真剣で浪子に恋しなさい (ビーハイブ)
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追憶
――――中国の山奥に建てられた複数の寺院で形成された巨大な施設
その中でも一際大きな寺院の境内で、太陽に照らされる中で多くの者達に見つめられながら対峙する二つの影があった。
一人は足元にまで届きそうな黒い長髪を後ろ手に結った170センチ程の小柄な背丈の美少年。
下半身は格闘家が穿くようなゆったりとしたズボンで肌を一切見せず、逆に上半身は肘まで覆う手甲と肩まで隠すアームカバーのみ。そしてその剥き出しの胴体は鋼のように鍛えられ、その肌には見事な牡丹の花、そして背には龍と義の文字の入れ墨が彫りこまれている。
もう一人は装飾が施されたチャイナ服を着た彼と同じくらいの背丈と長い黒髪を持つ可憐な美少女。女優であると言われても違和感を感じない程の美しさを醸し出しているが、その手に持つ身の丈を超える槍を構える姿から彼女が美しいだけの女ではないとわかるだろう。
身体を半歩引き、左右の腕を掲げて掌底を前面に向ける所謂基本的な中国武術の構えを取りながら楽しげな笑みを浮かべる男と、基本的な構えでありながら一切の隙も無く真剣な表情で槍を構える女。
表情だけで見れば男が本気でないように見えるが、纏う闘志は女の物と変わりなく、決して気を抜いている訳ではないと周囲へと物語っていた。
「はっ!」
しばし見つめ合っていた二人であったが、男が裂帛の声と共にその場から掻き消える。周囲が男が目にも止まらぬ速さで加速したのだと気が付いた時には強烈な掌底が女の背後から迫っていた。
「ふっ……!」
「おっと……!」
だがその光速の一撃を女は前に飛ぶ事で容易く回避し、逆に男の左首横に向けて強烈な打撃を叩き込もうと槍と振るう。
それをしゃがむ事であっさり回避した男が一気に加速して再度女の懐に入り込もうとするが、男がそこに来る事がわかっていたのかと思うほど完璧なタイミングで放たれた槍の一撃が喉元に迫っていた為、男は手甲で切っ先を弾く事で攻撃を逸らし、同時に距離を取る。
「だいぶその眼を使いこなしてきたな林冲! 今のは危なかったわ!」
「嘘を吐くな。お前があの程度の一撃で焦るはずがないだろう」
男の賞賛に林冲と呼ばれた女は悔しそうな顔で応じる。男にその眼と呼ばれた林冲の紫色の瞳は対峙している際とは違い通常ならあり得ない光彩を放っており、何らかの特異な力が宿っているのが見て取れた。
林冲はその眼の力を持って攻撃を回避し、反撃したのだが男は純粋な身体能力のみで対処したのである。その事実は林冲の武人としての誇りに傷を付けるに充分な物であった。
「そうでもねぇさ。それなりに本気で打ったのにあっさり対処されて結構驚いたぜ。だがまぁ……」
そこで言葉を区切り、軽く首を鳴らして構え直すと再度音もなくその場から掻き消える。林冲は再び迎撃しようと槍と振るおうとし―――
「っ?!」
何かに気が付いた林冲は咄嗟に動きを変えて槍を楯にするように右に構える。その直後男の拳が槍の柄を捉え、鉄の槍が僅かに曲がるほどの衝撃が発生し、踏ん張りきれずにその身体が空中へと弾かれる。
「せいっ!」
「っ?! はや―――がはっ?!」
林冲は即座に体制を立て直そうとするが、吹き飛ばされた先には既に男の姿があり、彼女が地面に足が付くよりも早く放たれた二度目の攻撃が脇腹を捉える。その瞬間、ただの打撃ではあり得ない凄まじい炸裂音が響き、林冲の身体が吹き飛ばされて地面を転がった。
「
男はそう言いながら立ち上がろうとする林冲の前に瞬時に接近し、顔を上げた彼女の顔にめがけて拳を放ち―――
「ほい俺の勝ち。これで50戦50勝0敗だ」
「うぅ……また負けてしまった……」
コツンと優しく額に当てて笑顔でそう言うとすぐに林冲へと手を差し伸べる。そして涙目になりながら林冲がその手を取って立ち上がると周囲からは歓声と悲鳴が響き渡った。
「相変わらず無茶苦茶な速さだな歩兵軍頭領様は。次はわっちとやるか?」
「嫌だよ。史進の異能とか俺の天敵だし。お前無駄に頑丈だからやり始めたら二時間は終わらねぇだろ」
集団の中から好戦的な笑みを浮かべながら寄ってくる史進と呼ばれた左右に髪を束ねた小柄な女に対し、手で追い払う動作をしながら男は先程の戦いの最中とは違って嫌そうな顔を浮かべながら拒否する。
「ならば頭領、私と戦わないか」
すると今度は赤い髪の女が寄ってきて男へ戦いを挑んでくる。無表情に見えるが今の戦いに触発されたのかその眼には闘志が宿っており、今すぐに戦いたいと雄弁に語っていた。
「夏に武松とやり合うとかきついから嫌だ」
「……そうか」
「……いや冗談だって。そんなに凹まれるとこっちが居たたまれなくなるから。この後に公とゲームする約束してるんだよ。明日なら付き合ってやるから許してくれ」
「・・・…わかった。楽しみにしている」
男が拒否すると武松呼ばれた女は表情は変わっていないのにとても悲しんでいるのが雰囲気から伝わり、罪悪感に耐えきれなくなった男が折れると武松は一転して嬉しそうに眼を輝かせる。
「おい待て。なんで武松にはそんなに優しくてわっちは邪険に扱うんだ!」
「あぁもうめんどくせぇ! わかったよ今度戦ってやるから今日は楊志とでも組手しとけ!」
「楊志の奴はいつもの禁断症状でダウンしてんよ」
冷たくあしらわれた事に怒る史進を手で制しながら彼女の相方に押し付けようとするが、史進はそう言って集団の中の一か所を指さす。男がその指の先に視線を向けると顔を真っ青にして地面に座り込む蒼い髪の女、楊志の姿があった。
「あーあれかー……あれは放置してると後がめんどくせぇんだよなぁ……仕方ねぇ。林冲」
「? どうかしたか?」
頭を掻きながら近くに立って史進と武松とのやり取りを聞いていた林冲へと男が向き直ると声を掛ける。
「いつものアレだ。勝った方が負けた奴の言う通りにするってアレ」
「あぁ。わかっている。今日は肩揉みか? それとも耳かきだろうか?」
「え? お前そんなくだらない事に何でも言う事を聞く権利使ってたのか? てっきりもっとエロい事要求してるのかと思ってたわ」
「うるさいわ戦闘馬鹿。模擬戦の勝敗程度でんな事頼む訳ねぇだろ……まぁあれだ。今日の命令は――」
史進の突っ込みをばっさりと切り捨て、男は命令をしようとして数秒程迷うがやがて意を決して口を開く。
「楊志の命令を一個聞け」
「パンツを寄越せぇぇぇぇっ!!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ?!」
男がそう宣言した直後、青い顔で座り込んでいた楊志がとんでもない事を口にしながら林冲に突っ込み、男の攻撃のダメージが残っていた林冲は回避できずに楊志に押し倒される。
「おし解決。じゃあ公のとこ行ってくるから後はよろしく」
「あいよー程々で引き剥がしとくわ」
せめて生贄に捧げた相手の姿は見ないでおくのが情けだと言わんばかりに男は林冲と楊志に背を向けて歩き出す。
―――――その瞬間、世界が暗転した
男が振り返ると視界に入ってきたのは明るい境内ではなく破壊された森。そして周囲を埋め尽くしていた梁山泊の者達の姿はなく、降りしきる雨の中で傷だらけで意識を失って倒れている史進、楊志、武松の姿。
「終わりだ。俺は行く」
そして切っ先が破壊された槍を杖のようにして辛うじて立っている林冲へそう告げる男の顔は氷のように冷たく、声には悲しみと絶望が満ちていた。
「何故……どうして我々を裏切るんだ……!」
「我が主である盧俊義が死し、その指針を否定した此処は既に俺の居場所ではない」
そう語る男の声には林冲以上に裏切られたという悲しみが籠っており、それを聞いた林冲は掛ける言葉を失ってしまう。
「じゃあな林冲。史進達には代わりに謝っていてくれ。皆強くて手が抜けなかった」
「待ってくれ! 私を――――――――
置いて行かないでくれ。そう叫ぶ林冲の声を最後に、男の意識は光に飲まれた。
――――――
「あ~……」
窓から差し込んできた陽射しの眩しさで眼を覚ました男が何とも言えない声を上げる。
「三年前の夢を見るとか……我ながら未練たらたらで嫌になるねぇ……しかも最後に一年前の出来事と混ざるとか最悪だわ」
夢ならせめて楽しいままで終わらせろと理不尽な突っ込みを一人で入れながら豪華な作りのベッドから起き上がり、ボロボロのポンチョを羽織って部屋にある唯一のドアから外に出る。
部屋を出る前に見た時計は既に十二時を指しており、昼食の時間が近いせいか廊下を歩いているとフォーマルな格好をした多くの男女とすれ違う。
そんな中をボロボロのポンチョを羽織った男が歩いているのを見れば普通は奇異の眼を向けられるはずなのだが、まるで男の姿が見えていないように誰一人として彼に視線を向ける者はいなかった。
廊下を歩く人の中を音もなく軽やかに躱しながら歩いていた男は廊下の先にあるドアを開く。すると潮風の匂いとカモメの鳴き声や波を切る音が男の五感に伝わってきた。
「ようやく着いたかぁ。船ってのは時間がかかるもんだな」
そういった物を感じ、船の上にいるのだという実感を改めて感じた男は背伸びしながら視線の先に映る港を眺める。
「八年ぶりか。いい思い出なんざ殆どないが……帰ってきたぜ日本」
喜怒哀楽。様々な思いがあるのか男は万感の思いを込めてそう呟いたのであった。
シナリオ読み直したり、マイルームつついたり何度か確認しましたが、彼のキャラが再現で来てるか不安です。
批判、感想待っていますが、彼の真名は感想では書かないでいただけると助かります。
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接触
何とかプロトアーサー引いたけどこれだけ引いて勝ちとは言えないレベルの課金額でしたわ。
神奈川県七浜市。
日本の政令指定都市の一つであり、国際港の存在や中華街や赤レンガ倉庫といった観光地によって賑わう地である。
「さてと……新宿ってのはどうやって行けばいいんだったかな」
そんな七浜の大さん橋国際客船ターミナルに着船した豪華なクルーズ船から誰にも気が付かれる事なく降り立った男は、ポンチョに付いていたフードを目深にかぶって顔を隠しながらそう呟くと観光地案内の掲示板や旅行客には一切目もくれず、懐から封筒を取り出し、中に入っていた手紙を読み始める。
「まずはみなとみらい線の日本大通り駅から横浜駅に行ってそっから湘南新宿ラインに乗り換える……って、電車一本で行けないとか面倒な国だねぇ……案内無しだとしんどいわ」
必死で案内板を見ながら手紙に書かれた道順通りに歩を進めようとしている男がこの国に訪れたのは観光ではなく、この手紙を送ってきた者と会う為であった。
「電車とか乗るより走った方が早いが、場所わかんねぇし。いけばわかるだろって思ってたが……日本の交通機関を甘く見ていた……」
そう言って頭を掻く男の姿は一見すれば多少風変わりな格好ではあるが観光地で迷う旅行客と差異はない。
だがその周囲はあまりにも異質であった。それは周囲の人間に異常があるからではなく、むしろなんら不自然なく、独り言を呟く男の横を通り過ぎていく。
―――まるで男が見えていないかのように
関わらないように意図的に無視しているのではなく、本当に男がそこにいる事を誰も認識していない。
その証拠に前を向いて歩いている者達は皆、男を避ける素振りもなく、軽やかな足取りで歩く男が避けなければぶつかってしまうだろう。
「まぁ何とかなんだろ。会うのは明日だし、今日は観光でもさせてもらうか」
そんな異常を当然のように受け入れているその男は、やがて悩んでも無駄だと悟ったのか諦め、前向きに考えることにして鼻唄を歌いながら人混みの中に消えるのであった。
―――――――――
「新宿は魔境だわ」
翌日、日が完全に落ちた時間になって新宿駅から出た男の第一声はそれだった。
七浜に着いた日にせっかくだからと中華街で美味い物、特に好物の焼売の出店を満喫し、普段使わず貯まっていた金を糸目をつけずに使って高いホテルで一泊してから余裕を持って出発。予定より早く新宿駅に到着し、暇だったのでギリギリまで散策しよう新宿駅の中を適当にぶらつく事にした。
―――それがいけなかった
目的もなく駅周辺ぶらついた結果、自分が出てきた出口の位置を忘れ、待ち合わせ場所への道順がわからなくなってしまったのだ。
最初は普通に歩き回りながら探したのだが、待ち合わせの時間が迫ってきたため、最終的には知り合いの気配を察知しておおよその位置を補足、見事に反対側だった為、新宿駅の上を跳躍して向かうという強行手段で魔境を乗り越えた。
(名付けるならば悪性隔絶魔境新宿。とりあえずもう一人で来るのはやめとくか)
全くなんとかならず、新宿に屈した男は内心で思い付いたネーミングに満足しつつ、一人で都心に来ない決意をすると気配察知によって位置を把握した人物のいる待ち合わせ場所へと進んでいく。
それからしばらく進み、目的地であった新宿にある高級ホテルの最上階のバーへと辿り着くと入口から中を覗き込み、奥の座席に座る男性の後ろ姿を確認するとそのまま静かに歩を進めてその隣へと座る。
「遅くなってすまん。ちょいと迷ってた」
座ると同時に男が声を掛けた瞬間、その男性の視線がこちらに向けられる。その表情には僅かな驚愕の色があり、声を掛けられる瞬間まで男の存在を認識していなかったのだとわかる。
この場どころかこの国に似つかわしくない軍服を身に纏った初老の男性であった。一見すればコスプレのようにも感じるが、その様になっている様子や厳格な様子から本職の軍人なのだと見た者に直感的に理解させる雰囲気があった。
男性軍人の名はフランク・フリードリヒ。ドイツ軍の中将であり、彼こそが手紙を使って男を日本に呼び寄せた人物である。
「相変わらず完璧な隠蔽能力だね。今回も全く気が付けなかったよ」
「そういう異能だからな。簡単に見つかるようなら異能認定されねぇさ」
「ハハハ。確かにそうだ」
最初は驚いた様子を見せたフランクであったが、声を掛けてきたのが待ち合わせの相手であったと気が付くと穏やかな笑みを浮かべながらそう答える。年齢差が二回り以上あるはずなのにその口調と声色は年の近い友人に対する物と変わらない。
「正直あの手紙を君が読んでくれると思っていなかった。今日も待ち惚けとなる可能性が高いと思っていたよ」
「たまたまドイツに用があってな。ついでにと隠れ家に寄ったらアンタからの手紙がある事に気が付いた。まぁ見つけた時点で約束の日を過ぎてたら直接会いに行ってたさ」
「こうして無事な姿を見れて安心したよ。『闇の侠客』の名は耳に入っていたから生きている確信はあったがね」
「そっちも壮健そうで何よりだ。アンタの場合は表でも有名だからあまり心配はしてなかったがな」
そう語り合う二人の関係を一言で表すなら恩人同士と言うのが適切かつ妥当だろう。
数年前とある出来事で男に救われた恩を返したかったフランクは、その後ある事情から身を隠さねばならない立場になった男の為にドイツ国内に隠れ場を提供した。
それ以来、火急の件ではない依頼をフランクから受ける関係となっていたのだが、ここ数ヵ月は男の事情でドイツに寄らなかったせいで音信不通となっており、男と連絡が取れないフランクは提供した隠れ家に本日の日付と場所だけ書いた手紙を置き、ここに来たのである。
後は男の言うとおり偶然その手紙を発見、名前はなくともこの場所を知る人物は一人しか知らない上、仮に罠であっても突破する自信があった男は躊躇いなく来日し、二人は無事に再会したのである。
「そういえば今日は猟犬の奴を連れてないんだな。護衛三人とか無用心過ぎないか?」
「バーの中にいる一般人に紛れさせた部隊の者の数を当てるとは見事だね」
「こっちに意識向けすぎだ。気付いてくれって言ってるものだよ。ついでに俺が異能を解除して現れた時に警戒したろ? 紛れるつもりならもうちょい練習がいるな」
「その助言は有り難く受け取るよ。流石は梁山泊最強の名を持つ天―――」
「フランクさん」
何かを言い掛けたフランクの言葉を男が遮る。フードの下からフランクを見る男の眼光は先程と一転して鋭く、氷のような冷たさがあった。
「主への忠義と共に我が星は消えた。故にその名は我が物に在らず。そして星を継いだ時に親から貰った名も捨てた。今の俺は名も無きただの無頼漢だ」
「そう……だったね。済まない。少し飲み過ぎたようだ」
「いや。こちらこそ済まない。どうか過去を忘れられぬ小僧の戯言と聞き流してほしい」
謝罪を口にしたフランクへ男は逆に机に額が付くほど頭を下げる。その様子は常に纏う軽快な雰囲気も先程までの冷徹さも無く、誠実で真摯な好青年にしか見えないだろう。
「頭を上げて口調も普段通りに戻してくれ。君にそうされると私も心苦しいからね」
「その寛大な心に感謝する。償いにもならないが、アンタの依頼を受けよう」
「……お見通しか」
「当然だ。フランクさんが意味もなく俺を呼ぶ訳がないから」
男の言葉に苦笑を浮かべるフランクに対し、男が確信を持った口調でそう答えるとその通りだと言った笑みを浮かべながら頷き【依頼】の内容を話し始める。
「実は日本の学園に四月からクリスを通わせることになってね」
「クリスを?」
覚えのある名を聞いた男が意外といった様子で声をあげる。クリスとは彼の娘の名であり、同時に数年前にフランクと出会った出来事における中心人物である。たまたま彼女を救った事が男とフランクを繋ぐ切っ掛けとなったのだ。
彼女とはそれ以来今日に至るまで出会う事が無かったが、自身が背中に刻んだ【義】の文字や花の入れ墨を見てはしゃいでいたのをよく覚えている。
「よく許可したな。絶対認めないかドイツ軍丸ごと日本に送り込んで護衛にでもするかと思ったが……」
そして同時にフランクが娘を溺愛しているのは出会った頃から良く知っている事であり、そんな彼が娘を異国の地へと送り出す事を許可するとは思っておらず、それ故に意外であると感じていた。
「日本文化を見てみたいと言っていたからね。何、私も親馬鹿ではない。精々猟犬部隊の精鋭数名を常に交代で護衛に付けておく程度に留めておくつもりだ」
(いや充分だろう)
そう言いかけたのを堪えて心の中に留める。一見冗談のようにも聞こえるが、ドイツ名門一族の当主であるフランクの持つ権限ならば丸ごとは無理でもドイツ軍を動かす事は容易く、本当に娘の護衛の為だけに軍の精鋭を送るつもりなのだと男は確信していた。
「そして私の依頼とはただ一つ。クリスが日本にいる一年間、その護衛を君にして貰いたい」
「猟犬を常時付ければ大丈夫だろうとは思うが、俺までいるかねぇ?」
フランクの依頼を聞いた男は首を傾げる。二人が時折口にしている猟犬というのはドイツ軍における女のみで構成された特殊部隊の名であると共に、その隊長を務めている女、マルギッテ・エーベルバッハの二つ名でもあった。
彼女と一度手合わせした事がある男は、自身の攻撃を
「マルギッテの実力は疑っていない。猟犬部隊も精鋭揃いだからね。そこに不安はない」
男の問いにそう答えるフランクの言葉に嘘は感じられず、彼女達の強さを信頼しているのが伝わってくる。
「私が恐れているのは君が敵になる事だ。君が敵となる可能性がある事が私は何よりも恐ろしいのだよ」
「大袈裟だねぇ。心配せずとも
フランクの言葉を男はカラカラと笑いながら否定する。それは今の言葉が本心であると告げると同時に、何らかの条件が揃えば敵になるという事を示しており、フランクの背筋に冷たい物が流れる。
「まぁ。安心してくれ。その依頼は承った。この国に正規で留まれる身分をくれ。後は何も要らない」
「そういう訳にはいかない。しっかりと報酬は用意させてもらうつもりだ」
「金は余ってるし地位は邪魔だ。そして今は名誉に興味はない。そんなもんより正規の立場のが価値があるさ。それで?日本の何処に住ませるんだ?」
報酬の話は終わりだと言うように無理矢理話題を切り替える。クリスが住まう場所が今後の拠点になるのは間違いない為、男にとってはこちらの方が重要であった。
「武の総本山である川神。そこにある川神学園に二年生として通わせる予定だ」
「川……神……?」
川神という言葉を聞いた瞬間、男の顔色が変わる。表情の変化はあれど常に強い意思があった男の顔には困惑と動揺の色が浮かび、まるで迷子になった子供のような不安定さがあった。
「川神がどうかしたのかね?」
「懐かしい……いや懐かしくない。俺は川神なんて場所を知らないはず……だがあいつらと約束した……約束ってなんだ? あいつらって誰だ?」
初めてみる男の変化に戸惑うフランクが男の肩に触れ、声を掛けるが男は反応せず、ただ独り言を呟くだけであった。
「仕方ない……」
尋常でない様子の男を見てフランクが覚悟を決めたような様子で呟く。強い衝撃を与えれば正気に戻るかもしれないが、恩人に暴力を振るう事に躊躇があったフランクは、精神的に揺さぶりをかけて覚醒を促す判断を下した。
―――それは彼が捨てた名
かつて男が誇りと共に名乗り、今は自らへの侮蔑として呼ばれることさえ苦痛となってしまった現代における世界最強の暗殺者に与えられた異名。
「……『天巧星』、燕青!」
「?! その名で――!」
燕青と呼ばれた男の目に憤怒の色が宿ると共に、その意識が覚醒する。そして男はフランクに対して怒鳴ろうとする直前、ここがバーであり、自身の精神が不安定であった事を思い出す。
「……済まないフランクさん。迷惑を掛けた」
そしてそんな自分を戻すために敢えてフランクがその名を呼んだのだと理解した男、燕青は再びフランクに対して謝罪と共に頭を下げた。
「こちらこそ名を呼んで済まない。恩人であり娘が気に……入っている人物に暴力を振るいたくはなくてね」
「懐の拳銃握りながら言われても説得力がないが、気持ちは伝わったよ」
娘の恩人に無礼を働きたくないという理性と娘に近付く男を許さない本能という、相反する二つの考えから心と身体が乖離した行動を取ろうとしているフランクに対して苦笑を浮かべる。
「ところでかなりの動揺が見られたがら川神がどうかしたのかね?」
「……わからん。ただ川神の名を聞いた瞬間、既視感のような違和感のような感覚が……もう何も感じねぇけど……。死ぬほど嫌いな名前を呼ばれたせいで飛んじまったわ」
「その事に関しては―――」
「冗談だ。気にしないでくれ。それに一回呼ばれたら何か変にスッキリしたしな」
再び謝罪を口にしようとしたフランクに笑顔を向けながら男は呼ばれた名に想いを馳せる。
―――『天巧星』燕青
それがかつて所属していた組織にて与えられた男の称号であり、不本意ながら裏社会において絶大な知名度を持つ悪名である。
天涯孤独のみであった己の才覚を見出したある男に拾われてから鍛練し、今から六年前、十二歳の頃に幼少の名を捨てて燕青の名を拝命した。
それ以降所属していた組織の命で多数の咎人を殺し続け、それにより救われた者からは感謝を、咎人の配下だった者達からは憎悪を込めて燕青の名を呼ばれ続けている。
「名を捨てても罪から逃れられる訳じゃねぇのはわかってるんだがねぇ……」
そう自嘲するように呟く燕青の声には深い後悔の色があった。
「まぁ。辛気くさくなるしこの話は止めようや。それじゃ俺は先に川神に向かうから用意ができたら来てくれ。気配を察知して会いに行く」
燕青はそういうと立ち上がってフランクに背を向けると、フランクが一瞬驚いた後、感心した表情に変わる。
「異能【気配遮断】。君が他者に干渉する意思を捨てればその気配を完全に消し去る能力。私には君の存在を既に認識できないから伝わるかわからんが、娘を頼むと言わせてもらうよ」
フランクの呟きを聞き届けた燕青はイタズラが成功した子供のような笑顔を浮かべながらその場から立ち去ったのであった。
燕青さんの名前だし。もうちょっと隠したかったけど隠して書くのは書くので案外手間だったので素直に披露しました。
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来訪
―――川神
七浜に隣接する政令指定都市であるこの地は、他の都市には無い2つの強大な影響力を持つ組織が存在する。
一つは武の総本山と謳われる川神院。もう一つは世界三大財閥の一つである九鬼財閥の極東本部。この二つの存在から川神には武の実力者が集まりやすく、武器種を制限しない武闘大会と言った他の地区では見ない風変わりなイベントが開催されている場所であった。
「川神に到着……っと」
そんな川神の玄関口とも言える川神駅。春先特有の肌寒い風と暖かな正午の光に照らされた駅の入り口に燕青の姿があった。
その服装は昨日の物とは異なり、紺色のジーンズとフード付きの薄手の灰色のパーカーといったこの国では違和感のない格好に変わっている。腕を覆っていた重厚な手甲は外され、右肩に掛けられたシンプルな白い胴着入れの中に収められている。
あの後フランクと別れて電車に揺られ七浜へ戻った燕青は、今後しばらくの拠点となる街の基本的な情報を調査。同じホテルで一泊過ごした後、この川神の地を訪れた。
「これは……」
だが駅を出た瞬間、目に映る光景に違和感を覚える。初めて訪れた場所にあった何の変哲もない在り来たりな駅前の光景を燕青は懐かしいと感じたのだ。それは既視感などと言うものではなく、明らかに知っている景色を見たからこそ感じる感覚であり、その理由は何なのかと燕青は一人思案する。
「うん! わかんねぇ!」
しばらく考えていた燕青であったが、心当たりを思い出せる気配が一切ないと判断するとあっさりと諦め、いい笑顔でそう宣言する。
その声は普通ならば周囲の意識を集めるような大きさであるのにも関わらず、誰一人として一切反応を示さない。これには昨夜フランクとの会話で出てきた異能と呼ばれる特殊な力が関わっていた。
―――異能とは人が生まれながらに持つ先天的な特殊な能力の事である
後天的な努力で獲得できない固有の才覚であり、大抵は戦闘能力に影響を与えるものであるが、燕青のかつての仲間には他者の意識を乗っ取る【憑依】という異能を持った例外も存在している。
そして燕青の異能【気配遮断】はその例外に該当する異能の一つである。文字通り自身の気配を完全に遮断して存在を感知させない最高クラスの隠蔽能力であり、今まで燕青が1度も相手に認識されなかった理由であった。
この効果は燕青が攻撃行動に入るか他者に接触するまで持続する上、彼が異能を解除するまで認識する事はほぼ不可能。さらに燕青が望めば相手が目の前にいても即座に気配遮断状態へと戻る事が出来る。
当然万能の能力などこの世に存在するはずがなく、燕青の異能にも弱点が存在しない訳ではないが、確実な先制攻撃と如何なる状況下でも高確率での脱出ができる文字通り一撃離脱の暗殺術を可能とする力。
「んじゃ、とりあえず……」
発動中は気配だけではなく聴覚と視覚すら欺く強力な異能を持つ燕青はそう言いながらパーカーを被ると―――
「目的地に向かうとしますかね」
――――何の躊躇もなく解除した
存在を感知不可にする異能を解けば当然周囲にその姿が見えるようになるが、誰もが見れば振り向くような整った顔と全身の入れ墨、そして特徴的な手甲を隠し、その国にあった服装を身に纏えば体格や背丈は平均的な大きさである燕青が注目される要素はない。
むしろ異能を解除する瞬間にたまたま傍にいた着物の少女が「にょわっ!」と特徴的な声を上げて驚いたせいで周囲の視線は全てそちらに集まり、それを利用して燕青は人ごみを逃れてこの場から何の問題もなく抜け出すとそのまま歩き出す。
「さて……。気は進まねぇが行きますかっと」
事前に調べた大扇島という場所へ向かうバスへと乗り込み、一番後ろの窓際へと座る。
『気』と呼ばれる人の肉体で発揮できる力の限界を突破するのに必要な才能を持つ燕青は、新宿駅を飛び越えた時のように身体能力を強化する事で少なくとも一般的に存在を認知されている乗り物よりも圧倒的に速く移動する事が出来る。
目的地の場所も頭に入れているので迷う心配はなく、バスに乗るより走った方が圧倒的に早いのだが、ゆったりと景色を眺める事を好む為、急ぎの事態でなければ公共機関を使うようにしていた。
そんな理由からバスに乗り、窓から海岸に並ぶ無骨な工業地帯を眺めていた燕青だったが、目的地に近いバス停のアナウンスを聞いて視線を前に戻し、到着と同時に立ち上がると手早く清算を済ませてバスから降りる。
そして走り去るバスを見送ると、燕青は再び気配遮断で存在を消し、鼻歌を歌いながらゆっくりと歩き出す。しばらく景色を見ながら歩いていた燕青であったが、やがて一つの建物の前で足を止める。
燕青の眼前に建つのは中央が吹き抜け、下層付近に渡り廊下のような物がある特徴的な形をした高層ビル。その入り口には日本では珍しいメイド服を来た燕青より少しばかり歳が上に見える金髪の女性がまるで門番のように立っていた。
この建物の名は九鬼極東本部。川神の武の二大拠点の一つであると共に燕青の目的地である。
そして入口に立っているメイドもただのメイドではない。何故なら九鬼に属するメイド、執事というのは例外なく九鬼家従者部隊と呼ばれる九鬼家直属の護衛部隊の一員であるからだ。
従者部隊と呼ばれる彼らは戦闘技能、家事スキル、一点特化の才能などから総合的な能力を判定され、千までの数字から優れた者ほど少ない数字が与えられると言う、メイドや執事とはそういうものであったかと疑問を覚えずにはいられない序列制度を取り入れた完全実力主義の精鋭部隊なのである。
「さて串刺し野郎はいない……訳ねぇよなぁ」
だがそんな従者部隊の者を殆ど気に留める事なくビルの最上階付近を見ながら心底嫌そうな顔をして呟く燕青。ただそれは決して相手を下に見ているからではない。
理由は二つあり、一つはどれ程実力があろうともこの状況であれば気配遮断を使っている自身を認識する事は不可能であると、この異能の特性と欠点を誰よりも知る燕青自身が理解しているという事。
「相変わらず化け物染みた気配してんなぁ……ホントに同じ人間なのかねぇ……」
――――もう一つはこれからの事を考えると気が重すぎてゆとりが無かったからである
そもそも燕青が此処を訪れたのはこの建物、より正確に言えば彼の視線の先辺りにいる人物に会うのが目的であった。
だが燕青はその人物に対してあまり好意的な感情を持っていない。むしろ嫌いとまでは行かないがマイナスの感情の方が強く、出来れば死ぬまで会いたくないと思っている相手であった。
それでも会いに来たのはその人物とは川神にいれば遅かれ早かれ遭遇するのは間違いなく、もし出会ってしまえば確実に厄介な事にはなると確信していたので、それならばいっそ先に会って面倒を済ませておいた方がマシだと判断したからだ。
「まぁ愚痴ってもしゃーねぇし、さっさと顔見せるか」
そう言いながら周囲に見えないのを良いことにその場で上着を脱ぎ去り、見事な刺青が彫られた鋼のように鍛えられた上半身をさらした燕青は、肩まで長さがあるアームカバーを身に付け、手提げ袋から愛用の手甲を取り出して装着すると来日した時に着ていた外套を身に纏い再び素顔を隠す。
『戦闘装束』に着替えた燕青はため息と共に異能を解除しようとしたが、建物の入り口から出てきたメイドの姿に気が付いて動きを止める。何故ならその人物は燕青がよく知る相手であったからだ。
「……よし」
その姿を見てふとイタズラ心が沸き上がった燕青は、そのメイドが入口にいた金髪のメイドと言葉を交わし、見張りを交代したのを見届けると異能を展開した状態で背後に回り込み―――
「いよっ!静初!久しぶ――おわっ?!」
そして驚かせようと耳元で声を掛けると共に異能を解除すると、返事の代わりに一切躊躇無く首目掛けて振るわれたナイフを後ろに跳んで避ける。
「あっぶねぇな?! 死んだらどうすんだっつーの!」
「おや、貴方でしたか。申し訳ありません。てっきり九鬼に仇なす賊かと思ってつい……」
余裕で回避できるとは言えいきなり全力で殺しに掛かられた事に抗議の声を上げると、声から燕青の正体に気が付いた女性が表情を変えぬまま、綺麗なお辞儀と共に謝罪を口にする。
「ついでで首を斬り落とすのかよアンタは」
「ご冗談を。私程度の相手に殺される貴方では無いでしょう」
「いや俺だとわかる前に殺しに来たよな?! 大抵の奴等は確実に殺せる速度だったよな?!」
「私の背後を取れるような相手なら対処できる速さだったと思いますよ」
燕青の突っ込みをしれっとした様子で流す女性。だが良く観察すれば淡々としていた口調は僅かに優しさが感じられ、無表情だった顔には微かに柔らかな笑みが浮かんでいる。それに気が付いた燕青はフードの下の表情で穏やかな笑みを浮かべる。
「んじゃ改めて。一年ぶりだな静初。相変わらず美人だねぇ」
「お久しぶりですね闇の侠客。……『
「いや、自分で言うのもアレだが侠
先程までのクールな様子とは一転し、第三者からすれば非常に下らない駄洒落を言って自分だけ受けている少しばかり残念な女性の名は李静初。数年前から親交のある元同業者であり、九鬼家の当主の暗殺に失敗して捕まってそのまま九鬼家のメイドになったというなかなか衝撃的な経歴を持つ人物である。
組織在籍時に色々あって死にかけていた彼女を助けた時から縁が始まり、同じ獲物を狙ったり、時には敵味方に別れて戦い、またある時には手を組んで協力した事がある相手である。
両者共にプロ意識が高く、対立した際には私情を捨てて本気で殺し合い、そして常に燕青は静初に勝利し続けていた。だが一度助けた相手に燕青は非情になりきれず、毎回殺す直前で見逃し、それだけでなく彼女が困っていれば可能な限り手を貸す等、暗殺者としては失格の対応をしていた。
対する静初も最初に救われた恩義を抱いていており、同時に燕青の性格を理解していた為、見逃される事に屈辱を感じておらず、むしろ色々と手助けをしていた燕青を好意的に見ていた。なので同業者と言うよりも友人感覚で接することができる先輩後輩といった関係に近かった。
「さて世間話はここまでにしましょう……闇の侠客、一体何用で此処に来たのですか?もし九鬼に仇なすつもりならば刺し違えてでも討たせていただきます」
だが突如静初の様子が変化する。直前までの冷静でありながらも暖かみがあった声色が一転し、氷のような冷たさを感じさせる声へと変わったかと思うと、静初はその手に持ったままであったナイフを向けてきたのだ。
「今は九鬼とやり合う気はねぇって。どうせ帝さんからも話行ってんだろ?」
「えぇ。ですが貴方は一度は帝様の首に手をかけた相手。いくら友人であっても気を抜くつもりはありません」
二人の口から出てきた帝と言う人物こそが九鬼財閥の頂点に立つ九鬼家現当主の名である。その者は静初にとっては雇い主であり、燕青も面識を持つ相手であった。
「まぁ、確かに
燕青は和やかな会話をしながらも初手の一撃から一切隙なく首を狙っていた事に燕青は気が付いていたので突如敵意を向けてきた事にも全く驚いてはいなかった。
「つか何でそんなに警戒してんだよ。そんなにさっきのイタズラ気に入らなかったか?」
「それは別に怒っていません。単純に私が世界で唯一帝様の命を奪えると思っている相手が目の前にいるので警戒してるだけです」
「ずいぶん立派な九鬼のメイドになったもんだねぇ。能面みたいな面して殺しやってた時とは別人だわ」
静初の強烈なまでの忠誠心を見て苦笑を浮かべながらそう皮肉を口にする燕青であったが、その声色には何処か彼女に対して羨望の色があった。
「……今の私は九鬼のメイドです。あの頃の私とは違います」
「……いや、いいと思うぜ。カタギに戻れるなら戻るべきさ……。さて何の用かって話だが……単純にアイツへの顔見せだよ」
「アイツ……ですか?」
静初の姿を見て感じた
警戒を外したのは彼女相手ならば対処が容易であると慢心したからではない。何故ならば燕青は誰であろうとも油断も手加減もせず、全力で仕留めるべきだという考えがあるからである。
確かに静初の言うように燕青の方が実力は圧倒的に上であると両者共に確信があるが、戦いに絶対は存在せず、僅かな隙が敗北と死を招くと
「そ。わざわざ屋上に出てこっちに殺気ぶつけて来やがる串刺し野郎にな」
―――静初を上回る脅威がこちらへ明確な殺意を向けてきていたである
「うっ……くっ……?!」
燕青がそう口にした瞬間、燕青のみへと向けられていた凄まじい殺気が周囲全体へと膨れ上がり、眼前に立っていた静初が耐えきれずに膝を着く。
友人として支えてやりたい想いはあったが、燕青はそれを振り払い、その場で振り返りながら右手で全力の一撃を振るう。すると次の瞬間には首目掛けて迫っていた影と燕青の拳が激突し、凄まじい衝撃が生まれた。
「ちっ………!」
「ふんっ……!」
右腕に残る僅かな痺れに舌を打つ燕青の耳へ、燕青へ強烈な
「ふんっ!」
「っとぉっ?!」
そしてお返しとばかりに振るわれた蹴りを燕青は咄嗟に左拳で受け流すと後退し、そのまま中国拳法の構えを取って襲撃者と相対する。
――――そこにいたのは精悍な顔立ちの老執事であった
執事服の上からでもわかる程極限まで鍛えられた肉体と老人とは思えぬほど強大な気と存在感。対面したならば武人でなくともこの老人が化け物と呼ぶに相応しい規格外の強さを有しているのだと感じ取れるだろう。
そんな規格外の化け物はそのまま十秒程対峙した後、やがてゆっくりと口を開く。
「ふむ。軽い手合わせとはいえ、俺に手傷を負わせるとはさらに強くなったようだな」
「ざっけんな! 最初の一撃ジェノサイドチェーンソーじゃねぇか! それで首狙うとか殺る気満々だったろ!」
そして出てきたのはやたら上から目線の誉め言葉であった。それを聞いた燕青は思わず湧き上がったイラっとした気持ちを抑えられずに口元を引き攣らせながら抗議を口にする。
ジェノサイドチェーンソーというのはこの老人が生涯かけて磨いた必殺技であり、食らえば戦車が落とした硝子のように砕け散る威力がある。そんなものが身体に直撃すればどれだけ楽観的に考えても悲惨な結末しか想定できず、そんな一撃を一切の躊躇なく首に向けて放たれた燕青の怒りは当然の物と言えるだろう。
「ふん。あれを防げぬならば貴様はその程度だったという話よ」
「……まぁもういいわ」
だが何処吹く風といった様子で全く詫びる様子がないのを見て燕青は怒ってもこちらが疲れるだけだと判断して諦める事を選んだ。
そもそもこの老人に会いたくなかった理由はこうなるとわかっていたからであり、全力で殺しに来たのも燕青ならば何とかできるという信頼の表れであると思い込む事で無理矢理己を納得させて老人へと向き直る。
「久しぶりだなヒューム・ヘルシング。できれば一生会いたくなかったぜ」
「久しぶりだな
心底嫌そうな声と顔でそう言った燕青に対し、ヒューム・ヘルシングと呼ばれたその男は心底楽しそうな声でそう返したのであった。
燕青の作中での強さを表現するためにヒュームと戦わせました。
なんやかんやで設定だいぶ変えたので展開も当初の4分の3程変わってたりします。
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