐわないが相当に高度な知性を持ち、言葉を解し話すことさえできるようで、ナニィ、と凄んでいるがどこか迫力に欠けているのはどういうわけか。そして、そんな少年を見ながら鏢はもう一度笑った。

 

「おまえのような生き方は、早死にして地獄いきだ……」

 

「それじゃ、地獄でハッピーになってやるさ」 

 

 鏢の声は鋼の冷たさを取り戻していたが、少年はそれに苦も無く笑い返した。物を分かっていないのか、本気にしていないのか……それとも器が大きいのか判断に迷うところだった。何も分かっていない子供と切って捨てるには、彼の何かが邪魔をした。

 

 硬すぎる感性をした黒衣の符術士も、この太陽のような目をした少年に感じ入る何かがあったようだ。彼は仇と狙った妖怪へ振り向いたが、凶相を向けてはいなかったが、あの強烈な怨念が消えてなくなるなどありうるだろうか。

 

 間違い、スジの通らない事。

 

 苦笑いを交えながら交わした少年との会話で出てきた幾つかの言葉が、もしやその理由なのかも知れない。

 

「ということで、おまえの処遇はこの蒼月潮にまかせよう、悪いことはするなよ」

 

「けっ」

 

 言い方がまるで悪童に言い聞かせるようで、妖怪はそれこそ悪ガキのように舌打ちするが悪ガキの舌打ちなどいつでも無視される物だ。人間二人はもちろん聞いて流し、鏢は夏の温い風を浴びた顔を夜空に向けた。星が瞬く様が、奇妙に新鮮だった。

 

「さて……」

 

 特に何を意味する言葉ではなかったが、潮という少年は鏢が何を決めたのかを察した。

 

「帰るのかい、中国へ……?」

 

「しばらくは日本をさがしてみようと思う……ここには様々な妖が中国からきているしな……そいつのように……」

 

 そう答えて、背後の化け物を指さす。

 

「とらが……?」

 

 こいつ、中国から来たのか? と意外そうな顔をする潮だった。とら、と潮がつけたのだとすぐに分かる名前で呼ばれた妖怪は何も言わなかったが形容しがたい表情で二人を見ている。何を言えばいいのかが分からなかったのかも知れないが、潮ならすぐに忘れそうだと思っただけかも知れない。

 

「その獣の槍は妖怪をひきつける……としたら、わたしの敵もこの地にいるかもな」

 

 鏢はそこで自嘲の笑みを浮かべた。弱くもない、しかし寂しげな笑顔だった。

 

「ふふふ。そういうわたしもすでにその槍に引かれた『妖怪』なのかもな……」

 

「まってくれ、鏢さん……槍の、この槍のコトをもっと教えてくれよっ!」 

 

 立ち去ろうとする背中に縋る声の返しは、つれない物だった。

 

「それはおいおい、おまえ自身でしることになるだろう……」

 

 それだけを残し、鏢はそのままどこかへともなく去って行った。その背中を潮が大人しく見送ったのは、追い掛けようとするより先に、鏢の別れが彼の耳に届いたからだった。

 

「また……あおう……」

 

 黒尽くめの背中を、彼はどうしてか追い掛けることができなかった。そうするべきではないと理解できた。それは、別れの挨拶がただの言葉ではなく確かな再会を約束した物だったからでもあった。

 

 

 

 

  

 

 

 

「随分と耳の早い男がいた者だな……ジャーナリストとはそういうものか?」

 

 来日して三日。夜の公園で、蒼月潮及びとらを相手に大立ち回りをしてからも三日目の午前。

 

 鏢は突如自分に連絡を入れてきた男に案内された喫茶店で、注文したコーヒーを傾けながら感心のセリフを吐いた。棒読みだったので、言われた側からすれば皮肉られているような気がしなくもなかった。 

 

「俺はただのルポライターです。そんな、ジャーナリストを名乗れるほどに立派なものじゃない」

 

 そう言ったのは間桐雁夜と名乗った勤め人らしからぬフードを被った男で、鏢の前には彼が置いた名刺が無機質に彼の名前を教えている。世間では青二才と呼ばれるのがようやく終わったかというくらいの年頃だが、それを差し引いてもどこか落ち着きのない様子がところどころに見えている男だった。

 

「……何か……焦っているように見えるな」

 

「……」

 

 雁夜は応えずに自分の前にあるコーヒーに口をつけたが、本当に口をつけただけで飲んでいる様子はなかった。

 

 鏢は仕事の依頼人としてこう言う落ち着きのない相手をよく見てきたが、大体の場合理由は二つに限られてくる。

 

 自分のような真っ当に生きている人間とは一線を画したアウトローと差し向かいになるのが恐ろしい場合と、差し迫って切羽詰まった何らかの事情により、焦っているかだった。

 

「早速ですみませんが、是非とも依頼をお願いしたいんです。符術士の鏢さんに……」

 

「符術ではなく符咒士だが……まずは用件を聞こう。私の仕事は理解しているな」

 

 およそ、鏢の仕事は“化け物相手の殺し屋”に尽きる。そして、受けるか否かは基本的には金銭の額による。

 

「お金は払います。仕事が成功すれば、当てはできますし……ダメでも、借金してでも払って見せます。生命保険をあなた受け取りにしたっていい!」

 

 何か大きな仕事でも控えていると言う事か、それともまた別の意味があるのか。仕事、といっても雁夜の仕事と言ってはいないのが気にかかった。

 

「……声が大きい。話題が話題だ、控えろ」

 

「は、はい」

 

 凄みを利かせた鏢の言葉に、段々と熱が入り始めた雁夜の声が小さくなった。

 

「それで、その」

 

「殊更に小さくしなくても対策はしてある。不自然にならないように話せばいい」

 

 そこそこ流行っている店のようだが、逆にこのような人の出入りがある所は誰もいない密室と同じように機密性のある相談ができるものだ。最初からマークされていなければ、という前提が必要だが。

 

「……仕事の内容は」

 

「……ある化け物を……殺してほしいんです」

 

「……どんな相手だ」       

 

 いつものことなので驚くべき箇所はない。問題なのはその中身だ。どんな相手をどういう理由で、きちんと内容を把握しなければならないのは一般的な仕事も裏家業も同じだ。

 

「名前は、間桐臓硯」

 

 男と同じ名字、というのは国籍の違う鏢もわかった。同時に面倒だとも感じるのは家族間の問題は話が殊更にややこしくなるからだった。

 

「魔術師については、ご存じですか」

 

「魔術を研究している学者気質の連中で、特にイギリス……ロンドンに大きな根城があるな。魔術の追求のためには誰に何をしてもいいと考えて人を見下した態度が鼻につく連中だろう……何度かやり合ったことはある」

 

 鏢は仙人にも、自分と同じ符咒士にも、そして魔術師にも出会った事はある。

 

 化け物退治を生業としている武闘派の鏢だったが、魔術師の事はヨーロッパを中心に世界中に広まって魔術を中心にした様々なオカルトを研究している学究肌と受け止めていた。    

 

「連中が作りだした化け物の後始末を何度か……ふん、自分の不始末を棚に上げて好きに文句を言ってきた奴ばかりだったな。ついでに殺したこともある」

 

 魔術師というのは利己的で独善。他人の迷惑省みず好き勝手にやるクセに、自分のルールは人に押しつける。

 

 極めてはた迷惑で、おまけに刻印だかを継承する為に代を重ねることに執着しているせいか滑稽にも貴族ぶっている尊大な連中ばかりだと鏢は彼らを嫌っていた。符咒士として彼らにとって物珍しい価値ある物品や知識を身につけている鏢なので、それを理由に狙われたこともある。嫌う理由としてはそれだけでも充分だった。

 

「そ、そうですか。それなら……」

 

 魔術師を殺したこともある、と言った鏢に怯むどころかほっとしている様子の雁夜を訝かしんだ。人殺しの経験があると言われて、気にかけないどころか逆の反応を示す。概ね、彼の狙いが分かってきた。

 

「俺が殺してほしいのは、臓硯……間桐の当主で、数百年は生きている妖怪爺です」

 

「……理由は」

 

 数百年程度なら驚く程でもない。鏢の師匠はどれだけ生きているか知れたものではない、正真正銘本物の仙人である。

 

「……間桐……本当はマキリと言うのが正しい言い方で、ヨーロッパの何処かから日本に帰化したらしいです……名前を聞けば分かるように、俺も元々その家の一人で、爺は俺の父親という話でしたが……あいつは本当の父親かどうかも分からないし、お互いにそんな情なんてありません。あいつにとって、一族の誰も彼もが自分の魔術のための道具に過ぎないんです。マキリの魔術は虫を使うんですが、ひどくおぞましいもので……兄がいるんですが魔術師としての才能はないらしくて俺が後継に選ばれましたが、冗談じゃないんですよ。虫倉で全身不気味な虫に集られて、体内に巣くわれる……そんなのは冗談でもないって、ずっと前に逃げ出しました」

 

 虫に集られる。

 

 鏢の想像は蟻や毛虫に全身を被われているような陳腐な物だったが、実際にはどれほどであるのか雁夜の表情はその程度ではないと訴えているようだった。

 

「魔術師は後継に執着すると聞くが……」

 

「あいつにとって、大切なのは自分です。何百年も生きて、まだ生き続けるつもりだ。俺達なんて、その為の道具でしかない。もう人間じゃないんですよ、あれは吸血鬼だ」

 

 臓硯とやらの人物像は随分とひどいものとして雁夜は受け止めている。どこまで事実か知らないし、鏢にとってはそれはどうでもいい話だった。一番重要なのは、虫を使うという術の特徴だ。

 

「それほど出来のいい道具じゃないから、俺も見逃されたみたいです。ただ……半年以上前ですが、昔からの知り合いに会いに行ったら……その人は、昔からの付き合いがあるから自分の娘を間桐へ養子に出したと言って……」

 

 殺害の動機は復讐なのか。そう考えた鏢だったが、先走りであったようだ。

 

「娘……」

 

 鏢の声に当人すら自覚するよりも早く、熱が篭もった。

 

「まだ小学校に上がるか上がらないかの女の子です。それが虫倉に放り込まれて、おぞましい虫の餌食になっているっ! それも、結局はクソ爺の道具に過ぎないんだ」

 

 雁夜の声はもう一度大きくなっていた。本人にも抑えきれない激情だった。

 

「俺はその子を助けたい……いいや、助けなくちゃならない! 俺が逃げ出さなければその子は……俺の身代わりになったんだから」

 

 それは違うだろう、と鏢は思う。

 

 そもそも根本的に、件のクソ爺とやらが人を……ましてや幼子を弄ぶような輩でなければいいだけの話だ。そこから自衛のために身を隠す事の何処に問題がある? あるとすれば、クソ爺とやらを止められない弱さにこそあるだろう。

 

 それを口に出してやるような男ではない鏢は何も言わずに無言を通したが、的外れな罪悪感を抱くものだと言うのが彼の本音だ。 

 

「お前の知り合いは、それを知っていて養子にしたのか?」

 

 鏢から見れば、そんな家に養子に出した実の両親こそが責められるべきだろうと思う。そんな老人相手だとわかっていたのかいないのか、どちらにしてもろくな夫婦ではあるまい。 

 

「……俺の知り合いは、その子の母親なんだ。遠坂……遠坂葵と言う、幼なじみで……彼女と会った時にその話を聞いてそれでいいのかと聞いたけれど……」

 

 ぎり、と唇を噛んだ雁夜からは激しい怒りを感じたが、同時に鏢はどこかちぐはぐさを感じた。雁夜が怒りに振り回されすぎているように見受けられ、彼が怒っている理由が他にもあるように思えた。まだ全てを話していないだろう男を観察する事にした鏢だったが、特に急かす必要も感じなかった。

 

「彼女は仕方がないのだと、遠坂の家に嫁いだ自分は覚悟の上だと言ったよ。夫が決めたことだから仕方がないと、魔道を受け継ぐ一族が当たり前の家庭的な幸せを求めるなんて、間違いだと」

 

 その時のことを、雁夜は思い出す。

 

 彼女の顔は、わずかに涙ぐんでいた。そして、自分を非難しているように思えた。まるで、娘を奪った一族である自分を非難しているように、見えたのだ。

 

 それは被害妄想かも知れない。

 

 だが雁夜にはそう思えたし、耐えられない話だった。

 

「俺は、彼女を……桜ちゃんを元の家に……葵さんと凛ちゃんの元に帰したい。その為にあの妖怪爺を……!その為に、ずっとあなたのような方を探していたんだ」

 

 鏢はひとまず事情を理解した。

 

 そして、既にこの依頼を受けるつもりは満々だった。さくら、というのが件の妖怪爺に捕らわれている娘の名前だろうが、虐待されている子供を助けるために妖怪のような魔術師を殺す……鏢にとってはやりがいさえある依頼だと言ってもいい。殺人に当たろうとも構う物か。依頼がなくとも首を突っ込んでやるところだとさえ、彼は思った。

 

 ただ……なんだろうか、彼は奇妙な苛立ちを感じている。

 

 それは目の前の雁夜にであり、そしてそれ以外の話に聞いただけの遠坂夫妻に対してだった。

 

 それが何故なのかは分からないが、鏢は自分の中に見知らぬ男女と初対面の男に対する理由の判明しない苛立ちと不快感を見つけていた。遠坂とやらについては自覚している。子供を魔窟に捨てたようにしか思えないところが、他人から表向きの理由を聞いただけだと自制しているものの、やはり気にくわないのだ。しかし、どうして似たような苛立ちをこの男にも感じるのか、それが自分でもはっきりと分からない。      

 

「その依頼……引き受けよう。だが言っておくが、私は高いぞ」

 

「……! ありがとう」

 

 感激した様子で頭を下げる姿は日本人らしいと、鏢は思った。

 

 しかし、喜びを露わにするこの男に感じる苛立ちは消えず理由も相変わらず判明しないままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その男の瞳は、青かった。

 

 海のそれとは違う、空のそれとも違う。

 

 人の心を吸い込む物でも、人の嘆きを受け止める物でも無い。

 

 硬い硬い、何もかもを見通すような蒼だった。

 

 その青さは、化け物を滅する為の蒼だった。

 

 その蒼を瞳に湛えて、鏢は一人の老人を見下ろしている。

 

 間桐雁夜からの依頼を受けてちょうど十日。鏢は雁夜の手引きで潜入した間桐邸で、ターゲットである老人との対面を果たしていた。

 

 潜入に苦労はなかった。それは雁夜の手引きのおかげではなく、警備という物が全くなかったから……それこそ、ごく当たり前の一般家庭並に簡単に入り込むことができた。それが何を意味するのか、鏢は察しがついていた。

 

「どこの馬の骨か知らぬが、小金欲しさに魔術師……特にこの儂に挑むとは愚かであり間の抜けた話じゃな」

 

 三本の爪痕から覗き見える青い瞳を前に、一人の老人が毒を吐いた。禿頭で、ミイラのように皺の固まりとしか見えない数百年は生きていても不思議ではないような老爺が杖をついて立っている。老人はミイラのような印象を周囲に与えるが、それに反して滑舌はしっかりとしており背筋も伸びて立ち姿に危うさはない。

 

 しかし、彼の前に薄暗がりから覗く影のように立つ男と比較して頼りないのは明らかだ。

 

「間桐臓硯だな」

 

「いかにも」

 

 しかして、確かに敵意を秘めて自分を見下ろす鏢を前にして彼の顔には嫌らしいにやつきが張り付いており、むしろ鏢を見下しているようにさえ思える。

 

「随分と簡単に入れてくれたんだな。私がここに足を踏み入れたのは分かっていたんだろう?」

 

「ふん」

 

 老人は不気味に笑った。落ちくぼんだ目からは瞳が見えず、臓硯は目がないようでひどく不気味だが、何よりも矮躯に纏う空気そのものが何より不気味で老人であっても大の男を怯ませるに足りた。しかし彼の前に立つ鏢はそんな物は見慣れていると気にとめない。

 

「お前が何者かなど知らぬが、おそらくは退魔の者か? いずれにしても魔術については素人のようだの。仮にもここは我が工房ぞ」

 

「……魔術師の工房は、おいそれと足を踏み入れられない魔窟になっているんだってな」

 

 眉一つ動かさない鏢の様子に臓硯は訝しがるが、それよりも強く不興を抱いた。何処の誰かは知らないが、雁夜が招いた野良退魔士の類がせいぜいであり結局の所は雑魚に過ぎない程度の男が自分の工房にずけずけと足を踏み入れた挙げ句に、自分の脅しをさらりと流している生意気さを見せている。

 

 青二才の分際で、この間桐臓硯を見下しているかのような風だ。数百年を生きた大魔術師の自分を、どこのチンピラか知らないがぬけぬけとした態度で見下している。この不敵さは不愉快であり、同時にそれが出来の悪い血族に頼りにされて自分に逆らう理由になったかと思うとひどく不愉快だった。

 

 あのような出来損ないにして魔術から目を背けた雁夜が招いた程度の男が、この間桐臓硯……いいやマキリ・ゾォルケンになんという目を向けるのか。このような目で見られることを老人は……実のところ、好んでいた。自分を外道とさげすみ、あるいは義憤に燃え、そして老人と侮った相手であればあるほどに彼は後に来るカタルシスを堪能できる。

 

 それはこの老人にとって邪悪な喜びを堪能する、言ってみれば前菜のようなものだ。

 

 この程度の男、ゾォルケンにとってはただの餌に過ぎないのだ。

 

「魔窟、とはよう言うたものよな。まあ、一魔術師にすぎん儂の工房はそこまで大した物ではないの」

 

 そう言った老人の顔は、ひどく卑しく歪んでいた。謙遜の言葉を口にしながらも、内側の卑しい品性は自信の程を隠せはしないようだ。

 

「せいぜい、この程度が関の山よ」

 

 老人がそう呟くように口にすると、それを呪文のキーにして部屋が一瞬で変化した。

 

「……虫か」

 

 鏢は視界の端に常に老人をとどめながら、宝石のような目で周囲を見回した。彼の青い目はそこかしこで蠢く小さな何かを確かに捕らえ、彼の耳はその何かがたてるかさかさという音を聞き逃さず、既に自分が何かおぞましい物に囲まれている事実を突きつけてくる。鏢の周り一切、壁も床も天井も全てを覆い隠す程に現われたのは彼の言う通り、見るも汚らわしい様々な虫の類だった。

 

「間桐はマキリ……ロシアの方から来た虫を扱う魔術師と聞いていたが、これが使い魔の類か……」

 

 人によってはひきつけを起こしても不思議ではない光景だったが、鏢は鉄の姿勢を崩すことなく立っていた。もっとおぞましい物も、もっと醜い物も幾らでも見てきた。その上で生き延びたのだと彼の背中が語っている。

 

「それを知っている、そして儂の命を狙おうとする……おそらくは雁夜に聞いたか? 確かにマキリは虫の魔術を扱うが……なかなか平然としたふりがうまい。やせ我慢はよくないのぉ……儂がつまらん」   

 

 虫の魔術、それもただの虫ではない。

 

 虫怪とでも言えばいいのか、どんな図鑑にも載っていないような様々な種類の虫が鏢と老人の足下で、あるいは壁や天井で気色の悪い音をたてながら鏢を注視している。無機質で一体なにを考えているのか定かではなく、敵意さえもはっきりしないそれらの虫怪だが、その中で唯一明確なのは鏢に対して殺到しようという実行の意思だけ。

 

 目的もなく、敵意もなく、あるのはただ命令を実行するという機械的な行動のみ。

 

 これらは意思を持たないのだ。あくまでも小兵の老人の意思を代弁するだけの存在だ。そして、目の前の老人が抱いているのは鏢にとって危険な感情以外ない。

 

「ふ……」

 

 それを百も承知で鏢は笑った。静かに、そして嘲りをこめて見せつけるために笑った。

 

「詰まる詰まらんなど、考える必要などない。お前は残った少ない余生を……怯えながら逃げ続ければいい」

 

 青い瞳が、確かな殺意をこめて老人を見下ろす。自分を玩具のように、あるいは餌のようにしか見ていない老人と虫怪を前にして彼は全く動揺をせず、風のない湖面のような底知れない静けさを保ち続けている。それは自分を魔術の大家であり魔術師は総じて一般人と比較して上位にいると信じて疑わないマキリ・ゾォルケンにとっては許しがたい冒涜だった。

 

「怯えながら逃げ続けるのはどちらか、寿命が少ないのはどちらか……これで思い知るがいいわ!」

 

 虫たちは、主の声帯が放つ怒りの声を合図に一斉に襲い掛かろうとした。その数は百では利かず、千でも足りない。成人男性とは言ってもたかだか人一人、あっと言う間に覆い尽くしてしまうだろう。後に残るのは無数の牙に啄まれるか毒に悶えるか、いずれにしても無惨に終わる一人の男が残るだけだ。

 

「!」

 

 だが、その前に虫たちは止まった。

 

 薄気味悪い足音が一斉に止まり、速やかに静寂ができる。

 

「敵の前でべらべらと……せっかく囲んだ虫も無駄に終わったな」

 

 嘯いた鏢の前に立つ臓硯の顔には、一枚の符と共に一本の縄鏢が突き立っていた。音もなく突き刺さっているそれは深々と食い込んで頭蓋骨の奥にある脳髄を破壊していると素人にもわかりやすい人生の結末を見せつける。倒れることさえ許されずに、雁夜が言うには数百年を生きている老怪は人生を終えた。末期の言葉一つない、ひどくあっけない終わりだった。

 

 司令塔が不意に停止したことで虫たちも動きを止めたのだが、刃一つで無数の虫と主を止めたはずの鏢は死体となって立ち往生している臓硯に背を向けるどころか油断なく見詰めている。

 

「なんじゃ、気がついていたのか」

 

「貴様が死んでいないことなら、一目瞭然だ」

 

 怪人ここに極まれりか。なんと臓硯は自分の頭蓋を貫いている縄鏢を枯れ木のような腕で悠々と引っこ抜いたのだ。人外の生命力はそれこそ虫のようだ。

 

「一目瞭然、か……かかかっ! 貴様ごときの目で何が見抜けるか! 儂の何もわかりはするまい、若造の殺し屋風情にはな。こんな何の変哲もない光物風情を頼みの綱としている貴様には、儂を傷つけるどころか儂の何を見抜くことも出来るはずがない!」

 

「できるさ」

 

 脅し、嘲るこの瞬間がたまらないという卑しさを剥き出しにする老人の醜い魂を蔑んだ冷たさを篭めて、鏢は一言だけを冷徹に返した。

 

「貴様が既に人間ではない事は雁夜から聞き及んでいる。そして、私のこの目は貴様の醜い正体を最初から見抜いている」

 

 鏢の瞳、右のそれが青く……青く輝いている。内側から、それ自体が輝いているのだ。

 

「故に貴様の死……いや、既に死んでいる貴様のお終いは……私が決定する」

 

 その蒼は確かに美しく、何より不吉に見えた。冬の空で凍えるように燃える星のようだった。しかし老人は全く意に介さずに手に抜いた縄鏢を弄びながら嗤い続ける。

 

「大層な物言いじゃが、生死が手の平の上に乗っているのはお前、乗せているのはこちらじゃ。こんな金物一つでこの無数の虫たちをどう防ぐ? この紙切れがこの不死身の儂を殺せるというのか? こんな符の一枚が!」 

 

 互いに相手を見下しあい、それが自信であるのか過信であるのか決定するのは結果次第だ。そして結果を出すのにこれ以上時間をかける意味を双方持たなかった。

 

「やれ」

 

「禁」 

  

 老人の声に反応した虫たちが飛びかかるよりも先に、鏢の口から一言だけ発せられた。   

 

「!?」

 

 その一言で、縄鏢を持っている老人の腕が一気に弾けた。

 

 それはまるで爆発のようだった。事実、爆薬を使っていない爆発なのだろう。符に篭められた力の爆発、それによって老人の枯れ木さながらの腕は消し飛んでしまい残ったのは縄鏢のみだ。

 

「……ほう」

 

 しかし腕を失った老人は何ら痛痒を感じた様子もなく、ただ感心した風を装って鏢を笑う。

 

「こういう術か。しかし、腕を飛ばしただけで儂は死なぬ。不死身とはいかぬが、この程度の安い術でやられるほど柔ではない」

 

「わざと符を弄んで、術を観察したつもりか? 私の符程度ではどうあがいても命には届かぬと確信しているから」

 

 老人の不気味な笑みだが鏢はそれでも冷静さを失わず、声に動揺も見られない。しかし怪老はそれをただのやせ我慢と断じて仮面を剥がしたいという欲求を抱いた。

 

「それが事実じゃ、儂は腕が飛ぼうが足が飛ぼうが、首が飛んでも全く問題はない。お主の術で何処を消し飛ばされようとも、痛痒には感じんな」

 

「虫の集合体だからか」    

 

 無造作な一言に、空気が凍った。

 

 少なくとも、マキリ・ゾォルケンにとってはそうだった。

 

「……」

 

「貴様は人間ではない。間桐雁夜の言葉は比喩でもなんでもなく正鵠を射貫いているようだな。数百年を生きているというタネがそれか」

 

 仮面を剥がされたのがどちらなのか言うまでもないほどはっきりと表われている両者の立場を鑑みて、老人は憤った。下に見ている相手が自分を下に見ているなど、どうして許せようか。許容できることではない、と怪老は傲慢な怒りを視線に篭めて鏢を睨み付けた。これ以上は、大家の魔術師の中でも特に長命で、周囲のいかなる魔術師も結局の所は小僧、青二才と笑う立場に自分を置いてきた老人の自負が許さない。

 

「それを見抜いたのは、貴様の右目の故か? なるほどその瞳は生来の物では無い作り物じゃな?」

 

「その通りだ」  

 

 隠すまでもない、と言う態度がまた老人の癇に障る。

 

「これは全てのあやかしを見通す浄眼……貴様らの全てを見通す青い目だ。最初から全ては見抜いていた」

 

 そう言って懐から符を取り出す鏢だが、それに対して臓硯は不敵に笑ってのけた。

 

「その浄眼とやらが見抜いていたところで何になる? 目が見抜いていたところで、それをお前自身が活かせていないようではないか……ご覧の通り、儂は虫の集まりじゃが……だからこそ」

 

 周囲の虫が、今度こそ一斉に黒衣に向かって飛びかかる。

 

「貴様の術などは通じるはずがない。ましてや、この無数の虫たちを相手には」

 

 臓硯は嘲る言葉が絶えず口にするのは、結局は相対しているここが自分の工房で絶対的に有利な条件が整っているからだ。魔術師の工房は成果を掠めとろうとする同業者を警戒して、持ち主以外にとっては鬼門となっているのがセオリーであり鏢はそういう意味では虎口の餌だ。

 

 だが、臓硯の期待に添って虎口改め虫怪の餌と成り果てるはずだった黒い殺し屋へと向かった虫たちは、ただの一匹も彼の元へと到達することはできずに空中で見えない腕にはね除けられたように弾けて消えた。 

 

「障壁か!?」     

 

 鏢の足下にはいつの間にか数枚の符が縄鏢によって張り付けられ、それを中心に扇状に虫のはね除けられた空間がぽっかりと出来上がっている。

 

「貴様の最大の弱点は、工房と不死身の肉体とやらによって出来上がった慢心だな」

 

 得意げな様子も見せず、あくまでも鏢は静かに佇んでいた。しかし、その青い目には満々と殺意が輝いている。

 

「今こうしている間にも、目の前で得意の虫たちをはね除けられても、お前は自分が安全だと思っている。命を脅かされることなく、私を殺すどころか嬲って遊べると思っている」

 

 トランプカードのように符を扇状に持った鏢の言葉は正鵠を射ており、そして臓硯はその通りだと笑った。

 

「それが事実よ。貴様が何をどうしようと、ここは言わば儂の腹の中。今、食われるかじわじわと食われるかの違い以外に何がある? 貴様の符などに儂を滅ぼす手段などない! いいや、貴様以外の誰にとってもじゃ。貴様など三度生まれ変わっても追いつかない長い時を儂は生き抜いてきた。その中で多くの魔術師と争い、それを征してきたのだ。ましてや貴様のような、代行者でもなければ魔術師とも言えぬどこの無頼とも知れない東洋の田舎者がマキリの術に敵うはずがない!」

 

「では……貴様の侮る男がどれだけの苦痛を与えうるか……試してくれる」

 

 確かに臓硯は常識外の力を秘めていると証明したが、それは鏢も同じ事。それでも彼を侮り笑うのは長い長い年月を経て生きてきたという時間が支える自負心からだ。その中で多くの敵対する同業者を出し抜き、屠ってきたという過去の栄光からだった。

 

 だが、臓硯は知らなかった。魔術師というのは一体何者であるのか、その根本を知ってはいても、ある一面については自分自身でも理解していなかった。

 

「貴様ら魔術師とは異能者であるが、戦いに生きる者では無い……少なくとも、貴様や貴様の相対してきた者達はそうであるようだ。雁夜から聞いた貴様の行い、そして今まで貴様の見せてきた行動の一つ一つがそれを指し示している……“根源”とやらに赴いて魔法が使えるようになるのが究極的なお前達の目的……学究肌というやつか」

 

 それだけならば、科学者と同じかも知れない。だが彼らは何ら世界に貢献せず、何らかの成果を上げても誰かと共有しない。それどころか他者との共有を愚劣と信じ、人を蹴落とすのが当たり前。それどころか他者が自分の目的の為に犠牲になる事さえ当然と驕っている悪党も数多いと聞く。鏢が知っている魔術師は、総じてそういう連中だった。

 

「だからこそ、お前達は戦いを知らない」

 

 鏢もまた、決してお天道様に顔向けできるような生き方をしてきた男ではないと自認している。

 

 目的のためには冷静に、冷徹に生きてきた。だが、そんな鏢から見ても傲慢で卑劣で、そんな自分をまるで人間種の上位者のように受け止めている魔術師の在り方は腐臭の臭いがして反吐が出るような代物だった。科学者の中にも特にろくでもない連中はそう言った一面を持っているそうだが、魔術師はそれが当たり前になっているのだと鏢は考えていた。まるで、昔の搾取することしか知らない王侯貴族のようだ、と思っている。

 

 そして、その中でも同胞にさえ忌み嫌われるようなおぞましい怪物が目の前にいた。

 

「己を殺せる者などいないという増上慢を抱いて私の前に立っている」

 

 そして、子供を弄んでいると聞いた。十に満たぬ少女を虫を使い弄んでいると聞いた。

 

「その浅学なウジ虫に教えてやろう」

 

 生かしておく意味も意思も、全く無かった。

 

「天地より万物に至るまで気をまちて以て生ぜざる者無き也」

 

 まるでそれ自体が呪文であるように、粛々とした鏢の声は流れる。

 

「この世の森羅万象の中、大気自然の原理から生まれ生かされていないものはない……闇の住人であるおまえもだ」

 

 鏢の足下で、符が黒焦げになって消えた。その瞬間、防壁を前に攻めあぐねていた数多の虫たちが一斉に飛びかかる。しかしそれよりも縄鏢が臓硯に絡みついて符を届ける方が速かった。

 

「よって、私は貴様がいかなる化け物であろうともこの言葉を唱えるのだ」

 

 手と指が印を作り、鏢の青い瞳が輝く。

 

「禁」

 

「ぎえええぇぇぇっ!?」

 

 符から発生した力が臓硯の五体を駆け巡り、周囲の虫までなぎ払う。老人は驚きの篭もった苦痛の叫びを上げ、無惨な有り様を鏢は油断も情けもなく見下ろした。

 

「こ、こんな事で……こんな程度で儂が死ぬと思ったか!?」

 

 怪老は顔中の穴から血を流し、全身至る所から煙が立ち上っている。生きてこそいるが間違いなく通用はしている、痛苦を与えてはいる。それだけは確かだが、同時にそれ以上の致命的な一撃ではない事を示している。

 

「そうは思っていない……貴様の核となる虫を滅ぼしていないのだからな」

 

 だからこそ、その一言に老人は凍りついた。それは未だに数え切れない全ての虫たちにも連鎖して、部屋そのものが空気ごと凍りついたようにさえ思える沈黙だった。

 

「私の目は、全てのあやかしを見通す。貴様が一体何なのか、最初から分かっている……言ったはずだ、そして忘れたのならもう一度教えてやろう。この浄眼に見抜けない魔などない!」

 

「襲えぇ!」 

 

 悲鳴混じりの命令に機械的な忠実さで従う虫たちは一斉に襲い掛かり、そしてあっさりとなぎ払われる。 

 

「無駄だ!」 

 

 しかし隙を作ることはできた。一瞬以上の時間を無数の命を使って作りだした老人は、年齢、体格、身に負ったダメージ全てに似合わない機敏な動きで逃げ出す。一気に五歩も引いた彼の顔はまるで悪鬼のような悔しさと怒りに満ちたものだったが、それを考慮する鏢ではない。怯みも躊躇いもなく、彼は虫の屍さえ残らない道を横断する。

 

「ぬ……」

 

 しかし、すぐに足は止まった。老人が足下から周囲に集まっていた虫たちと同種のそれになっていったのを見たからだ。

 

「正体を現したか」

 

 マキリは足先からどんどんと鑢で削られているようにばらけていき、数多の小さな虫たちへと変わっていく。不気味であり、おぞましく、汚らわしい。およそ万人が嫌悪感を感じずにはいられないその光景だが鏢は眉を顰めもせずに縄鏢を取り出して符をかざすだけだ。彼にとっては見慣れた妖怪に過ぎない。既に人間とは見なしていなかった。 

 

「この儂にこれだけのことをしたのじゃ、安く終わらせはせんぞ、小僧!」   

 

「そうか、では代金に貴様の命を徴収しよう。これまで散々他人を食い物にしてきたそうだからな……今さら自分に順番が回ってきたからと言って見苦しい真似はしない事だ」

 

 鏢が得物を投げるよりも早く、虫の怪物は捨てゼリフだけを残して溶けるように姿を消した。    

 

 しかし、鏢は慌てなかった。    

 

「私だ」

 

 虫の一匹さえもいなくなった部屋で悠々と電話をかける鏢は、懐から手製のものらしい図面を取り出す。この家の細かい間取りが書かれているそれを書いたのが誰なのかは言うまでもない。 

 

「臓硯とやらは逃げ出した……事前に言った通り、邸の周りを被うように結界を張ってある。おいそれと逃げ出すことはできない……迂闊に近づくようなことはせずに雁夜は見張りに徹していろ。かき回されては、それこそあの虫を逃がすことになる」

 

 電話の相手は依頼主だった。

 

 雁夜は鏢に臓硯の殺害を依頼して、そのまま成り行きを見守るだけでよしとはできなかった。それは彼に長年巣くった恐怖心こそが理由だ。目が離せないところで臓硯が死んだと言われてもおいそれとは信じられない。なぶり者になっている娘が救出される姿をこの目で見なければ、ただどこぞのホテルで待っているような悠長な真似などできはしない。

 

 彼と父親の関係は、そういうものだった。

 

 しかし、鏢は依頼主だろうと雁夜の感傷に付き合うつもりなどない。何よりも、下手に首を突っ込まれれば場をかき回されて不覚を取りかねない。だから、雁夜は間桐家を見下ろせる近隣で一番高いマンションの屋上に陣取って双眼鏡を片手に恐々と見ているのである。       

     

「ああ、そこで見張っていろ。万が一逃亡の様子などがあれば、連絡をくれればいい。繰り返すがそれ以外では一切コールを寄越すな」

 

 鏢がこの状況でわざわざ隙だらけの電話などをしたのは、雁夜の暴走を危惧したからだ。桜、という名前らしい少女の事でひどく頭に血が上っていた彼がどんな暴走をするのか……鏢にも迂闊な断定はできないほどに冷静という言葉の対極に位置していた。それだけに雁夜の桜に対する思い入れの程が窺え、同時にそこまで強く怒りを抱く理由に疑問を感じたりもした。

 

 来日直後に出会ったあの少年なら、それ以上に血気盛んの怒りを見せるだろうとは思うのだが……雁夜はそういう男には見えない。気弱とも言えないが熱血漢というのも短気で短慮というのもまた違う。

 

 次の行動が読み切れない男がとる行動など、仕事の中に混ぜ込みたくはない。

 

 怯えながらも明らかにこちらに来ようとしている様子が言動のそこかしこから察せられる雁夜が下手に暴走しない内に、決着をつける。

 

 そう決意した鏢が踏み出した足に、迷いはなかった。相手のホームグラウンドで、初めて足を踏み入れた魔術師の工房において、敵が何処にいるのか何を目的としているのか彼は読んでいた。間取りは頭に入れてある、素人とは言え長らくこの家で暮らして臓硯と接してきた雁夜からの情報も微細に入手している。これまでの経験を踏まえて、彼には臓硯がどこに行こうとするのかは読めていた。

 

「やはりここに来たか」

 

「……雁夜か」 

  

「そういう事だ。これもまた油断……自分に怯え恐れていた子供が牙を剥くはずがないと思っていた……その為にお前は致命的な情報をどれだけ依頼者の前に晒してきたか……お前の敗因は魔術師らしい傲慢が端と知れ」

 

 二人が感動も思い入れもない再会をしたのは、とある階段の前だった。地下へと続くそれが、おそらくは件の娘を捕らえている地下牢紛いの部屋へと続く階段だというのは情報として知っている。

 

「私の結界を通り抜けることはできなかったようだな」  

 

 確認の為に敢えて口にした言葉への反撃はなかった。ぐうの音も出ないのか、それとも策の為に敢えて何も言わないように努めているのか……今回は後者であると判断した鏢だったが、同時に焦りなどの感情も見られないとは気がついている。こいつは、まだ何かを隠している……それが何かもわからないが、何かカードを隠しているとは断言できる。そして断定こそできないが、カードの種類は察しがつく。嫌になるほどに、当然の事柄として、だ。

 

 雁夜は臓硯を知っている。そして同時に臓硯も雁夜を知っているのだから。  

 

 理解などとはほど遠い、しかし確かにお互いの事を知っている歪な両者の関係が鏢にも影響を与えるのは言わずと知れた話だ。

 

「貴様……雁夜めの依頼で儂を殺しに来たのじゃな」 

 

 そして、鏢の前に老人の手札は表われた。

 

「ならば、奴は愚かにもこう言っていなかったか? どうか桜を救ってくれと……哀れに貴様に縋らなかったか、退魔士よ!」

 

 老人の背後に表われたのは、むき出しの地下牢だった。

 

 階段の先には座敷牢のように格子がついた部屋がある。奇妙な事にこちら側とは直結しており、彼らが立っているのは正規の出入り口ではないと教えているようだが、むき出しとなっているその牢屋には人影がある。小さな、一目で子供と分かる小さな人影だった。暗くてよく見えないが、幼い子供が両手を何かで縛られてぶら下げるように拘束されているのは見て取れる。空想ではありがちで、実際に見るとショッキングな絵だった。

 

「……!」

 

 青い瞳が一瞬だけ見開かれた。動揺した内心を示すそれは刹那に消えたが、彼のリアクションを観察している老人は見逃すはずがない。

 

「かかか、そうじゃ。あそこにいるのはお前の依頼者が求めている桜じゃ!」

 

 老人の言葉に呼応して、壁に灯が点る。原始的な明かりは現代においてはもはや時代錯誤もいいところだが、この場面に限定すればむしろ相応しい。光に照らされた先に表われたのは、それほどおぞましく怪奇な光景だった。

 

 一人の少女が、両手を鎖に縛られて拘束されキリスト像のようにぶら下げられている。そこまではシルエットでも把握できた。しかし光に照らされたのはそれが問題にならない下劣極まる虐待の絵だった。幼い少女は一糸まとわぬ裸体であり、彼女は下半身を中心に全身を虫に集られていたのだ。

 

 これほど醜く汚らわしい拷問は、果たして何処の歴史にあるだろうか。それがよりにもよって人類史の中でも特に平和かつ豊かな現代日本において行われているなど、誰にも想像はできないだろう。しかしこれはまごう事なき現実だった。小さな少女は廃人となっているかのようにうつろな目をして、全身に虫共の汚らわしい粘液を滴らせながら眉一つ動かさず人形のように集られるままとなっている。

 

 虫共は術者の意図だろう男性器に酷似しており、それが彼女の下半身を余すことなく被っているのだから一体何が起こっているのかは想像するに容易すぎる。

 

 これは拷問であるが何よりも凌辱であった。

 

 幼い少女を虫の生け贄とする凌辱だった。

 

「……」 

  

 黒衣の符咒士は、それに眉一つ動かさない。鉄面皮そのものの顔を崩さずに符を取り出すが、その内心で何を考えているのか、その頭脳はどんな計算をしているのかまではわからない。ただ、この惨劇を作りだした張本人は敵対者の内心を理解しているかのようにほくそ笑んだ。

 

「その符で儂を払おうとも、儂を殺すことはできまい!? しかし、儂を殺せねば虫共は桜をどんな目に遭わせると思う!? 言ってみるがいい、それ以上の目に遭わせてやるぞ!」

 

 下劣な喜びに輝く顔は、正に見るに耐えない悪鬼のそれだ。妖怪は、術士が手をこまねいて従うと信じて疑わなかった。何故なら彼の背後にいるのは雁夜であり、雁夜は彼に逆らえない小物に過ぎないからだ。柔弱なあの息子が桜を……片思いの相手が産んだ娘にして自分が逃げ出した生け贄の席に座らせられた哀れな小娘を見捨てられるはずがない、だからこそ自分に逆らい、だからこそ危険な殺し屋を止めるに決まっている。

 

「この状況は、既に雁夜にも伝えているぞ。虫を使ってな。結界を張っていたようだが、元々儂の虫はこの街の至る所に潜んでいるのだ、造作もないわ!」

 

 老人のしゃがれた声が聞こえてくると同時に、鏢の懐が震える。マナーモードにした携帯が依頼主からのコールを告げていた。それを察した老人がほくそ笑んで自分の勝利を確信する。こいつは所詮雇われに過ぎない。結局はたかが雁夜の手先に過ぎず、肝心の雁夜は決して自分には逆らえないのだから……そうなるように、幼い頃から作り上げてきたのだから。

 

「アレの声を雇われ者が無視していいことではあるまい。ここでこの娘を儂が殺せば、報酬は無くなるぞ? 手を引くなら息子の不始末、手間賃ぐらいは払ってやろうさ」

 

 卑しく人を虚仮にしている老人の言いぐさは、鏢ではなく彼を通して見る雁夜へと向けられていた。人質などという安い手に逆らうこともできない程度の軟弱者が、その対策さえも練らずにのこのこやってくるからこうなる。雇われ者で、特に冷徹そうなこの男なら仕事に徹してこれ以上の手出しはするまい。後はゆっくりと料理すればいい。

 

「天地より万物に至るまで」

 

 鏢の眼はただ老人を冷たく見下ろしていた。

 

「気をまちて以て生ぜざる者無き也」

 

 見下ろす青い眼は恒星のように輝き、凍てついた怒りを見せているかのようだった。まるで氷を研ぎ澄ませて作り上げた刃のようなその顔の、なんという冷酷さか。冷たい熱さという矛盾した有り得ない現象が成立しているとすれば、それは正にこれだろう。

 

「邪怪禁呪、悪業を成す精魅、天地万物の正義をもちて微塵とせむ」

 

 この老人は、確かに魔術の大家だ。

 

 五百年の長い時代を生き続け、自らの肉体を改造し、多くの人を弄ぶだけの力を維持し続けている。

 

 だが、根本的に彼は幾つも間違えていた。

 

 奸智に長けてはいても、老人は戦闘の為に魔術を磨いてきたわけでは無い。

  

 赤子の頃から身内を弄び容赦の無い服従を強いてきた為に、自分に逆らう意思を持つ……それどころか自分の事など歯牙にもかけない相手もいるのだと言う当たり前の現実を忘れていた。

 

 そして、鏢という男が目の前で繰り広げられる下劣な一幕をどう受け止めてどう行動するのか。

 

「爆砕符……」

 

 冷たく、鋭く、内包された心の色を否応なく突きつける声が怪人を叩いた。

 

「禁っ!」

 

「ぐおおおおっ!?」

 

 五百年は時の流れを渡り歩いてきた老人の全てが、粉々に消し飛ぶ。叫ぶような声を上げて吹き飛んだ老人の形をした虫たちの中に、生き残りを許された個体は一匹もいない。異常な生命力が何よりも売り物である虫たちだとしても、跡形も無く消し飛ばされればそれでお終いだ。

 

『貴様……よくも!』

 

「…………」

 

 消し飛ばしたはずの老人がどこかで……いいや、そこら中から一斉に叫んだ。壊れたスピーカーのように聞こえてくる理由は発声器官を備えた虫たちを総動員している結果だと、鏢はすぐに気がついた。

 

『何故だ、何故そこまで雁夜に義理立てする!? その理由が何処にある。プロとしての矜持か、それとも雁夜への同情か!?』 

 

「…………」 

 

 思いつく限りの理由を、臓硯はまくし立てた。その中には鏢の琴線に止まる物は無い。彼はただ心の赴くままに縦横無尽に符を奔らせた。

 

 キーワードを口にする度に虫たちは消し飛んでしまい、反撃を試みる物も結果に阻まれて正に虫けらと揶揄されるに相応しい無力さを見せるばかり。その主は、自分が一体何を間違えたのかを少しずつ理解し始めていた。

 

 臓硯は狡知に長けているが、殊更に機転の利く魔術師では無い。ましてや彼は、少なくとも雁夜が生まれる前から弱者をいたぶる事ばかり繰り返してきた。そんな男が現役の符咒士として日々戦い続ける鏢の前に立って、一体何ができるというのか。自ら作り上げた要塞を過信し、鏢の前に立った時点で彼の敗北は決定したと言ってもいい。そもそも、真正面から戦うことに意義を見出すような精神を持ち合わせているわけでは無いのだ。

 

 彼が暗躍の道を選べば、あるいは鏢に手も足も出させずに封殺することができたのかも知れないが、そのifを老練の魔術師は自分で踏み潰した。長年生きて積み重ねた全ての経験が無意味で無駄だと、彼自身が証明してしまった。

 

「お前は」

 

『?』

 

「子供をこんな目に遭わせた」

 

 鏢の青い瞳を通して、炎が燃えさかったようだった。

 

 瞳が刃のように鋭く、炎のように熱くなった。燃えさかる恒星の蒼のように煌めく瞳は、一匹の老害をどこにいても見つけ出すと、そして燃やし尽くし殺し尽くすと宣言していた。

 

「それを見逃せと? それを生かせと?」

 

 脅しというのは使用者に品性と良識さえ無ければ使いやすく効果的な手段だが、同時に相手が屈しなければ妥協も和解も消してしまう危険な行為でもある。これまで自分の身内を中心に常に効果を上げ続けてきた臓硯は安直な手段に出て、そして明確な失敗をした。脅迫の相手が屈しなければ、それは相手の歯止めを壊すのと同じだ。

 

 臓硯は、彼が誰に対してもそう考えているように“何をやってもいい相手”に成り下がった。

 

「お前は……」 

 

 鏢は怒りを噛みしめ、はらわたの底で音をたてて煮えている溶岩に似ている真っ赤なそれを吐き出した。

 

「その娘の百倍苦しんで、千倍の痛みに悶えて死んでいけ」

 

 鏢の符が少女を被っていた虫を消し飛ばした。一匹残らず消し飛ばされた虫たちの残骸の中をゆっくりと歩み、鏢は彼女を丁寧に鎖から解き放って抱き上げた。

 

 少女の保護を済ませたおかげで彼の顔はそれまでの怒りが無かったかのように落ち着いていたが、煮えたぎる怒りはあくまでも隠されたままだ。

 

『ま、待て! そいつを雁夜の所へ連れていくつもりか!?』

 

 往生際の悪い虫の言葉など聞く耳持たんと足を進める鏢だったが、三歩踏み出した時点で自然と足を止めた。

 

『許さんぞ、それは儂の為の胎盤に他ならぬ! 貴様のような輩が持っていくなど、断じて許さぬ! それは我が不老不死への望みを叶える為の重要な踏み台……』

 

 許さぬ。

 

 胎盤。

 

 願いを叶える為の踏み台。

 

 鏢は狙い澄ましているかのように自分の逆鱗を刺激してくる老人に対して、これ以上一呼吸でもさせておくつもりが無くなった。

 

「貴様はここで、灰となれ」

 

 鏢の声で合図が切られたように、そこかしこから煙が立ち始めた。

 

「炎は全てを浄化する。それは洋の東西を問わない事実だ。貴様もこの炎にくべられた薪として使い魔も本体も諸共灰になれ……私の結界に阻まれ、逃げることができないと証明した今ならばこの手も使える……焼き尽くされて燃え尽きろ」

 

 焦げ臭い臭いと中華料理を作る際に厨房で耳にする油が弾けるような音が、今何が起こっているのかを明確に教えた。 

 

『わ、儂の虫が! 可愛い虫たちが燃えてしまう!?』 

 

 感性が人並みとは光年単位でずれている老人が思いも寄らない未曾有の危機に悲鳴を上げた。彼の所行を知っている者にとって今の有り様は正に滑稽かつ醜悪で、よほどの悪趣味……つまり老人と同水準の下劣さを持ち合わせていなければ、見るに耐えないもいいところの醜態だった。

 

 凶悪に人を蹂躙する虫たちも大きくなる炎には為す術も無く、逆に蹂躙されて火を大きくする燃料となる。虫なりに己の命運を悟り一斉に乾いた音をたてて逃げ出すも、鏢の結界がそれを許さない。正に虫一匹たりとも逃がさない鉄壁に、虫の親玉は生き汚いと血族に疎まれ尽くした己の命が終わりを告げられようとしていると思い知った。

 

『おお……おおお……』

 

 それは無念を表わす嘆きの叫びと滅びを迎えた無念のこぼれ落ちた呻きだった。臓硯自身がこれまで子々孫々に上げさせてきた声を同じ声質であるのはいちいち皮肉としか言いようがない。あるいは彼の子孫にして雁夜の先祖は草葉の陰でこの寸劇じみた怨敵の無様を喜んでいるのだろうか。

 

『馬鹿な……こんな馬鹿なことがあってたまるものか! この儂が、五百年の時を生き続けたゾォルケンがこんな所でたかが火事に巻かれて終わるというのか!?』

 

 鏢は青い眼で周囲を睥睨しながら、一言も無くきびすを返した。言葉を発するだけの価値は無い、と言外に語る男を見送り、その腕に彼にとっては貴重な魔術具である少女を抱かれているとわかってはいたが、それが理解しつつも手が出せないほどに彼は自分自身の生存にこそ切羽詰まっている。

 

 この、なんの変哲も無い炎が五百年を生きて罪の無い人々を、血を分けた肉親を楽しんで食い物にしてきた老人への誅伐だった。

 

 ご大層な魔術でもなんでもない、ただの炎に巻かれて消える。

 

 己を特別な者と見る魔術師にとって、これほど屈辱的な結末が他にあるだろうか。

 

 その無念を臓硯は噛みしめ、そして鏢もあろうとなかろうとどうでもいい、とは思わなかった。

 

「貴様が傷つけ貶めたこの娘の苦しみ……その程度では全く足りないが……せめてもの報いだ、出来るかぎり長く、惨めに苦しんで後悔をするがいい」

 

 雁夜のような素人では目が合っただけで呼吸が止まってしまいかねない凄絶な怒りを篭めた、星のような青い瞳。

 

 それが、五百年を生きた老人が意識の中で最後にとどめた誰かの姿だった。

 

 

 

 

 

 

 雁夜は狼狽し、怒り、そして歓喜した。

 

 鏢という男が桜を取り戻し、臓硯を滅ぼしてくれた。彼にとっては最初から養子になど出されなければという根本的な話を除けば、これ以上無いハッピーエンドだ。 

 

 ぼろぼろの桜を見ればそうそう浮かれる事などできなかったが、それでもこれ以上傷つく事は無いというのはせめてもの朗報だった。

 

 そのはずだった。

 

「何故だ!」

 

 一組の夫婦と、その後ろにボディガードのように控える大男を前に激高することになったのは事件からほんの三日後の話である。

 

「何故? 間桐が滅んだから次を探す。たったそれだけの話だというのがわからないのか? それこそ“何故”だ」

 

 こちらを露骨に軽視し見下してくる服装と顎髭が漫画じみている男が、いかにも芝居じみた身振りで雁夜を嗤った。

 

「時臣、貴様……桜ちゃんがいったいどんな目に遭ったのか、それを理解した上でまだそんな馬鹿な戯れ言を言うのか!? 言えるのか! 一体どうして今回の事件が起ったと思っている? お前がマキリの魔術を理解せずに適当に桜ちゃんを売ったからだろうが、自覚は無いのか!」

 

「売ったなどという下品な物言いは実に不愉快だな。落伍者である君は理解できないだろうが、今回の件は桜の稀有な才能を尊び、マキリとの長年の協定に基づいた決断だ。むしろ、貴重な才能を持つ桜をそのような扱いしかしなかったマキリの裏切りこそが原因だろう」

 

「何が才能だ! お前は桜ちゃんに対して申し訳ないと思わないのか!? 父親の自覚は無いのか!」

 

 その貴族ぶっている男の言動全てが理解できず信じられず、雁夜は激高した。どん、と両者の間に設置されたテーブルを思わず殴りつけてしまったのは彼らしからぬ荒々しさだったが、それに怯えたのはただ一人の女性のみでしかなかった。控えている男は眉一つ動かさず、時臣と呼ばれた顎髭の男は彼の激高を無様な物と見苦しくさえ思っているのがありありとわかる。

 

 それは同時に、彼の言いたいことが時臣には全く通じていない、あるいは価値の無い戯れ言と認識されているという証明だった。

 

「葵さん、君には思うところは無いのか!? 娘がどんな目に遭わされたのか、あの子と顔を合わせてそれをわからないとは言わせないぞ!」

 

 時臣に雁夜の言葉が通じないというのなら、彼にだって時臣の言葉は総じて頭の逝かれた男の世迷い言にしか聞こえない。彼らはお互いに全く価値観の異なる永遠に理解し得ない間柄でしか無いのだ。だから、雁夜は矛先を彼の幼なじみにして時臣の配偶者にして桜の母親である女性に向けた。

 

 桜の母親であるのなら、その自覚と自負があるのならば“時臣では無く自分の味方をするに違いない。いや、そうでなければならない”はずだ。

 

 先ほど吠えるように叫んだ通り、雁夜は桜が救出されたその日の内に葵へと連絡を取った。時代錯誤な機械嫌いにして機械下手の時臣が、ましてや通常は非常識と言える時間帯である深夜に電話など取るわけもないと安心してコールし、予想通りに捕まえた相手を呼び出した雁夜は、葵と対面するまで彼女が感涙にむせび泣いて自分に感謝する物と思い込んでいた。

 

 彼が、かつて彼女ら親子……父親を除く三人と遊んだ公園を深夜にもかかわらず指定したのは、温かな思い出を上乗せできるという彼の無意識の思い込みが表われた結果だ。人気の無い深夜の公園が不気味だなどと言う意識は欠片もなかった彼は、明確に浮かれていた。

 

 しかして、呼び出しに応じた実際の葵は雁夜に手を引かれている桜を見て呆然と自失するばかりで、感謝の言葉どころかしばらくは雁夜に顔も向けずに娘を見詰め、戸惑いながら背中を押されて一歩踏み出した彼女をひったくるように抱き締めて震えているばかりだった。

 

 それも無理はない、と雁夜は沈痛な気持ちで受け止めた。

 

 桜の有り様は、葵にとっては理解の外にあるほどひどい物だろうと思えてならないからだ。

 

 十に満たない幼い子供でありながら表情を無くして、離ればなれになっていた母親との再会にも眉一つ動かさない。それどころか抱き締められても人形のように反応しない姿は内面が壊れているのではないのかと言う危惧を抱かせる。

 

 少女の変化は内側からにじみ出てくる物ばかりでは無く、外面もはっきりとした変化が見える。髪の色がまるきり変わっているのだ。染めているのでは無く根元から変色したそれは黒では無く濃紺に近い色となっており、その変化は暗い中でもありありと見て取れる。 

 

 そもそも服装もどうしようもなくひどい物だった。何しろ彼女は虫倉に裸でつり下げられていたのだ。火に巻かれて着の身着のまま逃げ出してきた桜は雁夜の上衣を掛けているだけで、靴さえ履いていない。更には虫共の粘液じみた体液が彼女の柔らかい肌を這いずり回った後も消えていないのだ。客観的に見て、雁夜に抱き上げられて夜道を進んでいる姿は幼女を強姦した人類のクズとその被害者にしか見えない。   

 

 公園のトイレで身体を洗ったが、それでも限度はある。葵を呼んだのは、職質=人生の終わりとなってしまう自分を守る為に桜の衣類を持ってきてもらう意味もあった。臓硯と刺し違えて死ぬのならば本望だが、クズの中のクズとして社会的に死ぬのは勘弁してほしい雁夜の当然な要求である。

 

 そもそも子供を裸で外に放り出すのは、その時点で虐待だ。

 

 葵にはもちろん予め説明を行ってはいたが、それでも居心地は悪く誤解を受けているかもしれないと言う恐れはぬぐえずに繰り返し口早に説明した雁夜だったが、やはりあらぬ疑いをかけられているのではないかと内心ではびくびくとみっともなく怯えていた。だが、葵の手で身なりを整えた桜と葵の二人と並び歩いた際には、桜が何も言わないままに彼の手を繋いできたおかげで自分達は家族に見えるかもしれないとみっともなく浮かれてもいた。

 

 今の彼は、自分が事を成し遂げたのだと浮かれていた。もちろん実際に行動したのは鏢だけだが、ともかく臓硯は滅び桜は救われ、後はハッピーエンドを迎えるだけだ、と。

 

 そんな風に浮かれていた。

 

 彼の呑気な頭骨の中身でもおかしいと思えたのは、葵が桜を連れての帰宅を拒んだからだ。彼女は驚く雁夜と、一見は表情に変化が無いように見える桜に対して家の……ひいては時臣の命令を理由にして娘が敷居をまたぐのを拒否したのだ。それを聞いた際の両者がいったいどんな顔をしていたのか、一見申し訳なさそうな顔をしていながらも実は二人から目をそらしていた葵は見ていなかった。

 

 桜は既にマキリの子供であり、遠坂の子供ではない。

 

 時臣が妻子それぞれに言い聞かせたのはそれであり、妻はそれを忠実に守った。

 

 子供を捨てた夫の味方をしたのだ。

 

 葵にどのような意図があったとしても、彼女以外の誰かが葵の言動をそのように受け止めた。

 

 少なくとも雁夜はそう受け止めてしまったが、同時にすぐ思い直した。

 

 葵がそんな事を望むわけがないだろう。彼女が、禅城葵が望むわけがない。ならどうしてこうなった? 時臣だ、時臣が葵に強制したのだ。

 

 雁夜はそう思い込んだ。もっと言えば、思い込みたかった。

 

 しかし、強制されていようがなんだろうが桜の前に葵は扉を閉めたのだという事実は変わらない。桜の目の前でそれをやった葵もさせてしまった雁夜も大人として落第点をつけるしかない大失態である。

 

 それを雁夜が自覚したのは、葵の背中を半ば呆然として見送ってから桜を見下ろしてようやくである。情けないにも程があり、それを彼自身思い知っていた。

 

 だからこそ、自分以上に大人として親として最低な行いを繰り返す時臣という男が許せなかった。

 

 夜が明け、桜を連れてきた遠坂家の居間で対面し言葉を交わす度にすれちがい、その思いは加速度的に膨張していく。 

 

「君のような凡俗には理解できないだろうが、桜は魔術師として稀有な才能を持つ。しかし魔術師は一子相伝……私は親として娘の才能を惜しんだからこそ苦渋の決断をしたのだ。君のような魔道から逃げた男にわかったような事を言ってほしくはないものだ。これは即ち、遠坂の家を継いだ私の魔術師としての崇高なる義務だ」

 

 平然と口にする彼の理屈が、雁夜にはやはり理解できない。あるいは、これが数百年以上昔ならば時臣の言動も第三者に共感を得られたかもしれないが……現代日本において彼のそれは時代錯誤を取り越した異常者のそれであり、同時に父親失格以外の何者でも無かった。こいつの頭は中世のまま立ち腐っている時代遅れだと雁夜は断じたが、問題なのはそんな男に同調する時代錯誤しかこの場にはいないと言う事だった。

 

 自分がタイムスリップをしているような錯覚を覚え、周りの雰囲気に押されつつあると自覚した雁夜はむきになった。

 

 子供を捨てるような男が、姉妹を分かつような男が、養子先に致命的な間違いを犯した間抜けがそんな言葉を抜かすのか!? こんな男が、自分の憧れ続け慕い続けた葵を娶ったのか!?

 

 何が義務だ、何が崇高だ。自分の失敗を棚に上げて、適当に言葉を飾って誤魔化す卑怯者が。魔道から逃げた? あんな馬鹿げた物にのめり込む方がどうかしているという生きた証明こそがお前だというのがわからないのだろうな!

 

 真っ赤になった視界のせいで、雁夜は自分の頭に血が上ったと自覚した。 

 

 目の前にいるどこまでも価値観の合わない男が超常の力を秘めた魔術師であり、その気になれば自分を瞬く間に証拠も残さずに殺せる人の形をした怪物……長年恐れ続けたあの臓硯と同種のモノだと言う認識が頭から吹っ飛んでしまうほどに彼は激高した。

 

「……だったらどうして二人は年子だ? 馬鹿か、あんたらは! 捨てる前提で子供を作るな、自分がどれだけろくでもない事をしているのかわかっていないのか!? 子供を、姉妹を争わせるとわかっているなら、どうして桜ちゃんを産んだ!? 産んだのなら親の勤めを果たせ、できないなら最初から余計なことをするな! 無計画に盛るような獣同然の田舎魔術師が、本物の王侯貴族を見たことも無いくせにいちいち他人様を見下しやがって、勘違いした貴族ごっこぶりがあんまり滑稽で、見苦しさがいちいち鼻につくんだよ! 何が崇高だ、崇高だと思っているのはお前ら魔術師だけだ!」  

 

 思考をそのまま垂れ流して葵さえもまとめて侮辱するほど、雁夜は完全無欠に頭に血を上らせていた。

 

 繰り返すが、彼は葵に慕情を募らせている。だからこそ時臣が許せなかった。

 

 臓硯というどうしようもなくおぞましい怪物が手ぐすねを引いて待っているからこそ、彼は葵に気持ち一つ伝えずに隠し続けていたと自分を信じていた。そこに想いを告げる勇気があったかどうかという真実は置いておいて、雁夜当人はそう思っていた。

 

 彼女と温かな家庭を営み、可愛い子供に囲まれて当たり前の幸福を享受するのが、おぞましい魔術に魅入られた家系に産まれてしまった彼にとっては何よりも尊い幻想だった。

 

 それを、自分が諦めてしまった宝物を手に入れた男がそんな物には何の値打ちも無いと言わんばかりに、雁夜にとって最もおぞましい虫蔵にそれを放り込んだのだ。挙げ句の果てに、人任せになったとは言えどうにか取り戻した宝物をもう一度違うゴミ溜めに捨ててしまうと言っている。

 

 そして、それこそが尊いとほざく雁夜には全く理解できない価値観を示して桜をないがしろにする。

 

 許せない。

 

 許せるはずがない。

 

 理解できず、許せず、そんな男の隣に葵が座っている事実そのものが認めたくない理不尽だった。

 

「……随分な暴言を吐いてくれるものだな。しかし、これまでの遠坂と間桐の同盟に敬意を表し、そして君のような凡俗にムキになるのは優雅たる遠坂には相応しくないとして今回は見逃そう」

 

 そう言った時臣の合図に従い、控えていた男が雁夜の肩を掴んだ。 

 

 動きはいたって緩やかだが、雁夜から見ればまるで万力さながらの力で彼は拘束されて為す術無く家を追い出される。どれだけ抵抗しても意味は無く、まるで猫の子のように地べたに放りだされた彼はどうしてこうなったのか理解できずに呆然と座りこんだ。

 

 惨めだった。 

 

 彼が夢想していたのは、時臣が自分の過ちに気がついて桜に許しを請い、葵が時臣に失望し、自分に二人の娘共々深く感謝して喜びに輝いた眼差しを自分に向ける。

 

 そういった絵だった。

 

 時臣は失敗したのだ。

 

 どうしようもなく失敗したはずなのだ。

 

 その尻ぬぐいを自分はしたのじゃないか。父親のせいで虐待された桜を、自分は助け出したのではないのか。

 

 なのに、どうして誰も時臣を責めない。どうして、自分はこんな風に放り出されなければならない。何故葵は時臣を責めないのだ。何故、自分を庇わないのだ。何故、桜に詫びて今度こそ守ろうとしないのだ。どうして、どうして葵は時臣の言葉に異を唱えないのだ。

 

 どうしてだ。

 

 一体、いつまで時臣などに……娘を捨て、傷つけた父親の風上にも置けない男に従い続けるのだ。

 

 それでいいのか。桜を捨てた挙げ句、あんな姿にされ、心だってどうなったのかさえ分からないのに……いいや、元に戻るかさえ危ういと言うのに、それでも葵は時臣に従い続けるのか。

 

 一体どうして、そんな選択をとり続けるのだ。

 

 惨めだった。

 

 放り出されて、土に塗れた自分がどうしようもなく惨めな乞食のように思えた。それに対して、時臣は大きな屋敷を受け継ぎ、先祖の遺産で悠々と暮らして優雅だなどと嘯いている。いや、それよりなによりも、どうしてあいつは……時臣の隣に葵がいて、二人の間に娘が二人もいるのだ。

 

 捨てるような父親が、どうして慕われ続けているのだ!

 

 彼女を、桜を化け物の巣に放り込んだのはあいつなのに、それをもう一度懲りずに続けようと公言してはばからないというのに、葵は時臣に何も言わないで従い続けるのか!? 桜にはなんの価値もないのか。だから助けた自分に礼の一つさえないというのか、時臣に従い続けるって言うのか。

 

 それならどうして桜を産んだ。

 

 最初から捨てるつもりだったとでも言うのか。戦国時代よろしく、娘は他家への売り物のようなものだとでも言うのか。

 

 怒りと困惑が雁夜の中に充満して今にも弾けそうだった。と、そんな彼に影が差した。

 

 反射的に顔を上げた雁夜の前に葵が立っていたが、彼女の顔ははっきりと沈んでおりどう見ても喜ばしい何かを告げに来たようには見えない。だから雁夜は、彼女から目をそらした。何よりも、今の自分があまりにも情けない為に彼女に見られるなど男としてのなけなしのプライドを傷つけるにも程があった。

 

「どうしても、桜ちゃんを捨てるのか」

 

 そんな言葉が口から出たのは、雁夜自身が意識しない内であり、正しく無意識だった。口にしてからも、自分がどうして葵を殊更に傷つけるような事を口にするのかがわからなかった。

 

 葵に否定してほしいともちろん思っていたが、同時に肯定してほしいと願っているような気もした。自分がなにを考えているのか分からなくなっている雁夜だったが、彼の吐いた言葉は当人を置いてけぼりにして事態を動かす。

 

「そんな! ……そもそも桜をあんな目に遭わせたのはあなた達、間桐の人間でしょう……」

 

 葵のセリフは雁夜を責めていた。少なくともそう感じた当人はあっさりといきりたった。時臣を庇う為に自分に罪を押しつけているとしか雁夜には思えないからだ。

 

「桜ちゃんを売ったのは時臣で、彼女をなぶり者にしたのは臓硯だ! 俺に押しつけるようなセリフを言っているのはどういうつもりだよ。昨日からおかしいじゃないか? 桜ちゃんに家の敷居をまたがせず、凛ちゃんとも会わせず、もう一度彼女を捨てようとする亭主に抗議もしていないで俺ばっかり責めるなんて、どんな了見だよ!?」

 

 雁夜にしてみれば、時臣はもちろんの事ながら葵にしても言動に納得のいくところが一つもない。

 

 そもそも再会した時に、涙ながらに桜を抱き締めて詫びつつ自分に礼を言うのがあるべき姿という物では無いのか。それが門前払いをした挙げ句に懲りず二の轍を踏もうとした時臣を止めるどころか何も言わずに自分を責める文句だけはきっちりと口に出す。

 

 時臣はある意味で、雁夜にとっては納得のいく行動を見せた。彼は当初こそ時臣が失敗を嘆くものと考えていたが、全く真逆に愚行を繰り返すのは想定外ではあっても納得がいくと言えばいく行動だった。少なくとも雁夜個人にとっては魔術師と外道はイコールであり、時臣は誰よりも魔術師たらんとしている男なのだ。

 

 桜を再度捨てようとする懲りない有り様は、雁夜には軽蔑と怒りに値しつつも魔術師らしいと納得のいく姿だった。

 

 しかし、葵がいつまでもそんな男に従い続けるのは雁夜にとっては全く想定外だった。

 

 むしろ、涙ながらに夫をなじり、娘を守ろうと抱き締めるのが当たり前ではないか。  

 

「それは、仕方がないことだわ! ……あの人が言っていたもの。桜も凛も魔術師の才能があまりにもあるから、このままでは他の魔術師に狙われかねないって……だから、あの人は桜を守る為に!」

 

「ふざけるな! なんだい、その詭弁は。守る!? 守るどころか地獄に突き落としているじゃないか! 挙げ句、懲りずに同じ事を繰り返そうとして恥じない。そのツケを支払っているのは親のいい加減さに振り回されている桜ちゃんじゃないか! いい加減に目を覚ませよ、葵さん! 本来なら誰よりも怒らなけりゃならないのは俺なんかじゃなくて母親の葵さんだろう!?」

 

 雁夜は全く自覚がないが、内心では夫婦の対立を期待していた。時臣は取り返しの付かない失敗をして、それに対する後悔も謝罪もない。それを糾弾する正義は我にありと叫べる立場につけた状況が彼を興奮させている。

 

 葵を娶り、子供を産ませた時臣を公明正大に糾弾できる立場に酔いしれていた。そして、あわよくば……と無意識も脳裏に描いたのは時臣を排除した一家の中に父親のように入り込んでいる自分の姿だった。

 

 結局はそれが彼の願望であり、それを浅ましいと自覚しているからこそ雁夜はそれに気がつかないフリをしていた。

 

「それは……そんなことまで、雁夜君に言われる事じゃないわ! あなたはそれこそ他人じゃない! これは遠坂の……魔術師の問題なのよ、魔道を捨てた貴方が口出ししないで!! 時臣は間違えていない、桜は魔術師の家で保護されないと駄目なのよ!」

 

「なっ……」

 

 葵の言っていることは理屈以前に反論にも何にもなってはいない。時臣から聞いた理由を鸚鵡返しに吐き出しているに過ぎないのだから当然だ。はっきりと言ってしまえば、彼女は理屈以前に感情を理由に夫を庇っているだけだった。そして、自分の中にある母親としての自覚と魔道以外の人生で培った倫理観が産んだ罪悪感から目をそらす為に、同時に間桐の血を引くにも関わらず自分を追い詰める雁夜へ感じた反発から闇雲に叫んだに過ぎない。だからこそ、人目も憚らず魔術、魔道と禁句まで口にしてしまったのはその証拠のようなものだ。 

 

 ただ、自分が正しいと信じている雁夜は間違えている時臣を支持して桜を傷つける選択をとり続ける葵が信じられなかった。

 

「正気に戻れ、葵さん! 自分が何を言っているのかわかっているのか? 桜ちゃんがどんな目に遭ったのか理解していないわけじゃないだろう」

 

「それは間桐のせいで時臣は悪くないわ。彼は間違えていない!」

 

 実際には、葵にも夫の行いに対する疑問も不満もあった。ただ、それを真っ正面から指摘されてしまったせいで帰って反発してしまった。雁夜が何も言わなければ、そちらの方が彼の望む結果が待っていたかもしれない。

 

「時臣、時臣と……あいつが間違えていない訳があるか! 桜ちゃんに同じ事が言えるのか!? あんなボロボロになった桜ちゃんに。桜ちゃんよりも時臣を取るって言うのか、母親が!」

 

 本当は、雁夜はこう言いたかったのかもしれない。

 

 “桜ちゃんを救い出した自分よりも、捨てた時臣を選ぶのか”と。

 

「聞いた……」          

 

 興奮していながらも葵の顔は青ざめ、唇は震えて目は雁夜が見たことも無いほどに血走っていた。雁夜の目にそんな自分を見つけた葵は、まるで鬼のようだと思った。娘を捨てる鬼のような母親がいると思ってしまい、それを振り切る為に遮二無二なって声を張り上げた。

 

「聞いた風なことを言わないで! あなたなんて、誰かを本気で愛したことも無いくせに!」

 

「!」    

 

 雁夜の自覚しない本音がそれだったからこそ、葵の言葉はこれまでにないほど雁夜を激高させる。思わず伸びた腕は葵の襟首を掴み、はっとなった葵は先ほどの自分と同じ表情をした雁夜を見て彼をひどく傷つけた自分を理解した。

 

 本当は理解していた。娘がひどい目に遭ったこと、幼なじみがそれを助け出してくれた事、わかっていないわけではなかった。その相手を、傷つけたのだ。

 

 昔からの友達、幼なじみ、娘達を何かと気にかけてくれた男を。

 

 葵は雁夜の気持ちを理解しないままに、しかし彼を傷つけたことだけは自覚した。

 

「あ……」

 

 雁夜は拳を握りしめたが自制した。

 

 彼は何処までも普通の日本人として感性を育てており、人を殴ること……特に女性であり、何よりも切ない思いを抱いていた相手を傷つけるなどできはしなかった。最後の一線を辛うじてだが、彼は踏みとどまった。

 

 そのまま、何も言わず何も言えずに背中を向けた。

 

 ひどく惨めだった。

 

 彼に何を言おうとしている葵を見ることもできずに歩き出した。走らないのも俯かないのも涙を流さないのも、全ては最後の意地だった。

 

 男として、時臣にどうしようもなく敗北した。

 

 それをぐうの音も出ないほどに突きつけられて、腹の底から叫んで泣きわめきたいほどだった。

 

 それから、どれだけ経っただろうか。

 

 雁夜は街をふらふらと幽霊のように歩き回り、一体何処をどう辿ったのか理解できないまま、燃え尽きた生家に辿り着いていた。

 

「どうして俺は……今さらこんな所に……」

 

 一体自分はどれだけ歩き回っていたのだろうか、既に足は棒のようになり腹も減っていた。日も落ち始めている。薄暗がりになるまで自分は一体何をしていたのかさえ雁夜は理解できないほど追い詰められていた。

 

 人は傷ついた時に、故郷に戻りたがる。

 

 だが自分は例外だと思っていた。こんな故郷に未練はない、おぞましい物しか無いのだから。そのはずだったのに、どうしてここに戻ってきたのか。

 

「はは……死にたくなったのかな……」

 

 恐ろしくおぞましい場所だからこそ、今は自暴自棄に踏み込もうとしているのか。

 

 自分で自分が理解できないまま、雁夜は焦げ臭さが消えていないかつての……そして今も実のところ心底から恐ろしいはずの場所に足を踏み入れた。

 

「痛……」

 

 何となく、手に痛みを感じた。

 

 だが、さほど気にはならなかった。 

 

 それが気にならないような痛みが胸の奥から絶え間なく彼を炙り続けているからだ。じくじくと、そんな膿んだ傷のような痛みが心臓の裏側から彼を苛んでいる。

 

 それに比べれば、手に感じた痛みは大した物では無かった。

 

「……なんだ、ここ……」

   

 やがて、彼は燃え残った見覚えのない部屋に行き着いた。天井もないむき出しで風に吹かれた有り様はもの悲しく、怪談のスポットになりそうだ。

 

 この家は臓硯が自分の為に作り上げた家であり、老人が自分だけの為に作り上げた魔術の塊のような屋敷だ。雁夜の知らないところなど幾らでもあり、ここもその一つだった。既に燃え尽きたとは言え、危険性は極めて高い。特にここは間桐だ。雁夜の実家である。通常はもちろん逆だが、異常なる老人は血族である雁夜を弄ぶことを念頭に置いた嫌らしい罠ぐらい仕掛けていてもおかしくはないのだ。

 

 そこに雁夜は自暴自棄に誘われるまま足を踏み入れた。やけになった彼の顔は幽鬼のようで、廃墟となった屋敷の一角に滑稽なほどフィットしている。

 

「これは……魔法陣?」

 

 部屋の床には、そう呼ぶしかないような何かが描かれている。あるいは刻み込まれていたのかもしれないが、それをわざわざ探るような真似を雁夜はしたくなかった。

 

 雁夜は産まれた時から……正確には臓硯の正体を理解した時から魔術的な物を嫌悪してきた。特に時臣に何もかもで完敗した今はそれが顕著だ。

 

「魔術……魔術、魔術、魔術」

 

 踵で踏みつけるようにして陣を蹴りつけた彼の顔は、醜悪で滑稽で、そして何よりもの悲しかった。

 

「そんなにいいのか、人でなしが。どうして俺が間違えているんだ、どうして俺がこんな惨めにならなけりゃならないんだ!? 時臣は、桜ちゃんを捨てたんだぞ!? 桜ちゃんは、そのせいであんな目に遭ったんだぞ!? どうして俺が、助けた俺がこんな気持ちにならなけりゃならないんだよ!?」

 

 いつしか彼は拳で床を殴りつけて、闇雲に喚き散らしていた。内心の鬱屈な気持ちを解放しなければ、心が壊れ果ててしまいそうでどうしようもない気持ちになっている。追い詰められ、煮詰まっていた。自分を第三者的に見詰めれば、どうしようもなく惨めで滑稽で、金も時間も費やした勝負に勝ったにもかかわらず何も手に入れられず徒労に終わった……それどころか醜態をさらしただけの負け犬の見本だと自覚していた。

 

 どうして正しい自分が負けて、間違えている時臣が勝つのだ。

 

 雁夜の本音を一言でまとめれば、このようになるだろう。

 

 最初はただ助けたいだけだった。桜が、幼い頃から憎からず思っていた相手の娘が、自分がこの世で最も恐れ憎んでいる相手に弄ばれていると知って義憤を抱いただけだった。それは何一つ恥じることない正しい怒りだろう。

 

 自分にはどうしようもないから人の助けを借りたのは若干忸怩たる思いを抱かされるが、そんな贅沢を言っている場合でなかったのは理解しているし、恥じるところではない。

 

 だが、今の雁夜は恥じるところなのだろうか。助けた相手から感謝の言葉一つくらいは欲しいと思って、それが卑しく浅ましいと罵られるべき恥なのだろうか? そう考えるのは、いくら何でも潔癖が過ぎるだろう。  

 

「間違いなのか」

 

 雁夜は泣いていた。

 

 いつの間にか、大の男が人目を憚らず涙を流していた。

 

「桜ちゃんを救ったのが、間違いなのか」

 

 彼の目は涙に潤み、目の前も正確には映せず自分の前が不自然にうっすらと光っている事も気が付かなかった。

 

「クソ爺から、桜ちゃんを救ったのは間違いなのか」

 

 光っているのが先ほど見つけた魔法陣であることも、彼はわからなかった。

 

「魔術の為なら人の幸せなんて、小さな子供の笑顔なんて、どうでもいいのか」

 

 手の甲に奇妙な紋章のような物が入れ墨よろしく浮かび上がっているのも知らなかった。

 

「俺が間違っているのか、そうなのか? 子供を守ろうとしたのも、魔術を外道と感じるのも、平凡な幸せを望むのも、どれもこれもちっぽけでつまらない、意味の無いことだって言うのか」

 

 そして、光の中に一つの人影がにじみ出るように生まれたことも気がついてはいなかった。

 

「そのような事はありません」 

 

 かけられた声は静かで、穏やかで、どこか熱が篭もっている。

 

 雁夜と変わらぬ年代の女が発した声だった。 

 

「え……?」

 

 自分の独白に応えがあるなど想像もしていなかった雁夜は、それまでの熱が引いたようにきょとんとした顔をすると目線を前に向けた。

 

 そこには、一人の女がいた。

 

「こんにちは、魔術師殿……ではないのかしら? サーヴァント、セイバー……あら? あれ? 私、セイバーではなくて……まあ……あの、源頼光と申します。大将として、いまだ至らない身ではありますが、どうかよろしくお願いしますね?」

 

 瓜実顔で美しい、先端を白い布で簡素に束ねた黒髪を腰まで真っ直ぐに伸ばした異装の女だった。

 

 全身をくまなく被うピタリと張り付いた衣裳は露出が皆無でありながら極めてエロチックで、その上からきわどい部分を隠すベストのような上掛けがなければ公共の場を歩くことができないほどだった。更に、肩や手足など身体の各所を防具のような物が被っており、それらは武者の甲冑を思わせる。何よりも彼女は腰に一本の太刀を履いていた。

 

 柄も鞘も真っ白で、途中から何らかの動物の毛皮を巻いているのは戦国時代における武士の質実剛健ではなく平安時代における貴族の典雅さを思わせる相当の業物らしい太刀だった。

 

 女性としてはなかなかに長身で雁夜とさほど変わらないか彼女の方が大きいかもしれないほどだが、それを顔の小ささが更に際だたせている。しかし楚々とした立ち居振る舞いと柔和な表情、何よりも豊満で肉感的な肢体が彼女からこれでもかと濃厚な女性らしさを漂わせて大女と言う印象は全く無かった。

 

「は……?」

 

 美女、しかしてあまりにも現実離れした彼女の姿、そして口上も何もかもが理解できずに雁夜は赤面物の間抜け顔を晒して呆けた一言を返すことしかできなかった。

 

 しかし、日本において知らぬ者は物知らずと嗤われてもやむを得ない源頼光という高名を名乗った謎の美女は、その楚々とした美しい面に相応しい柔らかな微笑みだけを向けて静かに温かく雁夜を見詰めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 聖杯戦争……

 

 それは、7人の魔術師と彼らに召喚されたかつての英雄の現し身、サーヴァントが偽りの主従関係を作りながら万能の窯と言われる聖杯を奪い合う儀式。

 

 汝、自らの最強を証明せよと嘯いた遊戯のように滑稽な殺し合い。

 

 自分の前に現われたのは、いつの間にか刻み込まれていた参戦権その他を示す令呪によって導かれたサーヴァントの一人と知り、雁夜は困惑と嫌悪に捕らわれる。

 

 しかし、穏やかでありひたむきに自分に誠意を向けてくる美女に傷心の男がいつまでも反発できるはずもなく彼は彼女を直に受け入れる。

 

 雁夜は英霊を維持するだけの魔力をろくに引き出せない三流どころかそもそも魔術師ではない素質が少しあるだけの男だったが、頼光の指導とわずかながらに残ったマキリ家の書物などを参考にしてどうにか最低限の魔力を確保する。

 

 それは自分を受け入れてくれた女性に縋りたい、離したくないという甘えであったが、それだけではなかった。

 

 聖杯戦争、その知識はほんのわずかだが雁夜も持っていた。

 

 この街をゲーム盤にして魔術師が行う遊戯のような殺し合い。その発端は自分と遠坂の家、そしてドイツだか何処かのもう一家の聖杯御三家などと名乗るご大層な看板を掲げた馬鹿共だと、それは知っている。

 

 その聖杯戦争が近日中に開催されるのだと、彼女は言った。

 

 だから、自分が招かれたのだと。

 

 ならば、それに……遠坂が参加しないはずがない。

 

 雁夜の中に、もごりと首を掲げる醜い想いがある。それは、時臣に対する対抗心。

 

 彼女と共に、遠坂時臣を負かすことができれば……それは、なんて爽快な気分だろうか。

 

 だが、それも彼女が聖杯に掲げる願いを聞いて霧散する。

 

「聖杯への願い、ですか。やはり、母と子の愛に満ちた、平穏な世が一番ですね」 

 

 自分がはなんて醜く愚かなことを考えていたのかと、雁夜は自責のあまり首を吊りたくなった。そんな願いを掲げている女性を戦いの道具にするなど、それも理由が嫉妬によるなど……無様にも程がある。

 

 それだけはやってはならないと思う雁夜だったが、聖杯戦争から目を背けるのにも躊躇いがある。巻き込まれる市民に申し訳が立たないと間桐姓を持つ身としてはどうしても思ってしまう。何より、この街には未練は一つ……一人だけある。

 

 桜の事だけ、気にかかる。

 

 雁夜は魔力不足のあまりろくに動けもしなかったが、どうにか体調を取り戻すと彼女の様子を見に行き……そして遠目に見た姉である凛という少女に引っ張られる桜の有り様に愕然とした。

 

 まるで変わっていない死んだ目をしている桜を見て、雁夜は最後の希望を砕かれた。彼女を構う凛は妹を慮って表情を曇らせているが、溌剌とした子供らしい姿に変わりは無い。それとはあまりに対照的な、人形のようでありつつも瞳の奥に澱んで黒々とした感情を湛える桜の有り様は、姉が輝いているだけに惨たらしいにも程がある。

 

 父親については諦めている。というよりも、今さら父親として道を正したとしてもそれはそれで腹立たしいくらいだ。よかったと思う反面、どうしても割り切れずに忸怩たる思いをするだろう……自分の納得など桜の幸福に対してなんの重みもない事は自覚しているので行動には何も起こさないだろうが。

 

 ただ、母親についてはなんだかんだ言っても期待していた。

 

 それは彼女に対する思慕の気持ちが変形したものでもあり、彼女に母親として自分の理想に沿った行動を取ってもらいたいという願望でもある。それは醜い身勝手かもしれないが、それで幸福を取り戻せる罪のない子供がいるのであれば、それはそれでいい事だろう。 

 

 しかし、現実は雁夜の思い入れなど知ったことでは無く彼の願望が入る余地も隙もないと言わんばかりの有り様を見せつける。幸福な凛と不幸な桜のコントラストが、自分と時臣の違いそのものにしか見えない雁夜は強烈にコンプレックスを刺激された。彼女を救いたい、彼の願いは自分自身を救いたいというそれの変形でもある為に容易には覆らない。

 

 何よりも、それで確かに救われる魂があれば変わるはずもない。動機などどうでもいい、それでよりよい明日を得られる誰かがいるのであれば。

 

  

 

 

 

 

 

  

 

 

 

  

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 薄暗がりの邂逅から、数ヶ月。

 

 そろそろ深夜と呼んでもいい程度の善良な市民の皆様が寝静まっているはずの時間。雁夜はひどい苛つきに心臓を掴まれたようになりながら、そこを見詰めていた。

 

 それはとある倉庫街だった。倉庫街、とは改めて考えればいささか奇妙な言い方だが、実際に倉庫しかない街の一角である。

 

 本来は人気のない時間帯、精々風と波の音しかするはずのない極めて物静かな時間のはずだった。しかし、そこでは今、常にはない巨大な音が立て続けに鳴り響いている。

 

 それは例えるなら交通事故が、一般人にとっては一番連想しやすい音だろう。あれやこれやとバリエーション豊かな轟音を不定期にたてて何かが起こっていた。 

 

 金属同士のぶつかるような音、何かが走り回るような音、時折混ざる人の声は、男と女が一組ずつ。しかしその声は気合の声にしか聞こえず、声の主達が何をやっているのかを想像させるのは簡単だった。

 

 雁夜の視線の際にはやはり一組の男女がいる。

 

 そして彼らは、縦横無尽に倉庫街を駆け回りながら相争っていたのだ。

 

 一つ音がする度にコンクリートが抉れ、二つ音がすれば壁のように並んだコンテナが軒並み破壊される。目にも止まらない速さで駆け、時には屋根より高く飛び回り、彼らは数え切れないほどに交差してその度に周囲を余波で破壊しているが、自分達はかすり傷一つ負わず息も乱してはいない。英雄譚と言うより特撮のように荒唐無稽、常人離れではなく常識離れの争いが何ら前触れもなく人気のないエリアで繰り広げられている。

 

 異質というのも烏滸がましい二人が丁々発止とやり合っているのを、雁夜は高価なナイトスコープを使ってしかめ面をしながら見詰めていた。

 

「あれが、英霊の争いか……これでも大人しい方なんだよな」

 

 そう言いながら、雁夜は内心でひどく馬鹿馬鹿しい事をしているとふて腐れた。何が悲しくて、わざわざ高価な暗視装置込みの双眼鏡を購入してまで怪しい時代錯誤達のチャンバラを見物しなければならないのか。一番安いのを選んだと言っても、他の使い道もないというのに税込み2万円強は出費として少々痛い。これが学術的に野生動物でも見に行くというのなら、特に興味のない分野の話でもここまで嫌な気持ちにならんだろうに、と思わざるを得ないのが彼の本音だ。

 

 人によっては金を払っても見てみたいと思うかもしれないが、雁夜もスポーツはともかく本当の殺し合いを見物して喜ぶつもりはない。たぶん、古代ローマに行っても馴染めないだろう。

 

「聖杯戦争……想像以上にはた迷惑で恥知らずだよ」  

 

 周囲の惨状に目をやった彼が歯ぎしりをしたその時、姿さえ見えないほどの速さで動き回り目の中で残像を追うしかできなかった二つのシルエットが停止した。

 

 現われたのは、一組の男女。

 

 一人は緑を基本とした服に皮鎧を身につけた若い男性。何やら異様な模様……呪いでもかかっていそうな不気味なそれを書き込んだ布で被った槍を両手に一本ずつ構えているのが特徴的だ。

 

 もう一人は黄金の輝きを秘めているような美しい髪を束ねた小柄な女性で、少女というのがより正確な世代表現にしか思えない。青地の舞台衣裳のような格好の上に銀の甲冑を身につけている姿は絵に描いたような少女騎士の見本だが、彼女は無手であり騎士に付きものの剣も。槍も持っていなかった、それにしては両手を“まるで剣でも持っているかのよう”に構えているのが騎士ごっこをしている子供のようにも見えて、多少滑稽と言えば言える。

 

 それは緊張感に溢れた場の雰囲気と対峙する両名が遠目にも明らかなほど秀麗な容貌の為にそのような印象は薄いが、この場でとぼけたBGMでも流れたら自分は笑うだろうと考え、意外と余裕のある自分に雁夜は誰のおかげかとわずかな時間だけ疑問に思う。

 

「一瞬だけ何か持っているようにも見えたが……見えない剣でも持っているのか?」

 

 考察する雁夜の前で、両名は何やら言葉を交わしていた。詳細なやり取りは集音器などを持ち合わせない雁夜には分からないが、どうも褒め合っているかのように思える。彼らの争い自体をただのはた迷惑としか思えない雁夜にしてみれば、それはもしも当たっていたなら業腹なやり取りだった。

 

「……なんだ?」   

 

 自分の勝手な想像で腹をたてるもんじゃないと言い聞かせていると、どこかから異様な音が聞こえてきた。それはまるで雷の落ちる音のようだったが、空は晴れている。

 

 一体何かと思う間もなく、向こうで既に珍事が起こっていた。

 

「……牛車?」

 

 なんと、空から二頭の雄牛に引かれた戦車がサンタクロースのソリよろしく舞い降りてきたのだ。トナカイのそれとは違い派手に音をたてて慎みなく着地したそれは古代の戦車だったが、日本人の雁夜がまず思いついたのは平安貴族が愛用していた牛車だ。もちろん赤面物の間違いである。

 

「新しい英霊、か。派手好きで結構な事だ」 

 

 双眼鏡のレンズが届ける向こう側に現われた新たな登場人物は、燃えるような赤毛の大男だった。顎にも赤い髭を蓄える彼は見るからに豪放磊落な豪傑然としており、雁夜は“同じ顎髭でも時臣の貧相なそれとはえらい違いだ”と気にくわない男を無理やりけなす小物そのものの振る舞いをしている。

 

「我が名は征服王イスカンダル! 此度の聖杯戦争ではライダーのクラスを得て現界した!」

 

 見物人とは対照的に豪快な名乗りは港に轟き、周囲を呑み込むように圧倒する。基本的に小市民の雁夜は特に驚くが、英雄らしい名乗りだと素直に感じた。確か、聖杯戦争では弱点を隠す為に本来の名前ではなく七名それぞれに割り振られたクラス名で呼ぶ物だと“彼女”から聞いたが、きっと彼は聖杯戦争のルールなどよりも自分らしさを重視する男なのだろう。

 

 我の強い英雄らしいと言えばこの上ないほどらしい。よく魔術師に“サーヴァント”なんて呼ばれる関係に我慢していると思うが、ひょっとしてそもそもそういう認識がないのかもしれない。

 

 馬鹿だ阿呆だと罵る輩は多そうだが、雁夜はこの男のあっけらかんとした様子が好ましいと自然に思う。陰鬱さなど全く無い豪傑とはこう言う物なのだろうか。なるほど、ここまで破天荒でありながら好ましく思えてしまうのは王の資質という物の一面かもしれない。さすがはイスカンダルか。

 

「一体何を言い合っているんだか……」 

 

 三者三様の個性的な面々は、随分と言い争っている。正確にはライダーのイスカンダルに武器まで突きつけて、それまで争っていた二人が剣呑な顔を見せている。対してライダーは困っているようだがどこかとぼけている風にも見えた。突き抜けた馬鹿なのか、それとも馬鹿のふりをしている策士なのか。

 

「聖杯に招かれし英霊ども!」

 

 突如、かっと目を見開いたライダーが世界に轟けとばかりに大音声を張り上げた。よく通る太い声は目の前で吠えられているかのようで、音量と言うよりも声に篭められた気合がそれを周囲に伝播している。 

 

「今、ここに集うがいい!」

 

 かつての彼はこうやって万軍を操り、領土を何処までも押し広げて駆け抜けていったのだろうか。

 

「なおも顔見せを怖じる臆病者は征服王イスカンダルの侮蔑を免れぬものと知れ!」   

 

 大音声は何処までも響き渡る。耳の奥に痛みを感じて驚きながら、これで英雄とやらはひょいひょい釣られてくるのだろうかと首を傾げた。もしも現われるのなら、きっとそれは忍耐力に欠ける英霊に違いない……そう思っていた雁夜は、なんだろうか訳もなく英霊達に最も間近に建てられている街灯に目を向けた。

 

 それは磁石に引きつけられる砂鉄のように、どうしてだろうか目線をそちらに配らずにはいられなかった。そう言うものがそこに現われると、雁夜は悟るではなく“宣告”された。

 

 そして、その通りの者が現われた。

 

 雁夜の目が吸い寄せられた先に現われたのは、金色の光だった。

 

「あれは……」

 

 それは黄金が人の形をした結晶のような男だった。

 

 街灯の上に立って一段高い場所に己を置いた、黄金の全身甲冑に一分の隙無く身を固めて睥睨する英霊がいた。逆立てた黄金の髪、腕組みをして周囲を見下ろす姿は傲慢不遜を絵に書いて飾り立てたようで、しかし覇気に満ちている為にそれが滑稽にならない。人を見下ろすことが様になっている、王冠も玉座もないというのにそこにいるだけで王様という言葉がぴたりとはまる男だ。

 

 覇気、威圧、カリスマ。そんなものを実際に身につけている人間など、この世の何処にいるだろうか。

 

 仮に何処かにいたとしても、この男には敵わない。国家元首でも、偉人でも、才人でも、どこの誰でもこの男の隣に立てば色褪せる。ただの港に、倉庫街に立っているなどそれ自体が大きな間違いとしか言いようがない、そんな男が現われた。

 

「間違いない……あれは、時臣のサーヴァントだ」

 

 現世のどんな大人物も彼の前ではただの凡夫に成り下がる。なるほど、これは確かに英雄であり王だ。

 

 そんな男に否応なく目を引きつけられる雁夜は暴力的な吸引力に逆らうことはできないままだったが、心はそれを振り切って一つだけ念じた。 

 

「今だ、バーサーカー」

 

 たった一つのシンプルな言葉に、街の何処かで誰かが応えた。

 

 

 

 

 

 遠坂時臣は、現在彼の直面した事態に困惑しつつもそれに狼狽えない程度の余裕を持っていた。

 

 聖杯戦争において己の召喚したサーヴァントが最強であり、よって勝利は確定したと本気で思っている彼はマスターなど現世に止まる為の燃料補給器としか思っていない件のサーヴァントこそが胃痛と頭痛の元であったとしても、前言を撤回するつもりはなかった。それほどに黄金王の力は絶大で、扱いづらさを差し引いてもおつりが来ると思っていた。

 

 サーヴァントを召喚する際には既に確信を得ていた時臣だが、そのサーヴァントが実際にどういう力を持っているかも分からないのに決め込むあたり、彼は随分とうっかりだと言える。強力なカードがあるに越したことはないが、手綱を握れない力などむしろ危険なだけでしかないとは考えてもいなかった。ついでに言えば、強力な力を持ったサーヴァントが思う存分に力を振るえば街そのものが崩壊するかもしれないのだが、地元民であるにも関わらず彼はその問題を軽視していた。

 

 魔術とは秘匿するもの。それをあらゆるマスターとサーヴァントが守り抜くのを当然とも思っていた。

 

 だから英雄王が苛立ちを露わにして本来の計画を覆し敵対するサーヴァントやマスターの前に現われても最強のサーヴァントのマスターである自分の勝利は揺るがず、同時に英雄王もマスターである自分の事情を斟酌してくれるものと思い込んでいた。

 

 彼は、現実が自分の思い通りになるわけがないという当たり前の事実を英雄王の輝きに目が眩んで忘れ去っていた。

 

 古代の王が現代の魔術師の事情を斟酌できるのか、そもそも意慾があるのか。一朝一夕で現代社会に馴染むことができるのか。英雄王の力で秘匿に適した戦闘ができるものなのか。

 

 それを考慮していないわけではないが、極めて楽観的になりあまり深く考えなかった。  

 

 とにかく時臣は英雄王の力に溺れて戦術や戦略を放棄はしていなかったが軽視していた。そもそも根本的に専門外であるという大前提もあったが……ともかく、彼は考えていないことがあった。

 

 英雄王がとにかく目立つ英霊であり、どこの誰と契約しているサーヴァントなのかも既に分かり切っている。そしてそれはこの街に根を下ろす自分の身元も同様である。

 

 自分の側を英雄王が離れていると判明するのは、自分がサーヴァントに対して無防備であるとばらしているようなものである。

 

 地元であると言うのは様々に有利であるが……特に工房を構えそこに篭もる魔術師は居場所が丸わかりに近いと言う事。

 

 つまり……

 

「ご命令とあらば……この頼光、鬼になります」

 

 英雄王がいないと判明した自分の屋敷にサーヴァントが問答無用で最大火力をぶちかましてくるという可能性も、実際考慮されて然るべきなのである。

 

「牛王招雷・天網恢々!」

 

 長年にわたり先祖代々伝えられてきた屋敷が吹き飛び、工房に備わっていた防衛機構も、とある神父の命令で護衛としてつけられていた暗殺者のサーヴァントも、まとめて消し炭にされてしまった事も、ある意味彼の手抜かりの結果とも言えるのだ。

 

 まあ、半壊した屋敷で下手人のサーヴァントに見つかった挙げ句、路傍の石を見る目で見下ろされ……

 

「外れですか……」

 

 と無視されたので無事だったが、彼にとってそれはそれで屈辱だった。屈辱程度で済んだのは不幸中の幸いなのだが、それで済ませるようでは魔術師でもなければ男でもない。

 

 ちなみに、事の顛末を知ったとある無差別テロ犯が電撃的にマスターを襲った正体不明の主従を強敵と認知したのは余談である。

 

 ただどうしてマスターを見逃したのかは不明であり、その理解不能の行動が非常に不気味だとも感じていた。

 

 その翌日、とある遠方にある禅城という家が秘かに襲われ子供が一人誘拐された事、その子供が遠坂時臣の次女であると知り、手段を選ばず目的も不明な事に一人で恐れ戦いていた。

 

 

 

 

 

 

 実家に避難していたはずの妻が悄然とした様子で連絡を取ってきたおかげで、時臣はようやく桜が攫われたことを知った。

 

 その下手人が何者かと聞き、見覚えのある風体から自分を外れ呼ばわりしたサーヴァントと判明したが、そもそも何処の誰かは全くわからなかった。何が目的で娘を攫ったのか、人質と考えるにはそもそもいつでも殺せる自分を無視していったのだから話が通らない。だったら、桜そのものが理由なのか……類い希な素質を持った桜を狙う……聖杯を狙うサーヴァントとマスターの動機として弱いが、魔術師としてはおかしくない。だが、どうして桜の素質を理解しているのか? 

 

 ……そこまで考えて、時臣は該当者がいることを思い出す。間桐雁夜は、桜の素質を知っていた。

 

 落伍者がサーヴァントを引き連れて素質ある子供も確保し、今さら魔道に返り咲くつもりなのかと判断する時臣だが、葵はそれを否定した。彼女は件のサーヴァントと桜の会話を耳にしていた。

 

「桜ちゃん、でしたね。これより、私が貴方の母となり貴方を守ります。ですからどうぞ、私とマスターの所に来てはくださいませんか?」

 

「……」

 

 何も言わずに女の手を取る桜を制止する葵に、正体不明の武者のような女は極めて冷酷な目を向けた。それ以上、声一つでも発すれば斬り殺されるような目だった。

 

「控えなさい。貴方は一体何のつもりで母と子を遮るというのです?」

 

「母……こ、この子の母親は私です! 一体貴方は誰なんですか!?」

 

「貴方は子を捨て、子を裏切りました。それでもなお母親のような振る舞いをするなど、あってはならない横暴な振る舞い。控えなさい、下郎」  

 

 それ以上、葵は何も言えなかった。母親としての情など生存本能に押しつぶされてあっさりと消え失せていた。下郎呼ばわりされようとも息をするにも控えめになるほど恐れて怯えていた。ライオンを前にしたインパラのように凍りついた葵は時臣同様に見逃され、会話を交わしたおかげで夫とは異なり理由をそれなりの正確さで理解していた。

 

 桜の親を殺すわけにはいかない。

 

 たったそれだけの理由で見逃されたのだとわかっていた。そして、勘任せだがあのサーヴァントのマスターが何処の誰かを彼女に悟らせた。辿ったルートは違うが、結論は夫と同様だ。だが、結論から出す今後の方針には隔たりがあった。時臣は雁夜によって大いに屈辱を味あわされた。そのまま放置などはできない。更に、落伍者の分際で聖杯戦争に首を突っ込んでくるなど分際を弁えない真似をしている凡俗には魔術師の道理を教え込んでやらなければなるまいと使命感も覚えている。

 

 対して葵は、結論を出せないままでいた。

 

 雁夜ならば桜を虐待などするまい。かつては売り言葉に買い言葉でマキリの家そのものと雁夜を一緒くたにしてしまったが、葵もそれは理解していた。どういう結果になるにしても自分の元を離れてどこかの魔術師に養子に出されてしまうならば、いっそこのままとも思う葵だが、その考えはつまりあれほど変わり果てた娘を見てもこれまで同様に時臣の方針に決定的な異を唱えないと言う事であり、母性を否定した彼女は頼光に母親失格の烙印を押されても仕方が無い。

 

 それに葵は気がついていないし、例えそれを自覚しても変わることはできないだろう。

 

 そんな母親の内心をある程度まで桜は察していた。元々彼女は自分を虫地獄に捨てた時臣と黙認した母親に強い不信を抱き、綺麗なままの姉には嫉妬していたが……更にもう一度養子に出すと聞いて決定的に拍車がかかった。特に両親と雁夜が繰り広げた口論を彼女は全て聞いており、あの地獄から自分を救ってくれたらしい雁夜を、あの地獄に送り込んだ両親は否定し、あげつらい、追い出したのだ。

 

 今さらあの両親を、どうして受け入れる事が出来ようか。そんな両親を愛し愛され、尊敬すると言って憚らない姉をどうして受け入れる事が出来るだろうか。

 

 例え何処かにそれが出来る誰かがいるとしても、桜には無理である。

 

 だから桜は家族からの接触を全て無視して、人形のように日々を過ごした。せいはいせんそう、とやらの準備に時間を費やしている父親はともかく母親と姉は何かと桜に構い続けたが、彼女は全て無視した。お互いがただの石であるように過ごし続けた。それは彼女のささやかな抵抗だった。恨み言の一つも言わず泣きも暴れもしないのは、あの地獄で身につけた諦めに過ぎない。特に母親への不信は幼いながら父親以上に根深かった。もう一度地獄へ放り出すつもりのくせに、なんで今さら、まるでよい母親のように振る舞うのか。

 

 自分達の滑稽なすれ違いを見ていた神父の格好をした男が、戸惑いを見せつつも目を離さなかったのが桜は奇妙に印象深く感じたが、それに心が動くわけもない。

 

 そんなすり減った桜が突如現われた正体不明の女が差し出した手を取ったのは、葵たち家族への失望と当てつけが理由のほとんどを占めていた。

 

 向かった先に、唯一信用できる大人が待っていたのは彼女にとっては予想だにしない僥倖だった。とっくに諦めていたと思い込んだ雁夜が彼女らを出迎えたのだ。醜悪な魔術師の虐待にすり減った感情が正常に動いていれば、彼女は声を張り上げて泣きじゃくっただろう。家族に見捨てられた子供にとって、正に天から垂らされた蜘蛛の糸そのものだった。

 

 さらに、どういうわけか雁夜は一人ではなく二人の男性と共にいた。一人は見覚えのない壮年の僧侶だったが、もう一人が桜にとっては忘れられない顔に大きな傷がついた黒い男だったのは偶然なのか因縁なのか。

 

「やあ、はじめまして、お嬢ちゃん……私は蒼月紫暮という。しがない法力僧の一人だよ」

 

 ほうりきそう、という聞き覚えのない自己紹介をした男の笑顔は、不思議と擦り切れた桜の心にも響いた。

 

 彼らが言うには、この街に長年追い掛けているとある強大な力を持った妖怪の手下が頻繁に目撃されているのだという。

 

「妖ですか……それは私にとっても聞き捨てならない話ですね」

 

 日本で最も勇名轟かせる妖怪退治の専門家が乗り出すのは、至極当然の話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな怪物が一地方都市でしかない冬木に干渉する理由など、聖杯以外に有り得ないと断定する雁夜。決めつけは危険と言いながら、確かに最も可能性が高いのはそれだと認める面々、あるいはマスターなりサーヴァントなりを目当てにしている可能性はあるが……いずれにしても今、この時に干渉する理由が聖杯戦争に関係しているのは疑いないだろう。 

 

 本来はさっさと桜を連れて逃げ出したい、しかし行く当てもない上に聖杯戦争が理由では逃げ出すわけにもいかない雁夜と、元より化け物退治が専門であるバーサーカー頼光は協力を申し出て、感謝した紫暮は礼と、今後の協力もお願いしたい為に光覇明宗の霊地を提供して今後も頼光が現世にとどまれるように協力、そして桜と雁夜を保護して魔術師に手出しできないようにすると確約する。

 

 光覇明宗は西洋魔道を危険視しており、取り入れようとした上位僧を破門にしたほどなので雁夜も安心できる願ったり叶ったりの転機だった。

 

 何よりも、聞けばその怪物は日本の要石に巣くっており、いざとなれば日本そのものを道連れにする為に手が出せないという。この国に生きる誰にとっても他人事ではない上に、聞けばそれを倒せる唯一無二の霊槍に見込まれてしまったのが紫暮の息子であり、妖怪を要石から離れられぬよう封じ込めているのは彼の妻だというのだ。

 

 孤独に海の底で戦う妻と母を救う為に、そして人々の未来を守る為に死地に向かう息子の為に、この愚僧に力を貸してほしいと率直に頭を下げる父親の姿に、雁夜は感銘を受けずにはいられなかった。

 

 望まぬ戦いに巻き込まれつつも逃げ出さず投げ出さない我が子の為にとかけずり回る。孤独な戦いから妻を解放する為にかけずり回る。これこそが男の、父親のあるべき姿ではないか。

 

 時臣など比べものにならない立派な男だと、雁夜は紫暮を尊敬した。それは時臣……ひいては魔術師という生き方に肩まで浸かった男女ばかりを見てきた反動でもあるが、彼は奮起した。

 

 今後の為と奮起する雁夜の協力もあり、鏢と紫暮の元に続々集まる聖杯戦争の情報。

 

 その中に、子供を誘拐して“死ねないように”弄ぶ連続殺人鬼とそれに同調するサーヴァントを見つけた瞬間、雁夜は人として嫌悪と恐怖を感じ、頼光は母親としての自分を重視する為、雷のような激しく淀みない殺意を抱き……そして、鏢はその頼光が殺意を忘れるほどの強烈極まる怒りを見せた。

 

 それは目の前に相手がいるのであれば八つ裂きにしても飽き足らない、何をもっても許さないという激しい怒り。地獄の業火とは使い古された表現として陳腐もいいところだが、それでも他には足りる言葉はなかった。

 

 その激しすぎる怒りを即座に呑み込んで行動を開始する鏢に不安を覚える雁夜の危惧はその後、的中する事になる。

 

「貴様が……これをやったのか」

 

 光覇明宗の情報に基づき潜入した下水道の一角、そこに見つけた殺人鬼のアジトで鏢と頼光は地獄も生温い惨劇を見てしまう羽目になった。

 

「ああ、これね。そう、アートでしょ? いやあ、これでも結構苦労したんだけどね~……いや、それに見合うだけの芸術ができたって思うんだわ!」

 

 ところであんたら、どこの誰? ととぼけたセリフを言う若い男の周りは、常識人である雁夜が見れば失神するか反吐を吐くか、いずれにしても生涯における心の傷を抱えるは必至のおぞましすぎる光景が広がっていた。

 

 あるところに腕があり、あるところに足がある。それを繋ぐ胴も、全てを統合する頭も、曲がらぬものが曲げられ、あるべき所に虚ろな穴が空き、晒されてはならないものが露出している。何もかもが出鱈目に変形して隙間無く広い地下室一杯に密集させられていた。血の臭い、臓物の臭いが下水の臭いと混ざって耐えがたい異臭として空気を澱ませているその場は、正に狂気こそが支配する怪奇と猟奇の世界。

 

 生きたまま、死ねないままに子供を切り刻み、人体を利用したおぞましいオブジェが誇らしげに飾られた悪夢の結晶。例え狂気の芸術家といえど断じてこれを芸術などと称しはするまい。 

 

 ましてや、今この場にいる鏢ならば、一体どんな顔をするのか。

 

「ほらほら、これ! オルガンなんだよね、これ。ここを押したら音が鳴ってさ、いやあ、途中で壊れないようにするには苦労が……」

 

 傍らに並べられた誰かの内臓を飄々とした態度のまま鍵盤に見立てて押した殺人鬼の動きに呼応して、どこかから言葉にならない声が聞こえてくる。それは、はっきりと聞き取れないほどに曇り、ひび割れているが紛れもなく幼い子供のそれだった。 

 

 それが鏢の臨界点を突破させる引き金になった。

 

「この……馬鹿野郎があぁっ!」

 

 符ではなく、鏢でもなく、彼は拳を握りしめて狂人に叩き込んだ。石のように硬いそれを受けた狂人はそれまでの様子を一転させ、鼻血を流して悲鳴を上げながらのたうつ。太刀を抜く動作の為に一瞬出遅れた頼光だったが、サーヴァントである彼女が一歩遅れるほどに男の怒りは激しかった。

 

「子供を殺すだと……」

 

「げひぃっ!」

 

「弄んで、傷つけて、こんな目に遭わせるだと!?」

 

「げぺ、げへぇ!?」

 

「馬鹿野郎が、馬鹿野郎がぁ!」

 

 男の顔は、それまでの鋼の冷徹さをいっかな感じさせない激しく燃え上がる怒りの結晶体になっている。

 

 握りしめた拳を壁に押しつけた男に容赦なく叩き込み、こみ上げてくる激しい怒りを突き上げる衝動そのままに叩き込む。その形相の恐ろしさは化け物相手に歴戦を積み重ね、鏢同様にこみ上げてくる怒りに鬼子母神の化身と化した頼光さえ及ばない程だ。それを見て頼光は直感する。

 

 この男は父親か、あるいは父親“だった”のではないかと確信を抱きながら彼女は太刀を構えた。それは鏢が打ちのめしている狂人に追撃をかける為でない。もう一人、自分の獲物を見つけたからだ。

 

「リュ、リュウノスケ!? 貴様、何処の匹夫か知らんがよくもリュウノスケをぉ!」

 

「黙りなさい」    

    

 唐突に、それこそ降って湧いたように現われたのは魚か両生類を連想させる異様な男だった。どこか貴族と魔術師を主張するような装飾過剰なローブを着こんだ浮き世離れした姿は仮装でなければサーヴァントに間違いないだろうが、服装以上に外れているのは男自身だ。両目が半ば飛び出しているかのように突き出している様はカメレオンを連想させ、青白い肌は死んだ魚のようだ。血と臓物の臭いが支配するこの場所に、滑稽なほど似合っている笑うに笑えない奇人が目を血走らせて口から泡を吐いて鏢を睨み付けて襲い掛かってくる。

 

 異様な怖気を誘うそれに向かい、バーサーカーはそれ以上に怖気を誘う凄まじい笑みを浮かべて太刀を構えた。堪えきれない怒りを噛みしめているのは一人だけではない。それを思う存分ぶつけてもいい、ぶつけるべき対象が現われたのだから、何一つ遠慮することは無かった。

 

「残念ですが、もはやこの童達を救う術がありません……この上は、ひと思いに介錯してあげるのがせめてもの情けにして義務……ご異存は?」

 

 既に乱入者など目に入っていない頼光の澄んだ声に鏢はそれまでの怒りを噛みしめて歯を食いしばり、辛うじて頷いた。それを合図として、雷光が空間全てを満たし尽くして何もかもを消し飛ばした。

 

 しかし、たった一つ……正体不明の黒い影がどこへともなく消えていった事には誰も気が付かず、それが遠坂の家に帰っていったこともまた、彼らは与り知らないことだった。

 

「……この男は、なんという激しい怒りを見せるのだ」

 

 言峰綺礼、という男がいる。遠坂時臣の弟子として聖杯戦争に参加している罰当たりな神父だ。つまりは彼もまたマスターの一人であり、そのサーヴァントは背後に膝をついて控えている。髑髏の意匠をした仮面で顔を隠す黒ずくめの男だ。肩幅などから男性だと分かるがマント上の襤褸を着こんでおり、体格そのものはいまいちはっきりとしない。いずれにしても死神を連想させる見るからに不吉な男だった。

 

「マスター、何か?」

 

「気にする事ではない。それよりもアサシン、キャスターとマスターは完全に消滅したのか?」

 

 言峰は口では聖杯戦争の行く末を気にしながらも、実際には全く違うことを考えていた。サーヴァントとマスターは五感をある程度共有することもできる。彼は、アサシンを件の惨劇の場に潜入させてあの万人がおぞましいと嫌悪する光景を目の当たりにしていたのだ。そして、嘔吐するのでもなく、義憤を覚えるのでもなく、眉さえしかめず、自分の中に湧き出た正体不明の衝動を感じて、それに執着を抱いていた。

 

「あの時に感じた奇妙な高揚……この数ヶ月、遠坂家を見ている時に感じるそれを遙かに大きくしたような……これは、なんなのだ」

 

 アサシンを下がらせて一人になってから、彼は噛みしめるように独白した。

 

 言峰にはいつからか悩みがあった。

 

 情熱がないのだ。

 

 周囲の誰もが求める物に価値を見いだせず、周りが感動していてもそれを共感できない。成し遂げたい目標もなく、だから挫折もない。自分の心が、どこかまともではないのだと言う悩みを彼は抱えていた。だから父に従って信仰の道を志し、心身をいじめ抜く厳しい修行に身を窶した。その結果培った力を求められて殺し合いの中にも飛び込んだ。

 

 しかし、どこにも彼を滾らせる何物かは存在しなかった。

 

 その為に、彼はこの聖杯戦争にも惰性で参加していた。言峰の家と遠坂の家は代々の友誼が存在し、それに基づいて命を賭ける争いへの参加を求められたのだ。どうでもいい、と言う惰性とわずかに今度こそと言う期待も抱いて。

 

 その中で見つけた、戦場を何ら益無くかけずり回る男の存在に、あるいは自分と同様の苦悩を抱いているのではと考え、これまでにない衝動が湧く奇々怪々なおぞましいオブジェとその作成者に驚きを覚え、自分が決して抱けない強烈な怒りを見せつける男に嫉妬した。

 

 

 

 

 

 

 

 彼らがそれぞれの葛藤を噛みしめている間にも他の誰かは動き続ける。

 

 誰かがホテルを爆破するというテロを行い、繰り返される暴挙に雁夜と鏢を含めた光覇明宗の面々は魔術師の危険性を強く再認識して生命の冒涜を繰り返す聖杯戦争の根絶を志す。それは西洋魔道を危険なものと考える彼らにとって、至極当然の結論だった。 

 

 だからこそ、彼らはあらゆる陣営を敵に回して戦うことを決意する。それらの陣営が何を考え何を目的としているのかなど関係なく、聖杯戦争参加者はただ危険なテロリストでしかないのが彼らの受け止め方だ。それは強引であり危険な決めつけであり、同時に当然の話だった。手前勝手な目的の為に街中で暴れ回るような連中の言い分など、当人以外にとっては与太でしかない。

 

 戦いが続き、その中で王を名乗る英霊達が会談を始めても彼らには関係が無い。それよりも、戦況が動くにつれてちらほらと見え隠れしてくる婢妖の動向こそが彼らの危機感を煽っていく。

 

「やはり目的は聖杯なのか?」

 

「だが……白面が願いを叶える聖杯などなんで求める」

 

「そもそも、そんな物があるのか?」

 

 根本を突き崩す疑問を提示したのは鏢だった。

 

「願いを叶える聖杯、などそもそも胡散臭いが聖杯と言えばキリストの血を受けたアレだろうに、どうしてこんな日本の地方都市にある。どう考えてもバチカンなどそちら由来の地にあるのが道理だろう。御三家とやらが盗んだにしても何故、魔術師とサーヴァントが七組も集まって奪い合う必要がある? それも、わざわざ人を集めて悪趣味な遊戯のようにしてまでだ」

 

 質問をぶつけられたのは曲がりなりにも御三家の一員である雁夜だが、魔術を嫌悪している彼に答える知識は無い。

 

「そもそも、魔術師なとという連中がやっているはた迷惑な馬鹿祭りを鵜呑みにしては、それこそ馬鹿だ。何か裏があると考えるのは当然だろう」

 

 この場には魔術師擁護派はおらず、酷評にもっともだと頷く面々しかいない。

 

「白面が好むのは、恐怖、嫌悪、憎悪……一口にくくれば負の想念を奴は好む。それを力の源にする……我らにはそう伝えられている。だから、誰も敵わなかった……対峙する相手の恐怖を食って、元々強大な力を更に強くしていくのだからな」

 

「……ならば、白面とやらの狙いはこの街で起こる様々な怪異によって人々が抱く恐怖……?」

 

「かもしれん」

 

 そう言いながらも、紫暮と頼光はどちらも腑に落ちなかった。怪事件による恐怖と言っても、人々の反応は決して大きくはない。魔術師が秘匿を旨としているからだ。

 

「やはり、我々の気がついていない何かが……我々の知らない真実が……聖杯戦争にはあるのだろう」

 

 魔術師嫌いの雁夜に禁忌としている光覇明宗という魔術師との繋がりが全く無い彼らは、手に入る情報が少なすぎた。判断の材料が不足している上に今後もそれは変わらない一行は、即時に結論を下す。

 

「考えていても仕方が無い。どちらにせよ、成すべき事は決まっている……聖杯戦争と白面、どちらからも街を守るんだ」

 

 それに驚いたのは雁夜だけである。残りは全員、決断力がある上に武闘派だった。引くに引けない事情が彼ら全員にあり躊躇う理由は誰にもなかった。雁夜にさえも……いいや、聖杯御三家の一人として生まれ人生を魔術に蹂躙されてきた彼にこそ戦う理由があった。あるいは、戦わなければならない理由があった。

 

 斯くして一同の目的はぴたりと揃い、聖杯戦争などという不届きな死亡遊戯に真っ向から戦いを挑んだ。

 

 それに参加者が反発するのは、当然であり必然である。彼らにしてみれば崇高な自分達の願い、あるいは目標を叶える戦いを邪魔しているに過ぎない。それを、つまらないそこらの民衆の為に邪魔をするなど物の価値が分かっていないにも程がある。我らの望みの為に何を犠牲にしてもそれは仕方がない事であるか、あるいは光栄に思うことであると言うのにだ。

 

 ある者は無意識にそう考え、ある者はそれを公言してはばからず、ある者は分かっていても止めるつもりはないと嘯いて、ある者は後ろめたく思いつつも結局は止まらず、彼らは全面戦争を開始した。

 

「……貴様が衛宮切嗣……傭兵、そしてテロリストとして名を馳せた極めて危険な男……貴様のような男を受け入れるほど、この街の住人は自虐的ではないようでな。そうそうに退場してもらおう」

 

「幻想種相手の殺し屋、か……結局はいつもと変わらない」

 

 どちらも冷酷で冷徹な仮面を被った二人の男がぶつかり合う。殺人に長けた男と、滅妖を続けた男のぶつかり合い。己の分野で戦う男と勝手の違う戦いに手こずる男の勝負は力量の差ではなく相性の違いが明暗を分けていく。しかし、鏢はどこまでも切嗣を追いかけ、追い詰めていく。それは衛宮切嗣という殺人機械の人型パーツが加わっても変わらない。

 

「何故だ……何故、お前は僕らを狙う。お前の目的は聖杯戦争の勝利じゃない!」

 

「さあ……な……ふ……私が間桐を笑えんな……ふふ……」

 

 鏢は、切嗣と行動しているメンバーの中にいる女の内一人が彼の妻だと知った。そして、その女が人ではない事を見抜き、そしてとうとう掴んだのだ……彼女が、聖杯戦争における一種の生け贄である、と。

 

「聖杯……ひいては自分の願いなどの為に妻を死なせて、それでもぬけぬけと娘の所に帰ろうとするようなクズ男が父親などと認めたくない……それだけだ」

 

 銃弾も、爆弾も、罠も、全てを潜り抜けた男は自分に字をくれた一本の刃を構えた。

 

「自分にとって何より欲しくて……取り戻したくてたまらない宝をゴミ屑のように扱い、それでも手放さずに……見捨てられずに済む……そんな男を誰が殴りつけずにいられるか!」

 

 激しく燃えさかる炎が人の形を取って、衛宮を焼き尽くそうと襲い掛かる。だが、突き立てられたのは刃ではなく拳だった。

 

「……何故……ころ……さか……った……」

 

「聖杯に何を託すつもりかは知らん……だが、それが妻子の幸福と引き替えになる訳がない……貴様が父親であるのならば、な。馬鹿な夢を抱いている暇があったら、娘の所へ戻れ……妻と共に……母親と共に父親に戻れ」

 

 原型が保てなくなるほどに変形し、内出血で真っ青になった切嗣に背中を見せて鏢は去っていく。隙だらけの背中に、反射的に銃口が向けられるが、その無防備な背に切嗣の引き金は引かれることがなかった。

 

「勝手なことをいうな……何も知らない奴が好き勝手なことを言うな! これで、これで止められるものか! ここで止めてしまえば……これまでの犠牲はどうなると言うんだ!」

 

 およそ鏢のセリフは身勝手な押しつけだが、それ以上に身勝手で他人を傷つけてきた男の言えた義理ではない。承知の上で敢えて犠牲を出す選択をとり続けてきた男が、何を言うのか。

 

 しかし、衛宮切嗣は止まらない。自分の意見に従わない人間を遠ざける彼の周りには、彼の言う事に従い唯々諾々と実行する種類の人間だけしかいないからだ。それは違う、と誰にも言われないように生きてきた男は、敵である鏢の言葉になど従うはずがない。

 

 

 

 

 

 黒い雷が、現われる。

 

 それはどうしようもない絶望と悲痛の始まり。

 

「けけ」

 

 ばりばりと、ばりばりと虚空から雷が放たれる怪奇現象が切嗣の前で展開されたのは、鏢が立ち去りしばらくして、それでもうなだれたままだった男の首がいい加減に痛みを訴え始めた頃だった。

 

「けけけけけ」   

 

 聞こえるのは嘲り嗤う太い声。

 

「けぇーけけけけけっ!」

 

 それが一体何であるのかを理解できないままに警戒し逃亡手段を模索する切嗣が何もできない内に、その怪物は姿を現した。

 

「あの符咒士がいるからちょおっと様子を見に来たらよぉ。なんだか面白そうな奴を見つけっちまったなぁ、おい」

 

 ずるり、と雷の中心から這い出るように現われたのは黒い獅子。

 

 一言でならそんな風に言えるだろうか。しかし人間が混ざったような奇妙な体躯に虎のような模様、上半身を被うほど長い鬣、上唇から生えているような三本の刃。ぺらぺらと人語を話し、嘲りの表情を浮かべて唖然としている切嗣を見下ろすそれが真っ当な生き物なはずがない。

 

「幻想種……」

 

「よぉ、人間」

 

 それは襲い掛かってくる様子がなく、それどころか声をかけてきた。油断出来るはずもないが、それ以外にも何もできないと自覚する切嗣は隙を探しながら応じる。

 

「お前とあいつのやり取りは聞いていたんだけどよぉ……おめぇ、連れ合いと娘っこがいるんだって? そんで、連れ合いを生け贄にして盃に自分の願いを叶えさせた挙げ句、ぬけぬけと女房殺したその足で娘の所に帰るつもりなんだってなぁ? ひっでぇ親父もいたもんじゃあねぇか、ひゃは」

 

 切嗣は怒った様子もない。なんと罵られようとも、自分は自分の願いを叶えるのだから。こんな得体の知れない怪物に嗤われようと罵られようと、それがどうして自分の動揺を誘えようか。それにしても、聖杯を知っている? こんな奴が、どうして。

 

「って事は、だ。おめぇは女房は死んでもいいか殺してぇけど娘は大事だって事だよなぁ?」

 

 見当違いのセリフに嗤うこともない。ただ静かに自分の生き残る道を模索し続ける。

 

「だからよぉ。娘をここに連れてきて、食っちまってやろうかって思ったんだよ」

 

「…………」

 

 切嗣は石のように顔色を変えない。口先だけで娘を殺してやるなどと嘯いたところで、それに動揺など誘われるはずがない。

 

「さっきまでお前をぶん殴っていた男……あれは俺に連れ合いと娘を食われてんのよ。それで十五年も俺を追い掛けてきてんのさ。けけけけ、健気で健気で、気の毒すぎて嗤っちまうよなぁ!? ただの薬屋の親父が、敵討ちの為にこの紅煉様を追い掛けて化け物と戦い続けているんだぜぇ!?」

 

 それはあの男の情報。自分を倒したというのに見逃した甘い男の情報。ああ、好きなだけ舌を回すがいい。滑りがいい油を使うだけ、自分の生き残る可能性が高まる。

 

「だからよぉ……面白そうじゃねぇか。あいつの前で、あいつの一家とおんなじ目にあっちまう可哀想な奴がいたら……どぉんな顔をするんだろうなぁ?」

 

 べろり、と舌なめずりをする。

 

「だからよぉ、お前もここで投げだすんじゃぁねぇぞ。あいつを遊び終えたら……次の玩具はお前だ」

 

 侮られることに対する怒りなどない。それはそのまま自分の勝利に繋がるのだから、もっと油断しろと言いたいくらいだ。

 

「ああ、そうそう……もしもガキを見つけられねぇと思っているんなら……まあ、そんな期待はしねぇ事だ」

 

 紅煉と名乗った幻想種は全身から黒々とした奇妙な稲妻を放ち、周囲を吹き飛ばした。何もかもなくなった空へと飛び立ちながら紅煉は切嗣を嗤う。

 

「白面の手は、世界中の何処にでもいくらでも伸びるんだからよぉ」

 

 にたぁ、と嗤う顔はまるで人間の悪党のようだった。

 

「白面……」

 

 一体何を示しているのかも分からない言葉を噛みしめ、衛宮切嗣は消えていった怪物を見送り、情報を取捨選択して娘を切り捨てた。この戦争に勝利する為に不要だから、それは当然だった。

 

 聖杯を手に入れて願いを叶えなければならないのだから、それは仕方の無い取捨選択であり、いつもしてきた作業だった。右と左を同時にとれないのだから、重要な方を選ぶ。それだけだ。

 

 娘と自分の願望を天秤にかけて自分を取った男は、妻を生け贄にすることを受け入れて夫の資格を失ったのと同様に今度は父親の資格を失った。ただ、それを自分自身も含めて誰にも知られることは無い。知られても彼は妻子にきっと許される。

 

 彼と彼を囲む人間関係は、そういう都合のいいものだった。

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「見つけたぞ、時臣!」

 

 雁夜は家を失って所在が不明となっていた時臣を、とうとう見つけ出した。気に入らない男、虫の好かない男はこの期に及んでもこざっぱりとした格好で余裕を持っているように見える。その貴族ぶった態度に一年前の雁夜なら鼻白んでいただろう。しかし、今はもう目にも入らなかった。

 

 それよりも大切なことがあり、優先すべき事があった。

 

「間桐雁夜……偉大なる魔道から落後した男が今さら何の用かね? 私は今、もっと重大な仕事に着手している最中でね……君ごときに割いている時間は無いのだが」

 

「決まっているだろう。お前のことを叩き潰して、聖杯戦争を終わらせる為に来たんだ!」

 

 雁夜の見せつける手の甲には、赤く輝く奇妙な紋様があった。

 

「ほう……手に令呪がある……なるほど、焼け落ちた家と共に既に滅びたと思っていたマキリだが……最後の一人として聖杯を求めるのかね。浅ましいと笑うべきか、気概があると湛えるべきか」

 

 聖杯戦争を終わらせる、という雁夜の言葉を“聖杯を手に入れる”と解釈した時臣の勘違いを訂正しなかったのは、偏に小さな問題だからだ。彼の理解など求めるわけがない。

 

「焼け落ちたのは遠坂も一緒だろ」

 

 嘲る意図は一切無い、単純に言い返しただけのセリフに時臣は敏感に反応した。

 

「焼け落ちた、か……あの時に我が屋敷を燃やしたサーヴァントは、やはり貴様の仕業か! あの時失われた我が家の書物にどれだけの英知が蓄えられていたのか、失われた礼装にどれだけの重みがあったと思っている!? それを私に対する個人的な怨恨で失わせるなど、偉大なる魔術の冒涜にも程がある。所詮凡愚は凡愚に過ぎないとはこの事だ! ……報いはくれてやる、せいぜい己の悪行を後悔するがいい。ああ、それにあのサーヴァントは禅城の家も襲ったな。マキリは今さら桜の素質が惜しくなったと見える」

 

 動機をまるきり勘違いしている時臣だが、それでも娘を攫った事への怒りはある。独り善がりで見当違いだが、娘に対する愛情がないわけではないのだ。だがそれは娘を不幸にした愛情であり、ついでのように口にしては余人に伝わるはずがない……ましてや、相手は時臣に桜に対する愛情など欠片もないと信じ切っている雁夜である。

 

「なんだ、人買い。商品を横取りされたのが気に障ったか? 優雅とか言う失笑ものの家訓は飛んで消えているぞ……たかだか魔術のついでみたいに娘のことを口にする上心配の素振りも見せないあたりお前の本質が透けて見えるな。魔術なんて馬鹿げたアナクロに腐れ果てた妄執でしがみつくゾンビめ」

 

 理解し合うつもりのない両極端の口論はどこまでも相手を傷つけ貶める為の舌戦以外にはなり得ず、ヒートアップは終わらない。

 

 だが、雁夜は魔術など一切使えない。乏しい魔力を全てサーヴァントに回しているのだから必然の結果だ。しかし、無防備なままで今の時臣の前に立つのは危険であり挑発などは論外だ。それでも彼の口を止めることができないのは、長年にわたって溜め込み続けてきた鬱憤があるからだ。だが雁夜には一つの確信があった。

 

 こいつは絶対に先に攻撃はしてこない。

 

 時臣は自分を格下と見切っており、それは確かに事実だ。自分が上だという明確な自負があるからこそ雁夜には本気が出せない。ましてや明らかに怒りを堪えている今は、手を出してしまえばそれこそ時臣が後生大事に抱えている優雅などと言う家訓を潰すことになる。雁夜が攻撃を仕掛けるか、せめて戦闘態勢を取るなどの付け込む隙があれば……あるいは自分と同等の魔術師なら別だが……無防備に突っ立っている落伍者と嗤われるべき雁夜にお得意の魔術をぶつけるのは、時臣にとっては恥ずべき下品な振る舞いでしかなかった。

 

「……我が遠坂を下等な人買いと同様に扱うとは、やはり貴様のように口が過ぎる男には誅伐が必要なようだな」

 

 時臣は手に宝石を持ち、雁夜の予想とは真逆にためらいなく襲い掛かってくる。それを防ぐ手段を彼は持ち合わせてはいなかった。

 

「雁夜君。何やら因縁があるようだが少しばかり口が過ぎたな」

 

 両者の間に乱入したのは、錫杖を構えた紫暮だった。

 

「雁夜君はあの方を抑えてくれ。君を殺されそうになったと言う事で怒り心頭らしい。彼の方は私がどうにかするよ」

 

 げ、と顔を青ざめさせたのは無理を言って一対一にしてもらった挙げ句に読み違えた間抜けである。彼はこの後でとてもとても苦労したが、全て自業自得の一言で済む。

 

「さぁて……あんたが遠坂時臣……聖杯戦争なんてあまりに迷惑な争いを起こした御三家とやらの現当主……だな」

 

 何処の誰かも分からない袈裟をつけた法体の男が、飄々としていながらも鋭い目で魔術師を見詰める。

 

「ここはあんたが管理する土地……まあ、そんな物は魔術師の勝手な言い分だが、それでもそういう土地を蹂躙するような争いを看過するどころか推奨して参加するってのは……見下げ果てた物だな」 

 

「何処の退魔か知らないが、しゃしゃり出てきた身で随分と好き勝手なことを言う。君も聖杯目当ての盗賊かね?」

 

「そんな物は求めないし、むしろ胡散臭いんでぶっ壊した方がスッキリすると思っているが?」

 

 魔術師にとっては何をおいても欲しいはずの宝への暴言に目を見開いて信じられない、有り得ないとこぼす時臣だが、紫暮はそもそも魔術師ではない。そして魔術師以外に聖杯が至上の価値を持っているとは限らない。

 

「まあ、そんな与太話はさておいて……聖杯戦争なんてタチの悪い儀式をしている迷惑な連中をいつまでも野放しにしておけるほど……我々にも余裕があるわけでは無いのでね。もっと大きくて恐ろしい戦いがこの国には迫っている。だから……」

 

 これで君たちのゲームはお終いだ。

 

 静かに、一切の妥協無く呟いた男の背中から、何か円盤状の物が高速で回転しながら飛び出してきた。襲い掛かってくる何かを視認するよりも先に、時臣は迎撃の魔術を放っていた。

 

  

 

 

  

 

 

 砂塵を上げて駆け抜ける巨躯の男が、暗殺者達を一気呵成に平らげた。

 

 二槍を携えた美丈夫は剣士のマスターに人質を取られた挙げ句、呪いの命で自害を強要されて怨嗟の叫びと共に消えていった。

 

 雄牛に戦車をひかせた偉丈夫は、黄金の王によって配下の軍勢諸共に滅ぼされた。

 

 そして、今。

 

 黄金の王と白銀の騎士が対面する。

 

「……アーチャー……っ」

 

 炎に焼かれて無惨な姿を衆目にさらすことを恥じるコンサートホールで、彼らは対峙した。

 

「遅いぞ、セイバー。あのような槍騎士と戯れる為にこの我を待たせるとは、不心得も甚だしい」

 

 共に、傷はない。だが両者の間には明らかに差があった。黄金の王は見るからに気力が充実しているが、白銀の騎士はどこか煮え切らない迷いのような、怯みのような、そんな物が典雅な面差しに現われていた。

 

 彼らがどういう道筋でここに現われたのかを、お互いは知らない。だが彼らは互いの辿った戦いの積み重ねが今の自分達を形成しているのだと理解した。

 

 彼らは互いに勝利を重ねた。だが、それが本意であるか不本意であるかがモチベーションに小さくはない差を作っている。

 

 雄敵を倒した黄金の王には不敵な笑みを。

 

 下劣な騙し討ちを仕掛け、敬意を払うに値する雄敵を貶めた上に殺してしまった白銀の騎士には、沈痛な愁眉を。

 

 だが、騎士の表情は一変した。

 

「あ……」

 

 彼女は見た。

 

 黄金の盃が、まるで黄金の王への捧げ物であるかのように彼の背後に浮いているのを。

 

 それが、彼女の求め続けた聖杯という宝であると理屈以外の何かで察した。それを手に入れる為に、彼女は高潔なる騎士と自分自身の誇りを踏みにじる下劣な裏切りを認めたのだ。

 

「フフ、なんという顔をしている? 我が財宝に見惚れるにしても少しは慎め。そう露骨に欲を面に出しては品位に欠けるぞ。まるで飢えた痩せ狗のようではないか」

 

 揶揄する黄金の王にセイバーはぎり、と音がしそうな強烈な視線を突きつける。まるで、それ自体が彼女の剣であるかのように鋭い。

 

「そこを、どけ……私は聖杯を……手に入れる……っ!」

 

 セイバーは怒りに囚われていた。自分と聖杯の間に立ち塞がって己こそが所有者であると嘯く男が殊更に不愉快であり許せない。

 

 その怒りは彼女の瞳をいつの間にか黄褐色に変質させるほど根が深い。まるで魂が澱んでいるような色の瞳で見据えながら、彼女は剣を構えた。だが、それに黄金の王は応じる様子がなく、静かな嘲笑を持って彼女を迎えるだけだった。

 

「いきりたつのはいいが、セイバー。貴様は一つ忘れているぞ。未だ脱落したサーヴァントは四騎に留まっている、という事実をな」

 

 それは彼女の足を止める威力を持った爆弾のような言葉だった。事実というのは常に重たい物だ。

 

「バーサーカー……」

 

「そう、それよ。ついぞ姿を見せない狂犬が未だに野放しになっているそうではないか。いや、狂犬をこれだけ隠し通すマスターのしつけの腕をこそ褒めそやしてやるべきか? まあ、それでどうして残り二騎になるまで顕現せぬはずの聖杯が降臨しているのか……所詮は雑種共の儀式、いかなる不備が起きても不思議ではないが……これほどお粗末な万能の窯でも欲しているようだな、セイバー」

 

 天上天下を悉く下に見る言葉が、セイバーには嘲笑にしか聞こえない。それは決して間違いではないのだが、同時に彼女の中にあるアーチャーへの嫌悪と敵意の表れでもある。

 

「狂戦士の首はいずれ私が取る。だが今は貴様だ、アーチャー!」

 

 彼女は剣を構えた。

 

 それはどこまでも白銀の刃を輝かせ、繊細で優美な造形を施された青と黄金の柄が内側から光っているかのようだ。聖なる剣というのがあれば、これこそ正にそれだろう。宝剣、聖剣、古今東西数多あれどこれ勝る物は無しと一目見ただけで誰もが認めるだろうという美しさがそこにはあった。それはまるでセイバーその人が剣となった姿であるかのように見える。

 

 命を切る汚れた武器でありながら、どこまでも優美である。その有り様もまた彼女のようだった。

 

 そんなセイバーの敵意と鋭く突きつけられる切っ先を見詰め、それでも黄金の王は余裕を崩さない。それは自分の力への金剛石より硬い自負の為だ。

 

 全身から発散される覇気によって我こそが最強ぞと吠える彼の背後に、まるで水面のような波紋が幾つも広がる。その色もまた黄金だったが、波紋の中心から現われた物もまた黄金だった。

 

 剣があり、槍があり、斧があった。

 

 矛も、鎌も、長刀も、およそ武具と呼べる全ての種類が黄金の波紋から切っ先を覗かせている。宙から現われるそれらは決してセイバーの持つ聖剣に見劣りしておらず、そのまま彼らの戦力差を明確に示している。その大きすぎる差が飢えた群狼のように襲い掛かってきたならば、彼女はあっと言う間に肉塊として餌となるのが定めだろう。

 

「セイバーよ……妄執に堕ち、地を這ってなお、お前という女は美しい」

 

 アーチャーの声は背後に構えられた兵器群に似つかわしくない穏やかささえ持っているが、それはセイバーの警戒を否応なく高めるだけだった。今、この場で己のことを美しいと称する男の称賛など、虚仮にしている以外の何があるというのか。

 

「奇跡を叶える聖杯などと、そんな胡乱な物に執着する理由など見当らぬ。お前という女の在り方そのものが、既に類い希なる“奇跡”ではないか」

 

 褒め称えられている。それはどうやら本心からの発言らしいが今この時……最も相応しからぬ時を選び抜いたように並べられる賛辞に困惑させようという意図があるならば成功したと言ってもいい。

 

「貴様は……何を……」

 

「剣を棄て、我が妻となれ」

 

 提示された答えはセイバーにとっては理解不能の与太であった。不意打ちにしても程がある妄言に、怒りに燃えていた心も沈静される。よもやと言えばこれ以上はない狙い澄ませた一撃はさすがアーチャーと褒める所だろうか。

 

「……な、馬鹿な……なんのつもりだ!?」

 

「理解できずとも歓喜はできよう? 他ならぬこの我が、お前の価値を認めたのだ」

 

 アーチャー当人は、そのような意図は全くない。ただ己にとって当然の帰結を当然の論法で口にしているに過ぎない。堂々と胸を張る男に少女は困惑し、隙を見せないのがせめてもだった。

 

「下らぬ理想も誓いとやらも、すべて棄てよ。そのようなモノは、ただお前を縛り、損なうだけだ。これより先はただ我のみを求め、我のみの色で染まるがいい。さすれば万象の王の名の下に、この世の快と悦のすべてを賜わそう」

 

 傲慢とはこの男を示す言葉だ。その言葉は困惑していたセイバーが鎮火しかけていた怒りに質と量を併せ持った燃料をくべている。

 

「貴様は……そんな戯わ言の為に……私の聖杯を奪うのか!?」

 

 吠えるセイバーに、武具がミサイルのように放たれた。鼻先を掠める衝撃だけで彼女は揺らぎ、たたらを踏んだ。

 

「お前の意思など訊いていない、これは我の下した決定だ」

 

 傲慢な男の口元には嗜虐の笑みが浮かんでいる。セイバーが自分に抗う姿だけでも充分に面白いと言わんばかりだ。剣を握り斬りかからんとするセイバーも、このアーチャーにとっては慰み者の愛嬌を楽しむ愉悦に過ぎない。

 

「さあ、返答を聞こうではないか。問うまでもなく決した答えではあるが、お前がどんな顔でソレを口にするのかは見物だ」

 

 答えは確かに決まっている。口にするまでもない。

 

「断る! 断じて……」

 

 それを言い終えるよりも先に、光が殺到して彼女の左足を抉った。

 

「恥じらうあまりに言葉に詰まるか? 良いぞ。何度言い違えようとも許す。我に尽くす喜びを知るには、まず痛みを以て学ぶべきだからな」

 

 数多の切っ先が宙に浮かんで彼女を威嚇する。それに歯がみしつつ、セイバーは強烈な怒りに臓腑が焼けんばかりだった。

 

 なぶり者となり慰み者になるくらいならば、刺し違えてでも一矢報いてやりたい。だがまだだ、と必死に自分を抑える。まだ自分には余力があるのだ、いかに怒りに燃えようとも、それ以上に重要なのは、背後に現われた聖杯だ。アレを手に入れることが、何よりの悲願であるばらば、一時の屈辱と怒りぐらい飲み干せなくてどうするのか。

 

 逃げるしかない、と彼女は腹の中で吠える竜のような怒りを宥める。幸いまだ余力は残っており、相手は隙だらけに油断している。一矢報いようとすればこちらの死力を篭めた一撃をも防ぎかねない男だが、逃亡ならば可能性は高い。なぜならば、まだ第三のサーヴァントが残っている。あれはおそらく、最後の舞台を自分達で演出したいと考えているだろう。

 

 だが、ここで逃げ出すには男の背後で輝く聖杯があまりにも惜しい。

 

 欲をかきすぎるとろくな事が無いのは世の常だが、それに納得できるほど彼女の執着は浅くない。同時に、その執着に振り回されるほど未熟ではないはずだが……それでも、なお……

 

 躊躇いは命取りに直結する。ここから先は、正しく命を取られる結末に他ならない。だと言うのに、聖杯から目が離れない。どうしようもないジレンマを振り切るには、彼女の背負った何かは大きく、彼女の肩は細すぎた。

 

「求婚にせよ愛の告白にせよ、あまりにも無粋ですわね」

 

 その彼女を迷いから強制的に解放したのは、新たに現われた涼やかでありながら何処か粘つきを覚える声だった。

 

「貴様……」

 

「バーサーカーか!!」

 

 それは宙に漂う聖杯のすぐ側に現われた。セイバーとは対照的に女性としての特徴をこれでもかと保持している湖のように雅で、しかしその下には恐ろしい溶岩が滾っているような独特の印象を持つ和装の女だ。

 

「バーサーカーが、会話を……?」

 

「私、バーサーカーになったのが不思議なほどに狂化レベルが低いのです。恐らく、セイバーもアーチャーも枠が埋まったから適当に押し込められたのでしょうね」

 

 嘘だっ! といつかどこかで誰かが叫んだような気がした。赤毛の少女のようであり、黒毛の少年のようでもあった。

 

「そのような事はどうでもいい。それよりも雑種、疾くその場で己の首を切り落とすとよい。この場はセイバーと我の婚姻の為にある。貴様のような狂犬は聖杯を顕現を邪魔する杭として場違いな上に邪魔だ。速やかに己を裁くがよい」

 

 冷然と、傲慢に男は死んでしまえと命令する。それに対して第三の英霊は冷たく見返すと腰に帯いた太刀を抜き……すぐ側の聖杯に突きつけた。

 

「なっ……」

 

 顔色を面白いように変えたセイバーは思わず一歩を踏み出す。まるで聖杯を人質に取っているようにしか見えないからだ。

 

「貴様、一体なにを考えている?」

 

 アーチャーもまた、動揺はしていないが訝しがっていた。聖杯を目当てに群がるようなサーヴァントが脅しとは言え聖杯に切っ先を突きつける。ハッタリと判断しないのはセイバーのように相当煮詰まっている相手だけだ。

 

 それもわからないとは、何のかんの言っても所詮はバーサーカー……そう高をくくろうとした英雄王だが、それさえも斬って捨てるのが狂戦士の本音だった。

 

「この厄介物を斬って捨てる、それだけです。一体何をそれほど不思議な顔をしていましょうや?」

 

「……正気か?」

 

 二の句をどうにか告げたのはアーチャーのみ。セイバーに至っては唖然としている。二人の英知と直感は、頼光の言葉が本音であり本気だと悟っている。まさか、こんなサーヴァントがいるなど彼女らの想像を超えていた。

 

 同時に、それはそれぞれのマスターもだ。紅煉と紫暮それぞれと出会い、時には交戦した彼らはそれでも自分の道を信じて、自分を信じてこれまでと同じ生き方を貫き続けている。彼らのそれを意志が強固と褒めるべきか頑迷とけなすべきかは時と場合によるだろうが、きっと今回は後者だ。それも、とびきり周りに迷惑な類の頑迷さだろう。

 

「むしろ、私としては仮にも英雄と称賛された身で、無辜の民草を食い物にしようとする魔術師共の下劣な宴に助力する皆様の方が信じがたく思います。真の英雄を名乗るのであれば、邪悪なる魔術師の浅ましい企て、一刀のもとに斬り捨ててこそでは?」

 

 彼女の目は二人の英霊、ひいてはその背後にいるマスターとこれまでに消えていった全てのマスター、英霊を侮蔑していた。

 

「ましてや私は、そもこの国の英霊。未来の日の本、その先の末まで見守るのが使命にして喜び……それが現世における人と人との争いによるのであれば闇雲に介入するのは筋が違いますが、かような人外における災厄であれば全霊を以て護国に励むは我が使命」

 

 うっすらと笑う彼女は己を誇り、使命感に満ち溢れて敵対者を見下ろしている。

 

「浅ましい私欲に駆られて、罪なき民草を蹂躙しかねない偽物の騎士道を掲げる騎士にはわかりませんか?」

 

 彼女にだけ言葉をぶつけたのは、単純にアーチャーには言っても無駄だと端から切り捨てただけだ。

 

「私欲などではない! 私は……私の故国を救う為に戦っているのだ!」

 

 セイバーにしてみれば、そこは譲れない。例えなんと罵られようとも聖杯を手に入れる覚悟は当然持ち合わせているが、それを私欲と見下されては言い返さずにはいられない。

 

「故国? それこそお笑いぐさ……いえ、我ら日の本にとっては笑止千万を通り越して噴飯ものです。貴方の故国がどこで、民がどんな目に遭ったかなど全く存じませんが……それを理由にして日の本の民草を危機に陥れるとは、なんたる独善。いえ、元より他国人の貴方に我が国の民など葦も同然、思うままに踏み潰して聖杯まで駆け抜けますか。騎士とはかのようなものなのですね」

 

 聖杯に向けている刃と変わらない鋭さがセイバーを見据える。もしもそれが人を害する力を持っていたのなら、彼女は確かに両断されていた。

 

「騎士とはそのようなものでは無い! 我ら騎士は罪無き民を害しはしない、それを成す不逞の輩をこそ討つ者だ。これ以上愚弄するならば、その舌切り落とす!」

 

「ほう、ならば何故あなたは己のマスターを討たないのです?」

 

燃える劫火さながらの怒りに晒されようとも。バーサーカーは弾劾の言葉という水をかけていたってあっさりと鎮火させてしまった。

 

「この聖杯戦争において、大きな災いは二つ。一つはキャスター及びマスターによる子供を主とした快楽殺人……いいえ、殺人という意識さえありませんでしたわね。あれは。子供を材料に自分好みの“生きた芸術品”を作り上げた度し難い下劣な人以下の悪鬼外道」

 

 一拍をおいた頼光の目はセイバーこそ射貫く。そのやり取りをアーチャーが口を挟まず楽しげに見ていたのは、その後の展開を予想していたからだろうか。

 

「そして今ひとつは、ホテルの爆破……それは、貴方のマスターが行ったことでしたね」

 

「!」

 

「あのような大破壊を事前に止められなかったのは至極無念。よもやあれほど愚かな真似をする大馬鹿者がいるなどと考えもしなかった侮りには慙愧の念に堪えません。そして、止められたにも関わらず止めなかった者には軽蔑と失望を抱きました。更に、貴方方の陣営はランサーのマスターにも無道を働いた。連れの女性……おそらくはただの協力者ではない。マスターと浅からぬ仲の女性を人質に取りランサーを自害させて……更には敗退し、既に聖杯戦争から明確に脱落したマスターもその婚約者も殺した。正しく冷酷にして無慈悲、残酷に……おそらくは、敗者から恨みを買ったと自覚したから。あるいは、ただ機械的に? それだけでも既に下劣の誹りは免れないというのに、あまつさえ、それはあなたとランサーの決闘の中で行われた」

 

 セイバーははっきりと軽蔑の目を向けられて、怯んだ。何をしても、なんとしても勝者として聖杯を獲得すると心に決めたとしても……それでも一歩も引かないと言うだけで精一杯だった。彼女の中に、後ろめたい思いがあるからこそ顔に出さないのが精一杯だった。

 

「あのような真似をした輩が騎士として恥じることがないかのような大層な物言い。どうやら正真正銘、恥を知らぬ厚顔の類か? いずれにしても、あなた方主従は己の我執の為なら何をしてもいいと思っている様子……むしろ聖杯を手に入れるに最も相応しからぬ……いいえ、最も聖杯を手に入れて欲しくない陣営です」

 

「それは!」

 

 セイバーは何を言えばいいのかわからないが、何かを言いたかった。

 

 だが“それは”の後に何を言えばいいのか。自分もマスターに嵌められたのだ、と言えばいいのか。マスターとの意思疎通さえもろくに敵わず、まるで子供の嫌がらせその物の態度でずっといない者のように扱われて、それでいて駒としてはきっちりと使われている。ただし、囮のようにお前の力を頼りにしているわけではないと言わんばかりの戦術ばかりで。

 

 しかし、彼女にそんな泣き言を言う資格はない。

 

 騎士としてあり続けると決めたからこそ。そして何よりも……聖杯を手に入れるなら何をしてもいいと、どう蔑まれようと構わないと言い切ったマスターの言葉を是としてしまった彼女にはそれを言う資格を永遠に失った。もう一度資格を手に入れるには、代わりに恥を失わなければならないだろう。そしてその全てをバーサーカーは知ったことでは無いと斬って捨てるに違いない。

 

 そして、それは正しい。彼らの主張も彼ら以外から見れば自己正当化の戯れ言だ。聖杯戦争に参加している全ての参加者、誰一人とっても市民を納得させる事の出来る主張などできるまい。

 

「座興はそこまでにしておけ、狂犬。これの苦悩と醜態を愛でるのは我の特権。貴様ごときが手を出していい話ではないわ」

 

 そんな葛藤とは縁が無いどころか、苦悩の様を観賞して愉しむのがこの男の流儀だ。頼光の舌禍はセイバーだけでなく彼もまた当てはまっているのだが、我こそ絶対者と胸を張る傲然たる男にはなんら痛痒を与えずにただ娯楽を提供するのみである。

 

「私はただ民草の怒りを代弁しているに過ぎませぬ。そのような悪趣味を持ち合わせてはおりませぬし、何よりもそこまで彼女に興味は持てませぬ。悪鬼ごとき、虫のように潰すが当然でしょう?」

 

 セイバーを指せば誰もが騎士のこうあるべき姿と称賛し、高潔と憧れるに違いない。それ以外の目で見るのは、よほど世の中を拗ねているひねくれ者しかいないだろう。だが彼女は心底から悪鬼とさえ言い切った。セイバーが何者だろうと、どれほどの覚悟を抱き、どんな過去を背負い、どんな願いを持っていようとも彼女は一顧だにしない。悪事を働いたマスターと歩みを共にする街の災禍としか見ないのだ。

 

「悪鬼、滅ぶべし」

 

 だから彼女は聖杯に太刀を向ける。これが全ての元凶。断ち切ればマスターの求める物は消失し、英霊もまた現界を維持する力を失って幻のように風に流される定めなのだから。

 

「……本気か? それに手を出せば貴様も消失するぞ」

 

 口では疑問を呈しつつも、アーチャーは疑問など全く持ち合わせていない顔をしている。

 

「別に構いませぬ。繰り返しますが私の目指すは護国。民草を守るが我が使命なれば、なんで己の身を案じて浅ましく残ろうとしましょうか……もっとも、これを切り捨てても私だけは聖杯以外の力を持って長らく大地に留まる事となるでしょうが」

 

「なに?」

 

 消失も願いも彼女の刃を止めはしないと承知の上で言葉を重ねた王は、むしろ女が潔く消えていくとも思っていた。それは、ここまで言ってのけた責任のようなものだ。だと言うのに、残るつもりだと? それができる事よりもやる気になっている方が意外な答えだ。

 

「手前味噌になりますが……私は日の本に長らく語り継がれる英霊。源氏たる私の子孫を名乗り、讃え崇める人々は今以て数多。この国に点在する霊地を提供してくださる方々も、私をくくる社もまた引く手あまた……ましてや、この国はこれより有史以来二度目の大難をこうむる際なれば、私の微力を欲する子孫が手を尽くしてくださります」

 

「ふん、なるほどな。しかし国難……?」

 

「これより、半年も経たぬ……いいえ、ほんの数ヶ月の内にかつて大陸で幾つもの国を弄び滅ぼした大化生が海の底から這い上がってくるのです。かつてよりも、遙かに力を増して……私は請われ、その化生との争いに参戦することを決めました」

 

 だから、聖杯戦争などに関わっている暇などないのですよ。

     

「それに、この地に件の化生の配下が姿を現し、何事かをもくろんでいるとの話があります。その目的とこの災厄の盃が無関係とは思えない……ならば、より大きな災いをもたらす前に破壊するのは当然の道理です」

 

 言外に、お前達もまた災厄の一種だと言い切った狂戦士に黄金の王は面白そうに笑った。騎士王は訝かしんだ顔をした。自分に対して真っ向から喧嘩を売った女をどう蹂躙してやるのか、それを愉しもうとしていたアーチャーも、彼女の弾劾に怯みつつも自分の願いを棄てることも改めることも有り得ないと切り捨てていたセイバーも、聞き捨てならない話だったからだ。

 

「化生? 大陸で国を滅ぼしただと? ……そのような妖の話など、そうそう聞かぬな……あれの復活とはな……なかなかこの国も愉快な宴が待っているようではないか」

 

 何やら相当に正確なところまで察したらしいアーチャーが愉快と揶揄する横顔を不愉快に思いながら、セイバーは後ろめたさと同時に羨望をバーサーカーに抱いていた。国難の際に蘇り、民を守ると言い伝えられている我が身を省みて、一体己は何をやっているのかと歯がみする。願いの為に他国の民を害する自分は何者なのかと考え、しかしそこで彼女は考えるのを止めた。

 

 それ以上考えたところで意味は無い。

 

 例え何がどうなろうとも、諦めるという選択肢だけは有り得ない。断じて、その選択だけはとれない。“そんな事をすれば、これまで彼女の道程で切り捨ててきた数多の犠牲が無意味になってしまう”のだから。

 

 彼女らの戦いに巻き込まれる側からしてみれば無意味だろうとなんだろうとこれ以上の犠牲を容認する言い訳にはならないのだが、セイバーはそれを認識しなかった。それを言ってしまえばお終いだからだ。そして、頼光は巻き込まれる側に立つ盾としてここにいる。元々それほど弁が立つわけでもなく、交渉の材料もないセイバーの言葉に耳を貸すとは思えず彼女は剣を以て道を切り開くことに決めた。他にはなかった。

 

「はぁん……そっち側についた“えーれー”が出てきた訳か。そうだよな、この国の奴ならそうするもんだよな」

 

 太くて、どこか不自然な声が割って入った。人以外の何かが無理やりに人の声を発しているような不愉快な声だった。

 

「そっちの女か、白面に逆らうのは。肉付きはいいし、うまそうだが……本当は肉の臭いがしねぇなぁ……魂だけなんだろ?」

 

 ばりばりと、音をたてて紅煉が現われた。切嗣の前に現われた時のように雷を引き連れて、異形の怪物が三騎の英霊の前に恐れる様子もなく顔を出した。

 

「惜しいよなぁ、うまそうなのに。他にもうまそうなのがいるのに……どっちも肉の味がしなさそうなんだもんよぉ」

 

「……狂犬か」

   

 突如現われこちらを品定めする怪物に黄金の王は不愉快さを隠さないが、頼光は不愉快どころか明確な殺意を以て紅煉に臨んだ。化け物を討つ為に生きた彼女にとって、目の前のそれは一刀両断にするべき畜生だ。それをしないのは聖杯を野放しにできないからでしかない。そして、セイバーは。

 

「……しゃあねぇなぁ。まあ、なりは小さいがこれでとりあえず我慢しておくか。どうもこいつら、妙な色をしているせいか、いまいち味がよくねぇんだよなぁ……作りもんくせぇ」

 

「……」

 

 ぶつぶつと敵意を他所に独りごちる化生は、こちらを挑発しているつもりか。しかし、なんだろうか……アレの意識が、こちらを向いているように思えてならない。ひどく厭な予感がした。この正体不明の怪物が、何かとても悪いことを自分に、自分達に運んでくる。そんな確信に近い予感がした。

 

「よぉ、そっちのちっこいさむらい」

 

 にぃい、と耳まで裂けた口で笑った獣の顔であるはずなのに奇妙に人間臭いそいつは、鬣をまるで手のように器用に扱って何かを後ろから持ち上げた。

 

「おめぇ、臭いがする。あのうらぶれた煙てぇ臭いのする男のだ。おまえだろ? あいつの奴隷ってぇの」

 

 侮辱する言い回しも気にならなかった。紅煉が持ち上げたそれが彼女の意識を否応なく引きつけた。あるいはその一瞬だけ何より求め続けた聖杯を忘れたかのしれないほどの衝撃を精神に受けた。

 

「イリヤスフィール!?」

 

 紅煉が持ち上げたのは、幼い少女だった。

 

 年齢は十になるかならずかの銀髪の少女。意識はないのか手足はだらりと下がり、部屋着を着て裸足という服装を見ると屋内で誘拐されてしまったのか。

 

「これはよぉ、遠く海向こうの国から拐かしてきたおめぇの主人の娘だ。名前を知っているところを見ると知らない仲でもないんだろ?」

 

「貴様!」

 

 一歩踏み出すと、当然のように化生の手が少女へと向けられる。幼い少女の柔な五体など、叩く、掴む、引っ掻く、何をしてもあっさりと絶命させることのできる手だ。

 

「あいつから聞いてねぇか? 俺はよ、あいつの娘を目の前で食ってやるって決めたんだ。本当の所は女房も食ってやろうかと思ったけど……どうもあいつは女房を生け贄にしちまうくらいどうでもいいみてぇだけども、これなら面白いことになるだろうからなぁ? けけ……けけけけーけっけっ!」   

   

 いかにも場末のチンピラのような下劣で卑小な企みを声高にがなり立てる姿はいかにも醜い。だが、それを述べているのはただのチンピラではなく見るからに強力な力を秘めた化け物なのだ。例えば目の前にいるアーチャーならば、そしておそらくはこの男に敗北しただろうライダーならば、こんな無様で醜い姿を誇りに賭けて見せるまい。いいや、そもそも思いつきもしないだろう。

 

 こんな真似をするにも関わらず強力な力を持っているからこそ恐ろしい。なんでもできる上に、なんでもやるのだ。品性、良識、羞恥心、誇り、そういった歯止めになるものが全く無い。下劣さを剥き出しにして行使する怪物がそれだった。人間の情緒を理解できない獣や人外では無く、理解した上で蹂躙してくる相手がこれ程おぞましいとはセイバーは知らなかった。

 

 決して珍しい性根ではない。

 

 ただ、このような精神の持ち主は総じて弱かった。こんな性根ではどのような分野でも大成できる訳がないからだ。か弱い民草ならともかくも、セイバーにとって恐ろしい相手だったことは一度も無い。ただ蹴散らすだけの輩だった。しかし、蹴散らせないだけの力を得ると、こうまで手に負えない輩になるとは、想像もしていなかった。

 

「ふん……獣風情がよくも囀る。いい加減に耳障りだな」

 

「ああん?」

 

 牙を剥いた化け物をせせら笑う黄金の人が傲然と立ち塞がった。

 

「俺は人間の業は愛でるが貴様のような“人から堕ちたもの”の醜い口上など聞くに堪えん。その小娘をおいて、早急に死ぬがよい。今ならば一思いに影も残さず消してやろう」

 

 彼の背後に無数の波紋が浮き、輝く切っ先が紅煉へと狙いをつける。その全てに恐るべき力が秘められていると見る者全てに分からせる神秘の具現、伝説の武具ばかりだ。それが紅煉をハリネズミにしてくれると狙いを定めている。数えきれない数多の武具が解放されれば、いかに紅煉が素早かろうと、いかに紅煉が強靱であろうと、絶命は免れないとセイバーは確信する。同時に、イリヤスフィールもまとめて滅ぼしてしまうのは自明の理であり、だからこそセイバーはどうするべきかと頭脳を猛回転させていた。

 

 同時に、この化け物に関する情報を一切よこさなかったマスターである切嗣に対する殺意に近い怒りがどんどんと湧いて出てくる。マスターが英雄と謳われた自分に一方的に確執を抱いて会話さえ拒んでいるのはわかっていたが、その挙げ句が娘を人質に取られる現状か。

 

「なぁんだ、お前……まさか、この紅煉に勝とうって思っているのかぁ?」

 

 牙を剥いた凶悪な怪物は、長い舌をべろりと垂らしてアーチャーを笑う。それに彼は意外な落ち着きを見せた。それは、既に彼の中では判決を下しているからだ。

 

「獣が……王の力を以て千の欠片と散るがいい!」

 

 号令一下、王の兵は魔獣へと殺到する……その寸前に、四方八方から光が王へと殺到した。

 

「がっ……!」

 

 輝きに五体を貫かれ、そのまま膝をつきかけた王だが執念で立ち続ける。それは黄金の鎧を貫かれても傷つかず、膝をついた時にこそ傷つく矜持の為だ。

 

「貴様……」

 

「おまけだ」

 

「獣がぁっ!」 

 

 殺意の塊を面にぶつけられて、それこそ心地よいと笑う化け物が合図を送ると速やかに吠える黄金の王に幾つもの大質量が襲い掛かってきた。それがなんであるかを認識するよりも先に迎撃に走るアーチャーだが、その彼の足を床から生えてきた黒い腕が掴み体勢を崩す。蹌踉ける隙をつかれて彼の身体は三本の奇妙な杭に貫かれた。

 

「がっ……」

 

 さすがにものも言えずに血を吐くだけとなったアーチャーだが、口元を血に濡らしながらも睨み付ける目の鋭さにはわずかな弱さも認められない。それを受けた紅煉だが、彼は凄愴な姿でありながら一歩引かんとする英雄を見下ろしてにたにたと人の神経を逆撫でするだけの笑みを浮かべている。

 

 見るからに傲慢で、口を開けば拍車がかかるアーチャーを蹂躙している今が楽しくて仕方が無いと顔中で主張していた。 

 

「そいつは化け物用の千年牙っていってなぁ? 地面に同化して千年動けなくさせる。最初にてめぇを貫いたのは、穿って言ってな? 妖気を細くして放つのよ」

 

 アーチャーの足下から、一匹の化け物が現われた。それは紅煉によく似ているが、また別物……紅煉と違い肩と頭からアーチャーを貫いている物と同じ合計三本の角が生え、顔ではカメラのレンズのように機械的な単眼が鼻先に乗るように突き出している。単眼とは言うが、実は三つの眼が前と左右三方向に組み合わさっており、砲台のようになっている。そして、それは事実その通りの役割を持っていた。

 

 音をたてて左の目に光が溜まり、それがレーザーのように放たれるとセイバーの足下に突き刺さった。

 

「隙も無いか……」 

 

「こいつらは黒炎てなぁ……俺様の手下よ」

 

 歯がみするセイバーに向かいお披露目をする紅煉が合図として手を振ると、周囲の床から天井から一斉に数多くの黒炎が擦り抜けて出てきた。咄嗟に数え切れたものではないが、五十は下らない。

 

「結構たくさんいるだろう? だがよぉ、まだまだこんなもんじゃないんだぜ?」

 

「この程度の輩で……我を止められると思っているのか……」 

 

「死にかけの人間が言うじゃねぇか。まだ足りねぇってか?」 

 

 べろり、と舌を垂らした紅煉の身体から、腕がもう一本生えてきた。紅煉の腕とよく似たそれは彼の肩から木の芽さながらに伸びていき、そのまま新たな黒炎になる。

 

「ご覧の通り、これは俺様の分身よ。幾らでも無限に生えてくるのさ」

 

 鵜呑みにできないが無視もできないセイバーは無表情を何とか保ちつつも歯がみする。これ程強力な化け物に包囲され、正に絶体絶命の窮地。その上、聖杯は破壊を広言するバーサーカーの手に握られている上に巻き添えで化け物に破壊されかねない。これ以上無い窮地だった。

 

 詰んでいると告げる自身の冷静な部分が諦めを持ち出してくるが、それを振り払ってありもしない活路を探すセイバーは内心でマスターへの絶え間ない悪罵を吐き続けていた。この怪物に狙われるとは、一体あの陰気で身勝手な男は何をしでかしたのか。そしてどうして自分に情報を開示しないのか。これではまるで子供の意地、いや駄々ではないか。ふざけるな。 

 

「!」

 

 切嗣への怒りと失望を感じざるを得ないセイバーに、切嗣からの命令が届いた。一組のサーヴァントとマスターの間のみ通じる念話、傍受の心配が無いそれで切嗣が彼女に命令を下してきている。

 

 

 

 令呪を以て我が傀儡に命ずる。宝具を以て怪物とアーチャーを切り裂け。

 

 

 

「な、に……?」

 

 

 

 セイバーから見て、床に縫い付けられたアーチャーと紅煉は一直線に並んでいる。そしてバーサーカー……つまり、聖杯はかなり近いがそれでも直近ではない。仮に彼女がなぎ払ったとしても、攻撃の範囲からどうにか外すことができるだろう位置だ。だが……それは言うまでもなくイリヤスフィールを巻き添えにして殺すと言う事だ。

 

 聞き違い、言い間違い。そんなありふれた可能性をまず考えるが彼女の腕はそんな暇を与えずに振り上げられる。

 

「やめろ、切嗣! 娘を殺すつもりか!?」

 

 

 

 イリヤはアインツベルンの城にいる。海を越えたこの国にいるわけがない。あれは化け物が作った幻だ。

 

 

  

「ふざけるな! 見れば分かる、あれは紛れもない本物のイリヤスフィールだ!」

 

 ぎょっとして自分を見るあらゆる視線を感じながらも、構う余裕は一切ない。ぎりぎりと勝手に動き始めた腕を押さえ込みつつ、セイバーは一つの確信を抱いた。

 

 マスターはセイバーが知る誰よりも狭量な男だった。

 

 目の前の不都合で不自然な事実を認めず、それを消し去る事で見ないふりをする。なんという小さな男だ。そんなちっぽけな男だから、意に添わない自分の存在その物を無視しながら駒としては都合よく使おうとした。そんな男だから、久宇舞弥という女を自分の意思に決して逆らわない都合のいい人形に仕立ててテロの片棒を担がせた。

 

 ああ、よくわかった。この男は嫌なことから目を背けて逃げ続ける根性無しの子供のようにちっぽけな男だ。

 

 目の前にいるのは間違いなくイリヤスフィールだ。セイバーのクラスで現界し、高い抗魔力と直感を失わずにいる自分の全てが本物だと認めている。経緯は分からないが、彼女は父親のせいで化け物に誘拐された哀れな本物の娘だ。それを殺せと?

 

 己の剣で、哀れな幼子を殺してしまえと? 父親による娘殺しの片棒を担げと? ふざけるな、ふざけるな!

 

 だが、どれだけ怒りに燃えても令呪というくくりは彼女の腕を、剣を強制的にマスターの思うように振りかぶらせる。

 

 このままか、自分はこのまま剣を振り下ろしてしまうのか。

 

 絶望感になかば浸りながらも必死に抵抗するセイバーだが、それに業を煮やしたマスターが新たな命令を下す。

 

 

     

 重ねて我が傀儡に命ず。宝具を以て聖杯以外の全てをなぎ払え。

 

  

   

「やめろ、やめろーっ!」

 

 自分の腕に力が漲る、それをこれ程絶望的に感じた覚えがあっただろうか。なんて惨い命令か、なんと残酷な未来か。傀儡、そう正に彼女はマスターにとって傀儡に過ぎない存在だったのだ。いやそれどころか、妻も、助手も、そして娘も同じように道具に過ぎなかったのではないか? それを見抜けなかった己はなんと間抜けな騎士であるのか。

 

 だが、それでも彼は聖杯を諦めることができなかった。

 

 例え何があっても、誰を踏みつけても、それでも聖杯をつかみ取って願いを叶えると決めたのだから。その願いは、正しいのだから。

 

「! てめぇ、符咒士!?」

 

「それは十五年来の私の獲物だ。横からかっさらわれるのは業腹だな」

 

 何者かがセイバーの横に現われ、何かを彼女に張り付けた。それは一瞬にして燃え上がってしまったが、ほんのわずかな時間だけ彼女を制止する難事を成功する。

 

 そして、その一瞬で紅煉は顔色を変えて退散した。

 

「ちっ……なんだてぇんだ。あの野郎、娘だろうとどうでもいいのかよ……ち、つっまんねぇの」

 

 セイバーの独語にしか聞こえないセリフから事情を察した紅煉はそう言って、気まぐれに虜にしていた少女の腕を食いちぎり、貪った。そのまま放り棄てると、雷と共に怪物は血塗れの口元を確かに歪めて消えていく。

 

「……? ……うで? うで、うで、うで、いやあああぁっ!?」

 

 その痛みと衝撃に目を覚ました少女は、痛みと認識が脳に伝わるにつれて悲鳴を上げて泣き叫んだ。

 

 そんな彼女のあまりに凄惨で理不尽な狂乱を他所に、セイバーの剣がついに振り下ろされる。それはイリヤスフィールとアーチャーを消し飛ばすラインを引く凶刃。泣き叫ぶ少女にも杭で串刺しにされている英霊にも除ける術はない。だが、そこで英霊以外が動いた。

 

 セイバーの背後にいた黒い影が擦り抜けると、通り抜け様にアーチャーを固定していた千年牙に何か紙を投げつけ、そのまま一声叫んだ。

 

「禁!」

 

 短い一言で千年先まで張り付けにすると豪語したはずの牙は崩れ落ち、アーチャーは自由になる。その姿を見もせずに影はのたうち回り泣き叫ぶ哀れな少女を抱き上げて飛びすさる。

 

「ううああああぁああっ!」

 

 それは一秒に満たない間しかなかった。イリヤスフィールが空中にまき散らした真っ赤な血が床に落ちるよりも先に、黄金の輝きがそれを蒸発させて消えていく。

 

「ぐ、お……っ」

 

 それはアーチャーの黄金甲冑に守られた右の手足をまとめて吹き飛ばし、街を大きく切り裂いて消えていった。果たして、この斬撃の後にはどれだけ大きな犠牲が生まれたのか想像もできない。

 

「……そんな……」

 

「ぐ……」

 

 片方とは言っても手足を失ったアーチャーはさすがに膝をつき、無理やりにバランスをとってどうにか座りこんでいるのが精一杯の有り様だった。しかし、それを幸いと攻めるような真似をするほどセイバーには余裕がなかった。

 

 自分の剣が巻き起こした無意味な惨劇を目の当たりにして、剣を握る手が無力感に垂れ下がっていく。

 

「あ……」  

 

 聖杯の輝きが、目に入った。

 

「万能の……願望、器」 

 

 そうだ。

 

 聖杯は万能なのだ。

 

 なかったことにしよう。故国の滅亡も、この惨劇も。

 

 なにもかも、なかったことにしよう。

 

「その為に、は……」   

 

 黄金の王が背中を見せている姿が目に入る。この聖杯戦争で最強の敵、最強の英霊、それが己の斬撃で膝をついて瀕死になっている。聖杯を手に入れるには……聖杯を手に入れるには最後の一騎にならなければならない。だから……この男を、斬らなければならない。この、強大な敵を、今ならば瀕死に成り果てている敵を……斬らなければならない。

 

「ああああああっ!」

 

「何!?」

 

 アーチャーの顔を見ない為に、振り返られるよりも先に斬った。表情を見たくないが為に背中から、切り捨てた。ああ、これで聖杯は手に入るのだと、黄金の粒子になって消えゆく男を見下ろして安堵する。かつてと異なり聖剣は砕けず、いまだ手にあるのだから今の行為にはなんの問題も無い。先の一撃は、恥じることない卑怯あらざる一撃なのだ。

 

 そうに、違いない。

 

「イリヤ、スフィール」

 

 そうだ。あの子の傷もなかったことにしよう。聖杯を手に入れれば、何もかもがうまくいくのだ。だって、万能の力があって自分の夢を叶えてくれるのだから。そして……そして。

 

「なんと無様な剣士もあったもの……これが騎士ですか?」

 

「……バーサーカー」

 

 その為には、斬らなければならない敵がまだいた。         

      

 聖杯の隣に立つ気狂い。聖杯を破壊するなどと言うのは、狂っているからだ。バーサーカーなのだから、狂っているのは必然だ。だから……殺さなければならない。

 

「私よりも、そちらの方がよほど狂っているように見受けられますが……いずれにしても、この惨劇を招いた愚か者には脱落してもらなければなりませんね。あの子供のことも気にかかりますし……鏢殿?」

 

「止血はした。それ以上のことは今はできん」

 

 愛想のない鉄のような声が応じた。ゆっくりと立ち上がり抱き締めたイリヤスフィールを見詰める鏢を、セイバーは切嗣のような風体の男だと思い、同時に父親のようだと思った。

 

「それよりも、そちらの聖杯をさっさと切り落としてしまえばこの馬鹿な祭りはお終いだ。後始末は法力僧達に任せて、俺は紅煉を追う……」

 

 聖杯を破壊する。それはセイバーにしてみれば故国の破壊と同様、論外の蛮行だ。それを止めようと剣を握り直しバーサーカーに殺意をこめて目を向けるセイバーだったが、何より求めた聖杯に奇妙な物を見つけた。

 

 それは、黒い何かだ。

 

 聖杯の上。空間その物に奇妙な穴が空き、その向こう側から何かがこぼれ落ちようとしている。

 

「……なんだ、それは」

 

「……離れろ、バーサーカー!」

 

 緊迫する事この上ない声でそれを命じたのはセイバーではなく鏢だった。彼の目が青く輝き、こぼれ落ちようとしている“何か”を見定めていた。

 

「承知!」

 

 それに従い、頼光はためらいなく聖杯を棄てる。そのなんの価値もないと言わんばかりの態度に、そしてあまりにも素早い脱兎の勢いに押されて彼女は逃亡する二人を見逃し、そしてイリヤスフィールが連れ去られるのをただ見送った。

 

「今は……聖杯を……」

 

 彼女の満願成就はそこにある。今はイリヤスフィールを追うことさえ二の次だ。これさえあれば、何もかもが叶うのだから。

 

「……なんだ、これは」

 

 だが、一歩、また一歩と熱に浮かされた顔をして足を進めていたセイバーの顔色がどんどんと悪くなっていく。青く、白く、熱に浮かされていた彼女の表情は絶望のそれに変わり果てつつある。聖杯から今にもこぼれ落ちようとしている何か、それが彼女には一体何か分からない。だが、肌で感じる物がある。

 

 あれは、おぞましい物だと。恐ろしく、危険で、あれは自分の毒であると言うまでもなく悟らせられた。

 

「なんなのだ、これは!?」

 

 これが、彼女の絶望を覆す万能の窯であるはずが無い。絶望を覆すどころか、あらゆる希望を絶望へと塗り返すような災厄の坩堝ではないのか!?

 

 アーチャーが消えたことではっきりと目の前に現われたそれは、明らかに先ほどまでよりもこぼれ落ちそうな黒い汚泥じみたものの量が増えている。

 

「こんな……こんな物が聖杯であるわけがないではないか!」

 

 可能性を様々に思いつく。騙された、奪われた、これは偽物……精神に受けた衝撃のあまり、うまくまとまらない知性でどうにかそれらの単語をぶつ切りにして羅列するセイバーに、背後から声をかけてくる男がいた。

 

「……なんだ、これは」

 

 それがどうしよもない命令を強制した自分のマスターだと理解したが、そんな事はもうどうでもよかった。

 

「……これが聖杯だって言うのか……」

 

「それを聞きたいのはこちらの方だ!」

 

 男の声にはセイバーに負けじと劣らずの絶望が宿っている。だが、それを気にかけるような余裕など持ち合わせていないセイバーからすればマスター……いいや、この魔術師も己の前にふざけた聖杯を見せつけた容疑者に過ぎなくなった。これ程短絡的な結論に至るほど、両者の関係は元々破綻していた。

 

「…………」

 

 切嗣は何も言わない。ただ、驚きと絶望、それらに必死で抗おうとして聖杯を見つめ続けているだけだ。イリヤのことも先ほどの命令についても、彼は何も言わないが所詮はそういう男なのだと切り捨てたセイバーは、もうマスターには何も期待しなかった。

 

 この男は常に自分を無視してきた。今さらそれに変化を求めてもしようがないが、このままでは埒が明かない。いっそ、この男を放り出して先ほどのバーサーカーを追い掛けようかと思い始めるセイバーは、何かがここに近付いているのを察した。それは、何か非常に異質かつよろしくない物であり、そして圧倒的な大軍であるようだった。

 

「なんだ……いや、誰だ」

 

 サーヴァントなのか? あのバーサーカー? しかし、数が多すぎる。何かの能力かもしれないのだが、可能性はいまいち低そうだ。むしろ、先ほどの化け物と手下がぬけぬけと戻ってきた方がしっくりくるのだが、気配を探ったセイバーは似ているまた違う物だと感じた。

 

 セイバーが想像した気配の主は、蝗害だった。  

 

 蝗のような無数の何かがこの場に集まってきている……何の為にかなど、言うまでもない。

 

「まさか……」

 

 もしや聖杯がこんな異質なゲテモノに成り下がったのは先ほどの化け物の仕業なのか。よく考えてみればアレがここに来た理由が不明のままだ。まさか、本当にイリヤスフィールを嬲るところを見せつける為だけに来たと鵜呑みにするのはどうかしている。ならば……あれが、聖杯を変質させたのかもしれない。

 

 自分でも納得のいかない推論だった。あれはろくに聖杯を見向きもしなかった上に聖杯にはバーサーカーが張り付いていた……やはり、騎士である彼女にはわからない。ただ、このまま立ちすくんでいるわけにもいかないのは事実であり、それは彼女も素直に受け入れる。

 

「……」

 

 相変わらず心ここにあらずと呆けているマスターなど、もはや現界に必要な楔としか見れなくなったセイバーは一言も口にはせずに踵を返した。皮肉も怒りも口にしないのが、せめてもだった。

 

 その足が十歩もいかないうちに止まる。“何か”が目前にまで迫ってきたと理解したからだ。既に周囲は何かが近づいてくる風切り音に満たされ、奇妙で異質な空気が充満している。四面楚歌だと悟ったセイバーが潔くその場で応戦する道を選択したのは、この短時間で様々に食い荒らされてしまった彼女に残った英雄としての矜持、その名残だろう。

 

「みぃつけた!」

 

「アレが、聖杯だ」

 

「アレの中にある負の力を、御方に届けよぉ!」

 

 壁と屋根を食い荒らし、時には擦り抜け、そうやって現われたのは数百か、数千か、桁も分からないほど莫大な数のあやかしだった。ナメクジに大きな魚の目玉が一つだけ付いているような、とかく不気味な怪物だった。これは一体、何であるのかなど知らないが、セイバーの耳は確かに件の化け物共が聖杯の二文字を叫んだと聞いた。  

 

「貴様ら、人外の者が聖杯に何を求めるか!」

 

 聖杯と聞いて黙っていられるようなら、彼女はこんな争いに参戦はしていない。もはや輝く刃を隠さずに、彼女はこれまで見たことが無いこの国のあやかしに挑みかかる。それが千を超えていようと万を超えていようとも、自分の悲願の前には少ないとさえ言えるのが英雄だ。

 

「何を求めるだぁ? 決まっているだろうが、怨念よぉ」

 

「怨念、だと……?」

 

 殊の外流暢に、しかし耳障りな声が答えた。それらはひどく不吉な声であり、不吉な存在であり、告げる言葉もそれに相応しい不吉な中身を有している。

 

「あの中身には、大地から吸い上げた力とそれを染め上げた怨念がたっぷり詰まっている。なみなみと濯がれているそれが、白面の御方には最高の美酒だ。それを飲み干し、あの方はもっと強く大きくなる!」

 

「怨念!? 吸い上げたとはあの聖杯のことか。貴様らは変わり果てた理由を知っているというのか!? いや、あの方とは何者だ!」

 

 セイバーの言葉に応えるあやかしは既に無い。化け物共は行きがけの駄賃とばかりにセイバーに向かって津波のように押し寄せるが、彼女の輝く剣は半径2メートルへの侵入を決して許さない。彼女の剣捌きは異形の群れを前にしてもいっかな陰りを見せないが、それでは足りなすぎるほどに敵は多い。この状況を覆すには宝具を解放するより他ないのだが、先ほど使ったばかりで魔力量に不安がある。何よりも、もう一度街を切り裂くなど出来るはずもない。 

 

 元より、行使したところで何処まで効果があるか甚だ心許ないとさえ言えてしまう現実を彼女は苦く認めた。一部を切り裂いたところで、その左右から問答無用で襲いかかってこられれば後は無防備に蹂躙されるのが関の山だ。言わば彼女は猛獣であり、群がる怪異は軍隊蟻のような物。まともに相手をするだけで馬鹿を見るような相手にどう対処するべきか、困惑する暇もなく決断を迫られる孤軍奮闘が殺到する怪物に呑み込まれそうになりつつあるその時……閃光が奔り、轟音が鳴り響いた。

 

「っ!」

 

 目が眩み、耳が許容量を超える音量に一時機能を失う。その後に待っているのは、空白の静寂だった。彼女の周りには、化け物の一匹もいなくなっていた。あるのは焼け焦げた床と空気のすえた臭いだけだ。

 

「これは……」

 

 言いかけたそれを呑み込んで、導かれるように彼女は空を見上げた。すると先の轟音の際にだろう天井には巨大な穴が空き、夜空が覗けるようになっており……そして、その向こうに何かがいた。セイバーの視力はサーヴァントとしてはともかくただの人間と比較すれば大いに優れている。光を取り戻した彼女の瞳が見つけたのは宙を舞う獣だった。

 

「先の……いいえ、同族か」

 

 それは紅煉とよく似ていた。

 

 しかし、色が違う。黒の中により暗い黒を刻み込んだ紅煉に対し、それは実りを迎えた麦のように黄金色をしている。顔に奇妙な刃を刺しているわけでもなく、しかしそれ以外はほぼ瓜二つ……稲妻をちりちりと体表に漂わせているところを見るとあれが轟音の正体だろう。

 

 こちらが向こうを見たと同時に、向こうもこちらを見た。来るか、と身構えたセイバーの耳に少年の声が届いた。

 

「とら、あいつは!?」

 

「さっき街をぶった切った奴だろうよ。あの光と匂いがおんなじだ。鏢の奴が言っていたさあばんととかいうのじゃねぇか?」

 

 獣の背中に、少年がいた。

 

 月を背負い、一本の奇妙な槍を携えた年若い少年が真っ直ぐに彼女を見下ろしていた。外見上の年齢はセイバーと変わらない、十代半ば程度の少年だった。立っている場所も、手に持つ武器も非凡だが、彼自身は何の変哲も無いただの少年だ。

 

 そのはずだった。

 

「なんだと!?」

 

 だが、その目を見た瞬間セイバーは不可思議な感覚に囚われた。

 

 短く刈った髪と、特徴的な太い眉の下で真っ直ぐに自分を見詰めてくる目を見た彼女は、それをどこかで見たような目だと思った。しかし、彼女の人生において、こんなにも眩しい目をした人物には出会ったことがない。

 

「あんた……あんたが街をあんな風にしたのか」

 

「……」

 

 少年の言葉に嘘をつけなかった。そうしてはならないと彼女の中にある譲ってはならないものが告げてくる上に、少年の言葉に篭められる物も都合のいい逃げを許さなかった。

 

「……その通りです」

 

 心の中にある物を面に出さなかったのは彼女の潔さであり、そして同時に意地だった。見るからに真っ直ぐな少年らしい少年が許してしまいそうな顔などしてはならない。

 

「なんでこんな真似をしたんだよ! 一杯、一杯人が死んだんだぞ! セーハイってのをあんた達が欲しがっているのは聞いたけど、その為なら何をやってもいいとでも思ってんのか!? そんなもんの為に人殺しなんてしているんじゃねぇや!」

 

 あまりにも稚拙で、あまりにも幼稚で、あまりにも真っ直ぐで、何よりも正しい言葉だった。

 

 セイバーは何処の誰かも知らず、向こうも彼女の事などもちろん何も知らない。しかしそれを勝手な言い分と切り捨てるのはできない。何故ならば、何よりも彼女らの行いこそがこの街の罪のない人々にとっては勝手すぎる振る舞いだったからだ。

 

「……この街を斬ったのは私の過ちです。それについては、返す言葉もない。しかし、私の願いはいかなる過ちを犯してしまっても叶えなければならない物だ……引くというのならば敢えて追いはしません。去りなさい」

 

 少年の目が更に強く輝いた。怒りに爛々と輝きながらも恐ろしさは感じない。それは彼が弱いからでも小さいからでもない、少年の怒りが正しく尊いからだ。誰かの為に怒れる少年の真っ直ぐな怒りは陰湿さとは全く無縁で、太陽のように輝いてさえいる。

 

「ああ、そうか。太陽か」

 

 この少年の目は、輝かしい光に満ちている。それはまるで、朝日のように真っ直ぐで清らかだ。それに引き替え、無辜の民の暮らしを脅かす争いに参加してとうとう街まで切り裂いた我が身のなんという卑しさか。

 

「だが……それでも……」

 

 忘れられない日々と譲れない願いは自分が何をやっても……決して譲れない。

 

「浅ましいと笑えば笑え。怒りを向けるのも至極正当だ。だが……だが、それでも私は聖杯を手に入れる。この願いだけは譲れはしない!」

 

 彼女の声はひどく静謐で、その静かさは罪の意識を歯で噛みしめているからこそだ。だが、それはなんの免罪符にもなりはしない。

 

「誰が逃げるか、馬鹿野郎!」

 

 実に少年らしさに溢れる真っ直ぐな怒りだった。それを全身にぶつけられる自分は悪なのだろうと、セイバーは絶え間なく苦みを噛みしめざるを得なかった。

 

「うしお、婢妖共もまだまだ集まって来やがるし、黒炎もいやがる! のんびりしている暇はねぇぞ!」

 

「わかってらぁ! 皆まとめてぶっとばす。これ以上、この街の皆をひでぇ目にあわせるもんか!」

 

 猛々しく吠える少年の手に持つ槍が振るえ、なんと少年のばっさりと刈り込まれていたはずの髪が急に背丈よりも長く伸びた。

 

「な!?」

 

 髪の向こう側から覗く両の眼は人のそれよりも獣のそれであり、何よりも全身から発散される正体不明にして圧倒的な力よ。そこら中を威圧するような激しくも圧倒的な力は、人の領域を超えた境地に立っているはずのセイバーから見ても尋常ではない、確かな脅威だった。

 

「槍だ!」

 

「獣の槍だ!」

 

「獣の槍と、使い手だ! うしおと、とらだぁ!」

 

「酒も入れらんねぇ出来損ないよりも、こっちの方が白面の御方は喜ばれるぞぉ!」

 

 思わず身構えたセイバーと彼女を見下ろす潮だったが、彼らが槍と聖剣を交差するよりも早く乱入者が無数に現われた。

 

「獣の……槍……?」

 

 数多の婢妖が次々と雲霞のように現われて目指す先は、潮ととら。セイバーにとっては突如現われた謎の一対だが、正体不明のあやかしにとっては貪り付く蝗の群れのように押しかかるべき相手なのだ。

 

「ちぃ、婢妖に黒炎共か」

 

「こいつらも聖杯ってのを目当てに来たのか!」

 

 津波のように襲いかかってくる異形に、しかし潮もとらも怯む様子など全く無い。

 

「白面が、なんだって人間の作った祭器なんぞを欲しがっていやがるんだ……?」

 

「そんな事はどうでもいい!」

 

 見てくれに似合わない思慮深さを見せるとらに対し、潮は見た目通りのセリフを火のような思いで吐き出した。

 

「こいつらぁ!」

 

 彼の目に見えるのは、ただただ街の惨状。セイバーが切り裂いた無惨な傷痕だけではない、婢妖や黒炎が行きがけの駄賃とばかりに人々を殺しているのだ。迫り来る痛みと死に、唐突な恐怖と理不尽に、悲鳴があちこちであがっているのを耳にした潮が激しい怒りを篭めて、手に持った槍を振り上げる。

 

「てめぇら、一匹だって逃がさねぇぞぉお!」

 

「けっ、白面の手下が好き勝手やってんじゃねぇぜ!」

 

 潮の咆哮と共に、とらが宙を縦横無尽に駆け回る。その速さはまるで風のようであり、その鋭さは正に刃である。

 

「誰が逃げるか、馬鹿め!」

 

「貴様らこそ、この場でまとめて食い尽くしてやるわ!」

 

 弾丸のように婢妖達は潮ととらに殺到するが、彼らもまた勢い込んで迎え撃つ。両者は半瞬に満たない間にぶつかり合い、即座に雌雄を分けた。少年の持つ槍の刃が銀色に光り輝けば次々と婢妖を切り裂き、化け物の吐き出す炎が蝋のようにあっさりと焼き尽くす。鎧袖一触の見本として、婢妖達はそれぞれの被害に応じた無個性な屍をさらしていく。

 

「させるか!」

 

「ほらよぉ!」

 

 槍が翻り、炎と雷が舞い踊る毎に人々を蹂躙していた化け物共は、悉くが蹂躙される側に回る。彼らの踏み出した一歩で化け物は消え去り、彼らの繰り出した腕の一振りで人々が救われる。それはまるで英雄譚のようだった。その眩しい背中を、セイバーはまるで観客のように見ていた。

 

 彼女は英雄の舞台で踊る側だった、万が一にも観る側ではない。だから今初めて思うのは、このような背中を自分は誰かに見せることができていたのだろうかと言う自問自答の一種だった。

 

 答えは、断じて否であった。

 

「私には……いいえ、他の誰にも出来ない……」

 

 とらの背後から婢妖達が襲い掛かるが、それを上空から強襲してきた槍が銀光と共に断つ。その潮に襲い掛かろうとする婢妖を、今度はとらの稲妻が影も残さずに焼き払った。彼らの連携は正に阿吽の呼吸そのものとしてセイバーの目には映る。そして、我が身を振り返れば、彼女にはそのような相手はいなかった。

 

 共に戦い肩を並べる相手ならば、確かにいた。

 

 だが、これほど息の合う相棒とでも言える相手と巡り会うなど終生無かった。ましてや、今のマスターとの関係など語るにも値しない。

 

「人と人外が……滅ぼし合うべき敵対者が……何故……」

 

 彼女の視点でいえば、とらは滅ぼすべき異形に過ぎない。元々の価値観に加えて、先ほど蛮行の限りを尽くした紅煉の同族というのが尾を引いている。だが、彼女の前で潮ととらはまるでダンスパートナーのように颯爽と妖怪共を次々と屠っていく。潮がとらを使役しているのではない、彼らは対等なのだと漏れ聞こえてくる会話からだけでも知れる。

 

 それに違和感を感じつつも嫌悪感などの負の感情を抱かない自分が不思議ではあるのだが、しかし間違えているとも思わなかった。彼らはアレが正しいと、あの形は望ましい物だとどうしてだろうか思ってしまう。

 

「ったくよぉ、婢妖共はいつもいつも数だけは多いな。また百万体くらいいるんじゃないのか?」

 

 とらは化け物であるがそれでもはっきりとわかるほど辟易とした顔をする。強くはないが数だけは多い相手にうんざりとした様子を隠さない相棒に、潮は長く伸びた髪の向こうで不敵な顔をしながらにやりと笑って返した。

 

「だったらよ、こっちもいつもの手でいけばいいじゃねぇか」

 

 とらもまた笑みを浮かべる。裂けた口から覗く牙が恐ろしげだが、同時に味方ならば確かに頼りがいのある表情だ。

 

「へ……あの手かよ」  

 

 次の瞬間、冬木の街は白光によって光り輝いた。それはまるで空で大爆発でも起きたかのようであり、百鬼夜行に蹂躙されている人々は何が起こったのか想像もできないまま驚愕するより他なかったが、サーヴァントであるセイバーだけは潮の翳した槍に凄まじい力を秘めた稲妻が堕ち、そして弾かれたことで彼らは周囲一帯にいる全ての婢妖を一掃したのだ。    

 

 なんという一人と一匹だろうか。

 

 力が強いのでは無い。

 

 単独でも確かに彼らは強いのだが、共にある時にこそ真価を発揮している彼らは……

 

「一人と一匹で一つ……それが彼らですか……ライダーが目の色を変えそうな眩しい二人ですね……」

 

 一閃で数多の化け物を滅ぼし尽くした彼らは、まるでその稲妻のように輝いていた。いや、血塗れになった人々を押しつぶしそうな夜の暗さに負けない太陽のように眩しく煌々と輝いている。

 

 人々の為に真っ直ぐに怒り、真っ直ぐに戦う。剣の英霊として呼ばれたセイバーともあろう者が、どこの誰とも知らない少年の背中をあまりにも眩しいと思ってしまうのは……今の自分を省みてからか。例えそれが“彼女の生きた国を救う為”とはいえ魔術師の身勝手な暗闘に参加し、マスターの非道を見てみぬふりをして、挙げ句にその命令に従い街を切り裂いた。諸共に散っていた罪のない命がどれだけあるのか。

 

 あのバーサーカーが侮蔑するのも無理はない……未だに真相が分からないとはいえ、聖杯の異常を目の当たりにして頭が冷えたおかげでようやくそれを言えるようになった。しかし、同時に思うのは自分の過ちは決して許されてはならないと言う自責の念だ。それは頑なでこそあれ間違えているわけではない。セイバーの過ちの為に命を失った無辜の民衆はセイバーを許さず、そして彼女は許されるべきではないだろう。

 

「……あの少年は、何者ですか?」

 

「彼は蒼月潮……あとほんの数ヶ月でこの日本……ひいては世界の命運を賭けて戦わざるを得ない、獣の槍に見込まれてしまった少年です」

 

 セイバーの背後に、いつしか頼光が面のように表情を無くして立っていた。

 

「獣の槍……」

 

「かつて大陸の王朝を幾つも滅ぼした大妖に家族を殺された鍛治の青年が、自ら炉に身を投じて生け贄となった少女が作り上げた怨念の槍。人の魂を削り力に変えてあやかしを討ち、使い手を魂無き獣に変えていく、退魔にして魔性の槍です」

 

 振り返ったセイバーの目の前には白刃がある。それを握る頼光の表情もまた同じように鋭い。しかし、セイバーはそれらに怯まなかった。

 

「そんな……何故、そのような恐ろしい槍をあのような少年に!」

 

 自分もまた、聖剣を抜いたことで少女を棄てた。しかし彼女はあくまでも自分の意思でそれを選択したのだ。だから、セイバーに疑問に思う資格はもちろん憤る資格もない。だが、それでもほんの二言三言でも察せられるわかりやすい正義漢にそのようなおぞましい武器が握られているのはあまりに残酷なことだと、彼女は思った。

 

「それは、彼が槍に見込まれたから。あの少年と戦いたいと槍が願い……そして、あの少年は生まれてからすぐに引き離された己の母が、件の大妖を暗い海底で一人封じる使命を果たしていると知ったから」

 

「!」 

 

 余人が口を挟むべき問題ではない。そう言外に彼女は語った。 

 

「そして何より、彼があのような少年であるからこそ……彼は戦う道を選んだ。そして人もあやかしも……英霊も、彼を助けたいと思い始めた」

 

「あやかしが人を……そんな馬鹿な。それは人と妖の在り方ではない。我らは反目する物であり手を取り合うなど悲劇しか生まないではないか!」

 

 それが道理だ。それが定めであり運命だ。

 

「定め、と……そう、私もそう思っていたはずのそれを、全く気にもとめずに笑って乗り越えてしまう。化生が力を貸したいと思ってしまうのが、あの太陽のように眩しい少年なのです」

 

 彼女は、狂った怪物である。生まれに、育ちに、狂った怪物であり同時に使命に狂った怪物でもある。それがありえない在り方を認めている。妖怪退治に狂った女が、妖怪と肩を組んで笑い合う少年を是と認めたのだ。

 

「……貴方もですか」

 

「当然でしょう? 母を想う子の心に答えないつもりはなく、妖魔悪鬼を滅する者としても後輩を支えぬ情けない先達であるつもりはありません。ましてやこの世界には私の主となってくれた大切な方がいるのですから」

 

 彼女の顔は英雄としてではなく女としての表情を浮かべていたが、それを理解できる感性をセイバーは持っていなかった。ただ彼女には心通わせるマスターがいるのだと羨望を抱くだけだ。

 

「セイバーのサーヴァント。手向けのつもりはありませんが、先ほどの宝具はマスターに令呪で強制されたと伝えておきましょう」

 

「不要です。例え令呪で縛られようとも、街を切り裂いたのが我が聖剣だと言う事実は……覆らない」

 

 慙愧の念を顔に出すことさえ許されない。自分にはその資格がないと断ずるセイバーに、頼光は何も言わずに構えた。これ以上は語るまいという彼女の態度がありがたいとセイバーは敵に感謝を抱いた。彼女にとってこの戦争は味方を……つまりはマスターこそが最も信頼できない争いだったが、その中で敬意や感謝を抱いた相手が敵ばかりだと言うのが我が事ながら情けなかった。

 

「きっと、あのマスターはそのような考えを抱くことさえないのでしょう」

 

 それを最後に、セイバーは何かを考えるのを止めて足を踏み出した。衰えることない俊足でバーサーカーの前に躍り出た彼女を迎え撃つ白刃を……しかしセイバーは躱しも受けもせずにその身で以て受け止めた。

 

 バーサーカーもまた、それを予期していたように静かな面持ちで太刀を振り下ろす。吸い込まれるように袈裟懸けで切り裂いた刃は紛れもなく介錯の一太刀だった。

 

 

 

 

 

 それが巻き起こしてしまった異変、それは致命的な破綻を招いた。

 

 その瞬間を最も間近で見ることになったのは、呆けた眼差しを変えられずに聖杯という名の夢の残骸にして妻の死骸を見ていた衛宮切嗣というかつてマスターだった男だ。

 

 自分の手から令呪が消え、サーヴァントとの繋がりが消え果てても関心も向けられないような呆けた有り様だった。元々彼はサーヴァントに対して思い入れが全くといって存在しない、相手の人格を認めていないマスターだった。魔術師という者を嫌悪しているはずの衛宮切嗣だが、サーヴァントを道具として認識し人格を認めていない思考形態は実に魔術師的だった。根本的に自分しか見ていないという点もまた、魔術師的だった。

 

 どろどろとした見るからにおぞましい何かが聖杯に澱んでいるのを見つけた彼の内心ももまた、そういった自分の事だけを考える。

 

「これで……これでは……僕の願いは……」

 

 叶わない、という事さえ恐ろしく、衛宮切嗣は精神に打ち込まれた大打撃を必死になって耐えていた。冷徹なはずの思考回路が次の行動を算出できずにエラーを起こして再起動の様子がない。

 

 しかし現実は常に動き続けている。一個人の都合など考慮する優しさも隙も現実は持ち得ない。切嗣の目前で、まるで何の値打ちもない石のように放置されている聖杯に新たな異常が起こった。なみなみと湛えられて今にもこぼれ落ちそうな中身……詳細は一切不明ながらおぞましいとだけは言える何かが、急に増え始めたのだ。

 

 それが自分の腕から令呪が消えたのとタイミングが同じだと気がついた切嗣は、一体何が起こったのかをかなり正確に察した。

 

「セイバーが消えた……魔力が飽和しているのか!?」

 

 聖杯……というよりもその背部に空いている穴から黒くおぞましい何かが溢れてくる。おそらくは何らかの事故で変質した魔力がセイバーの死亡、いいや消滅により増量されてしまったのだ。今にも溢れ出しそうなそれが、更に倍増されてしまい決壊は避けられない時間の問題となっている。目前に迫る崩壊が示す独特の圧迫感に押しつぶされそうになりながら、切嗣は冷静に……あるいは冷静を装ってこれを止める為にできることは何もないと断定した。

 

 ならば、逃げるより他にはない。

 

 それが卑怯、無責任と罵られても彼は気にもしない。それは彼の目的にはなんの関係もないからだ。罵るならば好きにすればいい、軽蔑も何もかも好きなだけするといい。自分には関係の無いことだから、切嗣は何一つとして痛痒を感じない。問題なのは、それが彼の目的を妨げる要因になるか否かだ。

 

 だから、彼は脇目も降らずに逃げ出した。

 

 あの聖杯がどうなろうと、その結果が街にどんな災厄をもたらそうとも……それが彼の究極的な目的への妨げになるかどうかだけが問題で、生命を脅かされている今は逃げること以外に選択肢は存在しないと彼は考え、それに全力を賭けた。

 

 だから、彼がいなくなった直後に何が起こったのか……それを彼は知らなかった。そして、それは幸福だった。

 

 世界を滅ぼす為の一助になったという事実を知らずに、済んだのだから。

 

「ははぁん……こいつが白面のヤロウの餌か。これなら納得だぜ」

 

 再び舞い戻った紅煉が、件の聖杯とその中身に目をやって得たりとほくそ笑む。既に弄ぶだけの興味を失った紅煉と遭遇しなかったのは切嗣にとって確かに幸運であり、危険地帯に戻ってきた理由を知らないままなのは、更に幸福だろう。

 

「おらよ、このまま行っちまいなぁ!」

 

 紅煉の身体から生えてきた五体もの黒炎が聖杯を掴み、そして背後の奇っ怪な黒い“穴”まで稲妻を纏った腕でひっつかんで彼ら魔術師とサーヴァントが血眼になって求めた優勝賞品をかっさらっていった事実を知らず、そしてその賞品が何処へ持ち去られ、どのような使い方をされてしまったのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 それは深海の彼方。

 

 それは、日本の南にしてこの島国を支える大地の要となる絶対の急所。

 

 そこに、その大妖はいた。

 

 白面の者。そう名乗る九本の尾を備えた数十メートルある獣に似た大妖は、そこから厚い厚い水を通り過ぎて遙か彼方にある空と大地を睨め上げていた。

 

 その目は巨大であり、爛々と輝いて何らかの感情を湛えている。だがそれがなんであるのかは余人に察せられない。それは篭められているものがあまりにも多彩であり、それらが混ざり合ってどろどろとしている坩堝だからだ。だが、種類は察せられる。この大妖が見上げる瞳を通して世界へと向けているのは様々な種類の怨念だ。

 

 怒りがあるだろう。

 

 憎悪もあるだろう。

 

 飢えもあるようで、嘲りもあった。

 

 それ以外にも、およそ文字で表現されてきた負の感情が全て混在し、およそ全ての文字にさえできないような想いがこめられている。

 

 それらが全て混ざり合い、そして一つの感情になっている。全ての色がまぜ合わされば、最後は黒になるように大妖の精神は一色に塗り込められている。

 

 即ち、憎い。

 

 その眼差しは無限の憎悪を運ぶ橋となり、遙か彼方に澱めいた怨念を運び続けている。いや、遙か彼方にだけではない。

 

 白面は、すぐ側にある奇妙な岩にも目を向けている。むしろそちらに眼差しを向けている方が主であり、彼方へと向けるそれこそがおまけのようだ。

 

 視線があれば抉られるかと思われる苛烈な視線を向けられているのは、一本の岩だ。そそり立つ、まるで柱のような一本の岩だった。どのように奇妙な流れが通り過ぎれば、この様に削られることになるのだろう。自然の悪戯と言われても信じられない程、奇妙な岩がそこには悠然と構えていた。

 

『須磨子よ……』

 

 白面が、その岩に向けて人へするように言葉を放った。それは声ではなく思念をぶつけるような、そんな力だった。

 

『須磨子よ……貴様が我をここに閉じ込めてから、どれだけ経った……』

 

 それに対し、岩は何も応えない。ただ岩らしく無言で悠々としている。だが、白面はそれを気にせずに言葉を重ねる。それは一人語りをしていると言うよりも相手の反応を気にせずにただ、言いたいことを言っているだけだ。

 

『いや……貴様が……貴様らが代を重ねて八百年……我をここに閉じ込めた貴様ら……お役目と名乗るようになったそれも……やがて尽きる……先の愚かな小妖達の突撃により力を消費した貴様は、次の代を待つ事も出来ずに力尽きてお終いになる……』

 

 白面の言葉は静かだ。悠然と、大樹のように静かに言葉を重ねる。だが、その口元が耳まで大きく裂けると様子は一変した。

 

『あの時は、いつ結界が消えるかは分からなかった。だが今なら分かるぞ。一年後ではない、半年後でさえない。もっと短い! 貴様の力はあとほんの数ヶ月で尽きる事になる! かか、かかかかかかっ!』

 

 醜い笑顔があるとすればそれこそ他に類を見ない醜さであり、何よりも恐ろしかった。

 

 呵々大笑、その震えが海底その物を振るわせる。ぐらぐらと、まるで海底地震が起こったような有り様は異様の一言に尽きる。いかに巨体と言っても海その物から見ればどうしようもなくささやかな妖が、ただ笑うだけで大海原に確かに異変を巻き起こしているのだから。

 

 だが、それを受けても揺るがないならば岩はそれ以上の異様であるのかも知れない。

 

「……例え私の力が尽きたとしても、それが人の敗北に繋がるとは限らない」

 

 その岩から、声がした。

 

 岩の中から、何者かが白面に言葉を返したのだ。

 

「覚えておきなさい、大妖。例え貴方が私の力を振り切って復活を果たしたとしても……それだけで天下を取れるはずがない」

 

『ほう……』

 

 白面の人よりも巨大な目はその岩を突き抜けて、その中身を見据えていた。

 

『それが真実だと思うか、須磨子よ』

 

「心安んじるには早い、と申しているだけ」

 

 それは、一人の女だった。

 

 飾り気のない着物を纏い、座して白面を見詰める黒髪の女が白面と堂々真っ向から見つめ合っているのだ。黒髪が似合う若さが溢れているように見えるが、同時に白髪が当然の年寄りにも見える年齢の分からない女だったが、岩の中で一人敢然と大妖を見据える頭にはまるで十年もその場に座りこんで一歩も動いていないかのように、砂や小石が積もって白髪のようになっている。

 

 彼女の前には岩を透過して白面の巨大な目玉がすぐ側に見えており、その眼光だけで人間など一瞬で砂のように崩してしまいそうな恐ろしさをまざまざと見せつけているが女一人がそれに真っ向から抗していた。

 

「お前を待つのは、滅びです。例えどれほど強大な力を得ようとも……獣の槍と使い手……そして妖怪と人間が全ての力を持ってお前を……!」

 

 須磨子と呼ばれた女は超然とした態度を崩さないが、セリフを聞いた白面の者は滑稽この上なしと笑い出した。

 

『人と妖が全ての力を以て……なんだと?』

 

 物言いに奇妙な含みを感じた須磨子が何かを口にするよりも先に、三体の黒炎が彼らの間に割って入る。それが手に掲げているのは、言わずと知れた冬木から奪取された聖杯だった。

 

「あれは……?」

 

 自分の知識にはない異様なそれに並ならない力を感じながら、彼女は自分に何もできない事実に歯がみする。

 

『貴様の力は我を縛りつけることに全て注ぎ込まれている。もはやこの黒炎数匹を抑えることもできるまい』

 

「……」

 

『だが、それももはや無意味な勘定だがなぁ!』

 

 黒炎が聖杯を残して飛び退くやいなや、白面の者は聖杯戦争に参加したほとんどの魔術師が悲鳴を上げて失神するような暴挙に出た。人類にとってはどうしようもない悪性の毒であり、同時にそれさえ気にとめない魔術師にとっては垂涎の宝である聖杯を、その巨大すぎる口で丸呑みにしてしまったのだ。

 

『くは……くははははは!』

 

 人類にとっては……更に英霊にとっては絶対の毒である聖杯を呑み込んで、白面の者は苦しみ悶えるどころか甘露を満喫しているような法悦に目を細めた。

 

「……何を……何を呑み込んだのですか、白面!」

 

 いてもたってもいられなくなった須磨子が詰問すると、白面は面白くて仕方が無いと言う風を人外の顔一杯に広げて応えた。説明の義理などもちろんないが、むしろ見せつけたくて、言いふらしたくてたまらない様子だった。

 

『今呑み込んだのは、我にとっての“えいよう”よ』

 

「……」

 

『貴様ら人間の作りだした、怨念の結晶! それが我の腹の内を満たしているのよ! ははははは!』

 

 一呼吸毎に、一笑いごとに白面の力がじりじりと強まっているのを須磨子は感じ取っていた。焦燥を腹の中で抑え込むのに大変な苦労をしてる様子を愉しむ白面は化け物らしからぬ饒舌さで語り続ける。

 

『我は四方八方に婢妖を飛ばしている。それがある日、貴様ら人間共の中にいる愚か者どもの祭りを伝えてきた。聖杯、とやらを奪い合う馬鹿な祭りをだ!』

 

「聖杯……?」

 

 聖なる盃と言うにはあまりにも醜くおぞましい力を秘めているように見えた祭器に心当たりがない須磨子は困惑するが、それが白面の優越感を刺激する。これ程巨大な体躯に溢れる力を持っていながらも、なおこの妖はちっぽけな人間にそのような器の小ささを見せている。それが逆に恐ろしい……強者ならではの鷹揚さを持っていないのだから。

 

『聖なる盃と銘打ってはいるが、中身は数百年をかけて溜め込まれた力を六十年前に怨念で染め上げた品よ。海の彼方、我が滅ぼした数多の国々より更に西よりやってきた術士共が作り上げた陰の力……我の腹にはよく合う』

 

 西洋魔道の徒を殊更に忌避するのは光覇明宗の特色だったが、忌避を通り越した瞬間であった。

 

 この時より日本最大の武闘宗派、光覇明宗は西洋魔道の国内駆逐を志し二十年の時間をかけて成功を収める。成功最大の要因が国内外に恐怖を叩き込んだ白面の者に力を供給した罪過にあったのは明白だが、それまでにも魔道の追求と称して影で起こした様々な犯罪行為が白日の下に晒されたからでもある。

 

 しかし、白面の暴威に晒された日本が周辺国家とも協力しアジア圏から魔術師を追放する際に起こった数々の争いにおいて、かつての魔女狩りのようにヒステリックに追い詰め、あるいは濡れ衣を着せて殺戮に耽るような残虐な振る舞いは一切無かった。それは中世と現代における時代の違い、価値観の違いと言うだけではなく、かつて槍を振るって白面を打ち倒した英雄が率先して非道無道を止めて回っていたからだった。

 

『我の腹を満たした陰の気が何を意味するか……分からぬ訳でもあるまい! この中には我に向けたものではないにしても様々な恐れが、怯えが、憎しみが詰まっているぞ! 何よりも、その力の大きさよ。数百年溜め込まれたそれが我にもたらした力、消えかけた貴様の力で押さえ込めるか!?』

 

「……」

 

 勝ち誇る白面に、その周囲で笑う黒炎に、須磨子は何を言い返すこともできなかった。反論する為の知識も無ければ、力こそが足りない。既に彼女が白面を閉じ込める為に用意した檻は軋み音さえ立てている。それが白面の哄笑に紛れ込んで彼女を苛む。まるで骨が体内で軋んでいるかのような音だった。

 

『できぬな。できぬであろう! そして、もはや何もかもが手遅れだ!』

 

 次の瞬間、轟音が海底をかき回した。

 

 人間の可聴域を通り過ぎ、轟音以上の無音となった大振動は容赦も躊躇いもなく須磨子の座した岩を襲う。剛健な岩をも砕こうとする凄まじい衝撃波が襲い掛かってくるが、須磨子はそれさえ意識を向けることができずに白面から目を離せない。

 

『さらば……さらば、忌まわしき結界よ』

 

 目を見開き、牙を剥き、そして白面は笑った。今にも須磨子を食い殺しそうな恐ろしい顔だったが、白面は顔を徐ろに海面へと向けた。自分を放置する事実が何を意味しているのか須磨子は悟った。白面は須磨子に無関心でも殺したくないわけでもない。まずは生きて自分に蹂躙される世界を見ろと、無念と慙愧の念に藻掻いて苦しめ、そう言っているのだ。

 

『短い……付き合いだったな』

 

 白面は静かにそう言った。それまでと一変したのは、この大妖にも感慨というものがあったのか。そのまま自分を一顧だにせず去っていく白面を、須磨子はただ見上げる。それ以外は何もできなかった。なんと情けないことか、なんと無念なことか。己の、そして代々の“お役目”が重ねてきた日々が……今、聖杯とやらのせいで粉々に打ち砕かれてしまった。

 

『我は……』

 

 それは人類への大きな絶望の復活。

 

『我は、白面!』

 

 かつて、数多の国を腐らせ、崩し、蹂躙してむさぼり食った大妖怪。

 

『その名の元に、全て滅ぶ可し!』

 

 遙か深海の彼方で数百年を経て力を蓄えた怪物。

 

 天地の陰気が一つに集まり、憎悪を核として形を成した怪物。二千年という膨大な時間を全て蹂躙と謀略に費やした悪鬼。

 

 それが、ついに地上へと解放された。

 

 されてしまった。

 

 本来のそれよりも遙かに早く、光覇明宗も妖怪達も日本政府も誰にとっても想定外のタイミングで巻き起こされた大惨事によって果たして被害がどうなってしまうのか須磨子には想像が付かない。ただ、それが想定された本来のスケジュールの場合と比較して下回る幸いだけはないだろう。

 

 誰もが油断だけはしていなかったが、それでも寝耳に水の有り様は正に災害と言っていいだろう。

 

 国難という言うべき未曾有の戦争を更に困難にしてしまったのは一体何処の誰なのか……この時、誰も自覚をしてはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

  

 

  

 

 日本は壊滅しかけていた。

 

 白面の者が沖縄の海底から復活を遂げて四時間。

 

 日本列島を支える要の柱石は白面によって砕け散り、列島その物が沈没するのは時間の問題となってしまった。

 

 それにより小さくはない地震が絶え間なく都市を襲い、人々を恐怖と混乱に陥れていく。だが、それさえものともしないような圧倒的な暴虐はこの後にこそ襲来した。白面の者は解放と蹂躙の喜びに満ち溢れながら日本を縦断し、眼下に広がる街並みを悉く焼き尽くしていった。

 

 そうやって作りだした人々の絶望と悲嘆を食べて、白面の者は更に大きくなっていく。更に強大になっていくのだ。このサイクルは人類が存在する限りどこまでも繰り返し繰り返し回り続け、留まることがない無制限の歯車だ。

 

 そのおぞましい有り様を、常人でなければ克明に知る事が出来た。日本全てがおびただし白面への恐怖に覆い尽くされていたからだ。

 

 北へ、北へと予想を裏切るタイミングで解放され、予想を遙かに超える速度で北上しながら国土を蹂躙する白面に備えていたはずの自衛隊も化け物達も、終始圧倒されて蹂躙された。その光景を、その有り様を、人々は見詰めていた……いや、見せつけられている。そして、それが恐怖を助長させて白面へ更なる力を与えるのだ。

 

 まるでおとぎ話の魔王のように日本を蹂躙する白面を、人々は為す術なく見上げて殺されるより他にない。例え今だけ生き延びたとしても沈没する日本に巻き込まれてしまえば命はなく、船や飛行機で脱出しても寄る辺がない。更に、現在は急速に発達した低気圧が日本近海で台風……それも国土を覆い隠しそうな超巨大台風を生み出すという気象学者が失神してしまいそうな事件が起こり、フライトどころか船の出航さえ困難になっている。

 

 絶望。

 

 一口でそう言ってしまえるどうしようもない困難が、日本そのものに立ち塞がり人々から抵抗の意思さえ奪おうとしている。

 

 ニュースでも公然と白面の者、婢妖と言う単語が交わされて脅威を伝えていく。皮肉としか言いようがないが、人々の求める正確な情報こそが国民に恐怖を伝えて白面に力を与えていくのだ。

 

 だが……

 

「あれは、やっつけられるわ!」

 

 最初にそう言ったのは、一人の少女だった。

 

 名前を、中村麻子という。中学生から高校生程度の少女で、意志の強そうな瞳がどこかの誰かにそっくりだった。

 

 彼女と昔からよく一緒にいた、蒼月潮という少年に。

 

「落ち着いて、皆さん! あれは、あの怪物は倒されるから!」  

 

 学校の体育館に避難した人達は絶望感に苛まれるあまり、狼狽え、暴動を起こしかねない様子だった。そんな彼らの注視に怯まず、臆さず、彼女はマイクを握りしめて声を大にして叫んだ。

 

「私は、知っているから! あの怪物を倒す為に作られた槍を持っている髪の長い奴を知っているから!」

 

 子供の戯言だった。

 

 誰も安心させられない、怒りを買いかねないセリフだった。

 

「信じて、信じて!」

 

 だが……  

 

「とらくんだって……すっごく強いんだからぁ!」  

   

「ちょおっと待ったぁ!」 

 

 当然耳を貸さずに民衆は目を血走らせて出入り口に殺到する。自衛隊や警察に食って掛かるつもりなのだ。麻子に食ってかからないのはなけなしの良識が残っているからだろうが、それもささいなきっかけで矛先は変わりかねない……だが、人々の前に警官よりも先に立ち塞がった男がいた。

 

 一斉に押し寄せる市民が次々ぶつかっても揺るぎもせずにどんと構える大きな男で、広い肩と分厚い胸板がいかにも鍛え込んでいる若い男だった。強面で一部だけ伸ばした髪が緩やかに立ち、武骨で太い眉毛は麻子に誰かを彷彿させる。

 

「あ、あれ……確かプロレスラーの立迫一平じゃないか!?」

 

 何人かの男が彼に心当たりがあるように呟いていた。そんな彼らに目もくれず、男は麻子に強い視線を向けた。

 

「お嬢ちゃん、その髪の長い奴ってのは……こんな眉毛をした奴かい?」

 

 親指で自分の目の上を指す立迫に、麻子は戸惑いつつしどろもどろながらも頷いた。

 

「え? ええ」 

 

「じゃあ、その横にケモノみたいな奴もいただろ!?」

 

「ええ……それが、とらくん」  

 

 それを聞いた立迫は一つ頷いてから徐ろにシャツを脱ぐと、プロレスラーに相応しい肉体を衆目に見せつけた。 

 

「よっしゃあ!」

 

 指を鳴らして自分達の前に立ち塞がった大男に圧倒されない市民はおらず、彼らの狂騒に若干のブレーキがかかった。

 

「俺はこの子の言葉を信じるぜ。どうしても出ていって騒ぎてぇんなら、俺をやっつけてからにしな」

 

 集団ヒステリーに冷水をかけられた人々はそれぞれに不満を顔に出して、ぼそぼそと陰気に文句を口にする。その後ろで、味方になってもらった麻子こそが一番戸惑っていた。

 

「俺は飛行機に乗っている時に、そいつらに助けられたのさ」

 

 低い男の声が、不満を隠さない皆の間を通り抜けていく。男のただ者ではない屈強さに大人しく聞かざるを得なかった彼らは、不平不満を腹に持っているとそれぞれに表明しつつも麻子の時とは違い大人しくしている。

 

「あいつらは、自分の十倍もあるでけぇバケモノを相手にビビリもしなかった。俺は……あの時からあのくらい強くなりたいと思って練習してきたんだ」

 

 彼の脳裏に再現されているのは、とある槍を持った少年と黄金の猛獣のような何かが形容しがたい何かに立ち向かう姿だった。彼らが何者なのかわからない。戦っている相手がなんなのかも分からない。ただ、見るからに恐ろしいそれが自分の乗った飛行機を落とそうとしているのははっきりしており、一人と一匹がそれを阻止する為に戦っているのもまた、明確だった。

 

 あんなにも不気味で、あんなにも恐ろしい怪物を相手取り、自分よりもずっと小さくて細い少年の勇敢に戦う後ろ姿を見て……それが見ず知らずの自分達乗客を守る為だとわかって……男であるのなら、それに何も感じないはずがなかった。

 

「あれ……? それって……あいつらじゃないのか? 前にテレビのニュースでやっていた……」

 

「ああ、あの……特撮じゃないかって言われてた?」

 

 誰かがそう言えば、と口にすれば、もう一人も言われてみれば、と思い出す。

 

 それは少しずつ派生していった。

 

 そう言えば、もしかして、アレのことなのか? そんな言葉を少しずつ皆が共有していくうちに狂奔の熱はいつの間にか冷めていった。

 

 皆が何処かで出会っていた。

 

 皆がどこかで聞いていた。

 

 皆がどこかで、助けられていた。

 

 うしおと、とらに。

 

「おい、見ろよ! このテレビ、今言っていたヤツじゃないか!?」

 

 一人がそう言って指さしているのは、蒼月潮ととらが槍を持ち、雷を放って戦っている姿がはっきりと映されている小さなテレビ画面だった。それでも細部まで見て分かる克明な画像は特撮と言い張るのが難しいレベルで、神秘の秘匿云々に神経を割く魔術師などからすれば口から泡を吹いてもおかしくないほどの物だった。

 

 それが保存されていたこれまでも、そして電波に乗っている現在も彼らにとっては信じがたい暴挙だろう。

 

 だが、彼ら以外はそんな事知ったこっちゃあなかった。特に、この映像を保持していた守矢というテレビマンにしてみれば、魔術師の都合など一から十までまるまる知った事ではない。それどころか、好き勝手に情報を歪めていた事実に憤慨して公表しろと電波を通して訴えるくらいに事はやりかねない。

 

 今のように、うしおととらの活躍を知る限り余さず繰り返し繰り返し報道している男なら、そのくらいはやるだろう。それはマスメディアとしての義務だと彼は信じていた。

 

「皆さん、信じてください! 恐れないでください! 彼らがいます。我々を守ってくれる力が、失われたわけではないのです!」

 

 沖縄の暴風雨の中でそう叫んで静かにカメラの前から外れた守矢は、テントの中で腰を下ろすと深々ととため息をつく。

 

「やぁっちまったなぁ……まさかこの守矢さんが嘘の主観的映像を流しちまうとは……」

 

 タバコを吸いながらぼやく彼は心底情けないと自嘲しているが、スタッフはその愚痴を笑って否定した。

 

「いいじゃないですか」

 

「守矢さん、言ってましたよね。あの白い怪物は人間の恐怖を食って大きくなっていくって」

 

 うろんな眼差しを向ける守矢を励ます為にではなく素直に認める為に、彼らは心情を言葉にした。

 

「だったら、この放送で少しでも皆が彼奴を怖がらなくなったらもうあいつの食うものは無くなるんでしょう?」

 

 彼らは率先して笑っていた。それが自分達にできるささやかな抵抗だと信じて笑った。

 

「でもよかったッすよ。守矢さんの編集した『少年と妖怪』のテープがここにあって……そして、それを全国に報道できて……俺達がなかなか報道できないものを流せたじゃないですか」

 

 そう言った新米は気恥ずかしそうに顔を赤くして、確かに気障で恥ずかしい言葉を口に乗せた。

 

「希望ってヤツを」

 

 東京から北、北海道まで。

 

 あちこちで、老若男女問わずに誰かが声を上げていた。

 

「ビルでほら、化け物に閉じ込められていた時に……」

 

「あれだ、洞爺湖ででかい蛇がでた事件でさぁ」

 

「理恵子……ほら、あれ……蒼月君だよ……」

 

「バスで……私達を助けてくれた……」

 

 蒼月潮に助けられた、化け物と戦うとらを見た……誰かがどこかで口にした。

 

 たくさんの人がいて、知らず知らずのうちに皆が口を揃えていた。

 

「ひょっとしたら……」

 

「そうだ、あいつらならやってくれるさ」

 

「あの時みたいに……」

 

「あの時みたいに……」

 

 そう、あの時のようにと誰かが口にした。

 

 恐ろしいものはいる、だがその恐ろしいものを倒す力はちゃんとある。

 

 それは、確かに戦っている。

 

 それは、確かに守っている。

 

 人を守る為に、世の中を守る為に。

 

 今さら誰も口にしなくなった、気恥ずかしい決まり文句のそのままに、一人の少年と一体の化け物は我知らず戦い続けていた。

 

 そんな、彼らならば。

 

 もしかしたら、彼らならば。

 

 いいや、きっと彼らなら。

 

「うしおと、とらなら」

 

 人の恐怖は薄れ、少しずつ希望が芽生え始めていた。

 

 うしおととらの名前の元に、少しずつ諦めるのを止めて折れた膝にもう一度力をこめ始めている。   

 

 それを日本の北端、宗谷岬で白面の者も感じていた。風のように嵐のように日本を思うまま蹂躙してきた白面の者にとってこの国は既に用済みとなりつつあったはずだが、その用済みの屍のような国がもう一度息を吹き返そうとしている状況の変化は認めがたく許しがたい事実だった。

 

 何よりも、白面は決して忘れられない怨敵と未だに交錯していなかった。

 

『獣の槍ぃ……』

 

 かつて、自分の力全てを突破して己そのものにまで届きかねなかった一本の槍。この世の恐怖を食らいつくして力とする自分を恐怖させた、己に恐怖することがないたった一つの敵。

 

 海底で沈黙を守り続けていた間も決して忘れられない、常に脳裏の何処かで暴れ続ける怨敵を白面に忘れられるはずがない。

 

『追いついてきたか、ようやく』

 

 解放された喜びを優先し、国土と人身を蹂躙する遊戯こそ先にしていた怪物だが……それを満喫しているように見えて裏腹に満たされてはいなかった。目の端には常々、銀色の刃か光らせた武骨な槍があるように思えてならなかったからだ。自分が追い詰められていると、強迫観念に囚われ続けているとそいつは認めてはいたが認めきれずにいた。

 

 そのジレンマに苛まれている時間を、そいつにとっても永過ぎる時間を、どうして忘れられようか。その全てを、ついに払拭する時が来た。

 

『我を追ってきたか、獣の槍よ!』

 

 今だ、数百㎞も数千㎞も向こう側に、遮るもののない空の上に立つ一人の少年を白面は見つけた。

 

蒼月潮。

 

 白面の怨敵、獣の槍をしっかと握って戦国大将のように煌びやかな甲冑に身を包んだ益荒男というにはまだまだ青臭いはずの少年が、この大一番に立ち向かわんと毅然として相棒の背に立っている。

 

 うしおととら、槍の少年と黄金の化け物が白面の者を今こそ討ち取ってやると嵐に負けずに前を見据えている。その背後には、数え切れないほどの化け物がいた。

 

 天狗、鬼、飯綱、鎌鼬、他には一体どれだけいるだろうか。百鬼夜行など比較にもならない、正しく日本全ての化け物が間違いなくここに……うしおととらの背に続いて白面に立ち向かっている。

 

「すっげぇなぁ、とら」

 

「ああ!? 何がだよ!」

 

「皆がいる。こんなに強ぇみんながいる」

 

 潮はとらの背中から、背後を、左右を見た。彼の顔には隠しきれない程に嬉しそうな笑顔が浮かんでいる。それに誰もが戸惑った。あの恐ろしい白面の者に挑むというのに、潮はどうしてこんなにも嬉しそうに笑っているのか。妖怪達にはそれが全く理解できなかった。彼らの隠しきれない戸惑いを他所に、潮はどこまでも笑っている。

 

「おいおい、潮!? どーしたんだよ!」

 

 飛びつくように声をかけるのは狐のような妖怪だった。名をイズナと言い、生物に取り憑くことを得意とする潮とは特に親しい妖怪の一匹だ。

 

「俺達、あの恐ろしい白面と戦うんだぜ!? そりゃあ、獣の槍はあるけど……こんなに早く出てくるなんて思ってなかったから準備だって足りてないし、それに白面は聖杯ってヤツのせいですっげぇ強くなった。おまえの母ちゃんが張った特別の結界さえぶっ壊せるくらいにだ。その上、今じゃもっともっと強くなっているのはびんびんに感じるんだぜ!? 俺達、負けちゃうかも知れないんだぜ!?」

 

「だけど、俺達はみぃんな一緒だ!」

 

 イズナは決して臆病ではない。狐と同じ程度しかない小さな身体に溢れんばかりの闘志を秘めているのはここにいる妖怪達の誰もが知っていた。だが、それでもなお怯みを広言してしまうほどに白面の力は強大だった。いや、今この瞬間にもあの大妖は成長し続けている。

 

 その異常極まる力は妖気だけで時の流れにさえ干渉するほどであり、遠方にいるはずの彼らが明らかに圧倒されてしまう絶望的な強大さを壁のように見せつけている。

 

 恐怖も怯みも仕方が無い。決して恥じることでは無く当然のことだと諦めを自覚せずに肯定している。

 

 だが、そんな彼らを潮は強いと言った。

 

「皆知らないだろうけど……お役目様って人がいたんだ。その人が言っていた……“皆、仲良くしなきゃいかんよ”って。俺はそれを人間だけのことかと思ったけど、たぶん違うんだ」

 

 潮が思い出したのは、腕の中で命を使い切った小さな老婆。彼女が死んだのは白面の手先を討つ為であり、同時に潮の弱さのせいでもある。少なくとも潮自身はそうだと思っていた。

 

「人間だけじゃ、白面には勝てなかった……自衛隊もやられちまった。妖怪だけでも、無理だった……でも……人間と妖怪が一緒に戦ったら……わっかんねぇよなぁ?」

 

 潮の目の中に光る輝きは、星よりも月よりもまばゆい、正に太陽のようにきらきらと輝いている瞳だった。輝く瞳の下には不敵な笑みの間から白い歯が見えている。強がりではない、心の底から彼はそう思っているのだ。

 

「相当強いぜ、俺達!」

 

 その言葉は、遙か彼方に見えずとも存在を示す怨敵に怯えていた妖怪達の間へ、急速に染み込んでいった。

 

 

 強い……?

 

 

 我らが……?

 

 

 皆……諸共、に……

 

 

 彼らは怯えており、恐れていた。

 

 数百年前の戦でずたずたに蹂躙されてしまった記憶に怯え、つい先だっては封印の結界に拘束されたままの白面にさえいいように弄ばれた。凡百の妖怪など虫けらも同然と笑って踏み潰す傲慢を認めざるを得ない暴力を前に彼らは半ば屈していたのだ。それでも戦場に立っているのは、一縷の希望を獣の槍……ひいてはうしおととらに抱いているからに他ならない。

 

 だが、その潮は彼らを強いと言った。

 

「頼もしいよなぁ、嬉しいよなぁ」

 

 それを、字伏達も見ていた。

 

 かつて、獣の槍を振るった使い手達の変わり果ててしまった正に成れの果て。人としての全てを失い、化け物……いや、白面を討つ為だけの生き物になった彼らが、自分達に輝いた眼差しを向けてくる後輩に戸惑っている。数多の妖怪が、かつて東で名を馳せた大妖怪であるとら……一匹しかいないと思われていた彼の降って湧いた同属達に戸惑いと畏怖を隠せなかったが、その彼らは自分達の後身である少年の真っ直ぐな眼差しに戸惑っていた。

 

「つえぇ皆がいる。西の妖怪も、東の妖怪も、字伏だっている。皆、一緒だ!」

 

 潮は、心から彼らを信じている。

 

 心から、彼らを頼もしいと思っている。

 

 それが、全員にはっきり伝わってきた。

 

「気がついたか、西の……」

 

「うむ、東の……」

 

 

 

 おおおぉ……

 

 

 

 どこかから、少しずつ声が上がった。

 

 

 

 雄おおおぉぉぉぉぉおおっ! 

 

 

 

 そして、それはやがて全ての妖怪達が声を揃えて挙げる雄壮な鬨の声となった。

 

「たった二言三言で、皆の恐怖が薄らいでいく……」

 

「後ろを見ずに、前を向く! これが……我ら闇に生きる者ではついに叶わない……人間の力か!」

 

 東西の妖怪達を束ねる二人の長が、心からの感嘆を潮の背中に注いだ。そんな彼らにも周りから押し寄せる心地よい意気が感じられた。

 

「全ての人間がそうであるとは思えん。我らも人間こそが持つ邪悪な心は幾らでも見てきた。だが……うしおはそのような邪悪さに打ち勝ち、呑み込む強さを持っている……」

 

「だからこそ、我らもアレを贈ったのだ。妖気篭めた甲冑ならば、この最後の決戦でもきっとうしおの身を守ってくれるはずだ」

 

 これまで潮は数々の激戦を潜り抜けてきたが、その度に血に塗れてボロボロになるのは常だった。瀕死の重傷も一度や二度ではない。それでも命が保っているのは偏に獣の槍を使っている際の回復力向上という恩恵故だ。しかし、それを憂いた東西の妖怪は彼の身を守る甲冑を作り上げた。それが大決戦に挑む彼を守っている背中を見るに、笑みがこぼれる。

 

「けっ! こいつがそんなにリッパなもんかよ。ただ、なぁんも考えていないだけじゃねぇか。チビでボケで、とにかく馬鹿だから……いてぇ!」

 

 がん、と槍の石突きで小突かれた頭を抑えるとらに、こんにゃろうと噛みつく潮は本当にいつも通りのままだった。この一人と一体がいれば、白面の者にだって勝てると妖怪達が確かに信じられるいつものうしおととらがいる。

 

 彼らの中にある恐怖は薄れ、それを上回る大きく熱い希望が数多の妖怪を滾らせていた。

 

『面白く、なし』  

 

 それを鋭敏に感じ取って、許し難しと凄まじい形相で彼方を睨み付ける白面がそれだけで呪いになりかねない凄まじい怨念をばらまいている。 

 

 白面の者は蒼月潮という少年の名前など知らない。

    

 だが、わかった。いや、わかっていた。

 

 白面にとって最大の力である恐怖を打ち消す希望、その象徴があの一人と一匹なのだとわかっていたのだ。

 

 それを叩き潰す為の策は練った。だが、策を実行する前にもう一つの策である聖杯奪取が叶い、解放の喜びに矢も楯もたまらず飛び出した。

 

 その結果が、これだ。白面の前には退魔の武器を構える人間の小僧が引き連れる化け物共が小癪にも群れを成している。

  

『ならば……今度こそ全てを叩き潰すのみ!』

 

 万を超える膨大な婢妖を引き連れ、白面は蹂躙した街の空を逆行していく。目指す先には、己を目指す英雄と彼に率いられた数多の化け物が待っている。いいや、白面に立ち向かいに来ている。その全てを平らげる為に、白面は大空を自在に駆け抜ける。

 

 この一大決戦を、ひどく剣呑な目で見上げている一人の男がいる。

 

 衛宮切嗣だ。

 

「なんだ……このどうしようもない英雄劇は……」

 

 死んだ魚のような目をしている彼だが、声には怨念がこれでもかと篭められている。不倶戴天の怨敵に向ける眼差しで天空を見上げているのだ。

 

 それ自体は決しておかしな話ではない。彼以外にも恐怖と恨みを篭めて空を見上げている人々は幾らもいた。その全てが突如現われて空を駆け、街を蹂躙した白面を恐れていた。しかし、彼だけは他と違い通り過ぎていった白面ではなくあちこちのテレビで伝えられているうしお達を睨み挙げている。今や彼らは人々から向けられる希望を一身に背負い、再編された自衛隊と陣形を整えた法力僧達の力も合わさり、臨みうる全ての力を以て白面に挑もうとしている。

 

 断片的な情報しか知り得ない人々から見ても、全てを知る事が出来た一部の人々から見ても、彼らは英雄だ。人の、そして妖怪達の尊厳と存続を賭けて人妖一体となり国家をもまとめ上げて大妖怪へと挑む彼らは、もしかしたら古今東西の全ての英雄でも成し得ない偉業を、既にこの時点で成し遂げているのかもしれない。そんなうしおを……しかも、自分を含めて民衆を守る為にこそ戦おうとしている彼らを、何故か切嗣は怒りの目で見ていた。

 

 いや、それはただの怒りではない。

 

 もっとちっぽけで、それだからこそ根の深い嫉妬が篭められていると本人も半ば自覚していた。

 

 身勝手で、理不尽。冷酷、卑怯と罵られるのが当然である自分の日頃の行いを考えれば唾棄すべき嫉妬を、自分を含め多くを守ろうと戦おうとしている自分の半分の年齢にさえ満たない小柄な少年に抱いている。

 

 あれは、英雄だ。

 

 それも、稀に見る英雄だ。強い英雄ではなく、人とそうでない者をまとめ上げている有り得ない英雄だ。あれが、少年なのか。あれが、せいぜい高校生……いいや、それ以下にしか見えない少年なのだ。

 

「畜生……ふざけるな、ふざけるな、馬鹿野郎! どうしようもないものを見せつけやがって、馬鹿野郎!」

 

 相手は人を滅ぼす大化生。

 

 一丸となって戦うのは正に生存競争。退くも逃げるも断じてできない、講話の余地もない。だからこそ、全てと共に戦う求心力を発揮したうしおには一片の非もない。だからこそ、切嗣は嫉妬を抑えられなかった。彼はかつてセイバーに英雄を指して“戦争を美化して拡大させる”と非難したことがある。

 

 そのまま言い逃げるように去ってしまった彼は知らないが、セイバーは当時を何も知らない切嗣に何を非難される謂れはないと憤慨していた。それは事実だが、比して今はある程度なら部外者の切嗣も状況を理解しているからこそ、うしおを非難できない。それがどうしようもなく悔しかった。

 

 子供に嫉妬している自分が惨めであり、彼が英雄であるのならば殊更に英雄をあげつらい否定した自分はなんだったのかと恐れた。

 

 もちろん、そんな切嗣の葛藤など当人以外の誰にとっても無意味であり、そもそも関与するところではない。いや、それどころか彼に殺された多くの尊い命が嘲りさえしないで怒り狂うだろう。手前勝手な葛藤に対して優しく甘えさせてくれる相手は皆、彼自身が目的の為に振り払ってきた。

 

 そんな切嗣の救いは……実のところ、ある。彼の為の願いの余波として散々に理不尽な死を罪のない人々に振りまいてきたようなどうしようもない男だと言うのに、それでも救いはあるのだ。彼の被害者になった誰かが、その被害者を惜しむ誰かが理不尽だと血涙を流したところで、それでも確かに救いがあるのだ。

 

 彼にとっては望外の幸福であり、彼以外にとっては何処までも容赦の無い理不尽のような、現実がそこにはある。

 

 しかし、何処の誰にとってもだが幸運も救済も時間制限がある。与えられる時と場は常に狭く小さく、通り過ぎてしまえば次があるかどうかは誰にも分からない。つまり、こうして本人にしか分からない葛藤をしている切嗣を他所に、彼を救える最後の支えが失われつつある現実が彼にとっては静かに……しかし当事者には騒々しく物々しく展開されていった。

 

 紅煉と鏢。

 

 うしおととらのように人と化け物が素直ではなくとも確かに心を通わせる間柄があれば、彼らのようにこれ以上無い不倶戴天の間柄で争い合う関係もある。いいや、これこそが人と妖怪の数多ある当たり前の有り様なのだ。妻子を殺された男と、殺した獣は、行いの帰結として当然のように殺し合っていた。

 

 宙を舞い、辻を駆け、時には民家の屋根を踏み鳴らし、彼らは異能を惜しまず駆使して争っている。

 

 白面の復活も、それによる日本の蹂躙も、まるで遠い出来事のように両者は争っている。鋼の刃のように何処までも硬く鋭い表情を保ち続ける鏢に対し、紅煉はその必死さを愉しんで笑い、嘲り、弄びつつ戦っている。その性は何処までも下劣でありながらも圧倒的な強大さを誇るが故に恐ろしいのが紅煉という怪物だ。

 

「ひゃーはははははっ!」

 

 だからこそ、どんな事でも出来る。

 

 例えば、鏢が庇う銀髪の少女を狙って火炎を吹きかけるような真似もできるのだ。

 

「やあっぱりなぁ! 人間、お前やっぱりそのガキをかばってんなぁ!?」

 

 片腕を失い、血液を失い、応急処置だけを施された虫の息の少女は、自分を守る為に業火に我が身を晒している男の背中に残った体力を振り絞って金切り声を上げた。

 

「なんでよ……なんで私を守るの!? あなたは誰なのよ!?」

 

 彼女は何も理解できなかった。自分が何処にいるのか、この化け物はなんなのか、先ほど遠くに見た神話の澱みから顔を覗かせたような大妖はなんなのか、この男は誰なのか、それがさっぱりわからない。

 

 気がつけば腕を失い、訳の分からない化け物に囚われていた。遊び飽きた玩具のように放り出されて解放されたが、腕一本という五体の喪失は今までに味わったことのない大きすぎる痛みと混乱を彼女に背負わせた。更にはそれを背負わせた化け物が襲い掛かってくるのだ。生存本能さえ諦めてしまう窮地に、幼子に過ぎない彼女は翻弄されている。

 

「けぇっけけけけけ! 親父に棄てられた瀕死のガキを庇って、随分とボロボロになったじゃねぇか。無念だろうなぁ、足手まといを抱えているせいで、十五年も追い続けたこの俺を目の前にしても歯がみするだけ……かえぇそうになぁ!?」

 

 数枚の符を頼りにして業火を遮る鏢を、その胸の内に燃えさかる怨念を知っているからこそ、それをあざ笑える今が楽しくて仕方が無い。白面の決戦も、人類の存亡も、正直興味らしい興味は無い。そんな事よりも目先の蹂躙を味わう方がどれだけ面白い。

 

「切嗣に……棄てられた?」

 

 獣の言葉は、不思議なことに少女にも通じた。相手が妖怪だからなのか、彼女が高度な教養を身につけているからなのかは定かでないし、どうでもいい。

 

 ただ、その呆然とした様子に面白そうだと嗅覚を発揮した紅煉は、獣の顔で作れるこれ以上無い卑しい笑みを浮かべた。

 

「そうよ。俺ぁ、お前を親父の前で食ってやる為にわざわざ北の城まで行って攫ってきたってぇのに、お前の親父はあっさり手下の奴隷に命令してお前ごと俺を殺そうとしやがった。ひでぇ親父だよなぁ? 連れ合いもいらねぇし、娘もいらねぇ。せぇっかく目の前で食い殺してやろうと思ったのに、あっさり捨てっちまうんだもんよぉ」

 

 べろり、と垂れた異様に長い舌が少女を怯えさせる。舌の向こうに見えるあの牙に自分の腕が食いちぎられたのだと直感して血の気がますます引いた。  

 

「そいつとは大違いだぜ、なぁ、符咒士」

 

 歯を食いしばって炎をどうにか防げきった鏢は少女の前に立って、盾であり続ける。そんな男が化けものには滑稽でたまらない。

 

「そいつはな、昔、俺に連れ合いと娘を食われてんのよ」

 

「え……」

 

「だから、そいつの前でもう一度おんなじ事をしてやったらお前の親父もおもしれぇし、そいつもおもしれぇと踏んだんだが……まさか、あっさり見捨てちまうとはなぁ……ち、つまらねぇ」

 

 そう言いながら、紅煉が面白がっているのは一目瞭然だった。切嗣はともかく、イリヤを庇う彼は紅煉を愉しませる。

 

「だからよぉ、小娘……せいぜいそこで震えてこの紅煉を愉しませろや。お前の親父はちっとも面白くなかったんだが、そこで足手まといをやっていれば少しはおもしれぇ。お前のせいで足を引っ張られてぼろぼろになったそいつの前で、お前を食ってやるさ。その上で、もう一度泣きわめく役立たずな符咒士の目玉を食ってやろうじゃねぇか!」

 

「ひっ……」

 

 血に飢えた猛獣でも遠く及ばない凶悪さを発揮する紅煉に、かすれた悲鳴ですんだだけイリヤは強い子供だろう。その一因として、目の前で彼女を庇い続ける鏢の背中も支えとなっているはずだ。

 

「あ、あの……」

 

「お前の父親は、あの時どこにもいなかった……いたのは、英霊だけだった。化け物の戯れ言などに振り回されるな」

 

 イリヤが何を言うよりも先に、鏢は振り向きもしないで冷徹に言った。ただ、その中に隠しきれない気遣いを感じるのは間違いではないと、イリヤスフィールはまだ幼い感受性で悟る。

 

「それよりも、すまない。私の存在が、ヤツの嗜虐心を刺激した。お前の不幸は、全て私のせいだ」

 

「…………」

 

 この男は、不器用に悪者になろうとしている。それは、自分と父の間を取り持つ為だ。紅煉の手によって生まれつつある親子の絆についた罅を埋める為だ。

 

 どうしてそこまで、など問うまでもない。それは子供でもわかる話……いいや、子供だからこそ分かるような話だった。

 

「だが……せめて、この大馬鹿ものにだけは何もさせない。これ以上は、絶対に……命を賭けてもだ!」

 

 使い古された、安い言葉だ。

 

 世間知らずの子供にさえ軽く聞こえるような、ありふれた言葉だ。

 

 だが、それがなんと重たい事だろう。なんと、稀有な言葉だろう。

 

 イリヤスフィールは我知らず涙していた。どこの誰ともしれない男の、つまらない安っぽいセリフに感極まって涙していた。口下手な男の真摯な想いに触れて、混乱と恐怖に思うさま振り回されていた少女の心は救われたのだ。

 

「ひゃはははは! おもしれぇなぁ、人間!」

 

 紅煉が笑っても、牙を剥きだしても、黒い稲妻を振り回しても、イリヤはもう怖くなかった。

 

 男がそこに立っているからだった。男が彼女を守っているからだった。

 

 誰かを……子供を守ろうとする男が当たり前の大人として背中を見せているからだった。その背中が崩れるまで怖くないし、この背中は決して崩れない。

 

 そんな都合のいい空想を、イリヤは疑う余地などないと信じられた。

 

「本当に面白ぇんだなぁ、人間。お前の前でそのガキを食っちまったら、もっともっといい気分になるんだろうなぁ! お前のその無念さが、俺をいいぃ気分にしてくれるのよぉ! やっぱり楽しいよなぁ、どうせなら俺を憎んで恨んでいるヤツを殺すんじゃなけりゃあなぁ!」

 

「もう一度……食うのか? 俺の前で、子供を食うのか? ……食ってみせろよぉ!」

 

 鏢は恐ろしさと喜びを混ぜ合わせて名状しがたくなった表情を浮かべて、真っ正面から紅煉を見据えている。

 

 敵を討つと、子供を殺させはしないと、魂から叫び声を上げている鏢を前にして紅煉は大口を開ける。その奥に、岩をも溶かす業火がちろちろと蛇の舌さながらに踊っていた。

 

「やってやらぁ、お前ごと燃やした後でなぁ!」

 

 十五年の因縁……いいや、怨念に決着をつける戦いを告げる号砲が火炎という形で放たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うえぇぇえぇん

 

 うえぇぇえぇぇん

 

 うえぇぇぇえぇぇぇぇん

 

 そんな声が、何度も何度も繰り返し聞こえてきた。

 

 どこかで聞いた声だと、いく当てもなく街を彷徨っている切嗣の導きとなったそれは彼を娘の所に導いていた。

 

「イリヤ……」

 

 おそらくはとうの昔に避難したのだろう人気のない民家で、切嗣は自分の娘が一人の男を膝に抱いて泣いているのを見つけた。

 

「切嗣……」

 

 涙で顔を腫らせている片腕の少女を、自分の娘ではないと言い張るような強弁はさすがの切嗣にもできなかった。彼女は確かに自分の娘であり、それを認めるのは自分が娘を殺そうとしたのを認めるのと同義だった。自分の罪から目を背ける弱い父親は、目線の先に父親でありたかった強い男を見つけた。 

 

 男は、片腕を失っていた。

 

 男は黒焦げで、片目も失っている。そして何よりも、とうの昔に命を失っていた。

 

 そのくせ、これ以上ないほど満足げに微笑んでいた。まるで、優しい父親のように。

 

 まるで、我が子を守り戦い抜いた父親のように。

 

「彼は……」  

 

 見覚えがあった。

 

 自分を散々に打ち据えた男だった。そして、それだけしか知らない男だった。相手は切嗣を多少知っているようだったが、切嗣は男のことを何も知らない。

 

「この人ね……私に謝っているの……巻き込んでゴメンって、謝って……私を守ってくれたのは、この人なのに……あのバケモノを退治してくれたのは、この人なのに……」

 

 彼女は一本だけ残った小さな手に何かを持っていた。彼女の手の中に隠れる程小さくて古びたそれがなんなのかを、切嗣はしばらくわからなかった。

 

「それで……」    

 

 おもちゃだ。鳥のおもちゃ……アヒルだろうか、それともそんな事は考えていないで作ったんだろうか。 

 

「手も足も、ぼろぼろで……それで……」

  

 泣いているのは、切嗣の娘だ。彼が守れなかったのではなく、守らなかった娘を守り抜いて、男は命を賭けたのか。

 

「奥さんと、子供の名前を呼んで、帰ったよって……」

 

 そう言えば、あの黒い化け物が言っていた。あれは、妻子を食い殺した自分を追い掛けている、と……そうか、彼は念願を果たしたのか。

 

「切嗣は、悪くないって……巻き込んだ自分のせいで、だからごめんって……切嗣は、セイバーが宝具を開放しようとした時に私がいるのを知らなかったんだって……」

 

「!」

 

 切嗣は今までにない強さで一つの感情を胸の奥に抱いた。

 

 自分を殴りつけ、叩きのめした男に。自分の苦悩など何も知らないくせにしたり顔で父親として生きろと三文以下のセリフをしゃあしゃあと吐いた男に。

 

 そんな男に、庇われた。

 

 娘を殺そうとした罪を、庇われた。

 

 これ以上のない、どうしようもない、屈辱だった。

 

「僕は……」

 

 それ以上、何も言えない木偶人形と成り果てた切嗣は自分の胸の奥に腐った傷が出来ていると錯覚した。じくじくと、じくじくといつまでも傷むようなそれは、歯痛のように彼に纏わり付いている。

 

 嘘の痛みだ。

 

 娘を殺しかけた挙げ句、見知らぬ誰かに守ってもらった情けない男が、娘どころか自分の立場さえ守ってもらっているからこそついた傷の痛みだ。  

 

 イリヤスフィールは聡い子だ。そもそも受けてきた教育が違う。彼女は鏢の嘘に気がつくだろう。いや、最初から騙されてもいないかもしれない。それでも……いいや違う。だからこそ切嗣はそれを口にはできない。それは心身傷ついた娘を自分が楽になる為だけに捨てる行為だからだ。

 

 だから、卑怯者の役立たずは更に嘘つきの道化にならなくてはならない。その為だけに生きなくてはならない。破れた夢を追い掛ける事も、耐えきれずに逃げ出す事も許されない。

 

 呆然とした表情を取り繕うこともできずに膝をついた切嗣ははっきりと絶望しつつ、しかし明らかに楽になったと自覚していた。

 

「こんなものなのか……僕は……たった……これだけの……」

 

 そして、楽になった自分が絶望の底にもう一つ穴を開けて自身を放り込んだとすぐに気がつく。     

 

 諦め、捨てた事でこれだけ楽になったというのなら……一体、自分の今まではなんだったのか。

 

 その答えが形になる前に、どこかで巨大な断末魔……そして産声が聞こえた気がした。それは日本の誰もが耳にして、そしてそれが何者の声であるのかを全員が根拠なく正解に辿り着いた。

 

 やがて、メディアが伝える白面の滅亡に……そして、妖怪達の尽力というには生温い捨て身の献身によって日本沈没の危機も去った事実に……人々は喜び、安堵した。

 

 数多くの嘆きは消えず、数多くの憤りも消えず、喪失は何も帰らない。

 

 白面が蹂躙した街も、壊滅した自衛隊も、滅ぼされた妖怪達も、帰っては来ない。そして、白面を討ち滅ぼす為に獣の槍に敢えて刺される手段を選んだ、とらも…… 

 

 だが、勝ち取った何かは確かに人それぞれの手の中にある。

 

 例えば、白面を封じる大役を終えて一人の人として生きる道が開かれた須磨子のように。

 

 あるいは、魂の力を使い切っても人として生きて帰る事を槍その物に望まれて両親の腕の中に帰る傷だらけのうしおのように。

 

 

  

 

 

 

 

 

 人類を救った小さな少年の目覚めを終戦の合図とし、聖杯戦争を含めた二千年以上前に……いいや、陰陽の気が形を成して天と地が分かたれたその時に端を発する全ての戦いは終わった。

 

 

  

  

 

 

 そして、新たな時代が始まっていく。    

 

 世界は妖怪を思いだし、魔道を知り、神秘が公開されて、それらの在り方は大きく変転していく。

 

 その新しい時代を、人々は生きていく。 

 

 人々は新しい時代を作りだし、あるいは適応し、あるいは淘汰され、それぞれに新しい時間を歩んでいく。

 

 白面が去ったところで、世界が優しくなるわけでもない。

 

 新たな時代にもたらされたのは公表された神秘がもたらした混乱と、秘匿を理由に現法を無視して時には非道を働く魔術師への拒絶は、神仏への信仰と妖怪への畏れを世界各国で復活させる。

 

 同時に魔術師への不信と恐怖が著しく、日本とヨーロッパにおいてはかつての魔女狩りに近い魔術師排斥の動きが官民一体となって動き出す。 

 

 秘匿されてきた神秘の公開により力を急激に衰えさせた魔術師に、抗う術はない……

 

 しかし同時に、新しい時代の到来は世界に再び神秘が色濃く到来する時代ともなった。

 

 再び力を取り戻した魔術師と、その脅威、横暴を認めない人類とが相争う世界。人と、人でなしと、そして神話と幻想の中から甦った遠い時代の住人達とが時に争い、時に手を取り合う奇妙な新時代が幕を開いた。 

  

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 間桐雁夜……終戦後、約束通り光覇明宗に保護される。その後は英霊、源頼光を奉る霊地にて建立された神社にて宮司となる。本人は光覇明宗にて僧侶として生きていくのだと考えていた為に驚いた。間桐桜を正式に養女として引き取り、英霊、源頼光と一緒にまるで家族のように仲むつまじく暮らした。穏やかに毎日を過ごすことを至上の命題として家庭を大切にする良き男性であろうと努めていたが、魔術と魔術師に対しては別人のように厳しく接し、扱いは常にテロリストに近いものだった。芙玄院とは懇意にしており、蒼月紫暮を恩人として敬い、蒼月潮とは共通の知人の事で思い出話を語り合う仲だった。後に中国に渡り、桃源郷(桃華源)を発見。恩人である男が本懐を果たした上で命も果てたことを彼の師と桃の精霊に告げる。

 

 

 間桐桜……間桐雁夜の娘となり、護国の英霊に愛されつつ巫女の修行をこなして健やかに成長する。ただし、かつての経験から虫と魔術には多大なトラウマを抱くようになってしまい、殺虫剤を手放さないようになってしまった。遠坂の家族へは複雑な感情を抱いており、それは長年解消される事がなかった。高校生になってから冬木で会った赤毛の少年や激辛麻婆豆腐を愛する地味だが芯の通った少年に胸をときめかせるようになったのはいいのだが、彼女を溺愛する雁夜でさえ相手の少年達を心配する程のヤンデレ気質を発揮する事になる。一体何処の誰の影響なんだ……!

 

 

 源頼光……日の本の危機において甦った英霊として、他に類を見ない凄まじい信仰を集める。類い希な美女であることも手伝い、信仰心だけで現界を維持できる程のカリスマとなる。ただし、当人が何故か女であった為に一部歴史家からは発狂ものの頭痛の種ともなった。また、彼女の降臨に味をしめた日本を筆頭にする国家が英霊召喚を実験したり、あるいは好事家が伝説の美女や女神、芸術家、果ては珍獣などまで召喚しようと考えた為、それらの成功例として狙われる事になる。もっとも、どんな手段をとっても彼女と彼女の庇護下にいる二人に害を成せる組織は出てこなかった。

 

 

 蒼月潮……新時代において最大の英雄となった少年。世界中が見詰め、明確に記録に残る形で偉業を成し遂げた結果、彼は古今のあらゆる英雄を超えたとも言えるが……本人はひたすらに居心地の悪い英雄という椅子には生涯馴染まなかった。光覇明宗の一員として生家の芙玄院の住職となる。本人は美大に進学して画家を目指したかったようだが、英雄の肩書きも彼の画力を水増しできず、日本の受験制度は真っ当だと関係者各位が胸をなで下ろす事となる。その後は真っ当に法力僧を努めつつも人と妖怪の架け橋となり、魔術師をヒステリックに狩ろうとする世相を憂いてブレーキをかけるべく東奔西走する事となった。後に復活した相棒との再会を果たし、タフでコミカルな日々を取り戻すこととなる。生涯をかけて日本を支える柱となった数多の妖怪達を復活させて、悔いなく素晴らしい人生を満喫した。

 

 

 衛宮切嗣……カウンターテロの為にテロを起こす矛盾に満ちた戦争屋。事件後、光覇明宗によって保護される。目の前で長年の目標を実現する手段を失い、同時に気力も失った為、必然的に引退となるはずだったが……聖杯戦争中に様々な非合法活動を行い、街を両断したサーヴァントを従えていたマスターを見逃す話は無い。元々危険人物としてマークされていた事もあり、余罪が追及され世界規模の有名人となった彼は反英霊の座が約束される。死刑は免れないと誰もが確信していたが、久宇舞弥に救出され逃亡を試み、アインツベルンが紅煉によって壊滅したおかげもあって、紛争国で娘と三人姿を眩ませる。その後の行方は杳として知れないが、家族を失った理由が切嗣にあると知った被害者遺族からは数十年間莫大な懸賞金をかけられ、犯罪史に名を残す事になる。

 

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン……少女A。本来アインツベルンによって調整された聖杯の担い手となるはずだったが、一匹の妖怪が介入してアインツベルンを壊滅させた事により運命が一転した。父の因果が娘にかなりの苦労を背負わせるが、それでも聖杯の担い手として祭器になるよりはとたくましく生きていく。そんな彼女の胸の内に妻子の仇討ち、そして自分を守る為に紅煉と戦い抜いた鏢の背中があった事は言うまでもない。自分を見捨てるわ、愛人を堂々と連れているわと切嗣には様々に複雑な感情を抱いており、それは思春期を迎えるにつれてどんどんと拡大されていったが、それでも最後まで彼と共に生きた。父の没後は舞弥と別れ、名前を変えて神秘と科学が錯綜する世界を生きていく。一度、間桐雁夜の元へ訪れて誰かの墓を訪ねたと非公開情報が流れている。

 

 

 久宇舞弥……これまでと変わらず、衛宮切嗣の部品として主にイリヤスフィールの護衛を務める。思春期を迎えたイリヤにとってはあらゆる意味で複雑な感情を抱かせる相手となるが、自分をパーツと割り切っている彼女は淡々として日々を送るだけだった。切嗣の没後、自決したともどこか似ている青年と行動を共にしていたとも情報が錯綜している。

 

 

 遠坂時臣……うっかり。聖杯戦争及び白面の者復活までの経緯より戦犯として指名手配される。魔術師として現行の法律と照らし合せると違法に当たる行為が様々に判明し、それらも踏まえて日本警察より追われる立場となりロンドンへと妻子を連れて逃亡する。しかし、逃亡先に選んだ魔術師の総本山、時計塔でも大きすぎる失態により身の置き所がなく執行者により処断される事となる寸前だったが、魔術が白日の下にさらされた混乱は大きく隙を突いて妻子は脱出させる。その後、遠坂の秘技や秘伝は多くが時計塔に没収され、彼は富も名誉も全てを失い、失意の内に処罰される。しかし、彼は凜と桜、あるいは彼女らの血を引く子孫が遠坂を再興すると疑わずに優雅の信条通りに粛粛として死んでいった。没落させた当主が見せた死に様を嗤う者と讃える者のどちらが多かったかは記録されるはずもない。

 

 

 遠坂葵……右も左も分からない外国に放り出されて何もできないままに、警察に重要参考人として捕縛される。聖杯戦争開始前から喪失と恐怖、不安、責任、様々な負担を心に受けた葵は夫の生死不明と警察からの尋問にとどめを刺されて精神を病んでしまう。自分で決断した経験は殆どない箱入り娘であった彼女にとって、誰も頼りに出来ない、それどころか自分こそが頼りにならなければならない状況は過酷だった。心神喪失状態となった彼女はそのまま日本に護送される。才能を秘めた魔術師を産むことのできる胎盤としての機能はまだ失っていない為、多くの魔術師から狙われる事になる。

 

 

 遠坂凛……うっっかり。母親と共に日本へと帰国する。魔術師としての才能が高い為、彼女もまた母親同様に魔術師に狙われる事となる。日本国内において魔術師が一斉に排斥されつつあった為に大事なかったが泡を食った間桐雁夜にかなり強引に保護され、落ち着いた生活を取り戻す。だが光覇明宗及び魔術に否定的な日本で教えられた父親ひいては遠坂家の起こしてしまった事件、そして心を閉ざした母と妹は彼女の心も大きく傷つけ、その後の人生を左右する。もっとも、生来非常に気が強くたくましい彼女はそこでへこたれず、宝石魔術の初歩に始まり様々な異能を身につけ、魔術師を始めとする異能者による犯罪に立ち向かう道を進む。それは彼女にとって父親……ひいては遠坂の起こした事件への償いでもあった。後に遠坂と同じく宝石魔術を扱うエーデルフェルト家の令嬢と邂逅。特に敵対する意味はなかったのだが、何故か不倶戴天の仇敵として生涯にわたりいがみ合うこととなる。一体何の仇なのかは本人達もよく分かっていないまま今日も楽しく喧嘩する様は、トムとジェリーのようだった。

 

 

 ウェイバー・ベルベット……自分の師であり敗退したランサーのマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトの魔術刻印を確保して帰国するのだが、アーチボルト家は当主の死亡により没落。その後の混乱の中で様々な辛酸を舐めながらも魔術以外の観点から有能さを発揮してきた結果、当主となった少女より依頼を受けてアーチボルト家を再興の為に動く事となる。人を導き、育て、才能を開花させるという点においては他の魔術師講師が有能ではない、あるいは無関心という点を差し引いた上でも有能さを発揮する。だが、本人は何よりも魔術師としての栄光と称賛こそ欲している為、本意ではなかった。聖杯戦争において共に戦った征服王に惚れ込み、後の再会を目標としている。

 

 

 言峰綺礼……かねてより自分の精神が他者とは言う事実に懊悩していたが、遠坂家の家庭問題、聖杯戦争を通して己が求める物が何かに気がつき、開き直る。その後は聖堂教会に舞い戻り、今回の事件の顛末を報告の後は世界の混乱の中で教会の職務をこなしつつも自分の望み……即ち、他者の不幸を愉しんで生きていく。その手始めに、処刑を待つばかりだった遠坂時臣に接触しようと潜入するが失敗。漏洩した神秘によって混乱する世界に彼を生き延びさせて絶望させるという企みを果たせなかった事を惜しんでいる。後に遠坂葵、遠坂凛、間桐桜と接触して彼女達の心の傷を切り開く事を試みる。

 

 

 言峰璃正……聖杯戦争後、出頭した聖堂教会にて死亡が確認される。何者かによる殺人、禁忌であるはずの自殺など流説が様々だったがその後の世界的な混乱の中でうやむやになる。魔術協会と組んで聖杯を求めた彼は聖堂教会より破門され全ての罪を背負って世を去るが、後々まで二つの教会が暗黙の繋がりで聖杯戦争への参加を黙認していたと言う噂が消えることはなかった。実際にアサシンのサーヴァントと契約して聖杯戦争に参加していた息子が無罪放免になったという奇妙な判決が噂の助長に拍車をかけて、綺礼が父親を殺し恩赦を勝ち取った、などという非常に悪辣な噂もまことしやかに流れていたが、本人はそれに対して何も答えることがなかったという。    

 

  

 

 

 

      ────────────────────────────────

 

 

 

 

 そして、いつか、どこかで……

 

 

 

 

 

 彼らは、追い詰められていた。

 

 黒い髪の少年が、橙色に近い赤毛の少女が、そして銀にも見える白い髪の少女が追い詰められていた。

 

 炎に焼き尽くされた廃墟となっている、まるで紛争地帯のような街で三人の男女が表情を引きつらせて追い詰められていた。彼らの周りでは金属が繰り返しぶつかる甲高い音が激しく連続で鳴り響いており、その一回毎に彼らの精神に軋みを与えている。

 

 戦いだ。

 

 焼け落ちた街で、戦いが起こっているのだ。

 

 彼らの前では、盾を構えた水着のような格好をした少女が一人で奮闘している。身体のラインが顕なせいではっきりとわかる華奢な少女が、必死になって身の為程の巨大な盾を構え背後の三人を脅威から守っている。それは、ひどく痛々しい光景だった。彼女の後ろにいる三名も、それぞれの表情で自分が守られているだけの情けない身である事実を噛みしめて自責している。

 

 だが、責めているだけでは何も変わらない。ただ、無駄に時間を費やしているだけだ。盾の少女の疲労と傷は増えるばかりで、彼女を突破して無防備な獲物を貪ろうとする敵が消えるわけでもない。

 

 敵は、正体不明の動く人骨。決して作り物ではないと言い切れる迫力を備えて、古典的な怪談から出てきたようなそれらは五も十も錆びた剣や折れ曲がった槍を持って四人の男女に襲い掛かっている。まるで、彼らを仲間に加えようとしているかのようだった。

 

 少女は華奢な見た目に反して危なげなく機敏に盾を振り回してこそいるが、明らかに戦いに慣れてはおらず、何よりも多勢に無勢だ。彼女が一体の骸骨にかかずらっている間に、三体の骸骨が乾いた音をむき出しの間接を軋ませて鳴らし襲い掛かる。

 

「先輩、所長!」

 

 必死の形相で背後を振り返るが、彼女の手は明らかに遅く、決して届かない。銀髪の少女が唇を噛みしめつつ前に立って抵抗しようと懐に手を入れる。彼女は、決して諦めてはいなかった。そして、それは更に後ろではっきりと恐怖に怯えている二人の男女も同じだった。そして、それだけでは無意味だった。

 

 諦めないからどうした。

 

 そんな事は当たり前だ。そんな事でどうにかなるほど甘い世の中などない。何故なら、少数の例外を除き生きたくてたまらないのに死んでいるのが世の常だからだ。

 

 この四人も、例外ではない。あえなく死んでしまう。それが当たり前の世の中だ。

 

 だが……それでも、生き残るのは諦めない者なのだ。万に一つの例外をつかみ取るのは、どうやら諦めない者だけなのだ。諦めてしまえば、蹲ってしまえば、そこで人は当然のように死ぬ。諦めなくても死ぬが、諦めても死ぬのは、当たり前の摂理だ。偶然頭の上を通り過ぎていく災害も多いが、そればかりではない人災もまた多い。

 

 つまり……諦めないからこそ万に一つの道が開かれることはある。

 

 強くもなく、かしこくもなく、美しくもない。それでも絶望の前に希望をつかみ取るのは、諦めずに絶えず伸ばし続けた手の平だけだ。

 

 彼と彼女は、それを持っていた。諦めずに伸ばし続ける手を持っていた。そして、純然たる幸運かそれとも何者かの作為か……彼らの手を掴み返す誰かがいた。

 

「っ! 光った!?」

 

「さっきもらった、呼符……だっけ?」

 

 二人は手に一枚の紙を持っている。黄金色の板のようなそれが急に輝くと、二人の手から飛び出して青白い三つの輪を生み出した。彼らが呼符と言うそれを中心に生み出された輪は回転を始めてどんどんと加速し、ついには渦となる。その輝きは業火に焼かれる街の中でも煌びやかに人目を引き、骸骨達さえがらんどうのはずの眼を奪われた。

 

「っ! 召喚なの!?」

 

 一人だけ、正確に事実を把握した少女が期待に目を輝かせた。彼女の前で二つの青白い光の渦が弾けるように消え、その中から等身大ほどの輝くカードが現われた。それらは黄金に輝いて世界を照らしている。それは強く、雄々しく、四人の心を暖めてくれる朝日のようだ。心細さも無力感も、全てが払拭される。逆に骸骨達は光を恐れて一歩も二歩も後退る。もう大丈夫だ、と誰かが頼もしく背中を支えてくれている太陽の力強さが四人を守っているかのようだった。

 

 そして……光が弾け、同時に凄まじい轟音が鳴り響いて風が彼らの間を吹き荒れた。

 

 音は近くのビルが崩れたと錯覚する鼓膜が破れかねない大音量で、その原因も結果も関係なく全員が目を閉じて身体を竦めた。そして、彼らがそれぞれにできる最短の時間で目を開くと周囲の光景は一変していた。煌々と燃えたはずの街から炎は消え去り、後はもの悲しいほどに静かな廃墟だけが残り、その中を歩き回っていたお似合いの骸骨は彼らが目を閉じていたごく短時間の内にどこにもいなくなっていた。

 

「これは……」 

 

「助かった……のかな」

 

 それぞれがそれぞれの顔で驚きと戸惑いを発散していた四人に、新たな声が空からかかってきた。

 

「兄ちゃん達、大丈夫だったか!?」

 

「けっ……まぁだお前と腐れ縁かよ……おまけに、呼び出したのはこんな小娘ときた……このわしともあろうもんがよ」

 

 ぎょっとして中を見上げる四人は、赤黒く閉ざされた空に一人と一匹を見つけた。彼らは出会ってから日が浅く、人格も経歴も全く統一されていない四人だったが……その時は、奇妙に同じ事を考えていたという。

 

「俺、蒼月潮! ランサーってヤツらしいんだ。目一杯やっていくから、これからよろしくな!」

 

「け……なぁんでこのわしが“じんりしゅーふく”なんぞの為に戦ってやらにゃあならんのだ? ったく……まぁ、美味そうな小僧や小娘がいるからまぁ、いいか」

 

 ただのTシャツとジーンズを穿いて、足まで伸びた髪の隙間から覗いている瞳が燦々と眩しい……銀色の槍を持った少年と。

 

 彼を乗せた黄金色をした鬣が特徴的な猛獣のようなバケモノを見て。

 

 まるで、太陽のようだ、と……この赤黒い血のような闇を切り裂く偉大な太陽を背負っているかのように思ったのだ。

 

       

 

 

 

  

 

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 蒼月 潮……かつて獣の槍を振るい、人妖混成の一軍を率いて大妖怪を討った近代最大の英雄。優しく、勇敢で、涙もろく、何よりも元気な熱血漢という典型的な少年英雄として世界規模のヒーローとなる。ただ、彼自身はただがむしゃらに戦っただけなのだが魔術を災厄の代名詞として衆目に晒した戦いで名を馳せた為に、魔術師には理不尽に忌み嫌われている。

 

 聖杯を望むどころか災厄の象徴のように考えている為、通常の聖杯戦争ではまず召喚されることはないが……もしも誰かが純粋に助けを求めているのならばその声に誰よりも先に応えるだろう。

 

 クラスは殆どがランサーで、ハマー機関から渡された石の鎧か東西の長から贈られた大鎧を纏った姿で召喚される。稀に獣になりかけたバーサーカー、あるいは法力僧としてキャスターで呼ばれる事もある。また、聖杯に望みを持っていない為にルーラーとして召喚される可能性もわずかだがある。しかしその場合、魔術社会の常識など悉く無視してただ世の為人の為にだけ槍を振るうだろう。いつもそうだという意見もある。

 

 だからこそ、人理修復を目的としたカルデアなどでなら、思うさまに槍を振るって世界を救う為に尽力する。英霊の中では特にアーラシュ、俵藤太、坂田金時など善を為す好漢とはウマが合うが、元々人の輪が好きであり大体の英霊とはなんだかんだで仲良くやれるだろう。だが人道にもとる行いには非常に厳しく、キャスターのジル・ド・レェやゴーゴン三姉妹の姉二人のように極端な反英霊や人を弄んで愉しむような性格の悪いタイプには逆に強く反発する。例外として、二人のオルタとならクリスマス関係で仲良くなれる。また色気には非常に初心であり、彼が十四才当時の年齢で召喚されたなら数多の女性英霊の極端に露出が高い格好にも抵抗の余地なくころりとやられてしまう。

 

 

 

 とら……かつて蒼月潮と共に大妖怪“白面の者”と戦った二千年を生きた大妖怪。かつて白面に取り憑かれて悪魔の子として忌み嫌われたシャガクシャという天竺の武人が獣の槍を使い、獣と化した姿。自分の人生を台無しにし、数少ない心を許した従僕を殺した白面を討つ為、何よりも同じく大切なその姉を守れず、いつの間にか周りに受け入れられていたと気がつかずに憎しみを抱き続けていた愚かな自分を殺す為に戦い続けていた。

 

 本懐を果たし、そもそも人間の作った聖杯など興味がない為に召喚に応じることはまずない。うしおが召喚されていると、彼との縁によりかなりの確率で召喚できる。

 

 好戦的であり、獣と化した際に人間の記憶をほぼ失った為、召喚されてもマスターの言う事を素直に聞くことはない危険なサーヴァント。クラスは当然バーサーカー一択。風を起こす、空は飛ぶ、透明になる、木や石を擦り抜ける、変化する、火を吐く、雷を放つ、牙と爪は鋭く剛力で俊敏、生命力も並外れていると高い汎用性と戦闘能力は英霊の中でも稀だが、その全てが危険性に裏返っている。彼を制御するには令呪を使うかうしおを召喚するより他ない。他の英霊とも基本的には合わない為、下手に召喚すればろくな事にはならないが、うしおさえいれば抑えは効く上、かつては二体で一体と呼ばれた抜群のコンビネーションで“どんなヤツでもやっつけられる”。

 

     

 

 鏢……最強の符咒士にして復讐者。仙人から術を学んで妻子を惨殺した妖怪を追い続けた男。クラスはキャスター、アサシン、アヴェンジャーが該当する。仇討ちを果たした彼が聖杯戦争に参加することはないが、子供に助けを求められれば召喚される可能性はある。あるいは、生前好ましく思っていたとある少年との“もう一度飲もう”という約束を果たす為に召喚される可能性はあるかもしれない。基本的に排他性が強い男だが、復讐者としてブーディカ、エドモン・ダンテスとはシンパシーがあり、子供を大切にする愛情豊かな父親であり、幼なじみを一途に愛し続けた誠実な夫としてアタランテやメディアに好ましく思われる。ちなみにジル・ド・レェに出会えば、もはや問答無用である。  

 

 

 

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