POSSIBLE DREAM (鈴河鳴)
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プロローグ

 

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 ザッザッと連続した土を蹴る音が辺りに響く。

 男は来た道を引き返すため歩いていた。

 くるぶしまである黄色いロングコートに身を包み、表情はフードに殆ど隠れて見えないが、への字にひん曲がった口許だけでも機嫌がよくないことは明らかだ。

 男の名をユウキ=テルミという。彼は何かを探しに来ていた。

「あの野郎……レリウス。ねぇじゃねえか」

 舌打ちをして、憎々しげにテルミがそうこぼす。それも、彼がレリウスと呼んだ人物に教えられてこの場所に探しに来たのに、目的のそれが見つからないからである。

 もしかしたら嘘を吐いたのかもしれないと疑ったが、その男の性格を考えてまず有り得ない。彼は良くも悪くも嘘を吐かない人間だ。

 となれば、勘違いの線を疑うべきなのだろうか。

 否――まさか、彼に限ってそんなはずは。

 しかし、どんな姿かも分からないし、第一そんな存在が居れば真っ先に気付くはずではないだろうか。

 そう思いながら、何気なしに振り返る。だが、

「――居るわけねぇよなぁ」

 当然、そこに人影という人影もなくて、また前を向き直り――目を疑った。

 そこに、先ほどまで居なかった『誰か』が居たのだ。

「――オイ」

 思わず、呼んだ。

 名前も知らないその人物は、その幼い少女は俯けていた顔をゆっくりと上げる。

 蒼い、どこまでも蒼い瞳だった。

 にんまりとテルミの口角が持ち上がるのが分かった。

「なんでしょう」

 不思議そうに首を傾げる少女の元へテルミは歩み寄り、見下ろし――そして言う。

「……テメェ、『蒼』を知らねぇか」

 嘆きと拒絶のままに好き勝手に世界を繰り返すアマテラス。尽きぬ好奇心のまま神の領域にまで手を伸ばし創造を続けるレリウス=クローバー。

 かつて自身も守っていたその神を壊したとき、新しい世界を作るのは彼がいいとそう思っていたテルミだった。

 これは、そんなテルミの思考が少しずつ揺らぎ始めることとなった狂った世界の物語である。

 

 

 

 

 コンコンコン、と三つ扉を叩く音がして、顔の殆どを仮面に覆った男は一度顔を上げた。

 あまり人の寄り付かない彼の執務室であり研究室であるこの場所に、珍しくノック音がしたからだ。否、彼があまり人に興味を抱かないから覚えていないだけかもしれないが。

 思い当たる顔は一つ。先ほど調査を任せた鮮やかな緑髪の男、ユウキ=テルミくらいだろう。

 それか、彼の器として自身が作ったハザマかもしれないが。

「入れ」

 顔を目の前のモニターに向け直しつつ、短く彼――レリウスはそう告げる。

 扉がぎぎと音を立てながら開き、靴音が二つ。扉が閉まり、

「邪魔するぜ」

 と来訪者が言う。テルミであった。

 それをどうでもよいもののように、否、それよりもテルミとハザマ以外の『もう一人』の存在を感知しレリウスは戻していた顔を再び扉の方へ向ける。

 そこに居たのは少女だった。

「ほう……」

 レリウスの蝋で固めたような顔が、僅かに動く。

 それは、興味だった。

 普段人を連れること等ない彼が、人を――それもまだ幼い無知そうな少女を連れているのだ。一体どのような理由で彼女を連れているのか、それは十分彼の『興味』をそそった。

 しかしすぐに理解することとなる。

「ほら、レリウス。テメェが言ってた奴だぜ。蒼の反応があったっていう……」

 暫しの沈黙。やがて、レリウスは成程と頷く。

 そして、少女へ視線を再度投げる。少女はいつの間にかテルミのフードの端を掴み後ろに隠れていた。ふるふると小刻みに震えているのは、怯えだろうか。

 まさかこんな子供の形で存在しているとは。

 しかし別に年齢は関係ないものだと思えた。それが偶然か何となくかは知らないが、蒼の決めたことなのだろうから。

「名は?」

 きっとこれから何度か呼ぶことになるだろう。通称でもよかったが、それは『蒼』に失礼だとしてレリウスは問う。

 それに珍しいものを聞いたかのようにテルミは目を見開いた後、戸惑いこちらを見上げる少女に顎を出すことで名乗るよう促した。

「えっと……」

 が、彼女は言葉に詰まる。

 何度も二人の顔を見比べては俯いたり、視線を泳がせたりとしてテルミが舌を鳴らす。

 まさか名前がないわけでもあるまい。

 何故名乗らないのだと苛立ちを隠せずにいるテルミに、やがて鈴を転がしたような幼い声が答える。

「その、わからない……です」

「というと?」

 少女が言うと、レリウスが首を傾けてまた問う。

「もじどおり、その、なまえも、なにもかも。わからないんです」

 答えは単純明快。分からないのだ、全て。

 この少女が嘘を言うようには見えず、また嘘を吐く理由も考えられず納得する両者。

 しかしそれでは困った。

 レリウスならまだしも、テルミは何と呼べばいいのだろうか。名前くらいは知っておきたいものだから――。

 ふと、思い浮かべるのは百合の花だった。

 彼女を探しに行った時、至るところで咲いていたのは野生の百合だ。白く美しいその花になぞらえて。テルミがぽつり、と零す。

「ユリシア」

 少女とレリウスが首を傾げる。

 揺れる少女の蒼い眼。見つけた地域は確か――。

「ユリシア=オービニエ。名前なんてそれでいいだろ」

 反芻してみれば適当につけてみたにしては立派な名前ができたとテルミは思う。

「いいか、お前は今からユリシアだ」

 屈み込み、少女と目線の高さを合わせてテルミは言った。

 これから思う存分使ってやろうとテルミは内心でほくそ笑み、少女はそれを知らずただ純粋に笑って頷くのだった。

 

 



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第一章 蒼快な朝

 日差しに瞼を優しく叩かれる感覚で少女は目を覚ます。彼女が一番に目にしたのは、見知らぬ天井だった。むくりと身体を起こすと、するりと滑り落ちる毛布。覗く服は白一色のシンプルなワンピースである。

 口許に手を持っていけば自然と目が細まり欠伸が出て、ふあぁと声を漏らす。

 寝ていたのは一人で眠るには少しばかり大きなベッド。そこからそっと降りて、裸足で彼女はぺたぺたと部屋を歩く。

 窓から差し込む光に、蜂蜜色の髪が煌めく。朝だった。

 誰かの影を探すかのように彼女は部屋を見回す。否、実際探していた。自身をここに連れてきてくれたあの人はどこだろう。

 部屋の真ん中で立ち止まり首をひねっていると、後ろでがたがたと物音がしてどきりと心臓が跳ねた気がした。恐る恐る振り返る。

「ああ、起きたんですね。えーと……ユリシア」

 そこに居たのは、彼女が探していた人物によく似た人物だった。

 整った顔立ちに髪はあざやかな緑色で、細めた双眸から覗く瞳は爬虫類を思わせる鋭い光を持っていた。

 テルミと名乗った人物に対し、この人は確かハザマといったはず。なんでも、二人は同じ体に共存しているのだというが――。だから似ていても不思議ではない。同じ肉体なんだから。

 風呂上がりなのか羽織ったシャツは肌に貼りついていて、首にかけた白いタオルからは湯気が上る。

 慣れない名前を呼びながら起きたのかと問う彼に、彼女は一瞬きょとりと首を傾げた後、慌てて首を縦に振った。

「はい、おきましたです」

 ユリシア。それが彼女の名前であり、名付けたのは目の前の人物と肉体を同じとする人物だ。

 彼女が他の人物に対してひどく怯えると同時に、目の前のハザマ・テルミにはやけに懐いたことからこの執務室で一緒に暮らすこととなったのだ。

 その事実を改めて彼女は幼い頭で自覚すると共に、記憶のない自身の新たな生活がどきどきとワクワクでいっぱいなことを喜んだ。

 そう、彼女には記憶がなかった。

 今までどこで何をしていて、何故あの場に居たのか。気が付けば目の前には彼――そう、テルミという人物が居た。

「そうですか、特に変わったところはありませんか?」

 昨日は移動の疲れからか泥のように眠ってしまった彼女を、気遣うような言葉。

 何かがあっては困るのはハザマ、テルミの方だからなのだがそれを知る由もない彼女は素直に異常がないことを告げる。

 へにゃっと笑みを浮かべる少女に彼は淡々と「そうですか」とだけ返す。

 柔和な笑みを張り付けてはいるが、必要以上の干渉は避けたいような素っ気ない態度だった。

 彼には人を可愛がるような感情など無い。好みなどがあったりしても、それ以上の人らしさがない故にだ。

 それはさておき、ふと彼は顎に手を添え首をひねる。

「にしても……その服だけでは些か不自由ですねぇ」

 彼女が持っている服は白のワンピース。たった一枚、それだけである。出会ってすぐまともに準備することもないまま連れて来たのだから当然といえば当然である。

 しかし綺麗好きな彼にとって、少し汚れたそのワンピース一枚だなんて耐え切れない事態だ。

 故に彼は、

「――服、作ってもらいましょうか」

 デザインはそうだ、統制機構の制服に少しばかり寄せた青と白の。

 首を傾げる少女の目の前で、彼は一人頷いた。

 

 

 

 ノック音が三つ連続して鳴らされる。木製の扉を叩く心地良い音だ。

 噛み合った金具が動く音がして、やがて執務室の扉は開かれる。

「マコト=ナナヤです。任務完了の報告をしに……まいり……」

「あぁ、ナナヤ少尉でしたか」

 丁度それは、ユリシアが手持無沙汰を紛らわす何かがないか、ハザマに聞こうとしていた時だった。びくりと肩が跳ねて硬直する少女と不思議そうに扉を見遣る彼のもとへ現れたのは、大きな尻尾と丸い耳が特徴的な少女だった。

 シマリスの血が混じった所謂リス系亜人種の――ハザマの部下であるのだが、それをユリシアは知らない。

 ただ、ゆっくりぎこちなく振り返った先で見た知らない不思議な人影に目を見開き固まることしかできなかった。

 歳はユリシアよりも六つは上だろう。テーマカラーである浸食する漆黒――黒の制服に豊満な胸を含む体を包んだ彼女――マコトと名乗った人物を見て、納得したようにハザマは頷いた。

 しかし、彼女は言葉を言いかけて止めてしまうほどには困惑していた。

「さ、報告をどうぞ」

 扉が元の位置に戻ろうと動き出しバタリと閉まる。マコトは扉の前に突っ立ったまま動けなかった。それを横目に、自身の執務机を挟んだ目の前を指して彼は報告を促すの、だが。

 そう上手く事が運ぶわけがなかった。

「は、はい……じゃ、なくてぇっ! えっと、ハザマ大尉? この子……誰です? 一応部外者に聞かせる内容じゃあないと思うんですけど……」

 ユリシアの方をチラリと見たあと、マコトは苦笑いを浮かべてそう問うた。

 それもそうだろう、マコトが最後に来たのは三日前、その時彼女は統制機構内に居なかったし見慣れない人物に警戒を抱いても不思議ではない。

 じわり、とマコトは背に嫌な汗をかいていた。

 それを受けてハザマはマコトからユリシアへ視線を戻す。それから、

「あぁ。コレ……じゃなかった。この子はそうですね、昨日から一緒に過ごす事になりまして」

「は?」

 平然と、目を細めたままにそう言ってのけたのだ。間抜けた声をあげるマコト。どんぐりを思わせるくりくりの茶色い目が驚きに見開かれた。

 それに対し、聞こえなかったのかと前置いてハザマはもう一度告げる。

「昨日――正確には、昨日の夕方頃から一緒に過ごすことになりました」

 声にならない声をマコトはあげた。そこには、こんな子がだとかハザマ大尉みたいな人がだとか、とにかく信じられないといった思いが込められていて。

「や、やっだなぁ、冗談はやめてくださいよ大尉……え、マジです?」

 必死に笑顔を作り笑い飛ばそうとしたマコトであったが、動じずしっかりとマコトを見つめるハザマが嘘を言っていないと理解した瞬間、露骨に顔が引き攣った。

 ええ、と頷くハザマ。

 その間もユリシアは固まったままどうすることもできずにいたのだが、ポンとハザマがユリシアの肩に手を置いて立ち上がると、小さく声を漏らしてハザマを見上げる。

 それからゆっくりと、氷が溶けてきたかのようにゆるやかに、マコトの方を見て――ぺこりと会釈を一つ。

 マコトは顔を手の平で覆い、やれやれと溜息を吐いた。かと思えば、手を外すとズンズンとユリシアとハザマのもとへ歩み寄る。

「こんな、子供を、ハザマ大尉が。どういう理由があるかは知りませんが――あまり危険なことはしないでくださいね、大尉」

 そう言って、睨み付けるようにハザマを見上げた。その目つきが怖くて、ユリシアが小さく声を漏らしてしまう。それに気付きマコトはゆっくりとその顔をユリシアの方へ向けると。

 何をされるのか分からない恐怖にユリシアは表情を歪めた。

 だが、マコトはそれに柔く苦笑したあと、

「あはは、怖がらせちゃったかな、ごめんね。アタシはこの人……ハザマ大尉の部下ってやつだから、よろしくね」

 そっと長躯の腰を屈めて目線の高さを合わせると、ニッと快活な笑みを浮かべてそう言った。

 差し出した手は、握手を求めていた。

 ハザマとの扱いの差に、ユリシアは困惑する。ちらり、と答えを求めるようにハザマの方を見上げると、笑顔で頷かれたから。

「よ、よろしくおねがいします、です。ななや……さん?」

 こくこくと二度小さく頷いて、そっと手を差し出す。小さな白い手を、マコトの手が握りしめた。嬉しそうに笑うマコトは、

「アタシの事はマコトでいいよ。で、えっと……名前は?」

 そう言って、首をこてんと可愛らしく傾げてみせた。元気な少女だと、今更ながらにユリシアは思う。ナナヤと言ったのはハザマの真似だったけれど、違う呼び方を提示されれば従おう。

 ユリシアは、またハザマの顔を盗み見る。怖くない存在なのだとハザマが言ってくれているような気がしたから、ユリシアはその表情をあどけないへにゃっとした笑みに変えて。

「じゃあ、まことさん。わたしは……ゆりしあ。ユリシア=オービニエといいます、です」

「へへ、じゃあユリシアちゃんだね!」

 二人を見下ろして、ハザマとテルミはこっそりと道具の遊び相手が増えたと嗤うのだった。

 それを知らぬ二人は新しくできた友との交友を深めようとソファの方へと移動し、腰かけた。

 拙いユリシアの喋りに不快感を示す事なく話してくれるマコトが、とても嬉しかった。

「にしても、ユリシアちゃんかぁ……いい名前だね。あとこんなに可愛いんだし、お父さんとお母さん、美人ないい人だったんだろうなぁ」

 しかし、マコトのそんな何気ない一言に、ユリシアの表情が途端に少し、曇る。

 それはほんの少しだったけれど、諜報部に所属していない人にも十分に分かるくらい。だから少尉とはいえ諜報部のマコトには、それが言ってはいけない内容だったと気付くには十分すぎるくらいの材料だった。

 親友の一人が、義理の親が居るとはいえ本当の親がいないのだ。それと同じものを感じて、

「あ、ごめ、悪いこと言っちゃったかな」

 苦笑して、手を目の前に出しごめんのポーズで咄嗟にそう言った。

 マコトの動作を見て、ユリシアはゆるゆると首を横に振る。

「いえ、ただ、わたしには。おとーさんも、おかーさんも、いないので。なづけてくれたのだって、てる……ハザマさんですから」

 へらっと無理に笑みを作って、ユリシアは言う。テルミ、と言いかけて直したのは、事前にハザマがレリウス以外の他の人間の前では『ハザマ』で呼べと言い聞かせていたからだ。

 そっか、とも何ともマコトは言えなかった。けれど、それよりも引っかかる箇所があった。

「ハザマ大尉が、名付けた……?」

 そこだった。こんな子供が居るだけでもおかしいというのに、まさか名付けただなんて。

 ぎぎ、と首を曲げてマコトは頬杖をついていたハザマを見る。

 と、ハザマは一瞬不思議そうに首を傾げるが納得したように頷いた後、

「ええ、私(わたくし)が名付けましたが、何か?」

「マ、マジですか……」

 首肯するハザマに、マコトは頬をまたひくりと引き攣らせた。彼が、こんな普通の名前を付けるとは想像できない。それ以前に、名付けるだなんて。

「あれ、ってことは……」

 最近来たばかりなのに、名前を付けられるということは。その前の名前は何だったのだろう、そんな疑問が頭を過る。

「まさか、名前がなかった――ってことはない、よね」

 いやしかし、親がいないということはそれもあり得るだろうが。

「そのまさかですよ」

 やっぱりか、とマコトは眉根を寄せた。

 二人の会話についていけなくて、ユリシアは二人を交互に見る。

「あ、えと、その」

 何を言えるわけでもなく、戸惑いながらそう漏らすユリシアに二人分の視線が集まる。

 それから、はぁとマコトの溜息が聞こえ――。

「ま、どんな事情があってもいっか」

 ぼそ、とマコトが一言漏らすことでその会話が終わる。

 そこを見計らったかのようにハザマが書類を押し付けてくるのだから、マコトは上司を睨みつけながらも部屋を後にすることしかできなかった。

 

 

 

「なんで俺様が……」

「仕方ないだろう、ハザマ。あの少女――ユリシアは、貴様に一番懐いているのだからな」

 テルミは苛立っていた。

 というのも、何故かユリシアと一緒に過ごすことになったからなのだが。

 彼女は今、ハザマの執務室に置いてきているのだが、そこで彼女の扱いをどうするか相談した結果である。

「いや、それは分かるけどよ……」

「精神面の調整・ケアは必要なことだろう。特にあの年頃は不安定だが彼女の魂の価値は何よりも高い。扱いを間違え、後々困るよりは……」

 レリウスの言いたいことはわかる。

 それに彼女は特殊だ。一緒に、その時まで過ごすというのがアレの意思だというのなら、『今は』従っておく方が後々扱いやすくなるだろう。

 しかし、いくら事情があろうと、負の感情により存在を強くしている彼にとって慕われながら過ごすというのはとても、新しすぎることで。

「――チッ、仕方ねぇ」

 しかし、それでも行動しないことには始まらない。

 アマテラスを引きずり下ろして破壊した後の世界――それを『夢』見てただ少女のもとへ戻るのだった。

 所詮は道具なのだと、自分に言い聞かせて。

 

 

 

 ユリシアが来てから二日目の昼であった。マコトは特に仕事がなく暇を持て余していた今日、普段であれば親友の他二人と集まって駄弁るところであるのだが、今日は違った。

 一昨日来たばかりだという少女、ユリシアのもと――もとい、自身の上司であるハザマの執務室へ遊びにやって来たのだ。

 ここは遊び場ではないと零すハザマの言葉を無視し、昨日押し付けられた書類を恨みたっぷりに執務机へ叩きつけたあと、こちらに背を向ける形で座り本を読んでいる彼女の隣、革のソファへ腰かける。

「こんにちは、ユリシアちゃんっ」

「――」

 声をかけた。しかし反応はない。

 彼女越しに覗いて見えた内容はお菓子作り。そんな本を読んでいたから、やっぱ女の子だしそういうのが気になるのか――なんて話題を振ろうと思っていたのだけれど。

 まさか、昨日みたいに硬直しているのか。

 そう思い、そぅっと後ろからその顔を覗き込む。彼女は遠くを見ていた。

 本なんか持っているだけの飾りに過ぎなくて、蒼い眼に溶かしたように映り込むのはとても綺麗な青空であった。

 こちらに一切気付かない姿は、とても儚く見えて。

「ゆ、ユリシアちゃん……?」

 再度、声をかける。

 すると、彼女の遠くを見ていた目の焦点がやがて心配げに覗き込むマコトに合わさった。

「あっ……ぼーっとしていました。ごめんなさいです」

 途端、彼女は慌て謝るのだが、それよりも彼女が戻ってきたことに安心してマコトは首をゆるく横に振る。それからニッと笑って、短い言葉で許した。

 それにユリシアは安心したようにつられて笑い――首を横に傾ける。

「それで、えと、なんでしょう」

「あぁ、うん、その本みたいな、お菓子作りとかって興味あるの?」

 問う彼女にマコトは問いで返す。

 記憶がないらしい彼女が何に興味を示すのか気になって、何となく聞いてみたのだ。

「はい。知らないこと、たくさんあるので。おかしだけじゃなくて、いろんなことに、きょうみがありますです!」

 対するユリシアはこくこくと元気よく頷いて、へらっと笑いそう返す。

 そして、それがどうかしたのかと彼女はまた問う。

「や、女の子らしいなぁって思ってさ」

 もし場所があったら、させてあげたい。そうマコトは思った。

 お菓子はマコトも好きだし、彼女の料理の腕がどれくらいなのかは気になるところだ。

 確か執務室には小さなキッチンスペースもあったはずなのだが――。マコトがハザマの方に視線を投げると、彼はすぐにそれに気付いたようで不思議そうに二人を見たあと、会話を思い出して「あぁ」と頷き、

「したいんですか? 別に構いませんよ」

 と、キッチンのある方向を指差して言った。マコトとユリシアは顔を見合わせる。そして、

「いいんですか……!?」

 同時に、嬉しそうな声でそう問いかけた。

 

 

 

 レモングラスを煮詰めた牛乳を、小麦粉と混ぜ合わせる。砂糖と常温にしたバターをクリーム状になるまで混ぜ合わせ、さらにそれを加えてかき混ぜた後、ラップに包んで生地を棒状にしたら、冷蔵庫で数十分寝かせ――その間はお喋りだとか、使った道具の後片付け。カチャカチャとぶつかる道具の音や流れ出る流水音が耳を刺激する。

 時間になったら冷蔵庫から生地を取り出し、包丁で丁度良い厚さに切っていく。トレイに並べたらハーブをぱらぱらと撒いてオーブンへ。

 焼き上がるちょっと前にお茶の準備を始めて、焼きあがったら皿にカラカラ盛り付けて完成。

 それが今回のレシピだ。作ったのは卵を使わないハーブクッキー。

 焼きたての香ばしい匂いと混ざるのはティーカップから立ち上る紅茶の香りだ。

 それだけで涎が口の中に充満する。

「できたーっ!」

 特に汗をかいているわけでもない額を手の甲で拭い、マコトはそう歓喜の声をあげた。

 ユリシアもつられて嬉しそうに笑い、それを横目にハザマはいつも通りの笑顔を張り付けていて。微笑ましい光景であった。

 しかしハザマ、そしてテルミの胸中はそんな景色とは裏腹に――。

 それでも、皿をユリシアが差し出せば一つ摘みあげ、口に放る。

「あぁ、ありがとうございます。――ふむ、美味しいですね」

「えへへ、それなら、うれしいです……!」

 その言葉だけで、ユリシアは飛び上がりそうなほどのどうしようもない幸福感に包まれる感覚をおぼえた。その感覚についた「しあわせ」という名前すら、彼女は知らないのだろうけれど。

 そうしているうちに、マコトがあっと声をあげる。その表情は慌てた面持ちで、二人がどうしたのかと彼女の方を向くと、彼女曰く出張の用事がまたできているらしくて。

 納得した二人に見送られてマコトが退室する、と。

「オイ、ユリシア」

 ハザマ……ではなく、テルミが少女の名前を呼ぶ。

 それに彼女は反応する。

「あ、こんどはテルミさんなんですね」

「あのネズミだとか、仕事相手に対して俺様が出ると色々厄介なんだよ。んで……」

 軽く説明をしてやった後、テルミは言葉に詰まる。

 呼んだはいいが、何も考えていなかったのだ。らしくない、とテルミは思う。

 少女は首を傾け、不思議そうにその言葉の続きを待っているのだが。

「……これから飯を作れ」

 菓子が初めてにしては随分と美味かっただとか、最近そういえば食生活がだとか、そんな思いから何となく言った一言ではあったが、それが彼らの日常の始まりだったのだろう。

 彼女は無知で、無垢であった。故に、最初に出会ったその人物がどんな人であろうと「たいせつなひと」として感謝し、慕い、従おうと思ったのだ。

 それに何となく、彼の場合は生まれる前から知っていたような気がして――。彼の事を思うだけで、胸がとても温かくなった。

 彼と会う前のことを思い出そうとする。

 気が付けば声をかけられていたから、その前の事を思い出そうと目を閉じても浮かぶのは靄のかかった暗い空間と、じんわり感じる蒼い光だけだ。

 どうしても思い出せなくて、くらりくらりと頭痛がして。目を開ければ目前の世界はいつだって温かに包み込んでくれるのだ。

 気持ちのいい日差しを受けながらテルミの傍で歩く度に足裏の感触が新たな情報を教えてくれて、とても新鮮な気持ちで今日という日を生きられる。

 何が起きるか分からない確率事象の真っ只中、各々が胸に腹に色んな思いを抱え生きるこの世界で彼女だけが生き生きとしていた。

 ――一方。夜が明けることのない古城で、少女は金の睫毛の生え揃った瞼を震わせた。

 ゆっくりと開かれた先に覗く瞳は、血のように紅い。

「おはようございます、レイチェル様」

 傍らに控えた老紳士――この家に仕える執事が、その腰を恭しく折って言った。

 それを受けて彼女、レイチェルは二度瞬きをしてから視線を彼のもとへと送る。

 ふっと微笑んだ青白い表情は幼い子供のそれだというのに、とても美しい。まるで一輪の薔薇を思わせた。

「ええ、おはよう。ヴァルケンハイン」

 レイチェルが自身の寝るベッドに手を置き、力を入れて起き上がろうとすると、ヴァルケンハインと呼ばれた老執事は一度何か言いたげな顔をした後、失礼しますと断ってその背中に手を添え起き上がるのを手伝う。

 少女を気遣うように見つめるその視線には、慈愛と敬愛の念がたっぷりと注ぎ込まれていて。

「どうか、なさいましたか」

 しかし、その白い眉がふと下がる。

 それも、レイチェルがその麗しい表情を何とも言えない複雑な表情へ顰めていたからだ。

 左右の高い位置でくくった金髪の束が、窓から吹き込む風に揺れた。

「……何か、嫌な予感がするわ」

 それが何なのか分からないけれど、この世界が大きく変わってしまうような出来事が、そう遠くないうちに起きてしまう気がして。胸騒ぎがした。

 そんなレイチェルを見つめるヴァルケンハインもまた主人の言葉に一抹の不安を抱いていた。

 

 

 情報統制機構本部は、とある噂で持ち切りになっていた。

 人の寄り付かない諜報部に子供が現れた。あの胡散臭い諜報部大尉が子供を連れている。そんな声があちこちからヒソヒソと流れているのだった。

「だからあまり連れて歩きたくはなかったんですがねぇ……まぁ、仕方ないですか」

 スラックスの腰ポケットに親指を入れながら、彼――ハザマは歩みを進めていた。向かうのはレリウスの待つ部屋である。斜め後ろをちょこちょこと着いてくるのはやはりユリシアだった。

 早くこの場から立ち去りたいという気持ちからか、こころなしかハザマの歩幅はいつもより大きくなっており、それに合わせて歩く彼女はもはや小走りとなっていた。

「――あぁ、やっと着きましたか」

 そうしているうちに目指していた扉の前に辿り着く。人の寄り付かない一角、重厚な扉を三度ノックして力を込め押せば開かれる扉。その向こうに居たレリウスは相も変わらず机に向いていたが、ハザマの入室に気付くと首だけをそちらに向けた。

「ハザマか。――準備ができたのか?」

 レリウスが問う。

 準備、というのはここを発つための準備である。彼らはここ、統制機構本部を離れる予定であった。

「ええ、それはばっちり。ユリシアの方も元々荷物はありませんし」

「そうか……。それにしても、カグツチとは……また随分と懐かしい」

 頷きながら、ちらりとユリシアの方を見遣るハザマを一瞥して、レリウスは窓を見遣る。

 空はどんよりとした灰色の雲が覆い尽くしており、そこに空気中の魔素が入ることで余計に景色を暗い色に塗り固めていた。

 第十三階層都市・『カグツチ』は建設途中のため未完成都市とも呼ばれており、下層には内戦から逃げてきた人々などが住む浪人街がある場所だ。その浪人達が建設を手伝うことで、まだ未完成ながらに一気に発展した都市である。

 未だ開発の途中だということをユリシアはあらかじめ聞いてはいたが、一体どんなところなのだろうと期待に胸を膨らませていた。

「――出るぞ」

「ええ」

 レリウスの一言に短くハザマが相槌を打って、踵を返す。ばさりとジャケットを翻しながら彼らは部屋を出た。

 また出口に向けて歩く間、見慣れぬ少女に加えレリウスまで一緒となれば余計にひそひそ声は大きさを増すのだが、それを無視しながら三人は外に出る。

 乗り場まで移動して、そこから出ている統制機構の魔操船に乗ればカグツチまで数時間。窓から望む景色は慣れぬ者からすれば結構な絶景で、窓に手を付いて身を乗り出さんとする少女の眼は空で輝く太陽に負けず煌めいていた。

 精神体であるテルミを受け入れたことによって少しだけ人の感情をテルミ越しに知ることのできたハザマは、それが純粋な子供の反応であることを理解したけれど、やはり自身には何が興味をそそるのかは理解できないまま。

「はざまさん、はざまさん、みてください、とってもたかいです……!」

 席に腰をしっかりと下ろしたハザマの方を振り返り、手招きをする少女に仕方なくハザマは立ち上がる。けれど、

「ええ。でも私、こういう景色は何度も見ているのでさほど面白味がないんですよね」

 隣に立って言った一言は本音、それもひどく冷たいものだった。

 ハザマを見上げるユリシアの笑顔が固まった。窓に手をついて、外を眺めつつハザマは少女のその表情を一瞥した。

 本当のことを言っただけで心が痛むなんてことはなかったし、相手がどんな風に思ったかすらハザマにとってはどうでもいいことだった。

 もっと同調するような台詞を吐いても良かったが、その必要性すらハザマは感じない。

 こういう時、テルミなら何を言ったのだろうと自身の胸を意味もなく見下ろしたがこういう時に限ってテルミは愉快そうに傍観しているのだから性質(たち)が悪い。

 体があれば、頭の後ろで腕を組んで椅子に腰かけている事だろう。まぁ生憎と器はハザマしかいないので本人にしかそれは見えないのだが。

「あ……そ、そうですよね。ごめんなさい、です」

「いえ、謝る必要はありませんよ。ただ事実を述べただけですので」

 眉尻を下げて謝る少女に淡々と話す。

 計画のための道具としてしか、彼女を見ていなかったから、余計に優しくするなんて思考も浮かばなかった。

 レリウスはただその会話に関与するでもなく、興味深そうにその様子を観察していた。

 そこから気まずい雰囲気になるかといえばそうでもなく、やはり子供なのかすぐに切り替え景色を見て喜ぶユリシア。

 視界に映る山々はたまに階段状に都市が形成されているものがある。それらは山を削るのではなくプレートを差し込む形で形成されていて、階層都市と称すること。複数の階層に分かれるためその名がついたというのは暇つぶしのため与えられた本に書いてあったことだ。

 上の方は貴族などが、下の方には没落貴族や平民、亜人などがいること。山の中なのに寒くないのは統制機構が術式で気候を調整しているから。

 そんな内容を思い出しながら見ると、勉強になるとユリシアは思う。

「――着きましたか」

 ハザマが漏らすのに合わせて彼女が入口を振り向く。乗り降り場だった。

 降りますよ、そう言ってハザマがレリウスの後ろをついて歩き、一番後ろを彼女が追いかける形となる。

 翠色の制服に身を包んだ彼ら、魔操船回りを担当する衛士達からの視線もやはり異様なものを見る目だった。

 それを無いもののように進んでいく背中を追いかけていて――ふと視界の端に捉えたのはたっぷりとしたドレスだった。

 何故、それが気になったのかは分からない。だけれど、進みながらそれを目で追っていた。白い肌の少女。長い金髪のツインテール。ウサギのようなリボン。

 ゆっくりと、彼女がこちらを振り返る。

 目が合った瞬間、遠くだったというのに、彼女が目を見開くのが分かった。そして、次には彼女はとても――とても悲しそうな顔をしていた。

「……あ」

 二人の方を咄嗟に見遣ると結構前を行っていて、慌てて追いかける。

 彼女が居たであろうところを振り返る。そこに彼女はもう居なかった。

 追いついた時、何をしていたんですかとハザマに咎められたが、それは言ってはいけないことのような気がして曖昧に返した。

「――ちょっと、きになるひとがいて」

 そもそも、人だったのかすら分からないけれど。それに興味深そうに声を漏らすレリウスと、何か思い出したのかと聞くハザマ。

 それにはゆるりと首を横に振って、若干早足で歩幅の大きな二人の斜め後ろを歩く。

「見えてきましたよ。あそこが――」

 やがて、先ほどいたところと似た構造の、建物の入り口が見えてくる。これが第十三階層都市・カグツチの統制機構支部なのだろう。

 きょろきょろと辺りを見回しながら不安そうに、先ほどよりも足を速めて二人にぴったり着いて歩く。門番の視線もやはり痛くて、今にも足が止まってしまいそうだったけれど。

 入ってしまってからは案外楽であった。本部よりも人は少なくいため、やはり視線は飛ぶけれども本部ほどの緊張は齎(もたら)されなかった。

 ここでユリシアはハザマの背中だけを見ていれば怖くもないことに気付く。

 ハザマの肩は他の衛士に比べ平均的に細く、見上げるほどの長躯はひょろりとしていた。だけれど、何よりも広く感じられた。

 側面が青、真ん中が白の新品のワンピースを揺らす。

 これは最近、テルミが彼女のために頼んでくれたものだ。他の衛士達の中に居てもあのワンピースよりは目立たないよう、とわざわざデザインを考えてくれたのだから、大事にしなければと思う。――背中が出ていたり丈が少し短い気がしたけれど、衛士の制服だって似たようなものだと考えて首を横に振る。

「――さて」

「わわっ」

 暫く無心でそうしていれば、目の前で立ち止まるハザマ。唐突過ぎてぶつかりそうになるが、慌ててブレーキをかけ事なきを得る。

 ユリシアがハザマの斜め後ろから見たのは、扉だった。

 木製の扉は、本部で見たハザマの『執務室』のものにそっくりだ。

 いつの間にかレリウスは居ない。見回しても見当たらない。どうやら途中で別れたようだ。

 ハザマが扉に触れる。途端、呼応するように色んな図形や文字の描かれた丸い陣が現れ、水面のように揺れた。緑の光だった。

 中身が複雑極まりない記された円――ロックの術式陣は、触れた人物が部屋の持ち主であることを認識して浮かび上がった。難しいパズルのように組み合わさった図形たちはかちゃりかちゃりと動き出すと、やがてすぅっと扉に飲み込まれるように消えていく。

 ドアノブを捻って扉を押せば、自然に扉が開かれた。

「着きましたよ。暫くはここで寝泊まりすることになります」

 そう言って指された部屋の内装は、本部の執務室に似ているものの少しだけ面積が狭いと感じた。入れ、と言われればそれに従い、頷いて彼女は入室する。

 それを見てハザマも入室し扉を後ろ手に閉めた。ぱたりという虚しい音が廊下と部屋を隔てる。

 ユリシアは、部屋を見回した。整えられているが、生活感が感じられない部屋であった。薄く埃をかぶったテーブルや椅子が何とも言えない寂しさを醸し出す。

 扉を開け閉めした瞬間に舞ったのだろう一部の埃たちは、窓から差し込む光を反射し煌めく。

「っくしゅん……!」

 魅入っていたのも束の間。それらは鼻をくすぐり、思わずくしゃみが出た。

 それはハザマも同じのようで、同時にくしゃみをした二人は顔を見合わせた。へらり、とユリシアが笑う。

「――掃除、しませんとね。とてもじゃありませんが、こんなところじゃ眠れませんし」

 こう見えて私、綺麗好きなんですよ。とハザマは訥々と告白する。

 薄々それは感じていた。何故なら、いつでもシャツやジャケットだとかはパリッとしているし、埃ひとつも許さない姿をしていたから。

 本部で手持無沙汰を嫌がった彼女に与えた仕事も掃除や見られても平気な書類の整理だった。

 頷いて、道具を探すユリシアにハザマがこっちだと誘導する。久しぶりに来たというが、しっかり覚えていたのは流石といったところだろう。

 

 あれから掃除も一段落ついて、二人は紅茶を飲んでいたところだった。

 ちょうど棚に保存されていた茶葉を使って、ユリシアが淹れたものだ。視線を落とすと、紅い水面には部屋の天井と、伏し目がちな彼女が映る。

 気がかりなことがあったのだ。

「オイ、何かあったのか」

 テルミが口許で傾けていたカップを戻し、問う。時折こうやってテルミが出てきたりハザマに切り替わったりは日常茶飯事なのでそれについてはさして驚くことはない。

 気がかりだったのは、先ほど見かけた少女のことだった。

「その、ふしぎなひと……がいて」

「不思議な人?」

 ユリシアの言葉を復唱して、テルミが再度問い返す。

 それに促されるまま、ユリシアは先ほど見た人物の特徴を――そして、その表情を拙い言葉で語った。それを聞いているテルミの表情が、だんだん怒りのような、驚きのような、だけど少しだけ愉快げなものに変わっていったのをはっきりと彼女は見ていた。

「――それは、多分俺様の知ってる奴だが……できる限り関わんじゃねえ」

 唇を開き、テルミはそう言う。

 知り合いなのに、何故とユリシアは言いかけて口を噤んだ。きっと、嫌な人なのだろう。テルミが言うならそうなのだろうとすぐに納得してしまったからだ。

 それにテルミは満足げに笑うから、ユリシアも微笑んだ。

「わかりました、です。できるかぎり、かかわらないようにしますです」

 そう言った彼女を見ながら、胸中でテルミはここまでもう嗅ぎつけたのかと呟いた。

 何も知らない少女はただ、にこにこと幸せそうに。

 テルミは取っ手をつまみ、カップを持ち上げる。傾けて最後の一滴まで飲み干して溜息を吐いた。

 その時、一方でアルカード城に戻っていたレイチェルも皮肉にも同じようにお茶を飲んでいて。複雑な表情を浮かべる主にヴァルケンハインは何を言うでもなく、ただ寂しそうに見守っていた。

「あの子……この世界に降りてきて、何をするつもりなのかしら」

 ぽつりとレイチェルは漏らす。

 あの子、そう言ったのは先ほど見かけた、別の事象には存在していなかった存在だ。

 感覚だけを頼りにその存在に近づいてみて、蒼の気配がして、どうしてか――とても、悲しくなったのだ。

 これが蒼の意思だというのなら、今までやって来たことは全て。

 ティーカップの中に映り込むツインテールの少女は、どこまでも寂しく悲しそうな顔を。

 

 

 ユリシアとテルミは外に出かけていた。

 いつまでも部屋に篭りきりというのも何だからと、書類を何とか終わらせてテルミがユリシアを連れ出したのだ。

 テルミが見慣れた景色に退屈そうに欠伸を噛み殺す反面、その隣にいつの間にかすっぽりと収まっているユリシアは見知らぬ景色に目を輝かせていた。

 視線がこちらへ向かなければどうということはないらしいが、ポケットに手を突っ込み腰を折ったガラの悪いスタイルで歩くテルミと、弾むように歩く純粋な少女が並ぶ図は不釣合いもいいところである。

 その二人が一緒に食事をとったり、掃除をしたり生活をしているのだから世の中は不思議だ。

 二人は買い出しをしていた。

 ずっと外食をしても問題ないだけの財力をハザマは持っているが、それでもできるなら節約をしたいというのがテルミの本音でもある。かつて神として在ったテルミは、人間としての暮らしを、庶民としてのソレの楽しみを知りすぎたところがある。

 食材の詰まった紙袋を抱えるユリシアをチラリと見遣った。

 何が楽しいのか辺りを見回しては太陽にも負けないほど目を煌めかせるのだからテルミは溜息を吐くしかなかった。

 そんな二人の後ろを歩く人物がいた。逆立った銀髪を揺らす男だ。

 その人物は、テルミの存在に気付くとハッとしたように目を見開く。その双眸は左右で色が違った。左がエメラルドの緑なのに対して、右は――血のように、赤い。

 男は駆けた。思いの限り、憎しみのままに。

「テルミィ!!」

 大剣を振りかざす賞金首に気付いた人々は逃げ惑い、悲鳴が連なる。

 一歩遅れてテルミがそれに振り返った。その顔はにんまりと笑みを浮かべており――ユリシアはその顔を見て綺麗だと思った。

 テルミのすぐ目の前まで駆けてきた男は跳躍し、大剣をテルミに向けて振り下ろす。

「うおらっ」

「おっと危ねぇ!」

 懐から瞬時に抜いたナイフで大剣を抑える。金属音が鳴り、次には跳躍で後退。そうやってテルミが攻撃を躱(かわ)す。

 慌ててユリシアもそれに続く形でテルミを追いかける。

「下がってろユリシア」

 しかしテルミが着いてきた少女を見とめるとそう言うのでユリシアはこそこそと物陰に隠れて様子を見ることしかできなかった。幸いにも、死神の視界にはテルミしか映っていなかったから、彼女が目を付けられることはなかった。

 それを見届けるとテルミは彼――ラグナ=ザ=ブラッドエッジに向き直る。

 歯を剥いてラグナはテルミを睨み付ける。そして咆哮し、再度駆けた。

「芸がねぇなあ子犬ちゃんよぉ! テメェじゃ俺様にゃ勝てねぇんだよ!」

 嗤うテルミに愚かにもラグナは剣をまた振りかざした。

 街に出てラグナに襲われるというのは、テルミはこの繰り返す事象の中度々あったため見切ることもできた。だから、躱す準備をした――というのに。

「てるみさんを、きずつけないでください……っ」

 少女が憎き相手の名前を呼んでそう止めたのを死神は聞き逃さなかった。

 驚きからか、振るう腕の動きが鈍くなる。テルミがその隙に躱し、そのままラグナは地面に大剣を叩きつけた。

 物陰に隠れたばかりの彼女はすぐに姿を現し、テルミの元へ駆ける。

「――オイ、下がれって言っただろうが」

 そんなテルミの言葉を無視してテルミとラグナの前に腕を広げ立ち、ユリシアはラグナを睨み付ける。

 涙を浮かばせる少女が、攫われる前の妹に重なって――。

「またテメェは人を……! 今度は洗脳でもしたのか、あぁ!?」

 少しだけ残ったラグナの理性が、自身らの家族を壊しただけでなく他すらも――そう結論付け、彼は怒鳴る。

 その言葉の意味をユリシアは理解できなかった。何故彼がこんなにも、大切な人に敵意を向けるのかすらも。

 ラグナの怒鳴り声を心地よい音楽か何かのようにしてテルミは前に出て、

「洗脳なんかしてねえよ! コイツは、自ら、すすんで、着いて来たんだよ」

 そう言って、わしりとユリシアの頭を掴む。小さな頭は彼の手にすっぽりと収まって、それを見たラグナは名状しがたい嫌悪感を抱くが、それ以上にテルミの言葉が気になった。

 気付けば周りに人はラグナ達を除くと居なくなっていた。

「自らだと? ハッ、ふざけんな! 誰がテメェみてぇな奴に着いて行くか!」

 そんな嘘に引っかかるわけがないだろうとラグナは吐き捨てる。

 しかし、テルミは嘘を言っていない。

「いんや、マジも大マジ。な? 着いてくって言ったのはユリシアだよなぁ?」

 そう言って冗談半分、確かめるようにユリシアにそう話しかけると彼女はラグナを睨みつけたまま当然のようにコクリと一度首を上下に振るのだ。

 それでも信じられないラグナであったが、そこで誰かが通報したのだろう。統制機構衛士がやってくるのを遠目に見つける。

「チッ……テルミ、今日のところはこの辺にしておく。あと、そこのテメェ……ユリシアとか言ったか。そんな奴についても良いことなんかねーぞ!」

 別に殲滅できないことはない。統制機構支部のいくつかを単身で壊滅させることのできた彼には。それでも、実際敵が増えるのは厄介だ。

 今はテルミを見て衝動的に攻撃してしまっただけ。今はまだ、やらねばいけないことがあるはずだから。

 ラグナは一見すれば悪役の捨て台詞にも聞こえてしまう台詞を吐いて去る。

 意外に脚の速い彼が見えなくなった途端、地面に吸い込まれるようにユリシアはへたり込む。それを見ても、心配の言葉の一つもテルミはかけてやる気にならなかった。

 ただ、下がっていろと言ったのに逆らった少女の思いがこの数えきれないループを生きてきて尚理解できず、苛立ちすら覚えていた。

 そこにやって来たのは通報を受けた統制機構衛士である。誰も諜報部のハザマと肉体を同じとするテルミのことには気付かず、ユリシアのこともまたただの子供としか思わない彼らは、通報を受けたことや協力を願う旨などを堅苦しい言葉で一通り語る。

「あぁ、死神ならあっちへ行った」

 そう言ってテルミがラグナの去った方を指差せば、ご協力感謝いたしますと敬礼をして青い制服に身を包む彼らは一度敬礼をして走って行った。

「あの……」

 やがて、ラグナを追った衛士すら見えなくなった時、やっと彼女は立ち上がる。

 そして、言いにくそうに、でも何かを言いたそうな顔でテルミを見上げた。何だとテルミが訊く。

「えと、あのひとは、だれだった、ですか? てるみさんに、とてもおこっているかんじでした」

 その問いを聞くと一瞬きょとりと目を丸くして、そういえば彼女は知らないのかと顎に手を添えテルミはふむと漏らす。

 そして、面倒くさそうに手をひらりひらりと振って、

「あー……まぁ、この世界の敵……って奴かね。ま、関わらねえに越した事はねーよ」

 適当に言った言葉であるが強ち間違いでもあるまい、そう考えテルミは、自身の言葉を復唱する彼女に行くぞと短く告げてさっさと歩き出そうとして、少女はただそれを慌てたように追いかけるのだ。

 今まで誰も居ることのなかった自身の隣にすっぽりと収まる少女にテルミはまだ違和感を拭えなかった。

「今日のお夕飯は、えーっと……」

 腕を組んで顎に手を添え、隣を歩く少女を見遣る。

 何故こんなことになってしまったのだろう。

 何故、彼女は自身にこんなに尽くすのだろう。

 緑の髪の男はただただ新たな世界に期待をしながら、このユリシアと名付けた少女が不可解でならなかった。

 

 

 

   2

「……あ」

 現在、マコトは仕事の真っ最中であった。

 仕事と言っても書類を届けたりといった簡単な仕事で、あとは帰還し上司へ報告するだけなのだが。そんな矢先のことだった。

 マコトは彼女を見つけた。

 とある公園のブランコに腰を下ろし、キィキィと寂しい音を立てる金髪の後ろ姿だ。

 それを見つけた途端、マコトは一瞬首を傾げ――頷くと、駆け寄る。

「のーえるんっ」

「うわひゃぁ!?」

 がばりと制服のポンチョを音を立てて翻し、後ろから抱き付く。

 間抜けな悲鳴をあげる――ノエルと呼ばれた金髪の少女は、その背に触れる何とも言えない柔らかな触感と先の声に目を見開いたままモゾモゾと身動ぎ、振り返る。

「ま、マコト!?」

「ふっふっふ、こんな所で何してるの、のえるん」

 名を呼ばれればご名答とばかりにマコトは笑い、その耳を震わせると問うた。

 きっと、何かあったに違いない。そんな友人の気遣いであったり、また、本来であれば上司を追っているはずではという純粋な疑問でもあった。

 それを聞いて一瞬緑の目を丸くしたあと、ノエルと呼ばれた金髪の少女は表情を苦笑に崩して、

「あはは……まぁ、ちょっと。自己嫌悪って、いうのかな」

 追いかけた上司に冷たく突き放され、さらには行先も今は分からない。そこから襲う無能感がどうにもできなくて、ただ一人でいたのだ。思い返して、俯く。

 語らずとも、何となくで察したのだろう。マコトは短く、

「そっか、のえるんも大変だね」

 と頬をぽりぽりと掻いて苦笑し、次にはニッと笑う事しかできなかった。

 一瞬、水を打ったような静寂が流れかける。それを遮るように、ノエルが顔を上げた。

「あ、そうそう! マコト、諜報部に小さな女の子が来たって本当? なんでも、今はこっち(カグツチ)に来てるらしいって噂が流れてるけど……」

「え、あー……」

 そんなノエルの問いに一瞬だけ瞠目(どうもく)してから、マコトは視線を左上に泳がせた。首を傾げるノエルだが、マコトが口を開くのを待った。

「うん、アタシも何回か会って話したことがあるよ。話すのは苦手なんだけど、すっごぉーく可愛くてさ」

 ――でも、カグツチに来てるってのは知らなかったかな。仮にも諜報部所属なのに、アタシとしたことが。

 驚いたのはそこだ。そう付け足して彼女は胸中で思う。

 自身が仕事でカグツチに来たばかりだというのに、まさかその少女も来ていたなんて。つまり、自身の上司も一緒なのだろう。一言言ってくれればよかったのに。

 苦笑して後頭部を掻きながら、マコトは胸の中であの胡散臭い上司の顔を浮かべそう思った。

「そうなんだ! いいなぁ、私も会ってみたいかも……」

 どんな子なんだろう、マコトの言葉を聞きながらノエルはまだ見ぬ少女に思いを馳せた。

 そして、会ったことのあるという目の前の友人に羨ましさを覚えながら、話すのが苦手というその少女に親近感も覚えつつ――。

「あ、んじゃ今度紹介してあげるよ。ノエルだけじゃなくてツバキも誘ってさ!」

「本当? 楽しみにしてるね!」

 そんなマコトの提案にぱぁっと顔を輝かせるのは、紹介してもらえるからだけでなく自身の親友と呼べる少女の名が出たことも関係している。

 彼女らが普通の女の子として過ごせる平穏な時間だった。

 見守るタカマガハラの興味を引かぬほど、平和で幸せな束の間の時間。

 ――その数日後のことだった。

「ユリシアちゃん……!」

 元気の良い声と共に開かれるのは統制機構カグツチ支部にある諜報部大尉執務室の扉。要はハザマに与えられた部屋である。

 口を開けた扉の先に居るのはリス系亜人種の少女、マコトだ。

 どんぐりのようなくりくりとした目を輝かせ、頬を薔薇色に染め上げた彼女は部屋の主であり自身の上司であるハザマを無視してユリシアの元へ近付くと、にっこりと笑う。

「ユリシアちゃん、今って時間空いてる?」

 時間は丁度お昼。書類の束を抱えたユリシアは、そんなマコトの問いに首をこてんと傾ける。最初のように怯えたり緊張したりがなくなったのは進歩だ。

「えと、このしょるいのせいりが、おわったら……たぶん」

 そう答えてハザマをチラリと見遣る。執務机で仕事の文書に向かい合うハザマが視線に気付くと、顔を上げて首を傾ける。

 が、すぐにマコトの用件に関することだと納得して、

「あぁ……まぁ、あまり人目に触れない範囲でしたら、好きにして構いませんよ」

 にっこり。軽い笑みを浮かべてハザマは答える。

 それを受けてユリシアはマコトに頷くと、

「よっし、んじゃパパッと片付けちゃおうか」

 マコトはそう言ってユリシアの腕の中に目を落とす――が。その量を見て、ハザマを勢いよく振り返る。

「ちょ、この量は可笑しくないですかハザマ大尉! どんだけ溜め込んでたんですか、ユリシアちゃんにばっか押し付けないで自分でも片付けてくださいよ!」

 目を見開いて怒鳴るマコト。それもそうだろう、余裕で十センチほどの厚さがある。

 今は亡き日本の辞書でも、八センチが厚さの限界だ。

「いえ、私はこちらの書類をやっておりますし……それに、全てを押し付けたわけではないですよ」

 どこか薄ら寒い笑みを浮かべたままハザマは言う。

 溜め込んでいたわけではない。ここの所書類が多いのだ、と。

「はぁ……もう、ユリシアちゃん。こんなの放って行っちゃおうよ」

 呆れてものも言えないといった口ぶりで、マコトは未だ一所懸命に書類を棚やファイルに仕舞うユリシアへ声をかけた。

 しかしユリシアは首を振って、

「いえ、これは、わたしがやりたいと、いったことなので」

 その言葉にマコトは再度大きな瞳をさらに大きく見開いた。

 この前の時もハザマに心酔している様子が少しだけ窺えたが、こんなことまですすんでやるだなんて。

「――そ、そっか。んじゃ、手伝うよ」

 苦笑を浮かべ、マコトは頬を一度人差し指で掻く、と。手を差し出す。

「あ、ありがとうございます、です」

 お言葉に甘えて。そう付け足してユリシアは書類の三分の一ほどを渡す。早速それを片付けようとしてマコトは重大なことに気付く。

「えっと……これ、どこにやれば」

「あ。それはこっちで、つぎのはえっと、あっちです」

 そう、自身の仕事をやっていればいいだけのマコトは資料室以外で書類の片付けなどしたことがない。マコトの困ったような顔と言動ですぐに察したユリシアはすぐさま場所を教えるのだが、これでは余計に効率が下がってしまっている。

「あー……えっと」

「んと、まことさんは、すわってまっててください、です」

 結局ユリシアにまでそう言われる始末で、何ができるわけでもないマコトはすごすごと下がってソファに腰かける。途中見えたハザマの笑みに見下されているような気がしてむっと頬を膨らませたけれど。

「――おわりました、ですっ!」

 ふぅ、と息を吐いて、さして汗をかいたわけでもない額を達成感で拭う。

「お、早いね。じゃ、早速行こっか」

 丸い耳をひくつかせてマコトが立ち上がり、手を差し伸べる。

 作業を再開してから約八分といったところだった。

「それなんですが、えと、どこに行くんでしょう」

 マコトの手をとろうとして引っ込め、自身より背の高い彼女を見上げながらユリシアが問う。

 行くにしても、どこか分からず着いて行くだけというのは少しばかり不安が伴うのだ。

「あぁ、それね。んと、紹介したい人が居るんだ」

 大丈夫かな。

 人と話すのが苦手なユリシアを気遣ってそう付け足すマコトの言葉に、暫し疑問符を浮かべるとユリシアは――。

「そういうこと、でしたか。えと、だいじょうぶだと、おもいますです」

 こくりこくり、頷いて答える。

「よかったぁ~っ、んじゃ、今度こそ行こっ」

 安心したように胸に手を当て言葉を吐き出し、マコトは再度手を差し出した。

 それを受けて一度ハザマの方を見遣った後、頷かれたのを確認してからマコトの手を取る。

 

「ってわけで……諜報部の所で保護させてもらってるユリシアちゃんでーっす」

 そういう経緯を経て、場所は変わり統制機構のすぐそばにある空中庭園。 

 元気なマコトの声と共に彼女が後ろを向いて手を招く。それに合わせて柱の物陰から現れるのは今しがた紹介された少女、ユリシアであった。

 不安げに揺れる蒼の瞳が、退いたマコトの前に座る二人の人物を見る。

 マコトとユリシアの前に居るのは、マコトと年の変わらないだろう赤髪と金髪の二人組だった。

 向けられる視線に思わず逃げ出したい気持ちでいっぱいになりながらも、ここに来てから初めての『友人』のような存在が紹介したいと言ったのだ。

 だから彼女はその気持ちを必死に抑えた。

 漏れる、意味をなさない音。見比べる二人は各々に青や翠の瞳を丸くし感想を述べた。

「この子が噂の……?」

「本当に小さいのね。にしても、諜報部で、だなんてなかなか聞かない話ね」

 首を傾けてじっくりとユリシアを見つめる彼女らの視線に、ユリシアは少しだけ脚が震えそうになった。けれどしっかりと二本の脚で立って、マコトに背中を軽く叩かれるまま口を開く。

「ゆ、ユリシア=オービニエといいます、です」

 目をぎゅっと瞑って名乗ったあと、頭を深く下げた。ゆるりとした動きで顔を上げ――彼女らを見つめる。その視線は依然、丸くなっていたけれどすぐに揃って二人は笑みを咲かせた。

 吸う息の音、よろしくとかけられる声。

 安心して、ユリシアが強張っていた表情を少しだけ緩めた。

「で、こっちがノエル、こっちがツバキ」

 金髪の方をノエル、あとに紹介された赤髪に青い眼をした少女がツバキだとマコトが紹介を入れる。二人をまた見比べて、へらりとユリシアは笑った。

「えと、のえるさん、つばきさん、よろしくおねがいします、ですっ」

 そしてユリシアもマコトの隣に腰を下ろす形になり、彼女らの談笑が始まった。

 庭園に響く楽しそうな談笑の声。細まった双眸。赤く染まる頬。

 少女らの姿をテルミ、そしてハザマはひそかに窓から見下ろしていた。

「……なんで『あなた』がここに」

 途中、ポツリとノエルが呟いたそんな言葉をノエル本人も、誰も気付かなかったし、平和な時だけが過ぎていった。



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第二章 潔碧の昼

 テルミは夢を見ていた。

 本来精神体であるテルミには、夢を見るための脳という機関は存在しないし、器たちもまた、基本的に眠っても夢を見ることはない。

 しかし、テルミは今確実に夢を見ていると自覚していた。

 まどろみの中、目を開けた先に映るのは、蒼い光のはしる巨大なモノリスだ。

 てっぺんには大きな羽根で出来た『繭』のようなものが鎮座し揺らめく。

 生ぬるい風、漂う鉄の臭い。地面を踏む感触。見下ろせば、打ち合った刃の数より多い足跡が血の上にしっかり刻まれ。

 全てが鮮明に映し出されていた。

 しかし、これは夢だ。目を覚ませば消えてしまう儚いもの。

 だけれど、確かにそれは存在した世界の記憶であり――一つの可能性の世界だった。

「まだ、終わりじゃ……ねえぞ……ッ」

 耳に届く苦しそうな声。聞き慣れた男のものだ。テルミにこの上ない憎しみと殺意を向け、テルミの存在を強固にしている人物。

 その人物を、テルミは嫌いではなかった。思考が手に取るように分かるほど単純な生物で、さらにはテルミにこの上ない殺意と憎しみを向け、存在を強固にしてくれているのだ。

 テルミ。そう叫ぶラグナの声を心地よい音楽のようにして。

 この身にこびり付いて忘れられない記憶の海の中、テルミはまた目を閉じた。

 ばたばたとコートのジャケットがはためく音も、必死にもがく彼から発する衣擦れの音も、全てが遠くなっていく。

 最後まで振り返らなかったテルミの口角は、ゆるりと持ち上がっていた。

「――ん。……るみ、さん」

「あー、あぁ……?」

 かけられる甘い声に、やがてテルミの意識は浮上した。

 見れば自身の顔を不思議そうに覗き込む少女の顔があった。

 一瞬訳が分からなくて怪訝な顔をして――思い出す。

「あぁ、時間か。ありがとさん」

 彼女、ユリシアに起こすように頼んだまま仮眠をとっていたのだ。

 夢の事に気を取られすっかり忘れていたが、彼女は約束を守ってくれたようで。

「はい、どういたしまして、です」

 双眸をすっと細めて頷き、笑顔の花を咲かせる少女の金髪が揺れる。

 無駄に質の高い革ソファから起き上がると、いつの間にか掛けられていた毛布が滑り落ちる。彼女の気遣いだろうか。毛布を見つめて、テルミはぽかんと目を丸くするしかできなかった。

 こういった気遣いをされたことなど、自身に自我が芽生えてからも、その前も、一度だってない。否、優しい女は一人くらい居たと思うけれど――。

「てるみさん?」

 不思議そうに首を傾ける少女に首を横に振って、ソファからテルミは降りた。

 皆忘れてしまう、この度重なる事象の中。何も知らない滑稽な少女を見てテルミは、

「――飯」

 とたった一言。

 彼女の料理は美味しい。前までの不健康な生活に戻れないと思えるほどだ。

「わかりました、ですっ」

 大きく頷くと、彼女は執務室に備え付けられたキッチンへ向かう。

 ぱたぱた、駆ける背中を見送って、テルミは一度伸びをするとソファにまた腰を下ろした。目を伏せ、平和すぎる日常の中思い描くのは――。

 そんなテルミの胸中など露知らず、彼女は先日買ってきた料理本を開く。

 丁度お昼時、綺麗好きなハザマとユリシアによりぴかぴかに磨かれたキッチンの前で彼女は首を捻った。

 今日の昼ご飯は何にしよう。

 じゅわじゅわとフライパンの上で食材が奏でる音色。鼻をくすぐる香ばしい香り。程よく炒められた赤いご飯、乗せられるふわふわオムレツ。

 テーブルまで運び、すっとナイフを入れれば広がってとろりとこぼれ出す中身。

 俗に謂うオムライスだ。食べるのは何時ぶりだろうか。思い出そうとすればいくらでも思い出せるけれど、テルミはそうしなかった。

 

 

 

「もう、居ねぇよな……?」

 ラグナ=ザ=ブラッドエッジは追手から逃れるべく建物同士の陰に身を潜めていた。

 そろりと顔を覗かせて、衛士や賞金目当ての咎追いといった連中が来ていないことを確認すると、胸を撫で下ろす。

 そしてふと思い出すのは、先日テルミに斬りかかった時に見たあの見慣れぬ少女のことだった。

 自身らを育ててくれたシスターを殺し、妹と弟を攫い、さらには自身の腕を斬り落としたあの男――ユウキ=テルミ。

 そんな彼を庇うようにあの矮躯で立ち塞がった彼女がどうしても理解できなかったのだ。

 どうしてだ。あのテルミみたいな奴を、あんな、見た限りじゃ戦闘慣れしていないどころか鍛えてもいないだろう幼い少女が庇うだなんて。

「つか、誰なんだよ……あのガキは」

 否、彼の交流関係など知っても何にもならないし、他にも知らない関係者なんて沢山いるのだろうけれど、どうにも彼女の存在が気になってラグナはそう漏らした。

「――その疑問に、答えて差し上げてもよくてよ」

 気高くも、まだどこか幼さの残る声が背後から聞こえた。

 ゆるりと風が吹き、鼻先を掠めるのは強い薔薇の香りだった。

「どういうことだ、ウサギ」

 勢いよく振り返り、そこに誰も居ないことに驚く。どこを見ているのか、届く声は上から。顔を上に向けると、積まれた木箱の上に彼女は佇んでいた。

「あら、驚かないの。それにしても――相変わらずこんな薄汚いところに居るのね。お似合いよ、ラグナ」

 金糸の髪を頭の左右で括り、彼が呼んだ動物を思わせる黒いリボンを二つ飾り付ける。服はたっぷりとしたゴシックロリィタ調の黒いドレス。

 まるで童話から出てきたような可愛らしくも美しさを兼ね備えた少女は、いつも通り尊大に語った。

 ラグナの問いを無視するように。

「――うるせぇ、それよりさっきの言葉はどういう意味だ」

 普段のラグナであれば、彼女――レイチェルの言葉に怒りを示したことだろう。

 けれど、多少の苛立ちこそ見せれど彼は静かに問うた。

 それに驚いたように、彼女はルビーの瞳を丸くして、それから面白くなさそうにふいとそっぽを向くと。

「それが人に教えを乞う態度かしら」

 つん、とした態度でそう投げかける。

「あー、はいはい、分かりましたよ。先ほどの言葉はどういう意味ですか、教えてくださいレイチェル様」

 舌を打ち、ラグナは面倒くさそうに後頭部を掻いて半ば投げやりに返す。

 少しだけ不満が残るが、引っ張るのもつまらないと判断したのだろう。レイチェルは足を踏み出し木箱からふわりと飛び降りる。コツンと二つの靴音が狭い路地に反響した。

 そして目を伏せ、口を開くと。

「――まぁ、私もよく分かっては居ないのだけれど……」

 と、前置きをした。

 一体どういうことだ、とラグナは言いかけようとして、彼女の表情を見て息を飲む。

 悲しそうだったのだ。そして、寂しそうだったのだ。

 レイチェルの眉は垂れ下がり、唇は震えていた。だから言おうとした言葉を押し込んで、彼女の言葉の続きを静かに待った。

「彼女は……」

 やがて、レイチェルは口を開く。言葉を紡ぐ唇の動きがやけにゆっくりに見えた。

 彼女は、何なのだろうか。逸(はや)る気持ちを抑え、続きを待つラグナだったが――。

「やっぱり、今は止めておくわ」

「おい」

 散々勿体ぶって結果やはり止めるというのは、あまりにも酷ではないだろうか。

 思わず声を出さずにはいられなかったが、深く溜息を吐く彼女の表情からして、語る気は一切ないことをラグナは理解した。

 ラグナを他所に、レイチェルは踵を返そうとする。そんな彼女をラグナは引き止めることはなく、ただ一言問うた。

「……はぁ、ったく。最初に教えてあげても~なんて言ったくせに」

「さぁ、何故かしらね。『教えても良い』とは言ったけれど、誰も『教えてあげる』とは言っていないわ」

「へいへい、さいですか」

 その言葉を最後に、彼女はすうと開いた空間の歪みに足を踏み入れる。薔薇の香りが、また鼻をくすぐり――振り向いた時には、彼女はもう居なかった。

 彼女の言葉に少しだけげんなりとしながらも、ラグナは先ほど彼女が見せた悲しくも寂しそうな表情を思い出した。

「でも、ウサギがあんな顔するなんて……」

 きっと、余程のことがあるのだろう。言いかけて止めたりするほどには。

 顎に手を添え、考えようとしたとき。

「見つけたぞ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ!!」

「うわ、やべっ」

 青い制服に身を包んだ一人の統制機構衛士の声に、慌ててラグナは駆け出した。

 

 

 

「あの」

「……なんだ」

 それは、テルミらが食器の中身を殆ど平らげた頃だった。少女が些か言いづらそうに、口を開き、かけられた声にテルミが顔を上げ尋ねた。

「わたし。……その、おべんきょう、したいとおもったんです」

「勉強?」

 一体、何の勉強だというのだろうか。彼は思わず問い返す。

 それに首肯して、ユリシアはテルミが否定の意思を見せないのを良いことだと受け取って、柔らかな笑みを浮かべた。

「はい。だって――」

 彼女が言うにはこうだった。

 ここの常識も、何もかも知らなくて、見るものが全て新鮮なのはいいけれど、知らな過ぎても迷惑をかけるのではと思った、と。

「それに……いえ、やっぱなんでもない、です」

 言いかけて、止めたユリシアにテルミが首を傾げるが、彼女の事だからきっとくだらないことなのだろうと結論付けて深く聞くことはしなかった。

 そして、彼女からの要求は好機かもしれないとテルミは思う。

 知りすぎていても邪魔になるだけだが、何も知らないよりは常識的な知識くらいは知っておいた方が今後のためになるだろう。

 自身から言う手間も省けたし、これは良いチャンスだと。

 暫し黙り込んでいたテルミ。途中までは考えていたのだが、後半はちょっとした意地悪だ。彼女の不安を煽るための。

 案の定、黙るテルミに笑みを崩して不安げな表情を見せるユリシア。

 それを見て、やっとテルミは口を開く。

「いいぜ、その方がこっちにも、ユリシアにも良いと思うしな」

 それなら、さっさとその中身を片付けろ。

 指差して指摘するのは、器の中に未だ半分ほど残るドリアのことだ。

 それに気付いたユリシアは、慌ててスプーンを使い口にドリアを運ぶ。

 少しばかり冷めたそれは丁度食べやすい温度で、しかし最初程チーズがとろけていないため残念といえば残念である。

 せかせかと口にドリアを詰め込む作業を繰り返した後は咀嚼し、飲み込む。

 それを最初よりもハイペースで何度か重ね、器の中を綺麗に腹に収め、へらりと笑った。それから彼女はカチャリとスプーンを器に置くと立ち上がり、テルミと自分の皿を持ってキッチンへ向かう。

 その背中を目で追って、テルミは頭の後ろで手を組んだ。溢れる欠伸を噛み殺して一言彼は彼女に投げかける。

「まぁ……今度、本でも買ってきてやるよ。色々」

 自分が直々に教えやってもいいのだが、できれば質問されれば答える程度に収めたい。一応蹴ることはある程度許されているが、他の仕事だってあるのだから。

 そういった考えから出したテルミの台詞に、ふふっとユリシアは笑い声を漏らすと礼を述べる。

 サァサァと流れる水の音、食器がたまにカチャリカチャリぶつかる音。

 食器を洗い終えたのか、きゅっと水を止めて彼女は頭上に干してあった白の布巾に手を伸ばす。

「んんーっ」

 しかし、大人が使用することを考慮して作られたキッチンでは、身長的な問題で届かない。その様子を暫く窺っていたテルミが、はぁと深く溜息を吐いて仕方ないといったように椅子を引いて立ち上がる。

「……あ」

 踏ん張り、必死に手を伸ばす彼女の後ろから歩み寄り、ひょいと布巾を手に取って少女に渡す。彼女から漏れる間抜けた声、後に少しだけ恥ずかしそうに、

「あ、ありがとう……ございますです」

つつ、と湿った指の腹で頬を撫でながら彼女はそれだけ言うと、洗い終わってピカピカになった食器を拭きはじめた。

 拭き終れば便利な食器乾燥機に慣れたように並べて。

 一連の流れを見て、テルミはぽつり。

「……ステップも買わねぇといけねぇな」

 

 

 

 ちゃぷり、ちゃぷり。水面が揺れる。生まれた波紋は広がっては消えを繰り返し。

 立ち上る湯気、温かな湯の抱擁。白く濁った湯がじんわりと冷えた身体を温める感触。自然と漏れる深い吐息。

「あぁ、やはり湯はこれくらい熱い方が良いですねぇ」

 一気に溢れる日頃の仕事による疲労。全て受け入れてくれる浴槽は今、彼にとって最高の空間だった。

 しかし彼は真っ白なバスタブを支える四本の脚を見ると、顔を顰めた。

「でも、猫(けもの)のそれを模した脚だなんて悪趣味極まりないですね。これはいい加減レリウス大佐にでも言って変えてもらいませんと」

 上官で、かつ自身が話せる相手となるとあの何を考えているか分からない仮面くらいしか思い浮かばない。

 彼は、猫が嫌いだった。そしてアレルギー持ちでもある。故にこれは変えてもらわねば――そうハザマが零した時だった。

「あの、し、しつれいします、です」

 ガラリと浴室の戸を開け入ってくる人影があった。もわりと立ち込める湯気で上手く窺えない向こう側の人物に一瞬誰かと思うが、声と体格ですぐに誰か理解する。

「えぇ、はい」

 一人のゆったりとした時間を食いつぶすような来訪者に最初は気付かれない範囲で顔を顰めたが、すぐに意味もなく笑みを浮かべてハザマは彼女を受け入れた。

 シャワーの音が少しの間鳴って、それからポタポタと水を垂らしながら彼女がこちらに歩み寄る。

 そして白い足の指先が湯に触れ――一度引っ込められた。熱かったのだろう。

 しかし、生まれる波紋の中心にもう一度足を突っ込んで、そのままゆっくりと脚を湯の中に滑り込ませ、しっかり浴槽の床に足を付けた後はもう片方の脚も。

 両方が入りきったら、丁度彼の前に立つ形となる彼女の姿に思わずハザマは目を瞠る。

「……な」

 前を、タオルで隠していなかったのだ。

 頭の上には髪が浴槽に浸からぬよう作られた大きなお団子。主張する鎖骨はどこか大人っぽさを生む。小ぶりな胸、肋骨と骨盤に収まりきっていない内臓でぽこんと出た腹。

 なめらかな腰のライン。太過ぎず細過ぎずの柔らかな太もも。何故かじっくりと見てしまって、綺麗な体だと思う。

 そんな脚の付け根には――そこまで見そうになってハザマは首をゆるゆると横に振ると顔を逸らし、言う。

「さっさと浸かってください」

 羞恥に顔を赤らめるなんて人間性こそ彼にはなかったが、それでも一応子供なりに、道具なりに、相手は女なのだ。裸を惜しげもなく晒していれば顔も逸らす。そういうことも教えないと、と思うハザマであった。

 そういったハザマの胸中など露知らず。見つめていたかと思えばそんな反応をする彼に不思議そうに首を傾けつつも少女は頷いて湯に浸かる。

 二人が入っても狭く感じないのは彼女が小さいからなのか浴槽が広いからなのか。

 膝を曲げて肩までしっかり。白い湯で身体が多少隠れ、ハザマはやっと安堵に溜息を吐いた。彼女は少しばかり常識が欠如しているところがあると、ここの所ハザマは思う。

 料理をすればきちんとレシピ通りに作るし、言われたことはきちんとこなす。けれどこういったところだとか、最初なんかトイレの仕方まで知らなかったのだ。

 一体何故、そんなので会話できていたのかというほどに彼女は色んな知識が欠けていて、見た目よりも幼いこの少女にハザマは少しばかり頭を抱えていた。

 湯を両手の平で掬い上げると、さらさらと零れ落ちる。

 それを見つめながら、彼女は口を開いた。

「あの……めいわく、じゃないですか」

 問い。自身が居るのが迷惑でないか、そんな問いだった。それを聞いたハザマは一度他人からは開けているのか閉じているのか分からない細い目を見開いた。

「……迷惑、ですか」

 ふむ。興味深そうに、顎に骨ばった親指と人差し指の先を添えて、彼は言葉を復唱する。不安げな少女の表情。

 やがて彼は顔を上げると一つ頷き、

「そうですね。でも、ユリシアが一人でシャンプーできないのは事実でしょう?」

「うぐっ……」

 こてり、ハザマが小首を傾ける。途端、ユリシアが呻いた。彼女は一人でシャンプーができない。それは事実だが、突かれたのが少しばかり悔しいというか、なんというか。

 シャンプーは怖い。目に泡が入ったらと思うと心配だし、髪が長いから洗いづらいし確認のために目を開けた途端――なんて可能性も高い。

 それに得体の知れない液体を捏ねたら泡になるだとか、そんな泡で洗うだなんて。

 付け加え最初なんかやり方すら知らなかったわけで。これではいけないと考えたハザマが代わりに洗ってやっているのだ。彼女が早く一人でできるようになることを祈りつつ、彼は自身の肩にゆるりと湯をかけた。

「……まぁ、今は仕方ないですよ。記憶もないうえにまだ子供ですし……」

 漏らす言葉は妥協。いくら都合のいい道具でも万能である方が不思議なのだから。

 別に気遣ったつもりはなかった。だから、そのうちできるようになれ……と付け足そうとしたところでユリシアが紡ぐ言葉。

「えへへ、そう……ですね。ありがとうございます、です」

 ちょっとだけ教えてやった言葉を馬鹿みたいに使って拙い喋りで礼を言う。

 その言葉と、困ったように眉尻を下げた笑みに出そうとした言葉が詰まって……飲み込まれた。

 その顔があまりに間抜けだったのだろう。

 ユリシアが、頭を横に傾ける。頭の上の大きな黄色いお団子がそれに合わせて揺れた。

「どうか、しました、ですか?」

「あぁ、いえ、何も」

 ハッとしたように、ハザマは首を振る。

 別に、何を思ったわけでもないのに、何故こんな反応をしてしまったのだろうか。

 礼を言われるようなことを言った覚えもないのに、ありがとうと言われただけで……。

「さて、そろそろ洗いましょうか」

 そう言って、ハザマがゆっくりと立ち上がり、それに続くようにしてユリシアも、苦い顔をしながらざばりと湯から上がった。

 彼の青白い肌も、ユリシアの柔な白い肌も、上気してほんのり桃色に染まっていた。

 ハザマの執務室に設けられた風呂は今は亡き日本の風呂を参考にしていて、浴槽と洗い場が別々になっている。

 二つ置かれた風呂椅子に各々が座り、ハザマがシャワーを手にする。その間にユリシアがお団子をほどいて、さらりと髪が背中に流される。

「かけますよ」

「は、はい」

 いきなりかけては可哀想なので合図をすると、強張った声が返ってくる。

 その声の方が、ハザマの胸の気持ちいいところをくすぐるから好きだった。それを表に出さないようにしながら、そっとシャワーの湯を頭にかける。

 ひゃっ、と漏れる声は小さな悲鳴だ。

 その声を快い音楽のようなものに感じながら、彼女の長い髪を丁寧に濡らしていく。一房ずつ手にとって、根本から先までしっかりと。

 ふるふる、小刻みに震える少女の肩に時折シャワーを当ててやると、面白いくらいびくりと跳ねるのがたまらない。

 手を伸ばし、覆いかぶさるようにして棚からシャンプーを取って、手の平にとろりとした液体を出す。

 それをよく擦り、泡を作って、そぅっと彼女の髪に触れる。

「目、瞑っていてくださいね」

 こくこくと頷く少女の髪を、頭皮を指の腹を使ってゆっくり、しっかりと洗っていくと、彼女の金髪は白い泡に包まれていく。

「流しますよ」

 合図。そして、シャワーから湯を出し、泡を流して――。

 彼女の髪は長い。下ろした状態で座れば床に付いてしまうほどに。素体達もそれくらい長かったなぁだとか、邪魔ではあるがこの艶々とした髪を切ろうという気にはなれないだとか、色んな事を思いながらリンスも済ませて、彼はふぅと溜息を吐く。

 髪をタオルで巻いてやり、

「体は自分で洗ってくださいね」

 そう言って別のタオルを渡してやると、素直に彼女は頷く。初めての時は体すら洗い方を知らず、呆れたものだけれど。流石にそれくらいはできるようになった。

 鼻歌混じりに泡のついたタオルで体を擦る少女を横目に、ハザマも自身の髪や体を洗い始めて。

「……せなか、あらってもらえます、ですか?」

 そんな少女の声がかかる。

 顔を上げて見れば、少女の背中は下の方こそ洗えているものの、ところどころきちんとできていない箇所があって。

「はぁ、分かりました」

 彼女からタオルを受け取り、背中を洗ってやる。

 嬉々とした彼女の表情に、ハザマは何が嬉しいのかと疑問を抱く。自身もやってもらえば分かるだろうか、と思いつくほどに。

「じゃあ、ユリシア。代わりと言ってはなんですが、私の背中も流してもらえますか」

 彼女の名前を呼べばぱっと少女は振り返る。まるで飼いならされた犬のようだ、とハザマは思いながら彼女の返事を促すと、少女は不思議そうに首を傾け、

「え、でも」

 それもそうだろう。何故ならハザマの背中は既に彼自身が洗っていた。けれど、それでもにこやかにハザマが笑っていれば彼女は頷いて、

「わかりました、です」

 と一言。ハザマの体を洗っていたタオルを取り、擦り。

 最終的には両方の体についた泡を流して――。

 けれど、やはり彼女が何故嬉しそうだったのかハザマには理解することができなかった。そもそも、彼女が何故自身らと居るのを喜ぶのかすら分からないのだから。

 風呂場から上がり、体に付着した雫を手早く拭って、湿気で貼りつくのを鬱陶しく思いながら服を着る。

「――さて、と」

 ベッドメイキングはとうに済ませたし、ユリシアは水色のベビードールを揺らしているし、髪も乾かした。

 一房ずつ丁寧に、先まで、サラサラとした髪を櫛で梳いてやれば彼女は心地いいのか欠伸を一つ。

 部屋の隅、ベッドへ彼女が先に座り寝転がると広がる金髪。

 次にハザマがベッドに寝て、シーツをかける。前の器――カズマの時こそ悩んでいた高身長ゆえに足がはみ出るなんてこともなく。

 ユリシアに背を向けてハザマは、元から開けているのだか分からない双眸を伏せた。

 

 

 

   2

 

 昼下がりのこと。ユリシアたちは今日も外へと出ていた。

 ユリシアの勉強用に本を買うためだ。

 そして今、ちょうど買い終えた数冊の本が入った袋を胸に抱き――帰ろうとした時であった。

 ゆるりと風が吹く。薔薇の香りが彼女らの鼻を掠めた。

「……チッ」

 テルミが、舌を打つ音が聞こえたかと思った時。

 舞い降り立つのは一人の少女。

 高さのある靴を履き、たっぷりとしたゴシックロリィタ調のドレスを纏って、頭の左右では長い金髪をくくっている。

 吸血鬼であり、傍観者。そう、彼女こそレイチェル=アルカードであった。

 レイチェルが伏せていた瞳をゆっくりと開ける。

 睨み合うテルミとレイチェル。鋭いテルミの瞳と、レイチェルの冷めた紅いまなざしが交差して、ユリシアは戸惑いを見せる。

 それから、彼女は思い出す。

「――あ、このまえ、の」

 カグツチに到着したばかりの時に見た少女。テルミに、関わるなと言われて以来会う事のなかった人物。

 テルミが、忌々しげに再度舌を打つ。

「クソ吸血鬼」

 何故、こんな時になって現れるのか。せっかく順調に事が運んでいたというのに。

 それでも、まだ大変な時じゃないだけありがたいとも考えたけれど、一生会わないに越したことはないから。

 テルミが、ぽつりと零す罵倒の言葉。

 しかしそれに動じた様子もなく、レイチェルはユリシアを見た。

「貴女はいつまで、こんな男についているの?」

「……え」

 レイチェルは問うた。

 いつまで、だなんて。

 突然の問いにユリシアは戸惑いの声を漏らす。

 そんなの分からないし、ずっと一緒に居るものだと思っていた。楽しいし、それが自身にとっていいことだと――。

 それを制すように、テルミが腕をユリシアの前に突き出して。それが余計にユリシアの中に疑問を生む。

 彼女は誰なのか、どうして二人ともそんなにピリピリしているのか。悲しくなって、眉尻が自然と垂れ下がった。

 彼女の問いへの答えは未だ出せぬまま。

 見かねたレイチェルが、はぁと溜息を吐く。

「……そう、今はまだ分からないのね」

 でも、と付け足して彼女は一度目を伏せると、再度口を開く。

 ずっとその男についていたら、いつか、後悔すると。

「いくら、『あなた』の判断であっても」

 それだけを言うと、レイチェルはテルミを睨み付けた。それまで手で制すことこそあれど黙っていたテルミが、不機嫌そうにポケットに手を突っ込み、一言漏らす。

「……んだよ」

「――いいえ。いつか、貴方は消してあげる。それまで待っていなさい。……今は、様子を見に来ただけだから」

 ゆるり、首を横に振りレイチェルは語ると、くるりと一度回る。

「っぶね」

 途端、テルミの居た箇所に落雷がはしる。雲一つない空だというのに。

 間一髪避けたテルミの足元のコンクリートは焦げていた。

 文句の一つでも言おうとテルミが顔を上げた時――。

 最初の時のように、風が吹く。薔薇の強い香りがしたかと思うと――彼女は黒い靄に包まれ、消えた。

「なんだったん、でしょう」

 ぽつり。ユリシアが零す。テルミにもさっぱりだった。何故、彼女が自身たちの前に現れ問うだけ問うて消えたのか。

「……気にすんな、行くぞ」

 そう言った言葉は自身に対してか、ユリシアに対してなのか。

 テルミはユリシアの手を引っ掴んでずんずんと進みだす。

 きょとん、と初めて握られた手を見つめ――ユリシアは先ほどの彼女の問いよりも、その手の方が大事だったから。

「はいっ!」

 だから、この握った手を守りたいと、先ほどのような怖い人達から守りたいと。ここで彼女は思う事になる。少女はテルミ達のことが大好きだった。

 

 ある日せかいに、おおきなくろいかいぶつがあらわれました。

 かいぶつはせかいをのみこもうとしてしまいます。

 そして、たくさんのひとたちがかいぶつにたべられてしまいました。

 このかいぶつのことを『くろきけもの』とひとびとは呼び、おそれていました。

 そこでたちあがるのは、六人のえいゆうです。

 えいゆうたちは、ぎじゅつをはってんさせ、のこったひとびとをみちびき――。

 長いたたかいのすえ、とうとう『くろきけもの』をたおしました!

 めでたしめでたし。

「……この、はってんさせた『ぎじゅつ』って、なんでしょうか」

「あ? あのヒス……んん、まぁ、術式だよ術式」

 この世界の歴史が描かれた絵本を手に、ユリシアが問う。

 それに答えるテルミは一瞬、かつて自身に精神拘束をかけた女のことを思い出しながら――言いかけそうになって止め、問いへ答えを返した。

 術式。

 この世界、この時代での生活の基盤となっており、六英雄として活躍した大魔導士ナインと、テルミの知識により生み出されたもの。

 一見魔法に似ているが、黒き獣から発される魔素をエネルギーにして発動し、また魔道書も必要になるそれ。

「じゅつしき……ですか」

「そう、術式。それくらい知ってんだろ」

 流石にそれは常識的な知識だ、子供でも術式くらい知っているはずだ。

 しかし、彼女は。

「えと、じゅつしき……って、なんですか」

 そうだ。彼女は常識的な知識が欠如しているところがあった。

 そういえばそうであったと溜息をつき、呆れたようにテルミは教えた。

 術式が何であるのか、どうやって作られたのか。

 何故そこまで詳しいのか疑問に思うこともなく真剣にユリシアは頷いて聞いていた。

「まどうしょ……でも、しょうめいに、本なんて」

「魔道書っつっても要は術式を記したものだから必ずしも本の形をしてるとは言えねぇんだよ」

 良い質問だと前置いて、ユリシアの問いに人差し指を立てテルミは語る。

 興味深そうに眼を輝かせる少女を可愛いだなんて思う事こそないけれど、こうやって素直に自身の話を聞いてもらえるのは心地良いだなんてテルミは思う。

 きらきら、と蒼の瞳が煌めく。

「そういえば――ユリシアの術式適正値は測ってなかったな」

 ぽつ、とテルミが漏らす。

 術式適正。いくら魔法より沢山の人間が使えるようになっている術式とはいえ、向き不向きなどがある。それを数値化したのが術式適正値であり、衛士になるため士官学校に入った人達は皆測ることとなっている、のだが。

 士官学校に入るわけでも、衛士になるわけでもなく保護されたユリシアはソレを測ったことがない。

 別に、測らなくても問題はない。けれど、色んな事を教えるためには測っておいた方が色々楽だろうから。

「……今から測りに行くか」

 レリウスの所へ行けば測ることができるだろう。そのための道具――本来士官学校にしかないはずのそれだが、持っているはずだ。

 何故なら士官学校を作ったのは――。

「いまから、ですか?」

 ユリシアが問う。

 確かに昼ご飯は食べ終わったし、特に今日は用事もない。ついでに今日の昼ごはんはキノコとほうれん草のクリィムパスタだった。

 だから別に行ってもいいのだけれど、唐突ではないだろうか。

「いいんだよ、アイツはどうせ暇だし」

 否、レリウスはレリウスなりに仕事もあるだろうがもう一人の大佐に比べればマシというか、そもそも『あの』技術大佐に仕事を頼む物好きなんてなかなか居ないから。

「……あいつ」

「あぁ、レリウスのことだよ」

 そう教えてやると、知った名前にユリシアが顔を上げる。

 へらり、彼女が笑う。

「それなら、だいじょうぶですね」

「だろ」

 ――そうして二人が向かったのはレリウス=クローバー技術大佐の研究室だ。

 四葉のクローバーの彫刻が施されたドアノッカーでノックを三つ。声が返る前に重厚なその扉を引けばゆっくりと口を開け、部屋の内側が彼らを迎え入れる。

「……ハザマか」

「テルミだよ」

 帽子を軽く持ち上げ、スーツを着たテルミが逆立った髪を撫でつけながら言う。

 部屋の主はそんなことをお構いなしにいつだってテルミのことすらもハザマと呼ぶのだが、それに文句を言うことはなく、テルミは先の言葉以上には追及しない。

「して、今度はどうした」

 問うのはレリウスだ。

 蝋で固めたような仮面の表情はぴくりとも動かず、ただ代わりに首を横に傾けるのみであった。

「……そういえばコイツの術式適正、測ってなかったろ。だからテメェにお願いしに来たんだよ」

「ほう……お願い、か」

 お願い。頼み事。彼がそんなことを、レリウスにすることが珍しくて。

 レリウスは復唱し、興味深げに顎に手を添えた。無精ひげを指で撫でながら、

「いいだろう。丁度、術式適正を測る魔道書もあることだからな」

 やはりあったか、テルミは思う。

 レリウスが自身の、緑の革ソファから立ち上がると、棚へ向かう。一冊の本を手に取り、開いた。

「術式進路測定の本か」

「そちらの方が、色々と分かりやすいだろう?」

 開かれた本を見て、テルミが漏らす声にレリウスは返す。

 その方が、後々のことも考えやすいだろうという計らいだ。そして、

「――脱げ」

「へ?」

 開いた本は僅かに光を放ち、術式陣を浮かび上がらせる。

 そんな中、レリウスがユリシアに向かって言い放ったのはそんな一言だ。

「いや、術式適正高める服とか着せてねぇし……」

「決まりは決まりなんでな」

 顔を引き攣らせるテルミにレリウスがぴしゃりと告げる。

 だから、脱げ、と。

「へいへい、わかりましたよ」

 テルミが仕方なしとばかりに目を伏せ溜息を吐き、そう返すとユリシアを見る。

「っつーわけで……ちょっとばかし脱げ。靴と、服と、あと……その髪飾りも外せ」

 わざわざ第十五階層都市・学園都市トリフネまで行く手間が省けただけありがたいが、それでもそこと同じやり方でやるだなんて。

「はい、ですっ」

 テルミの言葉には逆らわないユリシアが慌てて返事を返し、靴を脱ぐ。

 うなじで留めたリボンをぎこちない動作で解けばはらり、捲れる前面。ゆっくりと下へ服を下ろし、持ったまま脚を上げて服から脚を抜く。

 最後に髪留めを外し、靴以外の一式を椅子へ預けると一糸纏わぬ姿で彼女は不安げに二人を見た。

 腕で膨らみかけの胸を隠すのは、前にハザマに裸を見せるのは恥ずかしいことだと聞いたからだ。

「――えと、それで」

「ここに触れろ。あとは勝手に分かるはずだからな」

 どうすれば。戸惑いげにユリシアが言いかけた言葉を遮り、レリウスが告げ、魔道書を机に置き指差す。

「わ、わかりました……です」

 そろりと手を伸ばし、彼女の白く細い指先が浮かび上がった術式陣に触れた途端――。

「んっ……」

 少女の体を光を放つ奇妙な文字列が包み込む。

 少女はそれを理解することこそできないが、代わりに――声が部屋に響いた。

『……ユリシア=オービニエ。今は常識に欠如したところがあるものの勉学・武道共に才能のあるバランサータイプ。全て平均値以上であるが、しかし驚かされるのは――』

「術式適正値、か。あの第十二素体をも上回る数値……」

 レリウスがその声に重ねるように漏らすと、ふっと文字は霧散した。光の粒子がふわりと残り、それもやがて一度煌めくと消える。

「――まぁ、そうといえばそうだよなぁ」

 テルミが数秒の間を置いた後、そう漏らす。

 それもそうだろう。彼女の出自を考えれば充分に頷ける結果なのだ。

 しかし、テルミの発言の意図を理解しかねたユリシアは――何故だろう、と首を傾けるだけであった。

「さて、終わったことだし服、着ろ。ユリシア」

 やがてテルミが少女に振り向きそう命じる。

 この会話を交わしていた間、彼女は前に教えられた『恥ずかしいこと』を忘れて着替えることもなく突っ立っていたのだ。

 それをテルミは見ずに予想し、そしてやはり的中した。だからちらりと一瞥した後すぐに目を逸らして。

「は、はいっ」

 失念していたというようにユリシアが慌てて椅子に置いてあった服を手に取る。

 手早く着替え、靴を履いたらトントン、と床につま先を数度叩き付ける。

「えと、かがみ、ってありますか」

「そっちだ」

 指差された方向、壁にかけられた鏡を見ながら、ちょっとだけ苦戦しつつも髪を途中まで編んで留めて、髪留めで飾って。

「おわりましたです」

「ん、じゃあ行くか」

 着替え終わったことを告げた彼女を見遣り、テルミは足早にここから出ようと提案をする。何かを言いたげなレリウスの顔があったが、また彼が変な気を起こしかねない内に――とそれを無視してユリシアの手を掴み歩き出した。

 そちらの方が早く彼女を連れていけるとの判断からの行動だったが、二回目の手を繋ぐ行為が今までの彼らしくないことにテルミは気付いていなかった。

 興味深げに、再度顎に手を持っていきながらレリウスは、去って行く二人の背中を見てほうと小さく声を漏らした。

「てるみさん」

「何だよ」

「レリウスたいささん、なにか言いたげ、でしたけれど」

 ユリシアがふと、廊下でテルミを呼ぶ。人が居ないのを確認して、テルミは返事を返す。今のテルミはスーツ姿のままだ。

 テルミが返事をしたのを受けて、ユリシアが語る台詞。

 それにテルミは間を少し置くと、

「――気にすんな」

 変に厄介ごとに首を突っ込んだり、下手にあの男の性格を語るよりはそれが一番手っ取り早いだろう、と。テルミは短くそう告げた。

「わかりました、です」

 未だテルミに手を引かれたまま、彼女はそう頷いた。

 

 

 

「じゅつしきで、くろきけものを、たおしたなら」

 つまり、攻撃型の術式というものが存在するのか。それは、人間にも及ぶものなのか。彼女は問うた。

 突然の、少女の口から出たとは思えないほどに『らしくない』問いに、ハザマは思わず間抜けた声を漏らした。

「はぁ? どうしたんですか、唐突に」

 彼女がそう問いかけたのには理由があった。先日の、レイチェルの件だ。

「えと、あの、まえの、かかわるなって言われたひと。かみなりを、出してたので」

 それも術式なんだろうか、テルミが危ないと避けたということは人にもそれは及ぶのだろうかと気になったのだ。

「あぁ、なるほど」

 そういう事か、とハザマは頷く。

 レイチェルのあれは魔法であったが、確かに素人から見れば魔法と術式の区別はつかないし、それに彼女は最近術式について勉強を始めたばかりだ。

 多少興味や疑問を持っても普通の反応と言える範囲だろう。

「……『アレ』は術式じゃありませんが、そうですね。攻撃型の術式は多いですよ。ほら、統制機構の衛士も術式を用いて戦ったりしますし」

 少女を振り返った体を戻し、白い楕円形の塊を入れ少量の塩を溶かした水を張った鍋に視線を遣って、彼は人差し指を立てながら語る。

 都市全体を一つの学園としたトリフネで習う基礎知識だ。

 いつの間にかそこに存在していたハザマは学校に行ったことなどないが、それでもインプットされていたその知識。

「そうなんですか。えと、あのひとのが、じゅつしきじゃないって……」

「あぁ、それは……」

 ふつふつ、と浮かび上がる小さな気泡。白い塊――卵に張りついたそれらを見つめ、箸で時々ころ、ころと転がしながらハザマは素直に説明するべきか悩む。

 そんなハザマを、ふと慣れてしまった違和感が襲う。

 見えた景色は変わらないし、音も聞こえる。

 しかし、動かそうとした手は動かないし、聞こえるその音はくぐもって、どこか遠い。まるで機械を通したかのように、その世界が向こうのもののような感覚がするのだ。

 実際、器という壁を通した精神側にハザマは放り込まれていた。

「んなことより、あと五分ほどしたら茶、淹れろ」

 間をあけて、テルミが言った内容はそれだった。

 逸らされる内容、一瞬だけ不満げな顔をしたが、ユリシアはそれが触れてはいけない内容なのだろうと察して頷いた。

 とうとう湯は沸騰し始めたのに、彼は箸を止めたままだ。これじゃあ黄身が偏ってしまうではないかと内側でハザマは愚痴を零すけれどテルミはソレを無視して。

「じゅつしき。わたしでも、つかえます、ですか」

「ユリシアは術式適正値が高ぇし、使えて当たり前だろ」

 そうだ。先日計測した結果出た彼女の術式適正値は、あの歴代最高記録を上回ったノエル=ヴァーミリオンを凌駕するものだった。

 彼女の出自を考えてやっと納得のできる異常な高さ。

 それはもう、どんな術式だって使いこなすことができるだろう。

「――ちょっと、ピンとこない、です」

 しかし彼女は自身の出自の事を覚えていないし、術式というものに知識の範囲では触れてからまだ日が浅い。首を捻り、何とも言えない表情で唸った。

「それもそうだろ。……ま、ちょっとずつ覚えてきゃいい」

 漏れたのは、気を遣うような優しい言葉であった。

 否、思い遣りだとか、そんなことを考えながら出したわけではない。実際に事実だし、思っていたのだけれど。

 声色が、少しだけ優しかったから。

 不思議そうに少女は顔を上げる。けれど、テルミは気付いた様子がない。少女はふふっと小さく笑って、

「そう、ですね。すこしずつ、色んなことをおぼえていきたい、です」

 口許に軽く握った手を添え、彼女は小首をこてり、そう語る。

 それから少しして、彼女はソファから立ち上がる。

「おちゃ、いれます、ですね」

「ん」

 買った踏み台に上って、棚からティーポットとカップ、それから鍋を取り出す。

 水を鍋に注いで、テルミの隣に立ち並ぶ。火にかけ、暫し待つ。

 ふつ、ふつ、浮かんでは消える丸い気泡、彼女はふと隣の鍋を見て、

「ころがさないと、きみ、かたよっちゃいますですよ」

「面倒だしいいだろ。食っちまえば同じだ」

 そう、ずっと、意味もなくテルミは水面を眺めたまま箸を動かさない。というか、鍋の上に箸を置いていた。

 せっかく最高のゆで玉子をハザマが作ろうとしていたのに、それを邪魔するなんて普段は有り得なかったのに。

 レイチェルの話を振られたからなのか、それとも彼の気まぐれか。

 一向に彼は戻る気配すらない。

「……はざまさん、かなしみます、です」

「たまにはこんなのでいいんだよ」

 沈黙。小さかったユリシアの鍋の気泡が、ぼこぼこと音を立てて大きくなる。泡一つ一つが硬貨一枚ほどの大きさになった頃合いで、彼女はポットとカップに湯を注ぎ、温める。丁度そこでタイマーが鳴って、テルミの方は鍋の湯を捨て、玉子を水につける。粗熱を取るためだ。

 暫しして湯を捨てると、棚から取った茶葉の缶を開けて、ティースプーンで一杯、二杯とポットに入れる。

 そこに九十度くらいに温めたお湯を一気に注ぎ込んで、蓋をする。二分ほどして、彼女はカップに、出来上がったお茶を注ぎ込む。

 ふわりと香る紅茶の匂いに、オレンジがかった紅色の液。

「いれおわりました、ですっ」

 いつの間にかテーブルの方でユリシアを見ていたテルミを振り返り、彼女は笑った。短く相槌を打ち、テルミが立ち上がる。食器棚から皿を取り出してゆで玉子を一つずつ、皿に乗せていく。

 ユリシアがトレーにカップを乗せて運ぶ後ろを歩き、テルミが机にその皿を置いた。

「……」

 机の角に軽く数度打ち付けて、殻を丁寧に剥く。一口齧り断面を見て、案の定黄身は偏っていた。

 食べてしまえば黄身も白身も一緒だから特に気にする必要はないと、もう一口で齧られた残りを全て口に入れてしまう。彼女の淹れた紅茶を一口啜り、一服。

 それを眺めながら少女も取っ手を摘みゆっくりカップを持ち上げ、紅い液体を口腔へ迎え入れ、舌で味わい、喉へ流し込み、窓の外を見た。

 広い青空は黒き獣が倒れた時に大量に放出された『魔素』というもので本来の色より少しくすんだ色になっているらしい、というのはハザマから聞いた知識だ。

 本当の空はもっと美しいのだ、と彼は言ったが、果たして彼らはいくつなのだろうと思い浮かぶ疑問。

「そういえば、てるみさんたちは、いくつなんですか」

 見たところ、そこまで歳を召しているようには見えない。あまり他人の事を知らない彼女にはそれが推定いくつくらいに見えるのが正しいかは分からないけれど。

「さて、いくつだろうな。いくつだと思うよ」

「うーん、分からない、です」

「んじゃあ、俺も知らね」

 はぐらかされる答え。

 記憶をなくしてでもいない限り、本人が忘れることなんてあまりないはずなのに。知らないだなんて。

 テルミはにんまりとした笑みを張り付けて、首を傾け眉根を寄せるユリシアを見た。

 意地悪ではない。否、多少はそれも交じっているが、それ以上にテルミは生き過ぎた。

 もう、自分でも思い出そうとしなければ思い出せないほどに。だからだ。

「……そう、ですか」

 テルミの表情に、これ以上聞いても教えてもらえないだろうとその幼い頭なりに結論付けて、彼女は頷く。

 それから紅茶のカップを置いて本棚へ向けて歩き――そういえば、勉強に夢中になって全ての本を読み切ってしまったことを思い出す。元々常識的なことしか書かれていない薄めの児童書だったりするので、当然といえば当然かもしれないが。

「てるみさん、てるみさん」

「なんだ、読まねぇのか」

「ぜんぶ、よみおわっちゃったみたいなので……」

 そんなユリシアの言葉に納得したように、成程とテルミが頷いた。

 ぱたぱたと駆け戻り椅子に座り直す少女。問う。今度、また買いに行ってもいいですか、だなんて。

 別に金銭的には問題ないほどの給与をハザマが貰っているし構わない。故にテルミはそれに対して首を縦に振るわけであるが。

 ここの所、思えば出かける度に何かに絡まれている気がすると、テルミは思う。しかしそれはテルミだけじゃなかったらしく、

「こんどは、あの、こわいひとたちに、からまれないと……いいですね」

 顎に手を添え、彼女がぽつりと漏らし紅茶を一口。

 少しだけ冷めて飲みやすい温度となった紅茶の水面に視線を落とす。

 自身が映り込み、揺れた。

「そうだな」

 テルミが一気に茶を飲み干して、ゆで玉子をぺろりと咥内へ、そしてつるりと喉へ流し込む。所謂丸呑みだ。

 たまにハザマがこうしているのを真似したのだが、広がった食道を流れるゆで玉子は塩も振っていなければ殆ど味もせず、やる必要性を感じなかったため次からは普通に齧って食べた。

 ユリシアが最後に残った紅茶を口へ流し込み、飲み干す。

「もし、からまれたら……そのときは」

 止まる彼女の言葉。どうしよう、だとかそんなことを言うのかと最初テルミは思いながら言葉の先を促す。

「てるみさんのじゃまにならないというか、手だすけ、できるくらいにはなりたいです」

 だって、会う度にテルミさんの方が攻撃されてるんですから。

 ぽかんとテルミは目を見開く。

 持っていたゆで玉子を取り落としそうになって、慌ててそれを持ち直した。

「このまえは、何もできなかったので。できても、あいだに、立つくらいしか」

 自身の横髪を指先で弄りながら、眉尻を垂れて彼女は話す。情けない、というような彼女には似合わぬ苦笑をして。

 テルミは別に彼女には、今はまだ邪魔にならなければいい、後々役割を教えて行けばいいと思っていた。彼女自らそういったことができるようになりたいと思うなんて到底考えつかなかった。

 だから彼女がこんな発言をしたことには凄く驚いたし、彼女が手助けをしたい、だなんて自身に向けてそう思っていたのは少し意外だった。

 自身がそう仕向けた上でこちらを好かせるよりも早く彼女が懐いたこと自体想定外だったのに。彼女は、何故自身をこんなに想っているのだろう。

「――ま、そうそうあんな事はねぇだろ」

 あの吸血鬼は様子を見に来ただけだと言ったし、テルミが子犬と呼び嘲るあの男だって追手から逃れたりなどせねばならないのだから。

 あの二回連続が珍しいだけだ、とテルミは結論付けて欠伸を漏らした。

 

 

 

「なんでまた唐突に呼んだんだよ」

「口を慎め、小僧」

 ピシャリ、と白く染まった長髪を束ねた老紳士がラグナを叱りつける。何故自身を連れて来たのか問うただけなのに理不尽に叱責する老紳士、ヴァルケンハインにひらりと手を掲げてレイチェルが制した。

「いいのよ、ヴァルケンハイン。それよりお茶を淹れてもらえるかしら」

「は、相分かりましたレイチェル様。ただいまお淹れいたします」

 ラグナはアルカード城――レイチェル達の居城に連れて来られていた。

 胸に手を当て恭しく腰を折り、ヴァルケンハインがレイチェルの言葉に応え去って行く。音を立てずに戸を閉めて彼が向かったのは厨房だ。

 座り心地の良すぎて落ち着かないソファに腰を下ろしたまま、ラグナは改めてレイチェルを見つめた。

「今度は城に招いて、何が目的なんだよ」

 気怠げな最初の話し方とは違い、真剣な目だった。

 レイチェルは一度、その左右で色の違う瞳を見つめると――溜息を吐いた。

「んだよ」

 思わず、むっとしてラグナが問う。

 勝手に連れて来たかと思えば問いに応えず溜息だなんて。

 ラグナが不機嫌そうに相手の言葉を待つと、レイチェルはやがて口を開いた。

「先日、あの子に会ったわ」

「んな」

 あの子、という言葉が指すものが何か、ラグナはすぐに分かった。

 テルミと行動を共にしていたあの少女のことだ。

 レイチェルは続ける。

「あの子はやはり、テルミと共に居たわ。そして、彼がどんな存在なのか知らなかった」

 目を伏せ、レイチェルは忌々しいその男の本性を思い出し――眉根を寄せた。

 きっと彼女は後悔する。この世界を壊そうとしている彼に着いていけば、蒼である彼女は――。

 コンコンコン、とノック音が三つ部屋に響き、すっと扉が開かれる。

「お茶をお持ちいたしました」

 足音も立てずに近寄るのは先ほど出て行ったヴァルケンハインだった。

 そっと、レイチェルとラグナの前にティーカップを置くと一礼して、ヴァルケンハインは一歩引く。

 レイチェルが礼を述べて左手をソーサーに伸ばし、胸元まで引き寄せると右手でカップを持ち上げた。

 一口。飲み込むのに合わせて白い喉が上下する。

「結局、アイツは何なんだよ」

「そうね。私もよくは知らないのよ、本当に。ただ、テルミが良くない目的で傍に置いているだろうことは事実だと思うわ」

 レイチェルらしからぬ、曖昧な答えにラグナは胡乱げな瞳を向ける。

 しかし、良くない目的で、というのには頷かざるを得ない。彼はそういう性格だと信じて疑わないからだ。

 先入観を持ちすぎるのは良くないが、しかしその先入観を持たせるに充分余りあるほどの悪行を彼はこなしてきたのだから。

「……あの子の正体は、私もよく分からないけれど予想はできるわ。きっと、それは合っているだろうけれど、でも今はまだ言うには早い」

 テルミ達が何を狙っているのかすらも、何もかも分からないこの確率事象の中だから。

 レイチェルは静かに紅茶を口に含み、飲み込んだ。

 ラグナは、それを聞いて何も言うことができなかった。自身には、理解の及ばない次元の話なのだろうと理解して。



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第三章 緋壮の夕暮

「……転移・完了」

 バイザー越しに瞳に映る世界が先ほどの歪んだ景色と打って変わって建物の並ぶ場所に変わって安定したことでラムダは自身が転移を完了したのだと知る。

 事前にインプットされていた『街』の景色にそっくりであることから、ここはどこかの街なのだろう。自身の転移の手引きをした主に聞こえるようにポツリと漏らした。

 彼女、マスターが言うには近くに自身と所属を同じとするあの人物が居るはず、そう思ったそばから彼女は見つけた。

 周囲から浮いた筋骨隆々の真っ赤な巨体は二メートルほどあって、その容姿から確か赤鬼と呼ばれている。

 これだけ発展した街だというのに辺りに見られる人の人数は少ない。

 きっと、彼――テイガーやそれと対峙する人物のこともあって危険だと判断したのだろう、野次というものすら居なかった。

 彼女の視線はそうして、赤い巨体の男・テイガーから、それと対峙する人物へ視線を移した。バイザーの赤い単眼が僅かに横に動く。

 そこに居たのは、黄色いフードを被った男と――少女だった。

 ラムダは、フードの男よりも少女に目を引かれた。データベースに、一致する情報が一切見当たらない。そして、何よりも。

「対象・認識……あ、あ……」

「おい、どうしたラムダ」

 甘美な感覚。その存在を意識する度、どうしようもなく愛しい記憶の外の存在に似た感覚が溢れて来るのだ。

 テイガーに近付こうとして、彼女は途中で移動を停止する。

 疑問に思った主が問うが応答できずにいた。テイガーに向けて男から伸びる事象兵器。

「チィッ……! 聞こえるか、ラムダ。テイガーを援護しろ!」

 マスターからの命令にハッとし、了解――そう告げ彼女は移動を再開する。近付き、剣を召喚し射出する。

 背後から飛んで男を狙うそれにテイガーがその巨体を振り向かせ、丁度良かったと。

「チッ……素体か! 第七機関が何故ソレを持ってやがる……ッ」

 男が忌々しげに叫ぶ。飛び退いたところを追うように最大出力で近付き、背後に浮いた八本の剣を振り下ろす。

 ――キィン、と高い金属音が鳴り響いた。

「……あ」

 

 

 

「えへへ、こんかいは、ぶあつい本が、たくさんですね」

「薄い児童書ばっかだとすぐ読んじまうだろ」

 本を胸に抱えながら彼女らは街を歩いていた。

 行き交う人々は笑顔に溢れ、道化師が道端で芸を披露していたり、レモンのいい香りがする香水を付けた美人とすれ違ったり。

 そうやって街を歩いていると――ふと、頭上に影ができる。

 不審に思ってテルミが見上げると。

「……マジかよ」

 巨体が、空から落ちて来ていた。

 慌てて本を抱くユリシアの腕を引いて彼は走った。

 そして、低い轟音が響き、地が振動する。間一髪、その巨体に押し潰されるという事故は免れた。

 ゆっくりと上体を起こしたそれは、真っ赤だった。赤い肌、筋の浮いた大きな筋肉、飛び出た牙、巨体。

 ――第七機関の赤鬼。テルミが理解した時には人々は悲鳴をあげて逃げ始めていた。

「見つけたぞ。上司の命令でな、貴様を拘束させてもら……と、なんだ、この子供は。反応には……む、これは」

「ひっ……」

 赤鬼の視線が一度テルミに向き――その下の少女へ移る。途端、彼女は悲鳴を漏らす。

 赤鬼がそんな少女の態度に目もくれず、反応に気を取られた隙に。彼は、口を開いた。

「聞こえてますかー? こんな奴を寄越して自身は引きこもりの化け猫ぉ」

 赤鬼に、否、彼はその向こうの安全な場所で傍観に徹した娘に向けて話していた。

 案の定、彼女は通信に出た。

「テルミ……今度こそ、お前を……」

 憎々しげに言う声に、テルミはくつくつと喉の奥を鳴らして嗤う。

 無駄だ、無理だ。そう言って彼は、ユリシアを引き寄せる。

 抱いていた本はとっくに落ちて、散らばっていた。

 少女はしかし、そんなテルミに疑問を抱くことも、嫌がることもなく。目の前の赤鬼の存在に、カタカタと震えていた。

「ココノエか。すまないが、この少女は……」

「少女? ……待て、何だソイツは、私も知らん。今からそっちにラムダを送る、それまでテルミとその少女を其処に留めておけ」

 テルミが引き寄せた少女を、ココノエと呼ばれた女はテイガーに言われてやっと認知する。確かにそこに居たはずなのに、今までそこに誰も居なかったかのように。

 何故、と問おうとするが命令を下されれば赤鬼――テイガーは口を噤み一言了解したと答えるしかなかった。

「はいはい、会議は終わりですか~?」

 テルミがひどく挑発的な声で問いかけ、テイガーがそれに視線を移す。

 留めておけ、とココノエに言われた。ならば、実行するまでだ。

「上司の願いでな。貴様らはここに居てもらおう」

「はぁ? 嫌に決まってんだろ」

「貴様の意思は関係ない」

 そう言って、テイガーは身体を折り曲げる。空中の磁力を操り、リニアモーターカーの要領で射出されるかのようにして突進した。舞う砂煙。

 危ない、と言いながらもユリシアを咄嗟に抱えながら横にひらりと身を翻して躱すテルミに、それでも充分距離を縮めた彼は上体を起こし腕を突き出す。

 それを後退してテルミはまた避ける。トン、と地に足が着いたところで彼は怒鳴った。

「うぜぇんだよ!」

「そう言われてもな」

 困ったようにそう漏らしながらテイガーは大地を響かせながらテルミに歩み寄る。

 面倒臭そうに自身を睨んでくるその男を掴もうとしたところで彼はまた後ろに跳び、

「ウロボロス!」

 彼が叫ぶと、彼の後ろの空間がぐにゃりと歪む。穴が開き、そこから現れるのは蛇頭の彫刻がついた鎖だ。

 それは高速で射出される。重い巨体で素早く動けるはずもなく、テイガーの腹にその先端が直撃。鮮血が飛び散る。

「あ……」

 そこで初めて、少女は血というものを見た。漏れる声。なんて、赤くて綺麗なんだろうか。突き刺さった蛇の頭が引き抜かれる。

「ぐっ……」

 テイガーが呻き、地に膝をつけそうになったところで、視線を横に逸らしたユリシアの視界に捉えられるのは、モノアイのバイザーを付けた――少女だった。

 周りの人が何故か逃げていたのに、その少女はそこに佇んだままだ。

 どうしたのだろう、とユリシアは思う。不思議と、知らぬ人物への恐怖というのがこの時だけは浮かばなかった。

 しかし、首を傾けそうになったのも束の間。自身を抱えた大切な人――テルミに向けて、彼女が指差す。途端、少女の前の空間が先ほどテルミが鎖を召喚した時のように歪む。現れるのは刃だ。

 射出されるそれ、振り向くテイガーと、自身を横に突き放して躱すテルミ。

 そんなテルミを追うかのように少女が高速で近付き、背後に浮かんだ剣を持ち上げ、前に振り下ろす。

 危ない、だとか、今更だけれどまた怖いのに絡まれただとか、そんな思いがユリシアの中を渦巻き――気付いた時には、金属音が鳴り響いて。

 その小さく白い両手には、身の丈ほどもある大鎌が握られていて、それで彼女が振り下ろした剣を防いでいた。

「なっ……ラムダの攻撃を、塞いだ……?」

 通信機についたカメラの映像を見て、ココノエが漏らす。一体どこからそれが出てきたのか、あの少女は何者なのか。一瞬、言葉を失った。

 あ、と声を漏らしてラムダは咄嗟に身を引く。と同時、ユリシアが突然支えるものが無くなった反動で体勢を崩す。突然現れた鎌の重みもあったのだろう。よろけ、鎌の柄を杖代わりに地面につくことで倒れることは免れた。

「……あ、あ」

 少女がぶつぶつと言葉にならない声を漏らし、テイガーがそれを心配しつつも唐突に鎌を現したユリシアに驚きを隠せないでいたり、テルミが目を見開いていたり。

 手に持ったそれを見下ろす。持ったのは初めてのはずなのに、やけに手に馴染んだ。

 柄の尻から伸びる鎖の先は、近くにできた空間の歪みに繋がっていた。

「……」

 どうしよう、どうしよう。周りを見回して、少女は眉尻を垂れた。

 震える手、沈黙の中、ぱっと鎌から手を離す。消えて欲しくて、目をぎゅっと瞑って。重力に従って鎌は手から落下し――地面に当たる直前。カァンと音が鳴るのを想像していた彼らの予想は大きく外れ、いつまで経ってもその音は鳴らない。

 目を開けて、地面を見る。そんなものは最初からなかったかのように消えていて、空間にも歪んだところはもうない。そうしてユリシアはあの少女を見つめる。少女は身体を前に降り、腕をだらりと垂らして――とても、苦しそうに見えた。

「えと、てるみさ」

「『アイツら』は敵だから気にすんじゃねぇよ」

 だから、たいせつな人であるテルミに聞こうとして。そう言われれば、口を噤む他に何もできなかった。

「待て、テルミ。その少女は何なんだ、鎌を出したり貴様をやけに気にしていたり……」

 しかしココノエがテルミの台詞を聞き、怪訝そうに問うた。先の事もある。一体何者なのだ、その少女は……と。その問いを受けてテルミは一瞬きょとりと目を丸くした後、ユリシアを見下ろし、ふむと息を漏らすと、ニィと口角を上げてテルミは口を開く。

「鎌の事は俺も今初めて見たんだけどよぉ……テメェらには分かんねぇか」

「どういう意味だ」

 ニィ、と口元を笑みに歪ませてテルミは笑う。それの意味を理解することのできないココノエが、問う。

「テメェらが、俺にだけは絶対に渡したくない存在だよ」

 その言葉を聞いた途端――嫌な考えが過って、慌てて口を開く。

「テイガー、動けるか、その少女を拘束しろ。ラムダも手伝え!」

 膝をついたテイガーと、動かないラムダに彼女は命令をする。しかし、彼の方は一度立とうとして、傷が深かったのだろう。また、地に膝をつけた。

 ラムダは応答しない。

「んじゃ、俺様達は帰るとするわ、じゃあな~」

 それを嘲笑うかのように踵を返し、片手をひらりと掲げてテルミは歩き出す。勿論、ユリシアを連れてなのだが。彼らに『所有物』として見せつけるかのようにテルミは彼女の腰に手を回していた。

「待てテルミ! クソッ、応答しろ二人とも! 一旦帰還しろ、転移だ」

 ハッとしたように、ラムダが身体を起こす。そこに、あの少女と男の姿はなくて。

 マスターの命令を聞けなかったことへの申し訳なさと、何故あの少女が鎌を出した時引いてしまったのかという疑問がラムダの中を渦巻きながらも、彼女は一言「了解」と答えて、テイガーの元へ移動する。

「すまない、ココノエ……転移を開始する」

 ラムダが近く、転移の範囲内に収まったのを確認すると、ゆっくりとテイガーは傷を負った身体に鞭を打って立ち上がり――転移を開始した。

 ラムダが来た時と同じように膨大なエネルギーの流れが二人を包み込む。だんだんと二人が薄くなり、消えていく。

 視界が歪み、高速でその歪んだ世界が後ろへと吸い込まれていく。

 そうして暫くして――彼らは、元居たココノエの研究所へと戻ってきた。

「おかえり、二人とも。――テイガーは手当てをしてやるから着いて来い。ラムダは後で調整とデータの確認をしてやる」

 彼女は淡々と、冷静に事に対処し始めた。そこに、先ほどの焦りや怒りといった表情はどこにも、微塵にも感じられない。

「あぁ、頼む。……少女の件だが、何故突然拘束を命じたんだ」

「それは……嫌な予感がしたからだ。そして、それは当たったらしい」

 テイガーの身体をくまなく検査しながら、彼女はそう語る。表情こそ変えていないが、声音はどこか悔しそうなものだった。

 それはさておき、テイガーの手当ては基本的にココノエがやっている。それはテイガーの体を一番理解しているのがココノエだからなのだが。するすると丁寧に巻かれていく白い包帯を見ながらテイガーは小柄な猫の半獣人を見つめた。

「ま、この程度なら……お前の体であれば、一日か二日で治るだろ」

 傷は確かに深かったしその場じゃあまり動けないほどだったけれど、テイガーの肉体は鬼の遺伝子を組み込まれている上にココノエの改造があり、故に傷の治りも早いのだ。

「そうか。それなら良かった」

 結構な量があった包帯を全てその巨体に巻き付け終えると、ココノエはパンパンと手を払って、くるりと踵を返す。

「よし、もういいぞ。ただ、暫くは安静にしておけ」

 と言っても、彼女がテイガーをこき使うため安静にできる保証はないが。少しだけ気を付けようと思っていたのは秘密だ。そして彼女は傍らに佇む少女――ラムダを見遣る。

 突然応答しなくなったり、何を見たのか理解できない反応をしたり。

「ところで……あれからお前らが戻ってくる間に探知機系のログを漁ってみたところだな。見事に引っかかった。その中でも特に興味深い反応があってだな」

「というと?」

 テイガーが問うと、そこで彼女は今まで動かなかった表情を、苦虫を嚙み潰したようなものに変えた。周囲の音を窺うように、くるくると彼女の小さな猫耳が向きを変える。

 苛立ちを含んでいるのか、その尻尾が揺れる速度はいつもより早い。

「テルミが言っただろう。私……否、私達がテルミにだけは渡したくないものだと」

 きっとここから先は、テイガー達はあまり理解できない内容になるかもしれない。

 そう思いながらも、ココノエはキーボードを両手の指で叩き始める。カタカタ、と心地良いタイプ音が続き、やがて手を止める。目的のものが見つかったのだろう。

 じっくりと画面を見て、そして彼女は溜息を吐く。事実が変わるわけでもないのにだ。

「……ラグナ=ザ=ブラッドエッジや、ノエル=ヴァ―ミリオンを検知するためのレーダーのログだ」

 くるり、と画面をテイガー達に向けると彼女はある一点を指差す。反応が一点に色濃く出たそこは、テイガー達が先ほどまで居た場所だった。そしてそれは、あの少女がラムダの攻撃を防ぐ瞬間にもっとも反応が強くなっていた。

「……そこに、ラグナもノエルも居なかっただろう。それにお前には同じものを搭載していて気付いているはずだ。要は、そういうことだ」

 突然の話に理解の追い付かない二人、それも仕方ないと思いながら彼女は頭を抱えた。まさか、そんなものを手にしているだなんて。

 それじゃあ、何故すぐに行動を起こさないのか、彼女も何故あんなのについているのか。そればかりが疑問だった。

「――ラムダ。調整してやるからこっちへ来い」

「了解。マスター」

 ゆるりと首を横に振り、考えても今は答えが出ないことだとして彼女はラムダに声をかける。ココノエに命令されたラムダは先ほどのように動かなくなったり命令を聞かなかったりなんてこともなく、彼女の言葉に素直に従う。

 ラグナ達に近い気配を持つ少女に対して、ラムダがあんな反応を返したことを思い返し、ココノエは、

「まさか……な」

 ポツリ、と誰にも聞こえぬようそう零した。

 きっと、否、絶対、境界に触れるため生まれた素体として反応してしまっただけで。まさか、彼女に組み込んだニュー・サーティーンの魂の記憶や彼女の記憶が残っているわけではないと彼女は結論付けた。

 そして彼女はラムダの内に残されていた『不要』と判断したデータを削除し、調整を始めるのだった。

 

 

 

   1

 

 西の空は美しいオレンジ色に染まり、東はだんだんと紫紺に変わっていく夕暮れ時。逢魔時(おうまがとき)とも呼ばれるその時間、彼女らは夕食を摂っていた。

 その間、彼女らは最低限での会話こそあれど、まともに話すということがなかった。それも、先の彼女のことが原因だった。

「あの」

「なあ」

 今日の夕飯は第七階層都市・カザモツから取り寄せた名物の一つ、ヒメマスを使用した、魚料理が中心だ。メインは刺身で汁ものにはあら汁を。ほうれん草のおひたしを副菜に添えて。ほこほこと湯気を上げる白米を食べる手が進む。最近の技術により魚も鮮度を保ったまま運ぶことができるようになったから、こういうものも、食べようと思えばこっちでも食べられるのは少し嬉しい。

 そういえば、和食なんて、いつぶりに食べただろうか。

 彼女の腕はテルミが久しく食べていないそれを見事再現してみせて、あっという間に皿の上は空となる。

 それで皿を片付けようとする前に一度迷って、口を開いてみれば丁度そこで二人の声が重なったのだ。

「あ、さきに、どうぞ」

「いや、ユリシアからでいい」

 そう促されて、彼女は黙り込む。言うべきか、悩んでいた。

 けれど、言わなければ話は進まない。意を決したように少女は噤んでいた口を開く。

「きょうの、おひるのことですが」

 それは、テルミも話そうと思っていたことだった。けれど、まさか彼女の方から話すだなんて思っていなかったこと。だが、その驚きを表情には出さず、テルミは平静を装って短く相槌を打った。

「とつぜん、でてきた、あの……なんていうんでしょう。おどろきませんでしたか」

 彼女自身はすごく驚いていたし、テルミも目を見開いていたからきっと驚いていたのだろう。『鎌』という名称を知らぬ彼女は、しかしたどたどしいながらに思っていたことを伝える。

 素直にテルミが驚いた、と伝えれば、彼女はやはりかと言いたげな顔をして、そうですよね、と漏らす。そして彼女は大きく息を吸うと、

「あれは、わたしにも、よくわからなくて。てるみさんを、まもりたいとおもったら、いつのまにか、でてきたんです」

 訥々、そう語る口ぶりに嘘は見えないし、寧ろ戸惑いさえ見えた。彼女も、突然出てきた物に対する驚きや、テルミにどんな風に思われたかという不安に苛まれていたのだ。

 そう分かると次にテルミが考えるのはあの鎌の正体だ。術式が展開される気配はしなかったから彼女が術式を無意識下で展開したという手は考えられない。明日、また考えるかとテルミは思う。まだ、滅日の時まで時間はあるのだから。

 だけれど、彼女が口を開くことでその思いは切り替わる。

「でも、でも、ふしぎ、なんです」

「はぁ?」

 彼女が、曖昧ながらに語る内容にテルミは首を傾げた。ゆるゆる、と首を横に振って少女は語る。あれが消えた瞬間、パズルの最後のピースをはめたような、温かなものが自身の中に広がるような、何とも言えない心地良い感覚があったのだと。

「……ふぅん?」

 語る内容は、かつての器『カズマ』がテルミを受け入れた時の感覚によく似ている。もしかしたら、彼女の体に関係あるのかもしれない。けれど、少しだけ納得のいかないといった表情でテルミはしかし、この時は特に何か意見を言うこともできなかった。

 二人分の皿を運んで、洗って、食器乾燥機にかける。テルミも手伝うようになったのは昨日の昼から気まぐれでだ。隣に並ぶ彼にユリシアはへらり、と柔く笑う。

 彼らは今日も飽き飽きするほど平和な時を過ごしていた。

「えと、それで」

「んだよ」

 今度は何を言い出すのか。テルミは問う。濡れた手を拭いて、さっさと風呂に浸かって眠ろうと思ったときのことだった。

 彼女はうーん、と一度考えるような素振りを見せたあと、テルミを見つめて、

「やっぱり、でかけるたびに、いろんなこわいひとに、からまれてしまいましたですし」

 そこで言葉を切って、至極言いづらそうにテルミの目と、床を交互に見つめること数回。テルミが痺れを切らして何が言いたいのか聞こうと、息を吸った直後だった。

「わたしも、その、てるみさんの、じゃまにならないていどに、とれーにんぐ……でしたっけ。したい、とおもったんです」

 それは、少し前から思っていたことだ。体力が足りなければ絡んできた人物に対応するだけの話力も戦闘力の類もない。だから、少しでもそれに抵抗できるだけの力が欲しいと。その目は真剣だった。

「……はぁ」

 なるほど、と納得する反面、彼女はそんなことまで気にしていたのかと考える。

 ぱっとこの事象に現れた少女が、この他人と話せないような臆病な少女が。そこまで考えるようになるだなんて、テルミは少しばかり驚いていた。

 この時テルミはまだ、彼女の『能力』についても彼女のことについてだって、まだまだ理解していないことが多かった。

 

 

 

 彼女はふと目を覚ました。夜中の二時半だった。普段なら目が覚めることもなく、夢を見ることもなく朝まで眠りにつけるのに。何故か今日は違った。

 眠気は少しだけある。けれど、眠りに再度戻れるほどじゃなくて、瞼をごしごしと手の甲で擦る。

 ぼやけた視界がだんだんと鮮明になっていく。常夜灯を一つだけ灯した部屋は真っ暗で、ベッド周り以外は闇に包まれていた。

 隣に寝るハザマを起こさないように、ゆっくり身体を起こしてシーツを脱ぎ、ユリシアはベッドの横にある窓のカーテンをさっと開けた。

 彼女の視界に映る月は黄金でなく、銀色の三日月だった。統制機構内から見る空は街灯に邪魔されず煌めく美しい星々が見えて。その景色を大切な人と見たくて。でも、起こすことができなくて――ちらりちらり、何度か彼の頭部を見遣る。月明かりに艶やかな緑の髪が照らされる。

 その日、それから彼女は眠れなくて。立てた膝を抱えて顔を伏せ、暫くそうしているとやがて空が白くなり始め、だんだんと光が差しだす。ゆっくりと顔を上げ隣を見れば、すぅ、すぅ、と穏やかな寝息を立てて彼はまだ眠っていた。

 普段、常に柔和な――しかし貼り付けたような笑みの絶えない彼、ハザマの寝顔を覗き込めば、その寝顔はとても安らかで、まだ幼い人間のそれのような、純朴そうな寝顔がそこにあった。子供らしいかどうかは彼女には分からなかったけれど、可愛らしいとどこかでそう思うユリシアが居た。

 鼻梁に引っかかっていた長い前髪がさらり、と下に流れ落ちる。時計を見れば六時半。彼女はそっと、彼を起こさないようにベッドの隅へ移動すると腰かけ、ぶらりと脚をベッドから出した後に傍らに置いてある靴を履いて立ち上がる。クローゼットを開ける。

 ベビードールを、リボンを解いて脱ぎ捨て、ハザマから与えられたいつもの服を着る。壁にかけられた姿見を見た。勿論、くるりと回って背面も。よし、どこにも変なところはない。次に蜂蜜色の髪の毛を三つの房に分けて編んで、腕にはめていたゴムで留める。なんとなしに顔を見た。眠れなかったからか隈(くま)が僅かばかり浮かんでいた。

 あまり気にならない程度だけれど、隈という存在を知らない彼女は得体の分からないそれに首を傾けた。それでもすぐにキッチンへ向かったのだが。

 フライパンを棚から取って、術式で熱を出す構造のコンロにかける。弱火に調整して、暫し温めてから冷蔵庫の中のベーコンと卵を取り、まずはベーコンの方を三枚投入。

 油を引かなくても、ベーコンの中にある分で足りるというのは料理本に書いてあった知識だ。それからシステムキッチンの角に卵を打ち付け、片手でぱかりと割って中身を落とせば、ふんふん、意味のない音を繋ぎ合わせた即興の鼻歌を歌いつつ蓋をする。

 暫し待って、白身が真っ白になった頃合いで火を止める。あとは余熱で熱してから蓋を開ければ湯気が立ち上った。ふわり、香ばしい香りと程よく焼けたベーコンエッグ。ステップに乗って食器棚から皿を二枚。

 フライ返しを上手く使って片方の皿にできあがったものを。それをもう一つ作って、残りの皿にも。あとは野菜室からレタスとミニトマト、キュウリを取って、洗って、レタスは千切ってキュウリは輪切り。ミニトマトはそのままでサラダボウルに盛り付ける。ドレッシングをよく振り、かけて。

 丁度そこでハザマ、否、テルミが起きたらしい。んん、とくぐもった声が微かに背後から聞こえて振り返れば、上体を起こした彼が居た。

 両腕をぐぐっと伸ばして伸びを一つ。眠たげな眼を擦ればふと隣を見て、誰も居ないのを確認するとゆっくりとした動作でキッチンの方をテルミは見遣る。視線がぱちりと合って、ユリシアが微笑むのを無表情で彼は見つめていた。

「おはようございます、です」

「ぁふ……ああ、おはようさん」

 ぷわりと出てきた欠伸を、手で口を覆って噛み殺す。体にかかったシーツを剥いで、くるりと体を九十度横に回せばベッドのすぐ近くに置いてあった靴を履いて立ち上がり、彼女が先ほど服を出したのと同じクローゼットからシャツを取り出す。何も纏っていない上半身にシャツを羽織り、袖に腕を通して第二ボタンまでを開ける。

 スラックスを取る。黒いそれは新品で、その穴に躊躇なく足を入れた。二段になっているベルトを締め、黒のネクタイを首へ無造作にかければ朝の彼のスタイルが完成する。

 ハザマならその恰好をだらしないなどと指摘するはずだけれど、生憎と今日は何故かまだ起きていないらしい。

 運ばれた朝食はテーブルの上。先に彼女がテーブルの前に座って、テルミも準備が整えば歩み寄り椅子を引く。

「じゃ、たべましょう、です」

「あぁ、そうだな」

 腰かけてそんな言葉を交わせばフォークを手に、簡単なサラダを一口。瑞々しい野菜の味がドレッシングと飽和する。飲み込み、カップのコーヒーに口をつければ次はベーコンエッグ。フォークを刺して丁寧に切っていく。一口分の大きさにカットして、口へ運ぶ。まず最初に広がるのは塩気と香ばしい香り。噛めばぷつりと膜が破れてホロホロと現れる黄身の甘みが先の塩気と混じり、全てが合わさって口腔を支配する。美味だ。

 食べ進めること数分。ユリシアはまだ三分の一ほど残っていたが、テルミの方は全て平らげてしまって、皿とカップを持ち立ち上がる。ギィと椅子を引くチープな音が鳴れば足を使って椅子を椅子を元の位置に戻してやって、それからキッチンへ。シンクへ置くだけ置けば、あとはユリシアの朝の仕事だ。

 少しして彼女も食べ終わり、立ち上がり、椅子を手で押してから皿を持って同じようにキッチンに移動して。

 シンクに置けば蛇口を捻る。流れる水、スポンジを手にして洗剤をかけ、数度揉めば柑橘系の匂いがする泡が沢山。それで皿や先程使ったフライパンを洗って拭いて、干す。

「えへへ……てるみさん、おいしかったですか?」

 振り返り、ぱたぱたと黒いブーツを鳴らして駆け寄り彼女は問う。間抜けた声をあげて聞き返すテルミだったが、すぐに頷いてみせれば彼女はぱぁと幸せそうに顔を輝かせ笑うのだ。面白いほどに。

 朝食が済めば歯を磨いて、顔を洗って。タオルで濡れた肌を優しく拭えばハザマの時間が始まる。まずはやらなければいけない書類からだ。

 執務机とセットになった椅子へ腰かけ、机の引き出しを引っ張れば茶色い封筒がお目見えして、そっと取り出し中に手を突っ込み引っ張りだしたのは白地に黒い文字がびっしりと書かれた書類の束だ。なかなかに量がある。と見つめて思う。一日で終わる量ではあるのだが、それでもだ。

 書類を机に置いて、閉め忘れていたボタンを閉めればネクタイを結ぶ。続いて立ち上がり、クローゼットまで歩み寄って黒のベストを取ればそれを着用。

 今度こそ、と机に戻って書類に向かう。羽ペンを片手に、書面の文字を目で追った。

 ペン先にインクをたっぷりと付けてサインを。記入欄に必要事項を。報告書には簡潔に先の任務の事を。

 そういえば、任務で外に出る時も彼女には着いて来てもらっている。偵察なんかはそのまんま。――子供を連れて行けないような時は、流石に留守番してもらっているけれど。滅日なんて起きなくても、この狂った世界はある事象が起きるまでこうやってずっと回っているのだ。

 いくつかの戦争を通り、時には名乗る名も変えて、騙って、ここまで生きてきた彼は。繰り返しの記憶を境界に触れて知った彼はテルミほどではなくてもこの狂った世界を少なからず『くだらない』と思っていた。

 初めて見るはずなのに知っている景色、それら全てを隣で新鮮だと感じる少女が、初めての感覚を彼らに与える。だって、彼女はこの事象で初めて出会った存在なのだから。

 何故、彼女は現れたのだろう。何故、こんなにも自身達を慕うのだろう。何故――。

 ぼたり、とインクの垂れる音でハザマはハッとした。いけない、何を浸っているのだろうか。こんな時は、コーヒーを飲むに限る。

「コーヒーを、淹れてくれませんか」

 買ったばかりの本とにらめっこをする少女に声をかける。こうやってコーヒーやお茶を頼むのも慣れてしまった。来たばかりの時は、自分で淹れようとして彼女が手持無沙汰を寂しがることも多かったのに。

 ――また、そんな過去の事を思い出す。今日は駄目だ。ティッシュでインクを抑え、吸い取ったけれど汚れで文字の一部が隠れてしまっている。後で新しく書類を作り直してもらわないと。

 書類を横にずらして他の書類を取り敢えずは片付け始めるハザマ。やがて香ばしい香りを引き連れて、彼女がコーヒーを持ってくる。礼を一つ、熱いそれに息を吹きかけて一口。美味しい、けれど、思っていた以上に熱くて思わず目を見開く。当たり前だ、淹れたてなのだから。舌を少しばかり火傷してしまって、ザラザラした感じがする。

 表情の変化に心配するユリシアに大丈夫だと告げ、コトリとカップを近くに置く。書類とまた向き合って、書き込んで――。

 彼女が昨日『トレーニングをしたい』と言ったことを思い出す。時間が空いた時に、他の衛士に頼んでみるか。そうだ、マコトに頼めば話は早い。同じ部の部下なんだから。

 でもせっかくなら自分が相手をした方が彼女の能力を把握するにも都合が良いか。顎に手を添えふむ、と声を漏らしたあと彼はコーヒーをまた啜る。――駄目だ。何故彼女のことばかり考えるのだろう。確かに彼女の事は知らないといけないことが多いけれど。

 こんなに一緒に居たのに。一向に何も起こさなかった彼女が、最近やっと見せてくれたことを。もっとすぐにでも進めなければいけなかったことを。

 思い出しながら書き進め、ふと手が止まる。他のくだらない書類に交じっていた、諜報部の近況報告の書類だった。意外に書くことが少なかったため終わらせてしまった方の書類らを見つめて、はぁと短く溜息を吐く。

 近況。彼女と居ることが多い彼は、最近の記憶全てに彼女が居たことを思い出す。

 どうにも筆が進まない。こういう時は身体を動かすのが良いとどこかで聞いたことがある。それを信じるわけではないし、それ以前にこの作られた身体はあまり運動には向いていないけれど。羽ペンをペン立てに戻してインクのボトルを閉め彼は立ち上がる。

 書き上げた書類を別の封筒に入れ、その他は元の茶封筒に戻して。頷き、彼は丁度ページをめくろうとしているユリシアを見た。

「――たまには、運動しませんか」

 人差し指を立ててのその提案に、ユリシアは大きく頷いた。

 

 

 

 久々にトレーニングルームに訪れた。隣には小さな少女を引き連れて、片手には真っ白なタオルを。服装は動きやすいようにストレッチパンツとティーシャツといったラフな格好で、普段頭上に置かれている帽子がないのに違和感を覚える。

 なかなかに広いそこには沢山の人が居たのだが、異様な人物の登場に今まで各々ストレッチなどをしていた衛士達はこぞってその人物らを見た。

 そこには大きな尻尾が特徴的な、リス系亜人種のマコトも居た。

「あれっ、ユリシアちゃ……げ、ハザマ大尉」

 足を伸ばした状態で床にぺたりと座り込み、前に体を思い切り倒しながら彼女は、見かけた少女の名前を呼びかけ、上を見上げる。そこには案の定あまり好きではない上司も居るわけで、思わず嫌そうな声を漏らした。

 ひそひそと話し声が聞こえる中、ユリシアが彼女に駆け寄りハザマもそれを追う形でゆっくりと近づく。

「げ、だなんて随分と悲しい態度ですねぇ? ナナヤ少尉」

 細めていた目を僅かに開き、ハザマはマコトを見下ろして言葉を並べた。

 顔を引き攣らせながらマコトは謝り立ち上がる。腰に手を当てながらハザマを見上げると彼女は、

「どうしてここに? 大尉がここに来てるの見たことないんですが。それにユリシアちゃんも連れて……」

 胡乱げな目で問う彼女にハザマは動じず、にこやかな微笑みを湛えていた。

「そりゃあ、あまりここには来ていませんし。ユリシアを連れて来たのは……そうですね、多少は彼女にも護身術を身に着けてもらいたくて、ですね」

 後者は半分が本当で、半分はそれ以上の理由があった。彼女の力を見たいという目的もあるのだ。そんなハザマの言い分に彼女は眉を顰める。

 何故なら、彼女は保護対象ということで通っているのに、そんな少女を連れ回した挙句危険なことにも触れさせるかもしれないということなのだから。

「な、護身術って……保護するのがハザマ大尉の役目ですよね?」

「私だって戦闘は専門外ですし、もしものためですよ。滅多にそんな事が起こらないと信じた上で、です」

 マコトの反論にも彼は首を横に振ってそう語る。そこに表情の変化はなかった。むっと、ハザマを見上げるマコトの横を通りすぎてハザマは一度振り返った。追いかけるユリシアが隣に来たのを見てから彼は口を開く。

「ま、貴女には関係のないことですよ。ということで私達はあちらに行きますので」

 そう言って彼が指差すのはトレーニングルームから繋がる個室だ。個室といってもそちらも広く、主に慣れていない術式を扱ったり少人数での模擬戦闘などに使われている。

「えっ、あ、はい」

 思わず頷いた時には既に彼らはそっちに向かっていて、溜息を吐くしかマコトはできなかった。ぶんぶんと首を横に振ってマコトは体操を再開した。後でツバキと約束しているのだ。彼女が来るまでにたっぷりとストレッチしておかないと。額に貼りつく前髪を片手で払いながら。

 一方で、個室の方でハザマは少しばかり悩んでいた。思い立っていざ来てみたは良いが、彼女の能力の事を全くもって把握していないのだ。どうやって鎌(あれ)を出現させたかも、そもそも何故彼女がそれを現せたかも分かっていないのに、どうやってその力を確かめようというのだ。

 考えても仕方ない、色々試してみればいいのだ。その前にまずは。頭(かぶり)を振ってハザマはユリシアを見る。

「まずは準備運動から、ですね」

 焦らなくてもいい、彼女の能力のこともあるけれど、彼女がトレーニングをしたいと言ったのだ。ならそれに合わせてまずは身体を動かすべきだろう、と結論付けて。

 そんなハザマの言葉にユリシアは首を傾ける。

「じゅんび、うんどう……?」

「ああ。突然身体を動かしたら節々を痛めんだよ。だから色んなところを伸ばすんだ」

 ほほう、と興味深そうに頷いていつの間にか出てきたテルミの説明を真面目に聞く彼女。その健気な姿勢を微笑ましく思いつつ、そういう訳で、と前置きをしてテルミが、

「まずは屈伸からな」

 後に続け、そう言って膝に手を添え曲げ伸ばし。慌てて隣に立ったユリシアがそれを真似して。一通りそれが済めば腰を捻ったり伸ばしたり、座り込んで脚を大きく広げ上体を倒したりと。

 そこそこに汗を掻いた頃合いで終了、ふにゃりと笑うユリシアにテルミは、

「――んでよぉ。アレ……あぁ、鎌を出した時の事思い浮かべてみろ」

「おもいうかべる、ですか」

 まだ準備運動が終わっただけだから、本当はもう少し運動をさせた方が良いのかも知れない。けれど、彼にとっての一番の目的は彼女の能力の把握だ。

 まずはその時の状態を再現するのが良い。あの時は驚きばかりでまともに見ることすらできなかったし、改めて見てみよう――。だからテルミは思い浮かべろと、声をかけた。ふむ、と彼女は少し考えるように俯いてから首肯して、

「ん……」

 目をぎゅっと瞑って、その時の光景を思い出す。テルミが危険にさらされて、怖くて、傷ついて欲しくなくて。彼を守るのは、どんな形がいいだろう。傷つけるものを根こそぎ奪ってしまうような――。

 気付けば口は開き一言、呟いていた。

 すっと、瞼を持ち上げればそこには目を見開いたテルミが居た。思わず、手を確認する。そこには鎌があった。上手くいった。ならば、彼は何故そんな顔をしているのだ。

「な、なにか、よくないことでも」

 やってしまったのだろうか。問おうとして、テルミが首を横に振った。何でもない、と彼は言う。不安げに眉の尻を垂れ下げて首を傾ける少女。その頭に何かが乗る感触がして目を丸くする。テルミがポンと手を置いたのだ。くしゃり、彼女の前髪が少しだけ崩れる。

「――え、あ」

 人に、そうされる感触なんて。この短い記憶の中で初めてで、でも懐かしい感覚もないからきっと初めてなのだろう。

 その手が思ったより大きくて。それ以上に、何故彼がそんなことをしたのかが不思議で。彼はそっぽを向いていたからその表情は見えなかったけれど。でも、彼が何でもないと言うのならなんでもないのだろう、と彼女は結論付けてふわりと笑み、頷いた。

 テルミはちろり、と彼女を見て、それからそこに乗る自身の手を見て少しだけ驚いていた。慌てて手を引っ込めようとして、それじゃ不自然だと思いゆっくりと、平静を装い戻す。彼女の開かれる瞳には特に疑問の色は見えなくて、そこで動揺が気付かれていないことを知り安堵した。

 そして、彼女の手にある鎌を見つめながら、彼女がそれを顕現させた瞬間のことを思い出す。

 彼女の体が美しい蒼の光に覆われた。かと思えば、光は一点に集まり彼女の背後へ。それが吸い込まれるように消えた途端、そこの空間が歪み――鎖が現れる。それは彼女の近くまで作り上げられると、柄尻、柄、そして刃と生み出され、大鎌になったのだ。

 勿論彼女の手を通って。そこに、元からあったかのように収まった。目を瞠らざるを得ない光景だった。

「……創造か? あるいは……」

 ぽつぽつと呟くのは今の段階で予測でき得(う)る彼女の能力(チカラ)の正体だ。

 何もないところからそれを生み出すなんて、一体。長い時の中を生きて、初めて見るその力は何なのか。彼女は、本当に『――』なのだろうか。

 考えたって仕方無い。今答えを出そうとしても、出たものは全て憶測にしかならない。

「まぁいい。そうだな、取り敢えずは」

 せっかく武器を召喚させたのだ。なら、それを使ったトレーニングでもしてみるべきだろうか。彼女の目的は、テルミらに突っかかる敵へ対抗できるだけの力なのだから。

 でも、術式以外を他人に教えることなんてやったことがない。しかし素人である彼女の振りを捌ききれるだけの自信は――ある。それであれば。

「ユリシア」

 ――その鎌で、俺を攻撃してみろ。

 使えなければ意味はない。だから彼はそう語る。彼女の戸惑う顔が見えた。それもそうなのだろう。彼女は最初に、『テルミを守りたいと思ったら現れた』と言ったのだから。けれど、だからこそ彼女には割り切ってもらわなければいけない。

 大丈夫、自身は傷付くことなんてない。そう言ってやれば彼女は暫く悩んだ様子を見せた後――決心した。大きく頷き、

「わかりました、です」

 彼女は数歩、ゆっくりと後退る。地を蹴り、そして彼へと駆け、鎌を思い切り振り上げた。正直振りは遅く、避けることも可能だったがテルミは敢えてそれを避けずに抜いたナイフで受け止める。かかる力を横に流し――彼女の喉元に、突きつけた。

「もういっちょやってみろ」

 至極乱暴な教え方だとは、思う。でもそれしかテルミは知らなかったし、彼女も人に学ぶということが無かったから指摘することもなかった。

 ごくり、とユリシアが唾を飲み込む。そろりそろりとナイフからから離れ、もう一度。

 キィン、と音が鳴り響く。結果は同じだった。

 ――そうして攻防のようなものが繰り返され、へとへとになるほど動いて、汗で貼りつく服が鬱陶しい。多少攻撃の仕方を変えることができる程度にはなったが、全ての攻撃はやはり見切られ、テルミに弾かれていた。

 振り下ろせば引っかけ、横に流され。薙げば力で負けて弾かれるか後退されて掠めることすらできない。柄で突こうとしても、足を払おうとしても、何をしても。

 テルミを傷つけたくないが故に手加減しているわけではない。彼女は従順に、その持てる限りの力でテルミを攻撃していたのだけれど――。

「はっ、はぁ、はあ……っ」

 がくん、と上体を前に折って、膝に手を付く。取り落とした鎌は床に当たる直前で光の粒子になって消えた。まるであの時のように、そこには最初から何もなかったかというように。それと同時、やはり自身の中に何かが戻ってきたかのような満足感があった。

 扱いの上達は感じる。手の平を見つめた。

 ぎゅうと強く握りしめていたためか、汗ばんだ手は少しだけ白くなっていた。じわじわと血が戻ってきて、なんだかくすぐったい。だらりと垂れていた上体を起こした。

「――今日はこのくらいにしとくか」

 明日も、時間が取れたら。そう言ってぽん、とまたテルミはユリシアの頭に軽く手を乗せる。手汗をごしごしと服に擦りつけ拭って、彼女はその手に触れた。温かく、ふにりと柔らかい手の平だった。

 少女の手に比べ骨ばった大きな手に、小さなその手が添えられれば彼は目を見開く。

 別に気遣いだとかそういった念は含まれていないけれど、まぁ一回目と違ってそうすれば彼女は喜ぶかと少しだけ思って、そうした。そこまではいい。だが、彼女の手の感触は想定外で。

 柔なそれに包み込まれるのは、なんだか慣れなくて。今はまだ受け入れ難くて、テルミはその手をゆるく払って手を戻した。

 ユリシアが少しだけ困ったように笑うけれど、そんなことはお構いなしだ。

「戻んぞ」

 そう言って、彼は逆立った髪を撫でつける。途端、どういう仕組みなのかその鮮やかな緑色はさらりと下を向く。ハザマのお目見えだ。

「ああ、早く更衣室に戻って新しいシャツに着替えないと」

 汗臭い身体もシャワーで流して――。少しばかり顔を顰めながらハザマは隅に置いていたタオルで軽く身体を拭うと、ユリシアにぽいと投げつけた。

「わわっ」

 慌てながらもそれを受け取り、ユリシアはそのタオルで自身も汗を拭う。顔や、露出された背中、腕と順々に拭い、最後にそれを持ってへらり。

 それをしっかり見届ければ、彼は踵を返し部屋の外へ向けて歩きだす。たた、とその背を追いかけるユリシアがやがて隣に並ぶのを、そこに収まるのを意識する度に、未だ何をしているんだろうという思いがハザマとテルミを苛んだ。

 部屋を出れば、丁度マコトとツバキが隣の部屋から出てくるところだった。彼女らも一緒にスパーリングでもしていたのだろうか。談笑する少女らはハザマに気付くと、少しだけ驚いたように目を丸くした後、少しばかり顔を引き攣らせる。しかし、そこにユリシアが駆け寄れば二人はふっと微笑んだ。

「あら、ユリシア達も来ていたの」

「うん、そうなんだよね。んで、ユリシアちゃんたちも丁度終わったとこって感じ?」

「はいっ、そうです。まことさんと、つばきさんも……ですか?」

 首にかけたタオルで火照った顔を仰ぎながら、マコトが問えばユリシアは答え、問いをさらに返す。首肯するマコトの丸い耳がぴくり、と震えた。

 ユリシアの背後からハザマが悠々とした足取りで近付いてくるのが見えたからだ。

「おや、偶然ですねぇ。それで、結果の方は?」

「……いい運動になりましたよ、ハザマ大尉」

 マコトが少しだけむっとしているのは、ハザマが纏う嫌な雰囲気のせいだ。

 この上司はいつだって胡散臭くて、薄く見開いた金の瞳が少しだけ恐怖を煽るのだ。

 目を逸らして言うマコトにツバキとユリシアが眉尻を垂れさせながら首を傾けるが、どちらかが何かを言う前にハザマが開いていた目をいつも通り細めて、

「おやおや、随分と嫌われてますねぇ、私」

 と、両手を掲げてやれやれというようにハザマが口を開いた途端、皆が口を噤んだ。

 数秒の沈黙。それは何分にも何時間にも感じられた。確かに周りは話し声や動く音なんかで賑やかなはずなのに。

「おや、もうこんな時間ですか」

 その沈黙は、それを生み出した張本人であるハザマにより破られた。

 腕時計を確認してわざとらしく漏らされる声、行きますよとユリシアの手を引いてハザマは歩き出した。

「あ、えと、それじゃまた……ですっ」

 突然引っ張られてバランスを崩しつつもその体勢を立て直して、彼女は会釈をしながらハザマに着いていった。

 苦笑し手を振る二人は、ユリシアがハザマの方を向くと同時に顔を見合わせ、溜息を吐いた後笑い合った。

 

 

 

 廊下に光が落ちる。橙色の仄明るい光だ。床は光と窓枠の影で四角く切り取られて、その上を並んで踏み歩くユリシアとハザマは執務室に向かっていた。

 まだ諜報部のエリアまでは距離があるため人もまばらではあるが確かに居て、時折すれ違う度視線が刺さるのが少しだけ鬱陶しい。

 心なしか足取りは早くなるが、それでも健気に着いてくるユリシアを、立ち止まりちらりと振り返る。突然足を止める彼を見上げて首を傾ける少女だったが、見つめられていればやがてへにゃりと笑うのだ。

「今日、色々とやりましたが……どうでした?」

 少しばかり目的語を曖昧にして問う。きょとん、笑みからコロリと変わる彼女の表情は年相応の子供のようだ。そんな彼女があんな武器を取り出して、振って、と似合わない行いをした今日。その感想はどうなのだろうと気になったのだ。

「うーん、てるみさんが、すごーくつよくて。まだまだだなって、おもいました、です」

 すると彼女はそんなことを語る。そういうことを聞いたのではなかったけれど、彼女がそう語るならそれが彼女の感じた全てなのだろう。笑い、それがどうしたのかと問う少女。

「いえ、なんでもありませんよ。ただ、聞いてみただけです」

 くるり、また正面を向いて彼は言う。その表情は窺えなかったけれど、そこにある表情は無だけだったから見えなくて正解だったかもしれない。目深に黒い帽子を被って、ジャケットの裾を翻し彼はまた歩き出す。

 ――執務室に辿り着くと、彼は深く溜息を吐いてソファに座り込む。その長い脚を組んで、ポンポン、と自身の隣を叩いた。

 駆け寄るユリシアはぴょんと尻からソファに飛び乗って、子供らしく笑う。そんな彼女に特別感情を抱くわけでもなくて。ただ、初めて会った時から彼女は不思議だった。

 一緒に居ると、テルミと居るだけでは満たせなかったはずのものが消えるのだ。どうしようもない未知への興味が、足りない情報への興味が満たされる。

 レリウスが未知の領域に手を出したがるのも理解できる。それだけじゃない、これは最近になって気付いたが、彼女と居ると他人の気持ちが少しだけ分かる気がするのだ。

 だから彼女の事は嫌いではないし、寧ろ好きな方だけれど。きっと誰が見ても可愛いと思うのだろう彼女のことを、見た目以上に可愛らしいと思うことはなかった。

 ユリシアはにこにこと何が楽しいのか笑んだままハザマを見つめていた。

「はざまさん。てるみさんも。きょうは、ありがとうございました、です」

 改まって彼女が礼を述べる。そういえば礼を言っていなかったことを思い出したからだ。その笑顔と礼に適当に返事をして、また気が向いたら明日も。先ほども言ったその台詞を吐いてやれば彼女は頷いた。

 余程勝てないのが悔しかった――というわけではなさそうで、寧ろ楽しそうに見えたのは、テルミらとの時間だったからなのか、それとも自身が大切な人を『護れる』日に近付くと信じて止まないからか。

「シャワー、浴びるか」

 ぽつり、テルミがそう零せば彼女は従順に頷いた。汗を拭くだけじゃ気持ち悪いから。

 

 彼女は安らかな寝息を立てていた。シャワーを浴びて、ベビードールを着て髪を一生懸命ドライヤーで乾かして、そこで今日の疲れがどっしり出てきたのだろう。すぐにベッドへ向かい眠ってしまった。

 普段ならどんなにハザマの仕事が残っていようとハザマかテルミが来るまで待っていて、消灯してやっと眠るのに。

 だけれど彼女は今日ばかりはすぐに寝てしまって、広がる金髪は照明にキラキラと照らされていた。部屋はまだ明るい。ユリシアに合わせてテルミも寝る――なんてことはなく、結局残していた書類を片付けていた。

 空は少しだけ暗くなり始めたが、未だ明るい。まだ夕飯も摂っていないのに、彼女は。

 暫しして、溜息と共に羽ペンをペン立てに戻して、立ち上がる。書類が全て終わったのだ。彼は封筒に書類を全て纏めて入れるとユリシアをちらりと見遣った。

「……今日の夕飯は抜きですか」

 自身で作る気力も起きない。昔は飯を抜くこともよくあったから別に一食程度構わない。けれど、何故だか彼女の作る夕飯を楽しみにしている自身が居たことに気付いてしまって、また、深く溜息を吐いた。

 引き出しに封筒を仕舞って、ベストとシャツを脱いだ。シャツをごみ箱に放り捨てて、彼はスラックスを脱ぐとベストと共にクローゼットの中に仕舞った。

 そうして下着だけになって、やっと彼はベッドに寝る。シーツを被り、目を伏せた。

 

 

 

 夢を見ていた。意識ははっきりとしているけれど、彼女が見ているのは夢だった。

 蒼い光がぼんやりと、しかし確かに目の前に存在するのだ。ふわりふわりと浮くそれは同じ蒼色の光で出来た粒子や薄絹(うすぎぬ)のようなものを纏い空中に鎮座している。

 その周りは、闇だ。

 とても幻想的で、触れたくなって――でも、近くにあるはずなのに手を伸ばそうとしてもまだ届かない気がして。だからといって、それ以上に歩み寄って近付いても今は絶対に届かない気もして。

 それに、なんだかまだ触れてはいけない気持ちになって……伸ばそうとした手を引っ込めた。青白い光を受ける白い腕と、手を見つめる。力なんてものは一切感じられない、小さくて細い手。再度、目の前に鎮座する大きな光を見つめた。けれど、それは本来より小さいような気になった。そんなの、見たのは初めてなのに。

 蒼い光が、彼女の双眸に映り込む。そういえば、彼はどうしているだろう。

 ご飯を作り忘れたのを怒っていないだろうか、ちゃんと眠っているだろうか。

 帰らなくては、そう思って彼女は光に背を向けた。一度だけ振り返った後、歩き出す。帰る方法なんて分からないけれど、きっとこっちな気がして。

 暫く歩き進め、振り返る。先ほどの光は随分と小さく見えるから、結構歩いたのだろう。疲れて一度立ち止まり、目を伏せる。

 あぁ、呼ばれている気がする。

「――」

 名前を、あの人がつけてくれた愛しい名前を。

「――シア」

 呼ばれている、行かなくては。

 最後にそう思った途端、ずるりと水底から引き上げられるような感覚がして――。

「ユリシア、起きろ」

「ぁ、おはようございます、です」

 ユリシアの意識は浮上する。寝ぼけ眼を擦って横を見れば肩に触れるテルミ。長いこと眠ってしまっていたのだろうか、呆れとも怒りとも見える釈然としない表情をテルミは浮かべていた。苦笑する。

「おはようじゃねぇよ、何時だと思ってんだ。珍しく起きなくてどれだけ困ったと思ってんだ」

 そんな呑気に笑う彼女に余計苛立ったのか、テルミは元から目つきの悪い目を更に吊り上げて言い放つ。しかし謝れば、まぁいいとテルミは立ち上がり彼女に背を向けて、

「さっさと着替えて準備しろ。今日もやるんだろ。の前に昼飯な」

「あ、はい、です」

 やる、というのは昨日と同じ模擬戦のようなもの……だろう。シーツの端を握って身体から剥ぎながら上半身を起こす。

 くるり、と身体を回転させ靴に足をはめ込み立ち上がる。そのまま服を着替えてネグリジェを洗濯機の方へ。タタタ、と駆けて戻れば急いで冷蔵庫の中身を確認して調理を始めて。

 昼飯ということはもう昼かと時計を見遣れば針は丁度天を指しているのだから、やってしまったと彼女は苦い顔をした。

 それにしても、不思議な夢を見た気がする。今まで夢というものを見たことがない彼女にとっては、それはもう。

 だから彼女は炊飯器を開けてちょっとだけ驚きながら、テルミの方を見た。

「てるみさん」

「んだよ」

「ごはん、たいてくれた、ですね。ありがとうございますです」

 へらりと笑って彼女が言えば足を組んで座っていたテルミがそっぽを向いて別に、だなんてぼそぼそと零すのだ。それに小首を傾げながらも彼女は本題を切り出す。

「その、ねてるときに、たしかにねてるはずなのに、いしきがあったんです。あれって、なんていうんでしょう」

「――夢、かね」

 テルミは一人で飯を作ることもできた。一人暮らしの経験なら暗黒大戦時代に散々経験したし、簡単な料理なら作られるし、ご飯を炊くのだってなんのその。

 だけれど米を炊くだけで後は何もしなかったのは彼女の飯を楽しみにしている自分が居たからだ。今日は何を作るんだろうか、美味いといい、だとか。

 そんな自身をらしくないとハザマにからかわれていたのを無視しながら、問いに答える彼。その『夢』という言葉を彼女は復唱して、ふむむ、と声を漏らす。

 バターをひと欠片、火にかけたフライパンに落とす。じゅわりと溶ける黄色い塊を、フライパンを傾けて広げていって。そこに小さくちぎったレタスを投入して、ジュウジュウと弾ける音を楽しみながら軽く炒める。玉子をボウルに割って解きほぐし、大きめの器に入れたご飯へ半分ほど。それを混ぜてやると、炒める時にパラパラになるのだ。

「そう、夢。脳が見た記憶を整理しているときに見るとか、まぁそんな感じだ」

 人差し指を立ててテルミが語れば彼女はそれに興味深そうに頷きながら、彼女は卵を混ぜたご飯をフライパンに投入して。さらに音が強くなるが構わず炒め続ける。

「でも、わたし、あんなけしき、みたことない、はずです」

「……さぁ、忘れる以前の記憶なんじゃねえの」

 適当に言ってのけるテルミ、その顔をちらりと振り向いた後ユリシアはちょっとだけ間を開けて、ぽつりと漏らした。

「まっくらななか、あおーいひかりが、ういてるだなんて。みたことないです」

 いい感じにご飯が炒められたら残りの卵を投入。かき混ぜ、塩コショウ。さらに軽く混ぜて、炒飯の完成だ。

「できました、です」

「あぁ。――んなことより、夢の話。もっと詳しく聞かせろ」

 まさか、そんなはずは。と思いながらもテルミは彼女の語る夢が気になってそう言わずにはいられなかった。平静は装っていたけれど。

 二人分の皿に炒飯を盛り付けながら彼女はテルミの台詞に逆らうでもなく、ただちょっとだけ不思議そうに眼をぱちくりと瞬いてから首肯すると。

「えぇと、くわしく、といっても、さっき言ったのがほとんど……ですが」

 その蒼い光に吸い込まれるような感じがして、触れそうになった。だけれど、それに触れたら一生もうテルミさん達に会えないような気がして触れずにひたすら背を向けて歩いていたのだと。

 テルミが、はぁ、と声を漏らす。

「ふーん……蒼い光、ね」

 暗い闇の中に鎮座する蒼い光。吸い込まれそうな感じがした、だなんて。もしかしたら、本当に彼女が言う通り、触れてしまえば彼女は消えてしまったような気がして。

 それであればせっかく考えた彼女を組み込む『計画』が台無しだ。否、彼女の存在すら忘れてしまったのかもしれない。そんな気になって、

「ま、よく分からねぇが、触れなくて良かったんじゃねぇの」

 と返す他できなかった。運ばれ、目の前に置かれる遅めの昼食を食べながら彼は、改めて彼女の正体を知りたがった。

 蒼に、どんな関係があるのか、と。

 

 



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第四章 敬藍の夜

 汗を拭くためのタオルを首にひっかけ、ハザマはペットボトルのミネラルウォーターを飲み干す。くしゃり、と他の飲料のものより柔に作られているそれを潰して更衣室の隅にあるごみ箱へ放り投げれば、がこん、と音がして見事にホールインワン。

 はぁ、と溜息を吐いて、ハザマは人のまばらな更衣室でぽつりと呟いた。

「にしても……あれは驚きましたねぇ。ね、テルミさん」

 己の内側に宿る精神体に小さな声で語りかければ彼は首を縦に振る。否、実際にはハザマにそう見えただけで肉体を同じとする彼は振ってはいないのだが。

 あれというのは、最近では日課になったトレーニングでの出来事だ。丁度、テルミも乱暴な教え方なりに彼女がそれで着実に力を身に着けているのを感じて喜びをおぼえていたときだった。

 彼女が、鎌以外のものを現したのだ。きっと、それもできるのではと薄々感じてはいたが、まさか本当にできるなんて。鎌を召喚するだけならただの武器の召喚に過ぎないかもしれないが、他があるならもしかしたら。

 彼女が鎌を薙いで、それを少し後退して背をナイフで受け流す。しかし今度はそのまま押し付けて来るのだから少しムキになって押し返そうとしたとき――。

 ふと、視界の端に捉えらえたのは彼女の背後から迫る刃だ。彼女も攻撃を当てようと夢中になっていたのだろう。そうして現れた刃はテルミへ一直線。後退しようにもいつの間にか後ろは壁。

 危機を感じ目を瞑ったが、何時まで経っても衝撃は来ず、目を開ければすんでのところで止まっていた。そして、震えたかと思えばパン、と弾けて粒子状になり消えた。

 それもそうだろう。彼女はテルミを『守りたい』がためにこうやって練習をしているのだ。当てるはずがない。けれど、それよりも、彼女が別の手を出せるようになっていたことにテルミは驚いていた。

 思い出しても、あの光景はなかなかにスリルがあった。

「……それにしても、夕飯。どうしましょうかねぇ」

 すっかり夢中になって、いつの間にかとっぷりと日が暮れていて。今から戻って作って、でも充分待つことはできるのだが。今からご飯を炊くとなると些か遅い気もする。腕時計を見た。

「……たまには」

 ぽつり、とハザマが呟いた声は着替えに戻ってきた他の衛士の声にかき消された。

 たまには彼女を連れて外食も良いかもしれない、なんて至極くだらない台詞だったけれど。彼は今日出したばかりでまだ真新しいワイシャツの上に、スーツのジャケットを羽織って更衣室を出た。すれば彼女は廊下の、更衣室がある側の壁に凭れて待っていた。首にかけたタオルでぱたぱたと顔を仰ぎながら床を見つめていた彼女は、ハザマに気付くと小さくあっと声をあげて頬を緩ませる。

「えへへ、きがえおわった、ですね」

「ええ、ご覧の通りに」

 どこにも変なところはないのを分かっていながら問うハザマに、頷くユリシア。そこでふと、彼女は首を傾ける。

「あの、いまって、なんじですか」

「午後の七時ですね」

 腕時計をまたチラリと見遣った後、ハザマがそう言えばユリシアは目を丸くした。もう、そんな時間になっていただなんて、と。

「えっと、それじゃ……その」

 ご飯を炊くには少し遅い気がする。別に自分は待っても構わないけれど、相手を待たせるなんて。そう思いながら、それなら事前に予約をしてくればよかったと彼女は悔しげな表情を見せる。

「そうですね、確かに夕飯を作り始めるには遅いですね」

 それを彼は否定もしないし、寧ろ肯定してみせた。けれど、「ですが」と繋げて彼は人差し指を立てにこやかに微笑む。

「ですから、今日は外食にしようと思いまして」

 別に、統制機構内の食堂でも充分ではあったが、機構外の店を漁ってみるのもいいかもしれないと思ったのだ。

 少しばかり腰を曲げて彼女を見下ろしながら彼が言う台詞に彼女は首を先とは反対に捻った。

「がい、しょく……ですか?」

 外食。そんなの聞いたのも初めてだし、どういう意味なのか知らなかったから。

 あぁ、と頷いてハザマは、内心ではそんなことも知らないのかと思いながら口を開く。

 ここ以外、要は住む場所以外で食べる飯だと彼は語る。辞書では『家庭外』と定義されているがきっと、各々事情があって家庭を持たない彼らにとってはこの統制機構が住む場所のようなものだから――。

「なるほど、おそとで……ですか」

 唇の下に軽く握った片手の人差し指を添えて彼女は考えるように僅かばかり俯く。別に拒否する内容でもないと思うが、彼女なりに情報を整理したいのだろう。

 人目に付きやすい廊下ではあったが、今更だから彼は彼女の答えを静かに待った。そうして答えが出るのは案外早く、

「いいですね、がいしょく」

 と、にこやかに微笑み彼女が顔を上げる。ハザマも頷けば、じゃあ行きましょうかとくるり踵を返して歩き出した。風呂は帰ってきてから少し急ぎめに入ればいい。

 ぱたぱた、と追いかけるユリシアを尻目に彼は廊下を歩く。その速度は彼女に合わせるかのようにいつもよりゆっくりだった。ハザマはそれに気付いていて、もっと早く歩こうと試みるがしかし思うように体が動かない。その抵抗感に、じわりと胸に広がる苛立ちのような感情にハザマはやがて気付く。

 苛立つことなんてないはずなのに、胸の内に撒き散らされるその感情は。

「――テルミさん」

 はぁ、と溜息を吐いた。ここの所、彼が出ることが多い気がする。自身は彼の道具として作られたのだからそれは別にいい。寧ろ使ってもらえるのは嬉しいことで、色んなことを共有できるのは幸せであるとも思っている。寧ろ、拒絶なんてされようものならどうにかなってしまいそうなほどに。

 だけれど、こうやって何も言わずにそうされるのは、思考の共有をさせないまま負の感情を内にぶちまけられるのは勘弁だった。呆れたように彼がもう一人の自身の名を呼ぶ。声を出す必要はないのだが、つい出してしまった。

 途端、内側から脳に直接響く情報に思わずくらりと眩暈に襲われる。『あまり距離を開けるな』だなんて。何故、そんなことを言うんだろう。思考をあえて読めるようにしてやっても答えは返ってこない。思考の共有を拒絶された。ただただ釈然としない気持ちだけが胸の中を渦巻いていた。

 はぁ、と深く溜息を吐いて器用にも未だ自身の意思とは関係なしにゆったり動かされる足を見つめる。

「何か、食べたいものってありますか」

 気を紛らわすように彼はユリシアへ、振り返らないまま問う。彼女の唸る声がして、何でもいいと返す。彼女は好き嫌いがない。否、正確にはそれだけ食べたモノの種類が少ないから何とも言えないのだが。

 それなら適当に気になった店に入るのがいいか、と思いながら警備に配置された衛士に一言ご苦労様と挨拶をし、それに続けるように彼女も小さな声で「おつかれさまです」と言って、二人は統制機構を出た。

 色んな種類や形の店を構える中層部の夜は、きらきらとネオンサインの光で眩しいほどに輝いていて、昼とはまた違った景色が見られる。

 カグツチの上層部、特に統制機構周辺は街灯の類が殆ど設けられていない。警備強化のためにも早急に用意せねば上層部に住む貴族らからも苦情が出かねないというのになかなか取り付けにも着手できていない。

 そのため統制機構の窓から見る星空の景色を気に入っている衛士も少なくないらしいし、衛士でないユリシアも例に漏れないわけだがそれは優先するに値しない事項だ。

 そんな至極どうでもいいことを思い出しつつ、何となく適当なラーメン店の戸に手をかけ体を滑り込ませようとすれば抵抗はない。テルミもそこで文句はないらしい。

「きょうは、ここでたべる、ですか」

 ハザマに着いて行くように店に入ったユリシアがきょろりきょろり、と店内を見回しそう零すと彼は「ええ」と頷いて、駆けて来る店員を見る。

 何名ですか、二人です。そんなかけ合いをした後に彼はユリシアを振り返って手招きを一度。店員に案内されるままカウンターへ。

 高めに作られた椅子へよじ登り腰かけ、カウンターの内側を見る。忙(せわ)しなく料理で動く人達が、複数。こんなに沢山の人が、料理をしているのか。

「ほら、テメェもさっさと決めろ」

 つんつん、と小突いてくるのはテルミ。見ればラミネートされた、絵と文字の並ぶ紙だった。

 きょとりと首を傾けると、テルミは深く深く溜息を吐いて、

「メニューだよメニュー。ここに書いてあるものから好きなモン頼むんだよ。ま、お子様ラーメンでいいだろテメェは」

 と気怠げにそう語ってひらひらとメニューを振った後、その中の一点を指差す。そこに出されていた写真は、他の写真のものより小さく、また可愛らしい絵が隣に描かれていた。お子様、というのはよく分からないが、ユリシアのようにあまり食べられない人向けに作られたのだろうかと考える。

「じゃあ、それで」

 下手に分からないまま何かを頼むより彼が言った通りにするのが無難だろうと考えて彼女は彼が指差すところを同じように指差して頷いた。彼を見れば短く相槌を打って、先ほどから忙しく動き回る一人を、手を掲げて呼んだ。

「豚骨と、このお子様ラーメン一つずつ」

「分かりました、ただいまお持ちいたしますので少々お待ちくださいませ」

 そう言って駆けていく店員、暫しして運ばれてくるのは先ほどのメニューに印刷されていた写真そっくりのものだ。

 テルミに渡された器のものは、液体の上にたっぷりと油が浮いているのが特徴的で、彼女の比較的小ぶりの器には茶色い液とたっぷりの野菜。

「これが、らーめん……ですか」

 初めて見るその料理に目を丸くしてじっくりと観察するユリシア。その姿が少し面白かったのか、ぷぷ、と小さく吹きだすテルミだったが、やがて冷めてしまうぞと言って割り箸をぱきん、と二つに割った。

 器用に箸を使って麺を引っかけ、持ち上げる。息を数度吹きかけ――口へ。ずず、と啜る音が響く。麺が躍る。

 それを見つめ、ユリシアも同じように割り箸を持って麺を持ち上げ口に運んだ。

「あちち」

 たまらず麺を噛み切って、はふはふと口の中で麺を冷ますように息をする少女を見てテルミは苦笑を浮かべた。滑稽だし、何ともまぁ子供らしい。

「食べる前に息を吹きかけて冷まさねぇから……」

「うぐ……」

 悔しそうに彼女が唸る。差し出される水の入ったカップを取り、一気に飲み干した。口の中が冷めた頃合いでもう一口。箸を何度も往復させ、黄色い麺を口へ運ぶ少女。

 それにちっち、と指を振りながらテルミは首もゆるゆると振った。

「こう食べるんだよ」

 そう言って、また麺を口元へ運ぶと、ずるると思い切り啜った。

 目を丸くする少女。今まで、麺料理自体食べたことが少なかったが、啜ったことなんてなくて。

「えと、こうする、ですか」

 二口目のを飲み込んだ後、真似して吸うが上手くいかない。ううん、と四苦八苦する少女を微笑ましく見る隣の知らぬ人とテルミ。

 それでも、何度かやっていればやがてできるようになって、頷くテルミが首を傾けた。

「んで、味の方はどうよ」

「……はじめて、たべました、ですが、しょうじきな、かんそう」

 そこで言葉を区切る。見守っていた隣の中年男性がじ、と見てくる視線を感じながら彼女は、俯いた。テルミが何か言おうとする。しかしすぐに顔を上げて、

「とっても、おいしいですっ」

 きらきら。瞳を輝かせ、頬を興奮に赤く染め、彼女は笑いそう告げた。ほ、と安心するテルミが居て、

「んなら良いわ」

 ふっと微笑んでテルミは器に顔を向ける。器の中に置いてあったレンゲでスープを掬い取り、ずずと啜る。飲み下し、息を吐いた。

 その様子も、彼女は真似する。ついで野菜もつまんで、しゃきしゃき感が残るそれも口へ。咀嚼、飲み込み、胃へ収める。

 そうしていればあっという間に食べ終わり、代金を払って店を出た。

 ふふ、と楽しそうに微笑む少女に時折視線を投げながら、歩き出そうとすると視線を感じ、前を見る。

「――なんでこのタイミングで」

 目の前のうどん店から丁度出てきたばかりの、死神が居た。彼もこちらに気付いたようで、滑稽なほどに目を皿のようにしていた。

 どうにもタイミングが良すぎる。そう思いながら、テルミは取り敢えずは無視しようと横を向く。普段なら煽ってからかって適度に自身を危険に晒しつつも打ちのめしてまた次を、というところなのだが。

 彼女がいくらある程度身を守れるようになったり能力をコントロールできるようになっても、だからこそ下手に出られては困るのだ。

 佇んだままの彼に首を傾げる少女は幸運にも彼に気付いていないようで、テルミは何事もなかったかのように歩き出すのだが。

 空を裂いて、駆けてくる気配があった。やはり簡単には逃れられない。彼がそう簡単に逃がしてくれるとは思えなかった。

 生憎、今はスーツだ。いくらテルミになった途端、ハザマを知っている人物でも気付けないほど雰囲気が変わるとはいえ。これを他の衛士にでも見られようものなら――。

 頭を抱えながら、テルミは懐からナイフを抜いて回し刃を露出させると、それを添えて攻撃を受け流す。

「まーた来たのか子犬ちゃん!」

「黙れ、テメェはここで……ッ」

 疲れてはいるが、平静を装って、いつも通り相手を煽るような口ぶりでテルミはラグナに対峙した。睨み付けてくる視線が愛おしい。憎悪を感じる度、強く認識されるほど、彼は強くなるのだから。

 大剣を構え直し、ラグナが振りかぶる。迎撃の準備をしようとしたところで――ふと、金の糸が視界を掠めた。ネオン街、野次が周囲を取り囲み、一つのバトルフィールドと化している。そこで、鳴り響く金属音。テルミのナイフによるものではなかった。

「また、あなた、ですか……っ」

 銀色に輝く大鎌を持った少女と、ラグナの大剣がぶつかった音であった。

 ぐぐ、と押し合う両者。しかしラグナの目は驚きに見開かれていた。

 何故この少女がこんな武器をだとか、どこからだとか、また居ただとか。思うところは色々あったに違いない。だからか、力が緩んでしまっていた。

 その隙に彼女が鎌を押してラグナの剣を振り払い、薙ぐ。ひゅん、と空気を裂くような音がし、次いで慌てて構え直したラグナがそれを受け止める。彼女が受け止められた鎌を引き、更に攻撃をしようと振りかぶったところで――かけられるのは女性の声だ。

「――今はまだ駄目よ、ラグナ」

 それはテルミにとって忌々しい声だ。ふわりと降り立つ少女、ユリシアもラグナも、その人物に視線を奪われる。レイチェルだった。

「どういう意味だよ」

 ラグナが、先のレイチェルの言葉に問いを投げる。しかしそれを彼女は無視して、目を伏せる。

「オイオイ、何の用だよクソ吸血鬼さんよぉ」

 そんなレイチェルに煽るように声をかけつつも、テルミはどこかで安心していた。ラグナを止めに来たのだろう、それなら彼女が戦闘をすることも避けられる。

 胸の内で、愉快な感情が滲みだす。ここでテルミが愉快に思うことなんて一切ないのに。寧ろ不愉快に不愉快を重ねているほどだ。

 胸の内でハザマに問いかければ彼はくすくすと笑って、

『いえね、テルミさんが彼女を心配するなんてらしくないと思ったらつい』

 空気を震わせないその声は笑いが混じった震えているものだった。からかうようにそう告げるハザマに苛立ちを隠さず、一つ舌を打ってテルミは目前を睨んだ。

 そこでは彼女の言葉にラグナが首を傾けていて、それを見てテルミは口を開く。

「さっさとラグナちゃん連れて帰ってくんねぇか? 俺様、チョウゼツ忙しいんだよ」

 別に忙しいなんて言えるほど仕事もない。あとは帰って風呂に入って寝るだけだ。けれど、今彼女を下手にラグナ達に干渉させたくはないし、そこで怪我でもされようものなら後が面倒臭い。否、ラグナが女子供にすすんで手を上げるような人物とは思えないけれど。だが、それでもだ。

 三人の視線が、一斉にテルミへ集まる。吸血鬼は口元をたっぷりとした袖で隠し誰にも聞こえないような小さな声で何かを呟くが、やがて溜息を吐いて、首をゆるりと振り後ろに振り返った。

「貴方の言葉に従うのはこれ以上ないほど屈辱的だけれど、いいわ。私も今このお馬鹿さんを傷つけさせるわけにはいかないもの」

 彼女が語る。馬鹿、と呼ばれてラグナは一瞬抗議しそうになったがそういう空気でないということを察するだけの脳はあったようで、ぐっと堪えて口を噤む。テルミも、それに対してレイチェルには素直なのだな、などとからかおうとしたのを止める。

 レイチェルがラグナの手を取り、引っ張る。そんなに力はないはずだけれど、突然の事にラグナはよろめいた。しかしすぐに体勢を立て直し、素直に彼女に着いた。

「ほら、そろそろ追手がおいでよ。さっさとお逃げなさいな」

 そう言って彼女が指を差した方向には青い制服が。ラグナはテルミを攻撃したい気持ちを必死に抑え、彼がどこにも危害を加える意思がないことを信じて――走っていく。

 一陣の風が吹く。濃い薔薇の香りを纏った風だ。その風は渦を巻いてレイチェルを取り囲み、やがて彼女らの足元に薔薇を模ったような、紅い魔法陣が浮かび上がると、暫しして――彼女は、すっと姿を消した。

 直前、彼女が口を開いてテルミを見、言い残す。

「それにしてもその子、随分と怖い技を身に着けたようね」

 そこには何も残らない。まるで何も居なかったかのように。薔薇の香りすら嘘のように――。ユリシアは、何がなんだか、事情がよく飲み込めていなくて。たた、とテルミに駆け寄った。

「どこにもけが、ないですか。えと、いまのは、なんだった、でしょうか」

「怪我はねぇよ。――あとはまぁ、知らなくてもいい」

 少しばかりまくしたてるような口ぶりで問う彼女をテルミは見下ろし、首を横に振った。知らなくてもいい、彼女はまだ。アレを引きずり下ろした時にさえ役立ってくれればいいだけなのだから。

「けが、ないなら、よかった、です」

 隠す彼に、またか。そう思いながらも少女は笑みを浮かべることしかできなかった。安心したようにほっと息を吐いて、へにゃっと笑った彼女は、それじゃあ帰りましょうか、と言ってテルミの隣に収まった。

「あぁ、そうだな」

 歩き出すテルミ、それに合わせるように彼女もゆっくりと足を前に出す。そんな彼女の背中に手を回し、テルミは口を開いた。

「にしても、よく頑張ったじゃねぇか」

 そう言うのは、彼女が先ほどラグナに立ち向かったことについてだ。

 別にそこまで思っていなかったけれど、よく対応できたとか、勇気を出せたなだとか、そういった意図を込めて背に触れた手を持ち上げ頭に置く。わしゃ、と撫でてやれば彼女は嬉しそうに、しかし若干慌てたように、わわ、と声をあげて頭の手を抑える。

 少しだけ、髪が乱れてしまっていたのだ。だがテルミはそれを悪びれる様子もなくふんと鼻で笑うだけで、そこからだんまりだ。

 さっさっと髪を払って乱れた髪を少しだけ直し、ユリシアはむぅと頬を膨らませる。

「もう、てるみさんは、いじわるです」

「んなことねぇだろ」

 そんな会話を、楽しんでいるところがあることに気付いて、テルミはふと表情を無に変えた。顰められる顔、自身すら辟易した。彼女は道具であるはずなのに。

 いくら彼女が道具であるとして、道具との会話を楽しむことは悪いことではないはずだが、それでも彼は自身が彼女を求めている節があることに気付けば気分を悪くした。

 

 

 

「チッ……なんなんだよ」

 風呂もまだ入っていない状態で、彼は服を着たままベッドに思い切り倒れ込む。ぼふり、と音がしてユリシアが綺麗に敷いたシーツには皺(しわ)が刻まれていく。

 これじゃ汚くて寝られない、とハザマがぼやくが今のテルミにはそんなこと関係なかった。寝返りを打ち、真っ白な天井を見上げる。一人になりたかった。愛なんてくだらないものは確かに生まれていないし、これからも生まれるはずはない。

 けれど、彼女と居て楽しく感じたり、彼女を求めたり。彼女は蒼を、純粋な蒼を持っていて、求めるのは至極当然だけれど少女の形をしているから。

「――なんなんだよ」

 ぽつり、とまたそう零した。これだけの事象を、時を生きてきて一度も精神だけはブレたことがないというのに。彼女と居るとやけに安心して、落ち着いて。それでも最初は『道具』以上の感想がなかったのに、最近はどうだ。どんどん距離が近くなって。

 深く深く溜息を吐いて、彼は目を伏せる。彼女と一緒に居たいと思うことは一度もなかったけれど、彼女はどうしているかと気になってしまうところがあった。

 横に顔を向け、目を少しだけ開ける。すれば、彼女の姿はどこにもない。何故だ。少しだけ慌てて、彼は飛び起きる。

「おい、ユリシア」

 軽く呼び、取り敢えず部屋を見回す。居ない。壁とくっついた本棚の一つにツカツカと歩み寄り、手をかけ一冊の本を引っ張れば本棚が横にずれる。

「ユリシア」

「はい、なんでしょうか」

 きょとり、と首を傾けて彼女から呑気に返事が返ってくる。どれだけ焦ったと思っているのだ、この少女は。内心で毒づき、テルミは目を丸くする少女まで歩み寄る。タオルやバスマットなどの準備をしている彼女を見下ろし、

「今日は一人で入れ」

 だなんて。それは先の、自身のどうにもできない気持ちからの八つ当たりも混じっていたけれど。え、と間抜けな声をあげる少女。揺れる海のような蒼い瞳は戸惑いと悲しみとその他の感情が複雑に入り混じっていて、そこからぱっとテルミは目を逸らす。

 ちろり、と横目に見遣れば震える彼女の唇。

「わかり、ました……です」

 きっと彼女は意味が分からないことだろう。風呂の準備をしていたら、唐突に不機嫌そうなテルミに酷な命令をされたのだから。けれど健気に頷いて彼女は彼の言う通りにしようとするのだ。それが尚更、彼の中で疑問を渦巻かせて。

 短く、ああと頷いてテルミは部屋を出た。隠し扉の本棚がぎぎ、と音を立てて閉まるのをユリシアは見つめ、少し寂しそうに笑みを浮かべていた。

 髪を解き、服を脱いで裸になる。洗濯機に脱いだワンピースを放り込み、タオルを持って浴室へ。温かなシャワーで体を軽く流し、張った湯に肩まで浸かる。ずぶずぶ、と沈んでいく。肩を通り越して、首、顎、口。息を吐けばぶくぶくと泡が立って、やがて苦しくなる。顔を上げ、思い切り息を吸う。

 何故、彼は唐突にあんなことを言ったんだろう。甘え過ぎたんだろうか。それとも、何か悪いことをしてしまっただろうか。

 彼女は悩む。悩んで悩んで、思考の海に沈んでいき――。

「おいおい」

 気付けば、彼女は眠ってしまっていた。扉越しに声がかかるも返事はなく、浴室の扉が開かれテルミが入ってくる。やはり彼女が心配になって来たわけだが、目を閉じ寝息を立てる少女が口許まで浸かっているのを見ると、焦った様子で近寄る。

 袖を捲って腕を浴槽に突っ込み、彼女の肩を揺らせば、彼女は瞼を震わせ、ゆっくりと目を開ける。

「あれ……てるみ、さん?」

「あれ、じゃねぇよ。何寝てんだ」

 眉を吊り上げて、彼はユリシアを鋭く睨み付けた。しかし、きょとりと眠たそうな目を瞬かせる少女のどこにも異常がないのを確認してほっと溜息を吐く。

「……やっぱ俺も入るわ」

 そう言って一度浴室を出て、ネクタイを外した後シャツやベストを脱ぐ。戸を開けっ放しで少し寒いとユリシアは感じていたが、彼を怒らせてしまうのが嫌で彼女はそれすら言えなかった。ぱしゃり、と湯を肩にかける。

 テルミが腕を伸ばし、彼女の髪を洗っていく。ハザマはどうぞごゆっくりとからかうようにだけ言って、器のくせに内に引き籠ってしまったからだ。

 だからテルミが仕方なくやっているわけだが、いつも同じ肉体がやっているくせに少しだけ手つきが乱暴になってしまう。それは彼らしいこと、として彼女は何も言わなかったけれど。そろり、とユリシアが頭に手を伸ばす。

「なんだ、自分でやんのか」

 いつもなら大人しくされているだけの彼女が珍しく行動を起こしたから、彼は問う。頷く少女。本当に弱く、恐る恐るだったけれど、頭に指を立てて頭皮を擦る。少しだけやって、すぐに手を離したのだが。

「や、やっぱ、こわい……です」

 目をぎゅっと瞑って彼女はふるふると首を横に振った。仕方ない、と溜息を吐いてテルミが手の動きを再開すると、ふと彼女が口を開いた。

「あの」

「なんだよ」

 テルミが問い返せば、黙り込んでしまう彼女。声をかけておいて何なんだ、とテルミが舌打ちすれば慌てて彼女は話を切り出す。

「その、おこってます、ですか」

「なんでだよ」

 少女が問い、テルミが少しばかり不機嫌そうに、そして意外だとばかりに問う。確かに苛立ちを隠そうとはしていなかったが、そこまで出ていただろうか。否、出ていたか。流石にアレはない。と先の自身の言動を振り返り、溜息を吐いた。

「なに、ちっと悩んでただけだ。気にすんじゃねぇ」

 そう言って、彼女が何かを言う前に冷たいシャワーを一瞬かけてやれば、ひっと声をあげて跳ねる体。悪い悪い、そう言って温かく設定してからシャワーを髪にそっとかけてやり、泡を少しずつ流していく。

「――きょうは、なんだか、つかれちゃいました、ですね」

「あぁ、そうだな。さっさと上がって寝てぇ」

 ふふ、と笑って言う彼女に、ぼやくテルミ。ぼーっとしながら、リンスを済ませ、背中を洗い洗われ。

「てるみさん、おやすみなさい、です」

 短く相槌を打って、髪を乾かし着替えた後はベッドに寝て、彼女らは目を伏せる。敬愛するテルミの背にそっと触れて、ユリシアは幸せそうに眠った。

 片目だけを薄く開けて、テルミはそんな少女の寝顔を見つめる。沈黙、時計の針の音と規則正しい寝息だけが部屋に響く。溜息。

 『蒼』が願えば、アマテラスくらい簡単に引きずり下ろせるはずなのだが。

 彼女に、いつ伝えるべきか。どうやってこの世界の事を教えてやるか。彼女がいつ自身の正体を理解するのか、そもそも彼女の正体がテルミ自身あまり分かっていなかったけれど、疑問ばかりが渦巻いていた。

 『蒼』はそんなテルミ達をただただ見下ろし、見つめていた。自身の片割れのこれからを楽しみにするかのように。寄り添う誰かも、『蒼』に従うのだ。

 

 

 

「ん、ふわぁ……」

 体を起こして、大きな欠伸を一つ。隣に眠る、敬愛する人物の寝顔を覗き見た。前はずっと背中を向けられていたけれど、ここの所テルミ達は寝返りを打っているのか少女の方を向いていることが多い。彼ら自身は特に意識していないのだけれど。

 思わず笑みを浮かべて、彼女は穏やかな寝息を立てる彼が蹴ってしまっていたシーツをかけ直す。んん、とくぐもった声をあげて寝返りを打ち背を向ける。テルミの逆立った髪を一度だけ撫ぜて、彼女は藍色に染まっている空を見た。

 ユリシアは溜息を吐く。本来の起きる時間まであと一時間近くあるのだけれど、どうしたものだろうと。取り敢えずは体を倒し、テルミの背中に顔を埋めた。テルミ達は良い匂いがする。シャンプーや石鹸の匂いと言われてしまったらそこまでな気がするのだが、それ以上になんだか落ち着くのだ。出会った時から、ずっと。

 それは、彼が『蒼(わたし)』に近い『碧(あお)』の存在だからだろうか――。

「あれ……」

 碧とは、何なのだろう。何故、そんな言葉が出てきたのだろう。彼と初めて会った時に言った『蒼』も何なのだろうか。それが、わたし。

 突然頭の中に浮かんだ言葉のせいで、彼女は混乱した。一体何を考えていたのだろうか、と。分からないことを、昔から知っていたような気がして、しかし思い出せなくて。

「てるみさん、てるみさん」

「……んだよ」

 揺り起こされる感覚で、テルミは目を覚ます。起きるにはまだ早い時間なのに、何だというのだろう。彼女がそんな行動を起こすなんて、珍しくて。

「あの、おこしちゃってごめんなさい」

 ひどく悲しそうな顔で彼女は謝って、そして視線を泳がせる。そして、真剣な表情で彼を見つめて、

「このまえ、いってた……『あお』、ってなんですか。てるみさんは」

 それと、どんな関係があるんですか。

 唐突な彼女の問いに、彼は間抜けた声をあげたけれど。すぐに、同じように真剣な顔つきになって彼は口を開く。何か言おうとして止めて、一度俯き考え込むような素振り。

 それから顔を上げ、

「――全て、だよ」

「すべて」

 ああ、そうだ。頷いてテルミは身体を起こすとユリシアを見下ろす。彼女も慌てて上体を持ち上げ正座した。胡坐をかいてテルミは、

「蒼は全てだ。んで、俺は……それに近い存在の『碧』を持っている、ってところかね」

 でも所詮は近いだけのまがい物だ。と語る。くしゃりとユリシアの頭を撫でた後、テルミはくあぁと欠伸を一つ。

「まだ起きる時間じゃねぇだろ、もうちっと寝とけ」

 そう言ってユリシアの頭を軽く横に押せば、バランスを崩した少女はベッドに倒れる。それを見た後、彼もモゾモゾとシーツを体にかけ直して目を瞑った。詳しく知りたいならまた今度、そう言い聞かせて。

 そうしてまた、朝が来る。何の変哲もない朝。先の彼女の問いが、唯一今までにない反応だ。もしかしたら、彼女が自身の正体に気付き始める兆候なのかもしれない。彼女が『蒼』であれば、大本(おおもと)の、自身達を見下して鎮座するそれはどうなっているのか、それも分かるのだろうか、とテルミは考える。

 ふと、前に聞いた彼女の夢の内容を思い出す。憶測でしかないが、あれは実際に『蒼』に出会ったのでは。そう考えれば、テルミは口角をにんまりと持ち上げた。

 大本の『蒼』はまだあそこにあって、今も自身らを見下している。未だ門は開いてくれないが、しかし彼女が何らかの理由でそれを無視して会いに行けるのでは――。

 もし、その憶測が正しいのであれば。テルミは一人、くつくつと笑っていた。ぐっすり眠る少女の、安らかな寝顔を見つめて。

「もうちょっとだ。もうちょっとしたら」

 笑いが出るほどにいつも通りのテルミとハザマを演じて、最後にはラグナとこの少女にだけタカマガハラの目を向けさせて。そうしてテルミや世界から目を逸らさせた瞬間に事象を集約させ――話はそれからだ。彼女には役に立ってもらう。

 だからそれまでは、この腐りきった平和な時を。

 そうして笑む彼に気付かず、窓から溢れる眩しい陽光で彼女はまた意識を覚醒させた。

「おはようございます、です。てるみさん」

 ふにゃりと微笑みを浮かべて起き上がると愛慕の念を向けるテルミに挨拶をしてからそっとベッドを降りる。いつも通り朝食の準備をするためだ。だが一度テルミを振り返って彼女は口を開く。

「さっきはとつぜん、ごめんなさいです。『あお』について、きになってしまって」

 苦笑し、彼女は語る。それも突然、彼が碧だからなんて言葉が浮かんだから、というのは言わない方が良いような気がしたけれど、隠すのもまた良くない気がしたからそれを付け足して。そうすればテルミは一度目を見開いた後、

「……そうか」

 顎に手を添え、短く返す。彼女が、教えるまでもなく自身の事を知っていた。そんなの、観測か何かしていないと無理なはずであるのに。

 しかし彼女が自身を『観測』しているのであれば観測者だと分かるはずだが彼女にはそんな気配すらない。それなら、彼女がなくした記憶の中にあったのか。ぱっと現れたこの少女が、全ての情報が回帰する『蒼』ならそれを知っていても。

 彼女と過ごすにつれて、憶測に過ぎないまでも今まで何となく察する程度しかできなかった彼女の正体が何となく掴めてきている気がして、テルミはパタパタとキッチンを駆け回る少女の背に微笑んだ。尻尾のような蜂蜜色の髪が揺れる。

「あ、そうそう。昼食を食べたらツバキ=ヤヨイ中尉が来ると思いますので、そしたら少しばかり外で待っていてくださると助かります」

 ふと、ハザマが口を開く。失念していたが、そういえば今日は彼女が来る日だったと。

 他の事象であれば本部に居た時に話したはずの内容を、今日、このカグツチで話すのだ。色々と順番が少しばかり変わってしまったが、この程度は許容範囲だ。

 いつも通りを演じなければいけないが、この程度は小さな『可能性』に過ぎない。

 そうして、丁度昼飯を食べ、片付け終わり――一服した頃合いで。ノックが響き、ハザマの合図とともに扉が開かれる。

「失礼いたします。ツバキ=ヤヨイ中尉、出頭いたしました」

 言いながら、敬礼するツバキの顔は真剣な、仕事のモードそのものだ。チラリ、とユリシアを見てからハザマに視線を戻すと、ああとハザマは頷いて、

「それじゃ、ユリシア。暫く部屋の外で待機していてください」

 にこやかに微笑みそう命じれば、彼女は頷いて、たたとソファから立ち上がり扉へ駆けていく。部屋を出る前にぺこりとお辞儀をして、それから去った。

 それを見届けると、ハザマは一つ溜息を吐いた。これで、やっと本題に入られる。この話は彼女にも、目の前の中尉にも刺激が強い話だ。

 そんな、親友と敬愛する人物を――だなんて。口角が上がりそうになるのを抑えて、ひどく真面目な顔を装い彼は語る。

「すみませんね。改めて、私は諜報部のハザマです。よろしくお願いします」

 名乗ったあと、あまり固くならないでと彼は微笑んだ。それに対し、失礼しました、と漏らす彼女の堅苦しさもいつも通り。それをまぁいいか、と流してハザマは話を切り出す。

「それで、今回中尉を呼んだのは、ですが。ある重要な任務に当たって頂きたいんです」

 首を僅かばかり傾けて、ハザマがそう告げる。彼女が、少しばかり訝しげな目をした。この後に続くのは、諜報部主導のものか――だろう。だから、その台詞が出る前にハザマはふふ、と笑いを零して、

「あー、大丈夫ですよ。中尉の性格は把握してます。ちゃんとこれ、統合本部からの勅命ですから安心してください。『帝(みかど)』のサインもありますが……何なら確認します?」

 つらつらと並べ立てられる言葉に、ツバキの目が見開かれるのが分かった。慌て、彼女は手を顔の前で横に振る。そんなに顔に出ていただろうか、と思っていることだろう。顔に出ていなくとも、彼女の台詞など暗記してしまっただけなのだがそれを彼女は知る由もない。

「……! も、申し訳ありません!」

 目をぎゅっと瞑って、頭を軽く下げる。気にしないでください、とハザマが微笑みをそのままに言えば彼女は安心したように胸を撫でおろした。相手は一応ではあるが上官だ。失礼があってはいけない。そんな彼女の真面目さが見えるようで滑稽だった。

「では改めて。任務内容は口頭で伝えますね」

 極秘任務故に書面に残すのは些か不味く、また、内容も簡単に覚えられる――そう言えば、彼女は短く返事を返す。咳払いを一つし、ハザマが告げる任務の内容。

 それを聞いた途端、彼女はまた驚きに目を見開いていた。漏らされる声。ふらり、と足に力が入らなくなるのを堪え、無理矢理自身を立たせた。

 ツバキ=ヤヨイ中尉。貴官には、ジン=キサラギ少佐と、ノエル=ヴァ―ミリオン少尉の暗殺をお願いします。

 名前と共に浮かべるその顔。一人は幼い頃から兄のように親しく育ち、どこかには恋情も少なからずあった人物。もう一人は、その人物の部下として彼を追う人物。そう、一緒に笑ったり泣き合った親友だった。

 絶句した。その人物達を、大切な人達を、目の前の男は暗殺しろと語ったのだ。それが彼の意思でではなく勅命故に語られた内容であろうと彼女はそれに関係なく。それほどの事を、二人はしたのだろうか。

「あの……二人は、一体何を。暗殺だなんて、そんな」

 上官に対し、礼節を重んじる彼女らしくない喋り口で彼女は問う。声は打ち震え、狼狽ぶりが随所に表れていた。

 それに対し、ハザマは気にする様子を一切見せず、口を開く。聞きたくない、そう思ったが――聞かねばならない。ぎゅっと口を真一文字に結んで彼女は彼の言葉を待った。

「諜報部(われわれ)が掴んだ情報によりますと、少佐は再三にわたって命令違反を犯した上に失踪、さらには巷を賑わす例の賞金首と戦闘し負傷したらしいですね」

「そんな、ジン兄――キサラギ少佐が……!?」

 ジン兄様。そう呼びかけて、ツバキは慌てて言い直した。それくらいには、驚いていた。あの誠実で真面目な彼が、命令違反に失踪、あの強い彼が賞金首と戦闘し負ける。そんなこと、あってはならないはずなのに。

 それだけで、一歩引けそうになったけれど、彼がまだ何か言いたそうだったために堪えた。自身が訊いたのだから、最後まで聞かなければ。

「それ以外にも色々と問題を起こしたようですが――そしてもう一つ。未確認の情報ではありますが、警備を打ち倒して、収容された病院からも脱走したとも入ってきてます」

 まだまだ出てくる情報に、耳を塞ぎたくなる。彼が反逆行為を犯したというのが信じられなくて、信じたくなくて。さらに続けられる言葉。

「ノエル=ヴァ―ミリオン少尉はというと、その情報が入るや否や上司を連れ戻すため追いかけたところまでは、いいんですがねぇ」

 いやに勿体ぶる言い回しに、早く言ってくれ、とツバキは思う。その思いが通じたのか偶然か、彼がまた息を吸い――話した。

「こともあろうか上官のキサラギ少佐を瀕死にした者に肩入れをしたそうですよ。『死神』とも呼ばれるSS級の賞金首。統制機構への反逆者、ラグナ=ザ=ブラッドエッジに」

 親友までもが、反逆者になったかもしれないというその情報に、彼女はとうとう足を一歩後ろへ下げてしまう。つい少し前まで一緒に笑い合っていたはずの彼女が。にわかには信じがたいハザマの言葉に衝撃を受け彼女の瞳が色を失う。

「どうやらどちらも、例の賞金首には特別な思い入れがあるようですが――どうしました、ぼーっとして?」

 そんなハザマの言葉に反応するのにも、ワンテンポ遅れて。ツバキは、首を横に振ることもできないまま。下がっていいですよ、そう言われれば力ない声で返事をして、彼女は踵を返し部屋を去ろうとする。その足取りはふらふらと覚束ない。

 その背に、ハザマの言葉が追い打ちをかける。

「あーそうそう、言い忘れていましたが。キサラギ少佐の『ユキアネサ』とヴァ―ミリオン少尉の『ベルヴェルク』、忘れずに回収してきてくださいね」

 そうして、もう一言。

「二人の亡骸は持ち帰らなくても大丈夫ですよ。反逆者に葬儀なんてないでしょうし」

 悔しかった。もしかしたら、親友も敬愛する人も本当に反逆者になってしまったのかもしれない事実が。彼が簡単に二人を殺せと言えてしまうことが。反逆者、そう罵られたことが。

 でも言い返してしまえばそこでお終いだ。だから少しだけ残った理性で唇を噛み締めたけれど、礼を失するなどお構いなしに彼女は振り返らず、今度こそ部屋を去った。

 その背を見つめるハザマの表情は――ひどく楽しげな笑みだった。

 ぱたりと閉まる扉の向こうに居るツバキの表情を思い浮かべながら彼は心の中で、これは悲劇を通り越して喜劇だと嗤った。

 出てきたツバキのひどく苦しく悲しそうな表情を見て、部屋の外のベンチに座っていたユリシアは首を傾けた。どうしたのか、と問おうとする前に彼女は足早に離れてしまっていたけれど。

 新しく友となったユリシアに挨拶をするほどの余裕も彼女にはなかった。

 そして少し離れたところで、この区画は人通りが少ないことをいいことに彼女は壁に凭れかかる。目の前が暗く、血の気も引いて思考が纏まらない。

「私は……どうすれば、いいの……?」

 また思い浮かべる記憶の中の愛しい二人に縋ろうとしたが、しかしそれすら任務を思い出させて彼女は苦しむだけであった。

 そんなツバキを遠目に見て、部屋に戻ったユリシアがハザマにどうしたのか、聞くことはなかった。はぐらかされてしまう気がしたからだ。それに、何となく――嫌なことを頼まれたのだろうとは察しがついていたから。

 彼女があんな顔をするのだ、きっと、とても嫌なこと。大事な人達に関係するような。だからこそ、怖くて聞き出せなかった部分もあった。

 

 

 

   1

 

 夜が更ける。輝く星々を見上げた後、テルミを振り返る。月が欠け始めてきた頃だった。ユリシアがふっと微笑む。

「おほしさま、きれいですね」

 きっとそういう俗な、遠回しに思いを伝えるそれではないのだろう。けれどドキリ、とテルミ――正確にはハザマの心臓が跳ねる。

 彼女が言った言葉には、人によってはこの想いを知らないのだろう、という意味が含まれているからだ。だけれど彼女がそれを知っているはずもないから思い違いだとしてテルミは短く相槌を打って首肯した。

 グラスの水を一気に飲み干してテーブルに置き、ベッドへと足を運ぶ。腰かけ、ユリシアが見ていた窓越しの星空を見た。この無数の星々も何度目にしたことだろうか。百や千では到底数え足りない。

 溜息を吐いて、少女に視線を移す。微笑みを浮かべたまま首をこてりと傾ける彼女を呼ぶ広げた脚の間をぽんぽんと叩いてそこへ座るように指示すれば彼女は素直に頷いて彼の前、脚の間にすっぽりと収まって座るのだ。

 えへへ、なんて笑う少女の頭をくしゃくしゃと撫でてテルミは思う。いつまでこんなくだらない茶番が続くのか。否、分かっている。ラグナが動けば全てが進む。そして、それは遠くないことも。だから彼女も。だから、テルミは少女に問うた。

「もし俺様が、テメェにハザマを殺せと言ったら殺すか」

 何となくだった。ラグナが自身を殺さない可能性があるのは、別の事象を観測した段階で知っている。それで仮にレリウスに殺させるとして、彼女がどう思うか。それでレリウスに手を出されようものなら。彼女がテルミを慕っているのを理解した上でテルミはそう問うた。彼女は暫し考えるような素振りを見せる。そこに驚きが見えなかったことに、テルミは逆に驚いた。唸る彼女は、やがて口を開く。

「てるみさんと、はざまさんが、それをのぞむなら、わたしは」

 全力をもって。そう彼女は述べた。へらり、と笑う彼女は死というものについてよく理解していないのだろう。でなければ、そんな動揺も見せずにだなんて。少しだけぞっとしたけれど、それを表に出さずにテルミは、それなら良いと言ってユリシアの後頭部に触れ、押す。

「わわわっ」

 その衝撃で前につんのめり、体を傾けたまま数度足踏みをして立ち止まる。振り返り、眉尻を垂れさせ何ですか、と苦笑して問う少女にさぁな、と白を切ったがテルミも何故問うたのかも、そんな行動をしたのかもあまり意識はしていなかった。ただ、何となくだ。彼女と居るようになってから、何故か何となくで行動することが多くなってきている気がした。もっと計画性をもって動かなければならないはずなのに。

 戻ってくる少女の腕を掴む。細い、今にも折れてしまいそうなほどに華奢で白い腕だ。

 不思議そうに首を傾けるユリシアの腕を見つめた後、パッと離す。一体、この体のどこに、あんな鎌を振り回したり、世界の全てが眠る『蒼』の力が宿っているのだろう。

 少女にもう寝ろと言って、テルミはベッドに体を倒した。何なんだろう、そう思いながらユリシアも靴を脱いでベッドへ寝転がった。眠気に身を委ね、すぅすぅと。

 

 

 

「テルミが、どうして」

 彼女を見つけられたのだろうか。逆に、何故自身達は気付かなかったのか。ココノエはそれをずっと悩んでいた。蒼の反応があるなら探知機に出るはずだ。それが、世界のどこであろうと。偶然見落としていた可能性はないとは言えないが、それでも。

 まさか『蒼』がテルミを選んだだとか、そういった最悪の理由でもない限り有り得ないのだから。砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを、キャンディを舐めながら器用に啜るココノエの後ろから、巨体――テイガーが心配げに声をかける。

「あまり根詰めるなよ、ココノエ」

 彼女は眠らない。自身が開発した意識を覚醒させるキャンディーを常に舐めることで意識を保ち、眠らない彼女。しかしその華奢な身にたまる疲労は結構なものだろう。故に彼はそんな言葉を投げたのだが、ココノエは分かっている、とそう述べるだけだ。そこに彼の意思を尊重するような様子は一切見られず、しかし分かっていたというように溜息を吐いた。

 ココノエが溜息を吐いて、椅子の背もたれに思い切り体重を預ける。

「テイガー、コーヒーのおかわりだ」

「了解した、今煎れてくる」

 カップを差し出すココノエから受け取り、テイガーは給湯室に向かった。もうここに居ない、ロット=カーマインの仕事だったココノエのコーヒーを煎れる仕事は今やテイガーの仕事となっている。不器用な彼の煎れたコーヒーはやはり美味しくなかったが、それでもないよりはマシだった。

「マスター。今日の調整は」

「あぁ、ラムダか。確かにそうだな、よし、準備しろ」

 彼女はかつて酷い実験に使われるだけ使われ廃棄され、大破寸前だった。それにサルベージし(引き上げ)た同じ素体である『ニュー・サーティーン』の魂を組み込んで蘇生させたのが今のラムダだ。ニュー、ラムダ共に記憶は消したはずだがそれでも時折反応が可笑しいために毎日調整しているのだけれど。

 模擬戦闘を行い、データを取り、彼女の中から必要なデータ以外を削除。そして残したデータは最適な形に作り替える。

 そうして、テルミを倒しこの世から消すのが彼女の目的だ。彼は存在してはいけない。なのに、何故『蒼』はテルミについたというのだろう。

 考えても分からないことばかりで、彼女は目を伏せた。ゆるりと首を横に振って、立ち上がりラムダを見る。いつでも準備万端といった様子のラムダを連れて部屋を出る。

 戻ってきたテイガーが、ココノエが居なくなっていることに気付いてまたかと頭を抱えた。仕方なくココノエのデスクにカップを置いてテイガーは一人ぽつんと。

 ココノエが戻ってきたときには冷めているだろうけれど。

 

 

 

 ふわふわの皮を噛み千切れば中から溢れる柔らかな挽き肉と混ざった具材。ジューシーな肉汁が溢れ、ほかほかと湯気を立てるそこにもう一口齧り付く。

「これが、にくまん。と~っても、おいしいです!」

 カグツチ下層部のオリエントタウン――東洋系の店が立ち並ぶ街まで出向き、彼女らは早めの夕飯を食べていた。窓から見える大きな竜頭のギミックが視界を楽しませ、運ばれる料理が舌を幸せに包む。

 ハザマも、億を超える事象の記憶がありながら初めて入ったこの店の料理に舌鼓を打っていた。自然と持ち上がる口角。そういえば先日任務を任せたマコトがそろそろ戻ってくる頃合いだろうが、ハザマはソレをどうでもいいことだとして小籠包を摘み上げた。

 レンゲに乗せ、箸を使ってぷつりと割る。溢れる熱々のスープに浸る小籠包、それに息をそっと二、三度吹きかけてぱくり。

 どこかで忌まわしい猫系の獣人族の声が聞こえた気がしたが、そんなことが気にならないくらい今は食に夢中だった。次に手を付けるのは麻婆豆腐。

 そうして二人が食事と会計を済ませ店を出る。先ほどまでは晴れていたはずなのに、空は曇り雨が降り出していた。まるで誰かが泣いているかのように。

 少し歩いたところで先の猫が逃げ店員が慌てて追いかけて行くのが聞こえた気がしたが、無視した。ユリシアが賑やかな声に何があったのかと振り返りそうになったが見るな、と言えば彼女は頷いて首を前に戻す。

 歩きながら、街を見る。溢れかえる沢山の人々も、いつかは消えてしまうのだろうかとハザマは思う。テルミ達の計画も目的も、ハザマには少し遠い話に思えてしまって。

 ユリシアを見れば丁度彼女もこちらを見上げていて、ばちりと視線が絡まり合ってしまい思わず逸らす。不自然過ぎたか、と後悔した。別に何もやましいことはないはずなのに。元から彼女は道具に過ぎない。

「はざまさん」

「なんですか、ユリシア」

 ユリシアがふと呼びかけてきて、ハザマが問う。そうすれば彼女はそっと手を差し出してきて、首を傾ける彼の手にそっと触れた。何故。唐突のことでハザマは手を引っ込めそうになるが止めた。

「あの、こわいものが、きますです」

 ハザマが拒否を行動に表わさないのをいいことになのか彼女がぎゅ、とハザマの手を握りながらそう言う。一体どうしたのだ、と思いながらも彼は溜息を吐き、歩き出す。そして、納得した。

「あぁ、あれですか」

 それは、異形だった。黒いドロドロとしたそれは悪臭を放ち、何かを探すように徘徊していた。気付いた周りの人々は傘を差すことも忘れて逃げ、確かにこちらへ向かう人間が多いものだ。嫌なものが居る気配を彼女も、ハザマが気付くより前に察していたのだろう。

 顔のような三つの穴が開いただけの白い仮面を付けたその異形は、ふと立ち止まる。じ、とハザマ達の方を見つめていた。やがて虫の脚のような腕を掲げて高笑い。ひどく耳障りな笑い声だ。キケケケ、蒼だ。そんな声が響き全速力で『それ』は向かって来る。

 流動体の体内に収まっていたのだろう無数の脚を地に這わせ、大きな口をぱっくりと仮面の下から広げて駆けてきたそれは、ユリシア達を食らわんとしていた。

「危ないですねぇ、全く」

 咄嗟に伸ばされるのは蛇頭のついた鎖――ハザマの持つ武器である事象兵器(アークエネミー)・ウロボロス。黒いその体にずぶり、と突き刺されば悲鳴を上げ、その黒い異形――アラクネは咄嗟に身を引く。ハザマがウロボロスを引き抜く。そうすればアラクネはふとユリシアを見る。視界に映るや否や、恍惚とした声をあげた。

「あぁ、あぁ、アオ、蒼ォ……! 蒼、見つ――た、純粋な、ホンモノ……蒼!!」

 けれど、またも伸びる鎖がアラクネを貫き、あがる悲痛な声によってアラクネの台詞は遮られた。

「あげませんよ、貴方みたいなものには勿体ないシロモノですから」

 それでも、腕を伸ばすアラクネにしつこいと言って最後アラクネの背後からもウロボロスを突き刺した。ひときわ大きな悲鳴を上げて、ぐったりとアラクネは地に伏せる。這い出てきた蛆虫のようなものを踏みつぶし、ハザマは溜息を吐いてユリシアを見た。

「これで、安心ですね。では行きましょうか。すぐにスーツを着替えたいですし」

 ベタベタに濡れた帽子を脱いでユリシアにかぶせながらにこやかに微笑みかければ、ユリシアは少しだけ怯えた様子でアラクネをちらりと見てひとつ、ぎこちなく頷いた。

 ずり落ちる帽子のつばを持ち上げつつ。一体、何だったのだろう。苦しそうに痙攣するそれを見つめながら、歩き出したハザマを追いかけた。握られた手を離すことは忘れていて。

 歩きだし、彼らは統制機構への道を進んだ。アラクネが起きないうちに、と足早に。本来アレは賞金首であり、面倒事を減らすためにも連行しても良かったが。あれにはあれで使い道があるから今は放置して――。

 そんなハザマ達を他所に、ほろ酔いの集団をかき分けてマコトは走っていた。親友(ノエル)にそっくりな素体達の墓場を見つけてしまったからだ。凄惨な光景。あれはどういう意味だと、走りながらマコトは必死に考えていた。

 分からないけれど、やはりあの上司には関わってはいけないと直感で感じて、マコトはそれを自身の友――ハザマと常に居るあの少女にも伝えなくては、そんな使命感に駆られ無我夢中で走っていた。



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第五章 幕朱の暁

「あぁ、そうそう。少しばかり寄り道してもよろしいですか?」

 ハザマがふと立ち止まり、彼女にそう問えばユリシアは頷く。オリエントタウンを歩いている途中だった。雨は通り雨だったのか晴れ渡っていた。ハザマは彼女が頷いたのを確認すると、急にくるりと向きを変えてある方向へ歩み出す。ぱたぱた、と追いかけるユリシアを尻目にある程度進むと、見えてくるのは一つの看板だ。

「あぁ、あったあった」

 楽しげにそう零しながらハザマはその看板のある場所、小さな診療所の近くまで行く。

 そこで丁度やってくるのは艶やかな黒髪を一つに束ねた女性だった。豊満な胸をさらけ出したその女性は、多分この診療所の人間だろう。ハザマを見るや否や、

「あの、患者さんですか? どこかお具合でも……」

 そう心配げに問うのだが、ハザマはいえいえ、ただ貴女を待っていたのだと頭を横に振った。遅れてやって来るユリシアと、何か約束でもとハザマに近づく女性。ふと彼女が立ち止まる。その目はどこか遠く、ユリシアが小首を傾けた。

 暫しして、ハッとしたように女性が目を見開く。それもそうだろう。彼女は今、真っ暗な闇の中に放り込まれる感覚と、眩しい光を見つける感覚を味わったのだから。

「今、のは……」

「おや、どうかしましたか。何か夢でも見ていたような顔をしていますが」

 にこやかにハザマが問いかける。途端、警戒したように彼女が口を開いた。

「――貴方達、何者!?」

 問い。彼に、否、彼らに近付いた途端、あんな、蒼い光が。一体何者なのか、問わずにはいられなかった。だが、そんな狼狽した彼女とは対照的にハザマは酷く冷静な様子で返す。

「あぁ、名乗るのが遅れましたね。私、統制機構諜報部のハザマと申します」

 統制機構。ここ、オリエントタウン周辺では『図書館』と忌み嫌われるその名を聞いた途端、ぴくりと彼女の眉が動く。統制機構が、一体何の用だ。そんな目で彼を見れば、

「そんなに警戒しないでください。ただ『第七機関のライチ=フェイ=リン』のお話が聞きたくてやって来ただけなんですから」

 にこやかに彼はそう述べる。名前を知られているどころか、素性までバレてしまっている、と彼女――ライチは驚きに目を丸くした。引き攣る表情。嫌な汗が伝う。

 彼女はオリエントタウンで診療所を営んでいる。しかしそれは表の顔。本来は第七機関の、あのココノエ達と共に働く人物だ。そして、情報収集のために診療所を開業し経営していたのだけれど。

 そんなライチを他所に、彼は至極楽しそうに口を開いた。

「それで、『境界』からの『個体生物による魔素流動理論』に関しまして……」

 ユリシアには、理解のできない言葉たちが並ぶ。ここでその言葉を理解できるのは、彼くらいだ。そしてもう一人。

「どうしてその事を……! あれは公表すらしていないというのに!!」

 思わず叫ぶ、ライチだけだ。その理論は、ライチのものだから理解できて当然といえば当然なのだが。彼女はキッとハザマを睨み付ける。雰囲気が変わったのを肌で感じ、彼女が構えた――が、それをハザマが制することでユリシアは腕を下ろした。

「さぁ、どうしてでしょうね。諜報部だから、じゃないですか?」

 首をこて、と傾けライチを見下ろすハザマ。不安そうに見上げる彼女に、大丈夫です。そう口の動きだけで伝えた。

「話しなさい、どこからその情報を得たの」

「言うと思いますか?」

 目をすっと開いて彼は金の眼差しで彼女を射竦める。怯えの色を見せる彼女に、人差し指を立てた。それなら、別の情報を与えることで手を打ちませんか、お互い戦闘は避けたいでしょう、と。

 答えないなら戦闘だって、そんな彼女の思考を完全に読み取っての提案だった。

 出鼻を挫かれたライチは、こほんと一つ咳払いをして、何の情報だ、と問う。

「例えばそうですね。賞金首の――アラクネの話だとか」

 その名が出た瞬間、彼女は再度目を見開いた。アラクネ。かつては人であったその魔素流動体である賞金首は。愛しくて、尊敬していた人で。

「……いいわ。それで手を打ちましょう」

 彼の情報を得るために、こっちに来たというのもあるから。彼女は暫しの間を開けた後、渋々とそう漏らした。

「そうですか、それはありがたい。では、えーと」

 そうして彼は話しだす。リストナンバー、名前、大まかな居場所と活動の仕方、理由。そして最近の活動は激減していること。存在理由、元は人間だったことからその時の所属。そして――『魔素流動理論』の第一被験者であることを。

 彼女は叫ぶ。やめて、と。首を傾け、気に召さなかったかとハザマは問う

「何故、何故そこまで知っているの……?」

 すっと目を見開いて、彼は語った。統制機構を甘く見るな、と。ユリシアはその間、一切口出しをしない。まるでその台詞に知らないこと、疑問に思うことがないかのように。そんなことあるはずがないのに。しかし、知らないことを問うなと言われたわけでもないけれど――。

「境界からの力も制御できないチャチな組織と一緒にしないでいただきたい」

 そう、ハザマが語った途端。彼女が反応した。では、もしかしたら『彼』のことを。

 けれどその言葉を遮るようにハザマは手をひらひらと振って、

「貴女も随分お疲れのようですし。ここで話せば人に見られてしまう。それは困るでしょう?」

 そう言って、また来ます、と残すと。舞台役者でも気取るかのように彼は被った黒い帽子を持って、片手を胸に。深々とお辞儀をすると踵を返した。ユリシアに行きますよ、と告げてやれば彼女は元気よく返事をして、一度恐る恐る振り返って頭を下げた後に彼を追いかけた。最後まで、彼は先ほどアラクネと出会ったことは語らなかった。

「ごきげんよう、『ライチ=フェイ=リン』」

 耳に残る彼の声、一度目を伏せた後――彼女は訥々と零した。

「まさか、統制機構にまで『彼』の正体を知られているなんて」

 事情が変わった。急がなくては。

 彼女はそう胸の内で漏らすと、診療所の中に戻っていった。ココノエ博士に離さなくては――。

 

 

 

 あれから数日経ったある日のことだ。ライチは一人で公園のベンチに座っていた。その黒髪の中に居た小さなパンダ、ラオチュウが彼女を心配げに見つめていて、それを優しく撫でて彼女は謝った。あなたのせいではないのよ、と。でも、彼女はどうすればいいのか悩んでいた。

 最近は唐突に色んなことがありすぎた。彼と出会った後、ラグナ=ザ=ブラッドエッジと彼女は出会ったし、そこでも蒼を感じてしまった。蒼に、惹かれそうになった。

 それから、ココノエと話をするためにテイガーに会った。けれど、ココノエがテイガーに命令することにより戦闘。そこで彼女は境界から力を取り入れすぎてしまい、師であるココノエに指摘を受け、逃げてしまった。

 朝露が霧となって辺りに漂うこの公園は、近くにあったはずなのにもうあまり使われていないのかボロボロで、不気味さすらあった。

 そして、その不気味さは更に拍車がかかる。後ろで、声がした。あの時も聞いた声。

「随分、苦しそうですね」

 ハザマだった。咄嗟に振り返り、彼女は彼を睨み付ける。それに手をゆるゆると横に振って、怖い目をしないでくださいよと困ったように彼は言う。その隣に居る少女も、怯えた様子だった。

「今日はお話に来ただけなんですよ」

 その言葉に、彼女は些か強い語調で吐き捨てる。話す事など無い、と。けれど彼はそれに構わず話を続けた。

「取り敢えず、話を聞いておくだけでも損はないかと」

 そう前置いて、彼はそうっと、ひそひそ話をするかのように。彼女にだけ甘く語り駆けるような声で、語る。私ならば、私達ならば――貴女の浸食を食い止めることができる、と。

 それに彼女は瞠目した。けれど、また強く睨んで嘘だと言う。彼女は、ラオチュウを通して境界から力を取り入れていたのだけれど、結果それによって境界――数多の情報と力が眠るそこに浸食されかけていた。

 けれど、それを止めるのは彼女の師、天才であるココノエですら無理だったのだ。

 だから、そんなの、できるはずがない。彼女はそう切り捨てた。博士の事も知っているのだろう、と問いを付け足して。

「第七機関筆頭科学者『ココノエ』。えぇ、勿論よぉく知っていますよ、よくね」

 それならば解るはずだ、彼女はふいとそっぽを向いて悲しげに漏らすが、

「ええ、彼女は確かに天才です。しかし、些か頭が固いようです。旧世代の科学に固執するあまり『真実』が見えていない」

 魔素は利用するのではなく、支配するものなのです。そして、統制機構はそれを支配する方法を知っている――。『術式』という人類が得た新たな叡智を使って。

 彼の言葉はあまりに甘美だ。故に、彼女は信じられないと言いたげな表情で、首を横に振った。あれはそんなに便利なものではない。私はそれを理解している。

 そんな彼女の言葉を遮って、深く深く、呆れたように溜息をハザマは吐いた。一度チラリとユリシアを見つめた後、彼は諭すように告げる。

「ライチ=フェイ=リン。術式が発明されてから、何年経っていると思ってます? 技術は日々、進歩するものなのですよ」

 でも、と彼女は言う。しかし、統制機構――現在での世界最大の組織を甘く見るなと言われてしまえばそれまでだ。信じられない、けれど、それほどの説得力がその言葉にはあったのだ。彼は付け足すように、

「ではとりあえず、お近づきの印に『彼』、アラクネさんの居場所をお教えいたしましょうか。ついさっき入った新鮮な情報ですよ」

 そんなに早く見つけられるはずがない、という彼女に彼はにっこりと笑って、「統制機構を甘く見るな」ともう一度。そして情報を得た後、彼女は去っていった。その後、彼女は『彼』と出会い――統制機構へ赴くこととなる。

 

 

 

「さいきん、いろんなひとと、おしゃべりします、ですね」

 去って行く背中を見て、ぽつりとユリシアが漏らす。

 あまりハザマは人と交流をしない。それも、諜報部というだけで衛士には胡散臭がられるし、マコトも今は任務の真っ最中だったから、なかなか人と話す機会はないはずだ。

 なのに、彼は進んで他人の所に出向くようになっていて。それが良いことなのか悪いことなのかユリシアには判別がつかなかったけれど。

 それになんだか、最近はテルミが出ることが少ない。ご飯の間だとかは確かに居るし、時々二人が会話しているっぽいのも見たりはするのだけれど。活動する時は基本的にハザマだけだ。確か前に、人と会話する時はテルミだと厄介なのだ――と言っていたし、それと関係しているのだろうとは思うけれど。

「そうですねぇ。最近は色々やらなければならないことが増えました」

 今日はあとツバキの所へ行かねばならないと彼は言う。ツバキ=ヤヨイ。統制機構の第零師団・審判の羽根に所属する少女のところだ。彼女は今任務の真っ最中でどこにいるかなんて分からないはずなのに、彼は度重なる事象の記憶でそれを知っていた。

 腕時計を見遣る。そろそろ行かなければいけない頃合いだろう。彼は踵を返すと、ユリシアの手を引いて公園を出た。

 都市を山の中心部に向かって歩きだし、統制機構管理のエレベーターで統制機構のある最上層へ。エレベーターを降りて悠々と歩みを進めれば、統制機構近くの空中庭園に辿り着く。そこに彼女は居た。第零師団のテーマカラーである白のローブを纏ってこそいたが、その顔には、外に出るとき着用するべき白の仮面がない。それどころか、フードを脱いだ頭部には指定の帽子もなく、代わりに目のようなものが付いた帽子が乗せられていた。ローブの下も、統制機構の制服なんかじゃないだろう。きっと、一度カグツチを離れて『あれ』を取りに行って――。それだけ分かればハザマは満足げに頷いた。

 俯き、佇む彼女にハザマは歩み寄る。勿論、庭園の入り口にユリシアを待機させて、だ。こんな所まで手を出しに来る人物はなかなか居ないと考えて。

「おやおや、これはこれは。ツバキ=ヤヨイ中尉ではありませんか。奇遇ですねぇ」

 さも偶然通りかかったかのように装って、彼は彼女の背後から声をかける。その声に気付いたように、ツバキは力なく顔を上げた。

 その表情は前に会った時のようなひどさはなかったし、寧ろ安心すら見えたけれど、ハザマを見た途端にそれは薄れてしまった。

「あ……ハザマ大尉。何故ここに」

「まぁ、ちょっと野暮用がありまして。それで? 任務の進み具合はどうですか?」

「えぇ、そう……ですね」

 彼女は一瞬言葉に詰まる。震える唇、泳ぐ視線。首を傾けるハザマに、やがて彼女は口を開いた。

「……それが、情報が少なく二名とも未だ発見できておりません。申し訳ありません」

 嘘だ。至極真面目な性格をした彼女が嘘を吐けば、諜報部として勤めている彼はすぐに分かる。どちらかとは既に会っているだろうことも、そして説得だけして殺していないだろうことも彼は分かっていた。だから敢えて何も知らない素振りで、

「あらら、そうなんですか。で、それは本当ですか?」

 問う。案の定、面白いぐらいに彼女の顔色は青ざめる。それでもそれを必死に隠しながら、本当だと白を切った。引き続き両名を捜索する、だなんて。その反応をすることは分かりきっていたが、彼はそれならいいと頷いて彼は微笑む。

「あはは、分かりました。早く見つけられるといいですね。さっさと見つけて最終的にきちっと二人をぶち殺してくだされば、それでいいんです」

 柔和な笑みを浮かべて彼は物騒な言葉を紡いだ。ツバキの表情が思わず引き攣り、心臓がキリキリと痛む。そうだ、彼女は本来言葉にするのもおぞましいことを決行しようとしている。

 でも、信頼するあの二人なら説得すれば分かってくれる――そう思って、ジン=キサラギを説得し統制機構へ戻るよう約束した。けれど、それを隠したのは任務が『暗殺』だからだ。彼女には、それが正しいことのはずなのに――そんな迷いが生まれていた。

「大丈夫ですよ。貴女はなぁんにも、間違っていませんから」

 目を見開く。まるで心を読んだかのような彼の発言に、体が凍り付いた。鉛のように重い空気がじわじわ、じわじわと体内に侵入していくようで、息が苦しい。

 彼女は彼を恐れていた。嫌な予感がしてならない。思考が警鐘を打っていた。

「大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」

 ハザマの心配げな言葉にハッとして彼女は何でもない、と首を振る。それならいい、彼は告げてふと――思い出した、というように手をぽんと叩いた。

「あぁ、そうそう! 中尉に話したいことがあったんですよ」

 どうですか、聞きます? 首をこてりと傾けるハザマに、訝しげに思いながらも彼女は何だと問うた。その反応に満足げに頷いて、彼は話し始める。

「――ええ。それは、ちょっとした悲劇です」

 

 

 

 ユリシアと合流し、彼は空中庭園を出る。花々に別れを告げて、彼が向かう先は統制機構の入り口だ。一足先に、彼女は向かっているはずで。――案の定、近づくにつれてある音が聞こえてきた。

 キン、と金属音が鳴り響く。話し声。

「これを躱すなんて流石ね、ノエル!」

「突然どうしたの、ツバキ……!」

 ツバキが振り下ろした短剣を、彼女が咄嗟にベルヴェルクの銃身で防いでいた。身を後ろへ引き、また飛びかかるツバキを避けて、その繰り返し。舞台のような華麗な動きだったが、これは真面目な戦闘だった。

 荒い息、降り始める雨。そして、ツバキが何かを叫び――ノエルがそれに応える。ノエルが膝をついて覚悟を決めたかのように項垂れた。しかし、いつまで経ってもツバキは剣を振り下ろさない。そして、泣きだした。そんなツバキに気付いて抱きしめる。

 なんと美しい友情劇か、なんて心の中で思ってもいないそんな言葉を漏らしながらハマは歩み寄る。あえてユリシアを連れたまま。

「――あらら、駄目じゃないですか、中尉。ちゃんと殺してしまわなくちゃ」

「え……?」

「ハザマ大尉!」

 間抜けた声を漏らしたのは、ユリシアだ。声にならない声を上げるツバキと対照的に、その表情には戸惑いというのは一切なくて、ただただ疑問だけがそこにあった。

 ノエルがひどく怯えた目でハザマを見つめる。一体、ツバキに何を。そう言いかけた彼女に歩み寄り、彼は首の後ろを打って気絶させた。目を見開くユリシアとツバキ。ユリシアが何か言うよりも先にツバキが慌てた様子で口を開いた。

「ハザマ大尉! 聞いてください、お願いします。それにお言葉ですがユリシアの前でなんて……」

「いいんですよ、ユリシアが居ることも、貴女が殺せなかったことも」

 ノエルも説得すれば分かってくれるし、それに極秘の勅命ではなかったのか、だとか、あまりにおぞましくて子供に聞かせる内容じゃないだとか、そういう理由からの言葉だったのに。彼は全て分かっていると、彼女の前半の言葉を無視しこれでいいんだと言って、にこやかに微笑むとユリシアを見た。

「コレ……いえ、『この子』は特別ですから」

 その言葉に、ツバキは不安げに瞳を揺らす。何において特別なのか彼女は理解できなかったから。それよりも、何か不穏なものを感じて。

「あの、はざまさん、なんでのえるさんを」

 だから。ノエルをどうするつもりだと、ツバキが問うよりも先にユリシアは問う。ああ、彼女は何も知らないから。ふむ、と彼はノエルを抱きかかえたまま顎に手を添える。

「――後で分かりますよ」

 そう言って、彼はツバキを見た。ニィと笑う。

「あ、まだ居たんです? 居場所を取られたゴミ中尉はさっさと消えてください」

 ユリシアは、解せなかった。何故目の前の、まだ話した回数は少ないけれど友と呼べる人物がゴミと呼ばれているのか。何故ノエルは突然襲われたのか。殺す、なんて言われなきゃいけないのか。このあとどうされるのか。何も分からなかったから、どうすることもできなかった。

 ハザマの言葉に、ツバキが目を見開き襲い掛かる。分からないなりに、大切な人を守りたいからと咄嗟にユリシアが構えるが、しかし彼女の剣は空を切る。

「おっと、頑張りますねぇ。でも」

 途端、ツバキの視界は闇に覆われた。

 十六夜。使用者に力を与える代わりに光を奪う術式兵装。その力に彼女は飲まれたのだ。無我夢中で剣を振る彼女。他から見れば突然彼女が可笑しくなったように見えるだろう様は滑稽で、滑稽で、ハザマはその笑いをなるべく堪えることで必死だった。

 首を傾けるユリシアをチラリと見た後、そっと囁く。

「少しすれば、彼女は戻りますから、大丈夫ですよ」

 その言葉が本当なのか、彼女には判断が付かない。目の前の人間が全てで、彼女はそれが真実だと信じて頷く。心配げに腕の中のノエルを見つめて。

「みじめだなぁ、ツバキ=ヤヨイ。そうなったのは、一体誰のせいだ?」

 ハザマが一歩歩み寄り、そっと耳元で囁く。彼女の中で何かがぷつり、と消えた。

 ノエルのせいだ。ノエルが居場所を奪って、ノエルが、ノエルが。

 泣き叫んだ。彼女には、何が正しいのかもう分からなくなっていた。何を信じ、何のために戦えばいいのか。苦しむ彼女を見て、ハザマはユリシアの背を押した。

「さ、行きましょうか。彼女が落ち着くまで、そっとしておいてあげましょう」

 がくり、と膝をつくツバキを尻目に彼がそう言えば、彼女は少しばかり躊躇った様子を見せながらも頷く。これが、正しい事なのだと信じて。

 ふと、背後に『誰か』が現れた気がしたが、ユリシアが出会うのはまだ先だ。

 

 

 

 そして彼らが着いたのは、統制機構の屋上だ。びゅうびゅうと強く風が吹き付け、気張らなければ落ちてしまいそうなほどである。屋上は、都市全体を見渡せるほど高い。

 そこには、黒く巨大なモノリスが佇んでいた。蒼い光が血管のようにはしり、脈動し、上には巨大な翼で出来た『繭』のようなものが一つ。ノエルを寝かせ、彼――ハザマ(テルミ)はモノリスの目の前に立ち、それを見上げた。ユリシアは彼の隣に。

「これ……なん、ですか」

 問うユリシアを横目に、ふふと笑いを零して彼は語る。これは、ノエルを本来の姿に戻すための重要なものなのだ、と。

「ほんらいの、すがた?」

「ええ、そうです。彼女は――実は人間じゃありません。本来の、人形としての姿に戻してあげるのですよ。それが彼女のためですから」

 彼女のため。そう言われれば、そうなのだろうか、とユリシアは思ってそれ以上何も口出しをすることはなかった。やがてノエルは起き上がる。辺りを虚ろな目で見て、やがてハザマの姿を見つけ表情が強張る。ハザマ大尉、そう呼んで、彼女は床に手をついて立ち上がる。

「なんで、私……ここに」

「やっと起きてくれましたか」

 不審がる彼女に振り向いて、微笑むハザマが言う。

「ハザマ大尉、ツバキに何をしたんですか!! 何をするつもりで……!」

 叫ぶ、彼女。その声は震え、怯えが色濃く浮かんでいたけれど。きっと睨み付ける彼女に彼は嫌ですねぇと言って手を掲げる。まだ分かっていないのか。語り、ユリシアをちらりと見た後――彼は告げた。

「なぁ、『眼』を継承したんだろ? なら、分かるはずだ」

 ひどく冷たい眼でノエルを見て、テルミはそう語った。分からない、分からないはずなのに。そんなの知らないはずなのに。

「違う! 私は、私は……ッ」

「もう観えてんだろ、オイ」

「違う、違う……ッ」

 ぶんぶんと首を横に振って、彼女は否定した。けれどもそれを見るテルミは高く嗤った。何が目的なの、と彼女は叫ぶ。

「憎い、ツバキにあんな命令を下したり、他の人達を……憎い、憎い憎い……」

 思い出す情報達が、彼女の言葉を変える。拒絶はやがて憎しみとなり、テルミをひどく憎んだ。しかしそれを嬉しそうに受け止めて、テルミは彼女に声をかけた。

「おら、もっと、俺を憎め、世界を憎め……!」

「憎い、憎い、テルミ……貴方を許さない! ベルヴェルクッ!」

 叫び。それに呼応するように、彼女の手には白銀の双銃が現れた。おっかない、からかうように言ってテルミはユリシアを呼ぶ。

「ちょっとばかり相手してやってくれや」

 躊躇い。揺れる瞳。ぽん、と頭を撫でやれば、彼女は頷いた。テルミを抹消すると叫ぶ彼女が魔銃の弾を放つ。空気が裂ける。しかしそれはテルミには当たらない。

 何故なら、ユリシアの召喚した鎌がそれを弾いたからだ。ノエルには、もうユリシアのことが見えていなかった。ただ、憎しみを向ける相手、テルミを消すことだけを考えるので精一杯だったから。邪魔されるなら友であろうと。

 ユリシアに向け乱射される銃、それらを彼女はかろうじて躱し、ノエルへ駆けた。目を見開く彼女の銃に鎌をひっかけ、狙いを定められないようにする。そのまま柄を持ち直し、横に殴れば彼女の身は傾いた。

 駆け寄ろうとするが、止める。両者の荒い息は風にかき消えた。

「ユリシア、もういい」

 頷き、ユリシアは身を引く。ツカツカと歩み寄るテルミをノエルは睨んだ。再度問う。何が目的なのだ、と。彼はヒヒッと笑って、

「いいぜ、そんなに問うなら教えてやるよ。とくと『観測』しろや!」

 彼がそう言った瞬間、彼女の目は遠くを見るものになる。やがて震え、苦しそうな表情を浮かべ、拒絶を口にする。彼女は、百年分の争いを見ていた。

 素体と人間が対立し、互いに憎み合い、殺し合う。醜く悲しい戦争。彼女には、当時の素体に向けられていた憎しみが目一杯ぶつけられていた。

 そして、甲高い叫びと共に彼女は戻ってきた。

「嫌、嫌、嫌ぁぁぁああああっ!!」

 彼女の精神はズタボロに引き裂かれていた。荒い息、目に浮かぶ透明な雫、震え、蒼い顔。その表情を見て、テルミは至極軽い口ぶりでおかえり、と。

 言葉にならない声、震える唇。その様を見てやっと、目を丸くして。

「あれれぇ、大変だこりゃ。まあ、あんなモンを百年分も見たらそうなるわな」

 彼女が絶望するのが、テルミの目的の中では必要だった。故に見せたが、余程のダメージだったのだろう。くつくつとテルミは笑った。

 どうして、と彼女は問う。

「それを聞いちゃう? そりゃそうだろ、お前らが滅ぼしたんだから」

 どうして、と再度問う。

「『お前ら』が『人間』から受けた仕打ちを思い出せ」

 ――どうして、彼女は問うた。

「答えは簡単だ。何故なら『お前ら』は憎まれるための存在なんだから」

「……ぁ」

 ぷつり、と彼女の中で何かが切れる音がした。そこに追い打ちをかけるように、テルミは語りかける。

「見ただろ、あれが世界の真実だ。聞いただろ、ゴミどもが泣き叫ぶのを。感じただろ」

 全ての魂の殺意が、テメェに向かったのを。

 そして『世界』の理を彼は語る。一度死んだはずの世界を無理矢理捻じ曲げて、歪な時間を何度も何度も繰り返している。そう、語った。

 どうして。彼女は問う。

 ユリシアは、黙ってそれを聞いていた。彼女に何が起こったのかも、何も分からないまま。ただただ、あそこに居たときのように見守ることしかできなかった。

「かつて人類は最初の門を見つけた。門の向こうに何があるか――それを知りたがった人類は『次元境界接触用素体』を作り探らせようとした。門の向こうはただの機械や人間じゃ行けねぇからだ」

 だから、人間に最も近く調整が効き、かつ人間よりも丈夫な素体を人間達は生み出した。そして、失敗が続く中、一体だけが最深部に辿り着き『蒼』と接触した。

 そうして、有り得ないことが起きた。『感情』が生まれたのだ。ただの観測用肉人形に魂が生まれた。それはそれは、科学者達は喜んだ。

 しかし、その素体は『眼』の力を宿していた。『眼』の力は想像以上の力を秘めていた。当たり前だ。事象を好きに『観測(み)』られるのだから。

 だから科学者達は『眼』の力を恐れ、その眼を潰して境界に封印した。深く深く、暗くて何もない闇の底へ。だが、それで終わるはずがない。知ってしまったのだ。『神』のような力を。

 そうして、彼は『蒼』を独占するため争う人間達と、そのために生み出された素体のことを語る。やめて、叫ぶ彼女を無視して。

「じゃあ、よく聞きやがれよ。その『道具』である人形共がテメェの『本当の兄弟姉妹』なんだよ、ノエル=ヴァーミリオン。っと、これも本当の名前じゃねぇよな」

 それは、ヴァーミリオン家に引き取られてからつけられた名前だ。それならば、お前は何なんだ。テルミが問う。やめて。彼女はまた叫んだ。

 瞬間、ベルヴェルクの銃身からは黒い光が溢れ出す。

 それを見た途端、テルミはとても嬉しそうに笑った。ひどく、嬉しそうに。

 ユリシアはその光が何なのか知る由もなく。ノエルの苦しんだ表情も、きっとあとには消えていると信じて。

「ヒャハ、やっぱテメェ拒絶してたか! そうだよなぁ、そうだよなぁ、うんうん。分かるぞ。でもな、しぃっかり認識しろよ……」

「やめて、やめて、やめて」

「テメェはな……」

「やめて、お願い、やめて!」

 拒絶するノエルを見下ろして、テルミは告げる。

 作られた道具。人形。人形。人間ではない。何を人間のようなふりをしているんだ。彼女が目を見開く。人形。人間のはずなのに、ずっと、人間だと思っていたのに。泣き叫ぶ少女、ベルヴェルクから溢れる光は量を増していた。

「あ、あぁ、あぁぁあ……っ」

 その光に包まれながら、つぅ――と、ノエルの赤い頬を透明な涙が伝う。嘲笑うテルミ。『ノエル(にんぎょう)』は最後『繭』に吸い込まれた。

 

 

 

「これが、ほんとうに、のえるさんのため……ですか?」

 ぽつり、とユリシアがこぼす。

「真実を知らないままなんて可哀想だろ」

 可哀想。思ってもいないことを口にするテルミではあったが、真実が歪められるのが、この狂った世界が大嫌いだったから。小さく頷くユリシアの頭を撫で、

「心配しなくても、もう少しすれば悲しいのも終わるから」

 そう甘い言葉を吐いてやれば、彼女はへにゃりと力なく笑うのだ。そうして、暫し経った後だ。テルミが腕時計をちらと確認して、

「そろそろ来る頃合いかね」

 そうして、屋上の入り口を見れば――。

「見つけたぞテルミィ……!! ノエルはどこだ!」

 にんまりとテルミの口角が持ち上がる。死神、ラグナ=ザ=ブラッドエッジのお出ましだった。結んでいたネクタイを解き首に引っかけたまま、テルミはラグナを見た。

「どこだって? ヒヒッ、わかってるから来たんだろここに!」

「うるせぇ! さっさとノエルを返しやがれ!」

 ノエル=ヴァーミリオンとラグナの間にどんな関係があるのかは分からないが、大切な人、テルミに敵意を持っていることは明らかだから。ユリシアはまた武器を構えようとする、のだけれど。

「コイツは俺様がやる」

 そう言って一歩前に出て、テルミは懐からバタフライナイフを抜いた。くるくる、と手の内で回し刃を露出させる。そんなテルミを見つめ肩を上下に揺らし、歯を剥くラグナはまるで獣だった。

「いいねいいねぇ、その憎みっぷり。ほら、あそこ。あそこで眠ってんだろ?」

 テルミが指差すまま、その方向を見てラグナは目を見開いた。神々しくも禍々しい繭が、左右で色の違う瞳に映り込む。思わず、一歩足を下げた。

「な……」

「言われなくてもノエルちゃんは出してやるから、きゃんきゃん騒ぐんじゃねぇよ」

 テルミが煽るように言って、腕を広げる。叫ぶ。覚醒しろ、と。クサナギの剣を呼んだ。途端開かれる、繭。そこから降臨するのは少女――ノエル。否、ノエルの肉体を持つ少女だ。ノエルの精神は、どこにもない、

「おら、愛しのノエル……否、次元境界接触用第十二素体ちゃんだよ」

 そう言って、地に足を着けた少女を引き寄せる。

「テメェ……ノエルに何をした!」

「何って、精錬だよ。元の姿を思い出させただけだ。――おいクサナギ、テメェは窯に行ってアマテラスを引きずり下ろしてこい」

「了解」

 命令を受け、ノエル(クサナギ)はすぐに移動を開始した。待て、というラグナの声を無視して。だからラグナは雄叫びをあげ、大剣を振りかざし、駆け、テルミに振り下ろす。

 それをひらりと横に躱して、そのままラグナの腰へ回し蹴り。よろめくラグナ、ユリシアに剣が当たりそうになるも彼女が避けることで危機一髪。

 体勢を立て直し、また剣を振り下ろすが、それも敢え無く避けられてしまう。

「おら、他人の心配してる暇があるんならもっと芸を見せろや子犬ちゃん!」

 笑みを浮かべたまま、そう怒鳴るテルミにうるさいと吐き捨てるラグナ。ユリシアは手出しができないから一歩引いて、ただただ繭を不安げに見上げたり、テルミらを見守ることしかできなかった。

「テルミ……」

「んだよラグナちゃん、ご自慢のブレイブルーでも起動してみろ!」

 勝負は圧倒的にラグナが劣っていた。体格ではラグナが勝っていたが、それ以上に踏んだ場数が違う。テルミは何年もの時を生き、さらには何度も繰り返していたのだから。ラグナが単純だったというのもあるけれど。

 テルミの煽りに反応するように、ラグナが右腕を構える。手の甲についた丸いオブジェクトがぱかりと開き、赤い玉が露出した。そこから黒い光が溢れる。

 ラグナが口を開く。しかし――それと同時に、テルミもまた口を開いた。

「第六六六拘束機関解放!」

「んなっ……」

 叫ぶ呪文は、全く同じもので。それと同時にテルミの周りを緑に光る複雑な文字の円が取り囲んだ。思わず、たじろぐラグナ。

「良いことを教えてやるよ、ラグナちゃん。テメェのその腕――黒き獣、蒼の魔道書(ブレイブルー)を作ったのは、この俺様だ」

 親指で自身を指差し、口角を目一杯持ち上げてテルミは語る。目を見開くラグナを見てテルミは吹きだした。テメェが俺に逆立ちしても勝てない理由はそれだ、と嗤って腹を抱える。今まで何も知らずにそれを使って戦ってきて、ここで憎き相手と対峙してやっと知る彼のなんと滑稽なことか。これが笑わずにいられるだろうか。

 テルミが笑い出したのを聞いて、視線をテルミに戻すユリシア。彼の語る言葉は難しい言葉が多い、けれど、ブレイブルー。どこかで聞いたことがある言葉のような気がして――彼女は首を傾けた。

「次元干渉虚数方陣展開……『碧の魔道書(ブレイブルー)』起動!」

 テルミがそう叫ぶと、途端取り囲む円の光が強くなる。ラグナが咄嗟に自身も蒼の魔道書を起動しようとする。が、反応がない。まさか。

「自分の作ったモンに倒されないようにするのくらい当たり前ぇだろうが」

 不気味に笑う憎い顔がそう紡ぐ。体が思うように動かない。ラグナはそれでも剣を振るのだが――やはり当たるわけもなく。

「だから、俺様には勝てねぇって言ってんだろ! 遊んでやってんだからもうちょいお利口になれや」

 怒鳴るテルミに、ラグナはハッ、と吐き捨てる。眉をひそめる彼に、ラグナは口を開いた。――遊んで欲しいのはお前だろう、だから遊んでやるよ、テルミ。

「ウロボロス!!」

 瞬間、テルミがそう叫ぶ。射出されるのは蛇頭のついた鎖達だ。それはラグナに襲い掛かり、腕を噛み千切り、脚を切りつけ、横腹を掠める。悲痛な声を漏らすラグナに構わず、テルミは頬を引き攣らせながらカツカツと歩み寄った。そして、思い切りけりつける。その細い身体からは想像もつかない力で、ラグナは吹っ飛ぶ。

「オイ……テメェ、今なんつった? あぁ? 子犬ちゃんの分際でなんつった? 遊んでやるだと? もっぺん言ってみろ、殺すぞクソガキ」

 その表情には、怒りが込められていた。ウロボロスでラグナを締め上げ、切りつけを繰り返す。何度も何度も何度も。やがて解放されたラグナが膝をつく。

 そこにめがけて、テルミがウロボロスを射出した瞬間――だった。

「――あ」

「んな……っ!?」

 声を漏らしたのは誰だったか。二人の間に飛び出るのは、少女だった。単眼のバイザーを付け、白い装甲を装着した。背後には八本の剣を浮かべる少女。三つ編みにした長い金髪が美しい彼女。ラムダだ。

 ウロボロスに貫かれた少女からは血が吹き出て、彼女はラグナに倒れ込む。

 そんな彼女の出現に、皆が一斉に目を見開いた。

「てめぇ、人形の分際で俺様の邪魔を……っ」

 そう怒鳴るテルミを無視して、ラグナは少女を抱き寄せた。

「ラグ……ナ……」

「ニューか!? ニューなのか!?」

 すんでのところで転移したラムダの中の、ニューサーティーンの魂の記憶が蘇り彼を守った。それがテルミを苛立たせ、ココノエを驚かせ、そして――ラグナを苦しませた。ラグナに抱きしめられながら彼女、ラムダ(ニュー)は幸せそうにふわりと笑う。

「馬鹿野郎、俺なんかを守ってこんなとこで……」

 死ぬんじゃねぇよ、と零すラグナに、ぐったりとしたラムダの腕が伸ばされる。ラグナのまなじりに浮かんだ透明な雫を指先で拭い、

「泣かないで、ラグナ。大丈夫……ニューはずっと、ラグナと一緒だよ」

 そう告げて、彼女はだんだんと薄くなっていき――消えた。遅れて、ココノエが通信を入れてくる。

「おい、ラムダはどうした、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ!」

 彼女の怒号が響く、が。すぐに彼女の声は疑問のそれと変わる。反応が可笑しい、と。

「まさか貴様、ラムダのイデア機関を吸収したのか……!?」

「っとぉ、俺を置いてお涙頂戴は終わりましたかーぁ?」

 ラグナが何か言おうとする前に、テルミがそう声をかける。イデア機関とはなんだ。その疑問の答えは、突然頭に流れ込む声が告げた。ラムダの声だった。

 それが分かった瞬間、彼は胸に手を当てて、自身に吸収されたのだろう彼女に礼を述べる。そしてテルミをキッと睨み付けた。

「テルミ……テメェは絶対許さねぇ!」

「許さねぇからなんだ! テメェに何ができるっつーんだよ!」

 そうだ、彼の攻撃は重いが当たらない。それに、ブレイブルーが無効化された今彼には何もできないはずだ。だというのに、彼はやけに自信満々に右腕をまた構え、その言葉を口にする。無駄だ、叫ぶテルミの前で――彼は、いつもと違う一言を更に叫んだ。

「イデア機関、接続……ッ」

「何だと……!?」

 テルミがそこで動揺を見せる。だからユリシアもまた、不安げにテルミを見た。ラグナの腕が光り、剣を握る手に力が入る。駆け出した。先ほどの比ではないほど早く、そして重い攻撃だった。

 避けきれず、当たる。もしかしたら何か考えがあって当たったのかもしれないけれど、傍目から見れば確かに、彼は避けきれなかったように見えた。

 ラグナの攻撃は続く。先ほどのお返しだとばかりに、何度も何度も。テルミから悲鳴が上がる度、ユリシアは駆け出したい気持ちでいっぱいになった。けれど、テルミが命令しない限り彼女は動けない。

 ズタボロの雑巾のようになって、テルミは地に伏せる。それでもラグナをせせら笑い、

「痛ぇなぁ、ヒヒ……ッ、ヒャハ、ッククク、これだよ、これこれ! 俺が求めてたのはこれなんだよぉ! まだ足りねぇ、もっとだ、もっと楽しませろぉ!」

 高く笑い叫ぶ。既に彼は殆ど動けない状態だというのに、だ。息を整えながら、ラグナはそんなテルミを暫し見つめる。けれど、何も次の行動を起こさなかった。それを不審に思った彼、テルミが眉をひそめ彼を煽るように口を開いた。

「あ? どうした、さっさと殺してみろよ、オラ」

 しかしそれはゆるりと首を振り踵を返したラグナに拒否される。ひらりと手を掲げ彼は一言、ライフリンクのせいでテメェを殺すのは少し厄介だ、と。

 ライフリンク。それは二人が魂を繋げることで、片方が死んでも片方が生きていれば観測上は『生きている』ということになる。ライフリンクを繋げた人間を殺すには、両者を同時に殺さねばならない。

 それがあるせいで、テルミは殺しても殺しても、生を保っていられるのだ。彼がライフリンクを繋げた先――ノエルと共に殺さなければ。

 そんな事できるはずもなく、彼は去っていく。その背中に、テルミは毒を吐いた。

「チキン野郎が」

 ラグナが見えなくなって、テルミはゆっくりゆっくりと起き上がる。無理をしているのが明らかで、ユリシアはそこでやっと動き出す。名前を呼びながら駆け寄り、無茶をしないでと言うのに、彼はそれでも立ち上がる。だからそれを尊重して肩を貸してやるユリシアにふんと鼻で笑って、血を吐いた。

「っぺ。さて……と」

「蒼の男はどうした……?」

 ぐるり、と辺りを見回すテルミ。そして現れるのは仮面で顔を覆った技術大佐の男だ。赤紫のマントを風に遊ばせ、歩み寄るレリウスはテルミの様を見て呆れたように溜息を吐いた。

「その体はあまり戦闘に向いていないと言っただろう、無茶をするな」

「いいだろ少しくらい。んなことより新しい器の方はどうなんだよ」

「あぁ……そちらは問題ない。それより蒼の男はどうしたんだ」

 レリウスが再度問う。何故ボロボロなのかは察しがつく。蒼の男――ラグナだ。なら、何故ハザマは死んでいないのか。そういう意図を込めた問いだ。

「とどめ刺さずに女の尻追っかけて窯だろうよ。んで、ユリシア」

「は、はいっ」

 呼ばれれば、何だろうとすぐさま返事をする少女に、重傷のテルミが語りかける。それは、先日の問いに繋がることだ。

「――俺を殺せ。この、クソ忌々しい世界を管理する奴らを消すために」

 何を言うのだろう、とユリシアの瞳が揺れるが、彼女はやがて決意を固め首肯する。先日の問いはこれだ、と理解したからだ。レリウスが首を傾けるが、すぐに納得したように頷いた。

 器の死が今回の目的には必要不可欠だ。しかしレリウスでは力加減が難しいことをよく知っているし、自らの死では意味がない。故に、テルミは彼女に頼むのだ。

 すっと、現れるのは大きなツバのついた三角帽子を被る生物だ。生物なのかもわからないし、顔も見えない。ただただ、禍々しい雰囲気を匂わせるものだった。

「あぁ、そろそろ頃合いか、ファントム」

 テルミが『それ』を見て溜息を吐くと、ユリシアを見る。

「その前に、だ。――認識しろ。ユリシア」

「へ……?」

 今度は突然、認識をしろ。そう彼は言うが、ユリシアには意味が分からない。否、分からないふりをしているだけかもしれない。その膜を、ぺりぺりと剥がすようにテルミは優しく語りかけた。

「ただそう思うだけじゃダメだ。強く思え、感じろ、そして認識しろ。この世界を今管理している忌々しい連中を」

「ぁ……」

 するりと耳に入り込むテルミの言葉を、ユリシアは聞いて、必死にそれを実践しようとして――ある一定の所まで来て、観えた、気がした。三つの影が、こちらをじっと見つめているのだ。それどころか、管理する過程であれが見てきたのだろう情報が垣間見えた。あれが……そう漏らした途端、ぱっと観えなくなってしまったけれど。

 けれど、感覚は掴めた。意識すれば、観える。

「んじゃ、さっさと始めるか」

 頷き、彼女が鎌を構える。テルミは腕を広げた。彼女の足が、竦む。大切な人を、命令だとはいえ、大事なことだとはいえ。殺さなければならないのは、怖い。

 でも、それでも目を一度伏せ――テルミに撫でられた感触を思い出しながら彼女は、鎌を握り直して。

「さぁ、俺を殺せ。あちらに逝(おく)れ」

 ニィと笑うテルミの言葉に頷き、彼女は駆け――そして、テルミの器(ハザマ)の体を破壊した。舞う鮮血。鉄臭い臭い。その肉塊は、地に落ちた。テルミは確かに死んでいない。今頃、あのシステムの所にいるだろう。しかし、ハザマもまた彼女にとっては大切な人だった。

 涙をぽろぽろと流すユリシアを、レリウスは不思議そうに見ていた。

「何を悲しむ必要がある。テルミ自体は死んでいないし、ハザマもまだ代わりがいる」

 彼には、何が悲しいのか分からない。何故なら全てを『モノ』として捉えているからだ。だが、ぽんと頭を撫で――。

「そのうちアレは戻ってくるから、泣くな」

 そう言って、連れた機械人形を振り返る。

「しばしコレをあやしておいてくれ、私は器の方を見てくる」

 機械人形――イグニスは、何も言わずにただそれに従うのだ。ぎぎ、と腕を動かし、ユリシアへ歩み寄り――その腕を、頭に乗せる。重いし冷たいけれど、それ以上に何故だか温かさを感じるのは彼女のコアである人間の意識が残っているからだろうか。

 やがて、タカマガハラの反応は消える。ほんの四十八万分の数ナノ秒、ラグナがクサナギを倒した瞬間と、その直後――大切な人を蒼の人物が破壊した瞬間。タカマガハラの意識がラグナとユリシアだけに傾いた瞬間入り込んだテルミのばらまいたウイルスにより、タカマガハラはショートし機能を停止した。

 戻ってきたテルミは、あらかじめ窯で『蒼』に触れさせておいた別の器に憑依した。その新しいハザマは、テルミが入ることで見なかった分の記憶も得たから問題ないと言うが、ユリシアはあのことが思った以上のダメージだったのか、暫し生返事だけになっていた。

 

 

 

 ――パチ、パチ、パチ。

 

 窯を中心としたその空間に軽い拍手が鳴り響いた。

「はいはーい、皆さんどうもお疲れ様でしたー」

 その声に、その場に居たラグナもノエルもジンも、瞬時にして緊張感で身体を強張らせながら顔を上げた。一斉に見上げた先、窯を塞ぐ瓦礫のステージの上に……ハザマとユリシアの姿があった。

 しかしそのハザマの姿には、先ほどの屋上での戦闘の余韻は塵ほども残っていなかった。まるで夕暮れ時のあの一戦が、あの時感じた悲しみと憎しみが幻覚との遊戯だったのかと錯覚(さっかく)させるほどに、その細身の黒いスーツには傷や埃、荒んだ汚れなど一切なく、与えた傷が痛む様子もなくて、さらには顔に飛び散った一滴の血ですらもそこにはこびりついていなかった。

 愕然(がくぜん)とするラグナの横で、ノエルが怯えたように腕を抱いて身を竦ませ、金髪の男、ラグナの弟であるジンが溶けない氷の剣『ユキアネサ』を構える。

 そして、その三人を庇うような位置に突然、レイチェルと白い鎧の男ハクメンが転移してきた。

「ウサギ! と、お面野郎……!?」

 ラグナにしてみればまさかの組み合わせの二人だ。驚きに声をあげるラグナを背に、レイチェルが一度ユリシアを悲しげに見つめたあと――テルミを強く睨み上げた。鋭い声で、問う。

「貴方……今までどこに居たの?」

 奇妙な問いであった。少なくとも、ラグナにとっては。

 レイチェルならお供のギィから聞いて、テルミが支部の屋上に居たことも知っているはずだ。これはつまり、テルミの動向を探る問いだった。

 穏やかながらにしてひどく嫌味な笑みを浮かべて、黒いスーツの諜報部員ハザマはにんまりと口角を持ち上げた。

「いんやぁ、本当に皆さんの活躍には頭が下がりますよぉ。皆さんのご協力あって、おかげ様でつい先ほど、無事にタカマガハラを無力化させてきちゃいました」

「……タカマガハラを、無力化ですって?」

 珍しく、レイチェルが動揺を露わに語気を強めた。

 そんな馬鹿なこと。そう思っているのだ。何故なら、ユウキ=テルミは境界に封じられていた身だ。それを発見し引き上げたタカマガハラに、世界を管理する駒として利用されることを条件に観測されることで存在を定着させていた。そのタカマガハラが封じられれば、テルミは――。

 彼らがテルミを思い通りに扱えると信じていた理由は、その『観測』だ。テルミはあまりに不安定な存在で『観測』、認識なしに存在を正常には保てない。

 テルミを動かす際、タカマガハラはテルミ存在自体を報酬、あるいは人質として利用していたのだけれど。

 ユウキ=テルミであると同時に諜報部のハザマである緑髪の蛇のような男は腹を抱えて肩を揺らし大袈裟に笑った。

「クッ、ククク……いやぁ、それはちょっと、語弊がありますよねぇ。私は何も『タカマガハラ』に観測されていないといけないわけではありませんよ。タカマガハラ並、それかそれ以上の存在に観測されていればいい。……お分かりいただけましたか?」

 茶化しからかうようなハザマの物言いに、レイチェルはさらに眉根を寄せた。

 ハザマの言葉は真実だった。何も、タカマガハラだけが彼を観測できるわけではない。しかし、大抵は自身の身でせいいっぱいで、他者を観測するということはとてつもない負荷がかかる。それに、ユウキ=テルミは境界に封印されていた。それほど特殊な男を観測し、存在を定着できるほどの者など、レイチェルは殆ど心当たりがない。

 不安げにハザマを見上げている彼女は話の様子を理解していない様子だからまず有り得ない。無意識下というのは考えない。

 だから、あるとすれば――。

 自然に思考を探り、彼女は答えを導き出す。その答えに、信じられないとその目が見開かれた。驚きと怒り、そして恐れのために。

「まさか……まさか、彼女が貴方の観測を……!?」

 考えたくなかった可能性。そのレイチェルの動揺した表情と今にも震えだしそうな声に、ハザマは嬉しそうに、凶悪な様相でにんまりと笑む。

「大、正、解~。パチパチ、はい拍手~」

 その声音は取り繕っていようと先ほどの穏やかではあった声の雰囲気は僅かにも滲まず、明白な悪意に濁りきっていた。

 その表情に、声に、ラグナの敵意が滲む。そちらに目を向けたユリシアが、小さく声をあげそうになって堪えた。何故、大切な人はこんなにも敵意を向けられなきゃならないんだろう。何故この人は、こんな状況だというのに先ほどから楽しそうなんだろうか。

 一本残った腕で大剣を構えようとするラグナ。しかし、それよりも事情を知る方が先だと残った理性が告げ、詳しそうなレイチェルに彼は問う。

「おい、レイチェル。彼女ってのは誰なんだ?」

 だがレイチェルは、ラグナの問いなど聞こえていないかのように首を大きく横に振って、漏らす。

「でも、それでも。タカマガハラは貴方がおかしなことをしたらいつでも事象干渉で割り込めるように注視していたはずよ。それなのに……」

「おっ、いいねいいねぇ、その反応。テメェのそういう焦った顔って超気持ちいい~。いつもいつもお高くとまりやがって、気に入らねぇ」

 嘲笑混じりに嫌悪の毒を吐き捨てる彼をレイチェルは激しく睨み上げた。この男の挑発めいた言葉はいい加減に聞き飽きてきたが、その奥に続くご自慢の犯行手口については是非とも聞いておきたいところだ。

 テルミは窮屈そうに己の黒いネクタイを緩めてから、瓦礫の端ギリギリまで歩み寄って、にやにやとレイチェルをはじめとしたそこに居るメンバーを眺めた。そうして、話しながら親指と人差し指で小さな隙間を作ってみせる。

「タカマガハラはな……ちょーっとだけよそ見をしたんだよ」

 蒼の魔道書の所持者と、蒼の継承者が戦う。そのスペシャルマッチングのクライマックスに続き自身より上位の存在『蒼』が大切だという人を殺す。

 それだけで、タカマガハラの意識を釣るには充分だった。一秒、否一瞬、ほんの数ナノ秒。この事象の、この場所だけをタカマガハラは見ていた。だからその隙にシステムに入り込んだ。

 レイチェルはごくりと唾を飲み込んだ。事象干渉を今まで繰り返してきたタカマガハラに従順に従っていたのはこのためだったのだと理解したからだ。

 あらゆる事象を観測し、そこで最も確実に、最も長い間タカマガハラが余所見をするタイミングを窺っていた。それがどれほど途方もない作業なのか、その執念じみた発想にレイチェルは肌が粟立つのを感じていた。

 対してハザマに戻った彼の機嫌は良く、瓦礫の縁を強く踏み鳴らして叫ぶ。

「そして、想定外の特殊な存在は生まれましたが、努力の甲斐あって! 全ての事象はここ(・・)、今あるこの事象に集約されたのです!!」

 世界があらゆる可能性の中から選択を繰り返し、先へ進めるシナリオとして選び出されたのがここ。その選択は無理矢理だったかもしれないが、ここを選んだのはきっと『彼女』の無意識の意識も関わっていたかもしれない。

 ふと、空気が動く。それは、夜がもう一つ闇を纏うような静けさと不穏さを含んだ気配だった。

 その不穏さをいち早く感じ取り、レイチェルが警戒に唇を引き締めた。ハクメンはそれを受けて背中に担いだ大太刀、斬魔『鳴神(おおかみ)』をいつでも抜けるように構え、またジンとラグナも同様に身構えた。

 またもう一度空気が動き、やがて彼らはその理由を知ることになる。人だ。

 ハザマの後ろの空間は暗くてよくは見えなかったが、あちこちに灯った白い非常灯の明かりに照らされたところまで出てくると、仄かに浮かび上がってくる人影。少女だ。

 しかし、その少女には決定的な特徴があった。

 長い髪は高い位置で一つに結わえ、服装は東洋の着物を幾重(いくえ)にも重ねたようなものを纏っていた。丸い紅玉のような瞳は大きい。本来なら可愛らしいという印象を与えるのだろうが、しかしその瞳が全てを見下すような冷たさを持っていたから、それに塗り潰される。ただならぬ雰囲気を持つ少女だった。

 そして何より、ラグナとジンの喉が擦り切れそうなほど声にならない声を上げる特徴がそこにはあった。

 纏う雰囲気は全くもって違うというのに、その顔立ちは、造形は、ノエル=ヴァーミリオンのそれと同一だ。

 ノエルに似ているということはつまり、彼らの妹『サヤ』に似ているということになる。しかし彼女は、『似ている』のではない。

 直感で彼らは理解する。彼女は正しくサヤ本人であった。ざわつく感覚が、ラグナにそう教えた。ハザマと共に瓦礫の上で佇むあの少女は、まぎれもなくサヤであると。

 その来訪者に、ハザマが大袈裟な身振りで身を引き恭しく腰を折った。まるで従順な部下といった風体で。ユリシアが振り向き、首を傾ける。

「おっとぉ、これはこれは帝。こんな薄汚い場所にまでご足労いただいて、申し訳ありません」

「よい。これから始まる狂宴の観客たちだ。余も一度見ておこうと思ったまで」

 ふ、と微かに微笑んで彼女は告げた。まさにその光景は臣下と帝といった光景、会話だ。人並み外れた尊厳をまるで衣のように纏う彼女を見て、ジンがまなじりを吊り上げる。

「帝だと? あの少女が何故統制機構の……ッ」

 ジンは帝の顔を知らなかった。ジンの動揺ぶりを見て、ノエルもまた統制機構の衛士に属していながらその頂点に立つ帝の顔を知らなかったことに気付く。少女だという噂すら聞いたことはなかった。

 ジンにつられるようにして帝を見上げたノエルへ、つぅと帝が視線を遣りそして小さく呟いた。

「塵め。まだ存在していたか」

 この世界を歪めた原因が、同一体でありながら全く別の存在であるその少女が煩わしく、彼女はそう零した。その声はとても低く小さくてノエルまでは届かなかった。何と言われたのかは分からなかったが、異常なほどの冷ややかなその視線は空気を伝ってノエルの肌を気味悪く撫ぜた。

 嫌な感じがする。その視線から逃げるように彼女は胸を抱き俯いた。カタカタ、と震える。そのときには既に帝の興味にノエルの姿は一切なく、全体を見下ろし、並ぶ面々に朗々と歌い上げるような口ぶりで語った。

「地に這いつくばる蟲どもよ。タカマガハラは既に余の掌中(しょうちゅう)。全ての起きるべき事象は確立され、確率事象(コンティニュアムシフト)は終わりを告げた。永遠が終焉を迎え、世界が本来あるべき姿へ還る時が来た。故に、余は今から『滅日』を始める」

「……『滅日』?」

 眉をひそめ、ラグナが聞き慣れないその単語をなぞるように復唱する。その不穏さは言うまでもない。その不穏ささえ香のように絡め纏って、彼女は口端を持ち上げて笑んだ。

「よく見ておくがよい。新たな世界の幕開けを……」

 そう言った後に、彼女は視線をユリシアへ投げかける。つま先から頭までなぞるように見つめた後、彼女は先ほどの不穏さは微塵も感じられぬほど目を細め優しく笑いかけ、

「其方(そち)のことはよう聞いておる。これからは其方にも動いてもらうでな、期待しておるぞ」

 語り、ユリシアが何か言おうとすればにこやかに微笑んでそれを制した。

 そして、改めて皆を見下ろすと彼女は踵を返しまた奥に去って行った。それに続くように、ハザマがユリシアの背に手を伸ばしながら消えていく。ちらりと一瞬、視線だけで振り返ったハザマの目は不穏な笑みに歪んでいて。そうして、三人の影はカグツチの地下からなくなった。

 彼らを運んだのは、転移魔法だった。ハザマと共に揺らぐ影が見えていた。おそらくその影が転移魔法を使ったのだろう。その影を見た途端、レイチェルとハクメンが動揺の色を一瞬だけ見せていた。『彼女』は――。

 けれども最早、使い手の潰えた魔法の使い手にいちいち驚いている余裕はラグナにはなかった。

 頭が鈍く痛み思考が纏まらない。先に見たあの帝の顔が頭に貼りついて離れなくなっていた。

 何度確かめるように己に、アレがサヤなのかと聞いても、そうであるとしか返ってこない。

 サヤを最後に見たのは何年も前だ。だから彼女が記憶の中のサヤと背格好が違ったりするのは当たり前で、実際記憶の姿とは違ったというのに、アレがサヤだと確信をもって言えるのが不気味でならなかった。

 

 突然に現れた帝の存在に圧倒され、また、あまりにも自然すぎて彼らはとても気付けなかった。

 ……この日に至るまでの何もかもが、帝が口にしていた通り、新たな舞台の幕開けの準備であったということに。

 

 

 

「あの、ところで……どなた、でしょう、か」

 転移先に来て、暫し歩んだ後に彼女は、帝と呼ばれた少女へ問う。そこにたどり着くまで、今まで知らぬ人に話しかけられたときのような怯えは一切なかった。落ちつきすらあった。まるで最初から知っていたかのように。でも、ハッとしたように彼女は怯えを見せて。

「あぁ、其方は会うのが初めてじゃったなぁ。余は帝じゃ。名はあるにはあるが、今は帝と呼べ」

 帝。そう名乗る彼女に、ユリシアは首を傾ける。名でないなら、帝とは何なのだろうか。ハザマ達がいやに下に回っていたということは、よほどの人物なのだろうけれど。

「そういえば、ユリシアにはまだ教えていませんでしたねぇ」

「ほう。このような大事な娘にきちんと教育を行き届かせてないと? ハザマ」

「いえいえ、そういうつもりでは。ただ、私にも仕事というものがありまして……」

 ハザマの呟きを拾って帝が少しばかり低い声で問えば、慌ててハザマは顔の前で手を横に振り、必死に言い訳した。その様子にクス、と笑って帝は冗談だ、と言う。

 二人の仲の良さげな発言に、ユリシアが思わず微笑みを見せると、彼らは顔を見合わせた。

「まぁ簡単な話ですよ。今の統制機構、つまりこの世界を管理されるお方、それこそが帝です」

 ハザマが人差し指を立てながら解説する内容。あまりに軽々しく話すものだから簡単に受け流しそうになったけれど、彼女はそれを理解した途端「え」と漏らして立ち止まる。

「せかいを、かんり……している、ですか」

「ええ。そうですよ」

 彼が首肯すれば、彼女はとんでもない人と話していることに気付く。確かに言われてみれば、自身より年上ながら少女である相手は、それ相応の風格というものを持ち合わせている。先の、皆に向けて語っていた時なんかはまさに。

「まぁ、そんなに固くならんで良い。余は其方が気に入っておるでなぁ」

 思わず身を縮こめる彼女は、そうあやすように言われても返事をしはするものの、なかなか気を緩めることができなくなっていて。先の非礼をどう詫びようか、と幼いなりに考える彼女に、クスクスと帝は笑った。

 彼女はまさか、自身の存在の特殊さにも気付いていないのだろう。否、どこかで気付いていながら知らないフリを突き通しているのか。帝には、彼女を見た瞬間に理解した。

 彼女は正しく蒼そのものだと。それも、ノエル=ヴァーミリオンが一度継承したそれとは比べ物にならない、莫大な大きさの蒼を秘めている。彼女のそれは蒼に触れた素体が得た力だが、ユリシアと名付けられたこの少女は、大本のそれの片割れとも呼ぶべきな。

 その少女がこちら側についている、というのは最早世界への裏切りだろう。それだけで何と心強いことだろうか。愛しげにユリシアを見つめる帝とそれを眺めるハザマの腹の内は可笑しさと喜びに沸いていた。

 優しさを見せる彼女らに、少しだけ慣れてきたように彼女は眉尻を垂れながらも笑みを見せた。

 カグツチに背を向け、彼女らが向かうは次なる舞台。

 それは、複数の階層都市が集まってできた場所。数年続いた内戦により壊滅し、今なお復興作業の続くそこは――連合階層都市・イカルガ。

 ラグナ達もまた、導かれるようにしてそこへ向かっていた。



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第六章 快青の朝

 カザモツのとある料理店。

 窓から見る湖は広く、口に運ぶ濃厚チーズと厚切りベーコンのピザは絶品だ。ロゼワインがここにあれば最高かもしれない。

 オレンジジュースをストローで吸う少女を見つめながら、テルミは数日前のことを思い出す。腕時計を見た。ディスプレイに映し出された数字を眺め、目を止めたのは時間ではなく日付だ。彼女が来たのは六月二日で、あれから一ヶ月ほど過ぎて七月の初旬。

 確か明日は七夕祭りだったか。あの確率事象の中、一度たりともこの時まで辿り着いたことがない。今は動きを停止したタカマガハラの事象干渉のせいでもあるし、自身達があの段階でそこまで行くことを望んでいなかったからだ。

 ピザの最後の一切れを噛み千切り、咀嚼しながら、そう思考を巡らせるにつれて、テルミの口の動きはゆっくりと止まっていく。じゃあ、何故今回の事象において、ニュー・サーティーンが窯に落ちたあと、誰も動かなかったのか。そう、テルミ達でさえも。タカマガハラだって、何故気付かなかったのか。

『どういう訳か、観測はできても――僕らはあの『蒼』の気配を色濃く纏う彼女に干渉することはできない。多分、それは『彼女』……アマテラスも同じじゃないかな。だからこそ観測が傾いた節はあっただろうね』

 タカマガハラシステムが消える前のくだらない会話の中。システムの一つ、中世的な声のそれが軽い口ぶりで語った台詞も気になった。それは、自身達にとってはひどく都合のいい内容だったけれど、この少女に干渉ができないなんて。

 何故だ。ごくり、と口に含んだそれを飲み込んでテルミはユリシアを見た。

 不思議そうにこちらを見る彼女は、何も理解していないといった様子で気が抜けそうになる。

 別に、特に問題はない。しかし何故タカマガハラですらこの事態の異常性に気付かなかったのだろう。一月から、六月。およそ五ヶ月以上もの時を自身らは無駄にしていた。そして手に入れたのは彼女だ。それだけの価値が彼女にあるのか。いくら蒼だとはいえ何も理解していないそれは本当に。これも『蒼』の意思だというのか。

 今まで何故疑問も違和感も抱かずにいられたのだろうか。そう考えて思い当たるといえば――。

 否、今は考えるのを止めようとテルミは思う。

「さて、食い終ったし……行くか」

 店を駆け回る店員に声をかけた後案内されたレジで会計を済ませた。カラコロというドアベルの音を聞きながらテルミ達は店を出る。向かうのはカザモツの統制機構支部だ。

 本当ならヤビコの方がセキュリティも徹底しているし良いのだが、あそこには今、衛士最高司令官――つまり衛士に対して帝の次に衛士に指令を下す権限のある人物がいる。それも、階層都市を治める『十二宗家』の筆頭、ムツキ家の現当主だ。

 自身が厄介ごとを作るのは良いが、自身から面倒なことに巻き込まれに行くのは勘弁だ。それに――彼女も喜んでいるようだからと彼らが話し合いカザモツに決めたのはつい昨日、イカルガにやって来たばかりの時のことだった。

 ユリシアはテルミの温度のない手にそっと触れて、視線を投げてやればへにゃりと笑みに表情を崩す。何が面白いのか、テルミにはさっぱり分からなかったけれど。

「てるみさん、いかるがって、おもってたよりいいところ、ですね!」

 ユリシアが聞いていた話では、イカルガは戦いの爪痕が未だ深く残っており復興途中の場所も多く、また統制機構に対してよく思っていない人間も多い……とのことだったが、ここカザモツを見る限りではそんな様子は一切見えなくて。

 ご飯は美味しく、観光名所があり、街行く人々の笑顔は絶えない。そんな場所だったから。

「まぁ、ここら辺は復興作業が結構進んでるからなぁ」

 ユリシアの言葉にそう返し、テルミは街を改めて見る。そこに戦争の面影は感じ取れず、よくここまで来たものだと感心した。カザモツはあまり被害が少なかったらしいから、復活が早いのも当然だとは知っていたけれど。

 ヴェールのように柔らかな太陽の光を浴びながら、湖の周りに建てられた港町を歩く。その足取りは少しゆるやかで、時々屋台の前で足を止めたりなんかして。やらなければいけないことはまだ沢山あるが、今更焦る必要はないのだから。

 テルミはユリシアの手を握り返し、歩みを進めた。階層都市の中心部までやって来て、昇降機を使い最上層まで登れば統制機構支部はすぐそこだ。帽子を目深に被り直せば逆立った髪はするりと下を向く。目をすっと細め、ハザマになりきった後、統制機構の目の前へ。門番に身分証を見せ中に入り、廊下を歩き階段を上りまた廊下を渡ってやっと諜報部の執務室。

 鍵の術式をいつも通り解除し、扉を開ければやっと一休みができる――。

「遅かったではないか、なぁ? テルミよ」

「あ……」

 部屋に響くのは甘やかにして幽玄とした声。帝だった。

 何故いるのだとテルミは、勝手に入り込みソファで手を振るその少女に問う。転移のできる彼女に通常の鍵など無いに等しい。故に、入ることができたとしても可笑しくはない。だからこれは彼女が居る動機を尋ねていた。

「あまりにも貴様が帰らない故に、心配して来てみたまで。何か不味いことでもあったか?」

 心配。あまりにも似合わない言葉をいけしゃあしゃあと吐く帝に溜息を吐きハザマが出る。彼女の目的はテルミ達などではなく、それに付き従い今見知った顔に微笑んでいる幼い少女なのだろうから。

「いえいえ。ただ、貴女様はこの世界を治める身。あまりこうして一衛士ごときのところまで出向く――なんていうのは、些か問題ではありませんか? 帝」

 窘めるような言葉に、しかし帝は一切、表情を不快に崩すことがない。寧ろ余裕から口端で笑みを作り上げるほどであった。

「余が誰に会いに行こうと余の自由。それも、余がこの世界を治めているのなら尚更……なぁ?」

 彼女が口にする台詞は、そう言われてしまってはどうにもできなくなってしまうようなものだった。分かっていた、彼女がこんな台詞を吐くことは。

「しかし、確かに貴様の言葉も一理はあろう。部屋の主も帰ってきたこと、余も立ち去るとする」

 そう言って彼女はソファから立ち上がると、今しがた彼らが入って来た扉の方へ歩み寄る。ノブを捻り、扉を引いて開けると、最後に一言残して彼女は部屋を出た。

「また、な。その時には茶の一杯でも交わそうぞ。なぁ、ユリシア」

 そう言って少女に向けて手を振って、彼女は部屋を出る。ぱたり、と戸が閉まる寸前に彼女は消えた。やはり転移魔法だ。人通りが少ないここだから良いものの、人が居たらどうするのだとハザマは頭を抱えた。部屋の中から転移すれば良かったはずなのに、それも彼女の気まぐれからだろう。彼女にはもう少し自身の立場を理解してもらいたい。

 そんなハザマの悩みなど露知らずユリシアといえば、次に来た時はお茶を用意しないとですね、だなんて言ってハザマを見るのだ。それに適当に首肯してやって、ハザマはソファにひどく脱力した様子で腰を下ろした。

 深く深く吐かれる溜息、それに首を傾けどうかしたのかと問う無知な少女に首をゆるりと横に振って、彼はなんでもないと告げる。

「ユリシア。お茶を淹れてください」

「はい、わかりました、です」

 こういうどうにもできないモヤモヤが胸の中を渦巻いたときは、気を紛らわせるには彼女の淹れたお茶を飲むのが一番だ。

 頷いてキッチンに駆けて行く少女の背中を見てまた一つ溜息を吐く。今日は特に仕事もないため、彼は暇を持て余していた。仕事の一つでもあれば、もう少し簡単に気分を転換させられたのだろうけれど。

 数分ほど経って彼女がトレイを持ち戻ってくる。白いそれに乗せられたカップを机に置き、ティーポットを傾ければトポトポと朱色の液体が流れ出し、僅かに弧を描いてカップに注がれていく。揺れる水面。スティックシュガーの紙をぴりっと破って、砂糖を半分ほど入れる。

 くるくる、くるくる。ティースプーンを前後に振りかき混ぜ砂糖が紅茶によく溶けたら、ソーサーにスプーンを置いて紅茶を一口。

 フルーティな香りと、自然と舌に乗る甘み、僅かな渋み。バランスよく存在するそれらを楽しみながら少しの間舌の上で転がした後、嚥下に喉を上下させる。

 ハザマの満足げなその様子を見てユリシアは微笑んだ後、ふと口を開いた。

「そういえば、つばきさん、あれからどうなった、でしょう」

 ユリシアが最後に出会った時の彼女が苦しげな姿だったのはまだ記憶に新しく、しかしそれ以降は会えていない。あの少女とは一、二回しかまだまともに話せていないけれど、最後に見たのがあれなだけに少し心配だった。だから、あの様子についても何か知っている風だった『彼ら』なら分かるだろうかと思って彼女は問うた。

「あぁ……そういえば、会わせていませんでしたね」

 その問いに彼は思い出したというように頷いて、カップをソーサーにそっと戻すと彼女の方に視線を向けた。元気にやっていますよだなんて語った後に、それでと前置いて首を微かに傾けて、にこやかに微笑み彼は問う。

「会いたいですか?」

「……え」

 いくら彼女が精神汚染(マインドイーター)に侵されていて自身が敵と見なした者を『帝のため』と騙り裁こうとしているイカれた状態であったとしても。帝もお気に入りのこの少女に対してまで冷たく当たることはないだろう。それなら、会わせても問題はないはずだ。

 それに、今の内に彼女に一度会っておいた方が、ユリシアも少しはショックが少ないだろうという思考から出された言葉。

 対する彼女の表情は、意外だと言うかのように目を丸くしたものだ。漏らされる声は間抜けで、だけれどすぐにハッとして言葉の意味を理解すると彼女は、

「いいん……ですか?」

 期待を込めたような瞳で少女はハザマを見つめ問いで返す。聞かせる言葉は「勿論」だ。首肯してやれば、みるみるうちに彼女の表情は明るくなっていく。瞳をキラキラと輝かせ、綻ばせた頬は喜びで薔薇色に染め上げられた。

「そうですねぇ。明日か明後日辺り、少しお話の時間を設けてもらえるよう話してみますね」

 祀り上げられ少佐となってはいるが、それで天狗になるような性格ではないからきっと応じるだろう。思いながら、語る言葉に彼女は頷いた。

 しかし、一つ解決すれば次に鎌首を擡げるのはまたしても疑問だ。

「えと、たてつづけで、わるいんですが……のえるさんと、まことさんの、ほうは」

 前者はツバキと同じようにあの日以来会っていないし、姿の変わった彼女がやけにハザマ達に怯えていたことや、前に世界の敵だと説明されたラグナ達と共に居たのも不思議だった。

 後者の方はもっと前。任務に出た日から一度も会っていない。カザモツへ来ているのはハザマの部下らしい彼女は知っていると思うけれど。

「あぁ……彼女達は」

 伝えるべきか、珍しく悩んでいた。別に事実を伝えるだけだし彼女がどう思おうと関係ないはずなのに、悩んでいた。けれど、自分らしくないとその悩みの念を抑えつけて、あくまでいつも通りの彼を貼りつけたまま語る。

「別の組織の所へ逃げちゃって、晴れて反逆者となりましたよ。――まったく、いけませんねぇ。衛士が反逆者になるだなんて」

 聞いた途端、彼女は目を丸くする。反逆者とは何なのか、別の組織とは何なのか。分からないことは沢山。けれど、分からないなりに直感が告げるのは、

「……まことさんたちには、もう、あえないという、ことでしょうか」

「えぇ、そうですね。理解が早くて助かります」

 別の組織というのは分からないが、そこに行ってしまったというなら、きっと。そう思って問うてみれば、それは正しかったらしい。疑問を抱いてそこから正解を引き当てることは嬉しいことだったはずなのに、目の前の男に肯定されても嬉しさを感じない。

「そう……ですか」

 なんと言えばいいんだろう。寂しい、と言えばいいのだろうか。それとも、一緒になってそういうのはよくないですねなんて返せばいいのだろうか。分からないから、そうですかと返す他に何もできずただただ苦笑して彼女はソファに腰をかけた。

 あのニッと笑った表情や困ったような微笑みを思い浮かべた。あれはもう見られないのだ。彼女らがどうしてそちらに行ってしまったのかも分からない。分からないことが多すぎて、ハザマを見ればどうかしたかと微笑んだまま首を傾けられて首を横に振る。

「そんなに落ち込まないでください。確かに寂しいかもしれませんけれど、もうアレは私達の敵なんですから。割り切らないとやっていけませんよ」

 どうして、ハザマがこんなに平然としていられるかは理解できないし、反逆者というのが敵という意味だというのもここで知ったわけで衝撃は少しあったけれど、割り切らなければいけないというのはその通りなのだろう。

 そうですよね。そう言えばハザマは首肯して紅茶にまた口を付けるだけだ。

 マコト達に会えないことはない。居場所くらいおおよその予想がついている。けれど会わせたところで面倒事が増えるだけだ。ならば会わせる必要はないし、そこまで出向く面倒も負わなくていい。紅茶を啜りながら少女を一瞥して、ハザマは考えた。

 そうしてその日は何もなく終わり、次の日の休憩所でのことだ。

「ユリシアが? ……確かにあの日から会っていませんでしたが」

 『偶然』居合わせた男の言葉に、ツバキは少しばかり不思議そうに首を傾けた。

 この男――鮮やかな緑髪と何を考えているのか分からない柔和な笑みを湛えたその人物のことはよく思っていない。また何か企んでいるのでは、そう考えてしまう。誰がどうなろうと、自身は帝のために働くだけのはずなのに。

 そう身構えていたツバキだったが、ハザマの口から紡がれた言葉はそんなツバキの考えとはまったく別の、至ってシンプルな内容だ。

 ――そういえば、ユリシアが会いたがっていましたよ。なんて。

「ですので、もしお時間がよろしければ、明日か明後日辺りにどうです? ツバキ=ヤヨイ少佐」

 少佐と呼ばれた彼女は、少しだけ怖がっていた。あのとき――ハザマに貶められ苦しんだとき。何もかも見えなくなった瞬間。彼女も居たから、少しだけ気まずさを感じていたのだ。

 それでも、会いたくないわけがなかった。話した回数はまだ少ないけれど、一応は友と呼べるような存在だと思っているから。友だと思っていた人達は皆、別のところに行ってしまったのだ。唯一残った彼女と話したいと思わない方がおかしいだろう。

「ええ、それなら明日の昼休憩の時間に伺っても?」

「分かりました。楽しみに待っていますよ」

 にこやかに微笑んでそう言うと、ハザマは立ち上がる。それを目で追いかければ振り向いて軽く会釈し彼は休憩所の外へ去っていく。ツバキはそんな彼の背中を見送るように見つめていたが、彼がすぐ近くの角を曲がった頃合いで。

 やはり彼は得意ではない。俯き、彼女は溜息を吐いた。

「――というわけで、ツバキ少佐が明日来ることになりました」

 角を曲がり、階段を上り、廊下を渡って昇降機を使って上に。それからまた廊下を歩いた先。統制機構の入り口から随分と離れたところにひっそりと存在する諜報部大尉執務室にて彼はにこやかに少女へ笑いかけた。さて、彼女は喜んでくれるだろうか。

 思いつつ告げれば彼女は案の定、本当ですかと瞳を煌めかせた。首肯する彼に問うのは何時頃なのだ、だなんて。隠すことでもないだろうと教えてやると彼女はにっこりと両目を細めた。

「じゃあ、おひるごはん、つくらないと、ですね!」

 もしかしたら食べてくるかもしれないじゃないですかだなんて言ってやろうとしたけれど、そのあまりに楽しそうな表情を崩すのに躊躇いをおぼえて、言い出せずに終わる。

 

 

 

 そして翌日の昼だった。約束通り彼女はいつもの第零師団から遠く離れた諜報部のもとへやって来ていた。違う支部になっても、諜報部の胡散臭さは変わらない。やはりここは好きになれない、そう思いながらも、三度扉をノックする。こうやって彼のもとを訪れるのはこれで二回目になるか。一回目は例の任務のときだ。チクリと胸の奥が針に刺されたように痛む。

「どうぞ」

「失礼します」

 迎え入れる言葉を合図に一言断って扉を開け視線を巡らせれば、いつも通り執務机の前に腰かける緑髪の大尉。向けられる細められた視線。見たところ、自身と話したがっていたあの少女は見当たらないが――。それを受けて、一歩部屋に踏み入り扉を閉める。

「あぁ。来てくれましたか。約束通りですね」

 にこやかに、微かに頭を一度下げてからそう述べるハザマにツバキは短い言葉と共に頷いて、そのあと室内をまた軽く見回す。

「あぁ、ユリシアでしたらキッチンですよ。そろそろ戻ってくるかと」

 そう言いながら立ち上がり、片手を机に置いたままゆっくりと執務机の横を通って彼はツバキの前に立つと指を差す。その方向を見れば、カウンター越しに覗けるキッチンには確かに彼女が居た。揺れる金髪はまるで尻尾、せかせかと動き回る少女は何やら皿に料理を盛り付けている様子で、やがてそれも終わったのかキッチンからこちらに戻ってくる。

 そこでツバキの姿を見とめて、あっと口を開き目も真ん丸に見開いた。料理の乗ったトレイをすぐさまテーブルに置いて、ててて、とツバキの元へ駆け寄り彼女は、

「こんにちは、です。きてくれたですね、ツバキさん……!」

 へにゃっと可愛らしく笑って伝えられる挨拶はひどく自然で、身構えていた自分が馬鹿に思えてくる。もうツバキにはあまり見えていなかったけれど、微笑む少女の弾む語調につられて頬が緩んだ。ええ、こんにちは。そう返せば頷く彼女。ここ数日ツバキは笑った記憶がなくて、氷のように冷えていた心が温まる気すらした。

「つばきさん、こっち、です」

 そんなツバキの心情など露ほども知らず、彼女はツバキの手を引く。そこに、前の時ほどの気弱さは感じられなく、突然のことに少し驚きながらも成長したなぁと考えるツバキが座らされるのはソファの真ん中だ。そして目の前には、湯気を立ち上らせるパスタが出される。

「えっと、これは……?」

 ハザマに手招きをしてツバキに向かい合うようにもう一つのソファへ座らせたところで、ユリシアはツバキを振り返りふふ、と笑いを零した。

「つばきさんがくる、ってきいて……せっかくだから、いっしょにごはん、たべたいとおもって」

 少しだけ恥ずかしそうに赤らめた頬を軽く引っ掻いて語る少女にツバキは驚く。自身のために誰かが何かをしてくれるなんて、いつぶりだろうか。

「さめないうちに、たべてください、です」

 いつの間にかトレイを片付け戻ってきた少女がハザマの隣に座って、そう言い手の平を差し出すことで皿を指す。赤茶色をベースとしたミートソースの乗るパスタに視線を落とし、暫し見つめ――頷く。

「ええ、いただくわ」

 今は昼食を摂るためなどに設けられた休憩時間だ。それを使い飯も食べずに来たはいいが、時計の針も上を差し丁度お腹も少し空いてきた頃合いだったから、食べる分には問題ない。でも、見られている故か少しばかり緊張はある。見たところなかなか美味しそうだし、味もきっと問題はないのだろう。食べないんですかと聞いてくるハザマ大尉に顔を向ければユリシアの隣で既に料理に口をつけ始めていて。

 そっとフォークを手に取って、ソースと麺の上に突き立て混ぜる。混ぜ切れば、赤茶に染まったパスタを少し引っかけてくるくると回し、絡めとり口に運び、咀嚼する。

 麺はもっちりと弾力があり、トマトを素材としたミートソースは程よい酸味とまろやかさがあって、細かく刻まれ炒められた玉ねぎのシャキシャキした食感とたっぷり入ったひき肉が絶妙にマッチしている。

 ツバキは主に和食を好んで食べていたが、たまにはこういうのも悪くない。しっかり噛んで味わった後、喉に滑らせる。それからまた同じようにパスタを絡めとって、もう一口。ふと、これを作った少女の方へ目を向ければ彼女は、フォークだけでは上手く巻けないのかスプーンを添えて苦戦しながら一口を作り出している。

 子供みたいだ。否、子供なのだけれど。その作法にクス、と小さく吹きだせば彼女の視線が投げられる。きょとり、首を傾ける少女の口端には赤いソースが。それが余計に可笑しくて。

「っふ……ふふ、ユリシア、ついてるわよ」

 肩先を小さく震わせながら、すっと目を細めてトントンと自身の口端をツバキが叩く。それに一瞬目を丸くしてから、気付いたように慌てて口端をごしごしと手で拭うユリシアだったが、手に付いたそれをどうしようかとあちらこちらに視線を動かす。

 ハンカチを出してやれば素直に受け取り手を吹く少女に、ふと――聞こうと思っていたことをツバキは思い出した。

「それで、ユリシア。何故、私に」

 会いたがっていたのだろう。最後の時はあんな、随分と酷い醜態を見せていたはずなのに。それで何故。

 ユリシアが手を止めて、ツバキの朱(あか)く染まってしまった瞳を蒼の眼で見つめ返す。それから視線を少し落とすと迷うように目を泳がせた後、ふっと笑った。

「いえ。ただ、あのとき……とてもくるしそう、だったまま、わかれたので」

 だから、元気そうで安心したとユリシアは顔を上げ語る。なんだかそう言われるとツバキも少女が元気そうで嬉しくなった。特に、目の前で二人の会話を聞くこの男と一緒に居るから心配はあったのだ。それ以上に、帝とのことがあったり、今は敵となってしまった大切な人達を帝のために消すことばかりを考えて、あまり彼女について考えることはできなかったといえばそうなのだけれど。

「それにしても、このミートソース。美味しいわね」

 笑っていたはずなのに嫌なことを思い出しそうになって、話題を変えるようにツバキがそう言葉を紡ぐ。その途端、ユリシアがぱっと目を輝かせた。

「ほんとう、ですか……!?」

 きっと市販の良いものを使ったのだろう、と思っていたツバキにとってそれは意外な反応だった。無意識に目をぱちくりとさせるツバキに、ユリシアは少しだけ頬の辺りを薔薇色に染めて、

「がんばって、それも、つくったので……」

 へにゃっと微笑んで紡ぐ言葉にちょっとだけ驚いて、ツバキは少しだけ食べたパスタを見下ろし感心した。そして、嬉しそうに礼を述べる少女にふっと微笑む。

「ええ、そう。とても美味しいわ。ユリシアは料理が得意なのね」

「とくい……ってほどでは、ないですが、たいせつなひとたちに、おいしいごはんを、たべてもらいたくて」

 たどたどしい言葉で、健気に少女は語る。それから手が止まっていたことに気付いたように、半ば恥ずかしさを隠すようにして、

「あ、はやく、たべないとですね」

 なんて言ってまた残ったパスタに手を付ける。だからツバキも軽く頷いて少しだけ冷めてしまったパスタをまた口へ運んだ。

「それじゃ、またね。お昼も美味しかったわ」

「はい! わたしも、とっても、たのしかったです……!」

 にこやかにユリシアへ手を振った後きゅっと表情を引き締めツバキは、元は自身よりも階級が下である男にも丁寧に挨拶の句を述べて部屋を去る。

 あれから食事を済ませた後、軽く会話をしていたのだけれど、その会話が僅かなしこりのようなものになってユリシアの胸に残っていた。

『あの、つばきさんは……のえるさんと、まことさんのことって』

 言ってもいいことなのか分からなかったけれど、あんなに仲が良かった二人のことを彼女はどう思っているのだろうと、確かめるように一度ハザマの方を見てから彼女が途切れながらに紡ぐ言葉。それを耳にした途端、すっとツバキの瞳が暗い色を帯びたのは気のせいではないだろう。

『ええ、知っているわ。二人が……私達を裏切ったことくらい』

 フォークで最後の一口を絡めとりながら、伏し目がちにツバキが語る言葉は内容の割にざっくばらんに紡がれて、冷ややかにして重苦しい空気がユリシアの肺に流れ込むような錯覚をおぼえさせた。裏切っただなんて、それくらいの言葉は分かるようになっていた。

 苦笑を引き攣らせ貼りつけたまま、ユリシアは何も言えなくなっていた。そんな少女のことなど知らず、巻いたパスタをそのままに皿の上にフォークを置いて、彼女は尚も言葉を続ける。

『最初は、私もとても悲しんだわ。ノエルはまだしも、マコトまでだなんて……』

 胸に手を当て、悠々と一度首を横に振り言う瞳は、言葉の通りとても悲しげで、寂しそうな色を宿していた。元々は深い青色だったそれは燃えるような色に染まっていたけれど。

『でも、帝様が助けてくれた。私に光を与えてくださった。流石、この世界を統べるに相応しい人物だわ』

 そして深い悲しみの表情から打って変わり、どこかうっとりとした表情になる。先ほどとはまた別の暗い光を映し、胸に当てた方と垂らしていた方の両手を組むと彼女はそう述べるのだ。

 帝――あの、幽玄な声と見た目には釣り合わないようなただならぬ気配の持ち主だ。その人物が、彼女を助け光を与えたのだと彼女は語った。

 純白だった兵装を真っ黒な闇に染めた彼女の光とは、一体どれほどのものなのだろう。ユリシアの隣で聞いていたハザマが、おかしさに失笑しそうになるのを抑えていた。

 やがて最後の一口も胃に収めて、彼女は顔の前で手を合わせる。ごちそうさま、と聞いたこともない言葉と共に小さく会釈し、先ほどまでのどこか異常な雰囲気など無かったかのように微笑んだ。首を傾けるユリシアの前、彼女は立ち上がり――。楽しかったわ、それじゃあまたね。と先ほどに戻るのだ。

 少しだけ怖かった。あの優しく気高かった彼女が何かに侵されているようで。怖い、気がした。

 けれど、きっとそれも気のせいだろうということにして、彼女はハザマを見た。

「しょっき、かたづけてきます、ですね」

 困ったような笑みを作ってそう断って、お願いしますという短い返事を隣に座る彼から受けつつ綺麗に空になった三枚の皿を重ねて持った。

 落とさないようにしっかりと握って、キッチンに向かおうとする背中に、ふと声が届く。

「ユリシア」

「はい、なんでしょう?」

 首だけをくるりと振り向かせて彼女はもう一度彼に視線をやると、彼は目を細めたまま、問う。少しは楽しめましたか、と。

「はい、もちろん、です。てるみさん」

 声はひどく穏やかにして優しく、柔和な笑みを携えた彼は傍から見れば『ハザマ』であった。けれど、彼女がテルミと呼んだ瞬間に目つきの悪い金の瞳を見開いて、ぽかんとした様子で少女を見つめた。黙り込む。

「はざまさんのふりして、どうかしたんですか」

 彼女がにこやかに微笑んで沈黙するテルミに問う。事実、彼はハザマのフリをしただけのテルミだった。特に理由もなくそうしただけだったけれど、普段のテルミなど一切出していないはずだったのに。まさか、気配を見抜いたというのだろうか。

 テルミとハザマは同じ肉体でありながら、知っている人でもパっと見気付けないほどに人相(にんそう)や雰囲気がガラリと変わる。けれど、もう一人の真似をし偽ることだって充分可能なほどに彼らは同一の存在でもあったから、その驚きは大きい。

「……なんとなくだよ」

「そう、ですか。それならいい、ですが」

 素っ気なく返し、テルミは長い脚を下品にもテーブルに投げ出して組んだ。そうして目を伏せる彼にふふと笑ってユリシアは今度こそキッチンへ向かった。

 

 

 

 ハザマは、気付けば白い空間に居た。

 (またこの夢、ですか)

 そこには鏡が一つだけあって自身が映り込む以外は真っ白で何もなく誰もいない空間。壁は見えずどこまでも続く空間の中で彼は、毎回鏡を覗き込むのだ。

 黒のスーツはいつも通り上質なもの、同じ黒のハットから溢れる緑髪は鮮やかにして艶やかで、ツバをつまんで少しばかり帽子の角度を直すと、彼はふと鏡越しに自身の背後を見る。するとそこには黒くひょろ長い――影が立ち、自身の肩に手を置いているのだ。

 その顔は丸く輪郭はぼんやりとしていて、瞳は左だけで緑色。口は三日月のような弧を描き、胸に見えるのは緑に発光する固まりで、そこから同色の光が全身にはしっていた。振り向けばそこに影はなく、あるといえば丁度鏡で見たそれと同じ位置に男が立っている。

 背丈も顔つきも変わらない。ただその表情は、同じ顔のはずなのにまるで別人のように凶悪なこと、自身のジャケットの代わりにベストの上からは黄色いロングコートが羽織られていることくらいが唯一の違いといえるだろう。

 ハザマはその男を知っていた。

「テルミさん」

 そこには、二人しか居なかった。空虚なこの空間において、彼の空っぽの内側を埋めるものはテルミだけであった。

 何においてもテルミが一番であり、テルミが動けば自身も動いた気になるしテルミが食べれば自身も食べた気になる。テルミの願望のためであれば自身はいくらでも身を捧げる。

 そうして今回も、二人きりでただ夢が覚めるまでそこにいるつもりであった。しかし―。

 いつもと違う何か。二人以外の気配がした気がして、ふと視線を動かす。そこには、誰も居ない。気のせいかと思ってまたテルミの方に目を戻すと、テルミはこちらを見ていた。

 否――自身を透過して遠くを見ていて、それを追いかけるようにもう一度向こうを見れば。目を瞠(みは)った。そこには、少女がいた。名前も、よく知っている。何せ、もう一人の自分が名付けたのだから。

「――――ユリ、シア」

 不思議そうに真っ白な辺りを見回していた彼女は、かけられた声が届くと肩を跳ねさせる。ゆっくりと、ハザマ達に顔が向けられる。彼らを見とめた瞬間、へにゃっといつも通りの柔らかな笑みに表情を崩して、たったと駆け寄る。

「はざまさん、てるみさん……っ」

 甘やかで可愛らしい声を空間に木霊させて、彼女は二人の前までやって来る。

 二人だけの空間に『彼女』が現れた瞬間だった。

 そこで、彼の夢は覚める。

「……なんだったん、でしょうか」

 白い光が窓から溢れる朝だった。

「んん、ふぁあ……」

 欠伸の声につられて隣を見れば、そこには同じく先ほどまで眠っていた少女が居た。一体何故、久々に見たあの夢に少女が現れたのだろう。ゆるく首を横に振り、考えても分からないことだとして彼は微笑みを今日も貼りつけた。

「おはようございます、ユリシア。よく眠れましたか?」

「ぁ、はざまさん、おはようございます、です。おかげさまで、よくねむれました、です」

 首肯し、小首を傾けて笑った。

 

 

 

 第六階層都市『ヤビコ』のレールステーションにてツバキらはある人物を待っていた。ツバキら、というがツバキともう二人――ハザマとユリシアの位置は離れており、一見単独行動をとっているようにも見えるのだが。

 やがてツバキに向けて手を掲げる人物が見えてくる。黒髪の大男だった。手首には包帯を巻き、ニッと快活に笑う彼は彼女に歩み寄る。

「よっ、ツバキ! 久しぶりだな」

 声をかけられ、ツバキがその方向に身体を向ける。その人物が誰であるか理解し、冷たい表情の少女は静かに挨拶を返す。

「ムツキ大佐。お久しぶりです。大佐自らのお出迎え、大変恐縮でございます」

 慣れ慣れしくツバキに話しかけるこの男――ムツキ大佐と呼ばれた彼、カグラ=ムツキは、手を顔の前で横に振り気にするなと言って、ツバキの昇進を祝う。しかし、彼女の暗い表情を見て細めていた双眸を開くと、不思議そうに首を傾けた。けれどすぐにまたふっと微笑んで、

「それにしてもツバキ、見ない間に随分と大人っぽくなったもんだ。こりゃジンジンには勿体ねぇな」

 ジン。その名を彼が口にした途端、ぴくりとツバキが眉を動かす。もやり、と反逆者であるはずの金髪の男を思い浮かべる度、悲しみのような、でも釈然としない気持ちがツバキの胸を苛むのだ。大人っぽくなった、とツバキを指して言う男を冷たく見上げる。

「……ムツキ大佐、お言葉ですが、冗談ならやめてください」

 しかし、それを制すように己の口許に人差し指を当てて、カグラはそっとツバキの横に顔を近付け、囁く。

「ツバキ。大事な話がある。後で俺のところに……」

「これはこれはカグラ=ムツキ大佐。お初にお目にかかります」

 突如、言いかけたカグラの言葉を遮るようにして声が二人のところへ近づく。足音は二人分。

 自然と二人の視線が声のする方向に向くと『彼』は生まれて何度目かの挨拶を口にした。

「私、諜報部のハザマと申します。以後、お見知りおきを」

 帽子を取って胸に当て、舞台役者を気取るように左足を半歩下げ深々とお辞儀をしてみせる。釣られて不安げな表情をしていた隣の少女も、慌てた様子で頭を下げた。

 持ち上げられる頭、その柔和な笑みに向けてカグラはひどく冷たい表情で呟く。

「……おめぇがハザマか」

「あら、私のことをご存じで? いやはや、光栄の至りですね」

 その声を聞きつけて、彼は歓喜の言葉を、しかし別段表情を動かすこともなく述べる。光栄という面ではないだろうと漏らしてから、カグラの視線はその隣の――小さな人物に向けられる。

「んで? そっちの見慣れないお嬢ちゃんは」

 まさか諜報部大尉はロリィタコンプレックスの類の嗜好がおありなのか。皮肉げに漏らす。それに薄く目を見開いて、ハザマはいえいえ、とんでもないと頭を振る。

「コレ……いえ、この子は」

 諜報部で保護させていただいているんです。語るハザマに、興味なさげに相槌を打って、カグラは少女の前にしゃがみ込んだ。巨体が近づいて、肩を跳ねさせハザマの後ろに隠れる少女に苦笑して、カグラは大きな手をゆっくりと差し出した。

「俺はカグラだ。よろしくな。嬢ちゃんの名は?」

 人の良い笑みを浮かべて、握手を求めるように何度か手を動かしてやれば彼女はゆっくりと隠した顔を覗かせて、恐る恐る、震える唇を動かした。

「ゆ、ゆりしあ……です。よ、よろしく、おねがいします、です」

「んじゃ、ユリシアちゃんな」

 どこか危うさを感じさせる口調で、こくこくと小さく何度も頷き名乗る。名を聞いて頷くカグラに怯え震える表情は、自身に対してのそれのはずなのに守りたいと自然に思わせる魅力があり、ハザマの服を掴む手は小さい。すらりと伸びて露出された手足は白く美しく、発展途上にしてはなかなかの上玉だ。しかし彼女は手は差し出そうとしない。それにカグラが何か言おうとしたところでお互いの挨拶も済んだようだし、とハザマがすっと二人を隔てるように横に割って入る。

「この子のことはもういいじゃないですか。それにほら、この子、慣れない人は苦手なんですよ」

 見下ろすハザマに仕方なくゆらりと立ち上がり、カグラは些か不満げにハザマを見た。

「過保護かよ。んで、諜報部が何の用だ」

 わざわざ連れて歩く割には随分と守るように振る舞う、噂とは程遠い様子を見せるこの男。やはりそういう趣味でもあるのかと、しかしあそこで見計らったようにやって来たり他の部分ではどうにもいけ好かないし信用もできない胡散臭さがあった。警戒を隠すことなく問うカグラに困ったように眉尻を下げてハザマは持っていた封筒を差し出した。

「なんだよこれ」

 怪訝そうに受け取ったそれとハザマを交互に見て、首を傾けるカグラにハザマは語る。帝の信書だと。確認してくださいとの彼の言葉に促されるまま封筒を開け取り出したのは一枚の書類だ。ハザマの言葉に偽りがないと言うかのように帝の印も捺されているのを確認して、内容に目を通すとカグラはどこかげんなりとした様子で口を開く。

「成程。お前達の邪魔をするなってことか」

「そうなんですか? いやぁ、帝の書ですからね。私ごときが知る由もありませんし……」

 眉を少しだけ持ち上げてどこか大袈裟な口ぶりでハザマが問えば、白々しいと小さく吐いて捨てるカグラ。その表情には僅かに嫌悪が滲み切っていた。女の前であるというのにそれも忘れて。

「いいさ、好きにしな。おめぇさんらの行動に俺は関与しねぇよ。兵もどうぞご勝手に」

 ひらひらと書類を持った手を掲げ振って、目を伏せながらカグラは面倒臭いとばかりにそう語る。それに満足げに礼を述べたハザマは、ふと指を立てる。

「それと」

「んだよ、まだ何かあんのか」

 腕を組んで問う彼に、ハザマはすぅっと目を薄く開く。蛇を思わせる鋭い金の眼がカグラを射抜くが、カグラは動じずに言葉を待った。

 やがて目をまたいつも通り細めて、ハザマはにこやかに微笑む。

「私たちは今『帝』の勅命(ちょくめい)により行動しています。この意味、お分かりですか?」

 それはひどく、カグラの神経を逆撫でするように、やわやわと撫でるように穏やかな声でありながら同時に聞く者を不安にさせるように冷たい声であった。眉根を寄せながら、それでも声を荒げることなくカグラは淡々と、しかし僅かな怒りを隠すことなく叩き付けるように答える。

 帝の勅命は如何なる事柄より優先される。それは無論、全ての階級を超えて。

 舐めているのか、と答えを欲しない問いに、ハザマは大袈裟にまた否定の言葉を添えて、確認しただけだと。そこに謝罪の言葉が並べられることはなく、礼を重んじるツバキの叱責の声が入った。

「ハザマ大尉。上官に失礼です。控えなさい」

 それには素直に応じて、申し訳ないと謝りの言葉を並べ彼は一歩下がる。それを横目に見届けると、ツバキは再度カグラに視線を戻し、見据えた。

「……では、私達はすぐに任務を開始いたします」

 また改めて。失礼します。そう言葉を紡ぎ、彼女は最後に一つ頭を下げた。

「あいあい、了解だ。頑張れよ」

 またひらりと手を掲げる彼、それを背にツバキが歩きだし、立ち去る。ある程度離れたところで――残っていたハザマも動き出そうとする。しかし不意にぴたりと足を止めた。

 早く行けよ、そう言おうとするカグラの元へ戻って、今しがた思い出したように振る舞って彼は話の口を切る。

「あぁ、そうそうムツキ大佐、せっかくなんで後でお邪魔させて頂いても宜しいでしょうか」

「宜しくねぇよ、来んな。あ、ユリシアちゃんが来るってんなら話は別だけどな。どうだ、美味い店案内するぜ」

 しかしハザマの提案はバッサリとすぐに切り捨てられ、代わりにとカグラが見たのはユリシアだ。視線を向けられるや否やこっそりひょっこり覗かせていた顔の半分をまたハザマの背で隠して彼女は様子を窺う。ふるふる、と小刻みに振られる頭は拒否を示していた。

「おろろ、フラれちった」

「……『こちら』が保護しているんですからそう易々と一人で行かせられませんよ。それに……」

 慣れない人物、それも自身の懐いた人物へ敵意を見せている人へそう簡単に心を開くなんておかしいじゃないですかとハザマは困ったように笑みを浮かべて語る。カグラが途端不満げな表情で、しかしユリシアが見ているのを知ればニカッと笑いかけた。

「ま、別に行けなくてもいいんですけれど……そうですね。それなら、お部屋の『猫』によろしくお願いしますね」

 自身と少女とで対応の違いに差があることに、分かってはいたが呆れたようにハザマは溜息を吐いて、カグラを見据えると告げる。口を動かす時、彼の眼はまた薄く開かれ、三日月のような弧を描き、にんまりとどこか笑んでいたのは気のせいではないだろう。カグラが一瞬また眉を顰めそうになって、堪える。それでも出てしまった微表情をハザマはしっかり見て、心の内で笑っていたけれど。

「そういうわけで、それじゃあ私たちもこの辺りで……では、また改めて。カグラ=ムツキ大佐」

 ふふ、と笑いを零して礼をし、ハザマが歩き出せばぴょこぴょこと髪を揺らしてユリシアも、ワンテンポ遅れ追いかけだす。その背にできればもう会いたくねぇなと小さく吐いたあと、

「……猫って。バレバレかよ。チッ、いけすかねぇ」

 舌を打って漏らした言葉は人々の喧騒に掻き消され誰の耳にも届くことはなかった。

 

 

 

 打ち当てられる刃の数々、金属音、土を蹴る音、衝撃を押し殺すため力強く踏まれる地面、ざりと引きずる音、また鳴り響く金属音。

「やるようになったな、黒き者よ……!」

「うるっせ、余裕かましてんじゃねぇよ!」

 互いが互いを認め合い、毒を吐きながら、戦うべくして会った二人は鎬を削る。一人は死神と呼ばれ世界の敵と言われる男。一人は白い面と鎧に身を包んだ、かつて世界を救った英雄の一人。

 元は赤髪の少女の精神拘束――その原因を破壊するため死神が少女と戦闘したあと、壊される直前にもう一人が庇った後。彼が死神を通すはずもなく、こうなったわけで。

 けれど――それを遮るように、声が響く。

「ハイハイハイ、クッソやかましい犬のじゃれ合いはそこまでですよ~!」

 二人が驚きに声をあげ、視線を両者から声のした方向へ向ける。居たのは、帽子に手を添えニタニタと笑みを浮かべるハザマであった。隣には、いつの間にか居るのが当たり前になっていた少女の姿はない。

「いんやぁ、なんなんですかねぇ? 負け犬の傷の舐め合いとでも言うんでしょうか……気色の悪い馴れ合いに、私思わず……吐き気を催すところでしたよぉ」

 なんなんですかねぇ。あんな何の役にも立たないゴミクズに対して負け犬がああでもないこうでもない、雁首揃え相談している様は非情に滑稽だと。笑んだ男は語る。

 噛みつこうとする二人に、しかし語る彼は動じない。何故なら、彼らが自身に勝てるわけがないという自信があったからだ。最後に高く笑って、彼は二人の顔をまじまじと見ると――。

「ファントム。邪魔ものは退場してもらってください」

 言った途端、現れるのは紫色のツバの広い帽子を被った人物だ。否、人かも分からないほど細身の存在は服と帽子の隙間から覗いても顔は見えず真っ黒な靄だけが見えていて。なんとなく女性だろうと感じさせる以外はただただ禍々しい空気を纏う影のようなそれに二人が目を奪われたとき、空気が震えだす。

 二人の足元に、暗い赤紫色の魔法陣が展開される。複雑に記号や文字の組み合わさったそれの意味を理解することも難しく、しかし空気の感じ方と先のハザマの言葉から察せるのは、

「これは……転移魔法か!?」

 二人が理解し、正解したときにはもう遅く。二人は別々の場所に飛ばされる。

 視界が暗転し、宙を浮いたような違和感が体を襲う。それが終わった時――目を瞑っていることに気付いて、ラグナがそっと瞼を持ち上げると。そこは、窯のすぐ前であった。

「何のつもりだ……! テルミィッ!!」

 叫ぶ、死神。ラグナ=ザ=ブラッドエッジは、姿の見えない相手を探すように何度も辺りを見回して、出てこいと声を張り上げた。

「はいはい騒がないでくださいよぉ。聞こえてますから」

 辺りに響き渡る声は四方八方、バラバラなところから聞こえ、さらには遠く離れたかと思いきやまるで背筋をなぞるように近くに感じたりして全く居場所を掴むことができない。それでも探そうとするラグナに、またも声がかかる。

「いえね、ラグナくんが丁度い~いところに居合わせてくれたものですから。こちらの準備にちょーっと協力していただこうかと思いまして」

 軽い口ぶりで馴れ馴れしくハザマが話す内容に、ふざけるなとラグナの怒声が叩き付けられる。しかしそれに多少の笑いは含めどもいつもほど愉快げに笑ってみせることはなく、至って冷静に。

「落ち着いて落ち着いて。今日の相手は私じゃないんですから」

「どういうことだ、テメェ……!」

 彼が相手ではないなら何なのだ、とラグナはまたしても声をあげた。その問いに答えるようにして、ハザマは小さく笑いを零したあと――。

「さぁ、感動の再開といきましょうか~~!」

 声にラグナが身構えたと同時に、目の前にすっと降り立つのは――少女であった。

 長い三つ編みを揺らし、札のついた長いケープを羽織った少女は地に足をつけると、伏せた瞼を持ち上げる。赤黒い瞳が覗く。眠りから覚めたばかりのように数度ゆっくり瞬きした後に、彼女はラグナをじ、と見つめる。その少女に、思わずラグナは目を瞠(みは)る。それは、彼がよく知る人物であったからだ。窯に、落ちたはずの。確かめるように名前を呼べば、返るのは自身の名。

「んん~、いいですねぇ。巡り合う運命の二人。ですが、感動の余韻に浸っている余裕はないんですよね。時間も差し迫っていることですし……保険、とはいえね」

「受理。ムラクモ、起動」

 保険。その言葉に眉根を寄せるラグナの前で、彼女は言葉を呟くと、光に包まれる。真っ白な光で一度見えなくなった彼女。思わず腕で目を覆い、やがてその光を感じなくなって腕を下ろせば。そこに居た彼女は、単眼のバイザーと硬い装甲に身を包んだ姿。数か月前まで何度も見た姿となっていた。

 肌を覆う水色のラバースーツはそのままに脚を纏うのは白く重そうな塊。しかしそれを感じさせぬ程度に彼女はきちんと立ち、それどころか浮いているのは何らかの加工がされているのだろう。腕には刃、爪は鋭く。背には翼のように八本の剣が浮いていた。

「さて、それじゃ調整を始めましょうか。なに、簡単ですよ。取り敢えずこの『冥王の剣』と」

 殺し合ってもらうだけですから。

 冥王の剣。その言葉の意味こそ理解できなくても、肌で感じる不穏さは言わずもがなだ。

 故に彼は彼女を指して言われた言葉への疑問を叫ぶが、しかし誰も彼の問いに答えることはなく――。彼女は、ニィと口端を持ち上げて笑む。

「……対象・認識。クク、アハハハハ! ラグナ……殺し合おう!!」

 ただ嬉しそうに高く笑い声をあげて、バイザーで殆ど隠れた顔のうち唯一表情を窺える場所、口に歓喜と恍惚の表情を色濃く浮かべ両の頬を染めた少女は瞬間、消えた。否、ラグナの背後へ移動したのだ。

 空気の流れでそれを知り、振り下ろされる複数の剣を己の得物で受け止め、後退する。先ほど彼女――ニュー・サーティーンが居た場所にだ。

 次々と展開される術式陣から赤い光の剣が生み出され、ラグナに向かって射出される。それら全てを大剣を振り弾いて、回してはまた受け止め。その間に遊ぶように飛んでくる少女に蹴りを放とうとするがそれも躱され、隙に差し込むようにしてまた剣が。

 久々の慣れてしまった攻防の中で思うのは、窯に落ちたはずの彼女が何故居るのか、だ。

 ラムダに組み込まれていたときのように、魂を引き上げることができたのなら肉体も同様に引き上げ、魂を定着させることも可能ではあるのだろうけれど。

「キャハハ、ラグナ、考えごとぉ? ダメだよ、ニューだけを見なきゃ……死んじゃうよ?」

 彼女が両腕を掲げ、頭上で交差させ――振り下ろす。

 途端、巨大な赤の術式陣が展開され、数十にも及ぶ剣が絶え間なくラグナに向けて射出される。言葉の通り彼を殺すために。それら全てを防ぐ度、嫌な金属音が高く木霊した。

「うるっせぇ……!」

 相変わらず、彼女は強い。それどころか前よりも攻撃の速度が増しているような気すらして、ラグナは顔を顰めた。攫われた妹と同じ顔をした少女の攻撃を躱し、時に反撃し。

「まだだよラグナ、全然足りないよ~! もっと、もっとだよ……っ」

 言う彼女に、仕方なく彼は己の右腕を、解放しようと。溢れるものに従って幾度も唱えた言葉をなぞる――しかし。それを遮るように、空間が突如揺れ、空気が歪むのだ。この感触は、否、まさか。嫌なものが背筋を這うのを感じて、ラグナは声を溢れさせた。

「何だよ、これ……この感覚はまさか、事象干渉か……!?」

「ピンポーン、大正解~!」

 できればそうであって欲しくないという憶測の言葉に答える声はいつの間にか目の前に現れていた。もう一人の彼であるときのスーツに身を包み、しかし窮屈そうなネクタイは解き首に引っかけて。帽子は頭になく逆立った鮮やかな緑の髪は惜しげもなく晒したその男は、凶悪な表情と人をおちょくり見下す声からして、まさしくユウキ=テルミであった。

 誰が、そんなことを。言いたげなラグナにテルミはひどく愉快げに指を立て、語る。

「帝の干渉力は今、タカマガハラを掌握したことによりノエル=ヴァーミリオンよりも上だ。だから、こういうこともできちまうんだよ」

 目を僅かに細め、口角を持ち上げ語られる内容。にわかに信じがたいし理解も難しい内容だが、要するにラグナの妹にして帝――サヤが、そうしているのだろうと理解する。

 ざわつくものを胸に感じて、ラグナが駆けた。

「テルミィ……!」

「うおっとぉ、危ねぇっ! 何だよ、まだ元気残ってんじゃねぇかよ子犬ちゃん」

 怒りと憎しみのままに、愉快げな表情を浮かべたテルミに大剣を振りかざす。しかしそれは金属音と共に弾かれる。揺れる三つ編み。ユリシアの鎌だった。

「だいじょうぶですか、てるみさん」

「あぁ、ありがとさん」

 青白く光り、無数の粒子になって鎌が消えると、テルミはユリシアの蜂蜜色の頭髪を撫でた。そしてラグナからニューに視線を移すと、一言。

「オイ、十三! ラグナちゃんが遊んでほしいって言ってんぞ、相手してやれ!」

「フフ、ダメだよラグナ……もっと、こっちを見て? まだまだ殺し合うんだから、ラグナ!!」

 テルミの命令に応じるように、ニューが甘ったるい声でラグナに言って、一瞬で近付き攻撃を再開する。振り下ろされるのは翼のようなあの剣たちだ。

「ぐっ……!」

 大剣で咄嗟に受け止めるがその攻撃は重い。踏鞴(たたら)を踏んで下がる彼に微笑むニューと、二人を眺めニマつくテルミを交互に見て――ユリシアは、首を傾けていた。

 何故、戦いを見て彼は笑っているのだろう。何故、彼女は世界の敵らしいあの男と戦って幸せそうなのだろう。何故、自分はここに居て、何もできずにいるのだろう。もっと、できることはあるはずなのに。

 何故か浮かぶそんな疑問を、ハッとしたように首を振ることで振り払い、テルミを見上げることしかまだできなかった。

 そして時間はまた巻き戻る。集約し可能性の潰えたはずの事象は同じ時間、違う形を刻みだす。

 それを受け入れる誰かが居たからだ。同時に、受け入れたくなくともそうされてしまった存在も居るけれど。

「――あれ」

 気が付いたとき、そこはよく見る執務室だった。見下ろせば革のソファに腰を預けていて、首を傾ける。先ほどまで彼女は、沢山の棺が無造作に放られた場所に居たはずなのだけれど。目を丸くしたまま、顔を上げる。

「どうかしましたか?」

 執務椅子に腰かけ書類を眺めていたハザマが、その白い紙の横から顔を覗かせて問うのが見えた。何故彼は普通にしているんだろうか、と逆にそれが疑問に思える。

「あの、さっきまで」

 そこまでしか聞いていないのに、それだけで彼はユリシアの言わんとしていることが分かったらしい。ああ、と一つ相槌を打って頷くと、

「成程、覚えているんですね。コレを機に、また勉強しましょうか」

 書類をデスクにそっと置いて、引き出しを開ける。封筒を取り出してそれらを全て収め引き出しに戻すと――彼は立ち上がり、少女に歩み寄った。

 

 

 

 事象干渉。

 『意思』を持つ者がある『事象』――物事を『観測(み)』ることで、その事象に干渉することのできる力だ。それを行使できる人物はごく僅かであり、そもそも『事象干渉』の存在自体を知る者自体少ない。干渉には精神を削られる。物事を好きなように作り変えることができる神のような力なのだから当たり前だ。

「じしょう、かんしょう」

 イマイチ、ピンと来ない様子で彼女はその言葉をなぞった。

 そんな力を持つ人が居るという恐ろしさも、それを身内が行ったらしいことも彼女にはあまり理解できていなかった。

「かんそく……ができるなら、それが、できる、ということでしょうか」

「強い意思があれば、そうですね。その後どうなるかはその個体によって違いますけれど」

 観測。事象を、物事を、個人を、世界を。その形を認識し、果てはそこに定着させることができる。それを自分の意思で『こうである』と認識をすることにより干渉するのが事象干渉なのだから、観測ができるということは事象干渉ができるも同然だ。

 何故ソレを話したかといえば、彼女が覚えているのは干渉される前の、本来世界がなぞるべきであった形だからだ。彼女には今後、そういうことがあるというのもしっかり勉強してもらい、あるいは彼女自身にそれを行ってもらう可能性もあるのだから。

「わたしが、まえに……あの、みっつのかげを、見たのも、かんそく……なんですか?」

 観測しろと、あのとき彼はそう言ったから。つまりそういうことなのか、と問う少女に思い出すように顔を俯けてから首肯するハザマ。

「それで、あの三つの影――世界を管理していた人工知能システム『タカマガハラシステム』を貴女が観測し、その場に定着させたことによってテルミさんはあそこに行けたんですよ」

 にこやかに微笑んで、人差し指で天を指す。思い出す、ハザマが『壊れた』光景。それがフラッシュバックするのを振り切って、指を追うように上を見る。

 遠く遠く、そこはタカマガハラのあった場所だ。しかし感じる気配に稼働している様子はない。

 ――テルミらがファントム(亡霊)と呼んだ三角帽子の影が作ったウイルスにより休止したのを帝が管理しているためだ。まだ使わない今、再び稼働させる理由も同様にない。

「まぁ、あとは……今度、話しましょうか」

 理解しているのかしていないのかは分からないが、これ以上に説明のしようがない。話すこともなくなって、ハザマが言えば少女は頷く。それを見て満足げにまた一度、微笑みを浮かべるとハザマはくるりと後ろを向いて、止めていた書類の作業を再開するためにデスクへと向かった。

 事象干渉。懐かしい響きだとどこかで思うところがあって、ユリシアはただ不思議そうに思い出そうとするのだけれど思い出せなくて――。

 それを嘲笑う誰かが居る気がして、なんだかとても苦しくなった。




凄く間が空きましたが許してください


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第七章 黄瀬の昼

「――其方(そち)はあの男……ユウキ=テルミを好いておるのじゃな」

 話す言葉遣いも纏う雰囲気もただならぬ者のそれであるというのに、紡がれる言葉の意味はひどく普通。齢の違う少女同士の会話は、姉妹のようであり、親娘のようであり、友のようでもあった。湯気が目の前に置かれた湯呑から立ち上る。

 帝の暗い色と対照的な、明るく淡い蜂蜜色の髪が揺れる。最初の頃こそ慣れなかったけれど、彼女と話すのは楽しくて、すぐに話せるようになってしまった。

「はい、だいすきです! だって、てるみさんは、わたしをひろってくださったんですし、いつもいっしょうけんめー、なんですもん」

 帝の言う『好き』とは次元が違う、もっと子供らしくて純粋な、だけれどそれ故に大きく広い愛のようなものを、ひどく幼い理由で生まれたそれを、身振り手振りを使って語るのは少女だ。

 そんなユリシアの言葉を聞いて、最初の方こそ微笑んでいたものの、最後の言葉を聞いて伏せがちだった妖艶さを纏う瞳が見開かれる。

「ほう……一生懸命、か」

 あの男の居振る舞いはどちらかというと人を煽りからかうような、努力とは程遠くも見える。しかし、『一生懸命』というのは間違っていない。数多の事象を観測し、時に酷な扱いを受けても目的のために動く様は――。

 けれど、それを理解できていないのだろう彼女が感じた、というのは少しばかり疑問だった。

「どこに、そう感じるのだ?」

 微笑みをまた浮かべ、こてりと小首を傾けてやる。すると彼女はぱっと顔を明るくして語ろうとして……黙り込む。そして、乗り出した身を引いて、顎に手を添え俯くのだ。

「えーと、えっと……どこが、でしょう……」

 分からないのに何故そんなことを言ったのか、ユリシア自身も分かっていなかった。出てこない、彼のこともよく分からないのに、努力なんて、どこに。記憶にはない。

 暫しその様子を眺め、少女が不安げに、縋るように帝を見たのを受けて彼女は口を開く。

「……まぁ良い。分からないなら、仕方ないだろう」

 そう言って、東の国のお茶――今では珍しい緑茶の入った湯呑を持ち上げ一口啜ると、彼女はすっと目を細めて笑った。

「せっかく余が仕入れた茶だ。飲まずしては勿体ない」

「そ、そう……ですね」

 話題を変えるように、未だ口のつけられていないユリシアの湯呑を指して帝が言う。それにハッとしたように頷いて、ユリシアは湯呑を手に取った。

 右手は横に、左手は底に添えて口許に運ぶ。

 確かギョクロという名前であったか、透き通った緑色は紅茶の温度より低い六十度ほどで淹れたものだ。鼻腔をくすぐる茶の香り。一口、口腔へ流し込めば渋みはなく、代わりに甘みとうまみがやってくる。そういうものを飲むのは初めてで少し驚きながらも、舌で転がし味わい、少しして喉に通す。

「美味いか?」

 問いに頷き、水面にまた視線を落とす。ハザマは書類を出しに行っており、諜報部の執務室にはユリシアと帝の二人きりだった。誰も入らないように、札をかけて。

 沈黙。茶をもう一口ばかり飲んで湯呑を置くと、帝がまた口を開いた。体を少しばかり前に倒し、机に肘を預けて頬杖をつく。

「ところで。ユリシアは……」

 首を傾ける少女に、帝はそこまでで言い止(さ)して俯く。どうしたんですか、とかかる声に頷いて顔を上げると優しく笑みを浮かべ彼女は問うた。

「いや。――ユリシアは『蒼』について、知っているか?」

 帝がユリシアと話したかった一番の理由はというと、これだった。

 『蒼』。全ての元であり、唯一無二の存在。何にでもなれる存在でありながら、何にもなれない唯一無二の存在。それの気配が、常識やこの世界のことを少しずつ語る度に、聞かせる度に、彼女から色濃く漂うようになっていた。きっと既にテルミも感じているのだろう。

「……あお、ですか」

 ユリシアにしてみれば、初めてテルミに出会った時にも同じことを聞かれたわけで。久々にその言葉を聞いたと思えば、それは彼女の問いであったことが不思議だった。

 青なんて、単なる色ではない。蒼。その響きには何か普通ではないものがある気がして。

 頷く帝に、ユリシアは一度目を伏せる。ゆっくりと開いて、帝を見つめた。頬杖をついたまま首を横に傾げる彼女に、確かめるように一言、一言。テルミに教えられた言葉を紡げば、彼女はそれに対し肯定するように頷く。

「……わたしには、よくわからない、です。でも、なつかしいひびきだと、さいきんおもうように、なったんです」

 おかしいでしょうか。問うユリシアに帝は一瞬だけ目を丸くして、静かに、ゆっくりと頭を横に振った。

 そんなことはないと、そう言ってユリシアを見つめる瞳の赤はやはり暗かったけれど、優しい色を宿していた。

「……でも、なんで、てるみさんも、みかどさんも、わたしにそんなことを、きく、ですか」

 疑問。彼女に、何故こうも『蒼』について聞いてくるのだろうか。懐かしいと感じる『蒼』について、彼らは何か知っているのだろうか。顎に手を添え首を捻る少女に、微かに帝が目を見開く。

「……その様子だと、自覚しておらぬのだなぁ」

「へ……?」

 自覚。何を自覚するというのだろうか、間抜けた声をあげてユリシアは顎に添えた手をそのままに、帝へと視線を遣った。

 帝は言おうとして、言葉に詰まる。逡巡。果たして、今ここで言うことで、本当に良い結果は得られるのだろうか。彼女は本当に自覚できるだろうか。『蒼』としての意識がたまに見えるようだとしても、彼女を混乱させるだけではないだろうか。

 そう思うと、今話す事を躊躇させて。

「……今は、まだ知らんでもよい」

 だからユリシアは疑問しかなかったけれど、帝はそう言うだけで深く語ろうとはしなかった。

「――さて、余はそろそろ帰るとするか」

 扉をちらりと尻目に彼女はそう言う。と、一拍遅れて扉にはノック音が三つ。顔を見合わせる少女達、帝の命令により部屋の持ち主である男――ハザマは戻ってきた。

「それでは、またな」

「あら、もういいんです?」

「ああ」

 立ち上がり、扉へ向かう帝に戻ってきたばかりのハザマが問いかけた。彼の隣に並んだ辺りで彼女は立ち止まると小さく頷き、肯定するのみだ。別れを告げるユリシアに一度振り返り、可愛らしく微笑むと、

「ファントム」

 亡霊を小さな声で呼べば今の『彼女』は帝の従順な僕(しもべ)になっている。はいわかりましたとでも言うように一瞬にして現れた帽子と影の亡霊は、帝と亡霊を中心とした紫の魔法陣を足下に浮かべ――消えた。

「あいかわらず、ふしぎなこうけい、です」

 ぽつりと零すのは、転移魔法のことだ。緻密な座標の計算や、それを起こすのに消費するエネルギー。それらが存在するとどうして転移の作用が起こせるのか。まるで機械の内側を覗くような不思議さを彼女は感じていた。

「……あ、そういえば。いくつかたりないものがありました」

 けれどすぐにそんなことも忘れて思い出すのは料理の材料だ。

 というのも先ほど帝に茶菓子でも出そうと思って確かめたところ、小麦粉も砂糖も牛乳だって底をつきそうなものが多かったのだ。買いに行くかというテルミの提案に素直に彼女は頷いて。

 

 

 

「……えーと。どこ、でしょうか」

 首を左右に振って辺りを見ては、ぐるりと後ろを向いて同じようにして、首を捻る。

 人々が行き交うカザモツの中、慣れてきたと思ったその場所で、彼女は迷っていた。歩く人を避けて、うろうろと辺りを彷徨う。両腕に抱えられたのは先ほど店で買ったものたちだ。

 ユリシアの買い物に普段なら付き添うテルミであったが、今日はこの機会に一気に物を買うため長くなるからと、テルミに店の外で待たせていた――のだが。

 いざ買い物を終えて店を出てみると、そこに見慣れた影は見えないのだ。一歩二歩、進み出て辺りを軽く見回すのだけれど道の反対側に居るというのもなくて。

 迷うほどカザモツに慣れていないわけでもないけれど、殆どの道を正確に把握しているわけでもない。下手に動いて迷っても。でもしかし、何かあったら。

 テルミのことだから何かあっても平気だろうし、それにここ、カザモツは治安も悪くないから平気だと思うけれど。相手に外での休憩を提案したくせに、できる限り離れたくないと思うのはそこまでわがままだろうか。

 何かしていないと考えがどんどん悪い方向に行く気がして、ユリシアは一歩その足を踏み出した。一歩、一歩、ゆっくりと進めていた足はやがて速度を増しいつも歩くときと同じ速さにまでなっていた。

 そして冒頭に戻るわけだ。気付けばはずれまで来ていて。そこまで歩いている自覚はなかったけれど、景観を維持するためか大体似たような景色のために。気付けば見知らぬ場所にまで来ていた。時々戻ったりを繰り返していたつもり、だったのだけれど。

 これは不味い。頬に汗が伝い、さぁっとユリシアの顔から血の気が引いていく。

「……えっと」

 取り敢えずは戻らなければ。そうして振り返って――肩が、横をすれ違った人物にぶつかる。赤いジャケットが見えた。

「あ、ごめんなさい、です」

「いや、いい」

 お互いに短く謝って、足早にその場を去ろうとする。けれど、すれ違うとき、何故か微かに懐かしい気配がして。声もなんだか聞き覚えのある気がして、彼女は思わず振り向く。

 『彼』も同様にこちらを振り向いていて、斜陽に白く輝く銀の頭髪と赤い瞳が見えて、声が漏れる。知っている人だった。せかいのてき、と呼ばれた男。

「……あ」

 思わず漏れる声。少女の口から出るのと同時、男の口からも零れ落ちていた。

 人通りが少ない中、彼に気付く者はおらず、意識したところで自身から絡みに行く愚か者は居ない。指名手配中の死神が現れるなど思っていなかったのだろう、誰もラグナ=ザ=ブラッドエッジであることには気付かない。こんな場所で立ち止まる邪魔な男だとしか。

 竦む足、逃げなくてはと思うユリシアであったが上手く身体が動いてくれない。

「……オイ」

「ひっ……」

 攻撃されれば鎌の一つでも構えて応戦したけれど、そうしない彼には手を出せない。そんな変な考えが、逆に恐怖を生む。何をされるのだろう、目をぎゅっと瞑る彼女に齎されるのは――声だった。少しばかり困ったような声。

「んな構えなくても取って食ったりしねえよ」

 目を薄らと開ければ、眉を垂れさせた男が後頭部を掻いていて。次いでかけられる言葉は、テルミはどうしたんだ、と。

 どうするべきか悩んで、警戒の解けないまま、一言震える声で告げる。

「……てるみさんとは、はぐれました」

 ぽつりと、零される声。あまりにも自然に耳に入ってくるものだから、ラグナは一瞬へぇと聞き流そうとして、その事態のおかしさに間抜けた声を漏らす。

 あのテルミが少女とはぐれるだなんて。否、そもそも一緒に居ることが可笑しいのだから別に可笑しくはないはずなのだけれど、彼女がはぐれたというのが、何故か可笑しい気がして。でもそれを言い出すこともできず、ラグナはマジかよ、とこぼすのみだった。

 それにしても傷はもう平気なのだろうか。そんな心配が過ったけれどそれは言葉には出さず、おぼつかない彼の足元を見ても何も言うことはできなかった。

「んで、はぐれた奴がなんで一人で歩いてんだよ。テルミが心配するんじゃねえのか」

 普通、一人で歩かずにその場で待機するものではないのだろうか。憎しみを向けるあの男の性格を考え、心配なんてしない気もしたけれど。

「……じぶんでも、よくわからないです。それよりも、せかいのてきさんは、どうして」

 何故動いたのかは分からない。動けと勘が告げていたとしか言いようがない。それよりも彼は、こんな街に、何故。問うユリシアに一瞬微妙な顔をして、ラグナは目を斜め上に逸らす。

「世界の敵って呼び方はどうかと思うんだが。……人を探してんだよ」

 強ち間違いでもないとは思うが呼び方が少しばかり聞き慣れないもので、少しばかり言葉を漏らすけれど。この少女は一応敵側の人間だが理解できないだろうとして、隠すことなく自身の今の目的を語ってやる。

「ひと……ですか。それは、てるみさんのこと、でしょうか」

「違ぇよ。テルミのことはテルミのことで何企んでやがんのか知りてぇけどよ。今は……ノエルっつー女を探してんだ」

 俯き、問う少女にラグナが答える。――ノエル。その言葉を聞いた途端、ユリシアが下を向いていた顔を少しばかり持ち上げた。

「のえる、さんを」

 そこでラグナは気付く。あの現場、ノエルが第十二素体ミュー・テュエルブとして精錬された現場も、その前のことも彼女は見ているのだ。そして、その口ぶりから彼女がノエルと知り合いである人物なのだろうと。

 もしかしたら、彼女の居場所を知っているかもしれない。何せ、あのテルミ達と共に行動しているのだから。

「ノエルを知ってんのか? 今はどこに居るんだ。俺はソイツに会わなくちゃいけねえ」

 そんな僅かな期待から身を僅かばかりユリシアの方に乗り出して問うラグナだったが、その近付いた分だけ彼女が一歩退く。

「わ、わたしは、しらない、です。わたしだって、しりたい、ですし、でも、のえるさんたちは『はんぎゃくしゃ』で『てき』だから、その」

 ぶんぶん、と首を横に振り、必死に否定する少女。普段なら気にしないその拙くたどたどしい話し方は聞き取りづらく、そしてだから何を伝えたいのか分からないそれは、探すものが上手く見つからない苛立ちを覚えるラグナをさらに苛立たせた。

「なぁ……もうちっとハキハキと喋れよ」

「ごめんなさい、その、おしゃべり、とくいじゃなくて」

 何故だか無性に腹が立つのだ。先ほどまでそんなことはなかったはずなのに。彼女が悲鳴をあげ謝るたびに、余計に。だからか、意図せず口ぶりが乱暴になってしまう。

「にしてもテメェはなんであんな奴と居る。アイツはクズだぞ。人の人生めちゃくちゃにした挙句それで苦しんでる奴を嘲笑うような。そんな奴に」

「――ください」

 聞き取れず、問い返す。ラグナの言葉を遮るように発された声は小さくか細く、最初何を言っているのかわからなかった。

「……てるみさんを、わるくいわないで、ください……ひどいこと、いわないでください」

 やがて大きくなる声。それは、ラグナの言葉が事実だろうと、彼女にとっては間違いだからだ。確かに笑うべきじゃない場面で笑っているのを見たかもしれない、確かに時々怖い顔をするのも見たかもしれない。けれど、彼女には何がどうなっているのかわからないから。

 首を傾け、眉根を寄せるラグナに彼女は一生懸命になって言葉を紡ぐ。

「わたしは、むずかしいことは、わからないです。ただ、あのひとは、なにもわからないわたしに、なまえをくれて、すむばしょをくれて、いろんなことをおしえてくれて、とてもたいせつなひとなんです」

 まくしたてるように語られるその声は、言葉は、やはり舌足らずで、たどたどしくて、弱くて幼いものだったけれど、遮ることを許さない強さがあった。それでも、ラグナは一瞬目を見開くのみで、

「相手が悪(わり)ぃんだよ。アイツは……アイツは」

 その心は、大切な人が居るという想いは素晴らしいものなんだろう。とても綺麗で優しく、眩しいものだとラグナは思う。けれど、その想いを向ける相手によって、状況は変わる。特に彼の場合――。

「せかいの、てきさんは、どうして、てるみさんを、そんなにきらうんですか」

 不思議だった。あんなに自分のために色々してくれた彼を、どうして嫌う人が多いのだろうか。ハザマの方だってそうだ。分からないけれど、皆、良い感情を持っているとは言い難い眼を向けるし、彼女には理解ができなかった。

 ピリ、とした空気が肌を伝う。途端、ラグナが口を開いた。

「うるせぇ、俺が世界の敵だとしたら、それもアイツのせいだ。全部、全部アイツのせいなんだよ……っ」

 声はだんだんと大きさを増し、苦しげに、憎々しげに語られる言葉はいつしか怒鳴り声となっていた。伸びる大きな手が、ユリシアの白い腕を掴む。ぎゅ、と強く握られ、引っ張られれば抱えていた袋は地面に落ち、中身をぶちまける。

「いたっ……」

「いいか、アイツみてぇな奴についても何も良いことなんかねぇぞ。寧ろ不幸になる。テメェが信じるような良い人じゃねえんだよ、テルミは」

 ユリシアを引き寄せたラグナが目を見開き眉根を寄せそう言う。合わせられる目線、恐ろしいほどの怒りに満ちたその両目を見つめる彼女の蒼い瞳が揺れる。腕の痛みと、突然にひどく苛立ちを見せた彼に理解が追い付かなかった。

「あんな奴のどこがいいんだよ、なあ」

 言ってみろよ。彼女を睨み付けたままラグナが煽る。目を逸らす。彼はきっと答えなど望んでいないのだろうと思って、答えたら余計に苛立ちを見せるのではと思わずにはいられなくて、震える唇は言うことを聞かなくて。

「ほら、言えねえんじゃねえか」

 吐き捨てるように紡がれる言葉がユリシアの胸に突き刺さり、質量はないはずなのに痛みをおぼえる。ぱくぱくと口を動かす。握られた腕を見れば、余程力が込められているのか赤くなっていた。細い腕はなんなく彼の手の中に捕まえられるし、振りほどけない。感覚がなくなってきたようにすら思える。

 ――しかし、視界を何かが掠めるとほぼ同時に、腕は解放される。血が通る感触が少しばかり痒い。そんなことを思えば、目の前で轟音。大地が揺れる。

 黒く、大きなものが見えた。

「おいおい、女の子の扱いはもっと丁寧にしろよ。それとも女の子の扱いも知らねえってか? つか俺の女に手を出してんじゃねえよ。……大丈夫か?」

 振り向く男は、カグラだった。振りかざした大剣を片手に、彼女とラグナの前に立ってニッと笑いかける。一体、何が起こったのか、一瞬彼女は理解できなかった。目を白黒とさせて、だけれど少ししてやっと言葉の意味が分かったのか頷いた。俺の女、という部分は理解できないためそのまま流したけれど。

「んだよ、邪魔すんじゃねえよ。つかテメェ誰だ」

 ラグナが男――カグラに向けて問う。ラグナからしてみれば、苛立っているときの突然の邪魔、それも見知らぬ正義漢ぶった男となれば余計に苛々も募るわけで。

「俺が誰か分かってんのか、あぁ? 後悔しても知らねぇぞ」

 威嚇するラグナに対し、ひどく呆れたような様子で彼は溜息を吐き首を横に振った。

「へいへい、後悔でもなんでもしてやるからその根性叩きなおしてやんよ。史上最高額の賞金首、死神ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 再度ラグナを見るカグラの眼は、ひどく好戦的で愉快げなものだった。ラグナの台詞があまりにも御伽の中の悪役の台詞に酷似していて面白かったというのもあるし、何より彼の噂に期待している節もあったからだ。

 クソ、と吐き捨ててラグナが白い刃の大剣を構え直し、駆ける。振りかざされるそれは重いが、避けられればただ地面に叩き付けられ隙を見せるのみだ。そこに差し込むように、後ろからカグラが蹴り、大剣の腹を叩き付ける。

 いつもよりも、身体が上手く動かないとラグナは思う。先ほど開いた傷のせいでもあるだろうが、何故だか右目が見えづらく、腕が重い。

「ぐぁっ……」

 そうしている間にもカグラが次の攻撃を放ってきて、それを間一髪で躱したラグナにカグラがくい、と手を招いて挑発した。

「どうした、こんなんじゃ後悔なんざできねぇぞ。死神っつーあだ名は尾ひれが付いたもんなのかよ?」

 二人の戦い――ほぼほぼ一方的な攻防を見つめながら、ユリシアが一歩、二歩退る。背中に何かが当たる感触がして、振り向き慌てて謝る。

「ううん、大丈夫だよ」

 そう言ってユリシアに答えるのは、栗色の髪をポニーテールにした少女だった。齢は多分、ノエルたちとそんなに変わらないだろう。彼女は一度ユリシアに目を向けるも、二人を、主にラグナを心配げに見つめる。

 ユリシアはただ不思議だった。

 彼が突然現れて自身を助けたともいえる状況も、ラグナがあそこまで苛々しているのも。そして何よりも、彼女の存在を意識した途端、何故だか、一瞬だけ胸の奥がざわりと嫌な気配に満ちたのだ。

「ラグナ……」

 ぽつり、と少女が漏らす。テルミも言っていたその名が、彼の名前なのだろうかとユリシアは首を傾ける。やがて彼女と同じようにユリシアも数歩離れ場所で彼らの戦いを見ていると。

 ラグナが何かを叫んだ後、ハッとしたように茶髪の少女の方を見た。その余所見をした隙に、カグラがラグナの背後から首を叩く。膝が地に吸い込まれるように力が抜け、倒れ込むラグナ。

「けっ……期待外れかよ」

 見下ろし吐き捨てるカグラに、少女の体が揺らいだ。駆け寄り、ラグナの元へしゃがみ込み、顔を窺う。

「ラグナ……! カグラさん、あまりラグナに乱暴しないで」

「わーってるよ、セリカちゃん。ただ気絶させただけだ」

 悲しげにカグラを見上げる少女――セリカに、カグラが困ったように笑って言う。その言葉に安心したように頷いて、彼女はそっとラグナの頭髪を撫でた。

 一方、それを見ていたユリシアといえば、ただ何をすることもできず茫然と佇むだけだった。

 やがてそれに気付いたようにカグラとセリカの二人が、首をユリシアの方へ向ける。カグラが歩み寄り、怪我はないかと問えばそれには素直に頷くのだけれど。ニッと笑う彼に一歩、後退る。

「あー……ところでユリシアちゃん、アイツ……ハザマはどうしたんだ。一緒じゃないのか?」

 ユリシアのそんな様子に困ったように後頭部をぼりぼりと一度掻いて、暫し目線を逸らし考える素振りを見せた後、カグラは中腰になってユリシアと目線を合わせ問う。なるべく警戒させないようにしても解けないのは承知のもと。

 以前ほどではないにしろ、やはり慣れぬ相手への怯えを見せる少女に、流石に目の前でやり過ぎたかという反省は胸内で、問いへの答えを首を傾けることで促してやれば震える桜色の唇が紡ぐ言葉。

「その……はぐれ、ました。かいものを、していたら、えっと」

 一つ一つ、単語を確認するようにして、時折ラグナとカグラの戦いにより踏みつぶされた買い物袋をちらちらと見ながら話す彼女が語る言葉だけでおおよそのことは把握できたカグラはそうか、と言ってユリシアの頭に手を伸ばす。目をぎゅっと瞑って身構える彼女の頭を優しく撫でた。その間、彼女の体に力が入りっぱなしであるのを見て、ははっと苦笑しそっと手を離してやるとカグラは言葉を漏らす。

「諜報部で保護~とか言う割に目離してんじゃねえか」

「そ、それは、わたしが、ていあんしたことで」

 ハザマを悪く言うような台詞を聞きつけ、顔を上げユリシアが慌てて否定しても、カグラは首を横に振る。保護だと言うならいくら提案されたとしても最後まで見ておくのが当たり前なのだと語る彼に、何も言えなくなってユリシアは俯く。

「――なあ、ユリシアちゃん」

 カグラが立ち上がり、ぽつりと漏らす。自然とまた顔を上げて、ユリシアが首を傾げたのを横目に彼はある言葉をかけた。

「なんであんな奴を大切にしてるんだ?」

 今回を含めて二回しかまだ会ったことはないのだが、他に比べてハザマにやけに懐いているというか、大事にしている様子が見て取れる。あの男は会っただけで胡散臭さや得体の知れない不気味さを感じるし、何より慇懃無礼に形を与えたような人物だというのに。

 しかも――彼、カグラ達の計画において敵となる存在であることも。その他のことも色々と、現在協力関係にある第七機関のココノエの情報によって多少なりとも知っている。

「ノエルちゃんも心配してたんだ。だから、もしユリシアちゃんが来たいってんなら、こっちに来ねえか」

 ハザマは凶悪な男だ。ノエルすらも道具として精錬し、神を殺そうとした人物であるのだから。だから彼女、ユリシアが何かしらで同じように利用されないかノエルもカグラも不安であったから、何故かこそ言わないものの心配なのだと告げる。

 それに、カグラの望む平和な世界に、会ったばかりである彼女も必要だと思ったから。もしかしたら、彼女も彼が傷つけかねない。それならば、一刻も早く――。

「……です」

「へ?」

「……いや、です」

 拒否。ノエルは友人のはずだから、その名を出せば多少揺らぐかもしれないという期待のようなものはあった。けれど、答えは考える間もなく出され、しかもカグラを見上げる瞳には敵意こそないけれど、明らかな警戒と怯えが色濃く浮かんでいた。先ほどよりも、強く。

「のえるさんは『はんぎゃくしゃ』じゃないんですか。なんでそんな『てき』といっしょにいるみたいなこと、いうですか」

 別にノエルのことは嫌いではなかった。寧ろ、ユリシア自身も友と呼べる存在だと――。だけれど、彼女は敵だと言われたのだ。ならば『たいせつなひと』の敵とは関わっちゃいけないはずだから。なのに、解釈が間違っていなければ『たいせつなひと』と同じ、統制機構の人物が敵のことを知っている、寧ろ同じところに居るというような発言をしたのが理解できなくて。

 まさか、この人も敵なのでは。そんな考えが過って、ユリシアは警戒せずにはいられなかった。

「……マジかよ」

 こんな小さい子にまでそういうことを伝えるのか。それも、伝えられた限り衛士でもなく保護されているだけの人物にまで。カグラの顔が引き攣り、思い浮かべる緑髪の男に苛立ちが浮かぶ。つくづくあの男は気に食わないことをする。ぼそりと零した言葉を繕うように、怪訝そうな顔で首を傾ける彼女に笑って、また目線を合わせる。

「ノエルは敵じゃねえよ。確かに統制機構を抜けはしたが、今でも俺ら(・)の立派な仲間だ」

 そう言ってまた撫でやろうとするカグラ。伸びる手。だけれど、それは、乾いた音と共に払われる。ぱしん、と。

「うそです、だって、あのひとが、はざまさんが、うそをつくわけ」

 ハザマは良くも悪くも嘘を吐かない人間だと思っていた。時々それで冷たいことを言われたかもしれないけれど、それでも。だから、カグラの言った『仲間』だという台詞を信じればハザマが嘘を吐いたことになる。それだけは嫌だった。

 意外さに目を丸くするカグラに首を横に振って、彼女は駆けだそうとする。呼び止めるカグラを無視して。だけれど――。

「おや、どこに行くんですか」

 どん、と跳ね返されて踏鞴を踏むユリシアが見上げた先では、聞き慣れた声がした。

「怪我はありませんか?」

 見下ろす彼――ハザマがユリシアにそう問えば、彼女は一瞬目を真ん丸にした後に頷いて、それから。ぽろり、と涙を零した。

 しかしそんな彼女の返事だけを受け取って、ハザマはカグラの方に視線を遣るのだ。

「何やらご迷惑をおかけしたみたいですみません、『カグラ=ムツキ』大佐」

 帽子を取って軽くお辞儀をする彼に向けられるカグラの眼は冷たい。ハザマが現れた途端、空気が汚れたような気配すらしたからだ。だが嫌われるのにもそういう対応をされるのにも慣れていた彼が今更それを気に留めることもなく、ハザマは苦笑を浮かべて帽子を頭にそっと乗せると、でも……と前置いて、

「……『こちら』が保護している対象を、そう簡単に誘ったりしないでくださいね」

「じゃあ目を離してはぐれたりすんじゃねえよ」

 薄らと目を見開いて忠告するハザマにぴしゃりとカグラが言ってのける。それに開いていた目をいつも通り細めて、動じることもなくハザマは首を横に振った。

「帝のご命令で、なるべくコレの意思を優先させろとのことでして。ああ勿論、追跡の術式はかけておりますよ。だからここまで来られたわけですし」

 言われることは分かっていた。ならば『彼女』の名を出せば事はすっきり済む。事実、あの仮面の上司や世界を今管理する人物にも彼女のやりたいことをなるべく優先させろとは言われていたのだ。それで彼女が自ずと自身のことを自覚するようになれば――と。

 勿論それで今回のようにあまりに離れられては困るため言った通り追跡の術式はかけていたが。

「また帝か。……上が口出すほどの重要な御仁なのかよ」

 なんて話しながら思い出していたハザマだったが、帝の名を出されたカグラが不審に思い問うことで現実に戻る。

「そうですね。そこら辺は私にもさっぱりですよ」

 何せ、こんな子供なんですから。そう言って手を顔の横に掲げるハザマにカグラの不信感が余計に募る。

「もしかしたら、こんな見た目をして世界を滅ぼせたりなんかしちゃって……いやいや、冗談ですよ冗談」

 にこやかに微笑んだままハザマが言う台詞に眉根を顰める彼、それに焦ったように首を振るハザマの無駄にも思えるやり取り。さて、帰りましょうかとハザマがユリシアの手を引きカグラに挨拶をかける――のだが、そこでどうしようもない寒気がハザマを襲う。

 思わず握った手を離して、ばっと振り返る。一歩、後退った。

「待って……!」

 それは、ポニーテールを揺らすセリカだった。ハザマを見つめ、彼女はほんの少しだけ眉を垂れさせて、問う。ハザマの様子など気付かずに。

「あなた……どこかで、会ったことある?」

「な……」

 ハザマがセリカを見とめた瞬間、これ以上ないほどの驚きに目を皿のように見開いた。漏れる声と、震えだす身体。何故、とこぼした声はあまりに掠れて小さく、ハザマすら聞き取れぬほどだった。けれどハッとしたように双眸を細め、帽子のツバを持って目深に被り直すと彼は暫しの沈黙の後に、

「……いえ、申し訳ありませんが貴女とは初めてお会いしましたね」

 そう言って、くるりと踵を返す。

「そ、そっか。ごめんなさい。あまりに知り合いに似てたから……」

 ハザマの言葉と態度に困ったようにへらっと笑うセリカに返す言葉は短い。ハザマは一刻も早くこの場を立ち去りたかった。だって、彼女は。普段なら嫌味の一つでも言うのだろうけれど、震える唇はいう事を聞かない。今にも胃の中身をぶちまけてしまいそうなほどの不快感が、酸っぱいものが喉までせりあがってくるのを必死に抑える。

「そ、そうそう。追跡の術式をかけていたと言いましたが、何故か反応が鈍くてですね……いやあまるで『ここだけ魔素が薄くなった』みたいに。それで見つけるのが遅くなったんですよ。何か知りませんか?」

 カグラを尻目に吐き出す言葉はいつもよりも口数が多い。でも言葉を出したところで気を紛らわす程度にしかならず、気持ちの悪さはどうにもできなかった。

「……知らねえな。ほら、さっさと行った行った」

 答えが出るまでの僅かな間すら気に障る。それでは今度こそ失礼いたします。そう言って、またユリシアの手を掴むと彼は心なしか足早にその場を去った。

 未だ納得の行っていないようなセリカに、そんなに似ていたのか、と問うカグラの声はもう既に遠く聞こえていた。

「……あの、どうかしたんですか」

 握るハザマの手は震え、手汗でびっしょりになっていた。顔色も窺った感じでは良いとは言えず、いつものどこか余裕がある彼とは程遠い様子に彼女が問いかけたのは、もう随分と彼らから離れて、彼の様子が落ち着いてきた頃だった。

「何が、ですか?」

「あの、おんなのひとが、ちかづいたとたん、とてもいやなかお、してました、です」

 何のことだと問うハザマにユリシアが語る。あの少女を意識した途端胸がざわりとしたけれど、ハザマのそれはまた違った感じだったから。

「……あぁ、アレに近付くと私、とても気分が悪くなって……吐き気がするんです」

 歩きながらハザマは語る。知らないと言っていたけれど、まるで彼女のことを知っているような、彼女と居るとどうなるかを前から知っていたかのような。けれど思ってもそれを指摘することはなく、そうなんですかと返してユリシアは俯いた。

「……はざまさん」

「今度は何ですか?」

 俯く少女に見向きもせずに、ただ今度は離れぬようにしっかり握った手をそのまま彼は問い返す。ユリシアが話の口を切る。内容は、先のカグラの話した内容のことだ。反逆者であるはずのノエルと一緒に居るような、寧ろ彼女を仲間だと言うような。

「……あらら。それは大変ですねぇ」

 言葉の割に驚きは見せず、ハザマはふと立ち止まる。気付けば先ほど彼女が買い物をしていた店の前まで来ていた。

「もう一度、買い直しましょうか。あの人達にぐちゃぐちゃにされちゃったんでしょう?」

 ユリシアを見下ろして彼が告げる。きょとり、と目を丸くした彼女はやがて大きく頷いた。

 何故あの女――セリカが居たのかも、今後の彼らの出方も色々と考えなければならない。けれど、今はこの少女と買い物を済ませるのが先だ。

 

 

 

 チープなコール音が数度鳴り響いた後に、その通信に出たのは一人の女性だった。

「あら、レリウス博士? あなたから通信なんて珍しいわね。どうかしたの?」

「至急、イカルガの魔素濃度を調べてくれ」

 女――ライチが通信に出るや否や要求を伝える彼。感知した異常が正しいものか調べるためだ。今は壊滅してしまった第五階層都市イブキドの窯の前で彼は彼女の返事を待つ。

「解った。場所はどこかしら?」

 イカルガは複数の階層都市の集合体で、今は連合階層都市と呼ばれる場所だ。そのイカルガのどこを調べればいいのか、問う彼女にレリウスが答える。

「……第七の『カザモツ』だ」

「ちょっと待ってて。……あら、おかしいわね。ごめんなさい、もう少し待って」

 短く答えるレリウスに静かに告げると、小さなタイプ音が聞こえる。要求通りに調べているのだろう。けれど、答えはなく代わりに通信越しに彼女が不思議そうに声をあげる。

「やっぱり変だわ。カザモツの周辺だけ、他の階層都市に比べて魔素濃度が十五パーセントも急激に落ちている……」

「カザモツのデータを三日前まで遡(さかのぼ)れ」

 動揺を見せるライチに対し、動じる様子もなく仮面が命令すればまたタイプ音とクリック音が少しばかり鳴り響いて、やがて目的のデータに辿り着いたのか音が止むと。

「あら? 三日前のデータには異常がない。……その代わり、ヤビコが……え? 三十パーセントも落ちているじゃないの。これ以上下がれば民の生活に支障が出るレベルだわ」

 鼓膜を震わす通信の声は明らかな焦りと驚きを見せていた。まるで、何者かが魔素を打ち消しているかのように、魔素が減っているのだから。

 やがて要求しデータを転送されたレリウスも、それを見て――ふっと、口許を笑みに緩めた。

「……まさか、彼の亡霊に私が怯える日が来るとはな」

 

 

 

   1

 

「……んで、なんで俺がここに閉じ込められてるんだよ」

 統制機構のヤビコ支部に設けられた地下牢で、死神ラグナ=ザ=ブラッドエッジはその身を牢屋に収容されていた。

「だってお前、重犯罪者じゃん。それに反逆者だし……自分の犯罪歴覚えてないの?」

 ラグナの言葉に返すカグラは眉根を寄せひどく小馬鹿にした様子で彼を見ていた。彼の言葉に、本当に自身の今まで犯したことを忘れていたのかラグナが驚きに声をあげる。

 統制機構反逆罪で速攻処刑されないだけありがたい、ちなみに反逆罪は打ち首だとカグラは語る。それに何も言い返せないラグナと対照的に、それを聞きつけた少女――セリカとノエル達が、目を見開いて口々に止めてくれと言うのだから、桃色の髪をした猫の半獣人――ココノエが可笑しそうに笑う。

「モテモテだな、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 それに返す余裕がないほど、彼女らの思いも現実も辛く、ラグナが一思いに殺してくれと零したところでそれを否定するかのようにカグラが口を開く。

「安心しろ、お二人さん。殺しはしねえよ。コイツにゃまだやってほしいこともあるしな」

 ニッと笑ってそう言うカグラに、ほっと胸を撫で下ろすセリカ達。

「よかったぁ~! それならひとまず安心だね!」

「全っ然、安心じゃねえよ! カグラ、俺はテメェの言うことなんざ聞く気はねえぞ」

 しかしそんな彼女らと違い、処刑を先延ばしにされた当人のラグナといえばこの有様だ。けれどカグラはそれに好きにしな、とだけ言ってノエルに目を向ける。

「ところでノエルちゃん。マコトはどうしたよ」

「マコトとは途中ではぐれちゃって。多分今もツバキを探してると思います」

 それは、匿っていた二人が出て行った時は一緒だったのに、今では別行動をしているのを不思議に思ったカグラの問いだった。答えははぐれた。その言葉に先の少女のことを思い出して一瞬眉を顰めそうになるが。それを咄嗟に隠して、

「そうか……んじゃ、ノエルちゃんは暫くこの支部(ココ)に居てくれ。マコトの方は俺が何とかする。勿論、ツバキも含めてな」

 カグラの言葉。が、ノエルはそれに従おうとしない。未だ不安げな表情で、でもと零す彼女にカグラは困ったように笑って、

「解ってるさ。それに、ツバキにはマコトとノエルちゃん『達』の想いが必要だからな。でもバラバラじゃあ駄目なんだ。いいかい?」

 諭すように言う彼に、それでもと彼女は首を横に振り、カグラを見つめた。震える瞳は今にも泣きだしそうで、今にもまた出て行ってしまいそうなのを必死に抑えているのか身体は震えていた。カグラはそんな少女の眼をしっかりと見つめ返して、言う。

「心配なのは俺も同じだよ。ツバキとは付き合いも長いし。だからこそ、時間をくれ。二日で良いから。約束する、そしたら必ずツバキに会わせてやるから。――俺を信じてくれ」

 真剣なカグラの表情と、その真摯な言葉。カグラだって、彼女が大切なのだ。それがしっかりと伝わったから、ノエルはやがて表情を少しだけ緩めると、折れたように頷いた。

「分かりました。お待ちしてます」

 お前も見習ったらどうだ、とラグナに言うココノエを尻目に、いい子だと言ってカグラはノエルの頭に手を伸ばした。柔らかく笑ってその手を受け入れる少女と、自身の手を頑なに怖がるあの少女が重なって、カグラは思わず手を引っ込めかける。

「どうかしましたか?」

「いや、何でもない」

 

 

 

 場所は変わって、カグラの部屋まで上がって来ていた。

「で? なんでラグナを地下に閉じ込めたんだよ」

 カグラが自身の椅子に座るや否や、腕を組んでそう問う。ラグナにはああ言ったし、事実彼は重い犯罪を犯してはいるが、閉じ込める指示を出したのはカグラでなくココノエだった。

 視線を投げてくるカグラを目つきの悪い瞳で見ると半獣人のココノエは鼻先をひくりと動かしてから、静かに答えた。

「帝の事象干渉で、イカルガ全体がピリピリしている。地下には『体干渉用』の処置を施したと言っただろう? だからアイツには地下へと入ってもらった。これで多少頭も冷えるだろう」

 伏せる目の下には疲れと多少の苛立ちからか隈ができていた。帝の干渉力は今、知る中では誰よりも強い。口から飛び出た飴の棒が時折動くのを見つめ、そうかと短く答えるカグラにココノエの方が今度は首を傾けた。

「それより、お前の方こそツバキ=ヤヨイの件はどうするつもりなんだ?」

「どうするもこうするも、俺じゃどうにもできねえよ」

 ツバキに会わせるなどと偉そうにノエルに伝えていた割に、どうやって行動するのかがイマイチ見えなかった。そのためにココノエが問えば、彼は先ほどと打って変わってあまりにも頼りない言葉を吐き出すのだから、彼女は思わず目を見開き抗議した。しかしそれを手の平を突き出すことで制して、カグラは言う。

「落ち着けって。ノエルちゃんにも言ったろ」

 眉根を寄せ首を先とは反対に傾げる彼女に語るのは、ツバキには『アイツら』の声が必要だということだ。だからカグラ自身はその場所を用意するだけで、あとはコイツらが……。

 コイツらという単語が指すものがわからず、眉間に一層皺を刻み込むココノエであったが、それは彼がココノエから視線を外し呼びかけたことで理解する。

 振り向けば、そこにはカグラの秘書と、それに連れて来られたのだろう金髪にグリーンの瞳をした男がいた。

「……貴様の言葉、本当に信じていいんだろうな」

「あぁ、任せとけ」

 男――ジンがいくらか信用しきれない様子で問う。彼もまたツバキとは付き合いの長い一人で、兄として慕われてきた人物でもあった。彼女を救いたい気持ちの強さはカグラやノエルにも負けない。そんな彼に得意げに任せろと語って、カグラは黒髪の秘書へと視線を向ける。

「ヒビキ、そっちの進行具合はどうだ」

「はい、コロシアムの方は現状タイムテーブル通りに進んでいますね。ケーブルの準備などに少々手間取ってはいますが、二日後には完成するかと思います」

 ヒビキと呼ばれた若い青年の秘書は、琥珀色の瞳でカグラを見つめると淡々と報告を口にする。それを聞いて頷くと、カグラは次の質問を投げかける。

「ツバキには何人付けてる?」

「常時十二人、二十四時間態勢で監視しております。無論その分、当人も気付いていますがね」

「そうか。なら二日後、四人残して残りはコロシアムに向かわせてくれ。そうすればツバキは必ずコロシアムに来るはずだ」

 答えるヒビキに、暫し考える素振りを見せた後にカグラが告げる。承知しました、ヒビキが言いかけたところで二人の会話に水を差したのはやはりココノエだ。桃色の頭髪と同色の丸い耳を震わせて、

「何故そんな回りくどいことをするんだ。お前が素直に呼び出せば済むんじゃないのか」

 そんなココノエの言葉に、カグラはヒビキから彼女の方へ視線を移すと、問う。

「どうやって? 誰が伝えるんだ? 言葉や書面で伝えた時点で、あっさりアイツらにはバレるだろ」

 そう言って、カグラは椅子から立ち上がると机を避け、ゆっくりとした足取りでココノエに歩み寄り、言葉を続ける。

「呪縛陣とか言ったか? ツバキのあの眼……多分『観測(み)』られてるぜ。だから小鳥ちゃんには『自発的』に、此方の籠に入ってもらわなきゃ困るんだよ」

 と、どこか悪党のそれにも近い台詞を吐くカグラ。実際、謀反を起こそうとしている時点で彼らは彼女にとっての『悪』になっているのだろうけれど――。

 どうせ罠ってバレバレなんだし。ニッと笑って言う彼に、納得したようにココノエが頷いたところで――またヒビキが口を開く。今度は自身の上司でなく、ココノエにだ。

「ココノエ博士。貴女の『対干渉』」用の装置を一部拝借し、現在コロシアム内に設置中です」

 淡々と感情もなく告げられる内容にココノエがヒビキへと視線を向けると、青年は続けた。

 フルパワーで使用すれば、約一時間程、彼らの『観測』を誤魔化せる計算となっています、と。それを告げる彼に今更ながら感心を覚える彼女――だったが。

「あ、無傷でお返しするのは難しいと思いますので、悪しからず」

 思い出したように目を少しばかり丸くして語る彼に、一気にココノエの気持ちが落ちる。青筋を浮かべスゥッと目を細めてヒビキを睨みつける。一言。レンタル料は高いぞと。

 しかしそんなココノエの態度に怯えることもなく彼らは平然とした態度で、カグラなんかは茶化すように居候代にツケといてやるよ、そう語るのだ。

「あと、マコト=ナナヤには四人ほど付いていますが……いかがしますか?」

「あー、そっちは後で俺がふらっと行ってくるよ。確認したいこともあるし」

 それにココノエが何か言おうとするよりも早く、くだらない会話に時間を費やさぬようにヒビキがカグラに話しかけると、怒りを見せていたココノエの表情が不思議そうなものへと変わった。

「何だ、もう見つけていたのか。知らせてくれればテイガーに追わせていというのに」

「ウチの組織なめんなよ。いくらマコトでも、一日あれば居場所くらい掴める。捕まえるのはまぁ……ちょーっと難しいけどな」

 意外だと言いたげなココノエに溜息を吐いて、少しだけ自慢そうに語る。最後の言葉に締まりがないけれど。

「とにかくそっちは任せとけ……ってわけで、ジンジン。あと二日だ」

 そしてカグラの視線は、三人の会話を隅で聞くことに徹していたジン=キサラギへと向けられる。それに彼は金の髪を揺らし首肯することで理解を示すと、小さく漏らす。思い浮かべるのはとある人物だった。

「キサラギ少佐? 一体どちらへ?」

 悠然と振り返り、先ほど自身が通った扉の方へ歩き出そうとするジンへ、ヒビキの声がかかる。それを尻目に少しばかり不快を露わにして、けれど彼の昔を知る人物にとってはいくらか棘のなくなったと感じる声で、ジンは問う。

「貴様にいちいち報告しなければ僕は動くこともできないのか」

 困ったようにヒビキとカグラが顔を見合わせる。そういうわけではない。ただ、カグラ達にだって段取りがあるし、地下には彼が追い求め殺そうとする存在も居るのだ。それを知られてはいけないから、下手に今手を出されてしまっては困るから。

「……いや、そういうわけじゃねえさ。こっちにも色々準備があるからあんまし派手に立ち回んなってだけだ。あと地下には絶対に行くな、これは命令だぞ」

 ニッと笑って、しかし最後の言葉だけは真剣な表情に戻って。カグラの台詞にジンはふん、と鼻を鳴らすだけだった。止めていた歩みを再開し、部屋を出る。その背を見てココノエは目を伏せ呆れたような声音でぼそりと漏らすと、かつてカグラの個室であった隣の部屋――今はココノエの勝手な判断によりエレベーターと化してしまったそこに入っていく。

「やはり奴とは反りが合わんな。私も研究室に戻らせてもらう」

 機械音がして、ココノエが地下に下りていくのを確認したところで、ヒビキがやれやれといった様子で零す。やはりキサラギ少佐は相変わらずだ、と。

「そうだなぁ。まぁでも、他人と協力することを考えられるようになったのは、多少なりとも成長したってことだろ」

 腕を組み頷きながらカグラが言う。

 なんにせよ、崩れることのないジンの仏頂面がさらに酷くならないよう気を回さねばならない。それが、ジンがこちらにつく条件だったために。はぁ、と何度目とも知れぬ溜息は今度はカグラの口から漏らされた。

「場所の方は自分が取り仕切りますので、マコト=ナナヤの方はお任せいたします」

 変わらず淡々と告げるヒビキに軽い返事をして、そこでふとカグラは思い出す。ところで、ノエルはどうしたのだと。先ほど地下から上がって、ヒビキに一度任せてから姿が見えないのだ。

「別棟でおやすみになられていますよ」

 問えば、ヒビキはそう答える。少しの間を置いて付け足すのは言わずとも分かっていたことだが、彼女をクズだなんだと罵り忌み嫌う、先ほど出て行ったばかりのあの男――ジンに合わせるわけにはいかないからだ。

 彼がどうして彼女をそこまで毛嫌いするのかは分からない。聞けば、ノエルは攫われた妹にそっくり――否、妹を元にして作られた謂わばクローンの素体であるらしいが。それがどうして嫌うことに繋がるかは分からないけれど、先ほども言ったように彼の機嫌を損ねるのは避けたい事項だった。

「よくできました、五点やろう」

「結構です」

 そんなくだらない言葉のやり取りをいくらか交わす間は、今からやろうとしていることや今後起きそうなことの物騒さも忘れられる気がして。

 

 

 

「あぁ~もう! ノエルったらどこ行ったのよぉ! って、ここは……」

 最初こそ自身と一緒に行動していたはずが、いつの間にかはぐれてしまっていた親友を探すため、彼女は息を切らして走っていた。そしてふと、景色を見て思い出す。

 それは、彼女がカグツチでハザマに連れ去られ利用されそうになった件の少し前の出来事だった。今や壊滅してしまった、イカルガの中心ともなっていた第五階層都市、イブキドの跡地。彼女は一ヵ月前にもここに来ていた。

「懐かしいなぁ……」

 漏らす。あそこで見た光景は酷く、それを見つけてくださいとばかりに任務を押し付けてきた彼に関わる少女も、ノエルも、危険だと教えようとして、助けてくれたレイチェルに止められたのだ。何故だったかはマコトには分からなかったけれど、ひどく悲しげな表情をしていたのは今も鮮明に覚えている。

「でも、なんで止めたんだろう……それがなければ、もしかしたら」

 もしかしたら、止められたかもしれない。そう思うマコトだったけれど、他の事象ではマコトがそれを実際に伝え、そしてハザマに抗議したこともあった。そうして最終的にマコトが酷い怪我を負った事象もあった。けれど、それら全ては無駄となっていたから。少しでも、少女らの悲しみが減るように、少しでも犠牲を出さないようにというレイチェルなりの気遣いはあった。

 それに――あれで、存在するはずのなかった彼女ユリシアがどう反応するかも、結果を予測はしていたけれど知りたかったという節もあった。少しは、疑問を持ってくれるかもなんていう期待は裏切られたけれど。

「ノエル……」

 親友の名前を小さく口にして、心配に眉尻を垂れる。彼女はどこで何をしているのだろうか、ツバキにもしかしたら会っているのだろうか。それとも捕まってしまっているだろうか――。

 考えれば考えるほど、考えが嫌な方向へ傾いていく。そんなマコトの背中に、声がかかった。

「探しましたよ……。マコト=ナナヤ少尉」

 聞き慣れた声に思わず振り返って、マコトは彼女の名を呼ぶ。紅いロングヘアの少女、ツバキだった。

「ツバキ!! もう、探したよ! どこにいたのさぁ?」

「……『探した』ですって? 探していたのは私の方よ、マコト=ナナヤ少尉。それにしても、情報通りね。驚いたわ」

 そこに居た少女の瞳は暗い紅をしていて、細めた双眸はひどく冷たく――鋭い。親しみを込めて名前で呼んできた彼女はそこには居なく、フルネームで呼ばれた彼女は少しの悲しみを覚えた。

 けれどその悲しみも今は抑えて、必死に彼女はツバキへと呼びかけた。

「お願い、ツバキ。統制機構を抜けて一緒に行こう。あそこは絶対おかしいよ!!」

「面白いことを言うわね。その言動は『反逆罪』に当たるわ」

 マコトの真剣な様子すらも彼女は冗談だというように切り捨てて、冷ややかな声で問う。何がおかしいというのかしら、と。

 問われれば弾かれるように、まくしたてるようにマコトは語った。このイカルガで昔起きた内戦のことも、統制機構の態度も、帝のことも。

 表向きでは『イカルガ内戦』は、イカルガ側が仕掛けた独立戦争のようになっているが、統制機構が起こした戦争であること。当時は確かにイカルガ連邦として独立自治を認めてほしいと訴えてはいたが、決して戦争なんかではなく話し合いで解決しようとしていたのに、統制機構は『帝の意思により』とたったそれだけで戦争を起こしたこと。

 ツバキの大嫌いな争い、戦争、悲しみと血と死しか生まれない戦争を。

 その時の帝の言葉が、『より多くの死を』だったことを。何度も何度もイカルガが停戦を申し入れても帝のためだと聞き入れなかったこと。

 いかに帝が、統制機構がおかしいのか、彼女は訴えた。口を開くツバキ。理解してくれたのだろうか、思うマコトにかけられる言葉は、

「それがどうかしたのかしら。それにマコト……あなた、何か勘違いしているわね」

 ツバキの『勘違い』という一言にマコトが眉根を寄せると、ツバキがその双眸を細める。黒い十六夜の帽子についた目が代わりに冷たくマコトを射抜いていた。ゆっくりとした口調で、彼女は語る。以前のツバキとは、明らかに雰囲気が違った。

「統制機構。いえ、この世界における全ての『命』は帝のために存在しているのよ」

 そんな、命を、個を大事にしない発言だった。驚くマコトを他所に、言葉は続けられるが――その口調はやがて少しずつ、少しずつツバキらしさを失いはじめていた。まるで、誰かに口を操られているかのように。

「その命が帝のために使われたのだとしたら、それは光栄なことだと思え。たかが虫けらごときの死で何を言う」

 まるで、別人のようだった。まるで、知らない誰かのようだった。居ないはずの存在が、見えないはずの存在が重なって見えるようで、ツバキがツバキじゃなくなっているようで。

「マコト=ナナヤと申したか? そうだ『余』の望みは神羅万象『死』のみだ」

 事実、ツバキの口が紡ぐその言葉は、マコトを知らぬ者のように扱う台詞を紡いでいて、思わず誰だと、マコトが漏らす。しかしそれをなかったことのように無視して、彼女は続けた。開かれる瞳。

「これが最終勧告よ。統制機構に戻りなさい、マコト=ナナヤ少尉。でなければ制裁も辞さないわ」

 そんなツバキの言葉に、しかし待ってと言って、マコトはもう一度――ツバキだよね、と確かめるように言葉をかける。

「ええ、ツバキよ。おかしなマコトね。旧友のよしみで多少の手心は考えていたけれど……勧告に従わないのであれば、今ここであなたを……断罪します!!」

 不思議そうに答えて、そしてツバキはその問いを自身の勧告に応じないものだとして、叫ぶ。まるで繋がりを、断ち切るかのように。迷いなく彼女は蛇腹状の刃を展開して、マコトに襲いかかった。

 対するマコトは躊躇が残っていた。親友と戦いたくなどなかった。

 反応が遅れ、躱すも肩を掠める。そこを狙うようにしてツバキが開いた距離を詰めるように駆け短剣を振り回すのを、腕につけられた十字のトンファーで防ぐ。そこで一発拳を入れることもできたはずなのに、マコトはそれをできなかった。分かって欲しいのに、それを物理的にぶつけることに恐怖を覚えていた。

 迷いのあるマコトには次々と繰り出される攻撃を防御するのが精いっぱいだった。

 それは、マコトの得意な接近戦に持ち込まれても同じだ。ツバキがマコトを掴み上げ放ると、腕につけていた盾が外れ、本のようにぱらぱらと開かれる。術式で宙に拘束されたマコトはただ成す術もなく鞭のような蛇腹状の刃に何度も殴りつけられ傷を肌に生む。最後には足下の盾から飛び出た刃に突き飛ばされ――少女はうめき声をあげた。それでも尻尾をクッションにして打ち付けられる衝撃を和らげ、そのまま後ろに転がった。けれど立ち上がることはなく、伏せたまま。

「っぐ……はぁ、っはぁ……! ツバキ……」

 ただただ悲しそうにツバキを見つめるマコトに、もういいでしょうとツバキは声をかけ、首を振った。これ以上は無駄な戦いだと、さっさと従いなさいと。それでも、マコトがその意思を見せないから、ツバキは剣を構えた。

「ああ、もういい。充分だ」

 けれど、それは第三者の声によって制される。二人の視線が、ツバキの背後からやって来た彼に向けられる。

「ムツキ大佐、どうしてここに」

 疑問の声に答えることはなく、彼――カグラ=ムツキは快活に笑う。

「いやいや、お勤めご苦労さん、ツバキ=ヤヨイ少佐。マコト=ナナヤ少尉の身柄は此方で預かっとくから、貴官は引き続きラグナ=ザ=ブラッドエッジ討伐に向かってくれ」

 ツバキの眉がひくりと動く。まだ、ラグナをカグラが捕まえていることも、マコトを匿っていることも知られていないはずだが、背中に嫌な汗が浮かぶ。

「それは、どういう意味でしょうか」

「言葉の通りだよ。おら立て、マコト=ナナヤ少尉」

 ツバキの問いに答えながら、彼はマコトを振り返り手を差し伸べ、引っ張り起こすのをツバキは特に咎めることもなく見ていた。その代わり、

「大佐自らが引き取りに来るなんて……総領主のお仕事は、随分とお暇なようですね」

 普段のツバキであれば礼を欠くことを気にして言わないだろう皮肉を彼女は口にする。それに目を丸くしそうになるも笑みを崩さぬまま、カグラは語る。優秀な部下が多いから楽をさせてもらっていると。

「んで、たまには衛士としての仕事もしなきゃと思ってな」

 それに、帝の命は絶対だろうと、勅命書をカグラは突き出した。

 すぅ、とツバキの眼が細められる。確認するように何度も上下に目を動かして、最後にじぃと見つめるのは帝の判が押された場所だった。

「この判は間違いなく帝のモノ……しかしムツキ大佐。これは間違いなく帝のモノなのでしょうか?」

 問う、ツバキ。彼女が違和感をおぼえるのは何故か、カグラは何となく察していたけれどそれを言うことはなかった。少しばかり困ったように、そして窘めるように眉を下げて、

「あらら、お前がそれ疑うの。偉くなったねぇ。俺は帝の『勅命』を受けてここに来てんだ。ツバキ=ヤヨイ少佐。自分らが言ったこと、思い出せよ」

 語る台詞が指すのは先日、カグラが初めてユリシアに会った日のことだった。

 『帝の勅命は如何なる事柄よりも優先される』

 そう淡々と口にして、彼女は細めていた目を伏せる。

「そ、だからこうして『反逆者』の回収。つう訳で、じゃあな」

 立ち上がらせたマコトを一見逃がさないように、けれど支えながら彼は言うだけ言って、手を掲げて去っていく。

 その背に向けてかけた言葉は、ツバキの精神をもう半分ほど食らわんとしている帝のものなのか、それともツバキ自身のものだったのかは誰にも分からない。

 



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第八章 橙争の夕暮

 カチャカチャとナイフと皿のぶつかる音がして、柔らかく焼かれたひき肉の塊が切られていく。一切れを口に運び、咀嚼し、溢れる汁と噛みつぶされたそれを暫しして飲み込む。添えてあったほうれん草のソテーを箸で摘まんで、テルミが口腔に放ったところで彼女は口を開いた。

「……てるみさん」

「何だよ」

 首を傾げたテルミに、呼びかけた少女はへらっと笑って言うのは、ヤビコの方で面白いことがあるらしいですね、とのことだ。

 ヤビコというのは勿論、連合階層都市イカルガの現総領主『カグラ=ムツキ』が身を置く第六階層都市のことである。

 なんでも、捕まえた賞金首――ラグナ=ザ=ブラッドエッジの懸賞金をかけた規模の大きな格闘大会をやるらしいとか。

 カザモツに来ても彼女らはトレーニングを怠っていなかった。別にする必要はないと言えばなかったのだけれど、彼女がやりたいと言うからそれにテルミは従い、付き合っていて。それよりも早く『蒼』としての自覚をして欲しかったけれど……もし大事な時になっても彼女がそうできなければ、その時は無理にでも思い出させるまでだ。

 それで、トレーニングルームには人も集まるため、その分そういう噂も入ってきやすいらしい。更衣室での出来事なんかは完全にハザマ、テルミのあずかり知らぬところであるし、彼女がどこでその話を聞いたかと考えれば多分そこなのだろう。

「へぇ、それはまた随分と面白そうなイベントで」

 ひき肉の塊、もといハンバーグを頬張りながらテルミが言えば、こくりと彼女は頷いた。

 そういう大会だとしても、人同士が戦うのを見るのは、ユリシアはどちらかと言えば好きではない方だ。けれど、テルミが散々楽しそうな笑顔を見せていた相手、そして世界の敵であるラグナ=ザ=ブラッドエッジが自ら、自身の懸賞金をかけて戦うというのだ。見たいと思うことこそあまりないけれど、興味を持たぬわけがない。

「ま、仕事がなけりゃ行きたかったところなんだがねぇ」

 生憎とテルミ――正確に言えばテルミの器であるハザマには、ここに来てまで自身の目的のそれとは別の、書類作業があった。具体的な内容は主に経費についての報告だとか、諜報部が管理する資料を期限が過ぎても返却しない輩への催促状、あとは情報漏洩の許されない機密事項を、普通の書類と一緒に送ってくる別の支部へ文句を叩き付けるための書類だ。

 あともう一つ、書類ではないが――とある用事があった。保険だ。

 それに、なんだか嫌な予感がするのだ。先日の少女、セリカ。セリカ=A=マーキュリーの件もあるのだから――。

「てるみさん、かおいろ、わるいです」

 気付けばユリシアがテーブル越しに顔を覗き込んでいて、テルミはハッと目を見開く。それほど表情に出しているつもりはなかったのだが、彼女を思い出すだけで齎される気持ちの悪さは案外出てしまうものらしい。

「だいじょうぶ……ですか?」

 心配そうに問う彼女に、テルミは短く相槌を打った。それにしても、そんな大規模な格闘大会を開くという彼らの考えが、テルミにはまだ憶測でしか理解できなかった。世界中の眼が集まるような、そんな――。

 それに、巷ではあの『狂犬』の噂も出ている。それがどう出るかも気になるところだ。

 どちらにせよ、自身らの勝利は決まっているのだけれど。

 

 

 

   1

 

「……暇だ」

 ラグナはただただ暇を持て余していた。

 拘束陣がかけられたうえに、牢自体にも同様に術式がかけられ、さらに今はあるもののせいで力も出せない。こんな状況で何かしようという方が無茶な話であった。

 ラグナの目の前に腰かける少女は、高い位置でくくったポニーテールを揺らして、開いていた本を閉じ立ち上がると、一歩進み出て苦笑いを浮かべる。

「あはは……本でも読もうか? ココノエ博士から面白い本を借りたの」

 彼女――セリカは小脇に抱えた本をまた取り出すと、表紙を顔の横に掲げ首を傾ける。退屈そうなのに、牢から手も出せないラグナのことを気遣ってだ。

 彼女の気遣いを無碍にする理由も、ましてやこの退屈さを紛らわす手段を自ら棒に振る理由も、ラグナにはなかった。座ったままぴくりと眉を動かし顔を上げると、

「へぇ。どんなのがあるんだよ」

 と、少しばかり興味を露わにして、本――おそらく色んな話が収録されているらしいセリカの本を見た。それに嬉しそうに細めた目を開いて、ぱっと笑顔を咲かせる彼女は厚手の表紙をめくって、目次を見る。

「えーと……『赤い生物と一人の男』って話はどうかな。主人公の猫耳が生えた女の子が、自分を拾ってくれた研究員の男の人を振り回して過ごす楽しいお話なんだけどね」

 嬉々として語る彼女にラグナは微妙な顔をする。猫耳の少女に振り回される、なんてどこかで聞いたような話は間に合っているからだ。まるであの、食べることと寝ることしか頭にないお馬鹿な猫娘ではないか。

 ラグナのその考えを察して、彼女はまた眉尻を下げると、目次に視線を落とす。

「んー……じゃあ『少女と商人』なんてどう? 仲間と一緒に青年と元奴隷の女の子が商売をしに行くの」

 それもなんだかピンとこない。申し訳なさと微妙さに複雑そうな顔をするラグナに、あは、とまた笑って彼女はそれならと、本をまた脇にやり顎に手を添える。

「うーん、それじゃあトランプなんてどうかな。あ、そこから手出せなかったね、ごめん。えっと、他には……」

 唸り、何とかしようと考えるセリカに、ふと声がかかる。目を丸くして顔を向ける彼女にラグナは問うた。

「あんたさぁ、いつまでそこにいるつもりなんだ」

 彼女がいつまで経っても自分の傍を離れない理由を問うものであった。特に仲が良いわけでもないのに、親しく話しかけて、自身と共に居る彼女の存在はひどく違和感があった。

「いつまでって、そりゃあラグナがここから出してもらえるまでかな?」

 名を呼ばれた瞬間、ざわりとラグナの胸の中が騒ぐ。それが何故か分からなくて、気安く呼ぶなと軽く怒鳴りながら、身体を動かそうと力を入れる。しかし、ぎゅうと身体を締め付ける感触は消えず――。

 この感覚は、多重拘束陣だ。しかも解除しようにも数秒に一回コードが変わるシロモノだった。力技でぶち壊さなければ、元々術式の類が得意でないラグナには到底外すことなどできない。

「クソ……こんなもん、力さえ出せれば。あんたさぁ、マジでどっか行ってくんない? 頼むわ」

 けれど、力を出そうにも右腕と右目が使い物にならないうえに『蒼の魔道書(ブレイブルー)』が反応しない。彼だって馬鹿ではない。彼女が近付くことで彼の右上半身を封印されていることなどとっくに気付いている。さすがに、どんな原理でそうなっているかはわからないけれど。

 彼の言葉に、彼女は首を横に振って申し訳なさそうに言った。

「ごめんねラグナ。でも駄目なんだ。ココノエさんに、ここにいろって言われてるし……それに」

「それに?」

 口ごもる彼女の言葉を促すように、ラグナが首を傾げる。それに後押しされたように、彼女は再度口を開いた。

「ラグナの傍に、いたいから」

 訊くんじゃなかった、とラグナは思う。だから話を変えるように、ずっと気になっていたことを口にする。

「つーか、なぁ。あんた何者なわけよ。随分と馴れ馴れしいし。俺があんたに会ったり、なんかしてやったことでもあった訳?」

 特に何かした記憶はないし、それどころかこの記憶が正しければ彼女とは最近初めてあったばかりだ。だから、彼女がここまで自身に親しくしてくるのは、違和感があった。まるで彼女だけ、自分の知らない自分を知っているようで――。

「うーん、あはは……そう言われると困っちゃうな。ちょっと寂しいかも」

 ラグナの胡乱げな瞳と、どこか突き放すような尋ねる言葉にまた苦笑を零して、セリカはそう述べた。流石に言いすぎたかと思い、謝りはするが知らないものは知らない。そうラグナが言うのに対して、セリカだってちゃんと説明したかった。

 けれど、どう言えばいいか分からないし、纏まらないし、仮に纏まったとして信じてもらえないような内容だから。

 微妙な空気の流れる二人の間に、ふと声が響く。セリカの背後から、甘やかな、幼さが残りながら気品に満ち溢れる薔薇のような声が。

「あら、セリカ。貴女もいたの」

 驚きに瞠目し声をあげるラグナと、同様に驚きながらもすぐににこやかに笑って応じるセリカ。ココノエさんに、ラグナの見張り番を頼まれて……そう語るセリカに反応したのはラグナだった。ラグナに接するときほどではないが、やけに馴れ馴れしくて引っかかりをおぼえたのだ。ただ、それもどうでもいいことだと流せる程度には、自身がウサギと呼ぶ彼女に話しかける方が先決だった。

「ウサギ、ここから俺を転移してくれ」

「嫌よ」

 即答の拒絶。がくり、と肩を落としそうになるがラグナもそう言われることは察していた。彼女はラグナに対してどうにも厳しい。それに、何故だか今日の彼女はどこか不機嫌そうなオーラを纏っていたから。

「それに、貴方如き『ゴミ虫』の言うことを、何故私が聞いてあげなくてはいけないのかしら?」

「ゴミ虫って……いや、頼むよ。こんな所でゴロゴロしてる暇なんざねぇのは、お前も分かってんだろ?」

 少しの呆れ混じりにラグナが懇願するも彼女は容赦なく切り捨てる。ゴミ虫が鳴いているように聞こえるなんて冷たくあしらい、けれど彼を一度ちらりと見遣って溜息を吐いた。

「私はただ、暇潰しにこの子達とお話に来ただけよ」

「この子達……?」

 ラグナが首を傾ける。彼女がふとセリカの方を見て言う言葉が、不思議だったからだ。だって、ここにはどう見てもレイチェルを除けば二人しか居ない。それに彼女がラグナを『この子』なんて呼ぶ状況ではないから除外されるとして、そうすると彼女が呼んだ対象はセリカたった一人だけだ。複数形の言葉に対して。

 けれど、そんなラグナの疑問は案外早く解決されることになる。

「レイチェル……さん? 何でしょうか……?」

 現れるのは、金の髪を揺らす少女――ノエルだった。頭につけられた小さな青のヘッドギアに軽く触れた後、そっと歩み寄る。

「ノエル? なんでテメェもここに」

 その声に不思議そうに顔をあげるラグナ。レイチェルの言った『この子達』のもう一人はノエルのことなのだろうことは分かっても、理由が分からなかった。

「呼ばれた気がしたんです……。ここに来なさいって」

 答える彼女。胸で軽く手を重ねて、困ったように笑う少女。その言葉にラグナは溜息を吐いて、レイチェルを見遣った。人が捕まっているところで女子会でもする気なのだろうか、あのウサギは、なんていう思いを込めて。

 けれどそれに知らぬふりをして、彼女はセリカとノエルだけを見て口を開いた。

「そうね……貴女達は知っておいた方が良い『お話』よ。そこのゴミ虫が聞き耳を立てているかもしれないけれど、気にしなくていいわ」

 ゆったりと紡ぐ言葉は、ラグナに向けた毒を含みつつもどこか寂しそうな声によるものだった。お話。その単語を繰り返して首を傾げるセリカに、ええと頷いてレイチェルは聞くか、と問うた。

「うん! 聞かせてください!」

「お願いします、レイチェルさん」

 二人がレイチェルの問いに答えると、それを予測していたかのように彼女はまた小さく頷いた。瞼を閉じて、金の睫毛を震わせる。紅い唇をそっと開いて、

「少しだけ長くなるかもしれないけれど……我慢して頂戴」

 そう言って、数秒ほどの沈黙が流れる。やがて、彼女が紅玉のような目を開いて、閉じた口をまた開きかけ――噤む。焦れったい静かな時間、誰も口を出すことは憚られて、皆一様にレイチェルを見つめるだけだった。

 そして、何かを決意したように彼女はもう一度口を開くと、こう言った。

「それはね、一冊の『本』と少女のお話よ」

 

 

 

「……チッ、つまらねぇ話だ」

 彼女が話し終えると、そこには重苦しい空気が流れた。

 仄暗く、誰も救われない悲しいお話。終わりのないお話を聞いて誰も口を出せずにいた。けれど、ラグナはその空気の悪さを掻き消すように、静かに毒を吐いた。

「私の話はこれでおしまい。――それと」

 そんなラグナの言葉を無視して、レイチェルがふとノエルの後ろを見ると、ワンテンポ遅れ皆の視線が一斉にそこへ集まる。この地下への入り口である階段の方だ。

「盗み聞きは感心しないわね、ココノエ」

 彼女が名を口にした途端、陰から現れるのは桃色の髪と二本の尾を揺らめかせる半獣人、ココノエであった。彼女は一歩、二歩と彼女らへ近付くと短く語る。

「お前が勝手に入り込んで、勝手に話したことだ。私には関係ないだろう」

 冷たい言葉ではあったが、そこに言葉以上の責める意図は見当たらない声音で言う彼女に反論することもなく、甘やかなレイチェルの声はそうね、とだけ答えた。

「それじゃあ、私は行くわ。二人とも、私のお話に付き合ってくれてありがとう」

 それだけを言うと、彼女の足元には薔薇色の魔法陣が浮かび上がる。ノエルとセリカ、二人が返す礼の言葉を受けながら、中心に薔薇を描いた複雑な魔法陣ごと彼女の身体は浮く。そして、開く空間。向こうの闇からは薔薇の濃い香りを纏った風が吹く。

 その空間の裂け目に彼女が足を踏み入れると、それは彼女を飲み込み――彼女の身体はすぅっと消えた。

 その一連の流れを見た後に、ポツリとラグナは呟く。

「……決して救おうとしない。ただ『倒す』だけ……か」

 どこかで聞いたような、既視感を覚える話であった。中盤からはまるで違う話だったのだけれど、その話は、何故か自身に重なって。ならば、何故自身は戦っているのだろう。ラグナは無意識に口から漏らしていた。

「ふん。おいノエル、勝手にコイツの所に来るな」

 らしくもなく思考に耽るラグナを見て、鼻を鳴らすのはココノエだ。ノエルの方にすぐに視線を遣ると注意の言葉を口にする彼女に慌てて彼女が謝罪する。

「あ……ごめんなさい、ココノエ博士」

 が、素直に彼女が応じればそれ以上責める気もないらしい、ココノエは丁度いい、なんて言って彼女に歩み寄ると、

「お前を探していたんだ。マコトが帰ってきた。今部屋にいるはずだ。後で呼ぶから、それまで部屋で待機していろ。いいな」

「マコトが……!? 分かりました、ありがとうございますっ」

 下された指令に、親友が見つかったことを知り彼女は一度驚いたように目を丸くした後、頷き礼を述べた。親友とのやっと再会できる。その事実を噛み締めて、彼女は少しばかり機嫌を良くして、地下から出る階段を駆け上がって行った。

 その背を見送り、足音も聞こえなくなったところで彼女がラグナを振り向く。

「それとだ、ラグナ。出ろ。私と一緒に来い」

「あ? いいのかよ、俺を出しても。どうなっても知らねぇぞ」

 近寄りそう命令を下すココノエに、先ほどまで散々退屈だなんだと言っていたラグナは意外にも反抗的な態度を取った。ここから出たいとは思うが、彼女の言うことを聞くのは何だか癪だったからだ。それに顔色一つ変えることなく、寧ろ予測していたというように、彼女は白衣のポケットに手を突っ込んだ。

 そこから取り出される物体は小さな立方体をしており、上面に赤い円形のボタンが一つ付いていた。これが何か分かるかと問う彼女に、四角いモノだとラグナは答える。

「見ての通り、これはスイッチだ」

「何のだよ」

 話を進めるため早々にその正体を明かすココノエと首を傾けるラグナ。ここで取り出すには何かしらの理由があるのだろうが、見当がつかないからだ。

 ふっ。彼女が鼻で小さく笑った。

「……『この』私が、お前の左腕をただ治した『だけ』だと思うのか?」

 左腕を治したというのは、以前ミュー・テュエルブとして精錬されたノエル=ヴァーミリオンをラグナが倒し、ラムダから取り込んだイデア機関で逆精錬……ノエルとしての意識を取り戻させたという一件で、彼の左腕――つまり言うところ、ラグナの『蒼の魔道書(ブレイブルー)』とは反対の腕が吹き飛んだため、ココノエが義手を作ってやったのだ。

 そして、彼女の言葉はそのまま、ただ左腕をくれてやっただけでないということだ。色々と身体の検査もしたし、そして――。

「いいか、よく聞けラグナ。お前の身体にはMD爆弾が仕込んである」

「はぁ!? 爆弾だと!?」

 きらりとココノエの目が光ったような気がした。あまりの不穏な言葉に、思わずラグナは叫んだ。爆弾。爆発物。それが作動すればどうなるか、想像だけで充分ラグナの顔を青ざめさせることはできた。

「MD爆弾は左腕の細胞単位で仕込んであるから、無論、取り出す事など不可能だ。まぁ、威力の方は……体験したときにはお前の身体は原子レベルまで粉々になっているだろうから、関係はなかろう」

 得意げに語る目の前の半獣人が、ラグナには悪魔にしか見えなかった。そうした理由は何となく分かる。自身の言うことを聞かせるための首輪だろう。――首輪にしては、物騒すぎるシロモノであるが。そして、そこまでのことをする彼女がどう見ても正気のヒトだとは思えなかった。

「脅しにしては、出来の悪い話だな……」

 頬の筋肉をひくつかせ、滲む乾いた笑いと共にそう絞り出す声はか細い。言うラグナに彼女は何とでも言え、と言ってから、ふと思い出したように天井を見上げた。

「あ~、あと、そうだ。MD爆弾は『お前の人体のみ』を破壊するからな、周りの被害は気にせず存分に爆死してくれ、じゃあな~」

 ひどく気の抜けた声が紡ぐ言葉はおぞましい。

 待てと叫ぶ言葉は遅く、ぽちり。そんな表現が正しいだろう音を奏でて、彼女の人差し指は左手に収まったスイッチのボタンを押した。途端、少しばかり高めの機械音が一つ鳴る。

 肩に力が入り、目をぎゅっと瞑って、ラグナは死を覚悟した。――やり残したことを思い出す。けれど、一向に覚悟した衝撃は襲って来ない。

 地獄や死後の世界といったものは信じない主義であるが、まさか、もう死んだのだろうか。

 そう思いながら、恐る恐る目を開けると――。

「……って、おろ? 何も起きねえじゃねえか、何だよココノエ、やっぱハッタリか!?」

 そこには、何の変哲もない自身の手があり、身体があり、そして目の前には無表情のココノエと、心配げにココノエを見つめるセリカが居た。

「セリカ。お前にやる。なくすなよ」

「へっ? あ、はい」

 スイッチをセリカに差し出し、彼女が言う。慌てて両手で包み込むように受け取るセリカを見て頷くと、彼女はまたラグナに向き直る。

「ラグナ、爆弾は起動した。もしセリカから一定以上離れればそのMD爆弾は爆発することになる。距離はそうだな……ある程度はいけるはずだが、試してみるか?」

「……マジなのか」

 首を僅かばかり傾けて問う彼女に、目を見開き尚も問うラグナ。それに深く深く、わざとらしいほどの溜息を吐いて――彼女は言った。

「物分かりの悪い奴だ。時間の無駄だな、やはり処分するか。セリカ、行くぞ」

 手を招いて、セリカを呼ぶココノエに待って、そう言うのは呼ばれたセリカ自身だった。ラグナはどうするの、そう問う彼女に不思議そうに、首を先ほどとは反対に曲げてココノエは尋ねた。

「何だ、セリカ。この男が粉々に砕け散る様を見たいのか。それなら置いていっても構わんが」

 そんなココノエの台詞に異を唱えるのは銀髪の男、ラグナだ。曰く、スイッチが近くにあれば大丈夫なのだろうとのことだったが。首を横に振って、ココノエは呆れたようにラグナを見つめて、語る。

「この私がセリカだけに爆弾のスイッチを託すとでも思うのか? お前はまだ全然、私というものを理解していないな」

 ――私の指示に従わなければ、即爆破する。

 低い声で淡々と告げる彼女にぞわりと身の毛がよだつ感覚をおぼえて、ラグナは慌てて叫んだ。先ほどまでの反抗的な態度はどこへやら、

「出るよ! 出りゃあいいんだろが!! はいはい、着いて行きますよ、どこまでも」

 そう言うラグナに満足げにふんと鼻でまた笑い、ココノエが牢の鍵を開ける。

 性格の悪さはあのウサギ以上だ。小さく零す声を聞きつけて、何か言ったかと問う彼女を冷たくあしらって、彼はセリカに行くぞ、とだけ言いさっさと歩いて行ってしまった。

 

 

 

   2

 

「んで、何の用だよ。俺を出すほどの用件があるんだろ」

「話は簡単だ。俺に協力しろ、報酬は弾んでやるぜ」

 問うのはラグナだ。それを受けて立ち上がり、歩み寄るのは黒髪の巨漢、カグラ。

 腕を組んだまま見下ろし、そしてニカッと人の良い笑みを浮かべて答える彼を睨み付け、ラグナは、お前の犬になるなんてふざけるな、と吐き捨て――。

「って言いてぇところだが、その為の『爆弾』なんだろ。やることがいちいちセコいんだよ、テメェらは」

「爆弾? なんだそら」

 そんなラグナの零す言葉に首を傾けるのも、やはりカグラだ。彼は爆弾など仕掛けた覚えも、仕掛けさせた記憶だってない。だから、その言葉を出したラグナに問うわけだが、

「コイツの身体にはMD爆弾が仕掛けてある。細かい説明は省くが、要は首輪だ」

 答えるのは桃色の尻尾を揺らめかせる半獣人、ココノエであった。そして、ここに来てラグナは、このカグラの部屋に来るまでの二時間の間ずっと考えていた一言を口にした。

「首輪にしちゃあ物騒過ぎんだろ」

 苦笑し、同意を示すセリカと、やはり顔を引き攣らせえげつないと漏らすカグラ。それでもその分だけ話は早いとして、すぐにラグナへと顔を向け直した。

「取り敢えずだ、ラグナ。お前暫く『蒼の魔道書』使用禁止な」

 軽く告げられた台詞。あぁわかったなんて流しそうになって、その内容を噛み砕き、咀嚼し、反芻して――、

「はぁ? ふざけんな!」

 蒼の魔道書を使えないということは、ラグナの力の殆どを抑えることに繋がる。そんな状態でどうしろというのだと言いたいラグナの気持ちもカグラは分かっていた。

 それ以前に、今は彼女が居るために蒼の魔道書が反応しなくなっているのだけれど。

 ふざけるな、と言うラグナを手で制し、その気持ちを分かっておきながらカグラは最後まで話を聞けと言って、腕を組み直す。

「俺達は今、ある計画を遂行してるんだが、それにはお前の『蒼の魔道書』が邪魔なんだわ。色々勘違いもしちまうからな」

「勘違い? 何をだよ」

 眉根を寄せ、ラグナは伸びっぱなしで垂れてきた前髪を払いながら問う。勘違いとは一体何のことだろうか、それに答えるカグラは少しばかり困ったように語る。

「ハザマ……否、ユウキ=テルミか。俺たちは奴の動きを追っているわけで。お前が蒼の魔道書でも使おうもんならセンサーが奴の『碧の魔道書』と誤認識しちまうんだよ」

 ただでさえテルミらと行動している彼女――ユリシアだって、何故か蒼の反応がして、紛らわしいというのに。

「ま、そういうわけで。報酬は弾むから死ぬ気で働け」

「報酬なんかいらねぇよ」

 またニッと笑って親指を立てるカグラに素っ気なく突っぱねるラグナ。予測していたのかカグラは特に驚く様子もなく、寧ろその笑みを一層深くして、

「クシナダの楔……って言ってもか」

 クシナダの楔。魔素の活動を断ち切り停止させてしまう、この時代なら民たちの生活すら危うくなってしまうものだ。しかしその起動キーは失われ、所在も明らかではない。そして、ラグナの探しているものであった。

「クシナダの……おま、クシナダの楔を持ってんのか!?」

「持ってる、って言えば嘘になるな。正確に言えばどこにあるかを知っているってところだな」

 カグラが語るや否や、動揺を見せるラグナ。そして、ぐっとカグラに近寄り、詰め寄った。どこだ、どこにある。それがあれば、やっと、彼女を。

 そう焦るな、と制しながらもカグラは自慢げに尚も続ける。

「しかも……だ。楔の『起動キー』もここに居るぜ」

「起動する術は既に失われているはずじゃ……って、ここに、居る?」

 驚いたように言って、それから気になったのは『ある』ではなく『居る』とカグラが言ったことだ。しかも、それはここに居ると。首を傾けるラグナに対し、その後ろを手を差し出すことで示してカグラは、そこに。と。

 振り返った先に居たのは、少女だ。

「どうも~」

 セリカ。セリカ=A=マーキュリー。その存在を認知し、カグラの言ったことと重ね合わせ、目を見開いた。セリカがなのか。半分疑問、半分そうなのだろうという混ざり合った状態で、彼は声をあげる。

「そうだ、この『セリカ=A=マーキュリー』の魂が、クシナダの楔の起動キーだ」

 どういうことだ、とラグナは聞かずにはいられなかった。けれど、それでも、カグラが制すれば仕方なく頷いて、顔を向ける。

「んで、計画って言うけどどんな計画なんだよ」

 楔のことへあまりに気を取られていたが、そうして考えてみると気になったのはそこだ。問うラグナにカグラが何かを言う前にココノエが告げる。貴様が知る必要はない、と。

 しかし――カグラはそれでも答えた。

「帝を倒して、統制機構を乗っ取る!」

「おいカグラ!!」

 思わずココノエが制止の声をかけるも遅く、その言葉にラグナは目を見開いていた。帝を倒す。それはラグナも同じ目的であったから。しかし、彼の立場は何となく会話の中で理解していた。帝に尽くす統制機構の衛士の中でもトップの人間なのだろうと。だから、意外性に驚かずにはいられなかった。

 暫しの沈黙。ラグナがハッとすると同時、どうせ一緒に行動するなら知っておいた方が楽だとカグラが言う。

「……まぁ、そうだが。くれぐれも私の邪魔はするなよ、ラグナ」

「せいぜい爆破されないよう気をつけますよ」

 ひどく苛ついた様子でココノエが渋々と告げる。溜息、そして眉間を指で揉んだ。呆れ半分、もう半分は真面目なトーンでラグナが答えた。

「んまぁ、あとは明日の大会で頑張ってくれりゃいいからな」

「明日の大会?」

 ラグナがまたも眉間に皺を作り、胡乱げな瞳でカグラを見つめて問う。何の大会があるというのだろうか。それには琥珀色の瞳をしたカグラの秘書である青年、ヒビキが答えた。

 

 

 

   3

 

 連合階層都市イカルガでは、とある話題で賑わっていた。

 イカルガ内戦にて活躍したあの『黒騎士カグラ』が、史上最高額の賞金首、ラグナ=ザ=ブラッドエッジを捕縛した報があったのだ。

 そして何よりも――。

「全世界の皆様、長らくお待たせいたしました! いよいよ今日『バトル・オブ・ラグナ=ザ=ブラッドエッジ』が開催されようとしています!!」

 ヤビコの統制機構支部が主催する格闘大会。死神の懸賞金をかけた戦いに、死神自らが参戦する前代未聞の内容。賞金はなんと九千万プラチナダラー。

 司会の張り上げる大声に会場の空気はヒートアップし、次々と歓声があがる。

 そんな中、死神の所在を確認するためだけにツバキは来ていて、カグラに挨拶を終えた彼女は目的を果たしすぐさま帰ろうとしていた。

「なんだ、見て行かねえのか?」

「ええ、このような『馬鹿騒ぎ』は興味がありませんので」

「ん、そうか。そんじゃ終わったら、よろしくな」

 カグラの言葉に頷いて、一礼した後に彼女は紅い髪を翻し去っていく。そこでカグラが振り向くのはラグナの方向で、言う言葉といえば先の彼女と共にあの緑髪のいけ好かない男が居なかったことについてだった。その喋り方は、予想が的中したことへの嬉しさと安堵が混じっている。

「さて……ココノエ、そっちはどんな感じだ?」

 ちらりと出口の方を見て彼女が完全に居なくなったことを確認すると、やがてカグラは虚空に向かって話しかけた。司会に皆が気を取られているうちに。

 ピピ、と機械音が小さく鳴り響き、頭に聞き慣れた声が直接語りかける。通信に応じたココノエのものだ。場の形成は順調だと答え、ココノエはそしてラグナにも茶化すように、しかし声音は大して変わらぬまま『人気者だな』と投げかけた。それを適当にあしらったところでカグラが報告を一つ。

「ツバキは『予想通り』引き上げた。この手の『騒ぎ』を嫌がるってことは、まだツバキの意思が勝ってるってことだ。希望はあるとアイツらに伝えておいてくれ」

 前に見たとき。マコトとツバキが鉢合わせた時の彼女はもう半分ほど意識を食われかけていたように見えたが、それでも彼女の意思がまだ残っているということは『こちら側』に引き戻せる可能性は潰えていないというわけだ。

「あと、ハザマも来なかったぜ。やっぱお守りが効いてんのかね」

「それについてだが……どうにも腑に落ちない点がある。『碧』の反応がこの周辺で一切探知されていないんだ」

 カグラが嬉々として語る言葉に、ココノエは通信越しに首を振ったような気配がした。そして、静かに語る内容はにわかには信じがたいものだ。彼らが、この状況を見逃すはずがないのだ。これだけ世界中の『眼』が集まる状況を。

 けれど、ココノエは何度も調べたしセンサーの故障でもないと告げる。ならば、何か別の理由でもあるのだろうか――。

 そうこうしているうちに、予選の第一試合は始まりを迎えた。

 

 

 

 大会に集まったのは素人ばかりで、欠伸を漏らすカグラとラグナの男性陣、そして対照的にそれでも観戦を楽しむレイチェルとセリカの女性陣。それに近付く一人分の足音があった。

 ふと、カグラのもとに一つの通信が入る。聞き慣れた機械音に応じて、彼が通信に出る。

「カグラ、すぐ近くに『蒼』の反応があった。周りを確認しろ」

 通話を開始するや否や、彼女――ココノエが焦った口ぶりで言う。すぐ近くということはあの彼女がここに来るまで見逃していたということだろう。それに不思議さを覚えながらもカグラは適当な相槌を打って辺りを見回した。それにつられて他の面々も同様に、なんだなんだと見回して。――見つける。途端、彼らの目が驚きに見開かれた。

「……貴女」

 ヴァイオリンを思わせる高く甘やかな声が、静かにそう漏らす。悲しげにすぅっと細められる紅の双眸。それを皮切りにして紡がれるのは低く渋いカグラの声だ。言葉は語るまでもなく、何故居るのだ、と。

 問いかけられた側――今しがたここに来たばかりである少女は集まる視線を浴びて、なんとなく予想こそしていたけれどやはり困った様子で視線を右に左に下に、と泳がせた。

「え……と……その、たいかいが、きになったので……じゃ、だめ、ですか」

 震える唇がやがて告げる内容は相手に答えの良し悪しを委ねるひどく曖昧なもの。皆が黙りこんだのは一瞬で、真っ先に口を開いたのは、意外にもレイチェルであった。

「あの男はどうしたのかしら」

 今にもその足を一歩踏み出して詰め寄りたい衝動をレイチェルは抑えた。代わりに警戒のため声を一オクターブくらい低くして、問う。テルミは居ないのかと。あれだけ彼と行動を共にしていて、あんな凶悪な姿を見てまでも着いて行ったくせに、何故彼と居ないのか。

「そうだ、ユリシアちゃん。ユリシアちゃんはハザマに『保護』されてるはずだろう? なんで一人で来てるんだ」

 問う彼女に続いて、カグラも同じように問うた。何故なら先述の通り、ユリシアはハザマらによって『保護』されているはずだからだ。

 無論、ココノエやレイチェルの話からハザマ達や彼女の正体を知った今じゃ、彼らに彼女が利用される未来があるだろうことは目に見えていたけれど。たとえ帝の勅命が本当だったとしても、その帝すら彼女を利用しかねないのだ。

「……はざまさんは、べつの、だいじなおしごとがあったので。たいかいが、きになるなら、おわるまで、ここでまってろと、いわれて……」

 何度か意味を成さない音を発した後、彼女はそう言う。片方の眉をぴくりと持ち上げるカグラ。形だけでも『勅命』は如何なる事柄よりも優先されるはずだ。が、その保護するという勅命を半ば放棄するほどの仕事、というのに引っ掛かりを覚えたが、それを彼女に聞いても答えられないのだろうから流すことにしたけれど。

「ふーん……ま、なんだ。ゆっくり見て行けよ」

 これ以上彼女に追及しても無駄だとして、自身の隣――ラグナと反対側に手の平を出すことで示してやれば彼女は近寄り、隣に恐る恐る収まった。肩に力が入りっぱなしだったけれど。

「えと、あの、その……ご、ごめんなさい、です」

「謝るこたぁねえよ。それよりほら、出場者、出てくるぜ」

突然出てきたことに対してか、それとも特に意味はないのか謝る彼女に優しく言ってやって、彼女を見下ろす。視線の先に居るその少女は小さく頷いて、最終予選の出場者を見るためコロシアムの中央へと『眼』を向けた。他の観客たちと同じように。

 ――やがて終わる試合、案外あっさりと終わってしまったそれで、どちらが勝つか賭けていたのだろう女性陣からセリカの悲鳴があがる。ちらと見遣って、会場にまた視線を戻す。

 ――と、足音がして、近付く気配。

「この試合、どっちが勝つと思う?」

「……ぁ」

 来たはいいが緊張の抜けない彼女を案じてか。声をかけるのは先までレイチェルの傍で声をあげていたセリカだ。何故かあのとき感じた胸のざわめきはない。

 そして目の前に出されるのは大会のパンフレットだろう、そこにずらりと並ぶ名前に眩暈がしそうになるが堪え、指された一番下の名前を見る。

「私はこのボブって人が勝つと思うの! だって名前が可愛いでしょ?」

 同意を求めるような問いをかける彼女に応えかねて、彼女の目を一度見た後、レイチェルをちらりと見遣る。彼女もまたどこか不安げな目でユリシア達を見つめていた。

「……その、じっさいにみないと、わからない、です」

 セリカの差し出す紙に視線を戻して、答える。視線だけを上げて窺えば、それもそっかと笑う彼女。会ったばかりで何も知らないというのに、彼女の笑顔は心が温まる気がした。

 そして、ふと見るのはセリカの後ろに居る男――ラグナだった。

「そこの……えっと。らぐなさん、でしたか……は、たたかわない、ですか」

 世界の敵。大切な人に教えられた通り呼んだとき嫌そうな顔をされたのを思い出して、彼の呼び方を改める。記憶を頼りにして。

「そりゃあ、参加人数多いし……勝ち残った奴らと戦えばいいんだってよ」

 答えるのは、話題に上げられたラグナだ。ラグナ自身も先ほど聞いたばかりだったけれど、要はそういうことらしい。前に会ったときのような苛ついた雰囲気はなく、そこに安堵しながら彼女は頷いた。

「そう、なんですね。らぐなさんが、ひゃくにんぎりでもするのかと、かんがえてました、です」

「俺も箔がつくしそっちのが良いと思ったんんだけどよ。……にしても来ねぇな、アズラエル」

「……あずら、える?」

 何気なくラグナが零した単語に、ユリシアが反応する。アズラエル。本にも出てくるその人物は、今や昔の歴史の中の人物とされていたはずだけれど。

「おっかしいなぁ、来ると思……あ、やべ」

 ラグナの言葉を受けて、カグラが顎を指で撫でながら言いかけ、ユリシアを見下ろして顔を引き攣らせる。ユリシアといえば、疑問でしかなかった。

 借りた歴史の教科書に出てくるような、狂犬と呼ばれたあの人物を、まるで彼らは呼ぼうとしているみたいなのだから。

「……あずらえる、さん……が、くるんですか」

「や、えと、いや、んなことより、次の奴が出てくんぞ」

 必死に繕う言葉を探して見つからず、結果話を逸らすようにして、くいと親指で会場の中心を指差す。納得しきれずにいたけれど、教えてもらえないことなのだろうとして、彼女は一度俯き、それから会場の方を見る。

 会場のディスプレイには今出てこようとしている人物を映すためか、門をアップで映していた。

 バトルフィールドへの入場口は二つある。『虎の門』と『龍の門』だ。

 門の上にそれぞれの名を刻んだ大きな彫刻が置かれ、何とも言えない物々しさを感じさせていた。そして、司会の声に続けて朱色、虎の門から現れるのは女傭兵だった。名はバレットというらしい。

 白いシャツは歩く度に揺れる胸が窮屈なのか大きく開かれており、その上から羽織ったジャケットも同様に閉じられることはない。腰に巻いたベルトは長く、余りの部分がまるで尻尾のように垂れさがり、揺らめいていた。

 さらに特筆すべきは尋常ではないほどのローライズなホットパンツ。さらけ出される肉付きの良い太もも。そして何よりも、股上が浅すぎる故に尻が見えそうになっているのだ。

 短い白髪の切り口は荒々しかったし、後方のディスプレイに映る彼女の顔には頬から鼻を通って真一文字に傷跡が刻まれていたけれど、褐色の肌は艶があり顔立ちもなかなかの上玉。

 女というだけで観客は沸き立ったが、彼女の姿を見てさらに興奮を覚えたものは一定数あったことだろう。

 一見健康的ながら扇情的な彼女の出で立ちに皆驚いてはいたが、ここが今格闘大会の真っ最中であることを思い出し、皆一様に自然と彼女の武器を探す。

 そしてそれは案外早く見つかった。――腕。すらりと伸びたそこには、金色の厳ついガントレットが装着されているのだ。それが彼女の武器なのだろう。

 皆の視線を一身に浴びながら、重そうな両腕を組む。見上げる先に居たのは――カグラだ。司会こそラグナを睨み付けていると言ったが、当の本人たちには分かる。睨まれたのは、カグラだ。

「続きまして、龍の門よりボブ選……え、えぇ? 何です?」

 睨まれるだけのことをしたおぼえも、ましてや彼女の顔自体すら記憶にないカグラ達の短いやり取りを他所にして、先ほどセリカが賭けた選手が出場する番がやってくる――が。司会が唐突に入った通信に、マイクを切るのも忘れて応じる。ざわめく観客、しかしその声は司会の次の言葉でさらに大きくなる。

「え~と、只今入りました情報によりますと、ボブ選手はとある事情で出場不可能となりましたので……と、特別ルールにより、代理選手が試合をするそう……です……?」

 一言ずつ確かめるようにして言うのは、特別ルールなど本来存在しなかったからだ。眉根を寄せるカグラ達であったが、突如彼らのもとに通信が入る。

「オイ、カグラ!!」

「では、えーと。選手名は……んなっ!?」

 しかし通信を入れた人物、ココノエが何かを伝えようとするよりも先に、司会が選手名を発表しようとして――ひどく、驚いたような声をあげる。それでも、司会の彼は口にした。その名を。

 そして、その名を聞いた瞬間、誰もが驚くのも無理はないと思うと同時に、とてつもない悪寒が背筋をはしるのを感じた。――狂犬が、現れたのだ。

「ア、アズラエル……!?」

「ちぃっ、派手な登場しやがって」

 舌を打ってカグラがそう零し、近くにいた衛士に声をかける。救護班を全員、選手の控室へ連れていけと。途端、放心していたその衛士は慌てた素振りで了解を示し、他の衛士にもその旨を伝え――。

「出るか?」

「や、待て。ココノエ、そっちはどうだ」

 それとは別に、ラグナが問う。対峙するバレットでは勝てるはずもないからだ。けれど『計画』のためには、もう少しかかるらしい。ココノエが座標の固定に手間取っているのだ。

「あれが、あずらえる……さん、ですか」

 そんな少女の声に振り向くと、目を丸くしてただ『狂犬』を見つめるユリシアが居た。逃げる観客であった人達も少数居たというのに、彼女は寧ろ身を乗り出してそれを見ていた。まるで、彼に恐怖も敵意も何も抱かないというように。

「おいおい、ユリシアちゃん。あんまし身を乗り出さないほうがいい。アイツはマジでヤバいってのは常識だろ」

 少女の肩に手を伸ばして、今にも一歩近寄らんとしている彼女を止めようとするカグラ。その表情は珍しくも引き攣り、焦りを見せていた。彼女は見ていて危なっかしいし、それに彼は――。

「……さつりくしゃ……でしたっけ」

 ふと、彼女が口を開く。漏らされる舌ったらずな言葉に、一瞬理解が遅れた。

 ――殺戮者。狂犬。それらは全てあの男――アズラエルにつけられた異名だった。その言葉の不穏さが感じさせるものと同等、否、それ以上に彼は野蛮で、戦いだけを生き甲斐にした、人間の皮を被った怪物であった。

「じゃあ、なぜ、あのひとは。じぶんから、むかっていかない……ですか」

「は?」

 彼女は未だアズラエルの居るコロシアムの中央を見つめながら、訥々と問う。その言葉を確かめるようにカグラも自然とユリシアの視線の先を見た。

 そこではいつの間にか、バトルフィールドに出ていた二人、バレットとアズラエルの戦闘……とも呼べないような一方的な攻防が始まっていた。

 バレットは先の、別の予選試合では見事な試合の組み立てをしていたけれど、それでもアズラエルの凶悪にして狂暴な力の前には成す術もなく、目も当てられない惨状になっていた。

 何故だかやけにあの男を敵視しているように見えたが、それでも骨をやられればまともに立つことすらも難しい。ふらふらと立つ彼女はアズラエルにとっては軽い一発だろう拳の威力にすら負ける。

 が、今すぐにでも飛び出したい気持ちを、後のことを考え抑えて見ていると彼女の言葉の意味に気付く。彼女が一瞬だけ、気を失ったときだ。もう一発入れるなら今がチャンスだろうというのに、狂犬は彼女が起きるのをピクリとも動かず待っていた。

 そして彼女が起き上がり、力もあまり入らないなりにまた構えの体勢をとり、彼に無謀にも向かっていくと――ギリギリまで引いた拳を捻ってまた一発打ち込む。衝撃で、彼女の身体は吹っ飛び地に打ち付けられた。

 傍から見て、彼女は既に戦闘の続行が困難だった。けれども彼女は、それでも自身に鞭を打って身を起こす。

「……もう見てられねぇ」

 そう言ったのは、ラグナであり、それに着いて行くのはセリカだった。あそこで攻撃を受けているのが見知らぬ誰かであっても、こうも理不尽な攻防を見ていれば気分が悪い。苛立ちにラグナは舌を打って、コロシアムの観客席中央まで歩いていく。追いかけるセリカを止めないのは彼女がバレットの傷を癒すことができるからだし、気にする余裕がなかったのもある。

「なっ……おい、待てよお前ら」

 そんなカグラの制止の言葉を振り切って彼らはズカズカと足を進めていく。そのまま、バトルフィールドと観客席の間に立つ柵に手をつき――柵に体重を預け下半身を持ち上げ、飛んだ。そのまま二人の居るフィールド上に着地すると、また無謀にもアズラエルの攻撃を受けて倒れている彼女へと駆け寄る。

「死神か。まだ貴様の番ではないぞ」

 司会や周りから上がる声の中、冷ややかな目で言う狂犬はまだ彼女を食らい足りないとでも言うのだろう。しかしそれを無視して、ラグナはバレットの肩を揺する。閉じた瞼を震わせ、目を開ける彼女は、目の焦点がラグナに合うや否や掠れた声で批難した。

「邪魔を……するな……ラグナ=ザ=ブラッドエッジ……」

「んな状態で何言ってんだよ、馬鹿が。つーか邪魔なのはお前だよ。おら、セリカ、任せた」

 げっそりとした顔でラグナを見つめるバレット。それに冷たくぶっきらぼうに言う彼であったが、その言葉は彼女を庇うように吐かれたものだ。それでも食い下がれないのは、彼女がここに来た目的が絡んでいた。ラグナには分からないことも、彼女自身、わがままであることも理解していたけれど。

 しかし冷静になって自身の現在の身体を顧みてみれば、もう既にボロ雑巾のようになってしまったそれは歩くのもやっとといったところだ。死んでいった仲間達のように、折れた腕を振るって脚を動かしたところで、あの狂犬の前でくたばってしまうのがオチだろう。大人しくセリカと呼ばれた少女の方に身体を預けて、彼女は小さく呻くと目を伏せた。

「勝手な真似をしおって……チッ、とにかく五分もたせろ、いいな」

 通信越しにココノエが言うのを、うるさいとあしらってラグナはアズラエルを見る。そのとき、アズラエルもまたラグナを見つめていた。

「悪いな、待ってもらってよ」

「構わん。アレはもう喰らい飽きたところだ。それにわざわざ死神から出向いてくれたのだから、敬意は払おう」

 ふっと笑うのはアズラエルだ。軽く身動いで胸を張りラグナを見下ろす巨漢を、ラグナは睨み付ける。その後ろでバレットへ治癒魔法をかけだす少女には視線を向けず、ただラグナは少しだけ気にした様子を見せながらも言った。

「そうかい、敬意ついでにぶん殴らせてもらうぞ、狂犬」

「意味が分からんな。まぁいい、重畳だ。貴様を喰らい、次にあの『黒騎士カグラ』まで控えていると思うと……滾るぞ!」

 ラグナの言葉を意味が分からないと言っておきながらも、そして彼は腕を広げ高らかに叫ぶ。

 ――ここは最高の餌場ではないか。

 大剣を構えるラグナと、それを歓喜の表情で見つめ――彼が行動を起こすのを待つ人外じみた人間の戦いが幕を開ける。

 まず向かって行ったのはラグナだった。彼が近付いてくるまで、アズラエルは一歩も動きはしない。が、彼の剣がその分厚い褐色の皮膚に当たらんと迫った刹那、その剣を一歩横に動くことで躱して、そのまま拳を突き出す。

 のけ反るラグナ、しかし彼も戦闘慣れしはしているわけで、腕を添えることで掠らせる程度に留めてはいたのだ。それが彼の狙い通りに当たったと考えると。――一発目からのその威力に嫌な汗が額を伝う。

「どうした? まだ拳一つではないか」

 ラグナの反応が面白くなかったのか、首を回しゴキゴキと音を鳴らしては問うアズラエル。その表情は不服そうで、眉根を寄せていた。

「るっせぇんだよ、この化け物が……!」

 剣を構え直し、やけに重い右半身のせいでバランスがとりづらいながらに、駆ける。いつも両腕を使って持ち上げる大剣に、利き手である右腕は今回添えるだけ。

「うおらぁ!」

 振り上げて、下ろす。白い刀身、厚い刃の腹を強靭な腕で受け止めてラグナのがら空きの腹に拳を突き込む狂犬。途端、ラグナの身体は会場の壁まで吹っ飛び叩き付けられた。たまらず呻いてラグナは一気に息を吐き出す。

 いくら強かろうと彼だって人間のはずだ。ならば剣を振り下ろされれば多少のダメージはあるはずなのにそれを感じさせぬ彼は異様で、見つめるカグラの肩が少しだけ跳ねる。

「……カグラ」

 それに視線を向けたレイチェルが、彼の名を呼ぶ。それに普段なら振り向くはずのカグラは見向きもせず、そのまま一言だけ返した。

「わりぃが行かねぇよ。まだ見ていたい」

「そう……同感よ。行くなと言おうと思っていたのだけれど、それならいいわ」

 カグラの言葉に少しだけ安心して、レイチェルもまた四人の居る会場へ視線を戻す。そんな会話をしている間にも、ラグナ達の戦闘は続いていた。もっとも、戦闘と呼ぶには先のバレットよりはマシだとしても一方的過ぎたけれど。

「ぐぉっ……マジ、かよ……」

 揺れる片目だけの視界に、迫る狂犬の拳。慌てて横に躱して、相手の後ろに回り込み剣を振るう。振り向くだけの反射神経はあったが、彼の身体に打ち付けられる剣。

 しかし、彼はそれをものともせずに、寧ろ足りなくて不満だとばかりに顔を歪めた。

「俺を舐めているのか? まさか、調子が悪い……などとは言うなよ」

 腕の一振りでラグナごと剣を弾き、アズラエルは低くそう言った。わざわざこのような大会という茶番に付き合ってやっているのだからもっと楽しませろと。

 片腕で振るったといえど、剣を打ち付けても効かないというのにひどく驚きながらも一歩下がる白髪は、回らぬ頭を巡らせる。右腕は動かない、死角には入られっぱなしで一体どうやって五分ももたせろというのだろう。

「……闘いの最中に考え事とは余裕だな」

「っ、ヤベ……!」

 そんな思考を遮るように、後ろから近づく気配。振り向いた時には遅くラグナの身体には狂犬の硬い膝が叩き込まれていた。呻いて倒れ込み、蹴られた脇腹を抑え込む。

「がはぁっ……これ、はキッツいな……」

 痛々しいその戦闘に手を出したくともセリカは自身がそれをできないことを知っていたから、目を薄らと開いて身体を起こそうとするバレットを制して治療を続けるしかできなかった。

「どうした、何故『蒼の魔道書』を使わない。俺はそれを楽しみにして来たのだぞ。それとも何だ、まだ足りないとでも言うのか」

 拳を一発入れ込みながら言う彼に、地面に倒れたラグナは舌を打つ。対するアズラエルは声を大きくして尚も問うた。

「何故だ、何故だ!? 早くそれを使えよ死神! まさか『俺には使えない』とでも言うのか、それとも俺の期待外れだったのか?」

 その表情は、声は、純粋に戦闘を楽しむ者としての悲しみと寂しさに溢れていたけれど、気にする余裕はラグナにはない。やがてすぅっと表情を冷たいものに変え、失望したと狂犬は語る。黒騎士に期待するから貴様は死ね――と。

「この……クソが……」

「ラグナ、危ない!」

 セリカが叫ぶ。ラグナに迫る拳が、彼に当たればひとたまりもないことは一目瞭然だったからだ。そしてそれに突き動かされるようにしてラグナは身を横に転がして回避し、跳ね起き、そのまま体勢も整わぬ状態で狂犬に飛びかかって――背に大剣を叩き付けた。

 それはすぐに跳ね返されたのだが、それでも不意打ち故か多少のダメージは通ったらしいところを見ると彼がまだ人間であるのが見てとれる。それでも、人間離れした力だとは思ったけれど。

「ぐ……反撃するか。まだ楽しませてくれる気はあるようで安心したが。しかし今の感覚は……成程。あの女か。アレは貴様の女か?」

 身体を起こし、じろりと視線を動かす。その最中に感じたラグナへの違和感の正体を探るためだ。そして、視界の端に捉えるのは悲しそうな顔をして治療を続ける少女だった。成程、そう言ったアズラエルの問いに、ぴくりとラグナの眉が動く。嫌な予感がした。

「女は関係ねえだろうが、女はよ。おら、楽しませてやるからさっさとかかって来い」

 引き攣った笑みで煽るように手招きをする。しかしアズラエルはその様子に笑みを深く刻んで、納得したというように一度頷き、肩を震わせた。

 そして上げた顔に貼りつけられた表情はひどく凶悪で、死の天使(アズラエル)の名がふさわしい。

「知っているか、死神。……人は絶望したとき、諦める者と力を得る者の二つに分かれる。さて……貴様はどちらになるのだろうな」

 アズラエルがふと語り始める言葉には、理解が遅れる。そして、理解したときには――試してみるか。そう言ったアズラエルの姿は既にそこになく。

「セリカ、逃げろ!!」

「へっ?」

 彼の身体が向かう先はポニーテールの少女のもとだ。間抜けた声をあげて顔を上げる少女の目前まで、アズラエルの隆々とした拳は迫っていた。そして、強い衝撃が突き抜ける。巻き上げられる砂塵は煙幕のようで、バトルフィールドの彼らが居る部分を覆い隠した。

 皆が一瞬固まって、そうして司会が叫ぶ。

「皆さん、非難してください……!!」

 ラグナや他の戦闘ができる人員以外――つまり非戦闘員にもアズラエルが手を出したからだ。一気に周りが襲われる可能性が上がったと判断したために声を張り上げる。やっとそこで、事態の恐ろしさに気付いた観衆達は席を立ち、一斉に走り出す。押さないで、そんな声も知ることかと出口へ向かう人々の中には子供も居たのだろう、甲高い泣き声すら聞こえてくる。

 やがて、ちょっとの時間を経て薄くなる砂埃の中から現れるのはアズラエルだ。その頃には、カグラ達以外の殆どが会場を出ていたため、その姿を見たものは少ないが。

「チッ……殺(や)り損ねたか。攻撃が弾かれたようにも感じたが……」

 打ち込んだ拳を引いて、上半身をゆらりと持ち上げるアズラエル。誰もが目を覆ったけれど、彼の言葉がスピーカー越しに耳に届いたカグラ達は、自然と疑問を抱いてフィールド上を探すと、煙幕のような砂埃が晴れて次に現れるのは――地に横たわる少女達であった。

 目を瞠った。そして、カグラは先ほどまで確かに少女が居た隣を見る。

 そこに居たはずの彼女は当然であるが忽然と消えており、目前のフィールドにてどこから持ってきたのか鎌を片手に持っていた。

「……うぅ」

 ざり、と擦られた地面と、吹っ飛び横たわる身体。傷こそ見当たらないが、攻撃から咄嗟に彼女らを守ったのだろうことは何となく察することができた。もっとも、衝撃は殺し切れなかったのかセリカ達も倒れていたけれど、まともに受けていればもっと悲惨な結果になっていたことを考えると彼女の行為は無駄ではなかったのだろう。しかし、彼女は動かない。

 無茶をしてだとか、どうしてだとか、そんな思いに駆られながらも言葉を出すことができないカグラ達の目の前、いち早く起きあがったセリカが口を覆い彼女を見つめるなか、ディスプレイに映った彼女の、指先が動く。

「……マジかよ」

 鎌がひしゃげていないこと自体不思議だったというのに、まさか、生きているだなんて。

 ゆっくりと身体を起こす少女に驚きながら、カグラはもう助けに行かないといけないことを理解していながら、動けなかった。

「……何だ、貴様は」

 そう零したのは、アズラエルであった。ふらふらと足元のおぼつかない彼女を見とめて言った言葉だった。少女――ユリシアが、顔を上げてアズラエルを見る。

「俺の攻撃を、こんな子供が弾き、しかも生きている……だと? ありえないだろう」

 目を見開き、わなわなと震えだしながらアズラエルは言葉を早口に紡ぐ。ありえないのだ、こんな細くか弱い見た目をした子供が、アズラエルにとっては壊れやすそうな、あんな武器で防いで、無傷でいるのが。確かにあの女を殺す気で行ったのに。しかも寸前まで気配に気付かなかったのだから。

 怒りのような感情に支配され、やがて――笑いが込み上げてくる。揺れていた肩先は、先とは違った感情でまた小刻みに震えだした。

「く、くく……ははは、これは……なんとも。最高の、獲物ではないか」

 この幼さでこれなのだから、成長したらどうなるのだろう。考えるだけで喜びに肌が粟立つ。戦いたい。純粋にそう思って、アズラエルは高く笑った。

 ユリシアが、一歩下がるのを見て、離れた分だけ近づいた。

「なあ、貴様。ここに出てきたということは、この俺に喰らわれてくれるんだろう? なあ」

 ニィと口角を持ち上げて、首を傾げ、尚も近づく。え、と声を漏らすユリシアは、彼の言葉の意味を理解できていないのかどこか困惑した表情で、

「わ、わたしは……たべても、おいしくないですよ」

 ひどく幼い、台詞であった。喰らうという言葉の意味をそのまま受け取ったのだから、馬鹿というか、純粋すぎるというか。吹きだしそうになるアズラエルであったが、やがて立ち止まると。

「否。それほどの力を持っているのだ。美味くないわけがないだろう? さて、喰らってやるから……そう簡単に死んでくれるなよ」

 ユリシアの必死の拒否の言葉だったのだろう台詞を聞き入れないことにして、ただし紡ぐ言葉は彼女に合わせてやって、アズラエルが拳を引く。相手がどう出るのか楽しみにしながら後ろに下げた片足は駆けるためだ。ぐぐ、とバネのように体に力を入れたのを見た瞬間、カグラがハッとして出ようとした。……けれど、異変に気付き立ち上がっただけで終わった。可笑しいのだ。彼が、狂犬が、一向に動かないのだ。アズラエルが目を見開いているのが映る。そして、ギロリと鋭く――少女を睨み付けた。

「……貴様。何故……何故だ!?」

 何故。そう叫ぶ狂犬に、皆が首を傾けた。

「何故、ここに来て……戦意がない。貴様は何故、そんな得物を持っているというのに……闘いの意思が感じ取れない!?」

 これでは、満足に闘えないではないか。苦しみと落胆が混ざったような感情に眉を下げて、狂犬は語った。闘いを楽しみにして来たというのに、せっかく新たな強者を見つけられたかもしれないというのに。なんと悲しいことなのだろうか。

「……そんなに闘いてぇっつーんなら、相手してやるよクソ野郎」

 感情に突き動かされるまま語る狂犬に、後ろから低い声がそう告げる。ラグナであった。狂犬が振り向き、他の面々の視線も一斉にラグナへと集まった。

 興味深そうに、ほうと相槌を打つアズラエル。それを睨み付けるラグナの表情は怒りに満ちていた。セリカに手を出そうとしたことが、いくら別の誰かに守られたとしても許せなかったからだ。口汚く一言だけ狂犬を罵って、ラグナは右腕に力を込めた。そして、溢れるまま、本能が叫ぶままに――口にした。

「第六六六拘束機関解放……次元干渉虚数方陣展開……ッ」

 使えないはずの魔道書を起動する呪文を、言葉を並べた瞬間。呼応するように、ラグナの右手からどす黒い闇色の魔素が吹き出した。アズラエルはそれを見て、やればできるではないか。そう嬉しそうに言って、見ていたカグラは驚きと焦りに声をあげた。

 魔道書を封じているセリカに何かあったのでは。まさか、先の攻撃で――。そんなカグラに対して、冷静にレイチェルは答えた。

「……いいえ、セリカは無事よ。多分あれは『蒼の魔道書(ブレイブルー)』の防衛反応……。想像以上に浸蝕が進んでいるようね」

 冷静に。静かに。けれど、どこか表情はやはり焦った様子であった。垂れた横髪を指で払って、彼をただ見守っていた。

「……イデア機関、接続……ッ」

 おびただしい量の闇色に包まれながら、ラグナは尚も続け、アズラエルもそれが起動されるのを今か今かと待ち続けた。ラグナの顔に罅のように、紅い光が無数にはしる。ラグナを支配しようと伸びた魔道書の光はそこにまで到達したのだ。――ブレイブルー。起動するために呼ばれたそれは応えるように、吹き出す闇は更に量を増す。

「テメェは、殺す……殺す、殺す殺す……ッ」

 殺意に突き動かされ、起動……そう口走ろうとするラグナ。見つめるセリカとレイチェルがたまらず動こうとしたとき。ラグナの動きが止まった。

 

 

 

 ブレイブルー。原書の魔道書。最強にして最凶の魔道書。黒き獣の亡骸。魔素を圧縮した塊。蒼を内包し、欲しがる者は数知れず。

 ラグナの憎む『ユウキ=テルミ』が作り出したものであり、ラグナが手にした『力』。

 かつて、ラグナの師は『それを己の力だと思うな』と教え続けていた力。

 目前には、額縁を通して見ているような、近いはずなのに遠い光景が映し出されていた。見知らぬ場所、そこではアズラエルとラグナ――ここに居るのとは別の自分が対峙していて、そこでのラグナもまた、先の自身と同じようにブレイブルーを起動しようとしていた。

 気付く。これは別の事象の自身が体験したことなのだと。

「また、これを使うのか」

 ぽつり、ラグナはそう零した。

 アズラエルは強い。向こう側に立つラグナも苦戦しており、それでも何とか持ちこたえたのを良いことにアズラエルは自身にかけたリミッターを外そうとしていた。彼は本気ではない。その表情からも、纏う気配からも人外じみた強さが滲み出ていた。

 ならば、自身は『蒼の魔道書(これ)』を使わなければ勝てないだろう。いいじゃないか、使ってしまおう。けれど、後ろで『誰か』が囁くのだ。

「ほんとうに、それでいいんですか」

「なっ……なんでテメェがここに」

 それは、まだ数回しか会ったことのない少女だ。特に深いつながりがあるとも言えない彼女が、何故こんなところに居るのだろうか。

「ほんとうに、つかってしまって……いい、ですか」

 ラグナの問いに答えず、彼女は再度そう問うた。途端、浮かんだ疑問よりもある感情の方がラグナの中で上回る。苛つきだった。

「うるせぇ、これは俺の力だ。テメェに何か言われる筋合いはねぇよ」

「ほんとうに? ちがいませんか。よくかんがえてみてください」

 その感情のまま、乱暴に言うラグナに彼女は尚も止めるようにそう言って、余計に苛立ちが募る。うるさい、黙れ、こうしなければ勝てないのだ、それにこれは自分の力なのだから――。

 でも皆違うという。己すら、否定しているところがあるのだから。じゃあ誰の力なのだろう。何のために持っているのだろう。

「俺の力じゃねえってんなら、誰の力なんだよ、クソッ! 誰だよ、こんな力を俺に渡したのは」

 そう考えた途端、思い出すのは少女の声音だった。

『それを手にするかどうかは、あなたが決めなさい』

 そう言われて、『自身が』手にしたのだ。そうだ。この力を求めたのは自分なのだ。倒すために。敵を、テルミを倒すために……否、そんな御大層なものではない。

 自身があの日全てを持っていかれて、怖くて、逃げたのだ。そして、護りたいから、何も失いたくないから。この力を求めて。この力で何人もの人々を手にかけてきた。ならば、この力は。

 ――奪う力だ。

「……そうおもうなら、がんばってください、です」

 少女が寂しそうに微笑んだ途端、その笑みや頑張るという言葉の意味に疑問を抱くだけの間もなく、暗かったラグナの視界が一気に開けた。眩しさに目を瞑るまでもなく、襲ってくるのは形容しがたい苦痛だった。

「ぐあぁぁあぁっ!!」

 戻ってきた途端の仕打ちに思わず叫ぶ。必死に暴れようとする魔道書に左手を添えて、抑える。気付けば目の前には、蜂蜜色の髪の少女が居て、自身の右手に手を添えていた。しかしそれを気にする余裕もないほど、彼はただ叫びながら魔道書を抑えるしかできなかった。

 やがてゆっくりと、吹きだす闇色は量を減らしていく。――最後には、跡形もなく消えた。右腕は動く。右目も見える。

「はぁっ……はぁ……っ」

 荒い呼吸を必死に整え、最後に気合いを入れる。ニッと笑って、期待するようにこちらを見ていたアズラエルには、ニッと笑って馬鹿にしてやった。

 どういう原理か精神の内側にまでやって来たこの少女へなんとなく礼を言って。手を離せば彼女はハッとして、さも手を触れていたことに今気付いたかのように目を丸くして手を見つめる。そんな彼女に疑問を抱くが気にせず後ろへ追いやった。

「誰が使ってやるかよ、ざけんな、タコ」

 どうにか魔道書を抑えたラグナを見て、レイチェルはどこか複雑な感情を抱えていた。

 人に頼るのは構わない。彼がどうにかして抑えたのも成長だと思える。それは認める。

 だけれど、一見何も分かっていなさそうなイレギュラーの彼女が、あんなに怯える対象だった彼が魔道書を起動しようとした瞬間に近寄り触れたのが、そして彼に何かをしたらしいのが、それでラグナが戻ってきたというのが。

 とても不可解だったし、できれば……彼だけで解決して欲しかったから。

「……カグラ」

「あいよ」

 しかしそれを表に出さぬよう隠して、そしてお供のナゴとギィや隣に立っていたカグラも、彼女が何か思うところのあることに気付きながらも何も言わぬようにして――。

 そろそろ行かないとな、なんて言いながら駆けていくカグラの背中越しに、レイチェルはラグナを見つめていた。

「――っと、ご苦労さん。下がっていいぞ、ラグナ」

 ラグナが全力を出さないで闘うことに怒りを見せるアズラエルと、吹っ切れたラグナの第二ラウンド目が始まろうとしたところで、後ろから現れるのはカグラだ。

「んだよ、邪魔すんな、カグラ」

「邪魔じゃねえよ、そういう予定だったろ。それにお前はよくやったよ、な?」

「……分かったよ」

 それを言われてしまえばラグナは返す言葉も見つからなくて、頷くしかなかった。そんなラグナに満足げにカグラも頷くと、それからユリシアに向き直る。

「ユリシアちゃんも、無茶はしちゃいけねぇよ。さっきの鎌みたいな物騒なモン持ったり、アズラエルの前に立ったり――怪我はしてねぇか?」

 先のアズラエルの攻撃からセリカを庇って吹っ飛んだ彼女を心配する台詞だった。一見、服が砂で汚れている程度で無傷な彼女に、しかし一応確かめるため問う。

 それにやはりぎこちなく頷いて、彼女は視線を斜め下に落とした。

「ユリシアちゃんも下がっててくれ」

「あ、はいっ」

 そこに居られては危ないからとカグラが言えば、慌てて彼女は彼から離れるように、既にバトルフィールドの出口付近にまで行っていたラグナ達の方へと駆けて、出て行く。

 それに一度頷いて、彼が振り向く先に居たのはアズラエルだ。

「話し合いは終いか? 黒騎士」

「あぁ。待っててくれてありがとよ、狂犬」

 ひどく退屈げな面持ちでこちらを見ていた狂犬は、やはり話に割って入っては来なかった。

 それは彼なりの常識や礼儀といったものがあるのか、それとも何か別の理由があるのか。

「……ちと、試してみるか」

 ぽつり、呟く。聞き取れずとも口の動きで何かを言ったことは察した狂犬が眉根を寄せた。一向に向かってこないカグラに狂犬は問う。

「なんだ、来ないのか? 俺を喜ばせてくれるのではなかったのか、黒騎士」

「男を喜ばせる気はねえよ。それにほら、お前って強いじゃん? やっぱ勝てねぇわって思ってさ。でもアイツら殴らせるのは嫌だし……ってわけで。殴られに来てやったんだよ。何もしねえから、おら、どうぞ」

 いざとなったら戦う気ではいた。けれど、先の彼女の時のように、戦意を持たなければもしかしたら彼は戦えないかもしれないという憶測ができた。そうでなければ自身が身を張れば良いだけだ。どうせ、時間までもう少しだろうから多少は耐えきれる自信もある。

「な……黒騎士、貴様ぁぁあ……ッ」

 そして案の定、狂犬はユリシアの時のように固まって、攻撃することもなくこちらを睨み付けていた。煽るように、ほら殴れよと腕を広げてもそのままだ。ビンゴか、そう思い零れそうになる笑みを抑えた。

「俺らの目的は『倒す』ことじゃねえんでな」

 真っ向からやり合うつもりなどさらさら無かった。そんなことをしたら自身だって無傷では済まない。ならば戦わないに越したことはないだろう。

「ココノエ、やれ」

「はいよ」

 話しかければ通信越しに返る声。途端、幾重もの拘束陣が動かない――否『動けない』アズラエルを拘束する。ぎゅうと締め付けるそれに一度呻いて、アズラエルは何だこれは、そう叫んだ。

「罠って分かってて来たんだろ。今更それくらいで驚いてんじゃねえよ」

「黒騎士ぃ……っ」

 憎々しげに低い声でアズラエルがカグラを呼ぶ。それを見つめるカグラの視線はひどく冷ややかなものだった。

「相手の戦意がなけりゃまともに動けねぇなんてな。今のお前じゃそれは解けねぇよ」

 冷たくカグラが言って、手を掲げ振る。二度と顔を出すんじゃねえ、そう言ってだ。

「必ず喰らい殺す!!」

 そんな呪詛を吐いたアズラエルの体は直後、すぅっと消えた。次元の狭間に放り込まれたのだ。あれだけの力を持つ者は、それくらいしなければ、あの台詞が実現しかねない。それだけ危険だとココノエが見積もったためだった。

 そして、格闘大会は終わりを告げる。

 




書きたかっただけです。


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第九章 哀赤の夜

「もう、無茶ばっかりするんだから」

 優しくも寂しげな声色で、だけれど言葉だけは少し咎めるようにして言うのはセリカであった。

 あれから医務室にてラグナ達はセリカの治療を受けていた。大きな怪我から小さな怪我まで、傷口が繋がり薄くなり、消えていく。魔法のような――否、魔法により生み出されたその不思議な光景を不思議そうに見つめるのはユリシアだった。

「まほう……」

「俺も最初は驚いたよ。ま、今じゃ見慣れちまったけどな」

 漏らされるユリシアの言葉にふっと笑って、ラグナが語る。今や魔法は歴史の中の存在であり、使う人物などそう居ない。ユリシアは二人ほど、魔法を使う人物を見たことがあるが――それでもたった二人だ。そこに加わるもう一人、となれば驚きはある。

「せりかさん……でしたか」

「うん、そうだけど、なぁに?」

 ユリシアが確かめるように、セリカの名を紡ぐ。それに治療を続けながらセリカはユリシアの方を見て、用件を尋ねた。

「どうして、せりかさんは……まほう、つかえるですか」

 首を傾けると言うのはそんなこと。きょとん。セリカが目を丸くした後、眼を逸らした。

「あー……それはね。えーと、なんて言えばいいのかな」

 言葉選びに迷うのは、彼女がこの時代の人間ではないからだ。過去――それも、百年近く前にひっそりと存在した島の住人なのだ。その島の話こそ知られていれど、それらも全て過去の話なのだ。それに、この時代の本当の彼女は――。

「……えっとね、生まれつきかな」

 嘘は言っていない。生まれつき治癒の魔法には長けていた。それを高めたり、他の魔法を使えるようになったのは住んでいた島――イシャナの学校で習ってからだったけれど。

「うまれつき……ですか。てきせいのあるひとって、すくないのに、すごいです」

 関心したようにユリシアが言って、セリカの手とラグナの傷口を纏う柔らかな光に視線を落とす。

 グリーンをした、優しい光だ。

「はい、終了。二人とも、お疲れ様」

 暫くそうしていれば、やがてセリカがそう言って、光が消える。最後に傷があったところをポン、と軽く叩いてへらっと笑う。

「おう、ありがとさん」

 それに軽く手を掲げて礼を言って、ラグナは立ち上がった――が。ふと、声を漏らす。

「どうかしました、ですか」

「いや……まだ傷が残ってるっぽくてな」

 不思議そうに問うユリシアに答えるラグナ。一見して傷は見当たらないが、ガタリと音を立てて、慌てた様子でセリカは立ち上がる。

「嘘、どこ? ちょっと見せて!」

 そんなセリカに対し、ラグナは少しばかり圧されながらも別にいい――と言うのだが、いいから見せてと強く言う少女を無碍にすることもできず、仕方なく軽く屈んで見せた。

「ほら、ここ。首んとこ」

 指差したのは首の側面で、よく見ればそこには擦ったような赤い掠(かす)り傷ができていた。本当だ、と漏らして、セリカはすぐ治すからと手を添えようとしたけれどそれはすぐにラグナに制された。疲れてるだろうから、という言葉で。

 それでも、と言おうとしたけれど、ラグナの想いを無視するわけにもいかず、渋々と頷いた。そして思う、何故気付かなかったのだろうか、と。

「まさか、力が弱ってる……?」

 不安げに自身の手を見つめる少女の肩に、ぽんとラグナの手が置かれた。

「ま、今日は色々あったし、お前もゆっくり休めよ」

「……うん」

 そんな二人を見つめながら、彼女はふと胸がざわつく感覚をおぼえた。初めてセリカに会ったときと同じものだ。先ほどまで、何ともなかったのに。

 そわそわ、と瞳を左右に泳がす少女に二人は気付かず、代わりにその空気に水を差したのは扉の開く音だ。ユリシアを含めた皆の視線が、途端に扉へと集まる。

「……ウサ……じゃなくて、レイチェル」

 真っ先に彼女の名前を口にしたのは、ラグナだ。彼女は靴を鳴らしながら部屋に入ると、一度高いところで結んだツインテールを払って、彼らを見つめた。

「あら、お邪魔だったかしら」

「へっ? そんなことないよ!」

 首を微かに傾ける少女に首を振って、セリカが言う。そう、とだけ返すレイチェルはラグナを一瞬だけ見遣ると――近くに座る少女へと目を向ける。その目はやはり悲しげで、ユリシアは困惑する。が、それに気付かずに口を開くのはラグナだった。

「そういや丁度いいところに来てくれたな。話があったんだ」

 やけに真剣な面持ちで話すラグナに、しかしレイチェルは冷たくあしらう。自分は話すことなどないと。けれど、それにいつものように怒ることもなくラグナは、いいから聞いてくれと頼むのを聞いて、仕方なくという体で彼女はラグナが話すことを許した。

 それを受けて、一拍の間を置き、ラグナは話の口を切る。

「俺……もう『蒼の魔道書(ブレイブルー)』使うのやめるわ」

「えっ、ちょっとラグナ?」

 ラグナの一言に最初に声をあげたのはセリカだ。彼女も魔道書の存在を知る一人で、だからラグナがそれを使わないと突然言い出したのが疑問だったし、同時にとても驚くことだったから。

 レイチェルがすぅっと目を細める。

「……一応、理由を聞いてあげましょうか」

 少しだけ気に食わなかったけれど、それでも何故彼がその思考に至ったのかは気になる。けれど素直に聞くのは癪だったから『聞いてあげる』という体で彼女は彼が考えを話すのを促した。

「……アズラエルとの戦いん時によ、色々考えちまったんだ」

 そんなラグナの言葉からレイチェルの中に生まれたのは呆れだ。呆れて物も言えない。あの状況で、突然止まってしまったかと思えば考え事か。

「考えたっつーか……迷ってたところにアイツが出てきて、なんか考えさせられたって感じなんだけどよ」

 ちらりと視線だけでユリシアを指してラグナは言う。

「んで、そんときに気付いたんだよ。この『蒼の魔道書(ちから)』は『奪う力』だって、な」

 奪う力。そう聞いた途端、レイチェルは彼なりに考えた結果なのだろう、と思ったけれど。そんな単純なものではないそれを、そう言いきってしまう彼に、仕方ないけれど少し悲しさのようなものを覚えた。ちら、と彼女もまたユリシアを一瞬だけ見た。

 彼の中に彼女が出てきたというのなら、そこで『奪う力だ』と言われた彼女はどう思ったのだろうか。自身が否定されたように感じたのだろうか。それとも、何も分かっていなかったのだろうか。

 ――彼の出した結論に、彼女は問う。彼がああ言うということは違うということを知っておきながら、あえてだ。

「奪い、壊して、敵を捻じ伏せる。倒すための『力』。それが貴方の求めたものだったのではないのかしら?」

 レイチェルの言葉に、ラグナは頷く。最初は彼もそう思っていたらしい。それを知っていたから何も言うことなくレイチェルはラグナの言葉を聞く。最初は、倒す力を求めていたと思っていたことを。けれどそれは違っていて、失わないための力を欲していたことを。

 それに気付いたら、この力はもう使えないと思ってしまったことを。

 そこまで考えられるようになったのは、やはり成長したとレイチェルは思う。けれど。

「……それに気付けたのは褒めてあげる、と言いたいけれど。貴方……また『逃げる』の?」

 レイチェルの問いに、どういう意味だとラグナが目を見開き、返す。その反応が来るのは察していたのか少しばかり声を荒げたラグナに驚くこともなく、レイチェルは一度ゆっくり瞬きをすると、言葉のままだと答えた。

「求めていた『蒼の魔道書(ちから)』と違うから使わない。それは選んだはずの『それ』から逃げることと、何が違うというのかしら?」

 問題点から目を背けるだけでは、前と何も変わらない。ゆっくりと紡がれるレイチェルの言葉に、バツが悪そうな顔をして舌を打った。顔を背けてガシガシと乱暴に白髪を片手で掻きむしる。

「好き勝手言うんじゃねぇよ……。こっちは『蒼の魔道書』ってやつがなんなのかも分かってねぇんだから」

 そうぼやいてから、でも、と付け足してラグナは顔を上げる。もう『奪う』ためには力を使わないと彼は決意したように言うけれど。彼の口から自信ありげに紡がれた『奪う』という言葉は、この力をそうやって片付けられるのは、レイチェルにとってとても幼稚で、馬鹿らしく思えた。

「奪うなんて。馬鹿ね。一体、誰から、何を奪うというのかしら? それに『蒼の魔道書』はそんな単純なものではないわ」

 使っている人間からすれば奪っているように感じるのだろうけれど、本当はもっと、複雑なのだ。何と表現すればいいのか、長い時を生きたレイチェルにすら分からなかったし、彼が理解できるように説明するなんて到底無理な話だったけれど、奪う力と表現してしまうにはあまりにも強大で複雑すぎる力だった。

「そうは言うけどよ、これはテルミが作った模造品なんだろ。あのテルミが作った偽物だ」

「……てるみさんが?」

 レイチェルの言葉に眉根を寄せるラグナの言葉に、真っ先に反応したのはユリシアだった。胸のざわつく感覚はいっそう強くなっていたけれど、それでも自身の『たいせつなひと』の名が出たことが興味を引いた。思い返せば、彼がラグナに対して言っていたような気がしないでもないけれど……『蒼の魔道書』という存在がどういう形をしているのかも、先の話でラグナが右腕を指すまで知らなかったから。

「……あのときテルミが言ってた限りではな」

 あのとき。ユリシアも一緒に居た、そのときのことを思い出すだけでも気分が悪かったけれど、無視することは良くないとして、彼は首肯して答えた。それに繋げるように、レイチェルが口を開く。ラグナの言う通り、彼の右腕となった『蒼の魔道書』はテルミが作ったものだと。

「――だからこそ、ラグナ。貴方はその力と向き合わなければならない」

「向き合えって言われてもよ……」

 レイチェルの言葉に、ラグナは眉尻を下げた。弱気になっているわけではない。彼女はいつだって曲がりなりにも自身を導いてくれたし、無理ではないと思っているからこそ言っているのだろう。けれど、あまりにもそれは難しすぎた。

 流石に分かるわけがない。この『蒼の魔道書(みぎうで)』は分からないことだらけで、何を知らない、分からないのかすら見当もつかないのだ。

 そんなラグナの悩みに水を差すように、声が響いた。

「ラグナの『蒼の魔道書』が模造品だとするなら『本物』はどこにあるのかな」

 それは何気ない疑問だった。ラグナも自身の持っているものが偽物だと聞いただけで、考えたこともなかった。けれど、テルミが作ったとするなら、テルミが持っているものが本物なのではないだろうか。そうやって雑に出された答えに頭を横に振るのは、やはりレイチェルだ。

「違うわ。テルミのものも『模造品』。偽物だわ」

 その言葉に意外そうにラグナは目を丸くして、思わず問い返す。それから、だったら『蒼の魔道書』の本物はどこにあるのだろうかとラグナもまた口にした。そもそも『蒼の魔道書』とは何なのだとも。

 レイチェルは沈黙した。目を伏せて黙り込んだ。その様子に、不審そうにラグナが声をかけると――レイチェルはその紅い瞳を開けて、どこか迷った様子で、傍らの蒼眼に視線を向けた。

 彼女もまた、きょとりと不思議そうにレイチェルを見つめていて、それを受けてレイチェルは視線を床に戻した。未だ理解していない様子の彼女に抱いた気持ちはなんだったのかレイチェルにも分からないまま。

「そう……ここが決断の刻(とき)」

 呟く。疑問符を頭に浮かべるラグナに、レイチェルが目を向ける。突然瞳を真っ直ぐに見つめられたことにラグナが少しだけ驚いて、でも何も言えずに左右で色の違う瞳でレイチェルの目を見つめ返すことしかできなかった。

「ラグナ」

 名を呼ぶ少女。ラグナが何かを返すよりも早く、レイチェルは告げた。未だ少し迷った様子で。

「覚悟を決めなさい」

 その言葉にラグナは一瞬意味の分からないといった顔をした。何の覚悟だ。問う彼に返すのは、知ることへの覚悟だ、と。知ればラグナの未来は決まってしまう。それが一番の気がかりだった。

「……未来が決まる、ね」

 レイチェルの言葉を復唱して、ラグナは息を吐き出した。本当なら、自身の未来は自身で決めると言いたいところであった。けれど既に概ね決まっているようなものだと自覚しているところがあったから、ラグナの答えは決まっていた。

「俺は知らないことが多すぎる。もし、教えてくれるってんなら。答えは当然『知りてぇ』だよ」

 ラグナが案外早く答えを出したことに驚きながら、しかし表に出さないようにして尚もレイチェルは問う。また、失うことになってもかと。

「失わねぇよ。失わせねぇ。……俺は、そのために戦うんだ」

 最後の最後まで。

 言うラグナの目を見つめて、レイチェルは思う。

 良い目をするようになったと。あの時、何もできなくて力に縋った時とは違う――強い意思を持った目だ。ならば、自身も覚悟を決めなければ。

「いいわ、ラグナ。貴方がそこまで言うのなら――貴方が本当に自身の求める『力』の意味を知りたいのなら。この私が、導いてあげる。」

 

 ――始まりのゼロへと。

 

 

「ゼロ?」

 ラグナは問い返す。けれどそれには答えず、レイチェルは長い髪を翻して、後ろを向いてしまった。その代わりに、また一度ユリシアを見た後――、

「明日、セリカ(その子)とノエルを連れて、イブキド跡地の最下層にある『窯』まで来なさい。詳しいことはそこで話すわ」

「あっ、おい!」

 言うだけ言って彼女は入って来た扉の方へ体を向ける。そのままカツカツと靴を鳴らして出て行く彼女はそれ以上を語ろうとせず、かけられる声は無視して。

 ふらり。彼女が出て行ったのを皮切りにして、立ち上がるのはユリシアだ。どうしたのだ、とかけられる声を彼女もまた無視して部屋を出る。確かハザマが来るまでここで待機しているはずだった彼女の、そんな意外な行動に、どうでもいいはずなのにラグナは追いかけてしまう。

「あっ、待って、ラグナ! 離れちゃ……」

 立ち上がるセリカを無視して、駆けていくラグナ。ココノエの言いつけを守ろうと、追いかけようとした彼女を止める者がいた。

 

 

 

「待てよ、おい……っ」

 扉を開け、足早に道を進んで行く彼女。ここの構造も分かっていないはずなのに、どうして迷いなく進めるのかは分からなかったけれど、ラグナは止まらぬ彼女を追いかける足を止められなかった。ココノエの言いつけも忘れるほど、何故か彼女が気になって仕方なかった。

 ――やがてある程度進んだところで、ラグナは気付く。

 向こう側から足音が聞こえてくるのだ。カツン、カツンと。それに彼女も気付いたのか、それとも別の理由があったのか。ユリシアが足を止めた。

 近付く足音、そうして影から姿を現すのは……。

「……ッ!?」

 影に紛れる漆黒。そこから零れる鮮やかな緑。少女の蒼い瞳は瞳孔が開き、ただその一点を見つめていた。綻ぶ少女の表情を他所に、ラグナが彼の名を叫ぶ。

「テルミ!!」

「あら、思ったより早く合流しちゃいましたね」

 帽子のツバを摘まんで直しながら、意外だというように眉を持ち上げて、現れた彼――ハザマは言う。観えなかったのは多分仕方ないことでしょうからいいとして、なんて付け足す彼に、何故ここに彼が居るのかといった疑問が頭を過るが、それよりもある感情の方がラグナの中で上回った。

 疑問を忘れさせるほど、その存在――あの日、自身から全てを奪っていった目の前の男に対する、どうしようもない怒りと憎しみが彼を支配した。

 常人であれば竦み上がってしまうほどの殺気を受けながら、しかし彼は動じた様子もなく、視線を蒼の瞳へと向けた。

「あぁ、待てずに出てきちゃったんですか? できればきちんと大佐に話を伺ってからがよかったんですけどねぇ」

 薄らと金の双眸を見開いて、少しばかり困ったように告げるハザマ。駆け寄ろうとしていた彼女はそれが自身の行動を責められているものだと理解した瞬間、近寄ろうとするのを止めて素直に謝罪した。眉尻を下げてだ。

「……ごめんなさい、です」

 でも。付け足す言葉、そして彼女は首を振った。

「なんだか、むねが、ざわざわってして。こっちに、きたほうがいいような、きがして……」

 そう思ったら、居ても立っても居られなくなったのだと彼女は必死に拙い言葉を並べて伝える。

 ユリシアの弁明に、さして興味を抱いた様子もなく短く相槌を打つ。緑髪を揺らしながら、今度はラグナの方へとまた視線を戻すと。ニィと彼の口端が吊り上がる。

「んで……ラグナちゃんも居ることが分かったし、あとは確認したいことを済ませるだけだな」

 テルミの声音はひどく愉快そうで、何が面白いのかとラグナが身構える。確認したいこと。その言葉に何故か不穏さを感じて、自然と大剣を握り直した。

「テメェは偽物じゃねえよなぁ!」

 突如、テルミの後ろから空間を食い破って飛び出たのは蛇頭のついた鎖――事象兵器(アークエネミー)・ウロボロスであった。

 ウロボロスはラグナへ一直線に伸び、蛇頭が大口を開けて噛みつかんとする。しかしテルミの行動に備え構えていたこともあって、ラグナはそれを容易く弾いてしまう。空気の動きで後ろから迫るもう一本も察知し、同様に。金属音が狭い廊下に鳴り響く。

 後ろの攻撃に振り向いたラグナへ駆けるテルミ。攻撃しようとしてテルミの方へ向いたラグナの足元へ滑り込み、テルミが足を払う。バランスを崩して倒れ込むラグナにすぐさま立ち上がったテルミの脚がめり込んだ。

 一瞬にして戦場と化した廊下で、突然のことにユリシアはどうすることもできない。

 『たいせつなひと』が突然、やっと慣れてきた人物に突然攻撃したのだから、その行動をどうするべきか分からなかったのだ。

 彼らが出会って戦うのは珍しいことじゃないし、寧ろ毎回であるとさえ思う。ユリシアだって、ラグナの相手をしたこともあるけれど。それでも世界の敵だと言うほどラグナが悪い人物だとは考えられなくなっていたし、テルミが攻撃する理由がそれだけではない気がして、迷ってしまった。思えば、テルミはラグナの相手をするとき、いつも笑っていた気さえする。

 ラグナの悲痛な声が木霊し、テルミがより一層笑みを深く刻み込む。

「んん~、いい悲鳴のあげっぷりだなぁ。この響き、ラグナちゃんで間違いないみてぇだな!」

 言いながら、尚もラグナを踏みつける。何度も、何度も。高く笑いながらテルミは傷だらけのラグナの身体を弄ぶ。その度に呻くラグナの声を心地よい音楽のように感じながら。

 死ね。テルミが叫び、ラグナの肩にはウロボロスが喰らいつく。そうしてボロボロのラグナを痛めつけるテルミと、それを見つめる少女の後ろで影が動いた。

「やれ、テイガー」

「了解した」

 ココノエの命令に、赤い巨体が動く。彼が両手を向かい合せると、途端手の中でバチバチと光を放つ高電圧の球体が形成される。それを持ったままテイガーが、未だラグナに夢中なテルミへと手を向けた瞬間――放たれる。

 けれど咄嗟にその存在に気付いたテルミが身を翻して飛び退き、躱す。球は壁にぶつかると四散し消えた。

「うぉっと、危ねぇじゃねえか! 邪魔すんじゃねぇよ、化け猫」

 睨み付け、テルミがそう怒鳴る。対して化け猫と呼ばれた彼女――ココノエといえば至って冷静にふん、と鼻を鳴らすだけだ。

 普段引きこもりの彼女が出てきただけでも彼は違和感を覚えているのに、自身を毛嫌いするはずの彼女がこれ以上何もしてこないのを不思議に思うのと同時――。

「う……おぇ……おま……げほっ……」

「うお、また右目が……」

 ユリシアの胸がまたざわつきを覚える。テルミの背筋を寒気がはしり、瞬間、吐き気が襲ってくる。ひどく気持ち悪い。この感覚は前にも味わったものだ。自身を内側から削り取られるような、ひどくおぞましい感覚。せり上がる酸っぱいものを必死に抑える彼に、平然とココノエは一歩近寄った。

「久しぶりだな、ユウキ=テルミ。直接会うのはいつ以来だろうな」

「化け猫……テメェ……っ」

 ひどく怒りをおぼえた様子で、しかし体調が優れないために覇気のない声で、テルミが叫ぶ。

「知っていたんだろう? 私達の連れているものを」

 冷ややかな目で見つめるココノエの言葉を、テルミはまともに聞き取れず、肺に入り込んだ空気はひどく重く、淀んでいるようにすら感じる。

 知ってはいた。『アレ』に最初会った時の時点で、誰が『アレ』を呼び出したのかも、その目的も察してはいたのだ。だからここに来たのもそれに出会う危険を考えた上で、仕方なくだ。

「今まで実に散々なほどの干渉を受けてな。その中でどうすれば干渉を受けずに貴様らに対抗できるか考えてきた。そして私が見つけた、これこそが――お前『達』と『蒼の魔道書』の弱点だ。そうだろう、テルミ」

 ココノエがそう言った瞬間、後ろから現れたのは――置いて来たはずの、セリカだった。ラグナにすぐさま駆け寄る彼女から飛び退くように離れるテルミと、途中で起こしてすまない、そう言った後ココノエ。彼女がまたテルミに向き直る。

「……『居ないはずの者』を呼ぶなんて、マジでどうかしてんじゃねえのかよ」

「それを言えばテルミ、貴様がその少女を連れているのも大概だろう。それに、神に対抗するんなら、どうかしていないと無理な話だ。そのためになら、悪魔にだってなるさ」

 無表情で、ちらりとユリシアを見て語る彼女の言葉すら、近距離で鐘を鳴らされているように頭に響く。自身から振った話だが、それすらどうでもよくなるほどに気分が悪い。叫ぶ。

「待て、待て……っ、これ以上ソイツをここに留めんじゃねえ、マジでやめろって……!! おい、ファントム、今すぐ俺とユリシアを転移させろ、早く!」

 話をやめろ。これ以上セリカと同じ空間に居させられてはたまらない。胃が雑巾のごとく絞られるような不快感を覚えながら必死になって声を張り上げる。

「――――」

 途端の出来事だった。テルミの言葉に呼応するように空気がふと揺れ動く。『それ』を感じ取った瞬間、テルミが汗を浮かべたまま口角を持ち上げた。

 そこには。皆の目の前には――影のようなものを纏った『何か』が居た。広いツバをもつ三角帽で顔は隠れて見えない。

 揺らめくそれに皆が一斉に目を瞠(みは)る。その異様な存在感に、そして、纏う雰囲気に――。

「えっ……あの人が……『ファントム』なの?」

 戸惑い、そして驚いたようにセリカが漏らす。ココノエもまた、眼鏡の奥の目をすぅっと細めて『彼女』を見た。尻尾は、警戒するように揺らめく速度を速めて。

「聞いていた通り、のようだな」

 そんな二人を彼女――ファントムもまた、じぃと凝視していた。それは、意思無き『亡霊(ファントム)』と呼ぶにはあまりにも。

 そうして、いつまで経っても自身の命令の通りに動かないファントムを急かすようにテルミが咳き込みながら声を荒げる。

「げほ、ごほっ……何してやがる、ファントム、今すぐ俺らをどこでもいいから、ここから離れた場所へ転移しやがれ!!」

 叫ぶ彼にやっと彼女が紫色の魔法陣を展開する。テルミが腕を伸ばしてユリシアを引っ張り、陣の中へ収めた瞬間、彼らは消える。待って、一歩前へ出たセリカの声は届かず。それを呼び止めるのはココノエだった。

「セリカ! 今は無理をするな。お前はすぐに戻れ」

「でも……!!」

 振り向く彼女は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。ココノエも、セリカの気持ちは痛いほど分かる。だって『彼女』は、ファントムと呼ばれたあの女は、セリカにとって、そして自分にとって。

 でも、今はどうにもできないことを、やらなければいけないことがあるのを理解していたから気持ちを隠して、冷たく、再度「戻れ」と告げた。

「……うん、ごめんなさい。ラグナ、また後で」

 ココノエの気持ちを察してか、セリカは苦笑して頷く。寂しげにラグナを見た後、

テイガーに連れられるまま去って行った。

「……母様」

 呟く声は静寂に掻き消される。

「おい、ココノエ」

「話は後だ。支部に戻ったらしてやるよ」

 ココノエの台詞、そしてセリカが現れた途端のテルミの豹変ぶりに、ラグナが漏らす。しかし、それ以上をラグナが口にする前に――ココノエは、冷たく制した。

 

 

 

「さて……話を聞かせてもらおうじゃねえか」

 ヤビコ支部に戻ったラグナが、カグラの執務室で一番に発した言葉はそれだった。支部に戻るまでに事態の処理やらがあり、さらに言えばそれが終わった後も先に退場したカグラは何か用があったらしい。カグラが戻って来た頃にはすっかりと日は暮れていた。気怠げにカグラが明日じゃ駄目か……と問うけれど、それには勿論駄目だとラグナは返す。今すぐ、聞きたかった。目の前の人物らは何を企んでいるのだと。

 口にすれば、カグラが答える言葉は聞きたかったこととは違うこと。だから聞き方を変える。

「統制機構を乗っ取るだとか、帝を倒すってのは分かってる。そうじゃねえ。そのための具体的な手段を教えろ」

「手段って言ったって……」

 やけに真剣な面持ちで言うラグナであったが、それに困ったようにカグラは眉尻を下げた。カグラが答えに詰まるのは、ラグナが統制機構や十二宗家、そしてその歴史について知らないからだ。そこから説明するとなると二日はかかるだろう。けれど、そんなカグラに首を振ったのはココノエだ。

「いい。こいつには私から話す。……どうせラグナが聞きたいのはセリカのことだろうからな」

「んだよ、女絡みか」

 ラグナが聞きたいのは、セリカを使ってどうこうだとか、テルミとセリカの関係だとか、そういうことだった。それを言い当てたココノエに、どこかがっかりとした様子で茶々を入れるカグラ。窘め、ココノエは語りだす。

「……端的に言う。セリカはこの時代の人間ではない。『刻の幻影(クロノファンタズマ)』だ。彼女の魂を過去から複製して、用意したこの時代の器に定着させた」

 思わず、間抜けた声をあげたのはラグナだ。事前に聞いていたのか、カグラは驚く様子もない。

「は? じゃあ、セリカはずっと昔の人間ってことかよ。その魂をコピーするって……んなことできるのかよ」

 コピーした、ということは本人は既に他界しているのだろう。ならば、よほど昔の人間なのだろうと踏んで、ラグナは問うた。

「できるさ。だからセリカがここに居る」

 首肯。咥えた飴を反対側に転がして、頬を丸く膨らませながらココノエは語る。

「セリカはな、『暗黒大戦』時代の人間だ。そして、彼女には特殊な力が備わっていた。自身の周囲にある魔素の活動を無意識に抑制する……という力がな」

 魔素を。それは、クシナダの楔に近いものを感じながら、ラグナは納得した。何故セリカが近付くと右目と右腕が使えなくなるのかずっと疑問であったが、魔素でできた『蒼の魔道書』の力をセリカが抑制するからだと理解する。

「昔のセリカなら、このヤビコの魔素を全て浄化してしまうことも可能だったろうな。無論、術式も使用不能になり、民の生活も危ぶまれる。そこで、セリカにはリミッターを施した」

 それは簡単に言えば『ある一定以上の魔素』だけは浄化できないように調整したものだ。だが、とある『魔素』に関してだけは例外にしてあり、セリカの能力が充分に発揮できるようにしてあると。

「その例外が、蒼の魔道書か……」

「そうだ。だが……リミッターでも抑えきれなくてな。蒼の魔道書以外でも、想定以上に魔素を浄化してしまっているようだ」

 リミッターには、セリカ本人の負担を減らす役目があった。しかし、今日は随分と長く外に居たため、魔素を過剰に浄化しすぎて影響が出たのだろう。

 それが、セリカの調子が良くなかったことに繋がるとココノエは説明した。

 セリカの生きていた時代と、今の時代では魔素の濃度は次元が違う。現代は魔素だらけゆえに、セリカの能力はフル回転するのだ。その分、精神や身体に負担がかかるのは当たり前だった。

「もっとも、この支部はセリカの負担にならないギリギリまで魔素を調整してある。術式が使える程度にな。……それで、セリカには大体理解したか?」

「あぁ、俺の『蒼の魔道書』を抑えるっつーことは、テルミのも抑えるってことだろ。そのために、セリカを過去から呼んだってわけか」

 ココノエの問いに頷いて、納得したように言うラグナに――ココノエは俯き、いや、と漏らす。

 一歩歩み寄り、ラグナの顔を覗き込んで彼女は付け足すように語る。勿論、ラグナが言ったのも役立つ能力だとは思うが、セリカが必要な理由は別にあると。首を傾げるラグナ。

「お前も聞いただろう。クシナダの楔だよ。あれを起動させるために、起動キーであるセリカを呼んだのだ。……セリカ(それ)を使う以外に、クシナダの楔を起動させる方法を、私は知らない」

 クシナダの楔を起動できれば、魔素の活動を一時的にだが、完全停止させることができる。そのときが――テルミ達(やつら)を倒すチャンスだ。

 懸念するべきは、彼女(ユリシア)の存在くらいだろう。

「勿論、起動時にはお前の力も借りるから心しておけ」

 頷くラグナに、ココノエはふん、と鼻を鳴らす。

「あと、もう一つ……質問いいか」

 

 

 

「あの、てるみさん」

 ココノエが話しているのと同時刻。彼女は、自身の髪を洗うテルミに声をかける。目をきゅっと閉じたまま、思い出すのは先の――ヤビコでのことだった。用件を尋ねるテルミに、しかし何かに気が付いたかのように。

「あ……えっと、いやなこと、おもいださせるかも、ですが……きいても、いい、でしょうか」

 話しかけておきながら、気遣うように話すのを躊躇う彼女にむっとして、テルミは少しだけ語調を強め、勿体ぶるなと話すのを促した。それに、割とあっさり頷いて彼女は口を開く。頭に触れる彼の両手に、小さな白い手をそれぞれ重ねて。自然とテルミの手が止まる。

「てるみさんが……あの、おんなのひと。せりかさん、でしたか。……あのひとを『いないはずのもの』と、いっていたのは、なぜですか」

 ユリシアの声が浴室に響く。沈黙。あの女の名前を出された瞬間のテルミの意外さと嫌悪感は計り知れないが、それ以上にテルミは、何故そんなことを聞くのだろう、と思ってしまった。そんなに彼女が気にするような内容だとは思っていなかったからだ。

「……えと、その、へんないみ、じゃなくて、なんか、わざわざいってたのが、きになったので」

 彼の疑問を肌で感じたのか、彼女が繕うように言って、手を離す。再開される手の動き。金糸の束をいくつかに分けて、その一つを泡で包むように揉みながら、テルミは少しだけ悩んだ。

 どう言えば彼女に伝わるのだろう。どれを言わなければ彼女を困惑させないだろう。多少の疑問や混乱は仕方ないものだとしても、必要最低限に抑えたい。彼女が困った顔を見せるのは――。

 胸の内で、嘲るような愉快さと不快さがない混ぜになった感情を覚える。勿論、テルミは現在悩んでいたわけだし、そんな感情を覚える暇はなかった。これはハザマだろう。

「……テルミさん?」

 気付けばシャンプーの泡を流そうとシャワーヘッドを持っていたところだった。けれど一向に流すための手が動かなかったらしい。流水音だけが響く。

 いつまで経っても答えぬ彼を不思議に思った少女が問う声でやっとテルミは気が付いた。けれど、胸の内は未だにその感覚を残している。気取られぬようシャワーの湯をかけ、泡を流し始めながら、テルミは自身の胸を見た。

 薄く筋肉のついた胸板は彼女と出会う前より血色も良くなった。が、それは今どうでもいい。

 何だ、とハザマに問う。何故、そんな感情をテルミにぶつけてくるのか、理解ができなかった。そんなテルミの様子に、愉快げな気持ちは更に強くなる。

 分からないのか、という嘲りだった。

「んだよ……」

 そんな声は、喉を震わせ、唇から零れ落ちる。少女が間抜けた声をあげ、咄嗟に何でもないと言って誤魔化した。肩先が震えるのは、ハザマの笑いが滲み出てきたからだ。

『――いえ、テルミさんが、私と同じ……謂わば『道具』であるユリシアを、やけに大事にしているようなので……ねぇ? とても『人間くさい』んですから』

 とうとう堪え切れなくなったのか、彼は内側で饒舌に語りだす。

 別に言ってしまえばいいものを、わざわざ悩んだりして。どうせ、最終的には理解させる予定なのに……。そんなハザマの台詞に、そこでやっとテルミは気付く。

 何故、こんなにも少女が気になるのだろうか。

 慕われたりするのも、拙くくだらない愛情のようなものを向けられるのにも慣れたはずだった。けれど、毎日寝食を共にする彼女がやけに――。

 それ以上は考えたくなくて、テルミは首を横に振った。

「あの、いいたく、なければ……その」

 ずっと黙している彼に、言いたくないのだろうと思ってしまった彼女は、気遣うようにそう言う。けれど、遮るようにテルミは「いい」と言って、話の口を切った。

「アレは……セリカ=A=マーキュリーは。過去の人間なんだよ。『暗黒大戦』時代の人間だ。んで『あの』女は本物じゃねえ。過去からコピーしてきた偽物だ。……だから『居ないはずの者』なんだよ」

 手に出したリンスを少女の髪に馴染ませながらテルミは語る。

「かこの……にんげん」

 少し遅れて、彼女がそう呟いた。肯定してやれば、彼女は振り返る。シャンプーと違い泡のないリンスなら問題ないらしく目を開けていた。蒼の瞳がテルミを見つめる。

「かこのひと、っていうの、は、おどろきました、ですが。それだけ、ですか」

 驚いた、と言うには少しばかり表情の変化が乏しいが、彼女が言うならそうなのだろう。それよりも、疑問が勝ったのだと思えば納得もできる。テルミを見つめる少女の頭を鷲掴み、前に向かせながら、テルミはまた少しだけ驚いていた。

「……なんだか、もっと、いみしんに、きこえました、です」

 彼女は、そこまで勘の鋭い人物だっただろうか。否、彼女はもっと鈍感で、無知で、純粋で。彼女らしからぬ問いに眉根を寄せながら、テルミはしかし隠す必要もないだろうとして答えた。

「……前に言った、観測や干渉についての話は、覚えてるか」

 明日には、窯の準備も整うだろう。ならば明日、彼女には――。ずっと、タイミングを掴めずにいたそれを、やってしまおう。

 

 

 

 ココノエはラグナの問い――何故、テルミがセリカを『居ないはずの者』と呼んだのか、について解説していた。

「観測・干渉は『居るはずの者』に対してのみ行うことができる。逆に言えば、データがなければ観測は行えない。つまり、この時代のデータがないセリカの観測はできない。観測ができないなら事象干渉もできない」

 そして、セリカと関わっている者も同じく干渉はできず、特にラグナはセリカと常に居たためその影響を強く受けているらしい。このところ干渉を受けた覚えはないだろうと問う彼女にラグナは頷く。ゆっくりと瞬きをしながら、ココノエは咥えた飴の棒に指を添えた。

 それを見ながらラグナは――思い出したように、あ、と声をあげる。

「んじゃあ、テルミに対して……ユリシアを連れているのも大概だって言ったのは」

 思い出すのはココノエの台詞だ。ユリシアは一見、ただの少女だ。多少、鎌などの武器を出せたりといった特殊さはあるが。そういったことができる人物は他に心当たりがあったから、そこまで驚くことはない。ならば、どこにその『大概』だという特殊さがあるのだろう。

「……あぁ、あの少女はユリシアというのか。アレの場合はまたちょっとケースが違うが、似たようなものだ」

 ラグナの問いに、極めて冷静な話し方で彼女は言う。そこで彼女の名を改めて知って、ふむと頷いた。何と説明するべきか悩んで、それから彼女の中で整理できたのだろう、話し出す。

「彼女のこの時代のデータも、この世界にはない。……否、どの事象の、どの時間軸にすら、な」

 言いながら、厄介な者が出てきたと改めて思ったのだろう、彼女は眉間を指で揉んだ。眼鏡越しに見えるその眼はぎゅうと伏せられている。

「どの事象の、どの時間軸にすら……って。どういうことだよ。そんな、この事象だけの存在みてぇな……」

 ラグナは驚きに色の違う両目を大きく見開く。この事象のこの時間にしか彼女は存在しない、とでも言いたげな言い方をする彼女に、まさかと思って漏らすラグナの言葉に、そうだとココノエは頷く。ピンク色の尻尾が揺らめく。

「……そう。彼女は、この事象の、この時代にしか存在していないわ。ノエルのように、別の事象では死んでいたというわけでもなく、本当の意味で……突然現れた存在」

 告げるのは、薔薇の香りを纏う声だった。それは、数々の事象を観てきた『傍観者』。千年を生きる吸血鬼、レイチェル=アルカード。

「な……レイチェル! またお前は突然……」

 突然現れ、ココノエの代わりに彼女(ユリシア)の存在について語る少女に、ココノエは目を見開き噛みつくように声を荒げた。それにはちらと一瞥するだけで、レイチェルは特に何か言い返す素振りは見せなかった。それに何か言おうにも、彼女には通じないのだろうとココノエはまた眉間を指で揉みながら溜息を吐くだけに終わる。

 黙り込む皆。そこに水を差したのは、この部屋の主、カグラだった。

「ところで、ラグナ。報酬についてなんだが……」

「あー、そのことなんだけどよ、明日まで待ってくれねぇか。正確に言えば一日だけ俺に時間をくれ」

 報酬。それは即ちクシナダの楔のことを指し、前にラグナへ渡すと約束したものだ。それについての詳しい話をしようと持ち出したカグラであったが、その話はあれだけ欲しがっていたラグナに制される。鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くしながら取り敢えずは首を縦に振る彼を見て、ラグナはココノエに視線を向ける。

「それと、ココノエ。明日一日、セリカとノエルを借りるぞ」

「は……? 駄目に決まっているだろう」

 レイチェルに言われた通り、明日、イブキドに彼女らを連れていかねばならない。けれど案の定、ココノエは許可をしてくれないようだ。

「いいじゃん、別に。羨ましいことに女二人引き連れてデートだろ、楽しんで来いよ」

「カグラ!!」

 が、厳しいココノエに対してカグラは軽い口ぶりで、腕を組みながらそう言うのだ。咎めるように彼の名を叫ぶココノエ。咳払いを一つ、ラグナを見上げた。

「貴様がどこに、何故、二人を連れて行くんだ。場合によっては容認できん」

 ココノエなりに考え、譲った結果がコレだった。流石に真っ向から否定・拒否することこそしないが、彼の答えによってはやはり認めることはできない。でなければ、ココノエの考えていた計画が全てでないにしろ狂ってしまうのだから。

「それは……コイツに聞いた方が早いと思うぞ」

 言葉に迷い、ラグナが見た先はレイチェルだ。ココノエの息を飲む声が聞こえた。様子をちらりと窺った瞬間。

「レイチェル……だと? 駄目だ。絶対に駄目だ! コイツは邪魔しかしてこないだろう、絶対に許可できん!!」

 目を見開き、レイチェルを指差して叫ぶココノエ。その尾はぴんと立ち、大きく膨らんでいた。

「それについてだが、お前の邪魔になると思ったら即爆発させればいいからよ。頼むわ」

 レイチェルが何か言うより早く、ラグナが口を開く。

 いざとなれば爆発させればいい。そう言われてしまえばそれ以上止める言葉が見つからず、ココノエは俯いた。……数秒の後、

「……分かった。私の邪魔になることだけはするなよ」

 

 

 

「ユリシア」

「はい、なんでしょう、てるみさん」

 翌日のことだった。昼食を食べ終わり、片付けが済んだ頃合いでテルミが彼女を呼ぶ。すると彼女はいつも通り嬉しそうに振り返る。その姿を見るのにも慣れてしまった。

 テルミは、その少女に歩み寄る。硬い地面と靴がぶつかり合い、高く小気味よい足音が響いた。

「そろそろ、ユリシア……テメェには自覚してもらわなきゃならねぇんだよ」

 へ、と間抜けた声をあげる少女のすぐ目の前に、テルミは佇み、腰を折る。見上げる少女の顔と、自身の鼻がぶつかりそうなほどの至近距離。テルミは、ニィと笑った。

「来てくれるよなぁ」

 これも『滅日』への準備だ。

 自覚。その言葉が理解できなかったけれど頷く少女を連れて、テルミは部屋を出る。いつの間にか居ることが当たり前になってしまった少女の手を強く握って、向かう先は最下層。窯だ。

 階段を下り、昇降機を使ってさらに下へ、また階段を下りて――。結構な時が経ち、辿り着いた窯への扉。それを開けば僅かな熱が押し寄せる。身に受けながら、彼女を中に押し込んで、続くように自身も入り、扉を閉める。

「……今から、テメェには窯の中へ入ってもらう」

「かま……あの、あなのことですか」

「ああ、そうだ」

 視線の先には大穴があった。揺らめくオレンジ色は、ドロドロと蠢く溶岩は、生きているようだった。

「……おちたら、しんじゃいます、ですよ。きっと」

 頷く彼に、不安げに彼女が訴える。あんな熱の海に放り込まれたら、飲み込まれて、消えてしまう。それに、それ以上に、あの穴は――何だか怖い。彼女の様子を見つめながらも、普通ならそうだな、とテルミは頷いた。

 が、先ほど言った言葉を訂正しようとはしない。本気なのだろうか、と初めてユリシアはテルミの言葉を疑った。何故そうしなければいけないだとか、そういうのを全く言ってくれないから、彼女は不安だった。

「魔法で、近くまでの足場は作ってやるよ。最後は目を閉じて、あの中に入って、委ねるだけでいい。大丈夫だ、テメェは死なねぇよ」

「…………」

 いつも通り笑って言ってやっても黙り込むだけのユリシアに、テルミは少しだけ不思議に思って、訝しげな視線を送る。普段なら、テルミの言葉には必ず頷くのに――何故、目の前の少女は従わないのだろうか。

「……わかりません、です」

「あ?」

 ユリシアが口を開いたかと思えば、小さな唇が紡ぐ音は『分からない』、そう言った。

 何が分からないのだ、とテルミは思う。別に、分からなくても自分の言う通りにすればいいじゃないか、とも。

「てるみさんが、なんで、そんなこと、させようとしてるのか、わからない、です」

 声は震えていた。初めて、テルミに怯えていた。突然意味の解らないことを言われたのだから当然といえば当然だろう。今までも、理解できないことを言っていたことはあったけれど、今回のは特に理解が追い付かない。彼は、どうしてしまったのだろう。

「……テメェには自分の素性について、そろそろ理解してもらわねぇと困るんだよ」

 ユリシアが色を失う。素性。ずっと忘れたまま、けれど新しい生活を始めるうえで忘れたままで構わないと思っていた記憶について、まるで知っているような口ぶりだったから。

 テルミは、何故か分からない確信を持っていた。彼女が――『蒼』そのものの片割れだと。帝がそう言ったからじゃなく、少し前から、何故だかそう思うのだ。まるで『そう思わされている』かのように。そして、彼女は――境界に触れることで、思い出すはずなのだと。

「……てるみさんは」

 震える唇は、上手く言葉を紡いでくれないけれど、必死になって彼女は言葉を絞り出した。

 テルミは、それを遮ることもなく聞いていた。

「てるみさんは、わたしの、きおくとか、かこについて、なにか、しってる……ですか?」

 まるで、信じたくないというように。何も分からない自身を救い出してくれた彼が、全て知っているのが怖いというように。彼女は半分、そうじゃないと言ってくれるのを期待しながら、尋ねた。けれど、

「……確信は持てねえが、そうだと言えるな」

 言葉を失った。知っていたなら、何故今まで話してくれなかったのだろう。否、断片的に、それを匂わすようなことは言っていたかもしれない。が、それじゃ分かるわけもなくて。

「――それはどうでもいいだろ。それに、テメェだって思い出したいとは思わねぇのか。本当は気付いてんだろ、この世界のことだってよ」

 世界だなんて言われても分からないし、何を思い出すのかだって分からない。分からないに分からないを重ねて、彼女は頭の中がショートしそうだった。

「わからない、ですよ」

 そんなのじゃ、分からない。だから言っているだろう、だなんて言うテルミに、自然と声は口に出ていた。

「てるみさんが、なにをしたくて、なにを言ってるのか、わたしには、ぜんぜんさっぱりです。わかりません、わからないです……!!」

 声を張り上げて、彼女は訴える。何故あんなところに入らなければいけないのだろう、何を思い出せと言うのだろう、世界の何に気付かなければいけないのだろう。彼は何を言っているのだろう。前に話した『蒼』だって、可能性だって、全だって、何一つ分からない。

 今まで分からないまま無視してきたことが、ここになって全て思い出されてしまって。

 ユリシアの声が、ドーム状の空間に反響し木霊する。テルミは、目をゆっくりと見開いた。

 彼女がここまで激情する様など初めてだったから。

「……だから、だから……」

 俯き、はぁ、はぁ、と呼吸を荒くして、彼女は尚も言葉を続ける。

「おしえてください。ちゃんと、ぜんぶせつめいして、くれないと……わたしには、なにもかも、わからない、です」

 教えて欲しかった。テルミに、きちんと。けれど、そこまで言って、知るのが怖いとも思ってしまった。が、テルミはユリシアの言葉に口角を持ち上げる。ユリシアの大好きな、嬉しそうな顔だった。

「……そうだろ、知りてぇんだろ。なら、あの窯が『知る』ための扉だ。テメェの知りたいこと全てを教えてくれる、扉だ。そこに、俺が導いてやるからよ……」

 テルミの言葉に、彼女は俯けていた顔を上げた。彼の言葉に、知らなければいけないと、腹を括らねばならないと、思ってしまった。

「……しる、ための……とびら……」

「あぁ、そうだ」

 扉、という言葉は全くもって似つかわしくないが、彼が、そう言うのなら、そうなのだろうと。いつものように、彼を信じる彼女が居た。テルミを見上げて、彼女は苦笑する。

「……てるみさんが、みちびいてくれるなら」

 決意した。生きた穴に飲み込まれ、全てを知ることを。

 テルミが歩き出すままに、導かれるままに、彼女は彼の後ろを歩いて、着いて行く。穴のふちに立つ。足が竦んだ。吸い込まれそうな深い穴を見つめていると、今にも飛び降りてしまいそうだった。

 命じられるまま、彼女は一歩足を踏み出す。

 途端、彼女の足元には魔法陣が浮かび上がる。不安になって、一瞬足を引っ込めかけるが、その魔法陣は体重をかけても通り抜けることなく――彼女の体を支えた。コツリ、と靴が鳴る。

 一歩、一歩。階段状に連なる魔法陣の上を彼女は進んで行った。熱風が髪を揺らし、至近距離の灼熱が肌をチリチリと焦がすような感覚がした。一度、穴の入り口を見上げると、テルミは頷く。足下の魔法陣は先のよりも大きく、寝そべっても平気なほどの大きさをしていた。

 しゃがみこんで魔法陣の足場に膝をつけ、言われたように目を伏せた。

 そして、灼熱にそっと手を近付けて、指先を触れさせる。――瞬間。

「ッ……!!」

 どろりと纏わりつく溶岩に自身が溶けるような感覚に、声にならない声をあげた。だけれど、熱さを越えて感じる痛み、逃げ出したいほどのその熱の先に何かを感じて、彼女は触れた指先を奥へと進めた。本来ならこの熱で溶けてしまっているはずの手にはまだ感覚があった。そして、手首までを浸けた後――ゆっくりと、身体を傾けて、どぼん。頭からつま先まで、一気に全身を潜るようにして溶岩の内部に滑り込ませる。その途端。

 自身が消えていくような、溶岩と一体化したように、熱を感じなくなった。

 しかし同時に肌を伝い、脳にかけて強い電流がはしる。正確には、それはとてつもない情報の波であった。叩き付けられるように、無理に押し込まれるようにして、情報が脳に流し込まれる。沢山の映像が一度に展開されて、ついていくことすら困難だ。

 拒絶しそうになるけれど、そんな余裕すらない。苦しくて、息を吐き、喘いだ。無慈悲なことに情報の波は止まらない。

 ――そうして、体感的には長い時間が過ぎた頃。止まった時には、彼女は目を開き放心していた。脚がついている感触が無くて、よく見れば見慣れた腕の中。軽く上を見上げると、たいせつな人の、初めて会った時と変わらぬ顔がそこにあった。

 確かに、彼女は知ってしまったのだ。

 汚いことも、綺麗なことも、この世界が繰り返されていることも、その中での人間のあがきも、人間が生み出してしまった人間への『罰』の恐ろしさも痛みも悲しみも憎しみも恐怖も、狂った茶番の中で、この事象で初めて自分が生まれたことも、自身のせいで『彼女(アマテラス)』達が干渉できないことも――自分はずっと、遠くで見ていたことも。

 けれどそれを思い出した後も、この男に湧き上がる気持ちは変わらない。変わりなく、彼が大切だと思った。もっと彼のことを知りたいと思った。

「あ……」

 想像を絶する量の情報全てを無理矢理受け入れ、整理しきった時。――何故か視界がぼやけて、目元が濡れるような感触があって。手の甲を擦りつけても止まらない。涙がぽろぽろと零れる。

 そんなユリシアに、テルミが口を開く。短い一言だった。

「おかえり」

「はい。……ただいま、もどりました、です」

 テルミの言葉を受けてユリシアが顔を上げ、へにゃっといつも通り微笑みを浮かべる。いつもほど綺麗には笑えなかったけれど。

 簡単なことだった。テルミ達が、どうして、そういうことを企んでいるのか、自身に何故、境界に触れさせたかだなんて。

 それから数時間が過ぎた後。イブキドの窯に集まったのは四人。レイチェルを始めとし、ラグナ、セリカ、そしてノエル。皆がそこに居るのを確認した後、レイチェルの導きでラグナは――。

 

 

 

   1

 

「……レイチェル=アルカードが、事象に多大なる干渉をしたか。……まったく、愚かなことをするものだ」

 カザモツの最下層にある、窯。大穴のふちでは幾重にも布を纏った少女が佇み、煮えたぎる灼熱を見下ろしていた。

 溶岩は、彼女の青白い頬を、伏せられる瞼を、明るくオレンジ色に照らして揺らめく。

 彼女は『傍観者』の動向を観ていた。

「……これは『居るべきはずの者』を……自身の観測対象を。過去に送り込み、時間軸と事象を固定化したのか……」

 今更無駄なことを、と帝は思う。だが、これで過去から現在に至るまでの全ての『事象』が確定した。世界は滅日へと歩み始めた。ならば、もはや揺らぐこともないだろう。

 帝の口端に笑みが浮かぶ。

 そこに響くのは三つの足音。振り向くと、居たのは二人の男――片方は仮面、もう片方は緑髪の。そして、少女。ユリシアだった。

「帝。全ての窯の準備が完了した」

 それは、主賓を招くための――。

 いくら彼女(ユリシア)が居ても、この事象が終わってしまえばまた世界はくだらない繰り返しが起きる。それを避けるための、世界を正しい形に戻すための。

「そうか。……ハザマ、宴(えん)も酣(たけなわ)だ。主賓を招くぞ」

 不思議そうに彼らを見つめる少女は、これから起きることを理解していた。

「了解致しました。では『岩戸』の前で。レリウス大佐、念のためにネズミの様子を確認してきてください」

 恭しく帝に礼をした後、ちらとレリウスを見遣ってハザマが告げる。返される言葉は、分かっている、の一言だ。二人の短い会話が終わり、彼らは各々のやることを成すため窯の間を出て行く。振り返り、会釈する少女に微笑みかけ、去る背中を見届けて、帝は口を開く。

 口端には笑みを刻みゆっくりと紡がれるのは、自身が掌握し手中に収め、干渉のために役立ってくれたシステムへの『別れ』を告げるものだ。

「では、さらばだ……『タカマガハラシステム』よ」

 そう言って、帝は目を伏せた。アレは充分役に立ったが、これからの世界には邪魔でしかない。

「ファントム……全システムを『消去』せよ」

 命じられるままに、影のような意思無き亡霊――ファントムがタカマガハラへと繋がる。そして、人間が作り出したそのシステムを、消去した。

 

 

 

「……! な……」

「どうした、ココノエ」

 タカマガハラが消えると同時刻。彼女は画面を睨み付け、目を見開いていた。眼鏡がずり落ちそうになるのをすんでのところで抑えた彼女に、赤い巨体、テイガーが心配げに問う。

 普段冷静沈着な彼女がそこまで驚くのは珍しく、よほどのことがあったのだと思ってだ。

「……帝からの、事象干渉が……止まった……だと」

 震える唇が形成した言葉。モニターには、帝の事象干渉の強さを表すリアルタイムのグラフが映し出されていたのだが、今、この瞬間に。グン、と一瞬にしてグラフの線が下へ落ちたのだ。

 即ち、干渉力が弱まったことを指し、その数値はゼロ。つまり、干渉が止まったのだ。

 あれだけこちらに干渉していた帝が何故、突然にして干渉を止めたのか。理解できずとも不穏な気配がして、嫌な汗が吹き出す。何があったというのだろうか、自然と口からそう零れていた。

 そしてまた、イブキドに居たレイチェルも、干渉が止まったことを、そしてタカマガハラシステムが消えたのを肌で感じたのだろう。黙っていた口を開き、漏らす。

「これは……」

 それを聞いて不審に思ったセリカとノエルが反応を示す。

 ノエルに関しては、集中を切らしては駄目だという言葉にまたラグナという存在の『認識』を再開した。レイチェルも、彼女達が何故タカマガハラシステムを消したのか不可解でならなかった。セリカが何かを言いかける。それに振り向いた瞬間……落下してくるのは、ラグナ。

 鈍い音を立てて、現れたラグナは床に身を叩き付けられる。女性陣のそれより野太い声をあげた後に、勢いよく跳ね起きてラグナは辺りを見回した。

「帰って来た、ようね」

 微かな声で呟くレイチェルを他所に、ラグナを心配して駆け寄るセリカとノエル。しかしそれに反応することなく、荒い息で焦点が定まらないまま、彼は口を開く。

「どこだ、今度はどこに来た!?」

 顔を強張らせて叫ぶ彼に、戸惑ったように声をあげるノエルと、思い当たる節があるのか「もしかして、また」なんて漏らすセリカ。やがて、漸くセリカの存在に気付いたのか、ラグナが彼女を見つめた。

「っぐ……セリカ……か?」

 だんだんと鮮明になる視界の中に茶色の髪を見た気がして、ラグナが問う。彼が無事であることに声にならない声をあげ、大きく頷くセリカであったが――。

 肩を強く掴んでラグナはセリカを引き離すと、ひどく驚いたように声を荒げた。

「いつのセリカだ、つかお前、こんな所で何を……っ」

「ラグナ、落ち着きなさい」

「今度はデカいウサギかよ……お前、どこにでも現れるな」

 何をしているんだ、と怒鳴りつけるラグナをなだめるように静かにレイチェルが告げる。そこでやっと自身がウサギと呼ぶ人物に気が付いたのかラグナは目を見開いた。しかし彼が口にした通り神出鬼没な彼女への驚きは少ないが。

 まるで先ほど窯に入って行ったときのことを忘れているかのような、そして支離滅裂なラグナの言動にセリカが途端不安そうに首を傾げた。ラグナの顔を覗き込み、どうしたの、と。

 その不安が傍で立ち尽くしていたノエルにも伝わったのか、眉尻を下げて彼女は声を震わせる。

「ま、まさか私のせい……? 何か失敗して……」

 ゆるゆると口許まで手を運び、まさか、そう漏らすノエル。まさか自分が失敗したせいで、目の前の男はこんな状態になっているのでは。そう思ったノエルにレイチェルが首を振る。

 凛とした声音曰く『境界を越えたことにより記憶が混乱している』のだという。それを聞いて、ノエルは、それならば――と思い立つ。

『蒼』の継承者としての力はまだあった。あの日、ラグナに逆精錬を行われていても、まだ『何か』が自身を『蒼』の継承者として認識しているらしい。

 ならば、彼に干渉して、記憶の整理を手伝うことだって可能なはずだ。

 混乱する彼に、一歩歩み寄り――ノエルは、そっと声をかける。

「ラグナさん、落ち着いて……私の『眼』を見てください」

 その声に反応して、ラグナがノエルの存在を認識する。何故、彼女がここに居るのか。漏らす彼に、再度同じ言葉をかけてノエルはラグナのオッドアイを見つめた。

 それに合わせて、未だ興奮した状態ではあったが、ラグナはノエルの眼を見つめ返す。途端、ゆっくりと、絡まり合った糸が解けていくような不思議な感覚を覚えた。

「ノエル、今日はいつだ……? 場所は?」

 落ち着いてくると同時に、最後に浮上してきた疑問はその二つだ。それに対して、ノエルはただ淡々と、静かに答える。

「二千二百年、七月の十五日です。時間は……お昼を過ぎたくらいで、場所は連合階層都市・イカルガにある元イブキド地下の窯です」

 そこまでを聞き終わって、ラグナは零す。自身は、何をしていたのかと。

「……ラグナさんは、数時間前……この『窯』を通って、過去に行った……らしいです」

 どれくらい過去に行ったのかは分からないですが、言うノエルの言葉に続けるのはセリカだった。彼、ラグナを過去に飛ばすためにその時代を強く意識したのは彼女だったからだ。

 よく、その時代のことは覚えていた。

「今から九十四年前の……二千百六年。暗黒大戦の時代だよ」

 どこか悲しげ、そして真剣みを帯びたセリカの表情と声色は、その凄惨な時代のことを語るようだった。それを聞いて、ラグナがハッと正気付く。

 そうだ、セリカは暗黒大戦時代の人間だ。ならば、何故この年に居るのだろうか……けれどその疑問はすぐに記憶が語り解決してくれた。

 随分前に感じるけれど、それは最近……ココノエが語っていた。彼女の魂をコピーして、この時代の器に定着させたのだと。

「理由は……何だっけか」

 何故彼女をここに呼び出したのか、その理由は確か。思い出すよりも早く、セリカが紡ぐ。『クシナダの楔』であると。

 ラグナは大きく目を見開く。クシナダの楔。確かに彼女はそう言った。そして、今のラグナにはそれがどういう意味を持つか――理解していた。怒りの心が、瞬間、燃え上がる。

「クシナダの楔を……ココノエ、あの野郎!!」

 ラグナが咆哮する。突然大声をあげるラグナに慌ててノエルとセリカが落ち着いて、と声をかける。しかし、ラグナは落ち着いてなどいられなかった。情報の整理を手伝ったノエルには感謝したけれど、すぐにココノエに湧き上がる怒りで興奮を思い出す。

「セリカ、一緒に来い……っ」

 乱暴にセリカの手を引っ掴んで、引っ張る。バランスを崩しかけるセリカだったが、その引く手の強さに着いて行かざるを得なかった。

 途中、レイチェルに声をかける。自身をあの場所へ連れて行ってくれたことに、素直に感謝の言葉を伝えるためだった。

 そして、ラグナ達が見えなくなって――レイチェルも、自身の住まう古城に帰ろうとする。

 けれど魔法を展開しようとした途端だった。いつもと、反応が違う。展開されぬ魔法、転移ができず、黙っていたお供達が不思議そうに声をかける。

「……思っていたよりも、早く影響が出るものなのね」

 それは『傍観者』へのしっぺ返しだ。

 世界のあり方を眺めるに徹するのが、傍観者の役割であり掟だ。謂わば、理の外の人物。けれど……彼女はそれに反し、世界に多大なる干渉をしてしまった。その結果、世界は彼女を『傍観者』でなく、舞台に上がる登場人物だと認識した。

 ならば、理の外の者として与えられていた権利は剥奪される。

 彼女が転移魔法を使えないことも、それ故に居城に戻ることができないのも、彼女が傍観者でありながら世界に干渉した『しっぺ返し』だった。

 ふっと寂しく笑う少女のもとにヴァルケンハインがやって来るのはそれから間もなくのことだった。



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第十章 赭観の暁

「ココノエは居るか……!?」

 勢いよく扉を押し開けて、ラグナはカグラの執務室に飛び込んだ。セリカが止める声も無視して、彼は部屋に入るや否や中を見回した。デートから帰るには早い、などと茶化すカグラを無視して部屋を探すと琥珀色の瞳をした秘書官、ヒビキが困ったように口を出す。

「ラグナさん、ここは一応総領主室なんですが。ノックくらい……」

「うるせぇ、テメェは黙ってろ!」

 ヒビキの苦言を怒鳴り声で一蹴するラグナ。その後ろから、少し遅れてノエルがやって来る。走るラグナを全力で追いかけたのだろう、息を切らしていた。

 それを見て、尚更驚いたようにカグラが口を開く。

「何だ何だ、皆を引き連れて……何かあったのかよ」

 戻ってきたと思えば怒りを露わにしていて、連れる人物達も困った様子。何があったのかは分からないが、ただならぬことがあったのは分かる。故の問いだったのだが。

 ラグナは、大ありだと叫びたかった。けれど、それをぐっと堪えて、代わりに低い声で問う。テメェも知っていたのかと。けれど、カグラにとっては説明もなしのその問いだ。一体何を知っているというのかさっぱり見当もつかなかった。話が見えない、こぼすカグラにラグナは舌を打つ。話にならないと考え、代わりにココノエの居場所を聞こうとしたところで――。

「私はここにいるが。……なんだ、騒々しい。まぁいい、それよりもカグラ、話が……」

 丁度隣の部屋――今はエレベーターとして改造された元カグラの私室から、桃色の髪を揺らして彼女は出てきた。

「久しぶりだな……ココノエ」

 目を見開き、犬が威嚇で唸るような低い声で彼が言う言葉。カグラに話しかけようとしていたココノエは、ラグナの態度にはさして興味も示さず、言葉には昨日の夜会ったばかりだろうと疑問符を浮かべるだけだ。

 境界を越えて、様々な事象を観てきたラグナにとっては、それは何百年ぶりの再会にも思えたけれど彼女はそれを知らないし、今この場ではどうでもいいことだった。そんなことを説明している余裕はない。

「それよりも、テメェに聞きてぇことがあんだよ」

 尚も低い声のまま、ラグナはココノエを睨み付けて言う。それを必死になだめるように、セリカが泣きそうな声で落ち着いて、と何度も声をかけるがラグナはそれを無視。

 ココノエも同様にセリカの言葉を無視し、ラグナを見上げた。こちらのことは大体話したのに、これ以上何を聞きたいと言うのだ。問いかける。

「クシナダの楔……どうやって起動させるつもりだ?」

 問いを受けて、ラグナが用件を伝える。その問いに、彼女はくだらない、と思った。

 それは昨日も話した内容だった。起動キーであるセリカを使う、と改めて答えるけれど、今はそれどころではないのだと吐き捨てカグラの方を見た。

 しかし、ラグナの言葉で――彼女は目を見開き、振り返ることとなる。

「セリカを使うって、それがどういう意味か分かって言ってんのか?」

「誰に聞いた?」

 彼には『セリカを使う』ということこそ伝えたけれど、それ以上の意味、使い方の詳細などは教えなかったはずだ。それを知ったとなれば彼のこの様子も理解できるけれど、何故それを知ったのだ。頭を過るのは金髪の吸血鬼だが、その名を口にする前にカグラが口を挟む。

「何の話だよ。外野にもわかるように説明してくれ」

 困ったようにカグラが言えば、ココノエは黙り込んでしまう。代わりにカグラの求めた答えを話すのは、ラグナだった。

「クシナダの楔の起動には……セリカの魂を触媒として使う」

 ココノエはそのために、セリカを過去から連れて来たのだと。

 触媒。その単語に最初に反応したのはノエルで、カグラはどういうことだと声をあげた。それを受けて、その触媒という言葉の意味を分かりやすく、ラグナは語った。ひどく、おぞましい意味だった。

「セリカの魂をクシナダの楔に融合させる。それが、クシナダの楔の起動方法だ」

 それを言った瞬間に、タガが外れたように、叩き付けるように、ラグナは叫んだ。

 一度融合させたら、二度と元には戻らないことを。魂は楔に拘束されて、そのまま魂――命を削られ続けること。それは彼女が生きたまま、死ぬまでずっと続くこと。

 そして、命を削り切って彼女が死んだら最後、楔は乾電池の中身が終わってしまったのと同じくらい簡単にスイッチが切れて停止、人生を代償としたのは無駄だったと嘲るように魔素は活動を再開させることを。

 ラグナが息を切らして叫んだその声を聞いて、カグラの目は見開かれる。マジで言っているのか、声を荒げて問う男にラグナは大きな声をそのまま、本当だと返す。

 こんなことで嘘をついてどうするのだ。それも、誰も幸せにならない嘘を。過去に行き、あの『大魔導士ナイン』から聞いたのだからとラグナは言う。

 それを聞いた瞬間、まるでおかしなものを見るように、カグラの表情が切り替わる。

 『大魔導士ナイン』として伝わる人物は、暗黒大戦時代に活躍した六英雄の一人だ。というのは皆の常識となっていて、彼女が伝えられた通り人間なのであればとうに寿命を全うして死んでいる歳である。故に彼女から聞いただなんて簡単には信じられない。夢でも見たんじゃ、と言うカグラだったけれど、ココノエの方はといえば、

「……『母様』に会ったのか」

 そう、静かに口から漏らした。ラグナとセリカ以外の皆が、その言葉に首を傾ける。それを受けて、ココノエはゆっくりと口を開いた。

「……六英雄の一人、術式の開発者『大魔導士ナイン』は……私の母親だよ」

 その言葉にノエルが目を丸くしたが、それに対してココノエはまた黙り込んでしまった。代わりにゆらりと一歩踏み出て、沈黙に水を差すのはラグナだ。

「……テメェよりよっぽど人間らしい奴だったよ」

 ココノエを睨み付けて、ラグナは唸るように言う。ココノエと違い、家族を守るために闘った

『彼女』は立派だというように。尻尾を揺らめかせながら俯いて、ココノエは頷くことで肯定してみせた。そして吐き捨てる。愚かな母だと。

 驚き、抗議をしたそうなラグナを喋らせず彼女は語る。

「クシナダの楔が発見されてすぐに使っていれば、三年……いや五年は黒き獣の活動を止められた。それだけの時間があれば、母様ならばアレを倒す術を開発できたはずだ。術式の完成度だって、遥かに上がっていたことだろう」

 それを、自らの甘さが招いた『一年』という短期間で成そうとしたのを、愚かだと言わずして何と言うのだと。

 実際に会って、その人物と触れ合ったラグナは、いくらココノエがその娘であろうと関係なく掴みかかりそうになった。抑えるのは、セリカ。抱き付き、全身を使って必死に彼を止める。

 振り払おうと、けれど怪我をさせないように彼は放せと叫ぶ。

「テメェも、自分の姉ちゃんをあんな風に言われて悔しくねぇのかよ!?」

 悔しくないわけがない。ナインはセリカの姉だった。親とは早くに別れたから、ずっと一緒に居たのは姉だけで、とても大事な存在だった。それを愚かだと侮辱されれば悔しさはある。

 けれど、ココノエの言っているようなことをセリカも同時に考えていた。過去で『黒き獣』にラグナが立ち向かったことで齎された一年はとても大切なものだった。

 けれど、一年が過ぎて黒き獣が再び現れたとき、人類はまだ弱く、沢山の人間が犠牲になったのだ。それが、とても悲しくて。ココノエが言ったようにセリカが犠牲になってクシナダの楔を使った方が良かったかもしれないと常に悩んでいた。だから、ココノエを責めることなどできなかったのだ。

 セリカの想いを聞いて、ラグナは肩を震わせた。

 彼女なりに大変な思いをしたのだ、などという意味じゃない。怒りだった。

「テメェは馬鹿か!」

 セリカの肩を掴み、乱暴に引き剥がす。

 痛みに、声にならない声をあげるセリカ。それをおかまいなしに、ラグナはセリカの瞳を見つめる。本当に馬鹿なのか、と声を張り上げた。

「いいか、術式は『ナイン』……テメェの姉ちゃんだから完成したんだよ! しかも俺が作った一年なんて短い期間だからこそ!」

 何故だか分かるか、問う彼に彼女は戸惑うように目を見開いた。間髪入れずに、ラグナはその答えを叩き付ける。

「俺はあんときナインと約束したんだ。一年、その間に黒き獣を倒す『力』を身につけろと!」

 それがどれほど大変なことか、ラグナには分からなかった。けれど、彼女は確かに強く頷き、実際に術式を完成させ、約束を果たした。

「何故、そんなにもナインは頑張れたか分かるか!?」

「お姉ちゃんが……」

 何かを言いかけるセリカ、しかしその答えはラグナの考えとは全く、これっぽっちも一致していなかったのがすぐに分かって、ラグナは遮った。

「テメェを失いたくねえから頑張ったんだよ! 何故近くに居てそれが分からねぇ!」

 そしてラグナは、ココノエを再度見ると、噛みつくようにこう言った。

「いいか、よく聞け。仮にセリカが犠牲になって、五年? そんだけあっても術式は完成しなかっただろうよ。ナインは諦めちまっただろうからな!!」

「お姉ちゃんはそんなに弱くない!」

 ラグナの台詞に、今度はセリカが一歩前に出て怒鳴る。自身の姉――ナインはそんな弱い存在ではない、とても強くて、憧れる存在で――。

「弱ぇよ! 誰だって、本当に『大切』なモンを失えば弱くなるんだよ! だからあんときのナインの『選択』は正しかった!!」

 けれど、ラグナも一歩歩み出て、叫ぶ。

 ナインは間違っていなかったのだと、自身のことでもないのにラグナは強く主張して、それから泣きそうな声で語りだす。

 言っていたではないか、自慢の存在なのだと。ならばもっと『誇れ』と。信じろと。

 それに、あのとき……『クシナダの楔』を見た者の中で、セリカを犠牲にすれば良かったと思った人間は誰一人居ないのだと、ラグナは語る。

 ラグナもそうなのか、問われれば強く彼は頷いた。彼女の存在を守りたかったから、黒き獣に挑んだのだ。彼女が力をくれた。優しく言うラグナに、セリカは瞳が潤む感覚をおぼえた。ぼやける視界の中で、赤いジャケットの胸に飛び込む。

「詭弁だな。お前の言っていることは『結果論』でしかない。それを最良の選択だとどうして決められるんだ?」

 しかし、その空気に水を差すように、今まで聞いていたココノエが冷ややかな声で口を開く。ラグナの語ったことは全て結果論だ。実際術式を完成こそさせたけれど、もしそれができなかったらどうだったろうか。ココノエを見るラグナの中で、自然と怒りがまた燃え上がる。

「知らねぇよ。んじゃあ、テメェが正しいってのは誰が証明するんだ? テメェが闘う『神様』とやらか。ふざけんじゃねえ」

「お前……よく私にそんな口が利けるな」

 吐き捨てるように言うラグナに、眼鏡越しのココノエの瞳が細められる。心なしか、尻尾の揺れる速さもいつもより早い。冷ややかな彼女の視線に、しかしラグナは臆することなく、寧ろ先ほどより高圧的な態度で一歩前に出た。

「気に食わねぇってか? なら殺りたきゃ殺れよ、ほら」

 いざとなったらココノエには『爆弾』があるのだ。気に食わなければいつでも殺すことができるはずだろう。――自身の力が後々必要になることを理解しながら、ラグナは脅すように言う。

 それに、ココノエが黙り込んでしまう。不審に思ったラグナが口を開きかけ――そこで、ココノエがやっと声を発した。

「……いいか、ラグナ。どちらにせよ、このセリカは私がクシナダの楔を起動させるために創った存在だ。セリカもそれを理解している」

 静かな声にこもる感情は感じ取れず、ただ淡々と告げられる言葉。信じがたいがその言葉は、彼女が自身を道具だと自覚していると言うものだ。

「本当なのか、セリカ」

 思わず、セリカに視線を落とし尋ねていた。頷く少女の表情は困ったような笑みを浮かべていた。そこでふと、ラグナは思い出す。それはセリカと会話をしたときのこと。

 『クシナダの楔』の起動を頼む、そう言ったラグナに対して彼女は『そのために来たから』と頷いたことについて。

 あのときは起動のための細工を知っているだとか、そういうことだとばかり思っていたけれど。ここでやっとその意味を理解する。彼女は、自身を犠牲にするために来たと言ったのだ。思わず、舌を打つ。そして、次にはクシナダの楔を何故、どのように使うのだという疑問が浮かんでいた。

「楔をどう使うつもりなんだよ。まさか、窯に打ち込んで魔素の機能を停止させるつもりじゃねぇだろうな」

「……そうだと言えば、どうする?」

 ラグナが確かめるように、半ばそうでないのを望みながら問う。しかしラグナの願いは虚しく、ココノエの言葉に砕かれる。けれど、薄々察してはいたから、そこまで驚くことはない。

「楔を窯に打ち込めば、今のセリカであっても三年は稼働し続けるだろう。魔素の機能が三年も停止できれば十分『ユウキ=テルミ』だって倒せる。私なら、世界とテルミの首、どっちを取ると思う?」

 最後には不適な笑みを浮かべて述べるココノエを、ラグナは睨みつける。確かにテルミを倒せるというのはラグナにとってそそられる内容だし、ラグナが魔道書を手に入れてまで成し遂げたいと思っていた事でもある。

 けれど、魔素がなくなれば世界中の人間の生活が危ぶまれる。だというのに、世界とテルミの首を天秤にかける目の前の半獣人には怒りが湧いた。

「……ふっ、冗談だ。流石に私であってもこの世界を滅ぼすつもりはないさ。これでもこの世界は気に入っているのでな」

 ラグナの様子を感じ取ったのか、ふん、といつものように鼻を鳴らしてココノエが両手を軽く掲げながら彼女は冗談だと言う。本当に冗談だったのだろうけれど、しかし彼女が言うと冗談に聞こえない。心臓に悪い、そう思いながらラグナは溜息を吐いた。

 それから、すっとココノエは真剣な表情を浮かべると。

「冗談はさておきだ、ラグナ。楔の使用目的を、今のお前に語る理由はない。それ以上は聞くな」

 ラグナが次に問いそうなことを先に察したのか、ココノエは冷たくそう言ってそれ以上の会話を拒む。こうしている間にも、あちらは何かをしでかしているかもしれないから、これ以上時間を割いている暇もないのだ。

「起動した楔を帝に打ち付けるつもりだったんだよ。目的はお前と同じだ」

「おいカグラ!」

 しかし、またもカグラが代わりにその計画の内容を容易く漏らしてしまう。

 咎めるように、ココノエがカグラの名を叫ぶ――がもう遅い。口が滑った、だなんて言うカグラを、じっとりと睨み付けるココノエだったが、確かにラグナの力も必要になるのだから、話しておくべきだと自身に言い聞かせ、溜息を吐いた。

 下がった眼鏡を軽く直し、眉間を揉む。

「はぁ……アズラエルのときと同じだ。全世界の眼を場に収束させ、事象干渉を無力化。その後、拘束陣にて帝を捕縛。違うのは、クシナダの楔で討つことだ」

 拘束陣の触媒にも、そのまま『クシナダの楔』を使う予定だとココノエは語る。

 あれは触れた魔素を無力化でき、帝も魔素を力の触媒としているのだから計算上、帝に拘束陣は解けないはずだ。

 しかし、ラグナは疑問に思う。そんなに用意をしたとして、どうやって帝をおびき出すのだろうか。アズラエルのときのように、簡単に彼女が来るとは到底思えなかった。問えば彼女は表情を動かさず、それについては……と前置き話し始めた。

「奴らの計画を利用する。この『連合階層都市・イカルガ』には奴らによる結界が張られている。目的はアマテラスの破壊だろう」

 方法はまだ不明だが、奴らの目的が『滅日』ならばそれで間違いない。

 ココノエの台詞に、続けてカグラがそう言う。『滅日』というものについてカグラはあまり理解していなかったが、要するに世界を一度無に還すらしい。

 そして、神殺しの剣・クサナギであるノエルを欠いた状態であれば、否、欠いているかに関わらず――ユリシアを使う予定だろう。

「しかし、だ。あれほど消したいと思っているアマテラスが破壊される瞬間を、遠くで見ているだけだと思うか? 答えは否だ。奴はおそらく、ユリシアの近くに居るはずだ」

 ユリシアを使わないとしたら、帝が直接手を下すか。奴らがそれ以外の方法を取るとはまず考えられなく、だからその時を狙う予定だった――とカグラが続ける。

「マスターユニット(アマテラス)まで餌かよ……とんでもねぇ事考えるな」

 『神』と戦うとはいえ、世界を作り出した神すらも餌にするなんて。

 ココノエらを呆れた様子で見て溜息を吐いた後に、ラグナは口を開く。

「……計画は分かった。だがセリカは使わせねぇ。クシナダの楔の起動は別の方法を考えろ」

「無理だ。そんなものがあればとっくにそうしている」

「それでもだ。もし何が何でもセリカを使うって言うなら、俺がクシナダの楔を破壊する」

 計画は分かったが、それでもセリカを使わせることは認められなかった。理解できないというようにココノエが首を振る。それに脅しをかけるラグナと、眉間に皺を寄せる彼女。手に負えないと思いながらも、ココノエは諭すようにラグナに語りかける。

「……何故『このセリカ=A=マーキュリー』に感情移入する? このセリカは私が作った模造品、謂わば『偽物』だ。お前が過去に行って会った奴の魂を映した『別人』だぞ」

 本物のセリカではなく、本物は既に死んでいるのだと。

 それで諦めるようにと、何度も念を押す。しかし――それに異を唱える声があった。

 意外にもそれはノエルだった。下ろしたロングの金髪を翻し、一歩前に出て彼女は、問う。

「模造品の何がいけないんですか……?」

 ノエル。ラグナが、その意外さに名を口から漏らす。そんなラグナを一瞥して、ノエルはココノエを真っ直ぐ見つめ言葉を続けた。

「私には、このセリカちゃんが本物か偽物かなんて分かりません。だけど」

 だけれど、セリカが自身をセリカ=A=マーキュリーだと認めているなら、そこに本物も偽物もないのではないだろうか。

 ノエルの語りを聞いて、ラグナは目を丸くする。

 彼女は、ラグナに助けられた後も自身が人間でないことを負い目に感じていて、模造品や偽物という単語に敏感だったはずなのに。いつの間に、こんなに強かになっていたのだろう。感心するラグナだったが、正気付いたようにココノエを見ながらノエルに賛同する。

 ――ココノエは、そんな二人に溜息を吐くと。

「……そこまで言うなら好きにするが良い。だがついでに良いことを教えてやる。本人も知っていることだが……今の状態のセリカだと、もって半年だぞ」

「もつって……どういう意味だよ」

 言葉の不穏さに、ラグナは思わず尋ねていた。ココノエはそれに鼻を鳴らして、声音を一切変えることなく言葉の通りだと前置いて、口を開いた。

 セリカは魔素に対抗する為に生まれた『秩序の力』であると。そして、このままその力を使い続ければ、用意したこの仮の器では長くはもたないと。削られた魂を引き止めておけるわけもなく、時が来れば――彼女は、消える。

 『刻の幻影(クロノファンタズマ)』は本来あるべき姿へ、居ないはずの者へと、帰るのだと。こればかりはどうにもできないと彼女は解説した。

「……ならば、どうするか? 世界のためにも、その魂を有効に使うことがお前の言う『正しい選択』だとは思わないか?」

「テメェ、マジでそれ言ってんのか」

 それを聞いた瞬間、ラグナはココノエの胸ぐらを掴んでいた。カグラの執務机に押し付け、持ち上げる。それに眉をピクリと動かすこともなく、鋭い瞳で見つめながら――ココノエは抗議もせずに黙っていた。

「ラグナ、ココノエさんから手を離して」

 静かに、なだめるようにセリカがラグナに声をかける。けれど、ラグナは我慢できなかった。目の前の半獣人がとんでもない悪魔にしか見えず、どうしても怒りが抑えきれなかった。

「私ね、ココノエさんにはすっごく感謝してるの。短い間になっちゃうけど、おかげで私はラグナに会えたんだから」

 胸で両手を重ねて、セリカは寂しげに笑い、ラグナの背中に尚も語りかける。

 ――ココノエから話を聞いたときは、確かに少しショックだった。けれど、ラグナに会えて、今度はラグナ達の役に立てるなら、そんなに嬉しいことはない。

 ラグナには、その言葉が信じられなかった。けれど、彼女が嘘を言う性格だとは思えなくて、何より、その声の真剣さと優しさがすっと胸に入ってきて、手が震えた。

「これがね、私の心からの気持ち。だから……ココノエさんを悪く言わないで、お願い」

 歩み寄り、そっとラグナの腕に触れるセリカ。

 ラグナはとても悔しかった。何もできない自分が、護りたいものすら護れない自分が。何よりセリカを犠牲にするしかないこの現状が。

 クソが、と吐き捨てて、ラグナはココノエを乱暴に放す。

 パンパン、と服を叩きながら、ココノエはラグナ達を見ないまま告げた。

「私の言う通りにしろ。それが最良の選択だと、セリカも理解しているだろう」

「……うん」

 頷くセリカ、そして訪れる沈黙。

「やっぱ駄目だ、セリカは犠牲にできない」

 沈黙を破るのはラグナの声だ。理解してココノエから手を放したと思えば、また何故そんな台詞を言うのか。すぅっと睨み付けるように目を細め、ピンク色のポニーテールを翻しカグラを見た。カグラからも何か言ってやれ、そう言うココノエ。

「いや、俺もラグナとは同意見だ。セリカを犠牲にするのは認めねぇ」

 しかしココノエの言葉に、カグラもまた頭(かぶり)を振った。手の平を返すカグラに、思わず目を見開くココノエ。何を言っている、と前置いて溜息を吐き――また説明しなければならないのかと零す彼女。それにラグナが俯いて、、口をそっと開いた。

「俺は……護るって決めたんだよ。セリカを護るってな。だから、俺はセリカを護るため『闘う』。いいな、セリカ!」

 顔を上げ、真剣な声でラグナが言った瞬間だった。頷くセリカ。途端、空気が揺れた。

「――かっこいいことを言うようになったわね、ラグナ」

 どこからともなく――否、部屋の内側から声が聞こえる。それはどうやらラグナの背後から発生したらしく、皆の視線が一斉にそこへ集まる。

 居たのは、金髪を左右の高い位置でくくった紅い瞳の少女だった。その傍らには、いつもは城で主の帰りを待つ老執事――ヴァルケンハインの姿もある。

 振り返った先に居た人物に驚き、一歩飛び退くラグナ。それを静かにヴァルケンハインは睨みつける。白髪に同じ白の髭を蓄えた老執事の存在に、カグラとヒビキが首を傾げた。彼らはレイチェルの存在こそ知っていれど、長躯の彼については知らなかったためだ。

「……この人、誰?」

 カグラの問いに、ヴァルケンハインが彼の方向を向く。名乗り、恭しく礼をする様は正しく紳士だった。けれど、語られる内容――ヴァルケンハインという名は、カグラの眼をまた丸く開かせた。ヴァルケンハインは、昔活躍した六英雄の一人だ。

 またとんでもない人が出てきたと、カグラは漏らす。そこから一歩離れたところで、ラグナが零す言葉といえば、何故爺さんまで来ているのか、などというものだ。

 それにはヴァルケンハインも眉を顰め、振り向くと。

「誰のせいでこうなっていると思う」

 そう、静かに責めるように言うのだ。

 というのも、レイチェルが傍観者でなくなったことにより、ヴァルケンハインが代わりにレイチェルを運ぶことになったためである。彼女が行ったことのある場所にしか転移ができないという条件付きで、ヴァルケンハインも転移魔法が使える。彼はまだ、理の外の人間であるが故に。

 運ぶのは構わない。しかし、たかが一人の男のために忠誠を誓う主が力を奪われた――というのは、なかなかに複雑なものだった。

「……何をしに来た、レイチェル。また私の邪魔をするというのなら容赦せんぞ」

 しかしそんなヴァルケンハインの心情を他所に、ココノエがレイチェルに鋭い声で問う。それにレイチェルは顔色一つ変えることなく、涼しげな顔で目を伏せた。

「この私が『助言』をしに来てあげたのよ。感謝しなさい」

「お前が助言……だと? 一体どういう風の吹き回しだ」

 さも当然というかのようにさらりと言ってのける少女に、尚更ココノエは眉根の皺を深くした。怪訝そうに問う彼女に頷きレイチェルは頬に触れる横髪を軽く手で払った後、一歩、歩み出る。

「……私も『舞台』に上がったのよ。それに『傍観(み)』ているだけにはもう飽きたわ」

 ココノエが目を大きく見開く。

 本気で言っているのか。そう漏らされるのは、彼女が傍観者から物語の登場人物へ変わったことを語られたからだ。信じられないというような彼女の視線を受けて、ふっとレイチェルは小さく笑い、いつだって自分は本気であると告げる。

 そんな二人の会話を経て、口を開くのはカグラだった。いつ何が起こるか分からない状況だというのにその口角は余裕そうに持ち上げられていた。

「あのレイチェル嬢の助言なら助かるな。……何か妙案でもあるのか?」

 千年を生きる吸血鬼の彼女からの助言であれば、きっととても助かるものに違いない。思うカグラの問いに、しかしレイチェルは首を横に振った。思わず肩を落としそうになるカグラであったが、しかしレイチェルの顔をしっかりと見て、言葉を待った。

 彼女曰く、ココノエ達が気付いていないことを教えに来たらしい。

 気付いていないこと……言われた途端、ココノエが片眉を持ち上げた。

「えぇ、そうよ。……ラグナ。クシナダの楔についての話を覚えているかしら」

「……前にウサギから聞いた話か?」

 ふとラグナに視線をやって、レイチェルが尋ねる。

 前にレイチェルから聞いた内容。それは、かつてラグナ達が育った場所――『あの日』燃えてなくなった教会の傍に造られた墓に参りに行ったときの内容だった。

 頷くレイチェルを見て、ラグナは思い出すように視線を上に持ち上げる。

「あー……確か、テンジョウが『切り札』として温存してたとかなんとか……」

「そう、それよ」

 テンジョウ。このイカルガにあるワダツミを統治していた元領主であり、統制機構の前帝。しかし――イカルガ内戦の首謀者とされた人物だった。

 おかしな話ではないか。その人物は起動キーであるセリカのことを知らないはずだというのに――何故、切り札として温存していたのか。彼女は静かに問いかけた。

「……まさか」

 思い当たる節があったのか、ココノエが漏らす。そう。レイチェルが言わんとしているのは、

「楔の起動方法が、別に存在する……?」

 そこまで言って、ココノエが首を横に振った。否、そんなはずはないと。アレだけ調べたのだからと、否定するように。けれどそれをレイチェルは勉強不足……否『理解不足』だと言った。

「クシナダの楔は、ナインの大事な妹を犠牲にしなければ意味を成さない。そんなものをあの『大魔導士ナイン』がそのままにしておくと思うの?」

 その言葉を聞いて、ココノエが冷や汗を浮かべる。母がそんな無駄なことをしていただなんて、思いもしなかったからだ。実際にはそれは無駄ではなくなったけれど。

「セリカ、クシナダの楔の起動方法とその原理を教えろ」

 いち早く口を開いたのは、カグラだった。まさか自分に声がかかるとは思っていなかったセリカが間抜けた声をあげて、それからカグラの言葉を反芻した後に、眉尻を下げる。上手く説明できないかもしれない、言う彼女にそれでもいいと催促するカグラはどこか焦り気味だった。

「えっと、楔の『コア』に魂を融合させる……って言えばいいのかな。そうすると確か、自己観測っていうのが始まって……」

 なんだったかな。付け足し、思い出そうとする彼女にそこまでで止めて、カグラは礼を言う。それだけ分かれば充分だった。しかしそれを聞いて思い出すのはそのコアについてだ。

 アレは、ただの起動用コアではなかったのか。――魂とコアの融合?

 聞いた言葉を反芻した途端思い出すのは、自身の兄弟子、コアであるアークエネミー『鳳翼・烈天上』の持ち主のことだった。最近、カグラが裏で会っていた人物。

 彼は自身が背負う五十五寸釘『烈天上』を『殿(テンジョウ)の魂』だと言う。それは、生前のテンジョウが自身の魂だと言って託したからだ。そこで今度はカグラが「まさか」と漏らす。

「まさか『中』に居るのか……!?」

 いきなり叫ぶカグラに、ラグナがうるさいと言うけれどそんなのはどうだって良かった。

 レイチェルがやっと気付いたかと言いたげな顔で頷き口を開く。美しい声は歌うように語った。

 アークエネミーの動力源は魔素であること、鳳翼・烈天上が他のアークエネミーを破壊する目的で作られた『アンチ・アークエネミー』であること。だからそのために魔素の活動を止める『クシナダの楔』のコアを素材にしたこと――。

「そして、アークエネミーの触媒は例外なく『魂』よ」

 考えてみれば疑問だった。

 何故テンジョウは自身の魂だと言って、自身の部下であった男に託したのか。そして何故、まだ未熟であった頃のジン=キサラギにあっさりと負けたのか。いくら彼が強い力を持っていたとしても、テンジョウの力量を考えればあり得ない事態だ。

 それが戦争を終わらせるためにわざと負けたのだったとして。

 テンジョウの肉体は戦後テルミに回収されたが、彼曰く『空っぽ』であったらしいとレイチェルは語る。ならば、ただ単純に負けただけでないことは明白だ。

「前『帝』である『天ノ矛坂天上(あまのほこさかてんじょう)』の誇り高き魂よ。アークエネミーの触媒としては充分じゃなくて?」

 微笑を浮かべ、首を傾けるレイチェル。その言葉にカグラは確信を持った。テンジョウの魂は烈天上の中で眠っていると。

「あれ? それなら、私が居なくても起動できちゃう……?」

 小首を傾げる少女。その人物の魂で楔が起動できるのなら、自身は必要ないのではないか。不思議そうな表情を浮かべる彼女に、ココノエの鋭い声がかけられた。

「何を言っている。テンジョウの魂で楔が起動できるという保証がない。レイチェルの話も推測の域を出ない以上、もしものときはお前が楔を使わなければならない」

 言い終わったところで飴が丁度なくなったらしい。新しいキャンディを出そうとしたココノエに、怒鳴り声が叩き付けられる。尚もセリカを犠牲にしようとする発言をした彼女に怒りを抱いたラグナのものだった。

 けれど、ココノエなりに譲歩した結果だと彼女は語る。いい加減にしろ、言われても彼女は引くことがない。それどころか、いい加減にするのはラグナの方だとまで言う。

「私も、そしてカグラも。ここに来るまでにそれなりの代償は払っているんだ。それを理解できんとは言わせんぞ」

 冷水のように冷ややかな声がラグナを撫で上げる。理解はできた、けれど、それでも。抗議しようとするラグナをなだめるようにセリカが優しく囁いた。

「大丈夫だよ、ラグナ。きっと上手くいく。そのために、これから皆で頑張るんだから。それにラグナが『護って』くれるんでしょう?」

 へらっと笑う彼女に、ラグナは一瞬黙り込む。――そして、決意したように大きく頷いた。

「あぁ。俺が全力で『護って』やる」

 ニッと笑いかけるラグナ。事態はこれで収まったかと思いきや、その空気を割るかのように元気な声が執務室の中に響いた。

「おし、そうと決まればラグナ、セリカ、ノエル! お前達、今から楔を起動させて来い」

 そう言うとカグラはぱちんと片目を瞑り、歯を見せて笑った。

 呼ばれた三人が目を大きく見開いて、その内のノエルが慌てたように言葉を発した。

「え、えぇっ!? ももも、もう起動させちゃうんですか?」

 話が決まったばかりで心の準備もできていないのに。不安げな表情のノエルと似たようなことを考えていたらしい、ココノエがカグラを睨み付け声を張り上げた。

「おい、お前何を考えている!?」

「何って、だから『革命』だよ。前々から言ってただろ。それを今から始めるんだ」

 ココノエの剣幕にしかし一歩も引くことなく、寧ろ笑みを深くしてカグラは簡単に言ってのけた。けれど、それが余計にココノエの興奮を誘い、彼女が一歩強く歩み出る。足音がやけに大きく響いた。カグラの言葉が、ココノエにはふざけているようにしか聞こえなかった。

 今からだと。そんな、いきなり何もかもを始めるなんてできるわけがない。ココノエの台詞に、カグラは首を軽く横に振る。

 いきなりなんかではなく、自身らは充分なくらい準備を進めてきた。ならば寧ろこれ以上、何を待てというのか。全ての材料は揃っているし、機を逃せば次はないのだとカグラは語る。

 ココノエが、眉尻を下げて俯く。確かに、カグラの言っていることも一理あった。けれど、まだ上手くいく保証なんてないし、計算を重ねなければ――。

 顔を伏せたココノエを見て、カグラは静かに口を開く。

 ――ココノエらしくない。もしかして、ビビッているのか。

 分かりやすい挑発だった。その言葉に乗るのは癪だったが、しかしココノエはむっとして顔を上げる。

「デカい口を叩くな、カグラ。分かった、いいだろう。貴様のその『機』とやらに乗ってやる」

 どこか不服そうにではあったが、ココノエもそう言ってしまえば後には引けない。

 マジかよ、とラグナが漏らす。本当にやってしまっていいのだろうか、もっと考えなくていいのか。考えれば考えるほどに不安が募る。けれど自信たっぷりにカグラが頷いたのを見て、ラグナも覚悟を決めた。

「あぁ。こっちのことは、お前達が向かってる間に準備しておくから安心しろ。んでヒビキ、案内してやれ」

 カグラがそう言ってヒビキに命じる。了解の意を示して、命じられたヒビキがすぐさま歩きだす。案内をするために。それに着いて行こうとして立ち止まり、カグラを振り返ったのはノエルであった。

「あ、あの、私は行って何をすれば……」

「お前は扉を開ける役目がある。『蒼の継承者』がいないと『扉』が開かねぇ」

 行って何をすればいいのか。もしかしたら、必要ないのでは。

 問う少女にカグラは真剣な目で、だけれど安心させるように少しの笑みを交えてそう言った。気を付けろよ、と最後に付け足して手を振り、今度こそノエルらが行こうとしたところで――。

「ちょっと待て、ラグナ。コイツをクシナダの楔に取り付けて来い」

 呼び止めるのはココノエ。彼女らに背を向けていたラグナは振り向き、ココノエがポケットから取り出したものを見て首を傾げる。手に取り確認してみると、それは何やら小さな機械のようだが、何をする機械なのかは見た目だけでは判断ができない。

「何だこりゃ」

「転移装置だよ。コイツは『術式』で起動する」

 ラグナが眉をひそめるのに対して、簡潔にココノエが説明する。それを一瞬そうなのか、と流しかけて、ラグナが何かに気付いたように「んん?」と声を漏らす。

「お前が術式を使ったのか?」

 ココノエは第七機関――科学を信奉する集団に属していて、彼女自身も術式を使わずに科学ばかりを扱っていた。そんな彼女が珍しく術式を使ったというのに、少しだけ驚いた。

「いちいち変なところで驚くな、お前は。そうだ、術式を使った。この転移装置はテイガーと繋がっている。起動させることで即座に、対象物であるクシナダの楔をテイガーの居る場所まで転移させることができる」

 目を伏せそう語った後、ココノエはそれからラグナを両の瞳で見つめた。黄金色の瞳だ。ラグナが見下ろし、左右で色の違う瞳をココノエの目に向ける。

「帝達を引きずり出したら、テイガーをそこに向かわせクシナダの楔を転移。帝に楔を打ち込むという手筈になっている」

 その説明を受けて、今度こそラグナは頷く。確かに預かった。言うラグナに首肯して、ココノエは続ける。転移装置のエネルギーには、ラグナの右腕である『蒼の魔道書』の魔素を使うと。

 蒼の魔道書は存在自体が『窯』だ。黒き獣として暴走し倒された後の物だったとしても、その機能を失ってはいない。ならば、装置にエネルギーを供給し続けられるとココノエは解説するのだが。ラグナはまたも首を傾げる。

「待てよ。セリカが居たら『蒼の魔道書(こいつ)』起動できねぇじゃん」

 セリカは魔素を浄化する力を持っていて、特に『このセリカ』は蒼の魔道書の魔素へよく反応するはずだ。そのせいで今も右腕と右目が使い物にならないわけで。使うにはセリカと離れなければいけないが、セリカと一定以上離れれば爆発して――。

「お前、動かせただろう」

 混乱するラグナに、ココノエが呆れを含んだ視線を向ける。忘れたのか、とでも言いたげな表情に、そういえばアズラエル戦のときに使えたことを思い出す。何故あのときは使えたのだろう。

 そんなラグナの疑問に答えるようにして、ココノエが白衣のポケットから更に何かを取り出した。それは前に一度見た機械に酷似していて、思わず声をあげた。小さな四角形のスイッチ。

「んな、それは……っ」

「イデア機関、起動しろ」

 ココノエが静かに命じれば、呼応するようにラグナのイデア機関が解放される。今は亡きラムダから託され吸収したものを、ココノエがラグナの左腕を作るついでに調整したものだ。

 そして、起動した途端――血の通わない右腕に神経が繋がったような感覚をおぼえる。

 持ち上げようとすればきちんとラグナの意思に従い動いた。右目だって先ほどまで感覚すらなかったのに閉じている感触があって、意識すれば開くことができた。

「あ……右目が見える。右腕も……」

 確認するように腕を動かしながら見下ろしたかと思えば、瞳を動かしきょろきょろと辺りを見る。それに驚いてみせるのはセリカだった。

「セリカにもこれと同じ物を持たせているのは知っているな。これでセリカの波長を調べていたのだが……お前、セリカがアズラエルの攻撃を受けたとき、イデア機関を起動させただろ」

 調整中のそんな無茶な起動にデータが半分ほど無駄になったと責めるように言って、ココノエは深く溜息を吐く。ラグナを一瞥するとピンク色をした二本の尾をゆらりと揺らめかせて、ココノエはふんと鼻を鳴らした。

 その表情は、セリカの姉であるナインが小難しい説明をするときと似ていて、セリカがきょとりと目を丸くする。やはり親娘なのだな、と何気なく思いながらココノエを見つめていると、彼女は語りだす。

「これについてだが。イデア機関がセリカの力を『相殺』するノイズキャンセラーになっている。お前の腕に仕込んだモノで試させてもらっていた」

 それを語って、ココノエは人差し指を立てる。そして得意げに口角を持ち上げた。

「つまり、だ。お前のイデア機関が稼働し続けていれば、セリカの力の影響は受けない」

「じゃあ牢屋で入れたスイッチは何だ!?」

 ココノエの言葉に、尚も疑問は尽きずラグナは問うた。

 それならば……腕に仕込んだモノで試したというなら、爆弾のスイッチだと言って起動したのは何だったのか。ラグナの問いに、なんだ、それか。なんてココノエは軽く相槌を打つ。とても簡単に流してくれたが、ラグナにとってはとても重要なことだった。

 けれどラグナの心を知っていてか、はたまた知らないのか彼女はこれまた簡単に言ってのけた。

「あれは『同期』調整用のスイッチを押しただけだ。常にセリカの影響下に居てもらわないと、離れられては『波長』が調べられん」

 そう言った後、こちらを真剣に――しかし眉尻を少し下げたセリカとラグナの二人を見て、不思議そうにココノエは目を丸くする。そして、何かを察したらしい。あぁ、と納得したように頷いて、首をこてりと傾けると、

「……まさか、爆弾とか本当に信じたのか、お前ら」

 さも彼らが気付いていると思っていたかのようなココノエの台詞に、やっと『MD爆弾』が嘘であると知ったラグナ達。力が抜けると同時に、目の前に佇むこの小さな半獣人がとても憎らしく思えて、深く溜息を吐いた。

「タチが悪い……」

「そういえば、言い忘れていたが」

 零すラグナに、ふとココノエが声をかける。まだあるのかよと返すラグナだったが、一応聞く気はあるらしい。扉の方に向けようとしていた体を、ココノエにまた向け直した。

「イデア機関の単独起動は『術式強化(オーバードライブ)』と同じだ。少々体に負担がかかるが、お前なら大丈夫だろう」

 術式強化――オーバードライブとは、大きな能力を使う際に、体への負担を軽減するための術式だ。勿論その分だけ後に反動があり、また制御に失敗した場合は下手をすると魂が境界に引き込まれる――というリスクが高いものだ。

 一瞬驚くラグナではあったが、ココノエはラグナなら平気だろうと信頼してそれを調整したのをラグナもすぐに感じて、頷く。

「これで問題はなかろう。さっさとクシナダの楔を起動させて来い」

 そうして、追い払うように手を振りながら言うココノエにセリカは笑いかけた。ありがとう、礼を言う彼女へココノエが返す言葉は厳しかったけれど、それでもセリカはココノエの優しさを知っていたから、嬉しそうに笑っていた。

「あぁ、ラグナ。あっちに着いたらうるさい奴に会うと思うが、頑張ってくれ」

「誰か居るのか?」

 背を向けたラグナに、カグラが声をかける。また何かあるのか、そう思いながら首だけ振り返るラグナに頷いて、カグラは告げる。楔を手に入れるための試練だと思え、と。

 よくは分からなかったが、ラグナはそれに頷いて、そして今度こそラグナ達三人は、カグラ達と別れを告げて、ヒビキに案内されるまま部屋を後にした。

 三人の背を見届けると、ココノエもやがて地下に戻った。そこで彼女は、部屋の隅に優しく語りかけた――。

 

 

 

 ワダツミ城地下にて、ラグナ達は沈黙していた。

 本来なら、ここに扉があるはずなのだが――扉らしきものが見当たらないためだ。壁をぺたぺたと触ったり、何度か軽くノックしてみても裏に何かありそうな雰囲気すらない。部屋を見回す。もしや間違えたのかとも思ったが、地下まで一本道だったため迷うわけもない。

 二人分の靴音が室内に響き渡る。

 この期に及んで騙されたのか、そう思ったラグナ達であったが――。

「嘘、凄い……これが『扉』なの……?」

 ノエルの言葉に、二人が一斉に振り向く。そうしてノエルが見つめる先を彼らも見たけれど。そこには、やはり何もなかった。でも、彼女の様子からしてあるのだろう。

「扉って……ノエル……見えるのか?」

 ラグナが恐る恐る、確認するようにノエルに問う。すると、彼女は不思議そうに声を漏らして、逆に見えないのかと返すのだ。

 見えないと、どこにあるのだと、ラグナが問えば、ノエル曰くすぐ目の前にあると。ラグナ達には壁しか見えないが、彼女がどうやって開ければいいのか……と呟いたところで、セリカが「もしかして」と漏らした。

「ノエルちゃんだけに見えてるってことは……ねぇ、ノエルちゃん。扉がそこにあるって『認識』してみて。そうしたら、開けられるようになるかも」

 そんなセリカの提案に、最初首を傾げるノエルだったが、すぐに意味を理解したらしい。

 やってみる、そう言って彼女は、彼女にだけ見える『扉』へ意識を集中させる。

 重厚な、門のような扉。大きく重いそれには何やら紋章が刻まれていて、それを強く、強く『蒼の継承者』として認識する。自分の中の『蒼』に導かれるままに。――その瞬間だった。

 まばゆい光が、辺りに満ちる。思わずラグナ達は叫び、目を覆った。

 そして光が収まって、ゆっくりと腕を下ろし目を開けたとき――。

「これが……そうなんですか?」

 そこは、先ほどまでの何もない空間と打って変わって、涼しい空気に満ちた場所だった。部屋は先ほどの数倍広く、そして――その奥まったところに『それ』はあった。

 それは、何本もの鎖が巻かれ、容易に動かされぬように、拘束されていた。三角錐が逆さになった姿で、暗がりにぼんやりと浮かびあがる肌は銀色。ラグナ達の何倍も高さがある巨大なそれには、古いものなのか読めない文字と不思議な紋様が深く刻み込まれている。

「……間違いねぇな、これだ」

 ラグナはそれに見覚えがあった。イブキドの窯から過去に飛び、そこでセリカ達と共に見たのと同じ姿。正しくそれは『クシナダの楔』だった。

 成程、と納得する。『認識』の外に隠していたならば見えないはずだ。そして『眼』の力があるノエルであれば、それを見ることも可能だと。

 そうして、ノエルがそれに歩み寄る。何でできているのか、さっぱり『観え』ない、呟きながら手を伸ばした瞬間。

 空間に、怒号が木霊する。

「それに触れるでなぁぁあい!!」

「きゃっ」

 ノエルの前を何者かの影が過る。まるで、楔とノエルを隔てるようにして、トン、と軽い足音と共に『彼』は舞い降りた。

 目の前に立つ男に、ラグナは見覚えがあった。

「……うるせぇ奴っておっさんのことかよ」

 気怠く漏らす声を聞いて、セリカが首を傾げる。セリカには見覚えのない人物だったから、ラグナが知っている風なのが気になって。

「この人、お知り合い?」

「あぁ、ちょっとな」

 頷くラグナ。まともに紹介されないのを男はよく思わなかったが、それよりも彼が来た理由の方が大事だったため、彼は俯き語りだす。拳をぎゅっと握りしめて。

「カグラが『何者』かが来ると言ってから待つこと少し、そして来たのが女連れの『重犯罪者』ラグナ=ザ=ブラッドエッジ……。一体何をしに来たでござるか!」

 何をしに来た。薄々分かっていながら、男は不思議な口調で問いかける。問われれば、ラグナは分かっているのだろうと返して――。

「……そうか。やはりお主が拙者の前に『立つ』者でござるか」

 今までうるさかったのが嘘のように、小さくぽつりと男は零す。そして、ハッと気付いたように二人を見て、

「あっと、紹介が遅れたでござるな。拙者の名は、愛と勇気の咎追い『シシガミ=バング』でござる。殿の意思を継ぎ、この場にて……」

 ――お主達が来るのを待っていた。

 男、バングが低く言った瞬間。ただならぬ空気が辺りを支配する。思わず、悲鳴を上げる女性陣に、ラグナが下がっていろと声をかけた。

 それは、とてつもない殺気だった。

「おっさん……人に向けるレベルの殺気じゃねえぞ、それ。まさか殺し合いでも始めるつもりか」

 いくつもの死線を通ってきたラグナですら、冷や汗を浮かべるほどの気配。

 顔を引き攣らせ問う彼をバングは睨み付け、静かに語った。

「この程度で怯む者に、託す訳にはいかんでござるからな」

 その言葉に、ラグナは眉根を寄せる。それを見て、バングは続けた。

 ――そこにある『クシナダの楔』はテンジョウが命を懸けて護ったもの。そして、バングの背にある五十五寸釘『鳳翼・烈天上』はテンジョウが身命を賭してバングに託したもの。ここにある二つのものは、戦で散った多くの命の上に成り立っているのだ。ならば到底『殺し合い』程度で託せるものではないと。

 それを静かに聞いて、ラグナはそれから確かめるように尋ねた。

「一つ、聞いていいか」

「何でござる」

 用件を問う彼の黄金の両目をしっかりと見据えて、ラグナは問うた。

 何のために、闘っているのだと。

 それを聞いて、バングは迷うことなく即座に答えた。その答えは、彼の中で常に強く存在していたからだ。そして、そのために今まで行動してきたからだ。

「取り戻すためでござる。 たとえ戦で負けようとも、決して失ってはならぬ『誇り』と『勇気』を。そして民の『笑顔』を……!! その全てを取り戻すために拙者は闘っているでござる!」

 叫ぶようにして伝えられたその答えは、すんなりとラグナの心に入ってきた。真摯に答えた彼に、ならば自身も応えねば。頷き、ラグナは礼を言った。

「これで俺も……全力が出せる」

 覚悟を決め、そう言うラグナの気迫はバングのものに負けず劣らず。良い気迫だ、とバングは評して闘うため、構えをとった。

 そして、二人は各々叫び、同時に地を蹴った。

 

 

 

 セリカとノエルが、ラグナを応援する。その声に背中を押されて、ラグナは傷付きながらも立ちあがり、何度だって向かって行った。絶対に負けられなかった。

 地に膝をついたバングを挑発するように、立てと声をかけるラグナ。まだ終わりじゃない。

 そんなラグナに、ゆっくりと身を起こしたバングが声をかけた。

「拙者からも、尋ねていいでござるか」

 息を荒くしながら、ラグナは何だと返す。何となく、問われる内容は分かっていたけれど。

「……『死神』とまで呼ばれたお主が、何のために闘っているのでござるか?」

 それは、ラグナが最近までずっと悩んでいた内容だった。何のためにその力を使うのか。何のために闘うのか。

 けれど、ラグナはもう迷わなかった。

「もう失わないため……そして、護るためだ」

 静かに告げられた言葉に、バングは「何を今更」と吐き捨てた。

 だって、ラグナは今まで階層都市を壊滅させ、沢山の命を奪ってきたからだ。欺瞞ととらえられても仕方ないことは、ラグナが一番よく分かっていた。確かに自身はやり過ぎたと分かっていた。でも、今更だと言われても、それでもラグナはもう決めていた。覚悟はできている。

「それでも構わねぇ……それでも、俺はそのために闘う。もう決めたことだ」

 それだけを語って、バングの息が落ち着いていることにそこでラグナは気付く。だから、俺はまだ戦えるからと、煽るように言った。それに頷くき、もう一つだけとバングは尋ねる。

「最後に。……何故『蒼の魔道書(それ)』を使わない?」

 疑問だった。全力を出すと言った割に、その力を使わないのは何故か。

 それも、ラグナには簡単な答えであった。

「……『俺』がアンタに勝たなきゃ意味がねぇからだ。だから、この『力』は使わねぇ。たとえ、死んだとしてもだ」

「相分かった……!!」

 ラグナの答えを聞いて、バングが唐突にそう叫ぶ。

 思わず間抜けた声をあげるラグナに、バングはニッと快活に笑った。どこかカグラのそれを思わせる笑みだった。

「成程。カグラがお主を寄越した理由が分かったでござる。お主なら『力』の意味もその使い方も違わぬでござろう。……ならば拙者も、お主に託してみるでござる」

 良いのか。ラグナは思わず尋ねていた。確認するようなそれに、しかしバングは迷うことなく頷く。ラグナのために、鳳翼・烈天上を使う。そうバングは宣言した。

「……そうか。礼を言うよ、シシガミ=バング」

「こちらこそ、善き戦いであった」

 互いに頷き、笑い合う。そして、思い出したようにラグナは口を開く。

「――でだ。俺じゃそれ、どう使っていいのか分からねぇんだ。知ってる奴がいるからよ。見せてもいいか?」

 ラグナの問いに、バングは一瞬戸惑ったように目を丸くするが、すぐに構わないと頷く。

 それを受けて、ラグナは後ろを見た。そこには先ほど下がらせた女性陣が居て、その内の茶髪――セリカにラグナは声をかけた。

「セリカ、ちょっと見てくれ」

 ラグナに呼ばれると、やっと自分の出番が来た彼女は元気よく笑いながら返事をして、小走りに駆け寄った。背負った烈天上を見せるバングに、ラグナがクシナダの楔も見せてもらうと断って、それのもとへ歩み寄るラグナ。転移装置をつけるためだ。勿論それはノエルも手伝うらしく追いかけるように駆けて行く。

「……どうでござる?」

 暫く烈天上を見つめる少女に、バングは問いかける。よく使い方も分からずに持っていたバングにはさっぱりだった。そして、セリカもまた同様に分からなかったようで、苦笑する。

 そこで転移装置を取り付け終わったラグナ達から、何か分かったかと声がかかる。

「まだ~、全然!!」

 遠くに居るラグナ達へそう答え、セリカは首を捻った。一体どう使えばいいのか。そこで、ふとセリカは閃いた。楔の起動は魂を打ち込むと言われたのを思い出したのだ。ならば。

「バングさん、ちょっとこっち来て!」

 言うや否や、バングの手を握り、引っ張り、彼女は駆け出す。突然のことに驚きながらも着いて行くバング。駆けて、立ち止まる先はラグナ達の居る楔の前だ。

 セリカの予想はそのままの意味で、その釘――烈天上を楔に打ち込むのではというものだ。

 尋ねるバングに頷いて、セリカはにこやかに笑いかける。

「そう。もしそれにテンジョウさんの魂が眠っているんだったら、起こせるのはバングさんだけかも」

「拙者が……殿の魂を、呼び覚ます……」

 両の手を見下ろして、バングはそう漏らした。責任重大だと思い、不安を感じる。

 けれど、頷き声援を浴びせられれば、バングはやがて決意した。

 そして自分の叫びが、テンジョウに届かないわけがないと。思い……いざ、それを抱えて楔に近付こうとした瞬間だった。

 何者かに、バングは弾かれる。その人物に、バングは目を見開いた。

「なっ……ラ、ライチ殿!?」

 長い黒髪を束ねた女性。ライチ=フェイ=リンが、武器である長い棒を持ちバングの行く手を阻む。彼女は、バングの思い人だった。ここの所、忙しかったのか姿を見なかったが――何故、彼女がここに居るのだろうか。嫌な予感がしながらも、何故と問うバングに答えずに、代わりに悲しそうに言うのだ。

「ごめんなさい。今、それを起動されては困るのよ……」

 戸惑いを隠せないバングの後ろ。そこで、悲鳴が木霊する。ノエルのものだ。

 思わず振り向くバングやラグナ達。そこでは仮面の男が――否、その傍らに居る赤紫の機械人形がノエルを拘束していた。

「ノエル!」

 驚きに名を呼ぶラグナ。それをどうでもいいもののように仮面の男、レリウスは彼らの前にあるクシナダの楔を見上げ――ほう、と零した。

「醜悪ながら、見事なものだ……それが『クシナダの楔』か」

 呟き、そして、自身の名を呼ぶバングすらも無視してレリウスは後ろを振り返る。そこに居たのは少女だ。長い白髪を太い三つ編みにした少女。その少女、ニュー・サーティーンは、できれば起動したものが見てみたかったなどと零すレリウスの指示を受け、拘束されたノエルの元へと近付いた。そして静かにノエルを見つめると――静止。

 クソ、と零してラグナはそこに駆け寄る。まさか彼女まで出て来るとは思いもしなかった。攻撃をする様子ではないが、何かよからぬことをしているのだろう。そう思えば、否、そうでなくとも――苦しそうな彼女を助けないわけがなかった。

「テメェら、ノエルを放しやがれ……!」

 腕を狙い剣を振り下ろそうとするラグナ。重いその一撃は真っ直ぐニューの腕を捉えるかと思われた。が、それは金属音と共に弾かれる。

「邪魔をするな」

 レリウスのマントから飛び出た機械のアーム。それの先についた刃がラグナの剣を受け止めたのだ。レリウスは攻撃を止めると一歩すぐに退き、力を込めていたラグナは踏鞴を踏んでバランスを崩す。そこに、レリウスが別の機械腕を出しラグナを攻撃する。

 

 

 

   2

 

「うぁっと……風が強いですね、ここは……。でも、良い眺めですね、本当に」

 崩れた街だったもの(ガレキ)を見下ろしながら、ハザマは静かにそう呟き微笑んだ。

 びゅうびゅうと吹く風に帽子を飛ばされないよう押さえながら、コートを靡かせて彼は渦巻く雲を仰ぐ。その後ろで、一歩遅れてユリシアがゆっくりと追いかけていた。

「ほら、ユリシアも見てください」

 冷たい風に両腕を擦りながらも、笑顔でハザマはそう言った。

 隣に立ったユリシアがそれを見下ろし、頷く。それは『良い』と言うには程遠いけれど、彼女の口から凄い、と拙い言葉で漏らされるのを聞いてそうでしょうとハザマは言いたくなった。

「……では。いよいよ『宴』を『神災』へ……『滅日』を始めるとしますか」

 微笑みを浮かべ夢見るのは、滅日の先の世界。己の価値を正しく理解した『器』は、自身の中に住まう彼のため。隣で返事をする少女もまた、隣に立つ男(ふたり)のため、そして自身の――。

 そんな中、不意に後ろで何者かの気配がするのを感じて、ハザマは首を傾げる。こんな場所だというのに殺気は感じない。否、殺気に『なりきっていない』のだ。ひどく生温く気持ち悪い気配。この気配は、知っている。

「――何なんですかぁ? こんなところまでやって来て、本当、しつこいですねぇ貴女」

 そこに居たのは、年端もいかぬ少女だった。マシュマロのようにふわふわとしたプラチナブロンドを大きなリボンで結んだ、小さな子供。しかし、その瞳は子供のものと言うにはあまりにも複雑な感情に満ちていて――。

「おしりあい、ですか?」

 身構えながら、ハザマの声にユリシアは不安げに尋ねる。頷くハザマ。しかし、先の台詞からしてきっと良い相手ではないのだろう。思えば、足が竦む。

「……テルミさん。私は、ずっと、ずっと貴方のことを考えていました」

 その少女は、深いグリーンの瞳を震わせながらもしっかりとハザマを見つめると、そう言葉を紡ぐ。ユリシアはそれに驚いた。だって、今まで彼らの前に現れた人物で『テルミ』の存在を知っていたのはラグナと、まともに話したこともないココノエくらいしか居なかったからだ。

 ニィとハザマの口角が持ち上がる。

「おやおやおや、随分と熱烈な告白ですねぇ。貴女好みに言うのでしたら……んんっ『そんなお優しい言葉、僕には勿体ないです。トリニティ=グラスフィールさん』って感じですかねぇ?」

 ハザマの声が、今まで聞いたことのないほどに甘く優しい声に切り変わる。その瞬間、露骨にその少女――トリニティの表情が歪んだ。何か思うところがあったのだろうけれど、二人の関係性が分からず、またハザマのそんな声に戸惑ったように、ユリシアがハザマの顔とトリニティを交互に見た。

 何故だろう、とても、胸がざわつくのだ。これは、あのセリカと出会ったとき――正確には、セリカとハザマらが出会う直前の胸のざわつきによく似ている。何か良からぬことが起きる気がして、ユリシアは震える唇を開いた。

「あ、ぁ、あの、あなたは……」

「……!?」

 ハザマの後ろから一歩前に歩み出て尋ねるユリシアに、トリニティは意外だとばかりに目を見開いた。両の手を胸の前で震わせ、言葉に詰まる。

 揺れる瞳でユリシアを見つめながら、蚊の鳴くような小さな声で何かを呟く。よくは聞き取れなかったが、その声は悲しみに満ちていて。問いに応える様子もなく、その少女は首を横に振った。目を伏せ、数秒。ゆっくりと瞼を持ち上げて彼女はハザマを再度見つめた。

「テルミさんは……また。今度は、こんなに幼い子を……」

 その瞳には、深い悲しみの他に、やがて微かな感情が滲む。怒りに似ていたけれど、それはあまりにも小さすぎて、怒りにも満たないような。それを見て、ハザマは嗤う。どこまで行っても馬鹿で、優しい女だと。アレだけ裏切られて、まだ憎しみの一つすら満足に抱けない。

「言っておきますと、ただの子供じゃないんですよね。じゃなきゃ俺が連れて歩くわけねぇだろ」

 思いながらも、ハザマはそう語る。最後の方はテルミが出たせいで、乱暴な口調になったけれど。入れ替わる彼らを見て、彼女は垂らした手でスカートの端を握り込んだ。ぎゅう、と力を込められた布は皺が寄る。けれど、ふと疑問が浮かんで俯けかけた顔を上げる。

「ただの、子供じゃない……って」

 きっと騙されて使われているのは分かる。ならば、それ相応の能力のようなものを持っているのだろうけれど。それをわざわざ言うのだろうか。よほど何かに長けているのか。

 不安に眉尻を下げる彼女を見て、今度はテルミが笑みを浮かべる。ユリシアの頭にぽんと手を乗せ、ゆっくり――口を開いた。

「……コイツは『蒼』だよ。俺様を慕って、従う可愛い『蒼』。世界の情報が回帰するところでありながら個として存在する。つってもコイツは不完全というか片割れみてぇなモンだけどよ」

「なっ……」

 ポン、ポンと優しく叩かれる心地良い感触を受けながらユリシアは、自身の話を聞くことで自身を改めて認識し、やっと思い出す。この人は姿形こそ変わったけれど暗黒大戦時代にテルミ達と共に戦った。そして、テルミの強制拘束(マインドイーター)を解いた――。

 思い出すユリシアを他所に、テルミの言葉が意外だったのだろう。口に両手を当て、声を漏らすトリニティ。再度ユリシアを見て、本当なのかと零す。けれど、彼女だって薄々感じているのだろう。

「……それなら、尚更貴方を止めなくてはいけません」

 その手に現れるのは、大きな杖だ。金属なのか木材なのか材質の分からないそれは女性的な曲線を持ち、柄の先には鈴のような飾りがついていた。

 可愛らしいフォルムでありながら、それもまた事象兵器だ。アークエネミー『雷轟・無兆鈴(らいごう・むちょうりん)』。具現化の能力を持つソレを手にして、彼女は静かにテルミを睨み付けた。睨んでいるとは言い難いほど覇気に欠けた表情ではあったけれど。

「おぉおぉ、そんな怖いモンまで持ち出しちまって。それでどうする気ですかぁ、えぇ? お優しいトリニティ=グラスフィールさんよ」

 テルミの煽る言葉に、しかしトリニティは動じない。静かにテルミを見据える彼女と、それがつまらなかったのか無表情になるテルミ。それを見て、ユリシアの胸のざわつきがますますひどくなる。心臓が撫で上げられるみたいで気持ち悪い。彼女の存在は思い出せても、何をしようとしているのか分からないから余計に不安で。

「私は……最初からこうするべきでした。私の愚かさが、貴方をここまで……。私は、許せません。あのとき貴方を信じてしまったことも、こんな幼い身体に頼ってしか魔法を使えない私も。そして今度はそんな少女を使おうとしている貴方も」

 許さないから何だ、とテルミは思う。けれど、彼女の無兆鈴が涼やかに輝きだしたのを見て、その色を見て――まさか、という声が口から零れ落ちる。

「何をする気だ、オイ、ちょっと待て、止めろって。俺らは仲間だろ? なぁ!!」

 明らかに焦った様子のテルミを見て……だけれど、どうすれば彼を救えるのか咄嗟には出てこなくてユリシアは焦る。刹那、テルミの身体がぶれて見えた気がした。それはまるで、精神と身体が分断されたような。

 止めなくてはいけない。思ったときには、身体が動いていた。

 その手に何かが握られている感触があって、それはいつもの大鎌と違ってとても小さかったけれど、迷わず、杖を掲げるトリニティの手に、両手で持ったそれを叩き付けた。

「っあぁ……!」

 大きな魔法に集中していたトリニティはそれに気付けこそしたけれど動けず、苦痛に小さな悲鳴が、トリニティの喉から溢れる。深紅が腕から垂れ、杖を取り落とし、カラリと地に投げ捨てられる。

 叩き付けられたのは、銀色に煌めくナイフであった。小さい姿でありながら、ずっしりと重い。けれど大鎌と比べ小回りの利くそれを握り直して、ユリシアはトリニティを見つめる。テルミが後ろで笑っているような気がした。が、

「な……んだよコレ、マジで何なんだよ!」

 その次の瞬間にはテルミがそう叫んでいる声が聞こえ、振り向けば。

 ――テルミとハザマの二人が立っていた。

 本来なら彼らは融合しており、見えるのはどちらかだけ。肉体はハザマのものであり、テルミはそれを借りて話すことしかできなかったはずなのに、だ。

「このクソ眼鏡ぇ! あのクソ吸血鬼に吹き込まれたか……!!」

 突然分かれて出てきたテルミに首を傾けるハザマと、憎々しげにトリニティを睨み付けるテルミ。つまり、ユリシアは一歩遅かったのだ。精神と、肉体が分断される。

 それがどれほどのことかユリシアには分からなかったけれど、記憶が告げている。

 これではあのとき、テルミが境界に封印された暗黒大戦時代と同じだと。精神が具現化してしまえば、触れられるのだから。

「……ごめんなさい。私には、こうするしか」

 切られた腕を強く抑えながら、トリニティは静かに謝る。敵だと理解して、その覚悟で来たはずのトリニティの、そういった甘さが逆にテルミを苛立たせた。

 ふつふつと燃えたぎる怒りに身を焦がされそうだったが、肺に侵入する冷たい魔素が、テルミを少しだけ落ち着かせた。

「……ここまでしたんだ。殺される覚悟があって来たんだよなぁ? んなら、今度は魂ごと切り刻んでやんよ!! ウロボロス!」

 黄金の目を見開き、テルミは叫ぶ。途端、空間を食い破って現れる蛇頭のついた鎖がトリニティに向けて射出される。目を伏せたトリニティが、絡めとられて噛みつかれるのを、テルミがそれで苛立ちを発散するのを、ただユリシアは見つめていた。

 

 

 

「準備整いました」

 ヤビコの統制機構支部。カグラ達の計画を進めるための準備が整ったことを、ヒビキは告げる。それに満足げにカグラは頷いて、ニッと歯を見せて笑うと口を開いた。

「よし、全階層都市に向けて通信を開始しろ。全世界の眼を集めるぞ!」

「カグラ、待て。問題が起きた」

 しかし、通信を開始しようとしたカグラ達に、突如制止の声がかかる。ココノエのものだ。問題とは何か、首を傾けるカグラ達にココノエ曰く、ラグナ達の所にレリウスが現れたとのことだ。

 レリウス=クローバー。狂気の人形師として畏れられる統制機構の技術大佐だ。カグラは殆ど話したことはないが、彼もテルミ達に関わっている人物の一員だ。それに彼がどういった人間かはココノエから聞かされていたし、ココノエの言葉がどういう状況を意味するのか、カグラはすぐに悟った。

 ラグナ達は無事なのか、慌て問うカグラに返される答えは、分からないというものだ。

 そして、テイガーは今使えないために、カグラ達の陣営から誰か向かわせることはできないかとココノエは問う。通信を行う二人の前に、現れたのはジンとツバキ、そして二人が護衛を任されている子供――ホムラだった。ツバキはあのコロシアムにてジン達により精神汚染を解かれ、カグラ達の居るヤビコに身を置いていた。

「何かあったのですか……?」

 カグラ達の焦った表情に、何かよからぬことが起きたのだろうと察してツバキは問いかける。

 それにカグラは振り返って、ああと相槌を打つ。言うかどうか迷うだけの猶予はなく、答えた。レリウスがラグナ達の所に現れたこと、そしてココノエの要望について。

「レリウス大佐が!?」

 途端、ツバキは目を見開く。レリウスは、彼女が帝達についていた時にもよく見かけた人物だし、彼が帝達についていることも知っていた。それに、彼の異質な空気はよく覚えている。

 ノエルも一緒なのだろうか。それなら余計に心配だ。ラグナ=ザ=ブラッドエッジはどうでもいいけれど、親友である彼女が一緒となれば――。

 頷き、肯定される。そしてセリカもだと告げられれば、彼女はますます驚いた。

その様子を見かねて、ジンが口を開く。

「行け、ツバキ。殿下の護衛なら僕一人で十分だ」

 ジンはノエルのことを毛嫌いしていたが、友を捨てろと言うほど外道なわけでもない。幼い頃から仲の良い彼女が友の所に行くのを止めるなどできるはずもなかった。

 しかしそれでも、ツバキは行っても良いものかと悩んでしまった。自分もホムラの護衛をしなければならないのでは。勿論、カグラだって勝手なことを言うなとジンを咎めているのだから。

「行くが良い。大切な友なのだろう」

 けれど、ホムラが優しくそう言えば、カグラもこれから帝に仕立てようとする彼女の言葉を止めるわけにもいかず。

「あ~もう、いいよ、行って来い、ツバキ。その代わり、状況が急激に動き出してる。何かあったらすぐに戻って来い」

「申し訳ありません。殿下、恩情感謝いたします……行って参ります」

 眉尻を垂れながらではあるがカグラが行けよと仕方なく言うのを受けて、彼女もまた頷いた。そして彼女はくるりと踵を返し駆けて行く。友のもとへ行くために。途中足は止めないまま振り返り、彼女はマコトにも伝えて――言いながら去って行った。

 それに頷き、ヒビキに彼女の言葉通りにすることを命じながらもカグラは緊張に汗を浮かべていた。何故か、彼女が去る少し前から嫌な予感がするのだ。一度態勢を立て直した方が良い。ホムラも部屋に戻らせるべきでは――。

「ここで良い」

 ホムラまで何を言い出すのか。思わずカグラは、礼を欠くのも忘れて口を出しそうになる。しかし、ぞっとする気配が唐突に背筋を撫で上げるのを感じて、口を開くのすら憚られた。ホムラのものではない。それどころか、ここに居た誰のものでもなく――。

「カグラ……『死』が来るぞ」

 ホムラがそう言った瞬間のことだった。

「……行かせたのか、それとも逃がしたのか……」

「な……」

 何故、叫ぶ声は動揺したヒビキのものだ。突如現れた人物は、幾重にも布を纏った――少女だ。幼さの残る、けれど威厳のある声は幽玄にして甘く。彼女が一歩歩み出るのに合わせ、カツンと硬質な足音が空間に響く。

「――サヤ」

 ジンが静かにそう呼んだ彼女は、足まで届きそうな長さの紫髪を頭の高い位置で纏めていた。背も高くなくどこか幼い風貌ではあったが、纏う雰囲気は高貴な人間のそれであり――それ以上に、ただならぬ威圧感があった。

 帝の名が相応しい存在感がありながら、カグラ達はそれを帝だと認めない。そんな彼女に振り返って、カグラは冷や汗を浮かべた。嫌な予感の正体はこれか、という納得を連れて。

 しかし彼女の出現に多少の驚きこそあったものの、正気付いて尚佇んだままで、上に立つ人間に対する仕草を見せない彼らに――彼女は薄く目を細めた。

「何をしておる? 余がわざわざ出向いてやったのだぞ。控えよ」

 上の者として当然の態度ではあったが、その高慢な態度に皆が眉を顰め、吐き捨てるようにカグラが皮肉げな挨拶の言葉を贈る。そして皆控えることもせず。ヒビキ以外の二人に至っては、言われた瞬間に各々自身の得物に手をかける始末だ。

「余は『控えよ』と申したのだが」

 そんなカグラ達の態度に少しだけ気分を害したように、眉根を寄せ、帝が手を上げる。傍らに佇む亡霊――ファントムは、それに呼応するように身を少しだけ揺らす。纏ったマントがひらりと一度翻ると同時だった。

 三人が、目を見開き、体をくの字に折り曲げる。膝が震え、今にも床に倒れ込みそうになった。しかし、帝もファントムも彼らに一切触れていない。

 だが、三人の立つ場所だけが異様に空気が重くなったのだ。重力陣。三人の足元と頭上に浮かび上がる計三対の魔法陣から放たれる力が、彼らに地を舐めさせようと、そして潰してしまおうとする。

「何だこの力は……!?」

 通信越しに叫ぶココノエ。彼女の方でも、何らかの数値が可笑しくなったのが分かったのだろう。しかし状況を説明するだけの余力は三人には残っておらず、返事のない彼らにココノエは机に拳を叩き付けた。

「冥王……」

 ホムラが小さくその名を漏らす。それを受けてやっとホムラに気付いたように帝は瞳を横に動かし、カグラ達からホムラへと視線の向ける先を変える。

「……お主が『テンジョウ』の子か。ホムラと言ったか?」

「おめぇ……何しに、来やがった……」

 成程。呟く彼女にカグラの声がかかる。膝に手をつくことで震える体を支えながら、苦しそうに少女を見上げて彼が絞り出す声に、冷ややかな帝の目が再度向けられる。

「言葉を慎め、十二宗家の者。ここが『統制機構』ならば余の所有物であろう。何故お主に断る必要がある」

 帝である自身の所有するここに、何故現れてはいけないのか。問う少女に、ケッと唾を吐くようにしてカグラは帝――冥王を睨み付けた。彼女を帝として認めていない。そう言う彼に、ほうと漏らして現帝はまた目を細めると、それで何なのだ、と問うた。

「それで? この者が真の帝だとでも申すのか。前帝であるテンジョウの子が?」

 この者、と指されたのはホムラだった。言った後、成程と帝は漏らす。カグラ達は統制機構が欲しいのだろう。尋ねれば「悪いかよ」という言葉でその考えは肯定された。

 その瞬間、彼女は口角を僅かばかり持ち上げる。

 この『帝』の物を欲するなど、なんと傲慢で、愚かしいことだろうか。しかしそれはとても『面白い』。――故に『手助け』してやろう。帝はそう言い、また手を掲げる。

 表情こそ変わらないし、口に出さないため誰もが彼女の所作の意味を理解できなかった。けれど、ファントムは彼女の考えを察したのだろう。再度身を揺らす。次の瞬間には、帝が口を開いていた。

「全『民』に告げる。余は『帝』なり……!」

 幽玄だと感じていた艶のある声は大きく、空間に響く。

 まだ繋いでいなかったはずの通信が彼女らにより繋がれたのだろう。確認用のモニターにはしっかりと彼女の姿が映し出され、そして同時にここより下層の都市――それどころか他の階層都市にまでもその映像と声は流れていた。

「たった今より余は『世界虚空情報統制機構』の全権を『天ノ矛坂焔』に譲る。この時、この瞬間より、この『ホムラ』こそが帝である!」

 そうして映し出されるのは橙の着物をまとい、烏帽子を被った子供。ホムラだ。

 そこでようやく、通信がジャックされたことに気付きヒビキらが声をあげるも、時すでに遅し。驚きに気が緩んだ彼らを待ち受けるは、黙らせようとする魔法による制裁。呻きをあげながら止めることもできない彼らの目前で、彼女は彼らに目もくれず、歌うように続けた。

「余は寛大だからな。『統制機構』などお主らにくれてやろうぞ。描いた理想を求めて法を布(し)き、望んだ栄誉のために足掻くがよい」

 それは民に向けているようにも、ここにいるカグラ達への皮肉のようにも聞こえた。彼女はふっと笑いを零す。統制機構など彼女にはどうでもよかった。都合の良い駒の集まる場所でしか。

 統制機構という組織のもとで、自身に尽くした民や衛士らに一種の愛しさこそおぼえたけれど。

 ただ、彼女――『冥王・イザナミ』は。

「そなたたちの忠実な働き、余は深く感謝している。よって、その忠義に報い……この座を去りし余から褒美を与えよう」

 生きとし行ける者全てへ等しく与えられるべき至上の安息。至上の安寧。至上の平穏。――そして、至上の『終末』。そう、死を与えると彼女は語り微笑んだ。

 自身には生まれつきありながら、与えられることのないその終わり。彼女こそが『死』そのものであった。マスターユニットのドライブであり、マスターユニット(神)すらも殺そうとする存在。

 

 

 

「クク……さすがは帝。素晴らしい演説でした」

 では、私も。

 そう言って、彼は微笑むと『碧の魔道書』を起動する。全ての魂を回帰させるために。

 集まる蒼い光は、イブキドの中央にある窯の上、巨大な黒い塔――モノリスへと集まり、光がはしる。命の光が集まるその景色はとても幻想的で、壮観だった。




ユリシアがメインになる回はもうちょっと先


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第十一章 再灰の朝

「なっ……今度はなんだ!?」

 空間が揺れる。地響きとともにパラパラと天井から礫(れき)が降り、砂埃が舞う。突然のことにラグナが思わず声をあげた。応える、仮面の声。

「……『初期化』が始まったのだよ」

 低い男の声が言う『初期化』の意味が分からず、問いかけようとするラグナ……であったが、その問いを口にする前にラグナに向けて怒鳴りつける声が響く。ココノエだ。

 ディスプレイに映し出されるココノエの映像には乱れが生じており、音声のノイズも酷い。後にしろ、とあしらうラグナにしかしココノエは続けた。

「聞こえるか! ツバキとマコトが今そっちに向かっている。楔とセリカを何が何でも死守しろ、いいな!」

 ココノエの命令は言われなくても分かっているものだった。思わず苛ついて声を荒げるラグナ。それに、そんなことよりも今はノエルが危機に陥っているのだ。叫ぶラグナに、ココノエは目を丸くする。ノエルがだと。大きくなるココノエの声のノイズは更に強くなり、耳障りだから騒ぐなとラグナは返した。

 その間にも、ニューはノエルと見つめ合ったままだ。『同化』を開始する、といった言葉が聞こえた気がした。それに何だか不穏な気配を感じてノエルに呼びかけるも返事はない。きっとニューが何かをしているのだろう。そう思い、そこを退けと叫びながらラグナは再度地を蹴り、彼女らを引き離そうとするのだが――。

「――創造主。『ノエル=ヴァーミリオン』との同化が完了しました」

 それよりも早く、ニューがノエルから離れる方が早かった。空を切り、踏鞴を踏むラグナの近くで彼女は静かにそう告げる。その後ろには、ぼんやりとノエル――否、ミュー・テュエルブの姿が影のように映し出されていた。それを見て、ラグナが目を瞠った。

「な……何で、ノエルが」

 ニューの後ろに居るのか。ぼんやりとしたそれの近くには、しかしノエルがきちんと居て。機械人形イグニスがノエルを解放すれば、力が入らない彼女は地に吸い込まれるようにしてドサリと床に倒れた。

「ナンバーサーティーン」

 それを見下ろして、ふとレリウスが口を開く。冷たく、無機質な声だった。

 ナンバーテュエルブは不要だ。削除しろ。

 その一言に、ニューはやはり無感情な声で一つ「了解」と告げると、動き出す。背に浮かぶ八本の翼のような刃が一斉に向けられ、ノエルに向けて射出される。

「ノエルちゃん、危ない!」

「馬鹿、止めろセリカ!」

 それにいち早く気付いたセリカが駆け寄り、そこでハッと正気付いたラグナが制止の声をかける。が、動き出したセリカは止まらない。ノエルを庇うように間に飛び込んで、痛みを覚悟し目を瞑るセリカを――ニューの剣が貫く。

 かと思われた。

「あれ……?」

 しかしいつまで経っても覚悟した痛みは襲って来ず、不思議になってセリカが目を開ける。白い、何かが見えた。

「ミネルヴァ、最優先だ。セリカを護れ」

「白い……ニルヴァーナ?」

 通信越しに、ココノエがその白い『何か』へと指令をくだす。ミネルヴァ、それが『彼女』の名前なのだろう。よくよく見れば、それは白いボディの機械人形であった。かつて暗黒大戦時代に自身を守ってくれたものや、仮面の男が連れているそれに似ているけれど、どこか違う。

 けれど、この人形である彼女もまた、自身を守ってくれたのだろうと理解して、彼女は礼を述べた。機械人形は無言で表情一つ変えることはなかったけれど、彼女には頼もしい返事をしてくれたように思えた。

 そして、振り返れば未だ倒れているノエルが居た。慌ててしゃがみ込み、声をかける。

「待ってて、今すぐ治すから!」

 掴まれていたところから赤く血が滲んでいたし、よほど強い力だったのだろうか、ひどく弱っているノエル。呻き声をあげる少女に手をかざせば、光がノエルを包み込み、少しずつ傷が消え去っていく。やがて、ある程度傷が消えたところでゆっくりとノエルが目を開く。

「あ……セリカ、ちゃん」

 目を覚ました彼女に安心して、セリカが頷く。と同時に、通信からココノエがまた話しかける。曰く『ミネルヴァ』にセリカ達を任せて、闘いに集中すればいいと。突然の人形の登場で混乱していたラグナにはよく分からなかったが、けれど任せていいと言われれば素直に頷いて応じた。

「ナンバーサーティーン。至急、ハザマの所へ向かえ」

「……了解」

 しかし、だ。一度状況を整理しようと辺りを見回したとき。近くでレリウスがニューに命じる声が聞こえた。ハザマの所へ行けという一言に頷き、この場を去ろうとする少女。ノエルと『同化』したという彼女が、どうしてそこに行くのかは分からなくても、何かに利用するのだろうことや、不穏な気配は感じ取れたから慌ててラグナは追いかけようとする。

「――どこに行く、蒼の男」

 しかし、それを阻むようにしてレリウスが立つ。ラグナは舌を打った。

 この男は中年であり、しかも殆どを近くの機械人形に任せているように見えて、強さがあることは先の時点で何となく分かっていた。

 だからこそ邪魔するなと吠えるラグナに、ふんと鼻を鳴らしてレリウスの機械腕についた刃が向かって行く。それを弾き攻撃に移ろうにも、次の瞬間には他の腕がマントの内から伸びており、またそれを弾くことしかできない。機械腕の一つ一つだって、ひどく重い攻撃を放ってくるのだ。

 ラグナに、セリカの心配したような声がかかる。それに背中を押されて、ラグナがレリウスに駆けようとする。しかしだ。

 セリカが呻くような声をあげ、思わず振り向いた。と同時に、自身の胸も苦しくなって咳き込む。胸を重い空気に支配されるようなこの不快感は、階層都市の下層を通ったときと似ているが、それ以上に苦しい。――魔素が濃すぎるのだ。

 ミネルヴァから離れるな、というセリカへ向けてのココノエの指示を聞き流しながら、ラグナは何をしたと、咳を抑えながらレリウスに問う。

「全ての窯を解放しただけだが」

 尋ねられたレリウスといえば隠すつもりもないのか簡単にそう言ってのけるが、その内容にラグナは耳を疑った。窯とは階層都市の最下層に位置するものであり、常に魔素を吐き出し続けるものだ。それらは全て管理され、魔素の排出量も制御されているのだが。

 それを解放したということはフルで魔素が排出されることとなる。なるほど、そうすれば確かに世界に満ちる魔素の量は濃くなるかもしれない。しかし、何故そんなことをするのか。

「……窯より溢れ出る魔素が、階層都市に住む全ての『魂』を吸収し、このイカルガにあるモノリスへと集約する。窯の『触媒』としてな……」

「窯の触媒……!?」

 いとも容易く告げられる内容の不穏さに、ラグナは思わず復唱していた。頷き、レリウスが続ける。

 イカルガに来てからラグナが気になっていたものがあった。――イブキドの方に建っていた、黒い巨大な塔だ。レリウス曰く、それが『モノリス』であり、あの巨大さであれば集められる『魂』の数も違い、充分な窯を精錬できると。

「モノリスに、窯……。まさか……!」

 レリウスの言葉に、ノエルが目を見開く。思い当たるものがあったのだ。そして、レリウスもそれを察してかノエルに視線を向けながら口を再度開いた。

「思い出したか、ナンバーテュエルブ。クサナギを精錬した窯にはカグツチの統制機構衛士の魂を使ったが……今度は『全世界』の魂を使う」

 静かに語られるその内容を理解した途端、ノエルが口を覆う。恐ろしくて、そんな内容を簡単に言ってのける彼らが酷くおぞましく感じて、身体が震える。

「その『魂』が作る窯、そして『蒼』の少女………祭壇に神を降臨させるには充分な『儀式』だ」

 微笑すら湛えてレリウスが語る内容はつまり、全人類の魂を生贄にしてマスターユニットを召喚するということ。理解した瞬間、怒りのようなものが込み上げてきて、ラグナは叫ぶ。

「そんな事させるか!」

 何故それだけのことをするのか、何となくでは分かってもラグナは理解したくなかった。けれど、男は何故分からぬのかとでも言いたげに首を振って、溜息を吐いた。

「……全ては『再構成』のためだ」

 再構成という単語に、ライチと未だ戦闘を続けるバング以外のメンバーは一斉に首を傾ける。それに答えるかのようにして、レリウスは続けた。

 世界を一度『初期化』し、再構成するのだと。そのために、全ての命を『蒼』へと回帰させるのだ。境界を越えた先の奥深く、深淵で眠る『蒼』へと――。

 ふと、そこで疑問に思う者が居た。

「……『蒼』の少女、ユリシアといったか? 奴が居れば召喚には充分なはずだが、何故ニュー・サーティーンを行かせた」

 そんなことを考えている場合ではないが、何故わざわざ彼女をここに連れて来て、同化までさせたのか。蒼の継承者が居なくとも、彼ら曰く『蒼』そのものだという少女が居れば十分なのではないか。現に、彼だって蒼の継承者が必要だとは言っていなかった。

「そんなことか……ただの保険だ」

「保険……だと?」

 その言い回しに、眉根を寄せたのはラグナだ。ただの保険のために彼女の魂をサルベージして、また危ない場所に身を投じさせたのか。口には出さずとも、自然とそう思う。

 ラグナの復唱して尋ねる声にレリウスが首肯して、語る。

「マスターユニットを召喚するだけであれば……ユリシアとモノリスに集める魂だけで十分だろう……。だが、破壊はどうする?」

 力であれば充分持ち合わせているとは聞いているが、私達はまだあの少女の力を全ては理解していない。静かに、彼はそう語った。

「それだけなら同化についてはどう説明する……!」

「あぁ、それなら……『蒼の継承者』の存在は大きい……我々の脅威になるソレを排除しつつも、その力を手にしたかったのでな。もっとも、ナンバーテュエルブの消去こそ失敗したが……」

 

 

 

 渦巻く雲はあのときの『繭』のよう。イブキドの塔の上に鎮座する窯、蒼い紋章の浮かび上がるそこを見上げながら、彼女はテルミの声を聞いていた。

 モノリスに集まる蒼い光はとても美しいのに、そこからは常人なら耳を覆いたくなるほどの悲鳴や呪詛のような民の声が聞こえる気がして、テルミは気分が高揚するような感覚をおぼえた。腕を広げる。

「ヒヒ……ッ、こりゃ凄ぇ! もっとだ、もっと悲鳴を聞かせろ!!」

 高く笑う男の姿を一度盗み見た後、ユリシアはただ足元を見下ろしていた。やがて興奮も落ち着いたのかテルミが見下ろす先には少女の後頭部。表情は見えず、声をかけようとテルミが口をゆっくりと開く。同時に、彼女の頭へ手が伸ばされ――。

「……ハザマ大尉、参りました」

「あぁ、やっと来たか」

 無機質な少女の声音に顔を上げる。手はだらりと胴体の横に垂らされていた。

 何か、情を抱いたわけではない。ただ、未だに納得せずに上手く行かないなんてことがないようにと思っただけだ。少女の名を呼べば、彼女は顔を上げ笑みを浮かべる。問題などない。テルミは頷き、もう一度モノリスを見た後――ゆっくりと、口を開いた。高ぶる気持ちは抑えずに。

「観測を開始しろ……天の岩戸を開け! そして」

 ――マスターユニットを、引きずり出せ。

 小さな返事があった。少女は目を伏せ『願う』。

 

 

 

「何だ……ありゃ……」

 顔を強張らせて、カグラ達が見据える方角はちょうど、イザナミ達の真後ろで開いた大きな窓の向こう――イブキドの方角に見える、巨大な塔。並びに、そこへ集まる無数の光だ。

 何か分からない、けれど嫌な感じがして思わず零すカグラに、先ほどまで『帝』であった彼女は吐息を漏らすと、口をゆっくりと開いた。

「生きとし生ける者、その魂が『蒼』に回帰する光。見るのもおぞましい、不快な命の光だ……」

 後ろを振り向き、静かにそう紡ぐと、彼女は首を後ろに向けて彼らを見遣る。ほう、と声が漏れた。興味深そうに、しかし理解していたかのように彼女は目を細める。

「お主達は『回帰』せぬか……やはり『資格を持つ者』のようだ」

 何もかも分かっているかのような口ぶりで言う彼女に、その言葉の意味を理解できぬままカグラは剣を振りかざす。ふざけるな、と怒りに任せて。しかしファントムが展開した重力陣の影響で、いつもより遅く――弱い。

 当たる寸前のところで、イザナミの姿が一瞬だけ消える。剣は空を切り、目を瞠るカグラの後ろに少女はまた姿を現す。

「ファントムの重力陣を受けて尚も動くか」

 ならばこれは……そう言いながらイザナミが手を掲げかけたところで、ふとファントムがイザナミの近くに寄り、それを受けて彼女はそちらに顔を向けると、目を細める。

「……そうか。彼女が。それに余の剣も。彼の悲鳴も今しばらく聞いていたいが、致し方あるまい……参るぞ、ファントム」

「なっ、待て!」

 目を伏せると、小さな声でファントムにイザナミは命じる。命じられるまま、呼応するようにしてファントムの影のような身体が揺れ、そして魔法陣が足下に展開され――この空間から消える。慌て、カグラが手を伸ばしたときには、そこに彼女らの姿はもうなかった。

「チィッ……おいジン、帝を追え……早く!!」

「……分かっている」

 珍しく放心していたジンに、舌を打ったカグラの声が叩き付けられる。彼が声を荒げるのもまた珍しく、肩を震わせるジン。平静を装い、彼は一度静かに頷き――部屋を後にした。

 

 

 

   1

 

「アマテラスを破壊したら、再構成なんてできないんじゃ……っ」

 再構成をすると、レリウスは確かにそう言った。けれどこの世界を作り上げたアマテラスを破壊すれば、再構成は誰がするのか。ノエルの焦ったようなその言葉に、レリウスは自然とノエルへ顔を向ける。仮面の奥の表情は窺い知れず、ただ僅かな微笑みを口元に浮かべて、レリウスは語った。

「それについては問題ない、ナンバーテュエルブ。……再構築は『私』がする」

「え……?」

 レリウスの言葉に、ノエルは思わず戸惑いの声を漏らした。てっきり、アマテラスだけができるものだと思っていたそれを、さも当然のように彼は「する」と公言したのだ。

「……完全なる人形の創造。私が創造主となる世界。そこには『マスターユニットアマテラス』も『帝』すら……無用だ」

 今度はラグナが目を見開く。驚きだった。

 あれだけ行動を共にしている帝すら無用だと告げる彼曰く、契約は『滅日』の発動までであり、彼の創造する世界に帝は無用、消えてもらうと。

「狂ってやがる……っ」

 ラグナは思う。どこまで自分勝手で、他者を物としてしか見ていないのか。彼を見ていると冷たいものが胸の内を侵してくるようで、彼がひどく異常に思えて、ラグナは思わず零した。

 けれど、言われ慣れているのか、それともよほど自分が正常だと信じて疑わないのか。彼は鼻を鳴らし、首を振る。

「私は至って正常だが。寧ろ、狂っているのはこの『世界』の方だ」

 冷ややかな声が紡ぐ言葉に、ラグナは首を傾げた。眉根を寄せる。この世界が狂っているなど。ラグナの表情に、あぁと頷いてレリウスは尚も続けた。

 ――この世界にある全ての『モノ』は『マスターユニットアマテラス』の『記憶』で構成されている。閉じたこの『箱庭』にある情報は決して更新、改善、修正されることはない。つまり『情報』を超える進化は起こり得ず、全ての可能性が閉じた世界。繰り返される予定調和。刻の幻影も全ては過去の情報を引っ張り出して来たに過ぎず。

 唯一現れた新たな『情報』の『可能性』に縋りやっと世界を正せるかもしれない程度。そんなこの世界を『狂っている』と言わずに何と言うのか。

(その話、どこかで……)

 レリウスが淡々と語るその内容は聞き覚えがあり、首を傾け――思い出す。レイチェルだ。随分と前に感じるけれど、ラグナが牢屋に閉じ込められていたとき彼女が語った話。

 一冊の本と、少女の話。まさか、彼女が言っていたのは、これのことなのだろうか。

「レリウス=クローバー、貴方は神にでもなるつもりですか!?」

 ラグナの思考を他所に、ノエルは思わずそう問うていた。再構築をするだなんて、まさか神にでもなるつもりなのでは。そんな彼女に、レリウスはまた頭を振った。

「馬鹿を言うな。私とてそこまで傲慢ではない……。ただこの『狂った世界』を正しい形へ『再構築』するだけだ……私は『創造主』だからな」

 独善的にもほどがある。これが冗談であればどんなに良かったか。笑えないその言葉にラグナは剣を振り上げる。多少の攻撃は与えているはずなのに、ダメージが通っていないのか尚も簡単にその攻撃は弾かれた。ラグナは舌を打つ。

「ラグナ、クシナダの楔の起動はまだか!? 帝達が『マスターユニット』の召喚を開始した!」

 そんなラグナの元にまたも通信が入る。その内容は最悪なもので、顔を顰めた。

「こっちも最悪だ、さっきから全然刃が立たねぇ! オッサンはボロボロだし、もう少し時間をくれ」

 正直、召喚が開始されたということはもう時間の余裕なんてないのは分かりきっていた。けれど、それでも時間がなければどうにもできないのも事実だった。

「ラグナ、転移装置はもう設置したか」

「それは終わってるが……」

 ラグナの言葉を聞いて、ふとココノエが尋ねる。勿論、それはさっきの時点でとうに終わっているため、何故そんな事を聞いたのか、首を傾げながらもラグナは答える。

「そうか……ならば、何が何でも起動しろ。起動してしまえば奴らは楔には触れられない。そうすれば……私に考えがある」

「考えだと?」

 ココノエの言葉に、ますますラグナは疑問をおぼえて、首を傾げる。考え。彼女の考えついたことで、ロクな目にあった試しがない。眉をしかめながら、ラグナは尋ねる。一瞬の沈黙の後、彼女は溜息を吐く。

「ここで隠しても時間の無駄か。……クシナダの楔を窯に打ち込み、魔素の流れを止める」

 語られた内容に、薄々察していたのかラグナはさして驚いた様子もなくただ舌を打って、やはりかと漏らした。そんなことをしたら、世界がどうなるのか、彼女は分かって言っているのだろう。だからこそ、苛ついた。

「このまま、世界が魔素に飲み込まれるのを見ているよりはマシだろう。それこそ世界の終わりだからな」

 ラグナの苛立つ気持ちを声で聞けずとも、表情が見えずとも、察したのだろう。ココノエは静かにそう言った。

「いいか、これは『賭け』だ。打ち込むのはイブキド跡地の窯。あの『塔』の頂上に打ち込む。あの塔の大きさから計算すると、運がよければ窯の入り口で――楔は、ギリギリ止まる」

 上手くいけば塔がクシナダの楔の伝導体として境界に刺さり、全ての窯の活動を止め、魔素の流出を防ぐことができるはずだ。

 語る言葉は、珍しく運任せな内容。計算が第一である彼女らしくない台詞だ。それほどの状況なのだろう、とラグナは唾を飲む。

「だが……一つ問題がある。塔の基部を破壊せねば、楔が突き刺さった瞬間に塔を粉砕してしまう。それに、あの塔には今『魂』が集約されている。それを破壊してしまったら、どうなるかは分かるだろう?」

 ココノエの言葉に、ラグナなりに何かを考えようとした。沈黙。けれど、彼の頭で何か考えられるはずもなく、全てを後回しにしてラグナは代わりに強く頷いた。

「ややこしいことはよく分からねぇが、そうするしかないんだろ。なんとかやってみる」

「なんとかじゃない、必ずやれ」

 ラグナの声に、厳しくココノエがそう言う。一方的に言うだけ言って、ココノエは通信を切った。ぶつり、というノイズが耳に障る。

 無茶苦茶を言う……そう、ラグナが零して、また空間を見回したときだった。

「……駄目、お願い、駄目だよ……来ないで」

 震える声が、辺りに響く。高めの少女の声は、ノエルのものだ。腕を抱き、首を何度も横に振る少女に、ラグナとセリカが一斉に視線を向ける。どうした、と様子を窺う声にすら彼女は答えず、ただ――叫んだ。今、すぐそこまで来ようとしているその存在に。

「駄目……『来ちゃ駄目』!!」

 

 

 

「……『蒼』として『願う』。魂の帰する場所にして根源、全にして一である我が前に世を照らせしその光を示せ」

 ――マスターユニット『アマテラス』。

 溢れるままに、本能が紡ぐままにそれをなぞり、彼女は告げ、願う。胸の前で組んだ両の手は祈りを捧げるようで――。

 いつものたどたどしく幼い口ぶりを思わせぬはっきりとした声は凛と響き、その願いが届いたかのように、天に浮かぶ窯がゆっくりとその口を開ける。そこから零れだす強い光が、どんよりと曇った世界に降り注ぎ、彼女の蜂蜜色の髪を濡らすように温かく照らす。そうして、そこから現れるのは。

 禍々しくも神々しい――機械であった。宙に浮くその機械は、なんとなく人の形に見えなくもない。窯の中に潜って一瞬見たのと同じ形をしたそれに、ユリシアはどこか懐かしさをおぼえた。

 晴れていく空の下で、彼は目を見開き、その姿を眼窩に灼きつけ、口角を持ち上げた。

 そこに先の少女への怒りなどはとうになく。

「クク……ヒ、ヒャッハハハ!! やっと会えたなぁ……『マスターユニットアマテラス』! 久しぶりじゃねぇか……なぁ?」

 笑いは堪え切れず、高く、響く。声は、物理的には届いていないはずだ。けれどそれをお構いなしにテルミは、何年も、何百年だって待ち焦がれたその存在に言葉をかけた。

 タカマガハラの言う通りであれば突然干渉できなくなったこの事象にひどく焦っただろう。触れることでその力を与えてくれた『蒼』と同じ反応の少女に慌てたことだろう。その少女が、この世界に存在する者が、やっと自身を必要だと呼んでくれたことはさぞ嬉しかったことだろう。

 けれどそれももう終わる。

 この狂った物語は、可能性の閉じた世界は、縛られた終わりは、自由のないあの予定調和は。今、破り捨てられる。舞台は整った。今度こそ息を止めてやる。

 テルミは勢いよく腕を広げ、滑稽な『それ』にただただ笑った。テルミの歓喜の声に、ユリシアは微笑む。――その眉尻が僅かに下がっていたのに、誰が気付いただろうか。

 やがてテルミはユリシアに視線を向ける。

「よくやったなぁ、ユリシア。……良い子だ」

 褒め言葉。今まで、これほど素直な賞賛の言葉を聞いたことがあっただろうか。ユリシアは、ただ目を細めて笑みを深くする。その頭髪をくしゃりと撫でるテルミの手が心地良くて、ただユリシアは高揚感と幸福感に包まれた。

 ふと、空気が動く。テルミは振り向かず、ユリシアだけがその気配に後ろを見ると、そこに居たのは、幼さの残る見た目以上の色香を放つ少女と、ツバの広い帽子を被った影のような人物であった。

「……来たか、マスターユニットアマテラス。幾星霜……この時を待ちわびたことか……」

 囁くように、静かで落ち着き払った声はそう紡ぐ。どれだけこの時を待ったことだろう。ドライブでありながらその持ち主たる『アレ』に出会うまで、どれだけの時間を費やしたか。やっと再会のときが来た。ならば――最高のもてなしで迎えよう。

 微笑みを浮かべ、イザナミはその隻手を、真っ直ぐ天に向けて掲げた。

「来い……『死の盃』よ」

 

 

 

   2

 

 突如として襲ってくる感覚に、セリカは身を強張らせた。

 白い機械人形ミネルヴァと共に佇み見ているだけだった彼女は、背筋を撫で上げるようなぞくりとした寒気に一瞬息すら忘れ、次の瞬間には咄嗟に自分の腕を抱いた。それに合わせて自然と身体が震えだし、血の気が一気に下がって、膝から力が抜けてしまいそうになる。まるで地面に吸い込まれるみたいだ。

 そのまま崩れ落ちそうになる身体を支えてくれたのはミネルヴァの力強い機械の腕だ。冷たく硬い腕に身を預けながら、セリカは思う。この寒気も、支えられるこの感覚も『あのとき』とよく似ている。否、似ているというよりは……あのときと同じだった。

 黒き獣に似たあの存在が現れたとき。周りの魂を吸い取って、容赦のない攻撃を繰り出すあのアークエネミー、ハイランダータケミカヅチ。それが現れたときと同じだ。意識を奪われたりこそしないが、襲う脱力感が嫌というほど伝えてくる。

 まさか、とは思う。けれど通信越しにココノエが叫ぶのが聞こえてセリカは察した。ココノエも何かしらで『アレ』の出現を理解したのだろう。やがて、荒い息と共にココノエの声がかけられる。落ち着けようとしているが、その声には苛立ちと興奮が滲み出ていた。

「セリカ、聞こえるか? 私の予想していた『最悪』が来る」

 その言葉に、セリカは一度目を丸くした後、やはりこの感覚はそうなのか、と俯く。この感覚は、ここに来る前に感じて以来の久しいその感覚は、正しくそれの出現を現していた。

「……働いてもらうぞ、セリカ。今すぐマスターユニットの所に行け」

「でも、クシナダの楔の起動がまだ……」

 ココノエの言葉に、セリカが躊躇うように眉尻を下げる。元々の予定であるクシナダの楔は起動されていないのに、どうすれば良いと言うのだろうか。それにココノエは苦虫を噛み潰したような顔をして、口をもごもごと動かしながら低く唸るように話す。

「悔しいが、あのレイチェルが言ったのだ。楔は烈天上で起動するはずだ。それより今は『マスターユニット』を失う方が不味い……」

 俯きそう語った後、ホログラムのディスプレイに映る彼女は顔を上げる。瞬き一つで瞳を刃のように鋭く真剣なものに変えると、

「良いか、よく聞け」

 彼女はやけに落ち着いた声で話の口を切る。そして、暫しココノエの話を聞くと、強く頷いてセリカは応えた。

「分かった。ココノエさんの言う通りにする」

 そう言う彼女に眉尻を下げ、ふっと寂しげに笑うココノエ。すまないな、と漏らされる言葉にセリカは首を横に振って、寧ろ礼すら述べた。

 ココノエにセリカを任されたミネルヴァもまた無言のまま頼もしく頷き、二人は出口に向けて走り出す。しかし、勿論引き留める声があった。ラグナだ。

「ちょっと待てセリカ! どこに行く……っ」

「……っ、ラグナ……」

 その声に足を止めて、彼女は振り向く。けれど言葉が形になる前に全てをぐっと飲み込んで、彼女はくるりとまた出口に身体を向けた。見つめてくるミネルヴァに困ったように笑って手を差し出し、握られれば彼女は足を動かすのを再開する。振り向かないまま、彼女はラグナにやっと応える。

「ごめんね、ちょっと行ってきます!」

「なっ……ごめんねって、お前!」

 セリカの声にラグナは目を見開く。嫌な感じが背中を駆け巡り、彼女がそんな行動をする理由として思い当たる人物――ココノエの名を叫んだ。何かさせるつもりなのだろう、と。けれど彼女は沈黙していて、それがラグナの苛立ちを煽る。

 この状況を何とかしようと、何をするのか知ろうと、何度も返事をしろと叫ぶラグナにやがてココノエが口を開く。けれど、その言葉は、

「……ラグナ。お前はクシナダの楔の起動に全力を尽くすんだ」

 ラグナの聞きたかった答えと違う。ただ、分かりきっている自身への命令。そうじゃない、何をさせる気かを聞いているのだ。叩き付けるように叫ぶラグナに対する彼女は、しかしそれでも尚落ち着いた声で一蹴する。説明するだけ時間の無駄だ、お前には関係ない、と。

「無駄口を叩く暇があるなら、さっさと楔を起動しろ」

 クソ、と思わずラグナは吐き捨てた。どうすることもできないのかと俯くラグナ。そんなラグナにかかる声があった。その声の主はずっとライチと戦っていたバングだ。身の丈ほどもある棒を使った攻撃や、長い脚を鞭のようにして繰り出す蹴りなどを必死に避け、弾きながらその言葉は紡がれる。

「セリカ殿を追うでござる、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ! 楔の起動は拙者が必ずや成し遂げてみせるでござるゆえ……!」

 バングが告げたその言葉は、ラグナにはとても助かる内容であった。だから一瞬頷きかけるけれど、でも、とすぐに踏みとどまる。起動ができたところでラグナが居なければ転移装置の術式に魔素を供給することができない――ということを思い出したのだ。

 ならばどうすれば。

「心配しないで、それは私がするわ」

 不意に空気が動く。コツリと小気味よい硬質な音、次いで薔薇のような高貴さのある少女声が空間に響き、それが発生した方向へと一斉に視線が集まる。

「レイチェル!?」

 ラグナの声が空間に木霊する。それほどまでに、彼女の登場は意外だった。彼女はカグラの執務室で待機していたはずだし、それに彼女は世界へ干渉することを避けていたはずなのに。何故、ここで姿を現したうえに、楔を転移する役まで買って出たのか。

 ココノエも同じことを思ったのだろう、その声は驚きに満ちていた。

「そこまで『干渉』するつもりか……!?」

「……もう十分、取り返しのつかないところまで踏み込んでいるわ」

 けれどココノエの言葉にレイチェルは首を横に振り、少しだけ寂しそうに笑ってそう答えた。数秒の沈黙。否、もっと短かったかもしれない。ココノエが再度、口を開く。問いだった。

「レイチェル……お前『転移魔法』は使えるのか」

 どういう意味だ。ココノエの台詞にラグナは眉根を寄せる。けれどそれに応える者はおらず、レイチェルはただ静かに俯いた。しかしそれも一瞬、顔を上げて彼女はふっといつものような余裕たっぷりの笑みを浮かべる。

「流石に気付いているのね……。でも大丈夫。貴女の転移装置があれば、あと一回くらいなら転移可能よ。……赤鬼さんも居るみたいだし」

 レイチェルの言葉に、ふんとココノエが鼻を鳴らす。何かを言いかけそれを飲み込むココノエがホログラムに映るのを見て、やっとレイチェルはラグナに視線を向ける。

「ラグナ。貴方はセリカを追いなさい」

 いつものように上から物を言う彼女へ何か文句を言うこともなく、ただラグナは真剣にその紅い瞳を見つめた。

「任せたぞ」

 彼女が何か、裏切るような事をするとは思えなかったし、疑っている時間も惜しい。ただ信頼だけを瞳に映して彼は頷き、セリカ達が出て行った方向に急いで駆けていく。

「ノエル、貴女も一緒に行きなさい。貴女の力が必要になるから」

 そんな背を心配げに見つめるノエルへ、レイチェルが声をかける。驚くノエルではあったが、そのために『力』を求めたのだろう、言われればハッと正気付いたように頷く。けれど。

 自身まで行ってしまえば、バングだけでレリウスとライチの両方を相手せねばならない。彼は確かに強いが、二人も同様に――否、それ以上に強く、相手をできるとは思えなかった。

「それについても問題ないわ。もうすぐ……ほら」

 心配そうな彼女に、レイチェルがそう言って入口を見遣る。その次の瞬間、暗い部屋に光が差し込む。入り口が開いたのだ。ノエルも自然とそちらを見遣ると、

「ノエル……!!」

 重なる二つの声。現れる、二人の少女。それは、ノエルの大好きで大切な親友で、とっても強い味方。マコトとツバキだ。両方ともに息を切らし、マコトは肩と同時に尻尾を上下させ、ツバキは最初とは異なった姿の十六夜を展開していた。

 ほう、と漏れる声はレリウスのもの。それを無視して、ノエルはレイチェルを見た。彼女らが来るのを知っていたのか。言いたげな彼女に、レイチェルは頷き――さぁ、行きなさい。静かにそう告げた。だから彼女もまた頷いて、入り口へと駆けていく。

「ツバキ、マコト、ごめん! 来てもらえて嬉しいけど、私、行かなきゃ」

 二人の前で立ち止まり、言うノエルにツバキらは目を丸くする。どういうことだ、とツバキが言いかける。しかしそれを制するのは隣に居たマコトだ。

「なんだかよくわかんないけど、大事な用なんだよね。分かった、行っておいで」

 にへっと笑って、マコトはそう言う。咎めようとするツバキにもまた笑って、マコトは首を横に振った。ピンチだと駆けつけたら本人が行くと言いだすのだ、追いつけないツバキのことも分かる。それにこうやって何も聞かずに送り出すのが本当に良いことなのかも分からない。でもそれ以上に、

「ノエルが無事でよかった。だからさ」

 今は彼女が無事に戻って来れることを祈って、彼女の代わりにここで闘うのが自分たちの役目だろうと、パッと辺りを見ただけで、マコトはそう思ったのだ。

「……そうね。行ってらっしゃい、どうか無事で、ノエル」

「ツバキ……! うん、行ってきますっ」

 マコトの言葉にツバキも頷き、ふっと苦笑する。そうしてツバキにも行くことを促されたノエルもまた頷いて、先に行ったラグナを追いかけるように駆けて行った。

 

 

 

「アレが……そう、なのか?」

「ええ、間違いありません……私もはっきりと認識できます。あれが『マスターユニットアマテラス』です」

 途中でラグナに追いついたノエルは、ラグナと共に走っていた。そうして森を抜けた辺りで、イブキドの方角に見えていた塔はより濃く鮮明に見えるようになる。同時に、その上に浮かぶものもはっきりと見えた。

「……クソッ、急ぐぞ!」

 このイカルガの階層都市は距離が近く、その身一つで渡れないことはない。とはいえなかなかの距離があるため、急がなければいけない。奴らが何かをしでかす前に、早く辿り着かなければ。

「ラグナさん、あれ……!」

 ノエルが不意に立ち止まってラグナに声をかけ、上を指を差す。今度は何だ。自然とラグナもその方向を見て、驚きに目を見開き、止まる。いつの間にか晴れ渡った空の一部が、異様に輝いていた。輝きはだんだんと強くなり、やがて輝きは降ってきた。

 イブキド跡地の方向へ落下するそれは、地に近付くにつれてその速度を増し、最後、着地する瞬間に凄まじい衝撃と巻き上がる煙を連れて――辺りに破壊を齎し、巨大な棺がそこに降り立った。

「……嫌」

「ノエル……?」

 遠くからそれを見て、放心していたラグナはノエルの声に首を傾げる。見遣れば腕を抱き彼女は震えていた。

「嫌、嫌、嫌嫌嫌嫌……!」

 ラグナの声にも応えず、彼女はただ首を横にぶんぶんと振って叫んだ。何故、アレが――小さく、ぽつりと零す。

 

 

 

   3

 

「いでよ……『巨人・タケミカヅチ』よ」

 片手を掲げるイザナミの声に呼応するかのように、突如大地が震えだす。

 それは聲だった。

 空を、大地を、重力を、空気を、魔素を、舞い上がる砂塵を劈き揺るがすほどの、巨大な獣の咆哮であった。

 かつて世界中を脅かした蛇頭の怪物と似た恐ろしい聲。齎される絶望は遠くに立つ少女の足を恐怖に折って、その場に縫い付けるほどの。

 アークエネミー、巨人(ハイランダー)・タケミカヅチ。それが今しがた眠りから目覚め咆哮をあげた存在の名だ。封印されてから長い年月を眠り過ごした『それ』は、先ほど地に落ち、浮かび上がる巨大な棺の中から顔をゆっくりと覗かせる。

 小高い山ほどはあろうかという大きな棺が開き切って現れるのは、二本の腕。頭が出る。胴が出る。その大きさは棺に収まっていたとは思えないほど大きく、その肌色は黒という色をかき集め凝縮したような黒。そこには皮膚を割る罅か、皮膚の下を這う血管のようにして赤黒い光がはしっているのが遠目ですら窺える。

 その巨人が地に両腕をつければそこら一帯が罅割れ、沈む。四つん這いのような姿勢を取った。

「……『蒼の継承者』にして『獣の心臓』よ。……融合せよ」

 彼女が一歩、歩み出れば自然と身体が浮かぶ。そっと、巨人の傍へ寄り微笑みすら浮かべながら、彼女は一緒に来た少女へと声をかけた。無機質な声が「了解」とたった一言告げ、ふわりと浮かび上がる。

 そのまま飛んで向かう先は、欠伸をするように身体を伸ばし頭を持ち上げる巨人の、胸にある赤いコアだ。見た目の硬質さに反し、少女、ニュー・サーティーンが触れた途端そこは沈む。そしてゆっくりと少女を受け入れると、とぷんと揺れて、元の丸い形に戻った。

 すると、くりぬいたような赤い瞳が、皮膚にはしる赤黒い光が一際強く輝き、巨人はまた叫び声をあげた。見届け、イザナミは静かに歪な微笑みを浮かべると口を開く。

「ククッ……忌まわしき巨人よ。その業火で、全てを灼き払え」

 イザナミの声に従うようにして巨人は、天高く浮かぶマスターユニットを見上げ大きく口を開く。と、影を穿(うが)ったようにぽっかりと開く口腔からは、黄金色をした魔法陣が浮かび上がった。照準を定めるかのように魔法陣は回転しだし、やがて巨人は口腔へ光を蓄え始める。

 ――射出。

 数秒の時を経て、最大まで蓄えられた光が一筋の矢となって射出される。それは真っ直ぐマスターユニットを貫き、破壊する……そう思われた。

 が、光線の矢の先が当たる寸前のことだった。金色をした紋章が矢とマスターユニットの間を隔てるように浮かび上がり――光が弾かれて砕け散る。

 絶対防御、ツクヨミユニット。その光景を目にしたイザナミの脳裏に過る名だった。そして、それを展開した人物の名を呼ぶ。

「……レイチェル=アルカードか。無駄な事をする。……今の其方で、あと何度『ツクヨミ』を展開できるというのだ?」

 彼女が虚空へ話しかけると、虚空から声が返る。少女のものだ。

「ご心配には及ばなくてよ。私がツクヨミを展開できなくなるより先に、この子には退場してもらうから」

 余裕たっぷりの声はそう言って、小さく笑いすら零す。

 けれど、彼女一人でいつまでタケミカヅチの攻撃を防御できるのか、それはレイチェル本人すら分からず、青白い額には透明な汗の粒が浮かぶ。レイチェルの言葉を笑い飛ばしてイザナミは、沈黙していた巨人に再度、攻撃を命じようと手を掲げた。

 

 

 

「何だよ、あの化け物は……!」

 巨人の出現にラグナが思わず声を荒げて叫んだ。山のように大きな赤黒いそれは、過去に渡って見た黒き獣にどことなく似た雰囲気を纏っているものの、明らかに形が違う。

 身体を抱き震えるノエルは膝を地につけ、静かに嫌だ、嫌だと呟く。それを見て、何かを知っているのだろうとラグナが問いかける。アレは一体なんなのだ。

 その問いに応えるのに数秒を要して、やがて震えながらもノエルは口を開く。

「あれは……あれは」

「アークエネミー、巨人・ハイランダー。暗黒大戦での最悪の遺物だ」

 躊躇うノエルの言葉に続けるようにして、背後から声がかかる。振り向く先に居たのは、金髪を揺らす青年。ラグナの弟、ジンであった。何故彼が居るのか、疑問に思いながらもラグナはノエルを一瞥する。その顔は青白く、額にはいくつも汗が浮かび、ひどい顔色だ。

 それに心配の声をかけながらも、今度は遠くの巨人を見る。何故だか、アレを見ていると気分が悪くなる。眉根を顰めながら、咳をこぼす。

「アレの近くに、帝が居るはずだ」

 そんなラグナに、やはりジンもまた顔色を少し悪くしながら、静かに告げる。

 ジンがどこでその情報を得たのかといえば、ジンも憶測でしかなかった。けれど自身の中の『秩序』が告げているのだ。

 ジンの言葉を聞いて、思わず汚い言葉がラグナの口をついて出る。突然の巨人の襲来に最悪だと思っていたのに、まさかそれが奴の仕業だと分かれば、尚更最悪だと思えて。

 でも、やはりか、とも思う。あんなものを持ちだす相手が今のところそれくらいしか思いつかないのだ。

「……やっぱりアレも帝の仕業かよ。あいつを止めねぇと……お前ら、手伝え」

 それなら尚のこと彼女を止めなければいけない。けれど、自分一人では到底できる気がしないから、協力を仰ぐ。ノエルは勿論だと頷きかけて――それを遮る声があった。

「兄さんは必要ない。アレは僕が止める」

「ジン!!」

 彼の言葉に、気付けば声を荒げて肩を掴んでいた。驚きにジンの緑の瞳が見開かれる。それをお構いなしにラグナは叩き付けるように叫んでいた。

「つまんねぇ意地張ってんじゃねぇぞクソガキ! どう見てもテメェ一人の手に負えるモンじゃねえだろうが!!」

 あんな強大なもの、いくらジンが昔と違い強くなったからと言って一人で倒せるはずがないのだ。だから、自身が気に入らないならそれでいいけれど、今だけは手を貸してくれと。

 ノエルも一緒になって頭を下げる。それらを見て、ジンは暫し黙り込み――。

「……協力するのは、今回だけだ。全てが終われば……殺す」

 渋々と、承諾する。最後に毒を挟むのはいつものことだとして多少言い返すことこそあれどラグナは少しだけ笑みを浮かべた。あの幼かった頃と違った生意気な態度すら可愛らしく思えた。

「んで、どうやって止めるんだ、アレ」

「今すぐ殺すよ兄さん」

 走りだして、ふとラグナがそう零す。手伝えだのと言っておいての間抜けた台詞に、思わずジンは青筋を立てる。けれど、ノエルの方が何か思いついたように声を漏らせば自然と視線をそちらに向けた。

「何だ、屑のくせに何か思いついたのか」

「……いえ、ただ、あの巨人の狙いはマスターユニットだと思うんです。なら、クシナダの楔が起動するまで守ればいいんじゃないかって。マスターユニットさえ無事なら、魔素にされた人も事象干渉で助けられるかもしれないですし……」

 屑、その言葉に眉尻を垂れながらもノエルはそう語る。魔素にされた人を本当に助けられるかと言われれば確証こそないけれど、可能性を潰すよりはマシだ。それに、自分の中の『蒼』の力がこれを告げているのであれば、マスターユニットを守れば救える確率は高いはずだ。

「……うっし、そうと決まれば……あのバケモンをぶっ倒しに行くか!」

 どう倒すのかは分からない。けれどいつも通り殴って斬れば良いはずだと軽く考えニッと笑っい、ラグナはその足を速める。

「はい! ……って、あれ? ラグナさん、見てください」

 それに元気よく返し、続けるようにして走り出すノエルであったが――ふと、タケミカヅチが居る前方に見慣れたものが見えた気がして、彼女は指を差す。

 

 

 

「セリカ、こんな所で何してやがる!!」

「あ……ラグナ」

 かけられる声に気付いて振り向くのはセリカだ。硬質なミネルヴァの肩をそっと撫でていた少女は、少しの驚きとバツが悪そうなのとをない混ぜにした表情を浮かべた。

 ラグナはそれを見た瞬間、やはり何か無茶をするのではと思って、口を開こうとする。けれどその息を吸う瞬間に通信越しにココノエが声をあげた。

「ラグナ、セリカの邪魔をするな」

「ココノエか! テメェ、セリカに何させるつもりだ!」

 頭に直接響くような声にももう慣れた。何度も聞いた声に驚くこともなく、ラグナは通信を繋げてきた彼女に乱暴な口調で問うた。何故彼女がこんな危ない場所に居るのか、何をさせるつもりだったのか。

「いいの、もしもの時は……って私がココノエさんにお願いしたの!」

 声を荒げるラグナに、セリカはココノエを責めないでと止めるように声をかける――が、目的語のないそれは逆にラグナを苛立たせた。だから何をだ、ますます声を大きくするラグナ。怒りと混乱で脳が焦げ付いてしまいそうだった。

 そんなラグナに、やがてココノエが口を開く。

「……セリカのリミッターを解除する」

 話さねば邪魔をされる、そう思って彼女は短くそう言う。解除という言葉に、ラグナが眉をひそめる。意味が分からないわけではない。ただ、リミッターを外す危険性を知っているはずのココノエが、何故わざわざそんなことをさせるのか。

「クシナダの楔が未だに起動されていない。このままだとあの『タケミカヅチ』にマスターユニットは破壊されるだろう。そうなれば、全てが終わりだ」

 ココノエの言葉は途中から聞こえなくなっていた。

 ただラグナの意思に反しココノエが行動を起こす理由に挙がった『クシナダの楔が起動できていない』という事実が、ひどく歯痒く思えて。

「クソッ、オッサン、まだなのかよ……!」

 そう言っても状況が変わらないことも、ラグナが起動を任せた彼だって一生懸命に闘ってくれていたことも、それで少し時間が足りなかっただけなのもラグナは理解していた。

 ココノエだって考えた上での決断なのだろう。これ以上好転を期待して待つだけの余裕はないのだから。

「そこに居る機械人形『ミネルヴァ』はセリカの力を増幅する、謂わば『アンプ』だ。ここでセリカの力を全て解放し、ミネルヴァによって増幅させれば。タケミカヅチの活動を抑制することができる」

 あの巨人――タケミカヅチは黒き獣に近い存在であり、周囲に魔素を必要とする。ならばセリカのリミッターを解除してやれば止められるはずだ。それでも駄目なら、彼女を弾頭としてタケミカヅチにぶつけると、ココノエは語る。

 ラグナは耳を疑った。そして次の瞬間には、ふざけるな――そう叫んでいた。

 そんなことを許すわけがない。リミッターを解除するまでは良い。けれど、弾頭にするだなんて、そんなことをしたら彼女が無事で済むはずがない。

 ラグナの声を聞き、彼女は溜息を吐く。彼がそう言うことを理解していたのだろう。

「ならば十分だ。十分以内にクシナダの楔を起動させろ。できなければ……セリカは消滅する」

「消滅……!?」

 言葉の不穏さとは裏腹に、至って冷静な彼女の声が逆にラグナを驚かせる。何故消滅するのか、何となく前に聞いた言葉で察してはいたが、信じたくなかった。ココノエが何か説明していた気がするけれど、それすらラグナの頭には入ってこない。

「……以上だ。他に妙案があれば教えてくれ」

 それだけを言うと、ノイズ混じりのココノエの声が聞こえなくなる。通信が切られたのだ。それを確認すると、セリカは微かに困ったような微笑みを浮かべて、ラグナにゆっくりと騙りかける。お願い、私にやらせて、と。

「自分にできることやらないで、それで全部駄目にしちゃったら……私、すごく後悔すると思う」

 セリカの言葉に、呻く。ラグナだって、ココノエ達の言葉に一理あることも理解していた。どうしてもそうしたくないというのは、自分の我儘であることも。けれど、何かをしなければ。

 そう思い、ラグナは虚空に話しかける。

「オイ、ココノエ。オッサンに繋げるか」

「……可能だ。ノイズが激しいが、気にするな」

 声をかければ、すぐにココノエは応答する。依然として表情は冷たいままだが、彼のあがきを最後まで見届けるつもりなのだろう。ココノエはそれに異を唱えることなく頷く。

 コンピューターのキーを叩く音が響き、やがてココノエが合図する。通信が繋がったのだろう。

「オッサン! 聞こえるか?」

「こ、この声はラグナ=ザ=ブラッドエッジでござるか?」

 突如頭の中に声が響いたことで、バングは驚いたような野太い悲鳴をあげる。ラグナも最初は慣れなかったのだから、当然だ。けれどすぐにバングは確かめるように話しかけてくる。

「オッサン、悪いが時間がねぇから用件だけ言うぞ。あと十分以内に何が何でも楔を起動させてくれ! 世界の運命とセリカの命がオッサンにかかってる!!」

 バングの声に応える言葉はなく、代わりにまくしたてるようにしてラグナは言う。無茶だとか、本当か、だとかバングが言うけれど、無茶でも何でも起動してもらわなければ困るし、ここで嘘を言ってどうするのだ。

 ラグナの言葉にやがてバングは力強く頷く。見えはしないが、相分かったという声がそれを伝えていた。そこで通信は途絶える。

「マジで頼んだぞ、オッサン。あとは……」

 祈るように、まだ向こうにいるバングへそう呟くと、ラグナは辺りを改めて見回した。少し先ではタケミカヅチがまた攻撃をしようと構えているし、他は崩れた歩道橋や信号、瓦礫。

 ラグナが考えていたのは、もう一人の味方の存在だ。楔を起動して転移させるにしても、自身らがタケミカヅチを抑えている間、誰が塔の基部を破壊するのか。

「……業腹だが、貴様達に加勢してやろう」

「お面野郎……!!」

 不意に、空気が動く。ラグナ達の背後で声がし、振り向いた先に居たのは白い鎧と面に身を包んだ人物――ハクメンだ。それは、ラグナを倒す事を目的としており何度か刃を交えた相手でもあった。が、身構えるよりも先に耳に届いた声が、その警戒を解く。

「丁度いいところに来た、頼みがある……!」

「貴様が私に頼みなど……まぁ良い。言ってみろ」

 ラグナの言葉を軽く一蹴しようとするハクメン。しかし、彼にも彼なりの事情があるのだろう。言いかけ、止め、素直にラグナが用件を言うのを促した。

「あの『塔』の根本の基部を破壊してくれ。テメェならできるだろ?」

 ハクメンの強さは、ラグナは身に染みて分かっていた。そして、それを見込んでの頼みだった。彼ならできる、と確信していた。そしてハクメンも同様に可能だと思ったのだろう。頷き、そして首を傾ける。破壊してどうするのだ、と。身体中についた赤い目が、ラグナをしっかりと見据えていた。

「アレを楔が……あぁ、そうだ。アレを楔の伝導体っつーのにして、窯に打ち込むんだよ。それで魔素が止まるっつー賭けみてぇな作戦だよ」

「……賭け、か。下らん事を思いつくものだ」

 よく覚えていた、とラグナは自身に感心する。

 そしてハクメンもまた、下らない、そう言いながらもそれ以上の言葉を言わないということは関心を持っているのだろうし、納得もしたのだろう。

「基部を破壊すれば良いのだな」

 静かにそう言って、ラグナが強く頷いたのを見ると、ハクメンもまた頷き走って行った。

 見送り、ラグナは虚空にまた声をかける。

「ココノエ、要はマスターユニットが破壊されなきゃいいんだよな」

「そうだ」

 応答するピンク色が首肯すれば、ニッとラグナは口角を持ち上げ、ならばとセリカに向き直る。

 リミッターを解除しろ、ただし、十分経ったら切れ。言う表情は、決意に満ちていた。

「話は簡単だ。セリカがタケミカヅチの動きを抑えてる間に、俺らがあの化け物をぶっ倒せばいいわけだ!」

 見上げる先には、自身らの何倍もある巨人。それに立ち向かうことを高らかに宣言し――ラグナは、ノエル達にも笑いかけた。立てた親指は頼もしく、ジンは馬鹿だと言いながらもふっと笑いを零した。彼はいつだって無茶ぶりをするけれど、何だかんだ困難を乗り越えてきたのだから。

「セリカ、俺達を信じろ」

「うん……!」

 セリカが頷くと同時に、三人はタケミカヅチへと駆けて行った。その背を見つめながら、セリカは祈るように胸の前で手を組み――目を伏せた。その姿を走りながら一度振り返った三人は皆、ある人物の面影を感じて――。

「セリカ、始めろ」

「うん。私も負けてられないもんね。ミネルヴァ、傍にいてね」

 そう言って、彼女は静かに口を開き――リミッターを解除した。魔素の流れが、止まる。

 イザナミはそれすら余興だとして、立ちはだかる三人に笑いかけた。

 

 

 

   4

 

「……此処か」

 イブキドの窯。いくつもの棺が乱雑に積み上げられたそこは、かつて十二素体を精錬するための実験を行っていた場所だ。魔素の濃度が高い。あの男が好みそうだと、ハクメンは思う。

「よぉ……てめぇが来たか」

 見回そうとしたところで声と足音が響き、見遣れば奥から見慣れた男が現れた。

 ユウキ=テルミ。

 ハクメンの身体についた十六の赤い瞳がテルミを睨み付けた。ハクメンの顔にこそ目はなかったけれど、『悪』へ至る筋――そして、悪そのものを見分ける十六の目が全身にあった。

「……テルミか。何者かは居るだろうと思ったが、また『残滓』の相手をすることになるとはな。否……この流れは」

 残滓。それは、ハクメンの身体である鎧『スサノオユニット』が本来別の人物の所有物だったことにある。記憶や、感情、それらが僅かに残ったものが、時折ハクメンを苛み苦しめたが。目の前の男はその残滓に似ていながら、それとは流れが違う。

 テルミは気怠く頷き、吐き捨てるようにして肯定した。

「ケッ、そうだよ、残滓じゃねぇよ……」

 残滓でないが、しかしその魂は不安定。

 それに、確かテルミはかつて共に戦った『彼女』に――。

「つまり、二重の者(ドッペルゲンガー)か……。その割には流暢に口を利く」

 皮肉るようにハクメンが言うと、テルミはひどく苛立たしげに舌を打った。あのトリニティさえ、あるいは入れ知恵をした吸血鬼さえ居なければ、こんなことにはならなかったのだ。

 テルミとして表を自由に動けるのは良いが、認識は飛びまくりでさっきから別の景色がチラつき、ウザったくて仕方がなかった。

「もういっそのことさぁ。てめぇに『躯』を返してもらうかって少し思ってたりしてな」

 冗談めかして笑いながら言うテルミに、ハクメンはしかし静かに応じた。

 返せるものなら、とうに返していると。

「だが……今は未だ、此の忌まわしい『力』に頼らねばならぬ使命が有る。貴様の全てを滅すると謂う『使命』がな」

 言った途端、ハクメンは空気が凍りつくような凄まじい殺気を帯びる。揺れる長い白の髪、背負った大太刀、アークエネミー『斬魔・鳴神(ざんまおおかみ)』を抜き真っ直ぐと構えた。

 それを見て、テルミの口角がますます持ち上がる。凶悪な笑みを連れて彼は口を開いた。

「ハザマに頼まれてこんなところに居たけどよぉ、なかなか面白い展開になってきたじゃねぇか。俺を滅するだぁ? 調子に乗ってんじゃねぇぞ馬鹿が!!」

 嘲るように、貶すように彼はそう吐き捨て、ハクメンを――ハクメンとなる前のその過去を知っている彼は『弱虫』だと称し、手を掲げる。空間を食い破り、ウロボロスが顔を覗かせた。

 それを見ても尚、ハクメンは剣を構えたまま。

「成らば我が『弱き』心も此処で『滅する』迄!!」

 高らかに声をあげ、彼は片足を引きずるように引いた。

「我は空(くう)、我は鋼(こう)、我は刃(じん)……我は一振りの剣にて全ての罪を刈取り、悪を滅する! 我が名はハクメン、推して参る!!」

 口上を口にし、ハクメンは地を蹴った。駆け、大太刀を突き出す。金属音が鳴って、じゃらりと伸びた鎖が弾いた。もう一本を掴み、テルミが射出させた先はハクメンの肩。物理的な攻撃よりも精神汚染に特化したそれはハクメンの肩に入り込み、噛みつく。

 噛みつかせたままに鎖を握り直せば、テルミの身体がハクメンの元へと運ばれ、隙を見せたハクメンに蹴りを一つ。

「ぐっ……」

「オラオラ、どうしたよ、えぇ?」

 技を練る時間さえあればウロボロスをその大太刀で引き千切ることも可能だっただろう。しかし手に纏った闇色の魔素の塊を叩き付けられれば思わず呻き、よろめいた。

 ウロボロスを引き抜き、また射出し刺突。絡みつかせ、床に引きずり倒し、技を練る時間のない彼を存分に弄んだ。テルミの後ろでは少女がそれを見つめていて、笑みを貼りつけたまま何気なくテルミは一瞥する。

「戦闘の最中に余所見とはな……っ」

「うるっせぇな弱虫が!」

 テルミが意識を逸らした一瞬でウロボロスを振り解き、すぐさま飛びかかるハクメンの刃が振り下ろされる。それを振り向きざまに抜いたバタフライナイフでテルミは受け止め、押し合う。両手で握った大太刀と、片手で持った細身のナイフでは圧倒的にナイフが不利だ。しかし軋む音を立て震えながらに大太刀を受け止めていた。親指の腹が鋭利な大太刀の刃に触れ、鮮血が滲む。

 ――もうひと押しだ、そう思った次の瞬間、テルミが消えた。否、数メートル離れた場所に気配はあった。理解はしたけれど、体重をかけていたハクメンは対象が離れたことにより踏鞴を踏むが、すぐに体勢を立て直す。

 隙を見つけて、早く倒さねば。しかし相手は素早く、対処しているだけでは技を練る時間を稼げない。黙り込みテルミを睨み付けるだけのハクメンに、眉根を寄せながらテルミは首を傾げた。

「何だよ、考え事かぁ? それとも降参しましたーってか、つまんねぇな。まぁ、そろそろ終いにしようと思ってたところだし良いっちゃ良いんだけどよぉ、ハクメンちゃん。ってわけで……さっさとくたばれや!」

 ぺらぺらと話す口が、弄ぶようにして振り回される鎖が、ひどく癇に障る。

 声を張り上げるテルミに、ハクメンが身構えた瞬間だった。

「……てるみ、さん?」

「な……んだ、と……」

 頭の中に声が響く。遠くから聞こえているはずなのに近く聞こえるのは、自身でありながら自身でない人物の感覚をそのまま引っ張ってきたからだ。

 テルミが声をあげるよりも前に、何かを察知したのだろう。名を呼ぶユリシアの声は震えていた。胸へ、違和感があった。まるで何かが突きつけられるような。

「テルミさん……ここまでです」

「クソ、眼鏡……ッ」

 トリニティだった。

 テルミらはトリニティを殺しはしなかった。ただ、一段落ついたら思う存分絶望を味わわせてやるため、気絶させるに留めていたのだ。しかし、それが間違いだった。

 ハクメンとの戦闘ともなれば、意識は自然と戦闘の方に集中する。そうすれば分離が完全でないハザマの肉体は無防備になるのだ。融合が残った状態でハザマが傷付けられれば、当然だがテルミにもダメージが通る。

 トリニティが目覚めたのは、誤算でしかなかった。

「……ごめんなさい。私は、こんな卑怯な手でしか貴方には近付けない……」

 静かに目を瞑って、トリニティが胸に突きつけたナイフに力を込める。

 ここまで来て謝るなんて、どんなお人好しなのだろう。思いながら、ハザマもテルミも咄嗟には動けなかった。突き刺さる刃は冷たいはずなのに、やけに熱を感じた。

 吸った息は肺で潰れ、代わりに液体が口をついて勢いよく溢れ出し、頬を、顎を伝う。

 痛みを、このときハザマは初めて感じた。それは物理的な痛みもあったけれど、それ以上に刺された胸の奥がズキズキと痛むのだ。

「……や」

 蚊の鳴くような声だったけれど、やけにその声が響いた。顔を上げ、ハクメンは声のした方向を見遣る。それは、とても蒼い色をしていた。

「な……」

 何故『それ』がここに居るのか、ハクメンは一瞬戸惑った。けれど、

「ハクメンさん、今です!」

「トリニティ=グラスフィールか!」

 頭に響くトリニティの声、およそ魔法による通信だろうそれにハッと正気付いて、ハクメンはテルミを静かに見据えた。

「……明鏡止水……我心よ。一振りの刃と化せ」

 トリニティが、情けない自身の代わりに隙を作ってくれたのだ。ならば、応えるまで。

 大太刀を構え、静かにそう紡ぐ。テルミは動けず、意識はここにないというように佇み、ただ息を切らしていた。

「劫魔滅殺……虚空陣奥義」

 ――『刻殺』。

 その刃は、一直線にテルミをとらえるかと思われた。

 視界の端を、甘い金色が掠める。

 甲高い金属音。

 散る赤い火花。

「……なん、だと!?」

「てるみさん、は……きずつけ、させません、です……っ」

 銀色に輝くそれは、鎌だった。こんな細い腕のどこにそんな力があるのか、少女の握った鎌の峰がハクメンの刃を間一髪で防ぎ、押し合う。

 驚きに、ハクメンは思わず飛び退いた。睨むというには程遠い、怯えが殆どを占めるその目でハクメンを見つめながら、彼女は後ろに立つテルミへ声をかけた。

「てるみさん、だいじょうぶですか……っ」

「……ああ」

 テルミはそこでやっとこちら側に認識が戻ったようで、ひどく驚きながらも返事を返す。

 それを聞くとほっとしたようにユリシアは胸を撫で下ろすけれど、それ以上に気になることがあって、振り向いた。

「てるみさん、はやく、はやくもどりましょう、です。じゃないと、はざまさんが」

 彼が、心配だった。テルミと身体を共にする彼が。冷たいところもあるけれど、何を考えているか分からないところもあるけれど、それでも大事な彼が。胸のざわつきはやがて痛みになって、まるで何かを警告しているかのようだ。

 しかしテルミは静かに相槌こそ打ったけれど、先ほどまでの彼とは打って変わって静かで。

「てるみ、さん?」

「……何故」

 ユリシアが疑問にテルミの顔を覗きこもうとするよりも先に、低い声が問う。それは、問うたというよりも、ただ漏らしてしまったに近い声だったけれど。それに思わずユリシアがハクメンに視線を戻すと。

 彼は、先ほどのように襲ってくる気配はなく佇んでいた。

「何故、貴様が此処に」

「……え?」

 思わず、聞き返した。何故、自身がここに居るかだなんて。そんなの、決まっている。

 ただ、大切なひとと一緒に居るために、着いて来ただけだ。

 けれど、彼の言葉は単純にそれだけじゃない気がして。

「随分と厄介な者が現れた」

 どういう意味だ、と問い返すより前に、ハクメンは静かにそう紡ぐ。

 ますますわけが分からなくなって、ユリシアが眉根を寄せ、口を開こうとしたが。

「退け。其処の男は我が使命により倒すべきだが……善悪のない『神』を相手するよりも、今はやらねばならぬ事があるのでな。次に会った時は、仕留める」

 追い払われる。神とは、誰のことなのだろう。分からないし気になったけれど、それよりも襲って来ないのならば、言われた通り退くのがいいだろう。大切なひとを守る方が先決だ。

 だから、ぺこりと頭を下げテルミに駆け寄る。放心していた彼を正気付かせて、引っ張る。

 するとテルミは、意外にも一つ返事で素直に従うのだ。

 ハクメンすら意外に思った。自身の判断に茶化すような一言でも言われると思っていたからだ。

 無言で去って行く彼らを見ながら――彼は、改めて窯の中央を見た。

 そこには、黒々とした―――しかし蒼い光のはしる巨大な塔の基部が立っており。

 

 

 

「英雄さんが、基部を破壊したわ」

「良し、オッサンはまだか!」

 頭に響くレイチェルの声が、上手く行ったことを告げる。ならば後はバングが楔を起動するのを待つしかない。彼はまだなのだろうか。襲ってくるタケミカヅチの攻撃を必死に躱し、ときに刃を打ちつけながら彼はそれ以上ができない自身を恨んだ。

 一方、バングの方はといえば未だに行く手を阻む二人によって起動にこぎつけられずにいた。

「行かせないわ!」

 ライチの萬天棒による攻撃が、離れようとするバングの背を打つ。

 痛みに呻き、よろめく。しかしそれでもバングは必死に立った。世界のため、否、助けたいものを助けるために。

「ぬおぉ……まだだ、まだでござる……! 殿よ、拙者に力を!」

 己を奮い立たせるように、拳を握り叫ぶバング。

 殿と呼びずっと慕ってきた、師であるテンジョウが、釘の中から自身を見守ってくれているような気がして、彼の力があればきっとこの窮地も乗り越えられる気がして。

「他に頼るか。実に無駄な魂だ。それが『人』の弱さだと、何故気付かん……」

 しかし、それを見てレリウスはつまらないものを見るように、冷たく『無駄』だと吐き捨てた。

 彼の目指すは孤高にして最高の魂。孤独こそが強さを生むと信じて疑わない彼の『眼』に、バングのそれはあまりにも憐れに映った。

「違う、それが『人』の強さだと知れ!」

「ぐっ……!?」

 突如、背後から声が響く。老いた声ではあったが、芯のある、よく通る声だった。

 ヴァルケンハイン。現れると同時、脚を爪を剥きだしにした狼のものにして振り向こうとしたレリウスの横腹に蹴りを入れた。足が沈み、爪が食い込む。

 奇襲とも呼べるその攻撃によろめいて地に倒れ込むレリウスを、ヴァルケンハインは冷たく見下ろした。

「行け、シシガミ=バング!!」

 しかし、その光景にバングもまた呆気にとられており、立ち尽くす彼に視線だけを向けて彼は叫ぶ。ハッとして、かたじけない、そう言えば強く地を蹴り、跳んだ。

 ライチが飛ばす棒が掠りながらも、拘束された楔の上に降り立つ。ライチがひどく悲しげな顔をするのが見えて、バングは顔を逸らした。

「レイチェル様、シシガミ=バングが楔に取り付きました!」

 バングが楔に乗ったのを確認すると、すかさずヴァルケンハインが叫ぶ。告げる先は自身の主であり、楔を転移させる役割を担うレイチェル=アルカードだ。通信を受け取ると、レイチェルはヴァルケンハインを短い言葉で評価して、すぐさま意識を集中させる。

 空間が歪み、薔薇の香りを仄かに残して楔がその場から消えさる。拘束していた鎖は、突如対象物がなくなりだらりと垂れさがり――起き上がったレリウスが、溜息を吐いた。

 

 

 

「なっ、転移……? ここは!? テイガー殿は!?」

 湾曲し、歪み、揺れる景色に思わず口許を覆う。しかしそれも一瞬のことで、突然に景色が鮮明になる。辺りは暗い空、空、下に瓦礫たちと――大きな、塔。

 しかし聞いていた話ではテイガーという男が居るはずだが、それが見当たらない。困惑の表情を浮かべ、辺りを見回すバングの耳に、低い叫び声が聞こえた。

「跳べ、シシガミ=バング!!」

 驚き。辺りに声の主の姿は見えないが、はっきりと聞こえる声にバングは目を見開く。

 どうやら自身はどんどん降下しているようだが――。

「バング、その釘でクシナダの楔を思いっきり打ちなさい! 早く!!」

 動けずにいたバングの耳に、またしても声が届く。今度はあの少女――レイチェルのものだ。

 その言葉を聞いて、やっと己がどういう状況にあり、何をせねばならないのかバングは理解した。急かすようなレイチェルの声に促され、強く頷き、全身に力を込める。

 金色の光を纏って、バングは脚をバネのようにして――足元を、蹴った。

 高く、高く跳躍する。光は筋を描き、天高く上昇し。

「殿……拙者の『願い』聞き遂げて欲しいでござる」

 静かに目を伏せ、背後に話しかけるようにしてそう呟いた後、バングは大きく目を開く。眼下に楔を見据え、今、楔を起動する。

「轟け! 拙者の魂よ!」

 背に担いだ『鳳翼・烈天上』を手に掴み、抜き取る。その先を真下に向けて、バングは叫んだ。

「……起動するでござる、鳳翼・烈天上ぉぉお!!」

 言うや否や、凄まじいスピードで落下し始めるバング。しっかりと、真っ直ぐ釘を支え、向かうは楔。

 轟音と共に、クシナダの楔のコアである烈天上が、白銀色のそれに突き刺さる。

 その瞬間、刻み込まれた紋様と文字が紅く光り――ゆっくりと、落下の速度を速めた。

 やがてそれは塔の頂上に突き刺さり、煙を上げて、基部を斬られた黒色の塔は深く、深く沈み始めた。

 だんだんと頂上の高度が下がっていき、イブキドの中央にある窯へ突き刺さる。

「上手くいったか!?」

 やがて、塔が見えなくなり、音も止まった時。ラグナがそう叫ぶ。

 タケミカヅチが呻き、動きが鈍くなる。魔素の活動が止まったと、ノエルが漏らす。すなわち、賭けのようなその作戦が成功したことを示していた。

「……レリウスめ。しくじったか」

 ノエル達の術式が起動しなくなったが、同時にタケミカヅチも隙だらけだ。

 双眸を冷たくすぅっと細めて、イザナミが呟く。

「ラグナ、今よ! 蒼の魔道書を起動なさい、タケミカヅチを倒すのよ!!」

「つっても、術式が使えねぇんじゃ……」

 レイチェルの声が頭の中に響く。しかし起動しろと言われても、クシナダの楔が起動し術式が使えない今、どうやって起動しろと言うのだろう。

「言っただろ、『その時が来たら働いてもらう』と! クシナダの楔はセリカと同じ波長だ、キャンセラーの力が働く。『蒼の魔道書』ならば、この状況でも動ける!!」

 躊躇うラグナの頭に、またしても声が響く。今度はココノエのものだ。人の頭の中で好き勝手に叫んでくれる、と痛む頭を押さえながら思いつつ、ラグナはそれなら……と頷いた。

 後ろで、セリカがラグナを呼んだ。何を言うでもなく、ただ、頑張れと背中を押すように。

 振り向き、笑いかけ首肯するラグナ。それを見て、静かにイザナミは毒を吐いた。

「ならばタケミカヅチ……余が力を貸してやろうぞ」

 腕を広げ、魔素の結晶である彼女は悠々と口にした。タケミカヅチの身体にはしる赤黒い光がいっそう強くなり、咆哮をあげる。

 それを受けてラグナもまたタケミカヅチを睨み付けると、高らかに、溢れ出るままに口にした。

「第六六六拘束機関解放、次元干渉虚数方陣展開! ブレイブルー、起動!!」

 蒼の魔道書を起動させたことにより闇色の魔素を腕から吹き出しながら、大剣を握りしめ、ラグナはタケミカヅチに、そしてその傍らに浮かび佇むイザナミに――声を張り上げ叫んだ。

 それが届いたのか、それともその姿にただ思っただけなのか――イザナミは、その姿を見て漏らした。

「死ね……。ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 

 

 

 ラグナは単身でタケミカヅチに対峙した。先ほどまで共に闘っていたジン達は置いてきたのだ。射出される細い光線を大剣の広い側面で弾き返し、駆ける。

 タケミカヅチが地を殴りつければ地震のように足下がぐらつくが、その瞬間前に飛ぶことで衝撃を回避。地に足がつくとまた前進、すぐ目の前まで巨人が迫れば、その鼻っ面に剣を叩きこんだ。低い悲鳴をあげる巨人に、飛びかかり、追撃。腕に纏った闇色の魔素が獣の頭の形になって巨人に喰らいつく。

 そんなことを繰り返していくうちに少しずつダメージも蓄積されていったのだろう。上半身を持ち上げて逃げようとする巨人。その胸がさらけ出される。赤いコアのついた胸が。

「そこに居るのは、分かってんだよ……!!」

「な……」

 巨人からは、知った感覚があった。

 迷わずそのコアに剣を叩き付ければ沈む感覚と共に、露骨に声をあげる巨人。ここが、巨人の弱点なのだろう。そして、そこに彼女が――。

 だからだろうか、イザナミも驚いたように目を丸くしていた。

「行くぞ、この野郎!!」

「ラグナ、待って!」

 だからそこに侵入するべく、ラグナが声をかける――も、その後ろから制止の声がかかる。

 振り向く先には、セリカ。置いてきたはずの彼女は意外と近くに来ていて、傍に居るミネルヴァへ何かを話しかけた後、こちらへと迫って来た。

 来るな、と言おうとしたときには遅く、ラグナは迫ってくるセリカ達と共に巨人の胸へと突っ込んでいた。ミネルヴァに引っ掴まれて。後ろでノエルが声をあげた気がした。

「……」

 

 

 

「……いや、いやです」

 ユリシアが戻って来たとき、そこにハザマ達の姿はなかった。

 あるのは先からあった池と、ぽたぽたと垂れた血痕だけ。

 飛び散った水と、テルミがそこを見ていることからして、きっと、彼は。

「……ここに、おちた……ですか?」

「あぁ。あの女に刺されて、一緒に」

 否定して欲しかった。信じたくなかったけれど、首肯するテルミに、彼女は目を伏せる。

 また、彼を守れなかった。テルミと同じくらい大切なハザマを、今度は自分の手ではないにしろ、前回は望まれたことにしろ。また、助けられなかった。

「……っ」

 たまらず、目を開け水面を見つめる。

 気付けば、飛び込んでいた。

 

 

 

「いたた……」

 全身を打ったような鈍い痛みに目を覚ます。

 ゆっくりと身体を起こし見回す辺りはどこまでも広がる黒。暗い黒一色。けれど自分や隣に居る少女は鮮明に見えるのが不思議だ。

「って、セリカ、この馬鹿!! なんで着いて来た!」

 思わず、叫んだ。

 そうだ、何故この少女はこんな危険な所にまで着いて来たのだ。危険なことは、無茶なことはするなとあれほど念を押したというのに。

「だって、ラグナ一人で行っちゃうから」

 ラグナの怒声を受けて、びくりと肩を震わせたあと、彼女がそう言い返す。

 ぷっくりと頬を膨らませて唇を尖らせた様は、まるで言い訳をする子供のようだ。

 実際、理由にもなっていないような理由を並べる彼女。ラグナは溜息を吐いて、額を押さえた。それから、セリカの横を見て尚更頭が痛むのをおぼえて。

「お前も来たのかよ……あぁ、確か俺のこと掴んでたな。セリカを護れって言っただろ、頼むよマジで……。取り敢えず、コイツ連れて先にここから逃げて……」

「やだ」

 どうやら人の命令が理解できるらしいその機械人形、ミネルヴァに話しかけるラグナであったが、言い切る前にセリカが首を横に振る。

 たった二文字で拒否を示す少女はやはり子供っぽく見えて、そうでないと分かっていても、遊びに来たのと勘違いしているのではと思わずにはいられなかった。

 ミネルヴァも、護る対象であるセリカの意思を尊重したがっているのか動こうとしない。ここがどこか分かっているはずなのに、だ。

「にしても……今、何時なんだろ」

 渋々彼女らが帰るのをラグナが諦めたところで、ラグナの頭痛など露ほども知らず、セリカが口から零す。出てきたのはお昼ほどだったと思うけれど、あれからどれくらい経ったのだろう。なんだかここに居ると時間の感覚が曖昧になる気がした。

「さぁな。この中は時間の流れがおかしい。遅いのか早いのかまるで分からねぇ……『境界』の中と同じだ」

 どうやらその感覚は正解のようで、頷くラグナに相槌を打とうとしたときだった。

「その子が居るから、この中は『加速』しています」

「ニューか。居たな、やっぱり」

 先ほど感じた、知った感覚はやはり彼女であったか。

 過去に行って、黒き獣の中で会ったのと同じ。似た存在であるこの巨人の中にも、彼女はやはり居たのだ。

「ずっと待っていたんですよ。でも、なかなか来ないから心配しました。『ラグナ』さん……」

 青白い頬に優しげな笑みを貼りつけて、彼女はラグナを呼んだ。

 いつもの呼び方と違ったそれに、そしてその話し方に、ラグナは一種の苛立たしさと気分の悪さをおぼえた。今のニューの話し方は、ノエルのものだったからだ。

 先ほど同化したと言っていたが、きっとそれに関係があるのだろう。

「酷いですね……私は『ノエル=ヴァーミリオン』でもあるんですよ」

「違う……。テメェは『ニュー』だ」

 現に、彼女だって自身はノエルでもあると主張したことからそうなのだろう。

 けれど、やはり彼女はノエルではない。その姿だけじゃない。纏う雰囲気も、本質も、いたずらっぽい性格も、結局はニュー・サーティーンなのだ。だからこそ、わざわざこんな話し方をしたのだろう。

「知っていますか、ラグナさん。私は『ノエル=ヴァーミリオン』と同化して知ったのですが」

 ラグナの言葉を無視して、話を変えるようにニューが問う。

 何を、という目的語がないせいでラグナは首を傾けた。

「ここイブキドはですね、本当は私が『消えていた』はずの場所なんですよ」

 正確にはノエルが。そう訂正して、彼女は語った。

 その表情こそただの少女だったけれど、発言の節々は自身がノエルだと疑わないところがあって、本当に同化してしまったのか、とラグナは思う。

 けれど、それよりも気になったのは、彼女の発言の内容だった。

「ノエルが消えたはずの……場所?」

 ラグナの言葉に頷いて、ニューは目を僅かに伏せる。その瞳には暗い色が宿っていた。

「はい、そうです。あのイブキド消滅の日、ノエル=ヴァーミリオンは黒き獣として精錬されていたんです。……ところで、ラグナさん。『黒き獣』がどうやって生まれるか、知っていますか?」

 黒き獣。それは、人類が生み出し、人類を、魂を食い散らかした怪物。

 その暴れっぷりと、黒色を圧縮したようなその姿から、黒き獣と名付けられ恐れられたその怪物は。ニューたち素体が持つ『ムラクモユニット』と『蒼の魔道書』が必要になる。

 心臓であるムラクモユニットと、身体である蒼の魔道書が窯で融合し溶け合うことで、黒き獣が生まれる。ニューが黒き獣になるためラグナを求めたのもそれが理由だ。

 そして、イブキドが消滅した日、精錬されていたのは第十二素体であるノエル=ヴァーミリオン。そのために使われた『蒼の魔道書』は誰か。ニューは問う。

 ラグナではない。ならば、ラグナに思い当たる人物は一人。

「そう、ラグナさんが心に描いた人ですよ。ノエル=ヴァーミリオンは、あの男と融合するはずだったんですよ。だから失敗したのかもしれませんけど……」

 だってそうだろう、彼女は言う。

 寂しげに、悲しげに、そして憎しみを込めて、彼女は呟いた。

「私から、大事な家族を……全てを奪って。心をめちゃくちゃに壊したあの男の心臓になるなんて……『私』だったら死んでも嫌です」

 低く、地を這うような声はぞっとするほどの憎しみに満ちていた。

 しかし、すぐにニューは顔を上げるとぱっと笑った。

「でも良かったです。この『タケミカヅチ』が全てを吹き飛ばしてくれましたから」

 その台詞は、あまりにもその口調には合わない。やはり、彼女はどこまで行ってもニューなのだ、とラグナは思ってしまった。

 世界を、全てを憎む彼女だからこそ、簡単にそれが良かったと言えるのだ。

 が、ラグナはふとニューの言葉を思い出して――首を傾ける。

(今『家族』を奪ったとか言ったか、コイツ。素体に『家族』だと?)

 素体は作られた存在のはずだ。ならば、家族と呼べる存在も居ないはず。だというのに、何故彼女は家族、なんて言葉を口走ったのか。まさか、彼女達が自身の妹にそっくりなのと、何か理由があるのか。まさか、ノエルは、ニューは。

「さて、私の話は終わりです。ラグナさん。……貴方は、この可哀想な『ノエル=ヴァーミリオン』を殺しに来たんでしょう? ねぇ、『ラグナ』……ククク、アッハハハハハ!!」

 だんだんと、声の調子が変わっていく。

 それは、ラグナのよく知るニューのものだ。

 媚びつくような甘い声は、焦げてしまいそうなほど熱い熱情に満ちていた。 

「フフ、おいでラグナ。また抱きしめてあげる」

 彼女は抱擁を求めるように両の腕を広げ、あどけなくも歪な微笑みを湛えた。

 自然と腰に携えた大剣に手をかける。ギリ、と握りしめる手を見れば、ますますニューは歓喜に青白い頬を赤らめる。ラグナの右目と同じ赤い瞳は、先ほどの暗い色をそのままに輝いていた。

「ニュー。俺はテメェを殺しに来たわけじゃねぇ。ぶっちゃけ、お前殺しても死なねぇし……」

「ラグナとライフリンクで繋がってるからね。一緒に死なないと。なんか、運命の糸みたいだね」

 睨みつけるラグナに対して、ニューは表情を変えずただラグナだけを見つめて、腕を下ろし小首を傾ける。

 運命の糸。そう言う少女には、勘弁してくれとラグナは思う。

 そして、改めてラグナは思った。

 ここで、彼女との長く続いてきた腐れ縁に決着をつけなければと。そうしなければ、全ては進まない。この少女のことだって助けられない、助けたいものを助けられない。テルミのことだって、それと一緒に居るあの少女のことだって何一つ分からないまま解決しない気がした。それに。

「え~、ニューは永遠にラグナと殺し合っていたいな」

「いや、終わりだ。たった今、お前は俺に『助けて』って言ったからな」

 恐ろしいことに、ずっと殺し合っていたいと甘い声で告げる少女にも彼は動じない。ただ静かに告げるラグナに、露骨にニューは眉を持ち上げた。

「ニュー、そんなこと言ってないよ」

「言ったね。今の話を俺にしたこと自体、『助けて』って言ったようなもんだ」

 訝しげにラグナを見つめるニューに、しかしラグナは首を振って言う。眉根を寄せるニュー。

「ラグナ、あんまりふざけてると本当に殺すよ」

 低く、早口でニューが紡ぐ。ラグナに怒りのような感情を込めて『殺す』と告げたのは、これが初めてだった気がした。

「殺せるもんなら殺してみろ。御託はもういらねぇ、かかって来いよ『小娘』。悪ぃが、俺の助け方は少々荒っぽいぞ」

 ラグナが大剣を前に構える。それを見て溜息を吐き、ニューが両腕を広げた。

 纏っていた白いケープを取り払いながら宙に浮かび上がる少女。いつもの甲高い笑いはなく、彼女は静かに口を動かした。

「ムラクモ起動」

 背後に巨大な剣が現れる。ケープが地に着く直前、彼女は剣と共に光に包まれ――。

 足をつけた少女は、アークエネミー、『輝神(きしん)・ムラクモユニット』に身を包んでいた。

 背に浮かぶ八本の翼のような剣、足や腕に纏った硬い装甲、身体はラインの出るスーツに覆われ、顔には単眼のバイザー。

「……ニュー」

 

 

 

 ――どれくらい経っただろう。

 体感では結構な時間が経った気がするしお互いボロボロだけれど、果たして外はどうなっているのだろう。皆は大丈夫なのだろうか。自身らが内部で闘っていること、そしてクシナダの楔が起動されたことにより手出しできないとは思うけれど。

「うおっ……」

 考えている余裕はなく、飛びかかる少女。盾のように押し出された四本の剣を、大剣で押さえればもう四本の剣が鎌首を擡げ、光を纏いラグナに向けられる。見上げて見た先の剣がこちらに射出される直前に屈んで前に転がって避け、跳ね起き、振り返ろうとする彼女に剣を叩き付ける。

 飛び、彼女の身体は壁に叩き付けられた――かと思えば、砂塵の間からするりと現れる。

 踊るように、滑るように空を駆け近寄る少女。

 近寄る少女が両手を掲げれば光の剣が生まれ、前に腕を振り下ろすことで射出される。

 横に身体を動かしながら、射出された剣を自身の大剣でいなす。

「おらぁっ!!」

 そのまま剣が通り過ぎた瞬間剣を回し、握り直したところで駆ける。途中、腕を構える。

 蒼の魔道書を起動させ、剣に魔素を纏わせながら、強く、向かって来た少女に大剣を振り下ろす。咄嗟にニューは浮かべた剣で自身を守るも、力負けして敢え無く床に叩き付けられた。

 悲痛に濁った悲鳴が彼女の喉から溢れ出る。

 信じられないというように、彼女はその上体を起こしても尚、動けなかった。

「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ!! ニューが力負けするなんて、ラグナがこんなに強いはずがない! なんで、どうして……っ」

 顔を上げ、近くに佇んでいた銀髪を見上げる。

 確かに彼女は強かった。いつもいつも、何度闘っても、ラグナはまともに勝てた試しがなかった。なんとかして破壊した素体は居たけれど『ニュー』に勝てたことはない。

 だが、ここではどうだ。

 いつもの彼女に比べて動きは鈍く、今だって充分ラグナに隙はあるのにもう闘おうとしない。

 それに気付けば、もう彼女の装甲は傷だらけで、彼女もどこか弱っていた。

「……俺が強いんじゃねぇよ。テメェが弱いだけだ。この『最凶』が」

「っ……うそ、だ……」

 見下ろし告げられた言葉に、尚も信じないと少女は呟きながら――目を伏せる。

 今回の彼女は弱かった。原因は分からないけれど。

 倒れる身体を慌てて支え、ラグナはそっと抱き上げた。

「ラグナ!」

 戦闘が終わったのを察して、セリカがタッタと駆け寄る。

 ポニーテールにした茶髪を揺らしながら走る彼女にやっと安堵する。

「は――っ、やっぱコイツ、洒落になんねぇくらい強いわ……」

「大丈夫?」

 眉尻を下げながらけらりと笑ってラグナが吐き出す。

 心配げに顔を覗きこむ少女に頷いて、それからラグナは抱えた少女の顔に視線を落とした。

「だけどコイツ、眠ってる顔は本当ノエルそっくりだな」

 前々からそっくりだと思っていたけれど、落ち着いてしっかり見てみれば尚更そっくりに思えて。顔にかかった前髪をそっと払ってやる。同意を示すセリカ。暫しその寝顔を見つめた後、ラグナは顔を上げた。見据える先は先ほどまで気付かなかった、自身らが入って来たのだろう場所。

 一部だけ、黒の中にぽっかりと赤が大きく鎮座し、そこからは微かに空が透けて見える。

「おし、戻るぞ。コイツを出せば、タケミカヅチは完全に止まるはずだ」

「うん、戻ろう!」

 

 

 

 黒い巨人の胸にある赤いコアが水面のように揺れる。

 ゆっくりとそこから現れるのは、茶髪の少女と、もう一人の少女を抱える一人の男。ふわりと落下し、足をつけた彼らを出迎えるのは先ほど置いてきたジンとノエルだ。

「ラグナさん! 大丈夫ですか?」

 心配するようにラグナを見上げるノエルに、ラグナは頷く。それから状況を把握するべく問うた。自身らが居なくなってからどれくらい経った、と。

「えっと……ほんの、数秒だと思います」

 答える少女に少し驚く。あの長い戦いは、彼らにとって数秒のできごとだったのか。

 けれど、それもあの巨人の中なら有り得ることだとして、ラグナはできるだけ平静を装い相槌を打つ。そんなラグナの腕の中にノエルが視線を落として、あっと声をあげた。

「その子……」

「あぁ。巨人の中で拾ってきた。悪いがセリカ、治してやってくれ」

 ラグナもまた抱いた少女を見下ろし答えると、セリカに視線を向ける。

 分かった、と頷く少女の前にそっと寝かせ、差し出せば彼女が治療を始め、ニューの身体はセリカの手から溢れる温かな光に包まれる。

 それを横目にラグナとノエル、ジンは向かい合い――。

「愚かな。何故それを殺さぬ。それは厄の元凶だぞ……」

 ラグナが振り向き、ノエル達もまたその方向を見た。

 白い長髪に、白い面。白い鎧、背には大太刀を。ハクメンだった。

「うるっせぇな、俺が殺したくねぇんだよ」

 塔の基部を破壊してから戻ってきた彼の出現は唐突だった。今まで気配を感じさせなかった彼にしかし、さしてラグナが驚いた様子はない。

 乱暴に言う彼に、ほう、とハクメンは漏らす。あれだけ素体と窯を破壊して回っていた彼が、ニューがどれだけ恐ろしい存在か分かっているはずの彼が、殺したくないと言うのだから。

「ならば、私が代わりに止めを刺してやろう。退け、セリカ=A=マーキュリー」

 すっと担いだ大太刀を抜き、寝かせたニューに切っ先を向ける。

 治療する少女を言葉で退かそうとするが、しかし顔を上げた少女は首を横に振った。

「駄目。殺さないで、ハクメンさん」

「……聞けぬ願いだ、セリカ=A=マーキュリー。それは必ず、この世界に厄を齎す」

 悲しげな目で必死に、殺さないで、と頼むセリカ。けれど、それにはハクメンもまた首を横に振る。彼には見えるのだ。凶(まがと)に至る線が。そして、その線はニュー・サーティーンからも出ていることが。

 ならば、殺さなければいけない。それが彼の使命なのだから。

 だが、ラグナも同様に殺したくはない。故に、剣を構え阻止しようとした矢先。

「……宴も終焉のようだの」

 幽玄な声が響く。降下してくる少女は、先までタケミカヅチの傍らに浮いていた人物。イザナミだ。たっぷりとした幾重もの着物に身を包んだ少女は、暗い紅の瞳でラグナ達を見つめる。

 おぞましい気配だった。見ているだけで魂を抜き取られそうなその空気は『死』という大きな存在に相応しい。

「サヤ……!!」

 ラグナがその名を呼び、腰に戻していた剣の柄をまた握って勢いよく引き抜く。

「ここまでだ、テメェは俺が終わらせてやる!!」

 終わらせなければならない。彼女らの企みも、こんな形に成り果ててしまった彼女のことも、全ても。

 大剣を構え、ラグナはそう叫ぶけれど、それに彼女は笑むことも眉を寄せることもせず、ただ無言、無表情でラグナを見据えていた。

 それに一度剣を振り上げようとするラグナであったが、ぴくりと動かしただけで動けずじまい。震えだす手が彼女の赤い瞳に映り込む。

「どうした。余は抵抗せぬぞ。それとも、余が欲しいのか? 『兄さま』は」

 わざとらしく兄と呼んで、少女は目を微かに伏せる。あからさまに、その呼び方に反応し、瞳に怒りを宿すラグナ。それを上目に見て、彼女は視線を落とす。

「……『兄さま』は『また』私を拒むのね……」

 地を見つめ呟く声は小さく、ラグナは聞き取れなかったのか眉根を寄せ首を傾ける。

 しかし、彼が何かを言いかけるより早く、彼女は顔を上げた。

「其方では、余は救えぬ……永遠に、な」

 ラグナを静かに見つめ、悠然と彼女がそう紡いだ瞬間だった。ラグナの身体に、衝撃がはしる。痛みだった。突っ張る身体。身体を前に折り曲げ、口から呻きが漏れる。

 ゆっくりと、痛みがはしった方向――自身の腹を、見下ろす。そこには見慣れた光の剣が突き刺さっていた。

 どくどくと脈打つのを感じるそこからは夥しい量の鮮血が流れ出て、黒いインナーや赤いジャケットに赤黒い染みを作り上げていく。

「『助ける』なんて……悲しいこと言わないでよ、ラグナ」

 剣はニューのものだ。

 甘くもどこか冷ややかなものを感じる声でニューがそう囁く。ラグナの息は荒く、首に脂汗の玉が浮かぶ。テメェ、と漏らした声は存外掠れており、笑みを浮かべる少女を睨み付けるも覇気はない。

「ゼィア!」

 ハクメンが疾(はし)り、大太刀を薙ぐ。触れた感触はあった。けれど、ハクメンはひどく驚いた様子で声をあげる。何故ならば、気が付けば彼女は後ろに立っていたからだ。

「……『刻』を殺す剣か。しかし残念であるな。余の『刻』は既に死んでおる」

 彼女を止めるべく、終わらせるべく。剣を振ったハクメンの後ろで、少女の唇が紡ぐ。

 ゆえに、其方の剣は、余には届かぬ――と。

 彼女が手を掲げる。瞬間、ハクメンが声をあげ、途端消える。いつの間にか、イザナミの隣には、ツバの広い帽子を被った『誰か』が居た。

「戻ったか、ファントム」

「……嘘、でしょ?」

 セリカが、信じられないといった表情で、ぽつりと零す。ファントムと呼ばれたそれを見る瞳が揺れる。それは、それが纏う気配は、正しく――。

「セリカちゃん、キサラギ少佐。私の後ろに……」

 ノエルが一歩前に歩み出て、ジン達を守るように腕を広げた。

 眉根を寄せるジンの前で、ノエルは目を伏せ、そして一言、声をあげる。途端、彼女は光に包まれ――。

「神輝・召喚」

 そこには、肌の露出が多い装甲に身を纏った、ミュー・テュエルブが立っていた。

 これ以上好きにはさせない、叫ぶ少女の目は澄んだ蒼だ。それを見て、愉快げにイザナミが目を細める。

「ほう、神殺しの剣クサナギか……これは恐ろしい。ならば、対抗せねばならぬな」

 そう言って、笑いすら含んで、彼女は静かに紡ぐ。

 目覚めよ、獣。

 言った瞬間、近くで苦痛に満ちた悲鳴があがる。ラグナのものだ。腹を押さえていたはずの彼は今度は身体を弓なりに反らせて、腕から夥しい量の闇色の魔素を吹き出す。そこに、ジンはいくつもの首を擡げた黒き獣の影を見た気がした。

「ぐあぁあぁぁ……! ジン、ノエル……セリカを連れて、ここから逃げろ……っ」

 悲痛な声をあげながら必死に暴走しそうになる身体を抑え、ラグナは途切れながらも伝える。

 すぐにまた悲鳴をあげるラグナの痛々しい様を見て、ジンは舌を打った。

「ミネルヴァ、セリカちゃんを連れて逃げて……っ」

 ノエルもまた、困惑しながらも振り返り、セリカの傍らに居る機械人形へ声をかけた。

 セリカが危険だとその人形も判断したのだろう。声をあげ、抵抗する少女の腹を抱きかかえ、走りだす。ラグナ、叫ぶ少女を見送り、ノエル達は改めてラグナを見た。

「逃げろ、つったろ……この、馬鹿が……」

 ラグナの言葉に反して、逃げずに残る彼らを馬鹿だと言う。多少理性は残っているラグナであったが、気を緩めればすぐに飲み込まれてしまいそうだった。

「……ハザマもレリウスもおらぬか。まぁよい。彼らとの契約もこの『宴』まで。行くぞ、ファントム」

 ふと、イザナミが動く。

 浮かび上がり、足元に魔法陣を浮かべる少女らに、ノエルがいち早く気付き追おうとするも遅く、彼女らは消え、踏鞴を踏む。

「ノエル、逃げろ……っ」

「……ラグナさん」

 

 

 

「マスターユニット、アマテラス。何度この下らない悪夢を繰り返せば気が済むのだ」

 静かに、少女は目の前の巨大な機械に、その中の『何か』に話しかける。

 悲しむように、憎しむように、優しくも冷たく。

「其方を破壊できなかったのは残念だが……余興は終わりだ。神儀を始める」

 告げ、彼女は見下ろす。そこにあるのは、ニューが中から居なくなったことにより動きを止めた巨人だ。

「本来の役目を果たせ、巨人よ」

 言われ、咆哮をあげる巨人。

 それは、突如形を変える。小高い山ほどもあるその黒い影はぐにゃりと歪み――浮かび上がる。それは、球体と呼ぶのが相応しい形状だった。

 上昇を始めたそれは、手を掲げるイザナミの頭上にまで来ると、静止。

「人が創りし『罪』。忌むべき巨人を依代として、古き『世界』を集め……新しき『世界』を生む器となれ……『蒼の繭』よ」

 

 滅日は神還りと成った。蒼に選ばれし『資格者』のみが世界に残る。

 

 告げ、彼女は目を伏せた。

「ツクヨミよ、選択の刻だ。汝の役目を果たせ」

 厳かな声で告げる少女の声を受けて、応えるのは――。

「ツクヨミユニット。マスターユニットを護りなさい」

 レイチェルの声に呼応するように、金の紋章が浮かび上がり、マスターユニットに吸収される。

 ツクヨミを受け継ぎし少女の選択はそれであった。

「……それがお主の選択か」

「当然でしょう。『彼女』さえ残っていれば、記憶から世界を再構築できる。彼女を救うことこそが、この狂った世界で『私達』に残された唯一の『希望』よ」

 イザナミの目の前に現れるのは、金髪を二つに纏めた少女だ。たっぷりとしたドレスを纏う彼女が微笑み、肩にかかった髪を払う。

「これほど繰り返して、まだ懲りぬか」

 呆れたようにイザナミが言うが、それでも尚、レイチェルは挑戦的に笑ったまま。

「私はね、退屈で退屈で、本当に度し難いほど醜いけれど、この世界を『愛して』いるの」

「其方ほどの存在が『愛』を語るか。呆れて言葉も出ぬわ。ならば、求めるが良い」

 そこに在る『エンブリオ』を、そこより生まれ出でる『蒼』を。

 真なる『蒼炎の書』を。

「さぁ……終焉を始めよう」

 

 

 

   5

 

 帝達は消え、ハザマもレリウスも消息不明。

 魔素も消失し、現在術式による都市の維持は困難。

 各階層都市には第七機関からの電力を回すことで何とか保っているがそれも十分とはいえず、いつまで持つかわからない。

 淡々とココノエが語る現状。

 続くようにヒビキがそれに付け足すように語り、カグラが皮肉を口にする。

「そのうえ人間の魔素化は止まらない。魔素となった者は全てあの『黒球』に吸い込まれていく」

「何なんだ、アレは」

「正直私にも分からん。レイチェルはエンブリオと呼んでいたが、質量が限りなくゼロに近い何かとしか言えんよ」

 溜息を吐いて、ココノエが眉間を揉む。このところ、立て続けに色々なことがありすぎた。

「ですが、僅かに各地で『術式』の使用者を確認しています」

 ヒビキが手に持った書類に視線を落としながら語る。

 魔素が消えたはずなのに術式とはこれまたおかしな話だが、事実だ。

 曰く、それが『資格者』らしく、現にカグラも術式を使用できるようだった。

「んで、例の神様はどうしたよ」

「マスターユニットは黒球と共に現在もイブキド跡地上空に停滞中です」

 それはココノエにもどうにかできる問題ではない。

 レイチェルの絶対防御『ツクヨミユニット』により護られたそれは、何者の干渉も受け付けない、らしい。

「そうか。……ノエルちゃんとジンの容体はどうだ」

「ノエルさんは軽傷ですが、キサラギ少佐は重体です。今、全力でセリカさんが治癒に当たっています」

 そして、その重体にさせたラグナも、今も見つかっていないという。観測機にも反応はなく、テイガーに探させてはいるがお手上げだ。

 死んだのでは、と冗談を言うココノエに、カグラは机に拳を叩き付けた。

 あの男が簡単に死ぬはずがない。一体、どこに行ったのか。

「あと、テルミ達と一緒に居たユリシアちゃんも見つからないのか」

 彼女はできればこちら側について欲しかったが、無理であっても回収くらいはしておくべきであった。カグラには彼女がどんな力を持っているか分からなかったけれど、ココノエが表情を曇らせるということは相当なのだろう。

「あぁ。クソッ、こんな事になるのであれば無理矢理にでも回収していれば……」

「今更嘆いても遅ぇよ。……そっちも探しといてくれ」

「言われずとも、同様に探しているさ」

 




なんとなく書いていたらすごく長くなりました。


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第十二章 白手の昼

「……これより滅日を始める」

 背後には黒球と巨大な機械――この世界の神、マスターユニットアマテラス。

 少女が両手を掲げ、厳かな声で語る。

 途端、視界が眩んだ。

 

 

 

   1

 

「んん……」

 顔に眩しい光が降りかかる感覚に、彼女はゆっくりと目を開ける。

 寝ぼけてぼやける視界。片手で瞼を擦りながら前を真っ直ぐ見つめれば、見慣れた天井がそこにあった。ゆっくりと首を動かして隣を見る。すぐ目の前に、こちらを覗き込む男の顔。

「あぁ、起きましたか。ユリシア」

 糸のように細い目を薄く開けば、男の目つきが存外悪いことに気付く。長い睫毛の生え揃った瞼。その間から覗く、金の鋭い瞳は大好きな人物のものだった。

「はざま……さん……?」

「えぇ、私ですが、何か」

 確かめるようにユリシアは思わず名前を呼ぶ。彼の存在に驚いてか、それとも別の理由があってか、口から漏れる声は震えていて。男――ハザマはどうしたのかと首を傾けた。

 そこで、ユリシアは思い出す。

 彼は確か、テルミに聞いた話ではトリニティという少女に刺され、池に落ちたはずだ。それを助けるために自身は飛び込んで、でも駄目だったはず。

 そこからの記憶は曖昧だったけれど、もしかして彼は無事だったのだろうか。どこにももう怪我はないだろうか。自分は何故こんな所で寝ていたのだろうか。

 意識が覚醒すれば、同時に沢山の疑問が頭の中に溢れ出し、その勢いに合わせて上体をまるで跳ねるかのように起こした。

「はざまさん、ですか……? ほんとうに、ほんとうに……っ」

 頬や顎、肩に手をぺたぺたと触れさせて、本物かと、実体があるかと確かめる。

 確かにその体温があるのだかないのだか分からない感触も、その姿形も、先ほど聞いた声も全てハザマのものだ。思わず涙が溢れそうになるのを堪える。

「え、えぇ。勿論ハザマですよ。何を分かりきったことを聞いているんですか。それに、そんなに慌てて……」

 あまりにも驚き慌てた様子のユリシアに疑問を抱いて、身体を好きに触らせながらもハザマは眉根を寄せる。彼女が慌てる要因は、彼には思い当たらなかった。

「け、けがは、もう、だいじょうぶですか。どこも、いたいところ、ありませんですか」

「はぁ……? 怪我、ですか」

 ユリシアが何を言っているのか分からず、ハザマはますます疑問を感じて、戻したばかりの首をまた傾げる。けれど、それにユリシアもまた訳が分からなくなって、疑問に声を漏らす。

 もしかしてショックで忘れてしまったのだろうか。そう思えば、下がる眉尻。彼女は触れた手を離して、それを宙でせかせかと何かをこねるように動かしだす。

「だから、あの、その、けがして。あのおんなのひと、に……」

「あぁ、もしかして昨日、情報源だった女性の機嫌を損ねて刺されかけたことですか? いやぁ、流石にアレは私でも恐怖しましたね。でもそこまで心配することじゃ……」

 上手く話せないのはいつものことだが、今日は焦っているからか更にたどたどしい。

 それでも必死に話すユリシアの話に最初こそ眉をひそめていたが、やがてハザマは思い出したように問う――けれど、その内容はユリシアが思っていたものとは微妙に食い違いが起きていた。

「それはそれで、しんぱい、ですが、そうじゃなくて……! いけに、おちた、はずじゃ……」

 あの冷たい水に溶けるように体温を奪われていく感触も、沈んでいく感覚も、見つけた先の彼のずっしりとした重さも、ユリシアはしっかりと記憶に残していた。

「池? 私、水遊びをした記憶はありませんが。大丈夫ですか? 何か変な夢でも見ました?」

「へ……?」

 ユリシアがわざと変なことを言っているようには思えなくて、だけれど全くもって意味が分からなくて、夢でも見たのかとハザマは問う。

 間抜けな声がユリシアのふっくらとした唇から漏れた。

 ハザマが演技をしているようには見えなくて、ユリシアは自分が可笑しいのか、と思ってしまう。そうだ、きっと夢だったのだと咄嗟に自分に言い聞かせる。

「ご、ごめんなさい、です。ゆめ……ですよね。そんな、はざまさんが、しんじゃうなんて」

「私が死ぬ? 縁起でもないことを言わないでください。私がそんな簡単に死ぬわけないじゃないですか。……まぁ記憶に多少の混乱はあるようですけど、意識ははっきりしてますし、大丈夫ですね」

 ハザマが困ったように眉尻を下げつつも安心したように笑って言う。

 それなら、夢ならば。はっきりと覚えているその記憶の、どこからどこまでが夢だったのだろう。この世界を作ったらしいあの神は、自分が蒼だというのは、タケミカヅチという巨人は――。

 ハザマとテルミは今日も変わらず何か難しいことを考えながら平和に過ごしているのだろうか。

「そういえば、てるみさんは……?」

「テルミ……? 聞いたことのない名前ですね。どなたですか。本当に大丈夫ですか?」

 再度、間抜けた声があがる。

 目の前に居る人物は、何を言っているのだろう。先ほどからいつもはあるテルミの気配を感じないと思ったら、テルミを知らないだなんて、そんな。

 いつも一緒に居て、肉体を共有していたはずなのに、何故。

 それも、夢だったのだろうか。前の記憶を忘れてしまうほど、長い長い夢だったのか。

「あの、わたしは、いままで、なにを……。どうやって、はざまさんと、であいましたっけ」

「そんなことも忘れたんですか。……六月二日付けで、貴女を諜報部が保護したんじゃあないですか」

 彼が言うには、虐待を受けているのを見つけた衛士が回収、その後術式適正値が高いことから保護し、面倒事を押し付けるように諜報部に来て、名前も分からないということでハザマが名付けたということと、今は六月の下旬であること。

 そこにテルミという名は一切出ておらず、しかも彼との出会いも記憶とは全く違う内容だった。唯一、自身らが出会った日だけが一致しているくらいだ。

 ここは託児所でも厄介事を押し付ける都合の良い道具でもない、と愚痴を零すハザマに、ユリシアは俯いて静かに相槌を打つ。

 次いで、昨日は先述の女性とのやり取りもあり疲れたのだろう、帰ってくるや否や彼女をそのまま寝かしていたという彼に、彼女は静かに俯いた。

「……そう、ですか」

「満足しました?」

 これだけ聞けば納得したか。ハザマが問えば、違うと言いたい心を抑えてユリシアは頷いた。

 ハザマが離れるのに合わせて、彼女もかけられたシーツを剥いでベッドから降りる。

 すぐ近くの姿見を横目に見る。映る服はいつもの青と白を基調としたワンピースだ。この服のまま、寝てしまったのか。

「さて、今日はカグツチに調査へ行く日です。こちらの準備は済ませてありますので、さっさとユリシアも準備してくださいね」

「……あ、はい」

 ここはまだカグツチでも、カザモツでもなかったらしい。記憶では、会ってから間もなくカグツチに移ったと思うけれど、今回はそうではなかったらしい。

 なんでも、あの『死神』がカグツチに出没したという情報が入ってのことだった。危険だから置いていけると良かったけれど、そういうわけにもいかないため、連れて行くことになったというが。

「……ほんとうに、ゆめだった、でしょうか」

 ハザマの言う事はやはり信じられなくて、あの記憶を夢だと言い切るだけの自信が彼女にはなかったからそう呟いたけれど、今はそういうことにしておこう、と彼女は頷いた。

 

 

 

「……こんな辺鄙なところまで調査なんて本当、諜報部も楽をさせてくれませんよね。さて、早く部屋に――」

「よう、ハザマちゃん。元気にお仕事してっかぁ? と……ユリシアも居たか」

 戻りましょう。そう言いかけたところで、ハザマの前に立つ人影。

 それは、ユリシアのよく知るものだ。思わず、目を見開く。何と言えばいいのだろう。彼の存在は夢ではなかっただとか、自分を分かってくれるのだとか、色々と思うことはあったけれど、それらを言葉にするよりも早く、ハザマを見てしまった。ハザマが、首を傾ける。

「はい? えぇと……どちら様、でしょうか。この子のことも知っているようですけれど……」

「……マジかよやっぱりこのパターンかよ、面倒臭ぇなあ」

 眉根を寄せて、警戒するようにハザマが誰何(すいか)する。

 その反応に深く溜息をついて、やはりか、そう男は漏らすと、ユリシアを見る。

「……てるみ、さん……ですか?」

「知っているんですか?」

 見据えられると、そこでやっと声が出る。先ほどハザマにもしたように、確かめるように問う。

 思わずハザマがユリシアを見下ろして尋ねた。そして、出された名前に、思い当たる節があったように、声を漏らす。先ほどユリシアが夢で見たと言った人物の名だ。

「で、そのテルミさんとやらが何の御用でしょう。私、貴方とは面識もないと思うのですが……それに、統制機構の関係者とも思えませんし。ここ、関係者以外立ち入り禁止区間なんですが」

 けれど、それはどうでも良いらしい。ただ、何故自分の名前を知っていて、何故声をかけて、そもそも何故ここに居たのか。それだけを知りたかった。

「……これから楽しくなるってーのに、まーだそうやってお役所ごっこしてるつもりか? 本当は薄々テメェも気付いてんだろ、違和感があることによ」

 しかし、テルミはハザマの疑問には答えず、ただそう語る。眉間に皺を作りそうになるハザマではあったが、話が後半に近付くにつれ――ゆっくりと、その目を見開く。

 その瞳は、目の前に立つ男と同じ色をしていた。

「貴方は……何か、ご存じみたいですね」

 テルミの言う通りだ。先ほどユリシアに今までのことを説明したばかりだったけれど、ハザマも目が覚めてから、違和感を覚えていた。

 すぐに思い出す記憶が違和感を打ち消そうとしていたけれど、どこかに靄のようなものが残っていて、ユリシアが夢の内容を話したときなんかも、何故だか飲み込んでいる自分がいた。

 目の前のテルミという男は、それについて何か知っているのだろうか。そう思って、思わず聞かずにはいられなかった。

「ご存じ、と来たか。あぁそうだよ存じ上げてるよ。この世界の全てをな」

 ハザマの問いに、テルミはケッと吐き捨てるように言って、それからハザマを見つめ、口角を持ち上げ凶悪な笑みを作り上げる。

 テメェにも取り戻してもらう。

 ――全てを。

 

 

 

「……ル……ノエル!!」

 聞き慣れた声がして、ノエルはそっと睫毛を震わせた。目を開けるのも億劫ではあったけれど、応えなければいけない気がして、ゆっくりと瞬きをする。繰り返すうちに、ぼやけた視界が鮮明になっていく。

「んん……ツバキ……? それに、マコト……」

 見慣れた姿。紅い髪に青の瞳を持った少女と、どんぐりのような目と大きな尻尾が特徴的なもう一人の少女。自身の親友である二人だったけれど、何故ここに居るのだろうか。先ほどまで、自身は何をしていたのだっけ。

「ちょっとちょっと、ま~た寝ちゃってたの? 確かに魔操船に乗ってからかなり経つけどさ」

 心配するようにかけられる耳心地の良い声は正しくマコトのものだ。

 魔操船。確かに尻に触れる硬いシーツの感触と、窓の外の景色からして魔操船に乗っているのは確かなのだけれど、自身らは、魔操船に乗っていたのだったか。そもそも、行動を共にしていただろうか。眠気がとれないまま首を傾ける少女に、二人が眉尻を垂れて顔を見合わせる。

「ノエルったら、大丈夫? 私達第四師団は、指名手配犯である『死神』の捕縛と、行方不明になっているジン=キサラギ大尉の捜索のために、現在カグツチに向けて航行中……覚えてる?」

 ツバキが顔を覗きこんで、ゆっくりと語る。言われれば、確かにそうだったかもしれないとは思うが、そうだっただろうかと思うノエルがどこかに居た。

 ツバキが第四師団、というのに違和感を覚えたけれどそれを流して、ならばマコトは何故一緒にいるのだろう。自然と彼女の方に視線を向ければ、大きな溜息を吐くマコト。

「だから、あたしも諜報部から第四師団に合流して一緒に任務にあたる~って話だったでしょ」

 どこか悪いのか、と尚も心配してくる少女らに、困ったようにノエルは笑う。

 そうだ、確かそうだったはずだ。彼女らの言う通りのはずだ。

「ごめん、なんだかぼーっとしてたみたいで……私ったら、任務中なのに恥ずかしいな」

 頬をぽりっと掻いて、ノエルはそう言う。

 首を振り大丈夫だと告げる二人に安心を覚えた。この平和な時間がたまらなく幸せだと思う。

「今、どの辺りなんだろう」

「美味しいものとか沢山あるといいなぁ」

「マコト、遊びに行くんじゃないのよ」

 冗談を言って咎められ笑うマコト、いつでも真面目なツバキ。大事な二人の親友が、たまらなく愛しいと、そう思った。

 初めて来るはずの場所に、前に来たことがあるようなこのデジャヴも、彼女らに対する違和感も、この平和な時間の前には薄れてしまう。

 

 

 

「……ライチ殿ぉ!!」

 扉を勢いよく叩く音が、静寂にノイズを差す。声とその音からして、よほど急いでいるのだろう。慌ててすらりと背の高い女――この診療所の医者であるライチは、その戸を開けた。

 途端、飛び込んでくる大きな影に小さく悲鳴を漏らす。

「ライチ殿、大変でござる!! 今すぐこの者を診てくれぬか!」

 よくよく見てみれば、その飛び込んできた人物は見知った顔であった。

 いつも声が大きく元気で、悪い人ではないけれど単純すぎてたまに心配になる人物。イカルガの復興を志す忍、シシガミ=バングであった。

「ば、バングさん……? って、その人……」

 彼の後ろには、いつも担いでいる大きな五十五寸釘以外にもう一つ、何かが背負われていた。

 人だった。白い髪が揺れたのを見て老人かと一瞬思うけれど、違う。まだ若い。

 赤いジャケット。黒いインナー。目つきは悪く、左目は閉じているため見えないが、開いた右目は赤だ。腹を抑え、片腕をバングの肩に預けたその人物は、最近出回っている手配書のそれに特徴がぴったりと一致していた。

「詳しい話は後でござる、まずはこの者を助けて欲しいでござる。死ぬな、死ぬなでござるよ旅の者……!!」

 揺さぶり、意識が朦朧としながらも必死に歩こうとする男に、バングは励ますように声をかける。その声が頭に響くのか顔を顰める彼。ハッとして、ライチが駆け寄った。

「こっちよ、今すぐベッドに寝かせて。手当てするわ」

「相分かったでござる。旅の者、今ライチ殿が処置してくれるでござるからな……!」

 助手に道具の準備を呼びかけながら、彼女は診療所の奥へと彼らを案内した。

「んん……ここ、どこだ……? 俺は……」

 そうして数時間が経った頃だった。

 痛む頭。身体を起こそうとすれば、使おうとした腹部に鈍痛がはしる。

 見慣れぬ景色。自然と警戒して、彼は先の痛みも相まって目を見開く。咄嗟に首を動かし隣を見た。すると、視線に気付いたように、女がこちらを見る。

「目が覚めたみたいね。気分はどう?」

 駆け寄り、その女は話しかける――が、それよりも早く彼は痛む身体に鞭を打って身体を跳ね起こした。

 記憶にない人物への、明らかな警戒。

 何故なら、先まで彼は色んな人物に身に覚えのない罪で狙われ、追われ、殺されかけだってしたのだから。

「そんなに警戒しないで。大丈夫、ここには貴方を狙う人はいないわ」

 彼の気持ちを察したのだろう、女はそう言う。言われてすぐに警戒を解けるはずもないが、辺りを見れば特に人が居る気配もない。仕方なく、構えを解く。それを見て安心したように女は笑って、その後に名乗る。ライチ=フェイ=リンと。

「で……俺はなんでこんなところに」

 最後の記憶は、確か咎追いを自称する子供が連れた大きな人形に、腹を思い切り刺されたところまでだ。確か頭に響くうるさい声が聞こえて、倒れ込んだような気もするが――。

 あれからどうやって自身はここまで来たのか。男はどうにも思い出せなくて、眉根を寄せ問う。

「貴方、覚えてないの? バングさんが重傷を負った貴方をここまで連れて来てくれたのよ。貴方ったら、足元もおぼつかないのに必死に自分の足で歩こうとして……」

 少しだけ驚いたようにライチが目を見開き、問いを交えながら語る。

 追われていた自身をわざわざ運ぶ物好きが居たことにも驚きだが、それよりも彼は知らない名前に疑問を示した。バングとは誰なのだ、と。

「あぁ、彼なら……もうすぐ帰ってくると思……」

「ライチ殿! あの者の容体はどうなったでござるか!!」

 扉を勢いよく開け、飛び込んでくるのは大きな声で話す巨漢。キィンと頭に響くその叫びに眉根を寄せる怪我人と、苦笑するライチ。それからライチは、飛び込んできた巨漢を手で指して、語った。

「紹介するわ。彼が、貴方をここまで運んできてくれたバングさんよ」

 にこやかに笑いかけて紹介をする彼女に、バングは頷く。

 褐色の肌と、黄金の瞳、額にはクロスする二重の傷跡。夏だというのに赤いマフラーを巻いたその男は腕を組むと、にっと人好きのする笑顔を浮かべた。

「いやぁ、先ほど見つけたときは驚いたでござるよ。腹に大きな穴を開けていたのでござるからな。ここまで回復できたのも、ライチ殿のおかげでござる」

「何も私の力だけじゃないわ。リンファとバングさんのおかげでもあるし、何より、私が手をつける前に、目の前で傷はどんどん塞がっていったんだもの」

 隣に立つライチを横目に語るバング。そして、それに首を振るライチ。彼女が言ったことも気になりはするが、男のうるささにそんな気持ちは掻き消えた。

 それにしても、このうるさい男が自身を運んだのか、と彼は思う。不思議な口調で話す目の前の人物は、確かにお人好しの雰囲気が出ていたから疑うという考えが出てこなかったけれど。

 だからこそ、彼は思う。自身は先ほどから追われていた身だ。ならば彼らと共にいれば危険に合わせる可能性もある。そんなわけにはいかないし、何より自分はやるべき事がある気がして。

「……そうか。助かった。んじゃ、俺は行くわ」

「待って、まだ傷は塞がりきっていないわ。それに、行く宛でもあるの? ……『死神』さん」

 素っ気なく言って、出口へ向けて歩き出す彼。横を通り過ぎた彼を、黒髪を翻し振り返ってライチは制止の声をかけた。呼び名に、露骨に彼が反応し足を止める。ライチを彼もまた振り返る。

 鋭く、先ほど以上の警戒を露わにして睨み付ける。

「テメェ……」

「勘違いしないで。先ほども言ったように、私達は貴方を通報してどうこうなんてつもりはないわ。ただ医者として患者を放っておくわけにはいかないだけよ。それがどんな人物であろうと。それも貴方、巷で噂の『死神』なんでしょう? それなら余計だわ」

 しかし彼の表情にも怯えることはなく、ライチは淡々と言ってのける。

 強い、瞳だった。それに彼の方が引けそうになったけれど、尚も彼は首を横に振る。

 彼には分からなかった。自身が死神と呼ばれ追われている理由も、それで尚も守ろうとしてくれている人物がいることも。

「……俺がその『死神』なのかも分からないけどな」

 彼がそう呟くと、ライチは間抜けた声をあげる。どういうことだ、と問う表情は彼の言葉の意味を薄々理解していて尚、信じられないというそれだ。

「……そのまんまだ。俺がその反逆者とかいう奴なのかも、それどころ今まで何をしていたかも、名前さえ覚えてねぇんだ」

 そんなライチの問いに、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて男は語る。

 白い頭髪を荒く数度引っ掻き、そっぽを向く。何故思い出せないのかも分からず彼自身も、とても困っていた。

 俗に謂う記憶喪失の類なのだろう。

 けれどそれをどうにかできるはずもなくて、深く溜息を吐く。

「……それなら尚更困ったわね。ここには『死神』の捜索と調査で『イカルガの英雄』カグラ=ムツキも来ているし……」

 ライチが口に出した言葉に反応して、男はライチに顔を向ける。

 眉根を寄せ、まるでライチがおかしなことを言ったかのように首を傾ける。

「カグラ=ムツキが……イカルガの英雄?」

「えぇ。何かおかしなことを言ったかしら? それとも、何か思い出した?」

 先ほど記憶がないと言ったばかりの彼が反応したことに、きょとりとライチは目を丸くする。

 その名を知っているような彼の口ぶりだったが、しかし問われた先の彼はこめかみに手を当て考える素振りを見せるものの、首を振る。

「いや……分かんねぇ。ただ、何となく違和感がしただけだ」

 何故だろう。

 そんな名前は知るはずもないのに。自身のことすら思い出せないというのに、何故だか知っているような気がしたのだ。それどころか、カグラ=ムツキが『イカルガの英雄』と呼ばれていることに違和感すら覚えて、でもその違和感の正体も理由も思い出せない。

 無理に思い出そうとすると、頭がずきずきと痛みを訴えだすのだ。

「そう。それは残念だわ。……にしても『イカルガの英雄』が来ているとなれば、ここも安全じゃないわね……どこか、いい隠れ場所はないかしら」

 ここにまで調査の手が入らないとは考えにくい。もし衛士に匿っているのが見つかれば、自身や助手、バング達だってただでは済まないだろう。彼らは、反逆者に対して異常なほどに容赦がないのだから。

 考え込むライチに、やはり悪いと言って彼が歩き出そうとしたとき――。

「それなら、カカ族の村に来ればいいニャス!!」

 声と共に前方から飛びかかってくる何かに、彼は思わず身を横に翻す。

 カーペットを敷いた床に、顔から勢いよく突っ込んだ『それ』は、淡い色のフードを被った人型の何かだった。少女と呼ぶのが一番、大きさ的にも近いだろう。それは先ほど彼が、ここに来る前に出会った人物にそっくり――否、同じ形をしていた。

「タオ!? なんでここに……」

 タオと呼ばれたその人物は暫く身体を痙攣させた後、ゆっくりと起き上がる。

 その顔は赤く腫れている――かと思いきや、フードの中は影のような闇がぽっかりと丸く浮かんでいるのだ。そこに、赤く光る丸い目と、ニィと笑った三日月状の口があるのみ。

「さっき飛ばされてから『いい人』の匂いを追っかけて来たニャス!」

「……すげぇな、お前」

 一瞬、彼は彼女のことを犬のようだと思う。そのフードの頭には、ぴんと立った三角の耳が二つ立っていたし、口調もどちらかというと猫のようだったけれど。

 そして『いい人』というのは、タオが彼につけたあだ名だ。

 なんでも、飯を奢ってくれたから『いい人』らしいがそんなことは今の彼らにはどうでもよく。

「……うん。カカ族の村なら、いいかもしれないわね」

 ふと、男とタオの後ろでライチが頷き、呟く。途端、その場に居た人達の視線が、一気にライチへと集まる。何がだ、と白髪が問うとライチはそちらに視線を向けて微笑んだ。

「貴方の隠れ場所よ。タオの出身であるカカ族の村は、存在自体知っている人が極少数だし、下層の方にあるから、そこまで調査に来る人が居るとは思えないわ」

 良い案だと思わないかと、ライチは首を僅かばかり傾けて問う。

 彼にはよく分からなかったが、彼女が言うならば良いのかもしれない。できるのであれば、自身だって捕まりたくはないのだから、素直に彼は頷く。

「あぁ。……捕まる確率が低くなるってんなら、それで頼むわ」

「決まりね。タオ、案内をお願いしてもいいかしら?」

 首肯し、ライチはタオへ視線を向け言う。彼女の言葉に元気よく返事をして、すぐさま動き出す。それにライチが着いて行こうとしたのに、彼は疑問を覚える。

「女医さんまで来るのか?」

「だって、まだ傷は治りきっていないもの。医者として、最後まで責任を持って面倒をみないと」

 強情な女だ、と思ってしまう。けれど、それを言うのは失礼だろうからと何とかして飲み込んだ。こんな指名手配犯らしい人間のことなんか放っておけばいいのに、どこまでお人好しなのだろうと彼は思う。

「なぬっ、ライチ殿と二人きりでござるか! 羨ま……いや、それなら拙者も行くでござる」

「いやだわ、二人きりなんて。タオも居るじゃない」

 着いて行きたがるバングに、ライチが言う。いつまで経っても来ない面子を心配したのか、扉からタオが顔を覗かせるのを一瞥して、ライチは首を横に振ると、

「バングさんが来てくれると心強いのは確かだけれど、バングさんには統制機構の人達が来ないか見張っていてくれると助かるわ」

 でも、とバングが言いかける。しかし、ライチが静かにバングを見つめ「バングさんにしかできないこと」だと言えば、渋々と眉尻を下げて笑い、頷いた。

 バングにとって、ライチからそうやって頼ってもらえることは嬉しいことだったから。何故なら、彼はライチのことが――。

「よし、相分かったでござる。そうと決まれば、拙者は見張りに行ってくるでござるよ! ライチ殿達も、お気を付けてでござる!」

 とう、と掛け声をかけるや否や、バングは消える。どういう術を使っているのかは分からないが、いつの間にか扉の向こうに居るのが見えた気がした。

「じゃあ、私達も行きましょうか」

 それを見て放心していた彼らだったが、やがてライチが手を叩くと同時にハッと正気付く。

 あぁ、と頷き歩き出す白髪に合わせ、ライチとタオカカもまたカカ族の村への道を進みだした。

 カグツチの発展に向けて賑やかさを保ちながらも、どこか仄暗さのある浪人街とは違い、賑やかさと明るさだけが立ち込める、百人だけの小さな村。

 下層の街よりも魔素は濃いが、それでもカカ族は魔素への耐性がとても高いため、暮らしていても平気なのだとか。

 そして元々カグツチが建設される前からの先住民だったカカ族が下の下まで追いやられた結果、誰も寄りつかない構造の隙間にひっそりと村を作って暮らしているのだと道中で彼は聞いていた。

 そこかしこを駆け回るフードを被った小さな影達が元気よくはしゃぐ様は案内人の少女にとてもそっくりで、とてもひっそりしているとは思えない。丸い影に穴を開けたような顔も、ピンと耳の立ったフードも同じ。

 それにしてもどこかから漂ってくる匂いは何を使っているのだろうか、食欲をそそられ――。

「……血の匂いがするのう。怪我人かね?」

 ふと、しわがれた女の声が近くから届き、タオを筆頭として白髪の男、ライチは声の方向を振り向いた。そこに居たのは、骸骨を模した仮面をつけた、やはり小さな人物だった。他と同じフードを着ているが、その耳は老いた声に相応しく垂れている。

 身の丈ほどもある杖をついて歩み寄ってくるその人物へ、ライチが一歩前に出る。

「長老。すみません……突然お騒がせしてしまって」

 ライチが丁寧な言葉を使うということは、ここの偉い人物なのだろうか。長老と言うのだから、きっとそうだ。申し訳なさそうに謝るライチに、からからと笑って、その小さな長老は首を横に振った。

「ライチの連れならば、構わんよ。時折こちらの怪我人も見てもらっておるのだから」

 優しくそう言う声には聡明さが感じ取れて、なるほどライチがかしこまる理由も分かる気がする、と彼は思う。

「寝床が必要にゃらば、儂(わし)の家を使うと良い。人間には少々狭いだろうが……横ににゃるくらいはできるじゃろう」

 そして老婆はそう語ると、今しがた自身が出てきたこじんまりとした小屋を手を差し出すことで示す。確かに狭そうではあるが、長老の言う通り寝るだけなら事足りそうな大きさだった。

 長老の気遣いに感謝するライチの傍らで、彼は気怠げに零す。

「何か妙だよな。俺は指名手配犯のはずで、自身の身を危険に晒すかもしれない相手に、どうしてそこまで肩入れすんだよ」

 疑問だった。彼女は先のバングやタオのように、頭が良くないわけでも相当なお人好しというわけにも思えない。ならば、自身を賞金目当てで通報したり、そうしなくても突き放すことだってできたはずだ。けれど、何故わざわざ匿うようなことをするのか。

「……肩入れってわけじゃないわ。さっきも言ったように医者として放っておけないだけよ」

「いい人と乳の人、長老の家に行かないニャス?」

 彼の言葉に少しだけ間を置いて答えるライチ。彼女に胡乱げな目を向けたまま適当に相槌を打つ彼。そんな二人がいつまで経っても動こうとしないのを見て、口許に手を添えたタオが首を九十度に傾けて問う。それを受けてやっと気付いたように二人は各々に声をあげ、歩き出す。

 その後ろを追いかけるようにして、ぴょこぴょことタオもまた歩いていた。

「……なぁ、一つ聞いていいか」

「何かしら」

 家に入ればすぐにお出迎えするベッドに恐る恐る腰かけながら、白髪は口を開く。赤のジャケットを傍らに置くと、彼はそう口にする。首を傾け用件を尋ねるライチに、あぁ、と頷くと彼は、先ほど気になったことをここに来てやっと話し出した。

「さっき『イカルガの英雄』って言ってたけどよ……ソイツって何者なんだ?」

 イカルガの英雄が、カグラ=ムツキという人物だと聞いた瞬間に覚えた違和感。何故違和感を感じたのかは分からないけれど、そもそも『イカルガの英雄』とは何者なのか。何故英雄と呼ばれているのかも、そもそもイカルガが何かも分からなかった。

「そうね……。数年前に、イカルガ内戦という争いがあったの。イカルガという地域を昔から治めていた『テンジョウ』という人が、統制機構へ反旗を翻したところから始まったわ」

 そうして、いくつかの階層都市を戦場にして、内戦は激化していく中、その戦火が広がりきらないうちに、内戦を終結させたのが『イカルガの英雄』カグラ=ムツキなのだと彼女は語る。

 なんでも、最前線に出て戦った、統制機構の優秀な衛士なのだと。

「イカルガ……」

 カグラの話など、彼にはどうでもよくなっていた。それよりも、戦場となった地域である『イカルガ』という単語が、今の話を受けた後だとやけに聞き覚えがある気がして。

 何度かその名を繰り返し呟く。

 何故だろう、知っている。いや、知っているどころではない。あの日、あの場所で、自身は。

 頭の中にノイズ混じりに現れる光景が、知っていると訴えかけてくるのに。断片的なものばかりで、よく分からない。あと少しで思い出せそうなところまで来ているというのに。

「っ……ぐ」

 頭が痛みを訴え、思わず呻く。荒くなる呼吸。思い出せなかった。悔しさに、拳を握る。

 その様子に慌ててライチが声をかける。大丈夫、落ち着いて。その優しさに満ちた声音に、やっと彼は呼吸を落ち着けだす。

「焦ってはダメよ。相当な負荷がかかってるはずなんだから。しばらく休んでいて。私は長老と話してくるわ」

 やがて、彼が落ち着きを取り戻した頃にそう言うと、彼の相槌に送られ彼女は立ち上がり、家を出る。その背を見送りながら、彼――ラグナは、何に向けるわけでもなく溜息を吐いた。

 何故自身は、記憶を失ったりなどしたのだろうか。何か、とんでもないことを忘れているような気がするのに、いつまで経っても思い出せない自分に少しだけ苛立ちを感じた。

 

 

 

「うーん……ここ、だったよね……『死神』の目撃情報があった場所って……」

 ノエルは一人、カグツチの下層周辺を彷徨っていた。

 統制機構が指名手配中の反逆者にしてSS級の賞金首である『死神』の調査と捜索の任務で彼女は来ていたのだ。が、先ほど入った繁華街での食い逃げの通報はアテにならなかったし、探しているもう一人の人物も見つからない。だから、今度の情報こそ合っていて欲しいのだけれど。

「あれ、あの人って……」

 辺りを見回して、目的の人物が居ないか探していると、ふと見慣れない人影が目に入ってノエルは首を傾げる。少し迷った後に頷き、自分と同じように何かを探しているらしいその人物に向けて歩き出した。

「すみません。失礼ですが、ここが現在、部外者は立ち入り禁止なのをご存じでしょうか」

 白い髪をしたその女の背に声をかけると、勢いよくその人物は振り向く。

 見開かれた目の下、鼻柱の上には大きな傷が真一文字に刻まれていた。

 そんな彼女は、いつまで経っても話し出さない。それを不審に思い、眉尻を垂れそうになったノエルであったが――。

「きゃっ……!!」

 吹きだされる熱と眩しさに小さく悲鳴をあげ後ろに飛び退く。何をするのだと思ったときには、目の前の彼女は既に構えていて、ノエルもまた身構え、自身の得物をいつでも出せるようにした。

 統制機構による政治は縦割り行政の形だ。それを良しと思わない人も多い。ならば、攻撃してきた彼女もまたその一人なのだろうか。

「待ってください、私は貴女を捕まえてどうこうというつもりはなくて……っ」

「何だと……?」

 さらに攻撃をしてこようとする彼女を、反逆罪だと言って捕えることもできた。けれど、何となく事情を知りたくて、身を構えたままに彼女は首を横に振った。

 それを疑問に思ったのだろう。統制機構の制服を着た人物が、まさかそんな発言をするだなんて。自然と、彼女も佇まいを直して首を傾げた。

「ただ、関係者以外がどうしてここに居るのか気になっただけなんです。それを大人しく話してくれさえすれば、見逃すことも考えているんですが……」

 その女は腕を組み、警戒しながらもノエルの話を最後まで聞く。溜息を吐き、ゆっくりと口を開くのを見て安心するノエル。

「しかし、貴様にそれを話す義理も義務もないな。私はただ己の任務を果たすだけだ」

 しかし、その口から紡がれる言葉はノエルの期待を裏切った。任務、ということは他機関の依頼を受けた傭兵か何かだろうということは分かるけれど、瞬き一つで目つきを鋭い刃のように変える女に、足が竦んだ。

「……退け、バレット」

「隊長……!?」

 けれど少し離れた場所から男の声がして、バレットと呼ばれた女は振り向く。

 何かしらを言おうとしたのだろう。口をもごもごと動かし、けれど隊長と呼んだ彼の言うことに結局は従い、ノエルを一度睨み付けた後に彼女は駆けて行った。

 嵐のようなその様子に、ノエルは一瞬混乱した。遠くに見えた大きな赤い影――声の主だろうその人物は、確か第七機関の赤鬼のものだ。

「あれは……えっと……あっ、取り敢えず本部に連絡しなきゃ!」

 疑問に満ち混乱する頭の中。しかしすぐにやるべきことを思い出し、ノエルは通信機を取り出す。ボタンを押したりして操作し、応援を呼ぶべく通信を試みるが――。

「あれ、繋がらない……なんでだろ」

 通信が、繋がらないのだ。

「通信なら無駄ですよ」

 勢いよく振り返った先に居たのは、ひょろりとした長躯の男だ。目深に被った黒いハットの裾から覗く髪は、鮮やかな緑色。黒いスーツに身を包んだその男の台詞は、何か知っている人物のそれだ。露骨に警戒し、見慣れぬその人物に距離を取るノエル。

「あぁ、すみません、驚かせてしまって。私、諜報部所属のハザマと申します。階級は……大尉だったかな」

 それに慌てて顔の前で手を振って、男――ハザマは名乗る。

 自身も統制機構の人物だ、と。それに驚いて、ノエルは目を丸くする。同じ統制機構の、しかも二階級も上だったなんて。自身と違い制服に身を包んでいないため統制機構の衛士だとは分かりづらいが、諜報部であるなら、気取られぬようにするのも仕事のためだと思うと頷ける。

「し、失礼しました!! 上官に対して失礼な態度を取ってしまい……」

「いえ、大丈夫ですよ。それに私、堅苦しいのは少し苦手でして」

 頭(かぶり)を振って、ハザマは苦笑し語る。それにつられて自然とノエルも気を緩めると、そのまま気になっていたことを問いかける。

「それで……ハザマ大尉は、どうしてこちらに? 通信が無駄って……」

「あぁ、それはですね」

 ノエルの問いに、そう前置いてハザマは一、二拍ほどの間を置くと語り出す。

 自身が『死神』の調査の任務で来ていることを。同じだと言う彼女に、さも今初めて知ったかのような顔をしてハザマは「ならば丁度いい」と告げる。

 あの『死神』の居場所に関する情報を手に入れたらしいが、何やら通信が妨害されているらしく通信機が使えなくて困っていたのだ、だから自身が本部に連絡しに行く間に向かい、監視をしてくれないか――ハザマが頼めば、驚いたようにノエルは目をまた見開くけれど、すぐに頷く。上官の助けになり、且つ自分の仕事も達成できるのだから。

「それで、その居場所というのは……?」

「実は、私も最近存在を知ったばかりなのですが、カグツチのここよりも下層にあるカカ族の村というところです。良いですか? 『カカ族の村』ですよ」

 念を押すようなハザマの台詞に、ノエルは一度首を傾げそうになるも大きく頷いた。

 聞いたことのない名前であったが、諜報部が間違えるとは思えなかったし、何より何か聞き覚えのある気がして。

 お任せください、そう言うと彼女は駆けて行く。その背を見送り――ハザマはニィと凶悪に口角を持ち上げた。

「これで良いんですよね。ねぇ……テルミさん」

「あぁ、上出来だ」

 虚空に話しかければ、近くに現れるのはハザマと同じ顔をした男だ。首肯し、男はそう囁くと同じように笑う。

「おわりました……ですか?」

 今度は鈴を転がしたような幼い甘やかな声。聞き慣れたたどたどしい話し方の人物で思い当たるのは一人しかいない。

 振り向き、ハザマは「えぇ」と首肯する。そして物陰から顔を覗かせる少女へ静かに歩み寄ると、にこやかに微笑みかける。彼女の大好きな表情の一つだった。

「いい子で待っていましたね、ユリシア。さて……私達は私達で行動しましょう。そう……『取り戻す』ために、ね」

 

 

 

   2

 

「……間違いないな」

 第十三階層都市、某所。ジン=キサラギは佇み、辺りを見回していた。

「死神が襲撃する前の、あのときと何もかもが同じ形をしている……いや、何もかもではないか」

 溜息に混ぜて呟き、ふと俯けていた顔を上げ、虚空に目を向ける。途端、その視線の先には女が現れた。

 半透明で、その後ろの景色が透けて見える幽霊のような女。否、幽霊というのは強ち間違いでもなかった。何故なら、彼女の肉体は暗黒大戦が終わると同時に滅んでいたし、その時に死なずとも寿命を迎えとうに死んでいる年齢だ。

 白のフードから溢れるふわふわとしたプラチナブロンドを二つに纏めたその女性は、心配するようにジンを見て、問う。大丈夫か、と。

「問題はない。貴様こそ、支障なく意識を保っているようだな……トリニティ=グラスフィール」

 トリニティ。ジンが呼んだその名が、彼女の名前だった。

 首肯すると、間延びした口調でゆっくりとトリニティは口にする。ジンが意識と記憶を乱されることなく保っているから、自身もこうして保たれているのだと。

「ふん……僕の力ではない。秩序の力のおかげだろう」

 そんなトリニティに、しかし冷たい口調でジンは告げる。顔を逸らした。そして、そのままに口を再度開く。『これ』は一体どういうことなのだと。

 その問いに対する答えを、トリニティは持っていなかった。申し訳なさそうに謝って、強いて言うのであればとても不安定な場であることは分かると紡ぐ。

 ジンもそれは薄々察していたのだろう。さして驚いた様子もなく頷いた。そうでなければ、彼らの記憶が揃ってどうにかなったとしか言いようがない。

 何故なら彼らは。

 ――先ほどまで、ヤビコの統制機構支部に居たはずなのだから。

 元々、彼はあのとき暴走したラグナに襲われ、重体であった。そして傷の治療をするため、ヤビコに滞在していたのだが。

 彼の武器であるアークエネミー『氷剣・ユキアネサ』に憑りついたトリニティに頼まれ、彼女が宿っていた無兆鈴を持つ子供『プラチナ=ザ=トリニティ』を探すことを決意。トリニティの錬金術で動ける肉体を得た、というところまでが彼らの覚えている記憶だ。

 だというのに、肉体を得た直後にはカグツチに立っていたのだ。そこまでどうやって移動したかも覚えていないし、何より得た情報によるとタケミカヅチも何もかも現れていない。それどころか人間の殆どが魔素化されたはずなのに、沢山の人で賑わっている。

 そのうえラグナ=ザ=ブラッドエッジがまだ統制機構を襲撃していないというのだから驚きだ。

「とにかく……あの子供を探さねばならないな」

「ええ……すみません、お願いします」

 

 

 

 賑やかな村の中に、長い金髪を靡かせて一人の少女が現れる。

 緊張した面持ちのその人物は、この空間には不釣合いでとても浮いていて、異変を察知した忍は駆けて行く。

 とある小屋の前まで辿り着くと、勢いよく扉を開けて飛び込んだ。

「大変でござるよぉおっ!!」

「ぬおっ、いきなり入ってくるんじゃねえよオッサン!!」

 大きな声をあげるバングに、驚きラグナもまた悲鳴のような声をあげた。

 それに謝りながらも、大変なのだとバングは言う。その慌てた様子にただならぬ気配を感じて、何があったのだと問えば、

「拙者、図書館の動向を探るため、上層まで偵察に行っていたでござる。その帰り、心配になってここまで来たら、入り口に衛士が立っていたでござる……!!」

 バングの回答に思わず勢いよく吹き出し、咳き込んだ。

 俯きながら大きく開かれた双眸は、焦点が定まらないながらバングを睨み付ける。それを早く言え、と叫ぶラグナの傍でライチが大変だと慌て、その言葉を足元の小さな子供のカカ族が復唱する。一気に賑やかさを増す部屋の中、ラグナは頭を抱えて唸った。

「俺はまだ捕まりたくねぇぞ! 記憶も戻ってねぇし……おいタオ、なんか近くに抜け道とかねぇのか!?」

「うーん、裏の方に『げすいど~』があるにはあるニャスが、危ないからオススメしないニャス」

 縋る先は、この村まで自身らを連れて来た案内人の少女。

 その少女は一度、穴のような赤い目を細め考え込むように唸ると、言いづらそうに告げる。オススメしないと言われれば、そうか、と頷くしかなかった。

「私が様子を見てくるわ。私がただの町医者だってことは、他の衛士さん達が証明してくれるはずだし……切り抜けてみせるわ」

「んなっ……ライチ殿、危険でござるよ、ここは拙者に!」

 皆が慌て悩む中、声をあげたのはライチだ。

 危険な目に合わせまいとバングが引き留めるも、彼女は首を振り穏やかな笑みを浮かべる。

 大丈夫だから、ここで皆を守っていて。そう言われれば、バングは返す言葉がなかった。自身よりも彼女の方が賢い人間であることはバングの方が理解していたから、渋々ではあったけれど彼女を信頼して送り出すように頷いた。

「相分かったでござる。ここは拙者に任せるでござるよ。ライチ殿も、無茶はしないように」

「えぇ、分かっているわ。それじゃあ、待っていて」

 そう言って、彼女は扉を開けると去って行った。

 扉が閉まるのを見届けた後、バングは先までラグナが居た方向を振り返り、

「安心するでござる。ライチ殿はとても賢い故、そう簡単に捕まるなんてことは……」

 言いながら、そこを見る。言葉が途切れた。それを不思議がって、そこに居た面々は揃って同じ方向を見て、目を瞠る。

 居ないのだ。そこに、先ほどまで居た白髪の男の姿はない。置いていたジャケットと共に忽然(こつぜん)として姿を消していた。

「ありゃ、いい人どこ行っちゃったニャスかね」

「な、ななな……た、大変でござる――――!!」

 せっかく彼が捕まらないようにとライチが行ってしまったのに、その守られる側である男がどこかへ行ってしまったのだから大変だ。

 もしそれで見つかりでもしたら。彼はまだ記憶も戻っていないのに。

「ライチ殿に知らせてくるでござる……!!」

 そんな言葉を残して、バングはすぐさま家を出て行った。

 残される皆は、茫然と佇みその扉を見つめるのみ。

 

 

 

「貴女……こんなところで、何をしているの?」

 村の入り口に佇み辺りを見回す少女に歩み寄る、一人の影。背の高いそれは身体のラインからして女だろう。その人物は、少女の傍まで来ると、問いかける。

 別のことに集中していたのか、少女は声をかけられてやっと彼女――ライチの存在に気付き、目を丸くする。

「あっ……えーと」

 少女は問われた内容を理解すると、迷ったように口をもごもごと動かす。何と言うべきなのか、悩んでいた。だって、もしかしたら仲間かもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 不必要な警戒を生む理由はなく、どうすればいいのか分からなくなって、視線を泳がせ――少ししてからやっと正直に話すことを決意した。首を僅かに縦に振ると、

「実は現在、ここに『死神』が現れたとの情報が入り調査に来た次第です」

 そう言い、少女ノエルはポケットから一枚の紙を取り出した。折りたたまれた羊皮紙に似たそれを開くと差し出して、彼女はライチの顔色を窺う。

「この人物に見覚えはありませんか?」

 手配書、それも『死神』のものだ。彼について知っているならば何かしら反応を見せるはずだと思っての行動だったけれど、差し出した手配書を受け取り見つめるライチは、顔色一つ変えないでノエルを見た。

「あら、死神の手配書ね。でも……私は見ていないわ。力にならなくてごめんなさい」

 そう言って彼女は焦るどころか寧ろ申し訳なさそうに言うのだから、やはり知らないのだろうとノエルは思う。だから知らないのに疑ってしまったと逆にノエルまでが申し訳なく思ってしまった。

「い、いえ! 知らないならいいんです。疑ってしまってすみません」

 両手を顔の前で横に振った後、ぺこりと軽く会釈する。そうして顔を上げたノエルは、ふとライチの後ろから迫ってくる影に気付いた。目を丸くしてそれを眺めていれば、ライチも視線に気付きどうしたのかと後ろを振り向く。そして、同様に――否、ノエル以上に目を大きく見開いた。

 近付くにつれて、叫んでいるらしき声が聞こえてくる。よく通るその声がすぐ近くまで来たところで、ライチは少し声を大きくして問いかけた。

「ライチ殿ぉぉぉお!! 大変、大変でござる!!」

「バングさん!? どうしてここに……」

 あまりに慌てた様子のバングに嫌な予感がしながら、ライチが問えばバングは少しどもった後に、こう叫ぶ。『死神』が逃げた、と。

「死神が!? ……さっき死神は来ていないって……」

「……あ」

 冷や汗が褐色の頬を伝う。

 伝えることに必死で、衛士の存在など眼中になかったのだ。結果起きてしまったこの失敗。やってしまった、と漏れる声。沈黙。

「もうっ! 彼はどこに行ったの?」

 沈黙を破る声はライチのものだ。

 眉を少しばかり吊り上げて問う彼女の気迫に圧されながらバングが紡ぐのは、分からないという言葉。気が付いたときには居なくなっていたのだから。

「そう、分かったわ。私も探すから、バングさんも探してちょうだい! 私は村の裏側に行くわ」

 彼女は言うや否や駆けて行く。確か、先ほどタオが『下水道』のことを口にしていたはずだ。なら、村の裏側に居るかもしれない。言葉の最後、何かを言ったように口が動いていたけれど、その声は誰にも届かなかった。

「ま、待ちなさい……!!」

 頷きバングも跳ねるように走って行き――慌てて、ノエルは二手に分かれた彼らのどちらを追いかけるか悩んだ後、ライチを追って駆けだした。

 

 

 

「暗いし、臭ぇ……マジでこんなところが外に繋がってんのか? 案内にタオも連れて来れば良かったな……」

 カカ族の村の、裏手から繋がる『下水道』と呼ばれるその場所は、名前の通りに生活排水などの汚れた水が通っているらしく、凄まじい臭いに鼻を摘ままずにはいられない。

 なるべく汚れないようにとは思うものの、上には蜘蛛の巣、下には点検用の道すら水に侵されており、壁は埃などの汚れだらけ。汚れない方が無理というもので、仕方なく腕で鼻を塞ぎながらラグナは進んでいく。薄暗く、少し先は闇だ。

 それに比べ、あそこはとても賑やかな場所だった、とラグナは思い出す。あそこに居たときに思い出しかけた記憶は何だったのか。自身は何を忘れているのか。

 何かを引きずるような音もするが、きっと入り込んだ動物の類だろう。それにしても、ひどい臭いだ。思いながら進むにつれて、何故だか脈の打つ速度が速くなっていく。右腕が疼くような気もして、こんなところはさっさと出てしまいたいけれど、あとどれくらいかかるのだろう。

「――誰だ!」

 高い、音が聞こえた気がした。音というよりは、何かの『声』という方が正しい気がして、ラグナは後ろを振り向く。誰も居ない。横や前を見る。やはり居ない。

 まさか、居るはずもない……ゆっくりと顔を天井に向ける。何かが滴っているのが見えて、目を凝らしもう少し上を見――。

「キヒャヒャヒャヒャ!! 見つ――た、蒼、蒼蒼蒼、欠片!」

 そこには、目を凝らさないと分からないほど闇と同化した、黒い何かが居た。

 ラグナが認識した瞬間だった。それは落下し、こちらに向けて飛びついてくる。思わず握った大剣を叩き付けると、それは素早く身を引いた。対峙する、黒い異形。声を発したり蠢いていることから多分生きているのだろうが、生物と言うにはあまりにもラグナの記憶と一致するものがなかった。『化け物』というのが相応しいのだろう。

「ソ、我……欲シイ、深淵、至……オ、その欠片ヲ寄越せぇ!」

 先ほど剣を叩き付けたというのに手応えがある様子はなく、叫び、それは高く耳障りな声で笑いながら彼へと襲い掛かる。舌を打つ。今度はこんなのが相手か、そう思いながら彼は剣を握り直し振りかざした。

 やけに手に馴染む剣。振る感覚が懐かしく感じる。

 疑問を覚えながら振り回してもその黒い物体に沈み込むだけで、一向にダメージは与えられないようだった。

「チッ、この化け物が……!!」

「キヒ、キヒヒ……蒼――弱い……我、本物だ!」

 襲いかかるのを払うのが精いっぱいで、笑う声が癇に障る。こちらは体力もそれなりに削られているというのに、相手は動きが遅くなることもなく。

「……この反応……蒼、感じるぞ。強い蒼、感じる! こっち、本物――蒼か!!」

 ふと、黒いドロドロとした物体は後ろを見遣る。どこを見ているのだ、と叫ぶラグナにも構わず、それはやがて勢いよくどこかへ向かって行く。

 戦わないに越したことはないし、わざわざ追いかける理由も同様になかったからラグナは首を傾げながらもそれを見送った。

 逃げたのだろうか。けれど、まだ右腕の疼きが収まらない。

 この先に何かがあるのだろうかと、彼は何に向けるわけでもなく呟いた。

 直後、耳に届くのは、女の悲鳴だった。

「きゃぁぁああ!!」

「なっ……!? あっちか……!」

 驚き、居ても立ってもいられずラグナは声のした方向へと走り出す。

 黒い化け物が入ったところへと自身も身を滑り込ませれば、

「こ、来ないで……!!」

 声を震わせながら双銃を構え、撃つ女が居た。

 金髪を翻して、何度も弾を打ち込む。火花が散った。けれど、何度女が撃ったところで『それ』にダメージは通らず、寧ろ下品な甲高い笑いをあげるのみだ。

「キヒヒ、蒼――けじゃなく、アーク……ミーまで持っ――るとは!!」

 歓喜したように叫ぶ。水に飲まれるようなごぽごぽという音のせいで声が途切れ途切れにしか聞き取れなかったが。

 攻撃が効かないことに驚き、目を見開き佇む少女に飛びつく黒い物体。どろどろとした流動体が大きく口を開け、どこからか生えた小さな腕を伸ばす。咄嗟に、術式による障壁を張るも即席で用意したそれは脆く、簡単に砕け散る。衝撃で吹き飛ばされ、背を壁に打ち付ける。

 小さな悲鳴が漏れ、腕を抱く少女。潤んだ瞳で上目にその化け物を見る彼女の身体は震えていた。来ないで、と呟く少女にも構わず、引きずるようにして黒い流動体はにじり寄る。

「いただ――まぁす」

「ひっ……!!」

 大口を開けるそれを視界に入れるまいと、ぎゅっと目を瞑り覚悟を決める。

 その瞬間だった。人間のものとは思えぬ悲鳴が耳を劈く。その声は、先の異形のものだ。

「え……?」

 何があったのだろうか。気になって恐る恐る少女は瞼を持ち上げる。薄暗い空間に、赤い背中と乱れた白い頭髪が見えた。自身を守ってくれたのだろうかと思うと同時に、何故かその背中が一瞬だけ懐かしく感じた。思わず声をかけようとしたけれど、それより先に目の前の人物が口を開いた。

「おい、大丈夫かアンタ」

 顔を僅かに振り向かせ、視界の隅に少女を捉えると男は問う。

 目つきの悪いその横顔に、赤い瞳に少女は心臓が跳ねたような錯覚を覚える。けれどすぐに応えなければいけない状況だと脳が言うから、慌てて頷き返事をした後にダメージが与えられないことと会話が成立しないことを告げる。

 思ったより声が小さくなったけれど聞き取れたのだろう、彼もまた頷いて前へ顔を向けた。

「でも……ダメージは通ってるみたいだぜ」

 先ほどからダメージが与えられていない様子だった化け物だが、彼女を庇うために放った先の一撃の後に『それ』を見ると、先ほどのようになりふり構わず突っ込んでくる姿勢は見受けられない。それどころか、苦しそうに呻き声をあげているのだ。

 腕の疼きが先より強くなった気がするが、それと関係性はあるのだろうか。

「わ、私も戦います……!」

「え、あ、おい!」

 彼の言葉を受けて、ダメージが与えられると理解した途端だった。彼女は立ち上がり、向かって来る異形の前に出て、銃を撃つ。けれどそれをものともせず襲い掛かってきて、何故、そう漏らしながら彼女が再度障壁を張る。破られ、また吹き飛ばされる。

「全っ然、駄目じゃねえか!」

 勇敢なことを言って、何もできない彼女に逆に驚いて、ラグナは叫ぶ。心配に声をかけるも、返事はない。一度呻いたから生きているのは分かったけれど、気を失っていた。仕方なくラグナはこちらを見つめる異形に向き直った。

「混ざ――う、蒼、蒼……どっち――だ? 否、どっちも喰らえば良い……」

「意味の分からねぇこと言ってんじゃねぇよこの化け物が」

 先ほどから自身らの言葉など聞いておらず、それでも人間の言葉を解するそれに男は剣を握り締めた。黒い粘液のような身体に向けて真っ直ぐ剣を構えると同じ頃合い、その異形も体勢を立て直したらしい。身体を一度ぎゅうっと縮めると、伸ばし、バネのようにして飛びかかってくる。その身体から漏れる見たこともない蟲らと共に、その身体を大剣で弾き飛ばす。

 醜い悲鳴があがり、吹っ飛ぶ身体に駆け寄り追撃。

 不思議と、先ほどよりも身体が動く。まるで忘れていた記憶を思い出すかのように、本能がこう動けと指示を出してくる。自然と身体が従い、最後。真っ黒な身体を地面に叩き付けると、それは小さく呻いて痙攣し、そこにべっとりと広がり動かなくなる。

 それを確認した後、心配の念からラグナが彼女に視線を遣った直後。引きずるような音が前方から鳴り響く。まさか、倒しきれていなかったのか。振り向けば案の定、それは逃げだそうとしていて。

「おい待て!」

 剣を構え、斬りかかろうと駆けるラグナ。逃げるその流動体を今度こそ倒そうとして――。

「待って! 『彼』を殺さないで……!」

 腕を広げ立ちはだかるように、間に割り込む人物が居た。

 それは先ほどまで彼が世話になっていた人間。ライチ=フェイ=リンだった。

 彼女の登場に、少女とラグナの二人が同時に驚いたように目を見開く。彼女の後ろで黒いそれは身体を引きずり、一刻も早くこの場から立ち去ろうと逃げていく。

「蒼……蒼、深淵……蒼、必ず……」

「また来る気満々じゃねえか。んで女医さん、アレの次はアンタが相手か? っつか、なんでアレを庇うんだよ」

 理解ができないとでも言いたげなラグナに、ライチは首を振る。逃げていく異形を尻目に、悲しげな表情を浮かべると彼女は口を開いた。

 曰く、あの異形――アラクネは『蒼』を狙っているらしく、『蒼の魔道書』を持つラグナが居れば現れると思ったらしいと。そして、彼女はそのアラクネを追いかけているのだとか。

 ラグナには訳の分からない言葉ばかりだった。蒼とは、そもそも『蒼の魔道書』とは何なのか。

「……蒼の魔道書は、ブレイブルーとも呼ばれる魔道書よ。原書の魔道書とも呼ばれ、それを狙っている人も存在するわ」

「つっても……俺、書なんか持ってねえぞ」

 そもそも書と呼べる所持品など心当たりがなく、ラグナは訝しげな表情でライチを見つめた。すると、やはり気付いていないのか――ライチはそう言い、ラグナの右腕を指差す。

 多分、その黒いラグナの右腕が蒼の魔道書そのものだと。

 腕が魔道書ということには多少驚くが、イマイチ理解できずに眉根を寄せるラグナ。そもそも蒼とは何なのか。問えば彼女は詳しくは知らないというのだから肩を落とす。

「……でも。神の力、と言って信じるかしら」

「マジかよ」

 ますます意味が分からなくなって、それしか言葉が出てこない。神の力というのが具体的にどんな力なのかは分からないが、その名からして相当なものなのだろう。

 自身の右手に視線を落とすラグナ。その前で彼女はふと首を傾ける。視線は、ラグナの後ろに向けられていた。

「あら? その子……」

「知ってんのか?」

 名も知らないその少女について、どうしようか悩んでもいたから、ライチが反応したのには光が見えた。彼女なら、知らずとも手当なりをしてくれるだろうと思ったのだ。

「その子は貴方……『死神』の調査に来た統制機構の衛士さんよ。もし気付かれでもしたら大変だわ。先に手を打たないと」

 けれど、ライチは顎に手を添え険しい表情でそう言うのだ。手を打つだなんて、物騒なことを言う、とラグナは思わず漏らす。できるならば人を殺したりなどはしたくなかった。

 だから自身が逃げればいいだけでは、とラグナが問おうとするも、それより早く彼女がまた口を開いた。

「……あら、胸元に何か書かれているわね。何かしら」

 先の戦闘でどうやら破れてしまったらしいその胸元に、彼女の言葉を確かめるように自然とラグナも視線を投げて――目を丸くする。そこには『十二』の文字が刻まれていた。それを見た途端、頭の中を沢山の映像が、記憶が駆け巡る。

 ムラクモユニット。次元境界接触用素体。精錬。窯。

 頭の中で響く、媚びつくように甘ったるい女の声。それはやけにはっきりと、近くに聞こえて思わずラグナは振り向く。

「誰だ!?」

「きゃっ……」

 大きな声をあげてしまい、驚いたライチが悲鳴を漏らす。

 振り向いた先にも、どこにも、あの少女は居ない。幻覚だったのだろうか。それにしては随分とリアルな――。

 冷や汗を浮かべるラグナの耳に、やがて届く声があった。

「ライチ殿ぉぉお! 大丈夫でござるか――!!」

 バングだ。このよく通る大きな声は、正しくあのバングのものだ。

 彼も自身を探していたのかと思えば、真っ先に心配するのは彼女のこと。呆れ、溜息を吐く。

「バングさんだわ。私達を探しに来てくれたのね。……さ、戻りましょ」

 ライチもその声が聞こえたのだろう。にこやかに微笑み、手を差し出す。カカ族の村に戻ろう、そう言う彼女に、しかしラグナは首を横に振った。

「いや、俺は行かねぇ。確かめたいことができた。……っつーわけで、コイツは任せた」

 確かめたいこと、と言うにはあやふやな点が多すぎたけれど、頭の中に流れ込んできた映像はとんでもなく大事なことである気がして、それを確かめる術を自身は知っているような気もして。よくは分からないが、取り敢えず行かねばならない。そう思えば、身体は動きだしていた。

「ちょっと待って! 外には統制機構の衛士達が沢山居るわ! 私なら助けになれるから!」

「悪ぃが、それでまた『餌』になるのなんざごめんだからな」

 手を伸ばし、呼び止めるライチに言うだけ言って、ラグナは駆け出した。真っ直ぐ道なりに進んでいくと、やがて光が見えてくる。その光を頼りに進み、走り――。

「っはぁ……!!」

 やっと、外に出る。先ほどまで暗い場所に居たためか、陽の光が眩しく腕で目を覆う。



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第十三章 傷紺の夕暮

 下水道から出たラグナを出迎えたのは、自身よりものさし一つ分よりも大きいだろう人影だった。地面が揺れるのは、それが上空から落ちてきたためだ。真っ赤な服から出た太い腕などは同じ赤色をしていて筋骨隆々。

 さらに見上げれば、目に飛び込んでくるのは口から飛び出た牙。凶悪な風貌。その巨体に似合わず顔には小さな黄色の眼鏡をかけている。

 人、なのだろうか。否、『鬼』というのが相応しい。鬼というものを詳しく知らなかったけれど、ラグナは何となくそう思う。

 見上げてくるラグナを見下ろして、赤鬼は口を開いた。色眼鏡を指先で持ち上げ軽く位置を調整しながら、溜息を吐くと。

「やれやれ……やっと見つけたぞ。貴様があの『死神』か。手配書通りの人相……間違いないな」

 死神。それは先から何度か彼が言われてきた名前だ。そう呼ばれるほどの残虐非道な行いを自身はしてきたのだろうかと考えてしまうところがありながらも、ラグナは赤鬼を睨み付け、知らないと言う。半分は本当だ。何故なら記憶が戻っていないのだから。

「おら、邪魔だ。退け」

「つまらん嘘を吐くな、死神」

 しかしラグナの言葉を嘘だと解釈したのだろう。赤鬼は静かに『くだらない』と一蹴すると、溜息を吐いて言った。

「私は第七機関の者だ。用件は分かっているな? 悪いが、貴様を拘束させてもらうぞ」

「……人の話聞けよ、おい」

 分かっているな、と聞いておきながら返事も待たずに拘束すると宣言してくるその人物。話し方は常識のある人間のそれなのだが、話が通じないのだろう気配を何となくラグナは肌で感じる。それでも尚、僅かな望みにかけて『聞け』と返してみるが。

「今更、他人のフリをしても無駄だ。たとえ貴様がどこへ行こうが、私には貴様の居場所が分かる。貴様が『蒼』の魔道書を持っている以上、測位システムはその反応をどこまでも追う」

 また『蒼(それ)』か、とラグナは胸の内で呟いた。第七機関が何かも分からないし『蒼の魔道書』とどういう関係があるのかも知らなかったけれど、またその魔道書の名が出てくるのにはもううんざりしていた。

「んで、その第七機関ってやつと『蒼の魔道書』に何の関係性があるっつーんだ」

 問えば、赤鬼は黙る。答える気はないのだろうか。

 しかし、そのすぐ後に、ラグナの頭の中に声が響く。

「関係はないな。しかし、最強と言われる蒼の魔道書を、統制機構に渡すわけにはいかんからな」

「誰だ、テメェ。いきなり横から会話に割り込んできやがって」

 少しだけ低めの女の声だ。突然、聞いたこともない声が頭の中に流れてきたというのに、しかしラグナは驚かずに返した。何故だかそれに慣れているような感覚があったのだ。直後にその感覚を疑問に思って間が開くのだが。

 いつの間にか目の前に展開されていたのはホログラムのディスプレイ。

 向こう側が少し透けて見える青白い画面に映し出されるのは、ピンク色の髪をした女だった。鼻は高く、小さく。釣り目がちの黄金の瞳と、頭頂に生えた小さな丸い耳。猫のようだ、とラグナは思う。

 その人物がどうやら声の主なのだろう。映る女の口が動く度に、一瞬のタイムラグを要して、先と同じ声が頭の中に響く。

「ふん。聞いていた通り鼻息が荒いな、死神。私はそこの……赤鬼と同じ第七機関に所属するココノエだ。お前に二つ三つ質問したい。私の質問に答えたら、お前を見逃してやろう」

 名乗ると、その声――ココノエは、質問させろと要求してくる。提示された条件が本当ならば見逃してもらえるのだろう。それなら万々歳であるし、特に断る理由も思いつかず、取り敢えずはとラグナは何を聞きたいのか促した。

「……その『蒼の魔道書』、どこで手に入れた?」

 蒼の魔道書というのが未だによく理解できていないが、先のライチの台詞が本当だとするならば、彼女らが指しているのはラグナの右腕のことだろう。右腕がいつからこうなったのか。そもそも、気が付く前はどうしていたのか全て覚えていない彼は、素直に白状した。今でも、この右腕が本物なのかすら疑っていることも。

「……次の質問だ。その腹部の傷だが、反応から察するにアークエネミーに付けられた傷だな。それを、どうやって治した?」

 ラグナの回答に、驚きこそしないけれど眉をぴくりと動かし、二拍程度の間を置くと、彼女はまた次の問いをかける。

 アークエネミー。また知らない単語が出てきたことに眉を顰めるラグナ。

 服の腹部は切り裂かれ痛々しい傷跡を未だに覗かせている。そんな腹を見下ろしながら、自身にこの傷をつけた奇怪な機械人形のことだろうかと問えば首肯される。

「そうだ。いいから答えろ。そいつを治したのは、誰だ」

 やけに真剣な声音で言われるが、ラグナにはそれすらもあまり覚えていなかった。

 ただ、強いて言うならライチがバングと会話していたときに少し漏らした――。

「医者が言うには、勝手に治っちまったらしいぜ。まだ痛むが、これもその蒼の魔道書とかいうやつのおかげとかなんとか……」

 ラグナの答えに今度はひどく驚いたように映る女の目が見開かれる。その答えが意外だったのだろうか。馬鹿な、信じられんだとか、まさかなどと漏らされる様子からきっとそうなのだろう。

「……なんか大変そうだな。もう行っていいか?」

「待て。最後にもう一つ、質問させろ」

 何やら一人でぶつぶつと呟くその女に痺れを切らしラグナが問うも、すぐに引き留められる。今度は何だと思いながらラグナが返事するよりも早く、先に彼女は質問の内容を告げる。

「ユウキ=テルミ。この名に聞き覚えがあるか?」

「……ユウキ=テルミ?」

 ココノエの言う名を繰り返した瞬間だった。

 視界が一瞬白くなり、次に頭に浮かぶのは、二人の女と――目の前に、男が居る。どうやら先ほどの女が居た場所と同じような風景で、ノイズ混じりに見える男の顔を認識した瞬間、ひどい驚きと、燃え上がるような怒りと、どろどろと煮えたぎる憎しみのような感情がない混ぜになって浮上してくるのだ。

「なっ……」

「どうした。やはり知っているのか」

 訳が分からず、漏れる声。その反応を見て何かを察したのかココノエが尋ねる。しかし、これ

以上はやはり思い出せなかった。

 首を緩く横に振り、知らないと答える。小さく、多分と付け足される声は届いたのだろうか。相槌を打つココノエ。

「おい、約束通り質問には答えたぞ。いい加減、先へ行かせてもらうぜ」

 しかしいつまで経っても行かせてくれる様子のない彼女に痺れを切らし、ラグナは眉根を寄せながらそう言った。いい加減、行かねばならないと。

 しかし、それをやはりココノエは許すことがなかった。

 短く謝って、行かせる訳にはいかなくなったと告げると、今までずっと黙っていた赤鬼――テイガーへと、拘束命令を出す。冷たい声音だった。

 了解した、と短くテイガーは応え、ラグナに改めて向き直る。

「という事らしい。すまんが……諦めてくれ」

「けっ、やっぱりか。んなら最初から力づくで来やがれっての」

 構える赤鬼に、ラグナもまた剣を真っ直ぐに構える。この大剣の重さにも、もうすっかり馴染んでしまった事実に少し悔しさを覚えながら、目の前の巨体を睨み付け――駆けた。

 

 

 

「うおらぁ……!!」

 剣を叩き付けるも、腕の硬い装甲に守られる。そうでなくとも筋骨隆々の腕はなかなか刃を通そうとせず、何でできているのかと疑うばかりだった。

 更に、相手はどうやらその重そうな見た目に反して瞬間移動したり、こちらを引き寄せたりといった不思議な技を持っているようだ。金属が特に引きつけられているのに気付き、磁力の力かと気付くが、どうやってそれを付与しているかは分からない。

 それでも、何度か隙を見つけては殴り、蹴り、剣を叩きつけと繰り返していればやがてダメージが通っているのが窺える。赤鬼が呻きを漏らした。

「ぐ……さすが『蒼』の魔道書の所有者なだけはあるな」

「チッ……くそ、滅茶苦茶に硬ぇな、アンタ。何でできてるんだよ」

 褒められても嬉しさなど無く、寧ろ蹴った脚が痺れを訴えていた。一体何をしたらこんな身体になるのか、想像もつかず問うラグナを無視して、テイガーは肩につけたジッパーのような通信機に話しかけた。

「まだか、ココノエ。そう長くはもたんぞ」

 赤鬼は確かに硬いし強い。しかし、それと同等かそれ以上にラグナの力――否、『蒼の魔道書』の力も強いのだ。持久戦に持ち込まれれば、もしかしたらやられてしまいかねない。

 テイガーの言葉に、あと少しだと短く言うだけ言ってココノエは通信を切ってしまう。溜息が漏れた。

「……しかし、蒼の魔道書とはこれほどか。なるほど、多くの者が欲しがるわけだ」

「聞きてぇんだけどよ。その蒼の魔道書ってのは一体何なんだ。そんなに欲しがるモンなのか?」

 何かに納得したように頷くテイガーに眉をひそめて、ラグナは首を傾げる。

 この右腕が、どれだけの価値があるのかラグナには全くもって理解できなかった。先ほど説明を受けたけれど、神の力だとか、最強だとか、そんなものもさっぱりだ。

 ラグナの言葉に、テイガーが露骨に反応する。信じられないと言った様子で、本気で言っているのか、と問うた後――ラグナが首肯したのを見て、再度溜息を吐き語った。

「蒼の魔道書、ブレイブルーはこの世で最強の魔道書だ。それを欲しがる連中はごまんと存在し、中には『悪』のために使おうとする者だっている」

 そして、我々――第七機関は、そんな連中の手に渡る前に蒼の魔道書を確保するのが目的なのだと。それを聞いて、ラグナはならば自身は『悪』に使うつもりもないし、そもそも理解すらしていないのだから良いのではと思ってしまう。そのまま口にすれば、おかしなことを言う、とテイガーは返した。

「何を言う。お前は統制機構の支部に攻め入って、大勢の人間をその手で殺めた犯罪者だろう。お前のような奴にこそ、渡せるものか」

 そう言われて、そういえばと思い出す。

 確かに巷では、自身はそういうことになっているらしい。ならば渡せないのも当然かと。

 しかしラグナ自身だって捕まりたくないし、捕まるわけにはいかない――。

「ッ……!? いつの間に……!!」

 ふと周りに視線を遣れば、いつの間にか周りには沢山の衛士が構えており、ラグナは囲まれていた。言ったそばからこれだ。目を見開くラグナの視界に、ふと一人の男が現れる。

「ご苦労だったな、テイガー。死神捕縛への協力、感謝するぜ」

「ココノエの命令だ。貴様に協力したわけではない」

 ニッと笑いながら手をぱんぱんと払う黒髪の男に、冷たくテイガーは言う。手厳しい、などと漏らすその男に一瞬首を傾けるラグナであったが――。なるほど、とすぐに頷く。

 要は、戦闘をすることで時間を稼ぎ、自分を捕まえるために人を集めたのだ。これが彼らのやり方か。理解すれば、吐き捨てるようにそう言った。

「不本意ではあるが……貴様を逃がすわけにはいかんのでな」

「上等だ。言っておくが、簡単に捕まるつもりはねぇぞ」

 テイガーの言葉に返すと、ラグナは改めて周りの衛士達を見遣った。好戦的に睨み付けながら、挑発するように彼は手招き、言う。

「テメェら、俺を捕まえるつもりなら相応の犠牲は覚悟しとけよ。それでも構わねぇって奴からかかってきな」

 自身は死神と畏れられるほどの人物なのだ。ならば、挑発すれば下手に出たり、逃げる者だって居るはずだと思っての言葉だった。現に唸り、顔を恐れに塗り潰される衛士だって居た。

「おら、どうしたよ。かかって来ねぇなら、こっちから……」

 そんなラグナの近くで、空気が動く。ラグナがそれに気付くよりも早く――その首に、男の手が叩き込まれた。ラグナが衛士らに気を逸らしているうちに近付いたのだ。

「きゃんきゃん吠えるんじゃねえよ、みっともねぇ」

「な……くそ、が……」

 まるで犬を躾するような彼――カグラの物言いに、ラグナは思わず毒を吐いた。

 視界がぼやけ、意識が朦朧とする。膝から下がなくなったみたいだ。立っていることができず、ゆっくりと地に吸い込まれるように倒れるラグナを冷たく見下ろし――カグラは、呟いた。

「部下を助けてもらった礼だ。『今』は殺さねぇよ」

 その声は小さく、他の衛士の耳には届かず。それからカグラは周りに視線を遣って、声をかけた。命令だった。

「おい、コイツを支部へ連れて行け。拘束陣を忘れるなよ。それから、念のためだ。俺が戻るまで上位の術式を使える奴を何人か付けとけ」

 カグラの言葉を聞き届けると、皆一様に短くはっきりと返事をし、頷き合う。各々が自身の役割を理解し、動き出すのを見て――カグラは、静かに虚空へ話しかけた。

「さて、ココノエ。協力感謝するぜ」

 展開される、ホログラム。けれど、そこに居る彼女は黙りこくっていた。

 どうしたのだと問えば、彼女は「いや」と前置いて、間を開けると静かに囁く。

「……先ほどの、奴の言葉がな」

「死神の? 何の話だ」

 どうやらカグラが訪れる前の話のようで、問うてみるものの彼女は応えない。

 何言か呟くと、一方的に通信は途切れ、おい、と声をかけるも時すでに遅し。

 何だったのだろうか、零すカグラ。そして思い出すのは先ほど捕縛した男のことだった。

「しかし『死神』か……聞いてたほど、大したことなかったな」

 期待のしすぎだったのだろうか。

 否――それとも、何か理由があったのだろうか。何か、よからぬ気配がして、カグラは汗も浮かんでいないのに額を拭った。

 

 

 

 『死神』が捕縛されたという知らせをハザマが聞いたのは、彼が捕まってから間もなくのことだった。

「へぇ、捕まっちまったか」

 一つ隣でテルミがそう言うのに相槌を打って、薄く目を開く。覗く瞳は瞳孔の細い金色のものだ。愉快げに笑みを浮かべる彼らに挟まれ、二人を交互に見ながら――少女は首を傾けた。

「えっと、らぐな……さんが、つかまった、ですか」

「えぇ。滑稽なことに、あのカグラ=ムツキ大佐に捕まったとか。その場で殺してしまっても良かったのに……何故そうしなかったんでしょうねぇ」

 カグラ。その名をユリシアは知っていた。否、知っているどころではない。数度『この世界』じゃない世界で会っていた。

 あの男が捕まえたのか、理解すれば頷くユリシアにテルミが手を伸ばす。くしゃりと撫でてくれる感覚が心地良くて目を細める少女。この肉体は未だにハザマと融合できないテルミが自己観測することによって保っている仮の身体らしい。故に一刻も早く融合せねばならないらしいのだけれど――。

「そうだ、今度会いに行こうぜ」

「えぇ。そうですね」

 ニンマリとどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて言うテルミに、相槌を打つのはハザマ。二人が言うならばと、ユリシアもまた頷いて微笑んだ。

 

 

 

「っ……いってぇな、くっそ……」

 意識が浮上するとともに、まず感じるのは身体中の痛みだ。頬に触れる冷たく硬いものは何だろうか。目を開けるのすら億劫だったけれど、ゆっくりと片方の瞼を持ち上げて、ラグナは腹筋だけを使い上体を起こした。

「……ここ、どこだ?」

 見慣れぬ天井、見慣れぬ壁、見慣れぬ床。知らない景色に眉根を寄せるラグナであったが、やがて横に視線を向けることで納得する。

 壁が鉄格子になっており、そこから向こうが見える。廊下らしき場所に佇む男は見張りだろう。

 牢屋。実際に入ったことはこれが初めてだが、知識が告げる。これは、悪い人間を閉じ込めておく牢屋なのだと。

「……マジかよ。俺……捕まっちまったのか? いやいや、待て、おい、出せよ!!」

 ここが牢屋だとするならば。そう考え、ラグナは信じられない、といった様子で立ち上がろうとして――違和感に、身体を見下ろす。

 身体が上手く動かせないのだ。主に腕が体に貼りついたように。

 その原因は、彼の身体に巻き付くようにして展開された術式陣にあった。

「うおっ、何だこれ……!? んぎぎぎぎ……っ」

 淡い光を纏う術式陣を外すべく力を込めてみるも、その術式陣はびくともしない。

 どうにかして出なければ。足は動く。ならばと、身体を何度か鉄格子に叩き付ける。痛みはあるが、それよりも――。

「やれやれ、目が覚めた途端、大した暴れっぷりだな」

「なっ……テメェは……!!」

 腕を組み、やって来る人影。からかうように言うその人物は、先ほども見た男だった。

 ラグナより僅かに身長の高い男――カグラは、愉快げに笑いながら、へたり込むラグナを見下ろしていた。

「しっかし……街で見たときは大した男に見えなかったが。こうやってると男前に見えるな。似合ってるぞ『その部屋』」

 その部屋、という言葉が指すのはラグナが現在収容されている牢屋のことだ。負けたラグナをからかいに来たのだろうか。そう思えば、怒りが込み上げてくる。

「テメェ……俺は負けてねぇからな! 何なら今すぐ再戦するか? あぁ!?」

 飛び出そうなほどに両目を見開き、ラグナが怒鳴る。

 しかしそれも牢屋の中に入っていれば負け犬が何か喚いているようにしか思えず、ますますカグラは面白がって笑みを深くした。

「お約束の台詞だな。面白ぇなコイツ。お前はお縄についたんだ、潔く負けを認めろ。大罪人」

 男の台詞に、白髪は思わず呻いた。

 あのとき自身から大罪人を名乗り、しかも好戦的な態度をとってしまったのだから、こう言われても仕方ないといえば仕方ない。俯くラグナに、カグラはスッと表情を冷たくして告げた。

「ま、どうせお前じゃその多重拘束陣は解けねぇよ。蒼の魔道書も全然使えてねぇみたいだし。死神とか呼ばれてるからどんなもんかと思ったら……全然ガキじゃねぇか」

 貶すようなその言葉にラグナが目つきを鋭くする。けれど、それよりも早くカグラを窘めるような声が、彼の隣から響いた。中性的な高いもので、けれどかろうじて男のものだと分かる声だ。

「支部の方達の目もありますので、それくらいにしてください」

 声の主である黒髪の青年は、静かに琥珀色の双眸を伏せると小さく溜息を吐いた。丁寧な口ぶりからして、隣でラグナをからかっていた男よりは下の階級なのだろう。秘書官の類だろうか。けれど、纏う雰囲気の油断ならなさは。階級が上の彼よりも強い。

「おっと、そうだったなヒビキ。つーわけで、悪いが相手をするのはここまでだ。あんまりイジメんなってお達しだ」

 声がかけられればそちらに目を向け、ヒビキと呼んだ秘書官に軽く笑う。それからラグナにまた視線を戻すとそう告げた。言われて尚、まだからかうような口ぶりは正されていない。

 言っても無駄だと思ったのか、最後にそれくらいは許すということなのか何も言わないヒビキを睨み付けた後、ラグナは改めて男を見た。

「イジメ……って、からかうのも大概にしろよ」

「はいはい……んじゃ、罪状を読み上げるぞ」

 ラグナの氷の刃のような目つきにもカグラは物怖じせず、寧ろ軽くあしらう。

 そうして、隣のヒビキが差し出す白い紙――ラグナの犯した罪状が書かれている書類を受け取ると、それに視線を落とし、通る声で読み上げ始めた。

「世界虚空情報統制機構の支部二箇所を襲撃、そこの窯を破壊。アキツでは駐屯していた一個師団を壊滅状態に。死傷者合わせて二千人。建築物の破壊は……百以上!?」

 どうやったらそこまで壊せるんだ、と小さくカグラが呟くのが聞こえた。それから咳払いをした後に、続けられる内容。まだあるのか、と思わずにはいられなかった。

「その罪状は主に、殺人、傷害、暴行、略取、住居侵入、建築物損壊、公務執行妨害、その他に強盗、詐欺、恐喝、器物損壊、放火、国交機能に対する国家反逆罪」

 ここまで来ると凄いな、と逆にカグラは思ってしまった。同時に当時の様子を想像して、寒心に堪えなかったけれど。

 ラグナもまた、読み上げられるその量に驚愕せずにはいられなかった。過去の自身はそんなに罪を犯していたのかと。

「こんだけあれば、多少間違ってても問題なさそうだな。で、この内容に間違いないな?」

「いや、全っ然身に覚えがねぇわ」

 全く身に覚えがない。事実だ。先ほどから何度も思い出そうと試みてはいたが一向に思い出す気配がない。今まで自身が何をしていたのかも、名前すら思い出せないというのに罪状を知っているはずもない。けれどラグナが白を切っているのと思ったのだろう、カグラは鼻で笑い告げた。犯罪者は皆そう言うのだ、と。

「言っておくが、これだけの罪だ。その罰も当然重い。百二十パーセント間違いなく極刑……つまりお前は死刑になるな」

「ちょ……マジかよ!?」

 薄々感じ取ってはいたが、記憶がないために罪の意識もなく、実際言われてしまうと驚くところはあった。しかし、ラグナがそれすら理解できない馬鹿だとでも思ったのかカグラは眉根を寄せる。

「当たり前だろ。まさかお前……助かるとでも思ってたのか?」

 疑うような視線を向けて言った後、何か思い当たるところがあったのか彼は小さく「あぁ」と漏らして、溜息を吐いた。

「言っておくが、その場で殺されなかったから……って思ってるなら間違いだぞ。お前を殺さなかったのは、うちのノエルを助けてくれた恩があったからだ。あの場で殺されなかっただけ、ありがたく思えよ」

 冷たい声に言われて、ラグナは何も言えなくなる。そんな希望を抱いていたわけではなかったが、その台詞からして過去の――記憶をなくす前の自身はなんてことをしていたのだと思ってしまった。そのとばっちりが、同じ人物とはいえ記憶のない自身にやってきたのだから余計に。

 黙りこくるラグナを見て「だが」とカグラは付け足す。

「お前にはまだ聞かなきゃならねぇ事が山ほどあるんでな。悪いが……それまでは生きててもらうぜ」

 そう言うと、尋問は明日であるということだけ告げて彼らは踵を返し、去って行った。その背を見て、ラグナは動かない腕を伸ばそうとしてバランスを崩し、床に倒れ伏せる。

 唸りながらも、彼は声を張り上げて制止を呼びかけた。

「おい、本気かよ、待て――カグラ!」

 そう叫んだ時には、既に彼らの姿は随分と遠く見えていた。

 けれど、それよりもラグナは、今しがた自分が口走った言葉に目を見開く。

 カグラ。彼とは初対面だったはずだ。見たことも、それどころか存在自体も今日知ったばかりだというのに、何故自身は彼の名を知っているのだ。

 彼が、今の男が『イカルガの英雄』だとでもいうのか。

「はぁあ~……」

 考えても分からないことだらけだ。

 それに、明日から尋問が始まるうえに、それが終われば自身は死刑。溜息が出てしまった。

「死刑、なんだよなぁ。はぁ……」

 自身はそんなに極悪人だったのか。何も思い出せないが、思い出せない方が世のためになるのでは。否、死んでしまったら何も残らないではないか。

 一人になってしまえば、どんどん後ろ向きな思考になってしまう。再度溜息が漏れる。

「まったく……無様ね。溜息ばかり吐いて、それでも死神なの? 少しは情けないと思わないのかしら」

 ふと、幼さが残る女の声が響く。声がした方向を見れば、隣の牢があった。先まで気付かなかったが、どうやらそこにも収容されている人物が居たようだ。

 少女だった。絹糸のような長い金の髪を上の方で二つに纏めた少女だ。髪を纏め上げる二つの黒いリボンはウサギを思わせ、服はこの場所に似合わぬたっぷりとしたドレス。

「……誰だよ、テメェ。随分と上から目線だな」

 あまりに牢の中には似つかわしくない風貌。けれど、それよりも先の台詞の方がラグナは気になっていた。やけに、まるで旧知の仲でもあるように馴れ馴れしく話しかけてくるのだから。否、こんな話し方をする旧知の仲があってたまるか、とは思うけれど。

「私が何者かだなんて、どうでもいい事だわ。それよりも、そんなにマイナス思考貴方が私と同じ空気を吸っている事の方が問題よ」

 その随分な物言いに、ラグナは間抜けた声が漏れた。呆れに似た感情が浮かび上がる。

 牢屋に入れられているくせに、何故そこまで偉そうにしていられるのか。思い、口にすれば彼女はそっくりそのまま返す、と。

「貴方こそ『この世界』での自分の立場を弁えているのかしら」

 意味が分からない、とラグナは思った。どういう意味なのだ。自身の立場など、知るはずもない。問えば、彼女は呆れたように見つめてくるものだからムッとする。

「少しは自分で考える努力をしてみる事ね。与えられるばかりじゃなく……そうすれば、溜息も少しは減るのではなくて?」

 けれど、彼女の言い分は一理ある。思わず復唱して、ラグナは俯いた。

 

 

 

「……どうも妙だな」

 一方、地下牢から出ると、カグラは不意に足を止め呟いた。

 妙だった。彼が本当にあの『死神』なのか、疑問ばかりが浮かぶ。聞いていたよりも明らかに弱すぎるし、自身の罪状を知らないと言うときの彼はあまりに嘘を吐いているようには見えなかった。それに、この状況に何故だか覚えがあるような――。

 否、気のせいだ。不思議なことに、すぐそう思ってしまう。が、どうにもすっきりしない。何だか苛ついて、高ぶる気持ちを落ち着けるように深呼吸した後――彼は歩みを再開した。

 廊下を暫く歩いて、ある扉の前で立ち止まる。両開きの、大きな扉だ。それを押し開けながら、カグラはふと傍らに仕える青年へ声をかけた。

「……さて、今後についてだが。ココノエから何か連絡はあったか?」

「ん? 私がどうかしたか?」

 思わずカグラは後ろに一歩退いてしまった。そこに――自身の部屋に、他人が、それも今しがた話題に出したココノエが居たからだ。それが他の人物だったら、やはり驚きはするけれどここまでではない。

 彼女は、他機関――統制機構と敵対する『第七機関』に所属しているのだ。現在カグラ達と協力関係にあるものの、それは本部も知らないカグラの独断のため、誰かに見つかろうものなら大変だ。改めて部屋に踏み入り扉を閉めると、どうやって入ってきたのだと問うてしまう。

「ああ、先ほど自分が案内しておきました」

 問いに答えるのはヒビキだ。彼がやったのか、と知れば思わず驚いてしまう。

 今のところ誰にも知られていないから大丈夫だと言うが、問題はそこではない。第七機関の最重要人物が、統制機構の支部内に居るだなんて知られれば冗談抜きで洒落にならない事態だ。それこそ、カグラの立場だって危ない。

 カグラの考えを察したヒビキが更に言葉を続ける。

「ご心配なく。身分証も既に偽造済みです」

「あぁ、抜かりはないぞ。なんだったら外に出て衛士共に挨拶してやろうか」

 彼の言葉に便乗するように、ココノエがニヤリと笑って言うものだから、思わず冷や汗が背に浮かぶ。何故、自身ばかり焦っているのだろうか。呟いてしまうけれど、なってしまったものはもう仕方がない。

 何度目かの溜息を漏らすとカグラは改めて目の前に立つ女を見据え、用件を尋ねた。

 彼女は基本的に外に出ず、代わりに部下に仕事をさせる性格だったと記憶している。そんな彼女が出向いてくるなんて、よほどの事態なのだろう。

 揺れる、二本の尾。半獣人の彼女――ココノエは、カグラの言葉を受けると肩にかかった髪を払い、静かに話の口を切った。

「ああ。場合によっては全てがひっくり返るぞ、カグラ」

 ひっくり返る、というココノエの台詞の意味がカグラは分からず、復唱し問い返す。それに首肯し、彼女は窓の外を見遣り――そっと、呟いた。

「それを直接確かめさせてもらいに来た。あの『死神』が何者なのか、な……」

 

 

 

 統制機構カグツチ支部。医務室から出てきた少女の横から、飛びつく影がいた。

「の~えるんっ」

「きゃ……!」

 驚きに小さな悲鳴をあげて、少女ノエルは目を瞬かせる。それから自身にくっつく人物を見て、目を丸くした。

「マコト。それに、ツバキまで」

 抱きつきこそしていないが、近くでこちらを見つめるもう一人の存在にも驚く。

 マコトと呼ばれた少女は頭頂の丸い耳を震わせると、そっとノエルから離れ、快活に笑った。

 大きな尻尾が特徴的な茶髪の彼女の隣に、ツバキと呼ばれた赤髪の少女が並ぶ。

「お疲れ様。貴女を見つけてくれた女医さんから話は聞いたわ。大変だったみたいね」

 眉尻を下げ、少し困ったように笑ってツバキが労いの言葉をかけ、そこで彼女らが自身を心配し様子を見に来てくれたのだと知る。女医というのは多分、先ほど死神を匿っていた彼女のことだろう。

「も~、あの死神と戦ったなんて聞いたからビックリしちゃったよね。でも無事で良かった~。もう怪我は大丈夫なの?」

 心配するように問うマコトにノエルは頷き礼を述べ――そして、その言葉に疑問を抱いた。

 ノエルの聞いた言葉が間違いでなければ『死神』とノエルが戦った、とマコトは言ったのだ。確かめるようにそう問えば、何を言っているの、とばかりに頷くと、

「戦ったんでしょ? もう衛士の間では、ちょっとした噂になってるみたいだよ」

 と、マコトはそう言う。その死神を捕縛したカグラ=ムツキのオマケのような扱いにはなっているけれど、と付け足される言葉。続けるようにしてツバキが、それでも凄い事だと言うが。

 違う。そんなはずはない。『共に』戦おうとしたかもしれないけれど、彼と対峙して戦闘しただなんてことは。驚き、黙るノエルの顔を覗きこんで、二人は不思議そうに首を傾けた。

「もしかして、傷が痛むの? 大変、早く医務室に戻らないと……」

 そう言って、今しがたノエルが出てきた部屋に戻らせようと肩に触れるツバキ。それに慌てて距離を取って、ノエルは首を横に振った。

「ううん。違うの。あのね、私は死神に――」

「あ~、お話し中のところすみません」

 真実を話そうとした瞬間だった。丁度よく遮るようにして、声がかけられる。

 驚きに思わず振り向くと、そこに居たのは黒いスーツを着込んだ長躯の男だった。見覚えのあるその顔に、彼女は名を呼んだ。体に、力が入ってしまう。

「は、ハザマ大尉……!?」

 諜報部所属のハザマ。それが彼の名だった。呼ばれた名を聞いて、マコトが同じく驚いたように声をあげ、ツバキが顔を強張らせる。三人の様子を、自身より上の人物に声をかけられたためだと思ったのかハザマは苦笑し、帽子のツバを摘まんで外した。

「いえいえ、そこまで畏まらなくて構いませんよ。大尉といっても、貴方達のように前線に出ている立場ではありませんから。さ、楽にして」

 表情をにこやかな微笑みにするとそう言って、改めて彼はマコトとツバキを見る。

「お二人は初めてでしたよね。私、諜報部のハザマと申します」

 名乗る彼に、どこか胡乱げな目を向けて相槌を打つのはマコトだった。どうにも彼は人を警戒するような雰囲気を持っている、と思うマコト。その前方から、小さな声が紡がれる。

「はざまさん、なにか、ようじ、あったんじゃ……」

 問い。それを聞けば忘れていたとばかりに声をあげて、ハザマは頷く。

「あぁ~そうでしたそうでした。いえね。私、実は道に迷ってしまったようでして……よかったら、案内していただけません?」

 ――カグラ=ムツキ大佐のもとに。

 言う笑みはとても温和なものだったけれど、何故だか三人の背には嫌な浮かんでしまう。けれど、それよりも気になるものがあって、三人は揃ってハザマの隣を見た。

「……え」

 ノエルが真っ先に声を漏らす。そこに居たのは、青と白を基調としたワンピースを着た、少女だった。甘い蜂蜜のような髪色をした彼女は、視線に気付くと三人の顔を交互に見て、首を傾ける。どうしたのだ、と。

「ハザマ大尉、この子は?」

 統制機構の制服も着ていないし、彼女のことも見たことがない。用件を思い出せば、部外者を連れて行くわけにはいかないから尚更疑問に思って。マコトが問う。

「あぁ、コレ……いえ、この子はですね。少し前に諜報部が保護したんですよ。上の命令で、なるべく行動は共にしろとのことで」

 それに短く頷くとそう語ると、彼は首を傾ける。それで、案内をしてくれるのかと。

 事情が分かれば、未だ怪しいと思う者も居たが――素直に彼女、ノエルは頷いた。

 

 

 

 カグラはココノエの言葉を聞き、驚愕していた。否、訳が分からない内容ではあったのだけれど、それでもこんな大きな話を持ち出されれば少しは驚いてしまう。

「この世界に『居ないはずの者』が存在している、だと?」

「……その通りだ。それが、私がここに来た理由だ」

 目を見開く男を見据えた後、そっと目を伏せるとココノエはそう告げた。

 手に持っていた青色の棒つきキャンディーを一舐めして、彼女はゆっくり目を開ける。ピンクの睫毛に縁どられた黄金の目が、床を見つめる。

「さっぱり話が見えねぇ。そいつは一体誰なんだ? ……まさか死神か?」

 先ほど『死神』の正体を確かめる、という旨の話をしていたことから、カグラは思い当たる人物の名を挙げてみる。しかしそれは彼女がゆるく首を振ったことで否定されてしまう。ならば、誰なのだ。もう一度問おうとするより早くココノエは口を開く。

「一人は私の知人だ。それも、数年前に死んだはずのな。そしてもう一人は……スサノオユニット。つまり、六英雄のハクメンだ」

 いやに落ち着いた声が、密やかに紡ぐ内容。それにまた、カグラは驚いてしまう。

 死んだはずの人間が生きていることにも驚きだが、その次に出された名前にカグラは冷や汗を浮かべる。だって、六英雄のハクメンだなんて。

 六英雄というのは、約百年ほど前にあった『暗黒大戦』で活躍した、その名の通り六人の英雄だ。その一人――当時のリーダーであったハクメンの存在は、暗黒大戦が終わってから確認されていない。てっきり死んだものだとばかり皆思っていた。

「おい、待てよ。それじゃあ……暗黒大戦の英雄が生き返ったってことかよ」

 そんなことがあるのか。ひどく驚いた様子のカグラに、しかしココノエはまた首を横に振る。

「正確に言えば『奴は生きていた』。百年近くもの間、境界の奥底でな……」

 境界。その存在こそ詳しくは知らないが、ココノエが言うのだから相当な場所であることは何となく伝わってくる。そして、そこからハクメンを引き揚げたものが居るとココノエは語った。

「……そんな事が可能なのは私だけだと思っていたのだがな」

 落ち着いた状態を装っているが、その実彼女は焦っていた。

 何故なら彼女もまたハクメンを引き揚げることを考えていたのだ。なのに、その先を越されたというのだから。誰が何の目的でそうしたのかも分からないのだから、尚更焦りはひどくなるばかりだ。

「それから、更にもう二人。興味深い反応を見つけたのだが……」

 まだそんなに居るのかと思えばカグラはもう驚くことを止めてしまった。それくらいには彼女の口から放たれる言葉は凄まじく、信じられないものばかりだったからだ。

「片方はあの死神と同じ……否、それより少し違った『蒼』の反応がするのだが、それ以外が一切謎に包まれている。私のデータベースにも全く引っかからん」

 ココノエのデータベースは非常に様々なデータを持っていた。この世界のありとあらゆる存在の情報が保存されたそこに、しかし引っかからないというのはよほどのことだった。

 更に、もう片方の存在は先に挙げた存在よりも謎に包まれていて、ただ生命体である以外は分からなかったという。

 そんな人間がこの世に――しかも二人も存在するとは驚きだとココノエは告げて、溜息を吐いた。眉間を揉み、キャンディをまた舐める。

「だが……もっと驚くべきは、そんなレアケースの存在達が例外なく『ここ』カグツチに集まっているという点だ」

 もう何を言われても驚かないと思っていたが、やはりカグラは目を見開き声をあげた。

 その存在らのことは詳しく知らないが、ここまでくれば、単なる偶然とも思えない。何者かが裏で操り、この世界で何かをしようと企んでいるのだろうか。

 だが、それなら目的は何だ。『それ』は何をしようとしているのか。呟く声を聞きつけたココノエすらそれは分からないと言う。

「……ただ一つ分かっているのは、裏で何かが起きているという事実だけ。そういうことだ。理解できたか?」

 理解こそしたが、信じたくなかった。これ以上面倒臭いことが増えるのだけは勘弁だった。

「チッ……統合本部も混乱してるってのに。これ以上何かありゃ、この支部だけじゃ対応しきれねぇぞ」

 舌を打つ。内情はどこも同じだな、とココノエが言う。全くもってその通りだった。

 イカルガ内戦時にカグラが保護した『天ノ矛坂焔』が帝の位を継承してからまだ二年。ホムラは未だ子供であり、統制機構統合本部の一部は、現帝が力を付ける前に統制機構を席巻するつもりらしい。

 それを認めない連中は勿論おり、カグラが筆頭である十二宗家が中心となっている。そんなくだらない派閥争いに明け暮れるせいで統合本部と十二宗家の確執はひどくなるばかり。かつて統制機構に多大なる貢献をし権力を与えられたはずの十二宗家は、もはやお飾り同然の存在であるし、統合本部だってその機能を失いつつある。

 その事実を改めて思い出せば、苛立ちに拳を握るカグラが居た。

「その状況を変えるために、我々が手を組んだのだ。そう逸るな。今熱くなったところで、何も解決はしないぞ」

 それを優しく宥めることはしないけれど、冷静すぎるほどの彼女の一言にハッとして彼は深呼吸を一つ。頷き、話を戻す。

「それでさっきの件だが……現状をどうする?」

「ああ。先ほども言ったが、まずは死神と面会をさせろ。奴の持つ『蒼の魔道書』を直接確認したい」

 ココノエの要求は先も聞いたものだ。詳しい事情は知らないが、何かこの世界に起きていることに関係でもあるのだろう。断る理由もない。

 今まで黙っていた秘書官のヒビキにカグラは一言、手配を頼むように言い付ける。しかしヒビキは表情を変えないままではあったが、言いづらそうに言葉を濁しながら、告げた。

「その件ですが……たった今、先約の方がいらしたようでして」

 それは、カグラ達が話し込んでいる間にやって来た人物だった。

 今は話の最中だからと外で待たせていることをヒビキから聞いて、眉根を寄せるカグラ。

 死神に用がある人物なんて、思い当たるものがなかった。けれど嫌な予感がして――。

「何者なんだ」

「諜報部のハザマ大尉……だそうです。いかがなさいますか?」

 

 

 

   1

 

「いやぁ、すみませんねぇ。ムツキ大佐の部屋まで案内していただいたばかりだというのに、続けて牢屋にまで案内していただいて」

 三つの靴音が、牢への道に連なり響く。眉尻を下げた笑みを浮かべて、緑髪の男――ハザマは申し訳なさそうに、一つ隣の少女へ語りかけた。

「いえ、これも任務ですから」

「任務ですか……一般衛士さんも大変ですね。カグツチなんて遠方まで来て、指名手配犯の追跡に駆り出され、こんな雑務までやらされるなんて」

 笑い返し、時折隣を歩く小さな少女を見ながら言うノエルに、返すハザマの言葉はどこか皮肉じみていて。それを気にしないようにしながら、ノエルは眉尻を下げる。

「いえ、そんなことは。ハザマ大尉こそ、お忙しいのではないですか?」

「……そう見えますか?」

 ノエルの何気ない問い。それに薄らと目を見開いて、ハザマが見つめてくる。間を置いて話す口ぶりは優しいのだけれど、ぞわりと悪寒のようなものがはしって、顔を引き攣らせそうになりながらも必死にこらえてノエルは頷いた。

「は、はい。諜報部は、大変なところだと伺っていますので……」

 視線を逸らした先に居たのは少女だ。視線に気付いて不思議そうに目を丸くする彼女に苦笑する。前は死神を追っていたせいか感じなかったけれど、改めて一緒に話してみると、どうにもこの男の雰囲気は苦手だったし、何か変な違和感を覚えるのだ。その違和感が何かは分からないけれど。この少女は、何も感じないのだろうか。ならば自身がおかしいのかと、ノエルは思ってしまう。

 そうしている内に、地下牢にやって来ていて、丁度目的の人物が収容された牢の前で足を止める。こちらだ、とノエルが言えば彼は頷く。

「どうも、ご苦労様です。……これが、かの悪名高き『死神』ですか」

「あぁ? 何だよテメェは……ガキまで連れて、俺は見せモンじゃねえぞ」

 鉄格子に触れ、ハザマがまじまじと『死神』を見つめる。同様に、その後ろから少女――ユリシアもまた死神とハザマの様子を見ていた。

 その視線に気付いたその白髪の男は、露骨に嫌な表情をしてハザマを睨み付ける。近くに居た彼女を見て、余計に眉を顰める。その表情に別段怯えた様子もなく、ただ眉尻をわざとらしく下げる彼に、ますます死神は苛ついた様子だった。

「おーおー、怖い怖い。まるで檻に閉じ込められた野獣ですねぇ」

「……あんまり、そういういいかた、しちゃだめ……ですよ、はざまさん」

 からかうような話し方で言うハザマを窘めるのは、鈴を転がしたような甘い声だった。今まで殆ど喋らなかった彼女が声を発せば、視線だけを後ろにやって、ハザマはにこやかに微笑む。口角が持ち上がる。

「そうですか? こんな獣を気遣う方がおかしいと思うんですけれど、私。ねぇ、ユリシア」

 言われて振り向く男は笑みこそ柔らかなものだったが、薄らとまた開かれた金の瞳がどこか笑みをとがったものにする。爬虫類を思わせる鋭い目だった。

 そうして、尚もその態度を止めないハザマにユリシアは少しだけ悲しげな表情を見せる。

 ユリシアには彼らがあの男をからかう記憶はあったけれど、今回の彼はいつもよりひどく冷ややかな空気を纏っている気がして。 怖いと思うわけじゃないけれど、今、目の前の白髪にそうするのは違うのではと、思ってしまった。

「……ま、いいでしょう。面会の時間は限られていますし、尋問を始めましょうか」

 少女が返事を返さないのを見て、少しばかり退屈そうに首を振ると彼は牢屋の中に入れられた男へ向き直る。口角をまた持ち上げ、糸のように細めた目で見据える。

「改めまして、こんにちは。ご機嫌いかがですか? 『死神』さん」

 穏やかな声で、優しく語りかけるハザマ。だけれど、白髪の男は鉛のように重い空気が肺に入り込むような息苦しさを覚えていた。今まで気に入る人間なんて居なかったけれど、特にこの男は気に入らない。

「いいわけねぇだろ。つか、そもそもテメェは何なんだよ……」

「あぁ、これは失礼。私、世界虚空情報統制機構諜報部に所属している、ハザマと申します」

 ――初めまして。

 問いに応えるハザマへ、死神は舌を打つ。

 どうにも胡散臭く、身体が動くならばその作られたように端正な顔を今すぐ殴り飛ばしたい。睨み付けたままの彼に、飄々とした態度でハザマは言葉を続けた。

「嫌われてしまいましたかね。でも、私も仕事なんでね。気に入られなくても、少々、尋問させていただきますよ」

 ハザマの台詞。それに彼はまた眉を顰めた。だって、答えられない問いをまたかけられるということなのだから。

「尋問ねぇ。はっ、俺に話せることなんかねぇぞ。何せ、何も覚えてねぇんだから」

 吐き捨てるように言う。尋問と言われても、記憶がないのだから答えられるわけもない。当たり前だった。けれど、やはりしらばっくれているように思ったのか、ハザマは頭を振った。

「しらばっくれるおつもりですかね。あんまり賢い態度とは思えないのですが……」

「だからそうじゃねえって! 本当にしつけぇな……あのカグラとかいう奴にも言っとけ、俺は全く、何も、覚えてねぇってな!」

 眉尻を垂れて言うハザマに、噛みつくように彼は怒鳴る。尋問は無駄だと、何も覚えていないのだと。けれど、それでもしつこくハザマは続けた。

「覚えていない? 何も? ご自分のしたことですよ? あれだけ大きな施設に単身乗り込んで、あれだけ派手に暴れたっていうのに?」

 まるで当時の情景を知っているかのような物言いで問うハザマに、声を張り上げてそうだと言う。ここに来るまで散々『死神』などと言われたが、自身は――。

「まさかとは思いますけれど、貴方……記憶をなくした、とでもおっしゃるつもりですか?」

 言おうとしたことを見透かしたかのようにハザマが告げる。瞬間、ぞわりと背筋に寒気がはしる。この空気は何なのだろう。溢れる唾をごくりと飲み込んで、彼はぎこちなく頷く。

「……そうだよ。テメェらの言う『死神』のしたことも、俺が本当にその『死神』なのかも分からねぇ。自分の名前だって思い出せねぇ」

「そんな……自分のこと、全部忘れちゃったんですか?」

「原因は知らねぇけどな」

 ラグナの言葉に反応したのは、ハザマをここへ案内した人物、ノエルだった。

 心配するように問い、肯定されれば自身のことのように悲しそうな表情を浮かべ「そうだったんですか」と漏らす。そんなノエルにハザマは眉根を寄せて異を唱えた。

「ちょっとちょっと、何を素直に信じちゃってるんですか。しっかりしてくださいヴァーミリオン少尉」

 むっと少しばかり怒ったようなハザマの話し方にハッとして、未だ彼のことを心配しながらもノエルは申し訳なさそうに頷いた。俯き彼女が黙ったのを見て、ハザマは呆れたように溜息を吐く。それから牢の中の男にまた笑いかける。

「さて……覚えていないとおっしゃいましたけど、本当に全部忘れちゃったんですか?」

 尋問を再開するハザマ。苛つきはまだ消えないけれど、時間が経ったことで少しばかり落ち着いたのか、彼は素直に首肯する。

 自身の名前も、過去も、何もかも覚えていない。ここがカグツチで合っているならば、カグツチ近くの森の中で気が付いて、それより前のことは全て覚えていない。そう白状する彼に、へぇ、とハザマが漏らすのが聞こえた。

「何か覚えていることはありませんかね。例えば……ご家族のこととか」

 首を振ればあっさり次の問いに移る。

 問われたのは、右腕のことであった。指される右腕。それは何度か、何か訳知り顔の他人に話を受けたものだったが、彼がそれについて聞いてきたのは予想外だったのだろう。何か、自身のことを知っているのかと警戒はそのままに彼は問うた。

「それは勿論。それなりには知っていますよ。何せ諜報部に所属しておりまして……ああ、これは先ほども言いましたね」

 答えるハザマ。冗談のような後半は既に耳に入っておらず、答えを聞いた瞬間に彼は、牢屋に身体をぶつけるようにして相手に詰め寄り、左右で色の違う目を見開くと、尚も問いかけた。

 知っているのなら、自身は一体何者で、名前は何で、どこから来て、この右腕――『蒼の魔道書』とは一体何なのか。全て知りたかった。知らないと不味い気がして。

「質問をしているのはこちらですよ」

 けれど、ハザマは首を振り、その問いには答えない。

 悔しさに歯を噛み締める彼に、ハザマが何度目かの溜息を吐く。

「しかし……『蒼の魔道書』の名を聞いてもまだ、思い出しませんか」

 腕を組み、顎に手を添えながら囁くように小さな声で語りかけた。

 いつからその腕はあるのか。どうやって魔道書を手に入れたのか。『蒼の魔道書』とはつまり何なのか。自然と耳に滑り込んでくるその言葉がぐるぐると、彼の頭の中を廻る。

 腕だ。右腕。いつ、どこで、どうやって、その腕は魔道書に変わってしまったのか。

「な……何なんだよ、テメェ……ぐっ」

 頭が割れそうなほどに痛む。何かを思い出しそうで、あとちょっとのところで届きそうで。思い出したいはずなのに、触れてしまったら――。

 頭の中に流れ込む映像は記憶だ。それは先ほど見たどの記憶とも違う、もっと古い記憶。

 教会が燃え、崩れ落ちる。『あいつ』が笑っている。何なのだ、この記憶は。

 呻き、零すラグナにハザマは冷たい目を向けて、頷いた。

「紛れもない、貴方の記憶ですよ。……やっぱり忘れているだけで、失くしてしまったわけではないんですねぇ」

 息を切らし、ハザマの言葉に首を振る。白髪を振り乱す彼に、けれどハザマは愉快そうに笑いながら情報を流し込む。

 ユウキ=テルミ。ジン。サヤ。シスター。大事な記憶だったはずのそれは、名前を告げられてもどうしてか断片的な映像しか齎さない。忘れたままでいいはずがない。こんなところでのんびりしていていいはずがない。

 けれど、身体が動かない。何を忘れているのかすら分からない。

 身体が動けば、今すぐにでも目の前の男を斬り捨てて、走って行きたいのに。思い出さなければいけないのに――。

「あの、はざまさん。いまはもう、そのくらいで……」

 制止の声をかけるのはユリシアだった。

 今はもういい。事情もあまり分からないくせに、口をついて出たのはそんな言葉。彼が苦しそうだったから止めたわけじゃない。何故止めたのかは自分でも分からなかったけれど、気が付けばそう口にしていた。振り向くハザマに何か言葉を続けようとして、出てこない。

 必死に言葉を探す彼女とそれに視線を向ける彼ら。

 その耳を、轟音が劈く。

「きゃあっ……!?」

 踏んでいた地面が、天井が僅かに揺れる。ノエルが悲鳴をあげ、すぐさま近くにやって来た衛士の男へ声をかける。

「すみません、今の音は何ですか!?」

 呼び止められた衛士は問いの意味を理解するや否や叫ぶ。

 襲撃だと。地下の機密地区に侵入者があり、警護の者では手におえず、増援の要請が入ったことを告げた。

「そんな、支部に襲撃だなんて……一体誰が。『死神』はここに居るのに……!」

 支部を襲撃するような人物で、且つそれほどの強さを持つ者など死神以外に思い当たるところがない。ノエルが不安げに声をあげる近くで、ハザマは静かに、呟いた。

「なるほど。所詮はここも……。『予定調和』は揺るぎませんか」

 予定調和。その言葉を聞きラグナが首を傾げる。けれど、それは口に出してまで聞くほど興味をそそらなかった。

「ハザマ大尉、すみません。私、地下の様子を見てきます」

 衛士と話していたせいか、ハザマの声が聞こえなかったらしいノエルが振り向く。

 そうして、ハザマが非戦闘員であることを思い出し、どこか安全なところに避難するように言う。ハザマが頷いたのを見て、いざ駆けだそうとした瞬間だった。

「待て、行くな!」

「えっ……?」

 死神が、ノエルを呼び止める。それに一瞬足を止めるノエルではあったが、彼の言っていることが分からず、頭を下げると去って行ってしまった。

 腕を必死に動かそうとしながら、彼は尚も叫ぶ――が、既に彼女は随分遠く。

「くそっ、何なんだこの感覚……っ」

 彼は、自分でも何故呼び止めたのか分からなかった。

 ただただ、何故か彼女を行かせてしまうのは良くない気がして、気が付けば叫んでいた。それでも止まらない彼女を止めるべく、何とかして拘束陣を解こうともがく彼に、ハザマは微笑んだ。

「では、私も失礼しますかね。巻き添えを食らったら堪りませんから」

 これから何が起こるか、しっかり観察させてもらう。

 そう言って、彼、ハザマはくるりと踵を返すと、近くに佇み不安げに彼らを見つめていた少女の肩を押す。そうやって行くように促し、自身もまた、一度だけ振り向くと歩き始めた。

 少女、ユリシアが牢屋を振り返る。澄んだ蒼の双眸と視線がかち合う。瞬間、何かが脈打つような感覚がして、ラグナは目を見開いた。

(アイツ、まだあんな奴と一緒に……)

 胸の内で呟き、そして彼は首を傾けた。

 彼女とは初対面のはずなのに、何故そんな事を思ったのだろうか。そんな疑問が浮上したが、それを確かめる術を彼は持っておらず。

 頭を掻こうとしても腕を動かせない。焦りと苛立ちが募るばかり。

「……この気配。彼が、来たのね。これで様々な事象が確定した……。結局『神』はまた、同じ夢を見るのね。じゃあ『あの子』は何をするつもりで……」

 少女が呟く悲しげな声は、誰にも届かず轟音に掻き消える。

 

 

 

 誰か居ないのか、何が起こっているのか、叫んでも呼びかけに応える者は誰一人居ない。それでも声を張り上げもがくことしかできないラグナを睨み付け、少女は言葉こそ綺麗なまま罵った。

「うるさいわね。先ほどからまるで野犬のようだわ。鳴いても無駄よ。だって、誰も居ないもの」

 彼女の口ぶりにますます苛立ってラグナは、強く睨み付ける。

 逆に彼女は何故そこまで落ち着いていられるのか。何が起きているかも分からないのに落ち着いていられる方が不思議だと。

「だったらどうするの? 拘束陣のせいで満足に身動きもできず、無様にもがくしか出来ない貴方に、一体何ができて?」

 少女の言葉に、ラグナだって思う。彼女だって捕まったままであるのに、どうしてそこまで偉そうに――。

 突然、地下牢全体が闇に包まれる。思わず驚きに声をあげてラグナは首を振るも景色は黒ばかりで見えやしない。停電。しかし、それは数秒の後に終わる。

 明るさが眩しく、手で目を覆い――気付く。

「身体が動く……? どうなってんだ」

 体を見下ろせば、今までラグナを縛っていた拘束陣も消え去っており、首を傾ける。今の一瞬に何があったのだと。しかし、そんなことを考えている暇などない。早く行かねば。

 頷き、腰に携えたままだった大剣を抜いて叩き付ければ、金属音が大きく鳴り響いて鉄格子が破壊される。ひしゃげ、扉が外れる。

 どうやらこの檻も今はただの檻らしい。

 そうして、いざ行こうとする彼。それを呼び止めるのは、やはりあの少女だった。

「どこへ行くのかしら。『逃げる』のだったら、私も連れて行ってほしいのだけれど」

「……『逃げ』ねぇよ。アイツを追う」

 関係ない、とそのまま無視することもできた。けれど、ラグナはそうせずに答える。アイツというのは、先の金髪の衛士のことだった。すると少女の紅い瞳が僅かに見開かれ、ラグナの瞳を見上げ、見つめる。そうして尚も問いを続けた。知り合いでもないのに、何故と。

 ラグナにもよく分からなかった。何故自身はこんなにも焦っているのか、何故彼女を追わなければいけないのか。

 けれど、逸る気持ちが警鐘を鳴らしているのだ。

 彼女をこのまま行かせればよくないことが起こる気がすると。ならば、それを止めなければと。

 ならば本能に従い、自身は行くまでだ。

「……そう、ご執心のようね」

 俯き、少女が呟く。別にそのような感情の類は持っていなかったけれど否定するのも面倒臭くて、ラグナはふいとそっぽを向いた。何故だか、こんなやり取りを前にした気がする。きっと気のせいだろうけれど。思いながら、ラグナは剣を振り上げた。

 勢いよく下ろした先は少女の居る牢。それも自身が入っていたのと同じように破壊し、彼は一度だけ少女を見る。

「テメェも、これで出られるだろ。逃げるんなら逃げるで、あとは好きにしな」

 そうして早口で言って、ラグナは彼らが出て行った出口へと全速力で駆けて行く。忙しない彼を見つめる少女の瞳は、どこか寂しげで、愛しげで。

 ふ、と小さく笑いを零す。

「落ち着きのないところは、まるで成長がないわね」

 呟き、彼女はゆっくりと瞬きをする。

 世界はあの少女が現れてから途端に、歪に形を変え始めた。けれどそれでも結局『本質』は変わらない。だけれど、彼はあの時とは違う。

「彼は――『ラグナ』は変わったわね。それが、滅日の間際に残った僅かな『希望』」

 そして、彼らについた『あの子』は何をしてくれるのだろうか。

 彼女は髪を翻し、歩み出す。

 見届けるために。

 



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第十四章 紫者の夜

 

 

「また揺れた……敵は一体、どこまで侵攻しているの……?」

 震える声で、ノエルは呟く。

 敵の目的は、やはり窯なのだろうかと。そうであれば大変だ。

 窯についてノエルは詳しく知っているわけではないが、統制機構の地下にある窯が、階層都市の環境維持に使われていることくらいは知っていた。もしそれが破壊されれば、前に死神が窯を破壊した階層都市のように、人が住める環境ではなくなってしまう。

 そんなことはさせないと、彼女は走り出そうと足に力を入れ――違和感に、視線を落とす。

「え、嘘……」

 そして、目を見開く。

 自身の周りの床に罅が入り、今にも床が抜けそうだった。否、抜けそうではなく。――抜ける。

 彼女が呟いた直後、床に一際大きな罅がはしり――鈍く割れる音を立てて、彼女ごと床が落ちた。響く悲鳴。落下する速度はだんだんと増していく。

 そして最後、ノエルの身体が強く打ち付けられると共に、その意識はぷつりと途切れた。

 

 

 

 時折やって来る地面の揺れにぎゅっと目を瞑り、少女は目の前の彼らにゆっくりと着いて行く。

 向かう先は統制機構の機密区域――地下の窯だ。

 人の出払った支部内を歩き、階段を少しだけ急ぎ足に駆け下りる。

「こっちだ」

 案内されるままに進み扉を開ければ、見下ろす先に閉じた窯。高めに作られた柵に手をかけ、ハザマは後ろを着いて来た少女が扉を閉めるのを見届けると、自身の手首に視線を移す。

「そろそろ、来る頃でしょうか」

 聞いていた話では間もなく。腕時計を見つめ呟く。針の動きを見つめ、ニィと笑みを浮かべた。

 砲撃の音は既に止んでいた。侵入者が『彼』であるなら、衛士達が倒れたのだろう。足音がして、男は静かに窯を見下ろした。

 響く、男の声と足音。見下ろす彼らには聞き慣れた声だった。

「……上と違って、この辺は随分と静かだな」

 辺りを見回すように首を振りながら進む男。白髪に赤いジャケット、腰には大剣を携えたその人物は、正しく『死神』ラグナ=ザ=ブラッドエッジだった。

 やがて少し進んだところで、ラグナは驚きに声をあげる。彼の視線の先には、窯。翼のような彫像が幾重にも重なることで蓋となり、閉じた『繭』のような窯。

 最初、ラグナはそれが何か分からなかった。ただ、嫌な感覚がして、その後にここが地下であることと、先の衛士の言葉を思い出し、答えを出す。

「まさか……これが『窯』とかいうやつか……?」

 口にした途端、頭にノイズ混じりの記憶が流れる。そうだ、ここは。ここで自身は――。

 思い出す前に、視界の端に何かを捉えて、ラグナは思わずそちらを見、また目を瞠る。そこには、先の女衛士が倒れていたのだから。呻く声が聞こえ、まだ息はあることが窺えるが、何故こんな所で寝ているのか。馬鹿なのだろうか。胸の内でそう呟きながら、心配に近寄ろうとするラグナ。

「――――ッ!?」

 けれど、その前に立ち塞がる人物が居た。

 白い鎧を纏った、背の高い人物だ。顔は目の穴すらない面に覆われ表情は分からないが、肩など身体中についた赤い目のいくつかが、ぎょろりとラグナを睨み付けていた。

「来たか……黒き者よ」

 突然現れたというのに、まるで待っていたかのような台詞。それに疑問を覚えながらも、ラグナは自身の呼び名の方が気になって、眉根を寄せる。

 黒き者。蒼と何度も呼ばれてきたのに、今度は黒か。もうそういうのはうんざりだった。

 よくは分からないが、この鎧も、統制機構か第七機関なのだろうか。それとも、先ほど騒がれていた侵入者なのだろうか。

 一体何なのだと問えば、鎧は静かに声を放つ。

「……我が名はハクメン」

 ハクメン。やけに聞き覚えのある名だとラグナは思う。どこかで聞いたはずなのだけれど、どこだっただろうか。思えば、頭の中にまた流れてくる記憶。けれど前と同じく霞がかったみたいになかなか肝心なところまで辿り着けない。

「ぐ……おい、お面野郎。テメェも俺を知ってるのか?」

 先ほど知ったふうな口を利いていたから、知っているのだろう。

 もしかしたら時折流れ込む記憶より、明確かつ的確に自身のことを教えてもらえるかもしれない。そう思ってラグナは問いかけた。戦意は見せず、ただ純粋に乞う。けれど、目の前のハクメンは応えない。黙り込む白の鎧に眉根を寄せ、舌を打つ。

「無視かよ。何とか言ったらどうなん――」

「如何した。震えている様に見えるぞ……『死神』」

 ラグナは間抜けた声をあげる。震えてなどいなかったのに、応えないと思えばハクメンはそう言うのだから。ラグナには訳が分からなかった。

 けれど、記憶がラグナに告げている。この言葉は、彼の名と同じようにどこかで聞いたことがあると。どこであったか思い出そうとすれば、またも記憶が流れ出す。これで何度目だろう。鈍く痛む頭を抑えて、どうなっているのだと呻く。

「其れが恐怖だ『死神』。貴様の中に眠る『モノ』が、私に戦慄する」

 ラグナの言葉には一向に反応を示さぬまま、尚もハクメンは言葉を紡ぐ。

 話を聞かぬ彼に、だんだんとラグナは苛立ちを覚えていった。『死神』だとか『蒼』だとか、分からぬ言葉ばかりを押し付けられるのも、ラグナはもううんざりだった。

 相手が自身を死神と呼ぶなら、上等だ。だったら暴れてやろう。訳も分からぬうちに殺されてたまるものか。

 吐き捨て、ラグナは大剣の柄を握り締める。

 そんな彼の頭の中に、声が響く。それは、目の前に立つハクメンのそれと同じものでありながら、纏う空気は別物だった。

「記憶をなぞる……成程、予定調和か。黒き者よ、己が産み出し恐怖に打ち勝ち、現在の貴様の力、其の存在を証明して見せよ」

 雰囲気の違いに、思わず誰だと叫ぶ。振り向く先には誰も居ない。前方には、ハクメンが立つのみ。

「如何した? 黒き者よ、参るぞ……」

「待てよ、どういう事だ。今の声……テメェは」

 言うハクメンの声。しかし先の声が気になってラグナは制止を呼びかける。けれどやはり人の話は聞かず、ハクメンは大太刀を構え、地を蹴り、大太刀を振り下ろした。

 咄嗟に大剣で受け止めるが、ひどく重い。

 押され、引き摺るように足が下がる。

「貴様の剣はその程度か、『死神』」

 ぎり、と歯を噛み締めるラグナを煽るように、ハクメンが囁く。

 その程度か。ならば終わりだと。

 一度身を引き、再度駆けるハクメンを躱し、ラグナは後ずさる。それを肩の目で見て、ハクメンは静かに問う。逃げるつもりかと。

 逃がさない、そう言う彼に、ラグナは眉を持ち上げる。逃げるために来たのではない。ふざけるな、と。

「俺は、逃げるためにここに来たんじゃ……ねぇんだよ!!」

 振られるハクメンの剣を剣で押さえ、叫んだ瞬間だった。ラグナは思わず驚く。

 身体から、力が湧いてくるのだ。ハクメンもまた驚愕したように声をあげる。

 ――『蒼の魔道書』。

 その名を聞いて、これがそうなのか、と思いながら――ラグナは確信する。これならば、いけると。目の前の鎧に打ち勝つことができると。

「ふっ……面白い。為らば来るが良い、黒き者よ」

 そうして、ハクメンは笑い、誘う。名乗りを上げ、叫ぶラグナを前に剣を握り直し――。

 互いに、駆けた。

 

 

 

「う……んん……」

 鈍い身体の痛みに、ノエルはやがて目を覚ました。

 ひんやりとした床に手をついて上体を起こしながら、何をしていたのかと思い出す。

 侵入者を追っていたら、突然床が抜け、それで――。

 思い出し、目を見開く。首を振って辺りを見回した。見知らぬ場所だったからだ。そして、視線の先にある『もの』を見て、彼女は顔を強張らせる。

 窯であった。

「何、これ……支部の地下にこんなものがあるなんて」

 最初、ノエルはそれが何か分からなかった。けれど何だか寒気がして、腕を抱く。もしかして、これが侵入者の目的と言われていた窯なのだろうか。考えると同時に、カグツチに向かっていたときと同じ既視感が浮上してきて、彼女は眉尻を垂れた。見たことはあるはずなのに、どこで見たのかが思い出せなかった。

 不意に、少し離れた場所で金属音が鳴り響く。

 何事だと視線を向けた先に居たのは――。

「あれは……死神!? そんな、牢に居たはずなのに。どうしてこんなところで……それに、死神と戦ってるのは、白い鎧……?」

 目の前で繰り広げられる戦いは凄まじく、目で追うのがやっと。

 切り結ぶ刃の数々。その一撃はどれも重く、しかしそれらを捌きながら、彼らは何度も地を蹴った。

 その光景を見て、ノエルは信じられないといった様子で声をあげた。

 死神は多重拘束陣により動けなかったはずだ。しかしここに居るという事実に混乱する。

 それに、死神と対峙する白い鎧の人物。その太刀筋には迷いがなく、一目で強者だと分かる。けれど見たことも聞いたこともない人物だ。

 あの鎧が、侵入者なのだろうか。ならば何故死神は、同じ賊であるはずの侵入者と戦っているのだろうか。分からないことばかりでノエルはどうすればいいのか悩んだけれど、すぐにハッとして首を振る。

 とにかく、あの二人を捕まえなければならない。

「……え?」

 決意し、立ち上がった矢先。地面が、空気が、魔素が揺れる。

 閉じていた窯が、ゆっくりと動き出すのが見えた。いくつもの扉が開くと同時に、暖色の光が頬を照らす。そして、光の中から、何かが現れる。

 悠々とした速度で出てくるのは――少女だった。

 長い銀髪を三つ編みにしたその少女は、ゆっくりと降下し、ノエルの前でひたりと足をつける。

 目を伏せた少女の顔はまるで人形のように愛らしく精巧な作りをしていた。が、その姿に言い知れない恐怖をノエルは感じて、気付けば問いかけていた。

「な……何? 誰、なの……?」

 赤い眼帯と、白いケープを装着した少女。彼女は瞼を伏せたまま、静かに口にする。

「起動・起動・起動……」

 まるで機械じみた台詞を紡ぐ声は見た目相応の幼さがあるのに、同時に氷のような冷ややかさを含んでいて、それ以上に、聞き慣れたもののようにノエルの耳に馴染む。

 銀の睫毛に縁どられた瞼が持ち上がり、覗く瞳は暗い紅玉の色。

「……対象を確認」

 銀髪の少女はノエルの存在を認識すると、見据え、またふっくらとした唇を動かす。

「対象・照合。対象を次元境界接触用素体と認識……存在の説明を求む」

「次元境界……? 貴女、何の話を――」

 少女の言葉はノエルに向けられたものだ。けれどノエルには何の話か分からなくて、問い返そうとして――。

 痛む頭に、知らないはずの記憶が流れ込む。

「あ……あ、あぁぁぁあ……」

 知らない。知っていていいはずがない。なのに、思い出せと脳が告げてくる。

 知っている。彼女を、ノエルは知っていた。

「嘘、でも……そんなはず。貴女は、誰……なの?」

 頭が割れそうだった。頭を抱えて、少女は首を振る記憶が、映像が次々と流れ込み、彼女の頬を涙が伝う。流れてくる記憶全てを認識した瞬間。意識がふわふわとして、情報に掻き消える。

「……対象を確認。休止状態を解除。準戦闘モードへ移行」

 ぼうっと佇むノエルの瞳に光はなかった。

 紡ぐ声は、銀髪の少女と同じどこか機械的なものだった。

「存在……私・私。次元境界接触用素体ナンバーテュエルブ。対三輝神用コアユニット『ミュー』」

「対象、照合。同一体と認識。存在・次元境界接触用素体ナンバーサーティーン。対三輝神用コアユニット『ニュー』」

 ノエル――否、ミュー・テュエルブと、ニュー・サーティーンは同じモデルをベースとした素体だ。彼女達は違う個体でありながら、同一体でもある。

「貴女は私……そう、私は貴女……」

「エラー。対象を不正同一存在と認識。速やかな自壊を勧告する」

 けれど、それをニューは認めなかったのだろう。眉根を微かに寄せ、彼女が消えることを望んだ。首を振る代わりに、ミューは告げる。

「勧告を拒否。存在の存続を最優先させる」

 ミューは自身が壊れることを認めない。自身の存在を守ることを優先すると告げた彼女を見て、ニューは口を開く。

「ムラクモ・起動」

 告げた瞬間、ニューの後ろには巨大な剣が光を纏って現れる。ニューが纏ったケープを取り払い、腕を広げ浮かび上がる。少女は一瞬だけ白い光に包まれた。

 直後、少女に吸い込まれるようにして光が消え去った瞬間。そこに浮かぶ少女は、白い装甲に身を包んでいた。

 背後に浮かんだ八本の光の剣が、翼のように広がり、鎌首を擡げる。

「敵対行動を確認、防衛プログラム起動……」

 見据えるミューもまた、白い双銃を両手に取り告げ、彼女らは口にする。

 ――対象の殲滅を開始します。

「やれやれ……ようやく始まりましたか」

 黒いハットを被った頭に手を当て、彼女らを見下ろすハザマが呟く。ここまでは聞いていた通りですねと、話しかける先に居るのはフードを目深に被った男、テルミだ。

 テルミからの返事はなく、問いかけるも舌を打つのみ。

 彼らを見て、ユリシアは何か、大事なことを忘れている気がすると――首を傾けた。

 

 

 

「対象の戦闘能力低下を確認。存在を破壊し…………あ、れ?」

 射出される剣と、狙った空間を確実に捉える魔銃。

 戦闘に勝利したのは、ミューであった。彼女は静かに、撃たれ伏す少女を見下ろし、銃を向けようとして、そこでハッと正気付く。瞳に光が宿り、不安に眉尻が垂れる。

 ノエルとしての意識が戻ったのだ。

「私……今、何を言って……。これ、私がやったの……?」

 装甲は微かに焦げ付き、身体を覆うスーツは破れ。地面に倒れるニューを見下ろし、彼女は信じられない様子で確かめるように呟く。応える声こそないが、その光景と、自身が手に持った銃、そして身体が覚えている戦闘の記憶がそうなのだと告げていた。

「そんな……貴女は、誰なの」

 何度目かの同じ問い。

 自身があんな風になった原因とも言える少女を見て、彼女は悲しげに問いかけた。

 あるはずのない別の世界の記憶が、かつてのニューの言葉を、ノエルに告げる。貴女は、自身だと。

「違う……!!」

 大きく首を横に振る。

 ノエルは俯くと、自身に言い聞かせるように、声を絞り出した。

 自身は『ノエル=ヴァーミリオン』であり、『ノエル』の周りにはツバキやマコトがいて、他にも友と呼べる存在がいて。血は繋がっていなくても父と母がいて、皆と一緒にいる。それが『ノエル』なのだと。

「……そう。私はこんな風に、普通の『ノエル』でいたかった」

 普通でいることが叶わなくても、自身は自身だと。

「私は『私』。『貴女』じゃない」

 言い聞かせるように、そして彼女に語りかけるように彼女は囁き、目を伏せる。

 だから、ノエルはこれ以上の戦いを望まないと。

 けれど、ゆっくりと身を起こす少女は地を見つめながら紡ぐ声には、凄まじい憎悪が籠められていた。

「対象、危険・危険・危険。不正同一体の排除を最優先する……!」

 彼女を、自身と近いのに全くの考えを持つ偽物を消すために、ニューは腕を掲げ、振り下ろす。

 追従するように、光の剣が彼女に向けて射出される。間一髪で躱して、ノエルは腕を抱き制止を呼びかけた。

「お願い、やめて……! 貴女は私じゃない、だからもう、戦わなくていいの!」

 ニューの心が、迷いのない剣から伝わってくるようだ。

 懇願するようなノエルの言葉を、心を、ニューは否定する。

「対象内部のエラー増大。攻撃続行。攻撃・攻撃……」

「お願い、話を聞いて……っ」

 尚も攻撃を続行するニュー。その声は冷たくありながらも、身を焦がすほどの憎しみの熱が存在していた。射出される複数の剣を次々に打ち落とすも捌ききれず、数本が僅かに身体を掠める。痛みと熱さがはしって、銃を握ったまま傷口を押さえた。

 呻く少女をバイザー越しに見つめて、彼女は両腕を掲げる。

「対象を、破壊します」

 両手の上に魔素が集まり、みるみるうちに巨大な剣を形作っていく。

 それを見てノエルは痛みを覚悟し、強く目を瞑った。

 

 

 

「危ねぇ……何とか間に合ったか」

「……え?」

 金属音が鳴り響く。痛みは襲って来ない。恐る恐る、ノエルが目を開ける。赤い背中が見えた。

 この光景は二度目だ。前は確か下層の下水処理施設で――。

「ったく、あのお面野郎はいきなり消えちまうし、こっちはいつの間にか死にかけてるし……どうなってんだ」

「貴方……『死神』なの? どうして……」

 死神。彼が何故自身を助けるのかノエルには分からなかった。

 けれど死神はノエルの疑問には答えず、代わりに彼は眼球だけを動かしてノエルを見ると、どこか苛立ったような声で言葉を紡いだ。

「つーかテメェ、今死んでも仕方ねぇって思っただろ」

「え……あ……わた、私……」

 グリーンの左目に睨まれて、同じ色の両目で彼を戸惑いに見つめる。

 どうして助けてくれたのだろう。どうして分かったのだろう。どうして、こんな自分を。

 返事のできないノエルに曖昧な声をあげて、ラグナは頭を掻く。そして前に顔を向けると、ノエルを庇うように剣を構えた。

「まぁいいわ。……あとは俺がやるから、下がっててくれ」

「は……はいっ」

 意外だった。てっきり自分も戦うものだとばかり思っていたから、彼の台詞に少しだけ迷って、それから大きく頷くと彼女はくるりと体を回して逃げるように駆けて行く。

 響く足音がだんだん離れていくのを聞いて、ラグナは目の前の少女を改めて睨み付ける。

 少女はノエルが逃げるのを待っていたわけではない。ただ乱入者の気配に、ぶつぶつと何かを呟いていた。けれどやっと顔を上げて、ラグナを認識する。

「……誰かと思ったら、ラグナだぁ~。アハハ、久しぶりだね! ――四回目、だっけ?」

 先ほどまでの唸るように低く冷たい声とは一変し、甘く媚びるような歓喜の声。それが同じ人物の声帯から出たものだと理解するのに、彼らは少しだけ時間を要した。

「四回目? いや、三回目……違うな、最後は確か――……『最後』だと?」

 ラグナには、笑む少女の言葉が指すところを理解できなかった。けれど、自然と口はその言葉を紡いでいた。

 思わず眉根を寄せる。ラグナは、自分でも何を言っているのか分からなかった。なのに何故このやり取りを知っていて、口にしていたのか。何故、どこでそれを知ったのだろう。ラグナはその顔を俯かせ、片手を顎に添え呟いた。

「ん? ラグナ……? 俺の名前は『ラグナ』なのか? おい、お前……」

 が、もう一つ気になることがあって、すぐに顔を持ち上げる。だらりと剣を下げ問うのは自身の名についてだ。

 その名を聞くのは二度目のはず。彼を『ラグナ』と呼ぶ少女に、確かめるように尋ねるけれど、少女はまるで別の音を聞いたかのように、にっこりと口許に三日月を描いた。

「ラグナぁ、どうしたの? ねぇねぇ、ほら前みたいに殺し合おう、やり合おう! そして融け合うの……」

 まるで抱擁でも求めるかのように両腕を大きく広げ、彼女は誘うように言葉を紡ぐ。

 蜂蜜のようにどろりと粘っこく甘い声は、ラグナと何度もそうしたことがあるとでも言うのだろうか『前のように』などと言う。

「嬉しいな。ラグナなら、きっとまたニューを殺しに来てくれると思った!」

 弾む声と、単眼のバイザー下から覗く紅潮した頬。自身が殺されるのを楽しみにしているとでも言うかのように紡がれる台詞。

 それに驚きと苛立ちと悲しみの三つがない混ぜになったような釈然としない気持ちを抱えて、ラグナは黙り込んでしまう。自身の誘いに乗らない彼に、どうして向かって来ないの、と少女は問いかける。

「ラグナはニューを殺しに来たんでしょ? そのためにここに来たんでしょ? その剣でニューを殺すために……」

「うるせぇ! その顔で……って、俺は……」

 ニューの言葉を遮るようにして、ラグナは溢れるままに声を荒げる。頭の中にまた流れてくる映像は、今度は目の前の少女と――。

 そこに映るニューは幸せそうに笑っていたけれど、同時に苦しそうであったから。

「……テメェを殺しにだと? いや……違う……」

 首を振り、ラグナは真っ直ぐにニューを見つめる。少女はラグナの視線に首を傾け、言葉を待つ。その口許に刻まれていた笑みは、今や真一文字となっていた。

「殺しにじゃねえ。壊しにでもねえ。俺はテメェを……『助ける』ために来たんだ」

「……なにそれ。つまんない」

 顔を俯けて、呟く。興味のないおもちゃを与えられた子供のように、ひどく退屈そうに呟いて、ニューは溜息を吐く。

「くだらない。どいつもこいつも……」

「あぁ?」

 思わず問い返すと、ゆっくりとニューは顔を持ち上げだしながら、尚も言葉を繰り返した。

 くだらない。くだらない。くだらない。――くだらない。

 静かで悲しげに、それでいて叩き付けるように強い語調でニューはラグナを糾弾した。

 揺らめく翼のような八本の刃が、俯くニューと対照的に鎌首を擡げ、ラグナに照準を定める。

「どうして。どうしてニューを殺さないの? 本当にくだらない、何も理解してない!!」

 反抗期の子供のような素振りで、首を大きく横に振り分かっていないと叫ぶ少女にラグナは首を僅かばかり傾ける。自身が何を理解していないと言われているのかすら、ラグナには分からなかった。

「俺が何を理解してねぇって?」

 思わずその疑問を口にすれば、顔を俯けたまま少女は上目にラグナを見る。

 けれどいつまで経っても話し始めることのない彼女。何か返事を返せと呼びかけようとして、その声が紡がれることはなかった。

 ラグナが口を開くのを遮るようにして、ふっくらとした唇を開き彼女は語り出す。

「人が如何に不完全か――」

 そう前置いて、少女はラグナを冷たく見つめる。

「自分以外の全ての存在は『自己の認める基準』に過ぎない。人は他者を壊し、殺し、奪う。自己を認識するために、他の存在を否定する。不完全だからこそ……人は奪い、憎しみ、争う」

 先までラグナに向けていた蜂蜜のようなそれの代わりに、訥々と語る声はガラスでできた刃のように冷たかった。

 黙り込んでその言葉を聞き、ラグナはやっとニューの言わんとしていることを理解し始める。

「ニューには分かるの。だって、ニューは『兵器』として造られたから。……ラグナもそうでしょ? ニューと同じだもの。だからラグナも、ニューを否定す……」

「違うな」

 今度は、ラグナがニューの言葉を遮る。語るにつれてまた笑みを浮かべていったニューの唇は、再び真一文字に結ばれた。

「テメェの言うことも分からなくはねぇ。だけど、それは絶対に人の本質じゃねぇよ」

 ラグナが自身の言葉を否定するなんてニューは考えていなかったし、ましてや自身の言葉を剣ではなく言葉で遮るなんて思っていなくて。表情こそ無表情だったけれど、内部ではひどく困惑していた。

 黙り込むニューに、ラグナは続ける。

「人間ってやつは確かに不完全だ。誰もがどこか欠けてるし、それを補い合うために他人がいる。そこはお前の言った通りだろう」

 自身の欠けた部分はここなのだと主張し、誰かに理解して欲しくて、乞い、願う。

 その欠けて補い合った部分は必ずしも合うとは限らない。だから衝突することだってある。

 だけれど、そこにあるのは憎しみとも否定とも違う。拒絶ではなく、願望。少しばかり誤解が生まれただけの、願望だ。

「……それは『助けを求めている』今のお前と同じだ。だから俺は、お前を否定しない」

 一通り語られたラグナの言葉。

 暫しの沈黙が、ごうごうと燃える窯に照らされながら浮き上がる。互いの息の音だけが、静寂を支配していた。それも、すぐに終わることとなったが。

「……『アンタ』誰?」

 ニューがラグナに問いかける。

 先ほどまで彼の名を愛しそうに呼んでいた少女は、警戒するように一歩足を後ろに退いて。

 問いに、ラグナは短く息を吐いて剣を握り締めた。

「誰でもいいよ。俺は俺だ。……ったく、ぎゃーぎゃー喚きながら殺すだの殺さねぇだの……」

 少しばかり呆れたようにそう言って、ラグナは握った剣を手前に引き寄せ、真っ直ぐに構える。胸を張り真っ直ぐにニューを見つめ、彼は告げる。

「テメェが殺し合いをしたいんなら、全力でかかってきやがれ。……俺が『助けてやる』よ」

「ッ……ラグ、ナアアァァ!!」

 挑発するかのような声音の彼に、一瞬言葉に詰まって、すぐに彼女はその名を叫んだ。

 愛しいはずなのに、憎しみを抱いたかのように。歯を剥いて声を張り上げた。掲げる手、その真上には、再び光の刃が現れる。

 射出。それをラグナが剣で弾いているうちに飛びかかり、背に浮かべた刃の半分を前に押し出し攻撃、剣を翻し防御。押し合い、その状態でもう半分の刃をラグナの頭めがけ射出。

 一瞬、驚いた顔をするもラグナは慣れたように右手を構え、吹き出す魔素を握った大剣に纏わせる。それは大きな闇色の刃を大剣から作り出し、まるで死神の大鎌のようなフォルムを生み出す。ラグナが、射出された剣を少女ごと振り払う。

 飛ばされるニューの身体は向こう側の壁に叩き付けられ、濁った悲鳴がニューの口から吐き出された。砂塵が舞う。

 倒したか、と思えばそうではなく、収まりかけた砂煙の中からニューは現れる。

 ――一瞬、消える。気付けばすぐ頭上に現れ、鋭利な装甲がついた脚を真っ直ぐに伸ばし、頭めがけて蹴りを落とす。横に跳躍し、躱(かわ)す。

 対象を失ったニューの足は地に叩き付けられ、地面に罅を作るも、すぐにニューもまた飛び、背後に赤い光の術式陣を無数に浮かべる。次々に現れ、弾丸のように射出される光の剣。

「すごい……」

 そう漏らしたのはノエルであったか、上から見つめるユリシアであったか。

 飛び、切り結び、攻撃を弾き、攻めに転じる。最初から最後まで互角、どっちつかずの戦闘に終止符を打ったのは、向かって来た彼女の隙をついたラグナの大剣による攻撃だった。

 腰に剣を叩き付けられ、地に伏せる彼女。

「ぁぐ……っ」

「……聞いていた話と、違いません?」

 見下ろしながら、ハザマがふと後ろに向けて問いかける。そこに居るのは無言で佇むテルミだ。問いを受けて尚、彼は反応を示さない。柔和な笑みを顔に貼りつけたまま、ハザマはまぁいいだろうと頷き、視線を下へと戻す。

「嘘だ……」

 地に伏せたまま呟き、ゆっくりと身を起こしだす。信じられないと言った様子で、何度も「嘘だ」と呟き、彼女は地を見つめていた。

「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……こんなはず、ラグナがこんなに強いはず……有り得ない……これが本当の、ラグナの力なの……?」

 誰に向けるわけでもなく、膝をついたまま疑問を並べる彼女の元へ『彼』は歩み寄る。

 悲しげな、そして驚いたような、ひどく曖昧な表情を浮かべる彼女へ。

「……ったく、このじゃじゃ馬が」

「ッ!? ラグ――」

 聞き慣れた男の声に、勢いよく顔を上げる。何か言おうとした彼女の言葉は、最後まで紡がれない。代わりに間抜けた声だけが漏れる。片膝をつき手を差し伸べる男の姿が目の前にあって、その意外性に言葉を失ったのだ。

「……立てるか?」

「どう、して……ラグナ?」

 どうして。どうして、自身を助けるのか。

 問う少女。装着していたバイザーが、カシャンと音を立てて床に転がる。床につけていた手は、まるで逃げるように引っ込められた。

「……さぁな。俺もよく分からねぇよ」

 問いにラグナはぶっきらぼうに答える。それから視線を落としたり、横に泳がしたりして、言葉に詰まった。けれどニューは待っていたのか、それとも放心していたのか口を挟むことはなく。

 やがて言葉を見つけたらしいラグナが、へらっと覇気のない笑みを浮かべて眉尻を下げ、

「けど、テメェとは初めて会った気がしねぇ。放っておけない……そう思ったんだよ」

「……意味分かんない」

「分からなくて結構。俺もよくは分かってねぇしな。とりあえず、ここから離れるぞ」

 ラグナの左右色違いの瞳を見据え、冷たく一蹴する少女。苦笑し、ラグナは尚も手を差し伸べたまま気遣うようにそう言うけれど。

「……どうして」

 再度、問うニュー。

 またかと思いながらラグナが言葉を紡ぐより先に、間髪入れずにニューは言葉を続けた。

「どうして、何のために『助ける』の? ……『ラグナ』。貴方は何を望むの?」

 やけに、彼女の唇の動きが遅く見えた気がした。

 その声が最後まで言葉を紡いだ瞬間だった。

 地面が、揺れる。ぐにゃぐにゃと揺らめき、その揺れはやがて壁までも浸蝕する。まるで、空間が歪んだみたいだ。否、その景色の歪みは正しく空間の歪みであった。

「なん――」

 驚きに目を見開くのは、何もラグナだけではなかった。

 ノエルも、ユリシアも、その景色に目を瞠っていたし、どうなっているのか理解が追い付いていなかった。

 ニューが嗤う声が耳に障る。絶対に諦めない、そう言う彼女へラグナが何かを言おうとして、突如揺れが収まる。けれど、身体は動かない。声が、ラグナの頭の中に直接響く。

「……『また』助けるの? 無駄なことを何度も何度も……全く、本当にくだらない」

 声がそう言った瞬間、まるで空間が弾けたような錯覚を覚え――。

 

 

 

   1

 

 落下するような感覚に気付いたときには遅く、受け身が間に合わない。

 思い切り体が地に叩き付けられ、野太い悲鳴がラグナの口から溢れ出る。

「……無様ね。呆れを通り越して、いっそ哀れだわ」

「んな……誰だ、テメェ!」

 小気味よい靴音と共に先ほど聞こえた声が告げて、思わずラグナはその身を起こす。

 驚きに噛みつくような声で誰何するラグナであったが『彼女』はその問いに答えない。

 ただ見下ろし蔑むような声で、実際に蔑み彼女はラグナを罵った。

「助ける? あんたが? 誰を? そうやって気安く手を差し伸べて、本当に誰かを助けられるとでも思ってるの? 貴方……本当に、どうしようもない馬鹿ね」

 そう言ってゆっくりと瞬きを一つして、それだけなのに――彼女の瞳は、鋭いナイフのように変わる。思わず唾を飲み込むラグナに笑いかけ、彼女は語りかける。

「相変わらず……と言うべきかしら? ねぇ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 確かにその表情は笑っているのだけれど、ひどく背筋が寒くなる感覚をラグナは覚えた。一体、彼女は――。

 頭痛が走り、膝から下の力が抜ける。この感覚は何度目だろう。もう慣れてしまった感覚を受け入れれば、押さえた頭に記憶が映像となって流れ込む。

「そうか……テメェ……『ナイン』か!」

 いつにも増して鮮明な記憶は、彼女の名すらも知らせてくれた。

 ナイン。それは、およそ百年前にあった大戦で活躍した女の名であり、目の前の人物の名でもあった。けれど、何故そんな人物がここに居るのかだとか、何故その人物を自分は知っているのだとかは、はっきりとは思い出せない。

 自身の頭髪を握り締め、床に膝をつけたまま、彼はナインを睨み付ける。

 当のナインは、睨まれても臆することはなく。ラグナが自身の名を言い当てたことにその目を丸くしていた。

「あら、驚いた。この世界で失くした『記憶』を取り戻すなんて凄いじゃない」

 もっとも、まだ不完全のようだけれど。そう付け足すと彼女は肩にかかった桃色の髪を払い、背中に流す。床に手をつき、ゆっくりと立ち上がろうとするラグナに向けて強い語調で告げる。

「流石は、世界に『選ばれなかった』男なだけはあるわね。資格者ですらないくせに、世界にしぶとく焦げ付いた燃えカス。無力なゴミのあがきってわけ?」

「はぁ……はぁっ……テメェこそ、相変わらず言いたい放題だな。資格者? 何の話だよ」

 立ち上がり、腰に携えた剣へそっと手を伸ばしながら、ラグナは問う。

 一体彼女が何の話をしているのか、ラグナには分からなかった。資格者なんて、何の資格なのか。世界に選ばれないとはどういうことなのか。

 ラグナの問いを受け、彼女は腕を組むとゆるりと首を振る。

 そしてまたにこやかな笑みを浮かべると、彼女は小さく笑い声を零し言う。

「貴方には関係のない話よ。『彼女ら』に選ばれなかった貴方には、ね。だけど、本当に凄いことだわ。そのしぶとさだけは賞賛に値するわよ……ねぇ、ラグナ」

 そこまで言って、すっと彼女は笑みを消し俯く。口から小さく漏れる声も、彼女の表情の変化にも気付かず、ラグナは尚も問う。何の話なのだと。先ほどから、さっぱり彼女の言いたいことが見えてこないのだ。

「……でも、残念ね。せっかく記憶の一部を取り戻したっていうのに、私に見つかるなんて」

 言葉の通りひどく残念そうな表情と声音で、問いには答えず彼女は告げる。

「私にとって、貴方はいつだって邪魔者。昔そうだったように、今だってそう。資格者でもない貴方に、この世界をウロウロされると迷惑なのよ」

 それに何より、付け足し俯いていた顔を上げる。再度睨み付け、口角を歪に持ち上げた。

「あんたが『居る』という事実が私を苛つかせるのよ」

 何が言いたいか分かるか、そう問いかけて彼女は小首を傾ける。

 今まで彼女の言っていることがさっぱり分からなかったラグナではあったけれど、流石に一つだけ分かることができた。これほどまでの殺気を向けられれば。

 背の大剣にまた手を伸ばし、握り締め、抜き取る。

「いいわ、それでこそ……『死神』だったかしら? 無抵抗の相手を一方的に消すなんて、流石の私でも気が引けるもの」

 剣を構えるラグナに、ナインは挑戦的な笑みを浮かべると、その手を持ち上げる。その指先には炎が灯り、そして――。

「だから精一杯、抗ってみなさい。その上で……無力で無価値なその存在を、私が燃やし尽くしてあげるわ!」

 

 

 

 駆け、剣を叩きつけた先に居た女は当たる直前で消える。踏鞴を踏むラグナの後ろにナインが現れ、手を払うような動作でラグナめがけて炎のムチを飛ばす。

 間一髪で大剣で振り払い、裂けた炎に隠して腕に纏わせた魔素を凝縮させ、ナインめがけて飛ばす。

「これならどうだ!」

「ふふっ……遅いわよ」

 獣の頭のような魔素の塊はもう少しでナインの腕に喰らいつくかと思われたが、魔素濃度の変異を肌で感じ取ったナインが躱す方が早かった。

 彼の後ろに再び回り込み、火球を叩き付ける。反応が遅れたラグナは仰け反り、バランスを崩し地にまた倒れ込んだ。苦痛に塗れた声が漏れる。

 そのうなじを勢いよくナインは踏みつける。とがったヒールが肌にめり込む感覚。

「流石に限界と言ったところかしら?」

 この戦いを始めてからどれくらい経っただろうか。体感ではそれなりに経っているはずだが、彼女には傷一つ付けられていない。

「畜生が……テメェの魔法は、相変わらずとんでもねぇな……」

 逃げるように首をぎこちなく動かし、視界の隅にナインを見とめながら声を漏らす。

 顔を引き攣らせたラグナの賞賛の言葉を聞いて、けれど苛立ちにナインは眉根を寄せることで顔を歪めた。

「……生意気な顔ね。まだ戦えるっていうその顔、本当むかつくわ」

 踏む足にますます力を込めるナイン。今度はラグナが痛みに顔を顰め、それに機嫌を直して彼女はふんと鼻を鳴らし微かな笑みを見せた。

「でも凄いじゃない。そこまでして抗おうとするなんて。資格者でもない貴方が、この世界でここまで戦えるなんて、正直なことを言うと予想してなかったわ」

 資格者たる器がなければ、この世界には存在し得ないというのに。

 ラグナを見つめながら、どこか信じられないといった様子でナインは語る。踏んだ脚は退けないままだが。

「それなら……まさか『あの子』が……『蒼』が、望んでいるというの?」

「あの子って誰だよ……つか、また蒼か……うぅぐっ!?」

 呻きがラグナの口から漏れる。ここに来てからでもすでに二度目となった記憶の奔流がラグナを襲う。先ほどから色んなものが流れ込んできて、意識を保つのがやっとだ。思わず舌を打ち、歯を噛み締めるラグナ。

 ――レイチェル。ジン。シスター……サヤ。

 ゆっくりと、襲ってくる情報の一つ一つを整理すれば、やがて思い出してくる。

「確か……俺はサヤに、獣の力を暴走させられて……」

 口にし、ラグナは目を見開く。

 地に着いた腕に力を込めながら、ナインに叫んだ。

「そうだ! アイツは、サヤはどこだ!? あれからどれだけ経った!? くそ、早くアイツを見つけねぇと……」

「だいぶ混乱しているようね。これも窯に近付いた影響かしら? それともこのフィールドに触発されて? まぁ、どうでもいいけれど」

 ラグナの問いに答えず好き勝手に語るのも定形となりつつある。

 その胸を強調するように胸を張り腕を組むナインを、目玉だけを動かし縋るように見た。

「おい……アンタなら知ってんだろ? サヤ……冥王イザナミが何処にいるのか」

 しつこく問うラグナに、ナインは溜息を吐く。ゆるゆると首を横に振って、金の瞳で静かにラグナを伏し目がちに見つめる。白目の部分が黒い、異様な雰囲気を持った目だった。

「そんなことを知ってどうするの? まさか貴方程度に、イザナミが倒せるだなんて思ってるのかしら? 無駄な野心は抱えないことね。貴方にはどうあがいても無理よ」

 ナインが言い終えるとほぼ同時、ラグナがその身に力を入れ、身体を回転させる。握った大剣をその回転に乗せ振り回せば、ナインは咄嗟に足を退かす。バネのようにして身を跳ね起こす彼を睨み付けるナイン。

「うるせぇ。無理かどうか、テメェに決められたくはねぇよ」

 ラグナもまたそれを見据え言い返す。

 それに、ラグナは何も倒しに行こうと思っているわけではなかった。

「助けに行くんだ。もういちいち面倒臭ぇ。ノエルもサヤもニューも、皆纏めて助けてやる。俺は誰も殺さねぇよ」

 ラグナの言葉に、ナインが俯き歯を噛み締める。

 声にならない声をあげて、それから肩先を震わせ出す。やがて口から漏れる声は、笑いだった。何か思い出したような、納得したような言葉と共に小さく頷く。

「ふ、ふふ……そう、そうよね。あんたってそういう奴だったわ。どこまでも諦めが悪い……。自分の分も弁(わきま)えないで、その諦めの悪さがどれだけの人を巻き込むかも考えないで」

 ――あの子まで、巻き込んで。

 ラグナのその諦めの悪さが、ラグナのそういうところが、憎らしくて憎らしくてたまらない。勿論『あの子』が笑ってラグナを許すことも。ナインは笑いながら怒りに満ちた声で言う。ナインの指すあの子というのは、彼女が亡霊になってからもずっと想い続けていた少女――彼女の妹だ。ラグナはその人物をよく知っていた。

 まだ曖昧な記憶しか戻ってきていないが、彼女が溺愛していたことも、とても優しかったことも思い出した。セリカという名の、笑顔がよく似合う少女だ。

 ナインがどれだけ彼女のことを思っているかも、それ故に自身に向ける感情がどれほどのものなのかも何となく分かっていながら、それでもラグナは吐き捨てる

「はっ、テメェが俺をどう思おうが知るかよ。俺は俺が望むように動く。人の気なんざ……考えてやる余裕はねぇんだよ」

「望み、ね……『助ける』。それが貴方の『願望』なのね」

 ラグナは最初、それにナインが憤慨するかと思っていた。けれど、意外にもあっさりと認める目の前の女に、胡乱げに眉根を寄せる。

「なら、その『願望』を叶える方法を教えてあげるわ」

 笑いを収め、彼女は人差し指を立てる。口角を持ち上げ笑みを形作ると、静かに――告げる。

「貴方の『願望』を『現実』にしたいのなら……帝を、いえ……『冥王イザナミ』を倒しなさい。それが、貴方の『願望』を叶える唯一の方法よ」

 どう、とでも言わんばかりに小首をまた傾げるナイン。

 ラグナが発した言葉は「ふざけるな」であった。

 誰も殺さないと言ったはずなのに、目の前の女は何を言っているのか、理解できなかった。問えば、彼女は愉快なものを聞いたというようにクスクスと笑いを零し、

「えぇ、そうね。助けたいんでしょう? それが貴方の願望……。だからこそ『倒す』の。貴方のその『願望』を形にするために」

 どういうことだ。何度聞いてもやはり理解できないその言葉に、再び問おうとした瞬間だった。

 身体が動かない。時間が止まる。目を見開こうとするラグナ。

 ナインは、溜息を吐くと不意に手を持ち上げる。頭に乗せた三角帽子の、広いツバを摘みながら振り返る。ピンク色の長髪と、たっぷりとした袖が翻る。

 途端、空間が揺れ――歪む。驚きに目を瞠るラグナであったが、すぐに理解する。

 事象干渉だ。

(クソが……またこれかよ……っ)

 そうされてしまえば、ラグナには対抗する術がなかった。まだ聞きたいことはあったのに、と思い出す。

 内臓を揺さぶられるような感覚に腹を押さえたくともできない。呻き、そしてラグナはふと違和感に気付く。この尋常じゃない何かが動く気配は、この規模は。

「馬鹿な、この規模……テメェ『何かして』やがるな!?」

「ふふ……しっかり憶えておくのよ『死神』」

 いつの間にかナインはラグナを見つめていた。ラグナの問いにはまた答えないまま。

 願望を叶えるために、冥王イザナミを倒せ。世界が完全なる滅日を迎える前に。

 告げる彼女、滅日という言葉の不穏さに一体何のことだと問おうとするも声が肝心なところで出ない。

「……ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。私はね、貴方の手で冥王イザナミが殺されることを……心より願うわ」

 耳につく女の笑い声が響くと同時、ラグナの意識はぷつりと途切れた。

 ラグナがその場から消え去り、空間の歪みが突如として、終わる。

 

 

 

   2

 

 揺れる水面。ちゃぷちゃぷと音を立てる湯の中で、イザナミはゆっくりと瞼を押し上げる。

 暗い赤の瞳が天井を見つめる。広い空間にぽつりと用意された浴槽に浸かり、静かに彼女は唇を開く。

「ナインめ……どうやら事を始めたか……」

 呟き、彼女は浴槽のふちに手をかけ、寝かせていた上体を起こす。浴槽から出る少女の身体を、湯が伝い滴り落ちる。

「エンブリオが動き出す。余も赴かねばなるまいな……来たるべき瞬間(とき)のために」

 ゆるりと伸ばした手が手拭いを掴み、身体を拭い始める。

 そんな裸の少女に、かけられる声があった。

「……帝……いや、もう『冥王イザナミ』と呼ぶべきか。忠告しておくが、その器はそろそろ限界だ……」

 さほど驚いた様子はなく、声をかけられれば彼女は自然とその方向へ顔を向ける。

 限界というのは、つまり彼女の器――その肉体が完全に使い物にならなくなることを指す。それを薄々彼女も察していたのだろう、納得したように頷く。

「そうか……良き身体であったが。其方の作ったものにしては存外脆いな」

 吐息が漏れる。思ったより早く限界が訪れた原因は、彼女も何となく分かっていた。声の主である仮面の男、レリウスがそれでも告げる。

 このところ、無茶を重ね過ぎたのだ。いくら彼女の器――サヤが優秀で丈夫な器であろうと限度がある。タカマガハラを使っての干渉、タケミカヅチの召喚、エンブリオの起動など、彼女は並外れた術式を行使し過ぎた。故に、消耗も自然と激しくなる。

「替えの器は?」

 彼女は『死』そのものという概念的な存在だ。その存在こそ強く、大きいものであるが、この世界に個として顕現するには別に器が必要になる。

 水分を含んで重くなった長髪を払えば、球体をはめ込んだ人形のような腋(わき)が覗く。脚の付け根も同様の処置が施されている。これも、その器が壊れかけ故に補強する目的でつけられたものだ。

「通常の器ならば、冥王が『入った』時点で、二日も保たずに自壊する。それほど、その器の存在は『奇跡』に近いということだ」

「クハハ……其方が奇跡を謳うか。これは貴重な体験をしたな」

 レリウスの言葉に、イザナミが愉快げに高く笑う。

 それほどまでに、レリウスの言葉はレリウスらしさに欠けていた。彼の作ったものは基本的に彼の想定通りの存在にしかならない。彼の作ったもので彼が『奇跡』と呼ぶものなど存在しないと思っていたのだから。

 イザナミの笑いにしかしレリウスはその表情を少したりとも変えない。

「奇跡に相違ない。その器の雛形となった『ナンバーファイブ』は存在自体がイレギュラー中のイレギュラーだ……」

 もう少し解析したいところであったが、ある人物の手により塵も残さず破壊されてしまったため、同じものを創造するのは不可能だとレリウスは語る。それにますます面白い事を聞いたとイザナミは笑い声をあげ、どこか艶めかしい視線でレリウスを見つめた。

「其方にしても『不可能』なことがあるのだな」

「生憎と、私は『神』ではないのでな」

「ほぉ……それは初耳だ」

 言いながら、彼女は思い出したように手にしていた手拭いを放り、服を代わりに取る。幾重もの服を纏い、髪を結いあげると目を伏せ、問う。

「ナンバーファイブか。イレギュラーなどと申しておったが……それはどういう意味だ?」

「そうだな。『アレ』は私の制作物ではない。私の研究を元に、別の人間が作ったものだ」

 イザナミの問いに答えるレリウス。答えを聞いて、イザナミは却って合点がいく、と思ってしまった。彼の創造物にイレギュラーなど、そう起こるものではない。

「とはいえ……『ナンバーファイブ』に関しては、未知の部分が多すぎる」

 そうして語られるのは、数百年以上前の話だ。

 かつて、その『イザナミの器』となった少女と同じ器の形を持った少女がいた。

 無尽蔵に魔素を増幅し、人々の魂を食い漁り、己が力を持て余す。少女はまさに化け物と呼ぶに相応しかった。

 そして、その『化け物』の結末はと言えば。

 実の兄――黒き獣によって、倒されたのだ。正確に言えば『喰われた』という言い方が適切か。

 その光景は、今思い出しても美しいと感じると、レリウスは微笑みすら浮かべながら語る。

「……『ナンバーファイブ』はその化け物の複製体……いや『実物』と言っても良いだろう。どのように制作したか実に興味深かったが……今となってはそれも叶わない」

 レリウスの声を聞き相槌を打って、彼女は一歩足を踏み出す。それを見たレリウスが自然に問いをかけた。

「向かうつもりか?」

「……悠長にもしていられまい。ナインが動き出したということは、資格者らが余を倒さんとやってくる」

 二、三歩進んだところでぴたりと足を止めて語る少女の声は、幽玄にして甘やか。しかし寂しさと諦めを含んだような声でもあった。

「余は彼の地で、そのような『哀れな資格者』どもを迎えてやらねばならん。この器も、その時まで保てば十分だ」

 そうして首だけでイザナミは振り返ると、レリウスを見つめ告げる。

 彼――レリウスもまた資格者なのだ。それを忘れるな、と。

 レリウスはそれに小さく声を漏らすと、顎に手を添える。

「……時間があれば参上しよう。私は『そんなこと』よりも気にかかることがあるのでな」

 それは、このエンブリオに『蒼の男』――ラグナ=ザ=ブラッドエッジがいる理由。まずはそれを確認しに行きたいのだと言う。

 彼もまたラグナなのかとイザナミが笑うのに頷いて、レリウスは続けた。

「……ああ。もしも『蒼の男』が真書である『蒼炎の書』を覚醒させられるのなら……是非とも彼が『冥王』を倒すところを見てみたい」

 それに、蒼そのものを身に宿す彼女が、『蒼の男』をこれからどうするのかだって気になる。他にも興味を引くものは尽きない。

「好きにしろ……」

 どこか呆れたように紡ぐイザナミの言葉に首肯する。

「では……失礼する」

「相分かった。後にイカルガの地で会おうぞ」

 レリウスが部屋を去ると、彼女は天井をぼんやりと仰ぎ見る。

 静かに、静かに、紡ぐ。

「……『化け物』は……救われることのない夢を観続ける。兄さま……もう全てが、全てが手遅れなのです……」

 彼がどう足掻こうと『彼女』は救われない。

 望みがあるとすれば、あの少女が――。



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第十五章 残黒な暁

 世界が歪む。酔いそうなほどの歪みに飲み込まれ、必死に意識を保とうとするけれど、やはり意識は途切れてしまう。そして気が付き、目を開けた瞬間。視界に映るのは先まで居たはずの場所とは別の景色だった。

 ――連合階層都市・イカルガ。

 どうして理解できたのかは分からなかった。けれど、確かにこの場所はイカルガだと確信する。

 夢を見ていたのでなければカグツチに居たはずの自身が何故イカルガへ。疑問を覚えた次の瞬間、知るはずのない記憶が頭痛と共に頭の中に流れ込み、そして――声が響く。

「――世界の繭は動き出し、今、世界は切り開かれた。全ての資格者達よ、聞きなさい」

 貴方達の『願望』、かけがえのない『願望』。何にも譲れない、大切な『願望』。

 叶える方法はただ一つ。

 自らのその手で……。

 ――『冥王イザナミ』を殺し、『蒼』を手に入れなさい。

 

 

 

「今の声は……」

 頭に直接響く声。それは、今しがた呟いた彼、ジンの傍らに浮かび上がる女にとって聞き覚えのあるものだった。

「ナイン……っ」

 かつて六英雄として戦った一人、大魔道師ナイン。トリニティが信じた男によって殺された女。そして、少し前まで『ファントム』としてイザナミ達と行動していた人物。悲しげに声をあげる半透明の女――トリニティ=グラスフィールの、大切な親友。

 どうやら彼女の起こした事象干渉によって、彼らはカグツチからこのイカルガへと飛ばされたようだ。何回か干渉を受けたことがあったからその感覚は知っていたし、事象干渉でもなければどうやって移動したか説明がつかない。

「……あの口ぶりからすると、ナイン達が『資格者』と呼ぶ人達、全員が声を聞いていると思います。……そして、その全員が」

 トリニティの言わんとしていることがすぐに理解できて、ジンは繋げるように続きを口にした。

 自身と同じように、事象干渉によってイカルガへ飛ばされたのだろう、と。

 誰が資格者に含まれるのか、全員の顔を把握しているわけではない。けれど、この世界が記憶をなぞるのならば、もしかしたら……という憶測に過ぎなかったけれど。

 そして、そこまでを考えてふとジンは疑問を抱く。

「しかし……これは本当にただの事象干渉なのか? 人物や物事個々へ向けて仕掛けられた干渉ではない。今のは……」

 世界そのものに対する干渉だった。

 あの感覚は、その規模は、まるで神が起こすそれだ。

 ジンの言葉に同意を示すように、トリニティは首肯する。

「ええ……通常では考えられない規模です」

 でも、あの声も、先ほどの事象干渉も、虚像などではなく正しくナインのものだったとトリニティは告げ、白い瞼を伏せる。マシュマロのように白い両手の指先を胸の前で絡ませる彼女からジンは目を逸らすと、ならばと問いかけた。

「ならば……ファントムという輩は、六英雄の『情報』を元に構築されたものではなく『大魔道師ナイン』本人ということか」

「はい……間違いないと思います」

 ですが、付け足し彼女は瞼を持ち上げると、ジンの横顔を見つめる。

 いくらナインがよほどの大魔道士であろうと、こんな規模の事象干渉を起こせるとは到底信じられない。本来ならできないはずだ。言うトリニティの言葉にジンが返す。

 しかし、実際に起きた……と。

「タカマガハラシステムがあれば、利用することもできるだろうが……今はそれもない」

「ええ……」

「本当に、ナインによる事象干渉なのか?」

 頷くトリニティに、ジンはまた問いを投げかける。本当にこの事象干渉がナインによるものなのか、ジンには信じられなかった。死そのものという大きな概念的存在であるイザナミならばまだ分からなくもないのだけれど。

 トリニティは首肯し、同意を示す。彼女だって、信じられなかった。自身の親友である彼女がいくら強く、魔法に長けていようと、一人でこんな業を成せるだなんて。けれど、感じた魔力の気配は本物だった。それが何よりも分かりやすく、ナインがそうしたのだと告げていたから、そのまま答えた。

 トリニティの答えに、疑っていても何も生まれないと踏んだのだろう、ジンはその話題を一旦置いて、顎に手を添え別のことを考えだす。

 ――事象干渉は、対象の状態に干渉、改竄するのに等しい。しかし、記憶や情報には何かをされたような感覚がない。ならば先のは『状況』に対する事象干渉だろうか。否、むしろ閉じていた『記憶や情報』を閉じたのか。

 どちらにせよ不可解だった。

 事象干渉を起こした人物――あの声の主が本物の『ナイン』であるなら、何故こんなに回りくどいことをするのか。

「貴様に何か心当たりはないのか。同じ六英雄だろう」

 眉根を寄せ、トリニティの顔を改めて見る。けれど彼女も特に思い当たるところはないらしく、首を振る。

「申し訳ありません……ですが、何だか胸騒ぎがします……」

「……憂いていても仕方がない。とにかくここでは何も状況が分からない。街中へ行くぞ」

 振り向く先には都市が見渡せる。小高い山の上だった。

 歩き出そうとするジンに、トリニティが実体のない手を伸ばす。呼び止めた。

「あの、ジンさん」

 声がかけられれば立ち止まり、振り向かずにジンは用件を尋ねる。

 トリニティは一瞬だけ逡巡(しゅんじゅん)した。話すべきなのだろうけれど、躊躇(ためら)ってしまった。それでも意を決して口を開く。

「――ココノエさんを、探してはもらえないでしょうか」

「ココノエだと?」

 出された名前が意外だったのか、その声には僅かな驚きが含まれていた。

 けれど、すぐに声を低くして、ジンは再び疑問をぶつける。

「先ほどの話と、関係があるのか?」

「それは……分かりません」

 トリニティの答えに、ジンは何かを考えるような間も置かずに返した。

 拒否だった。

 食い下がるように何かを言おうとするトリニティの言葉を遮り、ジンは続ける。

「言っておくが、貴様との契約は『ルナとセナを助ける』ということだけだ。それ以外の指示を受けるつもりはない」

 自身の身体に制限時間があると言ったのは貴様だろう。と、トリニティの言葉を責めるように付け加える。

 それは勿論、トリニティだって痛いほど分かっていた。

 彼に身体を与えたのはトリニティだったし、これまで自分の勝手な考えで悪いことが起きたときだってあったから。だから、なるべく必要以上の口出しは控えようと思っていたけれど。

「……でもこれは、貴方の目的にも関わってくる可能性がありそうなのです」

「僕の目的に?」

 トリニティの言葉を聞いて、ジンが眉を持ち上げる。どういうことか確かめるように振り向くジンへ、トリニティはどこか悲しげに眉を下げながら尋ねた。

「ラグナさんを、倒すおつもりなのでしょう?」

「それとココノエと、どんな関係がある」

 ジンがラグナを倒そうとしているのは事実だ。実の兄ではあったけれど、『あの日』からジンはラグナを殺すことを目標にしていた。腰に携えた剣――アークエネミー『氷剣・ユキアネサ』を手にした日から。

 けれど、それとココノエに一体どんな関係があるというのか。問えば、また申し訳なさそうに彼女はゆるゆると首を横に振る。

「すみません……まだ、はっきりとは。ただ、貴方や私の目的を遂げるために『あってはならない物』がないか、確かめておきたいのです」

 トリニティが指すものがどういった存在なのかは分からないけれど、それでも彼女の考えが何となく察せて、ジンは頷いた。

「その『あってはならない物』が、あの大規模な事象干渉にも関係があると考えているわけか」

 トリニティがジンの言葉に首肯したのを見て、くだらない、とジンは吐き捨てた。

 彼女の話は、確証のないものだ。それを信じることなど簡単にはできないし、そんなものを確かめている時間があれば、彼女の最初の依頼を片付けてしまいたい。

「お願いします……今は、どうか私を信じてください」

 けれど……それでも尚、縋るようなトリニティ。

 その表情を見据え、やがてジンは目を伏せ溜息を吐く。

「……貴様の『勘』とやらに付き合わされることになるとはな」

「ジンさん……」

 彼女の表情がやけに真剣だったから。六英雄たる人物がそんな表情をするのだ、よほどのことなのだろう。自身にも関わってくるとなれば、それを拒否するわけにはいかないと思ったのだ。

 どこか冷たい態度のジンではあったけれど、トリニティは思わず目元を緩め、微かに微笑んだ。

 そんな彼女にふいと背を向け、彼はまた一歩、足を踏み出すと告げる。

「……ここがイカルガで、『今』がこれまでの事象を辿っているのであれば……ココノエはおそらくカグラのところに居るだろう」

 勿論、これも確証のない話だが。

 付け足すジンに、トリニティは小さく笑いを零す。

「ふふっ……では、私も貴方の『勘』を信じることにしますね」

 それにジンは返事を返すことなくた、ただ道を急いだ。

 

 

 

   1

 

 ――『氷剣・ユキアネサ』『魔銃(まじゅう)・ベルヴェルク』『機神(きしん)・ニルヴァーナ』『無刀・六三四(むじん・むさし)』『雷轟・無兆鈴』『蛇双(じゃそう)・ウロボロス』『鳳翼・烈天上』。

 厳かな声で紡がれるのは、事象兵器(アークエネミー)の名。

 女は俯いたまま、三角帽子の広いツバ越しに前を見つめる。

 そこに立つのは、仮面に顔の半分を覆った男だ。

「……事象兵器に使ったタケミカヅチのコアは、それで全部か?」

 薄い唇を動かして、男、レリウスは尋ねる。それに名を挙げていた女、ナインは静かに首肯してみせる。

 黒き獣との戦いで活躍した六英雄の一人であり、最高の魔法使い『十聖』に名を連ねた人物。そして事象兵器の開発者である彼女。

 そのナインが最初に作った事象兵器が『巨人(ハイランダー)・タケミカヅチ』。

 しかし黒き獣と似た存在であるタケミカヅチの危険性を知ったことから、そのコアを分割して造りあげたのが、他の事象兵器だった。

 だから、それらのコアを集めて再びひとつのコアに戻せば、本来の出力を持った完成体のタケミカヅチを複製することができると彼女は語る。

 本来のタケミカヅチなら、マスターユニットを破壊するには十分なはずだ。

 絶対防御であるツクヨミユニットも、貫くことこそ難しくても、弾くことくらいはできるかもしれない。

 そんなナインの台詞に、表情をぴくりとも変えないまま、けれどレリウスは声音だけは関心を持った様子で言葉を紡ぐ。

「ツクヨミユニットにどこまで通用するかは興味深いところではあるが……未完成時の出力から見ても、手段としては実にシンプルで効果的だろうな」

「あら、お褒めいただけるの? 光栄だわ」

 肩にかかったピンク色の長髪を背中に流して、彼女は僅かな微笑みを浮かべる。レリウスほどの人物にその技術を褒められるというのは純粋に光栄だった。けれどそのすぐ後に笑みを消し、鋭い眼光でレリウスを射抜く。

「……でも、お気に召したとしても、アレはあげないわよ。マスターユニットの破壊に成功したら、タケミカヅチは今度こそ解体するわ」

 その声に込められた感情は、怒り。どうしようもない憤怒に声を震わせて、彼女は瞼を伏せる。

 アレが二度と、大事な人を傷付けないように。愚かな人間の誰もが、それを使うことのないように。何より、その存在が憎くて仕方がなかった。

 けれど、レリウスは尚も無感情な声で構わないと言う。

「既に観せてもらったのでな。必要になれば、そのとき自分で用意する」

「……嫌な男」

 閉じた双眸はそのままに、ナインが告げる。

 それに僅かに口角を持ち上げて、寧ろその言葉を賞賛のそれのように感じながら、レリウスは返す。

「光栄だ」

「……それで? タケミカヅチが必要なのは、貴方達も同じでしょう? 勿論、手伝ってくれるのよね」

 呆れて物も言えないというか、言い返す労力が勿体ないと感じたのか。ナインは息を吐き出すと、レリウスを改めて黄金の瞳で見つめ、尋ねた。

 彼女ら目的は理由こそ違えど同じ、世界の『滅日』だ。何度も何度も繰り返した、くだらなくて醜悪なこの世界を終焉に導く。そのために、この世界を創りあげた神『アマテラスユニット』を破壊する。

 目的が一致しているならば、勿論手伝うのだろう。

「そのつもりだ。……策は常に複数確保しておきたいからな」

「複数? タケミカヅチの他にも、マスターユニットを排除する手段があると言うの?」

 レリウスの言葉が引っ掛かり、眉を寄せた険しい顔を浮かべる。けれど、その問いにはレリウスは答えない。けれど、沈黙は肯定だ。手段こそ分からずとも、それだけで彼女には十分だった。

「……はん、いいわ。利用されてあげる。その代わり、私も利用させてもらえばいいことだわ」

 一歩歩み出て、レリウスを睨み付けると彼女はそう告げる。

 くるり、マントを翻し踵を返す彼女の背に、レリウスが声をかける。

「……ナンバーサーティーンを使って、事象兵器を捜索させるとしよう。現状のアレを事象兵器に近付けて、どんな反応があるかのテストもできる」

「ナンバーサーティーン。ムラクモね。あれも一応、事象兵器ってことになってるのよね」

 レリウスの淡々と紡がれる言葉に、ナインもまた同じような口ぶりで問う。

 首肯し、しかし他と違ってタケミカヅチのコアを使用してはいない、とレリウスは答える。

 化け物という点では同じだ、とナインは思う。腕を抱き、彼の話の続きを促した。

「それから、丁度よくテルミと分断されているハザマにも通達しておこう。することもなく、暇を持て余しているだろうしな」

「私はただの開発者よ。協力者の選別はお好きになさって……ねぇ?」

 

 

 

 

   2

 

 地に叩き付けられ、呻きをあげる。先も似たようなことがあった気がする――そう思いながら、ラグナは眼球だけを動かして辺りを見る。

「どこだ、ここ……。まさか、イカルガ!? 俺はどうなって……」

 はっきりとは分からないけれど、何となく知っている気がする景色。老朽化し、立っているのが不思議なほどの廃城が遠目に映る。

 記憶が告げる名を口に出せば、やけにしっくりくる。ここがイカルガならば、自身はアレからどうなったのか――。

 状況を確認するべく立ち上がろうと、手を動かそうとする。途端、全身に痛みがはしり悲鳴を漏らす。そこで、身体がまともに動かせないほどに自身が負傷していることを、やっとラグナは理解する。

「クソ……ブレイブルーでも、これを治すのは時間がかかりそうだな」

 ブレイブルー。蒼の魔道書。その名を口にして、ラグナはハッとする。

 やっと、ラグナは思い出した。記憶を失う前、自身が何をしていたのか、何が起きていたのか。 そうだ。何故、今まで自身は忘れていたのだろう。

 否、思い返してみればノエルもカグラも、皆の様子はおかしかった。

 まるで時間が巻き戻ったみたいだったけれど、記憶と違うことが沢山起きたし、何より聞いた情報が正しいのであれば、一部の歴史が書き変わっているらしいのだから。

「つーか、今は何年の何月何日なんだよ……畜生、頭の中がゴチャゴチャしてやがる」

 考えても色んな情報が頭の中をぐるぐると回って、どうにも整理ができない。こんなところでもたついている場合ではないのに。

 他の人物は大丈夫なのだろうか。それに、ナインは教えてくれなかったけれど、サヤはどうなっているのだろう。

「そうだ、早くサヤを見つけねぇと……っぐ……」

 焦り、再度立ち上がろうと試みるラグナであったが、しかし負った傷はひどく、動くこともままならない。まだ回復しないのか。

 思いながら、ラグナはふと寄ってくる足音に気付き身体を跳ね起こす。

 動けない身体を無理に使ったことで、痛みによろめきながらもラグナは音の方向を見た。

 また咎追いとかいう人物だろうか。また、狙われるのだろうか。そうでないことを祈りながら、警戒に剣に手を伸ばそうとするラグナ。物陰から現れたのは――。

「……ぬ? お主は……」

 聞き慣れた声に、ラグナは相手の足元に遣っていた視線を持ち上げる。目を見開く。

「やはり! 『死神』でござったか! お主、こんな場所で何をしておる!?」

 どこかやかましい大きな声、額には二重の傷跡、特徴的な口調。

 その名をラグナが呼ぶより早く、その人物がラグナを呼んだ。

 敵ではないと分かれば思わず気が抜ける。と同時に、気を張っていたことで多少紛れていた痛みがまた主張し始め、剣を地面に突き立てて身体を支える。

 どうしてこんなところに、などと問われた気がしたが、それに答えるだけの元気はない。

「なんと……その有様、どうしたのでござる!? 以前にもまして酷い傷ではないか!」

 そんなラグナの様子を訝しげに見て、彼――バングは、ラグナの容体に気付き声をあげる。以前会ったときも重傷を負っていたというのに、更に酷くなっているのだから、心配せずにはいられない。

「何か治療が施せれば良いのだが……とにかく、こんな場所に居ては傷にも良くない。どこか安静にできる場所へ移動するでござるよ!」

 

 

 

 炎の弾ける音、フクロウの鳴く声、木々の微かなざわめき。それらに耳を傾けながら、ラグナは空を仰ぐ。街灯のない夜の森から見上げる空は星々が美しく輝いていた。

「傷の具合はどうでござるか、死神殿」

 正面から、ラグナにかけられる声。釣られるように上に向けていた顔を前へ戻して、それから言葉の意味を理解すると、あぁ、と頷く。

 あれから暫し経ち、焚き火を挟んで前に座る男――バングの手当てと『蒼の魔道書』による治癒能力によって、だいぶマシになった。それを伝えれば、バングは安心したように破顔して見せた後、ラグナの右腕を見る。

「しかし、ふーむ……。蒼の魔道書……では、やはり『あの時』もその魔道書が傷を修復していたのでござるか」

 不思議なものを見るように、顎に手を添えて問うバング。

 あの時、という単語に首を傾けるラグナであったが、思い当たるところがあったのか、手を打って大きく頷く。

「あぁ~! あの時か、そうそう、おっさんに助けられるのはこれで二回目だったな」

 前回は腹に大穴を開けられたとき。偶然見かけたバングがライチの診療所まで運んでくれた。

 今回もまた、重傷を負っているところをバングに助けられた。

 色んな記憶を取り戻したせいで随分と前のことのように感じる。

「ぬ……確かにその通りだが。死神殿、お主どこか変わったでござるか?」

 へらっと笑って言うラグナを見て、バングはまたも不思議そうな表情を浮かべる。

 上手くは言えないけれど、前に会ったときは常に焦り、苛立っているように見えたのに対し、今のラグナはまるで別人のように気が和らいだように感じた。

「……さぁな。俺からすれば、アンタこそ俺の知ってるおっさんとは随分違うみてぇだけどな」

「何? それはどういう意味でござるか」

 なんとなしに零した言葉。それにバングが反応すれば、なんでもないと返してラグナは話題を変える。

「それより、さっきからその『死神殿』っていうの勘弁してくれねぇかな」

 死神という呼び名は好いているわけでもないし、名前を思い出した今、何だかその呼び方はどうにも落ち着かない。

「む、しかしお主には名前が……」

 けれど、バングはまだラグナが名前を思い出したことを知らないし、ラグナの名は統制機構でも知っている人物が限られるほどの極秘情報だ。手配書でも『死神』としか発表されていない。

 眉尻を下げ悩む様子のバングに、ラグナは少しだけ躊躇いつつも名を口にする。

「ラグナ……で頼むわ」

「……ラグナ? お主もしや、自分の名前を思い出したでござるか!?」

 彼の言葉にバングは驚いたように目を見開き、確かめる。その瞳にはほんの少し喜びも混じっていて、それにラグナは頷いた後、火を見つめる。

「とはいえ……まだこの世界は俺の知らないことでいっぱいらしいけどな」

「そうか……しかし、名を思い出したのであれば、全ての記憶が戻るのも、遠くはないであろう。良かったでござるな、死……ラグナ殿」

 ふっとバングが苦笑する。けれどすぐに笑顔を咲かせ、励ましの言葉をかける。

 そんな彼に視線を移し、じぃと見つめ、そしてラグナは黙り込む。何か不味いことを言ったかと気まずさを覚えるバングに、やがて彼は神妙な面持ちで問いかけた。

「なぁ、おっさん。聞いても良いか?」

「無論、構わぬでござるよ。何でも聞かれよ」

 何を問うのかは分からなかったけれど、聞く前から断る理由もない。それに、記憶のない彼の手助けになればと思って、バングは任せろと言わんばかりに頷いた。

「あの女医の姉ちゃんが言ってたんだが、ここじゃカグラ=ムツキは『イカルガの英雄』と呼ばれてるって……それ、本当か?」

「カグラ、でござるか。拙者は断じて認めんが、確かにあの者は世間でそのように呼ばれておる」

 ラグナが尋ねた言葉。その名前が出た瞬間、僅かに眉根を寄せながらバングはそう言う。話の続きを促すように黙るラグナへ、今度は逆にバングが訊く。

「お主、カグラを知っておるのか?」

「あ~、まぁ色々な。それより、イカルガ内戦ってどうして起こったんだ?」

 それには曖昧な返事を返すラグナ。それにバングは少しだけ疑いの眼差しを向けながらも、今の話には関係ないし、彼が語りたがるまで触れないでおこうと思う。

 そしてラグナが続けた言葉を、復唱する。

「イカルガ内戦……でござるか」

「あぁ。カグラがイカルガの英雄と呼ばれるようになるまでの経緯を知りたい。一体その戦争で何があった?」

 身を乗り出すようにして問うラグナ。暫しの沈黙。

 そして、バングはいつになく静かな声で、返事を返した。

「……相分かった。拙者の知る限りを教えてしんぜよう」

 

 

 

 イカルガ連邦。複数の階層都市を総称し、そう呼ばれていた。

 それに含まれるのは第五階層都市『イブキド』を始めとして、第六階層都市『ヤビコ』と第七の『カザモツ』、第八の『ワダツミ』、そして第九、第十の姉妹都市『アキツ』の六つだ。

 戦争の爪痕は酷く、特に中心となっていたイブキドとワダツミは復興も手つかずの状態だった。

 事の発端は、その六つの階層都市が『イカルガ連邦』を名乗り、統制機構からの独立を掲げたときから始まった。イカルガ連邦は、統制機構の帝である『テンジョウ』の子、『ホムラ』を人質に取り戦火を拡大させていったという。

「その頃、拙者は帝直属の近衛兵でござった」

「何? おっさん、図書館だったのかよ!?」

 ラグナが驚きに声をあげれば、苦笑しバングは顔の前で片手をひらひらと振る。あくまで『元』に過ぎない、そう言って彼は話を再開した。

「最初から戦争に反対していた拙者は、密かにホムラ殿下をお助けするため、イカルガ忍軍に志願したのでござる」

 そして六年もの間、戦争は続いた。多くの犠牲者を出した酷い戦いだったとバングは語る。

 統制機構の攻撃によって、イカルガの首都であったイブキドは壊滅したが、同じ頃に帝が崩御した。

「死んじまったのか。戦争で?」

「理由は公にはされておらぬ故、謎のままでござる」

 今度の問いにはゆるりと首を振って答え、そしてバングは続ける。

 お互いに痛み分けという形で、イカルガと統制機構は和解を進め……その和解の道を実現させたのがカグラ=ムツキというわけだ、と。

「それでカグラがイカルガの英雄ってわけか」

「左様。だが、奴が帝を守れなかったのは、紛(まご)うことなき事実。拙者はカグラ=ムツキを許すことは出来ぬ……」

 そして、殿下であるホムラのためとはいえ、帝の身に何かが起きたその場に居なかった自身も許せない。ひどく悔しそうに眉根を寄せて、強く歯を噛み締める。

「と、話が逸れてしまったな。……その後、統制機構とイカルガ連邦は協力関係を築き、ホムラ殿下が新たな帝として即位することで、イカルガ内戦は終結したのでござる」

 語り終え、バングは思う。ずっと、考えてきたことだった。

 未だにあの戦争が何だったのか、どんな意味を持っていたのか。何故、帝や多くの民が死ななければならなかったのか。バングには分からないことだらけだ。

 黙り込む二人。

「なぁ、おっさん」

 ずっと続くかと思われた沈黙を早々に切り上げたのは、ラグナの方だった。

 何だと問うバングに、意味のない音を幾度か漏らし言葉を選び、ラグナはそして尋ねる。

「イブキドの崩壊は、統制機構の攻撃によるものだと言ったが、一体何があったんだ?」

 ラグナの問いにさして驚く様子もなく、ただバングはそれに少しだけ顔を俯ける。

 正確なことは、バングも知らなかった。

 あの攻撃――爆発は、統制機構の新兵器によるものだと言われているけれど事実はどうなのか。

「拙者は『あの時』ワダツミに居たが、爆発の衝撃はこちらにまで伝わってきたでござる」

 だから、バングは出来ることならばあの戦争を止めたかった。あの声の言った通り、冥王イザナミという人物を倒し『蒼』を手に入れることができれば、その願望は叶うかもしれない。

「イザナミを倒すだと? それにその話……おいおい、あんたもかよ」

 バングの話に出てきた、イザナミを倒すという話は、ナインにラグナも言われていた。まさかバングもなのか。問いに、きょとりと目を丸くしてバングは首を傾ける。

「拙者『も』? やはりラグナ殿、お主も『あの声』を聞いておったか」

 今度はラグナが首を傾ける。バングの言う『声』というのに、ラグナは思い当たるものがなかった。バングが説明しても、だ。知らないと首を振るラグナに、バングは苦笑する。

「……そうでござったか。それは失敬した。妙な話をしてしまったでござるな」

 軽く謝るバングに首を振ることで平気だと言って、その次にはすぐラグナは別のことを考えだす。頭の中は、イザナミがどうとかそういう話ではなくて、先ほどバングが話した歴史のことについてだった。

 相当『ズレ』ているのだ。ラグナの取り戻した記憶と、歴史が。これも事象干渉の影響なのだろうか、と考えるけれど、それにしては何かが妙だ。まさか、ナインの仕業なのか。

「どうしたでござる? 先ほどから妙に深刻な顔をしておるが……」

「いや……」

 ラグナの表情を見て、バングが心配するように眉を垂れる。それに首を振って、ラグナは何気なくを装いバングの背に視線を投げる。

「なぁ、おっさんの背中のそれ……ちょっと見させてもらってもいいか?」

「ぬ……拙者の五十五寸釘をでござるか? しかしこれは、昔帝から頂いた大切なもの故……」

 彼の背には、銀色に輝く巨大な釘があった。

 それはラグナの記憶が正しければ『クシナダの楔』のコアとして使われ、ここにはないはずのものだ。ならば、それが本物なのかも確かめておきたかった。

 少しばかり躊躇う様子のバングも、ラグナの真剣な目を見て、頷く。

「……杞憂でござったな。ラグナ殿は信用できる方。少しであれば構わぬでござるよ」

「悪ぃな」

 ニッと人好きのする笑みを浮かべるバングに短く断って、ラグナはゆっくりと立ち上がるとバグの後ろへ回った。

 そして、五十五寸釘……アークエネミー『鳳翼・烈天上(ほうよく・れってんじょう)』に手を伸ばし、触れる。

「――ッ」

 途端、流れ込むのは記憶。ラグナはその光景を知らない。ならば、五十五寸釘の記憶か。

 呻き、よろめくラグナに驚いてバングが振り返る。

「なっ、ど、どうしたのでござる!? 無事でござるか、ラグナ殿!」

「あ、あぁ……平気だ、何でもねぇ」

 大袈裟に心配してみせるバングへ首をゆるゆると振り、背を向ける。だけれど、と尚も食い下がるバングを無視してラグナは俯いた。

 今の感覚はやはり本物の烈天上だ。だけれど、ますます疑問に思う。烈天上はあの時、イブキドにそびえ立った巨大な塔に刺したはずだったのに、何故『ここ』に存在していたのか。

 否、記憶と記憶の食い違いや、バングの様子もおかしい。多分他の人物らもそうなのだろう。そういえば、ナインも何か……『このフィールド』などと言っていたはずだ。ならば、この世界そのものが特殊な場だということなのか。

 考えても答えは出ず、険しい顔を浮かべるラグナ。その背に、優しくかけられる声。

「ラグナ殿、夜更かしは身体に障る。そろそろ休むべきではござらんか」

 記憶を失ったり、重傷を負ったり、追いかけ回されたり、色々なことがありすぎた。そんなラグナを気遣っての言葉だった。

 それに少しだけ考える素振りを見せた後、ラグナは首肯する。確かに、今日は疲れた。

「……そうだな。おっさん、悪ぃが先に休ませてもらうぜ」

「気にする必要はないでござるよ。明日は遠出する予定故、今の内にしっかりと休まれよ」

「あぁ、それなんだが……ここはイカルガなんだよな? おっさんに、案内して欲しい場所があるんだ」

 

 

 

   3

 

 ――連合階層都市イカルガ。某階層都市、窯。

 脈動を続ける窯を見下ろし、ハザマは口を開く。

「『願望』を叶えたければ冥王イザナミを殺せ。『蒼』を手に入れろ……ですか」

 振り向く先には、男。目深に被ったフードから自身とよく似た顔を覗かせるその人物を見て、ハザマは首を傾ける。

「『蒼』……それがあれば、貴方の言う『融合』ができるんですよね」

「あぁ、そうだ。その『蒼』をイザナミが持ってる」

 気怠げに首肯し告げる彼、テルミに相槌を打って、ハザマが言葉を返す。

「……なるほど。でも、今度こそ大丈夫なんでしょうね? カグツチの地下のときは想定外の出来事の連続で、結局融合なんて出来なかったんですから」

 ハクメンの襲撃、ニュー・サーティーンとラグナの戦闘が思ったより長引いたうえにラグナが勝利。それに加え、突然の事象干渉が起きたりして、融合なんてしている暇がなかった。今度こそ大丈夫なのか、問うハザマにテルミが笑って吐き捨てる。

「はっ、どうだかなぁ。今のこの世界じゃ、どんな滅茶苦茶なことでも起こり得る。この世界が特殊なうえに、コイツも居るんだからな」

 テルミでさえ初めて経験することばかりだというのだから。ニィと笑うテルミ。

 コイツ、と指されたユリシアは不思議そうに、テルミ達を交互に見て首を傾げる。そんな彼女を横目に、ハザマは指を一本立てた。

「そこです。そう、気になっていたんですが。ユリシアという存在がありながら、何故わざわざイザナミを倒しに行かないといけないんですか?」

 ユリシアが『蒼』そのものの片割れであることはテルミから聞かされていた。ならば、わざわざどこに居るかも分からないイザナミとやらを探し、倒すよりも、彼女の中から直接分けてもらった方が早いのではないか。

 純粋な疑問を告げるハザマに、テルミは黙り込む。

「……ま、いいでしょう」

 そう言って溜息を吐き首を振ると、ハザマは帽子のツバを摘み、被り直した。

 テルミがこの様子ではどうにも不安が残るが、これはこれで仕方ない。自身は言われた通りに動くまでだ。

「ですが……随分とご執心なんですね」

 にこやかに微笑み、吐いたのは紛れもないハザマだった。

 テルミはもっと、使えるものは何でも使う性質だと思っていたけれど、そうではなかったのだなとでも言うように。

 驚いたようにテルミが目を見開くのが見えた気がしたが、それに気付かなかったフリをして、ハザマは「そうそう」と別の話題を切り出す。睨まれても見なければどうってことはない。

「気になっていたんですが……この、私の胸のところに派手な傷痕があったんですけれど……これ何の傷です?」

 首を傾けて問う。指を差された胸はスーツに隠れて見えないけれど、かつて融合していたテルミはその傷のことを知っていたし、ユリシアも後でその傷を見ていたから知っている。

 けれど、ユリシアは首を傾ける。

 何故なら、テルミに聞いた話では『この世界』は特殊らしいうえに、時間もアマテラスを召喚した時とは違う。世界の時間は巻き戻っていて、ならば、ハザマの肉体には――。

「一体、いつ、どこで、どうしてついた傷なのか気になりまして」

 常に細められたその双眸を薄らを開け、言いながらハザマはユリシアを見る。途端、彼女が首を振る。そこから視線をテルミに移せば、沈黙していたテルミがやがて息を吸う音が聞こえた。実際にはそんな器官など存在しないはずだけれど。

「……俺とテメェが分離したときについたモンだ。早い話、その傷のせいで俺とテメェの融合が上手く行かねぇ」

 なるほど、とハザマは頷いた。

 テルミの話が確かなのであれば、それで元々融合していたというのに『蒼』が必要になったというわけだ。

 納得した様子でそう紡ぐハザマに、テルミは尚も面倒臭いと言わんばかりに声をあげつつも肯定する。

「あー、はいはい、そうですよ。事情なんざどうだっていいだろうが。どの道、テメェには境界に接触して『蒼』に触れる以外、選択肢はねぇ」

 ――『取り戻したいのだろう、本来あるべき自身の形を。

 問うテルミに少しの間を開け、ハザマは首肯し答える。

 だから今もこうして、一生懸命『蒼』を探しているのではないかと。

「『蒼』……な」

 にこやかに微笑むハザマへ背を向け、テルミはフードを被り直す。

 切れ長の目を伏せて、テルミは静かに告げた。

「その前に『ノエル=ヴァーミリオン』を確保するぞ。面倒なことにならないための保険だ」

「……私には、あのヴァーミリオン家のご令嬢が、それほど重要な存在には見えないんですがね」

 テルミの言葉へそう返しながらも、ハザマは再び頷く。

 二人を見比べるユリシアの頭にぽんと手を置いて、ハザマは小さく笑いの声を零した。

「せいぜい働きますよ。来たるべき『融合』のためにね」

 そう言って、ハザマはするりと滑るようにユリシアの頭から手を離すと、一人歩き出した。

 追いかけるべきか悩んで、ユリシアは――。

 

「どうも臭(にお)うんだよなぁ、ハザマちゃん」

 ハザマの足音が影に飲み込まれ聞こえなくなったところで、テルミは小さく呟く。

 どうにも『今回』のハザマには、怪しさがあるのだ。

「あいつより便利な器を、さっさと手に入れた方がいいかもしれねぇな……」

 考え込むように顎に手を添え、テルミはそう零した。

 気になることは多々あって、先の会話を振り返れば『ご執心』と言われたのを思い出す。そんなことを言われるとは思っていなくて、苛立ちにテルミは頭を掻いた。

 

 

 

   4

 

「感じる……ジン兄様を。きっとジン兄様も、このイカルガに来ているんだわ。でも……」

 土を踏みしめ、彼女は遠くのイブキド跡地を見ながら静かに呟く。

 翼のようなシルエットのマントがついた白い兵装に身を包み、腕には分厚い本を模したような盾を持つ。そして何より目を引くのが、頭に乗った帽子だ。不気味とも取れる目玉の模様がついた、白い羽帽子。

「あの『声』は、冥王イザナミを倒し、蒼を手に入れろと言った……それが、願望を叶える方法だと……。蒼、それが真実なら、おそらく願いを叶えられるのは一人だけのはず……」

 考えを纏めるように呟きながら、紅色の髪が美しい彼女――ツバキは立ち止まる。

 自身に、できるのだろうか。その時が来たとき。願いを叶えるため、自身が慕うあの人物と事を構えることが。できるのだろうか。

「……いいえ、何を馬鹿な事を。ジン兄様の存在は、私の全て。答えは最初から決まっていたわ」

 首を振り、彼女は自嘲するように笑った。

 もし、彼と遭遇したその時は――。

「――ッ!!」

 近付く足音と気配に、思わず彼女は背後を振り向く。

 少しだけあんなことを考えていたせいか、それとも先ほど起こったことを振り返ってか、警戒を露わにしながらも彼女はそちらを見て、目を皿にする。

「あれ? もしかして、ツバキ?」

「マコト……!?」

 そこに居たのは、ぴんと立った丸い耳と、腰から生えた大きな尻尾が特徴的なリス系亜人種の少女、マコト=ナナヤであった。彼女もまた驚いたように、どんぐりのような目を大きく見開いてツバキを見つめていた。

「うわぁ、偶然だねぇ。どうしてこんなとこに……って、そっか。ツバキも転移させられたんだね。もしかして、あの『声』も聞いた?」

 どうしてこんな場所に居るのか。先まで自身らと同じようにカグツチに居たはずじゃなかったのか、問おうとして、納得したようにマコトは頷く。

 そして、思い出したのは『声』のこと。それを代わりに尋ねれば、ツバキは肩を揺らした。

「それじゃあマコト、貴女も……?」

 聞いたのか。その問いに、マコトは首肯し、そして眉をひそめる。

 あの声は絶対普通ではないし、それにカグツチからイカルガまで強制転移させるなど、並の術者ではない。ツバキはどう思うのか、判断を仰ごうとしたマコトは、目の前の少女の行動に、間抜けた声をあげる。

「……え?」

「貴女も、イザナミを目指すのね。願望を叶えるために」

 握った紅の刀身はマコトへと突きつけられる。彼女のそれはつまり、戦闘の意思があるということ。説明されなくとも、彼女の表情と刃の鋭さが物語っていた。

「ちょ……どうしたのさ、ツバキ。そりゃ確かに叶えたい願いはあるよ? だけどあたし達には任務もあるし、今はそんなことよりも――」

「『そんなこと』じゃないのよマコト。私にとっては」

 持ち上げた両手の平を相手に向けて、マコトは焦りながらも彼女に制止を呼びかける。落ち着けと言うようなマコトの言葉を遮って、ツバキは首を振った。

 ツバキには、何故だか分からなかった。分からないけれど、あの声の主、あの言葉には信ずるに足る何か、そういった説得性を持っているように感じたのだ。まるで、もう一人の自身がそれを知っているような、不思議な感覚が。

 それを聞いてマコトは眉尻を下げた。

「おかしいよ、ツバキ……本当にどうしちゃったの?」

「……おかしい? おかしいのは何もかもだわ。十六夜を通じて、ずっと違和感を感じていた」

 マコトの言葉をまたも拾って、ツバキはそう言った。

 気が付いたときからずっと、違和感を感じていた。それが何に対するものなのか、どうしてなのかは分からないけれど、何かが違う気がして。

「それが、蒼を手にすることでハッキリするのなら。蒼を手にすることで、あの方の望む世界が形になるのなら。……私はイザナミを倒す。例えマコト……貴女を押し退けてもね」

 刃が紅く光る。それを見て、マコトは身構えた。

 ツバキが悲しげな色を瞳に宿しながらも、静かにマコトを睨み付ける。

「貴女が『資格者』なら、私にとっては障害よ。ごめんなさい、マコト。悪く思わないで」

 言うや否や、ツバキは地を蹴り駆けた。

 光る紅の刀身から蛇腹状の刃が展開され、広がる。鋭い鞭のようなそれは一直線にマコトへと振るわれ、それをマコトは腕に装着した十字のトンファーに当てるようにして庇う。

 しかし衝撃は重く、地面を引き摺るようにマコトの身体が僅かに後ろへ下がる。庇いきれなかった部分には、微かに血が滲(にじ)んでいた。

「ぅ……ツバキ、やめて! あたしはツバキとこんな形で戦いたくなんかないよ!」

「黙りなさい! ジン兄様のために、私は……ッ」

 ツバキの口から出たのは、本人が思っていたよりも強く、厳しい言葉だった。

 慕うあの人のために、自身は。そこまでを口にして、彼女は突如襲ってくる頭痛に、彼女は短剣を取り落とす。頭に乗せた羽帽子を握り締め、地面に吸い込まれそうな身体を必死に支えた。

 流れ込むのは知らないはずの記憶。あってはならないはずの記憶。

「わ、私は、以前にもマコトに剣を向けた事がある? いえ、そんな記憶はないはずだわ……」

 そんなはずはない。

 なのに何故、こんなに既視感があるのだろう。何故、こんな感情を抱くのだろう。

 ツバキの様子がおかしいことにマコトが気付く。駆け寄り、どうしたのと聞きたい気持ちに溢れたけれど、もしまた攻撃されたら。何だかこれ以上戦ってはいけない気がして、マコトは頷く。

「ごめんね、あたしは退かせてもらうよ」

「なっ……待ちなさい、マコト!」

 マコトの台詞に驚き、手を伸ばすツバキ。行かないで、そう言う彼女にしかし、マコトは一度だけ小さく首を横に振ると、告げた。

「ううん。あたしはツバキと戦いたくないし。でも……先に行くなら気を付けてね」

 なんだか嫌な予感がする。

 最後までツバキを案じるような言葉をかけて、彼女は動けぬツバキを置き駆けて行った。

「マコト……!!」

 悲しげな声で名を呼び、そしてまた痛む頭を押さえた。

 自身の中から何かが抜け落ちているみたいだ。

 一体、何が起きているというのだろう。何故、自身はあの声をやけに信じられるのだろう。

 何故、こんなことになってしまったのだろう。

 ふらふらと彼女はおぼつかない足取りで歩き出す。

 

 

 

   5

 

 連合階層都市イカルガ、第六階層都市『ヤビコ』の街。

 様々な人々が行き交い賑わうそこを、身の丈より大きな杖を抱えながらも、子猫のように器用な足取りですり抜け歩いていた。

 身長は随分と低い。小柄というよりは、子供の動きだ。

 歩く度に、頭の上の方で結い上げたピンク混じりのプラチナブロンドがふわふわと揺れる。首元に付けられた大きな鈴の飾りを手で弄びながら口を開いた。

「はぁ~、イカルガってひっろいな……もう足が棒になっちゃいそうだよ。ったく……」

「ねぇルナ、本当にいるのかな~。『冥王イザナミ』なんて人……」

 虚空に向けて文句を垂れる少女。言葉こそ気怠げなものだが、声の調子は年相応の元気な声音であった。それに答えるのは彼女自身。しかし不思議なことに声音と口調を変えて、今度は自分自身に語りかけるようにして話す。

 どこか気弱な少年を思わせる声と、間延びした口調で話すのはセナ。話しかけられたのはルナ。くるくると一人の少女が声音と口調を変えて話す様は異様だが、一つの肉体に二つの魂を宿している故のそれだった。

 彼女らを総称した呼び名は『プラチナ=ザ=トリニティ』。

「実際に居たとしても、向こうも僕たちみたいに歩き回ってたら、この広いイカルガで見つけるなんて、無理があると思うんだけど~」

「そりゃルナも馬鹿馬鹿しい子供だましみたいだって思うけどさ。本当だったら、欲しいじゃん。願いを叶えてくれる『蒼』」

 もう止めようとでも言いたげなセナに、ルナも疑う部分については同意しながらも歩みは止めない。彼女らは彼女らで叶えたい願いがあったから。

「お願い、かぁ……『蒼』を手に入れたら、ずーっと獣兵衛様と一緒にいられるかなぁ」

 ルナの言葉につられるように、セナがそう言う。想像した世界の幸せさに頬を緩める彼へ、当たり前だとルナが言う。

「美味しいご飯も、たくさん食べられるかなぁ」

「当然だろ! 何でもだぞ! 豪華なお屋敷建てて、召使いに美味しいものた~くさん作らせて、そんでそんで毎日さ、獣兵衛様と一緒にのんびり暮らすんだ~」

 そんな世界が実現すればどんなに幸せだろう。子供らしい願いを口にし、そしてニッと口角を持ち上げる。

「そのためにも! 絶対見つけるぞ、イザナミとかっていう奴と『蒼』を!」

 ぐっと拳を握りしめ、高らかに宣言するルナ。それにのんびりと首肯し、だけど……とセナはまたも心配そうに眉尻を下げた。

 今度は何だと問いかけるルナに、セナは何か変じゃないか、と尋ね足を止めた。

「この街に飛ばされる前から感じてたんだけど……何となく、周りの雰囲気が、妙だなぁって」

 肉体を共有すれば、ある程度感情の変化なども流れ込んでくる。

 それはつまり、ルナがそれを薄々感じ取っていたことも、セナには分かっていた。

 ずっと、街に居る誰もが自身らを見ない。まるで自身らだけがこの世界から切り離されたかのように。それによる不安感はひどく、だからこそルナは考えないようにしていた。

「そんなの、た、たまたまだ。大体、こんなでかい街なんだから。知らない子供がひとりでうろついてたって、いちいち気に留めないって」

「そ、それはそうだけど……う~ん」

 イマイチ納得できない様子のセナに、考えていても埒(らち)が明かないし、それに今やるべきこととは関係ないからと無理矢理足を動かしだす。

 そうして人がまばらになってきた辺りで、ひと休みしようとした瞬間――。

 何かが、一直線に飛んでくる。それは見えた限りじゃ刃の形をしていて、高速で向かって来るそれに危機感を感じ、慌てて横に跳び躱す。

「うわぁぁあ!? な、何だいきなり!!」

「対象・確認……検索……照合。事象兵器『雷轟・無兆鈴』を所持。……事象兵器、見つけた」

 目の前に現れたのは、長い銀髪を三つ編みにした、少女だった。

 年はプラチナよりも上だろう。白いスーツに身を包み、腕や脚には硬い装甲を纏っている。

 顔には同じ白の単眼バイザー。機械的な台詞で話すその少女に、ルナが食ってかかった。

「おい、突然攻撃してきたのはお前か!」

「今、この子……『雷轟・無兆鈴』って言ってたよ? もしかして、僕達の杖が目的なんじゃないかなぁ」

 怒鳴るルナからくるりと一変、セナが落ち着いた口調で語りかけるも、逆にその内容はルナの怒りの火に油を注いだらしく、ふざけるなとルナが叫ぶ。

「これはルナ達が獣兵衛様からお預かりした大切なものなんだぞ! 誰がお前なんかに渡すもんか! ばーかばーか!!」

 煽るように罵倒の言葉を入れてそう言うルナに、俯き、肩を震わせる、少女は唇を動かす。

「……ニューの、邪魔するんだ」

 ニューというのは少女の名前だろう。

 自らを名で呼び、呟く言葉は短い。しかし、彼女らはその震えた声音から得体の知れない恐怖を感じ取り、微かに慌てた様子でセナがルナを宥めるように声をかける。

「る、ルナぁ~、この子なんだか怖いよ。アブナイ感じがするからあんまり関わらない方が……」

「知るか! 喧嘩売られて黙ってられるかっての! いいかセナ、舐められたら終わりだぞ」

 カッと目を見開いて、セナの制止を遮りルナが声をあげる。

 舐める舐めないなど、そんな理屈が通じる相手だとは到底思えなかったけれど、気の弱いセナはそれ以上の言葉を返せなかった。が。

「邪魔する奴は……死んで!!」

「うわわわわっ!? いきなり容赦なしかよ! あいつヤバイ、あいつヤッバイ!」

 無数の光の刃が射出され、プラチナを襲う。飛び、屈み、躱し、慌てるルナに、セナが「だから言ったじゃないか」と文句を垂れる。

「に、逃げるぞセナ!!」

 自身らが相手をできるとは思えないと踏んだのか、ルナが叫び、彼女らは踵を返して走り出す。

 その背を負うように、剣を射出しながらもニューが追いかける。

「逃がさな……」

 けれど。ふと立ち止まり、ニューは辺りを見回す。

 見失うような距離ではないはずだけれど、まるでプラチナが見えていないかのような素振りで、彼女は言葉を口にする。

「検索……検索、検索……反応、消失(ロスト)……どこに行ったの?」

 歯を噛み締め、彼女がひどく怒りを込めた声で呟き、そして次の瞬間には消える。

 その光景を見て、プラチナはそのグリーンの丸い目を尚更丸くした。

「あ、あれ? あいつどっか行っちゃったぞ?」

「僕達のこと、見失ったのかな? そんな距離でもなかったと思うんだけど……」

 若干の不安を覚えながら、彼女らは口々にそう言って、先までニューの居た方向を見つめ――。

 まぁいいか、と言ったのはルナだ。あんな危険そうな人物を相手にしていたら『蒼』どころではないのだから、とポジティブに考えて、進みだそうとする。

「さーて、気を取り直していくぞ! セ……あれ?」

 けれど。立ち止まり、彼女は首を傾ける。

 何かを、言おうとしたはずだった。多分それは大事なもので、当たり前に口にできたはずのものだった気がするのだけれど、それが何か思い出せなくて、彼女は眉根を寄せる。

 彼がそのおかしさに気付いてどうしたのかと問いかければ、彼女は僅かに震えた声音で――。

「いや……その、えっと……な、なあ、お前の名前って何だっけ」

 多分、自身の中のもう一人に話しかけたのは確実だった。思い出せないのは、その人物の名。尋ねる。間抜けな少年声が口から漏れた。

「僕の名前、忘れちゃったの? 冗談やめてよ~。僕は……」

 当たり前に呼ばれていたはずの名。忘れるわけがない。自身らは二人で一つ、ずっとここまでやってきたのだから、冗談だろうと思いながら、なのに、僕は……そう口にして、彼は言葉に詰まる。

「何だよ、さっさと教えろよ! 自分の名前だろ、まさか忘れちゃったなんてことないだろ!?」

「そ、そう言うそっちはどうなのさ! 自分の名前……覚えてるんだよね?」

 名前が出てこない事実を考えないように、問い詰める少女へと彼は話題の中心を逸らす。

 当たり前だ、と出した声は思ったよりもか細い。

「あ、あの……えっと……」

 嘘だろ、と彼女は呟いた。

 何故、何故自身は、思い出せないのだろう。

「僕の……名前……ひっ」

 それでも思い出そうとして、ふと彼が悲鳴をあげる。

 今度は何だ、不安から叫ぶ彼女に、恐怖に彩られた少年の声音が、ゆっくりと、紡ぐ。

「ねぇ……見て、僕達の身体……透けてない?」

 言われるままに、自身の身体を見下ろして、彼女は瞠目し声をあげた。彼の言葉通り、自身達の身体の向こう側が透けて見えるのだ。

 幽霊みたいだ、と彼女は思う。

「どうしよう……このまま僕達、消えちゃうのかな?」

 彼の悲しげな呟き。

 そんなのは嫌だ。まだ消えたくはない。やりたいことが沢山あるんだから、そんなことになってたまるものか、声を張り上げ、そして、彼女は行き交う誰の視線も感じぬまま、ふと思いついたものを口に出した。

「……そうだ『蒼』だ! 『蒼』はどんな願いでも叶えてくれるんだろ。だったらこの状況も、どうにかしてくれるんじゃないか!?」

「そ……そうだよね!」

 それは、先ほど聞いた『声』が言っていたものだ。それに僅かな希望を抱いて、彼女らは頷く。

 と同時、丁度よく身体が元に戻る。もう、向こう側が透けて見えることもない。

 それに少しだけ顔を明るくして、涙を目尻に滲ませながらも彼女らは今のうちだと、走りだす。

 

 

 

   6

 

「ここが第九階層都市『アキツ』か……」

 バングに案内されラグナが訪れたのは、旧イカルガ連邦、第九階層都市『アキツ』だった。

 一面の銀世界で、降り積もる雪を踏みしめ、彼らは進んで行く。

 階層都市は基本的に『窯』を使った環境維持施設により人の暮らしやすい気候を維持している。しかし、この都市はその窯が破壊されているため環境の維持がままならぬ状態のまま一年以上も経過している。

 そして、その窯を破壊したのは以前の『死神』ラグナ=ザ=ブラッドエッジだ。

(確か、あの時レリウスは世界中の窯を同時に開いたはずだ……だが、ここの窯からは何も感じない……)

 身体を抱き擦っていた腕を緩め、顎に親指と人差し指を添える。黒いグローブの冷たさも気にせず、ラグナはアキツの景色を見据え考え込む。

 何も感じないといえば、あのときは記憶がなかったとはいえ、カグツチのときもニューが出てくるまで同じだった。クシナダの楔により魔素が止められているというわけでもない。ならば、一体どういうことなのか。

「……ラグナ殿?」

 黙り込むラグナを不審に思って、バングが顔を覗きこもうとした瞬間だった。

「悪ぃ、ちょっと確かめたい事ができた。ここからは別行動にさせてもらうぜ」

「ら、ラグナ殿!?」

 顔を上げ、言うや否やラグナは駆けて行く。

 驚き、そして理解したバングが呼び止めようとしたときには既にラグナの背は遠く見えていた。

「……行ってしまわれたか。あの傷で無茶をしなければ良いのだが……」

 

 

 

 

 思い出したばかりの記憶を辿り、ラグナは窯へと着く。

 破壊され、動く様子のない窯を見て、ラグナはやはりか、と頷いた。

「……やっぱり、起動した形跡はねぇか。魔素の流れも感じねぇし……ナインの仕業か」

 面倒なことをして、とラグナは舌を打った。それから辺りを改めて見回し、すっと目を細める。

「……しかし、ここは懐かしいな。俺が破壊した時のまま、か」

 ここだけではない。他の場所でも彼は、窯を破壊した。境界に繋がる窯の中で精錬される『あれ』を破壊するために。

 自身の行動を悔いるつもりはない。自身は自身の目的があり、そうしたのだ。それが世界にどう影響しようと、多少申し訳なさこそあれど、構わないと思っていた。

 彼が師匠と呼ぶ人物の元で修業を終えた後も、師匠と同様に窯を破壊することを続けてきた。

 窯があれば、あれが――素体が精錬される。

 大切な妹であり『あの日』攫われたサヤのクローンが作り続けられる。

 だから破壊した。そこに眠る『成り損ない』と一緒に。

「あの頃は、あいつのことを助けられると思ってた。けど、やっぱりサヤは倒すしかないのか?」

「ほう……先客か」

 ラグナが呟いた直後だった。誰かの声が部屋に木霊(こだま)する。

 目を見開いて、ラグナは勢いよく振り向く。

「それも、客が貴様だとはな……『蒼の男』」

「テメェは……レリウス=クローバー!」

 名を呼べば、その人物――レリウスは、興味深そうに声を漏らす。

 レリウスには、ラグナの反応がとても意外だった。

 瞬時に自身を判別できるというのが、とても。

「何故だ? 何故、貴様は私が解る?」

 資格者でない彼が何故、この世界で自我を、それも、非常に判然とした形で保つことができるのか。

 彼、ラグナの『観測者』であるレイチェル=アルカードは既に傍観者としての力を失いつつある。これほど因果律の重い者を、その状態で観測し続けるのは不可能に近く、ならば何か別の要因があるのか。

 顎に手を添えるレリウスを見て、やけに冷静に、けれど胡乱げな目で見つめラグナは問う。

「テメェこそ、他の連中とは違うんだな」

 記憶も意識もはっきりしているし、それに……『この世界』のことが自身よりもずっと見えているようだ。

「テメェ、ここの事情に詳しそうじゃねぇか。何がどうなってんのか、説明してもら……」

「マスターユニットの望みか……? あるいはイザナミが無意識に具現化させているのか。それとも……否、その可能性は。ともかく、だとすればこの男をどこまで本物と定義するべきか」

「おいテメェ、相変わらず人の話聞かねぇな!?」

 自身が興味のあること以外、全く人の話を聞かない、そんな自己中心的な部分が全く変わっていないレリウスに、思わずラグナは声をあげていた。

「これだけのイレギュラーを引き起こしながらも、精神状態は悪くない。ふむ……現状では判断材料が足りないか。少し検証が必要だな……」

 レリウスの物言いに、ラグナは露骨に眉を顰めた。

 誰も彼も、全てが実験の道具だとでも思っているような口ぶりが胸糞悪く、ひどくラグナを苛立たせたのだ。

「チッ……ふざけんな!」

 怒りのままに、ラグナが剣を抜き駆け、構える動作もなく無茶苦茶に剣を振り下ろす。

 攻撃は重い。しかし、大振りの攻撃は見切りやすく、レリウスが指を鳴らした途端現れる、赤紫の機械人形が腕で受け止めた。

 攻撃が止められたことを理解すればすぐさま飛び退き、ラグナはレリウスを睨み付ける。

「もしもこれが本物なら……無駄にはなるまい。試してみるとしよう」

「んの野郎……っ」

 レリウスは全くもってその攻撃に脅威を感じていない様子で、ただただ観察するようにラグナを見据える。それが気に食わず、ラグナが再び駆けた。

「うおらぁ!」

「……行け、イグニス」

 剣を振りかざすラグナに向けてレリウスが指を差し命じれば、機械人形――イグニスはラグナへと突進する。

 硬く長い爪を伸ばし、刺突しようとしたイグニスに、ラグナは咄嗟のところで横に飛んで躱す。少しだけ間に合わず、腕を掠め熱と赤色が滲む。

 しかし破れた服の隙間から覗く肌はすぐに再生を開始する。魔道書による力だ。

「反応も十分。魔道書にも異常はなさそうだ……ふむ、やはり」

「その観察するような態度をやめろって言ってんだよ!!」

 レリウスの口角が、微かに持ち上がる。

 彼の態度がいつまで経ってもその調子なのにラグナが怒鳴るも、それをレリウスはどうでもいいもののように無視して、口を開く。

「……模倣品かと思ったが……もしかしたら本当に、貴様は『蒼炎の書』となり得るかもしれない。『あの少女』がいるこの世界で、それがどうなるのか……」

「俺が、何だって?」

 自身が、何だと言ったのか。

 レリウスの言葉は、ラグナには理解ができなかった。

「だとしたら……ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。貴様がイザナミを倒せ」

 問いへの答えはない。代わりに言われた一言は、冥王イザナミ……彼の妹、サヤを倒せというもの。

 言われなくてもそのつもりだった。

 けれど、言われればそれに何か理由があるのではと疑うのは自然なことだった。

 ナインも、レリウスも。一体何なのだろう、とラグナは思う。

 自身は『資格者』というものではないはずなのに、どうして自身にイザナミを倒せと言うのか。

「俺がイザナミを倒したらなんだって言うんだよ」

 問いかける。黙り込むレリウスに、ますます眉根を寄せて、ラグナが再び言葉を紡ごうと口を開きかけた瞬間だった。

「倒せば分かる。寧ろ、倒さねば分かるまい。私は……できればその瞬間を『観測』したい」

 答えになっているのか、よく分からない答えだった。

 けれど、勝手な要求であるということだけは分かって、ラグナは舌を打った。

「イザナミはイブキド跡地……アマテラスの袂にいる」

 期待していると、そう付け足してレリウスはくるりと踵を返す。歩きだす彼に続くようにしてイグニスも去って行く。赤紫のマントを翻すその背中に、ラグナが待てと声をかけるも、やはり待つことはない。

「……それにしても、何だ、だいぶ思い出してきたってのに……まだ、何か肝心なことを思い出せてねぇ気がする」

 頭の中が霞がかったように、上手く思い出せない。

 冥王イザナミ。それを倒すために、何かが必要だった気がするのだけれど――。

「今は動くしかねぇな。じっとしてたって、誰かが教えてくれるわけじゃねぇ……」



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第十六章 銀光の朝

 

 

 扉を叩く硬質な音が三つ鳴る。音のした方向へ視線を遣って用件を尋ねれば、答える声は中性的なものだ。

「ココノエ博士。カグラ様がお戻りになりました」

 報告を受け、部屋の内に居た人物――ココノエは、ピンク色をした二本の尾を揺らめかせると静かに相槌を打ち、彼らが部屋へ入ることを促す。

 大きな木製の扉がゆっくりと押し開かれ、そして彼らはやってくる。

「悪いな、待たせちまったか?」

「我々も、二分ほど前に到着したところだ」

 入ってきたのは黒髪の男達。一人は大柄な男、カグラ=ムツキ。そしてもう一人はカグラの秘書である中性的な少年、ヒビキ=コハクだ。

 問いに短く答えるココノエへ、カグラは軽く頷く。

「そうか。到着して早々すまないが、早速確認を……ん?」

 確認しなければいけないことは沢山ある。現状のこと、これからのこと。それらを問おうとしたカグラではあったけれど、ココノエが傍らに置いていたディスプレイをじっと眺めているのを見て、首を傾ける。

 眠たげにも見える細められた目と、気怠く下げた口角は変わらないが、それでも、ディスプレイを映す黄金の瞳には複雑な色が滲んでいるのがカグラには見えていた。

「どうした、何かあったのか」

 ココノエの横顔に、カグラが問いかける。眉尻を少しばかり持ち上げた、いつにない真面目な表情で。

 ココノエは、それに一拍ほどの間を置いてから応える。

「……たった今、蒼の反応を複数、観測した。どうやら『死神』もあの少女も、イカルガに来たらしい」

 あの少女というのは勿論、以前ココノエが言っていた、ユウキ=テルミらと行動を共にする少女のことだ。その人物と会った記憶こそココノエはないが、反応の位置と、境界に保存されたデータベースに残されていた情報からして間違いはない。

「本当か、ココノエ」

 カグラが尋ねるのは主に死神の方だ。

 少女の方はよく分からないが彼女にとっては重要なことなのだろう程度には分かっていたからそちらの方も聞いておくのだけれど。

「あぁ。死神の場所は……第九階層都市『アキツ』か」

 カグラの問いに頷いて、キャンディを一舐めするとココノエはディスプレイを見つめながらキーボードを数回叩いて操作すると、そう口にする。

 妙だ、と口から漏れる声。

 アキツの窯は、既に死神本人が破壊しているはずだ。なのに何故、彼はそこに訪れているのか。何か裏でもあるのかと思わずにはいられず、ココノエのおよそ人間のものではない尾は声と共に再び揺らめいた。

「チッ、ようやくお前らを見つけたばかりだってのに、また忙しくなりそうだな。早いとこ、ツバキ達も見つけねぇと……ヒビキ、状況は?」

 カグツチに居たはずのツバキ達も見つからないことから考えれば、彼女らもこのイカルガに転移されたと考えるのが妥当だろう。

 イカルガは広く、見つけるのは容易ではないが……それでも、彼女らは一刻も早く見つけなければならない。焦燥に駆られながら、カグラは一歩後ろに控えていた秘書官を呼び、状況を問う。

 けれど彼は琥珀色の瞳を伏せると静かに首を横に振った。

「申し訳ありません、そちらはまだ連絡が付きません……死神の追跡にも、人手を使いますか?」

 それから顔を上げて、問う。逃げた死神が何をしでかすとも分からない故の問いだ。

 けれど、それにはカグラは頭を振って、

「いや、これ以上兵を分散させるのは避けたい。監視だけつけておけ。接触は絶対に避けるようにしろ」

「畏まりました。ではそのように」

 カグラが命じれば、ヒビキは首肯する。そして胸に手を当て軽くお辞儀をした後、そっと部屋を去って行く。カグラの命令を伝達しに行くためだ。

 その姿を見送り扉が閉まったのを確認すると、ココノエは視線をカグラへと移す。

「……お前の言う通り、今は現状の整理が最優先だ。カグツチの状況はどうなっている?」

 人の数はどうか、平常通り働いているのか。町はどうか。

 そんなココノエの問いに、カグラは窓の外を見遣ると唇を開いた。

「支部も町も、ほぼ平常通りといったところだな。どうも一部の者だけが『こっち』に飛ばされているらしい」

 それにより多少の混乱はあるが、それでも正常の範囲を出ない。

 今のところ、カグラ達や死神の他に、統制機構に認定された咎追いも数名、イカルガに転移していることが報告されている。転移させられた人数は、少なくとも十人は下らないだろう。

 おそらく転移された人物らが資格者なのだろう。ならば全員があの『声』を聞いているはずだとカグラは言って、ココノエに視線を投げた。

「それでココノエ、あの声の主が六英雄のナインだってのは本当か?」

 ココノエが言っていたと、ヒビキから聞いたことだった。

 カグラの言葉へ彼女は頷いて、視線を斜め下の床へ落とした。少しだけ間を置く。高めの小鼻をひくりと動かして、彼女は唇を動かす。

「……ああ。自分の母親の声を聞き間違えるものか。それに、これだけの大規模な転移魔法を使える者など後にも先にもナインただひとりだ」

 一体どうやってこの時代に来たのかは知らないが、あるいは何者かが境界から引き揚げたか。

 最後は呟きと変わりつつあるココノエの言葉。

 ナインが彼女の母親であると、さらりと告げられるがカグラは驚かない。

 思うのは、かつて世界を救った六英雄であるナインが、今度は何故世界を混乱させるような真似をするのか、ということばかり。

「願望を叶えるために、冥王イザナミを倒せ……か。イザナミってのは一体何者だ……?」

「現状では何とも言えんな。だが……胡散臭い話であることは確かだ」

 目を伏せ、眉間を揉みながらココノエが言う。信じるに足る何かがあると感じてはいるのだけれど、その何かが分からない。それが逆に怪しさを生み信じられずにいたし、何より、冥王イザナミという人物……その名の不穏さと、それを取り巻く謎が胡散臭さを増幅させていた。

 カグラもそれには同感だった。

 どうにも手の平の上で踊らされているような気がしてならない。

「……不用意な行動は避けた方が良さそうだな」

 あぁ、と頷いてココノエはキャンディに舌を這わせると、薄らと開けた目でカグラを見つめながら考えていた。

(だが、母様の真意は一体どこにある? 何のために我々をイカルガに……そして、蒼を手に入れさせようとする?)

 それに、他にも考えることはあった。

 蒼とはまた別の反応。『極端な魔素の低下』。何故、セリカ=A=マーキュリーが『ここ』にいるのか。更には、カグツチの窯へと侵入したスサノオユニット。

 この状況は、偶然で片付けるには上手く出来すぎている。

(私は、重大な何かを見落としているのか……?)

 眉根を寄せるココノエ達の耳にノック音が届くことで、考えは一度中断される。

 扉に視線を向け、入るように命じれば扉を開け彼はやって来る。先ほど出ていったばかりのヒビキだった。

 用件を話すよう促すと、彼は静かに報告する。

「カグラ様。カグツチに駐屯している部隊より連絡が入りました」

「どうした、まさか死神か?」

 わざわざ報告が入るということは、よほど重要なことなのだろう。死神の件であればそれも頷けると、カグラが問う。

 しかし答えは違った。

「いえ……カグツチ襲撃の件より行方不明となっていた、ノエル=ヴァーミリオン少尉を発見した……とのことです」

「何!? ノエルちゃんが!?」

 ヒビキの答えに、カグラが瞠目する。ノエルの話が出てきたことへの驚きだ。けれど、探すように伝えたのは自身であったと思い出し、次には彼女が無事だったことへの喜びと安堵に口許を緩ませ胸を撫で下ろす。

「……よし。ちょっくら迎えに行ってくるわ。ヒビキ、後のことは任せたぞ」

 そうして頷くと、彼はヒビキに心なしか早口で命じて、扉を開け、歩きだす。去って行く背中に気付き、ココノエが目を見開き呼び止める。

 不用意な行動は避けろと言ったのはカグラなのに、舌の根の乾かないうちにそんな行動をするなんて。止まらぬカグラの背と、彼女らを隔てるようにゆっくりと扉が閉まり――ヒビキとココノエの二人は、呆れに溜息を吐く。

 

 

 

   1

 

 街に出るや否や、がくんと上体を前に倒して膝に手をつき、大きく息を吐いた。

「はぁ~、やっと着いたぁ~……」

 そう言うと、彼女はゆっくりと身体を起こした。

 額の汗を拭って、辺りを見回す。

 美味しそうな料理の並ぶお店がいっぱい並んで、きらきら輝いていて。行き交う人達は皆笑顔。遠くには大きな湖が見えていた。

「カザモツかぁ~。濃厚チーズと厚切りベーコンのピザが名物なんだよね……確か」

 ふふ、と笑って頬を緩ませる彼女はノエル。けれど、すぐにハッと正気付く。

 ここには初めて来たはずなのに。何故、自身はそんなことを知っているのだろう。

 疑問はやがて不安を煽り、怖くなって彼女は首を振る。

「そういえば、皆はどうしてるんだろう……私が急にいなくなって、心配してるかな」

 別のことを考えようとして浮かぶのはそれだ。

 突然空間が歪んで、気が付けばイカルガに居た。急に姿を消せば心配されてもおかしくはない。それに、自身らは任務の真っ最中だ。もしこんなところに居るのがバレたら、怒られてしまうかもしれない。

「早くカグツチの支部に連絡しないと……」

「あー……きっとその必要は、もうないと思いますよ?」

「――ッ!?」

 ポケットの通信機に手を伸ばそうとしながら呟いた言葉に、かけられる言葉があった。勢いよくノエルは警戒に振り向いて、その声の正体に驚愕した。聞いたことがある声だと思ったけれど、それは。

「は、ハザマ大尉!? どうしてここへ……」

 緑の髪を目深に被った帽子の下から覗かせる、ひょろりとした長躯の男。柔和な笑みを携えて、そこに佇む人物――ハザマは、ノエルの問いを受けると首を僅かに傾ける。今日は、隣にあの少女の姿がない。

「何故? 何故ですって? クク……」

 愉快な冗談を聞いたとでもいうように、額に触れながら肩先を微かに震わせる。

 不審に思いながら見つめるノエルに、顔を上げたハザマは少しだけ破顔し答えた。

「決まっているじゃありませんか。勿論……貴女を拘束するためですよ。ノエル=ヴァーミリオン少尉」

 一瞬、言葉の意味を理解するのが遅れた。

 ノエルはハザマが放った言葉を反芻し、そして意味を理解した瞬間、目を見開く。

「こ……拘束? 私を……? な、何故ですか!?」

 どうして、自身が拘束されなければいけないのだろう。そんなことをしたつもりはなくて、いつも通り自分は任務を遂行しようとしていたのに。何か変なことをしただろうか。

 慌てて問えば、彼は両手を顔の横まで持ち上げると首を振った。

「やれやれ……また『何故』ですか。質問ばかりですねぇ、少尉は」

「す、すみません……ですが、本当に心当たりがなくて……私、何かしましたか……?」

 呆れた様子のハザマに何だか申し訳なくなって謝りながらも、本当に思い当たるところがない。ノエルは不安に声を震わせながら、再度問う。

 それに気怠げに深く溜息を吐いて、ハザマは仕方なく――と口を開いた。

「仕方有りませんね……では、説明しましょうか。貴女、ノエル=ヴァーミリオン少尉には現在、統制機構への反逆罪の容疑が掛けられています」

 そう説明するハザマに、再度彼女は目を見開く。

 だって、反逆罪だなんて。いつだって言われた通りに仕事をやってきたはずだし、反逆しようなんて思ったこともない。なのに、何故。

 けれどハザマは反論を許さず、寧ろノエルならば分かるはずだと告げる

「カグツチ支部において、機密区域へ無断侵入し……死神と共に支部の破壊を目論んだ少尉」

 何の話だ、とノエルは声を張り上げずにはいられなかった。

 機密区域というのは多分、窯のことなのだろう。けれどそれは床が抜けてしまったせいだったし、死神と特に深く関わった覚えもない。

 死神は統制機構の反逆者であり、どんな性格をしていようと倒すべき相手だと思っていたのに。

「おや、とぼけるんですかぁ? 貴女が死神と特別な関係にあった事実は、ちゃんと記録されているんですがねぇ」

 ――ねぇ、死神に二度も助けられたヴァーミリオン少尉。

 にこやかにまたハザマは微笑むけれど、薄く開かれた双眸から覗く金の瞳は、全く笑っていなかった。蛇のような鋭い瞳に見据えられて、思わず身体が強張ってしまう。

「貴女、一体死神とどういうご関係なんですか?」

「そんな、違います! 私と『ラグナさん』は別に、何の関係も――」

 首を横に振り、ハザマの問いに答えるノエル。しかし、ノエルが口にした名に、彼はにんまりと笑ってみせた。

「おやおや。死神……ラグナ=ザ=ブラッドエッジの名は統制機構の中でもトップシークレットですよ。それを何故、一介の衛士である貴女が知っているんでしょうね」

 言われてノエルはハッとする。

 ノエルは死神から名を聞いたことはないはずだった。よって、知っているはずがないのに、何故その名を知っているのか、口にしたのか、本人にも分からなかった。

「嘘……なんで、私。ち、違うんです、私は本当に、あの人のことなんか何も……!」

 知らな過ぎるほどに知らない。首を振って否定するけれど、上手く説明できる言葉が出てこなくて、出てくるはずもなくて、彼女はただ「違う」としか言えなかった。

「答えられないようですね。では、やはり……ご同行願えます?」

「――そいつはお断りだな」

 小首を傾げるハザマ。彼らの耳に届く声があって、ハザマは後ろを振り向いた。

 そこに居たのは、大柄な男。短く切り揃えた黒髪を揺らし、その人物は立っていた。腕を組み、紫の瞳でハザマを睨み付けるその人物。

「……おやおや、これはカグラ=ムツキ大佐ではありませんか」

「テメェがハザマか。俺の部下が随分と世話になったな。無事か、ノエル」

 目を細め、ひどく怒った様子で睨むカグラ。言葉の最後には、ノエルを心配しながら彼女の隣へと歩み寄る。それを見て、露骨に眉尻を下げハザマは困ったように口を動かした。これは困った、と。

「私はただ、統合本部からの命令に従ったまでで『イカルガの英雄』と事を構えるつもりはないのですが……」

「統合本部のだと? 適当言ってんじゃねぇぞ、テメェ。そんな話は聞いてねぇ」

 細められたハザマの目を見て、眉根を寄せカグラは疑いの眼差しを向けながら言う。

 統合本部からの話なら、真っ先にカグラにも伝わるはずだ。それがなかったということは彼の話は嘘だとカグラは主張する。けれど、それに首を横に振り、ハザマはカグラを見据えた。

「当然でしょう。貴方の部下に対する拘束命令ですよ。貴方、この命令を知っていたら前もって少尉を逃がそうとするでしょう?」

「当たり前だ。そんな不当な命令、納得できるか」

 カグラの答えにハザマは何度目かの溜息を吐く。表情が消える。そして二、三度ほど頷くハザマを睨み付けたままのカグラに臆することもなく、ハザマはただ答えた。

「ええ、だから……そういうところですよ。噂通り危うい方のようですね、カグラ=ムツキ大佐」

「テメェに言われたくねぇよ……裏じゃどんな汚い仕事にも手を染めてるって有名だぜ、ハザマ」

 煽るような一言に頬の筋肉を一瞬動かしながらも、あくまで冷静にカグラは煽り返す。

 ハザマはそれに表情を変えることもなく、無表情のまま、

「……そうですか。立場上、そういうこともあるかもしれませんねぇ」

 とだけ答え、ノエルを見遣る。庇うようにカグラが彼女の前に一歩、出る。

「おや、反逆者を庇うんですか?」

 その様子を見たハザマが首を傾ける。僅かに口角が上がって見えるのは気のせいではない。カグラの神経を逆撫ですると分かっていて、わざとハザマはそうしていた。

 胸の内でチリつく感覚を覚えながら、カグラは目を伏せ息を吐き出した。

「帰って上の馬鹿共に伝えろや。どうしてもノエルを反逆者に仕立て上げたいのなら、俺のところに直接来いってな……」

 こんな場所で下手な行動に出るのは良くないと判断し、カグラはそれだけを言う。

 ハザマの爬虫類を思わせる瞳が愉快げに見つめているのを見て、何が面白いのかと問おうとした自身を抑えこみ、カグラはノエルに視線を移す。

「……良いでしょう。仰せの通りに致します」

 頷くハザマ。一歩後ろに彼が下がるのを横目に、カグラはノエルの肩をぽん、と押すように軽く叩いた。行くぞ、といつになく強めの語調と険しい表情で言うカグラの気迫に圧され、ノエルは頷き歩き出す。

 何より、こんな居心地の悪い空気の中にいつまでも居たくなかったし、彼――ハザマとは距離を置きたかった。だから、カグラが来てくれたことにも、早めに切り上げてくれたことにも感謝しながら。

 去って行く彼らの背を見て、ニマニマと深く笑みを刻みながら――ハザマは、誰にも聞こえぬほど小さな声で呟く。

「カグラ=ムツキ。『イカルガの英雄』ですか……」

 悲しいものだ、とハザマは零す。

 ――偽りの英雄というものは。

 

 

 

   2

 

 世界虚空情報統制機構、第六階層都市『ヤビコ』支部。

「あの……ムツキ大佐、お伺いしてもよろしいですか?」

「ん? どうした」

 統制機構の近衛師団団長にして衛士最高司令官、黒騎士カグラ=ムツキ。その執務室へ向かう道の途中で、ノエルが噤んでいた口を開く。それに首を少し振り向かせ、視界の端に彼女を捉えると、カグラは用件を尋ねた。

「カグツチへ戻らなくて良いのでしょうか……私、見たんです。死神が牢の外に出て、機密区域に居たのを」

 不安に両手を胸で重ねるノエル。そんな彼女の言葉を受けてカグラはぴたりと立ち止まる。自身の身体を後ろへ向かせて、快活に笑った。

「それなら心配すんな。死神なら既にイカルガに居る」

「えっ……!?」

 彼の台詞に、ノエルがひどく驚いた様子で声を漏らす。

 カグツチからイカルガまでは相当な距離があるはずなのに、どうやって来たのか疑問に思ったのと、そんなところまで死神が来ているだなんて、という不安もあった。

「……おそらく俺やノエルちゃん達と一緒だ。ノエルちゃんも強制的に転移させられたんだろ?」

 少しだけ、驚いた。転移魔法によるものだという事実と、彼もまた転移したということに。黙り込んでしまうノエルに、カグラが「違うのか」と問うから、慌てて数度小さく頷いて答えるノエル。カグラもまた頷いて見せると、腕を組んだ。

 くるりと体を正面へ向けてまた歩き出す彼。一歩遅れてノエルも追いかけ始める。

「多分だが、さっきのハザマやツバキ、マコト達も同じだ」

「マコト達もイカルガに来てるんですか……!?」

 足音を響かせながらカグラが言い出す台詞に、ノエルの声が再び大きくなる。

 当たり前だった。二人はとても大切な親友だし、今回は同じ任務を与えられた仲間だ。最後に会ったのはカグツチの支部で、襲撃を受けてから会っていないために心配していた。

 食いつき具合にカグラは少しだけ眉尻を下げながらも笑う。

「ああ。まだ捜索中だが、カグツチに姿がない事は確認済みだ。まず間違いないだろう」

「そうですか……良かった。カグツチの支部があんな状況でしたから……」

 少しばかり俯き、安堵に胸を撫で下ろし微笑む。

 無事であるかもしれない事実が、純粋に嬉しかった。

「さ、着いたぜ」

「きゃ……っ」

 突然立ち止まるカグラに気付くのが遅れてぶつかりそうになりながらも、すんでのところで止まりノエルは顔を上げた。

 カグラの手によって押し開かれる扉。

 その向こうに居たのは、ピンク色の髪の中に丸い耳を覗かせた、白衣の女だった。見た目は小柄で若いが、鋭い黄金の瞳は聡明さを垣間見せる。

 腰から生えた二本の尾をゆらりと揺らし、少しばかり顎を持ち上げ二人を見た。

「む……戻ったか」

 ノエルの方へ視線を向けると、彼女は座っていた椅子を引いて立ち上がり、歩み寄ってくる。彼女の行動の意図が理解できず、ノエルが一歩退けた。

「お前がノエル=ヴァーミリオンだな」

 それでも近付く女は、やがて立ち止まると静かに問いかける。

 ノエルがコクコクと二度頷けば、彼女は「そうか」と相槌を打って、目を伏せた。

「あ、あの……?」

「……やはりか」

 ぽつり、彼女が零す。何が「やはり」なのかノエルには理解できなくてカグラを見る。見た先の彼も訳知り顔だから、自身だけが分からないみたいで少しだけ不安に思いながらも、ノエルが口を開こうとしたところで。

「微かだが、蒼の反応を感じる。お前『それ』をどうした?」

「やっぱ間違いないのか、ココノエ」

「ああ。カグツチから感じていた小さな反応は、こいつだ」

 ココノエと呼ばれた女は、首肯し答える。

 蒼。先ほども『声』が言っていた存在。蒼とは、一体何なのか。

 問えば、ココノエは溜息を吐く。

「やはり、予想はしていたが……自覚はない、か。しかしそうなると、ノエル=ヴァーミリオンに掛かっているという反逆罪も、きな臭いな」

 自覚というのは、蒼の反応のことだろう。けれど、分からないものは分からない。なのに彼女らはいつまで経っても教えてくれず、ノエルは少しだけ眉尻を下げた。

「ハザマがノエルを狙ったのもそれが原因って事かよ。だが、何故ノエル自身が知らない? お前の言ってた『記憶の食い違い』と関係があるのか?」

 ケッと吐き捨てるように言った後、首を捻る。蒼なんてものを持っていれば自覚しているはずだ。けれど彼女はそれについて全く知らないらしい。思い当たる原因を言ってみれば、ココノエはチラリと隣の部屋の扉を見遣った。

「その件についてだが、一度全員に説明しておいた方が良さそうだな。テイガー、上がって来い」

「ん? そういやテイガーはどこに……」

 改めて部屋を見てみれば、彼女が口にした名の人物――テイガーが居ない。

 二メートルはくだらないだろうあの巨体が見当たらないことを不審に思ってカグラが問えば、ココノエ曰く『充電中』だという。

「へぇ……便利そうで不便な身体だな」

 丈夫なうえに疲労も少なく、病気などの内的要因に調子が左右されることもない。一見、良いこと尽くしにも見えるが、定期的なメンテナンスや充電が必要なところは不便だと思える。

「慣れればどうということはない」

「ふぅん、そういうもんか……っておい待て、お前今どっから入ってきた!?」

 応える声はここ最近で聞き慣れた、男の声。なるほど、と納得しかけて、そしてカグラは声が聞こえた方向を凝視した。

「お前も見ていただろう、そこの部屋からだ」

「そこの……って、俺の部屋じゃねぇか!」

 この部屋への入り口は二つある。

 一つは廊下、もう一つはカグラの私室。そして、テイガーがやってきた方向は後者だ。当然のようにココノエは言うが、どうして充電中であったはずのテイガーが、カグラの部屋から出て来たのか。

 嫌な予感がして、思わず声を張り上げる。けれどココノエは表情を崩さぬまま、頷いた。

「うむ。丁度良い場所だったのでな、お前がノエルを迎えに行っている間に、エレベーターとして改造させてもらった」

 ココノエが言いきらぬうちに、目を見開いたままカグラが歩きだす。一歩ずつ進む度に速度は上がり、カツカツと靴音を立てて私室『だった』場所の前まで進むと、恐る恐る戸を開け――。

「マジかよ……洒落になんねぇだろこれ……原型留めてねぇし、しかも俺の荷物どこ行った?」

 部屋の中を首の可動範囲の限り動かして見回し、目を凝らして探し、それでも見つからない荷物の在り処を問う。置いてあった荷物はそれなりに大きいものもあるが、一切が見当たらないのだ。答えはない。肩を落とし、カグラはへたり込む。

「あ……赤鬼……」

「ほう、ノエル=ヴァーミリオンか」

 その後ろで、震える声。ノエルのものだ。

 それに驚くような様子こそないが少しだけ意外そうなテイガーの声が応える。

「やれやれ、騒がしくなってきたな。おいカグラ、いい加減こっちへ戻って来い。話を進めるぞ」

 怯えるノエルが事態をややこしくする前に、とココノエが首を振って口を開く。

 ずっと動かないまま部屋を呆然と見つめていたカグラにも声をかければ、彼はバッと勢いよく振り向く。その目尻には透明な涙が滲んでいるようにも見えた。

「テメェ、後で絶対元に戻せよ」

「時間が惜しい。さっさと始めるぞ」

 首を縦にも横にも振らず、ただ視線を逸らして早口に言う女へカグラは少しだけ怒りが湧いた。

 それでも仕方なく立ち上がり、彼女らのもとへと寄る。ノエルの隣に立って腕を組むと、話を促した。

「……現在ここに居る全員に起きている『記憶の不具合』についてだが……症状から見るに、同じ現象である事は間違いない」

 記憶の不具合。記憶にない記憶の存在。ここに居る全員が、それぞれ身に覚えがあった。

 皆が首肯する。あの『声』を聞いた瞬間に頭の中に飛び込んできたり、聞いたこともない人物の名を知っていたり。

 ココノエがやはりか、と顎を引いて目を伏せる。

「だが、起きているのは何も目に見える形だけではない。カグツチの統制機構を襲撃した六英雄ハクメン……あれを境界からサルベージしたのは、おそらく私だ」

「お前が? だが、境界に関わる研究は……」

 彼女の台詞に、テイガーが驚きの声をあげる。

 何故なら、彼女の元助手が境界へ堕ち異形と成り果てた時から境界に関する研究は凍結しているはずなのだから。

「だが……ならば何故、境界に残しておいた私のバックアップに『スサノオユニットをサルベージした結果』が残されている?」

 ココノエのデータのバックアップは、どんな干渉も受けないよう境界に残してある。そして、そこにはサルベージしたときの結果やログなども残っていたのだ。

「……ここから導き出される結論はいくつかあるが。最も有力なのは……『我々の記憶が、この世界ごと書き換えられてしまった』可能性だ」

 それならば、事象の影響を受けない境界に保存していたバックアップは干渉から免れたという風に説明がつく。記憶とバックアップの食い違いから導き出される答えはそれだった。

 そんなココノエの解説に、一度は納得するカグラ。けれど顎に指を添えて、彼はひどく困った様子で声を漏らした。

「待てよ……だとすると、厄介だな」

「気付いたか? この問題の恐ろしさが」

 伏せていた目を開けて、ココノエがカグラを見る。

 イカルガへの転移、あの『声』、見知らぬ記憶。

 これまでの現象から『記憶の不具合』はほぼ同時に起きたと考えられていた。声の主、六英雄ナインの手によって。

 しかし、ココノエの話はそれを覆す。

 つまり記憶の不具合は、おそらくナインによって起こされた今回の大規模な事象干渉より以前から起きていた問題ということになるのだ。

「だ、だったら……そんな事、一体誰がするんですか? それに、記憶を世界ごと書き換えるなんて、本当に可能なんでしょうか……」

 ノエルが腕を持ち上げ、滑らせるようにして自身を抱く。不安で表情が強張るのを感じながらも問う彼女に、ココノエは静かに首肯した。

「理論上はな……勿論、タカマガハラやマスターユニットに匹敵する干渉が可能なら、の話だが」

 それは、言外にナイン自体はそれほどの事象干渉ができないということを指していた。

 ならばナインの言っていた『イザナミ』はどうだろう、カグラが指を立てて問うが、それにはココノエは首を振った。

「……さあな。残念だが今のところ、イザナミが何者かは不明だ。それに、六英雄ナインが敵なのか味方なのかもな」

 だが、分かっていることが一つある……そう言ってココノエはノエルを一瞥すると、静かに溜息を吐く。くるりと身体を後ろへ向け、カグラの執務机へ歩み寄ると、椅子を引き腰かけた。

「ナインは、イザナミを倒せば『蒼』が手に入ると言った。だが、このイカルガには既にその蒼を持っている奴がいる」

 脚を気怠く組むココノエと、自身を抱いていた腕を解き、力なく横に垂らすノエル。

 カグラが俯き、静かにその名を紡いだ。

「死神……ラグナ=ザ=ブラッドエッジと、少女、ユリシア……か」

 蒼に接続しその力を引っ張り出す事のできる『蒼の魔道書』を宿す者と、蒼そのものの存在。

 カグラの紡ぐ言葉に、ココノエは首肯した。

「そうだ。奴の持つ『蒼の魔道書』と、その少女の存在がヒントに――」

「あ……あぁあ……」

 けれど、ココノエの言葉を遮るようにして、ノエルは言葉にならない声を漏らす。

 添えるように自身を抱いていた腕に力を込め、俯き、震える身体。異変に気付いたカグラがどうしたのか問えど、答えることもなく彼女は首を大きく横に振った。

「嫌……私に、見せないで……」

「おい、しっかりしろ!」

 ぎゅうと握る青のケープに皺が刻み込まれる。

 その小さな手にカグラの骨ばった手が添えられ、そのまま肩を優しく掴んでカグラが顔を覗きこむ。突然のことに、部屋に居た誰もが訳も分からないまま見ていることしかできなかった。

「駄目……駄目、駄目……っ」

 頭を何度も横に振り、背中までの金髪を振り乱す。

 駄目、と何度も紡ぐ少女はやがて身体を抱いたまま顔を上げ、声を張り上げた。

「『ラグナさん』とイザナミを会わせては駄目ですッ!!」

 

 

 

   3

 

「……くそ、迷った」

 不意に立ち止まって、ラグナはそう呟く。

 前に来たときと同じ道だったはずなのに、未だ目的地に辿り着けない。道すらまともに思い出せない自身に苛立ち、ラグナは眉間に皺を作った。

 もう随分と歩いた気がして、疲弊に溜息を吐いた後、首を横に振る。奥歯を噛み締めた。

 随分と記憶も戻ってきたけれど、未だ判然としない中、彼は己を叱咤する。

「あぁ畜生! こんな調子じゃ、サヤを助けることなんか出来ねぇぞ」

 頬を両の手で叩いて、前を見据える。早く行って、彼女を、救ってやらなければ。

 そんなラグナの耳へ、空間にはそぐわない甘やかな声が届く。それは高貴さを持ちながらも幼さを同様に兼ね備え、紡ぐ言葉は彼を貶すような意思が少しだけ感じ取れた。

「面白い事を言うわね。誰を助ける、ですって?」

「な……お前……」

 驚きに振り向いて、その人物の姿にますます驚愕した。

 レイチェル=アルカード。記憶が告げる彼女の名を呼ぼうとして、彼は止める。もっと違う呼び方で呼んでいたはずだ。

 彼女の髪を二つに括った黒のリボンを見る。『ウサギ』みたいだと思った。

「そうだ、ウサギか。牢屋から出られて良かったな。もう捕まるんじゃねえぞ」

「どこへ行くの? ……『ラグナ』」

 確か最後に会ったのは牢屋だったか。思い出しながら述べて、彼女に背を向け歩き出そうとするラグナ。それをやはり呼び止めて、レイチェルは静かな声で尋ねた。

 答えは決まっていた。妹――サヤのところだ。ラグナが答えれば、彼女は「何をしに行くのか」と尋ねる。それもやはり、決まっていた。ラグナ自身でケリをつけに行くのだと。

「そのためにも……誰よりも先に辿り着かねぇと」

 ラグナの背を見つめたまま彼の言葉を聞いたレイチェルの口から、吐息が漏れる。どこか呆れたような声音で、実際に呆れを覚えながら彼女は言葉を紡いだ。

「まったく……本当に馬鹿なのね、貴方」

「んだと?」

 馬鹿で、愚かで、この上なく下等で、そこまで行くと呆れを通り越して笑えてくる。

 レイチェルの言葉に、ラグナが露骨に反応して振り向く。

 何が馬鹿だと言うのか理解できなくて。馬鹿にされれば誰だって苛立つし、ラグナもそうだった。判然としない記憶、上手く行かないことの連続。それも相まって少しばかり声が低くなったのをラグナ自身も感じていた。

 けれど、嘲るような口ぶりに対してレイチェルの表情はひどく冷ややかで、そして悲しげだった。笑えてくる、と言いながら目も口許も一切笑っていない。ゾッとするほどに。

「……俺の何が馬鹿だって言うんだよ」

 その表情を見て少し驚いた後、少しだけ冷静になったのかラグナが間を開けて問う。

 レイチェルの瞳が、真っ直ぐに見つめていたラグナから、斜め下の地面へと落とされる。転がった小石を眺めながら、彼女は静かにピンク色の唇を動かした。

「多少は記憶が戻っているみたいだから言うけれど」

 前置き、彼女は顔を上げてラグナの瞳を見つめた。左右で色の違う瞳が、じっと見つめられて戸惑いに揺れる。肩にかかった横髪を優雅に払って、ゆっくりと瞬きを一つ。

「ラグナ……貴方『前回』のことを忘れたの?」

 首を微かに斜めへ傾けて、逆に問いかける。

 前回。その言葉が指すものを、ラグナもすぐに理解した。帝……否、冥王イザナミと前に会ったときのことだ。

 イザナミと戦い、そしてラグナがどうなったのか。ラグナ自身は理性が千切れかけていたからあまり覚えていないけれど、それでも感覚ではどうなったのかを記憶していた。

 もう少しで『黒き獣』になりかけたのだ。

「そのことを理解しているの? いえ、理解していないからこそイザナミを『助ける』なんてくだらない妄言が吐けるのよ。そうでしょう?」

 糾弾するような彼女の物言いを受け、ラグナは口を噤み俯いた。

「レリウス=クローバーに何を吹き込まれたか知らないけれど、今の貴方ではイザナミに、いいように利用されるだけね」

 言葉こそ高貴な人物のそれを崩さないまま吐き捨て、レイチェルは腕を組む。お人形のような整った白い顔の眉間には、皺が寄ってしまっていた。

 伏し目がちにラグナを見つめ、彼女は何も言わない彼に再び何か言おうと唇を僅かに開け息を吸う。

「……やっぱか。何かおかしいとは思ってたが……お前は『記憶がある』んだな、ウサギ」

 先に声を発したのはラグナだ。

 ずっと、おかしいと思っていた。誰もが様子が変で、あの時の記憶がなくて、まるで自身がカグツチを襲撃する前の状態に巻き戻ったみたいだったのに。彼女――レイチェルは他と違って全てを記憶しているみたいだったから。

「貴方、私の話を聞いているの?」

 けれど、それはレイチェルの話とは関係がなくて、彼女が顔を持ち上げる。金の睫毛に縁どられた紅の瞳は、依然ラグナを見据えたまま。どこか、苛立ちのようなものを滲ませて。

「ああ。前回駄目だったから諦めろって話だろ。テメェらしくねぇな」

 けれどラグナはそれに臆することなく、ただ頷きそう言った。

 最後まで諦めずに自身に力を貸してくれた彼女らしくない。いつでも強気で、傲慢で、高飛車で、でも強かな彼女らしく。

「――なぁ、ウサギ。俺に何か隠してるだろ?」

 今度はレイチェルが黙り込む。何も答えないけれど、それはつまり肯定だった。

 ラグナが溜息を吐く。あまりにも、彼女の肩が細く見えて。

「ダンマリかよ……じゃあ、代わりにいくつか教えて欲しいことがあるんだけどよ」

「……何かしら」

 レイチェルが少しだけ顔を持ち上げる。問いを促す彼女の声に、ラグナは少しだけ言いづらそうに言葉を選んで、意味のない音をいくつか漏らしてからレイチェルを改めて見つめる。

「ここは……サヤが作り出した『エンブリオ』とかいうやつの中なのか?」

「そうよ」

 いつになくあっさりと教えてくれるレイチェルが意外で、ラグナは目をぱちくりと瞬く。いつもは隠したり、分かりやすく教えてくれなかったりする彼女が、こうも素直に答えてくれるのは結構、意外だった。

「何だ、今日は随分と素直に教えてくれるんだな」

「……やっぱりやめておくわ」

 思ったことが、そのまま口から零れ落ちる。それに、レイチェルが眉根を寄せて背を向ける。組んでいた腕は面倒だと言うようにだらりと身体の横に垂らされた。慌て、ラグナが引き留めるように声をかける。こんなことで情報源を減らしたくない。

「待て待て、茶化して悪かったよ。本当に困ってるんだ……頼むよ」

 ラグナを振り向き、品定めするようにレイチェルが見つめる。

 暫しの静寂の後、彼女は仕方なく溜息を吐いた。

「……冥王イザナミが、巨人・タケミカヅチを使って作り出した黒球……それがこの、エンブリオと呼ばれる世界よ」

 ラグナは驚かなかった。こんなに色々なことが立て続けに起こって、今更何が起きても驚かない。けれど、疑問に思うのはこの『世界』の広さだ。

「にしては、さすがに広すぎじゃねぇか? タケミカヅチがいくらでかくても、この広さはねぇだろ」

 物理的に考えれば、前に居た世界はタケミカヅチだって収まる大きさだったのに、タケミカヅチからできたはずのこの世界もまた、それと全く同じ広さをしているのだ。

「イザナミが膨大な魔素で作り出した空間よ。物体の大きさと内部の構造は関係ないわ」

 ラグナにはよく分からなかったけれど、それにいつまでも執着しているだけの理由はなかったから、そういうものなのだなと頷き「じゃあ」と更に問いを続ける。

「この世界から、抜け出す方法はあるのか」

「無理ね」

 こんな何もかも書き換えられた居心地の悪い世界、さっさと抜け出して元の世界に戻りたい。それ故にかけられたラグナの問いに、レイチェルは首を振った。

「あん? なんでだよ」

「私達が元居た世界は、既に消滅してしまっているもの」

「……は?」

 間抜けた声が、ラグナの口からあがる。意味が理解できなかった。自身の知っている言葉であるはずなのに、どこか違う国の言葉のように聞こえてしまってならなかった。

 それほどに、彼女はあっさりと答えてしまっていた。

「おい待て、どういう意味だそりゃ」

「言葉通り、そのままの意味よ。外の世界の人々や構成要素は全て、このエンブリオに吸収されてしまったわ」

 この世界に吸収され、外の世界には何もない。つまり、エンブリオが発動した時点でイザナミの勝利は確定したのだ。言葉の意味を理解すればひどく驚き、ラグナの背には冷や汗が浮かぶ。

「この世界はね、マスターユニットであるアマテラスを捕えておくための、いわば『檻』と同じ」

 マスターユニットさえあればこの世界は観測され、維持し続けることが可能なのだ。マスターユニットの望む世界を映した、このエンブリオというイザナミの枷に縛られた世界が。

「でもね……これは、貴方には関係のない話」

「あ? 関係がないなら、なんで話したんだよ」

 囁くように紡ぐレイチェルをラグナが胡乱げな目で見つめる。関係がないなら、話す必要もなかったのではないだろうか。聞かせて、絶望させて、それで終わりなのであれば、どれだけ彼女は意地が悪いのだろう。

「……関係が『ない』からよ」

 問いに、彼女は短く小さな声で告げる。ますますラグナには訳が分からなかったけれど、レイチェルに向けて何か言おうとして、止める。彼女がまた、唇を僅かに動かす素振りを見せたからだ。よく聞きなさい、そう前置いて彼女は瞼を僅かに下ろした。

「一つだけ……この世界を、イザナミの枷から解放する方法があるわ」

「マジかよ。さっき、イザナミの勝ちが確定してるとか言ってなかったか?」

 彼女の言葉に、少しばかりラグナが目を見開く。確定していると言ったはずなのに、それと反対のことを言うのだから。彼女が矛盾したことを言うのは珍しく、少しだけ驚いた。それに、方法があるということは希望があるということだ。

 僅かな期待を込めてラグナが問えば、彼女は小さく頷く。

「ええ、だから……その確定事項を曲げることができる、唯一の方法よ」

 一筋の光を思わせるその台詞に、けれど発した側のレイチェルは一切笑みもせず、「だけど」という言葉を繋げる。否定するときに使うその言葉に、ラグナが表情を少し緊張させる。これ以上嫌なことは聞きたくなかったけれど、それでも好奇心には抗えなかった。

「だけどそれは、マスターユニット・アマテラスの認めた資格者がイザナミを倒さなければ何の意味もないわ」

 新しい世界を創ることのできる資格者だけが、イザナミを倒し、蒼を手にする『可能性』を持つ。資格者が蒼を手にすればエンブリオは解放され、新たな世界……『その資格者の望む』世界が生まれる。蒼という、可能性を可能にする力によって。

「もしその資格者とかいう奴らの誰もが、イザナミを……サヤを倒せなかったらどうなる?」

 できるならば自身が倒し、助けたい。その気持ちは今は隅に置いて、ラグナは尋ねる。誰も倒せず、蒼を手にできず、世界が生まれなければ。

「その時は、あらゆる『可能性』が消滅する。……世界の終わりよ」

 息が詰まるような感覚を、ラグナは覚えた。

 ラグナだってそこまで馬鹿ではない。薄々は察していた。そのうえで、彼女に――自身より色んなことを知る彼女に、否定してほしかったのかもしれない。肩が落ちるラグナに、彼女は追い討ちをかけるようにして紡ぐ。

「そうして、マスターユニットは永遠にこのエンブリオという檻に閉じ込められたまま。やがて世界は静かに、完全なる死を迎えるわ」

 おそらく、それこそがイザナミの狙いだと語られる言葉に、落ちていたラグナの肩が震えだす。目の前の小さな少女の唇が語る言葉に、湧いた感情は怒りのような悲しみのような釈然としない気持ちだった。信じたくない、というのもあったかもしれない。

「何だよ、それ……じゃあ何か? その『資格者』様とやらがサヤを倒して『新世界』を創るまで指を咥えて黙って見てろって言うのかよ?」

 少しだけ語調を強くしてしまうラグナに、レイチェルは黙り込む。自然と何か策はないのかと一人で考え込んで、そしてラグナはふと浮かんだ疑問に首を傾ける。

「けど待てよ、おかしくねぇか。ナインもレリウスも『俺』にイザナミを倒せって言ったんだぞ。今のウサギの話をあいつらが知らねぇってことはないだろうし……だったら何故だ?」

 そこに何の意味があるのか。資格者でない自身が倒せばどうなるのか、呟き、そして尋ねるようにレイチェルを見た。レイチェルもまた伏せた目を開け、視線に気付きラグナを見つめる。

「それは――」

「んな……ッ!?」

 言いかけるレイチェルの言葉を遮るように、ラグナが声をあげる。レイチェルも何事かと辺りを見て――目を見開いた。空間が歪み、揺らいでいる。それは見飽きるほどに、今まで繰り返し見てきた光景。事象干渉を発動するときのそれだった。まさか、とレイチェルの口から漏れる。

「――ラグナっ!!」

 何を言おうとしたのかはレイチェル自身も分かっていない。『それ』が彼女には止められないことであるなど、分かりきっていたから。けれど、辺りを見回す彼に思わず手を伸ばした。しかしその手が届くより早く、振り向いた彼は消える。

 向かった先の検討はついている。この感覚は『彼女』に呼ばれたのだ。

「『貴女』は『彼』に、どれだけの悪夢を見せるつもりなの? マスターユニット・アマテラス」

 

 

 

 そこは、綺麗な星空が広がっていた。明かりがないから、星たちの輝きはいっそう強く見える。気が付けばそこに佇んでいて、彼は思わず怒りに声をあげた。

「クソッ……また転移かよ」

 レイチェルの気配はない。あんなに近くに居たのに、彼女は一緒に来ていないのか。眉根を寄せ、辺りを見回して、彼は驚愕する。

 そこには、巨大な機械が『居た』。宙に鎮座するそれは神々しくも恐ろしさを感じさせる。前に一度見たような気がする。否、遠目にではあったけれど、ラグナは見たことがあった。

 それが、世界を観測する神。エンブリオという檻に閉じ込められた、マスターユニット。冷や汗を浮かべるラグナに、ふと――声が届く。

「資格者でもない其方(そなた)が、何故ここに居る? ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 その存在に気付き、ラグナはそちらへと視線を遣る。耳に馴染む、聞き慣れた声だった。何となく居るだろうとは思っていたから、ラグナはさして驚かない。

「……サヤか」

「さては、これも彼の『小娘』の意思ということか……だとすれば、戯れにも程があるな」

 サヤ。そう呼ばれた声の主である少女――イザナミは、静かに言葉を紡ぐ。ラグナがそれに首を傾けた。小娘だとか、意思だとか、イザナミの話しているものが何のか見えてこなかった。その様子を感じ取り、イザナミは暗い赤の瞳でラグナを見遣る。その目はまるで無機物のように、感情の一切が感じられない。

「なに、其方の気にする所ではない故、早々にこの場から立ち去るがよい」

 資格者でもないラグナとの関わりなど、時間の無駄で、この先に可能性は皆無で。即ち何も変わらないからと。以前会った時よりもその態度は冷たく感じて、ラグナとの関わりを避けるようなその台詞には、言葉以上の何かがあるような気がしてならなかった。

 そして、同時に――自身の願いは叶わないと言われている気がしたけれど、それでもラグナは言葉を返した。

 この先はない、と。何も変えられなくていい、変わらなくていい。ただ、ラグナがイザナミを終わらせる。自身はそのために来たのだと。その言葉を聞いて、イザナミはきょとりと目を丸くしたあと、失笑する。

「終わらせる、だと? クハハ! 面白いことを言う。其方が余を終わらせてくれるのか? それは愉快だ……是非に頼もう」

 かつて自身に甘えるばかりだった小さな少女とは、あまりにもかけ離れた態度だったけれど。やはり自身の妹の顔をしたその人物にラグナは少しだけ歯を噛み締めて、そして腰に携えた大剣を抜き、手に取った。

「頼まれなくても終わらせてやるよ、サヤ……今すぐにな!」

 叫び、ラグナは地を蹴る。それにくつくつと喉を鳴らして嗤い、イザナミはその幾重にも纏った着物を取り払う。するりと外された布は投げ捨てられ、風に吹かれ飛ぶ途中で粒子状の光となってほろほろと崩れ消えていく。

 残った服は、白と赤を基調とした丈の短いものだ。たっぷりとした暗い紫の袖も纏ったまま、彼女はそこに佇むと。背に光の輪が展開される。その輪の周りを、輪と同じ色をした刃が浮かぶ。

「サヤァァア!!」

 咆哮をあげ一直線に駆けるラグナに、イザナミが指を差せば刃が射出され、ラグナを取り囲む。すぐにラグナが剣を振り、刃を叩き落としていく。落ちる刃は地にからりと落ちると消えた。再び走り出すラグナ。

 笑う少女、袈裟懸(けさが)に斬りつけようとするラグナ。当たる直前、ふっと彼女が姿勢を低くして足払いをかける。すんでのところで気付き、重心を一気に後ろへずらして跳躍、後退し躱す。

「どうした『兄さま』? 其方の力はそんなものか?」

 それを見つめ、身を跳ね起こした少女は首を傾げる。背後には先ほどの刃をまた浮かべながら。どこか懐かしい響きで、からかうように『兄』と呼ばれる。彼の心臓が跳ねた。そして、声も顔も一緒だというのに妹とは全く別人となった目の前の少女へ、次に沸いた感情は微かな怒りだ。

「ッ……うるせぇ、その声でそれ以上、俺に話しかけるんじゃねぇ!」

「なるほど。何があったかは知らぬが、確かに以前の其方とは別人のようだ」

 彼女にこれ以上、何もさせないように。ラグナがまたも走る。突き出した刃を、くるりと身を翻して避けながら、静かに彼女はラグナを見たままそう呟く。

 確かに、ラグナは以前よりも強くなっていた。以前なら既に『蒼の魔道書』を展開させていて、それでもやっと相手になるか程度だったけれど。今の彼は蒼の魔道書を発動させないまま戦っている。確かに、強くなったのだろう。

 けれど……太刀筋に迷いが見えると言って、イザナミが歪な笑みを濃く刻む。

 図星だったのだろう、ラグナが目を見開き、そして眉尻を下げ顔を強張らせた。

「この身体を……『サヤ』を切り伏せることが、怖いか。余を『倒せ』と言ったナインやレリウスの言葉が気になるか……?」

 ラグナは黙り込む。事実だった。何故知っているのかという疑問は、彼女はきっと見ていたのだろうと察せて湧いてこなかったけれど。ただ、図星を突かれて言葉が出なくなっていた。それでも視線を泳がし、言葉を探して、訥々(とつとつ)と語り出す。

「俺は……お前を救いたい。救わなきゃならねぇ。そして終わらせる……俺がやるべき事は、それだけだ」

 どうしてそこまで使命感に駆られるのかは、ラグナにも分からなかった。けれど、どうしても自分がそうしなければいけない気がしてラグナは言う。単に妹を救いたいというだけの気持ちではないことなどラグナ自身、気付いていた。

 そして地を蹴り、ラグナは剣を振りかざす。

「救うだと? 今、余を救うと申したのか? クハハ、これは異なことを言う!」

 ラグナの言葉に、イザナミが吹き出す。手を叩いて笑い、浮かんだ涙を拭う。そして、細めた目を開いた次の瞬間、その赤の瞳は蔑みの色に濁っていた。持ち上げた口角とは、対照的に。ラグナの剣を跳んで躱し、距離を置く。淑やかに足を地につける。

「資格者でもない其方が何をしようと無駄だと申したはずだぞ。其方には『無駄』という言葉が理解できぬようだな?」

「生憎と頭が悪くてな。難しいことはよく分かんねぇよ」

 幼さの残る見た目に有り余る尊大さで、首を傾け煽るようにして言うイザナミの言葉。それに、今度は表情を歪めることもなくラグナは吐き捨てるように言った。

「……懲りない男だ」

 俯き、短くイザナミが呟く。顔を上げれば歪な微笑みを湛え、彼女は高らかに声をあげた。

 ――ならば教えてやろう。世界の真実を、真相を。

「それを知ったうえで尚、余を救いたいと申すのならば救ってみよ……『ラグナ=ザ=ブラッドエッジ』!!」

 走る、ラグナ。突き出された剣。叫ぶイザナミ――散る、赤の飛沫。

 彼女の細い身体は、ラグナの剣に貫かれた。息が詰まり、イザナミの肺から代わりに吐き出されたのは息でなく、どろりとした血液だ。

 ラグナが驚きに目を見開く。ラグナの攻撃は重いが大ぶりで、素早い彼女であれば今まで通り避けられたはずだった。つまり――彼女は。

「サヤ、テメェ……今わざと……」

 何故。胸に倒れ込んでくる少女をラグナが受け止め、その顔を見つめ必死に問いただす。彼女は笑うのみで答えず、服の白がじわじわと溢れ出る赤で染まっていく。

 空気が、揺れだす。否、この場にある空気だけでなく、宙に浮かぶ自身らの足場も、見える景色も、魔素も、全てが揺らめく。画面越しに見ているかのように景色が僅かな明滅を繰り返し、ノイズが流れる。

「クク、フフフフ……やはり『あの娘』にとって、この『結末』はお気に召さなかったようだ」

「娘……結末だと? 教えろサヤ。この世界は……エンブリオってのは一体何なんだ!」

 まるでそうなることを知っていたかのように、驚くことなく寧ろ愉快げに笑うイザナミ。その唇から漏れる言葉の意味が分からなく、ラグナは眉根を寄せ、そして彼女を揺さぶりながら疑問を叩き付けた。この世界は一体何なのだ、と。

「知りたいか? ならば、余の眼を見よ……」

 目を見開き、だらりと横に垂らしていた腕を伸ばしてラグナの髪を掴む。引っ張り、視線を無理矢理かち合わせて、イザナミは告げ、問う。闇の奥に、何が見えるかと。

 最初こそ突然何を言い出すのか分からなくてラグナは眉を寄せたが、言われるままにじっと瞳を見つめた。吸い込まれるような暗い紅玉の奥、渦巻く闇の中。瞠目するラグナ。

 そこに見えたのは――一人の、女だった。裸で磔(はりつけ)にされて、幾本ものコードが繋げられている。病的なほどに白い肌、身体のところどころにはツギハギしたような傷痕。長い金の髪。

「『観測(み)えた』ようだな……アマテラスが」

 喋るのすら辛いだろうに、それでも唇を動かし言う少女。アマテラスと呼ばれたのは、向こうに滞空している機械ではなく、彼女の眼の奥に見えた少女のことだろう。けれど、あれが……あの女が、アマテラスなのか、と。ラグナは信じられない様子で漏らす。

 だって、あの女は――。

「たとえ、其方が余を倒せたとしても、それは無駄な事だ」

 顔を強張らせるラグナに、イザナミが突き付ける事実。ラグナがイザナミを倒せたとしても、無駄だと言う理由。

 それは、彼女が単に『死』という消しようもない概念である以外に、アマテラスの『ドライブ』だからだ。ドライブとは魂から生まれ出でる能力のこと。つまりアマテラスが存在し続ける限り、彼女は何度だって蘇る。

「余はイザナミ。アマテラスの持つ創造の力『イザナギシステム』とは相反する存在……」

 彼女が紡ぐ一音毎に、頭の中のノイズはひどくなるばかりで、ラグナは呻きながらも何も言うことができなかった。

「世界は……『神』は、其方らの『願望』を拒絶する。この世界は、あの娘の願望を映した鏡だ。故に、その実像を消さぬ限り……世界はアマテラスの願望を映し続ける」

 覚めることのない『神の観る夢(セントラルフィクション)』を。

 空間の揺れが強くなる。今、身体を支えられている事が不思議なほどに。事象干渉が発動しようとしている。思わず、待てと叫ぶラグナを嘲笑うように、イザナミが笑いを零した。

「気付かぬか。この世界は……既に終わっているというのに。考えてもみよ。可能性の閉じた世界に、どんな道がある?」

 いくら力があったとしても、可能性が閉じていれば何も変えられないのだと言って、イザナミは尚も言葉を続ける。

「ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。余を……冥王イザナミを救いたいなどと抜かすのならば、まずはこの娘の『夢』を終わらせてみよ。この娘、オリジナル・ノエル=ヴァーミリオンの夢を……」

 ノエル。その名を聞いたラグナはまた目を見開く。先ほどイザナミの眼の奥で見た女は、やはり。見間違いなどではなかった。見覚えのある風貌だと思ったが、本当に彼女は。

 ラグナの言葉に彼女は答えない。けれど、それはつまり肯定で。

「真なる蒼である『奴』を其方が手にする、その時を。余は楽しみに待っておるぞ。『蒼の魔道書(ブレイブルー)』を持つ者よ」

 ――事象の闇に落ちるが良い。ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。

 その言葉を最後にラグナの視界は暗転し、意識が途切れた。

 

 

 

   4

 

(やれやれ……どこなんだよ、ここは。次から次へと、一体どうなってやがる)

 浮かぶような、沈むような。ただ、感覚からして逆さまになっているようだ。瞼を持ち上げれば、ラグナは知らない景色を認識し呆れの溜息を漏らした。

 淡い、蒼。

 蒼色の世界だった。眼球を動かして見たところ、壁も天井も見えない。落ちて行く先に、床はあるのだろうか。

 ただ、果てしなく不確かな蒼一色の景色に、自分だけがぽつりと浮かんでいる。

 どこだ、と呟こうとした声は溶けて吸い込まれるように音にならず、空気を震わせない。

(何だこれ……これも、サヤが俺に何かさせようとしてるのか? つか、下から何か見えて――)

 声が出ないことに疑問を覚えながらも、ふと、下の方から蒼以外の何か違う色が見えた気がして、ラグナは下……自身の頭上を見上げた。

「我々は発見したのだ……これは間違いなく有史以来、人類にとって偉大なる功績となるだろう」

 知らない人物の声だった。スクリーンのように、一部が四角く切り取られて映し出されるのは映像。台詞からして、どうやら何かの反応を発見したときのものなのだろう。

「『スサノオユニット』……何かに共鳴しているのか?」

 声が、画面に問いかけるように呟き――そして、声の調子を持ち上げる。歓喜するように、間違いないと続けて、彼は笑った。

 スサノオユニット。名はラグナも聞いたことがあった。あの白いお面の人物、ハクメンが纏う鎧こそがそれだと。つまり、その鎧を見つけたときかと自然とラグナは理解して、映像に再び意識を寄せた。

「より上位のユニットが存在している……! 素晴らしい、これこそが人類に新たな世界を齎(もたら)す存在!! そうだ、我々は……『神』と邂逅したのだ!!」

 そしてシーンは切り替わる。映るのは、見知った風貌の少女だった。磔にされた金髪のそれに、研究員らしき人間たちは両手を掲げ声をあげた。

「『君』なら接触できる、『君』こそが選ばれた存在! 『君』こそが可能性なのだ!!」

 笑い、歓喜し、踊り狂う人間達。窯に、境界に少女を沈めながら、彼らは酔いしれるように言葉を口にする。

「あぁ、遂に我々は憎しみも争いもない、悠久の安寧を、『完全世界』を手に入れることができる。さぁ……我々『人類』の『願望』を叶えてくれ」

 マスターユニット『アマテラス』。

 そこまでを見て、ラグナは理解する。これは、アマテラス――否、その中に居る少女、サヤの記憶だ。アマテラスの中の少女が、アマテラスと融合する前の。人類全ての期待をその身に押し付けられて、少女は一人沈んでいった。

 ふざけるな、とラグナは思う。何が我々で、何が平和で、何が可能性で……何が願望だ。そんな勝手でくだらないものを、少女一人に押し付けるなんて。

「……そうか。今のが、始まりなのか」

 人間が、マスターユニットを発見して。彼女――サヤが言っていたことを理解する。これで世界の『可能性』が閉じたのだと。何を願っても、誰の願望も叶うことなく絶望するだけの、全ての『可能性』が閉じた世界。

(……『誰』の願望も?)

 ラグナは、自身で考え、そして首を捻る。ならば、この世界は誰の願望で作られたのか。ラグナの考えに呼応するように、映る映像は切り替わる。それを見て、ラグナは思わず納得してしまった。そこに映るのは、疑いようもない黒に彩られた、巨大な獣。

(そうか。これが『願望』か……)

 全ての『希望(かのうせい)』を食い荒らす、獣(ばけもの)。憎しみも争いもない、完全なる『死』の世界。ならば、それを宿す自身の終わりは――。

 声が、聞こえた気がした。ラグナは、下に向けていた視線を何気なく上へ持ち上げる。

「――諦めないで」

 そこには、誰も居ないはずだった。だけれど、確かに声はあって、手が、伸ばされていた。その先、腕から繋がる身体は見えなかったのだけれど。

「私は、諦めない……絶対に……諦めない。だから、貴方にある『蒼の魔道書(かのうせい)』を『蒼(いのち)』を……お願い、諦めないで!」

 諦めないで、その言葉と共に、伸びた手の指先が、ラグナの手に触れる。瞬間、視界が真っ白に染まり、彼の意識はずるりと水底から引き揚げられるように――。

 

 

 

   5

 

 風がびゅうびゅうと吹きつけていた。少女――ユリシアはそっと瞼を持ち上げる。

 そこは、前に一度訪れたことのある場所。統制機構の屋上。高い山の上に築かれた、大きな建物の屋上は風が強くて、今にも吹き飛ばされてしまいそうだった。風に遊ばれる髪とスカートを押さえながら、彼女はふと隣を見上げた。

「……はざまさん」

 帽子を押さえる、緑髪の男。彼女よりも高い長躯。黒いジャケットが靡いて、ばたばたと音を立てた。その人物は、少女の声に名を呼ばれると反応し、見下ろす。

「えぇ、私ですよ」

 どうやら彼も、干渉により飛ばされた一人なのだろう。驚いた様子もなくただ細めた目で見つめてくるハザマに彼女は首肯して、そっと彼のスーツに手を伸ばす。捕まるとはとても言えないけれど、端を摘まめば、彼は特にそれについて何か言うこともなく寧ろ当たり前だというような態度で前を見据えた。けれど。

「それにしても……いやぁ、何なんですかねぇ」

 不意にハザマが呟き、彼女は目をぱちくりと瞬いて彼の顔を見上げる。彼は依然として前を向いたままだ。視線の先を追うようにして彼女も正面を見るけれど、そこには何も居ない。

「どうしまし……」

「記憶も、自分の本当の立場も、力も、ロクに思い出せないまま。ただの無害な少女を気取ってこの世界に居座り続ける」

 どうしました、と言いかける少女の声を遮って朗々と語られるハザマの言葉に、ユリシアが僅かに肩を跳ねさせる。聞き覚えのあるような言葉だとか、何となく思い当たる節がある気がして。それはまるで、自分のことじゃないかと、ユリシアは思う。

「……計画も捻じ曲げ、無理矢理にでも思い出させることもせず、もっと有効的な活用法もあると言って尚それすらされず。本当、何のために存在しているのやら」

 首を振って、ハザマが続ける。澄んだ声はよく通り、ユリシアの耳に自然と入り込む。歌うように紡がれる言葉へ、ユリシアが不安に眉尻を下げた。この人は、何を言いたいのだろう。

「ここだから言いますけれど……大きなお荷物だと、思いません?」

 問いに、何と答えればいいのかユリシアには分からなかった。ただ、彼がいつもの彼じゃない気がして。いや、いつも通りなのに、放つ言葉が前と全く違って、彼女は戸惑ってしまう。

 ここだから、と言うのは、ここが沢山の事象を集約したエンブリオの中の、事象の断片の中だからだろう。そしてお荷物、と言うのはやはり自分のことなのだろう。以前から彼はそう思っていたのか、考えれば少し悲しくなったけれど、彼の言うようにやはり自分のことも中途半端にしか思い出せていなくて。どうして、自分はここに居るんだろう。考え出せば痛む頭に目を伏せる。

「……おに、もつ……だと、おもいます、ですか」

「えぇ、だからそう言ってるじゃないですか。貴女は一体、どうして生まれたんでしょうね」

 ユリシアの問いへ、ハザマが少し眉を持ち上げながらも首肯する。彼だって、こう言えば人はこう反応する、程度の理解くらいしていた。諜報部という仕事上のものでもあったけれど、彼だって生きていれば学習の一つはするし予想もできた。けれど、ユリシアの反応は想定外なもので。

「『蒼』から生まれた貴女ですけれど、一体、何のために生まれ、生きているんでしょうね」

 首を傾げるハザマ。その言葉が、どこか遠く聞こえた。頭の中で大きな鐘を思い切り突かれたように頭が痛くて仕方がない。

「……わたし、は……なんで、うまれた、でしょうか」

 ぽつりと呟く言葉。生まれる前、この世界がどうなっていたのかは、はっきりと。自身が自身となる前のことも少し覚えていたけれど。思い出せないでモヤモヤとしていたのはそれだ。

 自身は今どうして生きているのか、と言われれば、自分なりの理由を導き出せたが、元々何が目的で生を与えられたのか、そして自身の片割れ――元になった『蒼』は、自身に何を求めていたのか、それはどうしても分からなくて。

「そんなこと、私が知るわけないでしょう」

 ユリシアの言葉を聞いて、自身に問われたのだと思ったのか。目を細めたままに眉根を寄せて告げるも、ユリシアはいつものような相槌を打つこともなく。不思議に思って、ハザマは少女を見下ろす。

「……わたしは、わたし、は」

 蒼。可能性を可能にする力。それ自体が可能性。全ての情報が回帰するところ。それは、どうして自身を作ったのか。自分は、何のために生まれたのか。誰かに教えて欲しくて、呟く。

 どうして、と。

「テルミさんに、蒼は『興味』を持った……です」

 口調こそ、そのままのはずだったけれど。舌足らずでたどたどしい、いつもの彼女らしさが抜けて聞こえた気がした。声音もどこか大人びて。ハザマは薄く目を見開いて、はてと首を傾げる。けれど、すぐにふっと口許を緩めて、にこやかに微笑んだ。

「……なんだ、思い出してるじゃないですか。で、どうやって思い出したんです?」

 こうもすんなり、思い出すとは思っていなかった。けれど、それに越したことはない。そんなハザマに、目を伏せたまま、彼女は再び唇を動かす。その口角は先ほどの不安の表情とは一変して、持ち上がっていた。

「思い出した、というより、『わたし』は、考えないように、覚えていないふりをしていた、です」

「それを、何故このタイミングで? 私に言われたから、なんてことは言いませんよね」

 ハザマが問い、それに彼女の笑みがますます濃くなる。胡乱げに眉根を寄せるハザマへ、彼女は小さく笑い声を零すと、静かに紡ぐ。

「……それが、あるんですよ」

 へぇ、とハザマが漏らす。彼女の突然の豹変には少しばかり疑問に思うところが多すぎるけれど、それよりも好奇心の方がくすぐられたようで、彼は更に問いを続ける。

「それで? 興味……と言っていましたが、一体、どこに興味を抱いたんです?」

 自身が創られた理由であるテルミに興味を持ったと彼女は語るが、一体、どこに『蒼』なんてご大層なものは惹かれたのか。問えば、彼女は垂らしていた手を胸元に置く。

「そう、ですね。強いて言うのであれば、その『執着心』と、一生懸命な所に……でしょうか」

 そこまでを紡ぐと歌うようにまた笑って、少女は両の瞼を持ち上げる。そこにある二つの瞳は澄んだ蒼。けれど、どこか色が違って見えた気がして、ハザマは目をぱちくりと一度瞬いた。こちらを見ているようで、どこか遠くを見ているような、不思議な色をしていた。

 そして、彼女はステップを踏むように軽い足取りでハザマの前に出た。少しだけ、頭の位置が持ち上がる。それは、彼女が踵を地面から離したせいだ。そのまま細く白い腕をするすると蔦のように伸ばして、掴む先は彼のネクタイ。

「おっと」

 強く引っ張られ、抵抗をしないハザマの腰が曲がり、自然と上体が低くなる。そっと彼女が顔を、彼の頬に寄せるのを黙って彼は興味深そうに受け入れていた。

「……でも、――――」

 幼く甘い声が、囁く言葉。紡ぐと、彼女は握っていたネクタイを放した。

 言われた言葉にハザマがどこか嬉しそうに、ニィと口角を持ち上げ、口許に三日月を生む。

 ――貴方にも、『わたし』は興味を持ったらしいですよ。

 まるで他人事のようだったけれど、『蒼』に興味を持たれたのはある意味で嬉しさを覚えた。

「それはそれは、光栄な限りで」

 ハザマがそう答え、前に倒していた上体を起こす。少し歪んでしまったネクタイを直しながら少女を見つめると、途端、彼女の笑みが消えた。やがて普段の色を取り戻した瞳は戸惑いを滲ませ揺らめき、眉尻が下がる。どこか遠くを見ていた目は近くを見据え、自然と視線がかち合う。彼女が突然そんな表情をしたから、ハザマがどうしたのかと問いかけた。

 少女は答えず、意味を成さぬ音を暫く漏らした後、呟く。下ろしていた手を震わせ、胸の前を彷徨(さまよ)わせる。

「いま、わたし、なにを……」

 少女には、今、何が起こっていたのか分からなかった。だって、彼女『ユリシア』は、自身の意思で話していなかったのだから。

「どうしたんですか。突然流暢に話したと思ったら、またいつもの少女を演じるんですか?」

「あ……ぇっと、や、その……ちが、ちがくて、その」

 確かに自身の口が放った言葉は聞いていた。聞けば、確かにすんなりと『そういえば』と馴染んだけれど。でも、違う、違うのだ。彼女はまるで、違う者に口を奪われたかのように。内側に精神を閉じ込められ、代わりに別の誰かが喋っていたような。

「わ、わたし……『わたし』じゃ、なくて、いまのは、えっと、あの」

 でも、別の誰かと言うにはあまりにも自分と同じ過ぎている。何と言えばいいのだろう。誰だったのだろう。自分じゃないのなら、これは、つまり。

「あ、お……?」

 蒼。自身が蒼から生まれた、蒼の片割れだというのならば。口にしてみれば、思ったよりもすんなり納得できたからきっとそうなのだろう。何故、それが自身の身体を通して出てきたのかは分からないけれど。否、存外にハッキリしていた。

 彼に飽きられてしまっては困るからだ。だから、興味を持たせるように出てきた。それだけのことだった。でも、確かに『ユリシア』はハザマのことを一人の人物として好いていたけれど、蒼自体はテルミに興味を抱いていたはずなのに、何故。

「蒼が、どうかしたんですか?」

 ユリシアの呟きを耳にし、ハザマが首を傾げ問いかければ、彼女はゆっくりと、ぎこちなく首を縦に動かす。溜息がハザマの口から漏れた。それだけで、彼もまた彼女の考えを察したのだろう。どこか疲れたように、けれど納得したように二、三度頷いて彼は「そうですか」と口にする。

「まぁ、それはそれとして……そろそろ行きましょうか」

 そう言って、ハザマは帽子から手を離すと、両手を胴体の横に垂らして歩き出す。ハザマの斜め後ろに続くように、ユリシアも早足に追いかけ始めた。

 風は先ほどよりも大人しくなって、生ぬるい風だけがゆるゆると幽かに頬を撫でる。

「……こんなところで寝ていては、風邪をひきますよ。ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 やがて、不意にハザマが立ち止まる。ワンテンポ遅れてユリシアも止まれば、自然と隣に立ち並ぶ。足下に転がる何かが居た。赤いジャケットと白い髪。ハザマが呼んだ名は正しくその人物のものだ。転がっていた何か――もとい男、ラグナは声に呼応するようにして瞼を震わせる。双眸を開き、左右で色の違う瞳で辺りを窺う。

「ここは……」

「あぁ、良かった。お目覚めになりましたか」

 どこだ、と言いかけて。ラグナの言葉は聞き覚えのある声に遮られ、釣られるように首を横に向けた矢先、視界に黒の脚を捉え目を見開いた。見上げれば、やはり知っている人物の顔が、彼を見下ろしていた。

「テメェは……テルミ!!」

「ご期待に沿えず申し訳ありませんけれど、私はテルミさんではありません。世界虚空情報統制機構の諜報部に所属しております、ハザマと申します。あぁ、これは以前も言いましたっけ」

 身を跳ね起こすラグナに『テルミ』と呼ばれた彼は静かに首を振って、否定し名乗る。最初、ラグナはハザマの言葉を疑うように眉根を寄せ、胡乱げに彼を見た。けれど、ラグナもまた感じたのだろう。

 彼の憎しみを燃え上がらせるあの不快感がないことを。勿論、目の前に立つハザマもまた気に食わない何かを持っているけれど、それでもテルミでないというのは、ラグナを冷静にさせるには十分だった。

「確かに……あいつの気配はしないな」

「そうでしょう。私は今『半分』の状態ですから」

 半分。本来、テルミという精神体を受け入れるために、テルミを元にして創られたハザマという『器』。しかしそのテルミが欠けているということは、半分というに相応しい。

 しかし、そんなハザマの言葉を特に気に留めることもせず、ラグナは話を変えるようにして問いをかける。

「んで、ハザマ。ここは一体どこなんだよ。見たところ、統制機構カグツチ支部の屋上みてぇだが……本物じゃないだろ?」

 それに、少しだけハザマは驚いたように……しかし、何となく察しがついていたかのような表情で「おや」と声を漏らすと、にこやかに微笑んだ。曰く、以前に会ったときと違い記憶を随分とはっきり持っている、と。ハザマの台詞に、ラグナも吐き捨てるようにして返す。それはハザマもではないか、と。

「今になってみりゃ分かるが、その調子だと記憶を失ったり混乱してたり、他の連中に起きてたような現象がまるで起こってねぇみたいだな」

 腰に手を当て、問うラグナにハザマは目を細めたまま、はぐらかす。あくまで教える気はないというハザマの態度。それにふん、と鼻を鳴らしラグナは顔を逸らした。別にハザマのことなどどうでもよいのだ、と。視線をちらりと、ハザマの隣に立つ少女――ユリシアへ向けながらラグナは次なる問いをかける。

「つーか、ここはどこだって聞いてんだ。ここは『本物』のカグツチなのか?」

 それにハザマは微笑みを崩すことなく、ただ首を傾け両手を顔の横で皿にして掲げた。

「はてさて……一体、何を指して『本物』と言うのか、私にはさっぱり分かりかねますが……」

 そう言って、彼はくるりと背を向けると、どんよりと曇った空を仰ぎ見た。

 ここは、『見捨てられた事象』だとハザマは呟く。ラグナが確かめるように復唱して男の背を見つめると、緑髪が風に揺れて、ハザマは首だけを動かしラグナを振り返った。

 なんら救済は訪れず、疲弊と衰退を積み重ね、ついには一歩も前に進めなくなった時空の狭間。何の可能性も生まれない、全ての可能性が潰えた世界。それが、この場所。

 そう語るハザマに、ラグナは分かりきった疑問を投げかける。

「ここは……俺の知ってる『世界』とは違うのか?」

 自身らが元居た世界とは違う。けれど、先まで居たエンブリオの世界ともまた違った不安定さが、ここにはある気がして。とぼけるように首を傾けるハザマに、そしてラグナは首を振る。

(いや……ここがどこだったとしても。あのとき人間がマスターユニットを見つけた時点で、世界はやがてこうなる運命にあるってこと……か)

 人が、人のエゴで潰してしまった世界の可能性。可能性の潰えた世界。ここが、世界が辿り着く終わりの光景。冗談じゃない、とラグナは奥歯を噛み締める。そして、ハザマを見てラグナは更に問いかける。

「……おい。こんな場所に、何だってテメェが居やがるんだ?」

「それがですねぇ、私にも不思議なんですよ。だってそもそも私、あのとき……」

 ラグナの問いに、彼は苦笑して身体を向き直らせる。



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第十七章 知緑の昼

 

 

「だってそもそも私、あのとき……確かに刺されて、死んだはずだったのに」

 あのとき――エンブリオが発動する前。確かにハザマはトリニティという少女に胸を刺され、ハザマも死をすぐ側に感じたはずなのに。けれど、確かにそこにハザマは存在し、意識も記憶も保っていた。

 トリニティ=グラスフィール。かつて六英雄と呼ばれた人物の一人。事象兵器『雷轟・無兆鈴』に憑りついていた彼女の目的は、テルミとハザマを分離させるというものだった。そして、二重の者となった彼らの隙を突いた攻撃により、器である彼から、テルミは魂だけの状態で切り離されて、剥き出しとなった。

 そのとき、器であるハザマは破壊されるはずだった。そうなるのが自然だった。けれど、彼女はそうしなかった。

「トリニティ=グラスフィールという女性にどんな思惑があったのか知りませんが、どうやら彼女は私を『助け』ようとしたみたいですね」

 ハザマを助ける。その言葉が信じられず、ラグナは眉間に皺を生んで、尋ねた。それに首肯し、ハザマは笑いを零す。

「ふふ。私が昔のお知り合いにでも似ていたんじゃないですか? あの方、誰にでも優しいみたいですし……」

 それを偽善だと貶め、そして彼は帽子のツバを摘み深く被り直す。ここまで来ると、『狂気』を感じる。言う声は低く、けれど微笑みはそのままに。

「ま、どちらにせよ……甘い人ですよ」

 短く片付けられたその言葉に、ラグナはどう返せばいいのか分からなかった。ハザマもまた返答など期待していなかった。

「ですが……その『甘さ』のおかげで、私はこうして思うまま行動できているわけでして……」

 私、個人として。付け足すハザマ。ラグナはそれに首を傾けた。テルミとは別でありながら同一の存在としていたはずの彼が、テルミ抜きでやりたい事ができたと言うのだろうか、と。それにハザマは答えない。それでも追及するように、ラグナは問いかけた。

「テメェの狙いはなんだ? いや……テメェの『願望(ゆめ)』は何なんだ?」

「皮肉のおつもりですか? あるいは……魔女に何か吹き込まれたか……」

 少しだけ、ラグナの問いにハザマは眉根を寄せる。ラグナだって、最初はそんなことを意識していなかったはずなのに。自身のことがはっきりしたからと他人のことにズカズカと入り込むのが、気に食わなかった。それでも彼はすぐに眉間の皺を緩めて微笑んだ。

「……いいですよ。ここは『見捨てられた事象』ですし……。お答えしましょうか」

 頷き、ハザマは人差し指を立てる。「ところで」と前置いて紡がれる言葉は、先の言葉とは一見何の繋がりも見えなくて、ラグナは困惑する。

 痛いのはお好きですか。その問いに、間抜けた声を漏らし、そして否定した。好きなはずがない。嫌いに決まっていた。わざとらしく、ハザマは意外だと告げるが、それにラグナが眉根を寄せる。まどろっこしくて仕方がない。

「質問に答えろ、ハザマ」

「せっかちな人ですねぇ。こらえ性のない男は嫌われますよ。そう怖い顔をしないでください」

 話を進める。そう言うハザマにラグナは舌を打って、これ以上話がややこしくなるのを避けるため、黙り込む。そうすることで、ハザマが話を再開するのを促した。

「ユウキ=テルミが、人の憎しみや悲しみ、苦しみ……そして痛みを糧に強くなることはご存じでしたよね」

 ハザマの問いに、ラグナは首肯する。それがどうしたのだと問えば、彼は吹く風に帽子を取られまいと頭を押さえながら、頷く。

「それはつまり、彼が他者の苦しみや痛みを感じ取ることができる、ということです。そして、彼自身もまた苦しみ、痛むことができる。……ところがですね、私にはそれがないのです」

 ユリシアの頭にぽんと手を置いて、撫で遣り、ハザマが苦笑し告げる。少女が頭上に乗る手に触れようと、手を伸ばし――マシュマロのように白い指先が触れるより早く、彼はするりと手を引っ込めた。

「あぁ? どういう意味だよ?」

「そのままの意味ですよ。私は『痛い』と口にはできても、それを感じることはできません」

 他者がどれほど苦しみ、痛めつけられようと何も感じず、それが逆に、自身に降りかかったとしても同様に、特に何とも思わない。傷ができてもすぐ修復されるし、痛みを知らずに過ごしてきた。それは、自身の中にテルミが入ってからもそうだった。これが痛いときの感覚なのだろう、というのはあっても、実際に痛くて苦しい、などは一度たりとも。

「ですが……」

 そう言って、彼は自身の左胸に手を当てた。微かに俯けば、帽子のツバのせいでユリシアにしかその表情は窺えない。薄らと目を開け、ユリシアを見つめる。

「『痛い』んですよ。ここが。まるで大きな穴でも開いたみたいに。でも……」

 一歩、後ろに下がる。そうして、彼は自身の白いシャツに手をかけ、ボタンを外していくと。胡乱げな視線を送るラグナにもしっかり見えるように、シャツの合わせ目に手をかけ、引っ張った。自然と露出される肌は白く、薄くついた胸筋が存在を主張する。

 けれど、傷一つない陶器のような肌とは言えなかった。そこには、まるで何かに貫かれたような、白く痛々しい……大きな傷跡があった。

 顔を上げ、ハザマは紡ぐ。

「見えますか? 私の胸につけられた、この傷痕が。あの『クソ女』につけられた傷痕ですよ」

 一見、それは何の変哲もない、ただの刺し傷だった。けれど痛々しさに視線を逸らそうとした一瞬、傷痕が黒い大きな穴に見えて、ラグナは目を疑った。それはユリシアも同じだったようで、二人は驚きに声を漏らす。

「見えましたか? この穴が……」

 くつくつと漏らされる笑い声に、二人がハザマの顔を見る。視線を下げて胸を見て、そこに変わらず開いた穴を、身体に走る罅(ひび)を『観て』顔を顰める。

「物理的に開いた穴ではありません。これは、私の『魂』につけられた傷です」

 魂につけられた傷は、修復されるまでに時間がかかる。また、肉体が境界に繋がる『窯』そのものであるハザマであれば、その傷は境界を通じて世界を越え、現れる。

 いくらエンブリオが特殊な空間であろうと、いくら時間が巻き戻ろうとも。ラグナも同じだ。

「その傷が、ズキン、ズキン。って、痛むんですよ……まるで今まで感じなかった痛みを全て圧縮したみたいに」

 眉尻を下げてこそいたけれど、痛むと言う割には歓喜の色を滲ませながら、ハザマは語る。

 厄介なものだ、『痛み』というのは。煩わしくて仕方がない。けれど代わりに、その感覚が『自分』を認識させてくれる。『痛み』が自身という『個』を感じさせ、存在証明を示してくれる。

「不思議です……とっても不思議な気持ちです! 分かりますか?」

「分からねぇよ! テメェ……何が言いたい?」

 問うハザマに、ラグナは吠える。先ほからラグナには、ハザマの言いたいことが何一つ分からなかった。その痛みがどうしたのか、その気持ちがどうしたのか。だから何なのか。意外だとばかりに眉を持ち上げて、ハザマは不思議そうに首を傾けた。分からないのですか、と。

「貴方が聞いたんですよ。私の『願望』は何か……とね」

 言えば、今度はまるで少年のように無邪気に破顔して、ハザマは口を動かした。

 ――私の『願望』は、『知る』ことです、と。

 ゆっくりと瞬きをして、開けた目でラグナを見つめる。爬虫類を思わせるような鋭い瞳に見つめられ、ラグナの背に嫌な汗が浮かぶ。

「私もですね……知りたくなったのですよ。他人の痛みが、苦しみが、悲しみが!」

 少女と居るとき感じた様々な感覚の意味も。今まで感じられなかった全ての感覚を。

 そのために必要なものがあるのなら、ハザマはソレを手に入れるつもりだった。そのために、何を利用しようとも。そして、今回は目の前に居る赤いジャケットの男を。

「いやぁ~ここでお会いできたのは好都合でした。本当に運が良い。ここまで来ると、何かの『意思』を疑いたくなるレベルですよ。なんせ……拾ったばかりの『彼女』に、貴方を始末させることができるのですから……ね」

 彼女。その言葉が指すものが何か分からずとも、その不穏さだけは感じ取れた。笑うハザマ、両腕を広げれば、彼らの目の前に現れる光。光は形を変え、瞬時に形成されるのは――。

 少女。それは、ラグナの見知った顔をした少女だった。

 ノエル=ヴァーミリオン。第十二素体ミュー・テュエルブ。あの日、ノエルがミューとして精錬された時のように白のケープを纏った金髪の彼女は、淑やかにそこに佇んでいた。

「ノエル……!?」

「いいえ、違いますよ。『これ』はノエル=ヴァーミリオンではありません……ミュー・テュエルブ、『神殺し(クサナギ)』です」

 ラグナが呼んだ名をハザマは頭(かぶり)を振って否定し、紡ぐ。けれど、ラグナにとってはミューもノエルも同じで、区別を付ける意味が分からなかったから、眉根を寄せ歯を剥いて、ふざけるなと怒鳴る。けれど、ラグナの言葉の方がおかしいとばかりにハザマが眉尻を下げた。

「とんでもない、違いますとも。違うからこそ都合よく、しかし貴方の言うように同一でもあるからこそ厄介なのです」

 ゆるゆると首を振るハザマに、尚もラグナは怒鳴る。ハザマの台詞の意味を理解できなかったから、ただただノエルに何をしたのか、と問い詰めるしかできないラグナ。そろりと大剣へ手を伸ばす。見切ったハザマが眉を顰めた。

「物騒ですねぇ。だから違うって言ってるじゃないですか。同じだったら私も手間をかけなくて良かったんですけれど……」

 溜息を吐く。ラグナが信じようと信じまいと、彼女がノエルであろうがクサナギであろうが、彼には関係なかった。もうここでの用事は済んだのだから。

「クサナギ、彼……ラグナ=ザ=ブラッドエッジを始末しておいてください」

「んだと、テメェ……!!」

 彼女が、いくら一度は精錬された身だとはいえ。そう簡単に彼の言葉に従うはずがない。思いながらも噛みつくように吠えるラグナを、虚ろなブルーの瞳で見て、今まで沈黙に徹していた少女がケープを取り払う。

 外したそれが風に連れ去られるのと同時。両腕を広げれば、彼女は白い光に包まれ、直後には光が吸い込まれるようにして消える。何度も見たことのある光景だった。

 今まで見てきた他の素体とは少し違って、肌も露わとなるコスチューム。しかし晒された白い肌の柔らかさに反し無機質な印象を与えるそれに身を包んで、頭には『十二』の文字が刻まれた大きなヘッドギアを装着していた。

 翻る金髪と、夕焼(ゆうや)けの明かりに濡れた頬は、いつもの困ったような表情も見せてくれない。

「な……おい、しっかりしろ、ノエル!」

 彼女はやはり素体なのだと分かっていたし、この姿を見るのも初めてではない。この姿へ嫌悪を抱くこともなかったけれど、ただ、彼女が彼の知っている表情を見せてくれないのが不安で。

「彼女もまた『半分』の状態ですが……とはいえ『神殺し(クサナギ)』です。情に揺らいで手を抜いていては……本当に殺されますよ」

 声をかけるラグナに、無駄という言葉こそ使わなかったけれど、それでもハザマの台詞にはそんな意図が十分込められているのにラグナは気付いていた。

 それでも、何のつもりなのか、何がしたいのか、そういったところまでは理解できずに、ハザマに視線を移し、尋ねた。

「あらら、想像以上に鈍いですねぇ。私という器そのものが『碧の魔道書』であること、まさかお忘れではないですよね?」

 ラグナの問いに、逆にハザマが尋ねる。ラグナも、彼の身体が碧の魔道書であることは前に聞いてから覚えていた。忘れるはずもない。最終的には勝ったけれど、その前に味わった屈辱を、痛みを、自身があのままでは勝てないと言われた理由を。

 けれど、碧の魔道書であることが、どうしたのか。首を僅かに傾けるラグナへ、ハザマが呆れたように溜息を吐く。

「貴方にとっての心臓がナンバーサーティーンであるように、私にとっての心臓はナンバーテュエルブらしいのですが……」

 心臓。ナンバーサーティーン。その二つのワードから導き出されるものに心当たりがあって、ラグナは思わず冷や汗を浮かべた。彼の言う心臓とは『黒き獣』の心臓のことを指す。

「テメェ、まさか……」

「さすがにここまでヒントを出せば、勘付きますか? ええ、そうです。私は……」

 やっとか、という呆れはあったけれど、同時に気付いてくれたことへの嬉しさと愉快さにハザマはニンマリと唇に弧を描きながら首肯した。

「私自身が……黒き獣、いいえ……『蒼炎の書(ブレイブルー)』となります」

 そのために、更なる『痛み』と『苦しみ』を教えてください――。

 そう残して彼はユリシアの肩を軽く押しながら、くるりと踵を返した。悠々とした足取りで去って行く彼。待て、と手を伸ばす直前、ユリシアが振り向いた。

 追いかけようとラグナは腰の大剣を握り締め、地を蹴る。

 けれど阻むのは、光の刃。目を見開けば既に彼らは見えなくなっていて、苛立ちを覚えながらも光の刃が飛んできた方向を見遣る。そこに立つのは両手を前に突き出した、クサナギ。

「目標を補足……確認しました」

「お、おい、ノエル、いや……ミューか? あぁ、どっちでもいい! そこを退け!」

 明らかに自身の声が届いていないような彼女に、それでもラグナは恐る恐る声をかける。一歩退けた足は、戦闘の意思がないことの表れだった。けれど、それでも彼女は目を伏せ、紡ぐ。

「――対象の殲滅を開始します」

 言うや否や、彼女の背には再び八枚の光の刃が現れる。彼女の紡ぐ声とその光景を受けてラグナは舌を打ち、仕方なく剣を構えた。

 刃を上下左右、自在に操って射出し、ときに振り下ろし、連撃を叩きこむ。大剣がそれを受け流す間に男の元へ飛び込む。四肢に纏う装甲を刃のようにして振りかざす少女、刃が厚く広い大剣一本と腕で巧みに捌き切り、彼女に生まれた一瞬の隙に捻じ込むようにして攻撃を叩きこむ男。

 剣戟(けんげき)の音は一度鳴り出せば、呼吸を挟む余地もないほどに絶え間なく。軽やかに、あるいは重く激しく、鈍く、速く鋭く。

 お互いがお互いの行動を読み合い、繰り返し、いつまで経っても終わらないかと思われた戦い。ラグナの頭ほどもある光球を、魔素でできた黒い顎で噛み砕く。

 攻撃をしながら気付かれないように出していたのだろう、いつの間にか周囲に浮いていた、淡い光を纏う装置の銃口は、全てラグナに向けられていた。

「解き放て」

「当たるかよ……!」

 クサナギの口から呟かれる声に反応し装置から放たれる白い光線を躱せば、動かなくなる装置らを放置してラグナは駆ける。あの日をなぞるような彼女の動きを見切って、ラグナは跳び、彼を見上げる少女の頭に大剣を叩きこんだ。

「目を覚ませノエル!」

 涼やかに割れる音が響くと同時。目を見開いた少女の身体が吹き飛ばされ、床に転がる。動かない彼女を心配して駆け寄り、顔を覗きこめば震える瞼。一瞬、戻っていなかったらどうしようと不安を抱くラグナ。けれど、その心配は杞憂に終わったようだった。

 起き上がろうとする少女の身体を支えれば、少し呻いた後、彼女はラグナを認識しハッとする。

「……ラグナ、さん……あ、私……すみません!! なんてことを……」

 先まで自身が何をしていたのか思い出した瞬間、眉尻を下げ、申し訳なさに謝罪の声をあげる。それにゆるく首を振って、ラグナは苦笑した。

「今のことは気にすんな。どうせ、ハザマの野郎に何かされたんだろ」

 言いながら、ラグナはふと、眉根を寄せる。何かがおかしい。『簡単すぎる』。思えば、その違和感は胸を支配し……いつの間にか表情が険しくなっていたようだ。心配するように、少女が顔を覗きこみ、どうかしたのかと問う。

「まさか、どこかに怪我でも……」

 眉間の皺が、痛みによるものだとでも思ったのか、慌てたような少女の声に正気付いて、ラグナは再び首を振る。

「あ、いや、大丈夫だ……それより、お前ここで何してたんだよ。さっきまで俺が居た世界には、ノエルはノエルとしていた……よな。あぁクソ、訳が分からねぇ」

 立ち上がる二人。ラグナが確かめるように問いつつも、だんだんと訳が分からなくなってきて頭を掻く。この世界に何故彼女が居るのかも、ノエルとしていたはずの彼女が再びクサナギの姿になっていたことも、理由が分からなかった。

「それは……多分、私を切り離した『ノエル=ヴァーミリオン』だと思います」

 そんなラグナに、ミューがかける声。切り離した、という言葉の意味が分からず、ラグナは顔を上げ、首を横に傾けた。どういうことだと問われると、少女は自身の胸に手を当てる。いつの間にか白いケープをまた羽織っていた少女は、目を伏せる。

「私は、厳密には『ノエル=ヴァーミリオン』ではありません。その中に眠っていた素体の意思、ミュー・テュエルブ。『神殺しの剣』の力そのものに当たるのが私です……多分」

 どこか曖昧な言葉、薄く開けた目は泳がせて、彼女は語る。彼女にも、どこまでが『ノエル=ヴァーミリオン』で、どこまでが『ナンバーテュエルブ』なのか、上手く認識できていなかった。

「……とにかく『神殺し』の力だけを自分の中から切り離したってことか」

「はい、そうです。そうなんだと……思い、ます」

 随分と自信がなさげに言う少女へ、ラグナが眉尻を下げる。彼だって知りたいことだらけなのに、彼女も自身のことすら分からないと言われれば、不安ばかりが残る。

 そのことを指摘すれば、彼女は申し訳なさそうに俯く。そんな表情をさせたかったわけじゃないけれど、だからと言って聞かないわけにもいかず、ラグナは黙って彼女が話すのを促した。

「……分からないんです。私を切り離したのは、確かに私自身です。それは間違いありません」

 でも、と付け足して彼女は二拍ほどの間を置き、再び語り出す。どうして切り離されたのか、その理由が彼女にも分からないのだと。一度は受け入れて、自分と同じだと認めた力のはずなのに、どうしてまた否定されたんだろう。

 とても悲しげな色を瞳に宿し紡ぐ少女。沈黙、やがてラグナが口を開く。

「……俺の主観になっちまうが……ノエルは強い決意で力を、お前を受け入れたように見えた」

 その言葉に、偽りはない。何故なら、一度は嫌がっていたはずのその力に、彼女に、何度かラグナも助けられたからだ。ならば、切り離したのにも理由があるはずだと。

 理由。呟くように復唱する少女へ、ラグナは首肯する。

「そうだ、ノエルは確かに頼りねぇけど……弱い奴じゃない。自分を信じてやれよ」

「ラグナさんが、そう言うのなら」

 どこか未だ納得の行かない様子で、けれどそうしないと前に進めないことを分かっていたからか。彼女もまた肯定するように首を縦に振る。ニッと快活に笑って、ラグナが相槌を打つ。

 それから、思い出したように「ところで」とラグナは別の話を持ち出した。

「あー……こっからどうにか出る方法、知らねぇか? 俺、急いで戻らねぇといけねぇんだ」

 戻ってどうするのか、考えてはいなかったけれど。

 またイザナミに挑んでも同じことを辿るだけかもしれない。救うと言っても簡単ではない。自身に何ができるのか。イザナミ……サヤの言葉を思い出す。

 神は『願望』を拒絶する。全ての『願望』を拒絶し、オリジナルの『願望』を映し続ける。

「――さん……あの、ラグナさん?」

「っ……! あ、悪ぃ……何だ?」

 彼女の声も聞こえなかったほど考え込んでいたらしい。どこか不安げな表情を見せる少女になるべくいつも通りを装って問いかければ、彼女は少しだけ黙った後、押し出すようにして声を絞り出し紡ぐ。

「ここから戻る方法、ですよね。あの、私……考えたんですけど」

「何か方法、思いついたのか!?」

 ミューの言葉に目を大きく見開いて、勢いよく身を乗り出すラグナ。迫る彼の勢いに圧されつつも、彼女はぎこちなく首肯し、その白い腕を伸ばしてラグナの背後を指差す。

 そこに佇むのは、巨大な黒のモノリスだ。黒一色ではなく、青い光の筋が無数に走る。その上空に、かつて彼女、ミューが精錬され生まれた繭があった。何枚もの大きな翼でできた球状の白い繭の中には光が満ち、隙間から光の筋が零れている。

「あそこに浮いている繭。あれが、私が精錬されたときと同じように窯の機能を持っているなら」

 そこから、別の事象に辿り着けるかもしれない。色々な事象を集約したエンブリオの中だけれど、可能性を持たない今のラグナであれば、そして一度は境界に入ったことのある彼ならば、迷うことなく元の事象に戻れるはずだ。

 どういう理屈なのかはあまり分からなかったが、ラグナもその説明を受けて、それ以外に方法も思いつかず、取り敢えずできることからやってみようと頷いた。

「よし。行くぞ、ノエル」

 身体をモノリスの方へと向けると、ラグナはノエルを呼ぶ。その声に、ノエルが間抜けた声を漏らした。まさか、自分も呼ばれるとは思っていなかったとばかりに。

 それにミューを振り返り、どこか呆れた様子でラグナは紡ぐ。

「何を間の抜けた面してんだ。一緒に戻るぞ。こんな所に居たって、しょうがねぇだろうが」

 彼女の声だけで大体の考えを察して言う彼。最初こそ戸惑いと躊躇いを見せていた彼女だったけれど、その逡巡する様もすぐに終わる。いつものノエルらしい、可愛らしくも元気な笑顔を見せて、大きく首を縦に振る。

「そう……ですね。はい、一緒に!」

 跳躍し、吸い込まれるようにして彼らは繭に飛び込む。白い光に包み込まれ、掲げた腕で影を作ろうと試みるも、それも無駄に終わる。意識が、溶ける。

 目を伏せ、流れに身を委ね、けれど確実に元居た場所へと進んで行った。

「――――ぃでっ!!」

 身体を、床に思い切り叩き付けられる感覚。こうも何度も繰り返せば、受け身こそ取れずとも慣れてくる。気が付けばすぐに彼は手をついて身体を支え、立ち上がった。

 痛みに小さく呻きつつも、彼はゆっくりと辺りを見回す。薄暗いが、見えないほどではない。天井が中央へ行くにつれて高くなったドーム状の空間と、中央に鎮座する繭のようなもの。見慣れた景色だった。

「ここは……窯、か? あの妙な空間から、戻って来れたみたいだな」

 先ほど感じていたような不安定さや、どうにも頬を気持ち悪く撫でるような違和感の類は感じない。消えてしまったとレイチェルが語った『元居た世界』ほど安定してはいないけれど、確かに、ここは先の空間とは違う。元の事象に戻って来れたようだ。

 それが理解できた瞬間、彼はふと疑問に首を傾ける。先ほど繭に一緒に飛び込んだはずの、少女の姿が見えないのだ。その人影を探すように首を回そうとするラグナ。

「ラグナさん、私の声が聞こえますか?」

「うおっ……この声は、ノエルか? おいノエル、どこに居るんだよ」

 そんな彼の頭に、突如として響く声は、聞き慣れた少女のものだった。頭の中に直接響く感覚は前にもあった気がするが、やはり違和感しか生まない。声の主である少女の姿が見当たらないことに疑問を覚えてラグナが問えば、少女の声は少しだけ戸惑った様子で答える。

「それが……何故か、今の私では『その事象』に入れないみたいなんです」

「事象に入れない、だと? どういう意味だ、そりゃ」

 どういう意味か、と問われればその言葉の通りなのだろうけれど、何故彼女が入れないのかラグナには理解ができなくて、尋ねる。彼女もまたそれについては「分かりません」と答える。

「でも、もしかしたら『私』……ノエル=ヴァーミリオンが居れば、その事象に入ることができるかもしれません……多分」

 やはりどこか困ったような、曖昧な声で言う彼女。彼女が指すノエルと言うのは『神殺しの力』を自身の中から分離させた、残りの半分。この事象に居る少女のこと。

 自身が入ることのできない理由が、同一の存在が二つも居られないから……ということならば、ノエルがここに来て融合すれば、あるいは。そんな考えだった。

「お願いします、ラグナさん。『私』をここに連れて来てもらえませんか? そうすればこの世界のことも、もしかしたら何か、分かるかもしれません」

 意外とあっさり、ラグナは首肯した。虚空に快活な笑みを向けて、胸を張る。その様に、逆に彼女の方が拍子抜けして、彼には見えないのだけれど、目を丸くしてしまった。

「……お前を連れて来りゃいいんだな。分かった、任せとけ」

「え……いいんですか? そんな、何も聞かずに……」

 どういう理屈を考えたからだとか、そういうのは一切話していなかったのに簡単に頷いてしまうラグナへ、彼女は恐る恐る確かめるように尋ねる。それにもやはり、すんなりと首を縦に振る。

 それはまるで、何かを――。

「いいんだよ。俺も確かめたいことがあるしな」

 けれど、彼がそう言うならそうなのだろうと一応は納得してみせようとする彼女。ラグナが溜息を吐いて、窯に背を向ける。

「さて、と。無駄話はここまでだ。サヤ……イザナミが何か仕掛けてくるかもしれねぇ。『時間もない』し……行ってくるぜ」

 言うだけ言って、歩き出すラグナ。そこに至るまでが早くて着いて行けず、慌てながらも少女は彼に声をかけた。

「は、はい。多分『私』はカグラさんのところに居ると思います!」

「ヤビコ、だな。必ずお前を連れて来てやる。ちょっとそこで待ってろ」

 立ち止まり、告げると、また歩き出す。カグラが前と同じように、イカルガの総領主を遣っているのであれば、目指すは第六階層都市『ヤビコ』。早足気味に去って行く彼の足音を聞きながら、彼女は、思う。やはり、彼は以前と少し変わったみたいだ、と。

 

 一方。ラグナが現れた場所とはまた別の窯。ドーム状の空間で、彼らは笑みを浮かべていた。

「計画通り、死神が神殺しを倒し、この事象まで戻ってきたみたいで、良かったですねぇ」

 けれど同じ顔をした男の片方、黒いハットを被った人物の言葉に、もう片方であるオレンジのフードを被った人物は顔を少しだけ顰めた。

「計画通り……計画通り、ね」

 どうにも、順調(じゅんちょう)過ぎではないだろうか。眉間に皺を寄せて、男は舌を打った。それを、傍らに佇む少女はどこか心配げに見上げることしかできなくて。

 

 

 

   2

 

「世界中の人間の殆どが魔素にされたって話だったが……こんだけ賑わってるところを見ると、ウサギやサヤが言ってたことはやっぱり真実なのか」

 元居た世界の住人達は、全て魔素となったあとエンブリオに吸収されたという話だ。エンブリオで再構築されたというのなら、このヤビコの賑わいも頷ける。そして、それを理解すると同時に、ラグナは舌を打った。

 分かってはいたけれど、今まで当たり前にあった自身達の元居た世界が、綺麗さっぱり消えてしまった、というのは気分の良いものではない。

 これがノエル=ヴァーミリオンという一人の少女の願望を映した鏡だというのだから驚きだ。

 だけれど、先ほどの感覚だとノエル本人がそれを理解・自覚しているとは考えづらかった。前にラグナが会ったノエルも、ただ記憶を失っているだけに見えたし、この事象に入れないというもう半分もまた、そんなことを語ってなどいなかった。

(テルミやサヤがノエルを利用していたのは何故だ。それは『神殺し』の力を持っていたからだ)

 ならば、クシナダの楔がなくなった今、神を殺す力を持つノエルだけがイザナミを倒す『可能性』を持つはずだ。あるいは、ノエルと同等かそれ以上の『蒼』を持つ者だけが。

 であれば、何故ノエルは『神殺しの力』を捨てたのか。あの力がどれほど重要なものか、少なくともあの時のノエルは理解していたはずだったのに。

 もう一人の自分を受け入れたはずの彼女が、それでも尚、その力から目を背けた理由。何が彼女の考えを変えさせたのか。

「くそ……まだ分からねぇことが多すぎるな。今はとにかくノエルを探すしかねぇ」

 彼女は多分、このヤビコのどこかに居るはずだ。広さを考えれば気の遠くなる作業だと思えてしまうし、統制機構支部内であれば自身は侵入できないし、など不安も尽きないけれど……。

「ラグナ――――――っ!!」

「うおぉおっ!?」

 背後から響く、自身の名を呼ぶ声。それにラグナが振り返ろうとするより早く、勢いよく何かがぶつかる感覚。衝撃にバランスを崩しそうになりながらも必死に体勢を維持して、ラグナは首を動かし、背中にしがみつく何かを振り向いた。

 覚えのある声と、重さ。頭の上でぴょこぴょこと揺れるアホ毛と、ふわふわと柔らかそうなブラウンのポニーテールが見える。

 背中に当たる感覚は柔らかい。その柔らかさの正体は、彼女の……理解しかけて、ラグナは慌てて背中のそれを引き剥がした。

 向き合えば、正しく知っている人物の顔がある。

「お、おお前、セリカか!?」

 肩を掴み、どもりながらもラグナは確かめるように問う。目を細めたにこやかな笑顔も、声も、その体格も、前と何ら変わらない少女は、そんなラグナの焦った顔を見て、ふふ、と笑いを零す。

「やっぱりラグナだ! もう、やっと見つけたよ」

「待て、セリカお前、俺のことが分かるのか? まさか偽物とか言うんじゃ……」

 嬉しそうに言う少女へ、ラグナはますます訳が分からなくなった。今まで会った人物の殆どが、自身のことを、前の世界での事を覚えていなかったのに、目の前の少女――セリカは、ラグナのことを覚えているのだから。

「どうして? 私がラグナのことを忘れるはずないでしょ」

 けれど、逆にセリカが不思議そうに首を傾けて問う。誰かが作り出した偽物のようにも感じられず、ラグナは少しだけ黙り込んだ後、ふっと笑った。確かにこの感覚は、間違いなく本物だ。

「もう、ラグナってばどこ探しても居ないんだもん。みんな、心配してたんだよ。私のこと護ってくれるって言ったのに……どこ行ってたの?」

 セリカもまた小さく笑う。けれど、コロリと表情を変えて、今度は眉尻を下げ心配するようにラグナを見上げる。言われ、ラグナは答えを濁す。その時のことは、自身でもよく覚えていなかったし、それにこの世界に来てからも色々なことがありすぎた。

「……あぁ、何だ、色々あってな。約束、守れなくて悪かったよ」

 ラグナは思わず目を逸らした。それにセリカはまた不思議そうな表情を見せるけれど、大丈夫だとすぐに首を振って、笑みを浮かべる。

「あ、そうだ。私とミネルヴァはカグラさんの所に向かってるの。多分ココノエさんも一緒だと思うんだけど……ラグナは?」

「あぁ、俺はノエルを探しに、ちょっとな」

 ラグナは何をしにここに居るのか、と問う少女へ、やはり目を逸らしたままのラグナの答え。

 ノエルという単語を聞いた瞬間、きょとりと目を丸くするセリカだったけれど、それなら、とすぐに顔を明るくした。

「それなら一緒に行こう! きっとノエルちゃんも一緒に居るはずだよ!」

 だから、と手を差し出すセリカ。それに一度は短く返事をして、その黒いグローブに覆われた手を伸ばしかけ――ラグナは、引っ込めてしまう。

「……悪いが、一緒には行けねぇ。多分この世界じゃ、俺は『重犯罪者』として扱われてるはずだからな。勿論、カグラやココノエも俺を狙ってるだろうし……一緒に行動するのは危険だ」

 この世界で誰も記憶を思い出していないのならば、彼女らもまたラグナを狙っているのだろう。

 背中に手をやって、俯くラグナ。その頭部に、セリカの声がかかる。仕方ないな、とでも言うような、ちょっと困った笑いを含んだ声だった。

「そっか。大丈夫だとは思うけど……ラグナがそう言うなら」

 眉尻を下げて言うセリカに、再びラグナが「すまない」と謝るより早く。そして彼女はぽんと手を叩いて、口を開いた。

「そうだ! 私が先に行って、様子を見てこようか? カグラさんとココノエさんがどうしてるかだとか、ノエルちゃんが居るかだとか」

 セリカの提案に、ラグナが勢いよく顔を上げる。そこまでさせてしまっていいのか、と尋ねた。彼女には前のときも世話になりっぱなしだった気がして、更に心配までかけさせてしまって。それなのにいいのか、と。

 けれどセリカは、逆にラグナの問いの方が不思議なものだとでもいうように大きく頷き、快活に笑んでみせた。

「勿論。ノエルちゃんを連れて来るんだよね? 任せて!」

 得意げに胸を張り、ぽんと叩く。頼もしいその表情に、ラグナも断る理由は思いつかず、ちょっと戸惑い気味ではあったけれど頷く。それを受けて、彼女は「ここで待ってて」と言うと、後ろに控えた白い機械人形――ミネルヴァを連れ、歩き出す。

 しなやかな腕を振って、元気よく歩き出す少女の後ろ姿を一度は微笑ましく見送ろうとしたラグナだったけれど、その眉はすぐに顰められ、彼は慌てて彼女を引き留めた。

「ちょ、ちょっと待て、セリカ! カグラ達が居るのは、統制機構支部のはずだよな……そっちは逆方向だぞ」

 顔を引き攣らせる彼をセリカは不思議そうに振り返って首を傾けるが、寧ろ気付いていない彼女に逆に彼は首を捻りたかった。何度も通った道のはずだし、何より支部までの道は分かりやすく標識まで置かれているというのに。

「へ? あ、そうだった? あはは、間違えちゃった。こっちだね、今度は大丈夫……」

「だからそっちじゃねぇって言ってんだろ!? 全っ然、大丈夫じゃねぇから!!」

 ラグナの言葉に、苦笑して彼女は頬をポリっと引っ掻く。今度こそ大丈夫だと言う少女を胡乱げなまなざしで見つめるラグナだったけれど、進みだす方向はラグナが引き留める前と変わらない。目を見開き、ラグナは慌てて呼び止める。

 そして、立ち止まる少女を見てがっくりと肩を落とし、呆れたように深く深く溜息を吐く。

 前々から分かっていたことだが、彼女はやはり重度の方向音痴らしい。眉間をラグナは揉んで、暫し考えた後、見遣るのはミネルヴァ。

 本当なら心配だから、ラグナ自身も着いて行きたかったけれど、それはできない。ならば彼女に頼むしかない、とばかりにラグナはミネルヴァへと身体を向けると。

「悪いが、セリカがこんな調子だ……コイツを、支部まで送ってやってくれ」

 頭を乱雑に掻きながら、ラグナがミネルヴァにそう願う。答える声はない。表情も機械故に変わってはいない。けれど確かに少しだけ顎を引いて、ミネルヴァは応えた。任せろ、と。

 先のセリカみたいな頼りなさがない、安心感だけを伝える力強いその答えに、ラグナはニッと笑った。任せた、と。

「んじゃあセリカ。一つだけ言っておく。大事なことだからな。お前はミネルヴァの後ろを着いて行け。絶対後ろだぞ。良いな、前にも出るな、横にも並ぶな。いいな?」

「あはは、そんなに言わなくても分かってるって。心配性だなぁ、ラグナは」

 どの口が言うのだか、とラグナは思う。けれど彼女は何度言っても自覚しないタイプだから仕方ないと、再び溜息を吐く。

「そういや、一つ聞いていいか」

「うん、いいよ。何、ラグナ?」

 彼女がミネルヴァの後を着いて行こうとする。その背に、何気なくラグナは問いかけた。立ち止まり、振り向く少女。話を促されれば、ラグナは何でもない風を装って、尋ねてみる。

「セリカ、お前の……今の『願望』は何だ?」

 それは、本当に、何となくの問いかけだった。

 資格者でない自身が知ってどうにかなるわけでもないけれど、ただ神が否定するという資格者の願望が何なのか。人間の願望によって可能性が潰えた世界での、彼女の願望がどんなものなのか、ふと気になったのだ。

 ラグナの問いが脈略もないものだったから、セリカはきょとり、と目を丸くする。

「願望? んー、そうだなぁ。こうしたいっていう希望は色々あるけど……」

 顎に手を添えて、僅かばかり俯くと、悩むように唸る。うーん、と首を捻って声を漏らした後、顔を上げてへらっと笑う。

「ラグナ達が穏やかに、幸せに、暮らしてくれたらいいな。……うん、それが私の願望」

「……ちっ。お前はこんな時にまで『他人のこと』かよ。聞くだけ無駄だったな」

 もしかしたら彼女も、この世界の可能性を潰した人間達のような、汚い願望があるのかと思ってしまったけれど、思うだけ無駄だったようだ。彼女はやはり、どこまで行っても。

「なになに、その願望がどうかしたの?」

「……んや、何でもねぇよ。気にすんな。さ、行った行った」

 どこか、呆れたような、けれど安心したようなラグナの表情を見て、自然とセリカが尋ねる。腰を折りラグナの顔を覗きこむようにして問う少女に、ラグナは顔を逸らし誤魔化すように手を振った。素っ気なく追い払うような仕草の彼に、セリカが苦笑する。

「あはは、何それ、ラグナが聞いてきたのに。でも……うん。行くね」

「あぁ。ミネルヴァ、任せたぞ」

 頷く少女にラグナもふっと笑って、それからミネルヴァの方を向き親指を立てる。

 見送られ、そして彼女らは人と人の間を縫うようにして歩き出した。

 

「……うーん、誰か居るかなぁ。すみませ~ん!」

 そんな経緯を経て、彼女は統制機構ヤビコ支部の入り口で声を張り上げていた。口許に両手を添え、何度も呼んでいれば、やがて中性的な黒髪の青年が中から現れる。入り口に居た衛士に「怪しい人物が居る」と呼ばれてやって来たのだ。

「セリカさん……!」

 青年の衛士は、セリカを認識すると少し驚いたように名を呼ぶ。セリカもまた呼ばれてそちらを見ると目を皿にした。青年もセリカも、互いに顔見知りだった。青年の名はヒビキ。彼女はその名を呼び軽く会釈、挨拶の言葉を投げかける。けれどヒビキは呑気に挨拶を返す様子もなく、慌てた様子で近寄って来るのみだ。

「今までどこにいらっしゃっていたんですか……いえ、貴女も、こちらに来ていたのですねと言うべきでしょうか」

 整った眉の尻を下げながら紡がれる一言に、セリカが首を傾ける。こちら、という言葉が何を指すのか、色々考えてみるけれど、多分思いつくものとは違う気がしたからだ。口を開く少女が問いをかけるより早く、ヒビキは首を振ってセリカの言葉を遮った。

「いえ、何でもありません。それより、支部まで無事に戻られて何よりです」

「ありがとうございます。あの、ところで、ココノエさんってここにいますか?」

 安心したような言葉とは裏腹に、ヒビキの表情はいつまで経っても事務的な無表情を崩さない。それに彼も忙しいのだろうと察する。だから聞いてもいいのかと、彼の仕事を邪魔してもいいものかと悩んでしまったけれど、セリカはそれでも聞かずにはいられなかった。自分はこのために来たのだから。

「ええ。カグラ様のところに。ご案内しましょうか?」

 問いに、顎を僅かに引くことでヒビキは答える。案内を提案したのは、かつての世界で彼女が支部内で迷ってばかりだったことを思い出したからだ。けれどセリカは首を振り、自信満々に大丈夫だ、と親指を立てる。場所は覚えていると語る彼女の目がきらり、と輝いた気がした。彼女がこう言う時は、決まって……。

「やはり、ご案内いたします。丁度、カグラ様に報告に行くところでしたので」

 溜息を吐いて、目を伏せる。呆れに眉間を揉みそうになったがその手は自然に下ろしたままを装って堪える。言う彼の胸中など露知らず、彼女はそれなら、と案内をお願いするのだった。

 

 

 

「じゃあ、お前もなんだな。ココノエ」

「ああ。これまでは突然脳裏に浮かぶ妙な記憶や、辻褄(つじつま)の合わない記録が何なのか確証が持てなかったが……あの瞬間、全ての仮定が確証を得た」

 統制機構ヤビコ支部内の一室にて、会話の声が響く。片方はチェロのような心地良い低音の男声、それに応えるもう片方の声は聡明さを孕みながらもどこか堅苦しい空気を纏った、女のものだった。

 男に『ココノエ』と呼ばれた女の腰から生えた、しなやかな桃色の尾が揺らめく。

 彼らが話す内容は、この世界……『エンブリオ』という世界と、自身らの記憶についてだ。

「我々が感じていた違和感は、我々が持っていた記憶と、本来あるべき記憶との間に生まれた矛盾(むじゅん)や齟齬(そご)だ」

 否定や疑問の言葉はない。ココノエはふんと鼻から息を吐き出して、言葉を続ける。

「イザナミが『エンブリオ』を起動させたとき、世界は構成し直された。それは我々が知る世界をモデルにしながら、あちこち都合よく改変された世界だった」

 エンブリオと呼ばれた巨大な黒球。それが生み出した世界は改変されていた。そして、その世界に沿うように、撮り込まれた彼らの記憶もまた改変されたというわけだった。つまり、彼らは記憶を取り戻していた。

 それどころか、まるで誰かに教えられたかのように……そのことに関する情報を『知っていた』。

「だが何故急に、記憶の改変が元に戻ったんだ? いや、何故『戻す必要があった』のか……」

 戻ったきっかけは、あの大規模な事象干渉で間違いがない。目覚め、気が付けば自身らは思い出していたのだから。ならば引っかかるのは。

「『ノエル=ヴァーミリオン』だな」

 それに、カグラは肯定も否定もしない。いくらそういった能力があったことを知っていても、彼女がそんなことをするなんて信じたくもなかったし、彼女にもそんな自覚があったようには見えなかったから。けれど、無言を肯定だと受け取って、ココノエが再び口を開こうとした瞬間。

 彼女の言葉を遮るように、三つのノック音が響く。それにカグラが「何だ」と返事を返せば、聞き慣れた声が名乗る。ヒビキだった。

「おう、入れ」

「失礼いたします。……ココノエ博士にお客様です」

 カグラの声に反応して扉が開かれ、現れる青年。部屋に居た二人を交互に見て、それから彼は用件を述べた。そんな彼の背後に現れるのは、ぴょこぴょことブラウンの髪の毛を揺らす少女だ。

「セリカか。問題はないか?」

「うん、ミネルヴァがずっと一緒に居てくれたから」

 メガネ越しの目を少しだけ丸くしながらも、すぐにいつもの小難しい顔になって問うココノエへ、元気よくセリカは頷いた。

「それなら良い。こちらも事態の確認と情報の収集に手一杯だったからな。転移装置も使えず、お前を連れ戻す事ができなかった」

「転移装置、壊れちゃったの?」

 頷き言葉を紡ぐココノエに、今度はころりと不思議そうな表情になって、セリカは尋ねた。少しだけ不安だったけれど、別に転移させてもらえなかったことや、離れてしまったことは気にしていなかったが。ただ、何かあったのかと心配になって。

「違う。使えない原因は……認識による座標のズレだ」

「えっと……どういうこと?」

 首を横に傾けて、セリカは問う。ココノエの言葉の意味するところを理解できなかったからだ。

 彼女が分からないことを、ココノエも察していたのだろう。呆れに息を吐くこともせず、彼女は静かに語り始めた。

 今いるこの世界は、非常に不安定な構造になっている。世界を認識する個人によって、その有様や位置関係などに微妙な誤差が生じている。それぞれの願望が入り混じる歪んだ世界だからだ。

 つまり、こちらで座標を指定したとしても実際に転移する人間にとっての座標とはズレている可能性がある。そして、ズレた座標に転移することはできない。転移するためには、転移先に実際に赴(おもむ)き、座標を固定する装置を設置しなければならない。が、先述の通りココノエ達は忙しく、設置している余裕すらなかったという。

「よく分かんないけど、人によって見えてる景色が違う……ってことかな」

「簡単に言えばそういうことになる」

 頷くココノエに安心したようにセリカは笑みを浮かべる。そんな二人を見つめながら、ふとカグラが尋ねた。

「そういやセリカ、ちょっと聞きたいんだが」

 自然とカグラの方を振り返って、用件を尋ねるセリカ。何、と問う少女に、彼は暫く視線を泳がせた後、やけに真剣なまなざしでセリカを見つめた。

「自分が覚えているはずのものを覚えていなかったり、持っているはずの記憶と違う記憶が流れ込んできたりはしなかったか」

 きょとり、と目を丸くするのはセリカ。聞くには理由があるのだろうけれど、何故そんなことを聞くのか理解できなかった。だって、そんなことは一度もなかった。誰のことも忘れたことなどなかったから。ない、と答えるセリカへ、尚もカグラは問いを続ける。

「じゃあ、あの声は聞いたか? 『願望を叶えたければ、イザナミを倒せ』ってやつ……」

「……それは聞こえたよ。うん、はっきり聞こえた」

 今度は、カグラがその紫の目を丸くした。

 声を聞いたということは、彼女も資格者なのだ。けれど、それ相応に記憶を改変させられた様子はないというのだから。

「……セリカはエンブリオの影響を受けなかったってことか?」

 エンブリオ。聞き慣れないその単語にセリカが首を傾げるが、それについては後だとココノエが言い放つ。仕方なく頷く少女から、床へと視線を落とし、ココノエは呟く。

「あの声を聞いているということは、セリカも『エンブリオ外部』から取り込まれた資格者ということだ。ならば原因は……『秩序の力』か」

 秩序の力。それは、世界が生み出した、世界に対する防衛本能のようなものだ。世界の均衡を一定に保つように作られたそれは、事象干渉すらも跳ね除ける。

 ジン=キサラギも同じ能力を持っていることは、この場に居る全員が知っていた。

「……待てよ。ってことは『秩序の力』を持っていない連中は皆、俺達と同じような状況だったってことか?」

 眉根を寄せるカグラへ、ココノエが首肯する。全員を取り調べたわけではないが、恐らくそうだろうという憶測でしかなかったけれど。もっとも、例外である者が他にも存在しそうなことも、考えていたが。

 ココノエの返答を受け、ますますカグラの表情が険しいものへと変わる。

「それって、危険なんじゃねえか?」

 自身らだって、自身の願望が見せつけられ、一度は叶うかもしれないと期待させられた。そして『願望』を叶えるにはイザナミを倒せと言われたけれど。資格者達は、知っている。

 イザナミを倒し『願望』を叶えるには、蒼の力……『眼』を宿す『ノエル=ヴァーミリオン』を倒さねばならないことを。

 誰に教えられたわけでもないけれど、まるで誰かに言われたかのように、そう認識している。ならば、願望を叶えようとする人物は、自然とノエルを狙うだろう。

「ま、待って! それならラグナに知らせないと……」

 息を吐き出して、言う彼女に。今まで話を聞いていた少女が慌てて異を唱える。友達とも呼べる少女が危険であることも心配だけれど、彼女はラグナに頼まれて、ノエルを探しに来たのだ。

 ならば、そのことを彼に伝えるのは自然の流れのはずなのだけれど……。

「何……『ラグナ』だと? セリカお前、ラグナ=ザ=ブラッドエッジに会ったのか?」

「うん。さっき……ノエルちゃんを探してるって言ってて。あのココノエさん、どうしたの?」

 彼女の顔が、セリカの言葉を聞くにつれ、だんだんと険しくなっていく。それにどうしたのか問うセリカだったけれど、その言葉を無視するように後ろを向いて、彼女は顎に指を添えた。

 ラグナ=ザ=ブラッドエッジがノエル=ヴァーミリオンを探している。それが事実ならば、その理由は何なのだろうだとか、何にせよ、今邪魔をされるわけにはいかないだとか、考えることが多くなってくる。ぎゅっと目を瞑った後、彼女はポケットから通信機を取り出した。

「聞こえるか、テイガー……――」

 応答する声に、彼女は命令を下す。止める声や、理由を求める声を煩わしげに無視して。

「至急、ラグナ=ザ=ブラッドエッジを捕獲しろ。ヤビコに居るはずだ」

 彼の持つ『蒼の魔道書』、そして彼のドライブ『ソウルイーター』から考えれば、自然と彼のやりそうな事は考えがついていた。

 

 

 

   3

 

「この辺の地理は滅茶苦茶だな……ヤビコの近くにカグツチはあるし、あっちにはワダツミらしき廃墟まで見えやがる」

 ヤビコの街を彷徨い、不意に遠くを見遣れば、本来の距離的に見えるはずのない景色が視界に映る。イカルガとカグツチはとても離れているし、ヤビコとワダツミがそれなりの近距離にあるとはいえ、それでも距離はある。

 これも、エンブリオの影響か、それともマスターユニットの願望なのか。

 しかし街を行く人達はそれが当たり前だというのか、それとも見えていないだけなのか。気にした風もなく、せかせかと歩いていた。

「何にせよ、この状況じゃ他の『資格者』を探すのも骨が折れそうだぜ。しばらくは勘に頼るか」

 ぶつかりそうになった人を避け、ラグナも考えるだけ無駄だと進みだそうとして――。

「……あ~あ、見つけちゃったぁ」

「テメェは……確か」

 呆れと落胆が混じったような声が気になって、ラグナは僅かに顔を上げてみる。丸い耳と栗色の短髪、そして目を引くのは腰から生えた大きな尻尾。リス系亜人種の少女が、腰に手を当て首を振っていた。

 その顔はラグナも知っていた。確か、ノエルの親友の一人。

「博士。ラグナくん、発見しました」

「ご苦労だ、マコト」

 少女が手に持った通信機へ話しかけると、無感情な女の声が返る。それも聞き慣れたものだった。マコトと呼ばれた少女が通信をかけた先は、ココノエという人物の元。ラグナが少しばかり驚いたようにその名を口にすれば、声は今度、ラグナに向けて発される。

「久しぶりだな……ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

「テメェが出てくる……って事は、この姉ちゃんは俺を捕まえに来たってわけだな」

 久しぶりという声に、感情は一切込められていない。ただ事実だけを淡々と述べる女に、ラグナもまた警戒した声色で返した。肯定の声。

「ご明察だ。なかなか頭が回るようになったな『死神』。『この世界』で何か学んだか」

「『この世界』だと? もしかしてお前も以前の記憶が残ってるのか……!?」

 問うラグナに、彼女は答えない。少しの沈黙を返した後に、彼女はマコトへ指示を下した。

「悪いが、くだらん問答はここまでだ。マコト、そいつを拘束して連れて来い」

 その命令に短くマコトは了解の意を返し、落胆したような溜息を吐くと苦笑してラグナを見た。纏ったパーカーの金具に手をかけ、下ろし、脱ぐ。

 彼女だって、ラグナとは一緒に戦ったことがあるし、個人的な恨みだってない。だから、小さく謝って、彼女は動きやすくなった身体を構える。が、ラグナもまた大剣に手を伸ばしこそするけれど、それ以上の敵対行動は見せなかった。

「チッ……さっきからどうもおかしいとは思ってたが、どうやらお前もココノエも記憶が『戻ってる』みたいだな。これもマスターユニットの影響か……?」

 眉をひそめ、考え込むように言った後、やはり自分では答えが出せないと悟ったのか首を振る。何でもいい、どっちにしろ、ここで捕まるわけにはいかないのは変わらないのだから。

「だけど戦う前に……一つ、聞いてもいいか?」

「なんか呑気だね。んで……何?」

 問うラグナの呑気さに呆れながらもマコトが構えを解いて問いの内容を尋ねる。ラグナが頷く。

「アンタも資格者なんだろ。その『資格者』ってのは、お互いが近付けば分かるモンなのか?」

 資格者でない自身には、誰が資格者であるかなど分からない。けれど、彼らはどうなのか。気になって問いかけてみれば、彼女は目を丸くして、それから視線を逸らすと……頷いた。

「アタシも仕組みはよく分からないけど、一応そんな感じ、かな」

「そうか……あと、ノエルがどこに居るか知ってるか?」

 一つ、と言ったはずの問いは二つめに突入する。ラグナにはそれで何か言われることなど考慮していないし、それどころか自身が『一つ』と言ったことすら忘れていた。マコトはそれを指摘するか否か悩んだけれど、ラグナの問いが気になったのと、単純に隠す必要もないからと、気にせず答えた。

「のえるん? 何か用でもあるなら、代わりに伝えておこうか?」

「ふん、お断りだ。自分で見つけるしな」

 けれど代わりに……という提案はあっさりと切り捨てられる。予想はしていた。けれど、そう易々と行かせるつもりもない。彼に勝てる自信があるわけでもないけれど、彼女はニッと笑って再び腕を構えた。鍛えられた腕につけられた、ギラつくトンファー。

「行かせるつもりはないけどね。んじゃ……ちゃちゃっと捕まっちゃって!」

 言うのと同時、姿勢を低くして駆けるマコト。迎え撃つべく、大剣を構えるラグナ。

 リス型とは言っても獣人には変わらない。その身体能力は凄まじく、特に鍛え抜かれた脚と腕は強力であり、脚をバネのようにして、打ち上げる拳はそれだけで十分な武器となる。けれどまたラグナもそれに対抗できる程度に、戦闘は慣れていた。拳と自身の間に挟み込んだ大剣を、相手のトンファーに添えるようにして受け流す。火花が散った。

 そのまま剣を握り直し、空いた隙に捻じ込むようにして、彼女の横腹に剣を叩き込めば、間一髪で彼女はもう片方のトンファーに当てて、剣が露出された肌に当たることを防ぐも、攻撃は重く。吹き飛ばされる身体。それに歩み寄って、ラグナは剣の切っ先を向けた。圧倒的に、ラグナの方が勝っていた。

「くっそ~……やっぱ敵わないかぁ……」

「マジで分かりやすいな、お前」

 マコトの攻撃は強い。しかし、大振りなものばかりだったり、動きが分かりやすかったりして、ラグナは少しだけ呆れていた。けれど、それで馬鹿にするほどラグナも落ちぶれてはいない。剣を腰に戻し、そのまま踵を返そうとする。しかしそんなラグナに、マコトが声をかけた。

「……ノエルのこと、頼んでいいかな」

 振り返るラグナに笑みを浮かべながらも、彼女の目だけは笑っていない。強く睨んでいるようにすら見えるマコトの瞳に、ラグナはその言葉の続きを促す。吐かれる言葉は、呪詛のよう。

「あの子に何かあったら、絶対に君を許さないから」

「『頼む』くせに『許さない』かよ、おっかねえな。まぁいいけど……んじゃ、行くわ」

 親友に対する気持ちの強さが、その言葉と視線だけでも伝わってくる。彼女の強さはそこにあり、また『願望』もそこに関わりがあるのだろう。

「次に会う時はまた敵同士かもな。お前の願望が変わってなけりゃ……だが」

「え? それってどういう意味……?」

 ラグナの台詞の意味が理解できず、マコトが戸惑いに瞳を揺らす。けれど、その問いに答えることなく彼は去って行き、追いかけようとするも打ち付けられた身体は上手く動いてくれない。どんどん遠くなっていくその背中を見送り、ただ溜息を吐いて、マコトは呟いた。

「……願望……あたしの、願望……」

 そして、目を見開く。先ほどまでは、確かにあったはずの願望が、思いつかないのだ。まるで何かに丸ごと『食べられた』かのように。

 

 

 

   4

 

 紅茶の香りが辺りに広がる。鼻腔をくすぐるそれに頬を緩めながら、彼女は大好きな人のことを思い浮かべる。ここの所、いつも以上に忙しそうだった。何故か自分を連れて行ってはくれないこともあって、今日も同じ。

 度重なるマスターユニットによる事象干渉のことや、他にもやることがいっぱいあるのだ。

 寂しくは感じるけれど、それが彼の考えなのだろうと一人納得して我慢する。

「……きょうは、いつ、かえってくる……でしょうか」

 カップになみなみと注がれたお茶を零さないよう、そっとそっと運びながら彼女は考える。けれど、考えても分からないし、逆に寂しくなってくるから、その考えに蓋をするように紅茶を見つめながら、テーブルへ運ぶ。コトリ、と小さく音を立ててテーブルにカップを一つだけ置くと、ソファの方に回って、腰かける。

 熱々の紅茶のカップにそっと手をかけて、前に教えてもらったように息を吹きかける。一口、口をつけてみた。やっぱりまだまだ熱くて、液体の乗った舌が痛みを訴える。慌ててテーブルにカップを戻して、溜息を吐いた。

 部屋を見回す。人が一人、暮らすために作られた部屋だけれど。二人の人間が同時に暮らしていても狭さを感じないどころか広いと感じる執務室は、一人で待つには、やはり広すぎる。

 脚をぶらぶらと揺らして、その勢いに任せて立ち上がる。横を向いて、二、三歩進めば窓は近くにあって。ちょっとだけ踵を持ち上げて窓の外、下の方を覗いてみる。

 小さな庭園があって、彼女は少しだけ表情を緩める。けれどその笑みは、やがて消える。

「……『かのうせい』ですか」

 可能性を可能にする力。可能性そのもの。そう呼ばれる力が自分自身だと言われたし、それも自覚しているけれど。いまいちピンとこなくて、呟く。

 今、資格者と呼ばれる人達は、自身の『願望』を叶えるその力を手にするため、走り回っている。そして願望を叶えるために、ある少女を狙っている。

 ノエル=ヴァーミリオン。その少女の『眼』によって、この世界は他の可能性を拒絶するからだ。そして、彼女は自身……ユリシアと名付けられた少女が、ノエルと同等の……世界を好きに観られる力を宿していることも理解していた。もっとも、それを上手く使えるかは別として。

 ならば、と疑問に思う。

 実際に誰かから聞いて知ったわけではないけれど、ノエルは危険なのだろう。しかし、何故ユリシアは誰からも狙われていないのだろうか。

 彼女だって、無知ではあるけれど馬鹿ではない。

 テルミがこの『蒼』を欲してユリシアを回収したことはもう理解しているけれど、それと同じように、否、もっと過激な手段で他が自身を狙うこともあるはずなのでは。

 それがないというのは、ある意味何かしらの意思を疑うというか、不気味すぎるというか。

「……おともだちが、きけん、というのは……すこし、きぶんは、よくない、ですね」

 一人、口にする言葉。いくら彼女が人間じゃなかろうと、どういう存在だろうと、何のために生まれようと。あの日、精錬されることを全然疑わずに手伝っていようと。

 色んな事を考えすぎて、逆に考えが纏まらない。首を振って、彼女はソファへと再び戻り、腰を下ろす。カップの取っ手を摘まんで、口許へ運ぶ。丁度いい温度になっていた。一口飲んで、テーブルへ戻す。

 願望。自身の願望は知らない世界を知ること。ハザマの願望は痛みを知ること。ならば世界を壊そうとまで企むテルミの願望は何なのだろう。

 ――不意に扉の開く音がして、彼女は勢いよく振り返った。そこには、見慣れた緑髪の男が立っていて、自然と顔が緩むのが自分でも分かる。

「はざまさん、おかえりなさい、です」

 後ろ手に扉を閉めながら、頭に乗せた帽子へ手を伸ばす彼の元へ駆け寄って、笑いかける。けれど、すぐに細めた双眸を開けて首を傾けた。

「……あれ、てるみさんは、どうしました、でしょう」

 そこに居るのは、紛れもなくハザマ。そして、同時にテルミの気配もするのだけれど、どうにもその姿が見えない。首を捻る少女は、そしてある結論に辿り着き、微笑む。

「ぶじ、ゆうごう、しなおせた……ですか?」

 ハザマとテルミが元通り一つの身体に収まったのであれば、テルミの姿が別に見えないのも不思議ではない。元々、彼らはユリシアと出会った時点では同じ身体だった。

「ええ。そうですね。もっとも、完全に前と同じ……という訳にはいかないようですが」

 頷くハザマ。けれど、苦笑しちょっとだけ違うのだと言う。何が違うのか、ユリシアには理解できなかったから、少しだけ首を横に傾けた。

「……そうですねぇ。強いて言うのであれば、主導権が変わった、という感じでしょうか」

 ユリシが、更に首の傾きを大きくする。捻り、理解しようとして呻き、そして頷く。前も今も、ハザマの身体にテルミが入ることは変わらない。が、主人が違うのだ。前はテルミが主人となり、好きなようにハザマを使うことができた。けれど今度は、ハザマが主人となり、テルミの力を好きに使える、と。

 それが理解できれば、今度はふと先ほど気になったことを思い出す。さっき、一人で居た時に考えていたことだった。

「……そういえば、てるみさんの……『がんぼう』って、なんですか」

 ハザマの口から、間抜けた声が漏れる。彼女の言葉が意外だと言うように。その反応に、もしかして変な事を言ってしまったかとユリシアは思う。背に嫌な汗が浮かんで、どう言い訳しようか必死に視線を泳がせながら考えて。

「え、えと……そ、その、さっき、ちょっと、かんがえて、いて……」

 けれど、考えても考えても、ちっとも言葉は浮かばないし、先の思考の答えだって生まれない。斜め下を見つめる少女に、溜息がかけられる。肩が跳ねた。もしかして、呆れられてしまっただろうか、と恐る恐るユリシアは顔を上げる。

 そこにある彼の表情は、笑み。思わずユリシアは目を丸くしてしまう。そんな少女に何を言うでもなく、彼は自身の胸に手を当てて、静かに内側へ尋ねた。

「……テルミさん、どうなんです?」

 空気を震わせて、囁くハザマ。問うのに声を出す必要はなかったけれど、特に理由はないがあえてそうした。答えは返らない。黙り込むハザマの口。テルミに答える気がないと察したハザマが困ったように笑いながら帽子を外して、ユリシアの頭に乗せる。自然とずれた帽子のツバがユリシアの視界を遮って、ユリシアがツバを持ち上げると同時、口を開くハザマ。

「さて……私もテルミさんの願望は気になってましたが、残念なことに、テルミさんも喋るつもりはないみたいですし……」

「いつか、教えてやるよ」

 ハザマの声色が不意に切り替わり、話していた言葉を切って別の言葉を紡ぐ。テルミだ。間抜けた声が、今度は二人の口から漏れた。

「おやおや。テルミさんは休んでいるんじゃないんですか? いえ、聞いたのは私ですが」

 まさかテルミが答えるとは思っていなかったのか、ハザマが少し眉尻を下げながら問うけれど、それには今度こそ答えがない。

 先ほど黙っていたのは単純に悩んでいたのだ。ハザマが話を切り上げようとするまで、話すべきか悩んでいた。隠すほどのモノでもないけれど。それも、結局来るかも分からない『いつか』に先延ばしにしただけだったが。

「いつか……そのときを、まってます、ですね」

 それでも、彼女はそう言う。彼が「いつか」と言うなら、それを信じて待とうと思った。見上げられる彼が顔を逸らして、そのままくるりと身体ごと後ろを向く。

「……そうですか」

 答えるのはテルミではなく、ハザマ。けれどそれに何か言うでもなく、元気よく頷いて少女はへにゃりと笑みを浮かべた。

 数秒の沈黙の後、振り向いたハザマがそっとユリシアの頭に手を乗せる。骨ばった大きな手に、ユリシアの小さな手が添えられて、温かくて柔らかくて、いつも感じている感触のはずなのにやけにそれを意識してしまうようで、ハザマは手を引っ込めた。きょとりと目を丸くする少女に、気取られぬように彼はソファへ歩み寄り、先ほどユリシアが口をつけたカップを持ち上げ、紅茶を口にする。以前の彼であれば有り得なかったことだった。

 

 

 

   5

 

 身体が叩き付けられる感覚。何度目とも知れぬ事象干渉により強制的に転移させられる形となった身体は、衝撃から来る痛みを訴える。身体が床にぶつかる直前まで意識はほぼないものになっていたし、受け身も取れない。漏れる呻き。

「ぐ、うっ……。今度はイカルガか……くそ、またかよ」

 ゆっくりと身を起こせば、向こうにはイブキド跡地らしき景色が見える。疼き、重くなる腕。内に飼っている化け物が暴れ出そうとしている時の感覚だ。食われそうになるのを必死に抑え、唸るラグナ。他人の――可能性、『願望』を喰らってきた故のそれだった。

「もう一度だ……くそ……腕が重い……」

「そのくらいにしておくのね、お馬鹿さん」

 聞き慣れた声が背後から届いて、彼は振り向く。幼くありながらも、どこか普通でない荘厳さを湛えた声。ヴァイオリンのようなそれは、レイチェルのものだ。

 その人物がそこに居ることに驚いて、ラグナは腕を押さえながら声を漏らす。

「な……テメェ、ウサギ。どうしてここに居やがる……!?」

「事象干渉を分析して、貴方が出現する確率の高い場所を割り出してもらったのよ」

 ひどく驚いた様子のラグナに、さらりと簡単に言ってのけるレイチェル。眉根を寄せ、誰が、とラグナが問うと同時。レイチェルの後ろから声が届いてラグナは自然と視線をそちらへ向ける。

「私以外に居ると思うか? この馬鹿者」

「にしても、場所がここで良かったぜ。テイガーが真っ先に埋めた座標固定装置が役に立ったな」

 二人分の足音と声。それもやはりラグナは聞き慣れたものだった。久しくも感じる声はココノエとカグラだ。ますます驚いた様子のラグナにひらりと手を掲げるのはカグラ。

 調子はどうだ、というラグナを気に掛けるような台詞の後に続くのは、やはり『馬鹿』。

 揃いも揃って馬鹿、馬鹿と言われ続け、ラグナは眉根を寄せる。

「それよりも、ラグナ」

 呼ぶレイチェルの声に視線を移して、用件を尋ねるべく首を傾ければ彼女は目を伏せ、静かに唇を開いた。動かされる唇、そこから漏れ出る言葉。

「少しは身に染みたのではなくて? それでは目的を成す前にその身体が『喰われて』しまうわ」

 ラグナはある理由で資格者達の『願望』を己のドライブ『ソウルイーター』で喰らっていた。それら願望は全て魔素となって、ラグナの内側から這い出ようと暴れ出す。元々その能力に目覚めていたわけではなかったから、体内に溜めこんでいる魔素の量は多くない。つまり他人よりも魔素に対する容量は大きいが、それでも溜め込めばいつかは破裂してしまう。それを危惧しての、レイチェルの言葉だった。

 黙り込むラグナ。だったらどうしろと言うのだ、と。言われずとも肌で察して、レイチェルはわざとらしく大きな溜息を吐いた。

「改めて、今度は貴方のようなお馬鹿さんにも分かりやすいように、具体的に言ってあげるわ。ラグナ、貴方……ここに居る、彼らと組みなさい」

 何を言いだすのだと、ラグナは思わず吐き捨てる。いくら記憶が戻っていたとしても先ほどのマコトの件からして、彼らがラグナを捕まえようとしているのは明らかだ。そんな連中と、何をどう協力すればいいと言うのか。

「おいおい、そんなボロボロになってまで粋がってんじゃねぇよ。話は大体、吸血鬼のお姫様から聞いたぜ」

 吸血鬼のお姫様、とは正しくレイチェルのことだ。カグラを見るラグナに、再び彼は馬鹿だと言って、それにラグナが何か返すより早く言葉を続けた。

 誰かの『願望』一つで世界を固定化するのではなく、その記憶全てを自身に集めることで、世界にいくつもの『可能性』を与える。それがラグナの狙いだった。人の生命力を喰らう『ソウルイーター』があってこそ成せる業。

「いやしかし『あの』お前がそんな事を一人で始めてたってのは驚きだよな。このかっこつけが」

「うるせぇ。テメェにそんなこと言われる筋合いはねぇよ。からかいに来たんならさっさと帰れ」

 からかうようなカグラの台詞にムッと顔を顰めてラグナが反論する。それすらも笑って返されれば、相手と自分の余裕の差にラグナは更に機嫌を損ねてしまい、思わず口走る。苦笑し、生意気だと返すカグラだったけれど、しかしそのすぐ後に言葉を続けた。

「だけど、お前のその考え方は正直言って面白ぇ。何よりそれならノエルちゃんを……何かの犠牲にしなくてもいい」

「まだノエルが何の犠牲にもならずに済むなどと、決まったわけではないぞ」

 紡ぐ言葉を否定するのは、ココノエだ。ずり下がった眼鏡を指で押し上げ指摘する彼女に、尚も笑みを浮かべたままカグラも負けじと返す。

「そうだけどよ。少なくとも俺は、こいつの無謀な賭けに乗りたい気分だ」

 彼らが何を言っているのか、ラグナには理解できなかった。誰もラグナを馬鹿だとは言っても、馬鹿にはしないし、やろうとしていることも否定しない。それどころか、これではまるで肯定されているみたいではないか。

「まだ分からんのか。お前のやろうとしていることは、既にレイチェル=アルカードから聞いた」

 力を貸す。ココノエが言った。その言葉が信じられず、ラグナは困惑に目を見開いた。

 彼女は彼女なりの理由があるのだろう。彼女が味方なのが不服なわけではない。ただ、それでもイマイチ信用ができなかった。

 けれど、自分一人でどうにかできる状況じゃないのは分かっていた。願望を食えば食うほど、右腕はどんどん重くなり喰われそうになるし、何度だって事象干渉で否定され、邪魔される。

「……それなら、頼む。手を貸してくれ。俺は『世界』を守りたい」

 俯きそうになる顔を必死に持ち上げ、前を見据え言うラグナに三人は顔を見合わせ強く頷いた。




あと二章で完結予定です。


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第十八章 鎮金の夕暮

 世界虚空情報統制機構ヤビコ支部、カグラ=ムツキ大佐執務室。ココノエとカグラは、ラグナとレイチェルを連れて戻って来ていた。扉が開く音を聞いて振り向いた少女は、二人の後ろに続く人物らを見とめると、ぱぁっと目を輝かせた。

「あ、ラグナも来たんだ! レイチェルさんも! 良かった、心配してたんだよ……って」

 駆け寄る少女、セリカ。微笑ましく思う皆だったけれど、不意に彼女の顔が曇る。

「どうしたの、ボロボロじゃない! ちょっと待って、今治すから!」

 ラグナがあまりに傷だらけだったからだ。心配した様子で、慌てて手を伸ばし、そこに淡い光を纏おうとする。けれどその光が光として目に見えるようになるより早く、彼はあからさまに身を引き、叫んだ。やめろと。

 以前の彼であれば受け入れていたはずなのに、拒絶のあまりの強さに驚いて、光は彼女の指先から逃げるように小さな粒子になって消えていく。小さく悲鳴すら漏らす彼女にハッとして、ラグナは眉尻を下げた。バツが悪そうに顔を逸らす。

「悪ぃ……けど、傷なら大したことねぇから心配すんな」

「でも、ラグナ……重傷だよ。傷口だけでも塞がないと」

 ラグナがやんわりと断っても、それでも、と食い下がるセリカ。心配そうに胸に手を置く少女へ、一つ声がかかる。一歩前に出て声をかけたのはココノエだ。

「心配ない。こいつの傷なら私が見てやろう。ついでにその左腕と、イデア機関の調整もする。というわけだ。しばらくこいつを借りていくぞ」

 無表情のまま、有無を言わせぬ態度で彼女が言えば、仕方なくセリカは頷く。

「ほら、行くぞ」

 そう言うココノエが突然ラグナの手を引けば、一瞬バランスを崩しそうになりながらも頷き、着いて行くラグナ。その背をセリカは心配そうに見つめていた。ココノエの治療ならば問題はない。そこについては信頼している。けれど、自身に治療させることを嫌がられている気がして。

 

 

 

 執務室の隣に作られた――否、改造する形で設けられたエレベーターに乗って、彼らは地下へと辿り着く。そこには、何に使うのかもよく分からない機械や、何やら小難しそうな言葉や映像が並ぶディスプレイ、キーボードが複数。食べ散らかしたゴミと、中の黒い液体が完全に冷めてしまった白いカップがあった。

「統制機構の支部に自分の部屋を作ったのか……相変わらず無茶苦茶するな、お前」

「無茶苦茶なのはお前の方だ。……見せてみろ」

 ラグナの台詞に心なしか眉根を寄せながらも、見せろと手を差し出して言うのは腕のことだ。言われるがままラグナが両腕を差し出せば、ココノエはそれを何かのコードに繋ぎ、そしてディスプレイと腕を交互に身ながらキーボードを叩き始める。

「ふむ……左腕そのものは問題なさそうだが。イデア機関の反応が鈍い。相当酷使したようだな」

 イデア機関。それはかつて、一人の素体の少女――ラムダから貰い受け、吸収したものだ。それが術式の増幅や魔素のコントロールなどの役割を果たしているのだが、使い過ぎたせいで反応が鈍い、とココノエは語る。

 そうして。言っておくが、そう前置いて、彼女は目を伏せると。

「ソウルイーターの使用は、確実にお前の寿命を縮めるぞ」

 そんなことは、ラグナも分かっていた。自身の身体のことくらい自分で理解している。あと少し、ほんの少しだけ保ってくれれば十分なのだ。

 他の資格者達の『願望』を喰らい、資格を失わせる。それを成し遂げるまでの間だけで……。

「お前がやろうとしていること、その着眼点は良い。だが、それをやるにはお前の器が足りん」

 ラグナの考えを彼女にしては高く評価して、けれどココノエは首を振る。それから『器』という言葉を復唱し首を傾けるラグナへ頷くと、彼女は事務椅子の背凭(せもた)れに体重をかけながら改めてラグナの両腕を見つめた。

「ソウルイーターは際限なく魔素を喰らうわけではない。器であるお前自身のキャパシティを超えれば、その瞬間に膨らんだ魔素はお前という器を食い破るぞ」

 器を食い破る。それはレイチェルも危惧していたことだ。けれど、己のことを一番分かっているはずのラグナはふっと口許を緩めて言葉を口にする。

「安心しろ。器のデカさには自信があるんでな」

「……殴るぞ、貴様」

 露骨に眉間へ皺を寄せ、冗談とも取れる台詞を吐くラグナを睨み付ける。彼が彼自身のことを理解していることを彼女も理解しているからこそ、それがさらに苛立たせる要因となっていた。

 彼女が苛立ちの表情を見せたことで、ラグナは顔を引き締める。

「別に、冗談で言ってるんじゃねえよ。つか知ってるんだろ、いちいち聞くなよ」

 ラグナはドライブを元から持っていたわけではないため魔素に対するキャパシティが多いことも、だから『ブレイブルー』を使えるのかもしれないことも、何よりそれ以外にも……彼女は知っていた。そこを指摘されれば、彼女は鼻を鳴らして顔を逸らす。

 誤魔化すように近くにあったマグカップを手に取り、中のコーヒーを口にする。冷めた故の苦さに思い切り顔を顰め、カップを戻した。

「……まぁいい。仮にキャパ内に収まったとして、だ。そんな状態でどうやってイザナミの元まで辿り着く? 今の貴様は魔素を強引に押さえ込んでいる状態だ。その『イデア機関』でな」

 しかし先ほども言ったように、イデア機関は使用のし過ぎで反応が鈍い状態だ。このままイデア機関をいつものように酷使すれば、溢れ出した魔素がラグナを喰い始める。

 否……『もう喰われ始めている』はずだ。そんなココノエの台詞に、今度はラグナが眉を顰めた。説教をされに来たわけではないし、それに手を貸してくれるはずじゃなかったのか。ラグナの台詞を受け、彼女は前に置かれたディスプレイへと視線を移し、返す。

「だから今、こうしてお前の身体を診てやっている。利害の一致もなく、私がタダで診てやるとでも思っているのか?」

 確かに、と彼は思う。彼女はそんな性格だった。

 けれど『蒼の魔道書』を使わずにナインやイザナミを倒す手段があると言うのか、問うラグナにココノエはゆっくりと瞬きをすると、呟くような声で答えた。

「手、というには心許ないがな。心当たりならある、ということだ。詳しくは上で話してやるさ」

 いつになく勿体ぶった言い方に、少しだけラグナは嫌な予感しかしなかった。けれど今聞くのもそれはそれで勇気が出ないし、彼女も話すつもりもないだろうからと複雑な表情を浮かべるだけに留まった。

「……それとだ。セリカに対する先ほどの態度はあからさまだ。もう少し気を付けろ」

 変えられた先の話題は、露骨にセリカが治癒魔法を使おうとするのを避けたことについてだった。その口ぶりは、彼が何故そうしたか理解しているようなそれだったから、自然と彼は口を開き、彼女に呼びかけた。

「なぁ、ココノエ」

 返るのは「何だ」という短い返事のみ。それが耳に届くと、彼は少しだけ間を開けて、問う。

「――セリカはまだ、治癒魔法が『使える』のか?」

 返事が来るまでに、今度は僅かに時間を要した。そして彼女は目を伏せ、深い溜息を吐く。

 ラグナの腕に繋げたコード類に触れ、外しながら、ゆっくりと彼女は答えを紡いだ。

「先に言っておく。現状セリカが『存在』出来ていること自体、私でも理解不能だ。それを踏まえて言うなら……」

 重傷レベル、もしくはそれに匹敵する規模の『魔力』を使用すれば最悪その場で、良くても数日以内に、セリカは確実に『消滅』する。

 その台詞に、意外にもラグナは驚いた様子を見せなかった。胸中では多少の驚きがあったかもしれないけれどラグナもそれを察していたらしく『やはり』という気持ちの方が強かった。

 彼女は『刻の幻影(クロノファンタズマ)』だ。本来この時間軸には存在しない者であり、魔素を浄化する力と、クシナダの楔の起動を目的にココノエが魂を複製、この世界に用意した器へ定着させた存在。

 それがこの『エンブリオ』という生まれたばかりの不安定な世界で、そんな不安定で弱い存在がどうやって存在しているかなんて到底理解できるはずもなかった。

「……あいつには、そのことを言ってるのか?」

「言って聞くと思うか? それにあいつも一応『魔術師』だ。自分でも薄々気付いているはずだ」 

 ラグナの問いに、首を振るでもなく伝える言葉。けれどそれだけで答えは十分だった。彼女だって馬鹿じゃないことはラグナも分かっている。だから、ココノエの言葉に短く「そうか」と返すことしかラグナにはできなかった。

 

「おかえりラグナ。ココノエさん、ラグナ、どうだった?」

「心配するな。イデア機関を調整しておいた。これで蒼の魔道書による自己回復も促せるだろう」

 カグラの執務室へと上がって来た二人を見て、セリカが駆け寄る。信頼半分、心配半分で問いかける少女に笑むこともなく淡々とココノエが答えれば、彼女は顔を明るくして頷いた。そこに声をかけるのはレイチェルで、肩にかかった髪を軽く払うと、静かにココノエへ問う。

「それで? イザナミとマスターユニットの件について何かアテがありそうな物言いだったけれど、そろそろ話してもらえるかしら?」

「まぁ待て。今カグラが『もう一人』を呼びに行っている」

 レイチェルの言葉に手の平を突き出すことで待つのを呼びかけると、ラグナが代わりに首を傾ける。もう一人とは誰のことだ、と。それを声で言い切るより早く、遮るようにノック音が響いた。噂をすれば、とココノエが呟く。

「……し、失礼します」

 現れたのは、グリーンの目の端を不安げに下げた少女だった。金のロングヘアを揺らし、身を縮めながら入室する彼女、ノエルの名をラグナとセリカが驚いたように呼ぶ。ノエルが目を見開き、硬直した。そしてレイチェルは何か納得したように腕を組み、頷く。

「なるほど、道理で。どこにも姿が見えないと思ったら、貴女が隠していたのね、ココノエ」

 扉がぱたりと閉まると同時、レイチェルが紡ぐ。そうだ。ラグナも探していたこの少女の居場所は、ココノエの結界によって厳重に隠され、守られていた。例えツバキ=ヤヨイが持つ十六夜の力があろうとノエルの存在は見えなかったはずだし、加えて情報の扱いも徹底していた。ノエルがこの支部に居たことを知るのはカグラとココノエだけだとどこか得意げに語るのはカグラ。

「じゃあイザナミやナインにも、それに他の資格者にもノエルの居所はバレてないってことか」

 相手が相手だから確実ではないはずだけれど、と付け足したうえで首肯するココノエ。けれどそれに、それでも十分時間は稼げたはずだと続けるカグラの紫の瞳が硬直したままのノエルを振り返る。

「し、死神……なんで死神がこの支部に……!?」

 今更な言葉ではあったけれど、驚きばかりが勝っていたためやっと今状況を整理できた。彼女の言葉に、ラグナが訳が分からないとばかりに眉根を寄せる。死神なんて呼び方しなくても、彼女はラグナの名前を知っているはずだし、それに記憶も皆戻っているはずなのに……。

「無駄だ。我々と違い、ノエル=ヴァーミリオンの記憶は未だ歪んだままだ」

 ラグナがどういう事だと問うけれど、それについてはココノエも原因不明だと答えた。彼女にも、何故ノエルだけが記憶を取り戻せていないのか分からなかったけれど、ただ一つ分かっているのは、この場でノエル=ヴァーミリオンのみがマスターユニットの影響を受けていないということだった。

 理解が追い付くことのできない話だけれど、自身の名が出たということだけは分かって、ノエルは縋るような気持ちでカグラの横顔を見上げた。視線に気付き、カグラが優しく笑みを見せる。

「お前は何も心配するな。そのうち分かるさ」

「……話を進めるぞ。エンブリオ内で歪められた我々の記憶は、この世界にマスターユニットが姿を現した瞬間、融合を果たした」

 まるで、複数の事象が一つに統合されたかのように。

 ノエルがぎこちなく頷くのを尻目にココノエが話を続けると、それに合わせてレイチェルが続ける。

「だけどノエルだけは、その影響を受けていない……。だとするなら答えはただひとつね。この世界は、ノエルの願望によって構築されているのよ」

 誰かの願望によって記憶が改竄(かいざん)されたのであれば、マスターユニットが現れた時点で皆と同じように記憶が戻るはずだ。けれどノエルの願望によってこの世界が創られたのであれば、それに一番順応でき、且つ、干渉力が一番高いのもノエルのはずだと。

「マジかよ。だったら今のこいつを連れてっても……」

 顎に手を添え俯くラグナに視線が集まる。彼が何の話をしているのか誰にも分からなかったからだ。視線に気付き、ラグナが顔を上げて緩く首を振る。

「いや、何でもねぇ。話を続けてくれ」

「ふむ、そうだな。では全員揃ったところで、例の話を始めるとしよう。カグラ、頼む」

 ラグナが自然とココノエを見つめ話の続きを促せば彼女は頷き、彼からカグラへと視線を移す。カグラもまた彼女の言葉を受けて首肯し、周りの面々を見ると静かに語り出した。

「先の事象干渉については各々知っての通りだが、俺とココノエは密かにその原因について調査をしていた」

「原因って……マスターユニットだろ?」

 カグラの声に、ラグナがすぐさま問いかける。調査も何も、原因はマスターユニットであることは分かりきっているのに、何を今更……とでも言うように。それにカグラが手の平を目の前に突き出し、話は最後まで聞けと告げると。

「確かに、状況から考えてマスターユニット……いや、その『中に存在する』と考えられる少女が事象干渉を起こした……当然その線で俺達も情報を追っていた」

 が、カグラ曰く。各都市に設置した魔素濃度計測器により測定を行ったところ、なかなか面白い事実が判明したという。

 マスターユニットが出現した直後に起こった事象干渉と、その後二度起きたものとでは決定的に魔素推移に差が出た。それはつまり、

「最初の事象干渉と、その後起きた事象干渉は発生源が異なる……」

 レイチェルが呟く声にカグラが指を鳴らす。その通りだ、と言葉が紡がれ、口角が持ち上がる。レイチェルは考えが当たったことにも、彼の表情にも笑みを浮かべることなく、短く「そう」と返すだけだったが。

「……出現した直後の干渉にマスターユニットが関わっていることは分かりきっている。問題はマスターユニットのものとは異なる、二度の干渉だ」

 二人の会話に咳払いを一つすれば、僅かに肩を揺らして皆がココノエに再び視線を向ける。話が逸れないうちに再び彼女は口を開く。

 マスターユニットの観測下にあるこのエンブリオで、一体誰があれほど大規模な事象干渉を起こせるのか。考えてみれば、その人物については皆『知って』いた。

 大魔導士ナイン。彼女は既に一度、巨大な事象干渉を起こしてみせた。

 ならば、どうやって。マスターユニットという神に観測されている世界だ。例えタカマガハラシステムであっても、蒼を持たないそれはマスターユニットに勝てるほどの力などないはずだ。

 瞳を戸惑いに揺らすレイチェル。やがて数秒の間を置き、息を吸う音が響いた。

「私はかつて、母……十聖ナインの研究資料を見たことがある」

 語るのは、ココノエ。絞り出すような、いつもの彼女らしくない重い声が紡ぐ。部屋に居た誰もがそれに首を傾けながらも、嫌な気配を感じて冷や汗を浮かべた。

「その研究資料には、何が書いてあったんだ?」

 カグラが問いかける。ここで言うということは、今の話に関係があるのだろうとして。普段であればきっぱりと、そしてすぐに答える彼女はやはり少しだけ間を置いた。

「……まだ構想段階の代物ではあったが……そこには、十一番目のアークエネミーを想起させる記述があった」

 そうして語られる内容に、皆が目を見開く。最初に声をあげたのはラグナだった。

 十一番目のアークエネミー。そんなもの、聞いたことがないと。

「当然だ。が見つけたそれは暗黒大戦の直後に……開発されていたのだからな」

 本来、アークエネミーとは黒き獣を倒すために製作されたものだ。そして、暗黒大戦が終わると共に回収された。けれど、その直後に開発されたのであれば、誰も知るはずがない。

 セリカが胸で手を握り、眉尻を下げた。

「そんな……黒き獣を倒した後に、どうしてお姉ちゃんがアークエネミーを……?」

 困惑に声を震わせる少女へ、ココノエは一切声音を変えないで、今度はあっさりと答えた。

「『それ』の力が、マスターユニットにも匹敵する事象干渉だとすれば……そこから導き出される答えは一つだ」

 気付いたのか、とレイチェルが漏らす。

 この世界の仕組み。マスターユニットの観測から逃れるには、神をも凌(しの)ぐ新たな神が必要だ。そして、マスターユニットは強大な力を持っているが、それでもマスターユニットに匹敵するシステム『タカマガハラ』が前例にある。ならば、それに匹敵するシステムを作ることは、容易ではなくとも不可能ではない。

 だから彼女は『それ』を作った。

 けれど『それ』は使われる事なく、ナインは境界へと堕とされた。故のこの『タイミング』だった。

「……ああ。イザナミによって境界から引き揚げられ、百年近い時間を経て、母はようやく起動させたというわけだ」

 十一番目のアークエネミー。『骸葬(がいそう)・レクイエム』を。

 そしてこれこそが、ココノエがラグナに手を貸すと決めた理由であった。それを告白されれば、ラグナはまたも驚きに声を漏らす。

 まさか、彼女は自身にアークエネミーを破壊しろとでも言うのではないか。そんな予感に、ラグナは一歩退けた。いくらブレイブルーであっても、アークエネミーの破壊は相当難しい。

「何も破壊しろと言うわけではない。それが難しいことなど十分に理解している」

 ならば何をさせるつもりなのだとラグナは思う。警戒した様子の彼にココノエが溜息を吐いた。

「お前はレクイエムを『二度と起動できない』ようにしてくれればいい」

 つまりはアークエネミーの『コア』を使い物にならなくすればいいのだ。アークエネミーの『コア』が何でできているかなど、ここに居る全員が知っていた。

 ……魂だ。

「なるほど、『コア』だけをブレイブルーで破壊しろってことか。それならいけそうだな」

 ブレイブルーの力であり、ラグナのドライブである『ソウルイーター』で魂を喰らえば、コアの破壊くらいはできるはずだ。けれど、ふとラグナがあることに気付いて「でも」と問う。

「でもよ。その『レクイエム』とやらはあのナインが持ってるんだろ。それだけでも難易度高ぇんだけど……」

 ナインがそれを使って事象干渉を起こしたのであれば、ナインの手元にあるはずだと考え、ラグナが問う。ナインの強さと賢さについてはラグナは身をもって体験しているし、そこに辿り着くまでで十分に骨の折れる作業になるのではと。

「それについては……断言はできないが、レクイエムはナインの手元には『ない』と考えている」

 しかしラグナの問いに否定で返しココノエは首を振った。ならばその根拠は。更に問いを重ねる彼。首を傾ける彼からふいと視線を逸らし、ココノエはゆっくりと猫のように瞬きをして、

「レクイエムは、ナインの工房にあるからだ」

「ん? それ当たり前なんじゃね? 寧ろナインが居る確率の方が高くねぇか?」

 ナインの工房というのが文字通りの意味を持つのであれば、ナインの所有する場所。ナインの居城ということになる。なのに何故そこに彼女が居ないと言えるのか、ラグナには分からなかった。けれど、その疑問はすぐに解決することとなる。

 ナインの工房は、第七機関の真下にある。そう告白されたからだ。

「正確に言えば、第七機関の施設は『大魔道士・ナイン』の工房の真上に建造した。この私がな」

 親指で自身を指差し、ココノエが告げる。そして緩やかに再び首を振ると俯いた。二本の尾が淑やかに揺らめく。

「いや、建造という言葉も適切ではないな。『封印』だ。十一番目の事象兵器を誰にも使わせないために、私は母の工房を『封印』した」

 もっとも、彼女自身、工房への入り口を見つけただけで中に足を踏み入れることはなかったらしいが。否、入れなかったという。

 語り、彼女は顔を上げると部屋の面々を改めて見る。

「だが、工房の入り口の監視は完璧だ。私の目を盗んでの侵入は不可能な『はず』だ……」

 ココノエにしては珍しく曖昧で弱気な発言をして言う。彼女らしさの欠如に、それを聞いていたレイチェルも思い、そして不安を瞳に宿した。彼女の思うところをココノエも理解したのだろう、少しだけ眉尻を下げる。

「相手はあの『ナイン』だ。しかも何らかの方法でレクイエムを起動させた。断言などおいそれとできるものではない」

 言われてみれば確かにそうだと、皆が納得の色を見せる。ラグナもその一人であり、状況を理解したところで彼はまた問う。第七機関はどこにあるのか、と。言うべきか悩んだのか、それとも別の理由があったのか、ココノエは黙り込んだ。沈黙が部屋に広がる。けれど、結局は言わねばならないことだと頷いて、その静けさをココノエが裂いた。とても、小さな声で。

「…………日本だ」

 日本。かつて、黒き獣が生まれた場所。黒き獣により最初に滅ぼされた場所であり、各国の首脳によって核兵器を投下され、かつての面影を失くしてしまった場所。

「おいおいおいおい、まさか……!」

 何か、思い当たるところがあったのだろう。顔を強張らせ声をあげるラグナに、やがてセリカも気付いたらしい。あっと声を漏らす。

「もしかして、私のお父さんの……工房?」

 セリカ……セリカ=A=マーキュリーの父であるシュウイチロウ=アヤツキの工房。ココノエが僅かに顎を引いて答えた。

 この世界で、初めて黒き獣が出現した場所。そこに第七機関があると。

 セリカがその言葉を聞いて黙り込む。彼女の父がしてしまった事を、黒き獣を生んでしまったということを思い出して。胸に置いた手をぎゅっと握り締め、俯く。そんな少女を見兼ねてか、黙っていたカグラがここにきて再び口を開いた。

「とにかくだ。そのレクイエムとやらを起動不能にすればナインの干渉は止められるんだよな?」

 肩にかかった横髪を鬱陶しげに払って、ココノエが首肯する。それならば、とカグラもまた頷きで返すと、カグラは語った。まだマスターユニットの問題は残っているけれどナインの事象干渉をどうにかしないことには先に進めない。ならば、成功すれば少なくとも一歩前進できると。

「ち、ちょっと待って。でもその、お姉ちゃんの工房って日本にあるんだよね? ここから日本って、ものすごく遠いけど……」

 ヤビコは、昔の分け方で言えばヨーロッパの辺りで、日本とは正反対だ。そこから日本までは巨大な大陸を横断し、更に海を渡って行かなければならない。セリカは一度、日本まで行った事がある。真っ当な手段で行けば移動時間だって馬鹿にならないことは知っていた。

 だから時間のない今、どうやってそこまで辿り着くのかと心配した様子のセリカに、それについては心配には及ばないとココノエが告げる。

「既に手は打ってある。……テイガー、そっちの状況はどうだ」

 そう言って彼女は不意に白衣の胸ポケットから通信機を取り出すと、耳に当て話しかける。通信先は彼女が名前を呼んだ通り、第七機関の赤鬼テイガーだ。

「こちらテイガー。転移装置の設置は既に完了した。座標の固定もあと数時間で終わる見込みだ」

 聞き慣れた低い声が応答し、報告する。それを受けて満足げに彼女は頷いた。

「ご苦労だ。明朝、そちらへ『飛ぶ』ぞ。それまでに準備を終わらせておけ」

 そうして下される指示に、テイガーは短く事務的に『了解』とだけ告げ、そしてココノエが通信を切断する。それから視線を再び皆へ向け、彼女は再び話し出す。

「と、いうわけだ。あとは閉ざされた工房の入り口をこじ開け、ブレイブルーを使い、レクイエムを起動不能にするだけだ」

 そう簡単に言ってはみるが、当然、相手もただで壊させるとは思えない。ならばそれなりの心構えで行く必要がある。カグラが続けるようにしてそう言うと同時。緊張する空気の中、ここに居る誰のものとも違う声が、静かに響いた。

「――貴様らだけでは、不可能だ」

 開く扉。現れるのは、細身の青年。煌めく金の頭髪と、氷の刃のようなグリーンの眼光。部屋に一歩踏み入るのは、ジン=キサラギ、その人であった。

「キサラギ大尉……!?」

「二度と僕を『大尉』と呼ぶな……屑め」

 ノエルがジンの階級を『大尉』と呼んだ瞬間、いつも鋭い目つきが更に不快に細められる。ノエルを睨み付け、彼は静かに罵った。

 ノエルの記憶は未だ歪められたままだ。ジン=キサラギではなくカグラ=ムツキがイカルガの英雄となった記憶を持つ彼女に、ジンがテンジョウを打ち倒したことにより二階級特進した記憶などなかった。

 けれど、彼もまた彼女の事情など知るはずもなく、何より自身の妹に酷似した彼女に普段からとてつもない苛立ちを抱えていた。そこで更に神経を逆撫でされるような台詞を吐かれれば、強くも当たってしまう。

 ジンのあまりの態度に、ノエルは驚きとも悲しみとも取れる表情を浮かべて何も言えなくなってしまった。

「よりにもよってあのハザマと同じ階級だとは……吐き気がする」

「お前、全国の大尉とヒビキに謝れ」

 眉を顰め吐き捨てるジンへ、カグラが呆れたように言う。ハザマと同じ階級であることに吐き気がすると言うが、それだとカグラの秘書であるヒビキや、他の大尉が可哀想ではないかと。けれどそれにジンは何を返すでもなく、ただ鼻を鳴らして子供のようにそっぽを向くのみだ。

 溜息を吐くカグラ、それを他所にしてふとラグナが口を開いた。

「なんで師匠が……しかも、ジンと一緒に」

 その声により、皆の視線が一斉にラグナへ集まり、そしてラグナの言葉を確かめるようにジンの傍へと視線を移す。ココノエが、露骨に顔を強張らせた。

「……何故貴様がここに居る?」

 貴様、と呼ばれたのはジンの傍らに立つ人物だ。体型は小柄というよりも『小さい』と言った方が適切で、被ったフードは三角の耳らしきものがピンと立ち、丈の長い服の裾から覗く脚の白色は体毛によるもので、明らかに人間の形はしていない。猫の獣人、獣兵衛だった。

 彼は、ココノエが自身に気付いた途端に眉を顰めるのを見て、大きな目を細め苦く笑った。

「そう邪険にするな。今は少しでも助っ人が必要だろう?」

「いや、必要ない」

 諭すような獣兵衛の言葉にも頑なに首を振るココノエ。あからさまに獣兵衛を嫌っているのが端から見ても分かるその態度に、しかし慣れたことのように獣兵衛は指摘することもなく。

「相変わらずだな。その頑固さは母親に似たのか。だが話を聞いてからでも遅くないと思うぞ」

 どこか寂しげに、けれどまるで父が娘を見るような愛しげな眼差しで見つめながら言うけれど、それでも彼女は一切聞く耳を持たないという様子で顔を逸らした。

「そんな言い方しないで、ココノエさん。お父さんのお話なんだからちゃんと聞いてあげようよ」

 このままじゃ埒が明かないと思ったのか、ココノエに話しかけるのはセリカだ。ココノエが獣兵衛を嫌う理由は知らないけれど、それでも娘が父を嫌うなんて悲しいし、彼がここに来た理由だって知りたかったから。

 そう、獣兵衛はココノエの父親だった。もっとも、彼女はそれを認めたがらないようだったが。

「セリカ、お前なぁ……」

 いくら自身が目的のために魂を複製しただけの存在だったとしても、彼女の優しくも真剣な声に、ココノエも少しばかり反論を渋ってしまう。

「分かった。こんなことで無駄な時間を食っている暇はない。今はナインの工房に入る方法だ」

 結局、深く溜息を吐き、渋々ではあるがココノエが話を聞く姿勢を見せた。

 鋭く睨み付けるようにして、彼女はやはり声に怒りを滲ませながらもその感情に声が震えないようにしながら獣兵衛を見据え、静かに問いかける。

「何故、私達だけで工房に入るのが不可能だと言い切れる?」

「俺とナインが『封印結界』を構築したからだ。仮にハクメンでも、そう簡単には侵入できない」

 意外そうに、ココノエが目を見開く。まさか、彼女……ナインが、いくら愛する旦那とはいえその研究を知らせ、協力し、結界を構築したなどと信じられなかったからだ。けれどここで嘘を言うとは到底思えず、彼女は話の続きを促す。

「工房への入り口は、俺の『六三四』を使って時空間を『ズラして』ある。『鍵』を使わなければ、絶対に侵入はできない。それだけは断言できるぞ」

 けれどそれも長くはもたず、彼女は舌を打って怒鳴りつけた。

 何が『断言できる』だ、と。鍵についてこの発言で語らなかったのが、彼女には勿体ぶっているように聞こえたのだろう。彼女の剣幕に苦笑して、セリカが宥めるも、二本の尾を膨らませた彼女は呼吸を荒くしたままだ。

「必要なものは三つある。『強大な魔力』と、そして『ナインの血』……」

「マジかよ。んなもん今からじゃ手に入れようがねぇぞ。手詰まりじゃねぇか」

 獣兵衛が三つめを言い切るのを遮って、ラグナが口を挟む。強大な魔力を持つ仲間などいないし、敵であるナインの血など手に入れることだってできるはずもない。

 けれど、ココノエはそれに驚くことも、ましてや危機感を抱くことすらもしない。

「やはりか……」

 呟く女に、獣兵衛が代わりに隻眼を丸く開いた。やはり、という台詞が出たということは、彼女は知っていたのかと。問えば、ココノエはやはり厳しい声音と共に頷く。

「当然だ。それなりの調査はさせてもらった。あの工房を見つけてから封印するまでの間、私がただ手をこまねいて見ていただけとでも思ったか?」

 ある程度の調査はしてそれくらいは知っていたという風に言って、彼女は顎に手を添える。僅かに顎を引いて俯くような姿勢になると、彼女は静かな声で再び口を開く。

「だが、扉の鍵となる要素が判明しても、当時の私には開ける術がなかった」

 彼女の身体には獣人の血が混ざっている。どれだけ遺伝子情報を弄っても『ナイン』の血にはなりえない。語る言葉の一部に、ラグナが反応し首を傾げた。

 当時の、と彼女は語ったけれど、それは今も同じで、ナインの血にはなり得ないのではと。

「……セリカか」

 そう漏らしたのは、カグラだ。アメジストの瞳でセリカを一瞥する彼に、セリカが間抜けた声を漏らす。突然自身の名が挙がったのが意外だったのだろう。自身のことかと確かめるように自身を人差し指で指差し、尋ねるセリカ。

「そうだ。お前の身体を構成する要素は、流れる血も含めて本物のセリカ=A=マーキュリーと何一つ変わらないように作られている」

 つまりナインと姉妹であり、同じ父親と母親の遺伝子を引き継いでいるセリカこそ、血液に含まれる情報が最もナインと酷似する人物であると、ポケットから棒つきのキャンディを取り出し咥えながらココノエは語る。

 とはいえ、血液内の何を元に封印が解除されるのかによって結果は大きく異なるだろうけれど、と付け足して。

「それでだ。鍵に含まれる要素は判ったが、三つめは何だ。大方、先の二つを組み合わせて鍵とする『式』といったところだろうが……」

 そしてココノエは獣兵衛を再び見下ろし、問う。

 残念なことに、それだけは……鍵を作るための式だけは、彼女があらゆるデータを参照しても答えを導き出すことができなかったのだと。

「いい加減、教えてもらうぞ。工房の鍵を構成する最後のひとつは……『式』は何だ?」

 ココノエの問いに、獣兵衛は俯いて黙り込む。それが焦らされているように感じて、チリチリとココノエの苛立ちが燃え上がり始める。けれどそれでも彼女はその感情を抑え、獣兵衛を睨みつけながら答えを待った。

「……錬金術だ」

 錬金術とは、簡単に言えば魂などをより完全な存在に錬成するための術だ。

 一応は『科学技術』となっているし、そこら中で使われる『術式』という技術の基盤にもなっているけれど、その技術自体を扱える者は殆どおらず、失われて久しい過去の遺物と呼べるものだった。

「『強力な魔力』と『ナインの血』。それらを融合させて鍵を作り、ずれた空間を繋ぎ合わせる。それには、魔法ではなく錬金術の知識と技が必要だ」

 語る獣兵衛、カグラが聞き慣れない単語故に、簡単に「できるか」などとココノエに問えば、彼女は首を振る。彼女は確かに魔法は多少なりとも扱えるし、科学の方であれば専門分野だったけれど、錬金術は普通の科学とはまた違う技術だ。

「待て、錬金術だと?」

 眉根を寄せ必死に何か策はないかと考えるココノエであったが、不意にそう口から漏らす。ずり落ちそうになる眼鏡を持ち上げ、彼女は獣兵衛の隣に未だ佇む人物へと視線を移した。そして、ひどく顔を顰めた後、呟く。

「……そのための、ジン=キサラギか」

 訳が分からないといった様子で、カグラとラグナ、そしてセリカは首を傾ける。理解していないのはその三人だけのようだった。一体どういうことか説明しろと問うのはラグナだ。

「ラグナ。それは『彼女』に直接聞いたらどうかしら」

 応えるのはレイチェル。二つに括った髪とたおやかなドレスを緩やかに翻して、ジンキサラギに……正確にはその背後へ視線を向けた。

 レイチェルの口ぶりだと、まるでココノエ以外に聞けと言っているようで、他に誰か居るのかと自然とレイチェルの視線の先を追いかける。けれど、そこには『彼女』と呼ばれるような人影はなく。ラグナが眉根を寄せるのと同時。

「隠れていないで、出て来たらどうかしら。貴女もそのつもりでここに来たのでしょう?」

 ……白金の錬金術師(プラチナ=ザ=トリニティ)。

 レイチェルが呆れに溜息を吐いて、その名を呼んだ瞬間だった。ジンの傍らに、何かが浮かび上がる。それは最初白い靄のようなものだったけれど、だんだんと形をはっきりさせていき、最後には、白いローブを纏った女の形をとった。

 向こう側が透けて見える半透明の女は、すっぽりと被ったフードからプラチナブロンドの柔らかな髪を覗かせていた。

「トリニティさん……!」

 驚きからあがるセリカの声に、トリニティは僅かに俯けていた顔を持ち上げる。フードの下から覗く瞳は聡明さを感じさせながら、どこかに悲しみを湛えたグリーンだ。六英雄が二人も集まった事実に、何よりその二人が自身らに協力すると言い出したことに、カグラは驚きを隠せない。

「レイチェルさんの言う通り……私は皆さんの力になりたくて、獣兵衛さんとジンさんにここまで連れて来ていただきました」

 ナインを……親友を止めるため。語るトリニティへココノエは「やはりか」と漏らすと、尋ねる。ユキアネサに憑いていた彼女に、実体はない。その状態で何ができるというのかと。

「ご心配には及びません。確かに私には実体がありませんが、錬金術に関する知識ならあります」

 寂しげに微笑んで、透けた自身の身体を見下ろし告げる。けれど言い終えてから、彼女はココノエを見つめると、「ですが」と付け足した。

「錬金術は、術式の基盤の一部です。ココノエさんも、気付いていたのではないですか? 鍵を精錬するには錬金術が必要だと」

 ココノエはそれには答えない。顔を逸らす女に、余計な詮索だったかと苦笑してトリニティもまた黙り込むと、ココノエは鼻を鳴らした。

「……ふん。それでだが……その方法で仮に鍵を開けられたとしよう。しかし、それで本当に扉は開くのか?」

 話を本題に戻し、彼女は人差し指を立てる。ココノエの懸念はそこだった。

 工房の主は『あの』大魔道士ナインだ。彼女が獣兵衛を出し抜いている可能性がある。寧ろ、出し抜いていない保証などどこにあるのかと。

「断言しよう。母様は別に封を掛けている。その時はどうするつもりだ」

 行くのが嫌なわけでも、ましてや問題点を並べ立てたいわけでもない。ただ彼女は常に最悪の事態を想定し、でき得る限りの完璧な状態で赴くことを理想としている。何より、自身の母親のことは彼女自身が理解していたからの言葉だった。

 それを獣兵衛も知っていたからだろう、特にその台詞に対して顔を顰めるようなこともなく口を開いた。

「その時は……俺がこの刀を使おう」

 そう言って鞘ごと抜いて見せたのは、刀。ただの刀ではなく、それもまた事象兵器。

 ナインの工房と外の時空間をズラすことにも使われたそれ、アークエネミー『無刀・六三四』は斬れないものを斬ることができる刀だった。

 それならば、同じ力ずくでも多少はマシだろうと首を傾げる獣兵衛だったが、皮肉るようにココノエは一言だけ返す。その刀を創ったのも母様だと。

 皮肉半分、それすらも見越されている可能性を考えているのが半分。

 ココノエの台詞に少しだけ悲しげな顔を浮かべる獣兵衛。話が逸れぬうちにカグラが口を開く。

「話を整理するぞ。とにかくジンジンが一緒に行けば、扉を開けられる可能性があるんだな?」

 ジンジンというのは、言わずもがなジン=キサラギのあだ名である。もっとも、ジン本人は気に入っていないし、そのあだ名で呼ぶことを誰にも許可はしていないのだが。呼ばれる度に舌を打つほどであったけれど、今回ばかりは反応することも止めて、ジンは首肯する。

「それに、戦力は少しでも多い方が良いだろう? 俺とジンならば、今のラグナよりはよほど戦えるはずだぞ」

 彼が頷くのと同時、獣兵衛もまた顎を引き、そう語る。比べられたラグナが顔を顰めた。

「だが、ジン。テメェが協力するなんて、どういう風の吹き回しだ?」

 彼が人と協力することなど滅多にない。彼は何かと一人で背負い込み、一人で解決しようとすることばかりで、その頑固さに度々周りも手を焼いていたほどだ。それが、どういうわけか獣兵衛と一緒にラグナ達へ協力すると言い出したのだから、ラグナは相手が実の弟でありながらも警戒せざるを得なかった。

「……別に、大した理由はない」

 けれど、問われた側のジンは素っ気なく返し顔を逸らす。そのまま、小さく「ただ」と付け足すのが聞こえ、ラグナが首を傾けると、

「ただ……イザナミも、ナインも邪魔なんだよ。言ったろ? 兄さんを殺すのは……この僕だ」

 呆れのような、安心のような。それらがない混ぜになった感情がラグナの胸の内を占める。やはり彼は彼だった。兄である自身を、執拗に殺そうとする弟。それを馬鹿だと思うことも、今更怖いと思うこともないけれど。

「思いがけず大所帯になっちまったが、決まりだな。明朝、このメンバーで出発してもらう」

 持ち上げた腕を組んで、カグラが話を纏めるようにして告げる。出発して『もらう』というのは、カグラはそこに同行しないからだ。

 彼がヤビコを離れれば現帝であるホムラ達と連絡が取れなくなってしまう。そちらはそちらで大変らしく、また、各都市の維持に影響が出るのは更なる面倒事を引き起こすことになる。それだけは避けたい事態だった。

「そういうわけだ。すまないが、後はお前らに託すぞ」

 

 

 

   1

 

 ヤビコ支部で借りた一室にて、彼女はベッドに気怠げに腰を下ろすと、深く溜息を吐き天井を仰いだ。術式陣から齎される白い光に片手を透かしながら、彼女は呟く。

「また変なことになってきちゃったなぁ……。一体どうなってるんだろう」

 イカルガの英雄であるはずのカグラ=ムツキは第七機関のココノエ博士と手を組んでいて、カグツチに居たはずの死神までヤビコの支部に来ていて、しかもカグラ達と死神は元々顔見知りだったうえに、死神とジン=キサラギは兄弟で、大尉だと思っていたそのジンが本当はイカルガの英雄として少佐になっていて。

 声に出すことで整理しようとしてみるけれど逆に頭の中がぐちゃぐちゃになってきた気がする。

 皆の話が確かなのであれば自身も記憶を失くしているはずだが……だったら、自身も死神を知っていたのだろうか。考えれば、思い出す名前。『ラグナ』。それが彼の名前だったはずだ。

 この世界で彼女がラグナと初めて会ったのは、カグツチの下水道。そこで守られて、次に会ったのはやはりカグツチの牢だ。ハザマと名乗る諜報部の男を案内する形で。

「そういえば、ハザマ大尉と一緒にいたあの子……ユリシアちゃん、だったっけ」

 別に気にする必要もないはずだけれど、何故だかあの少女に懐かしさを覚える彼女がいた。

 どうしているのだろう、確かハザマは敵だと伝えられたけれど、あの子は何か危険な目に合っていないだろうか。

 考えていれば、それを遮るようにノック音が鳴って、彼女は思わず肩を跳ねさせる。

「俺だ。……今、ちょっといいか?」

 扉の方に顔を向けると同時、部屋の向こう側から聞こえる声。それはラグナのもので、彼女はますます驚いたように目を見開いた。

「悪ぃが、ちょっとだけ付き合ってくれねぇか。時間はそんなにかからないと思うから、頼むわ」

 無言を肯定だと受け取ったのか、告げられる言葉。何をするつもりなのかよく分からなかったけれど、彼が死神だということを忘れてしまうほどに彼の声に悪意がないことを感じ取って、彼女は恐る恐るではあったけれど返事をして、立ち上がる。

 扉の方へ歩み寄り、扉を開けると、丁度すぐ隣に彼が居て小さく悲鳴をあげるノエル。

「よぉ……こん時間に、悪ぃな。」

「い、いえ。でも、突然どうしたんですか?」

 それでも平静を装って、彼女は謝る彼に首を振る。けれど、眠れなくてお話をしに来たというにはあまりにも真剣な表情をしている彼に少しだけ不安になって彼女は問いかけた。

「説明してる時間もあまりないんだ。悪いが何も聞かずに着いて来てくれ」

 けれどその問いに答えることもなく言うだけ言ってラグナは進みだした。引き留めることもできず、ノエルもまたラグナを追いかけるように足を動かした。

 けれど、向かっている場所がどこなのか、やがてノエルは気付き不安にラグナの頭を見上げる。

「あの……この辺、多分立ち入り禁止区画ですよ。ムツキ大佐にバレたら……」

 これは、この道は。地下……窯のある機密区域への道ではないか。辺りを首を回して見ながら言う彼女に、ラグナは応えない。聞いているのか、と思わず問おうとするノエルに、不意にラグナが首だけを振り返らせた。

「なあ、ノエル。……お前の願望は何だ?」

 何を言うのかと思えば、問い。自身の言葉には答えないくせに、とノエルは少しムッとしながらも「突然何ですか」と問えば、彼は立ち止まる。ぶつかりそうになる一歩手前で立ち止まるノエルに、彼は更に問いかけた。

「ないのかよ、願望」

 ノエルだって、願望がないわけではない。人並みに願望は持っているつもりだった。

 けれど、聞いた話が本当であれば自身の願望によって世界が創られているらしいだとか、それを知ってどうするのだろうだとか、色々考えてしまって、なかなか答えるに至らない。

 それでも聞かれれば自身の願望は何だろうと改めて考えてしまうわけで。彼女は顔を俯けると、

「『普通』の、幸せな暮らし……。皆が笑っていられる世界。それが多分、私の願望だと思います」

 確かにそのはずだけれど、少しだけ曖昧に答えるノエル。が、せっかく答えたというのに、返るのは「そうか」という一言だけで、ノエルは顔を上げた。聞いておいて、それだけなのかと。

 ノエルが問いに口を開く。

「叶うといいな、その願望」

 けれどノエルが言葉にするより早くラグナがどこか憂いを帯びた声で言うものだから、すっかり問う気力を失ってしまって、目を丸くしながら頷くことしかできなかった。

「着いたぞ、ここだ」

 そう言って、扉を押し開けて覗く部屋の中を指すラグナに、ノエルは俯きかけていた顔を持ち上げ、その部屋の中を見て――声を漏らした。

「……え」

 そこは、窯だった。ドーム状の空間の中央は柵で丸く囲われ、白い翼のような扉が重なるようにして閉じた穴が、柵の内側にあった。設備自体は前に来たカグツチのそれとは違うけれど、魔素の濃さも、何かに吸い込まれそうなこの感覚も同じ。正しく、窯だ。

 各階層都市の地下、中心部に必ずあるとされる窯。来た道が正しければ、ここはヤビコの最下層のはずで……。

「悪いな、遅くなった」

「へ……?」

 何故こんなところに連れて来られたのだろうだとか、そんな考えを巡らせながら、進むラグナから離れないよう着いて行くと。不意にラグナが声を発して、彼女は首を傾ける。ここには自身とラグナ以外に人の気配がしないのに、何故かラグナの声は自身に向けられているものではなく感じて、仮に自分に向けられていたとしても「遅くなった」という言葉の意味が理解できなくて。

「ありがとうございます、ラグナさん。その子を連れて来てくれたんですね」

 その声は、とても耳に馴染む……というよりは、ひどく聞き慣れた声だった。他人のものであればいくら親しい人物でもここまではいかない。中高音のその声は、

「この声……まさか、私……?」

 自身の声を聞き間違えるはずもない。自身はあんな言葉を発していないけれど、自身の声以外の何物でもないそれを聞いて、ノエルは不安に辺りを見回した。そして、見つける。何故気付かなかったのか、すぐ目の前の窯の近くに『彼女』は浮かんでいた。

 顔の造形から髪の色、姿形が何一つ変わらない。変わるとしたら、瞳がグリーンではなく深い青をしているのと、胸元までのケープと露出の多い服装に身を包んでいること、そして自身と違いその姿は向こう側が透けて見えることくらいか。

 あまりに酷似したその姿に、一瞬彼女は自身まで透けていないかと自身の身体を一瞬だけ見下ろして確かめてしまうほどだ。

「これでノエルとお前が一つになれば、何か思い出せるのか?」

「はい、そうだと思います」

 ラグナの問いに、ノエルと酷似したその少女――ミューは頷いた。けれど、その会話の意味するところをノエルは理解できず、眉尻を下げながら首を傾けていると。ラグナに手招きをされて、彼女は恐る恐る近寄る。

「……貴女は、誰なの……?」

 近寄ってすぐ、口にしたのはそれだ。自然と声が震えてしまうのをノエルは感じながらも問えば、目の前の少女は少しだけ寂しげにふっと笑うと「やっぱり」と呟いて、それからノエルをしっかりと見つめた。

「……私は貴女です。そう、貴女は私」

 彼女の言葉を聞きながら、ノエルが瞳を揺らす。困惑していた。けれど、少女がゆっくりと言葉を紡ぐ度に、何か自身が溶けてしまうような不思議な感覚を、知らないはずなのに知っているような何かが入ってくるような感覚を、そして得体の知れない恐怖を感じ始めて。

「わ、私は……あ、あぁあ……」

「怖がらないで……私達は元々ひとつの存在。だから――……」

 ミューがゆっくりと近付き、腕を広げる。まるで抱擁するかのように。

 けれど。ノエルは、ひどく顔を歪め、身体を震わせる。まるで、ミューの言葉など聞こえていないかのように。否、聞こえているけれど、それどころではなかった。

「い……いや、嫌ぁぁぁあああっ!!」

 叫ぶ。悲痛な声が反響し、耳を劈く。突然悲鳴をあげる少女に、ノエルを除いた二人が肩先を跳ねさせた。明らかな拒絶の声に、首を大きく振って肩を抱く少女の姿に、ミュー達が逆に戸惑った。一度は受け入れたはずの自身を何故、彼女は拒絶するのだろう。

「な、なんでお前がお前を拒絶するんだよ」

「私にも分かりません……でも今、一瞬だけこの子の中に何かが見えました」

 どうして自身が切り離されたのか、彼女にもその記憶はないし、目の前で震えるノエルだって教えてくれるわけもない。けれど必死にノエルと一緒になろうと観測を続け、ミューはノエルの中に何かを見つける。

 それは、何もない空間と、大きな扉――否『門』であった。何かの紋章が刻まれた巨大な門。一瞬しか見えなかったから、それが何かまでは理解するに至らなかったけれど。でも、彼女がこの門にひどく恐怖を抱いていることだけは理解できた。

 それと同時、小さな声をあげてノエルが倒れ込む。目を丸くして、慌ててラグナがその体を支える。息はあるけれど、あまりのショックだったのか、彼女は気絶してしまっていた。

 暫らくは揺さぶってみるものの、一向に起きる気配の彼女に、ラグナが溜息を吐く。

「……仕方ねぇ。俺はこいつを部屋に運んでくる。記憶を戻すのはまた今度だ」

 ミューを一度見遣って言うラグナに彼女は静かに頷く。それを受けてラグナはノエルをそっと抱えて、歩き出した。その背を見送りながら、ミューは沈黙する。

 

 ――朝。ココノエの声が、カグラの執務室に響く。彼女が紡ぐのはこれから転移を始めるための話で、そこに立つ皆が緊張に表情を引き締めていた。

「全員揃ったな。では、転移を開始するぞ」

「ノエルちゃん、具合でも悪いの? 朝から、ずっと暗い顔してるよ」

 けれど、一人だけ落ち込んだ様子の人物が居た。ノエルだ。

 ラグナに運ばれてからあの後、日付が変わった直後に目が覚めた彼女は、昨日ラグナに着いて行ってからのことを思い出して、なかなか寝付けなかった。

 あの自身とそっくりな少女は何だったのだろう。何故、あんなに恐怖を覚えたのだろう。あの怖さは今でも鮮明に思い出せて、ついつい表情が暗くなってしまう。セリカにそれを心配されればハッとして笑みを作るけれど、それすらもぎこちなく。

 でも昨日のことを相談できるはずもなくて、何でもないと誤魔化した。

 そう言われてしまえばセリカは何も言えなくなってしまった。ココノエはノエルの様子がおかしいことに気付いていたけれど、さして気にすることもなく話を進める。

「向こうに飛んだら、くれぐれも注意しろ。ナインは勿論、イザナミの襲撃も考えられる。その時は……そこが決戦の場だ」

 そんなカグラの台詞に「心配するな」と答えるのは獣兵衛だ。そうなったら自身が相手をすると胸に手を置き言う彼に、ラグナが心配そうな視線を向ける。

 獣兵衛の実力が心配というわけでもない。彼の強さはラグナだって身をもって体験しているし、そこについては心配はない。けれどナインだって同じくらい強いし、そして彼女は獣兵衛の妻だ。万が一、彼が妻を傷つけるのを恐れないとも限らない。

「馬鹿者、心配するな。あいつがこうなったのは俺の責任でもある」

 ラグナの視線に気付いた獣兵衛が言いながら苦笑する。笑っていながら、しかしその瞳には決意の色が浮かんでいた。いらぬ心配だったかとラグナも頷き、そしてココノエを見た。

「テイガー、準備はいいか」

「転移座標に問題はない。いつでもいいぞ」

 ラグナの視線を受けて彼女は頷き、通信機越しにテイガーへ話しかける。返る声に首肯し、そして彼女は転移装置のスイッチを入れた。

「よし、では行くぞ……」

 

 

 

 最初に声をあげたのは、セリカだった。転移先で宙に放り出された彼女は、重力に逆らわず真っ逆さまに床へと叩きつけられ、小さく痛みを訴えた。

 次に現れるのはレイチェル。たっぷりとしたスカートに空気を孕ませゆっくり降下し着地する。

「魔法以外で転移するのは初めてだったけれど、随分と感覚の違うものなのね。それに、揺れが酷いわ。もう少し上品にできないのかしら」

 着地した瞬間、その麗しい表情を顰めて彼女は呟く。その横で、先に転移してきたらしいココノエが答えた。

「贅沢を言うな。認識のズレがこの程度で済んだだけでもありがたく思うんだな」

 全員揃って到着できただけで上出来だ。ふん、と鼻を鳴らして言う彼女、その少し後ろでセリカと同じく着地に失敗していたらしいラグナが身を起こす。

「それにしても、こいつが例の窯か……でけぇな。今まで見てきた中でも群を抜いたでかさだ」

 ナインの工房があるとされるのは、黒き獣が初めて出現した場所だ。それが目の前にある巨大な窯なのだろう。その巨大さと比例して、境界から流れ出る力も強くなる。ナインが自身の工房として選んだのも頷ける。

 けれど、その工房らしきものが見つからないことに気付いてラグナは首を傾げた。

「そうだ。工房はどこにあるんだよ。入り口らしき場所は見当たらねぇが……」

 転移してきたこの空間にある扉は、出入り口らしきものと、制御室への扉くらいだ。他にもいくつか扉があったかもしれないが、どれも工房の入り口というにはあまりにも雰囲気が違いすぎる。ラグナが問えば、ココノエは静かな声で答えた。

「……あの中だ」

 そうしてココノエが指差すのは、巨大な穴――そう、窯だ。その中というのは、つまり。できればそうであってほしくないと考えたけれど、彼女が冗談を言っているようにも、また別のところを指しているようにも見えず、ラグナは理解する。

「なるほど、考えたな。確かに境界内部であれば外からの干渉はまず不可能だ」

 口を開くのはジンだ。彼の言った通り、窯の中……つまり、境界の内部に入ってしまえば干渉は不可能になる。自分にとって最も都合の良い場所に部屋を作る、そんなところはやはり親子だとラグナは思った。

「……それより急ごうぜ。どうもさっきから、右腕が疼きやがる」

「いいだろう。テイガー、中に入るぞ。窯を起動しろ」

 ラグナの右腕となっている蒼の魔道書は、それそのものが窯だ。そこから直接『蒼』に接続し、その力を引き出すというその魔道書は、他の窯に共鳴する。そのせいか、ラグナの腕はさっきから疼いて仕方がない。

 そんな彼の提案にココノエも首肯し、そして視線をここからでも窺える制御室の方へ向けると通信機へ話しかけた。すぐに応答する声、起動される窯。

 翼のような扉がどんどんと開いていき、隙間から漏れ出る橙色の光がラグナ達を照らした。

 それは、素体が生まれる『繭』が開くときとそっくりで、何度見てもラグナには嫌な光景だとしか思えなかった。

 理由は違えど、それはノエルも同じらしく。顔を顰め、肩を抱く少女にセリカが気付いて心配の声をかける。

「……何かを思い出しそうで、怖いけど……大丈夫」

「無理もないわね。窯は貴女にとって最も因縁深い場所だもの」

 そして窯が開き切ると同時、ラグナが深い息を吐いて、他の面々を見た。

「じゃあ、行って来い」

 言うのは、獣兵衛だ。その手で窯を指し告げる彼の言葉に、ラグナが首を傾げた。まるで、獣兵衛は行かないというような物言いではないか、と。

「先に行っていろ。俺は万一に備えて、入り口を見張っておく」

 確かに万が一、入り口である窯が破壊されないということもない。獣兵衛の物言いは最もだったけれど、ラグナは食い下がった。万が一、扉が開かなかったときは獣兵衛がその刀でこじ開ける予定だったし、それ以上に、ここに来て彼が来ないというのは何故か得体の知れない不安があった。けれど獣兵衛は苦笑し、心配するな、と言うのみだ。

「……好きにさせてやれ。どの道、見張りは必要だからな。ただし、後で『必ず』合流しろ」

「いいから行け。ここは俺に任せろ」

 ココノエの台詞にもどこか素っ気なく獣兵衛は応えて、まるで追い払うように手を振った。まるでどこか焦っているようにも見えたけれど、ココノエ達は気付かなかったように頷く。

 そして彼らは何言か打ち合わせに言葉を交わすと、次々と窯へ飛び込んでいった。

最後にラグナが飛び込んで、その姿が完全に見えなくなって、暫し。

 沈黙を守っていた獣兵衛が不意に、後ろへ視線を遣った。

「さて……こっちはこっちで、始めるとするか。決着を付けるぞ――……ナイン」

 そこには腕を組み笑う、愛しい魔女が居た。

 頷き、組んでいた腕をするりと解くと、肩にかかった桃色の髪を払って、それから三角帽子のツバを持ち被り直して。

「ええ、始めましょう……あなた」

 

 

 

   2

 

「なに、これ……血の臭い?」

 事前に知らされた通りに息を止める。目をぎゅっと瞑り、その瞬間、急激な空間膨張が起きる。それから衝撃が落ち着いたと思った瞬間、鼻をつくのは鉄臭さだった。

 ナインの工房自体には、鍵など必要なかったとでもいうようにあっさりと侵入ができた。そして現在は、ここに来た目的――即ち、十一番目のアークエネミー『骸葬・レクイエム』の隠し場所に至る鍵をココノエが見つけ、開いた直後だった。

「んだよ……これ……。おい、ココノエ、まさかこれは……!!」

「そう。これが『骸葬・レクイエム』……十一番目のアークエネミーだ」

 それは、黒と赤だけで彩られた、巨大な何かだった。

 見た目だけなら、『巨人・タケミカヅチ』にも似ているように見えるが、纏う機械のところどころが、あのマスターユニットを彷彿とさせる姿をしていた。

 全身が逆さになっているのは、まるでもうすぐ生まれようとしている胎児のようだ。巨大な頭についた、これまた大きな双眸は伏せられていて、その周囲を棺で作られた円が取り囲む。見上げても先まで見えない大きさ。血肉の臭いが辺りに広がり、その不気味な姿に、彼らは息を飲む。

「この『場』を認識しているのはコイツか……」

 静かに呟くジン。境界の中で、こんな空間を常に保つなど普通であれば不可能だ。ならば、認識しているのはコレなのだろう。彼が言うのを聞きながら、ひどく冷めた目でレクイエムを見上げ、レイチェルは溜息を吐いた。

「全く……ナインが造り出そうとしていたものをよく表しているわね……これは」

 巨大なレクイエムの不気味さを象徴するのは、何も姿だけではない。

 肺に呼吸を送り、そして吐き出すかのように……それは僅かに脈動していた。まるでそう、生きているかのように。否、生きていた。

「ナインさんは……一体、何を造ろうと……」

「神だ」

 ノエルの声が恐怖に震えながら、問いを紡ぐ。短く答えるのはココノエだ。あっさりと答えたけれど、その表情はいつになく険しく、心なしか尾もいつもより速く動いていた。

「レクイエムは、マスターユニットの模倣品だ。即ち母は、自らの手で神を創造しようとした」

 しかもナインが造ったこの『骸葬・レクイエム』はマスターユニットとほぼ同等の機能を有していて、つまりこれは彼女によって創り出された、限りなく神に近い『神の模倣品』ということになる。ココノエは目を伏せそう語った。

「ち、ちょっと待て! それって、とんでもねぇことじゃねぇのか!?」

 落ち着き払った声で言う彼女の台詞に待ったをかけ、ラグナは慌てて彼女の背に問う。世界を好きに観測し、干渉できる力を、『神』を一人の人間が創造するだなんて。それにココノエとレイチェルが揃って首肯した。

「勿論とんでもないことよ。驕(おご)りも甚だしいわ。だけど、それができてしまうのが彼女なのよ」

 それが大魔道士ナインという人間だった。言われても少しだけ信じられないといった様子のラグナから顔を逸らし、レイチェルは再びレクイエムを見上げる。

 それも束の間だった。突如として『何か』が勢いよく床に叩き付けられるような音が響く。それに驚いてノエルとセリカが小さく悲鳴をあげた。埃が舞う。何事だとココノエが振り向いた先、床に蹲っていたのは見慣れた姿――獣兵衛だった。他の面々も同様に振り向き、見下ろし、目を瞠る。横たわる彼は先と違い傷だらけで、痛みに呻いていた。

 その様子にただならぬ事態であることに気付き、誰がこんなことを、と皆が一斉に黙り込む。辺りを見回す。静寂の中に、皆の息の音だけが響く。

 ――コツリ。軽い音が静寂にノイズを差し込み、彼らは一斉に振り向いて一点を見た。

「あら……随分と沢山のお客様がいらしてるみたいね」

 長髪を背中に流した魔女――大魔道士ナインがそこには立っていて、彼らは各々その名を呼んだ。皆からの声を受けながら彼女は涼しい笑みを浮かべる。

「ようこそ、我が工房へ……でも留守中に勝手に上がり込むのは関心しないわね」

 笑みこそ浮かべていたけれど、ココノエと同じ金の瞳は一切そういった感情が窺えない。が、関心しない――そう言ったナインに、ココノエはふんと鼻を鳴らした。

「よく言う。わざわざ扉を開けて誘い込んだのはそちらだろう」

「ふふ……あら、気付いていたのね。流石は私の娘だわ」

 ココノエがそれに気付くのも当然だった。彼女は転移する前に宣言した。ナインは別に封を掛けていると。けれどそれがどうだ。あっさりと、まるで鍵は最初から開いていたかのように開き、自身達はいとも簡単に侵入できたのだから、不自然に思っても仕方がない。

「ぐ……皆、退け……彼女は俺が止める……っ」

 不意に会話を遮って、獣兵衛が口を開いた。呻き、傷付いた身体を起こそうと奮闘しながら言う彼に皆の視線が集中し、そして誰もがそんな獣兵衛を止めた。そんな傷だらけの身体ではまともに動けないと。必死に起き上がろうとする彼を押さえるセリカとノエル。

「は、放してくれ! 俺が、俺が止めねばならんのだ……彼女だけは……!」

 もがき、逃れようとする獣兵衛だったが、身体の節々が痛み、無駄なあがきとなるだけ。それを、傷付けた本人でありながらどこか悲しげな瞳で見つめてナインはそっと言葉をかけた。

「可哀想ね。その傷を抱えたままでは、いかに気持ちを奮わせようと、かつてのようには闘えないでしょうに……あなたって本当に、いつまで経ってもその無謀さは変わらないのね」

 心配するようでありながら、罵り、そして貶めるような台詞を吐く。そんな彼女に居ても立っても居られなくてセリカは問いかけていた。悲しみと、どうしてという疑問。感情の高ぶりに声がついつい大きくなってしまっていた。

「どうして? どうして、お姉ちゃん! 獣兵衛さんとお姉ちゃん、あんなに仲が良かったのに、なんでこんな事……!」

 どうして。獣兵衛を傷つけるようなことを。世界を壊すようなことを。悲痛な声で問う少女に、ナインはほんの一瞬だけ、誰にも気付かれぬように顔を苦しげに顰めて、それから静かに目を伏せ平静を装った。たおやかな腕を胸の下で組み、唇を動かす。

「決まっているでしょう。『相手』が誰だとか、関係ないのよ……」

 彼女の前に立ち塞がる者、彼女の目的の邪魔をする者。それらは全て、彼女にとっての敵だった。例えそれが『愛する者』であろうと。

 聞いたセリカが、悲しさに顔を歪めて信じられないといった様子で声を漏らす。そこで一歩、前に出るのはラグナだった。

「おい、ナイン。丁度いい、テメェに聞きてぇことがあるんだ」

「何、時間稼ぎのつもり? ……そうね、まぁいいわ。あんたの質問にいちいち答えてやりたいとは思わないけど、聞くだけ聞いてあげる」

 記憶を思い出したラグナには一つ、疑問があった。それだけは聞いておかねばならないと思って、ラグナは口を開く。どこか真剣なラグナの眼差しにナインも少しだけ考えて……興味が湧いたのだろう、首肯しラグナの問いを促した。

 ラグナの問いは、ひどく単純だった。

 十一番目の事象兵器なんて仰々しいものまで作って、彼女は何をしたいのかと。

 それを聞いて、ナインは「そんな事」と、まるでそれがくだらない問いだとばかりに流してしまう。けれど「そんな事」などで済まされるはずがなかった。

 だって、彼女は約百年前に、暗黒大戦で世界を救った。それこそ命がけで。だというのに、今度は何故その世界を滅ぼそうとするのか、ラグナには想像もできなかった。

 そんなラグナの疑問に、彼女は溢れる笑いを抑えながら、首を振り、傾げた。

「ふふ……世界を滅ぼす? 馬鹿な事言わないで頂戴。私がいつそんな事を言ったの?」

 ただ、世界を『終わらせる』だけだと語る彼女。ラグナには、滅ぼすも終わらせるも変わらないように思えて、眉根を寄せ首を傾ける。

「私はね……『世界を滅ぼそう』なんて少しも思っていないわ。今だって命懸けで戦っているのよ。本当に……『命懸け』でね」

 組んでいた腕を解いて、胸に手を当てる。目を伏せ、本当に愛しげに、そして悲しげな表情で彼女はそう言った。世界には、彼女にとってかけがえのない大切なものが『沢山』存在していた。

 唯一残った肉親である妹、親友だとか、そしてお互いに愛を誓い合った人。

「だったら、何故……!」

 何も自分の中から零れ落ちないように、そっと、けれど強く胸を抱きしめて彼女は語った。だったら、何故その世界を終わらせるようなことをするのか。問うノエルに向けられたナインの視線は、無機物を見るかのように冷ややかだ。

「『お人形さん』。貴女はよく分かっているんじゃない? いいえ、貴女だからこそ分かるはずよ」

 強く睨み付けて、彼女はそして叩き付けるように叫んだ。

 彼女が守った世界。彼女が守りたかった世界。そして守りたい世界。だけどその『世界(すべて)』が、全てが欺瞞(ぎまん)と虚構(きょこう)に満ちていることを。ノエルなら、知っているはずだと。

「貴女……見たのね」

「ええ、見たわ。観測(み)て知ったわ。愚かしくてくだらない、この世界の真実を」

 彼女達が必死になって、命を懸けて戦って、守ろうとしていたこの世界が、とんでもなく馬鹿馬鹿しい茶番劇だったと。

 レイチェルの静かな声に頷いて、彼女は答える。悲しげに見つめるレイチェルの胸中は、自身と同じ真実を知る者へ向けるそれだった。

「ねえ、お姉ちゃん。何があったの? ちゃんと教えて!」

 今度はセリカが声の震えを抑えながら問いかけた。

 暗黒大戦が終わって、世界が平和になった頃。黒き獣により壊された街はゆっくりと元通りになろうとしていたこと。戦争による爪痕は酷かったけれど、それでも少しずつ笑顔が増えていったこと。そこまでしか、ここに呼ばれた複製体である彼女は知らなかった。

 だからその後、自身の姉に何があって、姉が何を見て、何を知って、何に苦しんでいたのか、彼女には分からない。だから……ちゃんと教えて欲しかった。

 どんなに姉が変わっても、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめるセリカの茶色い目をナインもまた見つめ返し、愛しげに、そして困ったように眉尻を下げた。

「あぁ……その瞳。セリカ、私の可愛いセリカ……。貴女はどんな魂になっても、やっぱりセリカなのね」

 複製された不完全な魂であろうと、何事にも真剣に向き合う様とその優しさは、やはり変わらない。彼女はやっぱりセリカだ。ナインは愛しい妹の姿を見て、何度も頷いた。

「いいわ。貴女がそんなに知りたいのなら、教えてあげる。滑稽で不愉快な。昔話を聞かせてあげるわ」

 そう言って、彼女は語り出す。世界の『神様』になった『ひとりの少女』のお話を。

 今から百年前、黒き獣と戦った『暗黒大戦』。人類の半分ほどが失われる形ではあったが、なんとかその戦争が終結し、世界が復興を始めだす。

 事の発端である『黒き獣』の突然の出現。その原因はレリウス=クローバーと、ナイン達の父であるシュウイチロウ=アヤツキが行った、素体を使った境界接触実験。そして生まれる黒き獣、始まる暗黒大戦。

 あの戦争で、ナイン達は必死に戦った。ナインがあれだけ諦めず必死に戦えたのは、事の始まりにナインが最も憎む人物……彼女の父が関わっていたこともあるかもしれない。そうして、沢山の犠牲を払って、本当に大勢の人間が死んだ。

 あの理不尽な第殺戮が『無意味』に行われただなんて、誰も思いたくなかった。だから自然と考え始めた。あの戦いの『意味』を知るために。

 黒き獣とは何なのか。何故あんな化け物が存在しているのか。何故人間にあれほどの敵意を持っているのか。

 圧倒的な破壊力を持つ『黒き獣』と、その出現に呼応するかのように現れた『六人の戦士』。そして、これ以上ないほど『都合良く』彼女らの『時間』に現れた『ブラッドエッジ』という男。

 彼女らは『彼』の活躍により時間を得て、黒き獣を打ち倒した。

「その時、ふと一つの疑問が沸いたのよ。何故私達はこれほどまでに『戦えた』のかって」

「それはお姉ちゃんが……」

 黒き獣と戦えるほどの力。それは、ナインが開発した術式だった。黒き獣と同じ『魔素』を応用した技術を使って、彼女らは勝った。けれど、それが逆に引っかかったのだ。

 ――偶然にしては、出来すぎている。

「いくらこの私が『天才』だと煽てられても断言できるわ。どう考えても、あの期間で術式を完成させることは『不可能』よ」

 彼女が術式を完成させるまでに至った背景に、あの男――ユウキ=テルミという謎に満ちた人物が関わっていた。彼が何故かそんな知識を持っていたからこそ、術式は完成できた。

 何故彼はそんな知識を持っていたのか、ひどく仕組まれているとは感じるが、この際その疑問は置いておこう。問題は、彼女の実力で術式が完成できたかどうかだ。

 ナインは、ココノエに視線を向ける。

「ココノエ。同じ『科学者』としての意見を聞かせてくれる?」

「母様の……『大魔道士ナイン』の才能は、よく知っているつもりだ。それを踏まえた上で意見を言うならば……」

 彼女もまた、ナインが術式を完成させることは『不可能』だと結論していた。

 何故なら、魔素という物質に対して未知の部分が多すぎるからだ。早くて二年、否、三年あれば理論の『基礎構築』までは到達できたかもしれないが、実戦使用にはほど遠い。ならば、一年という短期間で完成させられたというのは――。

「流石は私の娘ね。私も同じ結論に達したわ」

 けれど、その『術式』という技術が、彼女の疑念を解く鍵になった。彼女は調べて、調べて、調べ尽くして、そして辿り着いた。どこにも載っていないような『遥か昔』に、魔素を利用した戦争があったことを。

「――『素体戦争』。その戦いは、そう呼ばれていたらしいわ」

 

 

 

 それは、その名の通り『人類』と『素体』が戦った戦争。

 始まりは『とある』発見だった。その発見で、人類は『境界』とその奥にあった『マスターユニット』と呼ばれる存在を確認した。

 知っての通り『境界』は無尽蔵の魔素が存在する空間で。『魔素』とは古の時代から世界に存在し、世界のありとあらゆるものを構成する『粒子プログラム』だ。

 そしてマスターユニットは、時空間にすら影響を及ぼす『事象干渉』を発生させるほどの、強大な力を持った――いわば『神』と呼ぶべき存在。

 その後、あらゆる角度と視点からマスターユニットを観測し、彼ら人類は気付く。この『神』は『被創造物』であり『コントロール』ができると。つまり『神』は観測された時点で『モノ』となった。

「ったく、『モノ』なんて傲慢だよなぁ。愚かな『人間』らしい思考だ」

「『かみさま』を『もの』にして、それを、じぶんたちで、こんとろーる、するために……」

「そう、タカマガハラシステムが構築されたってわけだよ」

 ナイン達が話しているのと、偶然にも同時刻。戦争について、そのきっかけについて。彼女は遥か昔に見ていたことをとっくに思い出していたけれど、何となく、改めて尋ねていた。もしかしたら、自分に関わりのある話を、自分が慕う人にきちんと説明されたかったのかもしれない。

 融合し表の人格となったはずのハザマは現在おらず、一人歩きしたテルミとユリシアは、探し物ついでに街の一角にある喫茶店でコーヒーを啜りながら会話を進めていた。

「んで、だ。せっかく完成したタカマガハラシステムだが……それは『不完全』だった」

 不完全。その言葉にやはり疑問を抱くことなく、彼女は頷く。

 システムの複製自体は『完璧』にできていた。だから時の流れを『巻き戻す』程度の干渉はできていた。けれど、世界を構築する『可能性』に干渉することはできなかった。時間を巻き戻したとしても、可能性がなければそこから始まる『事象』は『何も』変わらない。

 切れたゼンマイをぐるぐる巻き戻して、同じ事象を、茶番を繰り返すことしかできない、くだらない『玩具(おもちゃ)』。

 このシステムには事象に干渉するほどの『何か』が決定的に足りない。その『何か』を知るため、境界へ……マスターユニットへの『直接』的な接触を、あらゆる形で試みた。その結果『唯一』マスターユニットが反応したのは『人の形』をした物体だったことが判明した。故に、彼らは『それ』を製造した。

「人型の人造物『次元境界接触用素体』を使い、マスターユニットへの接触実験が行われた」

 実験は良好。そして『第一素体』はマスターユニットへの接触に成功し、結果第一素体は『眼』の力、つまり『観測者』としての力を宿した。『眼』とは、マスターユニットの眼の代わりとなり世界を観測することができる力だ。

 つまり、『眼』の持ち主がそれを事実として『観測(み)』れば、どんな事象であっても世界を構築する神にとって事実となり、即ち世界にとっての事実となる。『眼』の力をコントロールし、事象に干渉すれば、世界を思い通りに書き換えることができる。

 これが、根源である『可能性』を『可能』にする力こそが、システムに足りない部分……。

「それが、わたし……そして、わたしと、のえるさんが、もつ『力』……ですよね」

「ああ。それから、テメェを生んだ力でもある。そう……『蒼』だ」

 マスターユニットに『蒼』与えたのは『蒼』自身。与えたのはほんの一部だが、それだけでも十分な力になる。そしてマスターユニットの力を引き受けたのが第一素体。

 人類は当然、第一素体が持ったその力……好きに世界を操れる力を欲した。素体を使った実験が成功した時には歓喜に狂った。けれど、問題が起きた。

「素体は『眼の力』と共に『魂』を宿し、自我に目覚めていた。つまり『人形』の意思一つで、世界を改変される恐れがあった。故に人類は――」

 素体の『眼』を潰し、自分達の世界に干渉しないよう、境界へ投棄した。

 都合が悪くなったから捨てるだなんて、ひどく自分勝手だとユリシアは思う。

「それで、境界に投棄された第一素体は、その奥底で偶然か必然か、再びマスターユニットと接触した。ま、第一素体『ジ・オリジン』が眼の力を持っているのなら何も不思議はねぇよな」

 けれど、それを知った人類はひどく戦慄した。境界に投棄された第一素体の心情など、想像に容易い。素体達がどんな実験を受けていたかを振り返れば、簡単だった。

 神の力を手に入れたモノが『仲間』である姉妹の実験を観測したら、どう思うのかなど。

「人類対素体の殺し合い。数で見れば人類の方が圧倒的に多かったが……素体は丈夫で、戦闘能力にも優れていた。そのうえ、神の事象干渉が味方をすれば、人類に勝ち目なんてねぇよなぁ」

 が、人類はマスターユニットを手に入れようとしていた。ならば、それに対して事象干渉を受け付けない特殊な兵装を用意していても不思議ではない。眼を潰したのだってコレだった。

「つばきさんが、つけていた、あのふく……ですよね」

「正解だ。『対観測者用兵装・十六夜』。観測者の眼から観測えなくなる兵装だが……同時に使用者の光を少しずつ奪っていく」

 都合の良い話だ。『こうなること』を予測していたかのような立ち回り。一体誰の入れ知恵なのか、ここに居る彼らは分かっていた。テルミがひどく顔を顰める。

「それでも戦いは泥沼だった。十六夜によって、人類は事象干渉を跳ね除けることができたが、限度はある。それで素体を無効化できるわけでもねぇ」

 故に人類は、十六夜の開発技術を元に『ある物』を使い『自己観測』によって存在する大量殺戮兵器を造り出すことになる。コーヒーを啜りながらテルミは語った。

 

 

 

「お姉ちゃん、ちょっと待って。その話、すごく気になるところがある……」

「何かしら、セリカ」

 ナインが語る昔話……素体戦争の話を聞いて、セリカが不意に手を軽く持ち上げながら一歩前に出る。首を傾け何が気になるのか問うナインに、セリカは眉尻を下げたまま口を開いた。

「素体戦争……その戦いを『始めた』のは『誰』なの?」

 良い質問だとナインは評価する。笑みすら浮かべ、ナインは静かに答えた。

 戦いを始めたのは、素体を恐れた人類側。『人間』が一方的に素体達の虐殺を始め、素体達はそれに抵抗しただけ、と。

 どうしてそんなことを、セリカが思わず声をあげていた。

「素体が『願望(ねがい)』を持ったからよ」

 第一接触体や、その他の素体達が人類に、人間に求めたモノはたった一つの願い。自身らを、作り物の身体に宿った魂を『個』として『人』として認めて欲しい。それだけだった。

「でも、人間には『それだけ』では済まないのよ。自分達の作った物が、自身達より優れた能力を持ち、自己主張を始めた」

 人間が狂うには十分すぎる理由だった。

 だから人間達は、数多の人間を触媒にして、素体群を殲滅するために『大量殺戮兵器』を造りあげた。それが……。

「――黒き獣」

 今の技術では完成するかは運任せだが、造ることは簡単だった。たった一人の素体と、蒼の魔道書から精錬される制御不能のそれは、敵も味方も関係なくその圧倒的な破壊力で、人も素体も全てを食い尽くした。残されたものは何もない。

 そして世界は一度、終わりを告げた。

「馬鹿な……それではまるで共倒れだ。まるで意味がない」

「その通りよ。だけど、人類は勝てばそれで良かった。そうすれば、始まる前から『やり直せる』のだから」

 勝って、蒼を手に入れればタカマガハラシステムを完成させ、全て再構築できる。システムの基礎理念は『人の世界』の存続なのだ。

「……都合の良い考えよね。戦争も、その『罪』すら無かったことにするなんて」

 鼻で笑って、そしてナインは続ける。

 システムが蒼を手に入れる寸前だった。ここで誤算が発生した。本当に、有り得ない誤算。第一接触体『ジ・オリジン』が世界の再構築を始めるという、誤算だった。

 人との争いをやり直すわけではない。それは少なからずタカマガハラが阻止していた。けれど、その人工知能を搭載したシステムすら予測しなかった事が起きた。

 第一接触体は、自らの存在(ありか)を切望した。『神』はその存在を否定し、虐殺し、滅ぼそうとした者達……『人の世界』を望んだのだ。

「これにはタカマガハラシステムも対抗できず、逆に『利用』されたわ。形は違えど、望んだモノが同じだったから」

 そして、世界再構築の『器』であるエンブリオも、その精錬に必要となる膨大な魔素も『予定通り』十分すぎるほどに満ち溢れていた。だからこれほどの大規模な事象干渉を起こすことができた。黒き獣を、エンブリオの触媒にする形で。

「つまり今ある世界……正確には『今まで存在した世界』は、既に一度滅びた世界の情報を元に、第一接触体『ジ・オリジン』が、マスターユニットアマテラスを使って再構築した世界」

 つまりこの『世界』こそが、神の観る夢……『セントラルフィクション』だった。

 それが、彼女の見た世界の真実。そしてこの世界は、神様になった少女の醒めない『夢』は何度だって同じ歴史を繰り返す仕組みになっている。

 何故同じ『時』を繰り返すのか。第一素体が自らの存在をどこに求めているのかは知らないけれど、再構築された世界は『人』に優しくなかった。

 神は自分の望まない結末が訪れる度、世界が再び黒き獣の闇に飲まれるたび、世界をリセットしてやり直しを強要した。その度に、人類はあの戦争を迎え、長く辛く苦しくむごい『暗黒大戦』を繰り返し解決することを求められた。

「まったく……天罰のつもり? それとも復讐かしら。人間達が創りだした『黒き獣』を人間の手で『後始末』させるなんて」

 何度も何度も何度も何度も、術式を開発し、何度も事象兵器なんてものを造り出し、死んだ人は何度も死んで、裏切られた人は何度も裏切られ、奪われた人は何度だって奪われた。恐怖した人も嘆いた人も絶望した人も実際にその身に傷を負って苦しんだ人も何もかも『絶対』に救うことのできない世界。

 ナインはただ、守りたかった。

 世界なんかでも、人類なんかでもない。自身の大切な妹だとか、友達だとか、愛する人だとか。そういう人達を守りたかっただけだった。そのために、必死に戦ったのに。

「でも、それが何よ!? 蓋を開けてみればマスターユニットだか何だか知らないけれど、ご大層な装置に乗り込んで呑気に寝てるお嬢さんの夢やら希望のために、馬鹿みたいに同じことを繰り返して……!!」

 繰り返しが終わったと思ったら『蒼』などというマスターユニットに力を与えたものが地に降り立って、自分勝手に人間としてあの憎い男と地を闊歩して、そのくだらない世界に何をすることもなくて。けれど自身以外が干渉をすることも許さないなんて。

 誰よりも守りたかった妹を、何度も何度も同じ悲惨な死に送り込んでいただけだった。

 誰が何と言おうと、例え世界で一番愛する妹セリカが認めようと、ナインは絶対に許せなかった。憤怒に握った拳から、赤い雫が垂れる。

 たった『一人』の願望を叶えるためだけに繰り返す世界。それ以外の願望は全て『生贄』として食い潰す世界。そんな世界は認めない。彼女は叫んだ。

 だから、そのふざけた夢を終わらせるために。代わりに新しい世界を創ろうとした。

 誰かの意思や願望なんかじゃなく、あるべきものがあるべき姿で、あるべきように存在する。誰の意思も介入させない完璧なプログラムによって構成された世界を構築する。そのために新しい『神(システム)』を造る。

「そして世界は再びあの時代に遡るわ。そこまで行って、ようやく私達は、私達の足で歴史を踏むことができる。偽りの神による偽りの世界からの解放を許されるのよ」

 誰もが『願望』を叶えることができる世界。それが、彼女の『願望(ゆめ)』だった。

 そのための、第十一番目の事象兵器。神に贈る『鎮魂歌(レクイエム)』。

「さあ、これで私のお話はおしまいよ。理解できたかしら。できなくてもいいけど。だってどうせ……ここで皆『終わる』のだから」

 そう言って、彼女は手を広げ、その手の平に炎を灯す。口角を歪に持ち上げた彼女に、皆が表情を引き締めた。

「止めて、お姉ちゃん……そんな悲しい事言わないで、もう止めようよ……」

 けれど、セリカだけが悲しみに満ちた表情で、やはり悲しみから震える声で、静かに、けれど叩き付けるように制止を呼びかける。それにナインは、やはり愛する妹が相手だからだろうか。彼女もまた苦しそうに顔を歪めて、そして首を振る。

「無理よ。止まりはしない……いいえ、止まれないの」

「はいはい……んで、てめぇの話はこれで終わりか、ナイン」

 けれどそんな彼女の言葉を遮るようにしてラグナが気怠げに問えば、彼女は瞬き一つで目つきを刃のようにして、その次の瞬間には手に灯していた炎の球を投げつける。

 始めに話を聞きたいと言ってきたのはラグナなのにそんな態度をとられただとか、そういうのに苛立っているわけではない。寧ろそんな事、どうだってよかった。彼という存在自体が、彼女は気に食わなかった。

「っと……いきなり危ねぇな……」

 火球を跳んで躱し、ラグナが漏らす。躱された火球は壁にぶつかる直前で霧散した。

 歯を噛み締め、ナインがラグナを睨み付ける。それに合わせて、ジンとノエルが一歩前に出ようとする。振り向かず、けれど察したのかラグナは腕を横に突き出して彼らを制した。

「お前らは下がってろ。ここは俺に任せとけ」

 ジンが、一人では無理だと止める。ノエルもまたそれに賛同しラグナを止めた。相手は六英雄のナインなのだと。黒き獣と戦ったような彼女の実力がいかに凄まじいかなど、想像に難くない。

 けれどラグナは『元』に過ぎない、と指摘する。振り向かないまま。

「随分と威勢がいいのね。それともやっぱり本物の馬鹿なのかしら。全員でかかれば少しは私を倒せるかもしれないのに、無謀と勇気を履き違えているわ」

 見下すように笑ってナインがそう評する。けれど、ラグナはそれにも動じない。未だナインを目で睨み付けたまま、吐き捨てるようにまたラグナも口角を吊り上げる。

「いや、お前ごとき俺一人で十分だよ。『元』英雄様」

 ラグナの台詞に、ナインが露骨に眉根を寄せた。笑みを苛立ちに歪め、聞き捨てならないと。何様のつもりだと。

「んじゃ、てめぇは誰だよ。悪ぃが、俺の知ってるナインは『英雄様』なんかじゃねぇ」

 ラグナもまたナインに向けて誰何する。

 彼の知っているナインは、口うるさくて、怒ると怖くて、セリカに近付く気に食わない人間にはすぐ蹴りを入れて、それはもうとても強くて、ラグナとの無茶な約束を守って世界を救って。

 妹が胸を張って誇ることのできる、立派な『勇者』だと。

「もう一度聞く……てめぇは『誰』だ?」

 それを聞いて、ナインは俯く。数秒の沈黙。そして、彼女は静かに答えた。

 ナイン。それ以外の何者でもない。言う声は、まるで勇者などではないと諦めるかのように。

「そうかい……なら『最後』に一つだけ言わせてくれ。弟妹を持つ身として、俺はあんたを尊敬してるよ」

 それを聞いて、ラグナは表情を緩めることなく、ただ淡々とそう告げた。その言葉に、偽りはない。ましてやナインを落ち着けるための言葉でもない。それを肌で感じたのか、ナインはそれに返す言葉がなかった。否、言葉など必要なかった。

「ラグナ……お姉ちゃんを、お願い」

 ぐったりとしたままの獣兵衛を抱きかかえたまま、セリカは縋るようにラグナへと願った。

 それに強く頷いて、ラグナは応える。妹が、気に食わないその男に縋るのが尚更ナインを苛立たせ、仕方ない事だと分かっていながらもナインは不愉快の色を濃くした。

「ナイン……てめぇの『願望』はよく分かった。痛いほどにな」

 そう語りかけ、ラグナは背中の大剣に手をかける。抜き取り、構え、そしてラグナは告げる。

 だからこそ、自身は彼女を止めねばならないと。

「大口を叩くじゃないラグナ=ザ=ブラッドエッジ。なら私の『願望』、終わらせてみなさい!」

「上等だ、おら、かかってこい『泣き虫姉ちゃん』! 俺が『助けてやる』よ!」

 咆哮し、ラグナは駆ける。

 繰り出される火球。それを大剣で薙ぎ払えば、炎に隠れるようにして近付いていたナインが現れる。手に纏った炎から逃れるように跳躍、炎が消えた瞬間に再び駆けた。飛ぶナインを追いかけ、彼もまた跳ぶ。

「うおらぁ!!」

 ラグナの大剣とナインの魔法がぶつかり合って、弾かれればすぐさま次の攻撃に移る。

 彼女が攻撃した瞬間現れる白い何かが吐き出す光線を避け、かと思えば彼女が突然展開する鏡。それを魔素を集めて作りあげた顎で攻撃すれば、鏡から射出される刃。それを大剣で慌てて薙ぎ払う。ナインが少しばかり圧していたが、勝負はまだ着きそうにない。

 一見、ただ乱暴にぶつけ合っているかのような攻撃。お互いの行動を読み合い、それ以上に転じられない戦闘。終わらないゲームのように感じられていたその戦いの最中、不意にナインが口角を持ち上げる。疑問に眉根を寄せるラグナ。

「なかなか粘るじゃない。……でも、ここまでよ」

 瞬間だった。ラグナの胸で、いつの間にか紫の魔法陣が光っているのに気付く。目を見開く。しかしそれも一瞬。気付いた瞬間に、魔法陣が爆発した。その衝撃に従って、ラグナの身体が吹き飛ばされる。

「っぐおぉ……!」

 床に転がるラグナ、見守る皆がラグナの名を呼ぶ。それを聞きながら、ラグナが身を跳ね起こして、地に降り立つナインへ大剣を振るった。宙に再び浮かび上がり、それをナインは躱す。

 目を見開き、そして彼女を見上げるラグナに、ナインは両手を掲げた。

「消し炭に……なれえぇえっ!!」

 生まれる火球。最初はチリチリと燃える程度の大きさだったのも瞬きの合間くらいで、みるみるうちに大きさを増していく。それは人間一人分よりも到底大きく、その火球をラグナめがけてナインが投げようとして――止まる。

 ラグナの丁度後ろを見てしまったからだ。

 ラグナを、そして自身を見つめる少女が居たからだ。

 彼女があまりにも悲しげな目でこちらを見ていたからだ。

 昔と全く変わらない彼女が、愛しい妹が、こちらをじっと見つめて。そして、静かに名前を呼んだ、気がしたから。

「っ、あぁあ……!」

 けれど、彼女――セリカに気を取られていた一瞬の隙に、ナインの身体に衝撃が走って、彼女は身体を反らせた。痛みと熱が身体を駆け回り、喉から苦痛に濁った悲鳴が溢れた。急激な痛みにより魔法は解けて炎は消えた。

 落ちそうになる身体を必死に支え、彼女は後ろを振り向く。ラグナだった。

 ラグナはナインをしっかりと見つめ、そして口を開く。

「闇に、喰われろぉぉお!」

 叫び、そしてラグナの右腕、ブレイブルーから闇色の魔素が吹き出す。それはやがて巨大な獣の顎を形成し、咄嗟に魔法を展開しようとしたナインへ一直線に飛びついた。彼女の展開した火球ごとナインに喰らいついて、そのまま地に飛び込み、ナインを叩き付ける。

 衝撃に砂塵が舞って、顔を覆う面々。

 煙が晴れたとき、そこに魔素でできた獣はおらず、ナインが一人で地に倒れていた。

「お姉ちゃん……!!」

 駆け寄り、ナインの傍らで屈み、顔を覗きこむ。眉根を寄せた彼女。傷だらけの身体。治療するため手をかざそうとするセリカを、薄らと目を開けたナインが制する。

「コレは……私が選んだ『結果』よ……理解して?」

 だから、自身に魔法を使っては駄目だと言う彼女に、それでも……と食い下がるセリカ。そんな彼女にふっと笑いかけ、ナインはそっとセリカの頬を撫でた。

「セリカは……どこに居ても、やっぱりセリカね……変わらない」

 先ほどまでの憤怒に満ちた彼女はそこには居なくて、ただただ優しい声音でセリカを見つめるナインに、彼女は思わず泣き出しそうになる。

「お姉ちゃんは昔から頑固で……一度こうと決めたら絶対に諦めない……お姉ちゃんこそ、やっぱりお姉ちゃんだよ」

 けれど必死に涙をこらえて、くしゃくしゃの笑顔を作って見せる少女。ナインは仕方なさそうに笑った。

「貴女も十分……『頑固者』よ。昔から、諦めて欲しい事ほど絶対に、諦めないんだから……」

 でも、そんな妹が、姉が、お互いに大好きだった。

「セリカ……私は私の、信じた道を進んだわ……だから貴女も、貴方が信じた道を進みなさい」

 例え何があったとしても。そう言う彼女に、セリカは強く頷く。分かっている、大丈夫。そう言葉をかけるセリカに安心したように、そして嬉しそうに彼女は微笑んだ。

 そこに居たのは、十聖に所属する『大魔道士ナイン』などではなく、セリカの姉である一人の少女、コノエ=マーキュリーだった。

「ナイン……」

彼女の名を呼ぶラグナに、ナインが目玉だけを動かして視線を移す。何か言おうとして、咳き込み、代わりに吐き出されたのは血だ。喋らなくていい、言うセリカに首を振りナインはラグナを睨み付ける。けれど、先ほどまでの憎しみや怒りの色は少しだけ消えているようにも見えて。

「シケた面ね……この私を倒したんだから、もっと誇りなさいよ……」

 お互いがお互いの考えがあり、衝突し、そして倒したのだから。なのに、痛々しい表情を浮かべるラグナへの挑発のようなものだった。最後に自身を地獄へ突き落とすのがラグナであることが、たまらなくムカついて、たまらなく納得できたから。

「そうだな……安心しろ。テメェの願望も、俺が持って行ってやる」

 そう言うラグナに、笑ってナインは吐き捨てる。ふざけるな、何が安心なのだと。

 言葉の割に、ひどくおかしげに言った理由はナイン自身もよく分かっていなかった。

「ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。私は、向こうで見ているわ。アンタが何を『願望する(のぞむ)』かを、そして『あの子』……蒼が何を選ぶのかをね」

 あの子。その単語に首を傾げるラグナだったが、再び顔を顰め血を吐くナインに頷くしかできなかった。

「っ……最後の最後で、また『甘さ』が出るなんて、我ながら情けないわね。ねえ……あなた」

 そしてナインは獣兵衛を見遣る。伸ばされる彼女の手をしっかりと取って、獣兵衛は少し寂しげに笑ってみせた。

「先に逝け、ナイン。冥府の底でまた会おう」

「ふふ……待って、いるわ。愛しいあなた」

 それにつられるように彼女もまた嬉しそうに笑って。ゆっくりと目を閉じる。

 静けさが訪れる空間。愛する者に見守られ、やがて、彼女は――。

「ならば余が送ってやろう……ファントム」

 溜息のようでありながら、朗々と語るように。幼さが残りながらも人ならざる尊厳さを纏った少女の声が地を這い、そして彼らの背筋を撫で上げる。ひどく悪寒がして、その声に――聞き慣れた『死』の声に、彼らは振り向く。

「ナイン=ザ=ファントムよ。情けない姿ではあるが……ご苦労であったな。其方はこれまで余のため、実によく働いてくれた」

 冥王イザナミ。影から現れた少女は、正しくその人物であった。

 彼女の名を呼び警戒するノエル以外の面々に、にこやかに微笑むとイザナミは歩み寄る。

「なればこそ……余が直々に送ってやろう。だが、其方の赴くところは冥府ではない」

 ――『虚無』だ。

 告げる彼女に、ノエルが困惑した表情を浮かべた。記憶の戻っていない彼女にとって、イザナミと出会ったのは初めてのようなものだからだ。あれが冥王なのか。何故、自身はこんなにも彼女に既視感があるのか。疑問を覚える少女を他所に、ラグナがイザナミへ問う。

「サヤ、なんでテメェがここに居やがる……」

「何故と申したか、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。決まっていよう。余はその者に……完全なる『死』を与えに来たのだ」

 虚空なる、永遠なる無へと。そう答える彼女に、セリカが一歩前に出る。そんなことはさせないと、叫ぶ彼女に視線を向けてイザナミはまるで見下すような態度で言葉を紡いだ。

「其方は……ほう。『まだ』存在していたか、目障りな亡霊め」

 冷ややかな視線に、思わずセリカの足が竦む。それに興味が失せたのか、イザナミは再びナインへと視線を移した。

「其方なら、新たな神を生み出すやも……と思っていたが。この程度の者に敗れるとはな」

 鼻で笑い、そして、肩を震わせる。大きく笑って、彼女は「所詮は『人』だ」と嘲る。

 そうして再びナインに向けて歩みを進めようとするのに、セリカが立ち塞がった。ナインには指一本も触れさせないように。けれど、それは無謀だと誰もが思っていて、ラグナもセリカを止めた。けれど、腕を伸ばしたラグナの身体が揺らぐ。呻きが漏れる。

 先のナインとの戦闘で消耗したラグナは、立つので精一杯だった。だから、レイチェルが駄目だと制止を呼びかける。

「……下がりなさい」

 そこに割って入る声は、大人びた女の声だ。地に伏せていた彼女が自身に鞭を打ち立ち上がったのだ。強く歯を噛み締めて、身体を支えると。彼女は大きく息を吐く。そして顔を上げ、強くイザナミを睨み付けた。

「はぁ……言ってくれるじゃない、冥王イザナミ」

 感心、そして関心したように、イザナミがそれを見て「ほう」と声を漏らす。僅かに笑みすら湛えたイザナミを睨み付けたまま、ナインは口に溜まった血をそこらへ吐いて、口を開いた。

「ここには……私が全てを懸けた『家族』が居るのよ。それは、私の世界、私の全て。『そのため』にここまで来たのよ……」

 ナインの言葉を聞き、イザナミは静かに双眸を伏せると。

「……そうか。しかし、残念であるな。其方の『願望』も、ここで終わりだ」

 そう言って、赤い両目を開け、彼女は歪な笑みを浮かべてナインを見つめる。片手を掲げた。

 受け取れ、と言うのは死のことだろう。けれど、それ以上彼女は動かないし、ナインもまた苦しんだりする様子もない。

 皆が訝しげに首を傾け、沈黙が支配する。沈黙に差し込まれるノイズは、イザナミの声だった。

「……何をした」

 ひどく、不快げに彼女は眉根を寄せる。低い声で問うのは、彼女の魂が奪えなかったからだ。自身の思い通りに事が運ばなかったことに機嫌を損ねるイザナミへ、ニィとナインの口角が持ち上がる。

「イザナミ……あんたが、ここに来ることを……私が予測していなかった……とでも思う?」

 その言葉からして、彼女はイザナミがここに来る事を予測していたのだろう。けれど、それがどうしたのか。その疑問には、ナインの口から紡がれる言葉が答えた。

「私はね、最後にアンタを……『倒す』つもりでいたのよ」

 彼女が告げた瞬間、空間が揺れる。ぐにゃぐにゃと歪み出す空間に、そこに居たナイン以外の面々が驚きに声を漏らした。この感覚は、前にも何度も体験している。それは、事象干渉の感覚だった。

「くだらんな……この程度の干渉で何ができると申す?」

 倒す。そう言った割には規模の小さな事象干渉を起こすのみ。そんな彼女にイザナミが首を傾けた。彼女はその問いに、できないと答えるのだからますます疑問に思って。けれど「『私』は」と彼女が付け足した瞬間、工房内に咆哮が響き、皆がその声がした方向を振り向いて――気付く。

 レクイエムが、起動し、そして暴走していた。

 避難を呼びかけるトリニティ。それを逃がすまいとイザナミが手を突き出そうとするが、それは叶わない。鎖のような拘束陣が、何重にもなって彼女を拘束したのだ。

「く……何のつもりだ、ナイン=ザ=ファントム」

「特製の拘束陣よ……いくら貴女でも、それを解くのには……数分かかるわ」

 逆らう姿勢を見せるナインにイザナミが問えば、彼女は汗を顔に浮かべながらも挑戦的に笑ってみせた。けれど、イザナミはたかだか数分か、とくだらない冗談を聞いたかのようにそう吐き捨てる。負けじと笑ってみせ、イザナミは煽るように言葉を紡いだ。

「それで、その後は未完成の『骸葬・レクイエム(おもちゃ)』で何を楽しませてくれるのだ?」

「そうね……『レクイエム(コレ)』はまだ未完成」

 でも、付け足して彼女はレクイエムを見遣る。間を置き、再びイザナミを見ると。

「アンタを『止める』には、十分よ」

 その台詞にイザナミが目を見開く。彼女らしくなく動揺を見せていた。何か、思い当たることがあったのだろう。「まさか」と漏らすイザナミにふんと鼻を鳴らして、ナインはラグナを振り返った。聞きなさい、前置いて彼女は語り出す。

 それは『滅日』が止められないこと。滅日の核である『死』は冥王イザナミの存在そのものであること。つまりイザナミが存在する限り滅日は止められないこと。そして死という概念的な存在であるイザナミを消滅させることは不可能であること。

 だから、今からイザナミの『死』の時間を停止させること。そうすれば滅日も一時的に止められるということ。

「けれど、止められるのは多分……『一週間』よ」

 瀕死の状態で事象干渉を起こしているうえに、イザナミほどの存在をも捕える拘束陣を作り上げたためか。言う声は息も絶え絶えだったが、ラグナは真剣にナインを見つめ、その話を聞いていた。

「だから……その間に、何とかしなさい……」

 約束しろ。そう彼女は紡ぐ。

 ナインがイザナミ……『滅日』を止めている間に、ラグナが彼の妹を、サヤを倒す……否、『助ける』方法を見つけろと。

 ラグナは少しだけ困惑した表情を見せた。分からないことが多かった。けれど、彼女がここまでやってくれたのだ。それを理解した瞬間、ラグナは強く頷く。

「分かった、『約束』する。必ずサヤを……妹を助ける方法を見つけてやる」

 それに、それだけあれば彼女を助ける方法だって……。僅かに笑みを見せるラグナに、けれどそれには首を振るナイン。何故、問うラグナに彼女は再び鼻で笑う。

「無駄よ。だって……」

 イザナミを止めるための『骸葬・レクイエム』起動の触媒は、ナインの魂なのだから。

 聞いた瞬間、ラグナが驚きに声を漏らす。

「ラグナ=ザ=ブラッドエッジ……私はね。自分のした事に一切の後悔はないし、それに……自分以外の『可能性』も絶対に信じないわ」

 けれど。ラグナが本当に『蒼の男』だと言うのならば、その『可能性』に少しだけ賭けてあげてもいい。

 今までラグナに向けたどの笑みよりも優しい笑顔を浮かべて、ひどく穏やかな声でナインは告げる。何か言おうとして、けれど言葉の思いつかないラグナ。

 それを見て、ナインは仕方なさそうに追い払うように手を振った。時間がないからさっさと行け、と。頷き、ラグナは悔しさに歯を噛み締めながら、踵を返した。



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第十九章 終丹の夜

そこは、豊かな自然に囲まれた教会の傍だった。ラグナ達がナインの工房から転移してきたのは、どういうわけかここだった。

 燃やされ消えたはずの、ラグナ達が住んでいた教会とそっくりなこの場所に人の気配はないが、まるで最近まで使われていたような様子だった。いつかの時間を切り取ってきたかのように。

 そして星々が煌めく夜空の下、ラグナ、ノエル、レイチェルの三人が集まっていた。

 ノエルは、ラグナに連れられてやって来ていた。

「それで……あの、どこへ行くんですか?」

 ノエルが尋ねたのは、事前にラグナから「一緒に来て欲しい場所がある」と頼まれたからだった。レイチェルが指先で指し示すのは、足元の地面。首を傾けるノエルに、レイチェルが唇を動かして答えた。

「すぐそこよ。すぐ……足元」

 足元、と言われて再び地面を見ても、草が生えているだけの何の変哲もない地しかなく。そんなノエルにレイチェルが仕方なく溜息を吐く。

「教会の地下へ行くのよ」

「地下……この教会に地下室なんてあったんですか!?」

 彼女はあくまでラグナの妹ではなく、そのクローンだ。ここに住んだことはないし、何より記憶も思い出していない。ならば知らなくても当然のはずだというのに、やけに驚いた様子でノエルは問う。

 それに違和感を覚えるラグナだったが、レイチェルが気にした様子がないのと、ここで変に突っ込んで話が長くなるのも面倒だと黙っていた。

「いいえ、少し違うわね。地下はあるけど、部屋はないわ。あるのは……過去の対戦で倒された厄災の残骸だけよ」

 倒された、残骸。その言葉に聞き覚えがあったのか「まさか」とノエルが漏らす。

 そう。この教会……ラグナ達がかつて暮らしていた教会の下には、約百年前に起きた戦争である『暗黒大戦』で人類が戦った敵、『黒き獣』の骸が埋まっている。そして、今から向かうのはそこだった。

 それを聞いて、ノエルがひどく慌てた様子で待って、と声をあげる。どうしてそんなところに向かうのか、理由が分からなかった。ノエルのそんな胸中を察してか、ラグナが口を開く。

「ナインの工房に向かう前、俺がお前を窯に連れてったのは覚えてるよな」

 問うラグナに、こくりと小さくノエルは頷く。覚えている。思い出すだけで怖い、あの感覚を。顔を強張らせる少女にラグナは少しだけ申し訳なさを覚えながら、けれど言葉を続けた。

「あの時と同じことを、もう一度……ここでやってみようと思ってる」

 その言葉を聞いて、驚いたようにノエルが目を見開く。そして、眉尻を下げて困ったような、悲しそうな表情を浮かべた。だってあのとき、ノエルは、もう一人の自分を拒絶したのだから。けれど目の前の男は受け入れて欲しかったのだろうことも分かる。

 あの感覚は今も鮮明に思い出せて、だから、できるならば拒否したかった。

「わ、私には……無理です……」

 ゆるゆると首を振りながら俯くノエル。そっと、それに語りかけるラグナ。聞いてくれ、と。そうしてラグナは、上目にラグナを見る彼女に聞かせた。

 ノエルが切り離した、もう一人の彼女……それが『神殺しの力』であること。それがあればイザナミに対抗できる『可能性』があることも、それに……。

「門だ。お前が……いや、お前ならアレが何か知ってるはずなんだ」

「私、『門』なんて……」

 門。単語を聞いた瞬間。知らないのに、知っているはずもないのに、何故だか胸がざわついて。ノエルが露骨に否定する。それにラグナは否定し返すことなく、寧ろ頷いた。

「そうだな。お前は知らねぇはずだ。多分、知ってるのはもう一人……いや」

 ノエルがそれについて知らないことは、ラグナも想像がついていた。ならばもう一人か、否、彼女らが一つになった本来の姿でなければ知ることはできないのではということも。

「お待ちなさい、ラグナ。『門』ですって?」

 今まで黙っていたレイチェルが、不意に口を開く。いつになく焦った口ぶりだった。まるで『門』について何か知っているように。そんな彼女が反応することを分かっていたかのようにラグナは頷き淡々と答えた。

「ああ。俺は『門』を探してる。『蒼』へと通じる門だ。そいつが、俺のやろうとしていることの大事な鍵なんだ」

 レイチェルが、黙り込む。何かを言おうとしたけれど、きっと彼には何を言っても無駄なことなどレイチェルは理解していた。だからこそ寂しく感じたけれど。ラグナは曖昧な表情を浮かべる彼女に少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げると、ノエルへと再び視線を戻す。

「嫌な話になるかもしれねぇ。いや、これは間違いなく俺の身勝手な話だが、聞いてくれ」

 突き放しても良かったはずだった。無理なものは無理だと押し通して、逃げてしまうことだってできたはずだ。それだけの隙はあった。けれど、ノエルは口腔に溢れる唾を飲み込んで、ラグナの目を見てしまった。

「お前は、ヤビコの地下でもう一人の自分を強く拒絶した……俺はあれを『異常』に感じた」

 異常だと言われ、ノエルが首を傾ける。恐怖ばかりを感じて、どうしてそう感じるのかなどの他のことには全く目を向けていなかったから、異常など考えたこともなかった。だから、そうなのかと問えば、ラグナは頷いた。

「そうだ。俺が知っている以前のお前は、奴を……もう一人の自分を、力を、受け入れる強さがあった」

 それは多分、彼女が苦しいことや辛いこと、悲しいこと。そういった様々な苦難を乗り越えて手に入れた『強さ』だ。だからこそ、それを彼女が今更切り離すなどラグナには考えられなかった。だから、彼女が何故その『強さ』を切り離したのか、それが何を意味しているのか、ラグナは知りたかった。

「お前にとってそれは、今までの何よりも『恐ろしい』ことなのかもしれない。だが俺は……このまま『世界』を終わりにはしたくねぇ」

 もしかしたら、やはり身勝手だと突き放されたかもしれない。けれど彼女にはそれをしない強さがあると信頼していたから、ラグナは語っていた。俯きかけた頭を支えて、ノエルのグリーンの瞳をしっかり見据えて、ラグナは言葉を紡ぐ。

「この話は、完全に俺の我儘(わがまま)だ。だが、頼む……協力してくれ」

 誰もが黙り込んでしまって、静けさが辺りに広がる。ゆるやかな風がそっと足元の草を撫でていって、僅かに葉同士がこすれ合う音が鳴るばかりだ。

「あのときの子……もう一人の私と、一緒になれたら。私は、記憶を取り戻せるんでしょうか?」

 それについて、確証があるとは言えない。ラグナだって、分からないことだらけだ。けれど、いいえと言い切ることもできなかった。このままでは、その『可能性』すら無いからだ。

「私、忘れてしまったことを思い出したいとは思っていませんでした。ごめんなさい、ヤビコの地下のときも、そうです……」

 けれど、今は亡きナインが最後までノエルという存在を憎んでいた理由が、マスターユニットがどうだとか、この世界のことだとか。他にも沢山ある知りたいことが。それが自身の失った記憶に隠されているのであれば……知りたい。今は、そう思っていた。

 正直に言うのであれば、凄く恐い。でも、それが目の前の男、そして大切な皆の『力』になるのであれば。もう一度やってみようと、彼女を受け入れてみようと思えた。

「……とりあえず、黒き獣の所までは、俺も一緒に行く。心配すんな」

 ノエルの言葉を受けて礼を述べ、そしてラグナが言う台詞。それにノエルが困ったような笑顔を一瞬だけ浮かべて、挑戦的な表情へ切り替える。

「大丈夫ですよ。だって、私は『強い』んですよね」

 先ほど言われた、受け入れることのできる強さ。まだ不安がないとは言い切れなかったけれど、自身は強いのだと言い聞かせてノエルは言い、首を傾けた。ラグナが思わず吹き出して、笑う。頷いて、そして彼はレイチェルへと視線を移す。

「ウサギ。『後』を頼む」

「……ええ。分かっているわ。骸とはいえ、気を付けなさい」

 そう彼女が言った瞬間、光が展開され、足元が沈むような感覚に襲われる。否、実際に沈んでいた。驚いたようにノエルが悲鳴を漏らす。レイチェルに見送られ、やがて彼女は地の中に……。

 

 ゆらゆらと、水面が揺れるようにして、意識がゆっくり覚醒していく。くぐもった声が口から漏れる。ここはどこだろう。瞼を持ち上げ、上体を起こして、辺りを見回す。

 洞穴のような場所だった。凹凸のある岩壁に囲まれ、そのところどころに淡く光る鉱石が生えて照明の代わりになっている。鉱石からは光る粒子のようなものが出ていて――。

 記憶が正しければ、ここは教会の地下……つまり、黒き獣の前のはずだ。空間を見回して、そして丁度正面にある何かに気付く。地を四つん這いで歩く姿のまま固められたような、巨大な生物の影。あるべきところに首はなく、まるで不自然に切り落とされたかのように平だった。

「これは……まさか」

「黒き獣だったもの……だろうな」

 聞き慣れた声がして横を見上げれば、鉱石の青い光に照らされた白髪と、赤いジャケット。ラグナが居た。彼はノエルより先に起きて、彼女が起きるのを待っていた。

 この黒い塊が、かつて人類の半数以上をも死に至らせた、黒き獣。異様な恐ろしさのようなものはそのフォルムから少し感じられたけれど、それが動き出すような気配はなく、まるで彫刻のようだとノエルは思った。

「黒き獣は尋常じゃない高密度の魔素の塊なんだそうだ。この場所自体に魔素を抑える力があって……そいつで、この膨大な魔素を地下に封じ込めてるんだとさ」

 ラグナ曰く、これだけの高密度な魔素があるのは『窯』とこの黒き獣くらいだと言う。

 ならばコレを『窯』の代用、つまり境界との接触に使うことだってできるはずだと。

「よし。……ちょっと待っててくれ」

 簡単に説明したあと頷いて、そして彼は一歩、前に出ると。

「ミュー! 居るか? もう一度、試しに来た」

 ラグナが黒き獣に向かってそう叫んだ瞬間、魔素が微かに揺らめく感覚を覚えた。現れるのは、ヤビコの時と同じ、ノエルとそっくりな顔をした少女。白い胸元までのケープに身を包み、頭には十二の文字が刻まれた青いヘッドギアを装着して。

 それを見てきちんと接触できていることを確認し、ラグナが胸を撫で下ろす。

「あ、あの……私……」

 けれど、ノエルはその姿を見た瞬間、分かってはいたけれどやはり怖くなって、そして言葉が出なくなって。そんな彼女に、ノエルとそっくりな――もう一人の彼女、ミューは静かに問う。

 どうしてあの時、自身を拒絶したのかと。一度は受け入れたはずなのに、また否定するのは何故なのかと。

 淡々と静かに言うのは責めるようでもあったけれど、そうされるのは仕方ないとノエルは思っていたし、それ以上に彼女もまた疑問が強いのだろうことはノエルも理解していた。

「私、恐くて……貴女を受け入れたら駄目だって、そんな気がして仕方なかった」

 でも、自身だけ何も知らないのも、今は恐い。だから、彼女を受け入れるのが本当に良いことなのかは分からないけれど、それでも、彼女と一緒になったら全部思い出せるかもしれない。何故、駄目だと思ったのか。そういったことも全て。

「私は私のことが知りたい。だから、貴女と一緒になりたいです。もう一度……お願いします」

「私も知りたい。私のことが。私は誰なのか。私は何なのか」

 私は何を知っていて……。

 私は何を忘れたのか。

 二人が歩み寄り、そして、身体が重なる。その感覚は、昔に聞いた海の中のようだと彼女らは思う。入ったことはないけれど、そう。温かくて、けれど冷たくて。だんだんと溶け合っていくような感覚。

 沢山の情報が、記憶が、流れ込んできて。最初はその情報量に逃げてしまいそうになったけれど、堪えて、見て、受け入れて――理解する。

 蒼い光と、門が見えた。それに触れては、門を開けては駄目だと直感的に思う。だから触れそうになったところで、慌てて引っ込める。

 これを自身は観測(み)たのだ。あのとき、以前あった世界で暴走したラグナに飲み込まれ、その中で……蒼に繋がる『門』を『観測』してしまった。

 そう。彼女は『蒼の継承者』。蒼自身の他に、彼女なら……この門を開くことができる。生も死も、全ての『可能性』を終わらせることができる、この門を。だから彼女は、自分で、自身を二つに分けた。この門を開きたくなかったから。

 決して開かないように、開けられないように。全ての可能性である『蒼』に繋がる『門』を誰にも認識されないために。そのために、蒼の力を切り離した。

 

 

 

 身体が揺れる。どうやら、誰かに揺さぶられているみたいだ。肩が痛い。多分、掴まれているのだろう。瞼を持ち上げてみれば、濃紺の空の端に見慣れた白髪。

「早々に戻ってきて正解だったわね。あのままで居たら、逆に境界に取り込まれていたかもしれないわ」

 ゆっくりと身を起こすノエルの耳に、バイオリンの声がそう紡ぐのが聞こえた。融合した直後、ノエルは倒れてしまったのだ。揺さぶっていたのはラグナで、ノエルが意識を取り戻したのを見ると安堵に溜息を漏らしていた。

「で、どうだった? ……融合は、できたのか?」

 ノエルが小さく頷く。できたと、思う。この世界では今までなかったはずの『神殺しの力』も、意識すれば自身の中に感じる。記憶も全部思い出した。多分、これで全部のはずだ。

 伝えれば、その言葉の曖昧さにラグナが心配そうに眉尻を下げるけれど、それでも「良かった」と言葉をかけてくれる。

「ノエル……本当に、全部なのね?」

 その傍で、バイオリンの声……レイチェルが、問いかける。頷き。そう、全部のはずだ。

「はい……私は『ノエル=ヴァーミリオン』であり『蒼の継承者』でもあり」

 それから『ミューテュエルブ』でもあり、それは『神殺しの剣』でもあり、そして……。

 冥王イザナミでもある。

 ノエルが紡ぐその言葉を聞いて、レイチェルが頷く。けれど、逆にラグナは今の発言にひどく驚いて、声をあげた。

「はぁ? ちょ、ちょっと待て、どういうことだ?」

 けれどノエルもレイチェルもそれについて説明しようとはせず。それどころか、次にイザナミを倒しに行くときは自身も着いて行くなどとノエルは言うのだから、ますます混乱してしまって。

 ノエル曰く、自身ならイザナミを消滅させるのではなく引き受けることができると思う、と。

「私の中には……ラグナさんの妹である『サヤ』さんの『魂』もあるみたいなんです」

 冥王イザナミ。サヤ。確かにノエルはラグナの妹『サヤ』のクローンだ。けれど、あくまで複製体であって、本人ではないはずなのに。

 だから、問いただそうとラグナが口を開く。

「レイチェルさぁ〰〰〰ん!」

「んん? 何だ」

 けれど、そんなラグナの言葉を遮るようにして遠くから声が響く。聞き覚えのあるその声はだんだんと近付いて来て、すぐ近くまでやってくると膝に手をつき肩を上下に動かす。

「た、大変……すぐ戻ってきて、お客さん……!」

 

 

 

   1

 

「どうやら……ココノエ博士達が、準備を終えられたそうですよ」

 ラグナ達とナインの決戦が終わってからある日のことだった。

 窯の前でハザマが口を開く。最初『準備』という単語に首を傾げるテルミであったが、すぐに理解する。準備とは、イザナミの元へ乗り込むための準備のこと。それが済んだということはつまり自身達の長年の目標を達成する時も間近に迫っている。

 ラグナ=ザ=ブラッドエッジにしてみれば、これは滅日を止める最後の機会。そしてイザナミにとっても、滅日を起こすための大事な鍵が揃う絶好の機会。テルミにとっても、欲しいものが全て揃うかもしれない、見逃しがたい好機に違いなかった。

「テルミさんの欲しいもの……ノエル=ヴァーミリオンでしたら、確実に居ると思いますよ」

 にこやかに微笑んで、ハザマは背後に浮かんで見えるテルミを振り返った。

 テルミもまたニンマリと笑みを貼りつける。けれど、すぐに首を振って、ハザマの言葉を否定してみせた。

「いんや、それ以外にもう一つ欲しいものがあるんだわ。でもソイツを手に入れるには……今のままじゃ駄目だ」

 何の話か、ハザマは理解できないと言うように首を傾げた。

 けれどそれにテルミは、ハザマには関係ない事だと言って……それからすぐに教えてやる、そう紡ぐと。

 悲鳴が上がる。それはハザマの口から漏れたものだった。痛みと、衝撃。傷はないはずだけれど、自身の中から何かが零れ落ちていくような感覚。残った虚無感は、まるでテルミと融合する前に感じていたそれと同じで――。

「な……何が……」

 目の前には、テルミが居た。けれど、いつものような、幽霊みたいな見た目はしていない。しっかりと存在がそこにあって、手には何かを持っていた。四角い、金属の塊のようなものだった。

「く、くく……ヒヒヒ、残念だったなぁ、ハザマ。融合して俺の力を自分のものにしたかったみてぇだが、そういうわけにはいかねぇんだよ」

 テルミが手に持っている金属の塊を、その目で見たことはなかったが、知識にはあった。この感覚は、自身の前の器……そう、カズマ=クヴァルが体験したものだろう。

 ヒヒイロカネ。精神を斬ることのできる不思議な金属であり、つまり精神体であるテルミを唯一殺すことのできる道具。それによる攻撃を、テルミは受けたことがあった。

 話に聞いたり、カズマの記憶を漁ったりして存在していた事は知っていたが、まさか現在に至るまで存在しているとは思っていなかったから、少しだけ驚いた。

「あぁ……テメェに色々見張らせてる間にちょいとユリシアと一緒にアルカード城まで行って、取って来たんだよ。融合したっつってもやっぱ上手く行かなかったみたいだからなぁ」

 ユリシアの頭を撫でながら、そう答えるテルミ。

 それで、その精神を切り裂く刃でハザマとの繋がりを完全に断ち切ったというわけだった。

 ハザマは別に使えない器というわけではなかったけれど、もっと使いやすくて良い器を見つけたためだ。

「貴方が何を狙っているかくらい、私にだって分かりますよ。そうですか……今の器を捨てるのにも、新しい器を手に入れるのにも『ヒヒイロカネ』は便利でしょうからね」

 それならば、自身はお役御免か。寂しいですね、などと紡ぐ割には、どちらかというと玩具を取り上げられた子供のような拗ねた表情という方が近かった。

「ほざけよ。自由の身にしてやるって言ってんだ、泣いて感謝してくれたっていいんだぜ?」

「感動のあまり、前が見えないくらいですよ」

 吐き捨てるように言うテルミへ、いつも通り目を細めたまま、ハザマはわざとらしく返す。

 いつになく空気のよくない二人の会話に、ユリシアは不安げに二人を見上げるしかできなくて。

「さて……『ヒヒイロカネ』。この俺を一度は殺しかけた、ムカつく刀だが……今度は俺を手伝ってもらうぜ」

 そう言って、彼は手にしたヒヒイロカネの塊を見下ろす。

自身の一部となって。付け足し、そして彼は咆哮する。と同時、ヒヒイロカネが光りだした。その光は手を伝ってテルミすらも覆って、それから金属はテルミの中に溶けていき――光も吸い込まれるようにして消えた。

「だ、だいじょうぶ……ですか、てるみさん」

「ああ。悪くねえ。吐き気がする」

 心配げなユリシアの言葉に頷き、ひどく顔を顰めたままテルミは紡ぐと。一歩、足を前に出す。そのまま歩き出すテルミに目を丸くして、慌てて追いかけるユリシア。ハザマの横を通り過ぎる際、テルミは彼を見遣ると静かに囁いた。

「俺は『あっち』に行ってくるとするわ。良い子で留守番してろよ、ハザマ」

「……お気をつけて」

 薄く双眸を見開いて、唇に三日月を刻みながらハザマがそう返すのを聞くと、テルミとユリシアは静かに去って行った。

 

 

 

   2

 

 ふわりと浮いた身体が、突然地につくような感覚に彼らは目を開ける。

 テイガーの話す低音と、目の前に立つココノエ達の姿が、転移が無事に完了したことを告げていた。胸をなでおろすラグナ達に、カグラが口を開く。

「ココノエから話は聞いた。よく無事だったな、お前ら」

「カグラさん、ココノエさん……。お二人とも、無事で何よりです」

 一歩、彼らの方へ進み出るカグラに、ノエルが頷き微笑む。その様子にカグラは目を瞬いた。ラグナやココノエ達を怖がる様子もなく、またカグラにも以前の世界のときのような柔らかい態度を取っている。まさか記憶が戻ったのか、と。問えば彼女はそれにまた首肯する。

「……なるほどな。イザナミを倒す『考え』とはノエル、お前自身を使うつもりか。確かに状況から考えてその可能性を持つのはお前だけだ」

 そんな彼女らに、不意にココノエが呟く。納得したような声は、先日ノエルが記憶を取り戻した後にココノエへ伝えたことに由来する。イザナミを倒す方法で『考え』がある。ノエルが記憶と神殺しの力を取り戻したのであれば、合点がいく。

 ココノエは静かに尾を揺らめかせ、ふむと顎に指先を添えた。

「そういえば、セリカはどうした」

 俯きがちに皆を見て、そこに見慣れた少女の姿がないことに気付く。ポニーテールを揺らし無邪気に笑う少女の姿が。それには誰もが黙り込む。暫しの間を置いて、やがてゆっくりとラグナが答えた。

「……セリカは『帰った』」

 目を伏せ短く告げる彼に、それでも、その一言だけで理解したのだろう。ココノエもまたゆっくりと目を瞬いて、最低限の言葉で理解したことを告げる。

 ナインの工房を脱出する際、ココノエの機械式転移では座標の固定ができず転移ができなかった。そのため使われたのはレイチェルの魔法による転移だ。しかし、レイチェルは魔力を失っていて、それを回復させ転移魔法を使わせたのはセリカであり。

 けれど、あの大人数を転移させるだけの魔力を譲れば、その分彼女の中の魔力は失われる。セリカの身体は既に限界に近かった。故に、彼女は消えてしまった。居ないはずの者は居ない者へ帰ったのだ。

 表情はいつものそれを崩さないまま、しかし深く溜息を吐く彼女を見つめラグナが言葉を紡ぐ。

「あんたの母ちゃんと、セリカと約束した。この世界を助ける、ってな。だからこの事態を何とかするのは俺の役目だ。早速だが、話を進めようぜ」 

「だがまぁ、ちょっと待て。すぐに『全員揃う』。話はあと二人来てからにしないか」

 けれどラグナの言葉とそれに頷くココノエは突き出されたカグラの手によって制される。あと二人とは誰のことなのか、首を傾けるラグナ。問おうとするよりも早く、遮るようにしてノックが三つ鳴らされる。

「カグラ様。お二人をお連れしました」

 告げるのは、ヒビキの声だ。噂をすれば影が差すなどとカグラが言って、それからヒビキに入るよう促せば扉が開かれる。ジンがそこに居た人物へ目を見開いた。

「ツバキ!? それに貴様は……」

 ヒビキに連れられてやって来ていたのは、紅い髪に青の瞳を持つ少女、ツバキ。そして大きな白い鎧、ハクメンだった。このエンブリオに来てから、ジンは彼と一度も会っていない。まさか生きて、しかもこんな所に来ていたとは思いもしなかった。

「その身体で、未だ生きていたか、ジン=キサラギ。トリニティ=グラスフィールの力を借りたとはいえ、存外しぶとい男だ」

 それどころか、こんな軽口まで叩くなど。少しだけ眉を顰めてジンはハクメンを睨み付けると、ツバキに視線を向けた。

「ジン兄様、ご無事で何よりです」

 視線がかち合えば、ツバキが静かに頭を一度垂れる。それに短く相槌を打つジンだったが、その目はひどく厳しいものだった。

 彼女が何故ここに居るのか、ジンには分からなかったし、何より今から向かう場所がどれだけ危険なのか、想像がつかないからこそ。想像がついたとしても、彼女にこの先の戦いを耐え抜く力があるとは思えず。ヤヨイ家へ戻れ、突き放すようにジンは告げた。けれど彼女は退くことなく、それどころか一歩前に出た。

「ジン兄様の命令でも、それは聞けません。私は私の信じる正義のために、貴方と共に行きたいのです」

 凛とした、芯のある声音。強い意思を感じる瞳。彼女は確かに強い。けれど、だからこそ弱いのだ。それでも駄目だと突き放そうとしたジンに、しかし言葉になるより早く声が届く。

「言っておくが、ツバキ=ヤヨイの説得は無駄だ。我が言葉も、彼女の信念を動かすには至らなかった」

 ハクメンの声に、ジンは目を見開き、彼の言葉を反芻して歯を噛み締めた。ハクメンに対して彼女が慕う気持ちの強さはジンだって分かっていた。その正体が別の世界の自身だったとしても、否定することはない。だから、彼の言葉が彼女にどれほど影響を与えるかも理解していたし、そのうえで彼女が動かないというのがどれほどのことかも、勿論知っていた。

「いいじゃねぇか。本人がこう言ってるんだし、それに『十六夜』は立派な戦力だろ。お前の都合で足手まといにしてやるな」

 悔しげな表情を浮かべるジンに一歩近寄って言うのはラグナだ。僅かに眉尻を下げ苦笑した彼の声を聞いて、ツバキが露骨に冷たい視線を向ける。

 彼女にとって、ラグナは敵だ。ジンをおかしくさせて、そして幾度も危険に巻き込んだ、世界の悪。けれど、フォローを受けたのだから何か言いたい気持ちを堪えてすぐにジンへ視線を移す。

「お願いします、ジン兄様」

 じっとジンの瞳を見つめれば、涼やかなグリーンの双眸はやがて伏せられる。溜息。そして舌を打つ。何を言われるのか不安を覚えながらも、それでもツバキはジンの言葉を待った。

「……勝手にしろ。だが、死ぬ事は許さない。絶対に生き延びろ」

 ツバキが目を見開く。まさか、彼が自身の意見を曲げ、同行を許してくれるとは思わず。けれどすぐに、大きく頷いて。彼女は微笑んでみせた。

「話のついでだ。受け取れ、ジン=キサラギ」

 頷くことも首を横に振ることもないジンへ、不意にハクメンが声をかけ手を差し出す。その手を一瞥して、ジンは眉根を寄せた。ハクメンの手にあるものは、金属の塊に見えた。

「猫からの預かり物だ」

「これは、まさか……ヒヒイロカネ!?」

 驚きに声を漏らすのは、トリニティ。

 ヒヒイロカネは、精神を斬ることのできる刀となる金属だ。そして、トリニティがジンに最初依頼した『ルナとセナを探し出すこと』の目的には、その金属の錬成のこともあった。

「無兆鈴によって具現化された『最後』の品だ。丁重に扱え」

 そのヒヒイロカネが、ハクメンの言う通り『雷轟・無兆鈴』により具現化されたのであれば、あの子達が具現化させたのだろう。そして、獣兵衛の代わりにハクメンが受け取った、と。

 ジンはしかしその金属を受け取らない。首を僅かばかり傾け、胡乱げな目でハクメンを見据えると、静かに問いかける。

「預かったのは貴様だろう。何故、これを僕に託す?」

 それだった。ハクメンほどの力ある者が使った方が、もっとその力を活かすことができるだろうに、何故。問うジンに、ハクメンは毅然とした態度のまま答えた。

「この世界の理から外れた者を屠るのは、この世界の理の中にある秩序だ」

 かつては自身もその力を持っていながら理から外れてしまった秩序は、自身と同じでありながら決定的に違うジン=キサラギだからこそ託すのだ。

「……分かった」

 言葉でこそ話さなくとも、先の台詞だけで十分に理解することができて、ジンはそっと手を伸ばし、ヒヒイロカネを受け取る。じんわりと熱のようなものをその金属から感じて、驚きに手を離しそうになるも堪えた。熱い、というよりは温かい。

「話は纏まったか? だったらそろそろ話してもらおうか」

 そんな彼らに、今まで黙って話を聞いていたココノエが声をかける。話が一段落ついたのであれば、ココノエは次の話に移りたかった。

 具体的に、どういった方法でイザナミを止めるのか。彼らが転移する前からずっと気になっていたことだ。問われれば、ノエルが視線をココノエに向け、口を開く。

「それは――」

 口を開いたまま、そこまでを紡いで彼女は視線を泳がせる。言って、彼女らがどんな反応をするかが少しだけ怖かったから。けれどすぐに頷いて、俯きかけた顔を持ち上げる。

「私……ノエル=ヴァーミリオンの中に、冥王イザナミを受け入れるんです」

 じっと彼らを見据えて答えるノエルに、カグラが目を見開き眉根を寄せる。確かに冥王イザナミの身体はノエルの元となった『サヤ』だ。けれど、それと受け入れることがどう繋がるのか、カグラには分からなかった。

「記憶が戻った時、同時に他の色々なことを思い出したんです。『本当の私』のことも……」

「本当のお前……って、俺たち『資格者』がマスターユニットの中に見たお前のことか?」

 カグラの問いに、ゆっくりと彼女は顎を引く。

 ノエル曰く、皆がマスターユニットの中に見たのは最初の接触体。全ての始まりとなった少女。その『彼女』が『神』……マスターユニットと接触した時から、この世界の方向性は定まったという。

 そしてノエル達、つまり素体は、第一接触体のクローンなのだ。けれど、誰もが個として成り立っているわけではない。それぞれが、一つの魂を別けた分身だった。

「だから私の魂は……ノエル=ヴァーミリオンでありながら、マスターユニットと接触した少女でもあり『サヤさん』でもあるんです」

 胸に手を置き、見下ろし、目を伏せる。そうして語る少女に、またしてもカグラが疑問をぶつけた。彼女の言葉をそのまま受け取るのであれば、ノエルとその『接触体』は同一人物ということになる。それは本当なのか、と。

「いえ、正確には……バラバラになった接触体の魂。その欠片が、私達なんです」

 首を振り、ノエルは否定し答える。その答えを聞いて、納得したような声音で――そういう事か、とココノエが呟く。皆の視線がココノエに集まる。彼女の台詞は、まるで知っていたかのようだったから。

「予想だ。境界内に残されたバックアップや情報を頼りに、この世界『エンブリオ』に起きているあらゆる事象をシミュレートしてみたが……」

 そう言って、彼女は一歩前に出る。ふん、と小さく鼻を鳴らして、ゆっくりと目を瞬く。

「その結果、全てが事象の異なる世界であるはずなのに『ある一点』だけ『必ず起きる』共通点が存在した」

 この世界にどれだけの事象が存在するのかで計算してみれば、確率的なもので言うと『それ』はもはや特異点だった。

 あらゆる事象において必ず起きるそれは『イカルガ内戦』と呼ばれていた。

 イカルガ内戦で必ずイブキドは『崩壊』し、そして崩壊したイブキドの炎の中で『ノエル=ヴァーミリオン』は誕生する。

 この世界がノエルの観ている夢なのであればノエルが生まれるために必要なイカルガ内戦が必ず起きるように出来ていても不思議ではない。けれど、ラグナが何かに気付いたように首を捻り、そして手を顔の高さまで掲げる。

「けどよ、皆が同じ魂を持ってるならなんでこの世界が『ノエル』一人の夢って事になるんだ?」

 他の素体達が同じ魂を持っているのであれば、彼女らの夢だって混ざってもおかしくはないはずだ。けれど、この世界はノエルの夢ということになっているのはどういうことか。普段は鈍い彼であったが、こういう時だけは頭が働くらしい。

 ノエルも言われて気付いたように目を丸くして、それから俯き顎に人差し指を添える。

「それは……直接彼女に会ってみないと分かりませんが、多分……姉妹の中でも、私の持つ魂の比率が大きかったんだと思います。だから私が一番、接触体に近いクローンなんだと……」

「ふっ……近い、だと?」

 言いかけるノエルの言葉に重ねるように、短く笑う声が響く。こもったような音は正しく鎧の男、ハクメンから発されていた。沈黙に徹していた彼が突然話し出したのに、皆が視線を向ける。

「私は、お前達の知っている世界と同じではあるが、別の時間軸から来た」

 それはつまり、彼は以前まであった世界の、彼らが居たのとは別の事象、違う時間軸から現れた存在ということで、彼もまた理から外れた、居るはずのない存在であると。

 そしてハクメン曰く、彼の居た事象に『ノエル=ヴァーミリオン』は存在しないのだという。

 その言葉を聞いて、ココノエが眉根を寄せる。信じられなかった。彼が嘘を吐く性格には思えず、ならば彼の言うことは本当なのだろう。それなら何故『必ず』イカルガ内戦は起きるのだ。

 それに返すハクメンの声は、極めて淡々としたものだった。

 ノエル=ヴァーミリオンが存在しなかったと言っただけである、と。

「化け猫……特異点は其処では無い。イカルガ内戦は『切っ掛け』だ」

 きっかけ。その言葉にココノエが首を傾けるのも気にせず、今度はハクメンが納得いったとでもいうように頷いた。

 内戦は起き、タケミカヅチの矢は『必ず』イブキドに放たれる。けれどノエルの存在する事象だけが『消滅』を免れ『崩壊』に留まる。タケミカヅチが放つ矢の高エネルギーを触媒にすれば特異点を発生させることも、『居ないはずの者(クロノファンタズマ)』を生み出すことも可能なはずだ。

 語り、そしてハクメンは目のない面の顔を、身体中についた赤い瞳を動かしノエルへ向ける。

「此れで全ての合点がいった……ノエル=ヴァーミリオン、何故貴様だけが『蒼の継承者』として選ばれるのか」

 何故、神殺しとなり得たのか。

 近いなんてものではない。ノエル=ヴァーミリオンは、正しく第一接触体の『分身』そのものだとハクメンは告げる。

 それに誰もが目を見開く。特に驚いていたのは、意外にもココノエだった。否、それがどういう意味なのか理解できる彼女だからこそだろう。

 ハクメンの説が正しければ、何故ノエルだけが特別だったのかも、何故今のノエルが構築した世界ではタケミカヅチの矢がイブキドに放たれなかったのかも説明がつく。

 小さく、金属音が鳴る。気付いた時には、ハクメンが背に担いだ大太刀を抜いていた。

「数々の事象を繰り返し、果てには自らの分身を作ったか、『第一接触体(ジ・オリジン)』!!」

 叫ぶハクメンが床を蹴り、ノエルに向けて剣を突き出す。

 強く目を瞑る。耳を劈く金属音。痛みや衝撃の類は、ない。

「っと、悪ぃ……口より先に手が出ちまった」

 声がして、目をあければ広い背中。カグラだ。

 ハクメンの手に大太刀はなく、カグラが構えた大剣はハクメンの喉元に突きつけられていた。

 大太刀――『斬魔・鳴神』は離れた床に突き刺さっている。カグラが咄嗟に弾いたのだろう。

「黒騎士……貴様」

 ハクメンは顔を顰めることこそしない――否、できないが。低く威圧するような声音でカグラの異名を呼んだ。それでも、彼なりに驚いているのだろう。いつもよりも声に覇気が欠けていた。

「コイツに手を出したら、ハクメン。お前でも……」

「やめてください、カグラさん。ハクメンさんの言ってることは、正しいと……思いますから」

 ひどく怒りを見せた表情で紡ぐカグラを止めて、ノエルは悲しげに目を伏せる。ハクメンの言い分は正しい、そう言う彼女に反応したのはジンだ。

「思います、だと? ……貴様、自覚していたと」

 頷くノエル。確信は持てなかったけれど、もしかしたら。そう思って、彼女はこの作戦を提案したのだと言う。それからゆっくりと頭を持ち上げ、ラグナへ視線を向けた。

「ラグナさん。ナインさんのお話……第一接触体の『願望』が何か、覚えていますか?」

「えっと……確か『一人の個』、人間として認めて欲しい……だったか」

 

 

 

 マスターユニット・アマテラスの中にいる少女、第一接触体(ジ・オリジン)とノエルは同じ願望(ゆめ)を持っていた。

 人として、一人の個として認めてもらいたい。認識にマスターユニットの『干渉』を受けない『理の外』の人物を除けば、ノエルというもう一人の第一接触体はこの世界で人として認められている。

 つまりこの世界は、第一接触体とノエルの願望が叶った状態にある。

「……『神殺し』。人の手で神を殺すのは難しい」

 語るのはテルミだ。普段は目深に被ったフードを後ろへ取り払い、鮮やかな緑の髪とその表情を惜し気もなく晒していた。

 マスターユニットに縛られた状態にあるスサノオも、たかだかブレイブルーの模造品程度の身体だって彼女を殺すことはできない。

「が……『同じ神』もしくはそれ以上の存在であれば、それも可能だ」

 故に、彼はノエル=ヴァーミリオン……第一接触体の片割れに固執していた。

 それでもユリシアという『蒼』の片割れそのものが力を目覚めさせれば、マスターユニットの比ではない力を手にすることができる。現に彼女は無意識にマスターユニットやタカマガハラの事象干渉を確率事象の間、跳ね除けていたのだから。

「それなら、わたしが、いれば……」

 全部とは言えなくても、思い出しているのだから。今なら事象干渉だってできるかもしれない。もしかしたら、神に死を認識させることだって。

「それじゃ駄目なんだよ、ユリシア。テメェの力は強大だ。テメェが居るなら何だってできるかもしれねぇ」

 けれど、それでは駄目なのだ。だって、ユリシアの力――つまり『蒼』はテルミの目的を達成するのに役立ちはしても、テルミがそれを成そうとする理由を踏まえると、テルミの『願望』を満たすには足りない。寧ろ目的だけ叶えてしまったら、テルミは一生満足することがないのだ。

 自身を散々縛りつけ、くだらない喜劇を繰り返すマスターユニットを倒すのは勿論だが、その片割れも同様に潰さなくてはならない。思いつく限りの苦しみを与えてから、壊し――。

 そうしてやっと、テルミは『自由』を得られる。何者にも縛られず、世界を生きられる。

 

 

 

「……話を続けるぞ。ノエル、それでイザナミを止める方法だが」

 イザナミを引き受け、受け入れる。そうする理由と、そうすることでイザナミがどうして止まるのか。話すようココノエが促せば、ノエルは頷いた。

「はい。『イザナミ』はアマテラスのドライブ能力です」

 ドライブとは、皆が持つ『魂』の力が具現化したもの。そして、ノエルは『イザナミ』というドライブを発動させた第一接触体と同じ魂を持っている。つまりは魂が同一であるノエルならば、第一接触体がするようにイザナミを受け入れる――元の形に還すことができる。

「そして融合が成功すれば……死であるイザナミに『生』……命が生まれて」

 死は否定され、滅日が止まる。

 誰もがノエルの作戦に納得の色を見せた。

「なるほど確かに可能性はあるな。……だが」

 口を開くカグラの表情は笑み。けれど目は笑っていないし、付け足された接続詞も前述の言葉否定するときに使われるものだから、思わずノエルは身構える。

「確証はないんだろ。なら、そいつは承認できねぇ」

 案の定、彼はノエルの案を否定した。何故、ノエルが問えば、カグラが人差し指を立てた。

 彼の考えでは、ノエルがイザナミを受け入れた際、彼女が無事でいられる保証がどこにあるか、そんな懸念があった。失敗したら、もしかしたら逆にイザナミに体を奪われる可能性だってある。そうなれば彼女の意識は消えて、ノエルは――カグラ達の敵になる。

「……そう、ですね。でも……聞いてください」

 それは確かにノエルも考えていたことだった。でも、それでも。彼女には彼女なりの考えがあって。俯きかける顔を必死に前へ向け、ノエルは唇を動かした。

「私の身体の中には、オリジナルである『第一接触体』の魂を共有している、イザナミの器となった『サヤさん』の記憶も混在しています」

 その発言に、サヤの兄である二人は少しだけ顔を顰めた。勿論、二人とも彼女の発言から薄々勘付いてはいたのだろう。けれど今までそれを認めて来なかった故に、少しだけ。

 ノエルは言葉を続ける。

「ですが、私が共有できているサヤさんの魂は『半分』だけなんです」

 その片割れ――残りの半分は、イザナミの中に。本来イザナミと身体が融合した時に切り離されるはずだった魂は、まだ残っている。それも相当混ざっている状態で。だって、からかうためだったのかもしれないけれど、確かにイザナミは何度もラグナを兄として話すことがあったから。

「そのサヤさんの『魂』があるのなら、大丈夫です」

 彼女は断言した。だってそれは、イザナミとサヤを救うのは、同じ魂を別けた彼女にしかできないことなのだから。

 だからこそ、ノエルは絶対に負けないと、イザナミに身体を奪われることもしないと宣言した。

 そして、この場所に必ず帰って来る。

 帰って来なくてはいけない理由が、彼女にはあったから。

「ッ……お前な、ずるいぞそいつは。そこまで言われちゃ……止められなくなっちまうだろうが」

 真剣なノエルの眼差しに。その言葉に。唾を飲み込んで、カグラが呟く。それから深く深く溜息を吐いて、額を手の平で覆う。ゆっくりと首を横に振り、それからやっと、口を動かした。言う言葉はノエルの作戦を承諾するものだ。

「ただし約束しろ。絶対にイザナミに負けないとな。これは衛士最高司令官でもある俺の命令だ」

「はい……! ありがとうございます、カグラさん!」

 渋々といった形ではあったが、カグラの言葉にノエルは笑顔を咲かせる。大きく頷き、礼を述べる少女。それに、また声をかける人物が居た。

「それでだ。全てが予定通りに運んだとする。その後は……どうするつもりだ」

 マスターユニットが存在する限り、この世界という問題そのものが解決したことにはならない。ならばどうにかして無力化し、エンブリオを……。

 ココノエの紡ぐ台詞に振り向くノエル。けれど答えるのはラグナだった。

「その辺は安心しろ。マスターユニットには本来居るべき場所へお帰り頂く」

「……私を安心させるような、策があるんだろうな」

 帰らせるなんて、そう簡単に事が運ぶはずがない。だから最初どうやるのだ、だとかを聞こうとして。じっと見つめるラグナに何も聞くことができなくなった。

 問いに、短い相槌で首肯するラグナ。きっと彼はとんでもない事を成そうとしているのだろう。が、それは多分話してはくれない。

 彼女は科学者だから、推論や憶測、そしてラグナが話すような根拠の無いモノを絶対に信用しない。けれど、叔母であるセリカと母であるナインがラグナに賭けた。ならばそれを根拠として彼を信用するまでだった。

「……任せたぞ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

「となると、あとはユウキ=テルミとあの子……ユリシアちゃんか」

 全ての元凶とも言える存在にして、滅日を完遂させようとする一人、テルミ。そして、その人物に付き従う少女――ユリシア。

「ユリシアちゃん……どうして、テルミに……」

 彼女は、何故『蒼』は、自身が世界を作る役目を与えたアマテラスを殺そうとするのだろう。何故、今になってこの世界を否定するのだろう。

 

 

 

   3

 

「う……ラグ、ナ……?」

 冷たく硬い感触。どうしてこんな所に自身は居るのだろう。痛む頭、虚ろな視界。瞬きを数度繰り返せば、映るのは黒い何か。誰かの脚だろうか。起こそうとした身体が痛み、まともに動くことができない。

 レイチェル=アルカードは、血のように赤い目だけを動かして上を見上げる。

「おや……ようやくお目覚めのようですねぇ」

 耳につく声が不快感を煽る。聞き覚えのある声。わざとらしく大げさな態度で、いつもより声の調子を少し上げたそれの正体は。

「テルミ!! 何故貴方がここに!?」

 ユウキ=テルミ。鮮やかな緑髪に黒いスーツを着込んだその男を、レイチェルはそう呼んだ。それに彼は首を振る。問いには答えずに。

「いえ、違いますよ。私は『ハザマ』です」

 でも、名前なんてどうでもいいので好きに呼んでください。などと付け足す男、ハザマ。確かに彼も人の神経を逆撫でする空気こそ持っていれど、あの精神体の気配はない。つまり彼はテルミと分離した器だけの状態ということか。

「……それで? 私に何か用事でもあるのかしら」

 テルミがレイチェルを嫌っていることは分かっている。勿論、彼女だって好いてなどいない。けれど、器であるハザマについてはレイチェルは殆ど何も知らない。

 彼が自身をどうこうする理由が思いつかず。問う。

「いやいや、たまたまですよ。たまたま貴女をお見かけしたので、こうして見張っているというわけです」

 あくまで偶然だと言って、にこやかにハザマが笑いかける。ちらりと悪意が見え隠れするのが神経を逆撫でた。もしかしたらテルミ以上に厄介で、苦手なタイプの人物かもしれない。

「偶然、ね……痛っ……」

 どうでもよさげを装って、彼女はゆっくりと身を起こす。再び走る痛みに麗しいその眉を顰めた。見れば、身体には無機質な光を放つ拘束の術式陣が纏わりついていて。痛みの原因はこれかとレイチェルはすぐに理解する。

「そうそう。お分かりかと思いますが、無理に動かない方が良いですよ。その拘束陣、動けば動くほどにキツく締め付けていきますから」

 ハザマの声がひどくうるさく感じた。

 立つのもやっとで、やっと地に足をつけたところで彼女はゆっくりと空間を見回す。どうやらここは窯のようだ。すぐ近く、見下ろせば穴が口をぽっかりと開けて、中が燃えていた。

 何のつもりなのか、何を考えているのか。あくまで人の好い笑みを浮かべてレイチェルを見つめるハザマからは読み取れない。苛立ちそうになって必死に自身を抑えた。

「それにしても……あの子は、今日は居ないのね」

 あの子というのは、いつもテルミ達の傍にいるあの少女のことだ。名前は確か、ユリシアと言ったか。どういうわけか、今日は見当たらない。以前の世界でも確かに別行動をすることはあったけれど、彼女の性格からして彼と離れることは望まないはずだ。

「あぁ、ユリシアでしたら……テルミさんの所に居ますよ」

「そう。貴方は一緒に居なくてもいいのかしら?」

 見定めるように、じっと。見つめるレイチェルに両手を掲げてハザマは首を振った。笑顔は絶えず貼り付けられたままだ。

「私はテルミさんにとってお役御免らしいので。ですから、私は私のやりたいことを、ここでやっているわけです」

 彼のやりたいこと。こうやってレイチェルを拘束することのどこに、彼のやりたいことが含まれているのか。レイチェルの眼差しが胡乱げなものに変わると、ハザマもまたレイチェルの疑問を察したのだろう。小さく笑い、静かに口にする。

「私は……『知りたい』んですよ。今まで感じられなかった痛みも苦しみも、全ても」

 それがハザマの願望。前の器は感じられたという痛みを、苦しみを。そうすれば、きっと。『可能性の地獄』から生まれたあの少女のことも、その少女に抱く、この得体の知れない感情も。

「知り……たい?」

 疑問符を浮かべ、身動ぎするだけで身体に走る激痛。呻きが漏れる。それを見て嬉しそうにハザマは口角を更に持ち上げる。

「痛いですか? 痛いですよねぇ? 痛いはずですよ。肉体的に激痛が走るようにしたのですから、普通なら耐えられない『痛み』だ」

 レイチェルを縛るこの拘束陣には細工がしてあった。レイチェルが目覚めると同時、少しずつレイチェルを締め上げて行き――最後には、レイチェルの存在そのものを細かく分断する。

 そして分断されたレイチェルを窯に捨てたら、死ぬことのできない不死者はどうなるのか。自分自身の存在を見失った時、不死者の『魂』はどうなるのだろう。その苦しみに恐怖に痛みに耐えられるのか。不死者の『魂』が死んだらそれは『死』なのか。

 全て、知りたかった。

「それと拘束陣ですが。外側からなら簡単に解除することができますので、貴女が『バラバラ』になる前に……『誰か』が助けに来るといいですね」

 

 

 

   4

 

「……やれやれ。待ちくたびれたぞ……兄様」

 言うのは少女、サヤ。否、冥王イザナミ。

 彼らは、この世界の上空に浮かぶエンブリオ……つまり、この世界を映す鏡を通して時間硬化空間内にやって来ていた。そこで一緒に行動していたはずの彼らは分断され、各々がイザナミが作り出した様々な『場』に飛ばされた。

 そしてイザナミを探すため彼らは行動を開始し――。

 真っ先にイザナミの元へ辿り着いたのは、ラグナ、ノエル、ミネルヴァの三人だった。

「……サヤ。なんで皆を別々にさせた? 俺達だけお前の所に呼べば済んだことだろ」

 何故、自身らをすぐに呼ばなかったのか。直接呼ぶことだって、彼女が作った空間の中なら容易のはずだ。問えば、少女はひどく退屈げに目を伏せて、呟くような声音で答える。

「僅かだが、考える時間を与えたまでだ」

 何度試しても無駄だという事実を。何度やったって、ラグナの傍にいる『人形』ノエル=ヴァーミリオンが全てを無に帰すことを。ならば、何を成すべきなのか。

 それを考えさせるためだと彼女は語る。

「資格者ではない兄様だからこそ……『ノエル=ヴァーミリオン』の干渉を受けない『兄様』だからこそ、理解できたはずだ」

 歪な微笑みを浮かべ、彼女は双眸を開く。じっとラグナを見つめ、そして彼女は告げた。

「其方なら、ノエル=ヴァーミリオンを殺し……真なる『蒼』を手に入れることが出来る」

 蒼が産み落とした片割れがテルミと共に世界を壊すよりも、完全な形となるよりも早く。彼ならばきっと、真なる『蒼炎の書(ブレイブルー)』を手に入れることができる。そうすれば神の観測は消えるのだ。

「さすれば其方の思い通りの世界を創造できるのだ。何を迷う? 何も難しいことはないぞ」

 ノエル=ヴァーミリオンを、そこに居る人形を殺すだけだ。そうすれば、正しい世界が目の前に広がるのに。けれどラグナは応えない。黙りこくったまま、一歩たりとも動きやしなくて、イザナミの湛えた笑みが歪む。

「……サヤ。前にも言ったはずだぜ」

 ラグナの言葉に、イザナミが首を傾ける。胡乱げに見つめれば、彼もまた左右で色の違う瞳で見つめ返した。

「俺は『誰も』殺さねぇ。お前も、ノエルも、誰もだ。だから……待ってろ、今度こそお前を『助けて』やる」

 見つめるイザナミの瞳が途端、暗い色を帯びる。助けるなど、未だそんな世迷言を言うのかという、一種の諦めに近いものだった。

「これが最後だ。俺がお前を助けるか、お前が俺を殺すか……」

 そんな表情の機微はラグナには感じ取れなかったようだ。紡がれる言葉に、イザナミが双眸を伏せる。無論、彼女の中で答えは決まっていた。この事象の末路は、死だと。そうでなければいけない。死が助けられるなどあってはならない。

「そう上手くいくか。だったら試してみろよ」

 けれどラグナもまた、世界が滅日を迎えるなどまっぴら御免だったし、彼女を助けることが自身の、兄の役目だと思っていたから。

 故にラグナは剣を構え、イザナミもまた光の刃を展開し――。

 

 

 

「ほう……見違えたぞ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 放たれる光線を、斬撃を。全て大剣を巧みに使って捌く。確かにあの時のやられるだけだった彼とは違うようだ。行動の一つ一つから、迷いが消えていた。

 しかし彼女はひどく退屈げな顔をして、その場から消える。次の瞬間には、ラグナの目の前に現れ、同時に魔素を纏った手刀を腹に叩き込む。その細い腕に釣り合わぬほど、その攻撃の威力は凄まじくラグナは目を見開き、身体をくの字に折った。

「この身体を斬らぬと決めた剣で、一体どうやって余を倒すつもりだ。それは迷いを乗り越えたのではなく、諦めというのだぞ」

 腹を抑える男をイザナミが見下ろし、告げる。掲げる手の先には、青白く光る火球が生み出されていた。ゆっくり、ゆっくりと大きさを増す火球。けれど、ラグナはそれでも挑発するように笑んで見せる。

「へっ……笑わせるなよ、イザナミ。俺が、何を諦めたって?」

 イザナミにはひどく不快な笑みだった。

 ラグナは尚も言葉を紡ぐ。

「俺がサヤの身体を斬らない? また前みたいに事象干渉を起こされるからか? それとも俺が『助ける』と決めたからか?」

 笑みながら、まるで全てを見透かすようなその瞳が煩わしくて。それにラグナが何を言いたいのかさっぱり分からず、それに嫌な予感がして、イザナミは遮るように「くだらない」と叫んだ。

「その不快な笑いを止めよ。其方の命を瞬時に消すことなど、容易いのだぞ」

「ならなんで殺さねぇ? 容易いんだろ? 答えは簡単だ」

 ぞわり、とイザナミの背筋を不快感が走る。理解などしてほしくない。救いなど求めていない。なのに、愚鈍だと思っていた彼はどうしてこういうときばかりは理解が早いのだろう。

 ラグナが紡ぐ、イザナミがラグナを殺さない理由。それは『イザナミが』この世界にラグナを呼んだから。

 黙れ、思わず口から飛び出る怒鳴り声。同時に火球を打ち込めば、ラグナは呻きをあげた。それでも尚、黙らないと言って立ち上がる彼にイザナミが悲しげに顔を顰める。

 彼がノエルを殺して新しい世界を作ること。それこそが……ラグナ=ザ=ブラッドエッジこそが、イザナミの『願望』だと、紡ぐラグナに刃から放たれる光線と斬撃が襲い掛かる。

「ッ……どうした、来いよ……まだ終わりじゃねぇぞ……」

「何を狙っておる?」

 イザナミによる攻撃を大剣で払いながら、ラグナは挑発するようにイザナミを誘う。けれど、それにイザナミは視線をひどく冷ややかなものに変えて、首を傾け問いかけた。何のことだ、とラグナが返しても、彼女はあくまでその態度を崩さぬまま。

「気付かぬとでも思うたか? 先ほどからの其方の動き、まるで余を抑え込もうとでもしているかのように……」

 先ほどから、ラグナはあくまで攻撃には転じていない。イザナミの攻撃を払ったり、躱すことこそあれど、それ以上に動いたりはしないのだ。けれどイザナミが消耗するのを狙ってか、見切れるような攻撃のフリだけはしている。それがとても不快だった。

「面白い。ならばその策とやらを見せてみよ。其方の命が尽きる、その前に――」

 言うイザナミに、ラグナの剣が振りかざされる。けれど、その目の前で彼女は再び消え、背後に現れる。ラグナの動きが止まる。まるで『時間』ごと止められたかのように。

 彼女が一歩踏み出て、ラグナの背に手刀をあてがう。

「決着だ」

 静かに、告げる言葉。

 ラグナの言う通りだ。ラグナは、イザナミの『願望』かも知れない。けれど、その『願望』もここで終わりだと。

「――さらばだ、兄様」

 イザナミが双眸を伏せ、ラグナを貫くために腕を引き――直後、布を、肉を裂く音が響く。

「何……?」

 けれど。それは、ラグナから発せられたわけではなかった。

 イザナミが目玉を動かして背後を見る。背中から貫かれる痛みと熱は、イザナミを襲っていた。

 そこに居たのは、ノエル――神輝を展開したクサナギ、ミュー・テュエルブ。彼女が光の剣でイザナミを貫き、離れないように強く抱きしめていた。

「ごめんなさい。貴方の意識の全てがラグナさんに向く、この瞬間を……待っていたの」

 掠れた声に憎悪をたっぷりと込めてイザナミが『貴様』と紡ぐ。けれどそれを聞いて尚、ミューは『眼』を開けた。

「――観測開始。次元境界接触用素体……対象を『同一体』と認識」

 抱きしめたまま、静かに紡ぐ言葉は呪文のようだ。

 ノエルもイザナミも、同じ『サヤ』という少女から生まれた分身。同じ魂を別けた存在。元々一つだったものが、再び同一体――一つに戻るだけだ。何も怖くはない。

「貴女が『サヤさん』なら怖がらないで。貴女のその魂を、全部私が受け止めるから……大丈夫、私達は一つになるの」

 少しずつ、イザナミから光が生まれる。その光はノエルへと回帰していき、少女はそれを受け止める。焦ったようにイザナミが目を見開いて、もがいた。

「貴様まさか、余の魂を奪うつもりか!? 汚らわしい人形ごときが、神と同義である余を!!」

 ノエルがイザナミを、サヤを受け入れるということ。それはイザナミからしたら、イザナミ達の主導権をノエルが奪うということになる。半分の神の魂を、自身という存在を、奪われてしまう。

「おのれぇぇぇぇえ……!!」

 これ以上ないほどの恨みを込めた声をあげるイザナミに、ノエルが腕に込めた力を強くする。

 けれど。途端、首だけを後ろに向けたイザナミの口角が持ち上がる。

「……と、余を奪えるなど本気で思うたか?」

 歪な笑みを湛えて、イザナミがそう告げる。ノエルは一瞬何が起きたか理解できなくて、目を見開き間抜けた声をあげた。

 イザナミは、ノエルがコソコソと機を見計らっていた事など最初から気付いていた。それでどのような手を使い自身を封じるつもりなのかと楽しみにしていたけれど、まさか正攻法だとは呆れてしまった。

「其方如きが、余を、神である冥王イザナミを『殺し』、『サヤ』の魂と一つになるのが狙いか?」

 途端、ノエルの中に流れ込んできていた力が、逆流し引っ張られてしまうような感覚がして。ノエルが苦しげに呻きをあげる。

「逆だ。その貧弱な魂を喰らい、余が神と一つになる」

 マスターユニットと、そのドライブであるイザナミが正しき姿に戻り――そこから漸く、正しき虚無が生まれる。語るイザナミにしがみついて、ノエルは尚も『サヤ』に語りかけた。けれどイザナミは静かに首を横に振る。冷たい言葉だったけれど、その表情はあまりに悲しげに見えて。

「もう終わりだ。塵と消えよ、神の魂を宿した少女よ――」

 そして、蒼の少女の加護を受け、自身らが……。

「ブレイブルー、起動!!」

 そんな、イザナミの耳に届く声。途端、胸に触れるのは大きな黒い手。前に立つのは声の主にしてブレイブルーの所有者、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。

 瞬間、イザナミの中から何かが零れ落ちていくような感覚があった。

「何……これは、まさかソウルイーター……!?」

 自身の魂が、奪われていくような。大切なものが流れ出してしまうような。これは、魂を喰らう、ラグナのソウルイーターによるものだ。

「テメェは強い。そりゃそうだ、『神』だもんな」

 イザナミを見据えて、ラグナが紡ぐ。その間にも、どんどんと彼女の中からは何かが出て行ってしまう。必死にそれが出て行かないように抑えようとしても、逆らえない。神であるはずの自身が何故こんな下等な人物達に逆らえないのか。困惑し、焦る様子のイザナミにラグナはそれでも言葉を続けた。

「俺が囮? 正解だ。神殺しのノエルが本命なのも正解だ。だが、テメェは殺さねぇ」

 語調の強さに対して、ラグナの瞳は悲しげな、そして申し訳なさそうな色を浮かべていた。何故そんな顔をするのか、イザナミには理解できなかった。

「悪いな。テメェの『願望』を利用するような真似をして……」

 何故謝るのだろう。何故。尽きぬ疑問を口にすることはできず、イザナミは揺れる目でラグナを見つめるしかできなかった。

 魂の綱引きなら、マスターユニットのドライブであるイザナミにノエルは勝つことができない。魂の強さであれば、イザナミの方が格上だった。けれど、彼女はラグナを殺す時に、ラグナという『願望』を諦めた。それが唯一の、イザナミの『弱さ』だ。

「それでも……二人がかりじゃねぇとお前には勝てねぇ。すまねぇな『サヤ』、そして『イザナミ』」

 止めろ、自身は『助け』など要らない、だから頼むから――。そんなイザナミの言葉に一度目を伏せ、ラグナは首を振る。イザナミが望んでいなくても、それでも、ラグナはイザナミを助けるしか方法がなかった。

「イデア機関、接続――――」

 反転。

 ラグナの喉からその言葉が溢れた瞬間。一際強く、イザナミの中が引っ張られるような感覚がして、呻く。ノエルはただ、それを受け止めるだけ。

 



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第二十章 彩後の暁

「いざなみさん、まけちゃいました、です」

 少女は、よくしてくれた人物の敗北、消滅を告げるにしては淡々と、けれどどうでもいい人物のそれを言うにしてはひどく寂しげな面持ちで呟いた。分かるのか、問うテルミに彼女は「観えたから」とだけ答え、俯いた。

「……そうか。ところでだ、ユリシア」

 それにテルミは短く返すと、不意に話題を変えるように言葉を紡ぐ。何を話すのだろう、ユリシアは不思議そうに上げた顔を斜めに傾けると、テルミは指を一本立て同じように首を傾ける。

「前に、俺の願望について聞きてぇとか言ってたの覚えてるか」

 問いに、ユリシアが首肯する。確かに聞いたことは覚えている。それで、いつかテルミが話してくれるのを楽しみにしていたけれど、その『いつか』はもっと、ずーっと先、色んな事が終わってから話してくれるのだとばかり思っていたから、そこで聞かれたことに少しだけ驚きながら。

「気が向いた。丁度暇だから話してやるよ。聞きたくねぇってんならいいけどな」

「き、ききたいです。きかせてください、です」

 少しだけ意地悪く笑むテルミに慌ててユリシアが聞かせるように言う。眠る前のおとぎ話をねだる子供のように、少しだけ急かすみたいに。

 満足げにテルミがふっと鼻で笑って、仕方ないという体で、口を開いた。

 ――テルミは、ただただ自由が欲しかった。

 アマテラスのお守りをする矛でも、アマテラスの創り上げる物を破壊し尽くすための破壊神でもない。誰にも邪魔されず、誰にも縛られない、勝手な神の意思で可能性を潰されない。そんな個としての自由が欲しかった。それが、己の自我が芽生えた時から、ずっと焦がれたもの。

 ――誰にも縛られない『ユウキ=テルミ』という一人の人間になることが、彼の目標であり願望だった。そのためにも、自身を縛るアマテラスという存在を破壊してしまいたかった。

 無論、アマテラスの『眼』であり分身である『ノエル=ヴァーミリオン』諸共。このくだらない世界を何度も何度も繰り返したその存在を、自身を縛るその存在を苦しめて壊して殺して、それからやっと新しい世界を作ることができる。

「……そのために、ブレイブルーも……つくった、ですか?」

 蒼の魔道書について『ユリシア』はよく理解していなかった。自身のことすら曖昧にしか分からないのだから、当然といえばそうなのだけれど。でも、その名の通り『蒼』に接続し、その力を引き出す魔道書なのだとしたら。

 テルミの話が正しければ破壊神であるはずのスサノオが『創造する』ことで『蒼』という願いを叶える可能性に近付こうとしたのであれば。

 首肯し、短い声でユリシアの問いに返すテルミ。やはり彼は、凄く一生懸命だと思うし、それは凄く興味深くて――。

「あ……」

 思わず声を漏らす少女に、テルミが視線を遣る。どうした、と問う声。

 理解、してしまったのだ。思っていたより、あっさりと。自身が生まれた理由について。

 いつか自分の生まれた理由だとかが本当に分かるのでは、とは思っていたし、ずっと知りたかったけれど。

 大切な人があれほど求める存在の行動なのだから、何か凄い理由で自身を産み落としたに違いない。その目的を果たすことができるかは分からないけれど、きっと大切な人の役に立つような、素晴らしいものだろうと。期待していなかったと言えば嘘になる。

 だから、今、知ることができて良かったはずなのに。

 けれど……答えは、あの日ハザマに告げたのと同じ答えだった。別にそれが好ましくないものというわけではないけれど。

 興味があった。好奇心がそそられた。それだけだったから、少し驚いたというか、寂しいというか、拍子抜けしたというか。

 最初は破壊神が創造しようとしたことに。あの躯(からだ)を捨てたことに。何より、理の外に居ながら、憎悪するマスターユニットの世界に自ら縛られに行くことへ。否、それについてはそうすることでしか変えられなかったのかもしれないけれど。そして世界に対するその感情に。

 何故世界を壊そうと思ったのか、分からないわけではない。理由はいくらでも思いつく。けれど、それはあまりに『神』らしくないから……。

 だからもっと近くで、色々なことを知るために。自分は作り出されたのだ。

 思い出してしまった。窯を通らずとも、蒼そのものである自身はどこかにその情報を持っていたのだ。何故今更、ここに来て、このタイミングで、それを理解してしまうのだろう。

 大切な人の役に立つどころか、自分勝手で気まぐれな蒼の好奇心を満たすために生まれただなんて。少女は俯いてしまう。どう、伝えればいいのだろう。否、伝えるなんてできない。

「何かあったのか」

「いえ……だいじょうぶ、です。だからきにしないで、ください……です」

 それでも、テルミ達が大切なことに代わりはない。だから彼女は心配させないように笑みを作ってみせた。ぎこちなくて下手くそな笑みだったし、それにテルミは気付いていたけれど。何も聞くことはなく、短く相槌を打って空を仰いだ。

 

 

 

   1

 

「どういうことだよ、それは……!?」

 意図せず声は大きくなってしまう。ラグナはひどく狼狽した様子で、通信越しにココノエへと叫んだ。

 ラグナ達はイザナミを倒し、ノエルとイザナミは融合を果たした。確かに成功したはずで、滅日の核である『死』のイザナミが消えたことにより滅日は止まるはずだった。けれど、カグラ達が居た空間が真っ白で何も映っていないこと、彼らが魔素化し消滅したこと。何より、ココノエが直接的に語った事実がラグナ達を驚愕させた。

「滅日が、止まっていない……?」

「ああ、そうだ」

 目を伏せ顎を引くことで肯定するココノエに、ラグナは混乱してしまう。どうして滅日は止まらないのか、考えてみても思いつきやしなくて。

「……私の所に『調停者』が来たよ」

 調停者。聞き慣れぬ言葉を復唱しラグナが首を傾ける。

 エンブリオストレージ。通称エス。それが彼女の名前だった。

 イザナミが消滅したことを確認し、それでも尚、カグラ達が消滅した理由を必死に考えるココノエの元に、突如として現れた存在。

 彼女は語った。

 資格者が蒼を得るための『資格』を失い、消滅したのだと。

 彼女は蒼の意思に従い、それを実行する調停者だ。

 滅日が止まっていないことを彼女が告げると、ココノエが狼狽える。薄々勘付いてはいたが、どうして滅日が止まらないのか。

 エスは告げる。冥王イザナミが言っていたはずだ、と。

 マスターユニットがこの世界に出現した時点で、たとえイザナミを排除したとしても滅日を止めることは不可能。『意思』を持つマスターユニット・アマテラスが『滅日』を認識した時点で、冥王イザナミの存在の有無に関わらず、滅日は進行する。

 アマテラスをどうにかしない限り。蒼の片割れが滅日を邪魔しないのであれば、尚更。

「……んで、そのエスって奴はどうしたんだよ」

「言いたいことだけ言って消えたよ。それよりもこれからの事だ」

 エスについては多分敵ではないはずだ。ならば邪魔をしてくるわけでもないだろう。それならやることに変わりはない。

「お前たちは、とにかくマスターユニットを何とかしろ」

 マスターユニットを境界へと還し、世界を『正しい』形に再構築すれば、もしかしたら魔素化した人達も同時に再構築されるはずだ。そう語るココノエに、ラグナは頷いてみせる。

「おう、任せておけ。取り敢えず、状況に何か変化があったら連絡してくれ。俺らはマスターユニットの所へ向かう」

 言うラグナにココノエもまた首肯し了解を告げる。それから少しの間を開けて、再び彼女は口を開いた。じっと、ラグナ達を見据える。実際には彼女はカメラを見ていたが、その向こうのラグナ達を見るつもりで……。

「ラグナ=ザ=ブラッドエッジ、ノエル=ヴァーミリオン」

 改まって名前を呼んでくるココノエに、二人が返事を返す。何か、と問われればココノエは溜息を吐いて、やけに真剣な面持ちで言葉を紡いだ。

「何が何でもこの世界を救え。約束しろ、必ず救うと。それが……私の『願望』だ」

 それだけ言うと、ラグナ達の返事も待たずにココノエは通信を切った。

 椅子の背凭れに体重を預けてココノエは、ぽつりと呟く。

「……蒼が、自身の片割れに興味を持つ、か。神は随分と自分勝手なのだな」

 それは、あの少女――ユリシアのことであり、その少女を生み出した存在のことでもあり。

 ココノエは、エスが消える直前に問いかけていた。何故『蒼』は突然あのような存在を生んだのか。それどころか、世界を壊そうと企むテルミ達の味方をさせるような真似をして。

 エスは振り向き、語った。それを聞いたココノエは、ひどく自分勝手だと思ってしまう。

 蒼は彼らの味方をする気はないが、かといって世界を守るココノエらの味方をする気もない。

 エスは静かにそう語ると、用件が済んだのか、消えた。

 

 

 

 元々は、テルミという存在に対する興味から。もっと近くで色んな面を観察してみたい、という形で。そのために蒼の力を持たせた少女を置いた。そうすれば彼は真っ先に見つけて回収しに行くだろう。だって蒼に近付こうとしたのだから、求めないわけがない。そう考えて、そのために、誰よりも先に見つけられるよう少し干渉をして。

 少女に記憶や、蒼であるという意識を持たせなかったのは、あくまで蒼とは別のことであるからと、その方が彼女が純粋にテルミに聞くことができる。また、テルミも少しは子供相手だと油断してくれるだろう。彼女がテルミにある程度の好意や関心を持つように多少感情を『弄り』もした。

 そして、イレギュラーを排除しようとしても、タカマガハラ、それどころかマスターユニットでさえも干渉力は『蒼』には劣るから、彼女は消えることがなく。

 繰り返す世界に少し飽き飽きしていた時には、それが伝わったのか無意識に干渉を跳ね除けるようにもなった。それどころか、思った以上にテルミ達を好いた彼女は、自身で力を使えるようになって、テルミに導かれる形で物語を、世界を進める。ある意味、蒼の意思通りに物事が進んでいることになった。

 それでも、そろそろ戻って来てもらうため、テルミを使い世界の記憶を一部だけ思い出させた。

 しかし彼女は帰らない。それほどの強い個を持ち、テルミらに付き従う、自身の『子』とも呼べる存在に、蒼は興味を持った。勿論、彼女がそれほどに好いたテルミ達への興味もそのままに。

 もっとも、興味の矛先が変わったのは最近だから彼女は知らなかっただろうけれど。

 

 そんな、ただの自分勝手な興味のためだけに。わざわざ自身を二つに分けて、こんな子供を創り上げただなんて。

 ユリシアの口から紡がれる、ユリシアの声帯から出される声はいつもより少し大人びて聞こえて、幼いはずなのに、レイチェルやイザナミのそれともまた違った、人ならざる尊厳さを持っていた。少女の双眸が細められる。

「これを聞いて、どう思いましたか? 『てるみさん』」

 最後、付け足すように名を呼ぶ声だけは、いつもの少女のような可愛らしい舌足らずな響きをしていた。けれど、どこか作られたもののような違和感に、テルミの首筋を、ざわ、と感情が撫で上げる。

 テルミは、最初こそ表情を浮かべなかった。けれど、だんだんと、浮かべる表情は笑みだ。くつくつと喉を鳴らした笑いは、やがて高く、大きく、笑い声となって。

「く、くく。ヒ、ヒャハハ……!! 面白ぇじゃねぇか。んで? 『ユリシア』はどうすんだよ」

「それは……最後まで見届けますよ。あなたと『私』の片割れがどんな結末を迎えるのか」

 小さく微笑んで、少女の身体で喋る『蒼』は答えた。

 本当は、どんな結末になるかくらい知ることができた。世界の記憶や情報の回帰するところにして、可能性を可能にする力である蒼ならば。

 けれど、蒼は『知っていた』いわけじゃない。直接見ることで『知りたい』のだ。

 観察される対象になることをテルミは良くは思わないけれど、邪魔をされるわけでないなら。

「ところで……えっと、その」

 少女が口を開いたタイミングは、些か唐突だった。

 ころりと口調が変わるのは、かつて自身とハザマが入れ替わることでよく起きていたが、やはり他人のそれを見ると違和感に眉根を寄せてしまう。姿は同じであるというのに、全く別人のように空気が変わる。目の前の少女は人ならざる尊厳さも、尊大さもない。

 ただの幼い無垢な少女。テルミが名付けた『ユリシア=オービニエ』という人物だ。

「何だよ、ユリシア」

「その、わたしがはじめて、てるみさんと会ったときは……まだ『コンティニュアムシフト』のさいちゅう……でしたよね」

 恐る恐る、息を多く含んだ小さな声で問う少女に、それがどうしたのだとテルミは尋ねた。

 彼女曰く、コンティニュアムシフトの真っ最中で、しかも自身という新しい可能性が生まれたせいで観ていない事象は増えたはずなのに、何故テルミはタカマガハラの無効化に出たのか。

 色々なことを思い出していくにつれ、疑問がいくつか浮上してくる。純粋な疑問だった。

「……それか」

 ユリシアが必死に、拙いなりに並べた言葉を聞いて、テルミは頷く。

 言いづらいわけではない。けれど、少しだけ間を開けてテルミは口を動かす。何と言えば分かりやすいのか、少し言葉を探してから。

「テメェはノエル=ヴァーミリオンが観ることで生まれた可能性じゃねぇ。アイツ自体はイレギュラーだが……アイツに『こんな』イレギュラーを生む力も、考えられる精神もねぇ」

 どちらかと言えば、ユリシアは蒼が無理矢理捻じ込んだイレギュラーだ。であれば、それが他の事象でも再び現れる可能性は少なく。それに、タカマガハラやアマテラスがイレギュラーを排除しようとしないわけがない。つまり彼女は、アマテラスの干渉すらも跳ね除ける力があるのだと分かれば、彼女を手元に置いておける内に行動してしまいたかった。

「なるほど……ありがとうございます、です」

 やはり下手な敬語で礼を述べると微笑んで、彼女は小首を僅かに傾ける。その表情に、テルミはやはり顔を逸らして短く相槌を打つだけだ。

 目を伏せ、少女は再び彼らの同行を観測する。

「つばきさんと、白のよろい……はくめんさん、でしたか。あまてらすのところに、たどりつきました……ですよ」

 

 

 

   2

 

「……マスターユニット。アレさえ還せば、魔素化した者達も救えるやもしれんな」

 眼前に浮かぶ『神』を見て、静かにハクメンは紡ぐ。一歩踏み出て、その隣に立つのはツバキ。

「いえ、必ず救います……!」

 ツバキの紅い髪が緩やかな風に揺れる。けれど揺らぐことのない青い瞳で、しっかりとマスターユニットを見据える彼女にハクメンは小さく笑い首肯した。

「ノエル達はまだのようですが……」

 そしてツバキは辺りを見ながらそう言って、息を飲む。ハクメン様、あれを……言い、指先す彼女の声にハクメンの身体についた目玉も、ツバキの見る方向を見遣った。

「まだだぁぁ!!」

 咆哮と、金属音。剣を振るう猫と、召喚した光の刃であしらう少女。銀髪が揺れる。彼女の射出した刃を剣で庇いながらも、圧され、飛び、ボールのように弾んで転がり、ハクメン達の足元で止まる。

「猫か……! 無事だったか」

「遅いぞ、ハクメン!」

 声をかければ獣兵衛は二人を一瞥すると、すぐに前を見て「それよりも」と付け足す。

 目の前の少女、ニュー・サーティーンと、時間硬化が解けてから今まで戦っていたのだ。獣兵衛は強いが、それでも疲弊し傷付いていた。

「うざいよ……オジサン。それにスサノオユニットと十六夜かぁ……ほんと、マジでうざい」

 ひどく煩わしげに、チリチリと焦げ付くような怒りを見せながら少女は三人を視界に捉えるとそう紡ぎ、手を掲げる。その上の空間が闇色に歪み、そこから刃が再び生まれだす。

 彼女の狙いはマスターユニットであると、獣兵衛が告げた。彼女のような存在にマスターユニットを奪われてはならない、言う彼にハクメンは分かっていると頷き、大太刀を抜いて構えた。

 ツバキもまた同様に短剣と大きな本のような盾を構え、それを見て獣兵衛も再び剣を握った。

「無理をするな、猫。下がっていろ」

 けれど、ハクメンがそれを制する。首を振り、まだやれると言う獣兵衛。

「本来の貴様なら、あの程度の者など軽く切り捨てられたはず。其れが出来ぬほどに弱っているのだ。良いから休んでいろ」

 突き放すように冷たく言うハクメン。それもまた事実だ。しかし獣兵衛はそれでも、自身の心配など無用だと怒鳴る。が、それよりも更に声を張り上げてハクメンが怒鳴り返した。ハクメンらしからぬ激しい怒りの声は、かつて共に戦った仲間が相手だからこそだ。

「其の怪我では足手纏いだと言っている!」

「何だと、貴様……」

 足手纏いだと言われれば目を見開き、獣兵衛もまた怒りを見せる。が、そこに割って入るようにして凛とした声が静かに告げた。ツバキの声だ。諭すように、ゆっくりと……しかし真剣な声音で彼女は、

「獣兵衛様。今までムラクモを止めて頂き感謝します。後は私達にお任せください」

 冷静に言われれば、獣兵衛は落ち着かざるを得なくなって。それで自身の身体を顧みると、仕方なく頷くことしかできなかった。

「ツバキ=ヤヨイ。貴様もだ」

「いえ、私は戦います。そのためにここまで来たのですから」

 ハクメンがツバキを見て、彼女が戦うことも止めるように言葉を紡げば、しかし彼女は首を振った。けれど先の獣兵衛のように必死に言うのではなく、やはり落ち着いた声で。

 そして彼女が命令するように自身の兵装へ向けて呪文のような言葉を吐けば、十六夜は光に包まれる。光が消えた時、そこにあったのは封印兵装・十六夜の、真の姿……零式・十六夜。

 盾と短剣は消え、また服も形を変える。形の変わった剣を手に持って、纏うコスチュームは少し露出が増えた。けれど感じられる力は先よりも強い。

「……好きにしろ」

 ムラクモユニットのプロトタイプであるその兵装に身を包む彼女に、止めたハクメンも彼女がその力を間違えることなく使えるようになったことに気付いて、仕方なく頷いた。

 退屈げにそれを見ていたニューは、再び彼らが向かって来ようとすることに気付いて、眉根を寄せる。

「あ~もう、なんでニューの邪魔をするの? うざい、うざいよアンタ達。いいから死んで」

 焦げ付く怒りの感情が掲げる手の上に無数の刃を生み、射出させる。二人に襲い掛かる刃は鋭く速く、そして重く。その合間を縫うようにして、ニューは大剣のような脚を地に滑らせ向かってくる。

 背後に連れる八枚の剣を一つの刃のようにして前に出して足元を斬り払い、そこから振り上げ、かと思えば両腕の刃を交互に突き出したりと連撃を叩き込む。それをかろうじて大太刀で捌きながら、かつての彼女の力を知るハクメンは理解する。明らかに、彼女は強くなっていると。

「成程……猫が手古摺(てこず)る訳だ……ゼィア!!」

 ツバキもまた剣を使って攻撃を弾いたり、身を翻して躱していたが、なかなか攻撃に転じることができない。それどころか一歩間違えば殺されかねない状況だった。焦りを見せながらも、それでも彼らは殺されるわけにはいかなかったし、彼女を倒さねばならなかった。

「強い……」

 小さく、ツバキが呟く。額に浮かぶ冷や汗を拭うこともしないまま、射出される刃を、振りかざされる剣を、ブレードのついた四肢を躱し続ける。

「『対観測者用兵装』……『零式・十六夜』。不死者殺し(イモータルブレイカー)」

 それを目に留めると、ニューはツバキの兵装を見て呟いた。ツバキの肌が、得体の知れない不安感に粟立つ。

「アンタの力もニューに頂戴……。でも、貴女は邪魔。だから……殲滅する」

 言いながら、暗く歪んだ空間から刃を幾本も射出する。かと思えば消え、現れた時には足払いをかける少女。後ろに跳び退くツバキ。それに再び一瞬で接近、大剣の脚を突き出し、間髪入れずに再び背に現れていた八枚の剣を連続で射出する。

 再び後ろに滑るようにして跳び、躱す。隙ができたところに刃を射出しながら、ツバキは紡ぐ。

「ッ……この程度で、やられるものですか! ノエルが来るまで、ここは私が必ず守る……ッ」

「そういうの。うっとうしい、うっとうしい!! あなたはいらない。あなたは嫌い!」

 仲間だとか、守るだとか、そういうのが堪らなく煩わしくて、ムカついて、ニュ―が叫ぶ。その次の瞬間に、ハクメンが声を張り上げた。

「ツバキ=ヤヨイ、後ろだ!」

 言われるがままに振り向いたツバキ。その時には遅く、光の刃がツバキのすぐ近くまで迫っていた。咄嗟に剣で防御するも、そこで入る力などたかが知れており、吹き飛ばされる。悲鳴があがる。地に叩き付けられる少女。瞬時に目の間にやって来たニューが、ガラスの刃のような冷やかさで、しかし燃え盛る炎のような憎悪を込めて告げた。

 痛みと恐怖で、動けない。

「……残念。もう、死んで」

 八枚の剣が、召喚された光の刃が、一斉にツバキへ向けられる。

「……ペタル展開。放射」

 死を覚悟し、ツバキがぎゅっと目を瞑った。

 しかし、肉を裂く音は聞こえない。代わりに、高い金属音が鳴り響く。痛みはいつまで経ってもやって来ない。不思議に声を漏らし、恐る恐る目を開ける少女に、愛しい声が届いた。

「迂闊だぞ、ツバキ」

 目の前に居たのは、短い金髪を揺らす青年だった。息を切らした彼は、氷の剣――ユキアネサで攻撃を弾いていた。

「ジン兄様……!!」

 驚きに目を見開き名前を呼ぶ彼女の耳に、今度は違う声が届く。いつも優しくて少しおっちょこちょいなところがある、大好きな親友。ノエルの声だ。

「ツバキ、大丈夫!?」

 嬉しさと安心に、彼女の名前を呼ぶ。涙が出そうになるのを必死に堪えて、ツバキは立ち上がる。そこに、三人目の声が届いて……その声から思い当たる人物に、彼女は微笑みそうになった口許を「へ」の字に歪ませ、蔑むような目で振り返る。

「居たのですか。ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 ラグナは、彼女が慕う人物――ジンの実の兄だ。けれどそれ以上に、彼女にとっては消し去るべき『悪』なのだ。秩序であるジンを執着でおかしくさせるどころか、世界すらも脅かす悪。憎むべき存在。

 故のその扱いに、ラグナは苦笑するしかできなかった。

「あ~、ラグナだぁ~! ラグナ~、ラグナぁ~!」

「奴には歓迎されているようだぞ、黒き者よ」

 けれど、先まで怒りと苛立ちに刃を振るっていた少女だけは、ラグナの姿を認識すると嬉しそうに声のトーンを高くして、甘やかなソプラノでラグナの名を呼んだ。弾む声。手を振り、更には少し跳ねていたかもしれない。

「……ふん。ムラクモだが、手強いぞ」

 その様子を見ると、ハクメンは静かにラグナの方に視線を移し告げる。いくらハクメンが境界からサルベージされた本気でない状態だとしても、それに関係なく彼女は強くなっていた。ラグナもまた、ニューの纏う空気と、先までの彼らの戦闘を見て理解していた。

「取り敢えず、お前らは下がってろ。アイツは俺が何とかする」

 そう言って、ラグナは一歩前に出る。後ろに手を突き出し、他の面々に下がるように指示した。

「ハッ、冗談も大概にしろ。既に奴は、貴様が如何(どう)にか出来る相手では無いぞ」

 けれど、それを小馬鹿にするようにハクメンは笑う。この男一人でどうにかできるわけがないと思ったからだ。そして、ラグナの言葉に逆らうようにハクメンが前に出ようとする――が、その前に腕を突き出して、止める人物が居た。

「何のつもりだ? ジン=キサラギ」

 まさか、彼がラグナの意見を尊重するなど。信じられず、また自身の意見を否定されたのが気に喰わず、ハクメンは問いかけた。声は地を這うように低い。けれど、それに臆することもなくジンは凛とした声で告げた。

「貴様のやり方では、アレを倒しても意味が無い……分かるだろ? ここは兄さんに任せろ」

 かつてのハクメンと同じで、自身の中の秩序のおかげで兄を殺すことに囚われた存在だと思っていたが。どうやら彼はハクメンと同じ存在でありながら、ハクメンよりも成長した存在だったらしい。自身と同じだった存在の言葉だからこそ、ハクメンは仕方なく退いた。

「今は従ってやる。だが、無理だと判断したら、其の時は制止を聞かぬ。良いな?」

「ああ。その時は好きにしろ」

 その一言に、どれだけの信頼が込められていたことだろう。

 ハクメンはそれに返事を返すことなく、対峙する二人を見据えた。

「ラグナ、やぁ~っとニューの所に来てくれたんだね」

「あぁ……悪い。随分と待たせたみてぇだな」

 頬を僅かに紅潮させ、興奮を隠すことなく、少女は甘い声でラグナに話しかける。恋人を見るソレか、または大事な兄に対しての幼い妹のように。ラグナがさして表情を変えることなく謝罪すれば、それでも少女は大きく首を振って謝ることはないと言うのだ。

「ううん、大丈夫! ラグナはきっと、ニューの所に来てくれるって信じてたから。ラグナと一つになれるって……信じてたから」

 胸に手を当てて、先の攻撃的だった少女と同一人物だとは思えぬほど穏やかな声で……少女は微笑みながら、紡ぐ。夢見る少女の面持ちで言う彼女は、ずっと、ずっと待ち焦がれていた。大嫌いな世界で唯一大好きな彼が、自身の所に来てくれるのを。

 一人だけ窯に落とされて、境界の中で独りぼっちで揺られていたときも、再びこの世界に舞い降りた時も、ただただ待っていた。

 寂しげに、だけど幸せそうに語る少女の唇の端が、突然大きく持ち上がる。歪な笑みを浮かべ手、少女は勢いよく腕を広げた。空を、世界を指すように。

「そして世界を壊すの! 壊し続けるの!! このくだらない世界を壊し続けるの!! それがニューの『願望』!!」

 大好きな彼を待っていたのは、彼と一つに溶け合うため。一緒になって、そして、大嫌いで憎い世界を壊して破壊しつくして、やっと彼女の怒りは、憎しみは、悲しみは消えて……幸せになれる。そう信じて止まなかった。

 だからそれが彼女の願望だった。

 先までの穏やかな声とは一変して激しく叫ぶように語って、彼女は高く笑う。高く、大きく、狂ったように……。

 息を荒くして、笑いを収めて……ころころと表情を変えてきた少女は、ここに来て頬を膨らませる。唇を尖らせ、拗ねたような顔をして、俯く。

「でもね、邪魔ばっかりされるんだよ。皆してニューのことを邪魔するの。ほんと、酷いよねっ」

 当たり前だろう、とこの場に居た面々は思う。こんな少女に力を与え、世界を壊されてはたまらない。

 少女は同意を求めるように言いながら再び赤い瞳でラグナを見ると、今度はまた笑みを刻む。

「だからね。『事象兵器』を手に入れたの。それでね、それでね。あとはそこの『マスターユニット』さえ手に入れれば完璧だよ!」

 そうすれば、もう誰にも邪魔されない。褒めて、と言わんばかりに語って再び笑う少女に、ラグナはやはり表情を変えぬまま、冷静に呟いた。

「事象兵器、ねぇ。俺の知る限り全部は手に入れてねぇはずだ。なのにテメェは異常な力を発揮している……暴走しかかってる程にな」

 ノエルの魔銃や、ハクメンの鳴神、獣兵衛の六三四、トリニティの無兆鈴、ジンのユキアネサ。恐らくテルミ達の持つウロボロスも無事だろう。バングの烈天上などは知らないが、十器の内それだけ無事なのだ。なのに彼女は異常な力を発揮している。

 普段は愚鈍で、お世辞にも頭の良いとは言えないラグナだったけれど、この時ばかりは頭が回る。少ない数の事象兵器で、それほどの力を集めるとしたら。

 導き出される答えは、一つだった。

「テメェ……『タケミカヅチ』を取り込んだろ?」

 眉根を寄せて、ラグナは問う。ニューとラグナ以外の面々が、驚きに息を飲む。ニューは問いを受けて勿論だと言うように大きく頷いた。ラグナの中に、呆れと怒りがない混ぜになったような釈然としない感情が湧き上がる。

「ったく、この馬鹿が……!!」

 思わず、ラグナは怒鳴る。けれど、その声を向けられたニューは肩を跳ねさせることも怯えることも、怒ることもなく……ただ、微笑みを貼り付けていた。頷く。

「うん。馬鹿にだってなるよ……ラグナ」

 単眼のバイザー越しにラグナを見つめて、それから後ろを振り向く。その先に居るのはマスターユニット、アマテラス。浮かぶ神を見上げて、少女は笑った。

「だって、私達は……この世界を、この世界である『コイツ』を。マスターユニットを『殺す』ために作られたんだから。馬鹿になって、当然だよね!! きゃはははははっ」

 殺す、殺す、殺す、殺す。アイツも、コイツも、この世界も、マスターユニットも。全て殺す。殺し尽くす。愉快げに叫び、少女は再び笑い声をあげる。

 けれど、ラグナはその声を聞いて再び表情を消した。

「……いや、殺しは終わりだ。そして、このくだらねぇ戦いもここまでだ」

 ニューが、その言葉に笑いを止める。表情は無だ。

 ラグナが腰に携えた剣を抜いて、真っ直ぐに構える。

「来いよニュー……お前も『助けて』やる」

 

 

 

 飛び道具や刃の四肢を自由自在に使うニューに対して、ラグナは大剣と己の身一つ。戦い方ではラグナの方が不利であるはずなのにお互い一歩も引かない……否、寧ろニューが圧されていた。

 懐に飛び込むニューを剣で弾き、右腕に纏った魔素の顎を喰らい付かせる。

 ニューも明らかに強くなっていたけれど、それを上回るほどにラグナも強くなっていた。

「ッあぁ……!!」

 痛みに濁った悲鳴を漏らしながら、ニューは地に叩き付けられ、転がりながら弾み、そして止まる。展開したムラクモユニットの装甲は光を纏って、そして霧散した。

 そこにゆっくりと歩み寄るラグナを、悲しげにニューは見上げる。震える声で、尋ねる。

「なんで……どうして。ラグナは、ニューのことが嫌いなの?」

 どうして受け入れてくれないのか、どうしてこんなに自分を傷つけるのか。分からなくて、ニューはただそう尋ねるしかできなかった。

 ニューがどれほどラグナのことが大好きで、ずっと想っていたのか。その声だけでひしひしと伝わってしまう。痛いほどに。だからラグナは少しだけ申し訳なさそうに表情を歪めて答えた。別に、ニューのことが嫌いなわけではないと。

「でも、お前に対する気持ちは哀れみと『償い』だ。今までお前だけに苦しい思いをさせてきた」

 見下ろしてくるラグナの言葉を聞いて、ニューがぎゅっと目を瞑る。嫌々をする子供のように首を横に振って、否定した。

「哀れみなんて……いらない、いらない……っ」

 そんなニューの声には、ラグナは何も言わない。言えなかった。

 そこから視線を逸らすようにしてノエルを見遣る彼。どこか不安げに見つめ返す少女に、ラグナはゆっくりと口を開く。

「ノエル。悪いが……もう一回、確かめてくれないか」

 目的語を抜かした言葉ではあったけれど、何のことかすぐにノエルは理解する。同じ『サヤ』の魂を別けた素体である彼女が、再びサヤの中に戻ることが出来るか。

 一歩前に出て、ノエルがニューの魂を観測(み)る。そして静かに首を振った。

「……ごめんなさい。この子はもうラムダと同じで、この子の『魂』として独立しています」

 つまり、それはノエル『達』とは融合できないということ。それを聞いて、ラグナは短く相槌を打って、再びニューへと向き直る。ならば、融合はできなくても。

「ニュー……悪いが、お前の『記憶』だけを持っていく」

「ラグ……ナ……? ニューはラグナと、一つになれるの?」

 やはりどこか申し訳なさそうな表情で告げるラグナに、未だ地に寝そべったままの少女は尋ねる。ラグナは応えることなく、謝るだけだった。

 起動されるブレイブルー。ゆっくりと、ニューの中から何かが抜けていく。静かに少女は瞼を伏せた。ラグナが抱き上げる。

「黒き者が勝ったか……」

「あぁ……強くなったな。もしかしたら、今のお前より強いかもしれんぞ」

 ハクメンの呟きを拾って、獣兵衛が頷きからかうような口調で言う。けれどハクメンは至極真面目な声で肯定した。そして、歩き出す。

 どこへ向かうのかツバキが問うけれど、それに答えず向かう先はラグナの元だ。大太刀を抜き、静かに突き付ける。ラグナが振り向き、眉根を寄せ問う。

「……私が貴様を滅するのに理由が必要か?」

 問いで返すハクメンだったが、その言葉はもはや問いになってすらいない。じっとハクメンを見つめ、それからノエルを再び見遣った。

「ノエル、ニューを頼む」

 そう言ってニューを差し出す彼に、ノエルは「でも」と躊躇う。けれど、ラグナに強く言われれば、肩を揺らし……仕方なく頷いた。ニューを受け取り、距離を取る彼女を見ると再びラグナはハクメンの方を向く。

「この状況だ。時間がねぇのはお前も知ってるよな? 一応、理由を聞かせろ」

 先ほどハクメンが言ったような、単純な問題ではないはずだ。ならば何故この状況で剣を向けるのか。眉根を寄せたまま尋ねるラグナに、少しの間を置いてハクメンは答えた。

「……確かにムラクモの強さは異常だった。だが、貴様の強さの方が『異常』と言って良い」

 つまり、ラグナはどこでその強さを得たのか。問う声はいつにも増して低く、答えによってはすぐに斬り捨てかねない空気を持っていた。

 問いを受け、言いづらそうにラグナが顔を顰める。

「あー……答えなきゃ駄目か?」

「無論だ。貴様は悪の『集点』。これ以上の覚醒を許せば、黒き獣以上の厄災と成る。其れを見逃す訳にはいかぬ」

 ハクメンの答えを聞いて、ラグナは暫し考え込む。答えを急かすほどハクメンは野暮ではなく、ただラグナがどう答えるかを待っていた。

「まぁ時間もねぇし、いちいち説明するのも面倒くせぇ。確かにこの方法が一番手っ取り早いな」

 それは、戦うということ。仕方なくではあったけれど、ラグナは挑発するようにニッと笑って手を招いた。

「いいぜ、来いよ。戦ってやる」

「……我は空、我は鋼、我は刃。我は一振りの剣にて悪を滅する! 我が名はハクメン……」

 推して参る。

 ラグナの言葉を受け、ハクメンは大太刀を構え直した。

 駆ける。

 

 

 

   3

 

 真っ白な空間だった。ハクメンとラグナの戦いを観測(み)ながら、テルミは退屈げに溜息を吐く。

「……どうして、らぐなさん……は、こんなに、つよくなった、ですか?」

 マシュマロか蜂蜜のような、幼い甘さと柔らかさを持った声が問う。ユリシアだ。それを受けて、テルミが彼女の方に気怠く目玉を動かして、テルミは唇を動かした。

「違ぇよ。ラグナちゃんが『強い』んじゃねぇ。他の連中が『弱くなった』だけだ」

 人差し指を立て、横に振りながらテルミが答える。その指を最初こそ目で追っていたユリシアだったが、すぐにテルミの顔を見上げて、首を傾ける。どうして、とでも言いたげな表情にテルミは顔を逸らして……。

「滅日の影響だ。たとえ『理の外』の奴らでも関係ねぇ。『資格者』は全員、魂が『境界』へと吸われる。資格者じゃねぇラグナちゃんを除いてな」

 個々の持つ能力『ドライブ』の強さは、つまり魂の強さだ。自分では気付かない程度にしか削られていなくともそれで十分、力は失われる。

 境界からサルベージされたハクメンは全盛期の二十パーセントほどしか力を出せていないことから、魂が境界に持って行かれるとどれだけ力を失うのかは想像に難くない。

「だからドライブのねぇ『ナイン』は、あんな強さを誇っていたわけだ」

 語り、そしてテルミはゆっくりと立ち上がる。払う必要はなかったけれどコートを軽く叩いて、それから見上げてくるユリシアを一瞥して、テルミはそういえば、と何かを思い出したように呟く。首を傾ける少女の顔をまじまじと見て、テルミは問う。

「そういや、ユリシア……テメェの願望は何だ?」

 テルミの願望を聞くのだ。蒼がユリシアを生み出した理由、つまり蒼の願望については聞いたけれど、そういえば彼女自身はどうなのだろうと疑問に思って。

 彼女自身の願望もまた、蒼と同じそれなのではと少しだけ不安に思うところはあったけれど。

「……わたしの、ですか?」

 ユリシアが聞き返せば、テルミは顎を引く。それを見て彼女は握った指の付け根を下唇に添え俯いた。考え込み、うーんと唸って、それから。

「よくわからない、ですが……えっと、てるみさんとか、たいせつなひとたちがいれば、うれしいです。それで、いろんなことを、おしえてもらって、いろんなけしきをみて……」

 そうしたら、とても素敵で、とっても世界がきらきら輝いて見えると思う。だからそんな世界が来たら、一生懸命守りたい。はにかむように双眸を細めて笑い、テルミを見上げながら彼女は語る。

 それを聞いて、テルミは目をぱちくりと瞬いた。思っていたよりも、子供らしくて、けれど思った以上に大きくて、綺麗すぎて……やはり彼女は蒼から生まれていながら、蒼ではないのだ。けれど、だからこそ蒼を手に入れ世界を作る資格があるのだと、テルミは理解する。

 可愛らしく笑みを浮かべたままの彼女の頭にぽんと手を置いて、そしてテルミはニィっと口角を吊り上げる。凶悪にも思える顔だったけれど、ユリシアにはそれも大切な人の大好きな表情で。

 だから、彼が成そうとしていることはきっと正しいのだ。

「さて、と。そろそろ人形には起きてもらうか」

 

 

 

 ハクメンとラグナの戦いは、ラグナの圧勝に終わる。後はマスターユニットを何とかするだけとなり、未だニューを見ていたノエルにラグナが声をかける。

「さて、ノエル……後はマスターユニットだけだ。頼めるか?」

「はい、任せてください!」

 大きく頷いて、頼もしい返事をしてみせるノエル。けれどすぐに、あっと何かを思い出したように声をあげて、自身の腕を見下ろした。そこには今だニューが抱えられたままだ。彼女を連れて行くわけにはいかず、どうしようかと悩んだ様子の彼女を見て、ラグナはその傍に佇む赤髪の少女を見た。

「……ツバキ、すまねぇが頼めるか?」

「何故貴方に命令されなければいけないのですか、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 今まで黙っていた少女は、ラグナに声をかけられると歯を噛み締める。悪である彼に話しかけられ、ましてや命令されるなど。そんな怒りを必死に抑え、しかし露骨に睨み付けながら彼女は問いかける。それは暗に拒否の色を示していた。

 ラグナは彼女の言葉に少し困ったように眉尻を下げる。

「命令って……悪いけど、ちょとだけこいつの面倒を見てて欲しいんだ」

 別に命令するつもりはなくて、ただちょっとだけ頼みたいだけなのだ。その言葉を聞いてツバキはノエルを見遣る。彼女も少し困ったように苦笑していて、それを受けて……深く、溜息を吐くと。仕方なさげに彼女はノエルに手を差し出す。

「分かりました。ノエル、その子を」

「あ、ありがとう、ツバキ」

 そう言って、ノエルがニューを受け渡そうとした瞬間――。

 そこに居た面々を耳鳴りが襲う。ただの耳鳴りではない、得体の知れない違和感にジンが声をあげる。次いで響く声は乱暴で暴力性に満ちた、怒鳴りつけるような声だった。

「……人形、おい『人形』! 寝てんじゃねぇよ第十三素体!! 愛しのラグナちゃんは目の前だぞ!」

 四方八方から聞こえるその声に、ニューが瞼を持ち上げる。

「殺(や)れ、殺るんだ人形! 殺せ!」

 叫びに合わせて、少女の身体が震えだす。まるで、何か抑えつけようとしているものが出てこようとしているかのように。悲鳴が耳を劈く。

「ころす……殺す、殺す殺す殺す!!」

 脱力していた体に力が入り、少女は立ち上がる。俯き、叫び、ムラクモを展開し、そして皆を見据え叫ぶ。殺す。

 ニューを目覚めさせ、けしかけた声――テルミは、彼女の様を見て愉快げに笑う。

「これは……強制拘束(マインドイーター)です……!!」

 強制拘束。魂を無理矢理縛りつけ、洗脳し、命令を聞かせるもの。かつてテルミがナインに、そしてツバキやナインが帝……イザナミから受けたのと同じものだ。

 けれど、この特殊な空間では遠距離からの操作は不可能なはずだ。ならば、テルミは近くに居るはずだとトリニティが叫ぶ。急がないと、ニューの魂が壊れてしまう。彼女の声に、姿を見せないテルミはやはり乱暴に怒鳴りつけた。

「うるせぇぞクソメガネ。もうぶっ壊れの魂でガタガタ抜かすんじゃねぇよ!」

 その声に、思わずトリニティは顔を顰め黙り込んでしまった。悲しさと、何も言えなくて、何もできない自分への悔しさに。

「クソッ、どこだ、どこに居やがる!?」

 テルミの声を頼りに探そうとしても、広い空間の中にテルミの姿は見つけられない。それどころかテルミの声は四方八方から聞こえてきて、どの方向に居るのかすら見当がつかない。

 落ち着いて、というノエルの呼びかけも聞かず、彼女は壊れた機械のように言葉を繰り返し、ノエルに向けて光の剣を射出する。咄嗟にベルヴェルクの銃身に当てるようにして弾くも、ニューの力に彼女は弾き飛ばされてしまう。悲鳴があがった。

 ツバキがノエルを庇うようにして前に出れば、少女は「邪魔するな」と声を荒げながら、今度はツバキに向けて無数の光の刃を射出する。それらを必死に剣を使って捌く彼女であったけれど、その内の一本が――。

 皆の声がやけにゆっくり聞こえた。肉を裂く音が響いて、けれど、痛みはない。

「っぐ……無事か、ツバキ=ヤヨイ」

「……ハクメン様? ハクメン様!!」

 代わりに、その刃を受けたのはハクメンだった。刀を振るには間に合わず、その身で受け止めた。裂傷を作って、光の刃は霧散する。痛みに膝をつきながら、ハクメンが何かを呟いた。

「……やっとか」

 やっと、この者の刃から『護れた』。そう言って呟く言葉は何か……否、ツバキに向けての謝罪だった。けれど、ここで謝る意味が分からなくてツバキは瞳を揺らす。

「何を……それよりハクメン様、お怪我を……!!」

「あ、ああ……此の程度、如何という事は……無い」

 声にはいつものような覇気がなく、明らかに彼は傷付いているというのに。彼はそれでも、止めるツバキに首を振って、ゆっくりと立ち上がる。

「此の『少女』との縁も……此処までだ」

 未だ殺す、と繰り返す少女の元へ、歩み寄る。苦しげに叫ぶ少女はもう壊れかけているのか、ハクメンが近付いても反応することすらできずにいた。けれど縛られたままの精神が言葉だけを吐かせ続けている。

 彼女に、剣を向けるハクメン。ラグナが手を伸ばし制止を呼びかける。けれど。

「哀れな……少女よ、今……楽にしてやる」

 大太刀を薙いだ。

 少女の身体は人間のような肉感がありながら、鋭い大太刀を受けても血を流さない。纏うコスチュームは傷付き破れていたけれど。それでも抵抗できない状態で攻撃を受ければ呻きをあげて、彼女の身体は剣を叩きつけられるまま吹き飛ばされた。

 転がる彼女の元へ歩み寄り、大太刀の切っ先を突きつける。

「此れで……終いだ」

 剣を握った腕を引き絞る。……そして、突きを放とうとした、その瞬間だった。

 微かな金属音がハクメンの背後から鳴り響く。けれど、その音に気付いた時には既に遅く。蛇頭が、ハクメンを貫く。

「なっ……貴様……!!」

 振り向き、蛇頭に繋がる鎖の先を追って……ハクメンは、声をあげる。動揺していた。

 そこに居たのは、金髪の少女ユリシアを傍らに連れたテルミだった。

 テルミはニィ口角を吊り上げ笑むと、蛇頭のついた鎖――ウロボロスを勢いよく引っ張った。ずるずると、ハクメンを貫いたウロボロスがテルミの方へ引き抜かれていく。呻きながらも、ハクメンはそれを抵抗することができない。留めておくことも、ましてや自分で引き抜くことも。

 蛇頭がすっかり抜けきった時、ハクメンの身体にはウロボロスが刺さっていたような傷は見えず。けれど、魂までもが抜けてしまったかのように……ハクメンの身体は、力を失い地に膝をつき倒れ伏す。

 コツ、コツと靴音を響かせて、ズボンのポケットに手を引っかけたテルミは悠々と歩み寄り、ハクメンだったものを見下ろして嗤う。

「ハッ、ざまぁねぇな、ハクメンちゃんよ……」

 言いながら、腰を折ってハクメンだったもの、白の鎧……スサノオユニットに手を伸ばす。掴み、持ち上げればいとも簡単に持ち上がる鎧は動き出す様子がない。その光景が信じられなくて、思わず口を覆う者も居た。

「俺の『躯』……返してもらうぜ」

 囁いた瞬間、彼の足元に光の術式陣が浮かび上がる。蛇を模ったような紋章の術式陣から、闇が吹き出て、途端にテルミとスサノオを包んだ。

 ――いけない。ぞわりと嫌な予感がして、ラグナが再び剣を抜いて駆けた。

「うぉぉおおおっ!!」

 けれど、ラグナ一人が剣を振るったところで暴風のような闇に弾かれるだけ。ラグナの身体が弾んで、鈍い音を立てた。濁った悲鳴が漏れる。

 そうして闇が晴れた瞬間、そこに立っていたのは。

 三輝神、オリジナルユニットの一つ。ユウキ=テルミの本来の姿であり、彼が一度捨てた姿。

 アマテラスを護る矛にして、破壊の神。ハクメンと似て非なる姿。

 漆黒の……スサノオだった。

「これが……てるみさんの、ほんらいの、すがた……」

 胸の前で指を組み呟く少女の声に宿る感情は、少しの驚きと、不思議さだった。それにスサノオは返事をすることもなく。

「懐かしい……懐かしいぞ、この感覚……全くもってクソムカつく感覚だ……」

 空気が、その存在に恐怖するかのように戦慄(わなな)く。皆が目を見開いて、視線の先に立つスサノオはひどく苛立った様子で、けれど込み上げる笑いを抑えながら言葉を叫んだ。

「この『檻(おり)』に囚われた感覚……これだ、これだ! どいつもコイツもぶっ殺してぇ、この感覚だ……苛つくんだよ畜生……!!」

 彼が声を張り上げて叫ぶ。その圧だけで吹き飛ばされてしまいそうなほどの咆哮に、空気が余計に震えて、皆の身体にも自然と力が入る。ぎゅっと目を瞑り、吹き飛ばされないよう必死に耐えて、そして――。

 揺れが収まり、彼らが目を開けると同時。

「……さて。誰から我に殺されてくれるのだ?」

 低く響く厳粛な声は、圧倒的な力を感じさせた。先までの粗暴な声とは別物の声。けれど、それは確かにテルミ……否、スサノオから放たれていたし、横暴極まりないその台詞は正しく彼のものだった。

 それが、彼がとうとう手の届かない所まで行ってしまった気にさせて、ラグナは焦るように剣を持ち再びスサノオへ駆けた。

「っ、ぐぁあ……!!」

 けれど向かうラグナの目の前まで逆に一瞬で迫ると、目を見開く彼の鳩尾(みぞおち)に拳を一つ叩きこんだ。瞬間的に呼吸ができなくなる。力が入らなくなって、ラグナは膝をついた。骨をやられたわけではない、内臓もかろうじて無事だ。けれど痛みは尋常でなく、呻きをあげた。

 それを蔑むように見下ろして、漆黒のスサノオは言葉を紡いだ。

「……気をつけろ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。手加減するのが難しい……誤って殺してしまうだろうが」

 粗暴な口調のまま言う彼にラグナが何か言うより早く、スサノオがラグナに蹴りを叩き込めば、ラグナは再び呻いて身体を宙に放り出す。そのまま地に叩き付けられ、弾みながら転がって。

「く、そ……アズラエルの比じゃねぇぞ……っ」

 掠れる声で呟く。あの日闘技場で戦ったアズラエルですら人間離れした力を持っていて、正に化け物と呼ぶべきだったのに。その何倍も、スサノオの力は強く。

「貴様は最後だ。最後に、じっくりと甚振(いたぶ)って殺してやる……それまで待っていろ」

 そう言って、スサノオは興味がなくなったとでも言うような素振りでラグナから視線を外すと、他の面々を見て……。

 爆破音が、連続して響く。

「……邪魔をするな、人形」

 ノエルの魔銃・ベルヴェルクが発砲した事による音だ。狙った空間を撃つその銃による攻撃は、全て確かにスサノオに命中した。けれど、それにダメージを負った様子もなく、しかしその攻撃に気分を害したのだろうスサノオが、地を這うような声音でノエルにそう言った。視線は向けないままだ。

 その声だけで怯えたように肩を跳ねさせるノエルだったが、しかし震えを必死に抑えて叫ぶ。

「ラグナさん達には、これ以上触らせません!」

 ノエルの言葉を聞いて、スサノオがやっと彼女に視線を向ける。不思議な言葉を聞いたように首を傾けて、彼が問う。

「触らせない……? 誰が、何に触らせない、だと?」

 淡々とした声の割には、ひどく嫌な予感がして。ラグナが制止を呼びかける。けれどノエルはラグナの声に逆らった。ハクメンを助けないと、そう言って。

「聞いている。神を模した程度の貴様が、真なる神である我に何だと? 何と言った?」

「だ、黙りなさい!!」

 答えないで、しかも自身からハクメンを助けられると本気で信じているのであろう少女にますますスサノオは苛立ちを見せ、再び問いかける。その声にひどく怯えて、まるで威嚇する犬のように彼女は再び銃を撃つ。

「……無駄だ」

 が、スサノオにはやはり魔銃など効かず。ラグナにしたときのように、瞬きの一瞬だけでノエルの目の前にやって来る。転移したかのような素早さでやって来る彼にノエルが対抗できるはずもなく……その首を、掴まれた。

 そのまま腕を持ち上げれば、抵抗もできず、ぶらりとノエルの身体がぶら下がる。

 ぎりぎりと、その白く細い首に指が食い込んでいき、苦しさに思わず息を一気に吐き出した。

「もう一度言え人形……貴様ごときが我に『何を』させぬと言った? 言え、言ってみせろ……言いやがれ!!」

 スサノオが怒鳴るだけで、ノエルの髪が揺れる。呼吸ができなくなって、ゆっくりと、ノエルの目から光が失われていく。返事のできない彼女を見て、ユリシアがスサノオの元へ駆け寄った。

「てるみさん、それじゃ……へんじが、できません、ですよ」

「ああ、それもそうだったな……」

 かつて、短い間だったけれど友として関わった相手を、気遣うような言葉はそこにはない。だって彼女が世界をこうしたんだし、嫌いではないし、寧ろ好きな方ではあったけれど……新しい世界を作って、彼女が神から降りるまでの間は。

 そうして少し困ったように眉尻を下げる彼女に、さして彼は苛立つ様子もなく。

 寧ろ母親に窘められ拗ねた子供のように、素直にノエルの首にかける力を緩めた。それでもノエルは目を伏せ、気を失ってしまうのだが。自身よりも上位の存在。概念であり、全てである蒼の前には彼も素直だった。何より、彼女には居てもらわないと困るのだから。

「ノエル=ヴァーミリオン。貴様は人形であり『道具』だ。ならば……道具は道具としての役目を果たせ」

 そう言って、冷やかにノエルを見つめながらスサノオは紡ぐ。ふと、スサノオが疑問に声を漏らした。彼の身体の中に、微かにテルミの影が見えた気がした。融合がまだ完全ではないのだ。

「……まぁいいか。とりあえず今はこれで十分だ……」

 呟き、そして彼は止める面々など気にも留めずにユリシアを振り返ると。

「さて、世界を終わらせるのは止めだ。この世界の『破壊』を始める……あぁ、どちらも同義か」

 冗談めかすような笑いを僅かに含めながらも、言葉は本気だった。ユリシアは、それに迷うことなく頷いた。だって、世界を壊したあとは、きっと。

「行くぞ、ユリシア」

 ノエルを掴んだままに、スサノオの形をしたテルミがそう告げる。頷いて、彼に一歩、更に近付くと。空間が歪み始める。

「ざけんな、テメェ……!!」

「うるっせぇな、用件なら後にしやがれ」

 行かせまいと、ラグナが跳ね起きて剣を振るう。それに再びあの粗暴な声でテルミが怒鳴り、再び拳を振るえば、やはり力負けして後退りこそしたが、今度は大剣で自身を庇う。

「ほう。やるな……一応は『蒼の男』という事か。ならば『向こう』で待っていてやる」

 それを見て関心したように声を漏らすと、マスターユニットをスサノオは見上げた。

 再び大剣を振りかざす彼を片腕でいなしながら。

「聞こえているか、マスターユニット。否、『ジ・オリジン』。貴様の『片割れ』はここだ。我に『壊されたく』なければ、ついて来い」

 宙に鎮座するマスターユニットに向けて、そう告げると。空間の歪みが、ひどくなる。

 まるで事象干渉を起こすときの、それだった。

「おい待て、何処に行く!?」

 ラグナが手を伸ばし、止めるようにして聞くけれど。『向こう側』とだけしか答えず……次の瞬間には、ノエルとユリシア諸共、消えた。

「最高の絶望を用意して待っているぞ……ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 ここに来て何度目かの悪寒がして、何だか何かが足りない違和感があって……ラグナは、アマテラスを見上げる。否、先までそれが居た場所を見上げた。

 そこには、何もない空間だけが広がっていた。

 

 

 

   4

 

「あれが、てるみさんの、ほんらいのすがた……なんですね」

 白い、白い空間だった。世界の外側であり、そこに空間があったという概念でしか存在しない場所。そこに佇む影は二つ。黄色いフードを目深に被った男テルミと、金髪を三つ編みにした蒼い目の少女ユリシア。その足元に転がるのは、ノエル=ヴァーミリオン。

 先のスサノオの姿を見ても、纏う空気を感じても。彼女はあくまで『テルミ』として彼を扱っていた。

「ああ、そうだ。あの姿で居るのはクソムカつくんだが……俺様の目的を成し遂げるためには、力が必要だからな」

 スサノオの力であっても、マスターユニットを破壊することは不可能だけれど。邪魔してくる者を退けて、蒼を手に入れるための力というのなら、十分だ。

 ユリシアの頭では、よく理解できなかったけれど。納得したように少女は頷く。

「んで、これが蒼の門ってやつか……『存在』は知ってたが、実物を見るのは初めてだ」

 そう言ってテルミは、何もない空間に唯一存在する『それ』を見上げる。それは、白銀の巨大な『門』だった。一度ユリシアを生むときに開いて、それからまた閉ざされた門。この向こうには、全ての可能性を『可能』にする、『蒼』が眠っている。

 それをユリシアが手に入れれば彼女は完全になるし、逆にテルミが手に入れれば、テルミの思う世界が創造し放題だ。

「これを、わたしが……ひらけば」

「いや、その必要はねぇ。じきに奴らが来て……開けてくれるからな」

 ふ、と。靄がふわりと解けて消えるように軽く、彼女の中で疑問が浮上する。今まで、何故意識しなかったのかと思うほどの疑問だ。けれど、その疑問の意味を理解した瞬間、彼女は何故だか恐くなって――表情に出さないよう、口をきゅっと真一文字に結んだ。

 けれど、その表情の機微はテルミという存在には容易に分かってしまったらしい。首を傾げ、どうしたのかと問うテルミに少し目を見開いて、ユリシアは肩を跳ねさせる。それから視線を右往左往させ、どう言ったものかと迷ってしまう。

「……あ、あとで、その、はなします……です」

 だから、思わずそう言ってしまった。話していいものなのか、今じゃなくていいのか。後から話す時間なんてあるのか。そんな思いはあったけれど、そうとしか言えなくて。

 テルミもまた胡乱げな視線を向けるのだけれど、幼い彼女の考えることだから、さして重要でもないだろうと油断していた。

「にしても、いつまでこの人形は寝てるんだか。ほんと、マジで役に立たねぇ人形だなぁおい」

 テルミが苛立ちに足を持ち上げ、踏みつけようとする。それを少女が名を呼ぶだけで止めて、テルミは仕方なしに舌を打って、足を戻す。彼女に従うわけではない。けれど、下手に乱暴に扱って、ここで壊してしまっては意味がないからだ。

「んま、役立たずの『人形』がもう一匹いるみてぇだが……」

 呟き、辺りを見回せば。空気の動く感覚。静かな、けれど激しい大振りな攻撃だった。それをウロボロスで弾けば金属音が鳴って、攻撃の主は反動を使って後退し、淑やかに着地する。静かに現れたその人物は、少女だった。

「……あなたは……えす」

 甘く幼いユリシアの声が、彼女の名を紡ぐ。青と白を基調としたミニドレスに身を包み、片手には白銀に煌めく、身の丈ほどもある大剣を握り締めて。少女、エスは静かに二人を見つめた。

「ユウキ=テルミ。その言い方は侮辱と捉えます。それに、ここは貴方のような者が来る場所ではありません。たとえ、そこの方が許したとしても。早急の退去を勧告します」

 エスの言葉を聞いて、テルミは大袈裟な溜息を吐く。煩わしげに首を振り再び舌を打つと、彼女を睨み付けた。

「はぁ~……ウゼェなぁ。誰にモノ言ってんだ。テメェこそ失せろっつの、この『蒼の木偶人形』」

「繰り返します。ここは神聖なる蒼の聖域です。そこの方を置いて、至急退去してください『ユウキ=テルミ』」

 さもなくば……そう言って、大剣を再び構えるエス。それと対峙するのは……ユリシアだった。

 彼女は目の前の少女を見つめ、両腕を広げる。それを見たテルミは口角を吊り上げるだけだ。

「……退いてください。いくら蒼である『あなた』の意思であっても……」

「どきません。だって『わたしたち』は、あたらしいせかいを、しあわせなせかいを、つくるだけ……ですから」

 どこか理解していたように、けれどやはり悲しそうにエスは目を伏せ告げる。けれどユリシアは首を横に振った。ユリシア達は、マスターユニットが繰り返す悲劇を終わらせ、幸せな世界を作るだけ。それでも大切な人を傷つけるというのなら……そう言って、彼女が出現させるのは銀色の大鎌だった。それをしっかりと両手で握り構える彼女を、真っ直ぐにエスは見つめ、やはり悲しそうな顔で……。

「……分かりました、そう言うのでしたら」

 

 

 

   5

 

「っと……ここが境界か? いや、この感覚は……外の世界ってやつか」

 あれからラグナ達は、ハザマに拷問されていたレイチェルを助け出し、彼女の導きによりテルミ達が居るであろう世界の『外側』にやって来ていた。そこにその世界があったという概念だけで成り立った場所だ。ハザマは……ラグナに助けられるのだけは勘弁だと言って逃げた。その後の行方は誰も知らない。

「どうやら無事に突入はできたみてぇだが……あいつらとは、はぐれちまったみたいだな」

 辺りを見回しても、一緒に来たはずの彼らの姿が見えない。門の方向は、なんとなく検討がついたけれど。彼女が導いたにしては、やけに正確性に欠ける。彼女への愚痴を呟き、彼は進みだす。

 暫く、歩いた頃だった。小さな影が見えて……彼は足を止める。

「……なんでウサギがここにいるんだ」

「凄いわね。迷いなくここまで来るなんて」

 彼女は外から彼らを導いていたはずだ。なのに、何故この場所に居るのか。彼の問いには答えず、レイチェルは静かにそう呟くと。真っ直ぐに、ラグナを見据えた。

「話があるわ」

 その言葉を聞いて、ラグナは眉根を寄せ、胡乱げにレイチェルを見つめ返す。

 やはり、彼女は『わざと』バラバラに飛ばしたのだと理解したから。

「貴方……ノエルを救ったあと、どうするつもり?」

「へ? どうって、何をだよ」

 間抜けた声が、ラグナからあがる。問い。けれどそれに彼女はやはり答えない。だって、ラグナは分かっていて聞いているのだと知っていたからだ。

「聞いているのは私よ。『貴方はこの世界を』どうするつもりなの?」

 再び問われれば、ラグナは悪戯っぽく笑んだ。答えなくては駄目か、と。勿論彼女は頷くのだから、彼は少し困ったように眉尻を下げた。

「……皆の『願望』を喰い続けているうちに、色々見えてきたんだよ。お前が何を『望んで』いたのかもな」

 ラグナの言葉に、彼女がひどく驚いた様子で目を見開く。けれど、ラグナは言葉を止めやしない。彼の望みは……。

「俺の望みは……『神の観る夢(セントラルフィクション)』を終わらせることだ」

 だから、彼は前に進まなければならない。そのためにここまで来たのだから。

 ラグナはそう言って、静かに歩き出す。レイチェルの横を通って、二、三歩進んで……途中で、ふと彼は足を止めた。振り向くレイチェルに、ラグナもまた向き直る。

「……今までありがとうな、ウサギ」

 微笑むラグナに、レイチェルは一瞬だけ驚いたように再び目を丸くすると……彼女もまた、優しく笑うことしかできなかった。

「そして……さよならだ」

 

   6

 

「悪い、待たせた」

 聞き慣れた声がようやく聞こえたことで、ジンとトリニティは振り向いた。遅さを咎めるようなジンの言葉に軽く謝って、そしてラグナは目の前に鎮座するそれを見上げる。

 門と、マスターユニットが……そこにはあった。

 彼らが探しているユウキ=テルミとユリシア=オービニエ、ノエル=ヴァーミリオンの姿は見えなかったけれど。でも、気配も視線も、吐き気がするような胸糞悪い感じもして、ラグナは虚空に怒鳴りつける。

「隠れてねぇで出てこいよ、テルミ!!」

 瞬間、ラグナの背に嫌な汗が吹き出て、ラグナは振り向きざまに大剣を振るう。金属音が耳を劈く。ウロボロスが、伸ばされていたのだ。くつくつと笑う声が響いて、ラグナは再び前を見る。

「くく……威勢がいいねぇ、ラグナちゃ~ん」

 居たのは、やはりテルミ。そしてユリシアだった。ラグナはその姿を見て、いつもであれば冷静さを欠き怒りと憎悪で向かうところを、至極冷静に……言葉を紡いだ。

「ノエルを……俺達の妹を返してもらうぞ」

 その言葉を聞いて、テルミはひどくつまらないことを聞いたとでも言うように顔を顰めた。

「ノエル? あ~はいはい、そんなに返してほしいのか、この『ガラクタ』を……」

 面倒臭そうに適当な返事をして、指差す先に居るのはマスターユニットだ。それの頭の部分、棺にも見えるそこが……テルミの声に合わせて、ゆっくりと開き。

「――ノエルッ!!」

 ラグナが、思わず叫ぶ。そこに居たのは、金髪の少女だった。遠目にしか見えないはずなのに、やけにハッキリと見えるのは彼女が観せているのだろう。そして、その姿は……彼らの知るノエルそっくりだった。肌はツギハギだらけで、身体中をチューブに繋がれてはいたけれど。

「これが、お前らの探している『本物』のノエル=ヴァーミリオンだよ。健気で可哀想で……残虐非道なこの世界の神様。『第一接触体(ジ・オリジン)』だ」

 聞いた瞬間、ラグナは鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。分かってはいたけれど、やはり彼女がこの世界の神様であるというのは。一方、ジンは唇を震わせ、何かを紡ごうとしていた。

「貴様……まさか、ノエルを『第一接触体』と融合させたのか? 何ということを……」

 けれど、それにテルミは肯定することも否定することもしない。ただ、勘違いするな……そう言って、再びマスターユニット・アマテラスを見上げる。

「勘違いすんなよ。このガラクタを作ったのは俺じゃねえ……これを『創造し(つくっ)た』のはテメェら人間だろうが」

 どこか苛立ったような声でそう言って、彼は語る。このくだらない世界の始まりは『あいつ』なのだと。そして、ラグナ=ザ=ブラッドエッジが救わなかった最初の怪物。本物のノエル=ヴァーミリオン……否、『サヤ』とでも言った方が正しいか。

「どうよ、感動の対面だぜ? 涙流しながら抱き付くか?」

「ッ……どこまで腐ってやがんだ、この屑(くず)が」

 からかうような、蔑むような。そんなテルミの言葉に眉を動かして、ラグナは小さく漏らした。歯を剥きそうになって、堪える。ここで怒っては意味がないから。

「はぁ? 屑はテメェらだろうが、この『人間』。神の力欲しさにいくつ世界を潰してきたよ。まぁテメェらに言うことでもねぇけどな」

 ラグナの『屑』という言葉を受けて、テルミが首を傾げ逆に罵った。けれど、ラグナからしてみればその力を教えたのはテルミで、つまりテルミが全ての元凶なのだ。が、それがラグナから見た感想に過ぎないように、テルミからすればそれを『選択』したのは人間なのだから、自身のせいにされてはたまったものではない。

「都合のいい可能性だけを集めて自分達だけの未来を作る。逆に『可能性』を奪われた世界は黒き獣という『滅日』を迎える」

 それだけの死を自分達で生産しているのだから、『冥王イザナミ』などという化け物が生まれても不思議ではない。

「それで? 今度はテメェが蒼を手に入れて、神様にでもなるつもりかよ」

「俺は元々、テメェらが言う『神様』だよ」

 皮肉るように問い、テルミの斜め後ろに佇む少女を一瞥するラグナにテルミは、呆れたような声で答える。それに反応するのはジンだ。彼はテルミが『神』であるという言葉に顔を顰め、くだらない戯(ざ)れ言だとそれを否定する。彼のような神を誰が崇(あが)めるものかと。

「テメェら『人間(ごみくず)』共に崇められたって、なんにも嬉しくないね。むしろ踏み潰したいくらいだ」

 嘲るようにそう高らかに語って、鼻を鳴らすテルミ。それにジンはますます眉根を寄せるのだけれど、それを制するかのようにジンの肩を軽く叩いて、ラグナがテルミの目的を問う。

「だ~か~ら、言ったろ? 破壊だよ、は・か・い」

 子供が遊びを提案するような気軽さで、彼は告げる。厭(いや)らしい笑みを浮かべて、彼はそして再び語りだす。

 真の蒼を手に入れて、マスターユニットすらをも超えた存在になる。そして、アマテラスが創造する世界を全て……破壊する。そうやってマスターユニットの全てを踏みにじって、苦しめ、アマテラスの干渉すら関係なくなった、何にも縛られない真の『自由』。

「そんな……そんな事のために、こんな……こんな事まで」

「するね!! 俺は、俺を縛りつける全ての鎖を引きちぎる! タカマガハラにもアマテラスにも、誰にも『干渉』はさせねぇ」

 自身は、自身のモノだ。故に好きに行動して、好きに生活して。それが彼の望みだった。

 けれど、そんな事情も理由も、ラグナ達が知ったことではなかった。

 イザナミの居ない今、滅日が終わればまた新しい世界が創造される。それはテルミも同じで、つまり門を守りきれば、最悪でも彼らは負けはしない。

 たとえ、ユリシア=オービニエという『蒼』が……彼女が加勢したとしても。

 語る面々。テルミはそれを聞くと、目をぱちくりと瞬いた。そして、肩先を震わせる。胡乱げに見つめるラグナの目の前、彼は堪え切れず、失笑した。

「っぷくく、ヒ、ヒャ~ハハハ!! テメェらそれ、マジで言ってんのか? やっべ、ウケるわ」

 状況はテルミにとって確かに『最悪』かもしれない。けれどそれは既に、彼らにとっても同様なのだ。そして、テルミがその最悪のために取った対策が、これまでの行動だ。何のためにスサノオを、ノエルを手に入れたのか。

「――武神(たけがみ)、召喚」

 腕を広げ紡ぐテルミの言葉に呼応するようにして、テルミの背後の空間が歪む。現れるのは白の鎧。ハクメン……否、ハクメンが使っていた『躯』、スサノオユニットだ。

「テメェになら見えるかもな……トリニティ=グラスフィール」

 彼に名指しされ、トリニティが不思議そうにスサノオユニットを見て――目を、見開く。そこに見えたのは、今まで探していた少女の姿。ノエルが、そこに居たのだ。思わず名前を叫べば、ジンとラグナが驚きに声をあげる。

「スサノオユニット……憑鎧」

 そう言って、テルミはニンマリと口角を持ち上げる。途端、テルミとスサノオユニットを闇が包む。そして、闇が晴れた時には『テルミ』の姿はなく、漆黒のスサノオが佇んでいた。

「既にノエル=ヴァーミリオンは我が内に取り込み済みだ……この意味、分かるな?」

 ノエルが取り込まれているということは、ノエルの力を有するということだ。つまり滅日が完成しようとしまいと、彼の存在はもはやその影響を受けない。

「……が、それもどうでも良くなりそうだ」

 鼻を鳴らして笑い、スサノオが紡ぐ。未だ眼を覚まさないノエル……否『第一接触体』を、彼らの命を触媒にして覚醒させ、真なる蒼である『蒼炎の書(ブレイブルー)』を手に入れる。そして門より外へ至り、自由となる。このユニットの力をもってすれば、それも可能だと言うようにスサノオは朗々と語った。

 けれど、ラグナはそれを聞いて挑発するように吐き捨てる。舐めるな、と。

「下らん。我に勝てるとでも思っているのか?」

「思ってるね。だからここまで来たんだ!!」

 返る言葉を聞いて、スサノオは興味深そうに声を漏らす。そして鋭い牙の目立つ口を歪めて、凶悪に笑う。

「……ならば、自身の愚かさを悔いて死ね……『人間』!!」

 叫び、スサノオが拳を構える。それを見て、ラグナが呼ぶ名はジン。それだけでジンは分かっていると頷いて、ユキアネサを抜いた。

 

 

 

 剛腕と、闇色の剣を振りかざし向かうスサノオに、ジンもまた氷の刀で応戦する。金属音と肉のぶつかる鈍い音が連続して響く。かつてのジンであればここまで戦えなかっただろう。きっと、躱すことに精一杯で、とてもではないけれど攻撃なんて。

 けれど、今のジンは違った。ユキアネサを振ることで急速に空気を冷却し、生んだ氷の壁でスサノオの拳を弾く。破壊された時には既にスサノオの裏に周り、斬撃を仕掛けていた。

 それでもスサノオの身体には傷一つ付かず、ジンに返る感覚は僅かな手の痺れ。

 スサノオが振り向き、その隙に拳を叩きこむ。けれどそれを一歩退くことでジンは躱す。が、拳の利点はその連続性と軽さにある。右が避けられれば左、左が避けられれば右。いつまでも躱し続けるわけにはいかず、ジンが切り返すために剣を振る。

 けれど、それをスサノオは身を翻して尾で弾いて、そのまま再びジンの方を向くと、再びその手に自身と同じ漆黒の剣を生み出し、振りかざす。

 刀を弾かれたジンに、それは直接ぶち当たって……。

「ジン! 大丈夫か……!?」

「クッ……『認識』出来たぞ、兄さん……」

 駆け寄るラグナに、痛む身体を押さえながらもジンは掠れた声で告げる。後は任せた、そう言うジンにラグナは頷いてスサノオを睨み付けた。

「スサノオ……テメェもここで『終わらせて』やる!!」

 叫ぶラグナに、スサノオもまた返す。「面白い」と。ならばやってみろ、言うスサノオに反応するかのようにしてラグナは右腕を構えた。湧き上がるままに、本能のままに、けれど確実に自身で制御してラグナは紡ぐ。

「第六六六拘束機関解放……次元干渉虚数方陣展開!!」

 イデア機関接続……解除。

 途端、膨大な魔素の噴出に空間が耐え切れず揺れ出す。何かの呻きのような音を立てるそれに、スサノオがひどく驚いたような声をあげた。

 彼は、ラグナは……自ら魔道書を暴走させたのだ。つまりそれは、ラグナの身体の崩壊も意味する。確かに力の出力は上がるだろうが、それだけ危険なことだ。

「見せてやるよ……これが蒼の、そして俺の力だ!!」

 蒼の力であり、そして自身の全力。ブレイブルーを起動し、彼は『獣』のような咆哮をあげた。

 

 

 

「まだだぁぁあっ!!」

 倒れかけるも、手をついて咄嗟に跳ね起きラグナが魔素を纏った拳を突き出す。それを腕でガードされれば一度引いて、再び駆けて剣を振り下ろす。その鳩尾にスサノオの拳が入り込み、ラグナは息を吐きだし倒れ込む。再び立ち上がり……。繰り返される攻防、ブレイブルーを起動して尚、ラグナが僅かに不利だったけれど、それでもラグナは何度だって立ち上がる。

「うおおおぉぉぉおお!!」

 咆哮をあげ、スサノオに飛び込むラグナ。再び突き出される拳を、スサノオが握り込んで止めた。捻れば嫌な音が響く。尋常でない痛みが襲うだろうに、それでもラグナは止まらない。僅かに驚きを見せるスサノオの頭を引っ掴み、飛び込んだ勢いのまま押し付ける。

「んな……っ」

 スサノオの身体から、強制的に引き剥がされるテルミ。頭を掴まれたまま目を見開く彼から視線を外して、ラグナは背後のスサノオユニットを見遣る。「やれ」。一言そう命じれば、スサノオユニットは歪な金属の刀――ヒヒイロカネを手にして、言葉を紡ぐ。

 彼は、スサノオユニットを纏ったジン=キサラギだ。

「全ての者よ……目に焼き付けろ。我が名は――」

 スサノオ。高らかに告げて、スサノオユニットはヒヒイロカネを握り締め、二人めがけて駆けた。瞬間、周囲が光に包まれて――。

 

 

 

   7

 

 気が付いた時、そこは先までとは対照的な暗い、闇に包まれた空間だった。目を伏せているのか、開けているのか、そもそも目というものが今の自身に存在しているのかすら分からなくなるほどの、闇がそこにあった。

 浮かぶような、沈んでいくような不思議な感覚は、水中に似ている。冷たくも温かくもない優しく無慈悲な水の中だ。

 自身は、あの人物は、どうなったのだろう。思い出してみれば、案外あっさりと理解できた。

 それと同時、水の中から引き揚げられるように、ずるりと引っ張られるように――意識が、浮上する。物に触れることの許されない精神体(かげ)の自身の手に触れて、引っ張ってくる正体はなんだろう。見遣れば蜂蜜のような淡い金の糸が、堪らなく欲しがっていた『蒼』の色が、見えた。

 名前を呼ぼうとして、それを遮るように声が響くから、彼、テルミから声は発せられなかった。

「ここは……何だ……?」

 代わりに『彼女』を引き寄せ、その小さな手を握りしめた。いつもなら驚いたような、間抜けな声が届くのだけれどそうはならず。そしてテルミの聴覚に届くのは、聞き慣れた男の声。彼もまた、ここに辿り着いたのだ。

「やってくれたじゃねぇかよ……『ラグナ=ザ=ブラッドエッジ』」

 そう声をかけてやっとテルミを認識する彼……ラグナに、テルミは語って聞かせた。

 勝負では、ラグナの勝ちだ。実際、スサノオユニットを使って負けるとはテルミ自身考えてもいなかった。そう、テルミは負けたのだ。ラグナは大した人物なのだ。だが……付け足すテルミは、あまりのおかしさに、堪え切れず笑った。

「テメェは『頑張りすぎた』みてぇだな、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ!!」

 テルミの声に反応するようにして、どくん、と鼓動が聞こえた気がした。

 辺りが一気に明るくなる。変わらず闇色の世界だが、それでも確かに明るく感じるその場所に。大きな、蒼の光が見えた。影が人型をとったようなテルミの姿も、かつての人間の姿に戻っていた。目を見開くラグナに、ひどく愉快げに声を弾ませてテルミは言葉を続ける。

「ここがどこか分かるか? 分かる? 分かるよなぁ! やっべ、超~ご機嫌だぜ俺様ちゃん」

 蒼い光を見つめて、ラグナが瞳を揺らす。まさか……そう口から洩れた声に大きく頷いて、テルミはその思考を肯定する。

「そうだ。テメェは門を開いたんだよ!」

 高らかに告げて、そして拍手。

 信じられないという表情を見せるラグナがこれまた滑稽に見えて、テルミは再び笑い出しそうになるのを抑えながら言葉を紡いだ。

「いやぁ、おめでとうラグナ君。誰もが求め、それでも尚、辿り着けない場所に……お前は辿り着いたんだぜ」

 旧知の友を讃えるかのように語って、そしてテルミは両腕を広げる。この場を示すように。

「ここは『蒼の境界線』。蒼に選ばれし者のみが到達できる世界だ」

 けれど、ここにはラグナの他に『ユウキ=テルミ』が居る。

「そして……コイツ、ユリシアも辿り着いた。つまり、どういうことか分かるよな?」

 その言葉を聞いて、ラグナはテルミの傍らに少女が居ることに、ここでやっと気付く。目を見開く彼が答えないのを見て、元から答えなど期待していなかったのだろう、彼は口を開く。

 それは『ラグナ』か『テルミ』、そして蒼の片割れである『ユリシア』のいずれかが、真なる『蒼』を、蒼炎の書を……手に入れることを意味しているのだと。

 ユリシアはそれを聞くと、テルミを見上げた。そんな少女の頭に、いつものように手を置いてテルミは厭らしく笑う。これも蒼の『意思』だというのか、問うラグナにテルミは告げる。

「不思議はねぇだろ。蒼の力に『善悪』はねぇ。俺様にすら蒼であるコイツが付くんだ。それに、そもそも善悪なんざテメェら人間が決めた価値基準に過ぎねぇだろ?」

 純粋な『力』である蒼には人間の善悪など関係ない。蒼はただ、求める者に応える、それだけ。

 黙り込むラグナを見て、未だ笑みを浮かべたままテルミは首を傾げる。

「どうしたラグナ君、ショックで声も出ねぇか?」

 煽り、挑発するような彼に、しかしラグナは何も返さない。俯く彼に、テルミが痺れを切らしそうになったとき、だった。

「そうか……ここなのか。蒼は『全ての可能性を可能にする』力……純粋な力であるなら……いや、それならなんでコイツが……」

 ラグナが言葉を呟く。その言葉を聞き、テルミが眉根を寄せ首を再び、僅かばかり傾けた。

 ここへ至る門を開けられるのは、ノエルだけだとラグナは思っていた。けれど、それならば何故、ここに来る必要のない彼女までがこの場所に居るのか、何のためにこの場所に居るのか。

 その答えは、あっさりと……ユリシアの口から紡がれる。

「わたしが、じぶんで、あけて……おいかけてきました、ですよ」

 蒼の力をもって、閉まりきる前の門を再び開け、そこに飛び込んだのだ。けれど、何故そんなことをしたのか。答えは簡単だ。彼女は、テルミの傍にいるために生まれたのだから。いくら元々が彼を観察するためだったとしても、それなら……否、それ以前に。大好きなテルミの傍にいるのが彼女の望みだ。

 そして彼が求めるなら、自身という『蒼』を捧げる覚悟で。

「でも、てるみさんは、わたしをもとめない。だから……せめて、たいせつなひとを、まもりに」

 テルミが、目を見開く。

 彼女は、テルミがそうしようとすればいくらでも殺されて、力を奪われたって構わないほどだった。けれどテルミはその選択肢を無意識のうちに自身の中から排除していた。それを、ここに来て気付かされたのだ。

 何故テルミが彼女から蒼を奪わないのか。それは彼女自身には分からなかったけれど、ならば彼の傍に居ることができる。そんな願望を叶えられるなら、叶えないわけがない。

「わたしは、てるみさんのおそばで、てるみさんを、まもりたいんです」

 それだけだった。かつてラグナに問われた時も、彼女は『護りたい』と、そう答えた。

「いくら、のえるさんが……あのひとたちが、あなたに、かけたとしても」

 何故ラグナがここに立っているのか。それは彼らが、ラグナが『神』であるスサノオ、テルミを消し去る『可能性』に賭けたからだ。

 アマテラスの下で、テルミが使っていた『スサノオユニット』に、ラグナとテルミは斬られた。

「……らぐなさんという、くろきけものから……すさのおは、せかいをすくいました」

 そして、そのスサノオは継承され、テルミこそが世界を救った英雄となっている。その事実を唐突に語られたテルミは、ひどく驚きながらも何も言葉を発せない。彼女がそこまで理解していることも、自身がそんな状況にあることも予想外だったけれど、言葉を口にする隙を彼女は与えない。

「らぐなさんは、それを、ねらっていた……ですよね」

 スサノオが継承され、誰もテルミに恐怖しなくなることを。そのためにわざわざ『スサノオユニット』に斬らせた。ぎこちなく首肯するラグナにテルミは目を丸くする。

 テルミはてっきり、ラグナに拘束され動けない自身を、ラグナごとヒヒイロカネで倒させようとしただけだと思っていたのだから、テルミすら想像できなかったラグナの狙いを悟った少女にただ驚いていた。

「でも……ラグナ=ザ=ブラッドエッジさん」

 いつもの舌っ足らずさが抜けて、一瞬、彼女でない蒼が再び乗り移ったのかと、テルミは思う。それほどまでに、幼い声の中には凛としたものがあって、名を呼ばれた彼が唾を飲む。

 けれど、ユリシア=オービニエはあくまでユリシアとして話していた。

「あなたが、テルミさんを、けしさる『可能性』だというのなら」

 紡ぎ、そして彼女は目を伏せる。間を開ける。それは数秒だったけれど、やけに長い数秒間だった。彼女は再び目を開ける。吸い込まれそうなほど澄んだ蒼の瞳で、ラグナを真っ直ぐに見つめると、彼女は告げる。

「てるみさんは、あおを……『蒼炎の書(ブレイブルー)』を手に入れ、世界を作り直す『可能性』です」

 小首を傾けて、可愛らしく無邪気な微笑みを見せる。彼女は相変わらず無垢だった。けれど、かつての何も知らない彼女はどこにもいない。

 世界中の誰もがラグナに賭けていたとしても、彼女だけはテルミに賭けていた。最初からずっと、見て、慕ってきた大切な人だから。それに彼女は、『可能性を可能にする力』なのだから。絶対に諦めない。

 自身の力を与えることは許さない。だって、彼はそんな事を求めていない。彼は自身の力で手に入れたいのだと分かっているから。自身を生んだ蒼だって、実際に目で見て知ることを望んだのだから、それくらい理解できなければいけない。

「おぼえていて、くださいです。……らぐなさん、てるみさん。これが、さいご、です」

 再び子供らしい舌っ足らずさを取り戻して告げる彼女に向けて、ラグナは勿論、名前を呼ばれたテルミすらも少し驚き困惑してしまう。でも、それも一瞬に終わった。どちらも負ける訳にはいかず。そして……ここが、彼女、蒼の少女が言うように、終末のときだと判断したからだ。

 身構えるラグナを見て、テルミが腕を横に突き出す。ユリシアに告げる言葉。

「ユリシア、下がってろ。手出しはすんなよ」

 小さく頷いて、少女は一歩、身を退いた。

 それを受けて彼らは再び睨み合う。

「……死して絶望しろ。ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」

 ラグナは何も返さない。大剣を構えるラグナに、テルミもまたナイフを懐から取り出し握り締め……駆ける。

 

 

 

 走るラグナに喰らいつこうと迫るのは、テルミの放つ蛇頭の鎖……ウロボロスだ。最低限の動きのみで横に避けながら、テルミに向かって一直線に駆ける。そんな彼の脚をウロボロスが追いかけ、噛み付こうと蛇頭が口を開けた。

 それを小さな掛け声と共に跳躍し逃げる。追いかけるウロボロスはどこまでも伸びるが、その前に落下し始めたラグナが振り下ろす大剣がテルミに直撃しそうだと見れば減速し、すぐさまもう一本の鎖が空間を食い破って現れ、大剣からテルミを庇う。甲高い金属音が鳴り響いて、火花を散らし膠着(こうちゃく)する。

 しばらく押し合っていたが、テルミが斬り払うように腕を横に振れば、先までラグナを追いかけていたもう一本が再び目の前に現れて、その二本の鎖でラグナを押し返した。

 と同時に、テルミの手から銀色が投げられた。細身のナイフだ。後ろに跳ぶラグナを追いかけて、投げられたナイフが肩を穿って服を裂く。痛みを訴える肩に思わず呻いた。

「ぐっ……ぁ……」

 けれどそれを無理矢理に、片手で引っこ抜いて放り捨てれば、地で跳ねる金属が実にチープな音を立てる。ラグナが大剣を両手に握り直し、真っ直ぐ前に跳んで大剣を横薙ぎに振るう。

「おおっとぉ……!」

 しかし大剣がテルミに触れるより早く、テルミは上空に向けて放ったウロボロスに運ばれ高く逃げる。けれどテルミは、目標を失い踏鞴を踏むラグナの元へ、再び放った鎖に引っ張られすぐさま舞い戻る。着地の低い姿勢から、見上げるテルミがにやりと笑みを浮かべる。そこからラグナの懐に突っ込み、片手のナイフを突き出した。

 それを大剣で防げば、テルミは両手を地について、代わりに持ち上げた長い脚を鞭のようにしならせ、蹴りを繰り出した。身体を後ろに反らしてそれも躱すけれど一歩遅く、ラグナの頬に、テルミの靴に仕込まれた刃が掠り傷を作った。

 痛みと、視界の端に一滴、赤が跳ねる。一瞬だけ片目を瞑った隙に、再びテルミの腕が突き出された。刃の切っ先が眼前まで迫り、まずい、そう思って咄嗟に大剣の刃を当てる。

 押し合い、お互いに退く。それからテルミが大きく跳ぶと、両手に纏うのは、ラグナのそれとはまた違った闇色だ。影を集めて固めたようなエネルギーの塊は、テルミが腕を振るうと二つの顎となってラグナに一直線に向かってくる。

 一歩飛び退いて躱し、いつの間にか着地したテルミが手に闇色を纏ったまま迫れば、それもまた大剣の腹で防いで、互いに剣を引き、ほぼ同時にまた斬り合う。

 互いに譲らず、いつまでも終わらないと思われる戦い。

 暫く互いに剣を振り合っていた時、テルミの脇でウロボロスが再び現れ、ラグナに迫る。危機感を覚え、ラグナが大きく身を引けば、それを追いかける、いい加減に見慣れた蛇頭。

 鎖が交差して、ラグナの大剣と押し合い、ラグナが斜めに剣を無理に振り下ろし鎖を押し退ければ、そこに迫るもう一つの蛇頭。再び剣を振り上げたラグナの手を叩いて、剣を弾き飛ばす。

「っぐ……」

 痛みを訴える手に顔を顰めるラグナ。それを見て嘲笑するように笑みを浮かべるテルミ。

「オラオラどうしたよ、そんなんじゃ俺様を倒せねぇぞラグナちゃん!」

「まだだ……!!」

 己を奮わせるように声をあげ、ラグナは再び駆ける。落下し地に突き刺さる大剣を引(ひ)っ手繰(たく)るように取り戻して両手で握り、眼前に掲げる。と、その大剣は軽い音を立てて歪な鎌へと変形した。どす黒い闇色の魔素を鎌にも纏わせて、彼は駆ける。

 その姿は、正に死神だ。僅かにテルミが笑む顔を引き攣らせた。

「さっさと死ね!」

 叫び、テルミの背後には闇が……集められた多量の魔素が膨れ上がる。それはみるみるうちにいくつもの大蛇(だいじゃ)を造り出して、振るうテルミの腕に従いラグナに襲いかかる。けれどそれらを鍛えた腕と握った鎌で順番に潰していって、そして、鎌を大剣へと戻しながら――いつの間にかテルミの眼前まで迫ったラグナが、突き出す。

 回避は間に合わない。ニィと痩せ我慢に口角を持ち上げて、テルミは目を見開き、ラグナを見据えた。迫る刃が、やけにスローモーションに見えて……テルミの視界に、蜂蜜色と青色が捉えられて。

 甲高い金属音が響いた。火花が弾けて、視界の端で、何かが跳ねる。

「……手を出すな、つっただろうが……」

 下がっていろ、と言ったのに彼女が出てくるのは。彼女に庇われるのは、初めて彼女がラグナに会ったとき以来だ。眉根を寄せ、低い声でテルミが少女の背に言葉をかける。

 銀色の大鎌を握った少女は、肩越しにテルミを見つめた。澄んだ蒼の瞳が、テルミを捉える。

「……ごめんなさい、です」

 その声は、掠れて、今にも泣きだしそうなほどか細く、震えていた。それだけで、彼女の思考が読み取れてしまって……。

「テメェ……」

 小さく漏らすのはラグナだ。剣を拾った彼に睨み付けられても、彼女はかつてのように怯えることはない。泣きそうな瞳ではあったけれど、ラグナに向き直った彼女はしっかりと彼を見つめ、言葉を紡ぐ。

 彼女はテルミに死んでほしくなどない。誰も、誰にも傷付けられたくないし、傷付いて欲しくもない。彼女はただ、大切で大好きな人と一緒に居たくて、それが彼女の願望で。

 彼女は確かに蒼だ。

 彼女は確かに『可能性を可能にする力』だ。

 けれど、彼女は確かに……一人の幼い少女であって、強い願望を持つ純粋な子供なのだ。

「だから、だから……! わたしは、てるみさんを、まもりたい、です」

 蒼だとか力だとか可能性だとかは関係なくて、自分の願望を叶えたいのだ。大切な人と居られる幸せな世界を作りたいだけ。

「わたしは……ユリシア=オービニエは、蒼から生まれた『可能にされた可能性(ポッシブルドリーム)』です」

 だから、夢は夢らしく、願望の世界を求めるだけだ。

「……それは、いけないこと、ですか」

 そう紡ぐ言葉に、ラグナもテルミも黙り込んでしまう。少女の瞳が揺れる。

 息を吸う音が響いて、ラグナが口を開いた。

「前にも言っただろ。相手が悪ぃんだって。コイツは……ユウキ=テルミは……」

「じゃあ、なんでてるみさんは、わたしを……わたしを、ころさなかった、ですか……っ」

 バツが悪そうに、けれどきっぱりと突き放すように。僅かな怒りと悲しみを両目に宿して、ラグナが紡ぐ。けれどその言葉を遮って、彼女は声を張り上げた。怒ることにも、泣くことにも慣れていないのだろう。叫んだ声に自分自身で驚いたように、彼女はハッと目を丸くした。その目尻に浮かぶのは、涙。

 ぎゅっと力を込めた拳から力を失わせ、やがてだらりと身体の横に垂らす。荒い呼吸音がうるさいけれど、どうすることもできない。

 ラグナが、テルミが、揃って目を見開いていた。

 先も言ったそれ。テルミはいつだって、彼女を、ユリシアを殺し蒼の力を奪うことができた。一度ハザマにもそんな事を言われた気がする。けれど彼は何だかんだ理由を付けて、よく分からない感情のままそうしなかった。

 いつの間にか、彼女が居ることが当たり前になっていて、彼女と共に新しい世界を作る気でいた。何千、何億年と抱いたアマテラスへの憎しみは消えなかったし、彼女を利用する気は確かにあったけれど、だんだんと目標の形が変わっていっていた。

「……知らねぇよ、そんなこと。俺が聞きてぇよ。俺が知るユウキ=テルミは、残虐非道で、人の大事なモンを全部無理矢理に奪って行って、容易に壊すようなクズ野郎だ」

「それでも……いまのてるみさんは、じゆうを、もとめているだけの『ひと』です!」

 反論し叫ぶ言葉に、ラグナが一歩、足を引く。

 気弱で、思考停止してテルミについているだけの愚かな少女だと思っていたのに、今、目の前に立つこの人物は……とてもではないけれど。

 思わずラグナが、ぎゅっと剣を握り締める。

「そのけんで、わたしをきりますか。わたしをさしますか。わたしを……ころしますか?」

 ラグナの大剣を指して、彼の目を見つめて彼女は淡々とした声で問う。

 ラグナの剣に斬られようとも、刺されようとも、殺されようとも。彼女は絶対に屈しない。彼女はテルミを、大切な人を守る。『可能にされた可能性(ポッシブルドリーム)』は自身の夢も『可能』にしようと。

「これは『わたし』の、いしです。わたしは、てるみさんを、まもります……です」

 蒼が興味を持ったから、だとかそういうのじゃなくて、ユリシアの意思だった。

 そのためだったら、ラグナを倒して、自分が蒼を手に入れて、新しい世界を作ることだって。ラグナに視線を移した彼女はしっかりとラグナを見据え、紡ぐ。

「いや……その必要はねぇよ」

 ユリシアの背後で声がして、彼女は振り向いた。声の主は、彼女の大好きな人物、ユウキ=テルミだった。彼は口角を持ち上げて、ナイフを握った片手を突き出した。ラグナに向けられる切っ先を見て、ラグナが身構える。

「……てるみ、さん」

 悲しげに少女は、テルミの名を呼ぶ。愛しくて大切で大好きな彼が、どうして未だそんなことをするのか、ユリシアには分からなかった。

「もう、おわりに、しませんか。てるみさんは、そんなこと、のぞんでいない、ですよね」

「うるせぇな……」

 テルミは短く言ってあしらうだけで、ユリシアの言葉には応えない。けれど憂いを帯びたその金の瞳を見上げて、見つめてしまったら、それだけで……今までの彼の発言を、行動理念を思い出して、理解してしまう。

 テルミは、全て、自分で背負っているのだ。そして、それを他者と共有することは絶対にないし、したくもないのだろう。だって、背負ってきた苦しみも悲しみも辛さも痛みも全てが自分のものだと思っていて。それらに最後まで縛られながら自由を求めているのだから。

 同情も共感も彼女にはできないけれど、そんなの悲しすぎる、そう思って。

 背負わなくていいとも、苦しまなくていいとも言えない。きっと新しい世界でも辛いことはあるはずだ。けれど、でも、大切な人には楽しく笑っていてほしいから。

「……ここが、さいご……なんですよ」

 だからこそ、テルミはラグナという人物を甚振り、最後に殺そうとしているのかもしれない。それでも、最後は楽しく終わって、新しい世界へその楽しさを繋げるべきだと思うのだ。

「てるみさん。もう……いいんです。いいんですよ」

 彼女の慈愛の眼差しは、かつて獣と戦った時代に生きた一人の女を思わせたけれど、それとはまた違う。彼女は、閉じた可能性の地獄を全て思い出して、背負っていて、テルミのことも全て理解して、それでも尚、彼を一人の人間として慕って……。

 本当はまだ、自分の中で彼を倒す欲はあったけれど。それでも自身と同じだけのものを、その小さな身体に背負っているのを見て、少しだけ応えたくなって。『興味』が湧いて。

 沈黙が流れて、そして……溜息の音が響いた。

「……一度だけ聞く。お前は、どんな『世界』を望むんだ?」

 問うのはラグナだ。それを受けて、彼女は再び視線をラグナへ向ける。

 どんな世界を望むか。そんなの決まりきっている。彼女が、息を吸った。

「わたしは、このせかいが、だいすきです」

 それは大切な人が居るからだけれど、その大好きな世界には、他にも一度は自身を温かく迎え入れてくれた人達が居たから。だから、優しくて、幸せなこの世界が大好きだった。

 けれど、そこにはやはり悲しみも溢れていて、可能性が閉じていて。だから。

 皆が幸せなんていうのは無理かもしれない。完璧な大団円なんて無理かもしれない。けれど、でも、考え得る限りの幸せを抱いた世界で、大切な人達と一緒に居られたら、それより良いことなんてないと思って。

 甘い考えなのも、子供らしい部分があるのも分かっているけれど。

 そんな、温かで幸せな世界を望んでいた。

「……そうか」

 ユリシアの言葉を聞いて、ラグナは短く頷いた。ならば、答えは一つだ。

「俺を殺して、蒼を手に入れろ」

 テルミの味方をする彼女の願いを叶えるだなんて癪(しゃく)だったし、テルミのことは絶対に許せない。でも、彼女に世界を壊す願望はないらしい。それに彼女は自身が蒼だとかは興味ないかもしれないけれど、彼女が『蒼』だから、というのも理由にあったかもしれない。だから、彼女になら……委ねても、いいかもしれないと。

 けれど、彼女は首を横に振った。何故、驚く彼に、彼女は自身の唇に人差し指を当てる。

「らぐなさんを、そうする、ひつようは……ありません、ですよ」

 だって今、蒼に一番近い存在になっているのは、その力を求めているのは、ユリシアだけなのだから。

 テルミを振り向き、微笑んだ表情そのままに同意を求めるように小首を傾ければ、テルミは少しの間を置いて、その間は視線を右往左往させて……首肯する。あれほどに蒼を欲しがっていて、しかも先ほどまでラグナを殺そうとしていたテルミが、だ。

 テルミは既に負けを認めて『認識』していたし、ラグナは蒼を譲ることを選んだ。それに、蒼を手に入れなくても彼女は元から『蒼』の半分なのだから。テルミが世界を作るわけじゃないことは、とても残念だけれど。

「だから……だれも、ころしたりなんか、しません、です」

 最初こそ殺すことの意味について理解できていなかったし、別にテルミが選ぶなら誰かをそうすることだって構わないけれど。必要以上にそうする必要が無い、というのが彼女の思いだ。

 お人好しで、純粋で、子供で、甘い……彼女の思考。でも、その穢れのない願望は、テルミ達も心の底でいつしか願いだしていたことだ。

 溜息を吐く。苦笑した。

「……それを先に言えよ。まぁ、それも蒼の意思だってんなら……好きにしろ」

 そんなラグナに、ユリシアもつられるように苦笑する。彼が怖くないわけではない。テルミを倒そうとしていた彼は未だに許せないところがある。彼なりに色々あったことも理解して、それでも怖い部分はあったけれど。

 新しい世界を、夢見た。そこではきっと皆が仲良しで。

「……それじゃあ、てるみさん。らぐなさん。いきましょう、です」

 短い相槌が重なって、お互いに顔を見合わせて、彼女の頭に視線を落とす。かつての無知で臆病な彼女は居ないけれど、無垢さは変わらずそこにあった。

 新しい世界を『夢』から『現実』にするため、彼女は蒼を見上げた。祈りを捧げるように手を組む少女の身体が、微かに青白く光って……。

 途中でテルミがラグナを挑発するように言葉を紡いで、それにラグナが噛み付いて、そして。闇が開けて、マスターユニットが目の前に現れる。

 ジン達の姿も、そこにあった。ノエルも、スサノオの中から引き剥がされたらしい。眠っているようだった。

 

 

 

   8

 

 ラグナ達が戻って来てから、色々なことがあった。

 ラグナと戦っていたはずの『敵』であるテルミ達までもが戻って来たわけだし、当然だが警戒もされた。スサノオの身体から引き剥がされたノエルが起き上がった時にはひどく怯えられた。

 ジンには剣を向けられかけたり、少し口論にもなったりもして。途中でテルミが挑発をかけたりするものだから、余計に事態がややこしくなって。でも、一応は理解してもらえた。完全に納得するまでには至らなかった……否、至ることができなかったが。

 それからノエル=ヴァーミリオンが、マスターユニットの中の少女『第一接触体(ジ・オリジン)』と融合し、そして……ジンとノエルの願望は『死神』によって喰らわれた。勿論反発はあったけれど、最終的には納得されて、だ。

 そして今、マスターユニットの前に居るのは――ラグナと、ユリシアだけ。離れたところにはテルミも居たけれど、他はトリニティに導かれ、先に世界へ戻った。

「悪いな……付き合わせちまって」

「いえ、だいじな、ようじ、ですから」

 少女は、首を振って微笑んだ。そして静かに、目の前のマスターユニットの一部を見つめる。

 ラグナもまたその横顔を見下ろして、それから彼女と同じ方向を見て……呟く。

「悪いが、少し離れていてくれ」

 二人で、話したいのだ。流石にこの空間から出て行けとは言わないし、言えないけれど。それに小さく頷いて、少女は少しだけ後ろに下がった。彼女の気配が僅かに遠のいたのを感じて、ラグナは静かに、マスターユニット……否、その『中』に居る人物に、話しかけた。

「――『やっと』会えたな」

 サヤ。優しくその名を呼ぶ。ラグナとユリシア以外の人影はない。けれど、確かに『彼女』はそこに居た。ラグナがそっとマスターユニットに触れる。

「……兄さま」

 響くのは、ユリシアではない少女の声。ラグナを兄と呼ぶ声だけの彼女こそサヤだった。かつての世界で兄に『救われなかった』少女は、ラグナを認識すると……寂しげな、けれど愛しげな声で告げた。

 やっと、来てくれた。彼女はずっと、ずっと待っていた。一人ぼっちで、怖くてたまらなくて。けれどきっと、愛しい兄が助けてくれると信じて。助けてほしくて、待っていた。

「ねえ、どうして。どうして私を捨てたの? どうして……」

 私を殺そうとしたの、と彼女は問う。あんな黒い化け物……そう、黒き獣にまでなって。彼女はずっと兄のことを……。

 問い詰めるような少女に、ラグナは眉尻を下げ、ただ申し訳なさそうに苦笑する。

「すまねぇ。多分その時の『俺』は、それ以外にお前を止める方法が分からなかったんだと思う」

 彼女は一度終わった世界の住人であり、この世界を作り出した存在だ。そして……ここに居るラグナは、彼女が知るラグナを再現した存在であって。かつての世界の記憶は、ラグナには殆ど無かったから、曖昧な答えになってしまったけれど。そんなことを彼女は気にすることもなく、それよりも不思議そうに問う。

「止める? どうして? 私は『言われた』通り世界を壊しただけなのに。それなのに……」

 それなのに。言われた通りにしたのに、同じ『姉妹』達の、痛みや苦しみや悲しみが、全部全部、自分の中に入って来て……。

 だから、あんな世界はいらない。あんな世界は嫌い。大嫌い。全部なくなればいいのに。

 蒼だとか、世界だとか、他の人類だとか、もうそんなのはどうでも良い。彼女は、大好きで大切な兄が居れば、それで良かった。

「悪かった。全部……お前に、背負わせちまって。ずっと一人にしていて」

 苦しかったときに、守ってあげられなくて。

 奥歯を噛み締め、言葉を絞り出す。彼なりの、精一杯の謝罪だった。それを受けて、彼女は『兄さま』と呼ぶことしかできない。

「だが『悪夢』もここで終わりだ。俺は、お前を……『助けに』来た」

「助けて、くれるの……?」

「あぁ。これからは一緒だ……だから、お前はもう……もう、休め」

 期待するような少女の声に頷いて、ラグナはふっと微笑む。サヤは暫く黙り込んで……そして声に笑みを含んで返す。

「はい、兄さま」

 これからは、ずっと、一緒に居るのだ。彼女がもう待ち続ける必要はない。だから彼は申し訳なさと、精一杯の感謝を言葉で伝える。

「サヤ。俺を待っていてくれて……ありがとう」

「……信じていました」

 そう紡いで、『サヤ』の魂は光となり、ラグナの中へ……。

 じんわりと、熱を感じる。熱いというよりは、温かい。確かに彼女はそこに居るのだと主張するような熱は、やがて自分の体温と混ざってしまう。落とさないように胸に片手を当てて、目を伏せる。

「マスターユニット・アマテラス、起動しろ」

 再び瞼を持ち上げ、左右で色の違う双眸でマスターユニットを再び見つめる。起動を命令し触れれば、光を帯び、起動したことを示すマスターユニット。それを見てラグナが命令しようと口を開き――。

「らぐなさんが、そんなこと、するひつようは……ない、ですよ」

 そっと、マスターユニットに触れるラグナの手に、重なる手があった。小さく白い、少女の手。隣から聞こえる声。ユリシアだった。

 ラグナは応えない。黙り込み俯く彼に、ユリシアは苦笑すると、そっと両の手で彼の片手を包み込み、アマテラスから離す。

「……分かってんだろ。俺がどういう存在なのか」

 ラグナという存在は、つまり『神の観る夢』だ。神の分身であるノエルが居なくても世界は成り立つが、彼が死を迎えた途端に世界はリセットされる。そして再び同じ世界を神は作り出す。こんなに世界を歪めてしまったのは、彼の存在があったからだ。

 だからこそ彼の願望は話していて、それを納得させてジン達から願望を喰らい……今に至っているのに、何故彼女が止めるのだろう。

「俺の願望が何か、俺が居ることでこの世界がどうなるのか、分かっていないわけじゃないだろ」

「……はい。らぐなさんの、ねがいも、ぜんぶ……わかっています、です」

 問うラグナに彼女は頷いて答える。ならば、何故……ラグナが問おうとするのを遮るように、彼女は困ったような微笑みを浮かべたまま頭を横に緩く振った。

 曰く、何もラグナの存在そのものを消滅させることだけが『神の観る夢(セントラルフィクション)』を終わらせる方法じゃない。彼女は、ユリシアという存在は『可能にされた可能性(ポッシブルドリーム)』だし、それに彼女は、神に至ることのできる存在だ。そこまで聞けば、ラグナは理解する。

 ユリシアの顔をまじまじと見つめて、沈黙。じっと見つめ返す少女に、やがて耐え切れずラグナが吹き出し、破顔する。まるでにらめっこだ。

「……そういうことは、先に言えっての」

「ごめんなさい、です」

 少女は小さく謝ると、握ったままだった手を思い出したようにゆっくりと放す。

「じゃあ、らぐなさん。あっちで、まっていてください、です」

 言って、少女がすっと腕を持ち上げる。手を差し出すようにして示す先には、テルミがポケットに指を引っかけて佇んでいた。ラグナはテルミの姿を見とめると、苦虫を噛み潰したような顔になりながらも首肯し、歩き出す。

 彼女はアマテラスに触れ、そして……願う。

 

 

 

 幸せな世界を。温かな世界を。

 皆の願望を集めた世界を。

 アマテラスにも、タカマガハラにも干渉を受けない、彼らだけの世界を。

 彼の『神の観る夢』としての情報を消して。

 今まで一人で頑張ってきた彼らが、せめて穏やかに過ごせるように。

 

 



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エピローグ

   1

 

「ここは……」

 ふと気が付いて、辺りを見回す。鬱蒼と生い茂る森に囲まれながら、ここだけが開けて陽光が照らしていた。

 風の気持ちよさや、太陽の眩しさ。踏む草の柔らかさ。手を動かそうとすれば、動いている感覚もある。見下ろせば、小さな手の平がそこにはあった。

 服は、ワンピース、と呼べる白いものが一着。

 顔を上げて、改めて周りを見る。

 見覚えのある気がして。でも、先ほどまで自身は何をしていたのだったか。

「……オイ」

 ふと、後ろから声がかかって、彼女は振り向く。居たのは、男。ひょろりとした長躯の男だった。目深にロングコートのフードを被って、影に紛れて表情はよく見えない。

 その姿に――ほろりと、目元から雫が零れる。

 気付けば髪を振り乱して駆け、そして……抱き付いていた。

「……ぁ、あぁ……っ」

「な、どうした、オイ、オイって!」

 男が突然のことに、驚いたような声をあげる。けれど、それも構わず彼女は顔を横に振って、ぎゅうと抱きしめる腕に力を込めた。男の腹に顔を埋めて、溢れるままに名前を呼ぶ。涙で彼の服が汚れてしまうことなど今の彼女には気にする余裕もなかた。

「てる、みさ……っ、てるみさん……っ」

「オイ、落ち着けって……」

 ユウキ=テルミ。それが男の名前であった。

 それを思い出したのをきっかけにして、彼女は全てを思い出す。

 ここがどこで、今まで何があったのか。

「わ、わたし、ちゃんと、できました、ですか。ちゃんと……」

 まくしたてるように言葉を紡ぐ少女は、ふと頭に重みを感じて顔を上げる。

 覗きこむように見上げた先には、整ったテルミの顔が。影の中で、金の目が少女を見つめていた。テルミは暫く黙っていたが……やがて、

「当たり前だろ。ユリシア」

 彼は、覚えていた。彼女が世界を作り直したことを。直前、彼に関する一部の情報を削除したことを。彼女が頑張ったことを。

 名を呼ばれると、彼女は目を丸く見開いて、テルミを見つめる。

「……はい!」

 破顔する少女。頭を軽く叩く男。その耳に……別の足音が届いて。ユリシアがテルミから離れて、自然と二人はその方向を見遣る。

「何やってるんですか、二人とも」

 思わず間抜けた声が、少女の口から漏れた。だって、呆れたような、けれどからかうような声音で話しかけてきたその人物は、とってもテルミに似た顔立ちをしている人だったから。

 少女が驚いたように目を見開いているのが滑稽だったらしい。男は笑ってみせる。けれど彼らしく上品に、グローブを付けた手を口元に運んで。

「……そんなに、私が居るのがおかしいですか? ユリシア」

 目深に被った黒のハット、その下から零れるサラリとした緑髪。細められた双眸でじっと少女を見つめれば、自然とその名が口から漏れた。

「……はざま、さん」

 あの日、あの世界で、別行動をすることになって。それからずっと心配で堪らなかった彼に、ここに来て再び出会えた。

 それを理解した瞬間に、瞳がまた潤み始めて視界がぼやけてしまう。もう一人の『大切な人』の姿をきちんと目に焼き付けたいのに。何故かぼろぼろと涙が零れだして止まらない。必死に止めようと手の甲を擦りつけて拭うけれど、それでも止まらなくて。

 またこの二人と一緒になれることが嬉しいのに、悲しいことなんかないのに。

「……まったく、仕方ありませんね」

 少し呆れたような笑みを含んで、ハザマが嗚咽(おえつ)を漏らす少女の元へ歩み寄る。顔を覗き込むようにしゃがみ込んで、その手を差し出す。持っていたのは、真っ白なハンカチだ。

 その優しさがやっぱり嬉しくて、必死に声を絞り出してお礼を述べる。受け取り、拭いながら、やがてゆっくりと収まっていく興奮。荒い息と、紅く染まった鼻と目元。顔を上げて二人を見れば、彼女のその、間抜けた面を二人がまじまじと見つめて。

 それから、笑い出して。つられるようにして少女も思わず笑ってしまう。

「それにしても、ここは……どこ、でしょう」

 不意に笑いを止めて、不思議そうに少女は問う。それにはテルミが「あぁ」と漏らして答えた。

「俺らとユリシアが初めて出会った場所、だよ」

 答えを聞けば、少女は辺りを見回す。なるほど、確かに思い出して見ればその光景にそっくりかもしれない。自然に囲まれたそこに、ぽつんと白い教会が一つ建っている。

「……さて、行くか」

「どこに……ですか?」

 言うのはテルミだ。それに首を傾けて問いかけるのはユリシア。ハザマとテルミが顔を見合わせて、それからユリシアを見下ろした。

「どこに……って。私達の家ですよ」

 当然のようにハザマが答えて、ユリシアが再び間抜けた声をあげる。

 家という言葉の意味は分かっている。人が住むための場所のことだ。けれど、自身らが以前まで住んでいたのは統制機構の一室であり……家と呼ぶには相応しくない。だから、慣れない単語に思わず。

 少女の思考を何となく悟ったらしい。ハザマが溜息を吐いた。

「そりゃあ俺らがやったこと知ったら退職もさせられるだろ」

 寧ろ、今までが目的を同じとしていた上司のおかげで何とか居ることができたのだから。それが居ない今、統制機構でのうのうと働ける理由などない。

 その説明を受けて、少女は問いを重ねる。上司、というのは帝だったイザナミや『大佐』であったレリウスなどだろう。イザナミは消滅したけれど、レリウスはどうしたのだろう。他の皆も、どうなったのだろう。

 願望こそラグナから還されて何となく理解していたけれど、流石にどうなったかまでは完全でない彼女は知ることができない。それに……。

「レリウス大佐も同様に退職されましたよ。貯めていたお金を使ってどこかで好きに暮らしているんじゃないでしょうか」

 あの人、自身のお金などには一切興味がなかったので結構持っているんですよ。

 なんて冗談交じりに言うハザマに、暫く理解できていなかった様子の少女だったけれど、何となく幼い頭で理解した。彼も彼なりに穏やかに暮らしているということなのだろう。最初に会ってからあまり関わることは少なかったけれど、それなら安心だ。

 ハザマ曰く、他の資格者だった人達も元通り、そこそこ幸せな生活をしているらしい。

「一部の人は……まぁ、そのうち分かりますよ」

 そう言って、彼は歩き出す。続くようにテルミが歩いて、その斜め後ろを少女が追いかけるように駆けた。二人の間に入って、手を差し出す。握られる手。

 体温があるのかないのかよく分からないその手が、何故だか少し懐かしくて。

「そういや、ユリシア」

 歩きながら、ふとテルミが名を呼ぶ。何でしょう、と返事を返す少女に、テルミが何気なく問う。それは、彼女にあったものが、失くなっていることについて。

「テメェ、あれだけの蒼……どうしたよ」

「あ、えっと、それは……」

 そうだ。彼女は蒼から生まれ、大きな蒼の力を持っていた。それこそ、世界を作った神であるマスターユニットや、その模倣品であるタカマガハラの干渉を跳ね除けるほどの。けれど……それが今や、全く感じられなくなっていた。

 少女は少し言葉に迷った様子で、視線を泳がせる。それから、小さな声で答えた。

「もう、わたしには、いりません、ですから」

 彼女の願いは、大切な人達と幸せに過ごすことだ。そして、アマテラスの事象干渉がなくなった今、彼女がこれ以上世界をどうこうする必要もない。つまり、蒼だって必要がないのだ。

 ――もしかしたら、あれだけ蒼を求めていたテルミ達に、それで突き放される可能性だってあったかもしれない。でも、そんなことはないと、信じていたから。

「……そうか」

 少女の言葉に、テルミは短く相槌を打って、少女の手を強く握り締める。微笑む彼女。ハザマがからかうような一言をかけて、テルミがそれに反応して。

 向かうのは第十三階層都市『カグツチ』だ。そこに、これから家を探しに行くらしい。

 夏蜜柑(なつみかん)の香りを纏った風が吹く、二千二百年の六月二日。彼らは再び出会って、新たな生活を始めるのだ。

 

 




完結です。
ありがとうございました。


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幸せな朝

 

 目を覚ませば、隣には誰も居なかった。

 いつもならそこには愛しくて大切なひとのあどけない寝顔があるから、少女は慌てて上体を跳ね起こして、部屋を見回した。

 カーテンは開けられず、明かりもつけられていない薄暗い部屋に、少女は一人。サイドテーブルを振り返り、そこに置かれた時計を見れば文字盤にはいつもより遅い時間が表示されていて、納得した。

 どうやら、寝過ごしてしまったらしい。納得すると同時にある心配が頭を過って彼女は身体にかかったシーツを取り払う。そうしてベッドから降りて、向かう先は隣の部屋。リビングだ。

 ドアノブを捻って扉を開ければ、照明の明るさに目を細める。

「やっと起きたか、遅ぇぞユリシア」

 一番に聞こえるのは、低めの男声だ。少しだけ咎めるような台詞を送って、男は緩く手を振ってくる。緑髪を撫でつけた男、テルミだ。その声に少女――ユリシアが謝ろうとするより早く、次の声が聞こえてそちらを向く。

「もう、テルミさんってば。ゆで玉子だけの朝食が嫌だからって、ユリシアを責めてはいけませんよ。ユリシアだってたまにはゆっくりと眠りたいでしょうから」

 今度はハザマだ。テルミと同じ声をしているけれど、こちらは声のトーンがいくらかテルミより高い。さらりと下ろした緑髪は、少しだけ寝癖が出来ていて微笑ましい。

 皿の上から、いくつかあったであろう白い塊(ゆでたまご)の最後の一個を摘み、口に運ぶハザマを見て、少女は安堵に微笑む。一応、食事はできているようだ。もっとも、ハザマの台詞からしてバランスの取れたものではないらしいけれど。

「おはようございます。てるみさん、はざまさん」

 そうやって挨拶をすれば、にこやかに二人揃って挨拶を返し、名前を呼んでくれる。それがたまらなく幸せで、少女は、ふふっと小さく笑いを零した。

「そうそう、ユリシアの朝食も用意していますから、少し待っていてくださいね」

 言って椅子を引き、立ち上がるのはハザマだった。

 それを目で追いながら頷いて、ユリシアは三つめの椅子に腰かける。今日の朝食はテルミ達と同じ、ゆで玉子だけになってしまうようだ。

 それを考えて苦笑こそするけれど、ユリシアは嫌な顔一つせず受け入れる。

 皿に乗せて運ばれてきた二つのゆで玉子を見て、小さく笑う。やはり彼の食事は分かりやすいな、なんて思いながら、ユリシアはそっと楕円形の白い塊を手に取った。

 カツン、と小気味よい音を何度か響かせてゆで玉子を剥く。

 カグツチにある三人暮らしの小さな家で、ユリシア達は今日も大切なひとと幸せに過ごしていた。




やまなしおちなしいみなし。
ただ幸せに過ごす短い話が書きたかっただけです。
完結してから半年以上が経ったことにびっくりしています。


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